血盆経

血盆経仏教の女性観1正泉寺正泉寺「血盆経縁起」産女死穢と血穢仏教の女性観2仏教はなぜ女性を差別するのか無学祖元と女人往生斎藤茂吉と地獄仏教と女性「女人禁制」女の地獄と幽霊
 

雑学の世界・補考   

血盆経

血盆経とは、女性が女性特有の出血のために、死後、血盆池(血の池)地獄に堕ちることを説く短文の仏教経典である。後述するように、経諸本には若干の本文異同が認められるが、概ね以下のような内容からなっている。 
仏弟子の目連尊者が、血盆池地獄を見る。ここは、出産時の出血(および月経)で地神を穢し、また血の汚れを洗った川の水を人がそれと知らずに汲み、茶を煎じて諸聖に奉り、不浄を及ぼしてしまう罪によって、女性だけが堕ちる地獄であった。母の恩に報いるため、目連は獄主に(または仏所に赴いて仏に)この地獄から逃れる方法を問う。獄主(または仏)は、血盆斎を営んで僧を請じ血盆経を転読すれば、血盆池中に蓮華が生じて、罪人が救われると説く。ミシェル・スワミエ氏によれば、当経は、10世紀以降に中国で民間仏教経典として成立したとみられる。 
血盆経は日本でも受容され、日本の各地に所在する血の池地獄はこの信仰によるものである。血盆経信仰の諸相について述べる前に、研究史を見ておくこととする。
血盆経信仰研究史 
血盆経信仰に関する早い時期の論考としては、[1]中山太郎「血の池地獄 仏教の民間信仰に及ぼせる影響」「現代仏教」大雄山閣/1929(中山「日本民俗学」大和書房)、[2]塚田信寿「月水護符の研究」粋古堂1937が挙げられる。前者は、立山などの各地の血の池地獄のことや、産死者供養のために行なわれる流れ灌頂と血盆経信仰の関係などについて述べている。後者は、ガリ版刷り100部限定で、あまり目に触れるものではないが、日本の月水観についてまとめられており、血盆経本文や護符、和讃、説話など、血盆経信仰にまつわるさまざまな事象が報告されている。 
[3]圭室諦成「葬式仏教」大法輪閣1963は、そのタイトル通り仏教における葬式についての書であるが、第三章「追善と墓地の発想」に「血盆経」の項目が掲げられている。ここでは、近世期に活発に血盆経信仰の唱導を行なった正泉寺(曹洞宗)の縁起について触れるとともに、「長弁私案抄」所収の1429年の諷誦文と「親長卿記」1491年条に血盆経に関する記述が見出せる旨、指摘がなされている。前者は、現在報告されている範囲では、日本における血盆経の初出記事である。しかし、血盆経信仰の本格的な研究は、やはり、[4]ミシェル・スワミエ「血盆経の資料的研究」「道教研究」昭森社1965を嚆矢とすると言うべきであろう。スワミエ氏は中国の仏教・道教・弘陽教・民衆宗教および日本の血盆経信仰について、資料を博捜し、詳細な検討を行なっている。当論考では、中国清代の血盆経四本と日本のもの二本の校異が行なわれており、若干の語句の異同は認められるものの、中国・日本の血盆経が、概ね同様であることがわかる。この論考で扱われているのは中国の事例が多いが、日本のことにも正泉寺「血の池地獄」、流れ灌頂など言及されている。 
中国の血盆経信仰については、[5]沢田瑞穂「地獄変 中国の冥界説」法蔵館1968(「修訂地獄変 中国の冥界説」平河出版社1991)の第一章「地獄の経典」の「血の地獄」にも記されている。また、お産で死んだ女性のための儀礼、血河懺・破血河にも触れる。 
日本の血盆経信仰の本格的研究は、[6]武見李子「血盆経の系譜とその信仰」「仏教民俗研究」仏教民俗研究会1976 、[7]武見李子「日本における血盆経信仰について」「日本仏教」日本仏教研究会1977 に始まる。武見氏は前者で日本の血盆経七本の校異を行ない、後者では、それに基づいて、諸本を三つに分類している。その結果から同氏は、月経の罪は、江戸時代に日本で付け加えられたとした(この説は、のちに筆者と松岡秀明氏によって否定された)。 
[8]宮田登「血穢とケガレ 日本人の宗教意識の一面」下出積與先生還暦記念会世話人  編「日本における国家と宗教」大蔵出版1978 、[9]宮田登「神の民俗誌」岩波書店1979は、中山太郎氏が、中国の「玉暦(歴)」(仏教・道教・民間信仰が混交した民間地獄経典。宋代成立か。明代以降流布)が「血汚池」を男女ともに堕ちるものとすることに注目し、これが「我国に輸入されて、我国固有の血忌み、殊に女子の月水を忌むだ俗信と附会して、遂に血ノ池地獄なるものを完成したものであると信ずる」と述べていることと、武見指摘を考え合わせ、中国では男女が堕ちる地獄であったものが日本で女性専用となり、さらに月経の罪が近世に付け加えられた、としている。しかし、「玉暦」には、女性のみが堕ちるという僧尼の説は誤りだという記述があり、また、中国の血盆経伝本からも、中国においても血盆池が女性専用だったことがわかるのである。この宮田氏の見解は、後掲する高達・松岡論考の登場により、[10]宮田登「総論 民俗宗教のなかの血穢観」「大系仏教と日本人 性と身分」春秋社1989で修正された。 
武見氏・宮田氏の影響は大きく、血盆経の「日本的変容」説はいまだ拭い切れていない。その一方、絵解き研究の立場から、熊野比丘尼が「観心十界図(熊野観心十界図・曼荼羅)」という絵画を用いて血盆経信仰の唱導を行なったことが、[11]林雅彦「日本の絵解き 資料と研究」三弥井書店1982、[12]萩原龍夫「巫女と仏教史 熊野比丘尼の使命と展開」吉川弘文館1983において明らかとされていった。それらを受けて、[13]高達奈緒美「血の池地獄の絵相をめぐる覚書 救済者としての如意輪観音の問題を中心に」「絵解き研究」絵解き研究会1988(坂本要編「地獄の世界」渓水社1990に改訂稿収載)が執筆された。ここにおいて筆者は、如意輪観音を血の池地獄の救済者とする信仰があったこと、近世の女性の墓碑や十九夜講の石造物に如意輪観音を刻むのは、この信仰に基づくであろうことを指摘し、さらに、[14]牧野和夫「孔子の頭の凹み具合と五(六)調子等を素材にした二、三の問題」「東横国文学」東横学園女子短期大学国文学会1983(「中世の説話と学問」和泉書院1991)で紹介されている室町期の血盆経信仰資料(後述「太子伝」)にすでに月経の罪が堕獄理由として見えていることから、武見氏の月経の罪が江戸時代に加えられたという説には修正の必要があることについて述べた。武見説の修正は、[15]松岡秀明「我が国における血盆経信仰についての一考察」「東京大学宗教学年報」東京大学宗教学研究室1989(総合女性史研究会編「日本女性史論集5 女性と宗教」吉川弘文館1998)において、より明瞭に行なわれている。松岡氏は、血盆経諸本の再調査を行なって分類を試み、武見氏の諸本の時代認定には誤りがあり、歴史的展開説は成り立たないことを指摘している。 
[16]高達奈緒美「資料紹介「血盆経和解」 近世期浄土宗における血盆経信仰」「仏教民俗研究」仏教民俗研究会1989は、江戸時代に出版された血盆経注釈書についてのものである。 
[17]牧田諦亮「松誉厳的の疑経観」恵谷隆戒先生古稀記念会編「浄土教の思想と文化」仏教大学1972(「疑経研究」臨川書店1976)は、この「血盆経和解」の撰者についての論考で、血盆経についても言及がある。また、[18]牧田諦亮「疑経」「岩波講座 日本文学と仏教」岩波書店1994ででも、触れられている。また筆者は、[19]高達奈緒美「疑経「血盆経」をめぐる信仰の諸相」「国文学解釈と鑑賞」至文堂1990において、武見説・宮田見解を否定した。さらにこの論考においては、[20]沢井耐三「お伽草子「磯崎」考 お伽草子と説教の世界」、川口久雄編「古典の変容と新生」明治書院1984で、沢井氏が指摘している中世の血盆経記事と圭室指摘の記事一覧を掲げ、中世の信仰実態についての検討を行なった。 
江戸時代、曹洞宗における血盆経信仰の中心的寺院であった正泉寺についてのものとしては、[21]萩原龍夫「安政四年刊血盆経縁起(我孫子市正泉寺所蔵)」「史料と伝承」史料と伝承の会1980、[22]中村脩「ふるさとあびこ<改訂版>」湖畔情報社1982 、[23]我孫子市金石文編集委員会編「我孫子市史資料 金石文篇」我孫子市史教育委員会1983、[24]飯白和子「待道大権現とマツドッ講 市内における女人講の変遷過程を通して」「我孫子市史研究」我孫子市教育委員会1985 、[25]中野優信(優子)「曹洞宗における血盆経信仰(二)」「曹洞宗宗学研究紀要」曹洞宗宗学研究所1994、[26]近江礼子「利根川べりの女人信仰「待道大権現」を追って」「常陸の歴史」崙書房2000があり、曹洞宗の立場からは、中野優子前掲論考のほか、[27]中野重哉「宗門布教上における差別事象(一) 性差別(「血盆経」)について」「教化研修」曹洞宗教化研修所1987、[28]中野優信(優子)「日本仏教における性差別の諸相 曹洞宗の問題を中心に」「曹洞宗宗学研究所紀要」曹洞宗宗学研究所1992 、[29]吉田道興「道元禅師外伝「血脈度霊」逸話考 血脈授与による救済と性差別」「宗学研究」曹洞宗宗学研究所1997等がある。また、正泉寺と同じく、江戸時代に積極的に血盆経信仰の唱導を行なっていた立山に関してのものとしては、[30]高達奈緒美(弘中奈緒美)「越中立山における血盆経信仰」1立山博物館1992、[31]高達奈緒美(弘中奈緒美)「越中立山における血盆経信仰」2立山博物館1993 、[32]高達奈緒美「血盆経信仰霊場としての立山」「山岳修験」日本山岳修験学会1997がある。その他各地の事例については、[33]時枝務「中世東国における血盆経信仰の様相 草津白根山を中心として」「信濃」信濃史学会1984、[34]錦仁「秋田県南部の伝承新資料<翻刻と考察> 目連・慈覚・小町に関するもの八種」「秋田大学教育学部研究紀要」人文科学・社会科学1990、[35]錦仁「小町像の移動と川原毛霊場」「浮遊する小野小町 人はなぜモノガタリを生みだすのか」笠間書院2001 、[36]小林健二「語り物の展開(2) 説経「苅萱」と「高野の巻」「講座日本の伝承文学 第三巻 散文文学<物語>の世界」三弥井書店1995、[37]植野英夫「楽満寺版行の血盆経について」「千葉文華」千葉県文化財保護協会1999などがあり、また、石仏研究の立場からの論考として、[38]時枝務「石仏と血盆経信仰 大山山麓蓑毛の地蔵尊をめぐって」「日本の石仏」日本石仏協会・国書刊行会発売1984、[39]時枝務「血盆経信仰と石仏 群馬県藤岡市森新田の薬師堂建立供養塔を事例として」「日本の石仏」日本石仏協会1990 、[40]中上敬一「十九夜念仏源流考」「日本の石仏」日本石仏協会1990 [41]榎本正三「女人哀歓 利根川べりの女人信仰」崙書房1992 、[42]甲斐常興「血盆経と一字一石供養塔」「史迹と美術」史迹美術同攷会1995 、[43]岡村庄造「陀羅尼菩薩と血盆経」「日本の石仏」日本石仏協会1997などが挙げられる。 
中国の血盆経信仰については、[44]Dore.Henri,"Recherches sur les superstitions en Chine",T'usewei Press,1911.(trans. by Kennelly,M.,"Researches into Chinese superstitons",T'usewei Printing Press Shanghai,1914.) 、[45]廣田律子「説唱芸能「陳十四夫人伝」に描かれた地獄巡り 血の池地獄考」「昔話 研究と資料27現代語り手論」三弥井書店1999 、[46]前川亨「血湖儀典小考 その原初形態ならびに全真教龍門派との関連」村山吉廣教授古稀記念論集刊行会編「村山吉廣教授古稀記念中国古典学論集」吸古書院2000があり、[47]永尾龍蔵「支那民俗誌」第2巻支那民俗誌刊行会1941でも触れられている。また、[48]大淵忍爾「中国人の宗教儀礼 仏教・道教・民間信仰」福武書店1983では血湖科儀について、[49]鎌田茂雄「中国の仏教儀礼」大蔵出版1986では亡者を血の池地獄から引き上げる「転蔵」という儀礼について、報告されている。その他、フェミニズムの立場から仏教の女性差別の問題を扱う、[50]大越愛子「現代の宗教11 女性と宗教」岩波書店1997 、[51]源淳子「仏教と性 エロスへの畏怖と差別」三一書房1996などにも、先行研究に基づいた血盆経についての言及がある。
血盆経の日本への伝来 
亡母供養の場への導入 
血盆経の日本への伝来時期は定かでないが、遅くとも室町期までには伝来し、ある程度流布していたことが資料的に確認できる(以下の資料については、3・20中の指摘による)。 
管見の範囲で最古の資料は、武蔵国深大寺(天台宗)の長弁による「長弁私案抄」所収、1429年2月、井田雅楽助亡母三十三回忌の諷誦文である。それによれば、法要に際して法華経・阿弥陀経・尊勝陀羅尼などとともに、血盆経3巻が書写されたことがわかる。同様の記事は、五山僧(臨済宗)の著述や公家日記のなかにも散見している。横川景三の語録詩文集「補庵京華続集」所収の「実際正真禅尼香語」によると、1482年5月5日、実際正真禅尼の十七年忌のときに、法華経1部とともに血盆経1巻が血書されている。景徐周麟の語録詩文集「翰林葫蘆集」所収の「畝苗正秀禅定尼尽七日拈香」には、1487年7月23日、源国範の亡妻の66日目の法要で、「大乗妙法之典」とともに血盆経10巻が書写されたとある。また、甘露寺親長の日記、「親長卿記」1491年8月28日条には、亡母の三十三回忌に際して、親長自身が法華経1部とともに血盆経7巻を書写したことが記されている。さらに三条西実隆の日記、「実隆公記」1496年10月14日条には、実隆の母の二十五年忌に、故人の甥にあたる甘露寺元長(親長の嫡子)が血盆経一巻を書写して持参したことが書き留められている。これらはいずれも、子供を持つ女性の追福供養における事例である。 
亡母を弔うために用いられた経典としては、提婆達多品において龍女の変成男子(女性が男性に転じて成仏する)を説く法華経が代表的であるが、血盆経は母の救済を説いており、そのことによって、亡母供養の場に導入されたものと思われる。  
血盆経本文の問題 
先にも触れたように、血盆経には本文異同があり、いくつかの系統に分けることができる。筆者の未見分を含め、現在までに報告されている血盆経伝本は、中国のもの5本、朝鮮版かと目されるもの1本、日本のもの約60本にのぼる。時代的には、中世から現代に及ぶ。 
日本の血盆経諸本の分類案は、武見李子氏が提示したもの(6・7)と、武見氏の分類を再検討した松岡秀明氏のもの(15)とがあるが、両氏の説を勘案した私見を示しておく。 
諸本は、書き出し、女性の堕獄理由、誰が救済方法を教示するかという三点を指標として、大きく以下の六つに分けることができる。 
 A 爾時目連尊者  産の血  獄主 
 B 如是我聞  産の血  獄主 
 C 爾時目連尊者  産の血と月経  獄主 
 D 爾時目連尊者  産の血  仏 
 E 如是我聞  産の血  仏 
 F 爾時目連尊者  産の血と月経  仏 
ここでは分類の指標としなかったが、陀羅尼や願文の有無という異同もある。 
中国の伝本と朝鮮版かと目される伝本は、いずれもAに属する。日本の年紀の定かな最古のものは、惟高妙安「諸冊抜萃」第二冊所引の本文である。これは不明箇所もあるが、「印本」とあり、当時版行されていた血盆経に基づいていることがわかる。次いで古いのは、1599年、舜貞書写の「血盆経談義私」のものである。これは血盆経の注釈書で、本文は科段されているが、全文を復元することができる(いずれも、 
53、高達奈緒美・牧野和夫「日光山輪王寺蔵慶長四年釈舜貞写「血盆経談義」略解題並びに翻刻」「実践女子大学文学部紀要」43、2001・3に翻刻)。 
これらの二つも、A系統に属する。また、中世の伝本かとされる元興寺極楽坊本も(ただし、もっと時代が下るとの見方もある)、A系統である。このことからすると、A系統が古い形であり、それ以外のものは派生的な本文であるかのように見える。 
先に述べたように、従来、血盆経の本文異同を、日本的変容の結果とする説が一般化していた。それは、もとは堕獄理由が産の血だけであったのが、江戸時代になって日本で月経の罪が付け加えられたとするものであった。だが、中国にも月経の罪を挙げる本文があった可能性は高く(仏教の血盆経を受容して作られた中国道教の経典「元始天尊済度血湖真経」は、月経の罪を挙げている)、A-Fには属さない、別系統の本文を持つ伝本の存在も想像できるのである。本文分化は中国において生じていた事態で、複数の系統の伝本が日本に伝わったのかもしれず、中国の伝本の調査が不十分な現時点では、本文系統の新旧の判断はつきがたい。
血盆経信仰の広がり 
中世血盆経異伝 
1466年書写の「(聖徳)太子伝」(天台宗系のもの)、聖徳太子13歳の条に次のような記述がある(14・52)。以下、要点のみを現代語訳する。 
「羽林国(羽州)の都、追陽懸に、夷多羅女という姫をもつ頻婆娑羅王がいた。この姫は嫉妬の念が強く、非常に長い時をかけて罪を償ったその跡が、血盆池となった。王は目連にとっては伯父にあたり、目連はこの地獄に入ってみた。ここは、五欲(眼・耳・鼻・舌・身の五官による欲望)・三毒(むさぼり・いかり・愚かさ)の血を月経として流し、仏神や僧を穢す罪によって、女性だけが堕ちる地獄であった。目連が血盆経を書いてこの地獄に投げ入れると、地面が震動し、池には蓮華が生えてきた。女性達はこの蓮華に座って、救済されていった。「私(釈迦か)が涅槃に入ったのちにも、女性がこの経を受持して永く血盆池を離れれば、観音大士が二求(楽と長命を求める欲求)両願に誓って、現世の安穏と来世の得果、信心安楽をもたらすであろう」」。 
この資料には、いくつか興味深い点がある。まず第一点は、血盆池地獄の発生が、夷多羅女の嫉妬と絡めて語られている点である。女性を嫉妬深い存在とみなす眼差しは、日本の中世・近世の説話や物語などに、枚挙に暇がないほど数多く見ることができる。第二点は、月経だけを堕獄の原因としている点である。第三点は、女性達を救うために、目連が血盆経を地獄に投じている点である。具体的には江戸時代以降の事例しか確認できてはいないが、血の池地獄に堕ちた女性を救うためとして、血の池に見立てた池や川に血盆経を投げ入れるということがあり、「太子伝」当時、すでにそれが行なわれていた可能性が想定できよう。第四点は、末尾に「観音」が登場している点である。44に図版として掲載される中国の血盆経にも「観音」の文字があり、このことについては、のちにまた述べたい。 
この「太子伝」が引く血盆経記事が何に基づいているのかは、不明である(同文が東洋大学哲学堂文庫蔵「盂蘭盆経私記疏」<江戸前期から中期書写、増上寺旧蔵。54、飯島奈海「東洋大学哲学堂文庫蔵「盂蘭盆経私記疏」解題・翻刻 血盆経信仰の一資料として」「三田国文」27、1999・3で翻刻されている>に認められるので、「太子伝」の独自記事ではないようである)。第二点と第四点は本文の問題と関わることであり、あるいは第一点と第三点もまた、そうした本文を持つ血盆経伝本に基づいているのかもしれない。しかし、この二点に関しては、既報告の本文とはあまりにも違いがあるので、ひとまず異伝と考えておきたい。 
異伝と呼びうる資料としては、このほか、舜貞(天台宗)が1599年に書写した「血盆経談義私」が掲げる次のようなものがある(53)。 
「目連の母が無間地獄に堕ちる。仏の教えによって目連は施餓鬼を営み、母は無間地獄を逃れる。だが、月経と難産の時の血が流れて仏神を穢していたために、また血盆地獄に堕ちる。仏は血盆経を説き、母は都率天に生じる」。 
この話の前提には、目連の母青提女が地獄に堕ちたとするパタ−ンの盂蘭盆経の所伝があることは間違いなく、「母の恩に報いるため」とする血盆経が盂蘭盆経と結びつくのは、至極当然のことといえよう。翻って言うならば、そもそも血盆経自体、盂蘭盆経の影響下に成立したと思われるのである(目連が血盆池地獄に赴いた理由を、母がそこに堕ちたからとしているものとしては、江戸時代の「盂蘭盆経私記疏」<54>、明治44年の立山の「血盆経略縁起」、昭和26年写「羽州雄勝郡賀波羅偈通融嶮之由来」<34・35>もあり、中国の伝承にも、同様の伝えがある<47>)。 
また、1573年の年紀を持つ神奈川県金沢文庫蔵「血盆経縁起」(真言宗系、20の指摘による)は、釈迦が母摩耶夫人のために血盆経を説き、それによって母が成仏したと述べている。 
女性の嫉妬、あるいは目連もしくは釈迦の母の救済と結びつけられたこうした異伝の源流がどこにあるにしても、何故それらが必要とされたのかということは、血盆経説教という場をぬきにしては考えられまい。 
熊野比丘尼の唱導活動 
しかし、血盆経信仰が広く民間に流布するようになったのは、中世末期に遊行宗教者がこの信仰に関与するようになってからのことと思われる。その代表者としては、熊野比丘尼が挙げられる。 
熊野信仰を喧伝する熊野比丘尼の勧進活動は、「観心十界図(熊野観心十界図・曼荼羅)」「那智参詣曼荼羅」「熊野の本地絵巻」を文匣に納めて携帯し、これらの絵解きを行なってお札などを配るというものであった。 
「観心十界図」は、十界の諸相が心から生じることを示した絵画で、その地獄の部分には、血の池・不産女地獄といった、女性に関わる地獄の様相が描かれている。絵解きの様子を知らしめる資料は、江戸時代のものしか見出されていないが、それらによれば彼女達は、女性を対象に「観心十界図」の絵解きを行なって血盆経信仰を勧め、血盆経を頒布したのであった。 
その絵解きの語り口を彷彿とさせる資料としては、近松門左衛門作「主馬判官盛久」(1686年頃成立か)中の「びくに地ごくのゑとき」がある。そこでは血の池地獄に関し、「人間は諸仏が苦しんでお作りになるものなのに、堕胎をすれば、諸仏が声をあげてお嘆きになる。その涙は血の地獄となり、火焔となって身を焦がすのだ」と語られている。堕胎の罪が説かれているわけである。ただし、高田衛「女と蛇 表徴の江戸文学誌」(筑摩書房、1999・1)によれば、近松の時代、流産・早産・死産などと堕胎がどこまで区別されていたかは不明であるという。 
熊野比丘尼が血盆経信仰に関与することになったのは、熊野参詣の途中で月経となったことを悲しんだ和泉式部が、 
  晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて 月の障りとなるぞかなしき 
という歌を詠み、それに対して熊野権現が、 
  もとよりも塵にまじはる神なれば 月の障りも何かくるしき 
と返歌したと伝えられるように(「風雅和歌集」巻二十)、熊野が女性の不浄を厭わぬ聖地であったことと関係があろう。この歌を前提として考えるならば、熊野比丘尼が血盆経信仰を勧めた対象は、広義の堕胎を経験した女性だけではなく、すべての女性であったと思われる。 
熊野比丘尼の参画を得、血盆経信仰は新たな展開の局面を迎えたといえよう。すなわち、女性である熊野比丘尼による女性のための唱導は、女性達がより積極的に血盆経信仰を受け入れる道を拓くことになったと思われるのである。 
血の池地獄の救済者 
次に、「観心十界図」の血の池地獄の描かれ方に注目しておきたい。血の池で苦しむ女性の一部は、角のある蛇に変じた姿で描かれている。これは、既報告の血盆経本文には見出すことができない表現であるが、恐らくは、道成寺説話で知られるように、女性が男性への執着心や嫉妬の心から蛇に変ずるとする観念を踏まえているのであろう。 
血の池の上方には、女性に一枚の紙[血盆経であろう]を手渡す如意輪観音が描かれている。先述したように、44所載の血盆経および「太子伝」には、「観音」の文字が見えている。観音が何故血盆経信仰と結びついたのかということは、中国における問題であり、その理由は定かではない。また、なぜ如意輪観音なのかも定かではない。 
如意輪観音を救済者とする血の池地獄の絵画のうち、比較的年代のはっきりした早い時期の作例に、愛知県岡崎市満性寺(真宗高田派)所蔵の「血の池観音図」がある。これは、1558-1591年頃に、京都六角堂(現在は単立、もと天台宗)の僧から、満性寺の住職に贈られたものである。 
六角堂は、聖徳太子持仏と伝えられる如意輪観音像を本尊とする、聖徳太子信仰の拠点の一つである。一説には、聖徳太子は如意輪観音の化身であるともいわれる。六角堂で「血の池観音図」が作成され、また、先に掲げた「太子伝」に血盆経に関する記事が挿入されたのは、聖徳太子−如意輪観音−血盆経という脈絡によるかと思われる。 
如意輪観音を血の池地獄の救済者とする信仰は、主に天台宗系の宗教者によって広められたものと思しい。そしてこの信仰は、特定の宗派内のことに留まらずに、絵画を通して広く各地に定着していったようである。日本各地の寺院に伝存する江戸時代の地獄絵などには、その寺院の宗派を問わず、血の池のほとりに座す如意輪観音の姿を数多く見出すことができる。また、江戸時代の女性の墓碑にも、その姿が刻まれている。
血盆経信仰の定着 
血盆経信仰霊場 
火山活動の活発な日本においては、硫黄が噴き出したり、熱湯が沸き立ったりする場所がある。そうしたところは、一般的に地獄と呼ばれている。つまり、本来観念的な世界であるはずの地獄が、この世に現出した場所と捉えられたのである。 
その地獄のなかには、血のような赤い色の水を湛えた池が存在することがあり、それらは、血の池地獄と称された。たとえば、青森県恐山・富山県立山・大分県別府などに、血の池地獄は人の眼に見える形で存在したのである(なお、熊野比丘尼の本拠地の熊野三山には地獄はない)。また、実際には赤くはない池が、血の池地獄に見立てられる場合もあった。多くの場合、これらの血の池地獄には、地獄に堕ちた女性を救うためとして、血盆経が投入された。 
血盆経信仰霊場とも言える場所は各地にあったが、立山と正泉寺が代表的である。 
〔立山〕立山は、古くから「山中に地獄あり」と知られた山岳信仰の霊場である(天台宗系)。「今昔物語集」(12世紀前半成立)には、女性の立山地獄への堕獄についての説話が収められており、立山地獄と女性の結びつきも、古くから見られる。その立山に血盆経信仰が及んだ時期ははっきりしないが、近世極初頭には、血の池のほとりの堂に血盆経を納めるという慣行が成立していた。立山の血盆経信仰は、あるいは熊野との関係によって、熊野からもたらされたのかもしれない。 
立山の麓の芦峅寺と岩峅寺の二つの宗教集落では、木版刷りの血盆経が頒布されていた。登拝者達はこれを購入し、血の池に投じたり、女人禁制であるために登拝の叶わない女性達のために、土産として持ち帰ったりした。 
山が雪に閉ざされ、登拝者が訪れなくなる秋から春にかけては、芦峅寺・岩峅寺の衆徒達は各地を巡って護符などを配り、「立山曼荼羅」を絵解いて聴衆を立山へと誘った。その際には、主に女性に対して血盆経の納経が勧められた。 
芦峅寺側では、開山慈興上人の救母譚の形をとる、独自の血盆経縁起が作成された(「立山大縁起」巻二。廣瀬誠・高瀬保「越中立山古記録3・4」<桂書房、1992・8>所収)。それによれば、慈興は血の池地獄に堕した母を救うために、山中の血の池のほとりで血盆経会を営み、その功徳で母は「本尊」(同縁起の別本には、「如意輪観音」とある)と現じたという。 
〔正泉寺〕千葉県我孫子市正泉寺(曹洞宗)は、江戸時代中期頃から血盆経信仰の唱導活動を積極的に繰り広げた寺院である。この寺は、北条時頼(1227-1263)の娘法性尼の開基と伝え、もとは法性寺と称したという。1397年または1417年に、法性尼の霊の告げによって住職が近くの手賀沼から血盆経を得、寺号を正泉寺と改めたとする、独自の血盆経縁起を伝えている(21-23)。前掲「血盆経談義私」(53)には、正泉寺の前身、法性寺(宗派不明)の長老の母が血盆池に堕ち、母を救うために長老が血盆経を書写したという説話が載っており、すなわち、正泉寺が前身寺院の縁起を換骨奪胎して、法性尼を主人公とする新たな縁起を作ったことがわかる。 
飯白和子氏(24)によると、正泉寺が血盆経信仰を喧伝しはじめたのは、明和年間に荒廃した寺院再興のためであった。この論考では、千葉県に見られる安産講、待道講が正泉寺の隠居寺、白泉寺によって広められた待道大権現の信仰によるものであることが明らかにされている。 
正泉寺では、血盆経出現縁起や血盆経本文を多数版行しており、血盆経霊場として広く知られるようになっていった。なお、当寺では地蔵を血の池地獄の救済者とし、三幅の縁起絵を所蔵している。 
宗派から見る血盆経信仰 
管見の範囲では、中世期に血盆経信仰を受容していた宗派としては、前述の中世資料によれば、天台宗・臨済宗・浄土宗・真言宗が挙げられる。 
また、江戸時代に血盆経を版行していた寺院の属する宗派としては、高野山真言宗・真言律宗・臨済宗妙心寺派・天台宗・浄土宗・曹洞宗が挙げられる。このうち曹洞宗は、正泉寺だけではなく、宗派をあげて血盆経信仰を喧伝していたと見られる。 
曹洞宗における血盆経信仰の早い時期の資料としては、石川力山氏(「禅宗相伝資料の研究」上・下、法蔵館、2001・5)が紹介している、17世紀初頭成立の血盆経に関わる切紙がある。曹洞宗では、昭和56年まで授戒会の折に女性に対して血盆経が授与されていた(25による)。 
浄土宗では、曹洞宗のように「宗派あげて」とまで言えるかどうかはわからないが、比較的積極的に唱導を行なっていたようである。 
浄土宗僧、松誉巌的は、「血盆経和解」(1713年刊)という血盆経注釈書を撰述している(内容については16を参照されたい)。また、本書ならびに葬儀等の儀礼の執行方法を記した「浄家諸廻向宝鑑」(龍山必夢撰、1698年刊)や「浄土無縁引導集」(松誉巌的撰、1696年刊)には、流れ灌頂と血盆経信仰を絡めた記述が認められる。 
流れ灌頂 
流れ灌頂とは、産死者や水死者、無縁の死者を弔うために行なわれる儀礼である。「浄家諸廻向宝鑑」は、7本で一組となった卒塔婆7流に記す文言を図示したのち(この図は、藤井正雄編「仏教儀礼辞典」東京堂出版1977)、巻2-51「流灌頂功徳略説」として、 
夫流灌頂者、建立率塔婆貫流樒華。呑触此水鱗魚、若無縁死骸白骨等、忽成成仏縁。  或地獄猛火転得清涼徳、餓鬼貪心火消得飲食自在、畜生愚痴得大慈悲心水生智慧。余  趣得悉益。寔吊亡霊一人万類得解脱。故此勝業不可不勉也。又由血盆経説女人月水汚  水神、又汲其流供諸尊、此大罪故婦人堕血盆池矣。所詮此法事転女人垢穢、速疾仏果  之作善也。但、灌頂本拠不正云云。 
と記している。この儀礼は本来水中の生き物を済度するために行なわれたものと思われるが、そこから水死者済度に転じ、さらに産死者と結びついた理由は定かでない。佐々木孝正氏は、「仏教民俗史の研究」(佐々木孝正著、佐々木孝正先生著作刊行会編、名著出版、1987・3)収載の「近江の流れ灌頂」「流灌頂と民俗」において、密教儀礼の六字河臨法(「阿娑縛抄」の同儀礼執行目的に、呪詛反逆・病事とともに「為産婦修之」とある)が先行儀礼としてあったのではないかとしている。 
「浄家諸廻向宝鑑」「血盆経和解」の時点ですでに、この儀礼の原拠は不明であったようである。だが、原拠は不明でありながらも、江戸時代以降、寺院の儀礼として、または習俗として、主に産死者、あるいは女性死者全般のために広く行なわれた。その執行方法にはさまざまなやり方があるが、小川に卒塔婆、四本竹を立てて赤い布をつけ、道行く人がそれに水を掛けるなどした。赤い色があせると、血の池地獄に堕ちた死者が救われるという。水を掛ける際に、「産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水せがき」などの唄を歌うこともあった。 
なお、正泉寺では、1950年代頃までは、お産で死んだ女性や水子のために、寺の近くの川に祭壇を築いて川施餓鬼(流れ灌頂)を営み、血盆経護符を川に流したという。 
血盆経護符の携帯 
立山や正泉寺をはじめ、血盆経信仰を受容した寺院は、血盆経護符を版行した。その内符は、血盆経本文であったり、陀羅尼や願文を抜き出したものであったり、さまざまな形がある。 
血盆経護符を携帯していれば、月経中でも不浄を他に及ぼさず、死後の往生・成仏が約束されるとされ、それを持っていた女性が亡くなると、お棺に納められたりもした。また、正泉寺周辺では、血盆経護符が安産のお守りとしても用いられ、妊娠した女性は、腹帯の間に護符をはさんだという。 
女人講 
一般の女性を中心とする信仰的な集まりである女人講のなかには、血盆経信仰と密接なつながりを持つものがあった。その名称や行ない方はさまざまで、正泉寺の場合は「地蔵講」といい、第二次世界大戦の前までは、毎月24日に集まり、「水子供養和讃」や次のような「血盆経和讃」を唱えていた。 
  帰命頂礼血ぼん経 女人のあく業深ゆへ 御説玉ひし慈悲海 
  渡る苦界のありさまは 月に七日の月水と 産する時の大あく血 
  神や仏を汚すゆへ 自と罸を受くるなり 又其悪血が地に触て 
  つもりて池となり 深が四万由旬なり 広も四万由旬なり 
  八万由旬の血の池は みづから作地獄ゆへ 一度女人と生れては 
  貴せん上下の隔なく 皆この地獄に堕なり 扨この地獄の有さまは 
  糸あみ張て鬼どもが わたれ渡れと責かける 渡はならずその池に  
  髪は浮草身は沈み 下へ沈ば黒がねの 觜大きい虫どもが 
  身にはせきなく喰付て 皮を破りて肉をくひ すみや岸へと近よれば 
  獄卒どもが追いだす 向ふの岸を見わたせば 鬼どもそろふて待いたる  
  哀女人のかなしさは 呵嘖せられて暇もなし 寄くる波の音きけば  
  山も崩るゝばかりなり 岸に立たる顔見れば 娑婆にて化粧し黒髪も 
  色も変て血に染り 痩おとろへて哀なり 食を好ば日に三度   
  血の丸かせを与へけり 水を好ば血をのませ 娑婆にて作し悪業ぞ  
  呑や/\と責かける 其時女人のなく声は 百せん万の雷の 
  音よりも又恐ろしく 娑婆にて作し悪業が 思ひやられてかなしけり 
  是はなにゆへ子を持て かゝる苦患を受るなり 母親の恩徳しる人は  
  菩提供養をするならば 抜苦与楽は疑はじ 南無や女人の成仏経  
  女に生るゝその人は 血盆経をどく誦して 人にも勧めわれもまた  
  ともに後生を願ひなば 先だつ母おや姉いもと あまたの女人ももろともに 
  血の池地獄の苦をのがれ 地蔵菩薩の手引にて 極楽浄土に往生し   
  常に無上の法をきく 諸仏菩薩を供養せん 南無や女人の成仏経 
  (「延命地蔵菩薩経 付仏説大蔵血盆経 血盆経和讃」正泉寺による) 
北関東に多くあった「十九夜講」は、安産の神、十九夜様を主尊とし、数ヶ月に一度、19日に集まって、如意輪観音による血の池地獄からの救済を謳う「十九夜念仏和讃」を唱えるというものであった。「十九夜様お礼(洗濯場)」(栃木県佐野市の十九夜講のもの)  
  帰命頂来十九夜の 御堂の前を眺むれば 老若男女が集りて 
  おいさめ申す念仏は 家内安全身の祈祷 嫁も娘も安産に  
  守らせ給え観世音 一には大日如来様 二には日月薬師様  
  三には三世の諸仏様 四には信濃の善光寺 五には五池の如来様 
  六には六道の地蔵様 七には七尊観世音 八には八幡大菩薩   
  九にはくりから不動様 十には当所の神仏 それを念ずる友がらは 
  十悪大難のがるべし 死して冥土に行く時は 八万余仭の血の池を 
  かすまな池と見て通る 女人救はんその為に 血の池地獄へお立ち会い 
  血の池のがるお念仏は 十九夜様の御本尊 火水あらためこうむりて  
  さてまたごんぎをとり清め さてあさましや月のやく 十三十四の頃よりも  
  四十二三が身とめなり 月には七日のやくなれば 年には八十四日ある 
  今朝まですみしが早にごり 濁ごりし我が身をせせぐには ぼんちの下の井の水で 
  井の水くんですすぐべし すくいてこぼすも恐ろしや こぼせば大地が八つにわれ 
  ほのぼの煙も立ち上り 山へこぼせば山の神 地の神荒神けがすなり 
  川ですすげば川下の 水神様も汚すなり 池ですすげば池奈落 
  両え浄土を汚すなり 天日でほすも恐ろしや 日輪様をけがすなり 
  夜干にほせば星明神 月輪様を汚すなり まだその外におそろしや 
  ちりに交りて火にくばり 普賢ぼさつや釜の神 三世の諸仏を汚すなり 
  南無阿弥陀仏のお念仏を 三べん申して桑の木の 桑の根本えこぼすなり  
  その血のとがも恐ろしや 夜昼血の波わきかえる ひろさが八万余仭なり 
  深さが八万余仭なり 中へ落ちる罪人が 池のそこへおし込まる 
  上へうがみて空見れば 上にはれん上の綱をはり あらあら恐し鬼達が 
  黒がねちょうしを手に持ちて 我らのしゃばのやく水が のみほせかいほせかしゃくする 
  如意輪様があらわれて さほど罪もあるまいに 我らがしゃばにありし時  
  遊びにもししお念仏 ほうらい山の山となり ほうらい山の山あれて  
  ひらきし蓮華が五本立ち つぼみし蓮華が四本立ち 九品浄土へまえるには 
  開きしれんげを笠にして つぼみしれんげを杖につき 法け経だら経みのに来て 
  行かぬかなわぬ道なれば 雨の降る日も風の夜も 昼夜にさべつさらになし 
  ついたち九日十九日 二十九日のお念仏で 八万余仭の血の池を  
  申しうめたい南無あみだ 念仏からくる唐糸は 極楽浄土のこの門を 
  銭でも金でもあかばこそ 念仏六字でさらとあけ 極楽浄土のまん中え 
  黄金の御堂が三つたち 上なる御堂をみたまえば 釈迦とだるまのお立ちあい 
  下なる御堂を拝むれば 父と母との住む浄土 極楽浄土へこぎ給へ 
  申し浮みし南無あみだ    
(坂本要「民間念仏和讃と安産祈願 利根川流域について」藤井正雄編「浄土宗の諸問題」による)十九夜様の姿は十九夜塔という石造物に刻まれているが、明らかに二臂の如意輪観音である(女性の墓碑に刻まれるものと同様)。これは、血盆経信仰から転じた信仰である。
結び 
以上、すべての事象について詳述することはできなかったが、日本における血盆経信仰の様相について述べてきた。 
一般的に、古い時代の日本においては、女性の血のケガレは問題視されていなかったといわれる。それが、陰陽道の影響によって次第にケガレ意識が拡大し、血も忌まれるようになっていった。また、その一方には仏教の女性劣機観もあった。血盆経信仰は、両者のうえに塗り重ねられる形で、日本の中に浸透していったのである。 
かつて血盆経を版行していた各寺院は、当然のことながら、現在はその頒布をほぼやめている。また流れ灌頂も、習俗としてはまったく行なわれていない。女人講もすたれつつある。一般的に山岳霊場は女人禁制であったが、わずかなところを除いて、その禁制も解かれた。 
女性差別そのものである血盆経信仰は、今は忘れ去られつつある。それが歓迎すべきことであるのは、言うまでもない。だが、いまだ民間には、女性をケガレた存在とする観念が残っており、日本の女性観・ケガレ観の変遷を考えるときには、この信仰のことを念頭におく必要があろう。
血盆経 1 
大日本続蔵経に《仏説大蔵正経血盆経》と題して収められている全420余字からなる小経で、血の穢(けが)れゆえに地獄へ堕ちた女人を救済せんがための経典である。中国では明・清の時代にかなり広く流布していたもので、仏教、道教、ある特定結社のものなどが存在しており、内容も多少異なっているが、いずれも血にかかわる罪を犯した者は血の池地獄に堕ちると説かれているのに対し、日本の《血盆経》には、産や月水の血で地神、水神等を穢した女性のみが、この地獄に堕ちるとされている。  
血盆経 2  
女性の救済を説く仏教の経典。中国で明代に流行したものが日本に伝えられ、室町時代から江戸時代に広く民間に流布したが、正統な経典とは見なされていない。漢字400字余の小経で、出産や月経による血穢のため女性は死後血の池地獄に堕ちる定めであるが、この経を信仰すればその罪から逃れられると説く。後に仮名書きに改められ、〈変女転男〉の護符とともに普及した。
佛說大藏正教血盆經 1  
爾時目連尊者昔日往到羽州追陽縣見一血盆池地獄闊八萬四千由旬池中有一百二十件事鐵梁鐵柱鐵枷鐵鎖見南閻浮提女人許多被頭散髮長枷杻手在地獄中受罪獄卒鬼王一日三度將血勒教罪人喫此時罪人不甘伏喫遂被獄主將鐵棒打作叫聲目連悲哀問獄主不見南閻浮提丈夫之人受此苦報只見許多女人受其苦痛獄主答師言不干丈夫之事只是女人產下血露污觸地神若穢污衣裳將去溪河洗澤水流污漫誤諸善男女取水煎茶供養諸聖致令不淨天大將軍劄下名字附在善惡部中候百年命終之後受此苦報目連悲哀遂問獄主將何報答產生阿娘之恩出離血盆池地獄獄主答師言惟有小心孝順男女敬重三寶更為阿娘持血盆齋三年仍結血盆勝會請僧轉誦此經一藏滿日懺散便有般若船載過奈河江岸看見血盆池中有五朵蓮華出現罪人歡喜心生慚愧便得超生佛地諸大菩薩及目連尊者啟告來勸南閻浮提人信善男女早覺修取大辦前程莫教失手萬劫難復佛告說女人血盆經若有信心書寫受持令得三世母親盡得生天受諸快樂衣食自然長命富貴爾時天龍八部人非人等皆大歡喜信受奉行作禮而退
佛說大藏正教啟信血盆经 2  
尔时目连尊者。昔日往到羽州追阳县。见一血盆池地狱。阔八万四千由旬。池中有一百二十件事。铁梁铁架铁柱铁锁。见南阎浮提许多女人。披头散髮。长枷杻械。在地狱中受罪。狱卒鬼王。一日三度。将血勒ヘ罪人吃。此时罪人不敢弗吃。遂被狱主将铁棒打作叫声。目连悲哀。问狱主。不见南阎浮提丈夫之人受此苦报。只见许多女人受其苦痛。狱主答言。不干丈夫之事。只是女人產下血露。汚触地神。幷秽衣裳将去溪河洗浣。水流汚犯。有诸善男信女取水煎茶。供养诸圣。致令不净天大将军箚下名字。附在善恶簿中。待百年命终之后。受此苦报。目连悲哀。遂问狱主。将何报答產生阿娘之恩。出离血盆池地狱。狱主答师言。惟有小心孝顺。男女敬重三宝。更为阿娘持血盆斋三年零六十日。仍结血盆胜会。请僧转诵此经一藏。满日懺散。便有般若船载过奈何彼岸。看见血盆池中有五朶莲花出现。罪人欢喜。心生惭愧。便得超生佛地。诸大菩萨及目连尊者启吿。奉劝南阎浮提善男信女早觉修取。大办前程。莫ヘ失手。万劫难逢。佛说女人血盆经。若有信心书写受持。令得三世母亲尽得生天。受诸快乐。衣食自然。长命富贵。尔时天龙八部人非人等。皆大欢喜。信受奉行。作礼而去。  
佛說大藏正教血盆經 3  
爾時目連尊者昔日往到 羽州追陽縣見一血盆池 地獄闊八萬四千由旬 池中有一百二十件事 鐵梁鐵柱鐵枷鐵鎖 見南閻浮提女人許多被頭散發長枷杻手在地獄中受罪 獄卒鬼王一日三度將血勒教罪人吃 此時罪人不甘伏吃 遂被獄主將鐵棒打作叫聲 目連悲哀 問獄主不見南閻浮提丈夫之人受此苦報 只見許多女人受其苦痛獄主答師言 不幹丈夫之事 只是女人產下血露 汙觸地神若穢汙衣裳 將去溪河洗澤水流汙漫 誤諸善男女取水煎茶 供養諸聖 致令不淨 天大將軍劄下名字附在善惡部中 候百年命終之後受此苦報 目連悲哀 遂問獄主將何報答 產生阿娘之恩 出離血盆池地獄 獄主答師言 惟有小心孝順男女 敬重三寶更為阿娘持血盆齋三年 仍結血盆勝會 請僧轉誦此經一藏滿日懺散便有般若船載過奈河江岸 看見血盆池中有五朵蓮華出現 罪人歡喜心生慚愧 便得超生佛地 諸大菩薩及目連尊者啟告來勸 南閻浮提人信善男女早覺修取大辦前程 莫教失手萬劫難複佛告說女人血盆經若有信心書寫 受持令得三世母親 盡得生天 受諸快樂衣食自然 長命富貴 爾時天龍八部人非人等 皆大歡喜信受奉行作禮而退  
仏説目連正教血盆経/訳  
私はこう聞きました。あるとき仏は鹿野園におられ、1250人もの弟子たちも一緒でした。  
そのとき目連尊者は羽州追陽県におり、そこで血盆池地獄を見ました。そこは84000由旬もの大きさで、120もの鉄梁鉄柱鉄枷鉄鎖があるのですが。見ると南閻浮堤の女人が大勢いて、頭を割られ、髪を散らし、枷をのばし、手足が傷ついており、地獄にて大苦悩しているのです。地獄の鬼王は一日三度、縛縄を引いて罪人たちに汚血を飲むよう命じます。従わない罪人は獄王により鉄棒で叩かれ、叫び声が響き渡ります。目連は悲しくなって獄王に聞きます。「南閻浮堤の男子が見当たらぬ。ここで苦しんでいるのは、女人のみ大勢のように見えるが」と。獄王は答えます。「ここは男子には関係がないのです。女人がお産の時に出す血が、地面について地神を汚してしまいます。また汚れた衣服を川で洗うと水が汚れ、その水を誤って善人が汲んでしまいそれで煎じた茶で供養してしまいましたなら。諸聖まで汚れてしまいます。そこで天大将軍さまがその名前のものが100年後、命尽きた時にかような苦報を受けるべしと善悪簿に書かせるのです」と。  
目連尊者は神通力をつかって仏や大菩薩たち、天竜八部衆などがおられる場所にやってきます。目連尊者は、自分が目撃したことを事細かに仏に報告し、仏に申し上げます。「世尊。どうか教えてくださいませ。自分を育ててくれた恩ある慈母を、血盆の苦しみからどうやって救出すればよいかを」と。仏は仰せ。「とてもよい質問だ。その恩に報いたいと願う孝順男女は、三宝を敬い長斎(血盆斎)を三年と六十日行い目連聖号を礼讃せよ。さらに勝会(血盆勝会)の終わりにはお坊さんにこのお経を展誦してもらい、呪文を授持せよ。かくなる懺悔をやりとげた日に、般若舩が出現して奈河江の岸を渡してくれるし、また血盆池の中に五色の蓮華が出現し、そのとき罪人たちは皆大喜び。慚愧心が起これば、すぐに仏国土に登ることができる。そこでさらに呪文を唱えよ。『なむさんまんたばだらお‥(略)‥さばか』」と。  
仏は目連、および菩薩たちに仰せ。「汝らは、このお経を伝え、人々にさっき述べた教えをいち早く理解させよ。この教えなくば、千万劫の災難に相当する損失だ。このお経を信じ書写する人の現在過去未来の母親たちは、亡くなった後、天界に生まれて諸快楽衣食を意のままに得るだろう。母親が早世した後でも母のために励むならば、母は業縁から脱して救われ、浄土に生まれるであろう」と。  
そのとき目連尊者および菩薩天竜八部衆たちは仏のお言葉を聞き、皆大喜びしました。そしてこの教えを心に刻みつけ、礼をして退出しました。  
この功徳により、女人たちが皆、血盆池から出て安楽国(極楽浄土)に生まれますように。  
釈氏沙門證 
 
仏教の女性観について

女性を不浄のものと見なす考え方を、比較的初期の仏教経典から挙げてみると、「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(「仏本行集経」「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(「相応部経典」)、 
「女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。(中略)この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。」(「転女身経」)などなど。ここまで罵倒しつくされるとなんだか笑ってしまうが。 
もともとは釈迦が男性であり、教団が男性中心に発足したため、女性を修行の妨げとして遠ざける意味で、男を誘惑する(勝手に惑わされた場合を含めて)という観点からの「不浄」観念だったが、中国や日本に仏教が伝わったのち、中国・日本古来の〈血の穢れ〉の観念と結びつき、出産や月経のさいに大量の血を流す女性の存在それ自体を、穢れたものと見なすようになったものらしい。 
その最たるものが十世紀に中国で作られた(日本伝来は室町期)経典「仏説大蔵正教血盆経」である。これは出産のさい、女人の血露(あるいは悪露)が大地の神を汚し、さらに汚れた衣服を川で洗うことで水を汚し、人が知らずにその水を汲んで茶を煎じて神仏にそなえ神仏にまで汚れを及ぼしてしまう。その罪ゆえに女は血盆池(血の池)地獄に堕ちるのだ、とする。 
もっともちゃんと救済方法も含まれていて、くだんの女性の身内(男性のみか?)が追善供養を行えば、血盆池に蓮華が現れて女人は成仏する。また女人自身が血盆経を書写して身につけていれば、天に生まれ変わることができるとも言う。ここでは出産の血の穢れしかふれられてないが、別の版の血盆経では月経の血も血盆池に堕ちる要因に数えられているという。十五世紀以降、血盆経はさかんに信仰されたそうである。 
一方で「産まず女地獄」なるものも「熊野観心十界曼荼羅」に登場する。その名の通り子どもを生めない不妊の女性(わけあって子供を産むことのなかった女性も含む)が堕ちる地獄である。こうなると女と生まれたら最後、逃げ場がない感じである。川村邦光「女の地獄と救い」は、 
「民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、そのときどきにお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできた。それは一時的な穢れにすぎなかった。しかし、血と母性を穢れとし、女性の本性を救済しがたい不浄性にみた仏教教説は、永続的に穢れを内在させ、不浄を本性とする存在へと女性を変質させていったのである。」 
と書く。また宮田登「総論−民俗宗教のなかの血穢感」は、「月経に対する本来の感覚は、有名な神話上のヤマトタケルとミヤズヒメの説話にみられるように、「不浄」とする観念はなかったはずである。」とする。この「ヤマトタケルとミヤズヒメの説話」というのは、「古事記」中でミヤズヒメと結婚したヤマトタケルが、宴席でミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついてるのに気づいて、「(前略)襲(おすひ)に裾に 月立ちにけり」と月経を新月になぞらえた歌をよみかけたエピソードのことである。 
たしかに彼女は月経中に小屋ないし部屋にこもるでもなく堂々宴席に出ているし、夫の冗談に対し、「あなたを待ちくたびれて月も上ってしまった」といった意味の歌をさらりとよみ返している。さらにこのあと二人は褥を共にもしているのだ。もっともこれについては〈ケガレの期間の女と媾ったためにヤマトタケルはまもなく死ぬに到った〉とする説もある。 
さて例の「変成男子」であるが、これは本来成仏できないはずの女人が功徳を積むことによって男性の身体に変化し、往生をとげることができる、というより男性でなければ往生できないので、必要最低限の資格を手にいれることができる。男性に変じたのちさらに善根を積まねばならないようだが、これまで以上に何をしたらいいのかはよくわからない。 
女人には五障(くわしくは「伏姫の変容」参照)があるから成仏できない、という説と「変成男子」の概念とどちらが先に生まれたのかは不明だが、女性たちは「提婆達多品」ほかの転女成男を説いた経文を読み、穢れた女の身体から解脱し、男性と変じて成仏することを願っていたらしい。この「変成男子」の教えは女性の救済を目的としてはいたものの、女の身体のままでは成仏できない、という形でむしろ女性差別を助長していたとして、近年フェミニズムの視点から、「血盆経」ともども批判を加えられることが多い。 
 
大龍山 正泉寺(千葉県我孫子市)

弘長3年(1263)北条時頼の娘・桐姫(法性尼)による開基と伝わる。当初は法性寺と称したが、150年ほどのち、法性尼の霊のお告げにより住職が近くの沼へ行くと蓮に乗った経文が現れたことから正泉寺と改められた。 
この経文「血盆経」により女人成仏が可能となり、以降「日本最初女人成仏血盆経出現道場」として女性の信仰を集めた。血盆経の出現を描いた縁起絵や板木などが千葉県指定文化財(有形民俗文化財)となっている。 
また、光格天皇(強引に言えば皇女和宮の祖父!)の祈願所でもあったという。  
血盆経について 
昔、女性は穢れ(ケガレ)のため死後は成仏できずに血の池(血盆)地獄に堕ちるとされていました。血盆経は女性を救済し成仏を可能にするという短文の経典です。 
古代には女性の穢れは問題視されていなかったそうですが、陰陽道の影響(!)によって穢れ観が広まり、中国から日本へ室町時代頃までに伝来したと考えられる血盆経が民間に浸透していったようです。複数の宗派で血盆経信仰が見られましたが、曹洞宗においてはこの正泉寺が中心的寺院であり多くの女性の信仰を集めていたそうです。正泉寺では「日本最初女人成仏血盆経出現道場」と掲げていますが、お経が沼から出現したのが日本最初、ということなのでしょうか。最初で最後だったりして? 
正泉寺の血盆経縁起(また寺号の由来)は、前身である法性寺開基の桐姫(法性尼)の霊が村娘に取り憑き「血盆地獄から救って欲しい」と告げたことから始まっていますが、他の書物によると法性寺にはそれとは別の古い伝説も残っているそうです。つまり正泉寺が江戸中期頃から血盆経信仰を広め始める際に、桐姫がらみの新しい縁起が作られたらしいというのです。 
たとえそうだとしても、信仰を広めるためわざわざ桐姫に登場して頂いたということは、すなわち桐姫開基説をさらに裏付ける逸話と言えるのではないでしょうか。北条ファンとしてはこれは重要なことなのでありまする。 
さて、女人成仏とは裏返せば女性差別そのものであり、現在では血盆経信仰は各寺院でほぼ廃れてしまいました。とはいえ、今日の女性の抱える社会的・家庭的・身体的問題などからの救済のために心の支えとしてあり続けるお寺であって欲しい、と願わずにはいられません。  
 
正泉寺の「血盆経縁起」

問題点 
知られるとおり、都部地区に所在する曹洞宗の古刹である正泉寺に所蔵される血盆経関係の資料類は、平成10年に千葉県の有形民俗文化財として一括指定を受けています。これらの資料に対する研究は、以前からも若干はなされていましたが、指定を期として県の内外の諸機関で公開されたこともあって、現在では各方面からの注目をあつめ、研究がなされているのは自然の経緯であるといえましょう。 
いったい、女人済度を説く血盆経一巻は、中国で10世紀以後に作られた疑経とされていますが、この経が正泉寺開基北条時頼の娘である法性尼と関連づけられて、中世に手賀沼から出現したことをのべる漢文の「血盆経縁起」こそは、正泉寺の指定物件中の中核をなす資料であるのはいうまでもありません。とりわけ、奥書に「元文元年歳次丙辰春三月 近江 千丈実巌撰」という年記と撰号をもつ筆写本一巻(以下、正泉寺本)は、この年記によって、日本に現存する同書のうちでは最古のテキストとされています。管見の限りでは地元でも県でもみなそのように受けとり、扱っているようです。 
しかしながら、私はかねてからこの正泉寺本については大きな疑問を抱いていました。なぜならば、曹洞宗宗門にあっては、近世後期の学僧として著名おくあたわざる千丈実巌(1722-1802)その人は、じつは元文元年(1736)にはまだ15歳の若輩にすぎず、「近江」の2字は千丈が晩年に居住した近江粟津の無名菴時代のことを指すとすれば、なおさら元文元年からは遠ざかること、また、正泉寺本の筆跡は、諸方に遺存している能筆雄渾な千丈の筆致とは似ても似つかぬ異筆の筆跡であること、などによるからであります。一方、現在の曹洞宗では、血盆経関係の文献はいわゆる女性差別思想に基づく人権抵触の文献として、その取扱いには差別の再生産に繋がらぬよう厳重な配慮が義務づけられていることもあって、宗門人である私はこれまでこの問題意識を抱えたまま、あえて沈黙を守ってきました。 
ところが、この正泉寺本が一向に基礎的な文献批判がなされぬまま、相変わらず元文元年に千丈実巌が撰述した著述、中には元文元年の千丈自筆本として理解するものまであり、市史などの公的な刊行物の取扱いの誤りなども、もはや看過の度を超えると判断するものであります。そこで、それでは正泉寺本はいつ、たれがいかなる背景のもとに書写したのか、という文献史的な方面の照射を中心に、あまり本文内容にはふれない範囲で、以下に私感を述べさせていただきます。 
千丈実巌の「縁起」撰述 
千丈実巌という不世出の碩学の著作には、「千丈巌和尚語録」3巻(「曹洞宗全書」語録五所収)のほかに、厖大な詩文の集成である「幽谷余韻」30巻(前編は享和2年刊、後編は文政10年刊)があります。その巻21の末尾には、当面の「血盆経縁起」(以下、幽谷本)とその撰述後記が収められています。この幽谷本と正泉寺本とを対校すると、文章は一字一句完全に同一であります。つまり、これによって正泉寺本の本文は確かに千丈の撰述であることは間違いない、と断定できます。そして幽谷本には元文の年記などはなく、上述の後記(無題)が詳記されているのです。この後記によって、千丈がなぜ漢文の「縁起」を著したのかが判明いたします。そこで、やや長文にはわたりますが、一般者にとっては「幽谷余韻」などという文献も稀覯でありますから、以下に駒澤大学所蔵本によって該当する部分を引用しましょう。 
「実巌曰、余疑血盆経久矣。及于大沢火後、改鋳大鐘、多命采地丁男、踏扇鞴版。婦女之遊観者、亦雑還入爐屋、戯謔之余、嬉代諸丁踏之。既而潅注、洋銅凝結、不入模範。万人発咲、冶工失色。因更数日、再整模型、以鼓鋳之。冶工詣丈室、謂余曰、爐鞴之処、堅禁婦人、前日誤汗、鐘不成也。今日請命執事、痛制尼女、忽近爐辺。余即命如其所請。既逮嚢籥激扇、猶見炭黒、銅錫不液。冶工周章、不知如何而可。時有一僧曰、無血盆経乎。曰、有。曰、試投爐中。余出所持之本、授之冶工、冶工敬而爐之。則見随手、満爐通紅、銅液洋洋、流入模中。冶工欣抃、人唱萬歳。鐘成円満、僅出土中、洪纖為響。余於是乃信血盆経有霊、善潔禍水之汗、然唯取其陀羅尼、未全信経、竊怪其文、雑以俗字、而如不似余経典雅、故不敢輙印施于人也。台住長國、会得故人、前住定津亨寛和尚、来訪夜話。乃知和尚、嘗応正泉寺請、為衆説法数日、因拝湧出血盆経、及彼地蔵菩薩。是以委問血盆経因由、和尚演説如上所記。是時和尚、復将東遊、余請正泉寺所伝縁起一本、謄写見遺。其後、果送血盆経二本与縁起倶。経与世間所流布大同小異、縁起頗異、而詳悉也。和尚書言、正泉所伝雖昔如此、而恨国字朴陋、雖欲以伝殊方異域不能也。願仮座下之筆、訳為一篇漢文、而副血盆経、以附商舶、伝之彼地。彼地信如此方、則復有人訳為梵文、以伝竺土。如此展転不已、則使斯経、遂得弥綸十方仏土、以済永劫女人沈淪。且旌日本群神、皆是仏菩薩之変、而国有如此之勝、豈非莫大福利乎。余読其書、不忍棄置、又悔従前怪疑之罪。故拠其所寄国字縁起、以叙列如右。如有差誤、君子是正。」 
以上ですが、この貴重な後記によって、千丈が和文の「縁起」を漢文に翻訳したことが知られます。翻訳するにいたった事情もまた漢文ですから、いま、その要点を要約しておきましょう。 
1.血盆経には以前から疑念を抱いていたが、大沢寺の大鐘を鋳造する際に霊験があり、従前の考えを改めた。 
2.長国寺住持のとき、定津院前住の亨寛から、嘗て正泉寺に招かれて説法数日の折に湧出血盆経と地蔵尊を拝し、同経出現の由来を知った話を聞き、再び東遊の際には正泉寺に伝わる湧出縁起を書写してほしいと依頼した。 
3.後日、亨寛より血盆経2本と「縁起」とを送ってきた。「縁起」は世間に流布するものとは大差があり、より詳細である。亨寛によれば、正泉寺のものは昔から伝存する和文体であるが、地味で飾り気がなく他国(中国)には伝え難いので漢文にしてほしい、と。 
4.そこで亨寛から寄せられた和文「縁起」を漢文体とした。 
ほぼ以上ですが、若干のコメントをしておきます。ここに出てくる正泉寺以外の寺名はすべて長野県内の曹洞宗寺院です。大沢寺は大町市の古刹で千丈の先住地。長国寺は真田氏歴代の菩提寺であり長野市松代の名刹。定津院も東御市祢津に所在する著名な古寺です。ただ上の文中に見える「亨寛」の名は誤りで、正しくは定津院22世の享寛?貞(1785寂)です。享寛和尚については目下これ以上のことは未詳ですが、遠路信州から下総正泉寺に招かれて説法数日(授戒会であろうか)を行うからには、当時名だたる説教師で正泉寺住職とは昵懇の関係にあったと考えられます。この人は晩年に再度正泉寺を訪れて「縁起」を書写し、これを千丈に送り届けたのでしょう。 
千丈も詳しい伝記は未詳ですが、「語録」などによれば、上記の大沢寺から長国寺に迎えられたのは安永8年(1779)であり、のちに滋賀県粟津に無名菴を開いて移住する寛政4年(1792)までの13年間、長国寺に住しています。「縁起」の漢文訳はまさにこの間ですが、上の引文中に享寛のことを「故人」と称しているからには、享寛が遷化した1785年以降であり、つまり1785-1792年の間の作ということに限定されます。おそらくは、享寛の生前に和文「縁起」の謄写本を受け、遷化の直後に漢文訳が成ったのでありましょう。 
正泉寺側からみて重要なことは、享寛が謄写した和文「縁起」の底本は、正泉寺に古くから伝存していた素朴で飾り気のない文体のものであり、それでも当時世間に流布していた本よりは内容が詳細であった、という点です。この古本「縁起」はすでに現存しませんが、18世紀の末期までは伝存していて、世間の流布本よりは詳しい内容であったことが判明するのは、「縁起」の文献史上貴重であります。それでは一体、現存する元文元年の年記のある正泉寺本は、いかなる意味をもつ文献なのでしょうか。 
月鑑太円の血盆経広布 
ここにいたって、どうしても正泉寺23世月鑑太円の血盆経を広布した業績についてふれなければなりません。まず、正泉寺に現存する数ある血盆経関係の板木中、最古のものは寛政4年(1792)の年記がある月鑑が著した無題の3枚です。その概要は、第1枚目は「血盆経・地蔵尊縁起」の題名のみ、第2枚目は血盆経の功徳がお家流の和文体19行に彫られ、第3枚目は同じ書体で、それが法性尼との関係により手賀沼から涌出したことに因る大龍山正泉寺への改称をのべる縁起5行、および月鑑の署名と大印2箇、「寛政四年七月二十四日」の日付け、3名の戒名とその菩提を弔う施主名「信濃国水内郡柳原庄葛山郷上野村 小川兵庫藤原昌信」がそれぞれ彫られています。これら3枚の板木は、各中央部分が大きく空いているところから、印刷して中央で折り、冊子の形に仕立てた為の板木とみられます。つまり、これは月鑑が血盆経を広く布教するために作成したものに違いありません。因みに、24日は地蔵の縁日です。 
ところで、施主の住所は現在の長野市戸隠で、小川兵庫は寛政期には代官職の人でした。なぜこんな遠方の代官が上の板木作成の施主となったのかは未詳ですが、月鑑と信州の前記享寛・千丈といった人びととの関係からであったのかもしれません。月鑑も詳しいことは不明ですが、龍泉院(柏市泉)第17世として安永5年(1776)ごろから数年間在住し、天明初年(1781-)ごろに正泉寺へ移住したと考えられる人です。天明4年(1784)に我孫子市新木地区の葺不合神社境内に沖田村講中30人が庚申塔を造立した際、月鑑は正泉寺23世として導師を務めています。また、その前年に紀州徳川家桂香院(徳川宗直の娘)が書写した紺紙金泥の血盆経2巻が正泉寺に奉納されている(現存)のも注意してよいでしょう。 
瞠目すべきことは、先に見た享寛(1785寂)が正泉寺で説法をしたり再訪した際の住職こそは、年代的にみて月鑑であったと考えられます。したがって、月鑑は享寛に対して千丈への「縁起」漢文化を喜んで依頼したことでしょう。ただ、千丈はなぜかその依頼にすぐは応じられなかったこと、先に見たとおりです。 
ところが、ここにまた驚くのは、これも当時宗門きっての学僧として知られる黄泉無著(1775-1838)の作品中、「正泉寺大円の需めに応じて国字の血盆経を訳する因由」という題の漢文「縁起」一篇が遺されていることです。大円は太円の誤りですが、月鑑は黄泉にも漢文訳を依頼したようです。その漢文「縁起」は黄泉の語録を集めた「雖小菴雑稿」(「続曹洞宗全書」語録三所収)巻下のものですが、これも一般には未知の文献と思われますので、以下に資料としてその全文を紹介しましょう。(句読点は椎名) 
「下総州相馬郡、昔有発戸村、今改一部村。村有法性寺、今改正泉寺焉。原其所以改也。応永四年丁丑四月廿四日、其村某氏女年甫十三、忽感病発狂。顔貌変如中年貴婦人状、其身腰下如新染朱、苦状万端巫医拱手。女曰、請法性寺和尚、吾欲有啓告。父母速請和尚。女曰、大師忽疑吾言、吾則北条時頼女法性尼也。不幸先父而死、父建法性寺弼吾冥福。吾昔在世、雖中年入道、徭怒嫉痴熾然不輟、徒耽世楽。俄爾下世、直入血盆地獄、身受蛯形。和尚或疑乎、以十評紙拭其肌膚、鮮血淋漓不絞而滴。女曰、不啻如是、吾塔在寺背松下、請往而誡之。和尚徒人見之、亦糢糊染血。和尚曰、法性去世百六十年、何為不早請救度、因循至于今日乎。女曰、陽間得罪、在牢獄者尚不得通信於家。況冥中之獄犯罪之身安得、有通信請杪度之暇也。凡女人有月水、三毒之余業也。故血盆獄中唯有女人、無有一男子焉。其受苦之劇、不可以言宣鳴咽而倒。和尚曰、如之何則可。女曰、血盆経之無若。和尚曰、余曽見庚這陽書林、范氏所刻大乗経呪目集、有目連血盆経之名。然吾朝所伝蔵中、無有此経。女曰、爾矣。然祷諸法性寺地蔵菩薩則得也。和尚将衆懇祷。黎明有一僧、審曰、汝須往手賀沼収得経。和尚赴沼有一紙経、衝波而出、無有微濡、即血盆経也。於是与衆請誦、書写満一千巻。女在其家、遥向寺謝曰、和尚慈力得経、不啻救吾、直使一時獄中無数女人脱永劫惨毒。云畢堕涙而拝焉、俄然病愈、狂輟血乾顔貌復旧矣。足利義満伝聞其現感、命改村一部、得一部新経也。改寺正泉、以経涌出也。復自扁題、以女人成仏道場六字。其扁額与涌出経、併秘蔵子寺云。」 
以上の通り、これも「縁起」の一本ですが、この文章(以下、黄泉本)は前述の幽谷本(=正泉寺本)よりも簡略素朴な傾向にあります。ただし、黄泉本にも幽谷本に存在しない要素が少なからずありますから、いずれが古型を遺しているかは速断できません。もともと両本とも正泉寺伝来の和文古本を底本としたはずなのに、その漢訳同志がなぜこんなに相違するのか、理解に苦しみます。強いていえば、古本は繁文であったという千丈の言を信ずるならば、やや簡素な黄泉本は手が加わった略本とも考えられますが、それでは千丈本にない足利義満が一部村や正泉寺の命名者とするなどの記事はどうしたのか、という点も難解です。こうした文献的解明には、全国に散在する異本類の収集と対校が必要でしょう。しかし、もし月鑑が両者に漢文訳を依頼した際、すでに潤色改変は自由などの約束ごとがあったり、月鑑自身による手が加わっていたとすれば、単純に「縁起」諸本の対校だけで解決できる問題ではありません。 
いったい、黄泉は後に名古屋万松寺や長崎晧台寺など、宗門の大刹に住した碩徳ですが、まだ雲水の修行時代には江州無名菴で千丈に参学しているのです。千丈も月鑑も同年の1802年に遷化していますから、黄泉が千丈に参じたのはその直前の27歳ごろ、と伝記の上から推考されます。つまり、千丈と月鑑の最晩年で黄泉の若き日に、この三者は「縁起」を通じて結びついてきます。その三者の間に具体的にいかなる交渉があったのかは謎ですが、近世後期に月鑑と洞門の両碩徳との関係が、血盆経の流布広宣の上にあったことだけは間違いありません。さらに、正泉寺開基の北条氏や古伝の地蔵菩薩像との関係、血盆経出現図の製作なども考慮しなければなりませんが、いまは言及の範囲を越えます。要するに、こうした複雑な背景のもとに、正泉寺本「縁起」は月鑑などにより千丈の権威を背負って元文元年の年記を付して書写され、寺の什宝として伝存されたと考えられます。 
さらにまた驚くべきことに、正泉寺の板木類の中には、上の黄泉寺本とほぼ同じ本文に「竜宮出現女人成仏血盆経縁起」のタイトルをつけ、文末には「天保九年戊戌七月一日書贈旧友正泉寺克文禅師、応台命住瓊浦勅賜海霊山普昭晧台禅寺黄泉手書」なる年記と署名を伴った板木1枚が現存している事実です。しかしながら、黄泉は天保9年12月に遷化していますし、正泉寺克文(29世真宗克文)との交流も不明です。いったい、「縁起」の漢訳はすでに40年も前に黄泉が月鑑に送ってあるのに、改めて死の直前に克文に送るなど到底考えられません。したがって、これもおそらく、正泉寺では克文の代に黄泉の肩書きや名声を借りて「縁起」を権威づけんとした所産と思われます。それもいわば月鑑による大きな遺産でした。 
こうしてみると、正泉寺の近世史の上からは、たしかに月鑑は血盆経の流布信仰に尽力した功労者ではありました。かれに関する資料を中心に血盆経関連資料が一括して県文に指定されたのも、史実としての民俗信仰的な有形物の遺存保護という観点からなされたものでしょう。しかし一面、今日の人権的視点からは、女性を罪業深き者とする差別思想を是とし、これを救済という論理で信仰に向わせる図式は、却って差別の増長という人権無視の非宗教的態度と断罪されています。上記の文献類が、かりそめにも差別の再生産に依用されることがあってはなりません。  
 
産女・和漢百物語「主馬介卜部季武」

 
季武は頼光四天王の其一人にて万夫不同の英傑なりある夜忍びて外面に出しに怪の女彳めり背に羽ありて懐に産児を抱て嘆啼有さま此世の人とも思はれず季武是をはつたと斜眼ば形は消て失にけるこは是産女の怪とぞ聞えし [隅田了古記]  
慶応元年二月(1865) 絵師・芳年/落款印章・一魁斎芳年画/改印・丑二改/版元・ツキヂ大金  
この作品は、「今昔物語集」巻第二十七の「頼光郎等平季武産女値語第四三」を題材に描かれたものと考えられる。 
源頼光が美濃守であった頃のこと、武士共が集まって雑談に花が咲いた折、美濃国の渡に出没する産女の話になった。産女は夜になって川を渡ろうとする者に赤子を抱けと言ってくるという。仲間と賭けをした平季武が九月下旬の月のない暗闇の中、一人でその川を渡りに馬を走らせた。ひそかに後をつけた若者三人がススキの中に隠れて見ていると、季武は約束通り証拠となる矢を地面に刺しているらしい。しばらくして、川を引き返し渡ってくる途中で女が出現し、「これを抱け、これを抱け」と言う。「よし、抱いてやろう」と季武が言うと、女は赤子を手渡した。すると今度は女は「その子を返しておくれ」と季武を追いかける。季武は「もう返さんぞ」と言って抱かされた赤子をそのまま奪って帰ってきた。館に帰って袖を開いてみたところ木の葉があるだけで赤子の姿は消えていた。若者三人から川での出来事を聞いた仲間達は約束通り賭け物を渡そうとしたが季武は断ったため、この話を聞く人は皆季武を褒め称えた。産女とは、狐が人を化かそうとしてするのだと言う人もいれば、お産の時に死んだ女が霊になったものだという人もいる、と語り伝えているとかいうことらしい。  
「今昔物語集」から読み取れる産女の情報は、「赤子を抱いている」「生臭い匂いがする」の二項目だけであり、産女についての細かな描写がなされていない。  
登場人物 
主馬介卜部季武  
J・スティーブンソン氏は「Shusuinosuke Tobe Suetake」(しゅすいのすけとべすえたけ)と読んでいるが、おそらく正しい読みは「しゅめのすけうらべのすえたけ」であろう。季武は平安時代中期の武将源頼光.の四人の家来(頼光四天王)の一人。天暦四年生まれ、治安二年二月死去(950-1022)、七十三歳。通称は六郎。  
満仲の老臣卜部季国の子で、季国の怒りを買って家を追われた為、伊豆国足柄山のふもとの律院に身を寄せていた。季武を追ったことを悔いていた季国は、源頼光が上総守となって下向する時、頼光に従う渡辺綱にひそかに帰家するよう伝言を頼んだ。季武も父への謝罪のとりなし執り成しを頼むために綱の旅舎を訪れたので、二人は和解し一件落着した。老父の死後、頼光に仕えることとなる。伝説では、源頼光に従って丹波大江山の盗賊酒呑童子を討ったと伝えられる。 
産女 
産女とは一般的に難産で亡くなったり、子供を死産した女の霊が妖怪となったものを言う。赤ん坊を抱き、血に染まった腰巻きをまとっていたりする。道ばたに赤ん坊を抱いて現れ、通行人に赤ん坊を抱くように頼んでくる。赤ん坊を受け取ると、離そうとしても離れず、殺されてしまったり、赤ん坊と思っていたものが墓石や木の葉であったりする。抱いた赤ん坊がだんだんと重くなり、腕が千切れそうにまでなるが、それでも重さに負けず耐えて抱いていればお礼として「怪力」や「宝玉」「名刀」などを授けてくれるとも言う。地方や文献によってその形態は様々である。 
柳田国男によれば、産女は人の死後霊信仰の現象ではなく、口承文芸からの産物にすぎないとされる。 
また、中国に伝わる「姑獲鳥(こかくちょう)」という妖怪も、産婦が死んで幽霊になったものとされており、江戸時代になって日本の産女と同一視されて姑獲鳥と書いて「ウブメ」を読まれるようになった。 
「日本昔話事典」では、「死者の霊魂が精霊になる場合で、ことに悪い死に方をして他界に入れない死者の霊魂、たとえば日本の産女もその例である」というように、産女は精霊として挙げられている。 
産女の描かれ方 / 産女とは難産で亡くなった女のことを言う、子を抱いている、出会った人間に子を抱くよう強要する、腰から下は血に染まっている、足がなく、所謂幽霊の下半身をしている 。全ての作品がこれらの要素を全て有しているわけではないが、比較的高い割合でその表現が見られる。芳年の描いた産女も「子を抱いて」おり、「腰から下は血に染まっている」。しかし、多くの作品は産女単体や産女に焦点が当たったものであり、季武の話を採り上げているのは題材と思われる「今昔物語集」と葛飾北斎の「和漢絵本魁」だけである。
葛飾北斎との比較 
葛飾北斎の「和漢絵本魁」は天保七年(1836年)の作品であり、芳年の作品(1865年)よりも早くに世に出ている。葛飾北斎は江戸後期の浮世絵師であり、幅広い画域を持つ当時大変人気を博していた才人であった。芳年の師である歌川国芳は、「当時読本挿絵や絵手本類にユニークな活躍を展開していた葛飾北斎を私淑し」ていたようであり、その弟子の芳年も北斎の影響を受けていたと考えられる。また、産女と対峙する季武の物語が記されている「今昔物語集」が、江戸時代にあまり流布していなかったようであったことも踏まえて見ると、芳年がこの題材を使用して産女を描いたのは、北斎の作品から影響を受けた可能性が非常に高い。 
類似点 / 産女と卜部季武、二人の配置、背後に横切る植物、地に生える草。 
異なっている点 / 下駄の有無、雨、月、背後に流れる川、季武の着物、産女の描き方。
江戸時代の産女像 
卜部季武と産女の背後には背景を横切るように川が流れている。題材であると考えられる「今昔物語集」の「頼光郎等平季武産女値語」では、川を渡っている途中に卜部季武が産女と会うという話なので川が描かれているのは何ら不思議なことではない。しかし、影響を受けたであろう葛飾北斎の作品には川が描かれていない(無彩色であるため断言は出来ないが)。他の産女を見てみると、川が確認できるのは鳥山石燕作「今昔画図 続百鬼」と「江戸妖怪かるた」の二つだけである。もちろん全ての産女を集めたられたわけではないので、川が描かれている産女の作品がこれ以外に無いとは限らない。 
流れ灌頂 
資料数が乏しくはあるが、この二つを見比べてみると両者共に「流れ灌頂」が描かれていることに気が付く。「流れ灌頂」とは、「灌頂の幡(はた)または塔婆を川や海に流して功徳を回向する法会。特に、水死者、難産で死んだ婦人、無縁仏などの供養のために行われるが、本来は魚類などを救うために行ったもの」である。さらに具体的に言うと、「橋の袂や小川のほとりに、梵字や死者の戒名を記した塔婆を建て、その脇に四本の棒に経文を記した白い布、または赤い布をはり、とおりすがりの人に、柄杓で水をその布にかけてもらう。月日が経るに従い、梵字が消えたり、赤色がすっかり漂白されると、やっと妊婦の霊は往生できるのだという信仰」である。この習俗は、「産後の流血が激しく、ついに落命した妊婦の数は、以前はかなりあった」ことを反映しているそうだ。これらを踏まえると、流れ灌頂を描くことにより産女が難産で亡くなった女の霊であることを示していると分かる。「産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水施餓鬼」の「施餓鬼」とは流れ灌頂を指しているのであろう。 
「東海道四谷怪談」のお岩さん 
「産女」「流れ灌頂」と並べて当時の人々が思い浮かべるのは、日本で最も有名な女幽霊、四谷怪談の「お岩さん」である。「四谷怪談」とは女岩が夫伊右衛門に騙され惨殺されて幽霊となり、伊右衛門や関わった人物に復讐を果たすストーリーの怪談で、歌舞伎や落語などによって人気を博していた。とりわけ歌舞伎の「東海道中四谷怪談」は現在でも非常に有名な作品である。 
お岩の幽霊を見た伊右衛門はお岩を成仏させようと柄杓を取り流れ灌頂に水をかけようとする。しかしそこでお岩の幽霊が出てくる。 
「伊右衛門、白布の上へ水をかける。この水、布の上にて心火となる。伊右衛門、たじたじとなる。ドロドロはげしく、雪しきりに降り、布の内より、お岩、産女の拵へにて、腰より下は血になりし体にて、子を抱いて現はれ出る。」 
逃げた伊右衛門をお岩が追いかける際には、「お岩の足跡は雪の上へ血にてつく事」と演出が細かく書かれている。さらにお岩は赤子を伊右衛門に渡すのであるが、お岩が消えた驚きで赤子を取り落とすとその赤子はたちまち石地蔵となる。 
このように岩さんはまさに産女であり、つまり当時の人々の観念としては「産女=お岩さん」であった。「江戸妖怪かるた」の産女はまさに「流れ灌頂から出る産女」、お岩さんを描いている。しかしこの雪中の場面は、「再演以後、夏狂言となって、流れ灌頂のかわりにお盆の迎え火がたかれ、提灯抜けのケレンによるお岩の亡霊出現の演出が行われるようになった」そうである。故に浮世絵に描かれたお岩の画は提灯と共に描かれているのである。 
産女と水 
また作品には斜め右へと走るように雨が描かれているが、「頼光郎等平季武産女値語」の本文には雨が降っているとは書かれていない。雨が確認できるのは、芳年の作品と鳥山石燕の作品だけである。 
「彩入御伽艸」(文化五年、市村座の夏狂言) 
「水の内より幸崎、ぼうこんのこしらへにて、心火もへて、いぜんの抱子をかゝへ、こつぜんとあらわれ出る。この時、本雨しきりにふる。(中略)幸崎、抱子をいろいろかいほうして芦間に行、うずめし印をとりだす。」 
「阿国御前化粧鏡」(文化六年、森田座の夏狂言) 
「水の中より〔栄三郎〕かさねの亡魂のこしらへ、抱子をかゝへ、忽然とあらわれ出る。この時、本雨しきりに降。」(伊原敏郎の「歌舞伎年表」には「此狂言評よく大入なりし処、七月節句、けんくわ有て一両日休、又々はじめ、盆後同じ狂言にて八月五日まで興行。」とあり、当時非常に人気の歌舞伎であったことが分かる。) 
[以上二つの資料は、高橋則子「鶴屋南北と産女—「天竺徳兵衛韓噺」の乳人亡霊から「四谷怪談」の岩への変質—」(「文学」1985年4月号)から遡らせて頂いた] 
このように産女の姿をした人物は「水の中」から現れ、しかも「大雨」が降っている時という設定である。水はそれ自体が「浄め」の意味を持っている。これは「水の洗浄力や流水の力によって罪穢をはらい清めることができるとする固有の「禊」の観念」からきている。つまり流れ灌頂という形をとっていなくても、水(芳年の作品では川と雨)そのものが「禊」を効果を果たし、水を描くことでそこから繋がる供養の意味を醸し出したのであろう。
まとめ 
当時人気を博していた葛飾北斎の「季武と産女」が先に出ていたとしても、「今昔物語集」の「頼光郎等平季武産女」を知る人はそう多くはなかっただろう。「今昔物語集」自体が江戸時代あまり流布していなかったというから尚のことである。「流れ灌頂から出る」という元々の設定が変っていたとしても、当時最も有名な産女はやはり「お岩さん」であったに違いない。  
では、何故あえて芳年は知名度の低い「季武と産女」を選択したのか。それは単に「産女」だけを描くと、望む望まぬに関わらず鑑賞者は「お岩さん」としか認識しなかったからではないか。芳年は「お岩さん」だけで作品を終わらせたくなかった。これは、作品に張られたたくさんの伏線からも言えることである。しかし、「産女と季武」を描くにしても「産女という妖怪と出会った武将季武の武勇伝」だけでは終わらせなかった。「東海道四谷怪談の産女」「水の尊さと禊ぎ」「ヒーロー卜部季武」「牛若丸」「地獄思想」といった複数の世界を想像させる工夫をこらしたのである。また類似する葛飾北斎・鳥山石燕の作品も同時期の作品であることから、鑑賞者は芳年の作品を通してこれらの作品を思い浮かべたであろう。 
このように、この作品は鑑賞者に様々な面白さを与える要素を有している。そして、そのような作品に描かれる産女が「哀れだがどこかしら滑稽」であることがまた異種の面白さを醸し出し、鑑賞者を楽しませたのではないかと考える。
産女と地獄思想 
芳年がこの作品を描くにあたっての題材を「今昔物語集」から得たのは、北斎の作品からの影響の可能性が高いことは既に述べた。しかし、芳年の描く産女はどうも北斎とは異なっている。むしろ鳥山石燕の描いた「姑獲鳥」と非常に似通った部分がある。左手で赤子を支え、右手は額に当て、前屈みとなっている弱々しい産女の姿が両作品に描かれているのだ。鳥山石燕の姑獲鳥は安永八年(1779年)のものであるから、これも芳年の作品より先に世に出ている。芳年は産女を描くにあたって、石燕の姑獲鳥から影響を強く受けたものと考えられるがそれも推測の域に過ぎず、考察が及んでいないのでここでは以上で終えることとする。 
そしてここにおいて注目したいのは、産女の下半身を染め上げる血である。産女の説明の項において「腰より下は血に染まっている」産女像が多く描かれていると述べた。芳年の産女も同じく、血に染まった布を腰に巻いている。これは、北斎の描いた産女と異なっている部分でもある。 
これに関して、京極夏彦・多田克己編「妖怪図巻」の解説では、「封建社会では家の存続が大切であったから、妊娠できないまま出産前に死亡した女性は「石女地獄」に、妊娠したまま出産前に死亡した女性は「血の池地獄」に堕ちると信じられていた。そのため、生きて自分の子どもに対面できなかった無念から亡者となってこの世にさ迷い現われた「産女」は、まるで血の池地獄に浸っていたように、下半身が血だらけに染っている。」と書かれている。つまり、「腰より下は血に染まった」産女の像は「血の池地獄」という地獄と関係しているという。
地獄思想 
日本人の仏教の思想の中に、地獄・極楽思想がある。この二つの世界が地続きで隣合わせとなっていると考えるのは「仏教経典との根本的な相違」の日本人の他界観であるらしいが、ここで注目したいのは地獄図の中に描かれる「血の池地獄」である。「血の池地獄」とは「膿血のたたえる地獄。また出産のために死んだ人がおちるという地獄」のことを言う。その様子は曼荼羅などによって見られる。曼荼羅は密教の両界曼荼羅が有名であるが、地獄極楽図が描かれる曼荼羅は浄土曼荼羅と呼ばれる浄土教の曼荼羅である。 
宮坂宥勝氏は「幕府の寺院統制による最大の産物は何といっても檀家制度である。これは一定の菩提寺と檀那との決定的な統合を前提とするもので、原則的にいって個人の信教の自由を奪ったものといえよう。しかし、その反面、檀家制度が徹底したために、すべての者が仏教とかかわりをもつようになった。これが江戸仏教の大きな特色である」と江戸時代の人々の宗教について述べている。仏教と一言で言っても、様々な種類の信仰があり、浄土教はその中の一つである。つまり、「すべての者が仏教とのかかわりをもつようになった」とは言っても、その全ての者が浄土教信仰者とは限らないのである。 
しかし、人々にとって信仰に限らず地獄の概念というものはあったであろう。それは、古くから伝わる書物や絵画作品であったりと存在を知り得ていた可能性は十分に考えられるのである。「修験道が文学や芸能や美術の面で、庶民文化形成に大きな役割を果し、その唱導の文学と芸能の中に地獄極楽が多く語られたことがわかってきた。」と五来重氏が述べているように、浄土教信仰者でなくても地獄極楽の世界を知る機会はあったと見える。 
澤田瑞穂氏は「修訂 地獄変 中国の冥界説」の中で、「世間では僧尼の所説を聞いて、婦女が出産による罪で死後にこの池に入ると伝えるのは大きな誤りである。すべての女が子を産むのは当然のことであり、たとえ難産により急死した者があっても、その汚穢を罪としてこの池に入れることはない。」としており、「この池を設けたのは、男女を問わず、陽間で神前仏後を顧みず、日辰を忌まず、五月十四・一五の夜、八月三日、十月十日、この四日に男女が交媾の禁を犯せば、諸地獄の苦を受けた後にもこの池に入れられる。また男女が好んで殺生や料理をして、その血を竈や仏堂や経典および一切の祭祀の器具にかけた者は、他の地獄を経た後もこの池に入り、容易に出ることはできない。」と指摘している。つまり、「出産のために死んだものがおちる血の池地獄」は「僧尼の所説」の誤りでしかないのである。しかし言い換えれば、「僧尼の所説」で存在を認めることができると言う事だ。当時の人々が実際「血の池地獄」をどう捉えていたのかは分かりかねるが、「出産のために死んだものがおちる地獄」と今も伝えられている以上、あながち人々の信仰に対しては「誤り」ではないのかもしれない。実際、愛知県北設楽地方では、「産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水施餓鬼」といった唄が伝えられているそうだ。 
芳年がどの資料から「産女の腰より下は血に染まっている」ということを知り得たかは分からない。しかし、同時代の書物や伝わる絵巻物に描かれた産女を見て「血に染まる産女像」を造り上げ描き、その「下半身を血に染めた産女」を見た人に、重なるようにして血の池地獄を思い浮かばせる効果をもたらしたのではないかと考える。 
   
謎の絵師「隅田了古」(千代田稲荷の浮世絵) 
千代田稲荷の浮世絵を描いた絵師について、紹介します。今回は隅田了古について。明治以後は「細島晴三」とも名乗りました。なぜこの人を最初に取り上げたかというと、千代田稲荷の浮世絵を描いた絵師5人のうちではもっともマイナーな人物だからです。ほかの4人は、人名事典などにも収録されていますが、この人物については掲載されていないようです。新聞史の分野では「新聞記者奇行伝」を書いた人物として取り上げられることがあるようです。同書は福地源一郎を始めとする記者を絵入で紹介した「新聞記者図鑑」といったところの書物です。 
明治に日本列島の全体を鳥瞰したユニークな絵地図「大日本府県名所一覧」を書いています。 さまざまな浮世絵を描いたほか、都都逸に関する書籍を執筆、あるいはその挿絵を描いています(「都々逸種瓢箪」「新令都度逸」「都々逸節用」)。 
また忠孝を薦める本を何度か執筆・監修しています(「誠忠義士銘々伝」、明治3「誠忠義臣銘々伝」、明治16「日本忠孝伝」、明治18「古文孝経読本」、明治18「佐倉宗五郎義民の誉」)。 
日常生活に役立つ実用書や漢字字典も手がけています(明治10「日要調宝記」、明治10「新撰日用字類」、明治17「大成会玉篇」)。 
明治10年代には社中を結成し、一般向けの書籍を多数出版していたらしい。明治10年代後半には「隅田了古」の名を襲名した「二世」が登場するほど権威があった人物だったようです。 
千代田稲荷の浮世絵との関連で注目すべきなのは、1861年(文久1年)の「正写横浜異人図画」の出版です。 これは横浜にたむろする外国人の姿を描いたものですが、この文章を著したのが了古であったのに対して、この絵を描いたのが横浜絵の先駆者である歌川芳員でした。歌川芳員も千代田稲荷の浮世絵を描いた人物です。 
これから何が分かるのかというと、芳員と了古には面識があるということです。千代田稲荷の浮世絵を描いた4人の絵師は同門であり、隅田了古のみ流派が不明でしたが、了古が芳員と交流をもっていたことが分かるのです。 
つまり、千代田稲荷の浮世絵を描いた絵師たちは全員一つのネットワークの中にいたということです。 
明治3年の「誠忠義臣銘々伝」でも、同じく千代田稲荷の浮世絵の絵師であった歌川芳虎と仕事をしています。 
 
隅田了古・著編書画等 
隅田了古編・歌川芳員画 文久1「正写横浜異人図画」 
歌川広重画・隅田了古記 慶應元「商易諸物の大樹」 
慶応2「町火消市中之組」 
慶応4「諸国蝋燭市」 
慶応4「道外西遊記」 
慶応4「難渋病治」 
歌川芳虎画・隅田了古訳・仮名垣魯文補 明治3「誠忠義臣銘々伝」延寿堂 
明治18「古文孝経読本」有斐堂 
明治10「西国紀聞」 
明治10「新撰日用字類」 
明治10「日要調宝記」(長友千代治編2007「重宝記資料集成」39巻所収) 
明治12「大日本府県名所一覧」 
明治14「新聞記者奇行伝 初編」墨々書屋 
都筑法尭編・隅田了古閲 明治14「明治節用大全」金松堂 
隅田了古閲 明治15「戊辰の役函館戦記」錦寿堂 
明治16「伊達黒白実記」 隅田了古序 
隅田了古序・隅田古雄編 尾形月耕画 明治16「日本忠孝伝」錦耕堂 
隅田了古序・隅田古雄編 明治16「日本名婦伝」錦耕堂 
津田鎗蔵編・隅田了古補 明治17「大成会玉篇」 
野村銀次郎編・隅田了古序 明治18「佐倉宗五郎義民の誉」滝野屋 
隅田了古筆記・芳幾画「猛虎之略説」 
佐久丸編・了古画「都々逸種瓢箪」 
竹堂梅兄・隅田了古画 明治「新令都度逸」 
叟斎了古・竹堂梅兄 明治「都々逸節用」 
隅田了古編・月岡芳年画「誠忠義士銘々伝」 
 
死穢(しえ)と血穢(けつえ)について

日本人の民俗的な信仰の根底には、ケガレという信仰的概念の存在が認められます。神道という宗教自体、ケガレという概念を前提として存在してる部分が大きいと思います。我-人間が穢れた存在であるからこそ、「払いたまえ、清めたまえ」という儀礼を行うのです。 
そのケガレ(穢れ)の代表的なものとして、死穢(しえ)と血穢(けつえ)があります。 
死穢とは、人の死ということに伴い、その死体そのものが穢れた存在となり、その死体に接した者にケガレが憑いて穢れた存在となるという考え方です。 
古くは『古事記』の「イザナミノミコトが焼死して黄泉の国に行った事に伴い、ケガレた身となった。」旨の記述が認められます。死のケガレが他に累を及ぼさないようにするため、殯屋(もがりや)に遺体を安置し喪主が一定期間そこに居住するという習慣がありました。死者の再生を願って埋葬を延期するための手段でもあり、喪主が悲嘆にくれて泣き明かす(現代風に言えば、グリ-フワ-ク)ための場でもありました。しかし、死穢という概念の存在の方がより大きな要因であったと思われます。今日でも「お葬式に参列したら、お正月が出来ない。」と言う方が結構居ます。葬儀に参列することで死穢が自分に憑いてくると思っているからです。 
血穢とは、出産や月経に伴い女性が血を出すことによってケガレが生じるという考えです。出産のため、産屋(うぶや)もしくは産小屋(うぶごや)という施設を準備し妊婦をそこに住まわせるという習俗も、血穢という概念に由来していると思います。但し、妊婦を休ませたり産後の体調回復を図ったりというするための施設でもあったと思います。母胎の健康管理という側面も当然あったと思います。ケガレを理由とした隔離とみるか、母胎の安全のための療養とみるか、そう単純には断定できないかもしれません。それぞれの時代と地域性の中で、前者が強調されたり後者が強調されたりということがあったと思います。 
民俗的な歴史の中で、血穢という概念から女性を差別してきた事例は多いと思います。例えば、霊場と呼ばれる場所が女人禁制になっている場合がありますが、それには血穢という背景が考えられます。但し、それらすべてが悪しき風習で有るか否かについては、慎重な検討が必要であろう。昨年、内館牧子氏が出された著書 『女はなぜ土俵にあがれないのか』が参考になると思われる。 
もう一つ大きな問題に、血盆経があります。血盆経信仰が一部の仏教寺院を通して伝承されてきたという問題です。血盆経(けつぼんきょう)信仰は本来の仏教の教えではありません。血穢という民俗的信仰から発生した信仰です。この経典を信仰することで血穢から女性を救済するという内容のお経(当然にせもののお経です)であり、女性を差別する内容のものですが、比較的最近までこのお経をまことしやかに伝承されてきたようです。残念ながら、これは日本仏教の負の遺産であると言えるでしょう。 
  
仏教の女性観

「伏姫の変容」で「提婆達多品」中の「女人五障」についてちょっとふれたが、変成男子・転女成男については、当時の仏教の女性観を抜きには語れないので、少々そのへんの話を書いてみる。  
女性を不浄のものと見なす考え方を、比較的初期の仏教経典から挙げてみると、「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(『仏本行集経』「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(『相応部経典』)、  
「女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。(中略)この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。」(『転女身経』)などなど。ここまで罵倒しつくされるとなんだか笑ってしまうが。  
もともとは釈迦が男性であり、教団が男性中心に発足したため、女性を修行の妨げとして遠ざける意味で、男を誘惑する(勝手に惑わされた場合を含めて)という観点からの「不浄」観念だったが、中国や日本に仏教が伝わったのち、中国・日本古来の〈血の穢れ〉の観念と結びつき、出産や月経のさいに大量の血を流す女性の存在それ自体を、穢れたものと見なすようになったものらしい。  
その最たるものが十世紀に中国で作られた(日本伝来は室町期)経典『仏説大蔵正教血盆経』である。これは出産のさい、女人の血露(あるいは悪露)が大地の神を汚し、さらに汚れた衣服を川で洗うことで水を汚し、人が知らずにその水を汲んで茶を煎じて神仏にそなえ神仏にまで汚れを及ぼしてしまう。その罪ゆえに女は血盆池(血の池)地獄に堕ちるのだ、とする。  
もっともちゃんと救済方法も含まれていて、くだんの女性の身内(男性のみか?)が追善供養を行えば、血盆池に蓮華が現れて女人は成仏する。また女人自身が血盆経を書写して身につけていれば、天に生まれ変わることができるとも言う。ここでは出産の血の穢れしかふれられてないが、別の版の血盆経では月経の血も血盆池に堕ちる要因に数えられているという。十五世紀以降、血盆経はさかんに信仰されたそうである。  
一方で「産まず女地獄」なるものも「熊野観心十界曼荼羅」に登場する。その名の通り子どもを生めない不妊の女性(わけあって子供を産むことのなかった女性も含む)が堕ちる地獄である。こうなると女と生まれたら最後、逃げ場がない感じである。川村邦光「女の地獄と救い」は、  
「民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、そのときどきにお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできた。それは一時的な穢れにすぎなかった。しかし、血と母性を穢れとし、女性の本性を救済しがたい不浄性にみた仏教教説は、永続的に穢れを内在させ、不浄を本性とする存在へと女性を変質させていったのである。」  
と書く。また宮田登「総論−民俗宗教のなかの血穢感」は、「月経に対する本来の感覚は、有名な神話上のヤマトタケルとミヤズヒメの説話にみられるように、「不浄」とする観念はなかったはずである。」とする。この「ヤマトタケルとミヤズヒメの説話」というのは、『古事記』中でミヤズヒメと結婚したヤマトタケルが、宴席でミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついてるのに気づいて、「(前略)襲(おすひ)に裾に 月立ちにけり」と月経を新月になぞらえた歌をよみかけたエピソードのことである。  
たしかに彼女は月経中に小屋ないし部屋にこもるでもなく堂々宴席に出ているし、夫の冗談に対し、「あなたを待ちくたびれて月も上ってしまった」といった意味の歌をさらりとよみ返している。さらにこのあと二人は褥を共にもしているのだ。もっともこれについては〈ケガレの期間の女と媾ったためにヤマトタケルはまもなく死ぬに到った〉とする説もある。  
さて例の「変成男子」であるが、これは本来成仏できないはずの女人が功徳を積むことによって男性の身体に変化し、往生をとげることができる、というより男性でなければ往生できないので、必要最低限の資格を手にいれることができる。男性に変じたのちさらに善根を積まねばならないようだが、これまで以上に何をしたらいいのかはよくわからない。  
女人には五障(くわしくは「伏姫の変容」参照)があるから成仏できない、という説と「変成男子」の概念とどちらが先に生まれたのかは不明だが、女性たちは「提婆達多品」ほかの転女成男を説いた経文を読み、穢れた女の身体から解脱し、男性と変じて成仏することを願っていたらしい。この「変成男子」の教えは女性の救済を目的としてはいたものの、女の身体のままでは成仏できない、という形でむしろ女性差別を助長していたとして、近年フェミニズムの視点から、『血盆経』ともども批判を加えられることが多い。 
伏姫の変容  
先に生前死をもって自身の懐妊を否定した伏姫が、死後八犬士の守護神として現れてくることへの違和感について触れたが、伏姫を慈母へと変貌させたものは何だったのか?  
懐胎を知った伏姫は八房とともに入水するにあたって法華経の五巻目にあたる「提婆達多品」を読む。これは文中にも示されているように、女人には五障(死後に梵天王、帝釈天、魔王、転輪王、仏の五つになれないこと)があり心穢れているゆえに成仏できない(できにくい)という原則をくつがえして、仏に宝珠を捧げることで(ワイロ?なんていってはいけないんだろうな)忽然と男子に変じる(変成男子)という離れ業を演じ見事成仏を遂げた娑竭羅龍王の娘について説いた経文である。  
成仏・往生を望む女性は多くこの経を誦した。伏姫が富山に入るにあたって法華経を選んで携行したのも、この〈女人成仏〉という部分に惹かれたのが大きいだろう。提婆達多品を誦したのも死の直前にかぎるまい。  
伏姫はもとよりテキスト中でも『犬夷評判記』でも、女ながら「男子魂」を持つことを強調されている。そこへさらにその犠牲精神と法華経読誦(「提婆達多品」は女人でも成仏できるというところにポイントが置かれがちだが、八歳の龍女、すなわち子供でも動物でも成仏できるということも意味している)によって八房を菩提心に導いた伏姫は、男の欲望を救済することで自らも神性を持った。  
そして伏姫は八房の子を気によって身ごもり、ために自害をはかるに至る。もともと素地があったところに提婆達多品を唱えつつ死を選んだ彼女は、見事に変成を遂げたに違いない。とは言え伏姫が男に変化したということではない。男にして八犬士の母というのも変な感じだし。思うに八房とともに菩提に入るにあたって二人の精神は融合し、それによって男性原理を感得した伏姫は両性具有体となったのではないか(伏姫の両性具有性については『海南人文研究室』の「伏臥位か?ドッグ・スタイルか?伏姫のセクシャリティーに迫る!」に詳しい考察がある)。  
「伏姫と西王母伝承」で伏姫が西王母のイメージを担っていることを述べたが、『西王母と七夕伝承』は西王母は後漢前期ごろまでは「東西、日月、男女など宇宙の二元的な要素をともに一人で具有し、それらを統合し支配していた。原西王母(引用者注・現在の女性のイメージが生まれる前の太母神としての西王母)はこれら両性を具有することによってその全能性を現していたのである」と論じる。また『民衆宗教における両性具有観』は、「世界の多くの民族に見出される両性具有観は、原始時代の神―大地母神が虚無から生じ、一身に男女両性を併せ持っていたとする観念で、歴史上にその存続が見出されるのである」とする。  
さらに『桃太郎の母』は小アジアから東地中海沿岸の古代信仰における原始母神の両性具有性―まず処女受胎(単性生殖)によって男の神を生み、その男神と交わってその他の神々やあらゆる生命を生む―について述べ、前掲『西王母と七夕伝承』も、原西王母が分裂して西王母と黄神になり、それぞれ天と地を司るとされたこと、そののち前漢末期の西王母ブームをきっかけとして新たに、西方を治める西王母、東方を治める東王公(東王父)のイメージが生まれたことを挙げている。  
以上から、原初の神は両性具有的女神=大地母神で、処女生殖によって新たな男神を生んだ、という概念はとくに東洋においてごく広く浸透していたことがわかる(本邦の天照大神もその両性具有性についてさまざまな論考がある)。馬琴のうちに両性具有の処女太母神のイメージが存したのはごく自然なことであろう。  
そもそも伏姫の本地?とされる観世音菩薩自体が、バラモン教においては女性、バラモン教を取り入れた原始仏教では男性、その後仏教の発展にともない万人を救うその慈悲心から女性的雰囲気を形成していった存在であり、現在は〈男性でも女性でもなく、またどちらにもなれる〉という両性具有もしくは無性と見なされている(観音が女性の姿で現れ衆生を救う話が『日本霊異記』などに多く見られる)。  
まとめると、法華経を誦することで伏姫と八房はともに菩提心に入り(ただし八房解脱がいつなのかはっきりしないことが犬士のパーソナリティに影を落としている。「神聖受胎か、畜生道か」参照)、そのときから両者の融合が起こり始めた。その結果が伏姫の頭部が一瞬犬と変じた「止水の面影」であり、伏姫懐妊である。そして提婆達多品を誦しつつ共に死を選ぶ(これは一種の心中と言える)ことで両者の一体化はほぼ完成し、時満ちて両性具有の太母神伏姫は処女にして八犬士を生んだ。  
自ら腹を裂いて犬士を走らす、という行為は、伏姫個人の意志においては〈八房と畜生道の交わりを結んでいない事の証明〉(「〈望まれざる子〉八犬士」参照)だったが、「天機」においては帝王切開による出産であり、伏姫が死によってうつし世の女性としての肉体を失い『八犬伝』世界の太母神と変じるためのイニシエーションであったのだ。  
こののち登場してくる「伏姫神」はもはや生前の伏姫ではなく、伏姫+八房の融合体と言うべきだろう。ただし「菩提の友」とは言っても両者は対等ではなく、やはり八房を菩提に導いた伏姫の方が八房に騎乗する姿のままに優位にあると思われる。第九話で義実は「伏姫の伏の字は、人にして犬に従ふ」の意だと解しているが、むしろ本来の字義(人の傍らに犬がひれふす姿)どおり、〈犬を従える姫〉(もしくは〈犬と人が融合した姫〉)とする方が適当だろう。  
陰に日向に犬士たちを守りつづけ、里見家の繁栄を支えた伏姫神は丶大法師の彫りあげた四天王像開眼のさいに大岩の彼方に丶大もろとも姿を消す(「丶大を〓(おふ)て親兵衛念戌富山に到る」の挿絵を参照)。このシーンについて『八犬伝綺想』は丶大が「太母伏姫をその地位から引きずりおろして女に戻」したことを指摘する。両性具有の絶対神は一人の女に返り、その守りを失った里見家は時の流れの中で盛者必衰の理にしたがって滅びてゆく。伏姫神誕生に始まる神聖里見王国と玉と痣で聖別された神童八犬士の繁栄の物語は、伏姫神の退場によって幕を下ろしたのである。  
 
仏教はなぜ女性を差別するのか

仏教は、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であるにもかかわらず、女性を蔑視するのはなぜか。この問いに答えるには、そもそもなぜ、仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタが出家をしたのか、その動機を理解しなければならない。 
1. 女性を蔑視する仏教言説  
仏教は女性蔑視の宗教であると言われている。例えば、『増一阿含経』には、以下のような、女性を蔑視する記述が見られる。  
世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり  
お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。その九つの悪い属性とは何か。女は、1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口であるということである。 [増一阿含経,第41巻,馬王品]  
仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタは、女性(彼の養母であるマハーパジャーパティー)が教団に加わることを歓迎せず、八敬法を遵守するという差別的な条件付きでようやく許可したと『パーリ律』は伝えている。さらに、五障説[r]・変成男子説によると、女性は、どんなに仏道修行に努め励んでも、女身のままでは仏となることは不可能で、成仏するには男の姿に転じなければならない。仏教が、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であることを考えるならば、仏教の女性差別を軽視することはできない。  
五障説とは、女性は、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀の五つにはなれないという説。『法華経』十二「提婆達多品」には、女は成仏することができないというシャーリ・プトラ長老に対して、竜女が、女の身を転じて、男の姿となって成仏するという竜女成仏譚がある。  
もとより、こうした女性差別の言説が見られる経典は、比較的後の時代に成立したものである。初期の文献でも、「女人は《清らかな行い》の汚れであり、人々はこれに耽溺する」[ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1, p.43]というような、女性蔑視と受け取れる発言があるものの、ガウタマ本人には、女性に対する偏見がなかったと考えることができる。しかし、後に教団内に生じることになる女性差別の萌芽を、ガウタマの思想の中に見出すことができる。すなわち、ガウタマは、女性を差別することはなかったが、女性原理を拒絶していた。 
2. 人類史の男根期  
女性原理の優位から男性原理の優位へという思想・宗教上の変化は、枢軸時代と呼ばれる、ガウタマが生きた時代の世界的潮流であった。ガウタマが仏教を興した頃、バビロン捕囚を契機としたユダヤ教の誕生(BC586)、ザラスシュトラ(BC628-551)によるゾロアスター教の創唱、孔子(BC551-479)による儒教の成立、プラトン(BC427-347)によるイデア論の提唱など、世界同時多発的に精神革命が起きた。  
In China lebten Konfuzius und Laotse, entstanden alle Richtungen der chinesischen Philosophie, dachten Mo-Ti, Tschuang-Tse, Lie-Tse und ungezählte andere, ? in Indien entstanden die Upanischaden, lebte Buddha, wurden alle philosophischen Möglichkeiten bis zur Skepsis und bis zum Materialismus, bis zur Sophistik und zum Nihilismus, wie in China, entwickelt, ? in Iran lehrte Zarathustra das fordernde Weltbild des Kampfes zwischen Gut und Böse, ? in Palästina traten die Propheten auf von Elias über Jesaias und Jeremias bis zu Deuterojesaias, ? Griechenland sah Homer, die Philosophen ? Parmenides, Heraklit, Plato ? und die Tragiker, Thukydides und Archimedes.  
中国では、孔子と老子の時代で、すべての中国哲学の方向性が打ち出され、孟子・荘子・荀子その他無数の思想家が現れた。インドでは、ウパニシャッド哲学が成立し、仏陀が登場し、中国と同様に、懐疑論から唯物論まで、詭弁学派からニヒリズムに至るまで、あらゆる哲学的可能性が発展した。イランでは、ザラスシュトラが、善と悪の戦いという挑戦的世界像を説く。パレスチナでは、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、第二イザヤといった預言者が現れた。ギリシャでは、ホメロス、パルメニデスやヘラクレイトスやプラトンといった哲学者、悲劇作家、ツキディデス、アルキメデスが現れた。[Karl Jaspers:Vom Ursprung und Ziel der Geschichte]  
「天にまします父なる神」と「母なる大地の神」と人類との三角関係が重大な変容を被るこの時代を、フロイトのリビドー発達段階の用語を用いて、人類史における男根期から潜伏期への移行期と位置付けたい。  
男根期とは、エディプス・コンプレックスが生まれ、そして消滅する、3歳から5歳の間の時期である。男の子は、当初、ライバルである父親を殺害し、母親と性交したいという、ギリシャ神話のエディプス王と同じ欲望を持つが、去勢不安から、この欲望を断念し、父親との自己同一と禁止の内在化を始める。母親を欲望するのではなくて、母親の欲望の対象であるファルスを欲望する。すなわち、父親を自我理想として超自我を形成し、母親を、去勢された、劣った性として軽蔑するようになる。  
これと同じことが枢軸時代に起きた。この時代は、サブアトランティック寒冷期の谷間にあたる。母なる自然が冷たくなって、子供の母離れが促進される時期である。母子一体の安逸をむさぼっていた人類は、今や、天罰という名の去勢におびえつつ、父なる神から与えられた禁欲的な戒律を遵守することで、死後の魂の救済を願うようになる。ちょうど、男の子が、母との性交を断念し、父との同一化を続けて、結婚によって形成される次の世帯で、母の代替(妻)との性交が可能となるように、当時の人々は、現世での幸福を断念し、父なる神の教えに従うことで、来世で幸福となることが約束されたのである。  
フロイトは、西欧の文化で育った人だから、彼の理論をユダヤ−キリスト教に適用することは容易である。しかし、仏教への適用となると、容易ではない。仏教、すなわちガウタマの教えは、本来は、これから説明するように、自発的去勢を勧める処世術であり、父なる神の崇拝を否定する反宗教だからである。にもかかわらず、仏教は、最終的には、キリスト教やイスラム教と同様に、父神崇拝の宗教となった。それはどのようにしてであるかが、この論文の主題である。 
3. 自発的去勢としての自傷行為  
ガウタマの本来の教え(根本仏教)とは、結論を非常に簡単に言ってしまうならば、苦から逃れるためには、苦の原因である執着を捨てろというものである。欲望を満たそうとするから、不満になるのであって、欲望を自ら根源的に捨てれば、つまり、自発的に去勢すれば、不満(苦)から根源的に解放される。ガウタマは、苦行という自傷行為を通して、この自発的去勢の真理に到達した。苦行といっても、ジャイナ教的な、肉体を極限状態に追い込む、一見ラディカルなようで、実は中途半端な方法によっては、ガウタマは最終解脱の境地に達することはできなかった。涅槃の境地に達するために必要なことは、肉体への自傷行為(例えば、ペニスを切り捨てるなど)ではなくて、欲望への自傷行為(性欲そのものを切り捨てるなど)である。  
神聖な修行を自傷行為と形容して病気扱いするのはけしからんと仏教徒から叱られそうだが、出家と自傷行為には、その動機において、共通点がある。例えば、失恋した女性が髪の毛を切るという軽微な自傷行為を例にとって考えてみよう。女性は、元彼という「後ろ髪を引かれる思い」を切り捨てるために、髪の毛を切り捨てる。ふられるということは、プライドが傷つくショッキングな体験である。だから、「私は彼から切り捨てられたのではない。私が彼を切り捨てるのだ」と自分に言い聞かせるように、髪を切り捨て、自分のプライドを守って、失恋という苦から逃れようとする。  
手首や腕や足を傷つける場合も同様である。自傷症は、しばしばそう誤解されているような、自殺願望の病気ではない。自傷症は、通常次のように定義される。  
[...] the deliberate mutilation of the body or a body part, not with the intent to commit suicide but as a way of managing emotions that seem too painful for words to express.  
自殺するためではなくて、筆舌に尽くしがたいほど苦痛に満ちた感情を処理する一つの方法として、身体もしくは身体の一部を意図的に傷つけること [Karen Conterio, Wendy Lader, Jennifer Kingson Bloom:Bodily Harm: The Breakthrough Healing Program for Self-Injurers]  
実際、自傷行為が自殺につながることはまれである。それは失われた主体性を取り返し、傷ついたプライドを癒す行為であって、結果として自殺の防止に役立っている。逆説的な表現を用いるならば、自傷症患者は、自らを傷つけないために自らを傷つけるのだ[注]。この逆説は、欲望を満たすために欲望を満たさないという仏教の逆説に対応している。  
[注] 朝日新聞が得意とする、いわゆる自虐史観も、自発的去勢の結果生まれた歴史解釈である。自虐史観の提唱者は、他の民族から戦争責任を指摘される前に、自ら懺悔することで、民族の主体性を取り戻そうとしているのであって、民族の誇りを失うことを恐れている点で、いわゆる自由史観を提唱する国粋主義者たちと大きく異なるわけではない。朝日新聞の購読者には高学歴のインテリが多いが、高学歴の人には、自発的去勢により禁欲的に勉学に励んだ人が多いから、自虐史観に共鳴する傾向がある。  
失恋した女性は、普通、髪の毛をすべて切り落とすことはしない。それは男に対する未練をすべて捨ててはいないことの証拠である。これに対して、すべての執着を捨てて、出家する人は、髪の毛をすべて切る。ガウタマも、出家の後、剃髪した。そして、断食もおこなった。断食を行うことは、拒食症の症状と似ている。そして、拒食症も自傷症の一種である。拒食症患者は、本当は愛に飢えているにもかかわらず、「(愛・食事等を)得ることができずに飢えているのではなくて、欲しくないから得ないだけだ」ということを体をもって示すことで、主体性のプライドを守ろうとする[論文編:拒食症はダイエットが原因か]。拒食症患者は、しばしば誘惑に負けて過食症になるが、ガウタマは、拒食でも過食でもない、禁欲主義でも快楽主義でもない中道を歩んだという点で、迷える並みの拒食症患者とは異なる。 
4. ガウタマの出家動機  
では、ガウタマは、何かプライドを傷つけられる挫折体験があって、出家したのだろうか。ガウタマの出家に関しては、四門出遊という伝説がある。ガウタマが東の門から出ると、老人に出会った。南の門から出ると、病人に出会った。西の門から出ると、死者の葬列に出会った。こうして彼は、老・病・死という苦に満ちた人生の現実を目の当たりにした。ところが、北の門から出ると、輝かしい出家修行者に出会い、自らも出家しようと決意したというのである。ガウタマの出家の真相を知ろうと思うならば、こうした類の、後の時代に作られた仏伝は無視して、最も古い経典、『スッタニパータ』に収められている「出家経」を手掛かりに、当時の時代状況を考慮に入れて推論しなければならない。  
「出家経」には、「出家して身による悪行を離れ、言葉による悪行を捨て、生活をすっかり浄めた」[ブッダのことば―スッタニパータ, No.407]とあるだけで、出家した経由が詳しく書かれていない。その代わり、出家した後、ガウタマが、故郷から遠く離れたマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)まで托鉢のために来たところ、マガダ国王が、彼に注目し、彼が隠遁する山窟にまで赴いて、軍事力の提供を申し出たが、断られたという奇妙な話が長々と書かれている。これは、今で言うと、出家を決意した中国のある田舎者が、日本の永田町まで托鉢のために来たところ、日本の総理大臣が、「立派なお坊さんだ」と感心して、彼に注目し、彼が隠遁する富士山の山窟にまで赴いて、自衛隊の指揮権を委ねようと申し出たが、断られたというのと同様の、荒唐無稽なストーリーである。  
しかし、ここに、ガウタマの隠された願望を読み取ることができる。夢とは願望充足の表現であるとするフロイトは、  
Man darf darum, wenn ein Traum seinen Sinn hartnäckig verweigert, jedesmal den Versuch der Umkehrung mit bestimmten Stücken seines manifesten Inhaltes wagen, worauf nicht selten alles sofort klar wird.  
ある夢の意味がどうしてもわからないような場合には、その夢の顕在内容の特定諸部分を試みに逆にしてみるとよい。そうすると一挙に解決のつくことがある。 [Sigmund Freud:Die Traumdeutung,Gesammelte Werke Bd]  
と言っている。「反対物への転化」を元に戻すならば、この話の原型は、ガウタマがマガダ国王に軍事力の提供を申し出たところ、断られ、出家したというようのものだったはずだ。そして、このストーリーなら、歴史的なリアリティがある。  
ガウタマ・シッダールタの父は、釈迦族の政治的指導者であった。釈迦族はコーサラ国王の支配下にあったが、釈迦族は独立心が強く、南のマガダ国と同盟を結び、南と北からコーサラ国を挟撃しようと企んだ。ガウタマは、この外交工作のため、王舎城に赴いた。ところが、当時のマガダ国は、ベンガル湾に進出しようと、ガンジス川下流のアンガ国と戦争している最中で、背後の安全を確保するために、コーサラ国と政略結婚をするなどして、平和な関係を築くことに努めていた。だから、マガダ国王は、ガウタマの軍事援助の要請をにべもなく断った。こう推測できる [磯部 隆:釈尊の歴史的実像]。  
後に、コーサラ国は、釈迦族を滅ぼすことになるのだが、先見の明があるガウタマは、この時既に釈迦族の運命を悟り、意のままにならない政治的現実を前に、出家したと考えることができる。ガウタマは、「クシャトリヤの家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である」[ブッダのことば―スッタニパータ, No.114]と述べているが、これは彼自身のことを言っているのに違いない。  
釈迦族は、カピラヴァストゥ(現在のインドとネパールの国境付近にある城郭都市)に住んでいた部族である。彼らが自分たちの土地を望んだということは、母なる大地を我が物としたいという欲望を持っていたということである。そして、コーサラ国王が、軍事力で脅して、釈迦族の独立を認めなかったことは、権力者(父)が、母子相姦を禁止し、去勢の威嚇をしたということである。ガウタマの出家はこれに対する防御反応であった。ちょうど、失恋した女性が、「自分は捨てられたのではなくて、自分から捨てたのだ」と自分に言い聞かせて髪を切り捨てるように、彼は、「自分は去勢されたのではなくて、自ら去勢したのだ」、「自分は、マガダ国王に軍事援助の要請を申し出て断られたのではなくて、マガダ国王が申し出た軍事援助を断ったのだ」と自分に言い聞かせて出家した。こうした願望を充足するために、史実に二つの逆転を施し、『スッタニパータ』の「出家経」が生まれた。私はそう解釈したい。 
5. 死の欲動と涅槃の境地  
ガウタマが行った自発的去勢は、フロイトの分類を使うならば、死の欲動の産物である。フロイトは、涅槃原則というバーバラ・ロウの仏教的表現を借用し、涅槃原則と快感原則を死の欲動と生(性)の欲動に対応させている。  
Daß wir als die herrschende Tendenz des Seelenlebens, vielleicht des Nervenlebens überhaupt, das Streben nach Herabsetzung, Konstanterhaltung, Aufhebung der inneren Reizspannung erkannten (das Nirwanaprinzip nach einem Ausdruck von Barbara Low), wie es im Lustprinzip zum Ausdruck kommt, das ist ja eines unserer stärksten Motive, an die Existenz von Todestrieben zu glauben  
私たちは、刺激に対する緊張状態を減らし、一定に維持し、終結させようとする努力を、心的生、神経的生一般の支配的傾向として認識した。これは快感原則が現れる時と似ているが、こちらは、バーバラ・ロウの表現にしたがって、涅槃原則と名付けよう。この認識こそは、私たちが死の欲動の存在を信じる最も強固な動機の一つである。 [Sigmund Freud, Jenseits des Lustprinzips, Gesammelte Werke Bd]  
しかし、性的快感は死の欲動に属するのではないだろうか。この点をはっきりさせるために、快感と享楽というラカンの区別にしたがって、快感原則を享楽原則と名付け、生の欲動は、現実原則に従う欲動とすることにしよう。  
フランス語の享楽“jouissance”には、「性的快楽、オルガスムス」という意味もあって、無制限な快感を表す言葉として使える。それは、バタイユが謂う所のエロティシズムの快楽であり、エロティシズムにおいて、人はエクスタシーという擬似的な死を体験する。これに対して、涅槃原則に基づく自発的去勢は、エロティシズムの快楽を断念することなのだから、両者は全く異なる。エロティシズムが主体性を放棄して母なる大地に戻ろうとする胎内回帰の欲動であるのに対して、自発的去勢は、母子相姦を自主的に断念することで、主体性を回復しようとする欲動なのである。ガウタマは、「諸々の汚れと執着のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない」[ブッダのことば―スッタニパータ, No.535]と言っている。これは輪廻としての胎内回帰から解脱したことを宣言したものと解釈できる。  
生物学的には、現実原則と涅槃原則と享楽原則は、次のように区別される。現実原則は、個体保存のための個体保存の行為を、涅槃原則は、個体保存のための個体破壊の行為を、享楽原則は、種保存のための個体破壊の行為をもたらす。現実原則が、純粋な生の欲動で、享楽原則が、純粋な死の欲動であるのに対して、涅槃原則は死の欲動のような外観を持った生の欲動である。すなわち、自傷行為は、自殺行為のように見えて、実は自殺を防止するための行為である。これに対して、享楽では、人ははめをはずしすぎて死に至ることがしばしばある。  
表1.『快感原則の彼岸』でのフロイトの二分法  
死の欲動          涅槃原則  
生(性)の欲動        現実原則(快感原則)  
表2. 私が提案する区別  
種保存   死の欲動  快感原則(享楽原則)  
               涅槃原則  
個体保存  生の欲動  現実原則  
フロイト以来、二つの死の欲動が混同されてきた。仏教の密教的解釈も。二つの死の欲動の混同から起きる。中沢新一によると [中沢 新一:ブッダの方舟, p.39-40]、チベットには、ガウタマが母と近親相姦をしたとか、降魔成道の際、セックスをしまくって悟りを開いたといった、とんでもない仏伝があるそうだが、セックスのエクスタシーで体験される幽体離脱を解脱と曲解し、その絶頂に涅槃の境地があるとする、チベット密教的・タントラ的・ヨーガ的・立川流真言的・中沢新一的な仏教理解では、仏教のどこが歴史的に画期的なのかがわからなくなる。中沢新一が、チベットで修行して見出したものは、原始仏教でもなければ、ましてやポストモダンでもなく、仏教以前の原始宗教に過ぎない。  
タントラやヨーガの起源はインダス文明にまで遡ることができるが、ガウタマの時代に、インドで支配的だった宗教は、バラモン教である。バラモン教もまた、涅槃原則よりも享楽原則に基づく自然宗教としての色彩が強かった。バラモンが司るヴェーダ祭式にその特徴を見ることができる。祭官(バラモン)は、犠牲獣を屠り、ソーマを供物として祭火に注いだ後、残りを飲む。ソーマの原料には、幻覚作用のあるキノコが使われていたと考えられている。一種のドラッグである。それを服用することで、トランス状態となり、そのエクスタシー体験で得られたインスピレーションから、多くのヴェーダの詩句が生み出された。祭火が据えられたアグニ祭壇は、大鷲の形をしていたが、それは、天地の間を自由に飛び、祭主を天界まで送る鷲をイメージしたものだった。  
祭祀での神秘的霊感を哲学的に説明した『ウパニシャッド』では、梵我一如、すなわち、大宇宙(自然界、ブラフマン)と小宇宙(個人、アートマン)との合一の真理を悟って輪廻から解脱することが説かれている。ブラフマンは、元来は「神聖な知識」という意味で、女神ヴァーチとして神格化された。ブラフマンは、現在のインドの神話では、ヴィシュヌ、シヴァとともに三大主神を形成するブラフマーに相当するのだが、男性神としてのブラフマーは、非常に抽象的な神で、存在感がない。それもそのはずで、ブラフマンは本来女で、ブラフマーの妻にして娘ということになっているサラスヴァティーが本当のブラフマンだからである。  
ブラフマンが女だとするならば、梵我一如という神秘的合一(unio mystica)は母子相姦で、解脱とはエクスタシー(脱我)のことであると解釈できる。こうした、エロティシズムを神秘的な体験とする自然宗教は、去勢コンプレックス以前の時期には、世界のいたるところに存在していた。サブアトランティック寒冷期という去勢不安の時代に自発的去勢を行った仏教やジャイナ教は、バラモン教のような自然宗教に対するアンチテーゼとして、歴史を画期する意義を持つ。 
6. 仏教のディレンマ  
ガウタマは、自発的去勢により、涅槃の境地に達した。しかし、ガウタマの悟りには一つ問題があった。煩悩を捨てるといっても、食欲を完全に捨てるわけにはいかない。ガウタマは、  
およそ苦しみが起こるのは、すべて食料を縁として起こる。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。 [ブッダのことば―スッタニパータ]  
と言っているが、何も食べなければ、餓死してしまう。かといって、食糧を生産するために、土地を耕すと、土地(地母神)に対する執着が生まれる。そこで、当時の慣習に従って、ガウタマは、在家信者から托鉢してもらうことで、生き長らえた。  
在家信者に布施や托鉢をしてもらう対価として、ガウタマは何をしたのだろうか。自分が悟った真理を教えたのだろうか。これは原理的にはありえない。もしも在家信者が、ガウタマと同様のブッダ(覚者)になろうとするならば、出家して修行をしなければならず、布施や托鉢をするだけの生産能力を失ってしまう。ガウタマの教えをすべての信者が実践しようとすると、全員が餓死して、仏教もそれとともに消滅してしまう。その意味で、ガウタマが悟った真理には、普遍性がなかったと評さなければならない。  
そこで、ガウタマは、功徳を積んだ在家信者に、来世での果報を約束しなければならないはめになった。ガウタマは、在家信者に  
彼[聖者]に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。飲食物をささげて、彼を供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。 [ブッダのことば―スッタニパータ]  
と言っている。反対に、聖者をそしったり、悪意を抱くものは、地獄に落ち、気の遠くなるような年月の間、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるとも警告している。  
ガウタマ自身は、来世や魂の不滅や輪廻を信じていなかったようで、その意味で、新しい宗教の開祖になるつもりはなかったと考えることができる。しかし、世俗の人たちは、仏教の出家僧に、来世での幸福の保証人の役割を期待した。こうして大乗仏教が成立するわけだが、実は、在家信者を救済するという点で、上座部仏教も大乗仏教も違いがない。上座部仏教が信仰されている東南アジアには、福田思想と呼ばれるものがあって、在家信者が自分の子供を出家させたり、托鉢の僧に食事を寄進したりして、功徳を積めば、来世における幸福な再生が保証されると信じられている。タイのように、寺院に金品を寄進する在家信者に、「祝福の証し」という領収書を発行しているところもある。蒔いた種が間違いなくプンニャ(功徳)となって実る田という意味で、福田なのだ。  
仏教発祥の地であるインドで、仏教がすたれたのは、ガウタマとその教えに忠実だった後継者たちが、大衆の低レベルな宗教的欲望を満たすことに熱心でなかったからだと考えることができる。インドの仏教僧たちは、王侯・貴族・地主・豪商など社会の特権階級からの布施や土地の寄進に依存しており、一般民衆からは遊離していた。ジャイナ教は、在俗信者にも十二の小誓戒を厳守させ、彼らの宗教的救済をしたために、インドでも今日まで生き残っているが、インド仏教は、在俗信者の救済に熱意がなく、彼らに戒律の遵守を強制することもなかった。イスラム側の史料『チャチュナーマ』によると、8世紀の前半にイスラム帝国がインドに侵入した時、仏教僧たちは進んでイスラム教に改宗し、仏教寺院をモスクにしてイスラム式の祈りを取り入れた [保坂 俊司:インド仏教はなぜ亡んだのか―イスラム史料からの考察, p.142-143]。インドの仏教僧は、崇拝するべき神を持たなかったから、異教の神を容易に受け入れることができたのであろう。インド仏教は、1203年に最終的に消滅した。 
7. 仏教におけるファルス崇拝  
インド以外の地では、ガウタマが、自発的去勢により、父神との同一化を拒否したにもかかわらず、後世、上座部仏教でも大乗仏教でも、大衆によって神の如きファルス的存在へと祭り上げられたのは皮肉なことのように思える。だが、この点で、仏教が、父権宗教の典型であるキリスト教と大きく異なるということはない。  
ファルスは、社会システムにおいて、ダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアとして機能するのだが、この機能を果たすためには、ファルスは、私的特殊性を捨てて、普遍的存在者とならなければならない。貨幣商品が、使用価値を捨象することで、貨幣という純粋なコミュニケーション・メディアになることができるように、宗教家は、自らの私的所有物を捨象することで、神という宗教的なコミュニケーションのメディアとなることができる。イエス・キリストは、十字架で死に、肉体という私的で特殊な所有物を捨てることで普遍的な神となった。同様に、ガウタマは、命こそ捨てなかったが、私的で特殊な所有物に対する執着を捨てることで、死後、神に等しい普遍的な存在者となった。《預言者→罪人→神》というイエスがたどった三段階と《王族→苦行者→覚者》というガウタマがたどった三段階は、ともに《ケ→ケガレ→ハレ》というスケープゴートの弁証法として理解することができる。
8. 仏教が女性を嫌う理由  
最後に、「仏教はなぜ女性を差別するのか」という最初の問題提起に答えることにしよう。これには、二つの理由が考えられる。  
まず、ガウタマが行った自発的去勢は、母子相姦の自発的断念であるから、性欲は最も忌諱しなければならない煩悩の一つである。『転女身経』には、次のような、極めつけの描写がある。  
女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。[…]この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。 [田上 太秀:仏教と性差別―インド原典が語る]  
このように、仏教が女性を不浄視するのは、「もしも女が臭くて汚いなら、性欲が起きなくてよいのに」という願望をみたすためである。仏教の教義には、こうした、実現の願望を願望の実現に摩り替えるトリックがたくさんある。  
もう一つの理由は、ガウタマ本人の意思に反して、ガウタマが「仏様」という、来世での幸福を保証するファルス的存在へと祭り上げられ、仏教が父権宗教になってしまったことである。世界宗教は、キリスト教もイスラム教も、すべて男尊女卑の父権宗教であり、仏教だけが女性差別をしているわけではない。 
 
無学祖元の女性教化と女人往生観

無学祖元は、中世期における渡来僧の一人であるが、その門下からは中世に傑出する尼僧、無外如大が出ている。また、その女性参禅者が多いこともすでに指摘されている。  
平安時代に仏教思想が流布される過程で、仏教は女性を穢れたものとする思想を明確にし、尼寺も著しく衰退した。そこで、女人往生を否定する教説が著しく強調された。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて戦乱が頻発し、夫に先立たれた女性が仏教に救いを求めるようになると、仏教はそれまで否定してきた女人往生を考えざるを得なくなった。いわゆる、鎌倉新仏教の開祖たちもそれぞれに女人往生説を展開している。ここでは、無学祖元の語録『仏光円満常照国師語録』より、無学に参禅した女性と、無学が彼女らに与えた法語などをもとに無学の女人往生観について考えたい。 
はじめに  
従来、前近代における女性の地位は低いと見られてきた。今日の日本中世史研究においては必ずしもそうではない、特に女性が財産相続権を有していたことに注目して女性の地位はある程度保障されていると考えられている。  
一方で仏教における女性差別は厳然として存在し、それについてもこれまで様々な研究が行われてきた。概して前近代の仏教がいかに女性を差別してきたかを解き明かしてきた。中世についても、既に女人往生や尼僧、女性参禅者といった様々な観点から中世仏教がどのように女性を捉えたか明らかにせんと試みられている。しかし、それらに言われているとおり、女性に触れた史料は少なく、中々全体像を明らかにすることは困難であると言える。  
中世の女性像を明らかにするには経済的な側面ばかりでなく、様々な要素を合わせて総体的に判断しなければならないはずである。その中でも仏教の位置付けは重要だと思われる。なぜならば、「宗教における性差別問題は、宗教のみの問題領域にとどまるものではありえない」のであり、「宗教とは、それに基礎づけられて形成された文化パラダイムの中核として、そのパラダイムに生ずる一切の世界観、価値観、人間観、モラルなどから社会制度、性規範、主体形成のあり方をまで支配する力をもつもの」だからである[1]。つまり、前近代の人々を支配する仏教の女性観を明らかにすることで中世における女性の地位を精神文化的側面からとらえなおすことができると考えられる。  
中世には劇的な時代の変化に相関していわゆる“鎌倉新仏教”とかつて呼ばれた仏教の新潮流が発生した。それらの新しい仏教思想は女性を取り巻く中世の時代状況に影響され、あるいは時代の女性観を規定していたはずである。  
ここでは、中世に中国より渡来した禅僧?無学祖元の語録を頼りに、無学がどの様に女性を捉えていたか考えてみたい。同時にこれによって中世女性像を捉え直す一つの端緒になればと考えている。 
1、古代から中世にかけての女性と仏教  
まず、中世までの仏教のもつ女性観を概観したい。  
日本の仏教史上、女性を忌む思想は平安時代に入っていっそう明確になった[2]。8〜9世紀頃、尼僧は国家の仏事、法会の場から締め出された。ここにおいて官僧と官尼という対応関係が崩れ、尼寺の僧寺への隷属も進行した[3]。  
女性を穢れた存在とし、忌避する考え方は日本社会への仏教の浸透と共に強く定着したと考えられる。仏教の清浄を護持する考えが、女性の生理や出産による出血を穢れと見て忌んだ[4]のである。一方で仏法が王権に入り込む中で、既に王権に結びついていた神信仰の持つ儀礼とタブーを取り込む必要に迫られ、寺内における穢れの排除が行なわれるようになった。女性差別の形成という点では仏教と神信仰は相互補完的役割を果たしたと考えることができそうである。  
さらに、平安時代を通して、仏教が人々の生活に入り込んで来るなかで女性蔑視の思想もまた人々の間に流布され定着した。とりわけ象徴的であるのが血盆経の流布である。血盆経は10世紀以降に中国で成立したいわゆる「偽経」だが、道教にも取り入れられて広く流布し、さらに日本に伝播した[5]。ここでは、女性は月経、出産の出血による穢れから死後血盆地獄に堕ちると説かれ、血盆経をその苦しみから免れることができると言う。女性は生れながらにして穢れており必ず地獄に堕ちるというのである。  
そもそも仏教は“五障”として「梵天?帝釈天?魔王?天輪聖王?仏」になれない、つまり、女性は仏教世界の指導者にはなれないとしており、女性は、悟りを得ることが出来ない=仏になれない=往生できないと、女性の往生を否定している。その理由は『法華経』によれば「女人は垢穢にしてこれ法器に非ざる」からとある。これでは現世で如何に高い徳を積んでも悟りを得ることは出来ず、往生は叶わないことになる。既に述べたように8、9世紀に尼寺が衰退したが、それにより女性の幼少期における出家は例外的になった。一方で、老病死に際して現世や来世での救済を願う、臨終出家が主流になったのである。  
しかし、平安末期から鎌倉時代にかけて近畿のみならず全国に戦乱が相次ぎ、夫を戦争で失った。出家女性が急激に増加した。古代では出家は婚姻関係を否定するもので、離婚の一形態として出家が行われていたのに対して、夫の死後に再婚を拒絶し夫婦関係を継続し夫の菩提を弔うという新しい女性の出家に対する考え方が定着したことによる。いわゆる“後家尼”の出現[6]である。結果、戦死した夫の菩提を弔うため出家する武家婦人が増加し、“後家仏教”の様相を呈してきた。“鎌倉新仏教”、中世仏教の担い手たちは、女性の救済、“女人往生”の問題を考えざるを得なくなっていたのである。 
2、中世仏教開祖の女人往生観  
中世仏教開祖たちの女性観はどのようなものであっただろうか、以下に示してみる。  
法然(浄土宗開祖)の場合、善導の「弥陀の本願力によるがゆえに、女人も仏の名号を称すれば正しく命終の時、則ち女身を転じて男子となることを得、仏の大会に入りて無生を証吾す」(『観念法門』)を受け、既存仏教が、五障三従によって女人の成仏の道をふさいでいると強く批判。特に教団を支える多くの女性信者が居た[7]事が分かっている。その主張は阿弥陀の力によって女性は男性に変化して成仏できるという“変成男子”による成仏である。  
親鸞(浄土真宗開祖)は「弥陀の大悲ふかければ、仏智の不思議をあらわして変成男子の願をたて、女人成仏ちかひたり(『大経和讃』)」、「弥陀の名願いによらざれば百千万却すぐれどもいつつのさわりはなれねば、女身をいかでか転ずべき(『善導和讃』)」とあり、法然と同じく変成男子による救済を説いた。一方で「男女大小聞きて、同じく第一義を獲しめむ。…まさに知るべし諸の衆生は、皆これ如来のこなり(『信文類』)」とあるなど男女平等の往生を説いており一定でない。さらに親鸞が妻帯していたことは有名だが、親鸞には「女犯」[8]の観念があった。また、真宗教団には尼は居ても尼寺はなく、寺の主人たる僧を坊主、妻尼を坊守として扱った。  
日蓮(日蓮宗開祖)の場合、「此の経持つ女人は一切の女人にすき(過ぎ)たるのみならず一切の男子に越へたりとみて候(「四条金吾妻宛書状」[9])」とあり、『法華経』こそ唯一の救い、女性を救う教えであると主張した。これによって、法然らの浄土教説は女人を助ける法ではないと批判している[10]。『法華経』は日蓮によって女人救済の法と解されたのである。  
では、中国からもたらされた禅宗においてはどのように女人往生が説かれたのであろうか。入宋して曹洞禅を伝えた道元の場合、在来仏教が行ってきた女人結界を鋭く批判し、男女共に求道心あるものは平等と主張した。また道元は教団に多くの尼僧を迎えた。さらに「男性を惑わせる女性が穢れているのではなく、女性に惑わされる男性が穢れている」という現代にも通じる斬新な教説を展開した。しかし、「女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず」と言うなど女人の往生には否定的でありその往生は変成男子[11]によるとした。  
これまで、中世仏教開祖たちの女人往生説についてみたが、その共通する点は既存仏教の女人結界への批判と、“変成男子”による女性の往生に見ることができる。  
中世には宋元との民間貿易の拡大にともなって僧侶の往来が頻繁になり、特に中国から禅宗の高僧が来日したことが時代のトピックとなっている。これらの僧侶は日本に大陸最新の仏教教学もたらした。中国から来化した渡来僧は女人往生の問題にどの様に対処したのであろうか。宋朝より来日した無学祖元の門下に無外如大という尼僧がいる。彼女は無学臨終に際して「後事を託す」(『佛光国師塔銘』)とまで言われ、後に尼寺を官寺として組織した尼五山で開山になる。如大については「その存在は日本女性史?宗教史上極めて重要な存在として位置付けられる[12]」とされている。  
以下、無学祖元の女人往生観について少し考えてみたい。 
3、無学祖元について、その来歴と教化の態度  
まず、無学祖元その人について紹介したい。  
無学祖元は、俗姓は許、諱は祖元、字は子元、後に無学と号した。1226年、慶元府に生れる。早くに出家し、径山無準師範以下諸知識に歴参している。1269年、真如寺の住持になった後、天童寺などに歴住した。1279年、北条時宗の招聘により来日し、建長寺に住した。その後、円覚寺を開くなど日本仏教界で活躍し、南宋禅の普及に勤めた。1286年、60歳で没するまで「度する弟子三百、余嗣法者衆、皆光明盛大」と言われるように多くの高僧を育てた。門下に高峰顕日などの高僧がいる。死後、仏光円満常照国師を追贈され、一般に仏光国師と呼ばれる。  
無学祖元に関する史料は語録として、『仏光円満常照国師語録』(一真?徳温ら撰、1367年刊、以下『仏光語録』とする)があり、他に『無学禅師行状?仏光禅師行状』『仏光円満常照禅師年譜』一真?徳温撰(『仏光語録』附)がある。伝記には『元亨釈書』(虎関師練撰、1321年刊)巻8?釈祖元伝、『延宝伝燈録』(師蛮撰、1678年刊)巻2?子元祖元伝、『本朝高僧伝』(師蛮撰、1702年刊)巻21?祖元伝、などがある。  
このうち『仏光語録』は“語録中の語録”(晦岸常正和尚)と言われるすぐれた語録である。一方で『元亨釈書』は書全体の内容に疑問が持たれており、無学祖元の伝についてもその出自や事績に語録などと異同が見られる。後代に編まれた『延宝伝燈録』、『本朝高僧伝』両書の本伝は『元亨釈書』を引いているため、無学祖元の教化活動を明らかにするには『仏光語録』に拠るところが大きくなる。本論では大正蔵所収のものを典拠とした。  
無学祖元の人物像について玉村竹二は以下の様に評している。曰く“人を接化するのに極めて懇切丁寧”である。これは『仏光語録』巻9「告香普説」などに見られ、同普説では、身分の低いある武士が無学の下を訪れ、「いくら学んでも仏法が一向に理解できぬ」と涙ながらに訴えるが、無学は優しく懇切丁寧に粘り強く説き、ついにこの武士は悟りを得るというエピソードが紹介されている。また、“無学祖元という人は…自らに対して厳格にして、他人に対して憐愍に満ち、懇切丁寧なる一人格、些か感傷に堕するかとさへ思われる浪漫的性格さへ具備している”といい、同時に“この人ほど自己を告白する禅僧は稀である”とされている。この様な玉村氏が称した無学の為人と教化の態度は様々な史料に見てとれる。無学が率直な宗教指導者であったことは、日本という“外国”で宗教指導を行うにあたって、女人往生という問題に直面したときいかに行動したか、その根底を考えるうえで無視できない要素であろう。参禅者には北条時宗夫人のような高貴の女性も多く、曲学阿世の輩であれば時流に合わせて自らの教説を変えているであろう。その点で、元軍の刃に曝されながら蕭然としていたという無学は自らの教説を権門に阿って変えるような人物ではない。また、その懇切丁寧な指導は一人一人の参禅者に対して向き合う姿勢であろうから、教化活動の実態を知るうえで語録の意義を高めている。  
無学は1279年に渡来することになるが、これは北条時宗が、蘭渓道隆の死後建長寺の住持を求め、徳詮?宗英を派遣[13]したのを受けてのことである。やや本論の主旨とはずれるが、この無学来日の経緯をめぐっては二種類の意見が示されてきた。従来、玉村氏らによって無学祖元を南宋滅亡以降元朝の支配を嫌った亡命僧と捉える考え方が示されると、これが一般に知られ、無学が蒙古の襲来と戦う北条時宗の軍師であったかのような解釈がなされてきた。これに対して西尾賢隆氏は、最初は無学ではなく別人を招請される予定であったことや、無学が度々帰国の意志を示していることから亡命僧とは言えないと反論している。  
西尾氏は『仏光国師語録』巻四「接荘田文字普説」を引いて、“「老僧、日本の招き趣くに臨み、多く衲子有り、衣を牽き泣を垂る。我、諸人に向って道う『我、三両年にして便ち回らん、煩悩を用いざれ』と」とあるが、両三年したら帰ろうという亡命があるであろうか、そうはいえまい。”(西尾1989)としている。しかし、“両三年したら…”を含む箇所、には「老僧臨趣日本之招、多有衲子、牽衣垂泣。我向諸人道、我三両年便回、不用煩悩。吾今与諸兄説、諸人見老僧、却作等閑、甘悠悠度了歳月。不知老僧撇掉了大唐多少好兄弟。要来開諸兄眼目。中間或有一箇半箇、直下如生獅子児哮吼壁立万仭。方可与仏祖雪屈方称我数万里遠来之意。檀那建此道場、堂宇高広四事供養種種妙好。(中略)若有幾人参請眼目開、契得老僧意者、亦可以鎖我思郷之念、慰我為法求人之心、千万勉力…」とあり、修行を等閑にする弟子達を叱咤する言葉であり、西尾氏が言うような無学が帰国の意志を示した言葉とは取りにくい。無学が亡命僧かそうでないかを論ずるのは本論の目的とするところではなく、俄には断じがたい問題であると思われる。ここではむしろ、「懇切丁寧な教化」「本心を吐露する」という無学の人物像を彷彿とさせる内容であるとみたい。もっとも強調したい点は、無学祖元という人物がきわめて率直に、かつ丁寧に参禅者に向き合って指導にあたったという点である。 
4、無学祖元の女性教化と女人往生観  
女性の往生が否定されるなかで、救済を求める女性たちはそれぞれに高僧、禅知識を尋ねており、「鎌倉時代に来日した渡来僧の周辺には、禅宗に帰依し、真摯な求法修行のなか渡来僧と問答を交わし、その力量を認められた尼僧が何人もいた(原田正俊)」と言われる。  
円覚寺文書によれば北条貞時は『禅院制府』(「円覚寺文書」円覚寺蔵)を定め、女性が寺に入って良い日を規定したといい、女性で参禅する者の多かったことが忍ばれる。  
この中で無学はどのように女性と関わったのであろうか、尼僧の研究に史料的制約が多いことはすでに述べたとおりだが、以下無学に関わる尼僧、女性参禅者について語録から見ていきたい。  
無学祖元に関わる女性としてその筆頭にあげるべきなのは無外如大である。  
無外の伝記は『延宝伝燈録』巻10にあり、「京兆景愛尼無外如大禅師、別号無著、初名千代野。陸奥太守平泰盛之女…」などとある。しかし安達泰盛(1231〜1285年)の娘とは考えにくく、「資寿院置文」[14]に記される無着の伝記が混入した(舘2008)と考えられている。出自も明らかでない無外ではあるが、『佛光国師塔銘』には、無学の臨終に際して「後事を託」されたほど無学に愛された高弟であり、無学が最も頼んだ弟子としてバーバラ?ルーシュ氏により紹介されている。また後に尼寺を官寺として組織した尼五山筆頭の景愛寺で開山となっており、その頂相が宝慈院に現存している。尼僧の頂相は極めて稀で同時代に高く評価されていたことが分かる。語録上にも無外の名は散見され、その法器の高さが無学の率直な言葉によって度々賞賛されている。  
無学の日本における教化の大きな成果の一つと言えるのがこの無外如大の存在であり、無学の高弟の中から後に尼五山を再建するほどの尼僧が登場したことは注目すべき事実である。  
他に語録に見られるその他の尼僧、女性参禅者を列挙すると、以下の通りである。  
妙覚大姉  
「妙覚大師下火 五障身妙覚体。猶如摩尼出於濁水。…」(巻4)  
道性大姉(巻7)  
僧爾大姉(巻7、9)  
「示僧爾大師 …爾不見妙總。亦是一女流。」(巻7)  
海雲比丘尼(巻7)  
小師尼慧蓮(巻7)  
小師慧月(巻7)  
長楽尼院長老(巻7)  
尼慧禅(巻8)  
尼本上人(巻8) が見られる。  
これらの内、大師とあるものは、「大師は高僧に朝廷より与えられる号であるとともに、禅宗の信仰深い女性を指す。大姉と同義」(舘2008)とあることから、内容から見て、女性として良いと思われるものを挙げた。  
以下に具体的な法語をあげて考えてみたい。  
まず、巻7には「示小師尼慧蓮 仏性覚体。妙明円満。不問女人。不問男人。受用具足。不用安排。…」とあり、「男性であれ女性であれ、具足(戒)を受けた者は区別がないのだ」としている。  
また、同じく巻7を見ると、「示小師慧月 儞性如宝月。…是名智慧光。此光照山河。男女無異相。…証此妙理時。便入諸仏海。」と、同じく男女の別がないことを言っている。  
また、無学は「誰が浄土に往生できるか」と質問された際に、  
「(接荘田文字普説)…昔迦葉尊者一日乞食。不擇貧富乞食。路中逢一女人。見尊者行乞。廻起念。思身辺更無可有。只彼器中有潘汁。挙手奉献。尊者受施。訖迺騰空。現十八変相。女人即得生天。…」(語録巻4)と答えている。  
摩迦迦葉に布施を行った女性が成仏を得たという仏伝を引いて、「功徳によって男女の別なく往生できる」と答えているのである。  
さらに、時宗が仏賛を求めた際には、  
「太守請賛仏賛五大部経典普説 …又有一宝女。持珠白仏願我此珠貫仏頂上即擲。其珠便貫仏頂。人天大会。各見珠中所現来世成仏劫土。仏言此宝女已於九万六億仏所。種植善根。所生之処。」(語録巻6)とあるが、これは自らの頭頂に珠を投げた女性がなぜ成仏し得るか釈迦が説いた仏伝を紹介しているのである。  
これらを総括すると、女人の往生を積極的に支持していたと言える。とりわけ「男女の別はない」とする教説は画期的なものに見える。しかしこ点については注意を要する。次節で述べたい。 
5、無学と『法華経』観音信仰  
無学は『法華経』を引き、  
「諸小乗皆蒙授記。龍女献珠成仏。大涅槃経体円極。無処不周」(同上、語録巻6)として大乗の立場を明らかにしている。  
禅宗は“不立文字、教外別伝”といい本来根本とする経典を持たないが、「夢中問答集」(無学法嗣高峰顕日の弟子夢窓疎石と足利直義との問答集)によれば、「唐土の禅院には毎朝粥の後、大悲咒一遍なむと誦するばかりなり。これ則ち座禅を本とする故なり。…建長寺の始めには、日中の勤めはなかりけり。蒙古の襲い来りし時、天下の御祈りのために、日中に観音経をよみたりける。そのままにしつけて、今は三時の勤めとなりたり。かようの勤めも、禅家の本意にはあらねども、年来しつけたることなれば、後代の長老たちもとどめ給ふことなし」とあり、『観音経』(『法華経』「普門品」観音の功徳?利益を具体的に詳説した経典)の読誦は「無学によって儀則化された」(山藤2002年)ことが明かである。  
なお、『元亨釈書』巻八淨禅三之三釈祖元伝に  
「四年春正月、平帥来謁。元采筆書呈帥曰、莫煩悩。師曰、莫煩悩何事。元曰、春夏之間博多擾騒。而風纔起万艦掃蕩。願公不為慮也。果海虜百万寇鎮西、風浪俄来一時破没。初元在雁山、定中観音大士現形曰、我将舡来取汝。乃示日月二字。元起詣像前卜籖。亦得日月二字…語曰、百万虜寇。天兵助順、豈不勝耶…」とある。これについては、「『礼記』「曲礼上」、「故日月以告君」を典拠とし、婚姻の日取りを決めること」[15]とされる意見もあるが、やや強引な解釈に過ぎよう。ここでは、『元亨釈書』著者の主張として「無学が時宗に蒙古襲来を予言し、その根拠として無学が観音の擁護を得て知り得たからだ」としたものとしたい。  
無学と観音のつながりについては、『無学禅師行状』に「母陳氏、嘗夢一僧襁褓嬰児以授。遂懐妊。母以累重不楽意。夜午見、一白衣女子登牀、腹曰、此児佳男子、善保勿棄。及誕白光耀室」とある。無学の出身地慶元府は観音の霊場普陀山に近く、白衣を纏った女性は典型的な観音の像容であることから考えて無学は強い観音信仰を持ったことは明らかである。  
無学は女人往生を積極的に支持していることは前節ですでに述べたとおりだが、無学の明確な『法華経』尊重の態度から見て、女人往生の根本と成ったのは『法華経』であり、観音信仰と見るべきである。『法華経』(提婆達多品)には「龍女は五障?垢穢ゆえに女性は成仏できないとする舎利弗の眼前で釈迦に宝珠を献上し、変成男子して成仏を果たした」とあり、『法華経』は変成男子による女人往生の重要な根拠となっている経典である。  
従って、『法華経』の重視から見れば、無学の女人往生説は“変成男子”の域を出ていないと言うべきだが、それについてはなお検討の余地があるようにも思われる。今後の課題としたい。 
小結  
以上のことから、無学は宋朝から来化し、多くの女性を含む僧俗を教化した。強い観音信仰を持ち、“変成男子”による女人往生の根拠となる「法華経」読誦を進める一方で、その法語を見ると、男女の別ない往生を説いた形跡も見られる。無学は多くの女性を教化し、その門下からは無外如大が出て、尼寺再興を果たした。無学の教化は“変成男子”についてはなお考慮すべき点をのこすものの、女人往生が否定された前時代に反して、女人往生説を肯定しており、画期的なものと言えるだろう。これは渡来僧無学の日本にあたえた影響の一つと見ることもできるだろう。 
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[1] 大越愛子『性差別する仏教』(1990年法蔵館)  
[2] 古代において『日本書紀』は差別のあり様を示している。イザナギ?イザナミの最初の子ども、ヒルコとアワシマは女神イザナミが先に声をかけたため、障害を持って生まれた。これは女性差別と同時に障害者差別を示す例である。  
[3] 『日本三大実録』880年5月19日条に「大和西陵尼寺を西大寺に摂領せしめる」などとある。  
[4] 高取正男『神道の成立』(1979年平凡社)  
[5] ミシェル?スワミエ「血盆経の資料的研究」(『道教研究』1、1965年)  
[6] 母系制から父系制への移行に関係するか。  
[7] 松野純孝「鎌倉仏教と女性」(『印度学仏教学研究』20)によれば、法然が弾圧を受けた際、弾圧対象となった家屋は多く女性によって提供されていたとされる。  
[8] 「女犯」は女性を穢れととらえる事を前提としていると考えられる。  
[9] 『鎌倉遺文』11800号  
[10] これが変成男子説に対する批判であるかについては不明。  
[11] 転川力山「道元の《女人不成仏論》について」(『駒澤大学禅学研究所年報』1990年)  
[12] バーバラ?ルーシュ『もう一つの中世像』(思文閣1991年)  
[13] その書状に言う「時宗意を宗乗に留め、積むこと年序有り。梵苑を建営し、緇流を安止す。但だ時宗毎に憶へらく、樹に其の根有り、水に其の源有りと。是を以って宋朝の名勝を請い、此の道を助け行わしめんと欲し、詮英の二兄を煩わす。鯨波の険阻を憚ること莫く、俊傑を誘引し、本国に帰り来るを望みと為すのみ。不宣。」(訓読は山口修『蒙古襲来 元寇真実の解明』によった)(「日本国副元帥平時宗請帖」『仏光国師語録』巻3)なおこの書状原本は円覚寺に伝存し国宝。  
[14] 夢窓疎石、相国寺所蔵(『日本高僧遺墨』2、1970年、毎日新聞社)  
[15] 山藤夏郎「無学祖元における観音信仰」(『日本研究』15)2002年 
 
斎藤茂吉と地獄

これらは、『赤光』にある「地獄極楽図」連作11首の歌である。茂吉は地獄をどのように表現したのであろうか。  
 浄玻璃じょうはりにあらはれにけり脇差わきざしを差して女をいぢめるところ  
 飯いいの中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎えん口くのおどろくところ  
 赤き池にひとりぼつちの真裸まはだかのをんな亡者もうじゃの泣きゐるところ  
 いろいろの色の鬼ども集りて蓮はちすの華にゆびさすところ  
 人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ  
 罪計はかりに涙ながしてゐる亡者つみを計れば巌いわおより重き  
 にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭ごず馬頭めずどもの追ひ行くところ  
 をさな児の積みし小石を打くづし紺いろの鬼見てゐるところ  
 もろもろは裸になれと衣剥はぐひとりの婆ばばの口赤きところ  
 白き華しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ  
 ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下おり来るところ  
                  (『赤光』明治39年「地獄極楽図」)  
これらの地獄の情景は、茂吉の郷里である山形県金瓶村宝泉寺で毎年展示する掛図の記憶に拠るものである。茂吉の『作歌四十年』によれば、子規の「竹の里歌」を読んで感奮し、作歌をはじめようと決意し、子規の歌を模倣して「地獄極楽図」という歌を作ったという。1末尾が、一つを除き「するところ」という連作となっている。  
金瓶村にある茂吉生家の隣が、茂吉も通った金瓶尋常小学校であり、その隣にあるのが宝泉寺である。少年茂吉は、宝泉寺によく出入りし、住職の佐原窿應りゅうおうも茂吉を慈愛し、その才能を見抜き、後継者として養成しようと思ったほどであった。茂吉の仏教的な、とくに浄土教の素養は、ごく自然に醸成されたものであり、まさに窿應の薫染によるものである。ご案内のように『赤光』という歌集名は、『阿弥陀経』から採ったものである。  
「地獄極楽図」2とは、庶民に開帳し、極楽浄土の荘厳さと、地獄の鮮烈な光景を対照的に描き、西方極楽浄土への来迎を誘うものである。この絵図は、幼い茂吉にとって強烈な印象を与え、脳裏に刻み込まれたのであった。この絵図は、熊野比丘尼による『熊野勧心曼荼羅』にある地獄図を髣髴させるものである。  
この連作のなかにある「赤き池」とは、血の池地獄を指すものである。血の池地獄とは、女性だけが墜ちる地獄であり、その救済者として如意輪観音が示され、その救済力となるのが血盆経である。また、『血盆経』とよく似た内容で巷間に流布していたのが『血盆経和讃』であった。これらは当然ながら、仏説ではなく偽経である。出産や月経の出血がケガレとされ、地獄の「血の池」と結びつけ、女性の出血は地獄へ堕ちる前触れとされた。さらに、子どもを産まない女性は石女うまずめ地獄へ堕ちるという。仏教は平等主義であり、「一切衆生悉有仏性」と言い生命あるものすべてに仏となる可能性があると言いながら、後世になると女性は、子どもを産む、産まないにかかわらず誰もが成仏できないことになる。  
仏教においては、「女人五障」説があり、女性である限りどんなに努力しても5つの地位に就くことができないという。これに、女子三従の教えが合わさり、「五障三従」説へと発展していく。そこで、『法華経』では「変成へんじょう男子なんし」の教えにより救済されるとする。要するに、女性は男性に性転換して、救済されるということである。『無量寿経』では四十八願の第十八願で、男女老少のあらゆる衆生が救われると誓っている。しかし「女人成仏の願」と呼ばれる第三十五願で「たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界、それ女人ありて、わが名字を聞き、歓喜かんぎ信楽しんぎょうし、菩提心を発おこし、女身を厭悪えんおせん。(その人)寿終りてのち、また女像とならば、正覚を取らじ。」3と誓願する。ここでは、仏教とジェンダーについて論じないが、例えば大越愛子は「女性を地獄の恐怖によって脅かしておいて、その後それほど不浄な彼女らをも救ってくれる仏や菩薩の慈悲を説くという構図は、女性にとって恫喝のごとき心理的暴力として作用したことは否めない。このような救済という名の下での女性に対する恫喝的構造の暴力によって、女性はその存在否定へと追い込まれ、そこからの救いを求めて、自分たちを貶める仏教にすがるという、蟻地獄のような循環に陥ったのである。」4と糾弾する。  
さて、宝泉寺の「地獄極楽図」を見ると、血の池地獄の女性は「ひとりぼっち」ではない。しかし、一人の女性亡者が血の池地獄で「泣きゐる」冷徹なる情景は、あはれなるもの哀しさを、より宗教的な戦慄として伝えるのではなかろうか。茂吉は、大正2年に「短歌雑論」のなかで、次のように言う。  
女人の身垢穢くえならば、茂吉の身もとより垢穢なり。女人の身清浄にあらずして法界に入るの期なくんば、茂吉の身ながく三界濁にとどまらんとす。南閻浮提二千五百の河、まがり曲つて直ちに西海に入ることなくとも、あはれあはれいつくしきかな。尊者舎利弗とも遠離し了んぬ。われ憂の女人と離れんとし、悲しめばなり。5  
中野重治は『斎藤茂吉ノート』で、「浄玻璃に」と「罪計に」の二首を取り上げ、「宗教的事柄にかかはってゐるけれども歌としては宗教的でない」という。さらに『往生要集』の地獄の描写の方が、「宗教的戦慄にかがやいている」とし、「茂吉の四つの歌集の歌を三千六百くらいと見て、そのなかに、神信心、仏信心をそのものとして歌った歌は皆無または皆無に近いのである」6という。茂吉は出家した歌人ではないし、近代短歌は仏教を鼓吹するための「道歌」ではない。従って、茂吉の歌は、仏教や心学の精神をよむものではなく、そういう意味では宗教的ではないのである。むしろ「浄玻璃に」や「赤き池に」の歌には、茂吉のエロスが感ぜられ、女性に対する本能的な人間の悲しみが潜んでいると言えるのではなかろうか。  
 
1 斎藤茂吉『作歌四十年』筑摩叢書、1971年、5〜6p。  
2 『新潮日本文学アルバム14斎藤茂吉』新潮社、1985年、50pには、宝泉寺所蔵「地獄極楽図」の2点が掲載されている。  
 「赤き池にひとりぼつちの真裸まはだかのをんな亡者もうじゃの泣きゐるところ」  
 「にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭ごず馬頭めずどもの追ひ行くところ」の2首に該当する絵図である。  
3 『浄土三部経』(上)「無量寿経」岩波文庫、1964年、161p。  
4 大越愛子『女性と宗教』岩波書店、1997年、110p。  
5 『斎藤茂吉全集』第11巻、岩波書店、1973年、290p。  
6 中野重治『斎藤茂吉ノート』筑摩叢書、1964年、167p。   
 
仏教と女性

仏教における女性観  
この女性と仏教に関する文章は、女性と水子・水子供養・水子之地蔵等に関し深く考えるきっかけになった思考の一部です。当時と現在の考え方に相違がありますが水子供養について、どうして女性が何十年も経過した後に水子供養をする場合が多いのか等、新たな思考開始のきっかけとしてあえて改定せずそのまま記載します。つたなく考えも浅い若輩の文章ですが、水子供養や女性と水子に学術的に興味がある方はご覧下さい。  
私が入学して間もなく、講義で「スッタニパータ」を読むことがあった。まだ、仏教を学び始めたばかりだった私にとって、その内容は難しいもののように感じられたが、そのこととは別に驚いてしまったことがある。プッタのことばである「スッタニパータ」の中に、明らかに女性差別なのではないかと思われる記述がいくつかあるのだ。その表現は生々しく、女性である私の中に強い感情が生まれたのを覚えている。そして、プッタがこのような発言をしたということは、仏教の中に女性差別を黙認している部分があるのではないかという疑問を抱くようになったのである。水子供養をお願いなさる女性の皆様にも疑問に思った方がいらっしゃるのではないだろうか。  
その後、疑問に思いながらもそのままにしておいたのだが、フェミニズムの思想と出会うことによって、再びこの疑問が浮かび上がってくるようになった。私がフェミニズムを知ったきっかけは、友人からの影響である。水子供養をお考えなさる皆様にも、フェミニズムについて知っている方が何人かいらっしゃるかもしれない。この友人が何冊かの書物を教えてくれたので、それらの本を読み進めてみたのだ。そして、びっくりしたのは、日頃、自分が思っている事とこれらの書物の中に書かれていた事とは、ほとんど共通していることであった。さらに、仏教における女性観を研究しているフェミニストたちがいることも知り、それらの本を読むと、かつて私が「スッタニパータ」を読んだ時に感じた疑問にも明確に答えていたのである。この時から私は夢中になって仏教を研究するフェミニストたちの本を読むようになり、卒業論文には是非とも仏教における女性観について書きたいと考えるようになった。水子供養をお考えになる皆様にも、是非フェミニズムの観点から少し仏教を見て頂きたいと思う。
女性蔑視  
仏教において女性蔑視と感じられる記述は、「スッタニパータ」以外にも非常に多い。これらの中でも分かり易いものは、「八敬法」や「女人五障」説、「変成男子」説など教学に関わるもの、そして、「ケガレ」つまり「血穢」に関わるものであろう。これらの記述は現代の女性だったら誰でもおかしいと思うような問題だと思う。水子供養をお願いなさる女性の皆様の中にもそう思われた方が多いだろう。単に女性というだけで、出家していようがいまいが、男性よりも一段低い扱いを受けるのである。このような扱いの理由として女性の経血や出産の際の出血が穢れているからというのでは、女性の身体から生まれた男性もみな穢れているのではないだろうか。現代では馬鹿馬鹿しいことではあると思うが、今もなおこのような観念は蔓延しており、馬鹿馬鹿しいなどとは言えないのである。ぜひ、水子供養をお願いなさる皆様にも覚えておいて頂ければと思う。事実、私たちのような年齢の者でさえもいまだに経血に関してマイナスイメージを抱いたり、自分の身体が穢れているように感じてしまうのである。  
このような例の他には、「母性」や「セクシュアリティ sexuality」などの問題が挙げられる「母性」や「セクシュアリティ」がなぜ差別表現と関係があるのだろうと思われる水子供養をお願いなされる方もいるだろう。これらの問題はフェミニズムの思想があってから初めて顕在化されるようになったことである。私は「母性」そのものを否定しているわけでは全くない。しかし、この「母性」が何者かに利用される時、問題になることが多い。例えば、日本の戦時中において、新たな兵力を産み育てる母親は必要不可欠な存在とみなされて、国家権力の中に組み込まれていった。同様のことが仏教にも言えるのではないだろうか。では、水子供養をお願いなさる皆様も疑問に思ったであろう、仏教において、女性が賛美される場合にはどういう意図があるのか。  
つまり、「母性」が何かに利用されてはいまいかということを注意深くみていかなければならない。女性についての記述は常に男性によって書かれている。その女性の言葉は、所詮、男性作者によって考えられたものであるのだ。  
まず、第一章では、ブッタの女性観について考えていく。当時のプッタが考えていた女性観というものは、どのようなものであったのかということを中心として、そのことが後世の弟子達にどのようにして伝わっていたのかということを述べたい。  
プッタの考えていた女性観と弟子たちが考えていた女性観は果たして同じだったのか、プッタが本来考えていた事は、弟子たちにきちんと理解されたのであろうか。そして、プッタや弟子たちの思想の背景にある当時のインド社会についても触れることにする。  
第二章では、日本における女性の立場を採り上げていく。他の宗教と同じように、仏教はあらゆる地域の文化と融合しながら、その姿を変えていった。日本においても同様に、儒教の思想や神道思想などと結びついて独自の思想を形成していった。このような中で、女性の立場がどのように変化していったのか、そして、仏教の女性観はどのように組み込まれたかを考えてみたいと思う。この章では、仏典のみならず、日本の古典文学にみられる女性観についても触れたい。
女性と「ケガレ」  
第三章では、『血盆経』というあまり触れる機会の少ない経典を採り上げた。インドでは、この経典は存在せず、中国に仏教が渡りそこで儒教とまじわり『血盆経』ができたのである。その後、日本へも伝わり女性信者に広まった。日本において広まった理由として、中国と同じように女性をケガレとする思想が根底にあったからである。なぜ、インドでは成立していない経典が、中国・日本でできたのか。そのあたりから、『血盆経』をみてみたい。同時に、今も伝わる『血盆経』が現在どのようにカを及ぼしているかを考えたい。  
この論文では水子供養をお願いなさる女性の皆様にとっては特に問題である、差別という問題に触れなければならない。今まで、私は差別という問題に真正面から向き合ったことはなかった。水子供養をお願いなさる皆様の中にもそのような方がいらっしゃるのではないだろうか。今回、差別に関して調べてみて感じたことは、知れば知るほど複雑な構造であり、解消するのが困難だということだった。その中でもやっかいなものは、被差別者たちの中でもう一つの差別が生じるという例や被差別者である人聞が知らないうちに差別をしているという複合差別の構造である。水子供養をお願いなさる女性の皆様には大変、理不尽な話である。例えば、沖縄の米兵による強姦事件をきっかけに盛り上がった米軍基地反対闘争のなかでも、男性の活動家のなかから「基地問題を女性問題に矮小化するな」という発言をして、女性参加者の怒りを買った。  
また、被差別部落の解放運動内部での性差別を問題化することの難しさや、在日韓国・朝鮮人の民族解放運動内部での性差別問題への無理解などにあらわれている。このように性差別問題が二の次に扱われることは非常に多い。それで沖縄の基地問題でも被差別部落の解放運動でも、大きな問題を解決すればもう良いのだろうか。たとえ解決しでもすぐにまた問題は生じるだろう。このようなことと同様なことが仏教にも言えるのではないだ ろうか。宗教である仏教は被差別者ではないし、沖縄の基地問題や解放運動とは性質の違うものではあるのだが、例えば過去において教団内での性差別問題よりも布教の方が優先されるというようなことはなかっただろうか。  
このような意味では、解放運動内での性差別と変わらない図式になるのである。現在、仏教が性差別及びその他の差別は存在しないということを主張しているのであるならば、過去の差別的な記述についてはっきりと説明する必要があるだろう。なぜならば仏教が精神的基盤としてのカを失った現代においても、依然として日本文化のセクシュアリティやジェンダーについての考え方に決定的な影響を与え続けているからである。このように仏教が多大な影響力があるということをきちんと自覚する必要があると思う。水子供養をお願いなさる女性の皆様にもこれは、大変重要なことであると思う。  
この論文を書くことで、私は自分自身の仏教観というものを捉え直すという作業をすることになるだろう。それによって何が変わり何が変わらないのかをしっかりと見据えてゆきたいと思う。
ブッタの女性観について  
第一章 インド仏教における女性の立場  
初期仏教における女性  
プッタは、当時、インドの社会慣習を批判した。特に、家柄、カースト、職業などの生まれる前から差別を受けるようなことがあってはならない、そのように主張したプッタは、どのような女性観をもっていたのであろうか。スッタニパータは女性差別を記述していたのではないか、と気になった水子供養の女性の皆様もいらっしゃると思うのではないだろうか。また、プッタが持っていた、女性観とその後の弟子達の女性の扱いはどうであったか考えていきたい。  
仏教にも、キリスト教にも、信者の守るべきもの、提が規定されている。しかし、キリスト教の場合は、どのような不条理な旋が定められていようと、それは、神からの命令として、それ自体絶対的な根拠をもっ。仏教の場合、戒律を定めた人の言説に委ねられるものとしている。プッタのように、性的欲望がインド社会の慣習としていかに支配的であったかを実感して出家した場合なら分かるが、それを実感として受け止められない人たちの根拠はどこにもとめればよいのであろうか。  
最も古い仏教経典として伝えられている『スッタニパータ』(本来ならパーリ語原典の引用によるべきだが中村元氏の訳『プッタのことぱ』とする)にその記述がある。性悪という直接的な表現ではないが、男性を中心として考えて、女性は男性を誘惑して破滅の道へと陥れるものという考え方があった。  
女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、えるにしたがって得たものをその度にごとに失う人がいる・・・これは破滅への門である。(『スッタパニータ』 一〇六)  
水子供養をお願いなさる女性の皆様にはなんとも衝撃的な一文であろう。これらの例は女性は男性を破滅の道に導くものとして考えられていたことが、仏教教団に、女性差別や女性軽視の意識が根強く残っていたことを物語っている。 プッタの弟子のアーナンダも娘に恋して、プッタのもとへ帰るのを忘れ、愛欲におぼれたため、他の弟子に諌められたというエピソードである。その時、プッタは、性的欲望の否定の根拠として、愛着を持つ対象の身体的ケガレを列挙している。  
身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのままに見られることがない。身体は腸に充ち、肝臓の塊・勝脱・心臓・肺臓・腎臓・牌臓あり、鼻汁・粘液・汁・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。(『スッタパニータ』)
女性に対する不浄視  
その後、頭の中はからっぽで、脳髄液に満ちていて、愚かなものはこれらの身体を清らかだと感じはじめるとある。身体のケガレは、性のケガレと結びつき、「われは(昔さとりを開こうとした時に、愛執と嫌悪と貧欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。 (『スッタニパータ』八三五)という結論になる。  
『わたしは(プッタ)は、それに足ですら触れたくない』という、このような、生々しい描写から、プッタの生と性への基本的否定がみられる。女性を不浄視するのは、バラモン教以来のインドの伝統的女性観である。悟りをひらいたプッタにとってそれまでのバラモン教の伝統的女性観というのは、やはり拭いきれないものがあることが伺える。プッタは、当時の文化がが形成する人為的な生と性を嫌悪しているはずなのに、それがいかにも、生そのもの、性それ自体への嫌悪のように感じられる印象を受けるのだ。つまり、プッタの言葉はプッタの実際の意図を超えて、水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって、非常に理不尽である、現実の生と性のケガレ観、不浄視の形成に影響する結果をもたらしたように思える。  
また、これらの言葉は、女性への性的な欲望に苦しむ男僧に対する「方便」として語られたとしている。だが、方便とはいえ仏教で、 他者を蔑視する言葉が使われたことは、公正ではない。男性の性的迷いは男性自身の問題であって、私や水子供養をお願いなさる皆様などの、対象者の女性には罪はないはずである。そして、プッタの実際の意図を超えて解釈されていくようになる。それらの表現が、単なる「方便」にとどまらず、水子供養をお願いなさる女性の皆様にも、今日の女性観にも関わってくる、大きな影響力とつながっているのが問題なのである。
当時のインド社会での女性の立場  
ところでプッタの養母をはじめとする多くの女性が、ブッタの拒絶にも関わらず、出家を願い、弟子アーナンダのとりなしでついに願いを成就できた。その彼女たちの出家の動機はどのようなものであったろうか。当時のインド社会は、父権的体制下の男性中心的な社会であった。女性達は、そこに潜む社会システムのなか、差別に曝されていた。特に、女性を取り巻く社会環境は、インドで、夫に死なれると女性の社会的自立は困難を伴うということにも現れている。  
そうした女性たちにとっては、出家する事が唯一の救いであったし、傷ついた彼女たちの安息の揚や生活の手段であったのだろうと考えられる。ところが、ブッタは、出家は差別を超えるとしながら、他方女性の出家には差別的態度を示しているという矛盾がある。  
初期経典の『中阿合経』に「若し女人この法律中に於て至信に家を捨て家無くして学道するを得ざらぱ、正法当に千年住まるべし。今五百歳を失う。余五百年有り。阿難、当に知るべし。」(『南伝大蔵経』)とある。出家には差別はないといいながらも、女性が出家する段階になって、男性のみの出家なら1000年続くが、女性が入ったら 500年しか続かないという。これに関し、水子供養をお願いなさる女性の皆様にも疑問に思った方も多いのではないだろうか。プッタの、女性に対する態度の冷酷さは何を意味するのであろうか。  
また、戒律においても『四分律』によると、比丘に対しては二五〇戒定められていて、比丘尼に対しては三四八戒定められている。序論で述べた『八敬法』は、『八重法』『八尊師法』『八不可超法』ともいい、比丘尼が比丘に対して守るべき法のことで、八つの項目のすべてに男性中心、男性に服従することを述べている。私や水子供養をお願いなさる皆様女性が、不利な立場におかれてしまう『八敬法』では、比丘尼が比丘よりも下に見られていたという差別的なことが 分かる。実際、当時のインド社会の構造ばかりでなく、家庭生活にあっても全ての物事で優位に立っていて、女性を同格に扱うことはなかったのではないだろうか。しかし、水子供養をお願いなさる女性の皆様の中にもすでにお考えになっている方もいると思うが、仏教では平等に扱われることになっており、これらに耐えがたかったのではないかと考えられる。これを実際プッタが制定したかどうかは、説が分かれるところであるが、全く根拠のないところから戒律の差がでてくることはないのではないかと恩われる。戒律の基礎となったものが何らかの形で説かれたのではないかと考えるのが私や水子供養をお願いなさる皆様にとって妥当だと思う。
女性の苦悩  
実際、プッタがこのような考えかたをしなかったとしても、当時の男僧達が自分遠の意見を付け加えて伝えたものが多くあるということは、尼僧の誕生を男僧逮が歓迎していなかったのは確かではないだろうか。  
この仏教的表現のいくつかは、当時のインド社会を典型的に現している。これは、男性の悪意ではなく、男性の認識不足と意識の欠落に基づいている。私や水子供養をお願いなさる皆様など、女性への苦悩の共感が仏教では理解されていないということがあげられる。母親、妻、養母遠の悲しみ、不幸が実際は社会的、経済的に恵まれた立場のある男性の実存的な苦悩に基づいてしか理解されていないということを現している。  
つまり、プッタのような立場にあるものの精神的苦悩が優先させられて、その苦悩が人間存在の苦悩へと拡大していくことで、それ以外の私や水子供養をお願いなさる皆様、女性などのマイノリティの人々の苦悩は軽視されるということになる。  
仏教では女性排除はなくなったが、その分、女性排除することにより顕在化されたはずの問題が見えにくくなってしまったことは無視できない。たとえ人類全体の苦悩を理解し、解決したとしても、それで本当の救いとなることができるのであろうか。  
苦悩する私や水子供養をお願いなさる皆様、女性などのマイノリティの問題に耳を貸さないで、人類全体の苦悩を論じているかのように現される問題性がもっと認識されても良いのではと思う。 水子供養をお願いなさる皆様にもよくお考え頂きたい問題である。
大乗仏教について  
大乗仏教における女性  
新しいものが生じる時というのは、古い体制化の批判や不満からでてくるものである。大乗仏教の場合は、仏教を通して、全ての人の平等と救いを説いたプッタの根本たる精神が、自らの救いのみしか求めない一部の特権的な男性僧侶に対する鋭い批判があったためだと考えられる。  
大乗仏教は、自分の救いよりも他人を救うことを重要としているもっとも実践的なものである。大乗仏教の大きな特色として 「空」思想がある。全ての物事は「空」であるから、執着するものはないという無執着を説いている。これは、人間の文化や、社会、能力、その他色々な人間に対する権力システムが実体的なものでなく、幻想の産物にすぎなということをいっている。  
しかし、同時に、愚かな人間の営みとして、体制そのままをすべて受け入れていく姿勢があることは否定できない。  
その背後には、体制を否定されると困る、当時の支配者層との繋がりが伺われる。大乗仏教は、比較的民衆のもの、みんなのものという意識があるが、成立した当初は、少なくとも社会の上層部の人々、支配者層や、資産家の人々がとても多いといわれている。  
民衆に、どんな悲惨で悲しいことが起こっても、それらのことはすべて「空」なのであるから、そのまま、受け入れなさいということを説いていることにもなる。それだけなら、私や水子供養をお願いなさる皆様民衆の立場でなく、支配者にとってとても都合のよい宗教になりさがるだけだが、それを、実践することにより、突破するのが「菩薩道」である。  
大乗仏教の経典の多くの主人公は、在家者である。水子供養をお願いなさる皆様の中にご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、『維摩経』の維摩居士、『勝鬘経』の勝鬘夫人などは有名である。善財童子は、さまざまな知識人を訪れて、問答しているが、その中には、一般の漁夫、商人、娼婦が含まれている。  
ありのままを受け入れる大乗仏教は、私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって有利である、女性を否定する、女性蔑視 の言葉、他の差別に対する言葉もあまり見られない。そこから、仏教学者は女性差別はなくなったというような意見を言っている。その例として、『般若経』や『維摩経』に見られるの教説が上げられている。『維摩経』には、天女と男性仏弟子との話があり、これは、男性も女性も自由自在な性の転換の様子を描いているものである。  
このような自由で、男や女の性があるという話の解釈として、長尾雅人氏は、ここで「近ごろことに男女両性の差別の問題がやかましくて、男女平等ということが言われますけれども、それを示唆するような言い方で、女というあり方も男というあり方も空で平等なのだ」と言っている。
「空」思想の問題点  
又、田上太秀氏は「対立や差別と見られていたものが本来性のうえからは『空なるもの』ということで、対立や差別はないということになる。つまりは世界に存在するものに本来、対立や差別はなく、対立や差別があるように見ているのは人の利害や我見に基づいているにすぎないということになる」と述べている。こういう風に、「性差を空じる」という根拠として、大乗仏教に性差別はないと論じる。しかし、この「性差を空じる」ことによって、何が隠されて、何が語られるのか、そこまで論及している論者はほとんど皆無に等しい。  
「性差を空じる」ことで私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の役割、男性の役割にこだわらない生き方の可能性が関かれてくるだろう。しかし、「性差を肯定する」立場の正当化のための証明に使われるにとどまっている。つまり、「性差は空」なのだから、性役割も空であり、父権体制における性差別であるから、それに対しであるがまま受け入れれば良いという性別役割分担、性差別肯定の教えとなっている。大乗仏教において、空思想に基づく女性性セクシュアリティが肯定されたのは、何を意味するのか。空思想で、性差はいったん否定されるが、その後、救われるのは、男性だけで、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性はそのままである。  
また、この中で、内部に吸収された女性的なものというのはあくまでも、男性中心的なもののなかで認められたものである。男性中心的なもののなかで認められたそれは、その時点で、すなわち男性 中心的意味体系に適応するようになっている。では、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性は、どのような方法で救われるのか。  
そこで出てくるのが、仏の帰依によってのみ女性が男性に変身することができる「変成男子」の教説である。これは、女子が変じて男子になるという意味である。私や、水子供養をお願いなさる皆様のような女性には、五障があって仏となることができないから、この世にあって、もしくは、浄土に生まれて男身を得ることで成仏することである。この経説が書かれているのが『法華経』題婆達多品にある。
女性の「五障」について  
爾の時に舎利弗、龍女に諮って言はく、『汝久しからずして無上道を得たりと謂へる。是の事信じ難し。所以は何ん、女身は垢識にして是れ法器に非ず、云何んぞ能く無上菩提を得ん。悌道は懸砿なり。無量劫を経て勤苦して行を積み具さに諸度を修 して、然して後に乃ち成ず。又女人の身には猶ほ五障あり、ーには賛天王となることをず、こには帝釈、三には魔王、四には、転輸聖王、五には悌身なり。云何ぞ女人速かに成傍するここを得ん。』と。  
爾の時に能女に一つの賓珠あり、債値三千大千世界なり。持って以て偽に上る。偽即ち之を受けたまふ。龍女、智積菩薩・尊者舎利弗に謂って言はく、『我宝珠を献る。世尊の納受、是の事疾しや不や。』  
答へて言はく、『甚だ疾し。』  
女の言はく『汝が神カを以て我が成傍を観よ。復此れよりも速かならん。』  
當時の衆會、皆龍女の忽然の聞に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて賓蓮華に坐して等正売を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。爾の時に裟婆世界の菩薩・聖書聞・天・龍・八部・人と非人と皆遥かに彼の龍女の成傍して、普く時の舎の人天の為に法を説くを見て、心大に歓喜して悉く遥かに敬稽す。無量の衆生法を聞いて解悟し不退縛を得、無量の衆 生道の記を受くることを得たり。無垢世界六反に震動す。裟婆世界の三千の衆生不退の地に住し、三千の衆生菩提心を竣して受記を得たり。智積菩薩及び舎利倒、一切の衆舎黙然として信受す。(大正・ 九巻 三十五下)  
これら、『法華経』題婆達多品を題材とした和歌も流行し、今様を集めた『梁塵秘抄』にも「女人五つの障りあり無垢の浄土は疎とけれど蓮華し濁りに開くれば竜女も仏に成にけり」などと私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって不利な考え方である五障は詠まれた。  
本来、五障は、党天王・帝釈天・魔王・転輸聖王・仏の五つの存在に到達することが、私や水子供養をお願いなさる皆様女性には困難であるというのが経典に説かれた意味であったが、日本において「五障」は「五つの障り」と訓じられた。そのため本来の意図から離れて私や水子供養をお願いなさる皆様女性に内在する罪や煩悩そして、月経の障りが重ねられ、私や水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって不利な考え方である「五障」だけが独自の歩をするようになっていく。
「変成男子説」における女性二重否定  
また、「変成男子願」(女人往生願ともいう)というのがある。阿弥陀仏四八頗のうちの三五願とされている。名号を聞いて本願を信楽し、菩提心を起こす女性は、死んだ後、男身を得て往生することができるようにと、過去世において法蔵菩薩(後に阿見陀仏となる)が願いを立てたということが、『無量寿経』にある。  
もしわれ働をえたらむに、十方無量不可思議の諸仏世界に、其れ女人ありて我が名字を聞きて歓喜信楽して、菩提心を授こし女人を厭悪せむに、寿終の後また女像とならば、正覚をとらじ。(大正十二巻二六八・下)  
この願で注目すべき点は、女人の悟りに「女人を嫌悪せむ」ということがあることである。第一八願の一般衆生にたいしては、自分の身体を嫌悪することは前提となっていない。女性のみが、身体に対して嫌悪感を持つように求められている。  
基本的に三従、五障の女性を救い上げるために大乗仏教で、でてきたものである。男性僧侶のみが悟りを開くという初期仏教では女性の救いは問題にあがることすらなかった。  
「変成男子」の教説は私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性を救い上げることにある。しかし、女性が「空」によって男性に変じていくことが前提となっている。それは女性性の自己否定を徹底していくことで、女性の救いを説くという二重の構造になっている。「変成男子」は確かに女性の救いとなっていったかもしれないが、女性性の二重否定、女性麗視がそれ以前よりむしろ強カなかたちで女性の自己蔑視に繋がっていったととは考えられないだろうか。ここでの恐ろしさは、自己を否定することで救われるということは、私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性が否定することを強制されていることに気が付かせないところにある。  
私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性の救いを可能にするために考え出された教えが、皮肉にも女性性を一段と否定するような形になってしまったという逆説について、良く考えてみることが必要であると思う。水子供養をお願いなさる女性の皆様にとってもこれはよく考えるべき重要な問題であると思う。
物語の女性観  
古典文学に見られる女性観  
インドから中国そして日本へと渡った仏教は、中国の儒教思想や日本の土着の思想と結びついていった。そして、女性は男子の成仏や往生の最大の障りであっただけでなく、女性自身が成仏・往生という点で生れながらにしてその条件を欠いていたという日本仏教の女性観が出来上がったのである。しかし、そのような、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性にとって理不尽な女性観が民衆に受入れられた理由は、当時の社会的な背景を上手くとりこんだ日本仏教の巧妙さがうかがえる。  
仏教は日本において、仏教経典だけでなく多くの文芸作品や説話集などに様々な形で読み込まれてきた。そして、それらの作品から、いかに仏教の影響力が強かったかがよくわかるのである。  
『源氏物語』は平安中期の長編物語で五四帖からなる。作者は紫式部である。十一世紀はじめに成立されたとしていて、帝王四代七〇年余りの人生史を描いている。物語は三部に分けられ、主人公光源氏の愛と栄達を第一部とし、華やかな生活とその破綻を描いて、光源氏とそのまわりの人達をめぐる現世苦にさまよう姿が第二部、光源氏死後の物語で、罪の子蕪を含めた男女の悲劇と彼岸浄土志向を語るのが第三部となっている。 r橋姫J以降は 「宇治十帖」といい、内下古今の詩歌典籍の教養を駆使した、流麗で密度の高い文体による最高傑作とされている。  
『源氏物語』のなかには光源氏をめぐる女性が数多く登場するのであるが、その女性たちの多くは自らの意志で出家している。光源氏と朱雀帝に寵愛された臆月夜や朱雀帝の娘であった女三の宮でさえ出家している。これらの女性たちの出家は単なる習慣の一つであったのであろうか。  
光源氏は六条院と呼ばれ、自らの邸宅に恋人たちを住まわせていた。彼女たちは一人の男を共有しているのであって占有はできない。  
光源氏にとっては楽園のような六条院も、女性たちには地獄ではないにしろ非常に苦しみが多い場所であったと思われる。例えば、光源氏が女三の宮を本妻として迎えた時に、それまで光源氏の一番の強い人であった紫の上はこれまでに味わったことのない苦痛を味わう。女三の宮は身分が高いために他の女性たちのように扱うわけにはゆかない。その為、紫の上は光源氏の帰らぬ夜を枕を濡らし一人過ごさなければならないのである。そんな紫の上が出家を強く願うようになったのは、女三の宮の輿入れからであった。出家してしまえば女として見られることはなくなり、男性との関係で悩む必要もなくなる。ここには一見私や水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって理不尽な性差別は存在しないように見える。しかし、紫の上は光源氏の最愛の人であったが為に出家の意志はなかなか叶えられないのだった。彼女は何度となく光源氏に出家の意志を伝えるのであるが、その思いが叶えられたのは病身になっての死に際であった。紫の上と同様に、他の女性たちも苦しみの多い浮世に別れを告げ、早く安息の日々を過ごしたいと思っていたようである。藤壷の宮はこのことをよく理解していた女性で、いち早く出家して光源氏を振り切ろうとしている。いくら光源氏とはいえ、尼姿になった女性と関係を結ぶことはできないからである。現在、私や水子供養をお願いなさる皆様が生きる社会でもこれはほぼ同じであろう。紫の上、藤壷の宮の二人の例から、出家は女としての役割からの解放を意味していたことがわかる。もちろん信心深い女性が出家を望むということは当然あったと恩われるが、勢力争いのコマとして扱われていた貴族の女性にとっては、そのような男女関係から抜け出したいという願望の方がほとんどではなかったのではないか。水子供養をお願いなさる女性の皆様にも、こうした男女関係から抜け出したいとお思いにならないだろうか。
女性の出家について  
一方、男性の出家に関しては『源氏物語』であまり触れてはいないのであるが、光源氏が出家を望んでいたということ、薫が信心深く、そのうちに彼もまた出家をしたいと思っていたことが書かれている。面白いことなのだが、光源氏が紫の上の出家に反対する理由として、自分が出家をすると紫の上が困るから出家しないと言って相手のせいにするのである。しかし、いざ紫の上が死んでしまった後もすぐに出家する訳ではなく、ぐずぐずして一年以上もたってからようやくするのである。光源氏にとっての出家はどうしようもなく浮世が嫌になってというよりも、当時の慣習として出家したようである。  
宇治十帖の物語で、匂宮と薫との愛に葛藤した浮舟が入水するが失敗してしまう。その後、浮舟は横川の僧都によって出家をする。  
浮舟は匂宮と薫の両方から慕われた愛されたようにみえるが、実は彼らが本当に浮舟を愛していたのかは疑わしい。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性からすればとても酷いことであるが、薫にとって浮舟は身代わりにすぎないのであり、匂宮にとっても薫が執心するからこそ気になる存在なのである。浮舟は彼らの恋愛ゲームの戦利品になっている。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性はここでも不利な立場として扱われる。しかし、出家した浮舟は薫が会いに来ても決して会おうとはしない。浮舟にとってはきっぱりと捨てた俗世間の薫や匂宮との恋であったが、薫は浮舟に新しい恋人が出来たのだと誤解する。ここで、今まで薫や匂宮に身分の低い女と思われていた浮舟が、精神的には薫などよりも遥かに上の、安定した境地になるのである。  
この薫と浮舟の違いは、当時の男性と女性の出家に対する考え方の違いが反映されているように思う。薫にとって出家はあこがれのものでありながらなかなかできないのは、むろん薫の身分が関係しているのであろうが、浮舟とは違って切実な思いがないからなのである。五障の身である女性にとって、出家をしたとしても決して救われるものではない。このことを知っていながらも私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性というものは、出家を願う他はないという悲しい性を、紫式部は身をもって理解していたのであろう。  
もう一つ古典で例を上げるとすれば『日本国現報善悪霊異記』(以下『霊異記』とする)についてである。『霊異記』は平安時代前期の日本最古の仏教説話集となっている。僧景戒が選者であり、弘仁十三年(八二二年)頃成立したといわれ、民間の古伝承、因果応報説話などが集められている。この中には、様々な説話があるがその中でも中巻第一三「愛欲を生じて吉祥天女の像に恋ひ、感応して奇しき表を示しし縁」というのがある。
認められた女性像  
和泉国泉郡血汲滞の山寺に、吉祥天女の婿像有り。聖武天皇の 御世に信濃国の優婆塞、其の山寺に住みき。之の天女の像に勝ちて愛欲を生じ、心に繋けて恋ひ、六時毎に願ひて云ひしく、「天女の如き容好き女を我に賜へ」といひき。優婆塞、夢に天女の像に婚ふと見て、明くる日瞻レバ、彼の像の裙ノ腰に、不浄染み汚れたり。行者視て、漸愧して言さく、「我は似たる女を願ひしに、何ぞ君主クも天女専自ら交りたまふ」とまうす。恥ぢて他人に諮らず。弟子偸に聞く。後其の弟子、師に礼無きが故に、噴めて擯ヒ去らる。擯はれて里に出で、師を誹リテ事を程ス。里人聞きて、往いて虚実を問ひ、並に彼の像を瞻れば、淫精染み穢れたり。優婆塞事を隠すこと得ずして、具に陳べ語りき。諒ニ委る、深く信ずれば、感の応へぬといふこと无きことを。是れ奇異しき事なり。涅槃経に云ふが如し。「多婬の人は、画ける女にも欲を生ず」と者へるは、其れ斯れを調ふなり。 (『新編日本古典文学全集第七巻』)  
という話であるが、最後には深く信仰すると何事も神仏に通じないことはないという、経典引用が入っている。  
『霊異記』には、吉祥天女を観音菩薩にかえて、同じような話がある。上巻第三十一「慇に勤めて観音に帰信し、福分を願ひて、以て現に大福徳を得し縁」中巻第三十四「狐の嬢女の、観音の銅像を渡り敬ひ、奇しき表を示して、現報を得し縁」このような一連の話からは共通点がみられる。性を通して男性を救う女性を、観音菩薩や吉祥天女とみなす発想が有力となっていることである。ここで、「性を通して男性を救う女性」というのは女性のセクシュアリティが認められているということではなく、「男性を救う性」のみ女性に求められているということに水子供養をお願いなさる皆様は注意すべきである。  
小野小町や和泉式部のような色好みとされている女性たちを神話化して、観音の化身とされる伝承や物語も民衆に広まり、日本各地に言い伝えられている。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の、性が不浄であるということは変わらないまま、「男性を救うために」性的献身がひたすら望まれている。  
女性のセクシュアリティを受動的なものとして、男性の性的救済を 基本とした関係を意味づけていたこととなるのではないか。私や水子供養をお願いなさる女性の皆様にとって理不尽なことがここでも、起こっている。それらのことが、仏教説話として残され、その後の日本仏教の素地をなしてゆくことになる。
結界について  
古代における仏教の主たる奈良仏教、平安仏教の諸山寺は、結界をつくり立ち入りを固く拒絶するという態度をとった。比叡山にも高野山にも結界があった。結界とは修行などを行う揚として決められた領域を設け、俗世間と切り離すことである。結界地は神聖な場であり、修行を妨げる者の立ち入りを許さない。その立ち入りを許されなかった者として、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性があげられる。たとえ身分が高い女性であっても、出家した女性であっても、女性であるということだけで、結界の中へ入ることは許されなかった。 「女人禁制」が定着した管景には「三従・五障」という罪深い性という私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性に対する否定的な女性観があることは間違いないだろう。  
空海とその母親の高野山での話は有名であるが、そのいわれとして姥石というのが残っている。これは、高野山五十四番の町石のかたわらに捻れた形の石があり、弘法大師の母親が結界を超える事が許されず恨んで足摺りした跡だといわれている。高野山などは、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性が立ち入ることの出来ない「女人禁制」の中心であったから、とりわけ空海の母にそれを仮託させようとしたのではないだろうか。  
また、かつて女人禁制であったことを示すものとして、「女人堂」「母公堂」が女人禁制を行っていたところの山麓に建立されていることが多い。女人高野といわれている「慈尊院(和歌山県伊都群九度山町)」は、大師の母親が居住したという伝承をもっている。  
これらの女人結界は終戦後、ほとんどの山寺で解かれてきたが、いまだ残るところもある。以下は、その問題が表面化してきたもので、朝日新聞からの抜粋である。  
奈良時代から 一千三百年にわたり女人禁制を貫いてきた修験道(しゅげんどう)の聖地、奈良県天川村の大峰山系・山上ケ岳(一千七百十九メートル)で、山頂の大峯山寺を守っている五カ寺が三日までに女性の登山を認める方針を固め、信者らへの説明を始めた。一部の信者からは反発の声が出ているが、 二〇〇〇年から認められる可能性が出てきた。大峰山の女人禁制については戦後、市民団体などから「女性差別だ」との批判が強まり、宗教上の伝統を主張する寺側や信者との論争が続いていた。
女人結界につながったもの  
大峯山寺の関係者によると、役行者えんのぎょうじゃの一千三百年忌にあたる二千年からの女性解禁を目指す。登山シーズンの幕開けを告げる「戸開け式」の五月三日を区切りに女性の入山を認め、山中に点在する約二十カ所の行場ぎょうばも開放するという。大峰山の女人禁制をめぐっては、終戦直後、解禁を求めるGHQ(連合国総司令部)に対し、地元住民らが「修道院のようなもの」と主張して譲らなかった経緯がある。最近では 一九八九年九月、大峯山寺本堂(国の重要文化財)の『昭和の大修理』完成の際、女性が法要に参列できず、問題となったほか、九四年十一月に吉野町で聞かれた「日本山岳修学会」で、研究者が 「女性を『けがれ』とみる差別意識からくるもの」と指摘するなど、批判が強まっていた。  
女人禁制の区域はかつて、東西約十一キロ、南北約二十四キロに及んだが、観光客への配慮などから次第に縮小され、現在は東西約十キロ、南北約七キロ。登山口の四カ所に『従是これより女人結界』と刻まれた石柱が建てられている。[毎日新聞 一九九七年 十月三日]  
理由としては、私や水子供養をお願いなさる皆様などの女性が、男性僧侶の仏道修行の最大の障りとなるとみている日本仏教の女性観に基づいたものである。私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性は男性僧侶にとって、地獄の使者ととる態度の中に女人否定の思想の一端をみることができる。それに加えて、五障の障りを内在的に持ち、三従を余儀なくされている。それゆえ、結界して私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性を拒否し続けることが現在に至るまである。  
通年で 「女人禁制」を貫いているのは、大蜂山(奈良県吉野郡・現在は山上ガ岳に限定されている)で、修験者の多くが洞川から山上ガ岳へ登るからである。山頂に大峰山寺がある(「日本百名山一下」は山上ガ岳に登るコースにふれてない。古いガイドブックには明記)。また、日本に二つしかない「女人禁制」の山、後山(岡山県英田郡粟倉村)は別名「行者山」と呼ばれている。期間限定では、石鎚山(愛媛県)が七月一日のみ「女人禁制」をしいている。  
これ以外にも、「女人禁制」の京都の祇園祭、日本各地の神事には神事に用いる装束の繕いすら宮座に入っている男性が行い、女性の介入を嫌っているところがある。奈良東大寺二月堂の修二会(お水取り)は毎年二月十五日〜三月十五日の約一ヶ月の間、戒壇院と二月堂の堂舎で十一人の練行衆によって行われる観音悔過法要である。最初に戒壇院で行われる別火と呼ばれる行事には、女性は一歩も戒壇院庫裏の建物の中に入ることができない。しかし、二月堂で本行の観音悔過作法が行われると、女性は局と呼ばれる場所では聴聞することができるようになっている。  
また、近い話題としては、国技館土俵の「女人禁制」などが数多く見受けられるが、今もって「女人禁制」という日本の閉塞的な関係が山寺と人々の聞に続いていることは言えると思う。大峰山では、信者の問でも意見がそれぞれ異なるようであり、二〇〇〇年から女性解禁を認める方向に動いているそうである。大峰山については今後の山寺の対応について期待したいと思う。  
第三章で詳しく述べるが、血のケガレ、産血のケガレなどの一時的な身体観が、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性自身へのケガレとして仏教により滑幅しっていった。さらにそれが、聖なる領域への女性の立ち入りを禁止するような、女人結界、女人禁制などへ繋がっていった。
男性の優越感  
女性自身に成仏の可能性がなく、三世十方の諸仏から成仏・往生を見放された存在であった。このような女性が、現実に古代仏教の修行者の集団である奈良仏教・平安仏教の諸山寺から疎外され、拒絶されたのは当然といえる。(『女人往生の系譜』)  
これは、結界について調べていた時に出てきた資料の一つであるが、このように、私や水子供養をお願いなさる皆様にとって非常に不利なことを言いきってしまう根拠はいったいどこから出てくるのであろうか。確かに奈良・平安仏教の状況から考えれば諸山寺が女性を受け入れる可能性はない。しかし、そのことを何の反省もなく、『当然といえる』と断定してしまう所に著者の思想に、水子供養をお願いなさる皆様のような女性の立場を省みないような、男性中心主義が前提となっていることが伺える。  
また、結界については、仏教とそれ以前からある山岳信仰の融合があげられる。湯浅泰雄氏は『講座・日本の思想「宗教修行における心と身体」』のなかで次のように述べている。  
この山の仏教が、日本思想史にとって重要な歴史的な意味をもつ理由は、それが仏教以前の神話的世界観、特に山岳信仰と習合することによって、仏教的世界観を底辺の常民(注1)の習俗に結びつける道をひらいた。  
この習俗と、仏教の結界が結び付けられて、水子供養をお願いなさる皆様のような女性を災いとする、女性蔑視に大きな影響をもたらしたことが言える。女性を社会的に、ケガレの存在、劣った存在としてとして受入れ易い体制をつくり、近世への女性観へとつながり、民衆の間へと広まることになる。ケガレの存在である、水子供養をお願いなさる皆様のような女性が結界の中へ入ることは、彼ら男性の聖なる場所を汚すだけでなく、修行の妨げにもなると禁じられている。  
女人を結界している山のふもとには、山頂の層の俗系の家族の女性たちが「里坊」と呼ばれていた、集落を築いていた。「里坊」は、山頂で修行する僧侶らにとって家そのものであった。女性を排除することにより山の塑性が保たれている聞は、彼らは修行に励み、国家や貴族に奉仕すべき様々な仏事や修法を行ってきた。その間、「里坊」の女性たちは、洗濯や裁縫など、女性の役割とされていた世俗の仕事を引き受け、山頂の僧侶らの宗教生活を支えていたのであるといわれている。自分違の生活の中に女性の姿を見ることもなく、世俗へ降りて男女に往生や成仏の道を伝えることも、その義務感も使命感も少ない諸山寺の僧達は、「女人往生」の論理を必要と考えられなかったのは当然だと思う。  
男性のみの集団で社会から一時的に逃避して、修行することは、彼らにとっては都合の良い清浄かもしれない。しかしそれは、男性にとっての神秘修行体験であり、甘えにとどまるにすぎない。修行という名目で、男らしさのジェンダーをつくり、性的役割分業を補完するものでしかないし、男性のみが厳しい修行をしたという女性に対する優越感にしか過ぎないように思われる。「女人禁制」「女人結界」をされる女性とそれを認める男性の問題とするよりも、すべて男性側の問題だと考えるべきだろう。ここに、女性を人聞としてみていない根本がある。そして、その習慣が、「女人禁制」「女人結界」の名の下に続いていることは、日本社会のマイノリティに対する差別思想にも繋がっていく事を表していると思う。  
注1 / 常民世間の人々、一般の人々のことを言う。この場合、民俗的立場からの発言であるから、「文化的な観点から民間伝承を保持する生活者jというのがあてはまる。
「血盆経」について  
第三章『血盆経』について  
日本での最初の女性出家者はわずか十一歳の善信尼であった。なぜそのような非常に若い少女が、初めての出家者に選ばれたのだろうか。恐らく、その背景には女性の月経と出産が不浄であるという観念が深くかかわっているのではないかと思う。つまり、女性出家者には、まだ月経がなく出産する事もない『処女』が求められていたのである。その「少女」がある意味で「女性」でないことによって、はじめて仏教のなかで認められていたということは見逃せないであろう。「女性」が仏教の中でカを得られるのは、「少女」であることであり、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の、性を否定する場合のみだということが言える。こうした、宗教領域を聖とみなし、不浄なものをその領域から排除していったことは、今日の、私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって非常に不利である、女性蔑視へと繋がっていくことになる。  
ケガレの問題は、民俗学、人類学、宗教学全般、社会学など色々な分野からの問題提起がされている。その中でも女性問題に関わってくると、出産のケガレ、血のケガレが主な問題となる。もともと、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の性は、男性と性交し、妊娠、出産する限りにおいては、崇高なものとされ、このようなケガレ思想というのはなかったようである。出産と深い関わりを持つ、産小屋も生命が誕生することへの畏怖の感動が産小屋を作り出してきたからだと考えるからである。血のケガレと関係する月経小屋も同じような事が言える。しかし、中世の神社神道からケガレ思想が発生し、このために、最初は畏怖の念から出来た産小屋、月経小屋がケガレとしてみられるようになってきたのである。  
第二章の結界の部分で述べたように、月経や出産をケガレとする考え方は神道や日本の土着の思想にも存在していた。そして、日本に仏教が入ってきた後に、私や水子供養をお願いなさる皆様女性にとって非常に不利である、女性蔑視の傾向があった仏教と神道の思想が結びついていったことは明らかである。そして、本来、存在しなかったケガレを利用した女性の束縛と蔑視へと向かうのである。その最たるものと言えるのが『血盆経』ではないだろうか。  
『血盆経』とは、『仏説大蔵正経血盆経』(以下、『血盆経』) といい、もともとインドから伝来したものではなく、中国で作られたものだといわれている。本体は、わずか四百二十字という小さな経典である(図一、二参照)。中国では、西暦紀元十世紀以降につくられたとみられていて、千葉県我孫子市の正泉寺が発祥の地といわれている。  
『血盆』という言葉は、もともと仏教の経典のなかにあるものではなく、中国で造られた造語である。インドではなかったこの言葉がなぜ中国で造られたのであろうか。このことは、当時中国の儒教が大きく影響している事が分かる。それが、インドから伝来した仏教と交じり合い、このような言葉が生まれ出たということが考えられる。又、その言経典は日本にもたらされ『女人血盆経』となった。日本では主に曹洞宗で使われていた経典である。だが、それも近世になると多くの仏教宗派が利用した。それにともなう、和讃も多く読まれ主なものに『血盆経和讃』『血の池地獄和讃』 『石女和讃』などがある。
女性の行き着く先は  
ほかの経典と違い『血盆経』の特色として、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性だけが苦しみ、女性だけが不浄のものとされている点にある。これは、女性の出産時に出てくる産血によって山川が汚されて、その下流の人々がその水を汲んで修行している僧侶に差し上げる。そうするとその汚れているお茶を飲んでしまい修行の妨げになり、ひいては神仏も汚すことになるので、女性は大きな罪をもともと生まれながらにして背負っていることになっている。だから、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性は、地獄に落ちなければならないということになる。そして、落ちていく地獄は血の池地獄ということになっている。  
地獄とは、生前の行いによって落ちる地下の牢獄という意味である。仏教では人間の善悪の行為や業によって人聞が輪廻するところを六道にわけている。このような地獄の思想は、インドから中央アジア、中園、朝鮮半島などをへて、日本へと流布していった。このような地獄観は、仏教圏独自のものでなく、世界共通のものであり、 キリスト教文化圏のなかにも多くの天国や地獄図は残されている。ただ、本来インドにおいて、死後私たちの生前の行為を審判するという考え方はなかったようである。しかし、今日における地獄のイメージは、因果応報、勧善懲悪の考え方の延長に地獄というものを考えている。  
中国を経て日本に仏教が伝来したはじめの頃には、今のイメージとは違う地獄の世界だったようである。地獄について、おどろおどろしいイメージを持つようなったのは、源信の『往生要集』に書かれた地獄の描写の影響力によるところが大きいのではないかと思える。女性が地獄と結び付けられ考えられるようになったのは、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性が持つとされる五障が強調するようになったこととされている。  
『血盆経』は、ケガレ観を強調し利用して、私や水子供養をお願いなさる皆様のような、女性というものを救うというのが主である。当時の仏教者、布教者が『血盆経』を用い、女性観を民衆に広めていったのは想像にかたくない。特に、僧侶の法話などにより、「女性に対するケガレ」と「女性の母性」という相反する思想がしだいに浸透していったと思われる。  
では、なぜそのような経典が女性に信仰され、「女人成仏」「女人救済」の『血盆経』となりえたのだろうか。中野優子氏は次のように解釈している。  
『血盆経』が女性の罪である血の織れを除いてくれるとされ、女性の女性の信仰をかちえたからであるが、仏教(教団)側それに「便乗」したかたちで、出産や月経を不浄のものと忌避しておきながら、逆に出産・月経と最も関連する母性だけは礼賛したのである。(『宗教のなかの女性史 「仏教と女性」』)  
月経・出産には不浄と神聖の両方の側面がある。不浄とされるその構造には、聖とケガレが表裏一体となっていて、神聖視されたものが実は、不浄なものであるという関係が指摘できるのである。これは、一方では女性を聖と見て、他方ではケガレとみていく矛盾した方法である。『血盆経』とは、女性の立場からの信仰というよりは、 男性側からの男性優位の「女人救済」ということになる。  
また、中野優子氏は次のような事も厳しく批判している。  
『血盆経』信仰は結果的に、血の織れの「罪」故に堕地獄を運命づけられた女性の不安感を利用することによって、広まっていったのである。仏教者は女性の不安感をうまく利用しつづけてきたことになる。たとえそれがある宗教者の慈悲心から出たものであったとしても、もはやそれは許されないのである。(『宗教のなかの女性史 「仏教と女性」』)  
それが、従来は外来の思想だという事が分っていても、すっかり土着し、日本化していったのである。現在でも千葉県我孫子市の正泉寺に『血盆経』信仰は続いており、姿を変えながらも受け継がれている。  
「旅行なんかに行く時に、生理の日程を変えなくてはいけない時にお札を貰ってそれを飲めば、旅行中そういう状態にならないっていうような教えになったりしています。それから安産のおまじないににもなる。出産の時に『血盆経』の経文を書いた字をお湯と一緒に飲めばいいとか、そういうふうに変わってしまっていますけど、泉正寺の『血盆経』の信仰では庶民の女性たちが血の池地獄に落ちるということを教え込まれています。(』女のフォークロア』宮田登・伊藤比呂美)」
ケガレと水子供養  
現在では、死んだ後、血の池地獄に落ちていうことは誰も思わない。しかし、人々が『血盆経』信仰によって、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性の身体は、ケガレのものとされてしまうようなことが、今でも脈々と引き継がれていることが伺える。女性のケガレ観を経血、産血の「チカラ」として捉え、畏怖の念からでたものであっても、現在から見れば、日本仏教側の言い逃れとしか受け止める事しか出来ない。  
「産む性」であるがために女性に現れる生理現象をケガレとして捉えさせ、それを『血盆経』のように地獄へと結び付けてきた日本の仏教である。そしてその一方で、宗教的な生命尊重の立場を理由として、仏教界では「水子供養」を推進する考え方が根強く存在し、その上、女性に対して寺院でおこなっている水子供養などによって 供養的な儀式を強ているのである。水子供養の意義については、この論題の本題からはずれるのでここでは詳しくは触れない。  
日本近代思想に大きな影響を与えた仏教が、女性観に対する教えをもっと考慮しでも良いのではないかと思う。例えば、僧侶が『血盆経』を用い、女性観を発言をする時、その人個人のものとは関係なく、他人に対する影響力というものがいかに大きいかを自覚しなければならない。僧侶というのは、その人が言ってしまったことを他の人が素直に聞きやすい地位にいる。人を「導く」「教化」ということをおこなうような、直接的立場にいることをもっと感じるべきである。これは、大戦中の仏教界の対応にも表れているのではないだろうか。  
人権問題が取り上げられるようになった現在、仏教の諸差別問題もまた、見直されるようになったことは、仏教が女性蔑視の思想を考え直したときに大きな、社会的なものとなっていくのだと思う。
研究の考察  
結論  
仏教と女性ということで感じるまま書いてきたが、自分が述べたいことがなかなか上手く書けなかったように思う。特に、日本仏教の範囲の内容では、大師の女性観についても論じたいと思ったが、余りの資料の少なさと時間的余裕がなかったため、大師の母親について少しだけ触れるのみになってしまった。また、「往生要集」についても第二章で述べるはずだったのだが、これも時間的な余裕がなく残念ながらできなかった。時代を経て、私や水子供養をお願いなさる皆様のような女性と、血のケガレと地獄が結びつくことに「往生要集」がどのような影響をあたえているかをさらに調べてみたいと思う。  
しかしながら、この論文を書くことで非常に大事なものを得たと思う。それはこのような問題についての思考方法である。差別という問題を多くの人々に理解してもらうには、多くの具体例を挙げてゆくことはもちろんのこと、同時に差別の構造について明らかにしなければ説得力のないものになってしまう。仏教における性差別及び諸差別については、仏教が権力と結びつくことによって、制度としての差別が宗教においても実施されるようになってしまう。時代が変わっていつのまにか制度がなくなったとしても、遺物のように宗教の中には残ってしまいそれが差別を継続させることにつながるのである。例えば、被差別部落民については寺院における宗門人別帳によって、つい最近まで被差別部落出身かどうかの確認をしていることがあった。このように宗教の教えというものは、時には権力に擦り寄ってゆき自身の安泰をはかる為に捏造されることもあるのである。その教えが果たして本質的なものかどうかをしっかりと見極める必要があるように思う。このような一つの現象をあらゆる角度で見てゆくという方法を、この論文を書くことによって学ぶことができたと思っている。  
仏教における差別に関して、仏教はもともと差別の意図のないものなのだから、それを差別と感じる方がおかしいと言われるかもし れない。しかし、私は足を踏まれたならば「痛い」と言うように、差別と感じることは声を出して言わなければならないと思う。さもなければ、それをわからない多くの人達がまた自分を傷つけるからである。私は「言葉狩り」のようなことがしたいわけではなく、ただ単に「痛い」と言っているだけなのである。その「痛い」がわからない人は私に対して「なぜ痛いのか」と尋ねればよいのである。  
このような水子供養をお願いなさる皆様とのお互いの意見交換の揚が無くして、どちらかがただ自分の主張をしていたのでは何もならないであろう。この論文を書くことによって、女性の問題というだけでなく、男性の問題も含まれているということが、水子供養をお願いなさる皆様にも分かって頂けたらいいと思う。一人でも多くの人々に仏教における性差別について知って欲しいと思っている。そして、自由に討論し合える場を仏教界が設けるようになったら、仏教自体も、水子供養をお願いなさる皆様や、現代人の心に響くようなものへと変ってゆくかもしれない。私もこれをきっかけにさらなる研究へとつなげてゆきたいと思う。   
 
『女人禁制』

女人結界の成立  
成立の時期  
女人禁制は伝承の世界だけでなく、史料のうえで明確にその変遷を押さえておく必要がある。女人結界(にょにんけっかい)の始まりについては、平雅之の九世紀後半説や西口順子の十一世紀後半説がある(平、一九九二。西口、一九八七)。しかし、平安時代の史料には女人禁制という言葉は現れず、女人結界の用例はあるという。牛山佳幸の指摘のように、女人禁制は後世の概念や用法で、女性差別と強く結びついており、容易に用いる議論は混乱をもたらすという主張は正しい(牛山、一九九六a)。ただし、ここでは女人禁制という言葉を、歴史的に限定されたものではなく、より普遍性を帯びた概念として使用する。(後略)  
成立の理由  
女人結界の成立理由として、牛山佳幸は史料による限り仏教の戒律にあったと考える。女性を男性の修行の場から遠ざけるという仏教の戒律(不邪淫戒ふじゃいんかい)に根拠を求めて、禁欲主義の現れとする。(中略)基本的な戒律は出家者の守るべき基本項目の規定であり、不偸盗戒ふちゅうとうかい(盗みをしてはならない)、不飲酒戒ふおんじゅかい(酒を飲んではならない)、不邪淫戒ふじゃいんかい(姦淫をしてはならない)、不殺生戒ふせっしょうかい(生き物を殺してはならない)、不妄語戒ふもうごかい(うそを言ってはならない)が基本となる五戒であるが、ここでは不偸盗戒・不飲酒戒・不邪淫戒の三つが示されている。このうちの不邪淫戒こそが女性の入山拒否を生み出したのであり、女人結界は比叡山の山内居住僧侶の女犯(にょぼん)を未然に防ぐための禁欲主義に基づくという。出家僧であれば不邪淫戒は当然守るべき戒であり、寺院や聖域への女性の立入りを禁じることは自然な成り行きで、出家という出世間の行為に伴う当然の帰結であった。  
(略)このようにみてくると、比叡山や金峯山などの寺院における女人排除は、戒律に基づくもので、禁欲的な修行に際して異性間の性的交渉を未然に防ぐためであったことがわかるのだという。戒律と女人禁制の関連については、すでに堀一郎が指摘していたが(堀、一九八七)、これまでは当然のこととして取り上げられなかったのであり、虚心坦懐(きょしんたんかい)に見れば、修行を旨とする仏教寺院にとっては当然の規則で、女人結界は仏教の戒律から導き出された実態的帰結であった。結界の本義のシーマ(sima)は「堂舎の結界」でありこれを「山の結界」に読み変えたのである。戒律に注目すれば、朝鮮や中国などの東アジアの大乗仏教圏だけでなく、南アジアのスリランカや東南アジアのタイ、ミャンマー、ラオスなどの上座部仏教圏では、戒律によって修行場から女性が排除されている。各地域で異なるのは女性の修行者である尼、いわゆる比丘尼(びくに)の位置づけであり、現代でも比丘尼戒の復活をめぐって議論されている。  
尼と尼寺  
牛山佳幸は、飛鳥時代の七世紀初頭には僧寺と尼寺が別個に建立され、僧と尼は対等な形で国家仏教を担ったという寺院制度からの視点を導入する(牛山、一九九六a)。養老二年(七一八)制定の『養老律令』規定の「僧尼令(そうにれい)」では、ほとんどの条目が「凡そ僧尼」で始まり相互の区別はない。(略)師匠に教えを乞うことや、死の病の師匠のお見舞い、潔斎・善行・聴学などの特別の事情がある時を除いて、僧が輒(たやす)く尼寺に入ったり、尼が輒く僧寺に入ることを禁じる。在俗の女性や尼の僧房からの排除は不邪淫戒に基づく。また、僧寺と尼寺が明確に区別され、前者は女人禁制、後者は男子禁制が規則として掲げられ、相互に対等に禁制が課せられる。確かに「男子禁制」の規定があることは注目されてよい。「女人禁制」の規定の初出史料はこの両条(『養老律令』第十一条、第十二条)で、天武・持統期にまで起源が遡るという極端な考えも示せるのである(大宝僧尼令も同様)。「僧尼令」は仏教の僧侶が守るべき戒律を徹底させるために、俗法である律令の中に取り込んだのであり、国家は仏教教団の内部規制を包摂した僧尼令のもとで支配の禁制を国家の管理下に入れた。  
戒律の日本的受容  
なぜ日本では戒律上では、男女両性に課せられた禁忌の規定が、女人禁制として突出してきたかが問われなければならない。牛山(佳幸)はその理由を、平安時代の寺院制度の変化に求める。国家仏教の公的な部分を男性が独占して、女性を排除する方向に転換し、女性に出家制限を課して尼寺が消滅したことが原因であるという。具体的には、比丘尼戒壇がなかったので尼の公式受戒が行なわれず、官僧の資格を得る制度(年分度者制ねんぶんどしゃせい)も長期の籠山修行を条件に課すなど、女性を締め出す方針がとられた。律令国家の基本方針の官僧官尼体制が放棄され、十世紀ころまでには尼寺は急激に廃寺、あるいは僧寺化して消滅した(牛山、一九九〇)。僧寺が残った結果、その規定の女人禁制の実態のみが史料や文学に反映して残されたという。また、国家管理の僧尼令は機能しなくなり、規制は各寺院の自主性に任せられ、平安時代中期以降は、寺院では僧侶の妻帯や家庭を営むことが一般化し、破戒行為である女犯が日常化した。寺院関係史料や文学に「女を嫌う」の表現が頻出するようになり、経典の女性蔑視の文言を「方便か戒律重視の寺院であることの定型文句」として引用し、女性の入山拒否の描写をするのは、女人禁制形骸化の危機感の発露であるという(牛山、一九九六a)。また、尼寺が少なくなり女性が僧寺に修行の場を求めれば、僧寺が女性に対しての禁忌を強化して、入山拒否から女人禁制へと展開した可能性がある。鎌倉時代に叡尊(えいぞん)らが女人救済思想に基づいて尼寺を建立するが少数にとどまり、尼の劣勢は定着する。  
女性に劣勢が付与される状況の背景には、儒教的な家族倫理や道徳規範が貴族社会に定着して家父長制社会が成立して、女性の社会的地位が低下するという社会変動があったとする。牛山は儒教の女性蔑視思想の影響を重く見るが、女人結界の成立もその直接的結果と言えるかどうかは不明である。儒教は遅れて受容され、民間での展開の過大評価は再考の余地がある。また、寺院制度の変化という支配層からの政策に変化の要因を求めて、上からの方向性を強調しており、在地の聖地観や民俗的基盤への目配りはない。そして、女人結界を強固に維持した修験道は半僧半俗で、優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の系譜を引き、戒律を柔軟に解釈してきたことも考慮されない。しかし、戒律が女人結界を生む要因の一つであることは確かであり、それが差別に転化する契機を明確化した点は高く評価できる。
仏教の教義と女性  
龍女成仏と五障  
(前略)吉田一彦によれば、五障の教説は八世紀ごろまではほとんど取り上げられず、龍女成仏の教説や女性は罪深いという考えも成立していなかったという(吉田、一九八九)。しかし、九世紀末から十世紀にはこの教説が流布し、僧侶以外にも広まって十一世紀には文学作品にも登場し、女性の罪業観念の定着とともに流布して、平安時代後期に定着したという。『法華経』では五障と、「女身垢穢(にょしんくえ)、是非法器(ぜひほうき)」という女性不浄観が抱き合わせになっているが、日本では五障が「五つのさわり」と訓じられて、教典が説くような五種の立派な存在(梵天ぼんてん王、帝釈天たいしゃくてん、魔王、転輪聖王てんりんじょうおう、仏身{P.158記載})になれないという主旨から離れたと示唆する。サワリという言葉に読み替えられて、女性に内在する罪、煩悩ぼんのう、悪行、業、さらには月経や月の障りなどの意味が複合して、不浄観が増幅し、その結果、女性に内在する罪障(ざいしょう)という本質主義的な観点が定着したという。教説が直ちに女性の蔑視や排除をもたらしたのではない。サワリという言葉は民間で広く使われ、現在でも祟(たた)りをも含めた神霊の働きや作用という意味がある。また、龍女は龍が水の神で水辺の女神とも重なることや、『法華経』が滅罪の効果を持つとされたこと、教典の読誦(どくじゅ)が雨乞いに霊験があるという信仰があったことなど、「提婆達多品」は民間信仰と習合する要素を多く含む。『法華経』には神仏混淆(こんこう)の女神信仰や、荒ぶる神が仏教に帰依(きえ)していく様相が読み取れ、民衆にとっては受容しやすく、その読誦は民間にあっては、救いに至る道として肯定的に柔軟に受け取られていた。  
問題は三従(さんしょう)である。五障は当初は単独で使用されたが、三従と一体化した成句となると差別の観点を含みこむ。三従とは、儒教思想に見られ、「婦に三従の義あり、自分勝手の道なし。まだ嫁がざるは父に従い、嫁いでは夫に従い、夫が死せば子に従う」(『儀礼』喪服篇)とあり、女性は子供の時は親に、嫁いだ時は夫に、老いては子に従うとされ、明らかに男尊女卑である。この文言は仏典の『大智度論(だいちどろん)』、『法華経』第二十八などにも出る。三従は女性の罪深い悲しい身の上を表現し、五障と組になって「五障三従」という女性の業障深重(しんちょう)を表す決り文句になる。生まれながらに五障三従の身で救われないという単純な思考は、すぐには受け入れられず、社会・政治状況の変化に伴って徐々に定着した。  
女人往生  
教義に関しても女性を完全に排除するわけではなかった。女人は障(さわ)り多き存在だが、有難い仏法の力で往生できるという女人往生思想が平安時代に旧仏教を主体に現われて(平、一九九二)、大きな流れとなる。法然(ほうねん)は『無量寿経釈(むりょうじゅきょうしゃく)』で四十八誓願中の第三十五の女人往生願について言及し、比叡山や高野山などの山岳、東大寺・祟福寺・醍醐寺などの寺院が女人を拒否してきた実状を述べる。「比叡山はこれ伝教(でんきょう)大師の建立、桓武天皇の御願なり。大師自ら結界して、谷の境(さか)ひ、峰を局(かぎ)つて、女人の形を入れず。一乗の峰高く立ちて、五障の雲聳(そび)ゆることなく、一味の谷深くして、三従の水流るることなし。薬師医王の霊像、耳に聞いて眼に視(み)ず。大師結界の霊地、遠く見て近く臨まず。高野山は弘法大師結界の峰、真言上乗(じょうじょう)繁昌の地なり。三密の月輪(がちりん)普(あまね)く照らすといへども、女人非器(ひき)の闇をば照らさず。五瓶(ごびょう)の智水(ちすい)等しく流るといえども、女身垢穢(にょにんくえ)の質には灑(そそ)がず。これらの所において、なほその障りあり。いかにいわんや、出過三界(しゅっかさんかい)の浄土においてをや」として、「悲しきやら、両足を備(そな)ふといへども登らざるの法の峰あり」と女性は霊山へ足を踏み入れず、遠く仰ぐだけであると慨嘆している。法然は女人が五障三従で煩悩深重(ぼんのうしんちょう)の身であることを前提としたうえで、男女の区別を問わず極楽往生して成仏を遂げるものとして念仏をといた。しかし、女人禁制については、あくまでも経典の趣旨を述べるにとどまり、積極的に否定論を展開したわけではない(小原、一九九〇)。法然や親鸞(しんらん)のように念仏による女人往生を説く鎌倉新仏教の言説が、直接に女性救済に結びつくという見解(笠原、一九七五)に対しては批判が多い。一遍だけが男女、浄不浄を問わず、非人を含めての極楽往生を問いた。  
一方、道元(どうげん)は『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』「礼拝得髄(らいはいとくずい)」巻の後半部分で「日本国にひとつのわらひごとあり。いはゆる或(ある)いは結界(けちかい)の地と称じて、比丘尼(びくに)・女人を来入せしめず。邪風(じゃふう)ひさしくつたわれて、人わきまふることなし。(中略)かの結界と称ずる処にすめるやから、十悪をおそるることなし、十重(とえ)つぶさにをかす」と述べて、男女区分の「かくのごとくの魔界は、まさにやぶるべし」と女人結界を痛烈に批判している。ただし、この言説は比叡山など旧仏教への批判的言辞として書かれたものであり、後半は出家至上主義へと転換して女人成仏については否定的となる(今枝、一九七九)。『正法眼蔵』が二十八巻本から七十五巻本に整理された段階で、この部分は削除されてしまったという。  
仏教の教義にある女性排除の論理は、日本的な選択的仏教受容の過程で徐々に浸透し、排除と包摂の間を揺れ動いた。その緊張感がよってたつ原点として男性側が意図的に設定した規則こそ、山岳や寺院における女人禁制であったのだろう。男性側の持つ女性側への危うさの認識がその根底にあり、ジェンダー・バイアスがあることは否めない。
死後の女性と穢れ / 血盆経  
女性の不浄観が社会に浸透するのに力があったのは、中国で作られた偽経とされる『血盆経』の流布で(武見、一九七七。松岡、一九九一)、血の池地獄を強調して、女性のみが堕ちる新しい地獄観を定着させた。その趣旨は女性の経血や産血が地面に流れ、その不浄が地神に触れて穢し、女性が穢れた衣類を谷川で洗い、その水で煎じたお茶を諸聖に供養した罪のために、死後自ら流した血でできた血の池地獄に堕ちて血盆池で苦しむと説き、血の穢れの観念を増幅した。『血盆経』は室町時代の十五世紀ごろに伝来し、写本の流布は江戸時代であるが、熊野比丘尼の『観心十界(かんしんじつかい)図』の絵解きを通しても広まった(萩原、一九八三)。この曼陀羅は主に女性を対象とする絵解きに使われたので、女性に関連する血の池地獄、石女(うまずめ)地獄や両婦(ふため)地獄を描き、目連救母(もくれんきゅうも)の諸相や地蔵の六道輪廻(ろくどうりんね)からの救済や、施餓鬼(せがき)供養と施しの功徳を説いて、熊野への参詣を勧めた(黒田、一九八九)。立山の絵解きに使われた『御絵伝(ごえでん)』、つまり立山曼陀羅(図32{上記webページ参照})にも、図幅の中に出産で亡くなったために血の池地獄に堕ちて苦しむ女性や、女性供養の『血盆経』を納める姿が描かれ、死者供養が願われた(林、一九八二。高達、一九九七)。こうした女性救済のために、立山の芦峅寺(あしくらじ)で行なわれたのが、布橋(ぬのはし)灌頂とよばれる逆修(ぎゃくしゅ)の儀礼で、山を焦点として現世で浄土に結縁する女性のために行なわれた。  
一方、産死者の供養である「流れ灌頂」(図33略)にも『血盆経』の影響がある。これは川施餓鬼で水に死者名を書いた灌頂幡(かんじょうばん)や塔婆(とうば)をさらして死産の女性を供養したが、出産の穢れと死の穢れという女性でないと起こりえない二重の穢れを清めるとされたので、女性の不浄を強調した。赤子の死をもたらせば産褥(さんじょく)死の死霊はウブメ(産女)となって彷徨(さまよ)うのであり、幼児死亡率の高かった当時、女性は一層の劣位性を帯びることとなった。地獄に堕ちずに成仏するには『血盆経』を読誦すればよいとされ、女性は経典に従って施餓鬼供養を営み、経典を書写して往生を祈願し、池や川に投げ入れて追善供養をした。  
このように近世では女性の月経や出産の穢れ、血の穢れの強調、それに対する不浄観、神仏を穢して罰を受け悪業が深いという思想が、絵解きや和讃など視聴覚に訴える場や女性の講の集まりを通じて民間信仰と習合して速やかに深く浸透した。女人の念仏講で唱えられる和讃のうち、『血の池地獄和讃』では、『血盆経』の血の池地獄の描写が取り入れられ、女性は「不浄水」の月経の経血によって神仏を穢す罪を犯すために、身分の上下にかかわらず血の池地獄に堕ちると説く。和讃は女人講や子安講などでも読まれ、十九夜講の月待ちでは如意輪観音(にょいりんかんのん)に安産祈願がなされたが、この観音の形姿は膝を立てた姿で女性の座産を現わすとも考えられていた。山形県の置賜(おきたま)地方では講の集まりで「女一代月役守(つきやくもり)」という呪符(じゅふ)を寺で作って配ったが、もともとは修験が配布し、これがあれば田屋(たや)という月小屋に籠ったり別火する必要がなかったという。そこには「モトヨリモチリニマチワル神ナレバ月ノサワリモクルシカルマジ」と和泉式部への熊野権現の歌が書かれてあった。これは立山の芦峅寺(あしくらじ)が配った「月水不浄除御守」(図34{上記webページ参照})と同じである。『女人往生和讃』も「血盆(血の池)地獄」に堕ちるとして、『大無量寿経』に説く阿弥陀の女人救済の請願(せいがん)、第三十五願に触れ、五障三従で高野山に登れない由来を説いて、阿弥陀にすがる往生祈願を行なう。死者供養、安産祈願、往生祈願などに『血盆経』の影響がある。  
『血盆経』は女性の生物学的特徴を罪とし、血に対する嫌悪を、女性の不浄、穢れへと拡大した(中野、一九九三)。曹洞(そうとう)宗では『血盆経』は女人救済の経として定着し、女性が授戒会(じゅかいえ)で授かった『血盆経』を、信者の不浄除けや往生祈願の護符として配り、死後に棺に納めた。これは結果的に女性の不浄視を拡大したといえる。『血盆経』は女性固有の生理、特に月経と出産の血の穢れを強調し、産死を血の池地獄に結びつけ、女人往生や不浄よけの祈願を根拠付けた。地獄と女性の結合を説く教説、立山や恐山など山中にある血の池地獄の実在感、立山や熊野など山の聖地での救済の可能性など、多様な要素を女性に収斂させ、女人結界を維持する理由づけとしての不浄観を定着させる機能を果たしたのである。血穢の観念が仏教の正典にない、いわゆる偽経と結びついて流布した皮肉な歴史といえよう。文字に書かれた経典は、中国で作られても正統的なものとして民間に受容され、穢れの強調、不浄観の生成、差別の固定化に大きな影響をもたらした。仏教と民間信仰の習合が穢れ観を定着させ増幅させた歴史が極端な形で現れているのである。
穢れの変遷 / 『延喜式』以後  
延長五年(九二七)成立の『延喜式(えんぎしき)』は、前代の規定を踏襲して神社や内裏(だいり)へ及ぼす穢れを規定した。祭祀の執行時の禁忌として穢れとそれに準ずるものの忌みの日数を定め、穢れの伝染、つまり触穢(しょくえ)について規定した。ここでは穢れの肥大化の様相がみられ、穢れに関して甲乙丙丁という発生と伝播(でんば)の差異の基準を導入し、国家が穢れを管理する意図が明確化した。陰陽師(おんみょうじ)が関与する追儺(ついな)では「穢悪疫鬼(けがれあしきえやみのおに)」を「東方陸奥(むつ)、西方遠値嘉(おちか)、南方土佐、北方佐渡」という国家の四至(しいし)の外へ追放すると定めている。ただし、穢れは神事の内容に応じて、一定の物忌みの時間を経過すれば潔斎で解消された。たとえば、宮廷の女性の扱いは、妊娠中や月経中には祭の前日までに内裏から里下がりさせて昇殿を認めないとあるが、これは人間の死は三〇日、出産は七日、六畜死は五日、六畜産は三日、宍食(しししょく)は三日という物忌みと一連のもので、全て忌みという広い概念に含みこまれる。穢れの消滅日数は細かく明示されるが、一時的規制で、女性を穢れとして恒常的ないしは永続的に排除するのではない。穢れは祓(はら)いで消滅するのであって、近世のように血を流すことが神を穢し罪を犯すなどの永続的穢れではなかった。しかし、触穢思想は『延喜式』以降に明確化し、貴族社会で穢れの範囲が拡大し複雑化した。神観念や信仰に関わる穢れが基本で、神事を優先する政治姿勢が穢れの社会的意味を拡大し、穢れを管理する陰陽師が主宰する儀礼の精緻化と合わせて、民間へも大きな影響を及ぼしたことが予想される。  
有力な神社には触穢思想が浸透したが、鎌倉初期とされる『諸社禁忌』(『続群書類従』八〇)は詳細で、牛山佳幸の指摘した(牛山、一九九六a)、『神祇道服忌令』(『続群書類従』八一)も複雑な浄穢規定である。戸隠ではその影響が、文安三年(一四四六)施入の『般若心経』版木の裏面に刻まれた「戸隠物忌令」として現われているという。女性の出産や月経の血を要因とする穢れの対象が古代より拡大し、忌みの日数も増加し、恒常的な穢れに近づいているとされる。穢れの明文化の動きは、必然的に穢れ観念を拡大し、一時的規制から恒常的規制へと踏みだしていく契機を作りだしていたともいえる。
穢れの理論 / 穢れのとらえ方  
なぜ、血は穢れとされるのか。それを女人禁制に結びつけてきた現象が問われなければならない。類似の概念は世界各地から報告され、宗教施設や聖地の女人禁制も日本以外に存在する。たとえば、南インド・ケーララ州のサバリマライ(Sabarimalai)は女人禁制の聖地であり、多くのヒンドウー寺院は生理中や出産直後の女性を忌避する。穢れという現象は多様で、男女ともに避けえない死、女性にかかわる出産、女性の月ごとの生理である月経、血そのもの、死体や肉体の一部分、排泄物である糞尿・鼻汁・目やになどに関わる。しかし、穢れとして言及される現象は多様な文脈の中にあり、穢れそれ自体を定義することは極めて難しいし、誤解を招きかねない。明治政府は、明治五年(一八七二)の太政官布告五六号で「自今産褥不及憚(はばかりおよばず)候」とし、明治六年の布告六一号でも「自今混穢ノ制被廃候(はいされそうろう)事」として、制度的に産褥など触穢に関するものを廃止した。しかし、上からの規定解除は効果がなかった。穢れの意識は日常の慣行や慣習の中に溶け込んでいるからである。穢れの定義もすべてに共通する本質を求めるよりも関係性でとらえるべきであろう。本質から関係へという視点の転換である。  
穢れを理解するための有力な学説としてしばしば援用されるのはメアリ・ダグラスの見解である(ダグラス、一九八五)。しかし、その定義は、小谷汪之が示したように、「あらゆる穢れには共通の『本質』があるということを先験的に仮定するところに成り立っている」(小谷、一九九九、三三ページ)。議論の核になる部分は以下のよになる。「汚穢(dirt)の本質は無秩序(disorder)である。…もし、我々が汚穢を避けるとすれば、臆病な不安のためでも、恐怖や聖なるものへの畏怖でもない」「汚穢は秩序を侵すものである。したがって、汚穢の排除は消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力である」(ダグラス、一五〜一六ページ)。「周知のように、汚穢とは場違い(matteroutofplace)なもののことである。…それは二つの条件を含意する。すなわち、一定の秩序ある諸関係と、その秩序の侵犯である。従って、汚穢とは絶対的で唯一かつ孤立した事象ではない。つまり、汚穢があるところには必ず体系(system)が存在する。…汚穢とは事物の体系的秩序付けと分類の副産物である」。  
ここで汚穢として訳したdirtは、他の所ではuncleannessやpollutionと同義の概念として使用され、類似した説明が加えられている。とりあえず、錯綜する概念のうち、pollutionを日本語の「穢れ」に対応させて使用する。ダグラスの見解は、穢れという事象を、秩序(order)や清浄(purity)に対比するが、用語法の揺れに表れているようにかなり曖昧である。一方、穢れの本質は、分類という思考で判断する場合、分類にあてはまらない「変則性」(anomaly)や「無秩序」(disorder)であるという。穢れは体系を脅かすもので、分類を混乱させ、時には分類からはずれた剰余とも見なされる。「分類が曖昧なもの」「中間的なもの」とも言い換えられる。「穢れ」を発生させる根源的な場は「開口部」(orifices)で、特に人間の身体の開口部という周縁(margins)は「境界性」を帯び、危険性とともに強い力が発生し、そこに起きる現象は「穢れ」と見なされて禁忌に取り巻かれる。  
こうした発想の前提には、秩序の側から穢れを把握するという方向性がある。清めや清浄という明確な側から穢れを把握するのである。注目点は「境界性」にあり、そこには嫌悪と畏怖の両義性が発生する。特に身体から外に出るもの、たとえば唾・精液・血・乳・尿・便・涙・膿(うみ)・胞衣(えな)・後産(あとざん)、あるいは体の一部が分離したもの、皮膚、爪、髪、汗、歯、などが穢れの性格を持つ。これを身体だけでなく、親族、社会組織、空間に押し広げると、社会的に劣性を帯びた女性、周縁に位置づけられる非差別民、境界性を帯びた空間としての坂・河原・峠・村境、国民国家の中の少数民族などが、穢れを帯びたものとして登場してくることになる。人間から空間へと広がる連続性は、身体感覚に浸透する穢れの特性によって固定化される。支配的なイデオロギーがいつのまにか人々の日常生活に浸透し、見えざる権力を隠蔽して思考を釘付けにするのである。
地獄と女性の結びつきは、民間での地蔵信仰も強化した。幼くして亡くなった子供が賽(さい)の河原で鬼の責め苦をうけ、これを地蔵が救う。救済者の地蔵にすがるのは圧倒的に女性である。産死や幼児死の多かった時代、母と子の絆を支えるのは地蔵であり、地蔵こそは境界に立つ、姥神(うばがみ)の男性版なのである。  
しかし、山の神は産神(うぶがみ)で、出産を助けるために穢れをいとわずやってくる。姥神と同じであり、山と里の境界に祀られ、三途川(さんずのかわ)にいる葬頭河婆(しょうづかのばあ)や奪衣婆(だつえば)として人々をあの世に導き、負性を帯びると山姥(やまんば)にもなり、男女仲良くする道祖神(どうそじん)ともなる。  
 
女の地獄・女の幽霊

高田衛は、その著書『お岩と伊右衛門〜「四谷怪談」の深層』の第1章「女はなぜ幽霊になるのか」で、諏訪春雄の『日本の幽霊』をあげ、それぞれの時代の幽霊観はその時代の地獄観に連関することを指摘している。ここでは、高田の書を用いて、近世の地獄絵図で示された近世の女性観を示し、「女はなぜ幽霊になるのか」を考えてみたい。
熊野比丘尼がひろめた地獄絵図  
日本に具体的な地獄思想を啓示・普及したのは、源信の『往生要集』であった。しかし、もう一つ、熊野比丘尼が唱導した地獄がある。『熊野観心十界図』(『熊野の絵』、『熊野観心十界曼荼羅』ともいう)である。現在は資料の散逸し、ほとんど重視されることがないが、熊野比丘尼の唱導した「地獄極楽」は近世において一般的であった、と高田も考えている。  
萩原龍夫・著『巫女と仏教史―熊野比丘尼の使命と展開』(吉川弘文館、1983年)によれば、熊野比丘尼は室町時代から絵解きを中心に地獄極楽の唱導を行った。近世前期頃から、都市においてはしだいに零落し、「色比丘尼」化して街娼化したが、地方においては『熊野観心十界図』を携行して、長く旅の唱導者として、小寺院などと結びつきながら活動していた。  
この地獄絵は、中央上部に「心」の字を置き、その上に半円形の「山坂」を描き、その上を歩く子供、男女、老人を描いて、人生を示している。また、図の中心部には「盂蘭盆(うらぼん)の施餓鬼(せがき)」と「賽(さい)の河原と地蔵」が大きく描かれている。そして、主部に罪人を裁く閻魔王や獄卒たちが描かれ、下部には「八寒地獄」「剣の地獄」「衆合地獄」など、いろいろな地獄が描かれている。  
しかし、注目すべきは、その他に「不産女(うまずめ)地獄」、「両婦(ふため)地獄」、「血の池地獄」が描かれていることである。この三つは、女の地獄であって、男が堕ちる地獄ではなかった。
「不産女地獄」  
最近、話題になっている酒井順子・著『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)によると、「どんなに美人で仕事ができても、30代以上・未婚・子ナシは『女の負け犬』」なのだそうだ。また、雅子皇太子妃殿下がご病気になられた原因の一つに、男子を産めという宮内庁などからの暗黙の圧力があったからではないかという報道もある。このような話を聞くと、これから説明する「不産女地獄」と通じるものが、現代にも生きているのではないか、と戦慄を覚える。  
「不産女地獄」は、武久家本では、閻魔王の裁きの場の直下に描かれている。白衣の女の亡者が、竹藪のなかで泣きながら、その竹の根を掘っている場面である。そして、手にしているのは竹箆(たけべら)などではなく、灯心(とうしん)なのである。固い竹の根が、ふにゃふにゃの灯心で掘れるわけがない。しかし、女の亡者たちは来る日も来る日も、灯心での竹の根掘りを続けなければならないのだ。  
不産女とは「石女」とも書き、子を産めない女をさす。そのなかには一生独身のため、子をつくる機会のない女もいたかもしれない。また、結婚しても、本人あるいは配偶者の体質が原因で、子を産めないこともある。もちろん、子を産めない体質であっても、それはその女性の責任ではない。しかし、ここでは、そのことがその女の責任であり、罪悪であるとして、責めつづけられているのだ。
「両婦地獄」  
「両婦地獄」は、武久家本では、掛幅図の右下の「無間奈落」のすぐ上に描かれている。二人の蛇女が真ん中の男に巻きついて、顔を上げ相互に噛みあっている図柄である。太宰治は『津軽』のなかで、幼時、津軽の金木町の雲祥寺の「地獄極楽の御絵掛地」を見て、「めかけを持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた」と、理解した。  
「両婦地獄」の解釈と絵解きは、伝承者によってちがっていた。別名を「二女狂(ふためくるい)地獄」ともいい、二人の女に二股かけた男が、地獄に堕ちて蛇化したその二人の女に、永劫に責められる地獄として解釈されたらしい。男の浮気心を戒めるものとして説明されたのだろう。  
しかし、熊野比丘尼が実際に絵を示して説きひろめたときには、そんな解釈はなかったはずである。なぜなら、室町から近世を通じて、男と女をめぐる「一夫一妻多妾制」は、公然たる制度であり、上は天皇、将軍から、下は町家、農民にいたるまで、男が二人もしくは二人以上の女を所有するのは、制度上当然のことであって、そのこと自体では人倫に反したことではなかったのであった。したがって、二人の女を持ったから地獄に堕ちる、という論法は成り立たなかったのである。  
それどころか、その二人の女が嫉妬の鬼となり、男を争うという形になるならば、逆にその二人の女の方が、それぞれの嫉妬の邪念によって、地獄に落ちる要件を備えてしまう、そういう時代だったのである。  
中世の「蛇髪譚(じゃはつたん)」はつぎのような話である。  
男には正室と側妾がいるが、男の自制もあり人柄もあり、二人は仲良く助けあって日々を過ごしている。ところがある日、二人の女が同室で眠っている間、二人の女の髪がそれぞれ蛇と化し、おそろしい勢いで相手側を襲いあうのであった。男はふとしたことで、それを垣間見て慄然とする。女二人は心から仲良くしようと努めあっているのだが、眠りこんで正体を失ったとき、無意識のうちに相手を憎みいどむ心が黒髪を蛇と化して、たがいに争ったのである。男はこれを見て、現世の汚辱をはかなみ、これを機縁に、家を捨て、髪を剃って出家する。  
この話の背景には、女がどんなに賢く努めても、本来の嫉妬心を捨てることはできず、眠りのなかですら蛇と化す、という差別的女性観がある。これをさらに露骨に図像化すると、「両婦地獄」のイメージが成立する。
「血の池地獄」  
「血の池地獄」は、武久家本では、掛幅図全体の右下隅に、いかにも毒々しい真紅の色で描かれていた。血の池は、女の経血という「穢れ」によって成り立つ池なのである。そこに9人の裸身の女性が沈められ、業苦に泣き叫んでいる。赤い池の水とは対照的に、女性の裸身は蒼白に描かれており、そのうち3人までが頭に角が生え、身体は蛇になっている。女は「血の池」に堕ちて蛇になるのか、それとも女の本体は蛇であって、それが「血の池」においてはじめて顕現するのだろうか。もっとも、救いがないわけではない。武久家本の場合、血の池から二本の蓮の葉が生えており、その上に2人の白衣の女人が合掌している。女人が罪障をつぐない、深く仏に帰依するれば、成仏の道がないわけでもない、と唱導しているのだ。  
『血盆経』によると、「女たちは月ごとに経水をしたたらせ、出産時は血露を下して地神の項を汚蝕する。また血で汚れた衣裳を谷川で洗って水を汚す。多くの善男善女は知らずにその水を用いて茶を煎じ、諸聖に供養して不浄を致してしまう。それで天大将軍に『善悪部』のなかに女人の名を記させ、百年後、命終をまってこの苦報を受けさせるのだ」というのが、女人を「血の池地獄」ヘ堕とす理由なのである。  
女性が「血の池地獄」ヘ堕ちる理由は、経血であり、出産の血穢なのだ。女として生まれた以上、成人すれば経血、出産は当然であるが、これでは女として生まれることが、すでに重大な罪であり、女として生まれた者は、全員「血の池地獄」ヘ堕ちるということになる。  
このような理屈の上にグロテスクな「血の池地獄」が設定されているのは、明らかに女性そのものを嫌悪し、罪悪視し、忌避する、差別思想によっている。そこでは「女」はすでに「蛇」あるいはそれ以上に穢れて醜悪な存在と見なされているのである。  
注目すべきは、三つの女の地獄の絵解きを、聞き手の女子どもに対して、女の熊野比丘尼が語り、唱導するということである。女の熊野比丘尼が、女の地獄の恐ろしさ、いたましさを、聞き手に伝え、聞き手の女は同じ罪を背負っているはずの、同性の比丘尼の口から、女であることの悲しさと恐ろしさ、おぞましさ、冥界に待ちうけている暗く恐しい自分たちの運命を聞くのである。しかも唱導者は遊行賤民としての被差別民なのである。
女の地獄から女の幽霊へ  
現実に、子を産めない女に対する周囲の目は、氷よりも冷たかったであろう。わが男が自分の他に、女を作って可愛がっているのを見せつけられたときの、女の激しく身をこがす嫉妬の妄念は、とても自己抑制などのきかない、いわば女にとっての生きながらの地獄であったであろう。そして男にはない、月のさわりを持つ女が、そのゆえに独立した人格として扱われることなく、いわば男の付随物、奴隷的な位置に置かれているという日常の、無念さ、いらだち、腹だたしさは、女の思いを無意識のうちに執念ぶかくさせ、非社会的にしたかもしれない。それは、近世において、女たちが生きながらすでに「女」という地獄のなかに置かれていたということではないか。  
そういう女たちには、救済者待望の心意が生ずる。熊野比丘尼の地獄語りは、そういう女たちの心意にこたえ、仏の救済を説きつつ、グロテスクで陰惨な女の地獄の様相を、一種の鏡像として、女たちに突きつけているということである。それは熊野比丘尼その人が、被差別という闇を背負っていることで、一層リアルに受けとられたにちがいない。また、ここでしばしばとりあげた祐天が、大奥の女性たちから支持され、ついには浄土宗教団のトップになったのも、同じメンタリティによるものであろう。  
近世において、女は、自己の鏡像としての地獄をすでに持ち、存在としてすでにデモーニッシュ(悪魔的)だったのである。まだ仮説にすぎないが、と高田は断っているが、近世にあって幽霊といえば「女」の姿が見えてくるのは、そのような女たちへの差別、そして女たちが自らの心に抱いた、闇の暗さのせいであったのだ。 
 

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