諸説
法句経甘茶と百足除け縁起説長増遁世譚宝厳寺歌碑湯聖別当大師光定 
捨聖一遍上人伝謡曲誓願寺儒教と朱子学陽明学恵信尼書簡(親鸞の妻) 
華厳の思想寺院と天皇仏教の未来盗人百態お風呂比丘の悩み寺はだれのもの 
隠者の系譜神社って何一遍を観る神と仏のあいだ儒教の世界仏教と儒教論語 
心学観音様と「甘露」宗派批判諸説寂聴「釈迦」四諦八正道 とスッタニパータ 
罰(ばち)があたる二河白道二河白道図白道の喩え諸説愚禿釈布教と交通なぜ日本で普及したのかなぜ女性を差別するのか五観の偈幸せであれ日本人論と仏教毛坊主と妙好人原始佛教と禪宗酒を飲んではいけない・・・  

時宗・一遍 仏の世界   

 
「法句経(ダンマパダ)」

一遍上人のライフスタイル 
私は、一遍上人の生き方・ライフスタイルを特徴づける言葉がいくつかあるなあということを、日頃からよく考えます。いくつか挙げてみますと、  
一つ目は、遊行、言い換えると、一所不住ということです。一遍上人は遊行の旅に出て後、死ぬまで旅に暮らし、一つの所に定住するということはありませんでした。こういうライフスタイルを採った、というよりも貫いた仏教者は、日本では非常に珍しいのではないでしょうか。  
二つ目は、これと関係しますが、捨てるということ、すなわち、無所有ということです。旅に明け暮れる日々でたくさんの物を持てないのは当然ですが、そうではなくて、一遍上人は生き方として無所有に徹したと言わなければなりません。捨てることに徹すれば、当然、すべてのことを捨て、我が身をも捨てることになります。臨終が近づいた際に一遍上人は、「屍は野に捨てて獣に施すべし」と命じていますが、これは身を捨てることに徹して生きた一遍上人にして初めて言える言葉ではなかったかと思います。  
三つ目は、争わないということ、つまりは身と言葉と心の非暴力ということです。一遍上人の再出家の動機ははっきりしたことはわかっていませんが、おそらく一族内の怨恨による争いを避けるためということがあったと思われます。聖絵を読んでいますと、遊行の中で、刀を振りかざして迫ってくる相手に対して、毅然とした非暴力の態度で接する一遍上人の姿や、幕府の数多くの兵士たちに対して一歩も引けを取らない丸腰の一遍上人と時衆の姿を見ることができます。  
その他、教えや布教のスタイルという点から挙げなければならないのは、もちろん、浄土、念仏、賦算、踊り念仏等でしょうが、今日は、特に、一遍上人のライフスタイルということに限りまして、その大きな特徴とも言うべき遊行と無所有、そして非暴力ということに関して、その仏教におけるルーツを求める試みをしたいと思います。  
と言いましても、このルーツ捜しは、それほど難しいことではありません。なぜなら、 この三つ、すなわち一所不住、無所有、非暴力は、本来の仏教がめざす生き方そのものだからです。本来の仏教とは、やはりお釈迦様(釈尊)、すなわちゴータマ・ブッダの教え、そしてそれを引き継ぐ原始仏教の教えです。  
釈尊仏教と一遍上人  
原始仏典の様々な角度からの実証的研究という、現代の原始仏教研究の成果にできるだけ基づいて、新しい釈尊像、原始仏教像を求めるものでした。ここでえられた釈尊仏教の姿は、従来の様々な経典の記述から取捨選択されて作り上げられてきた仏伝(釈尊の伝記)の教えるものとは、全くちがったものでした。いくつか重要なものを紹介し ます。  
これまで仏伝が伝えてきたような、釈尊の成道から入滅までの40年の間の説法と布教によって、かなり大きな仏教教団ができあがり、各地に精舎が寄進され、釈尊も各精舎で逗留生活を営んでいたというのは、どうやら後世に作られた根拠のないもので、実際は、釈専は生涯、一沙門(非バラモン系出家修行者)として、乞食しつつ一所不住の遊行生活を送り、ごく少数の弟子たちに、詩の形で教えを語ったのみであった。  
したがって、釈尊の入滅後、釈尊の40年の膨大な説法を、数多くの仏弟子たちが、 大規模に集合して、結集したというのもありえず、実際には、少数の直弟子・孫弟子たちも遊行しつつ、釈尊によって語られた比較的少数の詩の形の教えを経典として暗唱して語り継ぎ、自分たちも師に習って、詩の形で新たに宗教体験を育っていった。  
そこで語り継がれた詩の形の教えが、「スッタ・ニバータ」や「雑阿含経・有備品」の韻文経典部分、そして「法句経」に残されており、一時定説化しつつあった散文経典が古くて、韻文経典は後の仏教詩人によって新たに付け足されたものだというのは全く逆で、韻文経典こそが仏教経典の原初の形態であった 。 
それにともない、従来、釈尊によって直接解かれたものとされてきた数によって整理された仏教教理、すなわち六処・十二縁起・四諦・八正道などは、アショーカ王の頃から説かれはじめ、その後何世代もかかって作り上げられたもので、釈尊や仏弟子たちが解いたのはそれらの原初的な形態に過ぎない、ということも明らかになった。  
私たちが知っている仏伝も、何百年も後にできあがっており、歴史的事実との関係は不明である。  
とまあ、難しいことがたくさん並んでしまいましたが、なぜこんな面倒くさいことを 云っているかと言いますと、これはおもしろいと感じる人にはとてもおもしろい極めて重要なことだからです。私はこれを知ったとき、10年来いだき続けた原始仏教に関する不可解さの霧を、これによって一気に吹き飛ばすことができたと感じたほどでした。 このようにしてやっと、最初の一遍上人とのライフスタイルでの大きな共通点、すなわち釈尊の生涯貫いた遊行生活を、知ることができます。それは、釈尊の実際の言葉と認められる次の韻文経典によってうかがい知ることができます。  
賢明な出家者は、深く思索しながら、辺境の地を遊行するときに、虻、蛾、蛇、人間との接触、四足獣、という五つのものを、恐れてはならない。  
知恵を第一に尊重し、善を喜んで、これらの危険を消滅させなさい。僻地で眠るときには不快感に打ち勝ち、次の四つの思い煩いに打ち勝たなければならない。 
生涯一修行者としての釈尊の遊行生活は、知るよしもないことです。だから、この一致は、天才のみがなしえる不思議な一致というべきでしょう。  
もっとも、インドにおける遊行生活は、決して釈尊のオリジナルではなく、ウパニシャ ツドの伝統を引き継ぐバラモンたちが最晩年に家と家族を捨てて遊行に出ることを理想としたこと、そして、非バラモン系の苦行者たちの修行生活が乞食と遊行によって営まれていたことは、忘れてはなりません。仏教の開祖である釈尊も、それらの伝統の中から登場してきたわけです。 そして、「捨てる」無所有ということについても、釈尊の語られた教えがはっきりと残されています。  
人々は、「自分のもの」ということによって嘆き悲しんでいる。人が所有するものは、常に変わらないものではないからである。これこそ、無いという本性をもつものだと見極めて、家の生活に留まっていてはならない。 
人が、「これこそ自分のものだ」と考えるものも、死ぬときには、捨てて行くのである。このように知って、知恵ある人は、自分のものにしておきたいという気持ちに属してはならない。 
自分のものに執着し求め続けるから、(失ったときの)辛さや悲しみ、あるいは(手に入れたときの)喜びを、捨てられない。それゆえ、沈黙の聖者たちは、所有するものを捨て去って、平安のみを見つめる修行の生活に入って行ったのである。 
そして、争わないこと、非暴力についても、釈尊は次のように語っています。  
自らの出家の動機について、  
杖をとって暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ。争っている人々を見なさい。私がどのように厭い離れたか、その心を語ろう。 
と宣言し、自分にとって、争わないこと、非暴力、不殺生の一願いがいかに強かったかを、強く語り出しています。それゆえ、釈尊は、弟子たちに対しても、争わないこと、論争に加わらないことを説いています。  
比丘(出家の弟子)は、偉そうにふるまってはならない。作意や悪意のある言葉を語ってはならない。日頃から傲慢な態度を習いとしてはならない。敵対する論争を闘わせてはならない。 
言葉によって叱責されたときは、自分を見つめ直す好機として、大いに喜びなさい。 
他派の沙門たちやその他の様々な人々が言い立ててくるたくさんの言葉を聞いて、腹を立て、荒々しく敵対する言葉を返してはならない。なぜなら、優れた人は、どのようなことも、自分に対立するものとは、とらえないからである。 
怒らず、恐れず、横柄にせず、くよくよすることもない。穏やかに説法をして、いつも落ち着いている。このような人こそ、慎ましく語る沈黙の聖者である。 
どうでしょうか。釈尊の教えはすばらしいですね。そして、こうして釈尊の実際の言葉を並べてみますと、−遍上人の生き方との共通点がますます明らかになってきたと思います。  
「法句経」について  
このように優れた説法を残した釈尊もやがて年を経て亡くなり、直弟子たちが長老となって、仏教教団の萌芽のようなものができてくるのは孫弟子、ひ孫弟子の時代であった、とい うことが最近の仏教学者によって主張されています。 この頃になると、在家の仏教信者も飛躍的に多くなり、東インド各地の都市の近郊に祇園精舎のような修行道場も寄進されはじめたようです。仏教徒たちは、出家・在家の厳格な区別なく、新月・満月の日には、このような精舎に集まってきて、原初的な戒律を受けて、説法を聞いたり、禅定修行に励んだりしたようです。そして、この頃に作られはじめたのが「法句経」です。  
「法句経」(ダンマパダ・真理の言葉・教えの詩集)は、このような最初期の仏教教団で、仏教徒たちが共に朗唱するために作られ始め、年月を経ると共に次第に大きくなり、 ある時に成文化され、今日に至るまで常に重んじられてきた最もポピュラーな原始仏教経典です。「法句経」の現在見ることのできる姿は、物藷的な記述は全くなくて、 仏教徒が学び、暗唱し、常に考え、肝に銘じておくべき教えが、423の短い轟の形で語られ、それを26の章に分けて配列しています。  
最古層の法句 / バラモンの章  
髪を結んで垂らしているからといって、氏素性がそうだからといって、生まれがそうだからといって、バラモンであるわけではない。真実であり、教えに生きる人、そのような人こそ、幸ある人であり、バラモンである。 
怯えるものであれ、強きものであれ、生きとし生けるものに杖を向けて、殺すこともなく、殺させることもない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。 
いがみ合う人々の中にあって、いがみ合うことなく、杖をとって暴力をふるう人々の中にあって、穏やかであり、何でも我がものとして取り込もうとする人々の中にあって、何も取り込まない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。 
この世において、長いものであろうと短いものであろうと、小さいものであろうと大きいものであろうと、善いものであろうと悪いものであろうと、与えられないものを我がものにしない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。 
過去にも、未来にも、現在にも、何ら所有することなく、無一物で、何も取り込まない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。 
この世の欲求を振り捨て、一所不住に遊行の生活をし、欲求を滅し尽ぐし、存在し続けることを滅し尽くしている、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。 
(水から出ながら)蓮の葉に水が付いてないように、錐の先に芥子粒が止まらないように、欲望に汚れない、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。 
安楽も苦行も共に捨て、煩悩なく、すがすがしく、世界の誰よりも優れた勇者、そのような人こそ、私はバラモンと呼ぶ。 
現在の「法句経」では「バラモンの章」は最後に置かれ、全部で41の詩句でもって、 これでもか、これでもかという仕方で、どういう人が真のバラモンかを説いていますが、 最初はここで紹介したぐらいの量だったものが、次第に付け足されていき、最終的に大きくなったものと思われます。最後に置かれたのは重要だったからでしょうか。最後に置かれた部分がもっとも古く成立したということは、他の原始経典にも見られることです。  
ここで、なぜ仏教徒なのにバラモンのあり方を問題にするのかを、少し考えておかなければなりません。  
バラモンは、インドのカースト制度で最上位に位置する身分で、バラモン教の神官階級を意味します。身分なので、バラモンは世襲です。代々親から子へと、神官職は引き継がれていきます。こうして、宗教的権威と伝統文化を守っていくとも考えられます。  
しかしながら、非バラモン系の出家集団である最初期仏教教団の人たちにとっては、そ れは変なことです。仏教徒たちは、宗教者として生まれたのではなくて、他の階級に生まれながら、自らの選択で宗教者になった人たちだからです。自ら悩み、決断し、努力し、成し遂げていく人たちにとっては、そういう家柄に生まれたという理由だけで、大きな悩みもなく、決断もなく、特に才能を求められずに、予め敷かれたレールに乗るだけで宗教家になっていく人たちがいるということは、認めがたいことだったでしょう。これは、社 会や宗教の堕落の温床にもなりえます。  
したがって、仏教はそうではないということを主張すると共に、真の宗教者がどうあらねばならないかをしっかりと確認しておく必要があったものと思われます。「バラモンと呼ぶ」の所を「真の宗教者と呼ぶ」−と読みかえると、私たち現代の日本人にもしっくり来る文になるように思います。  
それにしても、この原初「法句経」の「バラモンの章」の内容を見ますと、最初期仏教教団に属した第二世代・第三世代の仏弟子たちがいかに釈尊の示された生き方と教えに忠実であろうとしたかが伺えます。「法句経」の最古層経典は、直接釈尊によって説かれたものではありませんが、初期の仏弟子たちが釈尊の教えをどう引き受け、仏教徒たるものが守っていくべき大切な教えとしてどのように保持し、次の世代へと伝えていこうとしたかを示しているという意味で、極めて重要です。  
確かに、この時期、在家信者が飛躍的に増えたことと精舎が建立されはじめたことによって、釈尊や直弟子たちの頃ほど、一所不住の遊行生活は強調されませんが、それでも教えとしてはちやんと残っていますし、無所有と非暴力が何より大切であることは、釈尊仏教そのままです。このようにして、これ以降、仏教徒たちは、何世代も何世代も、釈尊の生き方と教えを引き継ごうとし、時代が変わりすぎて、表面上はどれが釈尊その人のものかがわからなくなっても、それは様々に形を変えながら連綿と引き継がれ、一遍上人の時代にも生きていたし、今日も生きていると言えるのではないかと思います。  
 
実にいかなる時も、恨みに対して恨みをもってすれば恨みの静まることはない。恨・みをもってしないならば静まる。これは古くからの教えである。 
すべてのものは杖(暴力)に怯え、すべてのものは死を恐れる。我が身に引き比べて、殺してはならない、殺させてはならない。 
愚かな人が自らを愚かであると知るなら、彼はそれによってすでに賢者である。しかし愚かな人が自らを賢いと思うならば、彼はまさしく愚か者だと言われる。 
他の人の過ちを見てはならない。他の人の為したこと・為さなかったことを見てはならない。自分の為したこと・為さなかったことだけを見なさい。 
自分が悪を為せば、自分が汚れ、自分が悪を為さなければ、自分が清まる。清いも 清くないもそれぞれ自分のことである。人は他の人を清めることはできない。  
 
甘茶と百足除けの俗信

西予市明浜町渡江では昭和30年頃まで、墨で紙に「あまちゃ」と平仮名で書いて、それを逆さにして、家の中の柱などに貼っていたという。蚊帳を出している夏の季節に貼っていたといい、百足(ムカデ)除けだと言われていたという。「日本民俗大辞典」によると、柳田国男著「卯月八日」を参考文献として、潅仏会(花祭り)の甘茶で「ウヅキヨウカは吉日でオナガムシの成敗をする。」と書いて、便所に貼っておくと虫がつかぬとか、甘茶を家の廻りにまけば蛇が入らぬとか、田圃の周囲にまけば虫がつかぬなど、近畿地方各地で伝えられると紹介されている。「愛媛県史民俗編下」でも花祭りについて「甘茶には格別の呪力があると信ぜられていて、家族で分けて飲む。またこれで墨をすり、「千早ぶる卯月八日は吉日よ、神さげ虫を成敗ぞする」とか、「卯月八日のちる日に神さげ虫を成敗する」とか「茶」とだけ書いた紙片を逆さにして家の柱や入口に貼っておくと長虫が入らぬといわれている。また甘茶を家の周囲にまいて百足や蛇除けの呪いをする。」とある。ここでは具体的な地名は出ていないが、愛媛県内の各市町村誌を眺めてみると、類例を数多く散見することができ、県内でも広く見られる俗信のようである。例えば「伊方町誌」には、4月8日の花まつりで参拝人は甘茶を受けて帰り、この甘茶で墨をすって「茶」と書いた紙を逆さに家の柱にはると百足、蛇が入らないといわれているとあり、「八幡浜市誌」でも「甘茶は呪力があると信じられ、家族で分けて飲んだり、これで墨をすり、小さな紙片に「ちゃ」と書いて、むかでの出そうな所の柱の下の方へ逆さに貼り付けておくと、むかでが出てこない」と紹介されている。また、「ふるさと年中行事調査報告書」(昭和49年愛媛県教育委員会)では越智郡岩城村(現今治市)の事例として、「(潅仏会への)一般の参拝者は甘茶を持って帰り、蚊帳をこの日に出して甘茶をふりかける。長虫がつかないとの意である。」と紹介されている。このように、潅仏会の甘茶が、百足や蛇(長虫)を寄せ付けない呪力を持つものと信じられていたようである。 
しかし、なぜ紙片に「あまちゃ」とか「ちゃ」「茶」と墨書きして、それを逆さに貼るのだろうか。その点は疑問として残る。潅仏会の由来譚に、そのヒントがあるのかと思って少し調べてみたが、必ずしもそうではないようだ。潅仏会で誕生仏に甘茶をかける行為の由来は、「仏教儀礼辞典」によると、摩耶夫人がルンビニー園で身を洗浴した時、産気を催して無憂樹の下で、垂れ下がった花の枝をとろうとした時、右脇から安らかに太子を誕生された。「普曜経」第二にその時の様子が記されており、「爾の時菩薩右脇より生じ、忽然として身宝蓮華に住みするを見る。地に堕ちて行くこと七歩、梵音を顕揚して無常を訓教し、我れ当に天上天下を救度して天人尊と為り、生死の苦を断じ、三界に上なく、一切の衆をして無為常安ならしむべしと。天帝釈梵忽然として来下し、雑名香水をもて菩薩を洗浴し、九竜上に在りて香水を下し、聖釈を洗浴す。洗浴竟已(おわ)つて身心清浄なり」とある。潅仏会は釈迦の誕生を祝うためのものであるが、竜王が空中より香水を濯ぎ、その身体を洗浴したということから、潅仏会(花祭り)では誕生仏の像に甘茶をそそぐというのである。しかし、「普曜経」の記述では、そそぐのは甘茶ではなく、香水となっている。この点についても「仏教儀礼辞典」によると、甘茶を用いるようになったのは江戸時代からだろうとしており、それ以前には五色香水を混合して用いたらしい。そして18世紀前半の享和年間頃の「燕石十種」第1に潅仏会に茶を用いていることや、文政5(1822)年成立の「民間時令」第2に「五香水をそゝぐよしみえたれど、江戸にては茶をもてそゝげり」という記述を引用しており、江戸時代に次第に香水から甘茶へ移行していったことがうかがえる。  
以上の潅仏会の由来や歴史からは、甘茶が本来用いられていたわけではなかったこと、そして百足や蛇除けのまじないにつながる要素は見出せないことがわかる。「普曜経」の記載を基礎として考えるのであれば、「香水」と紙片に墨書して長虫除けとすべきところを、管見できるどの民俗事例も、紙片には「茶」もしくは「甘茶」を漢字、もしくは平仮名で書くことになっている。  
つまり、この俗信は江戸時代以降に成立したものと考えることができ、もともとの潅仏会という仏教儀礼そのものから派生した習俗ではないようである。  
そこで、この疑問を推測するヒントとなるのが、茶や甘茶の「お接待」との関係である。愛媛でも西予市城川町など南予山間部では「茶堂」と呼ばれる辻堂があり、そこで遍路や旅人に茶や甘茶などの接待をするという習慣がある。これは地区の外から来訪する者を歓待するために行われる行為であるが、「あまちゃ」と書いた紙片を逆さに貼る行為は、歓待の逆の意味で、つまり排除したいという心意から、外から浸入してほしくないもの(家では百足や蛇など)への対策として逆さに貼るのではないだろうか。「甘茶」=歓待、「甘茶」を逆さにする=排除ということである。ただし甘茶を家の周囲に撒くことや、蚊帳にふりかける行為は、純粋に甘茶の呪力を信じてのことであろう。  
甘茶の呪力に関する俗信については、結局、江戸時代以降の潅仏会での甘茶の使用を基礎として、そこに民間の心意が働いて誕生した民俗といえる。とはいうものの、墨書して「逆さ」して貼るという行為が、限られた地域のものではなく、愛媛県のみならず、全国各地にも共通して見られるのは何故であろうか。その点だけは不思議である。この行為を広く定着せしめた要因は何なのか。自然発生的なのか、それとも何らかの文献にでも紹介されて、情報流通して広がったものなのか、よくわからない。こういった点は仏教と民俗(民間伝承)の交錯の複雑さを顕している。  
 
縁起説の完成

縁起とは「縁って起こる」ということ、つまり、物事が起こるには、すべて原因や条件がある、原因や条件がなくなれば、物事は成立しなくなるということです。仏教で問題にされる物事とは、世の中の人がもつ苦しみです。苦しみには理由があって、その理由がなくなれば苦しみはなくなる、ということを説くのが、縁起説なのです。  
縁起説の完成形態は、十二支縁起です。十二支縁起とは、漢訳の用語で言いますと、「無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六処がある。六処によって蝕がある。蝕によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死、愁、悲、苦、憂、悩が生じる」と説き、また「無明を滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。生を滅することによって老死、愁、悲、苦、憂、悩は滅する」と説かれる教えです。  
最近の仏教学者の研究によって、この十二支縁起の教えは、釈尊が亡くなってから百年以上経ってから成立したということがわかっています。今日私がお話ししたいのは、このおよそ百年の間、釈尊によって説かれた教えがどのように変化して、縁起説へとなっていったか、ということです。  
根を引き抜かずいくら切り倒しても、また木がのびてくるように、根源的生存欲求(愛)が根絶されないなら、苦悩はまた生じてくる。  
現存する最古の原始経典が「スッタニパータ」第4章「八詩句章」であり、ここに釈尊の直説の教えが保存されています。釈尊が自らの出家と悟りについて語るのが、第十五経です。釈尊は次のように語りはじめます。  
棒を握って暴力をふるうようなことから離れたいという憂いの思いが生じたのだ。争っている人々を見なさい。私がどのように厭い離れたか、その厭離する心を語ろう。  
釈尊が世の中を厭い離れ出家を志したのが暴力に対する嫌悪からであったことが、実に素直に語られています。釈尊は出家修行者となり、師を求めて様々な修行者の門を叩きましたが、納得できる教えを説いてくれる信頼できる師に出会うことはできませんでした。  
修行者や師と呼ばれる人たちさえもが、[論争し]敵対し合っているのを見て、私は絶望的になった。このとき、私は、[人々の]心臓の奥底に突き刺さっていく一本の矢を、発見したのである。  
その矢によって突き飛ばされて、人々はあらゆる方向に向かって輪廻している。この矢を引き抜きさえすれば、もはや輪廻することはないのである。  
これが、釈尊の根本発見を最も直接的に語った言葉です。信頼できる師に出会えず、出家者の世界こそが論争や抗争の修羅場であることに、釈尊は深く絶望します。どこに行っても安住の地はなかったのです。しかし、この絶望が、後に悟りと呼ばれることになる根本発見を導いたと、釈尊は語るのです。それが、人々を根底から突き動かしている「一本の矢」の発見です。そして、この矢こそが人々を輪廻させている(と思わせている)原因だと語るのです。  
なぜ輪廻が唐突に出てくるのか不思議に思われるかもしれませんが、釈尊の時代のインド社会は輪廻思想が蔓延した時代でした。輪廻とは、一言で言えば、死んでも死んでもまた死すべきものとして生まれてくるという永遠の苦の連鎖です。知恵ある人たちは、この蔓延する輪廻業思想から脱出して、精神の自由を獲得したいと願ったのです。釈尊も、人々が輪廻の思いにもがき苦しんでいるのを見て、憂いを覚えたと語っています。  
ここで注目しなければならないのは、939の経文です。「一本の矢」が輪廻という苦しみの原因であり、この矢を抜けば輪廻はないと語られています。これは、最初にお示しした縁起のパターンをとっています。したがって、この「一本の矢」の根本発見こそ、最も原初の縁起説だと言わなくてはなりません。もう少しこの「一本の矢」について釈尊に教えてもらいましょう。  
[輪廻の]大洪水[の正体]は[いつまでもこの世界に存在したいという根源的]願望である、と私は言う。吸い込むような激流は[個々の衝動的]欲求である、[流れに浮かんでいる]物は欲求され思い浮かべられた対象物である、欲望の泥沼を越えていくのは難しい、と私は言う。  
ここで語られている願望とは、人々を死んでも死んでもまた生まれかわると思わせている根本原因ですから、人間存在の根底であらゆる願望や欲望の根本となっている願望です。これは、存在していたい、消えて無くなるのはいやだ、生き続けたいという願望にほかなりません。釈尊は、この「一本の矢」たる根源的生存願望の発見によって、すべてわかってしまったのです。それでは、原因が見つかったとして、その原因を滅するには、つまり「一本の矢」を引き抜くには、どうすればいいのでしょうか。  
過去から溜まってきた[洪水の]水を干上がらせなさい。未来に向かって何も希求しないようにしなさい。現在において、何も所有しないようにしなさい。そうすれば、あなたは、静寂を保ちつつ歩んでいくことになるだろう。  
これら[過去現在未来の]すべてにおける名と体からなる個別の私(名色)を、自分のものにすることがないならば、[在りし日の自分が]存在しないからといって嘆き悲しむことはないし、また実にこの世界にありながら失うものは何もないのである。  
人間を根底から突き動かしている根源的生存願望は、過去に対する執着、未来に対する希求、現在における所有という三方向に向けて広がっていくのだから、執着、希求、所有をやめなさい、そうすれば根源的願望から解放されて、自由に静寂に生きられる、と教えています。過去と未来と周囲に向けて飛び散っていた自分を、いまここなる自分へと取り戻してみると、「名と体からなる個別の私」(名色)を自分がいかに所有しているかがわかってきます。この名色を所有するとは、自分で自分を個別のものとして立てて、かけがえのないものとして守っている、ということではないでしょうか。これは、自分という存在の構造に関わることですから、難しいですが、ただこの名色の所有が苦しみの根源だというのは、わかる気がします。「何かを失った」「自分は老いた」「自分は病んで死ぬだろう」と様々に苦悩するのは、過去の自分と今の自分を比べたり、未来の自分をおもんばかったりするからではないでしょうか。これは絶えず個別の自分を保ち続けようとするからなのです。それから解放されれば、確かに安楽が得られるかもしれません。  
さて、ここで、  
  「一本の矢」根源的生存願望 / 愛  
  「名と体からなる個別の私」 / 名色  
  「自分のものにすること」所有  / 取  
が登場しました。それぞれが苦の原因として説かれました。これが、縁起説の最も原初の形と言えます。  
直弟子の教え / さて、釈尊が亡くなって後、ごく少数だったはずの直弟子たちが長老となって、少しずつ釈尊の教えが広められていきます。彼らの教えは、「スッタニパータ」第5章「超脱章」に残されています。仏弟子たちの教えの説き方の特徴は、釈尊を語り手として登場させることです。この手法は、後々まで仏教経典全体の特徴になりました。ここで、特に紹介しておきたいのは、「バラモン門弟メッタグーの問い」と題される第五経です。  
 > 世尊よ、いったいどこから苦悩が生じるのか、教えていただきたいと思います。  
 > 苦悩は、所有が根拠となって、生じるのです。  
実に、真理を知らないままに、愚かにも人々はくり返し所有を続けるために、苦悩し続けています。それゆえ、苦悩が生じてくる根拠を観察して、よく知って、所有をしないようにするのがよいのです。  
過去においてであれ、未来においてであれ、現在の周囲においてであれ、いまここの中央においてであれ、何らか君が知っているものがあるならば、それを求めることも、それを確かめることも、それを意識することも遠ざけていって、くり返し再生することのないようにしなさい。  
明らかに、ここでは、上で見た釈尊によって発見された根本真理を引用しつつ、引き受けて、苦の原因として所有がはっきりと指摘され、所有をやめることによって苦が取り除かれると、教義化されています。  
第三世代の仏弟子たちの教え / さて、次の世代になると、出家・在家の弟子たちも増え、かなり大きな精舎も建立されはじめて、ますます教えの教義化が進んでいったと考えられます。この時期の教えをまとめたとされる「法句経」に、釈尊の中心の教えであった根源的生存願望を受けた、次のような文言があります。  
根を引き抜かずいくら切り倒しても、また木がのびてくるように、根源的生存欲求(愛)が根絶されないなら、苦悩はまた生じてくる。  
根源的生存欲求(愛)が苦の原因であることが、確認されています。これはその後の仏弟子たちの暗記項目になったようです。次に紹介するのは、「雑阿含経」有偈品からの教えです。これも第三世代の仏弟子たちの集成であるとされています。  
網を張るようにこびりついた根源的生存欲求(愛)がないのであれば、どこにも連れ出しようがないであろう。覚者(ブッダ)は一切の所有が消滅しきっている故に、安らかに眠る。魔よ、この私と汝は、何の関わりがあろう。 
世の求めるものは、色形、音声、味、匂い、感触、思考されるもの、これですべてである。これらは恐ろしいものであり、世はこれに巻き込まれている。自分の有り様を常に見つめるブッダの弟子たるものは、これらを超え出て、死すべき悪魔の領域を超越し、太陽のように輝いている。  
これは、六つの認識の対象領域の教義が進展し、六処(眼耳鼻舌身意)が苦の原因の一つとして、考えられはじめたことを示す経典です。次は、尼僧と魔の対決です。 身体は、誰が作ったのか。身体を作ったものは、どこにいるのか。身体はどこで生じてきて、どこで滅するのか。  
苦の元である身体は、私が作ったのでもなく、他のものが作ったのでもない。因によって生じ、因が滅するによって消滅する。一つの種子が田に播かれて、大地の滋味と水分の両方によって成長するように、五蘊(色受想行識)、六界、六処(六つの認識の領域と働き)も因によって生じ、因が滅することによって、滅する。  
この経文では、身体が苦の原因であることを明示し、その身体の根幹としての様々な構成要素も、因によって生じ、因が滅することによって消滅することが、説かれています。この五蘊の中の受と行と識がバラバラで十二縁起に取り込まれています。  
最終段階の韻文経典と縁起説 / これまで見てきたように、世代が進むにつれて、分析が進み、苦の原因とされるものも増えてきましたが、まだ、それぞれのものをどちらがより深い原因か比べて、縦に並べようという動きは出てきません。それが見え始めるのは、最終段階の韻文経典を集めたとされる「スッタニパータ」第3章「大いなる章」の最後のところです。  
世尊が、満月の夜の集まりにおいて、弟子たちに語り始めるという設定で、説かれます。「悟りに導く様々な真理があるが、それらの真理を学ぶのは何のためかと問う人があれば、究極的には一対の真理を正しく学ぶためである、と答えなさい」、一対とは、「これが苦であり、これが苦の原因である」と「これが苦の止滅であり、これが苦の止滅に至る道である」ということである、と前置きして、長い教えが説かれます。  
人々がこの状態からあの状態へとくり返しくり返し生まれては死ぬ輪廻的存在であり続けるのは、ほかならぬ無明の故である。 
なぜなら、無明とは大きな愚かさであり、このために無限の過去以来、輪廻転生してきたのである。しかし、知恵を備えたならば、人は二度と生まれかわることはない。 
どのような苦が生じる場合でも、すべて行(行為の残余)が縁となって生じている。行が止滅すれば、苦しみは生じない。  
と説き、同じパターンの文で、次に識(意識の流れ)、蝕(ものとの関わり)、受(感受、気分)、愛(生存欲求)、取(所有)、悪行、糧の摂取、・・・最後に、世の希求するものが六つの認識の対象にほかならないと、説かれています。これが韻文経典の中で確認される、縁起説の発展の最終段階です。順番はできつつありますが、まだ縦に並べようとはしていません。  
私は、十二支縁起を悟りの内容とすることに、長い間不満を持ってきました。悟りといわれる限り、それは極めて直観的なものだろうと思ったからです。しかし、これまで見てきたことからすれば、縁起説で肝心なのは、順番ではなくて、根源的生存欲求にいかにわれわれが突き動かされ、それによって苦しんでいるかに、眼を開かれることであり、個別の私というこだわりをどうやって解き放ち、安楽な世界を作っていけるかを考えることのようです。  
 
長増遁世譚 「異界」としての四国

「今昔物語集」の「比叡山僧長増往生語第十五」に、比叡山僧の長増が四国に退隠流浪し、たまたま伊予国で再会した弟子清尋供奉の慰留も退けて終生乞食修行を続けて往生を遂げたという話がある。 
今は昔、比叡山の東塔に長増という僧がいた。(長増は天徳4年(960)に律師に任じられた東大寺戒壇和尚名祐(明祐)の弟子である。)ある時、長増は僧房を出て厠に行ったきり、自分の数珠や袈裟、経文等を残したまま行方をくらましてしまう。その後、数10年が経過したが、ついに行方はわからなかった。長増の弟子清尋供奉は60歳程になったころ、伊予守として任国に下った藤原知章に伴って伊予国に着いた。清尋は藤原知章の庇護のもと修法を行い、伊予国内の人々も清尋を敬った。  
ある日のこと、清尋の僧房の前に立ててある切懸塀の外に一人の老法師がいた。その格好は腰蓑を着けて「濯ギケム世モ不知ズ朽タルヲ二ツ許着タルニヤ有ラム、藁沓ヲ片足ニ履テ竹ノ杖ヲ築テ」という門付け乞食の姿であった。僧房の宿直をしていた土地の人がその老法師を大声で罵って追い払う。その叫び声を聞いて清尋が障子を開けて乞食に近寄って、笠を脱いだその顔を見れば、老法師は比叡山にて厠に行ったまま行方不明になっていた長増であった。清尋が問い尋ねると、長増は「我レ、山ニテ厠ニ居タリシ間ニ、心静ニ思エシカバ、世ノ無常ヲ観ジテ、此ク、世ヲ棄テ偏ニ後生ヲ祈ラムト思ヒ廻シニ、只、「仏法ノ少カラム所ニ行テ、身ヲ棄テ次第乞食ヲシテ命許ヲバ助ケテ、偏ニ念仏ヲ唱ヘテコソ極楽ニハ往生セメ」ト思ヒ取テシカバ、即チ厠ヨリ房ニモ不寄ズシテ、平足駄ヲ履キ乍ラ走リ下テ、日ノ内ニ山崎ニ行テ、伊予ノ国ニ下ダル便船ヲ尋テ此国ニ下テ後、伊予讃岐ノ両国ニ乞匈ヲシテ年来過シツル也。」と答え、僧房を出てそのまま跡をくらました。やがて、藤原知章が伊予守の任期が終わり上京し3年程たってこの門付け乞食が伊予国にやってきた。今度は土地の人々が彼を貴び敬ったが、間もなく伊予の古寺の後の林にて、この門付け乞食が西に向かって端座合掌し、眠るように死んだ。土地の人々は各人が法事を修した。このことは、讃岐、阿波、土佐国にも聞き伝えて、5-6年間、この門付け乞食のための法事を営んだ。「此ノ国々ニハ、露功徳不造ヌ国ナルニ、此ノ事ニ付テ、此ク功徳ヲ修スレバ「此ノ国々ノ人ヲ導ムガ為ニ、仏ノ権リニ乞匈ノ身ト現ジテ来リ給ヘル也」トマデナム人皆云テ、悲ビ貴ビケル」つまり、「此ノ国々」=四国はまったく功徳をつくらない所であるのに、長増の死があってから功徳を行うようになったので、仏が仮に乞食の身となっておいでになったと語り伝えられている。  
ちなみに、長増の弟子で伊予守藤原知章に伴って伊予に着いて修法を行った「静尋」は、「台密血脈譜」「阿裟縛抄」「諸法要略抄」によると「静真」と見え、六字河臨法を修している。「諸法要略抄」に「六字河臨法(中略)河臨法者、阿弥陀房静真、為伊予守知章、於予州修之」とある。また「谷阿闍利伝」によると、静真の弟子皇慶も藤原知章のもとで長徳 年間(995-9)に普賢延命法を行っている。六字河臨法は「阿裟縛抄」には、呪咀、反逆、病事、産婦のために修すとあり、公的というよりむしろ貴族の私的修法の性格が色濃いものである。また、普賢延命法は9世紀までは玉体を祈念する国家的修法として発達するも、10世紀には有力貴族の私的修法へと転換するという。つまり、これらは伊予守藤原知章による私的修法であることがわかる。  
さて、先に紹介した「今昔物語集」長増遁世譚では、四国は「仏法ノ少カラム所」、「露功徳不造ヌ国」と表現されている。「今昔物語集」の他の説話で「四国ノ辺地」と表現されているように、四国は仏法の普及していない「辺土」であったと認識されていたのである。なお、辺地とは、日本国語大辞典では「弥陀の仏智に疑惑を抱きながら往生した者の生まれるところ」と紹介されている。  
ここで長増の話しに戻ろう。長増は、厠からそのまま行方をくらましているが、これと同様の行為、つまり厠からの脱出譚は日本の昔話に多く見られるものである。その代表的な話として「三枚の護符」がある。  
ある山寺に和尚と小僧がいた。小僧は山に花を取りに行ったが道に迷って夜になってしまう。小僧は山中の一軒のお婆さんの家に泊めてもらうが、実はこの婆は鬼婆であった。何とかして逃げなければいけないと思い、便所に行き、便所の神の導きで窓から逃げた。神からは三枚の護符を貰い、追っかけてくる鬼婆に投げつけながらようやく寺に戻る、といった話である。小僧は異界(山)での試練を経験し、寺に帰ってくるのであるが、厠はちょうど異界との境(鬼婆のいる世界と日常入る山・寺)に位置していると認識することができる。厠に関しては、飯島吉晴がその意味、昔話や儀礼におけるその位置づけ、禁忌や俗信、厠神の伝承などを考察しているが、それらを分析すると、厠は異界へ参入する入り口、変身の場、此の世と異界との境というイメージが伴っているとされている(「竈神と厠神−異界と此の世の境−」講談社学術文庫)。 この厠に関する民俗からすると、「今昔物語集」の長増が厠を通じて四国に渡るという行動は、四国が異界であることを象徴していることになるのではないだろうか。四国が仏法の普及していない「仏法ノ少カラム所」、「辺土」であるという「今昔物語集」の記述だけでなく長増の行為からも、当時の畿内(中央)の人々の四国に対する認識の様相を垣間見ることができる。  
 
宝厳寺の歌碑・句碑

一遍上人 / 旅衣木のねかやのねいづくにか身のすてられぬところあるべき  
正岡子規 / 色里や十歩はなれて秋の風  
酒井黙禅 / 子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋  
斎藤茂吉 / あかヽヽと一本の道通りたり霊剋るわが命なりけり  
川田順 / 夕陽無限好 
      糞掃衣すその短く くるふしも臑もあらはに  
      わらんちも穿かぬ素足は 國々の道の長手の  
      土をふみ石をふみ来て にしみたる血さえ見ゆかに  
      いたましく頬こけおちて おとかひもしゃくれ尖るを  
      眉は長く目見の静けく たぐひなき敬虔をもて  
      合せたる掌のさきよりは 光さへ放つと見ゆれ  
      伊予の国伊佐庭の山の み湯に来て為すこともなく  
      日をかさね吾は遊ぶを この郷に生れながらも  
      このみ湯に浸るひまなく 西へ行き東に行きて  
      念佛もて勧化したまふ みすがたをここに残せる 
河野清雲 / あとやさき百壽も露のいのち哉  
坂村真民 / 念ずれば花開く   
他人の「死」を我々は経験できる。しかし、自らの「死」を経験することはできない。ハイデガー「存在と時間」(岩波文庫)が指摘するように、「死」とはいっても様々な位相があって、時代と地域でも異なり、自明のものではない。「死生観」という括りで世界を見渡してみると、「死」は大きく四つに分類できるのではないか。一つは、現実の肉体的生命が無限に存在すると信じるという考え方。これは中国の神仙思想や不老長寿、エジプトのミイラ信仰に代表される。日本でも古代の常世の国の神話もこれにあてはるだろう。霊魂は別として、肉体の存在を重視し、それが未来永劫存続することが可能であるという死生観である。二つ目は、肉体は消滅したとしても霊魂は不滅だという考え方。これはキリスト教の天国と地獄といった来世観や、仏教の地獄極楽思想、輪廻思想が代表的なものである。ここには肉体重視の思考とは異なって、個人の霊魂が死後も異界にて存在し続けるという考えがある。そして死後の霊魂に対しても個性が重要視されるのが特徴である。三つ目は、肉体も霊魂も滅んでしまうが、それに代替する不滅対象(代用物)となって死後の世界で存在するという考え方。これは日本の「先祖」に代表される祖霊信仰があてはまる。先述した個性を有する霊魂とは異なり、33回忌や49回忌といった弔い上げを経ると、死者の個性は次第に消滅し、「ご先祖様」という代々の家の死者の集合体として、家が永続する限りにおいて存在し続ける。例えば、お盆(盂蘭盆)には家代々の各個人の死者霊ではなく、先祖という一種の集合体を迎えて、饗応して、そして再び送る。これが日本のお盆の形である。仏教の六道輪廻思想では、死者の縁者が回向・供養することによって、死者の「たましい」は地獄界や餓鬼界から脱出して人間界へ転生(生まれ変わり)することができるが、この思想の基層には、あくまで死者霊魂の個性は保持されている。祖霊信仰で見られる家のご先祖様としての没個性化とは対照的である。そして、四つ目としては、肉体や霊魂、そして代用物も消滅するが、現在の行動に自己を専従集中させることで、生死を超越した境地を体得するものである。これは一般的な「死」の概念とは異なるようだが、悟りをひらくことや、神との一体化などの神秘的体験を得ることによって、「死」を超越することができるという考え方である。前述の三つの説は肉体や霊魂等の永続・消滅を前提として、人間の「生」の後に訪れる「死」の世界でのあり方を問うているが、この第4の説は「生」の時間の延長線上に「死」を考えるのではなく、時間をも、生と死をも超越しようとしている。四国遍路における弘法大師も、「死」ではなく「入定」しているとされ、今でも「生」の存在なのである。  
このような「死」のあり方は地域と時代によって異なっており、文化的概念ともいえる。そもそも、人間は死を知っているが、サルは死を知らないという。他者の肉体的終焉を「死」ととらえることができるのは人間のみだというのである。「死」を経験し、学習し、理解し、そして概念化・共有化されたことで、サルから進化した人間になったわけである(参考:新谷尚紀「死と人生の民俗学」曜曜社出版)。そして、人間がなぜ葬式を行うのかといえば、実体的な肉体の終焉を、社会の中で「死」として認知させる作業としての意味がある。人間の肉体的な死に伴う不安・混沌状態を、社会的な死として受容させるための方策といえるのである。  
さて、「死」を知ることは、同時に自分が生きていることを自覚することにつながり、生と死の境目を認識できることにもなる。もし、その境界認識がない場合、自分が生きていることの証明を得ようとするならば、究極的には自分が死ぬことよって自分の「生」を確認しようとする場合も出てくる。近年、若者の集団自殺が社会問題となったが、もしかすると、自殺した若者達は普段「生きている」という自己存在感覚が希薄で、それを不安に思っていたのではないだろうか。何とか自己存在を確認したいと無意識のうちに考えた末、死を選択した、いや、死を確認しようとしたのかもしれない。  
現代は身体・家・地域・国家といった様々な環境の「内」と「外」がボーダレス化し、「自己」と「他者」、「生」と「死」など社会における自己存在を明確に理解する力(いわば自己同一化する力)を養うことが困難な時代になっている。命に関しても、「生」の向こう側にある「死」を認識できる力を養う環境を整えることができなければ、これからの世の中は、「生きている」と自覚することが難しい、生命活力の減退した社会になってしまうのではないだろうか。 
かつては「死」を知る手段は「民俗」の中に内在していた。「民俗」とは家や地域を伝承母体として、世代を超えて代々受け継がれてきた生活文化のことである。その中でも人生儀礼のうち死・葬送・墓制の民俗を通して、その地域に生まれた人間は、その地域で成長する過程で、他者の「死」が何たるかを実感・体得することができていた。死者の体を洗う「湯かん」、輿(棺桶)を地区内で運んで墓まで送る「野辺送り」、そして土葬での墓穴掘りなどなど。近親者や近隣者が亡くなった際、住民と死者との距離感は近いものだったはずが、今ではセレモニーホールでの葬儀、豪華な棺と霊柩車、設備の充実した火葬場などの登場で、死者との距離感は増し、死のリアリティも以前に比べて希薄になってきている。  
「死」を知ることで人間はサルから進化することができた。自分の「死」は経験できないが、他人の「死」は経験できる。このように述べたが、現在では他者の「死」に関してもリアリティをもって経験しづらくなっている。人間が「死」とは何ぞやという問いを考えるのが困難な社会的状況では、「死」を理解できなければ「生」も実感できなくなってしまう。これは人間個人のみの問題ではなく、人間が社会を構成するために必要な自己存在の認識力(「自己」と「他者」を認識する力)にも影響してくる問題である。「他者」を認識する力が皆無だと、「社会の中に存在している自分」という理解から、「自分がすべての中心であり、自分の意識の中に世の中が存在する」といった存在理解の逆転現象が起こりかねない。そして、いずれ日本の若者の間に、第5の死生観が定着するかもしれない。人間は死んだら何もなくなる。肉体も霊魂も。そして、自分が死んでしまうと世の中の存在さえも消えてしまう。そのような死生観のもとでは、日本の伝統的な祖先信仰も消えうせてしまい、それを支えていた家制度や寺檀制度も大きく変容していくだろう。  
そもそも自己存在の確認は、「時間」と「空間」にて行われるものである。自分の存在を過去・現在・未来という時間軸に位置づけることであり、身体・家・地域・世界という空間軸に位置づけることである。その作業を、「民俗」という世代を超えて伝承されてきた文化、つまり先人が伝えてきた生きる力・知恵・知識を素材として考えていくことは重要である。これからの世の中では、この視点が不可欠になるのではないか。個が個としてのみ生きていくことができるのは、単なる幻想であり、個は必ずコミュニケーションをとり、他者との関係を築かなければならない。「人の間」と表記する「人間」の存在は自明なものではなく、ヒトとヒトの間柄が築かれてはじめて「人間」となるのである。  
その間柄には血縁・地縁・社縁などの「縁」があるが、その「縁」の中で自己を確立する力を養ってくれる一要素が「民俗」である。「民俗」を古きもの、ノスタルジーを感じさせるものと扱うのではなく、現実=生きる手段としていかに扱われてきたかを理解することで、現在・未来を生きる方策も、おのずから見えてくる。それは生きていることを相対化する作業であり、それが達成できれば生きていることを絶対視もできるのではないか。「死とは何か」を考える不断の努力は人間が「生」を継続していくために不可欠と言える。  
 
湯聖1

文永11年(1274)36歳 熊野湯の峰温泉「一遍上人爪書き名号碑」 /湯峰王子跡−本宮例大祭の前日、関係者が頑ぎの湯浴みをして、古道を通って大社へ帰る「湯登神事」。一遍もこの地を訪れ、岩に名号を爪書きしたという伝承。 
建治2年(1276)38歳 別府鉄輪温泉開湯(伝承)。 一遍上人が豊後の国から豊前の国へ賦算の途中、別府野口の里で濃霧にあい難渋する。そこへ白髪の翁が現れ「鶴見岳の山霧と、八丁四面の鉄輪地獄の湯煙で民衆が難儀をしている。これを救うことは、人間には無理である。鶴見山麓の火の神、鶴見権現に祈れ。」と告げる。一遍が21日の断食祈願をすると、又白髪の翁が現れ「大蔵経の経文を一字一石に記し、称名を唱えつつ投げ込めば、地獄を埋めることが出来よう。」と教えてくれた。一遍が時衆の僧や寺々の僧の協力を得て、お告げを実行していると、民衆たちも食べ物を寄進して協力した。ほとんどの地獄は静めることができたが、最後に三間四方の噴気がどうしてもとまらない。一遍が再度参籠して祈ると「その噴気を止めるに及ばず。これは経文の功力と温泉の力が合わされ霊場となつたものである。ここに蒸し風呂を築けば、いかなる難病も必ず治るであろう」とお告げがあつた。このようにして鉄輪の開湯に成功した。国守大友頼泰は一遍の労苦を謝し、松寿寺を寄進した。松寿寺の跡は、永福寺となり、一遍の像を安置し、「日本第一蒸湯開基」「一遍上人安置道場」と掲額 。 
正応元年(1288)50歳 最後の帰郷の際、河野通有の懇望により、湯釜に六字の名号を書く。  
医聖・湯聖2 
「市聖空也」「勧進聖重源」と並んで「捨聖一遍」は宗教に関心のある者にとっては周知の呼称といえる。一遍に関する著作では「捨聖一遍」と並んで「医聖一遍」「湯聖一遍」なる呼称が金井清光「一遍と時衆宗教団」大橋俊雄「一遍聖」栗田勇「一遍上人・旅の思索者」砂川博「一遍聖の総合的研究」足助威男「若き日の一遍」に散見する。更に「大法輪」誌には宮松宏至「一遍上人の妙薬」金井清光「一遍上人の尿療法」では尿療法の知見が詳述されている。 
本草(薬草)と鍼灸についての知見は前漢以前の「神農本草経」前漢の「黄帝内経」「傷寒雑病論」「甲乙経」などほぼ2000年前に完成しており、仏教伝来以来膨大な著作が中国や半島からわが国に流入した。空海の到来物のなかにも書名が残り、わが国初の医学書である丹波康頼の「医心方」は永観2年(982)に完成している。 
太宰府庁に納められたこれら著作を太宰府で修行した一遍は閲覧できたと示唆する論者もいるがあくまで可能性の検証に過ぎない。「神農本草経」でいう上薬・中薬・下薬345種の本草の多くは日本の風土の中でも生育しており、仏教者はもとより知識階級はこれを重宝して活用した。何故に一遍のみが「医聖」「湯聖」として崇拝されるのか。 
「一遍聖絵」に現れた病気・病状 
「一遍聖絵」に記載されている病気・病状は9件である。 
(1)時衆もしくは信者に関する病気は6件で@常陸国の悪党の中風治癒A武蔵国で時衆5-6人発病B上総国「生阿弥陀仏」の病気C尾張の二宮入道発病D近江国で時衆13人一斉発病E備中国「花のもとの教願」発病が記載されている。 
(2)一遍自身の病気は3件でF京都遊行中に発病し「生死本無」の詞書を行ったという話G篠村で腹をこわし2週間逗留するが満願の朝治ったという話B阿波国で死を予告して発病した話が記述されている。 
9件の病気は奇跡に関する純粋な宗教的な話はなく、まして一遍が主体的に治療した記述はない。一遍が「まれびと」であり罹病の「場」を共有しているに過ぎない。時衆もしくは信者の「信仰」が中心テーマである。また一遍自身の病気で病名が明確なのは胃腸障害であり「満願の朝治った」ことは奇跡とは縁遠い。とすれば「一遍聖絵」以外から「医聖」「湯聖」に関する描写に迫って行くしかあるまい。 
一遍の施療 
「生・老・病・死」の中で人間は一生を終わるが、キリスト教では「生・死・再生」の論理で死後の世界の審判を予定し、大乗仏教では「成仏」して浄土教で唱える阿弥陀仏の蓮華の世界を提示した。道教は徐福伝説や「かぐや姫」の不老不死薬の物語を残しただけで終わった。現生以前は「輪廻の世界」とでも云うべきであろうか。 
一遍の施療では本草(薬草)、飲尿、水銀(丹)、温泉療法が考えられる。  
@本草(薬草)療法は先述したように半島・大陸から移入した療法であるが、高野・熊野聖(修験者)の民間療法、例えばトリカブトとサソリは共に猛毒であるが毒性を消しあい無毒となる事実(大塚恭男「東洋医学」)を承知し、遊行時に施療したかもしれぬ。 
A京都因幡堂での尿療法が永仁4年(1296)の「天狗草紙」に一遍が竹の筒に尿を差し入れ、その尿が万病に効くと信じて民衆がおし頂いている様が台詞付きで描かれている。「一遍と神々の出会い@-夢託ということ-」で指摘した夢託・夢見・夢語り・夢集 団(カルト)への発展する「一遍との一体化」と同様の「一遍との合体」である。キリスト教の厳格な教義とは異なるが、パンと葡萄酒を通してイエスに近ずこうとした信者が中世都市には充満していた。尿自体の薬効は現代の「中薬大辞典」の「人尿」中「薬効と主治」には「逆上の鎮静化、止血、血液循環促進」などの薬効を記載している。 
B水銀療法C温泉療法は奈良時代の光明皇后の施薬院や重源の蒸し風呂など目新しくはないが、一遍に群がった宿痾の皮膚病(三病)患者や乞食は一遍の奇跡を信じたとも云えよう。金瘡(刀傷)療治も多かった。(「異本小田原記」) 
伊予・道後温泉、熊野・湯ノ峰温泉、豊後・河直(鉄輪)温泉は一遍の結びつきが強いが、いづれもが硫黄を含んだ温泉である。(注)道後は現在アルカリ泉であるが奥道後温泉は硫黄泉であり、中世の遍路記録には道後の湯は硫黄で臭いとの記述が残っている。 
民衆が求めたもの 
鎌倉時代の人口6百万人(速水融「歴史人口学で見た日本」)の1割に相当する「決定往生六十万人」の賦算を実行した一遍であるが、民衆は「南無阿弥陀仏」とともに現世の 幸福を期待したのは当然であろう。六十万人賦算を可能にした一遍の教義と遊行もさることながら「医聖」「湯聖」としての治療と「踊り念仏」の魅力も大いなる吸引力であったと指摘しておきたい。一遍生誕地道後を訪ねたこともある一茶に「ともかくもあなたまかせの年の暮」という句がある。「あなた」とは「南無阿弥陀仏」であり「一遍聖」であるのかもしれない。  
鉄輪温泉 
温泉噴気がたなびく、別府市の鉄輪温泉がいま、元気がいい。昔ながらのひなびた雰囲気を漂わせる湯治場リゾートとして、別府八湯の中でもダントツの人気ぶりだ。地元には「時宗開祖の一遍上人が開いた温泉地」という伝説が語り継がれている。「一遍上人伝説」の地、鉄輪を探訪した。 
一遍上人は1239年、四国は伊予国・道後の生まれ。鎌倉幕府時代、伊予一円を支配する守護職であった河野氏の家系で、10歳で出家したが、父の死後いったん帰郷して武士に戻る。 妻帯し子供ももうけたが、再び出家。1274年に念仏の教えを説く旅「遊行」に出たという。その旅先の一つが鉄輪。鉄輪の東側の海岸部には、一遍が上陸したとされる「上人ヶ浜」もある。 鉄輪温泉街の中心部にある一遍ゆかりの「温泉山・永福寺」。永福寺一帯は「風呂本」と呼ばれ、鉄輪温泉発祥の地にふさわしい地名だろう。 
永福寺には一遍の木像をはじめとした伝承資料が寺宝として伝わる。毎年9月に行われる「湯あみ祭り」では、木像をみこしに乗せ、稚児行列を先頭に練り歩き、像を温泉で洗い清める「湯あみ法要」がある。遠く四国や九州各地から駆け付ける常連の湯治客も少なくないという。 
一遍と同じ河野姓の現在の住職、河野憲勝さんは「一遍上人伝説が鉄輪のまちづくりに役立つのなら、うれしい限り」と話す。 地元で温泉宿を経営する後藤美鈴さんらは、「一遍上人探求会」を2003年に結成。「地元でも一遍さんとの縁(えにし)が忘れられようとしている」という思いから、「一遍さん再発見」を目的に勉強会を重ねてきた。 
その成果を一昨年3月、「一遍上人と鉄輪温泉」にまとめた。今年2月には、別府大学の文化財研究所(所長・飯沼賢司教授)と協力して行った調査結果を「蒸し湯っちなんなん―蒸し湯の学術調査報告書―」として発表。飯沼所長は「(鉄輪に伝わる一遍上人伝説は)単なる伝説ではなく、(鉄輪などを含む)別府鶴見周辺を訪れている」と結論付けている。
 
別当大師光定

いまから1200年前の平安時代、伝教大師の高弟として大活躍した「光定」を知る人は少ない。文献によると光定は伊予の国風早郡(北条市周辺説)の出身となっている。確かな証しは少ない。もと風早郡に属した菅沢町(松山市)の佛性寺(ぶっしょうじ)が両親菩提のために建てられた寺との言い伝えがある。当山の場合は、もと北相宗の寺であったが、ゆえあって光定が天台宗に帰属させたとある。ほかには四国霊場のなか、横峰寺が開山第二世の扱いになっているのが注目される。 「温故知新」心にゆとりがなければ、古き時代に心遊ばせることはできない。松山には天台宗の寺院が六ケ寺点在する。天台宗の開祖は伝教大師最澄聖人。鎌倉の世にあまたの祖師方が誕生されたので、現在も比叡山は母なる山と呼ばれ全国から親しまれている。来る平成18年1月26日。天台宗は開宗1200年慶讃大法会を迎える。時空を越えて、開宗なったばかりの平安の時代は、われわれとどのような関わりがあったのか振り返って見たいと思う。 
天台宗は、延暦25年(806)桓武天皇より開宗の勅許を賜った。東大寺(奈良)の大仏(盧舎那仏)開眼(752)から54年。人心荒廃する大和の国から新たな平安京に遷都(794)された12年後。穏やかな歴史のドラマを垣間見ることが出来る。大同3年(808)開宗2年目の比叡山に、忽然とひとりの苦行僧が現れる。その名は「光定」(こうじょう)年齢30歳。伊予の国風早郡(現在の愛媛県北条市夏目あるいはその周辺説あり)の出身。のちの「別当大師光定」である。光定のそれまでの生い立ちは、あまり知られていないが、四国での山岳修験に励んだらしく、四国霊場横峰寺では開山第二世の扱いがなされている。ゆかりの寺は松山に佛性寺・当山医座寺がある。祖師最澄(43歳)は、遣唐使還学生として帰朝3年目。光定の並外れた才覚を見抜いて弟子入りを許可する。その翌年真言宗の開祖となる空海上人(38歳)が比叡山に最澄聖人を訪問。若い光定にとって平安の両雄との邂逅は、法悦に浸りながらも自らの果たすべき使命感がここに燃え上がる。 光定は山上にあって主に顕教を学んだ。最澄より東密(空海の信ずる密教)も学ぶよう指示を受け、海の和尚(かいのわじょう)(当時の空海の呼び名)のもとへ、仲間の弟子である圓澄・泰範たちとともに密教研鑽にも励んだ。このことはあまり知られていない。のちに圓澄は延暦寺二代目の座主(ざす)となり、泰範は山を去って空海のもとで高野山開創の中心をなすこととなる。光定はさらに修行に専念する。祖師最澄に対し常に影のごとく従い、指示には身命を賭して立ち向かう。それはあたかも釈迦と弟子たちの関係を彷彿させ、その後の天台宗成立に多大の貢献を果たすことになる。 嵯峨天皇の御代。祖師最澄入定(822)56歳。あまりに早すぎる哀しい別離。しかし、光定は悲しんでばかりはおれない。祖師最澄の遺言に従い大乗戒壇院建立の勅許を得ねばならない。この当時、真言宗の空海上人は、嵯峨天皇の陰にあって、一に真言二に北相を唱え天台宗を軽んずる進言を行っていた。光定はこうした厳しい情勢のなか、それまでに培った公家たちの人脈と帝との高宜によって、難題であった大乗戒壇院建立の勅許に漕ぎつけ、図らずも空海の真言宗国教説を食い止めることになる。この大恩は決して天台の末弟のみならず疎かにしてはならない。帝より光定に賜ったご宸筆のご戒牒(国宝)は、それまでの労苦を労った尊い証。現在、延暦寺所蔵の大袋を担いだ光定大師立像(重要文化財)も、帝よりご戒牒に併せて乞食(こつじき)袋を賜ったとの記録から、光定が袋を担ぎ比叡山と京の都や奈良往還の苦労が読み取れる。さらに、「伝述一心戒文」(重要文化財)の執筆上奏は、祖師最澄の精神を述べ辛苦を説き涙なく拝聴できない貴重な戒文です。執筆を終えた56歳は奇しくも祖師入定の寿。僧侶として最高位の伝燈大法師位を授かったのが、空海に遅れること28年。ちなみに、大師の諡号は、貞観8年(866)最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師を賜ったのが本邦最初、遅れること55年空海に弘法大師の諡号となる。晩年にいたって光定は、帝より長年の功労に対する重い恩賞を涙のなかに賜った。「文筆秀麗集」「経国集」などに光定が賜った詩が残されている。光定の人となりを「質直にして服餝を事とせず、帝其の質素を悦びて殊に憐遇を加う」と記され、その高宜がしのべます。四季苛酷な環境の比叡山での生活50年。祖師最澄との苦難の生活14年間。二代目の座主圓澄の死後、本来であれば第三代目の座主に任ぜられる立場にありながらも、決して己を表に出すことなく、別当職補佐(76歳)以後親しみを込め「別当大師」と称せられた。座主不在18年の長きを経て、さまざまな難題を解決しながら、天台宗比叡山延暦寺をひたすら護り、生涯を奉仕の下座行に終始したと言っても過言ではない。祖師最澄追慕の情深く、顕・密極めた止観の清僧。厚い信仰心を伺い知ることができる。光定大師入寂の後、延暦寺浄土院祖師最澄のご廟所脇に、あたかも語り合うがごとく立派な廟所が建立されている。堂宇に名を冠し「別当大師堂」も山麓に現存する。しかし、近年にいたり、光定大師の功績を忘れ、人々から忘れ去られようとしている。こうした事態が生じたのは様々要因が挙げられる。伊予国風早郡出身、別当大師光定の精進により、わが国の「天台宗が成立」したのは歴史が証明する真実。亡己利他(もうこりた おのれをわすれたをりする)天台の精神が光定に働かねば、大きく鎌倉の祖師方誕生を否定することになる。中国の故事に、水を戴けば井戸を掘った人の恩を思えとある。現在ここが忘れ去られようとしている。掘りおえたのは「別当大師光定」その人であった。今いちど、大師のご遺徳に思いを巡らさねばならない。  
京道場遊行念仏(一遍上人記)

第一幕  
昔 武蔵国に「越前庄道広」なる武将が居り総領(小二郎)と二人の娘(豊姫、小夜姫)を儲けた。御台が亡くなり後妻(命婦院)を迎えたが、道広も亡くなった。父の死後小二郎は出家した。  
縁あって姉姫(豊姫)は相模国の右門之介と婚約が整い、右門之介から尺八「滝川」を贈られる。妹姫(小夜姫)は代官大友兵庫の妻お清の実弟花房左京と結婚を誓約する。  
代官兵庫邸で家中一同を招いての祝宴の席で御台命婦院と実弟大井太郎左衛門が組んで御家乗っ取りを図る。代官兵庫の一子竹松の命と引き換えに乗っ取りに加担することを約し、妻お清は旧君への忠義立てを申し立て離婚となる。太郎左衛門から小夜姫の殺害を命じられた兵庫は、小夜姫を連れて脱出を図る。加担はあくまで偽りであった。  
第二幕  
兵庫と小夜姫は山中に落ち延び、ここで女房お清と竹松と再会する。お清は復縁を懇請するが拒絶し小夜姫を先に落ち延びさせる。太郎左衛門から小夜姫殺害の下命を受けた花房左京、右京兄弟も追いつく。  
夫婦、兄弟姉妹、親子のしがらみと葛藤の中で先君・御家への忠義立てで小夜姫の身代わりにお清の首を証拠として命婦院と太郎左衛門の元に届ける。  
第三幕  
出家した小二郎は藤沢の一遍上人と呼ばれている。右門之介は藤沢道場で修行中であるが音信不通の豊姫が忘れられない。豊姫は遊行に出掛ける上人に出会い供養を依頼し、瀧に飛び込もうと、死を前にして尺八を奏で右門之介と再会を果たす。「瀬を早み岩にせかるゝ滝川の割れても末に会わんとぞ思う」が成就する。  
代官兵庫や小夜姫と左京も藤沢道場に辿り着いたところに追っ手が押し寄せ防戦する。上人は偶々右京に出会い、急ぎ藤沢に戻り一族が再会する。大井太郎左衛門は葬式に事寄せ藤沢道場に立ち入り一族の壊滅を図るが、右京、左京、兵庫の手により殺される。(めでたしめでたし)  
 
「捨聖一遍上人伝」 昭和54年(1979)監督/長野千秋

「一遍聖絵」」の記述を追ってのドラマですが「総天然色」で「トーキー」の110分の巨編です。宝厳寺・岩屋寺・天王寺・高野山・熊野本宮から始まり大宰府・大隈正八幡宮、豊前(鉄輪),備前(吉備津宮)、京都因幡堂、信濃(佐久・小田切)、善光寺、奥州北上、常陸、武蔵、鎌倉、三島神社、尾張、美濃、近江、京都の寺々、當麻寺、岩清水八幡、播磨書写山、安芸厳島、伊予繁多寺、大三島社、善通寺、淡路の寺々、そして明石から兵庫の観音堂へと遊行の画面は続く。踊念仏の無我の境地を淡々と描き出すし、江刺の祖父通信墳墓を巡る供養、本山遊行寺の「歳末別時念仏会」の「一つ火」の厳粛な雰囲気がつたわる。
 
謡曲 / 誓願寺(せいがんじ)

一遍上人が熊野権現に参籠し、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」の札を弘めよとの霊夢をみる。都へ上り、念仏の大道場、誓願寺で御札を配っていると、一人の女性が御札の言葉を見て、「六十万人より外は往生できないのでしょうか」と問う。上人は、「これは霊夢の、六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華の4句の上の字をとったものであり、南無阿弥陀仏≠ニさえ唱えれば誰もが必ず往生できる」と説く。すると女性は有り難がり、「本堂の『誓願寺』の寺額に替え、上人の手で『南無阿弥陀仏』の六字の名号をお書き下さい。これはご本尊阿弥陀如来の御告げです。私はあの石塔に住む者です。」と、近くの和泉式部のお墓に姿を消す。  
一遍上人が「南無阿弥陀仏」名号を書いて本堂に掲げたところ、どこからともなく良い香りがし、花が降り、快い音楽が聞こえ、瑞雲に立たれた阿弥陀如来と25菩薩と共に、歌舞の菩薩となった和泉式部が現れる。誓願寺が天智天皇の勅願によって創建された縁起が語られ、阿弥陀如来が西方浄土より誓願寺に来迎される模様などを描く荘厳優美な舞が舞われ、最後は菩薩聖衆みな一同に本堂の六字の額に合掌礼拝するのであった。 
誓願寺(京都市中京区桜之町) 
誓願寺は飛鳥時代、天智天皇6年(667)天皇の勅願により創建されました。もともとは奈良にあったのですが、鎌倉初期に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移されました。 
清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高く、また源信僧都は当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行なわれました。 
平安時代後期、法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になり、現在は法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山です。 
「都名所図会(安永9年〔1780〕刊行)」によりますと、表門は寺町六角、北門は三条通りに面し、6500坪もの境内に塔頭寺院が18ヵ寺もあり、また三重塔もみられます。、 その当時、三条〜四条間の「寺町通り」には大小11ヵ寺の寺院があり、盛り場を回るには、いちいち寺の門から出ては次の門をくぐるといったぐあいで、つまり塀で仕切られた寺ごとに独立して盛り場が続いていました。「誓願寺さんへ行こう」、「道場へ行こう」といえば、遊びを意味するほどに寺町界わいは洛中一賑わっていた場所だそうです。 
ところが、明治維新で千年余続いた都が東京へ移り、幕末の戦乱「禁門の変」(蛤御門の変)で辺りは焼け野原となってしまいました。こうした寂しい背景のもと、復興への手がかりを与えようと明治5年(1872)、時の京都府参事・槇村正直は、すでに芝居小屋、見せ物小屋の集っていた誓願寺境内と四条寺町を上がった位置にあった金蓮寺境内(時宗・四条道場)に目をつけ上地(没収)し、三条〜四条間に新しい路を通し、一大歓楽街を作ろうとした。これが現在の「新京極通り」です。このため誓願寺は、6500坪を有していた境内の内、4800余坪の土地を没収されることになります。 
寺町六角に誓願寺の表門(四脚門)があり、通称「たらたら坂」(新京極三条下る)と呼ばれる坂には、明治30年頃まで誓願寺の黒門(北門)があったということは、境内地を失った今では知る由もありません。 
また誓願寺は京都の中心地に位置するために戦乱等の影響を受けやすく、これまで10回もの火災に遭っています。しかし、そのたびに多くの信者たちによって再建されてまいりました。現在の鉄筋コンクリートの本堂は昭和39年(1964)に建てられました。 
度重なる火事の悲劇は、かえって多くの人々を誓願寺に結縁させ、念仏の信仰を育んできたのであります。  
扇塚 
世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。 
この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。特に舞踊家が多く、文化・文政・天保(1804-44)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。 
その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踊家がありました。誓願寺の「扇塚」に芸道上達を祈願して「扇子」を奉納することには、このような深い歴史的な意味が秘められているのであります。 
また誓願寺第55世、策伝日快上人(1554-1642)が「醒睡笑(8)」を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。 
洛中洛外図屏風(上杉本)米沢市蔵/国宝 
中央に室町時代の誓願寺が描かれています。本堂右側に「せいぐわんじ」と書いてあります。一条小川にある頃の誓願寺で、天文5年(1536)の法華の乱により炎上(4回目の火災)し、天文8年(1539)に上棟された頃の誓願寺であると思われます。画面内の人々に注目すると、門前には頭巾を頭から被った女性が参詣していて、その側には物乞いする人が座り込んでいます。また本堂右側の柱に取り付けられた「法輪」を転ずる参詣人の姿や、本堂左側で「流れ灌頂」の経木卒塔婆に仏名を書いてもらっている参詣人の姿が見えます。門前左側に注目すると、矢を入れる器の靫を作る「靫師の店」が、また、画面右端には格子窓に何本も弓を立て掛けた「弓屋」が描かれています。誓願寺はまさしく「洛中」にあって様々な人々が出入りする信仰の場でした。 
誠心院(京都市中京区中筋町) 
誓願寺の南、商店街の中心にある。平安時代に藤原道長が和泉式部のために建立した小堂が寺の起こりと伝えられ、通称和泉式部寺の名で知られている。本堂には和泉式部の法体像と道長の像が安置されているという。境内には式部の墓と伝える大きな宝篋印塔がある。境内には式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで後に植えられたという梅があり、その傍らに「霞たつ 春きたれりと 此花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる」と式部の歌碑が建てられている。  
 
儒教のその後と朱子学・陽明学

長い分裂状態に終止符をうって中国を統一した王朝が秦でしたが、秦の時代には儒教は弾圧を受けました。儒学の書を焼いて儒者を穴埋めにして殺した「焚書坑儒」は世界史でも有名ですね。中国を初めて大統一した秦の名は、チャイナ(china)という名前に残っています。しかし、秦の支配はすぐに崩壊します。続いて中国を統一したのが項羽との戦いに勝利した劉邦です。劉邦(高祖)によっては漢王朝が始まりました。前漢・後漢あわせて約400年間続いたこの漢が中国の王朝のモデルともなりました。実際、中国人を漢民族と呼び、中国の文字を漢字と呼ぶようになることからも、漢帝国の中国史における重要性がわかるでしょう。この漢帝国で儒教が官学として採用されました。堅苦しい学問を好まなかった劉邦も、馬上で天下を取ることはできても、馬上で天下を治めることはできないことを悟ったのでしょう。官学となった儒教は体系的に整備されていきました。儒教の古典としての研究がすすみ、五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)が儒教の素養として学ぶべき文献として定着していきます。また後には四書(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)が朱子学によって儒教の根本古典として位置づけられていきました。そのため役人は文化人であると同時に儒教の素養を身につけることになります。儒学は中国思想の伝統となっていきました。 
朱子学とその背景 
これから朱子学のお話です。朱子学は江戸時代に官学として尊重されました。そのため朱子学は、日本人のメンタリティーに深い影響をあたえと思います。だから、朱子学をある程度知ることは、自分を知るという意味でも必要なことではないかと僕は思っています。 
朱子学は宋の時代に朱熹(朱子)によって完成された儒学で、宋学とも言います。また朱子学は天の理と言うことを強調するため理学とも呼ばれます。また英語の文献などでは、neoconfucianism つまり新儒教とよく表示されます。それでは新しい儒教とはどういう意味でしょうか。それには、朱子学が成立した時代背景を知る必要があります。 
六朝・隋・唐の約700年間(漢滅亡220年から宋建国960年)は中国仏教の黄金時代と言われます。隋代には天台宗、唐代には華厳宗と日本に大きな影響をあたえた仏教思想が生まれたのもこの時期でした。そう考えると、日本の古代国家の形成期と重なるこの時期に、日本が仏教を国の基としようとしたことはごく自然のことでした。この間には政治と文化の担当者の士大夫層が門閥貴族でした。彼らは官吏でありながら政治に関する関心が低く、文学、芸術、哲学、宗教に強い関心をしめしました。 
しかし、唐末の五代の混乱期に多くの門閥貴族が没落をしました。そして混乱の中から中国を再統一したのが宋でした。宋の政治の特色は文治政治にあります。節度使などの軍人が力を持つことで求心力を失った唐末の事情を鑑みて、宋では軍人よりも文人を重視しました。その代表的な現れが科挙の制度です。役人採用試験である科挙では、世界一といってよいほどの難関を突破した者のみが合格を勝ち取ることができました。科挙の解答は最終的に成績順に重ねられます。その結果、一番上には主席で合格した者の答案が他の答案を圧するように置かれました。他の人の答案の上におかれたため、その答案のことを「圧巻」と呼んだそうです。(「儒教の三千年」陳舜臣)おそらく「圧巻」という名がそこから由来したように出色の出来だったのでしょう。科挙の難関を突破して役人となった振興の士大夫層は一代限りの官吏として、北方民族からの圧迫の中で、国家のために真剣に政治にも取り組みました。そのような新興の知識人の課題は、中国思想としての儒教思想の再興でした。漢民族の思想としてはやはり儒教以外にはない。そのために新たに儒教が見直されることになりました。 
孔子に始まる儒教思想はもともと世界や宇宙についての哲学的な思索を欠いていました。しかし、老荘思想や特に隋唐時代の仏教には壮大な世界観があります。そのために、老荘思想や仏教に対抗するために、世界観を伴う儒教の確立が必要でした。宋学、理学などとも呼ばれた朱子学が新儒学と呼ばれるのは、世界観や宇宙論を伴う儒教として倦まれ変わったためでした。 
朱熹(朱子) (1130-1200) 
朱子は19歳で科挙に合格し、官吏の名簿には50年間登録されますが、実際に官吏として活動したのは9年間であり、管理として栄達したとはいえません。しかし、官吏としては熱心な行政をおこないました。大飢饉の救済、不合理な税金の廃止、役人の息子の不始末をもみ消そうとする動きを処罰するなど、熱心に仕事を遂行しました。彼が官吏として清貧な生活を送っていたころから、彼の周りには名声をしたって多くの教えを請うものが集まりました。彼の時代は朱子学は迫害を受けます。朱子学というと、官学であり保守的との固定観念がある場合もありますが、少なくとも彼の時代には保守的思想ではまったくありませんでした。 
理気二元論 
朱子学によると、人間を含むこの世界・宇宙は気から成り立っています。(形而下の世界) この世界は気という言わば物質から成り立っています。始源において気があり、その気には動静がありました。動の気は陽気であり、静の気は陰気となります。陽気からは木と火が、陰気からは金と水がうまれます。また土はこれらの要素をまとめる言わば「ニガリ」のような役割をはたします。このようにして、中国の伝統的な陰陽五行説から世界の生成が説明されます。 
この世界は、しかしながら、無秩序ではなく秩序だてられています。季節は春夏秋冬と規則的にめぐり、柿の種からは柿の実がなり桃はなりません。このように、世界を秩序づけ、世界を根拠づけているもの・秩序の本源を理と呼びます。理とは世界を成り立たせ秩序を与えています。あらゆるものに、森羅万象、自然に、そして社会に秩序を与えるものこそ「天理」ないしは「理」と呼ばれる形而上の原理です。ここで理が支配するものを森羅万象すべてというだけでなく、社会秩序や五倫五常と呼ばれる儒教の徳目を「理」としたところに、朱子学が儒教である所以があるでしょう。 
人間論 
万物は理と気から成り立つと言いましたが、それは当然人間についてもいえます。人間における理とは本然の性であり、気は気質の性です。本然の性はすべての人に共通ですが、気質の性は人によって異なります。朱子学が個々の人間の区別(身分)を是認するのも、人間を構成している気は人によって異なるということを根拠にしているでしょう。しかし、大切なことは気質の性によって曇らされている本然の性(理)に戻り理を究めることです。そのために朱子は二つのことを重視しました。 
一つは「敬」ということで、日常の振る舞いの一挙手一投足にいたるまで理にかなったありように努めること。居敬または持敬と呼ばれ、姿勢をただして襟を正して礼儀にかなった姿勢をつらぬくことです。朱子学は天理と人欲を対比して、欲望(人欲)を去って天理に従う事を重視します。そのてんでは朱子学はリゴリスティック(厳格主義的)とさえいえます。朱子学の形成に大きな寄与をした人物で、朱子が敬愛してやまなかった程伊川は、「餓死に迫られた寡婦の再婚は許されるか」との問に対して次のように答えたそうです。「それは貞節を失う行為であり、許されるべきではない。餓死のことは極めて小のことであるが、節を失うことは極めて大である」 
あと一つは格物致知または窮理です。事物の道理である天理を追求することを朱子学は重視しました。事物に至って(格物) 知に到ることです。具体的には事物を観察したり、「四書」「五経」を精読することでそこに展開されている理を知ろうとすることです。朱子学は近代的な自然科学とは異なりますが、事物への探求精神をもっていました。居敬と窮理は完全な人格(聖人)に到るための朱子学の重要な方法論でした。 
元代の中国は儒教にとっては受難の時代でした。この時代ほど儒者がさげすまれたことはなかったでしょう。 
元の後、漢民族の国家である明が中国を統一すると、科挙は復活します。また朱子学は官学化されました。そのような中で、王陽明によって閑静された陽明学は、朱子学に対抗する有力な儒学となりました。 
王陽明 (1472-1528) 
28歳で科挙に合格。35歳で時の権力者に逆らって左遷された彼は、貧窮と苦悩の中で、宋代の陸象山の思想を受け継ぎ、陽明学として完成しました。 
陽明学の基本には「心即理」があります。心即理とは朱子学が主張した万物を支配する理を心の中にのみ認める立場を言います。すこし後の議論ですが、陽明学から朱子学に対してなされた批判があり、それがわかりやすいと思うので紹介します。 
儒教で重視されている徳目に「孝」があります。家族道徳を基本とする儒教においては、親に対する思いともいえる孝はもっとも重要視されるものです。朱子学においては、孝とは親と子がいるときその間には孝という理が支配していると考えます。しかし、そうならば、もし親が亡くなった場合はどうか。朱子学の立場からは孝という理はそこでなくなってしまうことになるのではないか。しかし、現実には親を思う孝は子の心の中にあり続ける。理とは事物を支配し事物の中にあるものではなく、心の中に備わったものだ、というのが心即理ということです。 
このように心を重視する陽明学では、内面の正しい判断力というか、倫理的感受性を「良知」として大切に考えます。人間の内に本来的に誰にでも備わった良知を十分に発揮することを「致良知」といいます。陽明学は「致良知の倫理」といえます。 
陽明学の特色のひとつに知行合一があります。この知行合一は「知っているならばそれを実践しなくてはいけない」という意味ではありません。知と行とは元来不可分で、行とわけられた知は本当の知ではないといえます。考えてみれば「知る」という行為そのものも、純粋に知的な行為というよりも、ある意味ではその知ろうとする当のモノに向かう(好んだり、愛したりすることを含む)という行為を前提としています。または、もしかしたらこのように言えるかも知れません。「友情」とか「愛」とかを口にして論ずる人が、もし、本当に友情や愛を実感しそれを生きていないとするなら、本当はその人は「友情」や「愛」を知らないとは言えないだろうか。「知りて行なわざるは、知らざるなり」という王陽明の言葉があります。少なくとも、その知がその人に人生を巻き込むというか、その人の生き方に反映したものでないとするなら、本物の知とは言えないでしょう。 
いずれにせよその意味では、陽明学は実践的な学問です。幕末に幕府に反旗を翻した大塩平八郎も陽明学者でした。元大阪町与力でありながら、天保の大飢饉の時の民衆の窮状を座視できずに挙兵の計画を立てるにいたった彼の沸々とした気迫のなかに、陽明学者としての大塩中齋をみることができるでしょう。 
江戸時代は日本人のメンタリティーに大きな影響をあたえたと言われます。その中でも朱子学や陽明学などの儒学は重要です。 
朱子学は日本人の中にある種の価値観を植え付けたように思います。学校でも、時に先生が生徒に対して、「姿勢が悪い。もっと気を引きしめてシャキッとしろ」と叱責するとき、そのような気持ちの背後には朱子学的な「敬」の倫理があると思います。しかし、朱子学は一歩間違えると中身のない厳格主義との批判を受けることになります。日常の立ち振る舞いについて、一挙手一投足たりとも理にかなうようにとふるまうとき、外見上は厳然たる儒者に見えようとも、中身が伴わない、と批判したのは伊藤仁斎でした。伊藤仁斎は、朱子学のような内面と外面の不一致を批判して、内面と外面の一致を「誠」という言葉で表わしたことはよく知られていますね。陽明学の基本にも朱子学に対する同様の批判があります。陽明学が「心」を重視し、心の内に内在する「良知」を尽くすことを強調するのもその現れでしょう。 
しかし、一方で陽明学に対する批判もあります。林羅山は陽明学を頓悟の学と批判しました。「頓悟」とは禅宗のように修行の途上で突然に悟りを開くことなどを意味していたと思います。その限りでは必ずしも悪い意味ではないでしょうが、羅山がいう頓悟とは「主観的」との批判をふくんでいます。自分が真に心で思うこと、正しいと確信したことが、本当に正しいかはどこで保証されるのか、それが主観的で誤りでないとどのようにして証明されるのか、これは古くて新しい哲学の根本問題の一つです。朱子学の側からの批判は、陽明学の主観性で、主観的誤りを逃れるためにも格物致知が必要だと主張します。朱子学は保守的で明治以降の近代化に立ちはだかる前世紀の遺物と見られることもあったでしょうが、朱子学私心は近代的とは言えないまでも「格物致知(窮理)」という科学的精神持っていたことは見逃してならないでしょう。 
いずれにしろ、上にあげた「孝」をめぐる陽明学の朱子学批判に見られるように、江戸時代は儒教的徳目の範囲での思索や論争が展開されました。その意味では、朱子学、陽明学、古学などのグループを越えて、儒教が江戸時代の日本人のメンタリティーを支配してきたこと、そして、その名残として、現在の日本人のものの考えかたにも少なからぬ影響を与えていることは確かではないでしょうか。  
 
恵信尼の書簡 / 仏教に生きた中世の女性(親鸞の妻)

この手紙は一般に「恵信尼文書」、あるいは「恵信尼消息」という題で世に知られています。恵信尼(1182-1268?)という名前をあげると、外国人は言うまでもなく、日本人もあんまり聞いたことはありません。それに対して、親鸞(1173-1262)という名前をあげると、全然聞いたことのない日本人は、割と少ないようです。恵信尼は、要するに親鸞の妻にほかならない人物であります。この手紙は、覚信尼(1224-83)という末子の娘宛に書いた通信で、親鸞の生涯にかかわる内容が、さまざまに含まれています。ご承知のように、親鸞は鎌倉時代の有名な仏教思想家で、新仏教の創始者の一人、そして本願寺を中心にする浄土真宗の開祖という、甚だ歴史的な大立て者でございます。これに対して、恵信尼がたいへん漠然とした、歴史的には隠れた人物であることは、非常に残念なことと思います。「恵信尼文書」以外には、恵信尼に触れる史料はわずかなものしか残っていません。それにしても、恵信尼の手紙を通じて、我々はある程度まで恵信尼の生涯、特にその晩年のことを覗いて見ることが出来ます。 
「恵信尼文書」は史料としては古いのですが、それが残存することは、20世紀まであまり知られていませんでした。1921年に、鷲尾教導(1875-1928)という真宗史の学者が、京都の西本願寺の宝物庫の調査を行ないながら、その手紙を偶然に発見しました。そして2年の後、つまり1923年に、「恵信尼文書の研究」という本でその史料を世に紹介しました。この研究には、手紙の写真版も活字版も載せてあります。鷲尾先生の多くの努力で、「恵信尼文書」がやっと広く知られるようになりました。しかし、その内容に多数の問題が含まれていることから、鷲尾先生の校訂は、ある意味で研究の出発点にすぎなかったと言えるでしょう。具体的にいうと、くずし字、変体仮名、当て字、同音異義の言葉、文章や言葉の切り方、昔の方言、虫くいで見えなくなった字などの問題で、「恵信尼文書」はかなり解読しにくい史料となっているのでございます。ですから、鷲尾先生のご研究が出てからもう65年になりますが、学者の解読・研究は現在でも続いている状態でございます。 
鷲尾先生のご研究が発表された時代には、親鸞の伝記について論争がありました。それは、いわゆる「親鸞 抹殺論」という論争でした。その論は、簡単に言うと、親鸞は歴史上の存在か、あるいは架空の人物か、という論議なのです。その抹殺論は二つの証拠に基づいています。その一つは、親鸞に触れる鎌倉時代の古文書などの史料は、真宗の中のものを除けば、一つも残っていないということです。その二つは、真宗の中の親鸞像、特に栄光に輝く聖人伝のイメージは、何百年かの長い間に作り上げたもので、あまり歴史的な信頼性を持っていないということです。従って、親鸞が本当に生きていたのかを確めることは出来ませんし、生きたと仮定しても、その生涯の活動を具体的に知ることが出来ないのでした。こうした状況の中に、「恵信尼文書」が初めて出て来たのでした。その手紙の内容には、親鸞の生きた出来事がありありと述べてあることから、親鸞の生きていたことも、活躍したことも確認でき、抹殺論は消滅することになりました。そして「恵信尼文書」は、歴史上の親鸞の研究のために、第一の史料の一つに位置づけられました。現在、親鸞の伝記の研究で、「恵信尼文書しに依拠しないものはめったにありません。 
私は、ドクター論文の研究を行なった時に、「恵信尼文書」を初めて読みまし た。その時は、親鸞のことに興味がありましたので、この手紙が史料として評判が高いということを聞いて読んだのですが、手紙を読んで一番驚いたのは、親鸞に実質的に触れる手紙が、割と少ないということでした。その内容は、どちらかというと、恵信尼のこと、つまり彼女の日常生活、観念、希望などが圧倒的に多いのです。このことが分かるやいなや、私はこの手紙のより広い歴史的な価値を自覚しました。すなわち、この文書は親鸞の伝記研究にとってだけでなく、浄土教の一般的な信者の信仰、そして女性の事情、さらには日本の鎌倉時代における日常の生き方を様々に表わす史料と見なさなければならないということです。現在行なっている小研究は、出来るだけ親鸞の問題から離れて、手紙の別の面を調べようとするものです。 
「恵信尼文書」の原文研究について 
さて、「恵信尼文書」の内容と意義に触れる前に、その原文研究の問題を二つ三つ述べたいと思います。手紙そのものの問題は鷲尾教導先生の時代から多くの優れた学者が取り挙げて、幸いに大部分を解決してくださいました。その第一の問題は手紙の数ということです。鷲尾先生が文書を発見した時に、18枚の原文がありました。(そのほか、「無量寿経」という聖典の引用写本も付いていましたが、手紙として数えることは出来ないので、ここでは除いて置きます。)その18枚がいくつの手紙になるかという点については、いろいろな説があります。鷲尾先生は、文書を校訂した時に、10通の手紙に整理しました。しかし、乱丁、落丁などの理由で、9通、または11通からなっているという説もあります。今では10通ということに、大体、定説ではなっていますが、頁の順序、そして手紙の分け方は、鷲尾先生の校訂から少々変わってきています。 
その第二の問題は手紙の年月日を 確証することです。10通の内、3通(第1.2.5)には、年月日が付けてあり、ほかの4通(第4.8.9.10)には、月と日だけが記されています。あとの3通(第3.6.7)には、何の日付けもありません。しかし幸い別のヒントを、手紙の中に見付けることが出来ます。その一つは恵信尼の歳です。4通(第7-10)には彼女の歳が記されており、その内2通(第9.10)には、生れた年も干支の寅の年という形で書いてあります。もう一つは、2通(第4.8)の手紙に、書かれた年が別の手で書き込まれています。それは、恐らく手紙の受信者である覚信尼、あるいは覚信尼の孫である覚如(1270-1351)が書き込んだもので、かなり信頼性が高いと評価されています。こうした様々な証拠に基づいて、全10通の書かれた年、あるものは書かれた日までが、知ることが出来ます。それによって書かれた順序が分かっています。一番早いのは1256年、すなわち恵信尼が数え年で75歳の時のもので、一番遅いのは1268年、恵信尼が87歳の時に書いた手紙です。これらの手紙は恵信尼の晩年の状態をよく表しています。 
その次の問題は、手紙の文字の解読です。彼女の手紙 の文字は、大部分、平仮名で、所々に片仮名や漢字が少し散らしてありますが、老年のくずし字や虫くいでなくなった字などの問題で、謎がかなり出てきて、解読の論争が少なくありませんでした。そのうえ、濁点も付いていませんので、例えば第8通にある一行、「ことには、おとこにておはしまし候へは」という箇所は、手紙の受信者に対して言っている文句なので、この手紙は娘ではなく、別の人に送ったものではないかという論争が、長くありました。結局、その解決は「おとこ」という言葉に濁点を付けて「おとご」と読み、古語の末子という意味に解読することで、かたが付けられました。このような問題は数多くありましたが、今では学者の多くの努力のおかげで、解読の問題になる箇所は、10数ケ所しか残っていません。そして、そうした問題の箇所にも、説得力のある仮説がかなり出て来ています。 
「恵信尼文書」の概略 
さて、次には手紙の内容に進んで行きたいと存じます。まず、「恵信尼文書」の内容を非常に簡単に述べたいと思います。手紙は、内容の上から見ると、三つのグループに分類することが出来ます。その分類は、幸いに手紙の年月日の順序にぴったり当てはまっています。最初のグループは第1通と第2通からなっています。この二つの手紙は共に1256年に書かれたもので、両方とも譲状という法律上の書類です。その内容は、恵信尼が娘の覚信尼に7-8人の下人を譲ろうという決心を伝えたものです。下人というのは、あの時代の最下層の労働者で、歴史家によると、奴隷か農奴に近い身分の人のことです。下人は土地と共に恵信尼の財産を構成するものだったのです。その財産の一部を娘に譲ることを、この譲状で正式に表明した訳です。しかし、その下人はすぐに覚信尼の所へ行ったのではなく、恵信尼が死んだ後に、覚信尼のもとへ行ったようです。従って、この手紙は遺言書のようなものと解釈してもよいと思います。その下人は後の手紙にも触れてありますが、こうした手紙から、当時の下人の事情がほんのちょっと窺えます。 
その次のグループは第3通から第6通までの手紙からなっています。この4通は全部1263年に書かれたもので、恵信尼の夫、すなわち親鸞にかかわる手紙です。この4通は、間違いなく、親鸞の亡くなったことを伝えた覚信尼に対して、恵信尼が返事として草した手紙です。その内第3通と第5通は、親鸞の生涯の出来事を述べたもので、かなり長いものです。すなわちその第1は、親鸞が比叡山の天台宗の修行道場から離れて、京都の六角堂に籠り、聖徳太子が意味深い詩文を授ける夢を見て、それをきっかけとして浄土宗の開祖、法然(1133-1212)の弟子になったという出来事です。そしてもう一つは、親鸞が1231年に病気になり、病床に伏しながら宗教的な自覚を体験したこと、つまり救いの為の人間の様々な努力は結局むなしいもので、自らの計らいを一切やめて、ただ一心に阿弥陀仏のはたらきに任せるよりほかに、道はないという自覚の出来事です。この二つの手紙は、言うまでもなく、真宗の学者の関心を引いて、集中的に研究されるようになりました。その微妙で徹底的な研究の一例として、第3通の追伸の中にある「堂僧」という言葉をめぐる研究を上げることが出来ます。恵信尼によれば、親鸞は比叡山にいた時、「堂僧」、つまりお寺の堂の僧侶という役についていたと書かれていますが、学者はこんなに僅かな文句によっても、親鸞の宗教的な背景を明らかにしようとして、あの時代の文献を広く調べて、「堂僧」とは具体的にどんなものだったのかを知ろうと努力しました。また第3通のもう一つの目立った要素を忘れてはいけません。それは恵信尼自身の夢の話のことです。彼女は夢の中で、主人の親鸞は観音菩薩の化身であるという目覚を持ちました。その夢は数10年前のものですが、その時から、恵信尼は親鸞を特別の存在として尊敬したのです。このことによって、恵信尼を後の真宗の開祖信仰の先駆者として認めてもいいと思います。 
次の第3番目のグループは、第7通から第10通までの 手紙からなっています。この4通は1264年から1268年の間に書かれたもので、恵信尼の死去の近づいた時期の手紙です。このグループの手紙には、前の二つより恵信尼の日常経験や出来事がよく描かれています。例えば、年寄りの悩み、病気、老人ぼけという話が所々に出てきます。また、家族の話、特に覚信尼からの贈物への感謝、孫たちの成長や活躍を尋ねるものなどが含まれています。また、飢饉と流行病にも触れてあります。その苦難の結果、恵信尼の家にいた数人の下人は、大人も子供も死んでしまいました。まことに無常観の強い体験だったろうと想像出来ます。このグループの2通には、五重の卒都婆、恐らく五輪塔だろうと思いますが、石碑を作ってもらいたいという希望が強く表われています。恵信尼は、死が近づくにつれて、この卒都婆がはやく仕上がるように益々希望しました。これは何らかの理由で、彼女にとって最も大切な希望のようでした。また、最後の手紙の中に、恵信尼の宗教生活もうかがえます。それは念仏を中心にする生活で、阿弥陀仏の名前を称えながら極楽浄土に生まれ変わる期待をかけるものです。その世界は、この世の悲しみやつらいことが全然ない極楽 で、久しく別れた親子や友人に再び会えるに違いないと考えられています。この4通の手紙は、鎌倉時代の日常的な交わりや生き方、そして恵信尼自身の希望と失望、宗教的な期待から人間的な好き嫌いまでを語る文章で、本当に大切な史料だと思います。 
私の研究方法について 
次に「恵信尼文書」の意義に触れる前に、私の研究上の立場と問題意識を明らかにしておきたいと思います。言うまでもなく、このような史料は様々の立場から研究することが出来ます。私の研究分野は、はっきりと言えば、真宗学でもなく、仏教学でもありません。また、哲学でもなく、宗教学でもありません。それぞれの分野は私の研究の周辺に触れますから、ある程度それにも興味がありますが、わたくしの分野は、どちらかと言うと、「宗教史」というものです。歴史学の態度をこの史料に対して取ろうと思います。宗教史という研究は、宗教現象を対象とします。その立場はできるだけ宗教現象を現代の考え方でとらえるのではなく、むしろ発生した時代の中でとらえていこうとするものです。ですから、自分の研究は宗教の真実の探険ではないことを、お断りしたいと思います。しかし、宗教の体験を歴史の現象の内に研究する限り、真宗学や仏教学と共通の問題点があるかも知れません。また、宗教哲学や宗教学と同じように、比較宗教の問題にも、ある程度まで興味があります。特に、ある時代やある文化の宗教体験は、別の時代と文化のそれと似ているか、または似ていないかという考察が、私の関心を引いています。それにもかかわらず、宗教体験を「宗教史」という立場で研究しようとする問題意識が、私の研究原則です。それに宗教体験に止どまりません。その体験を出発点にして、別の現象に研究を延ばすこともできます。例えば、原始教団やその教権、修行や儀式、礼拝の対象、行者の組織、そして教団の否定するいわゆる迷信、神話、異端なども、興味深い歴史的な現象として取り扱います。以上のように、中世日本の宗教を幅広く理解するために、宗教体験から始めて、各方面を総合的にきわめようというのが、私の方法論です。 
「恵信尼文書」の問題点 
このような方法論を以て「恵信尼文書」を調べると、どんな問題が出て来るでしょうか。それは言うまでもなく、数えられないぐらい多いものですが、ここではその中の三つぐらいを取り挙げたいと思います。その三つは、(一)浄土教の世界観、(二)女性の信仰と生き方、(三)真宗の信仰的な内容という問題です。ただ、ここでは考察の範囲を中世宗教という現象に限定しておきたいと思います。というのは、この三つの問題を、中世のものの考え方とその時代の一般の経験の用に位置づけたいと思うからです。日本の中世宗教を主題にする場合、前もってその根本的な前提と特徴を、大ざっぱに上げておいた方がいいように思います。その一つは無常観ということ、つまりこの世の一切のものは永続する能力を持っていないから、信頼出来ないという考え方です。もう一つは、明治時代以降の神仏分離という神道と仏教をはっきり区別する感覚は、中世には、ほとんどなかったということです。むしろ、神々も仏・菩薩も、同じような宗教的な範囲に位置づけられるという見方の方が、圧倒的に多かったようです。このほかの特徴もありますが、一応、この二つを念頭において、日本の中世宗教の問題を考察して行きましょう。 
中世の浄土教の世界観 
その第一の問題は、中世における浄士教の世界観ということです。浄土教は、ご承知のように、鎌倉仏教の一つの系統で、あの時代の最大の系統でした。(そのほかには、禅と日蓮という系統もありました。)浄土教は、特に中世の無常観に基づいている信仰と言えます。つまり、この世の無常性や不信頼性を痛感しない人には、極楽浄土に生まれたいという願望は、あんまり強く出て来ないからです。浄土教は、簡単に説明すれば、阿弥陀という仏が、伝統的な修行では悟りが開きにくい人々の為に、別の世界、浄土を創り上げました。この一生が終って浄土に生まれ変われば、浄土は最高の環境なので悟りが開きやすく、誰でも悟りに達することが出来ます。ですから、この信頼しえない無常の世で修行する必要は全くなく、ただ阿弥陀仏を深く信じる心で毎日を送り、浄土に生まれることを願えばいいのです。その為の唯一の行は念仏、つまり阿弥陀の名前を「南無阿弥陀仏」という形で称えるというものです。真宗の解釈によれば、念仏は阿弥陀に対して救いを求める祈りではなく、救いがもう保証されていることへの感謝報恩の表現ということになります。浄土教は、修行の能力が弱く、あまり自信のない人にとっては、特別の魅力を持っている教えでした。特に、無常観が至る所に広まった中世には、浄土教が広く信者の帰依を集めました。 
「恵信尼文書」には、無常観という感覚も浄土教という信仰も、姿を表してい ます。無常観は、大体、恵信尼の経験した苦難や悲劇的事件の裏に、前提としてあります。その苦難の例を上げれば、第3通と4通に、作物が出来なくて飢饉が広がり、二人の男の下人が死に、恵信尼も死ぬかも知れないと恐れたことが書かれています。また第8通には、下人が皆逃げてしまったことが記されていますが、恐らくこれも飢饉のせいでしょう。また、第9通と10通によると、流行の熱病の為に、数人の下人を失い、その用には覚信尼に譲る約束になっていた子供と大人の下人も含まれていました。別の下人は、腫れ物が頭に出てきて不自由になり、由々しい状態になりました。これらの証拠から、恵信尼の目にした世界は、確かに苦難の世界であったと結論出来ます。 
このような飢饉や病気の為に、中世の人々の寿命は、現在のより遥かに短いものでした。人口史学者によると、中世における平均寿命は、史料が少ない為に非常に統計がとりにくいのですが、恐らく40歳に過ぎなかっただろうと言われています。平均寿命が40歳と言っても、全く高齢者がいなかったという訳ではなく、ご承知のように、恵信尼や親鸞のように80歳代まで生きた人もいました。従って、中世の人達は長生きできる可能性はあっても、その実現性はかなり低いということを、皆自覚していました。この自覚が仏教の無常観に呼応して、中世の至るところに現れました。その意味で、無常観は中世の代表的な思想と言えると思います。 
恵信尼の浄土信仰は、当然この無常観に根づいていると思います。これは鎌倉初期の鴨長明(1153-1216)の「方丈記」とほぼ同じパターンです。「方丈記」の場合には、この世の災害の原因を末法思想で説いている所が一箇所あります。末法というのは、この世の安定や安心、そして仏教の教えの理解や修行が混乱に陥る時期のことです。恵信尼は手紙の中で末法のことには触れていませんが、末法という言葉を聞けば、彼女はすぐ理解したでしょう。手紙には末法というような教義的な概念ではなく、もっと一般的な表現が出て来ます。例えば、第10通に浄土のことに触れて、「なに事もくらからず」という言葉が出て来ます。すなわち、浄土は現世の暗い様子に比べると、暗くない世界、つまり光の世界に違いないと考えているのです。「暗くない」という表現には、別に深い意味などないと思う人も多いかも知れませんが、阿弥陀が無量光仏、すなわち光の限定のない仏と言われている以上、それは浄土教の原則に基づいている表現なのです。恵信尼はこの簡単な言い方で、浄土教の根本的な二元説を表しているのです。その二元構造とは、この暗い世界とあの明るい浄土という構造です。教義的な言葉で表現すれば、「厭離穢士、欣求浄土」、つまりこの汚れた世界を厭きて離れて、あの極楽浄土を喜んで求めよう、という信仰的な動機から出た構造です。この二元構造の世界観が、恵信尼の「暗からず」という言葉の裏にあると思います。 
浄土教の二元説は、他の中世の仏教思想に比べると、何となく原始的で、素朴な思想に見えるかも知れません。大乗仏教は、一般にこのような二元構造の世界観を否定して、その代わりに、一元説、つまり真実は唯一のもので、二つに分けるのは、人間の偽りに過ぎない、ということを説きました。このような考え方は、天台の本覚思想、真言の即身成仏、禅の見性成仏などの仏教教義の論題に姿を表わしています。この一元説は浄土教の思想家にも影響を及ぼしました。例えば、裟婆即浄土という教え、つまり現在の苦しい世界が、そのまま極楽浄土に他ならない、という理論があります。親鸞も大乗仏教の一元説を理想の原則として、認めましたが、ただ、現在の状態でその理想を悟ることは非常に難しいので、その悟りを浄土に譲らざるを得ないと考えました。ですから二元構造の浄土思想が、人間の現在の有様に一番ふさわしい教えであると主張しました。天台、真言、禅などの教えは、宗教の思想としては、遥かに微妙で優れた考え方であるとしても、中世の一般の人々の実感にはぴったり合わなかったようです。普通の人は天台や禅などの修行は出来なかったし、厳しい現実から開放されたいという希望しか分かりませんでした。浄土教は、ある意味で一般の人をそのままで迎えようとした教えです。平民的な世界観を用いながら、真理に導こうとする宗教思想です。恵信尼の「暗からざる一浄土のイメージは、一般の人の中に現れた理想の一例です。 
ここで、かなり分かりにくいことに、少し触れて行きたい と思います。それは下人についてのことです。特に下人の宗教的な傾倒はどうであったかという問題について、考えておきたいと思います。言うまでもなく、この問題にかかわる史料はほとんど残っていません。ですから、この話は想像上の空言に過ぎないかも知れません。それにしても、下人にも宗教的な面があったことくらいでも認めてもらえれば、この話も無駄ではないと思います。下人というものは、非常に漠然とした現象ですけれども、身分が一番低い中世の労働者と言えます。下人の主人は、下人を売ったり譲ったりする権利を持ちましたが、恵信尼の譲状は丁度その権利を示す史料です。実は恵信尼の時代ごろから、人間を売買することに反対する様々な法律的、宗教的な処置が出てきていました。ですから、恵信尼の譲状は、厳密に言えば、売買の書類ではなく、ただ自分の家族に譲る文書ということになります。下人の主人は、その下人の希望も、ある程度まで認めました。例えば「恵信尼文書」の第9通によると、「とう四郎」という下人は、覚信尼のところへ譲られたくなかったので、恵信尼はその代わりを捜そうとしたようです。下人はただの物理的な財産ではなく、封建制度における最下層の従者として、取り扱われたのではないかと思います。時には主人の一番大事な従者になる下人もいました。例えば、親鸞の親密な弟子になった蓮位という人は、恐らく下人の形で親鸞に結び付いたと考えられています。この場合は、下人が主人の宗教的な影響を受けたということになります。 
下人の宗教については、色々考えることが出来ます。その知識と教育がかなり低い場合、神祇、御霊などの崇拝、また迷信的な信仰が圧倒的に多いの ではないかと想像されます。しかしそれだけではなく、もっとレベルの高い面もあったようです。例えば、恵信尼の第9通によると、隣りの下人は仏教の「入道」、つまり俗人的なお坊さんになったそうです。ただ、入道になっても下人の身分から解放されたのではなく、前と同じく下人の義務は担ったようです。下人の仕事をしながらでは、宗教的活動がかなり限られて、決して専任のお坊さんには成り得ないでしょう。しかし念仏のような行は、割と簡単にその生活に組み入れることが出来ます。聖典や礼拝の道具も必要ではないし、仕事などをしながらでも、阿弥陀の名前を称えることは出来るからです。この点でも、浄土教は下人にふさわしい教えではないかと思います。もう一つのポイントは、浄土教、特に真宗は伝統的な仏教の方法では救われない人達に向けられた教えであるということです。最下層の下人たちは、他の人々よりもこうした教えに魅かれがちでしょう。さらに、もう一つ考えられることは、下人は「恵信尼文書」が示すように、飢饉、流行病などによって、かなり若くして死にました。そういう人たちにとっては、極楽浄土という理想は、ものすごく魅力的に思えたでしょう。あこがれがあったはずです。以上の理由で、下人が浄土教に帰依する可能性は十分あったと思います。実際にそういうことがあったかどうか、非常に分かりにくい問題ですが、恐らく下人の活躍の範囲はたいへん狭く、主人の宗教ぐらいはよく知っていて、その影響が一番強かったでしょう。もしそうであるならば、恵信尼の下人は念仏の行や浄土の信仰を受け入れていたと想像されます。 
中世の女性の信仰 
次には、中世における女性とその信仰という問題に進みたいと思います。「恵信尼文書」から分かるように、中世の女性は近世の女性より生活の独立と経済的な自由を多少持っていました。文書が示すように、恵信尼は三人ぐらいの子供と一緒に、親鸞から離れて越後の国で暮らしました。これは離婚ではなく、ただ別居のことでした。恵信尼は自分の家族から土地と下人などの財産を相続しました。その財産を管理する為に越後の故郷に帰り、そこで晩年を過ごしました。末子の娘、覚信尼は、京都に残って親鸞と自分の子供と共に暮し、手紙で母の恵信尼とたびたび連絡しました。この母と娘の間には、暖かい親しみが10数年にわたってずっと続きました。この二人は共に頭がよくて、能力があり、独立的な人物でした。覚信尼の方は、親鸞が亡くなった後、そのお墓に御影堂、つまり親鸞の肖像を安置する堂宇を建ててもらい、その管理の職につきました。その御影堂は、結局、本願寺に展開しましたから、覚信尼はある意味で本願寺の創立者と言えると思います。恵信尼の方は、手紙が示すように、自分の財産を積極的に管理しました。80歳になっても力が衰えず、それに益々努力しました。恵信尼の財産は、夫の親鸞の財産と比べると、圧倒的に多いのです。親鸞の方は、大体、弟子達の寄付に頼っていました。それなのに、恵信尼は持っている財産を、親鸞ではなく、自分の子供に譲ろうとしました。手紙の第1通と第2通は、愛嬢の覚信尼への遺言書に違いないのです。この一例が明らかにするように、中世の女性は、場合によって独立性や経済力を持ったようです。 
恵信尼の宗教生活は、手紙の所々に部分的に見えています。先に申し上げ ましたように、浄土は「暗からず」という想像を抱いていました。この苦難の多い一生が済んで、あの光る極楽に生まれたいという期待を、信仰の中心にしていました。この確信から、念仏の行が出て来ました。その念仏を称える習慣は毎日の生活に融けこんでいて、恵信尼の信仰は誰でもすぐ分かるほど世に現れたと思います。浄土教が女性に向けた思想であったことは、インドと中国の起源にまで遡ることが出来ます。日本の仏教の中では、浄土教と日蓮宗が特に女性の帰依を引き付けました。浄土教の女性救済論が、仏教の女性軽蔑思想を逆手にとっていることは、否定出来ません。それは簡単に言えば、女性は男性より仏教の悟りを開きにくいので、一度、男性に生まれ変わり、その形で悟りに進む方が間違いないという考え方です。浄土教は一般に仏教の難しい修行が出来ない人を対象にする教えです。女性に対しては、仏教の差別的な伝統を受け継いで、女性の劣った性質を認めていますが、同時に救いの希望を与えました。ただ阿弥陀仏に命を任せるだけで、必ず極楽に生まれることを説きました。ある意味で、女性は下人と司じようにこの世の卑しい身分に位置づけられていましたから、浄土の救いをよく分かったはずです。残念ながら、「恵信尼文書」には、浄土教の女性向きの論理がはっきりとは出ていませんけれども、恵信尼がその論理を聞いたことがないとは想像しにくいことです。いずれにしても、恵信尼の信仰は女性の立場だけではなく、人間全体の立場からの信仰です。すべての人々は、等しく阿弥陀仏の対象になって、浄土に生まれることが出来るという確信です。恵信尼の宗教生活はただの在家、つまり俗人的な生活ではなく、尼として暮しました。恵信尼と覚信尼の「尼」という字は、ご承知のように、「あま」という意味があります。この名前は、もちろん二人の法名、すなわち尼になった時に授かった名前です。恵信尼は、自分自身が尼であることを目覚していて、文書には、自分に対して「あま」という百葉を2ケ所(第3.10通)で使っています。室町時代に描かれた恵信尼の肖像が信頼できるとすれば、典型的な尼の姿、つまり髪を剃り、法衣を着て、念珠を持っているという姿をしていました。この肖像を見ると、恵信尼は宗教生活に一身をささげたようです。尼の生活を考える時、「平家物語」に表された建礼門院(1155-1213)という女性を思い出します。彼女は、一般に尼の理想的な姿でしょう。建礼門院は平清盛の娘で、そして安徳天皇(1178-85)の母でした。ご承知のように、壇ノ浦の合戦で平家も7歳の安徳天皇も滅びてしまいました。この悲劇的事件をきっかけとして、建礼門院は世間を捨て、仏教の得度を受けて尼になることを断行しました。その時代の貴族の女性にとっては、これは非常に意味深い決心でした。なせならば、貴族の女性の髪はものすごく長くて、女性美の証しでした。剃ってしまえば、恐らく元の姿には戻れなかったでしょう。建礼門院は、尼になって京都の大原にある寂光院に籠り、質朴な生活を送りながら、平家の菩提を弔い、社会との交わりをほとんど絶ちました。恵信尼を建礼門院と比べると、相違点はかなり目立っています。恵信尼は尼の姿をしていても、家族と財産に関心を持ち続けました。建礼門院の理想から考えると、恵信尼は純正の尼になっていないという判断が導かれるかも知れません。しかし、その判断は仏教の伝統的な僧俗分離、つまり僧侶は俗人の活動を一切やめて、別の世界観を養うた めに社会から引き下がるべきだという観念に基づいています。恵信尼は、夫の親鸞と同じように、僧俗分離を認めないで、親鸞の言葉を借りるならば、「僧にあらず俗にあらず」という新しい理想に生きました。具体的に言えば、外面的には家族と仲間と社会から離れなくても、内面的には宗教的な生活を熱心に営むということです。この「非僧非俗」という生活は、浄土教の帰依者にとって最もふさわしい生き方なので、現在の真宗には、それが宗教生活の理想として挙げられています。恵信尼は、恐らくこの理想に基づいて生きたと思います。 
中世の真宗の構造 
次には、中世における真宗の構造という問題について、考察して行きたいと思います。「恵信尼文書」が書かれた時代は、原始真宗の教団が形成され始めた時期でした。そのころ、親鸞の教えを中世の歴史的、宗教的な事情に適応させる動きが起こりました。「恵信尼文書」は初期真宗の姿について、あるヒントを含んでいます。そこで、「自信教入信」と「卒都婆」という話を出発点にしたいと思います。「自信教入信」とは、20世紀の真宗において主要な話題になってきていますが、その意味は、自分自身を阿弥陀に任せて信心が起こりますと、自分の信心が他の人の模範になり、他の人に信心の経験をさせるようになる、というものです。そうなれば、これより優れた宗教行為はないでしょう。つまり、信心の生活が第一なのです。文書の第5通によると、親鸞はこのことを目覚した時、繰り返しお経を唱えるような修行をやめて、信仰に身を任せたと述べられています。この手紙は、真宗の一番大切な宗教条件である信心の状態を、よく伝えるものです。真宗の教義にとって、信心より大事な論題はありません。信心は、極楽浄土に生まれる原因であり、念仏を称えることは、ただ信心の表現であり、別の目的や利益の為の行為ではありません。また信心そのものも、自分で作り上げるものではなく、むしろ人間の態度や意図を一切中止して、阿弥陀仏の働きに任せることなのです。信心は心の有様であり、阿弥陀に親密な個人的な状態なのです。その点で、真宗は修行の宗教ではなく、信心の宗教と言えます。この信心用心の思想は、親鸞から現在に至るまで、真宗全体の歴史にわたる原則です。誠に真宗の真髄だと思います。恵信尼はこの原則を理解していて、手紙に「自信教入信」という話を書き込んだのだと思います。 
 次には、文書の第7と第8通に出て来る「卒都婆」の問題を取り挙げたいと思います。卒都婆は、恵信尼にとって非常に大事なことでしたが、 現在の真宗学者はあまり関心をもっていないようです。実際、教義的な立場からは卒都婆が解釈しにくいと言えます。卒都婆というものは、五輪塔のような石碑で、普通、人の墓、あるいは亡くなった人の記念として、または菩提を弔う為に作られたものです。こういう習慣は修行的な行為ですから、修行を否定する真宗の思想と合っていないようです。従って、恵信尼の卒都婆は教義上、謎と言えます。またはその卒都婆は、生きている間に自分の墓に建てる寿塔というものだったのでしょうか。それにしても、真宗の理想からは外れた行為です。それともその卒都婆は、親鸞の記念として建てられた仏塔だったのでしょうか。それならば、ただの記念ではなく、開祖信仰的な意味が生じてくるのではないかと、私は思います。いずれにしても、恵信尼の卒都婆は、何となく、中世的な宗教の現象のように思えます。そして、真宗の中世的な面をよく表していると思います。 
中世的な宗教 とは、一体どんなものでしょうか。中世の宗教には、言うまでもなく、種類の異なった数多くのものがありました。新仏教と旧仏教だけではなく、神道と民俗信仰なども含まれていました。この種々様々な環境の中で、どんな宗教態度が有力であったかと言いますと、それは多神論的な意識だろうと、私は思っています。(勿論、多神論と一神論は西洋の概念で、非常に問題になる点がありますが、取り敢えず使わせて頂きます。)中世の宗教は 多神論的だったといっても、一神論的な傾向がなかったとは決して言えません。鎌倉仏教の浄土教と禅と日蓮は、皆、一神論的な面がありました。しかし、現代の一神論的な意識と比べると、鎌倉のは強くなかったと思います。現代の一神論意識は、中世の神々や霊魂や悪魔などを人間の経験の範囲から、出来るだけ退けようとします。唯一認められる神は、この世界を超越して、あるいは偏在して、特定のものに限られていない存在です。従って、現代の一神論的意識は普遍的な考え方です。それに対して、中世の宗教の神は特定的な考え方でした。と言うのは、仏などは絶対的な存在で、超越したものであったとしても、特定の形を取って人間と交わりました。中世の人達は、もの、時、場所などを非常に大切にしましたので、神や仏が、どんな形で、いつ、どこに現れるかということについて、非常に敏感でありました。この意味で、中世の宗教は多神論的と言えますが、中世の多神論は、必ずしも一神論と対立していません。その点で、一神論という西洋の概念を使っても、それは西洋的な理解では使っておりません。 
親鸞は、この多神論的な中世に複雑な教えを唱えました。阿弥陀仏に対して一神論的な信心を強調しましたが、中世の特定的な信仰も、ある程度まで認めました。神道の神々に対しては、かなり批判的な立場を取ったとよく言われていますが、積極的な評価もありました。例えば、神は念仏信者に影のように伴って、守ってくださるとも言いました。中世の数多くの信仰の中でも、特に聖徳太子信仰をもっていました。また、浄土教のいわゆる七祖高僧に対しても、信仰的な態度を表しました。そしてそれらをあがめる和讃を著わし、その中で高僧、法然は勢至菩薩、あるいは阿弥陀仏の化身であるというほどまでに、尊敬の念を唱えました。この尊 敬の念は、典型的な中世信仰だと私は思っています。以上のように、親鸞は一心専修の浄土信仰を進めながら、中世的な信仰も矛盾なく受け入れていました。 
19世紀ごろから、「歎異抄」という真宗聖典がものすごく人気 になりました。それは、一神論的な真宗思想を前面に出して、説得力のある表現で書かれています。「歎異抄」は私を非常に感激させたものであり、親鸞の教えを忠実に伝えている聖典だと思います。しかし、読めば読むほど、現代的な宗教観のように感じます。中世に書かれたのに、中世らしくない考え方を示しています。ですから、明治時代になって初めて世に出た、ということもうなづけます。「歎異抄」の内に中世真宗の姿を捜そうとすれば、確かに僅かに見出すことができますが、それよりも、本願寺の建築の方を調べれば、そこに中世的な構造がはっきりと読み取れます。本願寺の正門を入ると、偉大な堂宇ともう一つの堂宇が目に入ります。大きい方が親鸞の御影堂で、小さい方が阿弥陀堂です。この構造は、親鸞の方を重んじているように見えます。勿論、それには歴史的な理由があり、本願寺が親懲の墓から発展したお寺だということと大いに関係しているでしょう。ただ、それだけではなく、宗教的な理由もあったように私は思います。つまり、開祖信仰というものが、中世真宗の重要な要素となっており、その時代の普通の信者の意識の中では、親鸞と阿弥陀がそんなに区別されていなかったと考えられるのです。さらに、恵信尼の曾孫の覚如の影響により、親鸞が阿弥陀の化身であると見られてきました。ですから、開祖信仰が発展して、親鸞に対する報恩講などの儀式が本願寺の根本的な行事になったのです。この開祖信仰は、恐らく真宗の宗派の形成に大切な役割を果したでしょう。その信仰がなければ、真宗は宗派として出現できなかったと、私は思っています。そして言うまでもなく、この開祖信仰は中世的な宗教現象でした。「歎異抄」の思想も中世にありましたが、この開祖信仰の背景として位置づけられていました。中世の帰依者は、多分、開祖信仰を通じて初めてその信心用心という思想を分かるようになったと思います。開祖信仰がなければ、親鸞の優れた思想は今日まで生き残れなかったかも知れません。ですから、中世真宗の構造は二つの要素からなっていました。一つは信心という宗教的な理想、もう一つは開祖信仰です。この二つは、「恵信尼文書」の「自信教人信」と「卒都婆」という話に、すでに現れていると思います。 
「恵信尼文書」の史料的価値 
最後に、「恵信尼文書」を史料として評価しようと思います。私は中世の文献をそんなに幅広く読んだことはありませんが、知っている限りでは、このような史料は思い出せません。中世の文書の中には、色々なものがあります。例えば、古文書は山ほど残っています。また「玉葉」のような政治家の日記、そして「吾妻鏡」のような幕府の歴史も上げられます。これらは、政治、社会、経済、法律史上、非常に大切なものです。しかし、恵信尼の手紙と比べると、体験的な面が欠けています。ほかには、女性の日記文学、例えば「更級日記」と「十六夜日記」を注目しなければなりません。これは京都の貴族の価値観と美意識を前面に出して、文学として感動的なものです。それにかかわらず、「恵信尼文書」と比較すれば、相当に違った雰囲気を表しています。もう一つの文献は、法然・親鸞・日蓮などの仏家の手紙です。これらは「恵信尼文書」と同じように、一身上の詰も記されていますが、内容は宗教関係の話が圧倒的に多いのです。これらに比べ、恵信尼の手紙は非常に素朴です。内容は日常の体験が主で、一読しただけでは、あまり大したものではないという印象を受けるかも知れませんが、この手紙の純粋な素朴さは、非常に大きな特長と言えます。飾り気がないので、中世の体験を生き生きと伝えてくれる文書です。このような手紙がほかに残っているでしょうか。「恵信尼文書一は、誠に中世の純真な声と、私は思っております。
 
恵信尼消息 / 本願寺展

仏教に三尊像と呼ばれる仏像がある。釈迦三尊は釈迦仏に文殊菩薩と普賢菩薩、阿弥陀三尊は阿弥陀仏に観音菩薩と勢至菩薩を配する。親鸞の妻、恵信尼は親鸞が観音菩薩、法然が勢至菩薩だと告げられる夢を見ている。 
この夢は恵信尼筆の「恵信尼消息」に書かれ、1921年に本願寺で発見された。今回この書状と恵信尼像が出展される。親鸞は妻帯を公言した初めての僧だが、その夫婦の姿がこの手紙に明かされる。親鸞没後に書かれたこの手紙は亡き夫へあてた恋文に見える。 
いつの時代でも女性の心をつかんだ宗教は発展する。真宗の出発点にそれがあった。念珠を繰る恵信尼像の朱に染まる口元に上るのは、亡き夫への尽きせぬ思いと称名念仏だ。 
恵信尼が見た夢と呼応するような夢が親鸞にもある。比叡山で行き詰まった親鸞が1201年に京都の六角堂にこもり、そこで聖徳太子から受けた、「観音があなたの妻になる」という夢告である。その経緯も「恵信尼消息」に書かれている。それにより親鸞は法然に帰し、妻帯した。この夢告を右上に記した親鸞像が今回出展される「熊皮御影」である。 
この親鸞像も念珠を繰る。その前には念仏聖が用いた途中が二股になった鹿杖が置かれている。本願念仏を伝える人生の出発点にあったのがこの夢告である。それはまた恵信尼とともに歩んだ旅路だった。二股が一本となる鹿杖は二人の旅を象徴するかのようだ。 
恵信尼像を左に、親鸞像を右に、中央に「名号本尊」を置くと私の三尊像が完成する。こう並べれば、二人が向き合ってともに念仏しているように見える。 
親鸞が書いた名号は「南無阿弥陀仏」の六字名号の他に「南無不可思議光仏」の八字名号、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号がある。名号を本尊とするのは親鸞から始まると言われる。 
親鸞が名号を本尊としたのは彼にとっての念仏が偶像崇拝ではなかったことをよく示している。しばしば宗教は偶像崇拝に過ぎないと批判される。しかし親鸞にとっての念仏は「本願」という世界の根本精神による「真実」の救いの表れだった。「本願と名号」という御心と御名の、世界に通じる普遍的宗教がここにある。「四海のうちみな兄弟」「四海同胞」の宗教である。 
その親鸞の言葉は悩める青年唯円の心を捕えた。唯円がその感動を記した「歎異抄」の蓮如本が出展される。 
いつの時代でも若者の心をつかんだ宗教は発展する。「歎異抄」が若者を中心に一般に読まれ始めたのは20世紀になってからだ。新たな種はまかれたばかりである。 
親鸞御影と恵信尼像 
会場に入ってすぐのところに親鸞の御影が二種類と恵信尼像が並べてかけてあった。二人が向かい合い語り合っているような雰囲気があった。その恵信尼像の前に、恵信尼が親鸞から聞いた言葉を記した「恵信尼書状」が並べられていた。古筆の仮名書きの文は慣れていないと読みにくいが、幸いに対照して読めるように活字にしたものも置いてあり、それを見ると内容がわかる。実際に親鸞と恵信尼の肖像の前でそれを読むと、今目の前で親鸞が彼女に語りかけているかのようだった。「歎異抄」と同様に親鸞の肉声が聞こえてくる「親鸞ライブ」の趣があり、貴重な体験だった。 
1921年に西本願寺でこの書状が見つからなければ、現代人の知る親鸞像はなかったと言っていい。親鸞が比叡山を出て六角堂にこもり、「後世をいのらせたまひけるに」、九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得て法然上人に帰したことがそこに書かれている。「恵信尼書状」は青年親鸞の求道のさまが描かれた実に貴重な資料であり、大きな発見だった。「恵信尼書状」により親鸞の比叡山下山の理由は「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るという仏道上の問題であったことがよくわかる。親鸞が法然に帰したのは「教行信証」に書かれているように1201年のことである。これまで何度か書いてきたが、「恵信尼書状」が発見された1921年は1201年と同じく60年に一度巡る干支が「辛酉」の年である。中国で革命の年と言われた辛酉の年に日本で初めに注目したのは、その在世中に601年の辛酉の年を経験した聖徳太子(574-622)だろう。1921年は1201年と同じ辛酉の年であるとともに、また聖徳太子千三百回忌の記念すべき年でもあった。私は聖徳太子の導きが今も続いているのだと思っている。 
またこの「恵信尼書状」には、親鸞が聖徳太子の示現を得て「後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて」、法然上人のもとを訪れても、その場ですぐに弟子になったのではなく、またそこから百日間、雨の日も晴れの日も、来る日も来る日も法然上人の言葉を聞いて、やっと納得して法然上人に帰依したことが記されている。「また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわららせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」(「恵信尼消息一」) 
こうして195日かけて、半年以上かかってやっと法然上人にどこまでもついていくという決意を固めたのである。おそらくはこれまで学んだ比叡山での聖道門の仏教に照らして法然の教えを考えるとともに、最後は分別を捨てて法然を信じるしかないという気持ちだったのだろう。親鸞の慎重な性格と思索、そして最後はただ信じるというあり方はここにもよく表れている。親鸞の著作を見ると思索とそこからの飛躍が見事に組み合わされているが、本当の思索というものはそういうものだろうと思う。分別知から無分別智へと飛躍するのである。 
恵信尼書状に見る「聖道から浄土へ」 
この「恵信尼書状」に記された親鸞の言葉から、親鸞の聖道門から浄土門への転向の過程が見えてくる。それは聖道門の教えが間違っていたということではない。その教えが自分にもたらすものを知った結果、次の道を求めざるをえなかったのである。聖道門を下敷きにしながら次の段階に進んでいるのである。やがて「教行信証」として結実する道のりがここから始まっている。それを仏教の根幹をなす「因果の法」を中心に見てみよう。 
釈尊の説いた原始仏教は元来理知的な宗教で「因果(縁起)の法」(因果律)を中心としている。ただし単純な因果律だけなら、同じく因果律を基礎とする科学と同様に、理知的に受容するだけで済むだろうが、それが過去世、現世、来世に渡る「三世の因果」となると信が必要となる。それを信じないものにとっては何の価値もないものだろう。それどころか欲望の赴くままに生きたい人間にとってはかえって邪魔に見えるものだろう。残念なことに現代においてはこの因果の法を無視することがまかり通っている。まずこの因果の法を知ることから始めなければならい時代である。「信解脱」は原始仏教の中にもあり、親鸞浄土教ほどではないが、釈尊の言葉を信じることから仏教は始まる。因果の法について言えば、「善因善果、悪因悪果」が中心である。 
そう言いながらも、実際にはこの世界では悪徳が栄えるように見えることがある。これについてはすでに釈尊在世中から疑問を持つ者がいたようであり、また現代でも因果の法を語るときには反論されることだろう。釈尊も因果の表れる時間的なずれは認めた上で、時間的にずれることはあっても必ずこの因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしている。「悪いことをしても、その業は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、悪い行いをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起こる。」(「感興の言葉(ウダーナ・ヴァルガ)」)天上から地獄までの悪趣を含めた世界があることは釈尊の言葉にはっきりと説かれている。 
こうしてこの世のことだけではなく「三世の因果」が説かれる。その上でさらにそれを越えて「この世とかの世をともに捨てた」彼岸の涅槃の世界が説かれている。「奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)。親鸞が「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るというのは、「三世の因果」を信じた上で、六道輪廻の中の最高所である天上世界に生まれたいのではなく、仏教が目指した六道輪廻を越えた世界に至ろうとしたからである。 
そこに至るのもまた因果の理法による。「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」を観じ実践することで可能になる。「道諦」がその実践で、原始仏教では「八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)」、大乗仏教では「六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)」が説かれる。その実践を因として煩悩を断じ尽くせばこの世で彼岸に至る。 
では現世で煩悩が滅し尽くさなかったら迷いの生死輪廻の中にとどまるかというとそうではない。現世で解脱できなかったとしてもあきらめる必要はなく、釈尊は仮に煩悩が残ったとしても四諦を観じて行じた者は迷いの生存には戻らないと説いている。道諦の因はこの世だけで滅諦の果をもたらすわけでなく、死後にも迷いの生死を離れるという滅諦の果を生じる。これは先に述べた、時間的にずれることはあっても必ず因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしたことの延長上にあり、「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」の因果と「三世の因果」を組み合わせたものである。 
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて素因に縁って起こるのであるというのが、一つの観察である。しかしながら素因を残りなく止滅するならば、苦しみの生ずることがないというのが第二の観察である。修行僧らよ、このように二種を正しく観じて、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。すなわち現世における証智か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)同様の言葉が十六回繰り返されている。 
即ち親鸞の「現生正定聚」「往生成仏」と同様のことが説かれている。釈尊においては自分がそうであるように「此土得聖」が中心だっただろうが、それだけではなく浄土教の「彼土入聖」に当たるものもすでに説かれている。浄土教の原点は確かに原始仏教にある。浄土教はしばしば聖道門から仏教ではないと批判される。それはこれから述べるように聖道門の因果の法の上にさらに浄土の因果の法を説いたからだが、仏教の基本からはずれてはいない。原始仏教の延長上にあり、むしろ浄土門が開かれたことで仏教は完成した面がある。 
問題はこの因果の理法が、原始仏教においては此岸の衆生を出発点とし、そこから解脱するか、解脱せず生死の迷いを繰り返すかの、此岸から此岸へか、此岸から彼岸への一方通行の因果であることだ。この因果に基づくと現在の苦の果は過去の迷いの因の結果であり、また現在の苦と迷いが因となって来世の苦をもたらす。この連鎖の中にあることを知らされる。もし過去世において解脱していればもはやこの生に還ってくることはないので、この生があることは過去世で解脱していなかったことを示している。何よりも現世を苦と感じる限りは過去世で解脱があったとは思えない。過去世の迷いが現世の苦となっていると受け取られるのである。 
そのため釈尊であっても、自分はこれまで幾生となく無益に生死の苦しみを経巡ってきたと述懐するのである。「わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、-あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。」(「真理の言葉(ダンマ・パダ=法句経の原典)」)親鸞もまた「世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と言うが、これは聖道の因果を信じた結果である。これが実は此岸の衆生を起点とする「聖道の因果」の特徴の一つである。釈尊は実際には還相の如来・菩薩だったはずだが、自ら説いた此岸を起点とするこの因果に基づくとこのように言わざるをえないのである。 
これがこの後に述べる浄土を起点とする「浄土の因果」になると違ってくる。法然はこの度の往生は三度目だが、今回はことに往生を遂げやすいと述べるし、また自ら還相の菩薩であることを述べるのである。「命終その期ちかづきて本師源空のたまはく往生みたびになりぬるにこのたびことにとげやすし」(親鸞「高僧和讃」)、「われ、もと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし」(「法然上人行状絵図三十七」)。 
これは因果の起点が此土から浄土に転換したことによる。「此岸の因果」では此岸を出発点とするので、その因果によって生死を繰り返し此岸に留まり続けるか彼岸に至るかのどちらかで、生死輪廻か往相かである。「浄土の因果」となると浄土の如来を出発点としてその廻向である往相と還相の両方向が出てくる。真実が循環する因果の法である。往相はどちらにもあるので、還相があるのが「浄土の因果」の特徴である。もし釈尊を還相の如来・菩薩として受け取るなら結果的に浄土の因果を認めることになる。聖道門でも大乗仏教では「久遠実成の釈迦仏」を説き、釈尊はその化現とする。これは浄土教の還相と同様の方向であり、浄土の因果を認めたのも同然だろう。結局仏教、特に大乗仏教としては往相、還相の両相があるのが望ましいのである。このように親鸞浄土教は仏教の因果の完成という意味をもっている。 
話を元に戻し、自力の修行で煩悩を絶ち迷いと苦の因果の連鎖を乗り越えることができるなら、生死を越えて涅槃に至り再び生死に戻ることはない。しかしそれができないとなると、生死を繰り返すしかない。この此土の衆生を起点とする「聖道の因果」を信じることは仏教の基本だが、その因果を信じた結果もたらされるが、聖者の場合は出離だが、我々凡夫にとっては出離不能である。これが「機の深信」である。欲望人間にとっての因果の信である。この因果は逃れがたい業の連鎖として、過去も現在も未来も三世に渡り我々にのしかかってくる。今この苦界にいることがその因果が働いている何よりの証しである。 
「聖道の因果」は元来因果律というものの理知的な理解を中心として、「生死輪廻」の生命の連続性という三世の生を信じることを組み合わせたものなので、「機の深信」は自分を深く見つめた結果もたらされる理知的な自覚でもある。ただしそれは分別知である。 
ここにおいてもう一つの因果が要請される。それはすでに浄土にある如来を起点とする因果である「浄土の因果」である。浄土の如来の本願を因として此土の衆生がここで信心を得て救われる果がもたらされ、さらにそれをまた因として浄土への往生成仏という果がもたらされる。如来を起点、出発点とする如来廻向の因果である。これを信じるのが「法の深信」である。ここでの法は「浄土の因果の法」「如来廻向の因果の法」である。これが他力の世界である。この信は知に対応させれば無分別智でもある。これが「信心の智慧」である。「二種深信」は聖道の因果の信と浄土の因果の信を組み合わせたものである。「二種一具の信」と言われるが、そこには仏教の因果である「二種一具の因果」があり、それを信じるものだ。聖道門の因果を無視してはこの信はなりたたず、「造悪無碍」に陥るのはそのことがわかっていないからである。 
この「浄土の因果の法」は、浄土の祖師から始まるが、この時代では法然がその端緒を開き、親鸞の「教行信証」によって完成されたと言っていいだろう。これにより仏教の因果の法が完成したと言える。往相、還相の両相をもった仏教となる。今我々はありがたいことに、すでに法然、親鸞によって完成されたものを受け取ることから始まっているが、これまでにないものを説くことの難しさは想像を絶するものがあるだろう。親鸞はしばしば経典の読み替えを行うが、「浄土の因果の法」を完成させる営みがそこにある。 
そのように後に完成した立場から見れば法然の教えを受け取ることは容易だろうが、親鸞は長年比叡山で聖道門の修行をした人間であり、聖道門の因果が身にしみ込んでいる。それから見れば浄土の因果の世界へ進むのは、次の段階といいながらも大転換である。親鸞が六角堂にこもってから法然の弟子になるまでの百九十五日間がその難しさをよく表している。「恵信尼書状」を読みながら感慨深いものがあった。 
また六角堂で受けた夢告は観音があなたの妻になるというものだったと考えられている。その夢告を記したのが「熊皮御影」である。これも出展(後期)されている。親鸞の悩みとその解決、その後の親鸞と恵信尼の出会いもここにある。青年の悩みと男女の出会い。その背後に見えるのが法然と阿弥陀仏の存在である。 
靉光の絵と真実を求める青春群像 
この他にも見るべきものは多々あるが、本願寺展を見た後、私は常設展も見たので先にそのことに触れておく。そこで見た絵に、親鸞と恵信尼像と重なるものがあった。それは靉光の天を仰ぐような自画像と、「コミサ」という俯いて祈るような女性像である。これが出会う前の親鸞と恵信尼の姿に重なって見えてくる。靉光(1907-1946)は広島県(北広島町壬生)出身の画家で、昨年2007年が生誕百年に当たり、それを記念する展覧会が東京国立近代美術館他、広島でも開かれた。その際にもこの絵を見たが、今回特に印象に残った。昨年はまた1207年の「承元(建永)の法難」から八百年の年だったが奇縁である。 
靉光の自画像は三種類あるが、広島県立美術館所蔵のものは「帽子をかむる自画像」である。この自画像は戦争中に描かれたもので、そのどこか天の一角を仰ぐような姿は苦難の時代の中で真実の美を求めてあがいている姿のようにも、また救いを求めている姿のようにも見える。年齢的には三十代半ばのものだが、真実を求め苦しむ青年の自画像と言っていいだろう。この時代の多くの若者が同じような気持ちだったかもしれない。美を求める画家は誰よりも敏感に困難な時代の中で真実を求めようとしていたように見える。その姿に比叡山時代の親鸞と重なるものを感じる。親鸞も比叡山で真実を求めながらしばしば天を仰ぐことがあったのではなかろうか。キリスト教に「神の沈黙」といわれるものがある。求めても祈っても神は沈黙したままであることを表すものだ。仏教でこれを言えば「如来の沈黙」ということになるだろう。求めても得られないものをなお求めざるをえない人間の姿がここにある。これが法然と出会う前、本願と出会う前の、後世を祈っていた親鸞の姿だろうと思う。人がいつか一度は通る道である。 
もう一つの「コミサ」は靉光二十代の作品である。傘に寄りかかって目を閉じた少女は俯いて祈っているように見える。題名は作者の妹の名を取ったものだが、その雰囲気がキリスト教の「ミサ」を連想させる。少女の祈りに救いを求めるものを感じる。この作品は作者が傾倒したルオーの影響が強く出ていると言われる。ルオーはキリスト教の宗教画家としてよく知られ、この作品もルオーのもつ宗教性を引き継いでいるように見える。 
私にはこれが親鸞と出会う前の恵信尼の姿と重なるように見える。彼女は晩婚で親鸞との出会いの経緯ははっきりしないが、彼女もただ自分の幸せを祈るということだけではなく、親鸞同様に後世を祈る気持ちが強かったのではあるまいか。そうでなくただ幸せな結婚を望むだけなら、当時はありえなかった僧侶との結婚に踏み切るはずがない。二人がどこで結ばれたかははっきりしないが、同じく法然の教えを聞いた縁があったと考える方が自然に思える。だからまた親鸞も法然に出会うまでの自分のことを彼女に語ったのだと思う。靉光の作品は、妹の結婚を機にその結婚前にこの作品を描いたと言われる。妹は自分のこれからの幸を祈っていたのだろうか。あるいは靉光は自分の気持ちを妹に投影したのかもしれないし、また妹を自分の理解者として自分の気持ちを代弁させたのかもしれない。この仰ぐ像と俯く像が、やがて真実において出会うとき、親鸞と恵信尼の像のように向かい合う像になるように見えるのである。 
親鸞と恵信尼の出会い以来、青春と浄土教の縁は深い。それは20世紀においても顕著である。「歎異抄」が青年を中心に一般に読まれ始めたのは清沢満之(1863-1903)とその門下の影響が大きい。清沢満之が「精神界」を発行したのが1901年で20世紀の初めの年である。広島県庄原市出身の倉田百三(1891-1943)が「歎異抄」を下敷きにして書いた「出家とその弟子」は1916年に発表され、ベストセラーとなった。「出家とその弟子」は青春の宗教文学である。またすでに述べたように、「歎異抄」と同様に、親鸞の言葉を実際にその場で聞いた「親鸞ライブ」としてそれを記した恵信尼の「恵信尼書状」が西本願寺で発見されたのは1921年のことだ。そこには青年親鸞の姿と恵信尼の姿が記されている。これが発見されるまで恵信尼の存在は今のように大きくはなかったはずだ。当時の「歎異抄」や「恵信尼書状」は古典というよりも、新しく発見された書物として青年の心を捕らえたのだと思う。 
また先に述べた靉光は20世紀前半を生きた画家であり、ここにも同じく20世紀前半の青春がある。靉光の自画像と「コミサ」は20世紀の青春群像を代表するかのようだ。「歎異抄」や「恵信尼書状」を受け入れたのも、靉光の絵を受け入れたのも、彼ら20世紀前半の青春群像だったのだろう。親鸞と恵信尼の物語は20世紀前半を生きた若者の青春と呼応するものを宿した永遠の青春と言うべきものがあったのだと思う。これは単なるロマンティシズムではない。青春の真剣な真実と愛を求める姿がそこにある。親鸞と恵信尼の存在は「無量寿」に照らし出された青春であり、二人なのである。そこに惹かれた若者はそれを一つの理想像としたのだろう。
 
華厳の思想

華厳経の中心仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。毘盧遮那はサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音訳だそうです。訳すと「光明遍照」、無限の光が遍く照らしだす。そんな太陽の輝きのイメージをもっているのがは毘盧遮那仏です。宇宙の真理をすべての人に照らし、悟りに導く仏とされています。ちなみに、真言密教における大日如来は摩訶毘盧遮那仏(マハー・ヴァイローチャナ)で、マハーはスーパー、さらに偉大なという意味。つまり大日如来は超毘盧遮那仏なんですね。 
毘盧遮那仏は、もっとイメージしやすいようにいえば東大寺の大仏がそう。あの奈良の鹿たちが住まう奈良公園にある東大寺の大仏。 
東大寺は現在も華厳宗の総本山です。 
大仏建立というナショナル・プロジェクト 
聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像は、松岡正剛さんの「連塾・方法日本1神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く」によると、全国各地60箇所に建てられた国分寺・国分尼寺とネットワークされたホストマシンとして作られたそうです。東大寺を総国分寺として、共通ソフトとしての「法華経」などを通じて全国の国分寺・国分尼寺と情報ネットワークを構築したのが8世紀の大仏建立というナショナル・プロジェクト。604年に聖徳太子が「十七条憲法」で「三宝(仏・法・僧)を敬え」と仏教システムのガバナンスを表明したことに続き、より具体的な国家規模の鎮護システムを設計・開発したのが、東大寺をホストマシンとした国分寺ネットワークの構築でした。 
国家的な情報ネットワークに関するプロジェクトとしては現代などとは比べられないほど、統制されたものだったんですね。しかも、ハードとソフトがきちんと連携するよう設計されてます。ハード、インフラだけ整備して、ソフト、コンテンツがないなんて馬鹿なことはしない。そういう意味でも、昔の日本のほうが情報システムの設計に長けていたんじゃないかな、なんて思います。 
こういう規模のプロジェクトをひっぱれるリーダーシップも、その根幹となる思想もいまの日本にはないですよね。いやいや、もっと規模が小さなプロジェクトでさえ、リーダーシップや思想の欠如が目立つくらいですし。 
システム全体を包括的に設計できなくて、目先の小さなパーツにしか目がいかないし、次のパーツに目が移ったときにはもう前のパーツのことは忘れてしまってたりします。何も統合されない。極度にシステム思考が欠如した状態です。一方に感性的発想をおいて、もう一方にシステム的思考を駆動させるという芸当が苦手すぎる。なので、ちょっとしたインタラクションのデザインをするにもシステム的発想ができない。このあたりはもうちょっとシステム的センスを養う必要がありますよね。 
だいたい、情報システムというとITのことだと思ってるふしがありますよね。大仏も国分寺ネットワークも情報システムだったことがわかっていないんですね(「日本数寄/松岡正剛」参照)。しかも、それが文字や仏像、建築をメディアに新しい仏教という思想をソフトにしたマルチメディアによる情報システムであったことも理解できていなかったりするのは、よほどセンスが欠けているか、理解するのが面倒かのどちらかではないでしょうか。 
ちょっと話が脱線しました。戻します。 
華厳という情報システム 
華厳経にはどうもこういった巨大な情報システムのイメージがつきまといます。 
「華厳経」でいちばん多く説かれるのは、微塵のなかに大きな世界が全部入り込んでしまうのだという考え方で、これが根底にある。簡単にいうと「一即多・多即一」、これが「華厳経」で説かれるいちばん根本的な考え方である。 
この「微塵のなかに大きな世界が全部入り込んでしまう」「一即多・多即一」の思想が、奈良の大仏が座っている台座の蓮弁にも表現されていて、蓮弁の一枚一枚に仏教的世界がひとつずつ描かれていて、その全体で華厳的な三千大千世界が表現されているそうです。この三千大千世界がまた巨大なネットワークを想起させます。 
実際にそれはネットワーク=網のイメージで表現されていて、毘盧遮那が帝釈天につくらせた宝網である因陀羅網は、「結び目にある珠玉が互いに相映じ、映じた珠がまた映じ合って無限に映じる関係でもって、華厳の重々無尽を説明する」のだといいます。英語では、これをパール・ネットワークという。 
因陀羅網はライプニッツのモナドロジー(単子論)とも似ていますが、モナドロジーがひとつのモナドのなかに全世界が入っていると考えるのに対し、華厳の思想ではあらゆるものに世界のあらゆるものが入っていると考えます。それが「此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事」でも書いた華厳の事事無礙法界(じじむげほっかい)のイメージです。個のなかに普遍が入り、普遍のなかにも個がある。 
「荘子」の「斉物論」と華厳 
こうしたきわめて視野の大きな思想は、もともと中国にあった、宇宙的視野から人間を考える「荘子」の「斉物論」は万物一体を説く思想とインド的思惟の典型である「華厳経」の思想とを、中国の華厳宗が結実させたものだといいます。 
荘子の「斉物論」を見ると、是非の対立を、言葉や論争においておこなうならば、対立はさらに対立を生み、無限に闘争が続き、精神は消耗するのみであるという。人間が是非をあげつらうことをやめ、魂の安らぎを求めようとするならば、議論や争いによる解決を捨てて、絶対の一としての「天倪」にまかせなければならないという。 
天倪(てんげい)とは、絶対の一であり、道そのものであるそうです。 
「生と死、可と不可、是と非の対立も、それはたがいに相因り、相待って成立する相対的な概念にほかならず、一切の矛盾の対立こそ、そのまま世界の実相」なのだという。まさに矛盾も含めて、すべてがそこに入っている。 
昨日紹介した「無縁・公界・楽日本中世の自由と平和」でも網野善彦さんが、原−無縁ともいえる古代の無所有状態から、所有も無所有も生じてきたと書いていたことにも通じるなと思います。所有も無所有も幻想で、結局、それは原−無縁をみる二つの異なる相でしかなく、それは本来は不二であると。 
「「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる!」で僕は論の衝突を解決する方法として西洋的な弁証法と東洋的な不二の方法があると書きましたが、荘子の「天倪」はまさに絶対の一としての不二です。 
それが華厳経の「一即多・多即一」の思想に連動する。矛盾を解消して大きな一への統一を目指す西洋的一神教的な考え方に対して、東洋では多神教的に矛盾を抱えたままの対立した相をそのまま不二の一とみる。光が粒子であると同時に波であるというイメージに近い。悩みや迷いがあってもそれを解消しようとするのではなく、悩みや迷いがあることをそのまま認める姿勢をとります。仏と衆生は同じで、仏が迷うと衆生となり、衆生が悟ると仏になるそうです。 
華厳の思想 
仏教については、僕自身、前に、松岡正剛さんの「空海の夢」や「外は、良寛。」、玄侑宗久さんの「現代語訳般若心経」といった本を読んだことがあるくらいで、何もわからないド素人です。 
この本を読んだのは、すこしは仏教についても知っておきたいなという思いもあって、松岡さんの「連塾・方法日本1神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く」に、禅の鈴木大拙さんが晩年ほとんど華厳のことばかりを言って亡くなったことに気づいた仏教学者であり、華厳の世界観に関心をもっていたデイヴィッド・ボームやフリッチョフ・カプラのような西洋の科学者に関心を持っていた仏教学者として、この本の著者である鎌田茂雄が紹介されていて興味をもったからでした。 
それにしても「華厳の思想」とはよくいったものだなと、この本を読んで感じました。華厳経というのは、宗教というより思想です。なのでキリスト教なんかよりは、ギリシア哲学なんかに近い。 
思想として確立された中国の華厳は、日本において思想というよりも密教の行法のなかに生かされたといいます。 
空海は日本人離れした組織力と直観力に長じ、十住心の哲学体系において華厳を第九に置き、密教を第十住心に据えたのであった。哲学としての華厳は密教的行法の理論づけに利用されたのである。 
日本において思想としての華厳はより実践的な密教の行法に変換された。さらに新羅の華厳を吸収した高山寺派の明恵上人は華厳と密教を融合させながら樹上で座禅を組みました。明恵の場合も思想よりも実践を重視したのです。 
思想から精神へ 
さらに中国においては巨大な視野をもった情報システム論的な思想であった華厳は、日本に受容されるなかで、「小さきものはみなうつくし」といった「枕草子」に代表される日本人の自然観に定着し、思想から民族的精神に変換されていきました。 
名もなきもの、微小なるもののなかに無限なるもの、偉大なるものが宿っているという「一即多」の思想は、日本人の生活感情にもぴったりするものがあった。野に咲く一輪のスミレの花のなかに大いなる自然の生命を感得することができるのは、日本人の直観力による。華道や茶道の理念にもこの精神は生きているのである。 
この本を読んでも華厳経のことは僕にはよくわかりません。仏教のこともわかったとはいえません。 
でも、中身はわからないまでも、華厳経あるいは華厳宗というものがどのようにして中国で形を成し、それが韓国や日本でどう展開されたのかという流れや、「華厳経」とそのほかの「法華経」「般若経」との関係はなんとなくつかめた感じです。それと同時に、かつてはナショナル・プロジェクトとして推進され、密教や禅を通じ、また日本人の自然観とも一体となった華厳の思想をはじめとする仏教が、いま見事なまでに現代の生活から捨象されていることにあらためて驚きを感じました。 
 
宗教だからよくわからないなんてことをよくわかりもせずにいう前に、華厳が宗教というより思想であったという認識も含めて、これはもうすこしちゃんと仏教についても考えないとだめだなと思います。このことに限らず、日本人は過去の日本のことを忘れすぎてますね。不勉強、怠惰にもほどがあります。そんな状態だから海外に対して日本を説明するアカウンタビリティを満足に果たすことができないんでしょうね。もっとがんばらないと。  
 
寺院と天皇

はじめに 
寺院(寺院社会)と天皇(「公家」*)との関わりの淵源を求めるならば、国家仏教、さらには仏法公伝まで容易にさかのぼることができる。国家仏教という枠組のもとで急速な発展をとげた寺院社会は、平安時代中期を境として、「公家」による保護・統制力の低下を背景に自立をはかり、一つの世俗勢力として独歩を始めることになる。とはいえ寺院社会が世俗社会において勢力を保つためには、「公家」との密接な関わりは依然として不可欠であった。そこで平安時代以降の寺院社会は、「公家」の統制とは一定の距離を保ちながらも、その崇敬を媒介として「公家」との接触を持ち続けたといえる。 
*本稿では、天皇およびそれに准じた上皇の存在、朝廷の権威と政治的組織を代表する法的人格としての天皇・上皇を「公家」と呼ぶことにし、「天皇」の呼称は用いない。また世俗社会にありながら宗教的立場から独自の意志表示と社会的行動をおこなう寺院・僧団およびそれらの集合体を、寺院社会と呼ぶことにする。 
寺院社会と「公家」とは、護持と帰依という双務関係によって現世に共存するという原理的な認識があると思われ、この素朴な原理に拠り寺院社会は時代を超えて存続したといっても過言ではない*。ただしこの原理が両者に受け容れられたものではあっても、声高に原理を主張するのは、つねに寺院社会の側であったことは見過ごせない事実である。寺院社会は「公家」との関係の維持をはかるために独特の論理を生み出し、これに先例を裏打ちさせることにより、ことごとに「公家」に向かって寺院社会との双務関係の再確認をもとめたのであった。 
*「公家」は、元来祭祀者としての属性と、自ら信仰の対象としての属性をもつが、仏法や寺院社会と接触するかぎりで、そのような属性が「公家」の前面に現われることはない。そこで本稿では、神祇との関わりで「公家」が本源的にもつ宗教的な権威を度外視して論を進めることにする。 
たとえば、寺院社会が「公家」へ奉る奏状・申状には、「満寺一心の丹誠を抽んじ、いよいよ万歳の宝祚を祈り奉らん、」(「寺家雑筆至要抄」)に類した表現がしばしば見出される。精誠をこめて祈祷につとめ「公家」を護持し、「宝祚」つまり在位・治世の長命を図りたいとするこの表現は、いわゆる「鎮護国家」の論理を象徴的に示すとともに、護持・帰依の原理によって現世において具体的な意味をもつことになる。すなわち「公家」を維持する祈祷は、いうまでもなく寺院社会に特有の機能であり、その見返りとして「公家」の帰依が期待され、さしあたりは寺院社会に有利な裁決が求められたのである。 
また現世に併存する「公家」と寺院社会を、聖・俗両界に属する「王法」と「仏法」に置き換え、「王法は仏法の主なり、仏法は王法の宝なり、」と両者の関係を規定し、「仏法の再興」を「王法の永固」の必要条件とするという筋道こそ、「公家」の寺院社会への優遇を正当化するための、「鎮護国家」の論理を一歩進めた、いわゆる「王法」・「仏法」相互依存の論理にほかならない(鎌倉遺文〔以下、鎌と略す〕二−一四四七)。そしてこの相互依存の論理と、「代々国王を以て我寺の檀越となす、若し我寺興復せば天下興復し、若し我寺衰弊せば天下衰弊せん、」(「東大寺要録」巻六)という、檀越たる「国王」(「公家」)を媒介に天下の趨勢と一寺院の盛衰を一体化する論理とは、明らかに相似の関係として理解されよう。 
保護と統制を柱とする国家仏教が形骸化する過程で、南都北嶺の寺院社会は自らの存立を支えるための論理を模索した。その結果として生み出された寺院社会特有の論理は、いずれもその世俗的な勢力が急速に強まる平安時代の後期までに、広く聖・俗両界に表現としてまた認識として定着することになった。そしてこれらの論理は、時代ごとに特有の「公家lへの意識のなかで、世俗社会において実質的な役割をはたしたものである。 
さて寺院社会の「公家」ヘの意識と関わりは、当然ながら時代と場によって多様である。そこで本稿では、寺院社会が生み出した論理の基底をなす「公家」ヘの認識について検討する具体的な素材として、鎌倉時代後期における後宇多法皇の灌頂・付法をめぐる寺院社会と「公家」とのやりとりと、これに付随しておきた諡号相論をとりあげることにする。そして当時の南都北嶺と東密の寺院社会が、如何に「公家」の存在を認識し、またどのような思惑によりこれに対応したかについて、寺院社会の側に視座をおいて考えてみることにしたい。 
天子灌頂 
徳治三(一三○八)年、後宇多法皇は東寺灌頂院において、長者禅助を大阿闍梨として伝法灌頂を受けたが、これに対し延暦寺(山門)衆徒は強く反発した。そして山門衆徒が憤懣を述べた、「御治天と申、御宝算と申、偏に我山の護持によって、天下のあるじにてましましけるに、」(「日吉社并叡山行幸記」)との一文は、山門のみならず寺院社会が「公家」にいだく心情の一端を如実に語っていよう。 
「公家」には、天皇・上皇個人という人格的な存在と、「天下」を体現する法人的な存在という二面がある。寺院社会が果たす護持の祈祷は、人格と法人という要素を併せもった「公家」を対象とするものである。そして寺院社会の護持により、「公家」はその世寿と治世をながらえることができるという認識は、「公家」護持を「天下」繁栄の条件とする「鎮護国家」の思想と全く同質である。そしてこの認識は、「仏法」の伝来以来、長年にわたる公家と寺院社会との接触のなかで確固となってきたものである。 
まず人格としての「公家」護持の典型として、治病をあげることができる。たとえば、延暦二十三(八○四)年桓武天皇の「不豫」により太政官符が東大寺に下され、「至心誓願読経行道」が命じられているが(平安遺文〔以下、平と略す〕九−四三○○)、玉体の「不豫」にあたって勤修された読経をはじめ悔過から得度・受戒におよぶさまざまな法要は、「仏法」伝来より正史に記されるかぎりでも枚挙にいとまない。また平安時代の初頭に将来された真言・天台密教によっても、治病の機能は担われることになる。永久元(一一一三)年、鳥羽天皇の「御不豫」にあたり、寛助大僧正により「御薬」として宮中で「孔雀経法」が勤修され、修中に「効験」があったといわれる(「東宝記」巻四)。また「不豫」に際して直接に「公家」の病を治める臨時の修法ばかりではなく、あらかじめ病魔・悪霊を斥けるために、年中行事としての後七日御修法や大元帥法における御衣加持、禁中の「二間夜居」に侯する護持僧によって、玉体安穏の祈祷が勤修されていたのである。なお治病の機能は、「公家」個人のみならず貴族層をはじめ社会的に広く求められたものであるが、「宝算」と「治天」の延命を図るための「公家」の治病と、世俗の治病とはおのずから性格を異にすることはいうまでもない。 
一方、法人としての「公家」の護持は、「国家平安」のための金光明最勝王経など護国経の読経をはじめ、「国土衰禍し、雨沢調はざ」るを「風雨順時を得て、将に国土を鎮めんとす」る状態に転じ、「隣国賊難を降伏」するための大元帥法等の修法というかたちで勤修されていた。この大元帥法の場合、「天下」を人格的に代表する「公家」の帰依により、本尊たる大元帥明王が「彼の王国の境内を守護」するというものである。つまり「治国の宝、勝敵の要」とされる太元帥法は、「公家」個人の崇敬を前提に、「公家」が体現する「天下」の安穏を実現したものであった(平八−四四四六・四九○二)。寛元四(一二四六)年、後嵯峨上皇は自ら仁和寺道深法親王に、 
(端裏書) 
「仙洞御書、孔雀経法の事、叡感有り、寛元四年」 
去年の三合の厄運、両度の変異恐懼の処、静謐の条、誠に是大法の霊験なり、しかのみならず今年の躰たらく、風雨時を失わず、これ又護摩の利益なる歟、法力の至り謝するところを知らず、勧賞の事においては、※ぎ仰せらるべく侯、毎事面拝を被〔期カ〕し候者(マゝ)、謹言、四月十五日 
※「公」の下に「心」 
との消息を送り、自らが天皇として在位した寛元三年は、大歳・客気・太陰の三神が合し天災・兵乱のおこる厄年にあたり、また年初より客星・彗星が現われ、大いに心配していたところ、道深法親王の修した孔雀経法の法力によりことなきをえ、また寛元四年の気侯が順調であることも護摩の利益に相違なく、大いに感謝し、法親王への勧賞をただちに取り計らうつもりであると書き送っている。そして「天下」平穏を実現した修法への「叡感」は、「公家」護持の実績として寺院社会により確認され、後々まで語りつがれることになる。 
このように人格的かつ法人的な存在である「公家」を護持する寺院社会の宗教的活動とその成果をめぐる認識こそが、「鎮護国家」思想を根底から支えていたといえよう。 
さて真言・天台密教を伝える寺院では、在俗の信者に仏縁を結ばせるための結縁灌頂や、密教行者に阿闍梨位を授けるための伝法灌頂が勤修されてきた。ところで本尊との結びつきによって、信者には信心の機縁を、行者には師僧の資格を与える儀式であるはずの灌頂が、「受法灌頂の道は、護国利人の道なり、」(「後宇多法皇御手印御遺告」)と理解されていたことは注目されよう。東寺において春秋二季に催された灌頂は、「承和の聖代に鎮護国家のため始め修せらるるところなり、」(「東宝記」巻四)とあるように、当初より「鎮護国家」の役割をになう法会として勤修されていた。仏縁の端緒を与える儀式でもある結縁灌頂と、「天下」にかかわる「鎮護国家」とは直接には結びつきがたいものであるが、「五智の水、衆生を利して普く霑し、三密の風、法界を遍くして旁扇す、」(同前)という表現、つまり灌頂において受者にそそがれる「五智の水」が象徴する如来の知恵と、儀式のなかでの「三密」行による効力が、灌頂の場からあらゆる衆生と世界に及ぶいわゆる回向を媒介とするならば、灌頂に「鎮護国家」の機能を負わせることは可能となろう。元来は僧俗による仏道修行の階梯にある自利行としての結縁・伝法灌頂が、「公家」御願として催されることにより、衆生に利益を与える利他行、つまり「鎮護国家」を実現する術として位置づけられたわけである。 
ところがこのような機能をもつ結縁・伝法灌頂に、「公家」が主催者としてではなく、受者として関与することにより、「鎮護国家」とは別の効果が寺院社会に派生することになる。 
弘仁十三(八二二)年、平城上皇は弘法大師にしたがい結縁灌頂をうけ(東寺文書観智院一)、さらに「寛信法務記」には、「平城上皇・嵯峨・淳和・仁明、天兄・天弟・先天・後天の合せて四代、また嵯峨・淳和后宮皆灌頂を受く、」と記されるように、嵯峨上皇以下の「公家」や皇后なとが相次いで結縁灌頂を受け、「仏戒を受持」し「仏位に入」ったとされる(「東宝記」巻四)。淳和・仁明以下の受法について確証は得られぬものの、平城・嵯峨両上皇が弘法大師にしたがって灌頂を受けた事実は、少なくとも興隆期の真言密教の教団にとって重要な意味をもったはずで、「淳和」以下の潤色も、「公家」の真言密教への関わりを求める意図のもとにかたちづくられたと考えられる。 
また昌泰二(八九九)年、宇多上皇は東寺において結縁灌頂を受け、ついで仁和寺において出家を遂げた後、延喜元(九○一)年には東寺灌頂院において益信を大阿闍梨として伝法灌頂を受け「金剛覚」を称した(「日本紀略」、「東宝記」巻四)。宇多法皇が東寺において伝法灌頂を受けたことは、以後「延喜の嘉躅」として、「公家」受法の先例と認識されるようになる。これより鎌倉時代にいたるまでに、東寺灌頂院等で伝法灌頂を遂げ法名を名のった、つまり一真言行者として修行の道に入った「国王」・「天子」は、「金剛法」を称した円融法皇、「金剛源」を称した亀山上皇、「金剛性」を称した後宇多法皇であったといわれる(「摧勝述記」*)。 
*「摧勝述記」は、東寺山門対弁抄とも呼ばれ、後掲の「我慢抄」を著した東寺観智院杲宝の弟子義宝(観宝)が、さかのぼる平安院政期の山門厳勝著「対破愚人誹謗祖師記」に改めて反論を試み、東寺の山門に優越することを主張したもので、南北朝時代に成立した。「我慢抄」とならび、鎌倉後期以降の東寺寺僧の山門への意識を知ることのできる史料である。 
このように特定の寺・院と法流が「公家」に結縁・伝法灌頂を授けたという事実は、その崇敬の先例として後世まで伝承され、また寺院社会の内で優越した寺格・教勢を誇るための拠り所となるという、いたって世俗的な意味をもったことは容易に想像できよう。 
前述のとおり徳治三(一三○八)年、後宇多法皇は「無上菩提の叡情」に基づき「古先帝王の佳蹤」つまり宇多法皇の先例にしたがって、東寺灌頂院において伝法灌頂を受けた(「後宇多院御灌頂記」)。後宇多法皇はその出生にあたり両部曼荼羅が虚空に現われるという奇瑞があり、これに外祖父洞院実雄は「皇統を継ぐべきの大器」もしくは「仏家に入るべきの兆」を予感したという。出生時の奇瑞に象徴されるように、後宇多法皇は生涯にわたり仏法へあつい帰依をよせ、幼少の頃には「土器を列し折敷を焼きて護摩法を摸し、高座に昇りて講論を擬」し、成人するに及んでは「経論兼学して、顕蜜法を求」めるというほどであり、禁中に祗候する護持僧の碩学から天台・真言密教の事相(密教祈祷の所作)を熱心に学んだ。そして帝位を退いて後は、醍醐寺憲淳より結縁灌頂を受け、さらに仁和寺性仁法親王より宇多「法皇の正流」の継承をもとめたがその早世により果たされず、引き続いて出家の後に禅助より「正流」の伝授をはかり、徳治三年の伝法灌頂にいたったわけである(「後宇多法皇御手印御遺告」)。 
幼少より密教へ一方ならぬ関心を寄せていた後宇多法皇は、自らの伝法灌頂に先立って本格的な密教修学を積んでいた。すでに乾元二(一三○三)年には、禅助よりその撰にかかる伝流抄を借用し書写しており、また伝法灌頂を受けた後も、おもに仁和寺に伝わる広沢流の真言事相を禅助から伝授されている(鎌二八−二一三○一、大覚寺蔵後宇多天皇宸翰)。また広沢流ばかりでなく、小野流の真言事相に関する疑問を醍醐寺憲淳に尋ねており、憲深からの回答を記した奉呈注文も伝存する(鎌三○−二二九四七)。このように後宇多法皇は、密教修学を重ね入壇受法を遂げることにより自ら大阿闍梨を目ざしていたわけで、その姿勢はもはや「公家」通例としての密教への関わり、つまり護持される受け身の立場を大きく越え、一人の真言行者としてのそれであった。 
確かに後宇多法皇の真言密教への傾倒は、歴代「公家」のなかではとくにきわだっているように見える。しかし程度の差こそあれ歴代「公家」は、つねに密教との関わりをもっており、後宇多法皇のみが特殊であると断定することはできない。少なくとも宇多法皇の伝法灌頂と、その前提となる平城・嵯峨上皇の結縁灌頂が先例として定着し、「公家」による真言密教とその教団への関わりかたが方向づけられまた継承され、これに後宇多法皇の個性が加わった結果として、法皇の傾倒を理解すべきではなかろうか。そこで法皇の伝法灌頂が寺院社会の内部で生んだ波紋について、今少し考えてみることにしたい。 
後宇多法皇の長年の念願であった東寺灌頂院における伝法灌頂の当日、「霊瑞屡示し、冥応掲焉たり、当日入壇の時剋、地は震動し、天は光耀を現」わしたという(「後宇多法皇御手印遺告」)。この奇瑞は「法成就の佳瑞」にほかならず、不空三蔵が弟子に灌頂を授けた際に道場の地が動いた霊瑞にならうものと理解された(「我慢抄」*)。そして後宇多法皇の伝法灌頂が完結したことを象微する奇瑞については、法皇自らが記しのこし、また東寺においても伝承されることになるが、これには天地自然を支配する絶対的な「法」(大日如来)の意思という宗教的な権威によって、東寺灌頂院における法皇の受法を正当化するという意味があったのではなかろうか。 
*「我慢抄」は、後節で触れることになるが、後宇多法皇の伝法灌頂と、その勘賞による益信への大師号勅賜をめぐる山門の訴訟に対して、東寺観智院杲宝がその高慢と非論を批判するために、延文三(一三五八)年に撰述したものである。少なくとも鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての東寺寺僧の意識を窺うことのできる好史料である。なお杲宝は東寺の寺誌「東宝記」の編者でもある。 
後宇多法皇の伝法灌頂をめぐり、山門衆徒の強い反発があったことはすでに触れたところである。山門側の抗議をうけた後宇多法皇は院宣を下し、「天台山は、皇定本命の浄場」であり「帰依は余所に超過」するとして、「早期後日の臨幸」を約束し、「寛平先皇の佳例」による東寺での伝法灌頂に諒承を求めたとされる(「日吉社并叡山行幸記」)。この山門の反発の背景には、「以上元慶以来、勅会伝法六箇度に及ぶ、但し密印許可の略儀を除く、山門に於いて天子の灌頂これ無きか、」(「摧勝述記」)の通り、東寺には六度の「天子灌頂」があるにもかかわらず山門にはこれがないとして、自らの優位を誇る東寺側の主張に窺われるように、「天子灌頂」の場の選択により「公家」からの処遇の厚薄が決まるという意識が、東寺・山門のいずれにもあったと考えられる。また「自門と云い他門と云い、天兄・天弟秘法を伝うること、史典に載するところ其例多しといえとも、国王として伝燈の祖に列し、遺流絶えざるは、偏に円城之門下にあり、」(「我慢抄」)とあるように、「公家」周辺で仏門に入る例は多くとも、「公家」自らが伝法灌頂を受け特定の法流に連なることは稀であり、その法流が自らの「正統」を誇示するようになるのも自然の成り行きであろう。 
すなわち法皇が伝法灌頂を遂げて特定の密教法流に列することは、法流とそれを育む寺・院のいずれにとっても、「公家」の権威を迎え入れるという意味があった。では「公家」という世俗的な権威は、寺院社会において如何なる認識を受けていたのであろうか。 
平安後期より、寺院社会への皇族・貴族の子弟の進出が急速に進むなかで、自ずから世俗の出自の高いいわゆる貴種(皇族・貴族出身者)を尊重する意識が生まれることになった。「竹園の貴種、槐門の余胤」が住持する寺・院、それらが連なる法流や出仕する法会等が高く評価されることについて、仏教教学上に明快な拠り所を見出すことは困難である。しかし貴種意識が寺院社会の価値観を大きく律するものであったことは確かである。言うまでもなく貴種の頂点に立つのは「公家」であり、寺・院・法流にとって、「公家」を迎え入れることは貴種意識を満足させるものであり、しかも迎えた「貴種」の存在によって寺・院・法流の価値はいっそう高まることになる。では寺院社会に座を移した「公家」には、このような世俗的な意味しかなかったのであろうか。 
先述のとおり、古代より「公家」は、祭祀者であるとともに信仰の対象となる存在であったが、こと仏教に関わるかぎりは、世俗社会における権勢は別として本源的に固有の宗教的な権威をもつものではありえない。本来世俗の王は、あくまで仏法を崇敬しまた庇護する立場にあり、それ自体に宗教的な権威が付属するはずもない。ところが醍醐寺憲淳が後宇多法皇に奉呈した付法状には、「我君の瀉瓶たるや、仏智尽辺にして、本より輪王の職位を備う、宜しく法流の正統に仰ぎ奉るべきものなり、」(鎌三○−二三二四二)との表現が見られる。「我君」つまり後宇多法皇が伝法灌頂を受けたのは、無辺の仏智を身につけているからであり、すでに「輪王」(転輪王)としての資格を備えているわけであるから、法流の正統として受け容れることができるという表現である。「輪王」とは、正法により世界を統治する王、とりもなおさず「仏」を意味するはずであるが、史料上しばしば仏法へ帰依の厚い「国王」を示す語句として用いられている。たとえば、「梵網経に云く、若し国王の〔位脱カ〕を受けんと欲するの時、輪王の位を受くるの時、百官万〔受カ〕位の時、またこの戒を受くべし、」(前田家本「三宝絵」下巻)との一文に見られる「輪王」は明らかに世俗の存在であり、多国を併せて統治する「国王」と理解されている。すなわち仏法に帰依する世俗の「国王」と、天から統治のための輪宝を授けられた「輪王」(「聖王」)とを重ね合わせるなかに、「国王」に宗教的な権威を与えようとする論理が見出される。帰依と仏智という条件を満足させるかぎりで、「国王」は「輪王」との評価を与えられ、世俗社会の統治に宗教的な力を保証されるとともに、寺院社会においても「法流」を継承することを承認されるのである。すなわら仏智を備え伝法灌頂を受けた「公家」は、正法により世俗社会を治める「輪王」であり、「法流の正統」を継ぐに相応しい存在として評価されたと考えられる。 
伝法灌頂をうけた「公家」を迎え入れる寺・院・法流は、世俗を支配するただの「国王」ではなく、聖・俗両界を統括する「輪王」を頂点に仰ぐわけで、世俗社会における権勢を誇るのみならず、その超越的な宗教的権威に拠って、自ずから寺院社会のなかで優越した位置を主張することができることになろう。 
さて後宇多法皇は、かねてから真言密教の再興と、その根本道場である東寺の復興を強く意図していた。伝法灌頂に先立って東寺西院において加行を果たした後宇多法皇は、弘法大師の御影に向かい、「修学僧五十人を以て、当寺に住し、真言の教義を紹隆せしむべきの事」・「止住の僧坊を建立すべきの事」等の六ヶ条にわたる「東寺興隆の条々」を敬白し置文に記した(鎌三○−二三一七五)。そして伝法灌頂を遂げた後に、時の将軍久明親王に書状を遣わし、「灌頂無為に果し遂ぐるの条、生前の本懐已に満足し畢ぬ、此の上は密教を修行し、いよいよ鎮護国家の懇祈を専らにすべし、」と自らの感慨と決意を述べるとともに、「そもそも東寺の輿隆、西院の影前に於いて敬白の条々、案文かくのごとし、」として東寺興隆の条々を記した置文の案文を示し、法皇の意向に同調し、将来にわたり証拠となる将軍の返状を求めたのであった(鎌三○−二三一七四)。 
後宇多法皇がその再建に執着した東寺は、「東密」の一語に象徴されるように、宗祖弘法大師より「密宗の本寺」として存続してきたわけで、その再興は真言密教の興隆にもつながる。真言密教の発展にともない、細分化した密教法流の拠り所としての寺・院が創建されるなかで、少なくとも平安後期以降、「余寺に准ぜず、我朝彼寺を以て最頂と為す、」とされた東寺の優位の実態は次第に失われていった(「東宝記」巻一)。しかしその一方で、東寺長者は依然として真言宗僧の極位として機能しつづけており、「就中東寺長者は、一家の貫主に非ず、八宗の長官為り、権法務は諸寺に渉るといえども、正法務は独り吾寺に在り、」(「我慢抄」)とあるように、東寺長者は「八宗の長官」たる「正法務」を兼ねていた。さらには「東寺破壊に及ぶの時、日本国中の大小伽藍を壊し、修理を加うべし、」(「東宝記」巻一)、「吾国の国たるは、吾寺(東寺)の寺たるの故なり、」(「我慢抄」)として、寺院社会と世俗社会の一部にも東寺を最頂とする認識が存在していたことは事実である。ただし創建期を別とするならば、これらの意識が確認されるのは、あくまで東寺再興より後のことであり、後宇多法皇の再興の御願と「延喜の嘉躅」による伝法灌頂に、寺院社会における東寺の優越した位置と意識を再確認させたという意味があったことは確かであろう。 
さて真言密教は平安中期以降に、その事相によって広沢流と小野流に大きく分派することになる。そして宇多法皇により造営され、益信を流祖とする広沢流の真言事相の拠点となった仁和寺と、小野流の真言事相の流祖聖宝が創建し醍醐天皇の勅願寺となった醍醐寺とは、いずれも真言密教の法流を伝える中核的な寺院となった。仁和寺は「御室」と称されて法親王が住持し、醍醐寺には小野流の分派醍醐三流を伝える三宝院・理性院・金剛王院をはじめとする院家が創建され、平安後期以降の真言密教の法流と教勢は、この両寺を主要な柱として維持されたといっても過言ではあるまい。たしかに「仁和・醍醐門主の幾許か、竹園の貴種、槐門の余胤にして、各一流の法匠と為て、四海の静謐を鎮め祈る、」(「我慢抄」)とあるとおり、貴種を院主として迎えていた両寺の隆盛は想像に難くない。これに対して根本道場である東寺には、両寺に比肩できる「竹園の貴種、槐門の余胤」の寺僧やそれらが住持する院家は、後世にいたるまで見出しがたい。明らかに東寺は貴種が止住する寺院ではなく、貴種を始めとする真言宗僧が出仕する由緒ある法会の会場を提供し、真言宗僧の極位としての東寺長者を置く道場であった。ところが再興後の東寺は仁和・醍醐両寺に対して、「夫れ仁和・醍醐両寺は、東寺の左右に在りて、大師の遺法を住持し、共に朝廷の護持を法(ママ)し、同じく万国の利安を祈る、喩うれば車の両輪の如く、亦鳥の二翼に似たり、」(同前)として、東寺の機能を分掌し東寺の存続を支える「両輪」・「二翼」という位置を与えていた。もちろん寺院相互の優劣を、時代背景を無視して一概にきめつけることはできないが、真言密教を掲げる諸寺院のなかで、貴種が住持することのまれな東寺が主張する優越した立場とその意識は、もっぱら後宇多法皇の東寺再興に拠っていると推測することができよう。 
後宇多法皇は、次節でも触れることになるが、多くに分派していた真言密教の「法流の一揆」をも意図していた。そこで自らの密教修行の道場として再興した大覚寺とは別に、分派した個々の法流の拠点である仁和寺や醍醐寺ではなく、「密宗の本所」たる東寺の再興を企てたのも至極当然のことといえよう。そして後宇多法皇が東寺を再興した意図が、そのまま東寺住僧の意識に影響を与え、その結果として、先述したとおり再興を契機に、仁和・醍醐両寺を「両輪」・「二翼」とし、さらには寺院社会において東寺が優位を占めるとの意識が、東寺とその周辺に定着することになったのではあるまいか。これが東寺復興において後宇多法皇が果たした、世俗的かつ宗教的な役割ということになろうか。 
なお後宇多法皇の伝法灌頂にあたり、大阿闍梨をつとめた禅助に対する勧賞として、その法流の祖である益信へ大師号が一旦は勅授され、この諡号をめぐり山門と真言教団との争論がおこり、公家・武家と寺院社会に大きな波紋を投げかけたが、この問題については、後節で改めて考えることにしたい。 
法流相承 
東密事相の中核である三宝院流の正統を掲げる醍醐寺報恩院に住持した憲淳は、後宇多法皇の幼少より侍童として仕えたといわれる(「続伝燈広録小野方下」)。幼年からの交流については確証は得がたいが、東寺灌頂院で伝法灌頂をうける前年の徳治二(一三○七)年、その出家に先立って、すでに後宇多法皇は憲淳を大阿闍梨として結縁灌頂を受けている(「後宇多院御灌頂記」)。また密教事相に関心の深い後宇多法皇は、先述のとおり、その以前から小野流の事相をめぐり、憲淳との接触をもっていた。 
さて醍醐寺を創建した聖宝を流祖に東密事相を伝える小野流は、平安後期から院政期にかけて、大きく小野三流(安祥寺・勧修寺・随心院各流)と醍醐三流(三宝院・理性院・金剛王院各流)のいわゆる小野根本六流に分派した。醍醐寺の院家を拠点に相承される三流は、いずれも院政期に三宝院開祖勝覚のもとから分派したもので、勝覚の弟子定海・賢覚・聖賢を流祖として、三宝院・理性院・金剛王院の各流が生まれた(「醍醐鈔」)。このうち三宝院流は醍醐寺三宝院を本拠に、東密とりわけ小野流の中核として秘法と聖教を伝えたが、貞永元(一二三二)年に院家堂宇が焼失し、その院主も金剛王院院主の兼帯となるなかで(「醍醐寺新要録」巻十)、法流は一時断絶するにいたった。そして建長三(一二五一)年憲深が三宝院を再建するにおよび三宝院流も再興されたものの(「醍醐寺座主譲補次第」)、同院に伝来した三宝院流の本尊・聖教は、憲深が実質的に創建した報恩院に移された。また憲深は自らが再興した三宝院流の法流と報恩院とを弟子実深に付属することにより(「醍醐鈔」)、三宝院流の正統は三宝院を離れ、報恩院に伝来することになった。なお憲深は三宝院流の正統を掲げる報恩院流の流祖とされている。このような経緯から、醍醐寺報恩院に住持する憲淳は、憲深・実深の法脈に連なることにより、三法院流の正統を伝持するに至った。 
徳治三(一三○八)年二月二十二日、すでに伝法灌頂を遂げていた後宇多法皇は、憲淳の病をその弟子道順から耳にし、病床にあった憲淳のもとに書状を送った(醍醐寺所蔵「後宇多法皇宸翰当流紹隆教誡」、鎌三○−二三一八二)。 
所労更に発るの由、道順語り申す、尤も驚き思い給い候、蜜教紹隆の時分、恵命を全うせらるるの条、殊に念願致すところなり、若し猶お得滅せざれば、法流付属の所存の趣を存知せしめ、始終細々に尋ね訪うべく候、よって故に短札を進すところなり、三宝院の正流に深く興隆の志を存するは、宿縁の然らしむるなり、すでに秘蜜の奥旨を極め了ぬ、附法の正脈に列すれば、尤も法流の一揆たるべきか、相違あるべからざれば、令法久住の基たるべく侯か、委しき旨は道順に仰せ聞かせ畢ぬ、返報の趣、言詞をもって相伝うるの条、所存知り難く候の故、短札を進む所〔可カ〕きなり、そもそも東寺長者にその闕あり、病体にて出仕叶い難しといえども、其名を縣〔懸〕らるるの条、紹隆たるべし、法流として、また尤も補任あるべき歟の由、思い給うところなり、申さるるの旨に随い、宣下せしむべく侯か、敬いて白す、 
(徳治三年)(後宇多法皇) 
二月廿二日金剛性 
右の書状の内容は以下のとおりである。憲淳の病気が再発したことを道順から聞き大いに驚いており、密教再興の時にあたりその快癒をねがっている。もし依然として病状がはかばかしくないならば、「法流」伝授を望んでいるので、この意向を容れてもらえれば、訪れて教えを請いたく思い書状を遣わした。「三宝院正流」を興隆しようとの強い意思は、まさに前世の因縁によるものである。すでに伝法灌頂を受けて密教の奥旨を極め、正当な密教法流に列しており、「法流の一揆」の資格は十分に備えているはずであろう。まちがいなくことが進んだならば、きっと仏法が広まる礎となろうか。くわしいことは道順に伝えてある。返事について、口上では憲淳の意向を正確に知り難いので、短い返書でもよこしてもらいたい。さて東寺長者に欠員がある。憲淳は病身で出仕はかなうまいが、長者にその名を連ねることは名声を高めることになろう。法流のためにも、是非とも補任されるべきであると考えている。憲淳が申請したならば、長者補任の宣下がなされるであろう。 
後宇多法皇が憲淳に向かって、「三宝院正流」興隆の意思をつげたのは、先述のとおり憲淳が三宝院流の正統を継承していたからである。そして法皇が憲淳に求めたのは、「法流の一揆」のための「三宝院正流」の伝授であった。「宿縁」による「三宝院正流」の興隆とは、明らかに宇多法皇の密教興隆を継承しようとの意図と、自らの出生・受法の奇瑞を意識した表現であろう。すなわち後宇多法皇はこの「宿縁」を掲げることにより、自らが小野・広沢両流より細分化した東密「法流の一揆」をはかるに最も相応しいと強調している。すなわち単に小野・広沢両流の事相を伝授された真言行者としてではなく、前節で触れた「輪王」としての立場を顕示することにより、後宇多法皇は憲淳に付法を強くもとめたわけである。後宇多法皇の書状の文面は、憲淳の感情を忖度するように敬語を交え、「公家」発給の文書としては丁重さを保ちながら、しかも一方で自らの意向の受諾を強要するものであった。そして後宇多法皇はこの強要の代償として、憲淳自身と法流の名声のためとして、実際には病身故に出仕のかなわぬ東寺長者への就任をすすめたのであった。 
結局のところ、憲淳は後宇多法皇の意向を容れ、書状が送られた翌々月に東寺三長者に加任された(「東寺長者補任」)。ちなみに後宇多法皇に伝法灌頂を授けた禅助も、これに先立つ徳治二年に東寺長者の末に列し、受法の前月には一長者に昇任している(同前)。この両人の長者就任から、真言宗僧にとって東寺長者がいかに渇望すべき立場であったかということを、また長者補任を代償に伝授をもとめた後宇多法皇の術策の巧みさを窺うことができよう。 
さて後宇多法皇の意向を承けた憲淳は、法皇の書状をうけた翌月の三月二十五日に請文を草しこれを奉った(鎌三○−二三二一二)。この請文には、憲淳が後宇多法皇への付法を容認するにあたっての七箇条にわたる条件が記されていた。これらの条件とは、「大師相承の法呂〔侶〕・秘奥は当寺に在り、然らば小野を以て御本流に宛てらるべくんば、祖師の置文に違うべからざる歟の事」として、「祖師の置文」を掲げながら「小野」を「本流」とすることに確認をもとめた一項、「当時と云い、未来と云い、一事といえども、広沢等の他家に渡さるべからざるの事」として、「小野」の秘法を「他家」に流出させぬことをもとめた一項、「本尊・道具已下、寺家を出すべからざるの由、祖師代々の起請文有り、」として、本尊・道具を醍醐寺外に流出させぬことを求めた一項、「一尊一契といえとも、(中略)御伝授の法なくば、輙く叡覧有るべからず、」として、伝授ぬきの秘法の披見を拒む一項、「女人の御雑住は御禁制あるべき歟、凡そ始終御浄行の事」として、法皇の「浄行」をもとめた一項等々である。すなわち条件とは、「小野」法流を正統とする承認とその存続の保証、そして法皇に一真言行者としての練行を要請するものであった。そして「此の条々若し相違なく候はば、御正統の条、勿論の御事たるべく候、」として、これらの条件が容れられるかぎりは、「正統」の法流相承は差し支えないという憲淳の意向が伝えられた。なおこれらの条件に加えて、「聖教・本尊・道具」の披見には法皇の醍醐寺への「臨幸」がもとめられている。また東寺長者補任について、憲淳は「恐喜相い半に侯、」としてただちに申状を呈しており、時をおかず補任されたのは先述のとおりである。 
では憲淳は後宇多法皇の「法流の一揆」を歓迎し、その付法を認めたのであろうか。少なくとも「小野」流を「御本流」とすることは、願ってもない提案であったはずである。しかし請文の末尾に記される「三宝院一揆の事、誠に正統の院家を離るべからず侯上は、一揆尤も然るべく侯といえども、所詮嫡々相承の秘要肝心に侯、」との表現は、憲淳の強い意思を示すものではなかろうか。真言密教の法流が小野流とりわけ三宝院流に一統されることは、「正統の院家」に法流が伝持されるかぎり大いに結構なことであるが、法流固有の秘法が師僧から嫡弟へ伝承されることは、何にもかえがたい重事であると憲淳は語る。法皇と憲淳の意思は、ここで明らかに矛盾することになる。法皇は「宿縁」にしたがい自らの「公家」としての立場を拠り所として、細分化した東密「法流の一揆」を、広沢流と小野流の正統を伝授されることにより実現しようとした。小野・広沢にわかれた法流は、「輪王」である法皇の存在のなかで一統され、そこにはもはや分派はありえぬことになる。ところが憲淳は、依然として分派した法流に強く執着しており法流の解消など全く考えておらず、法皇の「法流の一揆」の意向も、小野流とりわけ三宝院流を東密の頂点とする法流の階層化という形で受け容れているのである。つまり法皇は法流分派の否定として、一方憲淳は法流分派を大前提として、双方全く矛盾したかたちで、「法流の一揆」を理解したのである。法流分派が解消することなどありえない、それ故に法流が伝持される院家と独自の秘法は、嫡々相承として守らねばならぬというのが、憲淳の本音ではなかろうか。 
また後宇多法皇が「公家」という立場に拠りながら「法流の一揆」を実現しようとすることへの危倶が、憲淳の請文に記される付法の条件に現われている。たとえば、伝授された秘法を「他家」へ伝え、院家から本尊・道貝等の持ち出しを厳禁する条件は、醍醐寺外に居住する法皇が、三宝院流を伝授された後に、「公家」の強権により秘法や本尊等を寺外に持ち出すであろうことを予見し、法流の流出を警戒したものであろう。また伝受ぬきで聖教類の披見を禁じ、法流間有の付法の手順を踏み、戒律を遵守し浄行をはたすことをもとめるという条件は、強権をもつ「公家」の立場を捨て、一真言行者としての修業を要求したものであることはいうまでもない。 
この憲淳の請文に対して後宇多法皇は四月三日に返事を送り、「猶次第に僧家の法を専らにすべきの由、案を廻すところなり、」として漸次僧徒として修行をおこなう意思を示すとともに、「両流混雑すべからざるの事、殊に此の事を存知せしむべし、」として、小野・広沢両流を渾然とする意思のないことを伝えている。ところがこの書状に、「且つがつ一紙に書き置かるべき状の事、一見の後、道順に預け置かしむべし、時機の純熟を以て、住寺紹隆の時分に、次第相承の法則を致すべきものなり、」として、憲淳が伝授する秘法を記した「一紙」つまり一流伝授の目録はいったん道順に預け、機が熟して「住寺」できるようになったならば、改めて次第に秘法の伝授をうけることにしたいという一文が記されている(鎌三○−二三二一八)。道順は憲淳の弟子であるが、当時は後宇多法皇に近侍しその寵愛をうけており、法皇は「住持」の折に道順から逐次伝授をうけたいと述べているのである。すなわち先の書状には明記されていなかった法皇の醍醐寺「住寺」の意思と、道順に憲淳の跡を継がせたいという意向がこの一文には示されているのである。 
この後宇多法皇の書状に記された「住寺」の一語は、憲淳に、いささかの衝撃を与えたのではなかろうか。四月二十六日に憲淳は付法状を草し法皇に奉った(鎌三○−二三二四二)。この付法状には、四月十四日に醍醐寺において「嫡々相承の秘奥」が伝授され、「輪王」たる法皇を「法流の正統」とすることが明記されるとともに、法皇に遵守がもとめられた「秘仏・秘曼荼羅・重書・道具并に院家等の事」と「遺弟等に課せて御紹隆有るべきの事」についての細々が記されている。このなかで憲淳は、「但し寛平法皇仁和寺を以て皇居と為し、秘教御伝持の如く、いままた醍醐を以て仙洞に摸され、当流を以て御本流に定められる、」、「就中当寺は皇居と成り、当流は仏徳に輝く、」と記している。すなわち宇多法皇が仁和寺を「皇居」としたように、後宇多法皇が醍醐寺を「仙洞」・「皇居」として三宝院流を「御本流」とすることにより、法流は「仏徳」に輝くと大きな期待をよせているのである。単に法流の伝授にあたり「臨幸」するのみならず、法皇が醍醐寺に「住寺」し「当流の元首」となることにより、三宝院流は東密法流の頂点に立ち、しかも同寺は「仙洞」・「皇居」となるわけで、寺院社会のなかで仁和寺「御室」に准じた位置を占めることができる。憲淳はこの付法状を草した四ヵ月後に没するが、それまでの間、「請文に載するといえども、代々墳墓の地、定めて仙洞に儀〔擬カ〕せられ難き歟、」(鎌三○−二三二七七)として、「公家」周辺の墳墓堂としての一面をもつ醍醐寺が、「仙洞」としては相応しくないのではないかとの危倶をいだきながらも、「法皇の御住寺」(鎌三○−二三二七七)に強くこだわり続けたのも至極当然といえよう。 
憲淳にとって法皇への法流伝授は、自らが相承した三宝院流が小野流のなかで正統であることの象徴にほかならない。しかも後宇多法皇により「法流の一揆」がなされれば、三宝院流は小野流にとどまらず東密の「本流」となり、また法皇が「住寺」すれば醍醐寺は仁和寺とならぶ「仙洞」となるわけで、醍醐寺と三宝院の両者は寺院社会において優位を誇ることになろう。つまり法皇への法流伝授は、寺院社会内でいたって世俗的な役割を果たすものと認識されていたわけである。 
いずれにしても後宇多法皇は、憲淳の生前に三宝院流の正統を継承し、自ら東密「法流の一揆」をなし遂げたと認識したことであろう。そして修行の場として大覚寺を再建し住持したが、ついに憲淳がこだわった法皇の醍醐寺「住寺」が実現することはなかった。 
憲淳は最期まで「法皇の御住寺」に希望をつないでいたようであるが、「住寺」がなされなかった場合には、三宝院流の法流と報恩院を、憲淳が嫡弟と定めていた隆勝に相承させるつもりで付法をおこない譲状を作成していた(鎌三○−二三二六八・二三二七四)。しかし先にも触れたように、後宇多法皇は暗に近侍する道順への相承を憲淳に強要していた。嫡弟とする隆勝の立場に苦慮した憲淳は、執権の座にあった得宗北条貞時をたより、報恩院で代々勤仕してきた「関東護持」の祈祷を隆勝に譲り、幕府の後援により隆勝の立場を守ろうとし、また貞時もこれを了承した(鎌三○−二三二三四・二三二六四)。そして憲淳の没後、後宇多法皇を後盾にもつ道順と、幕府の後援をうける隆勝とは、各々法流と院家の正嫡であることを主張して相論を起こし、ここに憲淳の法流は後宇多法皇を介し道順への流れと、憲淳が嫡弟とした隆勝の流れに分裂したのである。またこの相論は、道順の法脈が大覚寺に伝わることにより、両者の没後も報恩院と大覚寺との相論として以後も継続されることになった。つまり「法流の一揆」を意図する後宇多法皇の法流相承は、寺院社会における法流への強い執着のなかで、結果としてその没後に、醍醐寺と大覚寺を巻き込んだ法流の分裂と相論という混乱をもたらす結果となったのである。  
諡号相論 
後宇多法皇の伝法灌頂をめぐり、延暦寺(山門)衆徒が強く反発し、結局法皇の慰撫によって、徳治三(一三○八)年正月に伝法灌頂が実現したことはすでに触れたところである。ところが山門の憤懣はこれでおさまることなく、新たな展開を見せることになった。すなわち同年二月に「後宇多院御灌頂の賞」として「本覚大師諡号を益信僧正に授けら」れる詔書が下されたことを発端として、同年八月に「山門訴訟」が起され、以後「本覚大師諡号」をめぐる東寺と山門の相論がくりかえされることになる(「東宝記」巻四)。 
僧侶の諡号とは、天皇・公卿にならってその没後に業績や徳を偲び、「公家」から勅賜される嘉名であり、二字名の法名のほかに大師号・菩薩号・国師号・禅師号・和尚号なとがあり、とくに大師号については、貞観八(八六六)年に最澄・円仁に贈られた伝教大師・慈覚大師を初例とする(「初例抄」)。ところで山門と東密諸寺は益信への本覚大師号の勅賜をめぐり嗷訴をくりかえすことになるが、この相論の経緯を簡単にたどるなかで、諡号が寺院社会においてもつ意味について一考を試みたい。 
徳治三年八月、「山門専ら諡号をやめらるべきむね訴申て、同八月二日、根本中堂に閉籠して申云、」として、山門衆徒は延暦寺根本中堂に閉籠し、益信が大師号に相応しくないこと、禅助は政道にとって害あること、創建の由緒によって仁和寺を山門末寺とすべきこと等を「公家」に訴えた。さらに閉籠衆はこぞって坂本にくだり、日吉社の七重塔などに火をかけたのである(「日吉社并叡山行幸記」)。また「山門訴訟」の渦中に病床にあった後二条天皇は、平癒祈祷の甲斐もなく崩御し、ここに後宇多法皇の院政は終わり、ただちに花園天皇が践祚して伏見上皇の院政が始まる。 
改元されて延慶元年となった十月、「山門訴訟」をうけた花園天皇と伏見法皇は、「諡号の事、山門相続して申、先代よりきこしめしふりぬる大訴の題目なりければ、早く益信僧正諡号を停止せられるべきの由、宣旨を下せるなり、」(同前)のとおり、後二条天皇がいったん勅賜した本覚大師号を停めたのである。山門の憤懣はおさまったが、一方大師号を停止された東寺側は大いに激昂した。「仁和・醍醐・東大寺等、自門一交衆の諸寺公請に従うべからざるの由、互に牒状を送り了ぬ、仍て彼の灌頂延引す、」(「東宝記」巻四)とあるように、東密法流をひく諸寺は相互に牒状を交わして、「公家」の関わる法会への招請を拒絶することを申し合わせ、東寺もただちに結縁灌頂を延期した。東寺・仁和寺・醍醐寺・東大寺・金剛峰寺・勧修寺等は、本覚大師号を「一宗の規模」つまり東密全体の名誉と認識し、山門の訴訟による大師号の停止について、「啻に満寺の愁訴のみに非ず、已に一宗の滅亡を口〔拓力〕くもの歟、」との危機感を抱き、一体となってその「召し返し」を図ろうとした(鎌三○−二三四五九・二三四八八)。これら東密諸寺の連合の形成に積極的な役割を果たしたのは仁和寺・東大寺の衆徒であり、諸寺へ牒状を送り「同心」を求め「閉門」と「御願」法会の停止を呼びかけたのである。とりわけ東大寺衆徒は敏速に反応し、ただちに東大寺八幡の神輿を大仏殿に動座させ、「公家」への抗議の意思を表明した(「東大寺縁起」)。なお東大寺の牒状を受けた諸寺の内、醍醐寺は必ずしも同調した動きを見せず(「日吉社并叡山行幸記」)、このことが後に東大寺と醍醐寺との間での本末相論に発展するきっかけとなる。 
年が明け延慶二年になっても「公家」は東密諸寺の訴えに確たる裁決を下さず、これを「寺社の面目を失」うものと受け取った東大寺衆徒は、八幡宮の神輿三基を上洛させ、また「此の上聖断猶時日を送らば、社壇并に大仏殿上下の諸堂を灰燼に成さんがため、藁松を籠め置くところなり、」として、「聖断」が得られぬ場合には寺内堂宇を放火する意向であることを仁和寺・勧修寺や稲荷社に伝え、同調した行動をとるようもとめた(鎌三○−二三六○八・二三七○九)。さらに東密諸寺は大師号の停止について幕府に訴え、これをうけた幕府も訴えを容れ、「東寺申す諡号の事、其の謂無きに非ず、早く執奏せらるべきの由」を六波羅探題に伝達し、大師号を復活すべきであると「公家」に奏聞したのである(「日吉社并叡山行幸記」)。このような公請の拒否、神輿上洛・堂塔閉門に加えて幕府の介入の結果、延慶二年七月ついに益信の本覚大師号を復する伏見上皇院宣が下され、神輿も帰座したのであった(同前、「東宝記」巻四)。 
しかし本覚大師号の復活に面目を失った山門衆徒は、ただちに奏状を奉り、日吉社の神輿の入洛を評議するとともに、白山を始め末寺の衆徒に対して牒状を送り上洛を促した。また山門の奏状をうけた「公家」は、山門から直接幕府への訴訟を勧めるとともに、「已に山門奏状等を関東に下さる」ることを理由に、神輿入洛の延期を命じる院宣を下している(鎌三一−二三七三四・二三七四○)。もはや「公家」は事態の打開を全面的に幕府に委ね、自らは永福門院の夢想にしたがい、「東寺一宗の訴訟」を解決し「天下静謐」・「人法」繁昌のため伏見上皇宸筆の紺紙金字仁王経を高野山奥院に奉納するという策をとるのみであった(鎌三一−二三七四四)。一方、幕府の確たる対応もないままに時を送る山門衆徒は、延慶二年十二月ついに幕府側の軍勢を飛礫で退けながら神輿上洛を強行し、末社の神輿ともども洛中に放置し、「諡号をやめられすは、訴訟の入眼にあらす」との態度を固めた(「日吉社并叡山行幸記」)。このような状況を背景として、「公家」は次第に山門の意を容れる方向に傾き、翌延慶三年八月には東大寺別当に対し、同寺衆徒の「ややもすれば寺院を閉籠し、或は縡を濫訴に寄せ、頻に城郭を結構する」という衆徒の行動を、「造意の甚しき、悪逆の至り、誡めて余り有り、」と非難し、諸堂宇からの退去を命じたのである(鎌三一−二四○三二)。 
同年十月、幕府はついに使者を上洛させ、「大師号を辞せらるへきよし内々御室へ申ける」として、再度益信の大師号を返上する方向で事態の解決を図ることにし、ついで「諡号并に神輿の造替、山門の申し請うに任て裁許せられるへきよし」を奏聞した。この幕府の意向をうけて、「延暦寺申す益信僧正諡号の事、東寺辞し申すところなり、」との伏見上皇院宣が下され、益信の大師号は再度停止され、さらに将来にわたり益信僧正の大師号奏請を禁じる院宣も下され、訴訟は山門衆徒の勝訴として終結した(同前)。 
以上が、東寺と山門との相論に東密・山門の諸寺が各々の思惑を挟んで介入し、これに「公家」と幕府が介在した諡号相論の経緯である。そしてこの相論から、「公家」が勅賜する諡号が、寺院社会において如何に認識されていたかを知ることができる。東寺観智院杲宝は、諡号相論の結果が東寺側の敗訴となったことを不満とし、山門側の主張に対する反駁のために「諡号雑記」(続群書類従釈家部所収)を草した。本書には以下に掲げるとおり、山門訴訟の争点とそれら各々に対する杲宝の見解が、一五箇条にわたって掲げられている。 
@「智者大師号を勅号と為すや否やの事」(勅賜大師号の起源を天台大師智※とする山門の主張への反論) 
A「伝教・慈覚両大師諡号の事」(両大師号勅賜の経緯と勅書を引用) 
B「弘法大師諡号の事」(弘法大師号勅賜をもとめる観賢奏状と勅書を引用) 
C「智証大師諡号の事」(智証大師号勅賜の経緯と勅書および門人賀表) 
D「諡号僧衆の事」(諡号を勅賜された僧侶一三名を列記) 
E「諡号を賜れる大臣の事」(諡号を勅賜された大臣一○名を列記) 
F「寛平法皇御灌頂の静観の事」(宇多法皇への伝法灌頂を授けた延暦寺静観僧正を益信と比肩させる山門の主張への反論) 
G「勤操を以て伝教の弟子と号する事」(伝教大師の勤操への灌頂により、勤操の弟子弘法大師を伝教大師の弟子とする山門の主張への反論) 
H「東寺起請に及ぶと号する事」(真言宗には弘法大師の他は諡号を賜らぬ起請があるとの山門の主張への反論) 
I「仁和寺に下さるる官符の事」(慈覚大師の弟子幽仙が仁和寺別当であったことにより、仁和寺を延暦寺末寺とすることを主張する山門への反論) 
J「益信僧正の事」(益信の略歴) 
K「入滅の年に諡号を授けらるる先例」(入滅の年に諡号を勅賜された慈済・静観僧正の事例) 
L「奏聞を経るといえども勅許無きの例」(奏聞にもかかわらず諡号を勅賜されなかった寛朝・相応の事例) 
M「慈恵諡号の事」(大師号を受けぬ良源を慈恵大師と呼ぶ山門への批判) 
N「大師を以て伝教の弟子と号する事」(弘法大師を伝教大師の弟子と主張する山門の論拠への批判) 
※扁が「豈」、旁が「頁」 
これら山門が提起した諡号相論の具体的な争点とは、伝持する仏法の質にしても、「公家」の崇敬にしても、山門が東密諸寺より優位にあることを主張するための論拠にほかならない。この優位を誇示するために、伝教・慈覚大師を「本朝大師の号の始」とし、弘法大師を伝教大師の下位に位置づけ、宇多法皇に付法した静観僧正を益信に並べ、諡号の勅賜を「公家」崇敬の象徴として強調し、東密法流の拠点である仁和寺を山門末寺に置こうとしたのである。そしてこれらの争点のなかに、諡号が勅賜されるには如何なる条件があり、諡号には如何なる意義をもつと考えられていたかが窺われる。 
まず大師号勅賜の条件として山門衆徒が掲げたのは、「西唐の域に赴」いて「東流の法を伝」えたという「弘法の功」であり、また「大師号は五徳の最なり、」(「日吉社并叡山行幸記」)のように、「五徳」(持戒・十臘・律蔵・禅思・彗蔵)を備えるということであり、このいずれの条件も益信は満足していないと主張する。なるほど伝教・慈覚・弘法・智証大師には、「渡唐の人」という経歴が共通しており、しかもこれに杲宝の反論はなく、当時にあって双方が納得した条件とすることになろうか。しかし「五徳」については、門流によって評価は大きく変わるはずで、東密法流の立場から「稟承の祖」とされる益信も、山門衆徒からは「底下の益信」と貶められることになる(鎌三一−二三七四○)。いずれにしても大師号の勅賜は、「公家」による先師の「弘法の功」と「徳行」ヘの評価を条件とするものと、寺院社会では一般的に認識されていたことは確かであろう。 
鎌倉時代後期における本覚大師号相論の時点では、山門三人と東密一人に大師号が勅賜されていたわけであるが、その大師号が各々の死没からどれほど後に勅賜されたかによって「公家」の崇敬の優劣が決ると山門衆徒は主張する。すなわち「伝教大師は入滅の後四十五年、慈覚大師は滅後三年、弘法大師は入定の後八十六年、智証大師は滅後三十七年」として、「宣下の遠近を以て、徳行の優劣と為」すというのが山門側の主張である。これに対して杲宝は、「若し近きを以て勝ると称さば、伝教・慈覚被〔彼〕の両僧正〔慈済・静観〕ニモ劣ると謂うべし、また天台大師法空の諡号は、入滅の後六百二歳と云々、若し遠きを以て劣ると為さば、伝教・慈覚は元祖法空に勝ると謂うべき乎、」との論を展開し、「贈官の遅逸、諡号の前後、只に時の縁に在り、」と反論した。大師号を勅賜された「徳行」の優劣を、入滅からの時間的な遠近により決定しようという山門の主張は、東密の法流を貶めようとの意図のもとでなされただけに、あまりに牽強付会にすぎる。しかしこのような理不尽とも思える論拠によって、伝教・慈覚・智証大師と弘法大師との差異を強調し、東密との懸隔を示そうとした山門側の意図は、単に先師の顕彰ということのみでは説明しがたいところである。 
言うまでもなく大師号を始めとする諡号の奏請は門人によりおこなわれるもので、いったん諡号が勅賜されると、門人は「賀表」を捧げて「満山が歎動」する程の歓喜の心を上表する。たしかに諡号は、顕彰すべき僧侶の高名を後世に伝えるため追贈されるものである。しかし「夫れおもんみるに諡号は、顕功旌徳の称、引古誡後の法なり」、「諡号・贈官は、例を万代に胎し、勤を衆人に勧むるの謂なり、」との表現に窺われるように、諡号には過去の「功」・「徳」を顕らかにすることとならび、後世への「誡」・「勧」という目的があった。そしてより現実的には、「没後の尊号は、恐るらくは遺弟の高名と謂うべし、」(「我慢抄」)として、諡号は遺された弟子たちの「高名」と理解されていたのである。つまり諡号相論の契機となった益信の大師号勅賜は、単に益信自身の「高名」よりも、むしろその法流に連なり勧賞を受けた禅助、そして彼が長者をつとめる東寺と東密教団の「高名」にほかならなかった。そこで東密諸寺と教勢を競う山門にとっても、また東密側にとっても、このような役割をはたす大師号に強くこだわるなかで、諡号相論が展開したと考えられる。 
益信の本覚人師号は、前節で触れた後宇多法皇への伝法灌頂が「寺の壮観、宗の規模」と認識されたと同様に、益信の法脈に連なる寺・院・法流の「高名」として寺院社会に認識され、その寺勢・教勢を強めるという世俗的な効果をもったわけである。そして先師の「高名」を権威づけるものが、「弘法の功」・「徳行」への評価に基づく「公家」の諡号勅賜であったことは言うまでもない。ただし後宇多法皇の後援を失った東寺側が敗訴し山門側が勝訴した諡号相論の結果から知られるように、諡号の勅賜が祖師の仏徳への評価によってではなく、最終的には衆徒・門徒の世俗的な勢力と世俗政権との緊密な関係によって決定された現実を看過することはできない。 
おわりに 
本稿では、寺院社会と「公家」とを結びつける護持と帰依の双務関係という原理のもとで、おもに鎌倉時代後期における後宇多法皇の真言密教への関わりという事例を通して、寺院社会が「公家」を如何に認識し如何なる思惑のもとに「公家」と対応したかについて考えてみた。 
寺院社会は世俗社会のなかで発展をとげるために、「公家」との双務関係の原理に固執し、その維持を図るためにさまざまな論理を生み出してきたが、これらの論理は寺院社会がもつ時代特有の「公家」ヘの認識と姿勢を底辺において、はじめて具体的な意味をもつものであろう。たとえば、「鎮護国家」の論理であれ、「王法」・「仏法」相互依存の論理であれ、「輪王」の論理であれ、これらは決して時代を越えた固定観念ではなく、時代背景ごとに固有の意味と役割をもって寺院社会により駆使されたと考えるべきである。そして特定の時代背景のもとで、寺院社会と「公家」との交渉のかたちは、かかわる当事者の個性により、いたって人間的な色彩をもつことになるのも至極当然のことといえよう。本稿では、この個性に注目しながら、寺院社会にとっての「公家」の存在意義について、具体的な時代・場のなかで検討を試みたわけである。そこで最後に、各節の小括を掲げることにしたい。 
 
第一節では、古代以来の「公家」と寺院社会との関わりを踏まえ、一見特異とも見られる後宇多法皇の伝法灌頂と真言密教再興の意図が、寺院社会に及ぼした世俗的・宗教的な意味を、いくつかの側面に確認した。人格的かつ法人的な存在である「公家」をその両面から護持することは、「鎮護国家」を掲げる寺院社会の基本的な任務である。寺院社会において本来は自利行であるはずの受戒や灌頂などの法会・法儀が、「公家」の御願によって「鎮護国家」の機能を負う利他行に転化する事例は数多い。ところが法会・法儀に「公家」が主催者としてのみならず受者として関わりをもつことは、寺院社会にさらに大きな影響を与えることになった。たとえば、宇多法皇の先例にならい、後宇多法皇が東寺において伝法灌頂を受け東密法流に連なった結果として、東寺と東密法流は「輪王」を擁することにより、寺院・法流の再興とともに寺院社会の内で寺勢・教勢を誇る有力な拠り所を得たわけである。伝法灌頂を受け法流に連なる宇多・後宇多法皇のような「公家」は、単に貴種の頂点としてのみならず、聖俗両界に君臨する「輪王」と認識されたわけである。そして古代から中世の寺院社会は、護持される「国王」を一方の極に、自ら脆拝すべき「輪王」を他方の極にして、その両極間を範囲として「公家」を受け容れこれに対応したといえよう。 
 
第二節では、「公家」の立場を前提に「法流の一揆」のため三宝院流相承をもとめる後宇多法皇の意向をうけ、法流の継承に強く執着しながら、三宝院流の「正統」と醍醐寺が「仙洞」となることを期待する報恩院憲淳の思惑のなかに、寺院社会が「公家」の権威を如何に認識していたかを見た。自らの「公家」という立場に拠りながら分派した東密法流の一統をはかろうとする法皇と、三宝院流を東密法流の「正統」として認めることを「公家」にもとめる憲淳とでは、明らかに「法流の一揆」の理解に大きな隔たりがあった。しかし両者の齟齬は措かれたまま、憲淳の東寺長者補任を見返りとして、法皇への「三宝院正流」の伝授がなされ、両者は各々の思惑にしたがって「法流の一揆」の達成を実感したのではなかろうか。憲淳にとって法皇への法流伝授には、自らが相承する三宝院流が東密法流のなかで正統であると「公家」に承認され、また伝授の条件とした法皇の住寺により醍醐寺が仁和寺と同様に「仙洞」・「皇居」となり、寺・院・法流が「仏徳」に輝くという極めて重大な意味があった。つまり「輸王」としての「公家」の権威は、法流や寺・院に対して、寺院社会における優位を保証する「仏徳」という宗教的な権威を付与するものと認識されていたわけである。 
 
第三節では、後宇多法皇の伝法灌頂の勧賞として勅賜された益信僧正諡号をめぐる相論の経過をたどり、敗訴した東寺側の山門側への反論を通して、寺院社会において認識されていた諡号に相応しい条件とその具体的な役割について考えてみた。祖師の果たした「弘法の功」・「徳行」を条件として、門弟の申請によって勅賜される諡号は、始祖に対する「公家」の崇敬を推し量る重要な指標であった。しかも門弟への勧賞として祖師に勅賜された本覚大師号のように、諡号は祖師の顕彰を名目としながら、実は門弟の「高名」、つまりその法流・寺・院に属する門弟への「公家」の崇敬を象徴するものである。そこで諡号を勅賜された祖師を仰ぐ門徒は、自らの属する法流・寺・院が「公家」の格別な崇敬に預ることによって、寺院社会において優越した立場を誇示することになる。これが東密諸寺と山門の双方が、益信の諡号に強いこだわりをもち、公家・武家への訴訟をくりかえした理由でもあろう。なお本覚大師の諡号相論が山門側の勝訴に終わった最大の要因は、後宇多院政から伏見院政への移行のもとで、優勢な世俗勢力をもつ山門の強硬な公家・武家への訴訟によるものと考えられ、祖師の仏徳を象徴するはずの諡号の勅賜は、結局のところ世俗社会の利害と名誉により左右されるものに過ぎなかったのである。 
 
以上が、一つの事例を通して寺院社会の「公家」への関わりを考えた本稿の小括であるが、つまるところ、世俗社会と同一平面に併存する寺院社会の「公家」に対する認識と対応は、時代と場により多様な形態をとるとしても、また独特の論理という教学的粉飾が試みられたとしても、その究極には「公家」の権威に拠りまたこれを利用し、自らの寺院社会と世俗社会における寺勢・教勢を高めるといういたって世俗的な姿勢に帰結するのではあるまいか。 
 
仏教の未来

私は仏教が大好きで、特にお釈迦様がおつくりになった最初期の仏教僧団のかたちに惚れ込んでいます。そこにあるのは世界にも類のない、とても合理的で、しかも気配りの行き届いた宗教システムです。このコラムで何度も言ってきたように、仏教の究極の目的は、坐禅を中心とした仏道修行を徹底的に行うことにあります。とにかくできるだけ多くの時間とエネルギーを修行に使うという、その一事が重要なのです。托鉢するのも、粗末な袈裟で暮らすのも、男女がそれぞれ別れて集団生活を送るのも、およそ、仏教の生活スタイルというものはすべて、ひたすら修行を完遂するために設計され、構築されているのです。そういった仏教生活の細部を知るためには、お経や哲学書は全く役に立ちません。お経とか哲学書というものは、仏教の「精神」を語るものですから、頭で仏教を理解しようとする人には役に立ちますが、仏教の世界で実際に生きていくための方法については何も教えてくれません。それはお坊さんたちの生活マニュアルである、律にしか書いてないのです。ですから、仏教という宗教の運営システムを知り、「我々は仏教者としてどう生活すべきか」を理解するためには、律を学ぶしか方法がないのです。 
日本の仏教は、様々な歴史的制約のせいで律を正しく取り入れることができなかったため、「僧団のない仏教」という、きわめて特殊な形態になってしまいました。皆さんが「僧団だ」と思っているものは実は「教団」、つまり信者の集団であって、律にしたがって生活する純粋な出家者の集団というものは日本にはないのです(ただ禅宗の僧堂だけが、それに一番近い形を残しています)。ですから私たち日本の仏教者が律に触れる機会はほとんどないのですが、一方、スリランカや東南アジア、あるいは韓国や台湾のお坊さんたちは皆、律にしたがった本来の僧団生活を送っています。ここに、日本の仏教と、それ以外の国々の仏教との間の決定的な壁ができてしまいます。この壁を乗り越えて、すべての仏教者がひとつの宗教のメンバーであるという自覚を持つためには、我々自身がよく律を学び、自分たちに欠けている点や、あるいは逆に自分たちの方がすぐれている点をしっかり認識したうえで、対話していかねばならないのです。 
以前、私自身が直接聞いた話ですが、ある仏教の親睦団体が募金でお金を集めて、それでスリランカに保育園を造ったそうです。貧しいスリランカの村に立派な保育園の建物が建ち、地元の人たちはたいそう喜んだということです。いい話ですよね。ところがその団体の人たちは、日本から阿弥陀様の仏像を持っていって、その保育園の真ん中に安置し、通ってくるスリランカの幼子たちに教えて、毎日その阿弥陀様に手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えさせているのです。これはいい話ですか? 私は恐ろしい話だと思いました。その団体の人たちは、この話を嬉しそうに語っておられましたが、私が「スリランカの上座仏教と、日本の浄土系仏教は本質的に異なる宗教だから、金にものを言わせて、自分たちの教義を、しかも理屈の分からない幼い子供達に押しつけるのはよくない」と言うと、大変驚いた様子で、「でも大乗も小乗も、仏の慈悲の眼から見れば結局は同じ世界だと聞きました。ですから小乗の人たちだって、お念仏を唱えれば極楽に行けるんじゃありませんか」とおっしゃっておられました。「大乗も小乗も元は同じだ」という主張が、小乗仏教を取り込んでいこうという大乗側の勝手な戦略だという、一番大事な点を学んでいないからこうなるのです。「哀れな異教徒よ、本来ならば地獄行きが決まっているお前達を、神の愛によって救ってやろうというのだ。感謝せよ」と言いながら、アジアやアフリカに布教し、植民地政策の土台をつくっていったキリスト教宣教師たちの姿とダブります。 
親睦団体の人たちが、なにか悪い心を持っているとか、下心があるなんて思いません。皆さん、優しくて、人のためになにかしてあげたという気持ちで一杯の、尊敬すべき人たちばかりです。では一体どこに間違いがあるのでしょう。答えはひとつ。仏教を日本という狭い世界の中だけで理解して、それで世界中のすべての仏教が分かったと早合点しているところに問題があるのです。責任の一端は、そういった考えを信者さんたちに広めている、日本の仏教各派にもあります。狭い日本でしか通用しない特殊な考えを、まるでそれが世界中どこへだしても理解してもらえる最高の教えであるかのように思い上がって無理強いし、結局それがまわりの国の人たちに大きな害を与えることになる、というこの構図は、戦前の大東亜共栄圏構想と同じものです。今は、昔のように、他の宗教を押しのけて、ひたすら信者数を拡大すればそれでよい、という時代ではありません。ひとりひとりの人間に人権があるように、ひとつひとつの文化には文化の権利というものがあります。それを皆が自覚する時代になっているのです。相手の文化に敬意を払い、それを尊重しつつ、「日本にはこういう考えもあるのですがどう思われますか」と穏やかに自分たちの考えを提示し、それでそれが受け入れられていくのであるなら結構なことだと思います。ともかく大切なのは学ぶことです。自分が修行して、自分が悟りをひらくのなら学問はさほど必要ではありませんが、それを人に教えていこうというのなら、少なくとも、世界にはいろいろな考えの仏教が存在することや、それらの教義が根本的にはどういうものであるかといった事柄を正しく教えられるくらいの勉強は必要でしょう。仏教のことを知らないお坊さんというのは、魚の捕り方を知らない漁師さんというのと同じで、笑い話にもなりません。これを読んでおられる皆さんにお願いします。どうぞ、仏教のことを一杯勉強して、そのクールでスマートな本当の姿を、世の大勢の人たちに紹介してあげてください。仏教の未来が開けるとすれば、それは儀式の収入で生き延びる葬式仏教ばかりでなく(もちろんそれはそれで意味があるのですが)、お釈迦様の時代のように、若い人たちが我先に参入してくる、格好いい集団としての仏教が復活した時でしょう。そして、その格好良さを考えるための、絶対欠かせない虎の巻が、律なのです。ですから、日本仏教とは直接の縁がなくても、それを学ぶことはとても大切なことなのです。 
二年間、律のことばかり書いてきて「花大の佐々木というのは完全な律オタクだ」と思われていることでしょう。まあ、半分は当たりです。でも私は律の他にも、アビダルマと呼ばれる仏教の一大哲学体系も研究していますし、仏教と自然科学の関係についてもいろいろ考えています(ただし、この分野には怪しいインチキ学者も沢山いるので困っているのですが)。そういう別の分野についても機会があったらご紹介していきましょう。ただ、律とアビダルマと自然科学と、三つのうちのどれを優先するか、と問われたなら、今の日本仏教が直面しているいろんな問題を考えた時、どうしても律から語らねばならないと思ったのです。おふざけ半分のコラムでしたが、実は私はとても真面目なんです(こういうこと言うのが不真面目だっちゅーの)。連載中、いろんな人から激励やお誉めの言葉をいただきました。お叱りの言葉もあったかもしれませんが、健忘症なもので、そういうのはすべて忘れました。ともかく多くの人が私の愚見を読んでくださっているということを知り、本当にうれしく思いました。また、機会があったらご縁を結びましょう。ありがとうございました。 
 
盗人百態

律という資料は大きく分けて二つの部分からできています。前半は、「お坊さんはなになにしてはならない。この規則を破った者にはこれこれの罰を与える」といった具合に、出家者の禁止事項を並べたもの。それは全体で約二百五十条あります(女性の場合は三百以上)。後半は、日々の僧団生活で行われる活動や行事のやり方を決める部分。つまり僧団生活のマニュアルです。たとえば、お坊さんどうしがけんかになったら、どうやって和解させるか、といったことが決められています。でも律の内容がこれだけだったら、たいした量にはならないと思われるかもしれませんね。禁止事項二百五十条といったところで、ならべてみればわずか数ページにしかなりませんし、活動マニュアルだって、基本的な部分だけならわずかなものです。しかし実際の量は、その何十倍もあります。その理由は、ひとつひとつのきまりに対して、それが制定されることになった因縁や、それを破った悪い坊さんの具体例など、いろいろな付加説明がくっついてくることにあります。譬えていうなら、法律の条文を集めた六法全書だけならたいした量ではありませんが、それに基づく今までの犯罪例をすべて集めたら山のような量になるのと同じです。そして、律の面白い話は、そういった犯罪の具体例の中に一杯入っているのです。 
律は仏教世界の法律ですから、とても杓子定規で厳密なものです。本当に、一見したところではバカバカしく思えるほど杓子定規なのです。しかし、法律というものは本来そういうものでしょう。あいまいな定義や、いいかげんな基準だったら世の中無茶苦茶になってしまいます。ですから、仏教の律がバカバカしいくらいに杓子定規であるということは、仏教という宗教がとても見事な法律体系を持っていたということを意味しますし、それは、それほど厳密な法律を必要とするほど、仏教は出家世界の円滑な運営を重要視していたということなのです。抽象的な話ばかりでは何も伝わりませんから、具体的な例をだして、律の見事な杓子定規さをご披露しましょう。今回は泥棒の話です。 
律では、重大犯罪のひとつに窃盗をあげています。比丘や比丘尼が人の物を盗んだら、波羅夷と呼ばれる、とても重い罪となり、僧団から永久追放になるのです。条文だけでいえば「盗むな。盗んだら波羅夷である」と、まことに単純なかたちになるのですが、これだけでは法律とはいえません。「盗むとは、どういう行為を指すのか」がはっきり決まっていなければ、規則を適用することができないからです。では、律にでてくる、盗むという行為の数々をご紹介します。 
「地中物」:金目の物が入った壺などが地中に埋められているのを知って、それを盗む場合。鋤など、掘るための道具を用意した時点では軽犯罪です。軽犯罪とは反省しただけで許される最も軽い罪のこと。地面を掘っても軽犯罪。ですから、鋤を用意して地面を掘ったら、軽犯罪を二回犯したことになります。地面の中の壺に触ったり揺らしたりしたら未遂罪。未遂罪だと、僧団追放にはならないけれど、それより一ランク軽い罰が与えられます。そして、その壺をもとの場所から移動させた時点で、本当の窃盗罪になります。では、壺そのものは動かさず、どんぶりを壺の中にいれて、それで中のお金をすくいとるのはどうでしょうか。どんぶりがお金に触ったら軽犯罪、そのあとどんぶりを動かしたら未遂罪、完全にすくい取った時点で窃盗罪です。中にあるのがお金ではなく、ネックレスのような紐状のもので、それを手で壺から引っ張り上げて取ろうとした場合はどうなりますか。手でネックレスに触れば軽犯罪、動かしたら未遂罪、そしてそのネックレスの下の端が、壺の口からほんの少しでも外に出たら、その時点で窃盗です。では壺の中に、カルピスみたいな美味しい飲み物が入っていて、それをストローで吸いあげて飲む場合はどうですか(カルピスというのは、インドの高級乳製品サルピスにちなんでつけられた名前です。ご存じでした?)。ストローで飲む場合、カルピスが、ストローの中を上に上に昇っている間はまだオーケー。未遂罪ですみます。なぜなら、吸うのをやめればカルピスは再び壺に戻っていくからです。ストローを通ったカルピスが口の中まで入ってきた段階でもまだ大丈夫。逆にストローを吹けば、口の中のカルピスを壺に戻すことができるからです(汚いなー)。でも、口の中のカルピスをゴックンと飲み下したら、もう戻すことはできませんから、その時点で窃盗となるのです。どうです、疲れましたか。地中の壺の中の物を盗むだけでも、これだけの場合分けが必要なのです。そして、このような分類が「地中物」以外にまだ三十以上あります。私などは、そういう細かさが大好きで、読みながら思わず笑ってしまうのです。全部紹介できないのが残念なのですが、面白い例をもう少しご紹介しましょう。 
「税物」:脱税も立派な泥棒です。お坊さんが脱税するなどといってもぴんときませんが、これは関所を通る時の通行税の話です。世界中、どこでもそうですが、交通の要所には関所(今なら税関)というものがあって、そこを通るためには通行税を払わねばなりません。インドにももちろんそういう関所が各地にあって、通行人は単なる通行料だけでなく、持ち込む物品がある程度以上の価値の場合、相応の物品税を払わねばならなかったのです。空港で、私のような貧乏人ならば税関もフリーパスですが、高いおみやげや多量の商品を持ち込む人はそれに応じた税金を払わねばならない、それと同じです。お坊さんは原則として個人財産を持っていませんから、まず間違いなくフリーパスです。しかし場合によっては、価値のある物を人から布施してもらって、それを持ったまま関所を通るというようなこともあり得ます。その場合は、出家だからといって免除されることはなく、物品には税がかけられます。お坊さんはお金を所持できませんから、おそらくその場合は物納になるんでしょう。ところが、これを嫌がって、衣の下や鉢の中などに品物を隠して関所を通ろうとするお坊さんがいたらしいのです。払うべき税を払わないのですから、これは国家からお金を盗んだことになります。そこで律では、そのような脱税行為も窃盗であるといいます。もちろん波羅夷です。もう少し詳しくいうと、課税品を隠そうと思って、それに触ったら軽犯罪、動かしたら未遂罪、隠したまま税関の門を通りすぎて一歩踏み出したら未遂罪、そして二歩進んだら窃盗罪が成立します。また、関所の中から品物だけを先に門の向こうへ放り投げておいて、関所を通過してからそれを拾うというかたちの脱税も考えられますが、その場合は、品物を関所の向こうへ放り投げた段階で窃盗となります。悪賢い人がいて、一緒に旅をしているお坊さんに「あのー、実は私、かなり金目の物を持っておりまして、持ったまま関所を通ると随分と税金をとられてしまいます。そこでご相談ですが、関所を通る間だけ、その品物を持っていてもらえないでしょうか。お坊さまなら、関所の役人もフリーパスで通してくれますでしょう。無事関所を通ることができましたら、相応のお布施はさせていただく所存でございます。いかがでこざいましょうか」などともちかけます。それを承諾して、他人の脱税に協力した場合も、その坊さんは窃盗罪になります。脱税で利益を得たのですから当然ですね。 
三十種類全部ご紹介できたらいいのですが、そんなページ数も根気もありません。このあたりにしておきましょう。今ご紹介したのは律の中の、窃盗に関するきまりですが、長い仏教の歴史の中で、その律に対して後の時代の人が次々に注釈をつけていきます。その注釈には、律の中では言い尽くせなかった、もっともっと細かい事例が一杯でてきます。こうやって仏教の法律体系は、ますますみがき抜かれ、細分化されていったのです。神は細部に宿るといいます。誰でもが一瞬で分かる大雑把な謳い文句だけが仏教の真髄ではありません。まさに重箱の隅をつつきながら、少しずつ少しずつ前進を続けた律の世界もまた、正真正銘の仏教世界なのです。 
 
お風呂のはなし

日本にはいろいろな種類の仏教があって、その教えや修行方法は、宗派によってみな異なっています。禅宗といえば、修行の中心はいうまでもなく瞑想つまり坐禅ということになるのですが、別の宗派では、たとえば護摩をたいて呪文を唱えたり、毎朝、野山を走り回ったり、念仏を唱えたり、あるいは、特別な修行などしてはならないという極端な他力を主張する宗派もあります。日本の仏教を外から見たら、まるで修行の博覧会、「一体ほんとうの仏道修行はどれなんだ」と困惑してしまいますね。しかしこれは、何千年にもわたる長い歴史の中で、いろいろな原因によって仏教が枝分かれし、変質してきた結果なのです。どれが本当の仏道修行か、と聞かれても、どれもが仏教という大きな宗教運動の一支流である以上は、「これは仏道修行ではありません」といって特定のものだけを捨ててしまうわけにはいきません。もしそんなことをしたら、結局はあらゆる宗派の修行を捨てなければならなくなるでしょう。とはいっても、もともとはお釈迦様という一個人から出発した宗教ですから、お釈迦様の時代からずっと続いてきた修行と、後の時代になって新しく導入された修行というものを区別することは可能です。こういう時に、仏教学という学問が役に立つわけです。 
古い時代の資料を見ると、お坊さんたちは、大きく分けて二種類の修行をしていたことが分かります。ひとつは瞑想。もうひとつはお経の勉強です。つまり坐禅をして精神を集中させ、お経を学ぶことで智慧を磨いたわけです。今でもスリランカなどの上座仏教では、このかたちを守っています。黄色い衣を着たスリランカのお坊さんが、野山を走り回ったり護摩をたいたりすることはありません。そしてこの形は、日本の宗派でいうなら、まさに禅宗の修行そのものですね。こういうと、禅宗の皆さん方は嬉しそうな顔をなさるのですが、でもお釈迦様時代のお坊さんは、律にもとづいた僧団生活をおくりながら、そういった修行をしていたのですから、今の禅宗と全く同じというわけでもありません。とにかく、お釈迦様時代のお坊さんたちの修行スタイルは非常にシンプルで、かつ合理的だったのです。 
よく、年末や元旦に、冷たい冷たい滝の水にうたれて修行している仏教者の様子がテレビに映りますが、ああいった修行も、本来の仏教にはありませんでした。自分の心を清らかにするのに、水を浴びたって何の効果もありはしませんからね。心を清浄にするためには、自分の力で心の中の悪い要素、つまり煩悩をひとつずつ消していくしか道はないのです。ですから仏教では、沐浴することになんの神秘的な力も認めてはいません。水を浴びるのは、ただ身体の汚れを落とすことだけが目的です。だから毎日水を浴びたりはしません。何日かに一度、身体が汚れた時にだけ水浴びするのです。 
ところで、お釈迦様の時代、お坊さんは水浴びの他に、サウナにも入っていました。これはちょっと意外でしょ。水浴びは身体を清潔に保つのが目的ですが、サウナの目的は、修行で疲労した身体をリラックスさせて、健康な僧団生活を続けていくことにあります。その詳しい作り方、使い方は、みな律の中に書かれています。サウナといっても、今みたいに、木造りのしゃれた小部屋を想像してはいけません。かま風呂と言った方がいいでしょうね。土をこねて、室を造り、その中にカマドを設けます。そこで火をたくと、その熱気が室の中に籠もります。もちろんカマドからはもうもうと煙がでてきますから、煙を抜くための煙突あるいは煙抜きの窓がつけられていました。充分に室が熱くなったら、小さな入り口から身をかがめて中に入ります。中の熱気はかなり強くて皮膚が焼け付くので、顔には熱を防ぐための泥を塗り、身体には水を掛けておきます。そこでじっとしていると、たちまち体中から滝のように汗が流れ始めます。一杯汗をかいて、身体が軽くなったら室から出て、外で冷たい水を浴び、泥と汗を流します。気分はまさにサウナですね。このあと私なら冷たいビールでも飲んで、「生きててよかったー」などと叫ぶところですが、律を守るお坊さんのことですから、きっと水かジュースを飲んで「出家してよかったー」と叫ぶんでしょうね。 
私は先年、ラオスへ行ったのですが、首都ビエンチャンのお寺で、サウナに入る機会がありました。律に書いてあるものより随分すすんでいて、ちゃんと立派な木造の部屋(といっても二、三人入れば一杯になる小さなものですが)があって、下の薬草釜から立ち上る芳しいハーブの蒸気が、もうもうと身体を包み、部屋に入って十秒もすると、たちまちドッと汗が噴き出してきます。二、三分入って外に出て、外気で身体を冷やしてまた入る、ということを何度か繰り返すうちに、なんだか身体の毒気がどんどん抜けていくような爽やかな気分になり、すっかり別人になったようでした。スタイルに違いはあっても、当時のお坊さんたちも、サウナに入れば、私と同じように、爽やかな気持ちになって、「さあ、また修行に励むか」といって、やる気をだしたのでしょう。 
このように、サウナと仏教僧団は、古代インドの時代から深く結びついていました。そして仏教が周辺の国々へ広まるにつれて、サウナの設備も、それらの国へと伝わっていったのです。ただし、インドで造られたお椀を伏せたような形の仏塔が、日本へ来ると五重の塔に変化するように、本来かま風呂であった僧団のお風呂も、日本にまで伝わってくると、かなり違ったものになりました。どういうものになったのか、詳しく知りたい方は、妙心寺境内の明智風呂をご覧になればよく分かります。外で沸かした熱いお湯を、樋を通して、湯殿に流し込むというスタイルですね。サウナ兼湯浴み場といったところでしょうか。日本でお寺の中にお風呂が造られた一番古い例は東大寺です。このお風呂は今では使われていませんが、巨大な鉄の湯船でお湯を煮立て、そのお湯で部屋を暖めると同時に身体を洗うという、インドのサウナとはかなり違ったかたちになっています。そして、その浴室の入り口は、きれいな唐破風になっています。これこそが、日本中のお風呂屋さん、つまり銭湯の入り口が唐破風造りになった理由です。遠く二千五百年前のインドで生まれたサウナの習慣が、日本中のお風呂屋さんの建築様式に影響を与えているというお話でした。 
 
比丘たちのひそかな悩み

お経と律、どちらもお釈迦様の言葉を伝え残す聖典として、古来、仏教徒たちによって尊重されてきました。しかし、この二種類の聖典は、性格が本質的に違っています。お経は、我々人間が悟りを得るためにはどうしたらよいのか、という問題に対するお釈迦様の答えを集めたもの、一方の律は、お坊さんが僧団で正しく生活するために守らねばならない規則を集めたものです。ですからお経は、どちらかといえば高尚で哲学的で、美しくてかっこ良く書かれています。それを読んだ人が、「ああ、仏教って素晴らしい。私も仏教の修行者となって、悟りを追求してみたい」と思わせるような口調で書かれているのです。 
それに対して律は、お坊さんが実際の日常生活で使う法律なのですから、きれいごとでは済みません。出家修行者とはいえ生身の人間。そんな坊さんたちが、何十人、何百人と集まって集団生活をするのですから、汚いところや生臭いところが、いたるところに顔を出してきます。そういった現実のどろどろした問題を解決し、僧団生活をできるだけスムーズに運営していこうというのが律の目的です。ですから律は、初めから、坊さん達の隠れた陰の面に焦点を合わせて書かれています。坊さんたちの衣食住、いやもっとはっきり言うなら、性欲、食欲、名誉欲、金銭欲に権力欲と、およそ坊さんには似つかわしくない様々な欲望が赤裸々に描かれているのです。 
もちろん、律の目的は、そういった欲望を抑えて清浄な修行者として生きるにはどうしたらよいか、という問いに答えることですから、本来非常に真面目なものなのですが、知らずに読むと、まるで仏教には欲望に目のくらんだ人ばかりいるかのように思われて、誤解されてしまいます。古来、律が秘密の書とされて、一般人の目に触れぬよう秘匿されてきた理由も、そこにあります。 
今でこそ、こうやって「禅文化」のコラムで呑気に紹介できるほど気安く扱えるようになりましたが、世が世なら私など、「律蔵秘密漏洩罪」で僧団から処罰されるほど、その取り扱いは厳しく制限されていたのです。そういった姿勢で書かれているものですから、律蔵には、一般人が思いもしないような、坊さんたちの悩みや苦労が描かれています。今回はそういった問題の中、当時の坊さんたちを苦しめていた、ある病気についてご紹介しましょう。それは痔です。 
お釈迦様時代、すでにインドでは医術というものが生まれていました。それはインド語でアーユルヴェーダと呼ばれています。最近では漢方と並ぶ東洋医学の代表として有名になってきましたね。その起源はお釈迦様がおられた、紀元前の時代にまで遡るのです。古い文献を見ると、当時のインド医術のレベルはかなりのものだったようです。治療のメインは漢方と同じく薬物療法ですが、その他に外科手術もさかんに行われていたようで、脳の切開手術の記録さえ残っています。 
さて、そんな時代、人々を悩ませたいろいろな病気の中でも、特にたちの悪いもののひとつが痔でした。今も昔も、痔という病気は、本人のつらさが周りに伝わらないという点で、一種独特の悲惨さを含んでいます。ある資料によると、有名なマガダ国のビンビサーラ王が痔になって悩んでいたところ、出血を見た后たちが「まあ、王様、月のものでございますか。王様も女におなりあそばして。もうすぐご懐妊あそばすのではございませんか」とはやし立てたということです。 
出家生活を送る坊さんたちにとっても痔は大敵でした。とにかく座る機会の多い修行者が痔になるというのは、ほんとうにつらいことなのでしょう、律の中でもいたるところに、そのつらさが記されています。当時の痔の治療としては、ナイフで患部を切り取る手術もあったようですが、お釈迦様はそれを禁じています。理由ははっきりしないのですが、陰部に刃をあてるという、過激な方法をお避けになったのではないかと思います。ではどうやって痔を治すのでしょうか。それについては次のような記録があります。 
ある比丘が痔を病んでいましたが、外に出てきた患部を爪でねじ切ったところ、あまりの痛みにがまんできず、呻き苦しんでいました。その時お釈迦様が、大悲の力に引かれてその比丘のところへおいでになって尋ねられました。「比丘よ、お前は何を苦しんでいるのか」。そこで比丘は合掌してお釈迦様を仰ぎ見て、苦しさに涙を流し、泣きながら病状を詳しく申し上げました。お釈迦様はおっしゃいました。「私は先に、お前たち痔を患った者が患部を切り取ってはならないと言わなかったか」。「はい、おっしゃいました」。「ならばなぜお前はこのようなことをしたのか」。「世尊よ、あんまり苦しかったからです」。「苦しさの余りやったことであるからお前に罪はない。今、お前たちに命じる。病気が苦しいからといって、爪などでその痔を切り取ってはならない。痔を治す方法は二つある。薬を使うか、呪文によるものである。今後、痔を自分で切ったり、他人に切らせたりしてはならない。これに違反する者は罪となる」。 
つまり痔は薬か呪文で治せ、とおっしゃっているのです。そしてお釈迦様は弟子たちに、その痔を治すために呪文を教えてくださいました。しかもその呪文を唱えると、痔が治るだけでなく、宿命智という神通力も得られるそうです。その呪文の最後は、次のような言葉で終わります。 
「北方大雪山王の場所に薜地多樹という大樹がある。それには三つの花が咲いている。一は相続、二は柔軟、三には乾枯という。その枯花が乾燥すると墜ちるように、私の痔病もまた、それが風痔、熱痔、痔、血痔、糞痔、あるいはその他の諸痔のどれであっても、皆墜ちて干からびよ。出血も膿も苦痛も消え失せよ。すぐに干からびよ」。 
これを聞いて仏弟子たちは歓喜して承ったということです。 
大袈裟だと思いますか。しかし、悟りの道を聞いて歓喜するのが仏弟子ならば、痔の治療法を聞いて小躍りするのもまた、仏弟子です。痔の苦しみはよほどのことだったんですね。ここには、日々、日常を生身の人間として生きながら、悟りという絶対的な非日常を目指す、仏道修行者たちのありのままの様子が映し出されているように思います。文字通り、上から下まで、人間一人、まるごと包み込む仏教の修行生活というものを再度確認してみるのも重要かもしれません。 
 
寺はだれのものか

ご存じのように、お釈迦様が悟りを開かれたのは菩提樹の下でした。今でもインドのブッダガヤにはその菩提樹(代替わりはしているようですが)が残っていて、世界中の巡礼が拝みにやってきます。樹の下に座って瞑想するという修行方法は、仏教だけでなく、その他のインドの宗教家たちの間でも広く行われていた、ごく普通のものでした。大地が焼け付くようなインドの昼下がり、木の葉ごしの陽光がきらきらと踊る中、巨木の根方で結跏趺坐して目を閉じれば、精神はたちまちにしてこの世界から遊離して、遙かな高みへと昇っていくようです。大樹の下での瞑想こそが、深遠なインド精神文化の発祥地なのです。 
そして、お釈迦様もその例にもれず、菩提樹の下で、仏教という、世界に例をみない合理的で実践的な宗教を生み出されました。だからこそ、菩提樹は今でも、仏教のシンボルとして、あらゆる仏教国で崇拝されているのです。 
お釈迦様は、自分が悟りを開いた後、その体験を他の人たちにも教えて、共に悟りの喜びを分かち合いたいと考えて、布教の旅に出発しました。最初の布教の相手は、ベナレスの近く鹿野苑にいた五人の修行者たちでした。いわゆる初転法輪です。その後も多くの人たちが次々と弟子になり、仏教僧団は急速に拡大していきます。 
しかし、このような発展期においても、仏教修行者の住みかは、相変わらず木の下でした。当時の僧団の様子を覗いてみたなら、森の中に点在する大きな木の下で、三々五々、瞑想に専念する比丘たちの姿が見えたことでしょう。そしてそこには、寺院というものはみあたりません。お釈迦様が布教を始めたばかりのこの頃、修行者が住まうための住居、つまり寺院というものはまだ存在しなかったのです。 
仏教の原則は、一切の生産活動を停止して、すべてのエネルギーを修行に注ぐという点にありますから、日々の生活物資はすべて一般社会からの布施によってまかなうことになります。その生活物資の中でも、最も高価でぜいたくなのは、不動産つまり、土地と、その上に建つ寺の建物です。生産活動をしない修行者たちが、自分の力で寺の敷地を手に入れ、そこに寺院を建立することなどできるはずがありません。それはすべて、一般社会の信者さんからの寄進に頼っていたのです。 
律の記録によりますと、お釈迦様が初めて信者さんから受け取った寺院は、竹林精舎という名の僧院でした。有名な場所ですね。寄進したのはマガダ国ビンビサーラ王です。王様だからこそ、広大な土地と、立派な建物を易々と寄進することができたのです。 
この竹林精舎を嚆矢として、それからの仏教僧団は数多くの僧院を所有することになります。一番有名なのは祇樹給孤独園、略して祇園ですね。これらの僧院はすべて、信者さんからの寄進です。つまり、信者さんが自分で建てて、それをそのまま、仏教僧団に寄付するという形で、所有権を僧団に移譲するわけです。さてそれでは問題です。 
「お坊さんたちが、もらったお寺で暮らしているうちに、あちこち傷んできて、修理が必要になりました。その修理の費用は一体どうやって工面したらよいでしょうか」。 
普通に考えるなら、その僧院はすでに信者さんから僧団に譲り渡されたものですから、所有権は僧団側にあります。したがって、その修理は僧団の責任ということになるでしょう。「お寺を寄進した信者さんに、その後の修理の責任まで負わすのは可哀想、修理はまた別の人たちにお願いしよう」というわけです。ところが、寺院の所有権に関する律の規則を見ると、違うことが書いてあります。それは次のような話です。 
ある村の長者さんが、ラーフラ尊者のためにお寺を建てて寄進した。ラーフラさんはそこにしばらく住んでいたが、まもなく遊行の旅にでてしまい、その寺は無住になってしまった。長者は「ラーフラ尊者がまた帰ってくるかどうかわからないし、それならこの寺を僧団(サンガ)に寄付しよう」と考え、寺を僧団に寄進しなおした。ところがそれから間もなく、ラーフラさんが戻ってきた。自分の寺が、今では僧団の所有となっていることに驚いて、お釈迦様(つまりラーフラさんのお父さん)に相談したところ、お釈迦様の判決は「施主が、特定の人を指定して布施したものを、あとで別の人とか僧団に布施しなおした場合、初めの布施だけが有効であって、二番目の布施は無効となる」というものであった。つまりこの寺はラーフラさんのものなのです。 
そしてそれに続いてお釈迦様は次のような重大なことを宣言します。「土地は王に属する。建物および建物内の備品は施主に属する。そしてそれが傷んだら施主が自分で補修しなければならない」。 
以上が律の中の話です。これはどういうことかというと、施主が自分で寺を建てて、特定のお坊さんなり、僧団なりへ寄進した場合でも、その本当の所有権はずっと施主の側にあって、坊さんたちは、ただそれを借りて住んでいるだけなのです。つまり借家ですね。ですからそれが傷んだら、本当の所有者である施主が、自費で修理しなければならないということなのです。坊さんたちはただ借りて住んでいるだけですから、自分で直す必要はありませんが、そのかわり、寺院の真の所有者になることはできません。そして、家賃を払わねばなりません。その家賃とはなにかというと、もちろんお金を払うのではなくて、坊さんとしての清らかで高潔な生活を日々送ることなのです。布施の果報というのは、つまらない人に布施するよりも立派な人にあげた方が大きくなると考えられているので、自分の布施したお寺に立派なお坊さんが住んでくれれば、それだけ大きな果報が得られることになります。 
ですから、そこに住む坊さんが清らかな生活を送っていると「ああ、よかった」と施主は安心します。これが家賃です。つまりお坊さんが寺院に住むためには、それにみあった立派な人でなければならないということなのです。 
このように、樹の下から出発した仏教も、信者さんとの共存の中で、寺院生活を始めるようになり、それが現在の仏教世界にまで続いてきています。ちゃんと家賃を払っているお坊さんもいれば、そうでない人もいるでしょう。払っていないお坊さんには督促状が必要かもしれませんね。 
 
隠者の系譜

一月三十日。わたしは宗務本所を出て、薄日がさす境内を横切り、人けない本山墓地に向かった。そこは、約八百基の墓石が整然と建ち並ぶ各塔頭寺院檀徒の集合墓地である。 わたしがその日、墓地へ出向いたのは、かねてから改修を依頼していた特殊墓地の工事状況を見るためであった。特殊墓地とは、相国寺との歴史的因縁によってここに安置された三霊位の眠る一画である。それは、鎌倉初期の歌人「藤原定家」、室町幕府の八代将軍「足利義政」、江戸時代の画家「伊藤若冲」である。この、互いに何ら縁なき人たちが、相国寺という仏縁によって、わずか十坪ほどの区画に身を寄せ合って眠っているのは、ただに奇観としか言いようがない。ましてや、定家は公家、義政は武家、そして若冲は町人なのである。生前はおろか、死後とて同居するいわれなど、あろうはずもない。しかしそこに、厳しい歴史の風雪が見てとれるのは確かである。各人の生の歴史とは全く無縁に、死者としての仏縁だけが厳然としてあるのは確かである。墓地改修の理由は、地盤沈下による墓石の傾きである。石材屋は、改修に先立ち、遺骨を本山に仮託してきたのだった。 
まず、定家卿の骨壺は半ば割れ崩れ、その土塊の中に、なまなましい骨片が散見された。あの「新古今集」、「百人一首」の選者である天才歌人の、その魂を宿した現物である。次に義政公は、両手にすっぽり入るほどの古壺におしこめられ、土としてのみの姿であった。その土をほぐすと、わずかに骨片らしきものがあったが、定かではない。若冲にあっては土のみである。これはまた何とも皮肉なことである。最も古い定家卿が土葬であるために遺骨の形骸を残し、火葬の義政公の遺骨は土と化し、最も新しい若冲居士は生前の寿塔であるから、遺骨はなく土くれのみなのであった。 
その夜、わたしは自坊にあって何か釈然としない思いにあった。互いに無縁の三霊位が、単に相国寺の仏縁のみによって、身を寄せ合って眠るのか。歴史の事実は、この三者が何の関係もないことを証している。しかし、何か共通の事項はないのだろうか。例えそれが単なる偶然であったにしろ、三者に共通した運命がありはしないか。何はともあれ、三者の事跡をごく簡単に記してみよう。 
定家卿は、平安貴族文化の落日を生きた鎌倉初期の大歌人である。藤原全盛期を築いた道長の六男から発した左家の名流に属したが、彼の父俊成の頃には公卿の地位から脱落しそうなまでに落ちぶれた。しかし、俊成、定家父子は歌人として重用され、歌道の宗家として後の二条、京極、冷泉家の礎となった。しかし、時代は新興武士の台頭による貴族の凋落期であった。治天の君、後鳥羽院はその落日の貴族文化を守るべく、歌道を始めあらゆる芸道に血道を上げる。そして、定家卿は「新古今集」編纂にあたって、まさにこの後鳥羽院の執拗な介入に苦しめられる。そのため、「承久の乱」の失敗によって後鳥羽院が隠岐に流されると、定家卿はたちまち後鳥羽院の仇敵北条家と縁戚を結び、幕府寄りの西園寺家から妻を迎え、北山西園寺第(後の金閣寺)にしばしば出入りするまでになる。そしてついに正二位権大納言の位に登りつめる。この見事な裏切り行為の真意は、恐らく御子左家の名門復帰と歌道宗家の墨守にあったろう。 
室町八代将軍義政公は、父義教が嘉吉の乱で暗殺され、兄義勝が病没したため、わずか八歳で将軍となった悲運の人である。足利幕府は三代義満を頂点として次第に衰退してゆき、下克上や土一揆が頻発する乱世を迎えようとしていた。そのためやがて義政公は政治に嫌気がさし、将軍の務めを投げだしてしまう。これこそが、将軍後継問題に端を発した「応仁の乱」勃発の引き金であった。政治に背を向けた義政公は、大乱のなか東山に山荘を造営し、ひたすら趣味の世界に埋没してゆく。そして義政公の希にみる審美眼と相まって、後に「東山文化」とよばれる一大文化サロンが形成されたのである。 
若冲居士とは、京、高倉錦小路の青物問屋主人・枡屋源左衛門の画号である。前二者が、時代の中心にあって歴史の渦に翻弄されたのとは異なり、彼はいっかいの町絵師、強いては専門絵師ですらなかった。しかし、豊かな町衆であった彼は、家督を次弟に譲って隠居した後も、三軒の家を持ち悠々と画作に励むことができた。そしてその作品は「平安人物誌」に載るほど世に認められたものであった。ちなみに、そこでは「応挙、若冲、蕪村」と並び称されている。また売茶翁が「丹青活手妙通神」と賞賛したほどの超絶技巧の持ち主でもあった。彼は相国寺の大典禅師と親交を結び、若冲が生前に建てた寿塔には、禅師の撰文が刻まれている。 
以上三者の事跡を簡単に記してまず気づくことは、共に芸術文化の人であったということである。定家卿は歌人、義政公は大パトロン、若冲居士は画家である。しかし、わたしはそうした事跡上の共通項にあまり意味を見いだせなかった。むしろ、彼らの内面に何か共通したものはないか、思案したのである。 
山本健吉は「古典と現代文学」で、折口信夫の説として「隠者には三種類がある。一つには、相当の身分の者で隠居生活をする者、二つは、純粋の僧侶、そして最後に、非常に階級の低い隠者である」と述べている。ここにわたしは一つのヒントを得た。つまり、「相当の身分の者で隠居生活をする者」という共通項の発見である。定家卿は名門貴族として、義政公は将軍として、そして若冲居士は裕福な町衆としての隠者趣味である。 
「相当の身分で隠者」となるのは、ただに個人的隠者趣味によるのではない。そこには強烈な「負」の時代精神が働いている。それは、歴史的必然だけでは片づかぬ「負の心」でもある。 
後鳥羽院が流罪になって、定家卿は独力で「新勅撰集」を編纂する栄誉に浴するが、罪人後鳥羽院らの歌百余首を削りとるよう命じられる。歌道の宗家として、虚心に選んだ秀歌に再び政治的横槍が入ったのである。「新古今」に次ぐ無惨な敗北だった。 
晩年、定家卿は嵯峨小倉山山荘で私撰「小倉百人一首」を編む。それは、後鳥羽院へのまぎれもない鎮魂であった。なぜならそれら百首の歌には天皇(陽成、三条、崇徳)貴族(小野篁、源融、在原業平、菅原道真)等、悲運の最期を送った人々の作が鏤められ、しかも最後の二首は後鳥羽院とその子順徳院(佐渡流罪)の怨念の歌であった。 
小倉山の隠者定家卿は、「百人一首」の編纂によって西行、兼好、芭蕉と続く隠者の文学の礎ともなったのである。 
義政公の「東山文化」もまた、隠者の文化であった。彼は生涯、東山殿の造築にこだわり続け、それとてついに未完に終わったのだった。公人としての挫折と孤独が、造築・造園という「人工の楽園」に変換される。その楽園の外、現実の世は飢餓と戦乱に苦しむ民たちの地獄であったが。人工の楽園には現実を救うエネルギーは望むべくもなかったが、書画骨董があふれ、人材があふれ、皮肉にも日本文化の最高峰とされる「東山文化」が形成された。それはやがて「わび、さび」という隠者文化の底流になる。 
若冲居士は生来の隠者だった。彼は前二者のように公人としての挫折から隠遁したのではない。天才画家が、たまたま商家という場違いな世界に生まれたにすぎない。だから、彼の絵画は必ずしも隠者の風ではない。むしろ、華麗な「動植綵絵」は「わび、さび」といったトーンとは無縁である。しかし、わたしは若冲画の異常なまでの細密描写に、かえって「隠者」の匂いを感じるのである。彼が家業を譲り、画業に専念したことは異常でも何でもない。むしろ彼はあまりに平凡な生活者だった。しかし、その平凡な生活者があれほどまでに「細密」に埋没するとき、わたしは隠者としての狂気を感じる。無限に現実から遠ざかる静かな狂気である。 
相国寺墓地の一画に、無縁の三者が眠るという一事から、長々と思いを馳せた。そして三者に「隠者の系譜」を見た。どうやらこれらの偶然は、わたしに日本文化の一つの型を見せてくれたようだ。つまり、歴史の負の部分にこそ深い精神性を持つという日本文化独特の型である。 
 
神社って何だろう?

正月、大徳寺を歳旦問候したあと隣接する今宮神社に初詣するのがわたしの習慣になっている。今年もいつものように人ごみを掻き分けて参拝したが、なぜか後ろで女の子がクスクス笑っている。理由をきくとお坊さんが神様に頭を下げるのがおかしいという。正月だからわたしは僧侶の正装だ。なるほど余り見ない光景だなと思った。むかしは神仏習合でなんの不思議もなかったろうが、明治の分離令で棲み分けが成立したから神社内の僧侶姿なんて見なくなったのだ。僧侶が神社参拝とは、宗教的節操がないと思うのかもしれない。外国人が見たら特にそうだろう。イスラム教徒がキリスト教会でコーランを読むくらい有り得ぬ不祥事かもしれない。日本人が宗教に無節操だと言われるゆえんである。 
だがむつかしい話は別として、わたしの生まれ育った家は東京向島の秋葉神社の境内にあった。大家さんがそこの神主で、東大出の大学教授だった。立派なひとで、子供ながら神職というものの不思議な雰囲気に慣れ親しんでいた。しかし、だからといって神道や神社にわたしはいまだに興味がない。その最大の理由は神道がどこまで宗教か、よく分からないからだ。感覚的にいうなら、伊勢や出雲のあの社殿建築がちっとも面白くないのである。アッケラカンとしていて見どころがよく分からない。さらに日本国中、神社は言うに及ばず小さな祠まで含めると無数の神様の氾濫、大安売りで有難みがない。カドのタバコ屋なみに日常に埋没していて、わざわざ「神の道」なるものの精神性をさぐる気も起きない。もっというなら神社の商売が、七五三や婚礼などの目出度いづくしで、あげくに開運・家内安全・交通安全・学業成就・恋愛成就・病気平癒と現世利益メニューのオンパレードだ。あくまで陽のプラス志向で、微塵の暗さもない。病苦や死は陰の穢れだからひたすら祓い清めるのである。真っ白なワイシャツにちょっとでもシミがつくとあわててクリーニングに出す発想だ。日本人の清潔好き、温泉好きはこんなところからくるのだろうか。「清め」が主たる思想という宗教はいささか奇異である。 
だが、最近ちょっと考えを変える文章に出会った。 
司馬遼太郎「この国のかたち」の「神道(1)」に、神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底(そこ)つ磐根(いわね)の大きさをおもい、奇異を感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である(段落省略)。 
とある。 
ここでふたつのことが、わたしには納得できたのである。清めるとは、汚いもの暗いもの、陰なるものの排除ではなく「畏敬」のもっとも素朴で自然な行為だということ。いまひとつは社殿建築のアッケラカンは、もともと要らないものを要るようにしたためのアッケラカンなのだということである。仏教寺院のマニアックな壮麗さときっちりと対峙する簡素系志向だと知れた。 
 さらに同文はいう。「ここで言っておかねばならないが、古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益の卑しさはなかった」と。ここにおいて、わたしはハタと膝を打った。神道とは、近代自我の分裂と苦悩を前提とした救済思想としての宗教とはまったく関係がない。そんなものは神道から見ればどんな大思想であろうと迷いの上塗りにすぎない。さらには人間が幸福に生きるための手前勝手な手練手管などもまったくあずかり知らぬ世界だということだ。 
本来の「神ながらの道」とは、大自然の不思議さへの素朴な驚きであり、そこに生命の本源を見て、人間の愚かさ、うかつさからそれを守るために縄張りした、その空域を神聖としたのである。それは思想とか原理とかではなくただの空き地への郷愁である。だがそれは何もないという強さへの憧れなのだ。 
だれもが経験するように、大掃除などで村の祠を開けるときの緊張に反し、開けた扉の中には神様の名を書いたお札一枚や石ころ一個だったりで、がっかりするのである。しかし、そこが神域の空性なのだ。 
伊勢神宮の神体は御魂代(みたましろ)の八咫鏡(やたのかがみ)だが、それがどういう鏡かまったく伝わってこない。鏡というものは姿かたちを映す道具だが、たとえばリンゴが鏡に映っていても鏡のなかにリンゴという実体があるわけではない。空虚なのである。むろん鏡の宗教的意味あいとなれば厄払いや太陽信仰と結びつけて考えねばならない。いずれにしろ空虚で実体のない「光」というものが清浄の象徴になっているのだ。とするなら、神仏習合において大乗仏教の「空」の思想と神道の「空なる神域」の考えかたとは案外しっくりいったのかもしれない、と勝手に思ったのである。だが日本人は大陸伝来の仏教をむつかしい空思想として受け入れたのではなく、鎮護国家や来世思想として受け入れたのだから、始めから神仏が仲良く習合したのではないことは確かである。にもかかわらず、仏教の空思想がたぶんに情緒的な無常観としてではあるが、日本文化に定着しえたのは、伊勢神宮はもとより村の神社や鎮守ですらも鬱蒼たる森のなかの明るみとして、われわれがなじんできたからではなかろうか。空域を神聖視することはギリシャのアレーティア(真理のあからさま)などにもいえるが、ことさら余白を尊ぶ空間の美学としての日本人の美意識は、神社の神域などにその始源を見ることができるのかもしれない。 
こうなると社殿建築いわゆる神明造や大社造のアッケラカンとしたつまらなさとは、じつはきわめて豊かで深い意味合いを持った様式であるように思えてくる。たとえば伊勢神宮の式年遷宮にまつわる諸行事の経済的、物理的膨大さは圧倒的なものだ。百数十人の宮大工、樹齢三百年の木曽ヒノキ一万本以上、新調する装束・神宝が二千五百点、総工費三百億円という規模である。こんなことを神聖なる空域のために二十年ごとに千年以上も行なってきているのだが、遷宮の中心たる内宮正殿はわずか十二畳の建築物だ。空域というものの重みと深さを痛感するのである。 
司馬遼太郎は伊勢神宮を訪れたさいに別宮である滝原宮にも立ち寄りこう記している。 
私が見た滝原における白い河原石が一面に敷かれた場所は、じつは遷宮のおわったあとの敷地なのである。しかし、なまじい社殿があるよりも、以前そこに社殿があり、かついずれは社殿が建てられる無のようなこの空閑地にこそ、古神道の神聖さが感じられる。 
伊勢神宮は年間千六百もの祭礼行事があるという。なかばレジャー化した現代の「お伊勢参り」にとってまったく無縁のことながら、神という目に見えないものに仕える神職たちの大真面目な姿を思うと、しんと心が鎮まるのはわたしだけではあるまい。日常に埋没した神社のたたずまいから、一瞬でも「空なるもの」の匂いをかげたらと思うのである。 
 
一遍を観る

相国寺の寺域は京都市営地下鉄烏丸線「今出川」駅に隣接している。近年、この烏丸線が近鉄奈良線と連結してたいへん便利になった。今出川駅から近鉄奈良駅まで直通で行けるのである。 
かつては、奈良へでかけるにはなにがしかの心の準備を必要とした。旅行書などでは乱暴にも奈良・京都はひとくくりにされるが、現代都市としての風貌も歴史的役割もまったく違うものであるから、意識のうえでは奈良行きはちょっとした小旅行だった。 
しかし直通線が開通したいま、わたしは隣町へでかけるほどの気やすさで、それこそやりかけの仕事をそのままにしてでも奈良へ行くことができる。京都から奈良へは単に「今出川駅」から「近鉄奈良駅」へという、点から点への移動に過ぎなくなった。 
そんなわけで、昨年の暮れ、奈良国立博物館で「一遍聖絵」展が開催されると知るや、着の身着のまま地下鉄に飛び乗った。「一遍聖絵」はわたしにとって、生涯見ることかなわぬとあきらめていた必見中の必見物件である。 
そのわけは、「一遍聖絵」が単なる時宗開祖一遍上人の行状絵巻ではないからである。「聖絵」こそは、魂の極北を漂泊する男の、苛烈なまでのドキュメンタリーであり、荒涼とした山河に響きわたる孤独者の叫びだからである。その肉声は、情念の熱い劇性をも突き破り、人間の根源的問いかけへと昇華したものにほかならない。 
だが、わたしの思い入れに反して、「聖絵」はあまりに静寂に包まれた絵画であった。その異様なまでの静けさはどこから来るのであろうか。 
万事にいろわず、一切を捨離して孤独独一なるを、死するとはいうなり。生ぜしもひとりなり、死するも独なり。 
この限りある生命体が絶命することを死というのではない。一遍にとって死とは「孤独独一」なることをいう。煩雑な生の執着を捨てて、独一であることが死である。その覚悟と深い洞察が「孤独」なのである。 
近代自我にとって孤独とは、不安と絶望の主要因であった。しかし一遍にとって孤独とは生の本質であり、独一という絶対主体性である。そこへ、あらゆる迷いや煩悩が取り込まれるから、人間の救いがたい生の営みは即「仏の領域」なのである。 
生きたる命も阿弥陀仏の御命、死ぬるいのちも阿弥陀仏の御命なり。 
ここで「死ぬるいのち」ということが、「聖絵」をささえる眼目であると知れる。この国宝絵巻を圧倒的に支配する異様な静寂こそは、「死ぬるいのち」であった。 
それでは一遍にあって「死ぬるいのち」としての阿弥陀仏とは何であったのか。釈迦でも観音でも大日如来でもなかったのは何故なのか。 
禅における釈迦如来、密教における大日如来を一遍の「仏の領域」としたなら、「聖絵」は存在しえなかったとわたしはみる。一遍にあってはどうしても阿弥陀仏でなくてはならなかった。すなわち、そこには「漂泊」ということが関わってくるのである。「遊行」ということがどうしても関わってくる。唐木順三は一遍を「飄々乎として遊行する三昧」ととらえ芭蕉の「軽み」に比しているが、遊行は必ずしも手放しの遊戯三昧ではない。その背後に野垂れ死にという壮絶なまでの覚悟があるからである。それはあくまで仏道の行であって、たとえ踊念仏といえども土着性の強い盆踊りとは一線を画すものである。すなわち土着という土地への執着から完全に独立しているのであって、この点は一遍によって明確に峻別されていた。それは後に漂泊遊行する人々を道時衆、土地と生業と家庭をもつ信者たちを俗時衆と分けたことからも知れる。 
では、一遍の漂泊遊行とは念仏の教えを広めるための教化の旅であったのか。もしそうなら、親鸞や日蓮の回国教化の旅と変わらぬことになろう。むしろ一遍はあくまで「捨て聖」であって、回国教化といった宗祖めいた匂いは希薄であった。「捨ててこそ」というその一念が、一箇所に定住することを許さなかった。定住は執着であるという人間の止みがたい宿命を、一遍はみていた。四国の豪族河野氏の出身である一遍は、戦い敗れて離散し土地を失った一族の悲哀を骨身にしみて体験していた。すなわちかれこそは中世的な地方豪族の強烈な自我のひとであり、そのことに最も苦しんだひとだった。現代人の「身勝手」という薄っぺらな自我ではなく、命がけで捨てなければならない土着の自我であった。 
「捨ててこそ」とは、「捨ててこそ救いがある」とか「捨ててこそ浮かぶ瀬もある」といったたぐいの条件つきの言葉では断じてない。「捨ててこそ」そのものである。全存在が「捨ててこそ」なのである。それを漂泊遊行というのだ。そして漂泊遊行には寺も仏像も修行道場も不要であった。そこには赤裸々な生の本質だけがあって、衣食住はぎりぎりまで切り詰められる。そして生の証は、念仏というたったひとつの魂の声だけになってしまう。 
念仏し、踊り、漂泊し続けることだけが「死ぬるいのち」の証なのである。それは人間の土着した自我が他者を食い破って享受する「いのち」ではない。静寂と安息としての「仏のいのち」である。 
「聖絵」の異様なまでの静けさは、仏の領域の静けさであった。それはまた絵巻の背景をなす山河の静けさでもあった。かつて、これほどまでにシンと静まりかえった風景を、わたしは見たことがない。そこを、点景として遊行する一遍らの姿が小さく見え隠れする。つまりこの絵巻の主人公は一遍でも一遍の行状でもなく、おもわず息を呑むばかりに美しく静寂な山河のたたずまいであった。とするなら、阿弥陀来迎図のように、擬人化された阿弥陀仏が紫雲にのって山のかなたから飛来する、といった夢物語のたぐいの絵画とは、「聖絵」はまったくちがうものなのである。「聖絵」の背景たる山河そのものが念仏であり、仏の領域であり、現実にわれわれに関わるいのちの宿命なのである。つまりは、この絵巻の驚異的美しさ、その実存的重みは、宗教画としての教化とは縁もゆかりもないところからくるのであって、万人の魂をうつ何かしら根源の声をもった「静かなる叫び」とでも言うしか言葉がないのである。人智を尽くし、空想をめぐらして仏界を描いた絵画は山ほどある。しかし、現実の山河がそのまま仏界である絵画は「聖絵」をおいてほかにない。「決定は名号なり」と一遍はいう。捨てきった身にほかになにがいるか。ただ山あり川あり、そしてあいもかわらぬ人間の営みがあり、そこを熱い血をもった一遍という名号が通り過ぎてゆく。 
「一遍上人語録」によれば、一遍は由良の法燈国師に参禅したおり、「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と自己の境涯を呈したが「まだまだ」と否定され、すかさず、「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と返したという。ややできすぎた話ではあり、一遍の境涯としてはこれでもまだ不十分だとわたしは思うが、国師は印可の証としてと薬籠を与えたという。一遍の念仏に「国師の証明」というブランドが、はたして必要であったかどうか。いずれにせよ、漂泊遊行の身には手巾・薬籠とて余計な荷物だったかもしれない。 
 
神と仏のあいだ

わたしの生家は、東京の下町の典型的な木造家屋だったが、当時としてはひどく変わった間取りだったことを覚えている。玄関前には笹の植え込みがあり、たたきは那智黒様の玉石が敷き詰められていて(家ではアブラ石とよんでいた)そこを斜交(はすか)いに横切るようにして自然木の一枚板が懸けられ上がり框(かまち)の役をしていた。その小料理屋のような玄関とは対照的に、いちばん奥の洋間には天井から作りつけの本棚があり、横にはデンチクとよばれた大きな電気蓄音機がでんと据えられていた。七十八回転のSPレコードはトスカニーニの「セヴィリアの理髪師」、フルトヴェングラーの「エグモント」、ワルターの「未完成」、コルトーの「雨だれ」などがあった。さらにその書斎兼居間に隣接して、いまでいうオープンキッチンがあった。ラワンの一枚板がカウンターでありそこで木の椅子に腰掛けて母の調理をみながら食事をしたが、キッチンの背にガラス戸をはめたホームバーがあって、まさにスナックのような雰囲気だった。このモダンな家がじつは秋葉神社の敷地に建っていて、その神主が大家さんだった。だから秋のお祭りには御輿(みこし)がでて家の前の通りには夜店がズラリと並び、テレビのない時代の子どもにとって何よりの楽しみだった。さらに神社は町内会の集会所を兼ね、正月や祭礼その他もろもろの町内のイベントはなんらかのかたちで神社と関わっていた。むろん町内のひとはみなこの神社の氏子だった。 
ところがわたしの母は熱心な日蓮宗の檀徒であり、わたしたち兄弟は毎朝かかさず仏壇のまえで法華経をあげ、毎月一回はお寺参りをさせられていた(いまでも法華経の一部をそらんじている)。だがこうしたわが家の宗教的二重帳簿はけっして特異なのではない。神仏習合という言葉がそらぞらしいくらいあたりまえのことだった。おそらく日本国中の町村がそうだっただろう。 
平成十三年度宗教年鑑によると神道系信徒数が約一億八百万人、仏教系が九千五百万人で合計すると優に二億人を超えてしまう。つまり日本の総人口を超えるわけで、神道・仏教の信徒二重登録が一般である証拠となる。むろん神道と仏教はまったく異種の宗教だから、このことは「イスラム教とキリスト教を二重に信仰しているひと」というくらい奇異なことのはずである。どうしてそうなるのか? 古くて新しい疑問につきあたる。 
まず、神道と仏教とを「宗教」という言葉で安易にひと括りすることがただしいのか、と思う。宗教というものをごく簡単に「魂の救済」ととらえてみる。すると、心の悩みや人生の疑問といった重い課題を解決するのに寺や教会に足を向けることはあっても、神社へいって神主さんにすがる、というのは聞いたことがない。つまり神道とは、どうも魂の救済とは無縁のところで成り立つ何かであるらしい。 
先日、宇治平等院を参拝する道すがら宇治上神社にたちより、そこの神主さんのお話を聞く機会をえた。この神社は世界文化遺産に登録された貴重な国宝社殿を擁している。なぜ貴重かというと、この社殿は今日のように独立した拝殿形式になる以前の、拝殿・寝殿一体型の社殿なのである。つまり貴族が生活の場と信仰の場とを同一次元で捉えていたころのなごりであるらしい。本居宣長のいう「神ながらの道」、日本民族固有の自然宗教としての心の価値観・美意識のありようがまだ生きていたころのなごりであるらしい。 
古代日本人は、老荘思想のような「道」の形而上学や儒教の仁義道徳の思想や仏性の自覚を厳しく問う仏教思想とは無縁であった。さらには「神道」として体系化された思想とも無縁だった。古代日本人の宗教とは、生活の場が自然への畏敬崇拝として浄化され、また律せられることだった。そこには分裂した近代自我によるエゴイズムは存在せず、さらにはキリスト教のような神への絶対服従と審判といった強烈なドグマもありえなかった。ただただ純粋に「神ながら」なのである。それは「道」ですらない。しかしこの一見とらえようのないヤマトゴコロは、儒教・道教・仏教・キリスト教の外来種の襲来によってコテコテに「思想としての神道」に化けざるをえなかったらしい。 
明治期にいたって神の依りしろとしての祠(ほこら)社(やしろ)までもが国家神道の組織的統制に組みこまれ、「神イコール天皇」制に再編されるに及んで、神道は近代以降完全に宗教としての要素を剥ぎ取られてしまった。たとえ戦後に国家神道という亡霊は消滅しても、神社のたたずまいは生活習俗としての年中行事、祈願所、文化遺産としてのみ生き残っているにすぎない。だが、である。日本人にとって神と仏のあいだは、それほど遠いものなのか。 
伊勢神宮や出雲大社を参拝しても、なんら宗教的感動をおこさない今日の日本人というものも、逆説的にいえばひとつの「神ながらの道」の完結した姿であるのかもしれない。 
たとえば神前結婚・宮参り・七五三・十三参りといった一連の流れは人間の成長にそった「心のかたち」として日本人が培ってきたものであり、そのかたちの深奥に潜むかたち無きものこそは神ながらという無意識の安息であろう。これを単に民俗風習としてかたづけるわけにはいくまい。すると、その無意識がゆえに再認識を怠ってきた現代日本の精神風景のゆがみと貧困が、かえって「神性」への不可触さを際立たせるのである。触らぬ神に祟りなしではなくて、がんらい触れることができないという至純さへの無意識が、際立つのである。すると「神仏習合」という日本人独自の宗教感覚は、神と仏の良いとこ取りではなく、神も仏も先験的な安息の場としてとらえ、あえて分離させる必要もなかったからではなかろうか。宗教教理としては水と油ほども違う神仏は、日本人の日常の営みのなかでは無意識下に沈潜して、あたかも母性のもたらす絶対の安息のようにはたらき、ことさらにあげつらうものではなかった。それは現代日本人の無宗教や無節操と一脈通じるものではあるにしろ、禊やお祓いは清浄法身の概念と同一視され、御神体と御本尊は形の違いだけであり、けっきょく「社寺」というひと括りの聖域として収まってしまうのである。神と仏のあいだは意外と「遠くて近い」距離なのである。 
ならばなおさら神ながらの道という、思想たりえぬ心のかたちを見直すに充分な時期が現代の荒廃した精神風土に訪れているといえよう。 
「思想たりえぬ心のかたち」をといいかえてもよいかもしれない。気息の出入りを口唇の調節によって発語するという、ただそれだけのことにいいしれぬ生命力を感得する。言葉が意味を持つ以前の音のみの世界である。われわれは何にでも名をつけ意味を付加するが、名付けるとはそれを他の群れから掬い取って人間の側へ特定することだ。その瞬間、神性は人間の都合にあった道具に堕する。教祖が疑似神格者となる手の内である。 
言霊は、神道にあっては、仏教にあっては呪や真言にあたるといえよう。こんにちこうした意味なき発語は、神仏行事のバックミュージックに過ぎなくなり、ただうわのそらで聞くだけのものとなった。それでよいと、わたしは思う。意味なき世界とは、現代人の意味付け、価値付けの病からの解放であろう。はるか古代から続く神ながらの道とは、おおらかで、あるがままで、そして自己主張しない心の透明性である。日本仏教のある種の明るさもそこに通ずるのである。神と仏の「遠くて近い」あいだである。 
さきの宇治上神社参拝のおり、神主さんがわれわれにお祓いをしてくれることになった。 
連れの友人いわく「坊さんが神さんのお祓いを受けて、良ろしんやろか?」。わたしは黙って微笑するだけだった。 
 
儒教の世界

儒教ほど誤解されている宗教はないのではないだろうか。多くの人は、高級官僚をつくるための教養を与える宗教であるとしか思っていない。中には儒教は道徳あるいは宗教であり、宗教ではないという人もいる。しかし、儒教くらい宗教らしい宗教はない。 
宗教の大きな目的の一つが魂の救済であるとするなら、儒教はそれに大きく関わっている。中国の世界観では、人の魂(たましい)には「魂(こん)」と「魄(はく)」があるとされる。人が死ぬと、魂(こん)は天に昇り、魄(はく)は地に潜(もぐ)る。そして、子孫が先祖を祀る儀式を行えば、天と地からそれぞれ戻ってきて再生すると考えられている。 
中国人にとって最大の不安は、子孫が途絶えてしまうことである。なぜなら、もし子孫が途絶え、先祖である自分を祀る儀礼を行ってくれないとしたら、わが魂(こん)と魄(はく)は分裂したままさまよい、永遠に再生できないからである。本当の意味で自分は死んでしまうのである。 
ならば、どうすべきか。天下の乱れをなくしてしまえば、そのような事態を未然に防げると考えたのだ。人々がみな幸福に暮らしていれば、家が絶えるという不幸な事態も起きないと考えたのである。そこで儒教では、政治を重んじた。正しい政治が行われることによって、生者のみならず死者もが救われるというのが儒教の思想であった。 
「儒」という文字にその思想が込められている。後漢の許慎が完成した『説文解字』は最も権威ある文字の解説書とされる。それによると、儒とは「柔なり。術士の称なり」とあり、柔和なことがその意味であるという。「武」に対する「文」のようなものだろう。 
また、アメカンムリが入っており、雨に濡れるの「濡」という字に似ている。清の文字学者・段玉裁(だんぎょくさい)は、アメカンムリの下の「而」は下に垂れたヒゲであるとした。乾いたヒゲはごわごわして、あちこちにぶつかる。一方、雨に濡れたヒゲは柔らかくスムーズであり、よって「儒」とは人間が社会でスムーズに生活する教えということになるのである。 
儒教が宗教であることの理由はまだある。中国哲学者で、儒教研究の第一人者として知られる加地信行氏によれば、宗教とは「死ならびに死後の説明者」であるという。人間にとって究極の謎である死後の説明ができるものは宗教だけだ。そして、個人のみならずその民族の考え方や特性に最もマッチした説明ができたとき、その民族において心から支持され、その民族の宗教になるのである。 
中国の場合、漢民族に最もしっくりくる「死ならびに死後の説明」に成功したのが儒教であり、儒教のあとに登場する道教だった。そのため、儒教や道教は漢民族に支持され、国民宗教としての地位を得たのである。仏教は漢民族の支持を得られなかったため、中国では確たる地位を得ることができず、ついには国民宗教となることができなかった。 
この三つの宗教の死生観を見てみると、仏教には「輪廻転生」、道教には「不老長生」、儒教には「招魂再生」というコンセプトがある。仏教は生死を超えて「仏」になろうとする。道教は生死を一体化して「仙人」になろうとする。そして、儒教は生きているときには、「聖人」になろうとし、死後は祖先祭祀によって生の世界に回帰するわけである。 
祖先の祭祀と子孫の繁栄を何よりも重んじる儒教の世界観は、「孝」という一文字に集約される。では、「孝」とは何か。祖先は過去であり、子孫は未来である。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、その現在とは現実の親子によって表される。親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点だ。だから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもある。 
そこで儒教は次の三つのことを人間の務めとして打ち出した。第一は、祖先祭祀をすること。第二は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。第三に、子孫一族が続くこと。そして、この三つをあわせたものこそ、「孝」なのである。「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしているが、そうではなく、死んでもなつかしいこの世に再び帰ってくることができるという「招魂再生」の死生観と結びついて生まれてきた観念が「孝行」だ。死は全人類に共通した不安であり、恐怖である。しかし、これによって、中国人は死への恐怖をやわらげたのだ。 
加地氏によれば、招魂再生の第一目的は「慰霊」である。死を前にして恐怖に脅える人に対して、「心配しなくても、あなたをみなが忘れずに必ず呼び降ろします」という招魂再生の約束があるとき、死は怖いけれども、死後への安心感は生まれる。この「招魂再生の誓い」を現代の言葉に翻訳するとすれば、「亡き人の想い出を語る」ということだと加地氏はいう。 
ある意味では、「孝」があれば人は死なないのである。それは、こういうことだ。死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転した「生命の連続」という観念を生み出した。祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになる。また、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになる。とすれば、現在生きている私たちは、自分の生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、みなと一緒に共に生きていることになる。私たちは個体ではなく一つの集合生命として、過去も未来も、一緒に生きるわけである。それが儒教のいう「孝」であり、現在の言葉にすれば、「生命連続の自覚」ということだ。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしと一気に逆転する。これが儒教の死生観なのである。 
この死生観は、「利己的遺伝子」という現代生物学の重要な考え方ときわめてよく似ている。利己的遺伝子とは、イギリスの生物学者であるリチャード・ドーキンスが唱えた学説だ。ドーキンスによると、生物の肉体は一つの乗り物(ビークル)にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えてというのである。なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーを作り、次に肉体を残し、そこに乗り移るわけだ。 
子は親の肉体のコピーなのである。「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「遺(のこ)した体」である。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのであり、このように、「孝」はDNAにも通じる。「孝」があれば人は死なないとは、そういうことだ。祖先の祭祀を行い、子孫の繁栄を願うことは、自分の生命が死なないためでもあるのである。 
儒教が宗教であることの証明に話を戻すと、それはずばり葬儀を行うことだ。葬儀を宗教ではなく、単なる習俗として見る人もいるが、葬儀とは紛れもなく宗教儀礼の根幹である。「死および死後の説明」を形にしたものこそ葬儀であり、特に儒教は葬礼を何よりも重視した。 
もともと「原儒」と呼ばれた古代の儒教グループは葬送のプロフェッショナル集団であり、正式な儒教の創始者とされる孔子の母親も葬儀や占い、あるいは雨乞いに携わる巫女(みこ)だったという。雨乞いは、氏族の生活を左右する重要な農耕儀礼として、古代においては盛んに行われた。民俗学の古典中の古典であるフレイザーの『金枝篇』には、未開社会における雨乞いの儀礼が多く紹介されている。それゆえに、「儒」は需要の「需」、すなわち「もとめる」の意味でもあった。なぜなら、古代人の生活で最も切実にもとめられたのは、早魃の時の雨であるからだ。 
そして、儒教の発生そのものが葬送儀礼と分かちがたく結びついていた。中国文学者の白川静氏と哲学者の梅原猛氏との対談『呪の思想』の中に、二人が儒家と墨家の対立について語り合った後、次のような会話が交わされている。 
白川孔子は葬式屋であった訳ですよ。 
梅原ほう。 
白川葬式屋と言うたらおかしいけれども、儒教の文献で、『礼記』四十九篇のうちの大部分はね、葬式の儀礼なんですよ。葬祭なんです。 
梅原そうですね。 
白川それを儒教が担当しておった。それで、墨子集団は、一種の工人集団であった。あの、「ものづくり」です。 
梅原墨子は「ものづくり」ですか。そして孔子は葬式屋であると。 
白川静氏によれば、孔子の父親と母親は正式の結婚をしておらず、孔子は私生児であったという。孔子から二00年ほど後に登場する孟子の母親は、孟子が子どもの頃に葬式遊びをするのを嫌って家を三回替えた、いわゆる「孟母三遷」でよく知られている。孟子の師である孔子も子ども時代にはよく葬式遊びをしたようだ。 
私生児であり、かつ父親を早く亡くしたため、貧困と苦難のうちに母と二人暮らしをした孔子の少年時代。今でいう母子家庭である。葬送の仕事をやりながら、孔子を育てた母。そんな母親とその仕事を孔子はどのように見ただろうか。おそらく、深い感謝の念と尊敬の念を抱いたのではないだろうか。孔子は母親の影響のもと、「葬礼ほど人間の尊厳を重んじた価値ある行為はない」と考えていたとしか私には思えない。そうでないと、孔子が生んだ儒教がこれほどまでに葬礼に価値を置く理由がまったくわからなくなる。 
現在では孔子の父親は山東省の下級軍人貴族であったとされているが、当時の孔子は父の名も知らず、その墓所など知る由もなかった。しかし、孔子一門の間に記録された葬礼の問題を多く集めた文献である『礼記』の「檀弓(だんぐう)篇」には、こう書かれている。それによると、孔子がその母を魯の城内に仮埋葬したとき、墓守の老婆に教えられて父の墓所を知り、合葬したという。墓所は改葬しないのが普通だが、孔子はあえてその父母を合葬したというのである。 
父母の合葬という行為には、孔子の想いが滲み出ているように思う。両親に対する親愛の情はもちろん、「深く愛し合いながらも生前は夫婦になれなかった二人を、せめて死後において一緒にしてやりたい」という切ない願いが込められているように見える。孔子が大切にした葬礼とは「愛と死をみつめて」、人間の真の幸福を問う行為だったのである。このような孔子は巫女の私生児であったがゆえに、神の子であったのだと私は思っている。 
その神の子である孔子の生涯は、決して恵まれたものではなかった。孔子の「子」は尊称で、「孔」が姓である。名は「丘(きゅう)」、他人からの呼称である字(あざな)は「仲尼(ちゅうじ)」。紀元前五五二年に魯の陬邑(すうゆう)、現在の山東省に生まれたとされている。三0歳前後までの孔子は、魯の国に仕えて、倉庫番や牧場の飼育係をしながら学問に励んだ。そして三六歳のとき斉の国に行き、四三歳のころ再び斉から魯に戻った。この時期になって、子路(しろ)や閔子騫(びんしけん)といった弟子たちが集まってきて、孔子の名声は高まっていった。 
孔子が魯の国でそれなりのポストを得たのは五0歳を過ぎてからだった。五二歳で中都の代官となり、五四歳で司法長官となった。行政官として絶頂期を迎えたわけだが、このとき孔子は一種の行政改革を試みた。それが失敗に終わったために辞職し、五六歳のときに魯の国を出る。 
以後一四年間というもの、孔子は曹、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚と、諸国を流浪して、自分の政治的理想を実現してくれる君主を探し求めたのである。では、彼の政治的理想とはどのようなものだったか。それは道徳による政治、すなわち「徳治主義」であった。徳治主義とは、法律で人民をコントロールすることによって政治を行う「法治主義」に対するものだ。魯に伝わる周の文物制度を学び、周公旦を理想の人物と敬慕した孔子は、乱世における政治を周の制度に戻すべきであると主張した。周といえば、孔子の時代より五00年も昔の紀元前一一世紀の頃である。その古(いにしえ)の理想の政治を実現するために、彼は徳治主義を提唱するのである。 
孔子によれば、人民を統治するのに法律と刑罰をもってすれば、人民は法律の抜け穴ばかりを探し求め、恥じらいの心というものがなくなってしまう。人民を統治するのに徳と礼をもってすると、人民は恥を知り、不正を働かなくなるという。もっとも、『論語』の為政篇を読むと、孔子は為政者の統治についてのみ政治を考えたのではないことがわかる。家庭の日常生活において、祖先や親を大切にし、兄弟が仲良くすることも大きな意味での政治であると考えていたのである 
孔子の道徳的・政治的改革は、一般の人間をすぐれた人間としての「君子」に変える方法のことであり、一種の全体教育と呼ぶべきものであった。道にそった儀礼的行動をとることができるなら、つまりは礼を正しく行うことができるなら、誰でも君子になることができる。しかし、こういった行動は容易に身につくものではない。それは外面的な儀礼主義ではないし、儀式を行うことで意図的に感情を高揚させることでもない。 
孔子は、正しい儀礼を行うことによって、膨大なエネルギーを持った「呪術の力」あるいは「宗教の力」が解き放たれると考えたのである。「儒」は「呪」にも通じるのだ。宇宙や社会も、人間に働いているのと同じ呪術の力、宗教の力によって支配されており、礼にのっとって正しい行動さえすれば、それで充分であると考えたのである。個人においては、『論語』衛霊公篇で有名な舜王をとりあげ、「彼はただそこに、顔を南の方に三毛、重々しく威厳をもって立つ。ただそれだけである」と君子の儀礼的姿勢について述べている。 
また宇宙および社会においては、為政篇の中で「徳による支配は、あたかも北極星になったようなものである。同じ場所にとどまったままで、他のすべての星がその周囲を忠実に巡っていく」と述べている。まさに、これこそが孔子の理想であったのだ。最もありふれたことから、最も予期せぬことまで、人生のいかなる状況においても礼儀正しくふるまえる君子。それには「仁」が必要だ。孔子は人間を儒教の最高徳目である「仁」に導こうとしていたのである。そして、すべてのものに「理」という本来の性格をもたらし、社会に秩序と持続性を与え、人間を社会全体に結びつけるもの、それがすなわち「礼」なのである。 
しかし、結果として孔子の理想を理解し、理想を実現すべく彼を採用する君主はいなかった。ときには生命の危険にもさらされる苛酷な旅を終えて、大いなる人生の敗北者である孔子が故国の魯に舞い戻ったとき、彼は六九歳であった。最晩年の孔子は、政界への望みを絶ち、魯の国で子弟の教育に専念した。 
実に三000人の弟子を教えたという。そして、紀元前四七九年、七四歳で没した。 
孔子が残した教えを具体的に見てみると、儒教の実践道徳として「五倫」と呼ばれるものがある。これは、『孟子』の中にある「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」をさす。ただし、『中庸』では、この五倫は「五達道」と称され、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の順になっている。父子を第一とする『孟子』に対して、『中庸』では君臣を第一とするのだ。家族主義的な『孟子』と国家主義的な『中庸』と対比させることもできるが、どちらも具体的な人間関係において道徳を説いている点は同じであり、まさにこれが儒教の特色であると言える。 
このような具体的な人間関係における倫理規範としての「五倫」の他に、儒教には「五常」と呼ばれる徳目もある。すなわち、仁・義・礼・智・信である。もちろん「五倫」や「五常」は後世の弟子が定めたものであるが、その根本思想は儒教の開祖である孔子に基づいている。 
仁義礼智にはじまる数多くのコンセプトを発見し、再編集した孔子にとって、最も重要なコンセプトとは、やはり「天」である。「天」は中国の伝統的な信仰の対象だが、中国最初の賢人である孔子もまた、天が人間界を支配するという堅い信仰を持っていたのである。孔子にとって、「天」とは「天命」の天、「天運」の天であって、畏怖すべきものに他ならなかった。そして、「礼」とは、何よりもまず「天」を祭ること。孔子の後に樹家の経典として編まれた『王経』の中の「礼」として、天神、地祇、人鬼の三つの形態に分類された神々への信仰と祭祀が詳しく記されている。 
孔子の心中には、つねに「天」があったのである。そして、その「天」の秩序を地上に引き下ろすテクノロジーが「礼」であったと私は思う。「礼」はもともと古代中国の宗教から規範、および社会システムにまでおよぶ巨大な取り決めの体系である。「礼」の旧字体では「禮」と書かれるが、これは「履」の意味であり、人として履みおこなうべき道を示した。儒教は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にも出てくることで知られる「仁義礼智忠信孝悌」のように徳目の一つとして、「礼」を礼儀とかマナーの意に落ち着かせようとした。それも確かに「礼」の一部であり、後に日本に入って、小笠原流礼法として開花したことはよく知られている。しかし、独自の視点で中国の深層を描き出すことで定評のある作家・酒見賢一氏は、「礼」の本質に迫る小説『周公旦』のエピローグにこのように書いている。 
「孔子系の儒は仁を最高の徳とし、孝の実践を最高義とする。宋学は仁が徳の中心にあり、 
仁はすべてを含む概念であるとさえする。が、本来は義智忠信孝悌のほうが礼の中に含まれていたものである、その逆ではない。仁は孔子が自らの理想の、曰く言い難い新しいなにかを表現しようとして採用した特別な言葉である。その概念はまたもともと礼の中にあったと言えなくもない。何故後世の学者がこんな簡単なことを逆にしてきたのか、浅学の作者には非常な疑問である」 
道徳倫理、各種の祭祀、先祖供養、歴史、人間の集団における序列の意味などはすべて礼の中にあったのである。礼は儒教のみならず、黄老、仙道、方術、民間宗教の母体なのだ。そして、『論語』には、「礼」「礼を履(ふ)む」「礼を聞く」「礼を学ぶ」「礼を知る」などの語がたびたび出てくるが、孔子ほど「礼」の重要性を知りつくしていた人物はいない。母親が葬儀をいとなむ巫女であった孔子は、何よりも葬礼を「礼」の中心に置いた。しかし彼は、礼制に詳しい単なる知識人や学者ではなく、「礼」に関わる事実の持つ意味を徹底的に考えたのである。 
たとえば、古代中国の礼制に「三年の喪(そう)」というものがあった。これは、父親が亡くなったとき、子が喪に服する期間のことだ。弟子の宰我(さいが)という秀才が、三年では長すぎると意見を述べた。すると孔子は、「いや必要だ。自分は赤子、幼児として父母にたいへんお世話になったから、そのお返しをするのだ」と言っている。これは、三年という期間の意味づけをしているのである。「三年の喪」を、宰我のように事実問題として扱うのではなく、意味問題として扱って、それを主張しているのだ。これは、きわめて重要なことであると言えよう。 
孔子は、「仁」や「孝」によって人間愛の重要性も説いたが、孔子の後に登場した墨子はそれを批判した。墨子集団すなわち墨家は「兼愛」という博愛主義を主張し、儒家の愛はかたよった「別愛」であると攻撃したのである。「別愛」とは、「愛」する相手を区「別」するということだ。では、どのように区別するのか。儒家は、愛情は親しさの度合いに比例するという。すなわち、最も親しい人を最も愛し、その後、親しさが減ってゆくのに比例して、愛する気持ちが減ってゆくとするというのだ。しごく常識的な考えである。 
そして孔子はこう考える。人間にとって最も親しい人間とは、その字の通り「親(おや)」である。だから人間は誰よりも親を愛するのが自然なのだ。よって、親から遠くなってゆく家族、あるいは親族に対して、その割合で愛情が薄くなってゆくとする。親に対するときを頂点とするこの愛情のあり方は、親しさのあり方に比例している。すると、死の場合、実感としてその死を傷(いた)む悲しみもまた親しさに比例することとなる。はっきり言えば、見知らぬ人の死は悲しくないことを認めるわけである。 
「博愛」主義者ならば、その立場からいって、見知らぬ人の死も悲しむこととなるだろう。しかし、儒家はそれを偽(いつわ)りだとする。最も親しい、そして最も親しいがゆえに最も愛する親(おや)の死が最も悲しいというのである。このように徹底して常識的な考え方をするのだ。 
この常識の延長線上に、最も親しい親(おや)の葬儀をきちんとあげるということが人間としての最優先事という儒教的価値観がある。孟子も、親の葬儀に最高の価値を置いた。 
その孟子は、孔子の死後、約一00年が経過してから生まれ、孔子の思想を継承し、発展させた。孟子は「孔孟」として孔子と並び称されるほどの儒教における重要人物である。彼は「性善説」で知られ、人間誰しも憐(あわ)れみの心を持っていると述べた。 
幼い子どもがヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。誰でもハッとして、井戸に落ちたらかわいそうだと思う。それは別に、子どもを救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。周囲の人にほめてもらうためでもない。また、救わなければ非難されることが怖いためでもない。してみると、かわいそうだと思う心は、人間誰しも備えているものだ。さらに、悪を恥じ憎む心、譲り合いの心、善悪を判断する心も、人間なら誰にも備わっているものだ。 
かわいそうだと思う心は、「仁」の芽生えである。悪を恥じ憎む心は、「義」の芽生えである。譲り合いの心は、「礼」の芽生えである。善悪を判断する心は、「智」の芽生えである。人間は生まれながら手足を四本持っているように、この四つの芽生えを備えているのだ。あまりにも有名な性善説の根拠となった「四端の説」である。孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていた。 
しかし、この孟子の性善説では、悪の起源を説明することが困難である。人間の本性の中に悪の性質がまったくないのであれば、どんな劣悪な環境にあっても、人間が悪を働くことはありえないからだ。後の宋代になって、その問題を解決しようとした人物が朱子である。朱子は、人間の性を二つに分けた。宇宙の普遍的な性である「本然の性」と、個別的かつ具体的な性である「気質の性」である。 
孟子の性善説に対して、荀子は「性悪説」を唱えた。荀子いわく、人間は放任しておくと、必ず悪に向かう。この悪に向かう人間を善へと進路変更するには、「偽」というものが必要になる。「偽」とは字のごとく「人」と「為」のこと、すなわち人間の行為である「人為」を意味する。具体的には、礼であり、学問による教化である。なお、この「偽」を排して自然な生き方を提唱した人物こそ、道教の創始者とされる老子であった。 
よく荀子の性悪説は誤解される。悪を肯定する思想であるとか、人間を信頼していないニヒリズムのように理解されることが多いが、そんなことはまったくない。人間は放任しておくと悪に向かうから、教化や教育によって善に向かわせようとする考え方なのである。人間は善に向かうことができると言っているのだから、性悪説においても人間を信頼しているのである。ユダヤ教やフロイトが唱えた西洋型の性悪説とは、その本質が異なっているのだ。孟子の性善説にしろ、荀子の性悪説にしろ、「人間への信頼」というものが儒教の基本底流なのである。 
とはいえ、人間の主体性を信頼せず、法律で人民を縛る法治主義を唱えた韓非子や李斯(りし)といった法家の巨人もまた、荀子の門人であった。中国を初めて統一した秦の始皇帝は、韓非子や李斯の意見を取り入れたが、「焚書坑儒」として知られる儒教の大弾圧を行ったことで知られる。しかし、始皇帝に影響を与えた法家の師である荀子は、漢代において孟子よりも儒教の正統とされたのである。 
紀元前二世紀には、董仲舒(とうちゅうじょ)が現れ、前漢の武帝に重用された。儒教のみを認めて他の学派を排除し、官吏採用試験では儒学だけから出題するという、いわゆる儒教の国教化を実現した人物が董仲舒である。国教化に伴い、儒教の基本的な経典として『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の「五経」が定められた。この「五経」は、古来から孔子が編纂したとされていたが、それは『書経』と『詩経』の二経のみで、あとの三経は違うとされている。 
董仲舒は「災異説」の大家としても知られる。これは、儒教の教えに反し、人民を苦しめる政治を行えば、天は災害と怪異を引き起こして為政者に警告するというものである。専制的な体制であった秦の後に成立した漢王朝において、皇帝の権力が肥大化しすぎないように抑制するのが目的であったとされる。また董仲舒は、当時流行していた「陰陽五行説」を取り入れ、人間の社会にも陰陽があると考えた。そして、君主の政治においても陽としての「徳」だけでなく、陰として「刑」も必要であるとして、刑罰の必要性を説いたのである。 
紀元前一世紀には、儒家思想の研究家として名高い揚雄(ようゆう)が出た。彼は、前漢末の漢王朝および、王莽(おうもう)が建国した新に仕えた。最初は詩文の作家として名を馳せたが、後年は文学から離れて、仁義道徳を熱心に説いた。この当時、五経のそれぞれについて多くの種類の解説や解釈の書ができ、それらを使いながら長い年月をかけて五経を学ばなければ、儒学を習得できないとされていた。揚雄は、煩瑣な枝葉末節の学説を習得することを鋭く批判し、なんといっても儒学の中心は孔子であり、その孔子の教えは簡易にして平明であると主張したのである。 
宋代になると、新儒学の名で知られる運動が起こり、儒教は再び合理的・思弁的な道を進みはじめた。その原因は、後漢の明帝の治世に伝わった仏教と、その仏教から多くのシステムを借りて成立した道教が、国教化された儒教を襲ったことにあった。新儒学を代表する主な人物は北宋の五子、すなわち邵雍(しょうよう)、周敦頤(しゅうとんい)、張載(ちょうさい)、程_(ていこう)と程頤(ていい)の兄弟であり、さらに朱熹すなわち朱子が続く。 
朱子は儒教に本格的観念宇宙哲学ともいうべき「理気説」を導入して、中国思想における二元論を展開した。朱子によれば、天地を形成する宇宙の根源には「理」と「気」の二元がある。「理」とは宇宙を生成する根本的な原理であり、「気」とは宇宙を生成する材料である。朱子は、「気は形の源、理は性の源、この理ありてのちこの気を生ず」と、まるでデカルトを思わせるような合理化をきわめた人工宇宙論を唱えたのだ。 
朱子が従来の「天」にかわる根本理念とした「理」は、その字を見ると、結晶(玉)が整然と並ぶ(里)ことであり、転じて条理や法則を示す。「宋学」あるいは自身の名から「朱子学」と称された彼の学問は、この「理」を重んじたことから「理学」とも呼ばれたのである。 
また朱子は、その著書『中庸章句』に「道は日用事物の当(まさ)に行うべきの理なり。みな性の徳にして心に具(そな)わる」と書き、「道」は「理」であるばかりでなく、本姓の徳でもある、つまり人は生まれながらにして理を備えていると述べた。人間の本性はとりもなおさず理そのものであるというこの説は、「性即理」の説として朱子の思想における中心をなした。 
日本では、朱子学といえば文献の学という印象が強いが、実際、四書五経の「四書」を定め、これを重んじた。すなわち、『大学』『中庸』『論語』『孟子』である。唐の太宗の命で編集された『五経正義』に代表されるように、宋以前の儒教の経典は五経が中心であった。しかし、新儒学としての宋学が儒教の開祖としての孔子の地位を高めたために『大学』や『論語』が重んじられ、朱子が『四書集注』を著すに至って、五経よりも四書が中心となっていったのである。 
そして儒教の歴史は明代へと至り、孔子や孟子と並んで最重要人物の一人とされる王守仁すなわち王陽明が登場する。彼は朱子学に疑問を抱き、庭にあった竹を割って、その中に理があるかどうかを知ろうとして、その余りに病に倒れたという伝説を持つ。 
陽明の最終的な悟りとは、理は外界にあるものではなく、心の内にあるということ。すなわち「心即理」の説であった。この説はもともと南宋の儒家・陸象山(りくしょうざん)が用いているが、王陽明はそれを受けて、自己の学の基本とし、主著『伝習録』で広く示したのである。心こそが万事・万物の根本であり基本であるということは、彼の学問すなわち「陽明学」が唯心論であることを示す。 
陽明学の「心即理」の説は、朱子学の「性即理」の説と対比される。朱子学が理をきわめるために、知によって外界の理の追求から始めるのに対し、陽明は心を高めること、すなわち修行がそのまま「理」につながるのだと主張した。彼の「知行合一」説は、こうして朱子の学問的情熱から実践的情熱へと儒教を転回させたのであった。陽明学は明代に起こったことから「明学」とも呼ばれ、人の心こそ理とすることから「心学」とも称された。 
王陽明の後に朱子学に対抗した人物として、清代の載震(たいしん)がいる。彼は考証学の各方面で業績を残したが、特に文字・訓古の学に優れた。哲学者でもあり、「理」を中心とする朱子学に反対して「情」を重んじる「気の哲学」を説いた。 
しかし考証学、つまり文献学の様相を呈してきた儒教は次第にそのパワーを失っていく。その原因は二つあり、一つは清が異民族による王朝であったため思想弾圧がなされたこと、もう一つはキリスト教をはじめとした西洋思想の流入によって新しい風潮が生まれてきたことである。 
一九一二年、中華民国が成立して共和制が宣言され、天および孔子に対して供犠を行うことは一時的に廃止されるが、一九一四年には復活する。当初は儒教に対し好意的でなかった中華民国の知識人たちも、ほどなく儒教が中国の歴史において果たしたその根本的な役割を理解するに至る。一九四九年に中華人民共和国が成立し、六〇年代は共産主義体制のもとで弾圧を受けるが、秦儒学は香港、台湾、あるいはアメリカの中国人社会においてもその役割を担い続け、今も活力にあふれている。 
中国の外を見てみよう。儒教はまず西暦の紀元以前に朝鮮に伝わっている。秦儒学が四書五経とともに李朝の国家哲学として、また教育試験制度として定着したのは一五世紀になってからのことだ。韓国では、最近はキリスト教に押され気味であるとはいえ、儒教の王国ぶりを現在に至るまで見せ続けている。 
儒教が朝鮮半島の百済を経て日本に伝来したのは、三世紀の終わり頃とされる。『日本書紀』によれば、応仁天皇の時代に百済の五経博士・王仁(わに)によって『論語』が伝えられたという。四世紀のことである。『論語』が伝わる以前に日本に渡来し、儒教の教えを説いた人々がいたわけである。 
儒教を通じて大陸の先進文化にふれた大和朝廷では、大いに教養を身につけ、文化を興す必要を痛感した。天智天皇の時代に学校を建てて、百済の鬼室集斯(きしつしゅうし)を大学頭(だいがくのかみ)に任じ、博士や学生を置いて教育事業を始めた。また、天武天皇は京に大学、諸国に国学を設置した。七0一年に文武天皇の命によって大宝律令が制定されると、それとともに京の大学、地方の国学・府学などの学制が備わった。そこでは、『論語』『孝経』をはじめとし、『左傳(さでん)』『礼記』『詩経』『周礼(しゅうらい)』『儀礼(ぎらい)』『周易』『書経』『文選(もんぜん)』『爾雅(じが)』『史記』『漢書』『後漢書』『晋書』などが教授され、もっぱら官吏の育成に努力した。 
地方の教育制度がどれほど普及し実行されたか、現在ではよくわかっていない。しかし、これに刺激されて、大氏族が私立学校を設立して、教学に努めはじめたことは注目すべきことである。仏教が伝来し、天武天皇の時代、諸国に仏寺が作られ、七0二年には国師が配置された。そして聖武天皇の時代には、有名な国分寺が創建されるにしたがって、ここに京より派遣される講師、または寺僧から任命される読師らが仏教ばかりでなく、盛んに儒教の講義も行った。これらのことは日本人の精神世界に大きな影響をおよぼしたものと考えられる。 
しかし儒教が本格的に日本で受容されたのは江戸時代、幕藩体制を支える思想的基盤に用いられるようになってからである。このとき日本に入ってきたのは、宗教としての儒教ではなく、「儒学」という名の学問としての儒教であった。江戸前期に儒学が台頭した背景には、朱子学を中国で学んだ禅僧たちによって、すでに中世日本に持ち込まれていたことがある。このような儒学を学ぶ禅僧を「禅儒」と呼ぶが、彼ら禅儒の活動が江戸期における儒学発生の基盤となったのだ。 
もちろん、江戸時代そのものを開いた徳川家康の存在を忘れることはできない。家康は非常な読書家として知られている。読書から得た歴史の知識などを活用した行動で、戦国の乱世を勝ち抜いて成功したとされている。その家康は儒学の書物を好んで読んだという。家康の侍医であり側近でもあった板坂卜斎(いたさかぼくさい)が、その著『慶長記』で明らかにしたところによれば、『史記』や『漢書』などの歴史書や、『貞観政要』『群書治要』などの政治書と並んで、『論語』『中庸』『大学』『周易』などの儒学書を愛読していたというのだ。 
家康が儒学を好み、儒学を受容したからこそ、江戸時代の日本に儒学は大輪の花を咲かせたのである。いわば、はるか昔に日本に仏教を受容させた聖徳太子に似た役割を家康は果たしたのである。仏教における太子の働きを、家康は儒学において行ったのだ。日本人の宗教とは、神道・仏教・儒教が混ざり合った宗教であり、そこにおける最重要人物の地位には、聖徳太子、織田信長、そして徳川家康らが名を連ねるのではないだろうか。なにしろ、家康は死後、日光東照宮に祀られる東照大権現という神道の神にさえなったくらいである。日本人の信仰を最も象徴する一人であることは間違いない。 
その家康は儒学を学ぶうえで、二人の師を持った。藤原惺窩と、その弟子の林羅山である。惺窩は禅儒からの脱却を最初にめざした儒学者であった。家康は惺窩に惚れ込み、召し抱えるつもりだったが、惺窩はそれを断って、代理として弟子の林羅山を推薦した。以後、徳川家の儒学の師は羅山となるのである。 
師の惺窩が儒教の諸学派における普遍性に注目したのに対し、羅山が力を注いだのは朱子学の正当性を明確にすることだった。そのため、陽明学との区別を明らかにしたり、仏教を排斥したりする行動に出た。近世朱子学は羅山によって確立されたのである。 
惺窩の弟子では、もう一人、松永尺五(せきご)が名高い。京都に春秋館、講習堂、尺五堂などを創設し、経学・歴史・兵法などを講じた。門弟は五000人を超え、木下順庵、貝原益軒といった逸材を輩出した。 
その後、山崎闇斎(あんさい)や、その弟子の佐藤直方(なおかた)ら崎門(きもん)学派と呼ばれる一派の出現によって、朱子学は本格的に社会に受容されていく。山崎闇斎はもともと僧侶だったが、還俗して純正朱子学を講じ、また吉川惟足(これたり)より神道を学んだ。その結果、神儒一致の垂加(すいか)神道を唱えたが、その日本主義的な神儒合一朱子学の思想は、幕末の尊王論に影響を与えた。あくまでも純正朱子学を追及した佐藤直方は、師の垂加神道に反対して破門された。また直方は「敬」を中心とした朱子学的な秩序論を説くうえで、赤穂浪士の討ち入りを義挙にあらずとして論難した。 
朱子学を批判し、古典に帰ることを提唱したのが、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠といった古学派の人々であった。 
古学派の先覚者である山鹿素行は、武士のあり方を追求し、儒学を基礎とした「士道」を提唱した。また、それを中心とした山鹿流兵法を完成させた。素行は、朱子学では否定的にとらえている人間の情欲を、人間の本来的なあり方であるとした。そして、物事それぞれの条理を経験的にとらえることを「格物到知」というが、本来的な情欲を格物到知によってコントロールしようとしたのである。外的な行為を重視する素行にとって、武士が修養するべきものは心ではなく、日常的行為そのものであった。 
朱子学に疑問を抱いた素行は「周公孔子の道」に直接つくことを唱え、『聖教要録』を刊行したが、そのために保科正之らの怒りを買い、播磨赤穂に流された。 
伊藤仁斎は、朱子の注釈を排除し、『論語』や『孟子』の本分を直接読むことによって聖人の原義をさぐる古義学を提唱した。彼の思想の中心は、その号の通りで「仁」である。君臣、親子、夫婦、朋友といったすべての人々に対する愛情と思いやりとしての「仁」に最高の価値を置き、それを実践する者こそ「仁者」であると説いた。また、道徳の基準を人情に置いたため、元禄期の庶民における倫理思想の形成に大きな影響を与えたとされる。私塾として「古義堂」を開いたが、その門人は三000人を数えたという。 
荻生徂徠は、徳川綱吉の侍医の次男として生まれたが、自身は儒学者として柳沢吉保に仕え、綱吉の学問相手でもあった。赤穂浪士処断など政治上も献策している。当初は朱子学を修めたが、四〇歳頃から古文辞学を提唱し、詩文革新に努力した。日本橋茅場町に私塾「_園(けんえん)」を開き、太宰春台や服部南郭ら多くの門人を育てた。新井白石とはライバル関係にあった。 
徂徠は、さまざまな社会問題に対応できなくなっていた当時の幕藩体制に危機感を抱き、人の心に基盤を置く朱子学の政治論に対し、「先王の道」を説くことによって幕府のあるべき姿を明らかにしようとした。世界を生々流行(せいせいるこう)する「活物(かつぶつ)」としてとらえ、人の「気質」の多様性を認める一方で、外側から人間社会に意味を与えるものとして、「先王」に「作為」された政治の道を訴えたのである。 
徂徠の学問は江戸中期に一世を風靡したが、大規模な批判が反動として起こり、「寛政異学の禁」によって朱子学のみが幕府の正学と定められた。しかし、徂徠の徹底した朱子学への批判は、のちの「国学」の成立に大きな影響を与えたのである。 
庶民にも儒学は広まった。石田梅岩は儒教を基本としながらも、神道や仏教も重んじる「石門心学」を唱え、商人の倫理を説いた。大阪商人が生み出した学問所である「懐徳堂」の中井竹山、中井履軒も活躍した。 
その二人に儒学を学んだ山片蟠桃(やまがたばんとう)は、主著『夢ノ代(しろ)』を二〇年かけて書き上げた。そこには、地動説や、神代史や霊魂の存在の否定など、きわめて合理主義的な思考が見られる。 
さらに、富永仲基(なかもと)は、宗教を超え、儒教・仏教・神道にこだわらない普遍的な「誠」の道を求めた。仲基の思想は、本居宣長や平田篤胤などの国学者にも影響を与えた。 
しかし、日本における儒教を考えたとき、きわめて重要な役割を果たしたのが陽明学の影響を受けた人々である。当然ながら、朱子学を批判する立場をとり、行動を重視する人々が多かった。 
日本における最初の陽明学者は、近江の人で、自宅の藤の木にちなみ藤樹先生と呼ばれた中江藤樹(とうじゅ)である。一七歳で禅儒の『論語』講義聴講をきっかけに、『四書大全』を読んで朱子学を独学。一九歳で大洲(おおず)藩に郡奉行(こおりぶぎょう)として奉職、二七歳のとき病弱な母に仕えることを理由に官を辞するが許されず、やむなく脱藩して帰郷した。後に主著『翁問答』において、「明徳(めいとく)をあきらかにするが孝行の本意にて候(そうろう)」あるいは「身を離れて孝なく、孝を離れて身なき」と述べた藤樹は、まさに「孝」に生きた人であった。なお、「明徳をあきらかにする」とは、『大学』の冒頭の言葉「明明徳」のことであり、「徳」の定義は、儒者にとって需要なテーマだったのである。 
藤樹にとっての「孝」は、「天」と一体の無限の至徳であった。彼は、その「徳」が良知に基づいて本来完璧な形で人間に内在されていると考え、それを宇宙大にまで拡大させていくことこそ「孝」の実践であるとした。 
三七歳のとき王陽明の全書を得た藤樹は、その思想に傾倒、後世になって「日本陽明学の祖」と呼ばれた。「実践に裏づけられた知こそ真の知であり、そこで初めて知と行は合一する」というのが陽明学の「知行合一」説であるが、「孝」の実践においてそれを実現した藤樹の人柄に心酔した多くの人々が彼の弟子となった。 
その中の一人である熊沢蕃山(ばんざん)は、岡山藩主に仕え、治山、治水、飢饉対策など数多くの献策を行った。「経世済民」を志した行動派であったが、晩年、幕府批判で禁錮に処され、下総古河(しもうさこが)で没した。彼も師である藤樹と同じく、「明徳を明らかにする」ために生きた人であった。 
中江藤樹、熊沢蕃山に始まる日本の陽明学は、その後、淵岡山(ふちこうざん)、「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭長直や大石内蔵助良雄、さらには窮民救済のため「大塩平八郎の乱」を起こした大塩中斎、春日潜庵(かすがせんあん)、河合継之助、玉木文之進、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典(のぎまれすけ)といった巨大な精神の山脈を作り上げていったのである。明治維新は陽明学が引き起こしたという見方もあるほどである。昭和においても、多くの宰相や大実業家を指導した碩学・安岡正篤(まさひろ)や、かの三島由紀夫も陽明学に生きた人々であった。 
明治維新後、幕藩体制の中で発達した儒学は福沢諭吉ら啓蒙的知識人によって否定された。そのまま衰退するかと思われたが、一八九〇年に発布された「教育勅語」は仁義忠孝を核とした。いったん否定された儒教は近代国家主義の中で再生され、戦後に事情は変化したけれども、今日も日本人の精神構造に儒教は大きな影響をおよぼしている。 
なお、沖縄は琉球王国時代に「守礼之邦」と呼ばれたように儒教の影響が強く、現在でも祖先を非常に大切にする。沖縄の人々は現在でも、祖先の墓の前で宴会を開く。祖先と飲食を共にし、そこは祖先と子孫が交流し、一体化する空間となる。「孝」を求めた孔子の理想は、現在でも沖縄に生きているのだ。  
 
仏教と儒教

 

誰の発案かは知らないが、「世界の四大聖人」というものがある。その顔ぶれは、ソクラテス、ブッダ、孔子、イエスだが、西洋からソクラテスとイエス、東洋からブッダと孔子と、二人ずつ選ばれているところにバランスの良さを感じる。その東洋代表の二人、ブッダは仏教の、孔子は儒教の、それぞれの宗教の創始者である。 
宗教といえば、現代の世界で重要な存在となっているイスラム教の創始者ムハンマドを加えて「五大聖人」にするという考え方もあるようだ。しかし世界史において、ムハンマドのイスラム教は、同じ唯一絶対の神を信仰しながらもイエスのキリスト教と対立し、激しい宗教戦争を繰り広げてきた。では、ブッダと孔子の教えを守る仏教と儒教にはそのような不幸な関係はなかったのであろうか。 
宗教評論家ひろさちや氏の著書『仏教と儒教』は両宗教の違いをQ&A方式でまとめた好著だが、その中に「仏教と儒教のあいだには、宗教戦争のような激しい対立が過去の歴史にありましたか」という質問に対して、ひろ氏が答えている箇所がある。 
それによれば、まず中国における儒教への弾圧を見ると、そこに仏教の影はない。歴史上の最初の儒教への弾圧は、紀元前二世紀の秦の始皇帝による「焚書坑儒」である。これは始皇帝の支配の末年に近い前二一三年に行われた。儒教の学者たちは、過去の周公の時代の礼楽制度を理想とし、現実の始皇帝の政治を批判する。これに怒った始皇帝は、医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業の書などの実用書を除くすべての諸子百家の書物を焼き払い、翌年には一六〇人の儒者を坑殺した。しかし、始皇帝は別に仏教徒ではない。この事件は、仏教伝来以前の出来事であり、仏教と儒教の間の問題ではないのである。 
中国への仏教の伝来は、文献上は『魏略』にある元寿元年(前二年)説が有力だが、少なくとも五七年から七五年にかけて在位した後漢の明帝の頃には、中央の貴族や知識人の間に仏教信者がいたことは確かである。 
そうした文献上の考証は別として、実際には仏教はもっと早く中国に入ってきたとされる。前一三九年から前一二六年にかけて行われた張騫(ちょうけん)による西域遠征の結果として東西の貿易ルートが開かれたことによって、人の動きとともに徐々に中国に入ってきたようである。その意味では、仏教の中国伝来にあまり大きな摩擦はなかったようだ。ひろ氏によれば、西域の文物とともに仏教が入ってきて、その文物を受け入れた支配層がいつのまにか仏教を受容していたという形になるという。そしてそれが少しずつ民衆の間に浸透していったわけである。 
とはいえ、仏教に対する弾圧がなかったわけではない。代表的なものに「三武一宗の法難」がある。四王朝の四人の肯定による廃仏を指す。第一に、五世紀中頃の北魏の太武帝による廃仏。太武帝は、「新天師道」という寇謙之(こうけんし)がはじめた道教教団の熱心な信者となり、寇のすすめで仏教排斥を行った。第二に、六世紀後半の北周の武帝による法難。このときは、文武百官を集めて、儒・仏・道の三教の優劣を論じさせ、道教が仏教に敗れたため、仏教とともに道教までが廃されている。第三に、九世紀中頃の唐の武宗(ぶそう)による弾圧で、これは「会昌の法難」と呼ばれる。道教徒の画策により、仏教のみならず、西方伝来の景教、_(けん)教、マニ教も禁圧された。そして第四が、一〇世紀中頃の後周の世宗(せいそう)による廃仏で、これは国家財政の窮迫が主な動機であった。 
ということは、儒教からの仏教への弾圧は、第二回目の北周の武帝によるものだけである。それも宗教戦争と呼べるほどの激しいものではなかったという。 
ただし理論上の対立はあった。仏教と儒教の間にまず生じた問題が、僧侶は天子の定めた礼教すなわち儒教に従うべきか、王者の礼教の及ばない人であるべきかということだった。四世紀後半から五世紀初頭にかけて活躍した釈慧遠(しゃくえおん)は、「沙門不敬(しゃもんふぎょう)王者論」を唱え、仏教僧の立場から権力者に反対した。 
次に、人間の霊魂は輪廻転生して不滅であるのかどうかという「神滅不滅論」と呼ばれる論争が起こった。四世紀後半から五世紀前半の宗炳(そうへい)の「神不滅論」と、五世紀中頃から五世紀初頭の范_(はんしん)の「神不滅論」が両陣営を代表する。 
仏教の伝来は中国人の宗教意識を刺激し、その結果、一世紀には張陵(ちょうりょう)の「五斗米道(ごとべいどう)」、二世紀には張角(ちょうかく)の「太平道(たいへいどう)」という民衆教団が誕生した。これらの教団は道教の前身とされ、古来からの呪術・巫術(ふじゅつ)・医術をベースとしながら、「無為自然」の老荘思想、「不老不死」の神仙術、それに仏教の懺悔のような宗教儀礼を幅広く取り入れ、民衆の支持を得た。 
中国の民族宗教である儒教からすれば、仏教は外来の宗教である。非難や攻撃がなされるとすればその点になるが、仏教は究極的には儒・仏・道の三教は一致するといった考え方に立つ。そもそも「道教」という用語は、本来、人の生きる道や道理を説く教えをすべて指していた。それゆえ、仏教に対しても儒教に対してもこの言葉は使用された。儒・仏・道の三教はいずれも「道」の宗教だったのである。 
そして、「道」としての普遍妥当性であれば最も優れているものが仏教であると、仏教者はアピールした。先に述べたように、北周の武帝が三教の序列を儒・道・仏の順に定めたとき、はじめて「三教」という言葉が使われたとされるが、三教の優劣はしばしば問題にされてきた。隋の李士謙(りしけん)は、仏教を太陽に、道教を月に、儒教を五星にたとえている。 
その一方で三教の融和も考えられて、「三教一家」とか「万法帰一」との言葉が生まれた。「中庸」を重んじる中国人は、儒教は天理を、仏教は心を、道教は肉体を説くものであり、人間を幸福にするという目標は一致していると考えたのである。 
『大漢和辞典』で有名な漢学者の諸橋轍次に『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』というユニークな著書がある。儒教・道教・仏教という中国三大宗教の開祖を一堂に集め、諸橋自身が進行役となって鼎談を行うという企画である。いわば、中国においてよく描かれた孔子・老子・ブッダの「三聖図」の文章版だ。 
そこで諸橋は、孔夫子こと孔子の「仁」、太上老君こと老子の「慈」、そして釈尊ことブッダの「慈悲」という三人の最主要道徳は、いずれも草木に関する文字であるという興味深い指摘をしている。すなわち、ブッダと老子の「慈」とは「_の心」であり、「_」は草木の滋(し)げることであるし、一方、孔子の「仁」には草木の種子の義があるというのである。すると、三人の着目した根源がいずれも草木を通じて天地化育(てんちかいく)の姿にあったのではないかという想像も必然的に起こってくる。 
儒教の書でありながら道教の香りもする『易経』には、「天地の大徳を生と謂う」の一句がある。物を育む、それが天地の心だというのである。考えてみると、日本語には、やたらと「め」と発音する言葉が多い。愛することを「めずる」といい、物をほどこして人を喜ばせることを「めぐむ」といい、そうして、そういうことがうまくいったときは「めでたい」といい、そのようなことが生じるたびに「めずらしい」と言って喜ぶ。これらはすべて、芽を育てる、育てるようにすることからの言葉ではないかと諸橋は推測し、 
「つめていえば、東洋では、育っていく草木の観察から道を体得したのではありますまいか」と述べている。これに対して西洋近代の進化論は、動物の観察によって適者生存・弱肉強食の原理を発見した。これはまさに東洋思想との好対照である。あるいは農耕民族と遊牧民族の相違からかもしれないが、そこにも東西古今の人生観の相違の一端が見られるような気がしてならないと諸橋轍次は言うのである。 
また、ひろさちや氏は、三つの宗教の関係について『仏教と儒教』にこう書いている。 
「仏教は最初から、道家や儒教の思想や術語をうまく摂りこんできました。翻訳経典の訳語なども、伝統的な中国語が多く使われています。そうすることによって、仏教の外来性を薄めてきました。それも、儒教と仏教のあいだに大きな文化摩擦の生じなかった原因でしょう」 
そして、中国における儒・道・仏の三教一致は、日本においては神・儒・仏の三教一致となった。仏教と儒教は日本における二大外来思想だが、外来思想同士であるという点においては、大きな対立が生じようがない。しかも、仏教はいち早く神道と習合し、日本化した。神道と混ざり合うことによって、仏教は「日本人の宗教」になったのである。それに対して、儒教は本来の宗教性を薄めることによって日本文化の中に浸透した。宗教としてではなく、学問や制度や道徳倫理として、儒教は日本人の中に定着したのである。江戸の儒者が仏教攻撃を展開したように、もちろん理論上や学問上の対立はあった。しかし、仏教と儒教が宗教として対立し、日本で宗教戦争を起こすことなど絶対にありえないことだったのである。 
日本に入ってきた仏教と儒教にとって、最初にして最大の理解者はやはり聖徳太子であった。日本の神々を尊重する廃仏派から迫害された仏教を蘇我氏とともに日本に定着させ、日本仏教の道を開いたともいえる太子は、『勝蔓経』『維摩経』『法華経』の三経を重んじ、その註釈書としての『三経義疏』を自ら著した。太子がこの三経を選択したことについて、陽明学者の安岡正篤などは、その見識に感嘆せざるを得ないと高く評価している。安岡は著書『日本精神通義』において、次のように述べる。 
「三経ともに大乗仏教の根本経典でありまして、これをインド仏教が仏成道三七日後、鹿野苑(ろくやおん)において劣機鈍根の者にこんこんと説かれたという阿含(あごん)に発し、中国仏教が着実卑近な四十二章経から起こっているのに較べると、日本仏教の高邁な起こりに感服せざるを得ません」 
また安岡は、維摩詰を形容した「心の大なること海の如し」というにふさわしい聖徳太子は、その註釈にまた『論語』も『孝経』も『左伝』も、さらには『老子』も自由に引用しているということも見過ごすことができないと述べている。太子の儒教理解の深さは、「冠位十二階」や「憲法十七条」にも十分に発揮されていることはよく知られる。 
このように仏教にも儒教にも深い理解を示した太子であったが、やはり最大の功績は日本仏教の道を開いたことだろう。太子がファウンダーの役割を果たした日本の仏教は後世、大きな花を咲かせ、日本は世界に冠たる仏教王国となっていったのである。 
そのせいか、江戸時代の儒者や国学者は盛んに太子を攻撃している。林羅山などは「八耳(やつみみ)、天皇を弑(し)す」とまで極限している。「八耳」とは太子の呼称であり、「弑す」とは「殺す」の意味だろうから、聖徳太子が崇峻(すしゅん)天皇を殺したということである。しかし崇峻天皇の暗殺は、蘇我馬子が推古天皇に相談して計画・実行されたとされており、太子を犯人扱いにするのは言いがかりもはなはだしい。おそらく、羅山は太子が仏教に肩入れしたことが憎くてたまらなかったのだろう。 
また、太子は「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という言葉を残しているが、これも江戸の儒者の攻撃の的になった。摂政とは政治家であり、宗教家ではない。その政治家が、世間はバーチャルであって、ただ彼岸の世界の存在である仏だけがリアルだなどというのは間違っている。それでは、政治家としての責任を果たしておらず、そもそも政治家になるべきではない。このような批判を荻生徂徠などが展開した。 
しかし、太子は仏教のみを公式イデオロギーにしたわけではなく、儒教を用いて「冠位十二階」や「憲法十七条」を制定し、現実の政治において多大な業績を残したのだから、この批判も的はずれである。太子には、すぐれたバランス感覚があったのである。 
聖徳太子の後、日本の仏教界と中国の仏教界との交流が行われた。最澄、空海らは入唐(にっとう)したが、栄西、道元らは入宋(にっそう)した。その間には約四〇〇年が経過しているが、儒教の歴史において革命的事件が起きている。いわゆる新儒教の誕生である。 
北宋に周濂渓(しゅうれんけい)や程明道(ていめいどう)・程伊川(ていいせん)の兄弟、邵康節(しょうこうせつ)や張横渠(ちょうおうきょ)などが出るとともに、儒教も面目を一新し、実践的な儒教に深い思索を加え、精神生活あるいは人格生活の学とでもいうべきものを、それぞれ樹立した。南宋の朱子はこれらの儒教説を集大成し、孔子以来の儒教を再解釈して、宇宙・社会・人間を首尾一貫した論理でとらえようとしたのである。彼の朱子学は、宋学とも呼ばれた。 
宋は九六〇年に興った。日本では村上・円融天皇の時代にあたる。藤原氏の盛んな頃で、ずいぶん中国との交流があり、これにともなって次第に朱子学は日本に浸透していった。鎌倉時代に入ってからはいよいよ盛んで、栄西も宋に入ってからは朱子門下の人々と交遊しており、儒教にも通じていたことで有名な肥後の俊_(しゅんじょう)法師も仏書と一緒に儒・道の書籍二五六巻を持って帰った。道元も儒教に造詣が深かった。宋からも、道隆、凡庵、普寧、正念、寧一山などが相次いで帰化したが、いずれも儒・禅ともに精通した大家で、盛んに教化活動に励んだ。このように日本における朱子学は鎌倉時代に禅僧によってもたらされたわけである。 
「義」と「利」のわきまえを明らかにし、大義名分を正すこの朱子学が日本人の精神を大きく刺激し高揚させた大きな現象は、まず一三三三年の「建武の新政」である。鎌倉末期、京都に師錬(しれん)という才能ゆたかな禅僧がいた。仏教にも儒教にも精通していた彼は、後伏見天皇や光明院、後村上天皇なども崇敬した人物であった。しかし同時に彼は、燃えるような国家的精神を持ち、門人たちを深く感化した。その著『元亨釋書(げんこうしゃくしょ)』は日本仏教史ばかりか儒教の側からも名著として高い評価を受けている。 
その門人に玄慧(げんえ)という天台僧がいた。仏僧よりはむしろ儒者の属する人物であり、宋の司馬光がその全精力を傾け尽くして大成した『資治通鑑(しじつがん)』を愛読し、程氏兄弟や朱子の尊重して、それらの新注を用いて活き活きした講義を行った。後醍醐天応は特にこの玄慧を侍読に挙げている。有名な藤原資朝(すけとも)、俊基(としもと)、藤房(ふじふさ)や花山院師賢(かざんいんもろかた)などの人々は多くこの玄慧に学び、青年の情熱を傾けて、しばしば夜の更けるのも忘れて議論し合った。 
天皇はあるとき、資朝たちが『論語』を語るのを立ち聞きし、「玄慧僧都儀(そうずぎ)は誠に達道(たつどう)か」と感服したという。この資朝に何名かが加わって、衣冠を脱いで無礼講を催したとき、玄慧を招いて韓退之(かんたいし)の文集などの講義を聞き、密かに北條氏討伐の秘密計画を進めていたことが『太平記』に面白く伝えられている。 
北畠親房(きたばたけちかふさ)もやはり玄慧に学んで『資治通鑑』などに精通し、その大義名分論に深く思うところがあったという。その影響のもとに彼は、『神皇正統記(しんのうしょうとうき)』を著した。楠木正成(くすのきまさしげ)以下の勤皇の諸将も、いずれも朱子学および禅によって精神を鍛えたとされている。 
さて、鎌倉時代に起こったさまざまな新仏教は、室町時代に教団として力をつけ、その後は隆盛をきわめていく。そこに立ちはだかったのが織田信長で、比叡山延暦寺の焼き討ち、それに続く一向一揆の拠点である石山本願寺の襲撃など、徹底して仏教教団を弾圧した。当時の延暦寺は戦国大名と手を組んだ武装勢力であり、一向一揆は本願寺を後ろ楯にした小領主たちが結合して起こしたものだった。いずれも、天下統一をめざす信長にとって邪魔な障害物以外の何ものでもなく、完膚なきまでに打ちのめそうとしたわけだ。 
その信長に勢いを完全にとめられた仏教教団は、江戸時代になると次第に衰退していく。江戸幕府の巧妙な仏教対策と儒教の受け入れという両政策が衰退を加速させた。 
江戸幕府を開いた徳川家康は、信長を反面教師として仏教勢力を正面から敵に回そうとはしなかった。政治の前面に出てこない限り、仏教を許容する姿勢をとったのである。一方で「檀家制度」や「寺請制度」などによって寺院を経済的に保護し、他方で布教の自由は認めなかった。また仏教界の管理のために、本寺・末寺の関係を厳しく統制したのである。 
檀家制度によって、すべての家には必ず特定の宗派や寺に属すことが義務づけられた。また寺には、檀家の人々の結婚、転居、就職、旅行の際に必要な身分証明書としての「寺請け証文」を発行させた。幕府が諸寺院に戸籍係の役目を与えたわけで、これによって寺は徳川政権の末端組織に組み入れられ、仏教の権威は地に堕ちた。 
檀家制度や寺請制度によって仏教の権威は否定されたけれども、逆に大衆化されて民衆の中に根づいていった。仏教は日本に伝来以来、奈良時代の南都六宗にしろ、平安時代の天台宗や真言宗にしろ、大衆とは縁の遠い存在だった。平安末期までの仏教は天皇や貴族のためのものと言ってもよく、いわゆる高級でセレブな思想だったのである。鎌倉仏教が出現してからは一般の人々の間にも広まるが、それでも武士などの新しい身分集団の人々が中心で、真の意味での大衆にまでは及ばなかったのだ。 
それが家康の仏教対策によって、仏教は葬送儀礼を中心とする「葬式仏教」となり、日本中に一気に仏教が広まったという側面を見逃すことはできない。こうして寺の僧侶が人々の葬儀をとり行うようになった。一般大衆に死者の弔いをする習慣ができたのも、この頃である。「葬式仏教」はよく批判の対象とされるが、葬儀や法事・法要などの先祖供養によって仏教が民衆の宗教的欲求を満たし、社会的機能を果たしてきたことは高く評価されるべきだろう。 
巧妙な仏教対策によって仏教の権威を否定した家康は、そのかわりに儒教を積極的に受け入れる。それも宗教としての「儒教」ではなく、政治や道徳の学問としての「儒学」を受け入れたのである。儒学を世俗社会における道徳とした家康は、「士農工商」という身分制度を確立して、幕藩体制の強化を図った。古代中国の封建制度をモデルとしてつくられた儒学の政治思想は、圧倒的に仏教よりも幕藩体制に都合がよかったのである。 
儒学の説く「五倫」とは、君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信だが、朋友以外はすべて身分的な上下関係である。君臣は言うに及ばず、父子・夫婦・兄弟にしても「家」を媒介としての君主への奉公につながっている。人間関係の全体が家康の構想する身分社会に合致するわけだ。おそらく、家康にとって儒学ほどありがたい政治の道具はなかったはずである。幕府を頂点とする社会的な秩序の維持を図るためにも、仏教にかわって儒学を日本人の道徳として受け入れる必要が、家康にはどうしてもあったのである。 
では、江戸時代以降は仏教が日本人の葬式を担当し、儒教が日本人の道徳を担当したのか。事実はそのように単純ではない。「葬式仏教」と呼ばれた日本仏教は儒教の影響を強く受けているのである。それも学問としての儒学ではなく、宗教としての儒教の影響を受けている。 
加地伸行氏によれば、葬儀とは死と死後についての説明を儀式という「形」にしたものである。日本の一般的な葬儀のときの祭壇を見ると、柩を置き、白木の位牌を立て、故人の写真を添える。それは事実上は故人のための設営である。彫像であれ絵像であれ、仏教者として拝すべき最も大切な本尊は、一番奥にあたかも飾り物のような置かれているだけだ。名号なら掛けられているだけだが、それさえ、ときには柩や祭壇に隠れてほとんど見えないこともある。いったい、葬儀の参列者の何人が本尊に対して祈りを捧げ、死者を輪廻転生の苦しみから救ってほしいと願っているのだろうか。参列者のほとんどは本尊を拝まず、故人の柩を、位牌を、特に写真を拝んでいる。それは亡き人を思うことであり、加地氏によれば、日本の仏式葬儀では儒教の「招魂再生」をしているのである。 
また、位牌のルーツも仏教ではなく、儒教である。位牌というと、故人の戒名を書いて立てるものとして用いられているため、日本人の多くは仏教の習慣だと信じている。しかし、仏教には本来、位牌を用いるという習慣はないのである。作家の井沢元彦氏は『神道・仏教・儒教集中講座』で次のように述べている。 
「よく考えてみればわかることなのですが、仏教は輪廻転生が基本ですから、故人の特定の魂が、例えばヤマトタケルならヤマトタケルが、そのままのかたちでずっと残っているはずがないのです。魂は、輪廻転生によって生まれ変わっているからです。 
ところが古代中国には、人間の魂は死んだあとも不滅で、しかも、その人間の個性が失われないまま残るという信仰がありました。輪廻転生も魂は不滅だというのは同じですが、虫や魚などの他の生き物になることもあれば、全く別の人間になってしまうこともあります。そしてその際、前世の記憶をなくしてしまうのが普通です」 
そのように古代中国の霊魂不滅説は輪廻転生説とは根本的に異なるものであり、それを象徴しているのが「位牌」なのである。もともと儒教は「原儒」と呼ばれた葬祭業者の集団がルーツとなっているが、彼らが強調したのは「死者の魂は生きており、先祖として私たちを見守ってくれている」という考え方だった。その考えが凝縮されたものこそ、位牌に他ならないのである。葬儀のときに位牌を立てるというのは、もともと儒教に基づく葬儀に用いられた木主を立てるという習慣が日本に伝わったせいなのだ。 
墓も同様である。「空」を唱える仏教の考えでは本来、墓というものは不要だが、儒教においては重要である。儒教文化圏の人々は、遺体を残すことに以上にこだわる。なぜなら、遺体にせよ遺骨にせよ、何か形となるものを残しておかなければ、招魂再生のときに困るからである。その意味で、死者の霊魂が憑依する位牌や墓とは、樹木や岩石に神霊が乗り移るという神道の「依代(よりしろ)」にきわめて近い。彼岸の仏をリアルな存在として、この世をバーチャルな虚仮世界と見る仏教にはありえない発想なのである。 
さらには、盆の行事も、やはり儒教の祖先祭祀である。というのは、輪廻転生を本当に信じているならば、故人の魂が死後どこに行こうと、そんなことを気にする必要がないはずである。にもかかわらず気にして救おうとするのは、やはり祖先祭祀という儒教的発想がそこには存在するのである。なお、三回忌の期間も仏教ではなく、儒教から来たものである。 
恐るべし儒教。儒教ほど、人間の死と死後について豊かに説明してくれる宗教はなく、それは他宗教である仏教の死者儀礼の深奥にまで沈潜していたのだ。「葬」とは、死者と生者との関わり合いの問題である。どんな民族の歴史意識や民族意識の中には「死者との共生」や「死者との共闘」という意識が根にあると言える。二〇世紀の文豪とも呼べるアーサー・C・クラークは、SFの最高傑作として名高い『二00一年宇宙の旅』の「まえがき」に次のように書いた。 
「今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、三0人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した」 
この数字が正しいかどうか知らないし、またその必要もないが、問題なのは私たちの側には数多くの死者たちが存在し、私たちは死者たちに支えられて生きているという事実である。独居老人をはじめ、多くの人々が孤独な死を迎えている今日、現代人に最も必要なのは死者たちをも含めた大きく深いエコロジー、つまり「魂のエコロジー」ではないだろうか。そして、それを最もよく形として示してくれる宗教こそ儒教なのだと思う。 
現代の日本人は、単なる倫理道徳の儒学との混同から卒業し、奥深く豊かな儒教の精神世界に一刻も早く気づくべきである。 
 
論語

 

孔子は紀元前五五一年に生まれた。ブッダとほぼ同時期で、ソクラテスより八十数年早い。孔子とその門人の言行録が『論語』であり、『聖書』と並んで世界でも最も有名な古典だと言えよう。 
儒教における書物といえば、「四書五経」という言葉がよく知られている。すなわち、『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四書と、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋左氏伝』の五経である。しかし、本来は四書に先立って五経が存在したのである。 
まず古代において、儒教の中心となる書物は「経書」と呼ばれ、それを解釈する学問は「経学」と呼ばれた。もともと『易』『書』『詩』『礼』『楽』『春秋』のいわゆる「六経」があり、それはまた「六芸」とも呼ばれた。ただ『楽』は音律を主としたもので他の経書と違った。そのため、テキストとして同等に取り扱うには問題があるということで、「六経」から『楽』を除いて「五経」と称した。いわゆる「四書五経」の「五経」である。 
『易』は占いの書物であり、『書』は歴代統治者の号令の書物であり、『詩』は歌謡の書物であり、『礼』は儀礼の書物であり、『春秋』は魯国の歴史の書物であるなど、「五経」とはいずれも自然に積み重なった記録である。そこには一貫した主張もなければ体系もない。 
また「五経」は著作年代が古く、そのため正確な解読が困難であり、専門にこれを研究し、その成果を伝授する人物が必要とされた。 
そこで前漢の武帝は、「五経」それぞれに博士の官職を設置したのである。この五経博士は国家の庇護のもとその職務に従事した。その当時の政治が儒教を基本にしたものである以上、儒家の尊崇する「五経」の校定や解読が曖昧であることは許されなかったからである。五経博士の設置によって経学が公認され、五経という語も定着した。 
漢代には隷書という書体が一般的であったので、五経博士は隷書で書かれたテキストを使っていた。「当時の文字」を意味する隷書は今文(きんぶん)と呼ばれ、今文で書かれたテキストを今文経(きんぶんけい)という。 
ところが、武帝の時代に秦以前の古い書体で書かれたテキストが発見されたのである。前漢末からさかんに研究されるようになったこの古文テキスト全般は、今文経に対して古文経と呼ばれた。『周礼(しゅらい)』などが古文経にあたる。 
漢代の今文経では『儀礼(ぎらい)』や『春秋』の解説書である『春秋公羊伝』などが現存し、古文経では『周礼』『毛詩(もうし)』や『春秋』の解説書である『春秋左氏伝』などがある。なお『易経』は、古今文の両方において内容がほぼ同じである。 
五経は儒教経典の中核をなすが、漢代以後は五経以外の書、すなわち『春秋公羊伝』『穀梁(こくりょう)伝』、古文の『左氏伝』そして『論語』『孟子』が徐々に儒教書として重視されていく。 
その儒教の創始者とは、言うまでもなく孔子である。孔子は特に古典の中から、おそらく内容重視で『詩』と『書』とを取り上げ、それを門人たちと研究した。『論語』には『易』のことも取り上げられているが、これを否定する学説もある。また『礼』や『楽』もしばしば問題になっているが、特にテキストをあげているわけではない。いわば孔子という人物は、当時積み重なっていた古典を最初に整理して研究した人物なのである。 
いわゆる五経が人間生活のルール書とされたのは、ただ単に古いためであった。もちろん、古いということは多くの教訓を含んでもいるのだが、『論語』とは孔子一門における師弟の問答という手段によって、新しく開発された人間生活のルール書である。それはこれまでのような文書の積み重ねではなく、生きた社会の倫理を追求した中国最初の書物だったのである。そのため、五経に次いで尊重されるようになった。 
孔子の門人は三千人にのぼったという。いささかオーバーな数字だとしても、孔子が中国最初の教師であったことは間違いない。しかしその子である鯉は孔子より早く没し、やがて孫の_がその道を修め、魯の繆公の師になった。いわゆる子思のことである。この子思が著したとされるのが『中庸』である。 
「四書」の一つである『中庸』は、同じく「四書」の『大学』とともに、もともとは五経の『礼記』の中に編入されたていたものだ。 
いわゆる儒教の経典というものは古代人の記録の集成であり、これをはじめて考究した『論語』も孔子一門における問答の書であった。そこには古代人の智恵と、師弟による問答から導き出された、社会における人間の倫理が語られている。しかし、師弟問答の場で取り上げられた多くの徳目についての分析はほとんどない。「仁」にしろ「孝」にしろ、孔子は人によって道を説いており、そこに明確な徳目の定義などはないのである。 
しかし『中庸』という書物は、最初から「中庸」ないし「中和」というコンセプトと真正面から取り組み、いわゆる道の根源は「天」にあって、人間はそれから離れることはできないという思想から展開しており、他の儒教書とはまったく趣を異にしている。 
この点は、儒教と対照的な道教の思想に近いと言える。道教は魏晋六朝の士大夫層を支配していたが、その士大夫の興味を引くだけの内容を備えていたのだ。当時の思想界にも強い影響をおよぼした儒教関係の書物といえば、この『中庸』と『易』の二つであると言っても過言ではない。それゆえ、六朝から唐にかけて『中庸』の注釈が作られたのである。 
また六朝から唐にかけては、道教の思想のみならず、仏教の思想が次第に士大夫層に浸透した。デリケートな論理構造を持った仏教思想に対する憧れが生じるとともに、仏教に対する激しい反発も起こった。後者を代表する人物こそ、唐の韓愈である。当時の皇帝がブッダの遺骨である仏舎利を迎えようとしていたが、それに対して過激な上奏を行ったために、韓愈は遠く潮州に左遷された。 
この韓愈の思想を表明したものに「原道」という文があるが、彼はその中で儒教の伝統となった「道」を取り上げている。それによれば、この道は堯―舜―禹―周公―孔子―孟子と伝わったが、孟子が死んだ後は伝わらなくなったと述べている。この伝統論は、実は『孟子』に基づくものであり、こういったいわゆる道統を発掘したのが、韓愈の「原道」だったのだ。その「原道」にはまた、『礼記』の一部である『大学』の中から多くを引用しているし、「原道」の書き出しそのものが、同じく『礼記』の一部である『中庸』の書き出しを真似ている。 
その意味では、韓愈は思想的に進んでいたわけではないが、数多い古典の中から「四書」を選んだのは韓愈にはじまることは間違いない。韓愈は、いわゆる古文家を開いた人物として知られ、世に「唐宋八家」と称せられるように、その影響は強く、宋にまで及んだ。宋学者たちが「四書」を重要視したのも、おそらくは韓愈の影響があったものとされる。 
とりわけ、『論語』は孔子の著、『大学』は孔子の門人である曽参などの著、『中庸』は孔子の孫である子思の著、『孟子』は子思の門人に学んだ孟子の著として、そこに孔子―曽子―子思―孟子といった伝統を設定した結果、はじめ「四子」あるいは「四子書」と呼ばれていたものが、次第に「四書」という呼び方に落ち着いていったと思われる。 
北宋期、儒教経典の決定版として「十三経(じゅうさんけい)」が確定した。『易』『書』『毛詩』『周礼』『儀礼』『礼記』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『論語』『孝経』『爾雅(じが)』『孟子』の一三種である。 
南宋時代になると、朱子学を創設した朱熹すなわち朱子が現れ、『礼記』の中から『大学』と『中庸』を取り出して、『論語』『孟子』とともに儒学学習の入門書として位置づけ、これを正式に「四書」として重視したのである。また朱子は、『大学章句』『中庸章句』『論語集注(しつちゅう)』『孟子集注』といったすぐれた注釈書も著し、これらは儒学研究に大きな影響を及ぼすことになる。この朱子による顕彰以後、「四書」という言葉は完全に定着し、「五経」とあわせて「四書五経」と呼ばれるようになった。 
「四書」の順序については、初学者の学習に便利であるということで最初は「大学・論語・孟子・中庸」とされた。朱子の『大学章句』には、子程子の言葉を引いて「大学は初学が徳に入る門であり::論孟はこれに次ぐ」と書かれている。すると当然ながら『中庸』は「聖人の学問における究極の説である」ということになる。ただ、「四書」をまとめて普及させるためには、『大学』と『中庸』がそれぞれきわめて短いため、「大学・中庸」をまとめて一冊にするのが便利であると考えられ、「大学・中庸・論語・孟子」という順序になった。現在では、孔子―曽子―子思―孟子の伝統によって「論語・大学・中庸・孟子」とするものが一般的である。 
では、『論語』とはいかなる書物か。 
それは、何よりも日本において最重要視された聖典である。江戸時代の儒学者である伊藤仁斎が「宇宙第一の書」と呼び、昭和の陽明学者である安岡正篤が「最も古くして且つ新しい本」と読んだ本、それが『論語』である。安岡はまた、「現代を把握し正しい結論を得ようと思えば、『論語』で十分である、といっても過言ではない」と述べている。 
西洋の人々は何か困った問題に直面すると、『聖書』を開いて、イエスの言葉に従って方針を立てることがしばしばある。同様に、日本の政治家や経営者といったリーダーの多くは、『論語』に出てくる文句を思い浮かべ、それによって行動や態度を決してきたのである。 
『論語』は、千数百年にわたって私たちの先祖に読みつがれてきた。意識するしないにかかわらず、これほど日本人の心に大きな影響を与えてきた書物は存在しない。特に江戸時代になって徳川幕府が儒学を奨励するようになると、必読文献として教養の中心となった。武士階級のみならず、庶民の間にも広く普及したが、そのことは落語や川柳にまで『論語』が登場したことからもわかる。また、名優の心得をさとした本に『役者論語』という名がつけられたり、『葉隠』が別名『鍋島論語』と呼ばれたりした。 
たとえば、「和をもって貴(たっと)しと為(な)す」とか「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」とか「義を見て為さざるは、勇なきなり」とか「後生畏るべし」とか「己の欲せざるところ、人に施すこと勿(なか)れ」といったよく知られ、現代でもよく使われる言葉は、すべて『論語』に由来する。すなわち、古代中国の言葉を集めた『論語』は現代の日本ともつねに交響している。古典とは人々に智恵を与え、生きる力の源となるものであり、誰にとっても当てはまる共通の言葉が豊富に残されているものだが、その最たるものこそ『論語』なのである。 
その『論語』には何が書かれているか。 
最初の最初の言葉、つまり巻一の学而(がく)第一の篇の冒頭には、「学んで時に之を習う。亦(また)悦ばしからずや」とある。この「学んで習う」とは、具体的にどういうことをしたのか。一般的な解釈なら、教科書で学び、ノートを取り、それを後でまた復習するということになる。しかし、それなら「時に」復習する必要があるだろうか。むしろ、不時に、つまり時を定めずに習うべきではないだろうか。 
『史記』の「孔子世家」の末には、司馬遷当時のこととして、「諸生、時を以て礼を其家に習う」とあり、これが参考になる。これは漢代の諸生が、孔子の存命中に行われたことをそのまま繰り返したことと思われるが、『論語』研究の第一人者として知られる宮崎市定は、著書『論語の新しい読み方』に次のように書いている。 
「孔子はもともと礼の師であった。礼とは大にしては朝廷の国家的な大儀式から、下は郷党、個人の家における吉凶祭喪の儀式を含み、これには常に音楽が伴う。その礼を助けて俸給、あるいは謝礼を貰うのが学徒の生活手段であった。そこで論語本文にいう学習の対象は、実際には礼であったと見て差支えない。次に習には習武という用法が示すように、総ざらえの意味がある。京都の『みやこ踊り』は地元の祇園では温習会というのだそうである。すると、時にこれを習う、とは、期日をきめて弟子たちが総出で、温習会を開くことになる。たしかにこれは孔子学園の最も楽しい行事だったのであろう」 
また、『論語』には「君子」という言葉が多く登場する。君子は小人に対して用いられ、初めは地位のある人を意味したが、後には有徳の人を指すようになってきた。孔子ももちろんその用法に従っているが、重要なことは君子はいわゆる聖人とは異なるということである。現実の社会に多く存在しうる立派な人格者であり、生まれつきのものではない。憲問篇に「君子は上達す」とあるように、努力すれば達しうる境地、それが君子なのだ。そこで『論語』において君子という場合には、願望の意が込められていることが多い。 
君子に関する記述をつなぎあわせていくち、『論語』とは古代中国のマネジメント書でもあったことがわかる。二〇世紀のマネジメントの巨人であるピーター・ドラッカーが提唱した時間活用のタイム・マネジメントや、「知」を重視したナレッジ・マネジメントなどの原型を『論語』に見ることができる。逆に言えば、世界初の経営書とされる『経営者の条件』をはじめとして一連の著書でドラッカーが説き続けた「人間尊重」の経営者像とは、限りなく君子のイメージに重なってくるのである。孔子は古代のドラッカーであり、ドラッカーは現代の孔子であると言えるかもしれない。ともに、社会における人間の幸福なあり方を追求したのである。 
誰よりも孔子その人が君子であったと言える。儒教の君子というと、堅苦しくストイックな印象があるかもしれないが、孔子は決して、しかつめらしい説教家ではない。たとえば雍也(ようや)篇では、孔子が淫乱の評判がある不品行な女性と密会して弟子に非難されたりしている。述而篇のように間違いを指摘されることもあれば、陽貨篇などでは冗談も飛ばしている。先進篇では、不当な税金の取り立て役をつとめる弟子に激怒し、陽貨篇で自分も腕をふるいたいと率直に胸のうちを明かしている。 
このように孔子は完全無欠な聖人としてではなく、血の通った生身の人間として描かれているのである。それは、きわめて人間臭い人物像だと言えよう。孔子が人類史上最大の「人間通」とされた秘密もそこにあった。何よりも、孔子は人間らしい人間だったのだ。 
孔子は、古来よりあった「仁義礼智忠信孝悌」に代表される儒教の徳目を再編集した人物である。その孔子が『論語』で語ることは、もとより道徳が中心である。ただその道徳は「人の道」つまり「人間としての生き方」と言い直した方がより適切であるように、きわめて現実的かつ人間的なものである。これほどまでに日常的な生活から政治の問題まで広く配慮の行き届いた古典は、おそらく世界でも珍しいだろう。窮屈な道徳主義を予想した読者は、『論語』の楽天的な明るさに打たれるとともに、宗教が醸8(かも)し出す神秘的な雰囲気がないことに驚くことだろう。 
述而篇の「怪力乱神を語らず」という言葉は有名であり、これによって儒教が神の問題や死後の問題とは無縁であり、それゆえ宗教ではないといった誤解のもととなっている。しかし、本書を読んでこられた読者なら、これがまったくの誤解で、儒教ほど宗教らしい宗教はないことを理解されていることと思う。 
儒教は、神や死後といった超自然的な問題について言葉ではなく、祭礼や葬礼といった儀礼によって語る宗教なのである。 
しかし『論語』を読む限り、公治長篇に「老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、小者はこれを懐(なつ)けん」とあるように、孔子の望みが日常生活での平安にあったということもまた事実だろう。老人には安心され、友人には信用され、若者には慕われたいというのである。日本における最大のロングセラーの一つである岩波文庫版の『論語』を訳した中国哲学者の金谷治は、その「はしがき」に次のように書いている。 
「非人間的な聖人孔子を予想した読者は、この書物の中で、じょうだんを言ったり、自分の過失を指摘されて感謝したりしている孔子を見出して、とまどうであろう。孔子は親しみ深く、ものやわらかな態度で、われわれに語りかけてくるのである。それは、恐らくは簡古なすぐれた文章の力によるところも大きいであろう。そして、孔子が強調した仁の徳は、肉親の間での自然な愛情から発した、一種の調和的な情感をもとにしたものである。道徳の基礎は何よりもまず人間自身のうちにあった。そして、そのたくましいまでの人間肯定の精神こそ、いつの世にも、またどこででも、いかに強調されてもしすぎることのない『論語』の真価であるとしてよかろう」 
たくましいまでの人間肯定の精神を持つ孔子は、努めて人生を楽しんだ人でもあった。「礼楽」というものを重んじ、音楽を愛した。「礼」が音楽を通じて実現されると考えていたからである。もともと音楽というものは、人間の心をやわらげるものである。「礼」は、天と人、君と臣、親と子、といったように二つのものを結びつける力を持っているが、ややもすると、形式に流れやすい一面がある。そうなると、逆に二つのものを離すことになってしまう。もともと「礼」というものは分(ぶん)を尊ぶので、使い方を誤ると、自然にその弊害が生じるのである。 
「君臣の礼」といえば、君と臣の間にけじめをつける。「親子の礼」といえば、親と子の間にけじめをつける。その他、夫婦でも兄弟でもみな同じことである。そうすると、一方に「礼」をすすめていった場合、とかく「忠信の薄」ということになりがちである。かえって心が離れてしまうわけだ。そして、その弊害を消していくのが音楽なのである。 
音楽は何よりもハーモニーという「和」を尊ぶものであり、二つのものを合わせる力がある。人々が集まって、一緒に音楽を奏すれば、そこにみんなの心が一つになる。また、過去の音楽を聞いていると、過去の人と現在の人の心が一つになってくる。これが音楽の持つ力だ。さらに「礼楽」について考えると、「礼」の根本は何よりもまず天=宇宙=神を祭ることであり、その天=宇宙=神と人間が交流するためのコズミック・アートが「楽」なのである。 
また音楽のみならず、孔子は酒を好んだ。 
というより、「礼楽」における音楽と同じく、「礼」を実践するには酒が欠かせないと孔子は考えたのである。郷党篇には「酒に量なし、乱におよばず」という言葉がある。私たちはよく、酒も飲まず、煙草も吸わない人を「聖人君子のようだ」などと言うが、孔子が酒を嗜(たしな)んでいたのは間違いない。儒教には他の宗教のように、酒を飲んではならないという戒律はない。逆に「礼」には酒も必要であり、実際に郷(村)から中央に推薦される者を郷飲酒礼と呼ばれる酒席で送別するという「礼」があったのである。 
ブッダが酒を飲む姿は想像しにくいし、イエスも血に見立てた赤葡萄酒は飲んだかもしれないが、美味そうに飲んだとはとても思えない。その点、孔子は楽しく笑いながら酒を飲む姿が目に浮かぶようであり、何だか楽しくなってくる。 
そう、「楽しい」ということが『論語』の本質かもしれない。『論語』には「楽しからずや」とか「悦(よろこ)ばしからずや」といったポジティブな言葉が多く発見できる。仏教経典や聖書には人間の苦しみや悲しみは出てきても、楽しみや喜びなど見当たらない。二五00年前に書かれた『論語』にポジティブな言葉が多いのは大いに評価すべき点だろう。孔子は肉料理をはじめとした食にこだわり、きれいな色の着物を好んだ。 
音楽を愛し、酒を飲み、グルメでファッショナブルだった孔子。そのうえ、二五00年後の人間の心をつかんで離さないほど「人の道」を説き続けた孔子。彼には大いなる人間讃歌、現世肯定の精神が横溢していると言えよう。その孔子が生んだ儒教の世界とは、封建的だとか堅苦しいだとかいった浅薄な見方を超越した、このうえないハートフル・ワールドであるという事実を、何よりも『論語』そのものが豊かに教えてくれるのである。 
 
心学

 

日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、心学の中で合体を果たした。 
心学とは何か。 
それは、江戸中期の思想家である石田梅岩にはじまる実践哲学で、「石門(せきもん)心学」とも呼ばれる。 
「心学」という言葉は本来、中国の陸象山、王陽明の系統の学問の特色をさすものだった。陸象山とは南宋の学者で、朱熹の理気説の主知主義に反対して唯心論を唱えた。宇宙本体の理は個人の心であるという「心即理」を重視し、心をさぐれば理が見出せると説いたのである。座禅修行をすすめ、明の陽明学に影響を与えた。 
陽明学の祖である王陽明は程朱学を批判し、陸象山を高く評価したのである。「程朱」とは、宋の儒学の大物である程_(ていこう)、程頤(ていい)と朱熹の総称で、「宋学」とも呼ばれた彼らの学説が程朱学だ。王陽明は、「聖人の学は心学である」と規定し、学は心を究境原理とし、心の内で完結するものとした。象山の説いた「心即理」を根本命題とし、簡易で手近な実践方法を掲げる心学は、王陽明後も盛んに行われたが、程朱学派からは禅学と批判され、やがて「心学横流」といわれる弊を生じて、間もなく衰えた。しかし、この心学は、儒教、仏教、道教の三宗教の融合を試み、権威道徳からの解放、学問の庶民化などにおける功績は大きかった。 
石田梅岩の心学は、この中国の心学と直接の関係はなく、その内容もかなり異なっている。しかし、中国の心学において儒仏道の融合が行われたように、梅岩の心学にも神道、仏教、儒教の三宗教の融合が見られる。 
もともと「心学」は、身に践(ふ)み行う実践の学という意味において江戸初期の儒学者の間で珍重された言葉であり、中江藤樹や貝原益軒らも自らの学を「心学」と称していた。しかし梅岩の心学のみが神仏儒の三教思想を取り入れ、人間の本性を探求しようとする人生哲学を打ち立てたのである。また、それを一般の人々に伝えようとしたことも忘れてはならない。梅岩の心学は学問の庶民化という点でも、王陽明と石田梅岩は共通していると言えるだろう。石門心学こそは、近世庶民の生み出した倫理的自覚の学と言えるのである。 
石田梅岩の思想は、日本資本主義の源流とされている。江戸時代中期、わが国に資本主義の萌芽が見られた頃、梅岩は京都において商いにおける倫理の重要性を説き続けた。その後、資本主義が発展する過程で、「商い」という営みから倫理が抜けてしまい、金儲けだけが残ってしまった。しかし石門心学の「そろばん勘定」を超える経営哲学は、渋澤栄一、稲盛和夫といった稀有な経営者たちに大きな影響を与えていったのである。 
日本資本主義の源流としての梅岩には先達がいた。鈴木正三である。山本七平は、著書『日本資本主義の精神』に次のように書いている。 
「日本が世界の中で有数な金持ち国家になっているのは、資源もなく、国が広いわけでもなく、大体経済的にはゼロなのだが、〈ひたすら働いたから〉という理由しかない」 
ひたすら働く理由は「勤労の絶対視」と「勤労そのものが美徳であるという考え」からきており、その根本思想を唱え、布教した人物こそ正三なのである。 
彼は梅岩よりもおよそ百年前の一五七九年に生まれた三河武士であり、のちに禅僧となった。三河国加茂郡の城主であった鈴木忠兵衛重次の長男として生まれた、家康の関東入国に従って上総国に移った。一六00年、正三はちょうど二二歳だったが、父とともに徳川秀忠軍として信州真田で参戦、二回の大坂の陣にも従軍、のちに三河国加茂郡内において二00石の旗本となった。長男であったが、家督を弟の重成に譲り、一六二〇年、四二歳のときに突如出家して僧侶となった。世間に嫌気がさして、思わず頭髪を剃り落としたという。 
出家の前年、儒者が「仏道は世法に背く」と主張したのに対して、正三は処世の心情を示し、「仏法によりてこそ、処世の安きを貫きうる」と、最初の著作である『盲安杖』を著している。五四歳のとき、弟の助力を受を得て石平山恩真寺を建立した。ここを拠点に「石平道人」と号して、江戸・京都・三河各地などに赴いて宗教啓蒙活動を行った。 
六四歳のとき、島原の乱が起こった。弟の重成が天草初代代官を務めていた弟の重成を補佐して、キリスト教の影響を取り除くことに活躍した。このとき、『破切支丹』を著して各寺院に納めたが、これはキリスト教の教義を批判して、仏教のすぐれていることを述べたものである。 
晩年の正三は江戸市中に住んで思想の伝道に努めたが、一六五五年に七七歳の生涯を閉じた。主として曹洞禅を修めた正三だが、臨済禅の名僧たちとも親交を結び、近世仏教界革新のさきがけとされるほど、その思想は独自性を持っていた。どの宗派や教団にも属さず、自由な立場で当時の教団や僧侶の在り方を鋭く批判しながら、民衆のために実際の生活に役立つ新しい仏教を提唱した。すなわち、出家して仏教に帰依するよりもむしろ在家修行を重視し、日常生活の中において成仏を成し遂げることが必要であると説いたのである。 
禅僧であった正三は、当然ながら仏教の修行に坐禅を重んじたが、同時に念仏もすすめ、「禅よし、念仏よし」の立場を取った。また正三の職業倫理観は「仏法と渡世の術は同じで、各々の職分の中に仏法を見出せ。一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏を唱えて耕作すれば、必ず仏果に至る」の教えに代表されるが、この思想こそが日本の近代勤労精神の先駆とされるのである。 
宇宙の基本は「一仏」とするというのが、正三の基本的思想である。一仏は眼に見えないが、人間をはじめ草木などすべてのものには仏性があり、この仏性は天然の秩序と人間の内心の秩序と同じである。貪る、怒り、愚痴という「三毒」が人間にはあるが、これは人間が社会生活を営む摩擦より生じ、人間の仏性を破壊するという。仏性を破壊から守るために仏行が大事なのである。 
仏の修行をする暇のない民衆は、いかにして成仏するか。正三は、「農業即仏行」と説く。わざわざ寺で参禅しなくとも、農業を一心不乱に行うことが仏行になり、農作業に励めば励むほど欲も怒りも愚痴も消えてしまって、仏性通りに生きることができ、成仏できるというのである。 
正三は、こんな仕事はつまらないと思ってやっていると賎業に堕してしまうと戒めた。何事も成仏のための仏の修行と信じ、ひたすら働きに働くことが、「仕事即仏行」「仕事集中即成仏」への道であると示した。 
商人についても、「商人は世の人を自由にする」と語った。商人には、必要なものを必要なときに調達する使命があるという意味である。正三が生きた江戸初期においては、商人資本の蓄積も小さく、商人の役割とは生活物資の輸送が主だったのである。また商人道について、利を得ることは認めながらも、商人の守るべき倫理に関して厳しくいさめた。商人というものは人生の浮き沈みが激しいため、あらゆる神仏に祈願して家業の繁栄と守護を祈るが、何よりも大事なことは、蓄財に走らず修行の構えで行くことであるとし、それが安心立命、成仏できる道だと諭したのである。 
このような鈴木正三の思想をふまえて、石田梅岩が登場した。梅岩は、丹波国桑田郡の農家の次男に生まれた。本家は付近の三村の小領主であったが、一一歳のとき、京都の商家に丁稚奉公に出た。不運にも奉公先が傾いたので一時帰郷、家業の農業に従事したのち、一三歳のときに再度、京都の呉服屋に再就職した。二度目の奉公という再就職者のハンディと内向的性格が重なって、いつも懐に書物がある一風変わった勤め人であったという。 
正規の学問を学んだわけではないが、大変な読書家だった梅岩は、はじめは神道にのめり込んだ。伝道精神に燃え、たとえ市中で講演してでも、人に道を説き聞かせたいと思ったほどであるという。さまざまな人物の講義を聞き歩いていたが、たまたま小栗了雲(おぐりりょううん)という先達に巡り合い、悩んでいた「人の人たる道」の求道に光明を見出して、悟りの境地に達したとされている。 
四五歳のとき、京都に家を構え、私塾を開いた。「心学とは心を学ぶ学問なり」を根本思想に「石門心学」を創設し、布教活動を始めた。月謝は一切取らず、門の入口には「特別の紹介者は不要、すべて自由に、無料で聴講できる」という張り紙を出していた。梅岩の著書は『都鄙(とひ)問答』『倹約斉家論』『莫妄想』の三冊だけだが、弟子たちは増え続け、大坂に分校場を出した。後年、弟子の手島堵庵のときにさらに大きくなって江戸に進出、「参前舎」を創設して、石門心学の名を天下に広めた。 
梅岩が亡くなったのは六〇歳、つまり彼の社会的布教活動はわずか一五年の期間であった。その短い間に、学閥も門閥もない一介の商家の番頭上がりにすぎなかった梅岩が、日本人の職業倫理思想の根幹ともいうべき石門心学を構築したのである。 
石門心学には四つの特色がある。 
第一に、近世において道徳的に卑しめられていた農工商の庶民に対し、道の実践においては武士と変わらず、かえがたい人間性を内に含んだ尊敬されるべき一個の「人間」であると説いたヒューマニズムの主張である。この立場から「われもまた人なり」という誇りと責任の上に、あらゆる生活設計を自ら立てさせようとし、正直も勤勉も倹約もその他すべての道徳がこの基盤の上に盛り上がってくるようにしたのである。 
第二に、商取引や耕作に限らず、家業という家業のすべてが、一人一人の生計の手段として考えられるだけでなく、そうした働きそのものが社会生活をつくるものとして、四民の役割と存在意義を明らかにした点である。 
たとえば、商人が商品の取引をして利益を得ることに対して批判があるが、梅岩は言う。商売の利益は、武士の俸禄に等しく、正統な利を得るのが商人の道である。これを詐欺というなら売買はできず、買う人は物に事欠いて、売る人は生活していけないもし商人がみな農工を業とするなら、金銭を流通させる者がいなくなり、世の人々はみな困ってしまう。士農工商の四民、いずれが欠けても、天下というものは成り立たない。商人の売買は天下のためなのだ。商人の利益は武士の俸禄、工人の作料、農民の年貢米を納めた残りの取り分とまったく変わらないのである。 
第三に、心学思想の普及にともない、教化の方法として「道話」という平易で興味深い形式や、施印というポスター形式による方法を採用したりして、一般庶民の社会教化に大きな影響を与え、さらに寺小屋教育にも積極的に関わったことである。 
第四に、単なる説教普及だけではなく、各地の教諭所や人足寄場(よせば)での教導、飢饉に際しての施米などの救助活動、あるいは丙午(ひのえうま)などの迷信に対する積極的な啓蒙運動などに見られるように、社会の現実に対応した実践運動を展開したことだ。 
梅岩が直接、正三の思想に影響されたという記録は残っていないが、石門心学の後継者となった手島堵庵(てじまとあん)にこんなエピソードがある。堵庵は晩年、正三の著書『盲安杖』を熱い想いで手にした。そこに説かれている教えは、まさにわが師である梅岩先生の教えに一致するものだと感激した堵庵は、安永七年の重版に自ら署名入りで序文を寄稿したのである。そこには、「この書物は人の進むべき正しい道を示すために、心の目が曇っている人を助けて、安らかな暮らしに導くための杖になろうという意味で『盲安杖』という題名がつけられたのであろう」と書かれている。鈴木正三と石田梅岩という二人の思想家をつなぐ存在として、梅岩の高弟である手島堵庵がいたわけである。 
では、梅岩はどのような世界観に基づき、どのような実践哲学を説いたのであろうか。基本的には、その世界観は正三と同じであった。もっとも山本七平によれば、梅岩だけでなく、江戸時代の多くの思想家も基本的には同じであるという。しかし、その発想、すなわち宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序は一致しているし、また一致させなければならないという発想は、梅岩の場合はむしろ朱子学から来ている。正三は仏教的、梅岩は儒教的な表現になるが、表現が違うだけで、世界観の基本は同じなのである。 
正三は、宇宙の基本を「一仏」としたが、その徳用を「月」「内心の仏」「医王」とした。梅岩においては、宇宙の基本は「善」であり、三つの徳用は「天」「性(本性)」「薬」となる。この場合の「善」は、善悪の「善」というよりむしろ「宇宙的秩序」の意味である。これが「天」すなわち宇宙の秩序に表れ、同時に人間の本性であるという意味では、いわゆる「性善説」を連想するが、これもまた、決して俗にいう「性善説」ではない。また「医王」が「薬」になっているのは、「医(いや)してください」と願う宗教的な対象ではなく、薬のように処方して使うべき対象だということである。この点では、梅岩には正三のような宗教性はない。 
山本七平は言う。両者の間には、宗教改革期の思想家と啓蒙主義時代の思想家との違いに似たものがあるであろう。正三にとって、宇宙は「一仏」という人格神的対象であり、癒してくれるのも「医王」という救済者的対象だが、梅岩においては、これが「天」と「薬」という非人格的なもの、いわば理神論的対象に変化し、薬を使うという主体性はむしろ人間の側にある。正三より非宗教的で、市民思想的な道徳律へと変化していると言えるだろう。 
もちろん正三にも、仏教の経典が薬という発想はあった。しかし、それは医王が使ってくれるべきものである。梅岩の場合は、自らが処方して使うべきものであり、この点で彼は自身をも「医師」の位置に置いているのである。 
そして梅岩は、孔子・孟子・老子・荘子・仏教経典から日本の古典まで、自由自在に使ってまったく差し支えないと考えていた。彼にとっては、「役に立つものが真理」なのであり、ある意味で完全なプラグマティズムと言える。梅岩にとって、思想は薬と同じだったのである! 
したがって問題となるのは、彼が何を引用したかではなく、どのような目的で、いわば何を癒やそうとしてそれを使ったのかということにある。だから梅岩が、原典の文脈を無視し、自らの説を述べるために間違って引用していても、彼の思想を知るという点では、はじめから問題にならないのである。これについて、山本七平は『日本資本主義の精神』に次のように書いている。 
「これは、宗教・思想の方法論化だが、さらに彼は、宗教を思想流布の手段とも見た。その意味では、彼にとって、神儒仏の三教が併存することは、いっこうに差し支えはなく、この三教を彼は、金、銀、銭の通貨の並行流通にたとえている。とすれば、七五三は神社で、結婚は教会で、葬式はお寺で、でいっこうに差し支えないことになる。そうすることは、決して無節操でなく、一つの明確な考え方、見方から出ている生き方ということになる」 
そのような宗教的プラグマティズムを、山本七平が「日本教」と呼んだことは有名である。そして、梅岩とは日本資本主義のファウンダーの一人であると同時に、日本教の伝道者でもあったのである。 
はじめは神道に没頭し、のちに広く仏教、儒教を学んだ梅岩は、三教の思想を深く自己の中で熟成発酵させたと言える。それは「神仏儒一体教」とも呼ぶべきものだが、その中でも儒教、特に朱子学の影響が大きいとされる。しかし儒教一辺倒というわけでもなく、ときに神道、ときに仏教、主に儒教の思想が入っていると表現したほうがいいだろう。これは、章を断って義を取るやり方として「断章取義」と呼ばれる。 
それでも梅岩は儒教の正統者としての自信や責任を持っており、仏教についてはやや批判的であった。「儒者は仏教を異端といって嫌います。儒教と仏教との間にどのような相違がるからでしょうか」という弟子の質問に対して、梅岩は述べる。儒教と仏教を枝葉末節の点で論ずるなら、問題は複雑になり、わかりにくくなる。しかし、双方の基本目的は性理を理解することで共通している。儒教も仏教も双方の道理は似ていて区別しにくいが、行為の点では雲泥の違いがある。僧侶は、殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒の禁、すなわち「五戒」を守る。俗人は五倫の道を守る。 
ここまでは、何も紛らわしくない。しかし、俗人が僧侶の真似をすると、その末流は落ちぶれ、ひいては子孫が絶える。中国でも、仏教に帰依した梁の武帝は、「一日に一度は野菜料理を食べ、宗廟を祭るのに動物を犠牲に殺すのを避けて小麦粉を供えた。死刑の判決が下されると、罪人のために心から涙を流して泣き、国中の人はその慈悲の心を理解した」という。しかし、武帝の治世の末は江南に反乱が起きた。釈迦の真意を理解しないで、仏法にこだわると害がもたらされるのだ。 
そして、心を清くするには仏法もよいだろう。だが、自分の修行、家をよく治めること、そして治国・平天下には儒教がよい。海や川を行くには舟がよく、陸を行くには駕籠(かご)がよい。仏法で世を治めようとするのは、馬や駕籠で海川を渡るのと同じようだと述べている。 
また神道に対しては、仏教ほど批判的ではない。梅岩は、客人の質問に答える形で神道と儒教がともに祭礼を重んじる点にふれ、「神はすべて同じ」としている。『中庸』に「天地創造の神の力は、何と偉大なことか。物の根源であってあますところがない」と述べられている。この神とは、まさしく天地の陰陽の神である。「物の根源であってあますところがない」とは、「万物の創造は神の働きによる。神は万物のすべてを支配する」ということだ。日本の神も、イザナギノミコトとイザナミノミコトより生を受け、太陽や月星から万物に至るすべてを支配され、あますところがない。そこで日本を無二絶対の神の国というと述べている。 
そして梅岩は、儒教第一の姿勢をとりながらも、「儒書を読んで迷いが生ずるならそんな書は無いのがましだ。わが国では、昔からこの国の助けになるものとして儒教を大切にしたことを知るがよい」と述べ、神道すなわち国教第一を明言している。 
また、「神、儒、仏を尊ぶに順序がある」として、それを示した。第一にアマテラスオオミカミ。この中には他の神々や天皇、将軍が含まれている。第二に中国、周の文王、宣王。この中には孔子、子思、孟子、宋儒も含まれている。第三が釈迦如来。その中には各宗派の開祖も含まれている。ただし、仏教者なら二と三を逆にするがよい。いずれにせよ、儒、仏とも大神宮を第一とせよ。この順序は守るべきだが、心を修めるのに三者のいずれが欠けてもよくない。 
梅岩の弟子たちが生前の梅岩について記した「石田先生事蹟」によると、彼は毎朝未明に起床し、身なりを正し、手水(ちょうず)をしてのち、アマテラスオオミカミを拝み、次いで竃(かまど)の神、故郷の氏神、大聖文宣王つまり孔子ほかを拝み、弥陀、釈迦仏を拝み、そののち師と先祖・父母の霊に手を合わせたという。何とも多忙な朝の日課であるが、彼自身も神、儒、仏の順序で礼拝していたわけである。梅岩の学問は理屈や教義に凝り固まってはいなかった。常に実務者としての経験を忘れず、日常の仕事に即した教えを説いたのだ。そのことが、梅岩の毎朝の態度からも明らかにうかがい知ることができる。 
そして、梅岩にとっての教えの眼目、いわゆる「心」に至っては神道、仏教、儒教のいずれでもなく、三教が混ざり合っている点が重要だ。梅岩の教えとは、結局、その核は「心」であり、彼が追求したものとは、人間自然の汚れのない心、ありべかかりの心、いたわりの心などなど、すべては「心」なのである。三冊しか残されていない梅岩の著書のいたるところから、「心」という言葉が躍り出している。神道、仏教、儒教の三教は、その「心」を支える三脚の役割を果たしたのではないだろうか。 
石田梅岩が「心学」によって提唱したハートフル・マネジメントの火種は、渋澤栄一、松下幸之助、稲盛和夫をはじめとした心ある経営者たちに脈々と受け継がれ、今日の日本の資本主義の中でも、その火は消えることなく、燃えさかっているのである。 
 
観音様と「甘露」

 

観音様
観音様は観世音菩薩ともいいます。  
「観」はみる、ただ見るのではなく、よく観るのです。  
「世」は世間の世であり、世の中の意味です。  
「音」は衆生の悩みや苦しみの声とか救いの音声であり、世間の私たち衆生の苦しみや  
救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる菩薩様ということです。  
観音様は無相であり、無我であるから宇宙のあらゆるところに縦横無尽、円融無碍(えんゆうむげ)に現れることができます。  
心に障碍、執着、わだかまりがないから自由自在。そこで観自在菩薩ともいわれるわけです。  
観音様には、聖観音、千手観音、十一面観音、如意輪観音様などがいらっしゃいますが、容姿がたいへん美しく、その端麗なお姿を見ているだけで心の中まで洗われるような気がしてまいります。  
あらゆる人々を救ってくださるその慈愛に満ちたお姿から女性の菩薩ではないかと思っている人もいるようですが、実は観音様は女性でも男性でもないのです。  
といって中性という表現も当てはまらないように思います。  
必要に応じて刹那刹那にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」とでも申しましょうか。  
その象徴があの気品と慈愛に満ちたお姿になっているのでしょう。  
観音様はもとは「正法明如来」という如来様であったと言われています。  
それが、高い位の如来であると低い段階にいるわれわれ衆生を救うことができないというので、わざわざ一段位の下がった菩薩となって一切衆生を救おうとされているのです。  
この観世音菩薩のことを述べたお経が「観音経」で、法華経のなかの第二十五章に相当するお経です。正式には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」といいます。  
ところで、この妙法蓮華経というお経の題目の意味を少し考えてみましょう。  
法華経は大乗経典のなかでも、もっとも有名なお経で、「諸経の王」「経王」などと言われています。  
妙法とは「諸法実相」ということで、宇宙に存在する全てのものの「ありのままのすがた」ということです。  
すべてのものの有り様が「妙法」なのです。  
あたりまえのすがたそのまま、それが、道元禅師の「眼横鼻直」であり、禅語の「柳は緑、花は紅」であるのです。  
この世に存在するすべてのものの、森羅万象のありのままのすがたが妙法であり、如来のすがたであるのです。  
峰の色谷のひびきも皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と (道元禅師)  
「蓮華」は蓮のことであり、蓮は泥池でなければ美しい花を咲かせない。  
その美しい花は泥の中からこそ咲き誇ります。そこに蓮の特徴があります。  
泥池が衆生であり、蓮華が仏であるのです。  
泥池があるから蓮華がある。  
衆生があるから仏があるのです。  
つまり、泥池=蓮華、衆生=仏なのです。  
衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に仏なし。  
衆生こそ仏にほかならない。  
われわれ凡夫は仏を遠くに求めたりしますが、自己自身が仏にほかならないということです。  
仏教とは「自らが仏になる教え」であり、観音経は「自らが観音様になるおしえ」だと言えるでしょう。  
しかし、誤解されてはいけません。  
ただ、何もせずに仏や観音様になれる筈などありません。  
観音様のお経「観世音菩薩普門品」と言いますが、この「普門」という意味は「普(あまね)く衆生を済度するための入り口」という意味です。  
「あまねく入れる門」とは、いつでもどこでも誰でも入れる門ということです。  
前述、観音経とは「自らが観音様になる教え」だといいました。  
しかし、「ただ何もせずに観音様になれる筈などありません。」ともいいましたが、実はその答えとも言うべき解答が、この「普門」という門に入ることなんです。  
誰でも観音様になるためにはこの門に入りさえすればいいのです。  
では、この門に入るにはどうしたらいいのでしょう。  
観音経は「一心称名」だと説いています。  
「一心」に「南無観世音菩薩」と至誠をもってお称えすればいいというのです。  
ただ形式的ではなく心から純一無雑にお称えしなければならないのです。  
実に簡単なことのようですが、実はこれが大変難しいのです。  
試しに何も考えずに「南無観世音菩薩」と称えてみてください。無心になりきって何回できますか。  
最初から出来ないのは当然なんです。鍛錬よりも何よりも、その前にまず信じる気持ちが必要なんです。  
観音様を「信じる」かどうかなんです。  
まず「信じる心」が無ければ何事もはじまらないのです。  
宗教は信じることから始まります。  
信じなければ何も始まりません。  
「信じる」ことが絶対条件なんです。  
「信じる」次が「行ずる」ことです。  
「信じて行ずる」ことで「無心」「無我」になれます。  
「観音様」と一体になれた瞬間です。  
その時こそ観音様が自分の中に入り込んだ瞬間なんです。  
無心無我こそ無碍の心であり観音様の心なのです。  
何にもとらわれない、何にも執着しない、何にもこだわらない世界が「無一物」の世界であり  
「無尽蔵」の世界なのです。  
何も無いが同時に全てのものが手に入るという涅槃の世界が出現するのです。  
分別妄想の価値観の世界ではなく無相の絶対価値観の世界が出現するのです。  
現在の人間世界は正に分別妄想の虚構の世界の中で苦しんでいます。  
われわれ凡夫の心は貪り、瞋り(怒り)、痴(愚かさ)の三毒をはじめ八万四千の煩悩によって乱れに乱れています。  
人類が出現して数百万年、人間の歴史が始まってからすでに五・六千年にもなります。  
文化文明・科学は想像を超えて進歩してきました。  
しかし、人間は道徳的には全く進歩していない気がしてなりません。  
知識はどんどん増えていますが、智慧はどんどん無くなっています。  
世界中での詐欺、暴力、自殺、殺人、テロ 、戦争が益々増えている現実がそれを証明しています。  
なるほど人間界が六道の内の修羅界の次の世界にあるのも頷ける気がします。  
人類がこのまま下の修羅道と入れ替わって、畜生界、餓鬼界へと下方に落ち続け地獄界に向かい続けるのでしょうか。  
世界60億の人間は果たしてどこへ行くのでしょう。  
イヤ、まだまだ人間はすてたものではないのです。  
2500年前わが世尊釈迦牟尼仏が出世されました。  
その意味は人類衆生の救済なのです。  
もういいかげんに世尊の教えに眼を向ける時なのです。 
観音経  
真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰  
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間  
悲体戒雷震 慈意妙大雲 樹甘露法雨 滅除煩悩炎  
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散  
真観清浄観、広大智慧観、悲観、及び慈観、常に願ひ常に瞻仰(せんごう)すべし。無垢清浄の光ありて慧日諸の闇を破り、よく災いの風火を伏せ、普く明かに世間を照らす。悲体の戒は雷の如く震い、慈意の妙は大なる雲の如し。甘露の法雨を注ぎて、煩悩の炎を滅除す。諍(あらそ)い訟えて官処を経、怖畏(ふい)なる軍陣の中にありても、彼の観音の力を念ずれば、衆(もろもろ)の怨(あだ)悉く退散せん。  
観音さまの「観」の字は、真理を観(み)るという意味です。  
真観、清浄観、広大智慧観、悲観及慈観を観音さまの「五観」と言います。  
われわれが物事を対処する時、さまざまな見解や認識によって判断し行動します。  
その見解や認識が間違っていたら当然間違った判断による行動が伴うのです。  
どんな事物にも真理があります。その真理を間違えないために必要なものがこの「五観」なのです。  
まず初めの「真観」とは、真理を透観する心の眼です。  
仏教の真理を表しているのが諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印です。  
これに「一切皆苦」を加えて四法印とすることもありますが、これらはすなわちこの大宇宙の真理実相を示した言葉です。  
別名「法界」とも言いますが、法界は完全調和の完全無欠の世界です。  
これを"大円鏡智"と言い、よく○(大円)で表したりします。  
次の「清浄観」とは、清らかな心の眼のことです。  
"清らかな心眼"とは偏見やわだかまりのない純粋無垢な心のことです。  
人の心はどうしても主観に左右されます。その主な原因は自己愛、肉親愛による偏愛です。  
自己や肉親に対する愛情は人として当たり前のことです。しかしそれこそ偏愛なのです。  
今問題になっている政界の世襲制の問題も、まさに肉親に対する偏愛によるものです。  
神社仏閣など今日では子供が後継者として当たり前になっていますが、宗教法人である以上、原則世襲制ではありません。  
偏愛が後継者を肉親に限ってしまっているのです。  
世襲といえばあの北朝鮮がいま後継者問題で世界に注目されていますが、なんでも長男の正男氏の暗殺未遂があったとか。  
独裁者の偏愛は兄弟親族ですら粛正してしまうのです。  
小泉元総理のような"立派"な人でも、聖職者といわれる坊さんや神主さんでも、独裁者やテロリストでも、人である以上偏愛は当たり前のことなのかもしれません。  
しかし偏愛こそ私利私欲の根源なのです。  
そんな偏愛のまったくない心こそが「清浄観」なのです。  
「広大智慧観」とは、文字通り広大な智慧のことです。  
"智慧"は"智恵"とは違います。  
智恵は人間の感性から見た正しい"道理"ですが、智慧は仏教の覚りから観た正しい"真理"のことです。人の「道理」と仏の「真理」との間には雲泥の開きがあります。  
広大とは大宇宙ということです。すなわち「智慧」とは三千大千世界の真骨頂のことです。  
「悲観」とは、抜苦(ばっく)であり、人の苦しみを取り去ることです。  
「慈観」は与楽(よらく)であり、人に楽を与えることです。  
この「慈観」と「悲観」とが合わさって「慈悲」になります。  
よく観音さまは慈悲の仏さまとも言われますが、それはこの抜苦と与楽の願いを聴いてくださる仏さまだからです。  
「常に願ひ常に瞻仰(せんごう)すべし。」  
瞻仰(せんごう)の「瞻」(せん)という字は仰(あお)ぎ視(み)ることです。  
以上これらの五観を「常に願い、常に瞻仰すべし」とお釈迦さまは説いておられるのです。  
五観は観音さまが常にお持ちの"真実"ですが、それは観音さまだけの特権ではありません。  
観音さまを心から信仰することによって誰でも自らその五観の徳にあやかることができると説かれているのです。  
次に「無垢清浄の光ありて、慧日諸の闇を破り、よく災いの風火を伏せ、普く明かに世間を照らす。」と続いています。  
これまでの観音さまの「五観」をほかの言葉で表したのが「無垢清浄の光」です。  
一切のとらわれのない心、智慧と慈悲に満ちた心、完全無欠の大円鏡智の心こそが「無垢清浄の光」となるのです。  
「慧日諸の闇を破り、よく災いの風火を伏せ、普く明かに世間を照らす。」  
「慧日」とは「智慧の太陽」のことです。  
その「太陽」から放された無垢清浄の光こそこの世のすべての闇を破るのです。  
闇とは人の世の煩悩であり迷いであるのです。  
この「闇」こそが人の世の苦悩や不幸の元になるのです。  
その厄難の元である「災いの風火」を鎮めるものが「慧日の光」なのです。  
「慧日」が観音さまのお姿といってもよいでしょう。  
「悲体の戒は雷の如く震い、慈意の妙は大なる雲の如し。」  
「悲体」とは観音さまの「体」のことです。「慈意」とは観音さまの「意」(こころ)のことです。  
前に慈悲の悲は「与楽」であり、慈は「抜苦」だと述べました。  
観音さまの実体は慈悲そのものであるということです。  
「戒」は「いましめ」です。諸悪を防ぎ諸善を生ずるにはまず「戒」を守ることからです。  
人が苦しむとき、その多くの原因が破戒なのです。  
人に苦しみを与えないために、自分自身が苦しまないためにもまず仏戒を守る必要があるのです。  
戒の下にこそ本物の「楽」があるのです。  
われわれ悩める衆生は本物の楽を得るためにはまずこの「雷の如く震う」厳しい「戒」を守るべきなのです。  
「甘露の法雨を注ぎて、煩悩の炎を滅除す。」  
「慈意」は「抜苦」だといいました。  
観音さまの「こころ」は妙たる雲の潤いの如く広がって「甘露の法雨を注いで、煩悩の炎を滅除」してくださるのです。  
「甘露」とは、もともとインドの神々が飲む霊薬のことだったそうです。  
その味は蜜のように甘く、苦悩をいやし、不病不老の滋養にもなったそうです。  
喉を潤わせる最高の滋味であったことから仏教にも採り入れられました。  
仏の教えを甘露の雨に喩え「法雨」といいます。  
観音さまの慈悲は雷の如く厳しくもあり、優しい甘露の法雨の如く我々悩める衆生に注がれるのです。  
人に危害を加えそうになったとき、婦女子に対して邪淫の気持ちが湧いてきたとき、人の物を盗りたくなったとき、「南無観世音菩薩」と至心に称えれば、観音さまの法雨が注がれて一切のよこしまな気持ちは滅除されるのです。  
燃えさかった煩悩の焔はたちまち消滅し、観音さまは間違いなく慈悲の法雨を我々に注いでくださるのです。  
「諍(あらそ)い訟えて官処(かんじょ)を経(へ)、怖畏(ふい)なる軍陣の中にありても、彼の観音の力を念ずれば、衆(もろもろ)の怨(あだ)悉く退散せん。」  
われわれ人の世に争い事は尽きません。  
兄弟喧嘩や夫婦喧嘩にはじまり、友人から隣人にいたるまで争い事は尽きません。  
それが民族や国家間の問題ともなれば紛争や戦争にもなりかねません。  
そうなれば間違いなく多くの犠牲者がでます。  
争いは全て主張のぶつかり合いから生じます。  
それぞれが"義"を主張しますが、双方に譲歩や妥協がないと官処(裁判所)に訴えたりします。  
それでも治まりがつかないと憎悪の感情は増幅され、最悪の場合暴力や殺人、民族や国家間に至っては紛争や戦争にまで発展しかねないのです。  
争いも民族や国家間の問題ともなれば真っ先に不幸を被るのは一般民衆や国民です。  
日本の隣国に北朝鮮という、ならず者国家があります。  
今のこの時代に考えられない恐怖国家が現実に存在するのです。  
その独裁者によって万民が地獄に陥っています。  
国民はほんとうに哀れ気の毒としか言えません。  
隣国はもとより世界中が困り果てています。  
今核実験やミサイル発射で虚勢?を張っていますが、制裁決議に対して戦争も辞さないと怒っています。  
戦争は自滅行為だと十分わかっている筈ですが、常識など通用しない国だけに実際自暴自棄になったら何が起こっても不思議ではありません。  
それにしてもあの国の不幸は一体いつ終わるのでしょう。  
拉致問題はいつ解決するのでしょう。  
いずれにしろ体制の終焉もそう遠くないことだけは確かです。  
因果は必ず証明されるものですから。  
しかしなにより残念なことはあの国には観音さまがいないことです。  
観音さまだけではありません。  
困窮に瀕している国民にとってイエスキリストもマホメットも縁がないのです。  
なぜなら独裁国家には一切の宗教がないからです。  
独裁者自身が神であり絶対の存在だからそれが当然なのです。  
しかしそれは同時に独裁者自身にも神も仏も付いていないということです。  
独裁者が神になることも神のご加護を受けられることも絶対に有りません。  
神も仏も信じる心がなければ存在しないのです。  
いくら闇世を照らす万能の観音さまであっても"招聘"がなければ出向くことはできないのです。  
すべてお見通しの観音さまだけにさぞ忸怩(じくじ)たる思いでいらっしゃることでしょう。  
この娑婆世界に争いはつきものです。  
とはいえ相手の存在を否定し抹殺しようとする怨みこそ最大の不幸です。  
戦争はその最たるものです。  
互いに殺すか殺されるかという戦争に大儀名分はありません。  
そんな最悪の事態にならないように、腹が立ったとき、相手を憎いと思ったときこそ、「南無観世音菩薩」と一心称名するのです。  
そうすれば間違いなく怨みの心は鎮まります。まさに観音さまの威神力です。 
甘露
こんな不思議な話がある。  
千葉県香取郡に関東三十三観音のうち第二十八番霊場・滑河観音(滑河山龍正院)がある。滑河観音は承和五年(八三八)に領主・小田宰相将治の発願により、慈覚大師によって開かれたと伝わる。  
この滑河観音には数々の不思議が残り、たとえば門享保年間のこと・・・門前町の火災の際に、仁王尊が観音堂の屋根より大扇で迫り来る炎を扇ぎ返したために本堂下方面の集落は救われたという話。  
こうした不思議のひとつが、寺に残る「音にきく 滑河寺の 朝日ヶ渕 あみ衣にて すくふなりけり」と詠まれた一種の歌に秘められている・・・・この不思議について寺の縁起、そして霊験譚には、このようなことが記述されている・・・  
 
その昔、冷夏による大凶作で領民が苦しんでいた。領主である小田将治は飢饉から人民を救うため三宝に祈願したところ、結願の日に「朝日姫」と名乗る少女が現れ「汝の願い、かなうべし」と、ある方向を指し示すと姿を消してしまった。朝日の前の指し示した方に見えたのは一艘の川舟。その上に居た老憎は、川から一寸二分の観音像を掬いあげて将治に与え「この淵より湧く乳水をなめよ」と告げた。これが“なめ川(滑河)”の由来となる。小田将治はそのお告げのとおりに淵より湧き出す寒露を領民になめさせ飢饉を克服する。また一説に曰く“領民の病も、穀物の実りも回復した”・・・云々  
 
朝日の前は観音として崇められ、朝日の前が現れた場所には「観音応現碑」が建立されている。  
こうした甘露伝説は信州にも残されていて、長野県豊津村には江戸期以前より不思議な伝説がある。その伝説とは“甘露”が降りると、その年は豊作になるというもの。郷の者らはそのことを聞き知っていたものと見え、代々その言い伝えを子孫に残し現在にまで至っている。  
明治時代。明治維新直後の郵便報知新聞に以下のような“甘露降る”の記載がある。  
 
長野県下下水内郡豊津村は西方一帯丘陵に包まれ、東方は千曲川の清流を隔て広野を控えたる肥饒(こへたる)の地なるが、去年二十五日午後二時頃、如何なる故にや至る所の草木の葉に甘液の潤をへるを見出したり。  
中に就いて最も甘液の多きは笹の葉、桜の葉等なり。此の液の発し居る葉面は何れも皆な温然たる光沢を帯べり。試みに之に手を触るれば頗(すこぶ)粘着力ありて、指頭に附着す。また之を嘗むれば甘味著しくして別に臭気もなし。村民之を名付けて甘露と做(な)せり。  
同地方にて古来の言い伝へに拠れば草木の葉面に斯かる甘液発するは豊作の兆候なりと云ふ。さりながら桑葉に発する時は頗る蚕に害を与ふる由。同所の大日本農会員なる竹内栄三郎氏より同会へ充てこれらの甘液は如何なる原因より生じ如何なる利害を有するものなるやを問い合わせ来れり。(郵便報知新聞 明治二十一年六月九日)  
 
記事によれば甘露とは夜降るばかりでなく昼にも降り、それは葉の面に附着し非常に粘着力があり、舐めると甘く匂いはない。桑の葉に附着すると養蚕には多大の被害が及ぶ、ということ。  
甘露とは本来が天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体のことを指す。古代インドでは甘露は甘い飲み物もしくは神々の飲料で長寿不死の霊薬とされ、仏教でも同じような意味で、天人の飲み物とされている。また、お釈迦様が生まれた時に、八大竜王が甘露の雨を降らせて湯浴みさせたという言い伝えもある。 
甘露の法雨1
生長の家の経典で「聖経」と冠される。昭和初期、生長の家の創始者である谷口雅春が神の啓示を受けて霊感的に著したものとされ、一種の自由詩の形式をとる。古今東西の宗教の聖典の精髄を、わかりやすく現代語に改めたものとする。人間の実相(本当の姿)は神の子であり完全円満であると説き、物質、病気等の実在性を否定する。最初に『招神歌(かみよびうた)』と『七つの燈臺の點燈者の神示』と題して『大調和の神示』と『完成(ななつ)の燈臺の神示』が、そして最後に「'実相を観ずる歌」が共に載せられている。  
内訳は神・霊・物質・実在・智慧・無明(まよい)・罪・人間の各章に分けられる。  
通常は御経の形態をした物に納められており、信徒はこれを毎朝読経する事が薦められる。また、これを所持したり読んだりしていたことで病気が治ったり事故を免れたり無傷で済んだりしたとして、信徒からは崇敬されている。ブック型の「聖経」も発売されている。  
生長の家の「聖経」には『甘露の法雨』の他に、その続編として『天使の言葉』『続々甘露の法雨』があり、それらと『聖使命菩薩讃頌』とを合わせて「四部経」と称される。そのほかに、『日々読誦三十章経』や『顕浄土成仏経』などがある。  
元々は仏前等でも生命の実相の内容を読誦出来る様につくられたものでもある。 
甘露の法雨2
『七つの燈台の点燈者』の神示  
汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。  
汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき先ず汝の兄弟と和解せよと教えたのはこの意味である。  
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。  
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。本当の和解は互いに怺え(こらえ)合ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。感謝し合ったとき本当の和解が成立する。  
神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物との和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである。だからわれは霊媒には憑らぬ。神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ。われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。(昭和6年9月27日夜神示)  
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え  
吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命  
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能  
天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ 
聖経 甘露の法雨
神  
或る日天使生長の家に来たりて歌い給うー  
創造の神は  
五感を超越している、  
六感も超越している、  
聖  
至上  
無限  
宇宙を貫く心  
宇宙を貫く生命  
宇宙を貫く法則  
真理  
光明  
知恵  
絶対の愛。  
これらは大生命ー  
絶対の神の真性にして  
神があらわるれば乃ち  
善となり、  
義となり、  
慈悲となり、  
調和おのずから備わり、  
一切の生物処を得て争うものなく、  
相食むものなく、  
病むものなく、  
苦しむものなく、  
乏しきものなし。  
神こそ渾ての揮て、  
神は渾てにましまして絶対なるが故に、  
神の外にあるものなし。  
神は実在のすべてを蔽う。  
存在するものにして  
神によって造られざるものなし。  
神が一切のものを造りたまうや  
粘土を用い給わず、  
木材を用い給わず、  
槌を用い給わず、  
鑿を用い給わず、  
如何なる道具も材料も用い給わず、  
ただ『心』をもって造りたまう。  
『心』はすべての造り主、  
『心』は宇宙に満つる実質、  
『心』こそ『全能』の神にして偏在したまう。  
この全能なる神、  
完全なる神の  
『心』動き出てコトバとなれば  
一切の現象展開して万物成る。  
万物はこれ神の心、  
万物はこれ神のコトバ、  
すべてはこれ霊、  
すべてはこれ心  
物質にて成るもの一つもなし。  
物質はただ心の影、  
影を見て実在と見るものはこれ迷。  
汝ら心して迷いに捉わるること勿れ。  
汝ら『実在』は永遠にして滅ぶることなし。  
『迷』は須臾にして忽ち破摧す。  
『実在』は自在にして苦悩なし  
『迷』は捉われの相にして苦患多し。  
『実在』は真理、  
『迷』は仮相、  
実在は五官を超越し  
第六感さえも超越して  
人々の感覚に映ずることなし。  
霊  
感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。  
汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも  
実在を視たるに非ず、  
感覚にて視得るものは  
すべて心の影にして第一義的実在にあらず、  
霊姿に甲乙あり、  
病める霊あり、  
苦しめる霊あり、  
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、  
心臓も有たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、  
これすべて迷いなり。  
斯くの如き霊、人に憑れば  
憑られたる人或いは胃病を顕わし、  
或いは心臓病を顕わす。  
されど霊覚に映ずる  
さまざまの苦しめる霊は、  
第一義的実在にあらず、  
彼らは誤れる信念によりて  
流転せる迷の影なり。  
迷い迷いて流転せる心は  
その信念が形となりて仮の相を現ずべし。  
されど如何に相を現ずるとも  
仮相は永遠に仮相にして実在となることを得ず。  
汝ら、実在にあらざる物を恐るること勿れ、  
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。  
実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。  
真にあらざるものには真をもって相対せよ。  
仮相に対しては実相を以て相対せよ。  
闇に対しては光をもって相対せよ。  
非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。  
仮相を破るものは実相のほかに在らざるなり。  
虚妄を壊するものは真理のほかに在らざるなり。  
闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。  
彼らに生命の實相を教えよ。  
彼らに生命の實相が神そのものにして完全なることを教えよ。  
神はすべてなるが故に  
神は罪を作らざるが故に  
神のほかに造り主なきが故に  
此の世界に犯されたる罪もなく  
報いらるべき罪もなきことを教えよ。  
三界の諸霊  
三界の諸生命  
この真理を観じ、  
この真理をさとりて、  
一切苦患の源となるべき  
顛倒妄想を摧破すれば、  
天界の諸神ことごとく真理の合唱を雨ふらし、  
現世の生命ことごとく光を仰ぎ、  
惑障ことごとく消滅し、此世はこの儘にて光明世界を示現せん。  
物質  
汝ら感覚にてみとむる物質を  
実在となすこと勿れ。  
物質はものの実質に非ず、  
生命に非ず、  
真理に非ず、  
物質そのものには知性なく  
感覚なし。  
物質は畢竟『無』にしてそれ自身の性質あることなし。  
これに性質を与うるものは『心』にほかならず。  
『心』に健康を思えば健康を生じ  
『心』に病を思えば病を生ず。  
そのさま恰も  
映画の舞台面に  
力士を映せば力士を生じ  
病人を映せば病人を生ずれども、  
映画のフィルムそのものは  
無色透明にして本来力士も無く、  
病人も無く  
ただ無色透明の実質の上を蔽える  
印画液によりて生じたる色々の模様が、  
或いは力士の姿を現じ、  
或いは病人の姿を現ずるが如し。  
されど健康なる力士も  
虚弱なる病人も  
印画液の作用によりて生じたる  
影にして実在に非ず。  
汝ら若し活動写真の映写機に  
印画液によりて生じたる色々の模様なき  
無色透明のフィルムをかけて  
舞台面にこれを映写すれば、  
やがて老いて死すべき健康なる力士もなく  
虚弱なる病人は無論なく  
ただ舞台面にあるものは光明そのもの、  
生命そのものにして  
赫灼として照り輝かん。  
汝ら今こそ知れ、  
汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。  
如何なる健康なる力士も  
彼が肉体を実在と観、  
肉体即ち彼なりと観る以上は  
彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。  
真の『健康』は物質に非ず、肉体に非ず、  
真の『生命』は物質にあらず、肉体に非ず、  
物質の奥に、  
肉体の奥に、  
霊妙きわまりなく完全なる存在あり。  
これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、  
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。  
汝ら今こそ物質を超越して  
汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。  
実在  
天使また続いて説き給わくー  
実在はこれ永遠、  
実在はこれ病まず、  
実在はこれ老いず、  
実在はこれ死せず、  
この真理を知ることを道を知ると云う。  
実在は宇宙に満ちて欠けざるが故に道と云う。  
道は神と倶にあり、  
神こそ道なり、実在なり。  
実在を知り、実在に住るものは、  
消滅を超越して  
常住円相なり。  
生命は生を知って死を知らず。  
生命は実在の又の名、  
実在は始めなく終わりなく、  
滅びなく、死なきが故に、  
生命も亦始めなく、終わりなく、  
亡びなく、死滅なし。  
生命は時間の尺度のうちにあらず、  
老朽の尺度のうちにあらず、  
却って時間は生命の掌中にあり、  
これを握れば一点となり、  
これを開けば無窮となる。  
若しと思う者は忽ち若返り  
老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宣なるかな。  
空間も亦決して生命を限定するものにはあらず、  
空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず、  
生命は主にして空間は従なり。  
空間の上に投影されたる  
生命の放射せる観念の紋、  
これを称して物質と云う。  
物質は本来無にして  
自性なく力なし。  
これに性質あり、  
また生命を支配する力あるかの如き観を呈するは  
生命が『認識の形式』を通過する際に起こしたる『歪み』なり。  
汝ら、この『歪み』に捉われることなく、  
生命の實相を正観せよ。  
生命の實相を知る者は  
因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん。  
智慧  
智慧はこれ本来神のひかり、  
実在に伴う円相的光なり、  
それは無量光、無辺光にして局限なし、  
局限なきが故に  
一切のものに満ちて  
一切のものを照し給う。  
人間は光の子にして常に光の中にあれば  
暗きを知らず、  
躓きを知らず、  
さわりを知らず、  
かの天人が天界を遊行するが如く  
また海魚が水中を遊泳するが如く  
光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。  
知恵はこれ悟りの光にして、  
無明の暗を照破する真理なり。  
真理のみ実在、  
無明はただ悟らざる真理にして  
これを喩えば悪夢の如し。  
汝ら悪夢を観ることなかれ。  
悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、  
人間は光明生命なる実相を顕現せん。  
神は無量光、無辺光の知恵、  
かぎりなき善、  
かぎりなき生命、  
一切のものの実質、  
また一切のものの創造主、  
されば神は一切所に偏在し給う。  
神は偏在する実質且つ創造主なるが故に  
善のみ唯一の力、  
善のみ唯一の生命、  
善のみ唯一の実在、  
されば善ならざる力は決して在ることなし、  
善ならざる生命も決して在ることなし、  
善ならざる実在も亦決して在ることなし。  
善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。  
善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。  
すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。  
病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして、  
吾らが夢中に悪魔に圧えられて苦しめども  
覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく  
吾と吾が心にて胸を圧えいるが如し。  
まことや、悪の力、  
吾らの生命を抑える力、  
吾らを苦しめる力は  
真に客観的に実在する力にはあらず。  
吾が心がみずから描きし夢によって  
吾と吾が心を苦しむるに過ぎず。  
仏の道ではこれを無明と云い  
神の道ではこれを罪と云う。  
完全円満の生命の實相をさとらざるが故に無明と云う。  
完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う。  
無明  
かく天使生長の家にて歌いたまう時、  
一人の天の童子あらわれて問いを設けて云う。  
「願わくは人々のために、人々のさとりのために、無明の本質を  
明らかになしたまえ」と。  
天使答えて云うー  
無明はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。  
真相を知らざるを迷と云う。  
快苦は本来物質の内に在らざるに、  
物質の内に快苦ありとなして、  
或いは之を追い求め、  
或いは之より逃げまどう、  
かかる顛倒妄想を迷と云う。  
生命は本来物質のうちにあらざるに  
物質の内に生命ありとなす妄想を迷と云う。  
本来物質は心の内にあり。  
心は物質の主にして、  
物質の性質形態はことごとく心の造るところなるにもかかわらず、  
心をもって物質に支配さるるものと誤信し  
物質の変化に従って  
憂苦し懊悩し、  
われとわが生命の円満完全なる実相を悟ることを得ざるを迷と云う。  
迷は真実の反対なるが故に無明なり。  
迷は実在に反するが故に非実在なり。  
迷若し実在するものならば  
迷より生じたる  
憂苦も懊悩もまた実在ならん。  
されど、迷は実在の虚なるが故に  
憂苦も懊悩もただ覚むべき悪夢にして実在には非ざるなり。  
罪  
『罪は実在なりや?』とまた重ねて天の童子は問う。  
天使の答うる声聞えて曰く、  
すべて真実の実在は、  
神と神より出でたる物のみなり。  
神は完全にして、  
神の造りたまいしすべての物も完全なり。  
然らば問わん。汝は罪を以て完全となすや?  
此の時天の童子答えて曰くー  
『師よ、罪は完全に非ず』と。  
天使また説き給うー  
罪は不完全なるが故に実在にあらず、  
病は不完全なるが故に実在にあらず、  
死は不完全なるが故に実在にあらず、  
汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。  
在らざるものを悪夢に描きて恐怖すること勿れ。  
罪と病と死とは  
神の所造に非ざるが故に  
実在の仮面を被りたれども  
非実在なり、虚妄なり。  
我れは此の仮面を剥いで  
罪と病と死との非実在を明らかにせんが為に来たれるなり。  
嘗て釈迦牟尼如来もこの為に来たりたまえり。  
嘗てイエスキリストもこの為に来たりたまえり。  
若し罪が実在ならば  
十方の諸仏もこれを消滅すること能わざるなり。  
イエスキリストの十字架もこれを消滅する事能わざるなり。  
されど汝ら幸いなるかな、  
罪は非実在にして迷の影なるが故に、  
十方の諸仏も  
衆生を摂取してよく罪を消滅したまえり。  
イエスキリストも  
ただ言葉にて『汝の罪赦されたり』と云いてよく  
罪を消滅したまえり。  
われも言葉にて  
『生長の家の歌』を書かしめ、  
言葉の力にて罪の本質を暴露して、  
罪をして本来の無に帰せしむ。  
わが言葉を読むものは  
実在の実相を知るが故に  
一切の罪消滅す。  
わが言葉を読むものは  
生命の実相を知るが故に  
一切の病消滅し、  
死を超えて永遠に生きん。  
人間  
吾は『真理』なり、  
『真理』より遣わされたる天使なり。  
『真理』より照りかがやく『光』なり、  
迷を照破する『光』なり。  
吾は『道』なり、  
吾が言葉を行うものは道にそむかず。  
吾は生命なり、  
吾に汲む者は病まず死せず。  
吾は救いなり、  
吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。  
天使かくの如く説き給えば天の童子また重ねて問う。  
『師よ、人間の本質を明かになし給え。』  
天使答えたまわくー  
人間は物質に非ず、  
肉体に非ず、  
脳髄細胞に非ず、  
神経細胞に非ず、  
血球に非ず、  
血清に非ず、  
筋肉細胞に非ず。  
それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。  
汝ら、よく人間の実相を悟るべし、  
人間は霊なり、  
生命なり、  
不死なり、  
神は人間の光源にして  
人間は神より出でたる光なり。  
光の無き光源はなく、  
光源の無き光はなし。  
光と光源とは一体なるが如く  
人間と神とは一体なり。  
神は霊なるが故に  
人間も亦霊なるなり。  
神は愛なるが故に  
人間も亦愛なるなり。  
神は知恵なるが故に  
人間も亦知恵なるなり。  
霊は物質の性に非ず、  
愛は物質の性に非ず、  
知恵は物質の性に非ず、  
されば、霊なる愛なる知恵なる人間は、  
物質に何ら関わるところなし。  
まことの人間は、  
霊なるが故に、  
愛なるが故に、  
知恵なるが故に、  
生命なるが故に、  
罪を犯すこと能わず、  
病にかかること能わず、  
死滅すること能わず、  
罪も、  
病も、  
死も、  
畢竟汝らの悪夢に過ぎず。  
汝ら生命の実相を自覚せよ。  
汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。  
『真性の人間』は神人にして  
神そのままの姿なり。  
滅ぶるものは『真性の人間』に非ず。  
罪を犯すものは『真性の人間』に非ず。  
病に罹るものは『真性の人間』にあらず。  
地上の人間よ、  
われ汝らに告ぐ、  
汝ら自身の本姓を自覚せよ。  
汝ら自身は『真性の人間』にして、  
そのほかの如何なるものにも非ず。  
されば人間は真理の眼より見る時は  
罪を犯す事能わざるものなり、  
病に罹る事能わざるものなり、  
滅ぶること能わざるものなり。  
誰か云う『罪人よ、罪人よ』と。  
神は罪人を造り給わざるが故に  
この世に一人の罪人もあらず。  
罪は神の子の本性に反す、  
病は生命自身の本性に反す、  
死は生命其自身の本性に反す、  
罪と病と死とは、  
畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想に過ぎず。  
実相の世界に於ては  
神と人とは一体なり、  
神は光源にして  
人間は神より出でたる光なり。  
罪と病と死とが  
実在すると云う悪夢を、  
人間に見せしむる根本妄想は、  
古くは、人間は塵にて造られたりと云う神学なり。  
近くは、人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり。  
これらは人間を罪と病と死との妄想に導く最初の夢なり。  
この最初の夢を摧破するときは  
罪と病と死との  
根本原因は摧破せられて  
その本来の無に帰するなり。  
汝ら『生長の家』を読んで真理を知り病の癒ゆるは  
この最初の夢の摧破せらるるが故なり。  
最初の夢なければ  
次の夢はなし。  
悉く夢なければ本来人間清浄なるが故に  
罪を犯さんと欲するも  
罪を犯すこと能わず、  
悉く夢なければ自性無病なるが故に  
病に罹らんと欲するも  
病に罹ること能わず、  
悉く夢なければ本来永生なるが故に死滅  
すること能わず。  
されば地上の人間よ  
心を尽して自己の霊なる本体を求めよ、  
これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに  
求むること勿れ。  
キリストは、『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。  
誠に誠にわれ汝らに告げん。  
『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。  
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に  
『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。  
外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして  
永遠に神の国を有る事能わず。  
物質に神の国を追い求むる者は、  
夢を追うて走る者にして、  
永遠に神の国を建つる事能わず。  
キリストは又云い給えり、『吾が国は此の世の国にあらず』と。  
此の世の国は唯影にすぎざるなり。  
常楽の国土は内にのみあり、  
内に常楽の国土を自覚してのみ、  
外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。  
内に無限健康の生命を自覚してのみ、  
外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。  
人間の五官はただ『映しの世界』を見るに過ぎず。  
『映しの世界』を浄めんと欲すれば心の原版を浄めて、  
迷の汚点を除かざるべからず。 われ 
誠に物質の世界の虚しきを見たり、  
物質の世界が影に過ぎざることを見たり。  
われまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。  
肉体はただ心の影なる事実を見たり。  
汝ら、物質は移りかわる影にすぎざること  
恰も走馬灯に走る馬の如し。  
されば、影を見て実在となすことなかれ。  
人間真性はこれ神人、  
永遠不壊不滅の霊体にして  
物質をもって造り固めたる機械にあらず、  
また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるものにもあらず、  
斯くの如き二元論は悉く誤れり。  
物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、  
恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るには非ずして、  
蚕が先ず糸を吐きて繭を作り  
繭の中にみずから蚕が宿るが如し。  
人間の真性は先ず霊なる生命にして  
心の糸を組み合せて肉体の繭を造り  
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、  
はじめて霊は肉体となるなり。  
汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、  
然らば肉体は人間に非ずして、  
人間の繭に過ぎざるなり。  
時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、  
人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。  
汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。  
人間は生命なるが故に  
常に死を知らず。  
想念に従い  
時に従い  
必要に従いて  
肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、  
生命そのものは病むに非ず、  
生命そのものは死するに非ず、  
想念を変うることによって  
よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。  
されど汝ら、ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時至らん。 かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って、一層自在の境地に天翔らん。  
これをもって人間の死となすなかれ。  
人間の本体は生命なるが故に、常に死することあらざるなり。  
ーかく天使語り給うとき、  
虚空には微妙の天楽の声聞え、  
葩は何処よりともなく雨ふりて、  
天の使いの説き給える真理をば、  
さながら称うるものの如くなりき。  
(聖経終)  
願わくは此の功徳を以て普ねく一切に及ぼし、我等と衆生と皆倶に実相を成ぜんことを。 
  
宗派批判諸説

 

浄土宗
沿革・教義  
法然は、平安時代末期の長承2年(1133年)、武家の長男として生まれ、13歳で比叡山延暦寺に登り、15歳で得度(出家のこと)して天台教学を学びました。 承安5年(1175年)、45歳の時に、中国念仏宗の善導の『観無量寿経疏(しょ)』を基に専修念仏(称名念仏)を弘め、さらに建久9年には、浄土宗の根本宗典となる『選択(せんちゃく)本願念仏集(選択集)』を著しました。そして建暦2年(1212年)に法然が死去。その後、称名(しょうみょう)の意義をめぐって、一度の念仏で浄土往生できるとする「一念義」と、臨終の往生のために日頃から数多く念仏を唱えるべきだとする「多念義」等の論争が生じ、それによって長楽寺派、鎮西(ちんぜい)派、西山(せいざん)派、親鸞(しんらん)の浄土真宗などの流派が形成されました。浄土宗における現在の主流は、鎮西派を中心とした流派で、三祖の良忠が教団の基礎を固めました。  
浄土宗の本尊は阿弥陀仏(あみだぶつ)です。依経(えきょう=依りどころの経典)は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経で、浄土宗ではそれに世親の『往生論』を加えて三経一論と呼びます。 浄土宗の教えは、この世は苦悩に満ちた穢土(えど=汚れた世)であり、専(もっぱ)ら念仏を唱えること(専修念仏)によって、阿弥陀仏の本願力に叶(かな)い、この穢土を離れて西方十万億土(さいほうじゅうまんのくど)に極楽往生できるという、「他力本願」の教えを説いています。世間でも使う「他力本願」という用語は、これのことです。  
難行道と易行道  
浄土教では、仏教全体を「難行道(なんぎょうどう)」と「易行道(いぎょうどう」の2つに分けます。中国浄土宗の祖・曇鸞(どんらん)によれば、「難行道」とは浄土三部経以外の経典に説かれる修行(自力)をいい、この自力・難行道では悟りは開けないとしています。そして「易行道」とは浄土三部経に説かれる念仏の修行であり、阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の力(他力)によってのみ極楽往生できるとしています。  
聖道門と浄土門  
同じく中国浄土宗の道綽(どうしゃく)は、仏教全体を「聖道門(しょうどうもん)」と「浄土門」の二門(門は教えのこと)に分けました。道綽の説は、「聖道門」とは自力教で難行道であり、浄土三部経以外の法華経等による修行でこの世で悟りを開くことを目指すもので、「未有一人得者(未だ一人も得る者は有らず)」としてこれを排斥(はいせき)しました。そして「浄土門」は他力教で易行道であり、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を修行するもので、これこそ凡夫(ぼんぷ=凡人)の機根(きこん)に適した教えである、というものです。  
正行と雑行  
さらに道綽の弟子の善導は、仏道修行を「正行(しょうぎょう)」と「雑行(ぞうぎょう)」に分けました。「正行」とは阿弥陀仏に対する五種の行で、「雑行」とは浄土三部経以外の教えによる修行で、それらは雑多で無益(むやく)な修行であるとし、この雑行を修行する者を「千中無一(千人に一人も往生できない)」としました。  
捨閉閣抛  
こうした流れを受けて、日本浄土宗の開祖・法然は、浄土宗を「易行道・浄土門・正行」とし、他宗を「難行道・聖道門・雑行」と称しました。中国の曇鸞や道綽等は、「成仏するのに、生まれ変わり死に変わり、非常に時間のかかり、大変な修行を積まなければならない聖道門では無理なので、浄土門にすべき」ということを唱えました。しかし法然はそれをさらに極端にし、法華経を強く褒(ほ)めた上で「機根の低い末法の衆生には理解できないから修行すべきではない」として、『選択集(せんちゃくしゅう)』のなかで「捨閉閣抛(しゃへいかくほう=捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)て」と説き、浄土三部経以外の一切経を排斥(はいせき)したのです。 
疑問  
浄土三部経は方便の教え  
この第3章の総論で、『法華経』が釈尊の本意であり、これこそが真実の教えであることを、経文にしたがって述べました。すなわち、法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと斬り捨てました。また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」と説かれ、さらに『法華経』の法師品(ほっしほん)には、「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」と説かれ、法華経こそが真実の教えであると宣言されているのです。  
浄土宗が依(よ)るところの『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』は、この42年間に説かれた方便の教えであり、真実ではありません。しかも、善導は「千中無一」といい、法然にいたっては「捨閉閣抛」として、唯一真実の教えである法華経を誹謗(ひぼう)しており、これは釈尊の本意に背(そむ)くものです。したがってこの念仏を信仰することは、無間(むけん)地獄の大悪業となるのです。『法華経』には、「この経を信ぜずに毀謗(きぼう)すれば、一切世間の仏種(ぶっしゅ)を断じ阿鼻地獄(あびじごく)に入る」と説かれています。法華経を誹謗することは重罪中の重罪なのです。  
阿弥陀仏の本願にも背く  
浄土宗が依(よ)るところの『無量寿経』に説かれる、阿弥陀仏の「四十八願」の第十八願には、「もしわれ仏をえたらむに、十方の衆生至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生ぜむと欲して、乃至(ないし)十念せむに、若(も)し生ぜずば正覚(しょうかく)をとらじ。唯(ただ)五逆と誹謗正法(ひぼうしょうぼう)とを除く」と説かれています。つまり阿弥陀仏自身が、「正法である『法華経』を謗(そし)る者は救えない」と断言しているのです。したがって念仏宗の教えは、自分たちの経典にすら背いているのであり、往生は不可能と知るべきです。  
架空の仏を拝む無意味  
阿弥陀仏という仏は、釈尊が説かれた経典の中に登場する「架空の仏」です。現実の娑婆世界(しゃばせかい)に出現して、すべての人々を救っていく「真実の仏」である釈尊に背き、有りもしない極楽浄土に住むという架空の仏を拝んでも無意味です。無意味だけならまだしも、それは「正しい教えである法華経を謗る」ことになるのですから、とんでもない謗法(ほうぼう=誹謗正法。すなわち法華経を謗ること)になってしまうのです。  
厭世思想と現実逃避  
浄土宗では、「念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願力によって臨終の後、西方極楽浄土に往生できる」と説いています。しかしこのような教えは、私たちが生きている現実世界を穢土(えど)といって嫌う厭世(えんせい)思想や、今世では決して成仏できないというあきらめや現実逃避の思想を生み出す元となります。またこれは、浄土宗の教えが、現実にさまざまな苦悩にあえぐ人々を「救う力がない」ことの裏返しです。だから今生を捨てるのです。真実の仏法は、後生の成仏はもちろんのこと、今生きている現実世界で苦悩から人々を救い、凡夫そのままに即身成仏の大利益を授けるものです。それを最初から捨てている浄土宗の教えは、真実の仏法ではありません。  
難行道と易行道について  
インドの竜樹(りゅうじゅ)菩薩は、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』において「難行道」と「易行道」を説きましたが、これは法華経以前の経教(きょうぎょう)を難易の二道に分けたもので、法華経は含まれませんでした。ところが浄土宗は、竜樹の真意をねじ曲げ、法華経まで難行道に分類し、末法の人々の機根に適(かな)わない教えであると捨ててしまったのです。これは、浄土教の先達(せんだつ)である竜樹の教えをも裏切った行為と言えるでしょう。  
善導の臨終の相  
仏法では、その人の死後の成仏・不成仏は「臨終(りんじゅう)の相に顕(あらわ)れる」と説いています。臨終の際に、悶絶(もんぜつ)して苦しみもがいて死んだり、遺体がどす黒く変色したり、遺体が硬く硬直したり、あるいは腐敗して悪臭を放つなどは、すべて堕地獄の相であると説かれているのです。 中国念仏宗の善導は、極楽浄土がとても恋しく、「死んだら必ず浄土に行けるというが、自分は生きているうちに行きたい」と念願し、柳の木に登って飛び降りたものの死ぬことができず、腰の骨を強打して七日七夜も悶絶して、狂乱して苦しみ抜いたあげくに死にました。これは、経文に説かれる堕地獄の相そのままです。念仏宗の偉い坊さんですらこの有り様なのですから、それに従う信者も推(お)して知るべしであります。 
浄土真宗
沿革・教義  
親鸞(しんらん)は、承安3年(1173年)、藤原氏の一族の子として生まれ、9歳で出家して比叡山(ひえいざん)で修行しましたが、建仁元年(1201年)に比叡山を下山し、京都東山にいた浄土宗の開祖・法然の門弟となり、専修念仏に帰依(きえ)しました。  
承元元年(1207年)、親鸞が35歳の時に師の法然が四国に流されたことにともない、親鸞は越後国(新潟県)に流されました。この時に親鸞は還俗(げんぞく=僧職をやめて世俗に戻ること)し、以後は非僧非俗の立場をとって流罪地で結婚し、四男三女の子をもうけています。  
そして元仁元年(1224年)、親鸞は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(顕浄土真実教行証文類)を著しました。親鸞は法然を開祖としていますので、特に浄土真宗の立宗(りっしゅう)宣言はしていません。浄土真宗という名称の使用は明治5年からのことで、『教行信証』著作の年を「立教の年」と定めたのも、大正10年頃のことです。  
弘長2年(1262年)の親鸞没後、本願寺8代・蓮如(れんにょ)の時、浄土真宗は全国に広まり、大教団となりました。  
慶長7年(1602年)、第12代・教如は徳川家康より本願寺の東に寺有地を受け、東本願寺(現在の真宗大谷派)を創しました。これをきっかけとして本願寺は東西に別れ、元の本願寺を西本願寺(現在の本願寺派)と呼びました。  
浄土真宗の本尊は、浄土宗と同じく阿弥陀仏(あみだぶつ)です。ただし浄土宗が弥陀三尊(みださんぞん。浄土宗の項参照)を祀(まつ)る対し、浄土真宗では阿弥陀如来の一仏立像を本尊とします。依経(えきょう=依りどころの経典)も浄土宗と同じく『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経ですが、親鸞はこの三経に勝劣を立て、『無量寿経』を真実の教えとし、他の二経を方便の小経としました。教義は浄土宗と同じく、この世は苦悩に満ちた穢土(えど=汚れた世)であり、専(もっぱ)ら念仏を唱えること(専修念仏)によって、阿弥陀仏の本願力に叶(かな)い、この穢土を離れて西方十万億土(さいほうじゅうまんのくど)に極楽往生できるという、「他力本願」の教えを説いています(世間でも使う「他力本願」という用語は、これのことです)。ただし親鸞は、師である法然の教えからさらに一歩踏み込んでいます。法然の教説では、念仏を自分の意志で唱えるという自力の部分がありますが、親鸞は「絶対他力」を説き、念仏を唱えることすら阿弥陀仏の本願力によるものであるとして、一切の自力を捨てることを旨(むね)とし、ただ信の一念を起こすことが大事であるとしています。  
以下、浄土真宗の教義の体系は、法然の浄土宗と同じです。 
疑問  
無責任極まる親鸞  
親鸞の門弟であった唯円の著述に『歎異抄(たんにしょう)』というものがあります。これは唯円が直接、親鸞から聞いた言葉を書き記したもので、そこには親鸞の言葉として、「念仏はまことに浄土に生るゝたね(種)にてやはんべるらん、また地獄に堕(お)つる業(ごう)にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人に賺(すか)されまゐ(い)らせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」などと書かれています。  
すなわち、「念仏が浄土に生まれる種であるのか、あるいは地獄に堕ちる業なのか、自分には分からない。もし法然にだまされて地獄に堕ちたとしても、後悔はしない」ということです。  
浄土真宗の開祖という立場でありながら、「念仏で浄土に行けるのかどうか知らない」というのですから、何とも無責任極まりないことです。このような者に引きずられて、いっしょに地獄に堕ちる信者こそ哀れです。  
浄土三部経は方便の教え  
この第3章の総論で、『法華経』が釈尊の本意であり、これこそが真実の教えであることを、経文にしたがって述べました。すなわち、法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと斬り捨てました。また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」 「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」と説かれ、さらに『法華経』の法師品(ほっしほん)には、「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」と説かれ、法華経こそが真実の教えであると宣言されているのです。  
浄土宗が依(よ)るところの『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』は、この42年間に説かれた方便の教えであり、真実ではありません。  
しかも、善導は「千中無一」といい、法然にいたっては「捨閉閣抛」として、唯一真実の教えである法華経を誹謗(ひぼう)しており、これは釈尊の本意に背(そむ)くものです。したがってこの念仏を信仰することは、無間(むけん)地獄の大悪業となるのです。『法華経』には、「この経を信ぜずに毀謗(きぼう)すれば、一切世間の仏種(ぶっしゅ)を断じ阿鼻地獄(あびじごく)に入る」と説かれています。法華経を誹謗することは重罪中の重罪なのです。  
阿弥陀仏の本願にも背く  
浄土宗が依(よ)るところの『無量寿経』に説かれる、阿弥陀仏の「四十八願」の第十八願には、「もしわれ仏をえたらむに、十方の衆生至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生ぜむと欲して、乃至(ないし)十念せむに、若(も)し生ぜずば正覚(しょうかく)をとらじ。唯(ただ)五逆と誹謗正法(ひぼうしょうぼう)とを除く」と説かれています。  
つまり阿弥陀仏自身が、「正法である『法華経』を謗(そし)る者は救えない」と断言しているのです。したがって念仏宗の教えは、自分たちの経典にすら背いているのであり、往生は不可能と知るべきです。  
架空の仏を拝む無意味  
阿弥陀仏という仏は、釈尊が説かれた経典の中に登場する「架空の仏」です。  
現実の娑婆世界(しゃばせかい)に出現して、すべての人々を救っていく「真実の仏」である釈尊に背き、有りもしない極楽浄土に住むという架空の仏を拝んでも無意味です。  
無意味だけならまだしも、それは「正しい教えである法華経を謗る」ことになるのですから、とんでもない謗法(ほうぼう=誹謗正法。すなわち法華経を謗ること)になってしまうのです。  
厭世思想と現実逃避  
浄土宗では、「念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願力によって臨終の後、西方極楽浄土に往生できる」と説いています。  
しかしこのような教えは、私たちが生きている現実世界を穢土(えど)といって嫌う厭世(えんせい)思想や、今世では決して成仏できないというあきらめや現実逃避の思想を生み出す元となります。またこれは、浄土宗の教えが、現実にさまざまな苦悩にあえぐ人々を「救う力がない」ことの裏返しです。だから今生を捨てるのです。  
真実の仏法は、後生の成仏はもちろんのこと、今生きている現実世界で苦悩から人々を救い、凡夫そのままに即身成仏の大利益を授けるものです。それを最初から捨てている浄土宗の教えは、真実の仏法ではありません。  
難行道と易行道について  
インドの竜樹(りゅうじゅ)菩薩は、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』において「難行道」と「易行道」を説きましたが、これは法華経以前の経教(きょうぎょう)を難易の二道に分けたもので、法華経は含まれませんでした。  
ところが浄土宗は、竜樹の真意をねじ曲げ、法華経まで難行道に分類し、末法の人々の機根に適(かな)わない教えであると捨ててしまったのです。これは、浄土教の先達(せんだつ)である竜樹の教えをも裏切った行為と言えるでしょう。  
善導の臨終の相  
仏法では、その人の死後の成仏・不成仏は「臨終(りんじゅう)の相に顕(あらわ)れる」と説いています。臨終の際に、悶絶(もんぜつ)して苦しみもがいて死んだり、遺体がどす黒く変色したり、遺体が硬く硬直したり、あるいは腐敗して悪臭を放つなどは、すべて堕地獄の相であると説かれているのです。中国念仏宗の善導は、極楽浄土がとても恋しく、「死んだら必ず浄土に行けるというが、自分は生きているうちに行きたい」と念願し、柳の木に登って飛び降りたものの死ぬことができず、腰の骨を強打して七日七夜も悶絶して、狂乱して苦しみ抜いたあげくに死にました。これは、経文に説かれる堕地獄の相そのままです。念仏宗の偉い坊さんですらこの有り様なのですから、それに従う信者も推(お)して知るべしであります。 
臨済宗・曹洞宗
臨済宗の沿革・教義  
日本の臨済宗は栄西を開祖とし、中国・臨済禅の流れをくむ宗派です。栄西は11歳の時に出家し、14歳で比叡山に入り天台密教の修行をしました。28歳の時に中国(宋)に渡って天台の典籍を持ち帰り、文治3年(1187年)、47歳の時に再び入宋して中国臨済宗の禅を学び、その法を嗣(つ)ぎました。建久2年(1191年)に帰国した栄西は、九州を中心に禅の布教を開始。その後京都に進出しようとしたものの、比叡山の画策によって失敗し、まもなく栄西は鎌倉を拠点として布教活動をするようになりました。  
その後、北条政子の発願による鎌倉・寿福寺、土御門天皇の発願による京都・建仁寺の開山(かいさん)になった栄西でしたが、比叡山への配慮から純粋な禅寺にはせず、天台・真言・禅の三宗兼学の道場としました(兼修禅)。こうして比叡山からの排撃(はいげき)を受け、不本意ながら教禅兼修の禅を修し、建保3年(1215年)に栄西は死去しました。しかし鎌倉時代の半ばからは宋から禅僧が多く迎えられ、円覚寺も開創され、このころから、兼修禅から禅宗専修・純粋禅となり、臨済禅が根付いていきました。  
その後、室町時代には臨済宗が全盛を迎え、さらに時代が下って江戸時代には、禅の中興の祖と呼ばれる白隠(はくいん)慧鶴によって日本の臨済禅が確立されました。妙心寺派・南禅寺派・東福寺派などの現在の臨済宗14派は、白隠の法系で占められています。そのなかでも妙心寺派は最大勢力です。  
臨済宗の教えの特徴は、「脚下照顧・衆生本来仏」です。  
これは「凡夫(ぼんぷ=私たち普通の人々のこと)は本来仏であるから、座禅の修行によって、具(そな)わっている仏性を見出し、日常生活において自己の宗教的人格を実現していく」というもので、作務(さむ=労働)を尊び、坐禅(ざぜん)を重んじるものです。また臨済宗の坐禅は、「公案禅・看話禅」ともいい、禅問答をして公案(優れた禅者の言葉・悟りへ導く課題)と一体になるように工夫し、坐禅を組むものです。 
曹洞宗の沿革・教義  
日本曹洞宗は、鎌倉時代に、5年間宋に留学した道元によって伝えられました。道元は13歳で比叡山に登り、翌年に出家し、天台教学を学びました。しかし教えに納得できずに18歳で比叡山を離れ、その後、臨済宗の禅を学びました。貞応2年(1223年)、道元は本格的に禅を学ぶため、24歳の時に中国(宋)に渡りました。各地の寺を歴訪して臨済禅を学んだ道元でしたが、納得できず、続いて如浄に師事して曹洞宗を学びました。そして曹洞宗の印可(いんか)を得て法を嗣(つ)いだ道元は、安貞元年(1227年)に日本に帰国しました。道元は、曹洞宗の根本聖典・集大成である『正法眼蔵』の著述に取り組み、また師である如浄の教えを実践するため福井県に大仏寺を草創、日本曹洞宗の礎(いしずえ)を築きました。この大仏寺はその後に永平寺と改称され、現在は本山となっています。道元没後、2代・3代を経て瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が出て、石川県に総持寺を開きました。しかし明治31年の火災で焼失し、明治43年には横浜市鶴見区に移転復興しました。現在は、福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制となっています。  
曹洞宗の教えは、臨済宗とは異なり、「文字や知識は修行の妨げとなる」として、臨済宗で言う公案(優れた禅者の言葉・悟りへ導く課題)を用いません。只管(ただひたすら)黙々と、何ら意義や目的を持たず、求めず坐禅する中国の師・如乗の教えである「只管打坐」を重んじ、坐禅修行の姿そのものが仏・悟りであると説いています。すなわち修行の成果として仏になるのではなく、修行することが仏の行であるということです。曹洞宗の坐禅は、公案を中心とした臨済宗の坐禅(公案禅・看話禅)に対し、「見性禅・黙照禅」と呼ばれ、ひたすら坐禅することによって、自身の中に仏性を見出し、自らが本来、仏であるとの悟りを得ようとするものです。また臨済宗が朝廷や幕府などの権力階級に布教したのに対し、曹洞宗は権力に近づくことなく、一般民衆に浸透していきました。 
疑問  
『大梵天王問仏決疑経』について  
禅宗は、『大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)』という経典を依経(えきょう=よりどころの経典)としています。しかしこの経は、中国は唐の時代の末、慧炬(えこ)の『宝林伝』のなかに記されているのみで、大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその名称はありません。このことからも『大梵天王問仏決疑経』は古来より、偽経(ぎきょう=後世のニセモノの経典)とされているのです。このような偽経をよりどころとする禅宗は、仏教宗派として信用に値しません。もともとがウソ・偽(いつわ)りから始まっている宗派なのです。  
「拈華微笑」も作り話  
『大梵天王問仏決疑経』が偽経なのですから、そこに説かれている「拈華微笑(ねんげみしょう)」という、釈尊が睡蓮(すいれん)の花を拈(ひね)って迦葉(かしょう)尊者が一人微笑んだ……などという話も当然、作り話です。そもそも史実として、釈尊が涅槃(ねはん)の時、迦葉尊者はその場にはいなかったのですから、微笑みようがありません。こんなウソの説話が宗派の根本に関わるよりどころなのですから、禅宗の存在そのものが根本的に論外なのです。釈尊が、「付法蔵(ふほうぞう)の第一」として、迦葉尊者に小乗教の法を付嘱(ふぞく)されたことは事実ですが、それは禅宗の言う「経典に真実はなく、迦葉尊者一人に以心伝心で真実の法を伝えた」などという、荒唐無稽(こうとうむけい)なものではありません。  
教外別伝・不立文字  
そういうことで、『大梵天王問仏決疑経』に説かれる「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべちでん)にして、摩訶迦葉に附属(ふぞく)す」などというのも、作り話です。そもそも「不立文字」と言うからには、経典は用いないはずなのに、「教外別伝」の根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依(よ)るとはどういうことなのでしょうか。言ってることとやってることが食い違ってます。釈尊の一代聖教(いちだいしょうぎょう)を誹謗(ひぼう)し、経典を捨て去り、「教外別伝・不立文字」などとする禅宗は、『涅槃経』の、「若(も)し仏の所説に随(したが)わざる者あらば、是(こ)れ魔の眷属(けんぞく)なり」と説かれるとおり、天魔の所業となるのです。  
日蓮大聖人は『早勝問答』に、「問ふ、禅天魔の故(ゆえ)、如何(いかん)。答ふ、一義に云はく、仏経に依(よ)らざる故なり。一義に云はく、一代聖教(いちだいしょうぎょう)を誹謗(ひぼう)する故なり」と御教示されています。  
「直指人心・見性成仏」の増上慢  
禅宗では、「直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」などといい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものであるなどとしています。確かにすべての人々は、理の上において仏界を具(そな)えてはいますが、それは実の仏ではありません。  
貪(とん=むさぼり)・愼(じん=いかり)・痴(ち=おろか)の三毒強盛(さんどくごうじょう)である私たち凡夫の心は、しょせんは迷いの心であって、その心をいかに見つめても、仏心を観ずることなどできません。釈尊は『涅槃経』に、「願って心の師とは作(な)るとも心を師とせざれ」と説かれ、「人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきではない」と戒(いまし)められているのです。完全無欠の仏を蔑(ないがし)ろにし、「是心即仏(ぜしんそくぶつ)・即身是仏(そくしんぜぶつ)」などとして、「我が心を観ずることによって仏になる」などという禅宗の教えは、増上慢(ぞうじょうまん=慢心の極地)なのです。 
真言宗
沿革・教義  
真言宗は、大日如来を根本仏として、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経(そしっぢきょう)』の「真言三部秘経」をよりどころの経典とする宗派です。空海は、15歳の時に京に上り、18歳で儒教を学びましたが満足せず仏教を学び、儒教・道教に比して仏教が最も優れていると主張しました。延暦23年(804年)、空海31歳の時に唐に渡り、翌年には恵果(けいか)に師事して真言密教を学びました。そして「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の号を授かり、真言密教の第八祖となりました。そして恵果の死去にともない、空海は多くの経論・曼陀羅・法具などを持って日本に帰国しました。帰国後、空海36歳の時に、嵯峨(さが)天皇の信任を得て真言密教を弘め、真言宗の高揚に努めました。43歳の時には高野山を修行の道場と定め、朝廷から寺領をもらって金剛峯寺を建立し、さらに弘仁14年(832年)には平安京に教王護国寺(東寺)を与えられ、以来、ここを真言宗の根本道場としました。承和2年(835年)に空海は死去し、その後、延喜21年(921年)には、醍醐天皇によって弘法大師号が贈られています。  
真言宗では、依経(えきょう=よりどころの経典)である『金剛頂経』と『大日経』によって、「金剛界(大日如来の智慧)」と「胎蔵界(大日如来の慈悲)」の2つの世界観を説いています。仏菩薩の中で大日如来こそが最高の仏であり、この世界観を図示したものが、金剛界曼陀羅(まんだら)と胎蔵界曼陀羅です。そして真言宗では、大日如来と心身ともに一体となって修行すれば、この身このまま仏になるという「我即大日」の即身成仏を説いています。  
本尊  
真言宗では元来、大日如来を根本仏としていますが、派や末寺によって多少異なり、大日如来を主体として、他に金剛界曼陀羅や胎蔵界曼陀羅、また曼陀羅に登場する仏菩薩などの諸尊を本尊としている場合もあります。これら諸尊は大日如来より分出されるのであり、諸尊を本尊としても、それは大日如来を本尊とするのと同じなのだそうです。  
所依(しょえ)の経典  
真言宗は、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』の三部秘経、またはこれに『瑜祗経』『要略念誦経』を加えた五部秘経を根本経典としています。  
顕密二教判  
顕密二教判(けんみつにきょうはん)とは、空海が『弁顕密二教論』で説いた教義で、顕教と密教の勝劣を判じたものです。以下、簡単に概要を記します。  
(1) 顕教……歴史上の釈尊によって説かれた随他意(ずいたい)・方便の教え  
  密教……大日如来が説いた随自意(ずいじい)の真実の教え  
(2) 顕教……修行について説くが、悟りの境涯(きょうがい)を説くことができない教え  
  密教……悟りの境涯を説いた教え  
(3) 顕教……生まれ変わり死に変わり、長い間修行しないと成仏できない教え  
  密教……即身成仏の教え  
以上の違いによって、空海は「顕劣密勝(顕教は劣り、密教が勝れている)」と主張しました。  
十住心判  
十住心判(じゅうじゅうしんぱん)とは、空海が『十住心論』で説いたもので、真言行者の住心(宗教意識)を10種の段階にて示し、同時に密教・顕教を含めて他の宗教と比較したものです。詳細は略しますが、この中で空海は、天台法華宗(法華経)を8番目に置き、その上の9番目に華厳宗(華厳経)を配し、最高位の10番目に真言宗(大日経)を配しました。 つまり、『法華経』は『華厳経』よりも劣る「三重下劣の経」「第三の戯論(けろん)」であるとし、真言宗を最高位としているのです。さらに空海は、法華経の釈尊を「いまだ煩悩(ぼんのう)を断ち切らない迷いの位」と蔑(さげす)み、大日経の大日如来は「悟れる仏である」としています。  
理同事勝(りどうじしょう)  
【理同】 真言宗では、『大日経』の「心の実相」「我一切本初(がいっさいほんじょ)」「大那羅延力」と、『法華経』の「一念三千」「久遠実成(くおんじつじょう)」「二乗作仏(にじょうさぶつ)」は同じ法理であるとしています。  
【事勝】 その上で、法華経には「意密(いみつ)」のみが説かれ、印と真言(呪文)の「身密(しんみつ)」と「口密(くみつ)」が示されていないので、事相においては三密(身口意)を完備した大日経が勝れていると説いています。 
疑問  
大日如来は架空の仏  
空海は、釈尊を「大日如来に比べれば無明の辺域(迷いの位)」と蔑み、大日如来は「悟れる仏である」としています。しかし大日如来は、釈尊によって説かれた単なる法身仏(ほっしんぶつ)であり、理論上で説かれた架空の仏でしかありません。日蓮大聖人は『真言天台勝劣事』に、「釈迦如来より外(ほか)に大日如来 閻浮堤(えんぶだい)に於て八相成道(はっそうじょうどう)して大日経を説けるか」とお示しであり、また『祈祷抄』に、「大日如来は何(いか)なる人を父母として、何なる国に出(い)で、大日経を説き給いけるやらん」とお示しのとおり、仏は必ず八相成道(はっそうじょうどう)を具(そな)え、世に出現して我々を成仏に導くのでありますが、大日如来には八相成道がまったく存在せず、親も不明なら生まれた国も不明という、現実世界には縁のない架空の仏なのです。大日経を説いたのは、当然ながら大日如来ではなく、実在の仏である釈尊です。にもかかわらず架空の大日如来が釈尊より勝れているなどというのは、本末転倒(ほんまつてんどう)の邪説でしかありません。  
「顕劣密勝」「第三の戯論」の邪義  
空海は、釈尊が現実に姿を現して説いた教えは方便であり、これを顕教として下し、大日如来が説いた密教である大日経が真実の教えであると主張し、さらに『十住心論』において「第一大日経、第二華厳経、第三法華経」などとして、法華経を「第三の戯論(けろん)」「三重の劣」と貶(おとし)めています。しかし大日経は、釈尊50年間の説法のうち、42年間の間に説かれた方便(ほうべん)、権(仮)りの教えの一つでしかありません。  
法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと斬り捨てました。また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」と説かれ、さらに『法華経』の安楽行品(あんらくぎょうほん)には、「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其(そ)の上にあり」と説かれ、法華経こそが最勝・真実の教えであり、真の秘密教であると自ら説かれているのです。  
また、真言宗が依るところの『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』のどこにも、法華経を「第三の戯論」と貶めるような文言(もんごん)も義も存在しません。これはすなわち空海の勝手な邪説であり、虚言です。  
「理同事勝」の邪義  
まず「理同」とは、『大日経』の「心の実相」「我一切本初(がいっさいほんじょ)」「大那羅延力」と、『法華経』の「一念三千」「久遠実成(くおんじつじょう)」「二乗作仏(にじょうさぶつ)」は同じ法理であるということです。しかしこれは、善無畏が天台僧の一行をたぶらかして書かせた『大日経疏(だいにちきょうしょ)』が根拠となっています。ここにおいて、「法華経の一念三千の法門が、大日経にもある」としたのですが、これは当時、善無畏が、特に勝れていた天台宗・法華経の一念三千の法門を盗んで取り入れ、大日経が勝れているのだと主張し、これを中国に弘めるためだったのです。  
しかし一念三千の法門は『法華経』のみに説かれるものであり、その現証(現実の証拠)としての「久遠実成(くおんじつじょう)」「二乗作仏(にじょうさぶつ)」ももちろん、大日経には一切説かれていません。日蓮大聖人が『開目抄』に、「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし。(中略)天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として」と御教示のとおりであり、したがって法華経と大日経が「理において同じ」とする真言宗は、悪辣(あくらつ)な法盗人(ほうぬすっと)であります。  
次に「事勝」とは、「大日経には印と真言が詳しく説かれているから、法華経よりも勝れているのだ」という主張です。しかし『法華経』の方便品(ほうべんぽん)にも、「為(ため)に実相の印を説く」とあり、また譬喩品(ひゆほん)にも、「我が此の法印は、世間を利益(りやく)せん」と説かれており、別に大日経だけの独説ではなく、他にもいくらでもあります。すなわち、印(印契=いんかい)や真言自体は、それほど尊ばれるべきものではありません。重要なのは「教の勝劣」であり、二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門のない大日経では、成仏は夢にも叶(かな)わないのです。  
日蓮大聖人が『開目抄』に、「其の上、印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の釈をつくれり」と御教示のとおり、真言宗は一念三千の法門を盗むのみならず、さらに天台法華に勝ちたいがために事勝を主張したに過ぎません。 
天台宗
沿革・教義  
日本天台宗は、中国の天台大師の教えを基とし、伝教大師(最澄)によって開かれた宗派で、比叡山延暦寺を総本山としています。  
(天台宗は他に、園城寺を総本山とする「天台寺門宗」、また西教寺を総本山とする「天台真盛宗」等がありますが、ここでは代表として、比叡山延暦寺を総本山とする「天台宗」を扱います。)  
中国の天台宗  
中国天台宗は、陳・隋(ずい)の時代、天台大師によって創設されました。天台大師は18歳で出家し、23歳の時に南岳慧思(なんがくえし)に師事し、修行の末、法華経の極理を悟りました。その後、都の仏教界の姿に疑問を抱いた天台大師は、38歳の時に天台山に入り修行の日々を送りました。この時期に「円頓止観(えんどんしかん)」を悟り、法華経の教理とその修行法を「教観二門(教相門と観心門)」として大成しました。天台山を下りた天台大師は、『法華文句(ほっけもんぐ)』『法華玄義(ほっけげんぎ)』『摩訶止観(まかしかん)』を講義して、法華経の教観二門を宣揚(せんよう)し、隋の王より智者大師の号を賜(たまわ)りました。これらの講説は、後に弟子の章安大師(しょうあんだいし)によって筆録され、「天台三大部(法華三大部)」といわれています。天台大師は、釈尊(お釈迦様)一代の教説を「五時八教(ごじはっきょう)」の教判によって判釈し、「法華経こそ唯一真実・最勝の経典である」とし、法華経の教理に基づく「一念三千の法門」を説き、『摩訶止観』に説かれる観法(かんぽう)によって悟りに至ると説きました。当時の中国仏教界は、南三北七(なんさんほくしち)という10師の諸説が優劣を競っていましたが、天台大師の教えによってその争いも終わりました。天台大師の入寂(死去)後、唐の時代に中国の仏教界は法相宗(ほっそうしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・密教などが盛んになり、天台は衰退していきました。それを復興したのが六祖・妙楽大師(みょうらくだいし)であり、天台宗と名乗るようになったのも、この妙楽の時代です。  
伝教大師最澄  
日本天台宗の宗祖である伝教大師(最澄)は、19歳で奈良の東大寺で具足戒(ぐそくかい=小乗教の二百五十戒)を受け、国家公認の近江国分寺の僧侶となりました。その後、比叡山に入山し、延暦寺の前身となる比叡山寺の伽藍(がらん)等を建立した最澄は、次第に天台大師の「法華一乗思想」に傾倒し、確信を深めていきました。延暦21年(802年)、桓武(かんむ)天皇の勅命(ちょくめい)を受けた最澄は、南都六宗(なんとろくしゅう)の高僧に対して、天台の三大部を講じて法華一乗思想を宣揚しました。これに対して南都六宗側は反論できず、最澄の講説を讃(たた)える書状を桓武天皇に提出しました。これによって南都諸宗との対立が始まりましたが、これ以後、最澄に対する桓武天皇の信頼はさらに深まり、崩御(ほうぎょ=天皇の死去)まで絶大な庇護(ひご)を受けるようになりました。そして延暦23年(804年)、最澄38歳の時、桓武天皇の勅許(ちょっきょ)を得て、遣唐使に加わって中国に渡りました。最澄は天台山に上り、六祖・妙楽大師の高弟である道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)等より天台学・大乗戒の法門を学び、8ヶ月に渡る中国滞在を終えて帰国しました。延暦25年(806年)には、朝廷より天台宗として正式に認められました。しかしこの直後、最澄を庇護してきた桓武天皇が死去し、最澄にとっては苦難の時代を迎えることとなりました。しかし最澄は、さらなる天台教学の研鑽に努めると同時に、密教への理解も深めようとし、中国から本格的に密教を持ち帰った空海とも、親交を結んでいきました。  
最澄が、生涯をかけて取り組んだのは「大乗戒壇(だいじょうかいだん)建立」です。これまでは東大寺等の小乗戒壇の受戒でしたが、これは天台の教義に沿うものではなかったからです。そこで最澄は、法華一乗思想に基づく圓頓戒壇(えんどんかいだん=大乗戒壇)を比叡山に建立しようとしましたが、南都諸宗の反対にあい、これを生前中に達成することはできませんでした。しかし最澄の没後の7日後に勅許が下り、悲願の大乗戒壇建立が成ったのです。最澄は天台大師の法門を受け継ぎ、法華一実の教えを説いて南都諸宗を打ち破り、大乗仏教を発展させ、日本仏教界に大きな功績を残したのでした。  
最澄没後の天台宗  
最澄の没後、天台宗は真言宗に圧倒され勢いを失いました。その復興に取り組んだのが慈覚(円仁)・智証(円珍)・安然(あんねん)です。この3人によって天台宗の密教化が進み、以後、比叡山には密教が深く根付くことになり、密教を優先して、法華一乗の宗派ではなくなりました。この天台宗の密教は「台密(たいみつ)」と呼ばれ、真言宗の「東密(とうみつ)」と区別されています。その後、三代・慈覚門徒(山門派)と五代・智証門徒(寺門派)の対立が生じ、天台宗は大きく二分され、さらに多くの分派・分流が発生していきました。それらは、比叡山を総本山とする「天台宗」と、園城寺を総本山とする「天台寺門宗」、また西教寺を総本山とする「天台真盛(しんせい)宗」の他、修験道(しゅげんどう)関係宗派など、多くの宗教団体を形成して現在に至っています。  
本尊  
『日本宗教総覧2001年版』によれば、「特に一尊一仏に限定せず、久遠実成無作(くおんじつじょうむさ)の本仏とする」となっています。しかし、延暦寺内だけでも「薬師如来」「大日如来」「釈迦如来」「阿弥陀如来」等が祀(まつ)られており、何が本尊でも良いようです。ちなみに天台寺門宗では「本尊に関しては、久遠無作の本仏が本体であり、諸尊諸仏はことごとくその応現(おうげん)であるから、等しく尊信する」としており、天台真盛宗では「阿弥陀三尊(あみださんぞん)」としているなど、いろいろです。  
所依(しょえ)の経典等  
(1)法華三部経……『法華経』『無量義経』『普賢経』  
(2)天台三大部……『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』  
(3)浄土三部経……『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』  
(4)その他……『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』等  
天台大師の教義  
【教観二門】 「教相門」とは、経論の解釈や研究を中心とした教理・理論面です。天台大師は、釈尊(お釈迦様)一代の教説を「五時八教(ごじはっきょう)」の教判によって判釈し、「法華経こそ純円一実、唯一真実・最勝の経典である」としました。 また「観心門」とは、教相門で明らかとなった教理(悟り)を体得するための修行そのものや諸規定を示したもので、主に『摩訶止観(まかしかん)』に明かされています。  
【一念三千法門】 『摩訶止観』に説かれる法門で、一瞬一瞬の心に、あらゆる諸法が具わっていることを示したものです。三千とは、「三千世間」あるいは「三千如是」といわれる一切の諸法です。  
【円頓止観(えんどんしかん)】 「止観」とは、教理を体得する修行法のことです。『摩訶止観』には、修行者の能力に応じて「漸次(ざんじ)」「不定(ふじょう)」「円頓(えんどん)」の3種の止観が説かれていますが、天台大師の主とするところは円頓止観です。この円頓止観(一心三観=いっしんさんがん)によって、一念三千の法理を悟るものです。  
伝教大師最澄の教義  
最澄は天台大師の教義に基づき、法華円教(ほっけえんぎょう)による一乗思想を打ち立てました。さらに、当時中国で盛んだった「密教」、悟りを得る方法である「禅(天台でいう止観)」、「梵網菩薩戒(ぼんもうぼさつかい)」を基(もと)とした大乗戒の3つを、法華円教の教えに基づいて総合的に統一し、融合させる「四宗融合思想」を立てました。  
慈覚(円仁)の台密  
慈覚は「顕密二教判(けんみつにきょうはん)」を立て、『法華経』も理において『大日経』等と同じく密教であるとしました。しかし『大日経』等は理・事ともに密教であり、両者を比較すれば「理同事別」であるとしました。そしてこの顕密二教判によって、事相の上で「真言密教が勝る(理同事勝)」としたのです。  
智証(円珍)の台密  
智証は、慈覚の顕密二教判に、さらに独自の「五時教判」を唱え、『大日経』は『法華経』よりもはるかに優れた教えであるという「円劣密勝(えんれつみっしょう)」を主張しました。  
安然(あんねん)の台密  
安然は、蔵教(ぞうきょう)・通教(つうぎょう)・別教(べっきょう)・円教(えんぎょう)という、天台大師が釈尊一代の説法を教理内容の上から分類した「化法(けほう)の四教」の上に「密教」を置きました。これによって、真言密教は『法華経』よりも勝れていると主張しました。 
疑問  
「正像末の三時」を知ること  
釈尊は、自らの入滅後における仏法の流布(るふ)すべき「時」を大別し、『大集経(だいしっきょう)』等の経典において、「正法(しょうぼう)」「像法(ぞうぼう)」「末法(まっぽう)」という三つの時代があると説かれています。  
(1)正法時代 / 正法時代とは、釈尊入滅後、第一の五百年「解脱堅固(げだつけんご)」と、第二の五百年「禅定堅固(ぜんじょうけんご)」を合わせた1000年間を指します。この時代は、釈尊の「教(教法)」「行(修行)」「証(悟り)」が正しく具(そな)わっており、釈尊の教法(きょうぼう)によって証果(しょうか)を得ることができた時代です。  
(2)像法時代 / 像法時代とは、先の正法時代の1000年間の次の、第三の五百年「読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)」と、第四の五百年「多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)」を合わせた1000年間をいいます。この時代は、仏法による証果は得られず、形だけが正法に像(似)た時代となるため、像法時代といいます。第三の読誦多聞堅固の時代には、中国に経典が伝えられる中で、多くの僧によって漢訳や講説がなされ、さらに教義の研鑽などが行われました。また第四の多造塔寺堅固の時代には、多くの寺塔や仏像が建立され、形の上で仏法流布の姿がありました。日本に仏教が伝わり、奈良や京都に多くの寺塔が建立されたのも、まさにこの多造塔寺堅固の時代です。  
(3)末法時代 / 末法時代とは、釈尊の仏法の力がなくなり、人心が悪化し、世相の混乱によって争いが絶えない「末世法滅(まっせほうめつ)の時代」です。この末法の時代は、像法時代までのような500年区切りではなく、「末法万年(まっぽうばんねん)」とされ、以後ずっとこの時代になります。この時代は、釈尊仏法に結縁(けちえん)のない、機根(きこん)の下劣な衆生ばかりとなり、思想が混乱し、世の中がすさんで争いごとの絶えない「闘諍言訟(とうじょうごんしょう)」時代であり、釈尊仏法(白法)の効力がことごとく滅尽(めつじん)してしまう「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」の時代であると、経文に予証されています。  
しかし釈尊は、『法華経』の神力品(じんりきほん)において、この末法時代における法華経の要法(ようぼう)弘通(ぐづう)を、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)に託しました。そして『法華経』の薬王品(やくおうほん)において、「我が滅度の後、後(のち)の五百歳(註:末法時代のこと)の中に、閻浮堤(えんぶだい)に広宣流布(こうせんるふ)して、断絶せしむること無けん」 と予証されたのです。  
先述の、上行菩薩に託された「法華経の要法」とは、白法隠没する釈尊の法華経(白法)ではなく、そのさらに一重(いちじゅう)奥に秘されるところの肝要の法(大白法)であり、それでなければ末法の衆生を利益(りやく)することはできないのです。  
実際、天台大師は『法華文句(ほっけもんぐ)』に、「後五百歳(註;末法)、遠く妙道(みょうどう)に沾(うるお)わん」と述べ、妙楽大師は『法華文句記』に、「末法の初め冥利(みょうり)なきにあらず、且(しばら)く大教の流行(るぎょう)すべき時に拠(よ)る」と述べ、さらに伝教大師は『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』に、「正像稍(やや)過ぎ已(おわ)って、末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機、今 正(まさ)しく是(こ)れ其(そ)の時なり」と述べられ、いずれも、末法に法華経の要法が弘まり、衆生を利益することを明かされているとおりなのです。  
以上、「正像末の三時」について概略を記しました。  
天台大師、伝教大師の時代は、上記の<像法時代>に該当します。天台大師は、釈尊仏教の中で最勝深秘(さいしょうじんぴ)の教えである『法華経』をもって人々を救済し、伝教大師も天台の教えをもとに法華経を宣揚し、人々に利益(りやく)を与えました。しかしそれはあくまでも<像法時代>のことであり、末法の時代に至っては、天台や伝教の教えでは力が及ばないのです。  
日蓮大聖人が『観心本尊得意抄』に、「設(たと)い天台・伝教の如(ごと)く法のまゝありとも、今末法に至っては去年(こぞ)の暦(こよみ)の如し」と御教示のとおり、去年のカレンダーを使って今年の生活はできません。それどころか日常生活に混乱と支障をきたします。末法の時代に天台・伝教両大師の教えどおりに修行しても、何の利益もないのです。日蓮大聖人は『上野殿御返事』に、「今、末法に入(い)りぬれば余経(註;方便の経教)も法華経もせんなし。但(ただ)南無妙法蓮華経なるべし」とお示しであり、末法の時代は、「法華経の要法」である日蓮大聖人の仏法によらなければ成仏の道はないのです。  
天台の修行は、末法には不可能  
天台大師の説かれた修行は、本已有善(ほんいうぜん)といって、過去世(前世すべて)に成仏のもとになる仏種(ぶっしゅ)を下された衆生の修行法であって、釈尊仏法に結縁(けちえん)のない、本未有善(ほんみうぜん=未だ仏種を下されたことのない)の末法の衆生には不可能な修行法です。それに対し日蓮大聖人の教えは、その仏種を直ちに末法の衆生に下し、即身成仏の大利益を与える「大白法」なのです。  
密教に堕落した天台宗  
天台宗は伝教大師の滅後、慈覚・智証・安然の時代に密教を取り入れ、法華円教(ほっけえんぎょう)のみを弘めるべき本来の天台宗を汚(けが)してしまいました。  
『法華経』の法師品(ほっしほん)に、「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」と説かれるとおり、法華経こそが最も勝れた教えであるにもかかわらず、教主・釈尊に違背(いはい)し、師である天台・伝教両大師の教えに敵対し、『大日経』が最も勝れているなどと、とんでもない大謗法(だいほうぼう)を犯しているのです。しかも密教導入後は、教義も本尊も雑多となり、阿弥陀信仰や修験道(しゅげんどう)まで取り入れ、雑乱(ぞうらん)はなはだしい状況です。像法時代の教えであるゆえに無益(むやく)である(註;これを「天台過時」といいます)ばかりではなく、とても危険な邪宗教へと変質しているのが今の天台宗なのです。 
日蓮宗
沿革・教義  
(一般に「日蓮宗」というと、日蓮教団全体の総称として用いられていますが、ここで言う「日蓮宗」は、現在の法制上、宗教法人として認可されている、身延山久遠寺を総本山とする身延・中山・池上等の一致門流(単称日蓮宗)を指します。)  
民部日向以後の身延山  
第二祖・日興上人が身延を離山された後、久遠寺の別当となった民部日向は、地頭の波木井実長の没後も波木井一族の外護を受け続けました。正和3年(1314年)の日向の死後、身延山久遠寺は日善、日台、日院、日叡、日億、日学と続きましたが、当時の久遠寺は祖廟(そびょう)中心の一寺院に過ぎませんでした。寛正2年(1461年)に行学日朝が登場し、堂宇を現在地に移転して伽藍(がらん)を整え、教学・法式・諸制度の整備に努めました。そして14代日鏡の時、徳川家康の武運長久を祈願したことを契機に、身延は徳川家の庇護(ひご)を受け、その後は徳川幕府の権威を背景に、絶大な権力と地位を確立していきました。慶長6年(1601年)に日乾が久遠寺に登りましたが、その当時、豊臣秀吉の大仏千僧供養に端を発した「謗法の布施をめぐる不受不施論争」が日蓮門下全体を揺るがす大問題となりました。このとき日乾は「謗法の布施を受けて良い」とする受派の中心者となり、幕府と結託して不受派を制圧しました。また寛永7年(1630年)には、不受派の池上日樹らとの法論があり、日乾等が身延代表として対決しました。そして身延は幕府の権力と結託して、不受派の6名を流罪に追い込むことに成功しました。そして幕府は、不受派の拠点であった池上本門寺等を身延に与えたのです。これに乗じて、身延は幕府の権力をバックに多くの寺院を傘下に従え、一気に日蓮各派の主導権を握ることに成功しました。今日の身延派の教勢は、こうした政略的な背景によるものです。  
江戸から幕末にかけて  
以後、江戸中期ごろまで全盛を極めた身延でしたが、近年までにたび重なる火災を起こし、当時の伽藍のほとんどを失っています。また、庶民の間で大黒天・鬼子母神等の番神(ばんじん)信仰が盛んになると、身延は各末寺と競って雑多な番神を祀るようになり、また「出開帳(地方布教)」なども行い、教団は経済的に繁栄しました。しかし一方で、身延山や末寺で相続争いが多発し、身延の七面社殿が焼失して死者を出したことについて「七面邪神説」を唱えた当時の貫主(かんず)が、身延歴代から除歴されたうえ牢死させられるなど、教団は次第に教義的な退廃と混乱に覆(おお)われていきました。その後、幕末ごろに優陀那(うだな)日輝が登場し、教団の改革を目指しました。さらに日輝は廃仏思想への対抗策として、『立正安国論』の精神を否定して折伏(しゃくぶく)を放棄し、教団存立のために、尊王思想(そんのうしそう)に迎合した摂受(しょうじゅ)偏重の教義を展開しました。  
明治以後  
「日蓮宗近代教学の大成者」と呼ばれる日輝の教学は、伝統教学を否定し、神道・儒学・仏教の一致を強調した、摂受(しょうじゅ)主義に徹したものです。これは、当初は教団内からも異端視されていましたが、明治に入って以降、この日輝教学が身延の主流になっていきました。明治7年に「日蓮宗一致派」の初代管長となった日薩は、宗派名からの「一致派」の削除を明治政府に強く訴え、明治9年に「日蓮宗」と公称するに至りました。しかしこの前年である明治8年には、身延山は失火によって、またも全山が炎上しました。この火災で身延の本堂をはじめ144の堂宇が全焼し、『開目抄』『報恩抄』等の重要御書をはじめ、数多くの御真蹟(ごしんせき)が灰燼(かいじん)に帰してしまいました。この明治期の身延教団は、日輝の門下生によって独占支配されていました。それによって権威主義がはびこり、日輝門下およびその教学に、激しい批判が浴びせられるようになりました。現在、日蓮宗は、民部日向以来の本尊雑乱(ほんぞんぞうらん)問題とともに、かつて「正当教学」とされた日輝教学に対する批判と修正が、今後の大きな課題となっています。  
本尊について  
日蓮宗では、『法華経』寿量品に開顕の「久遠実成の釈迦牟尼仏」を本尊とし、日蓮大聖人の大曼陀羅は「久成の釈尊の広大な慈悲の世界を紙幅(しふく)に書きあらわしたものである」などとしています。  
本尊の形態としては、  
(1)首題本尊(題目のみを書いたもの)  
(2)釈迦一体仏  
(3)大漫荼羅(宗祖が紙幅に図顕されたもの)  
(4)一尊四士(釈迦一体仏に、上行菩薩等の四菩薩像を加えたもの)  
(5)二尊四士(釈迦・多宝の二仏像に、四菩薩像を加えたもの)  
という5種類があるとしていますが、日蓮宗では、「木像造立の場合には、一尊四士の形態が久遠実成教主釈尊への帰依の心情に最もふさわしいものとの論がなされている」と説明し、現在の日蓮宗寺院の多くは、一尊四士の仏像を本尊として祀(まつ)っています。  
三宝(さんぼう)について  
日蓮宗では、『法華経』を所依(しょえ)の経典として、  
仏宝……久遠実成の釈迦牟尼仏  
法宝……南無妙法蓮華経  
僧宝……宗祖・日蓮大菩薩  
という三宝を立て、日蓮大聖人を僧宝(そうぼう)に置いています。  
本迹一致説  
『法華経』二十八品のうち、前半の十四品を「迹門(しゃくもん)」、後半の十四品を「本門」と呼びますが、この迹門と本門の勝劣について、一応は本門の優位性を認めながら、「二門は緊密な相関関係にあり、これを二分して本門のみを重視するのは不当である」という主張が「本迹一致説」です。この本迹一致説を唱えたのは、六老僧の内、第二祖・日興上人を除く、日朗・日向など「天台沙門(てんだいしゃもん)」を名乗った一致門流の派祖、ならびにその後継者たちです。日向門流の11代・日朝は、本迹は説法に前後浅深はあるが、その説かれる釈尊の真意である題目それ自体に違いはないという「本迹未分」の一体論を主張しました。また、優陀那(うだな)日輝は、単純に迹門を否定するのではなく、迹門も本門もお互いに助けあって法華経の正意を顕(あらわ)すものであるから、本迹二門は「本迹相資」の関係にあるという一致論を唱えました。 
疑問  
「本迹一致」は宗祖に違背  
六老僧のうち、第二祖・日興上人を除く、日昭・日朗・日向等の五老僧は、宗祖御入滅後、日蓮門下を名乗るがゆえの迫害を恐れ、一同に「天台沙門(天台の弟子)」を名乗り、その教義も天台ずりへと堕落していきました。如法経(写経)や一日経などの像法時の行を修し、法華迹門の戒である大乗戒を用いるなど、とても日蓮門下とは呼べぬ有り様でしたが、この「本迹一致」も、天台大師の釈を基として立てた教判です。  
しかし、日蓮大聖人は『治病大小権実違目』に、「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と仰せであり、また『妙一女御返事』には、「迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり」と、法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。法華経本迹二門は、久遠実成の本仏と、始成正覚(しじょうしょうかく)の迹仏という仏身においても、その説かれる法体(ほったい)においても勝劣があり、その相違は宗祖御教示の通り、水火・天地のごとくです。それを日蓮宗では「実相一体」だの「本迹未分」だのと勝手な解釈を加え、「本迹一致」という邪義を主張しているのです。これすなわち、宗祖の正意に違背(いはい)する謗法の論であります。  
仏像本尊  
日蓮宗は、信仰の根幹である本尊について、いまだに宗祖の正意がどこにあるのか理解できず、本尊に関する御書を集めて候補を選び、その中から適当な形式を相談して決めるという、極めて杜撰(ずさん)な見解を発表しています。その候補というのが先述の(1)首題本尊(2)釈迦一体仏(3)大漫荼羅(4)一尊四士(5)二尊四士 であり、祖書の教示等に照らし、(4)の一尊四士を日蓮宗の本尊と定めるのが至当(しとう)、というものです。日蓮宗では、『観心本尊抄』の、「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」という御文を挙げ、「仏像出現」の語句によって「本尊は仏像が正意である」としているのです。これが日蓮宗の本尊の依文です。しかし、「仏像出現」の御文の意味は、文中の正像の本尊に対する「造り画けども」という語句と、末法の仏像に対する「出現」という表現を対比しなければなりません。  
「此の仏像出現せしむべきか」の意味は、後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、仏像の造立という意味ではなく、あくまで現実に現れるということを示されていると拝すべきです。すなわちこの御文の真意は、末法に地涌千界が出現して、「本門の釈尊」を脇士とする未曾有(みぞう)の本尊を顕されることを明かされたものなのです。 また日蓮宗は、同じ『観心本尊抄』の、「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮堤第一の本尊、此の国に立つべし」との御文について、「本門の釈尊を脇士と為す」と読むべきを、「本門の釈尊の脇士と為る」と誤読させ、これに依って「一尊四士が正意である」としています。  
しかし、宗祖が御在世中に、一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、『観心本尊抄』の御文も、一尊四士を本尊とせよとの御教示ではありません。そのことは、宗祖大聖人様が佐渡以後、法本尊について御教示された御書に照らしてみれば明白です。  
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(乃至)此の曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮堤の内には未だひろまらせ給はず」(妙法曼陀羅供養事)「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)「問ふて云(い)はく、然(しか)らば汝(なんじ)云何(いかん)ぞ釈迦を以(もっ)て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈(きょうしゃく)を見給へ、私のぎ(義)にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)  
これらの御教示と『観心本尊抄』の御文を合わせて拝するとき、宗祖の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、まさしく宗祖が顕された大曼荼羅こそ、正像未曾有の「観心の御本尊」であることは明らかです。虚心坦懐(きょしんたんかい)に、日蓮大聖人の御教示をよくよく拝すべきです。また、『真間釈迦仏供養逐状』や『四条金吾釈迦仏供養事』など、一部の信徒に与えられた数編の御書で、釈迦仏造立に触れられたものがあります。日蓮宗ではこれによって、宗祖が御在世当時、仏像本尊を認められた証拠だとしています。  
しかしこれは当時、阿弥陀仏や大日如来を祀(まつ)る法華誹謗者が多い中、大聖人に帰依するにあたってそれらを捨て、釈尊像を造立したいと願い出た者に対して、あくまで曼荼羅本尊に導くため、一時的にその善根(ぜんごん)を称歎(しょうたん)されたものです。そうした個々に対する御化導(ごけどう)の真意を知らず、短絡的に「仏像本尊を認められている」などと勘違いしてはならないのであります。  
以上のように、宗祖大聖人が御図顕の曼荼羅本尊を蔑(ないがし)ろにし、釈尊の仏像を崇(あが)める日蓮宗は、宗祖の御意に背く師敵対の大謗法教団と言わざるを得ません。  
曼荼羅書写のこと  
宗祖・日蓮大聖人は、日興上人に大聖人の仏法の一切を血脈相承(けちみゃくそうじょう)され、日興上人は一宗の総貫首(そうかんず)として身延に入山されました。その後、離山までの7年間に渡って久遠寺の別当職に就かれた事実に対し、他の五老僧を含め誰も異論をはさむ者はいませんでした。これが厳然たる史実です。ちなみに『日蓮宗辞典』571頁には、はっきりと、「日興が院主、日向が学頭」と記されており、事実としてこれを認めているのです。  
古来より、相伝とは唯授一人(ゆいじゅいちにん)です。天台は章安に、伝教は義真に、そして宗祖は日興上人に御相承あそばされたのです。しかるに、「不相伝」である日昭・日朗・日向等の五老僧門流は、大聖人の正意を知らず、日興上人に従わなかったがゆえに本尊に迷い、仏像に執着して曼荼羅本尊を蔑(ないがし)ろにしました。これは曼荼羅本尊書写に関しても同じで、日蓮宗では、曼荼羅の中に「日蓮大菩薩」と書いてみたり、「日蓮」の御名を削除してそこに自分の名前を書いてみたりと、不相伝ならではの誤りを犯しています(日向の場合は、身延において日興上人の義を知り得ていたため多少違いますが)。「日蓮大菩薩」などと、宗祖大聖人が御本尊に認(したた)められたことはありません。  
日蓮正宗が日興上人以来、代々の法主(ほっす)上人によってのみ御本尊が書写され、授与されてきたのに対し、身延を中心とした日蓮宗各派の本尊の雑乱(ぞうらん)ぶりと、曼荼羅御本尊の軽視こそ、信仰の根幹である本尊に迷う不相伝の輩(やから)であることを、自ら証明しているのです。  
雑乱勧請(ぞうらんかんじょう)  
日蓮宗の寺院には、現在も鬼子母神、稲荷、七面大明神など、三十番神をはじめ種種雑多なものを信仰の対象として祀(まつ)っています。これはその昔、民衆への布教のために、世間で流行った三十番神信仰(法華守護の三十の神々が毎日交代で1ヶ月間守るという、天台宗の思想から起こった民間信仰)を積極的に取り入れ、曼荼羅の中に書き加えたのが始まりです。ちなみに、映画『寅さんシリーズ』で有名な柴又の帝釈天は、実は「題経寺」という日蓮宗寺院であり、雑司ヶ谷の鬼子母神も「法明寺」という日蓮宗寺院です。どちらも、本堂の本尊よりも、別勧請(べつかんじょう)で祀った諸天が有名になってしまっている有り様です。  
法華守護の諸天善神は、御本仏の一念である御本尊に内在し、それらは妙法の功徳によって守護の任を果たすのでありまして、諸天善神そのものを祀って信仰の対象とするのは誤りです。  
日蓮宗は勧請などと称して、仏像や番神の絵像木像なども本尊と立てていますが、これは宗祖の御正意に背く行為であり、大謗法であると知らなければなりません。ましてや、身延の門前で、宗祖の曼荼羅本尊の複製を、おみやげとして不特定の参拝客に売っているなどは、その神経に驚きます。謗法を戒め、他宗の者に一切、本尊を授与されなかった宗祖の厳しい教えを何だと思っているのでしょうか。  
広宣流布  
素朴な疑問です。日蓮宗は、宗祖大聖人の御遺命である「広宣流布」をどう考えているのでしょうか。折伏なくしては、広宣流布は夢物語に終わってしまいます。伝統教学を否定し、神道・儒学・仏教の一致を強調した、摂受(しょうじゅ)主義の日輝教学を捨てられない日蓮宗が、折伏などどうやってできるのでしょうか。「法華折伏 破権門理」の精神は、日蓮宗にあるのでしょうか。ましてや、雑乱本尊の有り様で、一体何を流布するつもりでしょうか。本尊に迷う日蓮宗には、流布すべき実体がないのです。 
顕本法華宗
沿革・教義  
顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)は、日蓮大聖人滅後100年頃に、玄妙日什(げんみょうにちじゅう)が開いた一派で、日蓮大聖人を宗祖とし、日什を派祖としています。日什は19歳で比叡山に登って出家し、以後、天台教学を学び、38歳の時には学頭にまでなりました。しかし玄妙が66歳の時、日蓮大聖人が著された『開目抄』『観心本尊抄』を初めて読んで感銘を受け、天台教学を「過時の教え(像法時代のものであること)」として捨て、日蓮門下に改衣することを決意したと伝えられています。同年、富士門流(現在の日蓮正宗)に帰伏(きぶく)して名を日什と改めたものの、翌年には異見を生じて離脱。その後は真間・中山門流に改衣しましたが、最終的には「真間帰伏状」を破棄して独立しました。  
そして日什は、『日什門徒等可存知事』の中で、「大聖の御門弟六門跡(註;六老僧のこと)、並に天目等の門流、皆(みな)方軌(ほうき)弘法(ぐほう)共に大聖の化儀(けぎ)に背く処(ところ)有るに依って同心せざる処也。直に日什は仰せを日蓮大聖人に帰する処也」として、大聖人以来の法脈をすべて否定し、大聖人から直(ただ)ちに法水(ほっすい)をくみ、御書を師とする、「直授日蓮(じきじゅにちれん)」「経巻相承(きょうがんそうじょう)」を主張しました。  
日什の没後、強義折伏(ごうぎしゃくぶく)によって徳川家康から弾圧を受け(慶長法難)、窮地(きゅうち)に立たされた教団は、幕府の弾圧から逃れるために強義折伏を捨てました。それ以後、日什門流は幕藩体制に迎合しながら教勢の拡大をはかり、本山妙満寺を中心に発展していきました。明治9年、日什門流は「日蓮宗妙満寺派」と称し、明治31年には「顕本法華宗」と改称しました。その後、昭和16年の宗教団体法によって、しばらくは身延日蓮宗の傘下にありましたが、昭和22年には独立して「顕本法華宗」と公称し、現在に至っています。  
顕本法華宗では、久遠実成の釈尊を教主とし、日蓮大聖人を宗祖、日什を開祖と立て、日什以外の弟子や法脈をすべて「邪師邪流」と否定する、「直授日蓮(じきじゅにちれん)」「経巻相承(きょうがんそうじょう)」を宗是としています。本尊は、建前としては「日蓮大聖人の曼陀羅」としています。 
疑問  
「経巻相承」の邪義  
日什が主張する「経巻相承」とは、「大聖人の仏法を直接に教授してくれる師(血脈伝授の人)が無くとも、法華経や御書を読み、そのまま実践することで、誰もが同じ功徳(くどく)を得ることができる」というものです。しかしこれは、仏法相伝の大事な規範である「師資相承」と、それにともなう歴史的事実をすべて否定し、何の根拠もない勝手な相承や教義を立てて、これを正当化しようとするものです。  
まず顕本法華宗は、日蓮大聖人の『守護国家論』の、「経巻を以て善知識と為すなり」との御文を、経巻相承の根拠であると主張しています。しかしこの御文は、釈尊の教説を無視して法華経を誹謗する浄土宗・法然を、「依法不依人(えほうふえにん=法によって人によらざれ)」の理によって破折(はしゃく)されたものであり、相承に関する御指南ではありません。また顕本法華宗は、大聖人の『顕仏未来記』の、「三国四師(釈尊→天台→伝教→日蓮)」についても経巻相承の根拠としていますが、これは、歴史的な外用(げゆう)相承の流れを示されたものに過ぎません。実際、釈尊は迦葉に、天台は章安に、伝教は義真に、そして宗祖は日興上人に御相承あそばされたのです。これが「師資相承」であり、顕本法華宗の主張は的はずれな戯論(けろん)です。  
日蓮大聖人は、「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山(りょうじゅせん)にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり」(南条殿御返事)「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決(ぐけつ)せし相承なり」(三大秘法禀承事)と、面授口決の内証相承を明かされ、仏法本来の相伝の姿を示されています。そして日蓮大聖人はさらに、「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教(しょうぎょう)大意)「伝持の人無ければ猶(なお)木石の衣鉢(えはつ)を帯持せるが如し」(顕仏未来記)と御教示であり、師弟相対の相伝によってはじめて法華経の深義を伝えることができ、もしこれがなければ仏法を忘失(ぼうしつ)することになると仰せなのです。  
すなわち、顕本法華宗の根幹である「経巻相承」とは、相承の本義を知らない日什が、自己の浅識にまかせ、御書を曲解(きょくげ)して、自門を正当化するために創作した邪説に過ぎないのです。  
本尊雑乱  
顕本法華宗は、一応の建前としては日蓮大聖人の曼荼羅を本尊と定めています。しかし日什の死後、顕本法華宗は、薬師如来、鬼子母神、七面、稲荷その他、雑多なものを祀(まつ)ってきました。これが、大聖人の仏法を正しく相伝する血脈(けちみゃく)相承を否定し、「経巻相承」という邪義によって謗法(ほうぼう)を招いた教団の実体なのです。明治23年に顕本法華宗の教務部長に就任した日生(後に管長となる)は、この実体を見かねて「雑乱(ぞうらん)本尊を一掃して三宝本尊に統一」するように宗内に呼びかけました。ところがこれが宗内の反発を買い、2年後には宗門から擯斥(ひんせき=追放)処分を受けてしまいました。そして2年後に僧籍に復帰したところ前言を翻(ひるがえ)し、「釈迦・題目・四菩薩の三宝義が掌握できれば、文字でも木像でも是認して良い」などと述べたのです。このように、顕本法華宗の本尊雑乱の悪弊(あくへい)は、実に根深いものがあります。  
すなわち、曼荼羅本尊を立てているというのは建前だけであって、実態は抜き差し難い本尊雑乱なのです。宗旨の根本である本尊がこの有り様では、日蓮大聖人を敬う振りをして、実には師敵対であり、大謗法であります。  
大聖人を悪(あ)しく敬う  
顕本法華宗では、日什が天台宗から日蓮門流に改衣(かいえ)したことについて、「末法の人々にとって天台の教観はあまりに難しい。日蓮聖人の教えこそ天台・伝教の精神を末法に活かすもの、迷える衆生を救う大白法(だいびゃくほう)と思う」(日本仏教基礎講座)などと言っています。つまり彼らは天台宗を「過時の教え」としながら、日蓮大聖人の仏法は、天台・伝教の教義を平易化した、余流でしかないとしているのです。  
しかし日蓮大聖人は『撰時抄』に、「天台未弘(みぐ)の大法」と仰せなのであります。日蓮大聖人の仏法(大白法)を、像法時代の天台・伝教の流れとしか思っていないなど、これはまさに「摧尊入卑(さいそんにゅうひ=尊きをくだいて卑しきに入れる)」であり、大聖人の仏法の深義に暗い、師敵対の邪義であります。 
法華宗(陣門流)
沿革・教義  
法華宗(陣門流=じんもんりゅう)は、日陣(にちじん)を派祖とする勝劣派(法華経本門と迹門に勝劣があるとする派。日蓮宗は逆に一致派)の一派で、宗祖の本弟子六人(六老僧)の中の、日朗の系統です。  
日陣は18歳の時、本国寺日静に入門し宗義を学びました。そして日陣が31歳の時に、師の日静が臨終に先立って本成寺を日陣に与えました。ここが陣門流の本山となっています。また、日陣の法兄である日伝には本国寺を与えました。応永3年(1396年)、日陣は『選要略記』を著して、「本迹勝劣」の立場を明らかにしました。しかし当時、京都の法華宗は、妙顕寺・本国寺を筆頭に公家の庇護(ひご)によって栄華を極めていましたが、信仰面では折伏(しゃくぶく)を捨てて摂受(しょうじゅ)中心とし、教義の面では本迹一致を唱えるなど、天台宗と区別の付かない状態でした。そこで日陣は、本国寺の日伝を諫(いさ)めるために上洛(じょうらく)して本迹勝劣を主張し、以後8年間に渡って本迹論争が展開されることとなり、最終的には両者は決裂に至りました。  
その後も日陣は本成寺・本禅寺・本興寺を中心に本迹勝劣を主張し続け、その結果、本国寺系700余の寺院の内、300余カ寺が日陣に従ったといわれています。しかし日陣の没後、江戸時代には幕府の宗教政策も影響して170カ寺程度まで衰退しました。  
明治に入り、本成寺は、「一宗一管長制」という官布告によって、身延日蓮宗、本圀(国)寺等とともに日蓮門下合同に加わりました。しかし明治9年には「日蓮宗本成寺派」として別立し、明治31年には「法華宗」と改称しました。その後、昭和16年には法華宗本門流(本門法華宗)らと新たに「法華宗」を形成しましたが昭和27年、法華宗は分裂し、本成寺派は「法華宗(陣門流)」と称し、現在に至っています。  
本迹法体(ほんじゃくほったい)勝劣  
これは、本国寺日伝が「一往勝劣(修行と悟りの因果に約して勝劣あり)・約体一致(所説の法体に約して勝劣なし)」と主張したのに対して、日陣が「約説勝劣(本門に説かれた法体は迹門より勝れている)」と唱えたものです。  
寿量一品正意(じゅりょういっぽんしょうい)  
これは、日蓮宗等が「迹門の実相も本門にいたって開会(かいえ)すれば、本迹の勝劣はない」とする主張に対して、日陣が「本迹を開会する能説(のうせつ)の教えは本門寿量品に限る」と述べたものです。  
本尊について  
陣門流では、本尊について「日蓮大聖人が奠定(てんてい)された、久遠常住輪円具足(くおんじょうじゅうりんねんぐそく)の大曼荼羅」と規定しています。しかし日陣は、本成寺日印(六老僧日朗の弟子で、本成寺を開創)の思想を継承し、「一尊四士(身延日蓮宗と同様)」「一塔両尊四士」の仏像も本尊として認めています。  
修行について  
陣門流では、『法華経』一部二十八品の読誦(どくじゅ)を主張しています。その理由として「宗祖が読誦されたゆえ」「一念三千は迹門の文を借用しているゆえ」「本門の中に迹門の効能を含むゆえ」を挙げています。 
疑問  
陣門流の「本迹法体勝劣」は空理空論  
陣門流の「本迹勝劣」は身延日蓮宗などに比べれば、より法華経の教理に沿った解釈ではあります。しかしあくまでも、より酷(ひど)いものに比べれば、でしかありません。  
末法の時代は、経文の予証どおり釈尊の法華経(白法)が隠没するのであり、日蓮大聖人の法華経は、そのさらに一重(いちじゅう)奥に秘されるところの肝要の法(大白法)であります。日蓮大聖人は、「日蓮が法門は第三の法門なり」(常忍抄)「天台未弘(みぐ)の大法」(撰時抄)「彼は脱、此(これ)は種(しゅ)なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但(ただ)題目の五字なり」(観心本尊抄)と御教示であり、末法適時の大法は、文底下種(もんていげしゅ)の南無妙法蓮華経であり、釈尊の文上の寿量品は、末法には無用の、在世脱益(ざいせだっちゃく)の法なのです。  
しかるに日陣が、本門の教主・釈尊を仏像にした「一尊四士(身延日蓮宗と同様)」「一塔両尊四士」の仏像も本尊と認めている以上、陣門流が主張する「寿量品」はあくまで在世脱益の領域であり、大聖人の説かれた末法の要法とはなり得ません。したがって、末法において無益(むやく)となった文上の法華経を持ち出して「本迹勝劣」を論ずること自体、無意味な空論なのです。  
「寿量一品正意」  
したがって、陣門流が主張する「寿量一品正意」も、その寿量品は文上体外(もんじょうたいげ)の寿量品であり、そこに説かれる釈尊は、本已有善(ほんいうぜん)といって、過去世に成仏のもとになる仏種(ぶっしゅ)を下された衆生に対する本果妙(ほんがみょう)・脱益(だっちゃく)の仏です。しかし文上の寿量品では、本果妙の仏の化導(けどう)は説かれますが、その本果を成就せしめた本因については明かされていません。  
日蓮大聖人が仰せの寿量品とは、文上脱益の寿量品のことではなく、御書に「寿量品の肝心」「寿量品の文の底」と示される文底・内証の寿量品であり、寿量文底下種(げしゅ)の、本因妙の妙法蓮華経です。しかるに、読誦(どくじゅ)するところの寿量品も体外(たいげ)ではなく「体内の寿量品」であり、また方便品も、内証の寿量品を助け顕す「体内の方便品」です。日陣が唱える「寿量一品正意」は、宗祖の深意には遠く及ばぬ教義なのです。  
釈尊の仏像を本尊とする誤り  
先述のとおり陣門流では、宗祖の曼荼羅を本尊としながら、「一塔両尊四士」の仏像本尊形式こそ宗祖正意の本尊であるとしています。  
しかし日蓮大聖人は、「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(乃至)此の曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮堤の内には未だひろまらせ給はず」(妙法曼陀羅供養事)「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)「問ふて云(い)はく、然(しか)らば汝(なんじ)云何(いかん)ぞ釈迦を以(もっ)て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈(きょうしゃく)を見給へ、私のぎ(義)にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)と御教示であり、釈尊を本尊とすることを否定され、自ら顕された曼荼羅本尊を末法正意の本尊とされたことは明らかです。  
また日蓮宗等が主張するように、『真間釈迦仏供養逐状』や『四条金吾釈迦仏供養事』など、一部の信徒に与えられた数編の御書で、釈迦仏造立に触れられたものがありますが、これは当時、阿弥陀仏や大日如来を祀(まつ)る法華誹謗者が多い中、大聖人に帰依するにあたってそれらを捨て、釈尊像を造立したいと願い出た者に対して、あくまで曼荼羅本尊に導くため、一時的にその善根(ぜんごん)を称歎(しょうたん)されたものです。そうした個々に対する御化導(ごけどう)の真意を知らず、短絡的に「仏像本尊を認められている」などと勘違いしてはなりません。  
日蓮大聖人が発迹顕本(ほっしゃくけんぽん=上行菩薩の迹をはらって、御本仏たる本を顕す)」以後は、信徒に対して曼荼羅本尊を認(したた)め授与されているのであり、この史実をもっても、大聖人の正意が曼荼羅本尊であることは明白です。  
一部読誦  
陣門流では、宗祖の御書数編を根拠に、『法華経』一部二十八品読誦を宗祖が常の修行とされたと主張しています。しかしこれらの御書は、個々の信徒の機根に応じて善導されたものであり、決して末法の衆生に対する正規の修行として示されたものではありません。  
宗祖が、末法初心の行者の立場と心得を説かれた『四信五品抄』には、「直(ただ)ちに専(もっぱ)ら此の経を持(たも)つ(乃至)一経に亘(わた)るに非(あら)ず。専ら題目を持ちて余文(よもん)を雑(まじ)へず、尚(なお)一経の読誦だにも許さず」と、明確に法華経一部の読誦(どくじゅ)を許されず、題目の正行(しょうぎょう)妨げることを禁じられているのです。また『月水御書』には、「されば常の御所作には、方便品の長行(じょうごう)と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」と御教示されているのであり、陣門流の一部読誦は、宗祖が示された正しい修行に背くものです。 
法華宗(本門流)
沿革・教義  
法華宗(本門流)は、宗祖の本弟子六人(六老僧)の中の、日朗の弟子である日像の流れをくむ日隆が、室町時代のはじめに「本門八品正意」(別名・神力正意)という独自の本迹勝劣義を主張し、一致門流から分派独立した一派で、八品派とも呼ばれています。日隆門流は、日陣門流らとともに「勝劣派」を形成していましたが、明治9年、妙蓮寺・光長寺・鷲山寺・本能寺・本興寺の五山は勝劣派から分裂して「日蓮宗八品派」と称し、明治31年には「本門法華宗」と改称しました。  
昭和16年には、政府の宗教政策によって再び日陣門流らと合流し「法華宗」と総称するようになりましたが、昭和25年に妙蓮寺が離脱して「本門法華宗」と名乗り、昭和27年には残った日隆門流の四山と末寺で教団を形成して「法華宗(本門流)」と公称して、日陣門流(法華宗陣門流=別項参照)等とも分裂し、現在に至っています。  
八品正意(はっぽんしょうい)論  
日隆門流の根本教義は「八品正意」です。これは『法華経』二十八品のうち、特に「従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五」から「嘱累品(ぞくるいほん)第二十二」までの本門八品を選び、「この八品に顕れた神力付嘱(しんりきふぞく)・上行所伝の妙法のみが、久遠(くおん)の本仏の正意であり、宗祖の正意である」という主張です。  
日隆がその根拠とするのは、『観心本尊抄』の、「本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊(もんじゅ)薬王等にも之を付嘱したまわず(乃至)但(ただ)地涌千界(じゆせんがい)を召して八品を説いて之を付嘱したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、(乃至)是(か)くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し、八年の間但八品に限る」の「但八品に限る」の御文で、これによって日隆は寿量品と神力品に勝劣を立て、寿量品を中心とした一品二半(いっぽんにはん)を「在世本果脱益の迹」とし、神力品において結要(けっちょう)付嘱された「上行所伝の南無妙法蓮華経を本」として、「神力付嘱・本因下種の妙法」を最勝であると主張しました。  
種脱一双(しゅだついっそう)論  
日隆は、仏が寿量品に明かした久遠の妙法を「脱益(だっちゃく)の本果妙」とし、これを末法に下種する上行別付の妙法こそ「本因妙の修行である」として正宗一品二半の絶待妙(ぜったいみょう)と、本門八品所顕の相待妙(そうたいみょう)に種脱・事理の区別を立てています。  
日隆は、『観心本尊抄』の、「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但(ただ)し彼は脱、此(これ)は種(しゅ)なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」との御文を、「在世と末法、種と脱の異りはありとも、其の体(たい)はこれ同じ。故に一同に純円なりとは釈するなり。(中略)所詮(しょせん)一品二半と八品とは一妙の上の種脱の上の種脱、在世滅後なり。故に一法の二義と得意すべきなり」と解釈して、在世と滅後という時機の違いによる勝劣を説き、法体(ほったい)に勝劣はないと主張しています。これが「種脱一双」です。 
疑問  
「八品正意論」「八品所顕の本尊」  
日隆は、『観心本尊抄』の「是(か)くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し、八年の間但八品に限る」との御文を拠(よ)り所にして、「八品正意」を立てています。しかし、「但八品に限る」という意味は、末法に本尊を弘通(ぐづう)すべき地涌(じゆ)上行は『法華経』二十八品の中でも八品に限って顕れ、結要(けっちょう)付嘱の儀式を済ませて去る、という「付嘱の始終」を示されたもので、「本尊の正体が法華経の本門八品に初めて明かされた」という意味ではありません。  
本門八品に示された内容とは、  
「涌出品」……付嘱の人である地涌千界(じゆせんがい=上行菩薩を上首とする地涌の菩薩)が召し出される  
「寿量品」……付嘱の法体(ほったい)である本尊が説き明かされる  
「分別功徳品」……本尊の一念信解の功徳が示される  
「法師(ほっし)功徳品」……本尊を護持する五種の妙行の功徳が示される  
「不軽(ふきょう)品」……末法における本尊弘通の方軌(ほうき)が示される  
「神力品」……寿量品の本尊が上行菩薩に結要付嘱される  
「嘱累(ぞくるい)品」……付嘱を終えた上行等が退座する  
であります。この八品を日蓮大聖人が「但八品に限る」と仰せられた「限る」の意味は、八品すべてに通ずるものです。すなわち、地涌千界の出現は「涌出品」に限られ、本尊所顕は「寿量品」に限られ、結要付嘱は「神力品」に限られると読むのが宗祖の正意であり、ここに、寿量品所顕の本尊を中心とした本門八品の意義が、正しく理解できるのです。  
日蓮大聖人は『新尼御前御返事』にも、「此の御本尊は(乃至)宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累品に事極まりて候」と、「八品には、寿量品に説き顕した本尊の付嘱の始終が明かされている」旨をお示しであり、「八品所顕の本尊」など、どこにも説かれてはいません。それをねじ曲げて「八品所顕の本尊、但(ただ)八品に限る」と主張する日隆は、宗祖の正意を知らぬ誤謬(ごびゅう)の徒でしかありません。  
また日隆は、同じく『観心本尊抄』の、「但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付嘱したまふ」の御文の「之」を「八品所顕の本尊」と曲解(きょくげ)しています。しかしここでの「八品を説いて」とは、前述の通り、通じて本化(ほんげ)の菩薩への付嘱の始終を示されているのであり、「之を付嘱し」とは、別して寿量品の肝心を付嘱したことを示すものです。日隆は「八品」の語句に固執し、御書にもまったく一言一句もない「八品の仏・本尊」を立てる本門流の主張は、御書の正意に迷い混乱した主張なのです。  
「神力品の肝要」「神力品の本尊」  
日隆は、「神力品」の結要付嘱を示した「皆於此経 宣示顕説」の「此経」を、勝手に「神力品」と解釈し、「神力品において付嘱の要法(ようぼう)がすべて顕説され、上行菩薩に付嘱された」と主張しています。  
しかし『観心本尊抄』には、「伝教の云はく『又神力品に云はく、以要言之、如来一切所有之法、乃至宣示顕説已上経文。明らかに知んぬ、(乃至)皆法華に於て宣示顕説するなり』等云云」とあり、「神力品」の「此経」とは、寿量品の観心を含む「法華経一経」を指すことが示されているのです。それを日隆はあえて「神力品一品」だと曲解し、誤った解釈をしているのです。  
「神力品」には、寿量品の文底に秘沈された、結要付嘱の正体を上行菩薩に譲る「付嘱の儀式」が説かれたに過ぎず、「神力品で宣示顕説された『神力品の肝要』『神力品の本尊』など、どこにも説かれてはいないのです。すべては、宗祖の本懐(ほんがい)である「寿量品の本尊」に迷い、どこまでも「神力品」に執着した日隆の邪見・己義(こぎ)でしかありません。  
「但し彼は脱、此は種なり」の曲解  
日隆は、『観心本尊抄』の、「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但(ただ)し彼は脱、此(これ)は種(しゅ)なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」との御文を勝手に解釈し、釈尊在世と滅後末法の衆生を得脱せしめる仏の悟りはまったく同じであるとして、その法体(ほったい)に勝劣を認めない「種脱一双(しゅだついっそう)論」を主張しています。  
しかしこの御文は、「法華経によって成仏を得る衆生」という意味では「一同に純円」であっても、在世の衆生は本已有善(ほんいうぜん)といって、過去に善根(ぜんごん)あるゆえに脱益(だっちゃく)仏(=釈尊)によって脱益の法華経(一品二半)が説かれ、末法の衆生は本未有善(ほんみうぜん)といって、過去に善根無きゆえに、末法下種の仏(=日蓮大聖人)である地涌上行菩薩によって、寿量文底下種の妙法が説かれる……という、すなわち「種脱相対」を明確に示された御文であります。  
日隆は、久遠の釈尊に固執するあまり、大聖人の「寿量文底下種の妙法」を、在世の釈尊の悟りである「法華経文上脱益の妙法」を混同し、「一同に純円」との一往(いちおう)の御文を「一法の二義」などと曲解し、再往(さいおう)「但(ただ)し彼は脱、此(これ)は種(しゅ)なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり」と大聖人が明確に示された「種脱相対」を「種脱一双」と改変してしまったのです。  
日隆は、宗祖の深遠の御法門をまったく理解できずに、曲解に曲解を重ね、宗祖の本意から遠くかけ離れた己義に執着する、謗法の徒に他なりません。 
天理教
沿革・教義  
天理教(てんりきょう)は、中山みきによって幕末に創立された、新興宗教の草分け的な教団です。  
神がかり新興宗教の草分け  
寛政10年(1798年)、現在の奈良県天理市に生まれた中山みきは、13歳で同市内の中山家に嫁ぎました。しかし中山家は裕福な家柄でしたが、夫・善兵衛はとても身持ちが悪く、夫婦仲も悪くなり、家運も落ちていきました。みきが41歳の時、みき夫婦と長男の病気平癒(へいゆ)の祈祷を修験者(しゅげんじゃ)に依頼しましたが、祈祷の加持台(かじだい=神が降りる中継人)の代理になったみきが神がかりとなり、「この世のすべての人を救うため、神の住む社(やしろ)としてみきを差し出せ」「不承知ならこの家を元もこもないようにしてしまうぞ」と夫・善兵衛を脅しました。結局これに善兵衛が応じ、みきを社として差し出しました。こうしてみきが「神のやしろ」と定まった天保9年(1838年)10月26日を、天理教では立教の日としています。  
陽気暮らし  
みきの神がかり以後、中山家は没落しはじめ、その日の食べ物もない状態になりました。これは、みきが神からの「貧に落ちきれ」という命令に従い、全財産を貧しい人に施したことによります。教団では、みきの行動は「どんな境遇でも心の持ち方一つで<陽気暮らし>ができるという手本である」としています。嘉永7年(1854年)、みきの祈祷(をびや許し)によって三女が無事に出産したことが評判となり、近隣の妊婦にも祈祷をして「をびや神様」と呼ばれるようになり、この「をびや許し」と病気治しで、次第に信者が増えていきました。そして、みきは慶応2年(1866年)から『みかぐらうた』を作って「つとめ」の形式を定め、明治2年(1869年)から『おふでさき』の執筆を開始して、教義の体系化を進めるようになりました。  
その後の展開  
明治13年、天理教は、明治政府の取り締まりを逃れるため、仏教宗派を偽装して転輪王講社を設立し布教しようとしましたが、計画は失敗し、みき他関係者は官憲に摘発されました。その後、明治19年までの間に、みきの逮捕・拘留は10数回におよびました。そうして大阪府から教会設立許可が下りないまま、みきが明治20年に死去。中山眞之亮(しんのすけ)が初代の教団代表者「真柱(しんばしら)」に就任しましたが、実質的な教団の中心者は本席(みきの死後の神意の取り次ぎ者)・飯降伊蔵でした。教団は明治21年に「神道天理教会」の設置許可を得ましたが、明治41年(飯降伊蔵死去の翌年)に「天理教」として独立しました。その後、2代真柱・中山正善(しょうぜん)は昭和24年に『天理教教典』などを刊行して今日の教団の教義の基礎をつくり、3代真柱・中山善衛(ぜんえ)を経て、現在は善衛の長男の善司(ぜんじ)が4代真柱となっています。教団ではみきを「教祖(おやさま)」と称し、それ以後の代表者は「真柱」と呼び、今日まで中山家の直系の男子によって教団が継承されています。  
信仰の対象と教典  
教団では信仰の対象を「目標(めど)」と称し、  
(1)「ぢば」 / 親神が人間創造の際に最初に人間を宿した場所。現教団本部の神殿中央には、このぢばの目印として「かんろだい」が置かれている。  
(2)「親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと)」 / 人間をはじめ、世界を創造した根元の神。教祖みきの体を借りてこの世に現れ、世界中の人々を一切の苦から解放して、喜びずくめの生活(陽気暮らし)へと導き、すべての人々を守護する。  
(3)教祖・中山みき / 死後もその命を「ぢば」にとどめて永遠に存在していて、親神による人類救済はこのぢばを中心に行われているとする。  
の3つを挙げています。なお、教会では天理王命の象徴として神鏡(しんきょう)を、教祖の象徴として御幣(ごへい)を祀(まつ)っています。また信者の家では「神実(かんざね)」という小さな神鏡を祀ります。  
また教典としては、  
(1)『おふでさき』 / みきが親神の教えを歌形式で記したもの。  
(2)『みかぐらうた』 / みきが作った数え歌。人間が陽気暮らしを実現するための方法を示しているとする。  
(3)『おさしづ』 / 教祖みきや本席・飯降伊蔵が親神の言葉として述べた内容を筆記したもの(ほとんどは伊蔵によるもの)。  
の3つがあり、これら3原典に基づいて昭和24年に編集されたものが「天理教教典」です。  
「つとめ」と「さづけ」  
教団では、親神は人間を助ける方法として「つとめ」や「さづけ」を示し、陽気暮らしの世界をこの地上に実現するとしています。  
(1)「つとめ」 / 「本づとめ」と「朝夕のつとめ」の2種。教団では、「本づとめ」によって心が澄みきり、親神と人間がともに陽気がみなぎり、全世界を陽気暮らしに立て替えていくと主張する。  
(2)「さづけ」 / 病気治しの手段。決まった手振りをしながら「あしきを払うて助けたまえ」等と3回唱えて3回なで、これを3回繰り返す。  
八つの埃(ほこり)  
天理教では「心と肉体は別のもの」とし、肉体は親神からの借り物で、心だけが自分独自のものであるとしています。人間は意識しないうちに、心に「をしい(惜)」「ほしい(欲)」「にくい(憎)」「かわい(可愛い)」「うらみ(怨)」「はらだち(怒)」「よく(貧)」「こうまん(慢)」の八つの埃(ほこり)を積んでおり、天理王命に祈ることによって、ホウキで塵(ちり)を払うごとく陽気暮らしに導かれるとしています。  
貧に落ちきれ  
教祖みきは、神からの「貧に落ちきれ」という命令に従って全財産を貧しい人に施(ほどこ)したといいます。そこで教団では、「教祖の行動は、どのような境遇でも心の持ち方一つで<陽気暮らし>ができるという手本(ひながた)である」と信者に教えます。信者は欲の心を離れて、欲を起こす原因となる金銭を親神にお供え(おつくし)し、自分のために働く日常生活を離れて教会に行き(はこび)、人のために奉仕する(ひのきしん)ことを実践の徳目としています。 
疑問  
神がかりは精神分裂と同じ  
大本や金光教などの項でも書きましたが、新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」の、「神がかり」というのは何なのでしょうか。精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと口走ったら、どう思いますか? 普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。「神のお告げを受けたとは、何と素晴らしいことでしょう」などと信じる方がどうかしているわけです。このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。「万物創造の親神」などというものは、単なる妄想の産物です。  
社会生活を破壊する「貧に落ちきれ」  
「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」これは昔、世間の人々が天理教を揶揄(やゆ)したものです。人は、特別な金持ちになる必要はなくても、「生活に最低限必要な金銭・財産は確保したい」と思うのが当たり前です。そうでなければ、当たり前の社会生活に破綻をきたすからです。  
ところが天理教では「貧に落ちきれ」と言い、「どんな境遇でも心の持ち方一つで陽気暮らしができる」などと無責任な人生教訓を押しつけ、しかも「欲の原因となる金銭を親神にお供えしろ」と、教団への多額の布施を徹底しているのです。あげくには「自分のために働く日常生活を離れて教会に行け」とまで言い、信者の社会生活を破綻に追い込みかねないことまで言っています。  
これでは、信者は単なる「教団の奴隷(どれい)」でしかありません。こうして信者から集めた莫大な金で、真柱(しんばしら)やら教団幹部がどのような暮らしをしているのか、ぜひ見てみたいものです。彼らが貧に落ちているとは、とても思えません。  
人間の本質を無視した「八つの埃」説  
天理教では、「本来は清く正しい人間の心に八つの埃(ほこり)がつき、その埃がすべての病気や災害などの不幸の原因である」などと主張しています。では、天理教で懸命に天理王命を信じて、「はらだち(怒)」が消えてなくなった人はいるでしょうか。いるはずがありません。すべての欲がなくなった人がいるでしょうか。いるはずがありません。まったく怒りがない人間などいません。「病気を治したい」と願うことも欲です。こうした人間本来の姿を無視して、しかもそれがすべての不幸の原因であるなどとは、因果の道理を無視した妄説でしかありません。「五欲を離れず」、「煩悩を即(すなわ)ち菩提(ぼだい=悟り)と転ずる」とする仏教と比べるまでもなく、天理教は人間の本質に暗い、低劣な外道教団と呼ばざるを得ません。 
幸福の科学
沿革・教義  
幸福の科学は、大川隆法(おおかわ・りゅうほう)が自らを「釈尊(お釈迦様)の再誕にして、救世主たるエル・カンターレである」などと公言し、恒久ユートピアを建設すると称して設立した教団です。  
大川の神がかり現象  
大川隆法は、本名を中川隆といい、昭和31年に父・中川忠義と母・君子の間に生まれました。父・忠義は、戦前にはキリスト教を、戦後は「生長の家(別項参照)」を信仰し、さらに昭和51年には「GLA」に入会し、高橋信次の教えを受けました。また母・君子は理容業を営むかたわら、霊媒師(れいばいし)としても活動していました。中川隆は高校卒業後、2浪して東京大学法学部に入学。在学中は、高橋信次の本やさまざまな哲学書・思想書を読みふけっていたそうです。昭和55年、隆は国家公務員上級試験と司法試験を受けるも不合格。翌年も再度受験しましたが、ともに失敗に終わりました。一流志向の強かった隆は激しい挫折感に苛(さいな)まれ、心身ともに疲れ果て、昭和56年3月に突然「神がかった」のだそうです。この時、無意識に手が動いて文字を書く「自動書記現象」が起こり、紙にカタカナで「イイシラセ イイシラセ」から始まるいくつかの事柄を書き連ねたといいます。後年、隆は「このメッセージを送ってきたのは、日興上人(にっこうしょうにん)だったのです」などと述べ、またこの啓示によって「大悟(だいご)し、人類救済の大いなる使命を自覚した」などと説明しています。  
霊言集の出版と教団の設立  
隆は同年3月に大学を卒業し、総合商社に入社した後も、日蓮・高橋信次・キリスト・釈尊から霊言を受ける体験をしたなどと述べています。昭和60年8月、隆は最初の霊言集として『日蓮聖人の霊言』を著しました。これは父・忠義の質問に隆が答えるという形式で構成され、著者名は父・忠義のペンネーム「善川三朗(よしかわ・みつあき)」となっています。その後も隆は、空海・キリスト・天照大神・ソクラテスなどの霊言集を順次出版しました。  
隆は執筆活動に専念するため、昭和61年7月に総合商社を退社し、名前を「大川隆法」と改名しました。そして同年10月、釈尊の啓示と称するものをまとめた教典『仏説・正心法語』を発刊し、「幸福の科学」を設立しました。この教団名は、隆法が受けたという日蓮聖人の「これは宗教ではなく、幸福の哲学であり、幸福の科学なのだ」とかいう霊言に基づいているのだそうです。  
平成3年、教団は宗教法人の認可を受け、同年7月、隆法は東京ドームで「御生誕祭」を行い、「自分こそ、大乗の仏陀(ぶっだ)、エル・カンターレである」と宣言しました。この御生誕祭と前後して、週刊誌等に隆法批判が繰り返し報道されたため、同年秋に教団信者の著名人(作家・女優など)を中心とする会員3,000名が「被害者の会」を組織し、出版社に対して抗議行動やマスコミ批判を行いました。しかしこの行動が逆にマスコミから反発を買い、大きな社会問題に発展しました。その後、教団は教団誌『幸福の科学』や布教誌『リバティー』などで盛んに他宗教を批判しながら、平成12年には『新・太陽の法』、平成15年には『黄金の法』といったアニメ映画を制作・上映し、映像メディアを用いての布教もしています。  
信仰の対象  
幸福の科学では、「エル・カンターレ」を自称する大川隆法を信仰の対象としています。エル・カンターレとは「地球系霊団の最高大霊」、仏教で説く「久遠実成(くおんじつじょう)の仏陀や法身仏(ほっしんぶつ)と呼ばれる存在、神々の師である釈迦大如来」を意味するとし、それが地上に大川隆法として現れたなどと主張しています。さらにインド応誕の釈尊等はエル・カンターレの「意識の一部分」であり、隆法は本体意識であるなどとしています。そういうことで教団では、隆法の写真を本尊として祀(まつ)り、信者に拝ませています。  
教典その他  
教団の根本教典は、昭和61年に隆法が釈尊の啓示を受けて自動書記したとされている『仏説・正心法語』です。また隆法著の『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』の三部作と、『釈迦の本心』『真説八正道』『仏陀再誕』など数百冊の出版物を教義の基本書としています。  
教義その他について  
・二十次元論 / 大川隆法は自分勝手な「二十次元論」なるものを主張しています。これは一般的な「線の一次元、平面の二次元、立体の三次元、立体に時間を加えた四次元」という数学的概念に、独自に「精神」「真理意識」「菩薩界」「慈悲」その他もろもろを継ぎ足して、「大宇宙の根本仏は二十次元以上の存在である」などというものです。  
・四正道(よんしょうどう) / 教団では、「正しき心の探究をしていくところに、この世とあの世を貫く幸福が実現する」などと主張し、「四正道(愛・知・反省・発展の探求)」がその具体的な方法であるとしています。この四正道の実践によって各人が幸福になり、それを社会全体に広げていくことで世界的にユートピアが実現するのだそうです。  
・誌友会員と正会員 / 幸福の科学の会員は、教団誌『幸福の科学』の購読契約者である「誌友会員」と、『新・太陽の法』を読んで感想文を提出し、教団の審査に合格した「正会員」の2種があります。以前は、隆法の本を最低でも10冊以上読んで論文を提出しなければならず、それでも不合格や待機を言い渡されるケースもありました。  
正会員になると、教団の教典である『仏説・正心法語』や『祈願文』をもらうことができ、教団のすべての行事に参加する資格が与えられます。  
・悪霊撃退と病気癒(いや)し / 正会員になると、「エル・カンターレ・ファイト」と呼ばれる悪霊撃退の修法と、「エル・カンターレ・ヒーリング」という病気癒しの修法を執り行うことができるそうです。例えばヒーリングの場合、相手に向かって合掌した後、手を横に開いて頭の上に組んでから胸の前に突きだして「エル・カンターレ・ヒーリング」と叫びます。 
疑問  
新興宗教というものは、一つの例外もなく荒唐無稽(こうとうむけい)なものではありますが、この教団のレベルの低さはその中でも群を抜いています。  
デタラメ霊言と、妄説・珍説の山  
隆法の「霊言集」には、キリスト、釈尊、孔子、モーゼ、ノストラダムス、ニュートン、天照大神、親鸞(しんらん)、道元、出口王仁三郎(大本の項参照)、高橋信次、そして日蓮大聖人・・・というように、洋の東西を問わず、大変な人数が無制限に利用されています。しかし表紙の名前を変えても中身は皆同じ。どこまでも大川隆法の稚拙(ちせつ)な妄言の羅列でしかありません。単なる自説の著作が、どうしたら大勢の人の目にとまるかを考え、その宣伝に各宗の教祖等を利用しただけのことです。  
実際、『新・幸福の科学入門』で隆法自身が、「別に霊言集で問わなくても、私が書いてもかまわないのですが・・・大川隆法の名前で文章を書き、発表しただけでは、世の人々はなかなか信じてくれません」と告白しているのです。では、その霊言・妄説のごく一部を潰してみます。  
(1)釈尊 / 隆法は釈尊になりすまし、「諸々(もろもろ)の比丘(びく=僧)、比丘尼(びくに=尼僧)たちよ、我はここに再誕す。我が再誕を喜べ、我が再誕にきづけ」などと述べています。しかし釈尊は『法華経』において、自身の滅後、末法の時代に法華経を広める役目を、上行菩薩を上首とする地涌(じゆ)の菩薩に付嘱(ふぞく)されているのであり、自らがこの地上に再誕するなどとはどこにも説かれていません。隆法の妄言が真実だとすれば、この法華経の教説がウソということになります。法華経がウソなのか、隆法が誇大妄想なのかは論ずるまでもないでしょう。  
(2)日蓮聖人 / 隆法は『日蓮聖人の霊言』のなかで、「相手の現状を千里眼と宿命通力(しゅくめいつうりき)で分析したあと、日蓮上人におうかがいを立て、霊言として解答を・・・」などと述べています。しかし日蓮大聖人は『唱法華題目抄』に、「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但(ただ)し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」と御教示されており、この末法の時代に通力(神通力)などを売り物にするのは魔の所業であると断じておられるのです。信者その他が日蓮大聖人の御法門をまったく知らないのをいいことに、デタラメの言い放題です。隆法は魔の権化(ごんげ)です。  
(3)天台大師の一念三千 / 隆法は『太陽の法』に、「いまから一千数百年前に、天台智覬(てんだいちぎ)が、中国の天台山で一念三千論を説いていたのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実はほかならぬこの私でした」などと述べています。さらに天台大師を指導したその内容とは、「思い→想い→念(おも)いとだんだんに力を得てくるおもいの力があるわけですが、…人の心には、念いの針というものがある。この念いの針は、一日のうちで、さまざまな方向を指し示し、揺れ動いて、とまるところを知らない。…人の念いの針は、すなわち、これ一念三千、あの世の天国地獄に、即座に通じてしまうのだ」というものだそうです。また『幸福瞑想法』には、「人間の思いの性質、念の性質、これがどこにでも通じるという性質のことを一念三千と言います。三千というのは、割り切れない数、すなわち、数多いという意味です」などという珍説を述べています。天台大師も大変な人に教わったものです。  
この一念三千について、日蓮大聖人は『一念三千法門』で、「十界(じっかい)の衆生(しゅじょう)各互ひに十界を具足す。合すれば百界なり。百界に各々十如を具すれば千如なり。此(こ)の千如是(せんにょぜ)に衆生世間・国土世間・五陰(ごおん)世間を具すれば三千なり」と御教示されています。すなわち十界互具(じっかいごぐ)・百界千如(ひゃっかいせんにょ)・三千世間と広がる心を持つ衆生の一念を、一心三観(いっしんさんがん)・一念三千というのです。  
この法華経の大切な教義も、大川隆法の手にかかるとこの通りです。あまりにも幼稚で、これで「自分は大乗の仏陀(ぶっだ)、エル・カンターレである」などと言うのですから、驚くべき低次元の教祖様であります。  
(4)法華最第一を批判する「釈尊の再誕」 / 大川隆法の『黄金の法』では、「法華経至上主義についてですが、釈迦の教えは何百何千の法門があり、法華経のみが正しく、他の経典は真理を伝えていないという考えは、間違っております」などと、法華経が唯一真実の正法(しょうぼう)たることを否定しています。  
しかし、法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」すなわち「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと説いているのです。また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」と説かれ、さらに『法華経』の法師品(ほっしほん)には、「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」と説かれ、法華経こそが正しい教えであると宣言されているのです。  
隆法は「釈尊の再誕」なのに、どうやらこれらの教説を知らないようです。もしや忘れてしまったのでしょうか? 再誕だというなら、ぜひ思い出してほしいものです。  
デタラメな予言  
隆法は『黄金の法』の中で、西暦2000年の世界について、ノストラダムスの予言に基づき、「世界の人々は、前年の夏に起きた衝撃的な悪夢からまだ立ち直れないでいます」として、世界各地の状況を述べ、ニューヨークは機能をなくして壊滅的になっていると言い、日本も復旧作業が続けられている…などと、まことしやかに予言しています。しかし実際、何も起こらなかったことは衆知(しゅうち)の事実です。結局、隆法は予言者でも霊能者でもなく、ノストラダムスの尻馬に乗って落馬した凡人でしかありません。まさに、宗教利用の詐欺師と呼ぶべきでしょう。  
次元の低い「二十次元論」  
大川隆法は自分勝手な「二十次元論」なるものを主張しています。これは一般的な「線の一次元、平面の二次元、立体の三次元、立体に時間を加えた四次元」という数学的概念に、独自に「精神」「真理意識」「菩薩界」「慈悲」その他もろもろを継ぎ足して、「大宇宙の根本仏は二十次元以上の存在である」などというものです。しかし、これは論理にすらなっておらず、四次元までの数学的な概念と、隆法が主張する五次元以降の世界観はまるで別世界の異物で、世間の常識から見ても荒唐無稽(こうとうむけい)な、木に竹を接(つ)いだような愚論です。このように支離滅裂(しりめつれつ)なものが根本教義だというのですから、教団の底の浅さとデタラメさが知れるというものです。  
無意味な「四正道」  
教団では「四正道(よんしょうどう=愛・知・反省・発展の探求)」を説き、これを幸福になる基本原理であるなどと主張しています。また、これらを釈尊の説いた「八正道(はっしょうどう)」になぞらえています。隆法は『太陽の法』で、「天台大師よ、八正道は、まさしくこの一念三千論を基礎として生まれたのである」などと好き勝手なことを述べていますが、仏教で説かれる八正道というのは、小乗教の四諦(したい)法門のうち、道諦(どうたい)における八種の修行法のことであり、実大乗教たる『法華経』の、天台の一念三千法門とは何の関係もない、方便大乗教よりもさらに劣る教えです。しかも隆法の説く「四正道」は、キリスト教の博愛主義の枠(わく)を出ない道徳論レベルのものであり、仏教の中でも低い教えである小乗教にもおよばない、さらに仏教とは何の関係もない、根拠のない外道論です。 
霊友会
沿革・教義  
霊友会(れいゆうかい)は、久保角太郎が霊媒(れいばい)信仰・法華信仰・先祖供養を混ぜこぜにした新教団を作るために、兄嫁の小谷キミ(喜美)を霊能者に仕立て上げ創立した在家教団です。  
西田利蔵への傾倒  
久保角太郎は、兄の知人を介して西田利蔵(西田無学)なる人物の教えを知り、これに強い影響を受けました。この西田なる人物は、仏所護念会(関口嘉一が作った、現在の同名の会とは異なる)という新興宗教を立ち上げた人物です。西田利蔵は、法華経の経文「平等大慧 教菩薩法 仏所護念」の「仏所」を亡くなった人間の霊がいるところと解釈し、「仏所護念」とは、霊のいる場所を護り、念ずることであり、これこそが「先亡諸精霊供養法」であると主張しました。そしてすべての霊を祀(まつ)り、供養するために「生・院・徳」の三文字を使った戒名を創案し、「祈願唱」なる祈り言葉を作りました。その西田の教えなるものは、  
・出家を否定し、在家仏教を主張  
・夫婦双方の先祖供養のため、「総戒名」という方式を用いる  
・無縁墓地となった墓石を洗い、法名を写し帰って自分の家に祀り、供養する  
・『無量義経』訓読(開)、回向唱、『観普賢菩薩行法経』訓読(結)、祈願唱などによる独自の経本を用いて読経・唱題(南無妙法蓮華経)する  
というもの。霊友会の教義は、実際にはこの西田利蔵が作り上げた教えを、ほぼそのまま踏襲(とうしゅう)したものです(しかし霊友会では、この事実を特に公表していません)。  
小谷キミと角太郎  
小谷キミは、先述の通り久保角太郎の兄嫁にあたります。大正14年、角太郎の兄・小谷安吉の後妻となったキミでしたが、その後二度にわたり安吉が腰痛を患って立てなくなり、そのたびに角太郎の指示に従って1日に5、6回も水をかぶり法華経による先祖供養を行ったところ、2度とも1週間ほどで安吉が立てるようになったらしいです。こうしてキミは角太郎の指導のもとで、霊能者としての修行を始めました。  
・真冬に1日中、浴衣1枚で生活する  
・真夏に布団を首までかけて1日中過ごす  
・毎日、数時間の水行(水かぶり)  
・21日間の断食  
というようなことをしていたそうです。こうしてキミは霊能者に仕立て上げられました。  
教団の変遷  
昭和5年7月、久保角太郎と小谷キミは霊友会の発会式を挙行しました。当初は氷山武敏という人物が会長となりましたが、3ヶ月で辞任したため、キミが後任の会長に就任しました。そしてキミの自宅を本部とし、角太郎は精力的に布教活動を続けるかたわら、女性信者を次々と霊能者に仕立て上げ、次第に勢力を広げていきました。しかし昭和9年頃から、教団内部でキミの指導に対する反発が起こりはじめ、脱会して新しい教団を設立する者も出はじめた。また戦時中は、当局の新興宗教に対する弾圧から逃れるため、子爵・仙石家の娘を総裁に迎え、さらに教団行事として毎月1日に伊勢神宮への参拝まで行いました。そして昭和19年11月、角太郎が53歳で死去したことにより、教団運営の全権はキミが握ることとなりました。しかし昭和24年、占領軍の捜索を受け、本部から金塊とコカインが摘発さたり、その翌年、脱税容疑で捜査が入り、麻薬所持でキミが検挙されるなどの事件が連続し、教団は分裂、多くの脱会者を出すこととなりました。さらにキミは昭和28年には赤い羽根募金110万円横領、闇ドル入手、贈賄容疑などで検挙され、霊友会への社会批判が集中しました。昭和39年、伊豆に「聖地弥勒山(みろくさん)」を建設して弥勒菩薩像を祀(まつ)り、発会から30年以上も経ってから、新しい教典である「弥勒経」を創作して弥勒信仰を取り入れました。昭和46年2月に小谷キミが死去したのちは、会長・久保継成(つぐなり)が「いんなぁ・とりっぷ」キャンペーンをやって教団の宣伝に努め、昭和50年には「釈迦堂」を完成させました。その後、濱口八重会長を経て大形市太郎が第4代会長に就任し、現在に至っています。  
霊友会は仏教系を自称しながら「仏法僧の三宝」を立てないという不可思議な教団で(通常、仏教というものは、小乗教であれ方便大乗教であれ、必ずそれぞれに三宝を立てるものです)、いかにも霊能から出発した教団といった風情です。本部には釈尊像を、伊豆の研修所には弥勒菩薩像を祀りながら、三宝を立てず、仏力・法力を信ずることもなく、自力による死者の供養こそ第一義として、新入信者にはまず総戒名という会員各自の祖霊(先祖の霊)を拝むことを教えるのがこの教団です(その後、十界の曼荼羅を授けられ、それを礼拝の対象とします)。  
その総戒名ですが、教団では「天地のすべては妙と法の二つから成立している」といい、女性は陰にして妙、男性は陽にして法なのだとして、妙法がそろって初めて諸精霊(しょしょうりょう)に対する真の供養ができるのだと主張しています。男女ともに分かる限りの先祖の名前を教団本部に提出させ、それを元に「生・院・徳」の文字の入った戒名を本部が付け、それを本部と家庭の両方で祀って供養しています。具体的には、各家庭においては「総戒名」というものを祀ります。霊友会ではこれを「仏所護念の御本尊」と呼んでいます。これといっしょに先祖の法名を命日ごとに記した「霊鑑(過去帳のようなもの)」を仏壇に祀るわけですが、その法名も霊友会特有の、  
○生院法○○徳善士(男性の場合)  
○生院妙○○徳善女(女性の場合)  
というものです(しかし前述の通り、本部の釈迦殿には釈迦像が、伊豆の弥勒山には弥勒菩薩像が祀られています)。  
この総戒名と霊鑑の前に、コップに入れた水・線香・ロウソク、花・お供え物を置きます。そして、白地の片タスキ(前に「南無妙法蓮華経 霊友会本部」、後ろに「南無妙法蓮華経 教菩薩法仏所護念分別広説仏正」と書かれている)をかけて、朝夕30分くらいのお経と題目を唱えます。お経は「青経巻」と呼ばれる経本『南無妙法蓮華経・朝夕の、おつとめ』を使います。これは「無量義経(むりょうぎきょう)」「法華経」「観普賢菩薩行法教(かんふげんぼさつぎょうぼうきょう)」の法華三部経(霊友会では一部経と呼んでいる)から勝手に抜粋した経文に、先祖供養のための「回向唱」、さらに「祈願唱」なるものを加えたものです。活動としては、本部で毎月行われる「在家のつどい」やら「夕べのつどい」に参加したり、体験談を語り合う「法座」、さらには弥勒山での大祭、セミナーやら身延七面山恩師御宝塔参拝登山修行にも参加します。 特に「おみちびき」と呼ばれる布教活動は、最大の功徳(くどく)をもたらす修行と位置づけられています。 
疑問  
「仏所護念」に関するデタラメな解釈  
霊友会は先述の通り、西田利蔵が主張した「仏所護念」の意義付けをそのまま踏襲しています。まず、この意義付けからしてデタラメです。  
「教菩薩法 仏所護念」は、訓読すると「菩薩を教うる法にして、仏の護念したまう所なり」となりますが、この「仏所護念」について天台大師が『法華文句』に、「仏所護念とは、無量義処(むりょうぎしょ)は是(これ)仏の証得(しょうとく)したまう所なり。是(こ)の故に如来(にょらい)の護念したまう所なり」と釈されているとおり、「仏所護念」とは「正覚(しょうかく)の仏(釈尊)が護(まも)り念じてこられたところの法(法華経のこと)」というのが正しい意味です。法華経の見宝塔品を見ると、「釈迦牟尼世尊、能(よ)く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以(もっ)て大衆の為に説きたもう。」とあります。これは「釈尊の説法はすべて真実である」と証明した多宝如来の言葉ですが、その意味は、「菩薩やあらゆる人々を平等に救うべき真実の法を、仏は長い間護り念じてきた。その護念してきた妙法を、釈尊は時来たって大衆に説くのである」ということです。  
ところが西田利蔵は、「仏の護念したもう所の妙法」と読むべきを「仏の所を護念する」と読んでしまい、しかも仏を「先祖の霊のこと」と解釈するという信じがたい愚迷を犯しました。  
このように西田は、「死んだ人の霊がいる所を護り、念ずること」というデタラメ勝手な解釈をして、独自の先祖供養法の根拠として主張したわけです。霊友会の教義はこうした誤った解釈を元としているゆえに、法華経を信奉しているようなフリをしながら、実は法華経の意(こころ)を殺すものです。  
しかも霊友会は、「仏所護念」に関する西田のデタラメ解釈をはじめ、あらゆる西田流教義をほぼそのまま霊友会の教義として流用していながら、その事実を公表していません。霊友会の出版物のどこにも、西田利蔵の名は出てきません。そのことを知られたくないのでしょうか。  
先祖の霊を本尊にする邪法  
日本人は、死んだ人を「仏さん」と呼んだりして、死んだ人は仏であるがごとき誤解があります。日本人特有の優しさかもしれませんが、これは誤りです。  
先祖といっても、今生きている私たちと同じ凡夫衆生(ぼんぷしゅじょう)であり、死んだからといって「正しい悟りを得て仏になる」わけではありません。したがって、死者の霊が子孫を守ったり苦悩から救うなどということはできません。その先祖を本尊に仕立て上げて祀(まつ)って祈願や礼拝の対象とすることは、仏法上、大きな誤りなのです。  
これも日本人の多くが誤解しているかもしれませんが、仏教は「死んだ後も、個々人の我(が)が霊魂として永遠不滅に存続する」というような説を「常見(じょうけん)」と呼び、これを否定しています。これは内道(仏教のこと)ではなく、外道見(げどうけん)なのです。訳の分からない霊能者やら邪宗の坊さんやらが、テレビ等で好き勝手なことを言ったりしてますが、あれは実は仏教とは何の関係もありません。  
そして法華経ではもちろん、先祖の霊を祀って本尊にしろなどとはどこにも書かれていません。西田無学から受けついだ、霊友会の邪説です。  
しかも、各家庭では先祖の霊を祀らせながら、本部の釈迦殿には釈迦像が、伊豆の弥勒山には弥勒菩薩像が祀られている有り様で、この教団が何をしたいのか分かりません。  
要するに死者の供養が第一義で、拝む対象など意味をなさないというのがこの教団の特色でありますが、宗教としての根本が欠落しています。  
生・徳・院  
霊友会では総戒名を祀らせていますが、教団が信奉しているはずの法華経には、どこにも「生・徳・院の文字を使った戒名を付け、それを拝め」などとは説かれていません。言うまでもありませんが、霊友会の勝手な創作です。仏教にしたがっているフリをしながら、実は勝手に教義をでっち上げて似ても似つかないものになるのは、この教団に限らず新興宗教の常であります。  
日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」を盗む  
「青経巻」と呼ばれる経本の表紙には、大きく「南無妙法蓮華経」と書かれています。しかしこの五字・七字は、釈尊(お釈迦様)の法華経の文上にはいっさい説かれていません。末法(まっぽう)の時代に至って、日蓮大聖人が初めて説きいだされた本門三大秘法であります。したがって、釈尊の法華経を依経(えきょう=よりどころの教典)とする霊友会には何の関係もありません。この題目は本門三大秘法の「本門の本尊(弘安2年10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊)」に具足する「本門の題目」であります。したがって、日蓮大聖人が顕(あらわ)された本門の本尊に向かい奉り唱えるところの題目です。  
日蓮大聖人は、「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(『経王殿御返事』)「日蓮等の類の弘通(ぐづう)する題目は(中略)所謂(いわゆる)日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是(これ)なり」(『御講聞書』) 等と御教示であり、霊友会のごとく先祖の戒名などに対して唱えるのは、日蓮大聖人の聖意(しょうい)に背く邪法となります。先祖供養どころか、自身に大きな罪業を積むことになってしまうのです。 
立正佼成会
沿革・教義  
立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は、霊友会の会員だった庭野日敬(にわのにっきょう)と長沼妙佼(ながぬまみょうこう)が同会から離脱して創立し、庭野の姓名判断・方位学・易学等と長沼の霊能を売り物に、戦後、急激に勢力を拡大した在家教団です。  
何でもありの庭野日敬  
明治39年に新潟に生まれた庭野日敬は、17歳の時に東京大久保の炭屋に丁稚(でっち)で入り、そこの主人の石原淑太郎から六曜(先勝・友引・仏滅等)や九星(一白・二黒・三碧等)、さらには易占いによる方位方角や、五行説等を学びました。26歳の時には、長女の中耳炎を治そうとして真言密教系の女修験道(しゅげんどう)者の綱木梅野に弟子入りし、九字を切ったり加持祈祷(かじきとう)やら水行やらいろいろな修行を重ねて、ついには師範代にまでなりました。またその後、小林晟高(せいこう)という人物からは、姓名判断と運勢鑑定を学び、のちに佼成会でこれを大いに利用したようです。このように、霊友会に入信する以前の庭野は、とにかく何でもありで学びました。この当時の経験が、佼成会の方向性に大きな意味を持つことになります。日敬は佼成会発足後、教勢を拡大するにあたって、こうした迷信や俗信、占い、祈祷など何でも取り入れて布教の手段にしたのです。現在においても、多分にそのカラーが残っているようです。  
庭野日敬と長沼妙佼の出会い  
漬物屋を営んでいた庭野日敬は、子供の病気を予言されてそれが当たったのをきっかけに霊友会に入会し、その後に先祖の霊を祀(まつ)ったら子供の病気が治ったとして霊友会信仰にのめり込み、翌年には支部長になりました。仕事は漬物屋から牛乳販売に転業した日敬でしたが、その配達先のお客のなかに、病気がちな焼き芋屋の奥さんがいました。その奥さんは病気を治したい一心で、日敬に勧められて霊友会に入会しました。それが長沼マサ(のちの妙佼)だったのです。焼き芋屋で働いていた甥っ子がある時腹痛を起こし、それが先祖供養で治ったということで、長沼妙佼は霊友会にのめり込んでいくことになります。以後、庭野と長沼はコンビを組んで布教に励んでいましたが、ある時、全国支部長会議の席上で、霊友会会長・小谷キミが「法華経の講義なんて時代遅れだ。そんなことをするのは悪魔だ」などと発言しました。それを聞いた二人は霊友会からの脱会を決意し、昭和13年3月、「大日本立正交成会」を設立したのです。  
その後の展開  
昭和17年、東京杉並に新本部道場を作り、庭野の姓名判断や易学、それと長沼の霊感による病気治しを売り物にして布教を展開しました。しかし昭和18年、霊感指導が人心を惑わすという理由で二人は検挙され、この事件によってほとんどの支部長が脱会してしまいました。  
また昭和31年には、読売新聞が「大日本立正交成会の土地(現本部の所在地)購入に関して不正行為があった」と報道して教団批判キャンペーンをやり、それによって庭野は国会に喚問されることになりました。  
この事件の対処法などを巡って教団内に庭野批判が起こり、ついには「庭野を追放して長沼を教祖にしよう」というクーデターも計画されたましが、翌年に長沼妙佼が病気で死去したため、この騒ぎも沈静化していきました。  
その後の昭和33年1月、庭野は突如として、教団創立から長沼の死去までを<方便時代>と規定し、今や<真実顕現の時代>に入ったと言い出しました。そして霊能中心の信仰から教学(きょうがく)重視の信仰への転換をはかるとともに、本尊を<久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊>にすることを宣言しました。さらに昭和35年、庭野は教団の名称を「立正佼成会」と改め、昭和39年には本部に大聖堂を建てて、本尊である久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊の立像を安置しました。昭和40年、庭野は第二バチカン公会議に出席したのち、各宗との協力関係を重視するようになり、世界宗教者会議の開催に尽力したりしました。庭野は平成3年になって長男の庭野日鑛に会長職を世襲し、自らは開祖と称していましたが、平成11年に死去しました。  
本尊について  
立正佼成会の本尊については、長沼妙佼の霊感によってコロコロ替わってきた経緯があります。  
〔発足当初〕霊友会の曼荼羅(まんだら)に、守護神として毘沙門天を加えたもの  
〔昭和15年〕中央に南無妙法蓮華経、その右に「天壌無窮」、左に「異体同心」と書いた旗  
〔昭和17年〕上記の旗を掛け軸にし、守護神として大日如来を加えたもの  
〔昭和20年〕庭野が「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」と書いたもの  
〔昭和23年〕「日蓮聖人の大曼荼羅」と称して、庭野が書き写したもの  
そして長沼が死去した翌年の昭和33年、庭野は「今までは方便の時代であり、今こそ、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊を本尊とすべきである」と宣言しました。これで6種類目の本尊ということになります。また会員の場合、総戒名のみを本尊とするのは入会当初のことで、信仰が進んでくると「御守護神」や釈迦の絵像を祀り、さらに幹部級になると「大本尊」といわれるものになります。  
教義と実践  
まず「教菩薩法 仏所護念」と書かれたタスキをかけ、仏壇に総戒名を祀(まつ)ってその前に霊鑑(過去帳)を置き、朝晩に「聖典」という教典を読んで先祖供養をする・・・このあたりまでは基本的に霊友会と同じです(霊友会の項参照)。ただし具体的な修行方法は長沼の霊感によって決定されたり、真言の九字や水行などの密教的要素の強い修行も行います。さらには布教の手段として、庭野の姓名判断や易学なども用います。また庭野は、昭和33年の「真実顕現」宣言と同時に、「法華三部経を日常生活に活かす」という主張を始めました。これは、根本仏教の四諦(したい)・八生道(はっしょうどう)・十二因縁(じゅうにいんねん)と、大乗仏教の示す六波羅密(ろっぱらみつ)の法門を用い、これによって「反省と精進を重ねて仏知見(ぶっちけん)を開き、菩薩道の実践を目指す」のだそうです。  
また佼成会に入会しても、「それまでの宗教を捨てる必要はない」「自分の檀家寺や氏神を大切にするように」などと教えられます。これは別項の『生長の家』などと同じ「万教同根(すべての宗教は根っこは同じ)」的発想があり、他宗批判をしないというスタンスです。他宗を容認し、慈善事業や平和運動を推進するのも霊友会ゆずりと言えます。  
入会したものは「法座」という少人数のグループ座談会の一員になり、会員はそこを信仰修練の場としています。幹部の指導を受けることを「結んでもらう」といい、また「病気にかかったり、災難にあったりするのは仏様の慈悲のムチである」として、ありがたい試練として自分の修行に取り入れていきます。これを「お悟り」といってます。そうした修行の中でも、「お導き(=布教活動)」と「本部通い(=労働奉仕)」が特に強調される傾向があります。 
疑問  
コロコロと変わる本尊  
立正佼成会には、これまでに6種類もの本尊が登場しました。現在でこそ「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」が本尊となっていますが、そこにいたる経緯は前述の通りです。佼成会は霊友会の祖霊信仰を受けついだ教団ですから、独自の本尊がもともとないのが当然ではありますが、それにしてもその雑乱(ぞうらん)ぶりは驚くべきです。その要因は、副会長だった長沼妙佼の神がかり霊感によるものです。庭野日敬の自伝には、「霊友会では、降神して啓示(けいじ)を聞くことを重要な行としていた。(中略)下がってくる神は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった」などと書かれています。神がかりだの霊感だのは、仏教とは何の関係もない外道です。法華経をあれこれと知りたげに語る日敬と佼成会ですが、その実は迷信・邪心に振り回されていたわけです。  
日蓮大聖人は、こうした本尊雑乱について、「諸宗は本尊にまどえり。(中略)例せば、三皇已然に父をしらず、人皆(ひとみな)禽獣に同ぜしがごとし」と厳しく断じておられます。仏教においては、教理・経文をもって厳格に定められるべき本尊が、長沼の「神のお告げ」などという、いかがわしい外道義によって変遷してきた経緯だけを見ても、この教団が仏教、さらには法華経などとはまったく無縁のシロモノであると断定できます。  
法華経を踏みにじる庭野  
法華経の開経である無量義経には、「四十余年未顕真実」という経文があります。これは「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」と読みます。  
釈尊(お釈迦様)は50年間にわたって八万法蔵(はちまんほうぞう)という膨大な教えを説きましたが、そのうち42年間はさまざまな方便の教えを説き、最後の8年間に法華三部経(法華経の開経である『無量義経』、真実の経である『法華経』、結経である『観普賢菩薩行法経』)と涅槃経を説きました。  
「42年間に説かれた膨大な諸経は、教えを受ける相手の機根(きこん)に合わせ、それぞれの病気に応じて薬を与えるという方便の教説であり、仏の悟った真実の成仏の法ではない。これから説く法華経こそ一切を成仏に導く真実の教えである」というのが「四十余年未顕真実」なのです。そして『法華経』方便品には、「正直に方便を捨てて、但(ただ)無上道(むじょうどう=唯一最高真実の法、すなわち法華経)を説く」と示されているのです。ところが庭野日敬はこの「四十余年未顕真実」について、「ここで誤解してならないのは、今まで真実でないことをお説きになったというのではない。今までの説法もすべて真実には違いないのだが、まだ真実の中の真実を<すっかり>出しきってはいなかったという意味です」などと、信者が何も知らないのをいいことに、デタラメな解釈をして平気な顔をしています。これでは前述の、方便品の「正直に方便を捨てて」の意味が通らなくなってしまいます。真実ではないからこそ「捨てる」のです。  
庭野の法華経解釈など一事が万事この調子で、佼成会で法華経の根本的な教義として教えている『四諦(したい)』『八生道(はっしょうどう)』『十二因縁(じゅうにいんねん)』と、大乗仏教の示す『六波羅密(ろっぱらみつ)』は、法華経の中では、ただ単に過去の方便の中でこういう教えがあったと紹介されているだけで、法華経の教えとはまったく違う小乗教・方便教の教理であります。それをあたかも仏の真実の教えのように信者に教え、精神修養を勧め道徳論を押しつける庭野は、法華経を踏みにじる者と言わざるを得ません。  
他宗容認は法華に非(あら)ず  
法華経には「正直捨方便」「不受余経一偈(余経の一偈(いちげ)をも受けざれ)」とあるとおり、方便経その他のあらゆる教えを捨てて法華経のみを信ずるよう説かれています。にもかかわらず庭野は、「それまでの宗教を捨てる必要はない」「自分の檀家寺や氏神を大切にするように」などと会員に教え、他宗・他教を容認しています。これは法華経の精神にまったく背くものであり、不純物まみれの法華信仰となります。伝教大師が、「法華経を讃(さん)すと雖(いえど)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」と言われたのは、まさに庭野のような者を指すのです。  
日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」を盗む  
これは霊友会も同じですが、佼成会では会員に、庭野が勝手に作った本尊に向かって題目を唱えさせています。しかしこの五字・七字は、釈尊(お釈迦様)の法華経の文上にはいっさい説かれていません。末法(まっぽう)の時代に至って、日蓮大聖人が初めて説きいだされた本門三大秘法であります。したがって、釈尊の法華経を依経(えきょう=よりどころの教典)とする佼成会には何の関係もありません。この題目は本門三大秘法の「本門の本尊(弘安2年10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊)」に具足する「本門の題目」であります。したがって、日蓮大聖人が顕(あらわ)された本門の本尊に向かい奉り唱えるところの題目です。  
日蓮大聖人は、「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(『経王殿御返事』)「日蓮等の類の弘通(ぐづう)する題目は(中略)所謂(いわゆる)日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是(これ)なり」(『御講聞書』)と御教示であり、庭野が勝手に作った本尊などに向かって唱えるのは論外です。  
日蓮大聖人を悪(あ)しく敬う  
庭野日敬は日蓮大聖人について、「日蓮聖人は考えられました。禅も、念仏も、その他の宗派も、それぞれいい教えには違いないけれども、いずれも仏の教えを一点だけ集中的に見つめているだけで、円熟した完全さがない」(仏教のいのち 法華経)などと馬鹿げたことを言っています。  
しかし日蓮大聖人は、念仏や禅宗他について、「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」と一刀両断に斬り捨てられているのであり、庭野の言う「それぞれいい教えには違いない」どころではありません。まるで大聖人の御精神に理解が及んでいないのです。  
また庭野は「『法華経』が最高の教えであることは間違いないのですけれど、それを讃(たた)えるために他の教典をけなしたりするのは心得ちがいといわなければなりません」などとも言っています。  
しかし日蓮大聖人は、「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願わば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」と仰せであります。いったい庭野は、この日蓮大聖人の御聖訓をどう解釈するつもりでしょうか。  
信者が何も知らないと思って、好き勝手に言いたい放題であります。日蓮大聖人を悪しく敬う不逞(ふてい)の輩(やから)、それが庭野日敬です。 
金光教
沿革・教義  
金光教(こんこうきょう)は、教祖の赤沢文治(あかざわ・ぶんじ)が、祟り神(たたりがみ)であった金神(こんじん)を「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と名づけ、「これこそ人類を救済する神である」と主張し創立した、神道系の教団です。関西以西では名の知れた教団ですが、関東以北ではあまり知られていません。しかし金光教そのものは全国区ではありませんが、この金光教と関わりの深かった出口なおは、別項の「大本」の教祖であり、その大本からは数多くの新興宗教が誕生しました。中でも「生長の家」「世界救世教」は大きな教団となっています。  
金神信仰と赤沢文治  
赤沢文治は文化11年(1814年)、現在の岡山県金光町に生まれました。この地方は、昔から金神(こんじん)信仰が極めて盛んな土地でした。金神というのは、陰陽道(おんみょうどう)で説く「祟(たた)り神」で、年・月・四季に応じて住む場所を変え、この神のいる方位を侵(おか)して土木工事や建築、旅行などの行為をした人間は、身内が7人まで殺されてしまうと恐れられていました(金神七殺)。つまり金神信仰とは、もともと怖い祟り神である金神を封じたり、除(よ)けたりしようと陰陽師(おんみょうじ)に祈ってもらうことから始まった信仰です。  
さて、文治が29歳の時、まず長男が4歳で死亡しました。その6年後には、生まれて1年にも満たない長女が急死。その2年後、文治が37歳の時には9歳の次男が急死し、合わせて3人もの子供を亡くしました。実は結婚の1年前には義弟と養父を亡くしており、今また我が子3人を亡くし、さらに三男と四男は重い疱瘡(ほうそう)にかかってしまいました。さらには、大事な飼い牛までもが2頭死んでしまいました。飼い牛2頭を加えれば、確かに7つの死。文治は「これぞ世に言う金神七殺の祟りに違いない」と思い込んだようです。そして文治は42歳の時に、扁桃腺炎にかかり重体となりました。その病気平癒(へいゆ)を祈とう師に頼んだところ、その祈とう師が神がかり状態になり、「金神に無礼をしている」という神託(しんたく)が下ったのだそうです。文治がその非礼をひたすら詫びたところ、「神徳をもって助けてやる」と言われ、文治の病気も治ったのだそうです。  
これを機に、文治はますます金神に執着するようになりました。その2年後、まず最初に文治の弟に金神が取り憑(つ)いたといって、大騒ぎになりました。その乱心した弟の世話をしているうちに、とうとう文治自身が金神に取り憑かれてしまったそうです。  
神命の取次(とりつぎ)  
46歳になった文治は、金神から「世間に多くの難儀な氏子(うじこ)がいる。その氏子たちを取次ぎ、助けてやってくれ」という神命を受けたのだそうです。この日から文治は、自宅の座敷を金神への取次の場所とし、人々の願いを金神に取り次ぐ生活に没頭するようになりました。金光教ではこの神命を「立教神伝」と呼び、この日(安政6年10月)を立教の日としています。  
ある妊婦さんが文治の取次によって麻疹(ましん)を治したことが評判になり、次第に信者が増えて、立教から3年後には2カ所の出社を持つまでになりました。その後、神祇官長職白川家に入門し、神職補任状を授けられ、布教の公認を得ました。  
明治元年(1868年)、文治は金神から「生神金光大神と名乗れ」と神託を受けたのだそうです。明治5年の戸籍法制定の時、「金光大神」という名前を届け出たものの受理されず、戸籍上は「大陣」となりました。これ以降、文治は「金光大神」を名乗り、翌年には自分の信仰する神を「天地金乃神」と定めました。また信仰の対象物として「天地書附(てんちかきつけ)」なるものを顕(あらわ)し、四男の萩雄と五男宅吉にもこれを書き写させ、信者に下附(かふ)するようになりました。  
その後の展開  
明治16年10月、金光大神(赤沢文治)が死去し、取次は五男の宅吉が継承しました。明治33年には、神道事務局の所属から「金光教」として別派独立し、「金光大陣」の名を受け継いだ四男の萩雄が管長に就任しました。それからずっと時代が下り、昭和58年の「教祖100年祭」に本部総合庁舎を建設し、同時に「金光教教典」を発刊、さらに神社神道様式だった儀礼を教団独自のものに改めました。そして平成3年には、4代目教主・金光平輝が就任しています。  
金光教では、「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と教祖「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん=赤沢文治)」を主祭神としています。  
教会や信徒の家庭に掲げている信仰対象は、明治6年に文治が書き記した「天地書附(てんちかきつけ)」です。教団ではこれを「教祖が、信心の要諦(ようてい)を端的に示したもの」などと言っています。  
教典は、昭和58年に発行した「金光教教典」です。これは教祖の著である「金光大神御覚書(おんおぼえがき)」と、弟子たちが教祖から聞いた教えの内容を収録した「金光大神御理解集一〜三」等をまとめて収録したものです。  
教団では、「信仰の実践、人々の救済方法は取次にある」と主張しています。信徒は教会に行き、献金をして、願いを神に取り次いでもらい、教主・教会主の口を通して神からのお知らせの説明を受けます。  
信者は、そのお知らせの通りに行動し、さらに信心を深め、自らも他人を助ける立場、すなわち「生神になる」ことを信仰の目的としています。 
疑問  
本尊は、あるのかないのか  
この教団にはまともな教義らしきものがほとんど無く、したがって本尊についても、正直なところ明確な対象が定まっていません。一応は、「天地書附(てんちかきつけ)」なるものを拝みますが、これも実際には本尊というよりは、拝む「目当て」ぐらいにしか考えていないようです。もともとが、信仰の対象として「絶対なる本尊が必要である」という教えがないからです。  
信徒必携の『金光教の信心』には、「親神のご神徳は天地宇宙に満ちあふれているから、どちらを向いて拝んでも神に心は届く」「しかし、神を拝むには目当てがないと拝みにくい。柱でも、壁でも、生木でも、ここを御神体じゃと定めて拝めばよいのである」などと書かれています。要するに金光教というのは、原始宗教的な自然崇拝・庶物信仰に近い、低級な宗教であることが明白です。  
教義は、あるのかないのか  
金光教は、立教から140年以上たっています。しかしこの教団が教典らしきものを作ったのは昭和58年、「教祖100年祭」に至ってようやく、です。要するに、この教団には教義と呼べるようなものは存在しないのです。すべては取次による神の言葉「お知らせ」がすべてであり絶対で、日常生活のすべてを神の命ずるままに行動せよと教えているだけです。その神というものも、もともとは単なる俗信上の祟り神だった「金神(こんじん)」を、立教15年にしてやっと「天地金乃神(てんちかねのかみ)」なる名称に決定し、しかもいつの間にか「全人類を救う神」に勝手に昇格させたものです。この金光教の主張にはまったく一貫性がなく、こんないい加減なものを信じてどうなるのでしょうか。 それに、その「取次」というのも、またいい加減で、「教祖がある時『お神酒をつけて接(つ)げば、割れた茶碗でも接げる』と言った。ある人が『それでは、私もいたしましょうか』と伺うと、教祖は『それでは茶碗接ぎの仕事がなくなって、飢えてしまう』と答えた」(教典)などという馬鹿馬鹿しいものです。所詮は人間の単なる思いつきの言葉でしかなく、こんなものに日常生活のすべてをゆだねても、誰も幸せになどなれません。
生長の家
沿革・教義  
生長の家(せいちょうのいえ)は、谷口雅春(たにぐち・まさはる)の「真理の書かれている言葉を読めば病が治る」等の主張によって、膨大な量の書籍を発行し、会員に購読させる、いわゆる「出版宗教」です。また谷口雅春の思想には、宗教・哲学・心霊学・精神分析学などの教説が混ぜこぜに取り込まれていることから、「宗教のデパート」などとも呼ばれているものです。  
谷口雅春は、明治26年11月、兵庫県の農家に生まれました。早稲田大学に進学したものの、女性問題を起こしたため養父母から仕送りを断たれて中退し、そして大正3年、大阪の紡績会社に勤めました。ところが、会社の上司の姪(めい)と、色街の遊女の2人と二股交際をしたあげく、その遊女から性病を移されてしまいました。雅春は、その病気が上司の姪に移りはしないかと悩み続けたそうです(これが後に、病気治し宗教の原点となります)。しかしこの女性問題が原因で工場長と口論となり、紡績工場を退職しました。その後、雅春は大本(当時は皇道大本。別項参照)が発行する雑誌に心を引かれ、大正7年に大本に入信しました。そして翌年には教団機関誌の編集員となり、大正9年には同じく信者の江守輝子と結婚しました。そうした中、大正10年に「第一次大本事件(大本の項参照)」が発生。しばらくは出口王仁三郎の口述筆記なども担当していましたが、次第に大本の信仰に疑問を感じるようになり、ついに大正11年、雅春は大本教団を去りました。  
『生長の家』の発刊・立教  
某宗教思想家の著書を読んで、「不幸の存在を意識の圏外に追い出すことが、幸福になる道である」などという心の法則なるものを発見したという雅春は、昭和4年36歳の時、今度は神がかりとなり、「物質はない、心もない、実相がある」というような声がどこからか聞こえてきて、雅春は悟(さと)りに達したのだそうです。そして翌年、自分が悟ったという内容を発表するために、月刊誌『生長の家』を創刊しました。教団では、この雑誌創刊日を立教の日としています。その雑誌に「購読したら病気が治った」などの体験が掲載されると、購読者が増え始めました。また雅春は雑誌に「万教帰一の神示」など、自らの思想の核となる説を相次いで掲載し、さらにその内容を加筆・整理して、昭和7年から『生命の實相(じっそう)』と題して順次刊行し始めました。昭和9年には信者の出資で、出版会社「光明思想普及会」を設立。昭和15年には宗教結社「教化団体 生長の家」を設立しました。  
その後の展開  
太平洋戦争中、雅春は「天皇中心の国家社会の実現こそ神の意志である」などと主張し、軍部による領土拡大を正当化し、軍部に積極的に協力。天皇の元首化や靖国神社の国家護持を提唱していました。しかし昭和22年、GHQから雅春は戦争犯罪者とされ、公職追放処分となりました。これによって雅春は教主を辞任し、娘婿の谷口清超が第2代に就任しました。昭和27年、宗教法人「生長の家教団」を設立し、昭和32年には「生長の家」と改称し、雅春が総裁となり、清超が副総裁となりました。昭和50年には、生長の家の総本山として、長崎に「龍宮住吉本宮(りゅうぐうすみよしほんぐう)」を建設しました。教団では、長崎の総本山を祭祀(さいし)の中心地とし、東京本部は宗務および出版時・事務の中心地としています。  
本尊と教典  
総本山である龍宮住吉本宮には「住吉大神(神体として両刃の剣)」を祀(まつ)り、道場や集会所では「生命の実相」「実相」などと書かれた額や掛け軸を掲げています。しかし会員に対しては「実相とは唯一の真理であり、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」としていて、各自の先祖伝来の神棚や仏壇をそのまま祀ることを認めています。教典には『生命の實相』などがあり、そのほかに『白鳩』『光の泉』『理想の世界』などが信者用の機関誌として毎月発行されています。  
教義  
この教団は「デパート宗教」と呼ばれるだけあって、日本の神話、仏教、キリスト教などの教義に加え、西洋哲学やら日本の思想家の論なども混ぜこぜにして教義を形成しています。教義の中心は「唯心実相哲学」なる教祖の教えで、  
・タテの真理 / すべての人間が神の子であり、無限の生命・智恵・愛等のすべての善徳に満ちた久遠不滅(くおんふめつ)の存在である。これが人間の真実の相であるとする思想。  
・ヨコの真理 / 心の法則のこと。現実世界はただ心の現すところであり、心によって自由自在に貧・富・健康・幸福等、何でも現すことができるという。例えば病気にかかっても、「人間本来病気無し、病気は心のかげ」ということで、実相の完全さを信じるならば、すべての病は消え、完全な至福の世界が顕(あらわ)れるなどという原理。  
というような教えです。また「万教帰一」と言い、「すべての宗教は唯一の大宇宙(神)から発したものであり、さまざまな宗教や真理は、あくまでも時代性・地域性に照らして説かれたものである」などと主張しています。  
信者の修行  
教団では、「生命の実相」の真理を体得するためとして、  
(1)毎日、必ず『生命の實相』などの教典を読む。  
(2)先祖供養のために、聖経と称する『甘露(かんろ)の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』を各々の神前・仏前で読誦(どくじゅ)する。  
(3)毎日、「神想観(しんそうかん=「物質はない、肉体はない、人間は神の命そのものであり、神の子である」という人間の実相なるものを実感するための瞑想法らしきもの)」を実行する。  
という3つの修行を信者に課しています。そしてさらに「人類を光明化(こうみょうか)」するという「布教活動」を奨励しています。 
疑問  
本を読めば病気が治る?  
この教団は、病気治しが教義の中心といっても過言ではありません。出版物の多くは、病気が治ったという御利益(ごりやく)話で大にぎわいで、「この本(生命の実相)を読んだだけで病気が治る」と、ハッキリと書かれています。  
これは谷口雅春自身が「読めば治る」と言ったわけで、その根拠は、「人間は神の子である。神は病気など造らない。肉体は本来無いものだから、病気も無い。もしあると思うならば、それは妄想である。それが病気を生み、そして薬は病気があるとする悪念の所産(しょさん)である。病気は無い、肉体も無いと強く念ずるところの神想観が病気を治す」などというものです。これを教団では「メタフィジカル・ヒーリング(超物質的療法)」などと呼んでいます。  
馬鹿言ってもらっては困ります。肉体は物質の集まりとして現実に確かに存在するものでありますし、物質である以上は、そこに時として傷(いた)みが生ずるのも当たり前です。病気になったら医者にかかればいいし、薬も飲めばいいのです。病気を自覚し、それを治そうと努める意志と自然治癒力があって、そこに医者の治療が加わるからこそ、病気は治るのです。そもそも「病気は無いんだと想えば病気は治る」などというのは、「痛いの痛いの飛んでけー!」という、一昔前の親が子供にやった暗示と同じレベルのものであり、単なる思い込みのオマジナイです。こんな妄想が教義の中核なのですから、この教団の底が知れるというものです。  
唯心偏重(ゆいしんへんちょう)主義の危険  
教団では「現実世界はただ心の現すところであり、心によって自由自在に貧・富・健康・幸福等、何でも現すことができる」などと主張し、唯心に大きく偏(かたよ)った教えを説いています。これは現実から目をそむけ、「悪事や災難は単なる妄想に過ぎない」と虚と実を逆転させ、逆におかしな妄想の世界をつくりだし、場合によっては精神に異常をきたしかねない、大変危険な教えです。現実の世界をあるがままに捉(とら)えなければ、人間はマトモに生きていくことはできません。この教団のような「心だけを中心としてすべての現象を理解させる」偏った教えは、とんでもない邪説です。しかも、「人に痛いことを言ふ人、キューと突く様な辛辣(しんらつ)なことを言うやうな心の傾向のある人は、キューと突かれる、すなわち注射をされたりしなければならぬ病気にかかるわけであります」などという馬鹿げた唯心論です。幼稚すぎて話になりません。  
「万教帰一」の迷妄(めいもう)  
教団では「万教帰一」といって、「すべての宗教は唯一の大宇宙(神)から発したものであり、さまざまな宗教や真理は、あくまでも時代性・地域性に照らして説かれたものである」などと主張し、「実相とは唯一の真理であり、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」という妄説を吐いています。これは、谷口雅春の独断と我見(がけん)に過ぎません。例えば仏教とキリスト教では、出発点も、修行法も、さらにはその最終目的とするところも、すべてがまったく違います。これを「あらゆる宗教の根元は一つだ」などというのは、実に「デパート宗教」らしい無知であり、迷妄であると言えます。世の人々が宗教について何も知らないのをよいことに、あまりデタラメなことを吹聴してもらっては困ります。 
 
寂聴「釈迦」

 

『仏教とは何であるのかを一言で語るのは難しいが、それはゴータマ・シッダールタ(釈迦)という仏教の創始者の思想や実践が難解だったことを意味しないのではないか』……私が瀬戸内寂聴氏の『釈迦』を読了して感じた第一印象はそういったものだった。  
この『釈迦』は、釈迦の臨終(入滅)に付き添うアーナンダの視点を通して、釈尊の実に人間的な温かい側面を描写した小説である。  
苦悩と輪廻の解脱者である釈尊(仏陀)を、衆生からかけ離れた聖者としてのみ取り扱うのではなくて、等身大の人間としての心情や生き方を再現しようとする瀬戸内氏の試みは実に興味深い。『釈迦』の全編を通して、瀬戸内寂聴の人間釈迦への敬仰や釈迦の入滅に寄り添ったアーナンダへの憧憬のようなものが窺える作品に仕上がっているのではないかと思う。  
仏教と聴いて、あなたはまず何をイメージするだろうか?  
延々と単調なリズムで紡がれる葬式の退屈なお経を思い浮かべる人、念仏や題目といった形式的な文句が思い出される人、ただただ静謐な空間で瞑想に専心する僧侶をイメージする人、般若心経に説かれる『空』や平家物語冒頭に掲げられる『諸行無常』のニヒリスティックな世界観を物思う人、悟りや解脱といった脱世俗的な境地を目指して禁欲的な修行に励むイメージ……仏教のイメージというのはまさに千差万別で、これこそが仏教であるという単一の教義や修養はないといってよい。  
歴史の浅い新興宗教は排除するとしても、仏教には八万四千とも言われる無数の法門教派があり、仏教の熱心な研究家や教学によって悟りを得ようとする声聞でもない限り、それら全てを学びつくすことは出来ないし、また全ての経典を学ぶ必要性もないだろう。必要以上の仏典に関する知の収集は、恐らく仏教本来の趣旨から大きく外れている。  
仏教本来の趣旨とは、自己を苦から解脱せしめること、そして、衆生(他者)を苦悩から救済する慈悲の実践を行うことである。各宗派の経典を学習したり、形式的な読経をすることは仏教の根本教義を実践するものではなく、現代において行われる宗教学的な学習の多くは教養趣味以上のものではないように思える。  
釈迦を開祖とする仏教は、多面的な様相を持つ世界宗教の一つであるが、同時に、独自の概念によって構築された思想体系でもある。  
釈尊の入滅後、仏典は複雑に入り組んだ教典結集の歴史過程を経ているが、小説『釈迦』はアーナンダによって初めての結集(この段階では経典伝承ではなく口伝)が行われるところで終わりを迎える。  
『如是我聞(私はこのように釈迦の言葉を聴いた)』という経典によく見られる文句の原型は、実際に釈迦の言葉を側近くで聞く機会に多く恵まれたアーナンダの言葉だった。  
一般的な仏教論を語ってもいても切りがないので、ここから『釈迦』の簡単な書評を書こうかと思う。  
『釈迦』は、釈尊が涅槃(絶対的静寂)に至る入滅の過程を、絶えず側近くに仕える侍者アーナンダの立場から記述しようとした小説である。また、歴史上初の尼僧院がどのような経緯で誕生したのかという話も同時に展開され、尼僧である瀬戸内寂聴の視線から女性の圧倒的な苦悩と救いのない悲嘆が描かれる。  
入滅に近い時期から物語は始まるため、釈尊は冒頭から既に老年期に入っており、身体も著しく疲憊し衰弱している。  
そげた頬が艶のない黄味を帯び、頬骨がとがり、眼窩が鋭い刀でえぐったように落ち窪んでいる。切長な眼の睫毛が長く濃い影を落とし、そこだけ若さの名残りがしがみついているように見える。かつては黄金色の艶やかな張りのあった皮膚がたるみ、茶褐色の老人斑がその上に豆の皮をばらまいたように滲み出ている。  
ふと話される世尊の六年間の猛烈な苦行の後、骨に皮だけがつき、骸骨そっくりに肉という肉が削げ落ち、胸は肋骨が荒々しく浮き並び、何かの楽器のように見えていたという御様子がしのばれる。このまま二ヶ月もすれば、世尊のお姿はその頃と変わりなくなられるのではないだろうか。  
年老いた釈尊は、一国の経済を左右するほどの美貌を持つ娼婦アンバパーリーに食事や寝床の世話になっていたが、女性の色香の魅惑によって戒律を犯すことを恐れるアーナンダは、自制心を失わぬようにアンバパーリーの近くに寄らないようにしている。  
既に仏道を為した釈尊にとっては、娼婦も淑女も同じ人間でありその差別を意識する必要がないし、家柄や職業によって人間の価値を判断する事を厳しく戒めていたが、未だ悟りに至らぬアーナンダにとっては絶世の美女アンバパーリーの放つ濃厚な芳香の誘惑は恐ろしいものだったのである。  
当時の新興宗教であった仏教は、ヒンズー教のカースト(世襲の身分制度)に基づく階層差別からの自由といった思想を含んでおり、根深い差別の伝統に抗する画期的な宗教であったことが窺える。  
釈迦も仏道修行に懸命に励んでいた時期には、女性の性的な魅力や誘惑的な色香を非常に恐れ、自らの身辺にそれらを近づけないように苦心したが、至上無想の悟りを得てからは女性の誘惑によって心が乱されることがなくなっていた。無論、法門の弟子達には、苦の原因としての愛への執着を説き続けてはいたが、釈迦自身はそれが人間的な幸福の源泉であることも承知していたであろう。  
しかし、釈迦は清浄で静謐な精神の護持のためには、性的な欲望や異性への愛着を断ち切らねばならないことを執拗に説き続けた。  
釈迦は自らの対応や態度を、性別の差異によって変えることはなかったが、成道当初、女性が出家することを容認せず、女性との接触を厳しく戒めたように、女性の性的魅力に対する嫌悪や恐怖を抱いていたようにも思える。  
仏教は男女平等という建前を持つ一方で、当時の男尊女卑的な伝統を完全には乗り越えられていない側面がある。不姦淫戒の責任の多くを女性側の性的誘惑や身体性に押し付けている辺りも、恋愛や性愛の相互性や男性側の自発的な性欲を無視していると考えることができる。  
『釈迦』の作中には男女差別的な「尼僧の規則」というものが出てくるが、そこには『百歳の尼僧でも、今日出家したばかりの新米の修行僧に対して敬意を払うこと・修行僧に対して尼僧は苦情を言えないが、修行僧は尼僧に関して文句がいえる』などの規則が掲げられていて当時の(史実ではないが)仏教教団の男女観として興味深い。  
人間は自我を有して主体的に生きようとする限り、苦悩や悲哀から逃れることは出来ないというのは真理であるが、釈迦は、そこから脱け出す悟りを得る為に『愛を中核とする執着』『執着する自我意識』を消滅させようとした。『自我のある愛ではなく自我のない慈悲』によって他者を救おうとする釈迦の思想は、論理的には理解できるが情緒的には同意できない部分もある。  
その同意しきれない心理の根底にあるのは、『愛を否定する事による生の欲望の低下』だろうし『自我を否定する事によるアイデンティティ喪失の恐れ』だろう。  
『何も求めない事による仏教の平静』と『何かを求める事による俗世の苦悩』の違いは、経済活動に置き換えれば、ローリスク・ローリターンかハイリスク・ハイリターンかの違いが極大化したもののように思える。  
実際には、無為や禁欲に徹することは非常な苦痛を伴うものなので、何も求めなければ苦悩を克服して絶対平静の境地に至れるというほど単純なものではない。  
生半可な脱俗の決意では返って苦しみや不満を増すだけだし、一般的な人生の幸福や喜びから程遠い孤高の静謐な悟りによって本当に救われるのかどうかも分からない。  
私も含め『何かにこだわり執着して求めること』は、苦しみの因果となる一方で『私の生きる意味や価値・生活行動のモチベーション』とも密接に関わっているのが普通である。  
あらゆる執着や欲求を敢えて捨てることで、苦悩や悲哀から遠ざかろうとする小乗仏教的な悟りのリアリティは、現代社会では特に薄くなっているように感じる。  
ただ、生活行動による実践ができるかどうかという問題を離れれば、観念的な禁欲思想への憧れとして仏教思想やイデア論、ストア主義を眺めることは可能であろう。  
禁欲思想への憧憬と現実世界の苦悩との間にはある種の因果関係が存在しているが、ここでは私個人の禁欲思想の困難や仏教教義への賛否を語ることが主眼ではないので、話を書評へと戻すことにする。  
仏教の信仰を誠実に実践するということは、『エロスの生の欲望』を否定して『タナトスの死の欲望』を活性化させることであり、人生を幸福追求の過程ではなく、死に向かう過程と達観して、苦の源泉そのものを切断しようとすることである。  
小説『釈迦』においても、死期を間近に控えた世尊は、死の事実に身じろぐことなく、生ける者は必ず滅びるという現世の真理をただ静かに穏やかに受容して諦観している。  
「アーナンダ、悲しむことはない。お前が19歳の時、私に帰依して出家して以来、私が絶えず説き続けて、もう空気のようになってお前を取り巻いている言葉がある。生者必滅、会者定離、生まれた者は必ず死ぬ、会った者は必ず別れるということだ。私たちの生とは、一刻一刻死に近づいていることであり、言い換えれば生きるということは、やがて死にきるための営みだ。この世とは、死に至る短い道程に過ぎない。  
私にしても何と多くの愛する人々と死別してきたことか。私は生母マーヤーの顔さえ覚えていない。ルンビニーの園で母は私を産み落とされ、そのまま産後の肥立ちが悪く、七日目に亡くなってしまわれた。考え方によれば、私の生が母を死に追いやったともいえよう。私の命は母の命と引き換えに与えられたものなのだ。(中略)  
父も逝った。母の死後、私を育ててくれた母の妹のマハーパジャーパティも、私より先にこの世を去ってしまった。弟子たちの中で最も頼りになった長老サーリプッタも、モッガラーナも、私を残し、先に彼岸へ渡り去ってしまった。私は誰の死よりも二人の弟子に先立たれたことが身にも心にもこたえた。肋骨を二本抜き取られたような痛烈な痛みだった。  
アーナンダよ。悲しんではいけない。私の肉体は壊れ滅び亡くなっても、私の教えと法は永遠なのだ」  
こうした『死の達観』や『別離の受容』に対する好き嫌いは、個人の死生観や価値観に大きく左右される。  
『全てを客観的に俯瞰して眺めることを不快に思う価値観』と『全てを客観的に俯瞰して眺めることに快楽を感じる価値観』とは相容れないものだが、多くの場合、私たちはこのアンビバレンスな価値観を状況や相手に応じて使い分けている。  
『諦めず一つの事柄を頑張る事の大切さ』と『諦めて意識を転換する事の大切さ』の価値判断の間にどちらが正しいのかという肯定はない。諦める事によって失われる成果もあれば、諦めない事によって継続する苦悩もあるからだ。  
敢えて言うならば、欲求や目的を決して達成できないことが自明な事柄に対して諦めないという執着は、多くの場合、精神的な葛藤や苦悩を深刻にするだけという事実を仏教教義は重視したということだろう。  
ふと思い出したが、ライブドアのホリエモンこと堀江貴文社長は本気で生命科学と遺伝工学の進歩によって永遠の生命を手に入れることを願っているらしく、著作の何処かに『私は死ぬとは思っていない』と記述しているという話を聴いたことがある。  
これは、『諦めずに目的を達成しようとする生の欲望の強さ』を表しているが、彼は自己効力感と物理的根拠のある自尊心が十分に強い為に、その生への執着が未だ苦しみになっていないケースであろう。  
誰もが彼のように徹底的な生の肯定と楽観的な欲望の充足ができるわけではないが、それも一つの価値観と人生の指針であり、自分の現実状況と照らし合わせて無理や歪みがないのであればそういった諦観を更に超えようとする営為も魅力あるものだと思う。  
史上最高の誇り高きシャカ族の聖者となった世尊だったが、その人生は正に波乱万丈なもので一所に安住することはなかったし、平穏無事な日常に埋没することもなかった。  
インド各地の王からも崇敬と帰依を受けていた世尊は、マガダ国の王ビンビサーラから竹林精舎を寄進され、コーサラ国の大富豪スダッタから祇園精舎を寄進されて、そこを宿泊地としながら精力的な伝道活動を生涯にわたって続けたのである。  
しかし、宗教の尺度で無二の大聖者である釈迦も、世俗の尺度を通して見れば人倫に違背する行為を幾度か行っているように思える。  
最愛の妻ヤソーダラーや生まれたばかりの子ラーフラを捨てて出家したシッダールタ(シッダッタ)の行いは、一般社会では激しく非難され軽蔑される行いである。しかし、仏教の文脈では『家族への愛という最も断ち難き執着を断って、衆生救済の布教伝道に向かった仏陀の悲壮な決意』として解釈されている。  
シッダッタとは「成就」の意であり、ラーフラとは「障壁」の意である、皮肉にもその名前が親子の愛着という絆の障壁を乗り越えて悟りを成就することの符号となっていたのである。  
釈迦の修行を妨げる誘惑や瞑想を魔境に陥れる妨害を行ったとされる悪者役のダイバダッタ(デーヴァダッタ)は、この小説ではアーナンダの優秀でプライドの高い兄として設定されている。凛々しく精悍な容姿と抜群の才覚と武芸を持ったダイバダッタは、釈迦の後継者となるために様々な謀略を企むのだが、血気盛んで野心が強すぎる為に悟りの境地(阿羅漢)に至ることはできなかった。  
小説『釈迦』の主題は、私がここで長々と冗漫に語っているような仏教の思想的な事柄でもなければ、眠たくなるような空虚な説教ではない。  
この作品の主要テーマは、一言でいえば『人間の愛欲を取り巻く喜びと悲しみ』だろう。作中の言葉を借りれば『人間の苦悩と悲嘆を生み出す因果としての渇愛』である。  
美しき少女プラクリティとアーナンダの悲しき結末を迎えた恋、プラクリティはアーナンダの情愛を得られないと知った時に発狂して尼僧となって精神の安定を取り戻すも、その後僅か一年で短い生命の炎を燃え尽きさせてしまった。  
アーナンダはプラクリティという純粋な少女に愛されて苦悩したが、ウッパラヴァンナーは実の母親、実の娘と夫を共有するという無軌道な夫の性愛に対する葛藤によって苦悩した。  
夫と不倫した母親を憎悪し、夫の愛情を奪った娘に嫉妬し、妻である自分を裏切った夫を呪ったが、二人の夫を愛したウッパラヴァンナーは嫉妬と屈辱という極度の苦悩から脱け出すことができなかったのである。  
ウッパラヴァンナーの悲劇の始まりを、男性の欲情をかきたてる比類なき美貌と若々しい肉体に見てとった釈迦は、苦の根源は渇愛にあると喝破した。死を願わずにいられないような嫉妬と憎悪の絶望に呑みこまれたウッパラヴァンナーは出家による精神的救済を求めたのだった。  
『人の心の苦しみは、煎じつめれば、肉欲という煩悩にしぼられてしまう。肉欲の愛は喉の渇いた者が水をほしがるように激しく、切なく、強い。それだからこれを渇愛と私は名付けている。渇愛は人の理性も智慧も焼きほろぼしてしまうほど強烈な力を持つ。人の心の平安も真の幸福もこれをなくさない限り得られないのだ。さあ、すべてを話しなさい』(中略)  
『泣くがいい、心のすむまで泣くがいい。お前の苦しんだ苦しみは、ひとりの苦しみではない。人みなの受ける苦しみだ。人が苦しまねばならないのは、心に執着があるからだ。愛する者に執着する心、愛執する心が産む渇愛、これが人間の苦悩の中の最たるものだ。人の苦しみには生・老・病・死という避け難い苦悩の他に、愛する者と別れねばならない愛別離苦という苦しみがある。憎悪する者に出逢わねばならぬ怨憎会苦という苦しみもある。人間の五体が生じる欲望にもだえる苦しみもある。これを五蘊盛苦という。お前の運命は、この世の苦のすべてを受け入れてきた。ウッパラヴァンナーよ、よく堪えた。こうして生きているわれわれ人間の存在そのものが苦なのだということを、お前は身をもって味わいつくしてきたのだ。多く愛した者ほど苦しみの深さも大きい。その代わり多く苦しんだ者ほど聖なるものの愛を受けることが大きい』  
私は、人間の生きる意味の一部を形成する渇愛を必要以上に否定する必要はないと思うし、人を熱烈に愛することが必ずしも不幸や絶望の結末につながるとも思わないが、苛酷な生活状況や最愛の異性からの裏切りなどを受けた時には、仏教的な世界観に共鳴することは確かにあるだろう。  
また、『四苦八苦=生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦』や『一切皆苦=この世の事象の全ては苦しみである』という過度に悲観的で虚無的な趣きのある仏教の法印を全面的に受け容れることには抵抗があるが、「禍福は糾える縄の如し」といった世界認識を持ち、喜びが苦しみの原因になることもあるという心構えを持つことは有意義だと思う。  
『突然、降りかかる災禍や脅威』から自分の精神的安定を守ることは非常に困難だが、一切皆苦として初めから全てを諦観して歓喜や満足を放棄しきってしまうこともやはり淋しい。  
しかし、瀬戸内寂聴の『釈迦』が最後に私たちに届けようとしたメッセージは、ニヒリズムや俗世からの逃避の影の射す通俗的な釈尊理解に留まらない『人間と世界の肯定的讃美』だと私は受け取っている。  
物語の最後には、釈尊入滅後に阿羅漢果を得て悟りを開いたアーナンダが堂々と以下の言葉を言い放って終幕を迎える。  
『私はこのように聞いた。世尊のお言葉のままである。――この世は美しい 人の命は甘美なものだ――』  
この小説を読むにあたって、仏教に関する前提知識は不要なばかりか返って邪魔になることもあるだろう。『釈迦』を読もうと思う時には、心を清浄に鎮め、頭を空っぽにして自然な感情が湧き上がるままに読み進めるのが一番良いのではないかと思う。  
自分の過去の愛や執着の歴史と重ね合わせながら読んだり、自らの人生観や世界観を深めるように釈迦の言動を味わいながら読んだり、女性の愛憎が生み出す苦悩の恋愛物語として読んだり、仏教という思想に囚われずともいろいろな読み方のできる歴史小説である。  
苦悩からの解放を目指す仏教思想に触れる時には、『釈迦牟尼世尊は、なぜ、人間の自然な生理学的欲求をあそこまで否定しようとしたのか?』という根本に立ち返ることになる。  
煩悩の抑圧を超えて煩悩を消尽することを説く仏法は、ある意味で精神分析的カタルシスの対極にある。  
自我の枠組みを超えた高次の愛である慈悲の実践は、アブラハム・マスローの仮説した自己実現欲求を可能とする心理過程とオーバーラップする部分もあって興味深い。  
真の幸福や価値はどのようにして実現すればよいのかという答えを人は求めるが、それに対する明瞭な回答は存在しない。個々人が自分の経験や知識を生かして、苦楽が交錯する人生の中で暗中模索していくしかないのではないだろうか。  
無常の世界の暗闇を明るく灯す光として『自灯明(自身に依拠して陶冶すること)』と『法灯明(仏法に依拠して精励すること)』を釈迦は掲げたが、自分自身の倫理と意志を灯明(生の指針)とするという事は、他者への過度な依存や期待を諦観して自立的に毅然として生きることだと私は解釈している。  
この書評の冒頭で述べた『私の考えるシンプルな仏教の本質』とは、慈悲(菩薩行)の実践と自灯明の信念に簡潔に集約されるもので、日常的な苦悩や不安の解消に対する分かりやすい解でもある。  
 
「四諦・八正道」と「スッタニパータ」

 

『四諦(したい)』とは、苦の原因と克服についての実践原理であり、『八正道(はっしょうどう)』とは道諦(どうたい)の内容に当たるもので、苦しみを滅却して解脱に至る具体的な実践徳目のことである。  
四諦(したい)  
苦諦(くたい)……世界と人生は苦であるという真理。  
集諦 (じったい)……煩悩・執着が集まって苦の原因になるという真理。  
滅諦(めったい)……煩悩・執着を断ち切ることができれば苦は滅するという真理。  
道諦(どうたい)……滅諦を実現するための八正道の修行法。  
八正道(はっしょうどう)  
1. 正見……正しい物事の見方  
2. 正思……正しい思想・考え  
3. 正語……正しい言葉  
4. 正業 (しょうごう) ……正しい行為  
5. 正命……正しい生活  
6. 正精進 (しょうしょうじん) ……正しい努力  
7. 正念……邪念を捨てた正しい精神・意志  
8. 正定……正しい瞑想・三昧の境地  
常識的に考えて、これらのあらゆる煩悩を消尽した絶対的な静寂・安楽の境地は、生きている人間が到達可能な地点ではないし、釈迦は『生まれ変わり・知覚的な快楽の否定=解脱』に理想を見出しているので“涅槃寂静”というのは物理的な死に近いものとも解釈できる。釈迦は“生・老・病・死”の四苦を人間の最も根本的な苦しみとしているように、煩悩を抱えずにはいられない『人間の生の形式』そのものにネガティブな印象を相当に強く持っているが、戒律によって子孫を残すことにも否定的な仏教は、そのままのプリンシパルな形では世界宗教にまで発展することは難しかったのではないかと思う。  
釈迦が『スッタニパータ』で説いた教えは、個人主義的な悟りに至る方法や人間の生のあり方に対する否定的な言説が多く、そのままの教義では共同体(人間社会)の繁栄・発展には役立ちそうにもないのである。他の世界宗教の多くは『産めよ増やせよ』で人間社会の繁栄そのものには肯定的な傾向があるが、仏教だけは『生存・生殖(性)・感覚の欲求』を人間が乗り越えられない煩悩(できれば否定したほうが良い苦の原因)として解釈しているという意味でかなり特異な宗教のように思う。  
“生・老・病・死”の四苦に“会者定離(えしゃじょうり)・愛別離苦(あいべつりく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)”を加えて『四苦八苦』としているように、人間関係の情緒的な結びつき(愛情・思い入れ)や知覚・感覚の快楽も、基本的に『喜びの原因』ではなく『苦しみの原因』と見ている。  
釈迦(仏陀)の言葉を反映した原始仏教の最古の経典とされる『スッタニパータ』には、以下のような言葉が様々な対話の形式で収載されているが、仏教に関心がある方は中村元訳の『ブッダのことば スッタニパータ(岩波文庫)』を読んでみると興味深いブッダのことばに出会えるかもしれない。俗世に否定的な釈迦のことばそのものを、まともに正面から受け容れるか否かはともかくとして、『自己の社会生活のストレス・自分の執着心(欲望)から生まれる苦しみ』を何となく和らげてくれる“不思議なことばの力”というものを実感できる部分はあるだろう。  
36.交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角(さいのつの)のようにただ独り歩め。  
38.子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が相絡むようなものである。筍が他のものにまとわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。  
40.仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねに人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。  
41.仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。  
455.「わたしはバラモンではないし、王族の者でもない。わたしはヴァイシャ族の者でもないし、また他の何ものでもない。諸々の凡夫の姓を知り尽くして、無一物で、熟慮して、世の中を歩む。  
456.わたしは家なく、重衣を着け、髭髪を剃り、こころを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。  
513.サビヤがいった、『<修行僧>とは何ものを得た人のことをいうのですか?何によって<温和な人>となるのですか?どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか?どうして<目ざめた人(ブッダ)>と呼ばれるのですか?  
516.全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、――かれは<自己を制した人>である。  
517.あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、――かれを<目ざめた人(ブッダ)>という。  
574.この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。  
575.生まれたものどもは、死を遁れる(のがれる)道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。  
585.みずから自己を害ない(そこない)ながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。  
587.見よ。他の生きている人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄え(ふるえ)おののいている。  
592.己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が煩悩の矢を抜くべし。  
593.煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。  
728.世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとづいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、繰り返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。  
730.この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。  
820.独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。  
861.かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは欲望に促されて、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。  
『スッタニパータ』にあるこれらの釈迦本来の原理的な教えは『一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』の四法印(よんぽういん)の真理に根ざしているが、現代に生きる私たちがこういった“諦観・厭世・無欲の仏教思想”をどのように活用していくのかはかなり難しい課題である。釈迦の語った仏教のエッセンスには、『因果の理法=真理』によって“最終的な結果”を先読みして達観してしまうようなところがある。  
そのため、諸行無常(すべての事象と存在は過ぎ去っていく)の理法に依拠して『親しき者の死』に嘆き悲しむことの無益さを説いたりもするのだが、そういった人間的な感情や人間関係(親子関係)への執着の一切を捨て去るような『悟りの境地』は、ある意味ではあらゆる変化に心が全く動かない冷淡さを感じさせるものでもある。諸行無常や涅槃寂静は圧倒的な論理的説得力を内包しているが、『それを言っちゃあ、おしまいよ(人間の乗り越えられない本性・欲求の強引な否定)』といった側面も強い。『スッタニパータ』は特に四苦と煩悩の無意味さを強調し過ぎている嫌いがあるので、人間の生存や社会の繁栄に直接的に役立ちそうな部分は殆ど無いのだが(基本的に生の本能に対するネガティブ思考が強すぎるように感じるが)、徹底的な煩悩の消尽に焦点づけされているところに特徴がある。  
『煩悩(欲求)を充足する快楽』の裏面として『煩悩(欲求)を充足できない苦悩』があるのだが……『煩悩(欲求)は幾ら満たしても際限がないという現実』を受け容れながら、『欲望や人間関係を完全には断ち切れない人のあり方(人の弱さ・情緒)』と自分なりにどう向き合っていくかが重要なのではないかと思う。  
煩悩・欲望を完全に吹き消した絶対的平静の境地が、本当に現代の人間が目指すべき解脱の境地といって良いのかは疑問であるが、『欲望と禁欲との付き合い方』を人生の経験や知識の積み重ねの中で学んでいくことによって、『煩悩(欲望)』が直接的に苦しみとなる弊害は減らしていけるのではないだろうか。仏陀・阿羅漢・菩薩など仏教の悟りが仮定する『究極の人間の姿』というのは、生きている生身の人間が到達できるものではないようにも思えるが、仏教の教えには『人生の苦しみを減らすヒント(無益なこだわりから離れるヒント)』や『他者を助けることの自然な喜び』が静かに息づいている。 
 
罰(ばち)があたる 雑話

 

1 罰(ばつ)と罰(ばち)、仏罰と天罰  
子供の頃に「そんな事をすると“罰(ばち)があたるから、止めなさい」とか、仏様に尻を向けると罰が当たりますよ」とか、日常的に相手の行動に不快感を覚えている無智な者が相手の偶然の事故に呼応して、「ほら、罰が当たった」などという捨て台詞を俗世間では耳にした事が無くも無いが、寺では五十年此の方、只の一回も聞いたことが無かった。  
ところが、先日、遠くから寺を訪ねて来られた方の口から「罰(ばち)」という今や俗世間でも十年に一回聞くか聞かない死語が飛び出し、一瞬、面食らった。  
そもそも『仏教では天罰・仏罰・祟りなどなど』、超現実的というか嘘というか、己≒仏≒菩薩≒天然自然の一部を説いているし、“己の外に仏なし”とハッキリと言っているように、人間を超える力(超能力)など自然を除いては無く、故に人間に災いを与えるなどありえない訳です。そもそも仏教では“余程無智な者”に対して俗悪から身を引かせる為に“脅し”というような最終兵器(権力)を使わざる得ない場合なら『例え話』として使われるかも知れないが、先ずは、それも無いはずです。  
つまり、仏教と『因果論的な罰』の間には相関関係は無いと断言できます。そもそも『罰(ばつ・ばち)』 は“己の外の絶対者”の代理人を自称する教祖、巫女、神官、霊能者などが、専売特許でも持っているような顔をして“無智な人間を洗脳する手段”として使われている言葉であり、仏教から考えても、科学的に考えても『荒唐無稽』なのです。  
しかし、神仏を隠れ蓑にして教団を組成し集金構造を作るために『罰』という人間の弱み(恐怖感)に付け込むための切り口としての”罰”という概念を利用する者は後を絶たない。しかし、所詮は嘘であり、その内“刑事罰”という人間が考えた人間社会のための矯正教育手段を受けることになるだろう。その時、彼らは、それでも“遂に私にも罰が当たった」というのだろうか。聞いてみたいものである。  
釈尊は『一切皆空』であり『苦は己の外に願うことで内に生じる』という法則を発見し、“あるがまま”に生きる生き方を発明しました。達磨大和尚の二入四行も根っ子は同じ。“我”を通そうとするから“己”が苦しみ、“身”に報いが現れて四苦八苦する。苦の全ての原因は、己の汚れた姿である“我”にあり、自分以外に責任があるなどという愚かで無責任な責任転嫁は仏教徒なら絶対にしません。そんなことは“拝金教”の専売特許みたいなもので、それを侵害したら、それこそ相手に“罪を作らせ”て、結果的に刑事罰を受けさせなくてはならなくなるような無慈悲な事は出来ませんからね。ハッハッハッ。それこそ水戸黄門が転んで“見て肛門”になりますよ。  
さて、今の世の中にも“地獄だの天国だの”という迷信が生きているのだろうか。現実に生きている世界には地獄の様な、天国の様な、物語の世界が実現することは理解できる。しかし、それは人間にとっての不都合であり、地球にとっては新陳代謝の一環であったり、社会や個人にとっては“学びの機会”であり“脅威が人間を成長させる”という結果に結びついている偶然である。だから社会科学的には“確率論的分散”が成立しているので、災害(天才人災)は“保険”の対象として料率が計算でき、財務省がお墨付きを出しているのです。ところで、『生命“罰”保険、損害“罰”保険』というが有りましたっけ?アッ、そうだ。思い出しました。“バチ”は当たりますよ。先日、銀座のジャズ喫茶の一番前でジャムセッションを聞かせて頂いていた時、ドラムーのスティックが飛んできて足に当たったんです。つまり“バチが当たった”のです。そうしたら、店の社長が飛んできて、お詫びに何かリクエストを演奏させますということで、マイルス・デービスとジョン・コルトレーンの曲を演奏してもらった。そして、帰りがけには、神様か仏様か知らんがドラマーから声がかかり、CDと招待券も頂いた。いや、“バチ当たり”な事はするものですね。  
『地獄で仏』に会って見たいが、仏教は迷いや妄想の本質を明らかにして、イキイキと生きる道を発見させる支援をするものです。120%、恐喝や騙し脅しはしませんよ。そして諸行は無常。善悪は相対的幻想です。日々は好日です。罰でもバチでも何でも結構。有るがままの事実として受け取り、学び、人生に活かして行きましょう。そうしないと“バチ”が飛んできて恐縮しなければなりませんよ。 
2 「バチが当たる」  
「浄土真宗では『お釈迦様がバチをあてる/悪いことをするとバチがあたる』という考え方は無い」知り合いの住職が言っていました。”バチ”ってのは、宗教とは関係ないですょ。「いただきます」のときに箸を持った手を合わせるとか、「神様、お願い!」と助けを求めるとか、信仰心とはあまり関係なく、多くの人がやってますね。「バチがあたる」は因果応報や無神論とは無関係で(もちろんどんな宗教に属する言葉でもない)、「親の躾け」に関係する言葉です。 
3 因果応報  
因果応報ってのは、読んで字の如く、原因があって結果が生じ行動に応じた報いがあるって事。  
ばちってのは読んで字の如く、罪に対する罰です。  
因果応報は単純に世界の法則に因るものですから、悪い結果になるような行動をすれば、その人が善人だろうが悪意なしのうっかりミスであろうが、悲惨な結果が待ち受けてます。  
一方で、罪に対する罰ってのは、それを決める上位者が居て、その上位者の定めたルールに抵触する事で、上位者の意志によって下されるものであります。  
例えばですね、貴方の傍に脚立があって、ペンキの缶が上に乗ってて、「押すなよ!絶対に押すなよ!」って張り紙が貼ってあったとしましょう。  
貴方が張り紙を無視して脚立を押したら、グラついてペンキの缶が落ちて来ました。  
この場合、貴方が頭からペンキを被って全身緑色になっちゃったとしたら、それは『因果応報』です。  
押せば引っ繰り返って振って来るって法則があって、貴方が押したって原因に対して、ペンキが降って来るって結果があり、貴方の行動に応じて、ペンキ塗れって報いが生じた。  
でもって、張り紙を無視してペンキを引っ繰り返した事を、その張り紙をした人に叱られて頭を殴られたとしたら、それは『罰』です。  
押しちゃ駄目だよって取り決めがあって、貴方が取り決めに抵触した事で、ペンキの持ち主って上位者に、警告無視の罪に対する拳骨の罰則が与えられた。  
ニュアンス的に違いがご理解いただけたでしょうか。  
原始仏教に於いて、ブッダは神も悪魔も天国も地獄も転生も呪術も全て迷信だと切り捨てて居られます。である以上、世界法則としての因果応報は有りえても、上位者である神による罪に対する罰って概念は生じ得ないのです。  
にも拘らず、日本に仏罰って言葉があるのは、仏教が中国の道教や日本の神道と混交して、土着文化とごっちゃになった事で、上位者として悪行に罰を当てる仏様って概念が生まれちゃったからなのです。  
ですから『本来の仏教には罰が当たるって概念は無い』のですが『日本の仏教には仏罰って概念は無くは無い(宗派に因る)』ってのが答えだと思います。 
4 罰(ばち) 天罰(てんばつ) 天誅(てんちゅう) 神罰(しんばつ) 仏罰(ぶつばつ)  
人間を超えた存在が、人間をこらしめ、償いとして与える苦しみ。「罰(ばち)」は、動作の主体を特に限定せずに、ごく一般的に用いられる語。「天罰」「天誅」は、天の下す罰。「天誅」は、天に代わって処罰することの意にも使う。「神罰」は、神が下す罰。「仏罰」は、仏が下す罰。「ぶつばち」ともいう。  
〔罰〕 罰が当たる/これも親不孝をした罰だ / 〔天罰〕 天罰が下る▽天罰覿面(てきめん)(=悪事を働いて即座に天罰を受けること) / 〔天誅〕 反動分子に天誅を加える / 〔神罰〕 神罰が下る/神罰をこうむる / 〔仏罰〕 仏罰をこうむる 
5 先祖供養をしないとバチがあたる?  
先日ある女性から「ピンポーンが鳴ったので扉を開けると二人の見知らぬ女性が突然に 先祖供養をしていますか。水子供養をしていますか。先祖供養を怠るとご先祖が浮かばれませんよ。バチがあたりますよ。水子供養を怠ると泣いていますよ。と言ったので、二度とピンポーン鳴らさんといてと言って睨みつけてやりました。本当に、先祖供養を怠ると本当にバチが当たるのですか」と問いかけられ、つぎのように答えました。  
「大切な、そして可愛い子供、孫にバチを与えるご先祖はおりません。ご先祖をダシにして供養を強要するのは脅しにしかすぎません。供養を怠るとバチがあたるという人は仏教に無知であり、ご先祖や幼子・胎児を悪者に仕立てる哀れな人です」と・・・  
それにしても、このような脅しと言っても過言でないことを口走る集団があとを絶たないのでしょうか。  
それは、本来は医者であり、教師であり、道徳を説く存在者であり、信頼される人生の相談相手であり、そして人生の最後を葬儀によって仏教徒として締めくくる役目であったはずの僧侶が、いつからか葬儀だけを職とし、先祖供養を強いる寺・僧侶が増えてしまった結果、先祖供養を食い物にする「新興宗教」に付け入られる隙(すき)を与えたのでは?と思います。  
みなさんに知っていただきたいのは「本来の仏教」は「先祖供養」や「水子供養」に重きを置きません。  
私は機会があれば「ご先祖を敬うことは大切です。が、それを怠るとどうこうと口にする人と付き合う必要はない」ことをお話ししています。  
そのとき、インターネットに掲載されていた女性の文章を紹介して、これからの「送り、送られる儀式」のあり方、本来の仏教・寺・僧侶のあり方を皆さんが問いかけ、判断してもらっています。 この女性とは面識はありません。以前開いていたブログでも紹介しましたが今回も掲載することを了承していただけると思います。送り送られる儀式のありかた」・「本来の寺・僧侶はどうあるべきか」を問いかける重みのある文章だと思います。  
「今生きている人のためのお寺・・・故郷若狭はお寺の多い町です。雪の中を托鉢に歩くお坊さんのはちに、小銭を入れるのが楽しみだった思い出もあります。親は時々寺の行事に出かけたりしていました。 でも、私にとってはそれ程身近なものではありませんでした。「死んだ人の為にあるものだ」と感じていました。ところが結婚・出産と年を重ねていくと、どんどん寺に対して疑問が膨らんできました。  
長男が昨春結婚する時、人ごとではなくなりました。仏壇もお墓もある一人娘さんとのご縁だったのです。  
幸い私どもにはまだ仏壇もお墓もありませんが、型通りに考えれば長男夫婦は大変です。  
「何でお寺やお墓の事で、今生きている人間が困らなければならないの?仏教って何?」と、以前からの疑問が頂点に達しました。  
「今、生きている人間の幸せを第一に」と自分で決めた時、すっきりとしました。主人とはまだ一致する所までいきませんが、私は生きている人を困らせる様な先祖にはなりたくないと思っています。  
親である私を忘れてくれていいと考えています。精一杯この世を生きる事……他に大切な事って何でしょう。  
それからは、仏教やお寺などについての本を色々と読んでみました。  
そして、本当に本当にびっくりしました。本来の仏教とは生きている人の為にあり、先祖供養や葬儀とは直接つながるものではなかった事を知ったのです。又、お寺のあり方に疑問を持って寺を飛び出した僧侶もあった事を知り、何だか気が楽になりました。そして、仏教のすばらしさも少しは知りました。もし、本来の仏教が正しい形で広められていたなら、どれだけ多くの人が救われた事でしょう。と同時に、檀家制度で苦しんでいた先祖への思いで胸がつまります。  
一つ間違えば宗教は怖いものです。いつの間にかお寺を無条件で信じ、葬式やお墓や仏壇のあり方も黙って受け入れなければいけないものだと思い込んでしまうのですから。  
「この今をどう生きたらいいかを問うのが仏教の本命」であり、今をどう生きるのか迷っている人々が気軽に行ける所がお寺。そんな風であったらいいですね。  
「心の時代」と言われる現代に、いっぱいあるお寺が本来の仏教を正しく伝える役目を果たしたら、日本はすばらしい国になるかもしれないと思います。檀家制度を根本から考え直す時ではないでしょうか。  
幼い頃から「ご先祖さまは大切にしなければ罰が当る」とよく言われましたがわたしはこの言葉には少し抵抗を感じます。  
「ご先祖さまも大切かもしれません。でも何より今生きている人を大切に」「ご先祖さまという言葉でこの世の人を不幸にだけはしないで下さい」と申し上げたいのです。」  
次にネットに掲載されていた「水子供養」の文章  
「1970年代半ごろ、ある宗教団体と墓石屋が「水子地蔵」を大量生産・大量販売したことにある。これが当たった。当然、他の神社仏閣や新興宗教団体もマネをするようになり、日本に「水子供養」が定着するようになった。」とあります。  
また、次の文も掲載されています。  
「水子供養は、一部の尼寺で行われていたことを除いて、ほとんどの寺院では戦後の「水子供養ブーム」に乗って、現在になって盛んに行うようになったものです。古い歴史があるものではないので、ご注意ください。水子供養の説明のほとんどに、胎児が成仏できずに苦しんでいるとか、「賽の河原」で苦しんでいると書かれていたり、母親にたたりがあるとか、兄弟や子や孫の代にまでたたると、脅しのような文句が見られますが、歴史的には浅いのですから、その文句は間違っていることが判ります。本当にたたりがあったり、苦しんでいて可哀想なら、昔から供養をしていたはずです。ごく最近まで日本の仏教界は、胎児の死亡にまったく興味がなく、供養すら行わなかったことを知ってください。それにほんとうの仏教では、亡くなった命は静かに涅槃(命の元)にかえり行くものとされていて、もちろん「賽の河原」もなければ、「たたり」もないのがほんとうの仏教の教えです。  
水子供養をどうこう言う人は、女性でなければ感じ取れない辛さに付け込む卑怯な人です。  
供養とは・・・お仏壇や墓が有ろうと無かろうと、命日で有ろうと無かろうと、愛しい人、大切な人を思い出したとき、そのときすでに供養となっています。  
また、食べることができなくても好物の食べ物を供えたい・見えなくても好きだった花を供えたい・聞こえなくても好きだった音楽を聞かせたい、答えなくても語りかけたい、と行動したときすでに供養になっているのです。  
電車の中、バスの中、どこに居ようとも、ふと、心の中で手を合わせたときすでに供養となっています。  
お坊さんを呼ばなければ供養できないということはありません。  
元気で暮らしている姿に勝る供養はありません。家をきちんと片付け、社会一般常識(道徳)を守り素直に与えられた命に感謝して生きる。これが供養です。 
6 バチはあたるか?  
子供のころ「そんなことすると、罰(ばち)があたるよ」と、よく言われたものです。神や仏を何とも思わなくても「バチがあたるよ」と言われると、妙に効きめがあったようです。  
それと同じような言葉に「崇(たた)る」があります。国語辞典をひくと「神仏や怨霊(おんりょう)が災いをすること」と書かれてあります。それでは、神仏や霊魂は本当に災いをもたらすのでしょうか。  
かつては、そう信じられた時代がありました。そして仏教も、恐れを抱かせる方に一役買っていたのですが、しかし、鎌倉時代になると、真の仏教を求める運動が盛んとなり、特に親鸞聖人によって、災いをもたらす鬼神や、魔界は退けられました。言わば、恐れの宗教から救いの宗教へと、大きな変換を迎えたのであります。  
「念仏者は無碍の一道なり」とは、まさしく、不可解な神仏や霊魂に支配されていた人々の心を、恐れから解き放ち、弱き者こそ守られるべきものとして、人間の命を蘇(よみが)えらせたものと言えましょう。ですから、現代に生きる私たちとしては、もし仏教によるならば、神仏や霊魂の崇りを恐れる必要は全くないのです。  
次にあげますご和讃は、このことを高らかに歌いあげています。  
天神地祇(ちぎ)はことごとく  
善鬼神となづけたり  
これらの善神みなともに  
念仏のひとをまもるなり 
7 悪いことをすればバチが当たる  
どのくらい前のことだったか忘れましたが、新聞の投書欄で読んで、とても強い印象が残ってるフレーズがあります。  
確か、若者のマナーを嘆くような文章で、最後に書いてあった一文がこれです。  
『近頃の親は、“悪いことをしたらバチが当たる” と教えないのでしょか?』  
これを読んで、ほんとに可笑しくなってしまいました。いえ、悪い意味ではありません。あまりに 「その通り! もっともだ!」 と思ったのです。 “悪いことをしたらバチが当たる” こんな素晴らしい格言を後世に伝えないのは絶対間違っています!  
思えば僕もこれはよく言われました。僕がよく言われたのは、“物を粗末にするとバチが当たる” だったように思います。  
考えてみると、バチが当たるっていうのはどういう事なんでしょうね。  
思うのですが、きっとこれは具体性や根拠は、あまりないのではないかと思います。  
しかし、その効用はあります。  
おそらく 「あんなことをするやつは、バチが当たるに違いない」というのは、悪いことをした人に対する反発の気持ちを押さえ込む為の、バランスを取る気持ちの持ち方として有効でしょう。  
「バチが当たるから悪いことをしない」 というは、悪いことをしてみたいという欲求とそれを抑える気持ちとの、バランスを取る為の気持ちの持ち方として有効に違いありません。  
そして 「バチが当たるよ!」 と子供を叱るのは、理屈でないマナーなどを教える時に都合がいいです。食べ残しをしてはいけない、など。そもそも、マナーなどの一部は単なる慣習であって、理由がないものも少なくありません。(あるいは、ほんとは理由があるのだが、それが忘れ去られてしまった場合など。) それを教えるのに理論的な説明をすることができない時に、とても便利です。  
さて、それでここからは全くの想像なのですが、キリスト教なりイスラム教なりの宗教の場合では、「神が……」 という理由で、いろんな事に明確な説明ができるのではないでしょうか?そして、日本においては 「神が……」 は、それほど説得力にならずに、曖昧な 「バチが当たる」になっているのではないでしょうか?  
でも、だからと言って決して日本人が神を信じない、ということでもないと思うのです。  
よく言われるのが、「日本人はクリスマスを祝って、そしてお正月に神社に行く。これはおかしい」 というもの。でもこれ、全然おかしくないと思います。  
日本には八百万(やおよろず) の神という言葉あるように、唯一の絶対神ではなく、多神教の考え方をしてます。水や木や岩、海や山、さらにお米一粒一粒に神様が、などというくらい。八百万じゃ足りないかも。だから、クリスマスもお正月も OK なんだと思うのです。八百万の神というのは元々は神道の考え方ですが、実際には仏教徒であろうと、生活に密着した非常に一般的な考え方でしょう。  
ただ、たくさん神様がいて、唯一絶対神を持たないということで、信心深く見えないし、実際、深さ的な見方をすれば深くないんだと思います。絶対神でないから、神様が見ていない部分があって、ちょっと悪いことしても、ばれないこともある、と。このあたりが、多少日本人のマナーの悪いとこ、人が見てないとゴミを捨てるとか、自制心が働かない部分の遠因になっているのかもしれません。  
いずれにしても、「悪いことをしたらバチが当たる」 っていうのは、日本の文化だと思います。これを伝えていくのは、伝統文化を守ると同じで、良いことではないかと思うのですが。 
8 罰があたる  
前にもこの週報で取り上げたことがあるが「NHK全国短歌大会」が今年も1月24日NHKホールで行われた。20年度の短歌大会に寄せられた歌の数は25,000首をはるかに超えた。その中から20人の選者によって選ばれた60首を私が朗読させて頂くのである。20年も続いている恒例の短歌大会…短歌は時事や人々の心が濃く歌われるので、今年はどんな歌が詠まれているか…と毎回待ち遠しいのである。  
20年前は戦争で家族を亡くした悲しみ、平和への希求の歌もかなり多かった。今は世代も変わり直接に悲しみを歌う作品は少なくなったが、今年度は、オリンピックのバンザイに、かつての時代のバンザイを思いだしたという  
「ニッポンのバンザイきこゆはるかなる60余年前のバンザイ(小室誠二さん)」という作品が選ばれた。  
私は第二次世界大戦の最中に生まれたので、戦争の直接体験はなく、自然の中の縁故疎開だったので、食糧もそれほど乏しくはなかったけれど、お米は配給で大変貴重であった。一粒でも無駄にしたら、「罰があたる」と注意された。和田美智子さんの歌にも心惹かれた。  
「ひとつぶの 米を残して 叱られき『罰があたる』は死語となりけり」  
和田さんは、飽食の時代に大切な教えも消えてしまったのでしょうか…とおっしゃる。「罰があたる」は、お米だけではなく、すべてのことに私も頻繁に聞かされた言葉である…「そんなことをしたら罰が当たるよ」と。罰とはどんなことか幼心にはわからなかったけれど、それは、一瞬のブレーキになり、考える余裕にもなったと思う。  
怖れではなく、「誰かが、何かが、どこかで、見ているかもしれない。罰があたらないように、ちゃんと生きていこう」と自然に教わったように思う。「サムシンググレート」…その思いは私の中に今もあるのである。 
9 罰(バチ)があたる  
開運関連の商品やサービスが売れています。  
昔からあるお守りや破魔矢などは当然のこと、開運ペンダント、ツキを呼ぶ絵画、パワーストーン、風水、そして、運気を上げるために改名する人、さらには、出版物も、ありがとうの効用など、運気を呼び込む行ないを書いた書物も大変人気となっています。  
このような開運関連の商品・サービス・コンテンツが、売れるのは何故でしょうか。それは、当然ながら、自分が望むような人生がおくれるようになりたい、平たく言えば、「幸せになりたい」という欲求があるためと思われます。  
しかし、このような欲求の裏には、もうひとつの欲求が加わっているように思われます。それは、「楽して」ということです。すなわち、「楽して幸せになりたい」という欲求です。  
この欲求は、特に、現在は特に強くなっているように感じられます。このことを証明するかのように、「罰(バチ)があたる」という言葉が使われなくなったように思われます。  
マナーを守らない、自分勝手な振る舞い、目上の人を大切にしない、あるいは、言いつけを守らないなど、道徳に反するような行ないをした場合に、必ず「そんなことをすると、いつか罰(バチ)があたるぞ」と言われたものです。  
ところが、最近、この言葉はほとんど死後になっています。「自分は、身勝手に振舞いたい、それでいて楽して幸せになりたい」ということが現代人の相当数の人が持つ心理なのでしょうか。  
欲求に応えることで、商売をしようとすることがマーケティングの基本だとすると、このような“身勝手な欲求”に応えていくことが正しいということになります。  
しかし、一方では、「カルマの法則(苦しみを与えれば苦しみが、喜びを与えれば喜びが返る)」などを説いている人達がおり、これもまた、商売になっています。  
便利な生活をしたいという欲求を追求する過程で、環境問題が発生し、今度は、環境改善が商売になる。身勝手な振る舞いをする人が、環境貢献に対して熱心に活動する。人の欲求は、多面的ということなのでしょうか。 
10 “バチ”って当たりますか?について  
「バチが当たる」のの説明には、民話「夕鶴」がいいだろう。皆さんご存知ですよね、貧しい猟師の男が罠にかかった鶴を助ける話。その後、男の家を綺麗な女性が訪ねてくる。そして、綺麗な女性は、この家に置いてくれという。  
女性は、機織りに精を出し、綺麗な反物を織りあげる。反物を織る仕事中は、決して戸を開けて中を見てくれるなと、男に約束させて機織りに掛かったのだ。  
その反物を売った男は大金持ちになり、渋る女性に「もう一枚反物を織ってくれ」と頼む。そして、仕事中の女を、男は覗き見してしまうのだ。女性は「鶴」で、自分の羽根を抜いて反物にしていたのが分かる。  
反物を織りあげた女は、「機を織る姿を見ましたね」といって、鶴になり、大空を去っていく。  
この男の間違いは、「女の働きを当てにした」ことでもなく、「もう一枚の反物が欲しくなった(金に目がくらんだ)」のでもなく、ただ一つ「女との約束を破った」ことなのだ。ですから、「働かない」という社会的な悪が問題になっているわけではない。  
「夕鶴」が問題にしているのは、個人と個人の「約束」なのです。これは西洋流の契約とは違って、違反すると「すべてが無きものになる」というシステム。交渉や妥協点を探ったりしない。決定的なことなのだ。「約束」というより「信義」というか、我々日本人の「根本をなす概念」のような気がする。  
相手との関係が、絶対に戻らないというのが「バチが当たる」ということではないだろか。「夕鶴」は二度と、男の元には戻らない。  
石原都知事が、東北の「大津波」を「天罰」と口走って、マスコミに取り上げられた。が、どう考えても不謹慎で、ドサクサまぎれて、さしたる問題にならなかった。石原氏の「天罰」のイメージは「ノアの方舟」に近い気がした。「ソドムとゴモラ」でもいいけど、民衆が腐敗したから、神が怒ったということだろう。キリスト教的であって、日本の「天罰」ではないと僕は思う。  
個人と個人の「信義」が、「神」というか「お天道様」に通じるのが「日本」なのです。  
「夕鶴」の喩で続けるなら、男の元を去ろうとする鶴を、檻に入れて辱めたら、「天罰」が下されることもあり得る。菅原道真を、藤原一族が力づくで地位を奪ったから、菅原道真は死んだ後、藤原一族に祟ったのだ。慌てて、菅原道真を神として祭り上げたのが「天満宮」。  
我々が日常で「バチが当たる原因」は「浮気」や「へそくり」といった、連れ合いを抜きに「自分だけが楽しむ」にあるのではないだろうか。  
そんなことが発覚した後は、言い合いや、暴力沙汰もあるだろうが、これは西洋的な解決法といえる。一種の交渉だからね。連れ合いが「大空を飛び去っていく」というのが、「バチ」という日本的な解決法なのです。まーいうならば、失踪ですね。家出。  
実家との行き来がなかったり、金銭の問題があったりすると「家庭内失踪」が行われる。「口を利かない」というやつだ。たいていの男は体験しているだろう。あれが「バチ」なのです。質問者がいうように「心の持ちよう」といった、生易しいものではない。  
「信義を破るケース」としては、昔は「浮気」がポピラーだったが、最近の「鶴の機織り」のタブーは、どうやら「連れ合いとのセックス」にあるような気がしてならない。旦那が妻に「セックスを強要する」とでもいうのかな。その折に、女性が「自分は尊重されていない」と感じるようなのだ。無論その逆もあり得る。  
夫婦の性の問題、それも長年連れ添っていると、外部の人間には「なかなか相談できない」ことなのだろう。僕が漏れ聞くのは、芸能界の人たちなので、一般の人に当てはまるかどうか分かりませんが、予感として、夫婦の姓が「鶴の機織りのタブー」になっている気がしてならない。  
なかなか浮上しないが、「嫌がった時は、セックスしないでね」という単純な事が、「信義」に関係していると、僕は考えている。  
いずれにしろ、「バチが当たる」という感じは脈々と生きていて、近親者の顔色をうかがうのは、「信頼」からくる「後ろめたさ」なのだと思う。  
太宰治の短編に「バーのカウンターで桃を食べる」場面がある。家に桃を持って帰って、子供たちに食べさせたらどんなに喜ぶだろう、と思いながら桃にかぶりつく。  
僕はこの場面を書く行為が、「バチが当たっている事」だと思う。太宰だって、バーで出された桃を、ためらいなく食べたに決まっている。それを後で反省して「文章化」した気がする。  
誰が教えたわけでもないのに、「個人的な喜び」が近親者を「裏切る」という感覚が、我々の身に付いてしまっているのじゃないだろうか。そんな日常的な規範が「お天道様が見ている」「バチが当たる」を生み出した気がする。  
「胸に手を当てて考えてごらん」というやつだ。この規範が日本人を支えていると、東北大震災で略奪が皆無だった事に顕れているんじゃなかろうか。 
11 「罰が当たるってどんなこと?」  
今日はあまり余り遭いたくない人と出会いました。今、私の仕事場でのことでした。その職場はかって私が遭いたくないと思っていた人の職場です。大変評判の悪い方で、その人にいじめられて職場を去った人はかなりの数になるようです。彼女は私がクリスチャンであることを知っていて、何か話したい様子でしたが、勤務時間中でもあり、簡単な挨拶を交わしました。近くにいた職員の人たちが、「あの人を知っているの?」と聞くので、「ええ。」と答えると、彼女の行状やその他色々なことを私に話してくれました。私はその人たちの説明を聞きながら、一緒に働いた仲間の大変さは風評通りであったことを知りました。しかし、ずっとずっと以前に彼女が少し離れた教会に出席したことを聞いたことがあり、「百万人福音」と云うキリスト教界の雑誌に掲載された私の入信の証しを読んだと他のクリスチャンから聞いていましたので、何時か信仰に導かれるかもと思った事もあったので、複雑な心境になりました。  
私に彼女のことを説明してくれた人は、「上の人へだけ良くて、下をいじめたあの人は、良い死に方はしないと思うよ。子ども三人も成人しているがぐじゃぐじゃだし。」と言って話を結びました。この方の説明を聞きつつ、結局「罰が当たる」という考え方なのだと思いました。良く考えて見ると、今日、出会った人だけではなく、罰が当たったような出来事は多くの人々が遭遇するところの基と思います。当たるという言葉は、くじが当たると同じような意味で、引き当てたことになります。良い親を当てたと思ったら、夫は当たらなかったとか、夫も当てたと思ったら、子どもは当たらないとか言いますね。全部が全部良いくじを当てる事は決してないでしょう。人生って、トータルして見ると大体みんな似たり寄ったりしているのではないかとさえ思うのです。当てる部分もあれば、外れる部分もあるから、楽しく頑張れるのだと思います。  
さて、「罰が当たった」と言って、嘆き、悲しむのか、「罰を引き当てたことによって目が覚めて、大切なことを知る機会となった」と取るかは、その後の人生に大きな差を生み出すと見ています。聖書に出てくる有名な放蕩息子のお話があります。この物語を有名なレンブランドが「放蕩息子の帰郷」という題で描いています。一昨年旅行したロシアのエルミタージュ美術館にありました。とても感動しました。この物語は、父親の財産を生前贈与して貰って家を出た息子、大金を持って遠い国に行き、そこで放蕩し、湯水のようにお金を使い果たしました。彼は食べる物も無くなり、豚飼いとなり、豚の食べるいなご豆で空腹を満たします。〔一般的には罰が当たったということです。〕しかし、そこで彼は「我に返った」のです。そして、父親のもとに帰って来ました。父はこの息子の帰還を喜びます。「死んでいたのに生き返った」と言っている位です。そして、再び息子として受け入れるのです。罰が当たった時、「我に返る」チャンスとすることが出来るかどうかが、人生の分かれ道となるでしょう。  
放蕩息子の中に描かれている父親は神様の愛を描いています。父の家を出て行った放蕩息子は勝手気ままな私たち人間です。そして、人生において体験する様々な罰を、父なる神に帰るチャンスとすることを神様は待っておられるのです。全てを赦そうと待ち構えておられるのです。この父の愛のある事を忘れないで下さい。教会ではこの愛の神様をご紹介しています。今日もこの事を知って生きられますように。 
12 そんなことをすると罰があたる  
ある隠居のご老人が言いました。  
「この頃飛行機が落ちたり、バスがひっくり返ったり、悪いことばかりつづく。  
みんな人間が悪いから罰があたっとるんじゃ。」  
すると、その老妻のお婆さんが  
「そうじゃのう、お経の中にある末法の世の中じゃのう」  
とあいづちを打ちました。  
すると孫の大学生が  
「お爺ちゃん、そうじゃないよ、何もかもな、政治が悪いんだよ。」  
こういう会話はいたるところで見られますが、老人夫婦の言っているのは、「心がけが悪いと悪いことに遭う。」とか「そんなことをすると罰があたる」という命題なのですが、多くの現代人は心がけが悪いこととよくないこととの間にどういう必然関係があるのかと尋ねてきます。  
つまり、罰などというものがあるのなら見せてみろという実証の立場、実見の立場に立っているのです。  
それでは、この老人の言っている命題のもつ特有の構造は分からないのです。  
罰があたるという「こと」に眼をつけて、それを尋ねているのでは、この言葉は分からないでしょう。  
それはことがらとして「外」に見るべき真理ではないのです。  
おのれ自身の生き方、つまり「立体的真理」仏教の智恵に関するものなのであります。  
おもえば、罰があたるという事実よりもそういう「感じ方」が深い意味を持つのです。  
本当の感情のもつ必然性は論理=理屈の必然の上にあるのです。  
そういう感じ方で事柄をみてゆけば、好ましくない凶事というものは、罰のあらわれとなって、それは決して迷妄でも、不真理でもないのであります。 
13 ものを粗末に扱えば罰が当たる  
昔の人はものには魂がこもっていると考えていました。  
古い神道は、八百万(やおよろず)の神と言って、あらゆるものに神を見ました。  
竈(かまど)の神様とか、火の神様、水の神様、お酒の神様など、あらゆるものに神が宿っていると考えていました。  
ものには神がこもっている。だから粗末に扱うと罰が当たるというのです。  
たとえば、いい加減に火を扱う、つまり火の神様を大事にしないと、罰が当たって火事になると言われました。  
神様はあらゆるものに宿っているので、あらゆるものを大切に扱うということです。  
昔の人たちは、これを理屈として信じると言うよりは、大自然に向かおうとおおらかな感性として身につけていたようです。  
ものを大事にしないと罰が当たるような嫌な気がしたものです。  
文字が書いてあるようなものは、人と同じように大切に扱わなくてはならないともされていました。  
本はおろか、ウッカリ新聞紙をまたいだだけで怒られたものです。  
私などもこういうしつけを受けてきたので、いまだに本はだらしなく置いておくと、ちょっと気持ちが落ち着きません。  
気持ちが落ち着かないという感覚は、わかる人にはわかるでしょうが、若い人などにはちょっとわかりづらい感じかも知れません。  
しつけというものは、このことに限らず人間が生きるための「かたち」を感覚として体にしみこませることなのです。 
14 バチがあたったら  
日本全国何処に行っても民話ってあるものです。  
鶴の恩返しが有名ですが、金沢にはスズキの恩返しや、鯉の恩返しの話しがあります。  
これは昔から、何か生物に対して善行を施したら恩返しされるとの思いがあったのではと思う。  
浦島太郎伝説や因幡の白兎、竹取物語、舌きり雀、みんな恩返しなんです。  
現代では如何なんでしょうね。  
最近ではイラクで悲壮な最期を遂げた二人のジャーナリストの善意で、イラクの少年が日本で目の手術をして帰国したとか、そんな話が少なくなりました。  
殺伐とした日本では親が子殺しをしたり、子供が親殺しをしたりと、訳が分らない物騒な時代になりました。  
私が海外に駐在していた頃は世界一安全な国が日本でした、今は面影もありません。  
釣りに行って、不心得者の釣り人がゴミを素知らぬ顔で棄てて云っても、迂闊には注意も出来ません。  
もしも、相手が切れたら大変な事になるからです。  
最近の日本人には節操がないと云うか、プライドも誇りもなく、つまらぬ見得だけは一人前で、うっかり何でも云えません。  
そんな恐ろしい国に成り下がってしまったのです。  
鶴や亀、そして雀やスズキ依りも劣る日本人になってしまったのです。  
臼を燃やされて、その灰を撒いたら花が咲き、殿様に褒美を貰う話しがありますが、今やゴミを棄てっぱなしにするは、何処でも焚き火をするは、花火をして燃えカスはそのまま放置するなんて、ざらにある話です。  
私が所属する釣りクラブでも春秋の釣大会には皆で釣り場を掃除しますが、とても追いつくものではありません。  
地元の青年団も港内の清掃をしてくれますが、その後からゴミを捨てる始末です。  
ゴミを棄てたら、ヘビが出てくるとか、お化けが出てくるとか?  
民話の世界の様にゴミを棄てたら何か罰があたるそんな世界なら誰もゴミを棄てないのでしょうね。  
いずれにしても何処の釣り場も汚すぎます。  
汚い釣り場で釣りをしていて楽しいのでしょうか?  
それとも、汚しても自分の家もゴミの山になっているから慣れているのでしょうか?  
タバコの吸殻はポイポイ棄ててあるし、家の中でも吸殻をポイポイ棄てているのでしょうね。  
私には信じられない事です。  
ゴミを棄てたら海の神様からバチがあたると良いと思う今日この頃です。 
15 「罰が当たる」ことを教えることの大切さ  
「罰があたる」という言葉を教育界では聞かなくなりました。  
かつては、何か悪いことをすると「罰があたる」とよく言われたものです。  
戦後の教育界では、旧教育基本法が触れた「真理」の解釈が科学的真理の追究にばかり偏り、迷信や神話など非科学的なものは教育界から消えていくことになりました。  
そして、同法第9条の「国及び地方公共団体の設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」との規定が過大に解釈されて、宗教的概念すらも学校から排除されることになりました。  
このことは、宗教というよりも既に日本の文化の根幹となっていた「神道」や「仏教」も宗教のひとつとして否定される結果になりました。そして、マルクス主義が学校現場を席捲し、宗教を否定する「唯物主義」が混入したり、「個人の心の自由を奪う」として道徳教育を否定した日教組が心を育てることを否定したことも、戦後日本の教育にとっては大変不幸なことでした。  
このような背景の中、子どもたちは、宗教的な涵養(しみ込むように養い育てること)を受けることなく個人主義で教育されたのです。ですから、何か悪いことをすると「罰があたる」という宗教的概念は教育界から抹殺されてしまいました。  
「天罰」や「仏罰」「神罰」など、人智を越える偉大な力によって「罰」を与えられると思うことは、人智を超える存在に生かされていると教えるにはとても大切なことです。それが、本当に生きるということであり、命を大切にすることなのです。  
DNA解明の世界的権威で筑波大学名誉教授の村上和雄先生は、この未知なる力を「サムシンググレート」(偉大なる何者か)と呼ばれています。遺伝子を解読して研究すればするほど、生命の仕組みはとても不思議で、生命の創造には偶然では片づけられない人智を超えた偉大なる何かを感じられるのだそうです。  
まさしく、科学的真理の追求の先には「サムシンググレート」が存在しているのです。  
かつての人間は国籍や人種を問わず、それを「天」や「神仏」として感じてきたのです。ですから、人道を外す行為は、どのような「神」や「仏」を信仰しようとも、罰を与えられると恐れることで自らを律してきたのです。日本人は、それらを「お天道様」とも呼んでいました。  
ですが、戦後教育はそれら全てを「宗教」というひとくくりで否定し、個人が宗教から自立(決別)することを促してきました。  
その結果、「自分さえ良ければいい」という利己主義が闊歩する現代の日本が造られてしまったのです。日本人の心は荒廃し、利己主義は大人の心さえも蝕み、学校では子どもたちの荒れとなって表出しています。  
1980年代にかけての英国でも、「英国病」と称された暗黒の時代がありました。公立学校でも、荒れや学力低下が問題となり教育改革が喫緊の課題になりました。当時の英国の中学生は「名前も書けずに卒業している」と言われたのです。  
その時、保守党の鉄の(女)宰相と呼ばれたサッチャー首相(当時)が行った教育改革の原点は、国教である「キリスト教」に基づいた宗教教育による心の教育と労働党政権下で続けられていた自虐的な歴史教育の見直しでした。  
やはり、教育の荒れの背景には、子どもたちの「サムシンググレート」を受け入れず自己を律する術を持たない姿と自国に誇りがもてない姿があったのです。  
英国は、この改革を「1988年教育改革法」の成立によって見事に結実させ、その後急速な公立学校の立て直しと、子どもの学力向上を果たしました。  
このように「罰が当たる」という言葉には、日本人だけでなく、世界に共通する人間の叡智が隠されています。  
わが国でも、祖先が保守して大切にしてきた「罰が当たる」ということを教育の中で教え、宗教的涵養を図る必要があります。 
16 罰は当たるよ  
「罰が当たる」とは、神様が、悪い行いをした者に対して、罰を与える事。この場合の神様には仏様も含まれるだろうし、罰と言うのは総じて「辛い・苦しい」の意味だと思う。つまり誰も見ていないからと言って悪さをすると、神様が見ていて、後で怖いよ〜と言う事。  
最近は、この「罰が当たる」と言う事を、信じていない人が多い。だから仏像を盗んでみたり、お地蔵様の首を折ったりするのだろう。その他にも樹齢何百年と言う大木に傷を付け、太古の遺跡に名前を彫ったりする。そんなことを平気でしている人に対して、声を大にして言いたい!「罰が当たるよ〜」と。  
もっとも人が見ていない所で悪さをしている人全てが、罰を恐れていないのかもしれないが、罰ってきっと当たるような気がする。大人は子供に、こう言う事をシッカリと教えるべきだと思う。  
これに近い事で言うと、家の中に怖い場所が無い子供が、増えているような気がする。昔なら、「廊下の突き当たりのトイレ」とか「2階に上る階段」とか「押入れの中」と言った怖い場所が必ずあった。それは人それぞれに違った場所で、それが大人になるにしたがって、違う場所に変化したり、あるいは無くなったりしたもんだ。  
つまり昔は、何か意味の分からない物を怖がると言う気持ちは誰にでもあったし、そしてそれが悪い事ではなかったと言う事。その気持ちが時として自分を律し、戒める事にも繋がったからだ。今は自分で自分を抑えられない。そして他者としての誰か、例えばそれが親でも兄弟でも親友でも良い、そんな人の気持ちが抑えてくれることも無い。そして罰を与える何かに対しても怖いとは思わない。  
でもそれじゃあ、あんまりにも寂しくない? 何かに助けられたり、何かを怖がったりすると言う事は、「自分は絶えず一人じゃない」と言う事を自覚する事に繋がっている。お盆が近づいてるから言うわけじゃないけど、誰かが見ているし、誰かが支えてくれている。孤独感に苛まれる事は若者の特権だけど、心から信じあえる親友を作れると言う事もまた、若者の特権だったりするのだから。  
・・・と、おじさんが言ってみたりするのだが、さてどうでしょう。 
17 行いの尊さ  
きょうはお盆、ご先祖さまの供養の日ですが、宗教行事というのは、実は漠としたところがありまして、仏教行事も、深い意味までご存じの方は少ないのではないかと思います。お盆のことも、「昔からやっていることだから、今年もやらなかったら罰(ばち)が当たる」などと思われている方がなかにはいらっしゃる。  
お盆とは、「ご先祖さまが帰って来られる日」というわけで、帰って来るというからには普段はどこかへいらっしゃるわけですよね。こうしたことは仏教的、伝統的な定説でありますが、最近は、死んだらそれで終わりと考える方も多いようです。そういう方の多くは「自分は信仰をもっていません」なんておっしゃって、あの世なんてあるわけないと思っている。でも普段そう思っている方でも、お盆になるとお寺詣りをして、お墓詣りをする。  
そういう意味では、日本人の宗教心というのはいいかげんなんですね。死んだらそれっきりなのであれば、お寺詣りもお墓詣りも必要ないのではないかと思うのですが、「信仰をもっていません」と言いながら、初詣にも行って、クリスマスまでも祝ってしまう。それが日本人なんですね。  
そこで本日は仏教の大前提からお話ししたいと思います。仏教の教えというのは三世(過去世、現在世、未来世)を貫いているということなんです。三世を貫くとはどういうことかと申しますと、仏教の教えには「壁」というものがないのです。過去も今も未来も飛び越えている。また、私・あなた、あの世・この世などの隔たりが一切ないというんです。全てに通用する教えなんですね。  
そうしますと、現在世、つまり、現世のことだけが「全て」だと思っている人にはなかなかわかりづらい。たとえば新興宗教には、現世のことだけを説く宗教があります。そのほうがわかりやすいわけです。こういうことをしたら「お金が儲かりますよ」「病気が治りますよ」と言われたら、みなさんわかりやすいでしょう。  
しかし、その教えだけでは、死んだらいったいどうなるのでしょう。もしも大切な人を亡くしてしまったら、いったいどうしたらいいのでしょうね。  
仏教の教えは、いまのこの世はもちろん、あの世へ行こうが、どの世へ行こうが通用する。通用しなければ、それは宗教とはいえないのです。宗教の「宗」というのは大事なものという意味、人間の大切なもの。その教えが宗教なのです。  
子孫を守る先祖の存在  
お盆に帰って来るといわれているご先祖さまのことをお話ししたいと思いますが、帰って来るというなら普段はどこへ行っておられるのでしょう。これは普通にいえば、あの世ということになります。  
仏教の教えでは、人が亡くなったらすぐに先祖になるということはなくて、四十九日を迎えると、白い位牌から黒い塗りの位牌にかえて、仏壇にお祀りします。そしてみなさんに拝んでいただく存在となる。この、我が家の仏壇に入る方が先祖というわけです。四十九日を迎えるまでには、初七日、二(ふた)七日、三(み)七日と供養を重ねます。そうして供養を重ねることで、はじめて仏壇に入る資格ができるわけです。  
そう考えますと、先祖というのは、なにもしなくても自然とできるものではなくて、我々が供養をして育てるものだということがおわかりいただけるかと思います。こころを込めて供養をすれば、立派な先祖になる。いいかげんな供養をしていたら、あまり立派じゃない先祖になる。  
では、立派な先祖になっていただくと、なにをしてくださる存在となるのでしょう。仏壇にただ座っているだけではないのです。子孫を護ってくださる存在。これが先祖なんです。  
でも「私の家は法事もきちんとしているし、お寺にお布施もたくさん包んでいる。なのにちっともよくならない」という人がいます。また、「あそこの家は法事もしないし、先祖や仏さまを大事にもしていない。なのにだんだん金持ちになって贅沢な暮らしをしている」ということもあるでしょう。しかし、これはちょっと取り違いをしているのです。  
「先祖は子孫を護ってくださる存在だ」と申しましたが、子孫の社会生活を守るとはいっていないわけです。  
私たちは、社会生活のまえに、まずは人間としての生活、こころの生活がある。そのうえで社会生活ができているということです。しかし現代は、社会生活のことばかりに気を取られている人が多いんですね。仕事ばっかり、勉強ばっかりでこころのことを顧みない人は、いずれどこかでつまずいてしまう。  
仏壇の前できちっと手をあわせて供養をすれば、人間としての私を護ってくださる。お金が儲かるとか、社会的地位が高くなるとか、そんなことではないわけです。  
しかし、まったく関係がないとは思いません。人間ができてくれば、それは社会生活の中にも反映されて、自然とまわりから尊敬される人になるのではないかと思うからです。仏教とは、人間性を養う、こころを成長させる道なのです。  
巡り巡って、仏さまから返ってくるもの  
法要などでお経をあげますと、最後に「願わくは……」といって回向をいたします。これは、仏さまに向けたお唱えごとなわけですが、巡り巡って私たちに返ってきます。仏さまは、アンテナのような役割をお持ちだとよく思うのですが、供養のまごころを向けると、それをキャッチして返してくださる。  
仏さまは人間のように執着や欲というものがないわけですから、己の思いにとらわれることがありません。常に正しい存在なわけです。その正しい仏さまに供養のまごころを向ければ、キャッチをして返してくださるものは正しいものなのです。ちょうど鏡みたいなものですね。ですから私たちは、まごころを向ける対象を間違えるとたいへんなことになります。間違った鏡にいくらまごころをぶつけても、間違ったものしか返ってこないわけです。  
私はご法事がありますと、お経をお読みします。そして仏さまに回向をする。そうしますと仏さまはちゃんと訳してくださるんですね。ただし金持ちになりたいなどという願いはなかなか返って来ません。こうした願いは人間性には役に立たないもの。人間として成長する願いならば、必ず訳して返してくださる。これは頭ではなくて、からだで感じて受け取ったらいいわけです。  
ところで、ほとんどの宗教は幸せということを願っているわけですけども、では、なぜ不幸ということがあるのでしょう。  
幸せということを、感情の問題だと思っている人が多いのですが、一時の興奮の状態、恍惚の状態とは違うんですよ。風呂に入って気持ちがいいとか、酒を飲んでうまいとか、そういうものではない。幸せというのは、人間が人間らしくあった時、これを幸せというのです。  
では不幸とはなにかと考えますと、なにかが間違っているから、不幸になるというんですね。私たちはなかなか間違いを認められないわけですが、しかし間違いは必ずあります。だから苦しみ、悩みがある。  
こころにひっかかるものがなければ、本来は正しい。でも物事を判断するときに、こころに少しでも執着があれば、その思いにとらわれて、間違ってしまう。間違いは不幸のもとなのです。  
『修証義』に「修行をすればみな仏になれる」というようなことが書いてあります。しかし、こう考えてみてください。みんなは仏さまであるのに、その仏さまが間違ってしまっていると。私たちはもともと仏さまなんですね。仏さまで幸せになるはずなんですね。しかし、間違いを犯しているから不幸になっている。ならばその間違いに早く気がつかなければならないというわけです。  
では間違いとは、いったいなんなのかと申しますと、社会生活が中心になってしまっているということです。実生活である社会生活が自分の全てだと勘違いをしてしまっている。  
お寺にお出でになりましたら、ちょっと意識を変えてほしいのです。お寺の入り口には門があります。門というのは一つの通せんぼです。あそこで世間のものをみんな置いて、それからお入りになってください。門の外では社長かもしれない、有名人かもしれない。でもそんなものはみんな門で置いて来る。お寺というところは、門の外と価値観が違うところなのです。社会生活とまったく違う世界がお寺であり、仏さまの教えです。  
山門で社会生活を脱いで素裸になった自分という人間を顧みる。仏さまに向かって手を合わせて、仏さまが返してくださるものを感じ取る。これが間違いに気づくために重要なことではないかと思うわけでございます。  
施しつくす、ということ  
最初に、ご先祖様は普段どこへいらっしゃるのだろうかという話をしましたが、現世とは違った世界へいらっしゃるということですね。「死んだら終わり。先祖供養なんて必要ない」と思う方もいるとは思いますが、でも考えてみますと先祖と私たちはつながっています。どんな人にも先祖がいるわけで、ぽっと急に人間として現れたという方はいないわけですね。  
みなさん五十を過ぎると必ずと言っていいほどお父さんかお母さんに似てきます。私も「親父さんとそっくりになってきたな」とよく檀家さんに言われまして、若い時はもう少し男前だったのになと思っても、だんだん自分の顔じゃなくなって、親父の顔になってくる。そして、親と同じようなことをしている自分にはっと気がつく時がある。話し方であったり、ちょっとした動作のくせであったり、親と子は一緒なんですね。  
若い人は何のために生きているのかと、思い悩んで自分探しの旅に出たりしますが、みんな何かの使命を持って産まれてきたわけです。使命というのは全てを果たすものであります。人生を足し算だと思っている人がいるかもしれませんが、人生は引き算なんです。どんどん使命を果たして、消していってそして最後はなくなってしまえばいいわけです。  
先代の方丈さんは「無用の用」ということばがお好きで、本堂の前の像にもこの語が刻んでありますが、これは、「いまあるものは、消化するためにある」という意味です。だんだん減らしていって、最後はなくしてしまえばいい。   
『修証義』に、「生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とあります。生から死までの一生、自分の一生は何のためにあるか。それを明らめるのが仏教だという。そして「生死即(すなわ)ち涅(ね)槃(はん)」とある。涅槃ということは、全部終わらすということです。人としての役目、使命を全部終わらせたという状態が涅槃なのです。  
私たちは、臨終に接すると命が終わったと思う。でもこれは、実はからだの機能が終わったということなんです。使命を全て果たして終わらせることができたかといえば、そうじゃない。使命を全て果たしてあの世へ行くという人はほとんどいないのです。お釈迦さまも、前世は人間、そして動物にも生まれ、善行を重ねておられます。そうしますと、お釈迦さまですらそうなのですから、われわれは子孫や次世代の子どもたちに使命の消化を繋げていくということなのです。  
いまはエコだとかリサイクルだとかいって、たとえば一つの茶わんがあったとしますと、水を飲んで飲んで飲んで、使って使って使って、使い切って捨てた。でもこれをまたリサイクルして、ガラスに戻してもう一度使うということをします。人間も同じです。もう一度生まれ変わる。それが子孫や次世代の子どもたちだと考えていったらいいわけです。  
ではなかなか果たしきれない使命とは、いったいなんなのかということになります。使命の「使」というのは使うということですから、人のために役に立つ、使われるということ。「施」ということにも通じますね。施(ほどこ)すということ。  
そうしますと、施すものが自分になくては施しようがないですね。自分のものとして取り込んだものを施していく。でも「自分のことだけでせいいっぱいで、人に施すなんてなかなか」という方もあるでしょう。だけど施すということは品物やお金じゃなくてもいいんですよ。お経のなかに眼(がん)施(せ)という言葉が出てきます。眼施とは慈愛に満ちたまなざしというんです。つまりは笑顔でいればいいんです。無財七施という教えにございまして、親切でもいい、言葉でもいいんですね。施すものはいっぱいあるわけです。  
しかしそれでも、自分にないものは施せない。ですから、私たちは蓄えをしなくちゃならないということです。お金でも蓄えるのはいいわけです。蓄えて、蓄えて、蓄えて、好きなだけ蓄えたらいい。そして施して、使い果たしてしまうということなのです。  
そうしますと、年を取ることも、死ぬということも、それほど怖くはないということになってきます。しかし人生というのは不思議なもので、長くなればなるほど、執着が多くなるんですね。執着があれば目が曇ります。けれども、その執着するこころも使い果たしていかなければいけない。そしてはじめて、本物になるわけです。  
仏教徒としての幸せな生活  
執着の無い人を仏さまといい、執着を離れた先祖を仏さまになったといいます。これは「正しい判断のできる人」という意味になります。そして執着でいっぱいの私たちに「自分が自分として在るためには、執着にだまされるな、正しい道はこちらだよ」と教えて下さるのが仏さま、先祖さまです。  
「正しさ」とは「それがそれである」ことで、人が人であり、私が私であることです。  
「私として在る」、人間として是(これ)に勝る幸せはありません。  
私たちは、仏さまの前、ご自宅の仏壇の前で一生懸命拝むときに、正しいものに対してなにかを問いかけていると思ったらいいんですね。そうすると向こうから、それは正しいですよとか、正しくないですよとか、必ず正しい答えがくる。それが信仰というものなんです。  
日本には仏壇というすばらしい文化があります。これは家の中に私たちを導いてくださる正しさのもとがあるということです。自分が迷った時とか、苦しい時に、仏壇の前に坐ればいいということです。嬉しい時や感謝の気持ちを捧げる時にも坐ればいい。そうすると正しいものが返って来る。これは理屈ではなくて、からだに感じるのです。  
よく「うちは分家だから、まだ仏壇はいらないんだ」という人もいます。しかし、仏壇は持つべきなんですね。仏壇の前に坐るとわたしの目の前に間違いのない世界がある、そう感じたらいいわけです。  
間違いの多い世界にいる私たちです。でも間違いのない存在が家の中にある。そこに気がついてもらえばいいわけです。そしてそこから発するものを受けとめて生きていくということが仏教の生活となって、それがすなわち幸せということになるのではないかと思うわけでございます。  
お盆やお彼岸だけではなくて、普段からご自宅の仏壇、お寺の本尊さま、道端のお地蔵さまにも手をあわせて、ふっと世間から離れる。そうしますとまた違ったところから人生を見つめていけるのではないかなと思っております。  
本日はありがとうございました。合掌 
 
二河白道 (にがびゃくどう)

 

善導  
(ぜんどう、ピンイン:sh`an-d~ao) 中国浄土教(中国浄土宗)の僧である。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する。姓は朱氏。「終南大師」、「光明寺の和尚」とも呼ばれる。浄土宗では、「浄土五祖」の第三祖とされる。浄土真宗では、七高僧の第五祖とされ「善導大師」・「善導和尚」と尊称される。同時代の人物には、「三論玄義」の著者で三論宗を大成させた吉蔵や、訳経僧で三蔵法師の1人である玄奘がいる。  
開皇17年(597年)、天台宗の開祖・智が死去する。大業5年(609年)、道綽が浄土教に帰依する。大業9年(613年)、泗州(現:安徽省)、あるいは臨淄(現:山東省)に生まれる。幼くして、出家し諸所を遍歴した後、長安の南の終南山悟真寺に入寺する。  
貞観15年(641年)、晋陽(現:山西省太原市)にいた道綽をたずね、師事した。そして貞観19年(645年)に道綽が没するまで、「観無量寿経」などの教えを受けた。30年余りにわたり別の寝床をもたず、洗浴の時を除き衣を脱がず、目を上げて女人を見ず、一切の名利を心に起こすことがなかったという。道綽没後は、終南山悟真寺に戻り厳しい修行をおこなう。  
その後長安に出て、「阿弥陀経」(10万巻)を書写して有縁の人々に与えたり、浄土の荘厳を絵図にして教化するなど、庶民の教化に専念する。一方で、龍門奉先寺の石窟造営の検校(けんぎょう)を勤めるなど、幅広い活動をする。長安では、光明寺・大慈恩寺・実際寺などに住する。  
永隆2年3月14日(681年4月7日。3月27日(4月20日)とも)、69歳にて逝去。終南山の山麓に、弟子の懷ツらにより、崇霊塔(善導塔)と香積寺が建立された。なお、善導は寺前の柳の樹木に登り自ら身を投じて死したともいわれるが異論もある。高宗皇帝寂後、寺額を賜りて光明と号すようになった。  
善導は日本の法然・親鸞に大きな影響を与えた。  
法然が専修念仏を唱道したのは、善導の「観経正宗分散善義」巻第四(「観無量寿経疏」「散善義」)の中の、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からである。  
著作  
「観無量寿経疏」(「観経疏」)4巻-「観経玄義分 巻第一」「観経序分義 巻第二」「観経正宗分定善義 巻第三」「観経正宗分散善義 巻第四」の4巻。  
「往生礼讃」(「往生礼讃偈」)1巻  
「法事讃」(「浄土法事讃」)2巻-上巻首題「転経行道願往生浄土法事讃」・上巻尾題「西方浄土法事讃」、下巻首題・尾題「安楽行道転経願生浄土法事讃」  
「般舟讃」1巻-首題「依観経等明般舟三昧行道往生讃」、尾題「般舟三昧行道往生讃」  
「観念法門」1巻-首題「観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門」、尾題「観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経」  
大半が長安在住時の撰述である。中でも「観経疏」は、日本の浄土教において、「佛説観無量寿経」(「観経」)の解釈書として、非常に重要な文献である。  
善導・浄土教の特色  
北魏の雲鸞以来の伝統をうけて、隋代に浄土教を宣揚した道綽は、著書「安楽集」において仏教を聖浄二門に分け、聖道を捨て浄土に帰し、浄土教を末法五濁の世における唯一の通入すべき道と説き、浄土教を末法相応の法として独立させた。その道綽第一の高弟が善導である。彼は初唐時代に長安を中心として活躍し、終南山にある悟真寺又は光明寺を中心に多くの人々を教化した。  
彼は雲鸞以来、次第に発展してきた念仏思想を「無量寿経」に説かれる阿弥陀仏の本願により理解し、本願念仏による凡夫往生の教えとして、道綽によって開かれた末法相応の浄土教を更に発展興隆せしめたのである。  
それは道俗男女を問わず、総ての者が心に三心を具足して称名念仏すれば、仏の本願によってたやすく西方浄土に往生する事ができるとする民衆救済の浄土教であった。  
善導の著書には「観無量寿経疏」四巻、「法事讃」二巻、「往生礼讃」一巻、「般舟讃」一巻、「観念法門」一巻の計五部九巻がある。中でも「観無量寿経疏」四巻は、玄義分、序分義、定善義、散善義の四帖よりなリ四帖疏とも呼ばれ、浄影寺慧遠・嘉祥寺吉蔵などによる従来の解釈とは一変したもので、浄土教の真髄を表している。  
「観無量寿経疏」は、十六種の観想、日想観・水想観・宝地観・宝樹観・宝池観・宝楼観・華座観・像想観・仏身観・観音観・勢至観・普観・雑想観・上輩観・中輩観・下輩観を修する事によって浄土に往生することを説く経典である。このような観想のできたものは、六十億劫の罪を滅し、現身に阿弥陀仏・観音・勢至の三尊を身奉ることができて、浄土に往生することができるとされている。  
これに対し善導は、観法は第十三観までであり、これを「定善」とし、後の三輩観は「散善」であると示した。散善は世福・戎福・行福の三福を示し、世福は世間一般の道徳をさし、戎福は小乗仏教の戒律のことで、行福は大乗仏教の定める修行である。三福は修する人間の機類により九品の往生行に分けられるが、これらの行を要約すると称名念仏と諸行諸善根に二分することができる。  
さらに善導は「観経疏」において本経の要旨は観仏三昧と念仏三昧を説く事にあると解釈し、さらに釈尊は阿難に観仏三昧を委嘱せずに念仏のみを委嘱して、未来の人々に流通された、それは釈尊がこの経をとかれた意図が一に念仏であるからであり、観仏三昧は念仏をとく前方便であると解示されたのである。  
善導によって説かれた念仏とは本願念仏であり「無量寿経」にとく第十八願に誓われている。「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」という十八願文の「乃至十念」という語の「十念」に関して、中国浄土教家は様々な解釈をしてきたが、善導はこれを十声称仏と解し、「観念法門」に「仏の曰く、若しわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じてわが名字を称すること、下、十声に至るまでわが願力に乗じて、もし生ぜずんば正覚を取らじ。」と第十八願の意を解したのだ。  
すでに菩薩道を完遂して十劫の昔に悟りをひらいて成仏され、現に西方に浄土を構えていられる阿弥陀仏が誓われた第十八願「至心信楽欲生我国の心をおこして、上は一生涯をつくし、下は十声一声に至る念仏をして、もし浄土に往生できなかったならば、阿弥陀仏という仏にならない」、この大誓願に誓われた称名念仏により、三心をおこして仏の名号を称えたならば必ず浄土に往生することができることが、善導によって初めて説きあかされたのである。  
さらに善導は、浄土往生の行として、雑行に対し正行のあることを説き、称名念仏を助ける行として、一心に専ら「観経」「阿弥陀経」「無量寿経」を読誦する(読誦正行)、一心に専注して浄土の荘厳を観察する(観察正行)、一心に専ら彼の仏を礼する(礼拝正行)、一心に讃歎供養する(讃歎供養正行)、の四正行をあげて助業とし、一心に専ら彼の仏の御名を称する(称名正行)を第十八願に誓われた正定業とし、合わせて五正行を説いたのである。  
そして浄土往生を願うものが必ず起こさなければならない心として、至誠心・深心・回向発願心の「三心」をあげた。「至誠心」とは内心の虚仮を排除した真実の心である。「深心」とは深く信ずる心であり、自己の罪悪を信じる「機の深信」と阿弥陀仏の本願による救済を信じる「法の深信」である。「回向発願心」とは、自他所修の善根をもって、真実深信の心中に回向して浄土往生を願うことである。  
三心を具足した念仏をもって凡夫が往生する浄土及び阿弥陀仏に関しても、善導は聖道の諸師とは違った見解を出している。阿弥陀仏の仏身については、浄影寺慧遠や嘉祥寺吉蔵などが、それぞれ地論、三論教学の立場より、仏身の性格を応身であるとしたが、善導は「無量寿経」にとく法蔵比丘の四十八願より「法蔵比丘、世饒王仏の所にありて菩薩道行じたまいしとき四十八願を発し、一々の願にいう「もしわれ成仏せんに十方の衆生わが名号を称して、わが国に生ぜんと願じて、下十念に至りて、もし生ぜずんば正覚をとらじ」と、いま既に成仏したまう。即ちこれ酬報の身なり」とといて、阿弥陀仏は四十八願に酬われた仏であり、酬因の報身であるとしている。  
また「観経」の上品上生の往生に関し「観経中に上輩三人は命終の時に臨んで、みな阿弥陀仏および化仏とともにこの人に来迎すという、然るに報身は化を兼ね、ともに来りて授づく、ゆえに名づけて与となす」と釈し、来迎する仏を阿弥陀仏と化仏に分け、阿弥陀仏は主仏であって化身仏ではなく、また阿弥陀仏は三身具足の仏であるが、法身は無色無形の真如法性である理仏であり凡夫には信心の対象とはなりにくく、阿弥陀仏は因位の願行に酬報した報身でなければならないとしている。  
さらに「大乗同性経」より、浄土の中で成仏する仏は報身仏であり、穢土の中で成仏する仏は化仏であり、今いうところの阿弥陀仏は浄土の中で成仏した仏であるから報身であり、極楽浄土は報土であると説いている。  
そして三厳二十九相の荘厳相を有する西方浄土を立てる事について、「観経疏」定善義に「今こと観門等はただ方を指して相を立て心を住して境を取らしむ、総じて無相離念をあかさざるなり、如来はるかに知りたまう、末法罪濁の凡夫の相を立てて心を住するすらなお得ることあたわず」ととき、西方なる一方角を定め浄土をとく事は、末法に住する罪濁の凡夫に浄土を知らしめる為で、凡夫を導くため具体的事象を示したのだと解した。  
善導は、阿弥陀仏および極楽浄土の総ては凡夫往生の為のものであり、九品みな凡夫、一切の人間はすべて凡夫であることを説き、「自身は現に罪悪生死の凡夫なり、曠劫よりこのかた、常に沈し常に流転して出離の縁あることなし」と自分自身がその罪悪生死の凡夫であることを深く自覚したのである。  
その罪悪生死の凡夫とは「往生礼讃」の要懺悔に「無始よりこのかた、常に十悪をもって衆生に加え、父母に考せず、三宝を謗り、五逆不善の業を造作す、この衆罪の因縁をもって、妄想顛倒して纒縛を生じ、まさに無量生死の苦を受くべし」とあり、無始よりの我執凡夫として煩悩に惑い苦しみ生死の迷いを離れることができない私を深く自覚し、阿弥陀仏を願ずるところ、その願いは口称念仏と実現され、本願弘誓の浄土への救済にあわれたのが善導であり、その念仏の真実に目覚めたところに、民衆救済の浄土教を興隆させ、日本浄土宗に大きな影響を与えたのである。 
二河白道 1  
浄土教における極楽往生を願う信心の比喩。ニ河喩(にがひ)とも。善導が浄土教の信心を喩えたとされる。主に掛け軸に絵を描いて説法を行った。絵では上段に阿弥陀仏と観音菩薩・勢至菩薩のニ菩薩が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれている。 白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれている。 下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれている。下段の岸は現世、上段の岸は浄土のこと。 右の河は貪りや執着の心(欲に流されると表すことから水の河)を表し、左の河は怒りや憎しみ(憎しみは燃え上がると表すことから火の河)をそれぞれ表す。 盗賊や獣の群れも同じく欲を表す。東岸からは釈迦の「逝け」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ」という声がする。 この喚び声に応じて人物は白い道を通り西岸に辿りつき極楽往生を果たすというもの。 
二河白道 2  
極楽浄土に往生したいと願う人の、入信から往生に至る道筋をたとえたもの。▽仏教語。「二河」は南の火の川と、北の水の川。火の川は怒り、水の川はむさぼる心の象徴。その間に一筋の白い道が通っているが、両側から水火が迫って危険である。しかし、後ろからも追っ手が迫っていて退けず、一心に白道を進むと、ついに浄土にたどりついたという話。煩悩にまみれた人でも、念仏一筋に努めれば、悟りの彼岸に至ることができることを説いている。『観経疏』散善義 
二河白道 3  
むかしの太子(たいし)は、万里(ばんり)のなみをしのぎて龍王(りゅうおう)の如意(にょい)宝珠(ほうじゅ)を得(え)給(たま)えり。いまのわれらは、二河(にが)の水火(すいか)をわけて弥陀(みだ)本願(ほんがん)の宝珠(ほうじゅ)を得(え)たり。かれは龍神(りゅうじん)の、くいしがためにうばわれ、これは異学(いがく)異見(いけん)のためにうばわる。かれは貝(かい)のからをもて大海(だいかい)をくみしかば、六欲(ろくよく)・四禅(しぜん)の諸天(しょてん)、来(きた)りておなじくくみき。これは信(しん)の手(て)をもて疑謗(ぎぼう)の難(なん)をくまば、六方(ろっぽう)恒沙(ごうじゃ)の諸佛(しょぶつ)、きたりてくみし給(たま)うべし。 
二河白道 4  
浄土門に二河白道のたとえがある。  
浄土往生を願う者がに進むと水火の二河に出会う。  
火の河は南、水の河は北、ともに深くて底なしである。  
この二河の中間に細い白道があって、水火こもごも押し寄せている。  
また群賊悪獣がうしろから迫ってくる。  
この白道を進んでゆくと、東岸に声があって、  
「何時この道を進め、必ず難をのがれるであろう」と。また西岸に  
「汝、一心正念にしきたれ。われは汝を護らん」と呼ぶ声がある。  
そこで疑わず白道を進んで西岸に達すると、諸難を離れて善友とともに楽しむことができたという。  
この二河をイデオロギーに仮定してみると、左右いずれにも偏らず、溺れず、懐かれず、真ん中の白道を進んでこそ理想の彼岸に到達できるといえよう。90年、91年は東欧諸国にとっては正に激動の連続だった。これまでの桎梏を離れ、解放の喜びを噛み締めている人々の映像は、火の河に落ちて長い間苦しんできた人々がいまようやく白道に這い上がってホッとしている姿ではないか。  
また日曜日の夜に連続放映されていた「翔ぶが如く」は私たちの祖先が、二河に足を踏みはずさずに白道を進むことによって維新の大業をなし遂げる歩みを描いたものである。尊皇攘夷と佐幕開国の二大勢力(二河)に別れ、20年もの間民族のエネルギーが消耗された。その長い抗争の結果得たものは尊皇攘夷でも佐幕開国でもなく、実に尊皇開国だった事実を忘れてはなるまい。 
二河白道 5  
すべての信を得た方に申し上げます。今ここにひとつの比喩を説き、邪見を持つ方、真実信心持たない方々から、弥陀の信心得た方を守りたいと思います。  
南の河  
南には、火の河があります。この河は、怒り・憎しみの河です。怒りと憎しみが、炎となって燃えています。  
北の河  
北には、水の河があります。この河は、欲の河です。欲しがる気持ち、執着の気持ちが、大波となって荒れています。  
両河の深さ、限り無し  
西を目指していたところ、この河にあたりました。どこまでも、南北に続き、ここから南には炎、北には水の不思議な河です。ちょうど、両方の河がぶつかっているところに出たのです。目の前で、火と水がぶつかり合います。向こう岸まで、100m、深さは、限りがありません。  
白道  
よく見ると、この両河がぶつかっているところに、幅10cmくらいの、細い、白い道があります。しかし、この道の上には、南からは炎がかぶり、道を焼いています。北からは水がその上をさらっています。  
群賊・悪獣  
旅人は、群賊・悪獣に、追いかけられていたのです。逃げながらも西を目指していたところ、この河にぶつかりました。  
旅人のつぶやき  
「ああ、もう、今日死ぬのだ。引き返せば、群賊・悪獣にやられてしまう。川岸に南北に逃げても、悪獣・毒虫が襲ってくるだろう。西に向かってこの白い道を行けば、水にさらわれ、火に焼かれ、河に落ちてしまうだろう」  
足を踏み出そうとする  
「いや、いずれにしても死ぬのであれば、私は前に進もう。目の前に、この白い道があるではないか」旅人は、一歩を踏み出そうとしました。  
両岸からの声  
そのとき、旅人の耳に、東の岸から、声が聞こえてきたのです。「そうだ、そうやって心を決め、この道を進むのだ。死ぬことは無い。とどまれば、むしろ死んでしまう」釈尊の声でした。すると、西の岸からも、喚ぶ声が聞こえます。「一心に、こちらに来るが良い。私が、あなたをしっかりと護ろう。水にも火にも、落ちることを恐れる必要は無い」弥陀の喚ぶ声でした。  
旅人、しっかりする  
二尊の声を聞いた旅人は、心も身体もシャキッとして、しっかりとした足取りで、一歩を踏み出しました。もう、何も恐れるものはありません。  
群賊等の喚ぶ声  
すると、今度は後ろの岸から声が聞こえます。群賊等の声です。「おーい、悪いこと言わないから、帰ってこーい。危ないぞー」しかし、旅人の心は、揺らぐことがありませんでした。  
東の岸  
群賊等が残る東の岸は、娑婆の火宅を表します。  
西の岸  
西の岸は、極楽浄土です。  
群賊・悪獣  
群賊・悪獣は、五感の感覚です。  
無人空きょうの沢  
広い荒野を逃げてきたのは、悪知識に会うばかりで、善知識に会っていなかったことを示します。  
二つの河の間の白い道  
煩悩の燃え盛る炎と荒れ狂う波を残したままで、衆生の心に生まれる清浄の願往生心です。  
釈尊の声  
釈尊は、お経を通じて、この白い道を歩めと勧めていらっしゃいます。  
群賊等の喚ぶ声  
別解・別行・悪見人等、己の心で間違った教えを言い、お互いに惑わせ合い、自らも罪を作っている人々です。  
弥陀の喚び声  
弥陀の本願です。  
西の岸に至りて、善友に会ってよろこぶ  
永らく流転から抜けること叶いませんでしたが、釈尊のおすすめにより、弥陀のまねきにより、弥陀の願力の白い道を歩みて、ついに極楽浄土に生まれるをもって、弥陀に会って慶喜すること限り無し。 
二河白道 6 お彼岸・極楽浄土への道  
お浄土へ思いをよせ、ご先祖から伝えられた「命」の尊さをかみしめましょう。お彼岸がやってきます。仏道実践週間ともいわれるこのお彼岸を好機に、お念仏生活へ一歩を歩みだしましょう。  
お彼岸を迎えるにあたって  
「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お彼岸は春夏秋冬の四季にめぐまれた日本独特の仏教行事です。私たちはこの仏教行事をとおして季節の移ろいをも感じとっています。お彼岸につきものの春の”ぼたもち(牡丹餅)”、秋の”おはぎ(御萩)”などもその表れといえるでしょう。  
しかし、この彼岸は季節を表す言葉ではありません。  
私たちは日ごろ、「あの世、この世」という言葉を使います。「この世」はもちろん私たちの生きている現実世界であり、「此岸(しがん) 」です。此岸は煩悩渦巻く「四苦八苦」の世界です。限りある苦悩の世界をいとい離れて求められるのが、「あの世」すなわち「彼岸」なのです。  
彼岸は限りない命と智慧に満ちあふれた世界です。阿弥陀さまの浄土、西方極楽浄土こそが、私たちの願い求めゆくべき彼岸なのです。  
彼岸という仏教行事をとおして私たちは、今を生きるこの私の命がご先祖から永々と伝えられて来た「命のバトン」を受けて生きているという事実を再確認し、彼岸にいらっしゃるご先祖をしのぶとともに、この私も命おえる時には彼岸での「倶会一処(くえいっしょ) 」を願い求め、「四苦八苦」の世界に埋没することなく精進してまいりますという心を堅固にすることが大切なのです。  
彼岸への一筋の道  
ここで、中国の高僧善導大師が説かれた「二河白道(にがびゃくどう)」のお話をご紹介しましょう。彼岸と此岸との対応が明確にあらわされています。  
一人の旅人が、東から西への旅路を歩いています。突然前方に河があらわれました。立ち止まって後を振り返ると、盗賊や猛獣・毒蛇が襲いかかってきます。  
旅人は河の間に小さく細い白道を見つけました。しかし白道の左の方には猛火が燃えさかり、右手は急流が押し寄せてきます。進むも死、戻るも死と、全くの絶望状態です。旅人は躊躇していました。すると、迷っている旅人の耳に、東の岸から声が聞こえて来ました。  
「決心してその白道を歩みなさい。死ぬようなことはありません。そこにとどまっていたら死ぬでしょう」と、そしてさらに進もうとする西の岸からも、それに呼応するように「心から信じてすぐこちらに来なさい。私があなたを守ってあげよう。水の河、火の河を恐れることはありません」という声が響いてきました。  
その声に励まされて前進する旅人ですが、背後から盗賊や猛獣・毒蛇の声が。「早く引き返しなさい、その道は通れない、行けば死ぬだけだ。我々はあなたを殺したりはしない、引き返しなさい」  
旅人はその誘惑に乗ることなく白道を進み、ついに向こうの岸に到達することが出来たのです。  
賢明な読者の皆さんはお気付きのことと思います。東岸は娑婆、西岸はお浄土です。盗賊や猛獣・毒蛇は私たちの心に住む煩悩を、火の河は怒りの心、水の河は貪りの心を意味しています。白道は彼岸に到ろうとする清浄な心、東岸の声の主はお釈迦さま、西岸からのそれは阿弥陀さまの呼び声なのです。  
お彼岸の由来  
さて、私たちが春秋に迎えるお彼岸は、それぞれ春分、秋分の日を中日としての一週間をいい、日本独特の行事です。そしてこのような形態で行われるようになったのは聖徳太子の時代からといわれています。平安時代初期から朝廷で行われ、江戸時代に年中行事化されたという歴史があります。  
さらにその根拠を尋ねてみますと、前述の二河白道を説かれた善導大師の著書『観経疏(かんぎょうしょ) 』の「日想観」が源となっています。  
善導大師は春分、秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈むところから、その陽の沈みゆく西方の彼方にある極楽浄土に思いを凝らすのに適していると説かれました。  
お彼岸はこの日想観を行って極楽浄土を慕うことを起源とした仏事なのです。  
皆さんも、是非このお彼岸には実践してみてください。ビルの谷間に沈みゆく太陽であろうとも、その彼方には極楽浄土があるのです。  
お念仏で彼岸へ渡ろう  
私たちが求め慕う彼岸、極楽浄土にはどうすれば到達することができるのでしょう。  
煩悩の水火渦巻く私たちにとっての「白道」とは何でしょうか。  
阿弥陀さまは、私たちのように自らの力で煩悩を断ち切れない凡夫に救いの手をさしのべる本願を選びとってくださっています。お念仏のみ教えこそが、私たちにとっての「白道」なのです。  
お念仏の生活を日々送ることが、彼岸への道を歩むことなのです。  
私たちには煩悩の荒波を鎮めたり、猛火を消し止めて彼岸へ到達することはできません。阿弥陀さまの本願の船に乗って彼の岸へ渡らせていただくのが唯一の道なのです。  
お念仏の心構え  
私たちの彼岸へのよりどころであるお念仏、どのような心でお称えすればよいのでしょう。究極には法然上人のお言葉「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」につきるのですが、お念仏を称える心のありかたとして説かれている「三心」についてふれてみましょう。  
その第一は「至誠心(しじょうしん) 」です。「至というは真なり、誠というは実なり」というように真実の心、内面にも外面にも嘘偽りがなくありのままの飾ることのない心を「至誠心」といいます。次に「深心(じんしん)」が挙げられています。「深心とは、すなわちふかく信ずるこころなり」なのです。何を深く信じるのかということですが、二つあります。「信久し「信没です。  
「はじめにはわが身の程を信じ、のちに仏の願を信ずるなり」のお言葉があります。  
信機はまさに「身の程」を知るということです。「なすべきことをなさず、すべきでないことをしてしまう自己に気付く」ということでしょう。  
そんな私をも、阿弥陀さまはお救いくださるのだ、お念仏を称えて、阿弥陀さまの本願力に乗じて必ず往生するぞ、と信ずる心を信法というのです。  
三番目は「回向発願心(えこうほつがんしん) 」です。これは、私たちが前世から今に至るまでなしてきた、あるいはこれからなす全ての善い行いの功徳を振り向けて極楽往生、彼岸への到達を願う心をいいます。  
このように三心を述べてみるとそれぞれ別個のもののように思われますが、「極楽往生を願う心に嘘偽りがなく、心底往生をしたいと思うのであれば、三心は自然にそなわってくる」と法然上人はおっしゃっています。  
このお彼岸を好機として、彼岸への思いを深め、そこへの歩みを踏み出したいものです。 
二河白道 7  
ここは現世。群賊や悪獣(悪や誘惑の譬え)に襲われ、追われている旅人(衆生)がいる。  
西(極楽浄土の方向)に向かっていると目前に、水河(欲、こだわり、貪り)と火河(怒り、憎しみ)の煩悩の河の間が現れる。怒濤渦巻く水の河、そして炎が荒れ狂う火の河、その間にわずかに此岸から彼岸へと続く一本の細くて白い道。これを白道という。  
後ろから群賊・悪獣が迫ってくる。他方へも逃げようがない。もう、この細い白道に足を踏み入れるしかない。  
しかし、そんな細い白道に足を踏み入れたところで・・・。  
「後ろに帰っても死、ここにとどまっても死、また前に行っても死あるのみだ・・・。」  
絶体絶命の窮地に立った旅人に、恐れず前に進むようにすすめてくれる人(善知識)がいる。  
「仁者但決心して此の道を尋ねて行け、必ず死の難無けん、若し住まらば即ち死せん。」  
また、彼岸の上の人が言う。  
「汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、衆て水火之難に堕することを畏れざれ。」  
しかし、此岸から群賊・悪獣が呼ぶ。  
「帰って来いよ。こんな悪路を進むことなんかできやしない。こっち(此岸)は楽しいよ。」  
旅人は、そんな喚び声に対しても後ろを振り返らない。一心に前に進んで道を念じて進み、そして無事此岸に至ることができ、善友と相まみえ慶楽することができたのである。  
依然、此岸にいるのは生死善悪の我々凡夫人。彼岸は浄土であり無我であり無心の仏がいる。しかし、これもまた分別なのか。分別の此岸から無分別の彼岸に行こうとすることがまた分別であり無分別なのか。  
ここで、「彼岸」とは極楽浄土のこと。「此岸」とは娑婆世界。「白道」とは求道心。 
二河白道 8 彼岸と此岸  
今月は秋のお彼岸を迎えます。彼岸とは極楽浄土のことで、それに対して私たちの生きている世界を此岸(しがん)といいます。この此岸から彼岸へ渡る道、お浄土へ生まれる道を、善導大師という中国のお坊さんが、『観経疏』というお経の中に、「二河白道」という喩えで書かれています。今回の法話で、少し皆さんにご紹介します。  
ある旅人が西に向かって進んで行くと、何もない荒野で火と水の河に出会います。南側に火の河。東側に水の河。河の幅は百歩ほどで、さほど大きな河ではないけれども、底がありません。ただ橋のように一筋の白い道(白道)はあるのですが、その道は人一人渡れるほどの細い道で、火と水が両方から押し寄せてきています。後ろ側からは賊の群れや、悪獣が自分を殺そうと迫ってきています。  
前に進んでも、後ろに下がっても、そのまま止まっていても死を免れない状況の中で、白い道を渡ろうとすると、東から「その道を進め」という声。西から「すぐに来てください。あなたをずっと守りつづけますよ」という声がするのです。その声に従い、その道を渡ると、難をのがれ善き友と遇うことができた。という喩え話です。  
皆さんならこの絶体絶命のピンチにどうしますか。実はこの旅人は私たち自身の姿を現されています。彼岸と此岸を分かつ火と水の河とは私たちの苦しみの原因となる欲望や、思い通りにならない時の怒りの心を指しています。だから底がないのです。その悪の心が彼岸(お浄土)へ向かう道を閉ざしているのです。  
地位や名誉や財産に振り回されている、盗賊のような私の心も此岸で渦巻いています。しかし、そんな私たちにお釈迦様は此岸から、「信じて進め」と励ましてくださり、彼岸からは阿弥陀如来様が「私にまかせて、信じてきなさい」と呼びかけてくださっているのです。そして、その目の前にある白道こそが、南無阿弥陀仏のお念仏なのです。阿弥陀如来様のお救いにおまかせをする道なのです。  
つまり、私たちはじっとしていても必ず人間の命を終えていかなければなりません。そして、欲望や怒りの心を無くすことができない私たちは、その河を渡ってお浄土へ行くことはできないことをあらわされ、ただ阿弥陀如来の救いにおまかせをする道(白道)しかないとお示しくださっているのです。  
浄土真宗のお彼岸とは先祖供養のためでは決してありません。亡き方が残してくださったご縁の中で、悟りの世界へ渡るための自らの行いを省みる期間なのです。そして、私のいのち終わる時は、お浄土へ生まれるのだという、大きな安心の中で精一杯生き抜くことができる人生に目覚め、お浄土へ向かう人生を亡き方が仏となって、私たちに薦めていてくださることを、あらためて気付かせていただく期間なのです。これからのお彼岸のご法要やお墓参りの時にも、どうぞ思い出してくださいね。合掌 
二河白道 9 善導の「二河白道」 
善導の「二河白道の譬喩」は「観経疏」「散善義」に説かれたもので、かなり長いものだが、要約すると次のようになる。人が西に向かって百千里を行こうとするが、その前に忽然として二つの河が現れた。火の河が南に、水の河が北にある。それぞれ河幅は百歩、深くて底が無く、また南北に果てしなく続く。その水火の河の中間に白い道がある。広さが四五寸で道の長さは河幅と同じく百歩である。その道には水と火が絶えず襲いかかって休むことがない。見渡す限りの荒野には頼ることのできる者はなく、それどころか群賊と悪獣がこの人が一人であるのを見て殺そうと競って迫って来る。引き返しても死、立ち止まっても死、進んでも死である(三定死)。この人はどうやっても死を免れないならこの白道を行こうとする。そのとき東の岸に声があり、「この道を決定して行け」と勧め、西の岸にも声があり、「一心正念にして直ちに来たれ、汝を護らん」という呼び声がする。この人が白道を歩み始めると東の岸の群賊と悪獣は「この道は険悪で死ぬに違いないないから帰ってこい、自分達には悪心はない」と言う。しかし人はこの声に耳を貸さず道を進むとたちまちにして西の岸に着き、永く諸々の難を逃れ、善友と相まみえて喜びあった。 
この譬喩は善導自身によってこの後に解説されている。東の岸が娑婆の火宅の世界、西の岸が極楽浄土。群賊と悪獣は衆生の六根、六識、六塵、五陰、四大。無人の荒野は悪友のみいて善知識のいないこと。水の河が貪愛、火の河が瞋憎という煩悩。白道が衆生に生じた清浄の浄土願生心。東の岸の発遣の声が釈迦の教法、西の岸の招喚の声が阿弥陀仏の衆生を呼ぶ声である。 
この譬喩の舞台となるのは、西域に想定された無人の荒野だろう。そこを行く旅人が主人公である。忽然と現れる幻は砂漠での幻覚を思わせる。この幻覚は衆生の心に生じたものだが、迷い、無明によって生じたものと、真実、光明によって生じたものとがある。群賊と悪獣という衆生の六根、六識、六塵、五陰、四大。無人の荒野という悪友のみいて善知識のいないこと。水の河である貪愛、火の河である瞋憎という煩悩。これらはいずれも無明の側に属する幻であり、本来は無いものである。それが人を迷わし、人はそれに惑わされるのである。これに対して、白道である衆生に生じた清浄の浄土願生心。東の岸の発遣の声である釈迦の教法。西の岸の招喚の声である阿弥陀仏の衆生を呼ぶ声。これらはいずれも光明の側に属し、これが本来あるものである。 
そもそもこの旅を求法の旅とすれば、初めから教えも行き着く先も道もあったのである。すでに古人によって歩まれた一貫した道があった。それが幻によって隠されようとしている。幻が消えれば道も法もある。玄奘三蔵の旅がそうであったように。これがこの旅の基本である。 
またこの道はただ一人歩むものである。それは人が一人生まれ、一人死す存在だからだ。この白道は一人で渡るものだ。狭く見えるのは自分一人の道であることを示している。そして回りを見渡しても誰もいないということがわかったとき道は一人で歩むものだとわかる。きょろきょろしている間はまだ自分の道が見えていないということだ。そして本願の道はその一人ひとりに対応している。必ず備えられた道である。渡り始めればそれが大道だとわかるものだ。そうして人にその道の存在を示すことができる。もちろんそれはその人のために備えられた本願の道である。 
ここで考えたいことがある。この白道はこの世、此土、此岸に属するものなのか、それとも浄土、彼岸に属するものなのかということである。二つの岸の中間にあるのだから、どちらでもないというのも一つの答えだろうし、どちらかというのもあるだろう。また中間にあるのだから両方に属するというのもあるだろう。両方に属する場合でも無量光の世界はこの有量の世界を包含していてそれで両方に属するように見えるという答えもあるだろう。浄土にたどり着くまでは水火に襲われるのだから此土、此岸に属するという答えもるだろうし、信心は如来廻向のもので、群賊悪獣はそこに立ち入れないので、浄土、彼岸に属するという答えもあるだろう。 
これを数学の集合論で使うような二つの円の関係で考えてみよう。そうすると次のようになる。(一)まず二つの円が離れていると考えるもの。確かに「西方十万億土」という言い方ははてしない隔たりを感じさせる。次に二つの円が接していて、(二)此岸の側にあると考えるもの、(三)両方にあると考えるもの、(四)彼岸の側と考えるもの。(五)二つの円が部分的に重なっていると考えるもの。(六)二つの円の片方が一つの円の中にあると考えるもの。この六種類が考えられるだろう。(七)またそれに加えて、これは歩むにつれて変わるのだという答えもあるだろう。此岸の要素が減っていき、彼岸の要素が増えていくという考え方で、これも出発点をどうするかで変わるが、これも一つの種類に入れよう。この七つめの考え方は前の六つを含めることもできる。そうすると七種類の考え方がありそうだ。私はこれは一種の公案として成立しうると思う。その答えはその人の受け取り方、立場、心境によって変わってくるだろう。 
ここでこれを考える一つの手がかりを出したい。それは陰陽五行説との関係である。私はこの譬喩で南に火の河、北に水の河があるのは、陰陽五行説によるのだと思う。陰陽五行説では「木、火、土、金、水」の五行をそれぞれ方位の「東、南、中央、西、北」に配当する。またこれには色があり、「青、朱(赤)、黄、白、玄(黒)」となる。南に火と赤、北に水と黒、西に金と白となる。西の浄土が清浄の白で阿弥陀仏は金色だろう。この配当だと中央の土が中間の道になるのはいいのだが、色としては黄になりそうなものだ。実際昔は道の色は土の色だった。それが白になるのはこれが西への道だからだろう。また西に属する道として西から延ばされてきた道ととることもできる。私はこの道はこの世で無明煩悩に沈もうとする衆生に、浄土から延ばされた救いの道として感じるので、この世にありながらも浄土の側に属するものだと思う。中央の「土」がそのまま「浄土」の「土」の表れになるのだと思う。だから水火が襲ってもこの道を消すことはできないし、群賊悪獣はここに立ち入ることはできない。この白道は我々を往生させようとする如来の「願生心」の表れである。それが我々の「願生心」となる。この如来廻向の信心が白道であり、「即得往生」の道である。この道を通して、我々の信心として、浄土はこの世界に進出しようとしている。その意味では浄土は拡張する世界である。二河白道を陰陽五行説と対応させると白道が浄土の側に属することがよりはっきりすると思う。二河白道は中国伝統の世界観の上に仏教、浄土教の世界観を重ねたものだろうと思う。 
この考え方から先の二つの円の関係を考えると、私は二つの円が離れているという受け取り方は「百千里」を行こうとする出発点ではあるかもしれないが、信心をいただいた後は、接しているという受け取り方、部分的に重なっているという受け取り方、二つの円の片方が一つの円の中にあるという受け取り方のどれかだろうと思う。またこれが心境に応じて変化していくと考えると、初めは離れていたものが、接点を持ち重なってきてやがて包含され(摂取)、最後は片方つまり浄土の円だけが残る(往生成仏)のだと思う。これが如来廻向のあり方だと思う。なお聖道門ではこれがよく悟りの世界が円相で示されるように、初めから一つの円しか問題にしないだろう。浄土門はこれを二つの円の関係で考えるのだと思う。また天台には「十界互具」という考え方があり、これは今の円で示すと円が重なっている受け取り方や、包含されている受け取り方と近いのだろうと思う。 
また、この浄土の位置づけと関連して思うことがある。先に善導の「二河白道の譬喩」は玄奘三蔵の旅を念頭に置いたのかもしれないと述べたが、玄奘三蔵はインドから多数の仏典を持ち帰った。このように仏典を持ち来たることを「将来」すると言う。動詞としての使い方である。普通我々が「将来」という言葉で思い浮かべるのは時間的にこれからやって来るもの、「将に来たらんとするもの」という意味で未来と同じような意味の、時間に付けられた名詞としての将来である。我々にとって浄土は将来そこに行く世界であるが、それに先だって浄土がこちらに自らを将来するのだと思う。さらに言えば、持ち来たるの「将来」だけでもよい。ここに浄土が持ち来たらされ、また我々が浄土に持ち来たらされる。我々のところに浄土が将来され、また我々が浄土に将来されるのである。白道が浄土に属するものであるということをこれに当てはめると、白道は浄土から自らを将来し、またそれによって将来の浄土に我々を運ぶもの、我々を将来するものでもある。これが自力ではない如来廻向の世界である。 
このように私は「将来」という言葉に如来廻向を感じる。「即得往生」「平生業成」「常来迎」「正定聚」がそこにある。自力的な浄土観では時間的な将来しか見えないだろうと思う。一般的には将来が未来とほぼ同じ意味で使われるが、「未来」とは「未だ来たらず」であり、まだ来ていないことである。肯定的に言えば将来、否定的に言えば未来である。普通の将来の裏にはこの未確定で否定的なものが潜んでいて、期待の裏に不安が隠れている。期待という自力の裏に不安が隠れている。前に時間の壁がまだ立ちはだかっているのである。それに対して白道の信心をいただいた我々は、如来廻向のすでにここに将来された浄土を生きている。如来の側ですでにこの時間の壁を打ち破ってくださっているからである。すでに御手の内にあるのである。ここに本当の安心がある。このような意味でも私は白道は西の側、浄土の側に属するものだとも思う。 
また「如来」という言葉も「如より来たる」ものであるとともに「如に来たる」ものでもある。如来の原語である「タターガター」には両方の意味があると言う。この働きは真如から我々のところに来たるものでもあり、我々を真如の世界に連れて行くものでもある。この働きと如来廻向は重なっている。親鸞聖人が如来というものを実感したときに自ずと出てきたのが如来廻向という表現だったのだろうと思う。私は「将来」という言葉にもしばしばそれを感じるのである。
二河白道10 親鸞聖人と「二河白道」 
親鸞聖人は「教行信証」「信巻」に「二河白道の譬喩」を引用される。ここでは親鸞聖人の解釈を引用する。「まことに知んぬ、二河の譬喩の中に「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相廻向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力廻向の大信海なるがゆゑに破壊するべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。」 
善導の自釈を補うものだが、まず注目するのは白道が善導は「清浄の願往生心」が生じたものとしているのに対して、親鸞は「選択摂取の白業、往相廻向の浄業」としていることである。これは衆生が起こすというよりも、如来廻向のものなのだということをより明確に述べている。 
この中心を衆生から如来に転換することによって、白道が「路」に対する「道」であって「大道」であると述べられている。「四五寸といふは衆生の四大五陰」であって、衆生の四大五陰のこの体の中に宿った信心が大道であることが示されている。人一人の道だが大道なのである。それがさらに拡大するのが「大信海」である。本願海がそのまま大信海になる。これは拡大の極めつけである。ここまで拡大すると二河白道の構図が壊れてしまうほどなのだが、これが実感なのである。足下から拡大、拡張するものなのである。水火の二河は元々無い幻なのだからこれは当然とも言える。砂漠の中に現れた幻なら、それを見破ればまた足下には大地が広がっているだけだ。もはや踏み外しようがない無碍の大道である。これが自力の小乗ではない大乗の道である。 
親鸞聖人がこの「二河白道の譬喩」を門弟に語っておられたことは「親鸞聖人御消息」「十三」にある慶信にあてられた返事に付けられた蓮位の添え状に出てくる覚信坊の話からもわかる。高田の覚信坊が京に上る時に、国を発ち、「ひといち」(不明の地名)という所で病気になり始め、同行たちが帰れと勧めたにもかかわらず、「死するほどのことならば、帰るとも死し、とどまるとも死し候はんず。また病はやみ候はば、帰るともやみ、とどまるともやみ候はんず。同じくは、みもとにてこそをはり候はば、をはり候はめと存じてまゐりて候ふなり」と語ったという。 
これを蓮位は「この御信心まことにめでたく候ふ。善導和尚の釈の二河の比喩におもひあはせられて、よにめでたく存じ、うらやましく候ふなり」と褒めている。この添え状のついた返書を親鸞聖人の前で読み上げたとろこ、聖人は「ことに覚信坊のところに、御涙をながさせたまひて候ふなり」と書かれている。覚信坊が親鸞聖人のもとで往生を遂げたことは「口伝抄」「十六」にも述べられている。親鸞聖人の当時、「二河白道の譬喩」をそのまま生きたような人がいたのである。この譬喩が強く人々の心を捕えたことがこの話からもよくわかる。我々がこの師弟の信心から学ぶところはあまりに多い。
二河白道11 二河白道図  
唐の時代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧、善導大師(613-681)の『觀無量壽佛經疏』(『仏説観無量寿経』の注釈書)第四「散善義」にある二河白道の比喩(二河喩)を絵画化したもの。絵はこの画題としては最古、上部は當麻曼荼羅の影響を指摘されている。  
善導大師による比喩は、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集』第八章「念仏行者必可具足三心之文」(他に遺文集である「和語灯録」でも触れられる)で、親鸞(1173-1262)も『教行信証』信巻(他に『愚禿鈔』、「三帖和讃」所収「善導大師和讃」、『親鸞聖人御消息』所収「慈信宛消息」でも触れられる)で紹介している。  
絵画化に関しては六道輪廻図に似ているバージョンもある。 法然、親鸞以外にも、一遍(1239-1289)にもこの絵(というより画題)は深く関わる。  
『一遍聖絵』によれば、文永八年(1271年)の春、信州善光寺に訪れた一遍は、参籠に参籠を重ねた末に、自らさとりを得て、「二河白道」の図を本尊として描いたという。この「二河白道図」を携えて一遍は故郷に帰り、浮穴郡の窪寺というところに閑室を構え、その東壁にこの図を本尊としてかけて、念仏三昧の生活に入ったということである(踊り念仏は1279年から)。聖絵から、東の壁に二河白道の大仏画〜画面には白紙として描かれている〜を懸け、前に一基の卓を据えるばかりである。中央公論社版の解説では右が一遍ということになっているが、左が一遍だろう。  
一遍上人の法語に、「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河はわがこころなり。二河にをかされぬは名号なり。」とある(『播州法語集』)。 
二河白道12 一遍の「白道」  
文永八年の春、信州善光寺に訪れた一遍は、『一遍聖絵』によれば、参籠に参籠を重ねた末に、、自らさとりを得て、「二河白道」の図を本尊として描いたという。この「二河白道図」を携えて一遍は故郷に帰り、浮穴郡の窪寺というところに閑室を構え、その東壁にこの図を本尊としてかけて、念仏三昧の生活に入ったということである。  
「二河白道」は善導の『』の散善義に説かれた譬えである。それによると、人が西に向かっていくと、忽然と二つの河に出会う。北に水の河、南に火の河があり、その間に一筋の白い道が西に延びている。その白い道は、絶えず両側から押し寄せる火と水に洗われ、嶮難である。この「水の河」は衆生の(執着心)を、「火の河」は衆生の(怒り憎む心)を、「白道」は極楽往生を願う清浄の信心を表すとされ、一心に白道を直進することで、西岸に達して浄土に到ることが出来ると説かれている。  
通常、「二河白道図」では、上段に阿弥陀浄土の光景が描かれる。そこは、金殿玉楼が建ち並び、宝樹にかこまれて阿弥陀仏が説法している。その左右には観音、勢至の二菩薩が脇侍している。天空には飛天が舞い、宝地には蓮が華咲いている。中段には右に「水の河」が黒く、左に「火の河」が赤く、中央に白い道が細く描かれている。下段には群賊悪獸が跋扈する現世の様が描かれていることが多い。  
例えば、「二河白道図」の逸品として知られる神戸の香雪美術館臓の図も基本的にはこのような構図になっている。ただ、香雪美術館の「二河白道」ではその特徴として、「火の河」のなかには弓で人を殺めようとしている武者の姿が、「水の河」のなかには数々の財宝に囲まれた貴族の男女が描かれ、妄念にとらわれた娑婆世界が表されている。また、説法形の阿弥陀三尊とともに来迎形の阿弥陀三尊が描かれている。  
いずれにせよ、普通このような「二河白道図」は阿弥陀浄土に往生するためには、阿弥陀仏の本願を頼りとしてひたすら念仏を称えよという浄土教の教旨を説く手段としてもちいられたのであった。この場合、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えることも、極楽浄土に行くための道、すなわち単なる手段となりかねない。  
これに対して、一遍にとってこの「南無阿弥陀仏」という名号は、将来極楽に往生できるための単なる方便ではなかった。一遍によれば、白道は「南無阿弥陀仏」の名号であるという。『』の一説に「南無阿弥陀仏の名号は過ぎたる此身の本尊なり」というまさに「南無阿弥陀仏」という名号自体を一遍は本尊としたのである。「南無阿弥陀仏」を本尊として「南無阿弥陀仏」という名号を唱えるなら、我ら衆生は、「南無阿弥陀仏」を称える一念一念に於いて、阿弥陀仏の法会の場に現在しているということになる。我ら衆生は、「」で言われるように、「大会に坐す」のである。  
そのような意味で、「南無阿弥陀仏」の「白道」は、この世からあの世への道、過去から未来への道ではない。敢えていうなれば、衆生と阿弥陀仏とが行き逢い出遇う場であるといえるかもしれない。しかも、「南無阿弥陀仏」の称名において衆生が阿弥陀仏と出遇う時、単に衆生は阿弥陀仏と出遇うだけにとどまらない。衆生が「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏に帰命することで、「南無阿弥陀仏」に於いてすでに衆生は阿弥陀仏と一体となっている。そこに於いてはまさに「仏も我もなく」、「善悪の境界、皆浄土なり」なのである。したがって、「南無阿弥陀仏」を称える只今に於いて、過去・現在・未来へと続く因果応報の流れは断ち切られ、「無始無終の往生」が遂げられ、そこに極楽浄土が現在しているともいえるかもしれない。  
このことをよく表したのが益田の萬福寺の『二河白道図』ではないだろうか。ここの『二河白道図』には、宝地宝殿の極楽も、群賊悪獸の娑婆世界も描かれていない。また、普通娑婆世界に描かれる発遣の釈迦と極楽世界に描かれる来迎の阿弥陀が横並びに描かれている。火の河、水の河にはすでに蓮が咲いている。とに満ち「地獄」ともいうべき此の世界が、あたかもそのまま蓮が花咲く極楽に変容しつつあるかのようではないか。  
この図で示されるように、極楽は とに満ちた此の世界とは何処か別のところにあるのではなく、 とに満ちた此の世界に於いて「南無阿弥陀仏」を唱えることにによって、その地獄が、そのまま極楽に変容するのではないだろうか。  
まさに一遍の賦算して歩いた「白道」の路傍のいたるところで蓮が華咲いたにちがいない。 
二河白道13 一遍上人語録・播州法語集 
一遍は鎌倉時代の仏僧で、マイナー教団・時宗の開祖とされている。南無阿弥陀仏の系譜でいえば、法然、親鸞、その次にくるのが一遍である。いちおう法然の孫弟子(聖達)のもとで長く修行しているから、浄土教としてくくってもいいのだろうが、なぜか時宗なのである。  
ちなみに、この語録においても百年近く先輩の法然についての言及はなし。むろん、田舎のクソ坊主に過ぎなかった親鸞にも触れていない。おそらく、存在さえ知らなかったのではないか。唯一、同胞の僧で記述どころか敬慕までしているのは空也である。南無阿弥陀仏の理論は、もっぱら浄土三部経(インド)と善導(シナ)によっている。これは法然の編み出した理論をそのまま継承していると思ってよい。ただし法然が評価した「往生要集」の源信ではなく、彼とほぼ同時代を生きた空也の生き方に強い影響を受けている。このため踊り念仏などというものを一遍はおっぱじめてしまったのである。  
念仏のありがたさに親鸞は随喜の涙を流したが、一遍まで到達すると「をどれ」。「ともはねよかくてもをどれ心ごま弥陀の御法(みのり)と聞くぞうれしき」実際に踊り念仏なるものを見てみようとユーチューブで検索してみたらヤバイのである。踊り念仏自体は歴史を感じさせそれなりの情緒があって悪くないのだが、笑うしかなかったのは関連検索でオウム真理教の「尊師マーチ」がヒットすることだ。麻原彰晃を讃えるために信者たちが実に嬉しそうに踊っている。その瞬間、「ああ、一遍はヤバイやつなのだな」と直感した。にもかかわらず、ではなく、だから一遍は多くの人を救ったのではないかと思う。  
いったい南無阿弥陀仏を最初に発見したものはだれだったのだろう?当たり前のように法然だと思っていたが、そのだいぶまえに空也が念仏布教をしているという話もあるからわからない。人によっては南無妙法蓮華経のほうがいいのかもしれないけれど、南無阿弥陀仏もまたとてつもない「おはなし」=思想だと感嘆する。人間の生死にかかわる取り返しのつかない不幸をも癒すことができるのだから。基本構造を確認したい。念仏を唱えたら極楽浄土に往生できる。どうしてかというと阿弥陀仏には、巨大なちからがあるからである。だから阿弥陀仏さまに南無(お任せ)しよう。根拠は古い経典や高僧の解釈。これが念仏の基本システムである。科学万能の現代にこんな「おはなし」は信じられないというかもしれない。しかし、死後の世界のことは現代科学では説明しようがないのである。究極的には南無阿弥陀仏の真偽を科学が判断することはできない。要は、この「おはなし」を信じるか信じないかになる。うまく信じられたら、まさにミラクルが起こるのではないだろうか。南無阿弥陀仏は死の思想なのである。死から強烈な光線を生に浴びせたら、この苦に満ちた娑婆世界の様相ががらりと変わる。このからくりを知ったら何万人の鬱病患者が陽気に踊り出すことか!  
それぞれの南無阿弥陀仏があってよい。このたびは一遍の「おはなし」=南無阿弥陀仏を見ていきたい。何度も「一遍上人語録」を精読したが、かなり質のよい「おはなし」だと思う。親鸞も大好きだが、かの高僧の利権はいま五木寛之さんに独占されている。日蓮利権は宮本輝さんのものでしょう。今年に入って山田太一さんがさっそうと空也の利権をさらっていってしまった。まだあまり手垢のついていない一遍あたりにツバをつけておくのも悪くない。仏教は「おはなし」である。好きな「おはなし」を選べばいいのではないか。なるべくオリジナルの仏典に触れることが肝要である。なぜならいろいろ自分で解釈できる=「おはなし」を創れるからである。法然や親鸞も言ってしまえば、それぞれの「おはなし」を創ったのだ。仏教学者の「正しい」解説は味気ない。仏教系の有名作家の創る「おはなし」もいいけれど、次第に物足らなくならないか。自分で「おはなし」を創るのがいちばん楽しいのではないかと思う。そのとき岩波文庫の仏教書は、ほどよく意味不明で役立つことだろう。  
さて、この現実はどういうものだと一遍はいうのだろうか。鎌倉時代も平成の現代も、人が生きているということはおなじなのかもしれない。目に見えるものがある(色界)。人間は欲望する(欲界)。  
目に見えないものもまたある(無色界)。この三界(さんがい)に生きていることは古今、一遍も我われも変わらない。  
「又云、三界は有為無常の境なるゆゑに、一切不定なり、幻化なり。此界の中に常住ならむと思ひ、心安からむと思ふは、たとへば漫々たる浪の上に、船を揺るがさでおかんとおもへるがごとし。何としてか常住ならむ、何としてか心のごとくならん」  
人生行路の半ばに達して、ひとつだけ腹の底まで理解したことがある。人生は本当にまったく残酷無残にも思うようにならないということである。ああ、一遍さんよ、人生「何としてか心のごとくならん」だよな〜。いい歳をしたオッサンが繰り返すのは大人気ないが、人生は思うようにならない!考えてみたら、思うようになったことなど一度もないのだから。しかし、それは鎌倉時代から変わらぬ世間の実相なのである。どれほど多くの人間が思うようにならない人生に嘆き深く傷ついてきたことか。なにがいけないのか。一遍は「思い」=「心」がいけないのだという。思わなければいいのである。心などなければ思うようにならないことに苦しまない。一遍は心の取り扱いを重んじる。  
「有心は生死(しょうじ)の道、無心は涅槃(ねはん)の城なり。生死をはなるゝといふは、心をはなるゝをいふなり」  
心のみならず、わが身もまた頼りないもの。決定しているのは名号=南無阿弥陀仏だけなのである。  
「又云、決定といふは名号なり。わが身わがこゝろは不定なり。身は無常遷流の形なれば、念々に生滅す。心は妄心なれば虚妄なり。たのむべからず」  
しかし、どれだけ言い聞かせてもわが身わが心から離れるのは難しい。だから、一遍でいいのに何遍も繰り返すのだろう。決定=名号(南無阿弥陀仏)。わが身=無常。わが心=虚妄。  
「唯(ただ)南無阿弥陀仏の六字の外に、わが身心なく、一切衆生にあまねくして、名号これ一遍なり」  
「すべて思量をとどめつゝ 仰(あおい)で仏に身をまかせ出入(いでいる)息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申べし」  
一遍をとりこにした南無阿弥陀仏の正体を見ていく。  
「他力称名に帰しぬれば、驕慢なし、卑下なし。其故は、身心を放下して無我無人の法に帰しぬれば、自他彼我の人我なし。田夫野人・尼入道・愚痴・無智までも平等に往生する法なれば、他力の行といふなり」  
自力の行者は、競争社会の成果主義のようなもので不平等である。いっぽう南無阿弥陀仏は他力救済だから人々を平等に扱う。死ぬのはだれもが平等といっているのとおなじだろう。  
「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河はわがこゝろなり。二河にをかされぬは名号なり」  
二河白道(にがびゃくどう)は禅の言葉のはずだが、やるな一遍!水の河(瞋恚)と火の河(貪欲)の中間に、悟りの道=白道があるというたとえ話を南無阿弥陀仏に接合している。  
「又云、善悪の二道は機の品なり。顛倒虚仮の法なり。名号は善悪の二機を摂する真実の法なり。皆人善悪にとどまりて、真実南無阿弥陀仏を決定往生と信ずる人まれなり」  
南無阿弥陀仏(他力)は、人間(自力)の考える善悪など超越しているということだ。一遍によると、その悪が本当に悪か、その善が完全な善かは、人間にはわからない。人間は善悪に迷いながら苦楽を生きる。  
「又云、楽に体なし、苦の息(そく)するを楽といひ、苦に体なし、楽のやむのを苦と云なり。故に苦楽のやみたる所を無為と称す。無為といふは名号なり」  
無為は老荘の言葉でしょう。無為まで南無阿弥陀仏になってしまうとは!一遍の豊かな「おはなし」創作はどうだろう!ここらでいままで挙がった南無阿弥陀仏をまとめてみたい。  
1.南無阿弥陀仏⇔生死  
2.南無阿弥陀仏=他力=平等  
3.南無阿弥陀仏=二河白道  
4.南無阿弥陀仏>善悪  
5.南無阿弥陀仏=無為≠苦楽  
いきなり「踊ろうぜ!」とかいうぶっ飛んだオッサンはどうしてそうなったのか。やはりあれな人にはあれなあれがあるわけである。一遍は熊野本宮大社に行ったとき、夢にあれが出てきて諭された、あれを見ちゃう人と、いくら勉強しても見(ら)れない人にわかれる。狂人と常人の二種類に人間は区分される。以下引用文で法師=一遍。  
「熊野権現、「信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず、南無阿弥陀仏が往生するぞ」と示現(じげん)し給ひし時、自力我執を打払ふて法師は領解(りょうげ)したりと云云」  
夢にインスピレーションを求める天才は多い。昨日今日明日という日常の連鎖を断ち切るものがあるとすれば、それは夢である。一遍の信仰は夢によっているところが大きいのではないか。ある晩、おかしな夢を見る。夢から覚めたと思っていたら、そう思っているのもまた夢だったのである。我われもこの程度の夢ならよく見るだろうが、一遍ほどの飛躍はできない。  
「又云、夢と現(うつつ)とを夢に見たり。<弘安十一年正月廿一日夜の御夢なり>種々に変化して遊行するぞと思ひたるは、夢にて有けり。覚(さめ)て見れば、少しもこの道場をばはたらかず、不動なるは本分なりと思ひたれば、これも又夢也けり。此事、夢も現も共に夢なり。当世の人の悟(さとり)ありと、ののしりわめくはこの分なり。まさしく生死の夢覚ざれば、此悟は夢なるべし。実(まこと)に生死の夢をさまさんずる事は、ただ南無阿弥陀仏なり」  
親鸞の持つ犯罪者めいた狂気を一遍もまた有していたような気がする。麻原彰晃ではないけれど、宗教を始めてしまうような人はおかしいのである。開祖はみなみな狂っている。クルクルパーかもしれない。にもかかわらず、ではなく、だから信者は救われるのである。法然だけ少しましで、日蓮も道元もぶっちゃけ頭がおかしい人のわけでしょう。一遍もいま生きていたら間違いなくカルト教団を始めちゃうタイプだと思う。だから、おもしろいともいいうる。ちなみに、いまでも時宗は細々と続いている。藤沢に時宗総本山の遊行寺というのがあるらしいから今度行くつもりである。そこのホームページを見ていたら教義にこんなことが書かれている。  
「南無阿弥陀仏」とお唱えする、只今のお念仏が一番大事なことです。家業に努め、励み、睦み合って只今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく生かされて、明るさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道は、そこに開かれるとする教えです。  
決して批判しているわけではないが、開祖の教えとは違うのね。繰り返すが伝統宗教とはそういうものだから、難癖をつけているわけではない。しかし、一遍その人はメチャクチャ非常識な坊主だったのだと思う。家業繁栄の幸福なんて魔だと言い切っている箇所がある。いまこれをいえる宗教家はなかなかいないのではないか。一遍が狂人たるゆえんである。  
「又云、魔に付(つき)て順魔・逆魔のふたつあり。行者の心に順じて魔となるあり、行者の違乱となりて魔となるあり。ふたつの中には順魔がなほ大事の魔なり。妻子等是なり」  
魔は障りとなるもの。逆魔(病患災難等)よりも順魔(妻子眷属等)のほうが往生の障害になる!たしかにかわいい妻子がいたら、なかなか死にきれない。こういう逆転の発想は本当におもしろいのね。孤独な失敗者は、あまり死ぬのが怖くないでしょう。重い病気になんてかかっていたら、かえって死が幸いと思えるくらいだろう。ところが、家族に恵まれた富者は死ぬのがやたら恐ろしいと思うな。このように死から見てしまうと現世の価値観がぐらぐら揺らぐでしょう。南無阿弥陀仏の思想である。  
さらに一遍は恐ろしいことをいっている。一遍の発言でもっともシビれたところだ。  
「歎異抄」で殺人教唆をしたのは親鸞だが、「をどれ」の一遍は。  
「又云、およそ一念無上の名号にあひぬる上は、明日までも生(いき)て要事なし。すなはちとく死なんこそ本意(ほい)なれ。然るに、娑婆世界に生て居て、念仏をばおほく申さん、死の事には死なじと思ふ故に、多念の念仏者も臨終し損ずるなり。仏法には、身命を捨(すて)ずして証利を得る事なし。仏法にあたひなし。身命を捨(すつ)るが是あたひなり。是を帰命と云(いう)なり」  
これってほとんど自殺のすすめみたいなもんでしょう?明日まで生きているこたあない! そう放言しているわけだから。  
「とく死なんこそ本意なれ」  
これは親鸞でも口にできなかったことである。  
「歎異抄」の会話であったでしょう。  
弟子「どうして浄土へ行きたくならないのでしょう?」  
親鸞「わしもそうじゃよ」  
だから、この部分だけ取り上げるのなら、一遍は親鸞よりも深い浄土信仰を持っていたといえよう。このレベルまで達してしまったら世界が激変するのではないか?お子さんを交通事故で亡くした親御さん。さぞ苦しいでしょうね。しかし、死後のことはわからない。お浄土は娑婆など比べものにならないくらい楽しいところかもしれない。少なくとも浄土教ではそう教えている。ならば、遺族は亡児を思い悲嘆する必要はなくなるわけである。なぜなら、先にすばらしいお浄土へ行くことができたのだから。浄土信仰が一遍のように強まると、死刑がおかしな制度になってしまう。死後の世界が楽しいのなら、罪人は娑婆世界で苦しませなきゃダメでしょう。死刑であっさり娑婆にオサラバさせちゃいけないってことになる。うーん、この論理についてこれる人はいらっしゃいますか?一遍さんがかなりヤバイことはご理解いただけたと思う。  
いったいこの坊主はどんな人物だったのだろう。孤独な人だったのではないかと思う。  
「又、常の仰に云、「いきながら死して静に来迎を待(まつ)べし」と云云。万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死といふなり。所以(このゆえ)に生ぜしも独(ひとり)なり、死するも独なり。然れば住するも独なり、添ひはつべき人なき故なり」  
「おのづから相あふ時もわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」  
しかし、一遍には信仰があった。ひとりではなかった。  
「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」  
恒河(ごうが)=インドのガンジス河。  
「又云、少分の水を土器(かわらけ)に入(いれ)たらば、則(すなわち)かわくべし。恒河に入(いり)くはへたらば、一味和合して、ひる事有(ある)べからず。左(さ)のごとく、命濁中夭の無常の命を、不生不滅の無量寿に帰入しぬれば、生死ある事なし」  
「又云、信(しん)とは、まかすとよむなり。人の言(ことば)と書(かけ)り。人たるものゝ言は、まことなるべきなり。我等は即(すなわち)法にまかすべきなり。然(しかれ)ば衣食住の三を我と求る事なかれ、天運にまかすべきなり。空也上人の曰(いわく)、「三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る」と云云。是(これ)他力に帰したる色なり。古湛禅師は、「労(わずら)はしく転破することなかれ、只(ただ)天然に任す」といへり」  
「信=人+言=まかす」  
結局のところ、信仰とは人の言葉に賭けることなのだろう。いや、人の言葉にまかす。南無阿弥陀仏に帰命する。あとは踊っていればいい。 
二河白道14 一遍と宗教体験 
證空の浄土思想と仏法の体得への追求は、融合した形で一遍の「二河白道」という譬喩の理解に見られます。一遍にとって、この譬喩は自らの生き方のパラダイムであり、そしてまた歌を詠むパラダイムでもあったといえると思います。 
「二河譬」は簡単に言いますと、ある旅人が西の方向に向って歩いていると、後ろから群賊と獣が襲ってくる。逃げようとすると、前には火と水の二つの河が立ちはだかっている。よく見ると二つの河の中間に、細い白道があり、ほかには渡る術がない。引き返しても、留まっても、前進しても死を逃がれえないような状況のもとで、旅人は白道に踏み出す決意をすると、丁度その時、東の岸からは進めよという声がし、また西の岸から来いと呼ぶ声が聞こえる。 
そして旅人は一心に進み、彼岸に至る。これが「二河譬」の譬えであります。善導は、浄土への願望の在り方と信心の守護とを教えるために、「観経疏」にこの譬喩を書いたのであります。 
再出家した時に、一遍は善光寺を訪れています。善光寺の阿弥陀仏は生きている仏様として当時は広く信仰されていて、一遍もこの阿弥陀仏との出会いができたと、聖絵には書かれてあります。その後四国に帰り、自らの宗教体験を確かめるために3年間「閑室」にこもり、世間から離れて念仏生活を送ったのでありますが、この間、この善光寺で書き写した「二河譬」の絵を、本尊として東の壁にかけて、その横に自分の理解を表わした偈頌をかけていたのであります。その偈頌は次の通りであります。 
十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 
十一不二証無生 国界平等座大会 
この偈頌には、一遍の西山派の概念が表われています。阿弥陀仏は十劫の昔に正覚を得たが、これは衆生のためであり、この正覚は衆生界に今も満ちている。したがって、現在のこの瞬間の一声の念仏に衆生は往生を得る、即ち十劫の昔の正覚の瞬間と今の念仏の瞬間は、不二であるということであります。 
しかし、一遍は、西山の概念と考え方を用いながらも、彼独自の思想を主張しているのです。證空の観経の解釈は絵画的、あるいは空間的であります。観経には、いろいろな行は連続的順番、また階層的順番に説かれているのですが、證空はこうした順番を重要とせずに、いわば行を平面に並べて空間的な解釈を施すのであります。證空によれば、観経の本当の意味は、阿弥陀の本願に関して行者はすべて平等である、なぜなら、衆生の力で往生できるのではないからということなのであります。 
同じ様に、一遍は「二河譬」の物語を絵画的、あるいは空間的に解釈したのであります。プリントにある絵は幾何学的で、また曼陀羅風で、一遍がこうした絵を写したかどうかわかりませんが、ある意味で一遍の解釈をよく表していると思われます。白道が中心にあり、この白道の場において、仏陀から衆生へという動きと、この世から浄土へという動きの二つが融合されて、二元論的考え方、即ち仏と衆生、またこの世と浄土という分別がなくなるのであります。 
行者にとって、この白道での一歩一歩は臨終であり、浄土で阿弥陀の大會に入ることであります。一遍にとって、この世での命は白道に踏み出すことの繰返しであります。そして行者と仏陀、この世と浄土という譬喩における概念は、今のこの瞬間に凝縮され、日常の論理や考えから外されて不二、平等になるのであります。 
一遍は、白道を彼独自に解釈しました。善導に依ると、白道は回向発願心つまり浄土への志の象徴でありますが、一遍にとっての白道は、名号そのものを表しているのであります。つまり計らいや分別のなくなる場あるいは姿であります。 
阿弥陀仏は要素として風であると真言では言われていますが、一遍は、無量寿である阿弥陀仏を、即ち息であると考えたようであります。 
そして一遍の和歌作りにも、それは関係があると思われます。彼の和歌は、念仏の様に自然に口に表れ、名号と同じく、その瞬間、我執に根差した思惟の否定、崩壊の姿でありました。和歌がこうした機能を果たせるのは、形として短いということと、縁語等、日常的論理以外の手法で統一されているということによります。和歌の形は、「二河譬」の絵画化と同じように、時間を凝縮し、普通の思考の基となっている二元論を超える場や姿を作るのにまことに適切なのであります。 一遍の和歌にこうした働きが見られます。
二河白道15 生死即涅槃の道  
二河白道とは善導によって説かれ、浄瑠璃にもなっている譬喩 がある。  
そしてまた、阿弥陀如来も「釈尊の悟りの内容」の譬喩である。  
旅人が盗賊・悪獣に追われ、河を渡って逃げようとするが、河は火の河と激浪の河に分かれ、中間に幅十数センチの白い道があるだけ。  
その時、東方より釈尊の「汝、決定して往け、死の災難なからん。止まれば死あるのみ」との声が響き、西方より「汝、直ちに来たれ、我れ汝を守らん」との阿弥陀仏の声が聞こえると、旅人は勇をふるって白道を駆け抜けていく。  
こういう話だが、ここでの問われている旅人とは私たち自身で、自分ならどうするか? と問われているのだろう。  
実際問題、こういう追いつめられた非常事態において人間は、火の河も激流も目に入らず、ただ助かりたい一心で、十数センチの白道も広く感じて、藁をもすがる思いで白道に飛び込むだろう。  
盗賊や悪獣は四苦八苦や災難の譬喩でもあろうが、私の場合は襲いかかる四苦八苦から逃れるために、いつの間にか白道に足を踏み入れてしまったようだ。そういう意味からすれば、災難と四苦八苦があったからこそ、涅槃への道という白道に足を踏み入れることができたのであるからして、盗賊も悪獣もまた、私を白道に導くための釈尊の声(仏のメッセージ)ということになろう。  
ならば、白道とは何か?  
火の河と激浪の河という、燃え盛る煩悩に挟まれた道である。東の岸というのは自分の煩悩に気づきもしない火宅の人だが、白道というのは、自己の煩悩に気づき、釈尊の激励を受け、そして阿弥陀如来の慈悲の光に「照らされて生きる」道である。  
それもまた譬喩であるのだが、その生死という煩悩の最中で、仏の慈悲の光に「照らされて、いまここにいる」ことに目覚めて生きることが、「二河白道」であり、それを「生死即涅槃」と呼びたい。  
東の岸で、燃え盛る煩悩のまま火宅の人のまんま生きるのが、生死涅槃ではない。不退転の心で二河白道を歩くことを「生死即涅槃」という。しかし、その道を歩くのは至難の技であり、気の弱い私などとても歩けるものではない。そこで、私のようなひ弱な者のために、二河白道を共に歩いてくれる観音菩薩(無位の真人)がいるのである。そして、二河白道を歩く者のことを観世音菩薩と呼ぶ。  
その道は、苦と楽というの二元対立を無化していく道である。  
「苦に励め、さすればそこが涅槃だ」と釈尊は言う。 
二河白道16 二河の譬喩(にがのひゆ)  
二河白道、貪瞋(とんじん)二河の譬喩ともいう。浄土往生を願う衆生が、信を得て浄土に至るまでを譬喩によって表したもの。善導大師の「散善義」に説かれる。  
ある人が西に向かって独り進んで行くと、無人の原野に忽然として水火の二河に出会う。火の河は南に、水の河は北に、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほどであるが、深くて底なく、また南北に辺はない。ただ中間に一筋の白道があるばかりだが、幅四五寸で水火が常に押し寄せている。そこへ後方・南北より群賊悪獣が殺そうと迫ってくる。このように往くも還るも止まるも死を免れえない、ひとつとして死を免れえない。  
しかし思い切って白道を進んで行こうと思った時、東の岸より「この道をたづねて行け」と勧める声(発遣)が、また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がする。東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが顧みず、一心に疑いなく進むと西岸に到達し、諸難を離れ善友と相見えることができたという。  
火の河は衆生の瞋憎、水の河は貪愛、無人の原野は真の善知識に遇わないことを、群賊は別解・別行・異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊・四大に喩える。また白道は浄土往生を願う清浄の信心、また本願力をあらわす。東岸の声は娑婆世界における釈尊の発遣の教法、西岸の声は浄土の阿弥陀仏の本願の招喚に喩える。 
二河白道17  
「二河白道」というお話は浄土真宗の七高僧に数えられている「善導大師」の説かれた浄土往生を願うあり方を示した喩え話であります。  
昔々、ずっと西に向かって歩き続ける旅人がいました。しかし途中で大河に出遭いました。南には激しく燃え盛る火の河、逆の北には荒れ狂った水の河がありました。旅人は困りました。南も北も迂回して行くにも果てが見えなくて途方にくれてしまいました。しかし、よく見ると、その火の河と水の河との間に幅15センチくらいで長さが100歩程度の細い白道がありました。ところが白道には火炎や荒波が次々と襲い掛かってくるのです。辺りを見回しても人影もない。時に孤独になった旅人を殺してやろうと沢山の野獣達が旅人を狙っています。恐れをなした旅人が西へ向かって走ったが、この大河を見てつぶやきました。「迂回はできない。白道は狭くて進めない。どうして進むことができよう。このままでは必ず死んでしまう。来た道を帰れば野獣達に殺されてしまうし、白道を行けば飲み込まれてしまう。」と。旅人は追い詰められました。恐怖のどん底で旅人は考えました。「帰ることも死、白道を進んでも死ぬかもしれないが、いっそこの道を前へ向かっていこう。道がある限り渡れるはずだ。」と白道を突き進むことを決心しました。すると東の岸から「汝、ただこの道を行くことに決めよ、この道に死はない、とどまれば死あるのみ」という声がしました。同時に西の岸から「汝、一心正念にまっすぐ来い、我よく汝を守ろう、水火に落ちることを恐れるな」と呼ぶ声がしました。行けと進める声と来いと呼ぶ声を聞き、旅人は恐れ疑う心なくまっすぐに白道を歩みました。すると東の岸の野獣達から「その道は危ないから帰って来い、我々はあなたに悪心を持っていない」と甘いささやきがあったが、旅人は一心に念じてまっすぐ歩み続け、やっとの思いで西の岸に到着しました。そこに待ち受けていたのは友と相見えて喜び、楽しみがやむことない世界であったというお話です。  
このお話は東の岸は娑婆世界・西の岸は極楽浄土・水の河は人々の貪りの心・火の河は怒り憎しみの心・無人の荒野は道を示してくれる人に会えないこと・野獣達は人間の欲望執着を生む迷いや悩みのこと・白道は清らかな願往生の心・東の岸から聞こえた声は釈尊の教え・西の岸の呼ぶ声は阿弥陀仏の本願をあらわしています。  
私たちは罪悪苦悩に満ちた世界にあって、釈尊の教えに励まされ、阿弥陀仏の大慈悲に支えられて、願往生の白道をわたっていくのであります。ひたすら弥陀の本願を信じ、念仏することによって救いの道が開けることお教えくれました。 
二河白道18 二河白道の図   
釈迦の発遣(はつけん)  
東の岸にたちまちに人の勧(すす)むる声を聞く、「きみただ決定(けつじょう)してこの道を尋(たず)ねて行け。かならず死の難(なん)なけん。もし住(とど)まらばすなわち死せん」と。  
弥陀の招喚(しょうかん)  
西の岸の上に、人ありて喚(よ)ばひていはく、「なんじ一心(いっしん)に正念(しょうねん)にしてただちに来れ、われよくなんじを護(まも)らん。すべて水火(すいか)の難に堕(だ)せんことを畏(おそ)れざれ」と。  
親鸞聖人作・善導大師和讃  
善導大師証(しょう)をこひ  定散(じょうさん)二心(にしん)をひるがへし  
貪瞋(とんじん)二河(にが)の譬喩(ひゆ)をとき  弘願(ぐがん)の信心守護せしむ  
二河白道の譬え  
「二河白道の譬え」とは、七高僧の第五祖である中国の善導(ぜんどう)大師が『観経疏(かんぎょうしょ)』「散善義(さんぜんぎ)」に示されるものでこの譬えは貪瞋(とんじん)二河の譬喩(ひゆ)ともいわれ、浄土往生を願う衆生が、信を得て浄土に至るまでを譬喩によって表したもので、その内容は以下のようです。  
ある人が西に向かって独り進んで行くと、無人の原野に忽然(こつねん)として水・火の二河に出会う。  
火の河は南に、水の河は北に、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほど(50〜60メートル)であるが、深くて底なく、また南北に辺はない。ただ中間に一筋の白道があるばかりだが、幅四五寸(12センチ〜15センチ)で水・火が常に押し寄せている。  
そこへ後方・南北より群賊・悪獣が殺そうと迫ってくる。  
このように往くも還るも止まるも死を免れえない(三定死(さんじょうし))。しかし思い切って白道を進んで行こうと思った時、東の岸より「この道をたずねて行け」と勧める声(発遣)が、また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がする。  
東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが顧みず、一心に疑いなく進むと西岸に到達し、諸難を離れ善友(ぜんぬ)と相見えることができたという。  
火の河は衆生の瞋憎(しんぞう)・瞋恚(しんに)<いかり・はらだち>、水の河は貪愛(とんない)・貪欲(とんよく)<尽きない欲望>、無人の原野は真の善知識(ぜんぢしき)(師匠)に遇わないことに譬える。また群賊は別(べつ)解(げ)・別行(べつぎょう)・異学・異見の人(本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人)に譬え、悪獣は衆生の六根・六識・五蘊(ごうん)・四大(しだい)に喩える。また、白道は浄土往生を願う清浄の信心、また本願力をあらわすのです。  
六根とは、六識のよりどころとなる対象を認識するための六種の感覚器官で眼(げん)根(こん)、耳(に)根、鼻(び)根、舌(ぜつ)根、身(しん)根、意(い)根をいう。  
六識とは、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)(認識の対象となるすべてのもの)を知覚し認識する眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識をいう。  
六塵(じん)とは、六識の知覚の対象となる六つの境界。色・声・香・味・触・法の六境をいう。  
五蘊とは、五種の要素の集まりで、全ての存在は、色(しき)〈物質〉、受(じゅ)〈感受作用〉、想(そう)〈知覚表象作用〉、行(ぎょう)〈受、想、識以外の意思その他の心作用〉、識〈識別作用〉)の要素が因縁によって仮に和合したものであるという。特にわれわれ個人の存在についていえば、肉体面(色)と精神面(受・想・行・識)とからなるという。  
四大とは、一切の物質を構成する四大元素。地(ち)、水(すい)、火(か)、風(ふう)に喩える。  
@地大。堅さを性質とし、ものを保持する作用のあるもの。A水大。うるおいを性質とし、ものをおさめ、あつめる性質のあるもの。B火大。熱さを性質とし、ものを成熟させる作用のあるもの。C風大。動きを性質とし、ものを成長させる作用のあるもの。 
二河白道19 二河白道の図   
法然が「ただひとえに善導に依る」と言って以来、常に浄土宗、真宗、時宗によって高祖と仰がれる唐の善導の著した『観経正宗分散善義』の中の喩えを仏画に仕立てたもの。火の河と水の河との二本の河の間に一本の白く細い道があり、その道の行き着く先に極楽浄土が有る、それが主題です。原文を読み下してみましょう。  
『譬えば、ある人、西に向わんと欲して行くこと百千里、忽然として中路に二河有るを見る。一はこれ火の河にして南に在り、二はこれ水の河にして北に在り。二河は各々闊(ひろ)さ百歩、各々深きこと底無く、南北に辺無し。正に水火の中間に一白道有り、闊さ四五寸許(ばか)りなるべし。この道は東岸より西岸に至りて、また長さ百歩なり。その水の波浪は交々過ぎて道を湿し、その火の焔はまた来たりて道を焼き、水火相い交わりて常に休息すること無し。この人は既に空曠迥(はる)かなる処に至りて更に人物無し。多く群賊悪獣有りて、この人の単独なるを見、競い来たってこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走り西に向うに、忽然としてこの大河を見、即ち自ら念じて言わく、この河は南北に辺畔を見ず、中間に一白道を見るも、極めてこれ狭小なり。二岸の相い去ること近しといえども、何に由りてか行くべき。今日定めて死せんこと疑わず、正に到り迴(かえ)らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来たり逼らん、正しく南北に避け走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来たりてわれに向わん、正しく西に向い道を尋ねて去らんと欲すれば、また恐らくはこの水火二河に堕ちん、と。時に当りて惶怖してまた言うべからず、即ち自ら思うて念ずらく、われ今迴るもまた死に、往くもまた死に、去るもまた死なん。一種として死を免れずんば、われは寧ろこの道を尋ねて前に向いて去らん。既にこの道有り、必ずまさに渡るべし、と。この念を作す時、東岸にたちまち人の勧むる声を聞くらく、仁者(なんじ)、ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難無けん。もし住(とど)まらば即ち死なん、と。また西岸上にも人有り、喚(よ)びて言わく、汝、一心に念を正して直ちに来たれ、われよく汝を護らん、衆(もろもろ)の水火の難に堕ちんことを畏れざれ、と。この人は、既にここには遣(や)り、かしこには喚ぶを聞き、即ち自ら身心を正当(ただ)し、決定して道を尋ねてただ進み、疑い怯えて退く心を生ぜず。或いは行くこと一分二分するに、東岸の群賊等の喚びて言わく、仁者、迴り来たれ、この道は険悪にして過ぐるを得ず、必ず死なんこと疑わず。われ等は、みな悪心もて相い向うこと無し、と。この人は喚ぶ声を聞くといえども、また迴顧(かえりみ)ず、一心にただ進み、道を念じて行けば、須臾(しゅゆ、短時)にして、即ち西岸に到り、永く諸難を離れ、善友相い見て、慶楽已むこと無し。』  
水火二つの河の向こう岸、即ち西岸に見えるのが極楽の景色です。美しい楼観が立ち並び、天人や天女たち、或いは迦陵毘伽(かりょうびんが)等の極楽に住む美しい鳥たちが虚空中を飛び回っています。また水の上には蓮の花も開いています。これこそまさに人の考え得る限りの理想境を描いたものなのでしょう。  
一本の白く細い道の両側には火焔渦巻く火の河と、波浪轟く水の河とが激しく泡立って流れ、或いは逆巻き波立って細く白い道を両側より洗いながら、人が今にも堕ちるのを待ち受けています。善導は自ら、これを解いて、水の河とは海のように底なしの貪欲と愛情であり、また火の河とは火のように燃えさかって何者も焼き尽くさずにいられない憎しみと怒りである、と云っています。  
二河の中間の白く細い道は、長さ百歩、幅は四五寸というもので、絶えず両側から火焔と波浪とによって攻撃を受けています。これを善導は、人の善心に喩え、それが余りにも微かなので、常に貪欲と愛心の波に湿され、怒りと憎しみの火に焼かれている、と云います。  
二河のこちら岸、即ち東岸では群賊悪獣が待ちかまえて、この人が引き返してくれば、殺してやろうと手ぐすね引いています。これもまた善導の解釈では、人の眼耳鼻舌身意の六根、色声香味触法の六境、眼識等の六識、色受想行識の五陰、或いは地水火風の四大、また別解別行悪見の人に喩えています。この画の中では、中国風の衣冠を着けた俗人と袈裟を着けた僧侶が、『早く戻って来い、この道は余りにも険悪であり、行けば必ず死んでしまうぞ』と喚んでいるのが、別解別行悪見の人であり、その他の蛇や諸の獣たちは六根、六境、六識、五陰、四大、即ち人の身心を表しているのです。  
この人が、このような状況に身を置いて進退が窮まるちょうどその時、二河の両岸に声が有り、西岸からは、『お前を護ってやるから怖れずにこの河を渡れ』、と言い、東岸からは、『決して死ぬことはないから、心を決してこの道を行け』、と言っているのが聞こえます。これは彼岸の阿弥陀仏、此岸の釈迦如来の二人です。  
善導は、念仏の一道を白道に喩えましたが、また同じように『観経玄義分』中には「ここには遣り、かしこには喚ぶ、あに去(ゆ)かざるべけんや」という一句にてその意を説いています。  
わたくしは念仏の教が今や完全に価値を失った、とは思いませんが、また同時に今更の気持ちが無い訳ではありません。それでは今何故、二河白道かと言うと、この善導は真情溢れる詩人の心と、明晰な理論家の頭とを併せ持つ真に希有の人だからであり、常にわたくしを魅了し続けているからなのです。 
 
二河白道20 / 蜘蛛の糸を廻る二つの物語 
「蜘蛛の糸」  
久しぶりに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだ。前には気がつかなかった疑問が浮かんできた。  
(一)最初に気になるのが「話者」は誰かということだ。この話者はまるで遥かな宇宙から極楽と地獄を覗いているみたいだ。それは人間なのだろうか。お釈迦様(極楽の主は阿弥陀様である)のことを尊敬語で書いているから、どうやら我々と同じ眼である。「話者」って作者じゃないかと思われるかもしれない。でも、作者は物語を書く時にどういう視点から書こうか考える。カンダタの視点から書こうか、お釈迦様の視点から書こうかと。ところが作者は地獄でもない極楽でもない全く別の視点から書いている。それは極楽の描写が客観的であることからも示されており、またこのことが極楽を相対化する視点を読者に与えている。  
(二)「それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。」この覚えがあるのは誰なのだろうか? 話者だとすると、この話者は神の視点を持っていることになる。お釈迦様だとすると、後で「御思い出しになりました。」という文章と矛盾する。カンダタ本人とすると、不自然である。ストーリーを見る限り、カンダタに良いことをしたという自覚がなく、覚えていたとは思われないからだ。しかし、文体からカンダタに覚えがあると解釈するしかない。これが違和感を感じさせる。もし、覚えが無いとしたら、改心のチャンスは、突然説明も無く現れた一本の蜘蛛の糸ということになる。それではお釈迦様の行為はあまりにも無慈悲である。しかし、覚えがあるとしたら全く違う解釈になる。覚えがあるのに、この糸をあの時に助けた蜘蛛のおかげなのだと思わなかったからだ。  
(三)自分が生涯たった一つ良いことをしたから蜘蛛の糸が下りてきたのだということをカンダタは自覚していない。自覚していなくては、感謝の言葉もでない。改心の心も出てこない。そもそも、この地獄にいる人々が後悔をしている様子はどこにも描写されていない。作者の関心は改心にはない。しかし、読者はこれを改心の物語として読んでしまう。子どもの頃、この物語を初めて読んだとき、カンダタはどう言えば良かったのだろうかと考えたことがある。「糸が細いから一人ずつ順番に上がって来い。」と言えばよかったのか。「俺のものだ」と言ったのがいけなかったとか。ところが、だんだんと自分を知っていくにしたがって、私もやっぱりカンダタと同じ様に言ってしまうだろうと思うようになった。私も救われない人間ということになる。これが主題なのだろうか。  
(四)この物語は三つの部分に分かれている。あまりにも説明的すぎる三はなぜ必要だったのだろうか。それは、糸を切ったのはお釈迦様ではないということを示すためであろう。何か別の力が糸を切ってしまったのだ。それが自然の法則のように存在していて、たとえ仏であってもできることは糸をたらすことぐらいということ。つまりお釈迦様の慈悲も人間の「エゴ」の前では無力に描かれている。  
(五)「ある日の事・・・極楽は丁度朝なのでございましょう。」「極楽ももう午に近くなったのでございましょう。」この最初の文章と、最後の文章の意味が気になる。妙に現実的なのである。作者が極楽の描写に朝と昼を取り上げたのは、時間も無いらしい地獄との対比と同時に、現実の私たちの日常の世界を連想させる。つまり、お午に近くなったという文が、今読んでいる読者自身の立場を自覚させる効果をもたらす。そこで、もうひとつの主題が思いつく。それはこの地獄と極楽のどちらも私たちの生きている世界であるということだ。現世は地獄であり、蠢(うごめ)きあって無自覚に懺悔もせず生きているのは他ならぬ私たちである。蜘蛛の糸はそこから抜け出すチャンスであるが、それが慈悲の糸である事に気がつかず、独り占めしようとするのが我々人間の浅ましい有様なのではないかと。また、読み終わってふと振り返る自分の今を、極楽に例えることができるのではないかと。  
作者は最後にお釈迦様の目でそれを示し、さらにそのお釈迦様をも蓮の花の描写で相対化している。その視点はあくまで客観的である。  
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に同様の話があることを知ったのは、サイトを検索してからである。  
グルーシェンカという女が「一本の葱」の話をする場面がある。カラマーゾフの父と長男が彼女をめぐって争うことから、彼女はカラマーゾフ父子を手玉にとる悪女だと思われている。グルーシェンカは若い魅力的な不幸な境遇の女性である。三男のアリョーシャと出会った時に、彼女は自分のことを姉と呼んでくれたことを感謝しながら「あたしは悪い女だけれど、それでもお葱をあげたことがあるんですからね。」と言って、「一本の葱の話」をする。 
「一本の葱」  
『昔むかし、一人の根性曲りの女がいて、死んだのね。そして死んだあと、一つの善行も残らなかったので、悪魔たちはその女をつかまえて、火の池に放りこんだんですって。  
その女の守護天使はじっと立って、何か神さまに報告できるような善行を思いだそうと考えているうちに、やっと思いだして、神さまにこう言ったのね。あの女は野菜畑で葱を一本ぬいて、乞食にやったことがありますって。  
すると神さまはこう答えたんだわ。それなら、その葱をとってきて、火の池にいる女にさしのべてやるがよい。それにつかまらせて、ひっぱるのだ。もし池から女を引きだせたら、天国に入れてやるがいいし、もし葱がちぎれたら、女は今いる場所にそのまま留まらせるのだ。  
天使は女のところに走って、葱をさしのべてやったのね。さ、女よ、これにつかまって、ぬけでるがいい。そして天使はそろそろとひっぱりはじめたの。ところがすっかり引きあげそうになったとき、池にいたほかの罪びとたちが、女が引き上げられているのを見て、いっしょに引きだしてもらおうと、みんなして女にしがみついたんですって。  
ところがその女は根性曲りなんで、足で蹴落としにかかったんだわ。  
「わたしが引き上げてもらってるんだよ、あんたたちじゃないんだ。これはわたしの葱だ、あんたたちのじゃないよ」  
女がこう言い終ったとたん、葱はぷつんとちぎれてしまったの。そして女は火の池に落ちて、いまだに燃えつづけているのよ。天使は泣きだして、立ち去ったんですって。』(第七編第三章) (原卓也訳)  
グルーシェンカは、「あたしそらで覚えているのよ。だってこのあたしはその意地悪婆さんなんですもの。」と言う。そして、「あたしがいいことをしたなんてせいぜいそんなものなのよ。あたしは意地の悪い、それはそれは悪い女なんだから。」とアリョーシャに語る。  
全く同じ様な展開である。しかし、こちらの話は「蜘蛛の糸」よりも共感しやすい。ひとつはこのお婆さんにも守護天使がいて、必死で救おうとしている所である。守護天使が泣き出して立ち去る所は琴線に訴えてくる。もうひとつはグルーシェンカが、この婆さんと私は同じだと言っている点である。彼女は自分のことを悪人と言っている。彼女がたまらなく愛おしくなる。  
この二つの点において、「蜘蛛の糸」よりも「一本の葱」の方が、浄土の教えに近い。グルーシェンカは妙好人なのである。ドストエフスキーの小説には彼女のような「聖なる娼婦」がたびたび登場してくる。彼女は広大なロシアの大地に根ざした妙好人である。  
さて、芥川であるが、ウィキペディアによると彼が「蜘蛛の糸」の参考にした原典が鈴木大拙による「因果の小車」(ポール・ケーラス作「カルマ」の邦訳)らしい。この作品を読んでびっくりした。まず、あらすじだけを書いておこう。 
「因果の小車」  
悪事を働いていた盗賊マハードータが、仲間の裏切りにあって瀕死の重傷を負った。手当てをしてくれた僧に懺悔しながらたずねた。  
「私は多くの悪事を働き、良いことは一つもしていない。どうしたら我執の妄念の織りなした罪の網から遁れることができるのだろうか。私の罪は私を地獄に導くだろう。解脱の道を聞くことができないのだろうか。」  
その僧は、「善因善果、悪因悪果は天の道だから、あなたが今生でなした罪業はめぐりめぐって来生に報いきたるだろう。でも、失望する必要はない。真の教に帰して、我執の妄念を除いたものは、一切の情念罪慾を離れて、自他を利生し、救われる。」と語り、一つの例えを示そうとカンダタの話を始める。  
 
悪人カンダタは懺悔せずに死んだので、地獄に堕落して永遠の苦痛を受けている。ある時、世に仏陀が現われてさとりを得られた。その仏の光明は奈落の底までも届いた。地獄の罪人達は喜び希望を持った。カンダタは、「大慈大悲の御仏よ。私は罪を犯したけれど正道を蹈まんという心が無いわけではありません。しかし、どうしてもこの苦界を出ることができません。私を憐み救ってください。」と願う。  
悪因悪果は業報の定理であるが、徹頭徹尾、罪悪の化身となれるものはいない。小さな善といえどもその中には新しい善の種子あるので、いきいきと成長して枯れることはない。それは三界を輪廻している私たちの心を養い、遂には万悪を除いて涅槃に導く。  
仏は地獄の中で悩めるカンダタの熱望を聞き、尋ねる。  
「汝はかって仁愛の行いをなしたことがないか。もしあるならそれが汝をたすける筈である。もし無かったら、汝は罪業の応報によりて厳しく苦しめられる。仁愛によって一切の我執を脱し、貪瞋痴の三毒を洗うのでなければ、永劫に解脱の機会はないだろう。」  
カンダタは思い出すことができなかったが、如来は神通力でカンダタの一生の行いをサーチし、彼が蜘蛛を踏み殺すのはかわいそうだと思ったことを見つける。そこで、仏は蜘蛛の糸を垂らし、蜘蛛に「この糸を頼って昇り来れ」と伝えよと命じる。  
蜘蛛の糸は細く弱く簡単に切れてしまうように思われたが、不思議にも彼がつかまっても切れなかった。最初、彼は上の方ばかり向いて賢明に登っていた。  
ところが、糸が揺れ数限りない罪人達がぶら下がって登ってきているのを見て、今度は下に心を取られて信仰が乱れて来た。この細い糸が無数の人々を扶け上げることができるのだろうかと、疑念の心が浮かんできて恐怖を感じるのを止めることはできなかった。  
思わず「去れ去れ。この糸は私のものだ。」と絶叫した瞬間に糸は切れ、其の身はまた元の奈落の底に落ちてしまった。  
〈我執の妄念〉は、なおカンダタの胸中にわだかまっていたのだ。彼は、一心に上を目指して登り続けるという正道の本地に到る〈信心の一念〉に、どれほどの不可思議な力があるかということを理解していなかった。  
〈信心の一念〉がか細いことは蜘蛛の糸と同じだが、全ての衆生はこの糸に牽かれて解脱の道に至る。その衆生の数が多ければ多いほどこの道は正しい道であるし、登り易い道となる。  
しかし、一たび〈我執の念〉にとらわれ、「これは私のものだ。正道の福徳は私だけのものだ。」と思えば、一縷の糸はたちまち切れ、もとの我執の地獄におちいってしまう。そもそも地獄とは我執の別の名であり、涅槃は正道の生涯に外ならない。  
 
これを聞いて、瀕死の盗賊マハードータは、「私に蜘蛛の糸を取らせてくれたら、一心に糸を登るだろう。」と決意し、盗んだ財宝のありかを教えて死ぬ。  
なんと、一本の「蜘蛛の糸」は、地獄から極楽へ抜け出る道具ではなく、「信心の道」であった。カンダタが再び地獄に落ちたのは、その一本の糸を信じられなかったからであり、それは「我執の念」にまだ囚われていたからだと。そして、マハードータはまさに信心を獲得して死んだのである。  
つまり、この「蜘蛛の糸」は「二河白道」なのだ。「汝一心に正念してただちに来たれ、我よく汝を護らん。」この「我よく汝を護らん」がなく、行者の自力の信心が強調されてはいるが、ここにグルーシェンカの自覚を伴えば、他力の信心をうながしている説話になり、守護天使は法蔵菩薩になる。私は「蜘蛛の糸」から「二河白道」につながるとは想像すらしていなかった。  
ここには極楽が描かれていない。極楽の代わりに涅槃と「解脱の道」が示されている。その「解脱の道」が「蜘蛛の糸」なのだ。だから「解脱の道」=「信心の道」となっている。  
糸を登っていくという行(ぎょう)が信心の道であり、それがすなわち浄土である。正道の本地はさとりであり、浄土であり、信心の一念である。蜘蛛の糸は念仏となる。  
芥川は、原典には無い極楽をなぜ入れたのだろうか。なぜ改心(回心)をテーマに入れなかったのだろうか。そもそも極楽を入れたなら、なぜ他力の救いを書こうとしなかったのだろうか。  
「因果の小車」と「蜘蛛の糸」を対比することで面白いことが見つかるかもしれない。  
ここで取り上げた三つの作品は、同じエピソードを取り上げながら、それぞれの主題(テーマ)が違っている。「蜘蛛の糸」は人間の自己中心性・我執の救われがたさとその自覚をテーマとし、「一本の葱」は人間の罪とその悲しみをテーマとし、「因果の小車」は二河白道=信心の道が救いの道であることをテーマとしている。  
もとよりこれはそれぞれの読者の読み取りに依ることは当然であり、私の勝手な解釈であるが、この三つの物語がつながることでまた新しい物語が生まれてくる。 
二河白道21  
「二河白道」は、善導大師が著わされた「観経疏」に譬喩として説かれています。下手な解説は抜きにして、親鸞が教行信証の信文類に示された読み下しの現代語訳をご紹介しますのでご味読ください。  
往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。  
ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。  
この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり少しも止むことがない。  
この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。  
そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。「この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北へ逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう」と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。「わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない」と。  
こう考えた時、にわかに東の岸に、「そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう」と人の勧める声が聞えた。  
また、西の岸に人がいて、「そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな」と喚ぶ声がする。  
この人は、もはや、こちらの岸から「行け」と勧められ、向こうの岸から少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、「おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない」と呼ぶ。  
しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。  
以上は譬えである。 
二河白道22 
1 白道の譬喩の要点  
善導大師の『観経疏』 「散善義」に於て、三心の中の、廻向発願心の説明の中に、白道の譬喩が説かれ、法然上人の『選択本願念仏集』「第八章」に、全文引用されている。また伝法の道場の荘厳も、これによっており、白道の譬喩意義づけは定っているようである。しかし、今、改めてその意義を問う理由は、他の“道”と比して、とくに、大師の主張され、特色とされるものを明らかにしたいことと、さらに、小生が、はからずも手がけた研究課題が “道”であったからである。そこで、譬そのものを、いくつかの項目によって考えていきたいので、私の論点箇所を抄出しながら、一応、次のように疏の文を示す。( )内は私の内容項目である。  
(1)行者の為に一の譬喩を説いて信心を守護して以て外邪異見の難を防がん。(目的)  
(2)人有りて西に向って百千の里を行かんと欲するが如き(西へ百千里)  
(3)忽然として中路に二つの河・・・一には是れ火の河・・・二には是れ水の河・・・(二川)  
(4)水火の中間・・・一の白道・・・闊さ四五寸東岸より西岸・・・長さ百歩(白道、幅、長)  
(5)水・・・道を湿し、火・・・道を焼く、休息なし(二河白道を常に侵す)  
(6)「空曠の★なる処」・・・群「賊」悪獣「来り殺」さんと欲す。(死の恐れ)  
(7)思念すらく『・・・死を勉(まぬ)かれずば、・・・此の「道を尋ねて」去かん』  
(8)東の岸に・・・人の声・・・『決定して此「道を尋ねて」行け』(釈迦の声)  
(9)西の岸の上に人、『一心大念にして、来たれ・・・』(彌陀の身)  
(10)決定して「道を尋ねて」疑怯退の心を生ぜず。  
(11)東の岸の群賊等換んで言わく『仁者廻り来れ・・・我等・・・悪心もて相向うことなし』(別解別行)  
(12)此人・・・回顧せず。一心に直に進んで道を念うて行くに、須臾に即ち西の岸に到り(須臾到岸)  
このような項目に分けて、考察すると、いろいろな点で、特色が見られるのである。まず、(1)白道を渡る行者は、往生人、死後の姿でないこと。『勅修御伝』等を見ても、各往生人の姿は、臨終の床、白衣の姿に、来迎の光が投じられている様子が、いささか淋しい。もちろん正念往生ではあるが、その点、白道の行者は、生き進む姿である。(2)西方へは百千里という「遠」でありながら、(4)白道は、白は願生心の清浄を示すが、細さは善心微弱を示す。(6)(9)の「空曠処」「一心」は、曇鸞、道綽に由来するものを示す。(7)(8)(10)の「道を尋ね」とは、仏教の道の立場を示す。(11)は(1)の目的に出るように邪見の妨害を注意する。(12)往生は須臾である。  
さらにまとめるならば(a)((1)(3)(4)(5))白道は凡夫現生の念仏の道であり、(b)((6))後に常に死の恐怖があり、(c)((11))異見の妨害があり、(d)((7)(8)(10))仏道に通じ、(e)  
((2)(12))西方浄土去死不遠を示している。この項目を考えつつ味わいたい。 
2 白道と五色の道  
白道というと、小生は、すぐに「ウパニシャッド」などで説かれている天への光の道(註1)が対照的に想いめぐらされるのである。白というと、白日の光などといって、空の太陽から、地上に向って投げかける光線を予想する。もっとも、中国的発想というか、白は西方を示すという考え方の方が自然かもしれない。先日、ラグックのマンダラの写真を見たら、西方の彌陀は赤色に塗られていた。いずれにせよ、人の住む地上、此世から、輝かしく、美しく、ユートピアのような天上、仏国への道として、白道は相応しい。私には、とくに、人間の根本的欲求から、しかと見定められ、しかも、それ一つしかない道が、その道と思われるし、千古の昔から、人々が希い求め、そうだと確信してきたものと考える。なぜだろうか。  
白光は、天日の光り、分析すると、七色とも、五色とも、三色とも我々人類は表現してきた。紀元前五,六世紀ごろからであろうか、インドの「ウパニシャッド」に見られるような天への五色の道が信じられていた−これは、今だに後に述べるように仏教にも、浄土宗にも伝えられている−のは、あえて私が「我々人類は」と表現した所以である。  
「ウパニシャッド」も、新古多数のものがあるが、私が、とくに関心を有するのは、最古期に属する中の二つの代表的なもの『ブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッド』と『チャーンドーグヤ・ウパニシャッド』とである。これらは、釈尊当時には、すでに存在したと考えられ、釈尊も、当代の学問をされてからの成道であるから、何らかの影響と素材を受けておられるはずである。「ウパニシャッド」は、もちろんインド伝統の婆羅門  
(brAhmaNa)たちが、主導して、教義を展開していくのであるが、その当初は、とにかくとして、その中に、従来にない王族(kXatriya)の新しい思想の台頭がある。『ブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッド』一・四・十一〜十四では、最高権威・原理たる梵(brahman)が、展開し、さらに強い力(kXatra)を作ったが、さらに力の中の力である法(dharma)を作ったという。これは王(kXatriya)が国法(dharma)で統治するようなものである。そしてこれは真理  
(satya)が−諦−と同一であると説明している。つまり、新しく、王様が、法、真理を裏づけとして出てくる姿がある。釈尊は、王族の出身である。何人かの婆羅門か、学者の教理を経て、四諦(satya)を、法(dharma)を説き出されている。この事実、其他により「ウパニシャッド」との関連は、仏教を研究する上に、重要な意味を持つことが分かる。とかく、従来、仏教を講ずる場合、仏教は、それまでの他の教えと、まったく斬新で、優れた宗教であるという古い考え方があって、その前の重要な「ウパニシャッド」との関係を、あまり取り上げなかったきらいが多い。とにかく、釈尊は、この同じ諦、法の語を使い、梵の原理でなく、秩序の原理−縁起−法を説くのである。 
(1)地と天を結ぶ五色の陽光  
さて、このように「ウパニシャッド」の影響を受ける中でも、今、本論に於て関係のあるのは、天への道である。ふつう「五火二道説」といって、解脱して生天し、永遠に天にある道を天道とし、福徳不足して、生天後、再び地に生れるのを祖道とする。この二道の考えは、そっくり後の仏教の修行の段階に組みこまれ、四向四果の中の一来、不還の位となったのである。『ブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッド』四・四に、  
第八節 / 微細(aNu)で、遠くへのびている古(purANa)の道(pathin)は、私に見出された。それを通って、智あり、梵を知るものらは、此(世)から上方へ(=死後)解脱し已って、上っていく。  
第九節 / この(道)について言われている。白あり、青黒あり、黄あり、緑あり、そして、赤ありと。この道は、梵によって見出され、これを通って、梵を知るもの、そして、エネルギーあるものは行く。  
この箇所は、有名な所であるが、「ウパニシャッド」の中心とする梵と我との追求の所で、とくに、我(アートマン)の問題を考える時に、大きな関係をもってくる一つの場合である。つまり、この第四章は全体、人の臨終に於て、人は死後いったいどこへ、どうして行くのであろうかという人生最大関心事に於て、その最高我、梵、またはアートマンは、どのようになるかというのである。アートマンとは、俗にいえば、魂ということである。人間として、これを考えぬものはない。現在と二千年を隔てていようとも、問題の基盤は変らない。白道が、今年から往生を示すのと、形は全く同じである。「ウパニシャッド」の理想たる解脱を得てもなお天界へ行くと述べていて、すべて、智ある人も、ふつうの福徳を積むものも、生天を理想とする。恰も、天台の理は、止観を目的としつつも、朝題目、夕念仏とて、西方極楽の志向のあるごとくであり、聖道も易行道も、すべて往生というごとくである。  
また、古い道というが、その古いというのは、すでに、さらに古代の『リグ・ヴェーダ』にも、「われらの古き祖先の去り行きし」とか、「太古の(pUrvya)道によって、われらの古き(註2)(pUrva)祖先が去り行きし・・・」と延べていて、いうなれば永遠の古昔から、祖先の通っていった古い確定した道を同じように通って生天したいという表現がある。これは、仏教にもそのまま受けつがれている。『雑阿含経』に、八正道を示すのに、「古仙人逕(註3)、古仙人道跡、古仙人従此跡去」といっている。過去七仏的な考えともいえよう。  
次に「微細」というが、シャンカラ註では、狭少で認知しがたいからと説明しているが、白道四、五寸を、善導大師も釈して、「善心微なるが故に」と言われている。立場は異るとしても、生天、往生の道は、決して容易ではないことを共に示すものであろう。白道の細さは、凡夫の善心の細さを示すということは、従本あまり強調されず、白道の白き、願生心の清浄さのみが言われていたような気がする。二河の間にあって、ややともすれば、蓋われて、見えなくなるような、たよりなげな道である、つまり、生死に沈論する凡夫の心を示している。しかし、同時に、「ウパニシャッド」は、その道が、死後のアートマンの道であるのに対して、白道は凡夫の生身の道、つまり、生きていて煩悩に左右されているライブな人間の道であるところが、根本的に異っている。白道は死出の旅ではない。反対に生あるが故に、生命あることに伴う煩悩の二河に挟まれて、細く、微かなのである。 第九節の五色の道というのは、当代一般的に考えられていたことで、具体的には、地上と天とを結びつける五色の虹などから推定した太陽光線である。その光の路に、五色があるという。 
(2) 人間と天を結ぶ五色の血  
五色についてはまた、一説あって、『チャーンドーグヤ・ウパニシャッド』第八篇第六章に、  
第一節 / 次に、この心臓の諸々の脈管(nADI)なるものは、赤褐色・白色・青黒色・黄色・赤色の微細なものによって存在している。そして、あの太陽も、赤褐色であり、それは白色であり、それは青黒色であり、それは黄色であり、それは赤色である。  
第二節 / また、長い大道が、それぞれの両方の村に通じているように、あの太陽の光線はこの世とあの世に通じている。それらはあの太陽から拡って、これら脈管に到り、これら脈管から、それらは、太陽に到っている。  
第五節 / しかし(病い死せる)彼が、その身体より出て、それらのいろいろの(太陽)光線を通って、上方に登っていく。・・・  
第六節 / このことで頌がある。心臓の脈管は百と一あって、その中の一つは、頭頂に通じている。それを通って上方に行って、不死に到る。それ以外の(百)は、別方向に行くためのものである。  
この説は、五色なのは、さらに、人間の血で、この血は心臓の血管を通り、頭の頂点に通じているから、人は、死ぬと、この管を通って、頭頂から、同じく五色の太陽の光線を経て天に行くとされるのである。「ウパニシャッド」は、全体として、まとまった考えがあるわけでなく、死後生天の径路にしてもその他『ブリハドアーラヌヤカ・ウパニシャッド』四・三・二〇とか前述の二道説もあり、説明の点でも、必ずしも首尾一貫はしていない。ただ、この古代の人々が、自然現象、つまり、太陽とか、虹とか、荼毘の煙の上昇、降雨というものによって、天と地上のつながりを考えていたことは共通している。  
この血の五色と陽光の五色との一貫性は、血は、生ある人間のそれであり、光は、死後の「彼」である。「彼」が何であるかについては、「業」という考え方、輪廻となっていくのであるが、これも「ウパニシャッド」に於て、すでに、解脱と輪廻の矛盾を来たすことになるが、やはり、根強く、仏教に尾を引いており、白道の説明にも、後述のようにこの「業」の語、エネルギーを見るのである。 
(3)仏教と五色  
ただし、この五色の道は、直接、すぐにはこの天と地を結ぶ形として仏教には取り入れることとはならなかったのである。かなりな仏教外のインドの神々や風習は、まもなく仏教の中に、採用、消化されて、仏教の内容がくらんでいくのであるが、この五色の道は、あまり教典上に具体化することなく、仏教がチベット、日本で浄土教が盛んになるまで、そのような他方世界とのかかわりに於て現在の経論では現われなかったようである。  
また、本節で述べるような往生行儀の五色の糸は、形式は、似ていても、五色に対する考え方がやや異っているようである。  
たしかに、五色の線、ロープは、律蔵(註4)に於て、戒壇場の結界、聖なる場所を区切る境界線とされ、また五色が降魔守護のものとして使用されてはいる。時(註5)には世尊の口から、五色の光が、出て、地獄にあるものが、炎熱も清涼となり、仏への信を生ぜしめ、人天の趣に、勝れた生を受け、色究竟天に至らしめたという。これは、どちらかというと、五色の陽光に近いようであるが、やはり、魔除け(註6)、護身、の威力を示すようである。しかし、『大法輪』昭和五十五年九月号の口絵では西北インド、ラダックのサンガル・コンパ(ラマ教寺院)の中庭に、「天の柱」と呼ばれる大きな柱がある事を伝え、死者の霊は、この柱の上にかかる虹の橋を渡って、天に昇るといわれる事を、永橋和雄氏は報告している。 また、近年、数次に及ぶ高野山大学、松長有慶教授を団長とするラダックの仏教文化調査隊の成果報告のマンダラ展のテキスト『マンダラ』(西武美術館発行)二六〜二七頁には、上記、五色の血が頭頂より五色の虹、気となって発露、上昇することが、そのものずばりと、画をもって、判りやすく説明されている。密教の原理と複雑にからみあってはいるが、この五色の血が血管を通っていくことは、五仏と合体し、それが宇宙へと発展するもので上記の「ウパニシャッド」両説を引くことは明らかである。いずれにせよ、それが密教を媒介として、人間性、情欲を土台として、仏教外のインドの文化が、改めてそのマンダラの中に吸収され、日本へ渡来したことを、この報告書は具体的事実によって示していてくれる。  
五色は密教となって俄然、大きな意味をもってくる。それを論ずることは、本論の趣旨でないが、マンダラの中心の八葉蓮華は、実は心臓を意味するなど、密教を通過して、仏教が、深められ、その一つが五色の糸と受けとめることは自然であることを付け加えたいのである。  
五色が、やや異ってというのは、五色は、五如来を示すものとして、五色の糸は、如来、仏の加持を確認する感覚が強まってきたということである。 
(4)チベット仏教と五色  
多少記述が前後するが、先項『チベットの死者の書』が、たいへん話題となったが、これについて、川崎信定氏の解説によると次の如くである。(『エピステーメ』七・二朝日出版社、一九七六、一一二〜一二五頁)  
「チベットの死者の書」とは、チベットで死者に対してその枕部で僧が読誦する「枕経」であり、その後、七日、七日と七週間の・・・中陰(bra-do, skt. antarbhAva)の有様を描写して亡魂に正しい解脱の方向を指示する目的の経文である。・・・【第一次の中陰】・・・彼が死んで吐息も止ったとき、生命の風【rliJ, skt. vAtu】は身体の中央部を走る中枢脈管へと沈入し・・・左右の脈管(ナーディー)【nADI】に流入・・・生命の風は左右の脈管にもどることができず、脳天の「プラフマンの穴」を通って飛び出す。すなわち輪廻からの解脱である。・・・【第三次の中陰】第一日目に現れるのは、青色の光とともに・・・明妃と抱擁した姿の大日如来である。・・・死者は大日如来の心中に虹の光となって溶入する。・・・第七日目には・・・マンダラの中央から五色に輝く舞踏蓮華主が・・・現出する。・・・時明者が、白・黄・赤・緑の明妃を抱いて来迎する。  
・・・荼毘の薪の累積に虹がかかったり、宝珠ののような舎利が灰に残り、解脱した証拠となる。  
以上の文中にも、上記「ウパニシャッド」の脈管の中を五色の血(註7)が、生気(アートマン)を運び、それが頭頂より虹として生天する考え方を、継承している後代仏教、十一世紀頃と推定せられる同書の内容を知ることができよう。さらに、上記ラダック仏教寺院は、その一面であるが、我々は、仏教無我論と一面相反した形の人間の生命、呼気、生気、魂というものへの人間の願い、心が、消し去ることのできない強さをもって存在しつづけることを否定できないのである。これらは、その軌跡である。事実なのである。  
たしかに、仏教無我論は、アートマン、魂を否定し、川崎氏も、「チベットの死者の書」でも、転生の主体は意識(vijJAna)の語を用い、魂、いのちの諸語は避けられているようだと指摘されている。浄土教に於ても、往生するのは、念仏の衆生であって、その主体にはふれていない。しかし、チベットをふくめ、広く仏教に於て、他方往生の姿は変わらない。その根強さたる上記の「ウパニシャッド」に現われ、三千年に及ばんとする五色の考えは、白道と無縁ではありえないのである。 
(5)浄土教と五色の糸  
重要な儀式である五重、大法会には、仏の御手よりの五色の糸が、現在、使われている。五重行事に於ける白道を示す白布には、その御右手よりの五色の糸が結びつけられ、大法会では本堂正面境内に建てられた角塔婆に結ばれる。  
さて五色の糸は、日本で中世ごろから、盛行しておるが、一般的な例として、『平家物語』「灌頂巻」を見てみよう。寂光院では  
(註8)御庵室にいらせ給ひて、障子を引あけて御覧ずれば、一間には来迎の三尊おはします。中尊の御手には五色の糸をかけられたり。  
(註9)女院御心地例ならずわたらせ給ひしかば、中尊の御手の五色の糸をひかへつゝ、「南無西方極楽世界教主彌陀如来、かならず引摂し給へ」とて、御念仏ありしかば・・・一期遂におはらせ給ひぬ。と建礼門院が臨終を迎え、五色の糸を握りつつ往生したことを述べており、当時の習慣が偲ばれる。しかし、法然上人については、御往生の時は『法然上人行状絵図』第三十七巻に、上人の臨終が迫った時の事を述べて、  
(註10)また弟子等、仏の御手に五色のいとをつけて、とりましませとすゝめ申せば、上人のたまはく、かやうの手はこれつねの人の儀式なり。わが身にをきては、いまだかならずしもしからずとて、ついにとり給はず。という。来迎仏も、上人御自身はつねに真仏を拝んでいるからとそれ以外のものは拝まないとされている。五色の糸は、上人に於ては不要であったが、とにかく、真言等の影響により、当代、五色の糸は、常識であったようで、『一百四十五箇条問答』では  
(註11)「一、臨終のおり、阿弥陀の定印なんとをならひて、【五色の糸】ひかへ候やらん。たゝさ候はすとも、左右の手にひかへ候やらん」  
答「かならず定印をむすべきにて候はず。たゝ合掌を本体にてその中にひかへられ候へし」  
「一,かならす仏を見、糸をひかへ候はすとも、われは申さすとも、人の申さん念仏をきゝても、死候はゝ浄土には往生し候へきやらん」  
答「かならす糸をひくといふ事候はす、仏にむかひまいらせねど、念仏たにもすれば往生し候也。又きゝてもし候。それはよく★信心ふかくての事に候。」  
その他五色についての質問二があり、また真言的な作法についての質問もあることからすると、その影響下の当世の風習を偲ばせるとともに、あながちにそれを否定はされないにしても、念仏にて十分である御心を示されている。 
(6)なお五色の糸の意義は、それが、浄土の彌陀への道に通じるというにあると思うのであるが、真言等の立場からいうと、五色は、五智如来を表わすから、臨終の不安も、御仏の加護を確信することの意味のようである。例えば、豊山派管長であられた富田★純(こうじゅん)大僧正の『(註12)最後の用心』  
死の覚悟が出来たならば、死すべき室に移り、此処に本尊を安置するのである。此本尊は浄土門の信者であれば、必ず西方極楽の教主たる阿弥陀如来を安置することに定って居るのであるが、我真言密教は阿弥陀如来に限った訳けではない、自分が平生信仰して此仏に彼世御連れを願ふのであると定めた仏であれば、不動明王でも観音菩薩でも地蔵菩薩でもよいのである。而して其仏の御手に五色の糸を結び付くるのはである。平家物語に「一間には来迎の三尊御座す。中尊の御手には五色の糸を被懸たり」とあるのが夫である。五色の糸の製法は、青黄赤白黒の五色を各一丈二尺に切って、之を縒り合せて九尺に縮むるのである。五色は即ち仏の五智を表し、一丈二尺は胎蔵界蔓荼羅の十二大院を表し、是を九尺に縮むるは、即ち金剛界の九会蔓荼羅を表するのである。是の如き深い★意味のあることである。  
なお、五色の糸は、上述したように、護摩壇の結界の壇線にも使われるし、腕に懸ける金剛線もあるので、仏の加護という意味が強いようである。しかし、五色界道として蔓荼羅に画かれる場合、中台八葉院を囲むように内から外に次第して画かれる。上記のように、本来中央の蓮とは、心臓を表わし、そこから次第する五色は「ウパニシャッド」にいう心臓からの血管の中の血の五色である。また、前記『マンダラ』の図示のように身中の五如来、大日(脳髄−青)、不空(のど−緑)、阿弥陀(心臓−赤)、阿★(中心・へそ−白)、宝生(基底、肛門の黄)を通じて、クンダリニー(生気)が上昇し、頭頂から五色の虹として発露するという説などと考え合わすと、八葉の内から外への五色は、同ご体内の血の五色という思想と関連があると考えざるを得ないのである。とくに、「ウパニシャッド」では、この管を伝っていくものとして生気を説いており(註13)ラダクリシュナンも、この所で註して、心臓のまわりに脈あり、五色からなり、同じく五色から太陽光線と結合すると述べている。白道喩風にいうと、此岸は、体内の五色、血であり、白道は頭頂からの太陽光、五色光であり、彼岸は、天ということであり、行者は、生気、もしくはアートマンである。  
いずれにせよ、我々の長い歴史に、多くの人々によって、五色等により此世から、次の世への永世と安楽とが願われ、信仰されてきたことは否定しがたいことで、人の心を語り、記録するものである。しかし、人の永世とはいいながら、五色の血から、五色の光へと進むことは、上記の「ウパニシャッド」でも言われるように、生きている身体から抜け出して進むのであり、五色の糸をつかんでいる身体を抜けて、仏の御手に救われることであるから、死後の道である。  
ところが、白道はちがう。此世と浄土との道とはいいながら、先述のように、貪瞋恚の煩悩がやむことのない生身の行くみちである。その意味に於て、白道が、赤と青の波立つ二河に見えかくれして浄土へ結んでいる表現は、五色的連関と異る高い浄土宗の往生を志すものの生きざまを示している。  
その意味でとくに生身の現世の往生人の渡る姿を強調する手許にある「二河白道図」を次に紹介したい。 
3 若干の二河白道図について  
(A)  
手許に、(A)(B)(C)三つの二河白道図がある。(A)(知恩院)はふつう伝統的に考えられているもので、(B)(C)は少しく当世風に作られたらしいものである。(A)では、両面上方に彼岸、極楽があり、その岸辺に、阿弥陀如来が立って呼ぶ形、画面下半分には此岸、現世を画き、釈迦如来が立って、往生を勧める形である。両岸を結ぶ白道を渡るのは白衣の行者である。行者は、彌陀に向って進むから、釈迦は、背中の方から、光明を放っているので、行者自身には「釈迦已に滅したまいて、後の人見ざれども」声を聞く如しということを図示している。此岸には、別解、別行を表わす二つの僧形、行者を追う群賊は六名で、人の六根、六識、六塵を示し、その起こす煩悩に行者追われ行くことを示すことは、ほとんどの図に共通するものである。悪獣は蛇、虎、野犬等、あまり数にこだわらず描かれている。  
(B)  
(B)は、かなりくわしく画かれ、箱書きによると、文政十二年(一九二九年)、京都出来とあり、伊勢の旧家田中治郎左衛門家寄贈のもので、やはり、栗生の光明寺の図を土台として、さらに精密に「散善義」の内容を描きこんでいて、画も小福ながら筆致精巧ですぐれたものである。彼岸、此岸、白道、二河の結構は同じであるが、まず、此岸の一番手前、つまり軸の最下端には、両方左右相対して、二間つづきの家があり、右の間からいうと、第一番目には夫婦が、白絹の匹数を数えていたり、その縁先には山のかせぎであろうか薪、釜などあり、家計のやりくりに追われている様、次は、笛を吹く男、詩を吟ずる男がいて、詩歌管弦に遊ぶ姿、次は右の家で、うたたねをしている怠惰の人生、次は、夫婦して嬰児をあやしている恩愛の場である。いずれも、その軒先から火を吹いていて、文字通り、人々は、目先の安穏、快楽、衆無に追われているが、まさに「娑婆は火宅」を説く。両屋の間は、松・竹・桜・梅があり、寸時の空しく華やかさを示し、猿がうずくまり、馬が走るのは、人心の意馬心猿の醜さである。この下端部は、大体、光明寺風である。  
このへんの事情は「登山状」の文を想起するのである。  
(註14)いたづらにあかしくらしてやみなんこそかなしけれ。あるいは金谷の花をもてあそびて、遅々たる春をむなしくくらし、あるいは南楼に月をあざけりて、縵々たる秋の夜を、いたづらにあかす。あるいは千里の雲にはせて、山のかせぎをとりてとしをくり、あるいは万里のなみにうかみて、うみのいろくづをとりて日をかさね、あるいは厳寒にこほりをしのぎて世路をわたり、あるいは炎天にあせをのごひて利養をもとめ、あるいは妻子眷属に纏はれて恩愛のきづなきりがたし、あるいは執敵怨類にあひて瞋恚のほむらやむ事なし。  
また火宅については御法語に、  
(註15)この火宅に住せば、退役ありていでがたきがゆへ也。火界の修道ははなはだかたきゆへに西方に帰せしむ。  
(註16)すなはち二の信心といは、はじめに【機の深信】わが身は煩悩罪悪の凡夫也。火宅をいでず、出離の縁なしと信ぜよといひ、つぎには【法の深信】決定住生すべき身なりと信じて一念もうたがふべからず。  
などと述べられてある。  
さて、群賊は型通り六名、弓矢や刀槍を持って行者を追う。白蛇が四匹とは、良忠『散善義記』の(註17)四毒蛇によるが、「四大」である。野獣六は同じ。鎧を脱いだ武士が、此岸にいて、行者を呼びもどす様子は、同記の註釈によると、密かに刀を隠して、敵意のないように詐って、行者に白道から還って来いと呼び迷い心を起こさせている事を示しているようである。  
僧形の一人が、手をのばして、もどれというポーズで画かれてある。これは、別解別行の徒である。我々として、多少、今日的に考えると、当初の文字通りの別解別行の異学の邪魔というより、「南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生する」と思うべきに、それに徹しきれぬ「疑」と言うべきか。大師のこの譬の目的は信心守護・異見防禦であった。  
次に六巻の経のある経机がぽつんとあって、人なきは、上述のように、釈迦は、此岸現世になく、「教法」のみある末法の様。行者は若き黒衣の僧形。水河には夫婦いて家財を数えている貪愛を示し、火河には痴話喧嘩をする夫婦を画して瞋憎を表わしている。浄土彼岸に彌陀が立ちたまうが、光はとくに出していない。雲は使われていず、浄土の池は美しい群青色で、水平線の上に空が切れていて天女が舞い、はるか奥行き深く画面が構成されている。  
なお、浄土彼岸左には、赤い袈裟をかけた法然上人が両菩薩に左右侍られて、数珠をつまぐって、来る行者を見ておられる。蓮池の蓮の上には、往生人らしいものが座し、たはり両菩薩に迎えられている。  
(C)  
(C)は、増上寺伝法に用いられるもので、白道を渡るのは鳥帽子の武家スタイルの行者である。釈尊、両大師は画かれてなく、群像も少なく、シンプルである。特異なのは、手前右の山頂より、三人の狩衣装の武家がいて、その中の水干姿の二人は、手に白扇を持って行者を力づけているごとくである。同寺は、江戸城の近く、将軍家等、武家との関係が密であったから、このような図柄が、画きつがれてきたのではなかろうか。双六等で風俗画に関心のある大谷旭雄師は、一般的に、時代とか、土地の影響を受けて、画はいろいろと異なるものである。多分、五重のような大行事は、大施主を必要としていたから、或は、その三人の武家は、そのような意味で画きこまれたのかもしれない。などと感想を述べておられた。とにかく、そういう意味で、白道の図は、さまざまであり、多くの人々の願生の心をこめて、各地、各寺に多くの形があるようである。  
藤懸静也氏も、二河白道図の(註18)解説で、その日本化、時代々々の世間相を写し、その家居、服装、生活状態をあるがままに画いた部分もある、といっておられる。白道図は、浄土宗の宗旨に基づいて、かなり、自由な姿で各種彼地に画幅が存在しているようである。この点は、勧誡師の方々の御苦労の存するところでもある。しかし、上記のように、行者は、生身の行者が、煩悩の中を、つっきって西方へ向う姿であるから、まちがっても亡者スタイルであってはならないので、此点、真野孝信師も強調されていた。  
なお、雲の上から、台上に光啗を背にして浄土三部経三巻が、立てられ、それから、行者に光が投げられているのは、釈尊亡き今、その浄土の教が、行者への力となることを示している。極楽浄土の楼には、増上寺三門を思わせるのも、身近なものとして親しみがある。私は、同寺三門近くに住むものとして、同寺にはかぎらぬことながら、かねてから思っていることがあるが、同寺参道は、東の浜松町、海岸方面から一直線に真西に、赤門を抜け、三門をくぐって、大殿、彌陀を拝することは、やはり、浄土への白道の一歩一歩を進むことになる。左手に天下に誇る徳川寄進の経蔵、右方はるかには江戸城がある。今、同寺、白道図には、行者を力づけるものとして、上記のように、経巻と従者二名を従えた高位の一武家が画かれているのは、そのへんのところを下地としたものと考えることは、自然であろう。  
(D)  
以上、手許のものを手がかりとして、いろいろと考えてみたが、若干の点で、まとめてみたい。まず行者であるが、(A)白衣の行者、(B)黒衣の僧、(C)武士というように異っている。一般的に、(A)は中国風の画風であるが、行者は、僧もあれば、武士、農民、漁民もあるのだから、一人の行者で表わすのには、一つの姿しかない。私は、はじめ(C)の武家スタイルを見てふしぎな感じがしたのは、(A)の行者に見なれてたせいであろう。ひょっとしたら、この武家の若者は、亡くなった我子の追善に、我子を偲び、その往生を願うて、画面右の雲に立つ武士親兄弟と見られるものが、布施をして、そのように画かしめたのかもしれない。とにかくも、亡者スタイルでなく、生身の人間の姿が、白道の上になければならない。たとえ、煩悩に足をとられがちであっても、それ故に、生きる人間の苦闘であり、精進の姿である。  
私は(註19)前に、有余往生を、往生の理解について愚見を申し上げたが、今、白道は、図の通り極楽に直結している。白道から浄土に入る時は、正しく往生、無余往生であり、白道上は、有余往生である。白道上の行進は、いわば、無余往生、白道から一歩、浄土に入るための助走路である。それは、往生の一本道であるが、白道の間は、有余、つまり、肉体を有し、煩悩を有する浄土行である。それが、左右の煩悩の両河に挟まれての往生行なのである。  
なお、図の示すように、白道と浄土との間には中陰はない。浄土門の者で、中陰について、不適当な解説はつつしむべきであろう。  
次に、釈尊の御姿の在、不在であるが、(A)は、善導大師の釈の「東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く」が「即ち釈迦巳に滅したまいて、後の人見ざれども、なお教法の尋ぬべき有るに喩う」と説明されてある中、前に述べたように、東の岸には姿なく、行者も、前を向いて姿は見えず、声のみ聞いて進むが、図としては釈尊は此岸上の雲の上に画くという意である。  
これに対して、(B)(C)は、釈尊は画かず、経巻をのみ出し、(B)は此岸経机の上の経で、釈尊亡く末法的淋しさを感じ、(C)は雲上の三部経から、行者を光被して、釈迦発遺、西方指向を示している。(B)(C)、やや異るが、釈尊の姿なきにより釈迦を去ることを遠き末法の反省が一つの意図となるようである。もちろん、(A)の釈尊が画かれていても、声のみある発遺のシンボルとしてあるものであって、末法の緊張は同じである。しかし、とくに、釈尊の画かれてない画については、末法ということと、末法に念仏にあうことを得たよろこびを味わうべきである。(註20)登山状にいう、「釈尊の在世にあはさる事は、かなしみなりといへとも、教法流布の世にあふ事をえたるは、是よろこひ也。たとへは目し★たるかめの、うき木のあなにあへるかことし」との法悦を感じる。五重も終りに近づき、受者も感銘を新たにしている時、この白道図は、各自の体験に応じ、幾様に読まれても、ふしぎではないが、とくに教法親近の機を喜んでいるものと思われる。  
何しろ、大師の二河喩の御文章があって、とくに大師の画はないのであるから、我国の風土に応じた、また、各指導者の心によって、いろいろの図が出来てきたのである。従って、一たん図となると、こんどは、さらに図のみからの種々の感銘が、大師の文を直接に拝するのとは異って、生じることは自然であろうと思われる。例えば、前記の藤懸氏にしても、「(註21)我が国では、浄土教の盛んになった鎌倉時代に、名僧知識が、この図を賊が伏屋の大衆に示して勧善の戒となし、浄土教信仰の誘導をなしたのである・・・」といっておられる。画く人画く時、説く人、見る人で少しずつ変ってくる。  
私には、群属悪獣らが殺しにやってくるのは、人生に、遅かれ早から到来する病老死に見る。これらは、「衆生の六根六識六塵五陰四大に喩ふるなり。」とあるのは、そうだと思う。一言にしていえば、人間の心身のことである。人間の心身が賊とはどういうことであろうか、それは一つには煩悩の固まりで、白道に向う心を捕えるものであるし、二つには、その心身は、やがて無情の病老死であって、白道を引返すと死を免れぬという表現である。大師程、無情、死を厳しく見つめられた方はないだろう。これを『(註22)往生礼賛』で見ると、日没の★の「人間★★として衆務を営んで、生命の日夜に去る事を覚らざるもの」であり、初夜の★の「楽んで睡眠」するものであり、中夜の★の「臭屍」で、後夜の★の「死王と居する」ものであり、日中の★の「人の命もまたかくの如し、無情は須臾の間」という我身のことをいうのである。その群属的我身をふりかえると、我々は、白道を進むのが唯一の道であると知らしめられるのである。  
明恵上人は、この群属を、法然上人は、『選択集』に於て、聖道門を意味するものだとして、『(註23)於一向専修選択集中摧邪輪』を著されている。しかし、上人も、専修念仏の人は、そんなことは全く法然上人は述べていない−事実かかる記述はない−と反論されて、そうであってもとしながら、法然上人の文低にあるのは群賊は聖道ということだと論難を展開している。とくに、画だけで考えると群賊悪獣他人事、他なる害敵と見られやすいが、上述のような大師の人命観と群賊悪獣に関する釈をも考え合わせ、我が人命、襲いくる無常と考えるべきではないだろうか。  
次に大師の思想の中で、並んで力説されるのは、我々人間は生死の凡夫ということである。白道のある限り、それは煩悩生死の二河に左右から、たえず脅かされている。白道の尽きて、浄土への一歩まで、それは変らない。最終まで行っても変らない。煩悩に見え隠れしている道が、浄土に直結している。このような道の表現が他にあるだろうか。両河が画かれていても、ふしぎに、それで身を焼くとか、陥ちるという不安は伝わらない。せいぜい火傷ぐらいにしか思えない。彌陀の力に守られ、念仏ある限り、不安はない。ただ、煩悩は身辺を去ってしまうことはない。  
次に、浄土は、確実に(註24)近くに感じられる。指呼の感である。これは描画の都合からではない。西方十万億土、筋斗雲の必要はなさそうな図なのである。−(e)−  
その他、多くの事を拝する者に与えると思うが、私として、とくに、右のような老死・享楽の賊と、他の仏道に例を見ない生死、ライヴな白道の画は、我身につまされる今の思いである。 
4 白道と仏教  
私は、仏教は”道”なりと考えるものであるが、今、改めて、大師の白道喩の文を、一句一句考えてみると、仏教を道と示され、さらに仏教の道の理を踏まえて、その中でも特色ある白道を提唱されたことに心から尊敬の念をもつものである。  
仏教が道の教であることは、すでに初期仏教に於て、各教理、つまり、中道、入正道、四諦の道諦等に於ても明らかであり、私も年来、(註25)発表してきたところである。  
釈尊は「(註26)・・・このように涅槃はあり、涅槃に到る道(magga, mArga)はあり、私は導師としてある。・・・如来は道を教えるものである。」と説いている。中村元博士は、「(註27)・・・それでは仏教における本質的なものは何かといふ問題にぶつかる。それは縁起の系列だの中道といふことばの外に求められねばならない。その本質的なものがある故に、仏教が他の宗教や哲学と似た説教を述べて★たとしてもなほそこに趣意の相違があるといふことが可能となる。それでは仏教に特徴的なその本質的なものは何か、といふことになるが、それは仏教が形而上学的思索を排斥して、実践的認識を求めて★たといふこと、すなはち仏教は哲学体系ではなくて「道」であるといふ点にあると考へられる・・・」(原文のまま)と指摘されている。まず、大師が白−道として説かれたのは、それまでの難易二道以来の流れの上に、はっきりと、仏教とは道であることを示されたものと受けとめるべきである。白道喩は、諸師により説かれているように、たんなる譬喩ではない。もはや、往生行者の実践の教理であると私は考える。竹中博士は、「(註28)二河白道は単なる譬喩ではなく、われわれの信仰の歩みそのことなのである。こう理解することが、二河白道を象徴としてうけとる宗教的態度なのである。」と述べられている。また、坪井俊英博士は「(註29)二河白道の譬えは、但に願往生心を説明する譬え話として受けとるものであります。」と考えられている。  
白道喩が、かくして、仏教の仏教たる所以、道、行、人生、生きざま、往生行等の総合的意味として、善導大師の意を体するとともに、高所から仏教の道に対する基本的立場をしっかり把握されていることがわかる。  
それは、一つには私が本論文の冒頭に述べた白道喩の要点の中、(7)(8)(10)に見られる「道を尋ねて」の文句にも★えるのである。なぜ、このようにくりかえされるか、というに、「道を尋ねて」こそが「道」の基本的定義なのである。道の原語は、いろいろあるが、ふつうマールガ(mArga)である。これについて、サンスクリット文法学者の重要地位をしめているパーニニ(紀元前三−四世紀)は「追究(anveXaNa)、尋求」(パーニニ、ダートゥパタ、四・一三七)の意としている。マールガは、ムリガ(mRga)から来たと考え、ムリガは鹿で、鹿を追い求めるという動詞ムリグ(√mRg)が出来た。パーニニは、当代以後、インド文典の典拠となるものである。さらに、マールガは、ムリ(mR)ガ(ga)と、エティモロディーされたことに帰因するのか、滅諦の因としての道諦(mArga-satya)などの修道的意味から来たのか、おそらく、前者と私考するが、「道」は「涅槃への道」という定義も、もう一つの主要な解釈である。ムリ(mR)というのは、死滅を意味する語で、転じて、煩悩の滅した状態、涅槃を表わし、ガ(ga)はガム(√gam)−行く−である。従って、マールガは涅槃への道とされ、原始仏教以来、そのように解され、『経集』の「(註30)苦の寂滅に到るかの道」、『法句経』の「(註31)涅槃に到る道」などと説く。  
以上のような二つの定義が、『(註32)倶舎論』では、道の義は、(1)涅槃路で、これに乗って涅槃城に往くことができるとし、また、(2)所依を求めることで、これを通って涅槃果を求めると、いうように前記の二通りの説を受けており、(註33)ヤショーミトラも、同じ、パーニニを引いて解釈をしている。  
このような道の理解を念頭に置いて、白道喩の(註34)文を見てみたい。  
即ち自ら思念すらく、我今廻るともまた死なん。住まるともまた死なん。去るともまた死なん。一種として死を免れず。我、寧ろ此道を尋ねて、前に向ふて去らん。・・・一心に直に進みて、道を念じて行けば、須臾にして即ち西岸に到・・・  
死という字が多いのは、我々の生は死を裏地とするもので、その生、人命、人生への厳しさである。西岸は涅槃である。その西岸への道、西岸を求めての前進が白道である。西岸は、ずばりいうならば、我々が生ある時も現に存在するが、到り終わるのは、死後である。文字通り、白道は生より死へ行く道である。人生は、生より死へ行く道である。しかし、白道のゴールインと、依り所は、無量寿の御仏の国である。生きて進む時は、思いわずろうことなき安心をもち、白道果てれば、さらに無限の大きな少被の中に生きることができる。仏教の道の観念が、絵画的表現によって説かれ、仏教の本旨が、わかりやすく具体的に示されるとともに、さらに、その画で描かれてもよいであろう。芥川龍之介お蜘蛛の糸に縋る多数の人々があるように。その他、時代に適応した筆致が期待され、画それ自体の語りかけが、さらに生れよう。 
まとめ  
白道喩は現代でいえば、アニメ、イラスト的表現で、具体的に、人間の永遠への道を、示してきた。思えば五色の道以来何千年、何億人という人々が、願い、信じてきた、実在の道である。ただ、その道は亡者生天の道ではなく、我々、生きる人間、ライブな人間、煩悩に一喜一憂の人間が仏に守られ、念仏を力として行く道である。大往生についていえば、白道はそれに対する生涯の助走路である。助走に直接して浄土がある。この白道喩により、図示されることによって、浄土は西方の十万億土の彼方という漠とした考えは、いわゆる遠くて近きものとして浄土を身に感ぜしめるにいたった。いろいろな描きこみによって、経典にまさる浄土行の内容表現により、生命ある往生行を味わい、伝うべきである。 
註  
(註1)『仏教文研究』第十八号、浄土宗教学院研究所、昭和四十七年、一〜十六頁、真野龍海「道の源流」、『日本仏教学会年報』第四十四号、昭和五十四年四九〜六四頁、真野龍海「初期仏教に於ける生天と解脱」等に於て、「道」について、いろいろ説述した。  
(註2)福原亮厳「四諦論の研究」京都、一九七二年、三三七〜三四一頁等参照。  
(註3)正二・八〇c。  
(註4)『鼻奈耶』巻第三に「以二牛屎一塗、以二五色線一結レ楼、盛二満四瓶水一・・・」(正二四・八六三c)の魔除け、『根本説一切有部★芻尼毘奈耶』第三の「於二彼四方一釘二謁地羅木一以二五色線一而囲★レ之」(正二二・九二〇b)の結界等。「五色縄」(正一・五一二c)  
(註5)同右(正二三・六六九b)「今由二此事一世尊欲レ往二勝慧川辺一、即便微笑口中出二五色光一、或時下照或復上昇、其光下者至二無間地獄并余地獄一、若受二炎熱一皆二得清涼一・・・於二人天趣一受二勝妙身一、・・・其上昇者至二究竟天一・・・」『南伝大蔵経』にはあまり認められない。  
(註6)『金光明最勝王経』(正一六・四四一a)梵本は、この文節一段を欠いている。  
(註7)どちらかというと体液、エッセンスを意味するラサ(rasa)という。  
(註8)岩波書店、日本古典文学大系『平家物語下』四三二頁。  
(註9)同、四四二頁。  
(註10)『法然上人伝全集』二四三頁。伊藤真徹『日本浄土教文化史研究』、京都、昭和五十年、「第一編、3,二臨終の行事」に、当代の五色の糸の各例が出ている。石田瑞磨『往生の思想』京都、一九六八年、二三一〜二三七頁、「五色の糸」加藤秀旭『浄土宗綱要』東京、大正十三年、「三種行儀」一七四頁。  
(註11)昭和新修『法然上人全集』(以下『昭法全』)六五二頁。  
(註12)大正9年9月、宝仙寺発行の小冊子。斉藤光純氏再刊のものをいただいた。  
(註13)Radhakrishnan, The Principal UpaniXads, 2nd ed.,p.190.  
(註14)「昭法全」四一七頁。  
(註15)同、(『容儀問答』)六二八頁、『西方要訣』より。  
(註16)同、五八頁。  
(註17)『浄全』二・三二一頁。この所に、王と五旃陀羅の記事があるが、これが、おそらく二河白道図(A)(知恩院)の此岸の冠を戴く男子と五武士であろう。なお、その右に相対する二僧形は、異学異解と考えられる。  
(註18)『国華』六五六号、昭和二十一年十一月、二六四頁。  
(註19)『往生浄土の理解と表現』知恩院浄土宗学研究所、昭和四十一年、一四八〜一五一頁。  
(註20)『昭法全』四一七頁。  
(註21)註(18)に同じ。  
(註22)浄全四・三六〇頁。  
(註23)同八・六七五頁、「二以二聖道門一譬二群属過失一」、七五四頁以下、上記の註釈。  
(註24)仏教大学宗教部編『善導大師信仰と生活』昭和五四年、深貝慈孝「信心のかなめ−二河白道−」(二一八〜二四〇頁)に、とくに、去此不遠について解説されている。白道が浄土の瑞雲の中で結ばれるのとはっきり浄土の岸に接するタイプがあるが★命を不定と見るか、必定と見るかによるかであろう。  
(註25)真野龍海「道の源流」(『仏教文化研究』第十八号、昭和四十七年、一〜一六頁)、「道の基礎的研究序説(1)−道の語について−」(『仏教論叢』第十五号、昭和四十六年、三〜九頁)「同(2)」(同十六号、昭和四十七年、三〜十頁)  
(註26) MN. Vpp.4〜6.正一・六五一a〜等。  
(註27)中村元「縁起説の原型」『印度学仏教学研究』五−一、昭和三十二年、六八頁。  
(註28)竹中信常「二河白道−宗教象徴論−」(『日中浄土』第三号、一九八〇、一五〜一九頁)  
(註29)坪井俊英「私の二河白道」(藤吉慈海編『私の中の善導大師』、昭和五十五年、二六一〜二六八頁)  
(註30)Sn. p.140(No.724)  
(註31)Dhp. p.42.(No.289)  
(註32)正二九・一三二a。  
(註33)KoSa. p.598.  
(註34)石井教道『選択集全講』東京、昭和三十四年、四一三〜四二五頁に和訳、出典関係等註釈がなされている。井川定慶「祖伝に見る二河白道の図」(『仏教文化研究』九,昭和三十五年)で『法然上人七幅絵伝』、第七編に二河白道図が、石塔の場面と滅後法難の場面との間に、二河図が描かれると指摘。真宗では、親鸞聖人が『愚禿鈔』で二河譬の解説等があり、論文も散見される。宇野恵空「二河譬喩の真仮論」(『宗学院論輯』八,昭和六年)、岩崎俊雄「二河譬喩の真仮論考察」(『龍谷学報』三〇七、昭和八年) 
二河白道23 / 二河白道図の質問・回答  
四門出遊のエピソードは、釈迦が僧となるきっかけだったと思っていたのですが、帝釈天や梵天によってわざとさせられたことだったというのが意外でした。まぁたしかに、門を出て人間の四つの苦しみに出会うとは、少し都合がよすぎると思いましたが。ということは、この話はあとから作られた伝承なのでしょうか。  
おそらくそうなのでしょう。でも、釈迦の物語は基本的にすべてあとから作られた伝承です。本当の釈迦の生涯など、どこにもないのかもしれません。そもそも、歴史というのはそういうもので、史実というのはフィクションです。事実を後世にありのままに伝えることなど、不可能なのです。梵天と帝釈天は仏伝の常連です。このほかに四天王もよく現れます。ヒンドゥー教の神には、他にもいろいろいるのですが、登場しません。どうしてでしょうね。  
二河白道図で、手前の河岸で釈迦如来が見送り、彼岸で阿弥陀如来が招くとあるが、この構図は、本当に「苦」とか「辛」というイメージが伝わってくるものだと思う。なぜ来迎図とは違い、二河白道図では、如来たちは応援し、招くのみで、一切、手を加えてあげないのかが疑問だった。  
釈迦や阿弥陀が二河白道図の中で何もしていないのは、それすらも必要ないということでしょう。行者が勇気を持って白道に足を踏み出せば、速やかに浄土に往生できるのですから、あえて手を貸すこともないのです。むしろ、絶対他力を信じることの方が重要で、それだから、旧仏教の人々が呼び戻す姿も重要になります。仏教の伝統から見れば、圧倒的に旧仏教の方が正統的です。  
二河白道図の表現しているものは、バランスだと思った。手前の河岸側に描かれているのは、生老病死で、生きる苦しみ、彼岸は極楽浄土であり、生と死を分けている川のようにも見えるが、二河白道というそれ自体が、困難でバランスをとらないといけないものであって、そこに踏み込まないものは苦しみ、踏み込み、しかもそり越えられたものだけが楽を得られる。人の生き方はかくあるべしということを表していると思いました。  
二河白道図がバランスというのはおもしろい指摘です。はじめて私が二河白道図を見たときは、画面を区切る領域があまりに人工的で、絵画としてはかえって不自然なように感じました。中心の二河白道のところなど、わざとらしいとさえ思いました。二河白道図の中でも、上部の極楽浄土の部分が大きく描かれるようになったり、全体が斜め構図になって、景観のように描かれるのも、このような不自然さやわざとらしさを緩和するための方策だったのではないかと思います。その場合、バランスをとるという意図は、後ろの方に追いやられてしまっているようです。  
四苦が四門出遊にもとづく話だというのは聞いたことがあるが、残りの四つの苦にはもとになる話などはあるのだろうか。  
四門出遊にあたるような物語は、残りの四苦にはありません。ちなみに、残りの四苦は愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦です。六道絵の人道には、これらも絵画化されていますが、特定のエピソードがないため、愛別離苦は戦に出かける武将とその家族、怨憎会苦は戦場のシーンなどになっています。なお、生老病死のうちの生は、本来は生きること自体が苦しみなので、表現しづらいのですが、これを誕生と見なして、出産の苦しみとします。これは母親側の「産みの苦しみ」よりも、生まれる子供の苦しみが意図されています(実際の絵ではそうではありませんが)。出産のシーンは、六道絵以外にも、前回紹介した餓鬼草紙や、その他の絵巻物にしばしば描かれます(たとえば北野天神縁起絵巻)。四門出遊では老病死は同じですが、残りのひとつは生苦ではなく、出家者と会うということになっています。四門出遊の図像も同様です。  
二河白道図はさまざまな典拠があることがわかった。それにしても、往生者が通るところに水のモチーフが使われるのはなぜだろうか。水は自分の姿が映るものだから、本来の自分の正体を自覚するという意味もあったのだろうか。  
そのような解釈があるとおもしろいのですが、そうではないようです。二河白道図の水は実際は激しく打ち寄せる水と燃えさかる火で、いずれも表面に何かうつすような穏やかなものではありません。ただし、静かな水面に映る月などが、悟りの境地を表すことは、日本仏教では好まれた喩えなので、どこかつながりがあるのかもしれません。実際には火であるのに、河と呼んでいるのも気になります。なお、水が自分の正体を写すというのは、精神分析家のユングが好んで用いた考え方です。自分の正体は「ペルソナ」といわれます。  
二河白道は真如中道のように、真ん中に道がある。それは、苦しみに挟まれる人生を表しているように見えた。とすれば、この世と浄土を区切っているのが二河となり、二河を人生と見るなら、浄土はこの世、私たちの生きる場所にはないということになるのだろう。独特な絵だと思った。  
私は二河を死後の世界、とくに地獄と解釈しましたが、そのような見方も可能かもしれません。その場合、現実の苦の世界と浄土という二つの世界だけで構成されて、その間の移動が悟りや救済になります。死後の世界をたてると、両者の間に一種の緩衝地帯をもうけたことになります。二河白道図をどちらと見るかは、見る人の立場によって異なるのでしょう。もっとも、六道絵や地獄図で見たように、死後の世界が景観のように表現されること自体、現実の世界に置き換えられたからとみなすこともできるでしょう。  
なぜ「火宅の喩え」がここで使用されるのだろう。四苦八苦でもよさそうなのに。ここで、「火宅の喩え」が描かれた理由がよくわからない。地獄絵と二河白道図は極楽往生という目的は同じだが、それを達成するまでのプロセスが、あまりに違う。方や自分の犯した罪に応じた責め苦を負わねば、極楽に行けず、方や、誘惑に耐え、白道から落ちなければセーフという、ある意味、雲泥の差だと思う。この二つは矛盾というか、お互いかみ合わないように思えるのだが、どうなっているんだろう。地獄絵の最後に河と橋を渡る描写があったが、二河白道図はそこに対応するのだろうか。  
「火宅の喩え」については、法華経の挿絵としてよく知られていたことが重要でしょう。この世の苦しみを示す喩えとして、法華経を通じて人々に知られ、さらに、経典の挿絵としてイメージが浸透していたため、それを流用することのメリットが大きかったと思います。法華経信仰は平安時代以来、貴族の人々の仏教の根幹をなしていました。地獄絵と二河白道図の違いはその通りですね。最後の河と橋に対応するというのも、私の解釈と同じです。二河白道図の左右の苦しみは、地獄のエッセンスとして選ばれたものと思っています。地獄絵の中に道が現れたことや、迎講で来迎橋が用いられたことともつながりを感じます。  
なぜ、二河白道図の左側は、殺されそうとする自分なのでしょうか。そのようなものを見せられたら、むしろまっすぐ進みたくなるような気がするのですが。  
たしかにそうですね。こちら側は、無理やり引きずり込まれるという感じでしょうか。反対側は、うっかりそちらに魅せられると、足を踏み外すというイメージです。どちらも危険です。  
 
二河白道図 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「二河白道」の喩え・諸説
 

 

二河白道・諸説1
親鸞会の二河白道  
 ● 旅人が無人の荒野を旅していました。  
 ● 尊い人が西へ行けと教えます。  
 ● 西に向かうと、水の河、火の河が突然として現れます。  
 ● 東岸の人は、その中の白道を往けと勧めます。  
 ● それでも旅人は、中間の白道(四五寸)を進みます。  
 ● 白道を進む旅人に、群賊悪獣悪知識が「帰ってこい」と誘惑、妨害してきます。  
 ● それでも白道を進むと、往くも死、帰るも死、とどまるも死の三定死の状態になります。  
 ● その時に、西岸から喚び声が聞こえる。  
 ● 声が聞こえると同時に行く先がなくなった白道が再び開け、 
   旅人は白道を進んで、西の岸に着きました。  
善導大師の二河白道  
 ● 旅人が、無人の荒野を旅していました。  
 ● 群賊悪獣に追われて、死を畏れて西に向かいました。  
 ● 西に向かうと、水の河、火の河が突然として現れます。  
 ● 群賊悪獣に追われて、帰るも死、とどまるも死、 
   先にゆけばまた水火の二河に落ちて死んでしまう。  
 ● 旅人は、そこで、どのみち行き場がないのなら、 
   むしろ前に進んで行こうと決心をします。  
 ● 東の岸に、この道を進めと勧める声と、 
   同時に西の岸にいる人が「直ちに来たれ」と喚ぶ声をたちまちに聞きます。  
 ● その声を聞いた旅人は、疑いや恐れる心がなくなり、白道を進んでいきます。  
 ● 白道を進み始めると、群賊悪獣が「帰ってこい」と誘惑します。  
  それらの声に惑わされることなく、旅人は白道を進み、西の岸に着きました。  
このように並べて書くと分かりやすいですが、時系列で話の流れがそもそも違います。しかし、一番の根本的な間違いは、東の岸の勧める声の内容が異なる点です。  
釈迦の発遣と言われる、お釈迦様のおすすめは、親鸞会の解説では「要門・19願・廃悪修善」になっています。しかし、本来はこのお釈迦様の発遣は「本願成就文」です。譬え話でもこの、阿弥陀仏の招喚の声と、釈迦の発遣は同時に出されています。同時に出るということは、阿弥陀仏の本願によって、それに応じてお釈迦様が仰ったことですから、内容は同じです。観無量寿経で言えば、「苦悩を除く法」とお釈迦様が仰ると同時に、阿弥陀仏が空中に現れられたのと同じことを表しておられます。親鸞会でも、観経で「苦悩を除く法」は定散二善とは説明していません。  
同じように、二河白道の譬えでお釈迦様が「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。」と言われるのは、苦悩を除く法であり、本願成就文をあらわされたものです。ですから、釈迦の発遣と、阿弥陀仏の招喚の声を聞いて疑いや恐れがなくなった旅人は、本願の白道に乗り、信心獲得の身となり、白道を一歩二歩と進みやがて浄土往生を遂げます。  
親鸞会教義の善の勧めや、求道しなければ救われないの根っこにあるのは、この二河白道の譬えでの釈迦の発遣を要門の教えと間違っているところから起きています。二河白道の譬えでのお釈迦様の勧めは、本願成就文にあるように「聞其名号」です。南無阿弥陀仏を疑いなく聞けとのお勧めですから、ただ今聞いて救われて下さい。  
二河白道の喩え原文(教行信証信巻)  
また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。  
この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。  
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。  
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。 
釈迦の発遣(東の岸の勧める声)が要門(廃悪修善)であるという人の根拠  
二河白道の譬えで、東の岸でのお釈迦様のお勧めを「要門・19願・廃悪修善」と言った人は過去にもあります。二河白道の釈迦の発遣を要門だという人の根拠を紹介します。以下に書くものは、是山恵覚和上の二河白道講話の後半に、異義としてまとめて書いてあったものを、親鸞会の主張を加味して私が現代文にしたものです。  
二河白道の譬え話の中で、東の岸の人は「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。」と言っている。これは、その前に旅人が四五寸の白道を見て「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。」と言っている。その旅人の心には、この白道を進んで大丈夫なのだろうかという思いがある。それをそのまま察知して東の岸の人は「この道を尋ねて行け」と言っているのだ。この旅人のどうしようかと定まらない心が、西岸上の人の喚び声を聞いて、直ちに白道を進もうという気持ちになる。だから、東の岸での釈迦の発遣は要門(19願、廃悪修善)になるべきである。  
二河白道の喩えの解説部分で「〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」と言われている。すでに「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」と言われている。煩悩に染まりまた、焼かれている白道は、要門(19願、廃悪修善、定散二善の勧め)でなければいったいなんだというのだ?煩悩しかない道を進めと言われるのは、結局のところ、煩悩を抑えて善をせよということではないのか?だから親鸞聖人は、浄土文類聚鈔の信楽釈の下にこの文を引いて、虚仮不実の行であると言われている。どうして、この白道が、18願だといえるのだろうか?  
合法の文に「〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。」とあるのは、これ定善散善を回向する自力の行の相である、これが白道が要門に通じるという証明である。  
群賊が旅人にむかって「帰ってこい」と呼び止めるのは、二河白道の喩えではお釈迦様が「この道を往け」と言った後に言っていることになっている。しかし、そのあとの解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されている。だから、これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失うと言われている。これを要門の白道と言わずしてなんというのだろうか?  
愚禿鈔に白道を「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」と言われている。これは、白道が、その人によっては白路(自力)になるといわれているのではないでしょうか?  
愚禿鈔に阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の「直」の言葉を「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。」と言われている。そこから類推すると、お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(19願・廃悪修善)に通じるのだ。  
中にはいかにももっともらしいと思われる意見もありますが、全部間違いです。ただ、親鸞会の高森顕徹会長が、こんなことを考えて話ししていたとは全く思えません。しかし、過去に、釈迦の発遣を「要門だ」と考えた人の根拠を知っていただきたいと思って、ここに書きました。 
異義1  
二河白道の譬えの東の岸の声は「要門」という異義については、是山和上の本で否定されているのですが、6つ全部書くと長くなるので、今回は最初の異義について書きます。回答の内容は、是山和上の書かれたものを私が親鸞会教義を加味して現代文にしたものです。  
異義  
二河白道の譬え話の中で、東の岸の人は「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。」と言っている。これは、その前に旅人が四五寸の白道を見て「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。」と言っている。その旅人の心には、この白道を進んで大丈夫なのだろうかという思いがある。それをそのまま察知して東の岸の人は「この道を尋ねて行け」と言っているのだ。この旅人のどうしようかと定まらない心が、西岸上の人の喚び声を聞いて、直ちに白道を進もうという気持ちになる。だから、東の岸での釈迦の発遣は要門(19願、廃悪修善)になるべきである。  
回答  
東の岸の人のすすめる声が、旅人の「この白道を進んで大丈夫なのだろうかという思い」を考慮して、「この道を尋ねて行け」と解釈するのは大変な間違いです。なぜなら旅人は「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん」と言っているからです。またこの旅人は、必ず浄土往生できる(西岸に辿りつける)というハッキリとしたものはないものの、東の岸で勧める声は「ただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん」です。これは、明らかに第十八願の「直ちに来たれ(ただ今救う)」を教えられたものです。  
お釈迦様の発遣の「ただ決定してこの道を尋ねて行け」は、西岸上の阿弥陀仏が「一心に正念にしてただちに来れ」と喚ばれる声と一致します。そのため、お釈迦様の発遣と、阿弥陀仏の招喚に従うことを指して、旅人は「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜず」して白道を進んでいきます。  
よって、お釈迦様の発遣の「ただ決定してこの道を尋ねて行け」とは、「本願成就文」の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の意を仰ったものであります。  
二河白道の譬えで、旅人が「道を尋ねて去かん」というのと、お釈迦様が「道を尋ねて行け」と言うのは、文字で見ると同じように見えますが、旅人は「われ寧く(むしろ、どうせ死ぬならば)」と言っているのに対して、お釈迦様は「ただ決定して(そんな賭けに出るような心ではなく、間違いなく西岸に渡れる)」と言っています。その言っている意は、二つを比べると大いに違います。  
なぜなら、二河白道の喩えを解説された部分には、東岸の勧める声について「道を尋ねてただちに西に進む」と解説されているからです。「ただちに」というのは、廃立をしめされた言葉です。  
この異義は、要するに三定死の旅人が「どうせ死ぬなら前に行こう」(信前)というのと、お釈迦様の「前へ進め」が同じだから、釈迦の発遣は要門だという意見です。  
しかし、二河白道の喩えで、善導大師が解説されている東の岸の勧めは「ただちに西に進む」ですから、「善をしてから進む」でもなければ「極悪人と知らされてから進む」のでもなく、「ただ今進め」と言われ、○○してからという考えは捨てなさいという廃立の教えからいわれていることです。  
よって、東岸の釈迦の発遣は要門であるというのは、間違いです。 
異義2  
二河白道の喩えの解説部分で「〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」と言われている。すでに「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」と言われている。煩悩に染まりまた、焼かれている白道は、要門(19願、廃悪修善、定散二善の勧め)でなければいったいなんだというのだ?煩悩しかない道を進めと言われるのは、結局のところ、煩悩を抑えて善をせよということではないのか?だから親鸞聖人は、浄土文類聚鈔の信楽釈の下にこの文を引いて、虚仮不実の行であると言われている。どうして、この白道が、18願だといえるのだろうか?  
回答  
「愛心つねに起りてよく善心を染汚する」とは、貪欲の水の河と瞋恚の火の河に、そのまま本願を聞こうとする際に障害になることを示されているだけです。それに対して、白道といわれる他力の信心は、貪欲の水の河、瞋恚の火の河の波にも汚されたり燃やされることがない大変固いものであることを示されています。  
親鸞聖人が、浄土文類聚鈔の信楽釈に  
これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。(浄土文類聚鈔)  
と、この文を出されているのは、言葉をここに借りて、心は至誠心釈としていわれているのです。そこをよく読んで下さい。  
要するに、異義者の主張は、水の波に潤され火炎に焼かれている白道がどうして金剛心・他力信心と言えるのだろうか?というものです。  
それに対して「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」は、浄土文類聚鈔では、その前後がどういう文章で書かれているのかを知らなければなりません。  
二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。(浄土文類聚鈔)  
私のような凡夫は元から清浄な信心、真実の信心をもちあわせていないので、信楽を獲得することができません。そこで、善導大師のお言葉を伺うと、「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」と言われ、どれだけ真剣に善に励んでも浄土往生は絶対にできないと言われています。そこで、阿弥陀如来は、法蔵菩薩であったときの願行はすべて真実・清浄なものでしたが、それを私に差し向けてくださるのです。  
ご文の意味は大体上記のようなものです。  
「愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く」から、阿弥陀如来は真実信心を廻向してくださるのだと言われているのであって、白道が水の波に潤され火炎に焼かれているからこれは自力の信心だというのは間違いです。 
異義3 
合法の文に「〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。」とあるのは、これ定善散善を回向する自力の行の相である、これが白道が要門に通じるという証明である。  
回答  
二河白道の喩えの以下の文章  
〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。(浄土真宗聖典)  
これを、いわゆる「廻因向果」と読んで白道に乗っている行者の中に自力の人がいるという勘違いをする。そこでここはいわゆる「廻思向道」の心であると伺ったならば、行について心を示しているので、定散心を回転して(捨てて)願力の道に進んでいくことである。  
上記のご文でも「人、道の上を行いて」とありすでに白道の上に乗っているのは、釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞いた後のことです。それを聞く前は、白道に乗ろうか乗るまいかと心が定まっていないので、白道には乗っていません。  
また、「ただちに西に向かふ」と言われるのは、「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。」の釈迦の発遣と、「ただちに来たれ」の弥陀の招喚に信順する如実修行の者であることを明らかにされたのであって、本願の白道を進行する念仏者でないわけがない。  
もろもろの行業を回してとあるから、とにかく自力回向だといいたいのが異義者の意見です。しかし、ここの「回」は、回転の意味で捨てるという意味になります。  
もともと白道=願力の白道であるという前提を無視して、どうにか白道を自力で進む道としたい人は上記のご文を見ると、やっぱり自力回向なのだと主張してきます。しかし、白道に乗ったということは阿弥陀仏の仰せに従い、お釈迦様のお勧めに従った相なので、これが要門ということには絶対になりません。 
異義4  
群賊が旅人にむかって「帰ってこい」と呼び止めるのは、二河白道の喩えではお釈迦様が「この道を往け」と言った後に言っていることになっている。しかし、そのあとの解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されている。だから、これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失うと言われている。これを要門の白道と言わずしてなんというのだろうか?  
回答  
異義で言っている部分は、以下のところです。  
〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。  
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。(浄土真宗聖典)  
二河白道の喩えの本文は、東の岸の発遣と、西の岸からの招喚の声を聞いて白道を進んでから、群賊らが呼び戻そうとします。それに対して、この合法の文(解説)では、東の岸のお釈迦様のお勧めの後に、群賊らが呼び返す部分の解説が入り、その後西岸上の喚び声となっています。  
では、これは異義の通り、お釈迦様の勧めに従って進もうとする途中に群賊らに呼び戻される行者がいるのかというと違います。なぜなら、外からのいろいろな批難は主にお釈迦様の教えによって起きることを表しているからです。釈迦様の勧めが方便であって、群賊の呼び戻す声で転落するものがいるということを表したものではありません。  
事実、例え話では群賊たちが帰って来いと呼びかけても行者は振り返ることなく白道を進んで行ったと書かれています。  
東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。  
解説の部分では、ただその群賊達がかえって来いと呼びかける内容を表しているだけです。  
異義の「これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失う」と言っているのはそのことです。これは、すでに白道に乗った念仏者に対する外からの批難の内容であって、行者が転落することではありません。  
該当箇所に括弧を加えると以下のようになります。  
別解・別行・悪見の人等(が、念仏の行者にむかって)「『(念仏を信じる者は、釈迦の本心を知らず)みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失す』と説く」に喩ふるなり。  
異義は、「お前たちは道を失うぞ」と念仏者に言っている群賊の言葉を、念仏の行者が道を失うと考えているので完全な誤読です。 
異義5 
愚禿鈔に白道を「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」と言われている。これは、白道が、その人によっては白路(自力)になるといわれているのではないでしょうか?  
回答  
愚禿鈔にあるご文は以下のものです。  
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。  
これは捨てるべき白路を出されたもので、選び取られた白道については  
「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。  
釈に「能生清浄願往生心(=白道)」として書かれたものです。よって、最初の「白とは、すなわち」の部分は白路(自力)についていわれたもので、白道(能生清浄願往生心)について言われたものではありません。そもそも白道の説明について、教行信証信巻と愚禿鈔を対照してみると、白道、白路、黒路、黒道の四句があります。  
教行信証信巻  
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。  
愚禿鈔  
「白道四五寸」といふは、「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路(白路)なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道(黒道)なり。「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。  
 
愚禿鈔では、黒路を白路・黒道に収めてこれを捨てものとし、白道はその下の「能生清浄願往生心」の釈の部分で詳しく書かれています。そのように親鸞聖人が、ここに捨てものをあきらかされるのは、本願の白道は、その体は清浄真実の大道ですが、釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞く前は、白道を見ながらなお定散の白路のように思えてしまうからです。とても大丈夫なようにも思えず、また、自分の力で歩んでいくように思ってしまいます。そのため、行者が白道を前に進もうか留まろうかと進退にまよっている相です。まったくこれは定散自力の人の欠点をあらわされたものです。この人が発遣と招喚の声を聞き得て初めて白道が本願一実の大道であることを知らされ、こんな細い道で大丈夫だろうかとの疑惑は一切なくなります。  
どうしても白道が白路に見えるかもしれないが、真実の大道だからなんとか白道に出てもらいたいと親鸞聖人が苦心をされて解説されているのが、上記の白道、白路、黒路、黒道と分類されたところです。  
決して「白道の途中までは白路だから、そこまで自分で進め」といわれたものではありません。 
異義6  
愚禿鈔に阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の「直」の言葉を「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。」と言われている。そこから類推すると、お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(廃悪修善)に通じるのだ。 
回答  
異義にある愚禿鈔のお言葉は以下の箇所です。  
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P538)  
ここで「『直』の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」とあるのは、釈迦の発遣と弥陀の招喚が一つであることをあらわされたものであって、釈迦の発遣が弥陀の招喚と別ものであることをいわれたものではありません。  
そこで、愚禿鈔にはそのあとに  
また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。  
と言われています。  
そこから考えてみると、善導大師が二河白道の喩えの本文中で東の岸の勧める声に「ただちに」という言葉がないといっても、合法の文では、  
〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉  
と書かれています。西岸上の招喚の声に呼応して、東の岸の声は全く同じことを言われます。そのため、発遣と招喚を聞いた行者は「ただちに西に進む」のです。そういう意味からすると、すでに西岸上の招喚の前にすでに「ただちに」の言葉があることになります。そのことを考えると、どうして釈迦と弥陀の二尊の勧めを分けて考える必要があるのか全く理解できません。まして、招喚と発遣は「二尊一致」をあらわしたもので、要門と弘願を分別する「二尊二教」とは同じであるはずがありません。  
 
ひと通り是山和上の本からまとめてみました。今思いますと、親鸞会の二河白道の喩えは「釈迦の発遣=要門」で一貫していたのだということがよく分かりました。  
親鸞会の教義が三願転入を言い出した平成5年以降変わったという意見もありますが、この二河白道の喩えからすれば、平成5年以前も以後も親鸞会教義は全く変わっていません。いうなれば、「親鸞会的三願転入」は、「親鸞会的二河白道」の言い換えに過ぎないからです。  
なぜなら、全てこの二河白道の譬えでの「弥陀の招喚(弘願)と、釈迦の発遣が別もの(要門)だ」が、親鸞会教義のベースになっているからです。  
その間違いから以下の4つの「親鸞会教義」がでてきました。  
まず善知識の仰せに従わねば進めない。  
善知識の勧めは要門(善のすすめ)だから、親鸞会に献金・人集めをしろ。  
善知識の仰せに従って進んでいくと、不思議な声がする。  
それまではとにかく善知識の勧め(要門の勧め)に従うしか無い。  
親鸞会でしか二河白道の喩えを聞いたことがない人に、特に知っていただきたいところは「二尊一致」というところです。  
釈迦の発遣と、弥陀の招喚は全く同じです。お釈迦様の「教」は、「善の勧め」ではなく「弥陀に帰命せよ」「南無阿弥陀仏に救って頂きなさい」です。その仰せを聞いて疑いないのが、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」です。そのようなお釈迦様の仰せは、阿弥陀仏の招喚に応じてそのまま教えられたことだからです。お釈迦様の「教」は、阿弥陀仏の招喚に何か加工することなく、そのまま伝えられたものです。  
順番を逆に言うと、お釈迦様の発遣以外に、弥陀の招喚はありません。そのまま聞いて、ただ今救われて下さい。 
 
二河白道・諸説2 / 二河白道の解釈と善導大師への冒涜
観無量寿経の三心に、隠顕があるとあきらかにされたのが親鸞聖人である。顕義は、誰もがそう読める意味。隠義は、深意であり、そう読むことが難しい。親鸞聖人が隠顕あり、と明言されたお方だが、親鸞聖人まで、この深意が誰にもわからなかったのではない。  
善導大師は観無量寿経疏の中で、三心ともに『隠義』をあきらかにされている。しかし逆に、善導大師が、隠義でしか説かれていない、と思っている者が、多いようだ。大心海化現の善導大師に、誰が読んでもわかる顕義がわからず、難しい隠義のみがわかられた、などということが、あるだろうか。  
化仏が霊夢に示した通りに書き残されて、一つ経法の如くせよ、と厳命される観無量寿経疏に、観無量寿経の隠顕が解説できなかったということが、あるだろうか。  
ふんだんに他力信心の隠義をあきらかに説かれる善導大師だか、誰もが読める自力信心の顕義を善導大師が知られなかったというのは、善導大師への冒涜でしかない。  
二河白道の譬も、この三心のうち、『廻向発願心』の解釈をされたものである。  
三心みなそうだか、『廻向発願心』の、顕義とは、自力の信心。隠義とは、他力の信心。  
自力なき者に自力廃ることはない。浄土往生しようとせずして仏法を真摯に求めることはあり得ない。  
捨自帰他とは、自力から他力への転入である。  
廻向発願心に、自力の信心の意味と他力の信心の意味とがあり、その関係は、自力の廻向発願心から他力の信心(欲生我国)への通入である。  
無関係に別々に存在するものではない。  
廻向発願心に、自力他力あり、自力から他力に入る。  
その廻向発願心を解説されたのが二河白道の譬である。  
二河譬は特に、誰が読んでも、娑婆東岸の行者が西岸浄土へ往生するまでの『過程』をあらわされている。  
内外相応釈や二種深信釈、金剛心釈などと異なり、断絶なき道程と言ったらよいのか、時間的な流れを詳説されている特徴がある。  
当然その中に、自力から他力への『プロセス』も包含されているのは自明のこと。  
よって、二河白道の譬は、仏とも法とも知らぬ迷いの衆生が、往生浄土するまでの過程の中に、自力信心から他力信心への過程をも、譬喩をもってあきらかにされているものである。  
もともと二河譬が説かれているのは、廻向発願心の解釈であるから、これが、『白道』にあたる。  
だから、白道に自力信心から他力信心への過程・プロセスが譬えられることになる。  
白道=清浄願往生心(他力信心)とは説かれず、白道=貪瞋煩悩の中、能く清浄願往生心(他力信心)を生ぜしむ、という、プロセスを表現されている巧みさに気付かねばならない。  
貪瞋煩悩の二河の中にある『白道』の上で、他力信心を生ずる、ということが、あるのである。  
二河譬の絶妙な表現は、他にも多々見られるが、これらを会通なされた親鸞聖人だから、『白はすなわちこれ六度万行、定散なり。これすなわち自力小善の路なり。』(愚禿抄)と、一層鮮明にされているのである。  
教行信証では、他力三信釈での引用であり、三信には隠顕がないから方便自力の顕義を含める訳にはいかなかったであろう。  
しかし、愚禿抄にはあきらかに説かれ、断じて仏の化身たる善導和尚を冒涜されてはいない。  
善導大師にない解釈を、親鸞聖人が愚禿抄でなされているが、親鸞聖人しか廻向発願心・白道を自力では解釈できなかった、ということではない。  
三信にせよ三心にせよ、信心のことであり、『信心往生』を鮮明に打ち出された親鸞聖人と、『念仏往生』で説かれた善導大師との、立場の違いがあったにしても、共通した御心であることに間違いはない。  
二河譬では、隠顕が逆転したと言うかどうかはともかく、隠顕などのような方便と真実の関係を、正確にあきらかにできる方は、いつの時代も稀有であることに、間違いはないようである。
 
二河白道・諸説3 / 阿弥陀如来とお釈迦様はどうちがうのですか
お釈迦様は約2500年前に実在され、人々に仏法を説かれたお方です。一方、阿弥陀如来は歴史上の人物ではありません。色も形もない「法性法身(ほっしょうほっしん)」のお名前です。「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、王舎城および舎衛国(しゃえこく)にましまして、大衆(だいしゅう)の中にして、無量寿仏(阿弥陀如来)の荘厳功徳を説きたまう」(聖典p168)とあるように、お釈迦様の教えによって、阿弥陀如来のはたらきを明らかに知ることができたのです。そこで、お釈迦様のことを「教主」、阿弥陀如来を「救主」と言うこともあります。  
善導大師は、信心が起こる時の心の内景を『二河白道(にがびゃくどう)の譬喩(ひゆ)(水火二河の喩え)』として表現されました。(聖典p219-221)  
お釈迦様は、東の岸(この世)から「この道を尋ねて行け」と勧め、阿弥陀如来は西の岸(浄土)から「汝一心に正念にして直ちに来れ」と呼び招きます。  
私たち衆生は、こちらの岸から「行け」と発遣する釈迦如来の声と、彼の岸より「来たれ」と召還する阿弥陀如来の声を聞いていくのです。この二尊の意(おんこころ)に信順し、信心に目覚めて迷いを離れ西の岸に到れば、阿弥陀如来の姿を見て慶喜する、と語られています。  
親鸞聖人は、善導大師の教えを「釈迦如来は慈悲の父母 種種に善巧(ぜんぎょう)方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり」(聖典p496)という和讃に詠まれました。また、「まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからいにて、発起せしめ給い候う」(聖典p590)、「往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこる」(聖典p562)とも教えておられます。  
釈迦・弥陀二尊は、一方は実在の人、他方は法性法身の名ですが、共に「如来」(真如より来る者)と称されます。それは、どちらも私たちに本当の信心に目覚めよと励ましておられる「真実のはたらき」だからです。 
 
二河白道・諸説4
問.善導大師の示された二河白道のたとえは、信心のすがたをあらわされたものと聞いております。あのたとえの中に、時にあたりて惶怖すること、また言うべからず。すなわちみずから思念すらく。われいまかえらばまた死せん。とどまらばまた死せん。ゆかばまた死せん。一種として死をまぬがれず。等と、いわゆる三定死が示されています。これは自分の煩悩悪業を知って、どうにもこうにもならぬと、心の底からおそれおののく心境だと思います。これが二種深信の機の深信にあたるのではないでしょうか。  
答.二河白道のたとえは、おっしゃるように信心のすがたをあらわされたものであります。しかし、その中に示されてある三定死を機の深信であると考えるのは、大きな誤りです。 三定死は、まだ釈迦・弥陀二尊の発遣・招喚の声を聞かない前の状態であります。いいかえますと、まだお名号のおいわれが信受されていない時の行者の心相であります。だから、「惶怖すること、また言うべからず」と、おのれの罪におそれおののいているのです。 二種深信の信機は二尊の遣喚のお声が聞こえた心相、いいかえますと、お慈悲が届いたところにおこる心相であります。これは、あとに、あおいで釈迦発遣しておしえて西方に向かわしめたもうことをこうむり、また弥陀の悲心 招喚したもうによりて、いま二尊のおんこころに信順して、水火二河を顧みず、念々にわ するることなく、かの願力の道に乗じて、等とおっしゃってあります。この「水火二河を顧みず」というのは、己の罪に恐れおののくことではありません。前にあげた蓮如上人の御文章に、 「わが身のつみのふかきことをばうちすてて」とか、 「罪業の深重にこころをばかくべからず」とありましたとおり、罪はいかほど深くてもそれを心にかけることなく、はからい離れて仏願力にまかせきったすがたであります。  
問.三定死はまだ垂木の信を得る以前の心相であり、二種深信の信機は如来の喚び声が届いたところに起こさしめられる心相であることは、よくわかりました。けれども、他力の信を得るについては、必ず三定死の境地を経がければならないのではないのでしょうか。  
答.二河白道のたとえでは、三定死の次に二尊の遣喚を聞いて、そして願力の道に乗るという順序で示されてありますが、入信の経路も必ずそのとおりでなければならぬと考えることは正しくないでしよう。遣喚を聞く前と聞いた後とでは、自力と他力との相違があって、それは要門と弘願とのちがいをあらわされたものと窺われるのであります。たぜならば、善導のご解釈の上に、弘願に入るためには必ず要門を経なければならぬというお示しはなく、要門を廃して弘願他力を勧められるからであります。親鸞聖人の三願転入(第十九願の諸行の法から、第二十願の自力念仏に入り、更に第十八願の他力念仏に入る)のご解釈も、すべての人がこのような経路をたどらねばならぬといわれるのではありません。方便の法を捨てて真実の法に帰すべき旨をあらわされるのであります。  
 
 
愚禿釈親鸞集 / 顕浄土真実信文類

 

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。  しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。  ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。  
つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。 この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。  
釈文証  
曇鸞大師の釈二文(行信を明かす)  
『論の註』にいはく、「〈かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉(浄土論)といへり。〈称彼如来名〉といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり。  
〈如彼如来光明智相〉といふは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。  
〈如彼名義欲如実修行相応〉といふは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。  
また三種の不相応あり。一つには信心淳(淳の字、音純なり、また厚朴なり。朴の字、音卜なり。薬の名なり。諄の字、至なり。誠懇の貌なり。上の字に同じ)からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに。  
この三句展転してあひ成ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆゑに心淳からざるべし。これと相違せるを如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉(浄土論)とのたまへり」と。  
『讃阿弥陀仏偈』にいはく、[曇鸞和尚の造なり]「あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とをば除く。ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず」と。 
善導大師の釈五文(三心即一の義)  
光明寺(善導)の『観経義』(定善義 四四八)にいはく、「如意といふは二種あり。一つには衆生の意のごとし、かの心念に随ひてみなこれを度すべし。二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく身心等しく赴き、三輪開悟しておのおの益すること同じからざるなり」と。{以上}  
またいはく(序分義 三九三 )、「この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらざるなり」と。{抄出}  
またいはく(散善義 四五四)、「〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定して、もつて正因とすることを明かす。すなはちそれ二つあり。一つには世尊、機に随ひて益を顕すこと、意密にして知りがたし、仏みづから問うてみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つに如来還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。  
至誠心釈  
『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。 一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。  
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。  
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}  
不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。  
深心釈  
〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。  
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。  
また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。  
また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。  
また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}  
釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。  
なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。  
次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至} またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。  
回向発願心釈  
〈三者回向発願心〉。{乃至}また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。  
問うていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるいは種々の疑難を説きて〈往生を得じ〉といひ、あるいはいはん、〈なんだち衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身口意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや〉と。  
答へていはく、諸仏の教行数塵沙に越えたり。識を稟くる機縁、情に随ひて一つにあらず。たとへば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種種の益なからんや。随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩の門を出づるなり。随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧の門に入るなり。ここを為(為の字、定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり)つて縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。  
なんぢなにをもつてか、いまし有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する。しかるにわが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわれの所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修するは、かならず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし、もし解を学ばんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで一切碍なし、みな学ぶことを得よ。もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに、多く益を得ればなりと。 
発遣と招喚 二河喩  
また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。  
この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。  
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。  
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。 
合喩  
次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。 〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。  
〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。  
また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。  
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。  
仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。  
また一切の行者、行住座臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなし、つねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また回向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化する、また回向と名づくるなり。  
三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと、知るべし」と。{以上}  
またいはく(般舟讃 七一五)、「敬ひて一切往生の知識等にまうさく、大きにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり。種々の方便をして、われらが無上の信心を発起せしめたまへり」と。  
『貞元の新定釈教の目録』巻第十一にいはく、「『集諸経礼懺儀』[上下]大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日の勅に准じて編入す」と云々。『懺儀』の上巻は、智昇、諸経によりて『懺儀』を造るなかに、『観経』によりて善導の『礼懺』(往生礼讃)の日中のときの礼を引けり。下巻は「比丘善導の集記」と云々。  
かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。  
〈それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさにかしこに生ずることを得べし〉」と。 
源信和尚の釈(大信の利益)  
『往生要集』にいはく、「〈入法界品〉にのたまはく、〈たとへば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩、諸魔怨敵、壊することあたはざるところなり。たとへば人ありて住水宝珠を得て、その身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとへば金剛は百千劫において水中に処して爛壊し、また異変なきがごとし。菩提の心もまたまたかくのごとし。  
無量劫において生死のなか、もろもろの煩悩の業に処するに、断滅することあたはず、また損減なし〉」と。  
またいはく(往生要集)、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。  
総決  
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。  
 
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。 
愚禿(ぐとく)  
[頭を剃った、おろか者の意から]僧が自分をへりくだっていう語。特に、親鸞が自称に用いた。  
愚禿鈔  
鎌倉時代の仏教書。2巻。親鸞著。成立年未詳。仏1代の教説のうち、大乗について二双四重(竪超・竪出、横超・横出)の教判を立て、浄土真宗を横超とし、最もすぐれているものとして、他力の信心を強調したもの。2巻抄。専修寺本の奥書には、「建長7年乙卯(1255年)8月27日書之」と記されていて、その頃に撰述したものと考えられる。  
禿人(とくにん)  
非行を行う僧侶のこと。禿(はげ)は、その字の通り髪の毛が無いことで、自己の名聞や利養を得るために出家、剃髪した人のことをいう。また禿居士(とくこじ)ともいう。『涅槃経』三に「破戒不護法者名禿居士」、「為飢餓故発心出家。如是之人名禿人」とあり、破戒行為を行う僧侶、あるいは飢餓で困り食事などの利養を求めて髪の毛を剃って出家しただけの人を指していわれる。最澄は願文で「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」などと自省し、同じく親鸞も、自戒を込めて愚禿と称した。  
「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」  
この言葉は、親鸞(1173〜1262)が著した『愚禿鈔』の言葉です。親鸞は「愚禿釈親鸞」という名のりのもとにその生涯を生き抜いた人です。「愚禿」とは、自らが愚かな凡夫として生きていることを確かめる言葉ですが、親鸞は自らの名のりを題名に冠した『愚禿鈔』という書物に、冒頭の言葉を2回にわたって記しています。  
愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている。  
親鸞は、1201年29歳の時に法然と出遇いました。法然が明らかにしたのは、凡夫であるという事実に目覚め、ただ念仏するとき全ての者が救われていくという教えでした。法然のもとには、立場の違いを超えて、さまざまな人々が集い、仏教が開く平等の世界が実現していました。親鸞は、この出遇いを契機として、それ以降、凡夫である自らに向き合いながら生きていきます。  
私たちは日頃、いろいろな出来事に悩みやとまどいを持ちながら生きています。そんな中で、他の人に対して怒りや憎しみや妬みなどの思いを感じることもしばしばです。その思いは一瞬たりとも止むことがありませんし、自分の意志や努力によって消し去ることも不可能です。そんな問題を抱えながら生きることを余儀なくさせられるのが凡夫にほかなりません。ところが私たちは、自分が抱える問題を自らの力で解決できると安易に考えたり、逆にそれを直視せずに当然のこととして済ませていこうとします。実はここに私たちの本当の「愚かさ」があります。  
内側にさまざまな問題を抱えながらも、それを周りの人々に気づかれないように、悟られないようにと、うわべでは問題がないかのように振る舞い、ごまかしながら生きていこうとする生き方は、この「愚かさ」によって生み出されてきます。親鸞が「外は賢なり」という言葉で確かめているのはそのような私たちの生き方なのです。  
親鸞が「内は愚にして外は賢なり」という言葉で問題にしていったのは、自らの内面にはさまざまな問題を抱えていながら、それを無視したり、外見でごまかして、自分ではない自分を演じて生きていこうとすることでした。親鸞の「愚禿」という名のりは、自らに真正面に向き合い、自らを偽らずに生きていこうとする親鸞自身の決意を明らかにするものです。その親鸞の生き方は、私たち一人ひとりに、あなたは今どのように生きているのかと問いかけ続けているのです。 
 
 
鎌倉時代の布教と當時の交通

 

佛教が始めて我國に渡來してから、六百餘年を經て所謂鎌倉時代に入り、淨土宗、日蓮宗、淨土眞宗、時宗、それに教外別傳の禪宗を加へて、總計五ツの新宗派が前後六七十年の間に引續いて起つたのは、我國宗教史上の偉觀とすべきものであつて、予は之を本邦の宗教改革として、西洋の耶蘇紀元十六世紀に於ける宗教改革に對比するに足るものと考へる、其理由は雜誌「藝文」の明治四十四年七月號に「東西の宗教改革」として載せてあるから、詳細はそれに讓つて今は省略に從ふ、併ながら講演の順序としては、此等各宗の教義の内容に深入せぬにしても、少くも此等の新に興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある。  
王朝から鎌倉時代に遷つたのは、一言以て之を被へば、政權の下移と共に、文明が京都在住の少數者の壟斷から脱して、地方の武人にも行きわたるやうになつたのである、勿論この政權の下移に際して、眞の平民即ち下級人民までが政權に參與することを得るやうになつたと云ふ譯ではなく、寧ろ單に器械として使役されたのみに過ぎないので、從て移動のあつた後といへども、依然としてもとの下級の人民であつた、然れども既に社會の中心が政權と共に公卿から武家に下移したる以上、下級人民の立場から云つても、やはり社會の中樞に一歩近づいた譯であつて、社會史の上から論ずれば、下級人民の地位の比較的改良である、換言すれば鎌倉時代に於ては、王朝に於けるよりも、下級人民といふものをより多く眼中に置かなければならなくなつたのである。  
時代の趨勢既に此の如くであるから、之に適應する爲めには、文明のあらゆる要素が、いづれも狹隘なる壟斷から離れて普遍洽及のものとなつた、殆ど佛畫に限られ、稀に貴顯の似顏を寫す位に止まつて居つた美術も、鎌倉時代に入ると、多く繪卷物の形に於てあらはれ、單に浮世の日常の出來事が畫題の中に收めらるゝに至つたのみならず、美術の賞翫者の範圍も亦大に擴がり、文學は文選の出來損ひの樣な漢文から「候畢」の文體となり漢字假名交りのものを増加した、但し藝術も文學も文明の要素としてはいづれも贅澤な要素であつて、生計に多少の餘裕あるものでなければ、之を味ひ娯むことが出來ぬ、であるから予と雖、鎌倉時代の水呑百姓が今日の農民の如く文學の教育もあり美術の嗜みもあつたとは思はぬ、然るに宗教は之に反し、當時の樣な人智發達の程度に於ては、殊に一日も缺くべからざる精神上の食物であるから、此の點に於ては如何にしても下層人民を度外に置くことは出來なかつた、要するに極めて玄妙にして而かも難解で、見世物としてはあまりに上品で、而かも高價に過ぐる從來の聖道門の佛教では、到底新時代の一般社會の渇仰を滿足せしむることが出來ず、必や下級人民をも濟度することの出來るやうな宗教が起こらなければならぬ、爰に於て此必要を充足する爲めにあらはれたのは、前に述べた易行門の諸新宗である、尤も易行門と普通に云へば多くは淨土門の諸宗派を斥すので、日蓮宗は天台の復興とこそ云へ、簡易佛教とは自稱して居らぬ、けれども日蓮宗の大體の性質から云へば、やはり鎌倉式の易行宗に似た所がある、また禪宗の如きも教外別傳と云ふからには、爾餘の鎌倉佛教と同日に論じられぬものの如くにも見えるけれども、其手數を必要とせず、つまり直指人心で、階級制度に拘泥することなき點に於て、慥に天台眞言などよりも平民的なるのみならず、悟入につきて豫備の學問を必要なりとせぬこと、正に新時代の宗派である、唯禪宗が不立文字を呼號しながら其實は立文字の極端に流れ易く、それ故に其感化は武士に止まつて、それ以下の下級人民にあまり行はれなかつたのは面白き現象といはなければならぬ。  
因みに斷はつて置くが、前に鎌倉時代の文明の特徴として論じた諸の點は同時代に至りて始めて生じた者ではなく、其實は王朝の末に於て既に端緒を啓いたものである、但し機運の熟さなかつた爲めに、充分の發達を遂げ得なかつたのが、政治上の大變動と共に、一時に隆興したのである、故に文明史上に於ては、之を以て鎌倉時代のものとする方が寧ろ適當である、元來政治上の變遷と云ふものは必しも他の文明の諸要素の變遷に先ちて起るものではないが、社會百般の事物將に大に變ぜむとして未だ變すること能はず、只管に氣運の熟するを待て居る際に、之が導火線となつて大變動を起さしむるのは、多くは政治上の出來事である、而してかく政治が文明史に多大の貢献をなすは、單に鎌倉に限つた事ではない、古今東西例證に乏しからぬことである。  
扨以上論じ來つた所によりて推すときは、文明を構成する諸の要素の中で、鎌倉時代を最もよく代表し得るものは、此時代に興隆した新宗教であつて、文學美術等は之に亞ぐものであることは明である、であるから今「鎌倉時代の布教と當時の交通」と題して一場の講演を試みるのは、實は宗教の流布を説くのみならずして、旁ら之によつて當時の文明一般の傳播せる徑路を辿らむと欲するのである、但し未研究の足らぬ所からして、今は文學や美術に説き及ぼすことの出來ぬのは、予の甚遺憾とする所である。  
尚本論に入るに先ちて、いま一つ斷はつて置かなければならぬのは、此講演の論證の基礎とした根本材料の甚脆弱なものであることである、といふのは、予をして此講演をなすに至らしむるについて、最多く暗示を與へたのは、各寺院に存する縁起であるが、凡そ史料中で何が怪しいと云つても恐らくは此諸寺の縁起ほど信用し難いものはあるまい、いづれの寺院も皆我寺貴しの主義に基きて、盛に縁起を飾り立てるのが普通で、中には飾り損ひて、有り得べからざる事實を捏造する向きもないではない、例へば日蓮や法然の生れぬ以前に出來た法華寺や淨土寺もある、中に無學の甚しい僧侶は禪僧を以て門徒寺の開基としてすまし込んだ縁起を作つて居るのもある、よし假りに一歩を讓つて縁起に誤りが無いとしても、生憎僧侶には同じ樣な名稱が多い、即淨土宗や淨土眞宗に屬する僧侶の名は、多くは三部經中の字を繋ぎ合せたものであるから同じ名が屡出來する、例へば芝居などによく出て來る西念などいふ僧は、實際幾たりもあり得るもので、甲の寺の縁起に見える西念と、同時代に乙の寺の縁起に載て居る西念と、一々異同を甄別することは容易のことではない、また同一の名稱が數多の僧侶に適用することが出來て、甚曖昧なることもある、例へば淨土眞宗に屬するもので常陸の國に居つた順信といふ僧がある此順信の二字の下に房の一字を加ふれば同じく常陸の僧證信の名となる、然るに證信の名ある僧は必しも順信房と號したもののみではない、外に明法といふ僧侶があつて、これも證信といふ號を持て居る、そして尚此外に單に順信とのみ稱する僧侶も別にある、コンナに混雜して居つては到底安心して考證をすることが出來ぬ、然るに此の如き困難は單に淨土宗と眞宗とに於て出逢ふばかりでなく、時宗にもある、日蓮宗にもある、また禪宗にもある、時宗では阿の字の上にいろ/\の字を加へて名とする習慣であるから時々重複を免れないが、日蓮宗の方はまた二字の僧名の中で上の一字は日の字と定まつて居るから、區別の用としては二番目の字だけであつて、これも同名異人が多い、禪宗に至つては、一人で同時に三以上の號を有して居るのが珍らしくない、殊に少しエライ禪僧になると隨分長い諡がついて居る、若し丁寧に吟味すれば全く同名と云ふことは殆どないが、其うちの二字だけ書いてある場合には屡他の名僧の諡號と間違ふことがあつて、之を區別するには非常の手數が入る。  
此の如く寺院の縁起を土臺として、宗教史を研究するには種々の危險と困難とを伴ふのであるが、それでも全く之を棄てるに忍ばざるのみならず、之を以て研究の根本材料としたのには、亦多少の理由がある、即個々の寺院の縁起の中には信用の出來ぬものあるけれども、さりとて如何なる縁起も盡く信用の出來ぬと云ふ譯ではないのみならず、宮廷にも出入しない、又幕府の眷顧をも得ない僧侶、及び僻陬にある寒寺につきては、縁起の外何等文獻に記載のなきことが多い、而して其他の場合に於けるよりも宗教界に於ては、此等無名の豪傑の手に成る事業が最も多いのであつて見れば、今講演せむとする問題の如きは、有名な本邦の佛教史籍を渉獵するのみに止まらず、世間に忘れられて居る寺や僧侶をも考察の材料とせざるを得ない、換言すれば此點に於て寺院の縁起も忽にし難い好史料である、唯此史料は甚危險な史料であるから之を採用するには一々査照を要するのであるが、予は未充分に此査照を了へて居らぬ、これは甚殘念のことであつて、而して講演に先ちて告白して置かなければならぬ義務があるのである、但し右の危險を自覺して今日演壇に上つた以上、成るべく安全な推論をなすに止め、あまり大膽な結論をなすのを避けるに力めるから、新奇な名論を紹介する能はざると、同時に大抵は動きのない邊で斷ずる積である、それでも尚怪しい所は更に他日の研鑚による外はないことになる。  
隨分冗長に過ぎた前置をして、これから愈本論にとりかゝる順序となつたが、新興の諸宗の地方に傳播した徑路を探ぐるには、五宗派の中で淨土と禪宗との二宗に徴するのが、最穩當な方法だと考へる、何故と云ふに、鎌倉時代に於て北は奧州のはてから西は九州まで、兎に角當時の日本六十六國の全體に及んだのは此二宗で、其他の三宗は東北方には、いづれも傳はつたけれども西は、京畿附近を限り、偶ま大に西進した所で、中國の西端に止まつて居る、即地方に於て前の二宗よりも多く偏在して居ると云てよろしい、就中日蓮宗の如きは殆ど關東地方特有の宗教としても差支ない程地方的制限がある、されば當時の新佛教の傳播を考察して併せて交通の問題にも及ぼさむとするには、先づ淨土と禪との二宗の場合につきて見る方が至當と云はなければならぬ、因て予は今此二宗の場合から歸納して得た結果を査覈するに他の三宗の例を以てせむと欲するのである。  
淨土宗にも禪宗にも共通なる點の第一は、兩宗共に其布教上力を專ら東國に注ぎたることである、これは蓋し文明が毎に西方から始まつてそれから次第に東國に及ぼすことを以て習として居つた我國に於ては、當然のことではあるが、鎌倉時代には此歴史的惰性の外にも、尚ほ別に原因がある、それは即鎌倉に新に幕府が出來たが爲めに日本には爰に二つの中心が成立し、一は京都といふ在來の文明の中心で、これと鎌倉といふ政權武力の新中心が兩々相對立することとなつた、成り上がりの首府なる鎌倉は、文物の點に於て容易に京都と比肩することが出來ず、否遂に比肩することが出來なかつたけれども、しかし鎌倉に覇府が開けた爲めに東國の地位は著しく昂上し、今迄輕蔑して入らなかつた、或は入らうとしても受けつけられなかつた東國地方に、高等なる文物が翕然として流れ込むことゝなつた、而して文明の數多の要素の中でも特に政權を利用し得る性質を有する宗教は、文學や美術よりも一層速に其活動の中心を東方に移したので、相模の鎌倉といふものは彼等にとりては是非とも略取せざるべからざる根城であつた、京都の小天地にのみ跼蹐して滿足し得た時代は既に過ぎ去つたのである。  
然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て[#「經て」は底本では「輕て」]、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである。  
美濃以東に出でた淨土宗の布教僧は、宗祖法然上人の外數多あるが、其主なるものは相模地方まで傳道した隆寛(法然弟子)と善惠證空(同上)とである、就中善惠の事業はすばらしいもので、其布教路は中山道を信濃に出て、それよりして南は武藏、北は越後に及んで居り、其弟子隆信(立信)は三河地方に淨音法興は美濃から越前にかけて布教して居る、爰に注意すべきことは、同じく北陸道の國々でも、若狹や越前は京畿の布教圈内に入るが、越後は之と異りて、信濃から往復したもので、全くちがつた方面に屬することである、これは善惠の場合に於て然るのみならず聖光の弟子良忠一派の場合について考へても同じである、聖光は所謂鎭西派の開祖で其人自身は東國に關係を有して居らぬけれど、其弟子なる記主禪師即良忠は、實に善惠以後に於ける淨土宗の東國大布教者であつて、大往還に外づれて居る伊賀、志摩、伊豆、安房の四國を除けば、東海道中いづれの國も良忠か若くは其弟子なる唱阿性眞、持阿良心及び良曉等の風靡する所とならぬはない、否單に海道の諸國許りでなく東山道に於て信濃及び上野、下野、北陸の越後[#「越後」は底本では「趣後」]皆此良忠一派の化導を受けて居る、北陸諸國の中、加賀、能登、越中、佐渡は鎌倉時代の中にまだ淨土宗の風化に接しなかつた、これは地勢の不便によると思はれる。  
新宗教に特有なる現象として、淨土宗に於ても之を認むることの出來るのは、奧州の布教について割合に大なる盡力をなしたことである、陸奧に入つた淨土宗の布教僧の中には、隆寛の弟子實成房と云ふ者もあるが、それよりも此宗旨の奧州に於ける傳播に與りて大功のあつたのは、源空の弟子の金光坊である、但し此人の足跡は、殆ど陸奧の北端に及んだけれども、遂に出羽には入らなかつた、これは蓋し陸奧出羽兩國間の交通は甚稀で、出羽に入らうとするものは越後よりして進んだからであらう、文治年間の頼朝の泰衡征伐にも、左翼軍をば越後國より出羽の念種關に出でしめ、それより比内まで北上して、それから陸奧の本軍に合せしめたのを見ても、王朝末より以來の北方交通路の有樣がわかる、而して淨土宗の日本海岸に於ける布教は鎌倉時代に在つては、また越後以北に及ぶ遑がなかつたのかも知れぬ。  
淨土宗は此の如き布教路を辿り、東國に於て文永弘安の交其活動の盛を極めたのであるが、次に建長の頃より東國に頓に勢を得た禪宗の傳播は、果してどうであつたか之を淨土宗と比較すれば、極めて興味が多い。  
抑も禪宗と云ふものは、其宗派としても性質組織大に他の諸宗と異り、其布教も群衆を相手として撫切りをするのではなく、個々の有志者をのみ相手とするのである、從て禪宗僧侶の布教上の活動を批評するには、必しも參禪者の多少のみを以てすることが出來ぬ、加之禪宗の傳播を研究するに別に困難なる事情がある、それは外でもないが、禪宗には他宗と同樣、師資相承といふことがあるのは勿論であるけれど、一人の禪僧で數多の先進に就いた場合が非常に多い、そこで他宗に於けるが如く分明に傳統を辿るのは甚困難であるからである。  
禪宗の僧侶で東國に布教した主たる人々は、榮西、道隆、佛源禪師、大休、及び夢窓國師等であるが、一體禪僧と云ふものは、他宗の僧侶よりも一層世間離れがして居りながら、而かも頗る敏活に機微を察し得るものである、そこで鎌倉を取りこまなければ、將來の日本に於ての發展がむづかしいと云ふことは、禪僧の方が淨土宗の人々よりも、一層切實に考へた樣である即彼等の東方に向ふや、其徑路は淨土僧と同じ筋であつたけれど、其道筋を一歩一歩布教しつゝ進んだのではなく、驀地に鎌倉へと志したのである、されば伊賀、志摩の如き殆ど鎌倉時代の禪僧の顧みる所とならざりしこと、淨土宗の場合と同樣なるのみならず、伊勢又は尾張、三河の如き鎌倉街道筋の國々ですらも、禪宗の風化を受くること關東の諸國より後れ、而かも尾、參の兩國の漸次に禪宗の布教を受くるや、京都より東せる禪僧よりは關東よりして西に戻れる禪僧の感化をより多く受けたことは、頗面白き現象と云はなければならぬ、加之なほそれよりも奇妙なことは、後年禪宗界に於て一廉の根據地と目せらるゝに至りたる美濃の如きも其禪宗を接受したのは遙かに關東殊に相武よりも後くれ、近江と共に鎌倉中葉以後のことであつたのは、つまり淨土宗に比べて一層東進の方針の急劇な爲めである。  
然らば關東に於ける禪宗は如何なる地方的傳播をなしたか、鎌倉時代に於て關東の禪宗の中心とも稱すべきものは相模武藏甲斐の三國であることは云ふ迄もない、甲斐は京鎌倉間の大道ではないけれど、北は信越を控へ、南は駿河から或は相模から、或は武藏から頻繁なる往來があつたと見え、禪宗の感化早く及んだのみならず、其成効も亦頗る目覺ましいものであつた、されば其甲斐の國に夢窓國師の樣な名僧の生れ出でたのも決して偶然ではない、之に反して一部は鎌倉街道に當て居る伊豆は安房上總と同じく、淨土宗のみならず禪宗の感化を受くることも遲く、且つ薄かつた。  
關東に布教した禪僧及び其弟子等は、更に其活動の區域を擴張して信越及び奧州に入つた、即榮西の弟子記外の如きは陸奧の宣教を以て有名であつた、其後では道隆の風化も陸奧の南邊迄は及んだらしい、聖一國師辨圓の東方に於ける活動は甚目覺ましいものとは云ひ難いけれど、其弟子無關は陸奧に入りたりと覺ゆ、又歸化僧なる佛源禪師の如きは、其教化陸奧出羽二國に及んだ、然れども陸奧に入つた禪僧は、盡く佛源禪師の樣に出羽にも入つたのではない、淨土宗の場合に於ける同樣で出羽の禪宗は主として越後から入つたものである。  
禪宗中の臨濟と曹洞との二宗派の、地理的分布の大體を述ぶれば、鎌倉時代には東海東山に臨濟割合に多く、曹洞が少い、これは曹洞が臨濟よりも後れて出たので、曹洞の起つた時に此地方には臨濟の地盤既に固まつて居つたからでもあらう、之に反して北陸道には曹洞が多い、即道元(永平)營山(總持)瑩山の弟子明峯素哲歸化僧明極等は主として其活動力を北陸道に集注した、但し其徑路に至つては北陸道を若狹から越後に向て順次に感化したのではなく、越前から海路能登に向ひ、それより加賀へも、また越中へも傳はつた如くに見える、これは當時の海陸交通の關係或は之を餘儀なくしたのかも知れぬ、又上述の曹洞の禪僧の中明峯と明極とは、單に北陸道のみならず、陸羽にも宣教して居る、出羽が鎌倉時代に臨濟よりも多く曹洞の影響を受けたのは、これが爲である。  
時代を以てすれば禪宗は建長頃より關東に頓に盛にして鎌倉末葉に至るまで衰へず、中仙道は之に後くるゝこと半世紀、奧羽はそれよりも更に早きこと四分一世紀、これまた注意すべきことで、北陸道に至りては、鎌倉末の二三十年間に至つて始めて盛になつたのである。  
以上の如く淨土と禪との二宗の傳播の跡を見れば、大に相類似して居る點がある、即布教地として特に關東に重を措いたことゝ、其傳播をした交通路の状態とである、而して此點に於ては五宗中の殘りの三宗も皆同じ結果を示して居るのが面白い、今先づ淨土眞宗から始めて、此原則を適用して見やう。  
眞宗の開祖親鸞は京都の人と云ふことになつて居るけれども、眞宗の東方に於ける傳播の状態を察する時は、或はこれは東國の人の起こした宗教であるまいかとの疑を起こさしむる位である、今こそ眞宗と云ふものは京都風な宗旨であること紛ふ方なき樣であるけれど、鎌倉時代には、矢張關東を先きにした、これは親鸞が越後常陸の間に遍歴した爲と云へばそれ迄であるが、其痕跡は淨土や禪と殆ど同一轍である。  
越後、下野、常陸の三國を連結した日本を横斷する線は眞宗の發剏線である、此中で常陸の方面が最多く發展した樣に見える、即改宗の當初三十箇年許りの間に、常陸から下總、武藏、甲斐、相模と云ふ順序に海道筋を押し上つて三河に活動の大勢力を集め、一方に於ては越後から信濃に入り、美濃を犯した、これが即眞宗西漸の始である、然らば此時代に東國の布教に從事したものは誰かと云ふに、これは甚だ答へ難い問題である。  
何故と云ふに、東國と西國とを論せず、眞宗の傳播の仕方は餘程外の宗旨と違て居る所がある、他の宗旨で云へば、一人の名僧が足に任せて數箇國を行脚して、數多の歸依者改宗者を作ると云ふ順序になるのであるが、眞宗にありては右の如く諸國を遍歴する僧侶の全く無いではないが、甚僅少である、鎌倉時代に於ける眞宗は、潮の押寄せる樣に、洪水の氾濫する樣に、連續性を以て將棊倒しに傳播したもので、若干の個人が奔走した結果のみではない、他の宗旨から改宗した僧侶は、妻帶して其寺に居直つて、財産を私有にして動かない、俗人の改宗したものは、私宅を變じて寺としたとは云ふものゝ、今日で謂ふ説教所を開始したので、其寺號は數十年、若くは數百年の後に、始めて本願寺から許可になつたものである、故に斯かる俗人の説教所開始以後も、以前と同樣俗事に忙はしく鞅掌したのみならず、僧侶にして改宗した連中も以前より一層深く、而かも公然俗事の間に沒入し、中々遠國などへ布教に出かける餘裕はない、斯樣の次第であるから、眞宗では同一の僧侶の手で數個の寺が開かれた例が甚乏しく、從ひて布教の徑路を探ぐることが困難である、けれども今其等少數者の場合につきて考へると、關東に眞宗を流布せしめたのは、開祖親鸞の外、其弟子と稱する眞佛、了智、教名、明光、親鸞の孫唯善、其外明空、性信、西念、唯信、教念、善性、了海等である、中にも眞佛の一派は最盛に東國に布教した而して其基線より更に東北に進んだ眞宗僧には、陸奧に入つたものに前に擧げた性信や親鸞の弟子の是信房や、無爲信などゝいふ者があり、出羽の方へは淨土、禪と同樣越後からはいつて、明法や源海などゝいふ人があつた、しかしながら眞宗は禪宗ほど北陸に侵入はしなかつたのである。  
爰に看過すべからざることは眞宗が三十箇年許り東國に盛に流宣して後、暦仁頃からバツタリと其活動を停止したことである、最も之と同時に近江、美濃、越前、加賀、能登、越中等に於ける盛なる傳道が始まつたのであるから、眞宗が全く活動を止めた譯ではなく、唯關東に於てしたのを、方面を替へて中山道に北陸道に移したものと云ふことも出來る、然るに奇妙なことには、此眞宗が活動を停止した跡へ、同地方即東國に日蓮宗の興隆したことである、日蓮宗の興隆の爲めに眞宗が之を西に避けたのか、或は眞宗が西に向つた空虚に乘じて日蓮宗が傳播し得たのか、其邊はなほ詳に研究して見なければ分明せぬ。  
中山道から北陸道にかけて布教した眞宗の僧侶の重なるものを擧げれば、爰にも眞佛及び其派が中々働いて居る、其外には覺如及び其弟子宗信、覺善、覺淳、慶順、乘專、存覺、并びに善鸞法善など云ふ人々である、而して眞宗の氾濫的布教は、飛騨をも度外に置かなかつたが爲めに、越中から之に宣教師を進めて居る、要するに此地方に於ける眞宗の宣教の盛時は覺如以後と見て大なる誤はない。  
何よりも不思議の念に堪えぬのは今日本願寺の所在地たる京都及び其附近の諸國、即所謂近畿に於て眞宗の弘布したのが、鎌倉時代の[#「鎌倉時代の」は底本では「鎌、倉時代の」]末十年間であることである、最も其以前にもポツ/\眞宗の寺と云ふものが見えるが、其教[#「教」はママ]は甚少く、擧げて云ふに足らぬ程であつて、正中頃から漸く、活動らしい活動を見るのである、これは主として存覺の弟子なる佛光寺の了源の力である。  
日蓮宗に至りては其東國的宗教であること甚明瞭なもので、其傳播の著るしい地方と云へば、關東の八ヶ國に、駿、甲、豆の三國を加へたものであつて、遠江に入ると、其跡甚急に薄くなる、而して此東國地方に於ては文永の末から正應の末にかけての二十年間を以て最活動の盛な時期とするのであるけれども、其以後とても此範圍内に於ては、殆ど弛みなく其活動を持續して、以て鎌倉の末に達して居る、而して此地方に主として盡力した僧侶は宗祖の日蓮を第一とし、日昭、日朗、日頂、日向、日興、日持、日位、日辨、日朗の弟子日像、日善、日像の弟子日源等である。  
而して日蓮宗も亦前の三宗と同じく北陲の感化に尠からず注意を持つた、即日蓮の直弟子では日辨が磐城に同日興が陸中まで、日目が陸前に入りたるを首として、日朗の弟子日善の又弟子日圓が岩代に、日持の弟子日圓は磐城に、日向の弟子の日進のその又弟子の日榮は岩代に入いつた、傳説によれば日蓮其人の感化も既に岩代の一部に及んだとのことである、が、それは信ぜられぬとしても、兎に角日蓮宗が東北地方に力を盡くしたのが明である、羽前へは日昭の弟子の日成と云ふ者が入つて布教したが、これも以前の場合と同じく[#「同じく」は底本では「同じ、く」]、越後からして進だのて[#「進だのて」はママ]、陸奧から入つたのではない。  
北陸道では日蓮宗は他の宗旨と少しく異つた徑路をとつて布教して居る、これは日蓮が佐渡に配流せられた爲めであるので、一方に於ては北陸道を西から東に進んだものもあるけれど、又佐渡や越後からして海路をも利用し越中、能登等に布教した者もある、此後者のうちで重なるものは、日蓮の直弟子では日向、日乘等で、又弟子では日進の弟子の日榮の越前に赴いたのも、日印(日朗弟子)の越中に布教したのも、日印の弟子の日順日暹の越中に布教したのも皆此順路によつたものと見える。  
日蓮宗が京師に入つたのは、日像が永仁年間に傳道したのが始まりで、夫より鎌倉時代の末まで、振はず、衰へずに續いて居る、東方から京都へ入るのに、遠江、三河、尾張等を殆ど素通りにして、眞一文字に京都に突入したのは、日本に於て宗教として勢力を得るには、どうしても京都と云ふ文明の中心を陷れなければならぬと云ふことを、純粹に關東式なる日蓮宗すらも感ぜざるを得なかつたが爲であるらしく考へらるゝが、此時代と兩統迭立の始まつた時代と大差なきことを考へ、而して兩統迭立といふことは、必しも關東の希望ではなく、寧ろ關東の方から讓歩したものとする時は、此日蓮宗が京都に入つた永仁正安の頃といふものは、鎌倉開府以來勢力を失て居つた京都の、日本の中心としての價値が、丁度此頃に回復されたものとも考ふることが出來るので、氣運の變遷から觀察して鎌倉時代史中の一段落と認むることが出來る樣にも思はれる。  
日像の京都に於ける活動の影響は、他の畿内諸國には及ばなかつたが、丹波から若狹を經て越前、加賀、能登迄日像自身が巡錫した跡が見ゆるのみならず、其弟子の乘純及び日乘の能登に於ける、日禪の若狹に於ける布教、いづれも同系統に屬するものであるして見れば京都のみならず、中山道、北陸道に於ける日像の功績は、顯著なるものである。  
五宗中最後に現はれた時宗に就いて之を考察しても、前に掲げた原則の尚誤らざることを示すに充分である、一遍上人の一宗を建立したのは、近畿に於てしたのであつて而して此宗旨は、遊行宗と稱する程あつて、遍歴化道を主として、千里を遠しとせず邊陲の地までも普く及んで居るけれど、其主なる布教地は矢張關東諸國であることは、二祖たる他阿眞教及び同じく一遍の弟子たる一向上人の活動を見ても明かに分かる、又奧羽に於ける時宗の布教は、其遲く起こつた宗旨の割合にしては、中々盛で、宗祖一遍自身は磐城岩代から陸前邊迄遊行して居るのみならず、二祖眞教も磐城殊に岩代に布教し、二祖の弟子其阿彌は陸中邊まで、湛然は陸奧の北端まで行つて居る、其外一遍の弟子の宿阿尊道といふ僧も陸中邊まで巡錫した、又五祖の安國上人は磐城より陸前迄遊行した、其外時宗の僧侶の出羽に多く入つて布教したことは、他宗の遠く及ばぬ所で、一向上人が岩代から羽前にはいつたのを始めとして無阿和尚、辨阿上人、崇徹、礎念、證阿、向阿等羽前地方に活動して居る、而して此等の僧侶が他宗に於けるが如く羽州に入るに越後よりせずして、岩代より直にせるのは、蓋し遊行の名に背かず、天險をも事とせずして、布教し廻はりしことを徴するに足るものである。  
以上は畿内以東につきて觀察した所のものであるが、今にも述べた通り新宗教は、主力を東國に注いだのであるから、畿内以西に於ける布教的活動は其盛な點に於て到底東方と比べものにならぬ、然れども西國はまた西國で、其布教の徑路の研究に面白い點もあるから、一通り之を述べる必要がある。  
東國を説明した順序に從つて、先づ淨土宗から始むれば、京師以西には淨土宗が布教上大に重きを措いたと云ふ譯ではないけれど、元來西國は之を東國に比して、京洛文明の影響を被つたこと久しく且つ深いから、源空の新宗教は自ら西方に傳はらざるを得ぬ次第である、けれども其傳播は當時の交通の關係によつて規定せられて居るのは已むを得ざることで即山陰道では、丹波は直接に京都の波動を受けて居るけれども、丹後から以西伯耆に至るまでは、鎌倉時代を通じて殆ど淨土宗の侵略を蒙つて居らぬ、山陽の播磨は猶山陰の丹波の如きものであるが、美作(源空の出生地)から西備中に至るまでの間も、山陰の丹後以西と同じく淨土宗の感化を受けて居らぬ、南海道の紀伊は播磨と同樣であるが、四國に於ては讃岐と伊豫に淨土宗が傳はり、これと前後して向ひ側なる山陽道では備後に傳はり、備後から更に出雲、石見に流布して居る、聖光の弟子良忠が中國に布教した時は、まさしく此徑路によつたものである、又九州に於て豐前の淨土宗は論ずるに足らぬに反し、豐後に於ける傳道の跡見るに足るものあるのは、豐後の佐賀の關が伊豫の佐田岬と相對し、兩國の交通が甚頻繁である爲めで、此等と中國の例并びに北陸の例を併せ考ふれば、當時の布教は必しも陸地傳ひにのみ進んだものでないと云ふことが分かり、從て當時の日本の主要なる交通線の中には海路も少からず含まれて居つたことが明になる。  
然しながら九州の淨土宗の主なる活動は、此伊豫から豐後に渡つたものではなく、鎌倉時代の始に於て筑後の善導寺を根據とした聖光及び其弟子蓮阿等の努力によるのである、これが筑前、肥前、肥後と擴がつたが、日薩隅の三州には新宗教の布教者は足を入るゝことが出來なかつた樣に見える。  
禪宗の山陰道に落莫なるは、淨土宗の場合と同じである、して見れば、丹後、但馬、因幡、伯耆の四ヶ國は、京都から左程遠くないにも拘はらず、鎌倉時代には天然の不便から、自ら別境をなして居て、一般に注意を惹く度に於て、奧州などにすら及ばなかつたのかも知れぬと思はれる、唯山陰道に於て禪僧の活動として見るに足るものは、法燈國師の弟子の三光國師の、鎌倉時代の末に出雲に活動したことのみである、山陽道は京都から九州に通ずる大道であるけれども、淨土宗の場合に於て見えたと同樣、當時は九州に赴くに主として海路を利用したものゝ如くで、播磨を除いて、其以西備中までは、あまり禪宗の影響を受けて居らず、備後以西に於て始めて其痕跡を見る、三光國師も淨土僧と同樣備後から出雲へ入つたらしい、宗派から云へば播磨には臨濟も曹洞も混入して居るけれど、備後以西は臨濟のみであつた。  
南海道の禪宗と云へば紀伊の法燈國師の外、伊豫に傳道した聖一國師の弟子の佛道禪師、并びに南山士雲、寒岩義尹あるのみである。  
九州に於て禪宗が他の宗旨に比べて一層の盛況を呈して居るのは、これは蓋し博多が當時支那との交通の要路にあたつて居る所からして、渡唐僧や歸化僧は、多くは暫く爰に滯留し、從つて、九州の禪宗は必しも京都の方からの布教のみによらずに傳播した爲めであらうと思はれる、であるから九州で禪宗の最流行したのは筑前、其次は豐後で、肥前、肥後はまた其次に位して居る、九州の布教に盡力した禪僧の有名なものは、先づ榮西を第一として、その外聖一國師、大應國師、(南浦)南山士雲、及び寒岩義尹などである、寒岩は南山士雲と似て、東國をも風化したのみならず、西國にも巡錫して居る、即南山同樣伊豫に布教し、それから九州に渡つた、但し南山は肥前筑前に傳道したけれども、寒岩は其弟子鐵山等と共に、專ら豐後、肥後の布教に盡力をした、されば禪宗が豐後に盛で、隣りの豐前に寥々として居るのは伊豫からの交通の關係から怪むに足らぬのである、而して寒岩は道元の弟子であるから、豐後と肥後とには筑前に比べて曹洞が多いのである、其外大應は主として力を筑前に注いで居る。  
時代を以てすれば、九州の禪宗は仁治建長の間筑前に盛に、豐後より進んで兩肥に及んだのは、鎌倉の末六十年位の間のことである。  
眞宗が京師以西に及ぼした影響は、頗る稀薄な状態で鎌倉時代を終つた、但しこれはさすが氾濫的傳播[#「氾濫的傳播」は底本では「濫的傳播」]をなす宗旨だけあつて乘專の如きは近畿布教の序に但馬へも入つた樣である、しかし因幡や伯耆に眞宗が殆ど入らなかつたのは、淨土や禪と同樣である、山陽道に於ては播磨に少しく入つた外にはやはり備後を中心として備中安藝の二國に及んだのみである、此眞宗の備後に於ける布教は專ら親鸞の弟子明光(光昭寺開山)の盡力によるもので、明光は眞宗には珍らしく遍歴布教をした人である、單に山陽のみならず、山陰の出雲も亦明光の手によつて眞宗の教化に接した、而して此明光のとれる布教路が、淨土宗及び禪宗のとつた布教の道筋と符合して居るのは甚面白いことである。  
四國では眞宗の波動の及んだのは阿波と伊豫とのみであると斷言して差支ない位で、それも影響が甚少い、そしてこれもやはり明光の宣教の力による者の如くである、九州で鎌倉時代に眞宗の入つたのは殆ど豐後のみであるが、これも伊豫との交通の結果である。  
日蓮宗でも山陰布教の微々たることは前の三宗と同樣である、これは純東國的宗旨であるから一層然るのであらうとも思はれる、中に目立つのはやはり出雲で、出雲に布教した人には日尊を始めとして日頼と云ふ者もある、之に對して他宗の場合に於ける如き備後の布教は見えぬが、備中には日印、日圓などの布教があるから、他宗の場合とあまり甚しく矛盾しては居らぬ。  
九州では肥前に鎌倉時代の末に日祐(日高弟子)が入つて傳道したが、それよりも顯著なのは日向に入つた日郷の弟子の日叡の成績である、南海道には日蓮宗は全く入らなかつた。  
時宗に於ては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊并びに四國の伊豫は勿論讃岐にも、九州では筑前にも及んだのであるが、其他の遊行僧では、四祖呑海及び、其弟子の隨音といふが、新に石見、隱岐に布教し、二祖眞教が備後と伊豫に巡錫した位のもので、外に取り立てゝ云ふ程のこともない。  
終りに臨んで新宗派が從來の宗派を蠶食し、或は新宗派の間に互に相呑噬した樣子を簡單に述べて、此の論を結ぶことにする、淨土宗の最も多く蠶食したのは天台で、眞言之に次ぎ法相又之に次ぐ、新宗の中では禪の淨土に轉じたものもあるけれど、淨土がまた轉じて眞宗になつたことも稀ではない。  
禪宗の最も多く侵略したものも亦天台で眞言は之に次ぐ、淨土に對しては侵し方が侵された分より多い。  
淨土眞宗に至ては天台を侵略したこと最甚しく、今日現存の鎌倉時代からの眞宗寺で、天台から轉宗したのが二百許りある、眞言の七十三が之に次ぐ、遙かに下るが、之に次では法相である、又眞宗は新宗派の中で淨土と禪とを少しづゝ侵略して居る。  
時宗の侵略したのも天台に最も多く眞言之に次ぐ、但し小規模の宗派丈け侵略した數は少い。  
以上の四宗がいづれも天台を最も多く侵略して居るのは其以前に天台宗の寺が眞言其他の諸宗よりもすぐれて數多かつた爲でもあらうが、之と全く異つた有樣を示して居るのは日蓮宗で數字に於ては其侵略の度眞宗の多いのには及ばぬけれど、兎に角日蓮宗の最も多く侵略したのは眞言で、天台は却つて其三分一位である、これは注意すべき事だ、又新宗派の中では禪を少しく侵略して居る、眞言亡國、禪天魔を叫んだだけあると云つてもよろしい、但し念佛宗をば無間と譏つたけれど、淨土寺を少しく侵略したのみで、眞宗とは全く沒交渉である、眞言よりは少いけれども、天台も亦侵略を免れなかつたのは、假令日蓮宗が天台の復興を主張するとしても實際此兩宗の間には性質上大差があるからであらうと思はれる。 
 
仏教はなぜ日本で普及したのか
 

 

伝統的な神を祀る日本の天皇家にとって、異国の宗教である仏教を受け入れることは、自殺行為のように思える。それにもかかわらず、なぜ仏教は、日本では、上から下へと、権力者が推奨する中で普及したのか。気候的背景から考えてみよう。  
1. 仏教が日本に伝来したのはいつか  
『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』によれば、日本に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇の戊午の年(西暦538年)である。『日本書紀』は仏教伝来の年を欽明13年壬申(552年)としている。正しいのはどちらだろうか。  
百済の聖明王は、553年と554年に日本に援軍を要請した。554年には、対価として、五経博士等を献じているので、それに先立つ553年に、対価の第一弾として仏像と経文を献じたということは、十分考えられる。日本は、これに報いるために、554年、千人規模の援軍を派遣した。仏像と経文が献じられた年を、553年ではなくて、1年前の552年にしたのは、仏教の公式伝来という画期的出来事を、『日本書紀』を編集した当時末法の初年とされていた年に当てるためと考えられる。  
しかし、大和朝廷が、この時初めて仏教を受容したとは言えない。『日本書紀』によると、545年に、百済が、天皇のために丈六の仏像を作り、任那日本府に贈っている。もしも天皇が仏教を嫌っているのなら、このようなプレゼントをするはずがない。だから、545年の段階で、すでに天皇は仏教を受容していたということになる。そこで、通説どおり、最初の仏教受容の年を538年としたい。  
2. なぜ蘇我稲目は突然権力を握ったのか  
仏教は、その後、上から下へと普及した。594年頃から臣・連らが競って寺を造り始め、7世紀になると、朝廷の下級豪族までが、こぞって一族の寺を造るようになった。多くの歴史家は、こうした仏教の日本への伝来と普及を当然のように扱っている。しかし、よく考えてみると、天皇は、世俗的権力者であっただけでなく、宗教的権力者でもあった。なぜ当時の朝廷が、伝統的な神道と本来は対立するはずの仏教を受け入れたのか。キリスト教は、封建道徳に反するという理由で、江戸時代に弾圧された。同様に、仏教も拒否されて当然だったのではないのか。  
よく知られているように、仏教受容に際して、物部尾輿は「天皇は古くから天神地祇を祭るべきであって、蕃神などを信奉されるとあらば、神々の怒りを招くことは必定でありましょう」と言って反対した。しかし蘇我稲目は、「西方の諸国で信奉しているのに、我が国だけがどうして背けましょうか」と受け入れに意欲を示したので、天皇は試しに稲目に仏像を与えて礼拝させることにした。  
だが、「大臣の蘇我稲目が、仏教信仰に賛成したから、日本でも仏教が普及するようになった」というのは、答えになっていない。なぜなら、蘇我氏自体が、仏教伝来の頃に突然権力の表舞台に出てきた新興勢力だからである。  
蘇我氏は、物部氏や大伴氏など、由緒正しい他の飛鳥の大豪族とは違って、氏素性がはっきりしない。蘇我稲目は、一応、武内宿禰−蘇我石川宿禰−満致−韓子−高麗−稲目という家系に連なっていることになっているが、武内宿禰以外の先祖は正体不明である。葛城・紀・巨勢・平群などの名門の始祖である武内宿禰を祖先とすることは、成り上がりものがよくやる家系の粉飾と考えられる。  
満致・韓子・高麗といった名前から、蘇我氏の祖先を渡来人とする説がある。蘇我氏の起源が、朝鮮半島にあるのかどうかはともかく、蘇我氏が、渡来人と密接に関係を持っていたために海外文化に明るかったことは確かだ。  
ともあれ、蘇我稲目には、伝統的権威はない。蘇我馬子が、葛城の子孫を自称していることから、馬子の母、つまり稲目の妻は葛城の血を引くと考えられるが、当時葛城氏は、すでに権力を失っていた。「なぜ伝統的権威のない蘇我稲目が大臣になることができたのか」ということは「なぜ大和朝廷は、神道の伝統的権威を否定することになる仏教信仰を受け入れたのか」と同様に、歴史の謎である。  
3. 535年の異常気象  
この謎を解く鍵は、蘇我稲目が大臣になった宣化元年(536年)における宣化天皇の詔にある。  
食者天下之本也。黄金萬貫、不可療飢。白玉千箱、何能救冷。  
食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはできない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか  
[日本書紀, 巻第十八]  
安閑二年(535年)正月の時点では、安閑天皇は次のような詔をしている。  
間者連年、登穀接境無虞。元々蒼生、樂於稼穡、業々黔首、免於飢謹。仁風鬯乎宇宙、美聲塞乎乾巛。内外清通、国家股富。  
近頃、毎年穀物は実り、国境に外敵の心配はない。万民は生業を楽しみ、飢饉の恐れもない。天皇の慈愛は国中に広がり、その名声は天地に満ちている。内外は平穏で、国家は富み栄えている。  
[日本書紀, 巻第十八]  
安閑天皇の時代は、「安閑」の名にふさわしい平和で静かな時代だった。ところが、宣化天皇は、「宣化」の名にふさわしく、引用した詔で、ある変化を宣言した。デイヴィッド・キーズは、この詔について次のように言っている。  
『日本書紀』は、全十二万語に及ぶ大著だが、このような記載はほかに一ヶ所もない。しかもこの文章が、ちょうど同じ時期に世界中に広まっていた天候異変と全く同一の現象を記していることは、決して偶然ではない。  
デイヴィッド・キーズが指摘するように、詔が出る1年前の535年から翌年にかけての時期は、世界的な寒冷化の年であった。そのことは世界各地の年輪データから実証されている。地域によって差があるが、535年から数年、場合によっては20年以上にわたって、年輪の幅が異常に狭くなっている。その間、木がほとんど生長しなかったのだ。  
さらにグリーンランドや南極の氷雪を分析してみたところ、6世紀中ごろの氷縞に火山噴火の痕跡である硫酸層が大量にあることが確認された。このことは、火山噴火による大気汚染が日光を遮断し、世界的な気候の寒冷化をもたらしたことを意味している。535年以降、異常気象による飢饉と疫病で人々が苦しんだことは、世界中の文献に記載されている。  
宣化天皇は、引用した箇所に続けて次のように言っている。  
夫筑紫國者、遐邇之所朝届、去來之所關門。是以、海表之國、侯海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝、[扁三水旁自]于朕身、牧藏穀稼、蓄積儲粮。遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。  
そもそも筑紫の国は、遠近の国々が来朝する所、往復の関門となる所である。そこで海外の国は海の状態をうかがってやって来ては賓客となり、天雲の様子を見ては、貢物を献上した。応神天皇より我が御世に至るまで、収穫した穀物を収蔵し、食料を蓄積してきた。それをずっと凶年の備えとし、賓客を饗応する糧としている。国を安定させる方法は、これに過ぎるものはない。  
[日本書紀, 巻第十八]  
どうやら、日本以上に、朝鮮半島での飢餓がひどく、日本に来た「賓客」に備蓄した食糧を与えなければならなかったようだ。  
『三国史記』によれば、535年には洪水が起き、536年には「雷が鳴り、伝染病が大流行し」、それに引き続いて「大変な干ばつ」が発生した。加えて地震も、535年末に朝鮮を襲った。  
朝鮮半島で、それまで異教国だった新羅が仏教を採用したのは、535年だったが、日本でも535年以降、同様の天変地異が起き、このために伝統的な宗教が権威を失い、人々は現世利益をもたらす新たな信仰の対象を求めた。仏教をはじめ大陸の先進文明に通じていた蘇我氏が登用された背景には、大和朝廷が未曾有の危機に直面し、伝統的な手法に行き詰まったことがあったわけである。  
ちなみに、仏教そのものは、538年以前から日本でもその存在が知られていた。『扶桑略記』によれば、継体天皇16年(522)に司馬達止が中国(南梁)から渡来し、飛鳥の坂田に草堂を構え仏像を礼拝したという。しかしこの当時の日本人は、誰も仏教を信仰しようとはしなかった。豊かな時代には、人々は新しい宗教を受け入れようとはしない。  
一般的に言って、社会不安が広がると、新しい宗教が普及したり、宗教改革が行われたりする。バブル崩壊後の日本でも、広がる社会不安を背景に、様々な新興宗教が跋扈した。  
気候が寒冷化し、環境が悪化すると新しい宗教が生まれると同時に、権力の集権化が起きる。新しい宗教は、しばしば新しく生まれた権力と結び付き、やがて形骸化し、腐敗していく。その体制が次の環境悪化で危機に直面するとまた同じことが起きる。世界の歴史にはこうした現象が繰り返されているように見える。 
 
仏教はなぜ女性を差別するのか
 

 

仏教は、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であるにもかかわらず、女性を蔑視するのはなぜか。この問いに答えるには、そもそもなぜ、仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタが出家をしたのか、その動機を理解しなければならない。  
1. 女性を蔑視する仏教言説  
仏教は女性蔑視の宗教であると言われている。例えば、『増一阿含経』には、以下のような、女性を蔑視する記述が見られる。  
世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり  
お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。その九つの悪い属性とは何か。女は、1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口であるということである。  
仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタは、女性(彼の養母であるマハーパジャーパティー)が教団に加わることを歓迎せず、八敬法を遵守するという差別的な条件付きでようやく許可したと『パーリ律』は伝えている。さらに、五障説[r]・変成男子説によると、女性は、どんなに仏道修行に努め励んでも、女身のままでは仏となることは不可能で、成仏するには男の姿に転じなければならない。仏教が、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であることを考えるならば、仏教の女性差別を軽視することはできない。  
五障説とは、女性は、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀の五つにはなれないという説。『法華経』十二「提婆達多品」には、女は成仏することができないというシャーリ・プトラ長老に対して、竜女が、女の身を転じて、男の姿となって成仏するという竜女成仏譚がある。竜は本来女である。  
もとより、こうした女性差別の言説が見られる経典は、比較的後の時代に成立したものである。初期の文献でも、「女人は《清らかな行い》の汚れであり、人々はこれに耽溺する」というような、女性蔑視と受け取れる発言があるものの、ガウタマ本人には、女性に対する偏見がなかったと考えることができる。しかし、後に教団内に生じることになる女性差別の萌芽を、ガウタマの思想の中に見出すことができる。すなわち、ガウタマは、女性を差別することはなかったが、女性原理を拒絶していた。  
2. 人類史の男根期  
女性原理の優位から男性原理の優位へという思想・宗教上の変化は、枢軸時代と呼ばれる、ガウタマが生きた時代の世界的潮流であった。ガウタマが仏教を興した頃、バビロン捕囚を契機としたユダヤ教の誕生(BC586)、ザラスシュトラ(BC628-551)によるゾロアスター教の創唱、孔子(BC551-479)による儒教の成立、プラトン(BC427-347)によるイデア論の提唱など、世界同時多発的に精神革命が起きた。  
In China lebten Konfuzius und Laotse, entstanden alle Richtungen der chinesischen Philosophie, dachten Mo-Ti, Tschuang-Tse, Lie-Tse und ungezählte andere, ? in Indien entstanden die Upanischaden, lebte Buddha, wurden alle philosophischen Möglichkeiten bis zur Skepsis und bis zum Materialismus, bis zur Sophistik und zum Nihilismus, wie in China, entwickelt, ? in Iran lehrte Zarathustra das fordernde Weltbild des Kampfes zwischen Gut und Böse, ? in Palästina traten die Propheten auf von Elias über Jesaias und Jeremias bis zu Deuterojesaias, ? Griechenland sah Homer, die Philosophen ? Parmenides, Heraklit, Plato ? und die Tragiker, Thukydides und Archimedes.  
中国では、孔子と老子の時代で、すべての中国哲学の方向性が打ち出され、孟子・荘子・荀子その他無数の思想家が現れた。インドでは、ウパニシャッド哲学が成立し、仏陀が登場し、中国と同様に、懐疑論から唯物論まで、詭弁学派からニヒリズムに至るまで、あらゆる哲学的可能性が発展した。イランでは、ザラスシュトラが、善と悪の戦いという挑戦的世界像を説く。パレスチナでは、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、第二イザヤといった預言者が現れた。ギリシャでは、ホメロス、パルメニデスやヘラクレイトスやプラトンといった哲学者、悲劇作家、ツキディデス、アルキメデスが現れた。  
「天にまします父なる神」と「母なる大地の神」と人類との三角関係が重大な変容を被るこの時代を、フロイトのリビドー発達段階の用語を用いて、人類史における男根期から潜伏期への移行期と位置付けたい。  
男根期とは、エディプス・コンプレックスが生まれ、そして消滅する、3歳から5歳の間の時期である。男の子は、当初、ライバルである父親を殺害し、母親と性交したいという、ギリシャ神話のエディプス王と同じ欲望を持つが、去勢不安から、この欲望を断念し、父親との自己同一と禁止の内在化を始める。母親を欲望するのではなくて、母親の欲望の対象であるファルスを欲望する。すなわち、父親を自我理想として超自我を形成し、母親を、去勢された、劣った性として軽蔑するようになる。  
これと同じことが枢軸時代に起きた。この時代は、サブアトランティック寒冷期の谷間にあたる。母なる自然が冷たくなって、子供の母離れが促進される時期である。母子一体の安逸をむさぼっていた人類は、今や、天罰という名の去勢におびえつつ、父なる神から与えられた禁欲的な戒律を遵守することで、死後の魂の救済を願うようになる。ちょうど、男の子が、母との性交を断念し、父との同一化を続けて、結婚によって形成される次の世帯で、母の代替(妻)との性交が可能となるように、当時の人々は、現世での幸福を断念し、父なる神の教えに従うことで、来世で幸福となることが約束されたのである。  
フロイトは、西欧の文化で育った人だから、彼の理論をユダヤ−キリスト教に適用することは容易である。しかし、仏教への適用となると、容易ではない。仏教、すなわちガウタマの教えは、本来は、これから説明するように、自発的去勢を勧める処世術であり、父なる神の崇拝を否定する反宗教だからである。にもかかわらず、仏教は、最終的には、キリスト教やイスラム教と同様に、父神崇拝の宗教となった。それはどのようにしてであるかが、この論文の主題である。  
3. 自発的去勢としての自傷行為  
ガウタマの本来の教え(根本仏教)とは、結論を非常に簡単に言ってしまうならば、苦から逃れるためには、苦の原因である執着を捨てろというものである。欲望を満たそうとするから、不満になるのであって、欲望を自ら根源的に捨てれば、つまり、自発的に去勢すれば、不満(苦)から根源的に解放される。ガウタマは、苦行という自傷行為を通して、この自発的去勢の真理に到達した。苦行といっても、ジャイナ教的な、肉体を極限状態に追い込む、一見ラディカルなようで、実は中途半端な方法によっては、ガウタマは最終解脱の境地に達することはできなかった。涅槃の境地に達するために必要なことは、肉体への自傷行為(例えば、ペニスを切り捨てるなど)ではなくて、欲望への自傷行為(性欲そのものを切り捨てるなど)である。  
神聖な修行を自傷行為と形容して病気扱いするのはけしからんと仏教徒から叱られそうだが、出家と自傷行為には、その動機において、共通点がある。例えば、失恋した女性が髪の毛を切るという軽微な自傷行為を例にとって考えてみよう。女性は、元彼という「後ろ髪を引かれる思い」を切り捨てるために、髪の毛を切り捨てる。ふられるということは、プライドが傷つくショッキングな体験である。だから、「私は彼から切り捨てられたのではない。私が彼を切り捨てるのだ」と自分に言い聞かせるように、髪を切り捨て、自分のプライドを守って、失恋という苦から逃れようとする。  
手首や腕や足を傷つける場合も同様である。自傷症は、しばしばそう誤解されているような、自殺願望の病気ではない。自傷症は、通常次のように定義される。  
[...] the deliberate mutilation of the body or a body part, not with the intent to commit suicide but as a way of managing emotions that seem too painful for words to express.  
自殺するためではなくて、筆舌に尽くしがたいほど苦痛に満ちた感情を処理する一つの方法として、身体もしくは身体の一部を意図的に傷つけること  
実際、自傷行為が自殺につながることはまれである。それは失われた主体性を取り返し、傷ついたプライドを癒す行為であって、結果として自殺の防止に役立っている。逆説的な表現を用いるならば、自傷症患者は、自らを傷つけないために自らを傷つけるのだ[a]。この逆説は、欲望を満たすために欲望を満たさないという仏教の逆説に対応している。  
朝日新聞が得意とする、いわゆる自虐史観も、自発的去勢の結果生まれた歴史解釈である。自虐史観の提唱者は、他の民族から戦争責任を指摘される前に、自ら懺悔することで、民族の主体性を取り戻そうとしているのであって、民族の誇りを失うことを恐れている点で、いわゆる自由史観を提唱する国粋主義者たちと大きく異なるわけではない。朝日新聞の購読者には高学歴のインテリが多いが、高学歴の人には、自発的去勢により禁欲的に勉学に励んだ人が多いから、自虐史観に共鳴する傾向がある。  
失恋した女性は、普通、髪の毛をすべて切り落とすことはしない。それは男に対する未練をすべて捨ててはいないことの証拠である。これに対して、すべての執着を捨てて、出家する人は、髪の毛をすべて切る。ガウタマも、出家の後、剃髪した。そして、断食もおこなった。断食を行うことは、拒食症の症状と似ている。そして、拒食症も自傷症の一種である。拒食症患者は、本当は愛に飢えているにもかかわらず、「(愛・食事等を)得ることができずに飢えているのではなくて、欲しくないから得ないだけだ」ということを体をもって示すことで、主体性のプライドを守ろうとする[論文編:拒食症はダイエットが原因か]。拒食症患者は、しばしば誘惑に負けて過食症になるが、ガウタマは、拒食でも過食でもない、禁欲主義でも快楽主義でもない中道を歩んだという点で、迷える並みの拒食症患者とは異なる。  
4. ガウタマの出家動機  
では、ガウタマは、何かプライドを傷つけられる挫折体験があって、出家したのだろうか。ガウタマの出家に関しては、四門出遊という伝説がある。ガウタマが東の門から出ると、老人に出会った。南の門から出ると、病人に出会った。西の門から出ると、死者の葬列に出会った。こうして彼は、老・病・死という苦に満ちた人生の現実を目の当たりにした。ところが、北の門から出ると、輝かしい出家修行者に出会い、自らも出家しようと決意したというのである。ガウタマの出家の真相を知ろうと思うならば、こうした類の、後の時代に作られた仏伝は無視して、最も古い経典、『スッタニパータ』に収められている「出家経」を手掛かりに、当時の時代状況を考慮に入れて推論しなければならない。  
「出家経」には、「出家して身による悪行を離れ、言葉による悪行を捨て、生活をすっかり浄めた」[ブッダのことば―スッタニパータ, No.407]とあるだけで、出家した経由が詳しく書かれていない。その代わり、出家した後、ガウタマが、故郷から遠く離れたマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)まで托鉢のために来たところ、マガダ国王が、彼に注目し、彼が隠遁する山窟にまで赴いて、軍事力の提供を申し出たが、断られたという奇妙な話が長々と書かれている。これは、今で言うと、出家を決意した中国のある田舎者が、日本の永田町まで托鉢のために来たところ、日本の総理大臣が、「立派なお坊さんだ」と感心して、彼に注目し、彼が隠遁する富士山の山窟にまで赴いて、自衛隊の指揮権を委ねようと申し出たが、断られたというのと同様の、荒唐無稽なストーリーである。  
しかし、ここに、ガウタマの隠された願望を読み取ることができる。夢とは願望充足の表現であるとするフロイトは、  
Man darf darum, wenn ein Traum seinen Sinn hartnäckig verweigert, jedesmal den Versuch der Umkehrung mit bestimmten Stücken seines manifesten Inhaltes wagen, worauf nicht selten alles sofort klar wird.  
ある夢の意味がどうしてもわからないような場合には、その夢の顕在内容の特定諸部分を試みに逆にしてみるとよい。そうすると一挙に解決のつくことがある。  
と言っている。「反対物への転化」を元に戻すならば、この話の原型は、ガウタマがマガダ国王に軍事力の提供を申し出たところ、断られ、出家したというようのものだったはずだ。そして、このストーリーなら、歴史的なリアリティがある。  
ガウタマ・シッダールタの父は、釈迦族の政治的指導者であった。釈迦族はコーサラ国王の支配下にあったが、釈迦族は独立心が強く、南のマガダ国と同盟を結び、南と北からコーサラ国を挟撃しようと企んだ。ガウタマは、この外交工作のため、王舎城に赴いた。ところが、当時のマガダ国は、ベンガル湾に進出しようと、ガンジス川下流のアンガ国と戦争している最中で、背後の安全を確保するために、コーサラ国と政略結婚をするなどして、平和な関係を築くことに努めていた。だから、マガダ国王は、ガウタマの軍事援助の要請をにべもなく断った。こう推測できる。  
後に、コーサラ国は、釈迦族を滅ぼすことになるのだが、先見の明があるガウタマは、この時既に釈迦族の運命を悟り、意のままにならない政治的現実を前に、出家したと考えることができる。ガウタマは、「クシャトリヤの家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である」と述べているが、これは彼自身のことを言っているのに違いない。  
釈迦族は、カピラヴァストゥ(現在のインドとネパールの国境付近にある城郭都市)に住んでいた部族である。彼らが自分たちの土地を望んだということは、母なる大地を我が物としたいという欲望を持っていたということである。そして、コーサラ国王が、軍事力で脅して、釈迦族の独立を認めなかったことは、権力者(父)が、母子相姦を禁止し、去勢の威嚇をしたということである。ガウタマの出家はこれに対する防御反応であった。ちょうど、失恋した女性が、「自分は捨てられたのではなくて、自分から捨てたのだ」と自分に言い聞かせて髪を切り捨てるように、彼は、「自分は去勢されたのではなくて、自ら去勢したのだ」、「自分は、マガダ国王に軍事援助の要請を申し出て断られたのではなくて、マガダ国王が申し出た軍事援助を断ったのだ」と自分に言い聞かせて出家した。こうした願望を充足するために、史実に二つの逆転を施し、『スッタニパータ』の「出家経」が生まれた。私はそう解釈したい。  
5. 死の欲動と涅槃の境地  
ガウタマが行った自発的去勢は、フロイトの分類を使うならば、死の欲動の産物である。フロイトは、涅槃原則というバーバラ・ロウの仏教的表現を借用し、涅槃原則と快感原則を死の欲動と生(性)の欲動に対応させている。  
Daß wir als die herrschende Tendenz des Seelenlebens, vielleicht des Nervenlebens überhaupt, das Streben nach Herabsetzung, Konstanterhaltung, Aufhebung der inneren Reizspannung erkannten (das Nirwanaprinzip nach einem Ausdruck von Barbara Low), wie es im Lustprinzip zum Ausdruck kommt, das ist ja eines unserer stärksten Motive, an die Existenz von Todestrieben zu glauben  
私たちは、刺激に対する緊張状態を減らし、一定に維持し、終結させようとする努力を、心的生、神経的生一般の支配的傾向として認識した。これは快感原則が現れる時と似ているが、こちらは、バーバラ・ロウの表現にしたがって、涅槃原則と名付けよう。この認識こそは、私たちが死の欲動の存在を信じる最も強固な動機の一つである。  
しかし、性的快感は死の欲動に属するのではないだろうか。この点をはっきりさせるために、快感と享楽というラカンの区別にしたがって、快感原則を享楽原則と名付け、生の欲動は、現実原則に従う欲動とすることにしよう。  
フランス語の享楽“jouissance”には、「性的快楽、オルガスムス」という意味もあって、無制限な快感を表す言葉として使える。それは、バタイユが謂う所のエロティシズムの快楽であり、エロティシズムにおいて、人はエクスタシーという擬似的な死を体験する。これに対して、涅槃原則に基づく自発的去勢は、エロティシズムの快楽を断念することなのだから、両者は全く異なる。エロティシズムが主体性を放棄して母なる大地に戻ろうとする胎内回帰の欲動であるのに対して、自発的去勢は、母子相姦を自主的に断念することで、主体性を回復しようとする欲動なのである。ガウタマは、「諸々の汚れと執着のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない」と言っている。これは輪廻としての胎内回帰から解脱したことを宣言したものと解釈できる。  
生物学的には、現実原則と涅槃原則と享楽原則は、次のように区別される。現実原則は、個体保存のための個体保存の行為を、涅槃原則は、個体保存のための個体破壊の行為を、享楽原則は、種保存のための個体破壊の行為をもたらす。現実原則が、純粋な生の欲動で、享楽原則が、純粋な死の欲動であるのに対して、涅槃原則は死の欲動のような外観を持った生の欲動である。すなわち、自傷行為は、自殺行為のように見えて、実は自殺を防止するための行為である。これに対して、享楽では、人ははめをはずしすぎて死に至ることがしばしばある。  
フロイト以来、二つの死の欲動が混同されてきた。仏教の密教的解釈も。二つの死の欲動の混同から起きる。中沢新一によると、チベットには、ガウタマが母と近親相姦をしたとか、降魔成道の際、セックスをしまくって悟りを開いたといった、とんでもない仏伝があるそうだが、セックスのエクスタシーで体験される幽体離脱を解脱と曲解し、その絶頂に涅槃の境地があるとする、チベット密教的・タントラ的・ヨーガ的・立川流真言的・中沢新一的な仏教理解では、仏教のどこが歴史的に画期的なのかがわからなくなる。中沢新一が、チベットで修行して見出したものは、原始仏教でもなければ、ましてやポストモダンでもなく、仏教以前の原始宗教に過ぎない。  
タントラやヨーガの起源はインダス文明にまで遡ることができるが、ガウタマの時代に、インドで支配的だった宗教は、バラモン教である。バラモン教もまた、涅槃原則よりも享楽原則に基づく自然宗教としての色彩が強かった。バラモンが司るヴェーダ祭式にその特徴を見ることができる。祭官(バラモン)は、犠牲獣を屠り、ソーマを供物として祭火に注いだ後、残りを飲む。ソーマの原料には、幻覚作用のあるキノコが使われていたと考えられている。一種のドラッグである。それを服用することで、トランス状態となり、そのエクスタシー体験で得られたインスピレーションから、多くのヴェーダの詩句が生み出された。祭火が据えられたアグニ祭壇は、大鷲の形をしていたが、それは、天地の間を自由に飛び、祭主を天界まで送る鷲をイメージしたものだった。  
祭祀での神秘的霊感を哲学的に説明した『ウパニシャッド』では、梵我一如、すなわち、大宇宙(自然界、ブラフマン)と小宇宙(個人、アートマン)との合一の真理を悟って輪廻から解脱することが説かれている。ブラフマンは、元来は「神聖な知識」という意味で、女神ヴァーチとして神格化された。ブラフマンは、現在のインドの神話では、ヴィシュヌ、シヴァとともに三大主神を形成するブラフマーに相当するのだが、男性神としてのブラフマーは、非常に抽象的な神で、存在感がない。それもそのはずで、ブラフマンは本来女で、ブラフマーの妻にして娘ということになっているサラスヴァティーが本当のブラフマンだからである。  
ブラフマンが女だとするならば、梵我一如という神秘的合一(unio mystica)は母子相姦で、解脱とはエクスタシー(脱我)のことであると解釈できる。こうした、エロティシズムを神秘的な体験とする自然宗教は、去勢コンプレックス以前の時期には、世界のいたるところに存在していた。サブアトランティック寒冷期という去勢不安の時代に自発的去勢を行った仏教やジャイナ教は、バラモン教のような自然宗教に対するアンチテーゼとして、歴史を画期する意義を持つ。  
6. 仏教のディレンマ  
ガウタマは、自発的去勢により、涅槃の境地に達した。しかし、ガウタマの悟りには一つ問題があった。煩悩を捨てるといっても、食欲を完全に捨てるわけにはいかない。ガウタマは、  
およそ苦しみが起こるのは、すべて食料を縁として起こる。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。  
と言っているが、何も食べなければ、餓死してしまう。かといって、食糧を生産するために、土地を耕すと、土地(地母神)に対する執着が生まれる。そこで、当時の慣習に従って、ガウタマは、在家信者から托鉢してもらうことで、生き長らえた。  
在家信者に布施や托鉢をしてもらう対価として、ガウタマは何をしたのだろうか。自分が悟った真理を教えたのだろうか。これは原理的にはありえない。もしも在家信者が、ガウタマと同様のブッダ(覚者)になろうとするならば、出家して修行をしなければならず、布施や托鉢をするだけの生産能力を失ってしまう。ガウタマの教えをすべての信者が実践しようとすると、全員が餓死して、仏教もそれとともに消滅してしまう。その意味で、ガウタマが悟った真理には、普遍性がなかったと評さなければならない。  
そこで、ガウタマは、功徳を積んだ在家信者に、来世での果報を約束しなければならないはめになった。ガウタマは、在家信者に  
彼[聖者]に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。飲食物をささげて、彼を供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。  
と言っている。反対に、聖者をそしったり、悪意を抱くものは、地獄に落ち、気の遠くなるような年月の間、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるとも警告している。  
ガウタマ自身は、来世や魂の不滅や輪廻を信じていなかったようで、その意味で、新しい宗教の開祖になるつもりはなかったと考えることができる。しかし、世俗の人たちは、仏教の出家僧に、来世での幸福の保証人の役割を期待した。こうして大乗仏教が成立するわけだが、実は、在家信者を救済するという点で、上座部仏教も大乗仏教も違いがない。上座部仏教が信仰されている東南アジアには、福田思想と呼ばれるものがあって、在家信者が自分の子供を出家させたり、托鉢の僧に食事を寄進したりして、功徳を積めば、来世における幸福な再生が保証されると信じられている。タイのように、寺院に金品を寄進する在家信者に、「祝福の証し」という領収書を発行しているところもある。蒔いた種が間違いなくプンニャ(功徳)となって実る田という意味で、福田なのだ。  
仏教発祥の地であるインドで、仏教がすたれたのは、ガウタマとその教えに忠実だった後継者たちが、大衆の低レベルな宗教的欲望を満たすことに熱心でなかったからだと考えることができる。インドの仏教僧たちは、王侯・貴族・地主・豪商など社会の特権階級からの布施や土地の寄進に依存しており、一般民衆からは遊離していた。ジャイナ教は、在俗信者にも十二の小誓戒を厳守させ、彼らの宗教的救済をしたために、インドでも今日まで生き残っているが、インド仏教は、在俗信者の救済に熱意がなく、彼らに戒律の遵守を強制することもなかった。イスラム側の史料『チャチュナーマ』によると、8世紀の前半にイスラム帝国がインドに侵入した時、仏教僧たちは進んでイスラム教に改宗し、仏教寺院をモスクにしてイスラム式の祈りを取り入れた。インドの仏教僧は、崇拝するべき神を持たなかったから、異教の神を容易に受け入れることができたのであろう。インド仏教は、1203年に最終的に消滅した。  
7. 仏教におけるファルス崇拝  
インド以外の地では、ガウタマが、自発的去勢により、父神との同一化を拒否したにもかかわらず、後世、上座部仏教でも大乗仏教でも、大衆によって神の如きファルス的存在へと祭り上げられたのは皮肉なことのように思える。だが、この点で、仏教が、父権宗教の典型であるキリスト教と大きく異なるということはない。  
ファルスは、社会システムにおいて、ダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアとして機能するのだが、この機能を果たすためには、ファルスは、私的特殊性を捨てて、普遍的存在者とならなければならない。貨幣商品が、使用価値を捨象することで、貨幣という純粋なコミュニケーション・メディアになることができるように、宗教家は、自らの私的所有物を捨象することで、神という宗教的なコミュニケーションのメディアとなることができる。イエス・キリストは、十字架で死に、肉体という私的で特殊な所有物を捨てることで普遍的な神となった。同様に、ガウタマは、命こそ捨てなかったが、私的で特殊な所有物に対する執着を捨てることで、死後、神に等しい普遍的な存在者となった。《預言者→罪人→神》というイエスがたどった三段階と《王族→苦行者→覚者》というガウタマがたどった三段階は、ともに《ケ→ケガレ→ハレ》というスケープゴートの弁証法として理解することができる。  
8. 仏教が女性を嫌う理由  
最後に、「仏教はなぜ女性を差別するのか」という最初の問題提起に答えることにしよう。これには、二つの理由が考えられる。  
まず、ガウタマが行った自発的去勢は、母子相姦の自発的断念であるから、性欲は最も忌諱しなければならない煩悩の一つである。『転女身経』には、次のような、極めつけの描写がある。  
女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。[…]この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。  
このように、仏教が女性を不浄視するのは、「もしも女が臭くて汚いなら、性欲が起きなくてよいのに」という願望をみたすためである。仏教の教義には、こうした、実現の願望を願望の実現に摩り替えるトリックがたくさんある。  
もう一つの理由は、ガウタマ本人の意思に反して、ガウタマが「仏様」という、来世での幸福を保証するファルス的存在へと祭り上げられ、仏教が父権宗教になってしまったことである。世界宗教は、キリスト教もイスラム教も、すべて男尊女卑の父権宗教であり、仏教だけが女性差別をしているわけではない。 
  
「五観の偈」

 

みなさんこんにちは。それにしても毎日猛暑で大変ですね。特に今年は異常な暑さで、私等坊さんは、お盆中はホント、「ほとけ極楽坊主地獄」でしたよ。でもなんとかサバイバルできてホットしています。  
今日も猛暑の中このように大勢のみなさんのお参りを戴き実に有り難い限りでございます。ところで、毎年この日、このように暑い中菩提寺におセガキ参りして、飽きませんか?もちろん飽きないですよね。なぜ飽きないのでしょうか。  
それは宗教行事だからです。毎朝お仏壇にお線香を上げるのが飽きないのと同じです。そして年齢を重ねるごとに仏様が身近に感じられていくものです。お盆の棚経中、80歳を超えられたあるお爺さんが言っておられました。「この歳になるとお医者さんより仏さまですよ」と。実に含蓄のある一言だと思いませんか。  
ところで、日本人女性の寿命が85.99歳で、なんと23年間世界第一位を独占しているとのことですが、たいしたものです。こんな川柳がありました。「あの世にて待てど暮らせど来ぬ女房」女性のみなさん。どうせいつかは往くところです。女房のありがたさを知らしめるためにもできるだけゆっくり往ってください。  
とは言え、日本の男性も平均寿命は79.19歳で世界第3位とのことですから、たいしたものですよ。ただ最近100歳を超える高齢者が相当数行方知れずになっているようですね。なんと坂本龍馬と同級生がまだ生きていたそうですよ。もちろん戸籍上だけですけど。百歳に近い方、どうか迷子にならないよう気を付けましょう。  
さて、長生きは大変ありがたいことですが、病気では困ります。こんな川柳もありました「病院の待合室は同窓会」どうですか、病院でいつもお会いする人いませんか。  
こんなコントがありました。病院の待合い室での会話です。「このごろ○○さん見えませんがどうしたんでしょうかね」とある人が聞いたそうです。するとある人が言いました。「なんでも病気になったらしいよ」と。このコントの意味が??の人は隠れ脳梗塞に要注意。  
さて、前置きが長くなりましたが、本日はお手元にお配りしてあります、「五観の偈」について話させて戴きたいとおもいます。これは坊さん方が修行のなかで食事を戴く時にお唱えするお経の一部です。本山にお参りした方であれば、食事の時に必ずお唱えしますから覚えていらっしゃる方もいるかもしれません。  
食事に対する心得のお経ですが、この「五観の偈」にこそ健康と幸せの秘訣が説かれていると私は思うのです。では見ていってみましょう。  
「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。」これから食べるこの食事はいかに多くの人のお陰でここにあるかを考えて、感謝をして頂きましょう。自分のお金で買ったんだから当然だとか、当たり前だとかいう考えは間違いです。いくらお金があっても人はお金を食べて生きてはいけません。お金と食べ物はまったく関係ないことです。  
「二つには己が徳行の、全欠をはかって供に応ず。」この食事をいただくにあたり、人々や社会のための行いや功徳が自分にあるかどうかを考えていただきましょう。  
達磨さんより9代目の百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という95歳まで生きられた禅師様のエピソードです。ご高齢にも拘わらず毎日若い修行僧と同じように修行と作務をされていました。その健康を心配されたお弟子さん方が、なんとか禅師に楽をしていただこうと考え、禅師が仕事をしないようにとの配慮から道具の一切を隠してしまったのです。  
すると、その日の夕食時禅師はまったく食事に手を付けようとしませんでした。あるお弟子さんが「何故食べられないのですか」と尋ねると、答えられました。「一日なさざるは、一日食らわず」・・・一日の務めをしないことは一日の食事の資格はないということです。この戒めは禅宗では金言となって今に伝わっています。悪い言葉でいえば、タダ飯を食べるなということです。  
「三つには心を防ぎ過を離るることは、貧等を宗とす。」正しい心を護りましょう。それには過ちを犯さない、貪(むさぼり)やねたみなどの気持ちを持たないことを心に念じましょう。  
人が犯す犯罪のほとんどは「貪り」と「ねたみ」の心から起こるのです。特に「むさぼり」の心こそ大敵です。本日のこのおセガキの意味も、一人一人の己の心の中に潜む餓鬼の心を鎮めることが本来の目的なのです。  
「四つには正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり。」食事は単に空腹を満たすためではなく、私たちの身と心の弱まりを治す良薬であり、正しい目的をもっていただきましょう。  
この部分こそ正に現世利益を説いた内容だと思います。食事は体を護るいわば薬であるということです。この認識が極めて大事です。薬は適量でなければいけません。みなさんよく利く薬だからといって余計に沢山呑んだりしますか。利く薬ほど量を間違えると危険です。食事はそれとまったく同じで適量でなければならないという認識が大事なのです。  
食欲という本能は理性で制御しなければいくらでも食べられます。美味しく楽しく食べることがあたりまえの文化になってしまいました。毎日のテレビをみても何と料理番組の多いこと。その中でも問題は大食い競争です。まさに食べ物に対する冒涜ですよ。食べ物を粗末にすると罰が当たり健康を害しますよ。  
そんな現代人が被っているのが食べ過ぎや、偏食からなる病気です。特に三大病といわれるガン、心筋梗塞、脳梗塞などの原因の多くは塩分、脂肪、糖分という"余分三兄弟"の摂りすぎからです。  
今栄養失調で亡くなる人などほとんどいません。好きなものを好きなだけ食べられる豊かな時代になりましたが、そんな食生活が招いているのが生活習慣病です。その最たるものが糖尿病です。患者とその疑いのある人は平成19年度の調査ではなんと全国に2,210万人いると推定されています。生活習慣病の蔓延している社会が果たして「豊か」で「幸福」な社会と言えるでしょうか。  
一方食べる糧が多いということは出る残飯も多いということです。日本で一日に53、000トンの生ゴミが出るそうです。1200万人分の食事に当たる糧だそうです。東京都民の食事に匹敵する食糧が日本では毎日残飯となって捨てられているのですから、実にもったいない話です。  
今世界の人口は68億人といわれています。その中でおよそ10億人が飢えに苦しんでいるといわれています。七人に1人の割合です。その中で毎日およそ3万人の人が飢餓で死んでいるといわれています。一年間でなんと1000万人以上になります。日本人は食生活について今こそ反省が必要だと言えるでしょう。  
「食事は薬」だと言いました。今日私が色々話したことはどうせすぐ忘れてしまうでしょうけど、せめてこの一言は忘れないで持ち帰ってください。この一言だけでも今日ここに来た価値はありますよ。  
腹八分医者要らずと言う言葉もありますね。私は個人的には腹六分が良いと思っています。人間は動物です。動物はほんらい獲物を捕って生きています。だからいつも少し空腹感があったほうがモティべーションが上がるのです。全くの持論ですけどね。  
あと、余談ですが、健康のために一番良い、取って置きの食物をご紹介しましょう。何だと思いますか。それは納豆ですよ。脳梗塞、心筋梗塞の原因は血栓ですね。その血栓を溶かすのが納豆キナーゼという酵素なのです。血栓の予防となる食物は幾つもありますが、すでに出来てしまった血栓を溶かすことができるのは今のところ食べ物では世界で納豆キナーゼという酵素しかないそうです。  
老人性認知症の60パーセントは血栓が原因だそうです。あとビタミンk2が豊富で特に骨粗鬆性の予防になるとか。ビタミンEも多量にあって抗酸化作用があるとか。とにかくこんな素晴らしい安くて優れた食材は他にはありません。3パックたった100円程ですよ。一日ワンパックで十分です。  
ところで今日ここに納豆屋さんいませんか?いないようですね。もしいたら後で3パックでも届くかもしれませんね。  
今年の新盆に52歳で亡くなったお父さんがいました。あんなに元気闊達だった人がまさかという思いでした。油断大敵です。申すまでもなく、人の幸福は何が何でも先ず健康ですどんなに財産やお金があっても健康でなければ意味がありません。どんなに地位や名誉があっても健康でなければ幸せとはいえません。  
健康には運動も大事ですが、まず基本は食生活です。食べ物が体を作るからです。かけがえの無い体と命は健康でなければまっとうできません。健康こそ親孝行であり、子供孝行、家族孝行、しいては社会孝行なのです。それには自己責任が大部分なのですから強いて努めるべきです。  
「五つには成道の為の故に、今この食を受く。」この食事は仏道修行のためにいただきます。「いただく」のは「他の命」ですから余分には頂けません。そして「修行」のために頂くのです。その精進と感謝のこころを忘れてはなりません。  
今日の一番大事なところを最後にもう一度言います。「食事は薬だと思っていただくこと。健康には納豆をたべること。」これで来年の新盆の数は幾らか減るかもしれません。 
  
幸せであれ

 

目に見えるものでも、見えないものでも、  
遠くに住むものでも、近くに住むものでも  
すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、  
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ   
「仏陀の言葉 スッタニパータ」  
散る花の枝にもどらぬなげきとは 思いきれども思いきれども 一茶  
人が死んだ時に、最近の若い人達は「天国に行ってしまわれた」とか「天国で私達を見守っていてください」という表現をされます。こういう表現は最近、若い人達によくみられることです。一昔前では、人が亡くなると、「あの世すなわち冥土(めいど)へ旅立たれた」という言い方が一般的でした。  
一神教では、人が亡くなると魂は昇天して天国に行くと信じられています、神に召されて天国に行くのです。最近の日本人の若い人達にも、亡き人の魂は天国へ昇天する、そういう印象が持たれているようです。でも一神教の、神に召されて天国へ行くのとは、ニュアンス的にちょっとちがうようです。  
どうして最近の人々は、人の死を「あの世すなわち冥土へ旅立たつ」と言わなくなってしまったのでしょうか、どうして「天国に行ってしまう」というのでしょうか。  
仏教では悪人が死後に行くという苦しみに満ちた世界を地獄といいますが、その反対が天国です。また死後に行くという安楽な世界を、極楽とか極楽浄土ともいいます。最近の若い人達の天国というイメージは、極楽とはすこしちがうようで、天上の楽園のような世界がイメージされているようです。  
あの世、すなわち冥土へ行くにはそこへ通じる道があり、それを黄泉路(よみじ)とよびますが、その黄泉路をたどって、あの世すなわち冥土へ至ると考えられてきました。  
冥土に通じる黄泉路については、さまざまな想像がなされています。それは死後の世界である冥界(めいかい)にも地獄や極楽のちがいがあるから、冥界の入り口であるあの世とこの世の境、すなわち幽冥境(ゆうめいさかい)には、花が咲きほこる花園が広がっているとか、三途(さんず)の川があるとか、いろいろと語り継がれてきました。  
一昔前、亡骸(なきがら)は野辺(のべ)の送りの葬儀をして埋葬されました。死者を葬る儀式を葬式といいますが、最近では、葬式といわずに告別式として、荼毘(だび)に付し収骨して、後日、墓地等に納骨するというかたちが一般的になりました。49日の中陰(ちゅういん)の間は、遺骨が白木の位牌と遺影とともにまつられようになりました。  
このように、とむらいの見送りである葬送(そうそう)の儀礼が様変わりしてきたことから、亡き人は黄泉路をたどって冥土へ旅立つという言い方をせずに、告別式を終えるや魂は天国に昇天するというイメージに変わってきたのかもしれません。  
思ふまじ 思ふまじとは思えども 思い出しては袖しぼるなり 良寛  
人生の最後を病院でむかえ、そして病院から移送される先は住み慣れた自宅でなく、葬儀会館へ直行することが多くなってきました。かつては地縁血縁によって執り行われてきた葬儀が近年は様変わりしました。それは地縁のみならず血縁までもがその結びつきの絆が弱くなり、葬儀業者さんにすべてを委託するようになってきたからです。  
一昔前の葬儀は地縁である町や村の隣保と、親族である血縁の者が役割を分担して葬儀の諸準備にあたりました、そして、僧侶とともに葬儀を執り行いました。  
葬儀のかたちはその地方のしきたりにもとづいた野辺の送りであり、地縁血縁のものが、棺の前後に葬列をつくって住み慣れた自宅から埋葬する墓地へと送っていきました。墓穴を掘って埋葬地で念誦(ねんじゅ)がおこなわれ、最後の別れをして、遺体が埋葬されました。  
棺におさめる前に、遺体を湯でふいて清める湯灌(ゆかん)さえも葬儀業者にゆだねる今日の葬儀とちがって、地縁血縁の手による野辺の送りでは、送葬にかかわることで、命の重みを感じました。また送葬から中陰が満ちるまで、遺族の悲しみを和らげ癒してあげる、こまやかな心配りもされました。  
人の顔かたちがそれぞれにちがうように、人の死もさまざまです。葬儀のしきたりとして、長寿で亡くなられた人には、悲しみの中にも長寿がたたえられました。不自然な死、突然の死、若くして亡くなったものには、荒御霊(あらみたま)の鎮魂にも注意がはらわれました。  
最近では葬式は亡き人との別れを意味する告別式だと理解する人が多くなりましたが、仏の教えをいただかれた亡き人が、新たな仏の世界へ旅立たれるのを送る儀式でもあります。  
冥土へと送る野辺の送りは、冥土に至らしめるために黄泉路での平穏を願い、亡き人のご冥福を祈るものでした。野辺の送りの葬式から告別式のかたちに、葬儀が様変わりしてきたけれど、亡き人のお人柄がしのばれ、しかもご縁のあった方々との心の絆を大切にした、厳粛な、仏教徒らしい葬儀にしたいものです。  
ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば 父かとぞ思い母かとぞ思ふ 行基  
仏教では死後の世界をどう説いているでしょうか。お釈迦様は、死後のことよりもこの現世でどう生きるか、人間としての自覚と、よりよい生き方を教えられました。でも、一般に信じられている死後の世界をあえて否定はされませんでした。  
だれでも、いずれたどることになる黄泉路が平穏であり、冥土が安楽な世界であって欲しいと思う。幽冥境が花々の咲きほこるところであり、三途の川もおだやかに流れて、冥土が天国極楽であって欲しいと願う。  
死は恐ろしいからこそ、人はだれでも、あの世が幸せに満ちたところで、この世よりももっと楽しい住みよいところであって欲しいと思うのです。あの世が地獄であって欲しくないから、極楽とか極楽浄土として思い描き、天国に行きたいと願うのです。  
そのために、この世で善行を積み、その成績結果が評価されて極楽に行きたいという願望から、さまざまな地獄極楽話が生まれたようです。それは人の行いや分別によって、善い行いをしたものにはよい報いを、悪い行いをしたものには悪い報いを受けるという因果応報(いんがおうほう)にもとずくものです。  
地獄に行きたくない気持ちが、人の生き方を示した言葉であったり、諺(ことわざ)として語り伝えられてきました。  
嘘(うそ)をつくと地獄に行って閻魔(えんま)さんに舌をぬかれるから嘘をつくな。悪いことを重ねていると三途の川で閻魔さんに地獄に堕とされるから、悪いことをしてはいけないと親は子に善行を教えました。  
「地獄の沙汰も金次第」とは、この世はどんなことでも金銭さえあればなんでも望みがかなうという意味です。金で人生は買えないが、金で人生が変わってしまうこともある、人情は金で買えないけれど、人情が金の値打ちをつけることもある。人に助けてもらったり難を救われたりすると、「地獄で仏に会ったようだ」などと、困窮の果てに苦しんでいるとき予想もしなかった助けに出会った喜びをあらわしたりもします。  
「地獄は壁一重」とは、人間は欲望や油断から、失敗したり思いがけず犯罪を犯すことがあるから注意せよという戒めです。「黄泉路の障り」とは死んで冥土に行くときに支障となるものをいう、煩悩が多いと成仏できないことを言うのです。  
お釈迦様はご臨終の間際に、涅槃(ねはん)とは煩悩(ぼんのう)の炎を滅徐した寂静の境地であると諭されました。すべての悩み苦しみのない世界を涅槃といいます。涅槃の境地にどうすれば到達することができるのか、お釈迦様は最後の説法で、このことを説かれました。それで仏教では、人が死んで一切の苦しみも悩みもない心境に至ることを涅槃に入るといいます。  
年毎に咲くや吉野の山桜 樹を割りて見よ花のありかを 一休  
インドでは人のみならずあらゆる命は生まれ変わり死に変わりするものである、すなわち輪廻転生(りんねてんしょう)すると考えられていますから、今生の生き方が来世での生まれ変わりを決めることになる。したがって日々善行を心がけ悪行をしないという倫理意識が自然と生き方の基本になっていきます。  
日本では人は死ぬと黄泉路を経て冥土に至り、肉体は滅しても魂は生き続け、ご先祖様になって子孫を加護すると信じられてきました。それで子孫に尊敬され、崇(あが)められる先祖霊となるために、今生では善行に励み、悪行を慎むという倫理意識が尊ばれてきました。  
葬儀の後、49日の中陰の間も、地縁血縁のものが追善供養(ついぜんくよう)をつとめるという慣わしがあります。追善とは亡き人の代わりに善根功徳(ぜんこんくどく)を積むことです。善行を修すれば因果の道理によりて善き報いがある、けれども自分が受ける善報を自分が受けないで亡き人に手向(たむ)けるのです。追善供養とは冥界に至った亡き人の精霊に、物や心の施しをすることで、冥界で仏さまと同じ境界へ、すなわち亡き人を成仏させたいというのが本来の意味です。  
それは、今生に生きるものに対しても、よりよき人生を生きるために、善行に励むべきことを教えたものでもあります。  
大乗仏教においては、人間世界のほかに、人間以下に退化した四つの世界として地獄、餓鬼、畜生、修羅を、人間以上に進化した五つの世界として、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏、があるという考え方がされるようになりました。仏、菩薩、縁覚、声聞を四聖といい、天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄を六道といって、四聖は悟りの世界、六道を迷いの世界、あわせて十界という。  
お釈迦様は、この現世でどう生きるか、人間としての自覚と、よりよい生き方を教えられました。この十界はよりよき生き方を自覚するための指標としてあらわされたものです。  
葬儀は亡者を冥土へと送る儀式です、僧侶はその導をします。また生者すなわち遺族や会葬者は葬儀にかかわることで世の無常を感じて、儚き命を大切にして生きていくことを強く自覚するでしょう。  
最近では家族葬だとか、葬儀を簡素化するなどという、うわべのことばかりにこだわる傾向があります。葬儀は亡き人の人生をたたえるにふさわしいものであって、地縁血縁のもの、そして生前にご縁のあった方々との絆を大切にした、亡き人のお人柄がしのばれる、心あたたかなものにしたい。  
葬儀を終えた後で、いい葬儀であったと思えるならば、悲しみの気持ちは消えずとも、ほのぼのとしたぬくもりが感じられ、遺族の悲嘆もしだいに癒されていくでしょう。  
父母の命を受け継いだことは幸いです。亡き人の生きざま、技や智恵、教え、夢を引き継ぐことは幸いです。亡き人は冥土に行かれたけれど、墓にも仏壇にもまつられていますから、距離や時間を超えていつもこの世にあって、ともに生きています。亡き人と喜びも悲しみもともにして、日々を楽しく生きましょう。 
 
日本人論と仏教 / 山本七平の鈴木正三論をめぐって 

 

はじめに  
日本人論とは、「日本人の文化、社会、行動・思考様式の独自性を体系化、強調する言説」 といえるものである。この「日本人論」について船曳建夫は「近代の中に生きる日本人のアイデンティティの不安を日本人とは向かを説明することによって取り除こうとする性格を持つ」 ものであり、近代を生み出した西洋の地域的歴史に属さない日本が近代化しようとした結果、不可避的に生じたアイデンティティの不安であり、根源的であるが故に解消されない不安が常に新たな不安が生み、そのつど新たな日本人論が生み出されるとする。  
また、ここでは、価値判断がともなう「白木人はxxx であるべき」という規範的命令が「日本人はxxx である」 という事実命題に変換されるため、イデオロギーとしての機能を備え、文化ナショナリズムのー形態として捉えられることになる。こういった日本人論は、特に、高度経済成長期から安定期に移行する、1970年代後半から80 年初頭にかけてその最盛期を迎えたと言われるが、もちろん今もその生産が止まったわけではなく、21 世紀になってベストセラーとなった藤原正彦の「国家の品格」 は、記憶に新しいところであろう。  
一般に、戦後の日本人論では、自己の集団を他の集団を区別できる文化的・社会的特徴として、たとえば、集団主義、甘え、恩義、黙約などの叙述概念が使用され、それが日本人全体に適用されることになるが、歴史的に言っても、日本の文化・社会に圧倒的な影響を与え続けてきた仏教との関わりのなかではどのように語られるのであろうか。  
日本仏教が仏教である限り、特定の集団・地域を超える普通的価値を希求するものであり、ナショナリズム的な言説との軋轢を生み出すため、この点を回避しなければ、仏教的要素を日本人論に組み込むことはできない。こういった中、創り出されてきたのが、1979 年の出版当時ベストセラーとなった山本七平の「日本資本主義の精神ーなぜ一生懸命働くのか」 (光文社刊)に現れた鈴木正三論である。  
ここで、山本は、日本資本主義を支えたのは日本人の勤勉の精神であるとし、その源流を形作った思想家として、戦国末期から江戸初期という時代の転換期を生き抜いた禅僧、鈴木正三(1579-1655) を取り上げ、正三が提唱とした職業倫理に基づいた日本人論を構築する。これは、ハルミ・ベフがいう「大衆消費財」 としての泡沫的な「日本人論」 とは異なり、現在にいたるまで幾度となく取り上げられ、その命脈を保つことになるのである。この鈴木正三論について、学術的世界との関係、その後の展開、そして戦前の思想、状況との対比といった、より広い視点から再考しようとするのが、本稿の目的である。 
1 .鈴木正三の職業倫理について  
鈴木正三は、安易な出家主義をいましめ、士農工商がそれぞれの職分を尽くすことが仏道修行に他ならないとする「職分仏行説」 といわれる職業倫理を提唱した仏教思想家である。ここで、本題に入る前に、正三の職業倫理の概要を把握するために、その中核をなすものとして在自されてきた「世法則仏法」 という考え方を含め、「四民日用」 (「万民日用」として「三宝之徳用」「修行之念願」と合本され1661年に版行)に基づき紹介しておきたい。  
正三は「四民日用」のなかで、士農工商の身分(四民)それぞれについて、その日常生活の心得といったものを論じている。  
最初の「武士日用」で、  
世法仏法。率の両輪のごとしといへり。然れども、仏法なくとも、世間に事すべからず。何ぞ率の両輪に響たるや。  
と言う、ある武士の問いに対して、次のように答える。  
仏法世法二にあらず、仏語に、世間に入得すれば、出世余なしといへり、仏法も、世法も、理を正、義を行て、正直の道を用の外なし。一中略一 凡夫は先病を知るべし、生死無明の心中に、願倒迷妄の病あり。慳貪邪見病有、怯弱不義の病有、三議の心を根本として、八万四千の煩悩の病となる。此心を除滅するを仏法といようなれこれ則世法にことならんや。  
ここで、正三は世法と仏法が車の両輸のように支え合うものではなく、両者を同一のものとして捉える立場を表明し、続けて言う。  
仏道修行の人は、まず勇猛の心なくして、叶い難し。怯弱の心を以、仏道に入事有べからず。堅守、強修せずば、彼の煩悩に随て苦患を受くべし。堅固の心を以、万事に勝を道者とし、着相の念にして、万事に負て苦悩するを凡夫とす。去ば、煩悩心を以、血気の勇を励す人、一旦鉄壁を破る威勢ありといへども、血気終に尽て変ずる時節あり。丈夫の心は、不動にして、変ずる事なし。武士たる人、これを修して、何ぞ丈夫の心に至らざらんや。  
つまり、仏道修行は武士としての不動心を養うことに他ならないとするのである。正三の晩年の語録である「鎧鞍橋」 (下巻13) にも、世法則仏法を解説する際にしばしば引用される次のような箇所がある。  
我元ヨリ家職ヲ捨テ、法ヲ求ムルコト嫌也。殊ニ侍ノヲツキル杯ハ、カヂケタ心也。修行ノ為ニハ奉公ノ過ギタルコトナシ。出家シテハ却テ地獄ヲ作ラルベシ。奉公即修行ナリト、再三示シ給フ。  
これは、剃髪を請う旗本の子息に、安易な出家を誡め、翻意を促す正三の言葉であり、ここでは武士にとって奉公こそが修行であることが端的に述べられている。  
さて、次の「農民日用」 では、  
後生の一大事、疎ならずといへども、農業時を逐て暇なし。あさましき渡世の業をなし、今生むなしくして、未来の苦を受ベき事、無念の至りなり。何としてか仏果に至ベきや。  
との農民の問いに対して、正三は「農業則ち仏行なり」 とし、  
一鍬ー鍬に、南無阿弥陀仏、なむあみだ仏と唱え、一鎌一鎌に住して、他念なく農業をなさんには、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄食と成て、食する人、煩悩を消滅するの薬なるべし。  
と答える。  
続いて、「職人日用」では「何の事業も皆仏行なり」 と述べ、「商人日用」 では、  
一筋に国土のため万民のためとおもひ入て、自国の物を他国に移、他国の物を我国に持来て、遠国遠里に入渡し、諸人の心に叶べしと誓願をなして、国々をめぐる事は、業障を尽すべき修行なり。  
と説く。  
また、「職人日用」 では、  
諸職人なくしては、世界の用所、調べからず。武士となくして世治べからず。農人なくして世界の食物あるべからず。商人なくして世界の自由、成べからず。此外所有事業、出来て、世のためとなる。  
と述べ、それぞれの職業が社会を成り立たせるための有用な機能を有すると捉えるが、それをまた「本覚真如のー仏、百億分身して世界を利益するなり」 と再解釈することで、世法則仏法という考え方を補強していくのである。  
こういった、世俗的職業生活と仏道修行を同一視する正三の考え方それ自体は、聖俗の分離の傾向が強い当時の仏教界においては他に類を見ないものであったのは確かであるが、これをどのように思想的に評価するのかが問題となるのである。 
2 山本七平の鈴木正三論をめぐって  
正三の提唱する職業倫理について、山本七平は「この中、職人が物を作り出すことをー仏の徳用とし、また商人が完備した流通機構を作り出すことも人を自由にするという発想はきわめて近代的で、あると言わねばならない」 と述べ、「これが新しい職業観の確立となり、同時に日本資本主義の倫理の基礎となっても不思議ではない」 とする。  
そして、外国で「禅」 について質問されたときは、禅とエコノミック・アニマルは同じ発想、から出ているとして、  
日本人が働くのは経済的行為ではなく、「仏行外成作業有るべからず」 と信じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業則仏行であり、サラリーマン則仏行で、あり、働くことすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として利益するため、またサラリーマンは巡礼である。  
と答えることにしていると日本人の文化的特殊性を強調する。その一方で、それが西欧資本主義を生み出したピューリタン的な世俗内禁欲との機能的な類似性をもつことを随所に示唆し、日本が近代化を成し遂げた、即ち資本主義化した理由としていくのである。  
このようにして、正三の倫理思想を一躍有名にしたのは山本七平で、あるが、その捉え方は彼の独創ではない。著名なインド哲学・仏教研究者であり、比較思想学会の創始者でもある中村元が戦後まもなく「近世目本における批判的精神の一考察」 (1949年)において、すでに、これを西欧資本主義の発展を支えたプロテスタント倫理に匹敵する近代合理的精神の先駆けと評しているからである。  
とは言え、両者の説には本質的な違いがある。それは、中村が、  
西洋の宗教改革者の職業倫理説は現実の力となりえたけれど、正三のそれは、現実社会の経済的変革をもたらすところまでは到達しえなかったのである。マックス・ウェーパーはいみじくも、日本の宗教史においては、国家は宗教保護者CSchutzpatronat) ではなく、宗教警察CReligionspolizei) にすぎなかったと批評しているが、まさにこの宗教警察の絶大な圧力が、日本の宗教を萎縮させ、当然現実の力として発展しえたところの資本主義展開をめざすーつの仏教運動を、その萌芽の状態において封殺してしまったのである。  
と断じているからである。  
このように、中村説では「その萌芽の状態において封殺してしまった」 との歴史的な認識が語られているが、他方、中村説の「翻案作品」 ともいうべき山本説では、日本人が無意識に形成してきた労働倫理なり、職業倫理なりを仏教的論理をもって正三がはじめて言語化し、体系化したと捉え、中村のこの認識は無視される。「自分で自分を表現できない日本文化を表現した正三」、ここに日本人論としての眼目がある。  
もちろん、仏教研究者と日本人論作家の言説を同列に扱うことはできないのは当然であるが、問題はその後の展開にある。この中村説の存在により、山本説は通常は学的には認められることのない一過性の日本人論とは一線を画すことになり、その命脈を保つことになるからである。  
その端的な例が、1999年に出版された堀出一郎の「鈴木正三日本型勤勉思想の源流」 である。題名を見るだけでも分かるように、これは、山本の鈴木正三論を踏襲するものであるが、中村説がその論拠として用いられている。  
この一般の職業生活と仏道修行とのつながりを取り上げ「これこそ正三の思想、のもっとも著しい特徴」 と説いたのが中村博士であります。さらに、中村博士は「かくも大規模に職業理論を展開し、世俗的職業生活がそのまま仏道修行であるということを強調したのは、日本仏教史上においては、おそらく鈴木正三が最初の人であろう」 と強調されます。最初にお話しした山本七平も、日本人の勤勉性は、「働くことは善いことだ」という、江戸時代以来の、民衆の心の底に埋め込まれてきた思想に由来するものではないかと主張したのであります。  
しかし、堀出の書のどこにも、先ほど述べた中村の歴史認識はとりあげられることはないのである。  
このように山本説と中村説が交差するのは、上述の書だけではない。最近、鈴木正三の全著作及びその弟子、恵中・雲歩の著作の翻刻版を出版した神谷満雄が2001年に刊行した「鈴木正三 現代に生きる勤勉の精神」でも同じく見られるものである。  
また、正三の思想の中に近代合理性を見出す中村説そのものにも、その対論となる封建主義的解釈が家永三郎や柏原祐泉などの歴史学者によって提起されてきたことも忘れてはならない。ヘルマン・オームスがいみじくも語っているように、  
もし、正三を発展史的ないし比較論的地平で研究するのではなく、彼の教えを同時代の状況のなかで調べるならば、その政治的な狙いは明白である。それは庶民に対して、もっとも切迫したやり方、すなわち宗教的なやり方で、17世紀初め白木の新しい社会的政治的制度において割り当てられた場所につくように命じたのであるお。  
とは言え、2000年に出版された「比較思想、辞典」では、  
「世法則仏法」 の職業倫理を説いた鈴木正三にいたって、仏教の経済倫理は最も近代性を帯'びることになった。一中略一 正三の仏教的職業倫理と、そこに見られる彼の経済倫理は、近代西欧の「資本主義の精神」 を生み出した禁欲的プロテスタンテイズムの倫理に匹敵する規模の大きなものである。  
と対論を併記することもその歴史認識も語られることなく、中村説の骨格が記載され、それのみが学的な定着度を増すことになる。そして定着度が増せば増すほど、日本人論としての山本説の定説化が進むという、中村自身は予期しえなかったであろう波及効果を生むのである。  
さらに付言すれば、2004年に公刊された直木賞作家の長部日出雄の「仏教と資本主義」 では、鈴木正三の職業倫理を日本資本主義の精神の先駆けとして自明のものと捉えるだけでなく、さらに時代をさかのぼり、その本源が追及される。そして、行基の利他の菩薩行がそれであり、「わが国には、八世紀の天平時代、すでにく資本主義の精神〉が存在していた」 とまで主張するに至るのである。 
3 戦前における仏教の日本宗教化の動き  
さて、最後に、戦前の思想状況との対比という視点から、明治以降に現れた仏教に関わる日本人論的言説について触れておきたい。  
明治の近代化の中、日本人のアイデンティティの本源を仏教に求め、その日本宗教化のための論理を最初に構築したのは、護国愛理を提唱した仏教思想家、井上円了(1858-1919) であろう。  
円了は、その初期の著作「真理金針」で、「(仏教は)今日に至りてすでに千有余年わが国に伝来し、その人心に感染する」とし「かつ他邦にその極理のすでに跡を絶して、ひとり日本にその全教をみるをもって、これを日本自国の本教というのも不可なることなし」 と主張することで、仏教を日本の宗教として位置づけようとする。そればかりか、明治期のベストセラーで主著のーつとして挙げられる「仏教活論序論」 では、さらにこの立場を進め、次のように述べている。  
およそ物その初め他邦に産するも、これを自国に将来して数年力をその培養の方法に尽くし、今日幸いにその良種を得るに至り、しかしてその本国にありてはすでにその種を絶し、またこれを再培するに勢いなきときは、これを自国特有の産物として他邦に輪出するもあえて不可なる理なし、果たしてしからば、今日の仏教は日本の仏教なり、日本の特産なり。今後ますますこれをわが国に培養して、遠く外国に流布せざるべけんや。  
日本にだけ仏教という深理が残ったのであるから、それを活性化させれば、そのままグローパルに適用可能となるという一種の逆説を生む。つまり、ナショナリズム的な言説がそのままで、日本人や日本としづ特定の集団・地域を超える普遍的価値を有するものになるのである。  
こういった発想は日蓮主義の提唱者、田中智学(1861-1939) にも見られる。智学は国体主義のイデオローグとして、その思想は戦後、徹底的な批判を受けたため、現在ではあまり名が知られていないが、戦前においては「影響力の大きさから言えば日蓮系では智学以上の人物はいない」 と評される仏教思:想家である。  
その教学的主著「日蓮主義教学大観」で、  
釈尊は法華経を残した目的は、末法という濁悪闘争の時代をピンドとして、説かせられたから、その末法を去れば去る程、法華経の真相がボンヤリして来るので、末法に至て聖祖(日蓮)が法華経を解釈して、よくその深妙の極地に達したのは、釈尊の智慧に天台伝教等の智慧に加上て発展したのではなくて、釈尊が光線、ピンド、焼き其の他の度を、末法に合して置かれた、それを其方の如く写真に焼いたのが、聖祖所立の本化妙宗の宗義であるのだ。 ( )は筆者が挿入  
と述べているように、末法史観を前面に出すことで、自らが信奉する日蓮の法華経解釈、即ち本化妙宗の日本宗教化をおこなおうとする。そして、その普遍性の故に本化妙宗は当然の帰結として「日本国家ノ應サニ護持スベキ宗旨ニシテ、亦未来ニ於ケル宇内人類ノ必然同帰スベキ一大事因縁ノ至法」 となるのである。  
円了にしても、智学にしても、無論たんなる日本人論作家ではない。ある意味、真撃な仏教改革論者と言えるが、仏教(智学の場合は日蓮仏教)を日本人の精神性の根幹として捉えよう彼らの思考は、戦後、帝国主義的イデオロギーを支えたものとして批判され、その影を潜めていくことになるのである。  
しかし、戦後においても、実際のところ、戦前のように仏教の日本宗教化を行わない限り、仏教的要素を日本人論に正面から組み込むことは難しい。冒頭に述べたように、日本仏教が仏教である限り、特定の集団・地域を超える普遍的価値を希求するものであり、ナショナリズム的な言説との軋轢を生み出すからである。  
すでに触れたように、山本七平の言説ではこの問題が巧妙に回避されていると言える。山本は鈴木正三という一人の仏教思想家を取り上げ、日本人が無意識に形成してきた労働倫理なり、職業倫理なりを仏教的論理をもって正三がはじめて言語化し、体系化したと捉えることで、仏教の伝播史や日本における発展史といったものとの切り離しを行っているからである。これは、ある意味、鈴木大拙が「日本的霊性」 の中で言う「初めに日本民族の中に日本的霊性が存在していて、その霊性がたまたま仏教的なものに逢着して、自分のうちから、その本来具有底を顕現した」 とする考え方を彷彿させるものである。 
おわりに  
山本の鈴木正三論は、近代を生み出した西洋の地域的歴史に属さない日本が近代化しようとした結果、不可避的に生じたアイデンティティの不安を解消するという意味では、非常に有効に働くゆえに、一般に大きな支持を得たのであろう。  
そして、当初は日本人論の世界では山本説が、学術的世界では中村説が並行して論じられてきたが、2000年前後から両者が交差しはじめ、山本説は中村説によって補強されるという、他の日本人論には見られない道行きを辿ることになるのである。 
  
毛坊主と妙好人

 

道場と毛坊主  
「おじさんはお坊さんなのにどうして坊主じゃないの」と女の子に問われたことがある。坊主じゃないの?とは、正確には「坊主頭じゃないの?」ということである。  
今日は、この坊主頭でないわけを探りながら、現在の寺院のあり方を考えてみようと思う。  
私のような有髪で寺院と他の職を兼業している坊主のことを「毛坊主」という。江戸時代における飛騨の毛坊主について、百井塘雨の「笈埃(きゅうあい)随筆」には、次のように述べられている。  
「当国に毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔ふなり。是を毛坊主と称す。訳知らぬ者は、常の百姓より一階劣りて縁組などせずといへるは、僻事(ひがごと)なり。此者ども、何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして田畑の高を持ち、俗人とはいへども出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状・物体・筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難し。」  
当山は江戸時代は道場であった。道場とは、六字名号を掲げ、それを自家の一室の床の間にかけ、香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の施設を整えただけのもの。村人たちは、村長(むらおさ)を先達として正信偈をとなえ法話を聞く。この導師を毛坊主と称した。  
毛坊主は普段は百姓をしながら、村に葬儀や法事があれば僧侶に代わって導師をやっていた。実は、この状況は数百年後の現在も変わらない。私は百姓(もろもろの仕事)をしながらの毛坊主なのだ。ただ、本山で得度をし、住職の資格を得ているのが当時とは違うくらい。  
江戸時代は本末制度の上で、本寺を通じて六字名号や三具足などをお金を出して順番に揃えていった。本寺は本山とつながっている。もちろん檀家制度の元で役場のような役割もしている。  
「これらが農村の真宗寺院の前諸形態であった。このうち道場は近世中期、高山照蓮寺末として寺号を付することになったが、農家と差異はなかったようである。…毛坊主のゆえんは彼らが有髪であったところからきているが、無寺無僧の村方で死者葬送の必要からこうした者が要求されてきたのである。」 
道場から長善寺へ  
宝暦年間に小さな道場として成立した当山は、道場・毛坊主として道場を運営していたが、その後、明治五年頃に本堂を建立し寺院となった、築百年程の小さな寺である。  
これは、明治4年に時の政府が寺院の管轄・管理を改正して定めていることからきているのかも知れない。(いわゆる廃仏毀釈運動の一環である。)当時少ない檀家数で、小さいとはいえあれだけの本堂を建築するためには、檀家を初めとしてかなりの苦労があったことだろう。  
だから、小さな山村で檀家数とて少ない中では、むしろ百姓としての方が重きを成していた。当山の先祖は、江戸時代には正ヶ洞村の庄屋・長百姓として、用水の建設や田畑の開墾に苦労をした。川原に田んぼを作るために、過労で息子が亡くなったこともあった。村に医者をよぶ為に子どもに医者の修行をさせたこともある。(これについては【ふるさとの昔話:毛坊主】を参照)  
現在寺院の形式をとっているとはいえ、経営状況は当時とそんなに変らない。では、なぜ道場を作ったのだろうか。  
ここで、道場の歴史を振り返ってみよう。真宗の布教は蓮如上人によって、惣村の指導体制と門徒制とが結合して広がっていった。その場合、寺院の変遷の流れを大雑把に書けば、次のようになる。  
荘園制→惣村→門徒制(個人への経済的依存=講)惣道場→本末制→寺請け・檀家制(宗門改め・過去帳)  
中世から近世への大きな流れである。  
本末制度と檀家制・・・収奪の構造と上昇の構造  
蓮如上人以来、山村での布教は庄屋や長百姓を中心になされたので、寺院があったわけではなく、惣道場といって普通の農家に、名号を床の間に掲げただけの部屋に村人たちが集まり、長百姓を導師として正信偈や法話をしたのもと伝えられている。  
これは惣村の自治活動と結びつき、精神的なつながりや拠り所として真宗の教えが広まっていったものと思われる。  
ところが、近世になると、本末制度の元で名号だけでなく、伝絵や三具足などをとリそろえるようになっていった。この道具はかなり高額であったらしい。それにもかかわらず道場の形態をとり高額な道具を取り揃えようとしたのか。  
色々考えられるが、葬式すら出せない生活から、葬式を出してもらえる生活へというような生活の改善要求もあったと思われる。もちろん檀家の数を増やして本寺と肩を並べる寺院となる道もあったが、それはほんの一部であった。 
山村における在家仏教の担い手としての真宗  
念仏の道場が、村落にどのような精神的な影響を与えたのかを調べてみたら注目すべきことが見つかった。(高田満氏【人格の完成者と社会の形成者の一典型としての「妙好人」】より)  
江戸時代にたびたび訪れる飢饉。生産性のあがらない農業。そういった問題から、たびたび間引きと称される嬰児の殺害が行われた。  
間引き  
ところが、経済発展がないのに人口が増加している所がある。苦しくても人口が増えていた理由は、間引きをしなかったからだ。間引きをしなかったのは信仰による。  
「親は子どもたちを如来の預かりものと心得て育てるべきである。」  
という念仏の教えを、人を人として大切に扱う心を、山村の人たちが受け入れたのは、念仏には人が人として尊重されるという平等の思想があったからだ。  
でも、彼らは間引きをしなかったが、生活が楽になったわけではなかった。そこで食扶持(くいぶち)を減らすために彼らがとった手段は、冬季になると「寺参り」と称して、物乞いの旅に出ることであった。  
寺参り  
越前の山村では、秋までの農繁期が終わると、母親たち数名が交代で、善光寺参りと称して豊かそうな村や町を巡り、食べ物を恵んで貰いながら旅をするのである。もちろん農繁期になれば働き手として村に戻る。年貢で取られた残りの食料で冬を越すためには人数が多すぎる。食い扶持を減らすためにとった行動であった。  
このような苦労をしながらも念仏の教えは、山村の人々の精神的なよりどころとして定着していった。  
山村の生活  
山村の生活を少しでも良くする努力は明治になっても、昭和になっても少しも変らなかった。生産性を上げる・土木工事による水引き・医療・葬祭…いずれもなくてはならないものだった。そして、精神的なものも。村落をまとめるには何か精神的共同体をなしていくために精神的な支柱が必要だった。それを担ったのが念仏の教えであろう。  
在家仏教の担い手としての毛坊主  
この毛坊主は、真宗の本道であると考えられる。宗祖は愚禿親鸞と称され、寺院を持たないで布教に励まれた。その意味では、百姓をしながらの毛坊主は在家仏教と寺院仏教を融合した形と言ってもいいだろう。それは、現在組のほとんどの寺院のおかれている立場とあい通じている。経済的な困難さは昔からあったのだ。  
もちろん檀家制が、布教の努力を近世の仏教から奪い取ったことはゆがめないが、毛坊主を中心とした小さな山村の寺院が存続してきたのは、真宗の本質である在家仏教の担い手として少なからぬ力を発揮していたからではないだろうか。  
それは、この道から妙好人とよばれる人たちが出現したことによって明らかになってくる。 
 
我と来て 遊べや親の ない雀  
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり  
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る  
長き夜や 心の鬼が 身を責める  
小林一茶(宝暦十三〜文政十)の生涯は、実に苦難の連続であった。江戸に出て俳諧で身を立てようとしたが、父の死後、郷里へ帰って百姓をする。  
継母との遺産をめぐる確執、生まれた子や妻に先立たれ、自身は病気になって六十五年の生涯を終えた。そういった生活の中から弱いものの立場からの俳句が生まれる。  
彼の句集「おらが春」の最後に次のような文章がある。  
他力信心、他力信心と、一向に他力にちからを入れて、頼み込み候輩(やから)は、つひに他力縄に縛られて、自力地獄の炎の中へ、ぼたんとおち入り候。・・・  
ただ自力他力、何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申すばかり也。かくのごとく決定しての上には、なむあみだ佛という口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘の行なひして、人の目を霞め、世渡る雁のかりそめにも、我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持つべからず。しかる時は、あながち作り声に念仏申すに及ばす、ねがわずとも佛は守り給うべし。  
是則ち、当流の安心とは申す也。穴かしこ。  
ともかくも あなた任せの としの暮  
ここには一茶が、百姓をしながら安心を求めて聴聞を重ね、最後に到達した心境が示されている。一茶も妙好人の一人であった。  
さて、前述に毛坊主をとり上げ、その際、在家仏教が念仏の教えの真髄であるということを述べた。毛坊主も道場を主催しながら、葬儀や法事や法話などをした。そして、さらに在家の人たちの中で信心を得ていく人たちが出てくる。  
出家をせず、生産にたずさわりながら仏法に生きていく道。それが念仏の道である。その道の先に妙好人と称する人たちが出現する。彼らが自ら称したわけではない。善導大師の散善義にある「もし念仏の人はすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、…」から後の人が名づけたものだ。 
我田へ水を引く盗み心  
山農村の生活において、最も大切なものは水であった。田に水を引くことは、米を育てるためには最も大事なことであり、水は命と同じくらい大事なものであった。そして、そこから水をめぐる争いも多くなってくる。  
「うちの田にやる水をとるな」「まずおれの田へ」「うちの田んぼを締め切って、自分の所へ引いている」…と。  
先ほどの小林一茶の文章の中には、「我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持つべからず。」とある。水を引くことが盗むことなのかと不思議に思うほど、彼の中で葛藤の体験があったのだろう。それくらい村の人たちにとって水引きは重要なことであった。  
妙好人の中には次の様な行動をとった人もいた。  
(1) 他の田へ水を引かせた播州(兵庫県南西部)の卯右衛門  
ある年の夏は日照が続いた。卯右衛門は田の水を引きに行くと、川下の人が水を引きに来ていた。  
「わしは川上だから、あんたがまず引きなされ」  
と言った。川上の人と出会うと、  
「わしは川下じゃからまずあんたの方から引きなれ」  
と言って帰ってきた。  
(2) 水を勝手に引く他人を自らのこととした石州(島根県西部)の九兵衛  
ある年の夏、日照の時、山へ草刈に行った九兵衛が自分の田んぼを見ると、何者の仕業か溝の口を塞ぎ、自分の田へは水が一滴も来ていないで全て他人の田へ水が流れるようになっている。  
彼は草も刈らずにすぐに家に帰ると、仏壇の前で拝礼をし始めた。それを不思議に思った人が尋ねてみると、彼は溝の口のことを語り、  
「これはわしが前世に人の田へ掛ける水をせき止めた報いである。かっての自分だったら腹の立つに任せてまた人の水口を塞ぐはずだった。が、前世の業だと気づかせてくださったのは大善知識の御教化のたまものである。このお礼を申さないでおかれようか。」  
と語ったという。  
この行動に対して村人がとった行動は、なんと!  
百姓にとって命ほど大事な水をいつも譲っていた卯右衛門に対して、後に村人はこれを知って、卯右衛門が水引きにでた時は他の人は一人も出なかったという。  
九兵衛に対しては、村人はこれを聞いて、さても我々は恥ずかしい心であったと、それ以後は九兵衛の田にはいつも水が当たるように仕向けたという。  
彼らは何もせずに村(社会)を変えているではないか。 
私が泥棒であった  
同様の話がある。石州の善太郎という人は、ある時夜中に盗人に入られた。彼は息を詰めて念仏も申さぬようにしていた。盗人が物を持ってでようとした時に、  
「私が前世にて借りた品を取りに来てくださったのはご苦労様じゃ。」  
これを見ると、妙好人の行動が自ずと村における道徳を形成していったことがわかる。その根底には、「一切の有情は世々生々の父母兄弟である」という思想があった。  
「前世の宿業によって」というと、古臭い宿命論であり、かっての私はこの考えに肯けなかった。しかしこれは、他人の行動・盗みは、過去の自分がやったことであると考えることから来ている。  
この盗人は、かって自分が犯した盗みの被害者で、今それを取り戻しに来た。なんと、被害者と加害者が逆転している。つまり、盗人は自分であったと考えているのである。前世の云々は方便であり、一切の過去(宿業)は、今現在の自分の生の内にあると、とらえているのである。これこそ縁起(宿縁)による、諸法無我(自他不二)の考えである。  
自分とこの盗人は同じである。自分も盗みをする人間であった。しかし、今は仏の呼びかけを聞き、盗み心も出ないようになった。だから有難い。善智識や仏への感謝の念仏となる。  
不思議なのはこういった考え方がなぜ生まれたのかということである。教えられたり、こうしなければならないと強制されたわけではない。 本を読んだわけでもない。彼等は文字も読めない無学の人たちであった。無学であってもこのような平等観や無我思想をどうして得ることができたのか。 
彼らはいかなる修行をしていたのか  
実は彼らの修行は百姓仕事であった。彼らはいずれも無類の働き者であった。彼らの仕事振りを見ると、そこに仕事への集中を見ることができる。  
牛を人間と同じように扱った筑前(福岡県北西部)の正助さんを紹介しよう。  
ある時、蝗の被害で種が尽きた時、彼は自分の田で収穫した種を村人に無償で配布し、自らは草の根や木の皮を食べている。彼の田が被害にあわなかったのは毎日見回りをしていたからだろう。彼は、朝に牛の家に行って牛に語りかけ、その日の仕事を頼み、夕方にはその日の苦労を感謝し、鞍を自分で背負って帰ってきたといわれている。  
どうやら彼は牛を道具や自分の所有物として見てはいない。全人格をかけ仕事に、牛に接していたことがわかる。まさに〈我―汝〉の世界である。全身全霊を傾ける精神の統一。そこには能動的な行為が受動的な行為に転じて区別できなくなる時がある。そのとき彼は、切れ切れの断片ではなく自己の全てをあげて行為する全体的人間となっている。  
彼らは、仕事を通じて能動的な行為が受動的な行為に転ずるような修行をしていたといっても良い。 
妙好人の廻心  
彼らは無学であり、文字も読めない人が多かった。若い時には手のつけられない不良だった人もいる。また若い時から苦労している。無学な彼らが本や経を読めたはずがない。では、彼らはどうやって廻心を果たしたのだろうか。  
出会い  聴聞を重ねながらの善智識による化導  
まず挙げなければならないのは、彼等の周りに善智識がいたことだ。聴聞しながら生活の中で思い当たることがあると、彼等は自分の生き方に変えていった。生きた学問といっても良い。本を読むのでなく耳で聞いて生活に生かしている。  
仏による自己の受容  
彼らが苦しんだのは、自己の悪人性・凡夫性であった。そして、それをそのまま仏の前に投げ出すことに思い当たる。自己投棄であった。しかもそれは深い自己の省察からくる凡夫性の自覚を伴っていた。自力と他力の言葉を使えば、それまでの自力で生きてきた自分が消滅し、他力の世界に入ることであった。それは、単純に自分自身の凡夫性の自覚と、それをこそ救うという誓願を信ずることであった。  
救われていることの確証  
そして、凡夫であるがゆえに救われるという一点を、日々の生活で確証していく。それは先ほど挙げたいくつかの例の中に示されている。  
真理の確証と真理が現実化していく力  
〜せよ・〜せねばならないといった指示や強制があったわけではない。彼らの行為は内から沸き起こる行動であった。そして、同時にそれは仏の慈悲の確証でもあった。だからこそ仏の御恩と感謝したのだ。 
妙好人の見ていた世界  
彼等の行動はあきらめとは違う。一生懸命に働き、自他の区別無く、そういう自分であることすら仏に感謝する生活をしている。  
猟すなどり商いの世界は、周りを「対象物」としてとらえる傾向がある。ブーバーはそれを 〈我―それ〉の関係と示した。妙好人の世界はどうやら〈我―汝〉の世界のようである。  
自分の凡夫性を深く自覚し、日々の生活の中で起きることがさらにそれを検証し、気づかせてくれた仏に感謝する生活。そして、それが周りをも変えていく。  
山村共同体には生活道徳が必要であった。水争いや入会権など様々な問題が出てくる。当然警察などはいない。彼等は真宗の教えを共同体の精神的な支柱としていって自分たちの生活道徳としていったのだろう。  
例えば、「同じ親様の子」「世々生々の父母兄弟」「私もかって盗んだ」というような平等思想。彼等は他者の行為を自分の行為と見ている。まさに「無我(自他不二)」の世界である。他人を己と同体と見ていたからこそ、村の喜びを己が喜びとできる人たちであった。  
飢饉の時、自分の田の収穫を種として出し、己は村人と同じように草の根を食べている。だからこそ、村人たちは彼らを大切にし、彼らの行動を自分たちの道徳としていく。  
妙好人の生き方は、十分に現代のモデルとなりうるのではないだろうか。 
 
原始佛教と禪宗
 

 

小序
二千五百年前釋尊によりて印度に起された佛教は印度支那日本と順次流傳する間に幾多の宗派に岐れ、今日に至つては根本の佛教は殆ど忘却せられて枝末の宗派のみ重大視せらるるかの觀がある。事實上今日の佛教は皆その一班を教ふる宗派のみであつて、その全貌を説く佛教なる普遍名詞を以て呼ばるべきものではないのである。
釋尊の根本の教とは一體何であるか、佛教の根本經典とは一體何であるかは容易く解答し得られざる難問題であるが、その根本の教理は現存せる各種の聖典中、巴利文の尼柯耶とそれと對應せる漢文阿含部經典の中に最も多く見出さるべきことは何人も異議なき所であらう。
本書の目的とする所は先づこの根本經典の中に原始佛教の意義を探り、更にそれが今日の禪宗と如何なる關係を有するやを分明にせんとするにある。これを企つるの意は禪宗は常に佛法の總府を以て自ら任じて居るが故、一には如何なる程度までこの自信が正當視し得らるるやを觀、且つ現存せる宗派佛法中、禪宗は最も多く原始佛教の面影を保てるものと信ぜられて居る故、今日の禪宗の上に原始佛教の面目を彷彿せしめんとするに外ならない。これ等兩者の關係を明瞭にし、原始佛教は如何なるものなるやが幾分にても分明にさるることを得ば本小篇の世に出づる意は十分足れりとして可。
本書第一篇の初めの一部に對しては友人木村泰賢君の『印度哲學宗教史』に負ふ所が少くない。此處に記して同君に謝意を表する。大正十五年三月 立花俊道 誌 
緒論 
『原始佛教と禪宗』といふ、これを一箇の研究問題として見れば、これには大體二の方面あることが見出されるであらう。その一は歴史的で、釋尊によりて初めて起されたる佛教、即ち初期の佛教、根本佛教、原始佛教が如何に發達して今日の禪宗になつたかと云ふ、その發達の過程を尋ねるもので、これは禪宗の教理史であり思想史である。この場合吾吾はこの問題を單に『原始佛教と禪宗』と呼ばずして『原始佛教より禪宗へ』と呼ぶの一層適切なることを感ずるものである。佛教各宗は何れもその源流を原始佛教に發したものであるとすればこの歴史的の研究は啻に禪宗ばかりでなく、各宗ともに必ずあるべきものである。『原始佛教より眞言密教へ』『原始佛教より淨土教へ』といふことも勿論なくてはならぬ。而してこれ等の場合にありては原始佛教が如何なる發達をなして今日の眞言密教なり淨土教なりとなつたか、此處でその發達の過程が探求されるのである。或は眞言密教や淨土教は歴史を超越して居る、隨つて原始佛教とこれ等とを結びつけるべき必要もなく、又結びつくべき何物もない。或は又これ等は原始佛教時代からして、若しくは自然法爾に眞言密教であり淨土教であつたといふものがあるかも知れぬが、斯ういふ一切藏經皆佛説論や超歴史論之今日に於て一顧の價だに有せざることは吾が禪宗門に傳はれる靈山會上の拈華微笑の談の何等歴史的價値を有しないのと變る所はない。佛教各宗はその起源又少くもその關係を原始佛教に求めなければならない。而して原始佛教との關係が濃厚であればあるほどその宗派は佛教的であるといはれねばなるまいし、之に反して原始佛教との關係が希薄であり、外來の分子を含んで居ることが多ければ多いほどその宗派は非佛教的であると云はれねばならぬであろう。
二種の方面の第二は此の中間の歴史的過程を考察することを止めて現存のままの原始佛教と禪宗とを比較せんとするもので、前なる方面を歴史的と呼びたるに對し、これは單に比較研究と稱せらるべきものであろう。この場合ではこの問題を單に『原始佛教と禪宗』として取扱つて差支がない。前者では原始佛教より禪宗までの教理又は思想の成長發達の經路を探るのがその目的とする所であり、後者では未だ何等の成長發達をもなさざる原始佛教と既に成長發達を遂げたる禪宗とを比較せんとするものである。原始佛教と禪宗との兩者が如何なる程度まで共通の點を有するか、如何なる點に於て相背馳するか、禪宗は佛教の正脈であるといひ、總府であるといふ、若しさうだとすれば禪宗は佛教各宗中原始佛教と最も濃厚なる最も密接なる關係を有つて居るべき筈である。この禪宗は佛教の正脈であり總府であるといふ語が如何なる程度まで正當と認め得らるべきや、それを考察するのが二種の方面の第二で、これはまた同時に本編の目的とする所である。
原始佛教、根本佛教、又は初期の佛教などといふ語がよく用ひられて居るが、一體何が原始佛教であり、根本佛教、初期の佛教であるか。これ等の語の確かなる定義を與ふることは困難であらうかと思ふ。先づ歴史の上からいへば、佛教の初とは佛が初めて法を説かれた時であらうか、若しくは更に溯つて佛の成道とか、成佛の宣言とか出家とか誕生とかの何れに初まるとすべきものであらうか。即ちこれ等佛傳の上の事實は何れも原始佛教の範圍内に含まれるべきものであらうか、判然とは判らないのである。誕生と出家とはともに佛の事ではあるが、佛がまだ佛となられない前の事で、正當に佛教歴史の初であるかといふことになると、問題はよほど難解なものになりはしまいか。佛が佛となられたのはその成道の時であるが、この時は單に佛となられたに止まつて‐所謂自受用法樂の時で、佛に自分は佛になつたといふ自覺は勿論あつたらうが佛となられたことを他に向つて宣言されたわけでもない。佛がこれを宣言されたのは稍々後の事である。佛が成道後ブダガヤを引上げて鹿野苑に赴かれる途中阿耆毘迦‐活命外道のウバカ(中阿含、『羅摩經』では優陀、『五分律』では優波耆婆)といふものに逢ひ、彼の問に答へ、彼の疑を解くために自分は三藐三佛陀即ち正等覺者であることを宣言された。『羅摩經』に『自覺無上覺』とあるがこれにあたる。これが佛が自分は佛になつたといふことを他に向つて宣言された第一の場合である。しかし又佛が『轉法輪經』を説いて、その教を具體的に纏つたものとして發表されたのは鹿野苑初説法の時である。それで佛教歴史の初はこの初轉法輪即ち故リス・デビヅ教授の所謂『正法王國の建設』でなければならないやうだが、しかし一面から見れば佛が悟を開かれた時即ち佛たるの自覺を獲られた時が佛教史の正當なる初であるやうにも思へるし、或は又佛が自分は佛となつたと他に向つて宣言された時が佛教の初であるやうにも思はれる。
原始佛教の初を定むることは斯の如く困難であるが、その終を定めることは更に困難なことである。判り易くいへば釋尊一代の間だけを原始佛教といつたものであらうか、更に又第一結集とか第二結集とか第三結集とかいふものもこれに含めたものであらうか。第一結集は佛滅後間もなく行はれ、これには大して異議を唱へるものもなかつたが、夫から百年を隔てて行はれた第二結集には異議者が大分現はれた。所謂『十事の非法』なるものが毘舍離城なる伐地子の比丘等によりて正當として主張されたのであつた。夫から佛滅後四百年の間に小乘は二十部の多數に分裂した。原始佛教とはこれ等の總てを一所にして名けたものであらうか。吾吾は原始佛教とは原始時代の佛教、古い佛教、初期の佛教と解し、場合によつては阿含佛教、小乘佛教、南方佛教又は巴利佛教などと同一視して居るけれども、歴史の上に的確に時期を定めることになると殆ど不可能の事になりはしないかと思ふ。
以上は時間の上から的確な定義を下すことの困難なることを述べたものであるが、更に今日に殘つて居る材料に就ていうと、吾吾は何れと何れとを原始佛教の研究材料として取るべきやといふ難問題に遭遇することを覺悟しなければならない。巴利佛教聖典全部を原始佛教研究の資料と見るも如何であらうか。巴利佛教聖典とても後世の作、佛滅後數世紀或は十數世紀の間に出來たと思はれるものもないではない。隨つてその全部を原始佛教の研究資料と見るかは穩かではあるまい。嚴密に云へば原始佛教の研究資料たる巴利聖典は唯その幾分である。しかし何れと何れとが果してその所謂幾分であるかは亦容易く解答することが出來ない。
斯うして時間の上からいつても、その研究資料の上からいつても原始佛教と非原始佛教との間の境界を定めることは非常なる難事である。最も古き時代に説かれ、又は集められて今日に殘された聖典によつて傳へられたものが原始佛教である、と斯ういふより外に更に的確なる定義を下すことは到底不可能の事であるかと思はれる。唯吾人は當面の便宜上竝に必要上、釋尊及びその直弟子によつて説かれ、滅後直に行はれた第一結集の際に集められたと言ひ傳へられて居る聖典によれる佛教を指して原始佛教と呼ぶのである。即ち時間の上からは釋尊の成道若しくは初轉法輪の時から入滅後間もなき間、數十年の事であり、研究資料の上からは巴利聖典中の經律二藏の中、後世の作と思はれるものを除ける部分と、漢譯中これに適應する部分とに依らうと思ふのである。
上に原始、根本、初期の佛教、南方、巴利、阿含、小乘佛教など種種の文字を用ひて來たが、これ等の異つた語は皆同じものを指して居るであろうか。余の考によればその間に多少の相違があるやうである。原始、根本、初期の佛教といふは多少意見を異にする人もあらうが、大體同一物を指して居るであらう。これ等は阿含佛教又は小乘佛教と呼ぶ時と同じく巴利漢譯兩者からその研究の資料を提供されて居る。但し阿含佛教又は小乘佛教の名が一はその研究資料の限定されて居ることを示し、一はその内容の限定されて居ることを示せるに反して、原始、根本、初期の佛教といふ名はその内容も研究資料も、更に又最も重要なる問題たる歴史上の範圍も判然限定し得られないといふ相違あるのみである。南方佛教、巴利佛教といふ名は言ふまでもなく現時南方佛教諸國に行はれて居る佛教を指せるもので、學者によつてはこれを原始佛教と同一視するものもあるが、これは勿論穩當ではあるまいと思ふ。南方佛教といふは北方及び東方に行はれて居る佛教、大乘佛教と區別するために南方地方‐錫蘭(セイロン)、緬甸(ビルマ)、暹羅(シヤム)、柬蒲塞(カンボヂヤ)、老1(ラヲス)の地方に行はれて居る佛教に與へた便宜的の名稱で、これも決して的確な科學的な名稱とは云ひ難い。これはサー・チヤールス・エリオツトの云へる通り巴利佛教と呼ぶのが寧ろ適當である。
原始佛教はいふまでもなく釋尊の創始に係るものである。佛の初めて開創された教である。他の方面からいへば佛教の興起は全く佛の力、佛の獨創力によれるものである。しかし獨創の力に富み偉大なる痕跡を今日に殘された佛だとて時代の風潮と全然沒交渉であり一般の潮流より超然として言つたり行ふたりするわけには行かなかつた。佛はこの潮流に乘じてこれに順應して進まれたか、若しくはこれに背いてその逆轉を計られたかでなくてはならぬ。而してその態度の順逆何れにあるにせよ、その活動の極めて目覺ましいものであつたらうとは佛の傳記に就て何等の智識も有しないものでも容易く想像し得るところであらうし、事實またさうでもあつた。吾人は本論の劈頭に於て有史以來の印度思想の特色を擧げてこれを原始佛教の思想と比較し、兩者の如何なる點に於て相一致せざるやを明にしたいと思ふ。語を換へて言へば印度最古の文學たるヴェーダ(Veda)以下の印度の正系及び傍系思想を辿つて原始佛教の思想と比較しその相違せる點を明にしようといふのである。斯うすると佛教外の思想をその背景として描き出すのであるから原始佛教獨特の思想は自ら明瞭に現はれて來るであらう。これは原始佛教の思想を明にすることであり、同時に又禪宗の思想を明にすることである。
ヴェーダの讚歌には多くの神が現はれて出た。これ等の神神の中或ものは原始佛教の中に取り入れられてその神話と世界説との中に仕組まれて居る。しかし原始佛教内に於ける彼等の位置は低下して人間と同等若しくはそれ以下となつて了つた。ヴェーダの次に出たブラーフマナ(Brahmana)の時代では印度人は極度に祈祷の效力を信じた。彼等はヴェーダ時代の印度人がなしたやうに外に向つて神を讚仰し神に祈祷し神に犧牲を供してその威力にョることを止めて、主觀的態度を取り、祈祷の力を信じ、その力を以てしては如何なることをも成し遂げ得られると信ずるやうになつた。それからウパニシヤツド(Upanisad)の時代が來た。これは歴史上佛教の興起の少し前から初まり佛教の興起當時も勿論繼續して居た。この時代は印度人の思辯空想の盛なりし時代で、その反響の一端は佛教文學の中でもこれを窺ひ知ることが出來る。この思想を佛の實際的眼、實行を重んずる見地より見れば世にこれほど無用の閑事はなかつたのである。隨つて佛は極力これを排斥された。この外古來印度人の最も重要視したる苦行の如き、佛は解脱を得るに要なしとしてこれを排斥され、全世界中印度特有の制度として今日尚ほその存在を續けて居る彼の種族制度の如き、佛は四海四民平等主義の理想に戻るものとしてまたこれを排斥された。斯の如くして佛は佛出世以前及び佛在世當時の印度人が最も重要視したるものをば悉く排斥して自身は戒定慧の三學、無常無我苦の三特相、苦集滅道の四諦、正見正思惟正語正業正命正精進正念正定の八正道によりて現身に解脱涅槃を得るの可能なることを説き教へられた。即ち佛教は婆羅門教の神秘的迷信的哲學的宗教的なるに對して極めて倫理的合理的人間的常識的である。
然るに後世の大乘教となるに及び、佛教は原始時代に一旦背いた婆羅門教に還り、世界觀の上では汎神論を取り、實我説を取り、證悟契當はその實我を徹見することであると説明するやうになつた。即ち佛教は或意味に於ては婆羅門教と變らないものとなつて了つたのである。しかし斯うして非常な變化に逢つた佛教の中でも禪宗は原始佛教の面影を保有することの特に多き宗派である。吾人が本編に於て兩者の近い關係を明にせんと試みる所以の理は亦此處にある。そこで本編は
第一篇 古代印度思想と原始佛教
第二篇 禪宗と婆羅門教
第三篇 原始佛教と禪宗
との三篇より成る。これによりて兩者間の關係を出來るだけ明瞭に説き明したき考である。 
第一篇 古代印度思想と原始佛教 
第一章 ヴェーダの神觀と原始佛教
ヴェーダ(Veda)は現存せる印度歐羅巴文學中最も古き文學であつて、その成立年代は或は西紀前六千年より三千年の間とされ、或は西紀前千三百年より千年の間とされて居る。通常リグ(Rig)ヤジユル(Yajur)サーマ(Sama)アタルヴァ(Atharva)の四を合わせて四ヴェーダと稱するけれども、アタルヴァヴェーダのヴェーダの正經として認められるやうになつたのはよほど後世の事に屬するらしく、佛典の中では通常三ヴェーダの語を記し、アタルヴァの一を除くを例としてある。『諸經要集(スッタニパータ)』九二七偈の中に
『アータッバナ(Athabbana)の法は行はず、夢や相の占をも星術をもこれを行はざれ、吾が屬徒たるものは鳥獸の聲を判じ、病を醫し、妊娠の法を行ふことなかれ』
といふ文句があるが、佛の時代ではこれは單に病を癒したり、災難を避けたり、或は戰爭の起つた時敵中に惡疫を流行させたり災禍を下したりする法を説いた魔術の書と見做されて居て、他の三ヴェーダと同一に見られるべき權威ある經典とは認められては居なかつたのである。しかしこれは單に原始時代の佛典の中ばかりでなく、ずつと後に出來たとされて居るマヌ(Manu)の法典の中でさへ常に『三種の永久のヴェーダ』(trayam brahma sanatanam)の語を用ひてアタルヴァの一を除外するのが常である。同法典中唯一箇所(一一の三三)
『彼(婆羅門)をして躊躇する所なくアタルヴァン(Atharvan)及びアンギラス(Angiras)によりて啓示されたる聖典を用ひしめよ、語は實に婆羅門の武器にして彼はそを用ひて己の敵を屠ることを得』
といひ、アタルヴァン及びアンギラスの與ふる天啓の事を記してある。しかし尚ほアタルヴァヴェーダの語は用ひてない。先に擧げた『諸經要集』にアータッバナとあるはこのアタルヴァンの子孫の意である。
ヴェーダは一體如何なる性質の書であるかといふと、こは古代印度人が神を祭る時に唱へた讚美歌及び祈祷歌を集めたもので、彼等が祭を行ふ場合には祭火の中に醍醐(ギー、Ghrita)を溶かしたものを投じ、祭草の上に蘇摩(ソーマ、Soma)の液汁を注ぎ同時にこれ等の讚美歌及び祈祷歌を唱へて神を宥め讚め又は祈つたものであつた。これ等は何れも古來の敬虔なる詩僧(リシ、Risi)が作つて記憶によつてその家族に傳へたものであつたが、異れる時代に作られ異れる家族によりて傳へられたものが次第に寄せ集められてリグヴェーダ以下のヴェーダの形をなすやうになつたのである。
ヴェーダは斯うして讚美歌又は祈祷歌を集めたものであるが、これは同時に又一種の神話であつてこの中には自然界の現象又は力に神格を與へこれを神として崇めてある。古代印度の神といふは多くこれであつた。これ等の神は多くの點に於て人間に類似しその身體の形状、社會の階級、相互の家族的職業的關係は人類のそれ等と大體似て居るやうに描き出してある。彼等は本來死すべきものであつたが、蘇摩の酒を飮み、又はアグニ(Agni)及びサヴィトリ(Savitri)から贈物としてこれを受けたので、不死の身を得たといつてある。唯しかしこれ等の神神は一方から見れば多少異れる時代に現はれた多くの詩僧が各各獨特の詩想に任せて自由に描寫したものであるから、各神相互の關係は至つて混雜して居てその間には殆ど統一といふものがない。多くの神は力光輝恩惠智慧の如き屬性を他の神と共通に所有して居る。隨つて一の神を判然と他の神より區別することの出來ない場合が多い。而してこれ等の神神の人間に對する關係はといへばそはそれ等が代表する自然界の現象又は力の人間に對する關係と略ぼ同一なることを思はしめる。例へば火、特に祭の火に神格を與へて神となしたるアグニ(Agni)はグリハスパチ(Grihaspati)即ち家の主人と呼ばれ、人間の家のアチチ(Atithi)即ち客と呼ばれる。或は僧(Ritvij; Vipra; Purohita; Hotri; Adhvaryu; Brahman)即ち人と神の間の仲介をなすものと呼ばれる。これは祭の時火中に投ずる醍醐(ギー)その他のものは火によりて天上の神に運ばれ、斯くして祭の火は神人兩者間の仲介をなすこと僧の如くなりと信ぜられたからである。
因陀羅(インドラ、Indra)は初めは雷雨の神として旱魃と暗Kとの惡魔を除くものとされたが、後には戰の神としてアリヤン人(Aryans)が非アリヤン人即ちダーサ又はダシュ(Dasa, Dasyu)と呼ぶK色の蠻人と戰ふに力を添へる。この神は力強き武士として武士族のもののために崇拜される。ヴェーダ時代の數多き神神の中で最も重要なる神に非れば確かにその中の一で、リグヴェーダの讚美歌の中約四分の一はこの神を讚め又はこの神に祈るためのものであるといふ。人類に最高の利uを下すものであるが、同時に又肉慾的で粗暴で不道徳的である。
ウシャス(Usas)は曙の女神であつて水浴から出て來たもののやうに美はしく生生として東天に現はれ夜のKき幕を取拂つて暗Kを除く。この女神は齡古くはあるが再再生れることによつて若返る。その目覺める時は空の一端から一端を照し、天の門を開く。惡夢を拂ひ惡鬼を追ひ、嫌はれたる夜のKき幕を去る。暗Kのために隱されたる寶を現はしこれを豐かに惜気なく人に施す。總ての生物を睡眠より目覺めしめて活動に就かしめる。ウシャスは赤色の馬又は牝牛によつて挽かれたる輝く車に乘せられる。輝く車と云ひ赤色の馬又は牝牛と云ふは曉の赤き光線を指して居るであらう。
ラートリー(Ratri)は夜の女神でウシャスの姉であるとされて居る。ウシャスと同じく天の娘である。夜といつても眞暗闇の夜ではなくして燦然たる星光りの夜である。この夜の女神はあらゆる光彩を以て飾られたる暗Kを除くといつてあるが、これは星の光りのために天地の自ら明かなることを形容したものであらう。この神が近よると人も獸も鳥も共に休息をする。この神を崇拜するものは狼盗賊の害を免れ、安全の地に導かれる。この神はその妹なる神と雙神としてウシャサーナクタ(Usasanakta、曙と夜)又はナクトーシャーサー(Naktosasa、夜と曙)と呼ばれることがある。
ジャーヴァープリチヴィー(Dyavaprithivi)は天と地とを現はせる一對の神である。天地間に澄めるらゆる生物の父母として總てを造り總てを扶助する。一は多産的の牡牛で、一は雜色の牝牛である。共に無限の種子を有して決して老ゆることがない。彼等は廣くして大なる生物の住所である。彼等は食物と富とを供し、大なる名譽と主權とを與へる。彼等は生物の父母として彼等を護り彼等の不名譽と災禍とに陷るを防ぐ。
以上は唯數種の例を擧げたに過ぎないのであるが、これ等の例によりても推量し得られる通り、ヴェーダの神話の中の神とは、勿論その總てではないけれども、その中の大部分は自然界の現象殊に特異の現象に神格を付したもので、此處に神神として崇められて居る曙夜天地水火暴風降雨山河等の如きものが自然現象として有する特色は決して見逃されることはなかつた。これ等は常にこれ等の神を造つた詩僧の念頭を去ることはなかつたのであらう。隨つて吾人はこれ等の詩中に描き出されて居る神の屬性を聞いただけでもそれが何れの神の事なるやを容易く想像することが出來る。要するにこれ等詩僧の描き出したる神神の屬性は彼等が生活して居た社會の個人個人の屬性を客觀化したものに外ならない。
佛教はそれ自身の神話を有つて居るといふことが出來る。佛教の教ふる世界組織の中には多くの神の世界があり、その神の名目は吾人を以て婆羅門教の神、ヴェーダの神話中に現はれる神を思はしめるものが多い。實際佛教の神は多くの點に於て婆羅門教ヴェーダの神に似て居る。佛教文學中に見出されるヴェーダの神の主なるものは因陀羅(インドラ、Inda, Indra)梵天(ブラフマー、Brahma, Mahabrahma)生主(プラジャーパティ、Pajapati, Prajapati)婆樓那(バルナ、Varuna)伊舍那(イーシャーナ、Isana)パルジャンナ(Pajjunna, Parjanya)蘇摩(ソーマ、Soma)毘紐奴(ビシュヌ、Venhu, Visnu)及び下級神、阿修羅(アシュラ、Asura)夜叉(ヤクシャ、Yakkha, Yaksa)羅刹(ラークシャサ、Rakkhasa, Raksasa)毘舍闍(ビサーチャ、Pisaca)乾闥婆(ガンダルバ、Gandhabba, Gandharva)天女(アプサラス、Acchara, Apsaras)などである。
此處に一つ注意すべきことは原始佛教文學の中ではこれ等の神神は唯單に純然たる神話的の性質を有つて現はれることなく、一一多少道徳的の性質を有つて現はれるといふことである。即ち彼等は原始佛教の文學の中に現はれる限り道徳又は不道徳の行爲者である。語を換へて言へばヴェーダ文學の中でとは違つて、原始佛教文學の中では彼等は常に多少道徳上の目的から描き出されて居る。彼等の總ての起源がヴェーダに溯り得られるや否やは別として、彼等の神話は常に多少道徳的雰圍気に包まれて居る。彼等の佛教文學に現はれるのは常に或道徳上の必要に迫られてである。彼等は大體道徳上の立場から見られ、稀にその性質は中性又は無性である。即ち道徳的でも不道徳でもない。
第二は佛教文學の中では彼等は彼等がヴェーダ神話の中で有つて居た傳統的の高い地位を奪はれて了つた。彼等は最早崇拜讚仰の目的物ではない。彼等に讚美の辞や祈祷犧牲を奉ぐるものはいない。こは一は佛教は婆羅門教の神秘的宗教的儀式的なるに對して遙に人間的道徳的常識的であるからであり(緒論參照)、二は佛教は吾吾の開悟その他の上に於て吾吾の自力を用ふべきことを教へるからである。佛教の教によれば、吾人の開悟、解脱即ち吾人自身の救濟に對して外部のものは何らの力をも吾吾に借すことは出來ない。神の力も人の力も何らの用をもなさない。吾吾は自己の救濟には徹頭徹尾自己の力を用ひねばならないからである。而して第三には斯うして自己の力によつて佛果羅漢果の如き高き地位を占め得たものは普通謂ふ所の神以上に尊まるべきものであるからである。佛の考によれば佛阿羅漢は勿論のこと、向果の上にある人と雖も神以上に尊まるべきものである。
巴利文『大會經』(マハーサマヤスッタ、Mahasamaya-sutta,漢譯にては長阿含一二卷『大會經』及び『佛説三摩惹經』)には七十以上の神神の名を連ねてある。これ等の神神は佛及び佛弟子たちに敬意を表せんがために來たのである。漢譯の同經には
『復十方の諸神妙天あり、皆來つて集會す、如來及び比丘僧を禮敬せんがために』
といひ、
『今日大衆會し、諸天神普く集まる、皆法のための故に來り、無上衆を禮せんと欲す』
といつてある。同『阿2那智經』(アーターナーティヤ、Atanatiya-sutta)漢譯にては『佛説毘沙門天王經』には亦四十一の神の名を列ね擧げてあるが、此處に集つた四方の神神の中北方倶吠羅神(クベーラ、Kuvera, 毘沙門)は一同を代表して美しい偈を唱へ、佛及び過去に於ける佛の先輩『過去七佛』を讚歎し奉り、出家及び在家の佛弟子たちが森林の中に入つて冥想する場合、佛に對して信仰心を有せざる神が彼等に危害を加へるの虞あれば彼等はこの『阿2那智經』を誦すべきことを勸めた。この二の著しい經文の中にあつてさへ吾人は讚歎の辞や祈祷又は犧牲のこれ等の神神に對して奉げられたのを見ることがない。『阿2那智經』は一種の讚歌であつてこの中には諸佛讚歎の偈が載せてあるが、この中には希求、哀願、要請何れの意味に於ても祈祷といふものはない。唯これを反覆することは惡意を以て佛及び佛弟子に近づき來る神に對する自衛の道と信ぜられて居るだけである。
原始佛教文學中に於ける婆羅門神の地位を説明するには帝釋天(因陀羅)梵天(大梵天)の二大神を取つてこれを佛教の光によつて觀察するのが最良の方法であると信ずる。帝釋天は上にも言つた通り、ヴェーダでは初は雷雨の神であり次には軍の神であつたが、原始佛教の文學の中でも或程度まではこの性質を保留して居る。彼は提婆(デーヴァ、Deva)即ち天の長としてその敵なる阿修羅(アシュラ、Asura)との不斷の戰を指揮する。佛教文學中に於ける彼は一方極めて勇武であるが、一方には道徳的で善良で、ヴェーダ時代に於ける不道徳は勿論、粗暴な気まぐれな性質を有たなくなつた。阿修羅の軍は厚顔無恥にして惡意を有てる神であるが、帝釋天及びその眷屬即ち四天王及び三十三天は概して善良なる神である。帝釋天は前世に於ては七種の美徳(兩親に孝養であつた、家族中の長者を尊敬した、愛語を用ひ、惡口をせず、人へ物を施し、誠實で、慈愛であつた。『雜阿含』四〇の一)の所有者であつた。彼が帝釋天として生れ出たのはこの善業の結果である。彼は佛の説かれた法に對する信仰、善行、學問、施與、智識を讚美する。彼は佛、阿羅漢、有學の聖者に對して敬意を表する。帝釋天に關して最も感激すべき人情的の物語はこれである。
彼一日阿修羅軍と戰はんがため車に乘りて行く途中、綿樹の上に鳥の巣を構へたるを見た。彼は車の轅がその巣を壞たんことを恐れ、その御者馬多里(マータリ、Matali)に命じてこれを避けしめた。彼はこの時その巣を壞たんよりは寧ろ戰に敗れんといつたといふことである。(『長阿含』二一卷世記經、戰鬪品、『雜阿含』四六の一參照)。
帝釋天は斯の如く有徳の神ではあるが、佛及び阿羅漢果を成じた佛弟子には劣るものとしてある。何故なれば彼はまだ貪慾を離れて居らぬからである。帝釋天、生主、婆樓那、伊舍那はまだ貪慾を離れて居らない。それ故に天子等が阿修羅軍と戰うて怖畏を感ずる場合これ等の神神の旗印を見上ぐるともその怖畏より脱れることは出來まい。之に反して比丘等が森林樹下空屋の中にあつて怖畏を感ずる場合三寶を念ずれば彼等はこの怖畏より脱れ得るであらう。これ三寶は貪瞋癡その他の邪惡より逃れて居るからである。帝釋天は生老病死憂悲苦惱失望を免れる事が出來ない(『揶「含』一四の一參照)。これを免れることは佛教的修養の第一義諦で帝釋天はまだこの境地に達することが出來ないで居るのである。これが彼が佛及び佛弟子に劣れりとされた所以である。
ブラフマン即ちブラフマー(Brahma)は本來ヴェーダでは祈祷、聖典、聖語、聖智、僧又は聖典以下のものに内在する力の意であり、後に至つて阿中の第一原理、自存的最上精神の意を有つやうになつた。古代印度人の考によれば祈祷は深き信心の表現としては一種の力である。それによりて人間の意志と神の意志とが結合され、斯くして人は神を動かすことが出來、或は神を強ひて人の希求するものを與へしむることが出來ると信ぜられた。その結果としてヴェーダでは祈祷主(Brahmansapati, Brihaspati)が宇宙の第一原理と信ぜられて居たが、後になつては祈祷そのものが第一原理と信ぜられるやうになつた。斯くの如く本來單なる祈祷であつたブラフマン(Bra'hman)は宇宙の主なるブラフマン(Brahma'n)となつた。語典の上では中性名詞であつたものが男性名詞となつた。佛教がこの神に關する考を取入れたのはこの語が既に男性名詞となれる頃のことであつた。
佛教の宇宙觀では梵天即ち大梵天(Brahma, Mahabrahma)は色界初禪の最高の世界に住めるものである。初禪天の最下位に住めるものを梵衆天といひ、中位に住めるものを梵輔天といふ。これ等は大梵天の從者であり眷屬である。宇宙の第一原理、最高の自存者、絶對精神、これと結合することは婆羅門の最高の成功と思はれたる梵天(第六章、第七章參照)も佛教の中ではこの廣大なる宇宙の一部を支配する一の神と思はれたに過ぎない。ヴェーダ文學の中では祈祷、聖典、聖語、聖智、或は祈祷を奉げ、聖典聖語を知り、聖智を有する僧侶の意とせられ、聖典以下のものに内在する力の意とせられ、後世の婆羅門教にては最上の實在者、宇宙の創造者を指すものとされたが、佛教の宇宙説では色界最下の世界の主たるに過ぎないとされた。帝釋天は四天王及び三十三天の主で欲界の地居天の主であるが大梵天は色界初禪の主である。
大梵天、帝釋天を初め印度古代の神神が原始佛教の中では何故に斯うしてその地位を下げられ、その威力を剥ぎ取られたかというと、そは第一原始佛教は極めて人間的であり、人間本意であるがためと、第二はそが智と行とを本位とせる教であるが爲めである。唯一神にせよ、多神にせよ、神を宗教の主體とし神人合體を理想とせる宗教にあつては神は宗教の本位でなければならぬが、原始佛教の如く解脱の理想は古人の智的行的努力によりて、四諦の理を悟り、八正道を踏み行ふことによりて達せられるべきものと説く教にありては、神は重要視せさるべき謂れなく唯その古來の傳説によりてその存在を繼續するだけである。第二は原始佛教は特に行を重しとする教であるから人も神も共にこの同じ標準によりてその價値を判斷されねばならない。佛は自身刹帝利族に屬せられたから、武族の神帝釋天を重んぜらるべきであると思ふが、ヴェーダの中に於けるこの神の性格は道徳的には稍々劣つて居るから佛はこの神を大梵天以上に重要視するには躊躇されたであらう。大梵天は初禪の首位を占むるに對して帝釋天が唯欲界地居天の首位を占むるに止まるはこの意に基けるものではなからうか。
長阿含一六卷『堅固經』(Kevaddha-sutta)の中に、或神通力ある比丘に關する物語があるが、これは佛教中に於ける梵天の地位を明にするものとして此處に略説すべき必要がある。この比丘一日定中にあつて地水火風の四大の盡きる所を究めたいと思ひ、天上界に昇つて四天王にこれを問ふたが彼等はこれに答へることが出來ず、帝釋天に問へといつた。帝釋天もこれに答へ得なかつたので、比丘は上へ上へと昇つて終に梵天の世界に來た。梵衆梵輔の二天衆も同樣返答が出來ず、愈々大梵天自身に問ふこととなつた。しかし大梵天も四大は果して何處にありて盡きるやを知らずして當惑したが、自分の眷屬たる梵衆梵輔二天の面前で自分の無智を告白するは自分の威嚴を傷くるものであると思ひ、彼は話頭を他の方面へ導き大言壯語することによつてこの窮地より脱れ出でんと企て、比丘に向て
『余は梵天である、大梵天である、無能勝者、統千世界、最得自在、能造萬物、能爲變化、富貴、尊豪、衆生父母である』
といつた。比丘がこれは自分の知らうと思ふことでないといつても大梵天は三たびこれを繰返し、而して後座を下つて比丘の手を取り人なき所に伴れ行き何故に比丘の問に答へずして徒らに大言壯語せしやを語り、その無智を告白し、且つ人間の世界に還つてこれを佛に問ふべきことを忠告した。比丘はもちろん還つてこれを佛に問うた(長阿含『梵動經』參照)。
これは勿論一種の作話に過ぎない、『堅固經』大體の旨意はリス・デビヅによれば、神通の無用なることと世界は人人の心中に存して遠く他界に求むべきものでないといふ意味を含めたものであるといふが、一面には梵天が佛教で如何なる待遇を受けて居るか、語を換へて言へば梵天はその徳に於てもその智に於ても遙に佛に及ばざるものとされて居ることを示すものと見ることが出來よう。涅槃を體得した佛は無限性を得て居るが、梵天は原始佛教ではまだ有限である。一切智者たる佛の智慧は無限であるが、梵天の智慧は有限である。斯うして婆羅門教にては最高の尊貴、婆羅門生活の理想境に居るものとされたる梵天も佛教文學の中ではその世界説中の一隅を占むる一生物、唯他の生物より優れたる性質を有てる一生物に過ぎないものとされて居るのである。 
第二章 ブラーフマナの祈祷萬能と原始佛教
アリヤン人がその印度に於ける第一の定住地たるパンヂャーブ(Panjab)を去つて東南の方に進み、恒河(ガンガー、Ganga)耶尤那河(ヤムナー、Yamna)の豐饒なる流域即ち古代印度の歴史の上にて中部地方と稱する地方に移り、同所に定住するに至るや、彼らの宗教心理はよほど著しい變化を蒙つた。先づ第一に彼等は彼等がパンヂャーブに住んで居た頃のやうに讚美及び祈祷の上に自然の恩寵を感ずることがなくなつた。それかと云つてこの時代のアリヤン人は後世の彼等の子孫のやうに深遠なる哲學を組織して彼等の新らしい郷土に於ける気候の變化、社會の紛糾せる状態より生ずる艱難に對して慰藉を求めるといふほどにも進んでは居らなかつた。その結果としてこの時代の僧侶は煩瑣なる儀式を案出するに熱中したものである。祈祷又は犧牲は神を動かして人間の欲求する如何なる惠をも與へしむることを得といふ考は極端まで持つて行かれたのである。彼等は儀式が微細であればあるほど神を動かす力も強いと信じた。一方からいへばこは又婆羅門族が刹帝利族に對して優勝の地位を要求した結果でもあつた。即ち婆羅門族は微細にして神秘なる儀式を作出しこれを秘密に傳へた。ブラーフマナ(Brahmana)と稱する文學はこれ等の事柄を記せるものである。彼等は公言してこれ等の儀式を知れるもののみ獨り力強く、刹帝利、吠舍その他のものは國王自身と雖も、これ等の儀式の助を借りて初めて強きことを得といつた。而して極端に宗教的なる印度人は彼等の言ふことを容易く信じた。
リグヴェーダ時代に於ける印度人にも儀式の宗教の重要なる一部と看做されて居たことは事實である。しかしそれも決してこのブラーフマナ時代ほどではなかつた。この時代では儀式を微細にし神秘的にして儀式を行ふ人の一言一行はいふに及ばず、この儀式に用ひられる一箇の器物と雖も或種の神秘的なる意味を含んで居ると信ぜられた。之に加へてこの時代の印度人の考によればあらゆる自然現象、あらゆる人生の出來事も宗教上の儀式と或種の關係を有つて居た。物は有生と無生とに拘らず總て儀式と或種の關係を有つて居た。物の存在その事が既に儀式のためであつた。儀式は萬事であつた、一切であつた。斯の如くして出來上つたブラーフマナ文學は、アタルヴァヴェーダと共に西紀前一千年より八百年の間の作物であると信ぜられて居る。アタルヴァヴェーダはヴェーダの一部であるが、實際をいへばブラーフマナの序文と見られるべきものである。
ブラーフマナ中に見らるる婆羅門教の儀式主義と著しき對照を形造れるものは原始佛教の排儀式主義である。吾人が既に述べた通り、儀式尊重はブラーフマナ時代の一大異彩であつて儀式は自然現象より動物竝に人間生活の總てを支配した。神も人も有生物も無生物も祈祷又は犧牲の力によつて自由自在に動かされた。これがブラーフマナが構成された時代の印度人の有つて居た信仰であつた。翻つて佛教は如何と見れば、佛教には讚美歌又は犧牲を以て阿諛すべき神もなく、祈祷によりて希求又は祈願すべき神もない。佛教には神學(Theology)もなければ接神術(Theosophy)もない。神話(Miths, mythology)は或意味に於てはあるともいへようが、その神話及び世界説の中に現はれる神神は恩惠を下したり、害惡を除いたりすることを直接に祈願されることは決してなく、これ等の神は唯佛、佛弟子又は他の神聖にして有徳なる人人の何よりて人に保護を加へ人の危害を除くものと信ぜられて居た。佛教の神は一部は婆羅門教の神を取入れたものであることは確かであるが、これ等の神神はその神話及び世界説の上にその低き地位を保留して居るに過ぎない。~の力は削がれ、儀式の效力は全然認められなくなつて了つた。斯うして佛教は實行道徳主義を高調して現はれ出たのである。
これに關連して吾人はブラーフマナに載せてある犧牲に就いて一言するの必要あることを感ずる。犧牲は古代の印度人間では普通に行はれる儀式の一であつた。人間犧牲のことさへブラーフマナの中には載せてある。アイタレーヤ・ブラーフマナ(Aitareya-Brahmana)(七の一三)にはシュナフシェーパ(S'unahs'epa)といふ一少年の事が説いてある。
彼は國王の一子に代つて犧牲として神に奉げらるべきであつたが、神神が現はれて彼を救つたといはれて居る。
同ブラーフマナ(一の八)には又次のやうなことがいつてある。
神神はその儀性として人間を殺した。しかし人間の中で犧牲に適當なる部分は遁れて馬の中に入つた。それで馬は犧牲に適する動物となつた。神神は馬を殺した。しかし犧牲に適當なる部分は馬を遁れて牛に入つた。神神は牛を殺した。しかし犧牲に適する部分は遁れて羊に入つた。それから山羊に入つた。犧牲に適する部分は一番長く山羊に留まつた。隨つて山羊は犧牲として最も適當なる獸となつた。
シャタパタブラーフマナ(S'atapatha-Brahmana)(一、二、三の六‐七)にも次の如き物語がある。
神神は犧牲として先づ人間を奉げた。しかし人間の犧牲的の部分は人間を遁れて馬の中に入つた。夫故に馬を奉げた。しかし犧牲の精は又遁れて牛に入つた。精は更に遁れて羊に入り山羊に入り、又地に入つた。神神は地を掘つてその精を得んと試みると、それが米と麥の形をなして存することを見出した。夫故に『これを知るもの』(Ya evam veda)に取つては米と麥との奉げものは人間及び動物の奉げものと同じ效力がある。
斯ういふ記事からして馬牛羊山羊の如き動物の犧牲はブラーフマナの時代には極めて普通に行はれて居た事柄であるといふことが判らう。而して勿論普通ではなかつたかも知れぬが、人間の犧牲も全くないことはなかつた。馬と牛との犧牲は中止されたが、羊と山羊との犧牲は今日でも尚ほ行はれて居る所である。神神の心を和ぐるため斯の如き殘忍なる犧牲を行ふことが必要であると考へられて居たのであつた。
佛教に就ていへば佛教はこの種の殘忍事は一も有つて居らない。吾人が繰返していへる通り、佛教は犧牲の手段を用ひて機嫌を取り又は制裁を加ふべき神を有たない。而して人間は勿論の事、他の如何なる動物と雖もその生命を奪ふことは佛教では最も惡むべき罪惡の一と考へられて居る。Yanna(Yajna),Yttha(istha),Yaga,Yaja,Homa,Hutta,Havya,Huta,Bali,Puralasa(Purodasa)などの如き語は佛教聖典中に用ひられて居るが、併し常に特別の意味を與へてある。これ等は何れも單に奉げもの、供へものなどの意に過ぎない。佛教聖典中でこれ等の語のその本來の意義即ち犧牲の意に用ひられるのはそが婆羅門教徒の實行せる犧牲又は神供の意に用ひられる時である。生物の生命を奪ふことはそが如何に微細なる生物たるにせよ、佛教では非佛教的行爲として難ぜられ、一方には又慈愛同情人道主義は稱歎すべき美徳として常に擧げられて居る。斯る殘忍なる犧牲と佛教との兩立しないことは勿論いふまでもない。 
第三章 種族制度に對する原始佛教の態度
印度人は他に比類なき社會制度を有する國民として世界に知られて居るが、そは彼等がその特殊の種族制度を有し、而もそれが太古以來今日に至るまで固く守られて來て居るからである。種族の觀念はリグヴェーダ初期には全然ないものであつた。この時代のアリヤン人は無數の小部族に分れ、各部族はそれぞれ自己の長者を有つて居た。この程度の文明にありては各人共に同時に僧侶であり、武士であり、平民であつて、生れ又は職業に基く社會上の區別は一もなかつたのであるが、時の進むに隨つて社會はuu複雜となり、職業はuu專門的となつて或一部の人民又は家族は或特殊の事業に從事するといふ習慣の時代が到著したのである。宗教上の儀式は上にもいつた通り前よりも複雜となり、何人と雖も幼年時代より特にこれに教育されるでなければ儀式を行ふことが出來なくなつた。夫故に神と人との仲介をなす特權は或家の父より子に世襲的に傳へられた。婆羅門族(ブラーフマナ)は斯の如くして建設されたのである。小なる部族の長は常に他の部族を併呑することに熱中して居た。これには勿論成功したものも成功しないものもあつたが、その成功したもの、即ち都合よく四邊の小部族を併呑したものは統一王(Samraj)と稱せられ、その國土及び人民を保護するの必要よりして彼等は常に軍人を養ひ、調練を加ふるの必要があつた。武士族(クシャトリヤ)は斯うして起つた者である。その他の人民は廣い意味の實業に從事した。即ちマヌの法典(一の九〇)に所謂
『家畜の番をなし、施を行ひ、犧牲を奉げ、ヴェーダを學び、商業を營み、金を貸し、地を耕す』
などの事をやつた。よりて吠舍即ち庶民の一階級が形造られた。これ等の三種族は職業及び階級によりて區別されては居たが、共に同じアリヤン族に屬し、これ等の階級に屬するものは適當の儀式によりて入門式(Upanayana)を行つた後再生者(Dvija)と稱せられた。こは一たび母の胎内より生れて生命を獲、入門式によりて再び新なる生命を獲るからである。こは上に擧げた三階級の人人の生れながらにして有する特權であつたが、これ等の外にこの特權を全然有しない一の種族があつた。それは首陀(スードラ)といふものである。これを一生者(Ekaja)と呼ぶは母の胎内から生れ出るだけで、入門式によりて生ずる再生の特權を全然有つて居らぬからである。首陀は外來のアリヤン人に非る本來印度土著の人民を殘らず含めるもので、彼等はアリヤン人のために征服され奴隷として虐使された、宗教的にも社會的にも永久に呪はれたる人民である。マヌの法典(一の九一)には彼等は唯一の業を有するのみ、そは柔順に上の三族に仕へることであるといつてある。
斯の如き社會的區別が何時初めて出來たかは明瞭でない。唯吾吾はリグヴェーダ(一〇の九〇)に巨人の歌(Purusa-sukta)なるものを見出すが、その中に
『彼(即ち巨人)の口は婆羅門であつた。彼の兩腕は武士、彼の兩股は吠舍であつた、而して彼の兩足から首陀が生れた』(『摩登伽經卷上』)
と斯ういつてあるから、印度に於ける種族の觀念はずつと早い時代に溯ることが出來る、即ち少くもリグヴェーダの遅い時代まで溯つて行くことが出來よう。しかしこの組織の十分なる發達は勿論後日アリヤン人がパンジャーブを去りて中部地方に定住した後即ち印度宗教文學史の上でいへばブラーフマナ時代の事であつた。而して佛教の起つた頃は種族制度はその發達の頂點に達して居て、人の社會的地位及び職業はその生れによつて定められるを常として居た。人はその生れによつて生涯貴族たり平民たり富貴であり貧賤であり賢明であり愚癡であるべき運命を有つて居つた。人はその生れのために束縛され、ただその生れが許す範圍内に於て自由なることを得た。而してこの自由の範圍は極めて狹いものであつて上の三階級に屬するものと、下の一階級に屬するものとの交通は嚴密に又は絶對的に禁ぜられ、この禁制を犯すものは極めて重い社會的制裁を受けねばならなかった。上三族の中でも異れる種族に屬するものの間の婚姻は勿論の事、一所に飮食することさへ堅く禁ぜられ、人若しこれを犯せば彼はその族種を失い、子子孫孫浪人とならねばならなかつた。種族制度は社會的發達及び個人的自由に對しては實に永久的障害であつたのである。
種族制度に對する佛の態度は第一にはあらゆる種族の平等主義四海同胞主義を教へ、第二にはあらゆる人間の關係を道徳の根底の上に置くことであつた。佛は先づ次のやうなことをいはれた、
『比丘等よ、恒河(ガンガー、Ganga)、耶尤那河(ヤムナー、Yamna)、阿夷羅婆提(アチラヴァチー、Aciravati)、薩羅浮(サラブー、Sarabhu)及び摩企(マヒー、Mahi)等の如き大河の水が大海に入る時はその本名を失ひ唯大海のナニりて知らるるが如く、刹帝利(カッチャ)、婆羅門(ブラーフマナ)、吠舍(ヴェッサ)、首陀(スッダ)の四姓に屬する人人もその家を捨て如來の教へたまへる法と律とに於て出家生活に入る時はその本來の姓名を失ひ、唯釋子沙門の隨徒として知らるるに至る』(巴利文『揶鼈「含』四卷二〇三頁、漢文『揶黶x三七卷)。
この考は啻に僧伽即ち出家の弟子の間のみならず、在家の弟子の間にも推し及ぼされねばならない。即ち何人たりとも單にその生れによりて特權を得ることは出來ない。佛の教へられた法と律との上では何人も平等でなれけばならない。人類の間に區別を生ずるは生れでなくして行であるといふのが、佛の基本思想であつた。人は行によりて貴人ともなり賤人ともなり婆羅門ともなり旋陀羅(チャンダーラ)ともなる。佛が道徳教の教主、四海同胞主義平等主義の教師として斯の如き教を説かれるのは自然の事である。種族制度は本來アリヤンと非アリヤン人とを區別するため、次には婆羅門族の至高の地位を與へるために設けられたものであるが、佛は全然これを無視して
『生れによりて賤人たるにあらず、生れによりて婆羅門たるにあらず、業によりて賤人となり、業によりて婆羅門となる。』(『諸經要集』三六偈、漢文『雜阿含』四卷、『別譯雜阿含』一三卷)
といはれた。佛のこの態度はその自己の種族たる刹帝利を揚げて從來常に優勝の地位を占め來つた婆羅門族を抑ふるためと見られぬでもない。佛には斯うした意志が全然ないと否定はされぬかも知れぬが、勿論そればかりではない。佛は驕慢不逞の婆羅門を抑壓するがためにこの筆法を用ひられたかも知れぬが、しかし眞の婆羅門は常に讚美の辞を用ひてこれを稱揚された。 
第四章 苦行と原始佛教
佛教の教ふる所と印度の他の宗教の教ふる所と異なれりと思はれる點で今一つ顯著なるものはそれが苦行を排斥する點である。婆羅門教は解脱の道として苦行、供犧、開悟及び信仰の四を教へ、耆那教も亦解脱の道として開悟と苦行とを示した。婆羅門教の教ふる四種の解脱道の中、佛は唯開悟の一のみを取りて他の三を全然無視し、又は極力排斥された。佛はその成道後第一の説法なる『轉法輪經』の中で、その最初の弟子等五人のために苦樂の二邊即ち兩極端を避けて中道に就くべきことを教へられた。即ち一面には俗惡なる享樂主義を排し、一面には苦痛多き苦行主義を排せられたのである。その時佛の用ひられた語は
『比丘等よ、出家者たるものは、これ等二の極端にョつてはならない。二の極端とは何であるか、それは(一)この諸欲の上に於て享樂に熱中することで、卑しく鄙び、凡夫的非聖者的で、人を不利に導くものと(二)この自身を苦しむることに熱中することで、苦痛多く非聖者的で人を不利に導くものとである』
であつた。斯うして佛は極めて明白に宣言して、苦行主義をば欲樂主義肉慾主義と同じやうに排斥すべきことを教へられ、この苦樂の二邊即ち兩極端を避けて中道にョるべきことを説かれた。苦樂の二邊を離れた中道とは八正道のことである。
佛がその最初の説法の劈頭に於て斯ういふ宣言をされたに就ては多少の理由がある。佛は出家後間もなく阿羅羅(アーラーラ、Alara)、迦藍(カーラーマ、Kalama)と羅摩(ラーマ)の子鬱頭藍(ウッダカ、Uddaka Ramaputta)とを訪ひ解脱の道を問はれたが、前者は無所有處を以て後者は非想非非想處を以て各各自ら達し得る極度の點と信じて居たので、佛は彼等の教ふる所に滿足し得られず、彼等を捨てて苦行林中に入つて苦行に身を委ねられた。この時この所にあつて世尊と同じく劇しき苦行を行ひ世尊を信じ且つ尊敬して世尊の遠からず悟を開きたまふべきを期待して居たものはこの五人の弟子であつた。世尊はその當時の印度の宗教的風俗に倣うて極度の苦行を行ひ
『日に一麻米を進む、示現して此を服す、入息出でず、還報の息なきことを示す』(『普曜經』卷五)
とか、
『太子正眞道を求めんがための故に、淨心に戒を守り、日に一麻一米を食む、設乞ふ者あれば亦以て之を施す』(『過去現在因果經』卷三)
といつてあるやうなことを行はれた。佛が巴利文『本生物語』九四の中にも
『苦行家としての余は極度の苦行家であつた』
といつて居られる言に徴しても判る通り佛自身も斯ういふ苦行を行はれたのである。
當時印度に行はれて居た苦行の種類は如何いふものであつたか、此處にそれを一瞥するは興味あることであり又重要なることである。今長阿含十六卷『3形梵志經』、『方廣大荘嚴經』七卷、『過去現在因果經』三卷、『普曜經』五卷などによつて當時行はれて居た苦行の重なる種類を列擧して見よう。弊衣粗食樹下石上の如き衣食住の簡素主義は古昔の印度の苦行者に取つては何でもないことであつた。或は水ばかりを飮んだ、或は上にも記した通り、一日一麻一米を取り若し乞ふものがあればそれをも施した。斷食の結果餓死するをも意としなかつた。意としない所ではない、耆那教徒の如きはそれを幸福なりと見た。乞食に出て若し主人喜んで施せば受けるが、少しでも悋むやうな顔をすれば受けない。隨つて一粒の米をも喉に通さずして一日を過すこともあつた。杵臼の音及び狗の吠ゆる聲を聞けば乞食を止める、喚び戻されても受けない。寒を履んで煖に就かず、熱に處して涼を求めず、風雨を避けず蚊虻を逐はず、或は五熱を以て身を炙り、煙を以て鼻を熏じた。灰や塵土を以て身に塗り髪や鬚を引き抜いだ。常に兩手を擧げ、常に立ち常に噂まり常に一足を擧げ、仰いで日月を觀て居た。或は板棘刺灰糞瓦石の上に臥た。或は高い巖から身を投げた。或は自ら身を打擲した。その結果としては(これは佛の苦行に就いていつたのであるが)
『顔貌愁悴、身形萎熟、猶ほその所親を喪ひ、葬送既に畢り、忍を抑へて歸るが如し』(『過去現在因果經』卷三)
又は
『血肉盡く乾枯し、形體極めて贏痩せり』(『方廣大荘嚴經』卷七)
といつてあるやうに、苦行の結果は實に悲慘の極であつた。つまり、斯うして肉身を苦しむれば苦しめるほど人間は靈的となり神聖となり神秘的となると信ぜられた。印度人の如く精神的であり、宗教的であり、神秘を悦ぶ人民に取つて斯ういふ信仰の出で來るのは一向不思議ではない。或は又この肉體に苦痛を與へそれによりて身心を鍛錬することは人間が修行をするに絶好の手段であると信ぜられた。更に又苦行は印度人に取りては一面には解脱の道であり、一面には魔力、超人間的の不可思議力を得るの道と信ぜられた。インド人の考によれば苦行生活をする人はあらゆる人間中最高最尊の人であつた。彼等の眼にはヴァーナブラスタ即ち林棲者又はサンニャーシン即ち遁世者の生活は實に人間の最も理想的な生活の道として映じたであらう。
梵語では苦行の事をタパス(Tapas)といふが、これはtap(熱す)といふ語根から來た名詞で、もとは單に『熱』の意味であつたが、それが『熱誠』、『熱烈』の意となり、更に難行苦行の意を有するやうになつたのである。このタパスは印度人に取つては極めて重要なる異議を有する事柄で、リグヴェーダでは
『タパスによりて原人は創造を初め、タパスによりてリタ(Rita)即ち自然界及び人事界の秩序は保たれ、タパスによりて帝釋天は天界に勝利を制した。タパスによりて人は生天の果報を得る』
などといつてある。リグヴェーダに用ひてあるタパスの意義は難行苦行までは及ばなかつたかも知れぬ、恐くは熱誠熱烈の意であつたらう。ブラーフマナによれば神神は苦行の效によつて神聖なる身となつた。リブ(Ribhu)(半神的生物)は蘇摩の飮料の配分に預つた。神神は犧牲、苦行、懺悔によりて天界を征服した。生主は世界を創造せんがために先づ苦行を行うた。苦行によつて仙人は生れた。この時代になつてはタパスは全く苦行の意と解せられて居たのである。この古い考え及び實行は今日と雖も尚ほ續いて印度人の考へ且つ實行して居る所と云つて宜しい。タパスに對する印度人の信仰は今も昔も變る所はない。
佛はその最初の説法に宣言された通り、苦行主義に對しては全く反對の態度を取られた。さうかといつて享樂主義をも勿論是認されない。自らは非苦非樂の中道主義を取るといはれた。しかしその實行上の教の極めて嚴肅に克己自制的なる點を見れば佛教も今日の吾人の眼には何れかといへば苦行的である。今日の吾人の眼には原始時代の佛教はやはり苦行主義を肯定するものと見えるが、當時の印度人の眼にはよほど放縱なる生活振を教へるものと見えたであらう。これは五人群の比丘が鹿野苑で世尊の遠くから近づいて來られるのを見た時、世尊は先に苦行林で眞摯なる苦行を廃せられ、普通人の生活に還られたから吾吾は敬意を以て迎へることをしまいと約束したといふことによつてもこれを察することが出來る。佛の實行教の今日の吾人の眼に苦行主義を説くものと映ずるだけ、佛も根底から苦行を排斥することはされなかつた。長阿含十六卷『3形梵志經』に3形梵志迦葉が佛は一切諸祭祀法を呵責し、苦行人を罵つて弊穢とされると聞くが、この噂に僞りはありませんかといふ意味の事を問うと、佛はこれに答へて自分は苦行者の中死後或は天の善處に生れ或は地獄に墜つるものあることを知つて居る。それで如何して苦行者を罵ることをしようぞと答へられた。即ち佛は一概に苦行者を排斥された譯ではない。唯婆羅門教の教ふるやうな苦行のための苦行といふ極端なる苦行を排斥されたのである。佛の斯うして苦行を排斥されたのは犧牲や儀式を排斥されたのと同じく第一にその效力を信ぜられなかつたからであり、第二には恐く當時印度の苦行が動もすれば職業的となり、苦行によりて衣食の資を得るものもあつたからであらう。要するに佛は根底から苦行を排斥されたのではなく唯それを極端に持運ぶことを排斥されたのである。 
第五章 ウパニシャッド及び原始佛教の智慧
ウパニシャッド(Upanisad)とは古代印度婆羅門教の四種の天啓(Sruti)の第三のものに名けた名稱である。こは獨立せる一種の文學のやうに普通考へられて居るが、その實はブラーフマナの最後の一部を形造れるものに過ぎない。その成立した年代は、古ウパニシャッドに就いていうと、大凡西紀前七百年より五百年の間と考へられて居る。即ち佛教の興起以前百餘年よりその興起の篤時代にまで及ぶのである。ウパニシャッドで取扱つてある問題は主として字宙及び個人の本體に關するもので、前者はこれを最上我(Paramatman)又は大我と呼び後者はこれを命我(Jivatman)又は個人我と呼ぶ。涅槃即ち彼等の所謂梵涅槃(Brahma-nirvana)とは智慧の力によりてこの個人我が最上我と冥合することをいふのである。姉崎博士の『現身佛と法身佛』(七頁)に
『婆羅門教の解脱とは吾と梵とが一致なることを悟得する事、即ち吾が絶對に梵に歸入し合一したるに外ならない。この解脱は智見悟徹によりて得らるべく、斯うして得られた境地を梵涅槃と呼ぶ』
といつてあるはやはりこの事柄を言ひ表はせるものに過ぎない。
吾人が上に既に述べた通り、ブラーフマナは神の機嫌を取り又は神を制裁するの目的を以て行はれた儀式の規則及びそれを行ふに就ての心得を取扱へる文學である。この時代では儀式は恩寵を與へ害惡を除かんことを神に求むるには最も效力ある方法と信ぜられたが時の經過とともに彼等の考へにも一轉化を來した。而してその轉化の理由は大體下の通りである。久しくアリヤン部族間に行はれ來つた戰爭が止んで、彼等は精神上の問題に費やすべき時間を得た。この時代の特徴として見るべきものは刹帝利族出身のものがこの新らしき運動の指導者たるべき地位に立つたといふことである。これと關連してウパニシャッドの末期に起れる佛教及び耆那致の開祖はともに刹帝利族に屬するものであつたといふ事實をも併せ考ふべきである。この時代以前即ち、ヴェーダ及びブラーフマナの時代は婆羅門族ばアリヤン社會全體に對して絶對の權威を有つて居たが、ウパニシャッドの時代になると彼等の權威は制限せられ、國民の生活は世俗的となり、僧侶は温和になり普通人民は以前よりも重大視せられるに至つた。一言にしていへば婆羅門族の勢力衰え他の種族のものが勢を得るやうになつた。戰爭の止んだ結果として刹帝利族のものは精神的の事柄、特に哲學上の問題の研究に從事するやうになつた。而してウパニシャッドはこの時期に於けるアリヤン人の精神的發達の産物である。
印度の歴史を通じて智慧は常に重要なる地位を占めたものである。印度思想のこの特色は早くヴェーダ文學中に認められた。世界の起原、質料(Substance)、その構成の過程、その他これ等と類似の問題は同文學中所所に言及されて居る所である。ブラーフマナは主として儀式を取扱へるものであるが、これ等及び他の哲學上の問題もこの中には多少討議されて居る。ブラフマンば宇宙の第一原因であり、アートマンは個人的精神であること、兩者の間の冥合、輪廻、解脱の教など總て或程度まではブラーフマナの中にも論じてある。しかしこれ等の問題の詳しき説明、及びその哲學的討議はウパニシャッドに至つて初めてこれを見ることが出來る。ウパニシャッドに入つて初めて印度人はこれ等の問題の眞面目なる研究に著手した。吾人は、此處にウパニシャッドが如何にこれ等の特殊の問題を取扱ふやを詳しく論じようとするのではない、唯この時代の印度人に取つては智慧は最も重要なるものであつたといふことを記すれば足りるのである。
ヴェーダ及びブラーフマナ時代では自然を神として崇拜し、儀式を行うてこれ等の神の媚を求めたものであつたが、ウパニシャッドになると人間そのものが自然界のあらゆる勢力よりも更に重要なるものとなり、人間そのものは自然の説明者であり、同時に説明であるとされるに至つた。即ち吾人が宇宙に内在する神をば直接に看取し得るは吾人の心中であるとされた。即ち從來神や儀式や唯外界にのみ向つて居た印度人の宗數的思想は人間の心中にその方向を轉じて來たのである。この時代の印度人は只外形的の儀式によりて彼等が宗教によりて得んと期待して居た心の滿足を得ることが出來なかつた。それ故に彼等は人間を中心とせる哲學上の思辯の上に心の滿足を見出さんと試みた。彼等は智慧をこの目的を達する上の最上の方便と考へ、人間生存の最高理想たる梵との合一も、智慧の力によりのみ果し得らるべきものとした。斯の如く知る人(Ya evam veda)には何事も果し又は達し得られないものはない。何物も彼を害することは出來ず、何人も彼と競ふことは出來ない。智慧は婆羅門に取りてはて最高の所有物であり、この智慧を所有する人は最高の價値ある人である。
道徳的見地から見て吾吾はこの思想の中に三箇の著しき意義あることを發見するのである。先づ第一に智慧は絶對的の價値を有し、あらゆるものに對して效力を有つて居る。斯の如く知る人はその罪惡から免除される。火の木を燒くが如く斯の如く知る人總てその罪惡を燒き盡して清淨潔白となり腐朽と死滅とを免かれる(ブリハド、五の一四の八)。黄金を盗むこと、酒を飮むこと、師の妻を犯すこと、而して婆羅門を殺すことと、この四は婆羅門の四大罪惡であるが、五神火の秘法を知れるものはこれ羅罪惡のために汚されることなく、清淨潔白となり、清淨なる世界の所有者となる(チャーンドーギャ、五の一〇の九‐一○、『摩登伽經』卷上)。伊師迦(イシーカー)と名くる葦の柔かなる纖維の火中に投ぜらるれば燒き盡されるが如くアグニホートラの意義を知りてこの供犧を行ふものはその罪惡總て燒き盡さる(同、五の二四の三)といつてある。斯くしてウパニシャッド時代の婆羅門に取つては先づ第一に智慧は道徳に優つて居た。斯の如く知る人に取つては罪惡といふものはなかつた。智慧は彼等が犯す所の罪惡を總て消盡した。智慧の前には道徳は全くその權威を失つて了つた。しかし時の經過とともにこの考へは少し變じて善行は智慧と同樣に價値あるものと認められるに至つた。カタウパニシャッド(三の六‐八)に
『理解力を有し、その心常に堅く持せられ、その感官は御者のよき馬の如く制せられたるもの……理解力を有し注意深くして常に清きものは實に到りて再び生るることなき所に至る』
といひ、同ウパニシャッド(二の二四)に
『先づその邪惡より脱れざるもの。禪定なく攝制なきもの、心安息せざるものは智慧を以てしても我を得る(アートマン)こと能はず』
といつてある。斯の如くして以前にあつた、『斯の如く知る人』はあらゆる罪過より除外されるといふ思想は少しく修正を加へられ、善行は智慧と同樣に必要なるものと認められるやうになつた。この二種の殆ど相反對せる思想と相對して第三の變化が起つた。それは智慧ある人は善業又は惡業の差別的思想に累せられないといふことである。斯の如き人は「何故に余は善をなさざりしや、何故に余は惡をなししや』等の思に累せられしことなし。斯の如く知る人はこれ等の思想より己を救ふ(タイチリーヤ、二の九)といつてある。智慧の人即ち斯の如く知る人は高く善又は惡の道徳的差別なき天地に飛翔し、差別的觀念に全然打ち克つて了つて居るのである。
佛教の智を重んずることは素より論を俟たない。佛教はウパニシャッドと同じく智慧を重んずる。姉崎博士が『現身佛と法身佛』(七頁)の中に
『佛教では梵なる實體の觀念、吾なる個人の本體の觀念をも排斥したけれどもその知力主義、觀念主義なる點に於ては婆羅門教の教ふる所と變ることはなかつた』
といはれるのは至言である。煩惱の斷絶、悟又は涅槃を成ずること、輪廻よりの解脱、四諦の了解、八正道の實踐など總て根本的に智慧の力によるものである。夫故に智慧は佛教には缺くべからざるものであり、之に反して、無智は最も卑むべき害惡の一である。佛はいはれた
『比丘等よ。汝と我と斯の如く久しく馳走し輪廻の疲れ多き道を轉轉流浪ぜざるを得ざりしは四諦の理を了解し會得し得ざりしためなり』(巴利『揶黶x二卷一頁、漢譯『揶黶x一七卷、法顯譯『大般温涅槃經』卷上)。『智なければ定なく、定なければ智なし、智と定とを有するもの彼は涅槃に近づけるなり』(『法句』三七二)。『邪惡の何處より起るやを知るものはよくこれを除く。斯くて彼等はこの渡り難くして渡られしことなき暴流を渡る。再び生を受けざらんがために』(『諸經要集』二七三)。
智は三學の一であり、智の反對なる無明は三毒即ち三種の根本害惡の一である。智は四力(Bala)五根(Indriya)四法(Dhamma)四分(Anga)の一である。念(Sati)覺(Sampajanna)擇法(Dhamma-Vicaya)七菩提分法(Bojjhanga)正見(Samma-ditthi)正念(Samma-sati)正憶念(Yoniso manasi-Kara)は智の中に含められる事が出來よう。佛の名號を一瞥しても如何に智慧の佛教に重んぜられるやを知ることが出來る。
   佛陀、三佛陀、三藐三佛陀
   十力(Dasabala)
   師(Sattha)
   一切智者(Sabbannu)
   有眼者(Cakkhuma)
   普眼者(Samanta-cakkhu)
   善逝(Sugata)
   大智者(Bhuripanna)
   如來(Tathagata)
   世間解(Lokavidu)
これ等は佛教文學中最も普通に現はれる佛の稱號の少數に過ぎぬが、此處にこれ等の稱號の中に、佛教の智慧を重んずる意味が十分に現はれて居るを見ることが出來ると思ふ。即ち佛教は智慧を重んずることウパニシャッドに劣ることはないのである。これで又一はこれ等兩者が同一時代に屬することを悟ることが出來よう。實際智慧を重んずることは當時一般の習であつた。
ウパニシャッドと原始佛教とはこの點までは竝進するが、此處に至つて兩者は各各異なれる方向を取るやうになる。それはウパニシャッドは智を重んずること道徳以上なるに反し、佛教は決してさう遠く進むことはなかつたからである。原始佛教では智は常に道徳のために制裁され、若しくは智と徳とは常に竝行する。これが原始佛教がウパニシャッドや大乘佛教のやうに哲學的方面に於て大なる成功を擧げることが出來なかつた理由の一である。要するに智と徳とは竝行するか、又は徳は光、智は後であるかである。佛教では智と徳とを同一視して智者は必ず徳者なりといふが如きことは決してない。唯兩者の間に密接の關係ありと見たることは確かである。例へば
『淨戒と正見とを具し、自ら己の業をなすもの、世は斯の如き人を愛す』(『法句』二一七)、『老後に至るまで戒を持つは樂、正信を樹つるは樂、智慧を得るは樂しく、惡を作さざるは樂し』(同三三三)
といつてある。戒ある人、賢き人、即ち徳者と智者とは全く同一視されないまでも兩者は極めて密接の關係ありと見られて居ることはこれで明白である。一方に於ては戒は三學の首位に居ることより察して佛教の修養は道徳に初まるといふことを知ることが出來る。佛教の高き修養に志あるものは第一に道徳の人でなければならない。
『徳の上に立ちて智者は心の集中と智慧とを養ふ。熱烈にして勤勉なる比丘はその纏結を解かん』(巴利『雜阿』一卷の一三頁及一六五頁、漢譯『雜阿』二三卷、『別譯雜阿』九卷)。『常に徳と智を所有し、よく平静に達して熱烈に專心なるものは渡ること難き暴流を渡る』(巴利『雜阿』一卷五三頁)。
斯の如く佛の智を重んぜられたことは事實であるが、而もこれを徳以上に置かれたことはなく、尚又た徳と智とを同一視されたこともなかつた。
しかしこの智の上に於て原始佛教はウパニシャッドと一致する一の點を有つて居る。それは吾人が上の三箇の著しい點といつた中の最後の點である。但しこの點に於ても吾吾は佛教とウパニシャッドとの間に尚ほ多少の距離あることを認めざるを得ないのである。こは既に上にいつた通りウパニシャッドは常に智慧に最上の地位を與へ佛教は常に徳を以てこれを牽制せんとして居るにも因るであらう。『斯の如く知れる人』は智慧の力によりて道徳上の差別的觀念を遁れ得とされて居る。彼は余は何故に善をなさざりしや、余は何故に惡をなししやといふが如き考へを以て己を惱ますことなし、善惡の二を知るものは自由なり(タイチリーヤ、二の九)。或理由のために惡をなしたといひ、或理由のために善をなしたといふ。斯の如き二種の思は彼に克つことがない。彼は兩者に打ち克つて居る。而して彼が作したことも作さなかつたこともともに彼を惱ますことがない(ブリハド、四の四の二二)。斯くて全能的のウパニシャッドの智慧は智者を倫理的差別の範圍外に超脱せしめる。一方に於て原始佛教は倫理道徳的の宗教として道徳的差別を全然超脱するが如きことは決して期待されることが出來ない。而も吾吾はウパニシャッドのと殆ど同じ思想の聖典中所所に述べられて居るのを見出すのである。これは或は當時一般的思想の影響と見るべきものであるかも知れない。眞の意味の比丘、婆羅門、又は佛は善惡、罪福、喜不喜、淨不淨その他の差別的觀念を離れて居る。例へば
『罪業福業共に捨てて清淨行の人たり、智慧を以つて世界を渡るもの、彼ぞ比丘と稱せらる』(『法句』二六七)、『此處に福業も罪業も共に脱れて著を伏し憂なく染なく清淨なるもの、この人を吾は婆羅門と呼ぶ』(同四一二)、『智者は一切處に依ョすることなく、喜も不喜もなすことなし、憂悲慳貪の彼を汚すことなき、葉上の水の汚すことなきが如し』(『諸經要集』八一一、『義足經』卷上)。
斯の如く佛教にては比丘、婆羅門、佛陀はウパニシャッドの『斯の如く知れる人』の代りとなる。彼等は善惡、罪福、喜不喜、淨不淨の差別的觀念の上に超然たるものと考へられて居る。而して斯の如き境界は完全なる道徳意識の活動によりて達し得られたる精神的修養の結果であることは論を待たない。吾吾がこの程度の修養を得る時は差別的觀念の絶對的に絶滅し得られること、ウパニシャッドの『斯の如く知れる人』の場合と異る所はない。
ホプキンス博士はいつた
『婆羅門教に取つて智慧は幸福の道であり、耆那教徒に取つては苦行は幸福の道であり、佛教徒に取つて清淨と愛とは幸福の道である。』
佛教は智慧を重んじ、苦行も或程度までは、これを是認しないことはない。しかし佛教は智慧は重んずることはウパニシャッドには及ばず、苦行を是認するといつてもそれは耆那教や婆羅門教には及ばない。佛教は何物よりも清淨及び愛即ち廣き意味の道徳を貴ぶ。要するに佛教は倫理的異彩を有てる宗教である。 
第二篇 禪宗と婆羅門教 
第六章 梵と眞如
日本現在の佛教各宗の中で、佛教本來の教の外、所謂外來の分子を何程か含まないものは全くないといつてよからうと思ふ。例へば眞言密教の如き、その行ふ所の儀式即ち秘法の類を見ても、その崇拜する神神即ち同教で明王部又は天部と稱するものを見ても、そは婆羅門教に近い關係のあることは否定し得べからざる事實である。即ち眞言密教は婆羅門教の極度に儀式特に供犧を重んじ儀式の效力を信じた時代、婆羅門聖典文學史の上でいへばブラーフマナ時代、又は少し溯つたアタルヴァヴェーダ時代の婆羅門教より大なる影響を蒙つたものであらう。眞言密教の印度に起つたのは勿論ずつと後の事である。西紀後二世紀か三世紀か、それとも六七世紀か、兎に角大分後の事であるが、それが含んで居る佛教以外の分子は斯うして一千年も昔既に印度に存在して居たのである。それを取り入れて作つた佛教が眞言密教である。佛は婆羅門教に背いて佛教を起されたのであつたが、後世の佛教は却つてこれに化せられて了つた。而してその最も著しい例の一はこの眞言密教である。
淨土教にしてもこれと同樣で、阿彌陀佛に關する教の全部の起源を單に佛教のみに求めるといふことは到底不可能である。或は印度にある總ての教を探索しても阿彌陀佛の如き佛(又は神)は發見されなからうと思ふ。それで自然に阿彌陀佛の起源はこれを印度以外の何處かに求めねばならぬことになる。佛國の東洋學界の泰斗たるシルヴァンレヴィー氏は
『阿彌陀佛の觀念、信仰、名稱は古代の婆羅門教にも、又古代の佛教にも全然無關係なもので、印度自身が説明し得ざるものである。而してこれ等の觀念乃至名稱はゾロアスター教のイランには極めてありふれたものである』(『龍谷大學論叢』二五〇號九頁)
といつて居る。この事に就いてはサー・チャールス・エリオッド氏も殆どこれと同じやうなことを云つて居る。氏はその大著述なる『印度教及び佛教』の中に、佛教とゾロアスター教との接觸竝に阿彌陀佛の創造に就いて可なり詳しく考證して居る(同書三卷、二〇二頁、二〇九頁、二一六‐二二〇頁)が、中に
『西部支那及び中央アジアでは佛教、道教、摩尼教、景教及びゾロアスター教が互に教理を借り取つたことは今尚ほ支那でやつて居ると同じであつたらう。而して佛教はこの接觸によつて變化した』(同卷二一七頁)
と云ひ、
『阿彌陀佛の根本の特點は光明の極樂世界であつて、そは慈悲の世界のものであること、而しその名號を唱ふる善人はその所に導かれることである。この二種の特點はゾロアスター教の文獻中にも出て居る、最高の天(善思善語善業の極樂の後に來る所の)は無量光又は無邊光と名けられる。この處もその主なるアフラ・マヅダも共に常に光明及び光榮を含める語を以て述べてある。こは又ちやうど阿彌陀の極樂世界が音樂と樂しい音に鳴り響いて居るやうに、歌の世界である。祈祷によつて此處に生れることが出來るし、アフラ・マヅダと大天使とが迎へに來て信仰篤い人へその道を示してやる』(同卷二二〇頁)
と云つて居る。氏の説は前に引いたシルヴァン・レヴィー氏の説と同じく阿彌陀佛はゾロアスター教から來た佛、ゾロアスター教の善神光明神アフラ・マヅダが正しくその正體で、同教のこの神には阿彌陀佛に關する傳説と殆んど同じ傳説が附隨して居るといふのである。『揶黶xや『雜』の如き阿含經には佛法僧の三念、佛法僧天戒施の六念、これに休息、安般、身、死の四を加へた十念といふものがあるが、念佛はこの三者の何れにも加つて居るし、而もこの三念六念十念の功徳によつて未來天上界に生れることも説いてあるから一見すると阿彌陀佛を念じ未來極樂に往生するといふ信仰もここに萌して居るかとも思へるが、しかし同じ念佛は念佛でもそれとこれとは大に違ふし、第一阿彌陀佛の名や極樂世界(スカーヴァチー)の名稱の天の如きも佛教の世界説中には見えない。更に又極樂淨土を西方十萬憶土にありと説く所を見、阿彌陀佛が印度の古い藝術に現れて居ない所を見、而して又淨土教の經典を初めて譯した人は總て西域即ち今日の中央アジアの人であつた點などを見てもシルヴァン・レヴィーやサー・チャールスの阿彌陀佛の起源を印度と見ずして波斯と見るの必ずしも根據なき談でないことが察せられよう。
以上は單に眞言密教と淨土教についていつたのであるが、これ等以外の宗派についても同じことがいはれようかと思ふ。要するに何れの宗派にせよ、多かれ少かれ、佛教としては皆不純な分子を含まないものはないといふことになるのである。
然らば我が禪宗は如何であらうか。禪宗が印度、中央アジア、支那、日本の各國に傳はり流布して居る間に、その教の中に、佛教外の原素を取り入れた事實はなからうかといふと、私は大にあらうと思ふ。禪宗が支那で老荘の學派と接觸してその所謂虚静恬淡無爲無欲の教味を多分に攝取したことは何人も否定せざる所である。しかしこればかりではなく、既に印度に於て禪宗は佛教外の教理、所謂外道の説を取り入れた事實がありはしまいかといふに私はこれも大にあつたことと信ずる。こは勿論獨り禪宗ばかりではない、大乘教は皆さうであつたらう。例へば大乘佛教の教とウパニシャッド及びヴェーダーンタの教とを比較して見ると、前者の眞如法性と後者の梵との間には極めて著しい類點がある。而してこの類點たるや決して偶然に出來た類點ではない。眞如法性の教は原始佛教が發達して大乘佛教となる間にその教義の發達の自然の結果として出て來たものではなく、ブラーフマナ、ウパニシャッド、ヴェーダーンタと印度思想の本系中にあつた梵の教義が何時とはなしに佛教の中に取り入れられたのである。兩者の間に著しい類點のあるのは決して偶然ではない。
ブラーフマン即ち梵といふ語はリグヴェーダでは聖歌、祈祷、聖典、聖智等の意義を有つて居たが、それと同時にこの聖歌乃至聖智に内在する力の意義をも有つて居た。梵が後に至つて自存者(Svayambhu)即ち世界の第一原因となつたのはこの後の意義あるによるのである。ウパニシャッドの中では世界の起源の説明は初めには極めて物質的であつた。即ち世界の起源は或は水、或は空、或は非有、或は有、或は不滅と種種のものに歸せられたが、それがやがて梵といふものに統一されて了つた。勿論梵なる世界の第一原因が出てからも他の名も用ひられたが、これ等は多くの場合に於て梵の屬性の一部を見たり、梵の一方面のみを見たり、或は凡を有形又は無形のものに即して見たりするより生ずる概念の相違に過ぎなかつた。梵は雰圍の空であり、生気であり、樂であり、虚空であり(チャーンドーギャ四の一〇の五)、日月電空風火水その他のものであり(ブリハド二の一)、食気意識又は歡喜である(タイチリーヤ三)とされたこともあるが、梵の一概念は總てこれを統括し包含し盡した。即ち梵は一方に於ては世界を創造し世界の事物を産み出し又は自己を分解してこれ等のものを作り出したものであるが、又一方に於ては一切に貫通し一切に即して遍在する實在體である。語を換へて言へば梵と宇宙間の事物とは一即一切、一切即一であり、有形無形悉く梵に歸入し皆梵と同一體といふことになるのである(タイチリーヤ二の六)。僧肇法師の語として知らるる『天地同根、萬物一體』の語も要するにこの意義を表はせるものに外ならない。天地萬物悉皆即梵であり、皆梵に歸入するが故に同根であり一體であるのである。然らばその梵とは如何なるものであるか、梵の定義は如何といふことになると、そは到底與へ得らるべきものではない。梵の本體は不可知、不可説、不可得、不可解である。梵は言詮不及意路不到の當體で、肯定的の語を用ひては到底これを形容することは出來ない、唯『あらず、あらず(ネーチ、ネーチ)』といつて示すより外にこれを示すべき道がない(ブリハド三の九の二六以下諸所)。
これを『起信論』に
『是の故に一切法、從本已來言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして變異あるなし、破壞すべからず、唯是一心、故に眞如と名く』
といへる文、及び『傳心法要』に
『此の心無始以來、曾て生ぜず、曾て滅せず、青ならず、黄ならず、形なく相なく、有無に屬せず、新舊を計らず、長に非ず短に非ず、大に非ず小に非ず、一切の限量、名言、蹤跡、對待を超過し、當體全是』
といつてある文と併せ見ると、實大乘の眞如なるものは畢竟婆羅門教の梵と異なるものてないことが理解されようかと思ふ。唯その異なる所は梵は造化者であるが、眞如はこの性能を有つて居らぬといふだけである。梵に有形無形、死不死、往行、此有彼有(ブリハド二の三の六)と斯うした二種の方面あるは眞如に不變眞如と隨縁眞如とあると同じであらう。即ち眞如は一方には『凝然不作諸法』であるが、一方から見れば『眞如不守自性、隨縁成就一切法』である。斯うして一見全然矛盾した屬性及び作用が一の梵又は眞如にこれありとされて居る。これは普通眞如縁起又は諸法實相と稱せられるもので、實大乘に通じて教へらるる教である。我が禪宗でもこの意味を説明する語は勿論澤山ある。『禪戒鈔』に
『山モ法性ナリ、河モ眞如ナリ、一草モ佛身ナリ、牆壁瓦礫モ佛心ナリ』
と云ひ、『辯道話』に
『是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事を作す』
前者は眞如の本體を現象に即して示し、後者は現象に即して眞如の作用を示せるものであらう。
華嚴教の法界觀では單に眞如と諸法との相即ばかりではない、諸法相互間の相入、即ち諸法と諸法と相關相入することをも説く。語を換へて言へば單に理事無礙を説くばかりでなくしてなく事事無礙をも説く、正法眼藏の『諸法實相』の卷に
『ここを以て實相の諸法に相見すといふは春は華に入り、人は春にあふ、月は月をてらし、人はおのれにあふ、あるひは人の水をみる、おなじくこれ相見底の道理なり』
といつてあるはこの事事無礙の意を述べたものではなからうか。佛教の眞如と諸法即ち實在と現象との關係を説く教は此處に至つてウパニシャッドの梵と萬有との思想よりも一歩先じて居ることになるかと思ふ。斯うして大乘佛教の實相と諸法とに關する教は既に婆羅門教の梵と萬有とに關する教の中に存在した。而してそは遠くリグヴェーダやブラーフマナにも溯ることが出來るが、それが熟したのはウパニシャッドであり、更に大成したのはヴェーダーンタである。この思想の佛教に取り入れられたのはそれがまだ萬有を幻(マーヤー)即ち非實在とし、梵の本體のみを眞個の實在なりとするヴェーダーンタにならない前の事であつたかと考へる。大乘佛教‐禪も勿論その一部として‐も既に印度に於て原始佛教外の説を取り入れた事實が斯うして歴然と認められるのである。 
第七章 禪宗に於ける大我小我及梵我一體の思想
吾人は上に大乘佛教の眞如法性と婆羅門教の梵との間には非常なる類點のあることを説いた。而して又この類點たるや決して偶然に出來た暗合ではないことをも述べた。大乘で説くこの眞如法性といふやうなものは原始佛教には説かれて居ない。誰でも知つて居る通り原始佛教はその根本教條の一として『諸法は無我である』と教へた。諸行無常及び一切苦の教とともに、諸法無我の教を説いた。この三は普通『三特相(チラツカナ)』として知られ、原始佛教の根本教條となれるもので、佛教の一大特色を形造るものであり、佛教の他の印度の諸宗教との相違は此處から出發して來るといふも過言ではない。諸法無我は斯うして原始佛教の教理の根底を形造るものである。
この所謂我‐原始佛教で『無我』といつて常に否定の語を以て言ひ表してある‐なるものは一體何であるか。婆羅門教の教ふる個人我即ち命我(デーヴァートマン)であるか、宇宙我即ち最上我(パラマートマン)であるか、小我か大我か、これは判然とは判らないのである。併大體から察すると、これは宇宙我ではなくして個人我であらうかと思はれる。それで宇宙我は原始佛教には全く説かれて居ない。唯個人我だけはそれに言及してあるが、それも常に唯否定的の語を用ひて『無我』と言つてあるだけだから、その我が一體如何いふものであるか、判然と推量し得べき道がないのである。佛の意によれば我は本來ないものである、そのないものの説明はしようとしても出來よう筈がないといふのであらう、幽靈は居らぬと信じて居る人に幽靈の説明を求めてもそれは出來ないと同樣である。釋尊の我に對する態度はこの幽靈を信じない人の幽靈に對する態度に同じであつたらう。要するにないと信じて居るものを説明することは不可能であり又無用である。
一體佛はこの我に關する話や死後の生活に關する話をすることを自らも努めて避け、弟子たちをもこの種の話に導き入れることを避けられたことは勿論、假令さういふ話を前方で持ち出してもこれを遮り、これに耽つたり深入りしたりすることを無用の閑事として警告された。
『世界の永劫不永劫、邊無邊、衆生死後の存在有無如何等の如き問題は永久結果を見ることのない、而して又人間の生活には要のない戲論として顧みられなかつた』
と赤沼氏がいつたが、この數言は釋尊の気持ちを十分言ひ盡くして居るかと思ふ。
これに就ては無數に例が擧げられるが、その中で面白いのは『雜阿含』三三卷二二經(『別譯雜阿』一〇卷六經、巴利『雜阿含』四卷四〇〇頁)に出て居る佛と普行沙門婆蹉(ヴァッチャ)との間の問答である。この普行沙門一日佛の所へ參つて佛に向ひ『我といふものはありますか』と問うた。これに對して佛は沈默したまま何とも答られなかつた。次に彼が『我といふものはありませんか』と問うと佛は同じやうに默つて居られた。普行沙門は再び同じことを繰返して問うたが、佛はやはり何とも答られなかつたので、彼は座を起つて去つて了つた。後で阿難陀は何故にあの普行沙門の二回の問に答へずして默して居られしやを佛に問うたすると、佛は『若し私が我といふものがありますかと問はれて、あると言つて答へたならば、それがため私は常住を談ずる沙門婆羅門に同じいことにならうし、一切法は無我と説く智慧の向上に副はぬであらう。若し又私が我といふものはありませんかと問はれて、ないと答へたならばこれは斷滅を談ずる沙門婆羅門と同じいと云ふことにならうし、且又我があると信じて居るこの愚なる普行沙門をば無我と説くためにますます愚に陷れることにならう』といはれた。つまりこの場合の佛の『我はあり』と答へられない理由は勿論明白であるが、『我はなし』とも答へられない理由は、これがため問者をますます迷妄に陷れる虞があるからだといふのである。實行を重んずる佛の眼から見れば我の有無、世界の常無常、有限無限、死後生命の有無の議論など、全く無uの遊戲であり、無用の戲論である。佛は斯ういふ哲學的議論の如き、議論のための議論の如きは極力これを排斥されたが、その中にはこの有我無我の論を含まれて居て、佛は遂ひに我の正體を明かにされなかつたのである。
我とは一體如何いふものであらうか。これに就て故リス・デビヅ教授はウパニシャッドの我を解して
『我は小い生物で、形は人間に似て居り、平常は心臟中に住んで居る。睡眠又は入定中は身體を脱け出るが、眼を覺まし又は定を出ると、還つて來て生命と活動を續ける。死後は身體を脱け出て獨り永久の生命を續ける』(『佛教印度』二五一‐二五五)
といつて居る。勿論斯ういふ物質的な、生気的なものではないが、禪宗の教にもこの我に似たものがありはしないであろうか。
臨濟禪師は
『赤肉團上有一無位眞人、常從汝等諸人面門出入』
といつた。或僧が大隨に問うて
『劫火洞然大千倶壞、未審這箇壞不壞』
といつた時、大隨はこれに答へて
『壞』
といつた。この無位眞人とか這箇とかいふのは一體何を指して居るであらうか。必ずや或一物を指して居るであらう。
『人人屋裏主人公』とか、『自己本來面目』とか、『呼應底是何物』とか、『秘在形山那一寶』とか、人人具足の那一物とか、心性、佛心、佛性、法身、法體といふものもこの同じ或一物を指し、若くは又この同じ或一物とは何ぞやといへば無我を教へる佛教だけでは如何してもこれを説明することはできない。
『癡人喚作本來人』と長沙の景岑禪師はいつた。この或一物を喚んで本來人となすは癡人の沙汰であるかも知れない。無我の我を計すると同じく、實際ないものをあるやうに思うて居るのであらう、斯ういふことを申したらば高祖大師には
『瓦礫をにぎりて金寶とおもはんよりもなほ愚かなり』
といつてお叱りをうけることであらう。それも十分承知して居る。『辯道話』の中にいつてあるやうに
『わが身うちに一の靈知あり、かの知すなはち縁にあふところに、よく好惡をわきまへ、是非をわきまふ、痛痒を知り苦樂を知る、みなかの靈知のちからなり、しかあるにかの靈性はこの身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるる、ゆゑにここに滅すと見ゆれどもかしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり』
とまで信じないことは勿論であるが、吾吾は禪家の人が常に無位の眞人とか屋裏の主人公とか、那一寶とか、その他種種樣樣の語を用ひ表はさうと努めていることを注意せざるを得ない。前にもいつた通りそれはウパニシャッドなどに説いてある生気的の我では勿論ない。又靈知と呼ばれるものでも勿論あるまい。然らば何であるか、無いものを便宜のためにあるやうにいつたまでで、語では何物か物を指したやうにいつてあるが、實際はないものである。と斯ういへるかも知れぬが、此處に無我といつた場合の我や、諸法空といつた場合の諸法とは違つて、吾吾の中にある所の或何物かが認められて居ると私は信ずる。一方には無我と教へる、隨つて大我は勿論のこと、小我をも談ずるわけには行かない。しかし無我と一蹴りに蹴飛ばしただけではやはり飽き足らぬ所がある。それでこの何物を表はせりとも判らぬやうな語‐語の上では判然と物を表はして居るが、これを解釋するには判然と物を指すことを避ける‐を用ひたのかと思はれる。私はこれを吾吾の小我‐生気的な我若しくは靈知的な心ではないであらう‐と見る時、初めて吾吾は無位の眞人や屋裏の主人公や形山に秘在する那一寶に就ての苦しい解釋より免れることが出來ると信ずる。
つまに他の大乘教も同樣であるが、禪宗はこの點に於てウパニシャッドの教を取り入れ更にその正統を受けたヴェーダーンタと共鳴する點が多いのである。『寶鏡三昧』の『渠正に是れ汝』の語は一面からは主觀と客觀と、兩者の相回互せる事實を述べたものとも見られようが、他の一面からはこの所謂『渠』及び『汝』なるものはチャーンドーギャ、ウパニシャッド(六の八の七)の中に
『それは汝である、汝はそれである』
といへる有名な語と同じく、兩者の回互し、兩者の同一體たることを示す前に、兩者にはその本體たり中心たるもの、即ち我とも名くべきものの存在することを穩穩裏に示せるものではなからうか。更に又同ウパニシャッド(一四の三)に
『これ即ち心臟の内部に存す。わが我なり。實に穀粒よりも麥粒よりも芥子粒より黍粒よりも、或は黍粒の核子よりも一層微なるもの、これ即ち心臟の内部に存するわが我なり。更に地よりも大に、空よりも大に、天よりも大に、これ等の世界よりも大にして』
といへるは『少室六門』に
『心心心尋ぬべきこと難し、ェなる時は法界に遍く、窄きや鍼をも容れず』
と云ひ『寶鏡三昧』に
『細には無間に入り、大には方所を絶す』
と云ひ、榮西禪師の『興禪護國論』に
『大なる哉心や、天の高きは極むべからず、而も心は天の上に出づ、地の厚きは測るべからず、而も心は大地の下に出づ』
と云へる語とを思はしめる。宇宙の本體である梵は無限小であり同時に又無限大である。一切處に偏通し一切時に偏滿して居る。この宇宙の本體たる梵と個人の本體たる我とは畢竟同一體である。小宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)とは同一體である。『それは汝である』、『吾は梵である』ことを悟る。この大小兩我の畢竟同一體なること即ち梵我一如の理を十分理解するのが婆羅門教の悟で、婆羅門教で梵涅槃と云へるものは即ちこれのことである。
大慧は
『不渉他塗徑與本地相契』
といひ、
『久久純熟默默契自本心』
といつた。無門關には
『者箇胡子直須親見一回始得』
といひ、
『識得自性方脱生死』
といつてある。これに類する語句は禪書の中から無數に拾ひ出すことが出來ると思ふが、要するにこの上の勞作の必要はない。禪宗でいふ所の證悟即ち契當即通、見性悟道、心性を徹見すといひ、或物に契當すといひ、或は自己本來の面目に相見するといふ時の気分は婆羅門教の梵我の一致、契當などといふ時の気分と異る所はないものと私は信ずる。
つまり吾が禪宗はウパニシャッド系の印度思想と大體三の點に於て一致する所がある、第一は汎神論的世界觀の上に於て、第二は我を談ずる上に於て、而して第三にはこの證悟契當の上に於てと斯いふのである。 
第三篇 原始佛教と禪宗 
第八章 戒學に就て
これから進んで原始佛教と、禪宗を比較し、兩者が如何なる點に於て一致し又如何なる點に於て背駆するやを考察して見たいと思ふ。吾吾は第一篇で婆羅門教と原始佛教とを比較した時、これ等の問題にも多少觸れないことはなかつた。今少しく詳しく言うと、原始佛教の婆羅門教と異なれる點として擧げたものはまた禪宗の婆羅門教に異なれる點であり、同時に禪宗の原始佛教と共有する點である。
以下吾人が數章を設けて兩者の比較を試みんとするは兩者の共通點をば更に明にせんとする意に出づるに外ならない。
戒定慧の三學は共に竝べ進むべきものともいへようし、又は修行の順序によつて斯う竝べたものといへよう。即ち戒によつて先づ身の行を正しうし、定によつて心を練り、心を落付け、その定の力によつて獲る所の如實の知見、即ち悟が慧である。それでこの三を戒定慧と斯ういふ順序に竝べたのは決して無意味ではなく、大體修養の順序に隨つてならべたものである。今少し詳しく言うと、原始佛教の教によれば佛教者は先づ第一に品行方正でなければならない。在家の人ならば五戒、八齋戒、又は十善戒を持ち、出家の中で沙彌は十戒、比丘は二百五十戒‐通常二百五十戒といつて居るが、その實は二百二十七戒しかない‐兎に角これだけの戒を持つて先づ身の行を正しうせねばならない。これが即ち戒である。佛は曾て鬱低迦(ウッチカ)に告げて
『汝當に先づその戒を淨うし、その見を直うし、三業を具足すべし』(『雜阿含』二四卷二〇經)といはれた。
定慧は定力によつて慧が得られるともいへようか、この二は又平行するともいへよう。通常吾吾は禪定といつて二者を同一物のやうに思うて居るが、實際は禪は禪那(ヂャーナ)で思慮する方だし、定は三昧(サマーヂ)又は三摩地(サマーヂ)で落付く方である。即ち禪は觀(Vipassana)に當り、定は止(Samatha)に當る。定と禪とが竝べ進められると、最後に悟に達する。それが即ち慧である、完全なる慧である。
戒定慧の三は平行すべきものたるにせよ、次第順序のものたるにせよ、これが原始佛教に取つて極めて大切のものであることは勿論いふまでもない。佛教修養の要領はこの三大項目の中に収め盡されて居るといつて差支へがない。この點は我が禪宗も全く同一であるといつて宜しからうと思ふ。神秀禪師は七佛通誡の偈の第一句諸惡莫作を戒、第二句衆善奉行を定、第三句自淨其意を慧に配當して教へた。慧能禪師之を聞いて、これは大乘の人を説得する禪である、しかしまだ本當のものではない。自分の教へる戒定慧は最上乘の人を説得する教であるといつたといふ。慧能禪師の批評が中つて居るか否かは知らぬが、兎に角この三は佛教修養の大眼目で、佛教の修養は戒なる道徳的修養から初まり、定慧なる宗教的修養に終る。私の考では諸惡莫作、衆善奉行は道徳的修養で、自淨其意は宗教的修養である。斯う申すと先の神秀禪師の配當されたものと合わない樣であるが、これは勿論きちんと合ふべき性質のものではない。兎に角佛教の修養は戒に初まり、定慧、或は單に慧に終る。道徳的に出發して宗教的に終るといふことでなくてはならぬと思つて居ればよい。以下我が禪門が如何に小乘戒を見るかに就て少しく話を進めて見たいと思ふ。
禪宗より小乘戒を見る見方には大體二通りあるやうである。その一は禪宗の第一義諦門からこれを見下さんとするもので、この見方からすれば小乘戒などはまるで眼中にはない。『禪戒鈔』の中にいつてあるやうに
『コノユヘニ聲聞ノ持戒ハ菩薩ノ破戒トイフナリ』
といつた調子で、これを戒と名くるさへ既に烏滸の沙汰である。同書の中に
『五戒十善ハ人天ノ果ニシテ是世間也、不可謂出世、又二百五十戒マデハ不離世間天上以欣上厭下假令至非想非非想而壽盡墮無間獄也、シカルヲオロカナル族ハ五戒十善二百五十戒等ヲ受授スル小乘ノ行人アレバ此名相ノ砂石ヲ以テ一句ノ聞法ヨリ功徳多シト思へり』
といつてある。これが禪宗の第一義諦門から、小乘の五戒十善戒二百五十戒の如き有漏戒を見た見方であらうかと思ふが、この見方からして言へばこれもなるほど、至當の言であらう。尚ほ同書の不殺生を説明せる條に
『殺不殺ノ詞ハアリトイヘドモ不似世間其上三界唯心ゾ、諸法實相ゾト談ズルトキ殺トモ不殺トモ不可談』
といひ更に
『流轉生死ノ生ニ對シテ殺不殺ヲ判ズルコトハ眞生ノ理ニソムク上ハ殺モ不殺モ爭デカ破戒ノ義ナカランヤ、從來ノ殺不殺ハ二ツナガラ破戒ナルベキナリ』
といつてある。即ち三界は唯心の所現であり、諸法はそのまま實相の當體であるからはその上に殺すものと殺されるものと差別されてあるべき筈はない。殺不殺を論ずるは眞生の理に背き破戒の過に陷るものである。唯心の上、實相の上には殺すものとか殺されるものとかいふ對待はない。これをありと見るは凡夫の妄見である。大乘一心戒、心地無相の戒の上では能殺所殺の別ありと見るはそれが既に破戒である、と斯ういふのである。これは不殺生戒に就ていつたのであるが、その次なる不偸盗戒、不妄語戒、その他に關してもこれと殆んど同じやうなことがいつてある。
此處で吾吾は『聖薄伽梵歌(スリーバガヴァドギーター)』の一節を引いて試にこれをこの『禪戒鈔』の文と比較對照するの甚だ興味あることを感ずるものである。梵歌の本文を引用するに先ち、そのいはれを簡單に記して見ると、クル族のパーンヅ王の五子とヅリタラーシュトラ王の百子との間の長い葛藤の果、兩方は戰場に於て雌雄を決せんとして居る。パーンヅ王の第三子アルジュナはヴィシュヌ天の權化で、王子のために車を御して居るクリシュナに對して同族相鬪ふ(彼等は從兄弟である)の非理を説き、斯の如き戰に加はるに就ての悲痛の情を述べる。クリシュナは王子を慰諭してその非理にあらざることを説くが、その語の中に
『彼現身者(我)を見て能殺者とするもの、またそを所殺者とするもの、この兩者は倶に知らざるものなり、彼は殺さず、又殺されず、彼は生まれず、彼は死せず、曾て出現せず復更に出現せざるべし、不生にして常住、永遠にして盤古なり、身は殺さるるも彼は殺されず。
人若しそを不壞なり、常住なり、不生なり不滅なりと知らば誰をか殺さしむべき。……刀もこれを截らず、火もこれを燒かず、水もこれを濕さず、風もこれを乾かさず。
こは截る能はず、燒く能はざるものなり、濕ほすも得ず、乾かすも得ざるものなり、常住にして普遍、堅固にして不動なり、永久なり。
彼は非顯現なり、不可思議なり、不變化なりと稱せらる。故にかかるものと知らばこれを憂ふべきにあらず。』
といふ一節がある。即ち兩者の間に驚くべき一致點のあることが判るであらうと思ふ。吾吾が殺した殺されたと思うて居るのは、いふまでもなくこの目に見得べき肉身に就ての話で、この肉身の奥に潛める‐といふは語弊があらうが‐絶對の本體、即ち『禪戒鈔』の中に唯心又は實相と呼べるものの上には殺不殺の談は出來ないことである。それで『殺不殺ノ詞ハアリト雖モ不似世間』といつてある。此處でさういふ話をするのは根本的に間違つて居るといふので『從來ノ殺不殺ハ二ツナガラ破戒ナルベキナリ』といつた。絶對界に入つては殺生の事實も殺生の話も共に出來ないことであるからして『佛戒ニハ總テ殺生ト云フ事ノイハレヌナリ』といつてある。『聲聞ノ持戒ハ菩薩ノ破戒ナリ』といへるも勿論この意味から言つたもの、即ち第一義諦門から見下して言つたものである。
今この唯心、實相又は法性、眞如、佛身、佛心などの語を用ひて指せるものを『聖薄伽梵歌(スリーバガヴァドギーター)』に『我』と呼べるものに代へて見よ。吾吾はそれを吾が大乘禪の眼から見て、婆羅門教の眼から見ると同じくその中に少しも矛盾を見出すことがないであらう。『彼(我)は殺さずまた殺されず……身は殺さるるも彼は殺されず』とある。此處に『身は殺さる』とあるは即ち上の世間の殺生、聲聞の殺生、從來の殺生をいふので、『彼殺さず、また殺されず』といへるは『眞生ノ理』の上の殺不殺、菩薩の殺不殺、禪門獨特の殺不殺に就ていふのである。
心地無相の戒、禪戒一如の戒、達磨の一心戒といふやうな高い見地からしたならば小乘の戒法は斯うして一言の下に貶さるべき運命のものであらう。しかし斯う貶されるのは啻に小乘戒ばかりではない、教相家の戒と雖もやはり同樣の運命のものである。『禪戒鈔』の序には『教家之所謂戒定、名同趣異、源一流別』といつてある。小乘の戒律にせよ、教相家の戒律にせよ、禪門の戒にせよ、その本源に溯れば同一であるべきであるが、その支流になると斯の如き相違を生じたのである。しかしこれは教家の戒であるか否かは知らぬが、同じ不殺生戒を談じ、不殺生戒のあり得べからざることをいふにしても慈雲尊者の語はまだ曖昧がある。尊者は『十善法語』の中に
『一切衆生は我が子なるに由りて、一切有命のものに對すれば不殺生戒と名くる。此に我が子といふは世間親子の間は睦まじきものなるによりて、之に比べて説いた言ぢゃ。實は一切衆生の心念思慮を以て自己の心とすることぢゃ。自身と一切衆生と平等にして元來隔てなきぢゃ』
といつて居られる。これを『禪戒鈔』の『眞生ノ理ニ背ク』からして殺不殺の話は出來ぬといふのに比すると、大分趣が異なつて居る。同じく『殺生の出來ない』といふにしても『禪戒鈔』や『聖薄伽梵歌(スリーバガヴァドギーター)』では殺生不殺生といへる理屈がない、殺しても殺すことにはならぬではないかといふ調子である。前者ではまさかそれまではいつてないが、後者には明かにさういつてある。これに比すると、慈雲尊者は『一切衆生皆是吾子』ではありませんが、『山鳥のほろほろと鳴く聲聞けば』と歌つた人もあるではありませんか、『一切衆生の心念思慮を自己の心』として御覽なさい、殺生なぞといふ無慈悲な事が如何して出來ます。それですから有情を殺すことは出來ません、と斯ういふのであるが、同じく殺すことが出來ませんと云ふにしても『禪戒鈔』や『聖薄伽梵歌(スリーバガヴァドギーター)』の「出來ません」と慈雲尊者の「出來ません」とは大へん意味が違ふし、心持が違ふ。前者は法身佛で、後者は現身佛である。後者の方がよほど人間味豐富である。
禪門の第一義諦の上から見れば殺不殺持戒破戒は成り立たないことは上に述べた通りである。第一義門からいへば殺不殺持戒破戒の談は不可能であるが、第二義門の上ではこは必ずしも不可能ではない。不可能でない所ではない、殺不殺持戒破戒は此處では大なる意義を有つこととなつて來る。先には『聲聞ノ持戒ハ菩薩ノ破戒ナリ』といふ文句を引用したが、第二義門の行を尊しと見る上からいへば小乘の戒とてさう貶しつけらるべきものではない。高祖大師は勿論のこと、支那で清規を作られた人たちは大體この態度を取られたやうである。高祖は眼藏の『受戒卷』には『禪苑清規』を引いて
『既受聲聞戒應受菩薩戒』
といはれ、『衆寮清規』の劈頭には
『寮中の儀まさに佛祖の戒律に敬遵し、兼て大小乘の威儀に依隨し、百丈の清規に一如すべし』
といはれ、さらに『辯道話』の中には
『この坐禪をもはらせん人、かならず戒律を嚴淨すべしや、しめしていはく持戒梵行は、すなはち禪門の規矩なり、佛祖の家風なり』
と云はれ、『出家卷』『受戒卷』には『禪苑清規』を引いて
『三世諸佛皆出家成道を曰ひ、歴代祖師佛心印を傳ふ。盡く是れ沙門、蓋し毘尼を嚴淨するを以て方に能く三界に洪範たり、然れば則ち參禪問道は戒律を先となす』
と云はれて居る(「毘尼を嚴淨する」以下の文は榮西禪師の『興禪護國論』にも引いてある)。高祖とても先きの『禪戒鈔』についてあるやうな高邁な見識を有たれないではない。但高祖は智と行、知目と行足とを峻別し、智は高遠なるべくとも行は卑近なるべきことを尊しとせられた。これに就ては眼藏や大清規の中から無數の證據を引いて來ることが、更に煩はしく引くの必要はない。
そこでこの戒定慧三學の中で定慧のみならず戒をも同じく重しと見る點に於て原始佛教と禪宗とは全くその揆を一にするといつて宜しからう。但禪門の戒は心地無相の戒とか禪戒一致の戒とか菩薩清淨の大戒とかいつて極めて抽象的のものであり、禪院の規矩として禪僧行履の標準として用ひられて居るものは支那では百丈清規とか、禪苑清規とか、勅修清規とか、吾が日本の曹洞宗では重に大清規、稀に小清規、瑩山清規といふもので、印度で造られた毘尼即ち律とはその内容が非常に違つて居る。隨つて例へば得度、受戒、安居、自恣、布薩などいふ語は原始佛教と禪宗と兩者に共通に存するが、その事柄は非常に異なつて居る。しかし佛祖の戒律にせよ大小乘の威儀にせよやはり戒である。僧伽全部又は個個の比丘の行に關する規則を説いたものであるから、これを戒と見るも一向妨ぐる所はない。高祖の『戒律を嚴淨すべし』とか、『持戒梵行はすなはち禪門の規矩なり、佛祖の家風なり』とか、いはれた心持を察すれば高祖は大乘戒と同じく小乘の戒律をも重んぜられたことが判る。要する所禪宗は定慧と同じく戒をも重んずる宗旨である。 
第九章 佛身論
佛といふ語は佛陀、即ち梵語及び巴利語のBuddhaの上の一字をもちひたものである。Buddahaといふ語は語根(ルート)budhに接尾音(サフィックス)taが加はつて出來たもので、この語根には『煩惱連續の眠から覺め、或は四聖諦を悟り、或は涅槃を證する』と註されて居るから、Buddhaには「覺めたる、知りたる、悟を開きたる、涅槃を證したる」などの意義があるわけである。これを通常『覺者、智者』と譯してあるのはよく當つて居ると思ふ。特に『覺者』なる譯語の目ざめたるの意と悟りたるの意とを兼ねて居るのは興味あることである。音譯では佛陀、浮陀、佛駄、歩他、浮圖、浮頭、勃陀などの文字をあててある。このBuddhaにsam更に又samyakの接頭音(プレフィクス)を加へてSambuddha、samyaksambuddha即ち三佛陀及び三藐三佛陀といふ文字を作り出した。前者は『等覺者、遍智者』の意味、後者は『正等覺者、正遍智者』の意味である。場合によるとサンミャクサンブッダは佛を表はし、サンブッダは辟支佛、而して單にブッダといふは聲聞を表はすと解することもあるが、通常この三語は共に佛を表はすものと解する。
辟支佛もやはり佛である。通常の佛と同樣、自分獨りで師なくして悟を開くものであるが、通常の佛とは違つて、自分が悟を開いた後それによりて他を教へ導くことがない。自分が得た悟を自分獨りで味はひ十分享樂した上、時機が來れば涅槃に入る人たちである。梵語にはPratyeka-buddhaといふ、『獨り獨りで覺りたる』ものの意である。隨つてこれを『獨覺』と譯するのは當つて居るが、『縁覺』と譯するのは當つて居らない。これは通常『辟支佛は十二因縁を觀じて獨りで悟を開くから縁覺と呼ぶ』と解せられて居るが、これはさうではなくして、pratyeka(辟支、獨り獨りの意)といふ形容詞がpratyaya(男性名詞、縁の意)又はpratitya(中性名詞、縁の意)と甚だしく似て居るところから生じた混同であると私は思ふ。『六度集經』三卷にこれを譯して『縁一覺』といつてあるのをも併せ考ふべきである。これは上のpratyaka又はpratityaとpratyekaのekaとに特に眼をつけて譯した語で、かのAvalokitesvara(觀自在)を『觀世音』或は『光世音』と譯するのと同樣、大へん複雜せる誤譯である。辟支佛は佛は佛でも他のために法を説くことをしない、隨つて眞の意味の佛ではない。眞の意味の佛はサンブッダ、サンミャクサンブッダである。此處に吾吾が意味する佛とは言ふまでもなく、この佛のことである。
佛といふ語は專門的に或は通俗的に種種樣樣の意味に用ひられて居る。その通俗的の用例は今此處では措いて論じないとして、吾吾はそれが三身四身乃至十身いろいろ違つた佛身を表はすやうに用ひられて居ることが解るのである。しかしこの中で最も普通に知られて居るのは法報應の三身説であらう。この三身説は勿論後世の發達せる大乘佛教のものであるけれども、その思想だけは原始佛教にもいくらかあると云へようかと思ふ。法身なる語の『佛遺教經』の中に出て居ることは誰も知れる通りで、此處に佛は
『自今已後我が諸の弟子展轉してこれを行ぜば即ちこれ如來の法身常に在して而も滅せざるなり』
と仰せられたとしてある。此處に法身常住といへるは法身佛、即ち法を身とせる佛、その所説の法の上に身を留むる佛は、弟子たちが教の通りに修行して廃せざる限り、又所説の法を護持して失はざる限り、その法と共に常に世に存在するであらうとの意である。隨つてこの法身は法華經や眞言密教で教ふる所の法身とは全然別物である。法身といふ語は同じくても久遠の釋迦牟尼佛や常住普遍在の大日如來を指して法身と呼ぶのとは全くその意義を異にして居る。
『法身』の語は巴利文學の中にも諸所に用ひてある。此處に用ひられた法身の意義によると、佛は單に法の王、法の主であるばかりでなく、法そのものである。法の體現である。佛は
『法を見るものは吾を見、吾を見るものは法を見る』(巴利『雜阿含』三卷一二〇頁)
といはれた。この期の中には佛即法、佛身即法身といふ思想も含まれて居ると思ふ。佛弟子阿難陀は曾てその同行の衆に對して説法して
『佛は眼であり、智であり、法であり、梵であり、説教者、導利者、施甘露者、法王、如來である』
といつた。佛自身も曾て
『佛は法を身とし、梵を身とし、法そのものであり、梵そのものである』
といはれた。此處に法と梵とを對立させたのは頗る興味あることで、當時本系の印度思想によれば梵即ち絶對自存者は宇宙の第一原理であり、本體であつて、梵そのものと合一することは婆羅門の悟、即ちその終極の目的であつたから、佛が佛は梵を身とし梵そのものであるといはれるのは、或意味に於ては佛はこの説を肯定されることになり、佛身、法身、梵身の三身一致の法身の思想は大乘佛教の法身の思想と大へん近いもののやうになつて來る。但巴利語の註釋家は佛を『梵を身として梵そのものたり』といふ時の梵は『優れたるもの(ゼッタブータ)』の意であると解して居る。この『佛は法を身とし梵を身とし云云』といへる經文はAgganna-suttaで長阿含の『小縁經』の原典であるが、譯文なる漢文『小縁經』に法身梵身の語を見出し得ざるは遺憾である。なほ『法を見るものは吾を見る』の句も漢譯『雜阿含』四七卷二五經には見出されない。
報身佛の根底をなせる思想は何であらうか。『大乘本生心地觀經報恩品』には
『是故に諸佛身は眞善無漏、無數大劫、因を修し、證する所』
とあるが、この『無數大劫因を修して證する所』とある酬因感果こそはその根底をなせる思想であらう。さうすれば原始佛教にもこの報身佛の思想はやはりあるといふことが言へようと思ふ。勿論後世の發達佛教に於けるやうな色身無邊、壽命無量などの特徴があり屬性があるのではないが、しかしこの報身佛の思想の萌芽とも見らるべき朴素な思想は原始佛教にも勿論あつた。それは佛の大悟徹底される前、菩薩としての修行時代が即ちそれである。成道以前の釋尊の修行事は巴利文の『出家經』(諸經要集四〇五‐四二四)、『羅摩經』(中阿五六卷)、『精勤經』(諸經要集四二五‐四四九)などに出て居る。巴利文『本生經(ジャータカ)』には總て五百四十七の物語が載せてあるが、これは釋尊が前世に於て人間では國王大臣婆羅門居士苦行者旋陀羅など、動物では獅象鹿猿馬兎など、鳥類では白鳥鳩鸚鵡鶉その他種種樣樣のものに生れ出て、常に自分の身を苦しめて他のものの利uを計り、惡を避け善に就いて人に道徳上の規範を示された事蹟を集めたものである。この經の理想とせる所によれば前世に於ける佛‐それを菩薩と呼ぶ‐は斯うして五百餘生の間(これも勿論只その一部分であらう)生れ代り死に代りして慈悲喜捨の四無量心と布施持戒忍辱精進智慧眞實決定出離慈悲捨の十種の波羅蜜の完全に徹定する所まで行ひ果された時初めて菩薩は佛となるべき期待を以てこの世に生れて出て來られたといふのである。釋尊は斯うして四阿僧祇十萬劫の間生生世世道徳行を行ひ、最後に成佛の誓願を果たされたのであるが、この時は佛は肉身の上では三十二相八十隨好紫磨金色を完全に具へ智力の上では十力、十八不共法、四無所畏の如き佛特有の特色を持つて居られたとしてある。巴利文『大般涅槃經』や英譯の『遊行經』には世尊は若し望まるれば一劫の間世に住まれることが出來たといつてある。しかしこれだけでは色身無邊とか、壽命無量とかいふわけには行かぬ、即ち報身佛の理想にはまだまだ遠い所がある。ただ上に引いた『出家經』や『羅摩經』の只今生だけの釋尊成道前の修行を引き延ばして過去の生生に生れ代り死に代りして成佛の素因を漸次に作り上げられたとした所を見ると、斯うして次第に報身の理想に近づいて行かれるものであることだけは察することができよう。阿彌陀佛の如き理想の報身には到底及ぶ所ではないが、酬因感果が報身の思想の根底を形造れるものである以上その朴素な理想は原始佛教中にもこれを見ることが出來るといつて宜しからと思ふ。
しかし眞實の意味の佛は釋尊から出發しなければならない。釋尊の在世年代は確かには判らぬが今最も多く信ぜられ居る所は西紀五六三年から四八三年までの間といふことである。刹帝利種の出で迦毘羅衛國(カピラヴァッツ)の淨王(スッドーダナ)を父とし、その妃摩耶(マーヤー)夫人を母として生れ出られた。その誕生の際に劇的の事實ありしことは遍く人口に膾炙せる所で、幼兒から冥想を好める質の王子であつたらしく、これに就ては一の興味ある傳説が傳へられて居る。しかし佛教の教理と結びつけられて最も興味ある且つ最も意味深き釋尊傳の一部はその四門出遊に關することである、傳ふる所によれば釋尊は馬車に乘つて遊園に游ばんがため四回に東南西北の四門を出で、老者病者死者及び出家者を見られたといふ。この四門出遊によりて釋尊は世に老病死の苦痛あること、出家によりてこの苦痛より脱し得べきことを悟られた。佛教教理の要諦は離苦得樂、出離得脱又は轉迷開悟である。而してこの教理の要諦はこの四門出遊の事實の上に明かに示されて居るといつてよい。
四門出遊の際に見られた老病死者及び出家は釋尊に對して極めて深刻なる感動を與へた。この時釋尊はお年既に二十九歳であつたといふから、早熟なる印度人としては、特に王者の家に生れ出られた一人としては、世間の快樂を味はるべき時間の十分にあつたことは勿論いふまでもなく、又如何なる類の快樂と雖も求めて得られないものはなかつた筈である。一方からは又印度人の二十九歳といふ年齡は家庭的の安定を求むる頃である。釋尊にも耶輸陀羅(ヤソーダラー)といふ妃があり、羅4羅(ラーフラ)といふ兒があつた。而して身は一國の太子であるから普通の人であれば家庭的の安定を得べき條件は悉く備はつて居たと思はれるが、釋尊には普通の人の經驗せざる又は經驗し得ざる惱みがあつた。愛も位も富も如何ともすることの出來ない惱みがあつた。それで釋尊は妻子の恩愛を棄て、やがて來るべき國王の高き位置をも一國の富をも弊履の如く棄てて出家し、赤裸裸の一乞丐となつて苦行林の中に入り、出離解脱の道を求むるためには如何なる苦患をも辞せられなかつた。これが釋尊の苦行時代といふものである。
梵語のタパス(Tapas)は苦行の意味である。釋尊出世當時の印度人はこのタパスによつて、解脱及び神通が得られるものと一般に信じて居た。上の第四章にも述べた通り婆羅門經では苦行、智慧、供犧、及び信仰の四によつて解脱が得られると説き、佛教と殆ど同時代に起つた耆那教では供犧だけは反對したけれどもやはり苦行を行ふことを勸めた。それて釋尊も當時一般の人人の信ずる所に隨うて苦行を行はれた。上にも引いた中阿含『羅摩經』の原典Ariyapariyesana-suttaには佛が修業中如何に烈しき苦行を行はれたかが精しく説いてある。或は一粒の米、或は一粒の麻を喫して一日を過された。六年の久しきに亘つて斯うした極度の苦行を行はれたけれども解脱の道に於ては更に得られる所がなかつた。此處に至つて釋尊は苦行は徒らに自己の身心を苦しむるに過ぎぬこと、それよりも普通の飮食を取つて體力を回復し禪定によつて解脱を求むるのが正しい道であることを悟られた。それでその苦行林の傍を流れて居る尼連禪河(ネーランヂャナー)に浴して身體の垢を去り村長の息善生(スヂャーター)の獻ずる乳粥を受け、それを喫して體力を回復し、菩提樹の下に坐つて『堅固の誓を建立し、解脱の道を成ぜんと要す』といふ意気込を以て大禪定に入られた。此處に世界歴史上の一大事實ともいふべき佛成道が續いて起るのである。
佛傳の吾吾に教ふる所によれば釋尊は成道後その自得の法門を一切衆生の前に開示すべきや否やに就て躊躇された。自分が悟り得た法は甚深微妙である。それを説いても衆人は解せぬであらう。それだから説くことは止めにしようといふ年が佛に起つた。『普曜經』の文を引いて見ると、佛は
『我今これを説くとも、衆人は解せじ、我が今日の如き默然たるに如かじ』
と、しばし躊躇の念を懷かれた。そこへ梵天が現はれて佛に説法を勸請する。それから佛は説法の決心をしてその相手を求め、佛陀伽耶より鹿野苑に向はれる。この途中佛が活命外道の優波迦(ウパカ、羅摩經では優陀、五分律では優波耆婆(ウバヂーヴァ)に作る)に會はれると、彼は佛の相好を見て驚異の念を懷き、佛は誰人なりや、誰を師として悟を得られしやと問うたので、佛は彼に答へて
『吾には師あるなし、吾には等しきものなし、人間及び天人の世界に於て吾に及ぶものなし、吾は世の阿羅漢なり、吾は無上の師なり、吾は唯一の等正覺者なり、吾は清涼歸寂(の人)なり』
といはれた。これが佛の自分の成佛を宣言された第一の例である。つまり佛は斯くして成佛の自信と一切衆生救度の慈念とを懷いてこの世界に出て來られたのである。
佛は如何に自身を見られしや、如何に自分自身を見られたであらうか。單に一個の人間に過ぎぬものと見られたであらうか、或は又人間以上のものと見られたであらうか。一方には佛を呼んで兩足尊(デイパヅッタマ)といふ。これは人間中の最上者といふ意味であらう。佛傳中には佛が魔王の脅迫に會はれ、魔女の誘惑に會はれたことを語つて居る。勿論共にこれを退けて無事なることを得られたが、これは一面には佛の人なることを語れるものと見ることも出來る。或は又その日常生活の状態から見ても、原始佛教の佛には人間味豐かな點が非常に多いやうに思ふ。日日の乞食、教誡、入定、食事、入浴、或は朝早く濟度すべき人を見てそれを濟度せんがために自ら赴かれる。日中午後は樹林の中に入り樹下に晏坐して半日を過される。午後夕方近くなると在家出家の弟子たちのために教を説かれる。夜分月明に乘じて遅くまで出家の弟子たちのため教誡を埀れられたことも際際あつた。斯うして佛は單に人間の師として仰ぐべき點が非常に多いのである。しかし又曾て香姓(ドローナ)婆羅門といふもの(『雜阿含』四卷一四經には『豆摩』、『別譯雜阿含』一三卷一八經には『煙氏』に作る)が佛に對して、汝は天人(デーヴァ)なりやと問へるに應じて非ずと答へ、乾沓和(ガンタルヴァ)なりや、龍(ナーガ)なりや、閲叉(ヤクシャ)なりや、乃至人なりやと問へるに應じて同じく非ずと答へ、最後に『佛と、婆羅門よ、吾を斯の如く知れ』と答へられた。或は『佛は人天界の最第一者と稱せらる』といふ文もあるし、佛を『天中の天』『天上天』又は『天人師』とも呼ぶし、神通奇瑞に連關して佛の周圍には神秘味がまた至つて豐かである。これ等は總て佛自身の信ぜられたことであるか否かは容易に斷言出來ぬが佛が人間であつて而も通常の人間以上の力あるもの、或意味では通常の人間でないといふ自身を有つて居られたと言つて宜からうと思ふ。
禪門の佛とは如何なるものであらうか。語を換へて言へば禪門で『佛』といふ時第一に思ひ及ぶものは何れの佛であらうか。法身報身應身の何れかであらうか。或はこれ等以外の何かの佛であらうか。禪宗が實大乘である以上それに法身佛の思想のあることは論を俟たない。現身の釋尊は然燈佛の所に於て記別を受けてより過去三大阿僧祇劫の修行を經て來て佛となられた。即ち酬因感果の佛である、と斯ういふから此處には報身佛の思想もあるであらう。或は又禪門では吾吾自身が佛であり少くも佛になり得る可能性を有つて居る。吾吾は迷つて居るから凡夫であるが悟ればこのまま佛であるといふ。これを己身佛と呼んで置かう。臨濟禪師が
『此の三種の身はこれ汝が即今目前聽法底の人なり。祗外部に向つて馳求せざるが故に此の功用あるなり』
といつたのは吾吾の一身に三身佛具はつて居ること、佛を見るためには吾吾は外に向つて馳求するの要なき意味を述べたものであらう。但この身このまま佛であるといふ意味では決してない。正法眼藏の『即心是佛』の卷には
『癡人おもはくは、衆生の慮知念覺の未發菩提心なるをすなはち佛とすとおもへり。これかつて正師にあはざるによりてなり』といひ、又
『しかあればすなはち即心是佛とは發心修行菩提涅槃の諸佛なり、いまだ發心修行菩提涅槃せざるは即心是佛にあらず』
といつてある。
併し禪門で佛を本師釋迦牟尼佛大和尚として拜み、その佛が四月八日に降誕され、十二月八日に成道され、二月十五日に涅槃に入られたといふ時、その佛に就て思出すのは如何なる佛であらうか。釋迦牟尼佛の名によつて法身佛又は報身佛が意味される場合もないではない。眞言密教では發心の大日如來は釋迦牟尼佛と身を現じて大日經を説かれたと云ひ、淨土教では報身佛たる阿彌陀佛と佛教の教主釋迦如來とは同一體であるといふが、三身即一の教は密教や淨土教を借らないでも、吾が禪門にもあり得る。しかし禪門の本尊とする佛は必ずや現身佛たる釋尊、即ち黄面の一比丘として行化四十五年の後世壽八十歳にして世を去られた歴史上の釋尊を指して居ることは疑ふの餘地がない。『傳光録』に「設ひ三十二相八十種好を具足すると雖も必ず老比丘の形にして人人にかはることなし」といつてあるは實に至言であると思ふ。 
第十章 三寶特に僧寶崇敬に就て
佛法僧の三寶は佛教徒の信仰崇敬の對象體である。三寶の中で佛は教を説いた人、佛教を起した人で佛教信者に信仰崇敬さるべきことはいふまでもない。報は佛の證られた理、説かれた教である。昔ジュデヤの宗教で聖書が神の啓示として神聖視せられ、印度の婆羅門教でもヴェーダ、ブラーフマナ、ウパニシャッド、スートラの四が聞經(スルチ)即ち天啓經として同じく神聖視された事實に思ひ合せると法が佛教徒の信仰崇敬の對象となる所以は自ら了解されるであらう。僧は佛の説かれた教に依りて修行をする人、又は修行し終つた人で、佛の後繼者嗣續者であり、佛に代つて教を説き傳へる人たちである。佛教徒が斯うしてこの三寶に歸敬するのは正法眼藏『歸依三寶』の卷の文句を借りていへば一は大師なるが故であり、二は良藥なるが故、而して三は勝友即ち善知識なるが故である。
原始佛教時代の佛教徒は『南無佛』といつて單に佛歸命の意を表することもあつたが、多くの場合に於ては『我歸依佛、我歸依法、我歸依僧』といつて三寶歸依の意を表示したものであつた。人が初めて佛教に歸依すると、三歸五戒を受けるといふ。つまり三寶に歸依し、五戒を受ける。五戒を持つべきことを誓ふといふは佛教入門の形式で、これを誓つた上はこれを持たねばならぬことは勿論である。この語界を受け、五戒を持つべきことを誓ふに先ち三寶に歸依し、三寶を一代の師主と仰ぐべきことを誓つた。長阿含『遊行經』には福貴(プックサ)の語として
「我今佛に歸依し法に歸依し僧に歸依す。唯願くば如來、我正法中に於て優婆塞となるを聽したまへ。自今已後壽を盡すまで殺さじ、盗まじ、婬せじ、欺かじ、飮酒せじ。唯願くば世尊、我正法中に於て優婆塞となるを聽したまへ」
とあるが、これは初入佛教者の唱ふるに文句としては典型的のものである。それでこの三寶歸依は佛教入門の形式の一部であつたのである。しかし歸依三寶は單に佛教入門の形式たるに止まらず、歸依後平生と雖も亦これを唱へた。これは南方佛教國では今日も尚ほ行はれて居る習慣である。即ち一にはこれを唱ふることによりて初めて三寶に歸依するの意を表し、次にはこれを唱ふることによりて三寶を恭敬し三寶に歸依するの意を表するものと見たらよからう。
巴利文『大般涅槃經』によれば佛はその入涅槃の少し前に阿難陀のために種種の法を説かれたが、その中に佛入滅の後比丘等は各各自己と法とを燈明とし歸依所として、他を燈明とし歸依所としてはならぬと教へられた。これは通常佛教は自力教であるから、佛は比丘等の各各自己を燈明とし自己を歸依所として他の力を恃むことはならぬといふ意味、即ち佛はこの中に極度の自力主義を高調されたものであると解せられてゐるが、しかし此處に法と自己と二つのものを擧げてある所を見ると、これを單に自力主義の高調と見るは如何であらうか。これは佛は入滅して無餘涅槃に入らるれば少くも形體即ち肉身の佛は世になきものであるが、その遺教即ち一代の説法は比丘及び他の信者の記憶の中に留まるべきものであるから、佛亡き後の佛教徒は遺教を佛の口から聞く教と同樣に心得て、これを燈明としこれに歸依して行かなければならない。それで法燈明法歸依といはれたのである。同じ『大般涅槃經』の中に佛は阿難陀に告げて
「阿難陀よ、汝等の中或は師の言教は過去せり、吾等の師は世にあらずと思ふものあらん。阿難陀よ、こは斯の如く見るべきにあらず、余が汝等のために説きたる法、設けたる律、これ余が滅後汝等の師なり」
といはれたが、この語もこれと併せ考ふべきである。
次に比丘は三寶の中の一で、佛に倣うて修行するもの、佛のよられた道によつて進み、佛の獲られたのと同じ悟を獲んと努力して居るものである。即ち總て佛であるべきであり一個の比丘は各各一個の佛であるべきである。それで佛は自分が涅槃に入つた後比丘等は各各自己を燈明とし自己を歸依所として修行すべきことを告げられたのである。それでは佛在世中は「歸依三寶」であつたものが、佛滅後は「歸依二寶」でよいかというと、これは容易く斷言することは出來ないが、しかし佛は自分が滅した後も三寶に歸依せよと教へられたこともないやうである。
比丘は佛と變らない、佛のやうに修行し佛のやうに悟を開き、佛に代つて道を傳へ、教化を宣揚するもの、つまり、佛自身が佛の教の體現であつた。佛の教を形にしたものが佛自身であつたが如く、比丘も佛に倣うて修行し、佛同樣の悟を開き、佛同樣に教を説く以上やはり佛である。佛の教の體現である。佛自身が信者の歸依の對象體であるが如く、比丘僧伽も亦歸依の對象體となるのは一向不思議はない。それで僧歸依は佛歸依法歸依と同じく佛教教團成立の當初からあつた。佛が鹿野苑で五群の比丘即ち5陳如(コンダンニャ)以下五人の同行者を濟度された時は世にまだ僧と呼ぶべきものがなかつたので、彼等は佛法の二寶に歸依したのみであつたが、その次に度せられた耶舍は三寶に歸依して居る。即ち僧歸依は佛教成立の當初からあつて僧は佛及び法と同じく尊敬(ヤサ)され信仰されたといふことになる。
佛教は元來行の教である。教の教であるよりもむしろ行の教である。原始佛教の教ふる教は「教の法」(pariyatti-dhamma)よりも寧ろ「行の法」(patipatti-dhamma)であつた。佛もさうであつたが、比丘は自ら行うて一方には悟を求め、一方には信者の歸依の客體となり、信仰の對象となる。原始佛教ではこの通りであつたが、この點に就て今日の佛教各宗中最も多くこれに近いものを求むればそれは禪宗であらうと思ふ。禪宗は特に三寶特に僧寶崇敬の宗旨である。勿論何れの宗派も三寶を崇敬せぬものはない。この點は何れの宗派も同樣であらうが、三寶共に尊びながら、その中何れを最も多く尊ぶやといふことになると、他の宗派で或は佛寶を或は法寶を特に崇敬するに對して禪宗は特に僧寶を崇敬するものであるといへよう。即ち他の或宗派では佛法二寶の中何れかを崇敬して僧寶をあまり崇敬しない。少くも僧寶にはあまり重きを置かないのに對して、禪宗は三寶併せ崇敬する。又は特に或は少くも他の宗派以上に僧寶を崇敬するといふことになるかと思ふ。
僧とは一體何であるか、「律」の教ふる所によれば、それは僧伽(サンガ)即ち比丘の集團である。五名以上の比丘の集まつた團體である。しかし同じ團體といつてもそれにはまだ向果に入らない比丘の集團と、既に向果に入り又は阿羅漢果を得たものの集團の別が有る。眞實の意味の比丘衆即ち僧伽とはこの最後の意味のもので『法華經』の初めにある
「皆是阿羅漢、諸漏已盡、無復煩惱、逮得己利、盡諸有結、心得自在」
の文句、『別譯雜阿含』九卷の
「所作已辯、得阿羅漢、諸漏已盡、捨於重擔、獲於正智、心得解脱」
の文句は唯これに當る。『衆許摩訶帝經』十一卷に
「刹帝利族、或は婆羅門族、及び毘舍、首陀の族の善男子輩、佛に投じて出家し、鬚髪を剃除し、袈裟の衣を被、正信にて修し、聞法開悟し、悉く阿羅漢道を證得せるもの」
といつてあるのはこれである。しかし初向以上阿羅漢果までの比丘衆を一括して「應供(ダッキネーヤ)の僧伽(サンガ)」といひ、未だ向果に入らざる凡夫位の比丘の集を「假(サンムチ)の僧伽」といふ。準僧伽の意である。前者は特に四雙八輩と呼ばれ、彼等自身からいへば信者の供養に應ずるだけの徳があり、信者からいへば是等の人人に施した施物は特に大なる功徳を齎すものと信ぜられて居る。そこで彼等のことを「福田」又は「功徳田」と呼び、或は「世間の福田」と呼ぶ。世間の人の「福即ち功徳を植うる田地」の意である。これを「八福田」と呼ぶは四向四果り八つの階級があるからである。即ち信者が彼等に歸依し彼等を尊崇し衣服臥具飮食醫藥の四種の供養物を以つて彼等に施す時はその功徳は無限に搨キするものと信ぜられた。彼等は極度の克己的生活を營み道念の修養に勤めるものであるから、信者の彼等に生活の資料を供給するは一は彼等の徳風を仰ぎ、自分等の道徳の模範たることに對して謝恩の意を表し、一は彼等の枯淡なる生活振りに對して同情の意を表するためである。
佛法僧の三寶を讚仰するには一定の文句があつて聖典中には所所に出て居るが、その中僧寶を讚仰する文句を此處に引いて見ると、
「世尊の弟子衆は善く行き、正しく行き、直く行き、完うして行く。この四の人雙、八の人輩、この世尊の弟子衆は貴ぶべく尊ぶべく供養すべく合掌禮を行ふべし。これ世界に於ける無上の福田なり」
と斯うである。それを可なりに意譯したものと見らるべき『揶鼈「含』二卷の文は
「如來の聖衆は善業成就し、質直義に順ひ、邪業あるなし。上下和穆法法成就す。如來の聖衆は戒成就し、三昧成就し、智慧成就し、解脱成就し、解脱智見成就す。聖衆は所謂四雙八輩、是を如來の聖衆と謂ふ。應に恭敬承事禮順すべし。然る所以は是れ世の福田なるが故なり」
である。つまり佛及び法と共に讚仰さるべき僧伽とは預流向上の人たち、四雙八輩、八福田と稱せられる人たちばかりであることがこれで判る。巴利文長阿含の『大會經』には
「林中に大會集あり、天人群集まれり、吾等この法會に來れり、勝たれざる衆を見んがために」
といふ文句がある。この文は此處に集まつた天人群が佛と同じく僧伽衆をも崇敬歸仰するの意を示せるものと見ることが出來よう。漢文長阿含十二卷の『大會經』には
「禮敬如來及比丘僧」
とあるが、これは皆阿羅漢たちであつたといつてある。しかし向果以下の比丘衆といふものもなくてはならない。それを假の僧伽と呼ぶのである。さういふ人たちでもそれが勝友であり、善知識であり、「能令衆生出離生死證大菩提」るものであり、「代佛宣揚」するものであればそれは佛又は法と同じく信者の歸依の對象である。
佛は曾て準陀(チュンダ)の問に答へて世に四種の沙門あることを説かれた。四種の沙門とは勝道、説道、活道、汚道の四であつて、沙門をその言行によりて四種に區別したものである。沙門とあるから必ずしも佛教の沙門には限らないと思ふが、序を以て此處に記することにする。これは巴利文では『諸經要集』の準陀經(チュンダスッタ、國譯大藏經、經部十三卷)に出て居り、漢譯では長阿含三卷『遊行經』、『倶舍論』十五卷、『根本説一切有部毘奈耶雜事』三十七卷、『瑜伽師地論』二十九卷など所所に出て居る。第一の勝道沙門とは「疑を超え、苦を離れ、涅槃を樂み、貪欲を除き、人天兩界の導師たるもので、斯る沙門は道によりて邪惡に勝つものであると云ふ意味から勝道沙門といふ。」とある。第二の説道沙門とはこの「世の中に於て最勝の法を最勝の法なりと知り、此處に法を宣説し、分別し、疑惑を斷ち、貪欲を滅する智者をいふ」とあり、第三の活道の沙門とは「よく説かれたる法句の上に生活し、自ら制し正念を失はず、過なき道に則るもの」をいひ、第四の汚道沙門とは「禁戒に己を蔽護して比丘の中に交り、卒暴5恣にして信者の家を亂すもの、虚僞心を懷き、自制心なく、籾糠の如くなるもの」といつてある。勝道説道活道の三種の沙門は善僧であり、反之汚道の沙門は惡僧である。法燈の明滅は一に係りてこの四種の沙門の消長によるのであらう。 
第十一章 殿堂、聖像、僧院
前前回「佛身」の事を述べ、前回「僧伽」の事を述べたから、此度は殿堂、聖像及び僧院の事を述べなければならない。これも原始佛教と禪宗と特に似て居る點の一つであると信ずる。原始佛教時代では比丘の止住所は毘訶羅(ヴィーハラ、vihara)即ち「精舍」、又は阿羅麼(アーラーマ、arama)即ち「園」と稱したが、此處には「殿堂」即ち英語のshrine又はtempleと名へべきものはなかつた。佛教の神聖なる物體、例へば塔、寶輪、菩提樹、佛足、佛座を禮拜し、又は佛の形像を造つてこれを禮拜することは、佛滅後大分時間の經つてから、即ち西紀前三世紀以後になつてから漸次に出來た習慣で、原始佛教時代には全く或は殆どないものであつた。佛在世時代の精舍は單に「僧院」monasteryのみであつて、その中には聖像を安置する殿堂を含まなかつた。精舍は唯比丘僧の止住して入定觀念し、道念に勤むべき修道の道場だけであつたのである。
但佛在世の佛の形像に就ては『揶鼈「含』二八卷に下のやうな造佛の因縁といふものが傳はつて居る。佛母摩耶夫人は佛誕生の後間もなく沒し、三十三天中に往生して居られるので、佛は夫人に説法のため時時其處へ赴かれた。この世界の四衆の弟子たちはこの間久しく佛を拜することを得ざるがため、渇仰思慕の情に堪へず、一同阿難陀尊者の所に行つてこれを訴へた。拘薩羅(コーサラー)國の波斯匿(パセイナディ)王も抜蹉(ワッザ)國の優填(ウディナ)王も同じく阿難陀尊者の所に行つて佛の在所を問うたが、尊者もこれを知らなかつた。兩王はこれが本となつて病気に罹つた、優填王の群臣はこれを憂慮して王のために如來の形像を造らんことを議し、國内の奇巧師匠を集めて牛頭栴檀を以て高さ五尺の像を造らせた。波斯匿王も亦これを聞き、同じく國内の奇巧師匠を集め紫磨金を以て高さ五尺の像を造らせた。これで閻浮提の中に如來の形像二つあることになつたといふのである。
造像に關するこの傳説が單にこれだけであるならば、吾吾はこれを否定すべき理由を見出さない。優填王が牛頭栴檀を以て、波斯匿王が紫磨金を以て佛の形像を造り、又佛がその形像を造るの福徳を讚説されたといふことも必ずしもなかつたことでもなからうと思ふ。但この時代の人の造像の目的はこの經にもいつてある通り、「恭敬承事作禮」即ち唯肉身の佛に對しても恭敬尊重奉事供養の意を致すが如く、この像に對しても恭敬尊重奉事供養の意を致すといふことであつて、これを神聖の物體として禮拜するの意は毫もなかつた。これを一種の聖像禮拜と見ることを得るとするも、それは極めて素朴な聖像禮拜であつた。佛が造物の功徳を讚説されたといふのも、それは唯優填王や波斯匿王の如き在家の信者の佛像を造るの意を嘉賞されただけで、出家者のことでは勿論なかつた。
「若しは形色を以て吾を見き 若しは音聲を以て吾を求めき 是等邪斷を行ずる諸人は吾を見ざるなり」
は一見したばかりで誰も『金剛經』中の「若以色見我、以音聲求我、是人行邪道、不能見如來」の原文の譯であることに気がつくであらう。これは形式や音聲を以てしては如來を見、又は求むること難きの意を述べたものであるが、これと同じ見識は原始佛教時代の比丘もそれを有つて居た。即ちラクンタカ・バッヂャ長老は
「或は形色を以て吾を量りき 或は音聲を以て吾を求めき これ等欲貪に制せられたる輩は 吾を知ることなし」(『長老偈』四六九)
といつて居る。形相を以て佛を見んとするの不合理なるは斯うして原始佛教者の眼にも後世發達佛教者の眼にも同樣であつた。これからして吾人は佛教の原始時代に佛像があつたとしてもそれは重要視されなかつた。少くも比丘たちはこれを聖像視しなかつた、隨つてそれを容るべき殿堂もなかつたと信ずるものである。
それで今日吾吾が呼ぶ所の神聖なる殿堂及びその殿堂の内で禮拜する禮拜の對象物即ち聖像は原始佛教時代には全然知られて居なかつたといつてよからう。佛陀伽耶、サーンチ、バルート、アマラヴァチーの玉垣には上に擧げた塔、寶輪その他のものを彫刻し、それを信者たちが禮拜する風俗をも示してある。しかし佛身そのものは示してない。これを自由に示すやうになつたのは、ガンダーラ地方にギリシヤの藝術が入つて來て所謂ギリシヤ・ガンダーラ藝術なるものの發達した後のことであつたらうといはれて居る。即ち年代の上からいへば西紀前一世紀後のことである。この頃に至つて斯ういふものが造られるやうになつたのは一は肉身を消して寂滅の境界に入られた佛の人格に對する追懷が時の經つに隨ひ、在家出家の弟子たちの念頭から次第に消え失せるので、佛を何か形に現はして追慕の資としようとする彼等の切なる願望によるものであらうが、一は斯うして外國から入り來つた藝術がその祖國で神や人を形像に表はしたと同じ心持ちでそれまで土地の佛ヘ徒が形に表はすには畏れ多しとして居た佛をわけもなく形像に表はしたことにもよるであらう。
巴利文『大般涅槃經』漢譯長阿含の『遊行經』の中には佛がその四大遺跡を憶念追慕するの功徳あることを説かれた有名な話が載つて居る。その時阿難陀と佛との間の問答を記すると
「爾時、阿難陀は右の肩を露はし右の膝を地に著け、而して佛に白して言へり『世尊よ現在四方の沙門耆舊多智にして明かに經律を解し、清徳高行なるもの、來つて世尊を觀る。我因みに禮敬親覲問訊を得。佛滅度したまへる後は彼等復來らじ、瞻對する所なけん。當にこれを如何にすべきや。』佛阿難に告げたまはく『汝憂ふることなかれ、諸の族姓子、常に四念あり、何等をか四となす、一に曰く佛の生處を念じ、歡喜して見んと欲し、憶念して忘れず、戀慕心を生ず。二に曰く佛の初得道處を念じ、三に曰く佛の轉法輪處を念じ、四に曰く佛の般泥6處を念じ、歡喜して見んと欲し、憶念して忘れず、戀慕心を生ず』云云」
と斯うなつて居るが、この中にも佛は一語も殿堂の事には言及されなかつた。隨つてその中に佛像その他神聖なる物體を安置してそれを禮拜するなどの考は毫末も佛の念頭になかつたことは素よりいふまでもないことと信ずる。
『寶慶記』の中に堂頭和尚の埀示として
「參禪者身心脱落也、不用燒香禮拜念佛修懺看經祗管打坐而已」
といふ文があり、『辯道話』の中に
「宗門の正傳にいはく、この單傳正直の佛法は最上のなかに最上なり、參見知識のはじめより、さらに燒香禮拜念佛修懺看經をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することを得よ」
といふ文がある。これが私は禪宗の本面目であらうと考へて居る。即ち禪宗の本面目の上から云へば、佛前に出て佛に向つて燒香禮拜念佛修懺看經するの必要はない。唯打坐してそれによつて身心脱落を得ればよいのである。外に向つて外にある佛を禮拜せずして自己本心の佛を禮拜し、自己本心の佛を求め、自己本心の佛に相見しなければならぬといふのがこの文句の意味であると思ふ。『少室六門』血脈論には
「若し見性せざれば念佛誦經持齋持戒も亦uする處なし」
といつてある。これに就ては上に引いた金剛經の頌文の意をも併せ考ふべきである。
高祖大師が斯う仰せられたからとて、ご自身は佛前に燒香禮拜看經されなかつたとも思へぬ。それは大に行られたらうと思ふ。私も亦決してこれを不要のこととも無uのこととも云はぬ。しかし禪宗の本旨からいへば外にある形相に表はされた佛を禮拜したり、その前で燒香看經したりすることは無用の事、少くも不急の事で、祗管打坐、即ち坐禪さへして居ればよい筈である。この點は原始佛教とても同樣で、事實佛の時代には比丘が佛像に向つて燒香禮拜したとか、修懺看經したとかいふことを聞かぬ。念佛念法念僧の三念、六念又は十念といふことはあつたが、これは今の念佛とは全く趣を異にして居るし、高祖の意味せられた念佛も恐くこれとは違つて居ようかと思ふ。それでこの打坐の一行が修養の最高目的を果たすべき方便であるといふ點に於ても原始佛教と禪宗とはその揆を一にして居るといつてよからう。「打坐の一行」といつても勿論唯坐つて居ることばかりではない。これは行住坐臥に禪を離れないこととでも云つてお射たらからう。彼の永嘉の玄覺大師の
「行亦禪、坐亦禪、語默動静體安然」
なる語はこの行住坐臥に禪を離れざる意味を表はせる語として遍く人口に膾炙せる所であるが、中阿含『龍象經』には
「住善息出入、内心至善定、龍行止倶定、坐定臥亦定、龍一切時定」
とあり、『長老偈』(六九六‐七)には
「彼の禪思者は入息を樂とし、内心善く定に住す、那伽は行くにも定に住し、那伽はたつにも定に住す、那伽は臥すにも定に住し、坐すにも定に住し、那伽はあらゆる場合に防護す」
とある。『長老偈』に「那伽」といへるは「龍」又は「象」の意であるから、この兩文は或同一原典から譯されたものであることは何人と雖もこれを看るに難しとせざる所でらうし、同時に又行住坐臥の禪(これを那伽大定といふ)を説くことは獨り後世の大乘の禪家ばかりでなくして原始佛教時代の禪思者もこれを説き且つ實行したといふことが了解されるであらう。
日本及び支那の禪宗寺院には佛殿=殿堂もあれば僧院もある。この禪宗寺院の佛殿と僧院と何れが主であるかといへば私は僧院が主であると思ふ。つまり、佛殿があつて其處へ佛像その他の神聖なる禮拜の主體が安置されて居り、そこへ出家人は勿論、在家人が來て禮拜をする、祈祷をする、僧侶はその間に立つて禮拜祈祷の仲介をする。といふやうでなくして、禪宗寺院は僧院が主であるが、これに付屬して佛殿があり、其處に佛像その他神聖なる形が安置されて居るといふのである。こは勿論單に在家の人のために設けられたのではなくして僧院内にある出家者がその修養の一助として佛を禮拜し、思念し、その盛徳に肖からうとする、佛の語を借りていへば「〔佛を〕憶念して忘れず、戀慕心を生ぜんがため」の目的の爲に設けられたのである。隨つて禪宗寺院では僧院が主で、佛殿は寧ろその付屬物と見るべきものである。尤も支那にせよ日本にせよ、今ではこの主從の地位が殆ど顛倒されて佛殿あつての僧院といふやうな外觀もないではない。しかし禪宗の本旨から見れば僧院が主で佛殿はこれに付屬せるものであるべき筈である。但し佛殿は人間よりも尊まれる佛菩薩の形像を安置する所であるから、僧院と同一境内にありながら、比較的形勝の位置に建てられることはあり得る。しかしそれかといつて決して僧院主佛殿從といふ説を破壞することにはならない。それで禪宗寺院では僧院が主である、語を換へて言へば禪宗寺院は僧侶の修行を目的として建てられたもので、禮拜祈祷を目的として建てられたものではない。而してこの點が禪宗の原始佛教と一致する今一の點であると信ずるのである。 
第十二章 羅漢と自然界
寒岩枯木といはふか古廟香爐といはふか、一切の情謂を忘却し去つて、吾吾の所謂人間味といふものは少しもない、唯主觀的にのみ生きて居るといふ。これが吾吾が古昔の阿羅漢に就て描き出す第一の觀念である。彼等は自内證の法樂を自分獨りで味はひ、その中に自分獨りで滿足を見出し、自分以外には非常界に對しては尚更のこと、有情界に對してさへも、少しの興味をも感じない、宛然あれどもなきが如き態度を取つたかのやうに思はれる。斯ういふ阿羅漢たちに自然を見て樂しむだけの情味があつたであらうか、或は又其處にインスピレーションを見出すだけ彼等に自然との神秘的な交感があつたであらうか、今度はこれを吟味して見たいと思ふのである。
中阿含四十八卷『牛角娑羅林經』によると、佛の跋耆(バッヂー)國の牛角娑羅林(ゴーシンガサーラバナ)中にお住ひの頃、佛弟子中最も優れたる人たち、舍利弗、目7連、大迦葉、大迦旃延、阿那律、離越多、阿難といふやうな歴歴即ち同經に『諸多の知識上尊の比丘大弟子』といつてある人たちも同じくその林中に、唯佛とは少しく所を異にして住んで居た。或月明の夜平旦を過ぎた頃目7連以下の六長老は一同揃つて舍利弗長老の所に往詣した。舍利弗は常に佛弟子中の第一位に推されたる人だけに大迦葉を初め斯うした歴歴がわざわざ揃つて訪うたのであろう。舍利弗は主人役として且つ一座の長老として、問を發するは自然のことである。彼は先づ阿難陀を初め七人のものに一一問を發した。『善來賢者阿難陀、善來賢者阿難陀、(汝は)世尊の侍者にして世尊の意を解す、常に世尊のために稱譽せられ、及び諸智梵行の人に(稱譽せらる)、我今賢者阿難陀に問ふ、この牛角娑羅林は甚だ愛樂すべく夜は明月あり、諸の娑羅樹皆(花を著け)妙香を敷くこと猶天花の若し。尊者阿難陀、何等の比丘か牛角娑羅林を起發す。』この最後の一句は巴利文によれば『如何いふ比丘によりて牛角娑羅林は美しう見えるでせう。如何いふ比丘が此處に住んだらこの林園は特に光彩を放つでせう』といふ意味だとある。同じやうに他の六人のものにも問うと、彼等は各各その得意とする立場からして説明を試みた。即ち阿難陀は多聞第一の人といはれるだけに、廣學多聞の比丘こそはこの樹林に一段の光彩を添へるでせうといひ、離越多は禪定を廃せず、觀念を成就した比丘、阿那律は天眼を成就したるもの、大迦旃延は二比丘法師の共に甚深の阿毘曇を問答論議するもの、大迦葉は無事少欲知足等十箇條の事柄の上に自らこれを行ひ、他のこれを行ふを稱説するもの、而して大目7連は大如意足、大威徳あるものこそはこの樹林に住んで、それに一段の光彩を添へるでせうといつた。
『如何いふ比丘がこの樹林をしてますます光彩あらしめるか。』斯うして自然が人事と結びつけられて經典中の一の題目となれることは原始聖典では類の少い例であるが、當時の比丘の多く林園の中に生活したことは明かな事實で、迦尸(カーシー)國婆羅奈斯(バーラーナシー)城附近の鹿野苑を初め、拘薩羅(コーサラー)國の祇陀林(ゼーダバナ)、摩掲陀(マガタ)國の竹林(ベールバナ)、毘舍離(ベーサーリ)國の大林(マハーバナ)の如き、釋尊の多く錫を駐められた箇所は皆大なる精舍のあつた所として知られて居るが、その實は廣大な樹林であつた。彼等は斯うして自然界と親しみ、ケルンがいへるやうに自然界からして一種のインスピレーションを得たのである。
佛が曾て摩企(マヒー)河畔を遊化された時、陀尼耶(ダニヤ)といつてその一族と共にその河の畔に住んで居た牧牛士があつたが、彼は牧牛者としてのその家庭生活の平和なる気分を六首の偈に現はして見せた。その一は
『我は食を煮、乳を搾り、摩企河の畔に一族と共に住めるもの、我が屋は葺かれ、火は點されたり、されば天若し雨を降さんと欲せばこれを降せ。』(『諸經要集』一八)
といふのである。折から雨を催して來たのであらう。しかし食物も煮て了つた。乳も搾るだけは搾つた。屋根も葺いてあるし、燈火も點してある。何時大雨が降り出しても心配することはない。斯うした時俄に詩興が湧いて來たので彼はこれを口號んだのである。或は雨催ひの空合の時、佛が其處に來かかられたので、自分が家の内も外も總手の準備を調へて何時降り出し來ても差支へないまでにして居るのに、佛が三衣一鉢の身輕いといへば身輕いが、異端外道の輩の眼には哀れな見窄らしい風をして其處等を徘徊して居られるので、この六首の偈を誦したかと思はれる。彼一首を誦すれば佛また一首を誦せられ、斯くて佛が六首を誦し終られる時は彼は既に歸佛者となつて居た。雨は斯うして陀尼耶の歸佛の因縁となつた。
自然の情趣を添ふるものとしては雨はまた至極適當なものである。家を廻つてしとしとと降る雨の音はよし詩人でないものでもその趣を味はふことが出來よう。ソーローはその名著『森林生活』の中に
『穩やかな雨のさ中に雨滴のぽたりぽたりするその音にも、自分の家の回りに音を聞き物を見るにつけても、自然界の快よく惠みある親しみを俄に感じた』
といつて居る。昔の阿羅漢たちの中にもこの風趣を詩にするだけの情味を有する人はあつた。
『雨降りてその音恰も律に調へり。我が屋舍は葺かれ、風を防ぎて樂しく、我が心また定に住す、されば天若し雨を降さんと欲せばこれを降せ。』
『雨降りてその音恰も律に調へり。……心は亦身に於て善定に住せり……
『雨降りてその音恰も律に調へり。……此處に我精勤にして住す……
『雨降りてその音恰も律に調へり。……我此處に第二人者なくして住す……』(『長老偈』五一‐五四)
しかし同じ雨といつても印度の雨は日本や支那のそれとは違つて、降り方が至つて猛烈である。細雨又は微雨といふやうなものは少い。多くは急雨強雨猛雨である。外には斯うして烈しい雨が降りしきり強い風が吹きすさんで居るのに家の中にある比丘は静に禪想に耽つて居るといふ、この著しい對照を詩に示したものが『長老偈』中には澤山ある。その一をあぐれば、
『我が屋舍は葺かれ、風を防ぎて樂しし。天思のままに雨を降せ、我が心は善定に住し離脱したり、我は專心にして住す、されば天雨を降せ』(一)
雨もその音が律に調うて居る間は詩味もあるといへようが、その勢が少し募ると強雨となり、それに風が加はつて暴風雨となり、或は更に雷電までも加はつて雷雨となり出すと、詩味も何もあつたものではない。唯凄い恐ろしいものとなつて來る。
『雨降り、雷鳴り、我は獨り恐ろしき凹地に住す、此の獨り凹地の中に住せる我に怖畏なく驚悸なく、身毛竪立するなし。』
『我が獨り恐ろしき凹地に住して怖畏なく、驚悸なく、身毛竪立することなき、これ我が性なり。』(一八九、一九〇)
『大地は雨に注がれ風吹き雷は空に走る。我が疑惑は止息し。我が心はよく定に住せり。』(五〇)
『雷は毘婆羅山と槃荼婆山の岩窟に墜つ、斯の比倫なき佛の兒は山窟に入りて禪思す。』(四一、一一六七)
『空中に雲鼓響き鳥路に四方より豪雨來る。比丘はまた山窟に入りてぞ禪思する。この時人はこれに優れる樂を得ることなし。』(五二二)
斯うして荒れすさぶ風雨の音を聞き、物凄き雷の光を浴びながら泰然として晏坐し禪心を練るのも彼等に取りては修養の一方法であつたらうし、彼等はこの中に他の人人の味ひ得ざる一種の禪樂を見出し得たことと思ふ。
しかし自然との眞實の接觸は主觀客觀共に平和の状態にある時でなくてはならぬ。
『碧雲の色ありて美はしく冷にして清き水を湛へ、インダゴーパカ虫に掩はれたる、こり等の岩山は我をして樂しましむ。』(一三、一〇六三)
前の強雨暴風又は雷雨を記せる偈に比して何たる静かな叙景の詩であらう。山の上に碧色の冷たく清んだ水の池があつて、その山はまた一面にインダゴーパカ虫のために掩はれて居る。インダゴーパカとは因陀羅即ち帝釋天の牛群を保護するものといひ、或はまた帝釋天に保護されるものともいふ意。臙脂虫、赤色の甲虫、又は螢と註してある雨後夥しく出る虫の一種とあるから、これは雨後の叙景なることを思はしめる。景色に對しては印度人は支那人日本人とはよほど違つて居るものであるが、この詩に見るが如き景趣は吾吾の感情にも訴へぬこともなからう。池と山とは必ずなくてはならぬものか、二長老の
『清みたる水あり、大なる磐石あり、K面猿と鹿と群り、水草セーバーラに覆はる、これ等の岩山は我をして樂しましむ。』(一一三、六〇一)
と歌つたものがある。樹林に關する偈は『長老偈』中には至つて少い。ウサバ長老は、
『樹は新に喜雨を濺がれて山嶺に繁茂す、遠離を欲し、念を森林に掛けるウサバにはますます善事來る。』(一一〇)
といつた。迦留陀夷(カールダーイ)長老は佛の父なる淨王より佛をその郷里なる迦毘羅衛城へ誘ひ來るべき使命を帶びて竹林精舍へ來て留つて居た。彼はひさしくその時機の來るを待つて居たが、パッグナ月‐今の陽暦二月の末‐になつて時候も追追心地よくなり、佛が郷里を訪ひたまふべき時機も到來したことを知つて彼は次なる偈を誦した。
『大徳尊、葉を捨て果を求むるこれ等の樹樹は今や紅色となり、火焔の如く光り輝く。大雄尊、今は法味を分ちたまふべき時なり、
『樹と花とは愛すべく、四方普く葉を捨て果を求めて香気を吹き來る、雄尊、これより出立ちたまふべき時なり、
『寒きに過ぎず、暑きに過ぎず、大徳尊、今や樂しき時節の中にあり、釋迦族民と拘利族民と、尊の西に向ひてローヒニー河を渡らせたまふを見たてまつらんことを。』(五二七‐五二九)
これとは意味は稍稍違ふやうだが、やはり優陀夷(ウダーイ、迦留陀夷(カールダーイ)とはKき優陀夷の意)が佛に入郷を勸むる時の偈とされて居るもので、『佛本行集經』五十一卷に左の數句がある、
『譬如非時諸樹木 欲著花果待其時 非時花果無光麗 尊今可渡恒伽河 樹木紛葩花正開 其花香遍十方刹 花既開敷結果實 尊向生地正是時 此時最妙最爲勝 清流香潔泉池水 百鳥林中出好響 諸欣悦事是其時』
後者の洗練され文飾されたる點は前者の粗朴にして而も率直なる點と比して到底同日に論ぜらるべきものではない。これ一分はこれを譯した人の修辞の結果であらうかと思ふ。
禪僧に取つては自然は一切である。彼等に精神的の糧を供するものとしては生きた教師も無用であり、黄卷赤軸も亦無用である。自然は彼等に向つて微妙の法門を説いてくれるし無上の大法輪を轉じてくれる。單に自然といへば吾吾は山川風物、水鳥樹林といふやうな多少審美的鑑賞の値あるもののみを思ふのが常であるが、禪僧の教師としての自然はもつともつと廣い。審美價といつては全然持合せない燈籠でも露柱でも、麻でも米でも、牆壁瓦礫でも唯『物』でさへあればよい。或は形あつて眼に見られるものばかりではない、音でも香でも味でも宜しからう。隨つて谿聲は廣大長舌となり、山色は清淨法身となる。佛ともなれば法ともなる。『一色一香無非中道』と『法華經』にいへる語は禪僧の接した自然界の事事物物に就ていへるものとも見ることが出來る。凡そ事物は禪僧の眼に映じた時ほど高價なことはない。撃竹も桃花も聽く耳を有ち視る眼を有つて人にはそれが常恒不斷に説法をして居るわけだが、悲しむべし吾吾凡夫はそれを聞き又は見ることが出來ぬのは、唯唯禪的機智の缺けて居るがためで、いはば天津橋上に杜宇の聲を聞いても天下の大に亂れんとするを察することが出來ず、林檎の落つるのを見ても地球に引力あることを察することの出來ぬのと同一徹である。單にそればかりではない、即ち禪僧は自然を師としてそれより教を受けるばかりではない、彼等は自然に同化し、自然と冥合して一枚となることができる。つまりその教ふる所の汎神説を自然の上に體驗するのである。禪僧に取りては自然は斯うして深秘的な幽玄な而して廣大無邊な意義を有てるものである。
一方原始僧はといへば、彼等は自然を自然と見てこれを友とした、それに親しみを感じた、又自然に詩味を見出した。自然の與ふるインスピレーションに動かされて、彼等がその修養に進境を得、人格の向上に大なる助けを得たこともあるであらう。しかし自然の示す禪味を味はうたり、自然の語る説法を聞いたりするだけの力量は彼等は有たなかつた。况んや自然と冥合するなどといふことは彼等の夢想だにもなし得ざりし所であらう。 
第十三章 羅漢道と菩薩道
原始佛教時代の出家の佛弟子は皆阿羅漢になることを目標として進んだ。迷を捨てて悟を獲る、迷を轉じて悟を開く、惑を斷じて理を證る。これが原始佛教の教ふる佛道修業の終局の目的であり、同樣に又最上善であつた。而してこの目的を果すに就て取るべき秩序ある道は何であるかといへば、それは所謂四向四果の八階級である。今少しく詳しく言うと、『雜阿含』一五卷の二九經によれば第一預流向に於て、身見、疑、戒禁取の三結を除いて初果に入り、次にこれ等三結を除くの外、貪、瞋、癡の三毒を薄くして第二果に入る。それから有身見、疑、戒禁取、欲界繋の貪及び瞋恚の五下分結といふものを斷じ盡して第三果に入り、最後には貪瞋癡の三毒は勿論のこと、煩惱といふ煩惱をば總て斷じ盡し『現法中に於て自ら知り、自ら覺り、自ら作證し、成就して遊ぶ。生已に盡き、梵行已に立ち、所作已に辯じ、更に有を受けず、如眞を知る。』これが第四果即ち阿羅漢果に達した人たちの境界で、斯うなると佛道修行の目的は完全に果されたといふことになる。これを梵行者の階梯と呼ぶが、この八級の階梯を經て羅漢果を獲ようとするには、在家の生活を營んで居てはこれを果すことが出來ない。それにはやはり出家生活を營むの必要がある。中阿含の『迦8那經』に
『我我時に於て少しの財物及び多くの財物を捨て、少しの親族及び多くの親族を捨て、鬚髪を剃除し、袈裟衣を著け、至信に家を捨て家なくして學道す』
といつてあるやうに、家族生活を捨て出家沙門の身となり沙彌としては十戒、比丘としては二百五十戒を持ち、四無量心、十不淨觀、十遍處、十念、四禪四無色定などを觀念し、四念處、四正勤、四神足、五根、五力、七等覺支、八正道の三十七菩提分法(又はこれを三十七助道品とも呼ぶ)を修行し、四向四果を經て阿羅漢果に達するといふのが順序である。彼等は斯うして修行し、斯うして悟を開くことを得たものであつた。
しかし修行者は總て斯ういふ順序を經て悟に辿りつくものであるかと、いうと必ずしもさうでない。佛在世の佛弟子たちは四向四果の階級を踏まず、佛から四諦の教を聽いた刹那に悟を開いた人が多いやうである。鹿野苑の初轉法輪の座で悟を開いた5陳如を初め他の佛弟子たちは法門を聽き終ると同時に即座に悟を開いた。『雜阿含』一五卷の一五經には
『爾時世尊、是の法を説く時、尊者5陳如及び八萬の諸天、塵を遠ざけ、垢を離れ、法淨眼を得』
といつてある。塵を遠ざけ垢を離るとは煩惱を斷ずること、捨てること、又はそれより離れることであり、法淨眼を得とは悟を開くことを指すものである。即ち斯うして佛の説法を聽いて即時に悟を開いたもので、四向四果の階級を經て順次に上つて行くといふやうな面倒はなかつた。前の階級を經て得る悟が漸悟であるといへたら、これは頓悟であるといへよう。佛時代の弟子たちは多くこの流の悟り方をしたもので『法淨眼を得』といふ文字は到る所に見出される。
但この『法淨眼を得』といふことは必ずしも羅漢果に達したことを指せるものでもないらしい。それは此處で法淨眼を得た5陳如以下五人の比丘は何れも世尊に對して出家を求め、後世尊が無常無我苦の三特相に就て法門を説かれると、彼等は佛の所説を悦んで受け入れ、その心は取著なくして諸漏より解脱したといつてあるからである。この取著なくして諸漏より解脱したといふ時が正しく悟を開いて阿羅漢となつた時であらう。
五人の比丘に續いて出家となつた耶舍(ヤシャ)に就ても、遠塵離垢得法淨眼の文字を使つてある(『大品』一の七の六)が、これもこの時彼はまだ在家人であつた。但耶舍はまだ出家しない中にその心をゥ漏より解脱せしめたといつてあるが、これは同人が再び還俗して昔時在家人たりし時のやうにゥ欲を享けることがない程十分下地が出來て居たからである。つまり耶舍が出家をすることは既定の事實であつた。この時の耶舍は出家も同然であつたのである。それで彼の事を得法淨眼といつたのだと解することも出來る。然るに耶舍の父母及び舊妻は出家はしなかつたがやはり遠塵離垢得法淨眼といはれて居る。それで得法淨眼は必ずしも羅漢果を得たことを指すものではない。後佛は象頭山に於て摩掲陀國の頻毘沙羅王に會せられたが、『過去現在因果經』四卷にはこの時座にあつた十二萬の摩掲陀國の婆羅門居士等は佛の法門を説かれるのを聞いて皆塵を遠ざけ垢を離れて法淨眼を得たといつてある。而して又『雜阿含』三二卷の九經に掲曇聚落主(ガンダガタ)は『塵を遠ざけ垢を離れ法淨眼を得、法を見、深く法に入つた』と云つてあるが、この文を見ると、聚落主はこの時悟を開いて阿羅漢となつたやうに思はれるが、彼は『我今日より佛に歸し、法に歸し、比丘僧に歸し、其の壽命を盡すまで優婆塞とならん。唯我を憶持せよ』といつて優婆塞となつただけである。比丘にもならないし、羅漢果を獲たわけでは勿論ない。これで以て得法淨眼の常に開悟を意味するものでないことが判らうかと思ふ。要するに私が此處で言はんと欲することは阿羅漢の悟は必ずしも四向四果の階級を通過せず法門を聞くと同時に得られた例の至つて多いこと、それから得法淨眼は常に必ずしも得阿羅漢果の意味ではないといふことである。
在家の生活を營めるもので羅漢となれるであらうかというと、それは不可能のやうである。これに就ては色色經説上の證據を擧げることが出來るが、先づ第一手近にあるものから擧げて見ると『雜阿含』二〇卷の一八經(同一四經參照)には世尊の弟子中の出家と在家とを明かに區別して前者は隨順行を行うて四向四果を得べく、後者は戒を持ち、施を行ひ、天を念じ、死後はその果報として自分が念じた天界に生れ出ると斯ういうてある。この經は摩訶迦旃延長老と訶梨聚落主長者との問答となつて居るが、終り頃に長者が『我常に念佛の功徳、念法念僧念戒念施念天を修習すべし』というと、長老は『善い哉長者、能く自ら記説し阿那含を得よ』といつた。同經三三卷の一〇經、三二卷の一四經にも優婆塞の阿那含果まで成じ得ることが記してある。同四四卷一六經には佛が大梵天王に阿那含果を得ることを記別せられたといつてある。大梵天王でも未出家の身であるから出家者には一歩を讓るものとされて居る點は頗る興味あることと思ふ。しかし阿那含は第三果のことで、この位は第四の阿羅漢果に比すれば唯一位不足なるだけである。且つこれは不還果といつてこの果に達したものは再び欲界に還ることなくして阿羅漢果を成ずるものとされて居る。されば不還果に達したものは必ず阿羅漢果にも達する。在家の人が不還果まで達することを得と許されるのは阿羅漢果に達し得と許されるも同然で、事實上在家と出家との區別はない、兩方とも阿羅漢になれる、と斯ういふ人もあるのである。
しかしこの經(二〇卷一八經)には在家のものが阿羅漢果を成じ得とはいつてなく、唯率直にいつてあるのは四王天、三十三天、炎摩天、兜率陀天、化樂天、他化自在天を念ずると死後はその人が念じた天上の世界に生れ出ることを得といふだけである。斯うして原始佛教では在家道と出家道とは画然と區別されて居ると見るのが最も正しい見方であると私は信じて居る。なるほど巴利文『小品』六の九に佛は給孤獨長者が祇園精舍を供養したことを稱揚して
『彼らはこの人のためにあらゆる苦痛を除くべき法を説き、彼はこの處にこの方を知り無漏にして涅槃に入らん』
といはれ、『諸經要集』二六七には
『苦行と梵行とあり。聖諦を見、涅槃を證知する、これ最上の吉祥なり』
といつてある。(この偈の漢譯は『法句經』卷下吉祥品の
『持齋修梵行、常欲見賢聖、依附明智者、是爲最吉祥』
にあたるが、この偈の中に『涅槃を證知する』の文を見出し得ざるは遺憾である)。これは共に在家の人に就ていつたのであるが、しかしまた巴利文中阿含經(一卷の四八三頁)『Maha-vacchagotta-sutta』(大跋蹉姓經)には
『ヴァッチャよ、如何なる在家者と雖も、在家の繋縛を棄てずしては身壞の後苦際を盡すものこれあるなし』
といつてある。私は原始佛教の正しい見方からすればこの在家の生活を棄てないものは涅槃に入ることが出來ないと言ふのが本當であると思うて居る。つまり上に引いた『雜阿含』その他處處の經文に見るやうに在家の生活を營むものは四果中の三果まではこれに達することを得るが、第四の阿羅漢果はこれに達することが出來ない。それは唯家を捨てて出家した出家者にのみ約せられる所の特權である。高祖は正法眼藏の『菩提分法卷』に
『おほよそ佛法東漸よりこのかた、出家人の得道は稻麻竹葦のごとし、在家ながら得道せるもの一人もいまだあらず』
といはれ『出家卷』、『出家功徳卷』には『大論』より
『出家の破戒は猶ほ在家の持戒に勝れり』
の語を引き、更に『菩提分法卷』には
『出家人の破戒不修なるは得道す、在家人の得道いまだあらず』
といつて、一には在家生活と出家生活との優劣を比較し、二には極度に出家生活を讚歎される。これ全く原始佛教家の口吻である。
原始佛教に現はれた菩薩は大體これを二つに分類することが出來る。一は釋尊なり他の佛なりがまだ佛果を得られない前の身を指せるもので、一はそれを更に引延ばして單に現身の佛果成就前の佛ばかりでなく、前なる生生の佛をも指すものである。『阿含文學』中に現はれる菩薩は總て前者で、 後者は『本生文學』の中に入つて初めて現はれる。一括して『阿含文學』といつたが、此處に注意を要するのは『揶鼈「含』である。それはその序品中にも彌勒、大乘、菩薩、六度、三乘などの如き非原始佛教的の言句の雜れるに徴しても解る通り、よほど大乘化された點があるやうである。これ等の點を除けば他の阿含と同樣に見ることは勿論妨げるものではない。
菩薩は詳しくは菩提薩9Bodhisattaで、菩提は覺であり、薩9は有情であるから、通常これを覺有情と譯し、「上諸佛に對しては覺を求め、下有情に對しては化を埀れる」と解するのが常である。この語に就てはいろいろの解釋を下すことが可能であるが、『枳橘易土集』に引ける『華嚴疏鈔』一下の『菩提薩9』の三釋は最も要領を得た解釋であると思ふから、それを此處に引くこととする。三種の解釋とは先づ
『(一)には菩提とは所求の佛果、薩9は所化の衆生、即ち悲智所縁の境、境に隨つて名を立つ。故に菩薩と名く』
といつてある。これは菩薩に對する通常の解釋として上に擧げたものに當るかと思ふ。即ち菩薩は一方に於ては佛果菩提即ち覺を求め、一方に於ては衆生即ち有情を教化する。上求菩提下化衆生である。それで覺有情といふ。次に
『(二)には菩提はこれ所求の果、薩9はこれ能求の人、能所合目、故に菩薩と名く』
といつてある。この解釋によれば菩薩は覺有情即ち菩提の覺を求める有情である。教化すべき有情があるか否かはまだ眼中にない。單に菩提を求尋する人である。求菩提人である。羅漢果とても菩提である。隨つて羅漢果を求めるものでも菩提人である譯だが、佛果は特に菩提である。それで佛果を求める人を特に菩提人と呼ぶのであらう。終りに
『(三)には薩9は此に勇猛といふ、謂く大菩提に於て勇猛に求むるが故に』
とある。これはSattaに『力、勢、豪勇』などの意味の含まれて居るより引き出した解釋で、若しこの種の解釋が可能であるとすれば、まだ他に幾多のこれに類した解釋の仕方が出てくるであらうと思ふ。しかしこれよりも興味あり、且つ菩薩の性質から推して意味のある解釋と思はれるのは第一第二の兩種の解釋である。即ち上求菩提下化薩9と、求菩提の薩9との二であるが、私はこの二の中、二が根本的で、一はこの菩薩思想の大分發達してから出て來た解釋であらうと思ふ。即ち本來の菩薩は菩提を求むるだけの人で、他の有情を教化することを念としなかつた。少くもその尋求菩提の間は教化衆生の意はなかつた。隨つて構成の佛教家がこれに與ふるやうな一切衆生を教化し盡さぬ間は誓つて正覺を取らずとか自未得度先度他といふやうな切なる教化心はなく、單に求菩提の心のみがあつた。其處へ利他の思想がよほど加はつて來て、菩薩の全目的は唯利他であるかのやうに説かれるやうになつた。これは勿論大乘家が加へた菩薩の意義であり、且つその實行道である。通常呼ぶ所の菩薩道又は菩薩の行願とは即ちこれである。
上に既に述べた通り、菩薩は第一には釋尊なり他の佛なりで、現身に菩提を求めて居られる間の名稱であつた。巴利阿含文學に見ゆる菩薩は大方この意味のものである。此處に『巴利文の阿含』と特に一言を加へたのは漢譯阿含には『菩薩』の語をこの意味に用ひてあるのは見當らないからである。即ち巴利中阿含Ariyapariyesana-suttaには
『比丘等よ、余も亦正菩提の前、未正覺の菩薩にして云云』
とあるが、その譯本たる漢文『羅摩經』には單に
『我本未覺無上正盡覺時』
とあり、巴利文『雜阿含』三六の二四には
『毘婆尸世尊應求正偏智者は正菩提の前、未成正覺の菩薩にして云云』
とあるが、漢文『雜阿含』一六卷の二〇經には
『毘婆尸佛未成正覺時』
とある。斯うして中雜兩阿とも菩薩の文字を除いてある。初めはこの今生一世現身の佛が菩提を求めながら未だそれを成ぜざる間を稱して菩薩といつたのであつたが、それが第二には啻に現身ばかりでなく、遠き過去の世に現はれ‐釋尊が四阿僧祇十萬劫の昔、善慧(スメーダ)行者として燃燈佛(ヂーパンカラ)の座下でされたやうに‐未來成佛の誓願を起して以來、一生補處の身として兜率天に生れ出で、次にその成佛の誓願を果さんがため人間として生れ出るまでの間の幾多生生の身をも菩薩と稱せられるやうになつた。これが巴利文『本生物語』五百四十七篇の本文及び註釋書中に現はれた菩薩思想であらう。余は此處に一括して『本文及び註釋書』といつたが、この兩文學中には菩薩は(一)もと單に古き物語の主人公であつたものが(二)佛教の菩薩となり、それが(三)釋尊の前生と結びつけられて、その過去生生の身となつたと、斯う三段の發達をして居ると云はねばならぬと思ふ。
『本生物語』に現はれた菩薩の地位は至つて卑い。これは第一在家人即ち俗人で、出家の身である阿羅漢又は阿羅漢果を目的として進める比丘たちに比すればその地位は至つて卑い。吾人大乘家は菩薩を阿羅漢の上に置いて、菩薩の前では阿羅漢は共に齒ひすることを許されざるほど下劣な根性の持主として、これを貶すのが常であるが、原始佛教ではさうではなくして、その地位は全然顛倒して居た。義淨三藏の『南海寄歸傳』の中に
『若し菩薩を禮し、大乘經を讀めば之を名けて大と爲す。斯の事を行はざれば之を號して小と爲す。』
といつてある通り、小乘の比丘は菩薩は未出家の身としてこれを拜することを肯じなかつた。即ち菩薩の地位は羅漢又は羅漢果を求むる人人のそれに比しては遙に卑かつたのである。『本生物語』の中では慈悲喜捨の四梵住を修し、梵天の世界に生れることを菩薩の最上の成效として描き出してあることが往往ある。菩薩は世間の人、阿羅漢は出世間の人である。今日の語を以て云へば菩薩はまだ道徳界の人で善惡正邪の差別ある境界の外に脱出することを得ざる人であるが、羅漢は超脱の宗教界の人で、既に道徳の差別を脱出して涅槃の無差別界に入れるひとである(第五章參照)。佛教の修養は道徳界より宗教界に入るが順序である。されば宗教界にある人が道徳界にある人よりも高き地位に居るとされるのは素より當然のことでなければならない。
所が此處にこの菩薩思想に一轉化が起つた。それは釋尊又は他の佛の經歴の上でも察し得られる通り、菩薩は將來(又は遠き未來世には)佛となれる可能性を有つて居るといふがためで、一方には菩薩は佛となれる資格があり、自他二利の念の中、特に利他の念、即ち自未得度先度他の切なる念願を有つて居るのに、一方の羅漢は唯自利、或は利他心はありとしても菩薩ほど強き利他心は有たない(とされて居る)。斯ういふ事情から一は慕はれ一は疎んぜられ、一はその地位を高められ一はその地位を低くされて大乘佛教で見るやうな兩者の地位の顛倒となつて了つた。大乘に入つてからの菩薩は道徳宗教は勿論、文學藝術その他あらゆるものの主題として取扱はれ‐これは巴利佛教でも或程度までは勿論さうであつたが‐單に修養の上からいつても、生活全般の上からいつても殆ど佛者の理想と見られるに至つた。斯うなると菩薩は後佛となれる人であるから尊いといふのではなくしてやはり獨立した一人格者として尊いのである。
羅漢にも利他心はある。『雜阿含』四卷の七經には
『是故に比丘當に自利利他を觀すべし、自他倶に利し、精勤修學すべし』
といひ、『衆許摩訶帝經』八卷には
『是時(耶舍の父なる)長者は耶舍の出家の形となれるを見、復漏盡きて無學果を證せるを知り、乃ち是の言を作す。我が子快なる哉、初めてよく自ら利し、又能く他を利す。我をして殊妙の法を聞くことを得しむ』
といつてある。巴利文『揶鼈「含』二卷九五經には唯自利、唯利他、自他倶不利、自他倶利の四種の中、最後の自他倶利即ち自利利他併せ行ふを最上となすといつてある。
『本行集經』三十七品下によれば鹿野苑初説法の時佛は五人群の比丘のため先づ苦樂の二邊を離るべきことを説かれたが、苦の捨つべきことを説き明す場合に佛は
『第二の捨とは自身を困め、苦を受くるは聖の歎ずる所に非ず、自利を得ず、利他を得ず、この法須く捨つべし』
といはれたとある。羅漢に利他心のあるは素より論なきことで、唯自利と利他とを以て小乘と大乘とを區別せんとするは大なる誤りであると云はねばならない。但強ひて差別をつけるとすれば羅漢は專ら法施を行ふ、隨つてその利他は主として精神的であり、菩薩の利他は多くは物質的の財施である。羅漢が慈悲喜捨の四無量心を修行し、菩薩が布施愛語利行同事の四攝法を修するは大體この差別を示して居る。即ち羅漢道では慈悲は一種の觀念と見られて居るが、菩薩道ではそれは實行の上に示されなくてはならぬ。それは沙門婆羅門、貧窮困苦、行路乞者に衣服飮食錢財帛穀花香嚴具床臥燈明の類を施すことである。鳥獸の類でさへ菩薩の利他心には漏されなかつた。『揶鼈「含』四卷一五經によれば給孤獨長者が曾て佛に向ひ、野獸飛鳥猪狗の屬に食を施すことは如何でせうかと問うと、佛はこれを稱揚し、
『長者よ、汝乃ち菩薩心を以て專精意を一にし、而して廣く惠施せよ』
といはれたとある。菩薩道では斯うして慈愛を實際に示さなくてはならぬ。英語のチャリチーなる語は初めは『隣人の愛』の意であつたが、今は多く『慈善』の意を有する語として知られて居る。羅漢の利他は前者に類し、菩薩の利他は後者に類しはしまいか。これは勿論主として未發達の佛教中の羅漢と菩薩との比較であるが、兩者のこの特異の性格は後世發達の佛教の中でもよほどまだ保持されて居るかと思へる。或は後世發達の大乘佛教では菩薩は原始佛教時代の羅漢菩薩の兩者の有した理想實際兩方面の利他心を併せ有し利他人としては何れの方面から見ても完全圓滿の性格を有たされるやうになつたといつて宜からう。
禪宗は羅漢道菩薩道、何れを取つて居るか。これは頗る興味ある問題である。吾人は上の戒學を論じた場合(第八章)に禪宗の小乘戒を見る見方に二種ある、一は『禪戒鈔』などのやうに小乘戒を貶しつける方で、一は支那及び日本の清規家のやうに必ずしも小乘戒を排斥しない方であることをいつた。前者では『聲聞ノ持戒ハ菩薩ノ破戒ナリ』といひ、『オロカナル族ハ五戒十善二百五十戒等ヲ受持スル小乘ノ行人アレバ此名相ノ砂石ヲ以テ一句ノ聞法ヨリ功徳多シト思ヘリ』といつて、徹頭徹尾小乘戒及び小乘の行人を排斥し、一方には菩薩道及び菩薩の大戒を高揚した。然るに支那の百丈懷海禪師初め日本の吾が高祖に至るまで、清規派と稱せられるべきものは一方には菩薩戒を用ひながら、一方には小乘戒をも必ずしも排斥しない。『禪苑清規』の
『既受聲聞戒、應受菩薩戒』
といふ文は正法眼藏の『受戒卷』に引かれ、同書の
『毘尼を嚴淨するを以て方に能く三界に洪範たり。然れば即ち參禪問道戒律を先となす』
の文は『受戒卷』、『出家卷』及び榮西禪師の『興禪護國論』にも引いてある。斯うしてこの一派は小乘道必ずしも捨つべしとはなさない。即ち此處には羅漢道菩薩道竝び行はれて居るわけである。吾吾は好んで菩薩戒菩薩道の文字を用ふるが、高祖あたりの見識によればこれ等は素より可として聲聞戒羅漢道をも同じやうに認められるといふことになる。
次に禪宗流通の跡についても穿鑿すべき必要がある。語を換へて言へば支那日本の禪宗僧侶は羅漢道菩薩道の中何れを多く踏み來つたかといふことである。私は彼等は大體羅漢道を踏んで來たといはねばならぬかと思ふ。それは如何いふ理由であるかといふと、先づ第一に支那日本の禪宗は出世間的である。山林の宗教、道院の宗教、僧侶の宗教であつて村落世間俗間の宗教ではない。吾吾は原始佛教も禪宗も共に實行の宗教であるといふ(第十六章參照)が、この實行たるや原始佛教禪宗何れにしても大體からいへば共に坐禪又は觀念によりて悟を開くことといふ實行で、慈愛の心を實際の事實即ち布施や利行の形に示すことではなかつた。勿論多數の禪宗僧侶の中にはこの具體的の利他行、『船を置き橋を渡す』ようなことを行うたものもないではないが、その數は至つて少い。尚又在家の人で禪門大徳の爐鞴に投じ、鉗鎚を受けて自己本來の面目を打開したものも多少はあつたであらう。しかしそれも極少數で、大體からいへば支那日本の禪宗は僧侶が僧侶を教へることを主として來た。
一體僧侶の本面目は法施を行ふこと、即ち法を説いて衆生を度することであるか、それとも財施即ち物質的の施を行ふこと、今日の所謂慈善事業社會事業のやうなことを行ふことであるかは問題である。原始佛教時代の僧侶は慈善事業社會事業の如きことは絶えて行はず、唯法施一點張出厚田。今日では慈善事業社會事業は僧侶としては當然行はねばならぬことと思はれて居るやうであるが、これ果して僧侶の本面目であるか否かは疑問であらう。若し僧侶のこれを行ふことが肯定されるとすれば、それは出世間の僧侶としてではなく、在家の菩薩としてであらう。斯ういふ意味では僧侶のこれを行ふことは勿論妨ぐる所はない。妨げない所ではない、是非とも行はねばならぬことであらう。しかし僧侶としての僧侶の本面目は法施を行ふこと、即ち人のために法を説くことでなくてはならぬ。要するに支那日本の禪宗僧侶は在家の人も教へて來たであらう。しかし大體からいへばその教は僧侶間に限られて居た。又物質的利他行も行うたであらう。しかし大體からいへばその施せるものは精神的の法施であつた。即ちこの二の意味からして禪宗は主として羅漢道を取つて來たといはねばならぬかと思ふ。即ち理想の上では菩薩の大道を標榜して居ながら、實際取つて來た道は羅漢道であつたのである。 
第十四章 自力主義
私は第十章に巴利文『大般涅槃經』の文を引いて、佛が入滅の少し前阿難陀長老のため種々の法を説かれた中に、佛自身入滅した後比丘は各各自己を燈明歸依所とし、法を燈明歸依所とし他を燈明歸依所としてはならぬと誡められたといつた。其處では私は肉身の佛は入滅して世に亡きものとなられるが、佛の説かれた法と律、即ち一代の言教は比丘や信者の記憶の中に留まるべきものであるから、佛亡き後の佛教徒たるものは、これを佛の口から聞くと同樣に心得て、これを燈明とし、歸依所としなければならぬ。それで佛は法燈明法歸依所といはれたのである。比丘自身を燈明とし歸依所とせよといふのは比丘は三寶の隨一として佛に倣うて修行するもの、佛の依られた道に依つて進み、佛の獲られた悟と同じ悟を獲んと努力するものであるから、いはば一一一人の佛である。それで佛は自分が涅槃に入つた後は比丘は各各自己を燈明とし歸依所としなければならぬ意を述べられたものと解して置いた。これは現前三寶の中現身の佛寶だけはなくなるが、法僧の二寶だけは後に殘る意を力説したものと見たのであつた。これと同一の文句は『雜阿含』には(一)二卷四經(二)二四卷三四經、(三)同卷三五經の三箇所に出て居るが、(一)は『大般涅槃經』の場合と同じく、佛自身の入滅に連關して、(二)は舍利弗目連兩長老の入滅に連關して説かれたものであることより察すると、これはまた勿論自力主義を高調せるものと見ることが出來よう。舍利弗目連の二大長老は佛自身も
『我が聲聞、唯此の二人よく説法教誡教授辯説滿足せり、(世に)二種の財あり、錢財及び法財なり、錢財は世人より求め、法財は舍利弗大目7連より求む、如來既に施財及び法財より離る』
といつて、その死を惜まれたのに徴しても解る通り、佛に取つてはその雙腕の如きものであつた。それが相踵いで而も佛に先つて亡くなつたのであるから佛の惜まれるのも無理はなからう。さて『大般涅槃經』及び(一)の場合のやうに佛自身の入滅される時は勿論、(二)及び(三)の場合のやうに舍利弗目連の如き佛の高弟が入滅して見ると、比丘は燈明を失ひ歸依所を失ふことは云ふまでもないから、佛はこれ等の場合特に彼等を教誡して一方自己を燈明とし歸依所とし、一方は遺教を燈明とし歸依所とすべきことを教へられた。これは自己燈法燈、自己歸依法歸依と、自己と法とを對立せしめた邊からは法僧二寶の對照を明かにするものであるが、これが佛自身竝に舍利弗目連の入滅に關連して説かれた所を見るとこれはまた自力救濟、即ち比丘各個が師や兄長老の力をョらず自己の力を以て自己を救ふべきの意を高調したものであることは明白である。斯うして私はこの數箇所に現はれて居る同一文句より推して原始佛ヘの自力教なることを斷定してよいと信ずるものである。
これに連關して私は聲聞の意義とその立場とを明にして置くべき必要があると思ふ。
聲聞といふ語は佛教徒間には偏く知られて居る所であるが、動もすればこは賤むべき厭ふべき人人の類を指す語として記憶されて居る。聲聞根性といへば他人を利することを知らない利己一邊の閑道人の我利我利心を意味するやうに解せられて居るが、聲聞の自利一邊の人でないことは原始佛教を少しく研究した人の容易く了解し得る所である(第十三章)。
聲聞(Savaka)とは本來『聽聞者』の意を含める語で、今日の言葉でいへば弟子又は門人の意である。『雜阿含』二四卷八經に『如來四種聲聞』の語あるは佛の四種の弟子、即ち比丘比丘尼、優婆塞優婆夷を指せるものである。佛典中には斯うして佛の直弟子を聲聞と呼び、外道各派の隨徒をも同じく聲聞と呼んである。師の教を聽くものの意で、師の許にあつて師の教を受くるものは佛教徒たると外道たるとを問はず皆聲聞である。佛の直弟子を聖聲聞Ariya-savaka又は佛弟子Buddha-savakaと呼びたるに對し、外道の隨徒を外道聲聞Titthiya-savaka、Annatitthiy-savakaと呼んだ。繰返していふが聲聞といふ語には自利一方の佛徒といふが如き意味は少しも含まれて居らない。且つこれは佛教徒專用の語でもなくして婆羅門教徒又は他の外道の間にも用ひられた語である。
一體印度は昔から傳統を重んずる國だけあつて師資相承Acariya-paramparaといふやうな事は古來極めて重く見られて居た。隨つて教師、弟子、教徒又は聖典などを表はす言葉にはこの關係を示す語が非常に多いのである。例之、和尚は梵語ではUpadhyaya巴利語ではUpajjhaya又はUpajjhaであるが、これはUpa+adhi+iから出來たもので『近く傍に於て學ばしむるもの』の意と解してある。即ち弟子を自分の傍近く置いてヴェーダ以下の聖經賢傳を學ばしむる人の謂である。これがこの語本來の意義であつたが佛教でもそれをそのまま採用して弟子に對して和尚といふ語を用ひた。而してこの語に對する弟子を表はす語はSaddhiviharika『共に住するもの』である。和尚と共に住する人の意味であらう。師の家に止住してその教を受くる意味であらう。師の家に止住してその教を受くる人の謂である。師の意を表はす語で、今一つ阿闍梨Acariyaといふのがある。これは『行』に關する意味の語であるから、その行を以て人の師となるものの意であらう。或は『アーパスタンバ』一の一三や『マヌ』二の六九に解してあるやうに、こはa+ci『集む、積む』の意の語根から出た語で、弟子が法即ち宗教的義務に關する智識を師から得て、それを蓄積するからだとしてもこの阿闍梨の意に副はぬことはない。この阿闍梨なる師に對する弟子はAntevasinであるが、こは『境界附近に住するもの、近隣に住するもの、師の家に住するもの』の意と解してある。即ち上のSaddiviharikaと略同一義の語である。優婆塞の原語はUpasakaであるが、これはupa+sa『近く坐す、侍坐す』から來た語で、奉事者、崇拜者、教徒、信者の意味である。これを『近事』又は『近宿』と譯してあるによつてもだいたいその意味は察せられよう。或はまた彼のウパニシャッド(Upanisad)といふ語にしても同樣で、これはUpa+ni+sad即ち近く坐す侍坐す對坐すなどの意味ある語根(ルート)プラス前添詞(プレフィクス)から出來た語であるが、つまり教を受けるものが師たる人の近くに坐り、即ちその人に侍坐して受くる教の意で、これは一面にはその教を傳へることが秘密を要し、教の他に漏れることを恐れるの意味から、なるだけ師に接近してその教を受けるの意味もあるが、一面には尊敬の意を表示するため師の近くに坐するの意味もあつた。或はまた婆羅門教で小童が初めて師に就くこと、即ち入門式をUpanayana近く持ち來すことといつた。斯うして教師弟子教徒などの意を表はす語には近く傍にありて教を傳へ、又これを受ける、口から耳へ傳へる、以心傳心とまでは行かぬかも知れぬが、他の媒介を用ひずして直接人から人へ授受するといふ意味の語を常に用ひてある。佛教では出家の原語はPabbajja=pa+vraj(出で行く、自ら放つ)であるが、受戒はUpasampada(近圓戒、具足戒)である。これはupa+sam+padの語根プラス前添詞から出來たもので、本來『近づく、獲る、身に受く』などの意義が含まれて居るから、このウパナヤナと多少縁故のないこともなからうと思ふ。
加之婆羅門教でヴェーダ、ブラーフマナ、ウパニシャッド及びスートラの四を聞經(Isruti)即ち天啓經と呼ぶが、これは聞くこと、聞かれるもの、古昔より聞かれ又は傳へられたるもの、仙士(リシ)が神より聞き傳へたるものの意と解してある。上の四を聞經と呼ぶに對して、マヌ又はヤジニヤヴァルキヤなどの如き法典その他のものを指して傳經(Smriti)と呼ぶ。これは記憶すること、記憶、師の記憶によりて傳へたるもの、傳説の意で共に聽くとか傳へるとか兎に角此處にも面授面稟的の意味が含まれて居る。『聲聞』が弟子の意となるのも全くこれと同じであらう。然るをこの語が何故に唯自利を目的とする佛教徒を意味するものと解されるやうになつたかといふに、上に引いた『雜阿含』の文にもある通り、原始時代では在家出家の別なく、佛弟子を總て『佛の聲聞』と呼んだ。後世の佛教徒は自分たちを彼等より區別せんがため、後者を指して聲聞と呼び、彼等のよれる道を聲聞道、而して彼等の設ける教を聲聞乘と呼んだのであつたが、自利と利他とは後世の佛教徒の解する所に隨へば原始僧と後世僧とを區別する一大要點であるので、この意味が自然に轉じて聲聞は自利を主とする佛教徒の意と解せられるに至つたのである。しかしこの語には本來は唯『聞者』の意味あるのみで、後世の佛教徒が與へたやうな唯自利の輩といふ意味はなかつた(第十三章參照)。而してこの語は單に佛教徒のみならず、婆羅門教徒や耆那教徒の間にも用ひられたものである、寧ろその方が先であつたことを併せ記して置く必要がある。
聲聞を自利の人と解するに就て唯一つ尤もと同意される點がある。それは上に述べた通り、聲聞とは弟子の意である、聲聞はまだ弟子の分際である、自分まだ修行中の弟子の分際であるから、他人のために教を説くことは出來ないと云ふことである。これにはまた舍利弗目連の如きもやはり聲聞‐二人は特に首聲聞(アッガサーバカ)と呼ばれた‐であつたに拘らず、佛に代って法を説いたことがあるといふ矛盾も出て來るが、其處は多數決によるとして、聲聞は弟子である、自身修行者であるから他人のために法を説くといふ意志がないではないが、まだそれが出來ない身分のものと解して置かう。さうすると『雜阿含』三卷一七經に佛に就て言つてある次の文句がよく生きて來ることになる、曰く
『如來應等正覺は未だ曾て法を聞かず、能く自ら法を覺り、無上菩提に通達す、未來世に於て聲聞を開覺し、而もために説法す。』
この文でも判る通り佛は他から法を聽かず、自分獨りで法を覺り、無上菩提を成就する。而して次には聲聞を教へて彼等のために法門を説かれる方である。即ち無師獨悟の人であり、自覺覺他、自利利他の人である。然るに聲聞は師を要して悟を開くから無師獨悟でもなく、且つその多數のものはまだ弟子の身分であつて、利他の經驗がないから、或はその經驗が少いから、唯自利の人と呼ばれる。但し獨覺とは違つて聲聞は利他の意志が全然ないではない。唯その多くは利他を事實に示すべき時機に達せず、その機會を得ざる人たちである。こは聲聞をまだ修行中の弟子の群と解して、大乘家が聲聞を貶す意を釋明して見たものであるが、要するに自利一邊、唯利己の閑道人でないことは勿論いふまでもない。
原始佛教の自力主義は假に(一)倫理的(二)宗教的の二種に分けて見ることが出來よう。自力他力と似た語で自律他律といふ語が倫理學の上に用ひられて居る。この語はカント學派の如き直覺派とミル、ベンザムの如き功利派との間にはその意義が大分違へて用ひられて居るが、此處には功利派の自律他律を説明する必要はないから、しばらくカント派の説に隨ふとすると、自律的道徳生活とは吾吾各個が自己の意志を以て内心に立法したる道徳的法則に從つて生活することをいふので、各個が自己の良心の命によつて自分自らを律して行く道徳的生活である。一方に於て他律的道徳生活とは、必ずしも自己の良心の命令によらず、外にある權威、即ち神の意志(と思はれるもの)、在來の道徳、風俗習慣、父母長上の教訓、言行などを標準として營む道徳的生活をいふのである。勿論人間は生れながらにして自己獨特の道徳法を有つて居るものでもなければ環境、與論、風潮、時勢の如何を顧みずして離れ島のロビンソン・クルーソーのやうな孤獨の生活を行うて行けるものでもない。從つて自律といつても純然たる自律といふものはあり得ない。自律的といふも他律的といふも要するに比較的の言方たるに過ぎないことになる。
倫理としての佛教はその善惡因果説に於いて、善いことをすれば修羅道人間道天上道に生れ、惡いことをすれば地獄道餓鬼道に墜ちるといつたやうに常に未來世に受ける結果に重きを置くからして通常結果論、功利説と解せられて居るやうであるが、佛教の倫理は動機を全然無視するものともいへなからうと思ふ。彼の『法句經』の第一第二の偈文に
『諸法は心に導かれ心に統べられ心に作らる。人若し汚れたる心を以て言ひ又は行はばそれよりして苦の彼に隨ふこと、車輪のこれを挽けるものの跡に隨ふが如し。』
『諸法は心に・・・人若し淨き心を以て言ひ又は行はば、それよりして樂の彼に隨ふこと猶ほ影の形を離れざるが如し』
といつてあるは私は動機を意味するものと見て居る。この偈の旨意は言を發し、或行をなすに先ちてその心を清くすべきことを勸めたものである。『諸惡莫作、衆善奉行、自淨其意、是ゥ佛教』の偈もこれと併せ考ふべきである。
一方佛教の業感縁起説では一の有情はそれが涅槃に入らざる限り、未來永劫轉生を繼續し、その間に作す所の業の性質に應じて善處又は惡處に生れると説くからして、これは又一種異つた意味の個人説である。それで吾吾が善い事を行うて惡い事を行はないわけは、吾吾が神の面前で義とされんがためでなく、他の人に是認されたり稱讚されたりせんがためでもない。唯自身の力で自己を救はんがため、即ち先づ人間天上の如き善處に生れるやうにするため‐これは主觀的にいへば自己の人格を向上させるため‐次にはこの輪廻界を超えて涅槃の彼岸に至るやうにするためである。而してこの結果は他人の力を以てなし得られるものではなく徹頭徹尾自分の力に待たなければならない。彼の回向即ち功徳の轉向、更に詳しく言へば一人の人が供養や他の善事によつて積んだ功徳を他の人に轉施しそれによつて惡趣の轉生を免れしめるといふ思想は佛教の思想史上大分後になつてから起つたもの(これは巴利佛教にもある)で、原始佛教時代では懺悔の教もなければ方便説もないと同樣、この回向の思想もなかつた。吾吾は自分が蒔いた通りに自分で刈り入れるものであるといふ考は原始佛教ほど徹底的に教へられた所はなかつた。即ちその道徳教の上では原始佛教は極度の自力主義であるといふことになる。
第二の宗教的の自力主義とはいふまでもなく解脱即ち悟を求める上の事で、悟を獲るに就ては無師獨悟の佛でない以上、或程度まで他人の指導を要することは勿論のことであるが、悟そのものは自己の力に依らなければならないし、而してクリスト教や淨土教の如き他力教とは違つてこの悟を開くことが佛道修行の終局の目的であるから、原始佛教は宗教としてもやはり自力主義のものであるといふことになる。
この二の點に就て自力主義を主張することは我が禪宗も同じであらう。禪宗の不昧因果説で因果の法則の必然なること、善因に善果あり、惡因に惡果ありと教ふることは今更説明を要しない。吾人は下(第十五章)に禪宗はその現世主義なる點に於ては三世六道の要はないといふが、これは所謂不落因果の大修行底の人に取つての談で、禪の倫理教の上では三世も六道も因果輪廻、勸善懲惡皆必要である。正法眼藏の『三時業卷』に
『今の世に因果を知らず、業報をあきらめず、三世を知らず、善惡をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず』
といへる文を見れば、この意自ら了解されようかと思ふ。
次に禪の宗教的の自力主義はといへばこれは説明するまでもなく、禪宗は自力宗中の自力宗といはれるだけ、この意味を説き明せる語は非常に多いのである。大慧は
『方に信ず、此の一段の因縁は傳ふべからず學すべからず、須く自證自悟自肯自休して方に始めて徹頭すべし』
といひ又
『須く是れ當人自ら見得し自ら悟得し自然にして古人の言句に轉ぜられざるべし』
といつた。或は
『一一自己の胸襟より流出し持ち來り、我がために蓋天蓋地し去れ』
といつた語といひ、
『汝若し自己の面目を返照せば密は却つて汝が邊にあり』
といへる語といひ、唖子の苦瓜を喫するの喩、魚の水を飮んで冷暖自治知するの喩といひ、總てこれ等は禪宗の唯獨自明了余人所不見の教を高調せるものに外なからう。要するに禪宗は倫理的にも宗教的にも共に自力主義なる教であり、而して又通常いはれて居る通り、禪宗ほど極度に自力主義を高調する教もないのである。 
第十五章 現世主義
原始佛教と禪宗と今一つ共通に有すると思はれることは現世主義である。禪宗といつても現在南部支那及び安南に行はれて居るやうな禪宗ではない。これは禪宗と稱しながら一方には念佛を唱へ未來極樂往生を願ふべきことを教へるもので禪としては極めて不純なものである。これは『參禪の人念念自の本心を究むと雖も而も發願して命終の時極樂に往生せんことを願ふを妨げず』といつた彼の明末の株宏や藕uの流を汲めるもので、禪と念佛とを混淆するものであるから、正系の禪宗としてこれを取扱ふことは素より許されない。正系の禪宗には高祖が『學道用心集』の中に
『或は人をして心外の正覺を求めしめ、或は人をして他土の往生を願はしむ。惑亂此に起り、邪念此を職とす』
といつて指摘して居られるやうに、淨土教の教ふる他土の往生は心外の正覺と同じく惑亂邪念の原となるものとして排斥する。他土の往生といへば主として阿彌陀如來の極樂世界に生れること、尚更に彌勒菩薩の兜率天に生れることも意味していると思はれるが、これ等の外に人天有漏の善業の結果として期待せられる他の天上界への上生‐例には巴利文『本生物語』の中に際際でるやうな、慈悲喜捨の四梵住即ち四無量心を修して梵天の世界に生れるが如き、或は又『雜阿含』三三卷一二經にいへるやうな、
『念佛念法念僧の果報としてこの身は假令火に燒かれ、怺ヤに棄てられ、風に漂はされ、日に曝され、久しくして塵末となるとも心意識は久遠長夜に正信に桙コられ、戒施聞慧桙コられ、神識は上昇して安樂處に向ひ未來は天に生れる』
が如き、‐も亦これに含まれて居るものと見て差支へなからう。禪者が極樂や兜率天や他の天上界に生れることを目的とする。斯ういふ目的を以て禪を修するといはば、そは外道禪、世間禪、又は有漏禪として極力排斥さるべきものであらう。勿論三世因果を説き六道輪廻を説く所の佛教の一部である以上、禪にも三世や六道を説かないことはない。しかし吾が禪門の禪の本旨は即心即佛であり、直下承當である。隨つて實際をいへば禪には三世も六道も必要はない。唯現在の一世と人間の一道とあれば足りる。株宏の『竹窓二筆』に
『裴丞相謂ふ、六道の中、以て心慮を整へ菩提に趣くべきもの、唯人道を能となすのみ』
といへる通り、禪は人間一道主義である。黄檗の希運禪師は
『直下に頓に了ずれば三世のために拘繋せられず、便ち是れ出世の人なり』
といはれた。『あるべきやうは』といふ書は世に傳ふるやうに明惠上人の書であるか否かは知らぬが、その中に
『われは後世たすからんと云ふ者にあらず、ただ現世に先づあるべきやうにてあらんといふ者なり』
といふ語がある。共に禪の現世主義なることを示せるものと見て宜しからうと思ふ。要するに禪は現世一世主義である。『極樂に往生して蓮花の上に坐るとか、天國に登つて神の玉座に侍する』とかいふことは禪者の目的とする所ではない。
この點は原始佛教とてやはり同じことで、巴利聖典中によく現はれる文句に『現法に於て自ら覺知し、實現し、逮達して止住す』といふのがあるが、現法とはいふまでもなく現在世のことで、この現在世に於て何物かを覺知し、實現し、又これに逮達して時を過すの意味で、これは阿羅漢果を得た人たちの境界を記する文句として巴利聖典中頻繁に反覆される文句である。中阿含の『ョ2和羅經』には
『彼此の世に於て・・・自ら知り、自ら證り、自ら作證し成就して遊ぶ』
といふ文句になつて居る。長阿含の『裸形梵志經』に
『佛迦葉に告ぐ、若し如來至眞世に出現すれば、乃至四禪現法中に於て快樂を得』
といふ文があるが、これはまたいふまでもなく、如來の現法樂住の有樣を述べたものである。斯うして佛果又は羅漢果を成就した人たちは悟を開くと、その自得の法門の妙樂を耽味するといふのか、凡人の經驗し能はざる禪境の妙趣を味うて悠悠自適の中に時を送つたものである。
誰でも知つて居る通り、原始佛教では涅槃に二種あることを説く、二種の涅槃とは有餘涅槃と無餘涅槃とである。前者を又煩惱涅槃ともいふ、現身に證せられる涅槃である。後者を五蘊涅槃とも呼ぶ、死と同時に達せられるもので、通常灰身滅智とか一有情キ滅とか呼べるもので、これを五蘊涅槃といふのはこの無餘涅槃に入れば五蘊所成の身、身も心も併せて全然滅無に歸する‐と信ぜられて居る‐からである。この二種の涅槃を佛の説き教へられたことは事實で、人が原始佛教、廣くは小乘佛教全體を灰身滅智の教として貶すのも誠に無理のないことである。これに就ては勿論問題ない。唯併し佛はこの二種の涅槃の中何れを重要視されたかといふことになれば問題は又別に起つて來る。一體涅槃といふ語は古くヴェーダ時代から用ひられたもので、これは『吹き消す(ニルヴァー)』nir+vaといふ前添詞(プレフィクス)及語根(ルート)、又は『包み覆ふ(ニルヴリ)』nir+vriといふ前添詞及び語根から來た語である。即ち風又は息のために火が吹き消されるが如く、或は(更に一層佛教的なる譬喩を用ふれば)法華經の『安樂行品』に『後當に涅槃に入ること、煙の盡きて燈の滅するが如くなるべし』といつてあるやうに、或は又『雜阿含』二九卷に『身壞れて命終り、煙の盡きて火の滅するが如し』といつてあるやうに、薪か油かがなくなつたために、煙が盡き火が自ら消えるやうに或は物を以て火を包み覆うたやうに、未來に生を受くべき善惡の有漏業がないために、又はその善惡の有漏業が作用を起すことを妨げられるがために、その阿羅漢は涅槃に入ると同時に身心共に空無に歸して更に再び世に出ることがなくなる。それでこれを無餘涅槃といふ。阿羅漢を形容する語として、漢譯聖典中に『更不受後有』とか『我生既盡』とか『於未來世、更不復生』とかいつてあるのはこの事を指していふのである。佛はこの涅槃も勿論説かれたが、しかし余の考ではこれは唯當時印度一般の説に順じて説かれたまでの事で、佛の特に力説されたのは恐くこれではなかつた。佛の特に力説されたのはこの涅槃ではなくして寧ろ有餘涅槃であつたらう。
涅槃と同意義の語として頻繁に經典中に現はれる一連の語がある。たとへば巴利長阿含『Mahagovinda-sutta』(『大典尊經』)の中に、佛は
『余はその時マハーゴーヴィンダ婆羅門であつた。余はこれ等弟子のため梵世界に上生するの道を説いた。しかしこの梵行は梵世界に生れるだけで、厭嫌、離欲、滅、寂静、上智、正覺、涅槃に導くものではない。今この余の梵行は人を眞實の厭嫌、離欲・・・に導くものである。それは賢聖八支道で、即ち正見正思惟正語正業正命正精進正念正定である。云云』
といつて居られる。即ち涅槃に達せんがために八支聖道を修するといふのである。八支聖道は大體からいへば倫理的のものであるが、これを修して涅槃に達することを得る。上の一連の文句は一見して判る通り、死後の涅槃の意義を含まず、唯現身涅槃の意義を含んで居る。
佛が無餘涅槃を先に説かず、且つ多く説かずして倫理的修養の結果として達せらるべき有餘涅槃を先きに、且つ主として説かれたのは、佛が前者よりも後者を重要せられたことを語るものではなからうか。勿論上にも述べた通り佛が再再用ひられた文句に『更不受後有』とか『我生既盡』とか『之は余が最後身である』とかいふやうな文句はある。これ等は皆無餘涅槃の意を寓する語であることは勿論である。『法句經』の中で、無餘涅槃を説けりと見らるるものは一五三、一五四偈(『掾x一一一の三)の
『屋舍の工人を求めて、これを看出さず、多生輪廻界を奔馳して轉た苦の生死を經たり。屋工、汝今看出さる、再び屋を構ふることあらじ、汝の桷材は總て破られ、棟梁は毀たる。滅に至れる心は諸愛の滅盡に達せり』
といへるが最も著しいものであらう。しかしこれとても有餘涅槃を説けるものと見られぬでもない。尚ほ有餘涅槃を説ける文としては同經六九偈に『淫怒癡を除かば是を泥6となす』といひ、一二六偈に『善行の人は天に生れ、煩惱なき人は涅槃に至る』といひ、二三偈に『精勤は不死=涅槃=の道なり』といへるなど、一一枚擧に遑なきほどである。『雜阿含』一八卷の一經には『閻浮車(ジャンブカーダカ)舍利弗に問ふ、謂ゆる涅槃とは、云何なるを涅槃となす。舍利弗言ふ、涅槃とは貪欲永く盡き、瞋恚永く盡き、愚癡永く盡き、一切諸惱煩永く盡く、是を涅槃と名く』といつてあり(同經一八卷一〇經參照)。この境遇に赴くには正見乃至正定の八正道によるべきことをも記してある。斯うして貪瞋癡三毒の火が消え盡きて清涼寂静の境界に達したのが涅槃の人である。要するに佛が一代説法の間に特に力説されたのは無餘涅槃でなくして有餘涅槃であつた。而して繰返していふが無餘涅槃は當時の一般思想に順じて説かれたまでで、佛はこれよりも寧ろ有餘涅槃を重要視されたと信ずる。即ち佛の教はその最上の目標の上に於てすらも現世的であつたといふのである。禪も現世的であることは勿論、原始佛教もやはり現世的である。
禪及び原始佛教の修養の目的が現在世にあることを更に一層明かにするため余はサー・チヤールス・ヱリオツトの『印度教及佛教』一卷二二一‐二二二頁から左の一段を譯出することにした。これは八正道の中の正定を説明する文であるが、禪定の解釋であると見て差支へない。
『八正道の第八即ち最後のものは正定、正しき凝念、正しき恍惚である。三昧(サマーヂ)は此處彼處に快樂を求むるものとして往往非難せられる漂泊的欲望と反對するもので、これに必要缺くべからざるものは精神の統一である。しかし三昧は單なる凝念ではない、又静觀でもない。それ以上のもので恍惚又忘我の語を以て譯すべきものである、但多くの佛教の述語と同樣、歐州の言葉ではきちんとこれに當てはまるものはない。佛教の三昧は他の宗教の祈祷、即ち神靈的存在者と忘我的に交通する祈祷の位置を占めて居る。佛が阿闍世王のため沙門生活の效果に就いて説かれた説教は三昧の喜に就て雄辯なる物語を與へて居る。佛は沙門が樹木の下又は山窟の中に坐りその身體を眞直にして、その知慧を敏活に專一にし、その精神より貪欲、瞋恚、懈怠、忿怒、疑惑を除くことを述べられた。これが終わると沙門は獄舍から出たもののやうに、又は負債から免れたもののやうに喜悦がその心に湧いて出る。而して沙門は次第に四禪即ち静觀の四個の階段を通つて行く。次にその精神全體、而して又その身體までも清淨と平和の感情が浸み通る。彼はその思想を集中し自ら選ぶに任せてその思想を大なる問題の上に適用することが出來る。彼は超自然的力の受用に耽ることが出來る。こは吾吾は吾吾が有つて居る一番古い記録に聖者には神通力‐縱令記録は神通力をあまり重要視して居らぬにせよ‐があると認めてあるのを否定することの出來ぬからである。或は又沙門は佛が自ら大悟を成ぜられた思想の連續を追うて行くことも出來よう。彼はその前生を思ひ考へて、遠く散歩をした人が一日の終わり自分が過ぎ通つた村村を記憶するやうに、明かにその前生を記憶する。彼は他の生物の生死を思ひ考へて、恰も家の屋根の上に立てる人が下なる街路を通りつつある人を見るやうに、明かにこれを見る。彼は四種の眞理の意義を十分に理解し、三の大なる害惡の起滅、快樂の愛、生存の愛及び無智を了解する。而して斯く彼が見且つ知ると、その心は自由になる。斯の如く自由になると自由の知識が出て來、彼は生は既に斷たれ、高尚なる生活は營まれ、爲さるべきことは爲され了つたと知る。ちやうど、山の砦の中に池があつてその水が澄んで透き通つて静かである、其處に一人の見る眼を有つた人が岸の上に立つて池の中なる貝、砂、小石又は魚の群の動いたり、横になつたりしてるのを見るやうなものである。』 
第十六章 實行主義
『佛の目的は深遠なる哲理を宣明することではなくして人をして實行的修養に進ましむるにあつた。』
これは姉崎博士の『根本佛教』(八頁)から取つた一文であるが、原始佛教の徹頭徹尾實踐的にして深遠幽玄なる學理を説くを目的とせざる宗教であることはこの一文に明にされて居ると云つてよい。隨つてこの上更に蛇足を加ふるの必要はないかと思はれるが、此處に吾吾は『實行主義』の一項目を設けて更に少しくこの意味を明瞭にし、これによりて原始佛教と禪宗とを結びつけたいと思ふのである。
佛が『世界』、『我』、又は『死後の生活』に關して兎や角と議論することを弟子たちに誡められた例は原始聖典中所所に發見する所である。前(第七章)にも一寸述べた通り、『世界は常住なりや、世界は有邊なりや無邊なりや、命(ヂーヴ、精神)は身(サリーラ、身體)と同なりや異なりや、如來は終ありや終なきや、終あり且終なきや、或は又終あるに非ず終なきに非るや』(『雜阿含』三四卷、二四經、中阿含六〇卷『箭喩經』その他所所に出づ)
といふやうな問題は實踐躬行を重しとされたる世尊の眼から見れば、比丘の實際修行上何等の效果のない無用の閑問題である。而して又永久結果を見ることのない、人間生活には直接用のない戲論である。『箭喩經』によれば鬘童子比丘(マールンキヤプツタ)はこれ等の問題に就て疑義を起し、世尊はこれに答ふるの能なき人と斷じた。世尊を難詰して若し世尊がこれは眞諦で他は悉く虚妄の言なりと説かれなければ自分は世尊を捨てて去らうといふ意気込で佛の所へやつて來た。佛は童子に向つて、汝の余に隨つて梵行を修するは余が汝がために世界は常住とか無常とか、有邊とか無邊とか、精神と身體は同一とか不同一とか、如來は終ありとか終なしとかいふことを説くが故であるかと問はれると、童子は否然らずと答へた。佛は童子を訶責し、斯ういふことに就て十分究め盡した後梵行を初めようといふのは、譬へば身に毒箭を射られたものが、その箭を抜き醫師を求めてその傷を癒すことをせずに、先づ箭を射た人の姓名、人物、素性、箭の來た方角、箭を作るに用ひた材料などを詳しく調べた上でこれを抜こうとするのと同じ態度であるといはれた。佛の使命は要するに深遠な哲理を宣明することではなくして、人をして實行的修養に勤ましめることであつた。それ故に教といへば四諦であり、道といへば八正道である。
佛の在世時代は古ウパニシャッドの末期で、哲學的思索の盛な時代であつた(第五章參照)。弟子たちが斯ういふ問題の討究に關して佛の態度の至つて冷淡な事に不滿を抱いたといふことはありさうな事でもあり、且つそれがあるのも道理あることと思はれる。しかし佛の著眼點は全く別處にある。佛の眼から見れば斯る事柄は無用の閑事であつた。『行へ、行へ』といふのは佛が日常口を極めて弟子等に説き勸められた語であつた。要するに佛の目的は當時或一部の印度人が特に力を用ひたやうに深遠なる哲理を宣明することではなくして、只管人を實踐躬行に勤ましむることであつたのである。
吾が佛教は何處までも實際的宗教で、徒に空理空論を談ずるを以て目的とするものではない。この點は獨り禪宗ばかりでなく、何れの宗派と雖も同じことである、しかし吾が禪宗は特に『行解相應』といひ、『行持綿密』といひ、『威儀即佛法、作法是宗旨』といひて行持を重んずる風あることは禪を知れるものは誰も知れる所である。古來禪門の淨侶といへばこの威儀即佛法の意義をその日用の行持の上に體現せんと努力したものである。支那にせよ日本にせよ、禪院内に於ける禪僧の生活は一進一退悉く規矩準繩に適ひ、一絲紊れざる所があつて、門外の人たちにすら深き印象を與へたといふ話は所所に見出す所である。曾て歐陽修が禪院内に於ける禪僧の威儀を見、感嘆して『三代の禮樂は緇徒の間にあり』といつたといふも誠に道理ある事である。吾吾は上(第十章)に原始佛教は『教の法』たるよりも寧ろ『行の法』であるといつたが、これは吾が禪宗にしても同樣で、『即身説法』の語は、勿論色色異れる意味に解し得られるであらうが、禪僧がその身の行を以て人の師表となるの意と解することも亦可能である。事實禪僧は一言を口にせずともその身の行持を以て人のために法を説いたものである。藥山は説法の座に上りながら一言を埀れずして方丈に歸つた。而して經を説くは經師のすること、論を説くは論師のすること、老僧の與り知る所ではないといつた。維摩は默然として摩竭の室を閉して人のために法を説いたといふ。『默雷の如し』とか、『門を閉ぢて打睡して上上の機を接す』とかいふこともこの意味を表はせるものと見ることも出來よう。法の第一義諦は本來口で説かうとしても説き得られるものではない、説かんと擬すれば二に落ち三に落ちる。故にそれを説かないのだといふが、その實は法の眞面目はこれを口で説くの必要はない。唯從晝至夜行ふべき通りに行へばよい。それが法を説くことになるのである。吾吾は此處で即身説法を斯ういふ意味に取りたい。
生活の簡素主義は原始佛教時代の佛弟子たちに取りては素よりその本分とする所であつた。『衣は以て肩を覆ふに足り、食は以て餓を防ぐに足り、居は以て膝を容るるに足る』といふほどの衣食住の簡素ぶりは彼等に取つては何でもないことであつた。理想の法衣はといへば糞掃衣である。それであるから比丘たちは『塚間より又は街路より塵布を持ち來り、それを僧伽梨衣に縫うて著用した』(『長老偈』五七八)。比丘尼たちも『襤褸を以て衣服を作り、これを纏うて快よく臥した』(『長老尼偈』一、一六)。食は乞食により又は遺穗を拾うて得たものを食ふことであつた。美食を得ても粗食を得ても愛憎の念を起してはならない、多く得ても少く得ても好惡の情を有つてはならぬ。若し食を得たならばそれで可、若し全く得なかつたならば一日食はなくして過さなければならない。されば『美味なる或は不味なる、少き、或は多きを貪らず、惑はず唯生命を繋がんがために受用しぬ』(『長老偈』九二三)といつてある。大迦葉は癩病に罹れる人から施食を受けたといふ話がある。原文を譯したままを此處に出すのが興味があらう。曰く『山間の坐臥處を下り、われは乞食のために都城に入りぬ。癩人の食を取れるを見、われは恭しくこれに近づきぬ。彼は腐り果てたる手を以てわれにその食を薦めぬ。食をわが鉢に投ずるや、指も亦其處に壞れ落ちぬ。井に凭れてわれはその食を食ひぬ。食ひつつありても、食ひ終りても、われに厭嫌の念起らざりき』(『長老偈』一〇五四‐六)。
『一切衆生依食住』といふ語は佛典の中では極めてあり觸れた語である。衣食住の三は人間の生活に必要缺くべからざる物件であるが、三者中最も必要なるものはといへばそれは食物であらう。即ち衣服もなしで‐特に印度の如き熱帶國では‐通すことは出來ようし、住宅も有たずにやつて行くことは出來よう、しかし食物は、それが旨いとか拙いとかは別問題として、なしでは生物は生きて行けるものではない。斷食といふことはあるがそれも或期間内だけのことで、一定の限度を過ぎることは到底出來るものではない。
『一切衆生皆由食得存、無食不存』
と波斯匿王がいつた(『揶鼈「含』一三卷四經)のは至言である。しかし僧侶は自身食物の生産に與はるものでなく、この點に於ては信者の布施にョるより外はないから、僧侶たるものは自分の生存の他人(即ち信者)の力に依れることを日夜に反省して極度に謙虚の心を養ひ、且つなるだけ乏しき資料によりて生活しなければならぬと教へられた。比丘が乞食によりて生活することは大體は印度在來の習慣に倣うて設けた制度であるが、これは又比丘の慢心を挫くためには一種の都合よき方便となつたものであつた。
住所はといへば家屋、岩窟、深林、河岸、樹下、石上可なりであつた。『律』の示す所によると、もと比丘たちは夜分になると、林間樹下山中洞穴山窟塚間森林野外藁堆など思ひ思ひに勝手な所に寝とまりをなし、朝になるとこれ等の諸所から出て來た。それが見にくく見えたので王舍城の長者が精舍を供養せんことを申し出た。その序でに佛は精舍、兩房一戸、樓閣、別房、洞窟等五種の住所を用ふることを許された(『小品』六の一)とある。この長者の供養をしたといふ精舍は如何なものであつたらうか、彼は一日に六十の精舍を作つて出したとあるから、それは至つて粗末なもので、今の東京のバラツクにも劣つた粗造家屋であつたらうかと思はれる。併し佛弟子たちはそれでも勿論滿足して居た。粗造家屋ところではない、一長老は『林中に樹下に岩窟の間に幽静の情を長じつつ』(『長老偈』二九五)といひ、一長老は『われは森林、岩峽、洞窟、邊鄙の坐臥處、猛獸の往來する所に住し來れり』(同六〇二)といつて居る。二人の長老は『深林大林の中に於て虻又は蚊に螫され、而も戰場に臨める象の如く、正念を失はずしてその所に往せん』(同三一、六八四)といつて居る。今一人の長老は『恒河の岸邊に於て、われ三多羅葉の茅舍を構へたり、わが鉢は屍に乳を濺ぐの器、また衣服は襤褸なり』(同一二七)といつて衣食住の上に簡素ぶりを十分發揮して居る。
男子は斯うして自然界を家とし、深林、岩岫、洞窟、岩邊、石上、到る所として可ならざるはなく、蚊虻、毒蛇、猛獸の難に堪へつつ、勇猛に精進努力したものであつたが、流石に女子はこれをよくせなかつた。男僧の生活ぶり修行ぶりと女僧のそれ等とを比較して興味ありと思はれることは男子は斯うして自由に屋外の生活をなし、野外に曝露して毒蛇毒虫猛獸の襲來をも意とせずにやつて行くことを得たが、女子はさうは行かなかつたことである。これは勿論自然のことであらう。比丘尼が『襤褸を以て衣服を作り、これを纏うて快よく臥した』(『長老尼偈』一、一六)とか、『力弱く杖に凭りて食を乞ひ廻り、四肢震ひて地上に倒れぬ』(同一七)とか『杖に凭れて山を登つた』(同二七、二九)とか、或は『日中住のために靈鷲山に登つた』(同四八、一〇八)とかいふ程度のことはいつてあるが、大體からして極めて女性的で、此處には上(第十二章)に述べたやうな風雨雷電の凄まじい音を聞きながらの禪思や、深林内又は岩窟中の起臥や、毒蛇惡獸の襲來をも意とせざる底の大膽さは示されて居らない。隨つて自然界との親しみも至つて少いといふことになる。しかしこの長老尼たちの生活ぶり修行ぶりの女性的なるは勿論當然のことで、若しこれが男僧のそれにも劣らず男性的であつたといつたならば、それは明かに虚僞を語れるものと見るべきであらう。
禪僧の生活の簡素ぶりに就ては多くを語るの要はない。遠くは葉縣歸省和尚の枯淡や近くは白隱禪師の貧乏など誰でも知つて居る所である。白隱禪師が『夫れ學は苦學より美なるはなく、道は貧道より尊きはなし』といへる教も實際を見せての教訓であるので、學人の頭には特に深く沁み込んだであらうと察する。桃水和尚の如き大燈國師の如きは身を乞食の群中に投じて居たといふことであるが、桃水和尚は『弊衣破椀亦閑閑』といひ、大燈國師はその遺誡の中に
『一杷茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して火を過すとも專一に己事を究明する底は老僧と日日相見底の人なり』
といつた。高祖の『行持卷』の中に
『この日本國は王臣の宮殿なほその豐屋あらず、わづかにおろそかなる白屋なり。出家學道のいかでか豐屋に幽棲するあらん。もし豐屋をえたるは邪命にあらざるなし、清淨なるまれなり。もとよりあらんは論にあらず、はじめて更に經營することなかれ、草庵白屋は古聖の所住なり、古聖の所愛なり。晩學したひ參學すべし、たがゆることなかれ』
といつて居られる。禪僧の衣食住の上に簡素であるべきことは斯うして古徳の遺訓の中に明かに示されて居る。 
結論 
吾人は上十餘章に亘つて原始佛教と禪宗との兩者が共通に有する點十餘條を擧げ、一一簡單な説明を加へた。この問題に就て吾人の言はんと欲することは大抵言ひ盡したと思ふから、吾人はこれを以てこの小論文を結ぶこととする。兩者の共通に有する點は多いがその中で特に顯著なるもの、且つこれ等共有點の歸結とも見らるべき所は共に實行主義なる點にある。つまり原始佛教も禪宗もその極致は修行者なり信者なりに實行を勸めるといふ點にある。これは勿論これ等兩者に限つたことではない。佛教各派は假令深遠幽玄なる世界觀や人生觀を説くにしてもその歸着點は此處にあるといへよう、語を換へて言へば世界人生に關する深遠幽玄なる哲理を説くのも、それは要するにこの實行の歸結を引き出さんがためといふことにならう。而してこれは又單に佛教ばかりではない、論語の『學而篇』には『行に敏にして言に愼しむ』と云ひ、『里人篇』には『君子は言に訥にして行に敏ならんことを欲す』といつてある通り、實行主義は儒教でも決して忘れられる所ではなかつた。實踐躬行といふ文字の出て來るのも決して偶然ではない。實行主義は東洋倫理道徳の特色とする所である。倫理的色彩の特に濃厚なる佛教にこの特色あるは少しも異とするに足らない。唯原始佛教と禪宗とは共に言論を否定してまでも實行を勸むる教であるから言はば實行教であるといはねばならない。
原始佛教と禪宗との兩者が戒定慧の三學の中で戒學を重しとし、佛法僧の三寶の中で特に僧寶を尊しとし、佛身觀の上では法身佛や報身佛を取らずして、語を換へて言へば他の宗教の神の位置にまで高められた法身又は報身の佛陀を措いて、現身佛、即ち歴史上の佛をその第一の佛とする、而して共に神秘的なる儀式を排斥し、哲學的思辯主義を排斥することはこれを約めて實行主義の一語に歸結せしむることができよう。原始佛教で佛がヴェーダの神を無視し、ブラーフマナの儀式萬能主義を排斥し、ウパニシャッドの思辯哲學を取らずして唯『行へ、行へ』と教へられたのも、禪宗で柴を搬び水を運ぶことを妙用神通といひ、鉢を洗ひ瓶を添ふることを法門佛事といふも同じくこれ實行主義を高調するものである。正法眼藏『行持卷』には大慈寰中禪師の語として
『説得一丈不如行取一尺、説得一尺不如行取一寸』
の句を引いてあるが、こは『法句經』一〇一偈の
『千章を誦すと雖も義あらずんば何のuかあらん、一義だも聞き行じて度すべきに如かず』
といへると同巧異曲であらう。高祖は趙州が座下の大衆に告げて一生叢林を離れず、十年又は五年一語を發せずとも唖漢と間違へられることはあるまい云云といへる語を擧げて盛に推稱して居られる。要するに禪宗も原始佛教と同じく不言實行、理屈をいふは經師論師に任せて唯『行へ、行へ』と教へることに歸著すると見て宜しからう。原始佛教と禪宗とは實行主義即ち實地に修行して涅槃の果を體驗する、或は迷を轉じて悟を得ることがその教の歸著點となつて居るといつて宜しいかと思ふ。 
 
なぜ酒を飲んではいけないのか
 

 

1.飲酒戒
飲酒戒とは
ここでは、仏教の戒律の中でも、特に飲酒戒[おんじゅかい](不飲酒戒・不飲酒)について説明しています。
飲酒戒とは、在家信者の保つべき「五戒」「八斎戒」などのうちの一項目、あるいは出家修行者の律の一条項で、穀物種であれ果実酒であれどのような酒類でも、これを飲むことを戒めたものです。ちなみに、出家修行者の場合は、戒められているのではなく、禁止されています。
仏教徒であれば、酒は飲むべきものではなく、僧侶であれば、決して飲んではならないものです。
酒の過失を説き戒める仏典に直接ふれる
巷間、具体的な典拠なくして、漠然としたイメージや根拠の無い俗説によって、「仏教における飲酒」を語る人が多いようです。どこかでなんとなく聞いた話や拾い読みしたことを、その根拠を確かめずにそのまま語っている場合がほとんどのようです。また、自分勝手な解釈をふるってなんとか飲酒を、「仏教的に」正当化しようとする人も、大変多いように感じます。
しかし、「仏教における云々」を語る場合、何よりもまず仏典に基づいて具体的に論じるのが第一であり、それが道理というものでしょう。
もっとも、これはすでに、支那は唐代の西明寺道世によって編纂されて以来、すぐれた書として支那・日本で用いられてきた、『法苑珠林[ほうおんじゅりん]』においてなされています。この書は、全100巻からなって項目別に100編668部に分けられており、仏教の術語や思想について、諸経論からの典拠をいちいち挙げて示している、まさに仏教大百科事典です。
これはまったく偉大な仕事で、日本でも過去多くの学僧がこれを参照して用いていた事が知られます。いまだ現在もなお、これを優れて貴重な書として用い得ます。しかし、今やそれを読む者は極めて稀で、この書の存在をすら知る者すらほとんど無いようです。
そこで、『法苑珠林』など先蹤に習い、ここで改めて逐一仏典の原文を挙げ、訓読文と現代語訳を併記して、仏教がなぜ飲酒を戒めるかの証を示します。
もっとも、ここで紹介しているのは、飲酒の過失を説き、戒めている仏典などの、ごくごく一部の比較的名の知られているものに過ぎません。『阿含経[あごんきょう]』や『梵網経[ぼんもうきょう]』、『四分律[しぶんりつ]』・『大智度論[だいちどろん]』などがそれです。さらにまた、日本仏教の祖師や高徳と言われる人々の著作や伝記からも、飲酒に関連した文言を、若干ながら引用してその補助としています。
性戒と遮戒
さて、まれに、いや往往にして、「不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。よって多少ならば良い」という者があります。が、これは詭弁です。
たしかに、飲酒という行為自体が悪である、酒という存在が罪である、などということはありません。
戒律の分類法の一つに、仏教で戒める行為のうち、その行為自体が本質的に罪であるから戒められた性戒[しょうかい]と、悪を引き起こす可能性が高いから戒められた遮戒[しゃかい]という、大まかな区別をするものがあります。この分類法によると、五戒でいうならば、殺生戒や偸盗戒、妄語戒、邪淫戒は性戒であり、飲酒戒は遮戒であるとされます。
しかし、ここで性戒と遮戒という戒の分類は、遮戒であれば犯しても良いなどと勧めるためのものでも、その根拠になりうるものでもありません。その分類とは一体如何なるものかを知れば、「遮戒であるから犯しても良い」などという事は出来ないでしょう。
よってやはり、上の如き言は、詭弁です。
なぜ酒を飲んではいけないのか
そもそも、仏教ではなぜ、「酒を飲んではいけない」と説くのでしょうか。
その答えを、きわめて簡潔に言ってしまえば、「自分の為にならないから」の一言につきます。
仏典では、様々にその具体的理由を挙げていますが、それらはいわゆる宗教的な、あるいは俗に言うところの「抹香臭い」ものばかりではありません。「世間での評判が落ちる」「健康を害する」「財産を損減する」などといった、社会的なものも多く含まれています。
人は飲酒せずとも、軽重問わず多くの「あやまち」を犯すものです。飲酒することによって、意図的にその要因を増やすのは愚かなことである、というのが仏教の見解です。
酒にルーズな日本社会
古の歌人、大伴旅人[おおとものたびと]はこのような歌を『万葉集』に遺しています。
「生者つひにも死ぬものにあれば 今の世なる間は 楽しくをあらな」(どうせ死ぬなら、生きている間は、楽しくやらねば)『万葉集』「酒を讃むる歌」
これは酒について歌われたもののようで、日本でも万葉の昔から、酒は人に愛好されてきたもののようです。
また同時に、日本では古来、酒が社交の中で必須のものとなっており、酒に関して非常に寛容な、ある意味においては非常にルーズと言える面をもった文化を形成しています(もっとも、アングロサクソン全般ならびに朝鮮の飲酒文化、慣習も相当にひどいものと言えますが)。
これによって、さきに酒を飲んではいけない理由として「自分の為にならないから」と言いましたが、日本ではむしろ酒を飲まなければ社交上「自分の為にならない」ではないか、と思う人もあるでしょう。
「自分の為にならない」と言っても、そこにはレベルがあります。ただ社会的、健康的な意味で自分の為にならない、とだけで受け止めるならば、多少は酒を飲んでも良いことになるかもしれません。「常識的な範囲なら、自分の為にならないことはない。むしろ為になることのほうが多い」というのが、これは太古の昔から同様のようですが、一般的な見解でしょう。
「常識」はルールではない
世間には、なにごとにつけ「常識だ」・「常識ではこうだ」・「非常識だ。けしからん」と、それが明確にして絶対的権威をもったものかのような物言いをする人があるようです。
たしかに、人が、たとえそれが曖昧模糊としてはいても、「世間の常識」などというものをある程度意識し、ふまえなければ社会生活において様々な不都合が生じてしまうでしょう。しかし実際のところ、世間の「常識」などといわれるものなど、ずいぶんといい加減で、決して確たる基準になどなり得ないものです。
「常識」などというものは、時として、経済的利潤を獲得するためや、政治的目的によって、何者かによって恣意的に作られさえするものでもあります。
また、であるからが故に、常識はルールではありません。このように言うと「いや、ルールを守ることは常識だ」と言う人もあるでしょうが、また同時に「例外のないルールは無い、というのも常識だ」などと言う人もあるでしょう。結局、人や場合によってどうとでも言えてしまえるのが「常識」のようで、やはり常識はルールにはなり得ません。
そもそも、仏教は「世間の常識を説く教え」などではありません。
そもそも、仏教がそのような内容のものならば、仏陀がわざわざ説いてまわる必要の無かったものでしょう。仏教は、世間で一般的に言われるものをある程度肯定するものの、しかしその根幹においては、世間の常識などと言われるものを時としてまったく否定し、覆すことすら説く教えでもあるのです。 
2.日本仏教界と酒
般若湯?
日本仏教界では、僧侶であれば厳に禁じられているはずの飲酒を、ある人は「この世の習い」として容認。あるいは般若湯[はんにゃとう]などという隠語でもって暗に、または公然と用いてきた歴史があります。もっとも、厳密には般若湯は日本酒を意味するため、面白いもので、近年はビールを麦般若[むぎはんにゃ]と名づけるなど、工夫が加えられています。
そして今も、なんだかんだと理由を付けて、どうにか飲酒を「仏教的に」正当化しようとする仏教徒は跡を絶ちません。いや、日本のあらゆる集まりがほとんどそうであるように、いわゆる「お坊さん」の集まりにおいても、酒は必須のものです。酒が出ない集まりなど、まず考えられません。
得度式や授戒式などのあと乾杯。法事のあとで乾杯、葬式のあとで乾杯、晋山式のあとで乾杯、就任式のあとで乾杯などなど。
酒は「お坊さんのたしなみ」であり、飲まなければダメ、飲まない奴はダメなどという認識は、昔ほどではないにしろ、日本仏教界に強く残っています。
お坊さんと酒
その様な僧侶の集まりにおいて、同じオボウサンから「どうだ一杯」とすすめられた折、「わたくし、宗教上の理由で酒は一切飲みませんので」などと、少しばかりひねって断ってみるのもいいでしょう。
日本では、「健康上の理由」はままあるとして、「宗教上の理由」をたてに酒を断る人はまずいませんから、これをあえて口にするのも面白いものです。しかし、たいていの場合、相手はキョトンとして呆けた表情を返してくるのみで、その意味が通じることは少ないようです。
けれども「いや、私は仏教徒ですから」などと率直に断ろうものなら、こうしたことには実に敏感なもので、そこに含まれる批判の意をただちに嗅ぎ取り、「何ぃ!? おい、貴様ァ、不飲酒とか言うの守ってんのか?不愉快だ。やめろ、そんなもんここで今すぐ破れ!!!」などと恫喝[どうかつ]されてしまう場合があります。よって、この方法はおすすめできません。
恫喝されないまでも、「ほぉ、私の酒が飲めない?ふぅん、ずいぶんとお偉いことですなぁ」などと揶揄[やゆ]されたり、「青臭いことをいっちゃいかん。檀家さんはな、ボンサンと一緒になって酒を酌み交わすことが、亡き人の供養になると思っとる。わしらが酒をこうして飲むことで、彼等のご先祖さんは報われるんぢゃ。なにより檀家さんもよろこぶ。酒も菩薩の方便なのぢゃ」などと、だらしない赤ら顔から、世間にただ迎合することを良しとする妙ちくりんな説教を長々とされたりしてしまいます。
「浪花節的飲酒のススメ」と言ったところでしょう。これは田舎の人によく見られる言です。
そこで、そういう場合、「いやぁ、ワタクシ最近ちょっと飲み過ぎで色々と数値があがってまして、医者からきつく止められてしまったんですよ」などと言ってみれば、「なになにそうか。いや、私も通風やら糖尿やら高血圧やらで苦労しとるんや。最近流行のメタボちゅう奴や。しかし、酒はやめなきゃいかんと思っても、飲んじゃいかんと言われても、やめられんしな。えぇ?あんたも本当はイケル口なんだろ?でも若いのに大変だな。あぁ、こりゃお互い様か。ワハハハ」と、丸く収まるようです。
しかし、このような嘘を一度つけば、ずっとつき続けなければならないことになるでしょう。飲酒戒をまもる為に妄語戒を犯す、というのでは本末転倒で、結局自分の為にナリマセン。
もっとも、忌憚なくその実情を開陳すれば、「へぇ、これはもったいのうございます。いや、いただきます。よろこんで頂戴します」と言って、「キュッ!プハー」と飲んでしまい、つづけて「最近どうですか?今度、いいところ連れて行って下さいよ」などと返すのが、日本仏教界における模範的応対と言えるでしょう。これこそ、日本仏教界全体に通じてみられる僧侶の一般的態度、処世術であると言えます。
これが当たり前に出来るようになると、世間を知っている大人、一人前の僧侶であると、大体において日本仏教界では見なされます。
どうしても酒を飲みたい人々
どうしても酒を飲みたい人々、仏教が酒を戒めている事自体が気にくわない人々、飲酒をなんとか「仏教的に正当化したい人々」などから、先ほど述べたように、「酒自体が悪いわけではない。過ぎた酒によって、好ましくない事態が引き起こされることが悪いのである。つまり、適度な酒ならば問題ないのだ。世間でも酒は百薬の長と言われている。一滴も飲まないというのも、飲み過ぎるというのもいけない。お釈迦様の調弦の喩えがあるだろう。何事も適度に」、あるいは「お釈迦様は、中道、ということを言われたように思う。一滴も飲まないのも極端。飲み過ぎるのも極端。楽しく飲むのが真ん中の道。ガハハ」という趣旨の言葉が放たれる事があります。
あるいは、「飲酒戒は、酷暑の地インドで制定されたもの。インドで酒に酔えば、その暑さから意識ももうろうとし、下手をすると命にも関わろうが、支那・日本などは寒暖ゆるやかな地。いや、厳しい寒さに耐えねばならない土地もある。そこではむしろ、寒さに対して大いに役立つ薬ともなる。それぞれ気候風土が異なれば、酒の効用も異なり、よって彼の地の規制をこの地に当てはめるのは不合理」などと、したり顔で主張する者もあります。
また、仏教者であるならば第一の根拠とすべき仏典の所説はすべて無視し、ただ自身が所属あるいは信仰する宗派の「お祖師さま」の、酒に関する寛容な発言や態度を引き合いに出して、飲酒を正当化しようとする人もあります。
それにかこつけて「多少なら酒を飲むほうが良い」と言い、しまいには「人間だもの」などと開きなおる人さえあるようです。
人の性
まず、酒を好む者に「適度」を知る者など、果たして存在するのかどうか、甚だ疑問を感じる所ではあります。酒に限らず、一つ許せば、二つ許せ三つ許せと求め、「たまには良いだろう、今日くらい良いだろう、明日で終わりにしよう」などと、結局は際限が無くなっていくのは、人の性でしょう。
また、仏典を直接まともに読めば理解できることですが、仏教が酒を戒めることに、インドだから、チベットだから、東南アジア、日本だからなどという、気候・風土の違いなど関係ありません。ずれにせよ牽強付会[けんきょうふかい]の説と言えます。
仏教の説く道、悟りを求める者には、酒は不要であり、害毒でしかありません。ただ耳で仏教を聞いて頭であれこれ考えるだけの輩はともかく、戒・定・慧の三学を踏んで悟りを目指さんとする仏教の本道を行く者にとって、飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏道の核心に大きく差し障る行為です。
そもそも、世間がどう言ってみたところで、仏教が酒を戒め、また具体的に禁じていることに変わりはないのです。「人は弱く、そして酒はあまりにウマく、魅惑的だ」としても、いかに「酒文化」などというものが形成されていようとも、いくら社交の場において酒が必須のものであったとしても、仏教の範疇においは、酒は害毒です。 
3.仏道と酒
二者択一
「私は仏教徒だ。しかし、自分にとって、酒は大好きで止められない楽しみの一つであり、止めるつもりもない。けれども同時に、仏教を実践して、少しでも悟りの境涯に近づいていきたいとも思っている。その場合どうすれば?」と言う人が大変多くあります。
また、「酒を飲むなと言うのはあくまで戒であるし、他にも大事な、本質的な事があるだろう。世間でそんなことを言っても通用しない。それに仏教は慈悲の教えでもあろう。酒を飲むななどと、細かくうるさい事をいうのは仏教の本道から外れている。お釈迦様はもっと優しい、おおらかな人であったはずだ。教条的に戒を説かれたはずもない。お釈迦様は死ぬときに些細な戒律は廃止して良いと言い残されたのだろう?だいたい、私の懇意にしているオボウサンは酒が大好きだし、飲酒をイカンなどと堅苦しいことは言わん。私は、彼のような「人間らしい人」にこそ親しみをおぼえ、信頼する」などとまで強弁する者も稀にあります。
結論から言うと、酒を断って悟りを目指すか、酒を飲んで悟りをあきらめるかの二者択一です。(出家修行者・僧侶をのぞく)在家信者であれば、どちらを選択するかは個人の問題であり、自由です。あくまでその天秤を握っているのは自分自身。どちらが大切か、どちらに価値があるかを、仏典をしっかりと読んだ上で、自分自身で選べば良いでしょう。
ただし、酒を飲むことを自身が選んだとしても、「仏教的に飲酒は可である」などと、苦しい言い訳をすることは控えねばなりません。悟りを求めることを選ぶ、というのであれば、酒を断つようにすれば良いのです。いきなり完全に断つ事は難しいというのであれば、あらゆる努力を払い、さまざまな工夫をして、徐々に断てば良いでしょう。
酒を飲み、酔うこと。繰り返しますが、これは「仏道の核心に大きく差し障る行為」です。しかし、これもまた繰り返しになりますが、在家者であれば、飲酒するしないは、あくまで自分自身の問題です。
仏教はファンタジーではない
「人間は愚かで弱い。飲酒戒にしろ殺生戒にしろ妄語戒であろうと、戒を守る守らないなどと言う話よりも、まず仏様のお導き、お救いを信じる事こそが大切」などといった、「夢のある」主張をする人もあるようですが、論外です。仏教はファンタジー(幻想)や浪漫ではありません。そのような幻想・妄想を断たんとするのが、仏教です。
悟りの楽しみと、酒の楽しみの両方を得ることは、決して出来ません。もっとも、酒をやめただけで悟りに至るなどという事もまた、決してありはしません。
他に最低限やめるべきこととして、「殺生」や「盗み」、「ふしだらな性関係」、「虚言を吐くこと」があります。さらに自身を磨いていこうとするならば、これだけの戒めではとても足りません。そしてまた、戒めを保った生活を送った上で、正しく冥想することにより、自分で「悟り」を体得していかなくてはならないのです。
人は完全ではない
もっとも、言うまでも無く、人は完全ではありません。
ですから、いくら「もう二度としない」「決してしない」とどれだけ固く決意したところで、また同じことを繰り返したり、あやまちを犯してしまう事もあります。ときとして取り返しの付かないことすらしてしまうでしょう。しかし、それでも、そのたびに決意して、少しずつでもそれらの行いから離れていけば良いのです。
ブッダによって示された悟りを、みずから求めるというのであれば、それまで自分が楽しみとしていたものを犠牲にしたり、習慣としていたものを捨てなければならなかったり、我慢しなければならなかったりと、最初は苦に思うことがたくさんあるかもしれません。
しかし、戒を保ちつつ冥想を深めていく事によって、「なぜ〜してはならないのか」を理解し納得すれば、あるいは「なぜ私は〜を欲して止まなかったのか」を理解出来るようになれば、「我慢してやめる」などということはなくなって、おのずからその行為から離れていく事でしょう。
不完全なモノが、いきなり究極の完全を目指して努力してみたがとても無理、だから努力などしても無駄だと、すべてを放り投げる人もあります。いきなり完全など無理です。ゆっくりでも、しかし決して諦めずに、少しずつ改善していけばいいでしょう。
捨てていくことによって得られるモノは、大変大きく、安楽なのです。
解了は妄想を長ず
ここで注意すべきは、これらを観念的に捉えてはならないということです。また、妙な思い入れ・感情移入をして捉えようとするのもいけません。
当サイトで紹介している慈雲尊者の言葉に、「多聞[たもん]は労して功なし。解了[げりょう]は妄想を長ず」(『慈雲尊者短編法語集』)あるいは「多聞[たもん]は生死[しょうじ]を度せず」というものがあります。
仏教は実践しなければ理解出来ません。実践することなしに、経験することなしに、観念的に理解してわかったつもりになっても何の意味もなく、むしろ弊害こそあります。いたずらにただ知識としての仏教を詰め込んでいては、仏教を理解する事など決して出来はしないのです。 
4.飲酒を戒める仏典 1
Suttanipāta, Dhammikasutta(『スッタ・ニパータ』 ダンミカ経)
Suttanipāta[スッタ・ニパータ]とは、東南アジアにて行われてきた上座部が伝える、パーリ語で書かれた経典の一つ。蛇品・小品・大品・義品・彼岸道品の5章からなる。「ダンミカ経」は、小品に収録されている小経で、出家・在家のいずれもが、その立場に応じた戒律を守るべきことが説かれる。
Dhammapada, Malavagga(『ダンマパダ』汚れの章)
Dhammapada[ダンマパダ]とは、上座部が伝える、パーリ語で書かれた経典の一つ。経題は「真理の言葉」の意で、全26章からなる。疎い離れるべき悪しき行いついて説かれるMalavagga(汚れの章)はその第18章。漢訳に『法句経[ほっくぎょう]』がある。また他に、伝来の系統が異なるが、ほぼ同内容の『出曜経[しゅつようきょう]』がある。
『長阿含経』「善生経」
「善生経[ぜんしょうきょう]」とは、三十の比較的長い経典の集成である『長阿含経[ぢょうあごんきょう]』の中の十六番目の経。「なぜ酒を飲んではいけないか」を、六つの具体的な過失を挙げ簡潔に説いている。別訳経に『優婆塞戒経[うばそくかいきょう]』がある。
『梵網経』酤酒戒(十重禁戒)/飲酒戒(四十八軽戒)
支那・日本における最も有名な大乗戒・菩薩戒を説く『梵網経[ぼんもうきょう]』における、酒に関しての戒。酤酒戒[こしゅかい]とは、「酒を販売することの戒め」。梵網経では、これを最重罪の一つであると規定し、厳に戒めている。飲酒戒も併せて説かれるが、これを相対的に「軽戒」とし、酒を販売すること自体を戒めることが特徴。
『正法念処経』
多く地獄や餓鬼、畜生の悲惨な様相を説き、ひいては六道輪廻からの解脱を説くことから、浄土教信徒に引用する者が多い、『正法念処経[しょうぼうねんじょきょう]』にある飲酒の過失と飲酒から離れることの勧め。飲酒をもって地獄への因とする。
『四分律』飲酒戒(波逸提法 第五十一)
支那・日本における僧侶の法律書、『四分律[しぶんりつ]』の飲酒を禁止する条項。僧侶が酒を飲む事をなぜ禁止するようになったかの経緯と、酒の十の過失、もし犯した場合の罰則、例外事項とその条件などが説かれている。
『大毘婆沙論』
説一切有部[せついっさいうぶ]の論蔵所収の論書である、『発智論[ほっちろん]』の注釈書『大毘婆沙論[だいびばしゃろん]』に伝えられる、飲酒戒がなぜ遮戒とされるのか、なぜ飲酒戒が制定されたかについての仏典の根拠と、当時の学僧諸師の見解が示される。
訶梨跋摩『成実論』
支那南北朝時代以来、仏教の基礎学として盛んに学ばれ、日本でも三論宗[さんろんしゅう]の基礎学として、平安初期まで比較的盛んに学ばれた、経量部の訶梨跋摩[ハリヴァルマン]著『成実論[じょうじつろん]』における、飲酒についての見解。飲酒戒がなぜ遮戒とされるかを説く。
龍樹『大智度論』尸羅波羅蜜義
宗派を問わず漢語仏教圏における必読の書、龍樹[ナーガールジュナ]菩薩が著した『摩訶般若波羅蜜多経(大品般若経]』の注釈書である『大智度論[だいちどろん]』が示す、酒の35の過失。仏教者がなぜ酒を飲んではいけないか明快に説かれる。 
5.飲酒を戒める仏典 2
最澄 『根本大師臨終遺言』
日本天台宗の祖、最澄が、その臨終に際して弟子達に残した十ヶ条の遺言。その第二ヶ条にある、飲酒を戒める簡単な文言。最澄も空海に同じく、おそらくは律蔵の所説に基づいて、「薬としての酒」ならば用いてもよいと認識していたことが知られる。死に際してわざわざ言わなければならないほど、飲酒戒を守らない弟子が多かったのであろう。
我が同法に非ず。また仏弟子に非ず。
最澄がその死に際して弟子達に残した言葉が、『臨終遺言(根本大師臨終遺言)』との書題で今に伝わっています。これは、箇条書きで最澄の遺戒十ヶ条が記されてるものです。その中、第二ヶ条に、最澄の酒を戒める言葉があります。
最澄は、ただ「飲酒することを得ざれ(酒を飲むな)」と、なぜ酒を飲んではいけないかの理由もその典拠も一々挙げることはせずに、言い残しています。そもそも、「なぜ酒を飲んではいけないのか」は、仏教徒としての常識ですから、その理由をわざわざ言う必要もないものです。
しかし、それでも「酒を飲むな」と、その死に際においてすら言わなければならないほど、最澄の周囲には「酒愛好家」が多かったのでしょう。酒を飲むような者は、「我が同法に非ず。また仏弟子に非ず」と、最澄は自分の弟子でもなく、ましてや仏弟子でも無いと断罪。もし酒を飲む者が現れれば、これを(比叡山から)追放しろと、具体的にその対処も示しています。
しかしまた、これは最澄が原則として否定した律蔵の所説に基づいてのことでしょうが、「もし合薬の為にも、山院に入るること莫[なか]れ」と、「薬としての酒」を飲むことは認めていたことが知られます。ただし、上に見たように、それを寺院内に持ち込んで服することは禁止しています。
特にこの様に言っていいることから察するに、「薬としての酒」だといって寺院内・山内に酒を持ち込み酒をすする輩が、現実に相当いたのでしょう。
より飲酒を厳しく戒める大乗
円頓戒[えんどんかい]という、具体的には『梵網経』に基づく「戒」を受けるだけで出家たり得る、いや、むしろ大乗の菩薩比丘ならばこれを受けることのみで出家するべきという、最澄の主張したインド以来例をみない独自思想にもとづく出家の方法あるいは定義。それが、実際に朝廷(国家)に認められて実行されるのは最澄の死後一週間のことです。
『梵網経』所説の戒は、十重四十八軽戒[じゅうじゅうしじゅうはちきょうかい]と言い習わされるように、十ヶ条の重罪と四十八ヶ条の軽罪を戒めるものです。
『梵網経』は酒について、「販売すること」を重罪とし、「飲むこと、飲ませること」を軽罪としています。ここで重罪・軽罪といっても、それは双方を比較するとその罪に軽重の差異があることを示すにすぎず、実際はいずれも犯してはならないと、相当に厳しく戒めています。小乗に比して、その智慧も慈悲も優れていると自負する大乗の徒が、智慧を阻害し、ゆえに慈悲にも反する酒を飲み、飲ませること、ましてやこれを販売することなど「トンでもない」と言うのでしょう。
世間では、「大乗は小乗に比して酒について寛容」であると誤解している人が多いようです。しかし、事実は逆であり、むしろより厳しい態度を採っています。もっとも、このような誤解は、日本の僧尼が、自らを菩薩だ、大乗だといいながら、酒を飲むのは日常茶飯事として、「僧坊酒」など寺院内で酒を醸造し、販売しすらしていた現実に基づくものかもしれません。
昔から変われない伝統的(封建的)人々
最澄が酒を飲んではならないと、わざわざその死に際して戒めたのは、すでに多くの弟子達が飲酒戒を破って酒を飲み散らしていたことの証と言えます。
天台宗では、比叡山延暦寺は言うに及ばず、坂本に居を構えている人々も、これは現在でも全く変わっておらず、いやおそらくは最澄当時よりひどい有様となっており、ゆえに最澄の言に従えば、比叡山はもとより天台宗には最澄の弟子はほとんどいないことになります。これは現在の坂本周辺の住民や、京都の祇園など繁華街の人々によって、充分に証明されうるでしょう。
極めて例外的に、比叡山にて十二年間ぐるぐる一人運動会をしたり閉じこもったりし、その短期間だけ不飲酒・不肉食など「精進潔斎」することを、「アリガタイ」などと言うよりまず、すべての者が飲酒戒に限らず、戒を守ろうとすることのほうがよほど「ありがたい」でしょう。しかし、それはもはや文字通りの「有り難い」こととなっているのが、実に悲しむべきことですが、現実です。
比叡山延暦寺を頂点とする天台宗は、その他の宗派に比して、多分に封建制度的在り方を未だに保持している組織で、きわめて「伝統を重んじる」人々の棲み家といえます。もっとも、良き伝統など最澄の昔に消え去り、悪しき伝統を保って残しただけのようですが。
ご他聞にもれず、天台宗にても、宗祖の言葉のうち「一隅を照らす」など、自分たちに都合のいい、世間に聞こえのよい箇所だけ抜き出して、自身たちの宣伝文句にすることにはやぶさかではないようです(もっとも、この言葉は誤植や誤読に基づくもので、最澄の言葉などではないと判明しています)。
が、その宗祖の言葉など所詮は言葉だけのこと。「仏陀の金言」はもとより「宗祖のお言葉」といえど、自分たちのあり方に干渉するような言葉は、すべて無視しているのがその証です。
「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」などという格言を最澄は残していますが、これはまさに真実。面白いことに、彼らもまたこの言葉を好んで口にし、世間向けに僧侶然とした顔を取り繕って澄ましています。しかし、「衣食満ちて道心欠けた」彼らにはやはり、これも言葉の上だけの話です。
空海 『御遺告』第十九
しばしば真言宗徒が、弘法大師空海の言葉として口にする「塩酒一杯はこれを許す」という言葉の典拠。彼等はこの一文を根拠とし、さらに「一杯は一杯でも、お大師様はお猪口かバケツで一杯かは言われていないのだ」などと放言して、ウワバミの如く酒を飲む。しかし、実際はこの書の中で、空海阿遮梨は飲酒を厳に戒めている。
僧房の内に酒を飲むべからざるの縁起
古来、空海の遺言として真言宗に伝えられてきた『御遺告[ごゆいごう]』では、「なぜ酒を飲んではいけないのか」の具体的な理由を、直接述べる事はせず、それらが説かれている仏典を挙げて、その戒めとしています。
さて、『御遺告』の中で空海は、酒が薬として有用なものであることを、これは『大智度論』の所説をうけてのことでしょうが、まず一応認めています。しかし、すぐにつづいて、仏道を歩む者にとっては酒が害毒にすぎないことを、『長阿含経[ぢょうあごんきょう]』と『大智度論[だいちどろん]』ならびに『梵網経[ぼんもうきょう]』に説かれていることを指摘し、戒めています。なかでも、『梵網経』の説く酤酒戒[こしゅかい]と飲酒戒[おんじゅかい]を、重く捉えていることが知られます。
ただし、例外として酒を用いても良い場合のあることを、恵果[けいか]と順暁[じゅんぎょう]の談話に基づいて挙げています。それは、本質がまったく改変されて用いられてはいるものの、真言宗の僧徒の中ではたいへん有名なものです。「塩酒[おんじゅ]を許す」というのが、それです。
ちなみに恵果とは、唐の都たる西安の青龍寺にあって、空海を中国に伝わった密教の正当継承者とした、当代きっての密教僧で空海の師。順暁とは、西安から遙かに遠い泰山などに住していた密教僧です。恵果の師などから、その密教の一部を授けられ、最澄[さいちょう]にこれを授けたことで日本では有名な人です。
「治病の人には」塩酒を許す
さて、先に述べたように、ここでは恵果と順暁との談話として、「大乗開門の法に依って、治病の人には塩酒を許す」などと、飲酒戒についての例外が挙げられています。
しかし、本文を読めば明らかなように、これはあくまで「口伝」です。 空海が順暁と会った事実などなく、よって空海が直接これを聞いたはずはありません。あるとすれば、師の恵果もしくはその周囲から伝え聞いたと推測できるで しょう。また、この説に、大乗の経文に根拠などありません。しかし、大乗に限らずに言えば、典拠が無い、とは言えないようです。諸々の律蔵には、酒を用い ても良い場合のあることが説かれているのです。
例えば、日本で過去行われていた律蔵である『四分律』の飲酒戒を説く中、その末尾に酒を用いても良い場合として、出家者が病を患った際、他に有効な治療法も薬も無い場合には、酒を薬として用いても良い。また、皮膚病を癒やすための塗薬として、酒を用いても良いことが説かれています。律蔵において、すでに酒を治病の為の薬としてならば、罪とはならない(用いても良い)ことが説かれているのです。
『御遺告』では「塩酒を許す」として、酒を塩と一緒に用いる事が言われています。なぜ塩と酒なのか。これはその昔、人々は、酒の肴として塩を用いていた様で、それを意味するものと思われます。最澄と異なるのは、最澄が「薬のための酒であっても、寺院内に持ち込んではならない」という態度を取ったのに対し、空海は「薬のための酒は、寺院内には酒と他者に知られないように持ち込め」としている点です。
いずれにせよ、ここに挙げられている恵果と順暁との談話としての口伝は、「大乗開門の法」などという大げさなものではなく、律蔵の所説に基づいたものと考えて良いでしょう。
『御遺告』とは
さて、『御遺告』とは、先に述べたように、空海の遺言である、と古来真言宗で伝承され、重要視されてきたものです。
承和2年(835)3月15日付けで、空海が死去する一週間前に弟子達に遺しとされる遺言で、二十五箇条からなっています。この中の第十九条に、 「僧房の内に酒を飲むべからざるの縁起」として、飲酒に関する戒めが説かれています。現在、高野山金剛峰寺は御影堂に、空海真筆とされるものが所蔵されて います。
しかし、実は『御遺告』は空海の著作などでは到底なく、彼の遺言をそのまま書き留めたものでもないということが、近年の仏教学会では定説となっています。『御遺告』とは、空海の言葉として見て問題ないとされている 『弘仁遺戒』 や 『承和遺戒』 などを下敷きとして、どこかの何者かによって、空海作と擬して平安中期頃に著されたもの、という見方が大勢のようです。
もっとも、学会でその様にいわれていたとしても、平安期の昔から空海撰として伝えられてきた、真言宗徒にとっては最も重要な書の一つであるという歴史的事実は動きません。よって、ここではその事実をふまえ、『御遺告』は空海撰であるとの立場を採っています。
治病の人には塩酒を許す
面白い事に、近年の真言宗徒はこぞって、『御遺告』にあるこの一文を、恣意的に「治病の人には飲酒いっぱいはこれを許す」と、あたかも空海が飲酒を許可していたかのように、改変して記憶し伝承。もちろん、『御遺告』を直接読めば明らかなように、空海は決して「飲酒」、つまり「酒を酒として飲むこと」を許しておらず、むしろ厳に戒めています。
しかし、真言宗の僧徒は、「お大師様も酒を飲む事を戒めらなかった」、「お大師様はおちょこに一杯か、バケツにイッパイかはおっしゃらなかった」などといって、たいていの法要が終わった後には、ウワバミのように酒をすすることを習いとしています。あるいは、「高野山は標高が高く、冬はきわめて寒いため、暖を取るのに酒はとても有用であった。ゆえにお大師様は酒を許されたのである」などと、まったく根拠のない思いこみをして、自身が酒を飲むことの言い訳としています。
今も「茶にそえて秘かに用ひ」ている高野山
たとえば、現在も真言密教の聖地などと言われている高野山などは、観光客用の宣伝文句どおりの「密教の道場」「菩提道場」などでは到底なく、まった くの「飲酒の道場」であると言って差し支えがないほどです。
僧徒だけではありません。高野山を訪れる参拝者・観光客も、そこで酒を飲む事を求めます。寺院側も十分これを心得ており、「当院にはお酒などはございません。いや、しかし、般若湯や麦般若ならばございます。これらは飲み放題。そして払い放題でござい ます」などと販売し、参拝者もこれを大喜びする場合が多くあります。
しかしさて、空海のこの『御遺告』の飲酒を戒めた文言のうち、今もしっかりと守られている点が一つだけあります。「瓶にあらざるの器に入れ来たって、茶に副えて秘かに用ひよ」という点がそれです。これは、高野山での法要などで出される、伝統的な形式に則って振る舞われる正式な食事、いわゆる「お斎[とき]」の席において、その最初にお茶と酒が、「瓶にあらざるの器」に入れられて出されるのです。と言っても、それは「薬としての酒」などではもちろん無く、その後にはビールはビール瓶で、酒は一合徳利で、堂々としかも次々と出されます。
はじめから飲酒戒など無いわけで、「弘法大師のオコトバ」もどこ吹く風ですが、この一点だけやたらとこだわって、今もかたくなに守っているのは、実に面白いことだと言えるでしょう。
「治病のための酒」を飲んで、病を得る人々
結果、彼等のそのほとんどが、酒と酒にともなう食事を暴飲暴食したことによって、高血圧・糖尿・痛風などの病気・疾患、あるいは肥満などに苦しむことになり、実際苦しんでいる人がたいへん多くあります。
もっとも、彼等は、百薬の長のはずの酒、治病のため(のはず)の酒を飲んで身体を病み、心を病み、それでも酒を飲むことは止められない。いや、そもそも止めようとすらしないようです。しかし、彼らのその職業上、参拝者にはその実体を口が裂けても言えず、また見せることもあいなりません。そこで、彼等の説法は丸ごと虚言、横で聞いていると吹き出しそうなほどの「ご冗談」、あるいは典型的な「おためごかし」にならざるを得ません。
自業自得とは言え、実にあわれなことです。
このようなことから、仏教から離れ、空海の遺志からも程遠い所に位置しながら、「ほとけ様、お大師様はいつも私たちを見守って下さっている。あぁ、ありがたい、ありがたい。南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」などと、ありもしない幻想に救いを求めたり、あるいは「すべては大日如来の顕現であって、酒も大日如来。酒を飲むことも大日如来の働きの一つだ」などと、途方もない妄言をうそぶいたりするのも、故無しとは言えないでしょう。
法然 『百四十五箇条問答』
しばしば酒好きの浄土教関係者が引用する、法然[ほうねん]が飲酒を容認した言葉。法然にとって不本意であるかも知れぬが、この「日本人らしい」彼の一言が、彼の追従者たちに、はなはだしい悪影響を与えつづけている。
やさしい念仏Q&A『百四十五箇条問答』
法然が、その信奉者・支持者などから質問され、逐一答えたものを取りまとめた書に、『百四十五箇条問答』というものがあります。おそらくは、その質問者のほとんどが一般庶民であったであろうことが、その内容から推測されます。よって、その内容は平易にして素朴なものであり、今もここから法然の思想の一端を容易に知る事が出来ます。
さて、この問答集の中に、酒についての質問があり、その法然の答えがあります。それは、仏典も仏教用語も何一つ出てこない、非常に短く単純なものです。しかしながら、後世に残した影響力は絶大で、今もこの言葉を引用して飲酒について語る仏教者は跡を絶たないほどです。
質問者は聞きます。「酒を飲むことは、罪なのでしょうか?」と。すると法然は答えます。「本当は飲んではならないものではあるが、この世のならい」と。法然は「飲んでも良い」、「飲酒は罪ではない」と言ってはいませんが、言外に、消極的ながら飲酒を容認していたことが知られます。
そして、その理由を「この世のならい」としています。「厭離穢土 欣求浄土」と後代言われるようになる浄土教にしては、「この世のならい」を容認して受け入れる物言いは、矛盾しているかもしれませんが、そこまで考えての答えでも無いでしょうか。
持戒の人(?)、法然
法然は、浄土宗の祖として、現在崇められている人です。
もとは比叡山にて修学していた天台僧で、天台宗が平安初期に建立した戒壇にて、円頓戒を受けてその戒脈に名を連ね、これを厳に守っていた「持戒の人」・「持律第一」であったと伝えられています。
ただし、ここでいう「持戒」あるいは「持律」とは、伝統的な僧侶が守らなければならないルールである具足戒もしくは二百五十戒、つまり律を、法然が守っていたことを意味しません。法然が受け、守っていた円頓戒というのは、具体的には『梵網経[ぼんもうきょう]』に基づく、十重四十八軽戒[じゅうじゅうしじゅうはちきょうかい]を意味します。現在、これを「梵網戒」などと呼称する場合があります。
これは本来、出家在家を問わず説かれた大乗の戒であり、これを受けたからと言って僧侶になれるといった性質のものではありません。インド以来、僧侶になるためには必ず具足戒を受け、これを守らなければならないのが、小乗・大乗を問わない「あたりまえ」でした。大乗の出家者は、具足戒を受けた上で、梵網戒などの菩薩戒を受けることを習いとしていました。
しかし、平安初期に最澄は、「梵網戒を受けただけでも僧侶たりえる、いや、大乗の僧侶ならば梵網戒のみを受け、菩薩僧となるべき」という主張をなし、盛んに政治運動を展開します。この最澄の主張は、伝統的な仏教からすれば、突拍子もない前代未聞の暴論と言えるもので、最澄は猛烈な批判・反論を南都諸宗から受けることになります。しかし、結局は仏教の本来云々からでなく、国家(朝廷)がこれを認めたことによって、彼の主張はその死後一週間のことながら実行されるに至ります。
インド以来の伝統として認められたものでも、教学的に他宗から充分な根拠ありと認められたものでもなく、朝廷(国家)が最澄におそらくは同情して、その主張を認めて法制化した点が、近世にいたるまで大きな問題を次々起こす事となります。日本仏教といわれるもの、特に「仏教ではない」と言われるような、浄土宗や真宗・日蓮宗などが比叡山からわいて出ることになる大きな要因を、本人からすれば不本意極まりないでしょうが、最澄は造ってしまったと言えます。
もっとも、最澄のこの主張は、純粋にして強固なる宗教的信条からなされたものではなく、当時の出来たばかりの天台宗をとりまく危機的状況、天台宗で僧籍を取った途端に宗徒が南都六宗や真言宗へ転向するなどの、政治的背景が多分にあるようです。
以来、天台宗ならびに天台宗から派生した諸宗は、南都諸宗や真言宗と異なって、東大寺などの戒壇で具足戒を受けなくとも、梵網戒を受けるだけで国家が僧侶として認定する事になりました。これは、全世界の仏教国あるいは仏教が過去に信仰されていた国・地域でも例のない、前代未聞のことでした。
そして、これが最初猛烈な反対を加えていた南都諸宗や真言宗にまで、悪影響を及ぼしていく事となります。
現在、これを天台宗あるいは鎌倉新仏教系の御用学者や信徒などが、「革新的な偉業」「保守的・形骸的な伝統を打ち破った新思想」「大乗の真面目」などと、高く評価します。あるいは日本的な新しい思想とも褒めそやします。しかし、仏教において「新しいこと」「革新的なこと」は評価されることでありません。それは、ややもすれば「仏教から大きくはみ出た」とすら換言されてしまうことです。
そのような流れの上にあり、、さらにその戒すらも、悟りにいたるのには不要であるかのような思想を提唱したのが、法然という人です。その弟子からは、さらにこれを純化した、換言すると極端にした親鸞という人が出て、真宗が形成されていきます。
ただ口で「南無阿弥陀仏」と称えてこそ
若かりしころから叡山で勉学に励んでいた法然は、いつしか「阿弥陀仏」を観想してその救済を俟つと言う、中国以来の浄土思想に傾倒。これは一種の冥想で、阿弥陀仏の姿や極楽浄土の有り様を、心の中でイメージし、心を浄化(極楽に往生)しようというもので、これを一般に「観想念仏」と言います。
しかし、やがて法然は叡山を降りてのち、ただ「南無阿弥陀仏」と口で唱えることによっても、人は阿弥陀仏の誓願力によって救われるのだとする、独自の浄土教を主張するにいたります。
人が戒を守って経典を学習し、冥想をするのは困難な悟りへの道であって、少数の者が実行し得るのみである。これは自力の道、聖道門である。しかし、ただ阿弥陀仏を信じて口に「南無阿弥陀仏」と唱えてその救いの力に預かるだけならば、これは万人が行える容易な悟りへの道であり、聖道門など捨てて、今こそ是非行うべきである。これは他力の道であり、浄土門である、と言うのが彼の大まかな主張です。
これを特に、称名念仏[しょうみょうねんぶつ]あるいは口称念仏[くしょうねんぶつ]と言い、この方法のみによって悟りを得ようとする態度は、一向[いっこう]あるいは選択[せんちゃく]と呼称されます。
法然のこの思想は、彼の主著『選択本願念仏集[せんちゃくほんがんねんぶつしゅう]』によって知ることが出来ます。
カルト教団化した法然の信奉者たち
彼のこの主張は、一部の公家と庶民から支持され始めます。といっても、その大部分は、文字も読めないような無教養の一般庶民でした。彼らからすれば、なんだかよく判らないが、救いに至る「やさしい道」というのですから、既存の近寄りがたく「むずかしい道」よりは良い、という単純な理由だったのでしょう。
しかし、法然の主張は、当時としてもかなり特殊なものであり、さらにその信奉者からは秩序を故意に乱す者も現れだしたため、もといた比叡山延暦寺をはじめ、南都諸宗からも猛烈な批判にさらされます。そしてついには、幕府から念仏禁止の沙汰まで出されています。結局、法然は、時の幕府によってその弟子等とともに、還俗のうえ遠島の刑に処せられています。
実際、彼の信奉者の中には、「南無阿弥陀仏」と称えれば救われるのだから、戒を守る事も、善行を積むことも必要ない。いや、それらを行う者は愚か者だ。積極的に悪をなしても問題ない、ただ「南無阿弥陀仏」と称えればいいのだ、などという様な主張をする者が次々に出現しています。これを法然は(いちおう)戒めていたようですがほとんど効果なく、彼の教団の一部は、今で言う「カルト教団」化していました。
そして、法然の主著『選択本願念仏集』は、彼の死後、明恵上人の目にするところとなります。明恵上人は、それまで世に徳高いと讃えられる法然を、漠然とながら尊敬していた様で、噂でささやかれる彼の思想はあくまで世のつたない噂に過ぎないと聞き過ごしてました。そんな「馬鹿な話を説く者」がいるわけが無いと思っていたのでしょう。
しかし、実際に彼の主著を目にしてみると、噂通りの内容。そのあまりの「非仏教ぶり」に愕然とし、憤慨した明恵上人は、これを論駁するために『摧邪輪[ざいじゃりん]』を著し、徹底的に彼の説に批判を加えています。この経緯は『摧邪輪』の冒頭に記されています。
法然の言葉にかこつける人々
さて、「持戒の人」などと言わている法然が、受け持っていたかもしれない梵網戒では、飲酒を自他共に許してはならないと、相当に厳しく戒めています。梵網戒は、律とは異なって、自他共に許してはならない、と厳に戒めているのです。
このことから、彼をして「持戒の人」と称するのは、少なくとも飲酒に関する限り、まったく的外れと言えるでしょう。
なにより問題とすべきは、彼のこの言葉を頻繁に引用して、飲酒を正当化する道具としたのが、ほとんど彼の僧職の追従者たちとなったことです。このような事について、法然は頭が回らなかったのでしょう。現在、浄土教関係の僧職の者が飲酒について語るとき、必ずと言っていいほど口にするのがこの法然の言葉であり、大抵の場合、「酒を飲んでもいいのだ」と結論されます。
この場合、数々の仏典にある飲酒を厳しく戒めている所説は、法然のこの言葉の前にすべて消し去られてしまいます。「この世の習い」という言葉自体が、日本社会において大変強力なものと言えるでしょうが、さらに「お祖師さまのお言葉」ともなれば、もう仏典も何も関係が無くなってしまうのが日本仏教界です。
法然の残したこの言葉は、現在に至るまで「悪影響」をこそ与え続けています。
人間だもの
彼らは、「法然上人は持戒の人であった」と讃え、そして一方「大変フトコロのひろい方であった」・「自分に厳しく人に優しい、人間らしく、おおらかな人であった」などと、法然を讃えます。
大抵の場合、人が口にする「人間らしさ」とは、「人情」を意味するようです。しかし、情によって行動するのは、動物と同じであって「人間らしい(特有)」というものではないでしょう。人間に特有といえるのは「知」であって、「情」ではないでしょうから。
まったく人間は矛盾したもので、たとえ知が人に特有であったとしても、誰であれ過ち・誤りを犯すものです。しかし、それをまるごとただ容認するだけでは、何も解決せず、何も変わらない結果を招きます。もっとも、彼らからすれば、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで救われるというのですから、そのような些末なことはどうでも良い、最終的には何とかなるのだから、と言ったところでしょうか。
喜海 『栂尾明恵上人伝記』
鎌倉初期になされた戒律復興の一端を担った明恵[みょうえ]上人が、酒について徹底した厳しい態度を示しということを伝える伝記。明恵上人が真の求道者であり、「人間というもの」を知った智慧の人であったことが、よく了解されるであろう。
蠱毒は只一生を亡ぼす失あり。酒毒は是多生をせむる罪あり (現代語訳)
ある時、明恵上人が長い間冷病におかされ、食事もとらずにおられた頃、医博士の和気のナニガシという者が、往診のために来たときに言うには、「このご病気は冷えに起因するものです。(上人がお住まいの栂尾の)山中は霧が深く、寒風吹きすさぶので、旨い酒を毎朝あたためて少しずつお飲みになれば快方に向かうでしょう」と。このような診断を下したところ、上人がおっしゃるには、「法師は私人ではない。生きとし生ける者を諭し導く器である。仏陀が、とりわけ難所に踏み込んで戒められたのも、そのような理由からである。放逸さに身をまかせるべきではないのだ。さらに言うならば、生命は必ず死ぬべき者であって、仏陀ですら死からお救い下さるなどということはない。よって(釈尊の在家信者であり、当代随一の名医であった)ジーヴァカの腕をもってしても老いを止める術はなく、(中国は戦国時代の伝説的名医である)扁鵲[へんじゃく]の処方薬にも死を免れる効能などないのだ。もし、私がもう少しこの世に生きながらえて役に立つようであれば、三宝のご加護によってこの病も癒え、命を落とすことはないだろう。もし命を落とす事になろうとも、仏陀が堅く戒められた飲酒戒を犯してはならない。とりわけ酒は、比丘の二百五十戒の中から沙弥の十戒に取り入れられており、沙弥の十戒から在家の五戒にも取り入れられたもので、諸戒の中でとりわけ重要なものである。死に至らしめる病は、ただこの人生を亡ぼすだけの禍である。しかし酒という毒は、この人生だけでなく幾多の来世において自分に苦しみをもたらす罪となる。たとえ、(酒が)いずれは滅び去るこの身を一時的に助けたとしても、得るものは少なく、失うものは多大である。仏陀は、むしろ死ぬとしても(飲酒戒を)犯してはならないと戒められたのだ。私がもし(酒を)薬として一滴たりとも飲むことがあれば、こともあろうに、なにかとカコツケたがる法師達は、「亡くなったかの明恵上人ですら、時々酒お飲みになっていた」などと言い、恰好の先例として引き合いに出して、(その結果)この栂尾の山中はさながら酒の道場になってしまうだろう。よって、たいした考えも無しに(このように厳しく飲酒戒を守ると)言っているのでは無いのだ」と。
慈雲 『十善法語』
十善を「人たらしめる道」とし、十善戒の戒相を仏教からだけでなく儒教・道教など様々な方面から説き示した慈雲尊者の主著『十善法語[じゅうぜんほうご]』に見られる、飲酒について。尊者は、在家の「十善の人」であれば、通過儀礼において酒を用いることを容認していたことが知られる。
不飲酒戒を不貪欲戒に約す (現代語訳)
ブッダが制された戒には指図があり、初めて仏教を信仰した男性を憂婆塞という。女を憂婆夷という。これらの者達は先ず五戒を受け保つのである。その五戒の中には飲酒戒があり、十善には飲酒戒が含まれていない。なぜであるか。十善は在家者・出家者に共通する戒であるから、飲酒は含まれていないのである。仏教に信を置いたばかりの者であっても、わずかでも煩悩を離れる道に順じる。酒(を飲むこと)は諸々の煩悩を引き起こすものであるから、戒めなければならないのだ。十善の人は、(冠婚葬祭など世間の様々な)礼式に則って、時として酒を飲むことがある。しかし過ぎて飲むことはない。もし(酒が)過ぎて威儀を乱すようなことがあれば、この不貪欲戒を破ったことになる。俗世間の教えには、「禹は旨酒を悪んで儀狄を遠ざく」(『戦国策』魏策の取意)というのがある。「酒誥」(中国史上初の禁酒令)に、「天、威を我が民に降し、用いて大に乱れて徳を喪うこと、又酒惟れ行うに非ずということ罔し。越に小大の邦、用いて喪ぶること、亦酒惟れ辠するに非ざること罔し」とある。詩経の「小雅」には、「賓の初めて筵につく、温々として其れ恭し。其の未だ醉わざる。威儀抑々たり。曰に既に醉ふ止。威儀怭々たり。是れ曰に既に醉う。其の秩を知らず」とある。また孔子は、「惟だ酒は量無し、亂に及ばざれ」(『論語』郷党)と述べている。俗世間であっても、諸の君子の心には、おのずと飲酒を戒めるようになるのだ。仏教の経論の中には、飲酒には三十五事(『大智度論』)・三十六事(『沙弥尼戒経』)の過失があると説いている。在家信者は、これらを要約して常に心に留めて忘れないようにしなければならないことである。又律の中には、ブッダが祇多太子(祇園精舎の土地の元の所有者)に飲酒を許されたことが伝えられている(出典不明)。また末利夫人が、冤罪で処罰される者を救うために、斎日であったけれども、飲酒戒等の戒を破ったのであった。(末利夫人は)これを世尊に報告。ブッダは、「破戒にはならない。それは善功徳を得る行為であった」と答えられたのである(出典不明)。このような持戒・破戒の事例はすべて憶念しておくべきだ。 
 

 


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