近代日本雑話

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雑学の世界・補考   

なぜ日本は中国と戦争をしたか

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前回の末尾で、橋川文三(1922.1.1生、政治思想史研究者)の日本国民としての日中戦争及び日米戦争についての率直な印象を紹介しました。ここで氏は「極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。」といっています。私はこれは、日中戦争及び日米戦争における日本の「調子狂い」の根本原因を最も鋭く見抜いた言葉ではないかと思います。
次に、この問題を考えるために、1945年12月20日から11回連載された「近衛文麿手記」に紹介された、日支間の問題解決についての駐日支那公使蒋作賓の提案を見てみます。
「丁度その頃駐日支那公使の蒋作賓も血圧が高い為長谷の大仏の境内に住んでいた。そんな関係から、ある日―たしか昭和七年の五・一五事件のあとだったと思うが、秘書役の参事官丁紹扨と連れ立って、蒋は私を訪ねて来た。丁紹扨とは私の一高時代に西寮で一緒だったという因縁があったので特に丁を伴って来たものと思う。それ以来蒋と丁は屡々やって来た。鎌倉山の家にもひと月に一回位は必ず顔を見せた。
蒋作賓は前にドイツ大使をやって居り、蒋介石直系の人物である。彼は丁の通訳で日支問題を論じ、このままで行けば日支の衝突は世界戦争にまで発展する可能性があると私に警告した。
彼は何よりもまず蒋介石の実力を説いた。蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はないというのである。成程一方には呉佩孚等いう人も居るが、しかし彼等は一部勢力の代表にしか過ぎない。そういう手あいを相手にしていたのでは何時になっても日支の問題は解決しないであろう。
一体日本の軍部は支那の軍閥を利用して、お互いにお互いを牽制し、反発させて支那の統一をさまたげ分割統治をやろうという政策をとって居るようだが、これがそもそも根本の誤である。日本人は第一にこの点からして認識を改めねばならぬ。日本が如何なる政策をとろうとも今日の支那はまさに国内統一の気運に向っている。そしてこの気運に乗っているものこそ実に蒋介石その人だ。だから支那のことを考えるからには是非とも蒋介石国民党を中心に置いて考慮をめぐらしてほしい、とこういうのである。
従来日本の軍部は国民党を叩こうとばかりしている。この政策ぐらい間違っているものはない。こういうやり方を続けていると、支那の隠忍にも程度がある。やがては我慢ができなくなり、終には捨てばちになって反抗するようになる。一体武力で支那を征服しようなどという事は、全く支那をしらない者の考えであって、いくら支那が衰えているからといってそんな事ですぐ倒れるものではない。戦が長びけばその内には英・米が蒋に味方をするということが起こり、日支問のもつれは必ずや世界戦争に発展する可能性がある。もし世界戦争にでもなれば、結果は英・米を利し、日本も支那も共倒れになってしまう。
だから日本は今の内に政策を改めて大局に目をくばり蒋介石と手を携えて、大アジアの問題を処理すべきではないか。これが孫文以来の理想なのだ。そうなればイギリスにしても、アメリカにしても手が出せなくなる。これこそ東亜安定の唯一の策であり東亜興隆の唯一の道だ。今日の日本のやり方というものはこれと全く逆になっている。」(注:驚くべきことにその後の歴史は、この蔣作賓の「読み」どおりに進行しています。)
こうした蒋作賓の説に対して、近衛文麿は「心から同感の意を表し」たといっています。その後、「蒋作賓は十年の夏だったか、一先ず帰国し」当時四川省で赤軍討伐のため重慶にいた蒋介石と協議して日支和平案を練り、これを「丁紹扨に持たせて日本に寄こした。丁は日本に着くと、早速軽井沢に私を訪ねて来た。」その時彼の携えて来た日支和平案というのは、
一、満州問題ハ当分ノ間不問二付スル(現在の空気では支那に於ては取りあげられないから)
二、日支ノ関係ヲ平等ノ基礎ノ上二置ク、ソノ結果トシテ凡ユル不平等条約ヲ撤廃スル、但シ満州二関係ノアル不平等条約ハ、除外シナイ、マタ排日教育ハ防止スル。
三、平等互恵ノ関係ノモトニ、日支経済提携ヲナスコト。
四、経済提携ノ成績ヲ見タウエデ軍事協定ヲ結ブ(軍事協定締結の場合には、蒋介石自身は日本を訪問してもよいというのである)。
大体右のような内容のものであった。」といいます。
この提案内容は、昭和10年9月、蔣大使が広田外相に示した和平提案の内容―「日中両国相互の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しないこと。日支の経済提携の相談に応ずること。更に「共同目的」(防共=筆者)のため軍事上の相談を為すこと」等―と同様のものだったのではないかと思います。
近衛もこの案に大賛成であり、「充分努力しようと丁に誓」いました。そして、この支那の提案を、「議会で広田外相に会い事情を話し、政府に於いても日支問題の解決につき努力するよう頼んだ。」しかし「広田も外務省も同感であったのだが、軍部から反対の声があがった。それは提案第一条の満州を「不問」に付するという点がいかん、「承認」と改めよというのである。これには広田も困った。」その後、昭和10年10月の「広田三原則」(外陸海三省了解)が出来上がり、これと中国側三原則の調整のための協議が広田と蔣の間で進められましたが、そこで問題になったのがやはり満州国の承認問題でした。
広田三原則では、「二、支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策をやめしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。」となっていました。日本側は「満州国の独立を事実上黙認」することを求めましたが、中国側は、日本に満州国承認の取り消しを求めることはしないなど「かなりの譲歩の意向がみとめられる」ものの、その主権の放棄を明言することはありませんでした。
ただ、この「広田三原則」の付属文書には、「我が方が殊更に支那の統一または分立を助成しもしくは阻止する」施策は慎むとの方針が入っていました。これは、同時期関東軍が進めていた華北分離工作を押さえ込もうという政府の思惑があったのですが、関東軍はこれを阻止しようとして、華北分離工作をおし進めました。この時出されたのが「多田声明」で、北支より反満抗日分子の徹底一掃、民衆救済のための北支経済圏の独立、赤化防止、北支五省連合自治体の結成をうたい、「これを阻害する国民党及び蔣政権の北支よりの除外には威力の行使」も辞さないと露骨に威嚇しました。
しかし、こうした関東軍の強硬策も、中国の「幣制改革」の成功に伴う中国経済の統一の進展もあって縮小せざるを得ず、結局、翌昭和11年25日の「冀東防共自治委員会(一ヶ月後「冀東防共自治政府」と改称)」という親日自治政権の樹立、同12月18日の「冀察政務委員会」(=国民政府、宋哲元、日本政府の妥協の産物である日中間の緩衝政権)の設置となりました。(冀東とは河北省東部のことで、冀東政権はその地域を、冀察政権はそれ以外の河北省とチャハル省をその管轄地域としていた)その後川越駐華大使と張群外交部長の間で交渉が継続されましたが、中国は「主権の完整」という大前提のもとでタンク−停戦協定の廃止など具体的要求を持ち出すようになりました。(交渉は関東軍の内蒙工作である綏遠事件により破綻)
こうした日中交渉の手詰まり状態の中で、華北分離工作に対する中国の抵抗が強いことや、西安事件を契機として中国に「国共内戦停止」や「抗日国内統一」の気運が高まっていることを背景に、従来の「軍閥闘争時代」の中国間観の修正を求めるいわゆる「中国再認識論」が生まれてきました。石原莞爾が、従来の主張(=中国の政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐する)を転換し、「支那の統一運動に対し帝国は飽迄公正なる態度を以て臨む北支分地工作は行わざること」と主張し始めるのはこの頃です。
こうした「中国再認識論」の動きは、昭和12年4月16日付けで四相会議が決定した「対支実行策」と「北支指導方策」にも反映されました。そしてこうした動きを促進するため、吉田茂駐英大使は往年の日英同盟の協調関係を復活させようとしました。イギリスのイーデン外相は「日本は中国を扱う正しい方法をが何であるかについての見方を明らかに変えつつある」と評価しました。しかし、6月4日に発足した第一次近衛内閣に外相として再登場した広田は、こうした対支親善策に消極的でした。吉田大使は「日支関係の局面打開は日英協力主義を善用すべし」としましたが、広田は冷淡でした。
日本政府内にこうした「中国再認識論」が出てくる一方で、関東軍参謀部は「北支防共を完成し対ソ必勝の戦備を充実するため内蒙及び北支工作を強行」し「冀東、冀察、山東各政権を一体とし呉佩孚を起用し、茲に北支政権の基礎を確立・・・要すれば商用の兵力を行使し」と唱えていました。また、関東軍板垣参謀長の後任の東條英機中将も昭和12年6月「対蘇作戦準備の見地より・・・まず南京政権に対し一撃を加え我が背後の脅威を除去」せよと中央部に具申していました。こうして陸軍内が対中国避戦派と一撃派に分かれたまま廬溝橋事件を迎えることになったのです。
この間、蒋介石は「安内攘外」を標語として、対日和平の途を模索したのですが、1935年半ば頃から日本の華北分離工作が進み始めると、高まる抗日世論にさらされるようになりました。しかし、この間の中国の国内統一の進展はめざましく、反蔣軍閥との抗争も一段落し、管理通貨制度による幣制改革も成功し、経済建設面でのインフラ整備も顕著で、こうした国内的成功によって蒋介石はカリスマ的指導者として世論の支持を受けるようになりました。1936年からは軍備の近代化と重工業の振興をめざす三カ年計画に着手しました。この間中国は「二、三年の時間をかせぎ出すことだけを考え」てかろうじて日中交渉の決裂を避けようとしていました。
こうして蒋介石は、その「安内攘外」策の「安内」が整って行くにつれ、次第に「国民の要望に応えて、”攘外”を何とかやらざるを得ないという羽目」に追い込まれていったのです。「すでに『即時抗日』を呼号する声は、中共党や救国運動に結集した進歩は文化人ばかりでなく、綏遠事件の『勝利』で『敗戦コンプレックス』を解消した中央軍の中下級将校まで広がり、『準備抗日』を説く軍幹部の統制もゆらぎはじめ」ていました。こうして、昭和12年7月7日の廬溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争へと突入することになるのです。
まさに、ため息が出るような話ですが、ではどうして日本がこのようなまるで集団自殺を思わせるような局面に落ちこむはめになったのか。この間の事情を最もわかりやすく語っているのが、昭和14年初め、北京の燕京大学大学校長レイトン・スチュアート氏が近衛文麿溝に宛てて書いた和平提案の手紙の邦訳写しです。これは昭和13年12月22日の「第三次近衛声明」が「日本が何等支那の主権と独立を侵害する意志なし」(スチュアート氏の解釈)と表明したことを受けて、スチュアート氏が日中和平を願う同志を代表し、近衛公に両国間の誤解を解くべくアドバイスしたものと思われます。
「近衛公閣下、未だ拝眉の機を得ざるも貴国に於ける貴下の卓越せる地位と、自由にして聡明なる閣下の政治的風格に対する敬仰の念よりして、吾等に関聯せる現下の問題に対して敢えて一書を拝呈する。私は支那生まれの米国人です。長き間宗教と教育を通じて支那の福祉の為に働き支那人を愛敬するが同時に心から日支両国の親善を希って居るものです。これは独り両国の共通の利益たるのみならず又関係第三国もこれを歓迎することと信じます。たとへそのため少し位自分達の利益を犠牲にされても。
現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る。日本は支那の排日感情乃至排日煽動を撲滅せんとして戦って居ると思って居る。然るに一方支那は支那の独立とその存在すら脅かされると思って、如何なる愛国者にも当然なる防衛の為の戦争をしてゐると思って居る。
昨年末貴下の有名な近衛声明に於いて日本は何等支那の主権と独立を侵害する意志無しと公表された。然るに支那人は大抵日本は占領地に於ける軍事上の占領のみに止まらず、あらゆる生活の形式を支配するものと思い込んで居る。日本は共産党を排撃し、防共上の協力を提議して居るが、支那人はこれは支那内部の問題であって、支那の政府に一任すべきだと思って居る。防共の為に如何なる他国の軍隊と雖も駐在することは、却って平和生活の破壊となり漸く納まりかけた治安を激発するものと思って居る。
日本は所謂親日政府を建設しこれと協同して居るが、これは支那側からみれば深刻許すべからざる日本の支配の軽蔑すべき一形式であり、凡そ支那人の目からみると彼等の承認せる政府を裏切った漢奸としか映じない。(王兆銘擁立工作のこと=筆者)これ等は前述せる相互の無理解の一班である。その憂慮すべきことは、この無理解の傾向は日支両国がお互いにその動機と手段とに対する猪疑心を益解けがたきものにすることである。真の悲劇はこれが必要なくして、しかも益(ますます)深刻になってゆく点にある。
私の貧弱な、しかし確たる確信によれば、支那は日本の帝国主義的脅威に対する危惧の念を脱却したらその瞬間排日の行動を終熄し、且つ喜んで日本に必要な原料品と市場を提供するであろう。乃至は又互恵的な経済的合作の道をも講じ、且又共同の外敵に対し共同防衛の方法をも講ずるであろう。
米国がこの問題に対して関心せざるを得ないのは、支那の自由且独立は太平洋の永久的平和の基礎条件であると信じ、且日本の現在の駐兵は日本の支那支配の表現ではないかといふ危惧に由来する。その懸念が晴たら、日米の間の偕老的なる友誼は直に恢復されるであろう。
支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今まで日本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる様にされんことを勧告する。そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退することだ。これは貴国政府に対する凡ゆる疑問を一掃する。一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう。私は微力乍ら喜んで両国並に米国間の理解の促進に力める。私の役割は少さい。然私はこの崇高なる目的の実現に協力せんとする多くの同志を代表するといふ確信の下にこの手紙をかいた。」
要点は次の通りです。
「現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る」もので、日本が防共のために軍隊を中国に駐在させたり、親日政府を立てたりすることは日支両国の猜疑心をますます解けがたいものにしている。従って、この問題を解決するためには、「支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今までの本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる」ことが必要である。そして「そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退すること」であり、「一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう」
しかし、近衛がこの手紙を受け取ったのは、氏がその職を辞した直後であり、これを「近衛第三次声明」後の外交交渉に生かすことはできませんでした。だが、おそらくこれは、昭和16年8月の日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「(ハル四原則」(一切の国家の領土保全と主権の尊重、他国の内政への不干渉外)につき「主義上異存なし」と述べたことや、その後の近衛・ルーズベルト会談(実現を見なかったが)において近衛が陸軍に求めた「名を捨てて実を取る日本軍の中国からの撤兵」提案などに反映していたのではないかと推測されます。
一体、この「中国の主権と独立の尊重」という”あたりまえ”の観念を否定して華北分離工作を強行し、数百万に上る兵を駐兵させて中国に居座ったまま撤兵を拒んで、日本を対米英戦争に引きずり込んだ、この「妖怪」の正体とは何だったのでしょうか。いうまでもなくそれは、満州事変という実行行為を通して日本軍に胚胎したものであり、「中国の主権否認」という形で現実化したものでした。イザヤ・ベンダサンは『日本人と中国人』の中で、先の駐日支那公使蒋作賓の言葉を「中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい」という意味だといっています。おそらく、スチュアート氏の「勧告」も同様の点を指摘しているのではないでしょうか。
つまり、中国を「他国としてみる目」が欠如していたことが原因であり、日本人の伝統思想である尊皇思想から見た中国のイメージが、現実の中国と余りにも異なり「匪賊国家」に見えたため、自分たちこそ「東亜の盟主」であるとし、中国人はその「内面指導」を受けべきであり、日本のアジア解放・欧米駆逐という大業に協力すべきである、という傲慢を生んだというのです。そしてこのことは、何も軍部だけにいえることではなく、世論となるとこれが決定的で、これが本稿の冒頭に紹介したような「日本人の日中戦争観の狂い」を生じさせたというのです。
満州事変の発生と、それに対する国民の熱狂的な支持の背景には、中国文化に対する憧憬とそれに対する反発を繰り返しながら、自らの文化を育んできた日本の「中国の辺境文化」として宿命があった。ではそれから脱却するためにはどうしたらいいか。いうまでもなく、それは、こうした自らの行動の規範がどういう伝統思想に由来するかを知ることであり、それを対象化し思想史として客体化できれば、それを脱却して新しい文化を創造することもできるというのです。
ともあれ、我々が日中戦争から学ぶべきことは、こうした自らの「内なる中国」と、実際の「外なる中国」とを区別すること。つまり、中国(=他国)の主権を尊重する」という”あたりまえ”の観念を、自らの思想として身につける、ことなのかもしれません。たったそれだけのことができなかったために、あれだけの傲慢と惨劇を生むことになったとしたら・・・。  
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前回、昭和7年の5.15事件の後、駐日支那公使の蔣作賓が近衛文麿を訪ねてきて、「蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はない」と力説した、という話を紹介しました。おそらく中国の側でも、近衛文麿が近い将来日本の政治的リーダーとなることを予測して、彼に対する政治的レクチャーを試みたのではないかと思われます。
ここで蔣作賓が言っている「蒋を中心勢力と認めさえすれば」というのは、要するに蒋介石が行っている中国統一を認めよ、ということで、言葉を代えて言えば、「中国の主権を認めよ」ということに他ならないと思います。従って、日本がその蒋介石を否定するということは、「支那の統一をさまたげ分割統治をやろう」とすることと同じになる。「これがそもそも根本の誤である」と蔣作賓はいうのです。同様の指摘は、これも前回紹介した北京燕京大学校長レイトン・スチュアート氏の近衛文麿に対するアドバイスにも見ることができます。
だが、当時の関東軍の蒋介石に対する不信と嫌悪は「いささか常軌を逸し」ており、「(国府は)絶対に帝国と親善不能」だから「支那大陸を・・・分治せしめ其分立せる個々の地域と帝国と直接相結び帝国の国力により・・・平和の維持と民衆の経済的繁栄を図る」(1936年5月板垣が有田次期外相に語った言葉)というほどのものでした。それは「予期に反し全国統一事業を着実に進めていく南京政府と蒋介石への不安と焦慮に発したのかもしれない」と秦郁彦氏は言っています。
こうした板垣の考え方は満州事変の以前からあり、というより、こうした日本軍の日清戦争以来の中国蔑視の考え方が、満州事変を引き起こしたとも言えるわけです。その満州問題の処理にあたって中国をどのように認識するかということは、当の満州事変の首謀者石原莞爾によって、次のように語られていました。
「支那全体ヲ観察センカ永ク武力ヲ蔑視セル結果、漢民族ヨリ到底真ノ武カヲ編成シ難キ状況ニ於テ、主権ノ確立ハ全然之ヲ望ム能ハス。彼等ノ止ムルヲ知ラサル連年ノ戦争ハ吾等ノ云フ戦争即チ武カノ徹底セル運用ニ非スシテ、消耗戦争ノ最モ極端ナル寧ロ一種ノ政争ニ過キサルノミ。我等ニ於テ政党ノ争ノ終熄ヲ予期シ得サル限り、支那ノ戦争亦決シテ止ムコトナキモノト云ハサルヘカラス。斯ノ如キ軍閥学匪政商等一部人種ノ利益ノ為メニ、支那民衆ハ連続セル戦乱ノ為メ塗炭ニ苦シミ、良民亦遂ニ土匪ニ悪化スルニ至ラントス。四面ノ民ヲ此苦境ヨリ救ハソト欲セハ他ノ列強力進テ支那ノ治安ヲ維持スル外絶対ニ策ナシ。即チ国際管理力某一国ノ支那領有ハ遂ニ来ラサルヘカラサル運命ナリ。単ナル利害問題ヲ超越シテ吾等ノ遂ニ蹶起セサルヘカラサル日必スシモ遠トイウヘカラス。」
つまり、支那は永く武力を蔑視してきたために真の武力が編成できない。そのため自らの主権を確立することは望めず、その結果、一部の人の利益を争う政争のような戦乱が続き良民を苦しめている。こうした支那の苦境を救うためには、他の列強力(=日本)がその利害を超越して治安の維持に当たる必要があるというのです。しかし、残念ながらその動機はそれだけではなく、其の前段には次のような日本自身の利害が赤裸々に語られています。
「我国情ハ殆ント行詰り人口糧食ノ重要諸問題皆解決ノ途ナキカ如シ。唯一ノ途ハ満蒙開発ノ断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ。然ルニ満蒙問題ノ解決ニ対シテハ支那軍閥ハ極力其妨害ヲ試ムルノミナラス、列強ノ嫉視ヲ招クヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス、国内ニモ亦之ヲ侵略的帝団主義トシテ反対スル一派アリ。満蒙ハ漢民族ノ領土ニ非スシテ寧ロ其関係我国ト密接ナルモノアリ。民族自決ヲ口ニセントスルモノハ満蒙ハ満洲及蒙古人ノモノニシテ、満洲蒙古人ハ漢民族ヨリモ寧ロ大和民族ニ近キコトヲ認メサルヘカラス。現在ノ住民ハ漢人種ヲ最大トスルモ、其経済的関係亦支那本部ニ比シ我国ハ遥ニ密接ナリ。之等歴史的及経済的関係ヲ度外スルモ、日本ノ力ニ依リテ開発セラレタル満蒙ハ、日本ノ勢力ニヨル治安維持ニ依リテノミ其急激ナル発達ヲ続クルヲ得ルナリ。若シ万一我勢力ニシテ減退スルコトアランカ、目下ニ於ケル支那人唯一ノ安住地タル満洲亦支那本部ト撰フナキニ至ルヘシ。而モ米英ノ前ニハ我外交ノ力ナキヲ観破セル支那人ハ、今ヤ事毎こ我国ノ施設ヲ妨害セントシツツアリ。我国正当ナル既得権擁護ノ為、且ツハ支那民衆ノ為遂ニ断乎タル処置ヲ強制セラルルノ日アルコトヲ覚悟スヘク、此決心ハ単ニ支那ノミナラス欧米諸国ヲ共ニ敵トスルモノト思ハサルヘカラス。」
この最後の段は、満蒙における日本の治安維持の義務を語りつつ、同時にそれは、我が国の正当な既得権擁護のためでもあり、かつ支那民衆のためであるといい、しかし、そうした日本の行動は、支那のみならず欧米諸国をも敵とするものであり、日本人はその日が来ることを覚悟すべきであるというのです。そして次のように続きます。
「即チ我国ノ国防計画ハ米露及英ニ対抗スルモノトセサルヘカラス。人往々此ノ如キ戦争ヲ不可能ナリトシ、米マタハ露ヲ単独ニ撃破スベシ等ト称スルモ、之自己ニ有利ナル如キ仮想ノ下ニ立論スルモノニシテ、危険ハナハダシキモトイウヘク絶対ニ排斥セサルヘカラザル議論ナリ。」いささか空想的に過ぎるように思われますが、これは決して冗談やざれごとでありません。というのは、石原莞爾はこうした言葉を、彼自身のオリジナル思想(?)である周知の次のような「最終戦争論」のもとに語っているのです。
「欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ成形セントシツツアル世界ハ、更ニ進テ結局一ノ体系ニ帰スヘク、其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト、東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依り決定セラルヘシ。即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルヘキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナササルヘカラズ。」「而シテ此ノ如キ戦争ハ一見我国ノ為極メテ困難ナルカ如キモ、東亜ノ兵要地理的関係ヲ考察スルニ必スシモ然ラス。即チ
1 北満ヨリ撤退シアル露国ハ、我ニシテ同地方ヲ領有スルニ於テハ有力ナル攻勢ヲトルコト頗ル困難ナリ。
2 海軍ヲ以テ我国ヲ屈服セシムルコトハ難事中ノ至難事ナリ。
3 経済上ヨリ戦争ヲ悲観スルモノ多キモ、此戦争ハ戦費ヲ要スルコト少ク、概シテ之ヲ戦場ニ求メ得ルヲ以テ、財政的ニハ何等恐ルルニ足ラサルノミナラス、国民経済ニ於テモ止ムナキ場合ニ於テハ、本国及占領地ヲ範囲トスル計画経済ヲ断行スヘク、経済界ノ一時的大動揺ハ固ヨリ免ルル能ハストスルモ、此苦境ヲ打開シテ日本ハ初メテ先進工業国ノ水準ニ躍進スルヲ得ヘシ。」
つまり、世界は最終的には西洋文明のチャンピオンたる米国と、東洋文明のチャンピオンたる日本の間で最終決戦が争われる。日本はその東洋チャンピオンたる資格を獲得することを国策の根本とすべきである。一見、これは日本には無理と思われかもしれないが、決してそうではない。即ち、ソ連は、北満を日本が領有すれば有効な攻勢に出ることは極めて困難となる。また、アメリカが海軍力をもって日本を屈服させることも至難である。また、戦費は戦地において現地調達すれば、いわゆる「戦争をもって戦争を養う」ことができる。さらに、国民経済において計画経済(=「国家総動員体制」)をすれば、一次的に経済界が動揺しても、それを乗り越えることで先進国の水準に飛躍できる、というのです。
ここに、日中戦争及び日米戦争のアウトラインがはっきりと描かれています。それは、紛れもなく満州事変以前に石原莞爾によって描かれたもので、これによって初めて、日本の満蒙領有についての文明史的意義付けがなされ、その実行主体としての日本の歴史的使命が説かれたのです。だが、こうした途方もない戦争のビジョンが、はたしてどれだけ当時の軍人にリアリティーをもって理解されたか、これは甚だ疑問といわざるを得ません。だが、これによって、二重政権の創出にも等しい満州の武力占領が実行に移され、その、目的のためには手段を選ばぬ下剋上的無法行為が正当化されるに至ったことは間違いありません。
しかし、こうした石原莞爾の責めに帰すべき満州事変の歴史的評価については、その後の彼の対支認識の意見修正(『対支政策の検討(案)』s11.9.1)」を根拠に、満州事変限りにおいて評価する意見が多いようです。このことについては、日本陸軍の、その尊大、驕慢、加えその浅慮を指摘し、わが国力、軍の実力を無視し、さらには敵の力を下算する大きな過誤を冒し、なお聖慮に背いて皇軍皇国を崩壊に引きずり込んだ昭和陸軍を嘆き、悔み、憤った、元陸軍省参謀加登川幸夫氏も、満州事変は中国側の対日圧迫、日本の合法的権益の侵害に対する自衛措置だったとして容認しています。
もちろん、私自身は先に「『偽メシア』石原莞爾の戦争責任」で指摘したように、氏の戦争責任を強く指摘し、この事件こそが日本を崩壊に引きずり込んだ元凶と理解しています。しかし、それを繰り返しても言っても仕方ありませんので、ここでは、こうした私たち日本人の立場を離れて、いわゆる親日派といわれる中国人がこの事件をどう見たか、これについての大変興味深い対談記事「段祺瑞の満州事変観」を見つけましたので、それを次に紹介したいと思います。
これは林耕三氏という、戦前の東北地区(満州)で日本の協和会運動に協力した方(中国人)の紹介になるもので、『宣統皇帝遺事』中第三十七章「天津における土肥原大佐」を日本文に翻訳したものです。段祺瑞といえば、いわゆる「西原借款」で有名ですが、その彼と、当時奉天特務機関長をしていた土肥原賢二との対談です。言葉における正直と不正直ということもさることながら、両者の政治的洞察力及び見識の差にはいささか驚かされました。
また、段氏の、何故日本人は日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のかという言葉、功名のために大戦を起こせばどうなるか、日本人の「幻想」についての指摘、そして「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」という言葉は、当時の日本人が陥った傲慢と、その後の日本の運命、そして土肥原自身の運命(A級戦犯で処刑)をも的確に見通したものであると、私には思われました。
段祺瑞略歴(1864〜1936)
中国の軍人、政治家、安徽省出身、初め袁世凱の腹心として地位を築き、円の失脚後も黎元洪のもとで国務総理兼陸軍総長として実権を握り、安福派を形成し、馮国璋の直隷派と対立した。   
第一次世界大戦に際してはドイツに対して宣戦を行ない、日本からは西原借款などの援助をうけて目本の対華進出を許した。一九二〇年の安直戦争で失脚。一九二四年、奉直戦を機に臨時執政に復活したが、一九二六年、張作霖、馮玉祥の交戦によりその地位を保てず、以来政界から退いた。*この会談は、土肥原大佐が陸軍の命をうけて訪問したもの
土肥原 閣下は、生ぐさ物や酒はおやりにならない大徳のお人柄ゆえきっと「即身成仏」なさるでしょう。
段 「成仏」は敢えて望まないが、ただ、人生の大半を軍人で過したので、殺戮すること少なからず、罪業、が深い、希くは、仏法のざん悔をして、将来、天寿を全うしたいものだと願っています。
土肥原 執政閣下のご教訓には全く痛み入ります。私共後輩の軍人として閣下のお話を座右の銘としたいものです。
段 土肥原さん、軍人の一生には「不殺生戒」―殺生をしてはならないという戒め――を犯さないものはないでしょう。しかし、軍人としての職掌柄そうなるのは止むを得ないとしても、己の功名をあげたり、利益のために大戦を引起すということであれば、その罪業は非常に深いと言わなければなりません。
中国にはこういう諺がある。「兵猶太也 不戦自焚」――戦争は火のようなもので、戈を止めなければ自らを焼いで自滅する――武力を乱用した国が永続きしなかったことは歴史の証明する所です。まして殺戮を専門とする上級軍人に至っては、如何に功名があろうと天寿を全うした例が非常に少ない。
土肥原 閣下のご教訓、心に銘じました。このたびの奉天事件(九一八事変)は、本庄司令官以下幕僚一同反省しています。
段 今になってそういうことを言われても、この事件の善後処置については今のところこれという方法もなく仲々困難でしょう。今、貴官が「反省している」などと言われたが、真実のところ、それは十年位先のことでしょうし、その頃になってやっと私の話を思い出すのじゃありませんか。
土肥原 閣下のお話は、全て禅の修業を積まれた結果によるもので、後輩の私などにはとても真意を了解することができません。
段 私の話には少しも神秘な節はない。もし貴官が、私の今おかれている立場にあるとすれば、私の話が、実際に即した話である。ということを理解できるでしょう。
土肥原 閣下は、高い視野に立って、永い将来のことを見透すことのできる人です。どうか私のために遵守すべき道をご教示願います。
段 私の今日の話は、世間話に過ぎませんからあまり気にしないで下さい。唯一つ貴官にお尋ねしたいことがある。
日本の人口は中国の六分の一にも満たなしし、土地も中国の某一省にも及ばない。然るに何故、日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のです。(大佐、黙して語らず)私は、貴官が直ちに答えられないことはよく分る。そこで、私か代って答えよう。
中国は一皿の砂のようなもので、団結心乏しく、容易に団結しない。日清戦争で、日本は勝ったと言うが、それは李鴻章一人を打倒しただけのもので、真の中国の力にぶっつかった訳ではない。我が国では、民国以来、群雄が割拠して紛争を続けていたので「君達」に入り込む隙を与えた。君達に、何でも思い通りになり、何をしても利益になる、と思いこませた。然し、今回の「九一八」事変――九月十八日勃発の満洲事変――は、君達が中国人の夢を醒まさせた。四億の人民は一塊りとなって日本に対している。今后、君達が武力で征服しようとしてもそれは難しいでしょう。
私の話は貴官には、誇張しているように聞こえるかも知れないが、それは貴官の自由である。私はもう一つの実例を挙げて話したい。
本庄さん――関東車司令官――は、どうして貴下を私の所へ来させたのだろう。おそらく、私を日本人の友達と思ってるに違いない。
土肥原 そうです。その通りです。閣下。
段 日本人は、私を友達、味方にしようとしているので、中国人は私を親日派と罵っている。しかし 「九一八事変」以後からは私自身、もう日本人の友達ではなく、むしろ日本人を恨んでいる。今日の貴下は、責任ある人だけに、その一言一句、一挙手一投足は、中日両国人民の前途に対し多大の影響があるものと考える。本日、貴官は、貴国の陸軍の命令で来られたからお会いした訳で、他の日本人が私を訪問したとせば、私は正門から入ることを思い止まってもらった筈です。
土肥原 閣下、癇癪を起さないで下さい。何か要求がおありとすれば、私はその実現に尽力したい。
段 只今のは、言い過ぎだったかな? 全く汗顔の至りです。私は、一九二六年、政界を引退してから六、七年になるが、殆ど癇癪を起したことはなかったが、どういう訳か突然それを起してしまった。まだまだ修養が足りない、恐縮の至りです。
土肥原 閣下は、生仏様ですよ、奉天事件(九一八市変)の刺激が強過ぎたので、怒って睨みつける金剛様に変ったのですね。(一同笑声、緊張やや緩か)
段 貴官が帰って本庄さんに報告する時には段の意見として次のように伝えて貰いたい。「段との会談は全て程々にし、適当な所で止めた。事変の解決は無理をせず自然に従うべきだ。目下、中国側としては、この問題を国際連盟に提訴しているので連盟が処理するものと思う。然し、東洋人の問題には西洋人の手を煩わすべきでなく、東洋人の手で解決すべきだ」と。
土肥原 分りました。然し、当方としても、九一八後、三日目、私は東京から奉天に帰り、東北(満洲のこと、以下東北)当局との交渉の糸口を探しましたが、張学良司令(東北辺防軍司令)は、これに応せず、どうしようも無かったのです。
段 東北問題は張作霖(奉天督弁)時代からのことで、貴官らは専ら東北に一つの独立国を造ろうとしていた。これに対し張督弁が反対したので、遂に爆死さぜたではないですか。張司令も身に危険の及ぶのを感じて北京に逃避したのです。この機に乗じ、君達は、武力をもって進攻し奉天、長春の地を次々に不法占領し掌中に収めた。君達は、張学良と交渉したいというが、こうした情況下で、果して交渉に応ずるでしょうか。又、独立させる、とか、最高の地位を与えるから・・・、という条件を持ち出したりして之に応ずるでしょうか。それは言わなくても明々白々の事でしょう。
君達日本には、沢山の「中国通」がいると言われている。しかし果して、真の中国を識る「中国通」が居るだろうか。皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである。
(土肥原無言、談話は続く)
段 君達は、中国が長く分裂することを望んでいるかも知れないが、中国は統一している。君達は、現実を正しく見つめようとしない。問題に遭遇しても、南京政府と交渉しようとせず、ただ地方(東北)で攪乱し、大したこともない人物を推し立てて既成事実とし、益々問題をこじらせ、その解決を困難にしている。
土肥原 この度、私か当地に参りましたのは、先刻ご承知のように上司の命を奉じ、閣下にご謁見の上、お知恵を拝借し、大乗的見地から中日両民族の永久平和の道を発見したい為でありまして、特に現在の東北における行詰り打開は焦眉の急に追っており一刻の猶予も許されないのです。
段 私は一介の閑人である。私か今迄話したことは、私個人の意見であって、決して中国政府が私に代弁させているのではない。これは本庄さんに伝えてもらいたい。
土肥原 勿論そのように報告します。私の国では、閣下が、もと執政としてのお立場から、たとえ野に在っても超然たる高い視野に立って物事を考えていられるものと考え、それだからこそこうして私などがお教えを賜わるため参上しているのです。
段 私か君達に代って考えてみると、現在の占領地域はこれ以上拡大しなしが宜しい。君達は今の占領を「保証占領」と言い、中国の領土を取得しよう、とは考えていない旨を声明しているが、どうして従来の中国の行政組織をこわそうとするのか、その真意が分らない。東北の臧式毅君は遼寧省の主席で、得難い人物である。決してこういう人物を監禁するようなことがあってはならない。
また元老としては、張輔臣(作相)、張叙五(景恵)の二人がいるが、張輔臣は既に大関(満洲から長城を越えて華北に入った、の意)し再び帰ることはあるまい。残るは張叙五一人だが、彼は東北全般を総攬する能力をもっている。君達はどうして彼を探し出さないのだろう。彼を東北の最高指導者に推挙して中国の主権を回復させるようにすれば、君達の誠意が認められ、事件は解決に向うものと信じる。これは口で言う程容易でなく、問題解決は困難ではあるが可能性が認められる。
(段は更に続けた)
東北、黒竜江省の馬占山将軍は、猛将であり、英雄である、決して彼と衝突してはならない。それにひきかえ、古林省の熈洽将軍は困ったものだ、張輔臣が永吉(吉林省永吉県)を留守にしたのを好機とし、日本側と勝手に結んで、今日の混乱を招いた。表面的には、君達には有利に見えるかも知れないが、最後には必ず、君達を断崖から突き落すようなことをするだろう。(土肥原大佐としても熈洽に対しては好感を持ってはいなかった。それは熈洽が日本側と手を結ぶとき、特務機関を無視し、直接、多門師団に交渉した経過があった)
土肥原 この人物については私も同感で、帰還の上は本庄司令官に閣下のお考えをよく伝えます。
段 聞く所によれば、もと清朝の溥儀皇帝が、東北に行ったそうですが、結局どういうことになるのです。
土肥原 この件は、奉天事件とは関係ありません。溥儀氏がこの地(天津)に居られると一部の閑人が何やかやとうるさいので、租界当局も職責上毎日所要の警察官を派遣して、保護申しあげねばならず、お互いに不都合が多いので、溥儀氏としては、こうした雑音を避け、環境の好い東北南端の旅順(現在の旅火市)に移りたいというご希望があったのでお力添えをしたまでのことです。生憎く奉天事件九一八事変に際会したので、貴国朝野の人士から疑われるのも無理はありますまい。
段 土肥原さん、今日の会談はうまくいきましたね。お互いは確かに因縁がありますよ、貴官は、貴国の軍人中、人格識見とも最上級の方だけに高所に立って広い視野で物事を観察される。私はそう信じたい。
昔の人の言葉に「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」ということかありますが、これは確かに道理に叶っている言葉です。
中日両国の関係から言えば、私は今、思い出せませんが、中国はどういうところで日本に済まないことをしたのか、ということです。日本としては、どうした訳か中国につきまとって拘束から開放してくれない。中国人としては、何とかして日本の意のあるところを理解し歩みよりたいと念願するのですが、忍耐にも限界があり、現在の状況はもうギリギリの状態に立ち至っている訳で誠に重大と言わなければなりません。
もし、君達が、東北撹乱の特殊組織を作り、中国人の忍耐の限界を超えるとすれば、それこそ大きい禍根を作ることとなり、貴下もこの災難から込れることは出来なくなるでしょう。
土肥原 執政閣下、お安心下さい。土肥原は決して閣下のご厚意に背くようなことは致しません。
(会食と談話はこれで終った。但、土肥原大佐が段邸を訪問する以前、密かに溥儀氏を天津から東北に連れ出す工作は完了していたのだ。段元執政もこれは知っていたが。)
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満州事変にこだわって記事を書いていますが、それは、私が、「昭和の悲劇」は日本がこの事件を外交的に処理できなかったためにもたらされた、と考えているからです。この問題を考える際のポイントは、この満州事変と「満州問題」とを区別するということです。確かに「満州問題」は存在しました。しかし、その解決策としての満州事変は決して必然ではなかった。それは多分に、日本の国内事情、一つは「軍縮問題に起因する軍人の国内政治に対する不満」や、第一次世界大戦以降世界の五大国の一つに列することになって以降の「日本人の慢心」と「中国蔑視の感情」にその主たる原因があった、と考えるからです。
私は先に、「なぜ日本は大国アメリカと戦争をしたか2」で、幣原と陳友仁との間に「満州問題」処理についての確認書が交わされたことを紹介しました。さらに陳友仁は、満州事変が起こった後も、上海の須磨總領事を通じて幣原に書簡を送り、「満洲事変は實に残念だが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が現実出来ることだ。張学良を追ひ出せば満洲は奇麗になるから、これを實現するにいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたい」と幣原に意見を求めてきたことも紹介しました。
ここで、陳友仁の言うハイ・コミッショナー制度というのは、「満洲に対して支那が単に宗主権を持ち、そのノミナルな支那の承認の下に、日本が任命するハイ・コミッショナーによって満洲の施政を行う仕組み」のことです。この時は具体的な話には至っていませんが、そのポイントは、満州の対する中国の宗主権の承認を前提に、日本が任命するハイ・コミッショナー(=高等弁務官)による満州の施政を認める、ということです。満州事変で張学良が満州からいなくなれば、その実現が容易となり、これによって「満州問題」を解決できる、というのです。
では幣原は、「満州問題」をどのようなものと考えていたかというと、これは前述の記事の中でも紹介しましたが、その時の確認書ではその第四項に次のように述べられていました。(これをみれば、幣原は「満州問題」に対して決して弱腰ではなかったことが判ります。)
「四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意図なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により附与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鉄道は其の一例にして、同鉄道の経営及び運行は同鉄道の破滅を企図する如き支那側鉄道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。
一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来れる支那側鉄道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び連絡に関する取極にして成立するに於いては、之を既成事実として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。」
では、なぜそのような要求がなしうるかというと、
「即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に当たり満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し当時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事実を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるる處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。」
幣原外相はこうした「満州問題」の処理についての基本認識をもとに、重光葵を代理公使としてこの問題の解決にあたらせました。重光は、田中外交の混乱を一掃して、北京関税会議以来の幣原外交を継続し、「まず関税問題を解決し、西原借款の債務問題に目鼻をつけ」「支那本土についてまず不平等条約の改訂を進め、これを機として日支関係の全般的改善を計り、その結果改善された空気の下に、困難なる満州問題を解決」しようとしました。実際、これによって日支関係は急速に改善し、国民政府とも良好な関係を樹立して、日支関係が軌道に乗るかに見えました。
しかしながら、「日本は、折角立派な方針を立てながら、政府機関に統一がなく、軍部は干渉を恣にし、政党は外交の理解がなく、世論に健全な支持がないため、幣原外交はある限度以上に少しも前進しない。」「その間、英米と支那側の交渉は急速に進捗し、不平等条約改訂にも目鼻がついて来た。こうなれば支那が『夷を以て夷を制する』事は容易である。支那は・・・英米との交渉がここまで来て成立の域に達すれば、大勢はすでに支那の制するところで、躊躇する日本との交渉はもはや支那側において重要視する必要はなくなった。」
こうした情況の中で、国民党の王正廷外交部長は、「すでに大勢は支那に有利であると観てか、支那の革命外交に関する彼自身の腹案を公表した。これによると、関税自主権及び海関の回収が第一期で、法権の回収が第二期で、租界や租借地の回収を第三期とし、内河及び沿岸航行権の回収、鉄道及びその他の利権の回収を第四期及び第五期としたものである。このいわゆる革命外交のプログラムなるものは、極めて短期に不平等条約を廃棄して、一切の利権回収を実現せんとするもので、列国との交渉が予定期間内に片がつかぬときは、支那は一方的に条約を廃棄して、これら利権の回収を断行するという趣旨であった。」
さらに「王外交部長は、日本公使たる記者(=重光葵)の質問に答えて、新聞紙の発表は真相を伝えたものであることを肯定し、外国の利権回収はもちろん、満洲をも包含するものであって、旅大の租借権も満鉄の運営も、何れも皆公表の順序によって、支那側に回収する積りであると説明した。記者は、これでは、記者等の今日までの苦心は、或いは水泡に帰するかも知れぬと非常に憂慮した。この王外交部長の革命外交強行の腹案発表は、内外の世論を賑わし、甚だしく刺戟し、幣原外交の遂行に致命的の打撃を与うることとなった。」
以上のように、日本と支那中央政府との交渉が緊迫した展開を見せる一方、満洲における張学良との関係は悪化の一途をたどっていました。「張作霖を嗣いだ学良は、感情上から云っても、到底日本に対して作霖のような妥協的態度を執ることが出来ず・・・その考え方は極端に排日的であった。彼は日本党と見られた楊宇霆を自ら射殺してその態度を明らかにし、国民党に加盟し、満洲の半独立の障壁を撤し、五色旗を降して国民党の青天白日旗を掲げ、公然排日方針を立て、日本の勢力を満洲より駆逐するため露骨な方策に出て来た。」
そのため「日本は満洲において商租権を取得し、鉄道附属地以外においても、土地商租の権利があるが、日本人や多年定住している朝鮮人の土地商租は、支那官憲の圧迫によって、新たに取得することは愚か、既に得た権利すら維持困難な有様であった。満洲鉄道の回収運動も始まった。支那側は満鉄に対する平行線を自ら建設し、胡盧島の大規模の築港を外国(オランダ)の会社に委託して、日本の経営している鉄道及び大連の商港を無価値たらしめんと企図するに至った。これらの現象を目前に見ている関東軍は、その任務とする日本の権益及び日本人・朝鮮人の保護は、外交の力によっては到底不可能で、武力を使用する以外に途はないと感ずるようになった。」
一方、「当時、日本人は、国家及び民族の将来に対して、非常に神経質になっていた。日本は一小島国として農耕地の狭小なるはもちろん、その他の鉱物資源も云うに足るものはない。日清戦争時代に三千万余を数えた人口は、その後三十年にして六千万に倍加し、年に百万近い人口増加がある。この莫大なる人口を如何にして養うかが、日本国策の基底を揺り動かす問題である。海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、更に満洲における経済活動によりこの問題を解決せんとし、また解決しつつあった。もとより、海外貿易はこの点で欠くべからざるものであったが、これは相手あってのことで、そう思うようには行かぬ。」
というのは、当時「国際連盟は戦争を否認し、世界の現状を維持することを方針とし、これを裏付けするために各国の軍備の縮小を実現せんとした。しかし、人類生活の根本たる食糧問題を解決すべき経済問題については、単に自由主義を空論するのみで、世界は、欧州各国を中心として、事実上閉鎖経済に逆転してしまった。」特に、1929年の世界恐慌以降そうした傾向が顕著になりました。
つまり、「自由主義の本場英国内においても、帝国主義的傾向に進む形勢であって(一九三二年にはオッタワ協定が結ばれた)、仏も蘭もその植民地帝国は、本国の利益のために外国に対してはますます閉鎖的となるのみであった。かくの如くして、第一次大戦後の極端なる国家主義時代における列国の政策は、全然貿易自由の原則とは相去ること遠きものとなった。国際連盟の趣旨とする経済自由の原則なぞは、全く忘れられていた。」
このために日本は、増加する人口を養うための海外貿易の発展に依頼することができなくなり、特に、日本が密接な関係を有する支那との関係においては、「対支貿易は、支那の排日運動のために重大なる打撃を受け、且つ支那における紡績業を宗とする日本人の企業は、これがため非常なる妨害を受くるに至った。・・・支那本土においてのみならず、前記の通り、満洲においても、張学良の手によって甚だしく迫害せられる運命に置かれた。支那の革命外交は、王外交部長主唱の下に、全国的に機能を発揮するに至った。」
このように、事態が急迫する中で、駐支公使であった重光葵は、「この形勢を深く憂慮し、日支関係の急速なる悪化を防止せんとし、支那本土に対する譲歩によって、満洲問題の解決を図り、もって日支の衝突を未然に防ぐことに全力を尽した。また他方、紛糾せる事態を国際連盟に説明して、日本の立場を明らかにすべきことを主張し、更に日本は速かに徹底したる包括的の対支政策の樹立を必要とする旨を、政府に強く進言した。」
しかし、「浜口首相暗殺の後を継いだ若槻氏の内閣(一九三一年四月)は、当時すでに末期的様相を示し」ており、「記者が具体案の一部として進言した、蘇州・杭州の如き価値の少なき租界の如きは、速かにこれを支那に返還して、不平等条約に対する我が態度を明らかにすべしという主張すら、枢密院の賛同を得る自信なき故をもって却けられた。内閣の閣員中、記者の態度があまりに支那側に同情的なるがために、幣原外相を苦境に陥れることとなると、記者に指摘して注意を喚起したものもあった。
日本における国粋主義は、すでに軍のみでなく、反対党及び枢密院まで行き渡っておった。ロンドン海軍条約の問題を繞って、軍の主張せる統帥権の確立は成功し、政府は辛うじて条約の批准には成功したが、すでに右傾勢力のために圧迫せられて、政治力は喪ってしまっておった。日本の政界は、未だに暗殺手段を弄する程度のものであった。しかのみならず、幣原外交は、外交上の正道を歩む誤りなきものであったことは疑う余地はなかったが、その弱点は、満洲問題のごとき日本の死活問題について、国民の納得する解決案を有たぬことであった。
政府が国家の危局を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの勇気と能力とに欠けておったことは、悲劇の序幕であり、日本自由主義破綻の一大原因であった。かくして形勢は進展し、満洲問題は内外より急迫し、政治性のない政府はただ手を拱いて、形勢の推移を憂慮しながら傍観するのであった。」(同上)(*当時外務省アジア局第一課長であった守島伍郎は「幣原さんが余りハイカラ外交をやるものだから、こんなとんでもないことになってしまった」と慨嘆している。同様に、幣原外交のリアルポリティクスの欠如を指摘する意見は多い。私は必ずしもそうは思わないが。)
だが、この時、幣原や重光が考えていた方策は「支那問題を中心として、我が国際危機はもはや迫っておる。若し人力の如何ともすべからざるものであったならば、せめてこの行き詰りを堅実なものとせねばならぬ。即ち、如何なる不測の変が現地において突発しても、日本政府は、国内的に国際的にも、確乎たる立場に立って処理し得るだけの準備をする必要がある。政府は、軍部は勿論、国内を統制して不軌を戒め、極力日支関係の悪化を避けつつ、警鐘を打ち鳴らして、世界をして我が公正なる態度を諒解せしむるため全力を挙げねばならぬ。
支那の革命外交の全貌が明らかになった今日、而して日本政府のこれに対する対応策の欠如せる今日、日支関係は行き詰ることは明らかであり、すでに行き詰るとすれば、外交上の考慮としては、『堅実に行き詰る』ということを方針とするよりほかに途はない。堅実にということは、如何なる場合においても、外交上目本の地位が世界に納得せらるるようにして置くということである。」というものでした。
この外務省の「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」は、同時期、南陸相のもとに満州問題解決のために、省、部中堅層会議において作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)に似ていると、守島伍郎は指摘しています。その要旨は「(A)満州における排日行動激化の結果軍事行動の必要性を予見し、(B)そのためには閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、軍事発動の場合、これを是認せしむるよう努力する」というものでした。
しかし「満洲においては、万宝山の朝鮮人圧迫事件や、中村大尉暗殺事件のごとき危険を包蔵する事件が、次ぎ次ぎに起ってきた。張学良の日本に対する態度は、強硬で侮辱的であった。記者は、満洲における両国関係の悪化を根本的に救うために、当時南京政府の中枢人物であった宋子文財政部長と協議して、満洲における緊張の緩和方法を計った。
宋子文と記者とは、当時親密なる連絡をもって、日支関係の改善に協力していたので、ともに満洲に到り、現地の調査を親しく行って、解決方法を見出そうと云うことに談じ合った。宋部長は途中北京に立ち寄り、同地に滞在中の張学良を説得して、日本に対する態度を改めしめ、更に大連において、満鉄総裁で前外務大臣であった内田康哉伯と吾等二人は、鼎座して満洲問題に関する基礎的解決案を作製することに意見がまとまった。
記者はこの案に対し、政府の許可を得て、宋子文と同行、九月二十日上海より海路北行することに決定し、船室をも保留した、この考案は遂に間に合わなかった。満洲事変は、九月十八日奉天で突如として勃発した。記者は、これに屈せずなお折衝を続け、事変を局地化するために宋子文とともに満洲にいたって、事を処理してその目的を達せんとしたが、日本政府の訓令を待つ間に、事態は燎原の火の如く急速に拡大し、策の施しようもなく、支那は、事件を国際連盟に提訴して、かかる外交的措置を講ずるの余地なきに至らしめた。」
この時、重光葵が政府に宛てた満洲事変発生当時の電報の一節には、次のようなことが記されています。
一、今次軍部の行動は、所謂統帥権独立の観念に基づき、政府を無視してなせるもののごとく、折角築き上げ来れる対外的努力も、一朝にして破壊せらるるの感あり。国家将来を案じて悲痛の念を禁じ難し。この上は、一日も速かに軍部の独断を禁止し、国家の意志をして政府の一途に出でしむることとし、軍部方面の無責任にして不利益なる宣伝を差し止め、旗幟を鮮明にして、政府の指導を確立せられんことを切望に堪えず……。
この突然の満州事変の勃発に直面した外務省の林総領事及び森島代理は、「事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東車の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。」
しかしながら、「張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上が風をなし、関東車は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党に反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。
若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍も従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫した。若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。
関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」
以上、満州事変当時外務省にあって「満州問題」の外交的処理に当たった重光葵の回想を中心に、満州事変前後の日支間の政治・経済状況を見てきました。注目すべきは、こうした情況の中で外務省の取った「満州問題を堅実に行き詰まらせる」という方針は、「あくまで日本は支那に対して、治外法権問題交渉で公正妥当な態度を維持する。これに対して革命中国が勝手なことを主張し、既存条約違反の行動に出るようなことになれば、世界世論は日本に対し有利になってくる。そうなれば日本は何らかの新規の方策に訴えることができる」というものだった、ということです。
こうした政府外務省が押し進める、外交による「満州問題」解決策を根底から破壊し、軍中央のみならず政府の指示をも無視して、独断で満洲占領を強行したのは、関東軍の石原莞爾を中心とする一部将校達でした。彼らは、「若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫」しましたが、その真の目的は、「政党金権の害毒を一掃し、内外に対する諸政を刷新するためには、軍部によるクーデターを断行し、議会を解散し、軍部政権を打ち樹てる」ことにあり、満州事変はそのための革命前哨基地づくりでもあったのです。*山本七平はこうした事態を「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。
つまり、彼らが満州事変を引き起こした真の理由は、実は国内政治に対する軍部の不満に端を発したもので、そうした軍部独裁をめざす彼らの政治的的野心を正当化するためにこそ「満州問題」は利用されたのです。そして、あたかも「満州問題」を解決するためには満州事変は不可避であったかのような宣伝がなされ、それは、日本の条約で認められた在満権益に対する不当な侵害に対抗する自衛措置である、と国民に説明されたのです。
だが、その在満権益が日本にとってそれほど「巨大な比重」を持っていたかというと、それは甚だ疑問であると秦郁彦氏は次のように指摘しています。
「張政権の平行線敷設による満鉄の経営悪化説には、多分に誇張があり、木村鋭一満鉄理事は「満鉄包囲線が原因ではない。不景気のためなり。世人は黄金時代の収入を基準に論ず。包囲線の方の減収はより大」と説明していた。つまり満鉄が不況の波をかぶって従来ほどの巨利を得られなくなったのは事実だが、競争相手の包囲線(平行線)の方が先に倒れそうだというプラス面が指摘されているのである。」
また、「一般邦人の生業圧迫についても、本質は張政権の排日政策というより、張作霖爆殺を決行した河本大作大佐が指摘したように、日本人コロニストが生活水準の低い勤勉な中国本土からの移民に、経済競争で対抗できないところにあった。こうして見てくると、満州事変は多分に「満蒙の危機」という虚像の産物であり、武力発動を推進した一部の関東軍とコロニストたちは、政府・軍の中枢や世論を納得させる理由づけに苦心した。」
「そもそもポーツマス条約で獲得した日本の在満権益は、伊藤博文の表現に従えば「遼東半島租借地と鉄道のほかには何物もない」のであった。ところが大陸進出論者のなかには日露戦争で流した血の犠牲を理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想があった。」
「石原莞爾は『満蒙は漢民族の領土ではない。満蒙は元来、満州・蒙古人のもの」「我国情は殆ど行詰り、人口、糧食、その他の重要問題皆解決の途なく、唯一の途は満蒙開発の断行にあるは世論の認むる所」と書いたが、論理の飛躍が目につく。漢民族の領土でないことがなぜ日本の領土権主張につながるのか」
この秦氏の疑問は、満州事変の「隠された真相」の一端を突いていると思います。つまり「一般に満州事変は中国ナショナリズムの権益回収運動と張政権の反目・侮日政策に直面した幣原外交が対応力を失い、行きづまりに乗じた軍部が多年の野望である満州占領を強行したものと説明されている。」だが、それが、「軍事行動による反撃が正当化できるほど」日本にとって死活の問題だったかというと、実はそれは多分に軍の宣伝によるもので、先に紹介したように、冷静に対応すれば国際世論の支持を失わない範囲での対応が可能だったのです。
では、なぜ彼らにとって「満洲領有」が必要だったかというと、当時の青年将校の間には「農村の窮乏と政党の腐敗を重視し、軍部の手による独裁政治によって国内の革命を断行する以外に、邦国救済の途はない」という思想が蔓延しており、こうした日本の政治革命を断行するためには、「満洲に事を起こし、満洲の全土を占領した上、この新天地に軍部の革新政治を断行し、これを日本内地に移植するのが彼らの狙い」だったのです。
この意味で、満州事変とは、日露戦争以降日本陸軍の一般意志になったかに見える大陸進出論(日露戦争における血の代償とを理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想)と、国内政治の軍部独裁をめざす思想(金融恐慌や世界恐慌に端を発する経済的混乱や思想的混乱から自由主義思想が排撃され、それが国家社会主義という独裁思想を生み出した)とを結合させたものと見ることができます。
こう見てくれば、「昭和の動乱」の根底をなした二つの思想、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」がいずれも、国内問題であった、ということに気づきます。では、前者の主張がなぜ昭和に至って満洲の軍事占領という事態に発展したのかというと、実はその根底には、第一次大戦後の大正デモクラシー下の軍縮がもたらした「軍人に対する国民の軽侮」への、怨念ともいうべき「軍人の憤懣」があったのです。(こうした軍人に対する軽侮は、明治以降、富国強兵策がおし進められる中で、自らを特権階級とみなし国民の委託を無視して藩閥的利益の擁護に没頭した軍に対する国民の反感を示すものでもありました。)
「軍人は至るところ道行く人びとの軽侮の的となり、軍服姿では電車に乗るのも肩身が狭いという状態であった。たとえば、拍車は電車の中で何か用があるかというような談話が軍人の乗客に聞こえよがしに行われる。長剣は一般の客に邪魔にされた。かような軍人軽視の風潮に対する軍部方面の反動はまた醜いものであった。軍隊には階級如何を問わず農村の子弟が多かった。農村は軍隊の背景をなしていた。その農村が、年の繁栄と腐敗のために疲弊枯渇して行き、軍閥の基礎を危うくすることは、軍の黙視する能わざる処である、という主張が台頭した。」
* 山本七平は、実は「軍人はカスミを食って世の中を悲憤慷慨していたわけではなく、窮乏は彼ら自身にあった、と『私の中の日本軍』で指摘しています。
つまり、こうした軍の当時の社会風潮に対する憤懣が背景にあって、すでに陸軍の一般意志ともなっていた満洲領有にその活路を求め、更にそこを前哨基地として国内政治革命を断行しようとしたのです。満洲は漢民族のものではなく満洲民族のものである。満洲民族は漢民族よりも日本民族に近い。その土地は人口希薄であり、匪賊の横行して政情定まらざる未開の地である。満洲の良民は塗炭の苦しみに呻吟している。彼らをこうした苦境より救うためには、日本民族がその利害を超えて満洲を領有し五族協和の善政を行い人びとを善導する外ない、という論理です。
そして、こうした論理を思想的に補完したのが、いわゆる「大アジア主義」と呼ばれる、日中を「道義文明」として一体的に捉える思想だったのです。この思想がそもどういう思想的系譜より生まれたのかを解明したのが、山本七平の『現人神の創作者たち』でした。
それは、徳川幕府の官学としての朱子学の採用(皇帝による中国型徳治政治の理想化)に始まり、山鹿素行の「中朝事実」(中国の理想化に対する反動としての「日本こそ中国だ」という意識)、水戸光圀の「大日本史」(日本史の中に、理想化された中国型皇帝である万世一系の天皇を発見、それが、天皇の正統性を絶対化した)、浅見絧斉の「靖献遺言」(天皇に対する忠誠を絶対とする個人倫理の確立)、さらに、それが幕府の存在の非正統とする観念を生みだし、尊皇倒幕から天皇を中心とする中央集権絶対主義をめざす明治維新に突入していった、というものです。
これが「皇国史観」が生まれた思想的系譜で、その一君万民的・徳治主義的・天皇親政的形態を理想とする政治イメージが、昭和になって、明治政府が採用し明治憲法に規定された西欧型立憲君主としての天皇の政治イメージと鋭く対立し後者を圧倒した。つまり、前者の政治イメージが「大アジア主義」の思想的母体となり、このイメージをもとに現実の中国を見たとき、その軍閥・匪賊が横行して政情定まらざる中国の現状が、日本人の中国文化に対する軽侮を生み、同時に自国文化に対する慢心を生むことになったのです。
重ねて言いますが、この昭和動乱の根底をなした二つの思潮、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」はそのいずれも、実は「満州問題」より惹起されたというより、むしろ以上述べたような「国内問題」に端を発していたのです。
さて、こう見てくれば、戦後、「自衛隊」及び「自衛隊員」に対する侮蔑と人権無視に終始してきた、日本人の一般的思潮がどれほど危険なものであるかが判るでしょう。それと同時に、金権腐敗、党利党略、官僚専制等、国民の負託に答え得ない日本の民主政治の堕落が、日本人をして一君万民的全体主義に陥らしめる危険性を強く持っていることにも気づくと思います。
昭和の動乱の根底には、あくまで国内問題としての日本人自身の以上のような思潮があった。そして、国民がそれを支持したことによって「昭和の悲劇」は生み出された、私はそう思っています。  
4

 

前回、昭和の悲劇は「満州問題」を外交的に処理できなかったことによりもたらされた、と申しました。結局それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させた満州事変によって処理されることになりました。その結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。(これがその後の「満州問題」の処理をどれだけ困難にしたか)もう一つは、関東軍の独走に対して政府の歯止めが掛からなくなったということです。(これが日本に「二重外交」をもたらし、その国際的信用を地に落とした)
重ねて申しますが、「満州問題」は確かに存在しました。これは、前回紹介したような国民党の王正廷外交部長がおし進めたいわゆる「革命外交」、その余りに性急な、既成条約を無視した国権回復の主張や、さらに満州における張学良の露骨な排日方針に起因するものであったことは間違いありません。これが幣原外交に対する国民の信頼に決定的な打撃を与える一方、軍部の「満州問題」の武力解決、その伝統的な大陸進出論に弾みを与えました。といっても、当時(満州事変前)の国民は必ずしもこうした軍の強硬策を支持していたわけではありませんでした。
この事実は、以前、私が「日本近現代史における躓き」で「満州問題」を論じたとき(今もその続きをやっているわけですが・・・)に紹介したような、松岡洋右(昭和5年まで満鉄副総裁をしていた)の次のような言葉でも確認することができます。
「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義=筆者)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向に気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びはむしろ頑迷固陋の徒の如くに蔑まれてさえ居た。これは事実である。国民も亦至極呑気であった、二回迄も明治大帝の下に戦い、血を流し、十万の同胞を之が為に犠牲にした程の深い関係のある満蒙に就てすら、全く無関心と謂って宜しいような有様であった。情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」
更に興味深いことには、当時、在満邦人の自治拡大と利益擁護をめざした「満州青年連盟」――その第二回議会で「満蒙自治案」が提起された――の有力メンバーであった小沢開作(小澤征爾氏のお父さん)が、その「満蒙独立論」について石原莞爾との会話で次のように自説を展開していることです。(満州事変が起こった少し後の頃の会話)
石原「ほほう、そうして満蒙を日本の権益下に置こうというのですか、小沢さん」
小沢「冗談じゃない、私は日本の官僚財閥ではありません。満蒙を取っても三、〇〇〇万民衆の恨みを買ってどうします。いや三、〇〇〇万民衆ばかりではない、中国四億の漢民族は日本を敵とするでしょう。欧米人の圧迫に目醒めたアジアの諸民族は、日本を欧米諸国以上に憎むでしょう。そんなバカらしい権益主義は改革すべきです。」
石原「すると小沢さんは、大アジア主義者で満蒙を独立国にしようというのですか」
小沢「満蒙独立国の建設は満州青年連盟の結成綱領です。その実現のために出来たんです。(中略)新国家の建設は、私たち日本人がやるんではなくて、三、〇〇〇万民衆にやらせるんです。そこが帝国主義と民族共和の違いです。」
石原「廃帝溥儀を、満洲の皇帝に持ってくるという方策をどう思いますか」
小沢「バカらしい、溥儀のために死ねますか。私ばかりではない、三、〇〇〇万民衆の八〇%は”滅満興漢”の中国革命を信奉している漢民族です。溥儀なんかを皇帝に持ってきたら新国家はできませんよ」
つまり、満州における居留日本人の立場から「満蒙独立論」を唱えた彼らの思想は決して、満蒙権益擁護論でもなければ、ましてや満洲占領論ではなかったのです。それはあくまで、「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動に対して、個々の我等が善隣の誠意を鵄(いた)してこれを援助せしむるものである。換言せば、国家的援助に非ずして、国民的援助である。従って外交的問題の起こるはずがない」とするものでした。(この小沢の慈善的ロマンティシズムは、まもなく関東軍によって裏切られ、小沢はこの運動から手を引くことになります)
では、当時、このように一向に国民の「気乗りのしなかった」満蒙問題が、一転して国民の関心を引くようになったのはなぜでしょうか。山本七平は、「中村大尉事件」(満州事変の直前のs6.6.27に、満洲で中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長らが殺された事件)が当時の世論に及ぼした決定的影響について次のように述べています。
「当時の人の思い出によると、満州問題についてそれまで比較的穏健な論説を張っていた朝日新聞が、これを契機に一挙に強硬論に変わったそうである。そうなると世論はますます激昂し、ついに『中村大尉の歌』まで出来た。
一方政府にしてみれば、何しろ犯人が明らかでないから、動けない。すると・・・『内閣のヘッピリ腰』を難詰する『世論』はますますエスカレートした。・・・昂奮の連鎖反応で国中がわきかえっているとき、やはり(張学良軍によって殺害されたのではという=筆者)『第六感』があたっていた。もう始末におえない。そして柳条溝(湖)鉄道爆破から、満州事変へと突入していく。
これを後で見ると、非常に巧みな世論操作が行われていたように見える。というのは、この状態でもなお、関東軍の首謀者は『世論』の支持を四分六分で不利と見ていたそうだから、当然中村大尉事件がなければ『世論』の支持は得られず、満州事変は張作霖事件のような形で、責任者の処罰で終わっていたであろう。」
にわかに信じられないような話ですが、この中村大尉事件が「満州事変」を支持する方向で国内世論を一気に急転回させたその不思議について、戦後、山本七平のいた収容所内では、「中村大尉事件も軍の陰謀で日本軍の密命で中国軍が殺したのだろうと極論する人までいた」といいます。(事実はそうではありませんでしたが・・・)
では、これは日本人にとって単なる「不幸なアクシデント(偶然の事件)」だったのでしょうか。山本七平は、そのようには見ないと、当時の「金大中事件」(s48.8.8)に対する日本の世論の激昂ぶりや、南京攻略時のパネー号撃沈事件における日本人の反応を例に挙げて、次のように自説を展開しています。
「こういう事件は、もちろん全く予期せずに起り、予期せずに起るがゆえに「突発事件」なのである。そして、これが他国に起因する場合は、日本人自身がいかに心しても、日本人の意思で、その突発を防ぐことはできないわけである。そこで、昔も今も起ったように今後も当然起るであろう。従って問題は、そういう事件が起るということ自体にあるのでなく、むしろ、起った場合に、その「事件は事件として処理する能力」が、われわれにあるか否かが、今われわれが問われている問題だ」と思う。
そしてもう一つは、たとえ相手がこういった事件を「事件は事件として」処理したにしても、それが常識なのであって、それを、相手が屈伏したと誤解したり、相手を「弱腰だ」と見くびったりしてはならないこと、そしてこの点においても昔同様の誤りをおかすかおかさないか、ということが最も大きな問題だと私は思う。
太平洋戦争中、「アメリカなにするものぞ」といった激越な議論の根拠として絶えず引合いに出されたのが「パネー号事件」であり、「自国の軍艦を撃沈されても宣戦布告すら出来ない腰抜けのアメリカに何かできるか」と「バカの一つおぼえ」のように言われ、今でも耳にタコが出来ているからである。
これは南京攻略のとき、揚子江上にいたアメリカの砲艦パネー号を日本軍が撃沈し、レディバード号を砲撃した事件である。奇妙なことに最近の「南京事件」の記事からは、このパネー号事件は完全に消え去っているが、当時はこれが最大事件で「スワー 日米開戦か?」といった緊張感まであった。」
「主権の侵害」というのなら、交戦状態にない他国の軍艦を一方的に撃沈してしまうことは、撃沈された方には実にショッキングな「主権の侵害」であり、艦船をその国の主権内にある領土同様と見るなら一種の侵略であって、これの重大性は到底金大中事件の比ではない。今もし韓国によって日本の自衛艦が砲撃され撃沈されたら、一体どういうことになるか。金大中事件ですらこれだけエスカレートするのだから、おそらく「日韓断交型」の「世論」の前に、他の意見はすべて沈黙を強いられるであろう。それと等しい事件のはずである。
だが当時アメリカはそういう態度に出ず「事件は事件として処理した」。これを日本の「世論」は「笑いころげずにいられないアメリカ政府のヘッピリ腰」と断定した。これは日本政府がそういう態度に出れば、これを弱腰と批判するその基準で相手を計ったことを意味している。それが対米強硬論の大きな論拠となるのであり、確かに日本の世論が方向を誤る一因となっている。従って今回の事件も、韓国がこの事件を「事件は事件として」処理した場合、日本の「世論」がこれをどう受けとめるかは、私には非常に興味がある。
個人であれ国家であれ、問題の解決が非常にむずかしいのは、むしろ「相手に非」があった場合であろう。この場合のわれわれの行動は、常に、激高して自動小銃にぶつかるか(反撃するという意味=筆者)、はじめから諦めるか、激高に激高を重ねて興奮に興奮したあげく、自らの興奮に疲れ果てた子供のようにケロッと忘れてしまうかの、いずれかであろう。といっても私は別に他人を批判しているわけではない。いざというとき、自分の行動も似たようなものであったというだけである。」
実は、こうした日本人の「事件を事件として冷静に処理」することの出来ない弱点が、1927年の北伐途上の国民革命軍が引き起こした第二次南京事件、1928年の済南事件、そして、中村大尉事件、万宝山事件の処理にも典型的に表れているのです。そして、これらの事件を重ねる毎に日本人の対中国感情が悪化し、また、その時の行き過ぎた日本人の反応が新たな悲劇を生み、さらにそれが中国人の対日感情を悪化させるという、悪循環を生むことになったのです。こうして、日本人も中国人も望まなかった日中戦争へと突入して行くことになるのです。
ところで、こうした悪循環の起点となった第二次南京事件に対する日本の対応が、幣原外交を「軟弱外交」「弱腰外交」と批判する一般的風潮を生むことになりました。こうした批判は、今日ではほとんど通説化していて、名著『太平洋戦争への道(一)』「ワシントン大勢と幣原外交」でも、「彼はあまりに人間性を偏重し、満蒙にたいする日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と満蒙問題にからむ内政面への顧慮とを欠いていた。しかも彼自身はその合理主義へと世論を誘導する政治力を持たなかったのである。」と批判されています。
だが、本稿で紹介したように、満蒙に対する当時の日本人一般の感情が一体どのようなものであったか、それが何故に満州事変を指示する方向で急展開したか、また、軍部の満蒙問題をめぐる非合理的感情というものが、一体どのようなものであったかを見れば、こうした批判は私は当たらないと思います。というのは、ではこの局面において、「満州問題」の解決のために有効な他のどのような方策があり得たか、ということです。その代案の一つが、田中義一内閣の武力を背景とする「積極外交」だったはずですが、それがいかなる惨憺たる結果を招いたか。
第一次山東出兵、それに続く第二次山東出兵は済南事件(日本軍の謀略・煽動の疑い濃厚)を引き起こし、それが中国人に、あたかも日本が中国の国家統一を妨害しているかのような印象を与え中国の排日運動を激化させました。さらに、張作霖爆殺事件――この無法極まるむき出しの暴力主義を生んだのも田中「積極外交」でした。そして、その真相(すでに周知の事実となっていた)を陸軍は組織をあげて隠蔽した。この人を馬鹿にした不誠実極まる事件処理が、父を爆殺された張学良に、日本に対するどれだけの不信と恨みを植え付けたか・・・。
その田中「積極外交」が遺した支那本国や満州におけるの排日運動激化の責任を、なぜ幣原が負わなければならないのか。第二次若槻内閣における幣原の無策を責めることは簡単ですが、では、当時の、支那の革命外交や張学良の排日政策が進行する中で、幣原や重光が唯一取り得るとした「堅実に行き詰まらせる」方策以外に、はたしてどのような方策があり得たか。この「堅実」策が最終的に何を想定していたかについては、前便で守島伍郎の解釈を紹介しましたが、幣原は既に昭和3年9月17日の段階で次のようにその所信を述べています。
「私は満洲の権益は、東三省の政治組織如何によって左右されるやうな薄弱なものではないと思う。だから、政治と経済を混同してはならないといふのだ。第一国民政府が満州に進出して、特に我国の権益を脅かすような不謹慎的行動に出るとすれば、その時初めて我政府は否と返答すればよい。真に帝国の存在を無視するが如き態度に出るにしても執るべき手段は幾らでもある。」大切なのはそれに至る手続きだ。「徒に小細工を弄し、列国をして侵略的なる疑問を抱かせるような方策に出ることは、他を傷つけると共に自分を傷つける不明の策であって、外交の妙諦を解せざるものである」
なお、先に述べた幣原外交批判の嚆矢となった第二次南京事件における現地軍の無抵抗主義は、実は、幣原が指示したものではなく、当地の本邦居留民が「尼港事件」の二の舞を恐れて海軍部隊長に隠忍を陳情したことによって執られた措置でした。幣原がこうした局面における軍の統帥事項に容喙するはずもなく、もし本当に政府がこの時無抵抗主義を現地領事館に指示していたとしたら、いち早く居留民の引き揚げを断行していたはずだ、と幣原はいっています。
しかし、こうした「穏忍自重」の対応策は、その被害についての誇大報道もあり、国内において激しい批判の対象となりました。そして、それがあたかも幣原の「対華不干渉主義」「対華親善政策」の結果である如く喧伝されました。しかし、日本が排外暴動の対象となったのは実はこの時が初めてで、それまではイギリスがその対象とされたのです。また、この時の暴動は、国民革命軍内部のソビエトに指導された共産主義分子が、共産党排斥の旗幟を鮮明にした蒋介石を打倒するため、意図的に引き起こした領事館襲撃だったといいます。
こう見てくると、一体、幣原の外交方針のどこに間違いがあったのか。「日英同盟を廃棄してこれを四カ国条約に代えた」ことや、「九カ国条約に謳う門戸開放・機会均等主義が日本の満蒙における特殊権益と政治的に両立しない」ことなどが批判されますが、「日本が九ヵ国条約に敵意を抱いたのは満州事変以降のことであり」、それまでは、それが「中国の排日感情を和らげ、列国の疑惑を解くため必要な実利政策である」として、当時の政府が一致して支持してきたものなのです。四カ国条約についても、集団安全保障体制であり無力だということは戦後判ったことだし、仕方ないのではと思います。
また、こうした幣原の外交方針が、その後の世界恐慌による自由市場の閉鎖化や、ソ連共産主義の台頭、国民党の革命外交や張学良の排日政策に有効に対処するものでなかった、などとも批判されますが、では、これらに対応できるどのような外交方針がありえたか。それは結局、ワシントン体制下の世界秩序――軍縮から外交交渉による国際紛争の解決の方向、デモクラシーと自由民主主義の方向に国民を導いていく、ということではなかったか。だとすれば、「満州問題」を巧みに利用することで、満洲領有と軍部独裁を同時に実現しようとした軍部に、どのように対抗し得たか。
あるいは、そうした幣原とは違う軍部とのつきあい方を試みたのが広田弘毅であり近衛文麿ではなかったか。彼らこそ「日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と、満蒙問題にからむ内政面への顧慮」に注意を払いつつ、内交的外交を展開した人たちではなかったか。そしてそれは見事に失敗した。そう見ることができるのではないか、私はそう思っています。 
5

 

前便で、満州事変の基本的性格について、それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させたものだということを申しました。また、その担い手となった軍人たちの心理的背景として、ワシントン会議以降の軍縮がもたらした軍人軽視の社会風潮、それに対する憤懣があったことを指摘しました。折しも、金融恐慌(s2.3.15)、世界恐慌(s4.10.25)、金解禁(s5.1.11)などが重なり日本経済は深刻な経済不況に陥り、軍部はその原因を自由主義経済の破綻や政党政治の腐敗に求めました。また、これらの問題と合わせて日本の人口問題や資源問題さらにはソ連の脅威に対処するためには「満洲領有」が必要であり、そのためには国内政治の抜本的改革が必要であると訴えたのです。
こうした「満蒙問題」に関する国民啓発運動は昭和6年6月頃から活発化しました。まず、満州青年連盟が「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民とを鞭撻し国論を喚起するため内地に遊説隊を派遣しました。関東軍も板垣を帰京させ「機会を自ら作り満州問題の武力解決」を図る石原構想をもって軍中央の一部将校(永田、岡村、建川など)の説得に当たりました。また、陸軍も国防思想普及運動を全国的に展開し「時局講演会」を各地で開催し、満蒙の領有が土地問題の抜本的解決になること、極東ソ連軍の脅威、日本の満洲権益がワシントン条約で放棄(?)させられたこと、張学良政権の排日政策によって日本の正当な満洲での権益が損なわれていること等を国民に訴えました。
そこに、前回紹介したような中村大尉事件(1931.6.17)や万宝山事件(1931.7)が発生し、国民世論は一気に対支強硬論へと急展開していったのです。特に、中村大尉事件の公表以降は、政友会はいうまでもなく、貴族院各派さらに民政党内にも「中村事件を幣原外交の失敗と見なし」「あえて軍部の強硬意見を非難しない」というような情況が作り出されました。しかしながら、外務省はあくまで「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」を堅持しており、また、南陸相のもとに省、部中堅層を集めて作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)でも、満洲で軍事行動を起こす場合も、閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、これを是認せしむるよう努力する」としていました。
にもかかわらず、9.18満州事変の勃発となったわけですが、そのことについて私は前回次のような問題点を指摘しました。「この結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。もう一つは、関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなったということです。」つまり、この時ビルトインされたこの二つの難問を解くことが出来なかったことが、日本を泥沼の日中戦争そして太平洋戦争へと引きずり込んでいく足かせとなったのです。しかし、当時、この問題点に気づいた日本人はごくわずかしかいませんでした。いや、現在においてもこの点が十分認識されているとはいえません。
というのは、事変直後の9月19日の陸軍中央部(金谷参謀総長、二宮参謀次長、南陸相、杉山次官、荒木貞夫教育総幹部本部長)の方針は全満州の軍事占領ではなく、条約上における既得権益を完全に確保する、というものでした。また10月8日の段階でも「独立案」には進んでおらず「中国中央政府と連携を認める地方政権」ということで陸軍三長官の意見は統一され、政府の方針もその方向で統一されつつありました。
ところが、関東軍の方では、早くも九月二十二日に軍参謀長三宅少将(13期)以下土肥原賢二大佐(16期)、板垣征四郎大佐(16期)、石原中佐、片倉衷大尉(31期)らが集まり、「軍年来の占領案より譲歩し、中国本土とは切り離した親日政権、宣統帝を頭首とする独立政権を作ること、内政などは新政権が行うが、国防、外交は新政権の委嘱という形で日本が握ること」などの要点で話が決まっていました。
結局、「この満蒙処理の構想に関する限り、現地関東軍が押し切り、東京の軍中央部も政府当局も、これに引きずられていったわけである。勿論、世論の強硬論が関東軍の案を支持した。満洲で一発撃たれると同時に世論はがらっと変わって、軍を支援する形に動いていった。この時風は完全に変わり、今までの陸軍に対する逆風は追い風になった」のです。
加登川氏はこれに続けて、自らの元陸軍省軍務局軍事課参謀としての体験を踏まえて、彼自身の反省の弁を次のように述べています。
「私は満州事変は当然のことを当然のこととしてやったんだといったが、さて、ここの段にいたって、私は日本は「攻勢移転」したとたんに『攻勢の限界点を越えた』と思っている。日本は全く後戻りの出来ない袋小路に首をつきこんでしまったからである。
これからあとは私の愚痴である。例として引くにはおかしいが、すでに述べたように、一九一一年(明治四十四年の辛亥革命のとき)、外蒙古は清朝衰亡の機に、帝政ロシアの使喉を受けて清国からの独立を宣言し、大蒙古国と称した。
翌明治四十五年には帝政ロシアは、露蒙条約を結んで蒙古独立を支持し、土地借款などの特権を得た。当時の中国にとっては大問題であった。だがその後、既成事実として「自治」を認め「名」をとる妥協の余地があった。それは一九一三年(民国二年)に至って袁世凱政権のもとで外蒙古に関する露中宣言となって、中国は蒙古の自治を承認し、ロシアは中国の対蒙宗主権を承認するという解決法であった。
中国は、なくなった『実』は何ともならなかったが、『宗主権』という『名』をとって『面子』を保った。外蒙古はロシア革命後に、永久に中国の手を離れてしまったが、それはまた違った事態である。帝政ロシアの侵略の手を学べというのではないが、巧妙な解決策が残っていた。日本も、武力侵略を決意したにしても中国側に『宗主権』という妥協の余地を残すだけの含み、余裕がとれなかったものであろうかと私は今でも思っている。
それにしても、溥儀を担ぎ出したことが、まずかった。かつぎ出した以上『執政』としてもひっこめる余地が少ないだろうし、ましてこれを『皇帝』としたのではもうひっこめる手はない。中国政府との間に『面子』に関する解決不能の難題を作ったことになったのである。(この満州国という難題が、ついに日本の敗戦まで続いて日本はニッチモサッチもいかなかったのである)」
もちろん、満州国が、東京裁判の宣誓供述で石原莞爾が述べたように「東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもの」なら問題はありませんでした。しかし実際は、石原莞爾自身当初は満洲を武力占領するつもりであり、しかし、軍中央の反対に会ってやむなく「満蒙の支那本部よりの独立」に妥協したのでした。しかし、この間の事実を認めれば、国際連盟規約・九カ国条約・不戦条約違反を問われる恐れがあったので、満洲国の独立は、あくまで、張学良が悪政故に満洲の民衆の支持を失った結果であり、「民族自決」の原理によって国民政府から独立したものである、と説明したのです。
だが、これが詭弁であることはいうまでもありません。そして日本政府もこの主張の無理を承知していました。また当然のことながら、この事変を企図した者たちもそれを自覚していたので、それが柳条湖の鉄道爆破という謀略で始まったという事実を戦後に至るも隠し続けたのです。その結果、陸軍そしてそれに引きずられて日本政府もそして国民も「満州において日本が軍事行動をとったのは、張学良=支那が条約により日本に認められた権利を尊重しなかった結果であり、日本は自らの権利を守るためやむなく自衛行動に立ち上がったのである」と主張し続けることになったのです。
では、こうした、いわば「ゴルディアスの結び目」から日本が逃れる方法はあったのでしょうか。実はそれは甚だ簡単なことで、加登川氏も指摘するように、満洲に対する中国の宗主権を暗黙にでも認めればそれで済むことでした。そうすれば、上に述べたような日本の言い分にもスジが通ってきますし、日本国の名誉も守ることができたのです。しかし残念ながら当時の陸軍にはそれができませんでした。そして、この問題をあくまで武力を背景に中国側の犠牲において処理しようとしたのです。つまり、中国が「満州国を承認する」という形で問題解決を図ろうとしたのです。
ではなぜ、そんな道義にもとることをしたのでしょうか、また、なぜその過ちに最後まで気づかなかったのでしょうか。もし、関東軍がこれを初めから中国を侵略する目的でやったのなら、むしろ堂々と公言した方が少なくとも論理的にはスッキリしたのに、一方で戦争を継続しながら日支親善を言い中国に対して抗日を改めろと言い反省を求め続ける、この不思議さ。このことについて岸田国士は、昭和14年に出版した彼自身の著書『従軍五十日』で、この間の両者の心理を次のように説明しその解決策を提示しています。
「平和のための戦争といふ言葉はなるほど耳新しくはないが、それは一方の譲歩に依って解決されることを前提としている。ところが今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。云ひかへれば、支那は、本来望むところのことを、武力的に強ひられ、日本も亦、本来、武力をもって強ふべからざることを、他に手段がないために、止むなくこれによったといふ結果になっている。
かういふ表現は多少誤解を招き易いが、平たく砕いて云へばさうなるのである。支那側に云はせると、日本のいう親善とは、自分の方にばかり都合のいいことを指し、支那にとっては、不利乃至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かかる美名のもとに行われる日本の侵略を民族の血をもって防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらいの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。そこで、事変勃発以来、日本の朝野をあげて、われわれの真意なるものを、相手にも、第三国にも、亦、自国国民にも、無理なく徹底させ、納得させるやうに努めて来、また現に努めつつあるのであるが、問題がやや抽象的すぎるために、国民以外の大多数には、まだ善意的な諒解が十分に得られでゐないやうである。
これは考へてみると、わからせるといふことが無理なのである。なぜなら、日支の間に如何なる難問題があったにせよ、それが戦争にまで発展するといふことは常識では考へられない。すなはち、民族心理の最も不健康な状態を暴露しているわけで、そのうへ、両国の為政者自らが、それに十分の認識があったかどうかは疑わしいからである。戦争になつたことを今更かれこれ云ふのではない。戦争がさういふ危機を出発点とすることはあり得るし、戦争によって、何等か打開の這が講ぜられる期待はもち得るのであるけれども、この事変の目的とか、性質とかを吟味するに当つて、これを意義ある方向へ導くための国家的理想と、その現実的な要素を分析した科学的結論とを混同することによつて事変そのものの面貌があやふやな認識として自他の頭上に往来することは極めて危険である。
欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、ここで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があったにせよ、支那に對するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?
一見、支那の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでいて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせているのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によって得られるかとうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、いはゆる疑心暗鬼の種にもなるわけだ。ここにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出しているのに気づく。
戦争をあまりに道義化しようとして、これを合理化する一面にいくぶん手がはぶかれている傾がありはせぬか。主観的な意戦論は十分に唱へられているが、客観的な日支対立論とその解消策は、わが神聖な武力行使の真の行きつくところでなければならず、寧ろ、これによってはじめて東亜の黎明が告げ知らされるのだと私は信ずるものである。
そこで、いはゆる客観的な対立論とその解消策の第一項目として、私は、日支民族の感情的対立の原因の研究ということを挙げたいと思ふ。事変そのものを挟んで、両国の運命は等しく重大な転機に臨んでいるけれども、かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」
実は、岸田国士がこの文章を書いた昭和14年の時点では、満州事変の真相は国民の前に明らかにされていませんでした(それが明らかにされたのは昭和34年)。もちろん、この事件を企画し満州を武力占領した当事者たちにはその真相は分かっていました。石原莞爾はそれを「最終戦争論」という偽メシア的預言によって(注1)正当化したのです。その意味で石原莞爾こそ、以上説明したような誠に不思議な自己欺瞞的戦争を日本に余儀なくさせた元凶であるといわなければなりません。
では、日本人全員が石原莞爾に騙されていたのかというと、必ずしもそうとはいえず、むしろ石原莞爾は、そうした当時の日本人の中国人に対する優越した気分(注2)を代弁していただけということも可能なのです。それが、満州事変を機に、それまであからさまに行われてきた軍部批判が、一気に熱狂的な軍部礼賛へと転化したというもう一つの不思議を説明する、最も説得的な解釈ではないかと思います。
もちろん、日本人の支那人に対する優越感が、支那人の自尊心を傷つける行動につながっていたのと同様、支那人の側にも同じような問題があり、それが日本人の自尊心を煽った側面もあったと思います。しかし、この問題点に先に気づいたのは中国側指導者たちでした。1934年12月20日付『外交評論』紙上に「敵か友か?中日関係の検討」と題する注目すべき論文が掲載され、そこには「一般に理解力ある中国人は、すべて、次のことを知っている。すなわち、日本人は究極的にはわれわれの敵ではない。そして、われわれ中国にとって、究極的には日本と手をつなぐ必要がある」と記されていました。
(注:それは蒋介石の口述したものをその最も信頼する第一侍従室長の陳布雷に筆記させたものだったといいます。)
ここから、満州事変勃発以来初めての、日中親善に立脚した日中国交回復が、蒋介石と広田外相の間で真摯に模索されることになったのです。しかし、こうした慶賀すべき動きに対して、関東軍は執拗に妨害工作を繰り広げました。こうして、軍部も含めた日本側も、そしておそらく中国側も(注3)望まなかった日中戦争へと、ほとんど運命的に突入していくことになるのです。岸田国士は「かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」と言いました。しかし、日中全面戦争に突入する以前においてその余裕を見せたのは中国人であり、これに応える余裕を持たなかったのは日本人だったのです。 
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前回紹介した岸田国士の言葉「今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。」は、日中戦争の本質を端的に表したものといえます。
また、私は前回の末尾で「軍部を含めた日本側も、そしておそらく中国側も望まなかった日中戦争」と書きました。これについては廬溝橋事件発生時における「拡大派」の存在や「中共謀略説」などを根拠に、異論を唱える方も多いと思います。北村稔・林思雲氏の『日中戦争』の副題は「戦争を望んだ中国望まなかった日本」となっています。しかし、日中関係をより長いスパンで見た場合、日中親善が望まれていたともいえるわけで(注1)、蒋介石も、また満州事変の張本人である石原莞爾も、先の「拡大派」にしても、決して中国との全面戦争を望んだわけではありませんでした。
終戦後の1946年にアメリカ戦略爆撃調査団が日本陸軍の華北進出の動機に関する調査を行っていますが、その一説には次のような調査結果が記されています。
「一九三七年(昭和一二年)の華北進出は、大戦争になるという予測なしに行われたものであって、これは本調査団が行った多数の日本将校の尋問によって確証されるところである。当時、国策の遂行に責任のあった者たちが固く信じていたところは、中国政府は直ちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自ら調整してゆくであろうということであった。中国全土を占領することは必要とも、望ましいとも考えたことはなかった。・・・交渉で――あるいは威嚇で後は万事、片がつくと考えていた。」
この事実は、満州事変以降の日本の中国に対する究極の要求が何であったかを見てもわかります。もちろんそれは、寛大ないわゆる「大乗的」といわれるものから侵略的という外ないものまで、その振幅はさまざまですが、中国との戦争状態を惹起しないあるいはそれを終熄させようとした時の最低限の日本の要求は何だったかというと、結局それは、満州事変以降日中戦争期そして大東亜戦争期を通じて、満州国の独立を中国に承認させる、という一点に絞られてくるのです。
この間における満州国承認に関する日中間交渉は、昭和10年9月7日、蒋介石が蔣作賓を通じて日本政府に示した日中提携のための関係改善案の提示に始まります。この時の中国側の提案は「満州国については、蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日これを不問にする。(右は日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずという意なり)」というものでした。これに対して広田外相は、昭和10年10月7日、張作賓に「広田三原則」を示し、その第二項で「満州国の独立を事実上黙認」することを求めました。
これに対する中国側の答えは、「満洲にたいし政府間交渉はできないが、同地方の現状に対しては、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことをしない」というものでした。広田外相は、「中国は満洲に対して政府間の交渉はできないというが、それでは現状と変わりがない」として重ねて「事実上の満州国承認」を求めましたが、中国側は応諾しませんでした。おそらくその理由は「中国としては満州国の宗主権を放棄することはできない」ということだったと思います。
また、中国側はこの交渉に先立って中国側三原則を示し、その趣旨に日本側が賛同することを求めました。それは(1)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること。(2)両国は真正の友誼を維持すること。(3)今後、両国間における一切の事件は、平和的外交手段により解決すること、でした。その狙いは、「梅津・何応欽協定」以降の日本軍の武力を背景とした脅迫的な交渉態度や「華北自治工作」という主権侵害行為の停止を、日本側に約束させることにありました。
広田外相としても、1935年1月12日の議会演説で中国に対する不脅威・不侵略を宣言して以来、なんとか日中関係改善の糸口を見つけようと努力しました。また、国民政府も日本軍による華北自治工作開始後も、対日親善方針を変えなかったため、広田外相は陸海外三省協議の上、「広田三原則」をまとめたのです。しかし、そこでは軍部の圧力のため「相互尊重・提携共助の原則による和親協力関係の設定増進」という項目が削除されたり、「日満支三国の提携共助により」が「日本を盟主とする日満支三国」となるなど中国側三原則の趣旨は失われていました。
そのため、この時の日中関係改善交渉は挫折しました。そしてその後も、日本の出先陸軍は華北自治工作を強力に推進し、1935年11月23日には殷汝耕を政務長官とする冀東(冀=河北省)防共自治委員会を設置し、さらに河北の宋哲元らに対する自治工作を強化しました。国民政府はこれに対して1935年12月18日、一定の自治権を有する冀察(チャハル省)政務委員会を設置(1935.12.18)しました。しかし、こうした日本軍のあからさまな華北分治工作に対する中国国民の反発は、燎原の火の如く中国全土を蔽い、各地で対日テロ事件が頻発するようになりました。
一方日本では、1936年2月26日に一部青年将校による二・二六事件が勃発し、岡田内閣が崩壊、続いて3月9日広田内閣が発足しました。対華政策については8月11日「第二次北支処理要項」が決定され、日本の「華北分治政策」が満州国の延長の如く解せられないよう留意しつつ、「日本と華北の経済合作」を進めるべきとしました。また、険悪の度を増す日中関係の根本解決をめざして、南京で川越駐華大使と張群外交部長の間で華北経済合作を中心とする交渉が行われました。その中で中国側は、塘沽・上海停戦協定(満州事変の停戦協定)の取り消しや、冀東政府の解消を要望するようになりました。
さらに日本の綏遠工作(内モンゴル軍を使った中国からの綏遠分離工作)が発覚すると、蒋介石は、「綏遠工作が続く限り南京交渉は困難である」「中国国民の日本に対する不安と猜疑の念は、ますます高められる一方だから、日本も大局的見地からこれを一掃する処置を講じてほしい」と要望しました。さらに1936 年11月24日の百霊廟陥落(綏遠事件の最後の戦闘で中国軍が勝利したもの)以降の中国側の姿勢はさらに高姿勢に転じ、交渉の進展は絶望となりました。さらに12月12日には「西安事件」が発生し、これ以降蒋介石は、第二次国共合作、抗日民族統一戦線の結成へと進むことになりました。
広田内閣は1937年1月23日に総辞職し、組閣の大命は宇垣一成予備陸軍大将に下りましたが、陸軍の反対に遭い組閣を断念し、2月2日林(銑十郎)内閣が成立しました。外相は佐藤尚武となり、対華政策については従来の陸軍の拙速主義に対する反省から、華北分治政策の放棄と冀東政府の解消がはかられました。また、「日満を範囲とする自給自足経済を確立し」て対支政策を一変し「互助互栄を目的とする経済的・文化的工作に主力をそそぎ、その統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み、北支(華北)分治は行わず」となりました。これは石原構想に基づくものでした。
しかし、こうした政策変更が実効を見る間もなく、林内閣は5月31日に倒れ、6月1日に近衛文麿内閣が誕生し、外相は再び広田弘毅となりました。この間、華北をめぐる日中関係は悪化の一途をたどり、一触即発の状態となりました。そしてついに、7月7日北平郊外の廬溝橋で演習中の華北駐屯日本軍と冀察政権の第二九軍の間で武力衝突が発生したのです。直接の原因は第二十九軍の兵士の偶発的発砲(秦郁彦)とされますが、この段階では、すでに中国国民や兵士の抗日気運は十分に盛り上がっており、いつ衝突が起こってもおかしくない状況になっていました。
事件直後の7月8日、中共中央は全国に通電を発し、即時全民族抗戦を発動することを主張し、蒋介石に国共合作による共同抵抗の実現を要求しました。しかし、抗日戦準備態勢の不完全を憂慮した蒋介石は、なお抗日戦発動をためらっていましたが、7月17日廬山国防会議において「最後の関頭」演説を行い、万一やむをえず「最後の関頭」にいたるならば」中国としても全民族をあげて抗戦し、最後の勝利を求めるほかないとしました。そしてついに8月8日「全将兵に告ぐ」という次のような演説を行いました。
「九・一八以来、われわれが忍耐・退譲すれば彼らはますます横暴となり、寸を得れば尺を望み、止まるところを知らない。われわれは忍れども忍をえず、退けども退くをえない。いまやわれわは全国一致して立ち上がり、侵略日本と生死を賭けて戦わなければならない。」
一方日本側では、事件発生後「不拡大・現地解決」を指示しましたが、陸軍の一部には「この機会を利用して、内地からの兵力を派遣し中国に一撃を加えて、前年からの華北工作の行き詰まりを打開しようという強硬意見」が台頭し、不拡大を主張する石原参謀本部作戦部長らとの間で激論が交わされました。しかし現地では11日相互撤退の原則で停戦協定が成立しました。しかし、東京ではこの調印に先立つ数時間前の閣議で内地三個師団の派兵が決定していました。ただし、動員後派兵の必要がなくなれば取りやめるとの条件付きでした。
この派兵が決定した11日の五省会談及び閣議では、米内海相から反対意見が述べられ、近衛首相、広田外相、賀屋蔵相も乗り気ではなかったといいますが、近衛首相はその日の夕方、華北派兵の理由及び政府の方針に関する政府説明を内外に公表し、同時にこの事件を「北支事変」と呼ぶことにし、同日夜首相官邸に政・財・言論界の代表をまねき、協力を求めました。こうした政府の鼓吹によって「暴支膺懲熱」が国民の間にも高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催があいつぎました。(この時の近衛首相の判断には首をかしげざるを得ませんが、それは、中国との外交交渉の主導権を握るためのブラフだったと説明されています。
この7月11日の派兵声明以降、陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が生じ、これを反映してその後二週間の間に三回も動員の決定と中止が繰り返されました。一方、現地では支那駐屯軍と冀察政権の交渉は順調に進み、19日には細目協定が橋本参謀長と張自忠の間に停戦協定が調印されました。そして23日、石射外務省東亜局長は、陸・海・外三局長会議で、事変の完全終結を見こして、(1)不拡大、不派兵の堅持、(2)中国軍第三十七師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で、自主的に増派部隊を撤収、(3)次いで国交調整に関する南京交渉を開始する、の各項を提案し了解を得ました。
だが、23日を境に現地情勢は急速な変転を示し始め、第三十七師は北平撤退を中止したばかりでなく、かえって第二十九軍の他の部隊が協定に反して北平侵入するありさまでした。さらに25日には郎防駅(北平・天津の中間)付近で電線修理に派遣された日本軍の一中隊と中国軍が衝突した「郎防事件」。次いで26日には北平入城中の広部大隊に対し、中国側が城壁上から機銃掃射を加えた「公安門事件」が発生しました。かくて、現地香月軍司令官は従来の不拡大方針を放擲し、27日、政府も午後の閣議で内地五個師団二十万人の動員案を決定しました。(南苑にある中国軍主力対する攻撃は28日1日で終わり華北での戦闘は停止しましたが日本軍は南下を続けた。)
一方、石射東亜局長の提案になる解決試案――日中戦争の全期間を通じ、最も真剣で寛大な条件による政治的収拾策――が7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられ、石射がかねてから用意していた全面国交調整案と平行して、これを試みることになりました。その原動力は石原作戦部長だったと推定されていますが、これに天皇も同感の意を表され、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定されました。
「この停戦協定案は、(1)塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消、(2)廬溝橋付近の非武装地帯の設定、(3)冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政、(4)増派日本軍の引揚げ、また国交調整案としては、(1)満州国の事実上の承認、(2)日中防共協定の締結、(3)排日の停止、(4)特殊貿易・自由飛行の停止などを、それぞれ骨子とし、別に中国に対する経済援助土地顔法権の撤廃も考慮されていました。この両案は日中戦争中の提案としては、思い切った譲歩で、満州国の承認を除き、一九三三年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄しようとする寛大な条件でした。
この案(船津案)を、南京政府の高宋武・亜洲司長に伝える交渉者として、在華紡績同業者会理事長・船津辰一郎(もと上海総領事)が選ばれ、八日または九日から高宋武と会談を始める予定でした。ところが、おりしも華北から帰来した川越・駐華大使が訓令を無視して高との会談を行うよう変更し、九日夜川越・高会談が行われました。しかし、この日上海で大山事件が突発したため、交渉はなんら進展のないまま途絶しました。そして十三日夜、上海で対峙していた日中両軍間で戦闘が開始され、翌十四日、中国空軍は上海在泊中の第三艦隊に先制攻撃を加えました。そして翌十五日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し、ここに日中全面戦争が開始されました。
以上、「広田三原則」以降「日中全面戦争に突入するまでの日中交渉の経過を『太平洋戦争への道』の記述を引用しつつ説明してきました。そこで疑問となるのは、8月4日に日本側にこれだけの譲歩ができたのなら、なぜ、出先陸軍は広田外相の日中親善外交をあれほど露骨に妨害し「華北分離工作」をおし進めたのか、ということです。その時問題となった「満州国の事実上の承認」についても、中国側は日本に対し「満州国承認の取り消しを要求せず」としていましたし、また、第三国の承認もなされていたのですから、この線での妥協も可能だったと思います。
この和平条件は、11月2日に広田外相から依頼を受けたディルクゼン駐日ドイツ大使が、駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石に示した仲介案(「満州国の事実上の承認=黙認」が「満州国の承認」となっているほか船津案とほぼ同じ)にも引き継がれていました。しかし蒋介石は、ブラッセル会議(蒋介石はこの会議で対日制裁が決議されることを期待していた)を理由にこの申し出を断りました(11月5日)。その後同会議が見るべき成果なく閉会したので、蒋介石はあらためてドイツの仲介案を取り上げることにしました。12月2日、蒋介石は会議に出席していた各将領の意見を聞きましたが、白崇禧は「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」と疑問を呈しました。
他の将領もこれだけの条件なら受諾すべしと答えました、しかし蒋介石は「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつも、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」としました。しかし「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」とトラウトマンに要望しました。
トラウトマンより連絡を受けたディルクセン駐日独大使は12月7日広田を呼び、「中国側では日本側提示の条件として交渉に応ずる用意がある。ついては先にお示しになった条件のままで話を進めてよいか」と訊ねました。広田は早速近衛総理及び陸海両相と会談しこの件をはかるといずれも意義なく賛成だといいました。ところが翌朝杉山陸相が広田を訪れ「ドイツの仲介を断りたい.近衛総理も同意である」と申し出てきました。そこで和平条件案が12月14日の連絡会議にかけられましたが、原案を支持したのは米内海相と古賀軍令部次長のみで、近衛首相は沈黙を守り、そのため多田、末次、杉山、賀屋らの異論により条件が加重され、戦費賠償まで加えられました。
最終的にこれが閣議決定されたのは12月23日ですが、このように日本側の態度が強腰になったのは、上海の激戦や南京陥落により国民が刺激され、対華強硬世論が盛り上がってきたことが原因と考えられます。というのは、11月13日から始まった上海戦は、14日の中国空軍による第三艦隊に対する先制攻撃で開始され、また、中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導による陣地構築、訓練、作戦指導を受けており、ドイツ製の優秀な武器を持って日本軍と戦い、日本軍に膨大な犠牲をもたらしたからです。この模様は同盟通信の松本重治によると「上海の戦いは日独戦争である」というほどのものだったといいます。
そのため、上海での戦闘に三ヶ月もかかり、この間の日本軍の戦死傷者は四万一千名に及び、日露戦争の旅順攻略に匹敵するほどでした。こうした予想だにしなかった事態を、日本軍はどれだけ事前に把握していたか。廬溝橋事件後のいわゆる一撃派は「一撃で中国軍が簡単に降参する」と見ていました。また、当時の支那通も上海付近の要塞化にさしたる注意を払いませんでした。それは日本軍の伝統的な支那人蔑視観が判断をあやまらせたともいえますが、最大の理由は、まさか支那との全面戦争になるとは思っていなかったからではないかと思います。
こうした上海戦の犠牲の大きさを考慮すると、それ以前に構想された和平条件を、そのまま南京陥落後の和平条件とすることは無理だったのではないかと思います。蒋介石の12月2日の言葉を見れば、こうした事態を当然の如く予測し、調停が成功しないことを見越していたように思われます。それより問題なのは、白崇禧の「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」という言葉です。つまり日本側の条件で懸案となるのは「満州国の承認」だけで、そして、これだけなら戦争の必要はなく、満州事変以降の外交交渉で十分解決可能だったということになるからです。
よく、トラウトマン和平工作の打ち切りに際して、参謀本部が強硬に交渉の継続を主張し、これに対して米内海相が「参謀本部は政府を信用しないというのか。それなら参謀本部がやめるか、内閣がやめるかしなければならぬが・・・」という会話が引用され、日中戦争を長期化させた責任は参謀本部ではなく米内や文民たる政府である、との主張がなされます。しかし、かりにこの交渉を継続しても、蒋介石がこの加重された調停案を呑むことはなかったでしょう。参謀本部はこの時あえて昭和天皇に帷幄上奏を試みましたが、天皇はこれを受け入れませんでした。私はこれは当然だと思います。
この時天皇は、閑院宮参謀総長に対して「どういうわけで参謀本部はそう一時も早く日支の間の戦争を中止して、ソビエトの準備に充てたいのか。要するにソビエトが出る危険があるというのか。」と問い、「それなら、まづ最初に支那なんかと事を構えることをしなければなほよかったぢゃないか」といっています。蒋介石は「日本が軍事的優勢をカサに着て、条件の加重をはかろうとしたため、交渉を重ねた末、中途で打ち切られた。」と言っていますが、この条件加重を強硬に主張したのは多田参謀次長らであり、そもそも日中関係をさらに悪化させた華北五省分離宣言(「多田声明」)をしたのも彼でした。
いずれにしても、上海事変以降の蒋介石の持久戦を想定した抗戦意志は明確であり、南京陥落後に和平交渉が成立する可能性は全くなかったと思います。仮に、日本が、上海事変が起こる前に中国側に提示したものとほぼ同じ条件で南京陥落後のトラウトマン調停に応じた場合、上海戦が中国軍のイニシアティブによるものであることや、それまでに日本軍の払った人的犠牲の大きさを考慮すると、これに憤激する国内世論は誰にも押さえられなかったでしょう。ではどこで間違ったか。いうまでもなく、それは、1935年当時の蒋・広田間の日中和平交渉の段階であり、せっかく蒋介石より日中関係改善の処理方法が提案されたのに、軍部がこれを妨害し華北五省分離工作を強引に推し進めたからというほかありません。
そこで、「なぜ日本は中国と戦争をしたか」という本稿のテーマに沿って、その根本原因を探るならば、それは、満州事変以降華北分離工作において観察された、関東軍将校をはじめとする軍人らの特異な行動パターンを常習化させたものは何か、を問うことになります。一体、彼らはなぜ、蒋介石による中国の国家統一をあれほど恐れたのか、なぜ、彼らは満州国承認問題で中国の宗主権を認めようとしなかったのか。また、なぜ彼らは、武力を背景とする示威行動において、あれほど自制心を失ったのか。
おそらくその原因は、まず、中国を他者(国)として認識する力が欠如していたということ。次に、満州国成立の正当性に自信を持てなかったということ。最後に、当時の青年将校たちが、大正デモクラシー下の軍縮に由来する軍人蔑視の社会的風潮に深刻な被害者意識を持ち、そこに当時の革新思想である国家社会主義が強烈なアピール力を持って作用したということ。さらに、それが日本の伝統的な一君万民・天皇親政を理想とする尊皇思想(これが明治維新のイデオロギーとなった)によってオーバーラップされた結果、殉教者自己同定さらに自己絶対化へと進んでいった・・・そういうことではなかったかと、私は思っています。 
7 蒋介石の敵か友か / 中日関係

 

前々回に紹介いたしましたが、蒋介石は、1934年12月、満州事変以前そして以後の中国側の犯したあやまりに対する反省を踏まえて、日中関係の抜本的改善を呼びかける「敵か友か?中日関係の検討」という論文を、南京で発行された雑誌「外交評論」に発表しました。「外交評論」は国民党外交部の機関誌といえるもので、党・政府中央の意を広く民衆に伝える雑誌でした。そこに「日中朝野の人びとに先入観抜きで読ませる」ため、あえて第三者に語らせる形をとり、かつ、その内容が国民政府の本意にかなうものであることを明らかにしました。
これを見ると、当時蒋介石が、満州事変以降危殆に瀕した日中関係を、どのような観点に立って、互助互恵の日中親善関係へと転換させようとしたかがよく分かります。北村稔・林思雲著『日中戦争』によると、満州事変後における中国市民や学生間の主戦論はすさまじく、それに比べれば和平派(その多くは軍事や政治の重要ポストにいる人たちや、社会的影響力の大きな学者たち)の数は少なく、彼らの努力が無かったならば、日中間の全面戦争は、一九三一年頃に早くも勃発していたであろう、というほどだったといいます。
そうした雰囲気のなかで、蒋介石は何とか満州事変の戦後処理を済ませ、日中親善・互助互恵の経済関係を築きたかった。それが両国のためであるし、ひいてはアジアの平和の確立のためでもあり、さらに世界戦争の危機を免れるためでもあると確信していたのです。そして、そのための唯一の方策として、蒋介石が広田外相に期待したのは、満州国問題をその宗主権を中国に残す形で、「中国の面子」を立てるやり方で解決して欲しい、それ以外に、主戦論に沸き立つ中国国民の怒りを鎮める方法はない、ということだったのです。
残念ながら、当時の日本はその願いに応えることができなかった。なぜか、日本人は当時の世界をそして中国人の感情を、蒋介石が世界をそして日本人の感情を読んだほどには読めなかった、そういうことだったのではないかと私は推測しています。おそらく、近衛も広田も内心ではそうしたい気持ちはやまやまだったろう、という推測ともあわせて・・・。
「世上、中日問題を論述した論文は非常に多い。両国の政治家、学者が発表した意見も、専門的なもの、一般的なものを問わず、少なくない。ただ、私はここで、あえて断言する。一時の感情や意地、一時のあやまりにとらわれず、国家の終局的な利害を考えた見解は、きわめて少なく、問題の正面からの認識が、あまりにも不足しているのだ。国際間の多くの悲劇は、すべて一時のわずかな行き違いから生まれながら、永遠にとり返しのつかない禍いとなっているのである。中日両国はさまよい、滅亡への足どりをますます早めている。これを打開し、ひいてはアジア平和の基礎を確立し、世界戦争の危機を免れるためには、なによりもまず、中日問題をまじめに検討しなくてはならない。率直で赤裸々な批判と反省が必要なのである」
「まず私かいいたいのは、理を知る中国人はすべて、究極的には日本人を敵としてはならないということを知っているし、中国は日本と手を携える必要があることを知っていることである。これは世界の大勢と中日両国の過去、現在、そして将来(もし共倒れにならなければであるが・・・)を徹底的に検討したうえでの結論である。私は日本入のなかにも同様の見解を抱く者は少なくないと思う。だが、今日までのところ、難局を打開し、両国の関係を改善する兆候はないばかりか、前途をみても一点の光明もない。ずるずると、行き当たりばったりに、自然のなりゆきにまかせられているのである」
蒋介石はこのような日中関係についての基本認識のもとに、当時の日本の置かれた情況について次のような透徹した認識を示しています。
「日本の中国にたいする関係を論じるには、必ず対ソ、対米(そして対英)という錯綜した関係と関連して論じなければならない。一方において、日本はその大陸政策および太平洋を独覇しようという理想を遂行し、強敵を打倒し、東亜を統一しようと望んでいるため、ソ連と米国の嫉視を引き起こしている。その一方では、日本当局は、満蒙を取らなければ日本の国防安全上の脅威は除去できないなどと言って、国民をあざむいている。換言すれば、対ソ戦、対米戦に備えるため、満蒙を政略経営しなければならない、というのである。
「われわれはいま純粋に客観的な態度で、日本にかわってこのことを考えてみよう。現在、日本が東に向かって米国とことを構えようとすれば、中国は日本の背面にあたる。もし日本が北へ向かってソ連と開戦しようとすれば、中国は日本の側面となる。このため、日本が対米、対ソの戦争を準備しようというのならば、背側面の心配を取り除かなければ、勝利をつかめないどころか、開戦さえ不可能である。
この背側面の心配を除去する方法は本来二通りある。一つは力によって、この隣国(中国)を完全に制圧し、憂いをなくすことであり、もう一つの方法は側背面の隣国と協調関係を結ぶことである。しかし、いま日本人は中国と協調の関係によって提携しようとはしていない。日本は明らかに武力によって中国を制圧しようとしている。だが、日本は中国を制圧する目的を本当に達成できるのだろうか?」
「日本がもし、何らかの理由によって中国と正式に戦争をするとしよう。中国の武力は日本に及ばず、必ず大きな犠牲を受けることは中国人の認めるところである。だが、日本の困難もまたここにある。中国に力量がないというこの点こそ、実は軽視できない力量のありかなのである。
戦争が始まった場合、勢力の同等な国家ならば決戦によって戦事が終結する。しかし、兵力が絶対的に違う国家、たとえば日本対中国の戦争では、いわゆる決定的な決戦というものはない。日本は中国の土地をすみからすみまで占領し、徹底的に中国を消滅しつくさない限り、戦事を終結させることはできない。
また、二つの国の戦争では、ふつう政治的中心の占領が重要となるが、中国との戦争では、武力で首都を占領しても、中国の死命を制することはできない。日本はせいぜい、中国の若干の交通便利な都市と重要な港湾を占領できるにすぎず、四千五百万平方里の中国全土を占領しつくすことはできない。中国の重要都市と港湾がすべて占領されたとき、たしかに中国は苦境におちいり、犠牲を余儀なくされよう。しかし、日本は、それでもなお中国の存在を完全に消滅することはできない」
このように日本の軍部の中国武力制圧方針の誤りを指摘した後、蒋介石は、それまでの中国側のおかした対日外交のあやまりについて次のように率直な反省をしています。
一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。
二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。
三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。
四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。
五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。
六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。
七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。
もちろん、中国のあやまりにくらべれば、日本側のそれは、はるかに多い。日本の根本的なあやまりは、中国に対する認識にある。日本は、その根本的なあやまりに気づかず、あやまりの上に、あやまりを重ねることになってしまった。
日本側には、次の五つのあやまりがある。
一、革命期にある中国の国情に対する認識の誤り。中国は現在革命期にあり、主義が普及し最高指導者が健在で民衆が一致してこれを支持している。日本はこうした中国の国情に対する認識をあやまっている。
二、歴史と時代に対する認識のあやまり。明治時代、日本の台湾、朝鮮併合に痛痒を感じなかった中国国民も今日民族意識を備えており、東北四省が占領されたことを知っている。日本の武力がいかに強くても、この十分に民族意識に民族意識を備えた国民を、ことごとく取り除くことはできない。
三、国民党に対する認識の誤り。日本は中国国民党を排日の中心勢力とし、これを打倒しなければ駐日問題は解決しないと考えている。しかし日中両国間の唇歯相依の関係を説いているのは国民党である。
四、中国の人物に対する認識のあやまり。日本が武力によって中国に脅威を与え、(蒋介石を)屈服させようとしても、その目的は達せられない。
五、中国国民の心理に対する認識のあやまり。中国には百世不変の仇恨の観念はない。今日本は中国の領土を占領し中国の感情と尊厳を傷つけている。日本がこうした領土侵略の行動を放棄すれば、どうして同州同種の日本と友人になることを願わないだろうか。
日本はこの五つのあやまりのほか三つの外交上のあやまりがある。
1 国際連盟を脱退したこと。
2 アジア・モンロー主義を唱えて世界を敵に回したこと。
3 自ら作り出した危機意識にとらわれていること。
以上のような認識を踏まえて、日本がまず認識すべきことは、
第一に、独立の中国があって初めて東亜人の東亜があるということである。日本は徹底的に中国の真の独立を助けて、初めて国家百年の計が立つ。
第二に、知るべきは時代の変遷である。明治当時の政策は今の中国には適用できない。武力を放棄し文化協力に力を入れ、領土侵略を放棄して相互利益のための経済提携をはかり、政治的制覇の企図をすて、道議と感情によって中国と結ぶべきである。
第三に、中国問題の解決に必要なものは、ただ日本の考え方の転換だけであるということである。
以上、誠にお見事というほかありません。
ところで、この内支那側の反省を見ると、満州問題の処理をあやまったということが中心をなしていますが、それはいうまでもなく支那側の拙速な革命外交によって幣原外交の日本における存立基盤を破壊してしまったことに対する、蒋介石の痛切な反省がベースになってように私には思われます。実は、こうした中国外交のあやまりをつとに指摘していたのが幣原自身で、幣原平和財団が発行した『幣原喜重郎』には、政治評論家馬場恒吾による「幣原外交の本質」と題する次のような一文が掲載されています。
「昭和七年十一月支那に開係ある日本人が幣原を訪ねて云ふには、自分はこれから支那に行って支那の要人に會ふ積りだ。満洲事変の起った当時の外務大臣として、幣原は支那人に云ふべきことがあるかと云った。
幣原は答へて、大にある。支那の要人に會ったら、幣原は彼の阿房さ加減に呆れていると云って呉れ、其の理由は前年九月十八日に満洲事変が突発した。そのころ財政部長宋子文からの非公式の話しとして、支那は満洲事変に関して日本に直接交渉を開き度いと云ふ意向がある、と云ふ報道が来た。幣原は外務大臣としてそれに応じてもよいと返事した。 所が其後何の音沙汰もない。
越えて十月八日幣原は東京駐在の支那公使に向って、日本は直接交渉を開く用意があると云ふ公式通牒を発したのである。かうした通牒を出すに『幣原は命がけの決心をしていた。直接交渉に依って、日本は正常の権益を収める。しかし、同時にこれ以上満洲事変の拡大することを抑へるといふことは当時の情勢では幣原は一身を賭してなさなければならぬことであった。若しあのとき、支那の要人が幣原の誘ひに乗って満洲問題の満足な解決を与えたならば、支那は共後の汎べての戦禍を免れたであらう。それをしなかった支那要人の阿房さに呆れるといふのであった。
幣原を訪ねた人はそれは過去の事だが、今後の支那に對する忠告はないかと問ふた。幣原は答へて、今日支那は満州国の独立を認めぬとか云って、國際聯盟あたりで運動しているが、それが又愚の骨頂だ。満州国の独立は現実の存在になっている。その独立を取り消さうなどということは理論の遊戯として面白いかも知れぬが、国際政治の領域のものでない。実際政治家の要は、この現実此の事実に立脚して如何に善処するかを講究するにある。支那の出方一つで、満洲國の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから、本家と分家の関係位に見て居ればよい。
例へば加奈陀は英國から実際的には殆んど独立している。各回へ公使を出したり、國際聯盟へも代表者を出している。併し重大問題になると、其國の不利益になるやうな事はしない。満洲が独立国になった所で、支那の出様さへよければ、本家分家程度の人情があって支那の害にはならず、却って支那の利益になる。それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れないと。」
* なお、この記述は、幣原のなした会話の伝聞記録なので、幣原が言いたかったことをどの程度正確に反映しているのか判りません。ただ、氏のそれまでの主張との整合性を考えると、おそらく、これは必ずしも満州国の独立を承認せよといっているわけではなくて、そのポイントは「此の事実に立脚して如何に善処するかを講究」すべき、という点に置かれているような気がします。そう考えれば、この時の蒋介石の提案はその善処策の一つと見ることができます。
おそらくこの後段の幣原の提案に対する蒋介石の回答が、「敵か友か?中日関係の検討」以降の広田外相との日中親善をめざす外交交渉になったのではないかと私は思っています。(以下追記3/30)この時の駐華日本大使は有吉明で、国民政府の対日態度が一大転換をしたことについて、これは日本にとって千載一遇の好機であるが、これに対して外務省は何をもって応えようとしているのか、と問うています。南京政府が「邦交敦睦令」や「排日禁止令」で誠意を示しているのに、外務省のは華北問題につき軍部の若手強硬派を説得する勇気も矜持も持っていないのか、と怒りを露わにしています。
しかし、この頃の日本の政治体制は、あたかも一国二政府のごとき変態を呈していて、日本の支那駐屯軍は、政府の日中親善を目指す外交交渉を妨害するため、あえて、梅津・何応欽協定を嚆矢とする華北分治工作を推し進めました。しかも、それに対する政府の干渉を統帥権を盾に排除する姿勢を示しましたので、その説得は極めて困難でした。私は前稿で、満州事変のもたらした二つの難問の一つとして、「関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなった」ことを指摘しましたが、この時の支那駐屯軍による華北分治工作こそ、日本に中国との全面戦争を運命づけるポイント・オブ・ノーリターンとなったのです。 
 
日本近現代史における躓き(つまずき)

 

日本の近現代史、特に明治以降の歴史を一通り勉強していくと、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思わせるいくつかのポイントがあります。前回記したように、明治時代までは、西洋の近代化された科学技術だけでなく、政治制度やその他の法制度にも謙虚に学び、それを日本に取り入れ、かつ模範的に行動しようとする姿勢が濃厚でした。
日本軍についても、「北清事変」におけるその勇敢で規律正しい行動が、西欧諸国の賞賛の的になっています。また、日露戦争では、日本軍の陸戦(遼陽、旅順、奉天)における死闘を経ての勝利、日本海海戦における「信じられないほど」の大勝利が、同盟の相手国であるイギリスだけでなく、アメリカのマスコミにも熱狂的な賞賛の渦を巻き起こしています。
当時の『ワシントンタイムス』は、「日本の勝利は文明・自由・進歩の勝利であるとして、『スラブ人種とアングロサクソン人種は20世紀中に決死の死闘をする、との予言があるが、はたしていまやその一部が実現したと云える。なぜならば日本はアングロ・サクソンの正当な後継者だからである』と評したそうです。
それよりももっとすごいのが、その世界の非白人全体に及ぼした影響です。ネールは『父と子に語る世界歴史』のなかでその感激を次のように語っています。
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。わたしが少年時代、いかに感激したかを、おまえに何度も話したとおりだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国が敗れた。だとすればアジアは、昔しばしばそうしたように、いまでもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムはますますアジアに広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった。」
さらに、日清戦争で日本に敗れた中国の孫文も「日本の勃興以降、白人はアジア人を見下さなくなった。日本の力は日本人自身に一等国の特権を享受させただけでなく、他のアジア人達の国際的地位も向上させた」と述べています。
そして、この日露戦争の結果、清国留学生が日本に殺到するようになり、1905年には、興中会、華興会、光復会の革命三派による中国革命同盟会が東京においてを結成され、その後の中国の反清・反帝国主義、民族主義を掲げる革命的民衆運動をリードしていくことになるのです。
このあたりまでの日本の歴史、またこの間の戦争における日本軍兵士の純粋かつ勇猛果敢な戦いぶりについては、司馬遼太郎や児島襄などの時代小説を読んで感激された方も多いと思います。とはいえ、こうした見方が一般的になったのは、司馬遼太郎の時代小説が書かれて以降のことで、それまでは、第二次世界大戦の反動から、日本の近代史全体を否定的に見る見解が主流をなしていました。
その意味で、司馬遼太郎は、戦後のアメリカ軍による占領政策としての思想言論統制の結果できあがった日本の戦後社会の自閉的言論空間の壁の一角を打ち破り、日本近現代史における明治期までの歴史に、光をあてることにはじめて成功したといえます。
だが、問題はその後です。この日露戦争の勝利は、同時に、白人世界の日本に対する警戒心を呼び起こすことになりますが、それよりなにより、日本がこのように近代化に成功し西欧諸国に肩を並べられるようになったと自負して以降、いわゆる自前の思想で国を動かすことを余儀なくされて以降の日本国の舵取りが、次第に変調を来してくるのです。
その最初の変調、冒頭に述べた”もう少し何とかならなかったのだろうか”と呻かざるを得ない最初のポイントが、1910年の「日韓併合」です。その次が1915年の中国に対する「21箇条要求」、そして最後が、アメリカとの戦争を必然ならしめた日本の「満州支配」です。
最初の「日韓併合」は、戦後60年を経ても今なお消えない朝鮮民族の日本人に対する恨みを背負い込むことになりました。また、「21箇条要求」は、中国にその条約締結日(最終的には13条となり5月9日妥結)を「国恥記念日」とさせただけでなく、ついには泥沼の日中戦争へと発展しました。そして、最後の「満州支配」は、一方で中国との持久戦争を戦いつつ、さらに米英を中心とする連合国との絶望的な戦争に突入することになりました。
こうした結果を見れば、司馬遼太郎ならずとも、この日露戦争以降の日本の歴史に、呪詛の一つも投げつけたくなるのは当然です。
しかし、この間の歴史的経緯を注意深く検討してみると、実は「日韓併合」も「21箇条要求」も日本軍の「満州支配」も、日清・日露戦争における奇跡的勝利がもたらしたものであり、ここで生じた問題を、その後の国際関係の中で適切に処理できなかったことが、その後の日本を泥沼の日中戦争、ひいては地獄の太平洋戦争へと引きずり込む、その基因となっていることに気づくのです。
また、この間の歴史的経緯をさらに詳しく見て行くと、そこには、「東京裁判」が想定したような、満州事変以降の侵略戦争を一貫して計画・開始・遂行した首謀者がいたわけではなく、また、政治家を含む文民と軍部との関係も、必ずしも前者の責任が免除されるものでもなく、また、巷間言われる陸軍悪玉・海軍善玉論もかなりあやしく、さらに、当時のマスコミには、「一部の軍国主義者」よりも遙かに過激な侵略的論調が風靡していました。
これらのことを総合的に考え合わせてみると、むしろ、韓国や中国を同文同種であり価値規範を共有するものと見て一体的に行動すべきことを主張した、いわゆる「アジア主義」思想が、かえって中国や韓国の反発を招いたことや、既成事実の積み重ねで物事を処理しようとする態度が、法規範を重視する国際社会の信用を損なわせたこと、あるいは日本人独自の死生観が、苦闘する戦況の中で甚だしい人命軽視へとつながったことなど、要するに日本人の思想的弱点が、負け戦の中でもろくも露呈したと見た方がいいように思われるのです。 
日韓併合

 

「日本近現代史の躓き1」で、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思う最初のポイントとして「日韓併合」をあげました。最近は韓国ドラマなどを通して韓国人の生き方や考え方を知り、韓国文化に不思議な”なつかしさ”や”あこがれ”を感じる人も多くなっています。また、進んでハングルを勉強する人も増えてきていますので、両国国民の相互理解も、徐々に改善の方向に向かうのではないかと期待されます。
しかし、その場合も、こうした日朝間の過去の歴史をしっかり勉強し、それにまつわる事実関係をしっかり把握しておく必要があるのではないかと思います。なにしろ「日韓併合」というのは1910年から1945年までの36年間、韓国民族の独立を奪い日本民族に同化しようとした歴史であり、それだけに、そこに至った政治的理由やこの間に醸成された韓国人に対する差別意識の根源をしっかり見据えておく必要があるからです。
一般的な「日韓併合」を正当化する理由としては、当時の食うか食われるかの帝国主義的時代環境の下で、韓国はその置かれた地政学的位置の故に、清国、ロシア、日本という三強国間の勢力拡大競争に巻き込まれざるを得なかったこと。また、この間、李氏朝鮮が排外的な小中華思想を脱却できず近代化が立ち後れたために、自らの政治的独立を保持し得ず、結局、日清、日露戦争に勝利した日本に併合されることになった、というものです。
この場合、もし日本が日清、日露戦争に勝たなければ、韓国はもちろん日本もソ連邦の解体までかっての東欧諸国と同様、国家としての自由を奪われていたはずだ、といわれます。また、仮に、日清戦争において清(=中国)が日本に勝利したとすれば、いうまでもなく、沖縄やその周辺諸島は清(=中国)のものとなり、また、韓国も、それまでの清露の力関係から考えてソ連による支配を免れなかったと思います。
となると、日本の立場から言えば、日清、日露戦争を勝ち抜き、韓国を日本の勢力下に置くことに成功した後において、なお、「韓国の独立を保全し、日韓の長期的信頼関係を固めるという選択肢」があったかどうか、ということが問題となります。これに対して岡崎久彦氏は「結論から言えば、可能性はほとんどなかったというほかはない」と次のようにいっています。
まず第一に、「当時の日本としては、ロシアの韓国征服の意図を排除したなどととうてい言いうる状況になかった。ロシアの報復戦の恐れは、帝政ロシアが崩壊するまで、あるいはずっと後でスターリンが揚言したように、日露戦争の復讐が完了する第二次世界大戦の敗戦までつねに日本の頭の上に重く蔽い被さっていた。」
第二に、韓国は、日本との過去の歴史的・文化的関係からして「日本とどんな特殊関係―それが友好関係の名の下でも―を持つことも嫌がり、日本が特殊な地位を主張すればするほど、ロシアかシナに頼ってバランスをとろうとしたであろう。それはまた自主の国の外交として当然である。そうなると、いつまたロシアが甘言と脅迫を持って復帰してくるか分からない。・・・そこまで読み切っていた日本が、日露戦争の戦果をむざむざ捨てることは考えられないことであった。」
「つまり、(秀吉による文禄・慶長の役で植え付けられた恐怖心や、日清戦争後に起きた日本公使三浦梧楼等による「閔妃殺害事件」などの)過去の歴史のために、韓国側は猜疑心の下に隠微な抵抗を続け、日本はこれを押さえつけるためにますます脅迫と強引な行動に訴えてさらに韓国人の信頼を失うという悪循環が、そのまままっしぐらに併合の悲劇へと進む勢いとなっていたとしか言いようがない。」というのです。
しかし、そうした状況下にあっても「日本にとって取りえたせめてもの最善の措置は、同化政策などは厳しく自制して、・・・不良日本人の流入を禁止し、韓国内における韓国人の土地や権利を尊重することだった。それでも怨恨と抑圧の悪循環を完全に中断し得たかどうかは分からないが、・・・一般国民や知識層の一部から真の支持が得られる可能性は十分あった。もしそうなっていれば、伊藤(博文)が当初意図していたような保護国統治にとどまり、韓国はエジプトやモロッコなどのように、民族の自治を守りつつ、植民地解放の時代を待つことができたであろう。」といっています。
実際、伊藤博文は、1906年1月初代統監として赴任する前に新聞記者に対して、次のような抱負を語っています。
「従来、韓国におけるわが国民の挙動は大いに非難すべきものがあった。韓国人民に対するや実に陵辱を極め、韓国人民をして、ついに涙を呑んでこれに屈服するのやむなきに至らしめた。・・・かくのごとき非道の挙動はわが国民の態度としてもっとも慎まなければならないところである。・・・韓国人民をして外は屈従を粧い、内に我を怨恨する情に堪えざらしめ、その結果ついに日韓今日の関係に累を及ぼすがごときがあったならば誠に遺憾とするところである。・・・かくのごとき不良の輩は十分に取り締まる所存である。」
(伊藤は統監という危険な職を引き受けるとき、韓国駐屯の日本軍の指揮権を統監に与えることを条件とした。軍の統帥権を盾にとった横暴を押さえようとしたのである。)
「しかし、(その)伊藤の権威を持ってしても、下が小村(寿太郎)のような考え(なるべく多くの本邦人を韓国内に移植し、我が実力の根底を深くするというような考え方)ではこの大勢は止めようがなかった。」
また、伊藤は、併合に反対し、何とか保護国統治に留めようと努力しています。「併合ははなはだ厄介である。韓国は自治せねばならない。しかし日本の指導監督がなければ健全な自治を遂げることはできぬ」(1907年7月ソウルでの公演)「古は人の国を滅ぼしてその国土を奪うことをもって英雄豪傑の目的のごとく考えたものであるが、いまはそうではない。・・・弱国は強国の妨害物である。従って今の強国は弱国を富強に赴かしめ、ともに力を合わして、各々その方面を守らんと努めるのである」
しかし、その伊藤博文も、韓国民の保護国化そのものに対する抵抗運動を抑えることができず(明治40年は323件、翌年には1451件と反乱討伐が5倍に増え)、ついに韓国併合のやむなきことを認めるに至ります。そして、1909年10月、統監の職を降りた後、満州問題についてロシア蔵相ココフツォーフと話し合うためハルピンに立ち寄った時、安重根の凶弾に倒れるのです。
その安重根は、公判の席で次のように、伊藤公暗殺の動機を語っています。
「日露戦争の時(日清戦争の時の誤り=筆者)日本天皇陛下の宣戦詔勅には東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にならしむるということから、韓国人は大いに信頼して日本と共に東洋に立たんことを希望して居った。しかるに伊藤公の政策が当を得なかったために、(義兵が大いに起こり)・・・今日迄の間に虐殺された韓国民は十万以上(*)と思います。・・・伊藤は奸雄であります。天皇陛下に対して、韓国の保護は日に月に進みつつあるというように欺いているその罪悪に対して、韓国人民は尠なからず伊藤を憎んでこれを亡きものにしようという敵愾心を起こしたのであります。」
*1907年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降1910年末までの反日義兵運動による義兵側の死者は17,688名、負傷者3,800名に上る。(『朝鮮暴徒討伐誌』朝鮮駐箚軍司令部編)
伊藤は凶弾を受けたとき「やられた」と一言を発し、「相手は誰だ」と問い、犯人は韓国人であってすでに逮捕せられたことを知らされるや「馬鹿な奴だ」といってしばらく呻吟したのち、目を閉じたといいます。そもそも、伊藤は、維新以来4度も総理を勤めた元勲であり、統監という困難な職を引き受けることはなかったのですが、自らは、先に紹介したように、韓国の自治と近代化を推し進め得るのは自分しかいないとの自負も持っていたのではないでしょうか。(なお、伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くあります。)
ともあれ、安重根公判におけるこの言葉を聞くと、意外にも彼は、日本の力を借りて独立を達成しようとした金玉均や朴泳孝と同様の考え方を持っていたのではないかということが推測されます。彼らはその後、日本の政策によって裏切られることになるわけですが、「その挙措進退は、ある場合には血気にはやって暴走したことがあっても、その動機においては、一つ一つ全く非難する余地のない愛国者で、日本でいえば明治維新の一流の志士達と肩を並べられる立派な人たちなのですということもできます。」
従って、「もし日本が、韓国の独立と近代化を一貫して支持し、その政策の枠の中で金玉均や朴泳孝(あるいは金玉均)などという立派な人々をもりたてていっていれば、元々近代化の大きな流れが韓国の政治の基調になる条件は十分にあったことですから、韓国の民心が一変して、従来の清国に対する事大思想から、日本と協力しての近代化する方向に流れた可能性は十分あったと思う」と岡崎久彦氏はいっています。
一方、この問題に対して、韓国人である呉善花氏は「李朝―韓国の積極的な改革を推進しなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自の独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった」といい、「韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった」と指摘しています。
また、朝鮮と同じように日本による総督府統治を受けた台湾の金美齢氏は「台湾人と朝鮮人が親日と反日に別れたのは、日本の統治政策の差というよりも、それぞれの民族がたどった歴史の違いや、民族固有のメンタリティの違いに原因があるようだ。もし統治政策の差を云々するのであれば、客観的に見て、植民地としては朝鮮の方が台湾よりも一段と格の高い処遇を受けていた(例えば京城大学は併合後14年で創立、台北大学は領有後33年。台湾統治の方が15年も先だったのに、徴兵施行は後まわし、朝鮮人は陸士入学を認められていたが、台湾人はダメ、などなど)」と述べています。
おそらく、台湾と同様、韓国における総督府統治においても、近代化のための経済的・社会的インフラの整備という面では、相当の成果があったことは間違いありません。しかし、帝国主義の時代、日本の安全と独立を守るためには、韓国をその勢力下に置くことが韓国の実情からして避けられなかったとしても、この時代のアジアの植民地主義からの解放・独立、そのための近代化という旗印を、当時、日本は世界に先駆けて持っていたのですから、それを見失わない限り、帝国主義的領土拡張の落とし穴に陥らずに済んだのではないかと思います。
だが、残念ながら日本人は、日清、日露の戦勝に奢って、この旗印を見失ってしましました。韓国の場合はその厄災を韓国人が堪え忍びました。しかし、中国人はついに反抗に立ち上がりました。日中戦争は昭和12年7月7日の廬溝橋事件を発火点としますが、8月13日の上海事変も含めて、それは中国の抗日戦の決意によって進められ、泥沼の持久戦へと発展していくのです。そして、遂に日本は、ファシズム国家と同盟を結ぶことによって、自由と民主主義の敵という烙印を押されることになります。
この間の歴史的経緯を詳しく点検して行くと、確かに、日中戦争も太平洋戦争も中国やアメリカの挑発を受け引きずり込まれた、と言はざるを得ないような局面がしばしばでてきます。しかし、そのもともとの原因をただせば、こんな訳の分からない、勝つ見込みの全くない戦争に引き込まれたのも、日清、日露の奇跡的(あるいは幸運)な勝利に奢り、欲に目がくらみ、そのために、先ほどの旗印を見失い、さらに自分自身をも見失った結果であり、その責任を他に転嫁することは決してできないということが判ってきます。 
岡崎久彦と山本七平の符合

 

「日本近現代史の躓き」では、主として岡崎久彦の著作を参考にしています。特に日本近現代史「その時代シリーズ」5巻本―『陸奥宗光とその時代』、『小村寿太郎とその時代』、『幣原喜重郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』はこの期に活躍した外交官から見た近現代史ですが、大変面白く、ようやく納得のできる近現代史本に出会えたという感じがしました。
岡崎氏は、『明治の教訓、日本の気骨』という本の中で、明治期に活躍した人物評をめぐって渡部昇一氏と対談をしていますが、その末尾で、歴史の見方について渡部氏の見方を批判して、次のような興味深い見解を述べています。
まず、渡部氏は、歴史の見方はそれぞれの立場によって異なる。従って、まず、自分の立場を主張すべきである。その上で相手の立場に理解を示すというのならわかるが、戦後は、日本の言い分は教えないで、アメリカやシナやコリアの言い分だけを教えた。もちろん、自国の歴史にも反省すべき点はあるが、それは国内で議論すべきことであり、国際的に言う話ではない。」(氏はそういう観点から数多くの著作をものしています。)
これに対して岡崎氏は、「渡部さんの議論を引き継いで若干批判するとすれば、日本の立場とかアメリカの立場と言っただけで、もう歴史判断は偏ってしまいます。だから日本を論じる場合はまるでアメリカを論じるごとく論じて、アメリカを論じる場合は日本を論じるがごとく論じることが必要なんです。極端に言えば、火星人が見ているような形で論じないと歴史というのは読み間違えてしまう。」と反論しています。
つまり、「歴史というのは公正客観的であるという基準以外はあり得ない」。なぜそう考えるかというと―氏はもともと外交官でしたから―国政情勢をいかに誤りなく正確に判断するかが問われる。そして、そのためには事実をできるだけ客観的に見る必要がある。つまり、歴史というのは、そうした事実関係をできるだけ公正客観的な記録することであり、渡部氏が言うように「歴史観」を介在させるべきでないと言うのです。
そして、以上のように、歴史を、事実関係の(できるだけ)公正客観的な記録として把握した上で、「政策論として自国の利益を主張すべき」である。しかし、そうなると「日本の利益だけが得られれば戦争をしてもいいのか」というはなしになる。「それに対する唯一の反論は予定調和」という考え方で、「それぞれの国が自分の利益だけを全部主張すると一番いい世界ができる」という考え方をする。
また、「ただ、そこで日本の利益だけを考えていればいいのか」という疑問が出てくるが、それについては、エンライトゥンド・セルフインタレスト(世界が平和になれば、それが日本の国益にかなう、というより広い観点から国益を考えること)という考え方も必要になってくるが、世界政府ができて世界の平和が保たれるようになるまでは、それぞれの国がそれぞれの利益を守ることを第一にせざるを得ない。
つまり、「歴史」と「国益」とを区別し、前者はできるだけ公正客観的に、後者は「自国の国益を優先する立場」で論じるべきだ、と言っているのです。従って、それぞれの時代に生きた歴史的人物を評価しようとするときは、その時代の客観的な歴史的条件の中で、どれだけ日本の「国益」を守ったか、という基準で計るべきである。従って、人物の評価は、その次代の歴史的事実を離れて行うことはできないと言うのです。
では、こうした考え方に立って日本の近現代史を見たらどうなるか。冒頭申しましたように、私もそれを大変面白く読み、また心底納得したわけですが、同時に、岡崎氏の見方は、不思議なことにかって山本七平が、25年程前に『1990年の日本』等で提示した見方とほとんど符合していることに気づきました。、おそらく氏の視角が火星人ならぬ「異人的」であったために生じたのだと思いますが・・・。 
岡崎久彦氏の歴史を書く場合の基本的態度は、要するに「特定の価値観、とくに現在われわれの生きている時代だけに特有な、しかもそれが政治の道具になっているような価値観にとらわれることなく、客観的に真実のみを求めることである」ということです。
より具体的にいうと、「現在の概念では帝国主義が悪であることは誰も異論はないが、帝国主義の時代の人を帝国主義者といって非難するのは、中世の人を「中世的」「前近代的」と非難するのと同じで、別に間違いではないが、中世を理解しようという努力にとってマイナスにこそなれ、何のプラスにもならない。」
しかし、「歴史の真実を追究するにあたって一番難しいのは、真実と真実の間の軽重、大小のバランスである。一つ一つの事実は真実であっても、自分の考え方に都合の良い真実だけを集めたのではバランスを失する。一部の事実だけをことさらに強調して歴史の本当の流れを見ていない。あるいは故意に曲解する歴史書が少なくない。」
そこで、岡崎氏がこの「その時代シリーズ」を書くにあたってとった手法は、「草稿を三章ごとにまとめて数名の学識あり洞察力のある歴史の専門家の方々に読んでいただいて、セミナーを開き、『そこまでいえないのではないか』『それにはこういう反対の資料もある』というようなコメントをいただいて、『まあ、そのあたりが本当のところだろう』と言われるまで書き直す」ということでした。
従って、このシリーズの目的は、「すでに多くの優れた学者先生たちによって研究し尽くされている」「そうした正確な事実と事実との間の軽重なバランスを見極めて、最も真実に近い歴史の流れを見いだすことにある。」「その目的を妨げる落とし穴は数多いが、木を見て森を見ないのもそのもっとも戒心すべき落とし穴の一つ」といっています。
といっても、この本を書いた岡崎氏には、その動機となった一つの「思い入れ」がありました。それは「昭和前期に少年時代を過ごした世代として、われわれの父や祖父の世代であるこの時代の当事者たちが、逆らいようのない歴史の流れの中にあって、いかに国民と国家のために真摯に生きてきたかということをできるかぎり正確にありのままに後世に伝えるよう努力してみたい」というものでした。
そして次の言葉は、おそらくこのシリーズを通しての岡崎氏の感想であろうかと思いますが、私もこのシリーズを読み終わって、同じような共感と感慨を新たにすることができました。
「客観的に見て、われわれの父や祖父の世代の人びとはことごとく悲劇の人びとである。日本人としての教育を受けてその矜持と節操を守りつつ、大日本帝国の栄光の中に育ち、また大正デモクラシーの自由をも謳歌しながら、壮年以降戦争の辛酸を嘗め、戦後、それまでその中で生まれ育った社会環境や価値観が足元から崩れ落ちるのを見ながら、誇りを失ったなかで家族の生活を守るために戦わなければならなかった世代である。」
もちろん、こうした共感と感慨を共有し得たとして、ではそこからどういう反省を導き出し有効な対策を立てるかと言うことが問題になります。私は、本稿の表題を「岡崎久彦と山本七平の不思議な符合」としましたが、その意味は、岡崎氏のこの本に述べられた、従来人口に膾炙している見方と異なる部分、例えば「大正デモクラシー」が戦後民主主義のパイロットプラントであるという評価や、「塘沽(タンク−)協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた、とする部分など、山本七平がすでに30年前に指摘していたことを紹介するためでした。
なぜ、山本七平がこのような今日の歴史研究の成果を先取りするような「とらわれない」見方ができたかと言うことですが、それは氏が、日本人的思考法とは別の、もう一つのユダヤ・キリスト教的伝統に基づく「対立概念で物事の実相を把握する」思考法を身につけていたと言うことと、歴史を思想史と見、その「連続の背後にあるものをいかに把握するかがその主題」と考えていたからだと思います。
つまり、歴史を思想(=言葉)の連続、あるいは弁証法的展開(マルクスの歴史観と同じですね)と見る見方です。言うまでもなく岡崎氏も明治以降の歴史をそうした連続性の内にとらえ継承しようとしているのです。その連続性の糸を、氏は、「その時代シリーズ」で取り上げた外交官たちの情報分析と判断の連続の中に見ているのです。同時にそうすることによって、この連続性からはみ出した部分も見えてきます。
では、この連続性から「はみ出した部分」の正体は何か、実は、この部分も含めて、それを日本の歴史つまり思想史の連続性の内にとらえようとしたのが、山本七平でした。
「明治も過去を消そうとした。当時の学生は『われわれには歴史がない』といってベルツを驚かした。戦後も戦前を消そうとした。そしてベルツを驚かした学生が前記の言葉につづけたように『われわれに歴史があるとすれば、消すべき恥ずべき歴史しかない』と考えた。・・・だが、こういう状態、劣等史観やその裏返しの優越史観、万邦無比的な超国家史観やその裏返しの罪悪史観、いわば同根の表と裏のような状態を離れてみれば、われわれは貴重な遺産を継承しているが、同時に欠けた点があることもまた認めねばならない。どの民族の履歴書も完璧なものはあるまい。諸民族の中の一民族である日本人もまた同じであって、貴重な遺産もあれば、欠けた点もあって当然なのである。要はそれを明確に自覚して、遺産はできうる限り活用し、欠けた点を補ってそれを自らの伝統に加え、次代に手わたせばそれでよいのであろう。」 
「21箇条要求」

 

日露戦争後の「日韓併合」に次ぐ「躓き」は、中国の袁世凱政権に対する「21箇条要求」です。その内容が中国人にとってあまりに露骨な帝国主義的要求であったため、この条約妥結日(5月9日受諾)は中国の「国恥記念日」となり、その後の反日運動の基点とされるに至りました。
この「21箇条要求」とは次のような経緯で出されたものです。
1914年7月28日に、欧州において三国同盟国と三国協商国間の戦いとなる第一次世界大戦が勃発しました。この時、苦境に立った協商側のイギリスが日英同盟により日本に参戦を求めてきたことから、日本は6月23日ドイツに対して宣戦布告し、中国におけるドイツの租借地である膠州湾や青島等を占領しました。その後、日本は、これらのドイツ利権の引き渡しとともに、当時の中国の袁世凱政権に対して次のような五号よりなる「21箇条要求」をしました。(1915年1月18日)
第一号は、山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める四ヵ条。
第二号は、旅順・大連租借期限と南満洲・安奉(安東・奉天間)両鉄道の期限の九十九ヵ年延長、南満洲・東部内蒙古での日本人の土地所有権や居住往来営業権、また鉄道建設や顧問招聘に於ける日本の優先権を要求する七ヵ条。
第三号は、漢冶萍公司を適当な機会に日支合弁とすることなどを求める二ヵ条。
第四号は、支那沿岸の港湾や島嶼を他国に割譲せぬことを求める二ヵ条。
第五号は、支那の主権を侵害するとされた七ヵ条の希望(要求ではない)事項で、
  第一条 日本人を政治・軍事顧問として傭聘すること。
  第二条 日本の病院・寺院・学校に土地所有権を認めること。
  第三条 必要の地方で警察を日支合同とす ること。
  第四条 日本に一定数量の兵器の供給を求めるか支那に日支合弁の兵器廠を設立すること。
  第五条 南支での鉄道敷設権を日本に与へること。
  第六条 福建首の鉄道鉱山港湾に関する優先権を日本に与えること。
  第七条 支那での日本人の布教権を認めること。
問題は、特にこの第五号にありました。日本は、これは要求ではなく希望条項としていましたが、同盟国である英国にはこの部分を除いて事前に通報していました。しかしこれが漏れ、また、それがあたかも中国の保護国化をめざすような内容になっていたため、中国全土は激昂して反日運動が広がりました。
問題は、なぜこのような、中国を半植民地化するような天下の非難を浴びるに決まっている要求を付け加えたのかということですが、結局、「陸軍の単純強引な強行突破、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大風呂敷、これに迎合した外務省(元老を排した中堅外務官僚が作成)」の責任というほかありません。
結果としては、英国、アメリカからの強い反対もあり、この第五号を除いて、5月7日に最後通牒を発し5月9日に中国側に受諾させました。が、この最後通牒というのも、あたかも呑まなければ戦争を仕掛けるぞと脅しているようなもので、内外からごうごうたる非難を浴びました。一説では、これは袁世凱から頼まれたものだともいいますが、そのことによる非難は日本が一身に浴びるわけで、これも「21箇条要求」に輪をかけた拙劣というほかありません。
原敬は当時の議会における大隈内閣弾劾演説で次のように批判しています。
「欧州の大乱で各国は東洋に手を出すことができない。この時に日本が野心を逞しくして何かするのではないかということはどの国でも考えることである。今回の拙劣な威嚇的なやり方はこうした猜疑の念を深くさせるものである。また中国内の官民の反感も買っている。もともと満蒙における日本の優越権は、中国も列強も認めている。山東も日独が戦争した以上当然の結果である。こんなことは、今回のような騒ぎを起こして世界を聳動させずとも、目支親善の道を尽せば談笑の間にもできたことである。世間はこの外交の失態をはなはだ遺憾に感じている。要するに今回の事件は親善なるべき支那の反感を買い、また親密なるべき列国の誤解を招いた。」 
この原敬の批判にあるように、この「21箇条要求」を基点として、中国の反日運動が激化することになります。また、この「21箇条要求」は当時中国や列強にどのように受けとられていたかという事について、かってイザヤ・ベンダサンは次のように指摘していました。
「日本はまず日露戦争でロシアの利権(遼東半島租借権、長春―旅順間東清鉄道の譲渡等)を継承したが、この際中国は全く無視され、継承の事後承諾を承認させられるにとどまった。そして第一次大戦でドイツの利権(膠州湾租借権と山東省内の鉄道敷設権)を継承したが、このときは、中国政府無視は不可能であった。というのは、ロシアの関東州租借権の期限はその設定から二十五年である。日本はこれの延長に、継承したドイツの利権を利用しようとした。すなわち将来一定の条件下に膠州湾を中国に返還することを条件に、関東州の租借期限をロシアによる設定後九十九年まで延長することが交渉の主眼であったと思われる。
日本は自己の提案の重要性を何ら意識していなかったように見える。それはこの提案は、日本が継承者としてでなく、新たな当事国として、中国に、差引き七十四年の利権の設定を新規に要求しているに等しいからである。しかも中国は第一次大戦においては、日本の同盟国(1917年8月14日にドイツに宣戦布告)であり、ドイツの利権は日本が干渉しなければ、そのまま中国に帰ったであろう。」
実は、「21箇条要求」の背後には、ベンダサンが指摘していたとおり、「日露戦争でロシアの租借権を引き継いだ遼東半島の租借期限が1923年に切れてしまう」のをなんとかして延長したいという思惑があったのです。日本はすでにイギリスが香港を根拠地としているように、日本の大陸政策の根拠地として遼東半島を整備しつつありました。そのためにこの租借期限を延長する必要があり、そのチャンスをうかがっていたのです。
つまり、この「21箇条要求」の背後には、当時の日本の「満州進出積極論」があったのです。もちろんこの時点では、このように中国に対する帝国主義的進出をしたのは日本だけではなく、英仏米独露も同じような立場にありましたが、満州については日露の特殊範囲という地固めが進んでいました。そして、このような現実に対して、中国人のナショナリズムの高まりがあり、失われた利権(国権)回復運動として高揚していくのです。
結局、これが「反日・侮日」運動へと発展していくのですが、こうした外交当局の失態をカバーし、反日運動の高まりをなんとか修復しようとする外交努力もなされています。実際、それが成功し、その後の日中関係が改善された時期もありました。その立役者が幣原喜重郎で、氏の回顧録「外交五十年」には次のようなワシントン会議(1921年11月〜22年2月)における山東問題についての交渉経過が記録されています。
「中国全権王寵恵氏は声明書を出して、日本攻撃の火蓋を切った。そして21箇条なるものは、その一服だけでも支那を毒殺することができる。それを日本は二一服も盛ったのである。その中国に与えたる苦痛の深刻なることは言語に絶するものがあるといって、アメリカの対日反感をあおった。・・・中国側委員は(中国官民の空気を反映して)山東問題を妥結する意志は初めからなく、いうだけのことをいって、結局は山東会議を決裂してしまおうという肚であったように察せられた。」(この山東問題とは、大正4年に日本政府が、日華両国間にわだかまる懸案を一掃するために中国との間で結んだ「山東に関する条約」並びに「南満州及び東部内蒙古に関する条約」を巡るものです。)
この時幣原喜重郎は腎臓結石で苦しんでいましたが、交渉が決裂寸前となったので、病気をおして交渉に出席し次のように述べました。
「日本は山東省の鉄道その他を、奪い取るようなことをいわれるが、それは違う。買収の額なるものは、パリ講和会議でちゃんと決まっている。日本は相当の額を払うのだから、盗人でも何でもない」。すると、「日本は代償を払うのですか」と質問するから、「パリの講和会議の記録を、よく調べてご覧なさい」「それならば、われわれも誤解していた」。こんな具合で・・・翌日になると、中国側の態度がガラリと変り、会議もぐんぐん進んだ。
「山東問題とは別に、対支21箇条条約問題が、極東委員会のテーブルに残されていた。これを取り上げると、また中国の委員との喧嘩の花が咲くかもしれないというので、長いこと伏せてあった。私は病気がいくらか良くなったので、一つこの厄介物と取り組んでみる決心を決め、委員会に出席してこう発言した。」
「どの国でも他日条約を破るつもりで、自己の意思に反するその条約を締結したことを主張するのは許されない。もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか。私は中国全権がかかる主張を敢てすることを残念に思う。いわゆる二十一箇条条約なるものも、最初提出した日本の要求事項は二十一箇条であっても、交渉中に日本が撤回したものがたくさんある。これが全部調印せられたのではない。また調印批准された条項中でも、満州に日本の顧間を入れるなどということは、日本はいま実行を求めてもおらず、またその意思もない。しかしそれは日本が任意に実行を求めないのである。条約の神聖ということを、中国は認めらるべきである。日本はその決意によって、自らの権利を放棄することは自由であるが、中国はあくまでも条約の神聖を守るべきである」と述べ、私はさらに進んで、今日日本が条約上の権利を実行するの意思なき条項を列挙した。」
そして、このワシントン会議において、わが国は中国の山東省を返還し、満蒙における鉄道と顧問招聘に関する優先権を放棄し、「他日の交渉に譲る」としていた第五号希望条項を全面的に撤回しました。
この後、大正14年に幣原外相は、中国の関税自主権回復を提議する国際会議を提唱し、列国をリードしてその合意案を作成しました。残念ながら、中国の内政不安定で中国代表団が自然消滅したため成立しませんでしたが、「これで中国の対日感情は一変し、中国一般民だけでなく、英国代表はその後対中折衝は中国から一番信頼されている日本に任せるという態度になった」といいます。
しかし、これで、軍の「満州進出積極論」が収まったわけではありません。もちろん、幣原喜重郎は、先に紹介したように国際条約に基づき、両国の信頼関係の確保に努めつつ合理的にこの問題を処理しようと努力したのですが、いわゆる「満州問題」をめぐる日中双方の政治状況は、そうした冷静な交渉による問題解決を不可能にしていきました。 
 
満州問題

 

日本を破滅に導いた満州問題
いままで、日露戦争以降の「躓き」として「日韓併合」と「21箇条要求」について述べてきました。そこで最後の問題が「満州支配」の問題です。結局、この問題の処理がうまくできなかったことから、満州事変が起こり(1931.9.18)、日中戦争となり(廬溝橋事件(1937.7.7)、さらに、対米英戦争(真珠湾攻撃1941.12.8)、ソ連の対日参戦(1945.8.9)、ポツダム宣言受諾(1945.8.10)となるのです。(8月15日は終戦の詔勅発表の日)
ここで、この間の人的被害がどれほどのものであったか、概略見ておきたいと思います。ただし、日本や米英の被害者数についてはかなり正確な統計が残されていますが、中国人の「死者数及び死傷者数については詳細な調査は不可能であり、中国側の提出する数字の信頼性も不明である。」(wikipedia「15年戦争」)とされています。そこで、ここでは『平凡社世界大百科事典』の「太平洋戦争」の項目の記述を引用しておきます。
「十五年戦争の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名(括弧内筆者注記削除10/28),外地で死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。このうち満州事変と日中戦争(s12〜16=筆者)における死者はそれぞれ約4000名と約18万9000名であったから,太平洋戦争の犠牲者がいかに多かったかがわかるであろう。しかも特徴的なことは,太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期と言われた1944年10月のレイテ決戦以後に出ているという事実である。
これに対し,中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名が死亡したと言われているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった。」(ちなみに、太平洋戦争における米軍の死傷者は約9万2千人)
また、敗戦後のソ連軍によってシベリアに抑留された日本人は約60万人とされますが、wikipedia「シベリア抑留」の項では、「従来死者は約6万人とされてきたが実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」と説明されています。
これらの数字がいかに桁はずれのものであるかは、日清戦争における日本軍の死傷者数約1万7千人(内死者約1万3千人)、日露戦争の約23万8千人(死者約11万8千人)と比較してみるとよく分かります。また、ここで注目すべきことは、日中戦争(s12〜16)による日本軍の死者数は約18万人ですが、大東亜戦争による死者数は約300万人に達するということ、かつ、その大半は、昭和19年10月のフィリビンのレイテ戦以降に生じているという事実です。また、その多くは戦闘によるものではなく飢餓やマラリア等の病気による死亡、あるいはバーシー海峡などでの米軍潜水艦による兵員輸送船の撃沈による溺死だということです。
*一橋大学名誉教授藤原彰氏によるとアジア太平洋戦における軍人軍属戦死者230万の内約6割140万人が餓死戦病と栄養失調による病死だということです。なお無差別爆撃等による一般市民の死亡は約80万人です。
さて、では、この最後のソ連によるシベリア抑留は論外としても、これだけの甚大な被害をもたらした日中戦争及び太平洋戦争(日本は1941.12.11以降大東亜戦争と呼称)の原因は一体何だったのでしょうか。近年、これをアメリカや中国の挑発とする説が多く聞かれますが、私は、その淵源は、日本の「満州支配」にあったのではないかと思います。前回紹介したように幣原喜重郎は、ここで生じた日中の対立構造を、中国の主権尊重と内政不干渉を基本に、国際規範に則った協調外交によって乗り切ろうとしました。
幣原は、満州事変の直前に次のような自説を開陳しています。「満州に求めるものは領土権ではなく『日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互有効強力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況』の確立であり、『これは少なくとも道義的に当然の要求と考える』」。そして、鉄道については、中国は協定によって満鉄の競争線は敷設しないと保証しているのだから、「かりそめにも日本の鉄道を無価値にするような路線を建設できないことは信義の観点からいっても自明の理である」
つまり、満州問題を、経済・貿易上の問題として処理できると考えていたのです。そうした考えは幣原にはワシントン条約締結時から一貫したものでした。「・・・日本は、また支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図に動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。・・・日本の貿易業者及び実業家は地理上の位置に恵まれ、またシナ人の実際要求については相当知識を有っている」。だから、自由平等な競争ならば日本は勝てるのだから、特権は必要としないのだ」と。
だが、こうした幣原の「自由貿易」を基礎とする満州問題の解決方法は、次第に、その後の国際的な政治・経済環境の変化や、それに対して過激に反応する国内世論の変化に対応できなくなります。このことについて岡崎久彦氏は、幣原が、ワシントン会議でアメリカのウイルソン主義にもとづく理想主義に流され、バランス・オブ・パワーによる平和維持という現実を軽視したことが、日英同盟を失効させることとなり、それが、その後の日本の国際的孤立を招くことになった批判しています。
この間の事情をもう少し説明すると次のようになります。つまり、幣原が信じたワシントン体制下の国際協調主義というのは、アメリカのウイルソン主義に基づくもので、国際秩序の基礎を、民主主義、集団安全保障、民族自決に置くものでした。しかし、当時、各国の置かれた政治・経済・社会状況は、帝国主義の現実や共産革命の成功もあって混沌としており、とても、各々の国益の相違を乗り越えて、こうした原理のもとに国際秩序を維持することはできなかったのです。
そのことは、「民主主義」という考え方一つをとっても、その困難性は容易に想像できます。つまり、これは世論を無視しえなくなるということで、事実、こうした幣原の国際協調外交は、その後の国際状況の変化の中で、「軟弱外交」あるいは「国辱外交」という世論の悪罵にさらされ退陣を余儀なくされます。また、「民族自決」という考え方についても、中国はこうした考え方に立って、いわゆる「革命外交」を推し進め、それまで国際条約で承認された外国の権益一切を否認するようになります。
こうして、満州における特殊権益をめぐる日本と中国の対立は、全く調整不可能なものとなり、ここに新たに「満州の軍事的占領」による問題解決をめざす軍人グループの台頭を見ることになるのです。いわく、満州における日本の権益は、日露戦争における10万を超える日本軍人の生命の犠牲を払ってロシアより得たものであり、それを放棄することは断じてできない、とする考え方です。そして、こうした軍の対支強攻策を世論が熱狂的に支持し、政治の押さえが全く効かないなります。 
幣原外交はなぜ国民の支持を失ったか

 

これまで見てきたように、私も、”ワシントン会議以降、『幣原外交』による「満州問題」の処理ができていたら・・・”と思うわけですが、結果から見ると、いささかこれは楽観的過ぎたのではないかと思います。そもそも、この「満州問題」のポイントは、中国が条約上で認められた日本の満州ににおける既得権益を組織的に侵害しているというものでした。こうした考え方の背後には、先に述べたように、日本が日露戦争において膨大な人的犠牲を払ったという思いがあったことは疑いありません。
そして、こうした考え方は、当時の日本の中正穏健な識者たちにも共有されていました。
「たとえシナの民族統一の願望に同情があったとしても、ちゃんと礼儀を守り、懇願してくるのならよいが、とにかく南満州の権利は当然シナに帰属すべきだと言って既存の権利を取りに来るのでは、こちら側に超人的な善意がないかぎり、ああそうですか、といって承認し得ないのは当然である。まして南満州の日本の権利はロシアから譲り受けたものであって、英国、フランスのように直接中学から奪取したものではない」
そして、幣原喜重郎は、この問題を、ワシントン会議で確認されたウィルソン的理想主義に基づく国際的法規範の枠組みの中で処理しようとしたのです。それは中国の領土保全を約束した九カ国条約においても、その第1条第4項で、「友好国の臣民または人民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため、中国における情勢を利用すること、およびこれら友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えること」と規定し、これを列強の中国における既得権を侵されない保証としていたのです。
また、幣原は、1922年2月2日極東総委員会において次のように中国の態度を非難しています。
「支那が自由なる主権国として締結したる国際的約定を廃棄せしむが為、厳にとらむとする手段については、同意を表するを得ざるものなり〔中略〕(しかし)何国と雖も、領土権其他重大なる権利の譲渡を容易に承諾するものに非ざることは言を俟たず。若し条約に依り厳然許与せられたる権利が、許与者の自由意志に出でざりしとの理由を以て、何時にてもこれをこれを廃棄し得べきものとするの原則を一旦承認せられむか、これ亜細亜、欧羅巴其他至る処に於ける現存国際関係の安定に、重大なる影響を及ぼすべき極めて危険なる先例を開くものなり。」
おそらく、このあたりまでは、こうした日本の言い分は十分説得力を持っていたのではないかと思います。幣原は、ワシントン会議が終わる直前の会議で「日本は条理と公正と名誉とに抵触せざる限り、できうるだけの譲歩をシナに与えた。日本はそれを残念だと思わない。日本はその提供した犠牲が、国際的友情及び好意の大義に照らして無益になるまいという考えの下に欣んでいるのである」とその中国に対する「思いやり」の心境を吐露しています。
そして、幣原は、こうした考え方に立って、その後、約10年間(田中義一内閣の時を除いて)、いわゆる「新外交」と称する「幣原外交」を押し進めていくのです。しかし、こういった幣原の理想主義は、次に述べるような内外情勢の変化の中で、次第に国民に対する説得力を失っていきます。その一方で、その抜本的解決を軍に求める空気が次第に醸成されていきます。そこで登場したのが石原完爾という預言者(日蓮宗徒)的人物で、彼は、幣原とは全くその質を異にする国際関係のパラダイム(西洋の覇道文明と東洋の王道文明が最終戦争を争うというもの)を提供し、そのための抜本解決策を立案します。
こうした石原の考えは一見荒唐無稽なもののように見えますが、必ずしもそうではありません。「彼はまず日露戦争の勝利に疑問を持ち、もしロシアがもう少し戦争を続けていたならば日本の勝利は危うかった」点に着目し、またナポレオン戦史を研究して、勝敗の鍵は膨大な資源を要する持久戦に勝てるかどうかである、と考えました。そして、戦争は先に述べたように第一次世界大戦で終わるものではなく、最終戦争を控えている。そして、それに勝つためには、まず、満州を北満州まで押さえてロシアに対する防衛を固め、さらに満蒙、朝鮮、日本の資源を動員してアメリカの大戦(持久戦)に備えるべき、としました。
また、彼が満州事変を起こした昭和6年当時は、「ソ連は第一次五カ年計画が未達成であり、外に力を用いる余力はなく、石原はこれを絶好のチャンスと考えた。また、アメリカは大恐慌の最中で外の争いにかかわる余裕はなく、蒋介石は大規模な掃共作戦に従事中であり、張学良は主力を北京周辺に集めていた」こうして石原完爾は、昭和3年に関東軍参謀として赴任して以降、満州占領のための作戦、占領後の具体的計画案まで緻密に練り上げ、これを実施に移すタイミングを計っていたのです。
もちろん、こうした破天荒な計画が、軍はもちろん一般国民の支持を受けるようになるまでには、次に述べるような、いわゆるワシントン会議で確認された国際協調路線を根底から覆す国際情勢の変化があります。が、この間の最大の問題は、私は、やはり当時の日本人の思想・心情にあったのではないかと思います。確かに、このあたりは運命的としかいえない部分があるのですが、事実の問題として、その後の軍のテロリズムを支持し、国際社会の支持を失わせる道を選択したのはマスコミを含めた国民自身だったからです
この点、満州事変が柳条湖における満鉄線路爆破という謀略で始まった事は、そうした行動に出ざるを得ない中国側の「挑発」があったにせよ、「国際法上」言い訳のできない致命的な瑕疵となりました。また、こうした(「国際法」無視の)考え方が当時の軍を支配していたことは、この3年前に起こった張作霖爆殺事件における軍の対応を見ればよくわかります。軍は、この事件(当時、満州の支配者であり北京政府大元帥の地位にあった張作霖を奉天郊外で列車ごと爆殺した。)の実行犯河本大作(大佐)を徹底してかばい、周辺鉄道の警備不備という行政処分ですましたばかりか、その4年後の昭和7年には満鉄理事の要職に任命しているのです。
ここに、「尊皇愛国の純粋な動機でありさえすれば何をしてもかまわない」という、恐るべき法秩序無視、下剋上的思想傾向が、当時の軍を支配していたことに気づきます。そして、こうした思想傾向は何も軍だけに特有なものではなく、国民一般の心情にも根強く支えられており、これが軍部独裁を生み、昭和の激動期を迎えてその後の日本の選択を狂わせていくのです。一体、これはどうした事か。なぜ大正デモクラシーという政党政治が花開いた直後に、こうした過激思想の急展開が起こったのか。実はここに昭和史の謎が隠されているのです。 
幣原外交から自主外交への転換

 

前回、満州問題の処理をめぐる国民の意識の変化、つまり国際協調主義を基本とした幣原外交による問題解決方法から、石原完爾ら陸軍首脳による満州占領という問題解決方法に、なぜ急激にシフトしていったか。これが、日本近現代史の悲劇を考える上で最も重要なポイントだと申しました。この原因を、軍(この場合は陸軍ですが)の「帝国主義」に求めるだけで済むならことは簡単です。もし、そうなら、そうした軍の独走を許すことになったその原因を突き止めさえすればよいからです。
こうして、その原因とされてきたものが、軍の「統帥権」や「軍部大臣現役武官制」の問題です。また、明治憲法には内閣や首相の規定がなく、組閣の大命降下を受けた人が総理大臣となるが、国務大臣の任命権は持たなかったという明治憲法の欠陥も指摘されます。(『日本史から見た日本人 昭和編』渡部昇一)確かに、その後の軍部の専横には目に余るものがありますから、こうした指摘は当然ですが、より重要なことは、当時の大多数の国民が、こうした軍部の考え方や行動を支持したということです。この事実を閑却すべきではありません。
では、一体なぜ当時の日本人は、そんなに満州にこだわったのでしょうか。もし、この問題を、幣原が主張したように経済合理的に処理できていたら、日中戦争も対米英戦争もしなくて済んだはずです。それがどうして武力による満州占領、そして満州国の独立へと進んでいったのでしょうか。再びいいますが、こうした考え方が、当時の軍人だけの妄想で終わっていればことは簡単です。だが事実はそうではなかった。当時の日本人のほとんどがこれを熱烈に支持したのです。
次の文章は、1933年2月14日に発表された、国際連盟による満州事変に関する調査報告書、いわゆる「リットン報告書」からの引用ですが、以上提示した疑問についての、客観的かつ周到な考察がなされていますので紹介します。実は、日本は、この「報告書」に反発して、その後国連を脱退することになるのですが、これは決して日本批判に終始したものではない、ということにご注目下さい。
(第三章一節)
満洲における日本の利益、日露戦争より生じた感情
満洲における日本の権益は、諸外国のそれとは性質も程度もまったく違う。一九〇四から五年にかけて、奉天や遼陽といった満鉄沿線の地、あるいは鴨緑江や遼東半島など、満洲の礦野で戦われたロシアとの大戦争の記憶は、すべての日本人の脳裡に深く刻み込まれている。日本人にとって対露戦争とは、ロシアの侵略の脅威に対する自衛戦争、生死を賭けた戦いとして永久に記憶され、この一戦で十万人の将兵を失い、二十億円の国費を費したという事実は、口本人にこの犠牲をけっして無駄にしてはならないという決心をさせた。
しかも満洲における日本の権益の源泉は、日露戦争の十年前に発している。一八九四年から五年にかけて、主として朝鮮問題に端を発した日清戦争は大部分、旅順や満洲の礦野で戦われ、下関で調印された講和条約によって遼島半島は完全に日本に割譲されたのである。それに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の放棄を強制してきた〔三国干渉〕が、日本人にすれば、戦勝の結果、日本が満洲のこの部分〔遼東半島〕を獲得し、これによって日本が同地方に得た特殊権益はいまなお存続しているという確信に変りはない。
満洲における日本の戦略上の利益
満洲はしばしば「日本の生命線」といわれる。満洲は、現在日本の領上である朝鮮に境を接している。シナ四億の民衆がひとたび統一され強力になって、目本に敵意をもって満洲や東アジア一帯に勢力を仲ばす日を想像することは、多くの日本人の平安を乱すことになる。だが、日本人が国家存続の脅威や自衛の必要を語るとき、彼らがイメージしているのはロシアであって、シナではない。
したがって満洲における日本の利益のなかで根本的なのは同地方の戦略的重要性だ。日本人のなかには「ソ連からの攻撃に備えるために満洲に堅い防御線を築く必要がある」と考えるものがいる。彼らは、朝鮮人の不平分子が沿海州にいるロシアの共産主義者と連携して、将来、ロシア軍の侵入を誘導したり、それに協力したりすることをつねにおそれている。
彼らは満洲をソ連やシナとの緩衝地帯と認めている。とりわけ日本の陸軍軍人は、ロシアとのシナとの協定によって満鉄沿線に数千人の守備兵を駐屯させる権利を得たものの、これは日露戦争における莫大な犠牲の代償としては少なすぎるし、北方からの攻撃の可能性に対する安全保障としても貧弱にすぎると考えている。
満洲における日本の「特殊地位」
日本人の愛国心、国防の絶対的必要性、条約上の特殊な権利等、すべてが合体して満洲における「特殊地位」の要求を形成している。日本人の懐いている特殊地位の観念は、シナと他の諸国とのあいだの条約や協定中に規定されているものとはまったく違う。日露戦争の遺産としての国民感情、歴史的な連想、あるいは最近の二十五年間における満洲の日本企業の成果に対する誇りは(なかなか捕捉しにくいものであるが)「特殊地位」の要求の現実的な部分を形づくっている。したがって日本政府が外交用語として「特殊地位」という語を使用するとき、その意味は不明瞭で、ほかの諸国がその真意をつかむことは不可能ではないにしても困難である。
以上が、満州において日本が有する「特殊地位」についての説明です。そしてこれがシナの主権と抵触すると次のように述べています。
満洲における日本の特殊地位の要求はシナの主権および政策に抵触する
(しかし)こうした満洲に関する日本の要求はシナの主権に抵触し、国民政府の願望とも両立しない。というのも国民政府はシナ領土を通じていまなお諸外国がもっている特権を減らし、将来、これらの特権が拡張されることを阻止しようとしているからだ。日支両国がそれぞれ満洲において行おうとしている政策を考察すれば、衝突がますます拡大されることは明らかである。
そして、ここから生じる日支間の利害の対立をどう調整し、日本の国益を守っていくかとということを巡って、幣原喜重郎の「友好政策」と田中義一の「積極政策」が対立したわけですが、その違いは「大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度」の違いであり、その目的―「日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護する」―は共通していたと、次のように述べています。
満洲に対する日本の一般的政策
一九○五年から柳条湖事件にいたるまで、日本の諸内閣は満洲において同一の目的をもっていたように見えるけれども、その目的を達成する方法に関しては見解を異にし、治安維持に関しても日本の取るべき責任の範囲に意見の相違があった。満洲における日本人の一般的目的は、日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護することにあった。こうした目的を実現するために取られた諸政策すべてに共通する主な特徴は、満洲および東部内モンゴルをシナの他の地域とはっきりと区別する傾向で、それは満洲における日本の「特殊地位」に関する日本人の考え方から生じる当然の結果であった。
日本の諸内閣が主張してきたそれぞれ特別な政策――たとえば幣原〔喜重郎〕男爵のいわゆる「友好政策」と、故田中〔義一〕男爵のいわゆる「積極政策」とのあいだにいかに相違があったとしても、前記の特徴はつねに共通していた。「友好政策」はワシントン会議のころからはじまり、一九二七年四月ごろまで継続され、その後「積極政策」に変り、一九二九年七月にまた「友好政策」に戻り、これは一九三一年九月まで外務省の正式政策として継続されてきた。
両政策の原動力となる精神にはいちじるしい相違があった。「友好政策」は、幣原男爵の言を借りれば「好意と善隣の誼を基礎」とするが、「積極政策」は武力を基礎とするからだ。だが、満洲において取るべき具体的方策に関する違いは、大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度のいかんに拠るものであった。
田中内閣の「積極政策」は満洲をシナの他の地域から区別することを強調し、その積極的な性質は、「もしシナの動乱が満洲やモンゴルに波及し、その結果として治安が乱れ、満洲における日本の特殊地位や権益が脅威を受けるようになった場合、その脅威がどの方面からこようとも、日本は敢然と権益を擁護すべきだ」という率直な宣言によって明らかだろう。田中政策は、それ以前の諸政策が目的を満洲における日本の利益の擁護に限定していたのに反し、満洲における治安維持のつとめも日本国が担当すべきだということを明らかにした。(後略)
さらに、日本の満州におけるこうした「特殊地位」の主張が、ワシントン会議における九カ国条約の精神―シナの領土保全と門戸開放―に抵触するのではないか、という疑問については次のように説明しています。
ワシントン会議の満洲における日本の地位および政策に対する影響
ワシントン会議はシナの他の地方の事態に大きな影響を及ぼしたが、満洲においてはほとんど変化はなかった。一九二二年二月六日の「九か国条約」にはシナの領土保全と門戸開放に関する規定があり、条文上、その効力は満洲にも及ぶはずだったが、満洲については日本の既得権益の性質や範囲に考慮して、単にその制限的適用がなされただけだった。前述したように、日本は一九一五年の条約によって借款や顧問に関する特権を正式に放棄したが、「九カ国条約」は満州における既得権益(関東州の租借地や満鉄及び安奉鉄道の日本の所属期限を99年に延長すること、南満州の内部の土地を賃借する権利及び南満州の内部において旅行、居住、営業する権利、南満州において各種商工業上の建物を建設するため,または農業を経営するため、必要とする土地を商租する権利等=筆者)にもとづく日本の要求を実質上縮小することはなかった。」
以上が、「リットン報告書」に示された、満州における日支間の基本的対立構造ですが、これが、うち続く中国国内の内戦や、胎動する中国のナショナリズムに刺激されて、激しい反日運動・反帝国主義運動へと高まっていくのです。こうした極めて困難な状況の中で、いかに日本の実益(特に経済的)増進を計っていくかが、当時の日本外交の最重要課題でしたが、幣原は、この課題に取り組む外交の基本姿勢を、就任演説の中で次のように述べていました。
「由来支那と政治上経済上および文化上、最も密接な関係を有する日本としては、支那の政情が一日もすみやかに安定することを希望する。近年支那の諸地方に外国人の被害事件が頻発し、支那の不満足なる政情は外国人の注意をいっそうひくことになったが、日本としては、同情と忍耐と希望をもって、支那国民の努力を観望し、その(統一の)成功を祈る。日本は機会均等主義のもとに、日安両国民の経済的接近を図る。ワシソトソ会議での諸条約は日本の政策と全然一致するものであるから、日本は同条約の精神をもってこれにのぞむ。」
その後、支那に第二次奉直戦争が始まり、張作霖が劣勢となり満州に直隷派が侵入してくるような情勢になると、国内でも「日本は列強と異なり、支那には特殊利益を有する以上、内政不干渉に固執する必要はなく、満州の秩序を維持するためには実力行使も辞さない覚悟でなければならない」(『外交時評』)といった、中国内戦への干渉出兵を求める意見が強く出されるようになりました。関東軍がこの急先鋒に立ち、参謀本部がそれに続き、外務省がこれを牽制するというパターンでした。
議会でも、「われわれの満蒙の権益を守ったか」とか「満蒙の秩序維持をどうするか」といった質問が出されましたが、幣原は「満蒙の権益と申されましても、具体的には満鉄沿線以外において、われわれはなんの権利利益ををもっていないのであります。・・・私は満蒙地方における治安維持は当然支那の責任であると申しておる。これは当たり前のことであると思う。支那の主権に属することならば当然支那の責任である。」また、張作霖支援についても、「満州の一部の情勢のみを見て帝国の態度を決するがごときは、はなはだ不得策にして、かつ危険なる方法なりと思考す」と答えています。
実際、こうした幣原外相の外交方針の転換によって、日中関係が非常に好転したことも事実です。堀内干城は『中国の嵐の中で』という回顧録で次のように述べています。幣原外交の時代に「日本の侵略政策、高圧政策は180度の転換を遂げて、全中国、特に当時台頭しておったヤングチャイナの間に非常な好感をもって迎えられた。・・・上海をはじめ、各大都市の排日は暫時影をひそめて、親日の空気が台頭してくるという極めて愉快な状況であった。」おかげで、対中貿易額は1921年の二億八千七百万円から1925年には四億六千八百万円に伸張した、といいます。
しかし、南京事変などを経て、対支強攻策を唱える国内世論の『幣原外交』に対する批判と不満はますますつのっていきました。当時最も進歩的な新聞とみられていた『朝日新聞』でさえ「幣原外交」を「自由主義かぶれ」と社説で攻撃するありさまでした。幣原のとった一つ一つの事件に対する措置を検討してみれば・・・独自の外交理念に基づき、日本の実益(特に経済的)増進を計ろうとする、むしろ「自主外交」の感が強かったのですが、世論はそう受け止めませんでした。こうして幣原外交に対する「軟弱外交」「迎合外交」の非難が激しくなるにしたがい、彼らの間には「自主外交論」を求める声がますます高まっていったのです。
この「自主外交」を求める世論が、「満蒙問題の根本解決」を標榜する軍の「満州占領計画」を呼び込む事になるのです。そして軍内には、そのためには何をしてもよい(張作霖爆殺事件はその第一歩)という下剋上的考え方が生まれ、中央政府がそれを追認しない場合は「満州国を日本から独立させ、そこを革命の拠点として日本に政治革命を引き起こす」(3月事件や10月事件)」といったクーデターが企図されるに至りました。また、それが露見しても隠蔽し、関係者は処罰されないどころか栄達をほしいままにする、といったむちゃくちゃな事態に陥るのです。
山本七平は、こうした事態を、「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。(「山本七平学のすすめ」語録「日本軍人国は日本一般人国を占領した」) 
張作霖事件が切り開いた満州事変への道

 

ここまで、日本が日中戦争それから日米戦争へと引きずり込まれていく、そのターニングポイントとなった満州事変がどうして起こったのかを見てきました。一般的には、これを日本軍による植民地主義的な領土拡張(=帝国主義的な侵略戦争)と見る見方が多いと思います。しかし、こうした見方は、マルクス主義的な歴史観(植民地主義や軍事的膨張主義を伴う帝国主義を資本主義の帰結とする見方)によらない限り、”当時の軍人の頭は狂っていた”というような結論に達せざるを得ません。また、それは自分は彼らとは違うといった免罪意識につながり、さらには自分を被害者に見立てて当時の日本人を糾弾するといった態度になります。
しかし、実際には、この満州事変が起こる前段には、幣原喜重郎による国際協調主義に基づく日中「友好政策」があり、それを国民が支持した時期もあったのです。彼は中国の満州に対する主権を認めた上で、ワシントン会議における「九カ国条約」に抵触しない形で、両者の友好的な関係を維持することで日本の満州における「特殊権益」の確保ができると考えていました。しかし、こうした幣原の態度は、結局、中国の排外主義的な日本の「特殊権益」侵害を防ぐことはできず、日本国内においては、第一次南京事件を経て、幣原外交を「屈辱外交」と批判する論調が次第につのっていきました。
この第二次南京事件というのは、北伐途上の国民革命軍が南京を占領した際、列国領事館が襲撃に会い暴行・略奪をうけたという事件です。英米軍艦は蒋介石軍の本拠地を砲撃してこれに軍事的圧力を加えましたが、日本の軍艦は「尼港事件」の教訓から十数万の居留民に危害が拡大することを恐れて砲撃を控えました。また、日本領事館でも無抵抗主義をとったことから、現場にいた海軍大尉も居留民と共に暴行・掠奪を受けることになりました。そのため、彼は帰艦後、これを帝国軍人として屈辱に耐えないとして割腹しました。
この事件を機に、幣原外交を非難する世論が急速に高まっていきます。各新聞はセンセーショナルに支那兵の残虐を報道し、激越な言葉で幣原の無為を論難しました。また、金融恐慌問題を討議中の枢密院でも、南京事件を中心とする若槻内閣の対支外交批判が集中し、「なかでも枢密顧問官の伊東巳代治は、率先して幣原外交を罵倒した。論旨は、無抵抗主義は本帝国の威信を傷つけ、軍の士気を阻喪させ、中国における日本人の生命財産を危うくしている。国民党の革命運動は北支に及ぶ趨勢であるが、その背後には第三インターナショナルの共産勢力がある。これに対する政府の認識は甘い」というものでした。
こうして、ワシントン会議(1920)以降、第一次若槻礼次郎内閣まで、幣原喜重郎が主導した国際協調外交、日中友好外交、内政不干渉外交は、田中義一(外相兼任)内閣(1927.4)の「積極外交」に取って代わられることになります。この田中内閣の「積極外交」とは、中国における日本人居留民の生命財産や権益(条約によって認められたもの)を守るためには、必要があれば出兵してでもそれを守る(「現地保護政策」)というもので、特に、満洲における「特殊権益」を守るためには、その地区の治安維持のための積極的な役割を果たす、というものでした。
ところが、こうした田中義一内閣の「積極政策」は惨憺たる結果をもたらしました。おりしも、1928.2から蒋介石による中国統一をめざす第二次北伐が始まっており、4月には早くも山東省の境に達していました。田中内閣は居留民の「現地保護政策」をとっていたため再び山東出兵(4.20)しました。この時、蒋介石軍は済南に平和的に入城しますが、5月3日に発生した南軍暴兵による日本人に対する掠奪・暴行事件がエスカレートして日本軍との全面衝突となり、5月8日には日本軍が支那軍の立てこもる済南城を砲撃、11日これを占領するという「済南事件」が起こりました。(死亡者は日本軍二百三十名、中国軍二千名、日本人居留者十六名)
この「済南事件」は、その後の日中関係の大きな転機となります。中国は、日本権益に対する組織的なボイコット運動で対抗するようになり、日中間の話し合いよりも国際連盟や欧米マスコミに向かって日本を非難し、日本を孤立させる政策をとるようになりました。特に、日本軍の行動は張作霖政権を応援するために、意図的に南軍の北進(北伐=中国統一)を妨げるものであるという推測も行われ、中国の国民感情をますます刺激しました。それまでは中国の排外運動といえば英国が主たる目標でしたが、一転して日本が最大の敵となりました。
このことについて幣原は、「日本には、もともと北伐軍の進路を妨げて中国の内政に干渉する意図があったとも思われない。それならば、居留民(約2,000人)をしばらくの間青島など安全な場所に避難させておけばよかった。それなのに政府は、将来どうするかの深い考えもなく突如出兵して、現地保護策をとった。その結果、国庫の負担はすでに六、七千万円に達し、将卒の死傷も数百名を下らない。そしてわが居留民は財貨を略奪され虐殺陵辱にあったものは少なくない惨状を呈している。」と批判しています。
また、1929年の貴族院における質問に答えるかたちで「南京事件では特に出兵もせず、日本人には一人の死者もなかった。しかるに済南事件では出兵したがためにかえって多くの死傷者を出したのは皮肉である。田中内閣の山東出兵により対支外交は完全に失敗し、その結果、多年築かれた日支両国の親善関係を根底から破壊してしまった。じつに国家のために痛恨に堪えない」と嘆き、「これは畢竟、内政上の都合(世論におもねったということ=筆者)によって外交を左右し、党利党略のために外交を軽視した結果であると信ずる」と述べています。
だが、はたして、こうした幣原の「人間の善意と合理主義への確信」に基づいた対支外交で、日本の満州における「特殊権益」は本当に守れたのでしょうか。幣原は、「我々は支那における我が正当なる権利利益をあくまでもこれを主張するときに、支那特殊の国情に対しては十分に同情ある考慮を加え、精神的に文化的に経済的に両国民の提携協力を図らむとするのであります。」と述べています。しかし、こうした幣原の外交姿勢に対して、特に、自分たちの生活が直接脅かされていると感じていた中国在留邦人と日中ビジネス界から激しい批判がわき起こりました。
田中内閣は、こうした幣原の軟弱外交に対する批判を背景に、幣原外交の不干渉主義を離れ、在留邦人の「現地保護主義」を標榜するかたちで登場しましたが、これが中国側との衝突を招くことは不可避でした。では、一方、仮に幣原のいうように「現地保護主義」を抑えて不干渉主義を貫いたとした場合、はたして、幣原が言うような合理主義に基づく満州権益の主張は、中国の国権回復運動のうねりに抗し得たでしょうか。これは双方によほどの良識と指導力があってはじめてできることで、その意味では「悲劇は運命づけられていた」と岡崎久彦氏は述べています。
済南事件の後、蒋介石の軍隊は済南を迂回して北上を続けました。北京の張作霖軍は風前の灯となっていました。この時、日本軍が最も心配したのは、戦乱が満州に及んで日本の権益が害されるということでした。そこで、田中は1928年5月18日、張、蒋双方に対して「もし、戦乱が北京、天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持のために適当にして有効な措置をとらざるをえない」と公式の覚書きで警告しました。その一方で、北京の芳沢公使を通じて張作霖に対して、戦わずに満州に引き上げて満州防衛に専念するよう説得しました。
この時、田中首相は、「いざという場合の用意はしつつも張を平和裏に満州に撤退させて、すでに話し合いが軌道に乗っている満州五鉄道(吉会線の内敦化、図們間、延海線、吉五線、長大線、洮索線の五線で、正式の外交ルートを通さない秘密交渉により、山本条太郎が張作霖に無理矢理ねじ伏せる形でのませたもの=筆者)などの日本の権利を張に守らせ」ようとしていました。そしてその説得が成功して、張は北京から引き上げ京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下にしかけられた爆薬により列車ごと爆破されて死亡したのです。(満州某重大事件」1928.6.4)
これは、関東軍の河本大作高級参謀が引き起こした事件だったのですが、その目的は、張作霖抹殺により東北三省権力を中小の地方軍閥に四分五裂させて満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するということにありました。しかし、奉天軍が反撃を抑制したことや、ごく少数による計画・実行であったために武力発動には至りませんでした。張作霖の死後、田中は息子の張学良をたてて、今まで通りの計画を推進しようとしましたが、逆に、張学良は蒋介石に恭順の意を表し、七月末には中華民国の国旗、青天白日旗が全満州に翻ることになりました。ここに関東軍の夢も破れ、こうして満州事変への道が開かれることになったのです。  
張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆 1

 

前回、関東軍高級参謀河本大作が引き起こした張作霖爆殺事件(1928.6.4)によって「満州事変」への道が開かれた、ということを申しました。つまり、満州事変というのはこの事件がもたらした帰結だということです。その意味で、この張作霖爆殺という「恐るべき」事件の発生と、その処理をめぐる「奇怪さ」の中に、その後の対米英戦争に至る、日本人の数々の蹉跌の根本原因が胚胎していたといっても過言ではありません。次に、それがどれほど「恐るべき」事件であったか。また、その処理がいかに「奇怪」なものであったか、ということを見ておきたいと思います。
いま少し詳しく事件の概要を述べます。
前回述べた済南事件は未解決のまま、田中内閣は、京津に非常事態が継続していることを理由に、5月8日、三たび山東出兵しました(これで山東地帯の日本兵は一万五千に達した)。さらに田中は同月18日、満州に動乱が波及する場合は治安維持のため適当有効の措置をとるむね中国南北両政府に覚書で通告しました。これは、南北両軍の(錦州方面よりの)満州乱入を阻止するため両軍の武装解除を行うという事を意味していました。といっても、南軍(革命軍)の関外(長城以北)進入は絶対に阻止するが、奉天軍の場合は、早期に戦闘を離脱して整然と関外に引き上げれば、必ずしもこれを武装解除しないと了解されていました。
この通告に対して、北京政府(北軍)も国民政府(南軍)も共に内政干渉であると激しく抗議しました。しかし、国民政府は、この通告の意味するところは、関内の国民政府による統一を日本が認めたものと理解し、矢田七太郎総領事に対して、関外に奉天軍が撤退するならば国民革命軍はこれを追撃しないと約束しました。一方、張作霖の方は、日本の武力援助により関内にとどまることを期待していたためこの通告には大変不満でしたが、田中は芳沢公使に訓電して、張作霖に対して自発的に奉天に引き上げるよう勧告し、張作霖はやむなくこれを承諾しました。
一方、村岡長太郎関東軍司令官は、18日この覚書を受領するや、奉天軍の武装解除を目標として関東軍の錦州派遣と軍司令部の奉天移駐にとりかかりました。しかし、外務省は、この措置がポーツマス条約で規定された範囲をこえて、関東軍の付属地外への出動をもたらすことになるとして反対し、19日、芳沢公使あてに「奉天軍の引き上げを南軍が追撃」しない場合は武装解除するには及ばないと訓電しました。20日夕、奉天では林総領事が斉藤参謀長と秦特務機関長と会い、有田アジア局長からの同文の訓令を提示したため、関東軍は錦州出撃計画を別命あるまで延期することにしました。
この間、関東軍の田中首相と政府に対する不満は日ごとに激しくなっていきました。参謀本部の方も、荒木貞夫作戦部長の外務省への圧力が功を奏せず、29日の陸軍・外務両省の首脳会議でも現地軍出動時期について意見がまとまらなかったため強い不満を持つようになりました。5月31日、張の北京撤退が時間の問題となった段階で、関東軍は重ねて出兵の許可を求める電報を軍中央に打ちました。31日陸軍は関東軍の電報を受け取ると、阿部軍務局長を通じて有田アジア局長に出兵断行を強調させるという手をもちいました。両名は田中首相のところにおもむき田中首相の裁断を仰ぎましたが、田中首相は31日夜出兵延期を裁決しました。
村岡関東軍司令官は、これにいらだち、北支駐屯軍と連絡を取り、張作霖暗殺を計画しました。しかし川本大作高級参謀は、あくまで張の謀殺によって関東軍の満州武力制圧のきっかけを作るという目標をもっていたため、村岡の計画ではなく自分の作った爆破計画を採用させました。河本の張作霖爆殺→東三省権力の地方軍閥化→治安攪乱→関東軍出動という段取りは、5月中旬、大石橋の石炭屋・伊藤謙二郎が、張作霖に代えて呉俊陞(しょう)擁立計画を斉藤参謀長に進言したことに端を発しており、河本は出兵の奉勅命令が出ないため、かねてからの鉄道爆破計画を実施に移すことにしたのです。
また、河本は、張作霖抹殺により満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するためには、張作霖はその本拠地奉天で殺害されたほうが治安が乱れている証明になると考え、6月4日早朝、張が京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下に爆薬をしかけ張作霖を列車ごと爆破し死亡させました。河本は日本の主権下にある満鉄付属地内で張作霖が爆殺されたとなれば、その部下の軍隊が直ちに駆けつけるであろうから、主権侵害を口実に武力衝突を起こす計画であり、また、その日の内に第二段階行動として各地の爆弾騒ぎの挑発謀略を起こしました。しかし、この陰謀が河本を中心とするごく少数者で計画実行されたことや、案に相違して奉天省長は奉天軍の行動を抑制したため、武力発動には至りませんでした。
この事件の報を受けて、田中首相は愕然としました。なぜなら、田中は「満蒙に鉄道を増敷設し、この沿線に土地所有権なども獲得し、資源を開発して日本の勢力を伸ばしていくこと、そしてこの計画は張作霖を擁立して進め」ようとしており、そのために張を東三省に引き上げさせたからです。事実、田中の意を受けて、山本(条太郎)満鉄総裁と張との間には鉄道敷設の契約が成立しており、しかしこの計画はあくまで張と山本・田中の個人的「諒解」であったので、張が北京にとどまり南軍に破れでもすれば、もとのもくあみになると恐れていたのです。
だが、この事件は関東軍の河本大佐を中心とするごく少数者の陰謀であったため、当初は陸軍中央部も田中首相もその真相を知ることができませんでした。陸軍中央部は、6月26日から一週間、河本大佐を取り調べましたが、河本は事件への関与を否定し、また陸軍中央部も内心張作霖の抹殺を望んでいましたので、河本を深く追求することなくその釈明を信じ、関東軍は事件と無関係であるとの報告を田中首相にしました。しかし、河本が上京したとき、荒木作戦部長、小磯国昭航空本部総務部長、小畑敏四郎作戦課長が出迎えており、河本は彼らには一切の事情を告白していました。
一方、田中首相は9月7日林総領事に会い、「本件は国際的重大事件である。若し日本人の仕業ならば厳重に処罰し、信を天下につながなければならぬ。ついては本件を取り調べよ」と命じるとともに、陸軍省軍務局長、外務省アジア局長、関東庁警務局長に共同調査を命じ、さらに峯幸松憲兵司令官を奉天に派遣し調べさせました。その結果、関東軍からは何らの証拠も得られませんでしたが、朝鮮軍の工兵隊が爆薬敷設に関係しており、その工兵隊の某中尉を取り調べた結果、案外すらすらと自白したので帰郷し、10月8日に白川陸相を通じて田中首相に報告しました。また外務省などの共同調査の第二回調査特別委員会が10月23日に開かれ、河本らの犯行をほぼ裏付けましたが、杉山軍務局長は陸軍側の調査報告を待ってくれと依頼し、また参謀本部は、事件をやみのうちにほうむろうとしました。
田中首相は事実がある程度判明した段階で西園寺に報告しました。この時西園寺は首相のとるべき方針について次のように勧告しました。
「万一にもいよいよ日本の軍人であることが明らかになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなくてはならぬ。日本の陸軍の信用は勿論、国家の面目の上からいっても、立派に処罰してこそ、たとえ一時は支那に対する感情が悪くなろうとも、それが国際的に信用を維持する所以である。かくしてこそ日本の陸軍に対する過去の不信用をも遡って回復することができる。・・・また、内に対しては・・・政党としても、また田中自身としても、立派に国軍の綱紀を維持せしめたということが非常にいい影響を与えるのではないか。ぜひ思い切ってやれ。しかももし調べた結果事実日本の軍人であるということが判ったら、その瞬間に処罰しろ。」
田中首相はこの西園寺の勧告を容れ、事実関係者の厳正な処罰と、全容の解明・公表することで意見一致しました。しかし参謀本部は、政友会幹部と連絡を図り、原嘉道法相、久原逓相、小川鉄相、山本達雄農相は公表反対としました。一方、田中を支持して公表賛成したのはわずかに岡田啓介海相と山本満鉄総裁だけとなりました。また当初田中に共鳴した白川陸相もにわかにあわてだし、いまや全陸軍が組織の命運をかけて田中首相に挑戦したに等しい状態となりました。こうした陸軍の動きは、この陰謀が公表されることによる陸軍の面子・威信の失墜が防ぐということ以上に、当時の陸軍が進めようとしていた満州問題の(軍事的)根本解決方針を死守せんとする思惑に発していました。
こうして、小川ら満州に利害を持つ閣僚、政治家たちも、処罰と公表に頑強に反対するようになりました。それは、もし「この事件の全容が明らかになれば、満州はもとより、中国全体からの強い反発は避けられない。そうなれば、国民党政府が進めている、国権回復運動がいよいよ勢いづき、また反日、抗日運動がより盛んになるのは目に見えている。今は中国の条約を無視したやり方に対して反感を持ち、日本を支持してくれているイギリスをはじめとする国際世論も、陰謀が明らかになったら、どのような姿勢をとるか分からない。その帰趨によっては、日本は満州から追い出されることになるのではないか。」といった危惧によるものでした。
しかし西園寺に励まされた田中は、この事件についての「調査内容」を、1928年12月24日午後2時に天皇に奏上しました。「作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるをもって若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行うべく、詳細は調査終了次第陸軍大臣より奏上する」(『田中義一伝記』による)これに対して天皇は田中に「国軍の軍紀は厳格に維持するように」と戒めました。田中は上奏後、各閣僚に個別に了解を求め、白川陸相に対して強硬に責任者処罰を要求しました。しかし、この報告を白川から聞いた陸軍省中堅幹部は激烈に反対を表明しました。
ここで、陸軍省中堅幹部というのは、実は東条英機や永田鉄山といった学閥意識を強く持った陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校出身のエリートたちのことで、陸士卒業期でいえば15期以降の卒業生です。彼らは二葉会(15期から18期まで)や一夕会(20期から25期)といった藩閥と違った学閥を母体とする新しい幕僚閥を形成していました。そして、当時の軍内の主導権は、こうした、日露戦争の激戦を体験していない(試験で選抜された)エリート軍人たちの手に握られていたのです。張作霖事件の首謀者である河本大作は、陸士第15期でこれらの幕僚閥の最先輩であり、その行動は同士たちに”英雄視”され、彼らによる組織を上げての擁護が画策されていたのです。
田中は、1929年に入っても、このように陸軍の組織から孤立した状況におかれながら、なお懸案解決に向かって努力しました。しかし、政友会の森恪や、閣僚たちは、田中内閣を存続させるためには、田中首相が陸軍の要求に従うことを求めました。6月12日には、鈴木参謀総長、武藤教育総監が白川陸相と会談し田中首相に反対の態度をとるよう要求し、その後、陸軍省では阿部次官、杉山軍務局長、川島義之人事局長が田中の要求に反対をとなえ、白川陸相も辞意を表明すると見られたため、ついに田中首相は陸軍の圧力に屈し、責任者を単に行政処分にする案を天皇に上奏するとともに、真相不明として公表することについて許可を得ようとしました。
しかし、天皇は「首相の述ぶる所前後全く相違するではないか」とのむねを伝え、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理のいうことはちっとも分からぬ、再び聞くことは自分はいやだ」ともらしました。恐懼した田中首相は、その後ただちに西園寺を訪問し一時間にわたる会談の後、各大臣一人一人官邸に呼んで内閣総辞職に至るかもしれぬと告げました。この際再度参内して事情を天皇に奏上するよう求められ、田中は再び参内しようとしましたが鈴木侍従長はこれを取り次ぐことに難色を示しました。恐懼した田中は首相を辞任し、7月1日田中内閣は崩壊しました。同日、河本大佐停職、斉藤中将と水町少将とが重謹慎、村岡中将が持命となりましたが、処分の文案には関東軍の警備上の手落ちとのみ説明されていました。  
張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆 2

 

張作霖爆殺事件の真相については、東京裁判で田中隆吉少将が次のように証言したことで、はじめて一般の国民の知るところとなりました。
「張作霖の死は当時の関東軍高級参謀河本大佐の計画によって実行されたものである。この事件は軍司令官、当時の参謀長には何ら関係なし。当時の田中内閣の満州問題の積極的解決の方針に従って、関東軍はその方針に呼応すべく、北京、天津地方より退却する奉天軍―張軍の錦州西方での武装解除する計画をもっていた。その目的は張を下野せしめ、張学良を満州の主権者として、そこに当時の南京政府から分離した新しき王道楽土を作るという目的であった。・・・しかるにこの計画はのちに至って田中内閣より厳禁された。
しかしなおこの希望を捨てなかった河本大佐は、これがため、六月三日、北京を出発した列車を南満鉄道と、京奉線の交差点において爆破して、張作霖はその翌日死んだ。この爆破を行ったのは、当時朝鮮から奉天へきていた竜山工兵第二十連隊の一部将校並びに下士官兵十数名。このとき河本大佐は、参謀の尾崎大尉に命じて、関東軍の緊急集合を命じて、列車内から発砲する張の護衛部隊と交戦せんとした。しかし、この集合は、参謀長斉藤少将の厳重なる阻止命令により中止された。
私は河本大佐も尾崎大尉もよく知っている。河本大佐は、まったく自分一個の計画であると申し、そのとき使った爆薬は工兵隊の方形爆薬二百個で、あのとき緊急集合が出ておったなら、おそらく満州事変はあのとき起こったであろうと語った。」
ここで、事件が河本大佐だけの計画だったというのは真実ではなく、村岡関東軍司令官自身も関東軍の錦州出動が田中首相により阻止された段階で張作霖暗殺を計画し、それを知った河本大佐が自分の案を採用させたとされているように、関東軍上層部も知っていたことは間違いありません。ただ、関東軍が他国の国家元首の暗殺に組織的に関与したということになると大変なことになるので、あくまで河本一人の謀略(爆破犯人を国民党の工作員に見せかける偽装工作もしていた)として実行せしめ、あわよくばその混乱に乗じて関東軍の武力発動の好機を得ようとしたのではないかと思われます。
また、そのように武力発動をしてでも達成しようとしていた、その目的は何だったのかというと、それは、当時参謀本部員であった鈴木貞一の談話(戦後)に示された、次のようなものでした。
「昭和二年・・・僕は自分で参謀本部、陸軍省あたりの若い同じ年配の連中に会った。今の石原莞爾とか河本大作とかであるが、・・・日本の軍備の根底をなす政策を確定しなければならぬという考えで、いろいろ若い人に話をして、ほぼこうすれば軍部は固まり得る、少なくとも下のほうのわれわれ若いところは固まり得る、という案を考えていた。その案というのは、方針だけでいうと、満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる。そうして東洋平和の基礎にする。これがつまり日本のなすべき一切の内治、外交、軍備、その他庶政すべての政策の中心とならなければならない」
しかし、「こういう考えをむき出しに出したのでは、内閣ばかりでなしに、元老、重臣皆承知しそうもないから、これを一つオブラートに包まなければならぬ」ということで、鈴木貞一と森恪(外務政務次官)及び吉田茂(奉天総領事)が相談し、東方会議を開催することにしました。この会議は、昭和2年6月27日から7月7日まで、外務本省(首相兼外相田中義一、政務次官森恪他)、在外公館(中華公使芦沢謙吉、奉天総領事吉田茂、上海総領事矢田七太郎)、植民地(関東軍司令官武藤信義他)、陸軍(次官畑英太郎、参謀次長南次郎、軍務局長阿部信行、参謀本部第二部長松井石根)、海軍(次官大角岑生、軍令部次長野村吉三郎他)、大蔵省(理財局長富田勇太郎)の代表が出席し、森恪の主導で行われました。
この会議で決まった方針(「対支政策綱領」)は、次のようなものでした。
その「綱領」の前段では、田中も注意深く、「支那の内乱政争に際し一党一派に偏せず、支那国内に於ける政情の安定と秩序の回復とは、支那国民自ら之に当ること最善の方法なり」と述べています。にもかかわらず、同一綱領の後段では、
(一)「支那の治安を紊し不幸なる国際事件を惹起する不逞分子が支那に於ける帝国の権利利益並在留邦人の生命財産を不法に侵害する虞ある時は、断乎として自衛の措置に出でこれを擁護する。……排日排貨の不法運動を起すものに対しては、権利擁護の為、進んで機宜の措置を執る」
(二)「満蒙殊に東三省地方に国防上並国民的生存の関係上重大な利害関係を有する我邦としては特殊の考量を要す。同地方の平和維持経済発展により内外人安住の地とする事には接壌する隣邦として特に責務を感じる」
(三)「東三省有力者にして満蒙に於ける我特殊地位を尊重し、真面目に同地方に於ける政情安定の方途を講ずる場合は、帝国政府は適宜これを支持する」
(四)「万一満蒙に動乱が波及し我特殊の地位権益が侵害される虞がある時は、それがどの方面から来るを問はず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持される様、機を逸せず適当の措置をとる覚悟を有する」となっていました。
だが、こうした方針は、「田中と森の方針の相違(田中は、日本の満蒙への勢力進出をできるだけ同地の実力者(張作霖)を利用してその目的を達成しようとしていたのに対して、森は、そんな手ぬるいことはせず、日本が直接満蒙に手を下し、その開発に当たるべきとした。)や、関東軍の強硬論(治安の乱れを口実に満州を武力制圧する)と、なお幣原外交の影響が強く残る外務省首脳見解(「将来東三省の主人がだれになろうとも、日本の権益にははなはだしい影響はない。満州における日本の地位はすこぶる強固であるから、今後は公平かつ合理的な主張をもって日本の権益を擁護し、経済的発展を獲得すれば足りる」=吉田茂奉天総領事)の対立を反映した、いわば玉虫色の色彩を帯びていた」といいます。
そして田中は、満蒙政策を具体化するためには、まず満蒙の地に鉄道を増敷設をすることから開始し、その沿線に日本の勢力を伸ばしていくこと、この計画は東三省の「真面目な有力者」=張作霖と提携することだと考えました。そこで「張作霖をして東三省における過去、現在及び将来のわが国の地位とともに以上の趣旨を十分諒解せしめ」鉄道の増敷設を承認させるため、その交渉を山本条太郎(満鉄総裁に任命)にあたらせたのです。結局、張もそうした要求を承諾し北京を引き上げることに同意しました。山本はこれで「日本は満州をすっかり買い取ったも同然だ」と喜んだといいます。
一方、関東軍の方は、そもそも東方会議がもたれたのは、先に紹介した鈴木貞一のような考え方を政府の満蒙政策の指針とするためでしたから、その結論を「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という方向で理解していました。そして、そのためには、蒋介石の北伐によって張作霖が北京から追われる際の混乱を利用して、日本軍のいうことを聞かなくなっている張作霖を武装解除し下野させることで、一挙に満州を武力制圧し支那本土から切り離すとともに、その政治支配権を確立しようとしていたのです。
しかし、こうした関東軍の思惑は、田中首相の採った満蒙政策によって裏切られることになりました。そして、このことに対する怒りが、「張作霖爆殺」という「恐るべき」事件を引き起こすことになったのです。当然のことながら、田中首相は、自分の満州問題解決の努力を水泡に帰したこの愚挙を怒り、その実行犯及び責任者の厳罰を天皇に約束しました。しかし、軍は事件をうやむやにすることをはかり、それに多くの閣僚も同調し、また多くの政治家やマスコミも、真相が公表される事によって日本が面子が失われることを恐れて追求を手控えました。結局、軍は、真相は不明、事件の責任者は事件現場付近の警備上の手落ちがあったということで行政処分するに止めたのです。
さて、ここで問題となるのは何か、ということですが、
第一に、たとえ、首相の意志に全く反することであっても、自分たちが正しいと信じることであれば、何をやってもかまわない、という下剋上的考え方が、当時の軍特に若手の将校たちに蔓延しており、これを放置したということ。
第二に、この場合、何をやってもかまわないといっても、爆殺の相手は、北京政府の大元帥である。それを関東軍の一参謀が平気で爆殺し、それを軍が組織ぐるみでかばうということは、当時の軍人が中国人をどれだけ軽んじ侮っていたかということ。逆に言えばどれだけ増長していたかということ。
第三に、実は、この事件の真相は、事件発生後二ヶ月たった八月頃には、東京、上海、天津の英字新聞に出始めており、爆破ははっきり日本軍のしわざであると報道されていた。そして九月頃には、国内の新聞も与野党も詳しい内容をほとんど知っていた。にもかかわらず、国内の新聞は、翌年の4月になっても「満州某重大事件」としか言わなかった。ここに、日本の新聞の権力迎合的性格が如実に現れていたということ。
第四に、このように、外国人の目から見れば虚偽であることが明白であるような事件について、政治家もマスコミも、「外に向かって恥ずかしいようなことをわざわざ公表しなくてもいいではないか」というような甘い考え方をした。それが日本に対する国際的信用をどれだけ失墜させ、日本人に対する侮蔑を招いたかについて、考えが及ばなかったということ。
第五に、これだけの重大事件を引き起こした犯人たちが、形式的な行政処分で済まされたばかりか、仲間内で英雄視され、要職につけられ、軍で重用され続けたということ。また、彼らを組織ぐるみでかばい、事件をもみ消そうとした責任者たちが、その後の軍の出世街道を歩き軍の中枢を占めたということ。
そして最後に、この事件が、以上のような問題点を抱えながら処理されたことによって、結果的に「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という考え方(が容認されたということです。そして、ついに満州事変を経て、)政府自身(もこうした考え方を)認知せざるを得なくなりました。
こうして、日本は、この時ついた嘘(謀略の存在のもみ消し)をつき続ける一方、こうした手段(武力発動し満州を実効支配すること)に訴えた自らの立場を正当化し続けなければならないという窮地に追い込まれることになりました。しかし、この嘘はアメリカには見えていました。日本を対米戦争に追い込んだハル・ノートの第一条件は、「日本軍の中国からの撤兵」でしたが、それは、このときついた嘘を嘘と認めることを意味していました。しかし、その時点(昭和16年)で日本は、満州事変以降さらに多くの犠牲を払っており、これを無視して撤兵する勇気は、当然のことながら当時の軍人にはありませんでした。 
張作霖爆殺事件と昭和天皇

 

前回、張作霖爆殺事件(昭和3年6月4日)をめぐるいくつかの問題点を指摘しました。だが、そのほかに、もう一つの重大な問題が惹起していたことを指摘しなければなりません。それは、この事件の処理の過程で、天皇及びそれを輔弼する元老・重臣たちと、政府あるいは軍との権限関係のあり方をめぐって、双方に根本的な意見の対立が生じていたということです。(実は、この問題は、今日においても、特に天皇の戦争責任との関連で問われている問題であり、日本人の被統治意識の根幹に関わる問題です。)
この事件の処理について、田中首相は昭和天皇に、その実行犯及び責任者の厳罰を約束しました。(昭和3年11月24日)しかし、こうした田中の方針に対する陸軍の抵抗は強まる一方でした。天皇は、翌年1月に白川陸相に対して「まだか」と催促し、白川陸相は2月26日の拝謁で、調査が遷延している理由として、「関係者は尋問に対して興奮し、国家のためと信じて実行したる事柄につき取り調べを受ける理由なしとの見地により、容易に事実を語らず、陸相種々説諭を加え漸く自白に至り・・・」と苦し紛れのいいわけをしました。
一方、閣内では小川と森恪が中心となって各大臣を説きまわり、「閣僚全員首相に反対」(『小川秘録』)に持ち込みました。孤立した田中にとって最大の痛手は、古巣の陸軍がこぞって反対論にまとまり、特に、当初は田中支持に見えた白川陸相(処罰の法的権限を持つ)が、部下に突き上げられ、小川にけしかけられて変心したことでした。昭和4年3月末、陸軍が真相は不公表、河本らは行政処分という結論を出すと、田中は外務省で唯一の支持者だった有田アジア局長に閣議での反論を起案させましたが、そのとき「白川がなあ・・・」とため息を漏らしたといいます。
また白川陸相は、3月27日、天皇に対して次の様な中間的な結論を報告しました。それは、「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、その計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と犯人を特定しましたが、処罰については「処分を致度存ずるも、今後この事件の扱い上、其内容を外部に暴露することになれば、国家の不利に影響を及ぼすこと大なる虞あるを以て、この不利を惹起せぬ様深く考慮し十分綱紀を糺すことに取計度存ず(後略)」という回りくどい言い方で、真相不公表、行政処分で済ますことを説明しました。
こうして田中は、軍法会議での処分をあきらめ、「関東軍は爆殺には無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という陸相報告(5月20日)を呑みました。その後、田中は、それを天皇に対してどう申し開きをするか、悩んだあげく、6月27日午後参内して天皇に拝謁し上奏案を読み上げました。これに対し天皇は、「お前の最初に言ったことと違うじゃないか、言い訳は聞きたくない、辞表を出したらどうか」といい、その怒りは激しく、田中は慌てふためいて退出し、鈴木侍従長に「辞職する」と何度も口走ったといいます。
しかし、田中は、翌朝閣議に出て叱られた様子を報告したのち気を取り直し、再び、同じ処理方針を、今度は白川陸相に持たせ参内させました。すると意外にもすんなりご裁可があり、続いて鈴木侍従長より首相に参内せよと連絡が来たので、田中も閣僚も、天皇が反省して折れたらしいと喜び、田中はいそいそと参内しました。しかし、鈴木侍従長より、前日の上奏を責める天皇の意向がもう一度伝えられ、田中は拝謁を、と食い下がりましたが、鈴木から「ご説明に関し召されずとの思召なり」と聞き、「もはや御信任は去った」と諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職を告げました。
田中内閣は7月2日総辞職しました。そして、その四ヶ月後の9月29日、田中は狭心症のため亡くなりました。一説では、遺骸の首に包帯が巻かれていたことから軍刀で喉を突いて自殺したのではないかともいわれています。
以上が、田中首相の、張作霖爆殺事件の処理についての上奏の経過ですが、ここに、二つの問題が生じることになりました。一つは、こうした天皇による、時の宰相を罷免する様な言動がはたして妥当なのかどうか、ということ、もう一つは、6月28日午後の白川陸相による天皇に対する説明にはすんなりと裁可をしておきながら、なぜ、午前の田中首相による同じ内容の上奏に対しては、あれほど激しい怒りを表したのか、ということです。
前者の問題については、これが天皇を輔弼する宮中方面の元老重臣による政治介入であるとして軍部を強く刺激しました。もとより、軍部は田中を見放してはいましたが、張作霖事件に際して軍紀の粛正を迫った宮中に対して、激しい反感を持つようになりました。このことが、後年の五・一五事件や二・二六事件において、いわゆる「君側の奸」とされた元老・重臣(西園寺や牧野内大臣、鈴木侍従長など)が、繰り返し軍部によるテロの標的となった、その遠因とされています。
また、天皇に対しても、その処置が気に入らないと、「若さゆえの思慮不足」にこじつけて恨み言を言い立てる政治家や軍人も少なくありませんでした。それは「輔弼の責任者として、君主に過ちある時は其過ちを正すに非ずんば、宰相の責任をつくしたといふべからず。特に御壮年の陛下に対して君徳の完成を図るはお互いに兼ねて熱心努力せし所にあらずや。・・・昨日の陛下の聖旨中(首相の)説明を聞くに用なしとあるは・・・決して名君の言動にあらず。或は何者か君徳を蔽ふの行動に出でたるものあるやもはかられず・・・。」といったものでした。
また、昭和天皇自身も、戦後、このことについて、「私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった。・・・私の若気の至りであると今は考えているが・・・」(『昭和天皇独白録』)と反省の弁を述べています。これをもって昭和天皇は自分の思慮不足を認めたとする解釈が一般的になっていますが、秦郁彦氏は、そう解釈せず「昭和天皇は熟慮の末、田中内閣を更迭するという決断のもとに行動した」のではないかと次のように説明しています。
昭和8年6月、鈴木が時の本庄侍従武官長に語ったところでは、天皇は、田中が自己の責任で処置を公表したのち「政治上余儀なく発表しました。前後異なりたる上奏をなし申し訳なし。故に辞職を請ふ」と申し出たなら、「政治家として止むをえざることならん」と理解もするが、「まづ発表そのものの裁可を乞い、これを許可することとなれば、予は臣民に詐りをいわざるを得ざること」(『本庄日記』)になるではないか、と鈴木侍従長に述べた、というのです。
そして、そのように理解するなら、これは第二の問題に対する答えにもなります。秦氏は、「田中がこの通りの手順を踏んでいたら、天皇は今後を戒めて辞職を慰留するつもりだったのかも知れない」といっています。それが、自分の意にそわぬ結論であっても白川陸相の上奏には裁可を与え、「真相不公表」「行政処分」の線で事件の後始末に一応のケリをつけた理由であり、昭和天皇はそうすることによって陸軍との正面衝突を回避した、と推測しているのです。
しかしながら、天皇の意向によって内閣が倒れ、政変が起きたことには変わりがありません。このことについて元老である西園寺は、当初、軍紀粛正の正論を主張しましたが、直前になって、天皇の不信任という理由で内閣が総辞職するとなると天皇が政治責任をかぶることになるのでよくないと、天皇が「田中の責任を問う」発言をすることに反対しました。それは君臨すれども統治せずという、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動だからです。そして、天皇の、このことに対する反省が、その後、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めることになってしまったと多くの論者が語っています。
だが、前回指摘したように、こうした張作霖爆殺事件の誤った処置は、次のような「恐るべき」事件を次々と引き起こし、その後の日本の政党政治の基礎を掘り崩すことになりました。1930年に発生したロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題、1931年3月の3月事件(陸軍中堅将校によるクーデター未遂事件)、1931年9月18日の満州事変、1031年10月の十月事件(3月事件と同様)、1932年5月15日の五・一五事件(海軍青年将校によるクーデター事件)そして1936年2月26日の二・二六事件などです。
つまり、これらの軍若手将校による恐るべき謀略・クーデター事件を惹起することとなったその初発の事件が、この張作霖爆殺事件であったのですから、もしこの事件が国内法に照らして厳正に処置されていたなら、前回指摘したような問題点の自覚がなされ、その解決への努力がなされていたかもしれません。そうすれば、あるいは昭和の悲劇は回避することができたかもしれないのです。
この点に関して、『張作霖爆殺』の著者大江志乃夫氏は、関東軍を管轄するのは参謀総長であり、その参謀長に命令または指示ができるのは天皇だけであるから、天皇はまず参謀総長に事件の真相解明の調査を命じるべきであった。それなしに陸相は司法捜査権を発動できないし、ましてや首相は事件の処分について関与できない。従って、昭和天皇がそれをしないで田中首相を叱責したのは筋違いであり、統帥権者としての自覚に欠ける行為であった。また、張作霖爆殺事件の処理に当たってその統帥権の手綱をゆるめたことが、その後の軍部という暴れ馬の暴走を許すことになった、と昭和天皇を厳しく批判しています。
しかし、法理的にはそういうことがいえるのかも知れませんが、昭和天皇は、立憲君主制下における「君臨すれども統治せず」という英国憲政を手本としていたのであり、また元老重臣もそのような考えに立って天皇を補弼していたのです。従って、当然のことながら、統帥権の行使についても統帥部(参謀本部及び軍令部)による補翼に期待したと思います。その統帥部が、もし天皇が自らの意にそわない場合、補翼責任者として「その過ちを正す」ことを当然としており、事実、同様の論理に基づいて、天皇を補弼する元老・重臣が次々と軍人によるテロの標的にされたのです。
いうまでもなく、こうした軍人の行動は、はじめから当時の国内法や国際法を無視しているのであって、こうしたアウトローを信条とする武力集団を法律で規制することは、たとえ天皇であってもそれが可能であったとは思われません。「たとえ、この時期に有能な首相が出ても、満州侵略に逸る軍部は、その政治力を持ってしても抑えることはできなかったであろう。時代は個人の政治力を超えて、日本の破局の序幕を開けはじめていた。」というのが、この時代の実相だったのではないでしょうか。
では、その若手将校たちに、そうした合理性を超えた、破壊的行動エネルギーを供給していたものは、一体何だったのでしょうか。次回からは、このことについて考えてみたいと思います。 
満州事変を熱狂的に支持する世論の変化 1

 

張作霖爆殺事件の「もみ消し」によって、軍部が真に守ろうとしたもの、それは一体何だったのでしょうか。もちろん、日清戦争以来、日本が膨大な犠牲を払って獲得した満州における「特殊権益」の擁護が目的であったことは間違いないのですが、問題はそれを達成する方法・手段です。張作霖爆殺事件の場合は、関東軍の高級参謀が、謀略により政府が承認した満州国の元首を爆殺し、その混乱を利用して軍事行動を起こし満州を武力制圧しようとしたのでした。
従って、もし、この重大事件の真相が明らかにされ、その責任者が厳罰に処せられるということになると、当然のことながら、軍中央の命令なしに、独自の政治的主張をもって、勝手に兵を動かした関東軍の下剋上体質が問われることになります。それと同時に、相手国の元首をも平気で爆殺する、その恐るべき危険性も国民の目に明らかとなり、その結果、そうした関東軍の暴走を食い止めるための方策や、徹底した軍紀の引き締めが図られることになります。
実は、軍部―特に陸大出の若手将校たちが最も恐れたことは、このように事態が進行することによって、軍に対する国民の信頼が失われ、その結果、彼らが「満蒙問題の根本解決」のための唯一の方策と考える「満州の武力占領」という強硬手段がとれなくなってしまうことでした。そのために彼らは組織を上げて、軍首脳はもちろん、政治家、官僚、マスコミに対する説得工作を行い、多数派を形成して田中首相を孤立に追い込み、事件の真相を闇に葬ったのです。
だが、問題はここからです。確かにこのあたりまでは、軍の行動は必ずしも国民の支持を得ていたわけではありませんでした。というのは、田中内閣による第二次山東出兵が引き起こした済南事件は、中国人の反日民族意識を決定的にし、さらに張作霖爆殺事件は、その後継者である張学良(張作霖の息子)を反日に追いやり、東三省の国民政府への合流を決断させたのです。そして、これらはいずれも軍事力行使を伴う軍の対中強硬策がもたらしたものでした。
ところが、この張作霖爆殺事件の三年後に起こった「満州事変」では、それが軍中央の命令を無視した、関東軍ぐるみの謀略的軍事行動であったにもかかわらず(もちろんその真相は国民には隠されていましたが)、マスコミを含めた国民の熱狂的な支持を受けることになりました。政府は謀略の証拠を列挙し、南陸相に対して不拡大を命じましたが、関東軍は、軍中央の黙認?や朝鮮軍の支援を得て戦線を拡大し、ついには政府も既成事実の追認を余儀なくされました。
この間わずか三年あまり、国民の意識は、張作霖爆殺事件の真相「もみ消し」以降、ほとんどクーデターに等しい関東軍による「満州の武力占領」を熱狂的に支持するまでに劇的な変化を遂げました。一体、この間に何があったか。いうまでもなくこの満州事変こそ、日本が泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、そして絶望的な対米英戦争へと突入していく、その起因となる大事件だったのです。しかし、この時、そのことに気づいた国民はほとんどいませんでした。
ところで、こうした満州事変の位置づけ方に反対する意見もありますので、まず、これに対する私見を申し述べてから先に進みたいと思います。以下は、渡部昇一氏の見解ですが、氏は関連する文献の紹介やユニークな著作を数多くものしており、私自身も氏から多くのことを教わっていますが、いくつかの点で、私見とは異なる部分もありますので、それを確認しておきたいと思います。
満州某重大事件は日本の侵略のはじまりか(以下『昭和史』渡部昇一による)
「張作霖爆殺事件も・・・関東軍の陰謀のにおいがしても、(満州の匪賊による)連続する鉄道爆破事件の「ワン・オブ・ゼム」ととらえられるところもあった」だからそれほど大きな国際問題とはならなかった。しかし、その後この事件は日本の満州侵略の始まりであるかのようにいわれるようになった。つまり「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない。
「日本は満州を侵略した」といういうが、まず、「満州における日本の『特殊権益』とは何か」を理解する必要がある。日本が満州に特殊権益を持つようになったのは、日清戦争(1894年)に日本が勝利し、下関条約で遼東半島が日本に割譲されたことにはじまる。
ところがその条約締結後一週間もたたないうちにロシア、フランス、ドイツの三国がわが国に「遼東半島を放棄せよ」と迫り、日本はやむなく遼東半島を清国に還付した。
ところがロシアは日本に返還させた遼東半島の要衝の旅順と大連を、清国の弱みにつけ込んで租借した(1998年)。それは不凍港がほしいというロシアの悲願によるものだった。さらにロシアは1899年に義和団事件の時に日本を含む諸外国と華北に共同出兵し、それが満州に及ぶと、兵を増派して全満州を占領した。そのとき清国はロシアを満州から追おうとしなかった。この満州に居座ったロシアを追い払ったのは日露戦争に勝利した日本だった。こうして日露戦争に勝利した日本は、満州を清国に返還させた上で、ポーツマス条約により次のような満州における権益をロシアより譲渡された。
1 ロシアは遼東半島の租借権を日本に譲渡すること。
2 ロシアは東支鉄道の南満州鉄道(長春〜旅順間。のちの満鉄線)と、それに付属する炭坑を日本に譲渡すること。
3 ロシアは北緯五十度以南の樺太を日本に譲渡すること。
つまり、こうした経緯を見てもわかるとおり、日本は満州を侵略したわけではない。これらは国際条約にのっとって正当に得た権益である。さらに、日露戦争後、清国はロシアとの間に「露清密約」という日本を敵視する条約を結んでいたことが露見した。もし、この事実が日露戦争以前に日本にわかっていたら、日本は満州を清国に返還する必要はなかった。
次に、「満州はシナではない」ということを理解する必要がある。十六世紀後半の満州の族長はヌルハチで、当時シナ大陸を支配していたのは明で、その支配権は満州には及んでいなかった。明にとって万里の長城の外側にある満州は文明の及ばない「化外の地」だった。その後ヌルハチは東満州を統一して「後金」という国を建てた。そのヌルハチの跡を継いだホンタイジは後金を「大清国」と改めた(1636年)。この間明との攻防が続き、その後継者フリンのとき、ついに明を倒し北京入城を果たした(1644年)。ここにシナ人は満州人の被征服民族となった。
こうした歴史を見る限り、満州という土地は清朝の故郷であってシナではない。しかも秦の始皇帝以前も以降も、シナの歴代王朝が満州を実効的に支配した事実はない。つまり、「満州族の清朝がシナを支配しているあいだは、シナ本土も満州も清国の領土であるが、そうでなくなれば満州とシナ本土は別個のものだ」「したがって辛亥革命によって清国が倒されたとき、あのときに最後の皇帝・溥儀が父祖の地・満州に帰っていたら、満州はシナとは『別個の国』として存続していただろう」。
そして渡部氏は結論として、溥儀の家庭教師であったレジナルド・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文章を引用しつつ、次のように主張します。「遅かれ早かれ、日本が満州の地で二度も戦争をして獲得した権益をシナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信するものは大勢いた。(『紫禁城の黄昏』第16章)
つまり、先に述べたような日本が日清・日露の二度の戦争で得た満州における合法的権益を侵したのはシナの方であり、それ故に、張作霖爆殺事件や満州事変の起こる必然性はあった、というのです。
このほかに「なぜ張作霖は狙われたか」や、張作霖死後にその後継者となった張学良が易幟を行い東三省(満州)の国民党への合流を決断し猛烈な反日運動を展開したことが満州事変を引き起こす直接のきっかけとなったこととか、幣原外相が軍部と協力して満州独立の方向で外交的な働きをすればよかったとか、最後に昭和天皇が張作霖爆殺事件の時、田中内閣に総辞職を迫る発言をしたことについて、重臣がそうした天皇の発言を抑えすぎなければ、その後の昭和史の悲劇はいくつも避けられた、とかが論じられています。
さて、こうした意見に対する私の考えですが、まず、満州における日本の「特殊権益」についての歴史的理解はその通りだと思います。ただ問題は、それを守るためにどういう手段・方法を選ぶべきであったかということで、軍事占領がただちに正当化されるわけではないと思います。また、満州はシナの領土ではなかったということは歴史的にはいえると思いますが、満州固有の問題をシナの問題に拡大したのは二十一箇条要求や華北分離工作(11/13)に見るとおりむしろ日本だったと思います。また、張学良の易幟は自分の父親が日本軍に故なく爆殺されたからであって当然だと思います。
なお、冒頭の満州事変及び張作霖爆殺事件を昭和史にどう位置づけるかということですが、私はいわゆる「東京裁判史観」などにとらわれることなく、それを日本の歴史の流れの中に、自分の常識で理解できる姿で位置づけるべく、さらにそれを山本七平氏の独創的見解とも対比しつつ、一つ一つ考えていきたいと思っています。
以上、渡部昇一氏の見解に対する私見を申し述べさせていただいた上で、先に問題提起しておきました、済南事件や張作霖爆殺事件以降満州事変に至るまでの間の急激な世論の変化がどうして起こったか、ということについて考えてみたいと思います。 
満州事変を熱狂的に支持する世論の変化 2

 

もう少し、渡部昇一氏の説に関わって、私の考え方を述べておきます。渡部昇一氏は「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない、と述べています。
これは、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が、戦前期の日本の指導者28名をA級戦犯とし起訴し「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」に問おうとしたとき、起訴状では、その訴追対象期間を1928(s3)年から1945(s20)年までとしたことに関わっています。つまり、この間に、日本の「犯罪的軍閥」がアジア・世界支配の「共同謀議」をなし、侵略戦争を計画・開始したと立証することによって、その犯罪成立を容易にしようとしたのです。
ここから、昭和十五年戦争という言い方も生まれてくるわけですが、実は、本稿の「山本七平と岡崎久彦の不思議な符合2」で,「塘沽(タンク−)停戦協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた]という事実をあえて紹介したように、満州事変から太平洋戦争までの間に、「犯罪的軍閥」による一貫したアジア・世界支配の「共同謀議」があったとはとてもいえないのです。
それが、渡部氏のいわれる「日本には日本の歴史があったのであり」ということの意味だと思います。実際、よく調べてみると、そのような事実はなくて、まあ、はっきりいって”行き当たりばったり”です。特に中国との戦争では、国民には戦争をしているという意識すら曖昧で、暴支膺懲という言葉が使われたように、中国が満州における日本の当然の権益を無視して「反日・侮日」を繰り返すから、満州事変が起こり日華事変の泥沼に陥ったのだといった気持ちで、むしろ被害者意識の方が強かったのです。
竹内好は、「近代の超克」の中で、そうした当時の国民の心理状況を次のように説明しています。
「『支那事変』」と呼ばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、『文学界』同人を含めて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命観の一支柱である「生命線」論(満州を日本の安全面及び経済面における生命線と見る見方=筆者)の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。」
さらに、亀井勝一郎は次のように述懐しています。
「しかしいまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年たっているにも拘わらず、『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない。たとえばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大勝の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」
これに比べて、アメリカに対しては、はっきりとした戦争意識を持っていました。それは、日本が先に述べたような泥沼に陥ったところに、アメリカが介入して一方的に中国の味方をし軍需物資を中国に送り込んだ。日本がその援蔣ルートを遮断しようとすると、今度は、日本の資産凍結や石油をはじめとする天然資源の対日禁輸を始めた。日本は、なんとか対米戦争を避けようと努力したが、アメリカはさらに、それまでの交渉経過を一切無視して中国からの完全撤兵を日本に要求した。このため日本はやむなく対米戦争を決意した、といった意識です。
そうした意識は、次のような、開戦二日目の河上徹太郎の言葉に典型的に表れています。 「私は、徒に昂奮して、こんなことを言っているのではない。私は本当に心からカラッとした気分でいられるのがうれしくて仕様がないのだ。太平洋の暗雲という言葉自身、思えば長い立腐れのあった言葉である。今開戦になってそれが霽(は)れたといっては少し当たらないかも知れないが、本当の気持ちは、私にとって霽れたといっていい程のものである。混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」
これが、満州事変以降日中戦争そして対米英戦争に至るまでの日本国民のいつわらざる正直な気持ちでした。一言で言えば、中国と戦争をしているという意識はあまりなくて、一方、アメリカとは民族の存亡を賭けて戦ったという気持ちです。そして、敗戦後の東京裁判において、日中戦争において中国人が被った甚大な被害を知らされた時、日本人は、亀井勝一郎の述懐にあるような「中国無視」の態度やその裏返しとしての日本人の「優越感」の存在にはじめて気づいたのです。
つまり、この事実をしっかりと認識することが、戦後の出発点でなければならないと思います。確かに昭和の戦争については、特に、陸軍幼年学校、海軍士官学校、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍大学などを卒業したエリート軍人たちによる、謀略・侵略的かつ独断・独善的的な国際法無視の軍事行動や、統帥権や軍部大臣現役武官制を悪用した国内政治の壟断などがありました。しかし、これをマスコミを含めた国民の圧倒的多数が支持したこともまた事実です。
そして、このような軍の行動と、国民の意識が分厚く重なり始める時期が、張作霖爆殺事件以降満州事変までの時期に当たるのです。それ以前は、当時満鉄副総裁をつとめていた松岡洋右の回顧録にあるように「当時、朝野の多くの識者の間において」満蒙の重大性に関する叫びが「頑迷固陋の徒の如くにさげすまれてさえ」いたのです。また、一部の左翼や自由主義者の間には満蒙放棄論さえ台頭しつつありました。
一方、軍人の間では、「満蒙は『明治大帝のもとに戦い血を流し十万の同胞をこれがために犠牲にした』聖地であると考えられていました。「彼らは、・・・満蒙放棄論が台頭していることを痛切になげき、在満青少年に呼びかけて満州に世論機関の創設を図ろうと試みた。『為政者のなすに任せたる満蒙』から『全国民の血によって購いたる満蒙』に転化するために満州青年議会の創設がはかられ・・・『若人の純真なる熱意と愛国心を持って』満蒙を死守する必要を説いた。」
こうして、関東軍と満州居留民指導者が一体となり、本土における満州「生命線」論の宣伝活動を精力的に展開していくのです。
また、この満州「生命線」論は、当時の青年将校達にとっては、もう一つの重要な意味を持っていました。それは、大正時代の軍縮ムードの中において、軍人はまるで無用の長物、税金泥棒扱いされていた事実に起因します。当時、軍人に対する世間の目は冷たく、新聞の投書欄には「軍人がサーベルをガチャ、ガチャさせて電車やバスに乗るのはやめてほしい」という女学生の投書が載るしまつでした。さらに、軍縮による兵員の削減は大量の失業者を生み、その救済策の一つが、妹尾河童の『少年H』の中等学校に配属された将校なのです。
「この風潮が軍隊、軍人にはどう受け止められたか、それが”十年の臥薪嘗胆”である。世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんのときである。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。その結果でてきたものは、『一夕会と桜会』」であり、この青年将校グループの中の一人が、張作霖爆殺事件を引き起こした河本大作でした。
この張作霖爆殺事件の真相については、「張作霖事件に胚胎した敗戦の予兆」でくわしく述べましたが、当事者の証言として極めて興味深い証言がありましたので紹介しておきます。これは、張の軍事顧問であった町野武馬大佐の証言を1961年に国立国会図書館が採録したものです。この録音は「三十年間は非公開」の条件付きで実施したもので、平成三年六月一日に、やっと公表さました。
「張作霖が欧米に接近し、日本に冷たくなったので、殺したという関東軍首脳の説はウソだ。張作霖は欧米だけでなく、日本も嫌いだ。けれども、わが国を本当に攻め得るものは日本だけだ。だから日本と手を握らにゃならないのだとよくいっていた。関東軍の首脳は、張を殺さないと満州は天下太平になり、日本では軍縮が激しくなる。軍人が階級をのぼりぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。そして張作霖を殺した。それは斉藤恒(注:関東軍参謀長)の案なんだ。」
私はこの説は、この本ではじめて知りましたが、実のところ、「河本大作は、なぜ張作霖を殺す必要があったか」という疑問について、「日本の言うことを聞かなくなったから」という説明は十分ではないと、福田和也氏なども疑問を呈していました。それだけに、「張を殺さないと満州は天下太平になり・・・」というのは、まさに驚くべき重要な証言です。確かに、この時期の青年将校達が抱えていた、大正デモクラシーに対するルサンチマンの激しさを考えれば、私はさもありなんと思いますが、それにしても・・・。
また、このことについては、幣原喜重郎も「満州事変」の原因について、それは「今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う。」と次のように述べています。
「・・・陸軍は、二個師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大ていが大佐が止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは、情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢がいっぺんに落ちてしまった。
軍人たちがこれを慨嘆して、明治以来打ち建てられた軍の名誉―威勢を、もう一度取り返そうと苦慮したであろうとは首肯けるが、血気の青年将校のたちの間では、憤慨が過激となり、『桜会』という秘密結社を組織したり、政党も叩き潰して、新秩序を立てよう。議会に爆弾を投じて焼き討ちしようなどという、とんでもない計画を立てるようになった。・・・これがすなわち柳条溝事件のはじまりで、満州事変の発芽である。」*岡崎久彦氏はこの説には疑問を呈していますが・・・。
もっとも、こうした軍人の主観的心理的動機の他に、国内外における経済的・政治的な客観的要因が重なったことも事実です。しかし、私には、これが、日清・日露戦争で軍功を上げ個人感状や金鵄勲章を受け元勲となった将官たちと、そうした実戦参加の機会を得なかった第15期以降の幼年学校から士官学校そして陸軍大学を卒業したエリート軍人たちとの意識のズレを最もよく説明しているように思われます。(山本七平もこのことについて、青年将校の決起の動機とされる「農村の貧困」について、「貧困は彼ら自身にあった」といっています。)
なぜ、彼らはあれほどまで必死になって河本大作を守ろうとしたのか。彼らの自己及び自国の実力に対する異常なまでの過信、中国人に対するはなはだしい蔑視と優越感、既成エスタブリッシュメント(元老、政治家、財界人等)に対するはげしい敵対意識、マスコミや国民に対する不信とその隠蔽工作、これらの肥大化した自尊心と被害者意識の根底には何があったか。そして、こうした心的傾向は、張作霖爆殺事件において予兆的に露呈していたと私は考えるのです。
さて、それでは、一般国民=大正デモクラシーの軍縮時代に軍人に冷たい視線を浴びせていた人びとは、一体、いかなる事情で、以上のような怪しげな軍人たちの主張に耳を傾け、さらに、これに熱狂的に支持するようになるのでしょうか。これが次に解明さるべき問題です。いずれにしてもできるだけ正確に事実関係を把握することが、問題解決の第一歩だと思います。意外と、それを解く鍵は、身近なところにころがっているのかもしれません。くどいと感じられる方もおられると思いますが・・・。 
満州事変を熱狂的に支持する世論の変化 3

 

そもそも満州問題はいつどこから発生したのでしょうか。前回、そのことについての渡部昇一氏の主張を紹介しましたが、もう少し詳しくこの間の経緯を見ておきたいと思います。
いうまでもなく、それは、日本が日清戦争で遼東半島全域を手に入れたことにはじまります(1895.4.17)。しかし、三国干渉でロシアにそれを中国に返還するよう迫られたので、賠償金を積み上げる形で遼東半島を清に返還しました(1895.5.4)。その後ロシアは、露清密約(1896.6.3)で、日本が満州・朝鮮・ロシアを侵略した場合の共同防衛、交戦中清国全港湾のロシア軍への開放、黒竜江・吉林両省を横断しウラジオストックに達する鉄道(東清鉄道)の敷設権を得ました。
さらに1898年、中国から遼東半島南部を25年間租借し、旅順・大連の港湾都市建設、東清鉄道の延長となるハルピン―旅順間の鉄道建設権を得ました。その後1900年に義和団事件が起こり居留民保護のため列国(8カ国)が共同出兵すると、ロシアは満州に大軍を送り、事件鎮圧後もこの地に居座り、事実上占領支配下に置き、さらに韓国の鴨緑江河口の竜岩浦に進出しようとしました。日本はこの事態に朝鮮支配の危機感をつのらせ、「満韓交換論」でロシアとの衝突を回避しようとしました。
しかし、ロシアは交渉の最終段階の回答(1904.1.6)で、「日本の韓国に対する援助の権利は認めるが、軍略的使用は認めないこと、朝鮮の北緯三十九度以北の中立地帯については最初の案を維持すること、そしてこれを日本政府が同意するなら・・・日本が満州は日本の利益外であることを承認する前提のもとに、ロシアは日本及び他国が清国から獲得した権利(ただし居留地の設定は除く)を認める」としました。これは、日本の韓国支配に制限を加えると共に、事実上満州支配を宣言するものでした。
こうして日露戦争が始まりました。日本陸軍は1904年2月8日に仁川上陸、旅順港外及び仁川沖での日本艦隊とロシア艦隊の戦闘、第一軍は朝鮮北部からロシア軍を撃退して満州地域に攻め込み、5月には第2軍が遼東半島上陸、第4軍は両軍の中間地点に上陸し、8,9月遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦と苦戦しながらも奉天に軍を進めました。一方、第3軍は8月以降旅順のロシア軍近代要塞に膨大な犠牲を強いられながらも、1905年1月にこれを陥落させ、旅順艦隊を撃滅し、3月には陸軍の総力を挙げて奉天を占領、さらに1905年5月27,28日には、対馬海域の海戦で日本連合艦隊はバルチック艦隊を壊滅させました。
この段階で、日本は国力の限界を見極め、アメリカに講和の斡旋を依頼しました。ロシアもロシア革命が高揚して政治体制が揺らいでいたことから、ポーツマス条約(1905.9.5)が結ばれ戦争は終結しました。〔日本軍の戦死者8万、戦傷38万人、戦費総額20億(前年の一般会計歳入総額は2億6000万円)、外債7億円〕これにより、日本は満州の清国への返還、韓国に対する日本の指導・保護・監督権の承認、清国政府の承認を前提として、ロシアの遼東半島租借権と長春―旅順間の鉄道権益の日本への譲渡、樺太南部の割譲、沿海州における日本の漁業権の承認、1qに15名以内の日本の鉄道守備兵配置を承認させました。
その後、日本は、第二次日韓協約(1905.11.17)により韓国の外交権の日本への委譲や統監の設置を認めさせ保護国化しました。また、ロシアから日本に譲渡された東清鉄道南部支線(長春―旅順)の鉄道および付属する土地建物、港湾、炭坑、さらに「日清満州善後条約」により、清国に経営権を認めさせた安奉(安東―奉天)鉄道を基礎に、1906年、南満州鉄道を設立しました。これは鉄道だけでなく炭坑、製鉄所などの鉱工業、自動車、水運、港湾埠頭、電気、ガス、旅館など多角経営を行うもので、満鉄付属地(沿線用地及び停車場のある市街地)においては日本は行政権を有することとなりました。
実は、この段階で、すでに、日露戦争後の満州における日本の地位をめぐって、陸軍と政府の間で意見の対立が生じていました。伊藤博文は、政府側を代表する立場で、「満州における日本の権利は、ポーツマス条約によってロシアから譲渡されたものだけである、満州は決してわが国の属地ではない、純然たる清国領土なのである」と主張しました。これに対して、児玉源太郎は、「国際法上は伊藤のいう通りだが、南満州を事実上は日本領にしておかなければロシア軍と戦えないとして、占領地に軍政署を置くなど「新領地」扱いし、さらに満州経営を統括する部門の新設などを提案しました。
結局、この局面では、政府の方針に従って、関東総督の機関を平時組織に改め軍政署は順次廃止されることになりました。しかし、陸軍の行き過ぎに歯止めをかけることには成功したものの、軍の満州に対する野望をくじくことはできませんでした。そして、この児玉に代表される考え方が、後の関東軍幕僚たちに受け継がれ実行に移されることになるのです。ただ、この段階では、「陸軍第一の山県でさえも、最後には、ライバルであった伊藤の側に立ち、児玉や寺内をたしなめ」ました。「さすがに山県は日本の国力の限界を心得ており、児玉を野放しにして英米を敵に回すようなことになっては、日本が危ないことを見通していた」と三好徹氏はいっています。
その後、1907年7月30日、第一回日露協約の付属の秘密協約により、日本とロシアは、鉄道と電信に関し、南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲とすることを相互承認しました。その後、1910年7月4日には、第一回日露協約を拡張し、鉄道と電信以外も全般的な利益範囲としました。さらに、1912年7月8日には、第三回日露協約を調印し、付属秘密協定において内蒙古部分について、北京の経度から東部分を日本の利益範囲としました。もちろんこうした合意は、中国側の了解をとってなされたわけではありませんでした。
そして、1915年5月、いわゆる二十一箇条要求にもとづく「南満州及び東部内蒙古に関する条約」により、1旅順・大連の租借期限及び安奉鉄道に関する期限を99年に延長すこと、2南満州における工業上の建物の建設、又は農業経営に必要な土地を商祖すること、3南満州において自由に居住往来し各種の商工業その他業務に従事すること、4東部内蒙古において支那国民と合弁により農業及び付帯工業の経営をすることを中国に認めさせました。その後この東部内蒙古は、32年の時点では熱河省と察哈爾省すべてを合した地域と日本側に認識されていました。
1921年から22年に賭けて開催されたワシントン会議では、「中国に関する九カ国条約」により、以上説明したような日本に有利と見られる諸条件が消滅したかのように思われます。しかし、アメリカ全権・ルートの提出した四原則が「中国に関する大憲章」として採択され、そこには安寧条項と呼ばれた項目があり、「帝国の国防並びに経済的生存の安全」が満蒙特殊利益に大きく依存する、という日本のかねてからの主張に理解が示され、各国は中国の既得権益を原則的に維持することで合意していました。
こうして、日本の満蒙特殊権益の擁護は、まず、幣原喜重郎の「条約に基礎をおくものであり確固としたものである」とする主張にそって進められることになります。しかし、第二次南京事件を経て「軟弱外交」との批判を受けるようになり、ついに1927年4月退陣に追い込まれました。しかし、次の田中首相による「積極外交」は、早速、第二次山東出兵で済南事件を引き起こし、国民政府の対日観は決定的に悪化しました。さらに「張作霖爆殺事件」は張学良に易幟を決意させ、満州を国民党の支配下におきました。その結果、唯一の残された満蒙権益擁護策が、陸軍が日露戦争以来宿願としてきた武力による「満蒙領有」だったのです。
しかし、こうした軍事行動を伴う「満蒙領有」論は、1928年8月27日にパリで戦争放棄に関する「不戦条約」の調印によって、その「国防」のための軍事行動が「自衛権」に限られることになったため、日本の満蒙特殊権益擁護の措置がはたして「自衛権」で説明され得るかどうか問題となりました。検討の結果、その治安維持のための軍事行動は正当化されないと認識されました。にもかかわらずというべきか、それ故にというべきか、その後、こうした「満州領有」を正当化するための「満州生命線論」の一大キャンペーンが満州だけでなく内地においても繰り広げられることになるのです。
前回にも紹介しましたが、当時の、国民一般や知識人の間における満蒙問題の認識は次のようなものでした。
「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びは寧ろ頑迷の徒の言の如くに蔑まれてさえいた、之は事実である。国民も亦至極呑気であった、・・・情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」
そして、丁度この頃、張作霖爆殺事件が起きて4ヶ月後の1928年10月はじめ、石原莞爾が関東軍参謀(作戦主任)として旅順の軍司令部に着任しました。それは東三省側の排日体制の激化にともなって、「警備上応変の準備として対華作戦準備を必要とするようになった」と関東軍が考え始めた時期と一致していました。また、それは張作霖爆殺事件調査で峯憲兵隊長来満の直後でもあり、河本の取り調べが行われていましたが、河本はうそぶくように満蒙武力解決の必要を強調し、石原もこれを当然としていた、といわれます。
こうして石原は、河本とともに作戦計画の検討を関東軍幕僚会議に提議しました。そこで採択された案は、「万一事端発生するとき」は、「奉天付近の軍隊を電撃的に撃滅し、政権を打倒」しようとするものでした。「この案は、防衛計画としての衣装をまといながら全面的武力衝突の可能性を増大させ」るものであり、具体的計画もこの原則にもとづいて研究されることになりました。また、「29年2月28日に満州青年連盟第一回支部長会議が開かれ、小日山理事長は、日本が満蒙から『旗をまいて引揚げる運命』におちいることは断じて許せぬ」と述べて、奇しくも石原構想を背後から支持することになりました。
「このような関東軍の満蒙武力行使計画による実戦の準備と平行して、満州青年連盟は満州における在留邦人の世論を統一するため、また国内世論を喚起沸騰させるために独立した活動を行って」いました。彼らは幣原外相が、在満同胞の排外主義を批判し「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発しました。そして、「満蒙問題とその真相」と題するパンフレットを一万部印刷し、これを内地の政府当局、各代議士、各新聞、雑誌社、各県当局、青年団その他各種団体など、鮮満各方面にまで広く配布しました。
その主張は、「満蒙はわが国防の第一線として国軍の軍需産地として貴重性を有するのみならず、産業助成の資源地として食料補給地としてわが国家の存立上極めて重要な地域である」という大前提のもとに、日本の特殊権利を「支那はもちろんのこと列国に向かって堂々と主張し得る政治上ないし超政治上の根拠理由を有する」と説いていました。さらに、「全既得権益を一挙にして抛去らんとする険難」が迫ってきた今日「吾人は起って九千万同胞の猛省を促す」と主張しました。
こうして、旅順、鞍山、奉天と全満州各地には武力解決のムードを作るための遊説隊が送られました。石原・板垣らの企図した在留邦人の世論統一を創出するための方策は、青年連盟による「満蒙領有」運動として自然とおし進められました。満州青年連盟はさらに大連新聞社の協力で、1931年6月中「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民を鞭撻し国論を喚起する目的で、遊説隊を内地に送ることにしました。内地では政府・軍首脳、政治家らと会見し、財界や新聞社を訪問し「幣原氏の軟弱外交」を非難する一方、「満蒙解放論」は当然であると論じました。
こうした青年連盟の圧力運動は、「満蒙放棄論」をとなえていた関西財界の空気に大きく影響したばかりでなく、東京においては七十一団体を強硬論へと結束させたとさえいわれました。貴族院の研究会、公正会はもとより枢密院の福田雅太郎、伊藤巳代治などを含む黒幕の権力者もその強硬論のあおりを受け、8月5日には上野、日比谷の二カ所で国民大会が開催されて全国的運動への糸口が今やきり開かれました。このような満州現地からの本国への圧力とならんで、関東軍の板垣も帰京して軍中央と連絡を取っていました。
そこで示された「情勢判断に関する意見」は、米ソとの開戦を覚悟しても満蒙を領土化せよと主張するもので、その根拠は、今日の恐慌による未曾有の経済不況は、アメリカ製の資本主義や民主主義がもたらしたものであり、そこにソ連製の共産主義が進入しようとしているから、「日本が経済及び社会組織を改めて社会改造を行う必要がある」と主張するものでした。さらに謀略計画に関する意見では、日本の満蒙獲得が日米、日ソ戦争を誘発する公算があるから、「支那中央政府を転覆せしめて親日政府を樹立する」謀略が推奨されていました。
こうした動きの中で、民政党は6月30日、幣原外交擁護の声明書を発しました。それは「政友会の田中内閣の外交が『支那のみならず南洋方面の排日をも引きおこして、対支対南洋貿易を危機に陥れたことを立証し』、外交知識の欠乏せる田中大将が、『我が国の対支外交をほとんど救う能わざる窮地に陥れた』と非難したうえ、民政党内閣の成立とともに、『(一)日貨排斥が沈静に帰し、(二)日支関税協定が成立し、(三)政友会内閣のとき行きづまった満蒙鉄道協定の交渉が開始され、(四)間島の共匪事件が解決して同地における共産党の細胞組織が完全に破壊され、(五)治外法権問題を中心とする日支通商条約の改定商議が開始されんとしている』ことなどをあげて、国民に対して幣原外交に対する支持を呼びかけました。
だが、こうした幣原の努力も、1931年9月18日の「柳条溝事件」いわゆる満州事変の勃発によって、完全に息の根を止められてしまいました。そして国民の間には、数年前までは「満蒙放棄論」さえ唱えられていたものが、この関東軍による謀略戦争、彼ら自身には米ソとの開戦さえ必然と見なされたこの満州の武力占領策を、熱狂的に支持する空気が生まれるのです。もちろん、こうした世論の急展開の背後には石原莞爾という一種の偽メシア(予言者)がいました。その終末論は、ハルマゲドンを思わせる最終戦争論、最後の審判後の千年王国のような満蒙王道楽土論をともなっていました。
では、そうした彼らの一種の宗教的信念に基づく、満蒙を日本の国家改造の前線基地とする彼らの国家改造論を根底においてささえていたものは一体何だったのでしょうか。あるいは、それは前回紹介したような大正デモクラシー時代の政党政治に対するルサンチマンだったのかもしれません。そうしたエリート将校の「恨み」と「傲り高ぶり」、「国際法無視」の精神が、日清・日露戦争以来ほとんど無意識のレベルにまで達した日本国民の、中国人に対する蔑視感や日本人の優越感を励起させた、それが、この間の世論の急激な変化をもたらしたように思われます。
では、次に、こうしたルサンチマンに基づく国家改造運動を扇動した、偽メシア石原莞爾の戦争責任について論じたいと思います。彼の戦争責任を故意に看過し、天才的思想家とあがめる論調が余りに多いように思われますので・・・。 
 
石原莞爾の戦争責任

 

1 
ここまで、幣原外務大臣の「協調主義外交」がどのように行き詰まっていったかを見てきました。特に「張作霖爆殺事件」を適切に処置し得なかったことが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延さすなど決定的な悪影響を及ぼし、ついに満州事変を引き起こすに至ったことを指摘しました。また、この間、国民世論は大正デモクラシー時代は軍縮や国際協調外交を支持していましたが、済南事件や張作霖爆殺事件を契機に反日運動や国権回復運動が高まると、関東軍の主張する「満蒙領有論」を熱烈に支持するようになったことも指摘しました。
こうした国民世論の急激な変化の背景には、軍による世論操作があり、さらにその背景には、軍縮による軍人の失業や威信低下をもたらした大正デモクラシー下の政党政治に対するルサンチマンがあったことも指摘しました。しかし、もちろんそれだけではありません。客観的要因としては、1920年の第一次世界大戦後の「反動恐慌」、次いで東京大震災後の「震災恐慌」(1923)、そして震災手形の処理問題に端を発した「金融恐慌」(1927)があります。さらに浜口雄幸内閣の金解禁(1930)によるデフレーション政策と世界恐慌が重なって、日本経済が深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の倒産、、失業が急速に増大したことも指摘しなければなりません。
これは、どちらかといえば外的要因によるものですが、実は、先に述べた「国民世論の急激な変化」の背景に、もう一つ、国民の隠然たる反米主義や中国人に対する近親憎悪的な反感が含まれていたことに注意する必要があります。渡部昇一氏は、こうした日本人の排外主義的な心情を生んだ背景には、次のようなアメリカ人や中国人の反日政策があったと指摘しています。そして、これらが、幣原外相がそれまで進めてきた国際協調外交の基盤を掘り崩し、日本国民の幣原外交に対する信頼を失わせるに至った根本原因であるとも指摘しています。
第一は、アメリカの人種差別政策
第二は、ホーリー・ストーム法(米国で一九三〇年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向
第三は、支那大陸の排日・侮日問題
第一の問題は、日露戦争の翌年(1906)に発生したサンフランシスコ大地震後に、日本人や朝鮮人児童(中国人も含む)を公立学校からの閉め出したことにはじまります。ついで大正2年(1913)には、カリフォルニア州は土地法により日本人移民の土地所有を禁止、さらに1920年には、借地も禁止するという州法を成立させ、また他の州でも同様の州法が制定されました。さらに、1922年には、米国の最高裁判所は日本人の帰化権を剥奪する判決を下し、それまでに帰化していた日本人の市民権まで剥奪しました。そして、1924年には、日本人の移民を完全に禁止する「排日移民法」を成立させました。
こうしたアメリカの措置が、元来は親米・知米的であった日本の学者、思想家、実業家をも憤激させ、そして日露戦争以来親米的であった国内世論を一挙に反米に向かわせることになりました。渋沢栄一は、排日移民法が成立した年に行った講演で、「(私は渡米後、)アメリカ人は正義に拠り人道を重んずる国であることを知り、かってアメリカに対して攘夷論を抱いていたことについてはことに慚愧の念を深くした。そして自分の祖国を別としては第一に親しむべき国と思っておりました。」と前置きした上で、次のように慨嘆しています。
「さらにこのごろになると、絶対的な排日移民法が連邦議会で通ったのであります。長い間、アメリカとの親善のために骨を折ってきた甲斐もなく、あまりに馬鹿らしく思われ、社会が嫌になるくらいになって、神も仏もないのかという愚痴も出したくなる。私は下院はともかく、良識ある上院はこんなひどい法案を通さないだろうと信じていましたが、その上院までも大多数で通過したということを聞いた時は、七十年前にアメリカ排斥をした当時の考えを、思い続けて居たほうが良かったというような考えを起こさざるをえないのであります。・・・」
第二の問題は、第一次世界大戦後の過剰投資が原因となって、1929年10月24日(暗黒の木曜日)のニューヨーク株式市場が大暴落し、深刻な世界恐慌に発展したことに端を発しています。アメリカはこうした状況の中で、1930年6月に国内産業保護のためと称して1000品目以上の商品に高率の関税障壁を設けるホーリー・ストーム法を成立させました。これに対してどの国もこれに対抗して保護関税を設け、このためアメリカの輸出・入は半減し大不況に陥りました。さらに、こうした保護貿易の風潮の中でイギリスはオタワ会議を開き、イギリス連邦内に特恵関税同盟によるブロック経済を導入しました。
これらのブロック経済の導入は、資源に恵まれたアメリカやイギリス連邦などのアングロ・サクソン圏では、国内やブロック内で何とかやっていけますが、資源のない国はどうしたらいいか。特に日本の場合は、近代産業に必要な資源をほとんど持たず、「せいぜい生糸を売って外貨を稼ぎ、それで原料を買い、安い労働力を使って安い雑貨を売り、それによって近代工業を進め、近代軍備を進めてきたのである。それに日露戦争以来の借金も山のようにある(そうした日本の負債がゼロになったのは昭和63年=1988年12月31日である)。」という状態でしたから、これは死活問題でした。
こうした状況の中で、日本が近代国家として生き延びていくためには、自らの経済圏を持たなければならないと多くの日本人が考えるようになったのも当然でした。また、先に述べたように、日本ではすでに昭和2年(1927)から金融恐慌に伴う不況がはじまっており、それに拍車をかけるような形で金解禁が断行され、不況は一層深刻化していました。おりしも、昭和6年9月21日にイギリスが金本位制から離脱したため、井上財政は信憑性を失い若槻内閣は総辞職し、それに代わって犬養毅内閣の高橋是清が蔵相となりました。その高橋が金解禁を廃止するやいなや円安状況が生じ、輸出ブームとなり景気が回復していきました。そして丁度この時期が、満州事変(昭和31年6月18日)と重なっていたことも、関東軍の暴走が国民に支持された一因だと渡部昇一氏はいっています。
第三の問題は、中国人の日本に対する意識が、日清・日露戦争後の「恐日」あるいは「敬日」から、日本の「対華二十一箇条要求」(1915)を境に、「排日」そして「反日」・「侮日」さらにはボイコット運動へと変わっていったということです。この「二十一箇条要求」については以前説明しましたが、外交の拙劣としか言い様のないもので、最終的にはワシントン会議(1921〜22)において当時駐米大使であった幣原喜重郎の努力でなんとか誤解を取り除くことができました。しかし、中国では、「二十一もの不当要求を日本が大戦のどさくさに中国に押しつけた」とされ、この条約の締結日である1915年5月9日は、中国の「国恥記念日」とされました。
渡部昇一氏は、この他に、清朝が滅んだ後、袁世凱が共和国大統領となって「米国と組んで日本を抑える」方針をたてたこと。また、米国のウイルソン大統領が唱えた「十四箇条」が、その後の中国の反植民地主義を支えるバイブルになったこと。また、1919年のパリ講和会議あたりから、中国でしきりに日英同盟更新反対運動が起こったこと。さらにアメリカも、日露戦争後の日本に対する警戒感の高まりや、中国における日本との利害関係の対立から、イギリスに対して日英同盟の廃棄を迫り、その結果、日英同盟は廃棄され「四カ国条約」に代えられたこと。これらが、日本を孤立させ中国人の「侮日」を招くことになったと指摘しています。
この間、支那では、清朝が滅んでのち中国各地の軍閥間の争いが続き、1922年には張作霖が東三省=満州の独立を宣言しました。「この間にも孫文の北伐や、奉天軍と直隷軍の戦い、いわゆる奉直戦争が二度も行われ、大正13年(1924)には、安徽省出身でありながら直隷派と手を組んだ馮玉が北京を占領した・・・。その翌年には広東の国民政府が樹立され、昭和2年(1927)には王兆銘の武漢国民政府出来、同じ年には蒋介石の南京国民政府ができる」といった具合で、めぼしい政府だけでも四つ五つあるといった状態でした。そんな中で、国家統一をめざす国民の中に、排外思想や攘夷思想、特に「排日思想」が強くなるのは自然の成り行きでした。
そして、以上述べたような状況下にあって、いかにして日本の安全を確保し、民族としの生存をはかっていくか、そして、そのための生命線と考えられ急にクローズアップされたのが、「満州問題」でした。しかし、中国の「排日思想」の高まりの中で、幣原喜重郎の「対支宥和外交」は、蒋介石による北伐にともなって発生した第二次南京事件を経て「軟弱外交」「屈辱外交」との批判を浴びるようになりました。さらに、済南事件や張作霖爆殺事件の処理の失敗によって、対支関係は決定的に悪化しました。そこで、この「満州問題」解決のために残された唯一の手段が、武力による「満州領有」だったのです。
こうした「満州領有」という考え方は、日露戦争以来、陸軍に根強くあったことは前回指摘しました。しかし、こうした手段に訴えることは、ワシントン会議の「九カ国条約」における中国の領土保全・主権尊重と門戸開放・機会均等主義や、さらには1928年の不戦条約(国際紛争を解決するため、あるいは国家の政策の手段として、戦争に訴えることをは禁止され認められなくなった。ただし国際連盟の制裁として行われる戦争及び自衛戦争は対象から除外)が成立して以降は、決して許されることではありませんでした。この時、その難問を解くべく登場したのが、昭和3年10月関東軍参謀として赴任した石原莞爾だったのです。
しかし、結果をいえば、石原莞爾も、その満州占領直後から、自らの理論では到底国際社会を説得しきれないこと、また、中国人の納得も得られないことを悟らざるを得ませんでした。そのため、当初の「満州領有」計画は諦め、満州人の自治運動の結果としての「満州独立」という体裁を取らざるを得なくなりました。さらに、その「最終戦争論」に基づく米国との戦争に備えるためには「日・満・支」の連携が不可欠で、そのためには、満州を五族共和の「王道国家」としなければならないと考え、日本の指導性を排除することや、ついには、満州国の官吏たる日本人の日本国籍離脱を主張するようになったのです。
こうした石原の「ユートピア」的ロマンチシズムは、当初は、「満州占領」の大義名分を求めていた軍人たちに強くアピールしましたが、やがて、そのリアリズムの欠如から遠ざけられるようになり、満州事変(1931.9.18)のわずか1年後の1932年8月には満州を追われました。石原退去後の満州は、関東軍による満州国政府に対する「内面指導」という名目での日本人官僚支配が強化され、それまでの「独立援助」は「属国化」に、「民族協和」は「権益主義」(=帝国主義)に姿を変えていきました。「内地に帰還した石原は永田鉄山参謀本部第二部長と面談した際『満州は逐次領土となす方針なり』と聞かされ愕然」としたといいます。
その後石原莞爾は、1935年に参謀本部第一作戦課長として復帰し、2.26事件において戒厳司令部参謀を任じられ事件処理に当たっています。また、1927年には作戦部長となって、関東軍の華北分離工作や廬溝橋事変後の戦線の拡大に、「最終戦争論」に基づく総力戦準備、生産力拡充計画を専行させる観点から執拗に反対しましたが、関東軍参謀長である東条英機や部下の参謀本部作戦課長の武藤章の「一撃論」を抑えることはできませんでした。そして、1937年9月関東軍参謀副長に左遷され(参謀長は東条英機)、38年8月には辞表を提出、41年には退役しました。
このように見てくると、石原莞爾がなした歴史的仕事は、柳条湖事件という鉄道爆破謀略事件の後約1年間の「満州事変」の計画・実行それのみということになります。しかも、その結果生み出された「満州国」は、彼の「最終戦総論」にいう「王道国家」の理想とは似ても似つかぬもので、ただ、日本の戦争遂行に寄与・貢献するための官僚統制国家=日本軍による傀儡国家へと必然的に収斂していきました。さて、こうした歴史の推移を、石原莞爾の不明として責めるべきか、それとも彼の理想主義の挫折として惜しむべきか、私はその「偽メシア」としての厄災をこそ、しっかり認識する必要があると思います。 
2

 

「政治家はヴィジョンを持たなくてはといわれる。目先のことに捉われずにヴィジョンを持った政治をやれ、たしかに結構なことに違いないが、余りヴィジョンをもたれすぎても困ることがある。戦前の日本人で、石原莞爾ほど壮大なビジョンを展開し、それが全く崩壊し、結果が国を滅したという人もないだろう。なぜなら、彼がヴィジョン展開の第一着として演出した満州事変は、日本を世界に孤立させる始まりとなったばかりでなく、石原がおかした下剋上、政府無視、そして独善がこの後の陸軍を支配して、やがては国を破局に導いていくからである。」
これは、高田万亀子氏の石原評ですが、私も石原莞爾の関係資料をあたってみて、ほぼこの通りではないかと思いました。ただ、石原の「下剋上、政府無視、そして独善」的傾向は、私が「張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆」でも述べたとおり、当時の軍人特に「二葉会」「一夕会」「桜会」等に集った青年将校たちにも見られた傾向でした。石原莞爾は、こうした精神傾向を彼の壮大なヴィジョンによって粉飾し、一方、冷厳な作戦計画によって満州事変を奇跡的成功に導くことによって、それを正当化したのです。
ところで、これらの「二葉会」や「一夕会」と呼ばれた青年将校グループにはある特徴がありました。彼らは陸軍士官学校卒第15期から25期に属する人たちで、その多くは、1896年に東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に新設された陸軍地方幼年学校(13、15歳から3年の修学期間、定員各50名)、中央幼年学校(2年の修業期間)を卒業し、陸軍士官学校(1920年より予科2年、隊付き6ヶ月、本科1年10ヶ月)に入り、さらに陸軍大学校(隊付き2年以上の大尉、中尉から1期50名内外を選抜し3年間修業)を卒業した超エリート軍人(いわゆる「天保銭組」)だったのです。
また、彼らが陸軍大学を卒業して現役についたのは日露戦争後であり、つまり、彼らは実戦経験をもたない「戦後派」でした。これに比べて、彼らの先輩達(第15期以前=当時の軍首脳、軍事参議官、師団長、連隊長)は、全員日露戦争の功労者、戦場の殊勲者で「個人感状」や「金鵄勲章」をもらった人たちでした。これら賞を軍人たちが最高の栄誉としてどれだけ羨望したか・・・、しかし、これは戦場で砲火をくぐって戦うか、あるいは最高戦略に参画し”武功抜群”と認められる働きをしなくては手にすることのできないものでした。
それに加えて、彼らが佐官となり活躍を始めた頃は、第一次大戦の惨禍を経て軍縮が世界の潮流となった時代でした。大正11年6月11日成立の加藤友三郎内閣では、戦艦「安芸」「薩摩」以下14隻を廃棄し、戦艦「土佐」「紀伊」など6隻を建造中止にしました。それにともない海軍の現役士官と兵7,500人を整理し、海軍工廠の工員14,000人が解雇されました。また、山梨半蔵陸相も陸軍の兵員53,000人、馬13,000頭を減らし、大正13年までに退職させられた陸軍将校は約2,200人にのぼりました。続いて、第二次加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成は、陸軍4個師団を廃止し、整理された兵員は将校以下34,000人に達しました。昭和5年のロンドン軍縮会議による軍縮では、海軍工廠の工兵8,233人が解雇されました。
「こうした一連の軍縮によって、深刻な絶望感をいだいて動揺したのは当然職業軍人であった。彼らは財閥とむすんで(軍縮をおし進める:筆者)腐敗した政党政治に不信感を深める一方、新しい希望を満蒙の大陸にもとめる気運が強くなった。とりわけ満州に”事変”を誘発して、新国家を建設しようとうごきはじめたのは、陸軍省及び参謀本部の天保銭組のエリート軍人たちであった。彼らはまず、自分たちの栄進をさまたげる陸軍中央の「藩閥」(=長州閥:筆者)にたいして猛然と挑戦した。」
なお、ここにいう陸軍中央の「藩閥」とは、初代陸軍大臣の山県有朋以来の長州閥と薩摩閥のことで、山県の死(大正11年2月1日)後、長州は陸軍、薩摩は海軍を背景に、軍の要職や政権をねらって排他的な権力闘争を展開しました。ところが大正末期になると、薩長とも人材難で藩閥内に後継者がいなくなり、そこで長州閥の田中義一大将は、宇垣一成(岡山)、山梨半蔵(神奈川)を自派に引き入れました。これに対して、薩摩閥の上原勇作は武藤信義、真崎甚三郎(以上佐賀)、荒木貞夫(東京)などの有力将軍を自派(これが後に皇道派となる)に引き入れ、藩閥闘争を繰り広げました。*海軍の場合は兵学校の入学試験が難しいことから次第に薩摩閥は解消したが、陸軍の長州閥は宇垣陸相時代まで続いた。薩摩閥の上原はこれに挑戦した。
これに対して、第16期以降の陸軍中央の天保銭組のエリート将校達は、こうした藩閥(=長州閥)がらみ人事や「戦わずして四個師団を殲滅」させた軍縮に反感を抱き、藩閥打倒の運動を始めました。その嚆矢となったのが、天保銭組の中でも三羽烏といわれた永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三少佐で、彼らは大正10年に南ドイツの温泉郷バーデンバーデンで「長州閥打倒・陸軍の人事刷新」の密約を交わしました。「二葉会」(14期から18期までの佐官級約20名)や「一夕会」(「二葉会」のメンバーと第20期から25期までの佐官級将校が合流約40名、昭和3年結成)など従来の藩閥に代わる「学閥」はこうして形成されたのです。
この時、彼らがめざしたものは、1陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること。2満蒙問題の解決に重点を置く。3荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護りたてながら、正しい陸軍を立て直す(「一夕会」第一回会合決議S3.11.3)でした。といっても、重点は「人事の刷新」に置かれていて、必ずしも下剋上的な非合法手段が是認されたわけではないといいます(『昭和の軍閥』)。しかし、陸軍の伝統的な「日満一体」の考え方を背景に、軍事上の見地や満蒙の自給自足的経済的見地が重なり、これを「日本の生命線」として「満州領有」を主張する考え方が急激に高まっていきました。10/14)
ここに登場したのが石原莞爾で、彼は、満州に赴任(s3.10)するまでに、後の「世界最終戦総論」の発端をなす「戦争史大観」を構築していました。それは、「第一次世界大戦の次に「人類最後の大戦争」が起こる。それは飛行機をもってする殲滅戦争である。また、それは全国民の総力戦となる。それは「日蓮上人によってしめされた世界統一のための大戦争」であって、最終的には、東洋文明の中心たる日本と西洋文明の中心たる米国の間で争われる」というものでした。これは戦史研究の成果というより、むしろ宗教的終末論によって日米間の最終戦争を不可避としたものだと思います。
その上で、彼は昭和4年7月5日に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決策」を関東軍参謀として策定し、次のように「満蒙領有」の歴史的必然性とその問題解決方針を提起しました。
一、3 満蒙問題の積極的解決は単に日本の為に必要なるのみならず多数支那民衆の為にも最も喜ぶべきことなり即ち正義の為日本が進で断行すべきものなり。歴史的関係等により観察するも満蒙は漢民族よりも寧ろ日本民族に属すべきものなり。
二、1 満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することによりて始めて完全達成せらる。対外外交即ち対米外交なり 即ち前記目的を達成する為には対米戦争の覚悟を要す。若し真に米国に対する能はずんば速に日本は其全武装を解くを有利とす
  2 対米持久戦に於て日本に勝利の公算なきが如く信づるは対米戦争の本質を理解せざる結果なり 露国の現状は吾人に絶好の機会を与えつつあり
三、2 若し戦争の止むなきに至らば断固として東亜の被封鎖を覚悟し適時支那本部の要部をも我が領有下に置き・・・其経済生活に溌剌たる新生命を与へて東亜の自給自足の道を確立し長期戦争を有利に指導し我目的を達成す(以下略)
こうして、石原莞爾によって、済南事件以降ほとんど手詰まり状態になっていた満州問題の根本解決が、日本の「満州領有」という形で可能とされるに至ったのです。そして、この日本の「満州領有」には「日米戦の覚悟がいるが、それは満蒙だけでなく支那本部の要部も領有下に置き、自給自足の道を確立すれば有利に持久できる。決勝戦は日米間の徹底した殲滅戦になる。・・・国民は鉄石の意志を鍛錬しなければならない。」そして「これを勝ち抜けば王者天皇の下の永久平和がくる」とされたのです。
だが、はたしてこれが思想の名に値するでしょうか。単に、当時の軍の「満州領有」の願望に迎合しそれを粉飾しただけではないでしょうか。そのために、移民問題に端を発した日本人の反米感情を巧みに利用し、満州領有の結果予測される日米戦争の危険を永久平和に至るための試練と言い換え、済南事件の失敗や張作霖爆殺事件の暴虐に憤激する中国人の反日感情を一切無視して、満州領有は多数支那民衆のためにも喜ぶべきことなりという。こうした中国人に対する優越感と蔑視意識は、当時の日本人の潜在意識の中にあり、石原はこうした日本人の潜在意識をも巧みに利用したのです。
さらに、マルクスの歴史必然論を借用してインテリ受けを良くし、仏教的終末論を使って西欧文明の終末を予言し、さらには皇国史観に基づく天皇親政論を使って統帥権の独立を「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権」と神秘化した。私は、これだけの壮大な思想的粉飾があってはじめて、このクーデターまがいの満州事変は成功したのではないかと思います。この結果、関東軍は「中央が出先(=関東軍)の方針を遮る場合には、皆で軍籍と国籍を脱して新国家建設に向かうべし」とまで極言するようになりました。そして、ついに政府も満州国を黙認するほかなくなりました。
この後の、関東軍の華北分離工作に至る日本軍将校によるテロや謀略活動の連鎖を見ていくと正直言ってあきれ果てるというか、司馬遼太郎さんではありませんが、”精神衛生上良くない”。一方、蒋介石の忍耐力には同情を禁じ得ない。確かに戦争に正義・不正義はないとは思いますが、それにしても当時の日本軍将校の思い上がり、自己絶対化、他者蔑視の精神構造には参ります。一体、この精神構造はどこからきたか。おそらく、これを中国人やアメリカ人のせいにするのは間違っている。それは日本の伝統思想中にもとめる外ない、私はこのように指摘する山本七平さんの見解が当たっているように思います。 
3

 

「メシア」とは、ヘブライ語またはアラム語で油を注がれた者、すなわち聖別された者を意味する言葉です。出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれていますので、後にそれが「油注がれた者」すなわち理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになったと辞書には説明されています。私が石原莞爾について「偽メシア」という言葉を使ったのは、彼の言葉と行動は、はたして、昭和6年という日本の危機の時代において、民族の伝統文化を未来に向けて発展させる契機をもっていたか、ということについて疑問を感じているからで、私はむしろその逆だったのではないかと思っています。
もちろん、こうした見解は従来のものと特に変わってはいないのですが、最近の石原評の中には、彼の頭脳の並外れた優秀性と、満州事変の奇跡的な軍事的成功に幻惑されて、その「偽メシア」的メッセージの及ぼした害毒の深刻さを看過しているものが多いような気がします。とりわけ福田和也氏の『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』では、「世界最終戦総論も、満州国も、五族協和も、東亜連盟も、永久平和も、都市解体も彼の祈りであった。」「石原莞爾の魅力は、・・・その根源は、やはり高い倫理性、理念性にあると思う。」として、その生き方や精神性を高く評価しています。
だが、私は石原莞爾の場合は、そんな資質よりも、彼の「政的的行動」が日本に及ぼした結果責任をこそ、厳しく問うべきだと思います。よく、彼の東京裁判の「酒田臨時法廷」における発言が紹介されます。いわく「もし大東亜戦争の発端の責任が満州事変および満州国にあるというのなら、その第一の戦争責任は自分にある、なぜ自分を裁かないのか、と裁判官を問い詰めた」と。これは「潔く自らの責任を認め、勝者の矛盾を暴き、糾弾する」という石原の捨て身で痛快なイメージを伝えるものですが、これが真実かどうかとなると、かなり怪しい。
そもそも、彼が計画・実行した満州事変が、石原莞爾や板垣征四郎を中心とするごく少数の将校たちによる謀略(柳条湖事件)に始まることが明らかにされたのは、歴史家の秦郁彦氏が、事件の首謀者の一人花谷正(事件当時奉天特務機関補佐官)らをヒアリングしてまとめた、「別冊知性」(河出書房)の記事「満州事変はこうして計画された」(1956年秋)が最初です。それまでは、この事件は日本軍の犯行と推断されてはいたのですが、決定的な証拠はなく、東京裁判でも検察の追求は不徹底に終わり、石原は戦犯指定を免れました。事実、彼は、検察側証人として次のような虚偽の証言をすると共に自分の責任をも否定しています。
「石原は、一九四六年(昭和二一年)五月三日に、東京逓信病院で行われた国際検察局による第一回の尋問において、自分や板垣が満洲事変を計画したことを否定している。また、石原は、日本軍による南満州鉄道線路の爆破をも否定し、五月二四日に行われた第二回の尋問で、再度、南満州鉄道線路の爆破について問われた際は、「私は中国人が、一九三一年九月一八日に鉄道線路を爆破したと思っている。」と答え、日本軍が満洲事変を計画的に引き起こしたことを完全に否定し、満洲事変は偶発的に起こったことを主張している。更に、石原は、自分や板垣が、本庄司令官の命令無しに、攻撃命令を出したことも否定し、攻撃命令を下したのは、本庄司令官であり、自分はその命令に従った過ぎないことも主張している。
また、こうした態度はこの事件の他の実行犯にも一貫していました。なぜか、秦郁彦氏は次のようにいっています。
「柳条湖事件には、どことなく後味の悪さがつきまとう。味を占めた日本はその後も同じ手口を重ねて戦火を拡大し、十年もたたぬうちに東アジア・太平洋の全域を支配する軍事大国に急成長するが、太平洋戦争で元も子も失って倒れた。まさに『悪銭身につかず』である。東京裁判で『共同謀議による侵略戦争』遂行したとして訴追された戦時指導者たちは、『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったと抗弁した。しかし、どんな大義名分を持ち出しても、起点となった柳条湖事件を正当化できないのは明らかだった。だからこそ、彼らは一致して秘密を守り抜いたのである」
では、このことを確認するために、先に紹介した花谷証言以降明らかになった柳条湖事件の事実関係を説明します。
石原は昭和3年10月に関東軍参謀として赴任して以来、前回紹介したような壮大な「最終戦争」ヴィジョンのもとに、日米戦争を覚悟しても満州領有が必要であることを周囲の人びとに説きつつ、具体的な満州占領計画を作成していました。だが、はたして、こうした霊感、神意に発する石原プランが板垣以下同士同僚にどれだけ説得力を持ちえたかについては私も疑問に思いますが、いずれにしろ、「満州領有」という悪くすると世界大戦に発展しかねない軍事行動のバネになる最低限の根拠を与えられたということだけで満足したのではないかと思います。
一方、軍首脳は、満州問題が外交交渉で解決できず、ついに軍の出動を必要とするに至った場合でも、なぜそれがやむを得ないものであったかを、ソ連や米英だけでなく国民にも納得させる必要があるとして、そのためには約一カ年を要すると見ていました。そして、満州における「排日侮日一覧表」などを作成・配布して宣伝に努めるとともに、関東軍に対しても張学良との間に事件が起きても大事に至らしめないよう注意していました。これに対して石原は、この中央の方針を「腰抜け」と罵って不服従の姿勢を示し、旅順司令部で、花谷正参謀後に高級参謀板垣征四郎も加わり実地解決策を内密で研究しました。
板垣は初めは関東軍単独の解決案に反対しましたが、昭和5年には石原工作の主将たるを約束しました。この外張学良顧問府補佐の今田新太郎大尉も加えこの4人だけで満州事変の密造に着手し、鉄道の爆破、北大営の夜襲、奉天の占領、各枢要都市の占拠、各種擾乱工作、朝鮮軍との連絡、軍中央部(東京)の誘導、等々の事変方式を作り上げました。昭和6年1月頃にブループリントは出来上がりました。それから朝鮮軍参謀中佐神田正種に大要を明かしてその全面賛成を得、次いで参謀本部の橋本欣五郎及び根本博に打ち明けて原則的に協力の約束をとりつけました。
また、石原は軍の中央部に対し、万一事ある場合には関東軍を見殺しにしないだけの諒解をとりつける必要があるとして、土肥原、花谷を東京に派遣し、敵から挑戦された場合は関東軍は断然決起する決心であることを省部の首脳に説かしめ、なお在郷の同士には極秘裏に「我が方から起つ計画」を内示し、その場合の強力なる掩護行動を要望しました。これに対して橋本欣五郎は、満州問題解決には内政革命が先決である、若槻の政党内閣では何事もできない。故に先ずクーデターによって軍政府を樹立し、その上で思う存分に解決を計るべく、その時期は大体10月の見当だから関東軍の行動はその直後とすることを熱説して袂を分かちました。
だが、石原は、高梁の刈り入れが終わる直後を選んで9月28日の夜に決行することを決めていました。そして中央及び朝鮮の空気も、関東軍が手一杯の戦闘に突入してしまえば、決して知らぬ顔では済ませないと判断し、一直線に既定計画に邁進する考えでした。9月に入ると実行部隊の中隊長を集め、初めて計画を内示し、極秘裏に演習を行わせて時期を待ちました。一門28センチ要塞砲は極秘裏に旅順から分解搬送され、第29連隊の兵営内に据付けられ、照準を北大営に調整して盲目にも打てるよう準備しました。
9月15日驚倒すべき急電が東京から届きました。橋本欣五郎の電報で「計画露見、建川少将中止勧告に出発す、至急対策を練るべし」というものでした。板垣、石原、花谷、今田の4名と実行部隊の5人の将校は直ちに集まって会議を開きました。建川美次(参謀本部第2部長)の奉天着は18日の夕刻である。もしも天皇陛下の中止命令を携えてくるなら即刻服従の外はない。故に、彼の到着善に決行してしまえ、というのが、今田以下実行部隊5名の熱説するところでした。その理由は、部外の策謀工作員として予備大尉の甘粕正彦などが資金を与えられて浪人や青年を擾乱作為に雇い、各地に予備工作を進めているので、ここで延期すれば全面遺漏は避けられない、「延期は放棄」を意味するというものでした。
しかし、さすがに板垣や石原は自重し、とにかく建川の話を聞いた上で後図を策しようとする方針に一同を宥めて(一説では鉛筆を転がすクジで決めたいう)散会しました。ところが翌日、今田大尉は花谷参謀を訪ねて前論を熱説し、あるいは今田一人で鉄道爆破を決行する意志が読まれたので花谷もついに同意し、直ちに板垣と石原を説いて、28日の予定を18日に繰り上げることに同意させ、かくて柳条湖の鉄道爆破となりました。その夜建川は奉天につくとその足で料亭菊文に招じられ、酒で眠らせるという策略の布団の上で急ピッチで杯を重ね、9時頃には前後不覚で酔体を横たえた10時頃、建川は爆音と銃声に目を覚ました、といった次第。
以上のような経過で、満州事変は、関東軍参謀作戦課長の石原中佐が中心となり、板垣、花谷、今田と計って専断強行したものでした。なんと御大の本庄司令官にも三宅参謀長にも一言の相談もなく、二、三の参謀だけでやってしまったのは、まさにウソのような本当でした。況んや軍中央部が時期と方法について別項の計画をもっていたものを、腰抜けと罵って聴従せず、日本国を世界世論の前にさらすような大事件を、三人の参謀が独断専行したこと。この事実は、東京裁判で戦時指導者たちが、日中戦争は『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったといういくら抗弁しても、どんな大義名分を持ち出しても、決して正当化できない、つまり隠し通す外ない一大過失だったのです。
事変勃発後、政府は「不拡大方針」を決定し、陸軍省も参謀本部もこれに同調しました。ところが、事変は夜を日に継いで拡大し、ハルピン、チチハル、錦州、熱河、後には長城を超えて拡大しました。そして、わずか半年後には政府や軍部の声明とは似てもつかぬ形に発展し、ついに満州国という傀儡国家まで造り上げてしまいました。満州国はやがて日本政府の承認するところとなり、「日満提携」は国策のイロハとして謳われるようになりました。板垣、石原たちには金鵄勲章が授けられました。
だが、このように、本来ならば軍刑法に照らし天皇大権の侵犯のかどで本庄司令官以下死刑に処せらるべき者たちが栄達を重ねていったことは、結果さえよければ、軍中央の統制にも服さず、上官の命令をも蹂躙して差し支えないという、およそ近代国家の軍隊とは思えない無統制・無規範ぶりを軍内に蔓延させることになりました。
まして、彼らの行動は、中国の主権・独立の尊重、門戸開放・機会均等を謳った九カ国条約や、自衛戦争以外の戦争の放棄や紛争の平和的解決を謳った不戦条約などの国際条約に真正面から挑戦し破壊するような行為でした。アメリカの国務長官のスチムソンは、1936年の段階で、満州事変という「侵略行為」の成功がイタリアやドイツなどの国際協調政策に「不満なる独裁政府」に元気を与えた、と認識していました。つまり第二次世界大戦の突破口は満州事変によって切り開かれたと認識していたのです。
その後の日本軍はどうなったか、それは次回以降に論じるとして、石原莞爾の話題にもどりますが、彼はその後、以上述べたような満州事変における致命的過失に気づいて、それを心底深く悔いたのではないかと私は推測しています。それが、後に彼をして「満州国独立論」「五族協和「王道楽土」の満州国建設という理想論に憑かしめた理由ではないかと。その石原は、昭和11年、2.26事件に際してうまく立ち回ったことから、参謀本部作戦部長の要職に就きました。そのころ、華北では、関東軍が政略活動による華北五省の分離工作に走り、蒋介石との本格的軍事衝突が懸念される事態になっていました。
そこで、石原は断然彼らに「不拡大」を指示しました。しかし関東軍がどうしても聴かないので単身長春に乗り込み、参謀達を集めて一条の訓辞を試みました。訓辞が終わると、武藤章中佐が起って「それは閣下が本心で言われるのですか」と臆せず発言しました。石原はそれを叱して再び軍中央の方針と対局論とを述べると、武藤が平然として「自分達は石原閣下が満州事変の時に遣られたことを御手本として遣っているのです。褒められるのが当然で、お叱りを受けるとは驚きました」と討ち返した、といいます。
こうして、日中戦争そして太平洋戦争は、満州事変の、およそ法治国家とは思えない無軌道・無規範、むき出しの暴力肯定の行動哲学を基調として、おし進められることになるのです。秦郁彦氏は「日中戦争」には三分の理、太平洋戦争には四部の理があるとして、満州事変には一分の理も見いだせないといっています。重要なことは、この一分の理も見いだせない「満州事変」の延長に「日中戦争」も「太平洋戦争」もあるということです。東京裁判において日本側は、これを「自衛戦争」とか「アジアの開放」という言葉で正当化しましたが、もし「満州事変」の真相が明かされたらどうなったか。
「自衛戦争」とか「アジアの開放」とか、そのような抗弁どころか、近代法治国家としての日本の信用はその瞬間地に墜ちる、この恐怖こそ、関係者が一様に口を閉ざしたその本当の理由だったのではないでしょうか。 
 
満州事変は日本の「運命」だったか

 

このあたりで、「日本近現代史における躓き―「満州問題」のまとめをしておきたいと思います。
戦前の日本人にとって「満州問題」とは、朝鮮の独立問題をめぐって勃発した日清戦争に日本が勝利し、その結果、遼東半島が日本に割譲されたことに起因します。これに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の中国への返還を要求し(三国干渉)、日本はやむなくそれに応じましたが、その後、日本が日露戦争に勝利した結果、それまでロシアが支那から租借していた関東州と南満州、安奉両鉄道の租借権を日本が譲り受けることになりました。
これによって、日本は、関東州租借地を完全な主権を持って統治し、南満州、安奉両鉄道の経営は半官半民の南満州鉄道株式会社(略称満鉄)にあたらせることになりました。日本はこの満鉄を通じて鉄道付属地の行政にあたりました。この満鉄の付属地には、奉天や長春など人口の多い地域をはじめとして15都市が含まれ、これらの地域では、日本は、警察・徴税・教育・公共事業を管理しました。また、租借地に関東軍を置き、鉄道の沿線地帯(線路の両側合わせて62m)には鉄道守備隊を駐屯させ、各地方に領事館や警察官を配置するなど、満州諸地方に武装部隊を置きました。
その後1915年の「二十一箇条要求」で、これらの租借期限(ロシアが得ていた租借期限は25年)を99年に延長するとともに、日本国民が南満州において旅行、居住し、営業に従事し、商業、工業及び農業のための土地を商租する権利を得ました。
ところで、満鉄経営の基本政策は、満鉄線に連絡する支那の鉄道建設に対してのみ資本を供給し、そうすることによって満州内の貨物の大部分を租借地・大連から海運輸出するために直通輸送しようとすることにありました。しかし、支那にすれば、満鉄のような外国管理の施設が国内に存在し鉄道輸送を独占することはおもしろくなく、そのため満鉄の発達を妨害しようとする支那の試みは張作霖の時代からありました。張学良の時代になると南京政府の利権回復運動とも相まって、日本の独占的・膨張的な政策との衝突を繰り返すようになりました。
1931.9.18日の満州事変以降日本は、その武力行使を正当化する根拠として、日本の満州における以上のような「条約上の権益」が侵害されたと主張しました。
第一の非難は、1南満州鉄道付近にそれと平行する幹線および利益を害すべき支線を建設しないという、1905年の取極(「満州に関する日清条約付属取極」)があるにもかかわらず、張学良政権が満鉄包囲網というべき平行線を敷設したこと。2南満州において、各種商工業上の建物を建設するための土地あるいは、農業を経営するための土地を商租する権利が1915年の「南満州及び東部内蒙古に関する条約」によって認められているにもかかわらず、たとえば、間島における朝鮮の農民が土地を商租する権利が中国側官憲の不誠意によって実現されていないこと。
第二の非難は、満州の都市部・華中・華南で広く見られた排日貨、対日ボイコットが中国側の組織的な指導によってなされているという主張で、これが不戦条約第二条(「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段に依るの外、之が処理または解決を求めざることを約す」)の明文またはその精神に違反する、というものでした。つまり、これらの条約で規定された守られるべき日本の権利が蹂躙された以上、それを実力で守ってどこが悪いか、というものでした。
しかし、第一の1については、「付近の平行線」の定義が明確でなく、欧米の慣行では約12マイルから30マイル以内の鉄道を「付近」としていたそうですが、日本が平行線と非難した錦州―チチハル間の鉄道は最短の部分で100マイルも離れていました。また、2については、「外国人の内地雑居は領事裁判権と密接な関係があり、そのため中国側は、多くの日本人(朝鮮人含む)が開港地以外の内地に雑居し、かつ中国の法律に服さないというのは、中国の主権の破壊になると主張し、領事裁判権を日本側が持つ以上は、内地雑居を許可できないと反論」しました。事実、こうした特権は外交上前例がなく、日本側もその無理は承知していました。
また第二については、これまで済南事件や張作霖事件における日本側の行動を詳しく見てきましたので事情はお分かりだと思いますが、こうした日本側の度重なる侵略的行為に刺激された結果、中国側も日本の条約上の権利を力で蹂躙するようになったのだ、ということもできます。なにしろ張学良は自分の父親を日本軍の謀略によって爆殺されたのですから、その彼に日本に対する友好的な態度を期待する方がおかしい。さらに、日本側の主張の根拠とされた、それまでに積み上げられた条約や規定の解釈自体にもグレーゾーンがあり、双方の解釈が異なっていたことも指摘されています。
こうしてみてくると、日本側の言い分にはかなり無理がありますが、関東軍は満州事変を引き起こす過程で、その武力占領の正当性を国民に納得させるため、日本は条約を守る国であるが、中国は条約を守らない国であるという宣伝に努めていました。確かに、1920年代の国民党による中国統一の過程で、排外主義的なナショナリズムが鼓吹されたことは事実です。幣原喜重郎はこうした中国の事情に十分な同情を寄せつつも、中国側が「事情変更の原則」を掲げて、前述したような既存条約の一方的廃棄を求めることを、国際関係の安定を脅かすものだとして明確に拒否していました。
幣原としては、1922年のワシントン体制の中核的条約である九カ国条約の中国における門戸開放や機会均等主義を「わが商工業は外国の業者の競争を恐れることはない。日本は実に有利な地位を占めている」として支持していました。同時に、満州においては、「日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互友好協力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況の確立」を目指していました。この時幣原は「支那人は満州を支那のものと考えているが、私から見ればロシアのものだった。・・・ロシアを追い出したのは日本」であり、このような歴史的背景を踏まえれば、以上のような日本の要求を中国側が尊重するのは道義的に当然である、という考えをその基礎に置いていたのです。
だが、こうした幣原の期待は、両国国民の友好関係があってはじめてできることで、しかしこの時は、済南事件で日本が中国統一を妨害したように受け取られ、張作霖爆殺事件以降は、張学良政権による意図的な反日侮日政策がとられていたのですから、そのための現実的基盤は失われていました。その結果、在満邦人はこうした反日・侮日政策に結束して対抗するようになりました。また、幣原外相が、在満同胞が「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発し、もう外務省は恃むに足らずとして、軍の支持のもとに「実力行使による満州問題の解決」を要求するようになりました。
もちろんこの間陸軍は着々とこうした満州問題の行き詰まりを武力で解決するための政治工作、世論作りを進めていました。そこに起きたのが万宝山事件(1931年7月、長春北30キロにある万宝山で発生した朝鮮人移民と中国人農民との衝突事件)で、これが朝鮮人虐殺事件と誇大に報道され(実際には死者は出ていない)、朝鮮国内で激しい排華暴動となり華僑100人余が殺害され、中国でも排日ボイコットが展開されるるという事態に発展しました。さらに、中村大尉事件(興安嶺地区の兵用地誌調査中の参謀本部の中村震太郎大尉らがスパイ容疑で張学良軍の殺害された事件1931.6.27発生)が8月17日公表されると、世論はいっそう硬化し、従来幣原を支持してきた朝日新聞も「小廉曲謹的」と幣原外交を批判するようになりました。また、政友会や貴族院においても軍部の主張する満蒙問題の武力解決を容認する政治的情況が生まれていました。
こうして、1931年9月18日、関東軍参謀の謀略による柳条溝鉄道爆破に端を発する満州事変が勃発しました。政府(第二次若槻内閣)は不拡大方針をとりましたが、関東軍は軍中央の協力、朝鮮軍の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、1932年2月までに東北の主要都市、鉄道を占領しました。この間奉天、吉林、ハルピン等に次々と地方独立政権を樹立させ、これらは連省自治制を採用して1932年2月17日東北行政委員会を発足させ、その名において、満州事変勃発後わずか半年後の3月1日、奉天、吉林、黒竜江、熱河の四省を中心とする新国家満州国の建国を宣言しました。発足時の政体は共和制とし、溥儀には「執政」の称号を贈りました。
この間、12月11日には若槻内閣が総辞職し幣原外交はここに終焉することになりました。続いて犬養政友会内閣が成立し、外相は犬養兼任、陸相は十月事件でクーデター政権の首班に擬された満州事変積極的推進派の荒木貞夫が就任しました。そして、翌1月6日には陸、海、外三省の関係課長は次のような「支那問題処理方針要項」を決定しました。いうまでもなく、先の新国家満州国の建国は、こうした日本政府の方針・要綱に沿って進められたのです。
「方針一 満蒙については、帝国の威力の下に同地の政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において、帝国の永遠的存立の重要要素たる性能を顕現するものたらしむることを期す。二(略)。要綱一 満蒙はこれをさしあたり支那本部政権より分離独立セル一政権の統治支配地域とし、逐次一国家たる形態を具備するごとく誘導す。・・・成立する各省政権をして逐次、連省統合せしめ、かつ機を見て新統一政権の樹立を宣言せしむ(以下略) 」
以上、「日本近現代史に於ける躓き」における最大の難問である満州問題、その発端から満州国建国に至るまでの経過を見てきました。ではこうした歴史の展開をどう見るか。岡崎久彦氏は次のようにいっています。
中国の国家統一が進展しそれが「満州に及んだ場合を想像すると、日本は在留邦人の希望に添った現地保護主義をとらざるを得ず、その場合、中国側との衝突路線を歩むのは不可避である。現地保護主義を抑えて(幣原の)不干渉主義を貫く場合、中国側の有識者のなかには日本の政策の理解者もあり、日本の権益を保護しようとしてくれたかもしれないが、中国の国権回復のうねりはそういう妥協を許したかどうかもわからない。双方によほどの良識ある外交とそれを実施する指導力がないかぎり、悲劇は運命づけられていたといえる。」
さて、その「運命」ですが、確かに歴史はそのように進んだのですが、では、そのような「運命」を決定づけた歴史的条件のすべてが不可避であったかというと、私は必ずしもそうはいえないと思います。本稿では、その歴史的条件の一つとして、当時の軍部とりわけ青年将校グループが満州占領、政治革新へと突き進んだその異常な心理状況を説明しました。また、そうした青年将校達を熱狂的に支持した国民世論がどのように形成されたのかを見てきました。では、はたして、こうした事態は回避できたのでしょうか。 
 
独立自尊の歴史観

 

政治家森恪の大罪 
前回、私は、「日本の安易な『アジア共同体思想』が日中戦争を引き起こした」ということを申しました。また、対米英戦争についても、その原因をアメリカに求めるのは無理がある、とも申しました。以前、私は、多母神さんの主張について私見を述べた時、日中戦争については”慢鼠、窮猫に噛まれる”。日米戦争については、アメリカは”窮鼠猫を(南方で)かませる”つもりだったが、油断していて真珠湾をかまれた”というのが、妥当なところではないかと申しました。
多母神氏は、”日中戦争、日米戦争とも、日本は謀略により戦争に引き込まれた”といっています。いわゆる「謀略史観」というやつですね。また、”日本は大東亜戦争においてアジア諸国の植民地解放といういいこともした”ともいっています。しかし、前者については、日中戦争の原因(満洲の謀略による軍事占領や華北分離工作など)を作ったのは日本ですし、日米戦争については、日本が中国との戦争を終息できず、逆に、米英の敵であるヒトラーと同盟して南方進出をはかったことがその原因です。
そもそも、日本に、”アジア諸国の植民地からの解放”という大義が当初からあったのなら、なぜ日本は、中国と戦争するようなことをしたのか。確かに、中国が革命外交と銘打って、日本の満洲権益を閉め出そうとしたのは間違いでした。また、張学良のとった対日強硬策が満州事変の暴発を招いたことも事実です。しかし、国民党にそうした政策を採らせたのは、日本軍が三次にわたる山東出兵を行い、その間済南事件を引き起こして、蒋介石の中国統一を阻止しようとしたからです。また、張学良については、その父張作霖が日本の説得を受け入れて満洲に帰還したのに、関東軍の一部将校が奉天郊外で彼を列車ごとを爆殺したことが原因です。
では、どうして日本軍はそのような行為に出たのか。それは、対ソ防衛という安全保障の問題に加えて、日本の人口問題や資源問題を解決するためには、満洲における権益拡大は、「日本の生命線を守る」という意味で不可欠の条件と認識されたからです。そのために、これを阻害する要因を武力で排除しようとした。これが、日中戦争を誘発することになった一次的原因です。(二次的原因は、こうした日本軍の行動を、日本人の安易な「アジア共同体思想」で正当化したことです。)
こうした日本軍の独善的行動の水先案内をし、彼らを政治の世界に引き込んだ政治家が政友会の森恪でした。その象徴的な行動が第一次山東出兵直後に開催された東方会議です。この会議の後に満蒙に対する積極策を説いた「田中上奏文」が昭和天皇に上奏されたと中国が世界に宣伝しました。これが偽書であることは今日明白ですが、しかし、そこに「森の依頼により少壮軍人と少壮外務官僚が作り上げた」タネ本があったことは間違いないと思います。
そこには、「満洲は中国領にあらず」とする主張や、ワシントン会議における九ヵ国条約や軍縮条約、さらに不戦条約に対する根本的批判がありますが、これは当時森が主張していたことでした。森はこれらの条約を廃棄し「東洋における日本人の自由活動」を確保することを主張していたのです。こうした森の主張を、独自の文明論で理論化しそれを正当化したのが石原莞爾でした。
こうした森の活動は、朴烈事件に始まり、第二次南京事件における幣原喜重郎外務大臣に対する「軟弱外交」批判、三次にわたる山東出兵(それが済南事件を引き起こした)、その帰結としての張作霖爆殺事件、ロンドン軍縮条約締結時の統帥権干犯事件、幣原喜重郎(首相代理)に対する「天皇の政治利用」攻撃、満州事変、そして五・一五事件と続きました。その目的は、軍を政治に引き込んで軍・政一体の政治組織を作り、積極的な大陸政策を推進することでした。
石原莞爾については、前回、その「最終戦総論」の一端を紹介しましたが、おそらく、その思想形成は、こうした森恪の積極的な大陸政策論を引き継ぐ形でなされたのではないかと思います。あえてその違いを指摘するなら、後者は、田中智学の影響で、それを東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式の中に、日本とアメリカをそれぞれのチャンピオンとして位置づけ、両者間の最終戦争を文明論的な宿命として論じている点です。
実は、東京裁判が行われた時、満州事変から太平洋戦争に至る日本の軍事行動について、そこに、世界支配のための「共同謀議」があったのではないか、ということが問われました。結果的には、被告25名全員の共同謀議が認定され、東條英機外7名に死刑が宣告されました。しかし、不思議なことに、そのトータルプランナー兼初期実行者ともいうべき石原莞爾はその訴追から免れました。(森恪は昭和7年に死去しています)
それは、東京裁判の時点では、満州事変が石原莞爾ら数人の関東軍参謀による謀略であることが、明らかになっていなかったことと、石原莞爾が廬溝橋事件の勃発に際して、不拡大路線をとったことによるのではないかと思います。しかし、この時彼が不拡大を唱えたのは、あくまで最終戦争に至る準決勝戦としての対ソ戦に備えるためであり、ここで中国と戦争すれば、持久戦となり国力を消耗する。それではアメリカとの最終戦争に備えることが出来なくなる、ということだったのです。
こうした石原莞爾の見通しについては、確かに当たった部分もありますが、しかし、その最終目的がアメリカとの最終戦争に勝利することであった以上、中国における軍事資源の確保は日本軍にとって至上命令でした。そして、それを蒋介石が受け入れない以上、中国との戦争は避けられなかったのです。トラウトマン和平工作が失敗したのも、日本がその資源確保のため、華北からの撤兵を中国に対して約束できなかったことがその本当の原因です。
そこで問題は、この石原莞爾の、このアメリカとの最終戦争を不可避とした思想が本当に正しかったのかどうかということですが、まず、その東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式は必ずしも石原の独創ではなく、「日蓮主義者」の田中智学に学んだものでした。それは、それが尊皇思想と癒着していることからも分かるように、「満洲生命線論」を智学の「汎日本主義」によって粉飾しただけのものではないでしょうか。
つまり、実際は、満州事変は日本の植民地主義的な権益確保(というより石原の当初のねらいとしては領土確保というべき)が目的だったが、それを正当化するため、より大きな王道文明vs覇道文明という対立図式の中に、アジアと欧米諸国とを位置づけた。それによって、日本の満洲占領という植民地主義的行為を、東洋の王道文明という概念でオーバーラップし、それを正当化しようとしたのではないかということです。
確かに、彼の最終戦争論は、武器技術の発達がその極限に達することによって、戦争そのものが出来なくなるという、今日の核時代における戦争抑止を予見したように見えます。しかし、それは、彼の戦史研究から導き出されたものであって、王道文明vs覇道文明という対立図式から生み出されたものではありません。つまり、この図式から日米戦争の必然性を導き出されたわけではないのです。つまり、彼の日米必戦論は彼の宗教的ドグマ(田中智学の宗論に依拠したもの)なのです。
しかし、このドグマが、当時の軍人のアジア観やアメリカ観を規制し、それが、満洲に止まらず、中国の華北五省、さらには東南アジアへと、日本軍を進出させることになったのです。それだけでなく、この思想は、「満洲生命線論」を核として連鎖反応的に膨張していき、それが日本人の伝統的な尊皇思想と結びつくことによって、日本国民全体のアジア観やアメリカ観をも決定的に拘束することになったのです。
先に述べたように、この石原莞爾が登場する前段において、彼ら軍人が政界に進出するための政治的条件を整えた政治家が森恪でした。おそらく彼がいなかったら、石原莞爾の出番はなかったでしょう。その意味では、彼こそ、「昭和の悲劇」をもたらした真正A級戦犯とすべきです。不思議なことに、そうした評は余り見かけませんが、日本の政治に軍を引き込み、統帥権という魔法の杖を彼らに渡したのは、犬養毅や鳩山一郎ではなく、この森恪こそがその元凶だったのです。
さて、以上で、森恪及び石原莞爾の政治的・軍事責任が明らかになったと思いますが、では、なぜ、満州事変以降、それまで地下に眠っていたはずの尊皇思想が、青年将校だけでなく国民一般の間に呼び覚まされることになったのでしょうか。それは、その時代の客観状況と、その思想とが共鳴現象が起こらない限りあり得ない事でした。
いうまでもなくその客観状況とは、関東軍の軍事行動によって満州領有が既成事実化したということでした。それと尊皇思想とが共鳴したわけですが、では、なぜ尊皇思想がこの客観状況に共鳴し、この時代の国民の意識を支配するようになったのでしょうか。
それは、この尊皇思想が、当時の腐敗堕落した立憲君主制度下の政党政治に代わる、一君万民平等主義思想及び家族主義的国家観を持っていたことによります。同時にこの思想は、反近代主義的農本主義やアジア主義的・(西洋)攘夷主義的国家観をも合わせ持っていました。
実は、この尊皇思想は、明治維新の指導的イデオロギーだったのです。しかし、明治新政府は、政権獲得するや否や攘夷ではなく開国政策に転じ、西欧近代文明の摂取に努めました。こうした政府の欧化政策に反対し、尊皇思想に基づく農本主義的国家を作ろうとしたのが西郷隆盛でした。しかし、これが西南戦争の敗北により挫折したために、この思想は、それ以降の日本の近代化の陰に隠れることになったのです。
それを再び地上に「昭和維新」として蘇らせたのが満州事変でした。これ以降この思想は、隊付き青年将校を中心に広がりはじめ、5.15事件、天皇機関説排撃事件、国体明徴を経て、当時の国民思想を全体主義的に拘束するものとなりました。そしてついに、2.26事件において暴発し、その首謀者は処刑されましたが、軍はそうしたテロの恐怖を背景に、その政治支配力を強化していったのです。
その後、昭和12年7月7日の廬溝橋事件をきっかけとして、8月13日には中国軍による上海の日本海軍に対する攻撃が行われ、日中戦争が始まりました。その後、幾度となく日本から講和の働きかけがなされましたが、ついに実を結ぶことはありませんでした。また、昭和14年には大政翼賛会の発足と共に政党は解散となり、それによって議会は有名無実となり、また、国民の間の言論統制も次第に厳しくなっていきました。
結果的には、この尊皇思想による全体主義的思想統制が、立憲君主制下の政党政治や議会政治を窒息させ、国民から言論の自由を奪い、軍に対する盲目的献身を生むことになったのです。しかし、もし、明治以降、この思想のもつ先に述べたような諸相が自覚的に認識されていたならば、それを立憲君主制下の諸制度と矛盾しないよう思想的整理をつけることができたかもしれません。
例えば、その家族主義思想は家族に返し、天皇は立憲君主制下の制限君主制として内閣の輔弼責任を明確にし、農本主義と近代主義の調和を図り、中国の主権を尊重しつつその近代化を支援すること、それをアジア地域に拡大し、自由貿易体制を推進すると共に、欧米の植民地主義の是正を求めていく。まあ、夢のような話ですが、この問題に気づいてさえいれば、尊皇思想を思想として過去に申し送る手がかりがつかめたのではないかと思います。
このことは、現代の日本の政治についてもいえると思います。というのは、今日なお、「昭和の悲劇」をもたらした伝統思想と近代思想のミスマッチによる思想的混乱を精算できていないように見えるからです。日本人の伝統思想である一君万民平等思想・家族主義的国家論、反近代主義的農本主義、アジア主義的攘夷思想と、立憲君主制下の民主主義諸制度との相克関係、これを今一度整理し直すことが、今日求められているのではないでしょうか。
その時関門となるのが、冒頭に記した日本人の歴史観の問題です。私は、日本国民一人一人が、「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つことが、今日求められていると思います。私は、福沢諭吉の「独立自尊」を支えた精神、あの明治維新期の革命的な社会変革を支えた精神をもってすれば、「昭和の悲劇」がもたらした思想的混迷を克服することも可能だと思います。 
攘夷思想よりディアスポラへの挑戦

 

自己絶対化を克服すること
司馬遼太郎には昭和が書けませんでした。精神衛生上悪いといって・・・。山本七平はその昭和を、戦場の自分自身を語ることでその実相を伝えようとしたのです。それは自虐でも美談でもなく、戦争で露呈した日本人の弱点を言葉(=思想)で克服しようとする試みでした。
そのポイントは”自己を絶対視する思想をいかに克服するか”ということで、そこで、尊皇思想における現人神」思想の思想史的系譜を明らかにしようとしたのです。氏の聖書学はそのためのヒントを与えるものでした。
浅見定雄氏を山本批判の切り札に援用されますが、浅見氏はmugiさんが最も嫌う”非寛容な一神教”クリスチャンで、思想的には”先鋭な”反天皇制、反元号、反靖国、反軍備、親中・朝論者です。 氏の著書を見ると、氏の意見に賛成なら”できの悪い”生徒でも及第点をもらえるが、その逆なら大変な目にあう、そんな恐ろしさが感じられます。
この強度のイデオロギー性は教師としては問題ですね。確かに、氏の山本批判(ただし、ベンダサン=山本七平とは言えない)には肯首すべき点もあります。しかし、それを台無しにするものがある。上記の点もそうですが、その論述に憎悪が感じられる点学者としては不名誉だし、クリスチャンとしては致命的です。(同様の指摘は立花隆、小室直樹氏もしています。)
そのため、氏は、山本七平の「日本人論」の優れた部分が全く見えなくなっている。もちろん、その動機はキリスト教左派(?)の立場からする日本の伝統思想批判ですから仕方ありませんが、これでは自虐どころか自国否定になりかねません。
山本七平の日本人論の独創性は、こうした日本人の思想形成における自国否定とその反作用としての自国美化の非歴史的循環論からいかに脱却するかということ。これを日本思想史の課題として捉えることで、そのベースとなる伝統思想を思想史的に解明することにありました。
私が山本七平を紹介するのは、その日本人論が、私たちが無意識的に生きている伝統思想を自覚的に把握し、それを対象化できるようにしてくれたと考えるからで、それが、次の時代の日本の思想的発展を考える際の議論の土台になると考えたからです。
攘夷思想よりディアスポラへの挑戦
中間がないというより、自己の考えと他者の考えを相対的な関係において捉えることができないということですね。自己の考えはどうしてできているか。それは、その人の素質や育った環境、受けてきた教育(=歴史)などによります。同様に、他者のそれもその人に与えられたこれらの条件によります。このことは民族や国家についてもいえます。
では、自己と他者の考えが現実問題の処理において対立した場合はどうするか。他者が圧倒的に勝っている場合は、自虐や自己否定に陥る。しかし、そうした心理状態は長くは続かないから当然反発心が生まれる。さらに、それを根拠づけようとすると自己の歴史の優位性を主張するようになる。それが行き過ぎると他者の存在を否定するようになる。
では、こうした悪循環からいかに脱却するか。それは自己あるいは自民族や国家の存在を歴史的に把握するということですね。というのは、自分はもちろん民族や国家も一種の有機体で独自の根をもって成長しているから、その現在を理解するためには、それが受けた他の文化の影響も含めて、それを歴史的に把握する必要があるのです。
日本の場合は、中華文明の圧倒的影響下にありましたが、海に隔てられていたおかげで安全を確保でき、独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明の影響力が圧倒的であっただけに、思想的には、それへの迎合と反発というパターンを繰り返さざるを得ませんでした。
確かに、かなの発明による国風文化や、器量第一の武家文化や象徴天皇制など独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明のもたらした仏教や儒教の思想的影響力は圧倒的で、それを自己の文化に取り込もうとする時、これらに対する迎合と反発というパターンの繰り返しから、完全に脱却することができなかったのですね。
明治になると、その迎合の対象が中華文明から西欧文明に切り替わりましたが、従来の中華文明に対する劣等意識の反動で、中国に対する優越意識を持つようになりました。次いで、西洋文明への迎合が反発に変わり、ついに東洋文明のチャンピオンが日本が、西洋文明のチャンピオンであるアメリカと対決する、という風に民族意識が変化していったのです。
同様の心理変化は戦後にも見られますね。最初はアメリカ民主主義に対する迎合、それからソ連共産主義、中国毛沢東主義へと次々に・・・。そして、それへの幻滅と反発、再び自己の歴史の正当化からその美談化へと・・・。それが現在の状況ですね。これを放っておくと、再び自己絶対化に陥ることになります。
では、そうならないようにするためにはどうしたらいいか。それは、先に述べたように、自己及び自民族を歴史的に把握するということです。それができれば、他者の文化も同様に歴史的に把握することができる。その上で、今後自分たちが生きのびていくためには、どのように彼らとつき合ったらいいか冷静に考えることができるようになる。
優れた中心文化に接ぎ木して生き延びるか、それとも自己独自の文化の芽を育てそれを発展させていくか。それは和魂洋才ということになるが、難しいのは、洋魂洋才が一セットであるということで、洋才だけ切り離して採り入れようとしても、洋魂の影響を免れ難いということです。
この問題をクリアーするためには、自己の文化を和魂和才一セットで把握する視点を持つことが大切です。つまり、自己の思想形成を歴史的に把握するということです。その上で、洋魂洋才の文化から何を学ぶか。その文化的遺伝子の内どれを、日本文化の新たな創造的発展に取り込んでいくかを考えなければなりません。
では、具体的にはどうするか。かっての「陸軍パンフ」は「たたかひは創造の父、文化の母である」といい国防国家建設を謳いました。これに対して美濃部達吉は、それは「国家既定の方針」(立憲君主制下の議会制民主主義=洋才)を無視するものであり、「真の挙国一致の聖趣にも違背す」と批判しました。このため美濃部は陸軍の怨嗟を受け、その後天皇機関説問題として糾弾されることになりました。
この場合、確かに、「文化的創造」も一面「たたかひ」だと思いますが、それが単純に戦争の勝ち負けに還元されたことが問題でした。というのは、すでにこの頃、西洋文明は「戦争を外交の手段」としてそれを合理的に処理する思想を持っていたのです。これに対して軍部のこの思想は「一か八か」の”賭け”の域を出ませんでした。
結論的にいえば、やっぱり、その思想の”「現実」コントロール能力が貧弱だった”ということですね。西洋文化は、戦争を外交という「国際社会の生き残り競争」の手段としてコントロールするだけの思想的したたかさを持っていたのです。では、日本人はこうした昭和の失敗の教訓から、何を学ぶことができたか。その思想を咀嚼しえたか。
これについては、否というより、こうした思想を持つこと自体を拒否しているように見えますね。でも、徳川幕府による260年間の平和でさえも、各藩の軍事力を最小限にコントロールする思想によって維持されたのです。では、今日の国際社会はどうか。その平和を「公正と信義」に基づく言葉のみで維持できるか。
それは、日本の江戸時代もそうであったように、現在の国際社会の平和を維持するためには、国連軍が各国の軍事力をコントロールする力を持たない限り無理だと思います。まして、宗教を異にする各部族、それも自己絶対化に陥りやすい部族や個人が大量破壊兵器を手にする時代の安全保障は、一層複雑かつ困難なものになると思います。
こうした現実を”見ない”、というより、”逃避する”ような思想では、「たたかひは自虐の父、自滅の母」というようなことになってしまって、せっかく日本人が歴史的に創造してきた独自の文化の根を枯らしてしまうことにもなりかねません。その時は、接ぎ木もさせてもらえず、日本文化は立ち枯れる外なくなります。
それは、結局、明治維新期に韓国や中国が陥ったような状況を、今度は逆のパターンで再現する事になるかもしれません。小松左京の小説に「日本沈没」と言うのがありますが、これは、日本人には一度ディアスポラが必要だというメッセージだとも言います。日本の若者には、攘夷思想なんかに陥らないで、ぜひ、このディアスポラに挑戦してもらいたいものですね。 
浅見氏の山本批判について

 

さて、浅見定雄氏の山本批判についてですが、山本は1988年6月22日号の朝日ジャーナルのインタビューを受けています。そこで浅見氏の指摘について問われ、あれはエッセーです。エッセーは楽しんでもらえればそれでよい。学術論文として扱われると問題があるのは当然で、私だってそのことはよく知っている、と答えています。また、ベンダサン=山本説については、この本の編集上協力したことは否定しないが著作権は持っていないと繰り返し、さらに、浅見さんの批判を無視するのかという問いに対しては、自分について書かれたことで自己弁護はしないと答えています。
また、このことについて小室直樹氏は次のように浅見氏を批判しています。
山本先生は本人が署名する場合は山本書店主と書いており、学者でないことは自他共に認めている。しかし、山本先生は学問的にはまったくの素人であるが、天才的な素人なのである。あの人の直感やフィーリングは、専門家としては最高に尊重すべきものなのだ。確かに山本さんの理論には、学問的に厳密に言えばいろいろな点で欠点があるだろう。しかし、才能もあって一生懸命努力している人には、プロは助言して励ますべきものであって、細かいことで難癖つけてつぶしてやろうなどということは、一切しないのが常識である。
事実、著名な聖書学者等の多くはそのようにしていますね。では浅見氏はなぜあのように敵意むき出しの山本批判をしたのか。実は、浅見氏は「山本ベンダサンのにせ知識と論理のでたらめさの指摘はダシのようなもの」で、「もっと心のわだかまっていたのは、『踏まれる側』の人間に対する彼の鈍感冷酷さと、『踏む側』の人間に対する彼らのへつらいや協力ぶりのことであった。こういう人が、日本の文化教育から『防衛』政策にまで影響力を行使している。この現象をあまり見くびってはいけないと思った。」と別著で述べています。
問題は、ここで『踏まれる側』と『踏む側』とは、どういう基準で分けられるかということですが、ここには氏の信仰(私にはイデオロギーのように見えます)が関わっていて、その最大のポイントは、氏の「象徴天皇制」に対する批判にあります。氏は1天皇が象徴であるというのは、天皇は私たち一般の人間とは異質だということである。2「その天皇が日本国及び日本国民統合の象徴であるというのは、国民以外の『よそもの』(朝鮮人や白人)は入ってはいけないということである」といっています。
つまり、「このように天皇を別格視する考えと、日本国(民)が自分を特別な民族だと思い込む精神とは、根本でつながっている」というのです。そして、「天皇が日本の象徴だということは、裏がえせば、日本の『世界に比類ない』特徴はこの国があの天皇家によって支配されてきたきた点にある」といっています。つまり、日本民族の優越性と他民族に対する差別性は「天皇制」から生まれていると考えていて、究極的にはその廃絶を主張しているのです。
では、こうした天皇制の基本的問題点を克服するための氏の基本的立場はどういうものかというと、「それは、あのガラテヤ人の手紙第三章二十八節に言いあらわされているような福音の真理・・・キリスト・イエスにあっては『もはや、ユダヤ人もギリシャ人』もなく(つまり日本人とか外国人とかの優劣はなく)、奴隷も自由人もない(つまり下層民とか天皇とかいうこともない)という、あの原則・・」つまり、こうした「人類普遍の原理」を国のすみずみまで生かしていくことだ、といっています。
この本は1988年に出版されたものですが、一見して、浅見氏の天皇制の理解は当時の戦後左翼のそれと同じであることが分かります。これに対して『日本人とユダヤ人』は、鎌倉幕府以来の「朝廷・幕府併存」という政治体制が、統治における祭儀権と行政権を分立させたものであるとして、日本人を「政治天才」と高く評価しました。つまり、この段階で、天皇制は「象徴天皇制」に変化したと指摘していたのです。また、その背後には、「日本教」とでもいうべき「人間教乃至経済教」(政治は義の実現より経済的安定を指向する)があるともいっていました。
浅見氏は、こうした論理による「象徴天皇制」の評価が許せなかったのでしょうね。しかし、浅見氏は『にせユダヤ人の日本人』の中では、この章にはほとんど触れていません。その代わり、他の章で、氏の聖書学がいかにインチキか、その日本人論がいかにでたらめか、氏の語学力がいかに低いかを執拗に攻撃しています。しかし、私は、氏の本当の山本攻撃のポイントはその天皇制論にあったのではないかと思います。しかし、ここに触れると、以上紹介したような氏の「象徴天皇制」否定のイデオロギーが露呈するのでそれを憚ったのかも・・・。
しかし、この点では、私は、ベンダサンの「象徴天皇制」の評価の方が正しいと思います。このことは、その後の『ベンダサン氏の日本の歴史』や山本七平氏の『現人神の創作者たち』などによって、この「象徴天皇制」が、朱子学の名分論の影響で、中国皇帝をモデルとする一元的絶対主義的天皇制へと転化していったこと。これが尊皇討幕運動を生み明治維新へとつながっていったこと。しかし、新政府は攘夷は実行せず、立憲君主制に基づく開国策を取ったこと。一方、尊皇思想は教育勅語に結実するとともに、政治制度としては、西郷の「殉教」によって地下に潜り、そのマグマが、昭和の政治的・経済的混乱を契機に地上に噴出したこと等、これまで昭和史の”なぞ”とされてきたことが、思想史的に解明されたのです。
その他、私は、浅見氏の「人類普遍の原理」による、民族や言葉の壁を越えた国際市民社会が実現するという考え方にも疑問を持ちました。また、宗教的信念に基づき、日本の「象徴天皇制」を「天皇特殊論」と断じ、それを差別の根源と批判するその思想の妥当性にも疑問を持ちました。まして、自分と異なる思想の持ち主を、『踏む側』の人間と決めつけ、『踏まれる側』の人間に対する鈍感冷酷さもつ人間と断罪することなど、はたして宗教家のやることかと思いました。
ところで山本七平には、その縁戚筋に大石誠之助(大逆事件で処刑=冤罪)がいて、両親はそのことで故郷を追われ東京に住んだクリスチャンでした。山本自身は、先の大戦では21才で陸軍に入隊し23才から25才までフィリビンのジャングルで戦い、飢餓線上をさまよい、最後は捕虜となり戦犯容疑も受けています。
そんな生い立ちと経歴から、氏は、次のようなことを『現人神の創作者たち』の「あとがき」で述べています。
「なぜそのように現人神の捜索者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命が持たないよ』までそれを続けようとするのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく。従って、私は「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できればそれでよかったまでで、著作として世に問う気があったわけではない。」 
また、氏は、復員後も戦争による後遺症に苦しみ、35才でようやく「社長兼社員」の山本書店を立ち上げ、その後、聖書学の専門図書を出版してきました。43歳の時、岩隈直氏が33年かかってまとめた「新約聖書ギリシャ語辞典」の出版を赤字覚悟で引き受けました(どの出版者も断った)。その出版費用の一部にでもと思ったのか49才の時『日本人とユダヤ人』を出版し、これが大ベストセラーとなったのです。その後、氏は多くの山本七平名の著書を世に送りましたが、その収益の大半は聖書学関係の本の出版費用に充てたといいます。
そんな氏に対して、平和な時代に、自分の時間を自由に使え「聖書学」を学びそれで生計を立てている人が、どうして「鈍感冷酷さもつ人間」などと山本七平の人格攻撃ができるのか。もちろん学問的な間違いを指摘することは私も大切だと思います。しかし、私は、山本七平の本領はその「日本学」にあると思っています。その独創的で日本人にとって極めて示唆に富む研究成果が、こうした攻撃によってアクセスを妨げられている。私はこれは誠に残念なことだと思い、非力を承知でその紹介にあたっているのです。 
鳩山首相の「善意」が生んだ「悪意」

 

ひょっとしたら、衆参同時選挙もあるかも知れないという、通常の常識では考えられないような状況に立ち至っていますね。それほど鳩山内閣の「政治主導」政治は混乱を極めていて、にもかかわらず、当の鳩山首相が異様に”落ち着いている”ものだから、田原総一朗氏なども唖然として、4月22日の田原総一朗の政財界「ここだけの話」では、次のような繰り言のような感想を述べています。
「おおらかなのか、現実離れしているのか
しかし、鳩山さんの心中はこうだろう。
「沖縄にこれ以上、迷惑をかけたくない」と考えているのは国民の皆さんも同じ。今は徳之島の方々は大反対だ。しかし、私が誠意を持って説明すれば、きっと理解してくれるに違いない……。
以上のように推測しない限り、鳩山さんがこの土壇場にきてもなお平然としていることが私には理解できない。普通の人ならノイローゼになってしまうところだ。でも鳩山さんはならない。何しろ「宇宙人」なのだから。
鳩山さんは、銀の匙(さじ)をくわえて生まれてきた。そして、銀の匙をくわえっぱなしで「雲上人」となった。ある意味ではおおらかであるし、ある意味では現実離れしていると言えるだろう。
この土壇場に追いつめられ、誰もが狼狽しているにもかかわらず、あの異様な落ち着きぶり。それは、こうでも考えないと理解できないのである。」
”普通の人ならノイローゼになってしまう”のに、なぜあんなに”ケロッ”としておれるのか、という不可解な思いは誰しも抱くところだと思います(さすがにここ二、三日は動揺しているように見えますが・・・)。私は、その理由について鳩山首相には「善意の論理」が働いていたからだ、と考えています。
本来なら、鳩山首相が本気で自らの善意=「沖縄にこれ以上迷惑をかけたくない」という思いを普天間基地問題の解決に生かそうと思うなら、まず日米安保の重要性を国民に訴え、そこから生じる米軍基地負担について、国民全体で担おうではないか、沖縄だけに負担させるのはおかしいではないか、ということを正面から国民に訴えかけるべきでした。
しかし、鳩山首相はもともと「駐留なき安保」論者ですから(一時的にそれを封印?しているだけ)、本音ではグアムにでも持って行けるとでも思っていたのでしょう。もともと「善意」の人ですから、その東アジア共同体構想に見るように、米軍の日本からの撤退がかえって中国との軍事的緊張緩和に役立つ、とでも考えていたのかもしれません。
でも、こうした「善意の論理」は、到底、極東における平和維持や日本の国益に役立ちそうにありません。何しろ中国は経済的には資本主義化しているものの、政治的にはいまだ共産党一党独裁下の全体主義国家に止まっています。私たちは、中国は資本主義の導入から次第に民主主義社会へと移行すると期待していましたが、今はそうした希望は抱けなくなっている、といいます。
「たとえば新鋭のミサイルや潜水艦の登場が物語る中国の軍事力拡大の実態、東シナ海で国威を発揚する国家主権の拡大の思考、宇宙やサイバーという領域での攻撃準備、そしてハゲタカと称される巨大な中国の国家ファンドの内幕・・・などについては、日本での情報は極めて少ないようである。」
そんな状況の中で、沖縄にある米軍海兵隊の機能を司令部(現行案ではこの機能だけをグアムに移すとしている)だけでなく実戦部隊も含めて全てグアムに移すということはどんなことを意味するか。岡元行夫氏は「文藝春秋」5月号で次のように言っています。
「米軍は、日本に『常時駐留』しているからこそ強い抑止力になっている。横須賀を母港とする第7艦隊の原子力推進の空母ジョージ・ワシントンは、艦載機を含めれば一隻二兆円する。随伴艦を含めれば三兆円に近い。これだけの艦隊を日本の首都のすぐ近くに置いているアメリカの政策が、周辺諸国にアメリカの日本防衛への強い意思表示になっているのだ。第五空軍(横田基地、嘉手納基地、三沢基地)と第三回海兵遠征軍(沖縄に展開)も同じだ。」
問題は、これらの部隊がそれぞれどのような機能を持っているか、ということではなく、これらを合わせた、海、空、海兵の三本柱を日本に維持し続けるというアメリカの姿勢が、周辺諸国に対して、『日米安保体制は単なる条約上の約束ではなく、実際に機能する枠組みである』ことを知らせているのだ、といいます。
そこで普天間基地の移設の問題ですが、もともと1996年に日米両政府が合意したのは普天間飛行場の「返還」ではなく、普天間にある海兵隊のヘリ基地を住宅密集地域から離すという基地の「移設」という話だった。つまり、これによって普天間は返還されるが、その代替施設をどこに置くかが問題だったというのです。
最終的には、2006年11月、辺野古崎沿岸部の海上にV字形滑走路二本を埋め立てることで沖縄県、名護市が合意し、アセスメントに着手しました。しかし、2008年の沖縄県議選で反対派が多数を占めることとなり、さらに2009年8月の衆議院議員総選挙で民主党が県外移設を約束したことで、話は振り出しに戻ってしまいました。
この結果、民主党は、普天間基地の移設先を県外または国外に探すことになりました。しかし、「普天間のヘリコプター部隊は沖縄に駐留する海兵隊の足だから、本隊から切り離すことはできない。移すのなら一万人の海兵隊員、キャンプハンセン、キャンプシュワブ、北部訓練場、瑞慶覧(ずけらん)の施設軍の全てを一緒だ。そんな場所が簡単に見つからないことは、誰でもわかる話だ」というわけで、鳩山首相は、今日のような窮地に追い込まれることになりました。
一方、鳩山首相や社民党の「国外案」を支持する人たちの中には、アメリカは「海兵隊のヘリ部隊だけでなく、地上戦闘部隊や迫撃砲部隊、補給部隊まで全てグアムに行く計画を持っている」と主張する人たちもいます。アメリカや日本政府がそれを公表しないのは、その移転費用を日本に負担しようとしている事実を隠蔽するためだ、というのです。
こうした意見に対して、岡本氏は次のように言っています。
「出て行ってくれと日本が言えば、海兵隊は去るだろう。その場合には、沖縄だけでなく日本全土からの撤退だ。沖縄から主力を引いた後海兵隊の残余の部隊を岩国や東富士に置いていても仕方がないからだ。・・・第七艦隊、第五空軍とならんで在日米軍を構成する海兵第三遠征軍が仮にも日本から撤退する事態となれば、日米安保体制は一挙に弱体化する。中国にとって、これ以上の望めない喜ばしい事態が極東にやってくる。
中国は第一列島線(九州、沖縄列島、台湾、フィリピンを結ぶ線)の内側で力の空白ができれば、必ず押し込んできている。南ベトナムから米軍が引くときは西沙諸島を、ベトナムダナンからロシアが引いたときは南沙諸島のジョンソン環礁を、フィリピンから米軍が引いたときはミスチーフ環礁を占拠した。
このパターンどおりなら、沖縄から海兵隊が引けば、中国は尖閣諸島に手を出してくることになる。様子を見ながら最初は漁船、次に観測船、最後は軍艦だ。中国は一九九二年の領海法によって既に尖閣諸島を国内領土に編入している。人民解放軍の兵士たちにとっては、尖閣を奪取することは当然の行為だろう。先に上陸されたらおしまいだ。
そうなった際は、日本は単に無人の尖閣諸島を失うだけではない。中国は排他的経済水域の境界を尖閣と石垣島の中間に引く。漁業や海洋資源についての日本の権益が大幅に失われるばかりではない。尖閣の周囲に領海が設定され、中国の国境線が沖縄にぐっと近くなるのだ。」
この辺りの軍事専門的な判断は私にはできませんが、いずれにしろ、先の「第一列島線内」での力の空白を作らないことが重要なことは疑いないと思います。そのためには1沖縄に海兵隊の実戦部隊を置く必要があるか、2(民主党の小沢氏が言うように)第7艦隊だけでいいか、3その場合の兵力不足分は自衛隊が補うのか、はたまた、4こうしたパワーバランス的な考え方とは別に、中国との平和的な問題解決が可能か、これらの選択肢について検討を加える必要があります。
言うまでもなく、岡本氏は1の立場で、次のように2や4の意見を退けています。「『常時駐留なき安保』を主張する人たちは、同盟の基盤は人間感情であることを理解していない。都合のいいときだけ米軍に『戻ってくれ』と頼んでもムリだ。長年連れ添った妻に対して『もうお前の顔は見たくないから出て行け。しかしいいな、病気の時はちゃんと看病に来るんだぞ』と言うわがままが通用すると思っているのだろうか。」
もちろん、こうした日本の安全保障についてのアメリカ依存の考え方が、今日の日本人の防衛意識を劣化させていることは否めないわけで、3の考え方も今後重要になってくると思います。しかし、それはあくまでも日米同盟の重要性を損なわない範囲内で検討すべきことで、そのためには、「テロとの戦い」をはじめとするアメリカの安全保障政策に協力する姿勢も失ってはならないと思います。日本はいずれにしろ軍事大国にはなれないわけですから。
話を元に戻しますが、先に述べた鳩山首相の「善意の論理」についてですが、確かに、「沖縄にこれ以上、迷惑をかけたくない」という首相の思いは正しいと思います。問題は、その思いが、「駐留なき安保」という非現実的な安全保障政策に依存していたために、日米安保の重要性とともに「基地負担」を全国民で担うべきだ、という議論を正面から国民に訴えることができなかったことにあります。
その結果、日本国民の自らの国の安全保障についての自己責任の意識は、反基地運動の高まりによってますます希薄化することになると思います。また、沖縄の人びとの本土の人びとに対する不信感も一層増大することになるでしょう。さらに、アメリカの日米同盟の対する信頼感の低下を招くことになると思います。
鳩山首相の現実政治におけるリアリズムを欠いた「善意」が、「友愛」どころか「不信」と「悪意」をしか生み出さなかったことを、私たちはこの機会にしっかりと見ておく必要があると思います。
実は、同様の問題が、戦前の日中関係にも見られたのです。それが、今日に至るまで、大東亜戦争は日本のアジアにおける植民地解放という「善意」に基づくものであったか、それとも植民地獲得という「悪意」に基づく侵略戦争であったか、という日本人の歴史認識の亀裂にもつながっているのです。次回から、この問題について考えてみたいと思います。 
 
近代・昭和史諸説

 

石原完爾の個人的責任を免除した『未完のファシズム』 
『未完のファシズム』 片山杜秀著
引っかかった所、というのは次の箇所
「日本軍は日清・日露戦争までは「まぐれ当たり」で勝ったために自己の力を過信し、太平洋戦争まで暴走してしまった、という解説がよくあるが、その間には第1次大戦があった。これはそれまでの地域紛争とは質的に異なる総力戦であり、そこで勝敗を決するのは動員できる物資の量だから、日本のような「持たざる国」がアメリカのような「持てる国」に勝つことは不可能である。
これを誰よりもよく理解していたのは、当の軍人だった。したがって持たざる国である日本が戦争に勝つ道は、論理的には二つしかない
1. 日本より貧しい国だけを相手にして戦争する
2. 日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない
このうち1の路線をとったのが小畑敏四郎などの皇道派であり、2をとったのが永田鉄山などの統制派だった、というのが著者の理解である。」
えっ、そんな皇道派と統制派の分類ができるの?これでは皇道派の方が現実的な思想の持ち主だったということになるじゃないの!というのが私が最初に感じた疑問でした。そこで、本文を読んでみたわけですが、小畑の、「日本より貧しい国だけを相手にして戦争をする」というのは、満州事変のような「戦争」のこと。実際、小畑は、石原完爾の満州事変における作戦指導を「速戦即決の『持たざる国』の理想の戦争」として絶賛していました。
また、満州事変後、陸相となって宇垣派を逐い皇道派全盛時代をもたらした荒木貞夫は、満州事変の軍国気分を背景として、「盛んに国体精神の高揚を説き、満州事変の意義を強調し、内政の改革」を論じていました。なお、皇道派の対内外政策は「農村救済論と対ソ予防戦争論の二つ」に代表されますが、ここにおける「対ソ予防戦争論」とは、本書では次のように解説されています。
「持たざる国」が「持てる国」相手に長期戦争をしても勝ち目はない。ロシア革命のように国体を護持できぬ危険も高まる。第一次世界大戦後の日本の仮想敵はアメリカ、イギリス、ソ連等の「持てる国」ばかりであって、彼らと正面きっての本格戦争を遂行する力は日本にないと断ずるよりほかはない。避戦に徹するべきである。けれどソ連とは満洲の利権を巡って衝突する可能性を否定できない。最も起こりうる戦争である。そのための万全の準備は必要だ。
といっても日本のような「持たざる国」がソ連の国土に侵攻するなどという事態は破滅的だから不可である。防衛戦争のみにする。日本の縄張りに突入してきたソ連軍とだけ戦う。その場合、日本陸軍にとって参考になる最近の例はやはり第一次世界大戦の東部戦線だ。東部戦線でのドイツ軍以上の作戦指導と兵の戦意維持を可能とするように軍隊教育で徹底する。将校はタンネンベルクの包囲殲滅戦を学習し、兵隊には必勝の信念を植えつけなければならない。
ソ連軍は日露戦争や第一次世界大戦でのロシア軍並みと想定する。小畑が東部戦線において肌で知ったロシア人気質の横溢した統率の粗雑な軍隊である。ソ連軍はきっと日本軍よりも遥かに大人数だろう。それでも予想通り粗雑な軍隊であれば包囲殲滅も可能なはずである。こうした条件が全部揃った限定的短期戦争だけがポスト第一次世界大戦時代に日本陸軍が行える戦争だというのが、小畑のたどり着いたところだったのです。
小畑を実質的な産みの親とする新しい『統帥綱領』や『戦闘綱要』も局限された状況でしか活きない代物だったのです。
小畑には、そして荒木貞夫にも、次の戦争は必ずこの形だという絶対のヴィジョンが有されていて、『統帥綱領』や『戦闘綱要』はそのために当て書きされたと考えるとしっくり来るのです。」
ここに、『統帥綱領』が出てきますが、この本は、司馬遼太郎が『この国のかたち1』「6機密の中の”国家”」で次のように紹介したものです。
「・・・『統帥綱領』の方は昭和3年、『統帥参考』のほうは昭和7年、それぞれ参謀本部が本にしたもので、無論公刊の本ではない。公刊されれば、当然、問題となったはずである。内緒の本という以上に、軍はこの本を最高機密に属するものとし、特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
特定の将校とは、「統帥機関である参謀本部所属の将校のことである。具体的には陸軍大学校に入校をゆるされた者、また卒業して参謀本部で作戦や謀略その他統帥に関する事項をうけもつ将校をさしている。」
ここでは『統帥参考』の成立は昭和7年となっていますが、「統帥要綱と統帥参考は遅くとも1928年頃までに皇道派の鈴木率道により成立したと考えられる」そうです。また、皇道派の面々は、その「名前に反し・・・国家主義であるが、生きている天皇はないがしろにする傾向があり、要綱のなかに軍隊の忠誠の関係も含めて天皇に触れた箇所はない」。『統帥参考』にはありますが、軍隊の統帥は総て御親裁によるものとは限らず、ある範囲は統帥補翼機関に委任される、としています。
続いて司馬は次のように言います。
『統帥参考』の冒頭には、「統帥権」について、「・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ」と規定している。超法規とは、憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ、ということで、さらに、一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で補弼する)のに対して、統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定している。
「従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之が結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。」
もちろん「国家が戦争を遂行する場合、作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で、常識に属するが、しかし『統帥参考』のこの章にあっては、言いかえれば、平時・戦時をとわず、統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
・・・然レドモ、参謀総長・海軍軍令部長等ハ、幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ、憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・
つまり、「天皇といえども憲法の規定内にあるのに、この明文においては天皇に無限性をあたえ、われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」としている。
「さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や”国家事変”の場合においては、兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる、というのである。「大日本帝国憲法Lにおいては、その第一条に「大日本帝国八万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第二章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては、自分たちが統治する、という。
・・・兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ於テ、直接二国民ヲ統治スルコトヲ得・・・
・・・この文章でみるかぎり、天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する、とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。
要するに、戦時には、日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。
憲法に関するこのような確信に満ちた私的解釈が、国家機関の一部でおこなわれているということを、当時、関係者以外は知らなかったにちがいない。いまふりかえれば、昭和前期の歴史は、昭和七年に成立したこの機密”どおりに展開したのである。」
「統帥権の独立」は、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結時における「統帥権干犯問題」以降世間に知られるようになったものです。しかし、こうした考え方は、その二年前の昭和3年に、皇道派の理論家たち(鈴木や小畑ら)によって、参謀本部内の一部の将校だけが閲覧できる最高機密の”秘密文書”として成立していたのです。
このような「統帥権」の解釈が当時の幕僚軍人に共有されていたからこそ、天皇の意思を無視して満州事変を起こすことができたのです。その後、皇道派は、統制派を”3月事件や10月事件で「天皇大権を私議した」との批判を繰り返しました、しかし、上述したような明治憲法における統帥権の解釈自体が、「天皇大権の私議」であって、こうした考え方は「統制派」のみでなく「皇道派」にも共有されていたのです。
また、2の「日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない」という考え方を採ったのが永田鉄山などの統制派だった、という分類もおかしい。これは石原完爾の考え方で、著者も、「持たざる国」日本を何が何でも「持てる国」日本にすぐさま変身させようというラディカルな野心はおそらく永田にはない。」昭和3年1月、永田は木曜会の会合で石原の、全支那を利用して「持てる国」になるという話を聞いて、「石原の議論にはおよそ必然性がない」と呆れ気味だった、と書いています。
もちろん、永田と石原を「統制派」で括ることも無理で、永田を統制派の首領とするなら、永田は2の「戦争論」を否定していたのですから、統制派が「持てる国」との戦争を始めたとも言えません。もちろん、皇道派の戦争論は「対ソ予防戦争論」であって「持てる国」との戦争は否定していました。では誰が?というと、永田が皇道派の相沢三郎中佐に殺された後の武藤章や東条英機等ということになりますが、それは、「石原が引き起こした満州事変をきっかけとしてなし崩しに戦線が拡大した結果」という外ないものです。
では、なぜ、このような誰も意図しなかった「持てる国」との戦争=対米戦争を日本がやることになってしまったのか。著者は、「国家としての意思決定が機能していれば、どこかでブレーキがかかったはず」である。しかし、明治憲法には、内閣の最高意思決定機関としての権限がなく、軍の統帥権がそれから独立しているため、実質的な中枢だった元老の権力が(山県有朋を最後に)衰えた後は、軍部の「下克上」に歯止めをかける人がいなくなった、といいます。
では、誰が、こうした軍内部における「下剋上」を蔓延させたかというと、それはいうまでもなく、満州事変を引き起こした石原完爾ということになります。この本には、この事実が、酒井鎬次元陸軍中将の回想として次のように紹介されています。
「酒井が真っ先に批判するのは石原莞爾の起こした満洲事変です。それがもたらしたものは何であったか。「持たざる国」を「持てる国」に化けさせるバラ色の未来ではなく、単に仮想敵国のひとつ、ソ連との国境線を激増させ、「持てる国」との戦争リスクを高めただけであった。酒井はそう言うのです。
満州事変企図の一つに国防線の推進による国家安全保障の増進を欲したりとせば(中略)全く反対の結果を来す。これは幾何学的に見ても中心より遠ざかるに従ひ、円周の延長は増大するものにて、古来多くの政治家、武人の陥る錯覚にして考慮すべき教訓と信じ候。
領土ないし勢力圏が拡大する。国境線が長くなる。しかも国境線の向こうは仮想敵国のソ連である。「持たざる国」を「持てる国」にするつもりで満洲を獲得したつもりかもしれない。ソ連と日本本国の中間の満洲を獲得することで、スペースがとれ、日本がより安全になったというつもりだったかもしれない。
が、戦争を国家間の摩擦の極端化と解するならば、摩擦の起きる大なる場所は国境線に他ならない。国境線が長くなればなるほど、面と向かい合うところが増えれば増えるほど、仮想敵国と戦端の開かれるリスクが拡大する。「持てる国」になる前に戦争が起きる確率が格段に上がる。これが火中に飛び込むような乱暴な選択でなくて何なのか。酒井は怒るのです。
ついで酒井は、満洲事変が石原ら関東軍によって中央の意思を無視し独断専行で行われたことを重く見ます。世間にもありがちな視点ですけれども、酒井の視点は一味違うところがあります。彼は第一次世界大戦期のフランスの政治と軍事のありさまをつぶさに現地で見聞しました。
政治と軍事、さらに経済と社会までが一体となって強力な意思統率が行われなければ、総力戦遂行は不可能であると肌身で知りました。ところが日本の国家機構は政治と軍事をバラバラにし、また経済活動でも私権を積極的に擁護している。基本的には自由主義である。総力戦体制作りを考えるときには甚だしく不向きと言わざるをえません。
そんな多元的でまとまりのない日本をもっとまとまらなくしたのが石原だと、酒井は舌鋒を鋭くします。石原の独断専行が結果オーライで認められたがゆえに軍というひとつの組織の統率すらも失われ、多元化が促進されてついに歯止めが利かなくなった。特に「持たざる国」が総力戦時代に対応するには一元化が不可欠だというのに、石原は逆に日本の多元化を推し進めてしまった。酒井はそう考えるのです。
満州事変は出先当局が中央の意図に反し独断積極的に行動し、しかもこれが後日中央により是認、賞讃され論功行賞されるに及び、石原は英雄視され、これに倣はんとするもの続出(中略)
海軍上層部が僅かに一佐官たる中原に引きずられ北海事件、海南島占領迄にずるずると進み、蘭印に手を附けんとして始めて対米作戦の必然に気付き苦悶したるは上層部の無定見、愚鈍を示すものにして、かかることは当然、始めから判りきったことにて、若しこれを予見し得ざりとせば愚鈍であり、知りつつ引きづられたりとせば、その無責任を問はるべきと存じ候。この頃になると陸軍の下剋上の風が海軍に移行したることを示すものと存じ候。そして酒井はこの角田宛書簡を石原批判の駄目押しで締めます。
これを要するに、昭和に於ける日本の敗戦直接の近因は、実に対内、対外、政治、軍事何れの点より見るも満洲事変にあるやに感ぜられ申候。これを以て見るも石原将軍の研究は将来の課題と存じ候。」
本書は、このような歴史の教える教訓として、「背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。・・・転んだ時の痛さや悲しさを想像しよう。そうした想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう」ということをその末尾で述べています。
一方、その前段では、「酒井によれば、満洲事変という、将来の見通しにおいてもやり方においてもかなり乱暴な背伸びが強引になされて大きな歪みを生じ、ついにそれを補正出来なかったことが亡国の原因となるのでしょう。これは単に石原個人を責める話ではありません。酒井を支配しているのは、第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体に対する悔恨なのです。そういう感情が石原という個人を通じて語られているのです。」とも述べています。
石原個人より、「総力戦時代にうまく対処できなかった日本のあり方全体」を問題にしようと言うわけです。つまり、本書の書名「未完のファシズム」との整合性を図ろうとしているのです。しかし、では「完成したファシズム」だったら「持てる国」との戦争を回避し得たかというと、それは、さらに悲惨な結果をもたらした可能性が大。例えば、本土決戦の遂行など・・・。それを止めるたのが、権力の集中を防ぐ天皇中心の「しらす」政治、それを規定した明治憲法体制だった、とも言えるのです。
その「しらす」政治を理想とする明治憲法体制を逆用し、天皇の意思をも無視して軍が独断的に行動できるという統帥権の拡大解釈を梃子に満州事変を引き起こしたのが石原完爾でした。この結果、中国との持久戦争、次いで「持てる国」アメリカとの戦争をなし崩し的に始めることになったのです。そして、その絶望的な戦争の戦い方として生み出されたものが、玉砕という「死の哲学」でした。
つまり、この「死の哲学」が先にあったのではないということ。それを生み出したもの、それは、「持てる国」との戦争を必然とし、そのためには中国の資源を共有する必要があると考え、それを実行に移すため統帥権を拡大解釈して満州事変を引き起こし、軍内に下剋上を蔓延させただけでなく、日本の政治的統一を破壊した石原完爾の個人的責任が最も大きい、ということです。さらに言えば、こうした石原の行動を皇道派も絶賛していた、ということです。
しかし、それでは、「未完のファシズム」という書名と整合しない。そこで、酒井が指摘したような石原完爾の個人的責任を免除し、それを「第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体」の問題とした。もちろん、死を美化する思想的伝統が日本にあるのは事実---そのイデオローグとしては平泉澄で十分---ですが、玉砕という「死の哲学」は悲劇的な戦争の結果であって必ずしも原因では無い、本書の無理はそこにある。私はそのように感じました。 
「マッカーサー証言」について

 

――「自虐史観」からの脱却には役立つかも?
この証言は、司令官を解任されたマッカーサーが1951(昭和26)年5月3日に、米上院軍事外交合同委員会の公聴会で行ったものです。これを、小堀桂一郎氏らがニューヨーク・タイムズ紙の記事を基に証言録を入手、翻訳文と解説が雑誌「正論」などで紹介されました。
そのポイントとなる箇所は、日本が戦争に飛び込んでいったその主要な動機は、実は資源のない日本が、国家の生存権を確保するという意味におけるセキュリティーを確保する必要に迫られたためだった、と述べたところです。つまり、この時代(おそらく昭和初期)日本は戦争に訴えない限り、原料の供給は断ち切られ、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを日本は恐れた、というのです。
この証言が、都立学校の現代史の教材として英文で掲載されたことが話題になっているわけですが、産経新聞の解説では、これを「日本の戦争=自衛戦争」と認めたものと解釈しています。そして「東京裁判史観」の是正や「南京大虐殺」が中国の反日誇大宣伝であったことの認識とも合わせて、これを前向きに評価しているのです。
次は、以上のことを報じた産経新聞の解説です。
「この聴聞会が日本で広く知られるようになったのは、間違いなくこの一節によるだろう。「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れた。したがって、日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」いわゆる自衛戦争証言である。
重要性を考えるにあたり、二つの極東情勢をふり返る必要がある。「戦前の日本」と「戦後のマッカーサー元帥」である。
戦前の日本、とりわけ明治維新によって近代国家となった日本にとって、帝政ロシアと旧ソ連の一貫した南下政策は大きな脅威だった。
朝鮮半島が敵対国の支配下に入れば、日本攻撃の格好の基地となる。後背地がない島国日本は防衛が難しいと考えられていた。日露両国間に独立した近代国家があれば脅威は和らぐ。しかし李王朝は清朝に従属していた。その摩擦で日清戦争が勃発。清朝が退き空白が生じるとロシアが台頭、日露戦争となった。どちらも舞台は朝鮮と満州である。
西欧列強もまた、大きな脅威だった。当時の日本を小説にして世界へ伝えたフランス海軍士官、ピエール・ロティは、外国艦船が頻繁に出入りする長崎、横浜港の様子を書き残している。アフリカ、インドを経て太平洋まで到達した英仏などの艦船が近隣国を攻撃し、矛先がいつ日本に向くのか分からない、緊張の時代だった。
一方で、米国は、日本が韓国を併合したようにハワイ王国を併合し、こちらは現住民族を滅ぼした。日本列島の太平洋側に米国が封鎖陣形がはられた。
この経緯を作家の林房雄は「一世紀つづいた一つの長い戦争」と表現する。幕末の薩英戦争・馬関戦争で徳川二百年の平和が破られたとき「一つの長い戦争」が始まり、昭和二十年八月十五日にやっと終止符が打たれた。この百年の間、日本は欧米列強に抗するため、避けることのできない連続する一つの戦争「東亜百年戦争」を強いられたという。
しかし、こうした主張を戦後許さなかったのは、ほかならぬマッカーサー元帥だった。「日本は列強に伍して自国を守ろうとした」という主張は封じられた。GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官として占領統治を成功させるには、日本の過去を完全に否定しなければならなかったからである。
ときはくだり一九五〇(昭和二十五)年。マ元帥が常に口にした共産主義への懸念>は、朝鮮戦争で現実のものとなった。ワシントンは中国参戦後、日本を「防共の砦」とし、朝鮮半島を明け渡す可能性も示唆してきた。
マ元帥は、朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられた凶器となりかねない位置にあるため、朝鮮防衛を考えた。さらに、ソ連製のミグ戦闘機が飛来すると、兵站部だった満州爆撃の許可を本国に求めた。
朝鮮と満州の敵勢力を掃討して日本を防衛する。マ元帥のこの行動は、日本が戦前、独立を保つためにとった行動そのものだった。朝鮮の地に自ら降り立ち、大陸からの中ソの脅威に直接立ち向かってはじめて、極東における日本の地政学的位置を痛感し、戦前の日本がおかれた立場を理解したのである。
この証言に至る下りで、マ元帥は「日本人は・・・労働の尊厳のようなものを完全に知った」と証言した。士官学校卒業後、初の東洋だった長崎で「疲れを知らないような日本の婦人たちが、背中に赤ん坊をくくりつけ、手で石炭カゴを次から次へと驚くべき速さで渡す」のをみて驚嘆したという。こんな体験も日本観形成の要因だったかもしれない。」
なお、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)は「現在ではもっぱら国家安全保障national securityの意味で使われる」(平凡社世界大百科事典)の記述により、安全保障と訳した。」と訳者の註が施されています。
こうした意見に対して、ネット上ではいくつかの反論がなされています。肯首できる意見としては、「マッカーサー証言」全体の文脈の中で、この部分を、日本の大陸進出を「自衛」のための戦争と認めたものと解釈するのはおかしい、というのがあります。つまり、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)」を「自衛権の行使」という意味に解するのは間違っているというのです。
そこで、その証言部分を見てみます。
[ヒッケンルーパー上院議員] では五番目の質問です。赤化支那(中共:共産中国)に対し海と空とから封鎖してしまへといふ貴官(マッカーサーの事)の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。
[マッカーサー] はい。 太平洋では、私たちは彼らを迂回し包囲しました。日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが4つの島に犇いているのだということを理解して頂かなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は、量的にも質的にも、私がこれまでに接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間が怠けているときよりも、働き、生産しているときの方がより幸福なのだと言うこと、つまり労働の尊厳と呼んでも良いようなものを発見していたのです。
これまで巨大な労働力を持っていると言う事は、彼らには何か働く為の材料が必要だと言う事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき材料を得ることが出来ませんでした。
日本原産の動植物は、蚕をのぞいてはほとんどないも同然である。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫(すず)がない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在したのである。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。
したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分がその安全保障(「セキュリティ確保」)の必要に迫られてのことだったのです。
*この安全保障(「セキュリティ確保」)の部分の訳が、「失業者対策(保護)」であったり、「資源の確保」であったり、単に「安全保障」であったりいろいろです。
原料は、日本の製造業のために原料を供給した国々マレーシア、インドネシア、フィリピンのような国々の全拠点を、日本は、準備して急襲した利点を生かして抑えていた。そして彼等の戦略的概念とは、太平洋の島々、遠く離れたところにある要塞をも維持することだった。だから我々が、こうした島々を再び征服しようとすれば、我が軍の財産を搾り取られ、日本が攻略した地の基本的な産品を彼等が管理する事を許す条約に最終的には不本意ながら従うことになり、犠牲があまりにも大きいと思われた。
この事態に直面して、我々は全くの新戦略を考え出した。日本がある一定の要塞を確保したのを見て我が軍が行ったことは、こうした要塞を巧みに避けて回り込むことだった。彼等の背後に回り、日本が攻略した国々から日本へ到達する連絡路につねに接近しながら、そっと、そっと忍び寄った。米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった。
最終結果を見ると、日本が降伏したとき、少なくとも三百万人のかなり優秀な地上軍兵士が軍事物資がなく武器を横たえた。そして我が軍が攻撃しようとした要所に結集する力はなかった。我が軍は(迂回して)彼等がいない地点を攻撃し、結果として、あの優秀な陸軍は賢明にも降伏した。(以下略)」
これは、アメリカ上院の公聴会において、朝鮮戦争でアメリカが共産中国を屈服させるためにとるべきであった戦略について、議員がマッカーサーに意見を徴したのに対し、マッカーサーが答えたものです。その意味はその後の証言も合わせて考えると次のようになります。
マッカーサーは、それは、アメリカが日本に対して迂回包囲作戦をとったのと同じやり方で可能だったと言いました。日米戦争においてアメリカは、日本の東南アジアからの原料供給を封鎖する作戦をとった。それが功を奏して日本はギブアップした。
これと同様のことが中国に対しても言える。彼等は、かって日本帝国が持っていたような資源は持っていない。従って、彼等に対しては、かって日本に対してとったと同じような資源封鎖をすればよい。その封鎖は、国際連合に加盟している国々が協力すれば容易にできる。
中国が資源を得るための唯一の方法はソ連から供給を受けることだが、ソ連は極東の大部隊を維持するための輸送路を確保するのに精一杯だ。つまり、ソ連の中国に対する資源供給力には限度がある。だから、中国は海軍も空軍も持てないのだ。
私の専門的見地から言えば、中国の近代戦を行う能力はひどく誇張されたている。もし我々が、上述したような資源封鎖をやり、空軍による爆撃でその輸送路を破壊しさえすれば、然るべき期間内に、必ず彼等を屈服させることができたであろう。
従って、件の箇所の訳は、
「したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、その大部分が「資源を確保することで自国の生存権を擁護する」必要に迫られてのことだったのです。」と訳したほうがいいように思います。
従って、これを、マッカーサーが日本の満州事変から日中戦争そして大東亜戦争までの日本の戦争を「自衛戦争」と認めた、と解釈するのは、いささか我田引水のような気がします。マッカーサーが言っているのは、日本のような資源のない国に対しては、そうした資源封鎖が戦略上有効だということです。その主眼は、朝鮮戦争におけるアメリカの中国封鎖戦略の有効性を主張するためだったのです。
従って、日本の昭和の戦争をどう評価するか、という問題は、こうしたマッカーサーの言葉とは別に考えるべきです。この場合、日清戦争は、日本の安全保障上の観点から朝鮮における日本の清国に対する軍事的優位を確保するためのもの。日露戦争は、朝鮮における日本のソ連に対する軍事的優位を確保するためのもの、ということでよろしいのではないでしょうか。
では満州事変以降の戦争についてはどうか。満州事変の前後は、アメリカにおける排日移民法の制定、金融恐慌・世界恐慌とそれに伴う自由経済からブロック経済への転換、東北地方の冷害等も重なって、日本は未曾有の経済的困窮状態に陥っていました。そこで満州問題、つまり満州における日本の特殊権益の確保という問題が、俄然脚光を浴びることになったのです。
つまり、この時日本が直面していた問題は、直接的にはマッカーサーが指摘したような資源問題や移民問題であったわけです。また、満州における日本のプレゼンスを確保する、つまり、ソ連の共産主義革命に基づく膨張政策、中国における反日運動の高まりに対処するという観点から言えば、日本の安全保障の問題でもあったわけです。
では、そうした問題を解決するためにとるべき日本の外交政策としては、どのような政策を採るべきであったかというと、蒋介石と連携して中国の共産化を防ぐことが最大の戦略目標であったはずです。従って、こうした観点からその後の日本の行動を見る限り、満州事変のやり方や華北分離政策が有効だったとはとても言えません。
まして、中共の謀略にはまって泥沼の日中戦争に足を突っ込み、さらに南京事件を引き起こしてアメリカを敵に回しアメリカの経済制裁を受けることになった。これに対抗し資源を押さえるために仏印進駐をした。さらにドイツと軍事同盟を結んでアメリカを掣肘しようとして失敗し、結局、対米英戦争に引き込まれた。
こうした、その後の日本の行動が、満州事変当時の「資源確保や安全保障上の理由」だけで正当化できますかね。まあ、単純な「日中兄弟論」的な考え方しか持てなかったために、中共やソ連に騙され、あるいはアメリカに騙され、暴発させられて自滅したわけで、余り自慢になる話とも思われません。
まあ、それは、巷間言われるほど日本に悪意があったわけではないということの証明にはなると思います。よって、いわゆる「自虐史観」からの脱却には少し役立つかも知れません。しかし、そうした解釈から、日本人が昭和の戦争から学ぶべき真の教訓が得られるとは、私には到底思えませんね。 
福田恆存の『乃木将軍と旅順攻略戦』

 

半藤一利氏の『あの戦争と日本人』に次のような記述があります。
「乃木さんが十一月二十七日に二〇三高地砲撃を決断したとき、旅順艦隊はすでに廃物だった。いや旅順要塞攻撃自体が無効だったというわけなんですね。二十八センチ砲で目的を達していた。では二万にも及ぶ兵士は何のために死んだのか。」
この二十八センチ砲で目的を達していたというのは、「九月二十八日から十月十八日にかけて、密かに日本から二十八センチ砲というでっかい大砲が運ばれてきていて、山越しに旅順港を狙える場所からボッカンボッカンと砲弾を撃ち込んだ」ことで、旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んだ。弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた。その事実を、日本軍は二〇三高地を占領するまで知らなかった、というのです。
私はこの話を聞いて、二十八センチ砲による旅順艦隊砲撃の効果がはっきりしなかったというのもよく判らないが、それ以上に、ただその砲撃の観測点として必要とされた二○三高地を奪取するのに、二万人に及ぶ戦死者を出すような攻撃を繰り返したというのも、おかしな話ではないか。二〇三高地を含めた旅順要塞攻撃には、何か別の目的もあったのではないか、と疑問に思いました。
これについては、福田恆存が昭和45年12月に「乃木将軍と旅順攻略戦」という一文を書いていて、乃木が司令官を務めた第三軍の目的は次の三つであった、と言っています。(以下の引用はこの本による)
第一、初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった。それは、旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れる海軍の要請で、旅順艦隊を撃滅するため旅順要塞を落として貰いたい、ということから生じた。なぜなら、旅順要塞の砲塔は北面の陸に向かって作られていると同時に、南の海面に向かって味方艦艇の援護射撃もできるように造られていたから、それを潰して欲しいということだった。
第二、日本軍は、満州総軍作戦根拠地としての大連を確保せねばならず、そのためにはどうしても旅順の敵を安泰にしておくわけにはいかなかった。少なくとも北進する第二軍の後方を安全にする必要があった。
第三、この第一、第二の目的を達成することを任された第三軍は、旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に参加しなければならなかった。
つまり、第三軍は、海軍の要請に応じて旅順艦隊を撃滅するためにも、また、大連を確保し北進する大二軍の後方の安全を図るためにも、さらに、沙河、遼陽の会戦に一日も早く参加するためにも、旅順要塞全体を落とす必要があった。そのために、松樹山堡塁から東鶏冠山北堡塁にわたる東北正面と共に、二〇三高地を中心とする西方面の要塞群を攻め落とす必要があり、第三軍は、まず、東北正面を奪取することが旅順艦隊のみならず要塞の死命そのものを制することになると考えた、というのです。
つまり、旅順艦隊の撃滅だけが旅順要塞攻撃の目的ではなかったということですが、それにしても、もし、二十八センチ砲による砲撃で旅順艦隊が撃滅されたことが判っていれば、必ずしも旅順要塞を強襲して多くの犠牲者を出すような攻撃方法をとらなくてもよかったのではないか。第二、第三の目的を達成するためには、旅順港及び旅順要塞に籠もるロシア軍が出てくるのを迎え撃った方が、より少ない犠牲でその進出を阻止できたのではないか、ということです。
あるいはそれが、「初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった」ということなのかもしれません。しかし、海軍は旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れていて、陸軍に一日も早く旅順艦隊を撃滅するため、旅順要塞を落としてくれるよう要請していました。それによって、日本から朝鮮への軍需物資の輸送路も確保できるし、バルチック艦隊との決戦に備えて、黄海会戦等で傷ついた聯合艦隊を修理する時間を確保することもできる。
そこで、陸軍による旅順要塞攻撃が開始されました。第一次攻撃(8.19〜24)、第二次攻撃前哨戦(9.19〜22)、9月28日から10月18日までは9月20日に落とした南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃、第二次総攻撃(10月26〜30)がなされました。しかし、東北正面要塞は落ちない。11月9日には、大本営の山縣参謀総長が満州軍総司令官大山元帥に、「速やかに旅順艦隊を撃破し、我が海軍をして一日も早くその艦艇修理に着手せしめ、第二の海戦準備を整ふるの時日を得せしむること頗る必要なり。これが為めに第三軍はまづ敵艦撃破の目的を達すること急がざる可らず。(二○三高地攻撃勧奨=筆者)」(「機密戦争日誌」)と電報を打っています。
これに対して大山総参謀長は、次のように返電して大本営の要望をはねつけています。
一、旅順陥落を成るべく速かに、一方にはわが海軍をして新なる作戦をなすの自由を得せしめ、他の一方に於ては優勢なる兵力を北方の野戦に増加し、以て決戦の期を速かにせんと欲するは、貴電に接する迄も無くその必要を感ずる所なり。況んやバルチック艦隊の東航を事実上に目撃するに於てをや。
二、九月十九日を以て開始せられたる(第二回)攻撃に當り、予は(兒玉)総参謀長を特派し、親しくその攻撃の実況を目撃せしめたり。その当時、総参謀長より閣下に意見を呈したる如く、一気呵成の成功を望むためには新鋭の兵力を加へて元気よく、攻撃するの必要ありき。(註・第八師団を旅順に送れとの請求を云うなり)後略
三、さて更にこの攻撃を有効ならしむるためには、その間種々の思付もあるべくなれども、(東北正面)の松樹山、二龍山に對する攻撃作業既に窖室(こうしつ)に迄達し居る今日なれば、最早この攻撃計画を一変して他に攻撃点を選定する等の余地を存せず。唯計画せられたる攻撃を鋭意遂行するあらんのみ。而して、これ最終の目的を達するため、最近の進路たるべし。
四、二〇三局地を攻撃するを得策とする考案もあるが、二十八サンチ砲の如き大威力の砲を有せざる以前に於ては、此高地を占領して旅順の港内を瞰制する必要を感ぜしなり。然るに此高地自らは旅順の死命を制するものに非ず。且つ二十八サンチ砲を有する今日に於ては、港内を射撃するの観測鮎に利用せらるるに過ぎず。
港内軍艦に對する二十八サンチ砲の威力は、平時に於て予期したる如くならず。又、従って敵艦が如何の程度にまで損害を受くるやを識別することは、二〇三高地よりするも決して正確なる能はざるべし。故にこの高地を占領したる後も、猶今日の如くなるを疑はざるを得ず。寧ろ速かに旅順の死命を制するの手段を捷径となすに如かざるなり。然れどもこの高地に對する顧慮を拠棄せざるは勿論にして、第二項の攻撃を遂行するに當り、助攻撃をこの高地に向くるならん。
六、以上の理由に基き、第三軍をして現在の計画に従ひ、その攻撃を鋭意果敢に実行せしむるを最捷径とす。鋭意果敢の攻撃は、新鋭なる兵力の増加により初めて事実となるを得べく。新鋭なる兵力の増加は、第七師団の派遣に依らざるべからず。(後略)
つまり、二十八センチ砲が届く以前の砲による旅順港砲撃には二〇三高地を観測点とする必要があったが、二十八センチ砲を得たことで南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃が可能となった。そこで、二〇三高地を落としてそこを観測点にしたとしても、その砲撃の効果を正確に識別することはできず現状と余り変わらない。といっても、二〇三高地を落とすことを放棄するわけではないが、まずは、東北正面の要塞攻撃を継続することで旅順の死命を制する事が先である、と言っているのです。
なお、この意見に児玉も同調していることは、児玉がその後の第三軍による旅順港内の艦隊への砲撃を「二兎を追うべからず。二十八サンチは本攻に用ゆべし。無駄弾丸を送るべからず」と中止を命令している事でも明らかです。
しかし、第三次総攻撃(11月26日)における白襷隊は失敗しました。そこで白襷隊がダメとなれば二〇三高地を攻めるべきでは、という第三軍の要請によって、11月27日から二〇三高地への攻撃が開始されました。30日には一時高地を占領するもまもなく奪還されました。そこで12月1日には児玉が第三軍に来て指揮を執り、同士打ち覚悟の援護砲撃を繰り返すことで、12月5日に二〇三高地を陥落させることができました。
その時、この二〇三高地から旅順港を見たら、9月30日以来の二十八センチ砲による砲撃で、「旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んでいた」(おそらく目視できたのはここまででしょう。ただし、自沈だという説もあります)。また、「弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた」というのは占領後に確認されたことだと思います。
この二十八センチ砲による旅順港への砲撃は9月30日(半藤氏は28日)から10月18日までです。次いで10月26日にはじまる第二回総攻撃から、この二十八センチ砲を使った東北正面の要塞攻撃が開始されました。これにより二竜山堡塁は兵舎が破壊され東鶏冠山堡塁では火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙り、日本軍はp堡塁を占領することができました。
ここで留意しておくべきことは、日本軍は第一次攻撃の段階では要塞戦の戦い方を知らなかったということで、従って、その攻撃法が歩兵の突撃による強襲法となり多大の犠牲を生むことになったのです。しかし、第二次攻撃からは、第一次攻撃の反省を踏まえて急遽攻城戦法を学び、塹壕を掘って進む正攻法に切り替えました。それによって犠牲者の数もずっと少なくなりました。
問題は、先ほども申しましたが、この二十八センチ砲による旅順艦隊攻撃で、旅順艦隊が無力化されていることがもし判っていたとしたら、東北正面要塞への第二次総攻撃及び二〇三高地への第三次総攻撃は、じっくり時間をかけてより犠牲の少ない攻撃法がとれたのではないか、ということです。これが半藤氏の冒頭の問いにもなっているのではないかと思われます。しかし、第三軍には「旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に第三軍も参加しなければならない」という第三の目的もあったわけで、この方面のロシア軍の撃滅が求められていたことは間違いないと思います。それなしでは陸戦での勝利もなかったでしょうから。
以上、福田恆存の「乃木将軍と旅順後略戦」に引用されている資料を参考に、半藤氏の発した問いについて考えて見ました。この福田氏の論は、繰り返しになりますが、昭和45年12月に発表されたもので、本人も戦史には全くの素人と断った上でのものです。使用された資料も当時のものだけで、特別の資料が使われているわけではありません。にもかかわらず、その論述は、前回紹介したwikiの「旅順攻囲戦」の解説ポイントを押さえたものとなっています。改めて、氏の批評眼の確かさを再認識した次第です。
で、福田氏のこの論はその締めくくりとして、次のような、私たちが歴史を論じる際に心がけておかなければならないことを説いています。大変重要だと思いましたので、自戒を込めて紹介しておきたいと思います。
「近頃、小説の形を借りた歴史讃物が流行し、それが俗受けしている様だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善悪黒白を一方的に断定しているものが多い。が、これほど危険な事は無い。歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。
吾々は二つの道を同時に辿る事は出来ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見遙かし、ああすれば良かった、かうすれば良かったと論じる位、愚かな事は無い。殊に戦史ともなれば、人々はとかくさういう誘惑に駆られる。事実、何人かの人間には容易な勝利の道が見えていたかも知れぬ。
が、それも結果の目から見ての事である。日本海大海戦におけるT字戦法も失敗すれば東郷元帥、秋山参謀愚将論になるであらう。が、当事者はすべて博打をうっていたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であった。それを現在の「見える目」で裁いてはならぬ。歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を先ず持たねばならない。
そればかりではない、なるほど歴史には因果開係がある。が、人間がその因果の全貌を捉へる事は遂に出来ない。歴史に附合へば附合ふほど、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは点の連続であり、その間を結び付ける線を設定する事が不可能になる。しかも、点と点とは互いに孤立し矛盾して相容れぬものとなるであらう。が、歴史家はこの殆ど無意味な点の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重味が吾々に感じられるであらう。」 
『坂の上の雲』の旅順攻防戦の描写

 

改めて『坂の上の雲』の該当部分を読んで見ましたが、司馬遼太郎がこの歴史小説を書いた時点での資料の出所が偏っていたために、史実とはかなりかけ離れた描写になっているようですね。なお、半藤氏が紹介していた資料は、参謀本部編『手稿本 日露戦史』という全51巻の大著で、福島県立図書館にあるそうです。また、『極秘明治三十七八年開戦史』百巻以上のものが、宮中より防衛研究所戦史室にお下げ渡しになっているそうです。
そういう資料に基づいているのでしょうか、wikiの「旅順攻囲戦」では、『坂の上の雲』の乃木・伊地知無能論に立った旅順攻防戦の様子とは随分違った記述内容になっていますね。折角の機会ですから、以下それを分かりやすくまとめて見ました。NHKのドラマでは『坂の上の雲』の無残なまでの乃木等に対する批判は抑えられていますが、この本を読んだ人はその筋書きで見ますから、お二人の名誉挽回にはならないなあ、と少し気の毒に思いました。
以下、『坂の上の雲』で旅順攻防戦における乃木批判部分について、wiki「旅順攻囲戦」の記述内容を対比的に書き抜きました。
(旅順攻略戦の意義について)
旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。 開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた。
開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになった事は、旅順難戦の大きな要因として指摘される。しかし、近代戦における要塞攻防戦のなんたるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。
(旅順艦隊攻撃について)
第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。
二八センチ榴弾砲は、9月30日旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山披山を観測点として湾内の艦船にあらかた命中弾を与えた。しかし黄海海戦で能力を喪失した艦隊への砲撃はロシア将兵へそれ程の衝撃とはならなかった。それでも良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的に計18門が第3軍に送られた。
(旅順攻防戦おける28センチ砲の使用について)
*28センチ瑠弾砲を旅順要塞攻撃に用いる事は、第3軍編成以前の5月10日に陸軍省技術審査部が砲兵課長に具申し陸軍大臣以下もこれを認め参謀本部に申し入れていたが、参謀本部は中小口径砲の砲撃に次ぐ強襲をもってすれば旅順要塞を陥落することができると判断してこの提案を取り入れなかった。
その後8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に28センチ瑠弾砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25ー26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議して既に鎮海湾に移設のため移設工事を開始していた28センチ砲六門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。
しかし長岡談話によれば、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに28瑠弾砲の旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、陸軍大臣を説得したと、まったく逆のことになっている。
(203高地占領の時期と意義について)
第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。しかし仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる。
仮に高地の占領を維持できたとしてもこの時点で第三軍が所持する重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門、これに海軍陸戦重砲隊の12センチカノン砲6門だけであり装甲で覆われた戦艦を撃沈出来る威力は無い。最大の15センチ砲にしてもこれは海軍では戦艦や装甲巡洋艦の副砲程度の大きさでしかないし艦載砲より砲身が短いので初速、貫通力は劣る[48]。それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させられなければ第三軍は北方の戦線に向かうことができない。
艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。
次は、『坂の上の雲』に記された乃木無能論の主な根拠と、最近の研究成果を踏まえたそれに対する反論です。
1 単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。
*要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第3軍だけではなく大本営も満州軍も海軍も同様である。日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、ようやく7月に第3軍に対して第1回総攻撃を急遽しかも早期に実施するよう指示したほか、弾薬の備蓄量を日清戦争を基準に計算したため、第3軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた。
*第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。
*児玉(源太郎)次長の後を任された長岡はのちに「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦について・・・「第一回総攻撃と同様殆ど我になんらの収穫なし」と批判している。しかし、例えば9月の攻撃は、主防御線より外側の前進陣地を攻略対象としたものであり、龍眼北方保塁や水師営周辺保塁また203高地周辺の拠点の占領に成功している。
*また(長岡は)10月の旅順攻撃が失敗に終わったことについては「また全く前回のと同一の悲惨事を繰り返して死傷三千八百余名を得たのみであった。それもそのはずで、一、二、三回とも殆ど同一の方法で同一の堅塁を無理押しに攻め立てた」と述べており、主防御線への攻撃と前進陣地への攻撃の区別もなされず、また強襲法から正攻法へと戦法を変更したことについても触れていない。
2 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。
*日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である。
3 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。
*乃木や伊地知が毎月26日に総攻撃日に選んだことについて、「縁起がいい」とか「偶数で割り切れる、つまり要塞を割ることが出来る」などを理由としたなどを踏まえたものだろうが、真偽不明(筆者)
4 旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し、無駄な損害を出したこと。
*陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続といった、海軍の不手際も無視できない。
また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。
なお、海軍の要請を受けて、旅順攻撃を主目標としつつも、陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加えるという方針で煙台総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いたのは、御前会議を経て11月半ばになってからのことであった。
*司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。その為には港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当然203高地攻略も反対だった。
*満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。
しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると決心を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった。
5 初期の段階ではロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
*203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解は多くの著作に引用されているが、これは現在の研究によれば否定される。
6 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。
(児玉が第3軍司令部参謀を叱責した件)
*児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破したとも言われているが、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ましているので事実ではない。地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀だし、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではない(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)
(児玉が28インチ砲の陣地変更を命じた件)
また児玉が命じたとされる攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃も児玉は実質的には何もしていない。 既に28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更する事は当時の技術では不可能である。実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけである。
(児玉が味方撃ち覚悟の砲撃を命じた件)
味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたと機密日露戦史では記述されているが攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら敵味方か確認せずに発砲していた」と証言しており、児玉では無く第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた事が分る。
(児玉の指揮介入の件)
攻撃部隊の陣地変更なども為されておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものでは無かった事から見て、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落した事になる。
7 戦後、乃木自身がみずからの不手際を認めるがごとき態度を取ったこと。
*第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作という見方が出来る。
*白襷隊の惨戦のような明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。
以上、wikiの記述内容を整理してみましたが、歴史の解釈というのは使用する資料次第でこんなにも違ってくるものですね。まあ、『坂の上の雲』は歴史小説ではありますが・・・。 
阿比留瑠比氏「今こそ読み返したい『空気の研究』」

 

その書き出しですが、
「目には見えないながらも日本社会に強く広く根を張り、さまざまな場面でその存在をはっきりと意識させられてきた「空気」について、であります。私は「KY」(空気を読めない)という言葉が大嫌いで、従って「空気」という言葉もあまり記事その他では使用したくないのですが、とはいっても「空気」としか言い表しようのないその場を支配する何かがあるのは事実で、抵抗を覚えつつも何度か使ってきました。
そして、特に東日本大震災の発生とそれに伴う原発事故以来、この「空気」が顕在化してきたというか、非常に物理的圧迫感を持って体感できる気がするのです。私はこれまでの記者生活を通じ、慰安婦問題、沖縄集団自決問題、在日外国人問題…などを取材・執筆する過程で、常にこの「空気」の問題を実感してきましたし、政権交代時にも、抗い難い、逆らってもムダな「空気」の圧倒的な大波を体験もしました。」
では、このような日本社会における「空気支配」をどのように克服するか。かって山本七平は名著『空気の研究』で次のような警告を発した、ということで、いくつかの言葉を引用しています。その中心的部分は、《われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きている》《もし将来日本を破壊するものがあるとしたら、それは、三十年前の破滅同様に、おそらく「空気」なのである》ということではないかと思います。
この記事には、読者から様々なコメントが寄せられていますが、山本七平のいう「空気支配」の意味を、全体的に捉えることは決して容易なことではないような気がします。というのは、この空気支配というのは、必ずしも日本だけのことではなく、どこの国にも見られることですし、それを日本の集団主義や家族共同体思想と関連づけて考えれば、欠点と見えるものも裏から見れば長所に見える。では、その長所を生かし欠点を是正する方法はあるのか、ということになると、どうもよく判らない。
どうもそんなところに止まっていて、山本七平の提言を十分生かし切れない、というのが実情ではないかと思います。そこで、以下、私なりに、この問題、つまり、日本における空気支配の問題について考えてみたいと思います。 
山本七平のいう日本における「空気支配」とは、日本が「追いつき、追い越せ」の到達すべきモデル(既にその正しさが証明されたモデル)を持っている場合は、大変効果を発揮する。しかし、このモデルがなくなって、新たに進むべき道を選択せざるを得ない場合、ある「特定の観念」(未だその正しさが証明されていないもの)に感情移入し偶像化してしまうため、他の意見を一切受け付けなくなる。その結果、間違った選択をしてしまうことを言っています。
戦前について、その「特定の観念」を列挙すれば、1満州問題の解決について、満蒙を日本の生命線とし、武力に訴えてでもそれを守るべきとしたこと。2蒋介石の存在を、その生命線を守る上での障碍と決めつけ排除しようとしたこと。3西洋文明を覇道文明、東洋文明を王道文明とし、後者が前者を支配することが世界平和をもたらすとしたこと。4日中戦争が終わらないのは、英米が蒋介石を支援しアジアの植民地を維持しようとしているからで、従って、英米との戦争はアジアの植民地解放戦争であるとしたこと、などです。
これらは、そのいずれも、当時その正しさが証明されたわけではなく、1は、陸軍が自らの行動を正当化するために、全国遊説を行い、また既成事実化することで作り出した空気。2は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップを軽視ししたためにできた空気。3は当時の右翼イデオローグや石原莞爾等によって唱えられ、当時の知識人等の大量転向をもたらした最強の空気。4は、大東亜戦争の勃発に際して、日中戦争に植民地解放という新たな意義を与えることでできあがった空気です。
残念ながら、1は意図的な宣伝の結果できた「恣意的空気」。2は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップの評価を誤ったためできた「誤認的空気」。3は、日本の尊皇思想に基づく忠孝一致の伝統思想と、英米の自由主義思想に基づく政治思想(政党政治や議会政治)との葛藤が生み出した「攘夷的空気」(これは今でも未解決)。4は、日本人の日中戦争に対する負い目、それに起因する心理的負担を、資本主義超大国である英米に挑戦することで聖戦に転化した「幻想的空気」です。
これらは、そのいずれも、日本が明治の文明開化、富国強兵、殖産興業によって、一応、西欧をモデルとする近代化に成功したため、日本がモデル喪失状態に陥り、あるいは西欧の妨害を意識するようになったことで生まれた空気です。つまり、追求すべきモデルがなくなり、大正デモクラシー下の思想的混乱に耐えらなくなった結果、最も伝統的で抵抗の少ない尊皇攘夷思想を掘り起こしてしまった。そのため、明治維新以来、欧米に学び育ててきた政党政治や議会政治を否定する空気が生まれたのです。
この「空気支配」の問題を、今日の日本の政治状況において考えてみると、国内的には、少子高齢化の問題、社会保障費の増大などに起因する財政状況の悪化の問題、低成長経済の長期化等の国内問題等があります。また、地球温暖化問題やエネルギー問題等、特に原子力発電などは、世界的に見ても、未だその解決法が見つかっていない問題です。従って、日本がこうした問題の解決に取り組む場合、先に戦前の空気支配について述べたような、非合理的な空気支配に陥らないようにすることが極めて大切です。
その場合に心すべきこと。その第一は、議論の際に自分は「絶対正しい」とか「全き善人」だなどと思わないこと。つまり、自分の意見はあくまで「仮説」であって、他者と意見を戦わすことによって、はじめて、より真実に近い結論が得られると考えること。つまり、自分は「不完全なる善・悪人」にすぎないと見定めることです。その上で、科学的な議論の対象となるものについては、価値判断抜きに客観的論証により結論を得るよう努めること。価値的な議論で社会的な選択を必要とするものについては、論争を通じて選択可能な選択肢を提示し、その中から一つを選択することです。
当たり前のことで、そんなことなら分かっている、と言われそうですが、こうしたことができるようになるためには、まず、自分自身が、日常生活の中で無意識的に依拠している思想は何なのかということを、他の思想との比較などを通して、その客観的把握に努める必要があります。このことは易しいようで実際はなかなか難しい。
冒頭に紹介した阿比留瑠比さんの記事には、読者より多くのコメントが寄せられています。その中に、かって朝日新聞記者だった稲垣武さんの著書『朝日新聞血風録』からの引用文も紹介されています。
「とかくするうち、私はいままで朝日新聞社内で受けてきた言論弾圧に等しい仕打ちがなぜ起こったのか、その本質を反芻して考えるようになった。それは単に社内に親中国派、親ソ派がはびこり、また心情左翼が多いということだけでは解明できないだろう。
親中国派、親ソ派といえども、骨の髄からそういう心情に凝り固まっているのは少なく、社長や編集担当専務などお偉方がそうだから、保身と出世のために阿諛追従しているのが殆どではないか。また心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない。
考えてみれば、戦前に軍部に迎合し、戦争に積極的に協力したころの朝日新聞社内の状況もこれと同じだったのではないか。当時でもリベラルな思想を持っていた人たちは決して少なくはなかったはずなのに、一旦、社内の空気が軍国主義礼讃に傾き出すと、いちはやくその路線のバスに飛び乗ろうとする手合いが続出して、たちまち一種の雪崩現象が起こり、そういう風潮に乗るのを潔しとしない不器用なリベラル派は陰に陽に弾圧を受け、ついには左遷など不利益処分を覚悟しなければ声を出せないような状態に急速になってしまったのではないか。」
日本人が、なぜ空気支配に陥りやすいか。このことは、重ねて申しますが、日本人以外の民族が空気支配に陥らないということではありません。問題は、日本人には、それに対する抵抗力というか歯止めの知恵が弱いということ(「水をかける」もその一つだか)。では、その知恵を強化するためにはどうしたらいいか。その第一の関門は、まず、自分自身の依拠している思想的基盤を明確に把握すること。それを言葉で他者に説明できるようになること。それによってはじめて、自分と違う意見を持つ他者との論争が可能となり、より良い結論を得る事ができるようになるのです。
この点、日本人は、稲垣氏も指摘しているように、「心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない」という例が極めて多いのです。というのも、彼らの本当の思想は「空気を読みそれに従う」ことで、左翼思想は看板に過ぎないのです。だから、その時代に流行の看板思想に身を寄せたがる。その方が安全だから・・・その結果、事実から益々遠ざかっていく。
山本七平は、『存亡の条件』(この本は、昭和50年出版ですから、もう半世紀近く前のこと)の末尾でで次のように言っています。
「今の日本人ぐらい,自分が全然知らない思想を軽侮して無視している民族は珍しい。インド思想も、へブル思想も、儒教も、総てあるいは封建的あるいは迷信の形で、明治と戦後に徹底的に排除され、ただただ馬車馬のように、”進歩的啓蒙”の関門目がけて走り続けたという状態を呈してきた。その結果、『では、どうしろと言うのか』という言葉しか口にできない人間になってしまったわけである。その結果、諸外国を見回って(といって、見回ったぐらいで外国文化がわかったら大変なことなのだが)、あちらはああやっているから、ああしようといえば、すぐまねをし、また、こうしたらいいという暗示にかかれば、すぐその通りにするといった状態は、実に、つい最近まで――否、恐らく今も続いている状態なのである。
そのため、自分の行動の本当の規範となっている思想は何なのかということ、いわば最も「リアル」な事が逆にわからなくなり、自分が、世界の文化圏の中のどこの位置にいて、どのような状態にあり、どのような伝統の延線上にあるかさえわからなくなってきた。従って、まずこれを,他との対比の上に再確認再把握しないと、自分が生きているその基準さえつかめない状態になってしまったのである。そして、これがつかめない限り、人間には、前述のように進歩ということはあり得ない。」
「なるほど、では、どうしろというのか」。またこの質問が出るであろう。他人がどうしたらよいか、そんなことは私は知らないし、誰も知らない。」
民主党のばらまき政策の多くが、諸外国を見回って、あちらはああやっている、といってすぐまねをし、また、こうしたら良いという暗示ににかかれば、すぐその通りにする。その場合、彼らの思想的基盤がしっかり把握されていればまだいいのですが、その思想自体も借り物が多い。で、その本音の思想は、むき出しの金権、夢想的な人間性善説、なりふり構わぬ権力至上主義であったりするのです。この看板思想と実際の思想との恐るべき乖離、これが醜悪なまでに露呈しているのが、今日の民主党政治なのではないでしょうか。 
尾崎行雄の自由憲法擁護論

 

――憲法のためとしあらば此堂を枕となして討死も好し
前回、尾崎行雄の「天皇三代目説」を紹介しました。この中で尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法といい、これを盾に東条内閣下の翼賛選挙を憲法違反であると批判しました。ところで、この「明治憲法は自由主義憲法」と言う尾崎の言葉は、戦後生まれの私たちには意外な感じがします。そこで、尾崎がこの言葉をどういう考えのもとに使ったか。これを、1942年4月の翼賛選挙において、尾崎が選挙人に対して訴えた言葉に見てみたいと思います。
以下、引用文中→□□□□□←で囲った部分は、検閲により削除された部分です。なぜ、この部分が削除されたかを見れば、当局がなにを怖れたかもよく分かります。なんだか見え見えでおかしな感じもしますが・・・。 
最後のご奉公につき選挙人諸君にご相談(1942.4)尾崎行雄
憲法のためとしあらば此堂を枕となして討死も好し  (新議事堂にて)
私は少年の頃より、民選議院建設の為に尽力し、憲法実施後は、幸ひに諸君の御推薦に頼て五十余年間衆議院議員を勤めました。モハヤ余命幾何もない今日となって最後の御奉公の仕方を考へなければなりませんが、外に、君国の為にモツト有効な勤め道があれば、私は議員を止めても好いのです。然し一生を憲法の為に捧げて来た私としては、最後の御奉公も、矢張り衆議院議員として致す事が、最も有効だらうと考へてゐます。これが四囲の形勢太だ不利なるを知りつゝ、進んで第廿一回目の総選挙に出陣する所以であります。
然らば「御奉公の目的」はと問ふ人あらば、私は「帝室の尊栄と人民の幸福を保全増進すべき根本法、即ち帝国憲法を擁護育成するに在り」と答へます。此他の万づの国務は、此二大目的を完成する手段方法にすぎないのです。
源平以後、北条、足利、徳川時代は云ふに及ばず、其以前の藤原、蘇我時代と雖も、→皇室は常に御尊栄←なりしと申上ることは出来ません。まして人民の方は、斬捨御免の世に生活し、其生命財産の権利すら保証されて居なかったのです。此政治体制を革新し、上は皇室の御尊栄を保全し、下は人民の生命財産を安全ならしむる道は憲法政治の外にはありません。→然るに此大切な憲法政治が漸次紊乱して斬捨御免の独裁政治を称賛するものすら現出するやうになりました。←私としては明治大帝が畢生の御心労を以て、御制定遊ばされた憲法政治の為に、身命を擲つのが最善にして且つ最後の御奉公だと信じます。然し選挙人多数の賛成を得なければ、此御奉公を致すことはできないから、打開けて御相談に及ぶ次第です。
近来我選挙区にも、(一)自由主義者、(二)個人主義者、(三)民主々義者、(四)平和主義者、(五)親米英派、(六)軍縮論者、(七)翼賛運動反対者等の臭味ある者をば、選出す可からずと勧説する者があるさうです。是れは→尾崎には投票するなと云ふに均しい言行です。もしそれが直接と間接とを問はず租税や官僚の援助を受る者の所作であるならば明白な選挙干渉で、憲法及選挙法等に違背する行為です。←明治廿五年の→大干渉←にすら屈せずして、私を選挙した諸君ですから、→此位の干渉は物の数←でもありますまいが、余り辻褄(つじつま)の合はない申分ですから、一応弁明いたします。
第一こんな事を流布する人々は、自由主義を我儘勝手に私利私益のみを追及するものとでも誤解して居るのでせう。帝国憲法は、第一章に於て、天皇の大権を規定し、第二章に於て、臣民の権利義務を規定してゐますが、兵役納税の義務に関する第二十条と第二十一条を除けば、其他の十一条は悉く臣民の権利と自由を保証したものであります。→故に帝国憲法は自由主義←の憲法だと申しても差支ないのです。
帝国憲法第十九条は、日本臣民は(中略)均しく文武官に任命せられ及其他の公務に就くことを得と保証し、
 第二十二条は居住及移転の自由を保証し、
 第二十三条は身体の自由を保証し、
 第二十四条は正当なる裁判官の裁判を受るの権利を保証し、
 第二十五条は住所の侵入及捜索を拒む権利を保証し、
 第二十七条は所有権を保証し、
 第二十八条は信教の自由を保証し、
 第二十九条は言論集会及結社の自由を保証し、
 第三十条は請願権を保証してゐます。
→此の如き明文あるにも拘らず自由主義を排斥する人々は我が憲法を非認し、明治大帝の御偉業に反対する←のでせう乎。→自由の反対は非自由で奴隷生活監獄生活のやうなものだが真に之を好む者がありませうか、物は少し考へて云ふべきだ。曾て自由主義の英国と同盟条約を結んだ時、明治大帝は大いに之を嘉賞し時の内閣大臣をば一人残らず叙爵又は昇爵せしめ給はりました。大正天皇は秩父宮殿下を自由主義の英国に留学せしめ給はりました。←今日英米と開戦したからと申しても、此等の事実は、消滅しません。→口を極めて自由主義を悪罵することは明治大帝や大正天皇の御行為を誹節する事にもなりはしますまいか。←
第二、私は強ち個人主義者ではないが、我が国も古昔と違ひ今日は家に職と禄を与えず、個人の能否に応じて百官有司を任命する以上は、或る程度まで、個人主義を実行しているのです。一概にこれを排斥するわけには参りません。
第三、民主々義はデモクラシーの反訳(ほんやく)語で、民本主義民衆主義などと訳する人もあるが、要するに→輿論公議を尊重する←政治形体、即ち独裁専制の反対で、→明治天皇が御即位の初めに当り「万機公論に決す」と誓はせ給ひたる我が皇道政治と異語同質のものであります。←之を兎や角言ふものは、文字の末に拘泥して、其本義を解し得ない人でせう。
第四、平和主義者を排斥せよと言ふ人があるが、それは開戦以前に述ぶべき意見であって、既に宣戦の大詔が下った以上は、我が帝国臣民中には、一人も之に反対して、平和を主張するものはありません。現に衆議院が全会一致で、二百数十億円の戦時予算を可決した事が何よりの証拠です。
然るに米英と開戦後既に四ヶ月を経過し、平和主義者も一人残らず大詔を遵奉して、銃後に奉仕して居る今日に於て、之を排斥せよなどと言ふのは盛夏に於て炬燵を撤去せよと騒ぐが如き季節後れ意見です。ソンナに騒がずとも春暖になれば、炬燵は疾くに廃止されてゐます。
第五、親英米派、私は漢字と英語で学問をしたのですから、独伊よりも寧ろ支那や英米の事情を多く知ってゐます。然し帝国が既に独伊と同盟して英米と開戦した以上は、私は全力を尽して此国策に奉仕してゐる、又国家的見地より云へば、独伊派の奉仕よりも→英米派の銃後奉仕の方が一層有効な筈←ではありますまい乎。(味方の賛成は、当然だが、→敵方の賛成は国策遂行上一層有効な筈)然るに今回の選挙に限り此奉仕者を排斥せんとするは公私顚倒の言行のやうに思はれる。←
第六、→私の軍備縮少論、私は「国防を強化する方法を以てすれば軍備は成るだけ縮少した方が善い」と確信してゐます。←而して強弱は相対的のものだから、対手国が我よりも多く縮少すれば、国防は軍縮のために強化します。
現に往年の華府会議に於ては、我海軍は、→既成未成を通じて約四十万トン、米国は約八十万トン、英国は約六十万トン縮少したから五、五、三の比率となり我海軍は、縮少のため英米に対して強化したのである。←経費を減少し、国防を強化するのが、ナゼ悪い乎、真誠の愛国者は静慮熟考すべきである。
第七、翼賛運動反対者、明治大帝は立憲政体の詔書(明治八年四月十四日)に於て、翼賛の二字を御使用遊ばされ又憲法制定の御告文に於て「外は以て臣民翼賛の道を広め」と仰せられ、又憲法発布の際にも「其翼賛に依り」云々と宣はせられました。故に翼賛の二字は大帝の御用語であって、帝国議会は陛下の翼賛会であると、私共は確信してゐます。而して一朝事あるに於ては日清の役にも、日露の役にも、又支邦事変に際しても、私共は何人の勧誘をも待たず、平生の対立抗争を一擲して、挙国一致銃後奉仕の実を挙げました。歴代の政府は何れも叙勲其他の方法を以て、帝国議会の忠誠を表彰した。今回の支那事変に於ける帝国議会の翼賛行動を、前の二役に比べて、寧ろ優るとも劣る所はありません。→然るに近衛内閣以来の政府は明治大帝の御用語たる翼賛の二字を借用して自分等の公事結社に転用し、ついに租税と官僚の力を借りて以て新たな翼賛議会を製造せんと称している。明治大帝の建設し給ひ而も五十余年の歴史ある翼賛議会と異なる所の新翼賛議会を創造せんとするが如く見える←翼賛会が悪い乎、之に反対するものが悪い乎。挙国選挙人の公正な判断を待つ。
第八、→翼賛会関係者の候補者推薦は挙国一致体制を破壊す。←支那事変以後内閣は、幾たびも更迭したにも拘はらず、帝国議会は、各種の派別を一擲し全会一致して、日清戦争に百倍する予算其他の議案を可決した。政府は之に大満足を表すべき筈なるに、却て別に翼賛会を設け、→其関係者をして議員候補者に推薦せしむるの方針を執った。推薦に漏れた候補者は勢ひ之と対戦せざるを得ないだらう。従って候補者も選挙人も翼賛会派と其反対者とに分離して抗争することにならざるを得ない。全体主義とか一億一心とか言ひながら全国民を政治的に二分するわけになるが、それが戦時の国家に有利だと考へるのだらうか。←
第九、愛憎に由て事実を顛倒してはならぬ。独伊の独断専制主義は、今回の戦争には、奇功を奏してゐる。ソ聯の共産主義も、前回の帝政時代に比すれば、大に戦争に効果があるやうだ。然し之を見て、直ちに共産主義や独裁政治に心酔してはならぬ。特に我が国体は、全く独、露、伊に異ってゐるから、之を真似ることは出来ない。
又英米の自由国は、現在は戦争に負けてはゐるが、→此二国が非常な強大国になったのは自由主義時代の仕事であることを忘れない方が善い。目前の事態のみに眩惑して前後を忘れ、味方となれば痘痕をエクボと誤認し、敵になればエクボも之を痘痕と認定するが如きは、愛国者の最も警戒すべき所である。況や同盟や戦争は幾十年も継続するものではない。←国家と憲法は万世不易のものなるに於てをや。
第十、最後の御奉公、私は既に予想外の高齢に達してゐるから、政界を隠退し、余生を風月の間に送って好い筈ですが、私が身命を賭して、其育成に尽力した所の→立憲政治は漸次衰退して遂に官選議院を現出せんとするに至った。此儀に放任すれば明治大帝が畢生の御苦心を以て設定し給った政体も、遂に有名無実にならんとする恐れがある。←故に私としては成敗を問はず憲政擁護の大旗を掲げて最後の御奉公のために出陣せざるを得ないのです。
正成が陣に臨める心もて我は立つなり演壇の前
宇治山田市中島町一六一 配布責任者 阿竹斎次郎
これを見ると、日本の立憲政治確立のために半世紀をかけて戦ってきた政党政治家と、近衛文麿のような三代目の政治家との違いが分かりますね。前者には、日本の立憲政治は自分たちが作ってきたという自負があり、それ故に、彼らには、憲法や議会政治や政党政治などの民主的政治制度の価値や、それが国民自由の観念と密接に結びついていることを知っていました。しかし、三代目には、これらの制度が国民の自由の観念と結びついていることが分からなかったのです。
尾崎が生まれたのは、安政5年(1858年12月24日)、大日本帝国憲法が制定されたのは明治22年(1889年2月11日)です。翌、明治23年(1890年11月)には帝国議会開設に伴う第1回衆議院選挙が行われ、尾崎は三重県選挙区より出馬し初当選しています。それ以後、なんと63年間、連続25回の当選(これは世界記録)を果たしたわけですが、その彼の演説(=言論)を聞いていると、明治憲法下でこれだけの言論をなしえたことに驚かざるを得ません。
尾崎が、この演説を選挙人に向けて行ったのは、日本が対米英戦争に突入し、初戦の快進撃が続き、世論が沸き立っていた頃でした。こんな時期に、よくこれだけのことが言えたものだと感心しますが、その後ろには、彼を議会に送り続けた人々がいたわけで、これにもまた少なからず驚かされます。一体、どうしてこんなことができたのか・・・。先に私は、尾崎には、立憲政治を自分たちの力で作ってきたという自負があった、と申しましたが、やはり、あてがいぶちではダメだ、ということなのかもしれませんね。
なお、なぜ軍が尾崎行雄の言う「新翼賛議会」をもって旧議会に代えようとしたか、ということですが、それは、昭和5年の統帥権干犯攻撃によって、軍の編成権を内閣から奪い、それによってどれだけ兵力量が必要かということについて、内閣には一切口を出させないようにした。もちろん軍事行動については首相にも一切知らせず統帥部限りの判断で行った。しかし、予算の承認権は憲法上議会が持っていたので、この議会を翼賛会でもって占めることで、議会の予算承認権をも奪おうとした、ということです。 
尾崎行雄の「天皇三代目演説」について

 

――戦後の三代目は一体どんな日本を創るのか
鴎外の世代論をご紹介いただきましたが、世代論で有名なのは、尾崎行雄の、昭和=「売家と唐様で書く三代目」論です。これを戦後に当てはめると、今二代目で、次いで戦後三代目になるわけですが、あるいは、この時代、戦前の昭和と同じような三代目にならないとも限りません。この尾崎の論を、山本七平が『裕仁天皇の昭和史』の中で紹介していますので、この機会に、その解説も交えて紹介しておきたいと思います。
この言葉は、尾崎行雄が、昭和17年東条内閣当時の翼賛選挙における応援演説の中で使った言葉です。尾崎は、この時の翼賛選挙とそれに伴う政府の選挙干渉について、昭和時代が『売家と唐様で書く三代目』になっていないのは、明治天皇が明治憲法をお定めになり立憲政治の礎を築いてくれたからであって、翼賛政治は、この明治大帝が定めた立憲政治の大基を揺るがすものではないか、と政府を批判しました。
政府(東条英機)は、これが不敬罪に当たるとして、尾崎行雄を刑事起訴しました。これは、尾崎行雄が、「東条首相に与えた公開状」の中で、翼賛会選挙を非立憲的動作といい、これは明治大帝が歴代の首相等を戒飭(かいちょく)した立憲の本義に背戻するのではないかと批判したことに対し、東条首相は、尾崎を危険人物として抹殺すべく、この「三代目」発言に”言いがかり”をつける形で起訴に及んだものだといいます。
明治憲法を「自由主義の憲法」と言い切ったところに、「憲政の神様」と称される尾崎の面目躍如たるものがありますね。
「尾崎行雄の天皇三代目演説」
「明治天皇が即位の始めに立てられた五箇条の御誓文、御同様に日本人と生まれた以上は何人といえども御誓文は暗記していなければならぬはずであります。これが今日、明治以後の日本が大層よくなった原因であります。明治以前の日本は大層優れた天皇陛下がおっても、よい御政治はその一代だけで、その次に劣った天皇陛下が出れば、ばったり止められる。
ところが、明治天皇がよかったために、明治天皇がお崩れになって、大正天皇となり、今上天皇となっても、国はますますよくなるばかりである。
普通の言葉では、これも世界に通じた真理でありますが、『売家と唐様で書く三代目』と申しております。たいそう偉い人が出て、一代で身代を作りましても二代三代となると、もう、せっかく作った身代でも家も売らなければならぬ。しかしながら手習いだけはさすがに金持ちの息子でありますから、手習いだけはしたと見えて、立派な字で『売家と唐様で書く三代目』、実に天下の真理であります。
たとえばドイツの国があれだけに偉かったのは、ちょうどこの間、廃帝になってお崩(かく)れになった人(ウィルヘルム二世、亡命先のオランダで一九四一年没)のお爺さん(ウィルヘルム一世)の時に、ドイツ帝国というものが出来たのである。三代目にはあのとおり。
イタリアが今は大層よろしいけれども、今のイタリアの今上陛下(ビットリオ・エマヌエル三世)がやはりこの三代目ぐらいでありまするが、いまだ、皇帝の位にはお坐になって居られますけれども、イタリアに行ってみれば誰も皇帝を知らず、我がムッソリーニを拝んでおります。イタリアにはムッソリーニ一人あるばかりである。
皇帝の名すら知らない者が大分ある。これが三代目だ。人ばかりではない。国でも三代目というものは、よほど剣呑なもので、悪くなるのが原則であります。
しかるに日本は、三代目に至ってますますよくなった。何故であります。明治天皇陛下が『万機公論に決すべし』という五箇条の御誓文の第一に基づいた・・・掟をこしらえた。それを今の言葉で憲法と申しております。その憲法によって政治をするのが立憲政治である。立憲政治の大基を作るのが今日やがて行なわれる所の総選挙である……」
(ところが今日、日本にはヒトラーやムッソリーニを賛美する者がいる。しかし)「(そのやり方を)一番立派にやったのが秦の始皇帝であった。儒者等を皆殺ししてしまったり、書物を焼いてしまった。ヒットラーが大分その真似をしている。反対する者はみな殺した。そして強い兵隊を作って六合(天下)を統一して秦という天下を作りました。ちっとも珍しくない。秦の始皇帝は、よほど立派に今のヒットラーやムッソリーニのやり方をしております」
「その(始皇帝の)真似をヨーロッパの人がしているのである。本家本元は東洋にある事を知らないで、今の知識階級などといって知ったふりをしている者は、外国の真似をしようとして騒いでいる。驚き入った事である。
官報をお読みになると分かりまするが、私が前の前の議会に質問書を出して、官報に載っております。天皇陛下がある以上は全体主義という名儀の下に、独裁政治に似通った政治を行なう事が出来ぬものであるぞと質問した。これに対して近衛総理大臣が変な答弁をしておりますけれども、まるで答弁にも何にもなっておりませぬ。
秦の始皇、日本の天皇陛下が秦の始皇になれば、憲法を廃してああいう政治が出来る。しかしながら、もう日本の天皇陛下は、明治天皇の子孫、朕および朕が子孫はこれ(明治憲法)に永久に服従の義務を負うと明言している(憲法発布勅語のこと)以上は、どうしても、天皇陛下自ら秦の始皇を学ぶ事は出来ぬ。そうすると誰がしなければならぬか、誰が出ても、天皇陛下があり、憲法がある以上は、ヒットラーやムッソリーニの真似は出来ませぬ。このくらいの事は分かる。憲法を読めばすぐ分かります。
憲法を読まぬで勝手な事を言う人があるのは、実に明治天皇畢生の御事業は、ほとんど天下に御了解せられずにいるように思いまするから、私どもは最後の御奉公として、この大義を明らかにして、日本がこれまで進歩発達したこの道を、ずっと進行せられたい……」
この演説の中の「三代目発言」が不敬罪に当たるとして、先に述べた通り、尾崎は起訴されたわけですが、まあ、”言いがかり”もいいとこですね。幸い、大審院は健全であったようですが・・・。しかし、この裁判中、尾崎は発言をやめず、痛烈に政府を批判し、『憲政以外の大問題』を公表しました。
これはまず「(イ)輔弼大臣の責任心の稀薄(むしろ欠乏)なる事、(ロ)当局者が、戦争の収結に関し、成案を有せざるように思われる事、否、その研究だも為さざるか如く見える事」にはじまる批判」です。
「万一独伊が敗れて、英米に屈服した時は、我国は独力を以て支那および英米五、六億の人民を打倒撃滅し得るだろうか。真に君国を愛するものは、誠心誠意以てこの際に処する方策を講究しなければならぬ。無責任な放言壮語は、真誠な忠愛者の大禁物である。
独伊は敗北の場合をも予想し、これに善処する道を求めているようだが、我国人は独伊の優勢の報に酔い、一切そんな事は、考えないらしい。これ予が君国のため、憂慮措く能わざる所以である」
「我国人中には、独・伊・露などの独裁政治を新秩序と称して歓迎し、世論民意を尊重する所の多数政治を旧秩序と呼んで、これを廃棄せんとするが如き言行を為すものが多いようだが、彼らはこの両体制の実行方法と、その利害得失を考慮研究したのであろうか。いやしくも虚心坦懐に考慮すれば、両者の利害得失は、いかなる愚人といえども、分明にこれを判断し得べきはずだ」
「国家非常の事変に際会して、独・伊・露は、新奇の名義と方法を以て、古来の独裁専制主義を実行し、一時奇効(思いもよらない功績)を奏しているように見ゆるが、この体制は、昔時と違い、文化大いに進歩した今日以後においては、決して平時に永続し得べき性質のものではない。平和回復後は、露国人はともかくも独伊人は多分その非を悟って、自由と権利の復活を図るに相違ない。彼らは個人を否認すれど、国家も世界も、個人あってはじめて存立するものである。
自由も権利も保証せられざる個人の集団せる国家は、三、四百年前までは、全世界に存在した。それがいかなるものであったかは、歴史を繙けばすぐ分かるが、全世界を通して、事実的には『斬捨御免』『御手打御随意』の世の中であった。独・伊・露は、異なった名義の下に現在これを実行している。故に現代人のいわゆる新秩序新体制なるものは、数千年間、全世界各地に実行した所の旧秩序・旧体制に過ぎないのである」
次は、尾崎行雄が、裁判所に対する上申書の中で述べた「三代目論」についての敷衍的解説です。これがまた、極めておもしろい。
対中国土下座状態の一代目
「明治の末年においては、朝廷はまだ御一代であらせられたが、世間は多くはすでに二代目になった。三条(実美)、岩倉、西郷、大久保、木戸らの時代は、すでに去って、西園寺(公望)、桂(太郎)、山本(権兵衛)らの時代となっている。これはひとり政界ばかりでなく、軍界、学界、実業界等、すべて同様である。故に予がいう所の二代目は、明治末より、大正の末年までの、およそ三十年間であって、三代目は昭和以後の事である。
全国民が三代目になるころは、朝廷もまた、たまたま御三代目にならせ玉われた。しかし、予が該川柳(=「売家と唐様で書く三代目」)を引用したのを以て、不敬罪の要素となすのは、甚だしく無理である。それはさておき、時代の変遷によりて起これる国民的思想感情の変化を略記すれば、およそ左のとおりである。
(甲)第一代目ころの世態民情
この時代は、大体において、支那崇拝時代の末期であって、盛んに支那を模倣した。支那流に年号を設定し(一世二元のこと。日本はそれまでは甲子定期改元と不定期改元の併用であった。中国は、明朝以降一世一元になった)、かつ数々これを変更したるが如き、学問といえば、多くは四書五経を読習せしめたるが如き、各種の碑誌銘に難読の漢文を用いたるが如き、忠臣、義士、孝子、軍人、政治家の模範は、多くはこれを支那人中に求めたるが如き、その実例は枚挙に逞(いとま)ないほど多い。今日でも、年号令人名をば、支那古典中の文字より選択し、人の死去につきても、何らの必要もないのに、薨、卒、逝などに書き分けている。
この時代には、新聞論説なども、ことごとく漢文崩しであって、古来支那人が慣用し来れる成語のほかは、使用すべからざるものの如く心得ていた。現に予が在社した報知新聞社の如きは、予らが書く所の言句が、正当の言葉、すなわち成語であるや否やを検定させるために、支那人を雇聘していた。以て支那崇拝の心情がいかに濃厚であったかを知るべきだろう」
「予は、明治十八年に、はじめて上海に赴き、実際の支那と書中の支那とは、全く別物なることを知り得た。特に戦闘力の如きは、絶無と言ってもよいことを確信するに至った。故に予はこれと一戦して、彼が傲慢心を挫くと同時に、我が卑屈心を一掃するにあらずんば、彼我の関係を改善することの不可能なるを確信し、開戦論を主張した。
しかし全国大多数の人々、特に知識階級は、いずれも漢文教育を受けたものであるから、予を視て、狂人と見倣した。しかるに明治二十七年に至って開戦してみたら、予が十年間主張したとおり、たやすく勝ち得た。しかし勝ってもなお不思議に思って予に質問する人が多かった。
また一議に及ばず、三国干渉に屈従して、遼東半島を還付せるのみならず、露国が旅順に要塞を築き、満州に鉄道を布設しても、これを傍観していた。これらの事実を視ても、維新初代の国民が、いかに小心翼々であったかを察知することが出来よう」
(山本)明治初期の対中国土下座状態には、さまざまな記録がある。一例を挙げれば、清国の北洋艦隊が日本を”親善訪問”し、長崎に上陸した中国水兵がどのような暴行をしても、警察官は見て見ぬふりをしていたといわれる。土下座外交は何も戦後にはじまったことではないが、この卑屈が一転すると、その裏返しともいうべき、始末に負えない増長(上)慢になる。ここで尾崎行雄は第二世代に入る。
二代目―卑屈から一転して増長慢
(乙)第二代目ころの世態民情
明治二十七、八年の日清戦争後は、以前の卑屈心に引換え、驕慢心がにわかに増長し、前には師事したところの支那も、朝鮮も、眼中になく、その国民をヨボとかチアンコロなどと呼ぶようになった。また(東大の)七博士の如きは、露国を討伐して、これを満州より駆逐するはもちろんのこと、バイカル湖までの地域を割譲せしめ、かつ二十億円の償金を払わしむべしと主張し、世論はこれを喝采する状況となった。実に驚くべき大変化大増長である。
古来識者が常に警戒した驕慢的精神状態は、すでに大いに進展した。前には、支那戦争を主張した所の予も、この増長慢をば大いに憂慮し、征露論に反対して、大いに世上の非難を受けた。伊藤博文公の如きも、これに反対したらしかったが、興奮した世論は、ついに時の内閣を駆って、開戦せしめた。
しこうして個々の戦場においては、海陸ともに立派に勝利を得たが、やがて兵員と弾丸、その他戦具の不足を生じ、総参謀・児玉源太郎君の如きも、百計尽き、ただ毎朝早起きし太陽を拝んで、天佑を乞うの外なきに至った。
僥倖にも露国の内肛(内紛)と、米国の仲裁とのため、平和談判を開くことを得たが、御前会議においては、償金も樺太も要求しないことに決定して、小村(寿太郎)外相を派遣したが、偶然の事態発生して、樺太の半分を獲得した。政府にとりては望外の成功であった。
右などの事実は、これを絶対的秘密に付し来たったため、民間人士は、少しもこれを識らず、増長慢に耽って平和条約を感謝するの代わりに、かえってこれに不満を抱き、東都には、暴動が起こり、二、三の新聞社と、全市の警察署を焼打ちした。
近今に至り、政府自ら戦具欠乏の一端を公けにしたが、日露戦争にあの結末を得だのは、天佑と称してよいほどの僥倖であった。不知の致す所とは言いながら、あの平和条約に対してすら、暴動を起こすほどの精神状態であったのだから、第二代目国民の聯慢心の増長も、すでに危険の程度に達したと見るべきであろう。
右の精神状態は、ひとり軍事外交方面のみならず、各種の方面に生長し、ややもすれば国家を、成功後の危険に落とし入るべき傾向を生じた。
前回の(第一次)世界戦争に参加したのも、また支那に対して、いわゆる二十一ヵ条の要求を為したのも、みなこの時代の行為である」
浮誇驕慢で大国難を招く三代目
「(丙)第三代目ころの世態民情
全国民は、右の如き精神状態を以て、昭和四、五年ころより、第三代目の時期に入ったのだから、世態民情は、いよいよ浮誇驕慢におもむき、あるいは暗殺団体の結成となり、あるいは共産主義者の激増となり、あるいは軍隊の暴動となり、軽挙盲動腫を接して起こり、いずれの方面においてか、国家の運命にも関すべき大爆発、すなわち、まかりまちがえば、川柳氏の謂えるが如く『売家と唐様で書』かねばならぬ運命にも到着すべき大事件を巻き起こさなければ、止みそうもない形勢を現出した。
予はこの形勢を見て憂慮に耐えず、何とかしてこの大爆発を未然に防止したく思って、百方苦心したが、文化の進歩や交通機関の発達によりて世界が縮小し、その結果として、列国の利害関係が周密に連結せられたる今日においては、国家の大事は、列国とともに協定しなければ、真誠の安定を得ることは不可能と信じた。よりて列国の近状を視察すると同時に、その有力者とも会見し、世界人類の安寧慶福を保証するに足るべき方案を協議したく考えて、第四回目、欧米漫遊の旅程についた。
しかるに米国滞在中、満州事件突発の電報に接して、愕然自失した。この時、予は思えらく『こは明白なる国際連盟条約違反の行為にして、加盟者五十余力国の反対を招くべき筋道の振舞である。日本一ヵ国の力を以て、五十余力国を敵に廻すほど危険な事はない』と。果たせるかな、その後開ける国際会議において、我国に賛成したものは、一ヵ国もなく、ただタイ国が、賛否いずれにも参加せず、棄権しただけであった。
このころまでは、我国の国際的信用は、すこぶる篤く、われに対して、悪感を抱く国は、支那以外には絶無といってもよいほどの状況であって、名義さえ立てば、わが国を援けたく思っていた国は、多かったように見えたが、何分、国際連盟規約や不戦条約の明文上、日本に賛成するわけにいかなかったらしい。
連盟には加入していない所の米国すら、不戦条約その他の関係より、わが満州事件に反対し、英国に協議したが、英政府はリットン委員(会)設置などの方法によって、平穏にこの事件を解決しようと考えていたため、米国に賛成しなかった。また米国は、国際連盟の主要国たる英国すら、条約擁護のために起たないのに、不加入国たる米国だけが、これを主張する必要もないと考えなおしたらしい。
予は王政維新後の二代目三代目における世態民情の推移を見て、一方には、国運の隆昌を慶賀すると同時に、他方においては、浮誇驕慢に流れ、ついに大国難を招致するに至らんことを恐れた。故に昭和三年、すなわち維新後三代目の初期において、思想的、政治的、および経済的にわたる三大国難決議案を提出し、衆議院は、満場一致の勢いを以て、これを可決した。
上述の如く、かねてより国難の到来せんことを憂慮していた予なれば、満州事件の突発とその経過を見ては、須臾(一瞬)も安処するあたわず、煩悶懊悩の末、ついに、天皇陛下に上奏することに決し、一文を草し宮相(内大臣)に密送して、乙夜の覧(天皇の書見)に供せられんことを懇請した。満州事件を視て、大国難の種子蒔と思いなせるがためである。
ムッソリーニや、ヒトラーの如きも、武力行使を決意する前には、列国の憤起を怖れて、躊躇していたようだが、我が満州事件に対する列国の動静を視て安心し、ついに武力行使の決意を起こせるものの如く思われる。
しかるに、支那事件起こり、英米と開戦するに至りても、世人はなお国家の前途を憂慮せず、局部局部の勝利に酔舞して、結末の付け方をば考えずに、今日に至った。しこうして生活の困難は、日にますます増加するばかりで、前途の見透しは誰にも付かない。どこで、どうして、英米、支を降参させる見込みかと問わるれば、何人もこれに確答することは出来ないのみならず、かえって微音ながら、ところどころに『国難来』の声を聞くようになった。
全国民の大多数は、国難の種子は、満州に蒔かれ、その後幾多の軽挙盲動によりて、発育生長せしめられ、ついに今日に至れるものなることは、全く感知せざるものの如し。衆議院が満場一致で可決した三大国難決議案の如きも、今日は記憶する人すらないように見える。維新後三代目に当たるところの現代人は『売家と唐様で書く』ことの代わりに『国難とドイツ語で書いて』いるようだ……」
以上、尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法と言い、天皇がこの憲法を発布した故に日本は独裁にはならないと言い、翼賛政治はこの憲法の大基を犯している、つまり憲法違反だと批判したのです。近衛はこの憲法を「天皇親政を建前とする」と解釈しました。この差はどこから来たか。明治人は、「立憲政治を自ら創出した」という自信を持っていた。しかし、昭和の三代目は、明治人が苦労して、江戸時代の君主主権から明治の立憲制に国家体制を創り変えた、この明治人の残した「遺産」の”有り難み”が判らず、これを破壊・蕩尽してしまった。そういうことだと思います。
こうした過去の経験を顧みる時、自らの力で憲法を創出したという自信を持たない戦後世代の二代目あるいは三代目が、果たしてどういう日本を創って行くのか、いささか不安に思わざるを得ません。ということは、今一度、明治に帰る必要があると言うことではないでしょうか。立憲政治の価値を再認識するためにも・・・。 
田原総一朗氏「なぜ、日本は大東亜戦争を戦ったのか」

 

田原総一朗氏の標記の本について、ネットでは、”田原総一朗が転向した”というようなう意見が多く見られます。
田原氏は、こうした自説をyoutubeやラジオ番組で語っています。言わずもがなではありますが、この中で、2.26事件で重傷を負った鈴木貫太郎を鈴木貞一などと非常識な言い間違いをしていますし、天皇が決起将校達に対して激怒したのは、昭和天皇の子供の頃の乳母が鈴木夫人だったから、などど”いいかげん”なことをいっています。(そんなの一つのエピソードに過ぎません)
戦前のアジア主義者が支那の近代化にかけた思いに注目することは大切なことです。また、北一輝が、青年将校たちと違って「純粋素朴な天皇親政」を信じていたわけではないこと。あくまで天皇を”使いよい玉”としていたこと。つまり、北は機関説論者だった、という事を今あえて言いたいのなら、、指摘すべきは、北は、皇道派の青年将校達を”使いやすい玉(この場合は弾?)”として利用しようとしていたのかもしれない、という”残酷物語”についてでしょう。
『VOICE』の件の論文の末尾の文章は次のようになっています。
「その北一輝がなぜ青年将校達にそのこと(天皇を使いよい玉として利用すること――筆者)を教授しなかったのか。なぜ高天原的存在で満足していたか。あるいは、二・二六事件は、北一輝にとって死に場所探しだったのであろうか。」
北の本音を、彼らに教授できるわけがないでしょう。北一輝の機関説論はむしろ統制派のそれと一致していたわけで、皇道派はそれとは仇敵関係にあったのです。事実、それゆえの二・二六事件であったはずです。
それにしても斉藤実、鈴木貫太郎、渡辺錠太カ、高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望などか弱き老人を殺し、彼らにとっては仇敵であるはずの統制派の巣窟=参謀本部や陸軍大臣官邸は、占拠して「陸大臣に面接して事態収拾に付、善処方を要望する」という程度の隠微な処置に止めたのはなぜでしょうか。
まあ、「決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり」の「陸軍大臣告示」に見るように、彼らも畢竟身内だし、決起には賛同してくれるはずだと、甘い瀬踏みをしていたのでしょう。で、もし彼らの賛同が得られたら、過去のことは水に流して仲良くやるつもりだったのでしょうか。となると、彼らのその不満の根源は一体何処?という疑念に駆られます。
この点、石原完爾も、模様眺めで、うまくいくようであればこれを利用し、軍主導の国家社会主義体制に持って行こうとしていたという疑い濃厚ですからね。このことは、事件後の広田内閣の組閣における彼らのやり口を見れば明白です。反省どころの話じゃないのです。この辺りの駆け引き、皇道派の皆さん一体どこまで読んでいたか。
おそらく、北一輝もそうした可能性に期待をかけていたのかも知れません。それが挫折してしまった、故の”若殿に兜とられて負け戦”なのです。おそらく、そこまで昭和天皇が断固たる意思表示をするとは北も思っていなかったのでしょう。だって、機関説論者にしてみれば、天皇がそんな断固たる意思表示をするこことは一種のルール違反ですから・・・。
そんな意外感がこの句に表れていると私は思います。ユーモア(田原氏の言)なんかじゃありません。一種あっけにとられた図なのです。まして、”死に場所探し”なんて西郷じゃあるまいし、「日米戦争は愚の愚」としたリアリスト北一輝ですぞ。もちろん、青年将校達にしてみれば、自分らの信じていたものとは真逆の大御心が示されたのですから、恨む外なかったのですが。
なお、”転向”云々は、本を見てからにしますが、アジア主義者と、その後の国家社会主義者そして尊皇思想の青年将校達との絡み合いが、うまく捉えられているかどうか。まさか、昭和天皇に対して、”青年将校の声にもっと耳を傾けるべきだった”などと言いたいのではないとは思いますが・・・。もしそうなら近衛と同じで、何を今更!ということになりますね。 
戦前の日本人はなぜヒットラーを賛美したか

 

――戦前の日本人はなぜヒットラーを賛美したか。日本人をヒットラーはどう見たか
――大東亜戦争はアメリカもわが国もよくさず、ドイツがもくろんだという見方
ドイツというより、ヒトラーに”いいようにあしらわれた”ということでしょう。彼の思想の本性がどのようなものであったかと言うことは、小林秀雄が「ヒトラーと悪魔」で見事に描出しています。これを見ると、日本の軍部がなぜ暴走したか、その心理的メカニズムが解りますね。
まず、ヒットラーの心性の基礎にあったものは、
第一、「徹底した人間侮蔑による人間支配、これに向かって集中するエネルギーの、信じがたい不気味さ」であり、「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。」という確信だった。
第二、そして「人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。」では、「勝つための手段」をいかに講ずるか
第三、それは、勝つ見込みのない大衆をいかに「屈従」させ「味方」につけるかということ
「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。」
第四、そのためのもっとも効果的な方法は、プロパガンダを繰り返すこと。それを「敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神」と思わせること
「大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切り型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。
これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる。」
第五、また、勝つための外交はどうあるべきか。
「外交は文字通り芝居であった。党結成以来、ヒットラーの辞書には外交という言葉はなかった。彼には戦術があれば足りた。戦術から言えば、戦争はしたくないという敵国の最大弱点を掴んでいれば足りたのである。重点は、戦術を外交と思い込ませて置くところにある。開戦まで、政治に基づく外交の成功という印象を、国民に与えて置く事にある。」
第六、そして、死んでも嘘ばかりついてやると固く決心すること
「彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、およそ言葉というものを信用しなかった。・・・彼は死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味でプロパガンダを遂行した男だ。」
第七、その時の彼は、人性は自分も含めて獣物であり、それなら一番下劣なものの頭目になってみせる、と決意していた。
「彼が体得したのは、獣物とは何を措いてもまず自分自身だということだ。これは、根底的な事実だ。それより先に行きようはない。よし、それならば、一番下劣なものの頭目になって見せる。興奮性と内攻性とは、彼の持って生まれた性質であった。彼の所謂収容所という道場で鍛え上げられたものは、言わば絶望の力であった。」
第八、しかし、これらが成功するためには、経済的・政治的混乱などの外的事情がないといけない。もちろん、その前にヒトラーの自立的エネルギーがあったわけだが・・・。
「ザールの占領、インフレーション、六百万の失業者、そういう外的事情がなかったなら、ヒットラーはなすところを知らなかっただろう。だが、それにもかかわらず、彼の奇怪なエネルギーの誕生や発展は、その自立性を持っていた事を認めないのはばかげているだろう。」
第九、最後に、以上のような自分の本心を糊塗するため、汎ドイツ主義とか反ユダヤ主義を標榜すること
「おそらくヒットラーは、彼の動かす事の出来ぬ人性原理からの必然的な帰結、徹底した人間侮蔑による人間支配、これに向かって集中するエネルギーの、信じがたい不気味さを、一番よく感じていたであろう。だからこそ、汎ドイツ主義だとか反ユダヤ主義だとか言う狂信によって、これを糊塗する必要もあったのであろうか」
「もし、ドストエフスキィが、今日、ヒットラーをモデルとして「悪霊」を書いたとしたら、と私は想像してみる。彼はこういうであろう。正銘の悪魔を信じている私を侮ることは良くないことだ。悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が、怪しげな逆説の蒐集としか移らぬのも無理のないことである、と。
この最後のパラグラフは、小林秀雄のこのエッセイの結語ですが、「自分自身のことも含めて、正銘の悪魔を信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があるだろうか。諸君の怠惰な知性は・・・」といっているのです。自分を善人と思っている人ほど始末に困るものはないと言うことですね。
そこで、昭和期の軍人たちの心性をこのヒットラーの思想に照らして概観して見ると次のようになります。
第一、「人性に対する憎悪」ということでは、彼らには、大正デモクラシー下の軍縮の流れの中で、軍を軽視した「社会に対する憎悪」があった。
第二、「勝つための手段」として満洲占領を行い成功した。
第三、大衆を「味方」につけることにも成功した。
第四、プロパガンダを「敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神」と思わせることに成功した。
第五、「戦争はしたくないという最大弱点」を逆に敵国に掴まれた。
第六、「死んでも嘘ばかりついてやると固く決心する」どころか、戦争をやめたくて「大乗的」和平交渉ばかりしていた。
第七、「人性は自分も含めて獣物」という冷酷な自己認識を持たず、自分の善意を信じていた。
第八、当時の時代状況としては、資本主義の発達に伴う貧富の差の拡大、インフレによる物価上昇、昭和の恐慌に伴う大量失業、東北地方の冷害、政党政治家の金権腐敗、大正デモクラシー下の退廃文化等の経済的・政治的・社会的混乱があった。
第九、以上のような自分の本心を糊塗するため、大東亜共栄圏や八紘一宇を標榜した。
つまり、彼らは、ヒットラーのような徹底した「人性に対する憎悪」を持っていたわけではなく、軍縮などに端を発する当時の社会に対する不満(かなり強度)があり、一方、自分たちは政党政治家や財閥よりも正しく、潔癖さも時代を読む力も勇気も実力も持っていると考えていた。そこで、支那の排日・侮日、米英に抗して国力を海外に伸張できるのは自分達であり、その目的は、東洋の王道主義に基づく大東亜共栄圏さらに八紘一宇の新世界秩序を建設すること、と盲信した。
これを、ヒットラーの先の九原則に照らして整理し直して見ると、第一は、人性に対する憎悪というより自己絶対化だった。第二は、戦術的には大成功だったが思想的には不徹底だった。第三の世論操作には成功したが、第四のプロパガンダの結果としての対米英戦争に耐えるだけの力はなく、第五、「戦争をやめたい」本音を敵に掴まれており、第六、そのため絶えず和平交渉を繰り返したが失敗した。その原因は第七、つまり何よりも自己認識が甘かったからで、中国との戦争を、兄弟げんか程度にしか考えていなかった。第八は、昭和初期の経済的・政治的・社会的・思想的混乱があり、それを自由主義の結果と見てこれを攻撃した。第九、以上の行為を正当化する思想を、尊皇思想という伝統思想に求めた、といったところではないでしょうか。
これを総合採点すると、成功した項目が、第二、三、八、九の四項目、失敗した項目が、第一、四、五、六、七の五項目、総合判定四対五で失敗!ということになりますね。ただ、ここで成功したという項目は、あくまで戦術的なものです。一方、失敗した項目は、まず、自己認識の不徹底、それから、自己絶対化、自分は何のために戦っているのか目的意識の不明確。中国への一方的感情移入と反発の繰り返し。戦争終結できない事へのいらだちと自信喪失。それを埋め合わせるためのヒットラー賛美。ドイツとの同盟に恃んで南進。その結果対米英戦争。最後は一億玉砕ということで、どうやらこれらは思想的な問題に帰着するようです。
では、これらの問題点は、日本人の思想のどこに胚胎しているのか。その人間性信仰の不徹底に原因があるのか。というのは、これはもともと、本性→仏性と遡及する宗教的概念だったわけで、脱宗教化の過程で仏抜きの「人間性」となったものだからです。
この、「人間性」に対する日本人の無条件の信仰こそ、日本人は一度疑ってみる必要があるのではないだろうか。それが、日本人における昭和の戦争を反省する第一歩ではないか、私はそう考えています。
なお、ヒットラーとの比較で摘出された第一の自己認識の不徹底ということですが、これについては、その憎悪の哲学から何を学ぶかということが大切ですね。悪魔が信じられなければ天使も信じられないといいますから。 
日本の政府・統帥部首脳は「日米諒解案」を支持

 

――日本の政府・統帥部首脳は松岡を除き「日米諒解案」を支持した。しかし、ヒトラーを賛美する時代の空気がそれを拒否した
―― 一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか
――この日米了解案は野村大使が持ち込んだものでしょうがこれはアメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いたとありましたが、これについてはいかがでしょうか
この了解案ができた経緯ですが、昭和15年11月末、米人カトリック神父ドラウトから井川忠雄(産業組合中央金庫理事)に日米関係改善についての会見申込み(クーン・レープ商会のシュトラウスの紹介状持参)があり、井川は、r陸軍軍務局長武藤章等と協議の上会談に応じました。井川はその内容を近衛首相に逐一報告。ドラウトは日本側との話し合いで、日米交渉の可能性があると判断、帰国してルーズベルト大統領やハル国務長官と協議した結果、同意を得たので日本側にその旨報告しました。
これを受けて、昭和16年2月11日、野村大使ワシントン着、井川も野村と前後して渡米、3月6日には陸軍軍事課長の岩畦豪雄も渡米。近衛、東条らは井川らの渡米に非常に好意的でしたが、外務省は冷淡かつ妨害的だったといいます。これは、松岡外相が、陸軍が外務省を出し抜いて日米交渉をやろうとしていると邪推したためだと言います。
4月に入って、日米諒解案の起草がはじまり、日米双方当局の検討を経て(日本側は野村大使、若杉公使、磯田陸軍武官、横山海軍武官、井川、岩畦で検討)日米諒解案(第二案)がまとまりました。その結果、これを基礎として日米交渉が進められることになり、まず日本政府の訓令を得ることになりました。
この日米諒解案のポイントですが、次の七つの項目に整理されています。(一部要約、抜粋)
一 日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念について
米国が日本に民主主義への塗り替えを強要するようなことはせず、相互に両国固有の伝統に基く国家観念、及び社会的秩序、並びに国家生活の基礎たる道義的原則を保持することを認め、相互の利益は之を平和的方法により調節するとした。
二 欧洲戦争に対する両国政府の態度について
日本の三国同盟の目的は防衛的なものであって攻撃的なものではないこと。米国の欧洲戦争に対する態度は、一方の国(イギリス)を援助して他方(ドイツ)を攻撃するものではないこと。(それは「自衛権の発動」という考慮において決せられるとした)
三 支那事変に対する両国政府の関係について
米国大統領が左記条件を容認し、且つ日本政府がこれを保障したるときは、米国大統領は之に依り、蒋政権に対し平和の勧告を為すべし。
(イ)支那の独立
(ロ)日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
(ハ)支那領土の非併合
(ニ)非賠償
(ホ)門戸開放方針の復活。但し之が解釈及び適用に関しては、将来適当の時期に日米両国間に於て、協議せらるべきものとす
(ヘ)蒋政権と汪政権との合流
(ト)支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
(チ)満洲国の承認
蒋政府に於て米国大統領の勧告に応じたるときは、日本国政府は、新に統一樹立せらるべき支那政府、又は該政府を構成すべき分子を相手として、直ちに直接に和平交渉を開始するものとす。
日本国政府は、前記条件の範囲内に於て、且つ善隣友好、防共共同防衛、及び経済提携の原則に基き、具体的平和条件を直接支那側に提示すべし。
四 太平洋に於ける海軍兵力及び航空兵力並びに海運関係について
日米両国は、太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て、相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及び航空兵力の配備はしない等。
五 両国間の通商及び金融提携について
今次の諒解成立し、両国政府之を承諾したるときは、日米両国は各その必要とする物質を相手国が有する場合、相手国より之が確保を保証せらるるものとす。又両国政府は、嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き、正当の通商関係への復帰のため、適当なる方法を講ずるものとす。
両国間の経済提携促進のため、米国は日本に対し、東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及び日米経済提携を、実現するに足る金クレディットを供給するものとす。
六 南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動について
日本の南西太平洋方面における発展は、武力に訴うることなく、平和的手段によるものなることの保証せられたるに鑑み、日本の欲する同方面における資源、例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び獲得に関し、米国側の協力及び支持を得るものとす。
七 太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針について
(イ)日米両国政府は、欧洲諸国が将来東亜及び南西太平洋に於て、領土の割譲を受け又は現在国家の併合等を為すことを、容認せざるべし。
(ロ)日米両国政府は、比島の独立を共同に保障し、之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法につき、考慮するものとす。
(ハ)米国及び南西太平洋に対する日本移民は、友好的に考慮せられ、他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし
日米会談について
(イ)日米両国代表者間の会談は、ホノルルに於て開催せらるべく、合衆国を代表してルーズヴェルト大統領、日本を代衣して近衛首相により開会せらるべし。代表者数は各国五名以内とす。尤も専門家、書記等は之を含まず。
(ロ)本会談には、第三国オブザーヴァーを入れざるものとす。
(ハ)本会談は、両国間に今次諒解成立後、成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
(ニ)本会談に於いては、今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす。具体的議題は両国政府間に協定せらるるものとす。
この諒解案の要点は、日本は、三国同盟における参戦義務を実質的に骨抜きにする。米国は(イ)から(チ)の条件で中国に和平を勧告する。米国は日本が必要とする物資の確保を保障し、日米通商条約を回復する。米国は、南太平洋における日本の石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び確保に協力する。日米両国は将来東亜及び南西太平洋における領土の割譲・併合を容認しない。米国及び南西太平洋に対する日本移民は差別しない、というものです。
これは、従来、日本の軍部や近衛が、「持たざる国」の論理を日本の満州事変や東南アジア進出の正当化に使っていたことに対応したものだということができます。つまり、米国は満州国を承認する。その代わり、日本軍は無賠償・非併合で支那領土から撤退する。また、日本の人口問題や資源問題に対応するため、日本が平和的に東南アジアに進出する際の資源の確保にアメリカは協力する。また、移民についても他国民との差別扱いはしないなど。
では、この諒解案に対して日本側はどのような反応を示したでしょうか。 
「大橋(外務次官)は、前夜からその朝にかけて野村大使から電報が入って来たこと、尚暗号解読中だが、世界の迎命を左右する様なものだと、狼狽した喜び様であった。大橋は午後四時半に電報の解読を待って、寺崎アメリカ局長を伴って再び近衛を訪れた。
近衛首相は、問題の重要性に鑑み、即夜八時から政府統帥部連絡会議を招集した。政府から近衛首相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官、統帥部から杉山参謀総長、永野軍令部総長が出席し、武藤、岡の両軍務局長、富田書記官長も加わって、米国からの提案を協議した。近衛手記によると、次の様な意向が表明された。
一、この案を受諾することは、支那事変処理の最捷径である。即ち汪政権樹立の成果挙らず、重慶との直接交渉も非常に困難であり、今日の重慶は全然米国依存である故、米国を中に入れねば何ともならぬからである。
二、この提案に応じ日米の接近を図ることは、日米戦回避の絶好の機会であるのみならず。欧洲戦争が世界戦争にまで拡大することを防止し、世界平和を招来する前提になろう。
三、今日わが国力は相当消耗しているから、一日も速かに事変を解消して、国力の恢復培養を図らねばならぬ。一部に主張されている南進論の如き、今は統帥部でも準備も自信もないという位だから、矢張り国力培養の上からも一時米国と握手し、物資等の充実を将来のため図る必要がある。
というので、大体受諾すべしという論に傾いた。ただその条件として、ドイツに対する信義から、三国同盟と抵触しないことを明瞭にする要があるとか、若し日米諒解の結果、米国は太平洋から手が抜けるので、対英援助を一層強化することになると、日本としてはドイツに対する信義に反するし、全体の構想が低調になって面白くないから、日米協同して世界平和に貢献するという趣旨を、もっとハッキリさせ、英独間の調停まで持って行きたいとか、内容が少し煩雑に過ぎるとか、旧秩序に復帰する様な感じを与えるから、新秩序建設という積極面をもっとハッキリ出したいとか、迅速に事を運ぶため、外相の帰国を督促する要があるとか、種々の意見が出た。又この事をドイツに通報すべきや否やについても、信義の上から通報に賛成の説と、諒解成立を切望する見地から、内密にしようという説とがあった。
要するに種々意見はあったが、皆が交渉に賛成であった。東条陸相も武藤軍務局長も喜んではしゃいでいた。陸海軍とも「飛び付いた」というのが真情であった。そこで直ぐにも、「主義上賛成」の返電を出せという議があったが、大橋次官は、もう二、三日で帰国する松岡外相の意見を聞いてからにすべきだというので、近衛もそれに同意した。それなら一日も早く、松岡に帰国を促そうということになり、満洲里宛てで、首相が至急通話したい旨を松岡に伝えた。」
これを見ると、近衛を初めとする政府首脳(松岡は独ソ訪問から帰途中で不在)、それに陸海の省部並びに統帥部の首脳は一致して、この諒解案を歓迎したことが判ります。ということは、彼等には米英と戦争してでも東亜新秩序を作り上げてようとする決意はなかった、ということになります。とりわけ近衛首相にとっては、この諒解案は、自ら過誤を犯したと認める日中戦争の終結を可能にし、また、中国や蘭印等からの必要資源の調達や移民の自由も保障されるのですから、氏の持論である「持たざる国」論が認められたことにもなり、大歓迎であったわけです。
そもそも、近衛首相が三国同盟を結んだのは、ソ連も加えてそれを四国同盟とし、その圧力で対米英戦争を抑止あすることを目的としたものでした。その約束が、独ソ開戦によって反古にされたのですから、諒解案において、アメリカが欧州戦争に参戦した場合の日本の参戦義務が骨抜きにされてもかまわないわけです。また軍も、昭和15年3月30日の支那事変処理に関する参謀本部提案になる陸海省部最高首脳会議において、昭和15年中に支那事変が解決されなかった場合、昭和16年初頭から逐次撤兵を開始することを決定したほど、支那事変を持て余していました。
こうした判断に対して、これは米国が対独作戦を進める上での二正面作戦を避けるための時間稼ぎであり、これを受け入れることは米国への屈服を意味するという味方もありました(大島浩駐独大使)。確かに、この頃、日本が三国同盟を結んだことや仏印に進駐したことで日米間に緊張が高まっていました。しかし、実情は、米国人は極東のことには関心が薄く、欧州に重点を置いていて、「戦争を支持する者もしない者も、眼中に置いていたのはヒットラーであって日本ではなく」、対日強硬論の多くは経済制裁程度しか考えていなかったのです。
また、1941年8月に行われた「大西洋会談」でも、チャーチルが日本の南進に対応して米国の軍事介入を要請したのに対し、ルーズベルトは確約を与えませんでした。また、会談直後に発表された大西洋憲章は、次のように国際社会における政治経済的な原則を列挙して、枢軸国の追求する世界像に代わりうる、理想的な国際社会の構造を提示していたのです。つまり、米国は、世界恐慌から立ち直る過程で、もう一度、ワシントン体制に代わるような国際主義原則に戻って、アジアと太平洋における経済発達を図ろうとしていたのです。
そのため、この憲章では、「全ての国による経済的提携」がうたわれ、世界のすべての人びとは恐怖感や欠乏感から解放されることこそ、平和への道だ」と説き、すべての国は世界のあらゆる地域における市場や資源の恩恵に、「平等な条件の下で」浴すべきだと宣言していました。その上、そこには、あらゆる人びとは地球のいたるところに渡航する権利を有する、というような、日本がパリ講和会議当時に提案した「人種平等宣言」を思わせるような項目まで含まれていたのでした。
では、これが本当なら、どうして11月16日の「ハルノート」が出されるようなことになったのでしょうか。だって、この諒解案に執拗に反対し、独ソ開戦後も三国同盟を堅持しようとしたした松岡外相は近衛により解任されたわけですし、近衛はルーズベルトとのトップ会談によって日本に対する米国の誤解を解くことができると信じていたからです。近衛は陸軍が拒んでいる撤兵についても、それで日米妥協が図れるとなったら、電報で木戸にそのことを知らせ、陛下に撤兵の「聖断」を出してもらう。それをやれば「殺されるに決まっている」が「生命のことは考えない」と言い切っていたのです。
これだけ近衛が腹を決めていたにも拘わらず、なぜアメリカは日本を信じなかったか。結局、アメリカは、日本軍において枢軸を支持する勢力は強力であり、たとえ天皇の支持があったとしても近衛はこれを抑えることはできない。そのことは、諒解案以降の交渉過程で確認された、としていたのです。つまり、日本が三国同盟を堅持し独伊と共に世界新秩序建設に邁進する方向を選択することを断念させるためには、力による対決しかない。そうした強硬姿勢を姿勢を取ることによってしか、日本に方針転換させることはできないと考えたのです。
つまり、撤兵問題とは、日本があくまで枢軸側に立って世界新秩序建設に向かうか、それとも、大西洋憲章に述べられたような、米英中心の新たな国際協調主義に戻るかの二者択一を迫る「踏み絵」だったのです。従って、日本に支那からの撤兵を求めるということは、力で日本に後者の側に立つことを求めるものであり、日本がこれを拒否すれが、それは日本はあくまでヒトラーと共に世界新秩序建設に向かうことを意味したのでした。つまり、そのことを瀬踏みするためにこそ、日本に諒解案がぶつけられたのでした。
つまり、日本がこの諒解案を拒否した段階で、日本に後者の選択をさせるためには、力による強制しかないことが明らかになったのです。だって、日本の名誉ある撤兵は、アメリカが中国に日本との和平を勧告することによってしか実現できませんから。それを日本が拒否したということは、アメリカ仲介による名誉ある撤兵はしないということ。それは日本は中国が降伏するまで戦争を続けるということ。しかし、中国はアメリカが支援する限り降伏しない。結局、日本はアメリカとの戦争を決意せざるを得ない・・・。
こう考えれば、アメリカが、たとえ天皇が近衛を支援したとしても、軍のこうした行動を抑えることはできないと判断したのも当然、ということになります。つまり、日米諒解案こそ、日本が枢軸側に立つか米英側に立つかを判断する試金石だったのです。そして、日本の政府や軍の首脳は一致してそれを受け入れようとした。しかし、松岡の妨害に会って逡巡する間、独ソ開戦後のヒトラーの快進撃に便乗する下僚軍人・官僚、マスコミの強硬姿勢に引きずられ、ついにハルノートという「踏み絵」を突きつけられることになった・・・。
なお、日米諒解案は「アメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いた」と言うご意見について。この諒解案には、ルーズベルト大統領と近衛首相の会談が予定されていて、そこでは「今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす」と明記されていました。従って、これをアメリカの正式提案でなかったと言うことはできません。ただ、この諒解案が、日本に、米英中心の新たな国際協調主義に立つことを求めていたことは明らかで、これを枢軸側から見れば、これがアメリカの謀略に見えたのは当然です。
結局、日本は、本音では松岡を除く政府、統帥部の首脳部がほぼ一致してこの諒解案受諾に賛成しながら、その時代のヒトラー崇拝の空気に支配され、結局、枢軸側の武力による世界新秩序建設の道を選択することになったのですね。それが、今回の、「日米戦争を欲したのは誰か?」という疑問に対する私の答です。この決定をした日本における独裁者は、東条でもなく、もちろん近衛でもなく、その時代の「空気」だった、と言うことになりますね。山本七平の『空気の研究』が名著たる所以です。 
日米戦争は誰が欲したか

 

満州事変は日本が、支那事変は支那が欲(ほっ)した。そして対米戦争は?でしょう。
ハルノートは実質的な最後通牒ですから、日米戦争を欲したのはアメリカということになります。これに対して日本側は、日米了解案――中国側が満州国を承認し、蒋介石と王兆銘の政府を合体させ、日本軍は協定に基づいて撤兵し、非併合、非賠償の条件の和平を結ぶことを米大統領が蒋介石に勧告するというもの〈昭和16年4月16日〉――がまとまった時点ではっきりしたように、政府、陸海軍、統帥部の上層部はいずれも、この案に全員賛成で、まさに「飛びついた」というのが実情でした。ここまで見れば、戦争を欲したのはアメリカだった!ということになります。
ところが、その後の交渉経過を見ると、この了解案に松岡外相がつむじを曲げて賛成せず、これを「ぶち壊す」が如き強硬案に修正し5月11日アメリカにぶつけた。こうする間、この了解案の内容がドイツなどから漏れ、これに対して陸海軍の中堅以下の将校たちが猛烈に反対するようになりました。なぜか?実はこの頃は「支那事変を聖戦と呼び、暴支膺懲を東洋平和のために必要だといい、数々の軍国美談をつくり、何十万の犠牲を払ってきて、急に対米協調のためにシナから撤兵するといっても、軍だけでなく、国民全体が収まらない状態ができていた」からです。
このため、春には日米了解案を歓迎していた東条が、11月中旬対米交渉のため急派された来栖三郎大使に対し、「撤兵の問題だけはこれ以上譲歩できない。もし、あえて譲歩すれば、自分は靖国神社の方に向いて寝られない」などと言うようになり、海軍も、日米交渉の土壇場になっても、総理一任といい、本心では戦争回避なのに自ら戦争反対といえないような状況が生まれたのです。井上成美はこうした状況の変化について、「省部の下僚は・・・対米戦を突然の宿命の如き観念に支配され・・・省部首脳までがこれを制御する勇気も才覚もなく、一歩一歩危機を作成せり」といっています。
一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか。その解釈は、上述した通り、アメリカは松岡の「ぶち壊し」の交渉態度や、その後の軍の強硬路線への復帰を見て、また日本政府がそれを制御できないことを見て、戦争は不可避であると判断した。また、アメリカの世論を欧州戦争(イギリス側に立ってドイツと戦う戦争)に導くため、ドイツと同盟を結ぶ日本との戦争を挑発した。あるいは、ハルノートを起案したホワイト財務次官がソ連のスパイであり、国際共産主義運動の一環として日米間の戦争を謀略的に挑発した等々。
これらは、それぞれ一半の真理を含んでいると思いますが、重要なことは、こうした国際政治的環境の下で、日本がこれらの問題についてどのように主体的に判断し問題解決しようとしたか、ということだと思います。了解案以降のことについて言えば、松岡のようなお粗末な人間が外務大臣だったということ。この人事を周囲の忠告を無視して行った近衛の責任は重大です。もう一つは、省部及び統帥部における陸海軍の首脳が、下僚の強硬意見や国民世論に引きずられて責任ある決断をなし得なかったということ。
つまり、その頃は、日米の国力差をまるで無視した「聖戦」思想に基づく宿命論的日米戦争論が軍内及び世間に風靡し、そうした空気には誰も逆らえなくなっていた、ということなのです。これがナチ的国家社会主義への共鳴現象をもたらし、また、もともと日独伊三国同盟はソ連も加えて米国のアジア及びヨーロッパの戦争への参戦を抑止するはずのものだった?のに、独ソ開戦によってそれが画餅に帰した後も、なおドイツ勝利を妄信する態度を生んだのです。さらにこれが、南部仏印進駐という、タイ、シンガポール、蘭印など英米蘭権益地帯への侵攻を意味する政策を執らせることにもなりました。
以上を総合的に勘案して、日米戦争は誰が欲したか、ということですが、それは主体的な観点から言うなら、この時代の「漠然たる、強硬を是とし、軟弱を否とする傾向であり、その背後にあったのは空想的と言っても良い拡張主義、世界再分割思想」を是とした」軍人・政治家及びそれを支持した日本人、ということになると思います。それを陸海軍首脳も制御し得ず「一か八かの戦争」に訴えることになってしまった。ここでも山本七平の言う「空気支配」(その場の空気に支配されて本当に考えていることが言えなくなること)が決定的な役割を演じたのです。
こうした軍内の「下剋上」的風潮と、それに拘束され身動きのとれなくなった日本の政治的リーダーシップに対する不信が、次第にアメリカをして戦争不可避論へと導いた。さらに、日本がナチスの快進撃に幻惑され、「バスに乗り遅れるな」とばかり、南部仏印に進駐して東南アジアの資源地帯を制圧する姿勢を見せたことが、アメリカの対日不信を決定的なものにし戦争を決意させることになった。それに、国際共産主義運動に関わる勢力が謀略的にハルノートを発出させ日本を挑発した・・・そんなところではないかと思います。
それは日米は戦う運命であったという認識でしょう。ルーズベルトがといいますが、アメリカは選挙で変わりますから、この要素に対する外交的配慮がまったく無い事は不思議です。
この件で興味深いエピソードを紹介しておきます。
一九八四年の夏頃、岡崎久彦氏が牛場信彦氏を訪問したとき、「お前か?真珠湾を攻撃しなければ、硫黄島で戦争が終わっていただろう、といったのは?」と訊かれた。氏は、「最近になって遂に思い至ったこととして、ベトナムでテト攻勢があったり、レバノンで二、三百名のアメリカ兵が死んだりすると、さっさと引き揚げてしまうアメリカであるから、もし日米戦争が、真珠湾でない形で(奇襲でなく、開戦に至る文書を公開しての正々堂々たる宣戦布告の形などで)始まっていたならば、硫黄島でもう休戦交渉に入っていただろうと思う」といった。これを聞いて、牛場大使は、今までに見たこともないような沈痛な表情をされて「そうだったか!」と悔しそうに膝を打たれた、というのです。(『日米開戦の悲劇』ハミルトン・フィッシュ、「まえがき」)
まあ、後知恵だとは思いますが・・・。当時、それだけの政治的知恵があれば大したものでしたが・・・。この日本人のこのカッとなる性格、これはなかなか直らないでしょうね。岡崎氏にしても気がついたのは敗戦から30年後のことだったのですから。といっても、本来、海軍が想定し訓練を重ねていた対米戦闘方法は、西太平洋で米海軍を迎え撃つ邀撃作戦で、真珠湾奇襲作戦は山本五十六が強硬に主張して採用させたものです。この作戦は山本の「ばくち好き」を反映していたのでは、などど言われていますが・・・。
つまり、国力に圧倒的な差があることは判っていたわけですから、列強の植民地主義やブロック経済を非難しつつ、日本は資源確保、のためと称して、徹底的な防衛的戦争を行うべきだった。そうすれば自存自衛という戦争目的に合した戦い方ができたはずです。といっても、これもまた後知恵で、そもそも満州問題の解決について防衛的に対処できなかったことが、事の始まりですからね。口ではそういいつつ、日中戦争でも防衛戦に徹しきれず、中国の主要都市の大半を占領する結果になったわけですから。そうした思考法が敗戦を招いたということですね。
近衛氏の思想は思想といいうるものでは無いと思いますが、これは明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象で、其のひとつとして昭和の動乱を見るという見方ももっていますが、これは手に負えない問題です。西洋思想の影響を受けた日本人の精神の変容を知る必要があります。おそらく昭和前期の政府が二重政府であったように、各人の頭のなかが二重になっており、其の行動も二重になっているという事でしょう。しかもそれを自覚していない。其の上それは外国から見ると昭和の日本の外交がさっぱりわからないように、その人以外から見ると同じように見えるということでしょう。
近衛文麿の思想は次回詳しく検討したいと思います。彼の思想が最もよく当時の日本人の思想を代表していると思いますので。
また、「明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象」として昭和の政治に表面化した、というのはその通りですね。この問題に思想的な決着をつけられなかったこと。それが、昭和初期の政治的経済的混乱期の革新思想として、明治維新期の尊皇思想(一君万民・天皇親政という家族主義的国家観に基づく政治思想)を呼び覚ますことになったのです。明治はこの思想を西郷と共に地下に埋め、見ぬふりをして近代化を進めてきたわけですが、この思想が昭和になって不死鳥のように復活し、明治の近代化思想とそれに基づき組み立てられた政治機構を破壊することになったのです。自らはそれを「近代の超克」と自負していたわけですが・・・。 
統帥権を悪用して政権奪取を図った軍部が自縄自縛に陥った

 

日本軍はトラウトマン和平工作後も、大東亜戦争に突入するまで和平工作ばかりしていました。一部の人々は、日中戦争の原因に気づくようになるのですが、それが最終的な政治判断に結びつかない。総合的判断を断固として行う意志決定のポイントが、失われていたのです。内閣の規定もなく首相権限が弱い明治憲法の欠陥だという指摘もありますが、日本が二重政府状態に陥っていたことも大きな原因でした。
この二重政府という事はどのような意味ですか。将軍と執権という事ですか?
曲がりなりにも議会がありましたから、この議会の議員が行動を起こせば、それで何かができたのではと思います。
首相は大命降下の擬似天皇親政で議会は選挙という民主体制と理解は可能ですが、そもそも、そのようには理解すらしていないような気がします。
日本が二重政府状態に陥ったのは、政府が、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦保有量総括比率対米英6割9分7厘(要求7割)等の内容で妥結調印した事に対して、軍部が、これは憲法第11条及び第12条に定める天皇の統帥権を犯すものだと激しく攻撃したことに端を発します。
(軍の統帥権)                                   
第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
(政府の統治権)
第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ
第55条 1 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す
2 凡て法律勅令其の他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す
(議会の協賛権)
第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
第64条 第1項 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし 2 予算の款項に超過し又は予算の外に生したる支出あるときは後日帝国議会の承諾を求むるを要す
要するに、この天皇の統帥大権を補翼するものは軍(海軍では軍令部、陸軍では参謀本部)であるから、政府がこの統帥権に属する軍の編成に関わる軍艦の保有量を、軍令部の反対をおして決めたのは、天皇の統帥大権を犯すものだというのです。しかし、政府には海軍大臣も陸軍大臣もいるわけで、彼等は軍政の観点から政府の統治権に参画しているわけですから、当然、軍も政府の決定に従うべきなのです。
ところが、折しも中国では、国民党による国権回復運動に基づく排日政策がとられ、満洲では張学良が易幟(国民政府に服すること)を行ったことによって、日本の大陸における立場が極めて不安定になっていました。そこで一部の政治家や軍人・右翼は、これらは、中国の領土保全、門戸開放、機会均等等を定めたワシントン体制に原因があるとして、この体制下での国際協調外交を推進した幣原外相を激しく攻撃していました。
つまり、こうした幣原外交に対する不満を、民政党浜口内閣の倒閣に結びつけようとして、政友会の森恪が中心となり、軍人を巻き込んで統帥権干犯問題を政治問題化させたのです。まさに党利党略というほかない愚行で、これによって政府の統治権は国務と統帥に分立させられ、さらには議会の立法権も予算協賛権(=審議権)も軍の行動には一切口を出せず、これに追随するほかなくなってしまうのですから、「二重政府」は政治家がもたらしたといっても過言ではありません。
この「軍の統帥権」について石原は「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権の下に、皇国の大理想に対する絶対的信仰を以て三軍を叱咤する将帥必ず埋まるきを確信す」といっています。司馬遼太郎は、軍がこの統帥権をどのように解釈していたか、それを記した『統帥綱領』(昭和3年)と『統帥参考』(昭和7年)という本を紹介しています。
この本は、参謀本部刊で特定の将校にしか閲覧を許されなかった最高機密の本で、もとは二冊しかなかったそうで、敗戦時一切焼却されたとされていましたが、偕行社が奇跡的に残った本を入手し復刻したものです。そこには次のような統帥権の超法規的な権限が規定されていました。
(統帥権独立の必要)
「二、・・・統帥権の本質は力にして、其作用は超法規的なり。・・・統帥権の補翼及び執行の機関は政治機関より分離し、軍令は政令より独立せざるべからず」
(統帥権と議会の関係)
「三、・・・統帥権は其の(国務の)補弼の範囲外に独立す。従て統帥権の行使及び其結果に関しては、議会に於て責任を負はず。議会は軍の統帥・指揮並にこれが結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有せず」
こうした軍による極秘の統帥権解釈を政治問題化し、浜口首相暗殺というテロ事件を惹起させ、それによって誰も手を触れることのできない公然の解釈とさせたのが、この昭和五年のロンドン海軍軍縮条約締結の際に提起された「統帥権干犯問題」であったわけです。そして、この「霊妙なる統帥権」をつかって石原が起こした事変が、柳条湖の鉄道爆破に端を発する満州事変であったわけです。
では、この事件がどういう構想の下に実施されたものであったかを、当時幣原外相の下で外務次官を務めていた重光葵の記述によって見てみましょう。
「満洲国と関東軍
国家改造計画と国防国家
もともと、満洲事変は、日本革新運動と同根であって、大川周明博士等満鉄調査部の理論が、多分に採用せられていた。五族協和とか、王道楽土とか、財閥反対とかの左傾右傾の革新精神が、関東軍の幕僚によって、唱導せられ実行されて行った。「ナチ」に倣って、一党一国を目指す協和会も組織せられた。また、日満経済提携の協定は成立し、後には、日産を中心とした満洲重工業会社が出来て、満鉄と相列んで、満洲の経済的経営に当ることとなった。
関東軍の頭脳は、当初より満鉄の調査部であって、後藤満鉄総裁時代に出来たこの調査部は、大連及び東京に大規模の機構を有っており、政治経済の各般にわたる調査立案に従事し、大川博士は、久しく同部を指導しておった。関東軍の幕僚が、この調査機関を利用して作成した、内外にわたる広汎詳細なる革新計画がある。これが革新の種本であって、軍部革新計画者の間に、所謂「虎の巻」と称せられるものであった。その製作者の性質に鑑み、その内容は、極度に拡大せられ、理想化せられたナチ的のものであって、内に向っては、純然たる全体主義的革新の実行を目的とし、外に対しては、極端なる膨脹政策を夢見たものであった。
この虎の巻の全貌は、数名の中心人物(中堅将校)のみの知るところであって、これを同志の潜行的連絡によって、政府その他の機関をして、その所管内において個々に実行せしめ、全体を綜合して国家改造を実現し、革新の目的を達成せんとしたもので、目的の実行には左翼的戦術を用いていた。関東軍は、満洲事変の直接の爆発点でもあったが、日本改造運動の震源地でもあったのである。」
つまり満州事変とは、単に「日本の生命線」である満洲を軍事的に制圧することを目的とするものではなかったのです。それは、満洲を、日本の政治体制を全体主義体制に強引するための前衛基地たらしめるものでもあったのです。そのため石原は、一時、満洲に居留する日本人の日本国籍離脱を提起したほどでした。さすがに、この提案は受け入れれませんでしたが、こうした経緯から、満洲国を内面指導する関東軍は必然的に、本土の日本政府に対して、もう一つの政府であるかのような性質も持つことになりました。
そうした現実を象徴するような情景が同じ重光葵によって記されています。
林総領事及び森島代理は、(満洲)事件の真相を逐一政府に電報した。総領事及び代理等は事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東軍の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。軍人はすでに思い上っていた。森島領事は、一旦軍が行動を起した以上何人の干渉をも許さぬと云う返事を得て、止むなく帰った。その時、関東軍は、事実上石原次席参謀の指導の下にあって、全機能を挙げて突進していたのである。
張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上か風をなし、関東軍は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党拡反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。
若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍を従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府か軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出るにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫し、若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。
関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」
こうして、日本は、統帥権干犯問題の提起と、それに続く満州事変を経て、あたかも双頭の分裂国家であるかのような「二重政府」状態に陥ったのです。日本外交は全く首尾一貫しないものとなり、日本国の国際的信用は地に墜ちました。重光葵は「満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」といっています。
日本がこのような「二重政府」状態に陥っていることについて、中国の顔恵慶は1932年7月29日の国際連盟理事会で次のような日本政府非難演説をしています。
(日本代表が「支那を以て崩壊と無政府の状態にある」と述べたことに対して)
「日本代表は能く組織されたる国家のことを云はれたが、政府の統制を破りつつある陸海軍を有する日本の様な国が組織力ある国家であるかどうかを疑ふのである。日本の外交官が理事会に出席し、現実に種々の約束をなすに拘らず、而も翌日にはその約束が守られないと云ふのではそれは能く組織された政府を代表してゐると云ふべきであらうか。日本は二三の大国に対し錦州を侵略せずと明かに約束したに拘らず、数日ならずして錦州に入ってゐる。これでも能く組織されてゐる政府と云ふことが出来るであらうか。」
そして、こうした日本の「二重政府」状態が、二・二六事件を契機とし、さらに日中戦争の勃発によって日本の政治が実質的に軍の統制下に置かれるまで続いたのです。もちろん、この間、このような「日本の政治機構の破壊」状況を憂える外務省をはじめとする良識派の人びとが、全く手をこまねいていたわけではありません。その代表的人物が実は広田弘毅であったわけで、彼は「ある程度までは軍と妥協しつつ、軍部の無謀な行動を、あるいは抑制し、あるいは善導していく」苦心惨憺たる「苦行」を引き受けていたわけです。「軍部に正面から反対すればただちにその職から退けられるか、最悪の場合は暗殺され」ましたから。
こうした広田の苦行は、まず、関東軍をして北支分離工作を断念させ、満州国の経営に専念させることによって、日中親善の外交関係を確立することを、その目標としていました。しかし、残念ながら「広田三原則」においてもそれは骨抜きにされてました。このことは、その「三原則」の付属文書(一)で、「わが方が殊更に支那の統一又は分立を助成し、もしくは阻止する目的を持って以てこれを行うは、その本旨にあらず」としていたにもかかわらず、その付属文書(三)で、北支分離工作を決めた昭和9年12月7日付けの「外務、陸海軍主管意見一致の覚書」も、「これに代わるべきものの決定を見るまで」広田三原則と平行してこれを有効とする規定が挿入されていたからです。 
こうして、「関東軍の推進する軍の北支工作は、政府の外交方針とは全然無関係に、且つこれを無視して、秘密の間に遂行せられ、外交当局も政府も、その実相を窺い知ることは出来」ませんでした。
「外務省の立てた前記の大局的外交方針には、軍中央部においては、表面これに賛成しながらも、その実行については、中央においても出先き軍機関においても、猛烈に反抗した。外務省が、政府において予て決定されていた所に従って、支那公使を大使に昇格して、その地位を強化して、新しい政策を強力に遂行せんとした試みに対して、軍部は、外務省がこの際更めて大使昇格を陸軍省に協議しなかったことを、脅迫をもって抗議し、外務当局に対し激しく反感を表示した。
軍部は、すでに満洲問題は勿論、支那問題そのものを、外務省の手より引き離して、軍部の手によって処理する底意を持っていたのである。これがため軍部は北支工作は勿論、支那に関する問題は、外務省その他より掣肘を受くべきものでないとして、軍部限りにて大胆に処置し、政府自身もこれを制することを敢えてしなかった。
在支陸軍武官磯谷少将は、しばしば日本の名において声明を発表して、列国の支那における態度を誹膀し、日本軍部の支那問題処理の決意を表明し、支那政府を罵倒し、鋭く夷国を攻撃して、政府の外交方針とは正反対の立場を取り、軍中央部またこれに呼応したため、支那及び列強の世論を沸騰せしめた。日本の実権者としての軍部の態度は、当時内外より重要視されていたので、事態は益々悪化し、政府の外交政策の統制は、愈々失われて行った。
この軍の態度は、北支工作の進行とともに、共産党の絶好の宣伝材料となり、せっかく好転し来たった空気を混濁せしめ、満洲問題を外交的に収拾せんとする試みは、事毎に破壊された。当時、中国共産党の勢力は、蒋介石の討伐に遭って、後退を余儀なくされていたが、日本軍部の支那本土における工作に関連し、国際共産勢力か反日風潮を利用した攪乱策動は、最も有効に且つ隠密に行われておった。
ソ連の参加後、共産分子の多くなった国際連盟は、衛生部長ライシマン(ポーランド・ユダヤ人、共産党員)を、当時日本攻撃の有力な材料であった阿片問題調査を名として、支那に派遣した。彼は、遂に支那政府の顧問となり、最も効果的に、支那政府の内部より共産党のために働いていた。ソルゲ諜報団もまた久しく支那、日本にわたって活動していた。
コミンテルンは、世界的組織をもって日支の紛争を国際的に拡大すべく、全力を挙げていたのであった。欧米諸国におけるソ連第五列の政治上の力が、十二分に利用されたことは云うを俟たぬ。かくして、米国の対日態度は、スティムソン主義の下に、益々硬化して、理想的門戸開放政策の実行を強硬に日本に迫って、些細なことにまで、抗議と反対とを繰り返し、日本軍部を刺戟し、ついに日本当局の実現せんとした、満洲事変解決の方策を結実し能わざらしめた。
若し、米英が日本の平和主義者の考案を是認し、日本が東亜における安定勢力たることを承認し、政治的活眼を以て支那を中心とする東亜の政局を、一応安定せしめる方針に出でていたならば、世界の情勢は、おそらく今日の如く危険なものとはならなかったであろう。」
こうして蒋介石は、日本の政治が「二重政府」状態に陥り、対支政策が軍部に主導される現実を見て、また、国内における抗日世論の激発に押される形で、安内攘外の「剿共」路線から、抗日全面戦争へと舵を切ることになったのです。こうした日本の「二重政府」状態は、二・二六事件以降も、確かに健介さんが言われるように、政府も議会も残ったのですが、日中戦争が始まってからは戦時体制に突入したこともあって、日本の政治はただ軍の決定を「翼賛」するだけのものになったのです。
こうした状態に陥ったそのはじまりが、統帥権をテコにした「二重政府」の創出であったわけで、そして、そうした状態を、当時の政治家が党利党略で招いたのですから、昭和の悲劇の原因を、全て軍人に負わせるわけには行きません。といっても、その元凶ともいうべき政治家は、実は犬養毅でも鳩山一郎でもなく、特に前者は、森恪の要請で統帥権問題で政府批判演説は行ったものの、実際は、極力、森恪の暴走を抑制しようとしていたのです。そのため犬養は五・一五事件で暗殺されてしまいました。
蒋介石は、中国が列強の圧力に耐えて生き残り、近代化を果たすためには、国家統一によって軍と予算を政府の下に一元化することがどれだけ重要であるか、このことを学ぶためには、日本の明治維新を御手本とするとよい、といい、次のように部下将兵たちを諭しています。
「開会にあたって私は、日本の維新史の中から、長州、薩摩、土佐、肥前の四雄藩が当時自ら処した道、彼らの軍制改革の経過と彼らの改革精神を詳しく述べて、われわれ軍事同志の参考としたい。
日本はわが中国にたいし侵略政策を実行している。われわれは日本のことを話すたびに憤慨にたえない。特に済南惨案(済南事変)発生後は国をあげて日本を仇敵としている。しかし、いたずらに憤慨するだけでは、何にもならない。
われわれは日本がなぜ中国を侵略することができるかを知らねばならない。・・・その理由は、日本が維新の初めに健全で穏固な統一政府を組織し、現代的な国家の完成に努力したからである。
現代的な国家を作るには、どのような条件が必要であろうか?それは一に『統一』であり、二に『集中』である。徳川幕府の末期、長州、薩摩、土佐、肥前の諸藩の中堅は連合軍を組織して、悪戦苦闘の末、ついに幕府を倒した。これはわれわれ各集団軍が一致協力して極悪な北洋派を打倒したことに、すこぶるよく似ている。
討幕成功の後、日本の歴史の先例では、薩長の二藩が徳川氏に代って興隆すべきところだったが、長州、薩摩らは決然として大政を朝廷に捧げた。
全国の統一が成っても、日本の朝廷には一人の兵もなかった。各藩の兵はみな藩主と君臣の関係で結ばれていた。このとき維新の諸傑は困難を恐れず、藩兵をすべて国軍に改編した。彼等は各藩の兵力を制限し、天皇の護衛に親兵(近衛兵)を置いた。さらに彼等は藩ごとの境界をとり除いて、混合、改編し、鎮台を分設、集中訓練を施した。こうして国軍の基礎は確立し、全国の統一は成った。
日本の軍人は六十年前に封建制度を打破したが、中国の軍人は逆に封建思想に固執して、私兵をふやし、地盤を拡張しようとしている。一省を獲得するとさらに数省に割拠しようとし、数省を手に入れると、武力で国内を統一し、中央を掌握しようとした。
これは北洋軍閥の老祖袁世凱を先例とし、段祺瑞、呉佩孚が衣鉢を受けてやって来たことである。彼等の大事な仕事は、政変のたびに地盤の分配に心を労することであった。中華民国を私有財産として分割したのである。
日本の薩摩、長州その他は、討幕の功に居据わることなく、祖先伝来の土地を朝廷に奉還した。われわれは日本を見習わねばならない」
あーあ!この明治維新が「私」を棄てて成し遂げた国家統一を、昭和の政治家と軍人たちは壊してしまった。このことの責任を、東條英機も、極東軍事裁判における統帥権乱用の訴因に反論して、それは自分たちの責任ではなく、大日本帝国憲法の統帥権の規定によって、政府の権限が国務と統帥に分立していたためだといい、次のようにその責任を転嫁しています。
「第三の点、即ち統帥部の独立について陳述いたします。旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通念として居りました。このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。
従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持だなかったのであります。唯、単に連絡会議、御前会議等の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵には触れることは許されなかったのであります。その結果一度、作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む柳なき状態を呈したことも少しと致しません。
然るに近代戦争に於ては此の制度の制定当時とは異なり国家は総力戦体制をもって運営せらるるを要するに至りたる関係上斯る統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に指向する軍を抑制する機関を欠き、殊に之に対し政治的抑制を加え之を自由に駆使する機関とてはなしという関係に置かれました。これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。
又私が一九四四年(昭和十九年)二月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも此の苦悩より脱するための一方法として考えたものであって、唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。
斯の如き関係より軍部殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であって戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりという如き皮相的観察とは大に異なって居ります。」
なんですか?日本を「二重政府」状態に陥れたのは、自分たちの責任ではなくて、明治憲法のせいだと言うのですか。ウソおっしゃい!確かに、当時の国際政治環境や経済状況が困難を究めていたこと、それは判ります。そうした中で権力奪取を図ったのが軍だった。そして、そのために統帥権を利用し、まんまとそれに成功し政治権力を握った。なら、その権力奪取以降は、統帥権の解釈をもとに戻せばいいじゃないですか。身内のことだし権力も武力もあなたたちが持っていたのですから・・・。
本当は、あなたたちはあなたたちなりの思想を持っていて、それで政権奪取を図った。そして、その思想に基づいて大陸政策を強権的に押し進めた。しかし、それは誤っていた、そういうことではないのですか。つまり、統帥権が禍したのではなくて、あなたたちの思想及び政策が誤っていたのではないですか。私は、あなたたちが抱懐したその思想こそ問題としたい。従って、あなたたちが統帥権の問題を言うなら、それは、それを悪用して政権奪取したその「屁理屈」によって自縄自縛に陥った、ということではないですか。
軍が統帥権という「魔法の杖」を手に入れ、満州事変を起こし、それが最高の栄誉をもって国に遇されるようになって以降の軍の行動は、山本七平の言葉を借りれば、あたかも「日本軍人国」が「日本一般人国」を占領したかのような「二重政府」状態となりました。そこにおける最大の問題は、彼らが、「世論に惑はす、政治に拘らす、只々一途に己か本分の忠節を守り・・・」という明治以来の日本軍の訓戒を踏みにじって、ある「思想」に基づき、日本の政治を引きまわしたことにあったのです。
言うまでもなく、石原莞爾の思想もその一つであったわけですが、彼のは所詮借り物ですからね。その基底にあったオリジナルの思想を、しっかり把握する必要があります。
石原莞爾及び日本人一般の「一人よがり」の王道思想が日中戦争を招いた

 

「蒋介石が、その高級官僚をすべて集め「全面抗戦」を決定したのは、(昭和十二年)八月七日のことである。ここで、蒋介石は、彼の生涯における、最大にして後に最も議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。それは、華北で起こった中日の戦いの主戦場を、華北から華中、つまり上海に移すことを決心したのである。」
ここに至るまでの蒋介石の、日本との国交調整の歩みについては、エントリー「日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか」に見た通りです。昭和10年初めには、蒋介石は、日本側に日中親善「三原則」を示し、同年9月には、満州国の独立について「これを不問とする」ところまで妥協しました。これに対して日本政府は「広田三原則」で答えようとしましたが、陸軍はこれを中国の「三原則」を無視するものに変えてしまいました。
それだけでなく、関東軍は、こうした日中親善を目指す政府の外交交渉を妨害するため、1935年半ば頃から、武力による威嚇を背景に、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を中国に押しつけ、華北分離工作を開始しました。こうした日本軍の行動に対して、中国では抗日世論が激高し、そのため蒋介石は、1935年の末頃には、国内優先の政策(掃共、地方軍閥整理、自身の指導力強化、経済建設)から、「対日戦争準備」に転換せざるを得なくなりました。
こうした蒋介石の政策転換に、日本側は何時気づいたか。大方は、第二次上海事件が勃発して以降だと思いますが、石原莞爾も、昭和11年8月の「戦争計画」では、「(中国の)政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐・・・用兵の範囲は北支、山東、要すれば中支、やむを得ざれば南支」などという楽観的な認識を示していました。ところが、綏遠事件の失敗や西安事件を機に、石原は急角度にそうした認識を改め、昭和12年1月には「侵略的独占的態度」を是正し「北支分治工作は行わざること」と従来の政策を急転回させました。
その直後に成立した林銑十郎内閣の外相に就任したのが、前回のエントリー「日中戦争、これに直面するもしないも「日本の考え方如何によって決まる」・・・」で紹介した佐藤尚武でした。彼は、対支再認識論を説いて、冀東政府の解消を初めとする北支工作の停止を骨子とする「北支指導方策」(37年4月)をまとめ、中国政策の転換を図りました。それを実質的に支えたのが石原莞爾だったわけですが、こうした政策転換に正面から抵抗したのが関東軍参謀長だった板垣征四郎でした。
結局、石原は、関東軍を初めとする軍内の対支強硬派を説得出来ないまま、日中全面戦争突入した後の1937年9月に、参謀本部第一部長の職を辞すことになりました。ではなぜ、石原は、自分の古巣である関東軍のかっての同僚や部下たちを説得出来なかったか。これについては、私は前前回のエントリーの末尾で、「石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかった」ためではないか、ということを申しました。
どういう事かというと、実は、関東軍の将校たちは、石原の唱えた日米「最終戦争」論の観念的継承者であったということです。つまり、彼等にとって日中親善とは、あくまでも、当面は対ソ、最終的には対米戦争に備える資源確保のためであって、もし中国がそれに応じないなら、華北分治もやむを得ないと考えていたのです。彼等は蒋介石がそうした日本の要求にすんなり応じるとは思えられなかった。従って、彼等には、対支再認識論を唱え華北分治工作の転換を迫る石原のやり方が”手ぬるい”ものに見えたのです。
実際、石原は、「満州事変前すでに最終戦の観点から、満蒙の資源だけでは十分でない」と考えていて、満州事変後は「山西の石炭、河北の鉄、華南、山東以南の綿」が必要と考えるようになりました(「満蒙問題に関する私見」)。また、昭和10年8月に参謀本部作戦課長となって策定した「重要産業五ヵ年計画」を達成するためには、華北の「神話的資源」は不可欠と考えていました。そのため、昭和10年半ば頃から関東軍が始めた華北分離工作を容認してきたのです。
その後、石原は、昭和11年半ば頃になって、ようやくその危険性に気づくようになり、一転して「華北資源不要論」を唱えるようになりました。そこで、満洲資源の再調査して必要な報告を提出させ、部内の思想統一をはかったのですが、上記のような理由で、彼等を説得することはできなかった。といっても、華北分治を進める彼等が中国との戦争を望んでいたわけではなく、まさか、中国が日本に対して全面戦争を挑んでくるとは思っておらず、反抗するなら膺懲=懲らしめる、程度にしか考えていなかったのです。
こうした「迂闊な」考え方をどうして日本軍がしていたのか。それは、次の松井石根の「日中戦争論」を聞けば、その特異な性格が分かると思います。言うまでもなく、松井石根は、第二次上海事変勃発に際して上海派遣軍司令官に任命された人物であり、任命当初から、南京を落とすことをその戦略目標としていました。
「そもそも日支両国の闘争は、いわゆる『亜細亜の一家』における兄弟喧嘩であり、日本が当時武力によって、支那における日本人の救援、危機に陥った権益を擁護するのは、真にやむを得ない防衛的方便であることは言うまでもなく、宛も一家の内で、兄が忍びに忍び抜いてもなおかつ乱暴を止めない弟を打擲するに等しく、決してこれを憎むためではなく、可愛さ余っての反省を促す手段であることは、自分の年来の信念であった。」
つまり、日本と中国の関係を、「亜細亜の一家」における兄と弟の関係と見なしていたのです。そして、その「亜細亜の一家」の中で、アジア復興という使命にいち早く目覚めた長男が日本で、そうした使命をなかなか自覚できず、兄である日本に対して反抗し乱暴し続ける弟が中国である。そこで、日本は、中国にアジア復興のために奮闘しているの日本の使命を正しく認識させるために、心ならずも弟である中国に「愛の鞭」を振るったのだ、というわけです。
こうした「一人よがり」な日本の態度を見て中国は、昭和10年1月に中国側「三原則」を日本側に示しました。その言わんとするところは、次のような事だったと思います。
「中国は独立国家であり、日本とどのような関係を結ぶかは、中国自らが主体的に考えるべきことである。日本が、そのような中国の独立国家としての主権を尊重し、日中間の問題をあくまで外交交渉によって解決すると約束してくれるなら、中国としても、日本が直面している資源問題や人口問題さらには経済問題などの解決に、できるだけの協力をするつもりである・・・」
要するに蒋介石は、日本に対して、まず「中国を独立国家として認めること」を要求していたのです。しかし、当時の日本人は、松井石根の「亜細亜の一家」論に見るように、東洋「王道文明」VS西洋「覇権文明」という対立図式を自明のものとし、そうした図式の中で中国を位置づけていたために、上記のような中国の要求が、兄である日本が立てた「アジア復興」プログラムに従わない、「自分勝手な」行動に見えたのです。
ところで、ここに言う「王道文明」VS「覇道文明」における「王道」とか「覇道」とはどういうことか。ブリタニカ国際百科事典によれば、王道とは、孔子や孟子の唱えた「徳を政治原理とする政治」のあり方で、仁政によって人民の経済的安定を図るとともに、人民を徳化することで社会秩序を維持しようとする考え方。一方、覇道とは、春秋時代の覇者の行った武力による権力政治のことで、利や武力を用いて社会秩序を維持しようとする考え方、だそうです。
こうした「王道」、「覇道」という考え方は、言うまでもなく中国の儒教思想に基づく考え方ですが、では、松井石根の「亜細亜一家」という考え方は、こうした儒教の考え方とどのように関わっているのでしょうか。実は、この、国家を家とを同定する考え方は、儒教思想の日本的変容と言うべきもので、つまり、家族倫理としての「孝」と政治倫理としての「忠」を一体化し、「忠孝一致」とすることによって、国家を家族の延長と見る考え方なのです。
言うまでもなく、こうした「忠孝一致」の国家観は、日本の幕末期に、後期水戸学が生み出したもので、尊皇思想に基づく「一君万民」思想が生み出したものなのです。それは、一君である天皇を一家の家長(=大和民族の宗族の長)に見立て、その臣民を赤子として、両者の関係を「忠孝一致」の親子関係と見なす「家族的国家観」なのです。当時の日本人は、こうした国家観を「王道文明」に基づくものと考え、それを中国にも当てはめ、中国に「亜細亜の一家」となることを求めたのです。
そうした日本人の「一人よがり」の思想に基づく「善意」が、どれだけ満洲人や中国人、あるいはフィリピン人を傷つけたか、『炎熱商人』の著者深田祐介氏は、佐高信氏との対談で、次のような指摘を行っています。
日本人は「アジアは一つ」と言った。しかしそれは日本人の独善的な思い込みに過ぎなかったのではないか。
「フィリピンはカトリックだし、ビルマ(ミャンマー)は仏教(それも日本の仏教とは相当に異なっている=筆者)、インドネシアはイスラム教ですからね。宗教一つをとってもアジアは一つではない。あのスローガンはどれだか誤解をもたらしたか・・・」
「内面指導は日本人を解く大きな鍵ですね。とにかく日本人は内面指導が好きなんですよね。満州国に行って、先ず日本人による行政機構を作る。この機構の次官クラスが満洲人を手取り足取りああせいこうせい『内面指導』する。」
「主観的な善意を平然として押しつける。その思い込みの善意が相手のプライドをいかに傷つけるか、と言うことが日本人には分からない。他民族のプライドを考えられなかった、というのが戦前、戦時中の日本人の致命的欠点だったんじゃないか。満州国建国のニュース映画を見ても、建国の式典でまず最初にやるのは『大日本帝国万歳』とか『天皇陛下万歳』で、最後に『満州国万歳』をやっている。仮にも独立国の式典でしょう。常識で言ったらあり得べからざる話ですね。・・・吉岡中将が溥儀を説得して、『満州国の建国神は天照大神』にしてしまうんですね。信仰の問題に就いても内面指導をしているのだから驚きますね。」
では、こうした日本人の内面指導の弊から石原莞爾は免れていたでしょうか。満州において五族協和を説き、進んで、東亜連盟という王道思想に基づく連合国家構想を説いた石原の理想主義は、はたして、満洲に住む各民族の精神的自由を保障するものだったか。また、石原のいう東亜連盟は、世界最終戦を経て八紘一宇という天皇を中心とする世界家族国家を想定していましたが、果たしてそれは、この連盟を構成する各国家の主権を保障するものであったか。
このように見てくると、石原の思想には二つの重大な欠陥があったと見ることができます。一つは、彼の「東洋王道文明」VS「西洋覇道文明」という対立図式は、実は日本独自の「家族国家」思想から生み出されたものであり、いわば日本の被害者意識が生み出した幻想に過ぎなかったということ。そして、そうした図式の中で中国や英米との関係を位置づけようとしたことが、結果的に、中国の独立国家としての主権を犯すことになり、さらに、英米の自由主義国家を敵に回すことになった、ということです。
もう一つは、石原の民族共和の思想は、決して普遍思想となり得るものではなく、実は、儒教思想の日本的変容である尊皇思想に基づく「忠孝一致」思想だった、と言うことです。石原は、その思想を田中智学を通して八紘一宇の世界家族思想として普遍化しました。しかし、それに基づく国家観が幻想であった如くに、「忠孝一致」という個人倫理も、それはあくまで、日本の思想の歴史的発展の中から生まれた日本の固有思想であって、アジアの国々の人びとに一般的に適用できるものではなかったのです。
こうした石原の唱道した思想が、戦前の(昭和における)日本人を金縛りにしたことが、当時の国際関係の中で、日本が、現実的・合理的・理性的な対応ができなくなった第一の原因ではないかと思います。では、そうした思想的伝統を持ちながら、どうして日本は明治維新以降の近代化に成功し、大正デモクラシーの時代まで到達し得たか。それは、「忠孝一致」の尊皇思想の、さらにその基層には、武家文化が育てた「器量第一」=実力主義的の伝統文化があったからではないかと思います。それが、近代化の求める諸課題への機能的な対応を可能にした・・・。
また、それが昭和の「一人よがり」の世界観や、はなはだしい人命軽視に陥らなかったのは、西欧文化に学ぼうとする姿勢が、自ずと人びとを謙虚にしたということ。また、人びとが、江戸時代の身分制から解放されて、「独立自尊」という自己責任の世界で生きるようになったとき、自ずと、理想と現実の緊張に耐えて生きることを学ばざるを得なかったということ。さらに言えば、その理想と現実の緊張に耐える武士的な個人規範が、まだその時代には生きていた、ということではないかと思います。
それらが昭和に入ると失われた。まず、西洋文化に学ぶ姿勢より、それに対する被害者意識の方が強くなり、むしろ、日本文化、東洋文化の方が優れていると自惚れるようになったこと。「独立自尊」の精神が、次第に社会組織が安定し固定化するにつれて、組織に依存する体質が優位を占めるようになり、個人倫理としての規範力が弱まったこと。さらに決定的な問題は、大正自由主義の時代に続く社会的・経済的混乱を経て、自由主義的観念が次第に忌避されるようになったと言うことです。
こうして、日本は、英米など自由主義国家に対する病的なまでの警戒心を抱くようになりました。そこで、日本が、こうした自由主義国家群が覇権を握る国際社会の中で生き残っていくためには、満洲は日本の「生命線」であり、「持たざる国」である日本はそれを領有する権利がある、と考えるようになった。こうして満州事変が起こり、さらに華北分離工作が行われ、ついに、蒋介石をして抗日全面戦争を決意させるに至ったのです。この間の日本人の思想的変遷の軌跡をたどる上で最も参考になるのが、石原莞爾の思想というわけです。
この石原莞爾の思想の中に、日本人がなぜ、思いもしなかった日中戦争を8年間も戦い、さらには、「鵯越」「桶狭間」「川中島」を合わせたような、一か八かの対米英戦争に突入することになったか、その不思議の原因が隠されているように思います。 
日中戦争 「日本の考え方如何によって決まる」と言った佐藤尚武外相

 

前回、せっかく蒋介石が、結果的に、満州事変を惹起せしめた満州における「国権回復政策」の行き過ぎを反省し、日中親善の友好関係を図ろうとして、中国側三原則を示したのに、陸軍が、中国の対日態度転換は欺瞞だとして、外務省の対華親善政策を批判し、華北自治運動を押し進めたことを紹介しました。その最も露骨な現れが、日本の傀儡政権である冀東防共自治委員会(後冀東防共自治政府と改称)の設立でした。
廬溝橋事件が発生した二十日後の昭和12年7月27日、通州事件(邦人朝鮮人260名が殺害された)が発生し、日本国内で中国人の暴虐事件として報道され、これが南京事件の一因になったとも言われます。実は、この通州は上記の冀東防共自治政府の所在地で、そこに自治政府の保安隊が置かれていました。この事件は、この保安隊を日本軍が誤爆したために発生したとされますが、問題は、この時期、この保安隊にも一触触発の反日感情が渦巻いていたと言うことです。
この冀東防共自治政府の存在こそが、日支間の国交調整を不可能にしている最大原因で、これを解消することが、両国の関係改善を進める上での第一歩と主張したのが、廬溝橋事件が発生する四ヶ月前まで林銑十郎内閣の外務大臣の任にあった佐藤尚武でした。彼は、今回のエントリ「日中戦争、これに直面するもしないも『日本の考え方如何によって決まる』」といい、日中戦争の本質を的確に見抜いた人物でしたので、次ぎに、彼の言葉を紹介したいと思います。
危機は日本しだい
昭和十二年の三月十二日、衆議院本会議での、外交方針にかんする緊急質問として、立憲民主党の鶴見祐輔、政友会の芦田均両君の、外務大臣たる私にたいしての質問に答えた演説・・・その最後の一節。
「最後に、外交の国策の根本方針について、政府の所見をご質問になりました。なるほど、わが国は現時の状態においては、八方ふさがりのように見えるかもしれませぬ。また、芦田君のいわれるところでは、現時においては平和か戦争かという岐路に立っておって、国民は迷っておるというご説明でございました。日本内地で当時よく唱えられたことばでありますが、三十五、六年の危機ということが常に人の口に上ったのであります。
*「三十五、六年の危機」とは、海軍が、ロンドン海軍軍縮条約の期限切れ後の1935、6年頃に「米国が皇国に対し絶対優勢の海軍を保持せんとするは、皇国海軍を撃滅し得べき可能性ある実力を備へ、之によつて米国の対支政策を支援し強行せんが為めである」として危機を訴えたもの
三十五、六年を経て、しかして現今からこれを顧みて見まするに、はたしてどうであったか。危機ということばは何を言い表わすか、もしその危機なることばが戦争を意味しておったということであれば、私は当時三十五、六年にいたっても戦争はない、したがってその意味の危機ならばありえないというふうに考えて、また当時日本に帰っておりまして、各方面でその話をいたしました。
もしその危機なることばが、国際関係の逼迫であるという意味に解すべきものならば、それは三十五、六年をも待たず、満州事件以来、常に日本は危機にひんしておるのである。しかしそれは日本ばかしの特殊の問題ではない。ヨーロッパにおいては毎日危機であります。国と国との境を接し、飛行機のごときはて二時間を争うという、そういう地理的状況において、国際間の関係に融和を欠き、互いに軍備を整えておるという今日においては、その危機は毎日毎時刻に存在しておるのでありまして、何も日本に限ってそれを気に病んで、焦燥な気分になるという必要は一つもないということを、私は申し上げました。(拍手)
その後三十五、六年を経て、いま現在三十七年になってこれを考えて見まするのに、私は国際間の危機というものをそういう意味に解するならば、しかしてまた、戦争というものが目の前にぶら下がっておるというような意味に解するならば、私の申しましたことが、理屈があったというふうに感じるのであります。私は日本国のような国がらは、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくすということが最も必要なことと思います。(拍手)
もちろんそのためには、国策というものを立てまして、これを明らかにし、国民の帰趨を示す、国民のおもむくところを示すということが必要であるのも、全くご名論と思いまする。私は国民に、こういうことを了解してもらいたいと思うのであります。ほんとうの意味の危機、つまり戦争の勃発という意味の危機、日本がこれに直面するのもしないのも、私は日本自体の考えいかんによって決まるのであるというふうに考えるのであります。(柏手)
もし自分が、その意味の危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで。その危機はいつでも避けられると確信いたします。(拍手)
諸君、私は弁舌にはなはだ拙でございまして、明らかに自分の意向を表明することができぬかもしれませぬけれども、私は今日の日本、それは七十年の歴史、努力をもって、ここまで築き上げたこの日本が、なんの必要あって、堂々たる態度をとって、堂々たる道を歩きえないのか、それを私は不審に感ずるのであります。(拍手)
今日まで進みました日本は、私の考えでは、きわめて公明なる方策を立てまして、権謀術数などということは、頭の中から全く去ってしまって、しかして国際間に処しまして、だんだんたる道を大手を振って歩けば、私はよろしいと思うのであります。
かくすれば、国民もその外交政策なるものにたいして、じゅうぶんなる了解を持ちえましょうし、また国際間に処しましても、だれしもわれわれの国策、外交政策というものにたいして、危惧の念をいだくべきはずがないのでありまして、この大なる国策を背に背負いまして、世論の力をもって、しかして自分たちの前に開拓しましたる明らかなる大道を、自分たちの目的に向かって澗歩していきたいと思うのであります。(拍手)
これはきわめて陳腐なことを申し上げますので、何も新奇をてらったわけでもなんでもないのであります。私は外交なるものに新奇をてらうことは、大きな間違いだと思います(拍手)。きわめて普通の考えから、きわめて単純なる道を、自分の持っている常識によって判断して、その道をただ進んで行けばよろしい、というように考えるのでありまして、かくしてこそ初めて、国民もいっしょになることができましょうし、いわゆるわれわれの欲する挙国一致の外交政策というものが、立ちうるのであると思います。
私は議会はもちろんのこと、政府、軍部、実業方面、新聞、その他、皆このきわめて了解しやすい国策に向かって、一致の態度をとって、しかしてこのまとまった国論に導かれて、しかしてわれわれに与えられるこのまっすぐな道を進んで行きたいのであります。これが私のとらんとする方策でございます。(拍手)」
その後の、佐藤尚武外相の外交方針についての説明は次のようなものでした。
「かくしている間にも、私は支那との平和づくの談判を行なわんとして着々準備を進めていった。これは以下詳述しておきたいと思うのであるが、この準備工作の間、議会の無責任な連中の相手となって、そして正面から衝突するということは、私としてはぜひ避けなければならぬことであると考えた。実を言えば、議場の演壇の上から私の心底を吐露して国内の健全な世論に訴え、そして公の場所でこの連中のロを封じてしまいたかったのは、やまやまである。しかし私は、自ら求めて争いを大きくするということは、いまの場合、私の大切な仕事を事前にこわすことになるので、虫を殺して衝突を避ける決心をした。私の始めた仕事は、大約次のとおりである。
当時、日支の間の紛争は日ソ間の関係以上に悪化し、かっ急迫していた。それは、その前年あたりから殷如耕を首班とする翼東政権なるものが建設され、そして南京政府とは独立に、翼東地区の行政に当たるという形をとってから、一層両国間の関係が激化したのである。南京政府はこれにたいして翼察政務委員会なるものを作り、宗哲元をして主宰せしめ、殷如耕の翼東政権の向こうを張り、わが北支駐留軍にたいする障壁としたのである。私はもちろん、支那国内に翼東政権のごときものを作ったことには、大なる反対を持っていた。しかしてこれがある間は、目支間国交の円滑化はとうてい不可能であると断じていた。
すなわち、国交の調節を図らんとするならば、かくのごときやり方は、根本から変えなければならぬことになる。しかし、すぐさま翼東政権解消というのでは国内的に非常な困難に遭遇するのは当然であって、これを無理押しに乗り切ることは、すこぶる危険である。よって私は、日支聞に国交調整の一般的会談を始めて、そして紛争の比較的容易な問題から片づけてゆくという方針をとった。一問題を解決すれば、次の問題に移る。かくして度を重ねてゆくうちに、自然と良好なふんいきができてきて、国民も平和的解決に望みを嘱することになり、漸次、むずかしい問題にも及びうるわけである。もちろんこれがためには、両国互譲の建て前でゆかねばならぬことは明らかであるが、かく平和的解決の筋道がつけば、両国とも譲歩がしやすくなるわけである。しかして最後は、どの道、翼東政権解消にまでこぎつけねばならぬと決心したのである。
しかしながら、これを実行するには、まず国内において、軍部と一心同体にならなければならぬ。すなわち軍部を説き、彼らをして全部われわれの考えを容れしめ、協心協力、事にあたるように仕組まなけばならぬ。これなくしては、とうてい平和交渉はできるわけのものでない。また幸い。国内的に話がまとまりえたとしても、出先の軍部をして中央の方針を体して、同一の態度をとらせなければならぬ。しからざれば出先は個々別々の態度をとり、これまた話をぶちこわす方に導くばかりである。そこで私は、軍部大臣と密接な連絡をとる一方、当時の『外務省アジア局長森島守人君(現社会党代議士)に嘱して陸軍省の軍務局と極秘のうちに交渉を行なわしめたのである。
当時の軍務局長は後宮少将(後に大将)軍務課長は柴山大佐(後に中将で陸軍次官になった人)などであった。この両責任当局は、われわれとほとんどその所見を一にしていた人たちであったため、陸軍、外務両省の意見は漸次接近することを得、大綱において、合意ができたのは幸いなことであった。参謀本部もこれに異議を唱えず、米内海軍大臣も、もちろん賛成であった。このうちわの交渉には、まる二ヵ月の短かからぬ時間を要したのであるが、私はそれでも満足せず、いぜん出先を説きつける必要を痛感しておったので、陸、海、外の三省から同時に、かつ別個に特使を出して、出先軍部にたいして中央の意向の徹底を図らしめたのである。
陸、海両省もこの案に賛意を表して、陸軍からは柴山軍務課長、外務省からは森島守人局長、海軍からも相当の人を出してくれて、この三人はまず上海に渡り、ついで天津に出、それぞれ出先軍部にたいして中央の方針に励力を求めたのであるが、上海、天津ともよくその意を諒として、中央がその方針なれば、われわれも当然、協力を惜しまないものであるとして賛同してくれた。三人の特使はそれから新京に到着した。ここでも同じ話をしたのである。しかし新京の空気は全く別個のものであって、中央の意見にたいして反抗の意識が明らかであった。
そしてそのような手ぬるい方針をとったところで、あたかも。”仏を作って魂を入れぬ”と選ぶところがないという意見であった。それもそのはずで、冀東政権を熱心に支持していたものの一人は関東軍であったのである。
かくして、三人の人たちが新京ですったもんだやって、三日間を過ごしたときに、林内閣はにわかに、総辞職をすることになってしまった。それは五月の三十一日のことであった。朝、閣議に臨時招集を受けた各閣僚は、一人一人首相の事務室によばれ、そして首相から総辞職の意図を聞いたのである。突然の決意に一同、非常に意外に思ったのであるが、だれも異議を唱える者はなかった。その前の晩までは、最後まで戦う、という申し合わせをしたくらいであった。・・・かくして林内閣の存在、わずか四ヵ月、私が外相に就任してから満三ヵ月にして、六月三日、桂冠したのである。その結果、私の企てたこともすべて、半途にして挫折してしまった。」
では、佐藤は冀東政権解消の後何をしようとしていたのか。
日支関係の打開
「人はよく、私の政策にたいして反対する言いぐさとして、そのような手ぬるいことをやったのでは、支那はどこまでもつけあがってくる、といって非難した。私からいわしても、この心配は一理ある。従来の日支関係のいきさつから見て、そういう懸念をいだくのは、当然といってもいい。しかし、問題の焦点は、そりいう点ではないはずであり、世界の世論に照らして、日本の言いぶんが正しいかどうかということである。
もちろん平和づくの交渉であれば、両国互譲の精神をもって談判するほかなく、支那も譲れば日本も譲る、互いに相手の要求をよく理解して、その間に妥協点を発見するのが交渉の道である。そして、日本はさきにも述べたとおり、ついには翼東政権解消というところまでゆかなければならなかったのである。そのさい、支那がはたして図にのってきて、失地回復すなわち満州の返還をさえ要求するようになったとしたならばいかん。
この佐藤がいかに軟弱外交の標本であったにしろ、日本としての譲歩にはもちろん一定の限度がある。この限度に達しない前に、話し合いが成ればそれでよし、日本は最小限の利益を確保して、支那との間に平和を築くことができるわけである。もしこの最後の一線をさえも、越えざるをえないはめになったとしたならば、そのときは談判破裂であらねばならぬ。何人にも最後の一線は越えられないはずである。
しかしてその一線は、私からいわせれば満州問題である。すなわち支那の失地回復問題である。満州国の独立は日本の名誉にかけて断行したところであって、これはもはや、日本の存続する限り撤回のできない問題である。これを譲るがごときはとうてい考えられない。
満州問題が突発してからすでに六年、日本はそのために、連盟から脱退さえも敢えてして、自己の主張を堅持してきたのであるが、はや欧米各国とも、日本の決意牢固たるを見て、漸次、反対の態度を断念する方向に進んできている。アメリカのごときも、公にこそいわぬが、内々もはや満州問題はやむをえないとして、われわれに打ち明け話をしていたむきもある。してみれば、国際的にも日本の地位は決して絶望的のものではなかったはずである。日本は国際世論の前に立って、このたびこそは堂々と、態度を鮮明にすることができる。
すなわち、緊張した日支間の関係を平和づくの談判によって解決せんとするのが日本の態度である。そのためには、これも譲り、あれも譲っている。ただ日本の譲りえない最後の一事、すなわち満州問題をさえ、支那は言い出してきている。これだけは日本の生死をとしても、譲歩のできないところであることは世界各国といえども、承認せざるをえないはずである。
しかも、支那がこれを強要するゆえんのものはすなわち、支那に日本との平和維持の誠意のない証拠でなければならぬ。かくなるうえは日本と支那のいずれに正があり、邪があるか、世界の世論自らこれを判断すべきである。日本は堂々と天下に向かって自己の主張を突っ張りうる。かくして支那の強要のため、交渉は破裂して不幸戦争勃発するにいたった場合といえども、国際世論は明確な日本の態度を是認せざるをえないであろう。また日本国民自身も、なにゆえに支那との戦争か避けられなかったかということについて、じゅうぶんの理解を持つたであろう。
もちろん、談判破裂と同時に外務大臣は当然、ことの成り行きを詳細、国の内外に発表しなければならぬ。この発表を見て、日本国民は憤然として決起したであろう。また、幸いにして、ことが窮迫せず、最後の問題に触るることなくして支那との間に交渉がまとまったとしたならば、それはすなわち戦争を避けるということであって、東亜の平和のために、大いに賀すべきことであらねばならぬ。
もちろん一部の世論は、これにたいして大なる不満をいだくであろう。支那にたいしては、絶対に譲歩すべからずとする連中が多多ある。これらは、和平成るを見て一騒動起こすことになるかもしれない。しかし、それは国内の一波乱で済むのであって、両国間の和平はできた方がよかったということになるのはもちろんである。
日ソ関係の打開
支那との問題は実際、私の目にも急迫して見えたのであるが、ソ連との関係は当時、まだそれほどではなかった。もちろん、昭和十一年の防共協定以来、両国関係が非常に悪化したのは事実であるが、まだ戦争の危険は私には感じられなかった。ただ両国の感情がいかにも疎隔してきたので、なんとかこれをまとめる必要があった。また、私自身もそれを願っていたのである。ここにも、世論の一部を排して断行する決意を要したのは当然である。
当時私は、貴族院の本会議で大河内輝耕子爵の質問に答えて、ソ連関係について述べた中に「ソビエトが共産主義の国であるということにたいしては、それはソビエトの国内問題であって。われわれはなんら口出しの権利もなければまた、その必要もない。しかし、ソビエト国内に世界革命を旗印とする国際共産主義(コミンテルン)の本拠がありとすれば、他の国々が不安を感じ、疑惑をいだくことになるのも、当然であり、国交に影響するところも大である。もしソ連が口でいうがごとく、ソ連が国際共産主義の組織とは直接関係がないというのであれば、この組織をソ連領内においておく必要はないはずである。ソ連自らこの組織を国外に追放するということにでもなれば、外国との関係は明朗化するであろうし、日本との関係においても大いに、やりよくなると思われる」という意味のことを述べた。
私の言ったことの裏を返せば、コミンテルンとソビエトはまさに唇歯輔車の関係にありというべく、前者の組織をソ連以外に移すなど、とうてい考えられないことであり、それが不可能とすれば、したがってソ連との国交調整も容易なことではないといわざるをえないということになるわけである。しかるにその後六年(一九四三年)戦時中に、コミソテルソは自発的に突然解消することになり、私の不可能視していたことが表面上は、実現することになった。このあたりの事情や経過については、後日一言の機会をうるであろう。
日英関係悪化の打開に努力
ここで、対英政策のことについても一言しておかなければならない。前にも述べたとおりオタワの帝国会議以来、日本とイギリスとは経済問題で犬猿ただならない間がらになってしまった。日本は綿布でも雑貨でも、安くこしらえてどしどし海外へ売り出そうというのであり、また品質も安い割り合いにはだんだん良くなってきたので、日本品の進出は非常な勢いで発展しつつあったのである。これにいちばん脅かされたものは、なんといっても海外貿易で立っていくイギリスであったのは当然なことで、国際市場獲得の争いから日本とイギリスとはどうしても、かたき同士にならざるをえなかった。イギリスは、自分のいままで持っていた市場を蚕食されるのを、極度に忌みきらったのである。
この経済上の争いは、当然両国の民心に好ましからぬ影響を与え、これが政治問題にも影響して、両国の間には摩擦がふえるばかりであった。もっとも、マクドナルド内閣のときに、彼は日本の大使にたいして、経済問題で日英両国が戦わなければならぬということはありえない。。自分は経済問題では、断じて日本と戦うことをしない、と言ったことがある。それはたしか、一九三〇年のロンドン海軍制限会議当時のことであった。しかしそれにもかかわらず、両国関係は悪くなる一方であり、そこにまた、満州事変から引き続いて北支、中支問題が起こるにいたり、支那各地に大なる権益を持っていたイギリスとは、ことごとに衝突せざるをえないはめになった。
振り返ってむかしのことを考えてみると。一九一〇年ごろ、まだ日英同盟花やかなりし時代に、たまたま私がロンドンで、ある学友に語ったことを思い出すのである。そのとき私は、いまでこそ日英の間は間然するところなき友好関係にあるが、それはまだ支那における日本の勢力が大したものでないからであって、日露戦争後に満州に根拠を占めた日本が、他日その経済勢力を北支に延ばし、さらに進んで長江にまで及んだ暁には。きょうの友は必ず、あすの敵になる”ことを忘れてはならない――と言った。
私は何も、予言者めいたことを言ったわけではないが、同盟関係で両国が固く結んでいた時代には、およそ、そういう考えは日本人の頭に去来しえなかったところである。それから時を経ること二十余年、私の杞憂は支那においてまさに現実の事態となって現われてきた。そのころまでに、日本の商品は世界的にはびこって、至る所でイギリスの権益と衝突するのであった。一九三四、五年にいたってこの両国関係はいちだんと緊張を見るにいたった。それは北支にたいする日本の実力の進出が、イギリス政府にたいして多大の脅威を与えることになったためであるが、現に北支には有名な開灤炭鉱のほか、古くからイギリス人の占めていた権益がある。
もっとも、私が外相の地位につくまでの間、日本政府としてもいくどかイギリスとの関係を改善すべく試みたのであったが、いつも不成功に終わった。それは外務省の考えが、次から次へとこわされていったために、イギリス政府では日本政府の真意がはたしてどこにあるかを捕えるに苦しんだのであって、つまり日本の政策が一途に出なかったためである。
こういう情勢のうちに私は、外相の印綬を帯びることになったのであるが、まず軍と話し合いを遂げ、支那問題の和平解決に乗り出し、かつソビエトとも戦争を避けて、平和的に国交を調整する方針を立て、そして国内的に重要方針につき、軍部その他と万端打ち合わせを遂げたあとで初めて、対英問題の調節に乗り出したのである。それが就任以来、ニカ月余を経た後のことであった。そして支那問題にたいする日本政府の方針を詳細に、ときの在英大使吉田茂君に電報してイギリス政府に安心を与え、しかしてこの方針に即してイギリス政府との間に、諸般の誤解解決に当たるよう訓令を発したのである。
吉田大使は、この新たなるやり方にたいし大なる満足を感じ、さっそくイギリス政府外相のイーデン氏を訪問し、佐藤外相より、いい訓令を受け取ったと前置きして、帝国政府の見解を詳細に説明してくれたのである。これにたいして、イーデン外相も大いに安心したもようであって、日本政府の方針がかくのごとくである以上、イギリス政府としてもこれに呼応して協調的態度をもって、日本政府と交渉することが可能となるわけであるとして、欣快の情を表わしたということである。
当時の日本は満州事変以来、もっぱらイギリスと利害の衝突をきたしていたのであって、アメリカとはまだそれほどのことがなかった時代である。であるからイギリスとの国交調整ができれば自然、日米関係にも好影響を及ぼすことになっていた。これすなわち私が、イギリスの問題をまず取り上げたゆえんであって、これに成功すれば当然、アメリカとの交渉にも手をつけるつもりであった。・・・」
これが、佐藤外相の見た日中戦争を避けるための外交方針であり、対ソ、対英・対米の国交調整策であったわけです。その第一歩が、冀東政権の解消であり、次ぎに華北分治策の抛棄だったのです。そして最後の一線として日本が守るべきは、満州国の独立だといったのです。そして日本がこのようにその外交方針を明確にすれば、イギリスとの国交調整は可能であり、自然、アメリカとの調整も可能になるとしたのです。
もちろん、石原莞爾らが主導した満州事変は、柳条湖事件という謀略を端緒とするものであり、決して公にすることのできないものでした。おそらくこの”負い目”が、関東軍をして、中国に「満州国の独立」の承認を執拗に迫る心理的動機になっていたのではないかと思われます。しかし、いずれにしても、政治的には「満州国」が現に存在しているという事実から支那との国交調整交渉を開始せざるを得なかった。
この点については、満州事変当時外務大臣であった幣原喜重郎も同様で、「支那の出方一つで満州国の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから本家と分家の関係位に見て居ればよい」「それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れない」と言っていました(昭和7年11月頃の幣原の談話)。おそらくこうした観点が、その後の支那の、日中親善の友好関係を求める三原則の提示につながったのではないかと思われますが・・・。
また、以上紹介した佐藤尚武外相の外交方針は、明らかに、この中国側三原則を踏まえて日中国交調整を図ろうとするものであり、それ故に、彼はそれは「日本の考え方如何によって決まる」と言ったのです。つまり、「危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで、その危機はいつでも避けられる」と言ったのです。
それ故に、危機だ危機だと騒ぎ立てることは、却って戦争を招き寄せるようなことになる。従って、「日本のような国柄では、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくす」ことが最も必要だ、と言ったのです。その上で、先に述べたような対支政策を取りさえすれば、オタワ協定以来のブロック経済が引き起こしているイギリスとの貿易摩擦も解消出来るし、自然にアメリカとの関係も調整出来ると言ったのです。
こう見てくれば、石原莞爾の説いた「最終戦総論」(=東洋王道文明のチャンピオンたる日本と西洋覇道文明のチャンピオンたるアメリカが、宿命的に文明史的最終戦争を戦うというもの)が、いかに、現実政治を処する上で途方もないものであったかということが判ります。石原は、日中戦争を食い止めるため華北分治を抛棄し「満洲の経営に専念すべき」ことを説きました。しかし、この「最終戦争論」については、その後、それを抛棄したという形跡は見あたりません。
この、一種終末論的な宗教的危機意識の創出とその蔓延とが、日本軍及び日本人を金縛りにし、幣原喜重郎や佐藤尚武らの言う外交交渉による、対支国交調整、さらには対英・対米国交調整を不可能にしたのではないか。そのため、中国はついに日本との「抗日全面戦争」を決意し、上海事変に始まる長期時給戦争を戦うことになった。この間、日本人は何のために中国と戦争しているのか分からず、しきりに和平工作を繰り返した。しかしうまくいかず、しまいには、その原因を米英の中国支援に求めることになった。
これが、日本が米英との戦争に突入した際、多くの日本人が、この戦争の意義を、「弱いものいじめ」の居心地悪さから、植民地主義的帝国主義への挑戦へと、大転換し驚喜した心理的メカニズムだったのです。不思議なことに、ここでは「『中国』がいかなる意味でも問題にされて」いなかった(亀井勝一郎)。それ程、当時の日本人は「東洋王道文明」のチャンピオンとして自らを自負し、中国の独立国家としての体面は無視していたのです。
石原の保持したこうした思想が、決して彼一人のものではなく、当時の日本人一般の気分を代表するものであった、ということがこれで判ります。 
日本はなぜ満洲に満足せず華北分離工作を始めたか

 

日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか
知識の整理のため、少々長くなりますが、日本軍の華北分離工作の「おさらい」をしておきます。
支那事変(父親は北支事変と呼びました)が起きる前に、「日本軍の華北分離工作にあった」(といいますが、日本は)これを画策しましたか?成り行きでそれがおきたに過ぎないのではないですか。
7月7日に廬溝橋事件が発生した当初の日支の武力衝突を日本は北支事変といいました。しかし、それが上海に飛び火して日中の全面戦争に発展したため、政府は9月2日これを日支事変と呼び変えました。
で、日本軍の華北分離工作についてですが、案外これが知られていないのですね。多母神氏の論文では、華北分離工作どころか満州事変にも触れていなくて、ただ、満洲における日本の条約上の権益が張学良に侵害されたことばかり言っています。こんなことでは、公正な議論ができるはずがありません。
確かに、国民政府の革命外交はやり過ぎでした。張学良は日本の意に反して易幟(エキシ)を行い、国民政府に合流し排日運動を繰り広げました。なにしろ彼は、父親を日本軍に爆殺されたことを心底恨んでいましたからね。だが、そうした行動が、満州事変を引き起こす口実を日本に与えたことは否めません。
蒋介石は、昭和10年至ってそのことを反省し、広田外相に対して(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、の三項目を提示し(2月26日)、日中親善の関係改善を図ろうとしました。これに対して広田外相も「蒋介石氏の真意にたいしては、少しも疑惑を持たない」と言明し、中国の対日態度転向は天佑である、などと述べました。
これに対して陸軍は、外務省の対華親善政策を批判し、中国の対日態度転換は欺瞞だといい、国民政府をして親日政策を取らざるを得ないようにするためには、「北支那政権を絶対服従に導き」、それと日本との「経済関係を密接不可分ならしめ、綿、鉄鉱石等に対し産業開発及び取引を急速に促進す」る必要があるとしました。
そして、政府の日中親善政策を妨害するため、昭和10年6月の天津の親日新聞社長らの暗殺事件を口実として、露骨な武力的威嚇により中国に、「梅津・何応欽協定」(国民党勢力の河北省からの撤退:昭和10年6月10日)、「土肥原・秦徳純協定」(国民党のチャハル省からの撤退、長城線以北からの宋哲元軍の撤退:昭和10年6月27日)を押しつけました。
こうした日本軍の妨害活動にもかかわらず、中国は対日親善方針は不動であるとして、先に広田に示した三原則の実現により、日支両国が真の朋友となり、経済提携の相談もでき、さらに「共通の目的」のため軍事上の相談をなすこともできるといいました。最大の難問は満州問題ですが、これについては「蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日はこれを不問に付す(日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずと言う意味)」と説明しました。
これに対して広田三原則が示される事になったわけですが、次に、その三原則についての外務省案(7月2日)と、それに対する陸軍省案(三項)及び海軍省案(六項)を比較して見てみたいと思います。
(前文) 
外:日満支三国の提携共助に依り東亜の安定を確保する・・・
陸:「日本を盟主とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す
海:「日本を中心とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す
外:(一)支那側に於て排日言動の徹底的取締を行ふと共に、日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め(経済的文化的方面より着手す)且更に進むで満支関係の進展を計ること。
陸:(一)「・・・の徹底的取締を行はしめ」の後に、「欧米依存より脱却し」を挿入するとともに、「日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め」という、中国側三原則に対応する文言を削除した。
海:(一)「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とするも、支那が帝国以外の強国の助力に拠りて其の統一又は分立を遂行せんとする場合あらばこれを阻止するに努めること」とした。ここで、海軍は「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とする」ことを強調しており、この点については、外務省も付属文書で、「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」としていました。
外:(二)右満支関係の進展は支那側に於て満洲国に対し正式承認を与ふると共に、之と雁行し相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とするも、差当り支那側は少く共接満地域たる北支及察哈爾(チャハル)地方に於て満洲国存在の事実を否認することなく、反満政策を罷むると共に進んで満洲国との間に事実上経済的及文化的の融通提携を行ふこと。
陸:(二)満州国については外務省案に「満州国存在の事実を認め」という文言を挿入している。また、(一)と同様、中国側三原則に対応する「相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とする」という文言を削除した。
海:(二)支那側の排日言動の取締り、欧米依存からの脱却、対日親善政策の採用を述べている。
外:(三)外蒙等より来る赤化脅威が日満支三国共通の脅威たるに顧み察哈爾其の他外蒙の接壌方面に於て少く共日支間に特に右脅威排除の見地に基く合作を行ふこと
陸:(三)外務省案にほぼ同じ
海:(三)日満支の経済的・文化的和親協力関係の進展並びに日本の軍事的勢力の扶植に努めることを述べている。
*海軍案は三項目を六項目としたため、次の四、五、六がある。
海:(四)満州国について、ほぼ外務省案と同じ
海:(五)外務省案の(三)にほぼ同じ
海:(六)「日満支間の相互独立尊重提携共助の原則による和親協力の設定」は、日本が支那の日満両国との和親提携の態度が確認し、且つ支那が満州国を承認した後、となっている。
なお、陸軍案も、この海軍と同様の内容の条件文を後文として付している。
最終的には、三省協議の結果「広田三原則」(昭和10年10月4日)は概略次のようになりました。
前文の冒頭には「帝国を中心とする」が付され、
(一)支那側をして平日限道の徹底的取締、欧米依存政策からの脱却、対日戦前政策の採用する
(二)支那側をして満州国に対し究極においては正式承認を与えしむる事必要なるも、差当たり満州国の独立を事実上黙認し反満政策を罷めしむる・・・
(三)支那側をして外蒙接壌方面において赤化勢力の脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむる・・
後文として、以上の日満支提携に関する支那側の誠意が確認されれば、日支間の親善協力関係の設定に関する包括的取り決め等を行う、という条件が付されました。
総括的に言えば、この「広田三原則」からは「中国側三原則」に対応した文言が消えてしまったこと。また、外務省と海軍が主張した「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」というような「華北分離工作」をしない旨の文言も消えました。
この三原則に対して中国側はつぎのように答えました。
(一)今後、両国の親善関係を実現するため、中国は各国との関係につき、日本を排除しあるいは妨害するようなことはしない。
(二)満洲の現状については、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことはしない。
(三)北辺一帯の赤化防止については、日本が「中国側三原則」を実行するならば、之に関する有効な方法を協議する。
この中で最大の問題が、満州国承認の問題で、日本側の「事実上の承認」と中国側の「不問に付す」(蒋介石)という見解にはなお距離のあることが明らかになりました。中国側の言い分としては、現状において「満州国承認」をすることは国内政治上持たないということで、この問題は将来の問題として棚上げするほかない、と考えていたのではないかと思います。事実、この交渉の中国側担当者であった王兆銘はこの交渉の後、対日融和を図ったと言うことで狙撃されています。
その後、中国はイギリスの支援で幣制改革を断行しました(昭和10年11月4日)。これに対して日本陸軍は、「国民政府の幣制の統一は、ひいては同政府による政治的統一をもたらすことになる」としてこれの妨害を試みました。しかし、この改革は、約一ヶ月後には成功と認めざるを得なくなりました。そこで陸軍は、これを「満州事変以来の日本軍の行動に対する英国側の反撃ととらえ」華北自治運動を急速に展開したのです。
外務省は、こうした陸軍の華北自治工作には批判的でしたが、陸軍側に押しきられて軽度の自治宣言を出すというその主張を承認してしまいました(11月18日)。有吉大使はこうした自治工作を軍事力を背景に強行することは、「支那全国の世論をあおり、両国の全面的関係を悪化せしめ、蒋介石はもとより、何人もこれを収拾し難き事情にたり至らしむる」として粘り強く反対しました。
結局、日本の出先陸軍による華北自治運動は挫折しましたが、陸軍は、この際何としても「華北自治」を実現しようとして、日本の傀儡であることに甘んじている殷汝耕に通州で自治宣言をさせ、同時に「冀東防共自治委員会」を設置させました(11月25日)。これに国民政府は激しく反発しましたが、国民政府としては、こうした華北の自治運動に先手を打つために、冀察政務委員会を発足させました(12月18日)。
このように華北の政治状況が混迷を深める中、日本国内では、昭和11年2月26日、二・二六事件が勃発、岡田啓介内閣が崩壊し広田弘毅が新内閣を組織することになりました。この時、関東軍参謀長であった板垣は、外相予定者であった有吉に対し「国民政府を否定し、日中親善工作を不可能視し、広田三原則を空文だと断定し、中国の分治工作を説」きました(昭和11年3月18日)。
こうした主張は、陸軍が年来持っていたものですが、この時板垣は、こうした中国の分治工作の必要性について、それは満州国の健全なる発達を図るだけでなく、早晩衝突する運命にある対ソ戦に備えるためのものである、と述べています。また、国民党はソ連と友邦関係に入る公算が大であり、帝国と親善関係に入る能わざる本質を持っているので、華北を分立し、それと日満支提携する必要があると説いています。
ところが、昭和10年8月1日に参謀本部作戦課長に石原莞爾が就任すると、陸軍中央部もようやく、従来の場当たり的国防計画から、長期的・組織的な計画(「重要産業五ヵ年計画」など)を持つようになりました。その結果、「第二次北支処理要綱」(昭和11年8月11日)では、「支那領土権を否認し、または南京政府より離脱せる独立国家を育成し、あるいは満州国の延長を具現するを以て帝国の目的たるが如く解せらるる行動は厳にこれを避」けるという文面が見られるようになりました。
そうした方針転換の背後には、「まず、対ソ戦争を防止するに足る戦備の充実を図ること。そのためには、日本と華北の経済合作が不可欠であり、中国との経済的合理的提携を図らなければならない。そうすることによって日・満・支の総合国力の充実を図り、三十年後に予想される日米の一大決戦に備えるべきである」という、石原莞爾の「最終戦総論」に基づく考え方があったのです。
上記の「第二次北支処理要綱」の付録二には、「華北の国防資源中、すみやかに開発を図るべきものの例として、(一)鉄鋼(竜烟鉄鉱河北省内の有望な諸鉄鉱の開発)、(二)コークス用炭鉱(河北省井陘炭鉱を日本合弁とし山東省、淄川・博山炭鉱など付近一帯の小炭鉱の統合経営を誘導し、開ラン炭鉱は究極において、日・英・華三国の合弁事業とするよう指導する)」等があげられていました。
こうした中、広田内閣は、川越茂(駐華大使)・張群(外交部長)会談を継続することによって中国との国交調整に努めましたが、昭和12年1月23日、軍部の攻勢に屈して総辞職しました。その後、組閣の大命は宇垣一成に下りましたが、陸軍側の強硬な反対を受けて組閣を断念、大命は一転して林銑十郎に降下、2月2日林内閣が成立しました。外相には佐藤尚武が迎えられました。
この内閣では、従来の対華政策に反省が加えられ、華北分治策の抛棄と冀東政府の解消が説かれ、ここに石原構想が対華国策をリードするようになりました。それは、ソ連の脅威に加えて、綏遠事変の失敗、西安事件の結果としての国共合作がなされたことによります。また、国防力の充実を図るため、前年の「重要産業五ヵ年計画」に引き続いて「軍需品製造工業五年計画要綱」が決定されました。 
日本の対華方針がこのように見直されつつある一方で、中国政府はそれまでの対日宥和政策から次第に高姿勢に転じるようになりました。石原はこうした一蝕即発の日中関係を改善すべく、上述したような考えに基づき部内の思想統一に努めました。しかし、中国全土に広がった抗日の風潮は止めがたく、一方、日本軍内には「暴支膺懲」の「一撃論」が擡頭するようになり、そんな中でついに7月7日、廬溝橋事件が発生したのです。
ところで、この時の石原の対支政策の転換が、関東軍はじめ陸軍省や参謀本部の幕僚軍人になぜ十分な説得力を持たなかったか、ということですが、私は、それは、石原が掲げたような「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という対立図式、その中で日本が東洋王道文明のチャンピオンであり、日本は中国を導いて西洋覇道文明に対決しなければならない、といったような考え方が彼らに共有されていたからではないかと思います。
そのため、中国を対等な独立国と見る視点を失ってしまった。同時に、イギリスやアメリカを、無意識的に西欧覇道文明と決めつけたために、それとの平等・互恵の国交関係を樹立することができなくなってしまった。さらに、そうした対立図式を持つ思潮が日本の伝統思想である尊皇思想と結びついて、当時の日本の社会を蔽ってしまったために、それから抜け出すことができなくなってしまった。
どうも、そのようなことではなかったか、と私は思っています。つまり、石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかったのではないか。それゆえに、石原の言は十分な説得力を持ち得なかったのではないか、と思うのです。もちろん、そこには満州事変以来の下剋上的体質や軍人特有の功名心もあったでしょう。しかし、日本が先に紹介したような袋小路の思想に陥らなければ、当時の日本が直面した数々の困難を乗り越える術はいくらでもあった。広田もそれを知る一人であったはずですが・・・。
日中戦争の原因と終戦の「聖断」

 

日中戦争は海軍の上海派兵が原因か、また、終戦の「聖断」はどのようになされたか
(米内が上海への陸軍派兵を要請したことについて)これはお答えいただきましたが、第二次上海事変が始まったときに、即座にそれを言うなら分かります。当時中国大陸における兵力配置すら知らなかったでしょうか。少し時間がたってから態度を変えています。
その間に何があったのかです。居留民保護を目的とするにしても、引き上げる判断も可能であったというのは後知恵ですが、私はもっと言うと国際社会の支持を得るには、ある程度、邦人の犠牲が出てから、行動をする判断が必要ではなかったかと思います。
別に彼等の陸軍嫌いが事変拡大の大きな原因ではなかったかという視点も必要ではないですか?
まず、北支事変が上海事変に発展していった歴史的経過をより詳しくたどってみたいと思います。 
石原は「上海出兵は海軍が陸軍を引きずっていった」ものと回顧しています。確かに、上海の第三艦隊などに全面戦争を想定した作戦計画があったことは事実です。しかし、それはあくまで、華北の紛争が全中国に波及した場合に備えるもので、それを望んだわけではありません。従って、北支事変を「最も真剣で寛大な条件による政治的収拾」を試みた東亜局が示した「船津案」(1933年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部を放棄するもの)に海軍は全面的に同意していたのです(この交渉は大山事件で挫折)。
一方陸軍はどうか、石原は三省(陸・海・外)協議を経て「船津案」にそった停戦交渉案および国交調整案をまとめました(8月4日外務省から現地の船津に打電)。しかし、陸軍部内の大勢、特に中堅層以下は徹底膺懲論が横行しており、戦争指導課の「北支処理要綱」(8月9日総長決裁)は冀察を改変した華北の現地政権樹立をいい、特に、関東軍は「対時局処理要綱」(8月14日上申)で、華北五省・自治政府の樹立、南京政府の解体を説き、外交交渉による戦争の終結に反対していました。
この間、上海周辺への中国軍の軍隊集中が顕著となり、8月にいると閘北(ザホク)方面で保安隊が連夜演習を行い不安が増大したので、上海総領事は8月6日上海居留民に租界への退避命令(婦女子は日本に引き揚げ)、さらに揚子江全流域の居留民に引き揚げ命令を発しました。8月9日大山巌事件が発生、8月10日閣議で上海居留民の現地保護方針を確認、12日米内海相が陸軍に派兵を提議、これまで不拡大を希望してきた天皇も「かくなりては外交にて収ることはむずかしい」と述べ、13日内地二個師団の上海派遣が決定しました。
13日夜、日中両軍(中国軍4〜5万、陸戦隊2,500)の間で戦闘開始、翌14日、中国空軍は上海停泊中の第三艦隊に先制攻撃、15日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し全面戦争に突入しました。8月19日増援の特別陸戦隊2,400名が上海到着、その後陸戦隊は、8月23日に内地二個師団が上陸を開始するまで、十倍ほどの中国軍の精鋭を相手に闘い抜きました。これによって内地師団の上陸がようやく可能になったのです。蒋介石はこの陸戦隊との初戦で日本軍を消滅できなかったことを悔やんでいます。
しかし、中国はすでに前年末より上海方面を決戦場と定め兵力を集中していたため、その後の上海やその周辺における戦闘は激烈を極めました。そのため、先に派遣された第三、第十一師団の戦力は半減しました。しかし、石原は、この時期に至ってもなお戦局の拡大に反対し、苦戦する上海への増兵を容易に許可しませんでした。ようやく9月9日になって第九、第十三、第百一師団ほかの動員を下令、22日から上海上陸が開始されました。石原はこの増員の決定と共に辞任、後任には下村定少将が就任しました。
その後も中国軍は次々と兵力を投入し(一日一個師約一万人といわれる)激しく抗戦したため、上海での戦いは旅順攻略戦に比するほどの膨大な犠牲を生むことになりました。これについては同盟通信の松本重治が「上海の戦いは日独戦争である」と書いたように、中国軍はドイツ軍の訓練を受けた精鋭がドイツの兵器で戦っていたのです。そこで、下村定少将は上海南方60キロの杭州湾に第十軍(第六、第十八、第百十四師団ほか)を上陸させました。これを機に中国軍は総退却に転じ、11月9日日本軍は上海を封鎖しました。
この約三ヶ月の戦闘で日本軍は戦死者10,076名、戦傷者31,866名、あわせて41,942名の戦死傷者を出しました。一方、中国軍の被害も大きく、この間の戦死傷者は約30万に達したと言われます。一方、華北戦線はその後どうなっていたか。ここでの戦闘は、8月11日から河北省とチャハル省の境界線の山岳地帯から始まりました。関東軍参謀長の東條英機はチャハル兵団を編成し、軍司令官に代わり指揮をとって西進し、27日張家口、9月13日大同、24日平地泉、10月14日綏遠を占領し、10月17日包頭(パオトウ)まで進出して内蒙古の占領を完了しました。
また、8月31日に編成された北支那方面軍の第一軍は平津戦沿いに、第二軍は津浦戦沿いに南下しました。その総兵力は八個師団約十万に達しました。また、チャハル省に入った第五師団は関東軍と呼応しつつ、山西省北部に突入しました。これに対し、参謀本部は対ソ危機に備える理由でこれら現地軍の積極論をおさえましたが、現地軍は9月20日頃から華北五省占領論に傾き、南京戦後の12月14日には早くも北平に中華民国臨時政府を立ち上げるほどの手回しの良さを見せています。
以上、廬溝橋事件後の日本軍の戦線拡大について見てきましたが、蒋介石は、昭和10年の広田弘毅外相との交渉の経過から見て、日本はすでに二重政府状態に陥っており、日本軍が華北分離工作を止めることはなく、従って、抗日戦争は不可避と見ていました。そこで、昭和11年頃からその主戦場を上海と見定め準備を進めていたのです。廬溝橋事件の発生はその準備完了までにはいささか早すぎたわけですが、中国国民の抗日意志の高まりには抗し難く、ついに全面戦争を上海戦より本格発動することになったのです。上海の陸戦隊はこの攻撃に対する応戦を求められたわけです。
この時海軍が、居留民及び陸戦隊の全員引き揚げと決意していれば、確かに上海戦も南京事件も起こらなかったでしょう。しかし、その結果、上海だけでなく揚子江沿岸の全日本権益は消滅したでしょう。これは日本にとっては完全敗北、中国にとっては戦わずして大勝利ですから、中国はその余勢を駆って華北に攻め込んでいる北支那方面軍や関東軍との決戦に臨んむことになったと思います。いずれにしても、中国との全面戦争は避けられなかった。というのは、日中戦争の根本原因は、日本軍の華北分離工作にあったからで、これを止めない限り、日中戦争を止めることはできなかったと思うからです。
誠に残念なことですが、陸軍が一億玉砕の徹底抗戦から敗戦(無条件降伏)を意識するようになったのは、原爆とソ連参戦の後だったということです。
現象はそれでしょうが、内実は異なると思います。陸軍は自分の面子を立ててくれれば、即座に賛成でしたでしょう。その証拠に終戦後において、軍人が抗戦をしましたか?天皇陛下の命令で、それまでの言動を停止しています。自らの目的で始めた戦争ならそれと対比して行動ができますが、異なるからではないですか。要するに対米戦争は後ずけということです。
いわゆる「聖断」で戦争を止めることが、どういう方法あるいはタイミングで可能だったか、ということですね。よく「聖断」で戦争を止められたのだから、対米英開戦の止められたのでは?ということが言われます。しかし、天皇の国政総覧の大権は、明治憲法によって内閣の補弼及び軍の補翼によることとなっており(前者は大臣の副署を要し、後者は陸軍の参謀総長、海軍は軍令部総長が実質的権限を持っていた)、天皇がそのルールを例外的に踏み外したのは、二・二六事件の時と終戦の時の二回だけだと天皇自身が言っています。前者は首相が殺された(実際は不明)という緊急非常事態への対応、後者は、御前会議で行われた最高戦争指導会議の評決が三対三となり、最後の「聖断」が天皇に求められたためです。
この点、軍が天皇機関説を排撃し国体明徴を訴えたのは、天皇の勅命の絶対性を主張していると見せながら、その真のねらいは、その勅命の大義名分を重臣、内閣、議会から奪い取るためだったのです。その一方で軍は、天皇が軍の意に沿う存在であることを当然とし、その「期待に背く『玉』はいつでも取り替える」としていたのです。「特攻戦法の創始者である大西軍令部次長は(天皇の「聖断」に対し)『天皇の手をねじりあげても、抗戦すべし』」と言っています。8月15日自刃した阿南陸相は14日午前7時の梅津との話し合いでも梅津にクーデターを呼びかけています。
それというのも、終戦時、陸軍は、いまだ国内外に550万の兵力を擁しており、もし、ソ連参戦や、原爆による一般国民の大量殺傷という事実に直面していなければ、徹底的な「敗北感」を持つことが出来ず、クーデターを起こして天皇をすげ替え「一億玉砕」の本土決戦に突入したかもしれないのです。軍人の多くが、天皇の「聖断」に対して個人的には「抗戦→絶望→虚脱の過程をたどって既成事実を受容する心境に至った」とされるのも、天皇の「聖断」の重みと、そうした「現実」の重みが重なったからではないでしょうか。
ところで、健介さんの言われる「陸軍の面子を立ててあげたら即座に(ポツダム宣言受諾に?)賛成した」というその「陸軍の面子」とは何でしょう?また、「自らの目的で始めた戦争ではない」と言うなら、これは日米戦争より日中戦争について言うべきで、確かに、日中戦争は何のために始めた戦争か分からなかったから、戦争の目的達成と言うこともなく、だらだらと8年間も中国と戦い続けることになったのです。その戦争目的の不明確さがひいては日米戦争を止められなくしたというなら、それはその通りというほかありません。
欧米各国は、日本の戦争目的を「満州国を中国に承認させること」と理解していたという。そして、広田外相が駐日独大使ディルクセンに日本の和平条件(ほぼ船図案に沿った内容)を提示したのが11月2日、これが駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石に伝えられたのが11月5日。蒋介石はその約一月後の12月2日にこの提案を基礎に日本と和平交渉に入ることを伝えた(12月7日)。ところが、日本はその交渉に入ることなく中支那派遣軍は12月10日南京城の総攻撃を開始した。
一方、南京城を守備していた中国軍は降伏しないまま12月12日まで抗戦を継続した。ところが12日夜、司令官唐生智は守備隊約3.5万に「各隊各個に包囲を突破」することを命令して、自らは揚子江北岸に約1.5万の兵と共に逃走した。このため、約3.5万の中国兵が武器を棄てて安全地帯に潜り込んだり、南京城周辺で日本軍に殲滅されたり、大量の捕虜になったりした。
日本軍はこうした混乱の中で、これらの中国兵の多くを敗残兵あるいは便衣兵として処理したが、これが、欧米各国の記者の目には、「南京城総攻撃の意味不明」とともに日本軍の残虐性を印象づけるものとなった。それが中国の国民党宣伝部の工作もあって、軍人ではなく一般婦女子の虐殺・強姦事件にすり替えられ、東京裁判で「南京大虐殺」として喧伝されることになった。  
岡田外相「バターン死の行進」公式謝罪で思い出されること

 

岡田外相は13日昼、第2次世界大戦中に日本軍がフィリピン・ルソン島で米軍などの捕虜約7万人を約100キロ歩かせ、多くの死者を出したとされる「バターン死の行進」で生き残った元米兵捕虜らと外務省で面会し、「非人道的な扱いを受け、ご苦労され、日本政府代表として、外相として、心からおわび申し上げます」と外相として始めて公式に謝罪しました。(2010年9月13日13時25分 読売新聞)
へえ、この問題を何で今ごろと?と怪訝に思いましたが、おそらくこれはアメリカのルース大使が広島の原爆忌に参加したことに対する見返りなのかなあ、とも思いました。ルース大使は、8月9日の長崎の平和祈念式典はスケジュール上の都合で欠席しましたが、9月26日の長崎日米協会の40周年記念式典に出席し、長崎原爆資料館を視察し、献花する方向で調整しているとのことです。
ただし、それはアメリカが原爆投下について日本に謝罪するということではなくて、核兵器のない世界というオバマ米大統領の構想を推進する目標を共有するためのものだということです。ルース大使の8月6日の「原爆忌」での声明も「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」とするに止まっています。
また、ルース大使の原爆忌への参加について、クローリー米次官補は自身のツイッターで「米政府代表の初出席を「日本との友好関係の表れ」と説明。「米国は第2次世界大戦後の日本の復興を助け、敵国を信頼できる同盟国に変えたことを誇りに思ってきた」と述べ、その上で「広島では、謝罪することは何もないが、戦争の影響を受けたすべての人々に配慮を示す」と強調しています。
そんな調子ですから、岡田外務大臣の「バターン死の行進」の生き残りである元米兵捕虜を外務省に招いてので公式謝罪が、いかにも唐突に見えたわけです。この謝罪に対して、日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長は「バターン死の行進については日本軍が米兵捕虜だけに非人道的扱いをしたかは評価がわかれている。米国が原爆投下などについて謝罪していない段階で、一方的に日本だけ謝罪する必要はない」と批判しています。
私自身も、「バターン死の行進」といわれる事件については、山本七平氏の著作を通して、この事件の概要や問題点を把握していましたので、冒頭に述べたように何らかの政治的取引があったのではないかと思いました。しかし、それにしてもいささかバランスを失しているのではと思われました。また、日本国民には、この謝罪に至る説明が何もなされていませんので、国内的にはかなりの反発を生むのではないか、とも思いました。
そこで、この機会に、この事件に関する山本七平氏の見解を紹介したいと思います。氏は、この事件を、当時の日本軍の「行軍」の問題と比較するとともに、味方の兵力に数倍する捕虜が現れた時の混乱、そして、日本軍の組織の命令系統を無視した一部参謀による「私物命令」の乱発、などの問題点を指摘しています。いずれも、戦後生まれの私たちには想像だにできない問題ですが、今回の唐突な外相公式謝罪を機会に、この事件の実相を伺うことも、あながち無駄ではないと思うからです。
(日本軍の行軍について)
「有名な「バターンの死の行進」がある。・・・この行進は、バターンからオードネルまでの約百キロ、ハイヤーなら一時間余の距離である。日本軍は、バターンの捕虜にこの間を徒歩行軍させたわけだが、この全行程を、一日二十キロ、五日間で歩かせた。武装解除後だから、彼らは何の重荷も負っていない。一体全体、徒手で一日二十キロ、五日間歩かせることが、その最高責任者を死刑にするほどの残虐事件であろうか。後述する「辻正信・私物命令事件」を別にすれば――・・・だがこの行進だけで、全員の約一割、二千といわれる米兵が倒れたことは、誇張もあろうが、ある程度は事実でもある。三ヵ月余のジャングル戦の後の、無地における五日間の徒歩行進は、たとえ彼らが飢えていなかったにせよ、それぐらいの被害が現出する一事件にはなりうる。
だが収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。
こういう背景から出てくる本間中将処刑の受取り方は、次のような言葉にもなった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」
当時のアメリカはすでに、いまの日本同様「クルマ社会」であった。自動車だけでなく、国鉄・私鉄等を含めた広い意味の「車輛の社会」、この社会で育った人は、車輛をまるで空気のように意識しない。そして車輛なき状態の人間のことは、もう空想もできないから、平気で「来魔(くるま)」などといえても、重荷を負った徒歩の人間の苦しみはわからない。「いや私は山歩きをしている」という人もいるが、「趣味の釣り人」と「漁民の苦しみ」は無関係の如く両者は関係ない。否むしろ、山歩きが趣味になりうること自体、クルマ時代の感覚である。
当時アメリカ人はすでにその状態にあった。従って彼らは、バターンの行進を想像外の残虐行為と感じたのであろう。しかし日本側は、もちろん私も含めて、相手がなぜ憤慨しているのかわからない。従って「不当な言いがかり、復讐裁判」という感情が先に立つ。だが同じ復讐裁判と規定しても、戦後の人の規定とは内容が逆で、前者は「これだけの距離を歩くことが残虐のはずはない」であり、後者は「確かにひどいが、われわれはもっとひどかったのだから差別ではなく、故意の虐待でもない」の意味である。
一番こまるのは、同一の言葉で、その意味内容が逆転している場合である。戦無派と同じ口調で戦争を批判していた者が、不意”経験のないヤツに何がわかるか!”と怒り出すのはほぽこのケース。そこには、クルマ時代到来による、その面のアメリカ化に象徴される戦後三十年の激変と、それに基づく「感覚の差」があるであろう。
(味方の兵力に数倍する予想外の捕虜の出現がもたらす混乱)
「捕虜の収容で一番困る問題は、それが終戦または停戦で不意に発生し、しかし何名になるか見当がつかないことである。「バターン死の行進」の最大の原因は、二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったということが主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない。戦場では、善悪いずれの方向へもそういう特別扱いをする余裕がないのが普通である。」
「日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、経戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれた。
米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。」
(次は、奈良兵団連隊長今井武夫による、大量の「捕虜出現」の状況説明と、辻正信の発した「私物命令」への対処について)
「わが連隊にもジャッグルから白布やハンカチを振りながら、両手をあげて降伏するものが、にわかに増加して集団的に現われ、たちまち一千人を越えるようになった。午前十一時頃、私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。とくに、連隊長を指名した電話である、何か重要問題であるに違いない。私は新しい作戦命令を予期し緊張して受話機を取った。附近に居合わせた副官や主計その他本部附将校は勿論、兵隊たちも、それとなく、私の応答に聞き耳を立てて注意している気配であった。
電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。それは、『パターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊をあげて降伏を申出たが、、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者ははまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊に手元にいる米日軍の投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ』というものである」と書いている。
今井は、投降捕虜を一斉に射殺せよと兵団参謀より命ぜられたのである。だが、彼はこの命令に人間として服従しかね一瞬苦慮したが、直ちに、「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話をきった。そして、直ちに、命令して部隊の手許にあった捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう指示し、一斉に釈放してしまった。これは、今井連隊長、とっさの知恵であった。そこに一兵の捕虜もいなければ、たとえ、のちに命令が来ても、これを実行すべきものはないからだ。だが、連隊長の要求した筆記命令はこなかった。
(中略)
事実、参謀が口にする、想像に絶する非常識・非現実的な言葉が、単なる放言なのか指示なのか口達命令なのか判断がつかないといったケースは、少しも珍しくなかった。ではその放言的「私物命令」の背後にあ、つたものは何であろう。・・・また何がゆえに、捕虜を全員射殺せよとの”ニセ大本営命令”が出たり、その参謀が”全部殺せ”と前線を督励して歩いたあとを副官がいちいち取り消して廻るといった騒ぎまで起るのか。陸軍刑法第三条にははっきり「檀権罪」が規定され、越権行為は処罰できることになっている。
第一、参謀には指揮権・命令権はないはず、そしてこの権限こそ軍人が神がかり的にその独立と神聖不可侵を主張した「統帥権」そのものでなかったのか。何かあれば統帥権干犯と外部に対していきり立つ軍人が、その内部においては、この権限を少しも明確に行使していなかった。このことは、「私物命令」という言葉の存在自体が証明している。」
現在では、この私物命令の発令者が、大本営派遣参謀辻正中佐であったことが明らかになっています。彼は、「敗戦後、僧侶に変奏して逃亡・・・この脱出は蒋介石の特務機関である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。1948年に上海経由で帰国して潜伏、戦犯時効後の1950年に逃走中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなった。
戦後、旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選、院内会派無所属クラブに属した。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。
1961年、参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって外務省は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオスの北部のジャール平原へ単身向かったことが判明したが、4月21日を最後に彼の其の後の足取りの詳細については現在でも判明していない。」(以上wiki「辻正信」)
読者の皆さんは、以上をお読みになって、どのような感想をお持ちになったでしょうか。「日本軍の行軍」のこと、「自軍兵力に数倍する捕虜が出現したときの混乱」(山本七平はこの問題を、南京虐殺事件の一つとされる、「幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後に発生したパニック状況」との関連で論じていました)、そして、日本軍の指揮系統を無視した「私物命令」で第一線部隊に捕虜殺害を督励して回った高級参謀「辻正信」の存在、それに抵抗した多くの部隊指揮官、そして最後に、戦中よりこうした数知れぬ虐殺行為の噂のあった辻正信を、戦後、国会議員に選び続けた日本人。
なんかしらん、現代もあまり変わっていないような気もします。  
「日本はなぜ敗れるのか 敗因 21ヵ条」山本七平

 

故小松真一氏が掲げた敗因二十一カ条は、次の通りである。
「日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが、それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求されることは、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
三、日本の不合理性、米穀の合理性
四、将兵の素質低下 (精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
五、精神的に弱かった (一枚看板の大和魂も戦い不利になるとさっぱり威力なし)
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
七、基礎科学の研究をしなかった事
八、電波兵器の劣等 (物理学貧弱)
九、克己心の欠如
一〇、反省力なき事
一一、個人としての修養をしていない事
一二、陸海軍の不協力
一三、一人よがりで同情心が無い事
一四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
一五、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失
一六、思想的に徹底したものがなかった事
十七、国民が戦いに厭きていた
一八、日本文化の確立なき為
一九、日本は人名を粗末にし、米国は大切にした
二〇、日本文化に普遍性なき為
二一、指導者に生物学的常識がなかった事
順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったことに結論する」
なぜ全く成果のあがらないことをするのか。言うまでもなくそれは、成果があがらないとなると、その方向へただ量だけを増やし、同じことを繰り返すことが、それを克服する方法としか考えられなくなるからである。
まさに機械的な拡大再生産の繰り返しであり、この際、ひるがえって自らの意図を再確認し、新しい方法論を探求し、それに基づく組織を新たに作り直そうとはしない。むしろ逆になり、そういう弱気は許されず、そういうこと言う者は、敗北主義者という形になる。
アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。同じように繰り返して自ら大量の「死へのベルトコンベア」を作るようなことはしなかった。
日本軍であれば、極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」というのであろう。これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論の総てを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するために投じつづけた量と、それを投ずるために自己満足し、それで力を出してきたとして自己を正当化しているということであろう。
確かに「印象の強烈な原因が最も重要な基本的原因」だとは言えない。それはその通りであり、従って、後世の歴史家が、まず「遠因・近因・直接的原因・発火点 = 偶然の端緒」といった記述法をとっても、それはそれで別に不思議ではないのだが、現場にいた目撃者の記録 (ヒストリア) は、その人が本当に目撃者であるなら、「後代の史家」のような聞き方をするはずがないのである。
精兵が「いなかった」と断言したのは、おそらく「ある」「ない」あるいは「いる」「いない」をどう受けとるかという問題である。戦前の日本に絶対的平和主義者や合理的実証主義者はいなかった、と言えば、それへの反論は簡単であり、反証はすぐ挙げられるでは、そういう人がいて、なぜあのような無謀な戦争を始めたかと問えば、その人たちは、日本の方向を定める一勢力としては無きに等しい例外的存在であり、なにもなし得なかったという点では無きに等しかった、と応える以外にない。それは、「その人が当時でなく、現代に影響を与えている」という意味で現代に存在しているのであって、その時代には存在していないということなのである。歴史上にそういう人物は少なくない。その場合、その人は、「いま」存在していても、その人が生きた時代には、今のような形では「いなかった」のであり、従って、その時代の目撃者の言としては、「いなかった」が正しい。これを混同して「その人がその時代にいた」とするのは、実は錯覚にすぎないのである。
陸軍の宿痾ともいえる員数主義 (いんずうしゅぎ) を生む。「数があるぞ」といえば、質も内容も問わない。これが極端まで進めば、「数があるぞ」という言葉があれば、そしてその言葉を権威づけて反論を封じれば、それで良いということになる。これは実に奇妙に見えるが、形を変えて今もある (春闘の動員数の組合発表数と警察発表数の違いなど)。
ここは実に奇妙な「社会学的実験」の場であり、われわれは一種のモルモットだったわけである。一体、われわれが、最低とはいえ衣食住を保障され、労働から解放され、一切の組織から義務から解放され、だれからも命令されず、一つの集団を後世し、自ら秩序をつくって自治をやれ、といわれたら、どんな秩序をつくりあげるのかの「実験」の場になっていたわけである。一体それは、どんな秩序だったろう。結論を要約すれば、一握りの暴力団に完全に支配され、全員がリンチを恐怖して、黙々とその指示に従うことによって成り立っている秩序であった。そして、そういう状態になったのは、教育の程度の差ではなかったし、また重労働のためでも、飢えのためでもなかった。
文化とは、何であろうか。思想とは何を意味するものであろうか。一言で言えば、「それが表すものが『秩序』である何ものか」であろう。人がある一定区域に集団としておかれ、それを好むままに秩序付けよといわれれば、そこに自然に発生する秩序は、その集団がもつ伝統的文化に基づく秩序以外にありえない。そしてその秩序を維持すべく各人がうちにもつ自己規定は、の人たちのもつ思想以外にはない。従って、これを逆に見れば、そういう状態で打ち立てられた秩序は、否応なしに、その時点におけるその民族の文化と思想をさらけ出していまうのである。
各人は自らの主張に基づく行動を自らはとらなかった。そして自らの行動の基準は、小松氏の記す「人間の本章」そのままであった。そのくせ、それを認めて、自省じようとせず、指摘されれば、うつろなプライドをきずつけられてただ怒る。そして、そういう混乱は、兵士の嘲笑と相互の軽侮と反撥だけを招来し、結局、暴力と暴力への恐怖でしか秩序づけられあい状態を招来したわけである。
だが、戦後の日本は、常にこの模索を避け、自分たちを秩序付けている文化と、それを維持している思想、すなわち各人の自己規定を探り、言葉によってそれを再把握して、進展する社会へ継承させようとはしなかったのである。従って、第十六条と第十八条は、まだ達成されず、招来の課題としてそのまま残されている。
「普遍性」とは何であろうか。文化とは元来個別的なものであり、従ってもし日本文化が普遍性をもちうるなら、それは日本人の一人一人が意識的に自らの文化を再把握して、日本の文化とはこういうものだと、違った文化圏に住む人々に提示できる状態であらねばならない。それができてはじめて、日本文化は普遍性をもちうるであろう。そしてそれができてはじめて、相手の文化を、そしてその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解でき、そうなってはじめて、相互に理解できるはずである。そして、それができない限り、自分の理解できないものは存在しないことになってしまう。
自己を絶対化し、あるいは絶対化したものに自己を童貞して拝跪を要求し、それに従わない者を鬼畜と規定し、ただただ討伐の対象としても、話し合うべき相手とは規定しえない。結局これが、フィリピンにおける日本軍の運命を決定したと言える。
「心理的高揚」「心理的解決」に同調しない者を「敗北主義者」として糾弾する。「心理的解決」にはなるかもしれないが、現実の国際関係、軍事力の力関係に何らかの変動があるわけがない。従って現実的解決には全く無意味なのだが、この「無意味」なことが何らかの意味をもつかの如き錯覚で、常にこれが行われるわけである。
厭戦、士気低下、無統制、上下不信、相互不信、壊滅という流れが、「心理的解決」だけに依拠し、実在の現実を無視していた者が、最後に落ち込んでいく場所であった。そしてこれが、当事者自身が「厭戦」のくせに、あらゆる言葉で実体をごまかしつづけ、その場その場を「心理的解決」で一時的にごまかして行った者の末路だったわけである。そしてこれは、一種「滅亡の原則」を示す言葉とも言える。「厭」は子供でも、ごまかしでは解決できないのだから。
「いろいろ言われますけどね。何やかや言ったって日本軍は強かったですよ。あの物量に対して、あれだけ頑張ったんですからなあ。確かに全世界を敵にまわしたから敗れたんで、こりゃ、軍の責任でなく、政府・外光の責任でさあ。それまでこっちの責任にかぶせられて、日本軍の責任にされちゃたまりませんよ」こういった意味の発言をする人は少なくない。そしてそういう人のあげる具体的実例は、その実例があくまで事実であるだけに、非常に説得力があって反論できない。では、それは果たして事実なのだろうか。もし事実とするなら、その「日本軍の強さ」なるものの謎は一体なんなのだろうか。これは一言でいえば中小企業・零細企業的な強みなのである。(中略) しかし T さんが持っているのは、正確に言えば個人の持つ "芸" であって、客体化できる "技術" ではない。いわば T さんの技術は "武芸" と同じような "印刷芸" であって、正確には氏から離れて、それだけを系統的に多くの人が同時に学びうる、体系的技術ではない。またこの "芸" は、チャンドラでだけ生かされるもので、氏がチャンドラですばらしい印刷をするから、高性能総自動化最新式印刷機ならもっとすばらしい印刷ができるかといえば、そうではないのである。いわば他に伝えられず、他に利用・天養できない閉鎖的な術、すなわち、体得した秘術ともいうべきものであろう。
われわれば、非常に長い間この一定制約下に「術」乃至「芸」を争って優劣を決めるという世界に生きてきた。この伝統はいまの受験戦争にもそのまま現われており、ちょっとやそっとで消えそうもない。そしてこの「術・芸」絶対化の世界に生きていると、この「術・芸」が、それを成り立たせている外部的制約が変わっても、同様の絶対性を発揮しうるかの如き錯覚を、人びとに抱かすのである。(中略) これが極限まで進むと、「一芸に秀でたものは万能」という考え方をも生む。
今でも、日本軍は強かったと主張する人の基本的な考え方は、この伝統的発想に基づいており、しかもしれが伝統的な発想のパターンに属する一発想にすぎないのに絶対化している。そして、後述するように、日本の敗戦を批判する者も、実は、同じ発想に基づいて批判しているのである。
氏は、「物量さえあれば米兵等に絶対に負けなかった」という、普通の人が意味するような意味で、この言葉を口にしてるのではない。この物量のなさはだれでも知っていた。知っていてなお開戦に踏み切った背後にあるものは、精兵主義という "芸" への絶対的自身があったからである。この自身は最初に述べた T さんがもっているような自信であった。そして、ある前提のもとでは、この自信は確かに客観的評価としても成り立ち得たのである。従って、「物量の差がわかっているのに、なぜ戦争をはじめた」と、当時の人間を非難する人も、不思議と、他の問題に関しては、同じような自信を持っている場合が少なくない。すなわち「物量の中に…その国民の全精神が含まれている事を含まれている事を見落としている。こんな重大なことを見落としているのでは、物を作る事も勝つ事もとても出来ないだろう」であって、「物量」さえあれば勝ち得たと考える考え方そのものに、敗戦の最も大きな原因があった。
戦後三十年、日本の経済的発展を支えていたものは、面白いことに、軍の発想ときわめて似たものであった。(中略) 輸入された「青写真」という制約の中であらゆる方法で "芸" を磨いたからである。(中略) 戦後も同じではなかったか。外国の青写真で再編成された組織と技術のもとで、日本の経済力は無敵であると本気で人びとは信じていたではないか。今でもそう信じている人がるらしく、郊外で日本が滅びるという発想はあり得ても、郊外すら発生し得なくなる経済的破綻で日本が敗滅しうると考えている人はいないようである。(中略) この面の、精神面における根本的な解決は何一つなされていない、証左であろう。
反省なるものは、どれを見ても、戦後の「経済的無敵日本の発想」、それに基づく「日本列島改造的発想」が前回述べた「前提を絶対化してその中で "芸" を練ることによってその前提を克服して無敵になりうる」と考えた日本軍の発想と、根本的には差がないのではないのではないかといった「反省」とは思われないからである。
戦争への見方、それに伴う報道の仕方は、最初にのべた通り、まさに「反省力なきこと」の典型なのである。戦争中の「鬼畜米英」、戦後の「鬼畜日本軍」の祖形ともいうべき西郷軍残酷物語の創作記事は、実に読むのが気恥しいほど出ている。そして、これによる視点の喪失、ブーム化に基づく妄動こそ、西郷側にも官軍側にもあった、日本的欠陥の最たるものであった。そして、それへの反省は未だになされていないのである。では一体「反省」とは何なのか。反省しておりますとは、何やら儀式をすることではあるまい。それは過去の事実をそのままに現在の人間に見せることであり、それで十分なはずである。
いわゆる「残虐人間・日本軍」の記述は、「いまの状態」すなわちこの高度成長の余慶で暖衣飽食の状態にある自分というものを固定化し、その自分がジャングルや戦場でも全く同じ自分であるという虚構の妄想をもち、それが一種の妄想にすぎないと自覚する能力を喪失するほど、どっぷりそれにつかって、見下すような傲慢な態度で、最も悲惨な状態に陥った人間のことを記しているからである。それは、そういう人間が、自分がその状態に陥ったらどうなるか、そのときの自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていないことを自ら証明しているにすぎない。これは「反省力なき事」の証拠の一つであり、これがまた日本軍の持っていた致命的な欠陥であった。従って氏が生きておられたら、そういう記者に対しても、「生物学的常識の欠如」を指摘されるであろう。
人という「生物」がいる。それは絶対に強い生物ではない。あらゆる生物が環境の激変で死滅するように、人間という生物も、ちょっとした変化で死に、あるいは狂い出し、飢えれば「ともぐい」をはじめる。そして、「人間この弱き者」を常に自覚し、自らをその環境に落とさないため不断の努力をしつづける者だけが、人間として存在し得るのである。日本軍はそれを無視した、いまの多くの人と同じように、人間は、どんな環境においても同じように人間であって、「忠勇無双の兵士」でありうると考えていた。そのことが結局「生物本能を無視したやり方」になり、氏は、そういう方法が永続しないことを知っていた。
徹底的に考え抜くことをしない思想的不徹底さは、精神的な弱さとなり、同時に、思考の基礎を検討せず、あいまにしておくことになり、その結果、基盤なき妄想があらゆる面で思想の如く振る舞う結果にもなった。それは、さまざまな面で基礎なき空中楼閣を創り出し、その空中楼閣を事実と信ずることは、基礎科学への無関心を招来するという悪循環になった。そのため、その学問は日本という現実にそくして実用化することができず、一見、実用化されているように見えるものも、基礎から体系的に積みあげた成果でないため、ちょっとし生涯でスクラップと化した。
明確に自己を規定し、その自己規定に基づいて対者を評価し、その上で自己と対者との関係を考えるという発想がないことを示している。そしてこれは軍事だけでなくすべての面に表れ、技術ももちろんその例外ではない。
「小利口者は大局を見誤る」日本の戦後三十年は、残念ながら氏の言葉を立証してしまった。またこの比較は「といっても、日本の技術にも優秀なものがあったではないか。ゼロ戦などは世界一の折紙をつけられていたではないか」といった反論への答えにもなっている。確かにわれわれは、外国の基本的な技術を導入して、それを巧みに活用するという点では、大きなん能力を持っている。しかしこのことが逆作用して、常にそれですますことができるような錯覚をもちつづけてきた --- 戦前も、そして戦後も。そのため、全く新しい発想に基づく考え方を逆に軽視する傾向さえある。
"現実的" であるということが、今まで記した「思想的に徹底したものがなかった事」にはじまる四カ条の基本になっている "心的態度" であった。というのは、、全てがその場その場の情況で支配され、威張ってみたりしおれてみたり、一つの思想に基づく自信が皆無だからである。そしてそれは、戦後三十年の "現実的" な日本人の態度でもあった。
日本軍のすべてが、日本人の実生活に根づいておらず、がんじがらめで、無理矢理に一つの体系をつくっていたことである。そのため、すべての人間が、一言で言えば、「きゅうくつ」でたまらない状態に置かれていた。そしてこの「きゅうくつ」を規律と錯覚していたのである。(中略) アメリカ人においては、「不動の姿勢」が、市民の規律正しい姿勢であり、軍隊だけの姿勢ではない。(中略) しかし、今よりも畳の上の生活が自然であった日本人にとっては、これは、社会の基本の姿勢ではない。したがって、こういう姿勢をとらされるということ事態がきわめて不自然なことであり、苦痛を強いられることにすぎない。以上はいわば「基本的姿勢」だが、これは全ての面に現われている。彼らのスタッフとラインで構成される組織は、彼らの社会に共通の組織であり、軍隊組織も会社組織も大学も、基本的には変化はない。すべての組織で、その細部とその中での日常生活を規制しているものは、結局、その組織を生み出したその社会の常識だる。常識で判断を下していれば、たいていのことは大過ない。常識とは共通の感覚 (コモン・センス) であり、感覚であるから、非合理的な面を当然に含む。しかしそれはその社会がもつ非合理性を組織が共有しているがゆえに、合理的でありうる。しかし輸入された組織は、そうはいかない。その社会の伝統がつちかった共通の感覚は、そこでは逆に通用しなくなる。従って日本軍は、当時の普通の日本人のもっていた常識を一掃することが、入営以後の、最初の重要なカリキュラムになっていた。だがこの組織は、強打されて崩れ、各人が常識で動き出した瞬間に崩壊してしまうのである。英米軍は、組織が崩れても、その組織の基盤となっている伝統的な常識でこの崩壊をくいとめる。
アメリカ人は、自己の生存と生活を守るというはっきりとした意識の下に戦争に参加した。しかし日本人は、自己の生存と生活を守るためには、何とかして徴兵を逃れようと、心のどこかで考えていた。従って、戦争に参加せざるを得なかった者には一種の空虚感があり、徴兵を免れた者への羨望があった。そしてこの空虚感は虚無感となり、何も思考すまいとは考えても、自らの思想を、あらゆる意味の修養という形で形成して行こうなどとは、誰も考え得なかった。
三十年前の敗戦が、戦争という異常性に基づく崩壊でなく、明治以来の日本の通常性が生み出した一つの結末にすぎないことの暗示にもなるであろう。崩壊は一つの通常性として進行していた。これは「敗因二十一カ条」の前文で小松氏が記している通り、「日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきる」のであって、結局、問題の根本は、「なぜ初めから無理な戦いをする」結果になったか、という問題にもどって来る。
小松氏が記しているのは、戦地・戦場・ジャングル・収容所の通常性であり、ある意味では「旅行記」であり、ある「力」に作用されていない記述である。そしてそこで行われた通常性・日常性の中に読者は意外性を見、その意外性が通常性であったことに驚くある力で「日常性という現実を意識さえないこと」が逆に一つの通常性になっているため、自分が本当に生きている「場」を把握できなくなっている状態、これが日本を敗戦に導いた一番大きな原因であろう。簡単にいえば、自分の実体を意識的に再把握していないから、「初めから無理な戦い」ができるわけである。なぜこういう事態を生ずるのか。そして生ぜしめ、その実施者である軍を拘束していたその「力」とは何なのか。
こういった「小市民的価値観を絶対とする典型的な小市民的生活態度」を通常性・日常性とすることは、恥ずべきことなのであろうか。それとも、こういう日常性への不動の信念をもちつつ、「或る何かの力」に拘束されて、自分が軍人か闘士であるかの如き虚構の態度をとることが恥ずべきことなのであろうか? 私自身は、その人がどんな "思想" をもとうとその人の自由だと思うが、ただもし許されないことがあるなら、自己も信じない虚構を口にし、虚構の世界をつくりあげ、人びとにそれを強制することであると思う。(中略) ただ明治以来、「或る力」に拘束され、それを「明言」しないことが当然視されてきた。いわば自分のもつ本当の基準は口にしてはならず、みな、心にもない虚構しか口にしない。これは戦前・戦後を通じている原則である。
以上にのべた明治以降の奇妙な「通常性を把握しないことを通常性」とする性向、いわば、ある力に拘束されて自己の真の規範を口にできず、結局は、自分を含めてすべての人を苦しめる「虚構の自己」を主張することが通常性になっているためと仮定するなら、その拘束力を排除できなかったのは何のゆえで、何が欠如してそうなり、何を回復すればそれが克服できるのであろうか? 答えは非常に簡単である。その「鍵」は「自由」であろう。この本の魅力の一つは、小松氏が天性の自由人であり、記されていることが全くの「自由な談話 (フリー・トーキング)」だということである。見たまま、聞いたまま、感じたまま、それを全く自由と何の力にも拘束されず、何の力も顧慮せずに、氏は記している。(中略) もしすべての人に、この自由な談話 (フリー・トーキング) が常にできるなら、おそらく太平洋戦争のような、全く意味不明の事件は、二度と起こらないであろう。(中略) フリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず、そういうことをやる人間こそ、思考の自由に基づく言論の自由とは何かを、全く理解できない愚者なのだ、と。
戦後は「自由がありすぎる」などという。御冗談を! どこに自由と、それに基づく自由思考 (フリー・シンキング) と、それを多人数に行う自由な談論 (フリー・トーキング) があるのか、それがないことは、一言でいえば、「日本にはまだ自由はない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だにわれわれを拘束しているということである。 
 
日本人を動かす原理 「日本的革命の哲学」  山本七平 (1992年)

 

要旨   
御承知のように、保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。
さて、山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。
ところで、泰時は明恵の思想に大きな影響を受けたことはつとに知られている。明恵と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいることはいる。しかし、明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。
ところがこの明恵に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。
さて、西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合、それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。
明恵のユニークさというのは、国家の秩序の基本の把え方にある。明恵は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ているのである。明恵に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は『華厳経(けごんきょう)』に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に『華厳経』の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」
確かに、現代人は明恵の世界を共有することはむずかしい。しかし、明恵が真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。 
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。
さて、流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいかと思われるが、これはまさに明恵の発想方法・「あるべきようは」そのものではないかと思う。日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いていると考えているが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という明恵の発想方法に今こそ立ち戻らなければならない。
わが国は、古くは中国、近年は欧米から・・・やむなくいろんな法律をまねしてわが国の法律としてきた。諸外国の法律をまねしたものを「継受法」という。やむなく「継受法」を採用しなければならないのは、もちろん国としての力関係による。幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。大陸の文化を「継受しようという意志」は歴史的にほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布されるのである。そのことが間違っていたのではない。そうではなくて、それが「名存実亡」となったとき、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち、どう逆転(裏返し)できるかである。
天皇は「名」であり武士は「実」である。律令は「名」であり式目は「実」である。「名」を捨てて「実」に従わなければならない。「名」より「実」をとるべきである。それが二元論の常識であろう。「名」より「実」をとるという逆転、裏返しといってもいいが、それが西欧型革命であろう。しかし、明恵の「裏返し革命」は違う。単なる逆転、裏返しではなくて、もういっぺん「否定の否定」をやるのである。「名」ではなくて「実」である。しかし、なおかつ、「実」でなくて「名」である。「名」であると同時に「実」である。「名」でもないし「実」でもない。要は、流動的知性が重要なのである。
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。
新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが『天皇陛下の経済学』の中でも指摘している。  
第一章 日本に革命思想はなかったか

 

日本では、革新という言葉は良く使うが、革命という言葉はほとんど使わない。戦後、共産党によって日本の革命が意図されたが、結局は成功しなかった。なぜ成功しなかったかかは、もちろん学問的にきっちり分析されなければならないが、私は、わが国の「歴史と伝統・文化」にその原因を見い出すべきだと考えている。わが国は革命になじまない姿(かたち)をしているのではないか。
フランス革命思想に見られるように西欧では革命思想が優勢であったし、中国でも、孟子の思想に見られるように「人民主権的革命思想」があった。山本七平はそれを次のように紹介している。 
孟先生がいわれた。
「暴君の桀王・紂王が天下を失ったのは、人民を失ったからである。人民を失ったとは、人民の心を失ったことを意味する。天下を手に入れるには一っの方法がある。人民を手に入れることであり、そうすればすぐに天下を手に入れることができる。人民を手に入れるには一つの方法がある。人民の心を手に入れることであり、そうすれば人民を手に入れることができる。人民の心を手に入れるには一つの方法がある。人民の希望するものを彼らのために集めてやり、人民のいやがるものをおしつけない、ただそれだけでよろしい。人民の仁徳にひかれるのは、まるで水が低いほうに流れ、獣がひろい原野に走り去るようなものだ。淵に魚を追いたてるのが、獺(かわうそ)である。茂みに雀(すずめ)を追いたてるのが、鳶(とび)である。殷の湯王、周の武王のほうに人民を追いたてたのが、夏の桀王と殷の紂王とである。現在、天下の君主のなかで仁政を好むものがあれば、諸侯はみなその君主のほうに人民を追いたてるにちがいない。いくら天下の王となるまいとしても、不可能であろう。現在の王となろうと希望する者は、七年間の持病をなおすため、三年間かわかした艾(もぐさ)をさがしているようなものだ。もし平常からたくわえておかなかったら、死ぬまで古い艾(もぐさ)を手に入れることはできまい。もしも仁政を心掛けなければ、死ぬまで恥を受けることにびくびくして、ついに死亡してしまうだろう。<詩経>に、
そのふるまいのどこによいところかあろうか
ともどもに溺れ死ぬばかりだ
とよんでいるのは、このさまをいったのだ」・・・と。
しかし、山本七平もいうように、人民主権的とか民主主義的といっても、中国人には「選挙制度」という考えが全くなく、「王政をやめて共和制にしよう」という発想は全くなかったのである。したがって、中国の影響しか受けなかった日本に、西欧のような革命思想が出てくる筈がない。では、日本に西欧的な革命がなかったのか。そこが問題の核心である。
先に述べたように、保元(ほうげん)の乱は武家社会を語る上でも天皇制を語る上でも欠かすことのできない重要な歴史的事件であるが、私はとりわけ崇徳(すとく)天皇が言ったといわれる・・・天皇自身の言葉(天皇制否定の心情)に注目している。大岩岩雄の「天狗と天皇」(1997年、白水社)には次のように書かれている。
天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という
崇徳の逆転宣言は、痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。
すなわち、崇徳(すとく)天皇は革命的な思いを抱いたのではあるが、それはそのとき限りのもであって、天皇制打倒の動きなどまったく出てくる由(よ)しもなかった。
保元の乱は、平治の乱に繋がり、やがて承久(じょうきゅう)の乱へと繋がっていくのだが、北条泰時(ほうじょうやすとき)は、後鳥羽上皇を配流にするけれど、天皇制そのものは維持している。崇徳(すとく)天皇の天皇制打倒宣言を根拠に天皇制を廃止することもできたのにそれをしなかった。天皇自らが天皇制打倒宣言をしているのに北条泰時はなぜ天皇制を廃止しなかったのか、そこが問題の核心部分である。 
第二章 聖書型革命と孟子型革命

 

孟子の革命論
それは現体制の外に何らかの絶対者を置き、その絶対者の意志に基づいて現体制を打倒して新体制を樹立する、ということであろう。
孟子にとって絶対者は「天」であり、その「天」の意志は自動的に「民心」に表われるから、その「民心」の動向に基づいて新しい王朝を樹てることが「絶対者の意志」に従うことであった。
そして以上の「革命」を、西欧の「革命論」の基礎となった「旧約聖書」と対比してみると、両者の違いは明確に出てくる。聖書の場合も、体制の外に絶対者すなわち「神」を置いている。この点まではある意味では両者に変りはない。しかし、前章で記したように聖書には孟子のような「天意=民心論」すなわち、絶対者と民心とが自動的につながっているという思想はない。そういう自動的なものではなく、神と人をつなぐものが「契約(ベリート)」なのである。孟子の革命論と聖書の革命論との決定的な違いは「契約」という考え方の有無にあると言ってよい。
人類最初の西欧型革命
この違いがなぜ出てきたかの「発生論的探究」は今回は除き、それは創造神話の時代からの、基本的な違いであると指摘するにとどめよう。これらに関心のある方は拙書『聖書の常識』を参照していただきたい。この点、孟子における「天意」の表われ方はきわめて自動的だが、聖書における「神の意思」の表われ方はまことに「作為的」であって、「神」が契約を更改すれば社会は基本から変わってしまうわけである。 
ではここで欧米人を一人つかまえて次のような質問をしてみよう。「ここにAという国があったとしよう。その国のある階級を代表するBなる者が服従しないので、A国皇帝がその代表の討伐を命ずる勅命を出し、実際に戦端が開かれた。ところがこのBなる者は一挙に首都に進撃し、皇帝一族を追放し、皇帝を退位させて自分の望む者を帝位につけ、討伐を企画した者どもを処刑した上で、自分が擁立した皇帝をも無視し、その形式的な認証も署名もない基本法を勝手に発布し、この法は過去において皇帝が発布した法規とは全く無関係と宣言したら、これは革命と言えるか、言えないか」。今まで私が質問した限りでは、すべての欧米人は「もちろん革命ですよ」と言った。
承久の乱は日本史最大の事件
まず注目すべきは、承久の乱という事件が、武士団が朝廷と正面衝突をして勝利を得た最初の戦争だということである。朝廷への個々の小叛乱、否、相当に大きな叛乱もそれまでにあったが、すべては失敗に終わっている。また武士団が勝手に三上皇を配流に処し、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立したのも、このときがはじめてである。 
天皇に刃向うことは当時は強烈なタブーであり、武士団の中に、強い恐怖と非倫理的悪行という考え方と、伝統否定という心理的抵抗があって当然だった。当時の武士は、事を起すにあたって必ず「院宣」とか「令旨」とかを受け、名目的には天皇家の一員の「命令」によって行動している。この点では頼朝とても例外でなく、彼の行き方は常に何らかの「大義名分」を保持し、院政を利用して幕府を育てあげるという政策をとっている。ところが承久の乱はこれと全く違って、義時追討の「院宣」が下っているのに、これをはねかえして軍を起したのであり、彼には「大義名分」といえるものは全くない。
さらに「身分」が大きく心理的に作用するこの時代に、頼朝と義時とを比べれば、両者の違いは余りに大きい。頼朝は「源氏の嫡流」「武家の棟領」で、すでに何代にもわたって朝廷と関係をもつ名門である。一方北条氏といえば伊豆の豪族にすぎず、それも、三浦、千葉、小山のように強大な同族的武士団を擁して数郡から一国にわたって勢力を振った大豪族でない。下級かせいぜい中級の豪族、ごく平凡な在地武士、伊豆国の在所官人であった。その伊豆さえもちろん彼の支配下にあったわけでなく、狩野、仁田、宇佐美、伊東等の豪族がいた。
当時の東国の武士団は、京都に対して強い「文化的劣等感」をもっていた。これが朝廷側の「官打ち」を可能にしたし、「官位」「恩賞」でさそえば、義時を討とうという人間が鎌倉の中から出て来て少しも不思議でない。御家人にとっては彼はあくまでも「同輩」か「下輩」にすぎず、勅を受けてこれを討つことに罪悪感を感じる者がいるはずがない。
三浦一族の意識では義時は「伊豆の小豪族、自分以下の北条氏」にすぎず、これを、「一天ノ君ノ思召」で討つことに、何ら良心のとがめを感じなくて不思議ではない。後鳥羽上皇が、「成上り」として御家人からさえ反感をもたれている義時などは、諸国に院宣を下せば簡単に討滅できると考えて不思議ではなかった。
そしてこの予測は、必ずしもあたらなかったわけではない。その証拠に上皇挙兵のとき、多くの鎌倉御家人が京都側に立っている。
限定的西欧型革命
『吾妻鏡』には尼将軍政子の訓示として次の言葉がある。「皆、心を一にして奉(うけたまわ)るべし。是れ最後の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰(伐)し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝之志浅からんや。しかるに今、逆臣之讒により、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし」と。
これは有名な<名訓示>だから知っている人も多いであろう。政子が果してこの通りに言ったかどうかはわからないが、これはあくまでも心情に訴える「女性の論理」だから、大筋はこの通りであろう。彼女はまず「恩」をとき、「名を惜しむの族」はこの「恩」を忘れた「裏切り者の御家人」秀廉・胤義を討ち取るべきだと主張する。敵は決して天皇家でなく、幕府への「逆臣」であり、「非義の綸旨」が下ったのは、その「讒」によるのだから、この「逆臣」を討伐するのだという論理である。これは確かに、御家人の感情に訴える点では効力があったであろう。
しかし、たとえ「非義の綸旨」であろうと、勅命が下った以上、これに抵抗すれば抵抗した者が「逆臣」である。そうならないためには、まず降伏し、それが「逆臣の讒」であることを朝廷へ陳情して撤回してもらうことが「筋を通す道」であろう。この議論を展開するのが泰時である。ところがそれに対して義時は次のように言ったと『明恵上人伝記』にある。
「尤(もっと)も此の事さる事にてあれども、それは君主の政ただしく、国家治る時の事なり。今此の君の御代と成て、国々乱れ所々安からず、上下万民愁(うれい)を抱かずといふことなし。然るに関東進退の分国ばかり、聊か此の横難に及ばずして、万民安楽のおもひをなせり。若し御一統あらば、禍(わざわい)四海にみち、わずらひ一天に普(あまね)くして安きことなく、人民大に愁(うれう)べし。これ私を存じて随(したがい)申さざるにあらず。天下の人の歎(なげき)にかはりて、たとへば身の冥加(みょうが)つき、命を落とすといふとも、痛む可きにあらず。是れ先蹤なきにあらず、周武王・漢高祖、既に此の義に及ぶ歟(か)。それは猶自ら天下を取りて王位に居(おわ)せり。これは関東若し運を開くといふとも、此の御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君をあやまり奉るべきにあらず、申勧(すす)むる近臣どもの悪行を罰するにてこそあれ」
これは、義時がこのように言ったと泰時が明恵上人に言っているわけで、この考えが義時のものなのか泰時のものなのか明らかでない。というのは、明恵上人の「義時泰時批判」に対する泰時の弁護だからである。またこの伝記自体がどれだけ史料的価値があるかも問題であろう。泰時と明恵上人との関係は後に記すが、しかしいずれにせよ、ここに記されている論理は孟子の「湯武放伐論」であり、この著者が孟子によって義時・泰時を正当化していることは明らかである。
「桀紂の天下を失えるは、その民を失えばなり……」にはじまる孟子の言葉の「桀紂」を「上皇」にすれば、ここで義時が言っているのはまさに孟子の言葉であり、「是れ先蹤なきにあらず……」なのである。上皇はまさに、人民を幕府の方へ迫いやってしまう。「獺(だつ)なり」「せん(亶に鳥)なり」であり、それによって否応なく民心が集まってきた幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」になった。ただ義時・泰時の場合は、天皇家を滅ぼしてかわって北条天皇になり、前の体制を浄化するだけで、そのままその体制をつづけていったわけではない。この点では「限定的中国型革命」ともいうべきものだが、この限定は孟子にとっての「天」が彼にとっては「天照大神・正八幡宮」という自己の伝統にあった点にあるであろう。だが「式目」の発布という点から見れば、これは中国の革命思想を越えており、「限定的西欧型革命」とも言えるのである。 
第三章 北条泰時の論理 

 

衆の「棄つる所」と「推す所」 
水戸彰考館の前総裁・安積澹泊(あさかたんぱく)は、『大日本史論讃』に次のように記している。 
「兄弟牆(かき)にせめ(門のなかに児)ぎ、骨肉相賊(そこな)うは、蓋(けだ)し人倫の大変なり。保元の事、亦惨ならずや。崇徳上皇の戎(いくさ)を興せるは、固より名義無し。帝、已むを得ずして之に応ずるは、之を猶(ゆる)して可なり。拘(とら)えて之を流せるは己甚(はなは)だしからずや。……此(こ)れ、彝倫(いりん)(人倫)のやぶ(澤のつくりと敗のつくり)るる所なり。藤原信頼を嬖寵(男色の相手として寵愛)して、立ちどころに兵革を招き、平清盛に委任して、反って呑噬(どんぜい)に遭い、源義仲・源義経に逼られて、源頼朝を討つの誥を下すに至りては、則ち朝令夕改、天下、適従(主として従う)するを知るなし、大権、関東に潜移して、其の狙詐の術に堕つを知らず。……摂政兼実、清原頼業の語を記して曰く、『嘗(かつ)てこれを通憲法師に聞く。帝の闇主たる、古今にその比少し……』」と記し、政権が関東に移ったのは、「闇主」後白河帝の失徳が原因としている。
では、義時・泰時に配流された後鳥羽上皇その人、さらにこれを行なった当事者である泰時には、どのような評価が下されているのであろうか。確かに今までのような例があるとはいえ、これはあくまでも朝廷内のこと、たとえ幕府ができても、それが名目的には朝廷内の一機関ならともかく、「天皇制政府」以外に「幕府制政府」とも言うべきものを樹立し、陪臣でありながら三上皇を配流に付して天皇を退位させ、勝手に法律を発布するなどと言うことは、「皇国史観」の源流とされる水戸学では到底許すべからざることではないのか?
後白河帝への批判
安債澹泊(あさかたんぱく)は後鳥羽天皇の即位の異常さにまず言及する。「人君、位に即くには、必ずその始めを正しくす。その始めを正すは、その終りを正す所以なり。古より、未だ神器なくして極に登るの君あらず。元暦の践祚は、一時の権に出で、万世の法となすべからず。藤原兼実これを当時に議し、藤原冬良これを後に論ず。異邦の人すらなお白板天子(玉璽なき自称天子、白板は告命なき白い板)を議す。国朝、赫々たる神明の裔、豈(あに)、その礼を重んぜざるべけんや。これ祖宗の法を蔑(なみ)して、その始めを正さざるなり……」と。
この事件は、平宗盛が安徳天皇と神器をもって西に走ったので、後白河法皇が高倉天皇の第四子尊成親王を立てて天皇とし、神器なしで、ただ参議の藤原修範を伊勢に派遣して大神宮に新しく天皇を立てたと報告した事件を言う。これがいわば「白板天皇」の後鳥羽帝で、藤原兼実はこれを「殆為二嘲弄之基一」と記し、冬良は「先帝(安徳)筑紫へ率ておわしければ、こたみ初て三の神宝なくて、めずらしき例に成ぬべし」と記している。これは、当時の人にはショッキングな大事件であったらしく、『源平盛衰記』等でも盛んに論じられている。従って義時・泰時も、口にはしなくても当然にこのことを知っており、その心底のどこかに「後鳥羽上皇は白板天皇にすぎない」という意識はあったであろう。それを可能にしたのは、後白河法皇である。
さらに、仲恭天皇(九条廃帝)から後堀河天皇への譲位の強制・新帝擁立も、全く前例がなかったことではない、とも言い得たし、白板系を廃して正統にもどしたとも主張し得たであろう。というのは、後堀河天皇の父の後高倉院は後鳥羽天皇の兄だからである。同時に、この「白板天皇」にすぎず、「「殆為二嘲弄之基一」という状態は後鳥羽上皇にも作用して、少々異常な高姿勢を幕府に対してとらせたとも見られる。
御承知のように、保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。
さて、山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。 
ここで水戸学は、すべての原因が「その始めを正さざる」にあったとして、批判は専ら後白河法皇に向けている。
後高倉院について説明しておこう。 行助(こうじょ)親王が、後鳥羽天皇の兄である。後鳥羽上皇が何故兄の行助親王をさしおいて天皇になったかはよく判らない。多分、そうしたのは後白河法皇であろう。行助(こうじょ)親王が後高倉院となる。つまり行助親王は、天皇の位につかないでいきなり法皇の位についたのである。
なお、仲恭天皇は、順徳天皇の子であるが、天皇の位についたのかそうでないのかよく判らない人である。順徳天皇から位を譲られたにもかかわらず即位式が行なわれていない。だから、順徳天皇がそのまま天皇をつづけていたとも言い得るであろう。仲恭天皇は明治初年に天皇に認定されたが、後堀川天皇の即位とともに廃帝された・・・という扱いになっている。行助親王の子、茂仁王が後堀川天皇になって一件落着となった。
ちなみに、安徳天皇は、よく知られているように、源平の戦いで海に身を投ぜせしめられ、海の藻くずと消え去った。鳥取に落ちのびたとも言われている。
80高倉天皇――81安徳天皇
        後高倉院 →86後堀川天皇
       82後鳥羽天皇――83土御門天皇
               84順徳天皇―→九城廃帝(85仲恭天皇)
なぜ泰時だけがべタホメか
さらに泰時は、京都に進撃した総司令官であり、そのうえ朝廷から立法権を奪って勝手に『関東御成敗式目』という法律を発布した。 
こう見てくると、天皇のみ正統でこれが絶対なら、泰時は日本史上最大の叛逆者であり、どのような罵詈讒謗が加えられても不思議でないはずである。
ところがまことに不思議なことだが、泰時への非難はまさにゼロに等しい。「皇国史観」の源流とされる水戸学でも、当然、 泰時への批判は実に峻烈になりそうなものだが、奇妙なことに「ベタホメ」なのである。 
そうした考え方はまさに孟子の革命論――天意=人心論――であろう。「白板天子」後鳥羽上皇への「嘲弄」と、その失徳と失政は、結果として孟子のいう「獺(だつ)(かわうそ)なり、せん(亶に鳥)(とび)なり」となって人民を幕府の方へ追いやってしまったので、幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」という形になった。それなのに義時は終生「位、四品を踰えず」で自らが王になろうとする野心なく、専ら仁政を施したのは立派で、「天下に功無しと請うべからず」なのである。義時でさえこうであれば泰時が「ベタホメ」になって不思議ではない。
『貞永式目』は徳川時代にも「標準」であり、広く民間に浸透し、明治五年までは寺子屋の教科書で、明治二十二年の憲法、二十三年の民法公布まで日本人の「民の法」の基本となっていた。だが『貞永式目』という法の公布には、天皇は一切タッチしていない。日本人は長いあいだ幕府の執権が定めた法の下にいたわけで、この時以降を「幕府法の時代」と規定してよいであろう。
その意味では確かに「ベタホメ」は当然なのだが、これを「人神共に憤る」という後鳥羽上皇の項の批判と対照すると、日本人の政治意識とは全く不思議なものだと思わざるを得ない。というのは天皇からの奪権者への「ベタホメ」は、天皇制の否定のはずだからである。
だがさらに澹泊(たんぱく)は、承久の乱における泰時の態度には、ただ「弁護のみ」で、次のように記している。「承久の変に、義時を諫争し、言、切なりといえども聴かれず。その、兵を将(ひき)いて王師に抗するや、遂に乗輿を指斥する(仲恭天皇を退位させたこと)に至れるは、その本心に非ず、誠に已むことを得ざればなり。四条帝崩ずるに至りて、則ち籤(くじ)を探りて策を決し、土御門の皇胤を翊戴(よくたい)す。乃心(たいしん)王室(心、王室にあり)、亦従(よ)りて知るべきなり。源親房謂う『承久の事は、その曲、上に在り。泰時は義時の成績を承け、志を治安に励み、毫も私する所無し』と。これ、以て定論となすべし」と。
日本人の心底にある理想像
『神皇正統記』の著者の北畠親房・・・・この南朝正統論の「生みの親」こそ、最も徹底した泰時批判論者であって不思議ではない。それがやはり、「後鳥羽上皇がよろしくない」であり、「泰時は立派だ」としている。
まことに不思議なのだが、その立場からして当然に泰時に徹底的な批判を加えて然るべき人間が、すべて「泰時だけは別」としている。 
一体この不思議はどこから出たのであろう――それを探究するのが本稿の目的の一つである。というのは、その国の歴史において、彼のような位置にありながら「ベタホメ」にされるということは、日本人の心底にある、ある種の「理想像」を彼が具現していたと思われ、その理想像を形成した「思想」と彼の制定した「法律」こそ、以後の基準になっていると思われるからである。
「将軍なき幕府」の自壊を待つ
後鳥羽上皇が期待していたのは「幕府の自壊」であった。事実、後鳥羽上皇が泰時に等しい「徳」と「政治力」をもっていたらこれは可能だったかも知れない。というのは幕府の中心たるべき源実朝には子供がなく、その「象徴的中心」は失われようとしていた。義時は政子を京都に派遣し、実朝の後継者として皇族将軍を東下させることを院の当局者と密約していた。いわば義時自身、自分と朝廷との間に立ちうる「仲介的人間」を欲していたわけである。だが実朝が死ぬと院はこの件をうやむやにし、中心を失わせて御家人相互を争わせ、その間に、個々に朝廷側に寝返らせて、北条政権を崩壊させようとした。
そこで実朝弔問と同時に摂津の国長江・倉橋両荘の地頭改補を幕府に命じた。同荘の領家は、院の寵愛する伊賀局亀菊のものであったが、地頭が亀菊の命に従わなかったというのがその理由である。ところがこれは幕府にとって重要な問題であり、もしこれが前例になれば、地頭への任免権は実質的に朝廷に奪われる。従って、勲功の賞によって与えられた地頭職を罪科なく免ずることはできず、義時は、弟の時房に一千騎をさずけて上洛させ、院に拒否を回答させた。一種の力の誇示による圧力であろう。こうなると半ば決裂状態であり、院による皇族将軍の東下などは期待できない。そこで頼朝の外孫の左大臣九条道家の幼児三寅を将軍に迎えることにした。
無条件降伏論者の泰時
後鳥羽院は、北面の武士を中心に、寺社の僧兵や神人をも誘い、さらに承久三年四月に順徳天皇が仲恭天皇に譲位してこれを助けるという体勢をとった。その上で、在京中の御家人を味方に誘い、幕府と親しかった西園寺公経(きんつね)を幽閉し、同年五月十五日、諸国に義時追討の院宣・宣旨が下され、ここに承久の乱は勃発した。いわば仕掛けたのはあくまでも朝廷側である。 
こうなると、鎌倉側も早速に対応策を考えねばならない。しかし泰時はこのときまず「無条件降伏論」を展開したという。 
果して事実か否かはわからない。泰時と明恵上人が非常に親しく、共に尊敬し合う間柄であったことは、両者が交換した和歌が残っているから事実であろうが、『明恵上人伝記』の中に記されていることが、ことごとく事実ではないかも知れぬ。しかし、この泰時の態度は、他の資料と対比して矛盾がないことも事実なのである。彼はあらゆる点で「消極論」であり、もし上皇が討伐軍を東下させるなら、箱根・足柄を防御線としてこれを防ごうと提案している。
そしてこの点から見れば、泰時の「無条件降伏論」なるものも、後に足利尊氏がとった方策と変らないのではないか、とかんぐることも可能なのである。いわば、これほど恭順の意を表しているのに、なお朝廷が高圧的に出れば、御家人は「明日はわが身か……」と思って逆に団結する。その団結したところで、長途の遠征で疲れた敵を箱根の山岳地帯で迎撃すれば必ず勝つ。勝った上で院宣・宣旨の撤回を求めれば、天皇と戦場で直接的に対決することは避けられる。もしこれが真相なら、泰時は相当な策士ということになるであろう。
賽は投げられた 
いずれにせよ軍議では、無条件降伏論も迎撃論も斥けられ、出撃論が採択された。しかしこれは必ずしも多数意見でなく大江広元が強く主張し、尼将軍政子がこれに同調したためと思われる。 
政子の名演説の「名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし」 
評議の結果は泰時・時房を大将軍とし、武蔵の軍勢が集まりしだい出撃ときまり、ついで遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の諸国に飛脚をとばして御家人の参向を求めることになった。これがいわゆる東国だが、当時の幕府の直接的な支配圏はわずかこれだけである。
この場合は、朝廷の切り崩しが成功するか、幕府側がこれをはねのけて団結するかが勝敗の分れ目であり、その点から見れば、武士団を「戦争へと踏み切らせる」ことが第一のはずである。大江広元はこの点をよく理解していた。彼は義時に向って即時出撃を強く主張し、その結果、泰時は軍勢の到着を待たず、二十二日払暁京都に向って進撃することになった。藤沢を出たとき、従うものは子息時氏以下十八騎にすぎなかったという。まさに「賽(さい)は投げられた」であったろう。
このようにして泰時は出発した。しかし彼は途中で引返してきて、上皇が自ら出陣したときに取るべき態度を義時にたずねた。これは彼にとっても、武士団にとっても大きな問題であったろう。義時は次のように答えたという。
「かしこくも問えるおのこかな。その事なり、まさに君の御輿に向いて弓を弓くことはいかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ、弓のつるをきりて、ひとえにかしこまり申して、身を任せたてまつるべし。さはあらで、君は都におわしましながら、軍兵をたまわせば、命をすてて千人が一人になるまで戦うべし」と。 
おそらく、このことを武士団が知ったら士気の低下を招くであろう。というのは「こういう事態になったら無条件で降伏である」という前提で戦争ははじめられるものではない。それを知れば、戦う気力は失せてしまう。さらにこのことが裏切者を通じて敵にもれれば、敵ははじめからそれを作戦として用いるであろう。それを避けるためにこのような方法をとったとすれば、泰時は決して、単純なる「忠誠の人」とはいえず、この点では「尊氏の出家」以上の政治力をもった人間かも知れないのである。 
第四章 「承久の乱」の戦後処理

 

6月16日、泰時は、六波羅の屋敷に入って占領行政を開始した。泰時が18騎とともに鎌倉を進発してから21日目のことである。さっそく上皇は泰時に勅使を派遣し、この討幕の挙は謀臣の計画で自分の意思でなく、すべては幕府の申請のまま宣下すると申入れた。
終戦処理の最高方針を決定したのは義時であったが、義時は、実に巧妙なやり方で終戦処理を行なった。詳しくは省略するが、まず後鳥羽上皇に部下を処分させた。まず「上下」を分断してから「上」の処分にかかった。この辺は確かに辛辣きわまりない。彼の意図は、幕府の要求がそのまま通る朝廷へと改組することであった。
そして、7月9日、新天皇(後堀川)が決るやいなや、三上皇の配流が決った。7月13日のことである。土御門は早く世を去ったが、その後、二上皇の還京運動が起っている。だが泰時は頑としてこれを拒否している。
なお、幕府は、朝廷側に味方した公家・武士の所領を調査して没収した。3000余ケ所にのぼったとういう。
しかし、泰時は、厳しいばかりではなかったようだ。大体において処罰の嫌いな人間であったようで、のちに義時の後妻の伊賀氏が、義時の死後、泰時を廃して自分の子政村を執権にしようとした陰謀のときでも、処刑者なし、首謀者三人への幽閉と遠流のみで、他は一切処罰なしで事をおさめている。承久の変で処刑者が少なかったのもおそらく彼の建議で、また彼は、敵方の人間を助けようとさまざまに努力している。
明恵上人との出会い
そういう彼であっても、敗残兵の小部隊で所々に蟠踞して盗賊化すれば治安上放置するわけにはいかない。ところが栂尾の山中に多くの軍兵が隠れているという風説があり、そこで安達景盛が山狩りを行ない、どうも意識的に軍兵をかくまっているらしい僧侶を見つけて逮捕し、これを泰時の面前に引きすえた。これが高山寺の明恵(みょうえ)上人であった。泰時は驚いて明恵上人を上座にすえ、この非礼にどうしてよいかわからぬ体であった。上人は静かに口を切ると次のように言った(くわしくは後に全文を引用するが、まずここではその要旨を記しておこう)。
「高山寺が多くの落人を隠して置いたという風説があるそうだが、いかにもその通りであろう。大体私は、貴賤で人を差別しようという心を起すことさえ、沙門にあるまじきことと考え、そういう心をきざしても、それを打消すことにしている。また人から何かの縁で祈祷を頼まれても、もし祈って助けることができるなら、何よりも先に一切衆生が三途に沈んで苦しむのを助けるべきで、夢のような浮世のしばしの願などを祈ることは、大事の前の小事だから受けつけたことはない。このようにして歳月をすごして来たから、私に祈ってもらったなどという人はこの世にはいないであろう。しかしこの山は、三宝寄進の所で殺生禁断の地である。鷹に追われる鳥も、猟師に追われる獣も、みなここに隠れて助かる。では、敵に追われた軍兵が、かろうじて命を助かり、木や岩の間に隠れているのを、わが身への後の咎を恐れ、情容赦なく追い出し、敵に捕えられ命を奪われても平然としておられようか。私の本師釈迦如来の昔は、鳩に代って全身を鷹の餌とし、また飢えた虎に身を投げたという話もある。それほどの大慈悲には及ばないが、少しばかりのこともしないで、よいであろうか。隠し得るならば、袖の中にも袈裟の下にも隠してやりたいと思う。この後も助けよう。もしこれが政治のために困ると言うなら致し方ない。即座に私の首をはねられたらよかろう」
泰時は深く感動し、武士の狼籍を詫び、輿を用意して高山寺に送りとどけた。この話はどこまで事実かわからない。しかし明恵上人と泰時との運命的な出会いが、彼が六波羅に居たときのことであったのは事実、また泰時が心の底から尊敬したのは明恵上人であり、同時に、泰時に決定的な感動を与えたのも明恵上人であったであろう。これは二人が交わした歌にも表われている。天皇も上皇も泰時には絶対でなかった。そして絶対だったのは、おそらく明恵上人なのである。 
第五章 明恵上人の役割

 

明恵上人に感動して
明恵上人と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいる。しかし明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵上人は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵上人を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。
ところがこの明恵上人に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。
明恵上人の泰時への影響は実に大きく、明恵の弟子喜海が著わしたといわれる『栂尾明恵上人伝記』によると後の泰時の行動原理はすべて明恵上人から出たもので、彼の時代に天下がよく治まったのも、彼自身が生存中も死後も前述のように「ベタホメ」であるのも、すべて明恵の教えに従ったためだと言うことになる。こうなると『貞永式目』にも明恵上人の思想が深く反映していることになるが、これが果して事実であろうか。
事実とすれば、どのような思想に基づく「法」が、徳川時代にも安積澹泊(あたかたんぱく)の言うように民の標準であり、明治の民法典論争から民法の制定まで、現実に日本人を規制していたのであろうか。これはわれわれの社会に最も長く存続した法であり、また生活規範であったから、現実には今なおわれわれの「本音の規範」の基となっているがゆえに大きな問題と思われる
明恵上人が生れたのは承安三年(一一七三年)、親鸞も同じ年に生れているから二人は同年である。いわばこの対蹠的とも言える二人は同じ激動の時代を生きていた。それは宗教的にも政治的にも新しい日本が新しい規範と秩序のもとに生れ変わる「生みの苦しみ」の時代であり、この二人の思想家が共にその後の日本に決定的に影響を与えた。
栂尾(とがのお)の高山寺の経蔵に伝わるおびただしい数の古典籍は、800年の時間に耐えて来た中世の総合図書館の相貌を今に示している。その中心はいうまでもなく明恵とその弟子たちが形成したものであるが、それらは決して栂尾の地に自然に集積したものではない。一冊、一巻に明恵の遍歴の生涯のあとがしるされ、弟子たちの随従のあとがしのばれる。そうした典籍の森の中に立つと、鎌倉時代の初頭に成立して行った一つの信仰集団の緊張と豊饒がひしひしと伝わって来る。その核といった明恵は、いわば硬質の存在としての仏教者である」・・・・と。事実、その蔵書目録の中の明恵上人による書写と著作の量もまた驚くべきものであり、著書だけで七〇巻に及ぶという。
政治的変革の誘発者 
『古今著聞集』や『沙石集』にある説話は当時多くの人が知っていた明恵上人の面影であろうが、それらはまことに「この世離れ」のした話であって、世人にこのように映じた人から直接的な政治的影響を受けるなどとは、まず、考えられないからである。
では一体こういう人が、大きな政治的・社会的影響力を持ち得るのであろうか。それはありそうもないことに思われるが、最も非政治的な人間こそ、大きな政治的変革を誘発し得るのである。 
西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。 
この場合それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。 
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。 
第七章  明惠の「裏返し革命思想」

 

自然的秩序への絶対的信頼
政権を維持するにはどうしたらよいか 
「国会で多数を維持すればよい」 
「では、多数を維持するにはどうすればよいか」 
「国民の支持を得ればよい」 
では、以上のすべての支持を得るにはどうすればよいか。すべての人がこうあってほしいという期待に答えればよい、それだけになる。ではどうすればそれが可能なのか。
そこに出てくるのが『明恵上人伝記』の中の、覚智伝承ともいうべき部分である。
秋田城介入道大蓮房覚知(あきたじょうのすけにゅうどうだいれんぼうかくち)語(かた)りて云(い)はく、
「泰時(やすとき)朝臣(あそん)常(つね)に人(ひと)に逢(あ)ひて語(かた)り給(たま)ひしは、我(われ)不肖(ふしょう)蒙昧(もうまい)の身(み)たりながら辞(じ)する理(り)なく、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下(てんか)を治(をさ)めたる事(こと)は、一筋(ひとすぢ)に明恵上人(みょうえしょうにん)の御恩(ごおん)なり。其(そ)の故(ゆゑ)は承久大乱(じょうきゅうのたいらん)の已(い)後(ご)在京(さいきょう)の時(とき)、常(つね)に拝謁(はいえつ)す。或時(あるとき)、法談(ほうだん)の次(ついで)に、『如何(いか)なる方便(ほうべん)を以(もつ)てか天下(てんか)を治(をさ)むる術(じゅつ)候(さうら)ふべき』と尋(たづ)ね申(まう)したりしかば、上人(しょうにん)仰(おほ)せられて云(い)はく、『如何(いか)に苦痛(くつう)転倒(てんどう)して、一身(いっしん)穏(おだや)かならず病(や)める病者(びょうじゃ)をも、良医(りょうい)是(これ)を見(み)て、是(こ)れは寒(かん)より発(おこ)りたり、是(こ)れは熱(ねつ)に犯(をか)されたりと、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)って、薬(くすり)を与(あた)へ灸(きゅう)を加(くは)ふれば、則(すなは)ち冷熱(れいねつ)さり病(やまひ)癒(いゆ)るが如(ごと)く、国(くに)の乱(みだ)れて穏(おだや)かならず治(をさま)り難(がた)きは、何(なん)の侵(をか)す故(ゆゑ)ぞと、先(ま)づ根源(こんげん)を能(よ)く知(し)り給(たま)ふべし。さもなくて打(う)ち向(むか)ふままに賞罰(しょうばつ)を行(おこな)ひ給(たま)はば、弥ゝ(いよいよ)人(ひと)の心(こころ)かたましく(ねじけて)わわく(みだりがましく)にのみ成(な)りて、恥(はぢ)をも知(し)らず、前(まへ)を治(をさ)むれば後(うしろ)より乱(みだ)れ、内(うち)を宥(なだ)むれば外(そと)より恨(うら)む。されば世(よ)の治(をさ)まると云(い)ふ事(こと)なし。是(こ)れ妄医(もうい)の寒熱(かんねつ)を弁(わきま)へずして、一旦(いったん)苦痛(くつう)のある所を灸(きゅう)し、先(ま)づ彼(かれ)が願(ねが)ひに随(したが)ひて、妄(みだ)りに薬(くすり)を与(あた)ふるが如(ごと)し。忠(ちゅう)を尽(つ)くして療(りょう)を加(くは)ふれども、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)らざるが故(ゆゑ)に、ますます病悩(びょうのう)重(かさな)りていえざるが如(ごと)し。されば世(よ)の乱(みだ)るる根源(こんげん)は、何(なに)より起(おこ)るぞと云(い)へば、只欲(ただよく)を本(もと)とせり、此(こ)の欲心(よくしん)一切(いっさい)に遍(あまねく)して万般(ばんぱん)の禍(わざはひ)と成(な)るなり、是(こ)れ天下(てんか)の大病(たいびょう)に非(あら)ずや。是(こ)を療(りょう)せんと思(おも)ひ給はば、先(ま)づ此(こ)の欲心(よくしん)を失(うしな)ひ給(たま)はば、天下(てんか)自(おのづか)ら令(れい)せずして治(をさま)るべし』と云々(うんぬん)」
この言葉は、「明恵上人はこのように語った」と泰時が語っているわけで、明恵上人の言葉を聞いたままに記したものではない。その上、さらにそれを大蓮房覚智がだれかに語り、それが覚智伝承となって世に伝わってこの『伝記』に収録されたのだから、泰時の受取り方、さらに覚智の解釈その他が当然に入っているであろう。そのため大変に「通俗的訓話」のようになってはいるが、その基本までもどってみると明恵上人の考え方は、実にユニークだといわねばならない。だが両者の考え方が混淆していると見て、これを一応、明恵―泰時政治思想としておこう。
ユニークというのは、国家の秩序の基本の把え方で、明恵上人は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ている点である。明恵上人に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵上人その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。 
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は『華厳経(けごんきょう)』に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に『華厳経』の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」
確かに現代人は、明恵上人の世界を共有することはむずかしい。しかし明恵上人が、真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。
なぜこれが「裏返し革命思想」といえるのか 
固有法と継受法
革命は「西欧型革命」と「中国型革命」に大別できるが、義時、泰時の行動は現象的にはむしろ「限定的西欧型革命」というべきだ。 
天皇から権力を奪取してこれを虚位に置き、『貞永式目』などという法律を武蔵守にすぎない泰時が天皇の裁可も経ずに一方的に公布・施行してしまうなどという革命は、中国型革命にはない行き方だからである。では西欧型革命なのであろうか。現象的・限定的にはそう見えるが、決してそうは言えないのは「明恵―泰時政治思想」が、西欧型革命の基本とは全く違うからである。
西欧型革命の基本型ともいうべきヨシヤ王の申命記革命について言えば、それはいわば神殿から出てきた「神との契約書」の通りに社会を基本から変えていこうという革命である。この行き方は、その契約書に記されている「言葉(デバリーム)」が絶対なのであり、現に存在する「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」が絶対なのではない。『申命記』はへブライ語聖書の書名では「言葉(デバリーム)」であるが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」はこの「言葉(デバリーム)」で示されている通りに再構成すべき対象で、この「言葉」の方が絶対で、現存する秩序は絶対ではないのである。この基本的な考え方の違いは今も欧米と日本との間にある。
では「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を絶対化し、「言葉」によって構成された世界を逆に否定するという明恵の「裏返し革命」が、どうして「限定的西欧型革命」のような形になったのであろうか。
幕末の国学系の歴史家伊達千広は、その署『大勢三転考』において、日本の歴史を三期に区分し、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」とした。面白いことに彼もまた明恵上人と同じように紀州の出身であり、明治の政治家陸奥宗光の実父である。
この区分は、政権の交替でなく、政治形態という客観的な制度の変革による本格的な歴史区分であり、それをそのまま歴史的事実として承認しているからである。この見方は、天皇親政を日本のあり方と規定し、幕府制を歴史の誤りとする皇国史観的見方とは基本的に相容れない。
彼の三大区分のそれぞれを簡単に記せば「骨(かばね)の代」とは、古代の日本の固有法文化に基づくもので、その基本は、国造・県主・君・臣のように居地と職務が結合した血族集団を基礎とする体制で、これを身体にたとえれば氏(うじ)が血脈で骨(かばね)は骨に相当し、その職務は、血縁的系譜の相承で子孫に受けつがれる。この「骨(かばね)」は天武天皇13年(684年)に廃され「職(つかさ)の代」となる。いわば朝廷から「官職」を与えられてはじめて地位と権限とが生ずる時代である。この684年とは、年代記的に記せば、681年に律令(浄御原令)がつくりはじめられ、682年に礼儀・言語の制が定められ、683年に諸国の境界がきめられ、684年に諸氏の族姓を改めて八色の姓とされ、685年に親王・諸王十二階・諸臣四十八階が定められている。これらの制度の変革が彼のいう「職(つかさ)の代」のはじまりであろう。そして第三の「名の代」は文治元年(1185年)、源頼朝が六十余州総追捕使に任ぜられた以後の時代で、「名」とは封建制下の大名・小名の時代である。
無理があった律令制度
「継受法」、この言葉は今更説明の必要はないと思うが『広辞苑』では「他国の法律を自国の国民性・民族性に照らして継受した法律」とされ、「固有法」に対立する概念とされている。そして「社会のあるところに必ず法あり」ならば、中国の法を継受する以前にも何らかの法が日本にあったであろう。それが「骨(かばね)の代」の法だ。 
大陸の文化を「継受しようという意志」はほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布される。 
幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。
だが大化の改新は、その基本である「公地公民制」があってはじめて機能するわけであり、これが崩壊すれば中央の機能はたちまち麻痺してしまう。そしてこの制度ではまず、唐を下敷にしてペイパープランがつくられ、そのプランの方へ当時の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押しこんで行くという形にならざるを得ない。これは相当に無理なことであり、これを強行しようとすれば否応なく神権的な啓蒙的絶対君主が必要となり、同時にこの体制が、決して唐の模倣でなくわが国本来の体制であるとしなければならない。いわば、外国を絶対化し、その法と体制を継受しているのに、「王政復古」で日本本来の姿に戻ったのだとしなければならないのである。大化元年の詔に「当(まさ)に上古聖王の跡に遵(したが)いて天の下を治め、復当に信あって天の下を治む可し」とあり、この行き方もまた明治と変りはない。またそれを遂行した天皇が「天智・天武」等神権的名称で呼ばれることも、明治が生み出した「現人神天皇制」と共通している。
これは厳密の意味では、西欧型革命でも中国型革命でもない。ただ、ペイパープランの「言葉」の方へ「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を押し込んでいくという現象は似ている。しかし西欧型革命は、いかに新しい理論を基にしていようと、その理論がその社会から生れたものなら、その社会の現実に根をもっているが、外国に出来ている伝統的体制をほぼそのままに輸入して強行することは、その社会の「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」に基礎を置いているとはいいがたいから無理がくる。もちろん、法が輸入されるときは、体制も宗教も文化も共に輸入されてその社会に作用し、その社会の文化的転換を引き起す。だがそのような転換によって引き起された新しい文化は、その体制と法とが予期したものではない。律令は武家という「新しい階級(ニュー・クラス)」とそれを基にした「武家文化」などというものが出てくることを全然予想していなかった。
新しい階級が出て、新しい秩序が要請されるなら、律令を改定すればよさそうなものだが、継受法はそれができないのが普通である。理由はまずはじめから無理があるから、絶対的権威をもって強制的に施行し、そのため「現人神の法」とされるか、または「法自体」を「物神化」してこれを絶対としなければならないからである。そのため律令も急速に「名存実亡」化していく、いわば社会に「名法」と「実法」ができてしまって、人びとは通常は「実法」に従っている。そしてそれをだれもあやしまなくなる。これは「物神化」している新憲法にもある現象である。たとえば「平和憲法を絶対に守れ」といっている私大の学長に、では八十九条を字義通りに遵守し、それに定められた通り実施してよろしいかといえば、簡単に「よろしい」とは言えないであろう。
条文は次の通りである。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」。これによれば公金は、公の支配に属さない教育事業に支出してはならず、従って私立大学にも支出してはならないはずだが、そういえばおそらく、「それは別である」とさまざまな「理論」を述べうるであろう。それは結局この条項の一部がすでに「名存実亡」しているのであって、この「名法」とは違う「実法」が当然のこととして社会で行なわれているということである。人はそれを不思議としない。が、そのため憲法を改正しようとはいわない。ただこの場合、少々こまるのは、もし「私大をつぶしてやれ」という政治家が出てきて、この条項を盾に、「私大への国家補助は憲法違反だ」といって打ち切れば、「憲法を絶対に守れ」と主張している者はこれに対抗できないという問題を生ずる。そしてすべての法が「名存実亡」となれば、支配者はすべての点で、自己に都合のよいように名法・実法の使いわけができて、これは「無法よりこまる」という状態になってしまう。
名存実亡化する継受法
律令には同じことがあり、さらに公地公民制は、裏返せば、すべてに利権が附属する利権制国家になりうる。事実、律令制はそうなって行った。というのはこの制度が本当にその通りに実施されれば、口分田を如何に勤勉に耕したとて、それによって得た富で隣地を買って財産をふやすことはできない。しかし官職につけば必ず利権はついてまわり、またさまざまな不正を行ないうる。(名存実亡:表向き言っている事と実体とが合わないこと)
律令制は一面では利権制であり、同時にそれが公地公民制の崩壊へとつながった。 
公地公民制は原則的には土地の売買は認めておらず、またこれは寄進することもできないはずである。ところがこれが行なわれておりそこで天平18年(746年)これを改めて禁じ、5月に再び禁じた。しかし現実には、つまり「実法」としては行なわれており、甚だしい例には、私有の墾田を公地として官に売り渡している例もある。そして天平勝宝元年(749年)には諸大寺の墾田を制限し寺院に土地を寄進することを禁じているが、それも守られていない。
自己の伝統的な「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を無視した継受法には、いかに神権的権威でこれを施行しても「名存実亡」となり、同時にその間隙を縫って利権が発生し、いかんともしがたい様相を呈する。
その原因は日本的自然秩序を無視した律令という継受法の「名存実亡」にある。そこで、まず「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という発想になる。この明恵―泰時的政治思想の背後にはこのような歴史的体験があり、それがさらに生々しく、承久の乱の前夜に再現したわけである。
流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいかと思われるが、これはまさに明恵の発想方法・「あるべきようは」そのものではないかと思う。日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いていると考えているが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という明恵の発想方法に今こそ立ち戻らなければならない。
上述のように、やむなく「継受法」を採用しなければならないのは、国としての力関係による。幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。大陸の文化を「継受しようという意志」は歴史的にほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布されるのである。そのことが間違っていたのではない。そうではなくて、それが「名存実亡」となったとき、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち、どう逆転(裏返し)できるかである。
天皇は「名」であり武士は「実」である。律令は「名」であり式目は「実」である。「名」を捨てて「実」に従わなければならない。「名」より「実」をとるべきである。それが二元論の常識であろう。「名」より「実」をとるという逆転、裏返しといってもいいが、それが西欧型革命であろう。しかし、明恵の「裏返し革命」は違う。単なる逆転、裏返しではなくて、もういっぺん「否定の否定」をやるのである。「名」ではなくて「実」である。しかし、なおかつ、「実」でなくて「名」である。「名」であると同時に「実」である。「名」でもないし「実」でもない。要は、流動的知性が重要なのである。 
第八章『貞永式目』の根本思想

 

自然的秩序絶対の思想
私は時々、いま日本人が「泰時のような状態」に置かれたらどうするであろうかと空想する。 
いまもし新憲法も消え、それに基づく政治制度も消え、西欧型民主主義も消えてしまって、「全く新しい思想を自ら考え出し、それに基づく法哲学を創出し、それによって今までの人類にない新しい法律と制度を作り出して制定し、実施しよう」ということになったら、人びとは一体どうするであろうか。 
人間が、何か新しい発想で新しいことをはじめようと思っても、過去を全く無視することはできない。その発想を体系化しかつ具体化するための「思想的素材」は過去と同時代に求めざるを得ない。しかしこのことは、他国の法と体制をそのまま継受することとは全く別である。継受は決して新しい発想を自己の中に創出したのでなく、自己と無関係のあるものを見て、それに自己を適応させようとしただけである。この点、明恵―泰時政治思想は前者であり、まず「自然的秩序絶対(ナチュラル・オーダー)」という思想を自ら創出し、それを具体化するための素材を同時代と過去に求めたにすぎない。
まず「今ある秩序」を「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そしてやがて自らが作り出す『式目』の基になる体制も、あるがままにあって一向に差しつかえないわけである。朝幕併存は「おかしい」と日本人が思い出すのは徳川期になって朱子の正統論が浸透しはじめてからであり、それまでは、それが日本の自然的秩序ならそれでよいとしたわけである。これが大体、明恵―泰時政治思想の基本であろう。だがその基本を具体化し、現実をそれで秩序づけるとなれば、この基本を具体化する素材が必要である。そしてその基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違ってくる。これはもしも今、泰時のような状態に置かれたら、その基本的発想は自ら創出しても、それを具体化する素材は西欧の政治思想に求めるであろうというのと同じである。このことは今の段階では、政治家よりむしろ経営者の行き方にあるが――。
宗教法的体制は生まず
前章で記したように、明恵上人は泰時に、この自然的秩序に即応する体制を樹立するには「先づ此の欲心を失ひ給はば、天下自ら令せずして治るべし」であるといい、その背後には、「政治は利権である」が当然とされていた律令制の苦い歴史的体験があるであろうとのべた。この体験も一つの素材であるが、つづく明恵上人の言葉には明らかに、孔子・老子・荘子・孟子等の考え方が入っている。 
たとえば『孟子』は「心を養うには寡欲が最良の方法である。その人となりが寡欲であれば、たとえ仁義の心を失っても、失った所は少なくてすむ。その人となりが多欲であれば、仁義の心があるとしてもきわめてわずかである」と説き、また老子は「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」といい。荘子も「聖人の静なるや、静は善なりと曰うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり。……それ虚静恬淡、寂莫無為、天下の平(和)なるにして道徳の至(きわみ)なり」としている。この考え方の背後にあるものは、「自然法則は道徳法則である」という発想だから、それは先験的なものであり、「無欲」な自然状態になれば、この先験的道徳法則が発見できるという考え方であろう。後にこれを体系的な哲学にするのは朱子であろうが、明恵上人の考え方はもちろん朱子学的ではなく、むしろ、それへ至る思想の日本的・仏教的解釈と見るべきであろう。
また明恵上人は春日大明神をも信仰しており、この点では最も正統的な三教合一論者であったといえる。そして喜海の記すところでは、大乗・小乗はもとより外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵(じょうえ)から発したものだと固く信じていたらしい。
しかし、この考え方が政治的に機能するときは、何らかの宗教を絶対化した「宗教法的体制」にはならない、そのことが、まさに泰時の政治思想さらに幕府の政治思想の基本となっている。従って泰時が明恵上人の影響を強く受けたことは日本が「仏教体制」になったということではないし、華厳教学をもって日本の「統治神学」となし、他はことごとく排斥するということでもない。 
朝廷の清原家を別にすれば、儒教を研究し講義するのもまた僧侶であった。 
儒者が公的な位置になったのは徳川時代からであり、有名な林羅山も身分では僧侶で法印であり、その子春斎も法眼であった。 
明恵上人が儒教の教えをとき、『貞永式目』に儒教についての規定がなくても、当時の常識では別に不思議ではない。
人間は自然の一存在 
従って新しい秩序のための材料として儒教的発言が明恵上人の口から出て別に不思議ではない。 
「民を視ること傷めるが如し(傷病者を見るように)」は文王への孟子の評、また前述のように「無欲にして静ならば、天下将(まさ)に自ら定まらん」は『老子』、また「聖人の静なるや、静は善なりと曰(のたま)うが故の静なるに非ず。万物の以て心を撓(みだ)すに足るもの無きが故に静なり」は『荘子』の言葉である。また孟子も寡欲が仁と義の前提であるとしている。これは、人間を自然の中の一存在ととらえて、自然の秩序が同時に個人の道徳律の基本であり、それがまた社会の秩序の基本であるとする中国の基本的思想から出た考え方である。しかし人間は知覚作用があるから、これが経験的世界に反応する。それが「情」であり、心が外物に触れて動くと情が働いて「欲」が生ずる。この「欲望」に動かされると、人間は自然の秩序を基本とする道徳律からはずれる。そこで心が外物に動かされず、欲を起さなければその行為はおのずから道徳律にかない、それが自然的な秩序を形成するという考え方である。そしてこの状態になれば、人間の徳によって宇宙の秩序と一体化し、それによって社会は整々と何の乱れもなく調和して機能する。この状態が「子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共(めぐ)るが如し」という『論語』の言葉にもなる。
明恵の「あるべきようは」
では人は「無欲で無為」であればよいのか。さらに全員が無欲になって隠遁してしまえばよいのか。面白いことに明恵上人は決して無為を説かなかった。
「或時上人語りて曰はく、『我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にて有らんと申すなり。聖教(しょうぎょう)の中にも行すべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計(はか)り資(たす)かれと説かれたる聖教は無きなり。仏も戒を破って我を見て、何の益かあると説き給へり。仍(よっ)て阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)と云ふ七字を持(たも)つべし。是を持(たも)つを善とす。人のわろきは態(わざ)とわろきなり。過(あやま)ちはわろきに非ず。悪事をなす者も善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきてまげて是をなす。此の七字を心にかけて持(たも)たば、敢(あ)えて悪しき事有(あ)るべからず』と云々」・・・と。
また『遺訓抄出』には「又云、我は後世たすからむと云者にあらず。たゞ現世先づあるべきやうにてあらんと云者也。云々」とあり、この言葉は座右の銘のように絶えず口にしたらしい。この考え方は浄土教の信者とは方向が全く違う。
元来この言葉は、僧に対して、それぞれの素質に応じた行(ぎょう)をして解脱を求めるように、その行を「あるべきように」行なえといった意味ではなかったかと思われるが、後に、一般人すべてに共通する規範として受取られるようになった。高山寺所蔵の『伝記』の断簡に「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣下のあるへきやう、僧は僧のあるへきやう、俗は俗のあるへきやう、女は女のあるへきやうなり。このあるへきやうそむくゆへに一切あしき也」と記されているのは、このように受取られた証拠であろう。もっとも、これは室町時代のものといわれる。
「あるべきようは」を具体化すれば、細かいことまで「こうあるべきだ」と定めた一種の律法主義になる。事実、明恵上人にはそういった律義な一面があり「聖教の上に数珠・手袋等の物、之をおくべからず。文机の下に聖教、之をおくべからず。口を以て筆をねふるべからず。壇巾と仏具中と簡別せしむべし……」と言ったような、学問所と持仏堂における細かい規則が定められている。これは当然で、「あるべきようは」はまずそれを示さなければならない。それをしないで、いきなり叱るとか罰するとかいうことは、それこそ「師」の「あるべきようは」に背くであろう。だがそれはいわゆる律法主義であってはならず、心のじっぽう(実法)というものが常に意識されなければならない。 
すなわち「ただ心のじつぽう(実法)に実あるふるまひは、をのずから戒法に付合すべき也」で内的規範がそのまま外的規範であるようになるのが「あるべきようは」であって、「心の実法に実ある」振舞いが、ごく自然的な秩序となって、この戒法に一致するように心掛けよ、である。従ってこれは見方を変えれば「あるべきよう」にしていれば、自然にこうなるということ、それも決して固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである。そして面白いことに泰時にとっては「法」も、こういったものなのである。
律令格式を無視して
貞永元年(一二三二年)、『式目』の発布と同時に彼は次のような手紙を六波羅探題の弟の重時に送っている。
御式目事
雑務御成敗(訴訟)のあいだ、おなじ躰(てい)なる事(同趣旨の訴訟)をも、強きは申とをし、弱きはうづもるゝやうに候を、ずいぶんに精好(せいごう)(念入りに)せられ候へども、おのづから人にしたがうて(当事者の強弱上下で)軽重などの出来(いでき)候ざらんために、かねて式条をつくられ候。その状一通まいらせ候。かやうの事には、むねと(専ら)法令の文(律令格式に基づく公家法)につきて、その沙汰あるべきにて候に、ゐ中(いなか)にはその道をうかゞい知りたるもの、千人万人が中にひとりだにもありがたく候。まさしく犯しつれば、たちまちに罪に沈む(処罰される)べき盗人(ぬすみ)・夜討躰(てい)のことをだにも、たくみ企(くわだ)てゝ、身をそこなう輩(ともがら)おほくのみこそ候へ。まして子細を知らぬ(罪の意識のない)ものゝ沙汰(さた)しおきて候らんことを、時にのぞみて(裁判になって)法令にひきいれてかんがへ候はゞ、鹿穴(落し穴)ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか。この故にや候けん、大将殿(頼朝)の御時、法令をもとめて(律令格式の条文に基づいて)御成敗など候はず。代々将軍の御時も又その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり。詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝(けう)あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲(まが)れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵の計り事にてや候とてかやうに沙汰(制定)候を、京辺には定(さだ)めて物をも知らぬ夷戎(えびす)どもが書きあつめたることよなと、、わらはるゝ方(かた)も候はんずらんと、憚(はゞか)り覚え候へば、傍痛(かたはらいた)き(心ならずも)次第にて侯へども、かねて(予め)定められ候はねば、人にしたがふことの出来(いでき)ぬべく候故に、かく沙汰候也。関東御家人・守護所・地頭にはあまねく披露(ひろう)して、この意(こころ)を得させられ候べし。且(かつ)は書き写して、守護所・地頭には面々(めんめん)にくばりて、その国中の地頭・御家一人ともに、仰せ含められ候べく候。これにもれたる事候はゞ、追うて記し加へらるべき(追加法を公布する)にて候。
あなかしく。 
貞永元 八月八日 武蔵守(御判)  駿河守殿
これを読むとまことに面白い。まず律令制は形式主義なので、裁判に際しては必ず「法令にひきいれて」すなわち律令格式の条文を引用して、これに基づくべきことになっているが、その法令なるものは「ゐ中(いなか)(田舎)」で知っているものは皆無に等しい。さらにこの「法」が「名存実亡」ともなると、「名法」は知らずに当然のこととして「実法」通りにやっていたのに、ひとたび裁判ともなると、それが「罪」であるとされてしまう。これではまるで「鹿穴(落し穴)」を掘っている山の中にそれと知らずに入っていって落ち込むのと同じことになってしまう。
そして頼朝以来、律令格式を一切無視して裁判をしてきた。しかし頼朝のような「権威」がいなくなると、どんなに裁判に念を入れても「人にしたがうて」すなわち当事者の強弱高下によって不公平になりやすい。そこで、公平を期するために、予めこれを定めたという。というとこれは明恵上人の「戒法」にあたるであろう。
世界史上の奇妙な事件
だがこの「戒法」というものは「心の実法に実あるふるまい」をしていれば、自然にそれが、「戒法」になるような「法」であらねばならない。それは、結局、自然的秩序(ナチュラル・オーダー)をそのままに「戒法」としたということになる。いわば、内心の規範(道徳律)と社会の秩序と自然の秩序が一体化するような形であらねばならぬということ。それが「詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直(なお)しきをば賞して、おのづから土民安堵」となる、いわば「あるべきようは」が達成されるということであろう。泰時にとっては「立法の趣旨」とはつまりそれだけであった。 
この手紙の署名は「武蔵守」であり、『式目』の末尾の「起請詞」における署名は「武蔵守平朝臣泰時」なのである。今でいえば大体「武蔵県知事」にあたるが、当時の「武蔵」の地位はもちろん東京都より低い。たとえこれが「東京都」と同格であったとしても、「知事」が勝手に法をつくって公布するというのは、正統論から見れば、あるまじき行為である。いまもし東京都知事が勝手に憲法を発布して、その末尾に「東京都知事」と署名していたら、だれでも「そんなバカなことが通用するか」と言うであろう。もちろん当時は、庶民はそんなことはいうまい。だが「法」を一手に握っていた公家がこれを黙って見すごすはずはない。するとその非難の矢面に立つのは六波羅探題の弟の重時である。そこで泰時は、前便の約一ヵ月後に、次のような手紙をおくっている。
御成敗候べき条々の事注され候状を、目録となづくべきにて候を、さすがに政(まつりごと)の躰をも注(ちゅうし)載(のせ)られ候ゆへに、執筆の人々さかしく(賢明にも)式条と申(もうす)字をつけあて候間、その名をことごとしき(大げさ)やうに覚(おぼえ)候によりて式目とかきかへて候也。其旨を御存知あるべく候歟(か)。
さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説(立法上の典拠)として被注載之由(ちゅうしのせらるるのよし)、人さだめて謗難(ぼうなん)(非難)を加事候歟(か)。ま事(こと)にさせる本文(=本説)にすがりたる事候はねども、たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也。かやうに兼日に定め候はずして、或はことの理非をつぎ(ないがしろ)にして其人のつよきよはきにより、或は、御裁許ふりたる事をわすらかしておこしたて候(判決ずみの件を知らぬ顔で再び裁判に持ち出すようなことをする)。かくのごとく候ゆへに、かねて御成敗の躰を定めて、人の高下を不論(ろんぜず)、偏頗(へんぱ)なく裁定せられ候はんために、子細記録しをかれ候者也。この状(式目)は法令のおしへ(律令格式)に違するところなど少々候へども、たとえば律令格式はまな(真名=漢字)をしりて候物のために、やがて(すなわち)漢字を見候がことし。かなばかりをしれる物のためには、まなにむかひ候時は人は目をしいたる(盲目になる)がごとくにて候へば、この式目は只(ただ)かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊(いささか)も改まるべきにあらず候也。凡(およそ)法令のおしへ(律令格式)めでたく(立派)候なれども、武家のならひ、民間の法、それをうかゞひしりたる物は百千が中に一両もありがたく候歟。仍(さて)諸人しらず候処に、俄(にはか)に法意をもて理非を勘(かんがえ)候時に、法令の宮人(朝廷の法曹官僚)心にまかせて(恣意的に)軽重の文(条文)どもを、ひきかむがへ候なる間、其勘録(判決)一同ならず候故に、人皆迷惑と云云(うんぬん)、これによりて文盲の輩もかねて思惟し、御成敗も変々ならず候はんために、この式目を注置(ちゅうしおか)れ候者也。京都人々の中に謗難を加(くわうる)事候はゞ、此趣を御心得候て御問答あるべく候。恐々謹言。 
貞永元 九月十一日 武蔵守在―  駿河守殿
法の形をとらぬ実法
まことに面白い手紙である。彼は『式目』を「目録」と名づけようとした。では当時の「目録」という言葉に「法令集」という意味があったのであろうか。実は、ない。「所領目録」「文書目録」等、「目録」の意味と用法は現在とは変らない。従って泰時にとっては『式目』とは「法規目録」とでも言うべきものであった。ではこの「法規目録」はいかなる法理上の典拠に基づいて制定されたのか。そう問われ、またそれが明らかでないと非難されても、そのような法理上の典拠はないと彼はいう。このように明言した立法者はおそらく、人類史上、彼だけであろう。そして言う「たゞ道理のおすところを被記(しるされ)候者也」と。一体この「道理」とは何であろうか。泰時はそれについて何も記していないが、簡単にいえば「あるべきようは」であろう。前の手紙と対比しつつ、今まで記した明恵―泰時的政治思想を探って行けば、それ以外には考えられまい。いわばこれが立法上の典拠なのである。
彼は律令格式がきわめて体系的で立派なことは認めている。しかしそれは「漢字」で書かれているようなもので「かな」しかわからない一般人にはわからないという。そこでこの『式目』は、「かな」しか知らない多くの人を「心えやすからせんため」に制定したものであるという。もちろんこれは比喩であって『式目』もまた実際には『漢文』で書かれている。しかし律令格式を知る者は、「千人万人が中にひとりだにもありがたく」また「百千が中に一両もありがたく」という状態は、この法律を知る者が皆無に等しかったことを示している。これは事実であろう。問題はこの語の前の「武家のならひ、民間の法」という言葉である。これは確かに、律令格式とは別の「武家法と民間の慣習法」があるという意味ではなく、「武家・庶民を問わずそれを知らないのが一般的である」という意味であろう。ではその武家・庶民が完全に「無法」かというと決してそうではなく、一種の「法の形式をとらぬ実法」があり、社会は律令格式によらずそれによって秩序を保って来たことは否定できない。その意味では「武家法と民間の慣習法」の存在を言外に主張していると見てよいであろう。
簡単にいえばそれが自然的秩序(ナチュラル・オーダー)であり、そのため逆に律令が浸透しなかったともいえる。そして人びとは、不十分ながらその秩序の中に生きており、それを当然としているのに何かあって法廷に出れば「俄に法意をもて理非を勘(かんがえ)」となり、「人皆迷惑と云云」という状態になる。そして泰時が、この状態に終止符をうとうということである。だが泰時は決して、「式目絶対、今日から『関東御成敗式目』が日本国における唯一絶対の法である」と宣言したわけではない。彼はあくまでもその時点において「あるものはある」とする態度を持している。いわば出来あがった自然的秩序をそのまま肯定しているわけで、朝幕がそのまま併存してよいように、「律令・式目」もまた併存していて一向にかまわなかった。彼は『式目』への謗難を礼儀正しく拒否したが、といって『律令』に謗難を加えようとはしなかった。だが律令は結局、「天皇家とその周辺」の「家法」のようになっていき、「武家国内の教会法のヴァチカン」のように、やがて、そこだけが特別法の一区画になって行くのである。
明恵と鈴木正三をつなぐもの 
『明恵上人伝記』は明治に消されてしまった本だが、それまではおそらく最も広く読まれた本の一つである。もっとも版に起されたのは徳川初期(寛文五年・一六六五年)だが、それまでも筆写によって三百五、六十年、読みつがれてきた。 
「あるべきようは」はむしろ僧侶への訓戒であろうが、これが「人は阿留(ある)へきやうはといふ七文字を可持(もつべき)也、帝王は帝王の可有様(あるべきよう)、臣下は臣のあるへきやう……このあるへきやうにそむくゆへに一切あしき也」と理解されるとこれは世俗の一般倫理になる。さらにこれに「我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現に有るべき様にて有らんと申すなり」が加わると、一般人はこれを「後生を願ってひたすら念仏を唱えていても無意味で、そんなことをするよりもこの世の任務をあるべきように果せばそれでよい」という考え方になる。これは世俗の任務を一心不乱に行なえば宗教的救済に通ずるという意味になってくる。この考え方は前に『勤勉の哲学』で記した鈴木正三の「四民日用」の考え方の祖型ということができる。事実ある坊さんは私に「鈴木正三は禅宗というけれど、むしろ明恵上人の系統をひくと考えた方がよいのではないのか」といわれたが、確かに両者の思想には関連があると思われる。しかしそのことを正三の著作から実証することはむずかしい。
だがこのほかにも両者相対応している考え方は多い。たとえば大乗・小乗はいうまでもなく外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵より発したもの、という考え方は正三の「口ニテ云処ハ、老子ノ教モ、孔子ノ教モ、昔シ天竺ニ発興セシ外道ノ教エモ、仏道モ、一ツ也、少シモ替事ナシ……」という考え方に通ずるであろう。だがしかし最も決定的な影響は自然的秩序がすべての基本であり、内的規範(道徳律)も社会秩序もそれに基づかねばならぬとする明恵―泰時的な考え方である。この考え方は徐々に日本人に浸透し、キリシタン時代から徳川時代にかけてこれが日本人にとって当然の考え方となった。もうだれも、律令格式の存在は念頭にない。そしてこれが一種絶対的ともいえる思想になっていたことを、日本人自身が自覚しないまでになっていた。 
そして、それは外国の思想と衝突したときに、明確に自らのうちに再把握されるという結果になっている。これが最も明確に出ているのがキリシタンから反キリシタンに転じた不干斎ハビヤンであろう。転向する前には、この自然的秩序を基として「あるべきよう」な社会を形成するにはキリシタンが最もよい方法を提供していると彼は考え、次のように言う。
「(キリシタンは)現世安穏、後生善所ノ徳ヲ得セシメン為ニ弘メ玉へル法ナレバ、外ニハ善ニ勧ミ、悪ヲ懲スノ道ヲ教へテ、利欲ヲ離レ、アヤウキヲスクイ、キハマレル(困窮者)ヲ扶ケ、内ニハ又、天下ノ泰平、君臣ノ安穏ヲイノッテ、孝順ヲ先ニシ、高キヲ敬イ、賤シキを哀ミ、ヲノレ責テ戒律ヲ守リ、都(すべ)テ浮世ノ宝位(たからい)ヲバ破れ靴(ヤブレグツ)ヲ捨ルヨリモ尚カロンジ……」
等々。これは泰時的な「あるべきようは」であり、ハビヤンはキリシタンがそれを実現してくれると信じた。
そして転向後は、キリシタンこそこの自然的秩序の基本を破壊するものと考える。それが伝道文書の『妙貞問答』と排耶書の『破提宇子』に表われている。この二つを通読すると、「転んだ」ように見えて、実は、自然的秩序絶対という点では一貫している。これが明恵上人が残した最大の遺産であったろう。
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。 
第十章 象徴天皇制の創出とその政策

 

天皇も律令も棚あげ
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。 
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。
新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが『天皇陛下の経済学』の中でも指摘している。
もっともこれを指摘しているのは氏だけではない。戦国末期に日本を訪れたキリシタンの宣教師は分国大名を独立国と見なしていた。法制的な面からいえばこの見方は正しく、各分国をヴェネチアやミラノやフィレンツェのような独立小国と見て当然である。しかし分国大名は自分が独立国だという意識はなく、やはり天皇を日本の統合の象徴と見て尊崇していたことは、多くの人が指摘している。権力いわば立法権・行政権・司法権をもたなくても統合の象徴とは見ていたわけである。この状態を現出させたのが泰時であり、これが日本の伝統となった。
その泰時自身は大変な「天皇尊崇家」であったと思われる。三上皇を島流しにしようと、仲恭天皇を退位させようと、尊崇家なのである。それでいて、否それなるが故に、『貞永式目』はあらゆる点で完全に天皇を無視しており、天皇の裁可も経ず、天皇のサインさえない。この点では「御名御璽」がついている新憲法より徹底している。さらにその末尾の起請文を読むと、天皇に対してこの法の遵守を聖約するといった言葉も全くない。起請の対象は「梵天・帝釈・四大天王、惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して伊豆・筥根(はこね)両所権現、三嶋大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神の部類眷属」である。いわば法の制定などという行為は、名目的にも実質的にも、天皇とは無関係であった。なぜこうなったのか。
天意が人心にそのまま表われるように、天皇の意志がそのまま人心に表われるなら、『式目』発布のときにその序文として「院宣」をもらってもおかしくないはずである。確かにこれは「武家法」だから武家が制定するのが当然ともいえようが、武家は非合法集団でなく、それまでも泰時はしばしば奏請して院宣を出してもらっている。さらに、後高倉院も後堀河天皇もそれを拒否するはずはない。だがそれができなかった。理由は、律令には慣習や先例の集積は法とはしないという原則があったからである。継受法はしばしばこうなる。
いまの日本で自衛隊が国民の八六パーセントの支持をうけても、またこれが存在し存続していても、憲法にはそれに関する条項が入れられないのと似た現象であろう。同じように当時の社会ではすでに現実の社会的慣習と先例が法となっている。しかしそれを法として認めることはできない。だがそれは結局、天皇ともども律令も棚あげされる結果となった。このことはもちろん、式目が律令を全然参考にしなかったということではなく、法に対する考え方の基本が全く違っていたということである。
地味な「政治家(ステイツマン)」の業績
泰時は確かに日本史における最も興味深い人物であり、また梅棹忠夫氏が評されたように「日本で最初の政治家(ステイツマン)」であり、あらゆる意味で重要な人物である。
泰時(執権)と叔父の時房(連署)、この二人の信頼関係はまさに絶対的であった。延応元年の夏に泰時が発病したとき、時房は酒宴中であったが、酒宴をやめなかった。周囲が不思議そうな顔をすると彼は、自分がこうやって酒を飲んでいられるのも泰時のおかげだ。泰時が死んだら到底こんなことはやっておれないだろう、これが今生最後の酒宴だと思うから、見舞に行かず酒を飲んでいるのだ、といったという。
執権・泰時は、連署・時房をよき相談相手として、評定衆との合議制で政治を行なった。もちろん、合議制だけでは能率的な政治は行い得ないので、それなりのしっかりした官僚組織が必要であるし、天皇を頂点とした安定した政治システムも必要である。
泰時は、まず幕府の移転を行ない人心の一新を行なった。同じ鎌倉の中ではあるが、大蔵から宇都宮辻に役所を移転したのである。政子の死後半年のことである。そして間髪を入れず、将軍予定者の三寅の元服と将軍就任である。1219 年 (承久 1) 将軍源実朝が暗殺されて後、左大臣九条道家の子の三寅が、源頼朝の遠縁にあたるという理由で、将軍として鎌倉に迎えられた。三寅は当時 2 歳であり、頼朝の尼将軍・北条政子が政務を行ったが、政子の死によって、一日も早く三寅を将軍にして政治の安定を図る必要があったのである。1225年の暮れも押し迫った頃、ようやく三寅は元服し、頼経と改名した。年令8歳である。すぐに朝廷に申請して翌年の2月に頼経は征夷大将軍に任じられた。
ここではじめて、天皇→将軍→執権・連署→評定衆という<形式>が確立し、後鳥羽上皇との反目以来つづいていた変則的状態は終り、体制の法的整備は完成した。
泰時は派手派手しさがないから、義時急死・鎌倉帰還・伊賀氏の陰謀の制圧と処理・政子の死・幕府の移転・三寅の元服と将軍任命・新体制の整備が驚くべき速さで進んで行ったことに人は案外気づかない。さまざまな意味でその見通し、計画、処置は的確であった。
これによって幕府は寛喜二年にはじまる大飢饉に備えることができたといえよう。そしてこの飢饉の体験は『貞永式目』に生々しく反映している。何しろ生産性が低い時代である。気候不順はすぐ農作物を直撃する。この年は陰暦の六月九日に雪が降った。今でいえば七月中旬から下旬、最も暑いときである。ところが八月にも九月にも大雨で農作物は枯死し、気温も急低下して冬のようになった。鎌倉でも暴風のため人家の破損が多かったが10月から11月になると今度は暖冬異変で、京都では11月から12月に桜が咲き、蝉が鳴くという状態になった。
戦乱より飢饉が恐い
昔から日本人を苦しめたのは戦乱よりむしろ飢饉であったと思われる。 
この自然的秩序(ナチュラル・オーダー)が狂ってくると、いわば「天変地異」が起ると、如何ともしがたいわけである。これは幕府といえども何とも致し方がない。 
こうなると「天変地異」すなわち自然的秩序の異常現象には、人間は、受動的にこれに対応する以外に方法がないことになる。いかなる「権」も「天」に勝てぬなら、天変地異が起ったら法律も変え、生活規範も変えてこれに対応しなければならない。後述するように『式目』では飢饉の時の人身売買を許している。
泰時の質素と明恵の無欲
同じ試練が泰時を襲った。 
まず彼は、飢饉だ、飢饉だといっても、米が、ある所にはあることは知っていた。まず彼は京都・鎌倉をはじめとする全国の富者から、泰時が保証人となって米を借り、それを郡・郷・村の餓死しかかっている人に貸し与えた。彼は、来年平年作にもどれば元金だけ返納せよ、利息は自分が負担しようといってその借用証を手許に置いた。 
しかし泰時は結局資力のない者には返済を免除し、それはすべて自分で負担したので、大変な貧乏をした。
何しろ利子負担分と返済の肩がわりが貞永元年までに九千石になり、そのうえ多くの領地の年貢を免除したから財政的には大変である。
「病にあらずといえども存命し難し」 
もっとも泰時の倹約の話はこれだけではない。彼は常に質素で飾らず、館の造作なども殆ど気にかけなかった。 
さらに無欲な者を愛するとともに、作為的に何かを得ようとする者、いわば「奸智の者」を嫌った。 
裁判になった場合でも、敗訴した者が率直に自分の非を認めれば、泰時は決してそれ以上追及しなかった。 
下総の地頭と領家が相論したとき領家の言い分を聞いた地頭が即座に「敗けました」といった。泰時はその率直さに感心して、相手の正直さをほめたという話が『沙石集』にある。一方この逆の場合、すなわち裁判に不服なものが実力で抵抗すると脅迫しても、彼は少しも屈しなかった。北条氏は絶対的権威でないし、相手は武力をもっているからそのような抵抗が起って不思議ではない。そういう場合の泰時は実に毅然としていた。いわば怨を恐れて「理」を曲げれば、それが逆に、権威なき政権の破滅になることを知っていたのである。いわば彼の一生は、「ただ道理の推すところ」を貫き通し、この「道理を推すこと」を貫き通すことだけを権威としていたわけである。これが「日本最初の政治家(ステイツマン)」といわれる理由であろう。
 
近衛文麿の思想

 

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前回、私は、昭和の悲劇をもたらしたものは、統帥権という制度のせいではなくて、その統帥権を悪用して政府の統治権を奪い、勝手に軍事行動を起こして日本を強引した、その当時の軍部の思想及び政策に原因があったのではないか、ということを申しました。
次の記述は、敗戦後10年経った昭和30年、「どうしてああいう不思議な戦争になったのだろう」という疑問について、竹山道雄氏が自らの考えを述べたものです。
「多く問題にされた統帥権の独立は、その歴史的由来にはあるいは封建性の温存かあっだのかもしれない。おそらく日本か英米仏のような近代民主国家として出発しなかったことを反映しているのだろうが、それはその出発当時の条件からきたことであって、軍が独立して政策を遂行するという規定をしたものではなかった。
これが意識の中に顕在化したのは、軍縮問題以来のことであって、それまではいはば眠っていた。あれこれの現象はあっても、それは歴史をうごかす力ではなかった。それ以後、政治化した軍人はこの「兵力量の決定と統帥権の独立」といふ難問題を活用した。そして、これを手がかりにして覇権を握った。
総力戦時代の現代では、戦闘力のための統帥権といふことを拡大解釈すれば、どこまでも拡張できた。統帥権の独立をもって、ただちに旧体制がファッショだったということはできない。もし軍があのやうに政治化しなかったら、たとえ統帥椎が孤立していようとも、またいかに軍部大臣の資格が制限されていようとも、問題はなかったろう。
しかし、軍があのようなや団体精神に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、、ああなるほかはなかったであらう。統帥権の問題が日本の命取りとなったのは、それか原因だったのではなく、むしろ結果だった。決定的だったものは、制度という前提條件ではなくて、そこにはたらいた意志だった。」
私も、この通りだと思いますね。つまり、「軍があのようなや団体精神(右とも左ともつかない日本独特の超国家主義イデオロギー=筆者)に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、ああなるほかはなかったであらう」ということです。
広田弘毅も、そして近衛文麿も、軍がこのような団体精神に憑かれて政府を強引した時期に、必死になって、その要求を容れつつ軍をなだめ、その暴走を食い止めようとした。そしてそれに失敗した。その結果、軍の暴走を止められなかったという結果責任を一身に負うことになった。彼等の悲劇は、このように理解することが出来ると思います。
広田については、いわゆる「広田三原則」以降、軍に対する抵抗力を次第になくしていったと評されます(秦郁彦)。また、近衛自身も、当初の威勢の良さは次第に影を潜め、軍のロボットとして利用されることに不満を述べ、頻りに辞任を口にするようになります。次の言葉は、広田が第一次近衛内閣で外務大臣を務めた時に漏らした述懐です。
「外務大臣というものは内閣の方針に従い、これを実行して行くのが常道である。ところか今日の情勢は決してそうではない。内閣の方針などというものはほとんど認められず、軍部の独断専行で行なわれている。したがって外務大臣としてはそんな無軌道なことに対してまで責任をとらねばならぬということはどうかと思う。もっと根本から正さねばならぬ。
自分にいわせれば、外交の統一性も一元主義もしっかりした正しい軌道があってこそ大臣の責任も論議され、大臣の責任もあるわけだが、今日のような無茶苦茶な事態に対しては力で対抗するか、ないしは成行きに委すより方法はないのではないか。自分はこういう考えであるから、閣議では力の限り正しく善戦するけれども、事実はどうすることもできない。」
同様の言葉は後述するように近衛も度々漏らしていますが、しかし、広田があくまで外交官としての筋を通そうとしたのに対して、近衛の場合は、満州事変以降の軍の行動を、思想的あるいは心情的に是認していました。それ故に、軍の支持を受けたわけですが、近衛としては、そうした自らの思想(=持たざる国の現状打破を正当化する思想)に沿って、むしろ積極的に「先手」を打ち、日本の「運命の道」を切り拓くことで、政治の主導権を軍から取り返そうとしたのです。
そのため、廬溝橋事件が発生し、事態収拾のため華北に三個師団を派兵することが閣議決定された7月11日には、周囲がビックリするような強硬な中国非難の声明を発しました。さらに、北支事変が上海へと飛び火した8月15日には、次のような政府声明を発しました。
「帝国は夙に東亜永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せる事久しきに及べり。然るに、南京政府は排日抗日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と苟合して反日侮日愈々甚だしく、以て帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり」
(中略)
「此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく、全支に亙る我居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは、帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を贋懲し、以て南京政府の反省を促す為め今や断乎たる措置をとるの巳むなきに至れり」
言うまでもなくこのような、日中戦争についての理解は、日本側の勝手な言い分に過ぎません。中国側にしてみれば、満洲ばかりでなく旧都北平(北京)がある北支も満洲化され、これを許せば首都南京もまた北平と同じ運命を辿る、という危機感から、犠牲を恐れず、抗日全面抗戦を決意しているのです。従って、このような近衛の言辞は、中国にとってみれば「何が東洋永遠の平和か、日支両国の親善提携か」まして「暴支膺懲とは何事か」ということになります。
実は、この声明文は、陸軍大臣杉山元が案文を持ち込んだもので、閣議ではさしたる議論もなくすんなりと通ったということですが、近衛としては、蒋介石との直接会談で紛争の解決を図ろうとして陸軍に阻止され、また、船津工作も「大山事件」で頓挫し、さらに、思いもかけず、蒋介石が上海を主戦場とする抗日全面戦争に打って出たために、事態を冷静に認識することが出来ないまま、陸軍の主張を受け入れたということなのではないでしょうか。
この時近衛は、軍の主張に乗ってしまった。その上次のような言わずもがなの演説をした。「(中国に)反省を求めるため我が国が断固一撃を加える決意をなしたことは、帝国自衛のためのみならず、正義人道の上からも極めて当然のことと確信する。今日我が国の取るべき手段は、できるだけ速やかに中国軍に「徹底的打撃」を加えて、その戦意を喪失させるほかにはない。そうしてもなお、中国が反省せず、あくまで抵抗を続ける場合には、我が国は長期戦争をも辞するものではない。」(昭和12年9月第72議会施政方針演説)
このような近衛の陸軍や世論に対する迎合的な言辞が、翌年昭和13年1月16日の近衛の「蒋介石を対手とせず」声明にも繋がっています。もちろん、この時点では、参謀本部が主張したような和平交渉を継続されたとしても、蒋介石がその時の条件で和平交渉に応ずることはなかったと思います。しかし、この声明では、事変勃発当初、陸・海・外三省間で決定した「北支は絶対に第二満洲にしない」という紛争解決のための基本方針が、完全に放擲されています。
ではなぜ近衛は、このような失敗を犯すことになったのでしょうか。実は、近衛の政治思想は軍のそれと共鳴するものがあり、そのため彼は、満州事変以降の軍の行動を肯定的に評価していたのです。といっても、彼は、それが日中全面戦争に発展するとは夢にも思っていませんでした。そのため、日本が「強硬な戦意」を誇示すれば中国は折れてくると思っていた。だが、この問題は、先に述べたように、中国にとっては「必死の問題」であり、「駈け引きの問題」ではなかったのです。
その頃、蒋介石は、抗日全面戦争を持久戦で戦う覚悟を決めており、その主戦場に上海を選んで必要な準備を着々と進めていました。そのため、上海戦における日本軍の被害は、日露戦争の旅順攻囲戦に次ぐ膨大な犠牲を生むことになり、さらに、戦線は南京へと拡大しました。一方、こうして戦線が拡大するにつれて日本の和平条件も加重されることになり、華北新政権の樹立の他、占領地における国策会社の設立も決定されるに至りました(12月6日)。
こうして、日本軍は、泥沼の長期持久戦にはまっていくことになりました。この頃近衛は、天皇に対して次のような愚痴を述べたとされます。「ただ空漠たる声望だけあって力のない自分のようなものが何時までも時局を担当するということは、甚だ困難なことでございます。」「どうもまるで自分のような者はまるでマネキンガールみたようなもので、(軍部から)何も知らされないで引っ張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、誠に申し訳ない次第でございます。」
近衛は、自分が知らないうちに、軍によって次々に既成事実が積み上げられ、後戻りできないような事態に陥っていくことにすっかり嫌気がさし、やる気を失っていました。その後、戦線はさらに拡大、昭和13年4月から徐州作戦(5月19日まで)、9月武漢作戦(10月末まで)、10月広東作戦と続きました。この間、近衛は内閣改造を行い、内相に末次信正を迎え右翼を制御しようとし、陸相には板垣征四郎、外相に宇垣一成を迎えて、陸軍を事変収拾に協力させようとしました。(末次と板垣の登用は大失敗)
宇垣は、近衛の「蒋介石を対手とせず」声明に囚われず、「宇垣・クレーギー会談」でイギリスの援蔣政策の放棄を求めたり、英国斡旋による和平交渉を模索したりしました。また、中国との間でも「宇垣・孔祥熙交渉」に取り組みました。宇垣は満州国の独立の他、領土的野心のないこと、中国の主権行政権の独立を望むこと、蒙彊、北支に防共施設置くこと、日満支経済・文化合作等の和平条件を提示しました。しかし、これに対して、日独伊枢軸強化論をとなえる陸軍や右翼が反対運動を展開し、交渉は頓挫、宇垣は就任4ヶ月で辞任してしまいました。
その後、昭和13年の秋頃から汪兆銘工作が取り組まれました。これは、日本の帝国主義的侵略を早く止めねばならぬと考える松本重治(上海同盟通信支局)らと、梅思平ら国府側の和平派が話し合い、参謀本部の影佐偵昭と連絡を取り合って正式の交渉ルートにのせたものです。その内容は、国民党の和平派である汪兆銘らを国民政府から離脱させて和平政府を樹立させ、日満中の政治・経済・文化にわたる提携協力関係を確立しようとしたものでした。この工作の進展をバックに、近衛は11月3日、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済提携の実現を図るという「東亜新秩序声明」を発しました。
といっても、汪が和平政府を樹立するとしたその真意は、「日本との間に和平提携の生きた模範を作り、重慶政府及び一般民衆に、抗戦の無意味なことを証明して、全面和平に導こう」というものでした。「従って汪の政権が、一次的に重慶と対立しても、結局は合体すべきもので、そうでなくては全面和平できない。また事実上新政府はいかに強化されても、真に中央政権たり得るものではなく、和平運動は決して単なる反蒋運動ではない」。故に「この運動が成功する根本条件は、日本がこの運動を、独立国たる中国の愛国運動として尊重する」ことだと力説しました。
この工作の結果、「日華協議記録」及び「同諒解事項」が調印され、また、「日華秘密協議記録」が作成されました。その要旨は次のようなものでした。
(日支協議記録)
一、両国は共産主義を排撃するとともに、侵略的諸勢力より東亜を解放し、東亜新秩序建設の共同理想を実現せんがため、相互に公正なる関係に於て軍事、政治、経済、文化、教育等の諸関係を律し、善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げ、強固に結合する。
そのため
(一)日華防共協定を締結する。これは日独伊防共協定に単ずるもので、又この目的で日本軍の防共駐屯を認め、内蒙を防共特殊地域とする。
(二)中国は満洲国を承認する。
(三)中国はその内地での日本人の居住、営業の自由を承認し、日本は治外法権を撤廃し、且つ租界の返還も考慮する。
(四)互恵平等の原則に立って、密に経済合作の実を挙げ、日本の優先権を認め、特に華北資源の開発利用に関しては、日本に特別の便利を供与する。
(五)中国は事変のため生じた日本居留民の損害を補償する必要があるが、日本は戦費の賠價は求めない。
(六)協約以外の日本軍は、平和克復復即時撤退を開始する。中国内地の治安恢復とともに、二年以内に完全に撤兵する。中国はこの期間に治安確立を保障し、駐兵地点は双方合議の上で決める。
(七)日本政府が右条件を発表したら、汪精衛(兆銘)ら中国同志は直ちに蒋介石との絶縁を闡明し、東亜新秩序建設のため日華の提携と、反共政策を声明し、機を見て新政府を樹立する。
なお、これに附属する「諒解事項」で、(一)の防共駐屯は平津地方とし、期間は日華防共協定の有効期間とすること、(四)の優先権というのは、列国と同一条件の場合のことなること、日本は事変による難民救済に協力することを決めました。
また、「秘密協議記録」は
一、両国は新秩序建設のため、相互に親日親華教育と政策を実施する。
二、両国はソ連に対し共同の宣伝機関を設け、軍事攻守同盟を結び、平時には情報を交換し、内蒙とその連絡線を確保のため、必要な地域に日本軍を、新疆には中国軍を駐屯させ、戦時には共同作戦を実行する。
三、両国は共同して東洋を半植民地的地位から漸次に解放し、日本は一切の不平等条約の撤廃のため中国を援助する。
四、東洋の経済復興のため合作する。これは南洋等にも及ぼす。
五、右条項実施のため必要な委員を置く
六、なるべく両国以外のアジア諸国を、この協定に加盟させることに努める。
となっていました。
影佐と今井武夫は、この協議事項を携えて帰京し、これを基に、11月25日に御前会議、28日の閣議を経て11月30日「日支新関係調整方針」が策定されました。
これら協議記録の内容は、この時期の和平条件としては立派なものです。しかし、これについて陛下は、こうした工作について、「謀略などというものは、当てになるものではない。大体出来ないのが原則で、出来るのが不思議な位だ」と言いました。また、西園寺は、汪の行動について、その「意のある所はよく判る。しかし軍部の強力は決して過信できない。軍部は傀儡政権をつくる常習犯だ。汪氏ほどの人を、そういう破目に陥れることにでもなったら、洵に気の毒だ」と言いました。
残念ながら、その後の経過は、このお二人が危惧した通りのものなってしまいました。 
2

 

「近衛、軍部独走許す
1 昭和戦争は、主に中国とアメリカという二つの大国を相手にした戦争だった。とくに日米戦争は、日中戦争のもとで進行した日本国家の変質なしには考えられなかった。それは、国際秩序への挑戦であり、立憲体制の崩壊だった。さらには、軍官僚主導による国策決定であり、国家総動員体制の確立だったのである。これらに深く関与した政治家が近衛文麿だった。
2 近衛の政治思想は、一九一八年(大正七年)に発表した論文「英米本位の平和主義を排す」にうかがうことができる。植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破することは正当だ」という論旨だった。
3 近衛は満州事変で積極的に軍部を支持した。欧米が、国際連盟規約や不戦条約を根拠に、日本を非難する資格はない、とする近衛の強硬論は、軍部を勢いづかせ、国民的人気も高まった。近衛は、これらに後押しされる形で三七年(昭和十二年)六月、首相になる。
4 第一次近衛内閣発足後間もなく、盧溝橋事件に直面した近衛は、揺れに揺れながら、陸軍の要求に屈して派兵を認めた。終戦のチャンスだったトラウトマン和平工作も打ち切って、「国民政府を対手とせず」とまで言い切る。近衛は当時、軍部官僚に引っ張られ続ける自分は「何も知らされていないマネキンガールだ」と、天皇に自嘲気味に話していた。
5 近衛は、軍官僚をコントロールできないだけではなかった。軍が目指してきた国家総力戦体制づくりに法的な根拠を与えてしまった。三八年四月に公布された国家総動員法であり、[戦時]または「戦争に準ずべき事変」など非常時の際、政府に国民統制面でフリーハンドを与える内容だった。
6 三九年(昭和十四年)一月、近衛は、外交、内政ともになす術なく内閣総辞職する。後見役の西園寺公望は、「近衛が総理になってから何を政治しておったんだか、自分にもちっとも判らない」と漏らした。
7 四〇年七月発足した第二次近衛内閣の課題は、引き続き日中戦争の解決にあった。松岡洋右を外相にし、日独伊三国同盟をステップに、ソ連も加えた「四国協商」を構築して、米国を交渉のテーブルにつかせる計算だった。しかし、この構想は独ソ戦の開始で破綻した。
8 南部仏印進駐でも、近衛は米国が石油の禁輸で応じるなどとは考えていなかった。近衛は、松岡を更迭して第三次内閣をつくり、ルーズベルト米大統領との直接交渉で妥結をめざした。だが、中国での駐兵継続を譲らぬ東条陸相との対立が解けず、四一年十月、万事休した。
9 木戸幸一内大臣は「(開戦決意の)九月六日の御前会議決定を成立させたのは貴下(近衛)ではないか。あの決定をそのままにして辞めるのは、無責任である」と忠告していたが、近衛はまたも政権を投げ出した。
10 近衛は、軍部や官僚組織を抑え、これに対抗できる政治力結集を思いついたこともあった。近衛を党首とする「一国一党」の新党組織で、モデルはナチスだった。これは、大政翼賛会として結実するが、天皇の立場を乗っ取る「幕府」の復活だとする批判や、近衛暗殺の噂が飛び交うと、たじろいだ。
11 こうして近衛の試みが挫折するたび、日本は対米戦へと着実に歩を進めていったのである。」
ここでは、1 が全体の結論部分で、以下、氏の事績を時系列的に説明しています。つまり、この結論部分で、”日米戦争は、近衛が首相の時に始まった日中戦争のもとで、日本が、国際秩序に挑戦する軍官僚主導の総動員体制を取る国家に変質したためであり、その変質に深く関与したのが政治家近衛文麿だった”と氏の戦争責任を追求しているのです。
私は、この結論部分には多くの間違いが含まれていると思います。第一に、日本が国際秩序に挑戦する国家に変質し始めたのは、日中戦争になってからではなくて、これはワシントン会議以来のこと。満州事変ですでに国際秩序に挑戦すべく「ルビコン川」を渡っています。また、日中戦争が始まったのも近衛の責任とは言えず、その後軍官僚主導の国家体制となったのも近衛の責任ではない。また、総動員体制を取ったのも総力戦下ではやむを得ないことで・・・ということになると、これではとても近衛の戦争責任は問えない、ということになります。
では次ぎに、2 以下の記述について、順次、その妥当性を点検して見ましょう。結論部分がおかしいですから、ここにも多くの間違いが含まれているに違いありません。
2 は、近衛の最初の論文「英米本位の平和主義を排す」(大正7年)についての記述です。この論文の主旨は、植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破しようとするのは正当だ」というものでした。
この近衛の論文は、ベルサイユ会議当時ミラード・レビューという英字紙に訳出され、「かかる反英米、反国際連盟の論をなす者が、この平和会議への全権の随員中にいるのは、甚だけしからぬ」という非難を受けました。しかし、その論旨は、植民地を持つ国にとっては確かに不都合だったでしょうが、日本やドイツにとっては必ずしも不当といえるものものではありませんでした。
実は、ここに表明された近衛の思想が、その後の彼の行動を基本的に支えたものだったのです。そして、こうした近衛の思想が、軍部にとって大変都合の良いものであったために、彼は、満州事変以降軍部の支持を受けることになり、日中戦争直前に首相に就任して以降日米戦争に至るその直前まで、三度、内閣を組織することになったのです。
では、その近衛の思想とは一体どのようなものだったのでしょうか。軍部がこれを支持したということを申しましたが、近衛を支持したのはなにも軍部だけではありませんでした。戦前において、国民一般、マスコミ、政治家、官僚、元老までを通して、一貫した支持を集めた政治家は、彼を置いて他にいなかったのです。
それだけに人気を博した彼が、戦後の評においては、泥沼の日中戦争から無謀極まる日米戦争までの道を用意した、無気力、無定見、無責任な政治家の典型とされているのです。
では、こうした悪評紛々の彼の政治家としての行動をもたらした彼の思想とはどのようなものだったか。それを彼が大正7年に書いた「英米本位の平和主義を排す」に見てみたいと思います。
「近衛はこの中で、戦後の世界に民主主義、人道主義の思想が旺盛となるのを予想し、これらの思想は要するに人間の平等感から出るもので、自由民権や、各国民平等の生存権や、政治上の特権と経済上の独占の排除や、機会均等などの主張の基礎をなし、このような平等感は人間道徳の永遠普遍な根本原理であって、古今に通じて謬らず中外に施して悖(もと)らぬものであるとし、
従ってこれをわが国体に反する如く考えるのは、固陋偏狭の徒に過ぎず、むしろこれらの思潮を善導して発達せしめることは、わが国のため最も希望すべきことだとしているが、「唯茲(ただここ)に吾人の遺憾に思うは、我国民がとかく英米人の言説に呑まるる傾ありて、彼等の言う民主主義、人道主義の如きをも、その儘割引もせず吟味もせずに信仰謳歌する事是なり」というのである。
彼はバーナードーショーがその『運命と人』の中で、ナポレオンの口を籍りて英国人を批評させている、「英国人は、自己の欲望を表すに当たり、道徳的宗教的感情を以てすることに妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は、何処までもその目的を貫徹するの決断力を有す。強盗略奪を敢えてしながら、いかなる場合にも道徳的口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら、殖民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断しつつあり」という一句を引き、
この言やや奇矯に過ぎるけれども、少くとも半面の真理を穿っているとし、近頃の日本の論壇が、英米政治家の華々しい言葉に魅了されて、「彼等の所謂民主主義、人道主義の背後に潜める、多くの自覚せざる、又は自覚せる、利己主義を洞察し得ず」に、自ら日本人たる立場を忘れて、無条件無批判に英米本位の国際連盟を謳歌し、それを正義人道に合すると考えるのを「甚だ陋態」だと慨嘆、「吾人は日本人本位に考えざるべからず」というのである。
しかし近衛によれば、日本人本位というのは、「日本人さえよければ他国はどうでもかまわぬという利己主義Lのことではない。このような利己主義は誠に人道の敵であって、新世界に通用しない旧思想である。日本人本位に考えるとは、「日本人の正当なる生存権を確認し、この権利に対し不当不正なる圧迫をなすもののある場合には、飽く迄もこれと争うの覚悟なかるべからず」ということである。即ち人道と平和とは必ずしも同じことではなく、人道のためには時に平和を捨てなければならぬこともあるというのである。
英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは、「自己に都合よき現状維持」の平和のことであって、それに人道の美名を冠したものに過ぎない。彼等は口を開けば、「世界の平和を撹乱したるものは、独逸の専制主義軍国主義なり、彼等は人道の敵なり、吾人は正義人道の為にこれを膺懲せざるべからず、即ち今次の戦争は、専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり、暴力と正義の争なり、善と悪との争なり」という調子で論ずる。
もとより第一次大戦の主動原因がドイツにあったことや、戦争中のドイツの行動に正義人道を無視した暴虐残忍の振舞いの多かったことは、近衛も認めて「深甚の憎悪」を表明しているが、しかし彼は、英米人が「平和の攪乱者を直ちに正義人道の敵なりとなす狡猾なる論法」には断じて承服しない。なぜなら平和の攪乱が直ぐ人道の敵だというには、「戦前の状態が、正義人道より見て最善の状態なりしことを前提として、初めて言い得る」ことだからだという。そして「知らず欧洲戦前の状態が最善の状態にして、この状態を破るものは人類の敵として膺懲すべしとは、何人の定めたることなりや」と論ずるのである。
近衛から見れば、第一次大戦は現状維持国と現状打破国との争いであった。正義人道に合するか否かは、平和主義か軍国主義かにあるよりも、むしろこの現状の正体にかかっている。この現状が正義人道に合する最善の状態であったのなら、これを打破しようとした者はなるほど正義人道の敵であろうが、現状がそうでなかったなら、これを打破しようとした者が必ずしも正義人道の敵ではないし、そのような現状を維持Lようとした平和主義の国とて、必ずしも正義人道の味方として誇る資格はない。
而して欧洲戦前の現状は、英米から見れば或は最善であったかも知れないが、公平な第三者として正義人道に照らして見れば、決して最善の状態とは認められない。英仏等が逸早く世界の劣等文明地方を占領して殖民地化し、その利益を独占して憚らなかったからこそ、「独り独逸とのみ言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく、膨脹発展すべき余地を見出す能わざる状態にありしなり。
かくの如き状態は、実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすものにして、正義人道に背反するの甚しきものなり」と言わねばならぬ。だからドイツが、このような状態を打破しようとしたのは、誠に正当の要求であって、そのやり方は非難すべきであったとしても、事ここに至らざるを得なかった環境に対しては、特に日本人として深厚の同情なきを得ないというのである。
彼は、要するに英米の平和主義は、「現状維持を便利とするものの唱う事勿れ主義」で、正義人道とは関係がないとする。然るに国際的地位からすればドイツと同じく現状打破を唱えるべき筈の日本人が、英米人の美辞に酔うて英米本位の平和主義にかぶれ、国際連盟を天来の福音の如く渇仰する態度は、「実に卑屈千万にして正義人道より見て蛇蝎視すべきもの」だという。
しかし彼も妄りに連盟に反対するのではなく、もしそれが真に正義人道の観念に基いて組織されるなら、「人類の幸福の為にも、国家の為にも、双手を挙げてその成立を祝するに」吝(やぶさ)かなるものではないが、しかし連盟は、「動もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後塵を拝せしむるの事態を呈するに恐れがないとは言えない。そうなれば日本の立場からも正義人道の立場からも、誠に忍ぶべからざることだというのである。
そこで彼は、「来るべき講和会議に於て、国際平和連盟に加入するに当りい少くとも日本として主張せざるべからざる先決問題は、経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇是なり。蓋し正義人道を害するものは、独り軍国主義のみに限らず、・・・国民平等の生存権を脅やかすもの、何ぞ一に武力のみならんや」と喝破する。彼によれば、黄金富力を以てする侵略と征服もあるのであって、そのような経済的帝国主義は武力的帝国主義と同じく、当然否認されねばならぬ。
然るに正にこの経済的帝国主義の鋒ぼうを露わして来る恐れのある英米を、立役者として開かれる講和会議で、どこまでこの経済的帝国主義を排除できるかに、彼は多大の疑懼を抱いている。しかしそれを排除できないなら、この戦争で最も多くを利した英米は、一躍して「経済的世界統一者」となり、国際連盟や軍備縮小などを現状維持のために利用し、以て世界に君臨することになり、他の国々は、「恰もかの柔順なる羊群の如く、喘々焉として英米の後に随う」のほかないことになろうと憂うるのである。
彼は英国などが早くも既に自給自足政策を唱え、殖民地の門戸閉鎖を盛んに論じていることを指摘し、もしそんなことになれば、領土狭く原料に乏しい日本などは、どうして国家の安全な生存を保ち得ようかと心配し、「かかる場合には、我国も亦自己生存の必要上、戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らむ」やも図り難いとし、これは日本のみならず、同じく貧しい国々の等しく陥れられる運命であるから、経済的帝国主義の排斥と各国殖民地の開放ということは、これこそむしろ正義人道に基く各国民の平等生存権の確立のため、絶対に必要だと論ずる。
彼は又特に日本人の立場から、黄白人の差別待遇の撤廃を主張すべきことを強調し、米国、濠洲、カナダその他が黄色人種を排斥し、あらゆる差別待遇を設けつつあることを指摘し、これは「人道上由由しき問題にして、仮令黄色人ならずとも、苟も正義の士の黙視すべからざる所」とし、一切の差別待遇の廃止を、正義人道の上から主張しなければならぬというのである。
かくて最後に、「想うに来るべき講和会議は、人類が正義人道に本づく世界改造の事実に堪うるや否やの一大試錬なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味における正義人道の本旨を体して、その主張の貫徹に力むる所あらんか、正義の勇士として、人類史上永久にその光栄を謳われむ」と結んでいる。
以上は、『近衛文麿』の著者矢部貞治の要約ですが、この近衛の論文について、次のような評を下しています。
「近衛はこの論文のことを、後にハウス大佐の「国際ニューディール」論に応答するときプリントにするに際し、『思想も極めて未熟且措辞も甚だ当を得ざるものあるも、当時を追憶して今昔の感に堪えず』と述べているが、とにかく第一次大戦でドイツが完敗し、その軍国主義、帝国主義が世界的に痛烈な非難を浴びていた当時の情勢の中で、これだけの論陣を張り得たということは、その論旨に対する賛否は別とし、彼が既に一介の凡庸な貴族でなかったことを示すものであろう。
少くとも大学卒業後一年で既に、学生時代の文学青年からは遙かに脱皮している。しかもこの中で、講和会議檜舞台で日本として堂々提唱すべき方策を論じているのは、彼が既に一家の信念と経綸を持つ政治家の資質を現わしているとも言えるであろう。後に国際連盟の果した役割については、彼の憂慮が決して根拠のないものでなかったことを、示していると言ってもよかろう。」
近衛と言えば、上記の3以下の記述に見たように、3満州事変で軍を積極的に支持し、国際連盟を批判し、そのため軍の支持を受けて首相となり、4日中戦争においては軍部官僚に引きずられて戦争を拡大し、5「国家総動員法」を可決、6昭和14年1月には行き詰まり辞任、7第二次近衛内閣では、日独伊三国同盟にソ連を加えて「四国協商」とし、米国と有利に交渉しようとしたが独ソ開戦で挫折、8第三次近衛内閣では、軍の南部仏印進駐を認めたためアメリカの石油全面禁輸を招き、対米交渉で中国からの撤兵を要求され、これを陸軍に拒否され、再び内閣を投げ出した、と言う具合で、無気力、無定見、無責任な首相の典型のように見られています。
しかし、ここに紹介したような近衛の思想を見る限り、とても、彼が、「無気力、無定見、無責任」な人物であったとは思われません。では、なぜ、その彼が、上記3から8に述べられたような批判を受けることになったか、それは、その思想に欠陥があったと言うことなのか。思想は正しかったが行動に適切を欠いたということなのか。軍部に利用されただけなのか・・・等々、次回はこのナゾについて考えて見たいと思います。 
3

 

大著『近衛文麿』の著者矢部貞治は、「この論文の重大さは、後に近衛の言行がいろいろ変転を示しているに拘わらず、彼の生涯を貫く基本思想がここに現れていると思われる点にある」と言い、彼が「第一次近衛内閣を組織する際、『国際正義と社会正義』をその指導原理として高唱したのも、あるいは彼が満州事変に同調したのも、日独伊三国同盟への悲劇的な道を行くことになったのも、更には日本の降伏後英米の裁判を拒否して悲劇的な死を選んだのさえも、この論文の思想を背景にして、初めてよく理解し得るものがあろう」といっています。
そこで、彼が「英米本位の平和主義を排す」でなした主張を、今一度、分かりやすく見てみたいと思います。
1 第一次大戦後、民主主義や人道主義が唱えられているのは、その根底に人間の平等主義が求められるようになったからだ。そこで、この平等主義を国際社会において実現し、後進国の生存権を保障するためには、まず、欧米先進国の政治上の特権や経済上の独占を排除することが必要である。また、後進国が政治的・経済的に発展していくための機会均等が保障されなくてはならない。
2 ところで、この平等主義は、教育勅語に「古今に通して謬らず中外に施して悖(もと)らぬ」と唱われているような我が「国体」の道徳規範の指し示す方向と一致している。むしろ、英米人の言う民主主義、人道主義こそ「自由と独立を宣伝しながら、殖民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断」するものであり、その背後に潜む「利己主義」こそ見落とすべきではない。
3 では、この人道主義と利己主義が対立する場合はどうすべきか。言うまでもなく、これからの世界に通用すべき思想は平等主義・人道主義である。従って、もし、日本が平等・人道的に扱われず、その正当なる生存権が不当に脅かされる場合には、「飽く迄もこれと争うの覚悟なかるべからず」である。即ち「正義人道」のためには時に平和を捨てなければならぬこともある、ということである。
4 英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは、「自己に都合よき現状維持」の平和であって、それに人道の美名を冠したものに過ぎない。彼等は、独逸を「専制主義軍国主義、人道の敵」と非難し、今次の戦争は、「専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり」などと言うが、「正義人道」に合するか否かを言うなら、まず、この現状の正体をこそ問うべきだ。
5 また、欧洲戦前の世界の現状は、英米から見ればあるいは最善であったかも知れないが、「正義人道」に照らして見れば、決して最善の状態とは認め難い。英仏等がいち早く世界の劣等文明地方を占領して殖民地化し、その利益を独占したからこそ、「独り独逸とのみと言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく、膨脹発展すべき余地を見出す能わざる状態」になっているのである。
6 つまり、こうした現状は「実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすもの」であり、「正義人道」に反するものである。確かに、ドイツのやり方には非難すべき点はあるが、それは、そうせざるを得ない環境にあったということであり、そのドイツと同じ環境にある日本人が、英米本位の平和主義にかぶれるのは卑屈であり「正義人道」に反するものである。
7 また、国際連盟が真に正義人道の観念に基いて組織されるなら、その成立を祝するに吝(やぶさ)かではないが、しかし連盟は、「動(やや)もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後塵を拝せしむるの事態を呈するに恐れ」なしとしない。そうなれば、日本の立場からも「正義人道」の立場からも、誠に忍ぶべからざることというほかはない。
8 従って、この国際連盟の結成に当たって日本がまず主張すべきは、「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」である。つまり、「正義人道」を害するものは、独り軍国主義のみならず、国民平等の生存権を脅やかすものであり、「黄金富力を以てする侵略と征服」もそうであって、そのような経済的帝国主義は武力的帝国主義と同じであり、当然否認されなければならない。
9 しかしながら「この戦争で最も多くを利した英米」は、「国際連盟や軍備縮小などを現状維持のために利用し、以て世界に君臨することになる」だろう。彼等はすでに「自給自足政策を唱え、殖民地の門戸閉鎖を盛んに論じている」。しかし、もしそういうことになれば、「領土狭く原料に乏しい日本などは、『自己生存の必要上、戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得なくなる。」
10 そこで、日本人が講和会議において特に主張すべきは、白人の黄色人に対する人種差別の撤廃である。彼等は、この差別感から「あらゆる差別待遇を設けつつ」あり、これは人道上許し難いことである。従って、日本人はこの人種差別の廃止を、「正義人道」の上から主張すべきである。講和会議は、人類が「正義人道」に基づく世界改造の事実に堪うるものであることを示すべきである。
以上の論理を、さらに箇条書きに簡潔にまとめると次のようになります。
1 は、国際社会における政治的・経済的「平等主義」と「機会均等」の主張。
2 は、その「平等主義」は、日本の「国体」の理想とする方向と一致するが、欧米先進国のそれは、その背後に「利己主義」が潜んでいるという指摘。
3 従って、もし、日本の「平等主義」と欧米先進国の「利己主義」が対立する場合は、「正義人道」のため平和を捨てる覚悟が必要だ。
4 実際、欧米先進国の言う平和人道は「自己に都合よき現状維持」をするための方便である。
5 また、それは「人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすもの」である。
6 従って、日本は、現状の不平等を打破しようとしたドイツの立場を理解すべきであって、英米本位の平和主義にかぶれるのは卑屈千万であり、それは「正義人道」にも反する。
7 また、国際連盟もこれら大国の利害を優先しがちであることを忘れるべきではない。
8 従って、来る(ベルサイユ)講和会議では、こうした現状を改めるよう、欧米先進国に対し「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」を求めるべきである。
9 というのも、彼等はすでに殖民地の門戸閉鎖を始めようとしており、こうなると日本などは自己生存のため現状打破の挙に出ざるを得ないからである。
10 そこで、講和会議では、こうした現状を打破するため、まず、白人による黄色人に対する人種差別の撤廃を求めるべきである。
では次に、この論理の妥当性を検証してみます。
1 は、理念としてはこの通りで、その具体化は、講和会議に引き続くワシントン会議で列国が参加して協議が行われました。
2 は、日本の平等主義は、その「国体」観念と一致するが、欧米先進国のそれは「利己主義」に基づくものであるといい、結果的に、日本の「平等主義」に道徳的優位性を認めています。
3 4 5 は、その西欧先進国の「利己主義」に対する後進国の現状打破を求める戦いを、「正義人道」の名のもとに正当化しています。
6 は、英米よりドイツとの連帯を主張するもの。
7 は、国際連盟に対する不信を表明するもの。
8 9 10 は、日本は、欧米先進国に対して「経済帝国主義の排斥と黄白人の無差別待遇」を求めるべき、というものです。
ここにおける第一の問題点は、1の理念、つまり、国際社会における政治的・経済的「平等主義」と「機会均等」の主張が、その後開催されたワシントン会議では、どのように具体的に処理されたかということ。さらに、それに対して、近衛はどのような評価を下し、とりわけ満州問題について、中国との利害関係を、その「平等主義」「人道主義」の観点からどのように調整しようとしたか、ということです。
第二の問題点は、2の日本におけるの平等主義は、日本の「国体」観念が理想とする方向と一致するが、欧米先進国のそれは「利己主義」に基づくものといい、日本の「平等主義」に道徳的優位性を認めている点について、果たして、これが妥当であったかどうかという問題です。もしこの認識が誤っていたとするなら、3以下の西欧先進国に対する批判は説得力を欠くことになります。
以上二つの問題点についての具体的な検討作業は次回に回しますが、そのポイントは、第一の問題点については――これはワシントン会議において問題になったことですが――中国を巡る日本と西欧先進国間の政治・経済分野における「平等主義」と「機会均等」をどのように実現するかということ。とりわけ、中国の「領土保全」及び主権の尊重を列国がどのように保障するかということになります。
第二の問題点については、実は、日本は、西欧先進諸国との関係においては、確かに西欧先進諸国を「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」の観点から批判する立場に立ち得たわけですが、こと中国との関係においては、逆に、「中国、とりわけ満州における日本の特殊権益の主張と、中国に対する日本の民族的優位性」を主張する立場に立たざるを得なかった、ということです。
こうした近衛の論理に見られる矛盾を解く方法はあったのでしょうか。実際に採られた方法は、日本と中国を東洋文明(=王道文明)という枠組みの中で一体的にとらえることによって、西欧文明(=覇道文明)に対し、日本と中国が共同して対抗しようとするものでした。だが、中国にしてみれば、そうした考え方に基づく日本の行動こそが、中国の主権を踏みにじる帝国主的侵略行為に見えたのです。
つまり、この東洋王道文明vs西洋覇道文明という対立図式は、日本が、西欧先進国の平等主義・人道主義を利己主義に基づくと批判する一方、中国に対しては、その主権を無視しても領土・資源を求めざるを得ないという日本の「宿命的」な矛盾を、自己欺瞞的に回避しようとするものだったのです。このことに近衛も、そして日本国民の大部分も気が付かなかったように思われます。
とすると、日中戦争のその根本的な原因は、日本人自身の意識構造にあった、ということになります。もちろん、ここに森恪などの煽動政治家や昭和の青年将校などの思惑が絡んでいたことも事実です。次回は、このあたりの事情を、ワシントン会議以降、幣原喜重郎、森恪、そして近衛文麿などが、どのような外交方針・政策を以て乗り切ろうとしたかを具体的に見てみたいと思います。 
4

 

前回は、近衛文麿の思想を、大正7年に彼が書いた「英米本位の平和主義を排す」によって見てみました。この論文は、第一次世界大戦が終結する直前、彼が27歳の時に書かれたもので、多分に、この時代に流行し始めた社会主義的理想主義の影響を受けていました。それだけに、帝国主義批判の口吻も強かったわけですが、ベルサイユ講和会議に参加した後に書かれた「欧米見聞録」の中では、より客観的かつ重要な指摘がなされています。
第一は、国際連盟について、それがともかくも実現を見るに至ったことを前向きに評価し、また、アメリカのウイルソン大統領が果たした役割を積極的に評価しています。特に、ウイルソン大統領が提案した「十四箇条の平和原則」に、植民地問題の公正解決のための「民族自決主義」が掲げられ、それが一部採択されたことについて、これを「多年圧制に苦しみたりし幾多の弱小民族に新たなる希望と光明とを資した」ものとして高く評価しています。
この十四箇条には、第1条:秘密外交の廃止(列強中心の「旧外交」の温床となっていた秘密外交の廃止と、外交における公開原則を提唱したもの)、第2条:海洋の自由、第3条:経済障壁の撤廃、第4条:軍備の縮小、第5条:植民地問題の公正解決(「民族自決」の一部承認)、・・・第14条:国際平和機構の設立などが掲げられていました。
この、第1条:秘密外交の廃止については、「今日秘密外交の時代全く去れりと即断するのは軽率のそしりを免れないが、・・・今日の如く万機公論に決するの世となりては、・・・外交もまた自然と公開的性質を帯び来たらざるを得ず。しかしてプロパガンダは実にこの時代の必要に応じて生まれ出でたる外交上の新武器に他ならざるあり」として、外交におけるプロパガンダの重要性を指摘しています。
また、これに応じて外交官制度を刷新する必要のあること、そのためには、外交官への人材登用の門戸を開放すべきことを提案しています。さらに、「今日の日本は国際連盟の中軸たる世界の主人公として利害相関せざる国の面倒まで見てやらねばならぬ地位に達した」のであるから、これからは「日本人の心胸を今いっそう世界的に開拓する」必要があることを力説しています。
なお、注目すべきは、近衛が「米国の排日」について言及している点です。近衛はこれに関して、日本が第一次世界大戦でドイツより中国の山東半島の利権を奪い取ったこと(対支二十一箇条要求による)が、米国において、「日本は第二のドイツにして支那を併呑する野心を有す」「山東は支那の咽喉にしてこの地を日本に与うるはこれ東洋の平和ひいては世界の秩序を乱す所以なり」との批判が盛んになされていることを指摘しています
そして、これが米国における排日的気分の源流になっていることを指摘しています。確かにここには種々の原因が考えられ、人種的偏見や日本の成功に対する嫉視、さらには日本人自身の問題としてその「非同化性」も考えられる。しかし、最近の最も有力なる動機は、日本をもって軍国主義の国なりとなす支那側のプロパガンダが米国の知識階級を動かしたことにある、といっています。
そして、これらの支那側のプロパガンダは、従来の我が国の対外政策を針小棒大に言いふたした結果ではあるけれども、「元々火の無き所には煙の昂る道理なし。この点に就きても、我が国民は一歩退きて深く自ら戒むるところなかるべからず」。といっても、これは決して軟弱外交を賛美するものではないが、「今日の世の中において戦国策そのままを実行せむとするが如き軍閥一味の人々に対しては、余は疾呼してその不謹慎を鳴らさざるを得ず」と警告を発しています。
問題は、ここで近衛が「不謹慎」をいっているのは軍閥一味のどのような行動を指すのか、ということですが、一方では「抑も面積狭くして人口の溢れつつある我が国が外に向ひて膨張するは誠に自然の勢いにして、我が国民たる者は宜しく正々堂々と自己の生存のためにその発展の地を要求すれば可なり。然して我が国のこの立場を米国人その他に篤と了解せしむるためにプロパガンダの必要起り来る」というようなことを言っています。
ここに、前回指摘した近衛の主張における矛盾が露呈しているのですね。ここでは、前回示した「平等主義」「人道主義」の理想に加えて、「民族自決主義」も出てきています。これらの理想と、日本が「自己の生存のためにその発展の地を中国に求める」こととはどのように整合するのか。これが後に近衛の「持てる国」「持たざる国」論に発展していくわけですが、ここでは中国は「持てる国」に組み入れられてしまっているかのようです。
さて、ここで、前回示した第一の問題点――近衛が主張しまたは称揚した国際政治における「平等主義」「人道主義」「民族自決主義」「機会均等主義」がワシントン会議においてどのように処理されたかということ――について見てみたいと思います。
次の記述は、幣原が、ワシントン会議において「二十一箇条要求」問題、九カ国条約及び山東問題の処理をどのように行ったかについて、大東亜戦争中に清澤洌に口述筆記させ、自ら校正して書き残したものです。
「華盛頓(ワシントン)会議の議題は大別して二つあった。一つは五ケ国の軍縮問題の討議であり、他は中国に開する九ヶ国条約である。この外に太平洋方面に於ける島嶼たる属地及領地に関する四ケ国条約があるが、これは会議の招請状には書いていない。また山東会議に就いても、これを会議の中に含めるのならば会議参加そのものを御免蒙るというのが、日本の建前であった。
太平洋及極東問題委員会で一番の問題は、大正四年の日支条約(二十一ヶ条要求と俗称せらるるもの)が出るであろうということであった。支那はこの会議を利用して、該条約を廃棄せんと準備怠りない。既に彼等は本問題を委員会に提出した。当時、私は病床に引籠り中で会議に出席することが出来ず、日本代表部は意見を留保したまま討議を延期していた。米国側ではこの討議は、過去の経過に顧みても日支間の反感を激発し、その影響するところ会議そのものが駄目になる危険があると心配していた。
私はこの問題はこの際明確にして置いた方がいいいと考えたから、進んで第三十回委員会(二月二日)に出席した。そして日本の立場に就いて三つの点を力説した。第一に支那委員は巌に存している条約をこの会議に出だし、これを無効に帰そうとしているようだが、これは無理不当である。支那は如何なる論拠を以てこれを破棄せんとするのであるか。所謂二十一ヶ条要求の中には既に消滅しているものもあるし、また現存しているものの多くは任意に承認したものである。
元来、条約は批准によって効力を生ずるのである。この批准に対し、日本は果して圧迫したことがあるか。第二に、若しこうした会議に於いて古い問題をとらへ、古疵を洗いたてて、これを無効に帰せしめる先例が開かれることがあれば、それほど危険なことはない。どこの国にも古疵はある。そうした弊を起す先例が開かれると、国際間の安定感はなくなるので、この会議の崇高なる目的とは一致しない。私は先づこう理論を述べて置いて、第三点として次のような大局論を説いた。
当時、日本が最後通牒を発したのは、遷延に遷延を重ねた交渉を速やかに結了するための方法であって、多くの条項はその前に既に支那委員が実質上同意したものなのだ。然しその後の事情の変化によっていま茲に三つの声明をする。
第一に日本は南満洲及東部内蒙古に於ける借款の優先権を、最近組織された国際借款団の共同事業に提供する。
第二に日本は南満州に於ける政治、財政、軍事、警察等に付日本人顧問を傭聘する旨の日支取極があるが、この優先権を放棄する。
第三は所謂二十一箇条要求の中で保留して居った第五項は改めてこれを撤回する。
こういう点を明らかにしたが、これ等は要するに日本が南満洲において独占権を振りまわす意思のないことを示したものに外ならなかった。それ等は実際問題として何れも高閣に束ねて実行していなかったものであり、この場合日本の誠意を示すに必要だと考えられたものであるからだ。
私の陳述が終ると、その日の委員会はそのまま閉会になったが、米国全権の一人であり、米国法曹界の先達であるエリヒユ・ルート氏が会議後、「一寸来てくれ。」といって私を隣室に連れて行って非常に喜んだ。「実は自分は日本の立場に身を置いて、どんな風に説明したらよいかといろいろ考えてみた。ところが今日の御説明を聞くと、自分がこういう風に説明したらと思ったことをその通りにいわれて、非常に満足をした次第だ。日本の立場がああしたものであれば、この問題に就いて米国代表部に関する限り貴方に迷惑はかけぬつもりだ」といった。
翌日の会議で支那の全権王寵恵氏が、予の意見に対し長々しい意見書を発表したが、誰も聞く風もなく如何にも退屈に見えた。後にヒューズ氏が起って米国の立場を述べたが、これを裏から見れば、私のいったところを承認したものであった。たとえば「満州に於ける居住、旅行、商租権、農業の合弁の権利等に就いては米国はこの権利に均霑する」というのである。
ヒューズ氏がそれ等の権利に米国人も均霑するということは、条約の有効を承諾しての結果であって、こういわれてみると、支那側は何とも云えなくなってしまったのである。ルート氏が云ったように、内部で纏めてくれたことがこれで明らかになった。右のような事情で所謂二十一ヶ条問題は、心配したが意外に早く終結したのである。支那問題として残る厄介なのは山東問題だが、これは華府会議の外で、日支の直接交渉として解決することとなった。」
このことについて、この書では次のような解説がなされています。
「幣原が陳述した前記論文の中には相当重大なる意味が含まれている。即ち対支二十一ヶ条の中に、「他日を期して交渉を進むべし。」として保留してあった希望条項(問題の第五項として内政干渉の非難をこうむったもの)を自発的に撤回し、同時に又満蒙に於ける投資優先権も放棄する旨を声明している。その結果、「満蒙に於ける特殊利益」を認めた一九一七年の石井ランシング協定は自然に廃棄されることとなったのである。(条文で廃棄がきまったのは一九二二年四月十七日)
それから租借地の還付問題は膠州湾の租借地を返したが、これは世界最初の例だといって、当時評判になったものである。而してこれに倣って英国は威海衛を、佛国は廣州湾(これは主義として)を、それぞれ返すことを承諾する旨、華盛頓会議で声明した。尤も同じ租借地でも、英国は香港の防衛上、九龍を手離すことを肯んぜず、日本もまた旅順、大連の両港を有する関東州は断じて返すことが出来ないと声明したのである。斯くて残る問題は九ヶ国条約のみとなった。これに関する幣原の陳述は次の通りである。」
「華盛頓会議の委員会で出来た九ヶ国条約の中には誰も知るように門戸開放、または機会均等に関する規定がある。これに就いて世には、この規定は日本の対支経済活動を掣肘するために、英米が発案したものであるように説くものがあるが、それは事実ではない。機会均等主義の製造元は寧ろ日本なのである。元来日本は日英同盟以来、支那に於ける門戸開放又は機会均等主義を以て支那の対外開係を律する重要原則として、一貫してこれを主張して来ている。支那に関して日本と列国との間に締結した条約でこれを謳っていないものは殆んどないのである。
華盛頓会議が開催される前に私はヒューズ氏に会ってこれに関する我が立場を明らかにして置いたことがある。私の考えによれば「我国は支那に於いて独占権を主張する必要はない。支那の自然の発達に委せて差支えない。否、それどころか、機会均等ならざることが却って日本の発展を阻碍するのだ。例えば日本品に対してボイコットをやって、英米に許すところの商業を日本に対し妨害する。これは機会均等ではない。或はまた日本の悪口を計画的、組織的にいって邪魔をする。これも機会均等主義の違反だ。
日本の支那に於ける経済的発達が、もし優先権や独占権のおかげならば、それは温室育ちの植木と同じで駄目である。私は日本の商業は、そんなに弱いものであるとは信じない。従って外部的の擁護は要らない。公明正大な立場で正々堂々と取組んで充分だ。」そんな意味のことを、私はヒューズ氏にいった。彼は、「そういうことなら米国としては少しも嫉妬する必要はありません。御希望通りにおやりになって少しも差支えない。」といった。
そういう訳で第六回総会(二月四日)の演説でこのことを主張したのである。だから九ヶ国条約はこちらから希望したものであって、押えつけられてやったものでも何でもないのである。
元来私は門戸開放と機会均等との関係を研究(略)した結果、機会均等主義で困るのは日本ではなくて、寧ろ欧米だと考えていたのであるが、この主義のことは九ヶ国条約第三条に規定された。同条第一項には支那の一定地域に於ける商工業又は経済的発展に付、福利の概括的優越の地位(General Superiority of Right)を設定する取極を禁ずると共に、第二項には特定の商工業又は金融事業を遂行する必要なる財産又は権利の取得は妨げなき旨の規定かある。
右条文を解釈するときは、例えば特定の鉱業、鉄道、農業、金融等の事業に開する財産又は利権の如きは門戸開放、機会均等の主義に反することなくして取得し得らるるのであるから、支那の資源開発を目的とする本邦人の活動が妨げらるるものではない。現に本主義の下に外国人も斯かる利権を取得し経営する実例が多いのである。そんな関係で九ケ国条約にこの規定を設けたのは、実は日本がイニシアチブをとったからである。
(三)門戸開放、機会均等主義は商業的であるに對し所謂二十一ケ条要求は政治的であるといっていいであろう。所謂二十一ケ条要求はそれまで溜まっていた数百件の日支間の案件を、欧洲戦争の勃発したのを機会に一挙に解決してしまおうとしたのが、その狙いであったであろう。その中には空論に動かされ挿入したものもあったかも知れぬ。たとえば佛教を布教する権利なぞは全くそれだ。
次に西比利亜(シベリア)出兵問題も、会議では余り問題にならなかった。その頃は会議も大分長く続いて、もう打切りたい気持ちになっていた。私はヒューズ氏のところへ行って、自分の方から進んで態度を明らかにしたいというと、ヒューズ氏もこの問題を厄介な問題とする意志はないといった。そこで私が声明書を読みあげ、その後にヒューズ氏がステートメントを読んで、それでお仕舞いになってしまったのである。(略)それは所謂二十一ケ条要求問題の直後のことであるが、その時加奈陀(カナダ)全権サー・ロバート・ボーデンは私にそっと呟いて、「うまくやっているね。」といったものである。」
なお、以上の九カ国条約に関する会議とは別に行われた山東問題の処理については次の通りです。
まず、会議に先立ち幣原は、カレント・ヒストリーというアメリカの月刊雑誌から「ワシントン会議にのぞむ日本の立場」を説明すべく寄稿を依頼されました。次は、その中における山東問題に関する幣原の記述。
「山東に就いて
日本は、山東を支那から剥ぎとったという非難をうけている。この真相はどうなのか。大戦中、日本は極東に於ける連合軍の利益を守る義務を負うたので、青島に於ける独逸軍基地の脅威を取り除く必要があった。日本は英国の分遣隊と共に、必要な軍事的努力をして、そこを占領したのである。つまり日本は青島と青島最難関の鉄道など、もと独逸が九十九ヶ年租借していたものを占領して、その焦点から敵の勢力が盛り返して来るのを防遏(ぼうあつ)しようとしたのである。この膠州の租借地は廣さが二百平方哩あり、山東省はそれより二百倍大きい。そして独逸人と貿易するため、そこに集っていた者は五、六萬人で、それらは留まっていまは日本と貿易している。
日本はもとの独逸の租借地を継承しようという積りは毛頭ない。戦争以来、それは支那に返すといい最初からの申出を繰り返し、もとの租借地は各国民が均等の条件で貿易の出来る自由港にするということも、又独逸鉄道部の仕事は日支合弁にするということも、言っているのである。支那は此の取計いを拒絶し、もとの独逸の権利は、参戦してその布告をした時に、自然に支那に返っているものだと論ずるのである。然しこの宣戦布告は、支那が日本との借款を取り極め、その約束の支払金を受け、もとの独逸鉄道の合弁計書の原則を承認してから満一年以上もたって、発せられたものである。
日本は、鉄道を警備するため、山東の沿線に軍隊を駐屯させている。青島にいるのは派建軍に臨時分遣隊を合はせて、将卒約二萬である。北京の領事館を守護するため、又海岸からその首都までの鉄道を警備するため駐屯している各国軍隊は、その二倍にも及び、この中には米国軍隊も加わっている。且又鉄道延長のため資本を提供する際の独逸の優先権は、もし日本が主唱して賛成さえ得るなら、現在米国、白耳希(ベルギー)、英国、仏国、日本の銀行団が、その政府の支持を受けている国際財政借款団に継承させることも出来る。
だから日本が山東を侵略するという非難を裏付けるべき事実は、実際には存しないことが明かである。今やこれら総ては海軍軍備縮少と共に片が付くに違いない。なぜなれば、もし会議參加国民の間に、何等重大なる利害衝突がなく、それ故に軍事侵略の脅威もなくなれば、解決はただ程度の問題となるのである。」
この山東問題についての会議は、先の幣原とヒューズ国務長官との話し合いで、日支両国全権のみで討議を行い、英国と米国はオブザーバーを出すということになりましたが、幣原(全権)が病気で会議を欠席するようになるとたちまち暗礁に乗り上げてしまいました。というのも、中国はこの問題で日本を列国環視の中で窮地に追い込む腹づもりであったが、その当てが外れたので、山東問題で妥結するつもりはなく、会議を決裂させてしまう底意だったのです。
そこで幣原は病気をおして会議に参加し中国との交渉に臨みました。それからの事情について幣原は次のように書き残しています。
「私が山東会議に出てみると果たして会議の空気は極端に悪化していた。私が一言二言何か言うと、支那全権はかみつくように、私に激論を挑むという有様だ。丁度、それは第九回会議で、それまで埴原全権が意見を留保し、いよいよ山東鉄道の処分問題に話が進む順序になっていた。私は彼等の言には頓着せず、私の論拠を展開した。私は支那全権は誤解してはいないかと反問した。
支那側では、何か、日本が山東鉄道を無条件に泥棒でもしてしまうようにいうが、日本はこの代価を巴里講和会議でちゃんときめて支払うことになっているのだ。それを無条件で中国に譲り渡してしまうことになると、日本はそれだけ損失する事になるのだというような点を指摘し、日本はただ正当な支払いを得んとするに過ぎない旨をもいった。こんな議論が英米側にはよく響いたらしい。
その日の会議が散会になると英国オブザアヴァのサー・ジョン・ジョルダンは私の手を握り会議の形勢は幾分見直したようだと悦んでくれた。前にもいったように当時私は病気であって、八時間もぶっ通して会議を続けることは隨分苦痛だった。先方は二人であるから四時間づつ喋ればいいのに、こちらは一人だから八時間も話し続けなくてはならぬ。それでも会議が、好転したといわれて、出席の甲斐があったと喜んだ次第であった。
こうして山東会議は会合を重ねること三十六回に及んだ。その外に私と支那全権王寵恵氏と数回に亘って条約起草委員会を開いた。その頃迄支那側ではずっと英米オブザアヴァの好意を得る為に努力したようであったが、オブザヴヴァは一向に支那側の肩を持たない。それどころか第二十四回の会合の頃から、英国のサー・ジョン・ジョルダンは却って支那全権顧維鈞の陳述に口を挿んで、自分は今まで支那にいたが、顧維鈞氏のいうことは事実と相違していると反駁をするという有様だった。
ジョルダン氏はその少し前まで支那の公使をしていたのである。それからその次の会合には米国のオブザアヴァたるマクマレー氏も発言して、自分は国務長官の命令によって声明するのであるが、仮に支那の要求を日本が容れても、米国のその方面に於ける権利は、それによって毫も動かないと陳述した。米国としては青島に於いて市政参政権などを有しているから、それ等は日本が譲歩しても依然として有効だという意味だ。これを聞いて私は最初ヒューズ氏が日支繋争に就いて公平不偏の態度をとるといったのを思い出し、彼の言偽らずと思った次第だった。
こうなると中国も英米を利用することが出来ない覚ったらしい。会議の空気は漸次緩和して最後の数回の会合には一潟千里に進行し、ここに日支山東交渉は纏ったのであった。私はこの時程、米国各方面から感謝の辞を浴びたことはなかった。山東条約なるものは、日本に取ってはそれ程の問題ではなかったが、米国の人たちが非常に関心をもち、このために戦争が起るのじゃないかという予感も、民衆の中にはあったから、この条約は世論から非常な歓迎を受けた。私の努力ぱ実価以上に報いられたのである。
この交渉の結果、支那側の幣原に対する信頼感が非常に濃厚となり、彼自身予期しなかったほど打ち解けた親善関係が、支那側全権代表団との間に結ばれたそうです。支那側全権団がワシントンを引き上げる時、見送りに来た幣原を王全権は見つけて、人波をかき分けるようにしてそばに寄ってきて「よく来て下すった。ほんとに有り難い」と握手して涙ぐみ、「実は私は日本をひどく誤解していました。今度の会議で日本を理解し得たのは私の大きな所得です。今後全力を挙げて両国国交の改善のために尽くす決心です。孰れ又日本をお尋ねしますから、どうか元気でいて下さい。」と誠実を顔一面にこめて言ったといいます。
大正期における日本外交の最大の失敗とされる「対支二十一箇条要求」問題は、実はワシントン会議において、このように双方納得いく形で円満に処理されていたのです。
では、こうした幣原の外交処理について、近衛や森格あるいは軍部、さらには日本のマスコミはどのように評価したのでしょうか。その後、こうした幣原の対支融和外交、国際協調外交は、日本において激しい批判を蒙るようになりますが、それはなぜなのか。次回はこの点について考えてみたいと思います。 
5

 

前回の本エントリーで、「大正期における日本外交の最大の失敗とされる『対華二十一箇条要求』問題は、実はワシントン会議において、このように双方納得いく形で円満に処理されていた」と述べました。といっても、これがワシントン会議の中心議題であったわけではなくて、一つは、第一次世界大戦後の軍縮問題、もう一つは、極東及び太平洋地域における国際関係の調整及び安全保障体制の再構築という問題でした。
もともとは、ワシントン会議が海軍軍縮会議と言われるように、海軍軍縮問題がその中心議題だったわけですが、それに付随して日英同盟の存続(1921年更新)が新たに問題となりました。なぜかというと、第一次世界大戦中、日本は日英同盟に基づき対独参戦し、膠州湾及び山東のドイツ軍を攻撃・占領し、次いで中国に二十一箇条要求を突きつけ、さらに赤道以北のドイツ領諸島を占領したことに対して、アメリカが警戒心を持つようになったからです。
アメリカは、将来これらの地域において日本との対立が生じるようになった場合に、日英同盟がアメリカに不利に働くことを警戒したのでした。ただ、正面から日英同盟破棄を主張することはできないので、軍縮会議のために招待する日・英・仏・伊の他に、支那と極東に関係のあるベルギー、オランダー、ポルトガルを加えて九カ国を招き、極東及び太平洋問題を議題とする会議を開くことにしたのでした。
これに対して日本は、軍縮問題はいいとしても、極東及び太平洋問題で何を議題とするか判らないので参加保留としました。日本としては、二十一箇条問題を中国との直接交渉で何とか解決しようとしていたのですが、中国はこの問題を国際社会に訴えることで廃棄に持ち込もうとしていたのです。そこで幣原(駐米大使)は、ヒューズ(アメリカ国務長官)にこの問題についてアメリカが公平不偏の態度を取ることを求め、ヒューズはこれに応じたので、幣原は日本政府に会議參加を進言しました。
この会議における日支交渉の経過については前回紹介しましたので、ここでは、極東問題(=支那問題)の具体的解決策となった九カ国条約と、日英同盟に代わる安全保障枠組みとなった四カ国条約について述べたいと思います。 
まず九カ国条約ですが、その基本的性格はその第一条にほぼ尽くされています。
第一条 支那国以外の締約国は左の通り約定す
(1) 支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2) 支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3) 支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4) 友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること
これをわかりやすく言うと、(1)は、支那の主権を尊重し、内政干渉しない。(2)は、支那に安定した統一政府が樹立されるよう協力する。(3)は、支那における商業・工業上の機会均等に努める。(4)は、支那の情勢を利用して自国の排他的・特権的利益を求めない、となります。
ワシントン会議において、このように、支那をめぐる列国間の外交的原則が確立されたことについて、後年日本ではこの会議を「失権会議」と呼び、これを推進した幣原外交を「軟弱外交」として非難する声が高まりました。
曰く、この会議の結果「日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定がアメリカのルート四原則によって破壊された。支那に対する九カ国条約、四カ国条約によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果となり、日英同盟は破棄された。また、海軍軍縮会議では日米英間に五・五・三の屈辱的条約が結ばれる等、日本の「失権会議」に終わった。せっかく伸びかけた日本の芽は摘まれた」と。
しかし、このワシントン会議が開催された当時の日本外交が直面していた課題は、第一次世界大戦以降、欧州各国の間に軍国主義打破の気運がみなぎる中で、日本を第二のドイツ、東洋における軍国主義国なりとする疑念を、いかに払拭するかということにあったのです。とりわけアメリカの対日警戒心をいかに和らげるかが、日本外交の中心課題となっていました。
そのため、日本政府の「華盛頓会議帝国全権委員に対する訓令」の一般方針の重要事項には、次のようなことが述べられていました。
(一) 世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進は帝国外交の要諦であるから、この目的達成のため努力すると共に、我が国に対する従来の誤解誤謬を釋(と)くよう努力すること。
(二) 今回の会議は先づ軍備制限問題を討議し次いで太平洋及び極東問題の討議に移るよう主張すべし、もし会議の情勢上右主張貫徹し難き場合は両問題を平行討議するよう措置すること。
(三) 太平洋極東における恒久平和の確立を主眼とする日英米三国協商案を提唱するに便なる形勢を誘致するに努力すること。
(四) 日米英三国協商と関連して日英同盟存続の問題考量せらるるにおいては日本はこれを猶存続せしむるも妨げなし(後略)
(五) 米国をして国際連盟に参加せしむるよう努力すること。
そして、太平洋及び極東方面における一般平和を確保するために、太平洋方面における列国領土の相互尊重、列国領土に商業及び産業上の機会均等主義を適用すること。支那問題については、一、中国の政情安定を図りかつ将来の福祉の増進のため文化及び経済両方面よりその平和的進歩の助成をはかること。二、中国の領土保全、門戸開放、機会均等主義を尊重すること等が必要であるとしていました。
こうした訓令を受けて、日本はワシントン会議に臨んだわけですが、この会議に先立ち、幣原は、アメリカのカレント・ヒストリーという月刊雑誌の求めに応じて、この会議に臨む日本側の立場と政策を次のように説明し、アメリカ人の対日警戒心の払拭に努めました。
「先きごろの世界大職は、米國の地位を金城鐵壁にした。どの國民も國家的自滅の危瞼をおかす勇気なしに、米國に向って戦争しかけることが、出来るものではない。欧羅巴は二千五百哩はなれた米國に何等の威嚇を與へてをらぬ。欧羅巴諸國は、この恐るべき疲痺の際に、緊急に必要とする救援を、米國に待望しているといふ事実を片時も忘れるものではない。國家的な力は拡大した軍備の力に存するのてはなくて、産業組織の完成と進歩の中に存する。米國こそはその事実の巌然たる生きた標本である。
然らば日本はどうか。その人口を養なふのには余りに國土が狭く、いまや工業國へ転換の過渡期に直面していて、その市場も、原料の供給も外國に依存している。だが米國大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか。
然し取り越し苦労性の人間はまたその先きを考へている。日本は比律賓の攻撃ができるのではないかといふのだ。が日本は少しも比律賓を望まない。香港、佛領印度支那、その他西洋諸國の領有してゐる東洋各地に對しても同様である。然り、日本はそれらを望まない。只もしそれか敵の手に落ちるならば日本に對する威嚇として考へるであらうが、然しそれらの國が、日本に對する攻撃計画を立てぬといふ保障を輿へてくれるなら、それで満足する。
然かるに反日的批許家はまた、日本が支那を廣大なる黄禍計書の中に織りこむ意図があるといって攻撃する。「黄禍」といふ悪意に充ちた造語は米國人士の記憶にも新たなる通り、独逸のウイルヘルム二世の発明にかかり、吾々の間を反目させ、米國の目を彼の戦争から外らせようと企てて失敗したものである。もしそんな考へが未だに米國に残っているなら、それは日本が、そんな野望は達成が不可能てあることを明白に認めているのに、米國ではそのことを認識していないことを証明する。
第一、それを達成しようと企てるなら、すでに極東に大きな権益を持つ全ての諸國民と、日本は正面衝突せねばならぬ。第二に、中國を組織し直し、訓練するばかりか、政治的にも統治するなどといふことは、到底手に合うものでない。それが不可能である事は、幾代の歴史が証明している。支那はたびたび侵略され、また征服せられた。然し乍ら何日でも、さうした冒険の終局は、征服者の方が中國の大衆の中に同化させられてしまっているのである。さうでないにしても、征服された國民が戦争の利得の一部をなす筈は決してない。日本が欲しているのは平和と友愛である。戦争と敵ではない。
支那が安定し、繁栄して生産がゆたかになり、購買力が旺盛になることは、日本にとって大きな恵福となるであらう。支那の門戸開放や機會均等は、日本にとってたとへ現実の救ひとならぬとしても、経済的意味がある。支那資源の開発に注がれる何百萬のドルもポソド、スターリングも、フランも、直接に同量の円の節約になる。それは支那にとっては購買力生産力が増加する繁栄を意味し、日本にとっては出費の減ることを意味する。つまり日本にとってもグッド・ビズネスである。
支那に於ける日本の目的 然し支那を助けるための機會均等、そしてそのやうにして吾々自身を助ける道には、日本も參加を拒否せらるべきではないのである。吾々は豊富な資源を持つ米國のやうに、自立は出来ない。又吾々は世界中に足場を持つ英國のやうに、自由に自分の要求を充たし得る帝國でもない。日本の廣さは米國のモソタナ州とほぼ同じで、そこに六千萬の人口を擁している。英國と同じく食糧を海外に求め、生産物は外國市場に売り捌かねばならぬ。支那の市場と資源は他の國々にとっては、ただ貿易を増やすといふ意味を持つだけだが、日本に取っては死活に関する必要である。
日本も、我々の生存を確保するためには工業化せねばならぬ発達段階に達した。亜細亜大陸は、我等の貿易のための材料に富んでいる。我等はそこに機會均等の権利を要求し、他國との競争に於いては地理的地位以上に何の特権をも必要とせぬことを保証する。我等は関係諸國みんなに「生活し、そして生活せしめる」といふ方針の採用を望むだけのことである。
非難者の言に従へば、日本は支那の資源と市場の開発に於いてその國有の諸権利を支那から剥奪するといふ事になる。が、実際はその正反對である、日本であらうと叉英國や米國であらうと、その企画と投資の結果、開発さへされるなら利得する者は支那なのである。正直にいふと、どこの海外貿易者にもあり勝ちなのだが、支那貿易の従事者の間には実に手のつけられぬ無法者がいる。不正直の競争者はどこの國にでも多いので、ひとり日本の独占ではない。無組織の後進國は自國の叉他國から渡来したこれらの人物の犠牲とされる。然し亜細亜大陸は、外國人によって可能ならしめられる農工業によって、多くの恵福を受けることが第一である。
たとへば南満鍼道線に就いていふと、そこは日本があの鍼道を支配する以前は、あの辺りの住民は匪賊の被害で困りぬいたものである。今やそれが支那から一掃され、秩序と法の制度が生命と財産を安定させる状態になったので、支那人はこの新らしい繁昌地に、きそって集りつつある。荒涼たる蒙古の大砂漠の一角をなして、人が住みつかうとしても死滅の脅威にさらされていた地方にも、今や農業が繁栄して、収獲の季節になると、農業労働者がなだれを打って集る状態である。そして数十萬の支那人が毎年山東と直隷を越えて、収穫期が過ぎると南方の家郷に冬を楽しく暮すため、その賃金を持って帰って行く。
開発の計画されるところ、その結果は必ず全世界を利する。現在米國は支那との多くの仕事を、屡々日本と共にしている。支那の國土と天然資源はそれらを容れて余る程厖大である。支那に於いては米國は英國向けの維貨品貿易のある部分を失ったかかも知れない。その代り紡織機械の仕事を獲得した。
これを見れば、ワシントン会議当時、日本に向けられた国際社会の猜疑の目がいかに厳しいものであったかがわかるでしょう。日本は山東問題で中国と対立し、シベリア問題も撤兵はしたもののソ連との関係は険悪であり、アメリカからはその軍事力増強(八八艦隊の建造計画など)を警戒され、日英同盟は効力を失いつつあって、華盛頓会議では日本のみが被告席に立たされるのではないかと危惧されていたのです。
こうした国際社会の猜疑を招いた従来の日本の外交方針を「世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進」という方向に転換しようとしたのは、実は、日本初めての政党内閣首相となった原敬でした。彼は、日本の外交政策に対しては、従来往々「誤解誤謬」があるので、この機会に帝国の真意を闡明にし、国際間の信望を増進することに努めること。特に米国との親善円満なる関係を保持することは帝国の特に重きを置くところであり、ワシントン会議においてもその関係をますます強固にするよう力を尽くすことを日本全権団に求めていたのです。
こうして日本は、軍縮条約に調印すると同時に、九カ国条約によって、中国の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等を約束し、山東問題については中国に大いに譲歩し、二十一箇条問題に関しては第五号案の留保を放棄したのみならず、多年東洋平和の主柱とされた日英同盟条約の廃棄に同意しました。ただし、これに代わって成立した四カ国条約には、軍事的な相互援助の規定は何も設けられていませんでした。
従って、これを批判的に見ると、いかにも米国に都合の良い極東新秩序の押しつけに屈したかに見えます。しかし、これによって日本は、従来の世界的な孤立状態から脱却し、世界の平和秩序の維持に責任を有する世界三大国の一つに列せられることになったのです。また、一見日本が譲歩したかに見える事柄についても、山東や満州における日本の条約上の権益はしっかり確保されており、その上で中国における日本の資本的発展と商品市場の獲得が保証されれば、地理的・経済的・技術的条件からいって日本が不利になるはずはない、と考えられていたのです。
従って、こうしたワシントン会議の結果については、確かに、国内的には部分的に種々なる批判はありましたが、国家としてはもちろん、多数の有識者も何ら不満を感じなかったのみならず、また外国専門家の批評においても、寧ろ日本は多大の成果を収めたという意見に一致していたのでした。こうしてワシントン体制は、その後暫くの間、世界の平和維持機構の中核となったのです。
幣原は、1922年2月4日の第6回国際連盟総会で次のようにこの会議に臨んだ日本の態度を闡明しています。
「日本は條理と公正と名誉とに抵触せざる限り、出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思はない。日本はその提供した犠牲が國際的友情及好意の大義に照して、無益になるまいといふ考への下に欣んでいるのである。日本は支那に急速なる和平統一が行はれ、且その廣大なる天然資源の経済的開発に對し、緊切なる利盆を持つものである。
日本が主として原料を求め叉製造品に對する市場を求めねばならないのは実に亜細亜である。其の原料も市場も支那に善良安定の政府が樹立され、秩序と幸福と繁栄とが光被するに非らざれば得られない。日本は支那に数十萬の在留民を有ち巨額の資本を投下し、然も日本の國民的生存は支那の國民的生存に依存すること大なる開係上、他の遠隔の地に在る諸國よりも遥かに大なる利害関係を支那に有つことは当然である。
日本が支那に特殊利盆を有つといふことは単に明なる現実の事実を陳ぶるに過ぎない。それは支那若くはその他の如何なる國に對しても有害な要求または主張を仄めかすものではない。日本は支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図にも動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。どうして日本は公正且正直に行はるる限り、支那市場に於いて外國の競争を恐れるのか。日本の貿易業者及実業家は地理上の位置に恵まれ、叉支那人の実際要求に付ては相当の知識を有って居る。従って彼等は別に優先的若くは排他的福利を有たずとも、支那に於ける商工業及金融的活動に於いて十分やって行けるのである。
日本は支那に領土を求めない。併し日本は門戸開放と機會均等主義の下に日本のみならず、支那にも利害ある経済的活動の分野は之を求める。日本は國際関係の将来に對し、全幅の信頼を抱いて華盛頓に来た。然して今やその信念を再確保して華盛頓を去らんとしている。日本はこの会議が善い結果を齎らすと思ふた。然して賓際よい結果を齎らした。
今や國民的福祉を破滅し、国際平和に有害なる海軍軍備の競争は過去のこととなった。海軍軍備の制限、野蛮な戦争方法の禁止、支那問題に関する政策の確定を規定する諸協定の成立のよって緊張は解けた。本會議は亦太平洋の委任統治に関する困難なる問題並に更に困難なる山東問題を解決する機會を与へた。」
これを、先の幣原のカレント・ヒストリーに載せた主張とも合わせてみると、この時代の日本の要路における外交的知見がいかに格調高いものであったか判ります。これを、当時の国際政治あるいは支那の現実を無視した理想論だったと批判することは簡単です。しかし、当時の世界が、帝国主義的な国際関係から外交交渉に基づく平和的な国際関係へと転換を図ろうとし、日本もそれに全面的に協力しようとしたことを軽視すべきではありません。
この点は、本論の主題である近衛文麿についても同様です。彼は当時、憲法研究会なるものを少壮議員と共に組織し、政党政派を超えて時事問題を研究しており、太平洋問題については次のような見解を表明していました。
「太平洋問題について会合したところ、色々な議論が出たが、我我は今度の太平洋会議は、列国の我に対する誤解を解き、信用を恢復して、国際的の関係に一新生命を開く絶好の機会であると思っている。そこで我政府に希望するのだが、この機会に日本の公明な立場を宣明して貰いたい。シベリア出兵とか、山東省に於ける軍事的施設とか、幾分なりとも列国から疑いの目で見られている障碍があるなら、会議に先だって之を除いて貰いたい。列國の我を中傷する原因あらば、之を悉く除いて会議に臨んで貰いたい。
かくて我が自由と公正とを列国に明瞭にせねばならぬ。このほかこの機を利用して、対内的にも国民の国際関係に対する進歩せる自覚を起させることが肝要である。桃太郎主義に就ても、他国を侵略し自分独りお山の大将になるというような国民性が我にありはしないか、若しありとせばかかる国民性では、今後の国際政局に立って行く事が出来ぬという教訓を与える絶好の機会である。又縷々聞く軍人政治とか、軍閥政治とかの批評に対しても、深く自ら反省する要がありはしまいか。若しかかる疑いの目を以て見らるる制度ありとせば、速に改革すべきである。
我々の希望としては、米国、濠洲、印度、支那その他各方面に対して、門戸を開放せんことを望むものであるが、これは一朝にして達する事は困難であろう。されど支那に対しては絶対的の機会均等、門戸開放を望むものである。或論者は、米国が今日の如き態度を取っている以上、無条件で支那の門戸開放に応ずることは出来ぬというが、我々は飽迄も機会均等で、特殊の利権に膠着するのは宜しくないと思う。近時の形勢を見るに支那に対しては漸次共同管理の傾向が見えるが、我国としてはあくまで支那の主権を尊重し、列国と力を合せて支那の開発に努むべきものである。」
また、驚くべきことに、後年、幣原外交を「軟弱外交」と批判して若槻内閣を退陣に追い込み、山東出兵を強行して蒋介石の中国統一を妨害し、さらに、張作霖事件を引き起こして日中間の外交的基盤を崩壊させ、他方で東方会議を主催して日本の大陸政策を軍事的強行路線に引き戻した政友会代議士森格も、大正12年頃には、ワシントン会議の結果について次のような評価を下していたのです。
「(上略)又我々は國力の実際と國際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ國策を議するは頗る危瞼であります。世には國力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるか如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓會議を以て我現下の國力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政會の諸君は大なる失敗なり、米國の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。
諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三國干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ國力足らざる結果であります。仮に憲政會の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。
我々は米國を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本國民の堪ゆへからざる處であります・我國の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米國に買われるのであります。米國と國際的に對抗する時はこの生糸か買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬梱の生糸は売る場所かなくなります。
この結果は我か農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我國の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米國より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績か大部分休業するに至ったらば如何なる結果が國民生活に来るでありませうか。國家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。
幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友會の力を率いて能く國論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく。内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(闘東大震災)に遭遇し、國家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らす、幸に外憂の心配なく國威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。
是れをしても外政上の大成功といはすして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、國力の賓際に無理解なりし國民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まっで国民が当時の國力の実際と國際開係を理解するに及び、この講和條約が能く國家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」
ああ、森格がその後党利党略に走ることなく、この常識を維持し、近衛が、彼の影響を受けることなくその人道主義的見識を維持していたならば、幣原がかって一笑に付したような愚かな選択――日本と米国大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか――が現実のものとなることはなかったろうに・・・。
ではなぜ、このような「常識の恐るべき転換」が日本国民に起こったのか、次回はこの点について考えてみたいと思います。 
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今月号(5月号)の文芸春秋の記事に「東大立花隆ゼミが半藤さんに聞いた昭和の歴史――戦争を知らない平成世代は過去から何を学ぶのか」が載っています。興味を持って読んだのですが、その中に近衛文麿に関する次のようなやりとりがなされていました。
学生 日中戦争が拡大し、泥沼の戦争になるきっかけとなった近衛文麿首相の「爾後国民政府を対手とせず」という声明を、近衛が「後から直せばいいと思っていた」ということにも驚きました。
半藤 あれは、昭和史の大失言中の大失言ですね。これも統帥権が魔法の杖ではない、という一つの論拠として本の中で紹介しましたが、あのとき陸軍の参謀本部は日中戦争の拡大にむしろ反対だったんです。多田駿参謀次長は拡大派の広田弘毅外相や杉山元陸相と大ゲンカになり、最後は大元帥への「帷幄上奏」権まで使って、拡大を阻止しようとしますが、結局間に合わず近衛さんが「国民政府を対手とせず」とやっちゃうんだね。だから陸軍だけを悪役にすることは出来ないと思いますよ。
半藤氏はここで、南京陥落後、トラウトマン和平工作の打ち切りを主張したのは近衛首相をはじめとする政府であり、これに対して参謀本部は交渉継続を主張した。しかし、この時参謀本部は統帥権を「魔法の杖」のように使えず、その主張を押し通すことができなかった。もしそれができていれば和平交渉は継続され日中戦争の拡大は防げたかもしれない・・・。このことを考えると、司馬遼太郎が言うように「統帥権を魔法の杖のように振り回した軍部」によって日本が滅ぼされたとは言えない。日中戦争拡大の責任はむしろ政府にあったのではないか、と言っているのです。
こうなると、この時の首相であった近衛の戦争責任は、統帥権を振り回した軍部より重いと言うことになります。確かに「国民政府を対手とせず」声明が余計だったことは近衛自身も認めています。しかし、これは近衛自身の発想というより、南京占領直後の12月14日に北平に発足した中華民国臨時政府の王克敏の要請に基づくものだったのです。ということは、それは、華北に親日的な政権を打ち立てることで蒋介石の国民党政府を否認しようとした軍の大方の意思を反映するものだった、ということです。
こうした軍の北支新政権樹立の構想を時系列的に示すと次のようになります。
「まず北支那方面軍特務部は10月28日付『北支政権樹立に関する研究』で、『北方に樹立すべき新政権は北支地方政権とすることなく、南京政府に代わるべき中央政府とし、日本軍の勢力範囲に属する全地域にその政令を普及せしむること』を提唱した。」
「陸軍省の軍務課も特務部の華北政権の中央政府化案と同様の意見を持っていた。『北支政権を拡大強化し、更正新支那政府たらしむるごとく指導し、あわせてこの地域における産業の開発、貿易の促進、治安の回復・安定をはかり、以て支那の更正を北支より全市に及ぼすごとく施策す』(10月13日)」
「参謀本部・支那課の見解もまた軍務課とほぼ同様であった。同課の11月18日付の『北支新政権樹立研究案』の結論も、『この際、自然発生の気運にある防共親日政権を方針とする北支新中央政権の結成を速やかに援助するを適当とする』とあり、新政権は『支那の真正中央政権』とし、政体は大統領制を適当とすると判断していた。」
「関東軍はもとより新政権樹立には賛成であり、11月29日付の関東軍東条参謀の上申にも『すみやかに蒋政権と交渉を絶ち、各地樹立の政権を培養し、所在にまずこれと提携し新中央政権の成立の気運を促進し、その成熟するや、機をみて日満を以てまずこれを承認し』とあった。」
つまり、このような「華北政権樹立・新中央政府・国民政府との絶縁というコース」は、北支那方面軍、陸軍省軍務課、参謀本部支那課、関東軍の間で一致していた見解だったのです。では、トラウトマン和平工作において蒋介石との交渉継続を主張した参謀本部の多田次長や戦争指導班の堀場参謀は、こうした陸軍の華北親日政権樹立の構想についてどう考えていたのでしょうか。
確かに、多田参謀次長は、上海事変が拡大し日中戦争が長期持久戦となることを恐れて戦線を上海地区だけに止めようとしました。しかし、現地軍の要望に押される形で、南京へと潰走する中国軍に対する追撃を許可しました。ただし、11月7日には蘇州―嘉興線、11月24日には無錫―湖州線と二度に渡って進出限界線を設定しました。しかしながら、このいずれも現地軍の要望を受け入れる形で撤回し、11月28日には南京攻略を許可しました。
また、参謀本部戦争指導班の堀場少佐は、石原イズムの観念的信奉者で、上海制圧後は松井石上海派遣軍司令官と同様南京攻略を唱道しました。ただし、「攻略はせず兵を城下に止め、蒋介石との直接会談によって蒋を和戦究極の決定に導く」という「按兵不動策」を提唱しました。しかし、これは部内の反対でつぶれ、結果的には、堀場の意図したところとは全く違って、いわゆる「南京事件」につながる悲劇的な南京占領をもたらすことになったのです。
その後、多田と堀場は、南京占領後のトラウトマン和平工作の展開における第二次和平条件の策定において、陸軍内の強硬派の主張――典型的には、北支における「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」の設置――を、講和が成立するまでの保障条項として押し込めることに成功しました。これによって、堀場は「蒋介石に日本の真意(日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に相提携すること)を通達し、肝胆相照らせば必ず大乗的解決はできる」と判断していたのです。
だが、蒋介石はこれを信じませんでした。というのは、満州を武力で奪われた上に、北支にはすでに「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」であるところの、王克敏を行政委員長とする日本の傀儡政権=中華民国臨時政府が北支派遣軍により樹立されている。そして、これが解消されるためには、まず日本が提示した11条からなる「半植民地的」講和条件を呑まなければならない。また、それを呑んだとしても保障事項は講和後もそのまま残り、中国が日本の理想実現に真に協力的だと日本が認めた時に初めて解除される、という代物だったからです。
そもそも、蒋介石が抗日戦争を決意したのは、済南事件以降の日本との交渉を通して、(とりわけ満州事変以降)日本が政府と軍部との間で二重権力状態に陥り、かつ日本政府が軍を制御できなくなっていると見たからでした。軍は、武力を背景に既成事実の積み上げることで日中間の領土・経済問題を解決できると考えている。また、そうした軍の行動を支えているのは、自分勝手な東洋王道文明思想であり、それに基づいて日満支一体の政治・経済・文化圏構想を抱いている。それが、満州事変以降の日本軍の行動となって現れ、今日、それは、華北分離からさらに進んで、華北新政権を樹立しそれを中央政権化しようとしている。
蒋介石はそう考えていたのですから、仮に多田や堀場の主張が通って蒋介石との和平交渉が継続されていたとしても、蒋介石がそれに応ずることはなかったと思います。その結果、北支に成立した中華民国臨時政府を日本政府が承認し、蒋介石政権を否認するという同じ結果になったに違いありません。ということは、多田や堀場がこの局面において、日中戦争を泥沼化しないために取るべき措置は何だったかというと、それは、まず軍の統制を回復し、北支に日本の傀儡政権を樹立するようなことは絶対に阻止する、ということだったのです。
半藤氏は、以上述べたようなトラウトマン和平交渉の経過について、参謀本部が統帥権を行使できず、政府の交渉打ち切り方針に従った点を捉えて、軍の統帥権が絶対なものでなかったことの根拠としています。しかし、それは軍の意見が、多田や堀場等一部参謀本部員と、その他の軍人(=参謀本部支那課、陸軍省、出先軍、関東軍)との間で分裂し、かつ、多数派は交渉打ち切りを支持しており、多田や堀場の主張は、軍内では少数派に過ぎなかったことの結果にほかなりません。
一方、近衛や広田はなぜ、日中戦争を泥沼の持久戦争に陥れかねない、中華民国臨時政府の承認と、その必然的結果である蒋介石政権の否認という、軍の華北分離工作を追認するかのような施策をとったのでしょうか。彼らは、蒋介石が和平交渉に応ずる絶対条件が「(国民党による)華北の行政権が徹底的に維持されること」だったことを知っていたはずです。だから、盧溝橋事件が起こった時、戦争拡大を防止するため、この事変を「第二の満州事変たらしめないこと」「北支にロボット政権を作らないこと」を軍に約束させていたのです。
それがどうして、このようなことになったか。いうまでもなく、広田も近衛も戦争拡大には反対だった。しかし、軍は自らを統制できないまま南京を占領し、その既成事実の上に講和条件を加重して蒋介石を屈服させようとした。しかし、蒋介石にそれを受け入れる意思がないことが明らかになった後も、多田は自ら講和条件の加重に荷担しておきながら交渉を継続すべきと主張した。広田や近衛はこの参謀本部の主張の”おかしさ”について、あるいは独逸のヒトラーとの間に密約でもあるのではないかと疑った。そのため、1月11日の御前会議ですでに決定されていた通り、蒋介石との交渉打ち切りを選択した。その結果として、政府も軍が華北に樹立した新政権を容認することになり、さらに、その延長で蒋介石政権を否認する声明を出すことになってしまった・・・そんなところではないかと思います。
このあたり、広田も近衛も先に紹介したような蒋介石の決然たる抗日意思――抗日戦争を不可避と見て、これに勝利するためには持久戦争に持ち込むほかないと考えていたこと――を読み違えていたと思います。というより広田の場合は、その頃既に日本外交を壟断する軍部に対する消極的な抵抗しかできなくなっていましたし(軍のやったことは軍が自ら責任を負うべきだ、といった考え)、近衛の場合は、軍の先手を取ることで軍を思想的に掌握しそれを善導できると考えていたが、実際には、軍に担がれ利用されるだけで、その焦慮感から、世論に対して迎合的な態度を取ることになったのだと思います。
こうした近衛の失敗は、評論家的な批評はできても、それだけでは現実政治を動かす力とはなりえないことを示していると思います。もちろん、この時、近衛は首相の職に在ったのですから、その政治責任は免れないと思います。しかし、政治の実権を実質的に軍が掌握している現実の中で、軍の意思が二つに分裂し、多田等少数派の主張が容れられなかったことについて、その責任を近衛や広田に帰すのは無理があると思います。先述した通り、多田や堀場の主張が蒋介石に受け入れられるはずはなかったわけで、それは、彼らが軍の統制に失敗した結果であり、所詮身から出たさびというほかないからです。
なお、先に「近衛の失敗は、評論家的な批評はできても・・・」と言うことを申しましたが、ここで、近衛の「軍のあり方」に関する考え方を、彼の講演記録の中に見てみたいと思います。
近衛に対する一般的なイメージとしては、北支事変の際の「派兵の決定や、当初の不拡大方針を事実上転換した「暴支膺懲声明」、トラウトマン和平工作(で)、国民政府との交渉を閉ざしたこと、第一次近衛声明(「国民政府を対手とせず」)などの重大局面で判断を誤ったことが指摘されます。要するに、軍のお先棒担ぎで、軍に利用され担がれただけの意志薄弱かつ無責任な人物、という人物評が通り相場になっているのです。
確かに、こうした評価は、政治家としてはやむを得ないと思いますが、しかし、彼の本来の軍に対する考え方は、決して半端ななものではなく、その主意は、いかにして軍を政治のコントロール下に置くか、そのためにはどのような政治勢力の結集が必要か、ということだったのです。ただ、お公家さんであって、それだけの政治力の結集や胆力の発揮ができなかった、ということなのですが・・・。
次に、近衛が、第一次世界大戦後の日本及び参謀本部の有り様を論じた「参謀本部排撃論」と題する大正10年の講演内容を紹介しておきます。
近衛の「参謀本部排撃論」
近衛は大正十年十月国際連盟協会の理事として、亀井陸朗、加藤恒忠らとともに愛媛県に遊説。十一日夜松山市の公会堂で風邪を押して演壇に立ち、「国際連盟の精神について」一場の講演をした。
彼は歴史的な連盟規約の調印式を親しく見て来たことから説き起し、パリに集まった列国は依然として国家的利己心を脱却せず、「痩犬が餌を漁るような醜態を暴露して、肝腎の国際連盟は誠に骨抜同様のものと化し」たとして、現実の連盟が不完全であり、「或は無効となる日があるかも知れない」というが、しかしこの連盟の生れた精神は、国際関係を律するに「暴力を以てせずして正義を以てせんとする」ことで、これは永久にわれらが深く了得すべきことだと論じている。これらの論旨は既に前に出したことと大差ないからここでは省くが、そこから近衛はわが国の軍国主義を非難するのである。
彼によれば、日本人は十九世紀から二十世紀にかけて、列国のアジアにおける帝国主義侵略主義を経験して、「人を見れば泥棒と思え」という警戒心を植えつけられたが、日露戦争に勝ってからは、「今度は人が泥棒したのだから、己が泥棒をして宜い」という方針になったとし、そのため「日本の軍国主義、侵略主義は、日露戦争後二十年間極東の舞台を事実上支配して、その結果は今日の如き八方塞がり、世界的孤立の状態を誘致するに至った」というのである。
彼はこの孤立がパリの平和会議の時如実に現われたのだとし、「当時彼地に居った我々は実に四面敵の重囲に陥って、楚歌を聞くの感があった」と言い、これを「光栄ある孤立」などと言った者もあるが、当時のごうごうたる悪声怒罵の中で、「日本は決して侵略主義の国に非ず、支那人のプロパガンダの如きは、全然事実を謡うる甚しきものである」と、キッパリ断言し得る者は一人もなかったとし、誤解や誇張もあったけれども、「我々の如き従来わが軍閥の支那西比利亜に対する所謂ブンナグリ、ヒッタクリの方針に対し眉をひそめつつあった者は、かかる批難攻撃に対して、実は心中甚だ忸怩たらざるを得なかった」と告白している。
そこで日本が今後国際舞台で局面を展開するには、列国をしてわが国を批難攻撃せしめるような原因を除くことが根本だが、その一つとして近衛は参謀本部制度を指摘している。
要するに我国の参謀本部というものは、独乙を学んだものであって、独乙軍閥亡びて後の今日は、世界に於て唯一無二の制度であります。故に我国を目して軍国主義侵略主義の国であるとし、第二の独乙であるとする人々に取って、此の参謀本部の制度というものは、有力なる例証を提供しつつあるのであります。
一体我が参謀本部は、国防及用兵の事を掌り、其の職能は軍令事項の範囲に限られて居るべき筈であるにも拘らず、参謀総長は往々軍政事項にも干渉する。そこで参謀総長と陸軍大臣とが衝突するという様な例も、最近に起ったのでありますが、参謀本部は更に外交上にも干渉して、外務省と衝突する。所謂軍人外交、軍国主義の批難は、主として参謀本部が外務省に掌肘を加える処から生ずるのであります。陸軍大臣の方は、一方に於て帷幄上奏という如き甚だ非立憲的な行動を許されて居るけれども、他面に於ては閣議によって拘束せられるし、又議会からも糾弾せられるのであります。然るに参謀総長に至っては、議会に対しても閣議に対しても何等責任を負う所がなく、又之を負わせる道が絶対にないのであります。
そこで日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これでは到底議会政治、責任内閣の発達を遂げる事は出来ぬのであります。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の批難を免れる為には、是非とも此の参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何よりの急務であると信ずるのであります。と頗る激烈である。
近衛は、根本問題は、日本国民全体が国際関係に対し、もっと進歩的な自覚を持つことだし、日本の教育が一旦緩急の場合、一身を国に捧げるというようなことを重んじて、「平和的なインターナショナル・シティズン」の養成を忘れていると非難し、支那や加州での排日を憤る前に、先ず自ら深く反省の要があるとし、「私は国民の国際関係に対する思想が今日の如き状態であるに乗じ、狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する様な場合を想像して見ますと、誠に慄然たらざるを得ぬ」といい、それだから国際連盟の精神を、広く一般人に理解体得せしめることが、極めて大切なのだと説いているのである。
近衛のこの講演は、聴衆に多大の感銘を与えたようである。同地の新聞が皆感激の調子で報じているが、一新聞(海南新聞)は、「真率にして偽らず、直言して諱まず・・・公が軍閥の弊を決剔し、軍政の陋習を指摘すること峻烈にして、毫も仮借する所なかりしは近来の快事」と評している。又一般に近衛が華族特権階級の子弟でありながら、旧慣を打破し因襲より脱却して、社会的に有為の活躍をしていることを取上げて、讃辞を呈している。
この点は地方新聞のみならず中央でも同じで、大正十年三月二十六日の東京朝日新聞など、「公卿華族の社会的特権を奉還して、一平民となりたい希望を漏らした華冑界の新人近衛文麿公」と書いているし、どこでも近衛は、「華冑界の新人」とか、「新人公爵」とか、「華冑界の新思想家」などともてはやされ、一躍時代の寵児となった感があった。
これは、その後の軍の統帥権問題の発生と、その結果日本が陥ることになった二重政府状態の危険性を、その10年前に予言したものと言うことができます。そして、こうした日本の参謀本部の有り様が、国際社会をして日本を「軍国主義・侵略主義」と見なす根拠になっていると指摘しています。あわせて、そうした国際社会の批判に乗ずる形で、日本において「狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する」状況が生まれていることに対し、鋭い警鐘を鳴らしています。
当時、これだけの言論を展開し得た人物は政治家にはいなかったわけで、その彼がどうして、彼が危惧した通りの現実に際会する中で、その透徹した見識と決然たる意思を示すことができなかったのか、次回はこの謎を森格との関わり合いの中で探ってみたいと思います。 
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前回は、南京占領後のトラウトマン和平工作の取り扱いを巡って、政府と参謀本部が意見対立し、政府がその打ち切りを主張したのに対して、参謀本部が継続を主張したことについての私見を申し上げました。
これについては、一般的に、政府が交渉打ち切りを主張したことを慨嘆する意見が多く、これをもって、日中戦争が泥沼化したことについて、軍部より政府(=近衛首相)の責任を追求する意見が大半を占めるようになっています。しかし、私は、それは軍内部の意見が割れたためであって、かつ、多田等は少数派に過ぎず、軍内の多数派は交渉打ち切りを主張していたこと。従って、もしこの時、多田等が本当に和平交渉を継続することによって日中戦争の拡大を阻止したかったのなら、まずやるべきことは、北支那方面軍等が推し進めている華北の新政権樹立をなんとしてでも阻止することだったのです。
従って、この件をもって、統帥権のオールマイティーを否定する論拠とすることはできない。司馬遼太郎は「軍部がうまく統帥権を使い、国家の中にも一つの暴力的国家を作った。それによって日本は滅びた」と言ったのですが、この認識は間違ってはいない。問題は、統帥権自体にそんな力があったわけではなくて、大正時代でも、前回紹介した近衛の参謀本部論に見るように、それは政治のコントロール下に置かれるべきものとされていた。それがなぜ、昭和になって統帥権が拡大解釈され、手のつけられないものになったか、その真因を探ることが大切なのです。
そこで、その真因についてですが、半藤氏は前回紹介した立花隆ゼミの学生との対談の中で次のように言っています。
「ところが昭和になって、北一輝という右翼思想家が統帥権の魔力に気がつき、軍隊は政治の外側に独立するもので政治が文句を言う筋合いはないんじゃないか、と言い始めた。」さらに「北は、統帥権についてまず軍をたきつけ、陸軍は野党の政友会を利用した。ロンドン軍縮会議の時に鳩山由紀夫さんのおじいさんの鳩山一郎や犬養毅らが、議会で『統帥権干犯』と騒ぎ出した。政治が海軍の兵力を削減するのは、天皇の統帥権を侵すものというんだね。つまり、今でいう『政局』に利用したんです。この時から、『統帥権』が、ものすごい力を持つ政治的な道具になってしまった。軍部の政治進出のキッカケとなった。」
これも一般的に言われていることであって間違いではありませんが、では、鳩山一郎や犬養毅という政治家が「統帥権を手がつけられないもの」にした元凶かというとそうとは言えないと思います。実は、この統帥権干犯問題には伏線がありました。その伏線を敷いたのは政友会田中義一内閣で外務次官(田中首相が外務大臣を兼任したので実質的には外務大臣)を務めた森格で、彼は、この田中内閣にあって、それまでの対中不干渉主義を基軸とした幣原外交に対するアンチテーゼとしての大陸積極政策を、田中を強いる形で押し進めました。
まず、昭和2年5月、蒋介石の第一次北伐に際して、山東の日本人居留民を現地保護すると称して第一次山東出兵(約4000人)を行いました。この時は、北伐が途中で中止されたためで9月に撤兵しました。しかし、この間、森格は大陸積極政策を日本の統一政策とするため、「軍部との提携に努め、また、官界、財界の各方面に人材を求めて、それを糾合、網羅」することに努めました。
この間の事情を、当時参謀本部作戦課にいた鈴木貞一は次のように語っています。
東方会議の前に、森が会いたいというので会った。どういうことかと聞くと、森は政治家と軍が本当に一体にならなければ、この大陸問題の解決は難しい。自分は東方会議を開いて積極的大陸政策を日本の統一政策とするつもりだが、あなたの意見を聞かせてくれという。そこで、私は、「日本の現在の状態は、一遍○○○○なければ大陸問題の解決は困難だ。」そのために私は軍内の歩調を固めるため、参謀本部、陸軍省の若い連中(石原完爾や河本大作など)と会い、次のような方針を得ている。(○部分は伏字だが、おそらくその後の軍による政治クーデターにつながる内容のものだろう)
それは、「満州を支那本土から切り離して、そうして別個の土地区画にして、その土地、地域に日本の政治的勢力を入れる。・・・これがつまり日本のなすべき一切の、内地、外交、軍備、その他庶政総ての政策の中心とならなければならない」というもの。しかし、これを急にやろうとしてもなかなか難しい、というと森は直ちにこれに同意しそれで行こうということになった。その後森は、奉天総領事の吉田茂やアメリカ大使の斉藤博と相談し、この計画を、元老や重臣、内閣や政界が承諾しやすいものとするため、これをオブラートに包む方策として東方会議を開催することになった、と。
結果的に東方会議では、満蒙における日本の特殊利益を尊重し、同地方の政情安定に努める親日的な指導者はこれを支持するとか、万一動乱が満蒙に波及し治安が乱れて、満蒙の我が特殊の地位や権益の侵害の恐れがある場合には、その脅威がどの方向から来るかは問わずこれを防護する、などの比較的穏当な「対支政策要綱」を提示するに止まりました。しかし、森等の真のねらいは、この後者の防護策において、武力を用いた積極的大陸政策を推進することに公認をとりつけることでした。その結果、三次にわたる山東出兵や済南事件、さらには張作霖爆殺事件を引き起こされることになったのです。
とりわけ、この済南事件における日本軍による済南城攻撃は、居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものでした。こうした軍の行動の背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え(注1)、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのです。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、張作霖軍を武装解除するなどして下野に追い込もうと、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。
(注1) 済南事件当時、陸軍側の軍事参議官会議が開かれており、その会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。
「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」 「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」
こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったか。このことは、田中首相の「不決断」で「計画」が水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。この時、関東軍斉藤参謀長は日記に「現首相の如きはむしろ更迭するを可とすべし」と書き、「村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示」し、これを察知した河本が「張抹殺は私が全責任を負ってやります」と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させた、といいます。
言うまでもなく、この張作霖爆殺事件は、こうした軍の大陸政策にかける思いが関東軍の青年将校たちにいかに強烈だったかを物語るものです。河本は張作霖爆殺後、関東軍に緊急集合を命じ、張作霖の護衛部隊と交戦しようとしましたが、参謀長斉藤恒が(連絡不足から)これに阻止命令を出したため、この事件は不発に終わりました。河本は、もしこの時「緊急集合が出ていたら満州事変はあのとき起きていただろう」と語ったとされます(田中隆吉証言)。それにしても、なぜ、時の首相の方針を無視したこんな暴虐な行動が一参謀に執れたのでしょうか。それは、先の東方会議における森の秘密「計画」なしには考えられません。
ここで確認しておくべきことは、この森と、首相であった田中義一との関係ですが、一般的には、幣原外交が不干渉主義であったのに対して、田中外交は実力行使の積極主義外交と理解されています。しかし、この田中外交は、森と軍の青年将校とが組んだ新体制運動と、張作霖支援を基本とする田中の満州開発論とに分裂していました。この思想的混乱を是正できなかったことが、張作霖爆殺事件を生み、さらにその隠蔽工作となり、そして張学良を後継者とし、その挙げ句の果てに、張学良による中国国民党への易幟へとつながることになったのです。まさに森は、田中にとって「獅子身中の虫」というべき存在でした。
本稿では、森格資料として『東亜新体制の先駆 森格』を重用しています。この本は、昭和14年に出版されたもので、日本の満州事変以降の大陸政策を形作ったものは森格であるということを論証し、それでもって昭和7年12月に病死した森格の事績を称揚するために書かれたものです。従って、森格の行動の真意を知る上では格好の参考資料となっているわけですが、この本の中では、田中首相と森との葛藤関係は次のように説明されています。
「田中男は東方会議の当初、『おら決心したから、世界戦争もあえて怖れない』と断固たる決心と態度を示した。その東方会議で決定した政策を、愈々、実行に移す瀬戸際に立つと、卒然として『一時中止』の裁断を下して些かも矛盾を感じなかった。その結果大陸政策の遂行上、千載の好機を逸したことになった。
田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は、華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。
我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋に於ける二大国が血みどろになって相克抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」  
要するに、済南事件の後に引き続き満州事変を起こすべきであったと言っているわけです。しかし、済南事件で日本が武力でもって中国の統一を阻止し、かつ、張作霖を倒して満州を武力占領するというようなことが、この時点で可能だったとはとても思えません。中国問題はあくまで華府会議で定まった九カ国条約に基づいて処理する他なく、これを無視して、帝国主義時代に逆戻りするようなむき出しの武力占領をやったとしても、中国はもちろんのこと、それを当時の国際社会が受け入れたはずがありません。
こうした森等の考え方は、いうまでもなく、当時の、国際社会秩序であるワシントン体制を破壊しようとするものであり、国内的には、そのワシントン体制を支持する政党政治を転覆させ、政治家と軍が一体となって、独裁的「新体制」を確立しようとするものでした。しかし、こうしたもくろみは、張作霖爆殺事件の不発によって挫折しました。しかし、森格等は、この事件の真相を隠蔽することで、その背後にあった「計画」を温存し、田中内閣崩壊後の浜口内閣では、「統帥権干犯問題」を持ち出して倒閣を画策する一方、その背後で、例の「計画」のクーデター的実行を予定していたのです。
いうまでもなく、それが満州事変だったわけですが、これについて、森は、それは中国が「日本との間に損する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」国だからであり、「こういう暴力団を相手に協調外交、譲歩外交、フロックコートを着て馬賊に対するような国際正義外交を日本が一方的にやってみたところで何の効果もない。所謂外交では今や全く絶望状態なのである」といい、あたかも、日中間の条約や国際条約を無視したのは中国であるとの欺瞞的宣伝を国民に対して行ったのです。
また、この満蒙問題を解決することが世界史的にどれだけ重要な文明史的意義を秘めているかを次のように宣伝しました。
「満蒙は世界的にいかなる地位を占めているか。即ち欧亜大陸の東の関門である。西反面に爛熟せる欧亜の文化は東反面の新たなる力によって、刷新復興さるべき運命を担っている。この新興勢力の通過する道が満蒙である。」これに対し「積極的態度を持し断固としてこれに臨めば、世界平和の発祥地となり、世界文化増進の関門となるべき運命を有している。」
その一方で次のような本音も漏らしています。
「満蒙に於ける事端はその何れを捉えても日本の生存権と密着し、離すべからざる因果関係を有しているのである。古往今来、何れの国を問わず事故生存権のためにする努力は絶対的のものであって、外来の圧迫、環境の如何、条約の拘束もこれを左右することは不可能である。死ぬか生きるかの境に立ったものの叫びは真実であり絶対である。
このことを判然と認識しなければならない。これを解せぬ腰の弱いハイカラ一点張りの軟弱外交は、日本の存立権を自ら犯すものであって、危険千万といわねばならぬ。」
このあたり、近衛文麿の「持たざる国論」との接点も見えてきますね。これが、近衛文麿の満州事変に対する肯定的評価にもつながっていくわけですが、こうした森格の言説はまさに黒を白と言いくるめるもので、どうも近衛にはそれが見えていなかったようです。というのも、森の「日本との間に損する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」という中国に対する批判は、実は、彼の山東出兵以来の軍と一体となった秘密の「計画」行動がもたらしたものだったからです。
で、この森格の草稿は次のような結論で結ばれています。
「さて結論に於いて、私は先日政友会に報告した通り、支那の排日指導方針の下に悪化せる満蒙支那の解決のためには、国力発動以外の道がないと断ぜざるを得ないのである。国民個々の統一なく連絡なき努力では如何とも効果の奏しようがないからである。ただ国力の発動とは、具体的に何を指すか、私個人としては勿論案を有しているが、今日はまだ公表し実行しうる時期に到達していないから、諸君の解釈に一任しておくより仕方ないのである。」
この草稿は、満州事変勃発直前の昭和6年9月6日に執筆されたもので、昭和6年10月号の「経済往来」に掲載されたものです。これで、森格が、石原完爾等の引き起こした満州事変というクーデター計画にどれほど深く関与していたかが判りますね。森格はそうした関東軍一部将校による行動を、文明論的に、また日本の生存権に関わる問題としていかに正当化するか、その宣伝工作に邁進していたのです。
そして、この宣伝に日本国民は見事にだまされたわけで、以後、日本人は満州事変に於ける日本軍の行動を「報償」(国際的不法行為の中止や救正を求めるための強力行為と定義される)と理解し、それを強く支持するようになりました。
最近は、これと同じ理屈で満州事変を正当化する人たちが出てきていますが、幣原外交から田中内閣における森格の行動をつぶさに観察してみれば、これが誤魔化しであることは一目瞭然です。私は、やはり、幣原外交の方が正しかったと思うし、これが継続されていれば、国際社会における日本の信用は保持され、その後の中国の革命外交と称するものが、当時の国際社会において容認されることもなかったと思います。さらに、満州における国権回復運動もそれが行き過ぎれば、当然それに対する「報償」的軍事行動も、幣原外交の元で選択されたと思います。
以上、田中内閣のもとで森格が何をやったかということを紹介してきましたが、彼は、例の「計画」に基づく行動を、犬養毅が政友会総裁となった時にも行ったのですね。それが、本稿の冒頭で紹介した、犬養毅と鳩山一郎を「統帥権干犯問題」追求の矢面に立たせた行動に現れているのです。この時、犬養も鳩山も思想的には議会政治を否定するような気持ちは毛頭なかった。ただし、政友会vs民政党という二大政党制の中で、森格に慫慂され党利党略的な行動をとった、というのが事の真相だと思います。
*この二大政党制下の党利党略という問題は、現在の民主党政権下でも露骨に現れています。
こうして森は、「統帥権干犯問題」を議会政治に持ち込み政争の具とすることによって、田中首相に続き浜口雄幸という政党政治家をテロの標的としました。さらに、犬養が政友会総裁であった時には幹事長として、また、犬養内閣の時は書記官長として、例の「計画」を裏で推進し、ついに、満州事変の処理を巡って、またもや犬養という政党政治家を海軍軍人によるテロの標的にさらすことになりました。
この日本の政党政治にとってまさに元凶というべき政治家森格の評価について、今日もそれが極めて曖昧なままに放置されていることについて、私は大きな疑問を持っています。
ところで、この森格も、ワシントン会議当時は、これについてまともな論評を下していたことを、本稿(5)で紹介しました。また、満州問題の処理についても――長くなるのでその紹介は次回に回しますが――割と常識的な考え方をしていたのです。同様のことは近衛についても言えますね。ではなぜ、森が、以上紹介したような、日本の政党政治を自滅の道に追い込むような役割を演じることになったか。また、あれだけ正論を吐いた近衛が、なぜ森の思想を認めることになったか。この辺りの事情を、次回はさらに詳しく探ってみたいと思います。 
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前回、森格が、日本の立憲君主制下の政党政治を、軍と連携して一国一党の国家主義体制に作りかえようとしていたことを紹介しました。この点について森恪伝では次のように説明しています。
「ロンドン条約を繞る森の活動は、その一面では日本の国家主義運動発展の基礎となった。日本の国家主義運動、普通には、一概に、右翼運動といわれるところの運動は、思想的には、欧州戦争後の自由主義、平和思想からマルキシズムの左翼運動に展開していった潮流に対する反動として、また、外交政策としてはワシントン条約以来の屈辱に対する反抗として、更に、国内的には政党政治の余弊に対する反感として、大正十二年の大震火災以来、漸く、成長の段階に入っていた。
それが大陸政策の形で、現実政治の上に姿を現し始めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、国内の政治運動として勢力を広げ始めたのはロンドン条約の問題(=統帥権干犯問題)からである。
森によって、或いは森の政治活動を機縁にして、政治の現実の足取りを取り始めた日本の大陸政策と国家主義的思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相克しながら、年一年と発展していった。今日、所謂革新外交とか政治の新体制とかいわれるところの政治理念は、森格に発しているといってもあえて過言ではあるまい。」
この本が書かれた昭和14年頃は、満州事変以降の日本の大陸政策や、日本思想の国家主義化は当然視されていて、それを基礎付け発展させたのが森挌だといっているのです。そして、その仕上げとなったものが統帥権干犯問題であり、それを政治問題化することで国際協調・平和外交を推し進める民政党からの政権奪還を図ったのが、森恪だと言っているのです。 
この辺りの事情について『太平洋戦争への道』では次のように説明しています。
「森格の伝記によれば、森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行ったと記されている。
(また)岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』と答えていた。」
つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家であったということです。そして、その首謀者が、当時政友会幹事長だった森恪であり、政友会総裁だった犬養も、彼が構想した党略に乗ることになったわけです。このことについて、当時の新聞は次のように批判しています。
「ロンドン軍縮会議について、政友会が軍令部の帷幄上奏の優越を是認し、責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如きは、・・・・いやしくも政党政治と責任内閣を主張すべき立場にある政党としては不可解の態度といわなければならぬ。しかもそれが政党政治確立のために軍閥と戦ってきた過去をもつ犬養老と、政友会の将来を指導すべき鳩山君の口より聞くにいたっては、その奇怪の念を二重にしなければならないのである。」
ではなぜ、犬養がこのような「二重に奇怪な」政治行動をとることになったか、ということですが、一つは、二大政党がせめぎ合う中での党利党略ということもあったでしょうが、もう一つは、犬養が政友会総裁になれたのは森恪の政治力のおかげだった、ということもあったと思います。しかし、より本質的には、そうした森の党略の背後にある秘密の「計画」を、犬養が見抜けなかった、ということではないかと思います。
というのは、犬養には、海軍軍縮問題についての彼自身の考え方があり、その本音は「日本のような貧乏世帯でもって、いつまでも、軍艦競争をやられてはたまらない」ということであり、軍縮会議には賛成していたのです。結果的には、統帥権干犯問題は、先述したような森の必死の裏工作の甲斐なく、昭和5年10月1日には、枢密院が次のような統帥権干犯問題についての審査報告を行い、また天皇の批准もなされて、政治問題としては収束しました。
「本条約調印の際、内閣の執った回訓決定手続きに関し、海軍部内に紛議、世間に物議を醸したのは遺憾であるが・・・軍令部長にも異議がなかったとの政府答弁、海軍大臣より海相・軍令部長官の意見一致とのこともあり・・・いわゆる統帥権問題は討究する必要がなくなった・・・。是、本官等のすこぶる欣幸とするところである・・・。」
しかし、それを再び政治問題化したのは、またもや森恪でした。
これは、昭和6年2月2日の衆議院予算総会において、当時一年生議員だった政友会の中島知久平が、統帥権干犯問題を蒸し返して幣原首相代理・外相に質問したのに対して、幣原が「この前の議会に浜口首相も私も、このロンドン条約をもって日本の国防を危うくするものではないという意味は申しました。現にロンドン条約はご批准になっております。ご批准になっているということをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではないことは、明らかであります」と答弁したことに端を発しています。
このやりとりについて、ほとんどの議員は、”またまた、蒸し返しの論議をしている”という具合にしか受け取らなかったようですが、傍聴に来ていた森恪は、右手を挙げて幣原を指さし、「幣原っ!取り消せ!取り消せ!」と絶叫しました。これで眠りかぶっていた政友会議員はようやく森のことばの意味を理解し、総立ちになって幣原にこの答弁の取り消しを求めました。
その理屈は、「天皇が批准したから国防上問題がないという言い方は、陛下に対して輔弼の責任を負うべき内閣の責任を、天皇に負わせるものだ」というものでした。確かに、幣原の言い方も不用意だったわけですが、その言葉の前段では、内閣の判断であると断っており、後段で、すでに天皇の批准も得ていることを付随的に述べたに過ぎません。しかし、森はこれを「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか」「単なる失言ではない」と食い下がり総辞職を迫り、これを重大政治問題化しました。いわゆる「天皇の政治利用」ってやつですね。
これで衆議院の議事は一切停止してしまい、「恥を知れ!売国奴」といった怒号が飛び交い、果ては乱闘となり、双方に負傷者を出て、警察官も導入されるなど、議会の大乱闘事件に発展しました。この間の森の思惑について、例の森恪伝では次のような説明がなされています。
この「きっかけを作った者はかねてから、幣原外交の大修正を志し、対支積極政策、満州問題の解決を計画していた森恪であった。」「森はこのチャンスを逃さず一挙に倒閣を敢行しようと腹中に知謀を蓄え、外面には専ら実力派の代表として党内の世論を倒閣一方に導くに努めた。」
さらに次のようなことも述べています。
「森の腹にはもう一つの秘密が蔵されていたと推断すべき理由がある。当時既に陸軍の一角には幣原外交に対する満々たる不満が蔵されており、森と志を同じうして満州問題解決を急務とする人々は、ある一種の決意を蔵しておった。議会がこの所謂醜態が長く続く時には、院外の諸勢力が議会を包囲するかも知れぬ。(三月事件が示唆されている)而してその勢いを以て幣原退嬰外交を精算すれば外交の大転換を来たし、政治勢力の一大変革が期待される。」そういう狙いを森は持っていたのではないかというのです。
それにしても、三月事件というのは、第五十九議会の開催中の3月20日、大川周明がデモ隊を以て議会を包囲する一方、右翼が政友会、民政党本部、首相官邸を襲撃し、軍が治安維持のため出動し、軍代表が議場に入り、内閣に総辞職を強要、元老の西園寺公望に使者を立てて、宇垣一成陸相のもとに大命を降下させ軍部革新政権樹立するというクーデター計画(未遂)でした。こともあろうに、それを、政友会幹事長の森が誘引しようとして、あえて議会を混乱に陥れたのではないか、というのですから、贔屓の引き倒しというべきか、あり得ないことではないだけに、まさに肌に泡する思いがします。
では、こうした森の計画に対して犬養はどう対応したか。森恪伝には次のように書かれています。
「犬養政友会総裁は、森ほど深く倒閣の情熱を持っていなかったし、叉、総裁本来の主張から云っても、議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演は心中苦々しきことと考えている。政府が頭を地にすりつけて謝罪してくれば許してやってもいいという腹があった。」結局、幣原が「過日中島君の質問に対し答えましたる私の答弁は失言であります。全部これを取り消します」と言うことで、政友会の主張は貫徹されたと見なし、犬養首相がイニシアチブをとって天下り的な妥協がなされた・・・。
こうして、森恪が策した「計画」は再び不発に終わったわけですが、しかし、この間、森が火をつけた統帥権干犯問題は、自由主義や政党政治に反対し国家主義を唱える軍や右翼を一層勢いづかせることになり、浜口雄幸首相が右翼のテロに遭って重傷を負う(後死亡)という悲劇を生むことになりました。その実行犯である佐郷屋留雄が所持していた斬奸状には、統帥権干犯の元凶として浜口と幣原の名が記されていました。
そして犬養自身も、犬養内閣を組閣後、関東軍の一部将校が独断専行的に引き起こした満州事変の収拾策を繞って、森恪や軍と対立し、昭和7年5月15日、海軍将校のテロに遭い、こめかみに銃弾を撃ち込まれることになりました。この時の犬養が蔵していた満州事変の解決策とはどのようなものであったか。一つは、当時、若手将校に声望のあった荒木貞夫を陸相に据えることで、陸軍の独断専行を抑止しようとしたこと。もう一つは陸軍の長老の上原勇作に次のような書簡を送り、軍の統制回復に協力を求めたことです。
「陸軍近来の情勢に関し、憂慮に堪えざるは、上官の、下僚に徹底せず、一例をあげれば満州における行動の如き、左官級の連合勢力が、上官をして、自然に黙従せしめたるが如き有様にて、世間もまた斯く視て、密かに憂慮を抱きおり候。そのいまだ蔓延拡大せざる今日において、軍の長老において、救済の方法を講ぜられんことを冀う一事に他ならず。右の根底より発したる前内閣(若槻内閣)時代の所謂クーデター事件(三月、十月事件)もその一現象に過ぎず。
・・・満州事変の終局も近くなれど、現在の趨勢をもって、独占国家の形成(陸軍の目指す満州国独立)を進めば、必ずや九カ国条約との正面衝突を喚起すべく、故に形式は分立たるに止め、事実の上で我が目的を達したく、専ら苦心致し居り候。この機会をもって支那との関係を改善致したき理想に候」
また、犬養は、芳沢謙吉外相に対し、中堅将校の「処士横義」を批判した上、陛下と閑院宮参謀総長の承認を得て、三十人くらいの青年将校を免官にしたい、と洩らし芳沢に制止されました。また、犬養は満州事変の処理については次のような考え方をしており、政権の座に就くとすぐに萱野長知を使者に立て極秘に交渉を進めました。
「関東軍を中心にした陸軍は、満州を独立させ、そこに反国民政府(蒋介石政権)的な、日本陸軍の傀儡政権を作る・・・としているが、これであっては日中間は全面的に対立に陥り、恒久的に平和、友好の関係は崩壊する。したがって、満州の政治的主権(宗主権)は国民政府に委ね、経済目的を中心にした日中合弁の政権を満州につくる」
この犬養構想に対して中国側は、当初は、犬養に軍を抑える力があるかどうか危ぶみましたが、上海事変勃発後、ようやく、この構想をもとに、第一に停戦(上海事変)、第二に日本側の撤兵を取り決め、同時に犬養構想について具体案を作成し協定する、という線で合意しました。萱野は早速この内容を犬養首相宛の書簡で伝え返事を求めました。ところが、これを森(書記官長)が、”これでは陸軍の目指している満州国独立がご破算になる”として、握りつぶしたため犬養には伝わりませんでした。そのため、萱野は待ちぼうけを食わされ、この話は流れてしまいました。
実際の所、もうこの段階では、犬養が目指したような満州事変の収拾策をとることは、日本側では不可能だったのではないかと思います。しかし、犬養自身の大陸政策は、森恪が「計画」していたものとは異なり、至極常識的なものだったということは判ります。また、五・一五事件でテロに遭った際、逃げようともせず、押し入った海軍将校を落ち着かせて話を聞こうとしたことは、日本における立憲政治の確立を目指して奮闘してきた政党政治家としての面目躍如たるものがあると思います。
以上、紹介した森恪という政治家――明治維新以来の自由民権運動の積み重ねの中でようやく確立しつつあった日本の立憲政治、政党政治を、軍や右翼と結託して内部から崩壊させ、それを軍主導の一国一党制の全体主義体制へと強引しようとし、この間、日本の立憲政治確立のために尽くしてきた政治家をテロの標的とした、この、まさに日本の近代政治史上最強の疫病神ともいうべき人物――の存在を抜きにして、私は犬養毅を非難する気にはなれません。
だが、それにしても、なぜこの森恪という人物に、田中義一や犬養毅、さらには本稿の主題である近衛文麿という、キャリアも人格も見識も人並み優れた人物が振り回され、利用され、裏切られ、破滅させられることになったのか。おそらく、この不思議を解明するためには、日本における政治力行使が、どのようになされるのかを見極める必要があると思いますが・・・。
この点、森恪は、こうした政治力行使のノウハウを、三井物産勤務時代や中日実業時代の対支経済交渉を通じて身につけたのでしょう。金の作り方も知っていたし、目先も利き、交渉力も決断力もあった。しかし最大の問題点は、その主な交渉相手が支那人であったためか、日本の支那通と言われた軍人達と同様、支那を対等な交渉相手と見ることができず、いわば「切り取り勝手次第」の太閤記秀吉流冒険主義に陥ってしまいました。
そのやり方で、彼は、第一次世界大戦後ようやく確立したワシントン体制をぶちこわし、東亜の国際政治空間を、かっての暴力的植民地主義時代に逆戻りさせてしまったのです。そうした彼の政治手法に、日本の立憲主義政治家は対抗できなかった。一方、軍は、西洋流の近代思想を超克する思想として、日本の一君万民平等主義的家族的国家観をもつ尊皇思想を手に入れた。それはアナクロではあるけれども、伝統文化に基づくものであるだけに、世論の圧倒的な支持を得ることができた・・・。
それが、戦後の平和主義外交を先取りしたかのような幣原外交を挫折せしめ、一方、人道主義・平等主義的国際秩序建設を訴えた近衛文麿をその罠にはまることになってしまった。では、ここで問われていることは何か。それは、借り物の思想ではだめだということ。それを、自国の伝統文化の延長上にしっかり根付かせることができなければ、本当の力を持ち得ないということではないでしょうか。
昭和の悲劇とは、その意味で、明治以降に日本が欧米より導入した近代思想と、日本の伝統思想とがミスマッチを起こした結果、もたらされたものと言えるのではないでしょうか。その間隙を突いて、森恪の太閤記秀吉流冒険主義や、北一輝の国家社会主義的改造論、石原完爾の最終戦争論など、まさに魑魅魍魎ともいうべき思想が入り込み、収拾がつかなくなった。その結果、満州問題の処理を誤り、さらに軍縮へと向かう世界の潮流を読み誤った。それが泥沼の日中戦争そして太平洋戦争という悲劇につながっていったのではないでしょうか。
次回は、論述が後先になりますが、森恪と近衛文麿の思想的な交錯関係をもう少し詳しく見てみたいと思います。それが、この時代の日本に発生した「転向問題」(一部知識人だけではなく、マスコミや国民を含め一種の社会現象となった)を解明する手がかりを与えてくれることになると思いますので。 
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森恪と近衛文麿の思想の変化を時系列的に見ておきたいと思います。
大正7年末、森恪、中日実業取締役を辞し支那を引き揚げる。この秋政友会に入党する。
大正8年5月、慶應義塾にて「支那解放論」の演題で講演、次はその内容
「世界に於ける、帝国の立場よりみて、極東の平和を保持することが必要なる以上、支那の領土を保全せざるべからざることは問題として考察するの余地なく、従って支那の領土を保全し、支那を統一されたる形に改善することは、日支両国にとりて共通の利益なり。支那の領土を保全するとは何を意味するや?また如何にして保全し得べきや?
支那大陸に住し、また住せんとする者、即ち支那を天地とする者にとりて、統治せられ支配されるが如き形に保全することを、領土保全と称す。支那のみの占有する領土として保全するに非ず。又た一国、一民族によりて支配さるゝが如き形にて保全されることを意味せす、門戸解放されたる富源は国籍の如何を問はず、支那人と外人とを問はず、苟(いやしく)も支那大陸を己れの天地とするものに一様に分布されざるべからず。この意味に於て機会均等ならざるべからず。機会均等は啻(ただ)に支那に来らんとする列強人に對してのみ用ひらるべき言にあらずして、支那人自身にも適用せらるべきものなり。
支那の領土を保全するには、天賦の富源を公開拓発して国利民福を増進せざるべからず。富源の開発利用は現在支那大陸に占住せる支那人のみ依頼し居りては目的を達し得る見込みなく、勢い支那人以上の文明国人の富力と知識を利用するにあらざれば不可能なり。是等文明人の富力と知識を利用せんと欲すれば、支那の門戸を解放せざるべからず。支那人自身の生存の為に必要にして支那を天地とする人類の几てにとりて欠くべからざる方針なり。
知るべし、領土保全を以て国是とする以上、機会均等、門戸解放は緊要方針なることを、故に曰く、帝国は支那の領土保全を目前の国是とし、この国是を実行する手段として門戸解放、機会均等の二大方針を声明し、支那をしてこれを巌守せしめ、苟もこの二大方針に適応せるものは助け脊馳するものは破る事を以て對支政策とすべし。
帝国の對支外交の無為無策、多く機会を逸し去るのみならす、徒に失敗を重ぬるが如き観あるは、畢竟到達すべき主義方針の一定せざるが故なり。拠るべき主義と方針決定すれば、問題如何に複雑するも、局面如何に展開するも執るべき道は自ら定まるべし。豈に右顧左眄するの要あらんや。若し支那をとる考へなく如上の方針をとるとすれば、如上問題に先ず先立ちて先決問題あり。曰く、秩序の恢復なり。」
この時期、森恪は日本の大陸政策は、幣原と同様に、ワシントン条約で主唱された中国の領土保全・門戸開放・機会均等主義でも日本は十分やっていける、むしろ中国の排外主義こそが問題なのだ、と言う認識を示していたわけです。
大正9年5月、森恪、神奈川県より立候補し、初めて衆議院議員に当選
大正10年春、森は近衛文麿(貴族院議員)等と憲法研究会を開く。
この研究会では貴族院改革が論ぜられていますが、その主旨は、「特権貴族が政治の根幹を握っていて、・・・国民を基礎とする政党内閣が如何に強力でも貴族院の牙城には一指もふれ得ないという政治的バリケードを打ち破らなければ、国民政治の進路はない」というものでした。この時、近衛も、京都帝大を出て間もない理想に燃える青年貴族であって革新的気概が強く、貴族院改革をめぐって森と共鳴し、憲法研究会で貴族院改革のための同士的研究を開始したのです。
なお、この年の5月には森もワシントン会議に參加しています。そのワシントン会議についての当時の森の考え方は次の通りです。
「(上略)又我々は国力の実際と国際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ国策を議するは頗る危険であります。世には国力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるが如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓会議を以て我現下の国力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政会の諸君は大なる失敗なり、米国の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。
諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三国干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ国力足らざる結果であります。仮に憲政会の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。
我々は米国を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本国民の堪ゆべからざる處であります。我国の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米国に買われるのであります。米国と国際的に對抗する時はこの生糸か買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬圓の生糸は売る場所がなくなります。
この結果は我が農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我国の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米国より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績が大部分休業するに至ったらば如何なる結果が国民生活に来るでありませうか。国家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。
幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友会の力を率いて能く国論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく、内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(関東大震災)に遭遇し、国家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らす、幸に外憂の心配なく国威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。
是れをしても外政上の大成功といはずして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、国力の実際に無理解なりし国民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まって国民が当時の国力の実際と国際開係を理解するに及び、この講和條約が能く国家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」
この辺りの森恪の外交についての考え方は立派なものです。これは、ワシントン会議当時の内閣は政友会の原敬内閣であり、森恪は政友会に属していたからだ、と見ることもできます。これに対して、当時野党だった憲政会はこの会議に反対しているわけで、党利党略の弊が出ているわけです。
なお、同じ頃の、近衛の日本軍の参謀本部のあり方についての考え方は次のようなものでした。
「日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これではとうてい議会政治、責任内閣の発達を遂げることは出来ない。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の非難を免れる為には、是非ともこの参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何より急務であると信ずる」
また、近衛は、大正11年10月、近衛は、イタリーでムッソリーニのローマ進軍が行われれ、ファッシズムの台頭が世界の関心を惹くに至った頃、大正12年1月の東京毎夕新聞で「代議制度の本義」を論じ、ファッシズムの流行に対して、次のように反対意見を述べています。
近年、代議制に対する反対が、保守反動主義の側からも過激な革命主義の側からも、益々強大となりつつある世界情勢にある。しかし、ファッシズムはこの反動主義の表現であり、わが国の貴族院や枢密院や大学教授の一部にもこれに通ずる思想が見られるようになっている。しかし、これらは「眼前に展開する代議制度の弊害のみを知って、専制政治官僚政治の如何に恐るべき制度であったかを忘却した誤れる考え」である。
そもそも、近時代議制に対する不信が増大した原因はいろいろあって、一は政治の職務が拡大するのに議会の働きがこれに伴わぬことであり、二は国民の文化的向上に比し議員の品位が下落したことであり、三は政党政治の弊害が意外に甚大なことなどである。しかし、結局、他のいかなる制度もそれ以上の弊害があり、政党政治の弊が喧しく言われるのも、弊害の分量が多いというより、ただより多く世間に暴露されるからで、「隠微の間に流弊その極に達した官僚政治に比べれば」、決して憂うるほどのことはない。
そうであれば、結局は、平凡ながら現在の代議制に伴う欠陥を是正し、実質の改善を企図しつつ進むほかないわけで、そのことについては英国人の「平凡の偉大」「常識の偉大」を学ぶべきだである。それによってのみ立憲政治は有終の美を済し得るので、その意味で、「現代の日本青年が徒らに奇を好み、空理空論に走り、然もこの間に煽動的文字を羅列したる雑誌の跳梁することを、慨嘆せざるをえない」
大正13年、森恪、衆議院選挙落選
大正14年3月、森、栃木より衆議院議員当選
大正14年5月、北一輝が「朴烈事件」(朴烈及びその内縁の妻金子文子にかかる大逆事件)にまつわる怪写真(収監中の二人の馴れ合う姿を写したもの)を政友会の森恪(筆頭幹事)に持ち込み、若槻内閣の倒閣のため、これを政治問題化するよう持ちかけた。森は看守に働きかけるなど裏工作を行い、こうして「朴烈事件」は一大政治問題と化したが、翌年1月、三党首(若槻、田中、床次)間で「新帝新政の初めに当たって政争はやめる」ということで妥協が成立、森恪の党略は不首尾に終わった。
これは、要するに、大逆罪(冤罪)で収監中の犯人の待遇が過剰だとして、政友会が政権党(若槻内閣)を攻撃したもので、典型的な党略宣伝行為です。これを、森恪はこれを北一輝と結んで行っていたのです。
大正14年11月、近衛は、彼の主張する貴族院改革論に対する批判に答えるため、「我が国貴族院の採るべき態度」と題して次のように述べています。
「貴族院は自ら節制して、いかなる政党の勢力をも利用せず、叉これに利用せられず、常に衆議院に対する批判牽制の位置を保つと同時に、一面民衆の世論を指導し是正するの機能を有することに甘んじ、大体に於て衆議院に於ける時の多数党と、よし積極的に強調しないまでも、これに頑強に反対してその志を阻むようなことがあってはならない」
要するに、貴族院は直接民意を反映しているわけではないから、衆議院の判断を尊重すべきだ、といっているのです。今日の参議院のあり方にも通ずる問題提起ですね。
昭和元年の2月、森恪は、山本条太郎、松岡洋右等と共に政友会代表として武漢政府視察に行きました。次は、同年4月1日に行った支那視察についての講演内容です(この旅行で陸軍の鈴木貞一と知り合い交流が始まっている)。なお、*部分は筆者の感想というか留意点です。
「私は多数の支那南北の要人や、今同の事件に重大なる開係ある露国人にも面会致しましたが、その人々のいふ處は皆大同小異で一のテキスト・ブツクの様であります。即ち次の如く申して居ります。
第一 日本は今や経済上全く行詰り、国を挙げてこれが転回策に没頭し、支那を苦しめんとするも、日本の実力が之を許さん状態にある。その上戦争を開始すれば日本の海外貿易の六割は支那貿易であるから経済上一国の死命を制するに至る故、一部の者が帝国主義に出んとするのは大いなる誤りである。実に日本活殺の鍵は支那が握っているのである。
第二 満洲問題に就ては、日本が大いに神経過敏である。これ何故かと云へば、日本の経済問題、食糧問題、人口問題に開係あるが為で、我々が若し満洲に於ける日本の要求を容るれば宜しいのである。而して我々は基礎的事業か出来た時、之を始末すれば宜しいのであって、今は余り必要が無いからいゝ加減なことを云ふで居れば宜しい。
第三 南方支那人は、我々東洋人は被圧迫民族である。その被圧迫に反抗した運動の第一の革命者は日本人で、即ち明治維新の革命運動がそれである。然るに日本は我々の革命運動に一向同情せん。
大体以上の三つの誤解が非常に強いのであります。 
*誤解と言うより、正直かつ穏当な見方というべきですね。特に、満州についての考え方は興味深い。
要するに、我々は支那現今の写真を撮りに行ったのでありますが、これに對して我々も一座反駁致しました。第一の経済問題について云ふと、日本は支那が考へたる程貧弱に非ず、支那がその大胆不敵なる態度を改めぬと両国間に大なる不幸が起ると思ふ。日本の支那貿易は僅かに我が貿易総額五十億余円の二割か二割五分に過ぎん、国民党顧問ボロヂシ氏の如きは、我々にこの点を指摘されて大いに狼狽致しました。
*日本は支那に対して、貿易上の依存関係はそれほど大きくはないので、帝国主義に出ることもあるいは可能とでも言いたいのでしょうか?
第二の満州問題に就ては、支那よりも却って日本に発言権があると思ふ。露国の圧迫に依り、馬山をすら取られんとした支那が、露国の南下政策を十分防がざる間は、日本は断じて満洲を渡さん。日本は支那が完全に露国の南下を防ぐ事が出来れば、明日でも満洲を引渡すのである。斯く我が国に重大なる関係を有する満州問題を、支那が簡単に片附けんとすれば、そこに大なる誤解が出来ると思ひます。
*支那に露国の満州南下を防ぐことができれば、日本は明日にでも満州を中国に引き渡す。つまり、満州は日本の安全保障上重要だ、と言っているわけですが、それなら、支那と喧嘩をしないで連携する道を模索すべきです。また、支那は、当面は経済問題、食糧問題、人口問題では当面日本の要求を容れると言っているのですから、これに、あえて反駁を加える必要はありません。
第三、我が国維新の革命は開国運動でありましたが、支那の被圧迫運動は反って閉鎖運動であります。先づ以て内を整へずして如何に立派な事を云ふても誰も承知せんと云うてやりました。皆さんは如何思はるゝか知らんが、我々は大体以上の様な弁駁を致しました處、何事に依らず事々に反對したがる支那人も、誰一人として之に對して何とも云ひませんので、我々は相当反響かあったものと考へます。
*昭和維新も、閉鎖運動ではなく開国運動であるべきでしたね。
尚一つ見逃がすべからざる事は、支那に最近外的関係が加はっている事で、私一個の考より見れば極めて重大であると思ひます。私は支那を支那自身に治めさす時は、今よりは善くも悪くもならんと思ふが、最近の支那には、支那プラスXの力が加はって居ります。即ち露国のインターナショナルと云ふXの力が過去約四ヶ年間加はって大なる支那動乱となったのであります。馮玉祥軍にも露国の力が加はって居ります。
最近漢ロに於ける動乱にも、その背後には露国の力があります。私が議会に於てボロヂンの事を外務当局に質した處、外務当局は、南方と露人との関係は知って居るが、露国の力を認めんと申しました。私はウーフーが南方に占領されて三日目に其處に参りましたが、市民大会で一番長い演説を致したのは露国人であって、その意味は世界的革命を謳歌したものでありました。
*この頃の中国における動乱の背後に露国があるとの指摘は、幣原も認識していて、ただ彼の場合、外交上軽々な非難は出来ない、と言っているに過ぎません。実際、蒋介石は南京事件の後幣原の忠告を受けて、上海事件等の責任者を処刑し、さらに上海クーデターを起こして、国民党からソ連共産党の影響を排除しています。
尚二つ申上げておき度い事は、最近二十年来揚子江沿岸に、日本人の扶植せる勢力が根底から滅ぼされつゝあって、在留日本人は今や生活して行くことが出来ないと思ふことであります。之れは労賃の問題ではなく、経済的政治的革命に、ある一部の支那人が計画的に努力して、日本人を亡ぼさんとして居る為であります故に、今日の支那は日本人が進むか退くか、その一を選ばなければならない状態に遭遇し、大なる苦境に陥って居ります。
(中略)
然るにこの治まらざる支那に投資し、人を遣るのは大なる誤りで、我が当局者の矛盾も実に甚だしいと思ふ。政府は多少の不利は隠忍すべしと云はれますが、現実に苦しんでいる人を、何時までと云はず隠忍しろとは、実に無惨な事で、これ亦深甚に皆さんのお考へを煩はし度いのであります。
*だから、居留民の「現地保護」の為に日本は出兵すべし、と言いたいのでしょうか。先の三国干渉や日露講和における政府の「協調」姿勢は、支那に対しては必要なし、といっているのでしょうか。
先程申上げた支那プラスXの問題は、日本が之れに對し何時までも傍観的態度を持って居ると、数年の中に支那は秩序を為し、一つの形に統一されます。このXが日本であるとしても支那を統一出来ます。日本と露国と提携したとしても、叉欧洲諸国の中であったとしても、亦支那を統一出来るのであります。支那単独では何んでも無いがXの為めに大いに変化を来たします。兎に角現実に我々の前に投げ出されたる問題に就いて、大いに考えなければならないと思います。」
*要するに支那の統一のためには、他の先進国の支援が必要であり、日本がそのX国になるべきだと言っているのです。この辺りの森の議論には論理的な一貫性に欠けるものがありますが、この段階では、一応、支那の主権は認める姿勢は持っていたようです。
ところで、この間の昭和元年3月24日、「第二次南京事件」が発生しています。また、同じ頃、片岡蔵相の失言から金融恐慌となり、全国に取り付け騒ぎが発生しました。その主要因は、大戦景気で急膨張した鈴木商店が戦後恐慌で経営悪化し、その破綻を震災手形で繰り延べしていたため、その手形の最大所持銀行であった台湾銀行の経営が悪化し、その救済のため、政府は緊急勅令案と財政上の緊急処分案を枢密院に提出しました。しかし、枢密院は、4月17日、若槻内閣の外交、特に幣原外交が軟弱であり国威を損じたことを論難し政府案を否決しました。このため内閣は総辞職、代わって政友会の田中義一が内閣を組織しました。 
この時の枢密院に行動は、全く筋違いであって越権行為と言うほかないものでしたが、若槻はあえてこれと戦う事をしませんでした。それは、南京事件の刺激を受けて、政友会の森恪が中心となり幣原外交を「軟弱外交、屈辱外交」と批判するキャンペーンを張り、マスコミも虚実ない交ぜのセンセーショナルな報道を行ったため、幣原外交に対する国民間のごうごうたる非難が巻き起こりました。そのため若槻首相は「人心既に内閣を去った」と感得し、政府案が枢府で否決され日に総辞職を決意したと言います。
こうして、森恪による幣原外交の精算、支那の革命外交の否認、対支武力解決と在留邦人の現地保護の外交方針が、田中内閣のもとで推進される事になりました。これが、昭和2年5月の第一次山東出兵(北伐が中止されたため9月に撤兵)、7月の東方会議(後の「田中上奏文」という偽書を生む事になった)、昭和3年4月の第二次山東出兵と済南事件(蒋介石の全国統一を日本が妨害するものと受け取られた)、それに引き続く第三次山東出兵、そして6月の張作霖爆殺事件の発生を見ることになったのです。
この約2年間の田中内閣の対支積極外交――その内実は、森恪が軍と共謀して推進したものだった――の失敗によって、日本外交は政府と軍の間で分裂するようになり、後の中国との間の泥沼の戦争を運命づけられる事になりました。その発端となった南京事件の処理について、当時、政友会が行った幣原外交非難が妥当であったか否かについて、昭和3年5月5日、民政党の永井柳太郎が衆議院で田中首相に対して質問をし、それに田中は次のように答えています。
永井 南京事件に於て、政友会は在野時代頻りに、流言を放ち宣伝を試みていたが、右事件の調査は既に出来ていると思う。今なお流言を信ずるや。
田中 南京事件に就いては段々調査すると、嘗て世間に流布せられた事柄には往々誤解があると言う事が判った。一例を挙ぐれば婦人の陵辱という如き事は事実ではありませぬ。叉帝国軍人の無抵抗主義ということは、これも軍人が好んでやった無抵抗ではなく、その居留民全体が要求した為、軍人は涙を吞んで抵抗しなかったのである。
当時、森恪がどのような流言を放ち、マスコミや国民がそれにどれ程踊らされたかはあえて述べませんが、その結果、幣原外交が国民に忌避され、これに代わって採用された田中対支積極外交が推進されることになったのです。しかし、これは惨憺たる失敗となり、この結果、中国との外交的信頼関係は全く失われてしまいました。
それだけでなく、森は、張作霖事件の裏にあった「計画」を温存するため、軍と協力してこの事件の”もみけし”を図りました。続いて、石原完爾等が企図する国家改造計画にも荷担することになります。その端緒となったものが、ロンドン海軍軍縮条約締結時の統帥権干犯問題の政治問題化です。これが浜口雄幸首相に対するテロや三月事件さらには満州事変、十月事件へとつながっていったのです。
今日でもそうですが、当時も、この満州問題を論じる時の最大の問題点は、昭和2年以降昭和4年までの2年間の、森恪によって主導された「対支積極外交の失敗」という政治プロセスが、完全に抜けていると言うことです。この事実を抜きにして、この時代の中国の革命外交の不当性を一方的に非難したり、日本の満州権益の合法性を主張したりするのは妥当とは言えない、と私は思うのです。そして、近衛もまたこのことに注意を払うことなく、次第に森恪の主張に引きずられていきました。
「昭和6年5月頃、久しぶりに森とゴルフ場で会うと、彼はこう言った。『世の中は大変なことになりつつある。時代の底流は非常に強い。政党だの貴族院だのと小さいことを考えている時ではない。お互い時代と共に進まなければ、とんだことになる。』それまでの森君は、思想上はともかくとして、有り様は政党主義を基準とする政治家であったので(おそらく貴族院改革の主張を根拠としているのだろう=筆者)、所謂ファッショ的傾向への急転回に驚いた位である。
しかし、森君からヒントを得て以来、時代の潮流に深い関心を持ち出した。一時は貴族院対政友会の問題などで往来が途切れがちになっていたが(森は近衛を憲政会よりと見て離れていた=筆者)それ以来叉屡々会うようになった。森君は軍人では誰がいいかと訊くと小畑敏四郎・・・鈴木貞一、白鳥敏夫等も連れてきてくれた。その当時から私は、軍部の人々とも会うようになった。そうこうしていると、満州問題の切迫、軍部勢力の台頭、社会不安等、成程世の中の潮流が甚だ急であることが判ってきた。」
その結果、「昭和6年秋満州事変勃発の頃より、余は西園寺項初め重臣達と、時局に対する考え方につき、相当距離のあることを感ずるようになった。・・・余は西園寺公に随いて巴里に行きし当時より、英米を中心とする国際連盟を謳歌することは出来なかった(「英米本位の平和主義を排す」)。・・・故に余は当時元老重臣を始め、政府当局が動(やや)もすれば英国に追随する傾向ありしに対しては不満であって、時々西園寺公にもお話ししたが、公は長いものには巻かれろという諺を引いて、反駁せられたことを覚えている
この十年間に於ける日本外交の誠実なる犠牲的国際協調も、支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた。今その事例を一々挙げないが、外交史に明らかである。昭和六年には満州に関する未解決の外交案件だけでも、三百余件を数えるに至った。かくして満州事変は、同年九月十八日ついに柳条溝において勃発したのである。
満州事変を契機として、我が外交は一大転換をなさざるを得なくなった。・・・(その)実際の推進力は軍部事に少壮軍人であって、これを取り巻く民間右派団体の人々の力も、無視できなくなって来た。反動は恐ろしいもので、これらの人々は過去十年間の平和主義、協調主義(国内では議会制等万能主義)への鬱憤を一時に爆発させて元老重臣は君側の奸なり、政党政治家は国体の破壊者なり、という風に排撃の火の手を挙げ、其結果が五・一五となり二・二六となった。
かくの如き一大反動の起こるべきことを、最も早くから見通して居たものは、政党政治かの中では恐らく森恪一人であったろう。余は満州事変勃発後から病を得て、静養の身となったが、余の病室には森恪君や鎌倉の友人志賀直方君等の紹介で、少壮軍人や右翼の人々が次第に訪問するようになった。余がこれら人々を近づけたことを、元老重臣諸公が不快の念を持ってみたであろうことは、想像に余りある。
余はこれらの人々を近づけはしたが、彼らの言説や行動に対しては、元老重臣の人々が疑った如く決して無条件に賛意を表していたのではない。彼らの言説はあまりにも独善粗朴幼穉(ようち)であり、彼らの行動は余りに無軌道激越であって、健全なる常識を以てしては、到底全部を容認し得ないことは言を俟たないことである。・・・(しかし)少壮軍人等の個々の言説を捉えて来れば、我々の容認出来ぬ事は多々あるが、これらの人々が満州事変以来推進し来たった方向は、これは日本人としてたどるべき必然の運命であるということである。
何を以て必然の運命なりとなすか。思うに満州事変の有無に拘わらず、日本の周辺には列国の経済封鎖の態勢が既に動きつつあったのである。英国中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロック等で、世界の購買力の大半は日本に対して封鎖乃至反封鎖の状態にならんとしていた。・・・これを此儘にして行けば、日本は単に海外市場に対する販路を失うて輸出産業を窒息せしむるのみならず、せっかく育てた産業に対する原料を獲得する道もなくなる。・・これは国家経済の根本が立つか立たぬかの問題である。
かく列国の経済ブロックの暗雲が、次第に日本の周辺を蔽わんとしつつある時に、此暗雲を貫く稲妻の如く起こったのが満州事変である。仮令満州事変があの時あの形で起こらなくとも、晩かれ早かれ此暗雲を払いのけて、日本の運命の道を切り拓かんとする何らかの企ては、必ず試みられたに違いない。満州事変に続く支那事変が遂に、大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかったのも、同じ運命の軌道を辿っていたのである。
西園寺公はよくこう言われた。「今日少壮軍人等は熱に浮かされている。此の熱のある間はなるべく彼らを刺激しない様にして、冷えるのを待つに限る。冷静に復したら外交も軌道に乗り、幣原時代の協調主義に戻るだろう」云々・・・
これに反して余は、軍人の熱の冷えるのを待つと言われるが、政治家にして此国民の運命に対する認識を欠ける以上、軍人の熱は決して冷めない。そして軍人が推進力となって、益々此の運命の方向に突進するに違いない。しかし軍人にリードされることは甚だ危険である。一日も早く政治を軍人の手から取り戻す為には、まず政治家が此の運命の道を認識し、軍人に先手を打って、此の運命を打開するに必要なる諸種の革新を実行する外はない。此の運命の道を見逃してただ軍部の横暴を抑えることばかり考えて居ても、永遠に政治家の手に政治は戻って来ますまい。」(近衛手記「元老重臣と余」より)
ここでは、近衛は「日本の必然の運命」について、その原因を「列国の経済封鎖」だけを挙げています。おそらく、ここで近衛の言う「ここ十年間」とは、1922年のワシントン会議以降、満州事変の発生する1931年までの十年間の、所謂幣原外交の時代のことだろうと思います。では、ここで近衛の言う、この間の、日本が「支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた」というのは、一体、この他にどのようなことを指していたのでしょうか。
この点については、私は、渡部昇一氏が『日本史から見た日本人・昭和史』で指摘したように、アメリカによる「排日移民法」(1924年)をその第一原因とするのが最も妥当なのではないかと思います。日本人にとってこの法案が、当時の日本人にどれ程差別的かつ侮辱的なものと感じられたか。それまでは日本人はアメリカが大変好きだった。しかし、アメリカが日本民族を嫌悪していることを知って、日本人はアメリカに対して激しい反発と不信感そして警戒心を持つようになった。
それが米国との協調を基本とする幣原外交への日本国民の信頼を失わせ、その一方で、「アメリカがだめなら満州があるさ」ということで、強硬な大陸政策を求める意見への同調を生むことになった。こうなると、中国に対する内政不干渉・協調外交を押し進めてきた幣原外交に対する世論の風当たりは益々強くなる。その結果、幣原の国際協調外交を推し進めるための、国内における政治的基盤が全く失われることになった、と言うのです。
しかも、中国では国家統一期のナショナリズムが高まる中で、ソ連の影響を受けた反植民地主義運動・反帝国主義運動が繰り広げられ、それが先述したような南京事件や漢口事件を生み、日本人の対支世論を硬化させた。一方、大戦時好況の反動としての戦後不況の発生、関東大震災、金融恐慌、そして世界恐慌の発生、それに追い打ちをかけた浜口内閣の金解禁不況、東北地方の大凶作、そんな危機的状況の中での世界経済のブロック化、さらに満州における排日運動、国権回復運動の高まり等々・・・。
これらの、日本を取り巻く国内・国際環境の連鎖的悪化が、次第に米英主導の自由主義・資本主義体制に対する懐疑を生むようになり、代わって、マルクス主義が多くの知識人の共感を生むようになりました。また、自由主義に基礎を置く複数政党による議会主義民主主義に対しても、現実に対応した立法迅速に行うためには問題があると考えられるようになり、こうして日本でも、一国一党制を求める国家改造が唱えられるようになったのです。
こう見てくると、小林秀雄の大東亜戦争「悲劇論」を思い出さざるを得なくなりますね。これは、小林秀雄の戦後の第一声と言われるもので、当時、知識人間にも多くの冷笑や罵倒を生んだそうですが・・・。
「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起こる。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無知と野心とから起こったか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」
山本七平は小林秀雄のこの言葉の意味について、もし、人が思索するつもりなら、「一身両頭人間」でなければだめだ。つまり、右の頭は戦時中の常識につかっていて、左の頭は戦後的常識につかっていて、それを時代の変化に合わせて使い分けるような反省ではだめだ。大切なことは、その間、自分が一身であることを忘れないことだ。つまり、戦争中自分はなぜその時代の常識を自らの常識としたかについて、それを安易に後悔などというおめでたい手段でごまかさないこと。そう決心することで、初めて自分という本体に出会うことが出来る、という風に解釈しています。
端的に言えば、戦前昭和の日本の歩みは、まさに運命的=「悲劇的」というしかないものだった、という事でしょう。しかし、それを認めるとしても、私は、もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思うのです。そうすれば、世界恐慌の時代を無事に乗り切ることが出来たのではないかと・・・。
そのことを、当時の政治家は、国民に対して辛抱強く訴えるべきだった。それと、もう一つは、軍縮の時代の軍に対する対応をもう少し考えるべきだった。というのは、この時代の日本が抱えていた問題点は、以上述べたような日本を取り巻く国際環境の厳しさということだけではなくて、日本軍に関する固有の問題が、これとは別にあったということなのです。それは端的に言えば、この時代、日本は軍の処遇を誤ったということ。これは、実は戦後についても言えることなのですが、これについては、次回、論ずることにしたいと思います。 
10

 

前回は、近衛の時局に対する見方が、満州事変勃発の頃より急速に森恪らの主張に近づいて行き、西園寺を始めとする重臣等との意見に疎隔を生じるようになったことを述べました。こうした近衛の意識の変化は、実は、国民の意識の変化とパラレルの関係にあって、なぜ、あれだけ政党政治や議会政治を擁護した近衛が、満州事変以降、軍を支持するに至ったのかを理解すれば、それは同時に、当時の国民の思想を理解することにもなるのです。
私は、前回「もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思う」ということを述べました。
このことは、アメリカの排日移民法の成立を見ても判ることで――これを契機に日本人の反米感情が高まり、ひいてはワシントン体制そのものがアメリカの対日封じ込め政策であるかのように理解されるようになった――こうした「持てる国」=英米の横暴に対抗するという意味からも、資源を「持てる国」ではあるが、近代化に遅れたために「奪われる国」になった中国と連携する必要があったのです。
いうまでもなく、日本はアジアにおいて唯一の近代化に成功した国です。そのためのノウハウも持っている。当然、中国の近代化を支援することもできたわけですし、もし、両国間に平等・互恵の関係を構築できれば、日本が抱える人口問題や資源問題や商品市場の問題も解決できたはずです。
おそらく、幣原外交のポイントはここに置かれていたと思います。よく、幣原外交の失敗例として、1025年の支那の特別関税会議で列国の協調を破って支那の関税自主権を承認したこととか、1927年の南京事件や漢口事件に際して、英国等との共同出兵に応じなかったことなどが指摘されます。これは幣原が、対支協調外交の方により傾斜していた事を示すもので、国際協調外交や対支不干渉外交という言葉より、幣原外交の本質を表していると思います。
特に、後者の事件(昭和2年の南京事件)を始末する際に幣原がとった処置について述べると、英米などが蒋介石に対し、最後通牒を突きつけ軍事行動を起こすべく日本に共同行動を求めたのに対し、幣原は、彼らに対して次のように反論し日本の立場を述べています。
「これに對してあなた方の本国政府がどういう態度をとるか、私はそれに干渉するわけではありませんが、日本政府に関する限り、その態度をハッキリあなた方に諒解して貰いたいのです。この最後通牒を、蒋介石はどうするか。方法は二つしかない。承諾するか、拒絶するかである。もし最後通牒を鵜呑みにして承諾するとすれば、彼は中国民衆から腰抜けだ国辱的な譲歩をしたといって攻撃される。蒋介石の立場は当時まだ国内で安定していないから、若い連中から一斉に攻撃されるようになると、蒋介石自身の政権が潰れるかも知れない。
蒋介石の政権が潰れたら、どういう結果になるかといえば、国内は混乱に陥る。それでもあなた方には大したことではあるまい。それは多くの居留民がいるわけじゃないから、逃げれば逃げられるだらう。しかし日本は十数万もの居留民がいるから、これを全部早く安全の場所に移すわけには行かない。直ぐに出兵するとしても多少暇がかかる。そのうちには多くの者が恐らく危害略奪を免れまい。これに反して、蒋介石が列国の最後通帳を断乎拒絶したとしたとしたらどうなるか。あなた方は共同出兵して、砲火によって警罰する外に方法はないであらう。がこれは大いに考えなければならん。
どこの国でも、人間と同じく、心臓は一つです。ところが中国には心臓は無数にあります。一つの心臓だとその一つを叩き潰せば、それで全国は麻痺状態に陥るものです。・・・しかし支那という国は無数の心臓をもっているから、一つの心臓を叩き潰してもほかの心臓が動いていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって、、支那を武力で征服するという手段を取るとすると、いつになったら目的を達するか、予測し得られない。またそういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、支那に大きな利害間係を持つている日本としては、そんな冒険的な事に加はり度くない。
だから日本は、この最後通牒の連名には加わりません。これは私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からも夫々本国政府へお伝えを願いたいのであります。」(『外交五十年』)
なんだか、日中戦争の結末を予言しているかのような言葉ですが、結果的には、日本が参加を拒否したことによって、この最後通牒の話は立ち消えとなりました。しかし、その後、支那側の攻撃が英国に向けられるようになると、欧米各国は漢口、九江、天津などの租界を返還するなど対支融和策に転じました。ところが、こうした列強間の足並みの乱れに支那側が乗じ各個撃破戦術を採るようになると、在支英米人がさかんに幣原外交を列強の対支協調を破壊したものとして非難するようになりました。それが国内にも伝えられて、幣原外交を打倒すべしとの声がにわかに高まることになるのです。
その急先鋒に立ったのが政友会の森恪であったことはいうまでもありませんが、幣原がこの問題について全く無策であったかというとそうではなく、蒋介石に対して次のような忠告を行ったと彼自身は言っています。
「私は蒋介石に対して人を介して・・・早く列国と相談して、思い切って損害の賠償すべきものは賠償し、謝罪すべきものは謝罪して紛争の原因を一掃してはいかかであろうかとといわせた。私の趣旨がのみ込めたものと見えて蒋介石はその通りにやった。」
もちろん、この事件の背後には国民党内部の共産主義分子がいて、漢口のボロジンの指示によって、蒋介石を窮地に陥れるため故意に外国人を襲撃したのでした。幣原はこのことを知っていて、あえて蒋介石に列強の攻撃が向かわないようにしたのです。蒋介石もこうした共産党の意図を察し、上海では先手を打って、一斉蜂起を計画していた共産党を弾圧して上海が共産党の手に落ちることを阻止し、さらに南京の第六軍を粛清して、南京事件等の関係者を死刑に処し、当該国への賠償も行いました。
その後、蒋介石は、幣原が「無数の心臓を持っている」と形容した中国の混乱した政情を全国統一に持って行くべく「北伐」を開始しました。これに対して、居留民の現地保護を名目に、その統一事業を阻止するかのような行動に出たのが、何度も申しますが、政友会田中内閣における森恪でした。おそらく、それは当初は、倒閣のための党略に過ぎなかったのかもしれません。しかし、その時、彼と連携した青年将校等は、幣原外交に対して、ワシントン会議で軍縮を推し進めた元凶として、激しい敵意を抱いていたのです。
この両者の、いわば「私的な思惑」が重なり、それが山東出兵という、中国における日本人居留民の保護あるいは権益擁護のための出兵となり、それが済南事件を経て、日本は、そのためには、中国の統一を妨害する事も辞さない国だと見なされるようになったのです。さらに張作霖爆殺事件を経て、日本軍の暴力体質・隠蔽体質が明らかとなり、張学良は易幟を行って国民党に合流、全満州に青天白日旗が翻ることになりました。その結果、、国民党の外交部長王正廷による革命外交が、満州においても推進されるようになったのです。
こうなると、今度は、こうした国民党による国際法を無視した国権回復運動が、日本のナショナリズムを刺激するようになる。満蒙における日本の特殊権益は、日露戦争における日本軍将兵10万の血の犠牲によって贖われたものだ。にもかかわらず中国は、満蒙における日本の条約上の合法的権益さえ踏みにじって、日本を満蒙から追い出そうとしている。
そもそも、匪賊の跳梁する地であった満蒙を、今日の如く、3,000万人口が安心して暮らせる土地に変えたのは誰だ。日本人ではないか。その日本は、移民問題や食糧問題、さらには世界恐慌下で進行しつつある欧米各国による経済のブロック化によって、資源の調達や商品の販路を閉ざされようとしている。故に、満蒙は日本にとって「生命線」であり、その権益を放棄するわけにはいかない。
これは、日本という国が生存していくための当然の権利=国益である。これを、中国の不当な侵害から守るのは当然であり、必要なら武力行使も辞すべきでない、といった考え方です。そして、近衛自身も、こうした考え方をとるようになった。同様に、大多数の国民も近衛と同じような思考経過を経て、満州事変を熱狂的に支持するようになったのです。
では、こうした考え方はどこで間違ったのか。
順を追って言えば、まず第一に、南京事件をめぐる政友会の森恪を中心とする幣原外交攻撃のやり方が、全く事実に基づかない政略的プロパガンダであり、そのため、幣原外交に対する国民の信頼が大きく損なわれた、ということ。それと同時に、日本人の支那人に対する警戒心と敵愾心が一気に高まった。
第二に、山東出兵それに引き続く済南事件(これも意図的な誇大報道によって点火された)によって、支那人の、日本に対するイメージが決定的に悪化した。日本は、その領土的野心を満足させるためには、中国の政治的統一を武力で阻害し、必要とあらば一国の元首を爆殺することも平気でやる国だと。
第三に、張作霖爆殺事件の処理において、日本政府が事件をもみ消し、その首謀者を軽微な行政処分で済ませたことは、国内政治における法的秩序が決定的に損うことになった。また、こうした処置は、満州の継承者である張学良に消しがたい屈辱感と恨みを残すこととなり、彼をして排日運動へと駆り立てることになった。
こうして、日本人と中国人の間に、ほとんど修復不可能な、恐るべき認識ギャップが生じることになったのです。これを運命と考えるか、それとも、外交的失敗によってもたらされたものと考えるか。私は、後者の視点を重視しているわけですが、とりわけ、その中でも、日本外交において、対支協調外交を重視した幣原外交が、なぜ当時の日本人に「忌避」されるようになったか、ということに関心を寄せているのです。
繰り返しになりますが、日本にとっては、昭和初期の国内及び国際社会における困難な経済環境の中で、その生存を確保していくためには、中国との連携協力は不可欠でした。それは、日本についてだけ言えることではなく、中国にとって歓迎すべき事だった。にもかかわらず、なぜ、上述したような、ほとんど回復不能な仇敵関係に陥ってしまったのか、ということです。
そこで、私が、この問題を解くための一つのモデルと考えたのが、近衛の思想、その「持てる国、持たざる国」論なのです。近衛はこの論理によって、森恪を時代の先覚者として称揚し、満州事変を引き起こした軍の行動を支持し、政党政治の堕落を悲憤慷慨しテロに走った青年将校等に同情を寄せました。そして国民もまた、こうした近衛の考え方を熱狂的に支持しました。
では、この近衛の「持てる国、持たざる国」論の特徴は何でしょうか。その第一の特徴は、その思想の根底に、国際社会秩序形成における一種の道徳主義的人道主義と平等主義があるということです。第二に、ここから、こうした道徳主義的理念が未成熟の段階にある国際社会においては、「持たざる国」が「持てる国」に挑戦するのは当然、とする考え方が生まれた。第三に、こうした考え方は国内政治にも反映し、動機が純粋であれば何をしても許される、といった法的秩序を軽視する考え方につながった、ということです。
この近衛の論理は、もともとは、第一次大戦後にできた国際連盟を批判する論理として考案されたものですが、では、この論理は中国に対してどのように適用されたか。中国は確かに資源的には「持てる国」である。しかし、近代化に立ち後れたために、「持てる国」ではあるが「奪われる国」になってしまった。一方、日本は「持たざる国」であるが近代化に成功し「奪う国」となった。それ故に、中国にとっては最も警戒すべき国になった、ということです。
つまり、ここにおいて、近衛の「持てる国、持たざる国」論は、「持たざる国」であると同時に「奪う国」となった日本が、「持てる国」ではあるが「奪われる国」に止まっている中国から「奪う」ことを、正当化する論理になっているのです。確かにこの論理は、「持てる国」であると同時に「奪う国」である英米に対しては一定の説得力を持ちます。しかし、中国に対しては、それは帝国主義的論理として機能することになる。
ここに、日本人が日中戦争に対して持ったイメージと、対米英戦争に対して持ったイメージが決定的に異なることになった根本原因があります。もちろん日本国民は、この近衛の思想を日本の伝統思想にそって理解しました。つまり、近衛の思想の根底にあった道徳主義的人道主義・平等主義思想を、日本の伝統思想である家族主義的国家観に基づく一君万民・平等思想として理解したのです。
というより、こうした近衛の思想こそ、日本の伝統思想を無意識的に反映するものであったと言うべきかも知れません。従って、先に指摘したような近衛の思想の欠陥は、そのまま日本の伝統思想の欠陥であった、ということもできます。何よりもそれは家族主義的国家観に基づくものであり、それを国内政治だけでなく国際社会にも拡大したところに、国内における法秩序の破壊に止まらず、国際社会の法秩序をも破壊することになってしまった、ということです。
もちろん、近衛は、政党政治や議会政治を否定したわけではなく、また、統帥権を盾に取って独断専行的行動を繰り返す軍を支持したわけでもありません。しかし、軍がそうした行動を取るに至った動機には理解を示していました。つまり、政治がそうした時代の変化を先取りし先手を打たない限り、彼らがそうした行動に出るのはやむを得ないと考えたのです。このため、近衛が首相になってまず第一にしようとしたことは、三月事件以降、二・二六事件に至までの政治犯を恩赦することでした。
「我が国軍内部におけるかくの如き対立相克と、非合法手段による国家改造の思想とを解消せしむる(ためには)・・・他なし、内乱及び叛乱の罪につき大赦を奏請し、これら犯罪に関する一切の責任を赦免して、彼らをして天恩の真に広大なるに感激せしむるとともに、過去を凡て水に流して恩讐を忘れしめ、以て相克の原因を除去すること是なり。しかして為政者たる者は、一面において彼らの志を汲み、今後益々鋭意して庶政の刷新と国威の宣揚とに向かって邁進するを要す。」
ここには、法治主義による秩序の回復ではなく、極めて日本的な温情主義的問題解決法が説かれています。実は、近衛の思想は、京大在学中にオスカー・ワイルドの「社会主義の下における人間の魂」を訳したように、社会主義的人道主義・平等主義から出発しています。ところが、こうした彼の人道主義・平等主義は、次第に日本民族の伝統精神に基礎を置くようになりました。このことは、昭和7年に長男の文隆を米国留学させる時、平泉潔を招いて日本精神を講義させたことにも現れています。
こうして、西洋の社会主義思想から、日本民族の伝統精神である一君万民平等思想に基礎を置くようになった近衛の思想から、満州事変を見るとどうなるか。
「今や欧米の輿論は、世界平和の名に於て、日本の満蒙に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振り翳し、或は不戦条約を楯として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさえある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは日本に非ずして寧ろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。」
日本は真の世界平和を希望するが、経済交通の自由と移民の自由の二大原則が、到底近い将来に実現され得ないので、「止むを得ず今日を生きんがための唯一の途として、満蒙への進展を選んだのである。欧米の識者は宜しく反省一番して、日本が生きんがために選んだこの行動を、徒らに非難攻撃するを止め、彼等自身こそ正義人道の立場に立帰って、真の世界平和を実現すべき方策を、速かに講ずべきである」
ここでは、先に述べたような、「持たざる国」である日本が、「持てる国」である中国から「奪う」、という行為について、それを、今日の世界では、経済交通の自由と移民の自由という二大原則が損なわれていることを理由に正当化しています。しかし、この二大原則を損なっているのは欧米各国であって、中国の場合は先ほど述べたように、「持てる国」ではあるが「奪われる国」であって、日本としては、その中国の近代化を助けて、「奪われない国」にすべきだった。そうすれば、相互に互助互恵の関係が構築できて、経済交通の自由や移民の自由を確保することもできたはずでした。
それをできなくした責任は、もちろん、当時の中国の、行き過ぎた革命外交の推進にも一半の責任はあります。しかし、そもそも、そうした革命外交を満州の地に引き入れたのは、幣原外交を虚偽のプロパガンダで放逐し、日支間の外交関係を修復不能な仇敵関係に変えた、政友会田中内閣の対支積極外交の失敗にあったのです。ところが近衛の論理からは、この責任を追及する視点が全く欠けている。これはまたどうしたことでしょうか。
端的に言えば、ここでは中国は、主権国家として扱われておらず、ただ「奪われる」だけの「持てる国」として扱われているということです。つまり、この近衛の論理は、植民地主義を正当化するための論理になっており、中国の主権国家としての地位を踏みにじるものになっている。それゆえに、田中内閣時代の対支積極外交の失敗ということも、全く問題とされていないのです。
こうした近衛の論理は、軍にとっては大変都合がよかった。ここでは、田中内閣時代以降の軍の独断行動やテロ行為、さらにはクーデター計画さえ責任を問われることはない。それだけでなく、その後の類似の軍の行動も是認されることになるのですから・・・。といっても、近衛は議会政治や政党政治を否定したわけではなく、先に紹介した恩赦を実施することによって、それまでに蓄積されてきた国内政治や軍内における対立相克を解消できる、それによって政治のリーダーシップを回復できると考えていたのです。
一説では、こうした近衛の恩赦についての考え方は、二・二六事件を契機に軍内で主導権を握るに至った統制派に対して、皇道派の復活を図ったものだ、ともいわれます。事実、統制派はこのことを警戒してこの恩赦に強硬に反対しました。また、西園寺を始めとする重臣たちは、こうした措置は、国内の法秩序を崩壊させるものだとして、こちらも強硬に反対しました。西園寺は「そんなことをしたら、憲法も要らなければ,国家の秩序も社会の規律も何もなくなってしまう」といっています。
これに対して近衛は、「社会悪というものがある。資本家の弊悪、権力者の弊害など。それに対して二・二六や五・一五のようなことが起こる。犯人は国家や社会のためを思う純な気持ちなので,社会悪を除こうとの考えからだ。だから、陛下としても大局からご覧になって,公平にその動機を汲んでやるだけの心持がないと、公正が保たれぬ」というようことを言っています。極めて伝統的というか、山本七平が言うところの、日本人特有の「情況倫理」そのものの考え方ですね。
この「状況倫理」というのは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方です。この考え方の問題点は、そうした社会の「情況の創出には自分もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠落している」ことであり、これは自己の意思の否定であり、従って自己の行為への責任の否定になる、ということです。
といっても、こうした「日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範にはなり得ない。いかなる規範といえども、その視点に固定倫理がなければ,規範とならないから、情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。ではその支点であるべき極限としての固定倫理をどこに求むべきかとなれば、情況倫理を集約した形の中心点に,情況を超越した一人間もしくは一集団乃至はその象徴に求める以外になくなってしまう。・・・そして、それを権威としそれに従うことを,一つの規範とせざるを得ない。」
こうして、象徴的権威を持つ一君を中心とする世界ができあがるのです。しかし、この世界は情況倫理を当然とする社会なので、その批判を避けるためには、この一君のもとに万民が平等に扱われる社会の形成へと向かわざるを得ない。これが社会主義乃至共産主義の社会イメージと親和性を持つのは当然です。ただし、この思想は天皇制とは相容れないから日本では受け入れられず、こうして多くの知識人が、社会主義的平等主義から天皇中心の一君万民平等主義へと転向していったのです。
実は、近衛も、その転向者の一人だったのですね。ところが、彼は首相になった。他の知識人と同じように評論家の位置に止まっていれば責任を問われることはないが、首相は国政を動かさなければならない。そうなると、どうしてもこの情況倫理の世界では、自分が一君にならない限り安定しない。しかし、日本ではこの一君は天皇である。従って、それを輔弼する形で内閣を組織しているのだが、この天皇に直属する軍が内閣とは別にあって、これが統帥権論争を経て、首相といえどもアンタッチャブルな存在になっている。
その上、この情況倫理の世界は、動機が純であればテロ行為も上官の命令に反した独断的行為も許されるということになるから、軍の統制も乱れる。近衛が首相になって一月程後に支那事変が勃発したが、政府は不拡大方針を採っているのに戦線は拡大する一方である。
こうした現実に際会して、近衛はその手記に、「軍に最初から遠大な計画があって、作戦上これを秘密にするのなら,政府としては迷惑な話だがまだしも諒とすべきところがあるけれども、実際には何ら確固たる大計画もあるのでないことは,松井、杉山の問答の通りで、形勢の進展に押されて,段々に伸びていったものに過ぎず、ここに支那事変のやっかいな性格があった」と書いています。
これでは、到底責任が持てないとして、近衛は辞意を漏らすようになります。しかし、「軍を事実上動かせる分子――それが青年将校であれ、現地軍であれ――が、これによって反省し,事態を収拾する方向に行動せしならんと考え得らるるや。却って傀儡政府を立てて、事態を日本として誤りたる方向に益々導く可能性なかりしや。余はあくまで軍を激成することを避けながら、極力他の凡ゆる手段によりこれを制御することを以て、余の使命なりと感じてその努力をなせり」ということで首相の座に止まることになりました。
要するに、近衛の「持てる国、持たざる国」思想や「情況倫理」思想では、軍の統制を回復することもできなければ、政府のリーダーシップを確立することもできなかった・・・。というより、むしろそうした思想が、軍の統制の破壊や政府のリーダーシップの不能の原因となった、と見るべきですね。その原因を一言で言えば、国家統治あるいは国際社会の秩序形成における「法の支配」の意味を、近衛は十分理解していなかった、ということになります。
結局、彼の思想は、日本に伝統的な尊皇思想に基づく「一君万民平等思想」の枠内にあった、ということであって、それ故に、その全体的統制を回復するためには、次のように、天皇に対して統治大権を直接行使する一君としての「天皇親政」を求める事になりました。
「日本憲法というものは天皇親政の建前で、英国の憲法とは根本において相違があるのである。事に統帥権の問題は、政府には全然発言権がなく、政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただお一人である。
しかるに、陛下が消極的であらせられることは平時には結構であるが、和戦いずれかというが如き、国家が生死の関頭に立った場合には,障碍が起こりうる場合なしとしない。英国流に、陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進み得ないことを、このどの日米交渉(昭和16年)において痛感した」 
これを読まれた天皇は「どうも近衛は自分に都合のよいことだけいっているね」と不興気だったといいます。というのは、そうした憲法解釈は近衛の思想によるのであって、天皇や西園寺を中心とする重臣達は、天皇を憲法下に置かれた制限君主として解釈していたからです。まして、近衛のいう統帥権の問題は、少なくともロンドン会議までは、軍の編成大権も政府の国務の内に含まれるとの解釈が一般的だったのです。それを統帥権という軍の「魔法の杖」に変えたのは、明治憲法によるのではなくて、政友会の党略の結果に過ぎなかったのです。
以上、近衛の思想について見てきました。一見ハイカラな西洋近代思想を超克するモダンな政治思想に見えたものが、意外なことに、尊皇思想に基づく天皇親政という家族主義的国家観に由来する一君万民平等思想であったことが明らかになりました。そして、このことが判れば、昭和における日本の失敗の原因は何だったかということも、自ずと判ってきます。それは法治主義という近代民主政治を支える基本思想の理解を誤ったということであり、そのために、ようやく日本に根付きつつあった政党政治や議会政治を放擲してしまったのです。
また、こうした近衛の過ちと同じ過ちを、日本国民もまた犯したのであって、その意味では、昭和の悲劇を一部軍国主義者の責任にするのは間違いなのです。というのは、当時国民は、普通選挙権を持っていたのであって、真に反省すべきは、その軍を民主的にコントロールできなかった自らの思想的非力を自覚するということなのです。
おわりに、後年の近衛の述懐を紹介しておきます。
「西園寺公は強い人であった。実に所信に忠実な人であった。そして徹底した自由主義、議会主義であった。自分は思想的に色々遍歴をした。社会主義にも、国粋主義にも、ファッショにも惹かれた。各種の思想、党派の人々とも交友を持った。しかし老公は徹底していた。終始一貫して自由主義、政党主義であった。自分はナチ化はあくまで防いだが、大政翼賛会という訳の判らないものまで作ってしまった。が矢張り老公の政党政治がよかったのである。これ以外によい政治方式はないのかも知れない。識見といい勇気といい矢張り老公は偉い人であった。云々」 
 
青年将校はなぜ暴走した

 

1 暴走の発端「済南事件」 
前回の末尾に、「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」という重光葵の言葉を紹介しました。この「日本国民の政治力の不足」ということは、ひいては当時の日本国民の政治意識を支えた「思想」に帰着します。つまり、この「思想」が、この時代の日本に「自滅」への道を選択させてしまったのです。
私は先に「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したか」について、その根本原因を「日本の伝統的大陸政策」に求めました。特に、昭和期の日本の大陸政策が、独善的・排他的な東亜共和思想に陥ったことが大きな問題でした。確かに、当時の国際環境の中で資源の少ない日本は中国にそれを求めるざるを得ませんでした。しかし、この問題を、あくまでも中国の主権を尊重する形で解決すべきでした。また、第一次世界大戦後の国際協調路線を堅持する中で解決すべきでした。
ここで、明治以降の日本の大陸政策の変遷を概略見ておきます。
それは、中国との朝鮮の支配権をめぐって戦われた日清戦争(1894.7〜1895.4)に始まります。日清戦争に勝利した日本は、朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾、澎糊諸島を獲得しましたが、三国(ロシア、ドイツ、フランス)干渉(1895.4)を受け遼東半島を中国に返還しました(その代償として邦貨約4500万円を取得)。しかし、その後ロシアは旅順港の租借、東支鉄道の敷設をはじめ満洲に支配権を広げ、さらに朝鮮にも進出しようとして日本と対立するようになりました。
こうして日露戦争(1904.2〜1905.9)が勃発し、日本は日英同盟もあって勝利し、ロシアに南満州を中国に返還させた上で、遼東半島(関東州)と東支鉄道の一部(旅順―長春間、南満州鉄道)の支配権(ロシアの25年の租借権を継承)を獲得しました。この内、遼東半島については、日本は二度の戦争の犠牲を払ってようやく獲得したものであり、それだけ思い入れの深いものとなりました。また、南満州鉄道の租借権については、ロシアが採掘していた撫順及び煙台炭坑の開発・経営権や、鉄道付属地(鉄道両側併せて約62メートル及び駅付近の市街地)の行政権も含んでいました。さらに関東州の守備隊として日本の軍隊が配置され、1919年には関東軍司令部が設置され、南満州鉄道の線路防衛にもあたることになりました(1931年の満州事変に至るまで約一万人)。
この間、日本は1910年に朝鮮を併合しました。満洲及び蒙古については、四次(1910〜1016)にわたる日露協約によって、ロシアとの勢力範囲(日本は南満州および東部蒙古)を確定し、相互援助・単独不講和を約しました。しかし、1917年のロシア革命によりこの協約は破棄されました。また、この間の1911年には辛亥革命が発生し、1912年1月には中華民国が発足し孫文が臨時大統領となりました。2月には宣統帝が退位して清朝は滅亡し袁世凱が大統領になりました。
このように中国の政情が激変する中、一部日本人(川島浪速他)による満蒙の分離独立工作が企てられました。しかし、日本側の工作は統一されておらず、革命派を支持する活動もあり、また、イギリスが袁世凱による統一共和政府を支持して、日本に分離独立運動を援助しないよう申し入れたことなどから、この運動は挫折しました。一方ロシアは、1912年11月、露蒙協約を結んで外蒙(モンゴル)を保護国化し、1913年には中露協定を結んで、中国に宗主権を残す形でモンゴルの自治を認めさせました。
1914年7月には第一次世界大戦が勃発しました。日本は日英同盟の要請もあり、東洋からドイツの根拠地を一掃するとともに、この機会を利用して中国における日本の権益確保・拡大をねらって対独参戦しました。日本軍は11月までに膠州湾、青島、山東鉄道を占領、その後加藤外相が袁世凱に出した要求が、いわゆる「対華二十一ヵ条要求」でした。特にその第五号は、希望条項でしたが、支那中央政府に日本人の政治、財政、軍事顧問をおくなどの要求を含んでいたため、列国の反発を招き、中国はこれに激しく抵抗しました。
結局、日本政府は第五号の希望条項を留保した上で、1915年5月7日に最後通牒を発し、5月9日中国はやむなくこれを受諾しました。続けて、二十一ヵ条要求を具体化する「山東省に関する条約」及び「南満州及び東部内蒙古に関する条約」等が締結されました。前者による権益は、その後、ワシントン会議(1922)における中国との直接交渉で全て返還されましたが、日本は後者の条約によって、新たに、日本人が南満州において商工業上の建物を建設するための土地や、農業を経営するための土地を商租する権利を得ました。また、この時満鉄平行線を敷設しないとの取り決めもなされました。
この間、中国では袁世凱の独裁化が進行し、1915年12月に袁は皇帝となり、共和制が廃止され帝政となりました。しかし内外の強い反発を受けて、袁はあわてて帝政を取り消しましたが、各地で反袁武装蜂起が相次ぎました。こうした中国の政情不安の中で満洲では張作霖が台頭し、日本政府(大隈内閣)は張を支援して満蒙独立運動(第二次)を推し進めようとしました。しかし、1916年6月に袁が急死し、副総裁の黎元洪が大総統代理となると日本政府は黎の新政府を日本に依らしめることとし、第二次満蒙独立運動は中止されました。
1917年10月、大隈内閣に代わって寺内正毅内閣が成立しました。同内閣は混迷した対中国政策を立て直すため、「中国の独立と領土保全を尊重擁護し、両国の親善増進をはかり、内政に干渉せず、列国とも協調することで、満蒙の特殊利益の増進と利権の確保」をしようとしました。そのため黎に代わって政権を掌握した段祺瑞に対する借款(西原借款)がなされました。また、1917年11月にはアメリカとの間で「領土相近接する国家の間には特殊の関係が生ずることを承認する」いわゆる「石井・ランシング協定」が結ばれました。
1918年11月には、膨大な犠牲をもたらした第一次世界大戦が終わり、1919年1月からパリで講和会議が開かれました。この会議では英仏そしてアメリカも、日本がドイツ利権を引き継ぐことに同意しました。これに対して中国民衆の憤懣が爆発し、全国的な民族解放運動が巻き起こりました。(五・四運動)それまでの排外運動は、イギリスやロシアを対象としていましたが、今や中国民衆の主要な敵は日本に絞られるようになり、日本政府は大陸政策の抜本的修正を迫られるようになりました。
その後、1920年7月、段祺瑞の安徽派と、これに反発する馮国璋の直隷派と張作霖の奉天派との間で「安直戦争」が行われました。その結果、段祺瑞が敗れて日本の中国における親日基盤は壊滅しました。日本政府は、五四運動が高まりを見せる中で大陸政策を見直す余裕もないままに、「安直戦争」後の新情勢への対応を迫られました。原内閣は大陸政策に関係する諸機関の代表者を集めて満蒙政策の再検討(1921.5)を行い、「満蒙経営には張作霖との親善を保つ」ということで意志統一をはかりました。
1921年7月には、アメリカが提唱したワシントン会議が始まりました。これは、第一次世界大戦後の軍縮要求を受け、列強間の建艦競争を休止させることを目的としていました。またこれを機会に、アジア太平洋地域における国家間の協調体制も作ろうとしました。日本では会議の結果を憂慮す声もありましたが、「日露協約は既になく、日英同盟の存続も危うく、直隷派の勝利した中国との間も多難であり、アメリカとの親善保持は不可欠」ということで、原首相はこれを了承しました。
周知のようにこの会議では、日英同盟条約を終了させ、「太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約する英米仏日による四カ国条約」が調印されました。その他中国に関する九カ国条約、海軍軍縮条約等が調印されました。この九カ国条約の成立を機に、23年4月石井・ランシング協定は廃棄されました。こう見てくると、これまで日本に有利と見られた条件がことごとく消失したかに見えますが、アメリカ全権ルートが提出した「ルート四原則」は日本の満蒙特殊権益に理解を示していました。
この九カ国条約の締結に際して、中国は列国の特権や利権の公表と審査、不平等条約の撤廃等を要求しました。しかし、中国がすでに各国に附与した既得権益には影響を及ぼさないことが確認されました。日本は先述したように、中国との直接交渉で膠州湾租借地の還付他山東省の利権を手放しましたが、満蒙に関する権益は保持しました。しかし、その後中国では直隷派の実力者呉佩孚と張作霖の間に第一次奉直戦争(1922.4)が起こり張作霖が敗れると、二十一ヵ条条約の無効を訴える「旅大回収運動」が提起され日本政府を悩ませまるようになりました。
この間日本政府は、中国政府のこうした要求を拒否する一方、中国の内争に対しては不干渉主義をとりました。また国際関係のおいては列国との協調路線をとりました。こうした外交方針について、この頃は、中央と現地、外務省と陸軍の間に大きな意見の齟齬は見られませんでした。また、原内閣以降も、こうした日本の不干渉政策は維持され、加藤高明護憲三派内閣(1924)の外相幣原喜重郎による「中国に対する内政不干渉・国際協調政策」へと受け継がれました。
その後、1924年9月張作霖の奉天軍と呉佩孚の直隷軍との間で第二次奉直戦争が始まりました。しかし、この戦争は馮玉祥のクーデターにより呉佩孚が追われ、張作霖と馮玉の推挙により段祺瑞が北京政府の臨時執政になりました。こうして張は奉天から上海に至る地域を支配下に収めました。一方、馮は北京地域と、綏遠、察哈爾を中心とする北西部を支配し、コミンテルンと通じ軍備を強化しました。これに対して広東に国民政府を組織していた孫文は和平統一の国民会議を開くことを提唱して北京に入りましたが、目的を達しないまま1925年3月病没しました。
北京の段政府はワシントン会議で調印された中国の関税に関する条約に基づき1025年10月北京で関税特別会議を開催しました。しかしこれに反対して直隷派の浙江督弁孫伝芳と漢口の呉佩孚が奉天軍に対して兵を起こしました。さらに、奉天軍第三軍副長の郭松齢が突然反旗を翻し、張・郭両軍は遼河をはさんで対峙することになりました。これに対して日本は満州に戦乱が及び日本の権益が犯されることを防ぐため有形無形に張作霖を援助することになりました。その結果郭松齢は敗れました。その後、張作霖は呉佩孚と結び馮玉軍を攻め1926年4月天津、北京を占領しました。
このような経過の中で、日本の不干渉政策は、引き続く中国の政情不安の中で安定せず、結局、満鉄沿線の日本国民の生命財産保護を目的としつつ、実質的には張作霖を軍事的に支援することになりました。また、その一方で、加藤高明内閣は満鉄支線の建設促進を図りました。これに対して張作霖は、北京政界に進出するようになると、日本の抗議を無視して満鉄東西平行線の建設を押し進めるようになりました。こうした張作霖の強硬姿勢は、従来在満権益擁護のために張作霖を支持してきた日本側に深刻な危機感を抱かせるようになりました。
一方中国では、蒋介石が孫文の後継者として国民党の実権を握り、北伐(1926.7)を開始し10月には武漢三鎮を攻略しました。これに対して、張作霖は軍閥各派を糾合し国民革命に対決する姿勢を示しました。1927年1月、国民政府が広東から武漢に遷都した時、意識高揚した民衆によるイギリス租界の占拠・回収事件が発生しました。イギリスは日米両国に共同出兵を要請しましたが、幣原外相はこれを拒否しました。さらに3月には国民革命軍が南京に侵入したとき、兵士による各国領事館の掠奪暴行事件が発生し、日本領事館も掠奪暴行を受けました。
この時、南京の江岸には日・英・米の砲艦がいて、英・米の砲艦は蒋介石軍の根拠地を砲撃しました。しかし、日本の砲艦はこの砲撃に加わりませんでした。これは、南京の居留民が尼港事件(1920.3シベリア出兵中ニコラエフスクで起きた日本人居留民・将兵の虐殺事件)を憶えていて、艦長に砲撃しないよう嘆願したためにとられた措置でしたが、これを機に、幣原外交を「軟弱外交」「腰抜け外交」と非難する声が、軍、政界、マスコミの間に澎湃として起こるようになりました。
こうした批判の中で、幣原外交は若槻内閣総辞職(1927.4.27)と共に終わり、これに代わって、田中義一内閣による「積極的大陸政策」がとられるようになりました。一方、反共クーデターに成功した蒋介石は、首都を南京に定め北伐を再開しました。田中内閣は青島の在留邦人の安全をはかるための自衛措置として、5月28日満洲より一旅団を青島に派兵しました(第一次山東出兵)。しかし、この時は、蒋介石の南京政府と共産党中心の武漢政府の間に対立が生じ、北伐は中止されました。
ところで、第一次山東出兵が行われる中、6月27日から7月7日のまでの間、政府や軍の幹部を集めた東方会議が田中首相の主宰で開かれ「対支政策綱領」が決定されました。ここでは「満蒙特に東三省地方は国防上、国民生存の関係上重大な利益を有するので、万一動乱が満洲に波及し、治安乱れて同地方におけるわが特殊の地位権益に対する侵害が起きる恐れがあれば、これを防護し且つ内外人安住発展の地として保持できるよう、機を失せず適当の措置に出る覚悟を要する」とされました。
こうした考え方は、6月1日付けで関東軍が陸軍省と参謀本部に提出した「対満蒙政策に関する意見」とも似ていました。つまり、関東軍の満蒙政策が東方会議によって裏付けされることになったのです。こうした日本の動きは、それが山東出兵中になされたこともあって内外の関心を呼びました。その後1928年4月、国民革命軍の北伐が再開され済南をめざして北上しました。これに対して田中内閣は第二次山東出兵(支那駐屯軍4.20済南着、第六師団は4.25青島上陸、4.26より済南商埠地警備にあたる)を行い、5月1日には北伐軍が済南に入城し、両軍が対峙する事態となりました。
そしてついに、5月3日、小部隊の衝突から日中両軍の戦闘に発展し、日本軍は中国軍の済南からの撤退及び軍団長の処刑を要求するなど期限付きの最後通牒を発しました(5月7日午後4時、福田第6師団長名で12時間後)。しかし、回答が期限までに届かなかったとして、現地軍第6師団は5月8日4時済南城の攻撃を開始し、田中内閣は5月9日第三次山東出兵を決定、5月11日これを占領しました。この戦闘で中国側の死者は三千名を超えたともいわれ、これに対して、日本側の居留民死者は15名負傷者15名のほか、軍人の戦死者は60名負傷者百数十名とされています。
この最初の衝突における日本人居留民死者(12or13名)の多くは、領事館の避難勧告を無視したアヘン密輸入などの従事していた人びとだったともいいます。(『ある軍人の自伝』佐々木到一)これを酒井隆武官は極めて誇大に軍中央に報告し、陸軍省は300人以上の邦人が虐殺されたという新聞発表を行い世論を煽りました。こうして5月8日、済南で全面的な武力衝突がはじまり、上記のような、日本側の犠牲を遙かに上回る犠牲を中国側にもたらすことになったのです。註:ただし、中国側の死傷者数については諸説あり、はっきりしない。
この事件以降、それまで華中方面でイギリスを主敵としてきた中国の排外運動は日本を標的とするようになり、蒋介石始め国民政府要人の対日観も決定的に悪化しました。第一次山東出兵には理解を示した英米も、イギリスはこれ以降国民党との接触を開始し、元来国民党に好意的であったアメリカの対日世論にも悪影響を与えました。蒋をはじめとする中国側は、これを日本側が計画的に北伐を妨害しようとしたものと解釈し、その結果、この済南事件は、彼らにぬぐいがたい恨みを残すこととなりました。
実は、この済南事件こそ、本稿の主題である「昭和の青年将校の暴走」がもたらした最初の事件であり、この事件を機に日本の大陸政策は独善的・排他的・誇大妄想的な方向へと変質していったのです。 
2 「済南事件」に行き着いた日本の大陸政策

 

前回は、日本の大陸政策が日清戦争以降山東出兵までどのように変遷したかについて一通り見てみました。今回は、もう少し掘り下げて問題点を整理しておきたいと思います。
日清戦争までに、朝鮮が日本の安全保障上死活的な位置にあることが認識されるようになり、日清戦争後朝鮮は中国の宗主権を離れて独立することになりました。いうまでもなく日本の勢力下におかれたわけですが、日本が三国干渉に屈したことにより、朝鮮では国王高宗の妃である閔妃一族の勢力が復活し、ロシアの支援を受けるようになりました。これが公使三浦梧郎(陸軍中将)による、大院君のクーデターに見せかけた閔妃殺害事件(1895.10)を引き起こし、朝鮮全土に抗日義兵運動が起こるようになりました。高宗はロシア公使館に移され親ロ内閣を作りました。(1896.2)
他方、そのわずか3年前、日本に対して「遼東半島を日本が所有することは、常に清国の都を危うくするのみならず、朝鮮国の独立を有名無実のものとなす」として、遼東半島を中国に返還するよう迫ったロシアとドイツは、中国の弱みにつけ込み、前者は遼東半島の旅順・大連の25年間租借権と南満州鉄道の敷設権を、後者は、膠州湾の99年間の租借権と膠済鉄道敷設権、鉱産物採取権を獲得しました。これに対して日本は両国に正式抗議一つできずに見守るほかありませんでした。
1898年には中国に義和団事件が発生し、清国政府はこれを利用する政策をとり6月21日列強に対して宣戦を布告し、北京の外国公使館区域を封鎖しました。列強8カ国は連合軍(七万)を組織して北京を制圧しました。この時の日本軍(二万二千)の規律ある行動は列国の賞賛を博しました。1901年には講和が成立し、北京には各国軍隊が駐留権を持つ特別区が設定されました。一方ロシアは、建設中の東清鉄道保護を名目に八万の大軍を満州に送ってこれを占領し、第一次撤兵後もそのまま居座りました。
日本国内では、このようにロシアが満洲に居座り、日本の朝鮮支配は一向に進展せず絶望視される中で、ロシアとの戦争が議論されるようになりました。こうした世論を背景に日本政府は日露交渉を開始し、1903年8月「満韓交換論」をロシアに提案しました。しかしロシアはこれを無視し、韓国領土の軍事的利用の禁止、北緯三九度以北の中立地帯化を日本に要求しました。日本は、財政的・軍事的限界からロシアとの短期局地戦を決意する一方、イギリス、アメリカの調停による早期講和を画策しました。
この段階での日本の大陸政策の狙いは、朝鮮を日本の植民地化することと引換に満洲を列国に解放するというものでした。幸い日本は奉天会戦と日本海海戦(1905.5)に勝利し、ロシアが第一次ロシア革命の渦中にあるこの機を捉えて、ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼しました。この時、日本による韓国の保護国化の承認と引きかえに、アメリカに対してはフィリピン統治を(「桂・タフト協定」1905.7)、イギリスに対してはインド国境地方における特殊権益を承認しました。
日露交渉は、ロシアの強気もあって難航しましたが、1905年9月5日講和条約が調印されました。日本は、韓国における日本の優位、ロシア軍の満洲からの撤退、長春から旅順に至る鉄道と大連・旅順の租借権の譲渡、サハリン南部の割譲、沿海州沿岸の漁業権を得ました。日本国内ではこうした講和条件を不満とする暴動が発生しましたが、日本は政治と軍事、外交と統帥が一体となってこれを抑えました。当時の陸海軍人は、明治人が持つ一種の合理主義と武士的規範意識を持っていたのです。
一方、韓国人にとって日本の日露戦争における勝利は、その植民地化を意味していました。「第一次日韓協約」(1904.8)によって韓国の財政権・外交権は実質的に日本の掌握するところとなり、「第二次日韓協約」(1905.11)で韓国の外交権は日本に接収されました。また、ソウルには日本政府を代表する統監府が置かれ、統監は天皇に直属し、韓国において日本官憲が行う政務の監督、韓国守備軍司令官への兵力使用の命令など、強大な権限を有することとなりました。初代統監には伊藤博文が就任しました。
これに対して韓国国内では、こうした日本による韓国の植民地化は、韓国の独立を約した先行条約や宣言に対する裏切りであると受けとられ、救国と独立をめざす武装義兵闘争が繰り広げられました。1908年には最高潮に達し、この年の交戦回数は1451回に上り、7万人近くがこれに参加し、1万1千余名が死亡したとされます。また、高宗は「日韓協定」を容認せず、1907年6月オランダハーグで開かれた第二回平和会議に密使を送りましたが訴えは斥けられました。
こうした高宗の密使事件に激怒した伊藤統監は、高宗を譲位させ大韓帝国最後の皇帝となる純宗を即位させ、「第三次日韓条約」(1907.8.27)により韓国の内政権も掌握しました。しかし、伊藤博文は、韓国統治の実権を掌握しながらも、韓国官僚に日本人を送り込むことはせず、その傀儡化を進めつつ合邦論は避けていました。それは、韓国を富強ならしめ、「独立自衛」の道をたて「日韓提携」するのが得策であり、「合邦はかえって厄介を増すばかり」と判断していたからです。
しかし、韓国の義兵闘争は収まらず、日本人の間からも伊藤の保護国経営を批判する声が上がるようになり、こうして、伊藤は1909年6月「合邦」に同意するとともに統監を辞任しました。伊藤は辞任後まもなく朝鮮人安重根にハルピンで射殺されました。(10.26)新たに統監となった寺内正毅は、李完用韓国首相に日韓併合条約の受諾を求め、1910年8月22日条約発効、ここに李朝五〇〇年の歴史が閉じられることになりました。併合直後の日本の新聞雑誌は一致してこの韓国併合を支持しました。
こうして、日本の朝鮮支配は「韓国併合」という形で完成を見た訳ですが、日露戦争の結果、ロシアより譲渡された旅順・大連の租借及び南満州鉄道の租借期間は二五年であり、1923年にはその期限が切れることが問題となっていました。そんな折、1914年8月欧州において「第一次世界大戦」が勃発しました。日本はこれを天佑とし、日英同盟に基づく要請を受ける形で、1914年8月23日ドイツに宣戦を布告、青島ばかりでなく済南や膠州鉄道も占領しました。11月7日ドイツは降伏しました。
中国政府(袁世凱)は1915年1月7日、日本に交戦区域の廃止と日本軍の撤退を要求しました。しかし、日本はこれを拒否した上袁世凱大統領に対して「二十一ヵ条要求」(1915.1.18)を突きつけました。この要求は五項からなり、第五号は単なる「希望条項」であり、その主眼は、第二号の、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長(さらに九十九年)、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利、鉱山採掘権の承認させることにありました。
しかし、中国は、第五号の要求項目が「希望条項」とはいえ中国を属国視するものであるとして強く反発し、中国国民は憤激し、日本を「仇敵」視するようになりました。しかし、日本政府は第五号を保留した上で最後通牒を発し、1915年5月9日中国にこれを受諾させました。こうした日本のやり方に不信感をつのらせたアメリカは、中国の「領土保全・門戸開放等」を求める通告を発しました。しかし、1917年11月には、「石井・ランシング協定」により、日本に「領土相近接する国家間の特殊関係」を認めました。
1918年11月11日、ドイツは敗れて休戦条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。1919年1月18日からパリのベルサイユ宮殿で講和会議が開催され、ドイツに極めて過酷な内容の平和条約が調印され、また、国際紛争の調停機関として国際連盟が設立されました。一方、日本が「二十一ヵ条」で要求した山東省のドイツ利権は、アメリカの妥協によって日本に譲渡されました。この頃日本は、大戦景気もあって経済を飛躍的に躍進させ、軍事大国としての地位を確立するようになっていました。
しかし、この間1917年3月にロシア第二次革命が起こり、11月ソビエト政権が成立したことにより、1907年から1916年7月まで四回にわたって、満州における日露の勢力範囲(日本は南満州)や中国における利益範囲を約していた日露協定が廃棄されました。また、ロシア革命の影響や、パリ講和会議においてウイルソン大統領によって提唱された民族自決主義の考え方が広まるにつれ、朝鮮においては民族独立運動、中国においては反帝国主義・反封建主義運動が組織されるようになりました。
ベルサイユ講和会議から二年後の1921年11月、アメリカの主導でワシントン会議が開かれました。その結果、海軍軍縮条約が成立し、主力艦の米英日比率(トン数)を5:5:3としました。また、日本はこの条約に基づいて、廃艦、空母への改造、建艦中止をするとともに、将兵7,500名、職工14,000名を整理しました。また、陸軍においても1922年の山梨軍縮で兵員約6万人と馬匹約13,000を削減、続いて、1925年の宇垣軍縮で四個師団を削減し装備の近代化を図りました。
また、安全保障面では日英同盟を解消し、その代わり四カ国(日本、アメリカ、イギリス、フランス)条約を締結し、太平洋地域に領有する島嶼に関する四カ国の相互の権利尊重、紛争発生の場合の協議について規定しました。また、九カ国条約(上記五カ国に中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加える)によって、中国に進出する列国間の原則(中国の独立・領土保全、門戸開放・機会均等等)を確立しました。これにともなって、日本の大陸における特殊利益を認めた石井=ランシング協定は廃棄されました。
懸案の二十一ヵ条問題については、支那はこの会議を利用して同条約を廃棄しようとしました。しかし、幣原は、日本は南満州において独占権(借款や、政治・財政・軍事・警察等への顧問傭聘に関する優先権)を振り回す意志のないことを表明した上で、二十一ヵ条要求の中で保留となっていた第五号を撤回しました。こうして、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利や鉱山採掘権が正式に認められました。
さらに、日本は中国との直接交渉によって、膠州湾租借地を中国に還付し、膠州鉄道も中国が十五年年賦で国債で引き取ることを認め、鉱山は日中合弁としました。こうして日本軍は青島から撤退しましたが、商業上の利権はそのまま確保され、山東は満洲に次ぐ日本の勢力範囲となりました。しかし、これによって日本の日清・日露戦争以来の大陸政策、軍事力増強政策に歯止めがかかり、「ワシントン体制」のもとにおける国際協調、中国の内政不干渉政策が選択されることになりました。
しかし、その一方で、こうした政府の軍縮政策や国際協調路線に強い不満を抱くグループが軍内に形成されつつありました。1921年(大正10年)秋、ドイツのバーデン・バーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三陸軍中佐が会合し、長州閥の打破と国家総動員体制の確立のため結束することを約しました。1927年には陸士十五期から十八期までの佐官級将校の横断的組織として、二葉会が結成され、ここに陸軍青年将校による国家改革運動がスタートすることになりました。
昭和3年になると陸軍省軍事課の職員を中心に、第二の集団が結成されるようになりました。彼らは二十期から二十五期までの陸軍の佐官級実力者たちで、無名会あるいは木曜会と称していましたが、昭和4年4月頃、先の二葉会と合流する形で一夕会が形成されました。こうして十五期から二十五期までの陸軍佐官級実力者の結合が成立し、藩閥解消・人事刷新、軍政改革・総動員体制の確立による、満蒙問題の根本解決が図られるようになりました。
ところで、彼らには”軍縮を挟んで十年の臥薪嘗胆”という言葉がありました。先に述べた軍縮の時代、大正末期から昭和の満州事変までは、軍人に対する世間の目は冷たく、当時の軍人は税金泥棒扱いされていました。しかし、彼らは、こうした「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんの時である。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで一国の支配を誓」っていました。
この軍縮に象徴される大正末期から昭和初期の時代は、第一次大戦後の慢性的不況に関東大震災やシベリア出兵による費用が重なり、不況のどん底にありました。こうした中で、陸海軍の青年将校たちは、大正デモクラシー下の軍縮政策や、政党政治にともなう利権体質及びその腐敗構造に対して、強烈な反感と憎悪を抱いていました。また、ロシア革命の影響を受けて国内の左右の反体制運動も激化しつつあり、一方、中国においては、反日運動が反帝・反植民地主義運動に結びつく兆候を見せていました。
こうした困難な状況の中で、日本外交の舵を取ったのが幣原喜重郎でした。彼はワシントン会議の時は駐米大使でしたが、日本外交団の全権を務めており、四カ国条約や九カ国条約の締結、さらに二十一ヵ条要求問題とその後始末である山東問題の処理を、上述したような形で行いました。〈軍縮問題は加藤(友)全権が担当〉その後1925年6月加藤高明護憲三派内閣の外務大臣になり、国際連盟規約やワシントン条約に盛られたの精神(民族自決、国際協調)の遵守を基調とするいわゆる「幣原外交」を押し進めました。
幣原が外相に就任したことは米国において特に好評で、ニューヨークタイムスは「その主義というのは、現代のような列国間の相互信頼の時代には協調と親善とが、傲慢と暴力よりも永遠の平和を増進するという確信から発したものである」と激賞しました。また、従来北支における排日派の宣伝機関紙として有名だった「北京益世報」も、従来の排日的筆鋒を収めて日華新提携論を高唱し、旅大の返還要求などは別に協定を締結し相当期間延長すべきである、とする具体的提案をするほどでした。
こうして幣原は、加藤内閣(1924.6〜1926.1)第一次若槻内閣(1926.1〜1927.4)において外務大臣を務める間、対支不干渉政策を基調として、中国関税自主権の確認、支那治外法権撤廃の努力、支那の通商条約改定要求の応諾等中国との関係改善に努めました。しかし、支那における軍閥間の闘争は止むことなく、一方、支那の革命運動は急進して、蒋介石の北伐は広東より開始せられ、段祺瑞政府は倒れ、北京は無政府状態となりました。この頃から、幣原外交を批判する声が上がるようになりました。
特に問題となったのが、1927年3月24日、北伐途上の革命軍が引き起こした南京事件への対応です。この時、日本領事館も革命軍兵士による掠奪・暴行を受けましたが、領事館に派遣された陸戦隊員は、尼港事件の記憶が生々しい時期でもあり、居留民の懇願を容れて無抵抗を貫きました。この時、揚子江上にいた日本軍艦も、南京に居住する多数の日本人の虐殺を招く恐れがあるとして砲撃を控えました(幸い死者は出なかった)。また、幣原は事件後イギリスの求めた共同出兵にも応じませんでした。
しかし、この事件が国内においてセンセーショナルに報道され、その後(3.29)、領事館に派遣されていた陸戦隊員が、任務を全うできなかったとして自決(未遂)する事件が起きました。ここにおいて世論は激昂し、日本人の蒙る屈辱はいずれも幣原外交の結果であるとして政府を激しく攻撃し、反対党(政友会)は、政府の無抵抗政策を「弱腰外交」「軟弱外交」と排撃し、居留民は現地において保護すべし、必要ならば出兵も断行すべし、居留民の引き揚げはわが威信の喪失であると主張するようになりました。
かくして、民政党内閣は倒れ、政友会内閣が出現したことで、従来の国際協調を基調とする幣原外交は、田中内閣の積極的外交に取って代わられることになりました。この時、田中首相は外相を兼任し外務政務次官には森恪を任命しました。(1927.4)当時、森恪は政友会の闘士として活躍しており、対支政策については奔放な積極意見の持ち主で、軍の極端分子と連携して満洲に対する強硬論を煽動していました。彼は、そうした対支強硬策を政府公認の政策に高めようとして「東方会議」(1927.6.27~7.7)を開催しました。
しかし、こうした森の対支強攻策と田中首相の満州問題解決策にはかなりのズレがありました。田中首相は、張作霖が日本の援助によって、東三省だけで事実上独立する事を希望し、張作霖が支那中央部を離れて、日本との間に特殊関係を設定することで、日本の希望する満州問題の解決を図ろうとしていました。そのため北伐中の蒋介石とも連絡し、張作霖を東三省に帰還させるよう働きかける事を約束するとともに、蒋介石の支那統一のための北伐にも了解を与えていました。
そこで、蒋介石の北伐となりましたが、第一回目は、国民党内の内部対立から北伐は中止(1927.7)されました。この時日本は、森恪の強硬な主張で第一次山東出兵(1927.6)をしていましたが、9月に撤兵しました。続いて蒋介石は1928年4月北伐を再開しました。この時も、田中首相は不測の事態が起こることを恐れて出兵を躊躇しましたが、森恪の働きかけや、済南駐在武官酒井隆少佐の執拗な出兵要請もあり、天津より支那駐屯軍歩兵三個中隊、内地より第六師団司令部(約5,000)が、済南に直接派遣(4.26先遣部隊到着)されました。
済南にいた北軍の残留部隊は4月30日全員撤退し、代わって5月1日より南軍の第九軍及び第四十軍が入城をはじめました。5月2日には蒋介石も済南に入りました。日本軍は商埠地内に警備地域を定め警戒に当たりましたが、5月3日午前9時半商埠地内で両軍の衝突事件が発生しました。(双方の言い分は食い違っており真因は不明、酒井武官の謀略という説もある)ただちに不拡大の交渉が開始されましたが、商埠地内においては市街戦や掠奪・暴行が断続的に発生し、4日朝の段階に至って事態はようやく沈静化しました。
この間の日本軍の死者10名、負傷41人、一方南軍の死者は150人とも約500人ともいわれます。また、武装解除された中国兵は1,230人に達しました。また、日本居留民の受けた被害は、掠奪された戸数136、被害人員約400人、中国兵の襲撃による死者2人、負傷者30人、暴行を受けた女性2人と記録されています。また、この外に5月5日に邦人12名の惨殺死体が発見されましたが、これは、避難勧告を無視した麻薬密売人等で、惨殺は土民の手により行われたものが多かった、と佐々木到一の『ある軍人の自伝』にあります。
*中国側死者の中には、北伐にともなう外国居留民との折衝に当たっていた蔡公時はじめ済南交渉公署職員8名他16名がいます。
ところが、この間に酒井武官より陸相宛に発した電報があまりにも誇張されたものであったため、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽り、報道各社もそれに追随しました。そのため、国内では反中国感情がみなぎり「積極的膺懲論」がしきりに唱えられるようになりました。参謀本部内ではこうした世論を背景にして「国威を保ち将来を保障せしむる為には、事実上の威力を示すにあらざれば到底長く禍根を断つ能わず」との意見をまとめて参謀総長に具申しました。総長は動員一個師団の出兵(第三次5月9日)の必要を認めました。
一方、蒋介石は5日参謀副長熊式輝を福田中将のもとに派遣して、国民革命軍は北進する。蒋介石自身も「本日出発」する、ゆえに日本軍も戦闘を中止して欲しい、と要請しました。しかし福田中将はこれに答えず、自らの「膺懲方針」を東京に打電しました。蒋介石は6日午前8時済南を離脱しました。国民革命軍主力が北進した後の済南城には、約3,000人の将兵が、日本軍の攻撃に対して「持久する」事を目的に残留しました。日本側は7日になってようやくこの事態の変化に気づきました。
しかし、福田中将は5月7日午後4時、蒋介石が到底飲めないことを承知の上で、あえて「暴虐行為」に責任ある高級武官の「峻厳なる処刑」、同部隊の武装解除他五ヵ条の要求を手交し、十二時間以内に回答するよう迫りました。中国側には、これはあまりに過酷な条件であり、明らかに「北伐妨害」である、一戦も辞さない覚悟ではねつけるべきだという意見もありましたが、結局、「北伐に支障なき限り忍耐策」をとることとして、回答期限の延長を提案しました。しかし、福田中将はこれを無視し、5月8日午前4時済南城攻撃を開始しました。
この頃、東京では陸軍側の軍事参議官会議が開かれていました。会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。
「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」
「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」
こうして8日早暁以後11日に至るまで、済南城攻撃戦が展開されることになったわけですが、その経過については、資料間に甚だしい食い違いがあり、その実態は必ずしも明らかではありません。臼井勝美氏の「泥沼戦争への道標」(『昭和史の瞬間(上)』所収)では、「9日と10日の両日は昼夜をわかたず済南城内に集中砲火をあびせました。夜は火炎が天を焦がし、済南城内は逃げ惑う住民達の阿鼻叫喚の巷となった」と書かれていますが、児島襄氏の『日中戦争』では、両軍の一進一退の攻防戦が克明に描かれています。
その概要を、両軍の死傷者数で見てみると、上掲『日中戦争』では、中国側の遺棄死体160で、「第四十一軍副長蘇宗轍によると、第一師第一団の死者行方不明約600、第九十一師第二団は同300であった」と記述されています。また、済南惨案後援会会長が6月7日南京で報告したところによれば、「死亡3,600、負傷1,400、財産損失約2,600万元」に上ったとされています。
しかし、日本側にはこうした報告を裏付ける記録も回想も見あたらない、と児島襄氏はいっています。また、済南城攻撃を指揮した第六師団長福田中将の、戦闘報告書には、「済南城陥落にともない支那側は無数の死体と山のごとき兵器弾薬を遺棄して全く二十支里外に逃走し、日本陸軍の武威は十分これを宣揚したり」と書かれていると紹介されています。
一方、日本側の5月3日以来の死傷者数は、『日中戦争』では、戦死11(?)、負傷230人となっています(居留民の死者は14名)。また、臼井氏の先の論文では、第六師団の済南城攻撃による死者25、負傷157となっています。(日本側居留民の死者は15名、負傷者30名)なお、前回紹介した中山隆氏の『関東軍』では、日本側居留民死者15名負傷者15名、軍人の戦死者60名負傷者百数十名となっています。
これらの数字のうち、日本側の死傷者数については、それほど大きな食い違いはなく、ほぼこのあたりの数字であろうと思われますが、中国側(済南惨案後援会)の数字はいささか過大であり(といっても日本側の犠牲をはるかに上回ることは明白)、また臼井氏の語る済南城砲撃の様子も、私にはにわかに信じられません。というのは、児島襄氏の『日中戦争』では、済南城攻撃の戦闘模様が克明に記述されており(戦闘詳報によったものか)、砲撃は城壁破壊が中心で、城内住民の避難措置もとられており、城内に「持久」した中国兵も11日まで良く戦い、そして速やかに撤退しているからです。
だが、以上のような点を考慮したとしても、日本軍の済南城攻撃は居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものであり暴虐のそしりは免れません。というのも、蒋介石は、5日の段階で主力部隊を北進あるいは迂回させることを福田第六師団長に告げ、戦闘中止を依頼しているからです。つまり、南軍には北伐を中止して日本軍と戦う意志は全くなく、両軍の衝突も4日午前中には沈静化していたのです。
ところで、こうした軍中央の常軌を逸した行動は、はたして、酒井駐在武官のもたらした誇張した情報に基づく誤判断だった、というだけで説明できるでしょうか。本当はそうではなく、その背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのではないでしょうか。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。
こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったかということは、これが田中首相の「不決断」で水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。張作霖爆殺事件は、こうした行動への願望が、とりわけ河本大作に代表される青年将校たちにいかに強烈だったかを遺憾なく示しています。
そういえば、済南から誇大情報を送り続けた酒井隆武官(この人、例の梅津・可応欽協定の張本人でもあります)もその一人であり、張作霖爆殺事件の主犯である河本大作もそうです。また、この河本大作を英雄視し、田中内閣を倒壊させてでも彼を守り抜こうとしたのも、一夕会に結集するこれら青年将校たちでした。 
3 軍縮が生んだ青年将校の国家改造運動

 

昭和の悲劇を理解するためのキーパーソンとして、近衛文麿や森恪そして幣原喜重郎を対比的に論じてきました。
近衛文麿の場合は、その「持てる国、持たざる国」論が、国内及び国際社会の秩序形成における「法治主義」を軽視したため、社会の全体主義化や軍の暴走を生むことになったこと。森恪は、田中積極外交以降、その政治手法として軍を政治に引き込んだため、ついには政治が軍を制御することが全くできなくなったこと。幣原喜重郎は、あくまで、ワシントン体制下の国際協調主義によって中国問題を処理しようとしたが、田中積極外交によって中国との外交的基盤が破壊され、その後、その修復を図ったが、満州事変で止めを刺され退場を余儀なくされたこと、など。
これらの政治家のうち、「昭和の悲劇」を招いたものとして、私が最も責任が重いと思っている人物は、いうまでもなく森恪です。それは、もし、昭和の初めに、この男さえいなければ、昭和の悲劇は避けられたのではないか、と思うほどです。ところが、今日の論壇においては、このことを指摘するものはほとんどなく、その代わり、幣原外交の無能――日本国民のナショナリズムに対する無理解、国際共産主義運動に対する無警戒、中国に対する内政不干渉主義など――を根拠に、その理想主義外交を批判する論調が大半です。
また、近衛については、その軍や世論への迎合体質、公家的あるいは長袖者流と評される権力依存体質、最後まで自分の意思を貫徹できず、途中で投げ出す無責任体質の外、日支事変勃発時の支那膺懲声明、トラウトマン和平工作失敗時の”蒋介石を対手とせず”声明、さらに、三国同盟締結、南部仏印進駐などの数々の外交的失敗が指摘されます。確かにそうした批判は免れないわけですが、しかし、彼自身は、軍の政治介入や独断的軍事行動を抑えようとしたことは間違いなく、また、政党政治や議会政治を維持しようとしたことも事実なのです。
ただ、問題は、先ほど述べた通り、彼の「持てる国、持たざる国」論が、いわゆる「法治主義」を軽視していたために、日本の伝統的倫理観である「情況倫理」に陥ってしまったこと。そのために、満蒙権益の擁護を大義名分とする満州事変を容認することになりました。といっても、こうした満州事変を契機とする意識の変化は、近衛文麿だけに起こったことではなく、日本人全体に起こったことなのです。つまり、こうした日本人の意識の変化をもたらしたものこそ、近衛文麿の「持てる国、持たざる国」論に象徴される日本人の「情況倫理」的意識構造だったのです。
*情況倫理とは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方のこと。
だが、その裏側で、大正から昭和にかけた時代の流れを注意深く読み、これをコントロールすることで、自分たちの目的を達成しようとしていたグループがありました。それが、後に説明する二葉会や一夕会に終結したエリート青年将校達でした。
そこで問題は、彼らの目的は一体何だったかということですが、結論から先に言えば、それは、満蒙問題に国民の関心を引き寄せ、それを「彼ら独自の方法」で解決することによって国民の支持を獲得し、政治のイニシアティブを握り、それによって日本の政党政治を打破して、一国一党の国家社会主義体制を実現する、ということでした。満州事変は、このようなプロセスで国家改造を進めるための手段あるいは前線基地としての意味を持っていたのです。
では、このように軍が政治に関与することになった、その原因はどこにあったかということですが、これについては、昭和7年11月頃、陸軍省軍事課長だった永田鉄山大佐が次のように語っています。
「その主なるものは、(一)軍縮問題に伴い軍に対する世間の人気の悪くなり兎もすれば軽ぜらるること、(二)ロンドン会議の際に於ける所謂統帥権の問題、(三)減俸問題、(四)陸軍に於ける人事行政の不手際なりとす。」
この四つの原因について皆さんはどう思われますか。これを少し敷衍すると次のようになります。
(一)は、第一次大戦後の世界における軍縮の流れや、大正デモクラシー下の反戦平和思想の流行によって、軍人に対する世間の評価が明治期に比べて著しく低下し、何かにつけて軽んじられる風潮が生じた事に対して、軍人が強烈な不満を抱くようになったということ。
(二)は、統帥権干犯問題を政治問題化することによって、作戦・用兵のみならず、軍の兵備編成権も軍の統帥権に含まれるとし、かつ、軍に対する指揮命令は天皇のみとすることによって、軍に対する内閣の関与を排除することに成功したこと。これによって、逆に、軍が政治を左右する権能――石原莞爾に言わせれば「霊妙なる統帥権」――を持つに至ったこと。
(三)は、第一次大戦後の戦後不況や、大正12年の関東大震災復興費用を捻出するための緊縮財政なもとで、軍人の給与引き下げが行われたこと。これは、今回の東日本大震災に伴い国家公務員の給与を10%減額するという措置がとられたことと同様の措置ですが、当時は、大正後半期に顕著となったインフレも重なって、将校の給与水準は著しく低下したといいます。
(四)は、日清戦争後から大正初年まで(陸士・陸幼合わせて)平均すれば毎年800人もの将校生徒が採用され続けたため、大正末から昭和にかけて、若い陸士出の将校を大量に軍内に抱え込むことになったこと。しかし、軍隊の昇進ポストは上に行くほど数が極端に少なくなるため、昇進ルートの閉塞や昇進の停滞が生じたということ。
以上永田鉄山の指摘した、軍が政治に関与するに至った四つの原因のうち(一)(三)(四)は、あくまで、国内における軍人の社会的地位や処遇のあり方に関する問題であって、満州問題などの外交問題に直接結びつくものではなかったことが分かります。しかし、軍は、これらの問題は政党政治によってもたらされたものと考え、その結果、軍は、政党政治に対する敵対意識、さらには英米の自由主義・資本主義に対する反発を強めることになったのです。
その最初の表れが、ワシントン会議に対する軍の反発でした。直接的には、そこで合意された軍縮条約に基づいて、いわゆる山梨軍縮や宇垣軍縮が行われ、大量の兵員等の削減が行われたことによります。では、なぜ、ワシントン会議において軍縮が話し合われたかというと、第一次世界大戦による人的・物的被害が余りに膨大だったからで、そのため、海軍力の軍縮が主要国間で協議され、また、陸軍でも、ロシア革命の影響もあって、極東における軍事的脅威が薄らいだと認識されたのです。
(山梨軍縮)
「1922年7月「大正十一年軍備整備要領」が施行され約60,000人の将兵、13,000頭の軍馬(約5個師団相当)の整理とその代償として新規予算約9000万円を要求して取得した。山梨陸相の企図は緊縮財政の基づく軍事費の削減をもって平時兵力の削減と新兵器を取得し近代化を図ろうとするものであった。
さらに、1923年3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。これら、いわゆる山梨軍縮は大量の人員を削減したにも拘らず近代化と経費節約は不徹底であった。これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し新式装備の導入は困難となった。」
(宇垣軍縮)
さらに、上記二度にわたる山梨軍縮ではまだ不足であるとして、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。」
「具体的には21個師団のうち、第13師団(高田)、第15師団(豊橋)、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を廃止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6000頭が削減された。」
特に、宇垣軍縮による四師団の廃止は、「地域にとって少なからず衝撃を与え国民に軍部蔑視の風潮を生み出し、陸軍内での士気の低下が蔓延した。だが、これにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である。主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。また、学校教練制度も創設された(軍人の失業対策としての意味合いもあった=筆者)。」
以上述べたような軍縮の影響や、大正12年に発生した関東大震災の財政支出に加えて、第一次世界大戦後のインフレの影響もあり、さらに(四)に紹介したような「陸軍に於ける人事行政の不手際」もあって、軍人の処遇問題は一層深刻さを増していきました。
こうした問題を解決するために、軍は、ポストの新設や官職充当階級の上昇等の措置を図りました。しかし、そうした措置は、財政上の観点から冗員・冗費を節減すべきとの批判を浴びるようになり、その結果、(一)の軍縮を求める政治の圧力も加わって、師団の削減や冗員の整理や馘首が強行されることになったのです。
また、一般に陸軍将校は、文官や一般の俸給生活者に比べて、退職年齢が早く、そのため陸軍将校の経済生活には不安定さがつきまとっていました。しかも、文官の場合は天下りや再就職の道が開けていたのに対し、将校は再就職が難しく,昇進競争から取り残されたら、四十代半ばで退職し、恩給生活へいることを覚悟しなければなりませんでした。
また、退職した在郷将校は恩給に頼っていたために、第一次大戦後の物価上昇の直撃を受けることになりました。軍人は終身官とはいいながら「その実、力士に次ぎて最も寿命の短い職業」で、「陸海軍で採用した将校生徒中『少なくもその七八割は四十歳より五十歳までの間に於て、老朽若くは無能の故を以て予備役に押し込まるゝのである。中には三十代でお暇の出るのもあ』って、彼らは『働き盛り稼ぎ盛り』の年齢で世間に放り出されるわけである」と慨嘆されました。
(現役を退いたある歩兵大尉の述懐)
「私共は、軍国主義王政時代の教育を受けたものでありますから、永年社会とは没交渉にて、胸中に植え付けられたものは、軍人精神と『右向け右』『前へ』の軍隊的挙動のみで、世間のことは、何にも知らぬ。社交は下手である。位階勲等の恩典に対し、車夫、馬丁となることも出来ぬ。世の落伍者であります。軍人の古手が世に用いられず、体操先生にて終わるも、亦已むなき哉で、過去軍隊教育の因果応報、これも前世の約束かなと、禅味を気取っているの外ありませぬ。」
このような情況の中で、軍人に対する世間の目は次第に冷たくなり、「電車の中で見知らぬ乗客から、なんのかんのと文句を言われ」るようになりました。世間では、こうした軍人を揶揄して、「貧乏少尉のやりくり中尉、やっとこ大尉で百十四円、嫁ももらえん、ああかわいそ」というざれ歌までできる始末。こうした軍人軽視の風潮の中で、いわゆる青年将校と呼ばれた軍人たちの間に、”十年の臥薪嘗胆”という合言葉が生まれました。
「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。いまはがまんのときである。しかし必ず自分たちの時代が来ると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。」
ところで、こうした「昭和の軍閥」を構成したのは、陸士十六期以降の軍人たちで、それ以前の軍人達が日露戦争の実戦に参加したという意味で戦中派であるとすれば、彼らは戦後派でした。その戦後派の一期に当たる陸士第十六期の代表者が、ドイツのバーデンバーデン会合(大正10年)で有名な、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次でした。彼らはここで、「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢」につき密約したとされます。
この密約には、陸軍の派閥(=藩閥)人事に対する不満とともに、第一次世界大戦後の総力戦態勢に備えるための軍政・内政面の改革への決意が込められていました。その背景としては、彼ら以前の陸軍首脳は、そのほとんどが日露戦争において殊勲者となり、軍人の最高栄誉とされた個人感状や金鵄勲章をうけるなど出世・栄達を重ねていたのに対し、彼らはそうした機会を奪われていた。それだけに、総力戦時代に賭ける彼らの復活の思いが強かった、というわけです。
こうして、これ以降、主に十六期以降の青年将校(河本、板垣、永田、小畑、岡村、東条等)がしばしば会合して横断的に結合するようになりました。昭和2年には二葉会(十五期から十八期までの佐官級約18名で構成)が生まれ、昭和3年になると、軍事課課員鈴木貞一の呼びかけで、二十期から二十五期までの第二集団(石原、村上、鈴木、根本、土橋、武藤等、後「一夕会」と称される)が生まれました。その後、この二つの組織は結合して昭和軍閥の中枢をなすようになります。  
ところで、この一夕会の第一回会合(昭和3年11月3日)では、(1)陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進めること。(2)満蒙問題の解決に重点をおく。(3)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護り立てながら、正しい陸軍を立て直す、という三つの事項が決議されました。この決議は、二葉会にも相通ずるものとされますが、決して、非合法の手段に訴えようとするものではなく、況んやクーデターの如き極端な過激行動は強く排斥する、との敷衍もなされていました。
ところが、昭和5年秋に結成された「桜会」(橋本欣五郎、樋口季一郎、根本博、土橋勇逸、長勇、等)の綱領には、目的として、本会は国家改造を以て終極の目的とし之がために要すれば武力を行使するも辞せず。会員は、現役陸軍将校中にて階級は中佐以下、国家改造に関心を有し私心なき者に限る。そしてその準備行動として、(1)一切の手段を尽くして国軍将校に国家改造に必要な意義を注入(2)会員の拡大強化(3)国家改造のための具体案の作為、等と記されていました。
この桜会によって、昭和6年に三月事件、十月事件をというクーデター事件が引き起こされるのです。この三月事件は、省部・統帥部の首脳(小磯軍務局長、永田軍務課長、岡村補任課長、重藤支那課長、金谷参謀長、建川参謀次長、第一部長畑俊六等)の外に、大川周明の動員する右翼等も加わるという大規模なものでした。しかし、計画自体が極めて杜撰であり、首相に担ぐ予定だった宇垣陸軍大臣が、途中で変身した?ために未遂に終わりました。
十月事件は、9月18日の満州事変に呼応して、建川参謀本部第一部長と橋本欣五郎を中心とする桜会一派が、在京の将校学生や民間右翼と連携して起こそうとしたクーデター事件です。橋本手記には「満州に事変を惹起したるのち、政府において追随せざるにおいては軍をもって『クーデター』を決行すれば満州問題の遂行易々たるを論ず」と記されていました。しかし、これも関係将校14名が、直前に憲兵隊に検挙され未遂に終わりました。
こう見てくると、三月事件も十月事件も、先に紹介した二葉会、一夕会に属する青年将校たちだけでなく、省部、統帥部の首脳部も関与したクーデター事件であったことが分かります。そのことは、その後、これらの事件が隠蔽されただけでなく、関係者の処分も極めて軽微だったことで明らかです。しかし、クーデター計画と言うにはあまりに杜撰で、途中で反対に転じたものも多く、当時の青年将校や軍首脳の「満州問題の抜本解決」や「国家改造」にかける思いの強さを示すだけのもの、と見ることもできます。
それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。 
4 満州問題と十年の臥薪嘗胆

 

前回の末尾に私は次のように書きました。
「それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。」
なぜ、私がそのように考えるか。これを説明するためには、まず、「ワシントン体制」というものについて理解してもらわなければなりません。というのは、上記のような陸軍の、異常なまでの「満州問題の抜本解決」へのこだわりや、政党政治に対する敵意、クーデターを起こしてまで「国家改造」しようとしたその理由は、このワシントン体制――ワシントン会議で成立した諸条約(海軍の主力艦を制限する五カ国条約、中国に関する九カ国条約、太平洋問題に関する四カ国条約、日英同盟廃棄)によってもたらされたもの――に対する次のような不満に根ざしていたからです。
一、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約は、米英の圧力により屈辱的に調印されたものである。日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが中国の排日侮日態度を強めることになった。
二、二十一箇条要求以来の日華両国間の懸案であった山東問題について、日本が大戦中に獲得した山東のドイツ権益はほとんど大部分が中国に返還された。また、南満州・東部内蒙古における借款引き受けの優先権と二十一箇条要求中の第五号希望条項も放棄された。
三、九カ国条約によって、アメリカから中国の領土保全・門戸開放、機会均等を押しつけられた結果、日本の大陸政策には大きな拘束が加えられることになった。そのため、中国における日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定も破棄された。
そして、これらは満州事変後、次のように総括されるようになりました。
「(ワシントン会議では)日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定が・・・支那に対するルート四原則で破棄された。支那に対する九カ国条約、日米英仏の四カ国条約等によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果になり、日英同盟は破棄された。叉、同会議に於ける海軍軍縮協定では米英の間に五・五・三の屈辱的比率が結ばれる等、ワシントン会議は即ち、日本の失権会議の実質を以て終わったのである。」
そして、このワシントン会議における外交交渉で主導的な役割を果たした幣原外交は、マスコミによって、次のような批判を受けることになりました。
「思えば拙劣な外交(幣原外交を指す)であった。口に平和を唱えるいわゆる協調外交が、英米の現状維持を保障する以外のなにものでもなかった。その間かえって、英米の軽蔑を招き、さらに支那、満州の排日を激化したのみではなかったか。世界協調、人類平和と、白痴のように、うわごと三昧にふけっているうちに、英米はその世界平和的攻撃のプランを、ちゃくちゃくと発展させていたのである。さきにワシントン会議においては、日本をして満蒙特権を放棄せしめ、ロンドン条約によって日本の武力を無血にて削減し、不戦条約によって世界現状維持を強制した。他方悪辣なる積極攻勢に出でつつ、支那、満州の欧米化につとめた。
だが、果たしてこれらの批判は、客観的事実に基づく批判だったのでしょうか。まず、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約についてですが、この交渉に全権として当たった加藤友三郎は、この交渉の結果について次のように説明しています。
「先般の欧州大戦後、主として政治家方面の国防論は世界を通じて同様なるがごとし。即ち国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人のみにてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし・・・故に、一方にては軍備を整うると同時に民間工業力を発達せしめ、貿易を奨励し、真に国力を充実するにあらずんば、いかに軍備の充実あるも活用するあたわず。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。
戦後、ロシアとドイツとがかように成りし結果、日本と戦争のなるProbabilityのあるは米国のみなり。かりに軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦役のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当らず。しかしてその米国が敵であるとすればこの途は塞がるるが故に、日本は自力にて軍資を造り出さざるべからず。この覚悟のなきかぎり戦争はできず。英仏はありといえども当てには成らず。かく論ずれば、結論として日米戦争は不可能と。いうことになる。
この観察は極端なるものなるが故に、実行上多少の融通きくべきも、まず極端に考うればかくのどとし。ここにおいて日本は米国との戦争を避けるを必要とす。重ねていえば、武備は資力を伴うにあらざればいかんともするあたわず。できうるだけ日米戦争は避け、相当の時機を待つより外に仕方なし。かく考うれば、国防は国力に相応する武力を整うると同時に、国力を涵養し、一方、外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。
即ち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に到着す。余は米国の提案にたいして主義として賛成せざるべがらずと考えたり。仮に軍備制限問題なく、これまでどおりの製艦競争を継続するときいかん。英国はとうてい大海軍を拡張するの力なかるべきも、相当のことは必ずなすべし。米国の世論は軍備拡張に反対するも、一度その必要を感ずる場合には、なにほどでも遂行する実力あり。
翻ってわが日本を考うるに、わが八八艦隊は大正十六年度に完成す。しかして米国の三年計画は大正十三年に完成す。英国は別問題とすべし。その大正十三年より十六年に至る三年間に、日本は新艦建造を継続するにもかかわらず、米国がなんら新計画をなさずして、日本の新艦建造を傍観するものにあらざるべく、必ずさらに新計画を立つることなるべし。また日本としては米国がこれをなすものと覚悟せざるべからず。
もし然りとせば、日本の八八艦隊計画すらこれが遂行に財政上の大困難を感ずる際にあたり、米国がいかに拡張するもこれをいかんともすることあたわず。大正十六年以降において、八八艦隊の補充計画を実行することすらも困難なるべしと思考す。かくなりては、日米間の海軍間の海軍力の差は、ますます増加するも接近することはなし。日本は非常なる脅迫を受くることとなるべし。米国提案のいわゆる10・10・6は不満足なるも But ifこの軍備制限案完成せざる場合を想像すれば、むしろ10・10・6で我慢するを結果において得策とすべからずや。」
この条約によって、「日本は太平洋における防備制限と引き替えに対英米6割の海軍力を受諾し、こうして英・米・日三国は、それぞれ、北海からインド洋に至る海面、西半球海面及び極東海面での海軍力の優越を相互に承認しあい、建艦競争に伴う緊張が緩和されたばかりでなく,軍事費の節減も実現した」のです。海軍部内でもこのことが了解され、また、「日本の世論は一般にこの条約を是認し、英米両国でも同様であった」といいます。
また、「日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが、中国の排日侮日態度を強めることになった」という第一の批判については、むしろ、「対華二十一箇条要求に象徴される日本の威圧政策と中国の内部事情に由来するところが多」かったのです。このことは、先のワシントン体制批判の第二の論点にも関わりますが、日本の対華二十一箇条要求は、当時から「痛恨の外交的失策」とされていたのであって、このために生じた日中関係の亀裂を修復したものこそ、幣原の山東問題の処理や二十一箇条要求中の第五号希望条項の放棄だったのです。
次に、第三の批判についてですが、これは、九カ国条約によって、日本は満蒙特権まで放棄させられた。そのため、日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった、というものです。しかし、日本の満蒙における条約上の権益が失われたわけではありません(中国の主権尊重及び領土保全等を定めたルート四原則は、現に有効な条約及び協定に容喙するものではないこと、原則の適用地域は中国本部にだけ限ることが言明された)。また、「日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった」といっても、中国の主権を無視した勝手な行動がとれるわけでもありません。
このあたりの日本の言い分を最も直截に語っているのが森恪で、彼は、満州事変勃発後昭和7年6月17日に行った演説の中で次のように言っています。
「欧羅巴戦争を一期として、日本は、世界的に、所謂箍(たが)を嵌(は)められたも同様な状態になっている。・・・華盛頓条約は・・・寧ろ之を破壊しなければならぬ・・・日本に箍を嵌めたあの条約が存在する限り、日本国民は、世界という大きい舞台に立って活動することができない。あの条約が国民を、国内に跼蹐させて居る限り、日本は伸びない。日本の国状は、安定されないのである。・・・
日本国民の将来生きていく重点はどこにあるか。それは、この、外に内に嵌められている箍を叩き破るということが重点でなければならぬ。これが成功せざる限り、私は、日本の国情は安定せず、国運も向上せず、ひいては、国民個々の生活も安定し得ざるものと確信します。・・・その箍を叩き破る・・・まず不戦条約、九カ国条約、これを精神的に叩き破れ、国際連盟などは日本のために何の利益があるか。」
これはどういうことを言っているのかというと(この文章の前段に書いてあることですが)、”文明人が国をなして生活していくためには、人間の力を資源に働かせて富や国力に変化させなければならない。問題はこの人間の力だが、日本人は精神的、肉体的、歴史的に養成された文化の潜在力を持っている。しかし、日本は不戦条約や九カ国条約によって箍を嵌められ、一室に閉じ込められたような状態になっている。だからこの箍を叩き破って、東洋において日本人が自由に活動できるようにする。これは日本人の生存条の権利である。”という意味です。
この論理は、近衛文麿の「持たざる国」の論理と似ていますね。つまり、ここで彼が言っていることは、日本は資源を持たざる国であるが、資源を富や国力に変化させるだけの活力・文化的潜在力を持っている国である。一方、支那人はこの力を持っていない。そこで日本人が支那(特に満州)の資源を活用できるようになることで、日本人の活気も横溢するし、日本の人口問題も解決する。また、満蒙の治安を日本が守ることで支那の安全も確保されるし、ひいてはアジア全体の生活安定にも寄与することができる、というものです。
ではなぜ、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなってしまったのか、というと、森格等は、それは、日本が世界の現状維持(植民地分割の)を狙いとするワシントン体制を押しつけられ、中国や満州における資源の獲得に箍を嵌められたためである(その箍が5・5・3の海軍軍縮条約であり、中国の領土保全・門戸開放・機会均等を定めた九カ国条約だという)。従って、日本がその活力をもって大陸に進出するためには、この箍をたたき壊さなければならない、というのです。
実は、このように九カ国条約に対する敵意が公然と表明されるようになったのは、あくまで満州事変以降のことであって、それまでは一部右翼団体を除いて九カ国条約に反対するものはいなかったのです。実際、日本政府は満州事変以降も九カ国条約を守る旨対応していましたし、これを正面切って否定する旨の声明を出したのは、日中戦争二年目の1938年(昭和13年)11月18日付けの、有田八郎外相(近衛内閣)の対米回答が最初でした。
こう見てくると、もともと、この森恪の論理には無理があったわけで、従って、この論理が通らなくなったその原因を、海軍軍縮条約の締結、不戦条約、九カ国条約などに求めるのは筋違いという事になります。つまり、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなった、その主たる原因は、ワシントン体制にあったのではなく、その後の日本の大陸政策の失敗にあったのです。
いうまでもなく、それは、田中内閣時代に森恪主導で推し進められた対支積極政策(三度に渡る山東出兵、その間の東方会議、そして済南事件、さらに張作霖爆殺事件及びその隠蔽工作)の失敗がもたらしたものなのです。これが、その後の日中間の外交的基盤を崩壊させたのです。こんな情況の中で、日中間の外交関係の修復を引き受けたのが、第二次若槻内閣、浜口内閣において外務大臣を引き受けた幣原喜重郎でした。
この幣原の外交的努力を、軍を政治に巻き込むことで徹底的に妨害したのが、これまた森恪で、統帥権干犯問題がそうでした。また、幣原がこの問題に忙殺される間、中国との関係修復交渉を担当したのが佐分利公使でしたが、彼は、箱根の富士屋ホテルで不審死を遂げました。警察発表では自殺とされましたが、私は、満蒙問題が日中間の外交交渉によって解決されることを嫌った者の犯行ではないかと思っています。今、その関係資料をあたっているところですが・・・。
ところで、以上のような「支那や満州において排日運動が高まった」その本当の原因について、『森恪』伝を書いた山浦貫一自身は内心自覚していたようで、この伝記には次のような興味深い記述が見えます。
「ここに、運命的な歴史の不思議を感ずるのは、この第二次出兵によって起こったのが済南事件であり、済南事件は田中内閣の外交を決定的に失敗に導いたところの重大なモメントをなすものであることだ。それは・・・森の対支政策はもともと国共を分離せしめるにある。ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決するという計画であった。
森は前年、その方針で蒋介石とも交歓したのであるが,その森が、蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ち、従来、国民革命を認めない立場をとり北支は北京を中心として独立した政府を樹立して、その支配におくべしとした人々が,事なかれ主義の一時的方便から出兵に反対し、革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象である。
而して第二次出兵は,田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路にもなったのである。」
この記述によると、森恪の対支政策の本当の狙いは、
「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決する」ことだった。しかし、「蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立」ったため、(やむなく)山東出兵したのである。
ところが、この時「革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象」が生じたために、(その膺懲論者達によって)済南事件が引き起こされてしまった。その結果、その後の「日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった」と言うのです。
語るに落ちる、とはこのことですが、森恪を誰よりもよく知る山浦自身は、日支関係がこうした破滅的状態に陥ったその最大の責任は、ワシントン体制にあったのではなく、第二次山東出兵に伴って発生した済南事件、つまり、それを引き起こした軍の膺懲論者にあったと見ていたのです。もしそれが本当なら、森恪は、自らの失敗を巧妙に隠し、それをワシントン体制及びそれを担った幣原に責任転嫁した、ことになります。
この森恪の巧妙な隠蔽工作と責任転嫁が許され、済南事件以降、破局に瀕した日中の外交関係の修復をあえて引き受け、森の悪辣な妨害を受けつつも、何とかして局面打開を図ろうと努めた幣原喜重郎が、満州事変を起こした元凶と見なされる・・・そんな評価が、今日でも、あたかも通説の如く通用しているのですから驚くほかありません。
「(幣原外相は)あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれ過ぎていた。満州に対する幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果で、当時世上には,春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条湖事件を惹起したのだと酷評したものすらあった。」 
5 青年将校にとって満州は生命線だった

 

まず、前回提示した疑問についての私の考えを述べておきます。『森恪』の著者山浦貫一は、森恪の対支政策の「本当の狙い」について次のように述べています。
それは「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決することだった。しかし、北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ったため、(やむなく)山東出兵したのである」。
この間の事情について、『軍閥興亡史』の伊藤正徳は次のように記しています。 
「これより先田中内閣の初期、蒋介石は革命運動に躓いて日本に逃避し、日本の援助を瀬踏みに来たことがある。その時、田中は箱根に於て蒋介石と密会し、蔣が南支を平定することに対し間接に後援するが、満洲の方は日本と北方軍閥(張作霖)の交渉に一任して干渉をしない約束をとり付けていた。だから半年後の蒋介石の北伐に対しても、田中は好意的でこそあれ、之を阻止する考えはなかった。
にも拘らず、二回に亙って山東方面に出兵したのは、一に政友会内閣の方針が、山東方面の居留民(総数約三万五千名)に対しては一弾をも投じさせてはならぬという強硬主義に動かされたわけである。即ちこの出兵は選挙政策であり、軍部の主張に依ったのでもなく、また田中の発意に基いたのでもない。そうして却って済南事件(邦人十数名殺害)などを起こし、且つ支那国民の対日反感を増大させるような失敗に終ったのは、田中にとっては気の毒という外はなかった。」
これを見ると、山浦の言う「北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立った」というのは、政友会の選挙政策上やむを得ずそうした措置をとったということです。ということは、こうした政友会の政策(南京事件の処理に当たって幣原外交を軟弱外交と非難し居留民の現地保護を主張した)を主導したのは森恪だったのですから、これは田中の言い分とはなっても、森恪の言い分とはならない。これは、森恪による幣原外交攻撃が、政友会の党利党略に過ぎなかったことを物語るだけのものです。
なお、田中内閣における外務大臣は田中義一首相自身が兼摂し、外務次官には森恪を充てました。このことは、田中内閣における実質的な外務大臣は森恪だったということを意味します。次に述べる東方会議は、この森恪が、陸軍の鈴木貞一や吉田茂(奉天総領事)らと図って、田中内閣の対支積極(=強硬)政策を、政府、政党、在外各関係者及び陸海軍の一致した国策に格上げしようとしたものです。
しかし、その「東方会議も掛け声だけに終り、その後の張作霖との交渉も順当に進まず、結局は、陸軍方面の要望する武力による解決の外はないか、と田中は段々と転向を余儀なくされて行った。ただ、一点彼の大局観を弁護する材料は、帝国陸軍を表面の主動者とすることを飽くまで回避する方針であったことだ。
そもそも田中の対支外交の一大原則は「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」というにあった。言は壮なるに似たれども、満蒙は支那の主権下にある地域だから、日本がそれを安住の地たらしめる権能も責任もなく、その意味で外交標語としては粗笨(そほん)の非難を免れなかった。単に万難を排しても同地方の既得損益を擁護すると言えば、内外斉しくそれを非難する者はなかった筈だ。(幣原はそれをやろうとした=筆者)ところが「安住の地たらしめる」の一語の中に、何となく支配者の意慾が疑われる点があり、貴族院に於ける質問演説で幣原前外相から酷く油を絞られたようなこともあった。」
この「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」という言葉を対支外交の一大原則とするところに、田中首相の危うさが現れています。まして、蒋介石による中国の全国統一事業(北伐)が行われている最中に、わざわざ山東に出兵することや、そうした対支積極政策を日本の国策とするため、鳴り物入りで「東方会議」を開催するなどということが支那側を刺激しないはずがありません。当然、外交交渉による満蒙問題の解決は困難となる。その結果どういうことになったか。
次の記述は、引き続き『軍閥興亡史』からのものですが、おそらく、東方会議以降第二次山東出兵に至るまでの軍の内情を記したものではないかと思われます。
「満州問題の解決は外交交渉では片附かないとなれば、最早や武力の行使しかない。が、陸軍を表面に出してはならない。軍が満洲へ出て行く場合は、既得権を擁護する上に万己むを得なかったということを、内外ともに承認するような形に於て行われるのでなければ不可(まず)い。」
つまり、当初は、冒頭に紹介したような方法で満蒙問題を解決しようとしていた田中でしたが、そのための外交交渉が進展しないとなれば、従来より武力行使による問題解決を主張してきた青年将校らの意見に耳を貸さざるを得なくなる。その時、そうした武力行使のプラニングをしたのも森恪ではないか、というのです。
「世上、それは参謀長森恪の画策に依るとも言われているが、要は満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決する方式であった。
田中は密かに親交のあった大新聞の実権者を招いて内容を打ち明け、その場合には、言論の支持を得られるか否かを質した。それに対し、そのI博士は襟を正して、「表面は誰が事件を起すにしても、世間は陸軍がそれを起したことを信じて疑わないであろう。俗に謂う、頭隠して尻隠さずで、軍の信用が失墜するだけである――」と率直に苦言を呈した。暫く問答した後、田中は沈痛に「そうかノウ、では暫時中止するか」と言って別れたという。
後で調べると、時余にして田中は陸軍次官畑英太郎を招致し、「あの計画は暫く止めておくから至急手配せよ」と命じている。即ち知る、その計画なるものは、軍が中心となるか、少なくとも某有力パートナーとして画策していたことが明白である。
既にして政友会院外団の一味や、満洲事業家の乾分達は満洲に入り込んで内乱作製の手筈を進めていたのだ。満蒙の地に内乱が起こっては日本は見物をしている訳には行かない、大至急陸軍を動員して之を平定するという筋書が出来上がっていたのである。軍の若い一部将校達は、そこまで策謀しなければ内部的にも治まらない所まで激昂していたのだ。穏健な大・中佐級の一部を評して、「一身のみを守る不忠の輩」と罵るような乱暴な青年将校が、五人や十人ではきかなかったのだ。上級将官が断乎として之を処罰しない限り、そのままでは軍紀軍律を紊る陸軍の一大不詳事を惹起することは必定であった。
ところが、大・中将は既に弱かったばかりでなく、彼らの満州擾乱、出兵平定の筋書きには本心賛成なのであるから、それを抑えるよりは寧ろ心で歓迎し、何時しか「軍の内面指導」の下に計画を進め、一方に外務省は森次官が連絡係として奔走し、今は単に時日を待つばかりに熟していたのだった。そこへ、突如田中から暫時中止の命令が下ったのだ。驚きは忽ち憤りと変わった。以来、田中に対する軍部の信頼と支持とは急角度を以て消散して行った。それは実に、張作霖爆殺事件の発生する僅か一ヶ月前のことであった。」
張作霖爆殺事件は昭和3年6月4日ですから、その一ヶ月前といえば5月4日、丁度済南市街で北伐軍と日本軍第6師団間に軍事衝突が起こっていた頃です。それが拡大して5月8日より日本軍の済南城攻撃・占領となり、北伐軍に多大な死傷者を出すに至りました。このため北伐(国民革命)軍は済南を迂回して北上し北京に向かいました。日本はさらに出兵兵力を増加(第三次山東出兵)し、5月18日には満州治安維持宣言を出し、同時に関東軍を奉天に出動させました。
このねらいは、もし北伐軍と北京の張作霖軍の間に戦闘が始まれば、関東軍が長城線近くの錦州――山海関まで出動して両軍を武装解除し、この機に張作霖を下野せしめて、満州の軍事的支配権を握ろうというものでした。ところが、ここでも田中は、アメリカ政府が抗議めいた動きを見せたこともあって、10日間迷ったあげく「オラはやめた。張作霖は無事に帰してやれ」と初心に逆戻りしてしまいました。
おさまらぬのは、刀の鞘を払って振りかぶっていた関東軍である。温厚な斉藤参謀長すら日記に『現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし』と書いたぐらいで、肚に据えかねた関東軍村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示する。それを察知した河本が『張抹殺は私が全責任を負ってやります。』と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させたのであった。
この間の事情について『森恪』では次のように記述しています。
「田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。
我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相剋抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」
こう見てくると、張作霖爆殺事件のような暴虐無比の事件も、それは決して河本大作の個人的憤激により惹起されたものではなく、田中内閣外務次官森恪が、軍の青年将校等と図って引き起こそうとしていた「第一次満州事変」――満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決しようとした――の一つの暴発的形態だったということが判ります。つまり、満蒙問題とは、この時代の軍の中堅以下壮青年将校達にとっては、こうした謀略的手段に訴えてでも解決すべき死活的な問題だったのです。
「満蒙を何とかせねばならぬ」というのが田中の国策第一条であった。これより先き「満蒙を制圧せねばならぬ」というのが軍部の念願、特に中堅以下の壮青年将校の燃えるような願望であった。これによってのみ、多年軍縮下に抑えられた不満を晴らすことが出来、戦闘によって軍人は蘇生し、軍旗は原隊に還るであろう。この利己的注釈が全部では無論ない。満州の野は二十万同胞の霊の眠るところ、日本発展の運命の地域。それを領有しないまでも、確実に我が勢力下に安定させることは、民族の発展を願う者、国を愛する者の当然の信条でなければならぬ。人心廃れ、政党腐り、恬としてこれを顧みないならば、吾等こそこの天地に廓清の血の雨を降らしても目的に邁進するであろう――と彼らは自ら注釈した。
そして、こうした彼ら「自らの注釈」に、国家改造へと進む政治的道筋をつけたのが、田中内閣において実質的な外務大臣を務めた森恪でした。これが、結果的に張作霖爆殺事件という暴虐とも愚劣とも言いようのない事件を引き起こすことになったのです。問題は、これが反省されるどころか、一夕会に結集する青年将校等によって継承され、より周到に計画され再び実行に移されたということです。こうして引き起こされた満州事変は、単に満州における日本の権益擁護という意味だけでなく、日本国の国家改造を牽引する前進基地づくりとしての意味を持つようになっていました。
つまり、満州における既得権益擁護の問題が、日本国の国家改造を求める革命運動へと転化したのです。おそらくこれが既得権擁護の問題に止まっていれば、満州問題はもっと合理的な解決ができたでしょう。しかし、満州事変以降軍によって推し進められた国家改造の動きは、明治・大正を通じてようやく根付きはじめた日本の政党政治、立憲政治を圧殺することになりました。代わって、一国一党の国家社会主義が追求されました。そして、その思想の日本的読み替えが尊皇思想に基づく忠孝一致の天皇親政だったのです。
この辺りの思想的絡み合いは、アジア主義者や支那通軍人の「アジア諸国連帯論や西洋列強からの解放論」、近衛の「持てる国、持たざる国論」、森恪の「『浮城物語』的冒険主義」、右翼イデオローグの巨頭北一輝や大川周明等によって唱えられた国家社会主義や日本主義、石原完爾の「最終戦争論」などが入り交じって、一体、どこにその中心があるのか容易には分かりません。もちろん、その中心的な担い手が昭和の青年将校等であったことは間違いなく、ではなぜ、彼らがその中心的な担い手となったか。この問いに答えることが、本稿の主題「昭和の青年将校はなぜ暴走したか」に答えることになります。 
6 満州問題が国家改造に発展した

 

これまでの考察で、昭和の青年将校の暴走は「満州問題」の処理をめぐって始まったことが明らかになったと思います。まず森恪によって、その武力解決に向けた政治的道筋が開かれ、それが結果的に張作霖爆殺事件を引き起こすことになった。そして、それが反省されるどころか、一夕会に集う青年将校等によって引き継がれ、周到にその計画が練り直され、理論化され、世論工作がなされて、満州事変となった。この時、満州における日本の権益擁護という問題は、満州を前進基地とする日本国の国家改造の問題へと転化した・・・。これが,その後の日本外交を狂わせた根本的な原因となった、ということです。
ではなぜ、彼らはそれほどまでして日本の国家改造にこだわったのか、ということですが、その理由は、当時の民政党若槻内閣における幣原外交が、中国の主権尊重を基本とするものだったからで、彼らの主張する満州問題の武力解決を容認しない、と考えられたからです。それは、九カ国条約や不戦条約のもとでは当然のことでしたが、問題は、当時の国民党や張学良政権が、そうした幣原の基本姿勢にも拘わらず、満州における日本の条約上の権益を無視した過激な排日運動を繰り広げたということです。これ は、田中内閣における対支積極(強硬)外交の帰結でもあったわけですが、いささか度が過ぎた。そのため、その責めが総て「幣原外交」に帰され退場を余儀なくされたのです。
この当たりの事情については、当時、中国に勤務したアメリカの外交官ジョン・マクマリー(中国関係条約州を編集し、ワシントン会議にも参加して、1920年代のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人だと考えられていた)が、そのメモランダム(1935年)に次のように記しています。
「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。
人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない”けち野郎″と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。
中国国民と気心が合っていると感じており、また中国が屈従を強いられてきたわずらわしい拘束を除こうとする願いを一番強く支持してきたのは、外国代表団の人々であった。この拘束とは、中国が二、三世代前に、国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否したがために、屈従を余儀なくされてきたものであった。彼らの祖父たちが犯したと同じ間違いを、しかもその誤りを正す絶好の機会があったのに、再びこれを繰り返すことのないよう、我々外交官は中国の友人に助言したものであった。
そして中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだった。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。
このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。
(日本の幣原外交による=筆者)協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」
マクマリーはここで、日本がこのように東アジアにおいて孤立するようになったのは、当時アメリカが「アメリカ以外の国々に頑固に楯突くよう中国人を鼓舞し、彼らにへつらっただけの無意味で偽善的な」行動をとったためである、と言っています。そうした「協力国の利害に与える影響を無視してでも自らの利益を追求」しようとしたアメリカの態度が、武力ではなく外交による国際秩序形成をめざしたワシントン体制を崩壊させ、日本をして、その「正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至」らしめたと言うのです。
おそらく、これが、第二次若槻内閣のもとでの幣原の対支外交を行き詰まらせ、満州事変を必然ならしめた当時の国際政治要因だったのではないかと思います。また、マクマリーは、張作霖時代における彼と日本との関係や、その後に起こった張作霖爆殺事件、そして張学良について、次のように述べています。
「張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢しさをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。
たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業側も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。そのあと馬賊は姿を消すといった具合である。
中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応し続けなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、一九二六年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。
そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。
なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状での頼りにならない不安定要因が彼であった。日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん耐えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。
上述の状況が、日本の政情の変化の底にあった。そしてワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での”積極政策″を唱えていた陸軍閥が優位に立った。それが一九三一年(昭和六年)九月十八日の満州事変の背景であり、これがきっかけとなって、満州および他の中国領への日本の侵略が続いていった。そして、日本国民の間に思想の変化が芽生えはじめる。それは中国ならびに極東全般における日本の好機、使命および運命についての考え方の変化である。この考え方は陸軍の指導者や、特定の狂信的な国家主義者知識層にとっては別段目新しくはないが、勤勉で重税に苦しむ大多数の零細農民達の思考とは全くかけ離れたものであった。」
ここで注目すべきは、マクマリーが張作霖爆殺事件について「分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。」と疑問を呈していることです。一体、この事件がいかなる事情の元に発生したのか、ということについては前回詳しく述べましたが、ここには明らかに、日本人の思想の変化というより思想的劣化が見て取れると思います。おそらく、こうした彼らの「理解しがたい」行動の根底には、例の「十年の臥薪嘗胆」の思いが伏在していたのではないかと思いますが・・・。
というのも、この時の首相は、彼ら帝国陸軍軍人の大先輩である元大将田中義一であり、その田中が、ようやく張作霖を説得して満州に帰順させ、新たな日満の共同関係を築こうとしたその矢先、関東軍の一将校が、張作霖を列車ごと爆破し死亡させたからです。それだけでなく、彼の同僚である青年将校等はその犯人を英雄視し、政府に圧力をかけて事件の真相をもみ消し、単なる警備不行き届きの行政処分に止めさせただけでなく、その彼を、その後も軍の諜報組織の中で重用し続けた・・・。
つまり、彼らは、日本国に国家改造を求める以前の、自らの政権とも言うべき田中内閣下において、これだけの独善的・背信的行動を行っていたのです。これを、政府も軍首脳も厳正に処罰することができなかった。こうして、軍内に、軍紀を無視した下克上的行動を蔓延させることになったのです。こうして、昭和6年には軍首脳をも巻き込んだ三月事件というクーデター事件、次いで満州事変、そして、それに連動した再度のクーデター事件である十月事件が引き起こされることになりました。では、これらの連続するクーデター事件の目標は何であったか、それは「日本国の国家改造」ということだったのです。
で、この「国家改造」という言葉ですが、これはおそらく、北一輝の『日本改造法案大綱』からとられたものではないかと思います。ということは、こうした考え方は、この時代、軍人だけに通用した言葉ではなく、一般に通用した言葉だったということです。では、こうした北一輝の言葉=思想は、これらの事件にどのような影響を及ぼしていたのでしょうか。また、これらの事件に関わったとされるもう一人の右翼イデオローグ大川周明の思想についてはどうだったのでしょうか。次回はこの問題について考えてみたいと思います。これによって、この国家改造という言葉の意味するところが分かりますし、その妥当性を検証することができるからです。
結果的には、こうした言葉=思想を生み出した大川や北は、前者は五・一五事件で投獄(15年)、後者は二・二六事件で処刑されてしまいました。つまり、彼らは最初は軍に利用され、そして最後はスケープゴートとされたのです。とはいえ、彼らを単なる右翼イデオローグと決めつけ無視することはできません。特に、北の思想には極めて独創的な見解や、戦後民主主義にも通じる優れたアイデアが数多く含まれています。それを正当に評価した上で、では、なぜそれが「三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とか「在郷軍人団を以て改造内閣に直属したる機関」とするなどの、立憲政治や政党政治を否定する「国家改造」法案へとつながったか。
ここに、昭和の悲劇を理解するための、もう一つの鍵が隠されていると思います。 
7 皇道派の暴走を利用した統制派

 

昭和の歴史を主導した青年将校グループに皇道派と統制派があり、両者が激しい主導権争いを行ったことはよく知られています。その争いの頂点となったのが、皇道派将校相沢三郎による軍務局長永田鉄山斬殺事件でした。この事件は、一青年将校が、軍服軍刀で陸軍省に行き白昼堂々軍務局長を斬殺したもので、軍紀の常識上考えられないことでした。しかし、さらに異常なのは、事件直後、相沢は上司に「これから御前はどうする気か」と尋ねられると、「これから偕行社に寄って買い物をして、直ぐに任地(台湾)に出発します」と答えたことです。
こんな話を聞くと、多くの人は、この相沢という軍人は精神的に異常だったのではないかと思うでしょう。もしそうであれば、この事件は精神異常者の引き起こした特異な事件として処理されたはずです。ところが実際は違った。陸軍省より「相沢中佐は永田鉄山中将に関する謝れる巷説を盲信したる結果云々」と発表されると、皇道派の軍人は「『誤って巷説を盲信し』とは怪しからぬ、それは真実に基づき信念を持って実行した帝国軍人の行動である」といい、恰も永田が殺されるのは当然である言わんばかりの態度を以て抗議したもの」もいたといいます。
さらに皇道派は、この相沢の裁判を利用して統制派に打撃を与え、同志相沢の行動をむなしく終わらせないことを誓い合いました。そこで彼らは次々と裁判の証人台に立ち「永田は国軍を毒する蛇であり、その横死は天誅である」と卓をたたいて叫びました。これに対して永田を弁護する統制派も立ち上がり、これに応じて皇道派の御大である真崎甚三郎が証言台に起つことになりました。こうして皇道派は、「公判に世間の視聴を集め、統制派を痛撃する一方に於いて、クーデターを断行する工作を秘密に進め」、真崎大将が出廷した翌日の2月26日、突如二・二六事件を起こしたのです。
この二・二六事件ですが、その基本的な性格は、皇道派対統制派の対立抗争がその頂点に達した段階で起こったクーデター事件である事が示す通り、現体制を掌握している統制派に対して皇道派が権力奪取を図ったものということができます。この時殺された重臣は、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太カ、重傷は侍従長海軍大将鈴木貫太郎、未遂は首相岡田啓介、前内大臣牧野伸顕、元老西園寺公望でした。この内文官は高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望で、彼らは「君側の奸」と目されたために攻撃を受けました。また、その他は軍人出身あるいは現役軍人(渡辺錠太カ)で統制派と目されたためです。
この襲撃が終わった約1,400名の将兵は、予定通り、首相官邸、警視庁を占領し、麹町区西地区一帯の交通を遮断し、午前五時、大尉香田清貞、村中孝次、磯部浅一の3名は川島陸相に面会し、決起趣意書を朗読した上次のような要望書を突きつけました。
それは(一)全権の奉還、(二)統制経済の実施、(三)以上を実行し得る協力内閣の出現を上奏する、の三項目を主文とし、これに加えて十二項の付則細目がありました。
一、現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
二、皇軍相撃つことは避けなければならない
三、全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
四、警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
五、南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
六、速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
七、軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
八、林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
九、荒木大将を関東軍司令官に任命すること
十、同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
十一、同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
十二、報道を統制するため山下少将を招致すること
次の者を陸相官邸に招致すること
26日午前7時までに招致する者――古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
午前7時以降に招致する者――本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐
要するに「彼らは、『昭和維新』の詔勅を賜った後、具体的には陸軍大将・真崎甚三郎か、陸軍中将・柳川平助などを担いで維新内閣を樹立し、志の実現を図ろうという思いを抱いていた」のです。
ただし、真崎も荒木も事前にはこれを知らなかったとされます。しかし、これらは一見して皇道派の天下を画策したものであること歴然たるものがあり、彼ら(真崎、荒木、柳川)は皇道派の領袖として、また軍事参議官として、この要望書に沿った事件の処理に努めました。
具体的には、26日午後2時には全軍事参議官の外、杉山次長、本庄侍従武官長、香椎東京警備司令官等が出席して軍事参議官会議が開かれ、鎮撫、原隊復帰を第一の収拾策とする立場から、午後3時30分、香椎司令官を経て、次のような陸軍大臣告示が叛乱軍に示されました。
一、決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり
二、諸子の行動(原案は「真意」)は国体顕現の至情に基づくものと認む
三、国体の真摯顕現の現況(弊風をも含む)については恐懼に堪えず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合わせたり
五、之以外は一つに大御心に俟(ま)つ
さらに、午後7時20分には東京警備司令部より、歩兵第一連隊長(小藤恵)に対し、反乱軍である歩兵第一、第三、野重砲七の部隊を指揮して、叛乱部隊が占拠している地区を、之と対決している武力(警備司令部)とともに一括して警備せよという驚くべき命令が発せられました。つまり、大臣告示とこれによって、決起部隊は賊軍ではなく官軍となったのです。こうして一日だけの食糧を携行して兵営を出た反乱軍は、原隊からの食料によって食事をするようになりました。
このため、反乱軍将校の大部分は情勢は全く自分たちに有利と判断し、一挙に維新の断行を推進しようとして、歩一連隊長に対し全面的にはその指揮下には入らず、独自の権限を与えよと要求しました。しかし、こうした軍事参議官等の出した大臣告示以下の措置は、全く天皇の意思に背くものであって、その後、天皇の怒りの激しさを知った彼らは、この上は、皇軍相撃を避けるため、反乱軍をおとなしく原隊に帰すべく、叛乱側を説得しようとしました。しかし、叛乱側は大臣告示等の内容を盾に、こうした説得を受け入れようとしませんでした。
一方、こうした動きの裏で、また別の動きが始まっていました。それは石原作戦部長を軸とする統帥幕僚らの動きで、26日夜、石原、橋本(欣五郎)、満井(佐吉)らが会談し次のような結論を得たとされます。
「陛下に石原より直接奏上して、叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して政局を収拾する。」この時石原は、当初「維新大詔渙発」によって、天皇親政を基軸とする皇族内閣を構想していました。しかし後継首班については意見一致せず、山本英輔海軍大将を推すことになりました。
しかし、天皇の怒りの激しさを知る杉山参謀次長は、石原のこうした進言を拒絶しました。一方、石原は戒厳令の施行を主張していました。戒厳令は、まず閣議決定を必要とし、続いて枢密院の諮詢を経て天皇裁可・布告となります。実は、戒厳令の施行には軍部以外の大臣らは反対で、彼らは、これに乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望を図るのではないかとの警戒心を持っていました。しかし、未曾有の大事件であって、軍部以外の手では鎮圧できない弱みがあるので、やむなく賛成したといわれます。
この間の石原の行動については、当初は、「大赦の請願」や「維新大詔渙発」を画策するなど叛乱軍を幇助するかのような姿勢を見せていました。しかし、天皇の叛乱軍に対する怒りが激しく、それが無理だと判ると、戒厳令の施行(27日午前3時50分「緊急勅令」公布)に伴い、戒厳参謀として叛乱軍の鎮圧する側に立ちました。一体、この間の石原の真意はどこにあったのか、ということを巡って様々の意見が戦わされています。が、おそらくその真相は、次のようなものだったのではないでしょうか。
*石原は戒厳令の施行は当初から主張していたとも言う。
「・・・二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです。」
これは、二・二六事件発生当時、軍務局軍務課員であった片倉衷が、戦後、NHKの中田整一に語った言葉です。彼は、二・二六事件が勃発したこの日の早朝、陸相官邸に駆けつけ、その玄関前で反乱軍の磯部浅一に頭部を拳銃で撃たれました(一命はとりとめた)。片倉は石原や武藤章等とともに、打倒すべき重要幕僚の一人として、かねてより皇道派の青年将校に狙われていたのです。
その彼が中心となって、この事件が発生する2年前に作っていたものが、この「対策要綱」、すなわち「政治的非常時塩勃発に処する対策要綱」でした。これは、予測される皇道派による「軍事クーデター勃発に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、自分たちの側が依り強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという、いわば”カウンター・クーデター”の構想」をまとめたものでした。
その序文は次のようなものです。
「帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞(おそれ)少なしとせず。事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨にして、此場合政府並国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契(ママ)の事たるのみならず、革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。即ち爰に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる」
つまり、この「要綱」は、「国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識」に立って、こうした事変勃発を逆に利用して「軍部自らは直接手を汚すことなく、しかも結果的に『革新の原動力』たらんとする意思」を明確に打ち出したものです。「それは、皇道派青年将校らの国家改造案とは異なり、緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚たちによる反クーデター計画案であった。」
この「対策要綱」の実施案は次のようになっていました。
(一)事変勃発するや直ちに左の処置を講ず
イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二)戒厳宣告(治安用兵)の場合には軍部は所要の布告を発す
(三)後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
(検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項)
(四)内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ
つまり、「統制派幕僚たちは、いつクーデターが起こっても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた」のです。そして、二・二六事件の勃発についても、それは第一師団の満州移駐が決定的な引き金になるだろうと予測し、2月22,23日には、憲兵より事件勃発の警告を得ていました(片倉談)。つまり、先に紹介した石原の奏上案も、また、一転して布くことになった戒厳令も、全て、統制派幕僚である石原や片倉等の構想した、カウンター・クーデターへの道筋に沿うものだったのです。
結局、28日午前5時には、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、反乱部隊の下士官兵は29日午後2時までに原隊に帰りました。残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えました。また、同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕されました。こうして、2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となり、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入されました。
また、侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となりました。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となりました。さらに、皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は、歩兵第40旅団長に転出させられました。
この事件の裏には、上に見た通り、皇道派の大将クラスの関与が疑われたわけですが、事件の基本的性格としては「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表されました。そのため、民間人を対象とする裁判を担当した吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべき」と主張したにもかかわらず、寺内陸相は、極刑の判決を示唆した、とされます。
この事件は、武藤章らの主張に基づき厳罰主義で速やかに処断するため、緊急勅令による特設軍法会議で裁かれることになりました。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷なものでした。また、判決は、陸軍刑法第25条の「反乱罪」が適用され、元歩兵大尉 村中孝次、元一等主計 磯部浅一を含む将校16名が死刑という過酷なものとなりました。
以上、二・二六事件で極点を迎えた皇道派vs統制派という昭和の青年将校グループの対立を見てきました。だが、この皇道派と統制派という二つの青年将校グループは、一体何を巡って、ここまで対立を深めたのでしょうか。実は、本稿でも指摘している青年将校運動の出発点となった「満州問題の武力解決」という点では違いはなかったのです。そこに対立が生じたのは、満州事件に呼応する形で計画された10月事件の処理を巡って皇道派の青年将校側に次のような不満が生じたためでした。
ここで皇道派というのは、いわゆる「隊付き」将校を中心とする青年将校グループのことです。一方、統制派というのは、陸大出の――いわゆる天保銭組といわれ、陸軍省や参謀本部など軍の要職を占有した――いわゆる幕僚将校とよばれた青年将校グループのことです。この両者に、満州事変以降対立が生じたのです。なぜか、幕僚将校等のクーデター計画段階での美技を侍らし酒色に耽る態度が、隊付き将校等の眼には私利私欲に見えたこと。また、クーデタ成功後、彼らが自らを大臣とする閣僚名簿を作成したことが、天皇大権を私議するものに見えたのです。
つまり、皇道派というのは、満州事変以前の幕僚将校主導の青年将校運動に、隊付き将校を中心とする青年将校グループが反発し、独自の国家改造運動を始めたことで生まれたものなのです。これに対して、幕僚将校たちは、満州事変の成功で軍主導の革命拠点を作成したことでもあるし、クーデターという非常手段に訴えなくても、軍の統帥権を盾に政権を合法的に掌握することが可能だと考えるようになった。そして、そのことは同時に、隊付き青年将校等が北一輝等民間の革命家と結んで計画するクーデターを、軍の統制や軍紀を乱すものとして厳しく弾圧するようになった。
といっても、両者が日本を国家改造することで達成しようとしていた新しい国家体制イメージにどれだけの違いがあったかというと、いずれも、政党政治には反対で、天皇中心の一国一党制、軍部主導の国家社会主義的政治体制を作ろうとしていた点では同じだったのです。あえてその違いをいえば、前者が一君万民・忠孝一致の家族主義的国家イメージ、後者がナチス的国家社会主義的国家イメージだったということ。前者は実際権力から阻害されていた分だけ、非現実的な忠誠無私の大御心信仰となり、後者は先に紹介した石原や片倉のように、こうした皇道派の暴発を、自らの国家改造目的達成のために逆利用するというしたたかさを持っていたのです。
この統制派のしたたかさを如実に示すものとなったのが、二・二六事件後、組閣することとなった広田弘毅内閣における組閣人事への軍のあからさまな干渉でした。その閣僚名簿に、外交官の吉田茂、朝日新聞社社長下村宏、前司法大臣小原直、中島飛行機の中島知久、平民政党幹事長川崎卓吉らの名前があることについて、時局認識の不足を露呈するものだとして排撃したのです。その理由、吉田は軍人嫌いで、かつ、二・二六事件で襲撃された牧野伸憲の女婿である。下村は自由主義者だ。小原は国体明徴問題で法相として優柔不断だった。中島は新興財閥で財閥否定の時勢に反するというものでした。
従来は、軍が内閣の人事に干渉することがあっても、それは軍事費を繞る防衛戦闘のためであって、内閣の構造自体に嘴を入れることはなかったのですが、今度は、閣僚を狙い撃ちして、軍の思想及び国策上の要求を貫こうとする攻撃戦闘だったのです。この談判に出かけたのが寺内寿一で、その後4回にわたり組閣本部を訪れ、その間、軍は28センチ砲を発射して、間接射撃の轟音に政界を震撼させたといいます。その結果、川崎が罪一等を減じて伴食ポストに座った外の四人はオミットされました。
さらにその後、二・二六事件で反乱軍将校を幇助したとして予備役に回された皇道派の陸軍上層部が、陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになりました。こうして、「原敬が苦闘幾年にして漸く一本打ち樹てた『軍部横暴制止』の官札」は取り払われることになりました。こうなると陸軍の気にくわない内閣には軍は陸相を出さない。故に内閣は潰れる。こうして、内閣の運命は軍部の掌中に帰するという、軍権横行時代を現出することになったのです。
次回は、こうして皇道派や北一輝の思想を打倒することで勝利を手にし、その後の日本の政治を掌中に収めることになった統制派の思想について、その問題点をもう少し詳しく見てみたいと思います。というのも、この思想は、その後の日本を、泥沼の日中戦争へと引きずり込んだだけでなく、常識では考えられない対米英戦争へと突入させることになったからです。勝った思った思想が実は負けていた?いや、負けた思想はそれ以上に脆弱だった?この辺りの思想的な課題について、大正デモクラシーの時代に遡って再点検してみたいと思います。 
8 皇道派青年将校が生まれたワケ

 

皇道派と統制派という用語は興味深いものがあるが、その後の展開は皇道派の予測どおりに進んだ。
皇道派が軍で主導権を握っていれば日中戦争もひいては大東亜戦争もなかったという意見がありますね。近衛文麿が皇道派を支持し続けたことはよく知られていますし、これに対して昭和天皇は皇道派の領袖と目される真崎を嫌ったとされます。こうした天皇に対する最後の直諫として提出されたものが「近衛上奏文」で、「満州事変から大東亜戦争までを引き起こした張本人は、軍部内の一味の共産主義と両立する革新運動そのもの」であり、それを担ったのが統制派である、とする見方です。
ジャーナリストでこうした皇道派擁護の論陣を張ったのは、岩淵辰雄で『敗るゝ日まで』(s21)があります。同様の主張をしているのは山口富永(『昭和史の証言―真崎甚三郎人・その思想』s45や、田崎末松(『評伝真崎甚三郎』s52)があります。また、山口氏にはNHK特集「二・二六事件消された真実」(s63)に対する反論となる『二・二六事件の偽史を撃つ』(h2)があります。私が前回用いた『盗聴二・二六事件』の著者中田整一氏は先のNHK特集番組制作のプロデューサーを務めました。
まず、このNHK特集番組についてですが、私は丁度この番組をNHKオンデマンドより記録していましたので、それを見てみました。この番組ではその「消された真実」とは、戒厳司令官となった香椎中将少将が「陸軍大臣告示」(26日午後3時下達)より以前に「陸軍大臣告示」(午前10時50分)が近衛師団に下達されていたというものです。これにより、香椎や山下奉文少将さらには荒木大将や真崎大将が反乱軍を幇助した、というよりその首謀者であったらしい事が示唆されて番組は終わります。
ただし、中田整一氏の著書の末尾には、二・二六事件の反乱軍将校安藤輝三の遺書の次のような一節が紹介されています。
「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり。一石二鳥の名案なり、逆賊の汚名の下に虐殺され『精神は生きる』とかなんとかごまかされて断じて死する能わず」
要するに、私が本エントリーで紹介した通り、この事件は統制派に利用されたわけで、彼らはそのための計画を既に持っていたということです。で、この番組の結論としては、この事件の真相が明らかにされることによって、戒厳司令官でもあった香椎中将までがこの事件に関わっていたことが明らかになると、軍の国民に対する信頼や威信が崩壊する恐れがあったからその真相を封印した、というような説明がなされていました。
しかし、そのために皇道派の領袖達に対する断罪を避けたのか、ということになると、私は必ずしもそうではなくて、実は、この事件の真相究明が進みすぎると、これら皇道派の領袖の罪だけではなく、安藤輝三が指摘したような石原完爾等統制派の隠された計画まで明らかになる、それを怖れたからだと思います。中田氏の本ではこのことへの言及がなされていますが、NHK特集番組ではそうなっていませんでした。
で、真崎甚三郎についてですが、私は、事件の計画をあらかじめ知っていた、ということではないと思います。しかし、この事件に至るまでにいわゆる皇道派青年将校が引き起こした数々のクーデター事件の責任が真崎になかったかというと、私はそうとも言えないと思います。にもかかわらず、戦後氏が書いた手記などにはこの点についての言及がない。これが、責任転嫁とか言い訳に終始したとかと批判される所以だと思います。教育者としてはともかく、統制を重んずべき軍隊の大将としては、皇道派青年将校の行動を抑制・教導すべきでした。
この、真崎の教育者としての側面については、田崎末松『評伝真崎甚三郎』が次のような解説をしています。少々長いですが、皇道派青年将校がどのような時代背景の下に誕生したか、真崎は彼らに何を教えたか、ということが大変わかりやすくまとめられていますので紹介しておきます。
四 昭和維新の原点
「昭和維新」ということについては、いろいろの解釈があるはずである。わたくしは、天皇信仰を中心とする国体原理への回帰と、それを軸とする体制内の変革運動であると理解している。
そして、青年将校運動の萌芽と、教育者真崎甚三郎少将の登場をその原点の一つとしてあげるものである。
この青年将校運動の結晶体ともいうべき二・二六事件こそ、真崎の運命を一挙に逆転せしめた決定的な事実でもあった。
(1)青年将校運動
昭和のはじめころの青年将校といえば、たんに若い将校一般という意味ではなく、いわゆる隊付の「一部青年将校」または「要注意将校」といわれ、軍の上級幹部や憲兵隊によってある特別な眼をもって注視されていた「政治化した軍人」とくにある種の「自己−社会変革」を志向する一群を指すものということができる。
彼らのすべては陸軍幼年学校――陸軍士官学校の卒業生である専門軍人であった。
しかし、そのほとんどが、高級軍事官僚の養成機関である陸軍大学校に入校することを意識的に拒否し、いわゆる立身出世コースからはずれた。そして隊付将校として、一般国民から徴募された下士官・兵とともに国防の第一線、現場にとどまろうとする志向をもっており、その場から自己ならびに日本の変革を考えた。
こうした青年将校のリーダーたちのいく人かをあげて見よう。
(氏名)    (生年月日) (陸士卒業期)
 西田税     明治三十四(一九〇一)年 三四期
 大岸頼好    明治三十五(一九〇二)年 三五期 
 村中孝次   明治三十六(一九〇三)年 三七期
 大蔵栄一   明治三十六(一九〇三)年 三七期
 菅波三郎   明治三十七(一九〇四)年 三七期 
○磯部浅一  明治三十八(一九〇五)年 三八期 
○安藤輝三  明治三十八(一九〇五)年 三八期
 末松太平   明治三十八(一九〇五)年 三九期
○栗原安秀  明治四十一(一九〇八)年 四一期
(○印は二・二六事件のリーダー)
このように、青年将校たちは西田から栗原まで、大正十一(一九二二)年から昭和四(一九二九)年にかけてのほぼ一九二〇年代に少尉に任官し、連隊付将校として兵とともに社会に接していたことがわかる。
この時代の世相はどのような状態であったかといえば、要約すると次のような時期であった。
このころの日本は明治維新以来順調にたどってきたコースを登りつめ、ある曲り角にさしかかっていた。
経済的には、第一次大戦後間もなくから慢性的不況のうちにあり、ついで昭和初期の金融恐慌、銀行の取り付けさわぎに出合い、そして二〇年代末から金解禁恐慌と世界大恐慌の大嵐にまきこまれていた。
対外関係の面では、民族独立、一切の外国利権の奪還を呼号する隣邦中国における「反帝愛国」運動が次第に無視することのできない要因に成長しつつあった。
植民地隷属からの脱却をのぞむ中国民衆の声は、いまやようやく高く、日本をふくむ外国の既得権益擁護政策と真正面から衝突するようになってきた。
こうした時期に、青春時代を生きた青年将校たちにとって、内政面でも世間の風は冷たかった。世は滔々として「デモクラシー」の時代である。思想的にはリベラリズム、のちにはマルキシズムが、政治的には政党政治が、一世を風靡していた。軍の存在はとかく煙たがられ、あるいは軽視、あるいは蔑視される傾向にあった。
大正十一 (一九二二)年二月、ワシントン会議で海軍軍縮条約決定、同七月陸軍軍縮計画(いわゆる山梨軍縮)発表、翌々大正十四(一九二五)年、いわゆる宇垣軍縮が実施された。青年将校の「先輩格」であり、のちに二・二六事件に連座した山口一太郎(明治三十三年静岡県生まれ、三三期、本庄繁大将の女婿)は、この宇垣軍縮について次のようにいっている。
「懐しい奈良の歩兵第五十三連隊は廃止となり、此の御旗の下で死を誓った軍旗は宮中へ奉遷される。最後の軍旗祭が、さみだれそぼ降る奈良練兵場で行われた。時の連隊長は江藤源九郎氏である。市民悉くが泣いた。こんなに国防力を減らしてどうなるか、列強は第一次大戦後の尨大な陸軍を擁しているのに、目本だけ減らすとは何事か。しかも街には戦争成金がうようよして百円札で鼻をかんでいるではないか・・・青年将校たちの気持はこれで一ぱいだった」
経済過程の混乱、対外関係の困難という重大な客観的危機の存在、これに有効に対処し得ない″進歩主義的″観念をもつ当局者――こういった図式で問題状況をとらえようとする人達が、第一次大戦時、戦後徐々に、しかし確実に発生し増加してきた。彼らの多くは、こういった問題状況に対し、天皇の下に「維新日本」をつくり「復興アジア」と連帯しようという、国内的かつ国際的の「日本らしい維新」(彼らはしばしば「革命」という言葉をきらった)を構想した。
このような「維新」の思想こそ、いわゆる革新右翼、あるいは日本ファッシズムの典型的思考様式といってもよかろう。それは、巨視的に見れば、世の「欧化主義」的風潮に反発した「国粋主義」的傾向に棹さすものであると同時に、一面それを乗りこえようとするものであった。
このような「土壌」の上に青年将校運動の華が開花するのである。
(2)教育者・真崎甚三郎少将の登場
真崎甚三郎が士官学校教育に奉仕した四ヵ年は、教育者真崎のイメージを定着させた。
しかし、このことは元来、変革思想の信奉者でもない真崎を、昭和維新の原点のひとりとして位置づけることにもなった。
そして、青年将校からは、維新変革運動の最大の同調者として過大に評価され、一般からは変革運動=二・二六の元凶として烙印されることによって、致命的な打撃をうけることになる。
戦争中のマンモス化した軍隊のイメージしか想起することのできない人びとにとって、大正デモクラシーの時代の軍隊は極端に軽蔑されていたといっても、おそらく信じられないことであろう。
しかし、事実はまったくその通りであった。
英国の首相であったチャーチルの言葉を借りるまでもなく、少くとも近代国家において真に権力を握っているものは、予算の審議権、議決権、執行権をもつものである。
明治憲法にどのような欠陥――たとえば統帥権の独立――があったにせよ、予算の審議権と議決権は、一貫して帝国議会が握っていた。したがって議会が予算を通して軍をもほぼ完全に統御しえた時代があったし、またあって当然であった。いうまでもなくそれは、大正時代から昭和初期で、大正元年の閣議の二個師団増設案否決による上原陸相の単独辞職、三年の貴族院による建艦費の大削減、同年の衆議院による二個師団増設費否決にはじまり、「尾張」以下七隻の建艦中止、ワシントン条約の締結、四個師団の廃止等から昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の無条件批准まで、後の″軍の横暴″と対比するとき、全く信じられないぐらいの軍の凋落ぶりであった。
「当時の私を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。第一次世界戦争の中頃から世界をあげて軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌の最も華やかな時代であって、日本国民は英米が軍国独逸の撃滅に提唱した標語を、直ちに我々日本人に志向した。我々軍人の軍服姿にさえ嫌悪の眼をむけ、甚だしきは露骨に電車や道路上で罵倒した。娘たちはもとより親たちさえ、軍人と結婚しよう。又させようとするものはなくなった。物価は騰貴するも軍人の俸給は昔ながらであって、青年将校の東京生活は、どん底であった。
書店の新刊書や新聞雑誌は、デモクラシー、平和主義、マルクス主義の横溢であった。鋭敏な神経をもつ青年将校で、煩悶せぬ者はどうかしている。多くの青年将校が軍職をやめて労働中尉や何々中尉となった。
私もその例に洩れず、盛んに思想、経済、文化等の書を読み耽った。いわゆる何々中尉の一歩手前まで進んだ。が私には母が生きていた。私の軍人になったのは母の希望であった。私は母の悲しみを思って立ち止った。」
この文章は、永田軍務局長暗殺以後の日本を事実上動かす実力者といわれた武藤章(二五期、軍務局長、A級戦犯として処刑される)が、大正九年十二月、陸軍大学校を卒業した当時を追憶した一節である。
エリート中のエリート軍人とうたわれた武藤にして、この軍籍離脱すれすれの煩悶の時代があったのである。
他は推して知るべしである。
まさに軍全体が士気温喪した時代である。
この風潮は、必然的に陸軍将校の養成機関である士官学校に伝播しないはずはない。
この自由主義的風潮は、士官教育の総本山として鉄の規律を誇る陸軍士官学校にもおしよせてきた。
自由主義の嵐にゆらいだ市ヶ谷台は軍紀風紀の弛緩という、創設以来の危機をむかえていた。
こうした空気のなかにあった大正十二年八月の初旬、この士官学校に新しい本科長が着任した。
歩兵第一旅団長から転補された、陸軍のホープ、真崎甚三郎少将である。
そうして、これから、彼が引きつづき学校幹事から校長へと昭和二年八月二十六日、陸軍中将に昇進して第八師団長として弘前に栄転するまでの四年間、いわゆる独特の皇国観にもとづく徹底した士官教育が実施されたのである。
昭和維新を志向する青年将校のほとんどはこの真崎時代の生徒であり、国家改造の思想的原点を天皇制絶対の皇国観、国体原理に求めたのである。
この意味で、真崎の士官学校における教育方針が、昭和維新の原点となったということもできよう。
しかし、ここで明確にしておかなければならないことは、この真崎の皇国観教育というのは、真崎の創意ではなく、沈滞していた天皇信仰、国体原理信仰の興起振作というところに重点があったということであり、昭和維新、国家改造の革新的行動の原点ではなかったということである。
昭和維新の思想的原点は天皇信仰にあったけれども、その変革原理は真崎らの想定することのできないほどラジカルな行動原理、北一輝的な国家改造方式に傾斜していたのである。
この青年将校運動が、二・二六の蜂起となって結晶したとき、ひとびとはその革命的行動原理までもふくめて、真崎の皇道教育にあったと非難した。
このことは、皇国思想即昭和維新と速断するあやまりからくるものである。」
つまり、真崎は大正12年8月に士官学校本科長に就任以来校長となり、昭和2年8月に広前第八師団中となるまでの4年間、士官学校教育に専念し、先に紹介したような「一部青年将校」を育てたのです。といっても、この時真崎が進めた皇国観教育、国体精神教育というのは、大正自由主義が風靡し自我主義が放縦に流れる中で、皇国史観に基づく国民道徳の回復とともに、軍における天皇への忠誠を基本とする兵の統率、部隊の指揮のあり方を説いていたのです。ここから彼の国体明徴論も出ていたのです。
こうした真崎の、皇国思想と兵士の気持ちを分かってやろうとする教育者的な態度、これに加えて、三月事件や十月事件などのクーデター事件を引き起こして「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を破壊せんとする幕僚将校等に対する真崎の批判の眼。それと、先に紹介したような隊付き将校等の当時の政治・社会情況に対する憤激、その正義感に発し、天皇の「大御心」による一君万民平等社会の実現を目指した、いわゆる「君側の奸」排除のクーデター計画。それを逆利用し彼らを弾圧することで、軍の統制回復と共に、軍主導の国家社会主義的体制を実現しようとする幕僚将校たち・・・。
こういった三つどもえの構図の中で、真崎の責任が問われているのだと思います。まあ、真崎が、「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を守ることが本当に大切だと思っていたのなら、一元的な指揮命令系統の絶対の条件とする軍の組織において、青年将校等が横断的結合を強めて政治的要求を行うことなど絶対に許すべきではなかった。まして、その軍の組織において上官の命令なしに「私兵」を動かし、重臣を暗殺しクーデター事件を引き起こすなど、こんな行為に同情を寄せるなどとんでもない話です。
ところが、これに同情というか理解を示し、逆に、そうした過激な行為に青年将校等を追い込んだ政治が悪いというようなことで、彼らの暴走を弁護しようとする・・・それが自己矛盾を犯していることに気がつかなかった。そこに皇道派の失敗の原因というか甘さがあったのです。この点、統制派はこの皇道派の矛盾から生まれる破壊的行動を断罪することで軍の統制を回復するとともに、彼らの政治批判の論理を逆利用することで、自らの信じる国家改造計画を推し進めたわけで、まあ、皇道派はうまく利用されたわけです。騙された方が負け、恨んでも仕方ないということですね。
この点、北一輝はこの理屈がよく判っていたのです。
二・二六事件の裁判で、北を裁いた当時の吉田悳裁判長は、法廷における北の態度を次のように語っています。
「法廷で尋問すると、北は”そうですか、それじゃあそうしておきましょう、とどんな罪でも裁判官のいわれるとおり、私は認めますから”と、そんな態度でしたよ。私は北の死刑直後に刑場に行ったんですが、執行に立ち会った法務官の話では、銃殺の前に、項目隠しをされてですね、刑架に座らされ、縛られた時、”ああ、いい気持ちじゃ”といったというんです。」
そのリアリストの北が、なぜ、皇道派青年将校に付き合ったか。”若殿に兜取られて負け戦”、ということで、天皇の断固たる討伐意思を読めなかったことと、その後の統制派の戦略――この事件の基本的性格を、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走したもの」として世に公表し、北等を極刑に処することとしたこと――に兜を脱いだ、ということなのではないでしょうか。そこが純真な青年将校達との違いですね。
なお、「二・二六事件をきっかけとして、真崎が発言力を失った瞬間から支那事変はおこったのである」という山口富永氏の主張が正しいかどうか、について、私は次のように考えています。私は支那事変のが最大原因は、関東軍が広田と蒋介石の妥協を妨害するために始めた華北分離工作にあると思っています。そこで、真崎や荒木を中心とする皇道派が、そうした関東軍の独断行動を掣肘するための具体的行動をどれだけとったか、ということが問題になります。真崎はその証拠として、熱河討伐作戦で関東軍が長城の線を越えようとしたことを止めたことや、第一次上海事変出の兵力引き揚げに尽くしたことなどを挙げていますが、これは天皇の意向があったからこそできたことです。
その天皇と心を一つにして、関東軍による華北分離工作に起因する華北への戦争拡大を防ぐためには、まず、軍の統制を回復する必要があった。そのためにも、皇道派青年将校が軍の統帥や統制を無視して横断的に結合し政治的行動に出ることを厳しく諫めるべきだった。事実、彼らは五・一五事件以降いくつものクーデター事件が引き起こしていた。なぜ、彼らを説得し善導しようとしなかったのか。まさか、”真崎は皇道派青年将校の犠牲になった気の毒な将軍”などとはいえないわけで、結局、彼は純真な青年将校を扇動して自らの復権を図った、という風に見られてしまうのです。
このあたり、近衛の持っていた弱さと同じものを感じますね。それを利用しようとした統制派の思想を凌駕するものを、彼らは持ち得なかったということだと思います。これを日本の宿命といえば確かにその通りですが、立憲政治や政党政治を守ろうとする意見もあったわけですから、やはり、不明というほかないと思います。もちろん、最大の責任が、国民の政治に対する信頼を損ねた当時の政治家にあったことは申すまでもありません。この点、今日の民主党の政治の現状を見れば、戦前の日本国民が軍の言い分の方を信用する気になったのも、無理ないと思いますが。 
9 真崎甚三郎と北一輝の違い

 

2.26事件はわが国の華だと思っていますが、彼等の思想(?)において世界をどうするということに関しての具体的な知識がまったく無いように思います。
このことは、皇道派といわれる青年将校達がどのようにして生まれたかを考えればおおよその見当がつきます。彼らは隊付きの尉官級将校で、天保銭組といわれた陸大出の将校等が独占する省・部の幕僚となる道が閉ざされていました。中には、あえてそうした出世の道を拒否して隊付きとなった者もいたそうですが、それだけに、その一君万民平等をめざす尊皇思想は純粋主義・精神主義的となり、他からは国体原理主義とも呼ばれるようになったのです。
その出発点は十月事件で、このクーデター事件を計画した幕僚将校等の指導原理を覇道主義と批判したことから、彼ら幕僚将校と親交のあった大川派と対立していた、北、西田派と一派をなすようになったのです。こうして北の日本国家改造法案が彼らのバイブルとなったのですが、ご存じの通り、北の根本思想は「社会民主主義」で、その天皇論も天皇主権的なものではなく、国民主権的な位置づけ(一種の象徴天皇制)であり、天皇機関説により親和的なものだったのです。
このあたり、皇道派の青年将校の間でも、彼を教祖として信奉する者がいる一方、それに疑問を呈する者もいました。つまり、北の思想が彼らに正確に理解されていたわけではなかったのですが、おそらく、北の「霊告者」的カリスマ性が、彼らの純粋思想の非現実制を埋め合わる役目を果たしていたのではないかと思われます。彼ら自身の身の処し方としては、いわゆる「捨て石主義」をとることで、覇道との差異を主張していたわけですが・・・。
しかし、このような考え方をしていたために、クーデター後の政権構想をあらかじめ準備するということができまず、その後は全て「大御心」を信じることとしたのです。もちろん「縦横の奇策」を用いればあるいは成功したかも知れない。
例えば、「山下奉文が杉山参謀次長野後藤文夫臨時首相代理を説得して『青年将校の動機・目的はこうこうである。これをぜひ、あなたは陛下に奏上して、陛下から彼らの希望する人(真人物)に大命降下するように、ではなく、することに決定したと奏上して下さい』ともっていく」。そうすれば、「公的手続きを踏んだ決定には、天皇個人の私意は絶対におよぼしてはならないという、天皇機関説による天皇の機能を十二分に生かすことになる」
しかし、これは彼らが否定する天皇機関説の考え方であり、また、彼らの信じる尊皇思想から言っても、大権私議となる。従って、彼らの論理が貫徹されるための究極の希望は、彼らの思いと天皇の「大御心」が一致すること。しかし、立憲制下の政治機構を国是とする天皇にしてみれば、股肱と頼む重臣等が殺されることは、その政治機構を破壊することと同義ですから、こうした青年将校等の行為を認めるわけにはいかない。
つまり、ここにおける対立構造は、立憲政治を守るか、あるいはそれを打ち倒して天皇親政に復るかという、明治以来の政治思想の二重構造の矛盾に端を発するものだったのです。この対立関係が調整不能となり暴発したのが二:二六事件であったわけですが、皮肉なことに、首相が暗殺(未遂)されたことで、「天皇親政」が一時的に復活した形となって、「断固討伐」を主張する天皇の意思が貫徹されることになったのです。
北一輝についてですが、彼の予言は色々当たりました。結果として彼が予言したようになりました。
北の予言と言うことについてですが、このことを論ずるためには、北の思想とそれに基づく日本の将来に関する具体的提言を知らなくてはなりません。そこで、これを二・二六事件裁判における検事の聴取書の中に見てみたいと思います。そこには、注目すべき北の次のような言葉が綴られています。
私は、第一次世界大戦後ウイルソンの似非自由主義に基づく平和主義が高唱される中で、帝国主義が忘れられていることを指摘し、早晩第二次世界大戦が来ると警告してきた。近年、その機運が次第に醸成されているが、日本はそうした対外戦争を決行する前に、合理的な国内改造を行い金権政治を一掃し支配階級の腐敗堕落を根絶する必要がある。それと共に、農民の疲弊困窮、中産以下の生活困難などの問題に有効に対処することによって内部崩壊を防ぐ必要がある。
また、対外政策については、陸軍がロシアと結んで北支に殺到するような政策をとろうとしているが、これは日本の国策を根本から覆すものである。従って私は、こうした陸軍の方針を変更させるため、昨年七月「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書を提出するなどして微力を尽くしたつもりである。「自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的とした」のである、など。
以下、その部分を抜粋しておきます。
第三回
・・・最近暗殺其他部隊的の不穏な行動が発生しましたが、其時は即ち金権政治に依る支配階級が其の腐敗堕落の一端を暴露し、初めて幾多の大官巨頭等に関する犯罪事件が続出して殆んど両者併行して現れて居る事を御覧下されば御判りになります。一方日本の対外的立場を見ますとき又欧洲等に於ける世界第二大戦の気運が醸成されて居るのを見ますとき、日本は遠からざる内に対外戦争を免かれざるものと覚悟しなければなりません。此時戦争中又は戦争末期に於いて、ロシヤ帝国、独逸帝国の如く国内の内部崩壊を来たす様な事がありましては、三千年光栄ある独立も一空に帰する事となります。此の点は四五年来漸く世の先覚者の方々が紹識して深く憂慮して居る処であります。
其処で私は最近深く考へまするには、日本の対外戦争を決行する以前に於いて先づ合理的に国内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります。国内の改造方針としては金権政治を一掃すること即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る富を国家に所有を移して国家経営となし、其の利益を国家に帰属せしむることを第一と致します。右は極めて簡単な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る所に存在して居りますので、単に夫れ等の所有を国家の所有に名儀変更をなすだけで済みます。
又其の従業員即ち重役から労働者に至るまで直ちに国家の役人として任命することに依りて極めて簡単に片付きます。私は私有財産制度の欠く可がらざる必要を主張して居ります。即ち共産主義とは全然思想の根本を異にして、私有財産に限度を設け、限度内の私有財産は国家の保護助長するところのものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります。
・・・私は十八年前(大正八年)日本改造法案を執筆致しました。其時は五ヶ年間の世界大戦が平和になりまして、日本の上下も戦争景気で唯ロシヤ風の革命論等を騒ぎ廻り又ウィルソンが世界の人気男であった為めに、涙の所謂似而非なる自由主義等を伝唱し殆んど帝国の存在を忘れて居る様な状態でありました。従って何人も称へざる世界第二大戦の来る事を私が其の書物の中に力説しても又日本が其の第二大戦に直面したるとき独逸帝国及びロシヤ帝国の如く国内の内部崩壊を来たす憂なきや如何・・・等を力説しても、多く世の注意を引きませんでした。然るに四五年前から漸く世界第二大戦を捲き起すのではないかと云ふ形勢が何人の眼にもはっきりと映って参りましたし、一方国内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産以下の生活等が又現実の問題として何時内部崩壊の国難を起すかも知れないと云ふ事が又識者の間に憂慮せられ参りました。
私は私の乏しい著述が此の四五年来社会の注意を引く問題の時に其の一部分を材料とせらるるのを見て、是は時勢の進歩なりと考へ又国内が大転換期に迫りつつあることを感ずるのであります。従って国防の任に直接当って居る青年将校又は上層の或る類者が、外戦と内部崩壊との観点から私の改造意見を重要な参考とするのだとも考へらるるのであります。又私は当然其の実現のために輔弼の重責に当る者が大体に於いて此の意見又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、其の人物への大命降下を以って国家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります。
勿論世の中の大きな動きでありますから他の当面の重大な問題、例へば統帥権問題の如き又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、或は血生臭い事件等が捲き起ったり等して、現実の行程はなかなか人間の知見を以ては予め予測する事は出来ません。従って予測すべがらざる事から吾々が犠牲になったり、対立者側が犠牲になったり、総べて運命の致す所と考へるより外何等具体的に私としては計画を持ってば居りません。
唯私は日本は結極、改造法案の根本原則を実現するに到るものである事を確信して、如何なる失望落胆の時も此の確信を以て今日迄生き来て居りました。即ち私と同意見の人々が追々増加して参りまして一つの大なる力となり、之を阻害する勢力が相対立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難いときは、改造的新勢力が障害的勢力を打破して目的を遂行することは又当然私の希望し期待する処であります。但し今日迄私自身は無力にしての未だ斯る場面に直面しなかったのであります。私の社会認識及国内改造方針等は以上の通りであります。尚今回の事件に関する私の前後の気持は後で詳しく申述べたいと思ひます。三月十九日
第五回
・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。
昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。
実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。
年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。
幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。
然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。
唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。
此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。
又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。
[三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。
以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。昭和十一年三月二十一日
確か2.26事件における盗聴において、決起将校の安藤輝三に電話をしていますがそのとき北が<マルはあるか>とたずねています。それに対して安藤はその意味がすぐには分からず、少ししてその意味が分かる、やり取りがあります。北が一番に心配したのは<マル>つまり金で、これは初めてテレビを見た時強く印象に残っています。北一輝は2.26事件が目指したものは心底、思っていたわけではないのではという印象を持ちました。
その<マルはいらんかね>ですが、中田整一の『盗聴 二・二六事件』では次のような指摘がなされています。
この会話の傍受記録がある録音盤には「2/29北→安藤」というラベル記述があるが、実は、北は28日の午後8時に憲兵隊に逮捕されている。この件について北は東京憲兵隊の福本亀治特高課長の尋問を受けている。
問 其方は、二月二十七日午後、安藤大尉を電話に呼び出して『給与はよいか』『○はあるか』と尋ねたことはあるか。
答 私は、安藤大尉とは、四、五年会いませぬ。又安藤大尉が何処にいるかも知りません。かつ其の電話の内容の如きことは考えても居りませず、もちろん問うことがありません。
誰かが、北の名を騙って安藤に電話をかけたとも考えられるが、中田は、この裁判を担当した東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受録」を含む裁判資料の中から、次のような傍受メモを見つけ出した。
28ヒ ゴ11・50分頃 北より→憲兵司令部だと称し 安藤に給与は如何にと問フ 安 順調(細部録音セリ)
北 ソレハ結構 兵力(幸楽ノ)
安 500
北 金ハアルカ マル マル
安 アル
北 ダイジョウブ
これは、ある男が憲兵司令部からだといって交換手に安藤に取り次ぎを依頼し、安藤が出たら、キタだと名乗って行った会話の記録です。この傍受メモの会話の日時は2月28日午後11時50分であり、「2/29北→安藤」というラベル記述とは大きく矛盾していない。おそらくこの勾坂の記述は、彼が各種情報を総合的に検証した結果の記述で、検察調書の二月二十七日は、北逮捕後に安藤に電話がかけているという矛盾を回避するため改ざんしたのではないか。また、勾坂のメモには安藤大尉に兵力を尋ねている箇所があり、傍受録音では雑音で聞き取れなくなっているが、おそらく、この北を騙った男は、安藤大尉の兵力を聞き出そうとしたのではないか。
中田氏は、この偽電話を、他の証拠資料とも併せて戒厳司令部通信主任であった濱田萬大尉ではないか、と推論しています。しかし、そのことを確かめに行った1987年には、濱田大尉はすでにその2年前になくなっていました。
実際のところ、北には右翼団体との仲介を図り財閥から謝礼金を受け取ると言った後ろ暗い一面があり、青年将校との関係で金を渡して背後から扇動していたのではないか、という疑いをもたれても仕方ない部分がありました。しかし、その後、統制派が、北や西田をこの事件の首魁に祭り上げ、処刑したその意図を考えて見ると、この北を駆った会話に出てくる「マルはいらんかね」という会話は、そうした統制派の思惑によって挿入されたものではないかと見ることもできます。
いずれにしても、先に紹介したような北の陳述によって、北が二・二六事件を引き起こした青年将校等の行動に困惑しつつも、彼らへの情宜を捨てられず同意を与えてしまったこと。そのことの責任をとろうとしていること。事件の収拾策としては、真崎に一任させれば「青年将校をむざむざと犠牲にする様な事」はあるまいと考えたこと。しかし、真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと、彼ら軍人の国家改造案は「国家社会主義的色彩濃厚なもの」であって、自分の改造意見とは全く異なっており、それに期待したことはない、と述べていることなど、北独自の卓越した考え方を知ることができます。
また、北は「対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到」しようとする陸軍の方針を変更させるため、「日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的」とする具体的活動をしていました。つまり、「支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居た」というのです。このあたり、石原完爾の「最終戦争論」にもとづく「華北分離中止論」などより、はるかに現実的かつ外交戦略としても優れていたのではないかと思います。
こういった点を真崎と比較してみても、真崎は教育総監更迭問題以来、皇道派の青年将校達との対応を誤まり、その結果、永田鉄山惨殺事件や二・二六事件という青年将校の暴走を許してしまいました。また、北が日支衝突を回避するための具体的行動をとったことにおいても、また、青年将校の行動に同意を与えたことについて、その責任をとろうとしたことにおいても、私は、真崎と北を同断に論ずることはきない、私はそう思います。
もちろん、そのことを踏まえた上で、なぜ北が三年間憲法停止した上での国家改造を提案するに至ったかを考える必要があります。 
10 立憲政治を守れなかった戦前の日本人

 

(二・二六事件で北から安藤への”○○はあるか”という電話について)偽電話の可能性があるのですか。
前エントリーで紹介しましたように、中田氏の推理通り偽電話だと思いますね。北がこの事件の進行に関して心配していたことは金のことではなくて、彼らがその程度上部工作をしていたか、だったと思いますから。
しかし、北は、事件発生後それがほとんどなされていないことを知りました。そこで、27日午前10時頃、彼らに真崎に一任するよう勧め、彼らはそれに従いました。27日午後2時頃、彼らは真崎(山下、小藤、鈴木、山口立ち会い)と会い、事態の収拾を依頼しました。しかし、真崎は奉勅命令が出される見込みであるとして「維新部隊」の原隊復帰を迫りました。
一方、石原は27日夜、磯部と村中を呼び、”真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる”と伝えたといいます。
28日午前5時、奉勅命令が戒厳司令官に下達されましたが、戒厳司令部の香椎戒厳司令官が叛乱軍支持だったため、この実施は保留されました。皇軍相撃を避けるための説得を継続するという理由で・・・。
その後、石原は香椎に対して、臨時総理をして維新断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活安定について上奏するよう意見具申しました。しかし、杉山次長はこれを受けた香椎の進言を拒否して武力鎮圧を命令し、その結果、香椎も、決心変更・討伐断行となりました。
一方、反乱将校らは帰順か抵抗かで迷っていましたが、ついに自刃し罪を天皇に謝し、下士以下は原隊に復帰させることで意見一致しました。そこで、自らの死に名誉を添えるため、侍従武官の御差遣を天皇に奏請しましたが、天皇はこれを拒否しました。
一方、青年将校等の自刃の話を聞いた北は、村中を通じて、極力自刃を阻止すると共に初志貫徹のためあくまで上部工作を継続するよう伝えた、といいます。
28日午後5、6時頃、北、憲兵に逮捕される。
で、お尋ねの北から安藤への電話ですが、これは、28日午後11時50分頃であると、東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受綴」に記されています。また、その発信元は憲兵司令部となっている(交換手にはそう告げた)ことなどから、これが、安藤隊の兵力を聞き出すための偽電話だった可能性が高い、ということになるわけです。
しかし、以上のやりとりで問題は、石原が皇道派青年将校の蹶起を利用してカウンタークーデターを実現しようとしていたことは明白だとしても、では、北自身は青年将校等の行動に何を期待していたのか、ということです。その主張する「上部工作」が”真崎止まり”であれば、それは見込み違いだったことになりますが、北のことですから、あるいは石原等に対する工作まで含んでいたのかも知れません。
そうした構想をぶちこわしたのが天皇の断固たる討伐意思だったわけで、このことは上記の経過説明を見ればよく判ると思います。
ただ、ここで私が疑問に思うのは、皇道派と統制派の国家改造イメージに果たしてどれだけの違いがあったか、ということです。
『評伝 真崎甚三郎』の著者である田崎末松氏などは、二:・二六事件で天皇が皇道派を弾圧して統制派を助けるようなことをしなければ、日中戦争も大東亜戦争も起こらなかったなどと、その罪を昭和天皇お一人に帰すようなことを言っていますが、仮に、天皇がこうした意思を示されなかったとしても、事態の収拾は、結局、石原を中心とする統制派が行うことになったと思います。
その場合、反乱軍将校の処罰は5・15事件と同じようなことになり、将校等は軽い刑で済まされ、北や西田などの民間人には重刑が科されることになったでしょう。だが、「動機さえ純粋であれば重臣や上官を殺すことも許される」という下克上的雰囲気は、軍隊内に一層蔓延することになる。そこで石原は、軍の統制回復のため、青年将校等に名誉の自決を迫ったかもしれませんね。いずれにしろ、その行き着く先は、ナチスをモデルとする一国一党、軍主導の高度国防国家建設だったろうと思います。
また、皇道派青年将校等が、本当に3月事件や10月事件における統制派の大権私議を怒りそれを告発したかったのなら、なぜ、彼らは「私兵」を動かし重臣らを殺害し軍首脳に国家改造を迫るというようなクーデターまがいの大権私議を犯したのでしょうか。なぜ、満州事変という破天荒な大権私議を犯した石原完爾を攻撃目標としなかったのか、あるいは彼に期待するものがあったのではないか・・・。また、彼らが本当に中国との和平を願っていたのなら、なぜ、関東軍の華北分離工作に反対しなかったのか。なぜ、満州への転属を絶望視して、その前に「昭和維新」と称するクーデター事件を起こしたのか等々。
これらの疑問を解く鍵はどこにあるか。それは、こうした矛盾に満ちた彼らの行動について、彼ら自身がそれをまるで矛盾と感じなかった、その思想にこそ問題があったのではないか。実際、そうした青年将校の行動に同情と共感を寄せる空気が当時の世間にはあった。その空気が、青年将校をして彼らの矛盾を矛盾と感じさせなかったのではないか。つまり、この事件の真犯人は、その「空気」であり、この空気が生んだ事件を巧みに利用して、自らの国家改造に利用しようとしたのが、統制派だった、ということではないでしょうか。
これに関して、昭和26年2月『文藝春秋』に掲載された”対決二・二六事件の謎を解く”と言う座談会記事があります。メンバーは二・二六事件で襲撃された生き延びた岡田啓介元首相、首相秘書官であった迫水久常、生き残り青年将校大蔵栄一、皇道派理論家古賀斌、戒厳司令官参謀長安井藤治です。この中での岡田の発言は次の通りです。
「青年将校の気持ちはよくわかるが、要するに三月事件、十月事件の経験で幕僚達は信用できないというので、今度は自分たちだけで事を起こす、起こしてしまえば軍の上層部が自分たちの信念を理解して、これを生かして何とか始末をつけてくれるという確信の下にやったことだね。そうすると、事件そのものの中心人物は誰だったかと言うことは寧ろ小さい問題で、若い連中に今言ったような確信を持たせたのは誰だと言うことが重要なことになるわけだ。さあ、それは誰かな、君たちに言わせればこれは空気だと言う事になるのだろう。」
この本の著者田崎氏は、要するに岡田は真崎が教唆扇動したと言いたいのだろう、と言っていますが、私は岡田はそんな”当てつけ”を言ったのではなく、文字通り、この時代の空気が彼らに以上のような確信を持たせたのではないか、ということを言ったのではないかと思います。
さて、事件後、皇道派青年将校等は、統制派のカウンタークーデターの陰謀に引っかかったと怨嗟の声を上げました。思っていた以上にひどい奴らだったと・・・。この時彼らはどれだけ自らの不明や、無意識の内に石原らに期待を寄せた自分らの甘さを自覚したのでしょうか。磯部などは、その責任を天皇に求め呪詛しました。なぜ貴方は、我々の心情を理解し、我らの味方をし、統制派を懲らしめなかったのかと。
だが、昭和天皇は自らを立憲君主と自己規定していたのです。従って、天皇にとっては、青年将校等の行動はそれを破壊する以外の何物でもなかった。彼らの行動は、張作霖爆殺事件以来の軍の天皇の統帥権をも無視した独断的行動の延長、というよりその極致に見えたのだと思います。それも、天皇の名(大御心)によってなされたのです。だからこそ、それは「真綿で朕の首を絞める」ような行為に見えたのだと思います。
つまり、この事件のポイントは、共に立憲政治を否定する、陸軍内部の皇道派と統制派の派閥争いの決着を、立憲政治を守ろうとする天皇に求めたところにあるのです。それも、天皇の統治大権を輔弼あるいは輔翼によって支えている重臣等を、「君側の奸」を除くという理屈で殺害した上で、天皇に、自らの組織の派閥争いの決着を求めたわけですから、天皇にしてみればむちゃくちゃな話で、天皇が激怒したのも無理はないと私は思います。
では、再び問いますが、陸軍内部で派閥争いをしていた皇道派と統制派の対立点は一体何だったのか。
皇道派の村中孝次の主張は、「陸海を提携一体とせる軍部を主体とする挙国内閣の現出を願望し、大権発動の下に軍民一致の第国民運動により国家改造の目的を達成せんとする」ものでした。また、「小官等の維新的挙軍一体に対し、彼らは中央部万能主義なり、小官等は、軍部を動かし国民を覚醒せしめ、澎湃たる国民運動の一大潮流たらしめんとするに対し、彼ら(=統制派)は、機械的正確を以て或いは動員日課予定表式進行によって・・・中央部本意の策謀により国家改造を行わんと欲したり」と言っています。
これに対して統制派は、「軍首脳部が国家革新の熱意を持ち自ら青年将校に代わって・・・軍全体の組織を動員して」これを実行しなければならない。従って、軍内の一部のものが蠢動して横断的結合を図ることはよくない。青年将校の政治活動は軍人勅諭に反しているし、荒木、真崎を担ごうとすることは軍を私物化するものだ。また、北一輝の改造法案は徒らに扇動的であり飛躍、独善的であって害はあって益はない」というものでした。
つまり、両者の理想とする国家改造イメージは実はほぼ同じで、違いは、それを軍中央の指揮下に組織的に行うのか、「維新的挙軍一体」つまり、隊付き将校達も含めた一大国民運動として行うのかという、いわば実施主体の比重の置き方の差に過ぎなかったのです。卑近な言い方をすれば、これは隊付き将校等の陸大出の幕僚将校等に対する不満から出たもので、旧軍における旧軍における極端な学歴主義がもたらした弊害の一側面とも言えます。
つまり、皇道派対統制派の争いは、田崎末松氏がいうような国策上の争いではなく、派閥次元の争いと見るべきです。で、氏は、昭和天皇が皇道派の言い分を聞かず統制派を応援したと言って、それが泥沼の日中戦争や大東亜戦争をもたらしたと批判していますが、両者の派閥争いで統制派が勝つのは組織論からいって当然であり、また、この時昭和天皇が守ろうとしたものは、立憲政体であって、従って、張作霖爆発事件以来軍が繰り返してきた独断行動に対しては、昭和天皇は派閥の如何を問わず反対だったのです。
その立憲政治を戦前の日本人は思想的に守りきらなかった、この思想的問題点を明らかにすることが、私たちの務めなのではないか、私はそう考えています。 
11 日本人の「法意識」について

 

おっしゃる通り、問題は日本人の「法意識」にあります。つまり、日本人の「法意識」においては、「法」よりも「実情」を優先する傾向があるのです。そのために、個々人から自制心が失われた場合には、無秩序状態に陥りやすい。戦前の陸軍では、五・一五事件以降、この「実情」主義が軍内に蔓延するようになりました。この流れを作ったのが皇道派で、これに対して、軍の統制がとれなくなると危機感を抱いたのが、いわゆる統制派で、ここに皇道派と統制派の対立が生まれたのです。
この両者の関係を象徴的に表しているのが、「陸軍パンフレット」(国防の本義と其の強化の提唱)と国体明徴運動の関係です。つまり、 「陸軍パンフレット」は、統制派の国防国家建設の青写真であり、そのために軍の統制力の回復が必要であることを訴えたもので、一面、皇道派に対する批判の書でもあったのです。これに対して、皇道派が統制派に対して猛烈な巻き返しを図るために起こした運動が「国体明徴運動」でした。
ではなぜ、「国体明徴運動」が、皇道派の統制派に対す対抗措置となり得たか。要するに、統制派のやり方は皇道派から見た場合、自らの権力欲・権勢欲を動機としている。また、彼らが理想と考える天皇親政の「一君万民平等」の統治理念にも反している。彼らのやっていることは江戸時代の「幕府」と同じで、これは、天皇の統治大権を簒奪するものである、とする理屈です。その根拠として、三月事件や十月事件が持ち出されたのです。
結局、この対立は、二・二六事件の時、統制派が皇道派をカウンタークーデターで押さえ込んだことで解消し、軍内の横断的な青年将校運動もなくなり、軍の統制力も回復しました。しかし、満州事変の後遺症もあり、軍の中央組織と関東軍など出先軍との下克上的関係は依然として残ったままでした。そのため、その後も出先軍が暴走し、これを中央組織が抑えられず、結果的にそれを追認してしまうという、昭和の日本軍の宿痾ともいうべき悪弊がその後の軍を悩ますことになったのです。
また、統制派は、このように皇道派を弾圧することに成功したのですが、国民の統制強化の方策としては、皇道派による国体明徴運動を利用することになりました。というのは、この運動は「天皇機関説排撃」に連動して提起されたものである事から判るように、これは明治憲法に規定された立憲君主制を否定し、教育勅語的な国体観を全面に押し出そうとするものでしたので、これと統帥権を結びつければ、統制派の考える一国一党の国防国家建設を正当化できると考えたのです。
こうして、軍主導による一国一党の国防国家体制が完成したのですね。そして、それを支えた国体思想は、明治憲法に定められた立憲君主制を否定するものだったために、まず、政党政治が否定され、次いで政党の自主解党となり、最後は翼賛議会となって実質的に議会は予算審議権を失うに至りました。また、国民思想的には、大正自由主義下で芽吹いた個人主義や自由主義が徹底的に排撃されることになりました。
ところで、冒頭に述べた日本人の「法意識」は、こうした個人主義や自由主義の考え方を受け入れることは出来ないのでしょうか。実はこの点が最も注意を要するところなのですが、日本人の「法意識」の根底には、仏性→本性→本心と言い替えられてきた、日本独自の自然法意識に支えられた性善説的観念があります。そのため、「法」の運用においては、実情主義が重んじられ、法に訴えるより、当事者間の示談による和解が最良とされます。つまり、「法」の裁きより、相互に自制心を働かせることで和解することが求められるのです。
ところが、近代資本主義社会は、人間の利己心を当然としていて、利己心をお互いにぶつかけ合うことで、予定調和的に社会正義が実現されると考えます。これがうまくいく場合は、例えば、日本でも明治のように個人の立身出世欲と国家目標とが一致しているような場合には問題は起こらない。しかし、大正時代のように、この予定調和が破綻して社会的混乱が起こり、社会的正義が損なわれたと考えられるようになると問題が生じる。
つまり、この混乱の原因は、利己心を野放しにする資本主義体制にあるのだと考えられるようになるのです。従って、この混乱から脱却するためには、資本主義的を否定しなければならない。丁度、ロシア革命が成功して社会主義思想に基づく平等主義が日本でも風靡するようになった。しかし、この思想は王政を否定するので日本の天皇制と矛盾する。そこで、これに代わるものとして、日本の伝統思想である尊皇思想の一君万民平等思想及び天皇親政の国体観念が、呼び覚まされることになったのです。
さらに、この国体観念は、日本を盟主とする八紘一宇の世界観や、忠君愛国、滅私奉公の道徳観念を伴っていました。そのため、大正時代の国際協調主義や、個人主義・自由主義的道徳観念が否定されることになりました。また、その自己絶対性から、物事を相対的・客観的・合理的に見る事ができなくなりました。その結果、何のためか判らない意味不明の日中戦争から抜け出すことができず、その果ては、英米中ソという世界の大国を敵に回した無謀な戦争に突入することになったのです。
こう見てくると、戦前の昭和における日本の問題点は、この時代に支配的となった日本思想に問題があったことが判ります。確かにこの思想は、理念としては植民地主義や人種差別に反対していました。しかし、それは「陸軍パンフ」に見るように、多分に建前上のものに過ぎず、本音では優勝劣敗を肯定していました。また、皇道派の主張した天皇親政下の「一君万民平等思想」は、八紘一宇という世界家族観念を世界に拡大しようとするもので、日本人の思想の独善性を病膏肓とするものでした。
では、日本人の思想は、以上述べたような問題点を克服することができるか。これが、戦後の日本人にとって最も重要な問であったはずです。私は先に、日本人の「仏性→本性→本心」と言い替えられてきた日本人の性善説的観念について言及しました。私はこれはこれで大変貴重なものだと思っています。しかし、これを社会組織に適用するときは注意を要する。つまり、この場合は、家族主義的なものではなく、能力主義を基本とした合理的・流動的・契約的なものに転換しなければならないと考えています。
こうしたことは、今日の企業経営においては当たり前になっていると思いますが、戦前の軍組織においては、能力主義に反する薩長の藩閥支配に対する反発から、過度の学歴主義に基づく陸大卒業者による学閥支配に陥ってしまいました。これが隊付き将校等皇道派青年将校の反発を生んだのです。結果的には、統制派が皇道派を押さえ込んだのですが、彼らが作り上げた軍主導の一国一党制の国防国家体制を思想的に支えたものは、皇道派の主張した国体観念に基づく忠君愛国、滅私奉公、八紘一宇の世界観だったのです。
こうした世界観の下で、日本がその盟主として主導権を発揮し、大東亜の新秩序を形成し大東亜共栄圏を完成させる。これが、日中戦争及び大東亜戦争を理由づける軍の考え方というか後付けの理屈でした。しかし、それが日本の伝統的な国体思想と結びついたことで、それから脱却することは極めて困難になりました。また、多くの国民もこの国体思想に巻き込まれることになり、軍が実際にやっていることや世界の現実を、相対的かつ客観的に見ることがほとんどできなくなってしまったのです。
これが、戦前の昭和に悲劇をもたらした思想的現実でした。では、再度の問いになりますが、この思想的現実をどのように克服するか。これが戦後日本人の第一の課題だったはずです。しかし、GHQの巧妙な占領政策もあって、日本人はこれを一部の軍国主義者の責任にしてしまいました。そのため、国民は、これら一部の軍国主義者の引き起こした戦争の犠牲者だとする見方や、さらにそれが嵩じて、日本人を残虐民族と見なす「自虐史観」が蔓延することになったのです。
しかし、それでは問題は解決しない。確かに、満州事変から華北分離工作までの政治的責任は、私は、当時の軍指導者が負うべきだと思います。しかし問題はその後です。なぜ、日本は、何のためにやっているのか判らない意味不明な日中戦争を止められなかったのか。なぜ、それが大東亜戦争へと発展したか。この疑問を解くためには、当時の軍人及び多くの国民を熱狂させ、戦争へと導いたこの思想の問題点について、それを自らが信じた思想の問題点として、初心に返って総点検する必要があるのです。
この思想の問題点を一言でいえば、私は、それは日本人の「法意識」の問題ではないかと思います。といっても、日本は明治以降この西洋的法概念を学び、それによって政治制度を運営し多大な成果を上げて来たのです。だから、この知恵を日本文化の発展に生かせぬ筈はない。では、昭和はなぜこれに失敗したか。まず、大正時代の軍縮期における軍の処遇を誤った。次いで森恪がその軍人の不満を政治的に利用し軍を政治に引き込んだ。その結果、張作霖爆殺事件が引き起こされ、日本政府はそれを厳正に処罰できなかった。
ここから、日本軍の、何よりも厳正であるべき軍法下の「法意識」が根底から毀損されることになったのです。さらに、こうした傾向が、昭和初期の政治的・経済的混乱の中で、国民の政治に対する信頼――つまり立法措置によってこれらの問題の解決を図る政治への信頼の喪失となり、それに代わって、軍部による拡張主義的な国策遂行が支持を集めるようになったのです。次いで、そうした軍の行動が、前述の国体思想によって正当化され、国民もそれを信じ込むようになったのです。
しかし、戦前の昭和の歴史をトータルに見た場合、その最大の責任は誰にあるかというと、先ほど申し上げた通り、私は、満州事変から華北分離工作までの軍の責任は否定すべくもないと思います。しかし、立憲政治体制下における政治責任は、あくまで政治家が負うべきであって、私は、その戦犯第一号は森恪だと思っています。彼は、第二次南京事件では軍縮に不満を持つ軍人をあおり、これを政治的に利用して政権を獲得し、さらに軍人を政治に引き込むことで自らの大陸政策の実現を図ろうとした。
これが、日本の政治に軍人を介入させることになり、さらに統帥権干犯問題(この時は犬養毅や鳩山一郎の責任も大きい)を契機に政治は軍を制御できなくなり、出先軍の暴走を生んで満州事変となり、さらに関東軍の華北分離工作となり、ついに蒋介石をして抗日戦を決断させることになったのです。以後、日本国は戦時体制に突入し、さらに総力戦の観点から軍主導の一国一党の国防国家建設となり、政党政治、議会政治が否定され、ついに明治憲法に定められた立憲政治までもがなし崩し的に否定されるに至ったのです。
こうした流れの道先案内をしたのは、紛れもなく政党政治家でした。従って、昭和の悲劇をもたらしたその第一の責任は、まず、この時代の政治家が負うべきなのです。彼らは、決して軍の被害者ではない。この事実をはっきりと自覚することが、日本に民主政治を確立するための第一の関門であると、私は思っています。 
12 北一輝から見た皇道派と統制派の違い

 

まず、本エントリー9で紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」を再掲します。
「・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。
昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。
実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。
年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。
幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。
然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。
唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。
此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。
又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。
[三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。
以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。
昭和十一年三月二十一日」
これを見ると、北一輝という人物は、右翼イデオローグとしての一般的なイメージとは随分違って、その対支、対米関係調整の視点は、当時の省部の幕僚軍人と比べてもはるかに冷静かつ妥当なものであったことが判ります。また、広田外相や重光次官等外交官を始め、中野正剛、永井柳之介等政治家との連絡の他、中国国民党外交部長張群との盟友関係もあるなど、外交的にも幅広い人脈を有していたことになります。
その彼が、どうして皇道派青年将校と関係したのか。なにしろ、彼の天皇観は、彼等が主張した万世一系の天皇観とはまるで違っていて、それは、彼らが執拗に排撃した「天皇機関説」そのものでした。このことは、北一輝の著作『国体論及び純正社会主義』を見れば明らかで、彼はその中で「万世一系の一語を一切演繹の基礎となす穂積八束の論」を、哀れむべき「白痴の論」といい、彼らのいう「『国体論』中の『天皇』は迷信の捏造による土偶にして天皇に非ず」と痛烈に批判しています。
その上で、次のような彼流の維新革命論が展開されます。(次は『北一輝著作集第一巻』神島二郎による解説文からの引用です。長大かつ難解な『国体論』の本文をわかりやすくまとめていますので)
維新革命、この「万機公論の国是を掲げて民主主義に踏みきられたこの法律的革命は、当初、国民の法律的信念と天皇の政治道徳とによって維持され、23年の議会開設に至って完成した。幕末志士の国体論は、古典と儒教という被布をかぶった革命論(天皇への中によって封建貴族への忠を否認!)であり、その裏には、外国との接触によって触発された国家意識と国内に盛り上がってきた平等感の拡充とによる社会民主主義の要求があった。
彼によれば、社会主義は、主権が国家にある(国体)となすものであり、民主主義は、政権が広義の国民にある(政体)となすものである。これが彼の言う公民国家である。そこでは、国家は国民の特権ある一部分たる天皇と平等な権利を持つ他の部分とから成り、天皇は議会と共に国家の機関として活動し、国民は、天皇の利益のためにではなく、国家目的にのみ奉仕する。その意味で、彼は、国家法人説、天皇機関説を主張し、天皇主権説を否定する。
彼によれば、君民一家、忠孝一致、天皇主権説は、已に述べた国家体制の進化を逆進的に理解する「復古的革命主義〈反革命思想の意味〉であり、こうした「朝権紊乱」「国体破壊」の思想に対して現国体を断固擁護しようとするのがまさに彼の社会民主主義だと彼は揚言する。」ただし、「維新革命は、法律革命によって政治的に公民国家を実現したが、経済的には貴族階級国家に逆倒してこれを空文化している」ので、「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新が必要」。
ただし、以上のような主張をなした『国体論及び純正社会主義』は、北一輝23歳の時に書かれたもので、明治39年(1906)5月に自費出版されたものです。北一輝はこれによって社会主義者と見なされるようになりました。その後彼は、片山潜、幸徳秋水等社会主義者や宮崎滔天、萱野長知等国体論者との接触を通じて中国革命に関心を持つようになり、1911年には中国に渡り、その後十年間、宋教仁等と共に中国の革命運動に挺身することになりました。
この間、大正4年から5年にかけて中国で書かれたものが『支那革命外史』で、北一輝はこの中で、日本のいわゆるアジア主義者に伝統的な「支那軽侮論」に対して、次のような痛烈な批判を浴びせています。「笑うべき支那崇拝論者よ。(軽侮論者たるべき奴隷心の故に崇拝論者たる者よ)」と。
つまり、中国革命の起動因となったものは、日本の国家民族主義的な思想であり、その結果、中国人に国家民族的な覚醒が生じたのであって、そこに日本の中国に対する本質的な援助がある。つまり、そうした中国人の「国家的覚醒による愛国心こそ、まさに親日排日の両面」を持つのであって、中国の排日運動を見て、忘恩民族とそしるのは無理解も甚だしい。
「日本人の支那革命に対して受くべき栄光は当面の物質的助力又は妓楼に置酒して功を争う者の個人的交友に非ず。実に日本の興隆と思想とが与えたる国家民族主義に存するなり。」「不肖は何が故に日本人が佔らざるの恩を誣ひて忘恩民族呼ばわりをなし、却て四億万民に愛国的覚醒を導けるこの嚇嚇たる教鞭を揮って誇らざるかを怪しまずんばあらず。」
つまり、北一輝にとって革命とは、有機体としての社会において、その部分である個人が、自らの自由の拡大を求めてより高次の統一社会に到達せんとして起こるもので、歴史的には君主国から貴族国を経て民主国へと進化していくものである。つまり、その変革のエネルギーはその社会自身の中にある。それ故に、その社会=国家の利益は即ち権利であり正義である。だから、そのような中国の内在的発展として中国革命を捉えよ、と言うのです。
北一輝は、中国革命をこのような歴史の進化過程において捉え、それが成功するためには、中国は、まず封建的代官制度を廃して国家統一し、自らの国家的利益を外邦に対して主張出来るようにならなければならない。そして、そのための方策は「対露一戦」であり、これによって「代官階級の一掃も、財政革命も、軍制改革も、郡県的統一も、省部的軍国的精神の樹立」も可能となる。そのためには中国は東洋的共和制下の大統領制を布く必要がある。
これと共に、「日本の革命的対外策も立案される。日本は露支戦争に乗じて、一方では日英同盟を破棄して英国を「南支那」から駆逐し、他方ではロシアを退けて満州に進出する。「支那は先づ存立せんが為に、日本は小日本より大日本に転ぜんが為に」露支戦争は戦われねばならない。かくしてこれを基にして「日支同盟」が成立するであろう。」これが、北がこの本で提示した「革命的対外策」でした。
というのも、「満州は日露戦争の当時已に日本が獲得すべかりしもの」であって、これは「支那のためにも絶対的保全の城郭を築くもの」だというのです。おもしろいのは、この時北が主張した対米政策です。それは、米国における排日熱は支那の排日熱のようなものであり、これを解消するためには、支那の鉄道建設への米国資本の導入に日本が協力すればよい。そうすれば、米国の世論を「頼もしき親日論」に一変させることが出来るというのです。
「由来米国と日本とは何の宿怨あり、何の利害衝突あって今日の如く相警むるや」「何者の計ぞ日米戦争の如き悪魔の声を挙げて日本の朝野を混迷せしめ、支那に事あれば先づ米に備ふるの用意を艦隊司令官に命ずる如き狂的政策を奔らしむるや」・・・米国の対支投資は日本の保障がなければ元利一切不安になるのであって、日本は、米国の投資によって支那が開発されない限り日本の富強は達成されない。」
こうした提言は、大正5年5月22日稿了とされた本書に記されたものですが、冒頭に紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」に述べられた北の対支・対米政策は、基本的には、このような北の対支・対米認識に支えられたものであったことが判ります。
その後、北は、大正8年8月、36歳の時、「故国日本を怒り憎みて叫び狂う群衆の大怒濤」を眼前に見る上海の客舎で、『国家改造法案原理大綱』(後に『日本改造法案大綱』)を書きました。ここでは、『国体論及び純正社会主義』の末尾において彼が主張した「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新(=国家改造)」を、明治憲法下の議会政治によってではなく、天皇大権の発動による3年間の憲法停止、全国に戒厳令を布く中で、一気に行うとするものでした。
この戒厳令下の国家改造において秩序維持や改造の執行機関となるのは、改造内閣に直属する在郷軍人団とされました。ここで「在郷軍人」というのは、検閲を顧慮して用いたもので、実は、現役軍人をさすのだという説もあります。ではなぜ北が、このように国家改造の主体を軍人に求めたかというと、彼が経験した中国革命の進行過程において、その推進力となったものが、「武漢の新軍に見られるように、腐敗した将官ではなくて、まさに『軍隊の下層階級』」であったためとも言われます。
実際、北が『日本改造法案大綱』書いた大正9年は、ロシア革命、ウイルソンの民族自決主義に刺激された中国の五四運動、韓国の三一万歳事件等の勃発、日本の米騒動など混迷する時代状況の中にありました。また、北一輝が大川周明等の招きに応じて日本に帰った大正9年末以降の日本では、ワシントン条約に基づく軍縮の実施や国際協調主義の流れの中で、軍人に対する世間の目は冷たく、特に青年将校等に不満が嵩じていました。昭和になると、それに経済不況が重なることになります。
そんな中で、彼らを国家改造へと目覚めさせたものが、北一輝の『日本改造法案大綱』でした。その国家改造における主体とされたものが軍人であって、これが天皇の号令の基に行われる。その政治目標は、軍閥・吏閥・財閥・党閥など特権機関を排除して、平等社会を実現すること。具体的には、私有財産や私有地に限度を設けること。大資本を国家統一することの他、労働者の権利や国民の生活・教育の権利、国家の権利としては、自己防衛や不義を行う国に対する戦争、大領土を独占する国に対して開戦する権利などが規定されました。
では、この「改造計画」は皇道派青年将校等にどのような思想的影響を与えたかと言うことですが、昭和11年3月号の「日本評論」には、「青年将校運動とは何か」という対談記事が掲載され、その中で青年将校はその運動において何を望んでいるかと問われ、次のように答えています。
「簡単にいえば、一君万民、君民一体の境地である。大君と共に喜び大君と共に悲しみ日本国民が本当に天皇の下に一体となり、建国以来の理想実現に向かって前進するということである。」「日本国内の情勢は明瞭に改造を要するものがある。国民の大部分というものが、経済的に疲弊し経済上の権力は、天皇に対して、まさに一部の支配階級が独占している。時として彼等は政治機構と結託して一切の独占を弄している。それらの支配階級が非常に腐敗している状態だから承知できないのだ。」
これは、北一輝が『国体論・・・』で否定した、君民一家、忠孝一致、天皇主権説に基づく「復古的革命主義」そのものです。しかし、国家改造を必要とする時代状況認識や具体的な改造計画は同じであり、というより「改造計画」の影響を受けたものです。しかし、そこから変革のエネルギーも生まれている訳ですから、それをあえて訂正するようなことはしなかったのだと思います。そこには、隊付き青年将校等が幕僚将校に対して持った不満に対する同情もあったのではないかと思います。
一方、統制派といわれた幕僚等の国家改造計画は、満州問題の抜本的解決のための対外的膨張政策の推進がその中核にあり、それに反対する政党政治の否認であり、資本主義の是正による国民生活の安定でした。そのために、三月事件や十月事件などの暴力革命による軍事政権の樹立が図られたのです。しかし、満州事変が成功したこともあり、こうした暴力革命主義は次第に統制派による合法的漸進的国家改造へと代わっていきました。
こうした統制派の漸進的国家改造の進め方を明瞭に示したものが、昭和9年に陸軍が公表した「国防の本義とその強化の提唱」でした。ここでは、国防は国家生々発展の基本的活力の作用であるとし、”国民の必勝信念と国家主義精神との培養のためには、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農村漁村の救済は最も重要な政策である、と説かれていました。このように国防と内政は切っても切れない関係にあるとして、軍のこの方面の発言を強化しようとしたのです。
いずれにしても、その具体的な政策は、自由経済に代えるに、統制経済を狙いとすること、統制経済は資本主義そのものを否定しないが、思想的には個人主義、自由主義より全体主義への移行を示していること。具体的には、議会は停止しないが、但し、ヒトラーの授権法に倣い、広範な権限を政府に授権する仕組みとすること。政党は否定しないが多数党が政権を取るといういわゆる憲政常道は認めない。あくまで哲人政治を主張する、等がその目標とされました。
ではこれら統制派の主張と北一輝の思想とはどのように関係していたのでしょうか。いうまでもなく統制派は、軍が組織を動かして軍の一糸乱れぬ統率の下に上記のような国家改造を行おうとしていました。そこで、青年将校等が軍の統制を無視して横断的に結束し政治活動をすることを止めさせようとしていました。従って、それを外部からコントロールしていると見なされた北一輝等が警戒されたのも当然です。ただし、両者の求める国家像には大きな違いはなく、違いは、その対支・対米政策にありました。
よく、支那事件を拡大に導いたのは統制派で、皇道派はこれに反対したというようなことが言われます。しかし実際は、冒頭に紹介したように、北一輝は皇道派青年将校等の動きとは別に、日支同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置くべく外交工作を展開していました。従って、二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校等は、北をそれに巻き込むことでその努力を挫折せしめ、一方、統制派は、軍の無統制の責任を北に転嫁する形で、この事件を処理したのです。
北の「国体論」は天皇機関説を当然とし、「万世一系」を論拠に「天皇主権」を唱える「国体論」の愚を指摘しました。また、日本人の「支那軽侮論」が「支那崇拝論」の裏返しであることを喝破する一方、日支同盟の必要性を説き、米国の投資を支那に呼び込むことで日米親和が図れるとしました。その達識とリアリズムは、アジア主義者や青年将校等の思想をはるかに凌駕していたわけですが、『日本改造法案大綱』はそれを単なるクーデター扇動文書に矮小化してしまいました。
この原因は、北の国家論において、国家と社会の区別がついていなかったとか、国家有機体説をとったたため、個人の人権が国家主権に吸収されてしまい、それが彼を超国家主義へと導くことになったとかが指摘されます。おそらくそれは、日本が一民族一国家であることの反映だと思いますが、根本的には、この文書は、彼の10年間に及ぶ中国革命運動の挫折が生み出したものと見るべきではないでしょうか。それは日本においては、一部皇道派青年将校に「一君万民平等思想」と誤読されることでしか機能しなかった。
思想家がその読者を迷わしたことの責任を問われることはよくあることですが、通常、それは読者の責任とされます。この点、北一輝は二・二六事件を起こした皇道派青年将校等に対して自らの責任をとったわけですが、それは彼等に対する情宜の故であったか、それとも自らの言葉に対する責任の故であったか・・・、おそらく、西田税に『大綱』の版権を譲ったことが彼の失敗の始まりで、北はそのことの責任をとったのではないか、私はそのように推測します。 
   
慰安婦

 

日中戦争、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争及び韓米軍事合同訓練並びにアメリカ軍、連合国軍及び国連軍の駐留時などに、当時の戦地、訓練地、駐留アメリカ軍基地周辺の基地村などに設置された慰安所と呼ばれた施設で日本軍、韓国軍、アメリカ軍及び国連軍の軍人・軍属に対して、売春業を行っていた女性の総称。
慰安婦とは、広辞苑の初版(1955年)では「戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」と定義されている。大韓民国大法院の判決文(1966年)では、「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性を指すもの」と定義されている。
国家による管理売春(公娼制とも)の歴史は古く、古代ギリシアのソロンや中国の周の荘王などがすでに創設していたといわれる。またローマ帝国は捕虜女性を性奴隷としたといわれ、ジョージ・ヒックスは「日本軍と同様の慰安制度」を採用していたと主張している。捕虜女性が性奴隷になるのは古代中国でも同様であるが、漢帝国の時代に良民と賤民を分ける身分制度が成立すると、性奴隷の供給源は罪人の妻などに変化した(籍没)。王朝交代の戦乱などでは被征服者が公娼となる場合が多く、明の初期には前代の元朝の支配層であったモンゴル人女性が後宮に入った。16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている。
近代公娼制
近代において公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったといわれ、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは娘子軍と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたという。ジョセフィン・バトラーらの売春婦救済運動によって19世紀のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止されるが、植民地においては存在し続けた。第二次世界大戦当時には英米においては兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したといわれる。
第二次世界大戦当時の戦地性政策の三類型
秦郁彦によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス)、レイプ型(ソ連、朝鮮)の3つの類型があった。なお、強姦は平時でも発生する。
自由恋愛型とは、私娼中心で公娼制度を持たないものでフェミニズムによる批判や世論を受けて、公娼制を公認できなかったためとされ、英米軍がこれに該当する。ただし植民地においては慰安所が存在し、また日本軍慰安所を居抜きで使用した場合もある。
日本では廃娼運動などもあったが、ドイツ軍と同様の国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し、日本は400箇所、ドイツは500箇所あったといわれる。フランス軍、インド駐留イギリス軍、イタリア軍にも慰安所があったが、慰安婦を現地で募集する場合とそうでない場合とがある(詳細は下記節で述べる)。
ソ連(ロシア)では慰安所は設置されていないがレイプが黙認された。スターリンは敵国の女性を戦利品とする「戦地妻」を容認し、「わが軍兵士のふるまいは絶対に正しい」と兵士を鼓舞した。ソ連軍は占領したドイツで集団強姦を広範囲に行い、レイプの被害者数はベルリンでは9万5000〜13万、東プロイセン等では140万人、ドイツ全域で200万人にのぼった。ソ連軍は満州や朝鮮半島では日本人女性の強姦行為を各地で繰り返し、ソ連軍によって監禁された約170名の日本女性が強姦を受け、23人が集団自決した敦化事件も起きている。また大古洞開拓団(三江省通河県)ではソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、2名の志願慰安婦を提供している事例もある。
また、朝鮮人(朝鮮保安隊)も朝鮮半島の吉州郡や端川市などでソ連兵とともに非戦闘員の女性引揚者への集団強姦行為をおこない、強姦後に虐殺するケースもあった。強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の1946年(昭和21年)の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人であり、場所は朝鮮半島が38件と最も多く、満州4件、北支3件であった。また、中国共産党軍による通化事件が起きたほか、引揚列車に乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された女性もいた。
戦後
日本政府は進駐軍向けの特殊慰安施設協会を1945年8月22日に設置し、暴行を防止した。しかしながら、8月30日に上陸した進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された。9月5日には神奈川県の女子高校が休校した。しかし9月19日にGHQがプレスコードを発令して以後は連合軍を批判的に扱う記事は新聞で報道されなくなった。武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された。進駐軍相手の日本人娼婦(街娼)は「パンパン」などと呼ばれていた。
朝鮮半島においては、朝鮮戦争以降、韓国政府が韓国軍・米軍むけの「特殊慰安隊」を設立した。このように軍人に対する売春に従事した婦女は日本に限らず、米国、韓国、ドイツを含む他国にも存在している。米人女性ジャーナリスト、スーザン・ブラウンミラーは自著”Against Our Will”(1975年)で、ベトナム戦争中、米軍がベトナム人女性がいる軍公認の慰安所を利用していたことについて詳細なルポを書いている。
2002年に韓国の研究者金貴玉が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったとし、韓国軍は1948年の政府の公娼廃止令に背いて、約3年間不法に公娼を設置・運営していたと発表して以降、韓国軍慰安婦の実態調査も開始されたが公文書の閲覧が制限されてもいる。 
日本における慰安婦(戦時売春婦)と「慰安婦問題」 
制度としての慰安婦は、軍相手の「管理売春」という商行為をおこなう存在であり、慰安婦には報酬が支払われていた。しかし、韓国では日本の場合だけは無報酬の性奴隷であったとする主張が主流である。日本のケースでは民間業者が新聞広告などで広く募集するなどして日本人および日本人以外の女性に対しても慰安婦として採用していたが、韓国などでは強制連行であったなどと主張しており、強制的なものであったかどうかなどの点について論争がおこなわれている。慰安婦に関する問題は戦後すぐに起こったのでなく、1970年代になってから、旧日本軍が戦地の女性を強制連行し、慰安婦にしたとする本がいくつか出版されて明るみになった。初期ウーマン・リブの運動家田中美津の1970年の著作に「従軍慰安婦という一大便所集団」の「大部分は朝鮮人であった」)「貞女と慰安婦は私有財産制下に於ける性否定社会の両極に位置した女であり、対になって侵略を支えてきた」という記述がある 。
1973年には千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社)が刊行され、朝鮮人女性が20万連行され、そのうち5〜7万が慰安婦とされたと書く。のちのアジア女性基金調査(高崎宗司)によれば、これはソウル新聞の記事の誤読ではないかとし、また数値の根拠は不明としている(本項「総数」節参照)。1976年には『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉著:三一書房 )などが出版された。
吉田証言と慰安婦論争
いわゆる慰安婦論争が再燃する契機となったのは、元陸軍軍人の吉田清治(本名:吉田雄兎)が自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白し、さらに1982年に樺太裁判で済州島で朝鮮人奴隷狩りを行ったと証言し、1983年7月に戦中済州島で自ら200人の女性を拉致し慰安婦にしたと証言する『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版したことに始まる。1983年11月10日には朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治を紹介した。この吉田の著作内容はのちに済州新聞の許栄善記者や秦郁彦らの調査の末、捏造であることが明らかになり吉田本人も創作と認めることとなるが慰安婦問題は著作を離れ一人歩きすることとなる。
1984年には韓国で宋建鎬(朝鮮語)が挺身隊として動員された女性は20万人でありそのうち5万人から7万人が朝鮮人であった(数値は千田前掲書と同一)とする1969年の韓国日刊紙の報道を日帝が挺身隊の名目で20万人の朝鮮女性を連行しそのうち5万から7万人を慰安婦としたと置き換えて報じたことを発端として、現在では、北朝鮮は朝鮮女性20万人が強制的に慰安婦にされ840万人が強制連行されたとし、大韓民国国定教科書は数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされ、650万人の朝鮮人が強制的に動員されたとしている。これらの韓国・北朝鮮両政府の公式見解について、李栄薫ソウル大学教授は1940年当時の16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であり、20歳から40歳の朝鮮人男性は321万人であるためこれらの数値は正しくないと指摘している。
吉田の著書は1989年に韓国でも出版され、同年中に済州島新聞(1989年8月14日付)や済州島郷土史家の金奉玉によって虚偽であることが判明し日本人の悪徳を表す軽薄な商魂の産物であるとされたが、「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」事務局長青柳敦子と在日朝鮮人宋斗会が韓国で謝罪と補償を求める訴訟の原告を募い、吉田は韓国に渡り、謝罪碑建立と謝罪活動を始めた。
吉田の著書は韓国ではドラマ化もされた。こうしたことを背景に1990年には慰安婦の調査を行なって来た梨花女子大元教授の尹貞玉 (ユン・ジョンオク)が日本軍慰安婦問題を新聞などのメディアで告発し、多数の女性団体が結集した「挺身隊対策協議会」を初めとして、様々な団体がこの問題に取り組み韓国において日本軍慰安婦問題が大きな運動になる。1991年には、韓国で元慰安婦が初めて名乗り出て、自らの体験を語った。その後も韓国、フィリピン、台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数現れ、日本の弁護士らの呼びかけで、日本政府に謝罪と賠償を求める訴訟がいくつも起こされるようになる。
吉田はその後も日本、韓国、アメリカなどで講演を行なったり、メディアに精力的に出演し、数々の裁判の加害証人として加害証言を続け、1990年代には国連の人権委員会に働きかけるなど、世に広く知られるようになった。
吉田証言は済州島の新聞社の調査や秦郁彦らの検証を通じて事実ではないことが明らかになっており、吉田自身も虚構であることを認めた。済州島の郷土史家金奉玉は吉田による証言について、「数年間も追跡調査を行った結果、事実ではないことが明らかになった。この本は日本人の浅ましさをあらわす軽薄な商魂の産物であると考える」と述べている。
しかし、この吉田証言は日本官憲が女性を徴発したとする今日の韓国人の集団的記憶形成に決定的に寄与したといわれ、2012年9月5日にも韓国最大発行部数を誇る朝鮮日報は吉田清治の手記を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として再び強制連行の証拠であると主張している。
朝日新聞の報道・慰安婦訴訟
日本ではこの問題の報道を『朝日新聞』が主導した。(東京の社会部市川速水記者が取材チームを率いていた。)1991年5月22日『朝日新聞』大阪版が吉田証言を紹介し、同1991年8月11日に朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと報道する。同年8月15日韓国ハンギョレ新聞は金学順が「親に売り飛ばされた」と報道し、また金学順の裁判での供述との矛盾などもあり、のちにこれは誤報であることが判明する。しかし朝日新聞による「従軍慰安婦」報道は韓国でも伝えられ、反日感情が高まり、慰安婦問題は日韓の政治問題となっていった。同年10月10日には朝日新聞大阪版が再度、吉田清治へのインタビューを掲載する。
1991年10月7日から1992年2月6日にかけて韓国のMBC放送が二十億ウォンの予算を投入して製作したドラマ『黎明の瞳』を放映し、最高視聴率58.4%を記録した。物語ではヒロインが従軍慰安婦として日本軍に連行され、日本軍兵士が慰安所を利用したり、朝鮮人兵士を虐待する場面がお茶の間にそのまま放映され、反日感情を煽った。原作は金聖鍾の全10巻にも及ぶ小説で、1975年10月から韓国の日刊スポーツ新聞で連載されていたもの。
1991年12月6日には、福島瑞穂(現社民党党首)、高木健一などが日本政府に慰安婦補償を求めた初の損害賠償請求裁判を提訴し、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件として裁判が開始される(2004年最高裁で敗訴確定)。これを朝日新聞は当該訴状で「親に売られてキーセン(妓生。娼婦のこと)になった」と記載されているものを「軍が慰安婦を女子挺身隊として強制連行した」と書き変えて報じた。
宮沢喜一首相の訪韓を前にした1992年1月11日、朝日新聞が一面で「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」「政府見解揺らぐ」と報じる。この記事は陸支密大日記を吉見義明が「発見」したと報道されたが、研究者の間ではこの資料は周知のものであった。同日朝日新聞夕刊では「韓国メディアが朝日新聞の報道を引用して報道」とのソウル支局電を掲載した。翌1月12日の朝日新聞社説では「歴史から目をそむけまい」として宮沢首相には「前向きの姿勢を望みたい」と主張した。またジャパン・タイムズは1月11日夜のテレビ番組で渡辺美智雄外相が「なんらかの関与があったということは認めざるをえない」との発言を、「日本の政府責任者が戦時中に日本軍がhundreds of thousands(何十万人)ものアジア人慰安婦への強制売春(forced prostitution)を初めて認めた」と、実際の発言内容と異なる記事を掲載した。1月13日、加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」の談話を発表、1月14日には韓国で、女子挺身隊を誤解歪曲し「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」と報道、同1月14日、宮沢首相は「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べ、1月16日には天皇の人形が焼かれるなど反日デモが高まる韓国に渡り、首脳会談で八回謝罪し、「真相究明」を約束した。毎日新聞ソウル支局の下川正晴特派員は当時の会見の様子について「韓国の大統領主席補佐官は、韓国人記者たちに謝罪の回数まで披露した。こんな国際的に非礼な記者発表は見たことがない」とのちに述べている。
宮沢首相による謝罪から「河野談話」まで
宮沢首相は盧泰愚大統領との首脳会談で事実関係の調査を経ることなく慰安婦問題について何度も謝罪し、「真相究明を約束する」と表明した。同年、日本の歴史家秦郁彦による現地調査でも強制連行が虚偽であることが確認された。
日本弁護士連合会(日弁連)は1992年に戸塚悦郎弁護士を海外調査特別委員に任命し、海外の運動団体と連携し、国連へのロビー活動を開始し、同1992年2月、戸塚弁護士はNGO国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国連人権委員会に提起し、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動していく。当時日弁連会長だった土屋公献も日弁連が国連において慰安婦を「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 として扱い、国連から日本政府に補償をおこなうように働きかけたと言明している。その結果、1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され、1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制(military sexual slavery)」と明記されることとなる。
中韓国交正常化 / 1992年8月24日、韓国と中国が中華人民共和国と大韓民国との外交関係樹立に関する共同声明を発表、戦後はじめて中韓の国交が正常化される。1992年12月25日には釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟が始まる(2003年最高裁で敗訴確定)。1993年4月3日には、元慰安婦の宋神道が提訴し、在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件についての裁判がはじまる(2003年最高裁で敗訴確定)。1993年、韓国政府は日本政府に日本の教科書に慰安婦について記述するよう要求する。
村山談話 / 1994年8月31日に村山富市内閣総理大臣が元慰安婦に対しておわびの談話(村山談話)を出す。
河野談話 / 日本政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとしたが、韓国政府は受け入れずに、強制性を認めるよう要求する。日本政府は再度調査を行ない、やはり強制連行を行ったことを示す資料は存在しなかった。しかし1993年8月4日、政府調査の結果発表の際に、河野洋平官房長官がいわゆる「河野談話」を発表する。河野談話では「日本政府が強制したということは認めたわけではない」が、日本軍の要請を受けた業者によって女性が意志に反して集められ、慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」として、「日常生活に強制性が見られた」と解釈し、反省とお詫びの意を示した。また、平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた慰安婦の記述がなされるようになり、高校・中学校のほとんどの歴史教科書で従軍慰安婦として記載される。また、河野談話が国内外から出される対日非難決議の根拠とされることにもなり)、河野談話の評価については議論が分かれている(後述)。1994年には永野茂門法務大臣が「慰安婦は公娼である」と述べたことで辞任に追い込まれた。
吉田清治による証言否定とその後の日本国内の動向
吉田は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認め、朝日新聞は1997年に「吉田証言の真偽は確認できない」との記事を掲載した。2007年に安倍晋三首相は「虚偽と判明した吉田証言以外に官憲の関与の証言はない」と答弁している。
1996年6月に文部省(現:文部科学省)が検定結果を公表した中学校教科書では全ての歴史教科書に慰安婦に関する記述がなされていたことを問題として同年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」(略称・つくる会)が発足。教科書を「自虐史観」であると批判し、新しい歴史教科書をつくる運動を進め、慰安婦問題は「歴史認識問題」、「歴史教科書問題」にもなっていった。2001年4月、「つくる会」の中学校歴史教科書が検定を合格したが、強い反対運動もあり、実際にはほとんどの中学校で採択されなかったが一方、同年に検定通過した他の教科書において、政府の方針や世論の関心の高まりもあり、慰安婦の記述も減少し、1999年には中学歴史教科書からは「従軍慰安婦」という用語が消えた。
与党・自由民主党内においても、若手議員らが、「つくる会」と同様に現在の日本の歴史認識を「自虐的」として修正を求める運動を始めるようになる。翌1997年には、「河野談話」発表に至る調査に関わった政府関係者が、強制連行の証拠となる資料は一切なかったが、韓国政府の強硬な要請に押され、政治判断として強制性を認めたことなどを明かしたことから、証拠もなく、日本を不利な立場に立たせたとして、「河野談話」への批判もなされるようになり、強制連行の有無などをめぐり激しい議論がマスメディアで繰り広げられるようになる。
「河野談話」で強制性を認めた政府ではあったが、時折、自由民主党の所属議員が強制連行を否定する発言をし、それが大々的に報じられ、中国、韓国からの強い反発を招くということが繰り返されている。
アジア女性基金と韓国政府による受領拒否
1995年、日本政府は医療・福祉支援事業や民間の寄付を通じた「償い金」の支給などの元慰安婦に対する償い事業のために、民間(財団法人)からの寄附という形で「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立し、運営経費や活動資金を負担した。
1996年には橋本龍太郎内閣総理大臣が元慰安婦(アジア女性基金が対象としていない日本人女性を除く)に対しておわびの手紙を出す。同時に、サンフランシスコ講和条約、二国間の平和条約及び諸条約(日韓基本条約など)で法的に解決済みであることを明らかにし、また河野・村山いずれの談話も慰安婦という職業の存在を認め名誉を傷つけたとはしているが強制連行などをしたとの見解は表明していないともコメントした。また橋本は女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとの認識のもと、道義的責任の観点から、アジア女性基金の事業への協力、日本人女性を除く元慰安婦に対する医療・福祉支援事業に対し資金拠出などを行った。1997年1月よりアジア女性基金は償い金の給付と医療福祉援助を行い、韓国人、台湾人、オランダ人、フィリピン人女性など計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を受給した。元慰安婦の認定が行われていないオランダに対しては現地の慰安婦関係者に対する生活改善支援事業に、元慰安婦の特定が困難なインドネシアに対しては高齢者社会福祉事業を援助した。2001年には小泉純一郎首相がおわびの手紙をを各慰安婦に送った。
韓国や台湾では日本政府に対し「法的責任を認め、国家補償を行なえ」という主張を掲げる運動の影響が強く、アジア女性基金を受け取ろうとする元慰安婦に対して、受け取るべきでないと圧力が加えられる。
特に韓国では、韓国政府や民間団体が「基金を受け取らないと誓約すれば300万円・200万円を支給する」ことを表明したため、韓国では半数以上の元慰安婦が受け取りを拒否した。1996年10月18日、挺対協の尹貞玉は償い金を受け取るということは「日本政府が犯した罪を認めず、ハルモニ(おばあさん)たちを初めから売春婦扱いすることだ」として、受け取らないよう呼びかけた。韓国政府は当初、歓迎の姿勢を見せたが、このような挺対協の強い反対運動によって方針を変える。1997年に11名の元慰安婦が償い金を受領したが、1998年に韓国政府はアジア女性基金の償い金の受け取りは認めない方針を示した。これに対して日本側は医療施設建設など事業転換を提案したが、1999年6月に韓国政府は改めて拒否を通告した。
これにより、韓国政府はアジア女性基金による償い金受けとらないと誓約した元日本軍慰安婦には生活支援金を支給することとし、韓国政府認定日本軍慰安婦207人のうち、アジア女性基金から受給した元慰安婦や既に亡くなったものを除く142人に生活支援金の支給を実施した。一方、アメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は謝罪と補償を求めているが、自発的な売春婦であるとして一切の謝罪・補償をおこなっていない。韓国政府やアメリカ人によりアメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は、韓国政府の日本に対する絶え間ない賠償要求は韓国自身の歴史に対する欺瞞であると訴えている。フィリピン政府としては売春を強制されたフィリピン人女性のために韓国で訴訟活動を行っている。2000年代以降、韓国挺身隊問題対策協議会や韓国政府主催の世界韓民族女性ネットワークは日本軍慰安婦への謝罪と賠償を求める活動を世界各地でおこなっている。日本からは民主党の岡崎トミ子議員が韓国でのデモに合流している。
国連人権委員会の報告書
クマラスワミ報告 / 国連人権委員会には韓国の運動団体や日本カトリック教団や日本弁護士連合会などの組織が積極的なロビー活動を行った。1996年にクマラスワミ報告書が国連人権委員会に提出され、慰安婦制度が国際法違反であり、日本政府に対して慰安婦に対する賠償を勧告した。しかしクマラスワミ報告書はジョージ・ヒックスの著作『性奴隷』に多く基づくものであり、ヒックスの本は二次文献をまとめたもので研究書としての価値は低く、また事実誤認と歪曲だらけと指摘されている。またクマラスワミ報告書も同様に事実誤認や捏造(「ミクロネシア慰安婦虐殺事件」等)が多数あることが、日本の運動団体「日本の戦争責任資料センター」の荒井信一や吉見義明、秦郁彦らの歴史学者より批判されており、またその後創作であることが判明した吉田清治証言も事実の加害証言として典拠とされている。
マクドゥーガル報告書 / 1998年にマクドゥーガル報告書が提出されたが、この報告書でも「20万」の慰安婦が強制連行されたと報告されたが、これは日本のアジア女性基金の調査で出典の信憑性がないことが判明した(#マクドゥーガル報告書と荒船発言参照)。しかし、マクドゥーガル報告書が提出されると、報告書を検証することなしに日本のカトリック教会枢機卿白柳誠一は日本政府に謝罪と補償を求めるとともに「応じよ!国連勧告」100万人署名運動を呼びかけた。2000年に朝日新聞元編集委員の松井やよりが主催する「戦争と女性への暴力」日本ネットワークや韓国挺身隊問題対策協議会などの団体によって「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が開かれた。「法廷」では「昭和天皇および日本国は有罪」との「判決」が下され、取材をおこなった海外のメディアが「日本国が女性を強制連行して性奴隷にした」と報じたことで慰安婦問題は世界各国でも認識されるようになった。
慰安所営業者の半数は朝鮮人であり、日本軍は誇大広告を禁止するとともに渡航する女性が本人自ら警察署で身分証明書の発給を受けて誘拐でないことを確認するよう通達を出し、朝鮮では日本の官憲が日本人や朝鮮人の女性を誘拐して売買をおこなったものを取り締まっていたが、河野談話以降は海外から「日本政府が数十万人の女性を強制連行して性奴隷にした」として非難され、日本国内では女性の人権などの観点をめぐって様々な議論となった。さらに元慰安婦を名乗る韓国人女性たちの証言の信憑性については疑問視されてもおり、証言が虚偽または創作でないかの検証が韓国や日本で行われている]。
2004年8月10日、東京造形大学教授で国際人権活動日本委員会の前田朗はジュネーブで開かれた国連人権促進保護小委員会において20万人もののコリア、中国などの女性が日本軍の慰安婦としての性労働を強いられたうえに拷問や栄養不良などで殺害されたり、なかには爆撃下のたこつぼでレイプされた女性もいたとして大量虐殺的強姦という概念を提唱し、日本政府は何も聞こうともせず、いまだ何も行っていないと非難し、犯罪者である日本を処罰する権利と被害者の救済を要請した。 
米国での慰安婦訴訟
ヘイデン法 / 1999年2月26日、元反戦運動家でカリフォルニア州上院議員のトム・ヘイデン(en:Tom Hayden)とロッド・パチェコ州下院議員・マイク・ホンダ下院議員らが、第二次世界大戦中にナチスや日本から強制労働を強いられた被害者が州裁レベルで賠償を求めることができるとする州法の戦時強制労働補償請求時効延長法(朝日新聞は「第2次世界大戦奴隷・強制労働賠償法」と表記)を提案した(法案番号SB1245「補償- 第二次世界大戦奴隷・強制労働」、法律216号「補償に関して民事訴訟法に第354条第6項を追加し、即時に発効さすべき緊急性を宣言する法律」。ヘイデン法)。同州法は7月15日にカリフォルニア州議会両院で全会一致で可決、施行された。この州法は1929年から1945年までの間のナチスドイツによる強制労働の被害者補償を目的としたもので、ナチスの同盟国であった日本の責任も追求できるとされた。提訴期限は2010年末で、それまでに提訴すれば時効は適用されない。
対日非難決議 / ヘイデン法成立直後の8月にはマイク・ホンダ下院議員が、第二次世界大戦時の戦争犯罪について日本政府が公式謝罪と賠償を求める決議を提案、カリフォルニア州議会は採択した。ホンダ議員が提案した「日本の戦争犯罪」とは、強制労働と5万人の捕虜抑留者の死、30万人の中国人を虐殺した南京大虐殺、従軍慰安婦の強要を指す。議会ではジョージ・ナカノ下院議員が「日本に対する古い敵意をあおることは、日系人に対する反発を駆り立てる」として反対し、また原爆投下は残虐行為ではないかとする緑の党議員に対して民主党議員は「原爆投下によって戦争終結をはやめ、多くの人命が救われた」と反論するなどした。ホンダ議員とナカノ議員の対立は、日系アメリカ人社会の内紛ともなり、ダニエル・イノウエ上院議員がナカノ議員側を支持した。マイク・ホンダ議員は中国系の反日団体の世界抗日戦争史実維護会から多額の献金を受領し緊密な連携をとっているとして、ナカノ議員はホンダ議員が対日非難活動を行う理由は「選挙キャンペーンでの政治献金の問題だ」と語っている。なお、決議には法的拘束力はない。
戦時強制労働の対日賠償請求運動 / ヘイデン法成立後、同法を根拠にしてシーメンスやフォルクスワーゲン、ドイツ銀行などがナチス時の強制労働の損害賠償をユダヤ系団体から請求され提訴されるのと並行して、日本企業への集団訴訟もカリフォルニア州で相次いだ。1999年8月11日、元米兵が太平洋戦争時に捕虜となり炭鉱で強制労働させられたとして三井鉱山、三井物産など日系企業を損害賠償でロサンゼルス郡上位裁判所に提訴。9月7日には在米韓国人が八幡製鐵での労働についてワシントン地裁に提訴し、担当したサンディエゴ市在住のデービッド・ケーシー弁護士は「これは始まりに過ぎない。今後、米国内でこの種の訴訟は激増する」と声明を発表した。
抗日戦争史実維護会などの支援活動 / 1999年9月9日には中国系の反日市民団体の抗日戦争史実維護会(世界抗日戦争史実維護会)が日本に強制労働を強いられた元米兵・中国・朝鮮人ら約500人が日本企業1000社に対して損害賠償を求める集団訴訟を行うと発表。抗日戦争史実維護会は世界に41の支部を持ち、集団訴訟へのよびかけでも強い影響力を持っており、集団訴訟を支援している。同団体はアイリス・チャンの著書『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売を行うなどの活動でも知られ、サンディエゴ州立大学名誉教授アルビン・コークスは対日集団訴訟が広がった背景には、史実として未確認の叙述の多いアイリス・チャンの著書の影響があり、「南京大虐殺=第二次大戦の忘れられたホロコースト」という文言がアメリカで独り歩きしていると指摘した。
このほか、サンフランシスコに本部を置く国際NGO「アジアでの第二次世界大戦の歴史を保存するための地球同盟」や、在米韓国・中国人からなる反日団体の「ワシントン慰安婦問題連合Inc (Washington Coalition for Comfort Women Issues Inc.)」なども集団訴訟を支援した。ワシントン慰安婦問題連合は1992年12月に結成され、2000年12月の東京での女性国際戦犯法廷にも関わり、また抗日戦争史実維護会と同じく『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売を支援した。古森義久はこれらの反日組織は日本の戦争犯罪を誇張し、日本の賠償や謝罪の実績をなかったことして非難を続けるとした。さらに対日攻撃の手段が米国での訴訟やプロパガンダであり、慰安婦問題訴訟はその典型であり、「米国での日本糾弾は超大国の米国が国際世論の場に近いことや、日本側が同盟国の米国での判断やイメージを最も気にかけることを熟知したうえでの戦術だろう」と評している。集団訴訟の原告側の弁護士は2001年春に上海で開かれた慰安婦問題シンポジウムに参加してもいる。
1999年9月14日、元米兵が三菱マテリアル、三菱商事をオレンジ郡上位裁判所に提訴。10月8日には韓国系アメリカ人が太平洋セメントを集団訴訟の形式でロサンゼルス郡地裁に提訴した。10月22日には在米韓国人が石川島播磨重工業と住友重機械工業を集団訴訟でサンフランシスコ上位裁判所に提訴し、訴状では戦時中日本に強制連行された朝鮮人の総数は約600万人で、約150万人が日本本土に連行されたと主張された。2000年2月24日、元英兵がジャパンエナジーを提訴した。
日本側の反応 / 1999年11月9日、柳井俊二駐米大使は日本国との平和条約第14条、19条で請求権問題は解決しており、集団訴訟には法的根拠がないと答弁した。また対日集団訴訟は、ナチス戦争犯罪追求に便乗したもので「日本はそのような犯罪は犯していない。杉原千畝氏のような人もいる。ナチスと一緒にされてはたまらない」と述べた。1999年11月4日、民主党シューマ−議員がユダヤ人団体の訴えを支援して、ヘイデン法と同様の法案を米上院に提案した。2000年4月には東部のロードアイランド州上院議会でヘイデン法と同様の法案が可決され、さらにネブラスカ州、カンザス州、ウエストバージニア州、テキサス州、フロリダ州、ジョージア州、ミズリー州などでも同様の法案が提出された。2000年5月16日には韓国人とフィリピン人グループらが日本企業27社を提訴、原告集団は数十万人にのぼった。2000年8月22日、中国人が三菱グループをロサンゼルス郡上位裁判所に提訴、原告集団は数十万人。
米上院司法委員会公聴会 / 2000年6月28日の米上院司法委員会公聴会で共和党のハッチ委員長は「日本はビルマに賠償しており、米国民も日本に賠償請求する権利がある」と述べた。これに対して国務省ベタウアー法律顧問代理は「日本国との平和条約26条はソ連など共産主義国との講和交渉で、日本に領土問題などで不当な要求を受け入れさせないための措置だった」として、企業への民事訴訟は想定されていないと答弁した。ハッチ委員長は「条文解釈を再検討すべき」と述べた。ウォールストリート・ジャーナルは2000年8月30日の社説で、「戦時中の日本軍の残虐行為を忘却してはならないが、今の日本企業を半世紀以上前に起こった行為ゆえに非難することは軽々しくすべきではない」として、平和条約による請求権放棄、また日本は戦後、中国をはじめとして270億ドルの賠償金および多額の対外経済協力を行なってきたと、原告側を批判した。
慰安婦訴訟 / 2000年9月18日、第二次世界大戦中に日本軍に慰安婦にさせられたとする在米中国人や韓国、フィリピン、台湾人女性ら計15人が、日本政府を相手取って損害賠償請求の集団訴訟をワシントン連邦地方裁判所で起こした。原告のなかにはアメリカ市民でないものも多かったが外国人不法行為請求権法に依拠した。アメリカに限らず国際民事訴訟においては外国主権国家に対して主権免除の原則があり、外国の国家を裁くことはできないが、アメリカ法の外国主権者免責法(en:Foreign Sovereign Immunities Act、FSIA)では国家の商業行為は例外とされており、元慰安婦ら原告側は「日本軍慰安婦制度には商業的要素もあった」として訴えをおこした。日本政府は「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)での国家間の合意で解決ずみ」としてワシントン地裁に訴えの却下を求めた。
連邦地方裁判所判決「ウォーカー判決」と米政府見解 / 2000年9月21日、サンフランシスコ連邦地方裁判所は「日本国との平和条約において請求権は決着済み」「追加賠償を求めることは同条約によって阻まれている」として元米兵や元連合軍人らの集団訴訟12件に対して請求棄却した。集団訴訟の請求内容が日本国との平和条約に密接に関係するため、サンフランシスコ連邦地方裁判所のボーン・R・ウォーカー判事が「アメリカの連邦法や条約に関わる訴訟は連邦裁判所が裁判管轄権を有する」として27件を一括処理した。ウォーカー判事は、元軍人による13件の訴訟については、連合国が対日賠償請求権を放棄した日本国との平和条約14条に抵触することは明白とし、さらに原告が日本国との平和条約26条について「日本は他の六カ国との協定で賠償責任を認める好条件を出したから、連合国国民も請求できる」と主張した件については「26条の適用請求を決定するのは条約の当事者である米国政府であって、原告個人ではない」と却下した。他方、中国・韓国人・フィリピン人らの集団訴訟には他の争点があるため審理継続とされた。2000年10月31日、米上院は「強制労働被害者と日本企業の賠償問題について政府は最善の努力をすべき」とする決議案を全会一致で可決した。2000年12月13日の法廷でウォーカー連邦裁判事は5件を請求棄却し、これにより元軍人の請求はすべて棄却され、「戦後補償は平和条約で解決済み」とする日米両政府の立場が司法判断で確認された。被告側のマーガレット・ファイファー弁護士は「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求権はない」とし、条約締結国でない韓国と中国については日韓基本条約と日中共同声明が日本国との平和条約の枠内にあり、請求権は放棄されていると述べ、また米司法省代理人も「カリフォルニア州法それ自体が合衆国憲法に違反し、アメリカと日本、韓国、中国、フィリピンの国際関係を破壊するもの」と指摘した。
クリントン民主党政権下の米政府の意見書では「平和条約は中国や韓国との賠償問題については二国間条約で解決するよう求め、日本はそれを果たした」「こうした各条約の枠組みが崩れた場合、日本と米国および他国との関係に重大な結果をもたらす」と明記された。
2001年5月、共和党ブッシュ政権下の司法省はワシントン地裁に法廷助言(アミカス・キュリエ)を行い、「日本国との平和条約の解釈が論点となる訴訟の管轄権は連邦裁判所に属する」とし、またアメリカ政府は外国主権者免責法にもとづき日本政府の要請を支持すると表明した。2001年6月にはアメリカ上院司法委員会の公聴会で国務省・司法省ともに「訴訟は無効」とした。
2001年9月4日、元米兵が日本政府に1兆ドルの賠償金を請求して提訴。9月6日に、米国務省のバウチャー報道官が対日賠償請求運動について「平和条約で決着済み」と声明を出しさらに8日にはパウエル国務長官が同見解を述べた。
しかし、9月10日には米上院で、司法省と国務省が対日賠償訴訟に関して意見陳述を行うことを禁じる修正条項法案が可決した(提案者は共和党ボブ・スミス上院議員)。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。10月には元駐日大使のトーマス・フォーリー、ウォルター・モンデール、マイケル・アマコストが修正法案は「米国の安全保障に緊要な条約の破棄になりかねない法案」であり、「訴訟に根拠を与えるいかなる措置も平和条約の重要な条項に違反する」として、日本国との平和条約は米国の太平洋地域の安全保障の要石であり、またドイツは連合国と平和条約を締結しなかったが、日本はドイツと異なり明確に決着したこと、また元軍人には日本からの接収資産から一人3000ドル(2万3000ドル)の補償もすでに行われていると批判した。11月20日、米国議会は上下両院で可決した修正法案を最終審議の議会両院協議会で抹消した。
2001年9月17日、米連邦裁ウォーカー判事は中国・韓国・フィリピン人による対日賠償請求訴訟について「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求をできない」、中国・韓国人については「ヘイドン法が憲法違反であり、したがって訴訟も無効」と判決し、訴えを却下した。原告は控訴。
2001年10月4日、ワシントン米連邦地裁は慰安婦訴訟について日本側の主張を認め請求棄却。原告側はD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)へ控訴。
米最高裁判決 / 2003年1月15日にカリフォルニア州高裁は、1999年に施行された戦時中の強制労働への賠償請求を認めたカリフォルニア州法は合憲とした。しかし、1月21日にサンフランシスコ連邦高裁は「アメリカ合衆国憲法は外交権を連邦政府のみに与えており、戦後補償をめぐりカリフォルニア州が訴訟を起こす権利を州法でつくり出すことはできない」「個人の賠償を解決するために裁判所を使うことは米国の外交権に反する」としてカリフォルニア州法のヘイドン法を憲法違反と司法判断し、日本企業への集団訴訟28件をすべて却下した。
慰安婦訴訟についてワシントンD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)が主権免除の商業活動例外は法の不遡及によって適用されないとして2003年6月27日に一審判決を支持し棄却。2003年10月6日、米国連邦最高裁判所は上告棄却。2004年6月14日、米国連邦最高裁判所はワシントン高裁へ差し戻す、2005年6月28日、ワシントン高裁は平和条約と請求権については司法府に審査権が付与されない政治的問題として一審判決を再び支持した。原告側は最高裁へ再審請求し、2006年2月21日にアメリカ合衆国最高裁判所は、却下の最終司法判断を下した。このアメリカ最高裁の判決によって米国の司法当局および裁判所が日本軍慰安婦案件については米国で裁くことはできなくなり、また米国で訴訟を起こすこともできなくなった。これらの集団訴訟に際してアメリカ合衆国政府・国務省・司法省は一貫して「サンフランシスコ平和条約で解決済み」との日本政府と同じ立場を明言している。ただし立法府(議会)はこの限りではないため、その後も下院などで非難決議が出されていく。
第一次安倍政権と米国下院決議
2007年1月末に民主党のマイク・ホンダ下院議員らが慰安婦問題に関する日本への謝罪要求決議案を提出した。過去にも同種の決議案は提出されていたが、いずれも廃案になっていた。2月15日の下院公聴会で、李容洙、金君子、ジャン・ラフ・オハーンの3人の元慰安婦が証言。2007年2月25日フジテレビ放送の『報道2001』でホンダ議員は「反日決議案ではなく和解を意識したもの」と述べた。
安倍発言 / 安倍晋三首相は2006年の組閣後、2007年3月1日に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言、3月5日には対日決議案は「客観的事実に基づいていない」と述べた。安倍首相は他方で当時の慰安婦の経済状況について考慮すべきこと、斡旋業者が「事実上強制していたケースもあった。広義の解釈では強制性があった」とも発言した。この安倍発言は国内外で大きな波紋を呼び、ワシントンポストは「二枚舌」と批判した。対日非難決議案の動きについて麻生太郎外務大臣は3月11日のフジテレビ番組で北朝鮮、韓国、中国などによる日米離間(分断)の反日工作と指摘した。3月31日には元慰安婦へ補償を行なってきたアジア女性基金が解散。またアルジャジーラは「アメリカ合衆国は日本と中国・韓国との間に問題を作り出そうとしている」と報じた。もっとも、安倍内閣は、2007年3月16日付で、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」としたものの、「河野談話」引き継ぐことを閣議決定している。2007年4月3日、米議会調査局報告書で日本軍は朝鮮半島での直接の徴集を行っていないこと、これまでに日本は謝罪や賠償努力を行なってきたことを指摘して、これ以上の賠償要求を行うことに疑問を呈した。安倍首相は4月27日に初訪米し「私の真意が正しく伝わっていない」と、また慰安婦が当時苦しい状況にあったことに「心から同情する」と述べた。前日の4月26日にはワシントン・ポストに在米韓国人団体が「日本は全面的な責任をとったことは一度もない」と意見広告を掲載していた。2007年5月4日のAP通信が終戦直後のGHQと特殊慰安施設協会(RAA)について報道。ホンダ議員はRAAについても議会調査局に調査依頼した。
米国下院121号決議 / 2007年6月26日にアメリカ合衆国下院外交委員会でアメリカ合衆国下院121号決議は賛成39票、反対2票で可決。続く7月30日、米下院本会議でナンシー・ペロシ下院議長のもと可決した。下院121号決議では日本軍慰安婦制度を「かつてないほどの残酷さと規模であった20世紀最大の人身売買の1つ」とし、「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達への公式な謝罪、歴史的責任、あらゆる異論に対する明確な論破及び将来の世代にわたっての教育をすることを日本政府に要求する」と明記された。日本では読売新聞、日本経済新聞、産経新聞、毎日新聞が米下院決議を批判し、朝日新聞は社説で安倍首相は河野談話と同様の談話を出すべきと報じた。しかし日本政府は反論も抗議もせずに、安倍首相も「残念だ」とコメントするにとどまった。古森義久は「日本の従順な態度は高く評価されて、もう同じ糾弾はしないようになると思ったら、とんでもない。現実は正反対なのだ。日本が黙っているのを見透かしたように同種の非難の矢がさらに激しく、さらに多方面から飛んでくる」と指摘しているが、この米国下院での決議以降、カナダ、ヨーロッパ、アジアでも対日謝罪決議が続いた。
韓国系・中国系住民によるロビー活動
在米韓国人のロビー活動と政治資金提供 / 対日謝罪要求決議の採択は、在米韓国人によって全米各地に慰安婦謝罪決議案採択のための汎対策委員会が設立され、対日謝罪要求決議が可決されるよう韓国系アメリカ人によるアメリカ下院議員へのロビー活動の成果だった。これに対して日本政府は4200万円かけてロビー活動したが失敗し禍根を残した。在米韓国人による米国議員への政治後援金は2007年から2011年までで総額300万ドルにおよび、政党別では民主党へ179万7155ドル、共和党へ114万8597ドルで、年度別では2007年に70万4669ドル、2008年に101万2195ドル、2009年に86万4099ドル、2010年に36万4789ドルであった。議員別ではマイク・ホンダが米国議員のなかで最も多額である13万9,154ドルの政治資金を集めた。
在外中国人団体・世界抗日戦争史実維護連合会のロビー活動 / また、マイク・ホンダ議員は在米中国人の反日工作団体の世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会、The Global Alliance for Preserving the History of WW II in Asia)からも政治資金の提供を受けている。抗日連合会は1994年12月に結成され、幹部にはイグナシアス・ディンらがおり本部は米国カリフォルニア州クパナティノで、ホンダ議員の選挙区内である。その対日戦略の基本方針はアジアでの中国の覇権を確保するために日本の力を何があっても阻止するというもので、公式サイトでも「過去を忘却する民族がその過ちを今後繰り返すたびに、そのつど非難されねばならない」等と明記されている。同団体は1997年にアイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』の宣伝と販売促進、2005年には日本の国連安保理常任理事国入りに反対するために全世界で数千万人の署名を集めたり、日本国内でも憲法9条改正の阻止、従軍慰安婦問題・南京大虐殺・靖国神社問題などで戦争責任を繰り返し日本に叩きつけ、また米国をはじめとする世界各国での反日プロパガンダによって日米分断させ、日本の孤立化と弱体化をめざす。2002年2月には上海で中国政府が開催した「第2次世界大戦の補償問題に関する国際法律会議」にも参加しており、中国政府との連携も指摘されている。カナダでも抗日連合会支部が活動し、対日謝罪決議が採択された。また、下院決議採択直後の2007年8月末にはマイク・ホンダ議員が中国系アメリカ人ノーマン・スー(徐詠芫)から資金提供を受けていたことが発覚し、謝罪した。米国での採択を受けて挺対協は対日謝罪要求決議が各国でもなされるよう運動し、民団機関誌「民団新聞」も8月29日記事で日本への謝罪要求決議がアメリカに続けて世界各国で決議されるように活動することを呼びかけた。2007年9月20日にオーストラリア上院、11月20日にオランダ下院、11月28日にカナダ下院で対日謝罪決議が採択された。
世界抗日戦争史実維護連合会カナダ支部のロビー活動 / カナダの決議案では「日本政府は日本軍のための『慰安婦』の性的な奴隷化や人身売買は実在しなかったとするような主張は明確かつ公的に否定していくこと」と明記された。カナダで対日謝罪決議を推進したのは野党の新民主党の中国系女性議員オリビア・チョウ(鄒至)で、またカナダには世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会)の支部であるカナダALPHA(第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合)がロビー活動を持続的に行なっており2005年にはカナダの教科書に南京大虐殺がユダヤのホロコーストに並んで記載され、この対日決議案も推進した。カナダでの決議採択は2007年3月27日に国際人権小委員会で賛成4票、反対3票で可決、次にカナダ下院外交委員会で5月10日に審議されたがカナダ保守党議員らが「日本への内政干渉だ」「日本はすでに謝罪している」と反対、再調査として差し戻された。以降、カナダALPHAの活動は過激化し、カナダ全土の中国系住民をはじめ韓国系・日系住民を動員し、トロントALPHA、ブリティッシュコロンビアALPHAなどの組織を編成、セミナーやロビー活動を展開した。2007年10月4日から6日まで米国ロスアンジェルスで開催された世界抗日戦争史実維護連合会主催の日本糾弾国際会議でエニ・ファレオマバエンガ米国下院議員が「今後は女性の弾圧や人権の抑圧に関して、日本の慰安婦問題から次元を高めて、国際的な条約や協定の違反行為へと監視の視線を向けていくべきだ。日本ばかりを糾弾しても意味がない。日本にいまさら慰安婦問題などで賠償を払わせることはできない」と主張したが、カナダALPHA議長セルカ・リットは「日本国民の意識を高めるために日本政府を非難し続けることの方が必要」と反論、同会議の声明では日本のみを対象とした謝罪賠償が要求された。2007年12月13日にEUの欧州議会本会議でも対日謝罪決議が採択された。翌2008年3月11日にフィリピン下院外交委、10月27日に韓国国会は謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択、11月11日に台湾の立法院(国会)が日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択するなど、サンフランシスコ講和条約締結国を多く含む国から日本のみを対象とする決議が次々に出された。
これらの対日決議を採択した国には朝鮮戦争に国連軍として参加した国も含まれ、それらの国は戦時中に韓国の慰安所を利用していた。古森義久や渡部昇一は東京裁判やサンフランシスコ講和条約で日本軍の戦争責任や賠償は終わっており、講和条約以前のことを持ち出すことは国際法違反と批判している。
日本の地方自治体の意見書 / 「慰安婦」問題に対して日本政府が誠実な対応をするよう求めた意見書を2008年3月28日に兵庫県宝塚市議会が採択したのを始めとして2010年6月までに民主、公明、共産系が多数を占める25の市議会で採択、2009年に民主党が政権獲得後に増加し、東京の清瀬市・三鷹市・小金井市・国分寺市・国立市、千葉船橋市、大阪箕面市・泉南市、京都京田辺市・長岡京市、奈良生駒市、ほか札幌市、福岡市・田川市が採択した。また民主党は2009年、日本人女性を除く元日本軍慰安婦に対して新たな謝罪と補償と「戦時性的強制被害者」という新たな呼称を定めるための戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案を提出した。2009年8月には韓国江原道知事の招待でマイク・ホンダ米下院議員が訪韓し、江原大学名誉博士号を受けたり韓国のナヌムの家を訪れた。また韓国外務省はホンダ議員の対日行動に感謝の意を表明するとともにFTA批准の協力を求めた。日本国内では2010年頃より、在日特権を許さない市民の会や主権回復を目指す会などの「保守系住民団体」は、「日本軍の従軍慰安婦への謝罪と補償」を要求している団体と激しく対立している。
日韓外交交渉と韓国行政裁判所による判決(2009)
韓国による賠償請求に対して日本政府は、1965年の日韓基本条約と日韓請求権・経済協力協定締結で、1000億円以上を供与するとともに、日本と韓国及びその国民間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と条文に明記されており、また当時の韓国政府とともに確認したこと、従って法的に解決されたとの立場を再三言明している。
2005年1月17日、韓国で日韓会談についての資料が公開され、韓国政府が「日韓基本条約」締結の際に、国民の個人請求権の放棄を確認していたことが初めて公になった。しかし韓国政府側は、2005年8月に1965年当時に「結ばれた協定には反人道的違法行為は含まない」と発表した。
その後、2009年8月14日、ソウル行政裁判所は「1965年に締結された日韓請求権並びに経済協力協定により日本政府から無償で支給された3億ドル(1965年当時のレートで1080億円)で徴用者への未払い賃金への対日請求が完結しており、大韓民国外交通商部としては「すでに補償は解決済み」とした。1966年にも大韓民国大法院は慰安婦の損害賠償請求を不法行為に基づくものであるとして棄却している。
韓国外務省による再請求と韓国憲法裁判所判決(2011)
しかし、大韓民国外交通商部は2010年3月15日に、慰安婦については「1965年の対日請求の対象外」として「日本政府の法的責任を追及し、誠意ある措置を取るよう促している」と発表。同年3月17日、日本政府は改めて「日韓請求権並びに経済協力協定により、両国間における請求権は、完全かつ最終的に解決されている」とする見解を発表した。2010年4月28日、フィリピン最高裁は、フィリピン政府に日本政府への謝罪要求を支持するよう求める訴えを退けた。
2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは違憲」と判決。9月15日、韓国外交通商省の趙世暎東北アジア局長は「慰安婦と被爆者の賠償請求権が請求権協定により消滅したのかどうかを話し合うため、日韓請求権・経済協力協定第3条により両国間協議を開催することを希望する」という口上書を日本側に提出、9月24日のニューヨークでの日韓外相会談、10月6日のソウルでの日韓外相会談でも同様の要求をおこなう。しかし10月19日のソウルでの日韓首脳会談では、慰安婦問題は議題にならなかった。
韓国・アメリカにおける日本軍慰安婦記念碑設置運動
2009年頃より米国で「慰安婦記念碑」を「ユダヤ人虐殺記念碑」と同等とみなして全米各地で建立する運動が韓国系住民によって行われるようになった。韓国系住民が多く住むニュージャージー州バーゲン郡では11人の韓国系高校生が韓国系米国人有権者評議会(the Korean American Voters' Council)とともに、日本軍の被害者である朝鮮人をアイルランド人、アルメニア人、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人の苦難になぞらえて慰安婦記念碑の建設を進め、非韓国系住民をも説得して署名を集めた結果、バーゲン郡は図書館など公共施設の入り口への設置を許可した。2009年9月、米下院外交委員会は対日謝罪要求決議を国連でも採択するよう働きかけた。
パリセイズ・パーク市 / 韓国系アメリカ人が住民の52%を占め、またジェイソン・キム副市長や議長も韓国系であるニュージャージー州パリセイズ・パーク市において韓国系米国人有権者評議会らが2009年8月から慰安婦碑の設置を計画し、2010年10月に「日本軍によって20万人以上の女性と少女が拉致された」と記された碑が設置された。2012年5月に在ニューヨーク日本領事がパリセイズ・パーク市に対して、碑の撤去を求めたところ、市は撤去を拒否し、5月10日にはホワイトハウスでの市民請願運動が在米日本人を中心にはじめられた。5月15日に自民党の領土に関する特命委員会が同市を訪問し抗議を質疑を行った。キム副市長は「日本側の主張にこそ、根拠はない」と述べ、議長は韓国系住民が多い22のアメリカの自治体で同様の記念碑を設置する運動をこれから行っていくと述べた。自民党の古屋圭司議員は「根拠のないことが、なし崩し的に既成事実化されていきかねない」と述べた。また現地の日本系住民からは日本人学校の生徒が犯罪者の子孫であるとして人種差別的ないじめをうけていると報告された。同委員会は5月17日に日本政府に設置撤去と資料の公示を求めた。
ソウル市日本大使館前 / 2011年12月14日、ソウル市日本大使館前に、韓国挺身隊問題対策協議会が1992年より開催している抗議集会の開催1000回を記念し、旧日本軍慰安婦の少女をモチーフとした「平和の碑」が建立された。日本政府は抗議し建立中止を求めたが、韓国政府は日本側の要望を挺対協に伝達したものの工事を止めなかった。
戦争と女性の人権博物館 / 2012年5月5日、ソウル市西大門区に日本軍慰安婦問題について展示する戦争と女性の人権博物館が3億円(35億ウォン)をかけて建設され開館した。日本でも日本建設委員会が結成され、多数の運動家・運動団体や研究者が呼びかけ人となり、自治労、JR総連、NTT労働組合大阪支部などが寄付をした。
ニューヨーク / 2012年6月16日にはニューヨークのアイゼンハワー公園に「日本軍が性的奴隷にするため、20万人を超える少女らを強制動員した。日本軍が行った卑劣な犯罪は必ず認められるべきで、絶対に忘れられない」とする碑文が刻まれた慰安婦碑が韓国人の働きによって設置された。2012年6月21日には在米日本人によってホワイトハウスに真実に基づく行動をとるよう求める請願が出された。7月21日までにホワイトハウスのホームページ上で行えるネット署名が25,000名に達するとアメリカ政府から公式な回答がなされることとなっている。
その他の近年の動向
2012年8月14日には李明博大統領によって天皇に謝罪を求める発言が行れた(李明博による天皇謝罪要求)。
2013年1月16日、ニューヨーク州議会でトニー・アベラ上院議員らが「日本軍慰安婦は人道に対する罪で20世紀最大の人身売買」と断定し、日本に謝罪を求める決議案を提出、2013年1月29日に上院で採択された。 
朝鮮・韓国における公娼制と慰安婦 
朝鮮の公娼制
李氏朝鮮時代には妓生(きしょう、기생、キーセン)制度という公娼制が存在した。もとは高麗時代(918年-1392年)に中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になったとも、また李氏朝鮮後期の学者丁茶山(1762-1836)の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺(賤民)らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう。高麗時代の妓生は官妓(女官)として政府直属の掌学院に登録され、歌舞や医療などの技芸を担当したが、次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった。1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった。朝鮮末期には妓生、内人(宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた。性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた。妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢ぎ物として「輸出」されたり、また明や清の外交官に対しても供与されたり、ほか国境守備兵士の慰安婦として、六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣されたりした。
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札(営業許可証)の取得を義務づけた。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された。しかし、日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊郭が形成された。日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった。 1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった。同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した。 日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた。第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。1918年のソウル本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明のものや、13歳の少女などが検挙されている。1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった。
1930年代の植民地朝鮮における人身売買・誘拐
1930年代には10代の少女らが誘拐される事件が頻発し、中国などに養女などの名目で売却されていた。斡旋業者は恐喝を行ったり、また路上で誘拐して売却していた。朝鮮総督府警察はたびたびこうした業者を逮捕し、1939年には中国への養女供与を禁止している。当時の人身売買および少女誘拐事件については警察の発表などを受けて朝鮮の新聞東亜日報や毎日新報(毎日申報。現・ソウル新聞)、また時代日報、中外日報で報道されている。
1932年3月には、巡査出身の33歳の男が遊郭業者とともの少女を恐喝し、誘拐した容疑で検挙された(東亜日報)。
翌1933年5月5日の東亜日報には「民籍を偽造 醜業を強制 悪魔のような遊郭業者の所業 犯人逮捕へ」という見出しで、漢南楼の娼妓斡旋業者だった呉正渙が慶尚南道山清邑で16歳の少女を350円で買い、年齢詐称のため兄弟の戸籍で営業許可を取ろうとしていたこと警察の調べで発覚したと報道した。同1933年6月30日の東亜日報では、少女を路上で誘拐し中国に売却していた男がソウル市鐘路警察によって逮捕され、さらに誘拐された少女が35歳の干濱海に20ウォンで売却された後に殺害されたと報道。
1934年4月14日の東亜日報は、災害地で処女が誘拐されたと報道。同1934年7月17日には、養父から金弘植という業者に売却されたという11歳の少女が警察に保護されている。
1936年3月15日の東亜日報では「春窮を弄ぶ悪魔!農村に人肉商跳梁 就職を甘餌に処女等誘出 烏山でも一名が被捉。」との見出しで、ソウル近郊の農村烏山で「人肉商」(人身売買)業者が処女を誘拐していることが報道されている。
日本軍陸軍省による注意命令
このような人身売買・誘拐の頻発に対して日本軍陸軍省は1938年3月4日に軍慰安所従業婦等募集に関する件を発令し、女性を「不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの」「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる」などに注意をせよと命じている。日本軍のこの指令書は、朝日新聞1992年1月11日の記事などでは、日本軍が朝鮮の少女を強制連行した証拠として報道したが、水間政憲によれば、この指令書は当時の朝鮮社会における誘拐事件や人身売買の実態をふまえれば、悪徳業者を取り締まれと解釈するべきで、日本軍の関与は良識的な関与であったと指摘している。
1938年11月15日には、群山市の紹介業者・田斗漢が釜山で19歳と17歳の女性に対して満州での就職を斡旋するとして遊郭に売却する委任状を作成している時に逮捕されている。
1939年には河允明誘拐事件が発覚する。1939年3月5日の「毎日新報によれば、逮捕された売春斡旋業者の河允明夫婦は1932年頃から朝鮮の農地でいい仕事があるとして約150人の貧農を満州や中国に700円〜1000円で人身売買し、また京城の遊郭には約50人の女性を売却したところ、警察が捜査をはじめたので、それら女性を牡丹江や山東省に転売したことが発覚した。同年3月9日の東亜日報は18歳の女性が山東省の畓鏡慰安所に転売されたことが報道された。3月15日の東亜日報では「誘拐した百余の処女」「貞操を強制蹂躙」との見出しのもとに「処女」たちが河夫妻に多数誘拐されたと報道された。東亜日報は同年3月29日に社説で「誘引魔の跋扈」を掲載、このような悪質な業者が朝鮮で跋扈していることを批判した。雑誌「朝光」(朝鮮日報社刊)1939年5月号も河允明誘拐事件について「色魔誘拐魔 河允明」と題して、処女の貞操が蹂躙されたとして報道している。
また、河允明に続いて逮捕されたペ・シャンオンは1935年から1939年にかけて約100人の農村女性を北支と満州に、150余人を北支に売却していた。また下級役人が戸籍偽造に協力していた汚職も発覚した。
朝鮮総督府警察による中国への養育取引禁止 / 1939年5月には、朝鮮総督府警察が中国人による朝鮮人養女を引き取ったり、また養育することを禁止した。その後も同様の事件は頻発し、同1939年8月5日の東亜日報で「処女貿易」を行なっていた「誘引魔」が逮捕されたと報道、さらに同1939年8月31日の東亜日報では釜山の斡旋業者(特招会業者)による誘拐被害者の女性が100名を超えていたと報道された。なお、2007年時点で、植民地時代の朝鮮総督府警察の記録などは国立公文書館に移管されておらず、元自民党議員戸井田徹は情報公開法に基づいて移管し公開すべきと2007年4月25日の衆議院内閣委員会で政府に要請した。 
大韓民国軍慰安婦
第二次世界大戦後、朝鮮半島は1945年9月2日より連合軍の軍政下におかれた。1948年8月15日に大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が独立する。1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。この朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦として「特殊慰安隊」を募集している。また韓国はアメリカ合衆国との関係を緊密にし、朝鮮戦争やベトナム戦争では連合軍を形成した。そのため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍(UN軍)も利用した。本節では韓国軍慰安婦と韓国における米軍慰安婦についても扱う。
韓国軍慰安婦については1996年に韓国慶南大学教授の金貴玉が朝鮮戦争時に大韓民国陸軍が慰安婦を徴集していたことを明らかにしたが、韓国の学会や運動団体からは韓国軍慰安婦は公娼であるし、また「身内の恥をさらすもの」「日本の極右の弁明の材料となりうる」と警告し、韓国国防部所属資料室の慰安婦資料の閲覧は禁止された。その後、新証言なども出されて徐々に実態が明らかになってきている。
「特殊慰安隊」設置
韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている。朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった。さらに韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致と強姦により慰安婦をおいていた。
韓国軍は慰安婦を「特殊慰安隊」と名付け、慰安所を設置し、組織的体系的に慰安婦制度をつくった。尉官将校だった金喜午の証言では陸軍内部の文書では慰安婦は「第五種補給品」(軍補給品は4種までだった)と称されていた。金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、性的奴隷型、昼は下女として働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった。特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった。計画は陸軍本部恤兵監室が行い、1950年7月には韓国政府は軍作戦識見を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる。韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」されたという。
設置時期は1950年、韓国釜山に韓国軍慰安所、馬山に連合軍慰安所が設置され、1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される。
ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された。
第一小隊用慰安所 (現・ソウル市中区忠武路四街148)
第二小隊用慰安所 (現・ソウル特別市中区草洞105)
第三小隊用慰安所 (現・ソウル特別市城東区神堂洞236)
江陵市には、第一小隊用慰安所 (江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市、原州市、束草市などに慰安所が設置された。
慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで移送し、前線では米兵も利用した。
1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖された。金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている。
朝鮮戦争後も売春斡旋業者による少女誘拐事件が発生している。1956年4月には「売淫ブローカー」によって少女2名が誘拐。また同1956年7月11日の東亜日報は「田舎の処女誘引 売春窟に売った女人検挙」との見出しで、少女を誘拐し売春を強要した容疑で老婆が逮捕されたと報道している。
1959年10月には、慰安婦の66%が性病保菌であることが検査でわかった。1961年1月27日、東光劇場で伊淡支所主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、駐屯米軍第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った。同1961年、ソウル市社会局が「国連軍相手慰安婦性病管理士業界計画」を立案、9月13日には「UN軍相対慰安婦」(国連軍用慰安婦)の登録がソウル市警で開始された。
ベトナム戦争以降
ベトナム戦争では韓国軍兵士がベトナム人女性を多数強姦し、ライダイハン(𤳆大韓)という混血児が生まれた。韓国軍が制圧した地区で殺害されなかった女性は、ほとんど慰安婦にされたといわれる。
少なくとも1980年代までは韓国人女性達は、韓国政府やアメリカ人により在韓米軍相手の売春を強制されていた。韓国人女性達への強制が終わると、ロシア人女性やフィリピン人女性達が代わりとなった。朝鮮戦争時に設置された束草の慰安所は休戦後、私娼の集娼地が形成され、1990年代まで軍の慰安所として機能していた。 1990年代以降の韓国では、アメリカ軍基地の近くでフィリピン人女性達が、韓国人業者により売春を強制されている。1990年代中ごろから2002年までに5000人のロシア人やフィリピン人女性達が密入国させられた上で売春を強制させられていた。2000年代の韓国では、韓国軍相手の女性達の90%がロシア人やフィリピン人女性などの外国人であるとされている。2009年現在のアメリカ軍基地近接地で売春を強制させられている女性に占めるロシア人女性の比率は減少しているがフィリピン人女性の比率は増加している。なお、韓国では現在は売春は違法行為である。
2009年、韓国系アメリカ人の元慰安婦らが米軍と韓国政府に対して提訴した(在韓米軍慰安婦問題)。原告の慰安婦らは韓国政府は米軍のためのポン引きだったと批判している。
2012年9月にはソウル鍾岩警察署長として風俗街「ミアリテキサス」の取締りを行ったこともある漢南大学警察行政学科教授の金康子はテレビ朝鮮の番組で韓国では生計のために売春業を行う女性たちへの支援制度もなく、また警察力の限界もあるとして限定的な公娼制度を導入すべきと主張した。 
欧米慰安婦  
米軍慰安婦
アメリカ軍は1941年米陸軍サーキュラー170号規定において、「兵士と売春婦との接触はいかなる場合でも禁止」されたが、実際には買春は黙認されていた。米海軍の根拠地であるハワイでは「組織的売春(organized prostitution)」が設置され、登録売春宿(慰安所)が設置されていたとされる。1942年に昆明では、フライング・タイガースが性病感染で有名な売春宿のせいで「空軍の半数が飛べなかった」とのセオドア・ホワイトの証言がある。1943年夏のシシリー島占領後は、ドイツ・イタリア軍の慰安所を居抜きで利用している。しかし慰安所について米国国内で論争が発生し、1944年9月には、売春宿(慰安所)の廃止が決定され、1945年4月24日付で「海軍作戦方面における売春について」との通達が米国陸軍高級副官名で出され、同年9月1日に発令された。
第二次世界大戦後 / 日本政府は1945年に日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性に性に飢えたアメリカ軍の慰安婦となることを要請し55,000人を提供した。1945年12月時点で在日連合軍は43万287人駐屯していた。占領軍の性対策については警視庁が8月15日の敗戦直後から検討し、8月22日には連合軍の新聞記者から「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が入った。また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった。
8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視庁総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画し、翌日の8月18日には橋下政実内務省警保局長による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」との通達が出された。早川紀代によれば、当時の慰安所は東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置された。また右翼団体の国粋同盟(総裁笹川良一)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を9月18日に開業している。こうした慰安所は公式には特殊慰安施設協会と称され、英語ではRecreation and Amusement Association (レクリエーション及び娯楽協会,RAA)と表された。
1951年9月8日に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し、関係諸国との2国間条約を締結し請求権問題を解決した。
インド駐留イギリス軍慰安婦
1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた。売春婦登録簿は1888年まで記録されている。
第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹のカルカッタでの目撃証言では、6尺の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで見られたという。性病感染率の記録からは、ビルマ戦戦では6人に1人が性病に罹っていた。また、日本軍の慰安所を居抜きで使用したともいわれる。
イギリス軍の捕虜になった会田雄次は、英軍中尉がビルマ人慰安婦を何人も部屋に集めて、「全裸にしてながめたり、さすったり、ちょっとここでは書きにくいいろいろの動作をさせて」楽しんでいたという。
ドイツ軍慰安婦
ドイツ軍は日本軍と非常に類似した国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し500箇所あった。ドイツ政府は「人道に対する罪に時効はない」と宣言し、様々な戦後補償を行なっているが、当時のドイツ軍による管理売春・慰安所・慰安婦問題はそうした補償の対象とはされてこなかった。しかし、日本軍慰安婦問題がきっかけとなり、検討されるようになった。また秦郁彦が1992年に日本の雑誌『諸君!』で紹介したフランツ・ザイトラー『売春・同性愛・自己毀損  ドイツ衛生指導の諸問題1939-1945』はドイツでも知られていなかったため、当時来日していたドイツ人の運動家モニカ・ビンゲンはドイツに帰国してこの問題に取り組むと語った。
ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は、軍人の健康を守るために、街娼を禁止し、売春宿(Bordell)は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した。入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった。なお、ソ連のスターリンは売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる。
2005年1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春(Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution)」では、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはポーランドやウクライナの女学校の生徒を連行し、慰安婦にしたことを報じた。
フランス軍慰安婦
フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦・第二次世界大戦・インドシナ戦争、アルジェリア戦争の際に存在した。移動慰安所はモロッコで成立したといわれ、ほかアルジェリア、チュニジアにも存在した。慰安婦には北アフリカ出身者が多かった。現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた。秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している。 
「慰安婦」呼称  
第二次世界大戦当時の日本軍慰安婦の呼称
当時女性達は、「慰安婦(위안부)」