口説きの系譜

口説き祭文おしら祭文新保広大寺和讃瞽女唄じょんから江州音頭木崎音頭八木節説経節平曲浄瑠璃小唄端唄郡上おどり越中おわら節語り物系譜声明唱導御詠歌津軽じょんから節傀儡子文楽操り浄瑠璃史浄瑠璃史大津絵・邦楽河内音頭芸能文化交流史今様富山民謡民謡童歌(わらべうた)三曲箏曲三味線楽と地歌地歌(地唄)尺八楽絵解き熊野比丘尼説経師廻国聖甚句盆口説き踊口説き説経祭文・・・

諸話 / 瞽女の諸話瞽女(写真)江戸の唄本屋
 
踊念仏と盆踊り  口説き盆踊り歌  唱導文学

雑学の世界・補考   

古代 6世紀末 飛鳥                    
  600     梵讃・漢讃・盂蘭盆会            
   710 奈良   讃歎・仏教讃歎・讃談            
        声明                
   792 平安   常行念仏                
  800                     (唱導文学)
  900     空也上人・踊念仏   和讃   傀儡子        
  1000         御詠歌   琵琶法師        説経師
中世 1185 鎌倉            平曲       廻国聖絵解・絵解法師・熊野比丘尼 
                       
  1200     一遍上人・踊念仏                
  1336 室町  南北朝 念仏踊り   猿楽・謡曲           説経節
  1392         曲舞(幸若舞)・       一向一揆
蓮如
   
        念仏風流   風流踊り        
        盆踊り           じょんから    
  1493   戦国     浄瑠璃            
  1573 安土桃山      (三味線)        越後口説き    
近世 1603 江戸           瞽女唄(越後瞽女)       操り芝居
                        祭文
  1700     盆口説き・踊口説き   小唄・端唄   口説き        
        甚句       新保広大寺節        
        郡上踊り   江州音頭・口説祭文   木崎音頭八木節
古大神・麦わら節
  津軽じょんから節 ・口説き節    
近代 1868 明治               浪花節(浪曲)
  1912 大正                
  1926 昭和                  
現代 1945         河内音頭            
  1989 平成                    

 
口説き(くどき)

小歌(小唄)と並ぶ、盆踊り歌の代表的なジャンル。原型はすでに中世の「平曲」にあるとされ、近世の謡曲・浄瑠璃で大きく発展し、盆踊りにも取り入れられた。盆踊りでは、音頭取りが短い節にのせて、7・5ないし7・7の単純な形式を繰り返して、長い物語を歌っていく。踊り子は文句の合間に簡単な囃子詞を返すことが多い。えんえんと歌いつづけることができるため、夜を徹して踊る盆踊りの際に重宝した。歌詞の内容はいわゆる長編叙事詩で、「鈴木主水口説き」「那須与一口説き」などが全国的にポピュラー。その物語の多くは、江戸時代の流行芸能である浄瑠璃から移植されたものである。口説きは、小唄より遅れて江戸時代に入ってから発達したものと考えられる。特に江戸後期の江州音頭の登場とともに登場した「口説き祭文」が有名で、現在の河内音頭の源流となった。地域的分布は西日本を中心とし、郡上踊りなど中部地方あたりでも見られる。栃木県の八木節、東京の佃島盆踊りなども口説き形式であるが、源流は関西由来のものと考えられる。
民謡などで、長編の叙事歌謡を同じ旋律の繰り返しにのせて歌うもの。盆踊りに歌う踊り口説き、木遣(きや)りに歌う木遣り口説きなどがある。口説き歌。口説き節。
口説き2
段物のすぐれたものが口説きといわれる。七七調の文句を同じ節回しでくどいほど続けるところから、口説きとよばれている。三味線も調子が二上りになり、音にも勢いが出てくる。内容はバラエティーに富んでいて、男女の世話物、心中物、滑稽や風刺や艶笑物、天災地変を語る事件物、宗教、縁起物などがある。
長岡瞽女の口説きとくらべて七音十七音のヒトコトで一節になり、ヒトコトごとに三味線がはいる構成は同じだが、音曲はまったく異なる。
どちらも段物が民謡化しているが、高田瞽女の口説きのほうが音楽的にまとまっており、古風な味わいを伝えているといわれる。主なものに「松前口説き」「清三口説き」「おしげ口説き」「三人心中口説き」「治郎さ口説き」「お馬口説き」「御本山口説き」「二十八日口説き」などがあります。また、口説きは、新保広大寺が新保広大寺くずしとなり、瞽女によって主に東北地方へ伝えられ、それが広がった語りものであったとされている。
津軽の三つ物である「じょんから節、よされ節、おはら節」もこの口説き節から端を発して津軽の先人芸人達によって手を加えられ、現在の華やかでありながらどことなくもの悲しいものに変化していった。
「葛の葉の子別れ」は段物の代表曲であり、また瞽女唄を代表する曲でもある。「母は信太へ帰るぞえ」と繰り返すこの唄は、他の段物の継子のいじめなどの因果応報物の残酷さに比べて、しみじみと涙を誘う母狐のいじらしさが昔から多くの女性に愛された。
 
祭文

宗教的な儀式において、神仏に向かって読み上げる言葉。歌謡の一種。音楽的に作曲されていることもある。後には世俗的・娯楽的な内容の祭文が作られ、修験(しゅげん)僧、あるいは下層芸能民の中にこれを職とする者が出るようになった。
説経祭文
説経節が山伏の祭文と結びついたもの。江戸初期に成立、後期には寄席にも進出した。
歌祭文・祭文節
近世俗曲の一。死刑・情死などの事件やその時々の風俗をつづった文句を、門付け芸人が三味線などの伴奏で歌って歩いた。山伏が錫杖(しゃくじょう)を振り鳴らし、ほら貝を吹いて、神仏の霊験を唱え歩いた祭文の芸能化したもの。上方に始まる。
告祭文
祭祀(さいし)のときに、神前で読み上げる文。祭文。
袖萩祭文
浄瑠璃「奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)」の三段目切(きり)の通称。雪中、娘お君に手を引かれて、父母の住む門口にたどり着いた盲人の袖萩が、祭文にことよせて切々と思いを述べる。
でろれん祭文
大道芸および門付け芸の一。法螺貝(ほらがい)を吹き、短い錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら祭文を語るもの。「でろれんでろれん」と合の手を入れたところからいう。明治以降、寄席(よせ)芸となり、浪花節へと発展した。
祭文語り・祭文読み
歌祭文などを語る人。祭文読み。
説経節
説経が、和讚(わさん)・平曲・謡曲などの影響を受けて音楽化し、語り物となったもの。初めは鉦(しょう)・簓(ささら)、のちには胡弓(こきゅう)・三味線などを伴奏にした。鎌倉末期に成立、本来の門付け芸から、操り人形と結んで江戸初期には劇場にも進出したが、義太夫節の流行とともに衰微。
祭文2
日本の伝統的な語りものまたは歌謡(歌いもの)の一種。本来は祭りの際に神にささげる願文。中世以降、山伏修験者によって芸能化され、近世には門付芸になった。祭文を語った芸能・芸能者を「祭文語り」または単に「祭文」と呼んだ。
日本における祭文(さいもん)は、神を祭るときに読む文。本来、祭りのときなどに神仏に対して祈願や祝詞(のりと)として用いられる願文であったが、のちに信仰を離れて芸能化していった。
祝詞が日本古来の祭儀に読まれ、伝統的ないし公的な性質を強くもつのに対し、祭文は個人的・私的な性格を有し、中国から伝来した祭祀などに唱えられることが多かった。なお、願文としての祭文が文献資料においてあらわれる最も古い例は、8世紀末に成立した『続日本紀』においてである。
語りもの芸能としての歴史は、中世にさかのぼる。近世には歌謡化した「歌祭文(うたざいもん)」が隆盛し、単に「祭文」といった場合には、この歌祭文を指すことも多い。
歴史
祭文は、神道における祝詞を母体にしながら生まれ、中世には仏教の声明の強い影響を受けて山伏らによる民間への布教手段として語られるようになり、次第に宗教色を薄めて近世には遊芸となったものである。
巫女が憑依するときに唱える祝詞も祭文の一種である。現代では東北地方を主としておこなわれる民間信仰「おしら様」において、盲目の巫女「イタコ」が一対の木片(これを「おしら様」と称す)を祭日に遊ばせる際、「おしら祭文」が語られる。
一方、託宣が祭文のかたちをとってこんにちに残されたものとしては、伊豆諸島の青ヶ島(東京都青ヶ島村)に伝わる祭文や高知県に伝わる「いざなぎ流」の祭文(後述)がある。
古代
神道の祭の際に神前で読む詞を「祝詞」と称したのに対し、仏教風ないし中国風の祭祀にあっては「祭文」と称することが多かった。ただし、算博士の三善為康が永久4年(1116年)に編したといわれる『朝野群載』にあっては、大祓の際にツミ・ケガレを祓うために唱えられた「中臣祓詞」(大祓詞)が「中臣祭文」と表記されている。「中臣祓詞」ないし「中臣祭文」は、中臣氏が代々大祓の祝詞を宣(の)ることを生業としたために生まれた名であり、平安京の朱雀門で奏上された。
「祭文」の語が史料にあらわれる最古の例は『続日本紀』であり、桓武天皇治下の延暦6年(787年)11月、天神を河内国交野(現大阪府交野市)に祀った際の祭文2編である。このとき、郊祀がおこなわれ、桓武天皇は実父の光仁天皇を併せて祀り、「是天上帝に告ぐ」という中国の郊祀の体裁をふまえた祭文をつくっている。この2編は漢文体であり、中国の「祭文」の形式を受け継いでいる。
菅原道真『菅家文章』七「祭文」に収められた2編の祭文もまた、中国の祭文形式で書かれており、『延喜式』「大学寮式」の釈尊祭文、『朝野群載』永久元年(1113年)2月の北辰祭文もまた、漢文体の祭文である。その他、『本朝文粋』『本朝続文粋』などにも漢文体の祭文が収載されている。古代にあって祭文をつくった人物としては、和漢に通じた学者として知られる大江匡房がおり、『朝野群載』の承暦2年(1078年)条には彼のつくった歌合祭文が、嘉承元年(1106年)条には匡房作成の病気平癒の祭文が収載されている。
一方、祝詞は、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する文章を神に奏上し、もって神々の加護や利益を得んとする詞章であった。祝詞は通常大和言葉によってつくられ、神職によって独自の節回しによる朗誦が行われる。そのもっとも古い文例は、延長5年(927年)完成の『延喜式』巻八に収録される29篇、次いで藤原頼長『台記』(1155年以降完成)別記所収の「中臣寿詞」の計30篇である。
以上に対し、『延喜式』「陰陽寮式」収載された儺祭(すくなまつり)の祭文は、祝詞文と漢文が混淆しており、国語資料として貴重である。儺祭は、毎年12月晦日に宮廷でおこなわれた行事であり、この祭文は陰陽師によって読まれた。詞の冒頭部分は漢文体、中間以降は和文体の祝詞文で宣命書の表記法を用いている。儺祭は、日本古来の神の祭りではなく、中国渡来の行事であり、陰陽師によってになわれたところから「祭文」と称されたものと考えられる。このように、平安時代における祭文には陰陽道の色彩の濃いものも多く知られている。
中世
祭文は本来、神仏に対して発せられた願文であったが、中世に入ると山伏修験者に受け継がれた。修験者による祭文は、仏教の声明の影響を強く受け、やがて錫杖を振り、法螺貝を吹いて歌謡化し、さらに修験の旅にともない日本列島各地に広がった。同時に、定住者である神職による祝詞とは明瞭に区別されるようになった。
山伏は各地の神事祈祷に際し祭文をよみあげ、神おろしや神仏の恩寵を願った。中世において、神仏習合の強い影響を受けた祭文は、巫女などの下級宗教者や声聞師など漂泊の芸能者の手にもわたって、その勧進活動・芸能活動にともない広められ、各地方の文芸や娯楽に寄与した。また、農村の宗教行事とも結びついて、悪霊退散の呪詞などとなって定着した。
いまに伝わる中世の祭文としては、大和国元興寺の極楽坊にあった「夫婦和合離別祭文」や京都太秦広隆寺の「牛祭祭文」、三河国の山間部に伝わる花祭の祭文、中国地方の神楽で演じられた「五行祭文」、また、土佐国香美郡物部に伝わる「いざなぎ流祭文」などが知られている。いざなぎ流は、陰陽道の要素を多く含みながらも土佐国で独自に発展した民間信仰であり、その祭文は定式化・体系化されている。
なお、広隆寺の牛祭のようすは寛政2年(1790年)発行の『都名所図会』「太秦牛祭図絵」に描かれ、そこには「祭文は弘法大師の作り給ふとなんいひ伝え侍る」と記されており、牛祭祭文が空海作成と伝承されてきたことがわかる。この祭文は、きわめて長大で、あらゆる宗教の神々の名があらわれる特異なものである。
近世
祭文は、中世後期から近世初期にかけて、遊芸僧や山伏によって俗化され、特に、近世初期に三味線を伴奏楽器に加えて歌謡化し、下級芸能者の零落も著しくなっていっそう芸能化が進んだ。
山伏や願人坊主がみずからの奉ずる神の本地や縁起、神仏の霊験を説きあるいて祭文を唱え、また、唱導の伝統を引き継いだ宗教色の強い「唱導祭文」をもって諸国を放浪する一方、アドリブで卑猥なことばや駄洒落といった諧謔味を多く入れた「もじり祭文」や「若気祭文」も広く大衆の人気を集めた。また、他の芸能同様、祭文においても数え歌がつくられるようになった。
江戸時代に入り、祭文は三味線などと結びついて俗謡となり、犯罪や心中など世俗の事件を取り上げるようになったが、これを「歌祭文」または「祭文節」と称している。これに対し、錫杖と法螺貝のみを用いた「貝祭文」(デロレン祭文、後述)は、世俗的な物語を採用しながらも語りもの的要素の強い芸能であった。
歌祭文(祭文節)は、元禄(1688年-1704年)以降、「八百屋お七恋路の歌祭文」「お染久松藪入心中祭文」などといった演目があらわれ、世俗の恋愛や心中事件、また犯罪事件をはじめとする下世話なニュースなども取り入れ、一種のクドキ調に詠みこむようになった。ほかには、余興として「町づくし」「橋づくし」「名所づくし」などの物尽しも語ったほか、役者の追善や遊女の名寄せもおこなった。
このような歌祭文の隆盛により、祭文語りを専業とする芸人(歌手)もあらわれた。大坂の生玉神社の境内には、定設の小屋さえつくられ、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)など当時の演劇にも影響を与えている。
その他、下層民と結びついて余命を保った本流の門付祭文があり、説経節と結びついた説経祭文があった。
このように、江戸時代中期以降はとくに祭文の多様化が進行したが、これらに共通する特徴としては、「抑(そもそ)も勧請おろし奉る」など定型化した祭文形式を踏襲し、錫杖もしくはそれを短くした金杖、そして法螺貝を伴奏に使うことであった。
なお、祭文語りの芸人は、辻に立って唄本の販売をもおこなった。古いところでは「賽の河原」「胎内さがし」があり、「八百屋お七(お七吉三郎)」「お初徳兵衛」「小三金五郎」「お千代半兵衛」「お夏清十郎」「お俊伝兵衛」はとくに人気が高く、これらを総称して「八祭文」と称した。他に著名な作品としては、「三勝半七」「おさん茂兵衛」「梅川忠兵衛」「お妻八郎兵衛」がある。唄本は一枚刷が版行され、さらに、寄せ本も刊行された。文楽作品の『新版歌祭文』が「新版」と銘打たれたのは、先行作を意識したのと同時に歌祭文における唄本版行に由来すると考えられる。
浄瑠璃『新版歌祭文』について
「野崎村の段」が特に知られる浄瑠璃『新版歌祭文』の冒頭は、「敬白(うやまってもうす)」という祭文の語り出しを踏襲している。この作品は、近松半二の世話物として知られ、「おそめ久松」の心中事件を下敷きにしている。ここでは、
なさけのたねをこなすあぶら屋おそめといふて、ひとりむすめのこころはわかめ、うちのこがいの久松と…
所はみやこの東堀、聞いて鬼門の角屋敷、瓦屋橋とや油屋の一人娘にお染とて、心も花の色ざかり、歳は二八(にはち)の細眉に、内の子飼いの久松が、しのびしのびに寝油と、親たち夢にも白絞り(しらしぼり)
など歌祭文の歌詞も取り入れられている。
歌祭文から派生した諸芸能
盆踊り歌・瞽女唄
クドキ調となった歌祭文が地方で盆踊歌に転じていったものが「祭文踊り」、「祭文音頭」である。地域によっては、近年まで「佐倉宗吾くどき」や「石童丸苅茅道心くどき」によって盆踊りが踊られていたところもある。
越後国など北陸地方の盆踊歌であった松坂節と歌祭文が結びついて生まれたのが「祭文松坂」である。祭文松坂は、目の不自由な女性の旅芸人である瞽女が門付をして唄ってきた祝唄である。「最後の瞽女」といわれた小林ハルもまた、『俊徳丸』『山椒大夫』などの説経祭文とともに祭文松坂を演じている。
説経祭文
中世に隆盛した説経節は、ささらや鞨鼓を伴奏に庶民に仏教を広め、浸透させてきたが、近世に入ると浄瑠璃の影響を受け、三味線も取り入れて舞台芸能として一時成功を収める一方、歌祭文と結びついて説経祭文となり、くずれ山伏や瞽女などによる大道芸・門付芸となった。
説経祭文で語られる演目には、歌祭文同様、心中物など世俗的な話題を扱ったもののほか、『俊徳丸』『愛護若』『苅萱』『小栗判官』などのように中世以来の説経節の演目もあった。もとより、野外芸能に回帰した説経祭文は、門や辻での芸能であることから、通常は段物の一段やサワリ部分だけを語るものであり、かつての宗教性は失われ、いちじるしく世俗化した。
ちょぼくれ・ちょんがれ・あほだら経
「ちょぼくれ」は、江戸時代後半期にさかんになった大道芸のひとつで、歌祭文の系統に属する。願人坊主など大道の雑芸人が江戸の上野や両国などの広小路や橋のたもとなど殷賑な地でおこなう芸能で、錫杖や金杖などを振りながら拍子をとりつつ早口で歌い、踊るもので「クドキ」ともいわれた。
ちょぼくれが、小さな木魚を用いてテンポを早めてリズミカルに歌うものを特に「あほだら経」と呼ぶ。ここでは、芸人が2人のときは、ひとりが三味線を弾くこともあった。
「ちょんがれ」は、ちょぼくれの大坂での呼称で、講談などの影響を受けて複雑な内容を演じる語りものとして発展し、のちの浮かれ節や浪曲(浪花節)につながった。また、ちょんがれは、日本の歌謡史上、説経祭文を民衆のうたいやすいクドキ形式に変化させたという重要な意義を有する。戦後、富山県下で厖大な量の「ちょんがれ写本」の集積が発見されたが、これは、盆踊りや鎮守の祭礼などでさかんにちょんがれが歌われたのみならず、地域社会において、ちょんがれ節の歌唱の優劣を競う大会がしばしばあり、その番付が神社に掲額されたなどの諸事情によるものと考えられる。クドキは民衆による物語歌謡(エピックソング)を可能にし、近畿地方の「江州音頭」や「河内音頭」、関東地方の「八木節」「小念仏」(飴屋節)「万作節」、東北地方の「安珍念仏」「津軽じょんから節」など七七調を基調とするクドキの民謡を多数生んだ。その意味で、ちょんがれは説経祭文を民謡へと変えていく大きな媒介となったのである。
デロレン祭文
デロレン祭文もまた歌祭文の系統に属し、ちょぼくれ、ちょんがれ、うかれ節などと同類の芸能である。ちょぼくれは、関東にあってはタンカ(啖呵、詞)の多いものとなり、金杖のほか拍子木や張扇も用いたが、ことに法螺貝で調子を合わせたものをデロレン祭文(貝祭文)と称した。法螺貝を口にあて、デロレンデロレンと口三味線を合いの手に用いたため、この名がある。当初は大道芸として生まれたが、小屋がけによって興行化し、明治以降は寄席芸化した。都会では浪曲となって隆盛したが、地方へ広まったデロレン祭文は関東・東北地方に分布し、ことに仙台市・山形市などでは太平洋戦争後までその跡がみられた。
浪曲・落語・講談
幕末に生まれた浪曲(浪花節)は、説経節と歌祭文の双方を源流として生まれた語りものである。上述のちょんがれ(ちょぼくれ)、あほだら経、デロレン祭文はいずれも浪曲の前身であり、浮かれ節などと同系統である。1877年(明治10年)、「浮かれ節」の井上新之介、のちの広沢虎吉(初代)が大阪府の芸人鑑札を受けたころには、現在の浪曲の基礎がかたちづくられていただろうと推測される。
一方、平安時代以来、とくに浄土教諸派と結びつき、音韻抑揚をともなって衆生を仏道にいざなってきた唱導は必ずしも芸能化せずに説教(法話)のかたちでのこったと考えられる。この説教(唱導)と説経節、さらには「ちょんがれ」とが結びついて節談説教が興った。白声(しらごえ)で語るようになった節談説教は芸能化して民衆の娯楽となったいっぽう、浪曲の一源流となり、また、講談・落語の各芸能の母体となった。
浪曲・落語・講談はこのように、それぞれ大道芸をその起点のひとつとしているが、近世以降、浪曲は忠君愛国と義理人情、落語は笑いと人情、講談は教養をおもなテーマとしながら、いずれも寄席演芸として大きな発展をとげた。
近現代
現代は、上述の節談説教を母体に生まれた各種の話芸のほかは、伝統的な民俗行事のなかで祭文が語られる程度であり、かつての祭文語りや歌祭文はみられなくなった。特に高度経済成長以後は、かつての放浪芸がつぎつぎに姿を消している。
そうしたなかで、文学や映画、アニメーションなどの領域では、「祭文」の名を付けたり、祭文に題材や着想を得ている作品もみられる。
また、現在の神道における祭祀では、勅使が伊勢神宮・勅祭社に参向した際に神前で奏上するものを「祭文」と呼ぶ。
祭文の書かれる鳥の子紙について、伊勢神宮には縹色(はなだいろ)、賀茂神社には紅色、石清水八幡宮・春日大社には黄色のものが用いられる。
祭文殿
神楽を演じる場が「神楽殿」であるのと同様、祭文語りの場が「祭文殿」であった。
本殿(後)、祭文殿(中)、拝殿(前)を回廊で繋いだ左右対称の建築様式が尾張造であり、尾張国(愛知県西部)地方特有の建築様式である。愛知県稲沢市の尾張大国霊神社、犬山市の大縣神社、一宮市の真清田神社、名古屋市の富部神社、清須市の河原神社のほか、愛知県瀬戸市の定光寺、豊田市の六所神社、岡山県岡山市の吉備津彦神社には「祭文殿」がある。なお、名古屋東照宮にもかつて祭文殿があったと伝える。
「祭文松坂」
祭文松坂は、目の不自由な女性の旅芸人である瞽女が門付をして唄ってきた祝唄である。
越後国など北陸地方の盆踊歌であった松坂節と歌祭文が結びついて生まれたのが「祭文松坂」である。
瞽女はまた、北陸地方の盆踊歌であった松坂節と歌祭文が結びついて生まれた「祭文松坂」と総称される楽曲を演じることも多かった。
「最後の瞽女」といわれた小林ハルもまた、『俊徳丸』『山椒大夫』などの説経祭文とともに祭文松坂を演じている。ハルのレパートリーは多岐にわたり、祭文松坂の他にも鴨緑江節などのはやり唄、常磐津節、新内節、清元節、義太夫さわり、長唄、端唄、三河萬歳、和讃、都都逸を唄うことができた。  
 
おしら祭文

おしら神
昔長者の一人姫が、家で飼っていた栴檀栗毛の馬に恋をしたので、父親は激怒して馬を桑の木に吊るして殺し生皮を剥いでしまいました。
それを知った姫が馬の首を抱いて歎き悲しんでいると、空がにわかにかき曇り、何者かが娘を生皮に包んで天に昇ってしまったのです。姫を失った両親が悲しみにくれていると、夢枕に姫がたち、「三月十六日の朝、土間の臼の中に馬の頭の形をした白い虫がわく。その虫は蚕といい、桑の葉で飼えば上等な糸が採れるから、これを売って暮してほしい」と告げました。
そして夢の通りにその虫を飼うと、虫は繭を掛け、長者は金持ちになったといいます。これが蚕の始まりで、馬と姫は馬頭・姫頭二体のおしら神となったということです。
女性、子供の守り神
概容にあげたのは、気仙沼地方に伝わるものです。オシラ神(以下、オシラサマ)は東北地方、特に遠野に伝わる民間信仰で、養蚕の神、家や、一族の守護神、農耕の守り神です。柳田国男の遠野物語で一躍有名になりましたが、東北地方で昔から代々祀られてきたのです。そして、オシラサマは目の神、女の神、子供の神でもあります。
このオシラサマを信仰している東北地方の旧家では「オシラサマのお年取」というお祭りを小正月(旧一月十六日から)に行います。この儀式は親類縁者だけで行うもので、この時祀られるのが、桑の棒を芯にした二体の(馬頭・姫頭)人形のオシラサマです。このお祭りで、二体のオシラサマを遊ばせるのです。
このお祭りは女性のお祭りでもあり、通常イタコが行ったりするともいいますが、いない時にはその家の主婦がオシラ遊ばせを行います。(最近では殆どイタコには頼まないらしいです)この時、オシラサマに新しいオセンダグという衣装を着せます。
オシラサマが好きであるといわれている赤や黄色等のオセンダクはその布自体に力(呪力)があるといわれ、戦争中には出兵する人々の千人針の中に縫い付けられたといいます。
また、オシラマサは子の神であり、子ども好きという一面があります。その為、子供達に背負わせ、揺すりながら遊ばせるととっても喜ぶといわれています。これをオシラサマホロギといって、オシラサマホロギしながら回られた家は、祝福されるそうです。
ちょうど、お正月の慌しさが一段落つく頃に行われる女性・子供中心のお祭り…。旧正月は、お正月の家事も一息ついて、里帰りをしたりする時期でもあったxようです。
オシラサマは、古い時代に強かった「家は女が守る」という日本独特の思想の中で、育まれていった民間信仰でもあります。子の神でもあるオシラサマは、女の子に背負われたり振りまわされたりすると特に喜ぶといわれています。それも、女性を守る家の神としての性格が強いためでしょう。
私的には目の神様というのも、昔の女性達が、夜遅くまで家族の為に針仕事をしたりした時に心の拠り所みたいな物をオシラサマに求めたりしたのかな…なんて思いました。
オシラサマの名前の由来としては「お知らせ様」があり、東北地方には、オシラサマが火事や地震など不吉な事が起こる前に向きを変えて知らせたという話が多くあります。
もともと、オシラサマのお年取のときにイタコなどによって、オシラサマの託宣を発することもあり、予知の呪力があるともいわれているところから、「お知らせ様」とも呼ばれるようになったのではないでしょうか。呪力が強いとされている分、オシラサマは強力なタタリ神として恐れられる神様でもあるようです。
おしら祭文
このオシラ遊ばせのときに語られる祭文に、おしら祭文というのがあります。オシラサマの由来を説く物語で、(概容に類似する)縁起譚、そして典型的な異類婚姻譚です。先に説明したとおり、オシラサマのお祭りは女性のお祭りであり、この祭文は女性の語りによって、初めてその効力を発揮するといいます。
類似する話は中国の「捜神記」「太古蚕馬記」「神女伝」にあります。また日本では常陸国の蚕影山の神の由来を説く「蚕影山縁起」は「おしら祭文」によく似ています。
また、この祭祀と唱え言から、この祭文の原初的形態は山伏の「オコナヒ(行法)」だったのではないかとも考察され、岩手県内ではこのオシラサマをオクナイサマと呼ぶのも「オコナヒ(行法)」に由来するという説があります。
もともと農耕の神、田の神というものは、山の神の一部と考えられており、春になると山の神が山から里に降りてきて田の神として里に留まるという信仰は多くあります。民俗学的研究によると、山の神とは、マタギなどの狩猟民族や林業生活者の信仰する山の神と、稲作農耕民の信仰する神の二種類があるとされ、オシラサマは後者の性格の山の神であるといえます。狩猟民族の信仰する山の神の方が起源は古いとされ、特徴としては、禁忌(タブー)が厳しい事や、祭りの対象が特定の自然物である等が揚げられています。 
青森県三戸郡南郷村(現八戸市)に在したイタコ林ませ巫女が、弟子に伝授した「キョウモン(経文)」(祭文)のうち、オシラ祭文、神よせ・仏呼びの類の文言を紹介する。
オシラ祭文
オシラほうろぎ
手に取ればこそ手になづーて遊だ神かな
そもしもしらわの御本地くわしく読み上げたのみたてまつる
昔まんの(満能)長者とてありかの長者こと姫君一にもたせたもたのもだてたも
ひとり姫ことなれば昼はかげんのざしき
夜はかいごの遊びいげをかじげをかぎりなし
しかりに満能長者の厩に
千だん黒毛いつの名馬とてつながせたも
かくて歳月ふろほどにたつ姫君もー十六歳にならせたもとゆう
ときはつかじきいかににょうぼたつ今年十六歳になりよけば
いままで馬屋へおりて名馬見物いたしたりことはなし
父母におんめいはからいしのばせよとありければ
ざしきあいだにおんことてやいのびょうぶでしのばせたもなり
かおーどいじくしくめいばもさらになし人間のみみなら一夜の契り
ほめびきぞあいそーつさいどゆうべきものとて千だん黒毛
かすみのぶつて三度なでたせたもう
姫君きんの一つまもとりかすみのぶつについにつきいそぎ馬屋いくせたまいば
なかにいづくにしく名馬も千だん黒毛あるもの
まず左の肩先にいづみとういしもんじわななながれ
右の肩先にはよねといいしもん字はなな流れ
左りのそーどみだてまつればほつちょうのもんじわなな流れ
右りのそーどみだてまつればやまぎょうもんじわなな流れ
おーと申せば白いどよりかけたごとくなり
つめ申せばせんもくつめたごとくなり耳申せばほつちょにほんたてたごとくなり
まなくはにつげつのごとく
しょうある名馬いことなればそれよりもいっしょうの歌をあそばせたまいば
ぬかかいみずかいくじょうわささのはとりかいたまいどもそれいじくにさだまりて
これはなんきょういかがわせんとおいにおどろきたまいども
とにもかくにもこのとわきみにごしろーもうさばやとておーまいにかしこまる
よしわかくと申す
あごれば満能長者きこしめしさらば博士よんで
占いせよとありければ
奈良の博士呼び寄せていじじゃ占いなさりけり
昔のざっそにいまの暦をひきあわせつくづく考えてみよう
これやそも姫は馬屋にてくだらせたまいば恋いの病とて悩みけりと占い申す
満能長者はこれを聞くおーいに腹を立つ
かすみのふうについにつきいそぎ馬屋にくだらせたまいば
白銀のそぎに腰もかけて千だん黒毛のうつむかい
昔は今にいたるまで
人間を恋にしたると病もなしつくろいわ人間を恋にしたると例もなし
国のあるじに国のこくしにこその思う間につくろいを
みとして我が姫をいんにいるべきこと
思いにもよらんとことはいがいにいたらせたもう
しょうある名馬いことなれば千だん黒毛はまいびさうってしたをくいきり
北に向かって三度いななき長者おーせには八人のとねるどももとじなうつきり
馬屋とりひきいたしご恩がかわらぬいそがせたもいそげば仏なくご恩がわらになりよけば
四本のくいをつきさらしおいてじょうがりけり
南はるかとごらんずればみんなみたこそくわの木のえだにさらしおいてじょう
川をごらんじゃらむの名馬かな
長きじゅ命であるべきにはむいいにほやばやしててそーろたり
いづばづのきょうでろ弥勒まんぴんの念仏をとないゆきに菩提といたもう
かさねて姫君あるよーわいかにくろいのみなりともしょうある名馬にますまさば
われいじくいなりともつれゆかばとありければ
黄金のそら指をさし天のはごろもまいくだり
西より黒雲たち風にまかれてさいてんじょくい登らせたも
満能長者の館にはきみにごしろーもうさばやとておーまいにかしこまる
よしはかくと申すあぐれは満能長者はきこしめし
天だのないしいいできたってみかぐを初め
ななつがまをたてさにつざんやいしつにつしつやおだくの
ういで神おろし申せばきょうで七夜と申すとうのこくに神はくだらしたもう
満能長者の姫なればこれより
三月の十六日ほどやしきまつせたも月日につきもり
ひいざればはや長月の十六日にもなりけりぞ
うの刻からたつのいてんまで神風吹いてなもやかに
五色の雲はたなべきぞ五色にうつきり姫のたまでば
こうはまい下りふたおしひらき
ごらんずればしらかみ1 枚しきにくろみぞ
いそぎ開いて見たもなまことに白き虫黒き虫
2つの虫は白き虫は姫の姿なり黒き虫は千だん黒毛の形なり
この虫のいんじきには
南百ぱんとゆう木の葉をとり白銀のまな板包丁で押し切り
いづきにかおならばさらさらとふくじべきとて神やあがらせたも
長者ふうふなのめに思し召しはつにんのとねるども桑とりほーじゅうと名づけたも
三月七日かわせたまいばつつごとなり
つつごなんずけると名ずけたまいば
三月七日はせたまいばにわごとなり三月七日はせたまいばさきごとなり
かわせたまいばはめしはんじょう
黄金のたらいふなより入れてふなごなんじょうとなずけたまいば
これより南に宝仙という山がある
高さはかんず広さはぬかんずある山は
あるかの山の木を切りてつれけども
面白やととればこそとりが西じゅくし木の杖うらぐも大ききまいはつるのこのえ
小さき前かものこのえかもはかわらにしわかわらくりつまたり
まいなればぬりて千人かくて千人かけて千人三千人のぎょうぼ
ひとりにあいそいて白銀のまたぶりとりもって
つじを手にさげて五色の糸をあやにかけて
しそくのみょうごをごてじゅくに
いまめを姫はくだらせたも
こだま
そもそもこだまの濫脳を尋ぬるに
長者も數多ありけるその中に
せんめう長者と申すは
有徳な長者で
七間馬屋に七匹揃へて
白秋の馬舟をもって
おん飼ひ召されさうろうぞ
せんめう長者の一人娘に
玉世の姫と申して
明け七歳にて大美人のおはし給ひ侯が
ある時七日七夜も七日七夜も
湯水を絶して悩ませ給ひ侯なり
同じ月日と申すに
馬屋一番の蘆毛の駒が
秣を絶やいて
七日七夜も七日七夜も伏沈み候へれば
姫の悩みに馬の悩み
月日も變らず候を
親なる長者は之ぞ不烈議と思召されて
博士をよんで占ひ給ひ候へば
馬屋なる駒に戀せられ
それ故姫も悩ませ給ふと
占はれ候ひければ
その時せんめう長者宜ひけるは
如何なる前世の報いたりとも
長者の娘とも言はるる者が
馬畜生に魅入られては
人問界へ生ぜし奇特もあらじと
怒り罵り蘆毛の駒を引起させ
ひらくべてうとはね落とし
皮を剥いで戌亥の方に
洒ざ給候へければ
不思議や其皮頗りに動いて
大地へ揺り落ち
玉世の姫の寝間へ飛び
くるくると娘を捲きしめ給へば
折節まき風しきりに起りて
虚空へ捲上げ行方知れず候ひければ
これこそ希代の珍事と
又もや博士を呼んで
占なひ召され候ひければ
今は天にて生を變じて
こだまとなって
桑の緑に集り候が
招けば此國へも降ると
占ひ給ひ候へば
さらば招いて見んと
國々に名を得し行者を呼んで
招かせ給ひ候なり
『天笠のこだまを此國へまねいた
招いたよ招いたよするり招きこんだ
此國のこだまを此村へまねいた
招いたよ招いたよするり招きこんだ
此村のこだまを此家へまねいだ
招いたよ招いたよするり招きこんだ
此家のこだまを此家の北の方の左の袂へまねいた
招いたよ招いたよするり招きこんだ』
左の袂に三日三夜
右りの袂に三日三夜
兩方合せて六日六夜
三日に水引四日にせいきが揩オて
五日にいづれば鷹の羽がひをもって
紙一枚へ掃き集め
桑の若葉で飼はせ給ひ候が
天より降りて初めて紙にて育てし
ゆはれをもつてかみごと名づけ候なり
紙にあまればたかみへ移し候ひける
ゆわれをもつてたかごと名づけ候なり
其の後たかみにあまり舟にて飼ひしを
ふなごと名付け
又々舟にもあまれば
ひろ庭にて飼ひ初め候
ゆはれをもつてにはごと名附候なり
其時せんめう長者も
よくよく御覧なされ候へば
あたまの黒きは我子のかたち
からだの白きは馬のかたち
これぞ不思議の宿縁がなと
よくよく因果の這理を悟らせ給へ侯なり
こたねひろひ
そもそも昔は長者が七人
七人の長者の中にも
せんめう長者と申すは
有徳な長者でさうろいければ
名馬の駒を七匹そろへて
黄金の馬舟で寵愛召ざれさうろいければ
中にも蘆毛の名馬と申すに
王世の姫と申すが心を靡かそ給へ
その時姫も
七日七夜湯水を絶やいて悩ませ給へ
名馬の駒も草水絶やいて悩ませ給へ
かくの如くに候ぞ
せんめう長者も不思議な事とて
博士に占へ申させさうろいけれぼ
名馬の駒に玉世の姫と
心を靡かせ給へと申されさうろいければ
そんめう長考も聞召し
馬畜生に魅入られては
いかがすむべき事かと
蘆毛の名馬のそらくび放いて
皮剝ぎとらせ申して
前なる桑の木の
東む方へと差たる枝へ
張るせ申してて晒させ給へば
姫をも同座に行なへ給へば
天よりつもじ風が吹降つて
蘆毛の名馬の皮を
天へ捲くさうろいければ
来三月は蠶種と變化申して
此國へ天降らせ給へて
前なる桑の木に宿らせ給へて
桑の若葉を食ませ給へて
せんめう長者も不思議な事とて
博士に占なひ申させさうろいければ
蘆毛の名馬と玉世の姫と
蠶種と變化申して
日本の賓となり申して
天降らせ給ひさうろいければ
さるによつて
桑の若葉を食みたる時をちちこと申なり
たかみで飼ひたる時をたかこと申なり
舟で飼ひたる時をふなごと申なり
庭で飼ひたる時をにはごと申なり
しゆくで飼ひたる時をしゆくごと申なり
その時せんめう長者もご覧じましまし
頭のKきは吾子の末なり
軀の白きは名馬の末ぞと仰ある
四度の起伏難なくく癖なく
絲にて千分面綿にて萬々分
徳を掻いとらせ申して
~前ではお袈裟と掛けて
拝ませ給へさうろいければ
佛前では九條お袈裟と掛けて
拝ませ給へさうろいければ
蠶種と申すも
かのおんゆはれにてさうろうぞ
天より蠶種を此國に招き給へ
此國の蠶種を此當所へ招かせ給へ
此當所の蠶種を之の館へ招かせ給へ
此館の蠶種をこれのお部屋へ招かせ給へ
此な部屋の蠶種を亭主の左挾へ
招給へさうろうぞ
蠶種招きを遊ばする間に夜がほげて
あけてつとめてb給はる
オシラサマで背中をはらうとき
頭の痛みなく肩の痛みなく腰の痛みなく
十六善のオシラ神をもって三百六十五日のケガレをはらいたまい清めたまい 
神よせ
神呼び
一の弓まず打ちならしのはじめよぶ
この村の神々からまでしょうじいれ申す
二の弓のねごい呼ばところの神こそ神々までしょうじいれ申す
三の弓のひびき呼ば日本六十六か国の神のしいさくはこーとーじんまでしょうじいれ申す
ほめやきこしめし
十六の大国五百の中国十千の小国無量はそくさん国のそのならい
北は北陸佐渡ケ島南は南海ほどらく東はやごろの西はいべしの浄土が
四方四角に四つの神明のしむより数のしいさくはこーどーじんまでしょうじいれ申す
この弓いじくは弓ぞ伊豆の国まさしや島のはる弓
まさが島の弓ならばらまされたんべついまされそーや
このおけいじくはおけぞ伊豆の国まさしや島の曲弓
まさしや島の弓ならばうらまされたんべついおされそーが
この竹いじくは竹ぞー伊豆の国まさしやにうち竹
まさしや島の竹ならばうらまされたんべついまされそーや
木弓つきの弓しげどうの弓とはとんの弓あたたる山のはじ弓
うらまされたんべついまされそーや
こじょうの神のさぶろーどのし四じょうのたたみに四じょうのむしろをしく
八尺の弓を七尺五寸のしるきにつるをかけもとはじにはくりからうどーぬりたんもうもう
中はじにはみだやくぬりたんしいさくはこどーじんまでしょうじいれ申す
黄金百両さぶろーどのいんまおんにてつかいともにたてまつる
さんごのあらまに三十川だいがはうばのまいてまつる
さんごのあらみに三十川だいがは
うばのまいにてしきとるふだじんまでしょうじいれ申す
そらになるいいかじつのその下にいじり神はただせましまし
さぶろーどのどーりでんにはひのいかじつ
こてんじゃくのはじよーのこーぜんはじよーぜんしだのこ国の
こーぜんのはじょーぜんしだのこ国のてんじゅくには
かんざどのとてぎょうのこーぜんまでしょうじいれ申す
津の国なんぱんの天能寺そでひこのみこと
大山寺に小山寺しどの浄土
しろむねのこそおぎながにいんごのしろよーつごみや大やしき山土佐の国こまつは
一つそーの権現までしょうじいれ申す
つぼの脇にはすすめの神のぎの下には乃木わらのかんざどのとてにょうの
こーぜんまでしょうじいれ申す
桑の木の下にこそ十六善のおしらがみとて
神はさんだいおだつある神々までしょうじいれ申す
たてのもとにはよこだの神あさの中にはおさそーの明神とて
神はさんだいおだつある神々までしょうじいれ申す
いんだてのもとにははなだの明神まりこのひといにせんだの神はゆりぎさせたんもやくし仏はおだ
つある神々までしょうじいれ申す
神の数は七百七そーのこーりの神々までしょうじいれ申す
虫の数は五十みそろいの虫の数と申せども
おんところにせせなぎの虫ぶぞーの虫とはてしり虫うじ虫け虫ほじ虫つじ虫
くつわ虫つめの中にはたるらん虫こーろぎ虫
はたおりきりぎりすゆきことだがしょうじいれ申す
その身にまんつんずこれ鳥のかずは四百四方の鳥の数と申せども
らいその鳥とさだまりて大の鳥小の鳥
ちゅうろいつとせやせろどりあわどりひわこんがら
おーみにはまごじわかもめんどりさんにゃのけだものにわとりと申す
そーじょうには親のせんばん鳥なればつのいいちじょうならべやとばんとりにてましましか
ホトケ呼び 恐山
イーヤエただいまのしえ木の枝に何がなる。ナムアムダブツ水の木がなるよ
(何)月(何)日のホトケ様を呼び申そうや
極楽のしんでの山を急いで参る
神の浄土か思いそめてのだいがんか心よせてのだいがんか
といようかいまほのぶのどしょうじ
ゆるさ山いま申せばかりごりながらもかりすがながらも
おきや沈む次第のよーもうまにうかんばせと
今日の地獄次第のおやしろに呼ばれてありがたい。・・・・・
ホトケ呼び 戦争で死んだひと
イーヤエただいまのしえ木の水よば百里に急がせよ
百里の水よば十里に急がせよ
十里の水よば一里三里と急がせよ
三里の水よば一里と急がせよ
はるばるどうどう海川越えて河原を越えて急がせよ
ここはどこよここはふるさと
ふるさとならばおりて物語りそーや
(何)月(何)日のホトケ様を呼び申そうや
しんでの山を急いで参る
神の浄土か思いそめてのだいがんか心よせてのとだいがんか
ホトケ呼び イタコをおろすとき
イーヤエただいまの片手にかけたる袈裟衣
左の手にはしろき神や右の手にはしかのまき
ふでとりもって読めや書けやと読み信じる
極楽浄土と急いでまいる神の浄土かな
思いそめてのだいがんか心よせてのとりごいながらもかり
姿ながらも月にうかんばやと
さむらいの神おろし
しいさくはいまでましまし
ながはまになかでやしずむしかるましらんな
神みかちみづももみづみじななつ
中なる水は神のかよるみづかみくだる
神風そよがめおる舟は下にはしぎなるこまつに
たづなよりかけよじゅん馬にかいくらおいで
にわだづにわのみそめでたづね神かいそーや
大工の上げおろし
この館のいかなる大工はおもしろやと
ほめて立てたそだいりかな
だいりのうちにこがねの花さくましてさして
なぎにこがねふるなるもの
内神様の上げおろし
しきわたし神のりそーばとろどろと
みかさの山にゆるりとらんな
けさのあさ口に黄金にまさる朝日かな
夕日も輝く
月も月もくまの日も
まいれやどーさもたもとたらそーや
みだいのほーくらむるに月こそませや
夜も照らそーや
大黒エビスの上げおろし
ほいるみかどはななみかど
みかどの脇に松植えて
まつもろともにしさしかるらんな
そーめを松につるしかけ
鶴亀見ればはたらく松ゆるぎ
ゆるがんまつわいまつかな
八幡様の神おろし
はやはちしんなしむらんな
きゅうしきゅうしどおこないば
西をうみ東はなぎそはなやはこぞはそ
八幡どの弓にじょうじてももやみせども
あさやなるものおにもどみわや
おみやかにこもとみわやおみおやかに
こもとみ山やしぎやかに
しぎぞのおるとてあさだ神かな
やわたをば八幡さま
十和田様の上げおろし
しみじみもよいじみぞかげもます
ひとわをかいてせぞーとばそーやー十和田山
十和田の水はおりておいらせ川の遊んだ神かな
十和田の水はするくねどにぐらざる
山の神の上げおろし
山の神背は大きく目はばっちり
鼻高く色白く
山の神おんたきにわこの白そでに
ななしろたつにまいらせたり
仏様の上げおろし
このとのせいじところに旗立てて
そ国のむねをまねせるうつせるにわのおりめはかめななつ
じょうかめはさざらがめさざら波うらもはんぞ
ところもはんぞしきじもはんぞ
しいはんぞーと申す清め申す
西に千年南に千年東に千年北に千年
ひゅう千年のひじょうともあいかわらせたまいば夢いり申す
しきじもはんぞわれらもはんぞ
村もおだやかところもはんぞ
しいはんぞーと申す清め申す
極楽のしえ木の枝に何がなる
なみあぶだぶつのみづの木がなる
極楽のみどーのまいにななせ川
ななせもやせもわたらせはおや子にあうせ人せなるもの
極楽の枝にいづわかがみだなかがみだばこそ
よるくる人のかげはうつそうや
極楽のわがくる里に来てみればもつべきものにはじじまもり
さらわんものには夢とうつだけ
極楽の我が親は弱さがしまにこーもって
親のわとれあとをとわるる
いろよき花を手にもたせあげやしらごーや
極楽もしでの山いかなる文字もふにそめて
いくとはみいど戻らざるものかえらざるもの
極楽のおーりがけが梅の花けさふく風に枝をたおされ花をたおされまつべて夢いり
極楽のこよしき人の墓見れば見るより早く涙でるもの
極楽のこよしき人にあうときは心のうちから仏のこそーや
極楽のびしんなかすみがやみのよかいま来てみればつくひのしょうどもはなの極楽
極楽のみやまかくれほととぎす姿はみいぞ声ばかりそーや
極楽のもりか林かふるさとならばおりて物語りそーや
送るとき(仏様の上げおろし)
一番しまいによしととめがみあら神しじょうもろともに
こんがのうりくちごかいの神おーみにわがりょう神まで
うかべてもきくはしめてはしめてもそーや
神を送るときに読む
東のすみにも神とどまんな
西のすみにも神とどまんな
南のすみにも神とどまんな
北のすみにも神とどまんな
四方のすみにも神とどまんな
おなぎの下にも神とどまんな
ゆるりの下にも神とどまんな
たたみの下にも神とどまんな
戸に立つなまどに立つな
六万八千六の仏呼ばれ
雨のさえらなき風のさえらなき
主ある神はみやみや林までおおくりとどつけ申す
主ある仏呼ば寺々までおおくりとどつけ申す
主なき神呼ば野さも山さもだけだけ
島々までおおくりととどつけ申す
主なき仏呼ば野さも山さもだけだけ
島々までおおくりととどつけ申す
神様を送るとき(神呼び)
かけまくもかしこき心に
光臨のいっさいの精進たちのもとの
こんきゅうに送りたてまつる
おそれながらうけしきたまわいて
このじゅうしゃけいふくてんぷくかいらい
ちふくえんまんしんちんしんりき
ほうがんじょうじゅと守らせたも  
オシラ祭文 / きまん長者物語 (*1)
おひら(*2)の祭文、くわしく読み上げたてまんつる。
きまん長者の旦那様、朝日の長者から二歳駒(ごま)を買(か)りそえて、三歳駒(さんざいごま)にもなりそろえで、立づに千段、座(すわ)るに千段、歩みに千段、さんじょ(*3)余段の形にもなりそろえで、雨あられの降るとても、今日も見物(けんぶつ)、明日も見物と、毎日、百人余りの見物人は、来るとても、ただの一人も、しめん様(*4)の目に止まるお方もなく、そこでおしめん様は、
「おらえも見物いたしてみたい」と、
十二単(じゅうにひとえ)を十二重ねも着(き)りそろえて、ゆみどり、褄(つま)どり、十二人の家来を付(つ)き添えて、二階の梯子をそろうりそろりと降(お)りそろえて、メンバ(*5)の前を通りいたして見たならば、頭(かしら)には馬頭観音様、背中にはてまやま(*6)つくらえたんも、顔形(かおかたち)見れば、美人美男の顔形にもなりそろえで、目付(めえつき)見れば梅(め)の花、きばな(*7)を見れば桜ん花、前の踏みあい見れば、天目(てぶく)茶碗の踏みたる如く、後ろの踏みあい見れば、蓮華台にも似たらしく、歩く 姿(しゅがた)を見れば、しめより(姫百合)の花にもさも似たらしや。
「これは器量かたちの良いメンバだ」と、
「人間であれば、我(われ)と一代の契りを結(むしゅ)ぶ形(かたち)のメンバだども、人間のつくらいでなければ、その儀(ぎ)もなりまじきのことだ」と、
木戸に手をかげで涙をさげたなら、メンバは心にそろりと入れて、ひとりしめん様は涙を流して、二階の梯子をそろりそろりと昇りいたして、涙ながらも両手を合わせたところに、時ならば夜(よる)十時半ごろに、十九はだちの男(おどこ)の姿(しゅがた)となりそろえて、晒しの手拭(てぬぐい)こ肩(がた)(*8)にかけて、二階の梯子をそろうりそろりと昇りおえて(*9)、とりしめん様の納戸(なんどう)を見れば、明かりはまんどろ(*10)の明かりで、金の屏風を立て廻し、相(あい)の枕で一代の契りを結(むしゅ)び終(お)えだども(*11)、ふたたびメンバの形とも顕われたことなれば、ひとりしめん様は涙を流して、
「メンバやメンバや、お前も人間であれば、我(われ)と一代の契りを結(むしゅ)ぶ形のメンバだども、つくりの道(みぢ)でなければ、その儀(ぎ)もなるまじきのことだ」と、
さんべんの歌(*12)をかけたならば、メンバは心を切りかえで、二階の梯子をそろりそろりと降りたるメンバの姿(しゅがた)は、病いと顕われてのことなれば、使いの人は何を食(は)ませてみても食(は)まないや、葛(くじゅう) ・ 薄(ししき)を細かに刻み、糟(かし)や小糠(こぬか)を振りかけて食(は)ませでみでも食まないや、そこでひとりしめん様は、十二単を十二重ねも着(き)りそえて、十二人の家来を付き添えで、二階の梯子をそろうりそろりと降りで、メンバの木戸におかかりおえで、
「メンバやメンバや、お前も人間であれば、一代の契りを結(むしゅ)だども、つくりの道(みづ)でなければ、その儀(ぎ)もなるまじきのことだ」と、
ひとりしめん様は涙をさげて、じゅう水を飲ませて見れば、じゅう水(みず)(*13)も飲むとのことや、葛(くじゅう) ・ 薄(ししき)を細かに刻み、糟(かし)や小糠を振りかけて食(は)ませてみれば、それも食むとのことだや。
しめん様の食ませたものには、ただの一つも食まずのものはなく、そこで使いの者は、これならただなることではないと、相談をかけたならば、きまん長者の旦那様、世一(よいぢ)世一の占い様を呼び寄せて、誰も何(なん)の名の付けるお方もなく、次の占い様は、
「うちのメンバは、他(ほか)だ病いではなく、ひとりしめん様の恋の患(わずら)い」と、
置き出(だ)したならば、きまん長者の旦那様、
「なんぼ器量かたちの良いメンバでも、ひとりしめん様と一代の契りを結(むしゅ)ぶとは、つまづきのことだ」と、
「そうなれば奥のセンダン(*14)の林に、鉄(かね)の鎖で八方(はっぽう)繋げて投げ棄(しゅ)てて来い」とのことなれば、
その時のまかない(*15)みれば、八丈(はちじょう)の腹巻(はらまぎ)で、鞍(くら)の金具(かなぐ)を見れば、金銀(きんぎん)の金具(かなご)で、つかで(*16)を見れば、新縮緬(しんつるめん)(*17)のすかでで、手綱(たづな)を見れば、ほんもみの手綱で、そろうりそろりと引(ひ)ぎ出(だ)したならば、前に一足(ひとあし)涙をさげで、後(うし)ろに一足涙をさげで、センダンの林に投げ棄(しゅ)てられたる所では(*18)、時ならば秋十月十六日、村方(むらかた)のしめん様(*19)の御神楽(おかぐら)と顕われで、ひとりしめん様は、
「おらえも御神楽(おかぐら)見物(けんぶつ)いたしてみたい」と、
十二単を十二重ねも着(き)りそえで、十二人の家来を付(つ)き添(そ)えで、
「ここは、おら所(ところ)のメンバは投げ棄(しゅ)てられたる所だ」と、
桂の大木(だいぼく)にちょっと腰をかけたるごとく、西(にし)見ればしどうらいし(*20)、東(ひがし)見てもしどうらいし、間もなく紫の雲に誘われて天竺(てんじゅく)に昇り致したならば(*21)、家来の者は、手を伸べても手も届かぬ、竿よし伸べても竿よしも届かぬ。
ひとりしめん様は帰って来ないとて、きまん長者の旦那様、使いの人(ひと)にはなんじょう致してみたところは、春三月十六日に、長者の庭先の奥の木の下に、白紙(しらがみ)一枚降(ふ)りそろえて、白き虫は十二匹、赤き虫は十二匹、そろうりそろりと降(ふ)りそろえで、何べを食(は)ませてみでも食まない虫だと、そこで村方の七十(ななじゅう)余りの老人様(ろうじんさま)は、桑の木の杖を二本ついで、
「さて器量かたちの良い虫だ」と、
白き虫の顔形(かおかたち)見れば、おら所(ところ)のメンバのつくらいにも似たらしや。
赤き虫の顔かた見れば、ひとりしめん様にもさも似たらしや。
白き虫は左の杖に、赤き虫は右の杖に、そろりそろりと昇り次第(しだい)に、桑の木の杖(つゆ)の甘皮(あまかわ)ぱりんぱりんと噛みそろえて、これは何(なに)のいずきの虫ではないや、かこいじきの虫(*22)だと顕われて、そこで七人の家来は桑の木の萌(もよ)を取り出(だ)して、白金(しろがね)のまな板で、こがねの包丁で、細かに刻み、食ませてみたらば、ぱりんぱりんと食みそろえで、一枚葉(いちまいは)でもぱりんぱりんと食みそろう時には、絹(きん)コ、繭(まい)コと顕われて、一竿(ひとさお)かければ二(ふた)竿ではずし、二竿かければ四(よ)竿ではずし、四竿かければ八(や)竿、八竿は十六竿ではずし、今で至るまでも、絹(きん)コ、綾織(あやおり)、錦(にしき)にもなりそろえで、今では人間(にんげん)に与える真綿(まわた)ともなることだや、陸作(おかさく)、田作(たさく)の実りの世の中に、たちさわる(*23)神とも顕われて、今では十六天(じゅうろくてん)のシラカミ様と顕われで、村中一同の信者の家内安全、世(よ)の護(まも)り日の護り(*24)、護り恵み、幸(さき)はえたまえ、と申(もう)す。
かしこみかしこみ、申す。

*1 「きまん長者物語」という題は仮に付けた。ここに掲げた中野トマさんのオシラ祭文は、一九九九年一月十九日に佐々木達司氏の手によって採録されたもので、送っていただいたコピーテープから、練習のつもりで翻字してみたものである。本当なら佐々木氏によって文字化されるべきだが、佐々木氏のご好意により、私の拙い翻字が掲載されることになった。
ただ、私には津軽方言がまったくわからず、とくに、助詞「で(東京方言では「て」)」などの濁音をきっちりと聞き分けることができない。この翻字では、同一の語でも、濁音と清音とが混在している。これは、私の耳に聞こえたままに文字に写しているためである。それら清濁に限らず、聞き取りの間違いがあるかもしれないということをあらかじめお断りしておく(もちろん、十分に注意はしたつもりである)。
オシラ祭文については、今野圓輔『馬娘婚姻譚』(岩崎美術社、一九六六年)に十本の祭文が紹介されており、この翻字も同書を参照しながら試みたものである。中野さんの祭文は、一九四一年(昭和十六年)に今野氏が北津軽郡金木町新富町の中西イマさんから採集したという祭文にもっとも近い内容をもっている。
なお、中野さんの祭文の伝承過程などについては、別に佐々木氏の聞き取り調査が報告されるはずである。また、この祭文を唱える前に、祈願文が唱えられているが、それも佐々木氏の紹介を参照願いたい。
*2 テープを聞く限り「おひら」と聞こえる。
*3 「さんじょ」は、他の祭文を参照すれば「三千」の意であろう。
*4 「しめん様(以下「おしめん様」とも)」はこの祭文の主人公の名前であるが、他のオシラ祭文では「玉や御前」「たけや姫」と呼ばれ、類似した祭文として注目される奥三河の「花祭」でかつて唱えられていた「子種招きの事」では「玉世の姫」と呼ばれている。
*5 「メンバ」は「名馬(めいば)」の転訛であろう。お姫様の恋の相手の名馬は、「せんだん栗毛(黒毛)」と呼ばれるのが一般的である。
*6 「てまやま」は意味がわからない。メンバの背中の美しさをいう表現である。
*7 「きばな(あるいは「けばな」か)」も意味がとれない。『馬娘婚姻譚』に紹介された資料の中に、「毛肌」とか「目鼻」という馬を賛美する表現があるので、この「き(け)ばな」も鼻筋の様子か毛並みの美しさを誉める表現であろう。
*8 「手拭いコ、肩(かた)に」の意味だろうが、「か」が濁音になっていて、聞いていると、「手拭い、こがた(小肩)にかけて」のようにとれる。
*9 姫に恋をしたメンバが男の姿に変身して姫の部屋へ忍んで行くという描写をもつものはめずらしい(*1でふれた中西イマさんの伝承が同じかたちになっている)。
*10 「まんどろ」は「万灯籠(まんどうろう)」の転訛で、姫の部屋の華やかな様子を描写したものである。
*11 メンバと姫とが結ばれたと明確に語っているところは注目してよい。オシラ祭文の典拠とされる『捜神記』など古代中国の伝承では、少女と馬はけっして相思相愛のかたちでは語られず、馬の一方的な片思いとして語られている。ところがオシラ祭文では馬と人間が恋に落ちる物語として語られており、とくにこの祭文では、共寝したことをはっきりと語るのである。これは、神婚神話あるいは昔話の異類婚姻譚が日本では数多く語られていることと通じているのではないかと思われる。このあたりの問題については、別の機会に論じてみたいと考えているが、その一端は、遠野物語ゼミナールにおいて「古層のオシラサマ」と題して講じたことがある(『遠野常民』63号、一九九七年十一月、参照)。
*12 「さんべんの歌」は意味がとれない。男(メンバ)を拒む歌か、別れの歌か。
*13 「じゅう水」は「米のとぎ汁」のことで、一般的には「じょみず」という(佐々木氏の教示)。
*14 「センダン」は「栴檀」であろう。ここにセンダンの林が出てくるのは、冒頭部分において、「立づに千段、座るに千段」とあることや、メンバの名前がふつう「せんだん栗毛」と呼ばれていることなどに引かれてのことであろう。音声表現における「音」による連想がはたらいているものと考えてよい。
*15 「まかない」は「装い」のこと(佐々木氏の教示)。
*16 「つかで」は佐々木氏によれば「仕掛げ」のこと。同じ語が、本行末では「すかで」と聞こえる。
*17 「新縮緬(しんつるめん)」は、『馬娘婚姻譚』の事例を参照すれば、「緋縮緬」かもしれない。
*18 オシラ祭文の一般的な形では、怒った父親によって、馬は殺されて皮を剥がれ、その皮は桑の木に晒されると語られるのだが、この祭文ではセンダンの林に鎖で繋がれて投げ棄てられたとしか語られていない。そのために、おしめん様が天に昇って行く場面において、馬の皮に包まれて飛んで行くという一般的な語り口をとらない(*21、参照)。
*19 ここの「しめん様」は、他の祭文を参照すれば「神明様」のことだろう。「しんめ」「しんめい」とあるべきところが、主人公の名前「おしめん様(しめん様)」に引かれて、「しめん様」になったと考えられる。
*20 「しどうらいし」は意味不明。
*21 *18で述べたように、普通なら殺されて剥がれた馬の皮に包まれて天(天竺)に昇って行くと語られるのだが、前の場面で馬の皮剥ぎが語られないために、「紫の雲に誘われて」昇って行くという語り口を選択したらしい。
*22 「かこいじき」は「蚕」のこと(佐々木氏の教示)。
*23 「たちさわる」は「携わる」の意。
*24 「世の護り日の護り」と解釈したが、祝詞などの対句の定型からすれば、「夜の護り日の護り」かもしれない。 
 
新保広大寺1(しんぽこうだいじ)

 

「新保広大寺」とは、新保の広大寺、すなわち新潟県十日町房下組字新保の広大禅寺のことである。それが曲名になったのは、次の事件がおこったためである。1782-83年(天明2-3)ごろ、広大寺14代目白岩亮端和尚の時代、前の信濃川の中洲の耕作権をめぐって、近郷の上ノ島(かみのしま)と寺島新田の農民が争った。ところが上ノ島側についた豪商上村藤右衛門邦好は、寺島新田側についている広大寺の和尚を追い出すことを考え、和尚悪口唄をつくって歌わせた。〈新保広大寺ガメクリこいて負けた 袈裟も衣も質に置く〉などの歌詞がそれで、その歌い出しの文句をとって「新保広大寺」と呼ぶようになった。ところで「新保広大寺」の曲は、瞽女の門付け唄「こうといな」らしい。ところが、のちに瞽女たちは、その「新保広大寺」を長篇の字あまり化した「広大寺くずし」と呼ぶ口説節(くどきぶし)を編み出した。それがのちの「津軽じょんがら節」などである。
新保広大寺2
そもそもこの唄は、かつての住職・廓文和尚が門前の豆腐屋の娘・お市との馴れ初め、その恋の評判が唄になって流行したという伝説があります。しかし、そのきっかけは、寛永6年(1629)に起こった信濃川の洪水で地形の変わったことから、その中洲の土地をめぐって、寺島新田と上ノ島新田の農民によって始まった、耕作権争いといわれます。上ノ島新田側には大地主・最上屋がつき、寺島新田側にはその中洲が広大寺の寺領であったことから、14代白岩亮端和尚を後押しに加わったといいます。また白岩和尚と最上屋はもともと仲が悪かったそうな。そこで、最上屋は、和尚を追い出す作戦を考え、白岩和尚乱行を唄に作って世間に歌わせたというのでした。内容は活字に出来ないほどの悪口唄であったそうです。ところで、唄の歌詞は作ったものの、メロディのほうは甚句であったようです。それを得意とした瞽女達が、歌い広めたといいます。また、瞽女は、もともと長編の物語を歌うことが主であって、7775調の歌詞では短いということで、「あんこ」入りの字余り形式のものを作り上げ、「新保広大寺くずし」を作り上げていきます。
それはやがて口説節となっていきます。それが、読売り、飴売りといった遊芸人によって広められていきます。一つには、先の越後瞽女でした。「離れ瞽女」として北へ北へと向かった者は、やがて青森の津軽じょんがら節、北海道の道南口説、鱈釣り唄を生み出します。関東に向かえば殿さ節、やがて八木節になっていきます。また、飴屋が取り入れて、ヨカヨカ飴屋唄、チャンチキ飴屋が小念仏、そして白桝粉屋等々の唄になっていきます。西に向かえば、広大寺が古代神・古大神・古大臣、さらに隠岐に渡ってどっさり節を生み出すそうな。もう一つ忘れられないのが大神楽の神楽衆でした。大神楽は獅子を奉じ、神事舞としての「悪魔払い」の芸の後、余興芸として「端踊り」という手踊りのナンバーが用意されていますが、その中に新保広大寺が取り入れられます。しかも、伊勢の「天照皇太神宮」の音から皇太神と訛って伝えられていくケースもあります。神楽の中に取り入れられたものには、寡聞では、十日町市の赤倉神楽、西頸城郡青海町大沢の青澤神楽の手踊りの中の新保サなどがあります。
広大寺3
創建長禄元年(1457)に曇英伊応が開基したのが始まりと伝えられています。当時は鶴ヶ嶺にあり広良寺と称していましたが文明17年(1485)に興禅和尚が現在地に移し広大寺と寺名を変えました。寛永6年(1629)に洪水が地形を変えその土地の所有権をめぐり、大地主だった最上屋と4代目住職白岩亮端との間に争いが起きます。裁判は十日町代官所で決着がつかず江戸まで持ち込まれ、最上屋が裁判を有利に進める為、「新保広大寺がおいちのチンコなめた なめたその口でまたお経読む」などと唄を流行らせ和尚の評判を落としたそうです。結局、裁判は最上屋が勝利し寛政7年に和尚は恨みながら死んだと言われています。流行らせた唄はその後各地に広がり「津軽じょんがら節」「道南口説」「鱈釣り唄」「八木節」などなど多くの唄が生み出されました。
古大寺踊り
加茂町の古大寺踊りは、「古老の伝えによれば、平安時代に加茂町一円が福田庄と呼ばれる荘園で、京都下賀茂神社の社領であったことから、みやこ人との交流があり、京踊りの優雅さが加わって、この地方では他に見られない上品な踊りとして受け継がれてきたようである。」ただ、実際には古記録もなく、定かではありませんが、「新保広大寺節」の特徴をはっきりと伝えていることなど、古い形態を持つことなどから、その起源は少なくとも江戸時代に遡ると考えられています。
「古大寺」という名称はどこからきたのでしょう?加茂町で踊られる盆踊りに、「こだいず」とか「こだいじ」と呼ばれる踊りがある。文字も「古代壽」とか「古大寺」とか当てられ、一定していない。実は、この「こだいじ(ず)」と呼ばれる踊りは島根県の東部、つまり出雲部から、隣接する鳥取県の西部の西伯耆にかけて踊られている踊りであり、他でも「古代神」「皇太神」「小大臣」「古大臣」「高大寺」「幸大寺」「子大事」などの字を当てられて、全国各地で踊られている盆踊りである。
このように、字の違いはあっても「こだいじ(ず)」と発音する踊りが島根県だけではなく日本全国に存在しているようです。これは一体どういうことなのでしょう?
甚句こだいじが 腰にかごさげて 前の小川に 泥鰌とりに
「こだいじ」という単語がまるで個人名のように使われています。では「こだいじ」とは人名なのでしょうか?
この「こだいじ」は、江戸時代、新潟県の新保広大寺の和尚と村人が土地争いをし、村人が和尚追い出しのために歌いだした戯れ歌が広まって、江戸では天明ごろに大流行するに至ったという。神楽を演じる人々もこの歌をもって各地を回り、中国地方では見物人が真似て、神楽を早く始めてもらうための催促歌である「神楽せり歌(神楽せぎ歌)」に用いられ、広く歌われるようになった。また、鳥取県の影デコ(影絵)の伴奏音楽として「新保広大寺節」の変形である「ヤンレ節」を使い、これが流行り、傘踊りなどの盆踊りでも歌われるようになったのではないか、と推定されている。
以上のように、江戸時代中期に大流行した「新保広大寺節」が加茂町にも伝わり、それ以前から存在していた踊りの伴奏に取り入れられ、同時に、「こだいじ」という名称も使われるようになり、現在まで続く「古大寺踊り」として完成されたと考えられるのです。
 
和讃1(わさん)

 

仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一。サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃」、漢語を用いてほめたえる「漢讃」に対し、七五調の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。原型である「讃歎」(さんだん)を和讃の一種とみなす事もある。
和讃の原型である「讃歎」(「仏教讃歎」「讃談」とも)は、古く奈良時代にさかのぼる。和文の声明(しょうみょう)で、曲調は「梵讃」・「漢讃」に準ずる。歌体は、一致しない。法会の奉讃供養に用いる歌謡として作られたと考えられている。
和讃は、讃歎の流行の後を受け平安時代中期頃には成立・定着する。和讃は、広く民衆の間に流布し、仏教の布教だけでなく、日本の音楽にも大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡がある。
鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ、鎌倉仏教各宗で流行をした。また旧仏教である真言宗・天台宗などにも影響が及び、「高僧讃」「神祇讃」などの和讃が作られた。
和讃2
仏・菩薩や祖師・先徳、経典・教義などを日本語で讃歎した讃歌である。インド語または中国語でとなえる「梵讃」「漢讃」に対し、七五調で作られたものが多く、これに創作当時流行していた節を付けて朗唱する。
起源は古く、平安時代には「法華讃歎」「百石(ももさか)讃歎」などが流行し、古い和讃には、良源作と伝えられる「本覚讃」、千観作になる「極楽浄土弥陀和讃」、源信作「極楽六時讃」「来迎讃」などがあり、ほとんど平安中期の天台浄土教によって流布したものである。鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ鎌倉仏教各宗で流行をした。浄土真宗の親鸞作の「三帖和讃」(浄土和讃・高僧和讃・正像末和讃)や、時宗の一遍作「別願讃」や他阿作「往生讃」などを含む「浄業(じょうごう)和讃」などが代表となっている。こうした和讃は、広く民衆の間に流布し、日本の音楽に大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡が残っている。和讃は一般には諸仏、菩薩、高僧の徳や行跡を和文の詩形式で讃えた歌謡を指し、多くは七・五の十二音節を一句として、それを重ねる形式で作られる。のちの今様の成立や現代に伝わる童歌などに大きな影響を与えた。鎌倉時代に入ると和讃は仏教儀式のなかでことのほか重要視されるようになった。
 
瞽女(ごぜ)

 

三味線を携えて村々を旅し、語り物・流行唄・民謡などを歌い歩いた盲目の女性を中心とした女旅芸人のこと。370年以上の伝統を持つといわれ、室町時代に鼓を打ちつつ曽我物語などを語る盲女がいたことが始まりではないかといわれている。その後、沖縄から三味線が伝わり盲目の琵琶法師たちによって改良され普及し始めると、彼女達はいち早くそれを取り入れ盲目の女性だけの芸能集団を作り上げた。近世に入り、城下町を中心に諸国で地域的なまとまりのある瞽女の自治集団が形成されていく。江戸期には全国的に瞽女の姿を見ることができた。やがて、いく度もの繁栄と衰退を繰り返し明治以降に衰退の一途を辿る。それでも越後地方においては昭和の時代まで栄え、昭和52年に瞽女が最後の活動を終えるまで続いた。新潟では長岡市と高田市を中心に数多くの瞽女組があった。明治20年代には長岡組が400人近く、明治34年に高田組が97人の瞽女を擁していた。
段物 / 段物(だんもの)は別名を「祭文松坂」という。祝儀唄の「松坂節」の影響を受けている。長い物語を幾段かに区切って歌い継ぐために段物という。三味線の伴奏は三下りの単調な繰り返しが多い。「葛の葉子別れ」「小栗判官」「山椒太夫」「石童丸」「俊徳丸」が名曲とされている。
瞽女唄
越後ごぜ達が唄い広めた「新保広大寺節」は、江戸時代の五大流行唄の筆頭ともいわれた。北上した越後ごぜは、山形、秋田、青森、北海道と唄い歩き、そして「津軽じょんがら節」「口説き節」「道南口説き」「北海道鱈つり唄」などに流れ継がれていった。関東方面に上京した越後ごぜによって、このザレ歌は上州風土に合う「木崎音頭」「八木節」へと変じていったといわれる。南下した越後ごぜは、信州路から甲州路や中仙道へと唄い歩き、「古代神」「麦わら節」に変化や影響を与えた。また、三国峠を越えて「八木節」や「船屋唄」のルーツとなり、北へ向かって秋田民謡に影響を与え、青森で「津軽じょんがら節」を生み、更に西へ向かっては、中国地方の民謡「古代神」の元唄となり、全国各地の「口説き」の源流となっている。
瞽女2/小林ハルさん
かつての時代、目の不自由な人達が、生きて行く為に、三味線を持って、民家の玄関、軒先で唄をうたい、その謝礼にわずかばかりのお米、あるいはお金をもらう(門付け、かどづけ)為に、全国を回らなくてはならなかった人達のことです。津軽三味線で有名な、故高橋竹山氏もその一人でした。お米、お金がもらえるどころか、さげすまされ、追い返され、子供達から石をぶっつけられることもあったといいます。我々には、想像もできない苦労があったものと考えます。

ハルさんは、明治33年(1900年)、新潟県三条市の農家で、4人兄弟の末娘として誕生する。しかし、生後間もなく白内障にかかり両目の視力を失う。祖父は、「外聞が悪いから」と、幼いハルさんを、いつも奥の部屋に入れ、「呼ばれるまで声出すんでねえ」といわれて育った。父親は人目をぬすんでハルさんを抱いたり、背負ったりしてくれたが、ハルさんが2才の時、亡くなる。
母親は、ハルさんが物心つくと、厳しく裁縫を仕込んだ。古着をほどくことから始まり、針の糸通しを体で覚えさせる為、全盲の娘が人通りの縫い物ができるまで、泣こうが、わめこうが容赦なく突き放した。ハルさんが、糸を通せるようになったのは、5ヶ月後の事だった。元々ぜんそくで体の弱かった母親は、口癖のように娘にこういい聞かせた。「ハル、おらが死んだら、お前は一人で生きていかんなんねえ。辛いことあっても辛いというな。腹減ってもひもじいと泣いちゃなんねえ」
そして、5歳の時、祖父は村にやってくる瞽女の親方に、ハルさんを弟子にして仕込んでくれるよう依頼する。この瞬間、ハルさんの生きていく道が決定されてしまったといえる。弟子になることは、「20年の年季奉公」だ。以来、母親のしつけはいっそう厳しくなり、縫い物ができないと食事も与えず、身の始末や洗濯まで、みっちり仕込んだ。「おっかなくて、おっかなくて、あんまりきつい母親だから、本当におらのおっかさんだろうかと思った」
親方が通って来て、三味線の稽古が始まったのは、7歳の時。親方がハルさんの背中にまわって、ハルさんの手を強く抑え、三味線の糸をたどらせる。細い指に糸が食い込み、たちまち血にまみれた。そして、「寒声、かんごえ」と呼ばれる真冬の稽古の毎日。寒声とは、早朝や夜、川の土手に薄着姿で立ち絶叫するように唄い、声をつぶすのだ。「寒くて切ないのに、暖かくなるまで声を出さねばならない。川に向かって、そしてツエにしっかりつかまって、のどから血が出るほど、それでも我慢して一生懸命やると暖かくなった」
9歳で瞽女の旅に出る
ハルさんが9歳の時、旅に出る準備の為、初めて外で村の子供達と遊ぶことを許された。そして、それまで目が見えないのが当たり前だと思っていたハルさんが、初めて目の見えない自分を知ってしまう。花摘みをした時のこと。「おらは、花を採ってこれるんだが、色がわからなかった。まわりの子供から、「ハル、この色は違うぞ」といわれても、また違う色の花を採ってしまう。「ハルは目が見えないからだ」といわれた」。
ハルさんは、目が見えないってどういうことかと家でたずねた。母親は一瞬びっくりすると、こうハルに説いて聞かせた。「人はみんな目が見えて、田んぼに出たり、畑に出たりするけれど、お前は目が見えないから、それができねえし、人は娘になると、みんなお嫁に行くけど、お前は目が見えなくてお嫁にいけないから、三味線を覚えて、それで暮らせ」と泣きながらいった。ハルさんは、鬼のように厳しかった母親がなぜ泣くのか、その時はわからなかった。
ハルさんが親方に連れられて旅に出たのが、9歳の時。土手で見送る時、母親はハルにこう念を押した。「一生人のやっかいにならねばならないから、何かうまいもんがあっても自分は食べないで、まず人に食べてもらえ」。ハルさんが、親方から母親が見送りながら、身を震わせて泣いていたのを聞いたのは後年の事だった。その後、近隣の村々をまわっていたハルさんが、一度だけ母親に再会したのは、旅に出て2年後の、11歳の時。しかし、そこは病に倒れた母親の臨終の枕元だった。
瞽女達は、盲目という障害にめげず、奥深い山里まで足を運んだ。視力のある人を先頭に、3、4人が一組となり、かすりの着物に手甲きゃはん、すげ笠、わらじや地下たびを履き、ツエを頼りに雨の日も、雪の日も山道を歩いた。村に入ると、瞽女宿と呼ばれる、昔から世話をしてくれた家に荷物を置き、三味線を弾きながら、村の中を門付けしてまわり、人々は謝礼に、お米やお金を渡した。
母親を失ったハルさん、11歳。瞽女としての旅は、当初、みんなについていくのが精一杯だった。足にマメができて痛かろうが、辛かろうが、険しい山道を、田んぼのあぜ道をひたすら歩いた。瞽女の世界は、「掟」が厳しく、唄もうたえない新入りは風邪を引いても休めない、三度のご飯にもありつけないこともあった。みんなの泊まる宿を探すのがハルさんの役目だったが、村によっては必ずしも歓迎されなかった。門付けをさげすまれ、子供達に石を投げつけられることもたびたび。ハルさん達が目が見えないのは、先祖のたたりだとはやしたてる。しかし、親方は、「何をされても、口答えしてはならない」といった。
ハルさんがようやく宿を探しても、ハルさんだけが泊めてもらえないこともあった。「私は体が小さいから(幼い子と間違われて)、おしっこを漏らされたら困るから、「小さい子は泊めない」といわれ、お宮様の中に置かれたり、ポンプ小屋の中に置かれることもあった」。恐怖にふるえながら一夜を明かしたこともあった。新潟、山形を中心に東へ西へ、旅から旅へ、ハルさんの十代の歳月は、またたく間に流れた。
明治から大正へ
日本の近代化を担った絹織物が一大産業になると、蚕を飼う養蚕業が盛んになり、なぜか、「瞽女は蚕に縁起がいい」といわれ、来訪を歓迎する農家も増えた。人々の人情に触れる時、ハルさんは唄っていてうれしかった。新しい唄を覚えては一生懸命に唄った。めでたい唄、明るい民謡、悲しい物語。ハルさんの唄は次第に皆から感心されるまでになっていった。ハルさんは少女から娘へ、そして、一人の女性へと成長する。そして、その事件は起きる。
若くして芸達者になった19歳のハルさんに、姉弟子格の目の見える手引き役の女が嫉妬した時、悲劇が起きた。ささいなことで逆上した女はハルさんを突き飛ばし、ツエを振り下ろし、そして体中を力まかせに突いた。治療した医師は、ハルさんに子供が産めない体になったことを告げる。
昭和の時代へ
昭和の時代が幕を開け、東京ではモダンな姿の男女が多くなった頃、ハルさんは26歳。20年の年季奉公もあけ、晴れて独立、収入も安定し、家を借りて弟子を採った。瞽女の世界では、親方と弟子は親子も同じ。面倒を見れば情もわき、そして互いに笑いあう時のうれしさがあった。しかも、そんな時、思いがけない話が舞い込む。
母親と死別した2歳の女の子を養女にもらってほしいというのだ。ハルさんは喜んでその子を引き取った。その子は、「ミヨシ」といった。ミヨシという子の母親として、それは、ハルさんが初めて味わった幸せだった。ハルさんは、肌着から着物まで自分で仕立てて着せ、旅に出る時も背におぶって行った。そして、一緒に抱いて寝ては、おちちの出ないおっぱいを含ませた。「母ちゃん」、そう呼ばれる時のなんともいえない甘い気持ち。だが、甘い生活はつかの間だった。養母となって2年後、風邪をこじらせたヨシミは、入院させたものの、既に遅く、急性肺炎のため、ハルさんの胸に抱かれたまま、4歳の幼い命を閉じる。
ハルさん、28歳。「目が見えればこんな切ない思いしなくたって、しみじみ考えて心で泣くことはあった。おらは本当に涙がこぼれることがあっても、隠してきた。泣いてしまったら唄になんねえから」
日本が戦争へと転がっていった頃、ハルさんは40代へ。旅をねぐらの日々が続く。ところが親方として次々と弟子を引き受けることが、ハルさんに次第に苦難をもたらす。中には男に働かされる境遇の娘を引き受け、ハルさんは長年、彼女に代わって男に稼ぎを巻き上げられていたこともあった。しかし、ハルさんは決して抵抗しなかった。「目が見えない者が生きるには、人に与えつくせ」、という祖父と母の教えを信じていたからだ。
終戦、高度成長期へ
そして日本は敗戦へ。ハルさん、46歳。時代の波は瞽女を世話してきた地主階級が没落、しかも食糧難と配給制の為、「門付け」してもらったお米をヤミ米だといって没収される。この時、瞽女達のほとんどが廃業を余儀なくされていった。
さらに社会は、復興期から高度経済成長へ
テレビもしだいに普及し、瞽女を受け入れるところもめっきり減っていった。昭和35年(1960)、ハルさんは60歳の時、新潟県の温泉街、「出湯」に移り住み、湯治客相手に細々と続ける。ここでの10年間、ハルさんは新たな養女 (ミサオ)の面倒を見た上、その娘に婿を取り、やがて孫が誕生した。しかし、やっと家庭らしいものができたとハルさんが喜んだのもつかの間だった。娘夫婦がハルさんの稼ぎをあてにするようになり、そのくせ、邪魔者扱いするありさま。しかし、自分でかせいで、みんなを養いながらも、ハルさんは、自分の老後を彼らに見てもらおうとは考えていなかった。
73歳で廃業を決意するが
時代はさらに豊かになる。車社会が農村の隅々まで及び、最後に残った瞽女達が命を託す道をも奪っていった。昭和48年、ハルさんは近くの神社にお参りをすると、石段に腰をかけ、まわりの人達に唄を披露する。そして、最後にこういって手を合わせた。「瞽女は、今日でさよならです」。廃業を決意する。
瞽女を廃業し、70年の旅を終えたハルさん、73歳。家も家財もすべて与え尽くし、温泉街、「出湯」から一人向かったのは、老人ホームだった。しかし、皮肉なことに、ハルさんが瞽女に決別しようとした時、いわば世間から、「発見」されることになってしまう。
「出湯」で、最後に「門付け」をするハルさんの姿をテレビカメラが撮影していたのだ。引退を決意した時に、社会のスポットライトがあたったことで、ハルさんは思いがけない廃業後の生活を送ることになる。三味線、民謡、瞽女唄の教授と、また忙しい日々が続くことになる。そして、昭和53年(1978)、78歳の時、瞽女唄伝承者として、重要無形文化財保持者(人間国宝)に選ばれる。
「生きている限り、全部修行だと思ってきましたが、今度生まれてくる時は、たとえ虫になってもいい、目だけは明るい目をもらいたいもんだ・・・。」
小林ハル談 
生まれてまもなく、光を失った小林ハル。盲目の女旅芸人である瞽女になるしか、生きるすべがなかった。母の厳しくも、愛に溢れた訓育が始まった。2歳で父を失い、11歳で母を失ったハル。次々と襲う艱難辛苦の中で、ハルは母の躾を立派に守り、誇り高き瞽女として天寿を全うした。
光を失う
小林ハルは三味線を弾き唄を歌いながら旅を続ける、盲目の女旅芸人である。瞽女と呼ばれた。1978年「瞽女唄」の保持者として、「選択無形文化財」の認定を受け、翌年には国から黄綬褒章を受賞。そこに至る彼女の人生行路は、筆舌に尽くしがたいほどの苦難の連続であった。
ハルが生まれたのは、1900年1月24日、新潟県南蒲原郡井栗村(現在の三条市)である。家には孫爺様(祖父の弟)、孫婆様、父母、それと4人の兄姉がいて、ハルはその末っ子だった。本来なら、甘やかされて育つところ、何と生後百日ほど経った頃、眼病を患い、両目とも失明してしまった。苦難の人生の始まりであった。ハルが2歳の時、父は目の見えないハルの行く末を案じながら病没した。
家長の孫爺様はハルを瞽女にすると決めた。目の見えないハルの自立には、他の選択肢は考えられなかったのである。喘息に苦しむ病身の母も、それに同意した。そして、ハルを自分で自分のことができる女に育てなければならないと決意したのである。
ハルを瞽女に出すと決めてから、母の躾は厳しかった。躾の最初は針の穴通し。針の穴に糸を通す訓練である。目が見えても難しいのに、5歳のハルに母は容赦しない。通さないと食事も与えられなかった。「私が死んだ後、行くところなく苦しむのはお前なんだから」と言って、母は心を鬼にした。盲目の娘を不憫に思い、陰で母はどれほど涙を流したことか。砕けそうになる心を奮い立たせる母だった。
5ヶ月かかって、針の穴通しを憶えたハルは、次に縫い物と編み物の訓練を受けていく。「これはハルの編んだ巾着(金銭などを入れる袋)」と自慢する母の声は震えていたという。6歳になった頃には、将来の旅に備えて身支度の練習。着物を着て、帯を結び、頭には手拭いをかぶり、その上にかぶり笠。わらじを履いて、杖をつき、背中に荷物を包んだ風呂敷を背負えば、幼い瞽女の誕生である。
母の訓育は徹底していた。いかなる時でも「ハイ」という返事をすること、決して言い訳はしないこと。目の見えない者は、一生他人の世話を受けなければならない。口答えをしたり、自分の意見を言えば、生きていけなくなる。母はハルに生きていくためのすべを叩き込もうとしたのである。
瞽女としての旅
7歳で唄と三味線を習いはじめた。誰もいなくても、神様が見ているからと言って、一日も休まず練習した。ハルの記憶力は抜群だった。一度聞けば、たいていのことは憶えてしまう。そして9歳になったハルに初旅の時が来た。新入りだったハルは、自分の荷物を背負った上、さらに親方の荷物まで持たされる。小さな背中が荷物ですっかり隠れてしまった。それを見た母はたまらなくなり、親方に一言いいたかったが、後でハルがいじめられてはと思い黙った。そして「切ないときは、神や仏にすがってナ」と言って見送った。
ハルが後年語り続けた言葉がある。「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」。ハルが最初に師事した親方は、決して「いい人」ではなかった。親方との道中は、ハルにとって修行そのものだったのである。親切な人がハルが背負う荷物に同情すると、親方は、「重そうにかつぐからだ。おらのせいだと思わせたいのか」と言ってハルを怒鳴りつけた。親方の茶碗を洗い、仕度も手伝う。風呂に入れば、親方の体の隅々まで洗わなければならない。ちょっと気を抜くと叱られる。12時頃まで唄って、その後雑務が待っているから寝ている暇がない。昼間、うとうとして壁に寄りかかっていると親方に叩かれた。
親方は幼いハルをいびり続けた。ハルが音を上げるのを待っているのだ。音を上げれば、瞽女の勤めができないという理由で、ハルの家族から縁切り金をむしり取ろうという魂胆なのである。そのことを知っているハルは、泣くこともしない、家に帰りたいとも言わない。母や孫爺様に迷惑をかけたくなかった。ただ修行と思ってじっと耐え続けたのである。
少しばかり目の見える女性を先頭に数人が連なって進む瞽女の旅は、苦労の連続だった。流れの速い川に一本の丸太が結わえてあるだけの橋。そこを重い荷物を背負い、這って渡る。その丸太が流されてしまうことも珍しくない。そんな時は、通りすがりの男におんぶしてもらって渡ったという。宿では、おねしょするからと言ってハルだけが断られることも多い。そんな時、ハルは木の洞(大きな穴)やお宮に寝る。静寂の中、フクロウの鳴き声、虫のはい回る音が不安にさせる。そんな恐怖の時、ハルは決まって孫爺様から教わったお経を読みながら、「神様がいる。怖くはないぞ」と自分に言い聞かせるのが常だった。
瞽女は多くの村人からとても大切にされた。娯楽の少ない時代。瞽女が来た夜は、近隣から人々が集まり、一晩中唄って賑やかになる。瞽女が大切にされたのは、瞽女は聖なる来訪者だったからでもあった。蚕に瞽女の三味線を聞かせるとよく育つと言われたし、病人に瞽女の唄を聞かせると病気が治ると信じる人も多かった。また、村の女たちは自分よりも不幸な身の上の瞽女たちが、懸命に生きている姿を見て、励まされていたのである。
母の死と自立
ハルが11歳の時、ハルの行く末を誰よりも案じていた母が死んだ。ハルが枕元に呼ばれたときは、声も出すことができなかった。じっと、ハルを見ながら息を引き取ってしまった。ハルを残して、母は死にきれない思いだったであろう。11歳にして両親を失ったハルは、母の後を追って自殺までも考えたという。しかし、瞽女としての2年の歳月は、ハルを逞しく鍛え上げていた。厳しくも、愛情をもって育ててくれた母のためにも、強く生きなければならないと思い、また、どんなにひどい境遇であっても、自分だけは神に恥じない生き方をしようと決心するのであった。
ハルは、自分は師匠運が悪いと思っていた。最初の親方は強欲でハルをいじめ、挙げ句の果てにハルの声が悪いと言って、ハルを追い出す始末であった。2人目の親方は親切な人で、ハルにもようやく運が向いてきたと思われた。しかし、病弱な親方はハルを弟子にして数年で亡くなってしまう。3人目の親方も、体調を崩しがちで旅に出たがらなくなった。その結果、事実上ハルが親方になって、旅は続けられた。23歳のハルは、一人前の瞽女として自立の道を歩み始めたのである。
ハルは弟子を大事にしようと心に決めていた。弟子には自分と同じ辛い思いをさせたくなかったのである。食べたいものを食べさせた。一緒に泊まれない場合、弟子には一番良い宿を探し、自分は別の宿に泊まった。そんなハルだから弟子から慕われた。
運命に逆らわず
楽しいことなんか何もなかった。こう言い切るハルの生涯にあって、明るい希望が見えた時期があった。26歳の時、母を失った2歳の子ヨシミを養女としてもらい受け、育てることになったのである。ヨシミはハルにすっかりなつき、夜もハルの胸をまさぐり、出ないお乳を吸って寝た。子どものいる生活は張りがあり、生きる望みが湧いてきた。旅にヨシミを連れていくこともあった。子連れのハルは評判となる。ハルを真似て唄ったり、踊ったりするヨシミ、その可愛さに客も大喜び。しかし、4歳の可愛い盛りのヨシミは、風邪をこじらせ、肺炎を引き起こして、ハルの胸の中で息を引き取ってしまった。希望の芽が摘み取られてしまったのである。強靱な精神力のハルではあったが、1年間は唄うこともできず、食事もまともに喉を通らず、泣いてばかりいた。
ハルの生きる信条は、何事も運命に逆らわず、辛い体験を修行と受けとめることだった。だからこそ、いじめられても、騙されても、絶望のどん底に落ち込んでも、それを修行として受け入れ、乗り越えてきた。面倒なことが生ずれば、いつだって自分が犠牲になる道を選んだ。ハルを知る人は言う。「ハルさんは、いつでも気持ちが平らで、怒ったのを見たことない。いつも礼儀正しいし、人の悪口も言わない」。どんなに辛いことでも、運命を呪うことなく、人のせいにすることのなく、「現世の運の悪さは、前世で悪いことをした巡り合わせだろうか」と言って耐え忍んだ。
ハルの唄が世間に認められていくきっかけとなったのは、民俗学、口承文芸の研究家佐久間惇一との出会いであった。佐久間はハルの唄に感動し、この滅び行く瞽女唄と瞽女の生活の記録を何とか残したいと考えた。そして、國學院大學の民俗学の専門家にハルの唄を聞いてもらうことになったのである。すでに60歳を過ぎていたハルではあったが、一声を発するや否や障子がぴりぴりと震えだし、その響き渡る声に専門家たちは圧倒された。
佐久間の熱意が、当時瞽女と決別していたハルを動かした。役所(新発田市)も重い腰を上げ、失われつつある瞽女唄の保存に乗り出すことになった。こうして瞽女唄の全曲の録音にこぎ着けたのである。佐久間は、「目の見えないもう一人の母を得た」と周囲に語るほど、ハルの人間性に心酔していた。晩年、ハルは良き理解者と出会えたことは、実に幸運であった。運命の神が、ハルに遅咲きの花を咲かせるための縁だったのかもしれない。
2005年4月25日、105歳のハルは老衰により息を引き取った。苦しむこともなく、眠るような最期であったという。晩年ハルは「どんなに苦しい勤めをしても、次の世では虫になってもいい。明るい目さえもらってこれれば、それでいい。そう思って勤め通してきました」と語っている。肉体の殻を脱ぎ、明るい光の世界に旅立ったことだろう。 
越後瞽女3
信州と境を接する越後の南西部を頸城(くびき)といいます。現在は上越地方と呼ばれその中心の上越市は昔、高田藩の城下町でした。頸城は西頚城・中頚城・東頸城の三郡に分かれ、西は糸魚川から大町(長野県)に通じ、南は妙高から北国街道を、または新井から飯山街道を善光寺に通じ、東は十日町から飯山(長野県)へと通じていました。これらの道を大きな風呂敷包みを背負い、つま折れの笠をかぶって、蹴出しに草鞋(わらじ)ばき、そして三味線を弾き、唄を歌い、村々を回って暮らしを立てていた盲目の女性集団を 「越後瞽女」 といいます。
瞽女とは 「御前」 がなまったものともいわれて、静御前のように歌や踊りを職業として各地を漂白した女性集団の流れをくむものとも考えられています。
室町時代の 「七十一番職人歌合」 に鼓を打ちながら歌う盲目の女性の姿が描かれていますがこれが文献に現れた最初の瞽女であろうと言われています。瞽女は座頭(盲目の男性)のように全国的な組織を作らず、それぞれの地方で 「瞽女仲間」 と呼ばれる組織を作っていました。中でも越後の瞽女は勢力が盛んで、信州から関東にかけて進出したため瞽女といえば「越後瞽女」 と言われるようになったのです。
高田瞽女の成り立ち
越後瞽女の主流をなしたのは「高田瞽女」 と「長岡瞽女」 でした。この二つの 「瞽女仲間」 は組織のあり方などに大きな違いがあります。高田瞽女は、親方(師匠)が家を構え、弟子を養女にして自分の家で養いました。親方はヤモチ(屋持)と呼ばれ、明治の末に17軒、昭和の初期に15軒でした。これらの親方が座を作り、いちばん修業年数の多い親方が 「座元」 となり高田瞽女の仲間を統率しました。こうした 「座元制」 の高田瞽女対して、長岡瞽女は 「家元制」 でした。
長岡の町に 「瞽女屋」 があって代々 「山本ゴイ」 を名のる大親方が住み、総取締りに任じていました。長岡の瞽女屋で修業して免許をもらった師匠は、各地で弟子を養いその地方で 「組」 を作りました。組頭は長岡の大親方と結ばれ、地方の瞽女を統率しました。親方が弟子を養女にして、一生同じ家で生活した高田瞽女に対し、年季が明ければ独立して弟子を取れる長岡瞽女の方が、近代的な組織であったと言われます。
唄に生き旅に生きる
瞽女の弟子になった幼子も唄と三味線の厳しい修業をしてきました。
瞽女唄の伝承は総て口移しで行われ、親方は七五調の文句が延々と続く瞽女唄のひとこと(一節)ずつ区切って教えました。道を歩く時も風呂に入る時も、ありとあらゆる機会ににお経を唱えるがごとく暗唱させました。三味線の稽古は、教える方も習う方も目が見えません。親方が弟子の背後に回り、棹を持つ弟子の左手の指に自分の指を添えて糸の押さえ方を示し、右手は撥を持って弾き、鳴らし方を教えました。冬は火の気のない窓を開け放って寒稽古でのどを鍛えたり、一人前になるまでの修業は大変なものでした。17件の親方達は、それぞれ2,3件ずつ組を作って旅をしました。ハンノキの並ぶ田んぼ道を、手引きを先頭に連なって歩く瞽女の旅姿は頸城三群の風物詩でありました。高田瞽女は1年のうち300日は旅をしたといわれます。頸城三郡の他に魚沼や十日町、また上州番と信州番というものがあって、高崎、前橋、長野、上田、佐久などにまで巡業しました。村々には無償で瞽女たちをとめて世話をしてくれる家があり 「瞽女宿」 と呼ばれていました。地主などの旧家が瞽女宿を引き受け、瞽女の泊まった晩は村人を集めて瞽女唄の興行を行いました。村の人たちは、毎年きまった時期に渡り鳥のようにやってくる瞽女の来訪を楽しみに待っていて、家族総出で唄を聴きに来たものでした。
最後の親方杉本キクエ
農村を基盤にして村人に芸を披露した報酬として米などをもらい生活してきた瞽女たちは自分の芸を生きがいに誇り高く生きてきました。娯楽の少なかった農村で温かく迎えられ、鍛えた芸に惜しみない賛辞が与えられました.。
しかし戦争が始まると、農民にも瞽女唄を楽しんで聞くゆとりがなくなって、戦前に15軒あった親方で廃業する者も出てくるようになりました。さらに戦後の農地改革で地主が没落すると、それを頼りに旅をしてきた瞽女宿も消滅してしまい、瞽女の暮らしは成り立たなくなりました。世の中が変わってだれも瞽女唄などに耳を傾ける者がいなくなり、高田瞽女仲間に廃業の嵐が吹き荒れる中で、ただ1軒踏みとどまったのは 「最後の親方」 といわれる杉本キクエでした。キクエは、杉本シズ、難波コトミの2人の弟子を抱えて、それでも昔の唄を聞いてやろうという村々を頼りに細々と旅を続けました。キクエは、若い頃から下の者の面倒をよくみて慕われ、組の親方達にも信頼される聡明なしっかりした人柄で、たくさんの瞽女唄を記憶している立派な瞽女でありました。このような人が瞽女を続けてくれたことは高田瞽女のためにも、貴重な文化遺産である瞽女唄の保存のためにもまことに幸運なことだといえます。
「おらは、これしか生きる術を知らんから」 といい、生涯を瞽女として生き抜いた杉本キクエは、1898(明治31年)年諏訪村(現在の上越市)に生まれました。麻疹のために6歳で失明して高田東本町5丁目の杉本マセ親方の養女になりました。マセは幼いキクエを慈しんで育ててくれましたが、芸の修業は厳しかったようです。雪解けの3月に雁木の町の瞽女の家にもらわれてきて、赤い鼻緒の下駄を買ってもらったキクエは、4月にはもう西頚城へ初旅に出ています。入門して7年経つと 「名替え」 の式があって一人前の瞽女となります。10年経つと 「本瞽女さ」 となって瞽女仲間から 「あねさ」 と呼ばれます。キクエはつらい修業に耐えて高田瞽女仲間でも1、2を争う売れっ子の立派な瞽女になっていきました。 「芸は一生、死ぬまで稽古忘れんな」 が遺言でした。それ以来キクエは、親方として二人の弟子と瞽女の道を歩き続けて来たのです。
重要無形文化財に
戦後の世の中が落ち着いてきて、広い視野から民衆の伝えてきた文化を掘り起こそうと言う機運が高まってくると、細々と旅を続けていたキクエ達三人の高田瞽女にも関心が寄せられるようになりました。1954(昭和29年)年に瞽女唄が初めてラジオ放送され、同年新潟大学高田分校音楽教室で、日本で初めての瞽女唄の録音が行われました。 1955(昭和30年)年には、ウィーン国立音楽大学教授でハープシコードの世界的演奏者であるエイタ・ハインリッヒ・シュナイダー女子が高田瞽女を訪ねられキクエ達の瞽女唄を聞き「雅楽は演奏者が現代人だから古典音楽の精神が伝わってこないが、高田の瞽女たちは、瞽女唄と同じように古い生活を守っている」と感激して世界に高田瞽女を紹介されました。
キクエが、もう旅をやめようと決心したのは、東京オリンピックのあった1964(昭和39年)年の秋のことでした。日本が高度成長に向かってひた走り、農村から芸者や出稼ぎの男達が都会へと出て行きました。泊めてもらうつもりで立ち寄った昔の瞽女宿の大きな旧家におばあさんがぽつんと一人で住んでいました。おばあさんは、近所の人に頼んでご馳走を作り歓迎してくれました。昔話に夜の更けるのも忘れた翌朝でした。「昨晩は、村中の人が集まって、それは賑やかで楽しかった頃を思い出さしてもらった。ありがとう。これは私の形見ですよ。」と珊瑚のかんざしをキクエさんの髪にさしてくれました。キクエは、そのかんざしを、長かった旅から旅の人生にもらった褒美だと、いつも髪にさしていました。その翌年芸術祭参加の民俗芸能部門に呼ばれ東京の舞台に出演した高田瞽女は、二千人の聴衆に深い感銘を与えました。1970(昭和45年)年、杉本キクエは、国の重要無形文化財に指定されました。盲目の女性であるがためにいわれなき差別を受けながらじっと耐えて何百年も語り伝えてきた高田瞽女の芸がようやく国に認められたのです。
キクエは85歳で亡くなるまで唄の修業を怠りませんでした。「唄の文句を忘れてしまった。もう生きているかいがない」というのが最後の言葉でした。
長岡瞽女4
長岡瞽女は、越後のほぼ中央に位置する城下町の長岡に本部の支配所を置き、中越一帯に配下の瞽女を擁した集団です。長岡組、あるいは長岡派とも言われています。明治中頃には組下の瞽女は400人に達したといい、日本最大の集団を形成しました。固い支配体制を敷いて、芸業の進歩、発展に努め、地元は言うまでもなく遠隔地にも足を運び、積極的に活動しました。
長岡の本部支配所は通称「瞽女屋」と言います。そこに瞽女頭の山本ゴイが住み、組下の瞽女を統率しました。ゴイの名は、瞽女屋山本家の戸主で瞽女頭になった人が世襲しました。そのゴイの初代の人は長岡城主牧野氏に縁故があり、生来盲目のため宰臣の山本家へ養女に遣わされ、元禄の末に柳原町へ分家に出て、享保10年(1725)より古志、三島、刈羽、魚沼、頸城五郡内の牧野家本領や預かり所の村々の瞽女頭にして、通称を山本ゴイと定めました。
享保13年3月、長岡城下に大火があり、それは三蔵という者の放火でしたが、ゴイの家が火元であったことから町払いを命じられ、大工町裏(現、長岡市日赤町1丁目)に移り、邸宅を再建して、今まで通り瞽女頭を務めたといわれています。
山本ゴイの後継者は、大勢の組内瞽女の中から、目が少しも見えず、品行端正で仲間の亀鑑となるような老齢者を選び、寺社奉行の許可を得て、呼称をカサマと名づけ、ゴイの家事を支配させて、仲間の規約に違反するものを罰し、勝れる者を褒め、ゴイが死去すれば家督を相続して、通称の山本ゴイに位するものと定めたと言われています。
長岡瞽女の居住形態と管理体制
長岡瞽女の多くは在方の集落に住んでいました。生家に居ながら師匠から芸を習い、そこを本拠として家業活動を展開しました。師匠は自分の生家に居て近在から弟子を受け入れて瞽女を要請しました。そういったことから、長岡瞽女は里方集団であるといえます。皆高田に住むいわゆる町方集団の高田瞽女とは大きく違っていました。
師匠は複数の弟子を抱えるのが普通でした。その師匠と弟子の集団が「組」を作り、組単位で巡業をしました。その組は、親方師匠の居住地名を冠して呼称されました。弟子もまた、年期修行を終われば出世し、師匠となり弟子をとることが許されました。このように、はじめに先祖師匠が結成した組から、時代の経過に伴い多くの子組み、孫組みなどが生まれゆく可能性を持っていったのです。長岡瞽女には、こうした組が全盛期に幾つも存在したと言われています。
弟子入り修行と厳しい掟
弟子入り修行は年規制で、はじめに弟子入りの年期契約をし、師匠から瞽女名をもらって瞽女の修行に勤しみます。師弟関係は徒弟制そのもので、覚えるべき語りや唄い物は数多く厳しい芸の道でした。長岡瞽女の年期は21年と長く、これほど長期の修業ををも泊める芸能集団は他にあったでしょうか。それはまた年功序列を重んずる仲間社会なのです。
長岡瞽女にも数々の規則や掟がありその違反者に対しては厳しい処罰がありました。殊に大組で藩主の娘を初祖とするという伝承を持つ瞽女頭を持ついただいている長岡組には格別強固なものがあった。もっとも重い罪は男と密通したり、客の相方となって宿泊などをすることでした。そうしたことでとられた懲罰の方法は「年落とし」でした。修業年限を削り取ることで、入門年限の延期ということになります。その判断は山本ゴイと何人かの年寄りの親方とで相談し、毎年一回開かれる妙音講の席で申し渡しました。5年、10年と年を削られるのでありますが、重い時は入門初年に戻し、名前を替えることもありました。
弟子瞽女は、こうして地方の生まれ故郷に居て近くの師匠について芸を習いましたが、長岡大工町の瞽女屋でも地方に居る親方師匠を詰めさせて地方から上がってくる若い瞽女に稽古をつけました。また山本ゴイが直々に教えることもありました。常時指導の体制はできていました。瞽女屋は芸能学校、音楽学校の役割も果たしていました。
明治の新しい組織作り
長岡瞽女は、明治時代に新しい組織作りを行いました。年月不明ながらまず「大工町瞽女組合」を作り、ついで明治31年2月にこれを「中越瞽女矯風会」と改称し、規約を改正して新しい体制にしました。その目指すところは、社会人智の開化につれ、将来の社会に備えて、同業者の生活業の安全を保たしめんがためというのでありましたが、文字通り、組下瞽女の風紀を正すことに主眼がありました。矯風会では長岡大工町の瞽女やに本会事務所をおき山本ゴイを会頭に選任し、また、その下に福会頭、助役、事務員各1名を任命、また、支会事務所を三島郡など八郡に置き、そこでも福会頭、事務員各1名を配置しました。福会頭は、いずれも各郡内の有力な親方衆が選任されました。この体制は、郡ごとに取り締まりの責任を持たせたもので、きめ細やかな目配りであったといえるが、これが実際にどのように効果を発揮したか、いつまでその体制が維持されたかなどは、明らかではありません。しかし、この新しい組織作りは、激動の近代社会に盲人芸能集団が取り計らった意気込みを示すものであり、注目に値することです。
長岡瞽女の衰退と終焉
長岡瞽女は、盛時(明治中頃)に400人を越えたというが、時代の下降とともに次第にその数を減じ、第二次大戦前から戦時中に掛けて70〜80人になりました。昭和20年8月1日夜の米軍機による長岡空襲で、瞽女屋は、焼失し、瞽女も四散して、支配所としての機能を失ってしまいました。最後のゴイを務めた山本マスは昭和39年10月に没しましたが、生前男の養子を迎えていたので、山本家は今も存続しています。多くの瞽女が、廃業した中で、最後まで門付け巡業を続けたのは、山本マスが若いとき所属した長岡瞽女の一派岩田組(三島郡越路町岩田に先祖師匠が出た組)の瞽女金子セキ、中静ミサオ、手引き関谷ハナさんの3人でした。この3人組は昭和51年秋まで中越地方を門付けしていましたが、その後、金子さんが北蒲原郡黒川村の盲老人ホーム“胎内やすらぎの家”に入所し、中静さんも翌52年の春旅を最後にやすらぎの家に入所しました。これが長岡瞽女の門付け家業の最後の旅でした。
平成17年4月25日、最後まで活動されてき小林ハルさんが、105歳で亡くなられました。
瞽女宿
高田瞽女たちが年300日あまりの門付けの旅の泊まり宿であった家を瞽女宿といいます。高田瞽女の旅稼ぎを支えてきたのは村々の瞽女宿のネットワークでした。藩から指定されたわけでもなく、誰に頼まれたわけでもありませんが、盲目の女性集団の宿を百年二百年と代々引き受けてきた瞽女宿が、頸城三郡(東頸城、中頚城、西頚城)から信州にかけて1000軒以上もあったということは驚くべきことでした。
瞽女は2〜3人の親方がそれぞれ弟子を連れて合同して旅をします。これを組みと言い高田瞽女は、5組か6組でぶつからないようにコースを代え日程をずらして稼働していました。
瞽女宿は10人ほどにもなる瞽女たちを無償で泊め、手厚くもてなし村人を集めて演奏会の会場を提供します。財力のある大きな屋敷を構えて何人も使用人を置くような地主、庄屋などが瞽女宿になっていました。
瞽女宿を朝出発して次の瞽女宿に着くのは午後になります。途中弁当を使わせてもらう家も決まっていました。宿に荷物をおいて門付けに回ります。戸口に立って「かわいがらんせ」などの門付け唄をうたいます。家の人が米をくれます。これが瞽女の稼ぎになります。
門付けが終わると風呂に入って旅の垢を流し、髪を結い、舞台衣装に着替えて準備します。ひと通りの演奏(段物、口説、民謡など)が終わるとお開きになり、村の男たちが残って宴会になります。瞽女は芸者代わりに求めに応じて夜遅くまで宴席を勤めました。
門付けで集まった米は、瞽女宿に引き取ってもらいます。目が見えないのに三味線を弾いたり自立した生活のできる瞽女は、特別の霊力があると信じられ、「瞽女の百人米」といって子どもに食べさせる風習がありました。養蚕地信州の旅には、三味線の弦の切れ端を持って行きました。蚕棚につるしておくとよく桑を食うといわれました。
旅の最後の晩に(勘定)をします。組でしっかりした姉さんが会計係となり全員の稼ぎを預かっていて、それを参加した頭数でわって配分しました。
 
じょんから

 

石川県の南は加賀市から、北は宝達志水町あたりまで分布する「じょんから・じょんがら」という盆踊り唄がある。地域によっては「じょんから」と言ったり、「じょんがら」とも言ったりする。この類では金沢で最も古いと言われる東長江町の「じょんから節」(昭和34年金沢市無形民族文化財指定)に従い、前者を公の名前としておきたい。
由来についてもさまざまだが、いずれも仏教との関連で説かれるのが特徴である。先の東長江町では「常和楽」(念仏によって、常時、平穏安楽を得る)から来たとする。あるいは「自安和楽」から来たとする。また、「上様(じょうさま)から」(無量寺町)から来たという説にもまた聞くべきものがある。「上様」つまり蓮如上人様からお教えいただいたお唄なのやと、そう信じ、今も唄い続けているのである。これに従えば、蓮如上人・一向一揆、その線上に「ジョンカラ」を置いて考えれば、その起源はやはり室町後期か、ということになろう。ところが、「日本民謡辞典」(昭和47年/東京堂)で「津軽じょんがら節」を説明して「新保広大寺くずし」(「新保広大寺」)を口説き化したもので、普通「越後口説」と呼ばれているのが津軽化したものだとしている。そうすると、有名な越中五箇山の「古大神」(「広大寺」の音がなまり、後、それに当て字されたという盆踊り唄)が、越後のごぜ唄「新保広大寺」の系統を引くことは、早くから知られており、その影響が広く関西にまで及んでいることを考えると、加賀の「ジョンカラ」とも何らかの関係があったとして、さほど不自然なことだとは思われない。
「津軽じょんから節」に影響を与えたとされる「新保広大寺くずし」は、江戸のはやり唄にまでなって騒がれ、歌詞の「殿サエ・・」から「殿さ節、とのさ節」、あるいは、結びの囃しことばに「ヤンレー」から「ヤンレ節」とも呼ばれてきたものである。金沢でも「ヤンレ節」がはやり唄の一つだった可能性は、現在、じょんからの口説きとして使われたとされる版本のほとんどが「近八版」(金沢東別院前通りに住んだ「近八郎右衛門」の名で出版されたもの)であり、結の囃しには「ヤンレィ」、表紙には「新版鈴木主水白糸くどきやんれぶし」「佐倉宗吾伝やむれふしくとき文句」等とあることから分かる。しかも新潟の岩船郡に現在も漁師間に伝えられる「じょんから節」があるとも聞いた。九州では今も「平戸ジョンガラ」がある。したがって陸の道によってか、あるいは海、北前船によるジョンガラ伝播の道があったとも考えられ、これはジョンカラの起源・伝播・変化を考えるうえで、今後に残された大きな課題の一つかと思われる。
なお、旧石川郡に残るジョンカラ系のものとしては、山寄りに「しんこう」(古くはシンコ・シンク。「信仰」「神(しん)迎(く)」「甚句(じんく)」の当て字が思い浮かぶ/金沢・富樫、内川地区)、海寄りに「南無とせ」(これは、「南無と頼んで弥(いや)〈弥陀〉の「弥」を掛け)委せ」の約だと伝える。(戸板町・戸水町・無量寺)
盆(孟欄(うら)盆)は、祖先の霊を迎えて供養する大切な時節であり、かっては精霊を迎え、慰め、そして送り出すために、宗教的通過儀礼として盆踊りが行われていたが、次第に宗教的色彩が薄れ、江戸時代になると民衆娯楽としての盆踊りが盛んになった。こうした盆踊りで若い男女が結ばれることも多く、今日でいう集団見合いの場、言いかえれば「種族保存的行動歌謡文化」あるとも言える。
石川県加賀地方一円に「じょんから」が伝承され、能登一円に「ちょんがり」が伝承されている。「じょんから」も「ちょんがり」もよく似た呼び名であり、どちらも盆踊り唄の総称と言ってもよい。「じょんから」の五字の意味は、いまだに不明であり、土地によっては「コジッケ」しているところもあるようだ。また、大陸伝播(でんぱ)説も考えられる。しかし、母胎は、新潟県十日町市新保にある禅寺「広大寺」から発祥したといわれる「新保広大寺節」であると思われる。この「新保広大寺」が全国に流行した。その理由は、元禄年間に起きたと言われている広大寺の五世廊文和尚と寺の門前に住む「お市」という若後家との捏造(ねつぞう)された情事。これは、同じ集落の庄屋市左衛門の弟平次郎が家柄をたてにお市を見染め、無理に再婚をせまるがお市は軽くあしらった。これは広大寺の和尚のせいだと逆恨みした。和尚は早速兄である庄屋の市左衛門に平次郎の事を話したところ、弟の無法ぶりを叱り、勘当してしまった。平次郎は更に和尚を恨みお市と和尚のあることないことを唄の文句にして毎年5月頃になると新保あたりを廻ってくる「ごぜ」の「タケ」に金を出して頼み、唄い巡ってもらったという。その詩章は、
新保広大寺がお市のチャンコなめた なめたその口でお経を詠(よ)む
新保広大寺に産屋が建った お市心配するな小僧にする
等の詩章が残っている。また、一説には十日町の豪商最上屋との争いとなり、和尚の乱行を唄に作り、村人たちに唄わせ、追い出しを謀ったという。さらに、この最上屋は、江戸に知り合いが多く、江戸の問屋の口利きで願人坊主を掌中に握り、「新保広大寺節」を江戸中に唄い歩かせ広めたという。この「新保広大寺節」は江戸で大流行し、後に踊りもでき、「広大寺踊り」として、全国に伝播し、各地に定着した。
広大寺系統といわれるものに「八木節」(群馬県)、秋田県の「飴売り唄」、石川県・青森県の「じょんから節」、岐阜県の「小大臣」、最上口説(山形県)、道南口説(北海道)、埼玉県の「満作踊り」「殿さ節」、富山県の「五箇山古代神」「新川古代神」「せり込み蝶六」等が代表的で、中国地方に及んでは(神楽せり唄ともいう)「ヤンレ節」「一口がんりき」「因幡口説」「こだいじ」「こだいず」「こだいじん」「バンバラ」等数多く、福井県では「糠(ぬか)どっさり節」、隠岐では「隠岐どっさり節」がある。
このように全国に分布するに至っては「願人坊主」「こぜ」「北前船の船乗り」等によるものと思われる。また、地域によっては「じょんから」(広大寺系)で、詞章は、北陸独特の「歓喜嘆」や目蓮尊者地獄巡り」「和讃返し」等が転用されて歌われるようになった。
蔵月じょんから口伝 (金沢市鞍月地区)
ハーエ 昔ゃ南無とせ 蓮如さんが通る(チョイチョイトコセー)
   村のはずれのオーイサ 阿弥陀橋(ハーチョイトコセーチョイトコセー)
ハアーエ 踊る念仏 じょんがら節の 先師口伝のーイサ 声がする
ハアーエ 聞けば真実の 御恩となりて 二つ唱えてオーイサ 南無や南無
ハアーエ 日毎夜毎に 合わする手でも どこか迷いのオーイサ 空念仏
ハアーエ 親の年まで 生かされました どこへ行くやらオーイサ 老の宿
ハアーエ 供養踊りとじょんから節は 先祖(おや)が教えたオーイサ 道しるべ
加賀地方の「じょんから節」は、似ているが、節回しがその村々によって異なり、ここの「じょんがら」は、はやしことばが「チョイトコセー チョイトコセー」の特徴がある。
柏野じょんから節 (白山市柏野地区)
ハアここは加賀国柏の宿よ(ハアドッコイ)
   昔ゃ宿場でその名も知れる(アードッコイセドッコイセー)
ハア昔ゃ宿場でその名も知れる 今は踊りでその名も高い
ハアあの娘じょんな娘じゃ わし見てわろた わしも見てやろ わろてやろ
ハア唄の村だよ柏野在所は 田植え草取り 唄で取る
白山市下柏野地区に伝承されている盆踊り唄である。その昔、毎年盂蘭盆の十五日、念仏踊りに端を発した「じょんがら」を夜の明けるまで踊ったという。
泉じょんから (金沢市三馬地区)
ハーここに同行のお茶み話し(ハアーツイトコツイトコ)
   聞けば誠にご縁になるぞ(チョイノニッカンチョ ハーツイテコツイテコ)
ハー二十と八日やお日柄なれば 今日はゆるりとお茶飲むまいかい
ハーあまり渡世のせわしきままに 売るの買うので日夜を明かし
ハー済むの済まぬと子孫のことに 腹も立てたり笑いもしたり
ハー罪業(ざいごう)ばかりで月日を暮らし 大慈大悲の御恩のほどに
ハー懈怠(けたい)ばかりで年月を送る 今日もむなしく過ぎ行くことは
ハー電光稲妻矢を射る如く 今日の御恩があるまいならば
ハー今に無常の日暮れとなりて 耳も聞こえず眼力きかず
ハー足手まといの妻子や孫や 金銀財宝や家蔵田畑
藩政時代から昭和60年ごろまで金沢市泉2丁目の国造神社境内で唄い踊られていた盆踊り唄である。
一木(いちき)じょんから (白山市一木地区)
ハアー加賀の踊りも一木の踊り(ハドッコイ)
   扇と扇とがアリャ舞い上がる(ウマイコトヤレヤーレ)
ハアー娘島田に蝶々が止まる 止まるはずだよ花じゃもの
ハアー揃う揃うたよ踊り子が揃うた あとは若い衆はやしで頼む
ハアー親の意見となすびの花は 千にひとつの無駄もない
ハアー合うか合わぬかわしゃ知らねども 合わぬところははやしで頼む
ハアーあの娘(こ)じょんな娘やわし見て笑(わ)ろた わしも見てやれ笑ろてやれ
ハアー何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす
ハアー盆の踊りに踊らぬ者は 猫かネズミか空飛ぶ鳥か(明日から田圃田圃)
ハアー娘子じゃない 嫁こそ子なり 娘他国の 人の子じ
ハアーお前百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の生えるまで
ハアー今年しゃ豊年 穂に穂が咲いた 道の子草も 穂が実る
ハアー今宵一夜は浦島太郎 開けてくやしや 玉手箱
ハアー鈴木主水(もんど)という侍は 今日も明日もと女郎買いばかり
その昔、白山市松任地区は、旧北陸街道沿いで栄え、柏野村、宮丸村、米永村、村井村、出城村から松任へと松並木が続いていた。明治24年、市町村制度の施行により宮丸村、米永村、出城村が合併し、一木村が誕生する。じょんから踊りは、各村々ごとに伝承されていたが、これを一木じょんからとして統一される。
内川しんこう踊り (金沢市内川地区)
ハアー岳の城山(じょやま)に雪降りかけた(アチョイト)
   秋をしもうたか ちょいと下里は(秋をしもうたか下里は)
ハアー来いや来いやは ことばの品や まこと来いなら ちょいと呼びに来る
ハアー唄は声よりこなしが大事や 娘器量良し ちょいと気が大事
ハアーしんこ踊らば 板の間で踊れや 板の響きで ちょいと三味ゃいらぬ
ハアー今夜行くから寝床はどこじゃい 東枕にちょいと窓の下
内川地区に古くから伝わる盆踊り唄で、金沢市周辺の盆踊りの主流「じょんから」が変化したものと言われる。
小松じょんがら節 (小松市)
(ドッコイさのサッサー イヤサカサッサ)
ハアー小松自慢の ハアーじょんがら節を
   ひとつサーエー唄おうか 夜明けるまでも
   (ドッコイさのサッサー イヤサカサッサ)
ハアー小松名所をハアーつまんでみれば 梅のサアーエー天神 桜の芦城
ハアー小松名所を ハアーつまんでみれば 大漁サーエー港に 安宅の関所
小松名所を ハアーつまんでみれば 那谷にサーエー願いの 出湯の粟津
小松名所を ハアーつまんでみれば 浅井サアーエー畷に かぶとの社は
小松名所を ハアーつまんでみれば 天地サーエーハニベに 仏の原や
この唄の元唄とされている野々市じょんから、大正初期頃には、野々市、美川、粟生と小松の若衆の交流も盛んに行われ、流れ伝えられたといわれられている。当時の歌詞は、鈴木主水、八百屋お七、といった物語風である。
能登ちょんがり節 (穴水町)
(前唄)
ハーヤレヤレヤレナーヤレ東西じゃ わたしゃ能登のナッコラ 山奥育ち
声もまずいがナッコラ 文句もまずい まずいところはナッコラご容赦あれば(ハヤッサイヤッサイ)
わたしゃ飛んで出てとろうでもないが 習え覚えたナッコラ ちょんがり節で
一から十までナッコラ 申そかならば
(本唄)
一つヒヨドリさんは高いとこたより
二つ船乗りさんはあいの風たより
三つ店には番頭さんがたより(ハヤッサイヤッサイ)
四つ夜回りさんはちょうちんたより
五つ医者さんは薬剤たより
六つ婿はんは姉さんがたより(ハヤッサイヤッサイ)
七つ仲人さんは祝儀箱たより
八つやもめは後家さんがたより
九つ子供は母親たより
十(とう)に父ちゃんはわがかかたより(ハヤッサイヤッサイ)
オイソレサテナーこの先続く かあか恋してナッコラ申そかならば(ハヤッサイヤッサイ)
一つ人のかあかなんぼようてもだめじゃ
二つ振り向くかあか気分が悪い
三つ見よいかあか 誰が見ても見よいぞ(ハヤッサイヤッサイ)
四つ欲なかあか身代造る
五ついやなかあかなんぼ添うてもどうしてもいやじゃ
六つ無邪気なかあかなんと可愛いもんじゃいな(ハヤッサイヤッサイ)
七つなまくらかあか 貧乏の種じゃ
八つやんちゃなかあか 立膝あぐら
九つ小柄なかあか こりゃまた可愛いもんじゃいな
十(とう)にとにかくナー 誰がなんと言うてもわがかあか可愛いぞ(ハヤッサイヤッサイ)
ヤレヤレヤレナーヤレ東西じゃいナー
もっとこの先やりたいけれど 
上手で長いのはそりゃ良いけれど
下手で長いのはあくびの種じゃ(ハヤッサイヤッサイ)
ここらあたりで ごめんといたす 後は先生方と交代よろしく頼む(ハヤッサイヤッサイ)
野々市じょんから (野々市町)
ハアー未熟ながらも拍子をとりて 唄いまするは富樫の略史
ハアー声はもとより文句もまずい まずいところをご容赦あれば
ハアー踊りましょうぞ夜明けるまでも 今を去ること千年以前
ハアー時の帝(みかど)は一条天皇 雪に埋もれて開けぬ越路
ハアー加賀の司に富樫を行けど 勅定かしこみ都を跡に
ハアー下り来たりて野々市の 地理を選びて舘を築き
ハアー神社仏閣造営いたし 民を愛して仁政布(し)けば
ハアー名僧知識は四方より集い これら知識に道ばを開いて
ハアー一の谷やらひよどり越と 屋島海戦大功たてて
ハアー兄を名誉の将軍職に たすけあげたる義経公が
ハアー落ちて来たりて安宅関所 家来弁慶読み上げまする
ハアー音に名高き勧進帳に 同情いたして涙で落とす
ハアー老いも若きも手をとりながら 踊りますしょうぞ夜明けるまでも
ハアー共に幾千代名は芳しく 唄いまするは富樫の略史
じょんからは、石川県で口能登の宝達志水町から南では加賀市まで分布している。じょんからは、仏教との関連で説かれているのが特徴である。平安の昔、加賀の有力武士団であった富樫氏は、代々野々市の地に館を築いた。仏教から出たといわれる「じょんから節」は、富樫氏の徳を讃えるものとして武士・町民・農民の区別なく一つの輪の中で踊られたとされ、民衆の安らかな生活をしのばせる素朴さをもっている。
森本じょんから節 (金沢市森本地区)
ハーひとつ唄いましょ お粗末なれど(ハーツイテコツイテコ)
   お国なまりのチョイトじょんがら節を(アーチョイノニッカンチョアーチテコツイテコ)
正部山から朝日を拝みゃ  その日の仕事が 気にならぬ
加賀の名物森本いもを  嫁のみやげに 持たせたい
まゆを背にして福光通い  昔語りの 古屋谷
才田忠縄浜ではないが  秋にゃ黄金の波が打つ
唄が酔わせたじょんから踊り  風を便り踊り行く
踊る子供に鈴買うてたらしや 津幡馬より師匠らしい
弥勒縄手松明あげて  太鼓たたけば 気も勇む
早場米なら任せておくれ 盆が終われば 鎌を取る
蓮如さんだよおじじにおばば  姉さん行こかいね山遊び
門前ちょんがり (輪島市門前町地区)
アヤーレヤレ ヤーレナー
花のお江戸のそのかたわらに(ハヤレコラサッサ)
   聞くも珍し 心中ばなし 所四谷の新宿町に(ハヤレコラサッサ)
紺の暖簾に桔梗の紋は 音に聞こえし橋本屋 幾多(あまた)女郎のあるその中で
お職女郎の白糸こそは 歳は十九で当世育ち 愛嬌よければ皆人さまが
我も我もと名指しで上がる 別けてお客はどなたと聞けば 春は花咲く青山へんの
鈴木主水(もんど)と言う侍よ 女房持ちにて二人の子供 五つ六つはいたずらざかり
子供二人のあるその中に 今日も明日もと女郎買いばかり 見るに見かねた女房のお安
ある日我が夫主人に向かい これさ我が夫(おっと)主水様よ わたしゃ女房で妬(や)くのじゃないが
子供二人が伊達には持たぬ 十九 二十(はたち)の身じゃあるまいし 人に意見も言う年頃に
やめておくれよ女郎買いばかり 金のなる木を持ちゃんすまい どうせ切れるの六段目には
とこ先生どうじゃいな もはや私の受け持ち時間 次の音頭と交代いたす どうかよろしくお頼み申す  
柏野(かしわの)じょんがら踊り
北陸街道の宿場として栄えた下柏野町(しもかしわのまち)で生まれた踊り。通常の盆踊りとは異なり、他地区には見られない大変珍しいもので、市の文化財に指定されている。この踊りを編み出したのは、内匠清八郎であると伝えられ、北陸地方に発達した盆踊り歌の独特の形式である「やんれ口説き」の中に「娘仇討奥州口説きやんれぶし」の囃子と歌舞伎の立ち廻りなどが振り付けとなって現在の団七踊り、笠松踊りが編み出された。
「柏野じょんがら節」にあわせて、手踊り・扇踊り・団七踊り・笠松踊りの4種類の踊りが踊られる。一般的な手踊りと扇踊りの輪の中にまじって、段物と呼ばれる団七踊りと笠松踊りとが、揮然一体となって踊られる仕組踊り。団七踊りは父を殺された姉妹があだ討ちの旅に出て、見事敵(かたき)を討つという物語がモチーフ。二刀流の侍にそれぞれ鎖鎌と長刀(なぎなた)を持った姉妹がまさに仇討ちを成し遂げようとする場面が踊りに再現されている。細かいばちさばきの三味線と抑揚の少ない尺八、単純な太鼓で軽快さと悠長さを併せ持ったような不思議な囃子にあわせて、かん高い音頭の唄が唄われる。  
ちょんがり節
応仁の乱後、ちょんがれ武左衛門たちが現れ、廃墟の中から富と自由を求め、大黒舞などの唄が作られたようである。ちょんがれ、ちょぼくれが唄物語になったのは明和・安永・天明期からである。
歌舞伎の義太夫のチョボ(地唄)から「ちょんがれ節」(ちょぼくれ節)が生まれ「ちょんがり」になったと言われている。こうして能登・加賀一帯に流行って行き、お隣の富山県では「ちょんがれ節」というのもある。加賀一帯の盆踊り唄のじょんがらに匹敵するようである。
ちょんがりは、江戸時代の中期に盛んになり、「ちょんがれ」、あるいは「ちょぼくれ」といって念仏聖(ひじり)くずれの願人坊主門付けのもらい芸人(僧形)たちが鉦や太鼓、ささら、ほら貝、その他あり合わせの樽や皿を巧みに伴奏に使った。
唄は、世相を風刺したり、土地の名を巧みに歌い込んだり、数え唄を作ったり、軽妙に歌い並べて当意即妙にこなしながら人々を喜ばした。
奥能登には、平安時代、流された平家の子孫「時国」家に、その昔、村人たちが集まって、民俗学的にも貴重な庭踊りを唄い踊ったのが「ちょんがり」だといわれ、奥能登一帯に知られているようだ。大方、願人坊主たちが諸国に持ち歩いた「ちょんがれ」の流れではなかろうか。
有名なキリコ祭りやお盆には、夜を徹して唄い踊り、若者は毎晩部落から部落へと会場を渡り歩いたという。若者は機知に富み、当意即妙もあり、自由に歌う素朴さが今に伝わっている。
 
江州音頭1(ごうしゅうおんど)

 

元来は滋賀県の民謡で、長編の盆踊り唄。江戸時代末に、桜川大竜が西日本の「盆踊り口説き」に祭文をまじえて唄い始めたもの。明治10年代に京阪神地方に伝わり、寄席などでも「萬歳」とともに紹介される。昭和30年代以降、江州の名所名物を詠んだものが、祭文部分を除いた節で、盆踊り歌として唄われている。
江州音頭2
滋賀県全域と近畿地方各府県で、盆踊りに用いられる音頭。独立した舞台芸としても行われる。 仏教の御経の節である声明を源流とし、山伏らによる民間布教手段として派生した祭文が一部で娯楽化し、次第に宗教色を薄めて遊芸としての祭文語りが独立した。浄瑠璃に近い説経節や、浪花節を生んだ浮かれ節等より下卑 なものとされ、語りの合間に法螺貝を吹いて一同で「デロレンデロレン」という合いの手を入れることから、デロレン祭文と総称された。
幕末に、武州のデロレン祭文の名人万宝院桜川雛山の弟子の西沢寅吉が、歌念仏・念仏踊りを祭文に採り入れた独特の節回しを考案し、話芸を踊りと融合させた新たな音頭を作り上げた。これは祭文音頭と言われ、当初は八日市で踊られた。更に、寅吉と親交のあった奥村久衛左門(初代真鍮家好文)の協力で演目等を整備し、明治初年に滋賀県犬上郡豊郷町千樹寺で踊りを披露したのが、江州音頭の始まりとされている。
その後次第に滋賀県内各地に広まり、現在に至っている。寅吉は祭文語りの芸名を桜川歌寅と名乗っていたが、師匠桜川雛山の許しを受けて初代桜川大龍に改名して宗家となった。明治末に大龍の門弟等は大阪の寄席にこぞって進出し、落語や音曲と並んで人気の演目となった他、砂川捨丸の大成功を追って一部は漫才等の舞台芸に転じ、今日の演芸の源流にもなった。
江州音頭は、近代河内音頭の成立にも多大な影響を及ぼしている。
流派
2つの流派がある、桜川派(川北派)宗家初代桜川大龍(西沢寅吉)と、真鍮家派宗家初代真鍮家好文(奥村久左衛門)だ。 何れも、「♪ヨイトヨイヤマカドッコイサノセ」の合いの手の他、音頭の途中に「♪デロレン、デロレン」の一節を唱和する形を継承しており、江州音頭がデロレン祭文の系譜にあることを主張している。
初代桜川唯丸は、ロック・ジャズの要素を盛り込んだ演目を歌い、従来の枠に入らない江州音頭の新境地を開拓している。
発祥地
2つあるが、どちらが真の発祥地とも言い難く両地に石碑が建立されている。延命公園滋賀県東近江市八日市松尾町(桜川大龍が江州音頭を考案した場所)と、千樹寺滋賀県犬上郡豊郷町下枝(初めて江州音頭を披露した場所)だ。 出身地である近江国河瀬村(現滋賀県彦根市南川瀬町)法蔵寺(彦根市)にも石碑がある。 発祥地以外にも、桜川大龍の石碑は県内各地に多く点在している。  
江州音頭3
幕末の頃、祭文語りの名人、桜川雛山に弟子入りした初代桜川大竜(西沢寅吉)が雛山から習った貝祭文に念仏踊り、歌念仏も採り入れ音頭に仕立てて唄い始めた(江州八日市祭文音頭)ものが、真鍮屋好文の協力を得て、やがて江州音頭として大成し、盆踊りとして定着しました。毎年7月下旬に旧八日市市街地で行われる聖徳祭りの市民総踊りは、江州音頭発祥の地にふさわしく盛大に行われています。
西沢寅吉/文化6年-明治23年(1809-1890)
江州音頭4
滋賀県を中心に近畿地方各地で盆踊りに用いられる音頭。棚音頭と座敷音頭(敷座)の2種類がある。独立した舞台芸としても行われる(こちらは「口説き(クドキ)」と呼ばれる)。「江州」とは、近江国の別称である。
仏教の御経の節である声明を源流とし、山伏らによる民間布教手段として派生した祭文が一部で娯楽化し、次第に宗教色を薄めて遊芸としての祭文語りが独立した。浄瑠璃に近い説経節や、浪花節を生んだ浮かれ節などより下卑たものとされ、語りの合間に法螺貝を拡声器として用いて、一同で「デロレン、デロレン」という合いの手を入れることから、デロレン祭文と総称された。同様の成立過程を辿ったものには、願人坊主が事とした「阿呆陀羅経」や、「チョンガレ」(チョボクレ)、「春駒節」、「ほめら」などと呼ばれた諸芸(これらの一部は明らかに春歌に属する)などがあったが、テレビが普及した高度経済成長期を最後に継承者は絶えている。
江戸時代末期、武蔵国のデロレン祭文の名人万宝院桜川雛山の弟子の西沢寅吉が、歌念仏・念仏踊りを祭文に採り入れた独特の節回しを考案し、話芸を踊りと融合させた新たな音頭を作り上げた。これは祭文音頭と言われ、当初は近江国神崎郡八日市(現在の滋賀県東近江市)で踊られた。更に、寅吉と親交のあった奥村久衛左門(初代真鍮家好文)の協力で演目などを整備し、明治初年に近江国愛知郡枝村(現在の犬上郡豊郷町)の千樹寺で踊りを披露したのが、江州音頭の始まりとされる。その後次第に滋賀県内各地に広まっていった。
寅吉は祭文語りの芸名を桜川歌寅と名乗っていたが、師匠桜川雛山の許しを受けて初代桜川大龍に改名して宗家となった。明治末に大龍の門弟らは大阪千日前界隈の寄席にこぞって進出し、落語や音曲と並んで人気の演目となった。
また、大阪府三島郡味舌村(現在の摂津市)の音頭取り出身の漫才師砂川捨丸や、従来の三河萬歳を修めた中河内の江州音頭取りの玉子屋圓辰の大成功を追って一部は漫才、浪曲などの舞台芸に転じ、今日の演芸の源流のひとつにもなった。古い(明治30年代〜昭和40年代)漫才の名跡である「砂川」「桜川」「荒川」「河内家」「菅原家」といった苗字は江州音頭取りから派生し、「松鶴家」は歌舞伎俳優から俄に転じた者が多かったところから派生した。
近江商人兼業の音頭取り達が東海道・京街道・伊賀街道など商用で訪れた各地の人々に余暇として江州音頭を伝えたことが基となり、各地で独自の改良を加えられ重なり大阪の江州音頭が生まれ、河内音頭の成立にも多大な影響を及ぼした。
明治中期から後期にかけて江州音頭が河内音頭と並んで興行として演じられるようになってからは、浪曲や、江戸中期以来大坂で盛んに演じられ人気を博した即興喜劇である俄(にわか)などの諸芸と融合し、近江とは別のスタイルで大阪でも独自の発展・変革を遂げた。
 
木崎音頭

 

「木崎木の中、山の中、八木と梁田を向こうに廻し、音に聞こえし女郎屋宿」
例幣使街道屈指の宿場町であった木崎の宿は、明治の初め頃まで、女郎(遊女)屋の街として有名だった。遊女たちの多くは、年期で売られてきた越後生まれの若い女性達で、「格子なき牢獄」といわれた遊郭に身を沈めて、時として望郷の念に誘われて歌ったのが、かつて慣れ親しんだ故郷の盆踊歌の越後口説きであった。それがいつの間にか遊郭に遊ぶ馬子や旦那衆、職人、若者といった土地の人に伝えられて歌い踊られるようになって、やがて木崎音頭となったのだという。口説き節の起源は死者を供養するための盆歌であり、特有の湿っぽいリズムを持ち、テンポは遅く、踊りも単純でほとんど手踊りが多かったというが、上州に入って南下するにつれ、テンポが速まり、高低の差が付けられ、威勢のよい祭り歌になり、玉村の「横樽音頭」、境の「赤椀節」「木崎音頭」を経て、「八木節」を生んだというのである。ちなみに「八木宿」を中心に歌われた口説き節が八木節の原型だが、八木宿というのは太田と梁田のあいだにあった宿で、現在の足利市福井町であるという。宿の入り口と出口の両側に2本ずつ8本の松があったので八木宿と呼ばれたのだという。
古い木崎音頭は猥褻な歌詞である。
いずれも、哀れな女郎(遊女・飯盛り女)が、身の不運を歌った恨み節と受け取られそうだが、実際は、女郎の境遇を外側から揶揄しているように思われる点から判断すると、むしろ女郎の境遇に同情的でない男性が、色街の祭りのために歌った春歌の類であったと考えるのが正しいと思う。表面上は女郎達の悲惨な状況を語っているように思われるが、その実、女郎達を蔑み、と同時に、卑猥な言葉を多用することによって、祭りに性的な雰囲気を付与し、禁欲であれと要求する儒教道徳のくびきから自らを解放することを狙っていたのではなかったか、そんな気がする。
穢れを押しつけられて流される雛人形を見送るように、女郎達の悲惨な境遇が歌われるのを聞くことで、おそらく村娘達は女郎に自らの不幸を押し付け、厄除けをしたような晴れ晴れした気分になって、祭りに参加するできたに違いない。この歌を聴き、女郎に生まれなかった自らの幸せをかみ締めながら、踊りを踊っているうちに、村娘たちの体に情欲の炎が点り、次第に、現実を受け入れ、男達を受け入れる用意ができたのだろう。歌の持つ猥雑さは、そのまま生きている者たちの本能の猥雑さであり、祭りはその猥雑さを引き受け、高らかに歌い上げる事で、生命の祭りへと転化する。祭りは、生の解放であると同時に、謂うまでもなく、性の解放であった。
木崎音頭は、女郎の悲惨な境遇を歌ったものではあっても、その境遇に同情してエールを送ろうとしているものではなかった。「2朱や3朱でだき寝をされ」る遊女は、たとえ『夢の心地』でいようとも、『針の山』以外に行き先を持たない哀れな存在であるというように、女郎達を断罪し、侮蔑しようとする魂胆が見え隠れしているのである。遊女が性を提供しなければならなかったように、村の女性の多くは労働力の提供者でなければならなかった。どちらがより幸福か、という問題の答えは決して単純ではなかったに違いない。同じように哀れだとはいえ、性を商品として提供している以上、遊女の哀れさは農村女性と同じではなかった。白粉を塗り、紅をさし、労働を免除され、多少なりとましな着物を着ることができた女郎は、村人達にとっては、侮蔑の対象である以上に、妬みの対象であったろう。従って、村人達が、自らの現実を受け入れ、寿ぐためには、女郎を徹底的に不幸だと考える必要があった。
女郎たちは嫌々ながら性を売っているのだ、彼女達の性行為は自分達の性行為とは異なり、苦役でなければならないはずだ。歌の目的は、露骨な言葉で若者達の本能をくすぐるという一面を持つだけでなく、色街で行われている金にまみれた性を徹底的に否定することで、売淫ではない村人たちの垢抜けしない性の肯定、言い換えれば自分達の真っ当だと信じた生活を肯定しようとしたのだろう。外見の悲惨さにも拘わらず、金と太鼓と横笛の囃子でにぎやかに飾られた木崎音頭は物語性を持ち、女郎達の生きた現実との乖離は著しい。
実際、悲惨なのは女郎ではない。当時、人々は許されていた唯一の愉楽であった性の交わりを管理・支配しようとする儒教道徳に漸く屈し、貞節という観念に寄りかかることなく性の愉楽を享受することができなくなるほど窮迫し、弱体化していたのだろうか。女郎達に対する過度の侮蔑や敵意に満ちた言葉をはかなければならなかった裏側には、彼女達に対するどうしようもない羨望がへばり付いていたのである。本当に悲惨なのは、自分を何とか納得させるために、こうした自虐的な歌を歌わなければならなかった屈折した村人の心であったはずである。
木崎宿
木崎宿は日光東照宮に京都の朝廷から例幣使が参拝する為に寛永19年(1642)に開削された日光例幣使街道の宿場町です。街道は中山道の倉賀野宿から日光街道の楡木宿までで、その間15の宿場が設けられ、例幣使の宿泊や休息に利用されました。中でも木崎宿は文化元年の旅籠の数は27軒程でしたが後に63軒となり日光例幣使街道最大の宿場町となりました。又、木崎宿は多くの飯盛女を抱える旅籠が軒を連ねた宿場町として知られ、弘化2年(1845)には260人以上の飯盛女がいたそうです。現在に伝わる木崎音頭(木崎節)は越後から飯盛女として売られた女性が伝えたとされ、そこで唄われた色地蔵は現在でも長命寺境内前にある小堂に祀られています。
長命寺
木崎宿端にある古義真言宗の寺院で、古くから貴先神社の別当として祭祀を執り行っていました。境内前に萱葺屋根の小堂には色地蔵尊が安置されていて平成12年に太田市(旧新田町)指定重要文化財に指定されています。
色地蔵
木崎音頭の歌詞は数種類ありますが、末尾には必ずこの部分が付いています。この一節に唄われている色地蔵様がこの石地蔵尊です。石地蔵尊は高さ73cmで、頭部は破損しています。台座には銘文があります。この銘文から、風邪のはやる季節に亡くなった子供達の霊をなぐさめ、子供達の成育を祈願して建立した「子育地蔵」であったことがわかります。ところが、江戸時代の木崎宿には飯売女がたくさんいて、彼女達は前借制年季奉公で遠出が制限されていたため、宿端ずれの本地蔵様に参詣して心の安らぎを得たのです。こうして数多くの色街の女(飯売女)が訪れたことから、何時の間にか「色地蔵様」と呼ばれるようになり、木崎音頭にも唄われるようになったのです。
色地蔵は長命寺境内前の萱葺屋根の小堂内部に安置されていて平成12年に太田市(旧新田町)指定重要文化財に指定されています。  
木崎節1
蒲原郡柏崎在で 小名をもうせばあかざの村よ
雨が三年ひでりが四年 都合あわせて七年困窮
新発田さまへの年貢に迫り 姉を売ろうか妹を売ろか
姉ははジャンカで金にはならん 妹を売ろうと相談なさる
妹売るにはまだ年若し 年が若くば年期を長く
五年五ヶ月五五二十五両 売られ来たのが木崎の宿よ
売られてきたのはいといはせねど 顔も所も知らない方に
足をからむの手をさしこめの 
五尺体の五寸のなかでもくりもくりとされるがつらい・・・ 
木崎節2 (越後口説)
アーエー木崎音頭を読み上げまする
越後蒲原郡柏崎在で 雨が三年日照が四年
都合合わせて七年困窮 新発田様への年貢に困り
娘売ろうか田地を売ろうか 田地は子作で手がつけられぬ
娘売ろうとの相談きまる 姉にしようか妹にしよううか
姉はじゃんかで金にはならぬ 妹売ろうとの相談きまる
五年五ヶ月五五二十五両で 明日は売られて行く身のつらさ
さらばととさん かかさんさらば さらば近所の皆さんたちよ
売られ売られて木崎の宿へ
音に聞こえた江州屋とて あまた女郎衆の数あるなかに
器量よければ皆客さんが われもわれもと名ざしてあがる
どこの野郎か知らない野郎に 毎夜毎夜の抱き寝のつらさ
つらさこらえて ごりょうがんかける
お願いかけますお地蔵さんへ このや地蔵さんの由来を問えば
木崎宿には名所がござる 上の町から読み上げまする
上の町にはお薬師様よ 中の町には金毘羅様よ 下の町には明神様よ
木崎街道の三本の辻に お立ちなされた色地蔵様は
男通れば石持って投げる 女通ればにこにこ笑う
年増通れば横むいてござる 娘通れば袖ひきなさる
これがやあ ほんとの色地蔵様か ヤーエー  
木崎音頭1(旧謡)
北に赤城峰南に利根よ ひかえおります木崎の宿よ
此のや街道の三方の辻に お立ちなされし石地蔵様は
男通れば石を取って投げる 女通ればにこにこ笑う
これがほんとの色地蔵様よ 色に迷って木崎の宿に
通う通うが度かさなれば 持った田地も皆売払い
娘売ろとの相談となる 姉を売ろうか妹を売ろか
姉はあばたで金にはならぬ 妹売ろとの相談きまる
売られ買われて木崎の宿は 仲の町なる内林様へ
五年五ヶ月五五二十五両 つとめする身はさてつらいもの
夜毎夜毎にまくらをかわし 今日は田島の主さん相手
明日はいずくの主さんなるや 返事悪けりゃあのばあさんが
こわい顔してまたきめつける 泣いてみたとて聞いてはくれず
客をだましてその身を売って 情けかけぬが商売上手
わたしゃ貧乏人の娘に生まれ かけし望みも皆水の泡
金が仇の此の世の中に 金がほしいよお金がほしや
二朱や三朱で抱寝をされて いやな務もみな親の為
上る段梯子もあの針の山
・・・
金が仇のこの世の中よ 金が欲しいよお金が欲しい
二朱や三朱でだき寝をされて 歯くそだらけの口すいつけて
足をからめの手をさしこめと 組んだ腰をゆりうごかして
夢の心地に一人いる 上る段梯子は針の山 
木崎音頭2
ハアーエ御免こうむり読み上げまする 雨が三年日照りが四年
雨が三年日照りが四年 都合ききんが七年続き
田地売ろうか娘を売ろうか 田地は小作で売るこたてきぬ
田地は小作で売るこたできぬ 娘売ろうと相談かけりゃ
姉を売ろうか妹を売ろか 姉はあばたで金にはならぬ
姉はあばたで金にはならぬ 妹売ろとの相談きまる
売られ買われて木崎の宿の 仲の町なる内林さまへ
仲の町なる内林さま 五年年季で五五二十五両
つとめする身はさてつらいもの つとめする身はさてつらいもの
夜毎夜毎に枕をかわし 今日は田島の主さん相手
明日はいずくの主さんなるや 返事わるけりゃあのばあさんに
返事わるけりゃあのばあさんが こわい目をしてまたきめつける
泣いてみたとて聞いてはくれぬ 客をだましてお金を取って
客をだまして娘を取って 情けかけぬが商売上手
わたしゃ貧乏人の娘に生まれ かけし願いもみな水の泡
かけし望みもみな木の泡 金が仇の此の世の中に
金が欲しいやお金がほしや 二朱や三朱で抱き寝をされて
上るやー段梯子もあの針の山だーやー 
木崎音頭3
北に赤城峰 南に利根よ ひかえおります木崎の宿よ
此のや 街道の三方の辻に お立ちなされしお地蔵さまは
男 通れば石 とって投げる 女通れば ニッコと笑う
これが ホントの色地蔵さまよ
色に迷って木崎の宿に 通う通うが度重なれば
もった田地もみな売り払い 娘売ろとの相談となる
姉を売ろうか妹を売ろか 姉はあばたで金にはならぬ
妹売ろとの相談決まる
売られ買われて木崎の宿は 中の町なる内林様よ
五年五ヶ月五五二十五両 務めする身はさて辛いもの
夜毎夜毎に枕をかわし 今日は田島の主さん相手
明日はいずくの主さんなるや
返事悪けりゃあの婆さんが こわい顔してまたきめつける
泣いてみたとて聞いてはくれぬ 客をだましてその身を売って
情けかけぬが商売上手 わたしゃ貧乏人の娘に生まれ
かけし願いもみな水の泡
金が仇のこの世の中で 金が欲しいやお金が欲しや
二朱や三朱で抱き寝をされて いやな務めもみな親のため
上がるや〜段梯子もあの針の山だが〜や〜 
 
八木節

 

栃木・群馬・埼玉県の民謡で、盆踊り唄。新潟県の「新保広大寺」が醤油職人たちによって例幣使街道の宿場に伝えられたもの。八木節は、栃木県足利市、群馬県桐生市・太田市を中心とした地域で生まれ、育まれた民謡である。
八木節の発祥については諸説あるが、通説は現在の栃木県足利市にあった八木宿において、初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツであると考えられている。八木節の名称は、八木宿にちなむ。当初は渡辺の名から「源太節」と呼ばれてきたが、1914年(1913年説あり)に日本蓄音機商会でレコーディングされる際に命名された。
群馬県側では、八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道にある木崎宿で歌われてきた木崎節であるという。「日本民謡集」(町田嘉章、浅野建二)はこの説をとっている。このほか、江戸時代末期に流行した口説き節が起源という説もある。
一方、郷土史家の台一雄は、八木節の起源は古くから八木宿の近くの集落で古くから使われていた盆踊り歌の神子節で、これに他地域の民謡(木崎節も含む)の特徴が若干混ざったものだと主張した。台は著書「八木節その源流をさぐる」で、従来の木崎節起源説と口説き節起源説を否定している。
八木節2
徳川幕府時代(天保4年三代将軍家光時代)朝廷より日光東照宮に幣帛(へいはく/供物)が送られるようになりました。この例弊使一行が木曽街道から碓氷峠を下って高崎市倉賀野で中仙道と分かれて、玉村町より五料、柴、木崎から太田市を過ぎると栃木県足利市(八木宿)に入り金崎までの92kmを日光例幣使街道といい、日光裏街道に合流して東照宮に向かいました。この日光例幣使街道は13の宿場からなり、国別に分けると上州(群馬県)5宿、野州(栃木県)8宿に分かれていました。この街道の各々の宿場には本陣という宿泊・休憩所があり、格式の高い公卿・大名は皆この本陣に泊まることになっていました(太田宿は橋本家)。
三代将軍家光の代に参勤交代制度が定められ、江戸屋敷での勤務が終わると、日光東照宮へ参詣して帰国する諸大名が多くなり、この日光例幣使街道も関東以西の諸大名が利用するようになり、街道筋の各宿場は自ずと活気に満ちてきました。
太田宿の西の各宿場で働く人々の中には、遠く越後の柏崎・出雲崎方面から女衒(ぜげん)達によって出稼ぎに来た人々がたくさんいました。江戸中期1680年頃、太田宿の西隣にあった木崎宿にも30数件の旅籠(妓楼)があり、そこに働いていた越後の遊女「さよ」という美声の女性が故郷を偲んで歌った「くどき節」が土地の人々に好かれ、愛されて盆踊り歌(後の木崎節/現在の木崎音頭)となり、木崎宿を中心に各地、各宿場で盛大に唄われるようになりました(「さよ」という女性については確たる資料はありませんが、広大寺くずしと推測しており、木崎節の元唄としています)。
この他に新保広大寺くどき節を各地に伝播したのは、何といっても「越後ごぜ」の方たちです。三国峠を越え、上州で唄われた越後節が、石投音頭、横樽音頭、木崎音頭から八木節へと唄い変えられてきたのです。
西へ向かった彼女たちは、親不知を通り抜け富山県下に入り、盆踊り唄として唄い踊られた新川古代神、それから庄川をさかのぼり五固山古代、岐阜の白川小大臣となって現代も唄われています。
上州地方一帯の盆唄は、その歴史の古さと広がりからみて、上州の東南一帯・野州の八木宿から常陸(茨城県)の古河から武蔵(埼玉県)の利根川沿いの一帯の地方にそれぞれの特色を織り込んで盛んに唄われるようになりました。
明治初期、八木宿の近くの朝倉で運送業を営む清三が八木宿から太田宿を経て木崎宿の間を往来しながら馬のひづめの足音を伴奏に唄った盆唄が、いつしかテンポが速く、切れ味の良い馬方節調に変わっていきました。
美声で調子の良い清三の馬方節は街道筋の評判となり、宿場の人たちは彼の音頭を聞くのを唯一の楽しみにしていたといいます。やがて清三に教えを受ける者も次第に多くなり、新しい盆踊り唄の流行をみるようになりました。
清三から何人かの人脈を経て明治後半、この馬方節を現在の八木節に至らしめたのは、堀米源太(渡辺源太郎/明治5年足利郡山田村堀込生まれ)と矢場勝(久保秀三丸/初代コロンビア・ローズの祖父、明治9年山田郡矢場川村藤本生まれ)達です。
彼らは互いに隣村どおしであり、大の盆踊り好きでした。矢場勝の唄は曲節において、源太の唄は音量において、また、繊細な踊りは喜樂家というようにそれぞれの長所を創意工夫して、酒樽に笛、鐘、鼓を配し、高座にて踊るにつれて素踊りから菅笠、日傘等をたずさえて、野育ちでありながら、威勢の良い盆踊りを創り上げたのでした。
大正の初め、矢場勝・源太は東京に進出し、上州人気質のからっとした歯切れの良い、明るい賑やかな節回しが東京の人々に受け入れられるとともに、レコード化により全国的に知られるようになりました。
八木節3
難しい八木節
故郷を遠く離れても、子供の頃から聞いて育った民謡は忘れ難いもの。八木節は一見単調そうでも、なかなか身にはつかない難しさがあります。特に笛に至っては、演者の特徴もあるのでしょうが、全然頭に入ってきません。ここでは、これらのことも研究します。
八木節の特徴
八木節は、他の民謡にくらべ著しい特徴がある。
多くの民謡は、労働歌など、仕事の能率を上げるために唄われた唄が次第に形をなして作り上げられたものが多い。その他には祝い唄、辛さを慰める唄など自然発生的で、いずれにしても創作者は曲、歌詞とも不明であるのが普通である。また歌詞も殆どが定まっている。
また、近年作られた作詞、作曲者がはっきりしているものは新民謡と呼ばれている。ところが八木節を新民謡だという人はいない。
特徴を挙げてみると
1.創作者が明白である。
2.歌詞は、物語となっているものが多いが定まっているわけではない。口説き(注)の一種だが、その歌詞は作詞家、マニア、演者などが勝手に創作してよいため、歌詞は無数というほど沢山ある。
3.歌詞はすべて7文字詩である。民謡の多くは7・5調、特に7・7・7・5の都都逸調なのに対し、非常に特異である。
4.その歌詞も物語となっているため大変長い。この点浪曲や河内音頭に似ている。
5.一節の行数も原則はあるが、正確に定まってはいない。歌い手任せである。また歌詞は創作またはアドリブでもよい。この点、津軽じょんから節のようである。
6.笛のメロディーがバラエティに富んでいるのに対し、唄のメロディーは数節分しかなく、これが繰り返される。どのメロディーを使って演ずるかは演者に任されているので、どんな歌詞にも応用ができる。
7.囃子方(伴奏ではないので、こう言うことにする)の編成も他の民謡に比べ非常にユニークで人数も多い。
8.囃子は歌手の伴奏をするわけではないので、囃子が歌手のキーに合わせる必要はない。
9.囃子方の笛以外の奏者は常に笛のメロディーで動いている。笛はバンドマスターであり、指揮者でもある。
10.テレビなどによく出演するような有名民謡歌手でも、八木節をやる人はいない。多分できないのだと推測する。昔、鈴木正夫という民謡歌手(懐かしい「愛ちゃんは太郎の嫁になる」の鈴木美恵子の父)が歌っているのを聞いたが、似非だった。まして、江利チエミや小林幸子は真似事でしかない。 また最近津軽民謡の岸千恵子が歌っていたが、これも駄目。
などがあげられる。
囃子でまず目につくのが、打楽器としての樽である。そのほか大太鼓、小太鼓などはさておき、鉦が入っている。この担当は鉦すりと呼ばれる。叩くより、中をすりまわすからである。また大小の鼓が用いられ、しかもこれを撥でたたく。メロディー楽器は笛のみである。更に変っているのは、歌手が歌っている間はお囃子は特には演奏せず、小節の区切りに1拍子を入れるだけである。つまり沢山の楽器は伴奏用ではないということだ。囃子方が活躍するのは間奏時で、このアンサンブルは大変にぎやかで、一種のオーケストラと言える。こういう民謡は他には聞いたことがない。
編者の小さい頃は、盆踊りと言えば八木節に決まっていた。その他は何一つやらない。要するに踊りつきの八木節大会である。だから盆踊りとは八木節の別名と思っていた。この踊りも大変ユニークで、唐傘踊りとも言い、若い衆が女物の浴衣にたすきがけで、紙製の花をつけた小ぶりで派手な唐傘を持って踊るのが主流である。この踊りは、通常櫓の一段下に踊りの舞台が設けられ、その上で踊る。それ故、踊りは踊りで1つのショーになっており、一般の盆踊りのように参加者がみんなで踊って楽しむのとは異なる。この踊りがまた激しい動作で、暑い時分故、一踊りすると踊り子は汗びっしょりになる。
このように、我が故郷の盆踊りとは八木節ショーなのだ。しかし、編者の知る限り、このショーには女っ気はまったくなかった。
(注)口説き節とは
[1]民謡で七・七・七・七または七・五・七・五の四句を一単位にした節を繰り返してうたっていく長編の物語唄。「相川音頭」「八木節」などがその代表例。和讃や御詠歌から出たと考えられる。口説唄。口説。
[2]俗曲の一。瞽女(ごぜ)などが、三味線にあわせて、あわれな調子でうたうもの。鈴木主水(もんど)・八百屋お七など心中や情話が主。 
八木節4
八木節のおおもと 
八木節のおおもとは、例幣使街道にあった宿場に越後方面から売られて来た哀れな遊女や飯盛り女達が故郷恋しと唄った越後の唄だといわれている。これらの唄は瞽女唄だったり、神保広大寺くずしだったりしたようだ。
日光例幣使街道とは、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。 なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である。地元(栃木県鹿沼市〜日光市)では現在もこの区間(国道293号〜国道121号)を「例幣使街道」と呼んでいる。この区間にも日光杉並木が現存する。
群馬と栃木(旧上野と下野)の県境から西(群馬側)へ1つ目の宿が太田宿で、その東側は栃木の八木宿、太田の1つ西側が木崎宿となる。これらの宿場女が故郷恋しと唄った越後唄が客などに歌い継がれ、地元の唄として残った。西から、玉村宿(現群馬県佐波郡玉村町)の横樽音頭、境宿の赤椀節、木崎宿(現太田市)の木崎音頭、更には八木節として現在も続いている。
さて、栃木県足利郡山辺村堀込生まれの渡邉源太郎(1782-1943)という馬方がいた。この人は生来の美声でしかもなかなかの男前だったようだ。若くして近所の馬子唄師匠の弟子となり、道中馬子唄を歌っていたという。源太郎は、また瞽女唄や宿場女の歌も大変愛し、すぐにそらんじて道々唄っていた。唄を唄うのに、飼葉桶をたたいて唄ったのが、後に樽なったのだという。道中の主な部分はやはり栃木、群馬にまたがる地帯、今で言えば、佐野、足利、桐生、太田辺であったらしい。美声である上美男であったため、道中近辺の機織女や宿場女の人気は大変なものだったという。
こうして源太郎が唄った唄は、だんだん人気を博し、土地で開かれた今でいうコンクールにも出場、優勝したりして、八木節は出来上がってゆく。人気が出たので源太郎は源太節という名称にしたかったらしいが、大会が開かれた八木宿の顔役から八木節にして欲しいとの要望を受け、八木節としたとのことである。また芸名は生地の堀込を取り、堀込源太としたとのことである。
つまり、八木節は、創作者は堀込源太、発祥地は栃木県足利市ということになる。
陽気な初代・堀込源太郎
「国は上州佐波郡にて/音に聞こえし国定村の/博徒忠治の生い立ちこそは・・・」
酒樽や鼓・鉦・笛などで、チャカポコ、チャカポコと叩く軽快なリズム。栃木県と群馬県にまたがる両毛地方に伝わる「八木節」をご存知だろうか。大正時代に全国的なブームが起こり、現在でも盆踊りなど各地の祭りでよく耳にする民謡だ。
栃木県足利市に生まれ育った私は、八木節の「アーアーアー」と天に抜けるような歌い出しを聞くと、無性に血が騒ぎ出す。自分の根源を揺さぶられるような感じ。それもそのはず、八木節の創始者として知られる「初代・堀込源太」は私の実の祖父なのだ。
馬方しながら美声披露
本名は渡部源太郎、明治五年(1872年)足利に生まれ、馬方をしながら方々で持ち前の美声を披露していた。地元の馬子唄や越後の瞽女唄をアレンジした祖父の歌いぶりは 評判になり、大正三年(1914年)に日本蓄音器商会(現在のコロムビアミュージックエンターテインメント)でレコード録音を実施。地元の宿場町「八木宿」にちなんで「八木節」と命名し、次いで東京への興行進出を果たして全国展開のきっかけをつくった。
祖父が亡くなったのはは太平洋戦争さなかの四三年。私はまだ十歳の子どもだった。その後は書家の道を歩み、八木節とは特に縁のない人生を送ってきたが、五年前に患った大病がきっかけで、彼の一生を自分なりに調べようと思い立った。
四十度ぐらいの熱は三ヶ月続き、生死のはざまをさまよった。そんなとき不思議と祖父のことを思い出す。
「おーい、寿太ボー」。遊びに来ると祖父は決まって私の名前(本名)を呼んだ。「これをくわなきゃいい声で歌えねえんだ」といいながら生のニンジンを三本まるかじりし、かん酒を飲むと「さあやるぞ」といって私に八木節の稽古をつける。「わたしゃ、堀込源太の孫で・・・」。子ども心にありがた迷惑な気持ちもあったけれど、陽気な祖父の姿は、今でも鮮明に覚えている。
めったに家に帰らず
奇跡的に体調が回復しさっそく祖父のことを調べ始めた。八十、九十歳代のお年寄りがいる家を教えてもらい一人ずつ訪ねていった。
何軒回ったろだろうか。雨の中を聞き取りにたずねると、おばあさんが一人出てきた。「堀込源太の孫なのですが」と伝えると、「えっ、あのアーアーアーと歌ってた源太さんの孫?さあさ上がって」と促された。
八十八歳の女性が話してくれたのは、一九〇七年夏に開いた盆踊り大会の歌自慢で、祖父が優勝した出来事だった。彼女自身はまだ生まれていない時期だが、家族の人から当時の楽しい思い出を繰り返し聞いたのだろう。自分がその場にいたように懐かしく答えてくれる姿が、青春時代に戻ったかのようだった。「祖父の歌がこんなに人生を明るくする力を持っているなんて」。うれしさがこみ上げてきた。
ただ祖父は自分の家族には相当な苦労をかけていたようだ。巡業に忙しく、めったに家には帰らない。孫が言うのも何だが、美声で美男子、女性にはよくもてたらしい。子どもたち、そして何より私の祖母の苦労は並大抵ではなかったと思う。
もっとも、本人もよく自覚していたらしい。祖父の十八番に「継子三次」という歌がある。継母にいじめ抜かれた子どものことを歌ったもので、よく祖父が涙を流しながら演じたという話を聞いた。わが事を思い起こし、身につまされる思いだったのだろう。
時代時代の思い継承
一方徹底した平和主義者という面もあった。太平洋戦争開戦の報を聞くや「戦争はやめろ、大切な青年が殺されてしまう」と大声で怒鳴り、官憲の監視がつくほどだったという。若いころ、馬子唄を歌って馬を引く道すがら、日清・日露戦争で息子を失った人々の話を聞いた経験が原点にあったようだ。八木節にも「乃木将軍と辻占売り」という戦没者家族の困窮を題材にした歌がある。 42年の引退の公演の直前、私が祖父にかけられた最後の言葉も「戦争なんか行くんじゃねえぞ。大切なのは平和だぞ」。庶民の思いを吸い上げた八木節のこころを象徴するような言葉だった。
八木節由来
以下は友常先生の著書より引用したものです。作者不明とのことですが、八木節の歴史を語る歌詞になっています。
八木節由来の其の物語り            
作り出したる人々なぞを
さあさ皆さんご存じないか
さらばこれから読み上げまする
頃は幕末日本の夜明け
昔栄えた例幣使街道
通りすじなる渋垂(しぶたれ)村の
   姓は石井で名は多三郎
   それに息子の芳平さんと
   隣り合わせの勘十郎さんよ
   木崎宿にて一人の女
   越後生まれでふるさとしのび
   故郷恋しと唄いし唄よ
   いつか流れる八木宿郭
隣村からそのまたとなり
我もわれもと教へを願い
父のなきあと芳平師匠
隣り合わせの勘十郎さんと
更に菅笠日傘に扇
出来た出来たよ苦心の末に
今の八木節みなもと出来た
   ついに明治も末期となりて
   堀込生まれの源太郎さんは
   師匠芳平に弟子入り致し
   あまた弟子達あるその中で
   生まれついての美声をもって
   あちらこちらで唄いしうちに
   あれは馬方源太郎節か
源太その唄わしゃ聞きほれた
何処に行ってももてはやされて
時は大正三年なるが
レコード吹き込みまた大人気
ついにラジオの電波にのせて
日本全国その名をあげる
いつの間にやら弟子たち増える
   八木節由来はまだまだあるが
   苦節十年そのかいあって
   今の世までもその名を残す
   八木節起こりしその物語り
   語りつくせば話は尽きぬ
   さって一座の皆さん方よ
   又の御えんでよ読み上げまするが
   オオイッサネエー
創作者 堀込源太の教え
以下は、始祖堀込源太の八木節を唄うについての教訓である。
一、八木節歌いだしのアーは「嘻」の意で人間の喜怒哀楽を4段階にわけて表現する。
一、継子三次を唄い、心は五郎正宗に成らぬこと。忠治を唄い野木にあらざること。八木節は一つなれど技巧のみに依らず、唄のこころを唄うべし。これ演者の心得也。
一、踊りも、その心は音頭に従うべきの事。
一、樽、鼓等は雷を表し、最も馬の嫌う雷神を鎮めん為なり。
一、笛は風を表し、樽、鼓、笛に依りて風神、雷神を鎮めんとするものにして鉦は馬の鈴と共に神・礼拝の際、紅白の紐に依りて、鉦を敲くと同じに成るべし。
以上八木節演者良く良く心得可きの事 
 
説経節

 

日本近世初期の語り物文芸。説経。しばしば「説教節」と誤記される。説経は、仏教の経文や教義を説いて衆生を導く唱導から、鎌倉時代から室町時代にかけて発生した芸能である。これが浄瑠璃的性質を帯びてきたもので、「説経浄瑠璃」とも呼ばれたが、現在は説経節と呼ばれるのが一般的である。寛永の始めから寛文頃までがその全盛期で、僧形の芸人が門付け(門説経)や、街角に傘を立ててささら・鉦・羯鼓を伴奏として興行を行った。後には三味線を取り入れたり、小屋にて操り人形とともに行われるようになった。これは戸外で行われる「歌説経」・「門説経」に対して「説経座」と呼ばれる。また祭文と組み合わせた「説教祭文」と呼ばれるものも生まれた。だが、その性質上どうしても内容が仏教的なものに限られてきてしまうため、次第に義太夫節に圧倒された。しかしその近世芸能に与えた影響は大きい。「かるかや」「しんとく丸」「小栗判官」「山荘太夫」「ぼん天国」を五説経といい、これらが繰り返し語られた。主な語り手には天満八太夫、若松派の若松若太夫(当代3代目)がいる。尚過去には薩摩派の薩摩若太夫(12代目まで)が存在。
説経節2
説経節の源流は、僧が庶民階級に経典や教義を分かりやすく説く必要から用いた、たとえや因縁などの説話が文学的に進展していった、いわゆる唱導文学だといわれています。唱導文学は、それまで仏教の外護(げご)者であった貴族階級が没落した古代末から中世はじめにかけて、新たな教線拡大をめざしておもに廻国聖や絵解法師などの下級僧侶がその担い手となって大いに盛んになりました。寺社の縁起や高僧伝説、仏教説話などに民間の伝説や生活感情などがないまぜになりながら、多くの物語が成立していったのでしょう。

説経節は、近世初期に操り芝居と結びついて流行した。説経節そのものは中世からおこなわれていた語り物であり芸能であったが、それが一躍脚光を浴ぴるようにたったのは、三都の操り芝居の舞台にかけられるようになってからである。初期の操り芝居は、古浄瑠璃がそうであるように、作者らしい作者もまだ出現せず、前代以来の語り物をそのまま用いていた。そういう素朴未発達な段階にあって、豊かな物語性と人情味を備えた説経節の語り物は、十分人の心をとらえたのである。しかし、浄瑠璃にすぐれた太夫があらわれて音楽的に工夫を重ね、近松のような作者が趣向に富んだ新作をつぎつぎと書き出すと、いつもきまった語り物だけを語っていた説経節は、古くさいものとして飽きられていった。近世の中期になると、三都の説経の座はすっかり衰滅してしまった。
だが、説経節の語り物の生命はそれで断たれてしまったわけではない。
第一に、浄瑠璃に多くの素材を提供した。「小栗判官車街道」「刈萱桑門筑紫〓」「芦屋道満大内鑑」「摂州合邦辻」等、例は挙げればきりがない。
第二に、絵草紙や読本の類に素材を提供した。
第三に地方の芸能として残った。瞥女歌として、盲僧琵琶として、大黒舞いの歌として。また、佐渡の説経人形、秩父横瀬の袱紗人形、八王子の車人形などの演目として、現在も残っている。これらの地方芸能も、今のままでは、やがて亡ぴてしまうにちがいない。
少なくとも明治時代までは、小栗判官とか石童丸とか山椒太夫とか言えば、だれでも「あああの話か」と知らない人はいなかった。近世初期に操り芝居に掛けられてからでも三百年近く、説経節の語り物は、国民の共通の知識となりその情操をはぐくみつづけて来たのである。しかし今は、小栗と言い照手と言い石童丸と言っても、知っている人はほとんどいなくなってしまった。山椒太夫だけは鵬外の同名の小説によって広く知られているが、じつは「山椒太夫」に劣らぬ興味深い語り物がいくつもあったのである。
説経節3
日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である。近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった。
単に「説経(せっきょう)」でこの芸能をさすこともある。古くは「せつきやう」と仮名書きする場合が多く、「説経」「説教」両方の字があてられるが、現代では「説経」と表記するのが一般的である。説経(説教)はまた、これを演ずる芸能者をさすこともあり、その意味では「説経の者」、「説教者」(蝉丸神社文書)や「説経説き」(『日葡辞書』)のことばがある。
説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり、哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する。また、近世以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある。
徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な5曲をまとめて「五説経」と称する場合がある。
説経節の源流
唱導(説経)文学
鎌倉時代末期に虎関師錬によって著された『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、
本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。
とあり、音声をもって日本の仏道を隆盛たらしめるものとして「経師」すなわち説経師、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことが示されている。これは、鎌倉末期にあっては、説経と唱導がたがいに異なるものと把握されていたことを示している。
ところが「説経」も「唱導」も本来は、 仏法を説いて衆生を導く営み全般を指しており、仏典を講じてその教義を説くことを意味していたのであって、それ自体は文学でも芸能でもなかった。しかし、従来仏教の保護者であった朝廷や公家の衰退が著しい中世にあって、文字の読み書きのできない庶民への教化という動機から、しだいに音韻抑揚をともなうようになったものである。それはまた、比喩・因縁など説話の部分が庶民にとっては親しみやすく、そこから文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称している。
「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であるが、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べているように、唱導文学はむしろ芸能としての説経に多大の素材をあたえた。
「唱導文学」(説経文学)のおもな担い手は、高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女など下級の宗教家であり、その意味では折口の指摘する通り「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」であった。その内容は、寺社の縁起、高僧伝、神仏の霊験譚、インド・中国起源のものもふくめた仏教説話など多岐にわたるが、かれらがその信仰を民衆の心底深く伝えるためには、地方の民衆のなかにあった固有の信仰・口碑を取り入れ、それと習合していく必要があった。南北朝時代、安居院流の唱道者(安居院唱導教団)の手によって成立したとみられる『神道集』は、こうした唱導のテキストを集成したものと考えられる。なお、文学史的にみれば、『神道集』は室町時代の御伽草子や説経節の先駆的性質を有していると指摘される。
ささら乞食
説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた。ささらとは、楽器というより本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである。
現存する説経正本(テキスト)で最古のものは寛永8年(1631年)の「かるかや(苅萱)」、太夫(座元・演者)の名が記されている最古は寛永16年(1639年)頃の説経与七郎を太夫とする『さんせう太夫(山荘太夫、山椒大夫)』であり、いずれも江戸期に入ってからのものである。そのため、中世における説経がどのような芸能であったかについては不明な点も多いが、唱導者による「語り」は、それをいっそう効果的なものにするため、音曲、さらには舞踊をともなうものとなり、しだいに芸能化していったものと思われる。
観阿弥作と伝わる謡曲『自然居士』(じねんこじ)に登場する自然居士は、鎌倉時代末期に実在する説経者であるが、この作品では、かれは説法のさい聴衆の眠りを覚ますべく高座の上で舞い、また、両親の供養のために我が身を売った娘を、人買いの手から取り戻すために舞を舞い、ささらを摺り、さらに鞨鼓を打ってみせている。能楽の『自然居士』には脚色が含まれている可能性があるものの、芸能化した唱導者(説経者)のあり様の一端を今日に伝えている。『自然居士』ではまた、ささらの起源として、「扇の上に木の葉のかかりしを、持たる数珠にてされされと払ひし」ことより始まったと記している。なお、自然居士は、その当時から乞食と称されていたようであり、また、自然居士を主人公とする能楽には他に『華自然居士』『聟入自然居士』がある。さらに、同類の説経者を主人公にすえたものに『東岸居士』『西岸居士』がある。
近世にあっても、街頭や寺院の境内、門口で演じられた説経でもささらを楽器として使用する場合があったが、これを伴奏に用いる「ささら説経」は、鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられている。
永仁4年(1296年)成立の『天狗草紙絵巻』には、粗末な着古しをまとい、ささらを摺る乞食僧が描かれ、いっぽう13世紀後半期に編まれたと推定される説話集『撰集抄』にも、「ささら乞食」にまつわる説話が収載されている。上述の『自然居士』もさることながら、廃曲となった世阿弥の謡曲のなかに『逢坂物狂』という曲があり、そこには「蝉丸」という人物が登場し、ささら・鞨鼓を鳴らしながら謡い狂うようすが演じられる。
近江国逢坂山の蝉丸神社に祀られる蝉丸大神は平安時代の歌人蝉丸に由来し、江戸時代の文献にも蝉丸法師は説経の徒にとっては彼らの祖神と仰がれる存在であったとの記録がある。蝉丸神社では『御巻物抄』を発行して、これを説経者の身分証明書、説経口演の許可証とした。
現存する説経節の正本は、上述のようにいずれも近世に属するが、このように説経節のテキストが比較的新しいのも、説経が長きにわたって乞食芸であったことと強い連関をもつものと推測される。たとえば、イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本語文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しているところからも、説経節が乞食芸として把握されていた事実を知ることができる。
『北野社家日記』の慶長4年(1599年)1月24日の記事に、説経者が京都北野の経王堂(現大報恩寺)の脇で説経語りをおこないたい旨、北野天満宮に申し入れたことが記され、あるいは、元和年間(1615年-1624年)制作の『洛中洛外図』(八坂神社本)や江戸時代初頭の絵巻物『采女歌舞伎草紙』(徳川美術館蔵)にはむしろの上に立って、長い柄の大傘(おおからかさ)をかざし、月代を剃り、羽織を着た人物がささら説経を語るようすが、『洛中洛外図』(西村家本)や元禄年間の『人倫訓蒙図彙』には門付する説経者(「門説経」)のようすが描かれている。このことから、説経節がもともと野外芸能(大道芸・門付芸)として発展したことがわかる。大傘とむしろ(茣蓙)は、大道芸としての説経芸を成り立たせる大道具であり、むしろをもって舞台となし、長柄の大傘をもって非日常的な演劇空間を創出したのではないかとも考えられる。いっぽう、大傘については、営業中のしるしであった。大傘を、田楽を専門に踊る田楽法師が傘をもった伝統にちなむとし、傘のかたちをした松を「神様松」と称する地域もあることから、神の依り代であることを表象するものとの見解もある。
『人倫訓蒙図彙』では、「門説経」と掲げた図に「物もらいに種なきとはいへども、小弓引(こきゅうひき)、編木摺(ささらすり)はわきて下品(げぼん)の一属なり」との説明が付されており、ささら説経の徒は乞食のなかでも最下層のものと見なされていたこと、説経を語るときの伴奏に胡弓が使用されるようになり、ささらと胡弓が説経には欠かせないものであったことを示している。なお、この図では、一人がささら、一人が三味線、一人が胡弓をもった三人組が、屋敷の門口に立つ光景が描かれている。
元禄5年(1692年)の『諸国遊里好色由来揃』などでは「伊勢乞食」がささらを摺りながら語り歩いたものが「門説経」であると伝えており、『人倫訓蒙図彙』もまた説経の出所を伊勢国としている。「伊勢乞食」の語は、のちに伊勢商人の吝嗇を非難する語となったが、元来は伊勢神宮に参宮した人びとを目あてとして群がった乞食をさす言葉であったといわれている。北野天満宮、伊勢神宮、三十三間堂(『洛中洛外図』)といった大寺社は、中世から近世初頭の日本にあっては「アジール」の機能を果たしていたのであり、非日常的な空間としてさまざまな芸能活動がさかんにおこなわれる空間だったのである。
操り興行の盛衰
近世に入り、説経節は小屋掛けで操り人形とともに行われるようになり、都市大衆の人気を博した。戸外で行われる「歌説経」「門説経」から「説経座」という常設の小屋で営まれるようになった。浄瑠璃の影響を受け、伴奏楽器として三味線を用いるようになったのも、おそらくは劇場進出がきっかけで、国文学者の室木弥太郎は寛永8年(1631年)より少し前を想定している。また、『さんせう太夫』など正本にのこる演目は、一話を語るにも相当の時間を要し、かなり高度な力量を必要とした。とりわけ後述する与七郎や七太夫などといった演者は第一級の芸能者であり、もはや、ただの乞食ではない。
説経者の流派は、玉川派と日暮派が二分し、関東地方では玉川派、京阪では日暮派が太夫となったが、ともに近江の蝉丸神社(上述)の配下となり、その口宣を受けた。
大坂
延宝6年(1678年)成立の『色道大鏡』巻八に「説経の操(あやつり)は、大坂与七郎といふ者よりはじまる」とあって、寛永16年の正本『さんせう太夫』冒頭に記された「摂州東成郡生玉庄大坂、天下一説経与七郎」と同一人物と思われる。これによれば、寛永年間(1624年-1644年)、大坂天王寺の生國魂神社(生玉神社)境内で操り説経を興行したと伝え、『諸国遊里好色由来揃』の説にしたがえば与七郎はもと伊勢国出身のささら説経の徒であったという。この「説経与七郎」の名代は幕末まで続いている。
『色道大鏡』はまた、明暦(1655年-1657年)から寛文(1661年-1673年)にかけて、説経七太夫も興行を行ったと伝えており、この七太夫が江戸の佐渡七太夫(後述)の前身ではなかったかとの推定もある。ほかに、大坂二郎兵衛という説経者の存在も確認されているが、その系統や所属は不明である。
京都
京都では、日暮林清らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から日暮八太夫や日暮小太夫があらわれ、寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている。正本の刊行などから推定して寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による寛文4年(1664年)の説経操りは後水尾法皇の叡覧に浴すまでに至っている。なお、「日暮小太夫」の名跡は宝暦(1751年-1764年)の頃まで続いたと推定されている。
説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては義太夫節による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され、江戸にくらべて早い段階で衰退してしまった。浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわったのである。
名古屋
上方についで名古屋でも説経操り芝居が演じられた。『尾張戯場事始』によれば、寛文5年(1665年)、京都の日暮小太夫が名古屋尾頭町で説経操りを興行している。そのときの演目は「コスイ天王(五翠殿)、山桝太夫、愛護若、カルカヤ(苅萱)、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ(生贄)、小ざらし物語」と記載されており、曲目がこのように明瞭に残された記録は珍しい。
衰退期の様相は不明ながら、三都と軌を一にしているものと思われる。しかし、幕末期の名古屋においては、新内節の岡本美根太夫があらわれ、説経祭文と新内節とを融合させて新曲を創始しているが、これは「説経源氏節」(または単に「源氏節」)と称されている。
江戸・東国
江戸は三都のなかでも説経座が最もさかんであった。正保(1644年-1648年)の頃から佐渡七太夫が堺町(現在の日本橋人形町)で、万治(1658年-1661年)頃には天満八太夫が禰宜町(現在の日本橋堀留町)で興行をおこなった。
佐渡七太夫の「佐渡」の名は、興行的に成功を収めた地の名に由来するものではないかという説がある。近世初頭にあって、佐渡金山を擁する佐渡島は多数の鉱山労働者が押し寄せ、娯楽の一環としての説経節には興行に対する高い需要があったと推察されるからである。また、天満八太夫は寛文元年(1661年)に受領して「石見掾藤原重信」を名乗っている。佐渡七太夫の方は、2代目が天和(1681年-1684年)の頃に活躍し、3代目の佐渡七太夫豊孝という説経語りは正徳・享保(1711年-1736年)の頃、説経の伝統を守ろうと努めて正本を盛んに刊行した。 元禄(1688年-1704年)の頃、江戸では天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが櫓をかかげて説経座を営み、江戸における人形操りの最盛期の様相を呈しており、説経太夫としては村山金太夫や大坂七郎太夫の名が知られる。18世紀初頭をすぎると江戸の人形操りは衰退し、享保年間(1716年-1736年)にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消した。佐渡七太夫豊孝の時代はすでに説経節は衰微しており、彼が刊行した正本には説経の古典とも呼ぶべき演目が多くふくまれる。有銭堂清霞の『東都一流江戸節根元集』によれば、延享(1744年-1748年)年間、説経節は江戸や地方の祭礼などでまれにみられる程度となってしまったと記されている。
江戸ではその後、寛政(1789年-1801年)の頃、小松大けう・三輪の大けうという山伏によって説経が語り伝えられ、祭文と説経節とを結びつけた説経祭文がおこり、享和(1801年-1804年)の頃には、本所の米穀店の米千なる人物が按摩(盲人)の工夫した三味線を用いて説経芝居を再興させた。この系統から薩摩若太夫が出たものの、説経芝居はやがて衰えてしまった。ただし、その流れはわずかに伝えられて、明治時代に入って若松若太夫があらわれている。薩摩若太夫の流れを薩摩派、若松若太夫の流れを若松派といい、両者を「改良説経節」と呼ぶことがあるが、ともに座はもたなかった。江戸時代後期以降、説経は大都会を離れ、主として農村地域における屋外芸能に回帰して、その芸能としての余命を保った。説経は、零落した牢人によってになわれることもあり、かれらは江戸で「乞胸(ごうむね)」という組織をつくって他者による口演を嫌ったが、一方、香具師もまた売薬の方便から説経浄瑠璃を語ったところから、乞胸と香具師の利害はしばしば衝突した。
現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけとなってしまっている。八王子や西多摩地方の八王子車人形や写し絵などとともに行われる薩摩派の薩摩若太夫(13代目)、板橋を中心に活動する若松派の2世若松若太夫(1919年-1999年)・3世若松若太夫(1964年- )、天満派の天満八太夫の活躍が新しい。なお、明治維新ののち、薩摩派の太夫が福島県会津地方に門付に入ったところ、旧会津藩の人びとが宿敵薩摩を称する者だとして太夫を迫害したため「若松」を名乗ったという逸話も今日に伝わっている。
演目と正本
古説経
現存する説経の正本は、古い順に、
『せつきやうかるかや』太夫未詳、寛永8年(1631年)4月刊、しやうるりや喜衛門板
『さんせう太夫』説経与七郎、寛永16年(1639年)頃刊、さうしや長兵衛板?
『せつきやうしんとく丸』天下無双佐渡七太夫、正保5年(1648年)3月刊、九兵衛板
『せつきやうさんせう太夫』天下一説経佐渡七太夫、明暦2年(1656年)6月刊、さうしや九兵衛板
があり、以下、万治元年(1658年)10月刊『熊野之権現記こすいてん』、万治4年(1661年)正月刊『あいごの若』などと続くが、荒木繁(国文学)は、明暦2年の『せつきやうさんせう太夫』までが「説経節が本来の語り物としての説経節らしい用語と語り口を保っていた時代」として、これらに「古説経」の名を与えている。初期の説経正本においては『せつきやうかるかや』のように、わざわざ「せつきやう」を付して並行芸能である浄瑠璃ではないということを明示している例が多い。この時期には、演者も「説経与七郎」などというふうに説経の語り手であることを示すことがある。
万治以降、時代を経るにともない、説経節は浄瑠璃の影響をいっそう強く受けるようになり、「説経浄瑠璃」と称されるような変質を遂げる。特に冒頭部分の「本地語り」が失われ、浄瑠璃色の濃い序があらわれるのが顕著な例である。
五説経とその他の演目
説経節の代表作5作を総称して「五説経」という呼び方は既に寛文年間(1661年-1673年)にみられるが、当時具体的に何を指していたかは不明である。
東京堂出版『藝能辞典』(1953年刊)「説経節」の項(執筆担当:郡司正勝)には、古くは『苅萱』『俊徳丸(しんとく丸)』『小栗判官』『山椒大夫』『梵天国』を称したが、享保のころになると『苅萱』『山椒大夫』『愛護若』『信田妻(葛の葉)』『梅若』を称するようになったと説明されている。また、国文学者で小説家の水谷不倒の説によれば、『苅萱』『山椒大夫』『小栗判官』『俊徳丸』『法蔵比丘(阿弥陀之本地)』の5種が「五説経」である。
説経操りの衰退した安永3年(1774年)序の「浄瑠璃通鑑」(『済生堂五部雑録』所収)には「其五説教とは信田妻、隅田川、愛護、津志王、石塔丸なり」と記録されており(『隅田川』は『梅若』、『津志王』は『山椒大夫』、『石塔丸』は『苅萱』をそれぞれさしている)、いずれにしても、「五説経」は、時代によって多少の異同をともなう呼称であった。
他の演目としては、『五翠殿(熊野之御本地)』『松浦長者』『釈迦の御本地』『熊谷先陣問答』『越前国永平寺開山記』『尾州成海 笠寺観音之本地』『大福弁財天御本地』『目蓮記』『百合若大臣』『王昭君』『兵庫の築島』『石山記』『鎌田兵衛正清』『志田の小太郎』『阿弥陀胸割』『崙山上人之由来』『毘沙門之本地』『天智天皇』『伍太刀菩薩』『弘知上人』『小敦盛』『中将姫御本地』(以上、横山重『説経正本集』収載)、また、『日蓮尊者』『伏見常磐』『善光寺開帳』『曇鸞記』『吹上秀衡入』などがある。これらのうち、『熊野之権現記ごすいでん(熊野之御本地)』や『目蓮記』『梵天国』などは、古体をのこしていると考えられるが、『愛護若』『松浦長者』は少なくとも正本のうえからは「説経浄瑠璃」の名がふさわしい作品となっている。また、『伏見常磐』『志田の小太郎』『百合若大臣』『兵庫の築島』などは元は曲舞に取材していると思われる。
前掲の謡曲『自然居士』『逢坂物狂』には人身売買の話が出てきたが、説経節の『山椒大夫』『小栗判官』『松浦長者』『梅若』などでも人買いは重要なモチーフとなっている。『松浦長者』のさよ姫は、父の十三年の孝養のために我が身を人買いに売る設定となっており、『自然居士』の筋ときわめて高い相似性をもつことが注目される。
説経浄瑠璃は、仏の徳をたたえるものが多く、古浄瑠璃(竹本義太夫以前の浄瑠璃)から影響を受けたものもあるが、逆に『摂州合邦辻』など説経節から浄瑠璃に素材をあたえたという例も少なくない。内容は、本地縁起物についての語りに加え、劇的効果をねらって、継子(ままこ)いじめ、お家騒動などの背景を添えたものが多い。
詞章とその変遷
詞章は全体に因果律を説く霊験物が多いが、浄瑠璃の影響を強く受ける以前と以後では、形式・内容ともに大きな変化がある。
古説経の詞章 / 本地語りと古説経特有の語り口
明暦以前の、いわゆる「古説経」冒頭には、
国を申さば丹後国、金焼地蔵(かなやきじぞう)の御本地(ごほんじ)を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度(ひとたび)は人間にておわします。… ( 明暦2年刊、佐渡七太夫正本『せつきやうさんせう太夫』) 
というような本地語りがある。ここでは、神仏が神仏になる以前の姿、いわば神仏の本源(本地)である人間について語られる。そして、この詞章をみると、七五調あるいはその変形を単位として語られており、たとえば、丹後を信濃に、金焼地蔵を親子地蔵に入れ替えると『苅萱』の本地語りに、あるいは国を美濃、神仏を正八幡の荒人神とすれば『をぐり(小栗判官)』の本地語りになる。
このような定型的な文句は、他にも随所にみられ、「あらいたはしや○○」「○○これを御覧じて」「○○げにもと思ぼしめし」の空欄部分に登場人物の名を挿入すると、さまざまな作品の詞章となり得る。
古説経では、他の語りものにはみられない卑俗な日常語や方言、訛言がふんだんに用いられ、また、敬語の過剰な多用や道行における独特のスタイルなどにきわだった特徴がある。さらに、古説経特有の語り口として注目されるものに「旅装束をなされてに」「かっぱと起きさせ給いてに」などにおける、おもに助詞の「て」につく間投詞の「に」の存在がある。これは、4種の古説経の正本いずれにも共通してみられ、三都の太夫が別々に語っておりながら語り口における見事な統一性が確認できるのである。これについては、元来伊勢方言ではないかという説(高野辰之)、さらに加えて、説経者のなかで有力なグループ(伊勢のささら説経)が他に支配的な影響をおよぼしたのではないかとする説(室木弥太郎)などがある。
本地語りなどにみられるこのような定型的な文句について、現在おこなわれている瞽女唄やイタコの祭文などの語り方と比較すると、その詞章の特徴は、口承文芸として長く語りつがれてきた結果ではないかと推測できる。というのも、語り手は、暗記した詞章をそのまま逐語的に語るのではなくて、多くの決まり文句をみずから蓄えていて、聴き手を前にして随時これら常套句を取捨選択し、組み合わせながら、その場で自由に物語をつむぎ出していったのであり、口演の一回ごとにオリジナルな演出をほどこしていたのである。20世紀アメリカ合衆国の叙事詩学者ミルマン・パリーと弟子のアルバート.B.ロードは、古代ギリシアのホメロスの叙事詩や現代ユーゴスラヴィアの口誦詩人の研究等を通じて、無文字社会における口承文芸は、このような韻律に合う決まり文句を容易に入れ替えて語られることを解明し、これを「オーラル・コンポジション」と命名した。古説経の詞章はおそらく、この方法で記憶され、再現され、伝承されたものと考えられる。
道行文と地名
本地語りは、限られた日常的な時間・空間から聴衆を解き放ち、非日常的な、未知な領域へ引き入れていくという効果もあったと思われる。しかし、これは遠国の霊地や霊仏を実見し、それにまつわる霊験譚や因縁話を熟知していなければ語り出せない性質のものでもあった。
それと同様に、説経節に特徴的な詞章として道行(旅)の過程を述べた「道行文」がある。『平家物語』や『太平記』にも名所案内も兼ねた道行の場面があらわれるが、代表的な説経節といわれる『かるかや』『さんせう太夫』『をぐり』『しんとく丸』『あいごの若』もまた、いずれも道行文を含んでいる。また、地名については、作品の内容そのものに直接の関係が全くないにもかかわらず、具体的な特定の地名をはっきりと述べていることが注目される。
『土佐日記』『伊勢物語』以降の上古・中古の文学にあっては、歌も物語も、場所と内容とが互いに分かちがたく結びついており、能楽や軍記物における道行の下りは、たえず土地の歴史をふりかえる素材となり、また、土地情報の圧縮版のような意味合いがあった。これは、説経節においても同様であり、人びとは地名を聴くだけで過去の出来事や歌・物語・人物などを想起し、しばしばこの部分だけの語りを演者に求めることさえあったようである。なお、室木弥太郎は、それが実際に語られた場所に応じて、地名を入れ替え、庶民が当該地において篤く信仰した神仏を引き合いに出すことによって、その物語のリアリティを保証する意味もあったのではないかと推定している。
一方、道行の詞章には正本による限り、季節の描写が確認できない。これは、説経の者たちがどの季節に語っても、聴衆にそのときどきの季節として想像してもらうためであろうと考えられる。
浄瑠璃の影響
万治以降の正本になると、新たに古浄瑠璃の影響を受けた序があらわれ、文字によって描かれた作品に近づいていく。
それつらつらおもんみるに、人倫の法義を本(ほん)として、君を敬い、民をあわれみ、政事(まつりごと)内には五戒を保ち… (万治4年刊『あいごの若』) 
こうした重々しい教訓的な言葉によって演者の威厳を示すようになり、一方、かつて野外芸能だったものが劇場芸能となったことから旅の必要がなくなり、地方の寺社や神仏が、しだいに都市の聴衆に無縁のものになっていったことから、従来の「本地物」形式はすがたを消失していく。また、従来は段に分かれていなかった説経が浄瑠璃同様、全体が6段に分けられるようになったが、室木弥太郎はこの変化を万治元年(1658年)以降のことと推定している。そして、それぞれの段末には「上下万民おしなべて、感ぜぬ者こそなかりけれ」という古浄瑠璃特有の形式句が付加されるようになり、さらに、各段のあいだには余興を入れて聴衆を飽きさせないような工夫をほどこしている。
そのほか、操り人形が活躍するハイライト・シーンとして合戦の場面を設けるなどの工夫を加え、言葉遣いも古説経風の方言や俗語を捨てて、より標準的で洗練されたものになってくる。これらは、いずれも劇場進出に向けた一連の改革ととらえることも可能である。しかしながら、このような変化は一方で、泥臭くとも庶民のための口承文芸として生きつづけてきた古説経独特の生命力やその独特な味わいを喪失していく過程でもあった。
なお、旧作品の改作や新作が急速に進み、浄瑠璃の改作がおこなわれるようになったのも万治以降のことである。
音曲的特色と聴衆
録音機器のない時代の芸能については、音声資料を欠くことから、その音曲的特色を説明するのは容易ではないが、江戸中期の儒学者太宰春台の著作『独語(ひとりごと)』には、説経節について、
其の声も只悲しきの声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流して泣くばかりにて浄瑠璃の如く淫声にはあらず。三線ありてよりこのかたは、三線を合はするゆえに鉦鼓を打つよりも、少しうきたつやうなれども、甚だしき淫声にはあらず。言はば哀みて傷(やぶ)ると言ふ声なり。 (太宰春台『独語』) 
という記述がある。
春台の説くところによれば、浄瑠璃が「淫声」(「みだらな声」または「人の意表を突くような歌い方」)であるのに対し、説経節の語りは、三味線をともなってからは多少「うきたつ」ところが生じたものの、哀しみのあまり傷つき、破れてしまったかのような哀切の声(「只悲しきの声」)であるという。尾州家本『歌舞伎絵巻』でも、これを裏づけるかのように、説経節の聴き手のうちの何人かは顔をおおって泣いている。
古説経の節譜としては、
コトバ(詞) / フシ(節) / クドキ(口説) / フシクドキ / ツメ(詰) / フシツメ
の6種が確認されており、そのうち、「フシ」「フシクドキ」「フシツメ」は歌謡的要素を含むと考えられる。
基本的には、「コトバ」「フシ」を交互に語ることで物語を進行させていったものと考えられるが、「コトバ」は日常会話に比較的近い、あっさりとした語り方であったろうと考えられるのに対し、「フシ」は説経独特の節回しで情緒的に、歌うように語ったものと思われる。「クドキ」「ツメ」以下はわずかしかあらわれないが、「クドキ」はおそらく沈んだ調子で悲しみの感情を込め、くどく語り、「ツメ」は拷問など緊迫した場面での語りであったろうと考えられる。「フシクドキ」「フシツメ」はそれに節を付けたものであろう。
上の6種以外に、「キリ」「三重」「ワキ」という符号が付される例がまれにあるが、「ワキ」が太夫の補佐役がワキから入り、太夫と合わせ語りをしただろうと考えられるほかは、詳細がよくわかっていない。
説経節の正本には「いたはしや」「あらいたはしや」という言葉が何度も登場するが、与七郎正本『さんせう太夫』を例にとると、フシは20カ所中14カ所、フシクドキは1カ所中1カ所、クドキは1カ所中1カ所、それぞれ「いたはしや」または「あらいたはしや」のフレーズで始まっており、ここに顕著な符合がみられる。他の正本では、この関係がそれほど明瞭でなかったり、「あはれなるかな」「流涕(りゅうてい)焦がれ泣きにける」のような語が使われる場合もあるにはあったが、「いたはしや」「あらいたはしや」の語を哀感を込めて歌い語るところに説経節の語り口における顕著な特色があったと考えられる。
文政13年(1830年)の喜多村節信『嬉遊笑覧』は宝暦10年(1760年)刊行の『風俗陀羅尼』から「いたはしや 浮世のすみに天満節」という冠付(雑俳の一種)の句を引用し、宝永元年(1704年)頃に江戸の天満八太夫が没した後、天満節はかつての隆盛が嘘のように衰えてしまったことを詠んでいるが、ここでは「いたはしや」の語が説経の語り口をあらわすことも同時に詠み込んでいるのである。
説経節という芸能の淵源は仏教における唱導や説経であったところから、本来的にはきわめて宗教性の強いものであったろうと考えられるが、それは決して理路整然とした仏教教義を説くようなものではなく、中世の民衆がいだいていた救済や転生などの強い願いに直接うったえかける情念的なものであった。中世日本における民衆生活は、商行為としての人身売買が存在しており、また、たび重なる戦乱や一揆のなかで抑圧され、蔓延する疫病や頻発する災害に打ちひしがれる悲惨なものだったのであり、人びとが現世に希望をもてないことも多かったと考えられる。したがって、説経節の語り手のみならず、それに耳を傾ける聴衆もまた、社会的に底辺に近い人びとが多く、主人公の悲惨な境遇や果敢な行動に共感し、身につまされては泣き、あるいは、過激なまでの復讐に溜飲を下げ、そこから自らの魂を解放させていたと考えられるのである。
説経節の歴史的意義
中世社会のなかの説経節
古説経は、神仏が神仏になる以前、人間であったときの苦難の生を語るという「本地物」の構造を備えており、いわば神仏の前生譚というスタイルを採っている。これは、逆言すれば、人間があらゆる艱難辛苦に打ち克って神仏に転生するという物語でもあった。そしてまた、この物語は、神仏が前生(前世)において人間として数多くの苦しみや困難を味わったからこそ、同じく悲惨で苦渋に満ちた生を送る一切衆生を救済する力があるという思想にもとづいていた。
説経節を聴きに集まる人びともまた、それが神仏として再生する物語であることを知っていた。したがって、聴衆は、本地物という形式を受け入れながら、個々の場面については、同じ人間として、いかなる情念のなかで人間の行動が語られるかに深い関心を寄せて聴き入ったものと考えられる。そして、こうした語りの全体によって、抑圧された生活を送っている人びとを「いたわしい」の言葉で慰め、来世での救済を信じて現世での苦しみを耐え忍ぶ力を与えたことであろう、と思われる。それにとどまらず、たとえば『山椒大夫』の厨子王は悲惨のどん底をかいくぐって現世の富貴繁盛を達成したとき、自身を迫害した山椒大夫に対し峻烈なほどの処刑を加える一方、自らが艱難辛苦にあったとき、ささやかながらであっても恩恵や庇護を与えてくれた者に対しては惜しみない報恩をおこなっており、これは他の演目にも共通する。ここに、中世の民衆がみずからの幸福を強く願望し、世の不条理に憤り、あるべき社会に対する熱い希求の念をいだいていたことを読み取ることができる。
注目されるのは、『しんとく丸』の蔭山長者の乙姫などにみられる恋物語は激しいまでの「純愛」を示していることである。これは、日本における「恋愛」が近代に入って西欧から輸入された概念であるという見解を裏切るものである。そしてまた、説経節の物語に登場する積極果敢な人物、なかでも乙姫や安寿姫、照手姫など、愛と献身に生きながら勇気に満ち、精神的にも自立した女性は、従来の日本文学にはみられない「新しい女性像」をつくりだしたと評価される。
その一方で、成り上がり譚や貴種流離譚を多く含む説経節は、中世史家の伊藤正敏によれば「境内都市に充満するなりあがり幻想の歌劇化」であり、いわゆる「判官贔屓」はこの幻想が実際には崩壊せざるをえないという現実に大衆的基盤を持っており、貴種流離譚は、その裏返しとしての貴族への憧憬、かなわぬ夢の反映であるともとらえられる。
「自然文学」としての説経節
今までみてきたように、説経節の起源は古く、鎌倉・南北朝の時代にさかのぼるものの、乞食芸能として民衆の底辺にあり、日本文化史においては長く埋もれた存在であった。他の芸能や語りものについては、室町時代の貴族の日記や文書にしばしば散見されるのに対し、最下層の民によって演じられる説経節についてはほとんど文献記録がのこらなかったのである。陰惨でグロテスクな描写を含むストーリーもまた、必ずしも貴族たちの嗜好に沿うものではなかったと考えられる。
このようなことから、説経節によって語られた演目の多くは、その形成のプロセスを解きほぐすことがきわめて困難である。中世にあっては、説経節のほかに、唱導の流れを引くさまざまな語りものがあり、これらの芸能を担って各地を語り歩いた多様な下級宗教家が存在したが、これら多様な芸能者のあいだには逢坂山の蝉丸神社などを通じて直接・間接のさかんな交流があった。したがって、それぞれの語りもののあいだに影響や摂取の重層的な相互関係があり、ささら説経の徒はこうしたなかから自らの芸能にふさわしいものを吸収し、説経節の世界を創造したものと考えられる。
いっぽう、下級宗教者が民衆のなかに入っていった目的として本来は信仰の宣布ということがあったはずであるが、それが庶民に受け入れられるためには、彼らに固有の信仰や土俗慣習などと結びつき、人びとの意識・感情・情念・想像力といったものを汲み取らなくてはならなかった。その意味で説経節は、語り手と聴衆とが、その濃密な関係性のなかで一体となって育んできた芸能でもあった。こうした多層的・複合的性格のゆえに、この芸能の形成過程を単純に割り出すことはいっそう難しいのである。しかし、一方では特定の信仰の宣伝という直接的な動機から離れ、それにともなう効果・効力という功利的な側面をも失った反面、日本の中世民衆の文学的想像力がより自由に表現されたものになっていることは確かであり、その意味で、ドイツの哲学者・文学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが18世紀後葉に語った「自然文学」(特定個人の創作文学ではなく民衆のなかから自然発生的に生まれてきた文学)と形容してよい内実を備えている。
語りもの文芸における位置づけ
語りもの芸能の主流が、中世の平曲から近世の浄瑠璃に移るあいだに、さまざまな口承文芸の盛衰があり、また、相互の競争もはなはだしかったが、そのなかで有力なものとして舞曲と説経が挙げられる。
平曲は、『平家物語』を琵琶の伴奏で語る語りもの芸能であったが、これは琵琶法師という盲僧の専業によるものであった。中世も終末期に近づくと平曲の人気は衰え、それにともない盲僧はさまざまな芸能をおこなうようになったが、『言継卿記』天正20年(1592年)8月15日条には、ある座頭が平家以外に「浄瑠璃・三味線・早物語」を演じている旨の記録がある。ただし、この時期の浄瑠璃はいまだ一地方の語りものの域を出るものではなかった。
座頭による浄瑠璃語りそのものは、享禄4年(1531年)以前にさかのぼるといわれる。「浄瑠璃」という芸能の名称は三河国矢矧宿の遊女浄瑠璃御前と源義経の恋物語(『浄瑠璃姫物語』)から端を発している。中世における語りものには、『曽我物語』や『義経記』などを題材にしたものもあり、上述したように多数の下級宗教者によって語り運ばれたものであるが、そうしたなかで浄瑠璃が説経節や曲舞その他を押さえて近世に躍進したのは、内容もさることながら、語り口の力強さ、節回しなどの点で新鮮なものであったからと考えられる。三味線という琉球王国から伝わった楽器を駆使し、操り人形を利用して劇場芸能にふさわしい演出を加えたことも大きい。それに加えて、浄瑠璃興行に新しい演出をほどこした人物や音曲的要素をもたらした人びとは、盲僧はじめ従来の芸能者ではなく、むしろ素人と呼んでよい人びとが多かったのである。
舞曲(曲舞)は単に「舞」ともいい、その歴史は古く、室町期にあっては能楽にも取り入れられたが、16世紀以降は語りものの大作も手がけるようになった。織田信長が幸若舞の幸若八郎九郎を取り立て、また、他の戦国大名も幸若に属する諸派を厚遇するようになって以降、幸若舞の一派は権力と結びついた。そうしたなかには江戸期にあっては士分に取り立てられて高禄を得た例もあったが、しかし、本来の芸の継承や向上には概して不熱心となり、自分たち以外の芸能者を見下し、抑圧する側にまわったのであった。いっぽうで、そうした幸運にめぐまれなかった舞の人びとは幸若・非幸若問わず零落し、こじき同然に転落した人も多かった。起死回生を図るべく京都などでは舞座の興行も試みられたが、成功しなかった。
以上、浄瑠璃とくらべると、説経には舞曲同様、素人が参入する余地は少なかったと思われる。その意味では、浄瑠璃にみられるような従来の殻をやぶる要素には乏しかった。説経は浄瑠璃との競合関係から、その独自性を保つため、古体を維持する必要があったのであるが、浄瑠璃風の新味を出そうとしたところ、独自性が失われ、やがて衰亡してしまった。ただし一方では、一部の舞とは異なり、宮中に出入りしたり、大名や有力者に招かりたりする例がほとんどなく、権力と結びつく機会がほとんどなかった。それゆえ、舞曲にくらべれば、むしろ語りもの芸能の新しい転換には積極的で、古浄瑠璃と対抗し、あるいは妥協しながら、芸能としては相当長く生きのび、長期にわたって影響力を保持したのである。
中世の長きにわたって身分的にも経済的にも底辺に近いところにあった説経節は、近世にあっても人びとの支持を広く集めたのである。
文字的文化への移行
説経節が、中世末から近世にかけての時期、にわかに芸能として脚光を浴びるようになったのは、操り芝居との提携という契機もあったが、これまで延べてきたように、説経節の語りそのものに、人びとを惹きつける独特の魅力や時代を越えた普遍性が備わっていたからであろうと考えられる。
慶長年間(1596年-1615年)の日本においては、一部の人は別として大多数の人びとは文字や書籍になじまない生活を送っていた。もとより写本はさかんになされていたし、絵巻物よりも簡便な奈良絵本も当時さかんに製作されていた。また、南蛮人や朝鮮半島からもたらされた新しい印刷技術もあって活字本も刊行されていたのであるが、しかし、それは必ずしも社会的に広汎におよんだものではなかった。それが、寛永年間(1624年-1645年)に入り、従来の木活字に代わって、原稿そのままを木の板に彫って印刷する整版印刷がなされるようになると、出版は完全に商業ベースに乗った。これにともない、出版の大衆化が大いに進み、一般庶民を読者とする大衆文学も読まれるようになったのである。整版印刷は、漢字を自由に用い、読み仮名なども付して読みやすくすることができるうえ、はるかに低廉な価格で印刷物が刊行でき、版元の経営を安定させたのであった。
こうして進行した出版大衆化もあって、民衆の側にも文字に対する旺盛な学習意欲が生まれた。慶長より約100年後の宝永3年(1706年)の浄瑠璃『碁盤太平記』には、大星力弥が文盲の岡平を笑って「世には無筆も多けれども、一文字引く事も読む事もならぬとは、子供に劣った奉公人」と語る場面が出てくるまでに至り、その間の民衆の識字率の向上にはめざましいものがある。
ところが、慶長の頃にあっては一般民衆はまだまだ文字の文芸からは遠い世界にあり、口承文芸とくに語りものの世界にあったのである。そして、寛永期以降の出版大衆化の進行は次第に文芸における文字の比重を増大せしめた。「古説経」といわれる寛永から明暦にかけての説経正本は、このような経緯のなかで生まれたのである。
そしてまた、説経節が18世紀に入って急速に衰退していくことは、都市を中心とした民衆の文化が、口頭的な文化から文字的な文化へと大転換を遂げたことと軌を一にしているのであり、これは文化史上の大きな画期であった。もとより、青森県のイタコ祭文や新潟県の瞽女唄など、かつての説経節と形式や素材において共通点をもつ口承文芸が細々と続いてきたことは確かではあるが、とはいえ、これらの芸能がその内容においてひじょうに衰弱してしまったものであることは否定できない。
これに対し、かつての説経節とりわけ「古説経」と呼ばれる説経節は、日本の口承文芸史上高度に花開いた作品群であり、ある意味では最後の鮮光とも呼びうる存在である。それが、幸いにも製版印刷の普及の時期にあたっていたため、文字によるテキストとして後世に伝えられたのである。
他の芸能・文芸への影響
浄瑠璃と説経節は相互に影響をあたえあい、浄瑠璃作品に多くの素材を提供したのは既述のとおりである。説経節の演目から素材を得た浄瑠璃(文楽)の作品には上述の『摂州合邦辻』のほか『小栗判官車街道』『苅萱桑門筑紫車榮』『芦屋道満大内鑑』などがある。元禄期以降の説経節はまた、換骨奪胎されて歌舞伎の演目としても演じられるようになった。
『山椒大夫』は、歌舞伎では『由良湊千軒長者』という演目になったが、現在ではあまり上演されなくなっている。『俊徳丸』は謡曲『弱法師』の題材となっており、さらに歌舞伎・文楽の『摂州合邦辻』に引き継がれ、また、『苅萱』の石童丸の物語は歌舞伎の『苅萱道心』に、『小栗判官』は歌舞伎・文楽の『小栗判官車街道』の題材となっている。
浪花節(浪曲)は、祭文語りと説経節の双方を源流として生まれた語りものといわれ、ちょぼくれ、ちょんがれ、浮かれ節なども同系統とされる。浪花節の起源は享保(1716年-1735年)ころに活躍した浪花伊助であると説明されることも多いが、実際に流行したのは幕末期が最初であるという。
また、落語は説教と説話、講談は説教を源流としており、ともに近世初頭に成立した話芸である。説教(説経)からは節談説教と説経節が派生しているが、説経節における石童丸や小栗判官の話は、講談でも多く取り上げられ、明治・大正に至るまで庶民にはなじみ深い話であった。
説経節は、文芸のうえでは江戸時代の絵入り娯楽本である草双紙(絵草紙)や伝奇小説(読本)の類にも多くの素材を提供した。曲亭馬琴も『石堂丸苅萱物語』や『松浦佐用姫石魂録』などの読本作品をのこしている。
説経節の演目はのちに近代小説の題材ともなった。1915年(大正4年)に森鷗外によって小説『山椒大夫』が書かれ、雑誌『中央公論』に掲載された。鷗外は、説経のあらすじをおおむね再現しながらも脚色を加え、親子や姉弟の骨肉の愛を中心に描き、近代的な意味で破綻のない世界にまとめあげたが、しばしば、原作のもつ荒々しさや陰惨さ、虐げられた者のどろどろとした情念の部分は取り払われたと指摘される。また、この翻案小説にあっては「道行」の下りはごく簡単に処理されており、死と再生という説経節がもつ独特の場と形式も軽視されていると指摘されることがある。
1917年(大正6年)には折口信夫によって短編小説『身毒丸』が発表されたが、これは説経節『俊徳丸』や謡曲『弱法師』のもととなった高安長者伝説を「宗教倫理の方便風な分子をとり去つて」短編小説化したものである。主人公「しんとく(身毒)丸」は、ここでは先祖伝来の病を持つ田楽師の子息として描かれている。
昭和に入って、鷗外原作の『山椒大夫』が1954年(昭和29年)、溝口健二監督作品として映画化され、折口原作の『身毒丸』は寺山修司・岸田理生の脚本を得て、劇団天井桟敷によって舞台作品『身毒丸』として1978年(昭和53年)に初演されるなど、説経節の演目が新しいかたちでよみがえり、話題となった。また、『小栗判官』は、1982年(昭和57年)に初演された遠藤啄郎脚本・演出の横浜ボートシアターによる仮面劇『小栗判官照手姫』となって大反響を呼び、1991年(平成3年)に初演された梅原猛作のスーパー歌舞伎『オグリ』として注目された。
その他、説経節の素材は、日本列島各地で、たとえば瞽女唄として、盲僧琵琶として、あるいは大黒舞の歌などとして伝えられた。また、三味線による説経語りは、新潟県佐渡市の説経人形(国の重要無形民俗文化財)、埼玉県横瀬町の人形芝居(袱紗人形、埼玉県指定無形民俗文化財)、東京都八王子市の車人形(選択無形民俗文化財)など各地の民俗芸能として、そのなごりをとどめている。 
説経節4
ぼくは説経節にめっぽう弱い。山椒太夫や信徳丸や小栗判官などの物語がもつ特徴そのものも好きなのだが、そのような物語のどこかにひそむ何かがクドキのフシとなり、浄瑠璃となり、歌舞伎となっていくその変容を約束するところ、すなわちそのような変容を促す原型を秘めているということに、さらに惹かれる。
説経節は哀切に富んでいる。それだけでなく主人公や登場人物の一部が予想をこえる宿命に犯されている。たいていは身体を犯されている。
ぼくがこのような物語に弱いのは、そもそも鴎外の『山椒太夫』や折口信夫の『身毒丸』を読んだときから、自分がこの手のものにたちまち胸を奪われるので、すぐにわかった。
一方、高田御贅(ごぜ)の祭文松坂を聞いたときのことだとおもうが、そのクドキを聞いて身が震えてしまった。
七五調で一句とし、これを一声とか一言とかよばれる節つけで語る。その一声のかたまりが5つほどすすんだところで三味線の合いの手がベェン・ベェンと入る。
痺れて、聞いていた。その後、この祭文松坂がかつての説経節を踏襲しているものだと知って、そうか、説経節はこのように語るのかということに合点がいった。それから若松系の演者がどこかで説経節を語るときくと、出かけていった。
やっぱり、痺れた。
その後、東洋文庫の『説経節』を読んだ。「山椒太夫」「苅萱」「信徳丸」「愛護若」「小栗判官」「信太妻」である。
テキストには、「コトバ」と小字があって「ただいま語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼き地蔵の御本地を、あらあら説きたいひろめ申すに、これも一度は人間にておわします云々」などと語り文句になり、また「フシ」と小字が入って「あらいたわしや御台所は、姫と若、伊達の群(こおり)、信夫の庄へ、御浪人され、御嘆きはことわりなり」などと進む。
その繰り返しである。読んでいると祭文松坂を聞いたときの痺れがよみがえる。なんともやりきれない。その、人をやりきれない哀切に追いこむところが、好きだったのだ。
説経節のルーツは「ささら説経」あたりで、おそらくは世阿弥の時代には本地語りをもった唱導芸能になりつつあった。
ただし、本地語りの唱導芸能だけならすでに高野聖も盲僧も絵解き法師もしていたはずである。それが独得の説経語りになっていったのは、かなりの下層民がささらを鳴らして語りはじめてからのことだったろう。けれどもその事情はテキストにも残っていないし、その姿が絵に残らない。
だいたい現存する説経節のテキストはいちばん古くて寛永15年くらいのもので、説経与七郎の『さんせう太夫』のものが残っている。与七郎のことも少しわかっていて、もとは門説経、じつは伊勢乞食というふうなことが書かれている。これは元禄の『諸国遊里好色由来揃』という貴重な文献に見出せる。
こういうわけなので説経節の実態が中世や戦国期にどのようなものであったかは正確にはつきとめられないのだが、それでも喜多村信節の書きのこしたことなどあれこれ総合すると、少なくとも慶長年間のすがたは蘇ってくる。摺説経、門説経、編木説経、あやつり説経などの分化もみられた。
それにしても昔の説経節がどんなクドキとフシをもっていたのかを、知りたい。そう思ってずいぶん時をへたころ、太宰春台の『独語』にこんな説明があったことを知った。
「其の声も只悲しき声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流してなくばかりにて、浄瑠璃の如く淫声にはあらず。三線ありてよりこのかたは、三線を合はするゆえに鉦鼓を打つよりも、少し浮きたつやうなれども、甚しき淫声にはあらず。言はば哀みて傷ると言ふ声なり」。
淫声ではない。それはそうだろう。淫声ではあるまい。
浄瑠璃でもないというのは、この時期の声のことで、おそらくは初期は古浄瑠璃ともつながるものだったろう。けれども、新しい浄瑠璃の声とはちがっていたというのも、よくわかる。説経語りは享保年間にはすっかり廃れてしまうのだが、それは新たな浄瑠璃の大流行のせいだったからである。
で、どんな声だと春台が伝えてくれたかというと、「哀しみて傷るといふ声」というのである。「傷る」は「やぶる」と訓む。破れるような声だというのだ。哀しみのあまりに傷がついてしまったような声だというのだ。
なんという声。なんという破綻。なんという絶唱。
説経には「いたわしや」「あらいたわしや」という言葉がふんだんに出てくるのだが、その言葉を聞くたびに聞く者が胸をつまらせる。けれども、そこへさしかかってくる前に、すでに声は傷(やぶ)れつつあるわけなのである。その傷の裂け目こそが聞く者に順々に伝わってくる。それが春台のいう「哀しみすぎて破れていく声」というものだろう。
「いたわしさ」。
なんだかいまではすっかり死語になってしまったような言葉だ。ぼくは、その「いたわしさ」のためだけのカタリとフシを、今日の日本のどこで聞けばいいのか、そのことばかりがわからない。
 
平曲(へいきょく)

 

「平家物語」の詞章を琵琶の伴奏で弾き語りする語物(かたりもの)の一種。「平家琵琶」「平語(へいご)」ともいう。室町時代まで盲人演奏家によって伝承され、江戸時代以降は晴眼者で演奏する者も現れた。13世紀初めに雅楽・声明(しょうみょう)・盲僧(もうそう)琵琶の三者を源流として成立。「徒然草(つれづれぐさ)」第226段には、信濃(しなの)前司行長(ゆきなが)と生仏(しょうぶつ)という盲僧の協力で鎌倉時代の初めころつくられたとあるが、その成立をめぐっては多くの異説がある。約100年後の南北朝時代になると、検校(けんぎょう)明石覚一(あかしかくいち)(1300?-71)という名人が現れて詞章・曲節に改良を加え、現行のような形に整えたとされる。「当道」という盲人の位階制度ができたのも覚一のころで、最高位者を検校、のちには最高責任者を総検校と称した。これから室町時代が平曲の最盛期である。江戸時代に入っても幕府の保護を受けていたため、三味線の流行にも駆逐されることなく、とくに徳川家光(いえみつ)は平曲を愛好して、波多野孝一(こういち)検校(?-1651)に京都で波多野流を、前田九一(くいち)検校(?-1685)に江戸で前田流を開かせた。京都でこの両流を学んだ荻野知一(とものいち)検校(1731-1801)は、名古屋に出て「平家正節(まぶし)」(1776)という譜本をつくった。数多い晴眼の平曲愛好者のための譜本の集大成ともいうべき優れたもので、今日まで前田流の規範譜である。明治に入ると当道保護の政策が廃止され、京都の波多野流は藤村性禅(せいぜん)(1853-1911)の死によって事実上の断絶をみた。
琵琶法師1
徒然草 / 第二百二十六段
後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。
後鳥羽院の御時(1183-1221年)、信濃の前の國司・中山行長(信濃前司行長・しなののぜんじゆきなが)は学問につうじているとの評判が高かったので、白氏文集の新楽府についての討議に召されて、秦王破陣樂の武徳の頌語七つの七徳のうちを二つ忘れたので、五徳の冠者(かじゃ)と綽名されたのを心痛して、學問をすてて遁世した。 これを慈円和尚(じえんおしょう)は、一芸のある者を養われていたので、この中山行長にも扶持を与えておられた。
この中山行長は「平家物語」を作って、生仏(しょうぶつ)という名の盲人の琵琶(盲僧琵琶)の名手に教えて語らせた。それで、平家物語には著者行長は自分が詳しい比叡山延暦寺のことは詳細に書き、延暦寺に連なる義経のことは、特に詳しく書いている。 義経の兄の蒲冠者範頼(かばのかじゃのりより)のことは、行長はよく知らなかったらしく、書きもらしが多い。 武芸のことは、この琵琶法師生仏(しょうぶつ)が東國出身だったので、武士に問い聞いて書き加えさせた。
こんなことから、琵琶法師・生仏の生まれつきの東國風発音を、今の琵琶法師はしているのである。
盲僧琵琶2
ひとことで言えば、仏教音楽の一つで演奏者は盲目の僧侶(または僧体をなすもの、私度僧ですね)で、琵琶だけでなく法会では打楽器なども用いることもある、宗教音楽家であるのと同時に平家琵琶の平曲演奏家と同様に職業的芸能者でもあり、ともに琵琶法師と総称される。
明治以降、廃仏毀釈などのため様々な制約をうけて、苦しい立場にたつこともあった。
盲僧およびその琵琶の日本への伝来の歴史などは不明である。伝来や歴史が比較的はっきりしている雅楽琵琶と、現在の盲僧の使用する琵琶から類推すると、形状や奏法が異なるため、そのルーツが異なると考えられているようである。しかし非常に古くから九州各地に盲僧が存在していたようで、江戸時代には豊前、豊後、筑前、筑後、肥前の諸国に盲僧が広く分布いていたという記録があるそうで、九州以外にも中国地方とくに長門、周防に多く、ほかに石見を経て若狭に及び、山陽地方では広島にまで及んだという。
こうした九州、中国系の盲僧とは別に、大和には古くから興福寺の一乗院門跡を本所とする盲僧の組織があり、その勢力は紀州にまで及んでいたという。
盲僧琵琶は「筑前盲僧琵琶」と「薩摩盲僧琵琶」とに大別される。豊前の国東盲僧琵琶は調弦が筑前盲僧と異同があり別種ともいわれるが、宗教上の分類では筑前盲僧と同じく「玄清法流」と称するため筑前盲僧と括られているようである。
また肥後琵琶というものは、現在は演奏者が盲僧とは言いがたくなっているものの、その歴史は延宝2年(1674)京都の舟橋検校が、肥後藩主細川候に召されて熊本に行き、盲僧たちに浄瑠璃を教えたのが始まりとされるため、元来は盲僧琵琶であるともいえよう。
盲僧琵琶の歴史について、その伝承を有するのは成就院と常楽院で、それぞれが伝えるだいたいの沿革は次の通りである。
成就院の開祖は玄清法印で「成就院玄清法印芳蹤録」などによれば、776年大宰府の生まれ幼名は乙丸、父は橘左近尉光政、7歳で伯父知山より受戒、17歳で失明し、盲僧となる。「盲僧由来」などによれば、785年比叡山根本中堂建立に際して地鎮祭の法を行い、その功により成就院の号を受け、「般若心経」と荒神祓いの法を授けられ、789年四王寺北谷に成就院を建立し筑紫九ヶ国の盲僧の長となり、808年成就院を天台宗叡山末流盲僧本寺とする許しをうけ、法眼の位と「地神陀羅尼経」を賜り、817年法印となった823年享年58歳で没した。「筑紫国続風土記」によれば、墓は四王寺山上焼米原にあるとされる。
「盲僧由来」では、その後1298年その著者の真如院受山大徳が博多蔵本町に臨江山妙音寺建てて盲僧の本山とし、1907年にそれが高宮に移されたのが現在の成就院であるという。ところが、「常楽院沿革史」などによると比叡山根本中堂の建立に際して、伝教大師が山中の蛇などを退治するために、土荒地神を祭る地鎮の典を挙げるべく九州から呼び寄せた盲僧は、満市坊、満虎坊、満王坊、今様坊、袈裟様坊、大行寺坊、大栗坊、今城坊、の八人ということであるが、一方「盲僧由来」では、九州から呼び寄せられた盲僧は、筑前の麻須@、筑後の化佐@伊麻@、肥後の麻須@、薩摩の他化@、日向の与根@、豊前の征@であって、しかも元明天皇のときに宮中の魔障をはらうためであったという。「常楽院沿革史」では、前出の八人の盲僧は806年天台の四度行法を修め、阿闍梨位と院号を授けられ、今様、袈裟様、大行寺、大栗の四人は九州に帰ったが、他の四人は都にとどまった。そのうち満市坊は満正阿闍梨となり、808年逢坂山に正法山妙音寺常楽院を開いた。九州に下った今様坊は肥後に、袈裟様坊は日向に、大行寺坊は大隈に、大栗坊は薩摩に、それぞれ盲僧寺を開いたとされている。満正阿闍梨は常楽院を32年間住持し、晩年には「妙音十二楽」を制定し、840年頃没したという、その四代目の住持が「蝉丸」であるともいう。
常楽院第十九代住持の宝山検校は、1192年島津忠久が薩摩ほかの守護職となったときに島津家の祈祷僧となって忠久に随従、1196年薩摩日置郡伊作郷中島に常楽院を建立した。その後、島津日新斎は常楽院三十一代の淵脇寿長院了公を陣中に召して聞役としまたその功により三十二代の家村大光院を召して薩・隅・日三州総家督とし、その支配下の各家督は一人一人盲僧屋敷を賜り、各地の盲僧寺の住職となった。1619年三十三代長倉浄徳院のときに、島津家の命によって常楽院は鹿児島城下山之口馬場に移された。その後1696年にはさらに下荒田町に移された。1870年四十四代伊集院俊徳のときに廃仏毀釈のため祓戸神社と改称したが、76年信仰の自由の令が出て再び常楽院として復興された。しかし77年の西南戦争で本堂は焼失、79年に長田町に移転した。四十五代を継いだのが「常楽院沿革史」を記した江田俊了であるが、その住持した長田町の常楽院も第二次世界大戦の戦災で焼失、四十六代樗木教真のときには吹上町の中島常楽院を本山としたが、現在は江田の弟子の日南市飫肥の真景山長久寺覚正院(袈裟様坊が開く)の柳田耕雲がその四十七代住職を兼ね、中島常楽院は日南長久寺常楽院の管理下にある。なお、日向盲僧が事実上の本寺としている長久寺浄満寺は、やはり「常楽院沿革史」によれば、1685年に領主有馬左衛門尉永純が吉野坊真鏡のために建立したもので、真鏡は延岡領内盲僧取締を命ぜられ、1690年に没した。やはり明治の廃仏毀釈を経て、1907年天台宗地神盲僧規則改正によって常楽院の管轄を受けるに至った。
以上のように薩摩盲僧は薩摩藩の庇護を受けていたために、その近世における沿革はある程度明らかになっているが、それ以外の九州の盲僧の沿革はほとんど不明である。
すべての盲僧に共通するのは明治に至って、神仏分離を中心とした政府の宗教政策から、盲僧の宗教行為も制約を余儀なくされた。すなわち、神職に転職させられるか、あるいは神事に関与することさえ禁じられた。さらに1871年の盲官廃止令は、当道座の解体のみならず盲僧の存在も禁止するものであって、その後天台宗に属することによって復活した玄清・常楽院両部の盲僧以外は、ほとんど盲僧としての集団的存在は見られなくなってしまった。
盲僧が檀家を回って行う法要を廻檀法要というが、これは習俗的信仰行事とも結びつく。その中で代表的なものが「土用行」で、いわゆる「竈払い」「荒神祓い」である。そのほか、「地鎮祭」「火上げ」「水神上げ」「亡霊落し」などがある。これらの廻檀法要には荒神経系のお経、地鎮経系のお経和讃、釈文などが用いられるが、その経の種類や内容は様々で、しかも正規の経典でないものが多くまた音読とは限らず、訓読のものもある。なお常楽院部では、土荒神法すなわち荒神祓いを行わなくなっている。こうした廻檀法要の際に余興として行われた盲僧の語り物芸能を「くずれ」といい、主として北九州の盲僧が行った。本来は釈文に代わる琵琶説経であったものが、しだいに琵琶軍談的なものが多くなっていった。そうした軍談は戦没者の鎮魂のために発生したものであり、平家の軍談もその一つであったと思われ、古くは盲僧側でも「平家くずれ」として、平曲に近いものを語っていたと思われる。一方、当道側の盲人も古くは「地神経」などを踊したことが記録されている。
なお現行の薩摩琵琶で「崩れ」といっているのは、合戦の場面などでの勇壮な旋律をいうが、これは盲僧の「くずれ」が軍談中心であったことに起因しよう。
さらに和讃体の韻律的な詩型の語り物が発生して、これを「端唄」といったが、これも和讃に代わるものであり、現行の薩摩琵琶の初期の琵琶歌はこの「端唄」から発展したものと考えられる。現行の筑前琵琶も、もともと筑前盲僧からものでその基本となったのは薩摩同様に「端唄」や「くずれ」である。なお現在では「端唄」に対して本来の「くずれ」を「段物」ともいっている。
筑前盲僧や肥後琵琶の演奏者たちは、最も余興的なものとして「酒餅合戦」「鯛の婿入り」など滑稽な内容をもつものを語る。これらは多分に即興性をもち、これを「チャリ物」という。現在では盲僧外にも「滑稽琵琶」などと称して広まり、曲弾き的要素も加えられたりしているが、本来は盲僧の「くずれ」の一種であったものである。  
「琵琶法師」3 見えないモノのざわめきに声をあたえる者
「平家物語」を語る盲僧というイメージが強い琵琶法師だが、「平家物語」成立以前から存在していた。また、後年になると「平家物語」は一部の特権層に独占され、下級の琵琶法師は演奏を禁じられてしまう。琵琶法師=「平家物語」を語る盲僧、ではかならずしもないのだ。琵琶法師の読誦は、「平家物語」もそうだったように、死んだ者たちを弔うための物語だった。
「異界」に棲む〈見えないモノのざわめき〉に声をあたえ現前させること。琵琶法師の「モノ語り」とはそういう呪術的なパフォーマンスであり、モノ=死者に次々転移する琵琶法師の語りは、近代的な意味での「主体」とか「視点」といった概念では捕まえることができない〈絶対的な他者〉としてある。
思い出話でさえモノ語りとなり、登場人物に転移していってしまう山鹿との(ディス)コミュニケーションを通じて、著者はそのような実感を持つにいたったのである。
琵琶法師が文献に登場し始めるのは10世紀の平安中期ごろ。貴族の邸に召されて芸をしたり、寺院に下級の宗教芸能民として所属し法会や祭礼で「散楽」(公式の「雅楽」に対する、卑俗な雑学・雑芸のたぐい)を奏したと残っているが、著者は後世の資料から「地神経」も読誦したのではないかと仮説を立てる。
「地神経」とは、大地の神(地神)を鎮めるための民間教典で、「盤古大王・堅牢地神」とその王子「五竜王」の神話に基づく「五郎王子譚」を説いたものだ。
「五郎王子譚」は、「地母」とも訳される「堅牢地神」と、その第五男子である「五郎王子」をめぐる物語なのだが、両者を混同・同一化したり、五郎が姫にすり替わっていたりする伝承があることに著者は着目する。
それは単なる伝承ミスなどではなく、モノ語りの本質に関わる事態であって、両義性を帯びた物語として「五郎王子譚」が現われていたところに「平家物語」の原初の姿があるというのだ。
〈いわゆる「宿の者」として境界の地に住み、みずからも両義性を帯びた存在である琵琶法師たちにとって、その奉斎する神の両義性は必然的なものでもあった。地神の信仰が可能態としてはらむ母と子の信仰は、むしろかれらによって伝承された物語において、物語を生成させる母体[マトリクス]として作用することになる〉
平家が壇ノ浦で滅んだのは元暦2年(1185年)のこと。それからほどなく「平家物語」は語られ始めたらしい。
平家滅亡直後、京都に大地震が起こり、8歳で死んだ安徳天皇と平家一門の祟りだと怖れられた。そこで、平家を鎮魂するための寺院が建てられた。「耳なし芳一」にも登場する赤間ヶ関の阿弥陀寺である。
「平家物語」の最後「灌頂巻」に、建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)の夢の語りとして、壇ノ浦に沈んだ安徳天皇と平家一門が竜宮城にいること、つまり竜王の眷属(一族)に転生したことが書かれている。
先の大地震について人々は「竜王動く」と噂した。竜王とは平清盛であり、また安徳天皇でもあった。安徳天皇と一緒に三種の神器の宝剣も海に沈み失われたのだが、この宝剣はスサノオノ尊がヤマタノオロチの尻尾から取り出したものだった。安徳天皇は、宝剣を取り返すために生まれ変わったヤマタノオロチであると人々は信じたのである。
安徳天皇の物語はさらに「法華経」の説く8歳の「竜女」と習合していく。「堅牢地神と五郎王子」と「平清盛と安徳天皇」ふたつの物語で、似たような同一化と混同、両義性が生じていることに注意したい。
当時宗教界の頂点にいた僧侶・慈円も、歴史書「愚管抄」に〈安徳帝は「竜王のむすめ」厳島明神のうまれかわりゆえに海に帰ったという説〉を書いている。
慈円が、保元の乱以降の乱世に満ちていた「怨霊・亡卒」を鎮めるために三条白河に大懺法院を建立し後鳥羽上皇に収めると、僧侶や説教師、遁世僧や下級芸能者が集った。この大懺法院がどうやら「平家物語」編纂の場となったらしい。
平曲と平家語り4
平家物語は、中世から近世にかけて、琵琶法師と呼ばれる盲僧たちによって、全国津々浦々に語り歩かれた。この国の口承文芸の中でも、とりわけて大きな流れをなしてきたものであり、能をはじめほかの文芸に及ぼした影響も計り知れないものがあった。また、口承の文芸というにとどまらず、読み物の形でも広く受容された。いわば、この国の民族的叙事詩ともいうべきものなのである。
平家物語の成立については、徒然草第二百二十六段の記しているところが、最も早く、かつ詳しいものとして知られている。
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論義の番にめされて、七徳の舞をふたつ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心うき事にして、学問をすてゝ遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までもめしをきて、不便にせさせ給ければ、此信濃入道を扶持し給けり。此行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教てかたらせけり。さて、山門のことをことにゆゝしくかけり。九郎判官の事はくはしく知て書のせたり。蒲冠者の事はよくしらざりけるにや、おほくのことゞもをしるしもらせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国のものにて、武士に問聞てかゝせけり。彼生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたる也。」
この記述によれば、平家物語の原型が成立したのは、承久年間、平家が壇ノ浦で滅びた寿永四年(1185)から、ほぼ30年たった頃、源平の戦の記憶がまだ覚めやらぬ時期である。
作者とされる行長については、諸説あるが、その者が剃髪して比叡山に入った後、天台座主慈鎮和尚の扶持を受けながら平家物語を作り、盲僧の生仏に語らせたのが始まりだとしている。
当時の比叡山は、源平の戦乱の後の世にあって、多くの遁世者が身を寄せる所であった。行長もそんな者のひとりとして、まだ記憶に新しい源平の戦について、ほかの遁世者に尋ねるなどしながら、物語を書いたものと思われる。
重要なのは、この物語を盲僧に語らせたという点である。むしろ、盲僧に語らせることを念頭において作ったのではないかとも、思われるのである。
盲僧が琵琶を弾くようになるのは、任明天皇の子人康親王が盲目となり、ほかの盲僧にも琵琶を教えるようになって以来といわれている。鎌倉時代初期には、そのような琵琶法師が多数存在していた。生仏もそのような琵琶法師の一人だったと思われる。琵琶法師の中には、乞食同然の者もいて、語り物を語って諸国を漂泊していたとも考えられるのであるが、盲官という官職を授けられて、詩歌管弦をこととする者もいたのである。生仏はそのような盲官であったと思われる。
このように、平家物語は語られる物語として作られた。平家物語という名称自体、徳川時代以降に定着したものであり、当初は単に平家と呼び、その語りを平曲ともいっていたのである。そして、平曲を語る者を平家語りというようになったのであった。
語った盲僧たちは比叡山ゆかりの琵琶法師たちであったから、その語り方には、天台声明の響きがあった。同じく声明を取り入れたものに、安居院派の唱導や説教などがあるが、両者は親縁関係にあったものと思われる。
平曲に用いられた琵琶は、独特なものだったらしい。漂泊する乞食僧たちは、笹琵琶とよばれる比較的単純な琵琶を使っていたことがわかっており、また、一方では雅楽に用いられる伝統的な楽琵琶というものがあった。平曲用の琵琶は、それらを折衷させたものだったらしい。
生仏のあと、平曲は後継の琵琶法師たちによって語り継がれ、また修正を加えられて次第に大部のものになっていく。三巻だったとされる原型の物語は、13世紀半ばには十二巻にまで膨らんだ。
平曲を語る琵琶法師たちは、乞食法師たちとは異なる扱いを受け、社会的にも認知されていた。彼らは、検校、別当、勾当、座頭からなる身分組織をつくり、強い団結を誇ったといわれる。盲僧には世襲の権威というものはないので、自分たちの実力を示すことで、その存在価値を社会に認めさせたのであった。
平家物語1
祇園精舎鐘聲諸行無常響有沙羅雙樹之花之色盛者必衰之理顕奢れる人も不久只春夜如夢猛者終亡ぬ偏風之前塵同
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠異朝訪秦趙高漢王莽梁周異唐禄山此等皆舊主先王政不随樂極諌不思入天下之亂事不悟民間之愁所知士歟者不久亡者也
遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の禄山、此れ等は皆、旧主先王の政にも随わず、楽を極め、諫をも思い入れず、天下の乱む事を悟らず、民間之愁る所を知ざりしかば、久しからず亡びし者どもなり。
近く窺本朝承平將門天慶純友康和義親平冶之信頼奢心猛事取々社有士歟共親六波羅之入道前太政大臣平朝臣清盛公申人之消息傅承社心言
近く本朝を窺うに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平冶の信頼、奢れる心も、猛き事も、取々に社(こそ)有りしかども、親(まぢかく)は六波羅之入道、前の太政大臣平朝臣清盛公と申せし人の消息、伝え承る社(こそ)心も言も。  
平家物語2
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわす
驕れる者久しからずただ春の夜の夢の如し
猛き人もついに滅びぬひとへに風の前の塵に同じ
「平家物語の冒頭」です。長い日本の歴史の中で、戦乱が続いた時代は何度もありましたが、平安時代末期の源平合戦ほど社会や文化に大きな影響を与えたものは少ないのではないでしょうか。
源氏と平家の争いの結果、京都の貴族が君臨してきたわが国の社会は武士の支配する世の中になります。中央支配が弱まったことで地方の力が強まり、中世の扉が開かれることになりました(なお、以前は鎌倉幕府成立をもって中世としていましたが、最近は平氏政権、あるいは院政の始まり以降を中世と呼ぶ傾向にあるようです)。
文化的に見ると、中央の文化の地方への拡散とともに、王朝文化が花開いた安寧の時代が過ぎて血なまぐさくダイナミックな変動の時代がやってきたことで、様式的、技巧的、内省的な文化から直截的で感覚的、外向的な文化へと移り変わっていくことになります。
たとえば王朝文化の代表が源氏物語であるとすれば、中世文化の代表と言えるのが平家物語でしょう。
奇しくも「源氏」と「平家」という名前を冠した二つの物語ですが、その性格は全く異なります。源氏物語は、天皇の息子として生まれた主人公の一生が当時の宮中を背景に綴られる“かな文学”であるのに対し、平家物語は源平の動乱を生きた武士たちの活躍を盲目の法師が琵琶の調べにのせて語る“語り物の芸能”です。源氏物語の読者の中心は上流階級の子女、一方、平家物語に聞きいったのは当時の庶民たちでした。
そもそも語り物とは、歴史物などの叙事的なテーマの話を節をつけて“語る”ものを意味します。節をつける以上、現代で言う歌曲に近いのですが、メロディーが主ではなく、あくまでストーリーに重きをおくということから語り物と称しているのです(後の義太夫節なども、旋律よりも話を語ることを重視しているために「歌う」のではなく「語る」と言う。ちなみに長唄はメロディー重視であり「歌う」もの)。
先ほど平家物語は盲目の法師が語ったものだと言いましたが、実は平家物語には語り物としての歴史のほかに読み物としての系譜もあります。平家物語が誰によってどのように作られたのか確かなことは分かっていませんが、おそらく語り物として形ができた後で読み物にまとめられたのではないでしょうか。
平家物語が作られたのが鎌倉時代であるのはほぼ間違いないでしょう。平家物語についてのもっとも古い記録の一つは吉田兼好の「徒然草」です。
それによると、後鳥羽天皇の時代、信濃前司行長という人物が平家物語を作り、生仏(しょうぶつ)と言う盲目の人間に教えて語らせたということです。生仏は東国の生まれだったので、戦いの話は生仏が武士に聞いて書かせたのだ、などとかなり詳しいことまで兼好は書いています。さらに、この生仏の声を今の琵琶法師は学んだのだとも書いていますから、兼好の時代には琵琶法師による平家物語が一般に知られていたことが分かります。
ところで、どうして盲目の法師が血なまぐさい戦記物を語ることになったのでしょうか。確かに平家物語は武士たちの血みどろの戦いを描いた物語です。ただし、冒頭の有名な文句を見ても分かるように、物語全体のバックには無常観があります。世の中の無常であることを説き、仏法に救いを求めるように勧める―そのための格好の題材が平家物語だったということでしょう。
もっとも、文化的に見ると、平家物語の意義は、無常観などよりも、歴史物語と楽器が結びついて新しい芸能が誕生したという点にあると私は思います。琵琶法師が平家物語を語るその相手は一般の大衆です。無知無学な大衆は、琵琶法師の語りによってはじめて知るダイナミックな歴史に心躍らせ、そして何より琵琶に乗って語る法師の節に魅了されたのです。これこそ、平家物語が日本の文化にもたらした感覚的な変化と言えるでしょう。
琵琶法師によって語られた平家物語(平曲と言う)は、後に浄瑠璃などさまざまな語り物へつながっていき、やがて江戸時代に入ると三味線という新しい楽器と結びついて義太夫節という新しい芸能を生むことになります。
平曲琵琶は、楽器と言ってもその奏法は単純なものであり、語り方も節が付いているとはいえ平坦な調子でしかありませんでしたが、義太夫三味線は高度な演奏技術を手に入れ、語りの技術の発達とあいまって、繊細かつダイナミックな音楽性と演劇性を獲得するに至ります。
義経千本桜や一谷嫩軍記、源平布引滝など、平家物語に題材を取った義太夫・人形浄瑠璃も少なくないなど、その影響力は思った以上に大きいものがありますが、内容はともかく音楽性だけについて言えば、その芸術性の高さは平曲とは比べ物にならないレベルに達しています。
現代の私たちが文楽を観に行って耳にする義太夫に、琵琶法師たちの語った平家物語のおもかげはありません。しかしその奥底には、平家物語によってはじめて実現した人間性の表現、そして無常観が、形を変えながら受け継がれているのです。
 
能(のう)

 

鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本の舞台芸術の一種。
「能楽」の一分野であり、江戸時代以前には猿楽の能と呼ばれていたものである。能とは元々能芸・芸能の意をもつ語であって、猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能の略称となり、明治維新後禄を失ったことにより他の多くの芸能は絶え、猿楽を能楽と呼称することが一般的となった。その起源は議論の分かれるところであり正確な事はわかっていない。現在の能は中国伝来の舞、日本古来の田楽、延年などといった様々な芸能や行事の影響を受けて成立したものであると考えられている。
 
浄瑠璃(じょうるり)

 

日本の伝統芸能における音曲の一種、語り物(かたりもの)の総称。浄瑠璃は、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲である。詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含むものであるために、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃の口演は「歌う」ではなく「語る」という用語を以て表し、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶのが一般的である。
代表的な流派には、義太夫節・常磐津節・清元節などがある。このうち、義太夫節にのせた操り人形で物語を語る伝統芸能が人形浄瑠璃(文楽)である。
なお地方によっては、単に「浄瑠璃」というと、その最も代表的な流派である義太夫節のことを指す場合がある。そのせいもあってか、「浄瑠璃とは義太夫節のことである」といった説明がなされることもあるが、これは明らかな誤りである。
起源は中世末期ごろの御伽草子の一種「浄瑠璃十二段草子」(「浄瑠璃物語」浄瑠璃御前と牛若丸の情話に薬師如来など霊験譚をまじえたもの)を語って神仏の功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説で、「浄瑠璃」の名もここから生れたものである。その内容はだいたい享禄年間(1528-32)には完成していたと考えられる。初期は平曲、謡曲、説経節などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、永禄年間(1558-70)に琉球から三線が渡来し、これが三味線へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げた。三味線をいち早く音曲に取入れたのは上方の盲人であったが(上方地歌)、文禄年間(1593-96)にこれが傀儡子(くぐつし)の伴奏として用いられるようになり、さらにこれと浄瑠璃節が合体することによって、浄瑠璃音曲が完成したようだ。
古浄瑠璃
浄瑠璃が本格的な芸術性を備えるようになるのは江戸期に入ってからである。杉山丹後掾と薩摩浄雲によって京から江戸へともたらされた浄瑠璃は、彼らの門下によって多くの流派にわかれ、世人に大いに受入れられるようになった。杉山丹後の門下からは江戸半太夫(半太夫節)、十寸見河東(河東節)が、薩摩浄雲の門下からは薩摩外記太夫(外記節)、大薩摩主膳太夫(大薩摩節)、都太夫一中(一中節)、竹本筑後掾(義太夫節)などを輩出し、浄瑠璃の歴史の上で一時期を画することとなった(半太夫節と外記節は河東節に、大薩摩節は長唄に吸収されて残っている)。以上のうち義太夫節を除くものを一括して古浄瑠璃(こ じょうるり)と呼ぶ。
この時期の詞章・戯曲は未発達なものが多く、かならずしも高い評価を与えることはできない。ただし、江戸を中心にして発達した「金平浄瑠璃」と呼ばれる一連の作品は、後に歌舞伎の荒事に大きな影響を与えることになった。
義太夫節
貞享元年(1684)ごろ、竹本義太夫(後に筑後掾)が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を樹ててよりのちは、浄瑠璃に新たな時代が訪れる。名作者近松門左衛門と結ぶことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練が行われ、義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術としての鑑賞に耐えうるものとなった。この新しい様式は上方の人士から熱狂的な支持を受け、義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになる。たとえば古浄瑠璃時代にはその人の名を付して何某節と呼ばれていたように、浄瑠璃の流派は多分に個性的な名人芸の代名詞として行われ、決してそれがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかったが、義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられつづけることになったのは、その象徴的な事例であろう。義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマツルギーを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫こそは浄瑠璃におけるひとつの完成形であるというにふさわしい。
豊後節
一方、このころ竹本義太夫と同門の都太夫一中は京で一中節を創始し、その弟子宮古路豊後掾がさらに豊後節へと改めて、享保19年(1734)これを江戸へもたらした。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において歌舞伎の劇付随音楽として用いられたためにまたたくまに大流行を見た。その人気は、心中ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節の禁止が布告され、豊後掾が江戸を去らねばならなくなったほどであった(ただし、この豊後節禁止は河東節をはじめとする江戸浄瑠璃側の嫌がらせという説もある)。
しかし、この宮古路豊後掾に師事した常磐津文字太夫と富士松薩摩掾が数年後それぞれ常磐津節と富士松節を創始するにいたって、豊後節の伝統は江戸に根付き、それ以前の古浄瑠璃の人気を奪いさってゆく。常磐津節は歌舞伎の伴奏用浄瑠璃として盛んに用いられ、豊後節のやわらかさと江戸古浄瑠璃の豪壮さを取混ぜた独特の風情を持っており、江戸らしい気風のよさを感じることができる。一方、富士松節からは鶴賀若狭掾、鶴賀新内という名人が輩出し、特に鶴賀新内は新内節を創始することにより、豊後節系浄瑠璃の新たな局面を開くことになる。新内節は一時期、歌舞伎にも用いられたことがあるが、江戸時代後期からは主として門付けを中心として行われ、豊後節の艶麗な部分を引継いで情緒纏綿たる世界をつくりあげてゆくのである。
以上の豊後節、およびそこから派生した豊後節系浄瑠璃の特徴は、第一に歌舞伎芝居、門付けの違いはあるにしろ操り人形から離れ、浄瑠璃の音楽性が独立したこと、第二に程度の差はあるが「語り」の性格が「歌」の要素によってよわめられ、やわらかさ、艶麗さの方向に発達していったことにある。なお、付記しておくと、以上のほか宮古路豊後掾の流れを汲む浄瑠璃には宮薗節(豊後掾門弟宮古路薗八創始)がある。
清元節
さて、このような豊後節系浄瑠璃の展開は江戸中期以降にいたって新たな局面を見せる。常磐津文字太夫の門弟、富本豊前掾が一派を立てて「富本節」を称し、さらに二代目富本豊前太夫の門下から清元延寿太夫による清元節が生れる文化11年(1814)。これらはいずれも常磐津節の艶麗な芸風をさらにつよめた流儀で、むろん歌舞伎の劇付随音楽としても用いられたが、それだけにとどまらず、素人の習事、座敷音曲としての性格をも備えるようになってゆく。通常豊後節から見て、子、孫、曾孫になる常磐津、富本、清元を「豊後三流」と称し、それぞれに微妙な性格の違いがある。常磐津は艶麗さの反面、古い江戸浄瑠璃の名残を引いて豪壮な部分があり、歯切れのいい語り口をも兼備えている。それに対して、富本と長唄の混交から生れた清元には豪壮さがまったくなく、高音を多用した繊細で情緒的な浄瑠璃になっており、「語り」よりも「歌」の要素がきわめてつよい。常磐津には素朴で豪放な部分があり、清元にはそれを洗練させすぎたゆえの美しさともろさがある。そして富本は両者の中間的な形態として当初は絶大な人気を集めたが、現在ではほぼ滅亡寸前であるといっていい。艶麗さと古雅な味いを共存させ、寂びた風情には捨てがたいものがあるが、惜しむらくは常磐津と清元のあいだにあって独自性が発揮できなかったために、歴史の流れに打ち克つことができなかったのである。
浄瑠璃2

 

三味線の伴奏によって語る「語り物」音曲である。説経や謡曲・祭文などとともに室町時代中期文明のころより行われたといわれる。本は地の文を詞とからなり、とくに地は音律豊かに語る。わが国の語り物の歴史は古く、広義にとらえるならば「古事記」にみるように語り部が語った神話に遡ることができるが、平安朝中ごろには琵琶法師による物語が行われており、鎌倉期に「平家物語」を語る 「平曲」につながったものと思われる。他方、仏説を説く「説教」があり、室町時代に入ると簓(ささら)・鉦・羯鼓(かっこ)などの伴奏で社寺の縁起や神仏の霊験譚を語る「説経 」が誕生した。こうした状況のうちに室町中期の15世紀末ごろに「浄瑠璃姫物語」(浄瑠璃十二段草子とも)という新手の語り口の語り物がはやった。奥州へ下る矢若丸と宿を貸した三河の矢矧の長者の娘浄瑠璃姫との恋愛物語である。姫は浄瑠璃教国の教主薬師如来の申し子として浄瑠璃の名を負っていた。ここから浄瑠璃の名が使われるようになった。16世紀には座頭たちが語っていた。語りの節付けは先行の平曲・曲舞・祭文・説経等の影響を受けたと思われるが、16世紀中ごろ琉球より三線(蛇皮線)が渡来し、胴皮が猫皮に改良された三味線が出現するに及んで、三味線が琵琶にとって代わった。ここに琵琶の叙事性と三味線の叙情性を兼ね備えた新しい語り口の創造が可能になったのである。
琵琶法師が三味線語りに変身したわけだが、彼等は西の宮の傀儡子と結んで、人形浄瑠璃芝居の端緒をつくった。中世末から近世初頭にかけて「牛王の姫」「阿弥陀胸割」など宗教的題材の人形浄瑠璃が上演された。人形浄瑠璃は1685年(貞享2)大阪で近松門左衛門作の「出世景清」を竹本義太夫が語って、以後飛躍的な発達を遂げるが、この竹本義太夫の節が 「当流」と称賛されるに及んで、それまでの諸流の節は「古浄瑠璃」と呼ばれて区別され、「義太夫節」が浄瑠璃の代名詞となった。戯曲的完成度の高い義太夫節に対し物語中心の古浄瑠璃には定型的な安定した語り口がなかったらしく、江戸・上方ともに諸家が輩出した。江戸では京から下った杉山丹後掾の門系から肥前節・語斎節・半太夫節、同じく江戸下りした薩摩浄雲の門系から金平節・外記節・土佐節などが出た。とくに 「金平浄瑠璃」は荒事風な演技にむいていて16世紀中葉の江戸浄瑠璃界を風靡した。上方では女太夫の六字南無右衛門が古く、浮雲の弟子の虎屋源太夫が上京して活気を取り戻し、その門系から播磨節・嘉太夫節などが生まれたが、同じ門系の大坂の清水理兵衛の門下から竹本義太夫が現れた。井上播磨の芸風に、対照的な嘉太夫の芸風を加味し、そのほかの音曲も摂取して義太夫節を大成したという。義太夫は1684年(貞享1)に竹本座を創立したが、弟子の豊竹若太夫が1703年(元禄16)に豊竹座を開設し、前者の芸風は西風、後者は東風と称された。しかし、義太夫節を完成したのは二代目義太夫を名乗った竹本政太夫であるといわれる。
義太夫節浄瑠璃は人形浄瑠璃だけでなく、歌舞伎にも竹本またはチョボの名で参加している。また、座敷浄瑠璃化したものもあった。浮雲門系から京都で「一中節」が生まれ、その系列が江戸に下って豊後節を生んだ。また、江戸では外記節を経て 「大薩摩節」が生まれている。一中節は柔かな節付けで歌舞伎から座敷芸に転じ、大薩摩節はその豪快にして軽快な曲調で歌舞伎に溶け込んでいる。大坂の義太夫節・京都の一中節に対して江戸では半太夫節門下の 「河東節」が流行した。高音域で派手で軽快な浄瑠璃である。しかし、現在なお歌舞伎浄瑠璃(特に舞踊)の主流をなすのは一中節から出て江戸で育った豊後節系浄瑠璃の「常磐津節 」と「清元節」である。〈河東上下 外記袴 半太羽織に義太股引 豊後可愛や丸裸〉という狂歌は諸浄瑠璃の性格をよく示している。豊後節系にはこの二流のほか富本節・薗八節・宮薗節・新内節などがある。浄瑠璃は語るものというが、義太夫節のような人形浄瑠璃用以外のものを唄浄瑠璃と呼ぶことがある。説経節も説経浄瑠璃と呼ぶことがあるが、説経節は本来の浄瑠璃ではない。なお、三味線は大坂・京都・江戸の好みを反映してか、義太夫が太棹、豊後節系が中棹、河東節が細棹と浄瑠璃によって異なる。新内節では上調子を加える。
浄瑠璃3

 

浄瑠璃の起こり
近世の音楽でも最も注目されなくてはならないのは浄瑠璃である。まず、浄瑠璃という仏教めいた名前の起こりから述べよう。この名称の中に浄瑠璃発生にからむ事柄が含まれている。発生に関する種々の言い伝えの中から、信頼できそうな個所を拾って辿ってみよう。室町時代に出来た物語を、一般に「御伽草子」と言うが、その一つとして知られている「浄瑠璃十二段草子」は「浄瑠璃物語」とも言われていて、これが浄瑠璃の最初の語り物であった。浄瑠璃の名称ももちろんここに由来する。「浄瑠璃物語」の主な筋は、三河国矢矧の里の長者で海道一の遊君が、三河の国の薬師十二神に祈って生まれた浄瑠璃御前という美女を、折りから陸奥へ下る途中の金売吉次の下人となった牛若丸が、この長者の家へ泊って見染め、和歌の徳による助けでその夜契りを交わし、翌日は陸奥へ出発していくというものである。ここには、浄瑠璃御前の出生から始まって、幾つか神仏の御利益が語られる。
長者と御前とかいう名前は、遊女や非人の流れをくむ人々の世界の話で、やはり神社仏閣に寄食していた徒輩によって作られた中世末期の物語であろう。したがって、浄瑠璃は中世の末に起こったもので、その初めは扇拍子で語られたようである。それが後になって三味線の伴奏に代えられたのである。
三味線の登場と浄瑠璃の発展
三味線は永禄の頃(1560年代)琉球から渡来した蛇皮線(三線)を改造したものだという。撥を持って弾奏するのは、この楽器を最初手にした者が琵琶法師であったからである。メロディとリズムどちらも弾くことの出来る楽器を得たことは日本音楽の発展大きな力となった。いち早く注目したのは、人形を操ることで生計を立てていた傀儡子(くぐつし)達だった。16世紀末の文禄年間(1592-96)西宮の夷舁(えびすかき)という人形まわしの集団が三味線を伴奏楽器にして人形操るという新機軸を考案した。その語りには享禄年間(1528-32)には完成していた浄瑠璃節がもちいられた。とにかく、傀儡子の職業であった操り人形と三味線とを得て、浄瑠璃は目ざましい発展をとげることになる。江戸時代に入って、新しい語り物として歓迎された浄瑠璃の太夫に杉山丹後掾と薩摩浄雲という人物がいた。
この二人は京から江戸へ下って浄瑠璃を広めた。この二人の門下から多くの浄瑠璃太夫が輩出し、彼らの殆んどが新しい流派を名のった。その中で、現行の浄瑠璃に関係の深い流派を挙げるなら、杉山丹後の系統から江戸半太夫(半太夫節)、十寸見河東(河東節)、また、薩摩浄雲の系統からは薩摩外記太夫(外記節)、大薩摩主膳太夫(大薩摩節)、虎屋永閑(永閑節)、都太夫一中(一中節)、竹本筑後掾(義太夫節)などが出た。これらの中で、半太夫節は河東節の中に面影をとどめ、外記節もまた河東節の中にその姿を残している。大薩摩節は後に長唄に吸収され、永閑節は地唄の中に僅かに存在していると言える。また、一中節は現行の浄瑠璃として美しい曲調を今日まで伝えていると同時に、この一中から豊後節が生まれ、江戸歌舞伎とともに江戸の遊里において大きく花を開かせた。
義太夫節
さて、ここで最も代表的な語り物としての義太夫節について述べておこう。後に筑後掾を名乗った竹本義太夫の人形浄瑠璃は、近松門左衛門と手を結ぶようになって、それまでの古い様式を捨てて、文学的にも音楽的にも新しい様式のものとなった。これによって京阪地方の観客から圧倒的な支持を受けるに至った。そのために、義太夫以前の浄瑠璃を古浄瑠璃と称して義太夫節以後の浄瑠璃と区別されるようになった。そして、義太夫節の重みが、流派名としての義太夫節を固定させ、古浄瑠璃時代のように、太夫各人が独立した流派を名のることはなくなった。
義太夫節が浄瑠璃の中での代表的な語り物であるという意味は、後に述べる豊後系の浄瑠璃「富本」や「清元」などと比較して、唄う要素が遥かに少なく、語る部分が非常に多いということである。もっとも、義太夫節も後世になるにつれ、三味線奏法の発達により初期の頃より一層音楽化されるようになったと言われる。
歌舞伎と豊後系浄瑠璃
義太夫節が大阪を地盤として、如何にも大阪人好みの浄瑠璃を完成した頃、京都には京の生活に適合した上品な趣きをもつ一中節が創始された。この一中節は後に京都を去って江戸に移植されることになったが、それより早く、初代一中の門弟、宮古路豊後掾は享保19年(1734)江戸へ下り、歌舞伎に出演してまたたく間に江戸中の人気をさらった。その勢いには、それまで江戸浄瑠璃として着実な地盤をもっていた河東節などもまったく顔色なかった。そうしたはね返りもあってか、元文2年(1737)には町奉行所の処置として、風俗紊乱を理由に豊後節の全面的禁止が言い渡され、豊後掾は失意の気持ちをだいて上方へ戻り、間もなく没した。
しかし、豊後掾の高弟常磐津文字太夫は数年後江戸において常磐津節を創始し、同門の富士松薩摩掾も富士松節を開いた。このときの常磐津節は社会問題として取り上げられることもなく、歌舞伎芝居とも密接なつながりを持ちつつ、次第にその地歩を固めていった。
常盤津節は、その楽曲の傾向からみて硬軟取り混ぜた趣きをもち、為政者も豊後節の場合のように容易く指弾し得なかったのであろう。富士松節はその一門から鶴賀若狭掾を出し、また新内節として知られるようになった鶴賀新内を排出している。
豊後系浄瑠璃の特色を義太夫節と比較すれば、歌舞伎舞踊と結びついたため、より謡い物に近い音楽といえる。その点で江戸に定着した歌舞伎の劇用音楽として発生した江戸長唄と曲調や気分の違いはあっても、内容や機能的に似たような傾向を辿ったのである。
歌舞伎について
歌舞伎は近世初頭に阿国の歌舞伎踊りとして始まった。
「歌舞伎」は後世の当て字で、本来は「傾く」(かたぶく)という当時の日常用語が使われた。街中を目立つ風体で闊歩する(ツッパリ)の若者をかぶき者(傾き者)と呼んだが、その風俗や言動を舞踊劇に面白おかしく取り込んでいったのが「かぶき踊り」だった。
寸劇がやがて本格的ストーリー(狂言)となり、立役(たてやく)・女方(おんながた)・敵役(かたきやく)などの役柄・配役(キャスト)が整備されて、多幕物のつづき狂言に発展してく。
初期の歌舞伎が民衆に深く浸透するにつれ、幕府は風俗紊乱を理由にしばしば干渉。それにつれて歌舞伎を演ずるスターたちも〈遊女〉〈若衆〉〈野郎〉と替わった。
野郎歌舞伎となってはじめて、男優がすべての役柄を演ずる今日の様式が確立する。
近世に入った直後に鎖国し、海外からの影響が少なかった約200年の間に、歌舞伎は上方や江戸の都市文化を色濃く反映し、対話劇・浄瑠璃劇・舞踊劇を融合した独自の舞台芸能のスタイルを作り上げていく。
元禄(1688-1704) / 消費経済の主役となった町民の文化を背景に、歌舞伎は上方と江戸にそれぞれ独自の狂言を作りあげた。上方の歌舞伎では富豪の若旦那が零落し遊女と濡れ場を演ずる「和事」狂言を生み、一方江戸では全国から集まった武家の子弟や農村からの移住者を背景に御霊信仰(不動明信仰)のシンボル曽我五郎などが活躍する「荒事」狂言が生れた。
第一次完成を見たこの時代に、猿若(中村勘三郎)や初代市川団十郎が活躍し、近松門左衛門などの優れた作家が輩出した。
天明(1781-1789) / 元禄が終わると歌舞伎の人気は低迷する。対照的に人形浄瑠璃は全盛を迎える。役者の芸にたよる歌舞伎はアドリブも多く、ストーリーの貧弱さが観客に飽きられたのだ。これにひきかえ作者が筆の力で脚本を書く浄瑠璃は、筋立ても複雑で内容も優れ観客を楽しませた。そこで歌舞伎は人形浄瑠璃の台本をそのまま取り入た狂言を上演する。「仮名手本忠臣蔵」、「義経千本桜」などが代表的。せりふ部分を役者が、三味線にのせてかたりの部分を竹本(義太夫の太夫)が唄う。舞台は音楽的になり、演技はより舞踊的なっていく。まず上方で起こったこの動きは江戸にも入り、唄いや三味線合奏を洗練した江戸長唄も登場する。
文化・文政(1818-1830) / 文化の中心は上方から江戸に移り、退廃的傾向が強まった時代。ここで登場したのが鶴屋南北(1755-1839)。「東海道四谷怪談」が代表作で知られるが、庶民の恋愛の感情や義理をリアルに描く「世話物」(せわもの)といわれる新しい作品群で人気を博した。芝居に底辺の庶民の生活や、尖がった江戸言葉(「べらんめえ調」など)をおり込んだことも特徴。[幕末]ペリー提督の来航などで世の中が騒がしくなった時代。歌舞伎にもう一人の天才作家が登場した。河竹黙阿弥である。「月は朧(おぼろ)に白魚の…」(「三人吉三」)、「知らざあ言って聞かせあしょう…」(「弁天小僧」)、誰もが知っている名台詞の作家。これらの作品は町の小悪党を主人公にしたので「白浪物」(しらなみ/泥棒物)ともいわれ、名優四世市川小団治と組んで大成功した。
 
小唄・端唄(はうた)

 

もともと長唄に対する端歌である。元禄年間に刊行された「松の葉」あたりからこの名がみえる。この項で説明する江戸の端唄の前身であるが、今日では短い上方唄(地唄)をさす場合が多い。
端唄とは江戸時代中期以降における短い歌謡の総称のことである。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄・小唄・うた沢・俗曲とはっきりと区別されるようになり、現在では小唄・うた沢・俗曲に属さない江戸期の小曲が端唄であると定義される。
経過から、従前の端唄は上記のどれかに吸収されており、独自の端唄とするに足りる曲は非常に少ない。
端唄が流行したのは特に天保の改革以後であるとされる。これは改革時に三味線が贅沢なものと見なされ、庶民が三味線を弾く事を幕府から禁止されてしまった。歌舞伎伴奏などのプロの長唄奏者は営業が続けられたが、街角の稽古場で三味線を教えるようないわゆる「街のお師匠さん」(今で言う個人宅の音楽教室)は禁止されてしまったのである。何年か(10年と言われる)この状態が続いた後ようやく解禁された。そこで庶民らは再び三味線を手にすることが出来るようになったが、長く楽器を触っていなかった者にとっては長唄のような長いレパートリーをすぐにさらい直す事は素人には難しい。そこで覚えたての小曲をすぐに弾くことが出来るという理由で、端唄がもてはやされるようになったのである。
小唄・端唄2
長唄とともに一言触れておきたいのは、端唄・うた沢・小唄といった小曲のことである。江戸時代には、やはり現今の流行歌曲のような小曲が数多く唄われてきた。その中には都会に持ち込まれた地方民謡もあったが、そうでない端物の唄も多く作られて、人々の口にのぼっていた。それが端唄である。そうした端唄は上方でも江戸でも行われたが、今日、端唄といえば江戸端唄のことである。つまり、「紀伊の国」「さつまさ」「夕暮れ」「びんほつ」などといったものである。ところで、このような江戸端唄の愛好者であった旗本の隠居笹本笹丸たちは、江戸末期の安政年間に、それまでの端唄に品位を与え芸術的な歌曲として整えた「うた沢」というものを確立した。このうた沢はやがて二派に分かれ、寅右衛門派の歌沢と芝金派の哥沢として今日にまで及んでいる。
一方、うた沢の発生に前後して生まれたものに江戸小唄がある。幕末から明治にかけて、新しく作曲された清元の浄瑠璃に数多く挿入された端唄は、早間で粋な曲調に改められるのが常であった。ここに江戸小唄の発生がある。これが単に小唄と称され、一般に流行するようになったのは明治中期以後で、それ以来、次第に小唄人口は増加して、今日なお甚だしい盛況をみている。以上述べてきた、端唄・うた沢・小唄それぞれに特色があって一口で区別することはむずかしいが、端唄は特別な傾向や色あいを持たない素直さがあり、うた沢はゆるやかなテンポで重々しく、小唄は通人好みの渋さをもち、三味線の演奏にも撥を用いないといった特徴がある。
 
郡上おどり(ぐじょうおどり)

 

岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、日本三大民謡(郡上節)に数えられる。
中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦ため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758-)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
享保13年(1728)から17年間飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した「濃州志」の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。
これは飛騨の地で八幡の事を歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる-の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。尚、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。
天保11年(1840)に書かれた郷中盛衰記によると「享年時代(1744-1747)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野(そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていた様である。
郡上おどり2
郡上おどりは岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、日本三大民謡(郡上節)に数えられる。中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられている。盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦ため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758-)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
江戸時代中期 / 享保13年(1728年)から17年間飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した「濃州志」の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。
これは飛騨の地で八幡の事を歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。
尚、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。
天保11年(1840年)に書かれた郷中盛衰記によると「享年時代(1744〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野(そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていた様である。
1820年 / 郡上藩庁より触書「城番年中行事」で「盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと。」と言う意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。
江戸時代後期 / 江戸時代後期において城下の盆踊りは、七大縁日が定められて行われていた。七大縁日とは7月16日の天王祭り(八坂神社)・8月1日の三十番神祭(大乗寺)・8月7日の弁天七夕祭り(洞泉寺)・8月14日〜16日の盂蘭盆会・8月24日の枡形地蔵祭り(枡形町)である。
1874年 / 明治政府により、禁止令が出される。神仏分離政策か近代化政策かの影響と思われる(顛末不明)。
1923年 / 大正12年郡上踊保存会発足。初代会長は坪井房次郎。
1929年 / 昭和4年8月に保存会16名で松坂屋に於いて東京初公演を行う。
1931年 / 昭和6年5月21日東久邇宮殿下が御来町になり、愛宕公園に於いて郡上踊りの実演を台覧された。この時保存会員十数名は「三百」「かわさき」を踊り、特に三百踊りは所望により二度踊った。
1934年 / 昭和9年、名古屋の新聞社であった新愛知(中日新聞の前身)により読者の投票による「郷土芸術十傑」の懸賞募集があった。当時、保存会の人々は踊りを発展させるため、出場資格を得る票数を獲得しようと努力し郡上郡内で約四万票、更に郡外で約十万票を集め出場資格を得た。翌昭和10年の名古屋公演は非常に好評であったという。この時2日間の公演の演目は「川崎」「さば」「やっちく」「三百」であった。その様子は名古屋放送局で放送された(11月20日)。この様にして郡上踊りは地元の人々以外にも次第に知られるようになっていった。
第二次世界大戦中 / 毎年8月15日のみ開催を許されていた。1945年8月15日の終戦日にも開催された。終戦日には官憲からの中止勧告があったとの証言があるが、「英霊を慰める」などの理由の下に中止は免れたという。(保存会の事業経過報告書によれば15日は「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」となっているので、この日は住民が自然発生的に踊ったものと思われる。)
1952年 / 踊り種目「さば」が「春駒」と改称。
踊りの概要
郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り時計回りに周回しながら踊る。会場が街路の場合もあるので、輪は円形とは限らない。踊りには曲ごとに定型がある。振り付けの基本は簡素なので、初心者や観光客でも見様見真似で踊ることができるようになる。装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的だが強制ではない。踊りへの参加は完全に自由で、飛び入りや離脱に規制はない。通常、見物人よりも踊り手の方が圧倒的に多数である。
郡上節
郡上おどりの際に演奏される囃子を総称して郡上節と言う。 「かわさき」「春駒」「三百」「ヤッチク」「古調かわさき」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「甚句」「まつざか」の10曲。対応する踊りは、それぞれ異なる。
踊る曲の順番は日によって違う。ただし、「まつざか」は必ず最後に踊る曲になっている。これは、「まつざか」は拍子木と歌のみを伴奏にして踊る曲で終わった後は拍子木を懐に入れて帰って行くことが出来、片付けの手間がない為に「まつざか」が最後に踊る曲となっている。なお、三味線等は「まつざか」の前の曲が終了した時点で片付けの準備に入る。
囃子の構成は三味線・太鼓・笛の伴奏に唄囃子・返し言葉・掛け声。伴奏がない曲もある。
郡上節が演奏される屋形は可動式の木造2層寺社風構造であり、永年使用される。開催日毎に会場に移動し、適所に設置される。開催期間以外は八幡町内の専用倉庫に保管されている。
 
越中おわら節

 

北陸は富山県(越中国)富山市八尾町(旧婦負郡八尾町)で歌い継がれている民謡。
民謡の起源については諸説ある(「お笑い節」説「大藁節」説「小原村発祥説」など)。唄はキーが高く息の長いことなどから、島根県出雲地方や熊本県牛深市の「ハイヤ節」など、西日本の舟歌が源流になったものとの指摘があるが、長い年月を経るとともに洗練の度を高め、今日では日本の民謡のなかでも屈指の難曲とされている。明治30年代後半のレコード創成期以来、全国各地の俗謡が次々とレコードに吹き込まれるようになって、民謡の洗練化の動きは加速していった。同時に、各地で開催されるようになった民謡大会、さらにはその全国大会などによって、それまで一地方の俗謡にすぎなかった曲が、全国的に知られるようになっていった。おわら節も大正2年初めてレコードに吹き込まれ、民謡大会でもよく知られる民謡となった。さらに、今日のおわら節が完成されていく過程で、さまざまな唄い手の名手がいたことを忘れてはならない。なかでも、「江尻調」といわれる今日のおわら節の節回しを完成した江尻豊治(1890-1958)の功績は計り知れない。天性の美声、浄瑠璃仕込みの豊かな感情表現。おわら節の上の句と下の句をそれぞれ一息で歌い切る唱法は、江尻によって完成の域に高められた。
おわらの歌詞
歌詞の基本は、7、7、7、5の26文字で構成する甚句形式であること、最後の5文字の前に「オワラ」を入れることである。
唄は26文字で構成される「正調おわら」(「平唄」ともいう)が基本だが、これ以外に、頭に5文字を加える「五文字冠り」、途中字句を余らせて、最後を5文字で結ぶ「字余り」があって、それを歌いこなす地方の唄い手にもかなりの技量を要する。
これまで作成された歌詞は、大別すると、「おわら古謡」と「新作おわら」がある。おわら古謡は古くから伝わるもので、新作おわらは、野口雨情、佐藤惣之助、水田竹圃(~1958)、高浜虚子、長谷川伸、小杉放庵、小川千甕(~1971)、林秋路(~1973)ら、八尾を訪れた文人たちによって新しく作られたものである。
また、これまで途中休止期間はあったものの、保存会では毎年おわら風の盆を前に「越中おわら新歌詞」を募集し、入選・佳作などを選んできたが、応募数が少なくなったため、2009年(平成21年)で休止する事になった[3]。
その新作おわらについては、1928年(昭和3年)八尾を訪れた画家・小杉放庵がおわら節を聴いて思うところがあり、みずから作ったのが「八尾四季」で、これ以後、新しく作られたものを新作おわらとしている。なお、この八尾四季に振り付けをしたのが舞踏家・若柳吉三郎で、これが「新踊り」(後述)となっている。
伴奏
町流しでの唄い手(中列)と地方(左右列)おわら節の唄い手とともに、地方(じかた)としておわら風の盆の雰囲気を作り上げるのが、三味線、胡弓、太鼓の伴奏である。とくに胡弓が入るのは民謡ではややめずらしく、またこの楽器が悲しげな、むせぶような響きを加えることで、この民謡に独特の味わいをもたらしている。
胡弓がおわら節に導入されたのは、明治40年代、松本勘玄によってである。また、当時八尾あたりまでを門付のエリアとしていた越後瞽女(ごぜ)の影響ではないかとも言われている。
おわら踊り
来歴 / かつてのおわら踊りがどのようなものであったかを伝える史料は少ないが、天保年間に活躍した浮世絵師・鈴木道栄が丸山焼の下絵として描いた絵図が残っている。そこでは満月を仰いで踊る5人の女性が描かれている。
おわら風の盆の町流しの原型といわれる「町練り」については、もう少し以前にさかのぼり、元禄年間、町外に流出していた「町建御墨付文書」を町衆が取り戻したことを喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来するという(「越中婦負郡志」)。
そのころは阿波踊り同様、おもしろおかしく踊っていたらしい(そのことから、阿波踊りと何らかの交流があったとする説もある)。後に、品格を高める、ということから現在の、おわら節を使うようになった、という説がある。
豊年踊りと新踊り / おわらの踊りは「豊年踊り(旧踊り)」と「新踊り」に大別される。
豊年踊りの所作は農作業をしている所を表した踊りで、老若男女を問わず、誰にとっても楽しむことのできる踊りである。市が観光客向けに行う「おわら講習会」や、富山県内の学校の運動会などで踊られているのも、この豊年踊りである。豊年踊りには唄と唄との間に踊る素踊りと、唄の上の句に入れる宙返り、下の句に入れる稲刈りの所作がある。ただし素踊りのみで踊ることもある。次に述べる新踊りが後に振付けられて「新踊り」と称されたことから、こちらの豊年踊りは「旧踊り」と呼ばれるようになっている。
新踊りはさらに「男踊り(かかし踊り)」と「女踊り(四季踊り)」に分かれる。男踊りの所作は農作業を表現しており、所作の振りを大きく、勇猛に躍り、女踊りの所作は蛍狩りを表現しており、艶っぽく、上品に踊るのが良いとされる。その両者とも、新踊りは昭和初期に日本舞踊家・若柳吉三郎によって振付けられた、主に舞台演技用の踊りである。もともと女踊り(四季踊り)にだけ唄に合わせた四季の所作が入っていたが、近年では男女混合で踊るときに、ペアを組んで妖艶な所作を入れたりもしている。なお、この所作は八尾の各町内ごとにいろいろと改良工夫がなされており、おわら踊りの特徴の一つとなっている。
衣装 / 法被姿の男性踊り手踊り手の衣装のデザインや色は、各町によって大きく異なるが、男性・女性ともに、編笠を深く被るのが特徴である。このように顔を隠すようにして編笠を被るのは、かつて手ぬぐいで顔を隠して踊っていたことの名残りである。
男性の踊り手は股引に法被姿、女性の踊り手と地方は浴衣姿である。なお、これらの衣装はたいへん高価な素材で作られているため、雨天の場合、おわら風の盆の諸行事は中止となる。
男性の踊り手が着て踊る半天(法被)は農作業着を模している。これは木綿ではなく絹の羽二重で作られており、各町それぞれ意匠を凝らした模様と背中には各町の紋章が入っている。帯は西新町以外は角帯である。
女性の踊り手が着て踊る浴衣は、胴まわりや袖の部分に、おわら節の歌詞が染め抜かれている。ただし、東町・鏡町の女性の浴衣には歌詞は染められていない。
女性の踊り手の衣装でひと際目立つ黒帯は、「お太鼓」に結ばれており、艶やかで大人びた印象を与える。この黒帯の由来については、かつてどの家庭にも冠婚葬祭用の黒帯があったので、踊り手たちが用意しやすかった、と伝えられている。なお、東町の女性の踊り手のみ、黒ではなく金銀の市松模様の帯を用いる。また、諏訪町と東新町以外では、黒帯(および東町の金銀の帯)に赤い帯〆をする。
女性の踊り手の衣装は、各町年齢によって色やデザインが違う。
小学生以下の踊り手は編笠はかぶらず、男の子は年長者と同様の法被姿だが、女の子は揃いの浴衣ではなく、各家庭で用意した普通の浴衣を着ている。ただし、東新町の小学生女子のみは、早乙女姿の浴衣に黒帯、黄色の帯〆という衣装で統一している。
なお、おわら風の盆の浴衣姿は、同じく編笠をかぶる阿波踊りの衣装と似ているようにも捉えられがちであるが、阿波踊りのように手甲や見せるための蹴出しをつけることはなく、編笠と足袋を履く以外は基本的に普通の浴衣姿であり、履き物も下駄ではなく草履である。
地方(じかた)は公式行事中(午後11時まで)は町内毎に決まった浴衣・草履姿だが、それ以降多くは各自思い思いの着流しに着替え、草履を履き町流しに出る。
越中おわら節2
越中おわら節の本場は、300年余の歴史をもつ婦負郡八尾町である。
その起源については、糸くり唄や海唄などの諸説があり、いずれとも定め難い。口伝として、元禄15年(1702)、八尾町の開祖米屋少兵衛の子孫が保管していた町建ての重要秘密文書の返済を得た喜びの祝いとして、3日間、唄、舞、音曲で町内を練り歩いたのが始まりとされ、この祭日3日が盂蘭盆(うらぼん)3日になり、やがて、二百十日の厄日に豊饒を祈る「風の盆」に変わったといわれている。
唄は、叙情豊かで気品が高く、哀調の中に優雅さを秘めた詩的な曲調である。歌詞も美しく、胡弓の響きが旋律をひき立たせている。楽器は、三味線、胡弓、太鼓で演奏される。
越中おわらの歴史的背景
「糸くり唄」と関連づけられてきた「越中おわら」は、従来八尾町の孟蘭盆(うらぼん・7月)行事として「川崎おどり」の名で実施されてきた。元禄15年頃秋風盆に改めたと伝えられ、その後、町の芸達者の宮腰半四郎とその仲間たちが「大笑ひ節」と改作した。歌中に「おわらひ」との言葉を入れて大衆的なものとし、現在の風の盆の様式(9月当初3日間)とし、嘉永・安政の頃から「おわらひ」の「ひ」の字をとって、豊年満作を祈念する行事として、養蚕の町の「糸くり唄」として唄われ伝承されたとされる。元唄は、淫猥な文句が多く、歌も踊りも明治初年に致るまで度々禁止されるに及んで、一時は滅亡の危機に陥ったのだが、町の識者たちの肝入りで、東都より大槻如電翁を招き、新作歌詞を創り行事を復興させたと伝えられている。
ところで「越中おわら」の名の由来だが僻(へき)地の小原村の名をとったとか、大笑ひ節の「ひ」の字をとって「おわら」としたとかの説がある。私は後者が正しいのでないかと思っているが、真偽の程はわからない。「越中おわら」を調べて気になるのは、文献にある「川崎おどり」「大笑ひ節」がいかなるものか、五箇山平村上梨で唄われたという「五箇山おわら」がどんな形態のものか、伝承する人も、その資料(曲譜)がどんなものか調べることが出来ず、残念至極である。
「越中おわら」を他民謡と比較して考えると、従来「糸くり唄」との関連で考えられていた「越中おわら」は現在の唄と違って、平易で素朴な唄でなかったかと思われるのである。その理由は、当時富山湾には北前船の往来があり、他国の漁夫や商人が、日本海沿岸の漁港に立寄る機会も多くなり、土地の人たちとの交流が深まるにつれ、漁夫が唄った酒盛唄の「ハイヤ節」が影響を与え、改良され、あの高い唄いだしの「越中おわら」のモデルとなったとも考えられるのである。
「越中おわら」のように、高音から唄いだされる民謡は、日本海側には出雲地方の「安来節」より例がなく、甲高い調子とその唄い方は「ハイヤ節系」でないかとする町田佳声説を私は支持するし、賛成する1人である。私は、それ故「越中おわら」は、糸くり唄とは関連なしと思っている。
「越中おわら」の技巧的表現は、5文字冠り、字あまり、とされ、主歌と主歌の間に囃子として、次の句を挿入する場合もある。「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ」(この種の囃子多々あり)と。現在唄われる「越中おわら」の曲節は、町の美声の持ち主だった故江尻豊治氏が完成定着させたもので、民謡界から高い評価を得ている。なお「越中おわら」が今日の隆昌を築いたかげには、故川崎順治、橋爪辰男両氏の好意ある援助のあったことを忘れてはならない。
先にも触れたが、「越中おわら」が「ハイヤ節系」の唄だとすると、当時富山湾を航行した北前船が、各地の漁夫商人をともない能登七尾輪島を中心に、富山湾にそそぐ諸河川をさかのぼり、物資の交易事業に従事するかたわら、土地の人たちとの交流を深めた結果の所産とも思えるのであるが、「越中おわら」にしても、神通川、井田川をさかのぼり、商魂逞(たくま)しい人たちが、養蚕の町の八尾人が唄う素朴な「越中おわら」の原形と宥和(ゆうわ)定着させ、県が誇る「越中おわら」の完成へ役立ったのでないかと推測出来るのである。
 
日本伝統音楽における語り物の系譜

 

語り物という言葉は唄い物と対比的に使われ、説教・絵解き・舞・平曲・幸若舞、また義太夫節より前の浄瑠璃・義太夫節・一中節・大薩摩節・宮薗節・常磐津節・清元節・新内節などのさまざまな浄瑠璃、さらに筑前琵琶、新しいところでは、浪花節などを指します。唄い物は、地唄・長唄・端唄・小唄などになります。中国では、1990年の時点でも300を越す語り物の種目が残っているようで、これに比べれば日本の現存の語り物の数は少ないのですが、それでも長い間にわたる歴史的発展を見ることができ、語りの広くて深い世界をみることができます。またジャンルの多様性や文字文化とのからみなどいろいろな点を学べる面白い研究の対象になります。語り物は演奏されるものですから、言語面と音楽面、さらに場のコンテクストも考慮しつつ研究が行われるのが理想といえましょうが、実際にはこれらの語り物の多くは、これまで文学作品として研究されてきました。最近では、かつて語りを担ったひとびとがその場で語りを構成していった演奏の資料として、詞章を再評価する動きが出ています。また、それとはほとんど別個に、音楽研究も行われていますが、通時的な通ジャンル的な研究はまだほとんどありません。したがって、語り物の音楽を全体的に理解したり、相互比較することが困難になっています。
今日は、語り物の流れを辿った上で、語り物の音楽を全体的に理解し、ジャンル間の歴史的比較研究を可能とするための音楽構造モデルと常套的音楽素材という概念について述べ、代表的なジャンルとして中世に起源を持つ平曲・人形芝居の音楽として17世紀の後半に成立した義太夫節・歌舞伎舞踊音楽として19世紀の始めに成立した清元節を選び、どのような連続性があるかを検討します。
日本の語り物音楽の流れ

 

語り部
文字などで言葉を書き記すという知識や技術がなかった無文字社会、つまり中国文明が日本に伝わる前の社会では、語りは知識・信仰・価値観などを保持し、伝える手段でした。アメリカの古典学者オングによりますと、「語りは、人間の経験を時間の軸に沿って表現する言葉の技術であり」「無文字文化では、いったん知識を語りのかたちで獲得すると、それを繰り返し繰り返し、唱えないと知識はなくなってしまい」ます。したがって、知識は記憶しやすい形にしなくてはなりません。そのため決まり文句、繰り返しなどが使われ、語り物として演唱されます。これはかなり、音楽の演奏と近くなっています。語りは儀式としての性格から、伴奏楽器を持ち、舞踊や劇と一緒におこなわれる傾向があります。日本では、5世紀から7世紀の間に語り部が朝廷での儀式において、創世神話や英雄伝説、勢力のある氏の系譜など政治的な意義のある語りを演唱していました。そうした語りが「古事記」や「日本書紀」におさめられたことは、周知の通りです。
講式声明
平安末期に、仏教の教えをわかりやすく説明することを目的として始まった講式声明は、当時の口語に近い言葉が使われ、だいたいシラビツクに、つまり一音節一音符で唱えられ、漢語や梵語で書かれた他のお経に比べてやさしく理解できます。内容は、厳密にいえば語り物とはいえませんが、音楽構造は明らかに平曲や浄瑠璃などその後の語り物とたいへん近く、影響を与えたというのが定説となっています。名称のある常套的音楽素材を使い、その名称は一部後の語り物に継承されました。例えば三重(さんじゅう)という名称は平曲と浄瑠璃に入りましたが、ジャンルにより内容もかなり異なり、使われる構造レベルも違い、機能も別です。この点につきましては、後でお話しいたします。また講式声明は語り物に書記の要素を付け加えています。つまり、文字に書かれたテキストのわきに、旋律の輪郭を示す博士(はかせ)や音高と語り口を示す文字譜が記され、それをみながら唱えるのです。
平曲・平家語り
語り部は姿を消しましたが、平安末期になりますと盲目の琵琶法師という新たな語りの担い手が現れました。どのような語りであったのかははっきりしませんが、そこに語り部の技法の一部なりとも受け継がれたとしても不思議ではありません。琵琶法師の中には、源平の戦さの後、戦さがたりを専門に語る者も出てきました。戦さがたりは、御霊信仰からくる鎮魂という宗教的な役割も果たします。戦さで殺された武士の菩提を弔い、殺生の罪を犯して成仏できない霊を慰め、たたらないようにしたのです。戦さがたりはのちの語り物に主要なテーマを提供するようになっていきます。
ご存知のように「平家物語」は平家没落の様子を盛者必滅という視点から描いたもので、今では文学として広く読まれていますが、「徒然草」の226段によりますと、「平家物語」の作者は行長であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の琵琶法師に教えて語らせたということです。当時すでにじっさいの歴史的記録があり、行長はそれにもとづいてテキストを作ったと考えられますが、琵琶法師が語ってくれたものも多く取り入れたようです。こうしたやり方は別に新しいものでなく、最も古い「將門記」にも当時の語り物が入っていると見られています。「曽我物語」なども説経師や熊野比丘尼が担った語りから定着したもので、軍記物語の多くは書かれた記録と口承的な戦さがたりが混交しています。
その後いろいろな「平家物語」のテキストができましたが、音楽面での展開については、そこから多くを読みとることはできません。先ほど、平曲は講式声明に影響を受けたとされるといいましたが、琵琶法師がその影響をどのように、どのくらいの期間にわたって消化していったのか、正確なところはわかりません。「平家正節」(へいけまぶし)という譜本が1776年にまとめられ、それまでには節付けやそれをテキストに記述する方法は確立していたということになります。
平曲は武士階級の儀式音楽となり、アマチュアの晴眼者が習得するようになり、譜本が使われました。譜本はまた、検校の正統的な演奏に忠実であるよう、演奏を管理するものとしての役割もありました。平曲の中には、節物といわれる「横笛」などのようなロマン的で悲愴な曲と、拾物といわれる「宇治川」など勇壮な合戦の曲があり、それぞれに折声(おりこえ)、拾(ひろい)と語り口も決まっています。これが、後の語り物特に浄瑠璃に受け継がれ、それぞれ「軟らかい」語り口、「硬い」語り口の系統を生みました。
説経・絵解き
中世の語り物の流れの中でもう一つ重要なのは、経典の講釈などをする説経です。説経については、11世紀の初めに書かれた清少納言の「枕草子」39段にも「説経師(せっきょうじ)は、顔よき。」というふうにでてきます。説経をする僧のなかにはだんだんと世俗化するものが出てきて、物語僧やお伽衆のグループを形成するようになります。こうした語りの担い手は、宗教組織からの支配を受けることはあまりありませんでしたが、外見は宗教者の格好を保ち、聞き手からは霊的な力を持つものと考えられていました。
戦さがたりと同じように、説経でも仏教の教義と古い民俗の信仰が結びつき、縁起譚や本地譚の枠組みを持っています。例えば仏教の救済が、「しんとく丸」では母子信仰と結びつき、「小栗判官」では荒人神をなだめることに結びつきました。それでも説経はかなり人間味のある要素を含んでいて、旅のつらさ、別れの悲しさ、色懺悔などが語られますが、これには説経の担い手たちの人生がそこに投影されているという指摘がなされています。説経の担い手は賎民とされ、旅から旅へと渡り歩き、ふつうの社会から切り離されていました。説経を語ることは、説経の登場人物や聞き手のためだけでなく、語るものの救済にもとつながることであったと考えられます。
このほかに説経とゆるやかなつながりをもつ宗教的な語りの担い手に、熊野比丘尼などの絵解き法師があります。もともとは、寺院にある曼陀羅などの絵を説明していたのですが、12世紀以後町なかへ出るようになり、絵を掲げ節をつけて語るようになりました。ササラをすって歌を歌ったり、時には琵琶を弾くこともあったようです。絵解きを聞いたり、その時に配られた絵本を読むことは、実際に熊野におまいりすると同じ霊験があったということです。熊野比丘尼の語りの節はどんなものだったか、今となっては本当のところは分かりません。
幸若舞
舞は、鎌倉末期から記録に現れ、叙事的な内容の語りに合わせて、鼓の拍子にのって舞われたもので、そこから分かれた幸若舞は男が舞い、内容は源平合戦や曽我兄弟の話など戦さがたりがほとんどです。16世紀には、平曲と同じように武将に愛好され、織田信長や豊臣秀吉などは実際に自分でも舞いました。能などよりはばひろい人気があったようです。幸若舞は、現在九州の福岡県瀬高町の大江天満宮で年に一回奉納されていますが、それを見ますと、能と平曲の中間に位置する芸能で、能から劇的な要素を抜いて舞に仕立てたもののようです。小鼓を伴奏に、二人、ないし三人で詞章を分担して、節をつけて語りますが、登場人物を分担しているわけではありません。舞とはいいながら、ときどき歩き回る程度です。近世浄瑠璃とちがって、その音楽が語りの内容を反映しません。純粋に形式的な音楽進行です。
浄瑠璃
浄瑠璃は、中世のつづれ織りのような豊かな語り物の世界から現れ、17世紀の主要な語り物になりました。浄瑠璃の要素を強く残している現在の義太夫節を平曲と比べますと、構造その他の点に共通性がみられますので、音楽的には浄瑠璃は平曲の連続的発展と考えることができます。しかし、内容は説経や舞などのように宗教的またロマン的な語り物のジャンルに近いともいえます。浄瑠璃ということばは、15世紀の後半にさかのぼることができ、もともと浄瑠璃姫と牛若の恋物語の語りから来ています。この語りは16世紀の前半に平家を語っていた盲目の琵琶法師つまり当道座の座頭が浄瑠璃を語ったという記録がみられます。扇を叩いて拍子を取るだけということもありましたが、琵琶がひろく伴奏に使われていました。
16世紀の終わり頃になりますと、琉球からもたされた三味線が琵琶にとって変わり音楽の表現力も格段に増したと思われます。さらに17世紀初頭に浄瑠璃は人形芝居とともに劇場で演奏されることになり、新たに視覚的要素が加わって人形浄瑠璃となり、新時代を迎えることになりました。1684年から近松門左衛門と組んだ竹本義太夫は、17世紀の人形浄瑠璃がたりのなかでも傑出していますが、この頃には浄瑠璃は盲目の座頭ではなく晴眼者が演奏するようになり、語りの担い手が世俗の人間にとってかわられました。地方にも、佐渡のぶんや人形、淡路人形などとして残っています。文字テクストとして、鑑賞用の絵入り本、記譜付き詞章本、正統な伝承のための正本などが刊行されました。
人形浄瑠璃の始めは、人形は語りのちょっとした視覚化にすぎませんでしたが、18世紀の半ばになりますと、劇の要素が支配的になり、語りの要素の比重は軽くなりました。人形も三人遣いとなって細かな動きも表現できるようになり、第三人称の語りの割合が減ってセリフの部分が増えるようになっていきました。このように、語りよりは劇の原理が強くなりました。
17世紀の浄瑠璃は主として人形浄瑠璃ですが、1680年代から歌舞伎では舞踊音楽として浄瑠璃を使うことが多くなり、浄瑠璃はまた新しい時代を迎えます。主として座敷で演奏されていた一中節、道行を専門にした豊後節など「軟らかい」浄瑠璃が歌舞伎でも成功を収めるようになり、その後の浄瑠璃、常磐津節・富本節・清元節はもう人形芝居とは全く接触を失い、歌舞伎舞踊音楽そのものとして発展していきます。
常磐津節・清元節・富本節は歌舞伎舞踊音楽の本流といえる長唄から大きな影響を受け、歌舞伎舞踊形式にしたがうようになりました。豊後節の狭い感情表現の枠から抜け出すと同時に、純粋な語りの世界からも離れていくことになりました。浄瑠璃の語り物的性格が、舞踊と唄によって薄められて行くのです。しかし、語り物性は小段による構成と常套的音楽素材の使用に残りました。
ところで、浄瑠璃の伝統的な分類法に、「硬い」ものと「軟らかい」ものとに分けるやり方がありますが、これは平曲のところでお話ししましたように、中世以来の語り物の二つの流れ、戦さがたりと宗教的ロマン的語りの二つの流れを反映しています。「硬い」浄瑠璃は、短命に終わった金平(きんぴら)節や今は長唄にわずかに残る大薩摩節があります。今残っているものでは、義太夫節や常磐津節には「硬い」浄瑠璃の要素がはっきりとみとめられ、「硬い」浄瑠璃ということもできましょう。「軟らかい」浄瑠璃は、より叙情的で情緒的なスタイルを持つ一中節・豊後節・清元節にひきつがれました。内容の面では「硬い」ものは、武士の手柄話とか、鬼などの超自然的存在の話。「軟らかい」内容は、恋の話、とくに心中もので、道行の場面があります。しかし、「硬い」「軟らかい」の分類は実際は複雑で、「軟らかい」ジャンルの浄瑠璃のなかにも、テーマによって「硬い」要素があり、その逆もあります。「硬い」「軟らかい」の内容によって、語り口などの音楽も、芝居の型も、それにふさわしいものになります。
語り物の音楽構造と常套的音楽素材

 

このような流れを持つ語り物ですが、日本文化が相続した大きな遺産の一つとして全体を理解するために、まず共通する構造のモデルを考え、そこに働く常套的音楽素材を考えてみましょう。そうしますと、ジャンル間の歴史的比較研究もできるようになります。
常套的音楽素材
語り物はもともとが文字に頼らないもので、その場その場で口頭構成をしてきましたので、ある程度部分--のとりかえのきく構造になっており、言語面でも音楽面でも常套的な素材の持ち合わせがあります。言語面の常套的素材とは、決まり文句などがあり、音楽の常套的素材としては、すでにお話ししてきました小段・旋律型・語り口があります。ひとこと申し添えますと、小段と旋律型は同時に構造単位でもありますが、語り口は構造単位ではありません。常套的音楽素材は、これまで日本の音楽学者によって、曲節・曲節型・節・旋律型といろいろな用語で呼ばれてきたものですが、まずこのように素材として大きくとらえ、それから構造にそくして小段・旋律型を区別し、さらにスタイルとして語り口を検討することが必要かと思われます。
音楽構造モデル
では、語り物全体に共通する構造モデルを考えてみましょう。そこには、レベルと時間という二つの軸があります。
まず、語り物の音楽構造には曲・小段・フレーズの三つのレベルがあります。曲は小段からなり、小段は複数のフレーズからなります。重要なことは、それぞれのレベルは、常套的な性格を持っていることです。これをまとめまたのが、表2です。
つぎに、時間軸に沿った構造ですが、ふつう曲は始まりから終わりに至る進行感があり、始まりは終わりとことなり、そこに現れる小段・語り口・旋律型がことなります。小段の内部でも、例えば節のない語り↓非拍節的な語り↓拍節的語りのように進行感があるのがふつうで、時間軸に沿った構造を見れば、曲中の小段の順序、語り口や旋律型の位置と機能などどのレベルが互いにどのように関係しているか明らかになるはずです。
では、小段、旋律型、語り口についてお話しして参ります。
小段
小段はもともと、横道萬里雄先生が能の音楽を分析されたときに使われた概念ですが、日本の語り物音楽一般に適用できると考えられます。比較的独立性のある単位で、小段が構成されて曲の全体ができあがります。小段は、語り口というスタイルを一つ以上持ち、語り口と語り口のあいだにはそれをつなぐ旋律型が挟まるのがふつうで、終結の機能を持つ旋律型で終わります。さらに、伴奏楽器がある場合、小段が始まる前に前奏があり、開始の機能を持つ旋律型で始まることもよくあります。小段は構造単位ですが、同時に常套的音楽素材でもあり、一定の内部構成を持ち曲の一定の場所に使われることがあります。歌舞伎舞踊形式の小段構成を持つ清元節ではとくにその傾向があり、口説きという特定の構成を持った小段が愁嘆場に、フィナーレにチラシという小段が使われ、義太夫節でも、マクラという小段が曲の冒頭に使われます。平曲でも拾が合戦場面に使われることはすでにお話ししました。
旋律型
フレーズのレベルの常套的音楽素材が旋律型です。フレーズひとつ、あるいは二つ以上のフレーズの長さの音の固定した連なりで、実質的に同じリズム・音高で形づくられています。一つのジャンルに繰り返し使われますが、独立して意味を持つことはまずありません。声の部分と伴奏楽器部分の両方から成り立っていますが、声だけのこともあり、伴奏楽器の演奏部分だけのこともあります。じっさいには、どこからどこまでが旋律型なのか簡単に決めることはできない場合があり、見方によってその範囲が異なります。しかし、ふつう七五調の文句の七音節か五音節のどちらかに当てはまり、かなりはっきりした同一性をもち、なおかつバリエーションがあるのがふつうです。
あるいはまた全く別の身体的な観点から、一息に語れる長さを持つものというふうに考えることも大切だと思います。そうすると、小段は一休みともとらえることができるようになります。そうなると、語り物を本来の口頭的構成の点からも考えすすめていくことができるように思います。
小段のところで述べたように、終結の機能を果たすことがもっとも多くまた重要で、開始がそれに次ぎます。今日はあとでこの二つの機能を中心にとりあげてお話しします。
語り口
もう一つの常套的音楽素材語り口は、構造単位ではなく、スタイルです。一つのジャンル・曲は特徴的なスタイルを持つといえますが、実は一つではなく多くのスタイルがあり、さまざまな目的に応じて使い分けられます。その一つ一つが語り口なのです。不特定数のフレーズから成り、音域・テンポ・リズム・声楽的表現(一音節一音符のシラビック的・小節をきかせたメリスマ的・あるいはその組み合わせ)などの音楽的要素があります。時には特定の旋律型を含み、それがその語り口の特徴となることもあります。語り口は旋律型とは違い音の連なりが固定していません。有機的、流動的で柔軟で、一定の常套性の枠の中で、幅広いスタイルをつくる可能性を持っています。
語り口はなかなかわかりずらいものですが、平野健次先生は声楽的表現の概念をもとに、ふつうの話し方に近い吟誦、唄うような朗誦、さらに非常に小節をきかせたメリスマ的な詠誦の三つに大別し、説明しました。
それぞれは分離独立しているのではなく、境界線は曖昧なまま連続しています。語り口の性格を正確にとらえるためには、音域やテンポやリズムなども考慮する必要があります。平曲の小段や清元節のオキの小段など、小段が一つしか語り口を持たない場合、小段と語り口を明確に区別できないこともあります。それぞれのジャンルは、曲の進行のさまざまな箇所でいろいろな語り口を使います。まず語りを進めて行くため、音楽に多様性をもたせ形式を整えるるため、そして詞章の内容の表現を助けるためにはなくてはならないものです。語り物の音楽構造についてモザイクにたとえられることがありますが、誤解を招きやすいようです。語り口は多様なスタイルをつくる大きな可能性を持ち、一定の常套性の枠の中で、語りのいろいろな内容・条件・環境にさまざまに対応していますから、語り物の音楽はじつはもっとダイナミックなものです。
さて、以上で曲が小段からなり小段はフレーズからなること、小段も旋律型も構造単位であると同時に常套的音楽素材であること、常套的音楽素材には他に小段のレベルに語り口があるということがおわかり頂けたことと思います。
常套的音楽素材の名称
ところで、常套的音楽素材は、伝統的な名称を持つものがあり、習得・作曲・即興・記譜・伝承に生かされていました。私がお稽古したのは、清元節ですが、プロの演奏家は名称を知ってはいても、ふだんは使いません。邦楽の修得は楽譜によらず口移しの暗記で行われのがふつうですが、お稽古のときにちょっと旋律型の名称にふれることがあるていどですから、旋律型はもはや修得過程の重要な要素ではなくなっていると考えられます。
かつて常套的音楽素材に対しどのような態度がを取られていたかを知る手がかりになるのが、本のかたちで残る体系化の試みです。その意図は、常套的音楽素材の記述や記録による伝承にありました。最盛期を過ぎ人気も創造力も衰えてきて、保存の必要に迫られて行われたというのが実情です。こうした体系化の試みは、常套的音楽素材さらには語り物の歴史的連続性を証明する一つの手がかりにもなっています。
平曲では、1776年に荻野検校のもとでまとめられた「平家正節」があり、尾崎家本によりますと、常套的音楽素材は全部で40ほどで13のグループに分けられています。これを見ますと、名称のない常套的音楽素材はきわめて少ないようです。詞章のわきに常套的音楽素材の名称と旋律の基本的な動きを示すネウマneumeが記されています。
義太夫節の場合は、「節づくし」といわれる本が江戸時代にたくさん出ています。義太夫節で使われる常套的音楽素材を集めたもので、1859年にまとめられた最も広範な「浄瑠璃発端」には、119の常套的音楽素材が載り、2,470の例が引かれています。
三味線では、1827年にまとめられた大薩摩節48手があります。実際は52手で、それが12のグループに分かれます。
以上は名称のついている常套的音楽素材のみを体系化したもので、名称のないものについてははっきりしません。しかし、義太夫節と一中節では、最も義太夫節らしいあるいは一中節らしい特色のある常套的音楽素材には名称がないことが、田中由美子さんによって指摘されています。名称のない常套的音楽素材は、無視できないどころではなく、そのジャンルを特徴づける一番大切な常套的音楽素材である、と考えるべきだと思います。
これまで研究者は、伝統的な名称をもつ常套的音楽素材をもとに研究し、曲節・曲節型・節・旋律型などいろいろな用語で一まとめにしてきましたが、右のように構造レベルとの関わりで、小段・旋律型あるいは語り口というふうに分けて考えますと、その機能や意味の違いがはっきりすると思います。また、名称をもたない常套的音楽素材も認識しやすくなります。
平曲・義太夫節・清元節

 

では、平曲・義太夫節・清元節の三つのジャンルを取り上げて、構造レベルはどうなっているか、常套的音楽素材がどんなふうに使われているか、常套的音楽素材やその名称がどのように継承されているか、時間的構造はどうなっているかなどについて見ることにしましょう。常套的音楽素材といってもはばがひろいので、今日は短くてはっきりしていて扱いやすい旋律型、それも終結のための旋律型と開始のための旋律型を中心に検討することにしましょう。
構造レベルと終結旋律型
まえに述べたように、旋律型は終結機能を果たすことがもっとも多く、また終結機能はたいへん重要です。曲は小段が集まってできていること、小段には語り口というスタイルがあることはすでにお話ししましたが、旋律型には曲・小段・語り口をそれぞれ終わらせる機能があります。語り口が二つ以上ある場合、それぞれの終結部でそれにふさわしい旋律型が使われるわけです。終結旋律型は現れる頻度が高く、際だった特徴を持つ点で、最も常套性が強い旋律型といえます。その特徴というのは、終わりに向かって、テンポが遅くなると同時に音域も低くなり、拍節が目立たなくなって、旋律が小節をきかせてメリスマ的になることです。
平曲は小段がいくつか集まって曲ができていることは他の語り物と同じです。しかし、始めと終わりなど、進行感はそれほどはっきり現れません。小段はいくらでもつなげられるというような感じで、口頭構成をしていた古い語り物の名残りであるようです。このことは、後の時間の構造のところでも触れることにします。ただ、曲の終わりに向けて語り口が細かく入れ代わり、クライマックスを形作る傾向が認められます。尾崎家本「平家正節」によりますと、名称がついている常套的音楽素材は40ほどありますが、どれが曲のはじめや終わりにに使われるかは決まっていないようです。常套的音楽素材はほとんどが語り口です。小段には語り口がひとつしか使われません。例えば「那須の与一」という曲のばあい、次のような小段構成になります。
1.口説・コワリ下ゲ
2.白声(しらこえ)・ハズミ
3.口説・コワリ下ゲ
4.拾
5.口説・コワリ下ゲ
6.強声(こうのこえ)
7.白声・ハズミ
8.口説・コワリ下ゲ
9.三重・下リ
10.1呂(りょ)・下音(げおん)
11.上音(じょうおん)
12.呂・下音
13.上音・走リ三重・(上音)
口説は、四度はなれた二つの音を繰り返す単純な旋律を使い長い詞章を速くこなす語り口で、下ゲという終結旋律型が使われます。平曲の場合小段には語り口がひとつしかありませんので、小段の終結旋律型であると同時に語り口の終結旋律型でもあるわけです。平曲について詳細な分析を行った薦田治子さんによりますと、下ゲにはさらに、節物で使われるものと、拾物で使われるものには違いがあります。この例では拾物になります。三重は音域が高く、メリスマ的に語られ、音楽的クライマックスとして機能する語り口で、下リという終結旋律型で終わります。また白声という吟唱的で演劇的表現力のある小段では、ハヅミという終結旋律型が使われています。
義太夫節の場合、曲は、時代物では段に、世話物では巻に当たります。時代物は五段、世話物は上中下の三巻ありますが、義太夫節では、キリという言葉が終わりという意味でよく使われ、段すなわち曲の最後を切り場といい、ダンギリという終結旋律型で終わります。
段は長いので具体例は出せませんが、典型的な段構成は一応次のようになります。
マクラ小段
無名小段(不特定数)
口説小段
無名小段(不特定数)
段切リ小段
名称のある特徴的な小段は数が少なく、マクラ・口説・段切リくらいしかありません。
義太夫節は、地と詞(ことば)の二つの部分からなります。地は節のついた部分で、詞は普通の話し方に近い朗唱的な語りで、科白にあてられるのが普通です。
小段は、地→色ドメ→詞という順序で語り口が何回か繰り返され、地→フシ落チで終わりますが、色ドメが語り口の終結旋律型、フシ落チが小段終結旋律型ということになります。第一段の第一場を大序といいますが、この終わりには、荘重な大三重が使われます。そのほかにもスエテなどいろいろと終結のための旋律型があります。
清元節では歌舞伎舞踊形式という構成を持ち、抽象すれば次のようになります。
置き小段
花道小段
無名小段(不特定数) / 歌い物的小段
口説き小段
踊り地小段
チラシ小段・段切れ
段切れは、曲の最後に使われる旋律型です。小段の終結旋律型は種類が豊富で、さまざまな役割をはたします。語り物的小段にふさわしいものもあれば、軽い歌い物的小段の終わりにふさわしく、同時に語り物の世界に引き戻す役割を果たすものもあります。また、終結感が強いものもあれば、弱いものもあります。また、仮の終結を示すことで、次に来る曲終結旋律型ないし小段終結旋律型を予告し、期待感を盛り上げる前終結旋律型というものもあり、終結機能を完全に果たすことはしないで、なぜか小段の中でクライマックスをつくる半終結旋律型というものもあります。これは私の知る限り、清元節だけにみられるものです。
清元節ではオトシ、キザミオトシ、ウレイオトシなどの名称があり、義太夫節と名称が似ていますが、旋律の内容に共通の要素はあっても、明確な対応関係はありません。
開始型
語り口や小段の開始部に使われる旋律型も、終結型ほどではありませんが、はっきりした常套的な傾向を持っています。
平曲の場合、曲・小段の開始部はじつははっきりしていませんが、調子を決定する琵琶の手がまず弾かれて、小段を導入する役目をし、その後すぐに伴奏無しの小段が始まります。義太夫節の場合、曲は時代物と世話物では、それぞれの開始部分には使われる旋律型が決まっています。時代物の一段目には、荘重なソナエが使われます。それ以外の曲の開始には、ヲクリや三重がよくが使われます。清元節では、開始の旋律型にはカカリという名称を持つものが一般的に使われます。三味線による二つの音で始まることが普通で、二本の糸を一度に鳴らす重音もよく聞かれ、やはり三味線の手によって声の調子を決めます。それに続く声の語りのカカリは無伴奏で始まり、非拍節的で朗誦の語り口で小段が開始されます。後で述べる長地類のように、旋律というよりは音域よって定義されるカカリ類は、さまざまな音域にわたって存在し、声のパートにおいて、多くの旋律をつくっていきます。
ハルカカリ(E)・ウカカリ(F)・ギンカカリ(F#)など種類がたくさんあります。ところで、カカリという言葉には「始める」「とりかかる」という意味のほかに「その気味がある」「なになにがかっている」という意味もありますが、浄瑠璃におけるカカリという旋律型のグループの中には、開始と同時に引用の機能を果たすものが多く含まれます。威厳のある感じを持つ古い語り物のスタイルを引用する傾向があり、清元節を例に取りますと、平家ガカリ・三重ガカリ・説経ガカリ・新内ガカリ・謡イガカリ、河東節などの江戸浄瑠璃のスタイルからはじまる江戸ガカリなどがあります。こうした古い語り物のジャンルの雰囲気を出して表現の広がりを獲得するとともに、古い語り物との一体化をはかろうとするもので、伝統の連続性が、ここにも現れています。
旋律型・小段・語り口の名称の継承
さきほど、常套的音楽素材の名称および体系化についてお話しましたが、おなじ名称がいろいろなジャンルで使われており、そのことは、新しいジャンルが前のジャンルから派生する場合に、同じかそれに近い常套的音楽素材が継承されたということを示しています。一つの名称が他のジャンルに伝わりますと、内容が変化したり、語り口であったものが旋律型として機能したりということがあります。逆に、大薩摩節のコトガカリと清元節の平家ガカリのように、ほぼ同じ旋律型ですが、名称がことなるということもあります。旋律型・語り口・小段の関係は表2でだいたいお分かりかと思いますが、これを名称の継承関係の中に置きますと、かなり複雑になります。ここでは、三重・地・クドキという名称をとりあげて、それらの名称がどのように継承されていったかを見て行き、語り物の伝統のダイナミズムの一端に触れてみることにしましょう。
三重
先ほどちょっと触れたウガカリのように、旋律型や語り口および小段の名称には、音域や音高に由来するものがあります。最も古いもののひとつに講式声明にさかのぼる三重があります。声明には下から初重・二重・三重のという三つの音域があって、それぞれに特有の語り口ができており、その語り口も音域と同じ名称で呼ばれました。三重という語り口は、音域が高く、複雑精妙で、メリスマ的に語られ、音楽的クライマックスとして機能します。三重という名称は、声明から平曲に入り、さらに浄瑠璃のすべての分派へと伝えられて行きました。平曲に入った三重は声明と同じく音域の高い語り口であり、旋律はさらに複雑になって、一曲の聞きどころになりました。声明や平曲には、終結型を除いて旋律型と呼べるようなものはないのですが、語り口のなかに独特の常套的旋律表現があります。平曲では四度の音程が旋律の動きの焦点となることはお話ししましたが、それが旋律型の萌芽とみられます。義太夫節や清元節では、それがさらに発展したかたちで三重という旋律型が成立したのです。平曲では、クライマックスをつくる語り口としての形式上の手段でしたが、劇場で演奏される義太夫節や清元節では、場面の変化に関わる機能を持つようになりました。義太夫節の曲終結旋律型および曲開始旋律型としての三重については、もうお話ししました。清元節でも、曲終結旋律型および曲開始旋律型の二つのグループがあります。曲の始めに使われるのは三重カカリのみで、曲の終わりに使われるのは大三重、イキオイ三重などがあります。後者は最後のチラシ小段、つまり段切れの前に使われ、それによって一曲の終わりがたいへん派手になります。
クドキ
クドキは、「口説く」という動詞からきています。また「くどい」という形容詞とも関係があると言われています。旋律型・小段・語り口の名称としてのクドキの歴史は、平曲から能、能から浄瑠璃へとそのまま語り物の伝統と重なります。さらには浄瑠璃から民謡にまで入って行きました。平曲では、長々と説明するという意味あいで、非常に幅広く使われる語り口です。ごく普通の語り口で、四度はなれた二つの音を繰り返す単純な旋律を使い、長い詞章を速くこなします。クドキという名称は、平曲から能に入り、決まった韻律を持たない記述的な小段の名称として使われました。低音域、拍子アワズで、囃子はつきません。内容は嘆き、悲恋、傷心になりました。浄瑠璃に入りますと、クドキの内容は、さらに男女間の恋の嘆きが前面に出てきます。義太夫節では、一段(一曲)のサワリとなる場面の特質を決定する表現の一つとして、きわめて重要な地位を占める語り口になりました。さらに歌舞伎になりますと、歌舞伎舞踊曲の中心的な小段となってきます。
富本節、常磐津節、清元節、さらには浄瑠璃ではありませんが、同じ歌舞伎舞踊音楽である長唄にとっても、中端という中心部に置かれた口説きの小段は、無くてはならないものになりました。その理由は、1720年代以降歌舞伎に進出して以来歌舞伎舞踊形式の成熟へ向けて大きな役割を果たした豊後節において、クドキが中心的な位置を占めたことにあると思われます。井野辺潔氏によりますと、義太夫節においてクドキとはっきりわかる小段が出てくるのは1740年代になってからのことですから、義太夫節は豊後節から影響を受けたと考えてもいいと思っています。日本の音楽は、古いジャンルの物が残り、新旧さまざまなジャンルが並存するという特徴がありますが、このために、古いものはもっぱら影響を与えるだけであるとか、全く変化しないとか、考えがちなのですが、そう単純ではないと思います。さて、清元節では口説きは聴きどころ、舞踊からすると見どころです。詞章も主人公、女の場合が多いのですが、恋人のつれなさを訴えたり、かつての幸せだった日々を追慕したり、深い思いのたけを述べています。クドキはセリフではありませんが、詞章が第一人称となっているため、語り手の声と主人公の声が一つになります。浄瑠璃のクドキは、平曲とは対照的に、独特の叙情的で静かなメリスマ的スタイルをもっています。そして平曲ではクドキは語り口ですが、浄瑠璃では語り口であると同時に小段をも意味し、その構造はさらに複雑なものになっています。なお、クドキは浄瑠璃からさらに民謡に入りました。

平曲にはじつは地という名称は使われていませんが、後の浄瑠璃と音域の移動の原理を共有し、そのことが地という名称と関係がありますので、まずその原理を説明します。平曲では、一つの語り口はかなり長く同じ音域にとどまり、それから別の語り口に移りその音域にやはり長くとどまります。語り物音楽の初期の段階では、旋律が進行するというよりも、異なる音域へ移動するという方が正しいでしょう。浄瑠璃は、平曲など中世に起源を持つ語り物より旋律的ですが、浄瑠璃の基本的な語り口に使われる旋律型の多くは一つか二つの音の繰り返しで、基本的な語り口ではこういう旋律型からもう一つの旋律型へと移動します。
つまり一つの音域からもう一つの音域へと移動するわけで、この点では平曲とまったく同じなのです。このような旋律の組織の仕方が浄瑠璃でも基本であり、語りの古いかたちなのではないかと考えられます。町田嘉章氏は浄瑠璃のこの種の旋律型のグループを、長地としてまとめました。地という言葉は、義太夫節など多くの浄瑠璃のジャンルで、基本的な常套的音楽素材を指す言葉として広く使われています。長地は義太夫節では清元節ほど多くみられませんが、七五七五と七五が二つつながった長い文句につきます。清元節の長地類は、基本的な語り口のどこでも使われますが、口説きの小段のクライマックスでもカンという長地が聞かれます。地節という旋律型は、テンポのゆっくりした落ち着いた旋律型で、曲の始めの部分すなわち置きの小段、人物の登場場面、詩的風景描写などに使われ、一中節や新内節でもみられるもので、古い様式の面影をとどめているように思われます。
時間的構造
では最後に、時間的構造についてお話しします。中世に起源を持つ語り物である平曲は、曲のはじめと終わりという区別が比較的弱く、一曲の終わりをはっきりと特徴づける旋律型もありません。曲全体は小段のつながりで、その構成の順序もはっきりせず、クライマックスへ向かう傾向をあるていどみることができますが、それも内容とは直接関係のない形式的なものです。つまり小段をかなり自由につなげていくことができるようです。近世の語り物に比べますと、中世の語り物は一見して内容よりも形式的な要素のほうが支配的だといえるようで、曲の終わりの意識が希薄だということは、どんな小段で終わってもいいということですから、その時間的構造は、劇的というより、劇場にはいる前の、語り物本来のものだといえるでしょう。
義太夫節の曲は、マクラで始まり、口説、物語を経過して、段切リで終わるという小段の進行があること、ふつうの小段では、オクリや三重といった旋律型で始まり、詞というふつうの話し方にきわめて近い語り口から、地→色ドメ→詞という順序で語り口が何回か繰り返され、地→フシ落チで終わりることは、もうお話ししました。義太夫節の場合は、曲はある戯曲の一部を構成するに過ぎません。
文楽は、能の序破急という演劇的原理をもとにした五段構成を受け継ぎ、時代物は五段からなり、世話物は上中下の三巻からなります。浄瑠璃の語り本来のゆるやかな構造が、緊迫した劇の構造に変わったわけですが、それでも段はいくつかの場に分けられ、能よりはゆるやかな構造になっています。それぞれに、事件の始まりから、悲劇のクライマックスをもつ劇的な構成になっています。つまり、音楽と語りの内容の進行が密接な関係にあります。清元節の場合は、曲は歌舞伎舞踊形式に則って構成されています。
出端−中端−入端という、序破急に似た構造があり、出端には置き・花道、中端には口説き・踊り地、入端にはチラシといった小段構成になっています。小段のレベルでは、一般的に述べますと、まず日常の話し方に近い非拍節的な朗誦的な語り口から始まり、つぎに唄うような旋律をもった吟誦的な語り口になります。この語り口には非拍節的語りと拍節的語りがあります。さらに非常に小節をきかせた詠誦的な語り口へと進行して、クライマックスをもつという時間的な構造になっています。
清元節では、小段の始まりと終わりの意識が非常に強く、そのため、小段の始まりと終わりには特定の旋律型が使われていますし、ある旋律型は曲の冒頭だけに、あるいは前半部だけに使われ、あるものは、小段の前半にしか使われないということがあり、そこに演劇的構成の意識が語りにおよぼした影響を見て取ることができます。義太夫節や清元節など人形芝居や歌舞伎の劇場に入った近世の語り物では、形式上の要請よりはむしろ詞章の内容の表現のために、語り口を使用することが非常に多くなりました。義太夫節では物語、口説などの小段で特別の語り口が使われ、清元節には怪異、滑稽といった特別な効果をねらった語り口があります。語りの要素が減り、劇の要素が増えて、音楽的表現が精緻にまた豊かになったのです。口承性は音楽性に道をゆずったといってもいいでしょう。
おわりに
日本の語り物について、その流れ、音楽面の共通構造、常套的音楽素材についてお話しし、平曲・義太夫節・清元節という三つのジャンルにそくして、実際に継承されたものについて具体的に述べてきました。その伝統の豊かさについて、少しでも、伝えることができましたら、幸いです。しかし、ジャンル間の関係などもまだはっきりとは解明されていません。さらに、日本文化における語り物の意味も、これから探っていく必要があります。語り物を担った人々、それを享受した人々、語り物を庇護した人々にとって、どんな意味があったのか、そこに含まれた信仰・世界観・宇宙観・政治イデオロギーはなんだったのか、音楽面以外の面を総合的に把握する必要があります。文字にならない口頭的なところは、書いたり、読んだりすることが決定的に重要な近代文明にある私たちには、なかなか気づきにくく、その重要性があまり認識されないのですが、気づかないところで私たちが受け継いでいる、豊かな遺産であることはまちがいありません。
 
声明(しょうみょう)

 

日本の伝統的な仏教聖歌(ぶっきょうせいか)であるが、仏教とともにインドから中国へ伝えられ、中国で新たに作られたものも加わり、日本へと伝えられた。もともと声明とは古代インドの学問のひとつで、シャブダ・ビドヤーといわれ、言葉の学問、つまりサンスクリット語=梵語(ぼんご)の文法学を意味しており、日本では平安時代、密教僧が真言や陀羅尼の学習のためにこの梵語の文法学である悉曇(しったん)を学んだ。752年東大寺大仏開眼供養の際、声明が唱えられたことが記録にあり、その後、9世紀の初めに弘法大師空海により真言声明が、また、中頃には円仁により天台声明がそれぞれ中国から伝えられている。
2/ 仏教の声楽。節にのせてお経などを唄ういわば男声合唱。声明は、すでに奈良時代に南都(奈良)の諸寺にある程度伝来していた。平安時代になると、天台宗延暦寺の僧円仁(794-864)によって、中国で発達した「うたう念仏」といわれる声明の一種「五会念仏」(ごえねんぶつ)が伝えられ、わが国における声明発展の基礎を築いた。
日本における声明を大成したのは、良忍(1072-1132)である。良忍は比叡山の下級僧である堂僧(常行三昧堂などの施設で声明に乗せて念仏を勤行する僧)をつとめ、親鸞の遠い先輩にあたる。のちに下山し、当時「聖」(ひじり)たちの一大拠点であった京都大原に入って来迎院を開創。各地の声明をほとんどすべて吸収しわが国の声明を大成したという。
現在も大原は「魚山(ぎょざん)流」声明の本拠地として有名である。良忍はまた融通念仏の創始者でもある。多くの念仏聖の集まる大原で、声明のような音楽を採り入れた念仏芸能が成長し、後の踊り念仏のベースになっていったものと考えられる。後の六斎念仏などの念仏芸能の念仏歌詞には、「ゆうづうねんぶつ なむあみだぶつ」といった歌詞が含まれ、また曲調には「ユリ」「ソリ」「アタリ」などという声明由来の節回しが残されているという。このように声明は、後の盆踊り音楽はじめ日本民謡の音楽の源流となったと考えられている。
声明2
僧侶が節を付けて唱えるお経や、仏さまの徳や慈悲を讃えて伝統的な節を付けて歌う讃歌などを、古代インドではガータと言い、中国や日本では現在も「梵唄(ぼんばい)」と言っています。
一方、古代インドで文字の発音を研究する学問を“サブダヴィジャ”と言い、中国ではこれを声明と訳し、日本へも発音(音韻)の学問を指す語として伝わりました。ですから、中国でも日本でも声明は、梵唄(賛歌)とは別のことを指す語だったのですが、鎌倉時代に天台宗の湛智(たんち)という声明家が、「声明用心集(しょうみょうようじんしゅう)」「声明目録」という著書のなかで、梵唄の理論を述べたことから、日本では梵唄のことを声明とも言うようになりました。それ以後どちらかというと、声明という言い方のほうが広く用いられています。以下、声明とさせていただきます。

中国に仏教が伝わったのは今から二千年ほど前ですが、中国に運ばれたお経の大部分はすぐに中国語に翻訳されましたので、儀式のお経や讃歌は、インドから伝わった節(ふし・旋律)そのままではなくて、中国語に合った節で朗唱したり歌ったりしたものと思われます。それでも一部はインド語のままで唱えることもありましたので、そのような部分にはインドの節が遺されていたかも知れません。
しかし二百数十年も経ったころには、中国にも独自の讃歌やお経が生まれたようです。そのことを物語るのが「魚山伝説」であります。三国時代の英雄曹操(そうそう)の子息曹植(しょうしょく・192〜232)が斉(せい)の国の東阿(とうあ)の王であったころ、魚山という丘の上で、天上から響く音楽を聴き、その節に模して讃歌を作成したのが、中国声明の始めであるというのです。
この話は中国の人々が、中国梵唄(声明)の始まりをこの偉大な詩人である曹植に求めたいという気持ちの表れでありましょう。読者の中には過般、松下隆洪師とともにこの魚山の曹植の墓を訪ねられた方も、おられることと思います。(筆者も別途に訪ねました)
ところで声明は日本に、いつ頃何処から誰が伝えたのでしょうか。まず中国から高句麗(こうくり)へ372年仏像やお経が伝わりました。やがて新羅(しらぎ)や百済(くだら)に伝わり、538年にはその百済から仏像とお経が日本に贈られています。しかし、それと同時に仏教儀式と不可分の声明が伝わったと見ることはできません。日本で仏教儀式が行われた最初の記録は、日本書紀にある584・5年の蘇我馬子による石仏殿や舎利塔供養ですが、このとき勤めた僧は百済や高麗系の尼僧であったとのことです。しかしどのような儀式と声声であったかは記されていません。
その後、奈良時代を通じて大寺院の最高位の僧の大部分は、中国や朝鮮半島からの渡来の僧でありました。一例を挙げれば、752年に行われた東大寺の大仏開眼供養(かいげんくよう)を主宰し、同年に当時から今日まで絶えることなく行われている同寺二月堂のお水取り(十一面観音悔過・けか=修二会・しゅにえ)を始めた東大寺の長者は、中国(唐)からの渡来僧、実忠であります。このうち、大仏開眼供養会では現在の奈良各寺や天台・真言宗に伝わる曲名と同じ曲名の声明が唱えられたことが記録されていますが、その旋律についてはやはり分りません。しかしお水取りは今でも行われていますから、当時の旋律の面影を今日に伝えるものとして注目されています。
また奈良時代の始めの720年にはお経の読み方について、やはり渡来僧と思われる道栄という僧の唱え方を手本として統一すべきであるというお触れが出されています。さらに736年には、インド・イラン系や今のヴェトナム系の僧も日本に渡ってきて、儀式や仏教芸能(伎楽)などを伝えています。このようでありますから、日本には声明は、長期に亙って次々と日本に渡ってきた中国・朝鮮・南方の僧たちによって伝えられたのであります。言い換えますならば、隋・唐時代の中国の仏教儀式や梵唄が直輪入されて、日本の寺院でほとんど同時代に行われ、唱えられていたと云っても良いのであります。
奈良時代も終わりに近くになりますと、声明は各寺院でますます盛んになり、その結果、唱法に乱れが生じるまでになっていたようで、「哀音(あいおん)をやめ、正音(せいおん)を用いよ」との布告が出されているほどであります。
哀音とは恐らく、寺院の伝承からはずれた民間歌曲の節回しを指したのではないかと思われます。
さて、平安時代になりますと様子が変わってまいります。日本から積極的に中国に出かけていって、仏教を学び、それを日本に伝える僧が現れたのです。帰国後、延暦寺に天台宗を開いた最澄と、東寺(教王護国寺)に真言宗を開いた空海がその人です。ただ、声明に関しては天台では三代目の円仁が中国の天台山から伝えたものが基盤となり、真言宗では空海に続く僧たちがその基礎を築いたと考えられています。
その後、天台宗には良忍(1073〜1132)が出て中興し、真言宗では寛朝(919〜998)が中興のあと,1140〜50ごろには覚性親王(かくしょうしんのう)によって、本相応院流(ほんそういんりゅう)・東相応院流、醍醐流、進流(しんりゅう)の四流派に整理されました。このうち進流は、大和中川寺から高野山金剛峰寺に本拠を移し、新義真言宗の分流後は根来寺(ねごろじ)、長谷寺(はせでら)、智積院(ちしゃくいん)にも引き継がれ、やがて真言宗全体に広がりました。

音楽の上から声明を見ますと伝来系には、幾つもの小旋律型(小さな節のまとまり)がつながってーつの曲ができているものと、文字の音節や抑揚ごとに短い音が付けられているものとがありますが、この二つの傾向は、日本製声明にもはっきり見ることができます。たとえば真言宗で読まれているや四座講式(しざこうしき)や天台宗の六道講式(ろくどうこうしき)などの講式声明は「重(じゅう)」という、云うならば大旋律型によって曲を構成しながら、細部では一言一言の抑揚や表情に考慮した音が付けられていますので、その両方の性質を備えているということが出来るのです。
ところでこのような声明が、日本古来の音楽と比べてどのような違いがあったのでしょうか。それを考えるには、声明以前の日本の音楽がどのようであったかということが分からなければなりません。しかしその時代の姿のままで現在にまで残っている音楽は残念ながらありません。宮中で行われている「東遊(あずまあそび)」や「御神楽(みかぐら)」の行事の中の「駿河歌(するがうた)」や「阿知女(あじめ)」などの古代歌謡も、大陸から入ってきた雅楽の影響を受けて雅楽器の伴奏で歌われています。
このように日本に大陸文化としての声明や雅楽が伝わってくる以前の日本固有の音楽は、現在では宮中や大神社での行事や神事を通じて、はるかに偲ぶ(しのぶ)より外ありません。しかしそれらに共通することがあります。それは、歌われる言葉のことであります。声明は梵語や漢語であり、雅楽は当時の世界最高の合奏音楽ではありますが、日本にとっては声明とともに外来音楽であることに変わりありません。そのような音楽事情の中で、日本古来の言葉で歌われた歌や、古来から日本にあった楽器による音楽などとは、かなり長期に亙って融け合わないで併存していたものと思われますが、平安時代になりますと声明や雅楽を積極的に日本人の感覚に沿って自分たちのものに消化しようとするようになったのではないかと考えます
勿論そのような傾向は、宮中の公郷(くぎょう)達みずからが楽器を演奏したり、仏教法要に参勧(さんきん)したりしたことと深い関係があります。しかし神道音楽には雅楽が重要な役割を持つようになったとはいえ、歌は外来歌曲にとって変わることは不可能なことであります。古来からの歌曲はたとえ伴奏楽器として雅楽器が用いられ、そのことによって大きな変容を遂げたとしても、今日までその面影を留めてきたと考えることが出来ると思います。
その様子は、ちょうど明治期に入ってきた洋楽器ピアノの伴奏で日本古曲を歌うことが行われるようになると、小節線で区切られた拍によって節が数えられると同時に、音の高さも平均律というピッチにはめられるという変化が生じたのと同じ様な影響があったと思われます。

ここまで見てきましたように、雅楽や声明という伝来音楽は、古来から日本にあった音楽に次のような影響をもたらしたものと考えます。
1 歌では旋律型の連結や漢語の抑揚(四声)に基いた声明曲の造り方(構造)が、それまでの日本語の抑揚と歌詞の句読(切分法)に従った日本古来の歌曲の、旋律の造り方に採り入れられていったであろことは充分に考えられます。この傾向は漢語の日本語への流入と、軌をーにすると思われます。
2 歌と楽器の両方の音楽について、「拍」または「拍子」という考えが入ってきたことにより、古来の日本音楽にも「拍」の考えが生じたものと思われます。また歌の伴奏に外来楽器である雅楽の楽器を用いるようになり、それまでの日本固有の音律(音の高さ)に、雅楽律(振動数)へと引き寄せられるという変化が起こったことは容易に考えられます。
3 雅楽や声明(特に雅楽)の音階についての理論に、古来の日本音楽も組み込まれたであろうと考えられます。

伝来声明がわが国の音楽(邦楽)に何らかの影響をもたらしたことは明かでありますが、この両者には経過的な中間段階があります。それは外来声明の日本化であります。先にも触れましたが、小さな旋律型をつなぐという曲の作り方や、文字の抑揚にもとづいて旋律を作るという方法が、中国や朝鮮から直接伝えられて、今日まで残っているのか、わが国で変化または考案された作曲法なのかは、いずれとも断言できませんが、いずれにしてもこの作曲法は日本製声明にも形を変えて受け継がれ、講式、表白、祭文法則などのいわゆる「読み物声明」は勿論のこと、和讃、往生礼讃、讃嘆などの豊かな旋律を備えたいわゆる「歌い物声明」を生み出しました。さらにこれらは一方では宗教民謡とでも云うべき念仏、御和讃、御詠歌などを生み出す源泉となり、また一方では語り物琵琶音楽(特に平家琵琶)や同じく語り物である浄瑠璃音楽や能の謡曲を生み出す源泉ともなったのであります。
このうち念仏は、南無阿弥陀仏というわずか六文字に、極めて多種多様なリズムや拍を持つ旋律が施されるという、声明の分野でも一大種目を形成することとなりました。そしてこの念仏がお寺から出て一般民衆の手に渡るや、すさまじい勢いで念仏芸能とでも云うべき芸能の、これまた一大種目を形成するに至ったのであります。そして今日にも全国各地に行われている念仏講、大念仏狂言、六斎念仏などの芸能へと発展していくのであります。
また琵琶音楽の中でも平家琵琶は独自の発展を遂げ、謡曲は鼓、太鼓、笛などとともに能の一翼を担い、三味線と一体になった浄瑠璃などの語り物音楽は、やがて人形劇や歌舞伎という舞台音楽へと発展したことはよく知られている通りであります。

先にも記しましたように、曹植と魚山の名は没後数十年に書かれた三国志の魏書に初めて登場し、没後約三百年の梁高僧伝や没後三百六十年(593)建立の碑文にも出てきますが、その曹植が魚山で天上からの奏楽を聞いたという記事は、没後四百年の「広弘明集」が初めてであります。その後に続く「法苑珠林」(668)「釈氏要覧」(1019)や「仏祖統記」(1269)では、曹植がその音楽を倣って梵唄を製作した、というようになっています。
わが国では承安二年(1173)に、大原の声明師家寛が後白河法皇に撰上した声明集の序文(執筆者は澄憲)の中に、「昔陳子王之遊魚山 遥聞仙人之唄声・・・」(むかし陳子王=曹植、魚山に遊び、はるかに仙人の唄の声を聞き・・・)と書いていることで分かるように、曹植と魚山と声明とを結ぶ話はこの頃までには日本に伝わっていたのです。
そして嘉禎四年(1238)には、大原の声明家の宗快が声明記譜上の原則の一覧表を作成し、それに「魚山目録」と名付けたことでも分かるように、この時までには魚山を声明と同じ意味に用いていたばかりでなく、現在の大原一帯を指して魚山と呼んでいたことも明らかになっています。
少々脱線しますが、後白河法皇が建礼門院を訪ねて大原へと向かう「灌頂の巻(かんじょうのまき)・小原御幸(おはらごこう)」で、平家物語の末尾を飾っているのは、琵琶法師たちがその芸能の発祥を天台声明に求め、その中心地を大原としていたことの現れと見るのは穿ち(うがち)過ぎでしょうか。
一方、真言宗でも魚山の名は1496年に長恵が編纂した声明曲集の巻末に「魚山芥集(ぎょさんたいかいしゅう)」とあるのをはじめ、その後、「魚山私抄」「魚山集」などの名称を持つ声明曲集が多く著されているのを見ても、魚山が声明と同じ意味で用いられてきたことが分かります。
このように魚山は日本においては、ひろく宗派を越えて声明の代名詞であるばかりでなく、その発祥の地を遠く中国に求める心情と、伝承の上での正当性の表明であるのであります。そうでありますから、これまでわが国から中国のこの地を訪れて、少なくともその所在をその目で確かめることが行われなかったのは真に不可思議なことと云わなければなりません。多数の東寺真言宗の方々が昨年六月に魚山を訪ねられましたことは、わが国においては声明の再評価、再認識の契機となりましょうし、中国側にとりましても魚山と仏教寺院音楽への関心の高揚に大いに意義を持つものと考えます。筆者も昨年三月末に天台宗の天納傳中師を団長として九名ばかりで魚山の地を訪ねることが出来ました。その時は魚山の丘とその周辺は全く未整理の状態でしたが、わずか三ヶ月後に東寺真言宗の方々が訪ねられたときには、信じられれない早さで整備が進められていた様子を、松下隆洪師からこの「会員便り」によってお知らせ頂きました。

中国側の上記のようなすばやい対応は、とりもなおさず中国国内に於ける魚山の再認識と関心の高まりの現れに他ならないと考えます。そしてその契機となったのが日本からの訪問者の増大であったことも事実でありましょう。中国のみならず日本においても、これまでは曹植の名は、主として偉大なる詩人として、また悲劇の王族の一人としてでありましたが、今後、仏教音楽の立場から、魚山伝説を生んだ時代の背景や寺院音楽それ自体の歴史研究が、「魚山曹植墓」の日本に於ける紹介を手始めとして日中双方の研究者の手で進められることを願って止みません。また、日本に伝存する雅楽の管絃や舞楽とその音楽理論等の中国に於ける資料の発掘と紹介も本紙上において手掛けられたことは、研究上大いに貢献するものと考えます。
 
唱導

 

唱導(しょうどう)は、 仏法を説いて衆生を導く語りものであり、数ある日本の話芸にとって、その源流のひとつでもある。日本史上では、とくに中世において大きな展開を遂げた。唱導はまた「唱道」とも表記し、「演説」「説法」「説教」「法説」「法談」「講義」など様々に呼称される。本来的には、唱導ないし説経とは仏教の経典を講じ教義を説くことであって、それ自体は文学でも芸能でもなかったが、文字の読み書きのできない庶民への教化という契機から音韻抑揚をともなうようになったものである。それはまた、比喩・因縁など文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称する。
唱導は、古代の中国においても盛んで、ことに東晋代の高僧で仏教の中国化に功のあった廬山の慧遠はその達人であったといわれる。
日本における唱導
日本古代の教化僧はよく唱導をおこなった。狭義の「説教」では、仏教の教理を説いたが、それは当初、仏典の意味するところを解説する、現代でいうところの法話であった。それに対して、広義の「説教」に属する「唱導」は音韻に抑揚とメロディともない、経典の趣旨を取り出して比喩や因縁話を用いて語ることで人びとを仏教信仰に導いたのである。
唱導は、日本仏教において独特の発展を遂げたが、ことに浄土教系の仏教においては布教の要とでもいうべき重要な位置を占めた。ある種の宗教体験を特に重んじる禅や密教と比較して、浄土門の教義は「語る」「聞く」「共振する」「場を感じる」などの宗教性を重んじたことから、言語に依存する度合いが高かったためと考えられる。そしてまた、信仰の大衆化を進める立場からは、修学僧が法理を講釈するというスタイルではなく、平易な話題を中心に、一定の旋律をともないながら、聴き手の宗教心に直接はたらきかけるようなスタイルが工夫されていった。こうして唱導の技法は、平安時代末期ころから次第に確立されていった。
唱導において節や抑揚をつけるという演出は、話し手と聴き手とのあいだに共振現象が生まれる場を創出させるための工夫でもあった。こうした営為は、他の宗教でも数多くみられる。仏教においても、最初期の段階から「祇夜(偈頌)」や「伽陀」などは節や抑揚をつけて読誦されていた。
歴史
清少納言の随筆『枕草子』には、説経唱導をおこなう唱導師について「説経の講師は顔よき」と述べた一文があり、平安時代中期において既に後世の娯楽性につながる要素のあったことがわかる。
鎌倉時代末期に成立した虎関師錬『元亨釈書』は、唱導の名手といわれた慶意には「先泣の誉」があったことを伝えているが、このことは、唱導の名手は聴衆を泣かせる前にまず自ら泣いたことを意味している。
安居院流の成立
上述のとおり、唱導の技法の確立は平安末期すなわち院政期文化の時代に求められ、平治の乱で惨殺された信西の子で天台宗の僧であった澄憲(1126年-1203年)は、その名手として知られた。「富楼那尊者の再誕」「説法の上手」と称された澄憲は、父同様学識深く、その唱導も能弁で、しかも清朗な美声によるものだったため、多くの人びとを惹きつけ、多数の聴衆の感涙をさそったといわれる。九条兼実の日記『玉葉』や軍記物『源平盛衰記』などには、澄憲が承安4年(1174年)の干魃の際に祈雨を果たした効験により勧賞に預かったことが記されており、この干魃に際しては同様の効験により醍醐寺や東寺(教王護国寺)の僧も勧賞されている。澄憲の勧賞について、当時の朝廷内部にはその是非を問う向きもあったが、結果的には、龍神をさえ感応させたとして、唱導が読経・修法とならんで効験あるものと公認されたのであった。
澄憲は安元3年(1177年)に法印に叙せられ「澄憲法印」と称せられたが、のちに京都上京の安居院(延暦寺竹林院の里坊)に退去して法体のまま妻帯した。この妻帯は世の非難を浴びたが、澄憲はみずからの信念を得意の弁舌で主張し、「女人不浄」を唱える僧徒らに反駁、もって説教一筋の生活に勤めることを世に示した。澄憲の唱導は、台密古来の法華経主義と弥陀本願思想に讃同する浄土信仰によりながら、造寺造仏の功徳を肯定し、諸行往生を説いたうえで一向専修と阿弥陀如来への帰依を説くものであったと考えられる。
澄憲の子の聖覚(1167年-1235年)も「舌端玉を吐く」と称されるほどの唱導の名人で、また、法然の高弟としても有名である。説話を多用して身振り手振りよく庶民に訴える唱導が、浄土門の教線拡張の手段として軌道に乗ったのは、聖覚が法然に帰依したことを機縁としている。『選択本願念仏集』において従来の伽藍仏教に決別し、持戒さえも否定してしまった法然は、乱世のなかで動揺するしかない無知文盲の民衆こそ最大の救済対象と唱え、それゆえ称名念仏だけではなく、聴くことによって庶民のこころを直接動かし思想形成をはかる唱導の意義を重視した。こうして説教の日常化が進み、説教自体にも節やリズムを付けるという歌謡性が加えられたのである。
法然の弟子で浄土真宗の開祖となった親鸞は兄弟子の聖覚を厚く尊敬したひとりであった。親鸞自身、その思想の根底に「聞法」「聞即信」をおく宗教家であり、真宗においても唱導はとくに重視された。親鸞は関東配流以降、聖覚の著した『唯信鈔』を熟読するよう弟子たちに求め、自らも註釈書(『唯信鈔文意』)を著述している。『唯信鈔』が法然の思想をそのまま伝える書として崇敬されたのである。親鸞は、民衆の間に布教する技術を聖覚から学んだともいわれている。本願寺第三世の覚如が集めた親鸞の言行録『口伝鈔』にも浄土門の思想を取り上げて民衆の喝采を浴びた聖覚のことが記載されている。聖覚は、父澄憲とくらべ民衆にいっそう傾斜し、表白体も徐々に形式をやわらげ、文芸的要素を濃くして専修念仏の立場を鮮明にした。聖覚が安居院に住し、「安居院法印」と呼ばれたことから彼の家系は安居院流(あぐいんりゅう)として浄土系唱導の本宗の地位をしめた。
『源氏物語』などによれば、澄憲の登場以前は、願文・諷誦文などを唱導者ではなく、文章博士など漢文学に造詣の深い学者がつくる例が多かったことが知られており、その作例は平安中期の『本朝文粋』などに収載されている。これに対し、澄憲は祈雨の効験を認められたことを契機として説法を一道とすべく「説法道」を提唱し、自作した「説法詞」の記録とそのテキスト化を推進したのであった。澄憲の著作としては、『源氏表白文』『法滅の記』『唱導鈔』『澄憲作文集』『澄憲作文大体』『澄憲表白集』『言泉集(ごんせんしゅう)』などが知られる。こうした作業は聖覚に引き継がれ、今日ものこる「安居院流唱導」のテキスト(説法資料)の伝承が始まった。平安・鎌倉期にあって唱導・説教を得意とした僧が澄憲・聖覚以外にも多数存在したことは各種史料で明らかであるが、にもかかわらず、かれらの系統のみが後世に絶大な影響をあたえたのは、このような事由によっている。なお、文章家と唱道者の漢文表現には少なからざる相違のあることも指摘されている。
聖覚の弟子の信承が撰した『法則集』は、安居院唱導のルールブックと称すべきものであり、導師の上堂や着座にはじまり、香炉の持ち方や磬(打楽器の一種)の演奏法、法会の種類に応じた語句の選び方、発声法、儀式の進行次第(神分、表白、願文、発願、四弘誓願、風誦文、教化(歌謡)、説法。つづいて、別願、廻向、総廻向、降座。最後に布教)などあらゆる作法を記しており、なおかつ、唱導の心構えについても教授する周到な著作である。
三井寺流について
虎関師錬『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、
本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。
とあり、鎌倉末期において、音声をもって仏道を隆盛たらしめるものとして経師(説経師)、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことを示している。
唱導は、安居院流のほかには寛元年間(1243年-1247年)に園城寺の定円がおこした三井寺流が知られており、同じ『元亨釈書』巻二十九に、
方今天下の唱演を言ふは皆二家に効(なら)ふ。
の記述がある。浄土系の安居院流に対し三井寺流は天台系で、この両者は鎌倉末期には唱導の二大流派と目されていたことが知られるものの、三井寺流は現存せず、派祖とされる定円についても詳細は不明である。日本の話芸の研究で知られる関山和夫は、説教師や浄瑠璃に三井寺流の痕跡を認めることができると論じたが、結果的には三井寺流は安居院流に吸収されるかたちで消滅したと考えられる。
普通唱導集と神道集
鎌倉時代後半の13世紀末葉には『普通唱導集』が編まれた。これは、昭和初年に東大寺で発見された唱導のテキストであり、永仁5-6年(1297年-1298年)ころに良季という僧によって起稿されたものであるが、当時のあらゆる仏事法会を想定したものであり、型どおりの教理だけではなく、当時の社会秩序や職業等に多くの紙幅を割り当てており、仏教史のみならず中世の社会・文化・民俗における文献資料としても注目される。このテキストでは、唱導本来の表白体や願文体が記されている。
民間宗教家による唱導はまた、多くの語りものを生んだ。唱導が半僧半俗の下層の人びとによって担われてくると、唱導家のしごとも地方の人びとの口碑・伝説を収集する活動を包含するようになる。南北朝時代の成立と考えられる安居院流(安居院唱導教団)による『神道集』は、こうした説話を含めた唱導のテキストの集大成と考えられ、安居院流が聴衆に対し神仏の縁起と本地垂迹を語ったことをしめしている。『神道集』に収録された説話の約半数は、上野国・信濃国を中心として東山道・北陸道の諸地域における伝説・神話といった口承であり、安居院唱導の活動が京都から東国・北陸への往還に沿うものであったことを裏づける。そしてまた、文学史的にみれば、『神道集』は室町時代の御伽草子や説経節の先駆的性質を有しているとも指摘されるのである。
影響
「説経」は、しばしば説経唱導とも呼ばれ、伴奏楽器を鳴らし、あるいは踊りをともなったりして説経節や説経浄瑠璃などとして芸能化していくが、「唱導」は必ずしもただちに芸能化せず、説教(法話)のかたちでのこったと考えられる。しかし、この説教と説経節・ちょんがれとが結びついて中世の節付説教、さらに近世の節談説教へと発展していった。節談説教は、江戸時代において民衆の娯楽となったいっぽう、浪曲・講談・落語など話芸をはじめとする近世成立の諸芸能の母体となったが、これももともと唱導が音韻抑揚の節をもっていたことに由来すると考えられる。
冒頭に述べたように、唱導そのものは文学でも芸能でもないが、教化の対象が知識・教養に乏しい庶民の場合は、譬喩や因縁など説話の部分が親しみやすいため、そこから文学的な関心が深められていった。こうして生まれたのが「唱導文学」とされる。「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であり、折口自身、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べたように、唱導文学は芸能としての説経に多大の素材をあたえた。
筑土鈴寛は、1930年(昭和5年)の「唱導と本地文学と」(『国語と国文学』誌所収)において、唱導のテキストである説法資料にふくまれる因縁譬喩譚と『今昔物語集』などに収載される説話とを比較して「説話文学と説経とは真に皮一重である」と論じている。また、後藤丹治は、『戦記物語の研究』(1936年)において、唱導それ自体が『平家物語』の成り立ちに多大な影響をあたえたことを指摘しており、以来、多くの研究者により「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の冒頭に代表される『平家物語』の美文が安居院流説教の影響を強く受けたものであるという見解が支持されている。
中国における唱導
中国にける唱導は、南北朝時代から隋を経て唐の時代にわたって布教法の一環としておこなわれた。梁の慧皎が著した『高僧伝』(519年成立)巻十三には、説経師とならんで唱導が布教方式として挙げられており、廬山にあった慧遠を初期の唱導師として掲げている。唱導師はその出自の貴賤を問わず法会・斎会に招かれ、巧妙な語りと美しい節回しで聴衆を信仰の世界にいざなった。このとき説経師が同時に招かれて経典を講ずることもあった。唱導師は、教理に関する知識よりも美声であることを第一の要件とし、しだいに節回しの美しい詠唱そのものが求められるようになり、唐代にいたっては梵唄(声明)と変わらぬものへと転化した。ただし、前掲『高僧伝』には唱導の要素として第一に声、つづいて弁(弁舌)、才(才知)、博(博識)を掲げている。
唐代の道宣の著した『続高僧伝』(645年成立)によれば、隋代に法韻という仏僧が「諸々の碑誌および古導文百余巻」を誦したこと(巻三十)、また、隋の彦jが新しい唱導法を編み出して旧来のものを改めたこと(巻二)などが記されており、時代の変化に応じて唱導のあり方も変わっていったことがうかがわれる。  
 
御詠歌

 

札所巡り
在家の人々が寺院・霊場めぐりにうたう歌で、明治時代に現在のかたちとなった。その主要な流派の一つ高野山の金剛流のもの。弘法大師(空海)慈愛や導きを歌ったもので、七・五の十二音節を一句とする和讃の様式で作られている。和歌の三十一文字に節をつけたものをご詠歌、五七調の詞句に節をつけたものを和讃といい、その詞はむずかしいお経と違い、誰にでもわかりやすく仏教や真言宗の教えを理解できるものとなっている。
 秩父札所
ありがたや一巻ならぬ法のはな 数は四萬部の寺のいにしえ
廻り来て願いをかけし大棚の 誓も深き谷川の水
補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝津瀬
あらかたに参りて拝む観世音 二世安楽と誰も祈らん
ちちはは父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし
 ● 初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世の夢ぞ覚めける
 ●六道を兼ねて巡りて拝むべし 又後の世を聞くも牛伏
 ●ただ頼め誠の時は西善寺 きたりむかへん弥陀の三尊
 ●巡りきてその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるらん
 ●ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六つの巷の苦にかはるべし
つみとがも消えよと祈る坂ごおり 朝日はささで夕日かがやく
老いの身に苦しきものは野坂寺 いま思い知れ後の世の道
御手に持つ蓮のははき残りなく 浮世の塵をはけの下寺
昔より立つとも知らぬ今宮に 参る心は浄土なるらん
みどり子の母巣の森の蔵福寺 ちちもろともにちかひもらすな
 ●西光寺誓いを人に尋ぬれば ついの住家は西とこそ聞け
 ●あらましを思ひ定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける
 ●ただたのめ六則ともに大悲をば 神門にたちてたすけたまえる
 ●天地を動かす程の龍石寺 詣る人には利生あるべし
 ●苔むしろしきてもとまれ岩の上 玉のうてなも朽ちはつる身を
梓弓いる矢の堂に詣で来て 願ひし法にあたる嬉しさ
極楽をここで見つけて童う堂 後の世までもたのもしきかな
音楽のみ声なりけり小鹿坂の 調べにかよう峰の松風
天照す神の母祖の色かへて なおもふりぬる雪の白山
水上はいづくなるらん岩谷堂 朝日もくなく夕日かがやく
 ●尋ね入りむすぶ清水の岩井堂 心の垢をすすがぬはなし
 ●夏山やしげきが下の露までも 心へだてぬ月の影もり
 ●霧の海たち重なるは雲の波 たぐひあらじとわたる橋立
 ●分けのぼり結ぶ笹の戸おし開き 仏を拝む身こそたのもし
 ●一心に南無観音と唱ふれば 慈悲ふか谷の誓ひたのもし
深山路をかき分け尋ね行きみれば 鷲の岩谷にひびく滝つ瀬
願わくは般若の舟にのりを得ん いかなる罪も浮かぶとぞ聞く
春や夏冬もさかりの菊水寺 秋のながめに送る年月
萬代の願ひをここに納めおく 苔の下より出づる水かな
 坂東札所
頼みあるしるべなりけり杉本の 誓ひは末の世にもかはらじ
たちよりて天の岩戸をおし開き 仏をたのむ身こそたのしき
枯樹にも花咲く誓ひ田代寺 世を信綱の跡ぞ久しき
長谷寺へまいりて沖をながむれば 由比のみぎはに立つは白波
かなはねばたすけたまえと祈る身の 船に宝をつむはいいづみ
 飯山寺建ちそめしよりつきせぬは いりあいひびく松風の音
 なにごともいまはかなひの観世音 二世安楽とたれか祈らむ
 障りなす迷ひの雲をふき払ひ 月もろともに拝む星の谷
 聞くからに大慈大悲の慈光寺 誓いもともに深きいわどの
 後の世の道を比企見の観世音 この世を共に助け給へや
吉見よと天の岩戸を押し開き 大慈大悲の誓いたのもし
慈恩寺へ詣る我が身もたのもしや うかぶ夏島を見るにつけても
ふかきとが今よりのちはよもあらじ つみ浅草にまいる身なれば
ありがたやちかひの海をかたむけて そそぐめぐみにさむるほのみや
誰も皆な祈る心は白岩の 初瀬の誓ひ頼もしきかな
 たのみくる心も清き水沢の 深き願いをうるぞうれしき
 ふるさとをはるばるここにたちいづる わがゆくすえはいづくなるらん
 中禅寺のぼりて拝むみずうみの うたの浜路にたつは白波
 名を聞くもめぐみ大谷の観世音 みちびきたまへ知るも知らぬも
 西明寺ちかひをここに尋ぬれば ついのすみかは西とこそきけ
迷ふ身が今は八溝へ詣りきて 仏のひかり山もかがやく
ひとふしに千代をこめたる佐竹寺 かすみがくれに見ゆるむらまつ
夢の世にねむりもさむる佐白山 たえなる法やひびく松風
へだてなき誓をたれも仰ぐべし 佛の道に雨引の寺
大御堂かねは筑波の峯にたて かた夕暮れにくにぞこひしき
 わが心今より後はにごらじな 清滝寺へ詣る身なれば
 このほどはよろずのことを飯沼に きくもならはぬ波の音かな
 音にきく滑河寺の朝日ヶ渕 あみ衣にてすくふなりけり
 千葉寺へ詣る吾が身もたのもしや 岸うつ波に船ぞうかぶる
 はるばると登りて拝む高倉や 富士にうつろう阿裟婆なるらん
日はくるる雨はふる野の道すがら かかる旅路をたのむかさもり
濁るとも千尋の底は澄みにけり 清水寺に結ぶ閼伽桶
補陀洛はよそにはあらじ郡古の寺 岸うつ浪を見るにつけても
 西国札所 (西国観音巡礼・西国三十三ヶ寺札所)
補陀落や岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬
ふるさとをはるばるここに紀三井寺 花の都も近くなるらん
父母の恵みも深き粉河寺ほとけの誓いたのもしの身や
深山路や檜原松原わけ行けば 槙の尾寺に駒ぞ勇める
まいるより頼みをかくる葛井寺 花のうてなに紫の雲
 岩をたて水をたたえて壺坂の 庭のいさごも浄土なるらん
 けさみればつゆの岡寺庭の苔 さながら瑠璃の光なりけり
 いく度も参る心は初瀬寺 山も誓いも深き谷川
 春の日は南円堂にかがやきて 三笠のやまにははるるうす雲
 夜もすがら月を三室戸わけゆけば 宇治の川瀬に立つは白波
逆縁も漏らさで救う願あれば 准胝堂はたのもしきかな
みなかみはいずくなるらん岩間寺岸うつ波は松風の音
後の世を願う心はかろくとも 仏の誓い重き石山
いで入るや波間のの三井寺の 鐘のひびきにあくる湖
昔より立つとも知らぬ今熊野 仏の誓いあらたなりけり
 松風や音羽の滝の清水を むすぶ心は涼しかるらん
 重くとも五の罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば
 わが思ふ心の中はむつのかど ただまろかれと祈るなりけり
 花を見ていまは望みも革堂の 庭の千草も盛りなるらん
 野をもすぎ山路に向かふあめの空 善峰よりも晴るる夕立
かかる世に生まれあふ身のあなうれいやと 思はで頼め十声一声
おしなべて老いも若きも総持寺の ほとけの誓い頼まぬはなし
重くとも罪には法の勝尾寺 ほとけを頼む身こそやすけれ
野をもすぎ里をもゆきて中山の 寺へ参るは後の世のため
あはれみや普き門の品々になにをか波のここに清水
 春は花夏は橘秋は菊 いつも妙なる法の華山
 はるばるとのぼれば書写の山おろし 松のひびきも御法なるらん
 波の音まつのひびきも成相の 風ふきわたす天橋立
 往昔は幾世経ぬらん便りをば 千歳もここに松の尾の寺
 月も日も波間に浮かぶ竹生島 船に宝を積むここちして
やちとせや柳に長き長命寺 運ぶ歩みのかざしなるらん
あな尊と導きたまえ観音寺 遠き国より運ぶ歩を
いままでは親と頼みし笈摺を脱ぎて納むる美濃の谷汲
 よろずよの願いをここに納めおく水は苔よりいづる谷汲
 世を照らす仏のしるしありければまだともしびも消えぬなりけり
 四国札所 (四国八十八箇所)
霊山の釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も消えうせにけり
極楽の弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口癖にせよ
極楽の宝の池を思えただ 黄金の泉澄み湛えたる
眺むれば月白妙の夜半なれや ただ黒谷の墨染めの袖
六道の能化の地蔵大菩薩 導き給えこの世後の世
 仮の世に知行争う無益より 安楽国の守護を望めよ
 人間の八苦を早く離れなば 到らん方は九品十楽
 薪取り水くま谷の寺に来て 難行するも後の世のため
 大乗の秘法も科もひるがえし 転法輪の縁とこそきけ
 欲心をただひとすじに切幡寺 後の世までの障りとぞなる
色も香も無比中道の藤井寺 信如の波のたたぬ日もなし
後の世を思えば苦行焼山寺 死出や三途の難所ありとも
阿波の国一の宮とはゆうだすき かけて頼めやこの世後の世
常楽の岸にはいつか到らまし 弘誓の船に乗り遅れずば
薄く濃く分け分け色を染めぬれば 流転生死の秋の紅葉は
 忘れずも導きたまへ観音寺 西方世界弥陀の浄土ヘ
 面影を映して見れば井戸の水 結べば胸の垢や落ちなむ
 子を産めるその父母の恩山寺 訪らひ難きことはあらじな
 いつかさて西の住まいの我が立江 弘誓の舟に乗りて到らむ
 繁りつる鶴の林をしるべにて 大師ぞ居ます地蔵帝釈
太龍の常に住むぞやげに岩屋 舎心聞持は守護のためなり
平等に隔ての無きと聞く時は あら頼もしき仏とぞみる
皆人の病みぬる年の薬王寺 瑠璃の薬を与へまします
明星の出でぬる方の東寺 暗き迷いはなどかあらまじ
法の船入るか出づるかこの津寺 迷う我が身を乗せて給へや
 往生に望みをかくる極楽は 月の傾く西寺の空
 御仏の恵みの心神の峯 山も誓いも高き水音
 露霜と罪を照らせる大日寺 などか歩みを運ばざらまし
 国を分け宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益残せり
 人多く立ち集まれる一の宮 昔も今も栄えぬるかな
南無文珠三世諸仏の母ときく 我も子なれば智こそ欲しけれ
静かなる我が源の禅師峰寺 浮かぶ心は法の早船
旅の道うえしも今は高福寺 後の楽しみ有明の月
世の中に蒔ける五穀の種間寺 深き如来の大悲なりけり
澄む水を汲むは心の清瀧寺 波の花散る岩の羽衣
 わずかなる泉に住める青龍は 仏法守護の誓いとぞ聞く
 六つの塵五つの社あらわれて 深き仁井田の神の楽しみ
 補陀落やここは岬の船の竿 取るも捨つるも法の蹉跎山
 南無薬師諸病悉徐の願いこめ 詣る我が身を助けましませ
 しんがんや自在の春に花咲きて 浮世逃れて住むや獣
この神は三国流布の密教を 守らせ給わん誓いとぞ聞く
草も木も仏になれる仏木寺 なおたのもしききちくにんてん
きくならく千手不思議の誓いには 大盤石も軽くあげ石
今の世は大悲の恵み菅生山 終には弥陀の誓いをぞ待つ
だいじょうの祈る力の岩屋寺 石の中にも極楽ぞある
 極楽の浄瑠璃世界たくらへば 受くる苦楽は報いならまし
 花を見て歌詠む人は八坂寺 三仏じょうの縁とこそきけ
 弥陀仏の世界をたずね行きたくば 西の林の寺に詣れよ
 十悪の我が身を捨てずそのままに 浄土の寺に詣りこそすれ
 よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ
西方をよそとは見まじ安養の 寺に詣りて受くる十楽
太山へ登れば汗の出でけれど 後の世思へば何の苦もなし
来迎の弥陀の光の円明寺 照り添う影は夜な夜なの月
曇りなき鏡の縁と眺むれば 残さず影を映すものかな
このところ三島に夢の醒めぬれば 別宮とてとも同じ垂迹
 みな人の参りてやがて泰山寺 来世の引導頼みおきつつ
 この世には弓矢を守る八幡なり 来世は人を救う弥陀仏
 立ち寄りて作礼の堂に休みつつ 六字を唱え経を読むべし
 守護のため建てて崇むる国分寺 いよいよ恵む薬師なりけり
 縦横に峰や山辺に寺建てて あまねく人を救うものかな
後の世を思へば参れ香園寺 とめてとまらぬ白滝の水
さみだれの後に出でたる玉の井は しらつぼなるや一の宮川
身の中の悪しき悲報を打ち捨てて みな吉祥を望み祈れよ
前は神後ろは仏極楽の よろずの罪を砕く石鎚
おそろしや三つの角にもいるならば 心をまろく慈悲を念ぜよ
 はるばると雲のほとりの寺に来て 月日を今はふもとにぞ見る
 植え置きし小松尾寺を眺むれば 法の教えの風ぞ吹きぬる
 笛の音も松吹く風も琴弾くも 歌うも舞うも法の声々
 観音の大悲の力強ければ 重き罪をも引き上げてたべ
 本山に誰か植えける花なれや 春こそ手折れたむけにぞなる
悪人と行き連れなんも弥谷寺 ただかりそめも良き友ぞよき
わずかにも曼荼羅拝む人はただ 再び三度帰らざらまし
迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺
十二神味方に持てる戦には 己と心兜山かな
我住まば世も消え果てじ善通寺 深き誓いの法の灯し火
 まことにも神仏僧をひらくれば 真言加持の不思議なりけり
 願いをば仏道隆に入り果てて 菩提の月を見まくほしさに
 踊り跳ね念仏唱う道場寺 拍子を揃え鐘を打つなり
 十楽の浮き世の中を尋ぬべし 天皇さえもさすらいぞある
 国を分け野山をしのぎ寺々に 詣れる人を助けましませ
霜寒く露白妙の寺のうち 御名を唱ふる法の声々
宵の間のたえふるしもの消えぬれば あとこそ鐘の勤行の声
讃岐一宮の御前に仰ぎ来て 神の心を誰かしら言ふ
梓弓屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇むもののふ
煩悩を胸の智火にて八栗をば 修行者ならで誰か知るべし
 いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ
 あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ
 なむ薬師諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺
 
津軽じょんから節

 

起源
民謡の起源・発生に関する説は数多くあり、どれも定説として断定することは難しいのですが、より一般的な説を取り上げて研究していきます。民謡は、元々は「はやり唄」と呼ばれていました。その変遷は、旋律(メロディー)を基礎にして見ることができます。地方に持ち込まれた「はやり唄」は、時を経てその土地の訛り(なまり)言葉に置き換えられていくことで、自ずと節回しも変化していきます。なんとなく元になっていた旋律の名残りはあるけれど、最終的には旋律も歌詞も原形をとどめない唄になっていくものも多く、それがその土地の民謡として歌い継がれてきたわけです。日本民謡の源流のひとつに「新潟・新保広大寺節(しんぽこうだいじ節)」があります。「新保広大寺節」は、三味線と唄で村々を回り生活していた盲目の女性芸人衆越後瞽女(えちごごぜ)によって全国へ広まっていきました。越後瞽女が各地へ持ち込んだ新保広大寺節は、やがて「新保広大寺くずし」へと発展し、口説節(くどき節)としてその土地に馴染んでいきます。
江戸へ向かって唄い歩いた越後瞽女の新保広大寺くずしが、群馬・栃木の八木節(やぎ節)の元唄になり、越中-越前-近畿地方、さらには中国地方へと向かった越後瞽女によって「古代神」・「古代臣」・「こだいじ踊」・「こだいず踊」などの踊り唄が生まれました。またこれらの民謡のタイトルは「こうだいじ」が訛って、後に「こだいじん」や「こだいじ」になったと伝えられています。越後から北に向かった越後瞽女は、山形-秋田と唄い歩き、その土地の唄に影響を与えていきます。そして、青森に持ち込まれた新保広大寺くずしが津軽の土地に馴染み、唄いはやされ、それが津軽じょんから節の旋律へと発展していきました。越後瞽女の唄の旅の始まりは、江戸時代とも室町時代とも言われています。青森の津軽じょんから節の起源が越後にあったなんて驚きですね。東北地方の村々を唄い歩き、青森に辿りつくまでにどれくらいの年月がかかったのでしょう。
「じょんから」って何?-常縁和尚にまつわる伝説-
青森県南津軽郡浅瀬石村には、ある伝説があります。それは慶長(1596年-)の頃、津軽地方の領土統一を巡り争われていた時代です。大浦城主で初代津軽藩主であった「津軽為信」は、2500余の兵をもって南津軽へ進軍し、浅瀬石城城主「千徳政氏」を追い詰め、千徳家を滅ぼしました。その後も為信は追討の手をゆるめず、千徳家の墓所までもあばこうとしたのです。千徳家代々の菩提寺である神宗寺の「常縁和尚(じょうえん和尚)」は、これに激しく抗議しました。しかし、受け入れられることもなく為信の怒りにふれ、常縁和尚は追われる身となります。そしてついに、厳しい追手を受けた常縁和尚は、千徳家の位牌と共に浅瀬石川へ身を投じてしまいました。村人たちは、千徳家と常縁和尚の霊を慰めるために、この地での争いの悲劇を唄にしました。そして、常縁和尚が身を投げた河原を「常縁河原(じょうえんがわら)」と名付け、唄の名も「常縁河原節(じょうえんがわら節)」となり、時を経て「上川原節(じょうがわら節)」と呼ばれるようになりました。それがいつしか「じょんから節」になったと伝えられています。常縁和尚にまつわる伝説から、元々は慰霊鎮魂の歌だったのかもしれません。曲名は「津軽じょんから節」とからを濁らずに表記されるのが一般的ですが、言葉の由来や訛りもあることから、曲中では「じょんがら」と唄っていることが多いようです。
もうひとつの「じょんから」
「ちょんがれ」という言葉をご存知ですか?これは、江戸時代に願人坊主とよばれる僧たちが村々を歩き回り、鉦(かね)や太鼓を叩きながら踊り半分に冗談などを口早に歌った芸のことで、その芸の中で唄われた節回しが「ちょんがれ節」と呼ばれています。願人坊主をはじめ、商人や芸人達によって日本各地に広められ、特に北陸・能登半島全域では、この土地に馴染んだちょんがれ節が数え唄調などに変化していき、盆踊唄「ちょんがり節」として今でも盛んに唄い囃されていています。これらはバリエーションが多彩で、その地域によって歌い出しやお囃子に違いがあります。関西方面に伝わったちょんがれ節は、のちの「浪花節」へと発展していくのですが、関東・北陸・甲信越では、ちょんがれ節の節回しと津軽じょんから節の起源である新保広大寺の特徴的な詞形が融合し、発展しながら各地へ広まっていきました。そしてこの「ちょんがれ」と「じょんから」という言葉が何となく似ていることから、じょんからという言葉の由来は、ちょんがれが訛ってできたという説もあります。これらのことから、各地域の言葉の訛りなどもあいまって、この組み合わせの民謡を総じて「じょんから」と呼ぶようになったとも言われています。全国に散らばる「じょんから」の歌心。それは越後瞽女たちが実際に足を踏み入れていない土地にも、しっかりと伝わっていったのですね。
門付け(かどづけ)
人家の門の前に立って行う芸能。報酬として、お金や食料(米など)をもらう。門ごとに神が訪れて祝福を与えたという民俗信仰から生まれたらしい。
ボサマ
漢字では「坊様」と書く。三味線を掻き鳴らし、「門付け」や大道芸をする男盲の芸人のこと。
ゴゼ(瞽女)
ゴゼとは眼の不自由な女性何人かが一組になって村から村へ三味線を弾き、唄を歌って旅をする吟遊詩人のこと。1年のほとんどの間、旅をしながら過ごし、目的の村に着くと、ゴゼ宿という泊まりつけの家に荷物をおろしては、家々を門付けして歩き、夜は宴席で民謡などを歌った。盲男の当道のような相互扶助の「座」という組織があって、厳しい規律が定められていた。例えば、結婚は禁じられていた。規則を破ったゴゼは師匠から破門され、「はぐれゴゼ」あるいは「はなれゴゼ」といわれた。ゴゼで有名なのは長岡ゴゼ・高田ゴゼ(新潟県)である。江戸時代に津軽地方にゴゼが巡歴したという確証はないが、以下の2つの言い伝えが残っている。
(1)幕末の頃、一人のはぐれゴゼが十三港より帆船に乗り、城下町弘前へ行く途中腹痛を起こした。神原の渡しにさしかかったとき、絶えかねて下船した。そのゴゼを介抱したのが渡し守の三太郎であった。ゴゼは恩義を感じ、三太郎と夫婦になった。そして生まれた子供が仁太郎であった。 (2)十三港に上方から来た盲目の女三味線弾きがいた。この女性から仁太郎が三味線と唄を習った。
当道座(とうとうざ)
中世から近世にかけて、「平家物語」を琵琶の音に合わせて語る(平曲)琵琶法師達が、自分達の芸道・集団を「当道」と呼んだらしい。室町時代の初期に平曲家・明石覚一が、仲間を組織化して「当道座」を創設し、眼の不自由な人はこれに属して幕府より保護を受けていた。室町期には検校(けんぎょう)・別当(べっとう)・匂当(こうとう)・座頭(ざとう)の四官が設けられたが、江戸時代には、寺社奉行の管轄下で座頭がさらに18の位に分けられるなど、細分化された階級組織となっていた。津軽藩には全国的な当道組織の支部に相当する組織があり、城下町・弘前には座頭町があり、士・農・工・商の身分に属する目の不自由な少年は14〜15歳になると座頭に弟子入りすることになっていた。平曲(平家琵琶)の他、琴・三味線などの音楽と按摩・鍼・灸などの医療などが公認されていた。
元来、当道座に属する人たちは、「門付け」は行わず、寺社奉行への届け出のもと興行を行っていたが、廃藩置県後、幕府の保護を受けられなくなった後、「門付け」をするようになった。
イタコ
苦しい修行を経て、亡き人の言葉を伝えたり、占い・予言を行うなど特別な能力を持つ人(シャーマン)のこと。ほとんどが、生まれながら、もしくは、幼い時に盲目か盲目に近い弱視になった女子が師匠のイタコに弟子入りをして修行をした。修行の方法は師匠によって違うらしい。 亡くなった人とこの世に生きる人の仲立ちとなって死者の言葉を伝えることを「口寄せ」あるいは「仏降ろし」という。
太棹(太三味線)と細棹(細三味線)
中国の小型の楽器「三弦」(さんしぇん)に起源を持つとされる三味線は、14世紀末に琉球(沖縄県)に伝来、16世紀後半には日本本土に伝わったとされている。その後はいくつかのルートを経て現在さまざまな種類の三味線となり、大まかに分類しても、太棹、中棹、細棹と分かれる。三味線は棹の太さに比例して胴も大きくなり、胴の皮も厚くなる。細棹の皮は猫皮が中心だが、太棹は犬皮である。これらの違いが、音色・音量の違いとなっている。大條和雄氏によれば、当道座のボサマのほとんどが細棹を使っていたのに対して、仁太坊系のボサマは太棹を使用していたらしい。
津軽じょんから節2
じょんから節は上川原節ともいわれ、津軽民謡の三大節(じょんから節、よされ節、津軽小原節)の一つである。
その由来をたずねると、今から四百三年前の慶長二年(一五九七年)二月二十日より浅石城主十一代の千徳安芸之助政保が、西根賀田の城主大浦為信の大軍に攻められ、十日間にあたって悪戦苦闘を続けたが、多勢に無勢のため遂いに、二十八日の早朝、城後にまわった敵将森岡金吾、木村越後等の一隊に火をかけられ、城主政保は近侍十五名と共に討死し家中五百余軒、農家八百軒の浅石城は仁治元年(一二四〇年)千徳伊予守行重以来十一代、約三百五十余年間、東の山根に繁栄した千徳家は減亡し、浅石文化も落城と共に焼失した。
この落城の哀話として「じょんから節」が発祥したと伝えられている。
当時、浅石城下には天台宗の神宗寺外に真言宗の高賀山大善院、法華宗の妙経寺等があり、その一坊として辻堂があった。
現在上浅瀬石の田圃の中に大きな一本杉があるが、そこが辻堂の跡と伝えられ石名坂道への別れ道になっていた。
慶長二年二月二十八日の早朝に役僧の常椽(じょうえん)和尚は、前夜の戦況より味方の不利を察知したが、主家の必勝を祈願し、神仏の加護を信じて熱祷を捧げて、時の経つのも忘れていた。夜明けと同時に大浦勢は喚声を挙げて辻堂にも乱入し、手当り次第に仏像をこわし、墓をあばく乱暴を働いた。常椽和尚は覚悟をきめて山伏姿となり薙刀を突き立て「汝等犬ざむらいめ!!ここは千徳家累代の墓所なるに、仏像をこわし、墓をあばく人非人ども。人は死すとも霊魂は不滅なり。仏を恐れぬ畜生共の子々孫々まで祟りあらん」と、先祖代々の位牌を背負い、群がらる軍勢に薙刀を揮い、 一方に血路を開いて東の山恨をさして逃げのびた。ところが途中で浅石城を振向いた時には本城は火炎に包まれ、市街も城内も阿鼻叫喚の巷と化している状況を察した。追いすがる敵勢を斬り倒し、孤軍奮闘したが、遂いに捕えられそうになったので、白岩の断崖の頂上から浅瀬石川の濁流に飛込んでその一生を終った。
数年後の夏に村の子供等が川原で砂遊びをしていると、砂の中から変り果てた常椽和尚の屍体があらわれた。子供等の騒ぎに村人が駆けつけ、相談の結果、その場所に墓を作り、手厚く葬って、常椽の墓と名ずけたので、この辺一帯を常椽川原(じょうえんかわら)と称した。それから毎年お盆になると村人はこの墓所に集って供養をなし、千徳家全盛時代の昔を偲び、城主をはじめ先祖代々の霊を慰める盆踊りを行った。これが「じょんから節」である。
その頃、津軽家は重臣を遺わして村人を監視すると同時に浅石城を破壊し、市街地を開拓させたので、落人達は武器を土中に埋めて農業に従事するようになったが、村人等は厳重な取締りの下に農作業をしながらも、音を偲ぶ唄を吟んだようである。
じょんから節は「くどき節」の一種であつて、当時の歌詞はいつの間にか伝わらず、時代と共に変化し、替歌となり、その調子も変って現在の観光的な歌詞となり、三味線.大鼓の伴奏となって一般に普及されるようになった。昭和二十九年に浅瀬石と石名坂の間を流れる浅瀬石川に橋か架けられ「じょんから橋」上川原橋と命名されたが「じょんかわら」の地名にちなんだ事は、まことに意義深いことてぁる。
津軽じょんから節には、テンポの速い「旧節」、ゆるやかな「中節」、やや速度を上げて歌い上げる「新節」、いちばんの盛り上がりとなる「新旧節」などがあります。歌の前には、津軽三味線による前奏が演奏されます。また、津軽じょんから節には、曲弾きといわれる、歌の入らない津軽三味線の演奏だけによるものもあります。
じょんから節
ハアーさぁさこれから読み上げまする 
  津軽浅瀬石じょんから節よ さてもあわれな落城のはなし
ハアー今は昔の七百年前
  南部行重城主となりて 伝えつたえて十代あまり
ハアー頃は慶長二年の春に
  大浦為信大軍率い 城主政保討死いたす
ハアー時に辻堂常椽和尚
  先祖代々位牌を背負い 高い崖から濁流めがけ
ハアーゃがて春過ぎ真夏となりて
  村の子供等水浴びすれば 砂の中からあわれな姿
ハアー村の人達手厚く葬り
  盆の供養をすました後は 昔しのんでじょんから節よ
ハァー春は城山りんごの花よ
  秋の田の面は黄金の波コ 村は繁昌て家内の笑顔  
 
傀儡子(くぐつ)

 

9世紀頃から各資料に現れだした、諸国を旅し、芸能によって生計を営んでいた集団の事である。呪術等を用い、色々な芸能を行うことが出来、また特に人形を操っていたとされる。傀儡師とも書き、女性の場合は傀儡女(くぐつめ)ともいう。その生活体系から、後の時代の、歩巫女、歌舞伎女、市子、イタコ等との関連性が指摘されている。
傀儡子2
人形遣いを言う。その起源については、巫女説・海部(あまべ)説・外来民族説があるが、今となっては決め難い。またその実像も地域による相違、時代による変遷がある。古くは大江匡房(まさふさ)の書き残した「遊女記」により、土地なき民であったと思われる。中世以降になると芸能人として街道筋の宿場町や河口の港町に住み着き、その持つ芸能によって生計を営んでいた。中世には淀川沿岸の河陽(大山崎)や神崎川河口の神崎で活動していたが、戎社(西宮神社)の発展にともなって、その散所の民となり、その保護の下で「戎まわし」を演じながら、そのお礼を各地に配った。
傀儡子3
傀儡子 (くぐつし、くぐつ、かいらいし) / 木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで、当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。
平安時代(9世紀)にはすでに存在し、散楽などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった。
平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった。
寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』にその和歌が収録された。
傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。
寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている。
傀儡子集団の源流
その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる。また、平安時代の文人、大江匡房の『傀儡子記』に日本民族とは異なる習俗であるとあり、インドからヨーロッパに渡ったジプシーと同源で、インドから中国・韓国経由で日本に来た浮浪漂泊の民族とする研究もある。「傀儡」は中国語で人形を意味し、中国の偶人戯(人形劇)の人形も傀儡子と呼ばれる。「くぐつ」という音は、日本語古語説、中国語説、中国語経由の朝鮮語説など諸説ある。
白柳秀湖は、大江匡房の『傀儡子記』の記述から、「傀儡子」は大陸のジプシーが中国・朝鮮などを経て渡来した漂泊の民族であるが、「傀儡師」は時代が下り、その芸能を受け継いだ浮浪の人々であり民族的なものではない、としている。
その他に、「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」とする滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする角田一郎説などがある。
『傀儡子記』
1087年に大江匡房によって書かれたもので、漢文体320文字程度の小品だが、当時の傀儡子たちがどのような生活様式をもち、どのように諸国を漂泊していたかがうかがわれる数少ない資料となっている。傀儡子集団は定まった家を持たず、テント生活をしながら水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、皆弓や馬ができて狩猟をし、2本の剣をお手玉にしたり七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある。魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である。
また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で、歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしていると述べ、東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女がもっとも美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬が続き、九州の傀儡女が最下等だと記す。なお、大江匡房は『遊女記』も著しており、「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業とするものの、区別して捉えていたとされる。
ゆかりの場所
西宮神社近くに傀儡師故跡があり、首から箱を下げた傀儡師の半身像が建てられている。傀儡師が人形芝居の元祖であると言われていることから、西宮市内に戎座人形芝居館もある。
愛知県半田市には、江戸後期から続く傀儡師のからくり人形が載った山車(田中組神楽車)があり、5月の亀崎潮干祭で演舞が披露される。 
「傀儡子記」
大江匡房の「傀儡子記」は「遊女記」と姉妹編をなすもので、同時期に執筆されたものと推定される。「傀儡」はあやつり人形を意味し、中国では、人形を舞わし歌を歌った者をいうが、日本では、狩猟を元来の生業としながら、党と呼ばれる集団で漂泊し、男は剣術、人形つかい、奇術、女は倡歌、売春を業とした。その実情は、塵添△(=土+蓋)嚢鈔の「昔ハ様々術共ヲ成ス也。今ハ無其義。男ハ殺生ヲ業トシ、女ハ偏ニ遊女ノ如シト云ヘリ」や、下学集の「傀儡(日本俗呼遊女、曰傀儡)」という記述からも窺われる。今日では内容不明のものもあるが、ここに記された生活形態と技芸は、当時の風俗、芸能の一端を知る上で貴重であるばかりでなく、此の類の芸能者の発生、系譜を考える上でも注目すべきものを含んでいる。傀儡子は猟師でもあり、芸能者でもあったと考えられる。
傀儡子記(大江匡房) / 傀儡子者、無定居、無當家、穹廬氈帳、逐水草以移徙、頗類北狄之俗。男則皆使弓馬、以狩獵為事。或跳雙劍弄七丸、或舞木人、闘桃梗、能生人之態、殆近魚龍曼蜒之戲。變沙石為金錢、化草木為鳥獸、能誑人目。女則為愁眉、啼粧、折腰步、齲齒咲、施朱傅粉、倡歌淫樂、以求妖媚。父母夫聟不誡告、亟雖逢行人旅客、不賺一宵之佳會。徵嬖之餘、自獻千金繡服錦衣、金釵鈿匣之具、莫不異有之。不耕一畝田、不採一枝桑、故不屬縣官、皆非土民。自限浪人、上不知王公、傍不怕牧宰。以無課役、為一生之樂。夜則祭百神、鼓舞喧嘩、以祈福助。東國美濃、參川、遠江等黨、為豪貴。山陽播州、山陰馬州等黨次之。西海黨為下。其名儡、則小三、日百、三千載、萬歲、小君、孫君等也。動韓娥之塵、餘音繞梁、聞者霑纓、不能自休。今樣、古川樣、足柄、片下、催馬樂、障テ鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、滿固、風俗、咒師、別法等之類、不可勝計。即是天下之一物也、誰不哀憐者哉。
大江匡房 (おおえのまさふさ)
平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥ごうのそつと号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。
大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる。正房の詩文に関する自叙伝『暮年記』の中で「予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり」と書いている。早くも天喜4年(1056年)16歳にして省試に合格して文章得業生に、康平元年(1058年)に対策に及第し、康平3年(1060年)には治部少丞・続いて式部少丞に任ぜられ、従五位下に叙せられた。
その後は昇進が止まり、一時隠遁しようとするが、藤原経任の諫止により思いとどまり、治暦3年(1067年)、東宮・尊仁親王の学士に任じられる。学士を務める中で尊仁親王の信頼を得て、治暦4年(1068年)に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると蔵人に任ぜられる。翌延久元年(1069年)、左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得る。また、東宮・貞仁親王(のち白河天皇)の東宮学士も務める。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。
延久4年12月(1073年1月)の白河天皇の即位後も引き続き蔵人に任ぜられるとともに、善仁親王(のち堀河天皇)の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務める。また、弁官にて累進し応徳元年(1084年)に左大弁に任ぜられ、応徳3年(1086年)に従三位に昇叙され公卿に列す。この間の承暦2年(1078年)、自らの邸宅に江家文庫を設置している。
堀河朝に入ると、寛治2年(1088年)に正三位・参議、寛治8年(1094年)に従二位・権中納言と順調に昇進する。この間、寛治4年(1090年)には堀河天皇に漢書を進講している。永長2年(1097年)、大宰権帥に任ぜられ、翌承徳2年(1098年)、大宰府へ下向する。康和4年(1102年)には大宰府下向の労により正二位に叙せられるが、まもなく大宰権帥を辞任した。長治3年(1106年)、権中納言を辞して、再度大宰権帥に任ぜられる。鳥羽天皇の天永2年(1111年)、大蔵卿に遷任されるが、同年薨去した。
人物
大江氏の再興を願う匡房にとって、大江維時以来途絶えていた公卿の座に自らが就いたことは大きな喜びであった。惟宗孝言が大学者として知られていた匡房の曾祖父大江匡衡について尋ねたところ、匡房は自分が意識しているのは維時のみであると述べて暗に匡衡は評価に値しないことを示した。これは匡衡の位階が正四位下に終わった事から、公卿を目指す匡房には目標たるべき人物ではないと見ていたと考えられている。
『続拾遺和歌集』(巻7 賀438)には匡房誕生時にまだ健在であった曾祖母の赤染衛門(匡衡の未亡人)が曾孫の誕生を喜ぶ和歌が載せられている。
大江氏の祖・大江音人を阿保親王の子とする伝承を作成したのは、匡房であるという説がある(今井源衛説)。
学才を恃まれ多くの願文の代作をし、それらをまとめた江都督納言願文集が残る。
和歌にも優れ、『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に114首の作品が収められている。歌集に『江帥集』、著書に『洛陽田楽記』『本朝神仙伝』がある。また『江談抄』は、彼の談話を藤原実兼(信西の父)が筆記したものである。
兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもある。前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めた。『古今著聞集』(1254年成立)や『奥州後三年記』(1347年成立)に見える話である。 
海の民の聖なるクグツ
それは不思議な舞であった。筑前一の宮・住吉神社の「敬老祭」に奉納された「筑紫舞」のことである。舞い手は、西山村光寿斉氏。神前に設けられた三畳ほどの舞台に、立烏帽子に狩衣姿の光寿斉氏が、すっくと音もなく立つ。ふわふわと波を踏むような足づかい。くるりと手首を返す所作。大きく旋回しながら、高く足を挙げ跳び上がった瞬間、小柄なその躯が宙に止まったように見えた。
古代において、神をその身に降ろして交歓することを「カムガカリ」と呼んだが、それが「歌舞」の原義だといわれている。まさにそんなシャーマンの舞が目の前にあった。ひらひらと踏まれる白い足袋の先からは、神の国の常世波が泡立ち、拝殿の中にまで寄せ来るようだった。
光寿斉氏が継承する筑紫舞は、一説に古代九州王朝の宮廷舞とされているが、確かなことは解っていない。九州王朝の存在自体、賛否両論あり、そこに舞の系譜を求めることは、困難に思われる。しかし、筑紫舞はその名の通り、九州を発祥とする芸能である。しかも能や人形浄瑠璃など、わが国の伝統芸能の源流を成すといわれている。その担い手は「傀儡子」と呼ばれる謎の芸能集団であった。
塩干しの三津の 海女の久具都持ち 玉藻刈るらむ いざ行きて見む (「万葉集」巻3・293)
「クグツ」のもっとも古い用例は、「万葉集」のこの歌である。クグツの「クグ」とは水辺に生える雑草で、古代の水辺の民、海人族の女たちは、この茎で「クグツコ」と呼ばれる籠を編んでは、魚や貝を容れていた。しかし、クグツコは単なる籠ではなかった。海人族にとって神聖なる藻「稚海藻」を容れる器でもあった。
わかめといえば、旧暦の大晦日の深夜、神官が海に入り、わかめを刈って神前に供える和布刈神社(北九州市)の神事が有名である。こうした例に限らず、神に捧げる大切な贄として、わかめは海の神事には欠かせないものとされている。
この聖なる藻を容れるクグツコに、海人族は、彼らの神である人形も入れていた。これを「クグツ」と呼び、人形を繰る彼ら自身も「クグツ」と呼ばれたと、民俗学者の折口信夫は述べている。
お雛様の始まりもそうだが、本来、人形はその人の代わりに罪やケガレを引き受け、厄祓いをする呪術的なものである。
クグツもやはり人形を繰り、人のケガレを祓って廻る芸能の民という一面を併せ持っていた。
いつからか、大陸から渡ってきた海人族は、福岡市の志賀島を本拠地とし、彼らの始祖である安曇磯良を祀った。それが、今の志賀海神社である。海人族は、そこから海伝いに全国に散らばっていったという。

しかし、クグツは陸に上がっても、さすらいの民であった。どのような階級にも属さず、どんな権力者からも支配されない。自在に土地を巡り、神を降ろしては人々のケガレを祓い、優れた芸能を伝えてきた。
「傀儡子は定居無く当家無し・・・弓馬を使い、狩猟を営み、また生きた人のごとく木偶(人形)を舞わせ、種々の奇術を演ずる。・・・漂泊の民であるから農耕をせず、権力を恐れず、課役に服さないことをもって一生の楽しみとしている。夜は百神をまつり、にぎやかに舞い、福助を祈る・・・」
平安時代の文献「傀儡子記」に見られる彼らの様子である。海人族の芸を継ぎ、男たちは人形遣い「傀儡子」となり、女たちは遊女「傀儡女」となって、宴席にはべりながら歌舞音曲を伝えたといわれる。
後に、彼女らの中から優れた謡い手が次々と生まれた。後白河法皇が選者となった歌謡集「梁塵秘抄」は、そんな遊女たちが伝えた流行歌、今様を中心にまとめたものである。また、木偶を舞わしながら曲戯、幻術、歌舞など、さまざまな芸能を携えた傀儡子たちは八幡信仰、夷信仰を背景に、津々浦々を風のように巡った。
さすらいの芸能集団である彼らの足跡には、いつも海の民らしい水の匂いがする。全国四万社といわれる八幡社の総本社、宇佐八幡宮の放生会には、奈良時代から「傀儡子舞」が奏されていた。水草の生い茂る和間浜に舟を出して、船上で人形たちを舞わせたといわれている。
中世以降、その神事は途絶えたが、舟を出していた古表神社(福岡県吉富町)と古要神社(大分県中津市)には合わせて百体余の人形が残され、自社の神事として四年に一度「細男舞・神相撲」が奉納されている。
また、近世になって、彼らの代名詞ともなった大阪・西宮神社の傀儡子舞「夷かき」「夷まわし」は、後に浄瑠璃語りと結びつき、人形浄瑠璃を生んだといわれている。
筑紫舞1
かつて日本に「くぐつ」(傀儡・傀儡子)と呼ばれる一族がいました。 定住生活をせず、街道をさすらい、祓えの芸を演ずることで暮らしをたてる芸能集団でした。
彼らは定住しないがゆえに、体制に縛られず権力を恐れない誇り高き一族であり、 その自由な精神から、時代に即したさまざまな芸能——今様、能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎舞踊など——を大成してゆき、 日本の芸能と文化にはかりしれない影響を及ぼしました。
そのくぐつ達が「祓えの芸」として大切に守り伝えてきた神事芸能、それが「筑紫舞」です。
筑紫舞は、神に捧げる「神舞」と、祭礼の時に神社境内で人々に見せる「クグツ舞」とに大別されます。 春夏秋冬それぞれの祭りに神に捧げる舞いがあり、また祭神によっても舞いが異なります。 さらに、筑紫・畿内・出雲・尾張・越・東というように、地域によっ ても舞いが異なり、舞ぶりも異なります。
それらのいずれにも旋回(舞い)や跳躍(踊り)がふんだんに盛り込まれ、 「神に近づく技」でもある「舞・踊」の二つの要素が確立しています。 また現行の日本舞踊にはない「ルソン足」「鳥飛び」「波足」「水けり」「砂けり」など、 異国や海辺にまつわる名のついた足使いは、この舞が傀儡子のルーツといわれるの芸でもあることをうかがわせます。
その振り・所作の全てが「祓え」としての意味を持ち、体を極限まで駆使して舞うことによって全身で人々の穢れを受け、 そしてそれを神様にお渡しすることでこれを祓う——その舞すがたは遥かな昔、神話が人々の暮らしの中に根付き、 神事儀式と芸能とが一体にして不可分であった時代の魂を今に伝えるものです。  
筑紫舞2
筑紫傀儡子(つくしくぐつ)と呼ばれる人々によって伝承されてきたとされる伝統芸能。跳躍や回転を取り入れた、独特の足づかいを大きな特徴とした舞である。
その起源は古く、『続日本紀』天平3年(731年)の記事にその名を見ることができる[1]。以来、神舞、傀儡舞など、何種類かに分類される二百以上の舞が、すべて口伝によって伝承されてきたと云われる。(ただし、木に記号なども刻んでいたらしい)
現在の伝承者は、箏曲家・菊邑検校から戦前に伝承を受けたという西山村光寿斉である。彼女を宗家とし、総帥・西山村津奈寿をはじめとする数十人の弟子によって舞の継承が行われている。その舞の実際は、毎年7〜8月に福岡市中央区の大濠公園能楽堂で開催される「筑紫舞の会」などで見ることができる。
尚、九州の宮地嶽神社の奥宮、不動神社の横穴式石室古墳内で代々筑紫舞が舞われていたと伝えられている。現在でも宮地嶽神社では年に一回筑紫舞の祭典があり、宮司や神職が舞を奉納している。  
幻の筑紫舞1
神戸在住の鈴鹿千代乃さんは国学院大学大学院の博士課程を修了し、神戸女子大学文学部国文科の助教授されている女性である。
鈴鹿先生が民族芸能の源流を研究中に、筑紫舞に出合ったのはおよそ二十年ほど前のこと。
昔から日本では「出雲の阿国」に代表されるように、古代から土地に縛られないさまざまな芸能の民が、能や歌舞伎、文楽などの伝統芸能を育んできたと言われている。
一般的には耳慣れない言葉だが、「傀儡師(くぐつし)」または「傀儡師(かいらいし)」と呼ばれる人々も、かつて日本に存在していた謎の芸能集団のひとつなのである。彼らは俗に言う「さすらい人」で、人形を操ったり、神社やお寺などの境内や聖域で(時には天皇の御座所でも)舞いながら自由に諸国をさまよい、暮らしを立てていた。
塊儲(くぐつ)たちの集団は、日本が近代化し始めた頃からいつのまにか姿を消してしまうのだが、その伝統芸能は一子相伝の口伝えでひそかに伝えられていた。
昭和の初期、当時神戸に住んでいた山本光子さん(現河西光子、筑紫舞の唯一人の伝承者)が十一歳の時に九州から来た盲目の天才箏曲家、菊邑検校から不思謎な縁で受け継いだといわれている「筑紫舞」は口伝で今日まで伝承されてきた謎の神事芸能なのである。
研究熱心な鈴鹿先生はさっそく河西光子さんに教えを乞い、ゼミの教え子たちと一緒にその筑紫舞を習得した。
「紙に書かず、一切文字に残さず、すべてを口伝で伝えてゆくというのが筑紫舞の鉄則なので、そのルーツは謎に包ま郡ています。傀儡たち自身が、自分たちはあくまで影の存在であって、闇の部分を受け持っているという非常に高い自覚と見識を持っていたと私は考えているのです」
確かに筑紫舞を見ていると普通の日本舞踊とは違って、神社で見かける舞楽舞や神楽舞に近い神聖な印象を受ける。
「筑紫舞は神への捧げものです」「自分のミソギをしているような気がします」「昨年、インドのサイババの前で舞を奉納した時、お礼にサリーを直接手渡してもらい感激しました」と生徒さんたちは話す。
今では、関西だけでなく、東京、名古屋、金沢からも男女合わせて三十人ほどの人たちが筑紫舞の勉強会に参加し、鈴鹿先生の指導の下、幻の傀儡舞の継承に励んでいる。  
幻の筑紫舞2
人形浄瑠璃だけではない。西山村光寿斉氏が伝える「筑紫舞」には、能や狂言、歌舞伎の原形ともされる舞があるという。それを氏に託した人々も、やはり漂泊の芸能者たちであった。その昔、盲目の箏曲家・菊邑検校を筆頭に、何十人という傀儡子たちが、光寿斉氏に舞を渡しては消えていった。その経緯は、あまりにも不思議で、目に見えない神意を感じるほどだ。今年79歳になる光寿斉氏の本名は河西光子。旧姓は山本光子といい、兵庫県神戸市の造り酒屋「山十」の一人娘として生まれた。幼いころから芸好きの両親の影響もあってさまざまな芸事を習っていたという。
そんな光寿斉氏が1歳の時、父親がひいきにしていた歌舞伎役者が、芝居に「筑紫ぶり」というものを取り入れたいと、菊邑検校を九州に捜して山十に招いた。ところが、検校が教える筑紫ぶりを当の歌舞伎役者よりも早く、傍らで眺めていた幼い氏が覚えた。「お宅のお嬢さんに、私の大事な大事なものを、取っていただきとうございます」。やがて、検校は氏の父親にこう切り出した。それがすべての始まりであった。昭和7年から18年までの11年間、菊邑検校は断続的に山十に逗留し、筑紫舞、筑紫神舞、神舞、筑紫ぶりといった二百数十曲に及ぶ舞を光寿斉氏ただ一人に教え込んだ。
普段は温和な検校も、こと稽古になると大変厳しかったという。「少しでも手を抜くと、絹ずれの音で分かってしまう。本当は目が見えるんじゃないかしらと何度も疑いました。そのぐらい、感覚の鋭い方でした」と、光寿斉氏は振り返る。舞の稽古を付けたのは検校だけではない。どういうネットワークがあったのか、その間、筑紫舞を継ぐ舞い手たちが全国から集まり、氏にさまざまな舞を伝えては去っていった。
戦後、氏は日本舞踊西山村流を起こし、宗家となったが、筑紫舞への思いを押さえ切れず、とうとうすべてを捨てて、九州への移住を決意した。それが17年前のことである。以来、筑紫舞宗家を名乗り、福岡市を拠点に後進の育成にあたりながら、広く舞を世に知らしめる活動に当たられている。今年3月にはフランス文化省の招きで渡仏し「フェスティバル・ド・リマジネール」に出演。初めての海外公演であったが、地元誌に「フラメンコを思わせる、新たな日本舞踊の神秘」と絶賛された。「これを機に、九州の人にも筑紫舞をもっと知ってもらいたい」とも願う。
ところで、舞を授けた菊邑検校の行方は、戦後ようとして知れない。昭和20年、氏の友人が長崎で偶然、検校に会ったのが最後だという。「光子さんに言伝はありませんか」と聞く友人に、「いえ、何もありません。あの人が私ですから」と検校は答えた。長崎に原爆が投下される4ヵ月前のことであった。
さまざまな舞を渡して、去っていった無名の舞い手たちも同様である。戦後、一度もそれらの人々と会うことがなかったと、光寿斉氏は語る。まさに一期一会の縁だった。「だれかに伝えて死ななければ、地獄に落ちる」。そんな恐ろしい言い伝えが、昔から筑紫舞にはあったといわれる。
数百年の間、そうやって闇の中で手渡されてきた舞である。だがそれも、時代の流れには勝てなかったのだろう。行き場を失った舞い手たちにとって、検校が見出した光寿斉氏は、最後の光明だったに違いない。「そっくりそのまま持っていて下さらば、いつの日か、何十年、いや何百年先にでも、きっといろいろの証を解いて下さる方が現れるでしょう。伝え伝えて、大事にしてください」それは、菊邑検校がすべてを渡し切り、光寿斉氏の元から去るとき、最後に残した言葉である。筑紫舞が抱く闇は、まだまだ深い。
 
文楽・操り浄瑠璃史

 

「操り浄瑠璃」あやつりじょうるり―またの名を「人形浄瑠璃」といいます。約400年前に誕生したこの伝統芸能は、現在では「文楽」といった方が分かり易いかも知れませんね。
昭和の激動期に滅亡寸前まで追いやられましたが、国などの手厚い保護を受けてよみがえり、現在では東京と大阪にできた2つの国立劇場を足場に定期公演を続け、文楽に対する一般の関心が高まってきたことは実に喜ばしいことです。
操り浄瑠璃は、浄瑠璃・三味線・人形の3つの要素からできた極めて珍しい総合芸術です。形成過程からいいますと、まず15世紀半ば(室町時代初期)に新しい語り物・浄瑠璃が誕生したあと、16世紀後半(室町後期-織豊時代)に三味線の伴奏がつき、最後に操り人形が合体しました。
その合体時期について、近年の研究では「16世紀末から17世紀初頭の慶長年間」とする説が有力になっています。具体的にいえば、江戸時代が始まる直前の慶長元年(1596年)から同19年(1614年)までの間です。
この浄瑠璃・三味線・人形の3つの要素からできた独特の芸能形態を、江戸時代を通じてずっと「操り」または「操り浄瑠璃」「浄瑠璃操り」「操り芝居」などと呼びました。この時代は、語り物の浄瑠璃が主導権を握った時代です。
ところが次第に視覚的な人形の存在が強調されて、明治に入ると「浄瑠璃人形入り芝居」とか「人形入り浄瑠璃」とかいろいろの名称をつけられ、次いで「文楽座」が台頭して「人形浄瑠璃」という呼び名を大々的に前面に打ち出し、統一されていったのです。
さらに文楽座という座名が人々になじまれるにつれ、大正末-昭和初めにかけて人形浄瑠璃そのものが文楽と呼び変えられるようになり、今日では人形浄瑠璃よりも文楽と言った方が通りがよくなったのです。
「浄瑠璃」の始まり

 

語り部・琵琶法師と平曲
では、操り浄瑠璃を構成する浄瑠璃・三味線・人形の3つの芸態のうち、まずその中核である「浄瑠璃」の起源から考察していこう。
「浄瑠璃」は、語り物の一つである。語り物とは、話の意味内容を伝えることを重視して、聞き手に話しかけるものである。その語り物の歴史は古くは神霊の語りから始まるが、ここでは芸能としての語り物をさかのぼっていくと、平安時代の中ごろ、中国渡来の琵琶を演奏して聞かせた盲目の法師ー「琵琶法師」(びわほうし)に、まず登場願わなくてはならない。
琵琶法師とは、失明のため寺院に所属するか、または放浪するかして、鋭敏な音楽的感覚をもとに渡来の珍しい楽器・琵琶の演奏を身につけた僧体の人たちのことである。
彼らは、初め琵琶を演奏するだけであったが、次第に琵琶の伴奏で社寺の霊験話や民間伝承を語るようになる。そして鎌倉時代初期の13世紀初め、平安時代に起こった保元(ほうげん)の乱、平治(へいじ)の乱を扱った「保元物語」「平治物語」など、幾多の戦乱を描いた軍記物語が世に出始めると、その物語を専門に伝える「語り部」となっていった。
次いで、平家一門の栄華と滅亡を描いた一大叙事詩ー「平家物語」(作者・成立年不詳)が広まる。初めは、数巻ほどの短い語りだったようだが、中世の無常感を通してしみじみと人間的な哀れを訴える物語が人々の心を打ってだんだんと長くなり、最終的に12巻に。琵琶法師は競ってこれを取り上げ、単調だった節付けも天台声明(しょうみょう)や神楽(かぐら)、催馬楽(さいばら)、今様(いまよう)などの曲節を取り入れて、哀憐優美な語り口となった。そして次第に内容・節付けともに整えられて、語り物としての平家琵琶ー「平曲」(へいきょく)が成立した。その一方、琵琶法師の中から語りの名手が出て芸術的な要素を高め、上層階級も鑑賞するようになって、鎌倉・南北朝・室町時代(13世紀-15世紀)を通じて大流行したのである。
説経節や幸若舞曲も
また当時の語り物には、簓(ささら=竹の先を細かく割って束ねた楽器)をすって仏教霊験譚や縁起話を語った「説経節」(せっきょうぶし)や、簡単な舞をともなって物語を勇壮に語る「幸若舞曲」(こうわかぶきょく)もあった。
説経節は、起源がはっきりしないが、鎌倉時代にすでに存在していたという。中世末から仏教の経文を面白く説き聞かせる説経が次第に平俗になり、声明から出た和讃や講式などを取り入れた音楽的な節回しで芸能化し、庶民の間に広がっていった。しかし、当時の芸態はよく分からず、ようやく明らかになったのはずっと時代が下がって17世紀の江戸時代初期である。このころになると、説経節は社寺の境内などにぎやかな場所に大きな傘を立て、その下で「ささら」をすって「いたわしや、あら、いたわしや」と詠嘆調で説経を語ったという。このため「説経説き」「ささら説経」とも呼ばれた。
幸若舞曲は、室町時代前期の15世紀半ばに現れた曲舞(くせまい)の一派。曲舞とは、簡単な舞いをともなった語り物で、能の前身の猿楽とともに人気を集めた。
その曲舞の中の有力なグループであったのが、越前の国、現在の福井県丹生郡朝日町にいた「幸若」。伴奏楽器もただ鼓だけで、足踏みして舞うという簡単な芸能だが、武張った軍記物などを好み、織田信長が桶狭間の戦いに出陣する際に舞った有名な「敦盛」も、この「幸若舞曲」である。この信長が当時の名人、幸若八郎九郎に米百石の知行を与えて保護したので、豊臣秀吉、徳川家康もこれに見習い、江戸時代には幕府御用の式楽となって武士階級に好まれ、能楽者より上席についた。
「浄瑠璃姫物語」の登場
これらの語り物の中で、なんといってもその主流は琵琶法師が語る平曲であった。ところが、そうした中世の15世紀半ば(室町時代初期)、突如として軍記物でもなく、霊験物でもないラブ・ロマンスという新しい当世風の語り物が出現した。
それが、義経判官と美しい姫との恋模様を描いた「浄瑠璃姫物語」(じょうるりひめものがたり=「浄瑠璃御前物語」とも「十二段草子」ともいう)である。
平曲の内容に満足しなくなった琵琶法師の中から、新しい語り物に飛びつく者も出始める。 民家などに招かれて琵琶の伴奏、または扇拍子で語り始めたと記録にある。最初は読み上げるような調子で語っていたが、次第に節付けされて、その話は、聴く者の気分を思わず引きずり込むような新鮮な内容の物語に発展していったのである。
話のあらましはー。三河国・矢作(やはぎ)(現・愛知県岡崎市)の宿の長者(遊女の長)夫婦には、子どもができない。そこで、夫婦が鳳来寺の薬師如来に子授けを願かけしたところ、玉のような一女をえる。その子に「浄瑠璃姫」と名をつけた。
 大勢の侍女たちにかしづかれた浄瑠璃姫が14歳ほどに成長したころ、源氏の御曹司・牛若丸つまり義経が、金売り吉次に伴われて東国に赴く途中、矢作の宿を通りかかり、浄瑠璃姫を見かけて恋に落ち、結ばれる。
義経は、浄瑠璃姫との再会を約束して出立するが、その途中で重い病いにかかる。浄瑠璃姫は、源氏の氏神・八幡神のお告げで恋人の大事を知り、義経のもとに駈けつけて看病。助かった義経は初めて身分を明かし、東国へ旅立つ。
こののち浄瑠璃姫は、義経を恋い焦がれて病死するが、そうとは知らず東国で暮らす義経は、時の熟するのを待って軍勢を引き連れ、都に上る。その途中、矢作の宿に立ち寄り、浄瑠璃姫との再会を果たそうとするが、浄瑠璃姫はその少し前に死んだことを知る。
悲嘆にくれる義経は、十分に浄瑠璃姫の供養をしたうえで、勇躍、都に攻め上って行くという、叙事詩的ながら抒情のある長編の恋物語である。
16世紀に大流行する
姫の名前ー「浄瑠璃」は、いかにもいかめしい名前だが、姫の親である長者が薬師如来にお願いして授かった子だったので、それに感謝して「薬師如来の浄土」である「浄瑠璃世界」に因んでつけた名前である。
もとを正せば仏教から出た言葉だが、「浄瑠璃」の「浄」には「清らかな」、「瑠璃」には「七宝の一つの青色の宝石」という意味もあり、姫のイメージにぴったりする名である。
この話は、三河地方の民間説話に義経伝説が結びついて語り物となったらしい。口承の伝播は早いもので、15世紀後半(室町時代中期)には当時の芸能の発信地であった京の都に伝わっている。
公家であった三条西実隆(さんじょうにし さねたか)が、日記「実隆公記」の文明7年(1475)7月の紙背(紙の裏)に、ある会合の段取りとして
「我らはさらば、じょうるり御ぜん、しだどのなどを申し候はん」
とのメモを残している。「私たちは、浄瑠璃御前や信田(太)殿を聞きたいと言おうじゃないか」という意味で、信田(太)殿は幸若舞曲の題名。京の都ですでに「浄瑠璃姫物語」が知られていたことを裏付ける。
やがて16世紀(室町時代後期-織豊時代)に入ると、この新しい内容の「浄瑠璃姫物語」が多くの人の気に入られて、大変な評判になった。
その一つの例として、室町後期の連歌師・宗長(そうちょう)が書いた旅の記録「宗長日記」の享禄4年(1531)8月15日の項に、駿河国のとある宿でのこととして
「人をつかはせ、小座頭あるに浄瑠璃をうたはせて、興じて一盃に及ぶ」
とある。小座頭とは若い剃髪の盲人のことと思われるが、すでに浄瑠璃が駿河の辺地まで広がり、宗長が宿で酒を酌み交わしながら楽しんでいる様子が読み取れる。

この「浄瑠璃姫物語」は、文才のある中世の遊女たちが諸国を放浪する中で、継ぎ足し、継ぎ足し語り続けていったという説が有力だが、江戸時代には作者として「小野のお通」説が広く流布した。「色道大鏡」をはじめ「難波土産」「竹豊故事」など、ほとんどの文献が「お通説」といっていい。しかし、お通は織田信長の侍女とも、淀君の侍女ともいわれ、浄瑠璃が生まれた時代とお通の生存期間とには大きな隔たりがあり、江戸後期には否定された。
「小野のお通」 / お通を「浄瑠璃姫物語」の作者とする文献は
「色道大鏡」(しきどうおおかがみ)=「小野の通が作なれば、実(げ)にことはりとぞ覚ゆる」
「難波土産」(なにわみやげ)=「抑浄瑠璃といへる来由を尋るに、むかし豊臣秀吉公の御臺政所の侍女に小野於通といふ人あり」
「竹豊故事」(ちくほうこじ)=「浄瑠璃の濫觴は、永禄年中の頃織田信長の侍女に小野の小通と云し秀才の艶女有。-草紙を作り出せり」
「浄瑠璃大系図」(じょうるりたいけいず)=「浄瑠璃惣開祖 小野於通女。初織田信長の侍女たり。後に豊太閤の侍女となる」
など、書かれている例は数多い。「お通」は「於通」「阿通」とも記される。その経歴は、織田信長の侍女、豊臣秀吉や淀君の侍女、東福門院の侍女などいろいろある。また、実在した美濃の武士・小野正秀の娘「お通」が、和歌に秀で、書画や琴にも優れていたので、この「お通」に擬す説もあるが、この「お通」は元和2年(1616)に58歳で死亡している。
こうしたことから、15世紀中ごろには成立した浄瑠璃と、一連の「お通」は生存年代が合致せず、江戸後期の戯作者・柳亭種彦がその著作の中で、信長以前にも「浄瑠璃は語られていた」ことを資料で考証し、それからはこの説は退けられた。
京でも琵琶法師が語り出す
16世紀末(織豊時代)になって、京の都で「浄瑠璃姫物語」が新局面を迎える。平曲などを語っていた琵琶法師の名手たちが「浄瑠璃姫物語」の面白さに魅せられ、物語の内容に手を入れて形を整え、節(ふし)を工夫して語り出したのである。
当時の京の都には、目の不自由な琵琶法師が数百人はいたといわれ、これらの人たちは自分たちの職業の保護機関でもある「当道」(とうどう)という組織を作り、上から検校(けんぎょう)、別当(べっとう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)の4つの階級を設けていた。「浄瑠璃姫物語」を作り変えて語り始めたのは、そのうちの勾当らの階級の法師であったようだ。
その裏付けとして、よく研究書に取り上げられる江戸時代の文献の一章を記すとー。
延宝6年(1678)刊の藤本箕山著「色道大鏡」(しきどうおおかがみ)=江戸時代の遊廓の格式、故実のほか、名妓伝など遊廓全般の事項にわたって解説した百科全書(16巻)。浄瑠璃の歴史にも触れている。
「抑(そもそも)、浄瑠璃は滝野勾当ふしを付(つ)けて、文禄3年(1594)甲午(こうご)の年より語りはじめたり。此浄瑠璃に、本ふしととてあり。此本ふしに表裏とて秘伝あり」
正徳2年(1712)刊の寺島良安著「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)=明の「三才図会」にならって、和漢古今にわたる天文・土地・山水などの事物を、図を入れて漢文で解説した百科事典。105巻81冊ある。原文は漢文。その中の「浄瑠璃」の項にー
「京師ニ二人ノ瞽者(こしゃ=盲目の人)アリ。滝野、澤角(さわすみ)両検校トモ弦歌ヲヨクス。御曹司ト浄瑠璃(女)トノ恋慕ノ軌跡ヲ「十二段」ニ書キ著シ、扇ヲ拍(う)って、之ヲ人ニ語ル」
名前が挙がった滝野、澤角(「澤住」とも)は、ともに生没年不詳。織豊時代末から江戸時代初期に活躍した目が不自由な平家琵琶の奏者で、勾当からのちに検校になる。
これらの資料から分かることは、京都に伝わってきた「浄瑠璃姫物語」が滝野、澤角という2人の優れた平家琵琶の奏者によって、形を整えられて装いを変え、新しい語り物「浄瑠璃」としてスタートしたのである。現在の研究者も、浄瑠璃に新しい道を開いたのはこの滝野、澤角の2人であることを、ほぼ容認している。
なお、澤角検校の名は「澤住」(さわすみ)と書かれている文献の方が多いので、以後は「澤住」と表記する。
楽器・三味線の登場

 

琉球からの伝来に2説
「浄瑠璃姫物語」を改良して語り始めた彼らー京の琵琶法師は当時、琉球(沖縄)から伝来してお目見えしたばかりの新しい楽器「三絃」(さんげん)にも注目した。三絃とは3本の絃からなる楽器を指し「三弦」とも書くが、のちにいう「三味線」である。
三味線の日本本土への伝来時期は、正確には分からない。現在の通説では16世紀中ほど(室町時代末)の永禄年間(1558-1570年)、琉球(沖縄)から三絃が泉州・堺に伝来したのに由来するという。
この永禄伝来説の根拠になった資料が、延宝6年(1678年)刊の「色道大鏡」と元禄12年(1698年)刊の三味線初心書「大怒佐」(おおぬさ)などである。「色道大鏡」の記述は「大怒佐」の「三味線之起(おこり)」にほとんど同じ文章で引き継がれているので、一番古い「色道大鏡」の記述を引用すると(以下、引用文中のカッコ内は筆者)
「三味線のおこりは、永禄年中に琉球国より是を渡す。その時、蛇皮(じゃび)にては(張)りて二絃なる物なり。泉州堺の琵琶法師中小路(なかしょうじ)といひける盲目に、人のとらせたりけるを、此の盲目よろこびてしらべ(調べ)つつこころみ(試み)けれど、教(おしえ)をきかざれば音律かなはず、是を心うくおぼえて長谷の観音へ詣で、十七日参籠し引き(弾き)やうを祈りしに、あらたなる霊夢ありて、階(かい)をくだる時に大中小の糸三筋(みすじ)、盲目が足にかかる。是をとり、三筋の糸をかけてひくに、無尽の色音(いろね)出(いで)たり。それより三絃にきはむる故に、三味線(さみせん)としかいふ」
とある。永禄年間に琉球から蛇皮をはった二絃の楽器が伝わり、これを手に入れた和泉国堺の琵琶法師中小路という盲人がいろいろ弾き試みたが、琉球での弾き方を教えてもらわなかったので音律が整わなかった。そこで大和の長谷観音に参籠して弾き方を祈り、足にまつわりついた三本の糸をヒントに、糸を三本に増やしたら無尽の音色が出るようになったというのである。
これが現在の通説になっているが、もともと江戸時代には三味線伝来にからむ諸説があり、いま一つの代表的な説として寛文4年(1664年)刊の「糸竹初心集」(しちくしょしんしゅう)が載せる文禄(1592-96年)伝来説があった。
「文禄のころほひ、石村検校と云ふ琵琶法師あり。心たくみにして器用無双の者也。あるとき琉球にわたりけるに、かの島に小弓(こきゅう)といひて、糸三筋にてならす物有り。(中略)石村これを探りみるに、琵琶をやつしたる物也。(中略)その後石村京都にかへりて、おなじく琵琶をやつし、此の三味線をつくり出せり」
文禄年間に琵琶法師の石村検校が琉球に渡り、三筋の糸で鳴らす琵琶によく似た小弓(胡弓)があることを知った。これを京都に持ち帰り、琵琶と小弓とを折衷して三味線を作ったというものである。
永禄伝来説に軍配あがる
室町時代末期の永禄説と豊臣秀吉時代の文禄説では、ざっと30年の隔たりがあるが、邦楽研究者の田辺尚雄氏は両説を検討して、その正否を論証した結果、永禄から天正に至る織田信長の時に琉球から蛇皮線(じゃびせん)が伝わり、信長の命令で琵琶の名人に弾き試しさせたということを書いた古文献があるほか、信頼できる資料として公卿・山科言経(やましなときつね)の日記「言経卿記」(ときつねきょうき)の記事を挙げる。その文禄元年(1592年)8月15日の条に
「座頭福仁来了、種々芸也。上ルリ、平家、小哥、シャヒセン、早物語、其外逸興共有之」
と、座頭の福仁が来て浄瑠璃や平家琵琶を語り、小歌をうたいシャヒセン(三味線)を弾いたと記録。文禄元年の時点ですでに三絃は存在していることから、文禄伝来説はおかしく、三味線の伝来は永禄伝来説に軍配が上がるとした。(「三味線音楽史」)
その永禄説を裏付ける資料として宝暦6年(1756年)刊「竹豊故事」の
「(三絃が)正親町(おおぎまち)の院の御宇(ぎょう=御世)永禄五年壬戌の春、琉球より泉州堺の津に渡り来る。其比(そのころ)の武将織田信長公下知(げじ=指図)有(あり)て、是を朝廷に献じ、奏覧(ご覧)に入り奉る」
との記事も挙げておこう。琉球から伝来の三絃を織田信長が朝廷に献上したとの内容だが、三絃の日本本土伝来を永禄5年(1562年)と明記している。信長の上洛は永禄2年(1559年)のあと永禄11年(1568年)までないので、上洛の際の献上と考えると時期的なズレが出るが、献上の方法はいろいろあろう。加えて永禄年間に琉球との貿易船が堺港に3回入港したとの記録があり、その第2回が永禄5年で合致することから、この「竹豊故事」の記事はかなりの説得力があると見ていいだろう。
改良者は堺の琵琶法師か
最初の三絃を誰が持ち込んだかについては、田辺氏は「堺に住んでいた内地人の貿易船が琉球から持ち帰ったのではあるまいか」と推測している。日本本土での最初の改良者としては、永禄伝来説で名前が挙がった堺の琵琶法師中小路なる人物が有力視されている。
この名前は、堺の町はずれに確かに中小路村があったことから「中小路村出身の琵琶法師」という意味と解釈され、日本音楽研究者の吉川英史氏は「最初の取扱者は堺地方の人で、恐らく中小路出身の法師であろう。或いはこの人が後に石村検校になったのかも知れない」と「三弦伝来考」で書いているが、具体的なことは不明である。
こうした経過を踏まえて吉川氏も「文禄元年より三十年昔に当たる永禄五年頃に三絃が伝来したと見ることは、極めて穏当な推定で、少なくとも糸竹初心集その外の文禄渡来説は誤りだと断定せざるを得ない」と結論づけている。
なお、文禄伝来説の改良者として名が挙がった石村検校は生年不詳で、経歴もはっきりしないが、検校名簿からすると秀吉のころから江戸時代初期に生存していた人で、日本で最初の三味線音楽「三味線組歌」を作った。確かに三味線と関係があるが、寛永十九年(一六四二年)に死去とあるから、三弦の伝来年代とは生存時期が違うのがよく分かる。
京に持ち込まれ伴奏楽器に
永禄年間、琉球から伝来した三弦が、すぐさま文化の発信地・京都に持ち込まれ、最初に手にしたのがよく似た琵琶を使い慣れていた琵琶法師たちであったのが、なにかの因縁であった。浄瑠璃の語りは、平曲と同じ琵琶を伴奏に使ったり、開いた扇子の紙や骨を手で打ち鳴らす扇拍子(おうぎびょうし)によっていたが、三味線の音色を聞いて新しい語り物の伴奏にできないものかと考えた。
恐らく瀧野検校や澤住検校らであろう。伝来した三絃を織田信長が朝廷に献上したことを記した前出の「竹豊故事」は、続いて朝廷の対応として
「其比(そのころ)音曲に名誉を顕はせし琵琶法師瀧野検校を内裏に召出され、是を弾(ひか)せて叡聞(えいぶん)(天子がお聞きになる)在ませしに、其郢曲(えいきょく)(俗曲の意)、甚はだ妙音成りしを叡感(感嘆)ましましぬ」
と、瀧野検校が召し出されて三絃を弾いたと書いていること、また「色道大鏡」が
「平家にのせて琵琶をひくごとくに、浄瑠璃にのせて三味線を引きはじめたるは、澤住がなすところ也」
と、はっきり澤住検校の名を上げていることから、両検校が初めて三弦にもかかわったと見てよい。彼らは、まず琉球では大きな爪で弾いていたのを琵琶の撥(ばち)に変えた。同時に琵琶の撥を上から下へ、また下からすくい上げて弾く奏法も取り入れて、彼らは琵琶演奏の経験をもとに三絃を奏でてみると、そのすばらしい音色に加えて琵琶とは違った多様な音階を弾奏できるのに驚いた。そこで、それまで使っていた琵琶を捨て去り、三絃に持ち替えて浄瑠璃を語り始めたのである。
この両検校の役割分担を明確に示す資料はないが、強いていえば瀧野検校が語りの改良に、澤住検校が三弦の導入に貢献したのではないかと想像できる。こうした両検校の事跡を評価したのであろう、諸書は瀧野検校を「浄瑠璃節の開祖」、澤住検校を「浄瑠璃三味線の祖」に当てている。(なお、現在の文楽の三味線弾きに竹澤・鶴澤・野澤など澤のつく姓が多いのも、この澤住検校の澤に由来しているのである)
独特の節回し「浄瑠璃」誕生
かくして、織豊時代の16世紀末に京都で、三絃を伴奏楽器にした「浄瑠璃姫物語」が産声を挙げた。語り手が琵琶法師という目の不自由な人たちであったということは、内容よりも節付けに関心を強める結果となって、次第に洗練された音曲になっていくが、語り物の節付けと三絃の響きとの取り合わせがよかったのであろう、この語り物は急速に人気を集め、流行していった。
それが、どんな節回しであったかは現在では知る由もない。しかし、当時の人たちには非常に魅力的な独特の節回しであったようで、いつしか作品の題名であった「浄瑠璃姫物語」の「浄瑠璃」が一人歩きして節回しを呼ぶようになり、語り物としての「浄瑠璃」の名が広がっていったのである。
ところで、アジアにおける三弦は中国の元の時代(1271-1368年)に端を発し、「サンシェン」と呼ばれていた。これが明の時代の14世紀末ごろ(1390年代)琉球に伝わり、琉球三絃が生まれて「シャミセン」という呼び名に変わる。日本本土に伝来した琉球三絃も、恐らく中国三絃に近い形のもので、琉球で使っていた「シャミセン」という呼び名も入ってきただろうが、日本本土ではどのような名前をつけたか。
実は日本本土では、蛇の皮が張ってあったので、一般的には「蛇皮線」(じゃびせん)と名づけた。しかし、文献には「沙弥仙」「三尾線」「三美線」「蛇味線」などの漢字表記が入り乱れ、「しゃみせん」「じゃびせん」「さびせん」「じゃみせん」といろいろに読まれたようで、この段階では統一されていないといえる。
「しゃみせん」の古文献初見
「しゃみせん」という言葉が初めて文献上に現われるのは、伝来して20年ほど経った信長の時代である。室町時代から宮中の女官が筆を走らせた「御湯殿上日記」(おゆどのうえのにっき)」の天正8年(1580年)2月16日の条に
「まい(舞)ののち宮の御かた。御かはらの物山しろといふ。しゃみせんひかせらるゝ」
と記された。宮の御方が舞のあとに、山城という芸人が弾いた「しゃみせん」を聞かれたというのである。これが文献として「しゃみせん」という言葉の初見とされている。この信長の時代に日本の三絃の大体の形態ができ上がり、使い方も日本的になったと推測されている。
さらに10年ほど経った文禄期(1592-95年)になると、三味線はかなり庶民の間にも普及したらしく、そのころの本に「三味線をひきて遊び居りけるを…」とか「さみせん、つつみ(鼓)にて大おとり(踊り)をはじめるほどに…」との記述が増えてくる。
踊り歌などの伴奏楽器として使われ、部分的であろうが「三味線」の文字が当てられ始めたことが分かるが、やがて職業的専門家や芝居、遊里などを経て、庶民の間でも三味線を弾く人が多くなる。そして慶長期(1596-1614年)ごろには京都でさらに形の改良が進み、現在の三味線に近い形になった。
どのように改良したか。撥で強く弾くには蛇の皮では弱いうえ手に入りにくいので、猫や犬の皮に変えた。さらに胴体を角型に改良して、胴皮と糸の間に挟む駒を大きくし、使い易いように手を加えたようである。このことは慶長2年作の三味線が現在まで伝えられていて証明している。
この改良の時期が、先の文禄伝来説に登場する石村検校の生存期とほぼ合致することから、石村検校が蛇皮を猫や犬の皮に変えるなど三味線を改良したとの説も生まれている。
「さみせん」から「しゃみせん」に
続いて寛永年間(1624-43年)ごろに三絃作りの名匠が相次いで現われ、製作工程に工夫が凝らされて現在のような三味線が完成、呼び方が「さみせん」となり、学者の間では「三線」の文字を当てた。しかし、三味線の文字が消えないどころか、次第に発音しやすい「しゃみせん」という呼び方が俗称として広まったようである。ずっと後世の寛政13年(1801年)に
「三糸ありし故三線と名(なづ)く。いつの頃からか味の字を加えし、是大なる誤りなり」
と記す本まで出て、誤りを正している。俗称が正称を押しのけて三味線の名称が定着していったとは、面白い言葉の戯れである。
このあと、三味線は江戸時代に浄瑠璃の伴奏ばかりでなく、長唄や端唄などの三味線音楽を生み出して伝統芸能として育っていくが、三味線がどうして日本でここまで広まっていったのか。その魅力について音楽学者の田辺尚雄氏は
「その原因はいろいろ考えられるが、まず第1に、わが国の三味線は撥(ばち)を用いて絃を打つ奏法が用いられるために、この楽器が絃楽器であると同時に打楽器の性質を兼ねているというところにある。(中略)一般に絃楽器は感情の表現に適し、打楽器は意志の力を表わす。この2つの精神作用を自由に表現し得るということが、この楽器をしてその表現能力を著しく拡大せしめているので、例えば歌詞の文学的内容を表現するのにきわめて適しているということができる」(「三味線音楽史」)と述べている。
「操り人形」と合体

 

「操り浄瑠璃」を形成する浄瑠璃・三味線の2つの要素がコンビを組むいきさつを見てきたが、最後に残ったのが「操り人形」である。人形の歴史は、浄瑠璃などと比べてずぅーと古い。
中国渡来の人形遣い「傀儡子」
日本では、古来から神社などで神の仮りの姿として、主に木で作った人の形「ひとかた」ーつまり人形を作り、巫女が舞わして、神霊を慰め、厄を払っていた。「かたしろ」ともいう。これが人形の始まりで、人形を舞わす人を「人形まわし」といった。
そこへ奈良時代、中国古代からの芸能「散楽」(さんがく)が渡来した。「散楽」は、曲伎(曲芸的演技・軽業)や幻戯(奇術・手品)、滑稽物真似など雑多な芸を、音楽に乗って演じる大衆的な芸能で、平安時代に転訛して「さるがく」と呼ばれる。中世に花開く「能狂言」の源流である。
その中に漢字で「傀儡子」」と書く一群がいた。難しい漢字だが「くぐつし」または「かいらいし」と読む。「くぐつ」「かいらい」とも語源は不明だが、歌に合わせて手遣いで人形を舞わせ、操った。この人形遣いを「傀儡まわし」ともいった。
古代中国でも、人形操りは初め邪を払ったりしていたが、次第に宴席の芸能になっていったという記録がある。日本の人形操りも、次第に芸能化していく。
傀儡子のことを記した一番古い文献としては、平安時代後期の1096年頃に大江匡房(おおえのまさふさ)が書いた「傀儡子記」(くぐつしき)がある。
この本によると、傀儡子は定住することなく天幕生活をし、男は狩りを仕事とするほか、剣や玉の曲技をし、人形を廻す。女は遊女を業として、歌や踊りが上手で今様の流行の歌謡を歌って旅人を慰めたと書いている。
この傀儡子は、集団を作って各地を放浪し、芸を売って歩いたようであるが、中世の前期にほぼ姿を消す。
これに入れ替わるように、15世紀前半の室町時代に「手傀儡」(てくぐつ)と呼ばれる人形遣いが京都に現れる。彼らは、京都に住みついて1人または数人で組を組んで町内を回り、門付けしながら祝福芸を披露したらしい。鼓のような打楽器を打ち歌を歌いながら人形を操る芸だったようで、寺院の法会の余興などでも演じたという。
「西宮の戎舁」の出現
そうした人形遣いたちは、時代が下がるとともに次第に地方に分散し、寺社との縁を深めて定住する。16世紀中ごろ(室町末-安土桃山)になると、兵庫県の西宮神社を拠点とする人形芸能集団ー「西宮の戎舁」(えびすかき)が頭角を現してくる。
西宮神社は、蛭子命(ひるこのみこと)つまり「えびす神」を祭った神社で、海上・漁業の神、商売繁昌の神である。通称「西宮戎」で知られている。この神社と傀儡子とを結び付けたものは何か。考えられる一つが、傀儡子たちが厚く信仰していた「百太夫」という道祖神の社が、西宮神社の末社にあって広く信仰を集めていたということである。
西宮神社周辺に住み着いた人形遣いたちは、神社の下級使用人として雑用をこなすかたわら、ほどなく人形遣いの技術を発揮できる仕事を見出す。それが信仰の先兵として、鯛を釣る「えびす神」の人形を舞わして祈祷したり、えびす神の神徳や伝説を庶民に伝える宣伝役であった。
「えびす人形」を持って全国をかけ回り、一軒、一軒門付けして福が来るように祈った。そのスタイルはというと、左の絵(演劇博物館編「芸能辞典」から引用)のように首から人形を入れた小箱を吊るし、箱の上に人形を取り出して、上手に操った。
物を肩にかけて運ぶことを、古くは「舁く」(かく)と言ったので、「えびす人形」の箱を吊るしたスタイルから「えびすかき」ー「戎舁」の名がついたのであろう。この操り人形を通じて、えびす信仰は庶民の間に広く普及していった。
宮中に参内して披露も
この「西宮の戎舁」の中で、優れた技能を持つ数人が座を組み、当時盛んだった「猿楽能」を人形に舞わせる「能人形」(のうにんぎょう)を始める。これは,大変に評判がよかった。
室町から江戸時代にかけて宮中の女官が記した「御湯殿上日記」(おゆどののうえのにっき)という文献があるが、その天正18年(1590)正月18日の条に、宮中に招かれた「西宮の戎舁」が人形を操り、能を舞わすのを見た記録が載っている。
「参り候て、御かヽり(舞台)にてまふ(舞う)。ゑびすかき、みなみな(皆々)一たんと(一段と)の ちょうず(上手)にて、ほん(本)ののふ(能)のごとくに、し(仕)まいらせて、一たん一たんおもしろき事なり」(カッコ内の補字は筆者)とある。
えびすかきは、みんな大変に上手で、「まるで本物の能のようであった」(下線の部分)と驚きを書き記しているが、それほどに見事な操りであったようだ。
記録によると、室町時代末の永禄11年(1568)、「西宮の戎舁」が宮中に招かれ、古来からの人形操りを天皇に御覧にいれたのをはじめ、その後も江戸時代を通じて20回以上、参内していたという(「兵庫県の歴史」)。人形遣いとしてすごく名を売っていたのである。
浄瑠璃語りと「西宮の戎舁」組む
こうした「西宮の戎舁」の能人形操りは、江戸初期の慶長年間(1596-1614)、京の四条河原でも盛んに興行されていた。
この優秀な「西宮の戎舁」と組んで、いま流行の浄瑠璃に合わせて人形を動かせば、きっと面白い舞台ができるだろうと、思いついた浄瑠璃語りが1人や2人出ても不思議ではない。そう発想した人物が早速、小屋に人形用の舞台をしつらえ、三味線伴奏付きの浄瑠璃と人形操りのドッキングを試みた。
このころになると、浄瑠璃語りは目の不自由な人たちから目の見える人たちに移っていたが、そのドッキングした人物については古い文献もその内容はまちまちである。
その中で最も古い文献が、万治2年(1659年)頃に出た浅井了意の「東海道名所記」。この6巻目「山科より京まハリ宇治まで」の項に、慶長年間の京・四条河原のこととして、
「又、浄瑠璃ハ、そのころ京の次郎兵衛とかやいふ者、後にハ淡路丞と受領せし。西の宮の夷かきをかたらひ、四条川原にして、鎌田の政清が事を、かたりて、にんぎゃうをあやつり、そののち、がうの姫、あみだのむねわりなどいふ事をかたりける」
と記し、操り浄瑠璃を始めたのは、次郎兵衛と西宮の戎舁だとしている。この文中にある「鎌田の政清」、「がうの姫」(牛王の姫)、「あみだのむねわり」(阿弥陀の胸割)は、みな初期浄瑠璃の作品名である。
この説を引き継いだのが、貞亨元年(1684年)刊行された黒川道祐の「雍州府志」である。同書は、京都・山城国の地勢・産物・古跡などを漢文で記したもので、その巻8「古跡門」の「芝居」の項に
「文禄年中ヨリ慶長ニ及ビテ、京ノ滝野検校ノ弟子、監物某並ビニ次郎兵衛某、攝州西ノ宮ノ傀儡師ヲ招キテ、相共ニ之ヲ経営ス。監物並ビニ次郎兵衛、浄瑠璃ヲ語リ、西ノ宮ノ人ハ人形ヲ舞ワス」
とある。ここでは「次郎兵衛」は浄瑠璃と三味線を組み合わせた滝野検校の弟子となっており、新たに相弟子の「監物」なる人物も出ている。
同書は引き続き「監物は河内介を受領(ずりょう)し、次郎兵衛は上総介と称した」と記し、その監物の受領は「是レ浄瑠璃太夫受領の始メナリ」としている。
淡路の人形遣いとも
正徳2年(1712年)刊の寺島良安著「和漢三才図会」は、「四条東洞院ノ彫金工家(ほりものや)ノ何某、(浄瑠璃が)特ニ絶品也。且ッ淡州ノ傀儡ヲ誘イ、木偶(でく)ヲ舞ハシ、三絃(三味線)ヲヒイテ、之ニ和ス。後陽成帝、於庭ニ召シテ、因テ引田淡路掾ニ任ゼラル」
と書いている。彫金工家の何某とは、その住所や経歴からすると沢住検校の弟子の目貫屋長三郎(めぬきや ちょうざぶろう)であるという。この文章は、「淡路の人形遣い」と組んで浄瑠璃に合わせて人形を操ったとある。
淡路島(兵庫県)は、古くから海の神信仰があり、人形遣いの一つの拠点になっていた。西宮とは、海一つ隔てて傀儡子の交流が盛んに行われていたので、西宮の傀儡子と同一視してもいいだろう。長三郎は、自分で「都巡り見物左衛門」という浄瑠璃など新作を作り、語ったという。
このほかにも、違った内容で「操り浄瑠璃」の起源を記している本もあり、なかなか一筋縄ではいかないが、これらの説の多くに共通しているのは
慶長のころ、京都で浄瑠璃を語っていた検校の弟子が、西宮の戎舁と組んで「操り浄瑠璃」を始めた
という点である。この線で理解して、間違いはないだろう。
「操り浄瑠璃」を記した公家日記
その慶長末に、確かに「操り浄瑠璃」が行われていたという貴重な資料が残っている。慶長19年(1614)、京都の後陽成院お庭での浄瑠璃の催しを、西洞院時慶(にしのとういん ときよし)が日記「時慶卿記」に書き残した次の一節である。
「九月廿一日、雨天、院参。飯後、阿弥陀胸割切ト云、曲ヲ仕。戎舁ノ類ノ者、推参トソ、於御庭、緞子幕等ヲ引廻シテ、有曲。奇意ノコト也」
文中の「阿弥陀胸割」(あみだのむねわり)とは初期の浄瑠璃の名前だし、「西宮の戎舁に類した者が来た」ことも記してる。しかも、浄瑠璃で人形が操られるのを「奇異ノコト也」(珍しいことだ)と強調している。
この日記の本人は、能を舞う人形は知っていたが、浄瑠璃での人形操りは知らなかったので、「奇異」と書いたのか、真意は分からないが、確かに浄瑠璃に合わせて人形が操られたことを示す資料である。
この日記の記述を根拠に慶長末合体説も出ているが、いろいろの状況を総合すると「慶長中期(7,8年-12,13年)に合体」と考えた方が妥当ではないかと考える。

大夫の「受領」 / 江戸時代、朝廷が優秀と認めた芸人や職人に授けた、国名を付した一種の官位で名誉称号。守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4段階がある。この受領は、もともと国司の最高責任者を指したが、中世以降、実体を失って有名無実化し、一般の人にも与えるようになった。浄瑠璃の世界では、受領は単なる名誉称号にとどまらず、「名人」と認定される基準であり、また興行権としての「名代」(なだい)と密接に結びついていたので、太夫は競って朝廷に願って貰い、最高の栄誉とした。受領されると、杉山丹後掾、若狭掾左内、井上播磨掾、宇治加賀掾、竹本筑後掾などのように名乗った。中には「目」の受領であったのに「掾」や「守」を名乗るものまで出たという。明治以後は、宮家の許しをえて、名目的な国号をつけた掾号を名乗った。
「芸能」の四条河原

 

新しい芸能―「操り浄瑠璃」が誕生した慶長年間(1596-1614年)とは、どのような時代で、京の都はどんな様子であったのか。また、どうして四条河原で始まったのか。一つの伝統芸能を生んだ社会状況や背景を見ていこう。 
慶長期は大きな変革期
慶長3年(1598年)に権力を誇った豊臣秀吉が63歳で亡くなり、慶長5年(1600年)、天下分け目の関が原の合戦が起こる。石田三成の西軍を破った徳川家康は、慶長8年(1603年)2月に征夷大将軍になって江戸幕府を開く。
家康は、竣工したばかりの二条城で将軍宣下を受けたあと、4月に朝廷から勅使を迎え、親王・公家や戦功のあった武将らを招いて祝宴を張り、将軍宣下の祝賀能を催すなど一連の政権確立を祝う式典を、江戸ではなくて京の都で開いている。
こう見ると、慶長期は出だしから波乱含みの激動の時代である。豊臣時代の相次ぐ大規模工事で経済的に潤い、豊太閤ひいきの京の町がどんな気持で家康を迎えたか。さぞかし時代の変革がもたらす不安も反感も強かったであろうが、この家康一代の盛儀は、朝廷のお膝元で開くことによって、天下を握った家康の勢威を内外に示す大きなデモンストレーションであり、京中の注目を集めたに違いない。
明けて慶長9年(1604)8月、豊臣秀吉7回忌の豊国神社臨時祭が7日間にわたって盛大に催された。京の人たちの気持を汲んでか、別の思惑があったのか分からないが、家康の命によるもので、風流踊りが町中をにぎやかに練り歩いた。
戦乱が収まったとはいえ、まだまだ不安定な京の都で、このような催しが相次いで盛大に行われたところを見ると、京の都はどんな変革にも耐える力を持っていたようであるし、いかなる時にも培った伝統の力を発揮するたくましい活力も秘めていた、と見てよい。 「京の町は生きていた」といえるだろう。
中世の河原は勧進興行の地
いまも京の都のど真ん中を、鴨川(上流は賀茂川と書く)が流れている。江戸時代以前の鴨川は、いまより川幅がぐんと広く、水流は数条に分かれて北から南へゆったりとと流れ、ところどころに河原があった。
河原は地主のいない土地で、中世(鎌倉時代-室町時代)から「散所」(さんじょ=年貢免除の代わりに寺社に属し雑役に服した地域)と同じく年貢のいらない地であった。中世の人たちは、この河原を現世と来世の境界線と考えて、墓所や刑場に当て、神仏の力が働く「聖なる場」として特別視した。
その一方、河原は交通の要所であるうえ、多くの人が集まるのに好都合な一種の広場であり、また夏は納涼のため群集が押し寄せる場所であった。中でも四条河原の近くは、流れの加減で川幅がとくに広く、大きな河原を形成していた。
中世には、この利点を生かして大規模な田楽や猿楽の勧進興行(資金集め興行)や「河原田楽」と呼ばれる芸能会がたびたび催された。田楽とは田植えなどの農耕儀礼から出た芸能で、笛や鼓などを鳴らして踊った一種の舞踊劇。猿楽は滑稽な物真似や言葉芸を中心に演劇化した芸能であった。
「太平記」によると、貞和5年(1349)6月、四条に橋を架ける資金集めの「勧進田楽」が催された時、大勢の見物人が押しかけて、武士や神官、僧侶はこぞって桟敷を構え、これが三重、四重に組み上げられた。このため興行の最中に突然、83間(約150メートル)の桟敷が崩れ落ち、大惨事になったという事故を記している(「太平記」は、崩れた桟敷249間と書いているが、これは太平記一流の誇張であると解釈されている)。
こうした河原での興行が、時代とともに「見て楽しむ大きなアトラクション」と変わっていく。
雑多な芸能者が入り込む
河原に、いつごろから人が入り込むようになったのか。中世前期という説もある。まず、いろいろな技術を持つ職能者や穢れを清める人たち、芸能を職とする遊女(あそびめ)らが住み着く。と同時に河原が「聖なる場」という感覚が薄らぎ、年貢が払えない貧しい人たちや社会的な没落者が入り込んだ。また、遊女らによる売色も盛んになって、次第に河原は世間の人たちから「不浄の地」として嫌われ、そこに住む人たちは「河原者」と差別されるようになる。
河原での田楽・猿楽興行などアトラクションの桟敷作りなどを担当したのも、土木工事の技に長じた「河原者」であったが、田楽などを演じる芸能者もまた「乞食の所業」とさげすみを受けた。こうした人たちによって大がかりな興行が支えられ、公家や武士、庶民に娯楽を提供したのだが、芸能に「河原者」が欠かせない存在になっていったことが十分に考えられる。
河原と芸能の関係が深まり、興行許可もゆるやかになると、手っ取り早く遊芸を見せて生活の糧を求める者が出始め、河原には雑多な芸能者が集まって小屋がけし、次第に芸能が定着していく。
ただ河原者は、四民の下に置かれた最下層の身分―非人に近い賎民扱いで、人々は長者に率いられた集団を作って、芸能をはじめ土木工事や造園、牛馬の屠殺、刑場の諸労働など限られた仕事に従事し、生計を立てたという。
河原に、どうして芸能が集まり、育って行ったのか。その理由は、残念ながらまだ十分に実証されていないが、手がかりはある。
演劇学者の郡司正勝氏の紹介によると、本居内遠著「賎者考」(せんじゃこう)という本に
「田楽、猿楽、戯場(しばい)ともに、賎者(せんじゃ)のすること故、家並の処にては行はず、河原に舞台をたて…」
と書いてあるという。
「賎しい者は、家並みー町中で興行できなかった。だから河原に集まっていった」というのである。河原と芸能を結ぶ一つの理由が、差別から出ていることがよく分かる。
芝居小屋、五条から四条河原に移転
京の都では、応仁元年(1467)から10年間「応仁の乱」が続き、町中は焼け野原と化し、荒れ果ててしまう。当然、河原の大規模な芸能もばったりと途絶える。庶民の楽しみの場として息を吹き返すのは、ずっと後の織豊時代終りの慶長期になる。
河原で小規模な芸能が散発的に続いたことは考えられるが、芝居小屋が並び、庶民が集まり出した最初の河原の芸能地は、どうも五条河原であったようだ。「かぶき踊り」で名を売る出雲のお国も、まず五条河原で「ややこおどり」(子どもの踊り)の舞台に立っている。五条河原は清水寺への参詣の道に当たり、五条橋の南に芝居小屋などが集まるようになったのである。
このあと、京都・山城のことを記した「雍州府志」(ようしゅうふし)によると、豊臣秀吉が伏見城から京に入る際、この五条橋周辺の芝居町が道筋に当たって騒がしく、その喧騒を嫌って芝居小屋を四条河原に移した、とある。
移転がいつごろのことか書かれていないが、伏見城ができた時期や秀吉が慶長3年に死亡していることを考え合わすと、文禄の末か慶長期のごく初めではないかと推測される。これ以後、四条河原は″芸能の河原≠ニして有名になっていく。
四条河原、一大歓楽街に変貌
そして慶長8年(1603)、出雲のお国が「かぶき踊り」という新しい芸能を引っさげて現われ、北野神社の社頭や四条河原の舞台で演じて大評判をとる。
お国の評判が立つと、その人気にあやかろうと女曲舞や女房猿楽などの女性芸能者が、続々と四条河原に乗り込んできた。
女性芸能者に続いて、六条の傾城町・三筋町(現在の五条室町・新町・西洞院の三筋を指す)の遊女まで一座を組んで、四条河原で大がかりな「遊女かぶき」を演じ始める。
「河原に舞台をたて、けいせい、数多(あまた)出して舞をどらせけり。若上ろうと云(う)傾城や、また舞台をたてて、能をいたす」(「東海道名所記」)
という状態であった。その「遊女かぶき」に「数万人群集した」と記す当時の日記もあり、男たちは熱狂した。「遊女かぶき」の舞台は、さながら遊女屋の出店のようになり、遊廓に客を引いていったという。
ものすごい繁昌ぶりである。かくして四条河原は、芝居小屋や見世物などが軒を連ねた興行街と化し、かぶき者が横行する一大歓楽地帯になっていくが、「遊女かぶき」は風俗上の乱れが問題となって寛永6年(1629)に禁止される。
「操り浄瑠璃」も興行大当たり
「操り浄瑠璃」も、いわばこうした慶長初めの四条河原で産ぶ声を上げたのである。芝居小屋を建てて興行したところ、面白さに加えて新奇さも手伝い、たちまちのうちに評判になった。
人気が出るとともに「えびすまわし」「ほとけまわし」などと言われてきた人形芝居が、次第に「あやつり」と呼ばれるようになる。語られる浄瑠璃節も、慶長のころには「浄瑠璃姫物語」のほか新しい作品が次々に生まれていた。その内容はというとー。
「阿弥陀胸割」(「あみだのむねわり」)
17世紀初めの慶長19年(1614)に京都の御陽成院のお庭で、この曲が人形芝居として演じられた記録があることは、すでに紹介した。
話の内容は、インドを舞台にした6段物だが、着想や細部は日本的。ある不心得な長者夫婦が悪行を重ねて死んだあと、残された姉弟2人が数々の苦難に遭うという話。生ギモをとられる娘の身代わりに阿弥陀の像が立ち、血みどろになって胸を割かれることから、この題名がある。身代わり趣向の始まりともいわれる。
「鎌田」(かまた)
題名は源氏の将・鎌田兵衛正清のこと。平氏に敗れた源義朝に従って、尾張国内海の長田忠致(おさだ ただむね)を頼る。長田は源氏に仕えた家人で、彼の娘が鎌田の妻である。ところが、長田は平家の恩賞をねらって、義朝を湯屋で討ち、鎌田には酒をすすめて殺す。
鎌田の妻は、父の裏切りを知り、2人の子どもを道連れに自害し、夫の後を追うという話。
「午王姫」(「ごおうのひめ」)
これは鎌田正清の妹・午王姫の話。姫は源氏の御曹司・牛若丸と恋仲になるが、伯母の訴えで牛若丸は捕われそうになる。姫は牛若丸をなんとか逃がすが、その罪で自分は捕えられ、死でもって節義を貫く。
「梵天国」(「ぼんてんごく」)
中納言高則が親孝行のご褒美に梵天王の姫を貰うが、時の帝が姫に恋して、いろいろ難題を持ちかける。そのうえ姫を奪ってしまうが、中納言は観音の手引きで姫を助けるという仏教色の強い話。
こうした新しい浄瑠璃の内容は、決して「浄瑠璃姫物語」の新鮮さを越えるものではないが、その浄瑠璃としての節づけに魅力があったのであろう。人々の耳や目を楽しませ、歌舞伎に並ぶ近世芝居としての第一歩を踏み出していったのである。
見物席は青天井でムシロ敷き
では、慶長期当時の「操り浄瑠璃」小屋の様子はどうか。明確に示す資料はほとんどないが、推定すると大体、次の写真のようになる。
小屋の周囲には竹を組んだ「竹矢来」(たけやらい)が立てられ、その上にムシロを掛けて中が見えないようにした。「切虎落」(きりもがり)と呼ばれるものだ。
中に入ると、正面に簡単な板屋根がついた舞台。その周囲は見物席で、青天井の下の土間にムシロが敷いてあるだけ。屋根なしだから、雨天の時はお休みということになった。
舞台には、上下に幕が張られ、その幕の間で人形が操られた。「幕手摺」(まくてすり)という。浄瑠璃語りと三味線弾きは幕に隠れて演奏した。やがて、上幕は高くなり、下幕は木製の手摺りになっていく。
時代が少し下がって寛永期(1624-1643)になると、「幕手摺」を参考にした「箱手摺」舞台も現われる。外形は箱型で、舞台の床を傾斜させて後縁を高くし、その後ろに人形遣いが隠れて人形を差し上げ、操った。
当時の「四条河原図巻」を見ると、四条河原では「箱手摺」が主流で、外枠に美しい装飾を施したのものも見られた。
なお、人形は裾から両手を突っ込んで遣(つか)った。左手は人形の頭から下に出ている棒を持ち、右手は右袖口から入れて人形の右手にした。だから、左手はだらりと下げたままであった。人形に足はなかった。
古浄瑠璃の時代

 

「古浄瑠璃」の時代区分
新しい芸能の伝播は早い。京都で誕生した「操り浄瑠璃」は、すぐさま江戸から大坂へと広がり、芸能としての体裁を整えていくが、浄瑠璃史では、慶長の次の元和元年(1615)から貞享(じょうきょう)期までの約70年間を「古浄瑠璃の時代」と呼ぶ。
どうして貞享期までかといえば、貞享2年(1685)という年に、華々しくデビューしたばかりの浄瑠璃作者・近松門左衛門が、「竹本座」を櫓揚げした竹本義太夫に初めて時代浄瑠璃「出世景清」を書き、上演した。
この作品は、これまでの浄瑠璃と一線を画す新しい浄瑠璃だったので、義太夫自身が新しい流派の意味で「当流」と名乗りを挙げた。
このことを、72年後に刊行された「外題年鑑」が
「是は近松門左衛門、竹本義太夫、新浄るり作の初(はじめ)なり」
と定義したことから、「出世景清」上演時を境にして、それ以前を古流ー「古浄瑠璃」、以後を当流ー「新浄瑠璃」と分けるようになったのである。
この古浄瑠璃の時代を、江戸時代の年代でいうと
元和ー寛永ー正保ー慶安ー承応ー明暦ー万治ー寛文ー延宝ー天和
の間となる。浄瑠璃の草創期から育成期に入ったこの時代は、語り方に重点を置いた大夫が独自の節回しを工夫して、京都、江戸、大坂に群雄割拠し、芸を競い合った熱っぽい時代であった。
古浄瑠璃時代の大夫の生・没年は不詳が多いし、経歴についても明確な資料が少ないので、異説もあることをご承知願いたい。
杉山丹後掾と薩摩浄雲
古浄瑠璃時代の「操り浄瑠璃」はどんなものであったか。幕手摺(てすり)に身を隠した大夫が浄瑠璃を語りながら、観客に人形だけ見えるように操る1人2役の形式もあったが、浄瑠璃語り・三味線・人形の3業の分業化がかなり進んで、職業的な技能者が現われる。その中で注目を集めたのが、京都に出た2人の優れた浄瑠璃語り・杉山丹後掾(すぎやま たんごのじょう)と薩摩浄雲(さつま じょううん)である。2人とも目の見える晴眼者であった。
杉山丹後掾は生没年不詳。京都生まれで、初名を七郎左衛門といった。慶長年間、浄瑠璃節の開祖といわれた滝野検校の門に入って直伝の節付けを身につけ、地味だが繊細で柔らかい伝統的な京風の語り口を得意とした。
薩摩浄雲は文禄2年(1593)京都または堺の生まれ。初めは熊村小平太の名で人形を遣った。澤住検校(または滝野検校の弟子・次郎兵衛との説も)に浄瑠璃を学び、京都では虎屋次郎右衛門を名乗って、豪放磊落な芸風を特徴とした。
この対照的な実力派の大夫2人は、独自の曲風を掲げて京都で人気を集めると同時に、新興都市として発展する江戸への進出をねらう。
「操り浄瑠璃」の江戸進出
元和2年(1616)、杉山丹後掾は先陣を切って江戸に下り、芝居町だった中橋広小路で小屋を借りて「操り浄瑠璃」を興行する。京風の繊細な曲風が人気を呼んで興行は成功、評判となる。翌3年に書かれた紀行文の一つは操りを見てこう書く。
「中橋の狂言踊り上るり(浄瑠璃)を、木にて作りしでこのぼう(でくのぼう=人形)、糸であやつる面白や-」(下線・カッコ内は筆者)
難解な文章だが、素直に解釈すると当時の操り浄瑠璃は、人形が木製で糸操りであったようである。
丹後掾の繊細な曲風は、次第に評判が広がって、3代将軍家光の愛顧を受け、将軍をはじめ諸大名の前でしばしば「操り浄瑠璃」を披露した。承応元年(1652)には受領して「天下一杉山丹後掾」を名乗り、後水尾天皇の前でも浄瑠璃を語った。
ちなみに、古浄瑠璃の作品の出だしは「扨(さて)もその後」という決まり文句になっているが、この序詞を最初につけたのは杉山丹後掾である。
薩摩浄雲は、丹後掾に遅れること約10年、寛永初年(1624-1630)に江戸に入る。寛永期といえば、江戸の町は着々と都市計画が進んで発展し、人口も増えて新興都市としての体裁を整えてきた時である。娯楽としては歌舞伎が流行し、女歌舞伎から若衆歌舞伎への変わり目である。
浄雲は、その江戸に初めて操り浄瑠璃の「常打ち小屋」を建てて興行、豪放磊落な芸風がまだ殺伐さの残る江戸の気風に合って歓迎される。たまたま浄雲の芸を見た薩摩藩島津侯に気に入られて愛顧を受け、名前を「薩摩太夫」と改め、幕に島津家の紋章をつけることを許された。
「薩摩節」「薩摩浄瑠璃」として庶民に大いに受けるが、そんな中で薩摩太夫は剃髪して名を「浄雲」と改める。浄雲は世才にたけて興行に秀でていたうえ、何かにつけて派手好き。紋幕や衣装の華美をとがめられて牢屋に入れられたこともあったなかなか話題の多い大夫であった。
この2人は、芸風の違いから繊細優雅な丹後掾は「軟派」、豪放磊落の浄雲は「硬派」に分けられて火花を散らし、後世「江戸浄瑠璃の開祖」と併称される。
京では「地元」と「江戸風」激突
一方、杉山丹後掾と薩摩浄雲が江戸入りし、ぽっかり穴が開いてしまった京都では、しばらく停滞期が続くが、寛永の末になると四条河原を舞台に、地元出身の人気大夫と「江戸風」を売り物の大夫が競り合い、観衆を湧かすようになる=絵は寛永期当時の操り浄瑠璃小屋の様子。人形を操る手摺が箱を三つ並べて前方に傾斜しており、「傾斜型箱手摺」といわれる形式になっている(「四条河原遊楽図」から)。
地元の人気太夫は、山城左内(やましろ さない=若狭掾左内とも)である。生没年は不詳。寛永初めから四条河原で浄瑠璃を語り始めて活躍した。その優雅な曲風は「左内節」といわれ、寛永19年(1642)に「若狭目」(わかさのさかん)を受領して、自ら「日本一若狭守藤原吉次」と名乗る。
彼の正本(しょうほん=大夫使用の原本そのままの浄瑠璃本)がかなり伝わっており、また正保-明暦には宮中からたびたびお召しがかかっていることから、当時、大いにもてはやされた 「売れっ子太夫」であったことが分かる。左内は京都にどっかと腰を据えて生涯、京都を離れることはなかった。
この山城左内に一戦を挑んだのが伊勢島宮内(いせじま くない)。名前の通り伊勢出身で、江戸の薩摩浄雲系・虎屋源太夫の弟子であったという。伊勢を本拠に活動し、各地も遍歴していたようだが、最後は江戸で浄瑠璃の実力をつけて、寛永20年(1643)、晴れて京都に上った。
四条河原で江戸風の豪快な浄瑠璃を披露すると、これがなんと京の人たちにうまく迎え入れられ、翌年には宮中にも参じる。次第に人気が高まり、当時売れっ子の左内と激しく競い合ったのである。
彼は、いつも名前の前に「江戸」をつけて「江戸伊勢島宮内」と名乗った。江戸から来た太夫という経歴を、売り物にしたのである。彼の浄瑠璃は「江戸宮内浄瑠璃」とも呼ばれ、いろいろ珍しい操りをしたといわれる。
またこの寛永期、四条河原に六字南無右衛門(ろくじ なむえもん)という浄瑠璃語りの女大夫も現われた。どんな経歴の女性であったかは分からないが、舞台の上に姿を見せる出語りで、舞曲の「八島」「曽我」など浄瑠璃化した作品を語った。なにしろ女太夫は珍しかったので、大層な評判になった。
大坂では「道頓堀」に芝居町
京都から発した「操り浄瑠璃」は、30年たらずで江戸に広がったが、大坂はというと「操り浄瑠璃」の本格興行はかなり遅れた。
大坂の芝居町は、もともと勘四郎町という町内にあった。現在の中央区安堂寺橋通佐野屋橋筋以西で、「横堀の芝居」と呼ばれて歌舞伎などが興行されていたようだが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で大坂城が落城するとともに、芝居町も全焼した。
この勘四郎町の芝居町が復興されたかどうかは、資料が残されておらず不明だが、豊臣家滅亡を前にした混乱の大坂の町では、恐らく芝居興行もままにならなかったであろう。
大坂に新しい芝居町・道頓堀ができるは、寛永3年(1626年)である。大坂城の城南に当たる湿地帯を開発するため、東横堀川から木津川に通じる東西の間に、開削した水上輸送路―運河が道頓堀である。
これまでの通説では、大坂城築城に功績があった河内国久宝寺村の町人・安井道頓(やすいどうとん)が、秀吉から城南の地を与えられ、豊臣家の命令で私財を投じて一族とともに開削したということであった。
ところが近年、佐古慶三郎氏の研究で、工事奉行は安井道頓ではなくて、攝津・平野の名家出身の成安道頓(なりやすどうとん)であったことが明らかになった。
つまり、成安道頓が工事奉行になって、手伝い奉行の平野藤次郎や安井治兵衛らとともに、慶長17年(1612)から着工。その途中の元和元年(1615)大坂夏の陣が起こり、事業の采配を振っていた道頓が戦死してしまう。これを手伝い奉行の弟たち・平野次郎兵衛や安井久兵衛らが引き継いで、元和元年11月に運河を完成させたというわけである。
操り本格興行は遅れる
開削された運河は、初め「南堀」といったが、大坂城代の松平忠明が道頓の初志を称え「道頓堀」と命名した。やがてこの堀沿いの町作りが始まり、土地造成が進められて、寛永3年(1626)には道頓堀の南側に芝居町をはじめ遊廓が集められた。当時は勝手に興行できたから、芝居町には歌舞伎や見世物が軒を並べていったと思われるが、「操り浄瑠璃」についての資料は出ていない。
ただ、大坂の「操り浄瑠璃」の始まりについて、文人の浜松歌国が演劇考証随筆である「南水漫遊拾遺](なんすいまんゆう しゅうい)に
「大坂あやつりの最初は、京都より左内、宮内といふ浄瑠璃太夫、折々に大坂へ下り、定日五日づつ興行なし、勝手よき時は日延べしてつとめ勤しが、其後、浄瑠璃大夫段々多く相成、操芝居繁昌に及びしゆへ-」
と記している。「京都より左内、宮内」とあるのは、寛永末から明暦にかけて京の四条河原で競い合った地元の山城左内と「江戸風」の伊勢島宮内のことであり、京都から時々、大坂に出張して来て5日ほど語ったのが始まりとしている。時期や場所がはっきりしないが、寛永-正保期のことと推測される。場所も仮に道頓堀であったとしても、5日興行の程度だから、まだ「操り浄瑠璃」は本格的ではない。
この寛永のころ、説経節も操り人形を取り入れた「説経操り」を生玉神社境内で興行し始めたという。「説経の操りは、大坂与七郎といふ者よりはじめる」と「色道大鏡」は書いており、寛永期の説経正本に大坂与七郎の名があるので、確かであろう。
最初の人形操り座「出羽座」
その大坂で寛永に次ぐ正保(1644-1647)ごろになると、道頓堀に立派に一座を構える浄瑠璃太夫が姿を現す。伊藤出羽掾(でわのじょうをはじめ)、次郎兵衛、長右衛門なる大夫たちである。
その中で、伊藤出羽掾は大坂の草分け期を語る上で欠かせぬ大夫だが、生没年は不詳、経歴も不明な点が多い。生まれは京都で、江戸の虎屋源太夫の門人といわれるが、疑わしい。しかし、最初に道頓堀に乗り込んで操り浄瑠璃座「出羽座」を開いたことは事実のようである。
この出羽掾については、正保5年に親鸞上人に関する浄瑠璃上演で本願寺とトラブルが起きた際、他3人の浄瑠璃大夫と連名で其の筋に差し出した一札が伝わっており、その実在を裏付けている。
なお、浄瑠璃大夫として名を連ねている「長右衛門」なる人物は、虎屋長右衛門といい、のちに「大坂源太夫」とも「虎屋源太夫」とも名乗った。このため、後述する江戸の虎屋源太夫とまぎらわしくなり、その業績が江戸の源太夫と誤記されることにもなる。
古浄瑠璃の最盛期

 

正保期から約10年後の明暦ー万治ー寛文の時代(1655-1672)は、まさに古浄瑠璃界の全盛時代といえる。上方では、多くの太夫が朝廷から受領(ずりょう)の栄に浴して、それぞれ流派を立てて芸を競い合う一方、江戸では「金平(きんぴら)浄瑠璃」ブームが巻き起こって、浄瑠璃作品の創作時代に入る。また浄瑠璃の曲節は工夫され、人形も巧みに遣うよう進歩し、正本の刊行が進むなど操り浄瑠璃は盛んになっていった。
京に異質の江戸風大夫出現
その明暦(1655-57)のころ、京の四条河原東詰め南側に操りの芝居小屋を設け、いままでにない節回しで浄瑠璃を語る大夫が現われた。虎屋喜太夫(とらや きだゆう)である。江戸で浄瑠璃を修業したあと、明暦3年(1657)の大火前に京に上り、翌4年に受領して「上総少掾」(かずさのしょうじょう)を名乗る。
浅井了意の「東海道名所記」は
「(略)ほどなく宮内ハ死けり。左内もなくなり、今ハその子ども打つづきて操りをいたし、めんめん受領して、がたらつく中に、喜太夫といふもの上総の掾になりて、太平記をかたる。その曲節(ふし)、平家とも、舞とも、謡ともしれぬ嶋者なり」
と記す。つまり、伊勢嶋宮内と山城左内が亡くなったあと、その子どもの時代になったが、なんとなくごたついている京都の浄瑠璃界の間隙を縫って、節回しが平曲とも舞曲とも謡とも、なんとも区別がつかない異質の江戸風太夫が頭角を現してきた、というのである。
「大友真鳥」「今川ものがたり」などを得意としたが、「じょうるり、ひときわ、すぐれて-」と絶賛されるほどの実力を持ち主であった。寛文2年(1662)には宮中に招かれて浄瑠璃を語るなどして名声を上げ、京風とは違った江戸風で観客を魅了して、京の浄瑠璃界を席捲したのである。
江戸大夫の上方再隆盛説
この喜太夫、従来は江戸の虎屋源太夫(とらや げんだゆう)の弟子とされてきた。師匠の虎屋源太夫は、薩摩浄雲に師事して修業し、武勇物を得意とするなかなかの実力者。「虎屋系」の一派を起こして、多くの優れた弟子を育てた。明暦3年(1657)、有名な大火「振袖火事」で江戸の大半が焼け野原になり、「操り浄瑠璃」の興行が堺町だけに限定されると、源太夫はそこに小屋を建て、師浄雲の小屋と軒を並べて興行するほどの実力を示した大夫である。
これまでの浄瑠璃史では、明暦の大火で江戸の町の大半が焼け野原になると、難を避けて源太夫や弟子の喜太夫ら江戸の大夫が相次いで上方に乗り込み、江戸浄瑠璃を流行させて上方の浄瑠璃を再び隆盛に導いたと考えられてきた。
その裏付けの文献が、浪速散人一楽著「竹豊故事」の
「寛文年中に江戸虎屋源太夫上京有(り)てより、浄瑠璃繁昌し、常芝居も出来たり。源太夫弟子同喜太夫・同相模太夫・越後太夫続(い)て(芝居を)勤らる」(カッコ内の補字は作者)
であった。
ところが近年、横山重氏の研究で大坂にも虎屋源太夫なる同名の大夫がいたことが分かって疑義が出され、これは江戸の源太夫ではなく、大坂の源太夫のことであることが考証された。大坂の源太夫とは、道頓堀の大夫の1人である虎屋長右衛門のことで、明暦ごろから「大坂源太夫」「虎屋源太夫」と名乗っているのである。
この結果、先の「竹豊故事」の一文が誤記ということになったが、同時に喜太夫を江戸の源太夫の弟子とする確証もなく、現在はこれを否定する方向に傾いている。
「金平浄瑠璃」が大流行
江戸に目を転じよう。明暦期から寛文期になると、杉山丹後掾と薩摩浄雲の弟子に当たる第2世代の大夫の時代に入り、和泉太夫(桜井丹波少掾)、虎屋源太夫、虎屋永閑、薩摩外記、江戸肥前掾、土佐少掾といった錚々たる顔触れが台頭、それぞれが新風の浄瑠璃を模索し、語り始める。
そのひとり、和泉太夫(いづみだゆう)が仕掛けたのが、武勇物の「金平浄瑠璃」(きんぴら じょうるり)である。「金平浄瑠璃」は、源頼光の四天王(渡辺綱・坂田金時・卜部末武・碓氷貞光)の子ども四天王ー渡辺武綱(わたなべのたけつな)・坂田金平(さかたのきんぴら)・卜部末春(うらべのすえはる)・碓氷貞景(うすいさだかげ)が大活躍する物語だが、これが予想以上にヒットして、思いがけない浄瑠璃ブームを巻き起こす。
和泉太夫は、薩摩浄雲の高弟で、生れつき力が強くて武勇を好んだ。堺町で操り芝居を興行し、万治3年(1660)から浄瑠璃作者・岡清兵衛とコンビを組んで、「金平物」を本格的に語る。
浄瑠璃作者の岡清兵衛は、生れつき才発で物覚えよく、太平記や源平盛衰記などは全部そらんじていたという逸材。剛勇無双で正義感の強い坂田金平や、智謀に長けた渡辺武綱ら、新しい個性を登場させて縦横に活躍させ、痛快な物語を作り上げた=絵は金平浄瑠璃本の挿絵で、代表作の一つ「金平天狗問答」の一場面。
話の中身は、朝廷や源氏に恨みを抱いて謀反を企てる敵方を、子四天王の働きでやっつけて勝利を収めるという、簡単に言ってしまえば架空の豪傑活躍話だが、金平ら豪傑の痛快な行動に江戸っ子がすっかり共鳴した。
日ごろの不平不満を解消させる清涼剤にもなり、続々出る楽しい絵入りの金平本は女性や子どもたちに喜ばれて、寛文期(1661-1672)に爆発的に流行したのである。
和泉太夫は、寛文2年(1662)に受領して「桜井丹波少掾」(さくらい たんばのしょうじょう)となり、時代の頂点に立つ。その受領の時は、人気太夫の京都入りとあって洛中は湧き立ち、数多くの金平本も刊行された。
こうして、長らく前代の物語ばかり引き継いで語ってきた古浄瑠璃界は、金平浄瑠璃の流行によって新作を次々と生み出し、創作時代を迎える。しかし、中心人物が坂田金平らの限られ、その性格や行動がワンパターン化していくと、だんだんとあきられて20年ほどでブームは去るが、興行は元禄期ごろまで続いた。
大坂でも「金平物」盛んに
万治3年(1660)、江戸で和泉太夫が金平物を本格的に語り始めたという情報は、たちまち大坂に届いた。道頓堀で興行を続ける伊藤出羽掾は、このころ経営を仕切る座本を兼ね、万治元年(1658)には「出羽掾」を受領していたが、世の中の動きに敏感な人物であった。すぐに江戸に対抗して「金吉(きんよし)」なる若者を登場させて、その武勇伝を語った。江戸と大坂間で、情報の流通がそれほどまでに早かったとは驚きだが、金平浄瑠璃は東西、ほぼ時を同じくして始まったのである。
寛文期に出された出羽掾の正本も「四天王最後」「公平化生論」「中将姫御本地」など10数種明らかになっているが、うち半分は「金平物」で占められ、いかに力を入れたかが分かる。
この大坂での金平物流行に拍車をかけたのが、寛文2年(1662)、からくりで有名な竹田近江掾芝居(最後の注を参照)に続いて、道頓堀に乗り込んできた「大阪浄瑠璃界中興の祖」といわれる井上播磨掾(いのうえ はりまのじょう)であった。
播磨掾は京都の生まれ。名を市郎兵衛といい、もともと音声たくましく、謡曲の素養があった。虎屋源太夫に浄瑠璃を学び、古流の節付けを研究中に江戸万歳の曲節にヒントをえて一派を編み出す。
万治元年(1558)に「大和少掾」(やまとのしょうじょう)を受領し、その数年後に大坂に打って出たわけである。寛文10年(1670)には「播磨掾」を再受領する。
いろいろの音声を使い分けて節回しに優れ、愁い(悲哀)と修羅(勇壮)を兼ね備えた硬軟併せ持つ語り口で「播磨風」「播磨節」ともてはやされた。特ににぎやかな節事、景事を多くして、妙技を見せた。
播磨掾と伊藤出羽掾。この2人の受領太夫が競い合って、道頓堀で抜群の人気を誇り、その活躍で大坂は先進地の京都、江戸に負けぬ活況を呈してくる。
「金平物」から興行方針を転換
寛文13年は9月で改元されて延宝期(1673-1680)に入ると、武勇一辺倒の「金平物」が飽きられて下火になる。すると、変わり身の早い大坂の伊藤出羽掾は早速、「泣き節 」で名を売っていた岡本文弥(おかもと ぶんや)や、手妻人形(てづま=ぜんまい仕掛け)の名手でからくりが得意の山本飛騨掾(やまもと ひだのじょう)を一座に迎え入れて、演出に工夫を加え大当たりする。
岡本文弥は、悲哀に包まれた切々たる節付けが得意で、説経系の霊験物や因果物などを盛んに語り、聴衆はその有り難さや悲しさで大いに涙を流したという。
また山本飛騨掾は、人形の背中の部分に手を入れて操る「指し込み」をすでに遣っていたといわれるが、手妻人形のほか、水からくりや南京あやつりなど仕掛け物を巧みに使った。水中に入りながら衣類を濡らさない術も心得ていたといい、一筋の糸で大山をうごかしたともいう。
この文弥の泣き節と飛騨掾のからくり人形が一体となって舞台を盛り上げ、見物の耳と目を奪ったのである。
説経色の濃い作品が多い出羽座には、延宝から元禄期にかけて遠くから来た西国巡礼の人たちが必ず立ち寄るようになって大繁昌。
「出羽掾芝居をみて帰らねば、西国した甲斐がない」
といわれるぐらいの大阪名物になっていった。
なお、出羽座は文弥が元禄7年(1694)に死に、亨保期初めに飛騨掾が去ると、以後は急速に衰えていく。
一方の井上播磨掾も、こうした風潮を察知して、単なる武勇物から女性の嫉妬や怨霊を題材にした人間味濃い路線転換を図るが、播磨掾には残された時間があまりなかった。
京を出て20数年大坂に住み、京に帰ることがなかった播磨掾だが、晩年、四条の芝居に招かれて初めて京に帰り、得意だった「頼光跡目論」という作品を語る。衣裳や道具などに贅を凝らし、観客の気に入るようにしたので、京中の大評判になった。
しかし、その喜びの興行中、病いにかかり、治療の甲斐もなく急死した。それは、延宝年間(1677-1680)のこととも、貞亨2年(1685)53歳の時ともいわれる。
なお、播磨掾の門人に清水理兵衛(きよみず りへい)がおり、この門下から清水理太夫こと後の竹本義太夫が出たことをつけ加えておこう。

竹田近江掾芝居 / 「竹田からくり芝居」とも「竹田芝居」ともいう。寛文2年(1662)に竹田近江掾が開設した。創始者の近江は、非常に優れた細工の腕を持った人物で、子どもの砂遊びからヒントを得てからくり人形をつくったという。宮中にからくり人形を献上して「近江掾」(おうみのじょう)を受領した。興行師としての手腕に優れ、「水からくり」や「ぜんまいからくり」で評判をとり、人気は出羽座を上回った。竹田一族は道頓堀で複数の座を持つ興行界の有力者になり、その一人の竹田出雲は「竹本座」の座本になった。亨保期(1716-1735)には、からくりに子ども芝居や踊りも加えて「大坂道頓堀、竹田の芝居、ぜに銭が安うて面白い」と俗謡にまで歌われるほどの大坂名物になる。
古浄瑠璃最後の光彩

 

山本角太夫と宇治加賀掾の登場
古浄瑠璃時代は、いよいよ最後となる延宝ー天和(1673ー1683)の10年間に至る。4代将軍・家綱が死んで、「生類憐れみの令」で悪名を売った5代将軍・綱吉に替わる時代だが、古浄瑠璃界では、京都に「うれいぶし」という新しい節を掲げた山本角太夫(やまもとかくだゆう)と、繊細でやさしい語り口の宇治加賀掾(うじかがのじょう)が出て、最後の輝きを放つ。
この2人は、先の寛永期に京で競い合った山城左内(若狭掾)と伊勢島宮内の名代(なだい=興行権の名義人)を継承して、櫓揚げからわずか2年ほどで受領するという異例の出世を遂げ、人気を二分して激しく競り合う。とくに宇治加賀掾は、保守的だった山本角太夫に対して革新的で、曲節を工夫して質の高い新作を次々に送り出すことで、やがて登場してくる当流(新)浄瑠璃への橋渡しを担う役目を果たすのである。
涙を誘う「うれいぶし」-角太夫
山本角太夫は生年・出自とも不明だが、京都生まれの説もある。大坂に住んで伊藤出羽掾の門下として出羽座で修業し、泣き節の岡本文弥にも学んで、出羽掾ゆずりの節付けで名を挙げ、京都に出る。延宝3-4年ごろ、山城左内の名代で四条通り南側に操り浄瑠璃の櫓を揚げ、「小栗判官」「善光寺開帳」など仏教色の強い出し物を語った。
角太夫は、高い音域の声の持ち主で、「はる」「かん」などという高い声の節付けを多用し、愁嘆を強調した「うれいぶし」を創始した。とくに浄瑠璃の真髄ともいうべき愁嘆場では、他の大夫にない凝縮した舞台を見せ、お客は身につまされて同情の涙を禁じえなかったという。
延宝5年(1677)、「相模掾」(さがみのじょう)を受領するが、当時の京都所司代の土屋相模守と同名になったのを憚って、貞享2年(1685)「土佐掾」を再受領する。この「土佐掾」を名乗った期間は長いが、江戸の「土佐少掾」とまぎらわしいので、浄瑠璃史では「山本角太夫」と表記することが多い。
彼は時代の好みにも敏感で、「うれいぶし」の中に時代に合わせ古典指向、風俗描写、歌舞伎風のお家騒動などを積極的に取り入れて語った。代表作に「石山開帳」「七小町」「天王寺彼岸中日」などがある。
また、若いころ大阪の出羽座で修業した関係で「からくり」にも通じ、「水からくり」「糸操り」などを演出によく用いたという。元禄13年(1700)頃に死去。門弟に「治太夫節」の松本治太夫、「一中節」の都一中らがいる。
「よはよは たよたよ」の加賀掾
一方の宇治加賀掾は、和歌山・宇治の生まれで、家は紙屋商であった。17歳で芸道入りを志し、謡曲を勉強して能役者を志すが、門閥・家柄が厳しい能楽の世界では世に出られないとあきらめて、浄瑠璃の道に転向する。
初めは「嘉太夫」(加太夫とも)と名乗って播磨節を語り、伊勢島宮内の節を取り入れて、次第に自分の一流を形成していく。
延宝3年(1675)、41歳の時に興行師・竹屋庄兵衛と組んで、四条河原に伊勢島宮内の名代で「宇治座」の櫓をあげ、「大磯虎遁世記」を語った。その評判を、西沢一風の「今昔操年代記」(亨保12年=1727=刊)は
「節くばり細かに、よはよは、たよたよ、美しく語り出せば、京の見物あたまからお気に入って思ひの外評判よく-」
と記している。「よはよは、たよたよ」とは、繊細でやさしく、しとやかな意味である。彼の古典的で細かい節配りの語り口が成功したのである。
これに自信を得て、嘉太夫は次々に新作を発表する。人形の衣装も美しくこしらえ、「よわよわ、たよたよ」の語りは、京の土地柄にぴったり合って、京随一の人気者になっていった。
脇語りに「天王寺五郎兵衛」起用
そのころ、大坂で浄瑠璃を語って評判になっている若者がいた。その噂が京都の嘉太夫の耳にも入り、旗揚げして3年目の延宝5年(1677)正月、この若者を一座に呼んだ=絵は、そのころの宇治座の芝居小屋内部の様子(延宝末成立の「四条河原芝居歌舞伎図巻」から一部引用)。
若者の名は、天王寺五郎兵衛(のちの竹本義太夫)。慶安4年(1651)大坂・天王寺の農家に生まれ、少年時代から芸事が大好きで、天性の声に恵まれていた。当時、大坂で人気があった井上播磨掾の播磨節に魅せられて、浄瑠璃を習ったのが病みつきになり、農事のかたわら井上播磨掾の弟子・清水理兵衛(きよみず りへえ)に弟子入りする。
理兵衛は、五郎兵衛の家からほど近い料亭の主人で、「今播磨」といわれるほど優れていた。その座敷の一室が浄瑠璃の稽古場になっており、五郎兵衛は通い詰める。
延宝4年(1676)ごろ、理兵衛が人に勧められて一座を組み、旗揚げ興行した時には五郎兵衛も参加する。そして新作の「上東門院」のワキ語りを勤め、初舞台を踏んだ。
これが評判となって、ついに農業を捨てて、本職の大夫になった。25-26歳ぐらいであろう。この五郎兵衛の噂が、嘉太夫の耳に届いたのである。
柔と剛の組み合わせで人気
宇治座に入った五郎兵衛は、「清水(きよみず)五郎兵衛」と名乗って、ここでもワキ語りを勤め、「西行物語」の2段目の修羅場の語りで一躍、名を売り出す。
浄瑠璃作者の見習いとして宇治座に出入りしていた近松門左衛門が、嘉太夫の作品つくりの手伝いをするのもこのごろであり、五郎兵衛と近松は宿命的な出会いをしたと想像できる。
五郎兵衛は、声量があって、声の幅にも恵まれ、天才的な資質を備えていたようだ。「今昔操年代記」は
「元来(もとより)大音にて甲乙(かんおつ)ともにそろひ、まないたに釘かすがいを打(うっ)たる如く、何程(ほど)の大入にても届かぬといふ事なし」
と、大入り満員の広い小屋でもその声が隅々まで行き渡ったと書いている。
「よわ、よわ、たよ、たよ」と優婉に語る嘉太夫の柔と、声量を持って豪快に語る五郎兵衛の剛の組み合わせは大当たりして、興行は人気を集める。
そんな中で、嘉太夫はこの五郎兵衛が将来の好敵手になるだろうと予感する。
1年で五郎兵衛飛び出す
この延宝5年12月、43歳の嘉太夫は山本角太夫と同時に掾号を受領して「宇治加賀掾好澄」(うじかがのじょう よしずみ)と名乗る。名を改めてから「町中いよいよ此流をかたり出し」という状況になって、加賀節の愛好者が増えて隆盛を極める。
しかし、この好調も長続きしなかった。嘉太夫は、芸のことで長年組んでいた興行師の竹屋庄兵衛と意見が衝突して不仲になる。そのあげく竹屋庄兵衛は嘉太夫との訣別を決意して、なんと若い五郎兵衛に目をつけ、離反を誘ったのである。
五郎兵衛にも、独立の気持は強かった。話に乗ったとしても無理はない。竹屋庄兵衛とともに、五郎兵衛はわずか1年足らずで宇治座を飛び出し、最初の師匠の名前を一字貰って「清水理太夫」(きよみず りだゆう)と名乗り、一座を組んで四条河原に櫓を揚げた。
こうして、五郎兵衛(のちの竹本義太夫)と嘉太夫(のちの宇治加賀掾)の間は、離反 > 独立 > 生涯の好敵手という深い因縁を持つことになるのである。
「能」と同等の芸能へ
それから数年後の天和3年(1683)、加賀掾は近松門左衛門が書いた確実な第1作「世継曽我」を宇治座で上演して大評判を勝ち取り、この人気をバックにして大夫にして座本、芝居小屋主を兼ねる実力者となって京都の浄瑠璃界に君臨する。
この加賀掾が偉大であったのは、優れた古浄瑠璃語りであっただけでなく、操り浄瑠璃そのものを能楽と肩を並べる芸能に高めようとした、その意図と努力にあった。
当時の操り浄瑠璃は、「河原者の芸能」と見下した意識が世間にはまだまだ根強く残り、賎(いや)しいものと見られて、社会的な地位は低かった。加賀掾は、この風潮を敏感に感じて能を手本にして古浄瑠璃の内容を高めることを考えた。
「浄るりに師匠なし。只(ただ)謡を親と心得べし」
と、謡曲の題材や作品構成、曲節を借りて、作品を作った。謡曲を利用した作品としては「江州石山寺源氏供養」「天狗内裏」「牛若千人切」「赤染衛門栄華物語」など、数多くある。
また、曲の正調を定めるため、謡本の節付け記号を借りて浄瑠璃独特の記号を作る一方、平曲、幸若、狂言、説経節などからも長所を取り入れて変化をつけ、音曲としての古浄瑠璃の集大成を図った。
刊行された古浄瑠璃本が、絵入り細字本で節付けがないのに気付くと、節付けのある大字8行本にして刊行し、稽古本に使えるようにもした。
加賀掾の功績は、これだけに止まらない。古浄瑠璃の中に、傾城事、濡れ事、怨念事、口説、やつしなど歌舞伎の趣向を移して、語り物から戯曲への発展も試みた。
このように古浄瑠璃時代の最後を飾った加賀掾の活動は、次第に操り浄瑠璃の内容や技術を高めて、低俗であった古浄瑠璃に優雅さを与え、フアンを増やすとともに「新しい浄瑠璃 」への門戸を開いて行ったのである。
三都の芝居小屋状況
このころ、京都・江戸・大坂には公認の芝居小屋がどれほどあり、どのように興行していたのか。古浄瑠璃時代の締めくくりとして、分かる範囲でまとめておこう。
まず興行の仕組みである。当時、上方では歌舞伎でも操り浄瑠璃でも芝居小屋で興行するには、興行権を持つ名義人「名代」(なだい)と実際の経営に当たる興行師「座本」(ざもと)、それに芝居小屋の所有者である「芝居小屋主」の3者が提携して、当局に認可を申請しなければならなかった。許可が下りると、公認をえた印として芝居小屋にやぐら櫓を挙げた。
その櫓ー芝居小屋の数だが、一番はっきりしているのが京都である。 京都は、いち早く元和年間(1615-1623)に所司代・板倉伊賀守が7つの櫓を公許していたが、延宝のころには1座増えて、四条通り南側に3座、北側に2座、大和大路に2座、それに四条大橋を渡った西側に1座あった。この中に操り浄瑠璃座の宇治座・角太夫座・虎屋喜太夫座と説経操り2座が含まれていたと考えていい。
次に大坂・道頓堀だが、公認の櫓は4つとも6つともいわれる。延宝7年(1679)刊の「難波雀」によると、道頓堀で興行権を持つ名代は13あったという。内訳は、操り浄瑠璃が4座(伊藤出羽掾・井上播磨掾・次郎兵衛・虎屋源太夫)、歌舞伎が4座、舞いが3座のほか、説経1座、からくり1座である。
「名代」かならずしも興行しているとはいえないが、操り浄瑠璃の出羽座と井上播磨掾座、からくりの竹田芝居は常打ち興行していた時期なので、4座ではどうみても少なすぎる。6座はあったと見てよい。
江戸は、興行の仕組みが上方と違い、「座元」(ざもと)という者がいて、上方でいう名代・座本・芝居小屋主の3者を1人で兼ねていた。小屋数は、時代によってくるくる変わり、実態を掴みにくいが、延宝当時、堺町や葺屋町などに芝居小屋が歌舞伎4座、操り浄瑠璃2座、説経操り2座の計8座あったという記録、また別の資料では操り浄瑠璃座は薩摩太夫座、江戸肥前掾座、和泉太夫こと丹波少掾座の3座あったとする記述もある。どちらが正しいか速断できないが、こうした数字から操り浄瑠璃は説経操りを含め4-5座あったと見当をつけておこう。
「操り浄瑠璃」興行の様子
操り浄瑠璃の具体的な興行状況は、若月保治氏の「人形浄瑠璃史研究」の記述をお借して要約しておく。
明暦期から元禄初期にかけての演劇資料として知られる「松平大和守日記」などに残された大名邸内での上演記録では、午前8-9時に始まり、午後4時か6時ごろ終わるのが普通のようであった。8時間から10時間の上演時間である。このことから推察すると、一般の芝居小屋でも朝9時または10時から上演が始まって、夕刻には終っていたと思われる。その所要時間は8-9時間で、ほぼ1日がかりの観劇であった。
1回の興行では、主に浄瑠璃6段物を1曲か2曲上演する。6段物の上演なら、初段―間(あい)狂言―2段目―間狂言―3段目と、1段上演しては間狂言を2、3種はさむ。間狂言には、物真似狂言や踊りなどが当てられたが、当時の1段は現在曲のように長くなく、比較的短かった。その1段ずつを大夫1人で語る場合もあったが、2、3人の大夫が交代で語る分担制の方が多かったようである。
上演作品も、延宝期になると歌舞伎の影響を受けて、恋愛や傾城事などを織り込んだ写実的なものが取り上げられ始め、わずかながら演劇的な要素が加わっていった。また、景事や道行も大幅に採用され、自然の風物を借りて、日常の感情を表現することが流行する。
操られる人形は、裾(すそ)から両手を突っ込んだ1人遣いが主流。首(かしら)は左右に動くようになり、両手がついて糸で引いて動かすようになっていたと考えられる。足はなかった。
 
浄瑠璃史

 

始めに
浄瑠璃は、歌舞伎とならんで近世に行なわれた演劇である操り浄瑠璃の台本である。
操り浄瑠璃は、浄瑠璃操り、人形操り浄瑠璃、人形芝居、操り芝居などとも呼ばれ、江戸時代の後期以降は文楽と呼ばれることもあった。文楽とは、寛政年間(一七八九ー一八〇〇)、大坂の高津橋南詰に席を設けて、人形浄瑠璃の興行をした淡路出身の興業師植村文楽軒の名にちなむ。植村文楽軒の芝居は、江戸時代、処灯を転々と移動し、その土地の名で呼ばれたこともあったが、明治五年に正式に文楽座の名を採用し、昭和三十一年には道頓堀に小屋を新築し、同三十八年に朝日座と改称、財団法人文楽協会を発足させて今日にいたっている。
浄瑠璃は、人形芝居の舞台と切離して論じることはできないので、当然、浄瑠璃の歴史は操り浄瑠璃の歴史と深く交渉を持つことになる。というよりも、操り浄瑠璃の歴史の一環として浄瑠璃の歴史は論じられなければならない。
操り浄瑠璃の歴史は、普通、古浄瑠璃時代と当流(新)浄瑠璃時代とに二分し、前者は、浄瑠璃、人形、三味線の結合による操り浄瑠璃の成立、その後の京・江戸・大坂の隆盛をながめ、やがて、竹本義太夫や近松門左衛門らの活躍する当流浄瑠璃の時代を迎えるにいたるまでをあつかう。これにつづく当流浄瑠璃の時代は、竹本座と豊竹座の対抗による全盛と哀退の過程をのぺ、文楽の時代におよぶことになる。
操り浄瑠璃の歴史の大まかな展望は以上の通りであるが、その以前に、人形、浄瑠璃、三味線の三者がそれぞれに単独に成長しつつあった経過をながめ、操り浄瑠璃の前史とすることができる。
浄瑠璃史の記述は以上のような事実を明らかにすればその使命を大体全うしたものということがでさる。
これまでの浄瑠璃史についての著作は、おおむね、以上のような内容を盛りこんで成立している。
しかし、本稿では、小さな試みとして、浄瑠璃の史的展開を、当時の時代精神、人間観、世界観と関連…理解するようにつとめてみたい。
浄瑠璃は、操り浄瑠璃の台本として舞台に上演されたものであり、多数の観客の好みを反映するものであった。興行の成績ということがつねに課題となり、その作品の価値は、当り、不当りということで判断された。そこから、浄瑠璃は、好むと好まざるとにかかわらず、当時の観客意識の共通項の代弁者とならざるをえず、浄瑠璃作品の分析を通して、われわれは、当時の庶民意識を知ることが可能となるのである。
一方、浄瑠璃作品は、当時の庶民の代弁者であるにとどまらず、その未来や運命の予言者となることもあった。すぐれた作者の手にかかった浄瑠璃作品は、思いもかけぬ啓示や衝撃を観客に与え、作品に接し終った瞬間のかれらを以前のかれらの存在と全く別種の存在に変容させる。すぐれた演劇作品は、一つの人間観や世界観を内にはらみ、哲学としての役割を果たした。浄瑠璃を通して、われわれは、当時の時代精神や宇宙観を把握することが可能であり、その逆に、当時の時代精神や宇宙観を理解することが、当該作品の理解をより深めることにもなるのである。こうした考え方の根底には、すぐれた演劇は、ひとつの時代、ひとつの社会の芸術的表現であるとする見方が存在することはいうまでもない。
浄瑠璃の作者は、古浄瑠璃時代には多く不明であり、当流浄瑠璃の時代になって近松があらわれ、以後の作品は大体作者が明らかとなる。しかし、作者が一つの作品について、全体にわたって責任を負うていたのは、近松の活躍したわずかな時期だけで、間もなく、浄瑠璃は合作時代となり、一作品に複数の作者が関与し、個々の作者の執筆した部分が不明となってしまう。
合作浄瑠璃は、時代の多様化につれて、複数の眼によって多元的に描写するのでなければ時代を把えることはできなくなってしまった事実に対応する。文楽の時代になってすぐれた新作浄瑠璃があらわれなくなったということは、一元的統一原理による世界把握が可能であった語り物の時代の終焉を意味し、合作浄瑠璃は語り物性を破壊して歌舞伎に近づこうとしてついに自滅していったのである。
近世三百年にわたる長期の操り浄瑠璃の歴史で、作者が単独に作品を生みだした時代は、近松が活躍しし汎卜年に満たない短期澗にすぎず、それ以前は作者が不明であり、以後は、作者名は判明しても、執筆分担価所は明らかでない。
この事実は、また、浄瑠璃という戯曲形式の存在にとって、作者の個性は、本来的に必要不可欠な条件ではなかったということを示している。つまり、近松の活躍した半世紀は、浄瑠璃史にとっていわば例外の時代であり、作者の個性の埋もれていたその前後の時代こそが、本来の浄瑠璃の時代であったということになる。
このような浄瑠璃の歴史において、しかし、もっとも芸術性の高い作品が生みだされたのは、この例外的な近松の活躍した時代であった。従って、本稿では、おのずから、この近松の活躍した時代、ことに近松の作品に焦点があてられ、かれの作品の芸術性の解明と、そこに包含される世界観の解読に多くの力が注がれることになろう。しかし、このことは、その前後の時代をないがしろにすることを意味せず、凡庸な作もまたその時代の必然を反映しているとする観点はつねに保持されつづけることになろう。
語リ物と物語
浄瑠璃は語り物の一種である。語り物は、ある筋を伴った内容をゆるやかな節をつけながら、一定の長さに切って語るものである。筋のある内容を語る叙事性という点では、昔話や伝説と通じるものがあり、節をつけるという点では民謡に似通うが、叙事性と旋律性の両者を兼ねそなえる点に語り物の特色がある。
語るの「かた」は、心をよせ、あがめることを意味するカタツ(崇)や、えこひいきをし、また、仲間として同心することを意味するカタムク・カタチハフ(阿党)、カタハフ(償・比周)などの語の「かた」と関係があるといわれ、語るは、つよく相手(聞き手)を考慮した言語行動であった(阪倉篤義「語り物の歴史と浄瑠璃の成立」〈日本の古典芸能第七巻『浄瑠璃』〉参照)。
柳田国男氏は、語るの意義を、もと相手の気持をひき入れて、一種の精神的協同をなす意味をもち、それが、異性に同意を求めたり、あるいは聞き手を信じさせる特殊なものを言いをする意味にもなり、さらに堕落しては、人をあざむく意味にもなったと説明していられる(『口承文芸史考』)。
語りの源流は古代の神話にまでさかのぼることができる。神話は神について語る説話であり、この世のはじめにおける出来事、ことに、人間の生活にとって本質的な意味を持つ、宇宙・人類・文化などの起原を神の事跡に托して語る伝承説話である。神話は律語の形式をそなえ、神のことばとして重んじられ、語り部によって語りつがれた。
語り物は大まかにいって三つの型が考えられるとされる。一つは宮廷の語り部で、 『新撰姓氏録』に記載のある中臣志斐連、阿倍志斐連、 『万葉集』巻三に出てくる志悲娼などがその例で、また、稗田阿礼の属した猿女君氏やさらに斎部氏にも宮廷の語り部としての一面があった。これらのものの特色は多く宮廷の祭祀関係の職掌を担当し、大和朝廷に直属し、天岩屋戸の神話や天孫降臨の物語など、 『記紀』の中心となる伝承を語り伝えた。
次に、右の宮廷の語り部に対して地方の語り部が存在した。この地方の語り部の存在は、「戸籍」「賑給歴名帳」「計会帳」などの断片的資料と、平安時代以降の『貞観儀式』 『延喜式』 『北山抄』 『江家次第』などによって証明される。これらの資料によると践柞大嘗祭にあたって、伴・佐伯に率いられた語り部たちは「古詞」を奏した。その「古詞」は、地方豪族の家にまつわる口承詞章を主な内容とし、地方の首長が王権に服属した次第とその服属の誓約を合んでいた。
第三には、本来が諸国の語り部でありながら、宮廷に召集されて宮廷の語り部になり在京化したものである。その例としては伊勢の海入部の出身で宮廷に召されて「海人駈使」となりながら、語りの部門を担当した天語部があげられる。 『古事記』の神代の巻にある神語四首、同書「雄略記」にある天語歌三首などはこの天語部によって伝承された。これらの歌はたんなる民謡ではなく芸謡的傾向や宮廷讃歌としての性格を有し、天語部は主に歌謡的詞章の制作と伝承を受け持ったと考えられる(黒沢幸三「語部」 『日本古典文学史の基礎知識』、上田正昭「語り部の機能と実態」 『日本古代国家論究』)。
平安時代の物語類の源流もこうした語り部の語りにあったと思われるが、語り事の系譜から『竹取物語』を祖型とするような物語文学が生まれてくるためには、仮名文字の成立、中国散文小説の移入、日本古伝説の漢文による小説化などの条件がととのう必要があった。物語のものの源義は物体、対象などの意とも(大野晋「『もの』という言葉」 『講座古代文学』、岩波新書『日本語をさかのぼる』)、霊魂・霊威とも(三谷栄一『物語文学史論』、他)いわれるが、語りが伝承性を重んじるのに対し、物語はつくりだされた語りであった。
おなじ平安時代に生まれた物語類でも、 『大和物語』に記録されている各種の説話などは、それぞれの歌の由縁を語る伝承性がつよく、歌とその創作事情「時・所・人」とは、なお、ある程度の事実にもとつく結びつきを持っていた。これに対し、同じ歌物語でも、 『伊勢物語』の諸短編では、歌と話との結びつきに創作性が入りこみ、事実性は稀薄であった。
このような創作物語の頂点に『源氏物語』がある。この作品では、語りにおける時.所.人の制約を脱却して、自由な創作意識にもとつく高い文芸性が獲得されている。この傾向は、ますますつよめられて、中世.近世の物語や小説の散文文芸へとつながっていった。
唱導文芸
以上のような文字に定着されて文芸化していった物語の流れとは別に、口承的な語りの正統は、大陸から渡来した仏教宣伝の課諦・表白・説経・教化などの唱導文芸を媒介として、平安時代から鎌倉時代にかけて、琵琶法師の芸に大成されていった。
初期の唱導文芸を支えたのは、仏教の説経師である。わが国において、文献上に説経師と思われるものが最初にあらわれるのは、天武天皇十四年(六八六)の年記を持つ最古の写経といわれる知識経の「金剛場陀羅尼経」巻一奥書に「教化僧宝林」とあるものである(永井義憲『日本仏教文学』)。
この説経師の具体的活動状況が明らかになるのは平安時代にはいってからで、 『枕草子』に、説経の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそその説くことのたふとさもおぼゆれとあるのが著名である。鎌倉末期成立の『二中歴』の巻十三には、 「名人」の項に「説経」として、賀縁、湛然、静昭以下全部で十五人の説法の名人上手の名を伝えており、そうした説経師の代表的人物が、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した澄憲(一一二五−一二〇三)であった。
澄憲は信西藤原通憲の子として生まれ、比叡山に上って、珍兼について天台の学を修めた。安元三年(=七七)、ときの天台座主明雲が伊豆に配流されると、これを送って途中で一心三観の血脈を伝えられた。のち、京の安居院に住んで、もっぱら唱導につとめ、その哀娩の説経ぶりは聞くひとの肺腋をつらぬいたという。その子孫聖覚・隆承らが、あいついで唱導の業を伝え、安居院流の唱導は園城寺の定円の流れをくむ三井寺派と並んで一世を風靡した。澄憲の説経は、 『言泉集』 『唱導抄』 『澄憲作文集』などによってその語り口をうかがうことができる。
これらの説経僧が、末流になると、教団の支配を脱して、専門芸能者になっていったと考えられる。たとえば、『看聞御記』の応永二三年(一四一六)六月二八日の条に、
大光明寺客僧有物語上手云々。自長老被挙申之間被召之。酒宴御肴語之。凡弁説吐玉。言詞散花。聴衆感歎断腸。
とあり、同七月三日の条に、
先日物語僧又被召語之。山名奥州謀反事一部語之。有其興。
とある物語僧などがその例である。ここで、この物語僧が語っている「山名奥州謀反事」とは、明徳元い年(一三九〇)に、足利義満が山名氏清等の乱を討伐した顛末を記した軍記物語の『明徳記』をさしている。かれらがこうした軍記物語を語ったということは、のちのお伽衆の役どころを思わせるものがあり、お伽衆はこうした物語僧の系譜を引くものでもあったのであろう。
琵琶法師
語りの芸を集成したのが琵琶法師である。琶琵法師とは、琵琶の伴奏によって叙事詩を語って歩いた盲目の芸人である。
琵琶という楽器は、古代にペルシャ(イラン)地方に起り、これが、アジア大陸を東へ運ばれて漢時代に中国にはいり、さらに、七世紀の末ごろ、中国から朝鮮を経て日本に伝来した。日本では、雅楽の合奏に主として用いられ、士太夫のもてあそびものとなっていたが、また、遊女がこれを弾いて、駅亭の旅客の旅愁をなぐさめていたことは、『本朝無題詩』の釈蓮禅の詩に「聴妓女之琵琶有感」と題する七言の詩があって明らかである。
この琵琶がいつごろから盲法師の手に渡って、職業として広く行なわれるようになったか。その起原伝説としては、『今昔物語』や『江談抄』に、宇多天皇の皇子式部卿宮敦実親王の雑色に蝉丸というものがあり、琵琶の名手であったが、盲目となって、逢坂に庵を造って住み、ここへ、源博雅というものが、三年も毎日通い、秘曲流泉、啄木を伝えられたというはなしがみえている。さらに、 『源平盛衰記』や謡曲『蝉丸』になると、蝉丸は延喜帝の第四の皇子であり、そこでその庵のあったところを四の宮というとみえているが、これらの起原伝説はかならずしも信頼をおくことができない。
しかし、平安の中期に、すでに琵琶法師という職業が発生していたことは、 『源氏物語』の「明石」の巻に、光源氏が須磨に流されていたとき結ばれた明石上の父明石の入道が、琵琶法師のまねをして光源氏をもてなしたことがみえており、平兼盛(正暦元年九九〇没)の『兼盛集』の職人絵の歌のなかに、 「びはのはうし」と題して、
よつのをに思ふ心をしらぺつΣひきありけども知る人もなし
とある。また、 『散木奇寄集』にも
あしやといふ所にて、びは法師のびはをひきけるをほのかにき」て、むかしを思ひいでらる」事ありて
流れくるほどの雫にびはのを」ひきあはせてもぬる」袖哉
とうたっており、記録では、小野宮右大臣藤原実資の日記『小右記』の寛和元年(九八五)の七月十八日の条に、
召琵琶法師、令尽才芸、給少禄
とみえている。これらの資料によって、平安中期に、後世の門付け芸人のように家々を訪れる琵琶法師や、また、旅宿において旅人をなぐさめ、貴族の邸宅にも招かれる琵琶法師のあったことが推察できる。
かれらが、また、のちの平家琵琶のように琵琶にあわせて、何かの物語を語ることがあったことも、 『新猿楽記』のなかに、 「琵琶法師之物語」ということばがみえて明らかである。おそらく、かれらは、社寺の縁起や霊験諦、さては合戦諄や民間伝承など、さまざまな語り物を持って廻っていたことであろう。これらの琵琶法師たちは、鎌倉時代になると、もっぱら『平家物語』を語るようになり、平家琵琶と呼ばれるようになった。
篇『平家物語』の成立について記した最古の文献である兼好の『徒然草』によると、後鳥羽院の御代に、慈鎮和尚(慈円)の保護を受けていた信濃前司行長(山田孝雄氏の考証によると下野前司行長)がこの物語をつくって、生仏という東国出身の琵琶法師に教えて語らせたという。
『平家物語』の作者については異説もあり、また、その原型も、もと三巻本であったとも、 『治承物語』という六巻本であったとも伝えられており、現在にみられるような十二巻に増補集成される過程で、多くの知識人の参加が当然あったはずであり、行長もそのひとりであったのであろう。
平家琵琶の元祖といわれる生仏は、また性仏とも記され、 『当道要集』には、叡山の住僧で、僧正の高官に昇ったものと伝え、山田孝雄氏は、琵琶の名家綾小路右馬頭資時入道寂阿が正仏坊と呼ばれているところから、平曲元祖の生仏はこのひとであろうと推定しておられるが、なお定かでない。
琵琶法師たちは、のちに、当道という一種の職業組合をつくる。これは、九州、ことに薩摩と筑前の地で、地神経をとなえ、かまどの神の土荒神を祈疇する盲僧琵琶の流れがあり、荒神琵琶とも呼ばれて、家々の祈薦などをして廻って活躍していたので、これと区別するためにつくられた団体であった。
この当道の方では、生仏を元祖とし、そのあとに城一というものがあり、その門人如一および城元から両流に別れて後世に及んだ。如一の門流は、皆名の下に一という文字をつけたので、一方(いちかた)、また、坂東におったところから坂東方ともいわれた。城元の門流は、名の頭に城という文字を冠したところから、城方(しるかた)といい、また、京の八坂の塔のそばに住んでいたので八坂方ともいわれた(岩橋小弥太『日本芸能史』)。
これらの琵琶法師たちは、鎌倉時代以後、平曲を表芸とし、同行の小法師などに間の滑稽物語などを語らせ、諸国を流浪した。かれらが語りだけではなく、種々の雑芸、たとえば、室町時代の琵琶法師が、朗詠や小歌を演じていたことは、 『看聞御記』その他によって知られるし、その活動範囲も、公家や武家の酒宴だけではなく、京の市中の盛り場から、さらには、泉州、播州、遠州、尾張、関東、北国、九州などの遠隔地にも及んでいた(阪倉篤義「語り物の歴史と浄瑠璃の成立」)。
この琵琶法師に代表される唱導の徒によって持ち運ばれていた各種の語り物は、平曲、幸若、お伽草子、説経節などに分化発展しながら、やがて、浄瑠璃と呼ばれる代表的な語り物芸能を生みだすことになった。この語り物の流れからは、近世にはいって、歌祭文や浪花節も生まれている。
浄瑠璃
浄瑠璃と説経節は関係が深い。同じ唱導芸能の流れから出て、平曲の徒がいちはやく『平家物語』という強力な語り物を手に入れ、当道と呼ばれる強固な結社組織をつくって社会的に上昇していったとき、下層に沈澱した唱導芸能の連中のうち、最後まで仏神賛仰の語り物を捨てなかったのが、説経浄瑠璃であり、のちにのぺるように牛若丸と浄瑠璃姫のラブロマンスを中心とした当世風の語り物にむかったのが浄瑠璃の徒であった。したがって、説経節と浄瑠璃とは同じ親から生まれた兄弟関係にある語り物と考えることができよう。
浄瑠璃の起原については、江戸時代の『よだれかけ』(慶安元年奥書)に、
我浄瑠璃のもとを尋ぬるに三州やはぎの長者が娘に浄瑠璃御前といひし牛若君のおもひものの事を作り十二段にわけて語りそめてより起る
とあるのが古い説であり、同様な説は、『京童』(明暦四年)に、
浄瑠璃と云事は、牛若と浄瑠璃御前の事を、十二段にふしをつけ語りしを、則其物の名になりて浄瑠璃と云、是今の世に語る浄瑠璃のはじまりなり、彼浄瑠璃御前は、薬師如来のまうし子なりし故、浄瑠璃と名づけられしと也
とある。浄瑠璃の名称が、「浄瑠璃十二段」という作品に関係するという説は認めてよいと思われる。
その作者について、『色道大鏡』(延宝六年)に、
此十二段といふものを見るに、何者のつくりたれば、か」る不都合なる事のみを書つ望けたるぞと思ふに、小野の通が作なれば、実(げに)ことはりとそ覚ゆる
と伝えるが、信長の侍女と伝えられる小野お通の作とすることについては、その後、柳亭種彦によって否定された。
種彦は、連歌師宗長の『宗長日記』享禄四年(一五三一)八月十五日の条に
小座頭あるに浄瑠璃をうたはせ興じて一盃にをよぶ
とあり、天文九年(一五四〇)に成立した荒木田守武の『守武千句』に、
いと窒だに座頭まがひの杖つきの
浄るりかたれともしびのもと
今宵はや時はうし若更けはてて
とある付句を紹介し、織田信長以前に浄瑠璃の成立していたことを明らかにし、その作者を信長の侍女の小野お通と結びつけることの不当さを立証したのであった(足薪翁記、還魂紙料)。
近代にはいって、高野辰之氏は、江戸時代の万治年間に刊行された能論書の『猿轡』に、文安年中(一四四四-四九)に宇田勾当という座頭が京の因幡堂の薬師如来に祈請し、霊験をうけて、 「やすだ物語」という作品を、 『平家物語』の十二巻、薬師如来の十二神将にちなんで十二段につくり、薬師如来を別名瑠璃光如来と称えるところから、その語り物を浄瑠璃と名づけたとある説を紹介された。同書には、浄瑠璃の語り口を「根本平家より出で、しかもふしの名多其法有となん」とある。
さらに、高野氏はつづけて、漆桶万里の『梅花無尽蔵』に
憩矢作宿(文明十七年一四八五、九月作)
出刈屋城三里余  宿云矢作記其初
伝聞長者婿源氏  秋水痩辺閑渡駿
とある詩を紹介され、また、 『宗長手記』大永七年(一五二七)三月の条に
それよりやはぎのわたりして妙大寺、むかしの浄瑠璃御前跡、松のみ残て、東海道の名残、いのちこそながめ侍つれ
とある事実を明らかにされた(「十二段草子考」 『歌舞音曲考説』大正十四年)。
これらの諸資料によって、十五世紀には、すでに駿河地方に、牛若丸と浄瑠璃姫の情事をあつかった伝説の成立していた可能性が示されたのである。さらに、近時、室木弥太郎氏は、 『岡崎市史』が引用する「瑠璃光山安西寺略記」や鳥丸光広の「東の道の記」によって、西郷頼嗣が、庚生元年(一四五五)に岡崎城を築いたとき、尾か崎(岡崎)が原にあった浄瑠璃姫の庵室を移して本丸の持仏堂にしたという記録を紹介され、浄瑠璃姫伝説の存在を十五世紀半ばにまでさかのぼらせて確認されたのであった。
浄瑠璃物語
ここで浄瑠璃のもっとも初期の形を伝える現存の「浄瑠璃物語」について考えてみたい。現在その存在が知られている「浄瑠璃物語」の本文は三十種程に及び、絵巻、奈良絵本、古活字本、写本などの各種のものが伝えられている。段数も、二十段、十六段、十五段、十二段、八段、六段などがあるが、もっとも普通にみられる形式は十二段であるところから、 「十二段草子」とも呼ばれている。
それらの前後関係については、これまで、若月保治氏『古浄瑠璃の新研究』、横山重氏『古典文庫室町時代物語一.絵巻上瑠璃の蟹』、甕之助氏『浄璃璃物語研究』、室木弥太郎氏『語り物(夢璽の研究』などの研究が行なわれているが定説はまだ確定していないようである。本来は語り物であったために、内容は流動的であり、さらに、文字に定着される過程で、第二次の改変が加えられたために、現在みられるような多種多様な本文があらわれたものであろう。段数自体もそのときどきの事情で、いろいろな段に分けて語られていたものと思われる。室木氏は、前掲書で、十二段に分けられるようになったのは、室町時代の末になって、この物語が操りの舞台にかけられるようになってからであろうと推定されている。
いま、東京大学図書館所蔵の古活字十行本によって「浄瑠璃物語」の梗概をのぺると次のようになる。各段の題名は、寛文頃江戸版「十二たんさうし」による。
第一 十二段並上るりごぜんもうしごの事
御曹司牛若のやどった宿の娘の浄瑠璃御前は芸能にすぐれ、美貌は当国、他国に並びないものであった。父は三河の国司源中納言かねたか、母は矢矧の長者で海道一の遊君であったが、子がないので峯の薬師に祈って生まれた娘で、玉のように美しいので浄瑠璃姫と名づけられていた。
第二 はなぞうへの事
折しも弥生半ば、琴の音を尋ねて長者の庭に入りこんだ御曹司は、美しく咲きそろった花に心も乱れるのであった。
第三 びじんそろへの事
鯖のかげから二百四十人の女房にかしずかれる浄瑠璃姫の四十二相をそなえた比類のない美しさを見、このような女性と契りを交したいと牛若は願う。
第四 そとのくわんげんの事
姫は十二人の女房と管絃をはじめ、御瞥司は横笛でこれに和して、想夫恋の曲を吹いた。この妙音に聞きほれた姫は、女房に御曹司の素姓を問わせ、由緒ある都の人と心を動かした。
第五 ふえのだんの事
ふたたび命を受けた十六歳の玉藻の前は御曹司を一目見て立帰り、源氏の公達であると報告し 立派な装束についてこまごまと説明する。
第六 つかひのだんの事
姫の命で次に十五夜が使いに立ち、歌をいいかけ、御曹司はこれに返歌する。やがて誘われて室内に入った御曹司は、多くの女房から出される難題にこたえ、一泊をすすめられるが退出する。しかし、姫にひかれる御曹司はその夜ふたたび忍び寄る。
第七 しのびのだんの事
侍女の十五夜に案内されて姫の室に忍び入った牛若は姫を起して恋心を訴えた。
第八 上るりまくらもんだうの事
御曹司は古今の例を引いて姫をくどき、こぼむ姫に煩悩即菩提と説いた仏の教訓を語る。
第九 やまとことばの事
御曹司は歌になぞらえて恋を訴え、口をきくまいと決意していた姫もついにこれにこたえた。ときに、姫は十四、御曹司は十五であった。
第十御座うつりの事
翌朝、二人が名残りを惜しんでいると母の長があらわれたので、御曹司は三重の堀を越えて逃げ、やがて、金売り吉次に従って田子の浦吹上の浜にたどり着いた。
第十一 ふきあげの事
吹上で御曹司は重病にかかり、吉次は宿のあるじに御曹司を托して旅立った。宿のあるじは吉次からの礼金を横領して御曹司を浜に捨てた。正八幡の告げによって姫は浜にやってくる。
第十二 御ざうしあづまくだり
姫は御曹司を砂の中から堀りおこし、このときあらわれた十六人の山伏の加持によって御曹司は蘇生した。姫の二十日間にわたる看護で本復した御曹司は姫にはじめて源義経と素姓を明かし、大小の天狗を呼んで姫を矢矧に送らせ、再会を約して自分は平泉へと旅立った。
このあと、赤木文庫本の十六段「しやうるり御せん物語」 (写本)や熱海美術館所蔵の二十段「上瑠璃」 (絵巻)などでは、二入の後日物語ともいうべき部分が添えられている。その梗概は赤木文庫写本では以下のようになっている。
牛若は無事奥州の藤原秀衡の許へたどりついた。浄瑠璃御前は牛若と別れたのち、母の長者の不興を買い、矢矧を去って笹谷に移り住むが、女房の一人文珠の前の、牛若が秀衡の娘と結ばれたといういつわりのことばを信じて自害する。一方、牛若は数万騎の大将となって上京の途次、矢矧で浄瑠璃の死を聞き、笹谷の廟所を訪れ、浄瑠璃の亡霊に出逢って歌をよみかわす。母の長者は姫の死によって生きがいを失い、八橋川に入水、牛若は上京後も姫のことが忘れられず、文珠の前を賀茂川に沈め、姫のために千僧供養をする。
これに対し、熱海美術館所蔵絵巻の後日物語は次のようである。
牛若は奥州秀衡のもとに着き、数万騎を率いて都へ上るが、途中矢矧の長者の宿にとまって、浄瑠璃姫の最後の様子を冷泉尼から聞く。そこで墓を訪れ、法華経をとなえて回向の和歌を詠む。すると姫の墓の五輪塔が砕け、一つは牛若丸のたもとに、一つは空中に、一つは墓の標として残った。牛若丸はその跡に寺を建て、冷泉寺と名付けて侍女冷泉に賜った。又、姫を死に至らしめた矢矧の長を箸巻きにして殺した。
赤木文庫本と熱海美術館本とでは、以上のように細部に於てはかなりな違いを示しているが、いずれも後日諏であり、牛若と姫の亡霊との和歌の贈答、姫を死に至らしめたものへの復讐など、大筋に於ては一致し、両者は同系の物語であったとみられる。
以上のような梗概を持つ「浄瑠璃物語」は、
(一) 峰の薬師への申し子(本地諌)
(二) 牛若・浄瑠璃の恋愛(恋愛諄)
(三) 牛若の蘇生(八幡の利生諏)
(四) 五輪砕き(冷泉寺縁起諄)
の四部に分けてみることができよう。これらは、それぞれに別のかたちで成立した物語が、のちにいまみるようなかたちで一つに合わされたものと考えられるが、そのどれが原型で、どの部分がのちに増補されたものかという点については、これまでの研究者のあいだで意見がわかれている。それは大別して、口の矢矧における恋愛諌を原型として重視する説と、本地諄や利生諄を原型として重んじる説とに別けることができよう。
前者の代表としては高野辰之氏を挙げることができる(前掲「十二段草子考」)。氏はこの物語の中心を、矢矧を舞台とした長者の娘と御曹子の恋愛諄と考えられ、御曹司の受難と蘇生という「吹上」の条をのちの増補と考えられた。その場合、氏は、(一)の「申し子」の部分は (二)と結びつけて原型の中に加えられ、また、(四)は当時まだ発見され
ていないので考慮に入れておられない。
「浄瑠璃物語」の原型を、 「或る日、一個人によって創作されたもの」と考えられる森武之助氏もこの前者の側に加えてよかろう。氏は、原型を「『申子』から導入し、恋愛諦を述ぺ、利生を加えて結んだ草子」と考えられ、かならずしも恋愛課のみを原型とされたわけではなかったが、原型に存在した「吹上」はごく短い挿入説話の程度で、のちにいまみるようなかたちに膨脹したものとされているので、恋愛諄が中心に考えられていることは否定できない(『浄瑠璃物語研究1資料と研究−』)。
これに対し、後者の代表説として和辻哲郎氏のそれを挙げることができる。氏は「浄瑠璃物語」の原型は御曹司蘇生の利生課、即ち、 「吹上」であり、「申子」と「吹上」の間をつなぐ恋愛諄は、のちに拡張されていまの姿をなしたものと推定されている(『日本芸術史研究』)。
同様な考え方をしている人に室木弥太氏がいる。氏は、「浄瑠璃物語」を
一 「申し子」
二 主部(矢作における浄瑠璃・牛若の恋物語)
三 「吹上」、 「五輪砕」
と三つに分けられ、このうち、第二の主部は、姫と侍女の十五夜が活躍するのに対し、第三は冷泉の独り舞台となっているところから、第二と第三では説話の管理者に相違があったことを想定されている。氏は、さらに、 「申し子」「吹上」 「五輪砕」などは矢作地方の民間説話を原型として成り立った説経系の語り物と考えられ、そのなかでも、「申し子」と「吹上」は成立が古く、比丘尼や巫女のような女性芸能者の語りを伝えた物語であったと推定されている。
こうして、諸氏の説を勘案してみると、現在の「浄瑠璃物語」を形成している四つの部分は、それぞれ成立を異にする独立した物語群であったと考えられそうである。それらの成立の前後関係は、9、日は比較的古く、四は他の三者に比してすこし遅れるかも知れない。そして、H、日、四は、説経系の語り物として、それぞれに独立して語られていた時代があり、⇔は、この三つの物語を一つにまとめて長編の「浄瑠璃物語」を構成する際に、原説話に大幅に手が加えられたうえで、中心に据えられたものと考えられる。その際に、従来の各種恋愛諄が利用され、都の知識人の参加もあったものであろう。口の成立は、 「瑠璃光山安西寺略記」 『梅花無尽蔵』などの記事を考慮すれば、十五世紀半ばにまでさかのぼることができそうである。   
 
大津絵

 

かっぽれ、さのさ、奴さん、都々逸などと同じくらい有名な俗曲で、大津絵という唄があります。少しでも邦楽に知識のある方なら誰でもご存知だと思います。元唄を紹介しましょう。
   長頭翁の梯子ずり 雷太鼓で釣をする
   お若衆は鷹をすえ 塗笠おやまは藤の花
   座頭の褌 犬咬えつけ仰天し
   杖をばり振上げ 荒気の思いも発気して
   鉦撞木 瓢箪鯰で押さえましょ
   奴の行列つり鐘辧慶 矢の根五郎
この元唄は、今ではあまり唄われずに、以下のような替え唄がよく知られています。
   大阪を立ち退いて 私の姿が目に立たば
   借り駕籠に身をやつし 奈良の旅籠や三輪の茶屋
   五日三日と日を送り 二十日余りに四十両
   使い果たして二分残る 金ゆえ大事の忠兵衛さん
   科人にならしゃんしたも皆私ゆえ
   さぞやお腹も立ちましょうが
   因縁づくじゃと諦めくだしゃんせ
ほかにもたくさんの文句があります。大津絵は全国各地に流行しました。会津地方では、会津大津絵として、鹿児島では薩摩大津絵として根付きましたし、大分県内でも座興唄として日田市などで唄われました。しかし、大津絵が盆踊り唄として唄われた例は大分県中津市など、少ししかないようです。
中津の大津絵踊り
中津では、昭和30年代の前半まで大津絵を盆踊り唄として唄っていたのです。しかし、口説きが難しいこともあって絶えてしまったそうです。それを惜しんで、後に「中津大津絵音頭」として復活し、歌詞は新たに4篇に整理されました。その時に、従来はばらばらだった字脚も全て揃えられ、踊り方も昔の素朴な踊りとは別に、新しい踊り方が考案されました。もちろん昔の踊り方で踊ることもできます。
安心院の大津絵踊り
安心院町楢本でも大津絵を盆踊りのときに踊ります。ただ、楢本の大津絵は、踊り方は中津の大津絵の古い踊り方によく似ていますが、唄はどう考えても大津絵であるとは思えないのです。一節だけ紹介します。
親が大工すりゃ子までも大工ヨ
アラエッサッサー エッサッサー
宇佐の呉橋ゃヨー 子が建てた
ヤーレコラセーノ コーリャドッコイセ
読んだだけでも、今までに紹介してきた大津絵とは違いすぎることがお分かりのことと思います。楢本のものは、7・7・7・5文字の切口説であり、まず詩形があまりにも違うのです。しかも、実際にメロディーを聴いてみるとこれがまた全く違い、しかも早間で、どう考えても大津絵ではありません。もちろん、伝承の段階でその地方独特のものになっていくというのは考えに入れています。中津の大津絵も、俗曲として唄われるものとは節回しがかなり異なります。しかし、その差にもやはり限度があると思うのです。中津のものは、まだ元唄と類似性が認められますが、楢本のものにはそれが全く認められません。なぜこのようなことになったのだろうと考えたときに、以下のような推論ができます。
(1)中津から安心院へ大津絵が盆踊り唄として伝わった。踊り方は定着したが、唄の方は難しか ったので違う唄にすりかわった。しかし、踊り方は大津絵の踊り方なので、そのまま大津絵と呼び ならわしている。
(2)大昔は、安心院では大津絵という呼称を用いていなかった。「エッサッサーエッサッサー」の  唄には別の踊り方があった。しかし、中津の大津絵の踊り方を覚えた者が安心院にそれを持ち 帰 り、一気に広まった。唄の方は覚えていなかったので、昔からあった「エッサッサーエッサッサ ー」の唄に合わせて踊ったところ、それの評判がよく、もとからの踊りにとってかわってしまった。 それで、大津絵の呼称が定着した。
(3)よその地域で1または2の現象がすでに起きており、その地域から唄と踊りがセットで安心院 に伝わったので、安心院ではもともと大津絵=エッサッサだった。
今となってはどのような経緯でそうなったのかはわかりませんが、私はおそらく1ではないかと思っています。ただし確証はありません。
「安心院町誌」記述
踊りの種類はマッカセ、レソ、蹴出し、二つ拍子、六調子で、ばんば踊りと三つ拍子は初盆踊りの最初だけに踊る。また、唄踊り(大津絵)と手拭い踊りは初盆供養のときには遠慮する。
六調子、手拭い踊りというのはどの踊りをさしているのか今の段階でよくわかりません。ただ、大津絵の別名が「唄踊り」であるということがわかったのは大きな収穫でした。「山香郷土史 」によると、山香でも「唄踊り」が踊られていた(今も一部の地区で伝承されているかもしれない)ようです。すなわち、山香でもエッサッサーエッサッサーの大津絵が踊られていた(いる)ということでしょう。
それにしても、唄踊り(大津絵)と手拭い踊りは初盆供養のときには遠慮するという記述はどういうことを意味しているのでしょうか。安心院の盆踊りは、初盆の家を一軒一軒まわるのが元来の行い方でした。ですから、もしかしたら唄踊り(大津絵)と手拭い踊りは初盆供養の庭入りを行うときには踊らずに、先祖供養や地蔵踊りなどの寄せ踊りのときにだけ踊るという意味なのかもしれません。ただ、現在はこの慣例は崩れており、初盆供養の踊りのときにも唄踊り(大津絵)を踊るようです。  
大津絵節2
大津絵節は、江戸時代後期から明治時代にかけて全国的に大流行した、三味線伴奏の娯楽的な短い歌謡で、宴席の座興や寄席で歌われた。現在の研究では、都々逸(どどいつ)・とっちりちん・二上り新内・さのさ・かっぽれ・奴(やっこ)さんなどとともに、俗曲の一つとされている。
大津絵節の名は、近江国大津の追分・大谷あたりで売られた庶民の絵「追分絵」が、東海道を往来する旅人のみやげ物として喜ばれ、全国に「大津絵」の名が知られるようになったものであるが、その画題をよみ込んで、元禄も終りのころ(1700)から大津の遊里柴屋町の遊女達が唄いはじめたことによる呼び名であると考えられている。
ところでこの大津絵と呼ばれる絵の起りは、寛永年間(1624〜1644)までさかのぼるとされているが、文献上最も古いものは、寛文元年(1661)刊の『似(じ)我(が)蜂(ばち)物語』に載る「天神の御影」を「大津あはた口のへんにて売」るという記事であるが、初期の頃は、この「天神」や「十三仏」「来迎阿弥陀」など、庶民の日常の礼拝に用いられた図柄がほとんどであったと思われる。元禄4年(1691)に芭蕉が「大津絵の筆の始めは阿仏」と詠んだのも、このことを物語っているといえよう。
芭蕉の時代、即ち元禄前後からは、世俗的な画題も登場し、その戯画的な世相風刺の、ユーモラスな漫画化された図柄に人気が集まって、仏画は次第に姿を消していくことになる。100種にも達したといわれる戯画的な世俗の画題も、江戸時代中期を過ぎると、後に述べるように、大津絵節にうたい込まれた10種類のものに限定されたものとなってしまい、芸術的な新鮮味とユーモアの香りも徐々に失われていったと評されている。
大津絵節の起りが、元禄時代の終り頃と考えられていることについては、先に述べた通りであるが、江戸後期から明治にかけて全国的に大流行した大津絵節は、江戸時代中期の安永・天明頃(1772〜1788)より歌い始められ、江戸時代後期の文化・文政年代を過ぎて、嘉永年間(1848〜1853)に大流行となり、その流行が幕末・明治に及んだと考えられる。
江戸時代後期になって定ってくる大津絵の図柄10種は、1「外(げ)法(ほう)梯(はし)子(ご)剃(ぞり)」、2「雷と太鼓」、3「鷹匠」、4「藤娘」、5「座頭」、6「鬼の念仏」、7「瓢箪(ひょうたん)鯰(なまず)」、8「槍持(やりもち)奴(やっこ)」、9「釣鐘弁慶」、10「矢の根五郎」であるが、この画題と文化末・文政初年(1818)ごろのものと考えられる『守貞謾稿』所載の大津絵節の元歌10曲の題名とは、以下に記すように完全に一致している。なお、文化4年(1807)刊『弦曲粋弁当第四編』に記されている「大津の名物、二上り」の7種は、『守貞謾稿』の1から7までに、これまた完全に一致する。『守貞謾稿』は、著者が、「元章に因て名と」したもの、つまり、元の歌詞に基づき、要約して名づけたもので、内容的にやや理解しにくいものとなっているが、それにくらべると『弦曲粋弁当』の方は、幾分分かりやすいものとなっていると思われるので、1〜7については、『守貞謾稿』の「名」に続けて、括弧を施し、『弦曲粋弁当』の「名」を記しておくことにする。 
1. げほうはしごずり(げほう(外法)はしご(階子)そり(剃))
2. かみなり太鼓でつりをする(かみ(神)鳴たいこ(太鼓)はつる(釣)べ(瓶)とり(取))
3. おわか衆は鷹をすへ(前髪(まひかみ)はたか(鷹)をもつ)
4. ぬりがさおやまはふじの花(ぬり(塗)が(笠)さおやまは(女方)ふちの(藤)は(花)な) 
5. 座頭のふんどしに犬わんわんつけァびつくりし杖をばふり上る(ざ(座)とうの(頭)ふんど(褌)しにいぬ(犬)つけば(附)ぎや(仰)うてん(天)し杖(つえ)をばふりあげる(振上))
6. あらきの鬼もほつきして鉦しゆもく(あらき(荒気)のおにもほ(鬼)つき(発気)してかね(鉦)しゆもく(撞木)) 
7. ひやうたんなまずをおさへます(ひゃ(飄)うたん(箪)な(鯰)まずをおさ(押)へます) 
8. 奴(やっ)コの行れつ 
9. 釣がね弁慶 
10. 矢の根五郎
この画題と曲名の一致は、絵は絵としていかに有名であったか、また、歌は歌として、いかに盛んに歌われたかを物語っているわけであるが、こうした風調を作り出す大きな要因となったものは、やはり、大津絵を題材とした歌舞伎の舞踊曲だったと考えられる。舞台の襖(ふすま)または掛軸の大津絵から抜け出して踊るという趣向のもので、安永7年(1778)市村座の『大津絵姿(すがたの)花(はな)』では、藤娘・座頭・槍持奴の所作事がなされ、文政9年(1826)9月、中村座の『歌(か)へすがへす余波(なごりの)大津絵』では、藤娘・座頭などの五変化舞踊があり、明治4年(1871)の市村・守田両座合併興行の『名大津画劇交(なにおおつえりょうざのまぜ)張(はり)』では、大津絵の人物、大黒・座頭・奴・若衆・藤娘など8人が、大津絵どおりの拵(こしらえ)で、襖絵から抜け出て、シヌキ(仕拔 歌舞伎の殺陣(たて)の用語、立廻りとも)の踊をする。変化舞踊ではなく、シヌキが珍しいといわれている。なお、人形浄瑠璃にも、大津絵絵抜けと呼ばれる景事の曲名があり、文化7年(1710)9月の吉田辰造の『見(み)直(なおして)やはり七変化(ななばけ)』以来、大津絵の変化物として盛んに演じられたことが知られる。
以上見てきたように、結局は、世をあげての大津絵の愛好が、大津絵節の大流行をももたらしたのだといわざるをえないが、肝心(かんじん)要(かなめ)の大津絵節の歌詞は、実は、先にあげた元歌の替歌では必ずしもなかったのである。勿論、元歌の10曲の中のどれかを踏まえているものもないわけではないが、その比率は大変低く、主力は、当世の手近な恋の噂や諸々の出来事、あるいは何々尽しといったもので満たされていた。まさに、時代の流行歌集だったといえばよかったのである。
いま、ここに影印で掲げる版本大津絵節の18点の歌集によって考えてみても、大津絵節という名は、時代の流行歌の歌詞を集めて一冊の版本として出版するための一つの枠組み、一つの形式となっていたといった方がわかりやすりのかもしれない。大津絵の画題10種の内のどれかを色刷で描いた表紙を施すことでもって、あるいは、序文中に、大津絵の語を用いる、「ころばぬ先の大津絵」、「開化の時に大津画ぶし」といった具合に表現することで、または、口絵等に、「大津八丁札之辻」の「名物大津画所」の看板を掲げた店を、挿絵に描くことなどによって、かろうじて大津絵節であることを示しているといえるように思う。当然のことながら、出版元も、近江の大津ではなく、江戸・東京、大坂だったことが納得できるのである。
大津絵節の版本は、すでに述べたごとく、中本あるいは横小本で、1冊が5・6丁から20丁程度の小冊子で、例外も勿論あるけれども、原則として半丁に一曲の歌詞を収め、空白部には積極的に挿絵を入れることを基本として編集されたものであった。
大津絵踊り3
大津絵の人物を題材にした大津絵節(おおつえぶし)は、1804年(文化初年)頃に大津市の柴屋町の花街から発生した俗謡といわれ、その後日本全国に広がっていきました。
「近江八景」「梅川忠兵衛の新口村」「忠臣蔵の山崎街道」等の替え唄が無数につくられ、1868年〜1912年(明治年間)には全国的に流行しました。現在でも、福島県や佐渡等、日本各地で22種類のものが独自の替え唄となって残っており、祭礼、祝儀、酒宴等で唄われています。
この大津絵節に振りを付け、大津絵画題の人物の面を使用して踊るものが「大津絵踊り」です。年代は明らかではありませんが、1868年(明治以前)以前より大津市の柴屋町の花街に伝承され、芸妓が個別に活動してきました。大津絵踊りは、大津の代表的な民画である大津絵の画題を唄い込んだ元唄(大津絵節)に合わせて踊るものです。
画題から作った10種の面を3人の踊り子が、1人1面ずつ顔に付けて交替で踊ります。2人は3回面を変え、あと1人は4回面を取り替えます。踊りというよりは舞いに近く、伴奏に三味線と唄を歌う人がつきます。
1988年(昭和63年)の大津市制90周年を契機に、芸妓以外の人にも門戸を開き、広く市民の皆さんにも知ってもらおうと「大津絵踊り保存会」が組織されました。同保存会で唄われている大津絵節は、他と比較して一番単調であるという事や、また大津絵の人物を詠い込んだものが最も古いとされている事等から、数ある大津絵節の元唄といわれております。
なお、当保存会は、伝統の大津絵踊りを保護・継承・育成することを目的として活動しており、伝統文化の振興に貢献したとして、1995年(平成7年)に第43回大津市教育功績者功労賞を受賞しております。
大津絵ならびに大津絵節の由来
徳川の治世の始め頃、世にその名も高き逢坂の関跡のほとりで、無形の画工が本願寺山科御坊参りの門徒衆の信仰の用に供する為、仏画を描いて売っていたのが大津絵の始まりであると云われています。元禄四年正月、粟津の無名庵で俳聖松雄芭蕉が詠んだ有名な句に
   大津絵の筆の始めは何仏
とあるのでもわかるように、その頃までは仏画を主として描いていたようですが、その後東海道通行の旅客の土産物としての求めに応じて浮世絵風の諷刺画となり、また当時流行の心学とも結びついて色々と画題の種類も増え、百種類以上を算するに至りました。 
野趣を帯びた粗い丹、緑、黒等の顔料にて単純に彩色した戯画風の画風の面白さが広く旅客の好評を得て街道交通の頻繁であった明治初年度までに全国に渡って大津追分の郷土芸術として高く評価されて参りましたが、やがてそのうち最も興味を持たれた十種ほどが残り、今日に及んでいる次第です。
また、一説には又平という画工が描き始めたとも云い、近松の浄瑠璃に作られて歌舞音曲へと発展し文化九年には大津絵の画題の人物を主題とした五変化所作事を鶴屋南北が詞章を書いて舞台に掛かり、明治四年には河竹黙阿弥も大津絵の襖絵から抜出した各人物が踊り出すという趣向の所作事を作り、舞台で上演しています。
大津絵節は文化初年頃に起こり弘化の頃より全国に広がり大津絵の人物を詠みこんだ物が最も古く、替え歌は“近江八景”“梅川忠兵衛の新口村”“忠臣蔵の山崎街道”等無数に作られて、明治年間には全国的な流行を見ました。俚謡ながらすっきりとした明るさと品位があるのがいまなお愛誦されている所以だと思います。当地で今日保存されております大津絵踊りは、劇場で上演される大津絵の舞踊とは趣を異にいたしまして大津絵節に振りをつけましたもので、大津絵画題の人物の面を使用して踊ります。年代は明らかではありませんが、明治以前より当地花街に伝承されて今日まで保存されて参ったものです。
中津大津絵音頭4
【由来】
時は天正の夏のころ
中津の城主黒田侯(注1)は (ハ ソウジャソウジヤ)
扇の城(注2)を築かんと
大工左官(しゃかん)や石工(いしく)をば
はるぱると播州(注3)姫路より
春夏秋冬年を経て
築き上げたる その祝い
犠牲者の霊をも 慰めんど (ハ ソウジャソウジヤ)
踊り始めた 大津絵を (ハ ソウジャソウジヤ)
郷土の誇りと姫路町 (ハ ヨイトサッサ)
伝え伝えて 今もなお
後(のち)の(コリャサ)世までも名を残す (ハヨイトサッサッサ)
【中津祓園】
中津祇園園の 夏祭り
かわいい子供の 手を引いて
宮居(みやい)流しき(注4)闇無(くらなし)の
老松(おいまつ)繁る 吉池に
鶴と亀とが 共に舞い遊び
沖には白帆が 数見ゆる
浜の並木に 白雪か
雲かと見ればよ 白鷺(しらさぎ)の
ひなを育てて 舞い遊ぶ
祇園囃子(ばやし)や鉦(かね)太鼓
神を慰め どっとやれ
町は(コリャサ)豊かに栄えゆく
【町尽し】【祝儀】 省略
(注1)黒田侯=黒田官兵衛孝高(如水)。
(注2)扇の城=中津城。城郭の形から扇城とも呼ばれた。
(注3)播州姫路=兵庫県姫路市。
(注4)闇無=闇無浜神社。
江戸時代。近江国大津宿(滋賀県大津市)で、お土産として売られていた戯画が、有名な「大津絵」で、この絵の数多い画題を綴り合わせて作った歌詞に、二上がり調の粋な節を付けたのが、「大津絵節」または「大津絵」と称する三味線歌曲である。
これが全国的な大流行をみたのは、江戸時代末期から明治初期にかけてのことで、各地で祝い唄・座興唄等おびただしい数の替歌が作られ、中には原曲とかけ離れた別の唄に変化して、地方民謡となったものもある。
城下町中津では、専ら踊り唄として歌い継ぎ踊り継ぐうち、歌詞も節回しも土地柄相応に変容を遂げ、ついに独特の風格を備える「大津絵音頭」として、この地に根付いたのである。
ところが、この音頭の一〇番ほどある歌詞が、いずれも並外れの長編となっている上に、節回しも複雑に変化しているため、唄も地方(じかた)も後継者が育ち難く、それに時代感覚に合わないこともあってか、ついに昭和三五年頃を境に全く踊られないものとなった。
それから二〇年余が経った昭和五六年一一月一日。大分県芸術祭「ふるさとのうた」の中津公演を機に、「大津絵音頭」が中津市にとって、かけ替えの無い貴重な文化遺産であるという認識が急に高まり、中津文化協会が推進役となって、その復興に取組むことになった。
復興に欠かせないのが総譜である。昭和三〇年代に市内姫路町などで収録した録音テープ・採譜ノート、中津郷土史資料等に基づいて、唄・三味線・尺八・太鼓のパート譜をまとめた総譜を作成。続いて歌詞の選定、踊りの振りの復元などを完了するには、かなりの日数を要した。
そして、明くる昭和五七年四月。中津文化会館に、文化協会・姫路町自治会・婦人会。・観光協会・商工会・議会事務局など各界の代表者が参集して、「大津絵音頭」復興に関する諸事項を審議・決定し、中津市挙げての復興に向かって力強い第一歩を踏み出した。
唄・聡子・踊りに関する諸練習は、文化協会に加盟する民謡・日舞の各団体が、それぞれ一堂に会して、それこそ超党派の体制で熱心に取組み、さらに一般市民には協会員が手分けして指導に当たるという方式を取った。
このため、唄・踊りの普及は予想以上に速くはかどり、三カ月後の七月二六日、中津祇園恒例の「市民踊り」に、「中津大津絵音頭」の名で初登場して大好評を博し、この上無くめでたい門出となった。
復興一三年目を迎えた今年の七月二三日。午後七時四〇分、市内福沢通りでの「市民踊り」が開始された。特設の舞台上で奏する保存会の洗練された唄と雛子につれて、一四団体六百余名の踊り子連中が、「観光中津音頭」「中津大津絵音頭」の見事な踊り絵巻を繰り広げ、立ち並ぶ観客をすっかり魅了してしまったのである。
中津自慢の一つとして定着した「中津大津絵音頭」が、さらに全国屈指の音頭として脚光を浴びるのも、あまり遠い日のことではあるまい。
大津絵節5
「大津絵節」は、江戸時代に流行し明治に入っても広く歌われた。元々は東海道の要所として知られた大津の遊里(柴屋町)で遊女らが歌い出したものだという。元唄にある「げほう(外法)梯子ずり…」と始まる文句は、この土地の民画「大津絵」を歌い込んだもので、護符として売られた十種が中におり込まれている。ちなみに絵柄にある「外法と大黒の梯子剃り」(寿老人)は長命を願い、「雷公の太鼓釣り」は雷よけ、「藤娘」は良縁を願う。
この歌が全国に伝わり「京都大津絵節」「会津大津絵節」などともなり、様々な歌詞が出来上がった。
ここに紹介した「オイオイ親父どの…」と「大阪を立ち退いて…」の二つは、その代表的な文句で、前者は「仮名手本忠臣蔵」に登場する与市兵衛(元赤穂藩士萱野三平の義父)が、三平を赤穂浪士とするために実の娘を祇園へ身売りしてきたその帰り道、フトコロの金を狙う浪人・斧定九朗に殺害される場面を歌いこむ。
後者は、これも有名な、死罪と知りながら公金に手をつけた忠兵衛と恋人の遊女・梅川の凄絶な物語「冥途の飛脚」の終幕近くを歌いこんでいる。また、この作品を書いた近松門左衛門は、絵師「吃(ども)の又平」を主人公とした「傾城反魂香」によって大津絵を全国的に紹介した人物でもあり、大津絵(大津絵節)〜吃の又平は、明治以降の浪曲や河内音頭などにも登場する。
大津絵節
げほう梯子ずり
雷太鼓で、釣をする
お若衆は鷹をすゑ
塗笠おやまは藤の花
座頭の褌、犬咬えつけア
仰天し、杖をば振上る
荒氣の思も發氣して、鉦撞木
瓢箪鯰で押へませう
奴の行列つり鐘辧慶
矢の根五郎。(元唄)
   オイオイ親爺どの
   其金此方へ貸して呉れ
   興一兵衛は吃驚仰天し
   イエイエ金では御座りませぬ
   娘がして呉れた用意の握り飯
   ドレドレお先へ參じませう
   ヤレヤレしぶとい親爺めと
   抜き放し
   何の苦も無く一とゑぐり
   金と命の恩愛別れの二つ玉
大阪を立ち退いて
私が姿が目に立たば
借駕籠に身を窶し
奈良の旅籠や三輪の茶屋
五日三日と日を送り
二十日あまりに四十雨
遺ひ果して二分殘る
金故大切の忠兵衛さん
咎人にならしやんしたも
皆な私ゆゑ
嘸やお腹も立ちましよが
因縁づくぢやと諦め下さんせ
 
邦楽

 

常盤津・富本・清元
宮古路豊後掾の同門の富士松薩摩掾は、その一門から鶴賀新内を世に出し、一派は新内節として知られるようになった。さらに初代常盤津文字太夫の高弟で富本豊前掾は別の一派を立てて富本節と称した。また二代目富本豊前太夫の脇をつとめていた二代目富本斎宮太夫は、これも一派を立てて文化11年(1814)に清元延寿太夫と名のり、清元節をひろめた。
こうして豊後系浄瑠璃の中でも常盤津・富本・清元の三浄瑠璃は血のつながりの最も濃い間柄と言うことができる。したがって、この三派を豊後三流とも言っている。しかし、現代に至って三派の中で富本節は殆んど滅亡の一歩手前にある。これを再興しようという企てはもあるが、昔全盛を極めた時代の富本が再現することは恐らくあるまい。富本節がこうした運命を辿ったのは、常盤津と清元の中間に位置する曲風が、大衆に見放される結果となったのであろう。
古曲
豊後系浄瑠璃は以上挙げたものの他に、宮薗節・繁太夫節が今日残されている。宮薗節は宮古路豊後掾の門弟宮古路薗八が立てた流派で、発祥地の上方において一時栄えていたが、文化・文政の頃には衰えて、江戸に移された時には断片的な十曲が遺されたに過ぎなかった。現代では一中節・河東節・荻江節と並んで古曲と一口に称される。十曲中の代表曲は「鳥辺山」であるが、その古雅で美しい曲調は今でも人の心を魅惑するものを持っている。また、繁太夫節は地唄の中に繁太夫ものとして残っているだけである。
長唄
正確に言えば江戸長唄という。地唄の中に長歌(長唄)という種類があるので、それと区別するためである。現代において邦楽の中で一番多くの人に親しまれている音楽である。
江戸長唄は、もともと江戸歌舞伎の中で、舞踊の伴奏として生まれた芝居唄である。したがって、初期の長唄は歌本位の小曲に過ぎなかったが、これを習おうとする人が次第に増えてきて、劇場だけの音楽ではなくなり、江戸時代の末期頃からはお座敷長唄(演奏会用長唄)というものが次第に作られるようになって、独立した日本音楽としての地位を次第に高めていった。
18世紀中頃の宝暦時代(1751-1764)に、作曲家として、また、唄方として名声のあった富士田吉次は一中節の出であったために、唄に浄瑠璃の手法を加えるようになった。また、文政9年(1826)には浄瑠璃である大薩摩節の家元としての権利も獲得した。このようにして、音楽としての内容を次第に充実させてきたのが長唄であった。
尺八と筝曲
近世の音楽を代表するものは浄瑠璃であるが、浄瑠璃と共に近世に発展した尺八の曲と筝曲のことに触れておきたい。
尺八という楽器は、日本では奈良時代から唐楽の楽器として渡来しているのだが、今日、われわれが耳にする尺八の直接の祖先は、江戸時代初期におこった虚無僧尺八である。虚無僧は禅宗の一派とされる普化宗の徒で、尺八は、この宗派の法器とされた。しかし、この尺八も中世では、中間に節一つをもつ一尺一寸余の一節切と称された五穴の竹笛で、虚無僧の前身である薦僧が所持していたものであった。琴古流という流派は、黒田藩黒沢琴古が各地を行脚して集めた古曲・新曲を整調編曲し、元禄の頃に立てた流派である。「鹿の遠音」などの名曲がある。尺八楽二大流派のもう一つは、政府によって宗教の法器として禁止された尺八が大衆楽器として復興した明治中期になって、明暗流の名手中尾都山によって明治29年(1896年)に創始された都山流である。両派の特色を一口に言うなら、琴古流は古曲を得意とし、都山流は新傾向の曲に力を注いできたと言えよう。同派の得意とする筝・三弦・尺八による合奏を三曲合奏(または単に三曲)と言う。それ以外、今日“派”を名乗る尺八はずっと以降、大正・昭和初期にかけて形成されたものだ。
コトという楽器は、昔からキンノコト(琴)とソウノコト(筝)とに分けられてきた。ともに弦楽器で長い胴を持っている点は似ているが、絃ごとに柱を置いて調絃するのが筝で、琴にはそれがない。筝曲に用いられるコトは、十三絃の筝で俗筝と言われるものである。筝は奈良時代・平安時代においては管絃合奏に用いられるに過ぎなかった。しかし、次第に独奏楽器としてその適性を発揮していったらしい。
安土桃山時代に久留米の善導寺の僧賢順が、鎌倉時代から九州北部で行われていた筑紫楽と称する古筝曲を集めて整理し、これらを基調として組歌(筑紫詠)10曲を作り、「筑紫流」を創始した。この筝曲がやがて筑紫流筝曲となって、その筑紫流を学んだ八橋検校は調絃を律旋法に改め、組み唄十三曲を発表し、ここに現代筝曲に基礎が築かれたのである。それは恐らく江戸初期の寛文・延宝(16661-1681年)頃だろうと言われている。その後、筝曲の流派はいくつかに分かれたが、生田検校(1655-1715年)が京都において創始した生田流と、18世紀の後半、江戸の山田検校が一派を立てた山田流とが筝曲界を二分する代表的な勢力となって今日に至っている。
 
河内音頭

 

大阪府河内地域の音頭。元々明治中期から大正末期頃まで大阪地域で歌われ踊られていたのは滋賀の東近江発祥の音頭、江州音頭が寄席や祭事で行なわれていた。特に寄席では落語や音曲と並んで人気の演目となっていた。大正時代には初音家太三郎が登場し大幅に改良し現在に繋がる節回しやお囃子が誕生し寄席に定着した。昭和に入り寄席の閉鎖、祭事では経費の削減などで行なわれなくなり衰退した。戦後代わって登場したのが河内音頭であった。「ああ、えんやこらせーどっこいせー」の節回しを使用した、アルバイト情報誌のCMで全国にも知られる。
昭和中期頃までは衰退していたが、1961年にテイチクから発売された鉄砲光三郎の「鉄砲節河内音頭」が100万枚を超える大ヒットとなり、再び多く踊られるようになった。
昭和40年代頃には、初音家賢次、三音家浅丸といった音頭取りが活躍し、初音節、浅丸節という独特のリズムの河内音頭が生まれた。
音頭取りとして河内家菊水丸の新聞詠み(しんもんよみ)が有名であるが、○○会という音頭取りの所属するグループが関西圏内に100会派近くある。歌詞や節は基本的な決まりがあるが、各会派によって独自の歌詞や節が存在する。ほとんどの音頭取りは、三音節、初音節、鉄砲節と呼ばれるリズム節回しのうちのどれかに当てはまるという。使われる楽器は、三味線、太鼓、エレキギターやキーボードなどバラエティーに富む。
大阪府八尾市の常光寺境内で行われるもの(流し節正調河内音頭)は、日本の音風景100選に選定された。
また、1978年に河内音頭を「発見」した評論家朝倉喬司が「全関東河内音頭振興隊」を結成。河内音頭の魅力を紹介し、音頭取りを招いて東京でたびたびライブを開き、CD等が発売されたことから、「日本におけるソウル・ミュージック」として全国区の評価を受けることとなった。
河内音頭2
大阪府下北 - 中河内地域を発祥とする伝統的な河内音頭、及びその音頭をアレンジさせた、近代・現代河内音頭をいう。大阪では河内地域以外でも盛んに盆踊りなどで踊られ、その曲目は全国的に愛聴されている。
江戸期から北河内交野地区、中河内八尾周辺、また南河内でもそれぞれ歌われていた土着の音頭・民謡、浄瑠璃、祭文といった庶民の芸能と仏教の声明が長い時間をかけて混ざり合い改良されて成立。盂蘭盆会、地蔵盆の時期に盆踊り歌として歌われることになるが、元来は亡くなった人々の魂の鎮魂歌であり現世に回帰した際の霊魂をもてなす意味が含まれ、いずれにせよ仏教とは切っても切れない経緯がある。尚、伝統的な祭文音頭と、今日一般的に知れ渡れるようになった、現代の河内音頭と呼ばれる音頭は節回し(曲調)が大きく異なる。
明治初期からに北河内一円で活躍した「初代歌亀」を名乗る音頭取りが、西洋音階が本格的に日本に入る10数年前にそれまで短調で唄われていた音頭を偶然部分的に長調で唄いだしたのが現在の河内音頭の原型だとされ、成立は明治中期と推定されるが、はっきりしたことは諸説があり不明であり、大正〜昭和初期に録音されたレコードなどに残されている「正調河内音頭」は極めて現在の交野節・江州音頭などに酷似した節を取っている。
大正末期頃まで近畿地域で盛んに歌われ、踊られていたのは、滋賀の東近江(八日市)発祥の音頭である江州音頭や、伊勢の伊勢音頭であった。そして江州音頭は明治中期頃に千日前界隈の寄席では落語や音曲と並んで人気の演目となった。
大正中期には平野節の初音家太三郎が登場し、従来唄われてきた河内音頭を大幅にアレンジし、現在に繋がる節回しやお囃子が誕生した。この太三郎の編み出した、新しい河内音頭も寄席の演目として人気を博すようになった。寄席小屋で興行として演じられる様になると、益々江州音頭や浪曲などの諸芸と融合・影響を受け、河内音頭が飛躍的に変革・発展を遂げていく。しかし、昭和に入り寄席の閉鎖、祭事では経費の削減などで行なわれなくなり江州・河内音頭は衰退していく。
昭和中期頃までは河内音頭は衰退の時代が続いていたが、昭和36年にテイチクから発売された鉄砲光三郎の「鉄砲節河内音頭シリーズ」が大ヒットとなり、注目を浴びるようになり、また全国的にその知名度を広げた。昭和40年代頃には、太三郎の弟子である初音家賢次や、天狗連上がりの三音家浅丸といった音頭取りが活躍し、「初音節」「浅丸節」という音頭取りの名を冠した独特のリズム=節の河内音頭が生まれた。
河内音頭の誕生
"エーエンさぁあては〜あぁ〜、一ぃ座ぁあの皆さまぁへ〜。"
河内音頭といえば誰もが思い浮かべる、このフレーズ。ところが、今のような河内音頭は、いわゆる終戦直後、50年ほど前に始まった。かつて「河内音頭」と呼ばれていたのは、違う形の音頭だった。では、河内音頭のルーツはどこにあるのかというと、はっきりとはわかっていない。もともと河内では、古くからさまざまな音頭が盆踊りの歌として伝えられてきた。その中には、やんれ節や江州音頭などもあり、「河内の盆踊り音頭」イコール「河内音頭」ではないことから混乱が生じたのだ。
原型は「交野節」
最近の研究で、「河内音頭の原型」と言われているのは、江戸時代中頃に河内国交野群で起こったと考えられる。「交野節」上の句が7・7、下の句が7・5・7・5の定型詩を唄う音頭で、「アーヤレコラセェドッコイセ」や「ソラヨイトコサッサノヨイヤサッサ」などと囃しが入る。明治時代の初期に、詞の定型にこだわらず自由に、節付けも自由に変化させて歌える音頭が生み出された。これが、音頭取りの名前から歌亀節などとも呼ばれ、明治中期にかけて演芸場でも人気を博したという。当時は滋賀県からも「8日市祭文音頭」が入ってきていたので、こちらを「江州音頭」と呼び、歌亀の音頭を「河内音頭」と呼んで区別した。これが本来の河内音頭である。
平野節を経て浪曲音頭へ
大正3年、上六-奈良間に鉄道が開通。その祝いと生駒トンネル工事の犠牲者供養を兼ねた盆踊り大会が開催された。この時、大阪の平野から来ていた音頭取りたちが、二代目歌亀の河内音頭に感激し、それを稽古するうちに独自の工夫を加えた「平野節」を生み出すこととなった。そして、初音家を名乗って活躍しだしたのである。この「平野節」は、返し節を使うことによって一節の長さを自由に変え、現代の河内音頭にも通ずるものがある。現代の河内音頭は、平野節を基に、浪曲の地節のリズムを利用した浪曲音頭として案出された。戦後すぐに初音会に加わった初音家源氏丸が始めたもので、たちまち評判になった。
「河内音頭」大ヒット
昭和35年から、鉄砲光三郎(柏原市の河洲光丸の師匠)が「民謡鉄砲節 河内音頭」と銘打ったレコードを発売して第9集まで続くヒットとなり、それまでの「浪曲音頭」は、このヒットとともに「河内音頭」の名に変わって広まった。その後、続々と河内音頭のスターが登場し、現在までブームが続いている。  
 
日本海側諸地域における芸能文化交流史の課題

 

佐渡・越後の文化交流史研究における課題は、以下に述べるように日本海側諸地域を中心とした芸能文化交流史のなかで考えることが可能である。したがって、本稿でほ、日本海側諸地域における芸能文化交流史についての−般的な問題把ついて述べるなかで、若干、佐渡・越後における文化交流史の個別の問題に触れていきたい。
芸能は、人々の生活の営みのなかで育まれ、歴史的にもそれぞれの時代の生業、宗教と密接なかかわりをもって存在してきた。現在伝承されている民俗芸能のなかには、伝承保存のために芸能を行っているというような例もみられなくはないが、なんらかの形でそれぞれの地域やそこに居住する人々の生活と結びついているものがほとんどである。民俗芸能のなかにはその始まりが中世・近世にまで遡るものもあり、これらについてはそれぞれの時代の芸能を明らかにする上で、依然として歴史的意義を有しているものも多い。現在、民俗芸能として伝承されているなかで近世以前にまで遡り、歴史的意義をもつ芸能を系列的にみると、舞楽系、田楽系、猿楽能系、傀儡系、歌舞伎踊系、神楽系などが考えられる。これらの芸能ほ都やその周辺の芸能文化と、様々な地域のそれの交流の結果形成されたものと推察されるが、現在残されている多くの場合は、歴史的に都やその周辺で爛熟したものが各地域に伝播したものであった。これらの系列のなかでも、その伝播の時期が中世にまで遡るものとしては舞楽系、田楽系、猿楽能系の芸能系列があげられる。本稿でほこれら三系列の芸能について概観し、次に簡単な研究史に触れ、最後に課題をあげたい。

舞楽とは雅楽のなかの一芸能である。雅楽(舞楽・管絃〕は8世紀ころまでに、中国や朝鮮から我が国に伝来すると、古代の朝廷儀礼の中で奏され、やがて舞楽に使用された龍笛・笙、管絃に使用された箏・琵琶は、王卿貴族の教養的位置付けを獲得し、しだいに類型的で形式的な形態や音楽を特質とする日本的舞楽や管絃として形成される。同時に、平安京や南都の大寺社の諸法会や諸祭などにおいて行われ、平安時代末期には奥州藤原氏や安芸の厳島神社など、わずかながら地方への伝播もみられる。鎌倉時代には京都・南都方の影響を受け、都市鎌倉の鶴岡八幡宮において楽所が設けられ、武士のあいだでも奏楽にたずさわるものが現れる。これは京都・南都やその近隣での活動が多かった専業の楽人・舞人が地方へ展開する一つの大きな契機になったものと考えられる。さらに、15世紀の応仁の乱において地方へ避難した楽人・舞人によって、舞楽の地方への伝播が進んだものと察せられる。現在でほ西日本・東日本各地に、稚児舞楽、延年、王の舞などのかたちで種々残されている。その主要なものは、中世末期の伝播とされているものであり、四天王寺の舞楽、あるいほ南都の舞楽が伝播したものと伝えられている。
田楽は、平安時代中期以降、都やその周辺で流行した芸能で、田遊びに散楽系の芸能が影響をあたえることによって成立したと考えられる。田遊びは我が国では稲作が伝来してから生まれた農耕儀礼であったと推測され、新年早々の収穫を祈念する意味をもつ擬似田植え等や実際の田植えの際の歌舞などが行われるようになっていったものであろう。散楽ほ中国において漠代以来発展し、日本には奈良時代ころまでに伝来した。内容的には雑戯からなるものであったが、そのなかの曲芸軽業的芸を中心に田楽に吸収され、平安時代中期ころより散楽系の田楽と、田植えとそれを囃す田植系の田楽として行われるようになり、11世紀末期にほこの両系統の田楽が混在した田楽が都周辺で流行した。いわゆる永長の大田楽である。これはさらに、平安時代終わりから鎌倉時代にかけて歌舞を中心に発展し、南北朝時代から室町時代初期には劇的構成をもった田楽能としても行われていった。
猿楽能の源流は、漠代以来の中国の散楽にあった。散楽は内容的変遷から猿楽という名称が生み出され、同時に使われていくなかで言葉と仕種と歌舞中心の々の芸能として発展し、鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて、田楽・答弁・白拍子などといった周辺諸芸能の影響を受けて、劇的芸能として成立する。
田楽能や猿楽能では座が形成され、都やその周辺諸国を中心に活動範囲を広げて行われていったが、大和、山城、丹波、伊勢などの有力な座のほか群小猿楽座も形成されており、日本海側では若狭、越前にその存在が知られている。以上のように、室町時代までにはこれらの芸能が地方へ伝播する素地ができたのであり、各地に伝播することになるが、次節では日本海側に伝播した諸地域とその芸能についてまとめてみよう。

日本海側諸地域において、現在民俗芸能として行われているもの、あるいは現在は廃絶してしまったが近年まで行われていたもののなかで、舞楽系、猿楽能系、田楽系のものを北からあげると、次のようになる。
羽後では秋田県鹿角市八幡平小豆沢大日霊貴神社(大日堂)に舞楽が伝えられており、羽前では山形県飽海郡遊佐町吹浦の大物忌神社吹浦ロの官・飽海郡平田町の新山神社・東田川郡羽黒町高専の雷電神社・西村山郡河北町の谷地八幡神社・山形市山寺の立石寺(山寺) ・寒河江市の慈恩寺・寒河江市の平塩熊野神社の舞楽がある。越後でほ新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦神社の稚児舞楽、西窺城郡能生町白山神社・糸魚川市天津神社の舞楽、糸魚川市根知山寺の延年椎児舞楽(おててこ舞)、越中では富山県下新川郡宇奈月町愛本の法福寺・中新川郡立山町の岩瞬寺・声瞬寺の舞楽、婦負郡婦中町熊野神社・射水郡下村加茂神社の稚児舞楽がある。越前では福井県今立郡池田町水海鵜甘神社の田楽能、同県丹生郡清水町の睦月神事での稚児田楽等がみられる。若狭では福井県三方郡三方町宇波酉神社・同町藤井の天満宮・同町向笠・同郡美浜町弥美神社などの王の舞、丹後でほ京都府竹野郡弥栄町大官神社・与謝郡伊根町宇良神社の田楽、舞鶴市松尾寺の仏舞、北桑田郡美山町川上原神社の樫原田楽、北桑田郡京北町の矢代田楽、但馬では兵庫県城崎郡香住町香住神社の三番里がある。隈岐では島根県隠岐郡西郷町国分寺の蓮撃会の舞楽、同じく西ノ島町蓑田八幡神社の田楽、出雲でほ島根県八束郡鹿島町佐陀神社の神臥同県平田市多久の田楽踊り、同県大田市の水上の田楽、同県大田市物部神社の御田植祭りなど、があげられる。
これらの日本海側諸地域における舞楽系・猿楽能系・田楽系芸能の特色を簡単に記すと、稚児舞楽を中心とした舞楽については越中より以東に多く分布し、越前・丹後・但馬の畿内近国では舞楽系としては王の舞が伝えられており、ほかに田楽・猿楽能系芸能が顕著である。また、出雲では神楽に猿楽能を取り入れた神能が伝承されているのが注目される。

本節では芸能文化に関するこれまでの研究に簡単に触れ、最後に本テーマにおける課題をあげてみよう。
芸能文化史に関する従来までの研究は、歴史学をはじめ、民俗学、国文学、音楽学など多分野から進められてきた。歴史学では林産辰三郎氏、国文学では能勢朝次・天野文雄・表華氏などによって個別的に、また芸能史研究会などの企画こより共同研究もなされてきた。その中で各地に残された民俗芸能を古代・中世にまで遡り、文献も用いることによって優れた研究を行っているのは、後藤淑・水原渭江・山路興造氏らの民俗芸能研究者である。後藤氏は有力な大和猿楽座などの畿内の猿楽座以外の近江猿楽や丹波猿楽のほか、若狭や越前の日本海側に存在した群小猿楽座を対象としてその系譜や活動状況を明らかにしたことが注目される。山路氏は舞楽や田楽・猿楽などの伝播経路について荘園関係を通して中央とのつながりを考えるなど興味深い研究を行ってている。水原渭江氏ははやくから若狭に伝えられた王の舞に注目し、舞楽系としての位置付けを試みている。このような研究によって、日本海側諸地域における舞楽系・猿楽能系・田楽系芸能の民俗芸能としての実態とある程度の歴史はずいぶんと明らかにされたといえよう。しかし、歴史学を基盤にし、民俗芸能、国文学などの調査・研究を採り入れた古代中世の音楽芸能史研究は必ずしも多くはない。これらを総合的に考えて、古代中世芸能の分布図や歴史学を基盤にしながらも他分野からのアプローチも加えた広義の文化史的視点によるものは十分な研究状況にあるとほいえないであろう。これほそれぞれの地域の地理・歴史的背景について広義の文化史の中で検討される必要があると考えられる。
したがって、まず伝播した芸能を受容した側の問題として、日本海側諸地域におけるこれらの芸能についての分布とその時期を明らかにした分布図ならびに表を作成することを第一の課題と考えたい。そのためには、日本海側諸県における、従来の研究成果と文献史料を調査収集し、それに基づいて舞楽系・猿楽能系・田楽系芸能についての実地の芸能調査を行う必要があろう。あわせて、芸能に残されている詞章を国文学的研究も含めて、総合的に芸能文化の問題として検討する必要があろうと考える。
ことに新潟や佐渡に関してみるならば、県内に伝承されている舞楽のうち、西蒲原郡弥彦村弥彦神社・糸魚川掃天津神社・能生白山神社の舞楽、糸魚川市山寺の根知延年などの調査を行い、これらを出羽国における舞楽伝播の中心であったと推察される谷地八幡宮の舞楽、富山県下新)順汚立山町岩瞬寺・芦瞬寺、婦負郡婦中町熊野神社などに伝承されている舞楽等の近県に残された舞楽を調査し比較する。これらについて収集した調査資料、映像資料、及び文献史料などによって比較検討することにより、舞楽分布の特色と伝播の要因、経路などについて考察することが可能になる。
次に、伝播した舞楽は、中世の四天王寺の舞楽、南都の舞楽であったと伝えられているのであり、伝播を行った側の問題として、伝播した諸地域との関連を明らかにすることが重要と考えられる。したがって、四天王寺や南都、京都の楽家、あるいほ鎌倉に居住した楽家、楽人の活動状況を検討し、またこれら諸寺社の各地域との社会経済的、宗教的つながりなどの検討を通して舞楽伝播と諸地域との関連を明らかにする必要があろう。伝播経路として予想される結果は、陸上交通、海上交通などを通しての楽人による点と線の伝播、地域における近隣交流での伝播などが想定される。猿楽能や田楽については新潟県内の芸能に顕著にみられるものはないが、猿楽能の創始者の一人である世阿弥の流刑地としての佐渡が、その後の猿楽能発展へどのような影響をあたえ、また逆に佐渡の芸能のなかでどのような位置付けをもつものなのか、などの問題が考えられよう。
本稿でほ中世以前の芸能としての課題を考えてきたが、ほかに民間における芸能が伝来し、交流し、もっとも発展したと思われる近世における芸能文化の交流史、また、それらの芸能がどのような囃子の構成、すなわち楽器が使われているのか、その楽器を中心とした交流や影響関係といった問題も考えねばならないが、これについては次の機会に検討することにし、ひとまず筆をおきたい。
 
今様

 

今様とは今日風・現代風の意味ですが、歴史的には、平安時代中期から鎌倉時代にかけて、宮廷で流行した歌謡のことを指します。これを「今様歌」といい、今様はその略です。神楽歌(かぐらうた)・催馬楽(さいばら)など以前からの歌(古様)に対して、当代最新(今様)の流行歌という意味がありました。
今様は主に七五調四句の形をとり、当時は長いくせのある曲調が特徴と感じられたようです。扇や鼓などで拍子をとる場合や楽器の演奏をともなう場合もあり、また即興で歌ったり、歌詞を歌い替えたりすることもありました。
また、その形式には様々な種類があり、それら全体を指して今様と呼ぶ広い意味と、その一つを指して今様と呼ぶ狭い意味とがありました。後者の場合は「只の今様」「常の今様」とも呼ばれました。
そのほか、仏教歌謡の影響を受けた法文歌(ほうもんうた)や、神事歌謡・民間歌謡などの影響を受けた四句神歌(しくかみうた)・二句神歌(にくかみうた)、また和歌とかかわりの深い長歌(ながうた)、さらに定まった形が整えられていない古柳(こやなぎ)など多くの種類がありました。
今様以前─神楽歌・催馬楽・風俗歌
今様が現れる以前、宮廷歌謡として貴族の間に定着していたのが、神楽歌(かぐらうた)・催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)です。
神楽は神事のときに神を降臨させるための舞や、神とともに飲食・歌舞する儀式を起源とし、宮廷では9世紀頃から年間行事の儀式として整えられていきました。神楽歌は、その神楽で歌われた歌謡を指します。
一方、催馬楽は地方から都に伝えられたもので、民間で即興風に歌われていた神楽歌の一部が発達したものともいわれます。10世紀には「催馬楽譜」(さいばらふ)という楽譜も作成され、雅楽風に管弦の合奏と組み合わせて遊宴で盛んに歌われました。
また風俗歌も、もとは催馬楽と同じく地方の民間で歌われた歌謡で、特に東国のものが多いことが特徴です。やはり10世紀には貴族の間に定着し、遊宴で歌われました。
これらの神楽歌・催馬楽・風俗歌は、いずれも9-10世紀頃から宮廷歌謡として整えられ、次第に形式化していきました。そうした流れのなかで、11世紀頃、新鮮な当世風の歌謡として登場してきたのが今様です。
今様の流行
ちょうどその頃に活躍した二大女流文人、清少納言(せいしょうなごん、966頃-1017以降)と紫式部(むらさきしきぶ、970年代-1010年代)はそろって今様について記しています。
清少納言は、随筆「枕草子」で「うたは、風俗。(中略)神楽歌もおかし。今様歌は、長(なが)うてくせついたり」(261段)と、風俗歌や神楽歌に続いて「今様歌」をあげ、歌が長くて節回しにくせがある、とコメントしています。
また「紫式部日記」には、貴族が宿直のため内裏に泊まり込んでいるとき、遊びとして「読経(どきょう)あらそひ」(読経の声を競ったもの)とともに「今様歌」が歌われたことが書き留められています(寛弘5〈1008〉年8月条)。
これらは、今様の形式がそれまでの古様に比べて新奇に感じられたことや、この頃には貴族の間で流行となっていたことを示しています。
後白河法皇の登場
後白河法皇(1127-92)は鳥羽法皇の第四皇子に生まれ、久寿2(1155)年から保元3(1158)年まで在位の後、譲位して上皇となり、また出家して法皇となりました。
後白河法皇は仏教に深く帰依したほか、芸能にもかかわりが深く、また絵巻物製作のプロデューサー的存在ともなるなど、平安末期の王朝文化に大きな役割を果たした人物です。
特に、当時の宮廷で盛んとなっていた今様には若年の頃から強い関心を示し、ほとんど執念ともいえる情熱を注いで習得と鍛錬につとめました。
彼は本来、即位する立場になかったため、若い頃は不遇ながらも比較的束縛されずに育ったものと思われます。こうした環境が、今様のような流行の芸能へ彼を接近させる背景となったのかもしれません。
ともあれ、今様の流行は後白河法皇という最大の支持者・理解者を得て最大のピークを迎えることになりました。承安4(1174)年9月、15夜にわたって法住寺殿で開催された「今様合」は、その隆盛の頂点を示すものといえます。
「梁塵秘抄」の世界
後白河法皇は、その高い身分にもかかわらず今様の第一人者を自認し、様々な歌詞や歌い方などを正しく後世へ伝えるため、これらを集成して「梁塵秘抄」を著しました。
現在その大部分は失われてしまいましたが、本来は歌謡集10巻と口伝集(くでんしゅう)10巻の全20巻から構成されていたと考えられ、「梁塵秘抄」とはこれらを総称したものです。「日本古典文学大系」73巻、「新日本古典文学大系」56巻(両書とも岩波書店)などで読むことができます。
それでも現在、歌謡集には566首におよぶ歌詞が残されており、今様の世界を具体的に知ることができます。以下、歌謡集巻二の四句神歌から、例を見てみましょう。
嵯峨野の興宴は 鵜舟(うぶね)・筏師(いかだし)・流紅葉(ながれもみじ)
山蔭(やまかげ)響かす箏(しょう)の琴 浄土の遊びに異ならず
○嵯峨野の風物を歌ったもの。
【鵜舟】鵜飼船。【筏師】筏作り・筏流しの労働者。
遊女(あそび)の好む物 雑芸(ぞうげい)・鼓(つづみ)・小端舟(こはしぶね)
翳(おほがさかざし)・艫取女(ともとりめ) 男の愛祈る百大夫
○遊女にまつわる風俗を列挙して歌ったもの。
【雑芸】今様を中心とする歌謡。
【小端舟】舟につけて客を求めるための小舟。
【翳】背後から長柄傘をさしかける人。
【艫取女】舟こぎの女性。
【百大夫】遊女の守り神。
以上のように、そこには風景や遊女のイメージを歌ったものをはじめ、仏や神への信仰、当時の都で流行していた風俗や服装、また人生や恋愛を歌ったものなど多様な内容が含まれており、都や地方を問わず、当時の世相や人々の考え方などが生々しく描き出されています。
今様の第一人者としての後白河法皇
一方、口伝集には今様の起源や歌い方の技巧などが記されていたほか、今様にあけくれた法皇の自叙伝的な内容も含んでおり、彼の熱中ぶりをうかがうことができます。
彼は即位以前の10歳ばかりで今様を始め、それ以来、「四季につけて折を嫌はず、昼は終日(ひねもす)に謡ひ暮し、夜は通夜(よもすがら)謡ひ明さぬ夜は無かりき」とあるように欠かさず鍛錬につとめ、また「余り責めしかば、喉腫れて、湯水通(かよ)ひしも術(ずち)無かりしかど、構えて謡ひ出(いだ)しにき」と、喉をつぶしてもなお歌を止めなかったと語っています。
また、詩文・和歌・書道などは書いた物が後世に残るけれども、「声技」(こえわざ)は自分の死後は残らない。だから後世の人のため、これまで存在しなかった今様の口伝を作成して遺すのだ、と述べています。長年にわたり研鑽を重ねて習得してきた今様を、また今様の第一人者としての自分の足跡を、正しく後世に伝えたいという強烈な思いが窺われます。
しかし皮肉にも、宮廷芸能としての今様はこの時代を全盛期として、これ以降は次第に衰えていくことになります。
今様の伝え手─遊女(あそびめ)・傀儡女(くぐつめ)・白拍子(しらびょうし)
口伝集によれば、後白河法皇が特に今様の師と仰いだのは乙前という遊女でした。法皇は乙前と師弟の契りを結んで御所に住まわせ、彼女が知る限りの歌の伝受につとめました。
さらに乙前だけでなく、「上達部(かんだちめ)・殿上人(でんじょうびと)は言はず、京の男女、諸所の端者(はしたもの)・雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、国々の傀儡子(くぐつ)、上手は言はず、今様を謡ふ者の、聞き及び我が付けて謡はぬ者は少なくやあらむ」とあるように、後白河法皇はあらゆる人々から今様の伝え手を求め、側について習いました。
特に、ここにも見える遊女や傀儡子は、今様の伝播や伝承の担い手として重要な役割を果たしていた人々でした。
江口(大阪市東淀川区)・神崎(兵庫県尼崎市)は、淀川・神崎川沿いにあった船の停泊地で、ともに交通の要衝として人の往来が多く、彼らを客とする遊女が多く住んでいたところでした。
また傀儡子は、人形使いや曲芸を生業とする人々です。女性の傀儡女は遊女でもあり、口伝集では「美乃(美濃)の傀儡子」「墨俣(すのまた)・青墓(あおばか)の君(遊女)」などと書かれています。墨俣(岐阜県安八郡墨俣町)は美濃・尾張の境で木曽・長良・揖斐三川の合流点にあたり、青墓(岐阜県大垣市青墓町)も同じく美濃国にあった東海道の宿駅です。
こうした遊女や傀儡女は、職業柄、交通の要衝に本拠を置いて、芸能に携わり今様の謡い手となっていました。それが京都にも伝えられて宮廷で流行を呼び、やがて後白河法皇によって集大成されることになったわけです。
このほか、院政時代の宮廷では白拍子という女性達も今様の謡い手となっていました。本来、白拍子とは拍子のとり方を意味しましたが、やがて歌舞の名称となり、さらにそれを男装して舞う遊女の呼び名となったものです。特に「平家物語」に登場する祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)や仏御前(ほとけごぜん)、また源義経(1159-89)に寵愛された静御前(しずかごぜん)らがよく知られています。
 
富山民謡

 

古い伝統と長い歴史の中で、土地風土に根差し歌い継がれてきた民謡は、私たちに郷愁を感じさせ、心に安らぎと生きる力を与えてくれる貴重な文化財産である。人と人との交流の中で、作曲者不詳のまま伝えられてきた民謡の正体は果たしてどんなものなのか、その不思議さに迫ろうとしても容易に解きほぐすことのでさないところに、「民謡」の真の魅力と生命が存在するのかも知れない。富山県には、優美な「越中おわら節」、力強い「麦や節」、素朴な「こきりこ」など、日本を代表する民謡をはじめ、数多くの種類の民謡が存在し、日本民謡の宝庫ともいわれている。
「越中おわら節」
越中おわら節の本場は、300年余の歴史をもつ婦負郡八尾町である。
その起源については、糸くり唄や海唄などの諸説があり、いずれとも定め難い。
口伝として、元禄15年(1702)、八尾町の開祖米屋少兵衛の子孫が保管していた町建ての重要秘密文書の返済を得た喜びの祝いとして、3日間、唄、舞、音曲で町内を練り歩いたのが始まりとされ、この祭日3日が盂蘭盆(うらぼん)3日になり、やがて、二百十日の厄日に豊饒を祈る「風の盆」に変わったといわれている。
唄は、叙情豊かで気品が高く、哀調の中に優雅さを秘めた詩的な曲調である。歌詞も美しく、胡弓の響きが旋律をひき立たせている。
楽器は、三味線、胡弓、太鼓で演奏される。
「麦や節」
麦や節の本場は、平家の落人が定住したともいわれる東砺波郡平村である。これらの地域には、麦や節の元唄ともいわれる「長麦や」、形を変えた「早麦や」、そして周辺には「利賀麦や節」「城端麦や節」が存在する。
その起源については、平家の落人が越中五箇山に安住の地を得て、弓矢取る手を、鍬を持つ手にかえ、生活の合間に唄い始めたとされているが、曲調からみて、後述する「まだら」系統の唄がその元唄であるともいわれている。
唄は、どこかもの哀しい歌詞と格調の高い力強い旋律に支えられたリズミカルな動き、囃子ことば 「ジャントコイ、ジャントコイ」から引き出される旋律が唄全体を特徴付けている。
楽器は、三味線、胡弓、四ッ竹、太鼓で演奏される。
「こきりこ」
こきりこの本場は、東砺波郡平村上梨である。
こきりこ(筑子)とは、平安時代の田楽の替名であるが、宮永正運著の『越の下草』(1786)によれば、上梨白山宮に奉納される神事舞であり、唄は今様、踊りは白拍子に似ている。
唄は、素朴であるが、上品な旋律で淡々と流れ、囃子ことば「マドのサンサはデデレコデン、ハレのサンサもデデレコデン」が印象的である。
楽器は、鍬金、筑子竹、編竹、棒ざさら、編木子(板ざさら)、鼓、横笛、銅拍子で演奏される。
民謡の概念
「民謡」は明治時代になってからの用語である。民謡とは、芸術歌曲に対して、民衆の間でうたわれている伝統的な歌の総称なのである。
その特質として、@生活文化の中から自然発生し、個人の創作ではなく、また、創作者が問題にされない歌であることA楽譜を用いることなく、口承によって伝唱された歌であること B目的や地域、演唱者によって、歌が固定化されず、交流や変遷が許される歌であること Cある程度、伝唱されてきた時間的長さの伝統をもつ歌であること、などをあげることができる。民俗学的な立場からも、柳田国男は『民謡覚書』の中で、また、郡司正勝は『民俗辞典』の項で、民謡について、「平民の自ら作り、自ら歌っている歌」、「俚謡(りよう)、民俗歌謡、folk songと同じく、それぞれの民族の生活の中から自然発生した歌」と定義し、@の条件を強調している。従って、民謡は、郷土の民衆集団の間に自然発生し、その生活感情を素朴に反映し伝唱されてきた歌謡であり、そのうたわれる目的や機会は労作が中心であった。ここに、民謡発生の源を求めることができる。
しかし、民謡には、「茶切節」のように、専門の作者による「新民謡」が生まれていることを特記しておかねばならない。
民謡の分類
民謡が採集されると、うたわれる目的にしたがい、うたを分類する必要がある。
日本の伝統音楽に対して、発生系統や流派が確定していない民謡においては、その特質からみて、(1)音楽、ア旋法、イ 音階、ウ リズム、エ 形式、オ 演奏形態(伴奏)、(2)文芸、ア 内容、イ詞型、ウ 文体、(3)民俗、ア 附帯目的、イ 場所、ウ 人、の各側面からの分類法が分類基準として考えられる。
そして、民謡は、単に創作民謡の純音楽的な作品や純文芸的な作品にはみられない民俗的な附帯目的や場所を伴うものであるので、ここでは、民俗学者、柳田国男が『民間伝承』(昭和11年)に発表した民謡分類法を紹介する。
(1)田唄(田打唄、田植唄、馬使い唄など)、(2)庭唄(籾摺り唄、粉換唄、糸くり唄など)、(3)山唄、(4)海唄(網起し唄、舟唄など)、(5)業唄(舟方節、土方節、石かち唄、木挽唄、酒造り唄、鉱掘唄、鋳物唄、炭焼唄など)、(6)道唄(馬方唄、牛方唄、木遣り唄、道中唄、荷方節など)、(7)祝唄、(8)祭唄、(9)遊唄(鳥追唄、盆踊り唄など)、(10)童唄の10種類である。
この分類法は、民俗学的視野に基礎をおき、現存する民謡の実状に即しているところから最も一般化されているものである。
民謡の発生と伝承・伝播
民謡は、発生の目的にふさわしい歌詞を伴い、メロディーとリズムの要素によって綴られた民衆の唄であり、いつもその時代、時代の人びとの共感を得、情緒に触れ、「音楽」となったものである。
これらの民謡が現在、農漁山村に多く姿をとどめているのは江戸時代における芸術音楽の勃興、確立によるものである。
江戸時代における基層文化は都市と農漁山村に分裂し、民衆の音楽は都会における芸術音楽と農漁山村における民謡・わらべ唄に分かれることになった。
都会に残った基層文化も社会の急速な変動により、歌謡の一種である祝詞のような神楽歌を追い出し、祭囃子に変えるのである。一方、農漁山村に伝承された基層文化も明治時代の産業の発達に伴い、変容し、労作と結びついた「仕事唄」の多くはその目的を失い、すぐれたものは「祝唄」や「酒宴唄」として姿を変えるのである。しかしながら、農漁山村における社会生活が変化している以上、従来のような民謡の発達や創造的活動はなく、保存的性格の強い伝承がなされるのである。このように、人びとの心から湧き出た民謡も、時代を経過し、流れゆく場所によって、最初の目的を変え、生活様式に応じて、歌詞を改め、曲調を変えていくのである。そこに、民謡の交流と変遷があり、発達があるのである。
これは民俗芸能の一般的性格として重要な意味をもつ浮動現象である。この浮動現象は、おおよそ二つの方向、或いは見方としてとらえることができる。即ち、民俗学で「伝承」と呼ばれるものを空間的に縦と横、つまり、「伝承」と「伝播」に分ける考え方である。前者は、変化なしに、歴史的に受け継がれる場合である。後者は、郷土的環境の異なる他の地方へ移動する場合で、一般的には本来の性質と新しい風土に伴う異質な要素とが混入して新しい性質を生むような伝わり方を意味し、目的観を変えることが多い。
民謡はこのような経過をたどりながら、口承による伝わり方を主とし、郷土の文化財として受け継がれてきたものである。また、受け継がれることなく消滅していくことも少なくはない。これらがどのような交流と変遷によって伝承・伝播されてきたかは多くの場合、その定説をもたない。
民謡の交流と変遷
民謡の交流と変遷については、従来、歴史学的、民俗学的、文芸学的手法によって考察することが多かったが、これに音楽学的考察を加え、その解明に迫ろうとするものである。
この音楽学的考察とは、小泉文夫の音階論とメルスマンやザックスの比較音楽的方法論に基軸をおいたものである。この手法の概略を述べると、民謡を形成している音階の中心となる核音が類似した二つの旋律でどのように重なり合うかを比較総譜を用いて調べることによって、その旋律の類似性を推察するものである。即ち、音階の核音や旋律の形成を比較することにより、民謡の系統性を推論するのである。
この民謡研究の方法により、富山県には、「まだら」系統の唄が県下各地に分布していることがわかる。
その唄は、「魚津まだら」、「布施谷節」、「岩瀬まだら」、「新湊めでた」(放生津まだら)、「福光めでた」、「長麦や」、「麦や節」、「早麦や」などである。
富山県に分布する「まだら」は、九州地方に分布する「紀州まだら」(佐賀県)、「金のなる木」と「まだら節」(鹿児島県)、「五島列島まだら」(長崎県)、「諫早まだら」(長崎県)、「米搗(こめつき)まだら」と「下行まだら」(長崎県)、「豊崎まだら」(長崎県)、「対馬のまだらぶし」(長崎県)、「馬渡節」と「馬渡踊」(佐賀県)、「うぐいす」(佐賀県)、「伊万里まだら」(佐賀県)に端を発し、漁労関係者によって日本海を北上した。石川県にも伝えられ、「輪島まだら」、「七尾まだら」として現存している。また、「海士町まだら」が伝えられる海士町の漁労関係者の祖先は九州からの移住者であるといわれている。
これらの唄が富山湾における漁港地の魚津、岩瀬、新湊にも伝わり、布施川を上り布施谷へ、庄川を上り福光、五箇山へと伝播し、前述の民謡となり、現在に残されているのである。
ここに、唄の系統を研究するための比較総譜を「長麦や」、「早麦や」、「麦や節」を例として示すことにする。
比較楽譜から、唄の類似性と系統性を考察してみるとき、音階、核音、終止、旋律などの点で関連性を保ちながら伝播し、推移していることがわかる。さらに、「長麦や」が「福光めでた」「新湊めでた」と関連をもち、それらが能登の「まだら」の影響を受けていることからも、「長麦や」が「まだら」の系統の唄であることは十分推論できるのである。
民謡の特性と今後の課題
民謡が音楽の一素材として取り上げられたのは、平安時代の「催馬楽」から近くは「長唄」などの中にもみられる。しかし、歴史学、文芸学、民俗学的な研究は明治時代以後のことであり、特に音楽学的側面からの考察はごく最近のことである。
さて、音楽学的側面から民謡の特性や研究の視点をとらえるならば、(1)発声に関すること(2)リズムに関すること−拍節的リズム(八木節調)と無拍節的リズム(追分調)(3)旋律に関すること−反復と変化、メリスマと微小音程、こぶしと産み字 (4)音階に関すること−陽音階と陰音階 (5)拍子と間に関すること (6)速度に関すること (7)囃子詞と掛け声に関すること−意味のあることばと無意味なことば (8)曲想表現に関すること (9)歌詞に関すること−七五七五調(古代歌謡)と七七七五調(近世歌謡)(10)伴奏に関すること(11)舞踊に関すること、などをあげることができる。従来の民謡研究に加え、音楽学的調査研究と比較音楽論的研究を進めることによって、一層民謡の実態を明らかにすることができるであろう。
いずれにしても、民謡の収集や分析的研究は複雑多岐であるが、昨今、わが国においても、文化財としての価値が認められてきているので、学問的内容を裏付けるためにも、研究のための組織や方法を確立し、歴史・文芸・民俗・芸能などとの接点で展開される民謡論を語りたいものである。
そのことによって、日本人の心のふるさととしての民謡が保守的な伝承・伝播のみではなく、多くの人たちに愛される民謡として交流・変遷し、創造的な活動をふまえ、さらに発展していくことを期待している。  
生業と民謡
人の生きる場には、空気と水があるように、人が生活する喜怒哀楽の場には民謡がある。これらは名もなき、のど自慢の人たちが、農耕、労作、娯楽、祭り行事の度毎に、人たちの感性のおもむくままに、素朴で魅力的な美声で即興的に唄われた。これが、大衆の支持を得て今日まで唄い継がれた、民謡となったのであろう。本県には、民謡として記述されるものが二百数十曲あるといわれるが、日本の近代化、機械化の進展により、民謡の素朴さが失われつつあることは、淋しい限りである。
また民謡は、地域環境との関わりも大きい。まず本県の実態を調べよう。東は親不知(おやしらず)、西は倶利伽羅、東南は立山を主峰とする北アルプス、北は能登半島にいだかれる富山湾という条件であり、しかも冬季は豪雪地帯という、かならずしも好適の地とは言いがたい。ただこの風光明媚の自然環境が、勤勉で忍耐強い県民性と、素朴で純情な心情を培った。民謡人もこれを心として、海から渡来した高度の技巧を要する各地の民謡を取り入れ融和させ、越中民謡として、高く評価される特徴ある民謡として育てたのであろう。
元来、民謡は人々が集団化するにしたがって、拍手や木片器物をたたき拍子をとりつつ、喜怒哀楽の情を集団の声として表現してきた。古き時代の人たちは、農耕漁業の収穫の喜びや祈り、鉱掘り、鋳物造りの共同作業の際の完成の喜びを表現し、作業歌とした。美声の仲間が唄い、それにつれて他の仲間たちが唄いつつ踊り、あるものは拍子を、あるものは木片や器物をたたいた。平易で、素朴で、仲間から愛された唄が、その土地に定着し受け継がれたのが、民謡として残されたものなのであろう。
生業と民謡
人が生きるためには労働をせねばならぬし、その労をいやし、励まし喜び合う民謡が存在する。まず本県に伝承されているいくつかの“仕事唄”を職種ごとに紹介しよう。
農業に関する唄 / 田植唄、籾(もみ)すり唄、粉ひき唄、など
漁業に関する唄 / 氷見網起こし木遣り、伏木帆柱起こし唄
林業に関する唄 / 本県には、伐採にかかわる杣(そま)唄、木挽き唄、今でも立山町で唄われているという炭焼き口説きが残っている。
交通に関する唄 / 現在と異なる状況下での交通事情は、人力や牛馬力の使用、船の利用が主力だったので、本県にも荷方節、馬方節、牛方節、船方節などが残されている。現状況下では唄われることもなく、そのいくつかは、民謡人の努力により“祝い唄”とし受け継がれている。
他の諸職に関する唄 / 他の諸職にも、それぞれ作業唄があるのだが、この稿では鉱掘り唄との関連で“鋳物の唄(やがえふ)”を記すことにする。“やがえふ”は弥栄節ともいわれ、銅器の街高岡が、目下その復興普及につとめている。“やがえふ”の歌詞を記す。
以上述べた民謡は、日本の近代化によりその形態をとどめるにすぎず、のど自慢の愛好者が、舞台や宴席で唄うのみの民謡となったのである。
私は意図的に“越中おわら”や“布施谷節”、富山湾沿岸に残る“まだら”やその流れがあると言われる五箇山民謡に触れなかったのだが、以下私見を交えつつ述べることにする。
越中おわらの歴史的背景
“糸くり唄”と関連づけられてきた“越中おわら”は、従来八尾町の孟蘭盆(うらぼん・7月)行事として“川崎おどり”の名で実施されてきた。元禄15年頃秋風盆に改めたと伝えられ、その後、町の芸達者の宮腰半四郎とその仲間たちが“大笑ひ節”と改作した。歌中に“おわらひ”との言葉を入れて大衆的なものとし、現在の風の盆の様式(9月当初3日間)とし、嘉永・安政の頃から“おわらひ”の“ひ”の字をとって、豊年満作を祈念する行事として、養蚕の町の“糸くり唄”として唄われ伝承されたとされる。元唄は、淫猥な文句が多く、歌も踊りも明治初年に致るまで度々禁止されるに及んで、一時は滅亡の危機に陥ったのだが、町の識者たちの肝入りで、東都より大槻如電翁を招き、新作歌詞を創り行事を復興させたと伝えられている。
ところで“越中おわら”の名の由来だが僻(へき)地の小原村の名をとったとか、大笑ひ節の“ひ”の字をとって“おわら”としたとかの説がある。私は後者が正しいのでないかと思っているが、真偽の程はわからない。“越中おわら”を調べて気になるのは、文献にある“川崎おどり”“大笑ひ節”がいかなるものか、五箇山平村上梨で唄われたという“五箇山おわら”がどんな形態のものか、伝承する人も、その資料(曲譜)がどんなものか調べることが出来ず、残念至極である。
“越中おわら”を他民謡と比較して考えると、従来“糸くり唄”との関連で考えられていた“越中おわら”は現在の唄と違って、平易で素朴な唄でなかったかと思われるのである。その理由は、当時富山湾には北前船の往来があり、他国の漁夫や商人が、日本海沿岸の漁港に立寄る機会も多くなり、土地の人たちとの交流が深まるにつれ、漁夫が唄った酒盛唄の“ハイヤ節”が影響を与え、改良され、あの高い唄いだしの“越中おわら”のモデルとなったとも考えられるのである。
“越中おわら”のように、高音から唄いだされる民謡は、日本海側には出雲地方の“安来節”より例がなく、甲高い調子とその唄い方は“ハイヤ節系”でないかとする町田佳声説を私は支持するし、賛成する1人である。私は、それ故“越中おわら”は、糸くり唄とは関連なしと思っている。(歌詞を記載する)
うたわれよ わしやはやす (囃子)
来る春風 氷がとける キタサノサ ドツコイサノサイ (囃子)
うれしや 気まゝに開く梅 キタサノサ ドツコイノシヨイ シヨツトハイーハイー (囃子)
あねま今来てはやおかえりか 浅黄染とはおわら藍たらぬ 古歌
唄の町だよ八尾の町は 唄で糸とるおわら桑も摘む 中山輝作
“越中おわら”の技巧的表現は、5文字冠り、字あまり、とされ、主歌と主歌の間に囃子として、次の句を挿入する場合もある。“越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ”(この種の囃子多々あり)と。現在唄われる“越中おわら”の曲節は、町の美声の持ち主だった故江尻豊治氏が完成定着させたもので、民謡界から高い評価を得ている。なお“越中おわら”が今日の隆昌を築いたかげには、故川崎順治、橋爪辰男両氏の好意ある援助のあったことを忘れてはならない。
先にも触れたが、“越中おわら”が“ハイヤ節系”の唄だとすると、当時富山湾を航行した北前船が、各地の漁夫商人をともない能登七尾輪島を中心に、富山湾にそそぐ諸河川をさかのぼり、物資の交易事業に従事するかたわら、土地の人たちとの交流を深めた結果の所産とも思えるのであるが、“越中おわら”にしても、神通川、井田川をさかのぼり、商魂逞(たくま)しい人たちが、養蚕の町の八尾人が唄う素朴な“越中おわら”の原形と宥和(ゆうわ)定着させ、県が誇る“越中おわら”の完成へ役立ったのでないかと推測出来るのである。(なお、一説に「“越中おわら”のルーツは、ロシア領なり」とする音楽家本居長世氏がいたことを付記する)
思うに、現在の“越中おわら”は糸くり唄ではなく、今では、美声と技巧と歌唱表現を競う、ショー的民謡として、評価される向きが多い。
伝えられた民謡“まだら”
北前船が日本海側を往来するにつれ、輪島・七尾、富山湾の新湊・岩瀬・魚津の3漁港にも、漁夫商人の交易が増え、人との交流も多くなったと思われる。漁師唄“まだら”も長崎方面の漁夫商人が持ちこんだ民謡とみてよい。なお本県には“まだら”と名付けられた唄が3曲、“めでた”と呼ばれるもの1曲、いずれ同一系統のもので歌詞は同一のものであるが、識者それぞれ工夫して、特徴のある旋律を奏する。
めでためでたの若松さまよ 枝も栄える葉もしげる(元唄)
本県のめでた節と呼ばれる“福光めでた”は、陸地で唄われる“まだら”で、おそらく庄川をさかのぼった商人たちによって伝えられた“まだら”で、現在は祝い唄として唄われている。これらの土地の民謡人は、この保存を図るため保存会を設立して、普及伝承に努めている。
布施谷節と糸くり唄
布施谷節は、黒部と魚津の境を流れる布施川の谷あいの村に、唄い継がれてきた情緒ある糸くり唄と言われる。この民謡は、高度の演唱表現と美声が要求される唄なので、土地の糸くり唄なのか、他県の民謡が定着、完成されたものなのか不明だ。しかし、私は、新川木綿の産地であるこの地の唄が、七尾・輪島の漁夫商人の交易により渡来した“魚津まだら”と無関係とは思えない。きっとこの地の愛好家たちが工夫、改良を加えつつ、地域の唄として唄い続けたのであろう。
布施谷節の古歌を紹介する。親のもとより来いとの知らせ、糸も車も手につかぬ(他は略)、とあるように、素朴な心情を唄った元唄が、なぜ現在のような高い技巧と表現力を要する民謡となったかはわからぬが、本県民謡としてもむずかしい民謡の一つである。
いつかハネーイヤ春風アーハーレナー
里より吹けばエーヨー
山のハネーイヤ虚無僧がアーハーレナー
腰上げてヨー めでためでたの布施谷節を 吹けば田植えが近くなる
ハーレナーハーイーヤーハーイヨー
五箇山民謡とまだら
五箇山民謡にも“七尾輪島まだら”とつながる民謡があるという。だとすると七尾輪島の漁夫商人たちが、庄川を航行し物資の売買のため、僻地(へきち)五箇山までさかのぼった。そこで、交流を拡げ、その土地の人たちの“和”の中から、民謡の輪を拡げ得たとも考えられ、県民謡の麦屋節も他県人との往来交流により、工夫改善されたとも思えるのである。いずれにしても、“七尾輪島まだら”の流れで、現地に残る“長麦屋早麦屋”がそれなのである。一説には、麦屋節は平家落人によるとする説がある。その根拠は文化3年(1806)の北茎の北国巡杖記説によるのだが、いささか無理な推理であり、私は、それ以前の記録資料もなく、歴史的変遷経緯も知る由もないので、前説をとる。また、五箇山は、漆の産地ゆえ塗物の関係で、物々交換の適地であった。後述するが、加賀騒動の流人芸者お小夜の流刑地でもある。五箇山は僻地(へきち)ゆえ、土地民謡の改良や変化も少なく、そのまま保存伝承された民謡が多いのであるが、いずれも庶民的で曲態もリズムも独特な哀感をもつ民謡が多い。その何曲かを参考に供する。
麦屋節
麦や菜種はイナ二年でイナー 刈るにイナー麻が刈られうか 半土用にイナー ジャントコイ ジャントコイ
麦屋節が、平家の落人によって伝えれられたとする説は、2節3節の歌詞中に、波の屋島とか烏帽子狩衣などの言葉が用いられていることによる。
筑子(こきりこ)
筑子は、現中学枚教材として取り上げられている民謡で『二十四輩順拝図会』『越の下草』なる文献にも記されており、五箇山民謡としては根拠ある民謡といえるものである。筑子は、2、3センチの乾燥した細竹をまとめて、カスタネットのように拍子をとりつつ踊る、優雅な民謡である。
こきりこの竹は七寸五分ぢや ながいは袖のかなかいぢや 窓の桟さも デデレコデン ハレの桟さもデデレコデン
以下、歌詞は省略するが、2節の歌詞は3節の歌詞の2連を繰り返し唄う原則がある。歌詞には、労働を尊び、姑の嫁への暖かい心情が唄われている。付記するが、利賀地区では“こつきり”といい、節まわしも異なっている。
お小夜節
加賀騒動の流人として、この地に流された輪島生まれの遊女お小夜は、なかなかの美女で芸達者だったといわれ、土地の若者たちに唄、三味線、踊りを教え、たちまち村の人気者となったと伝えられる。その後、平村小谷に住む、早弾き盲女“倉のおの”と共に、五箇山民謡の普及発展に尽くしたと云われて、盲女の改良したとする“早麦屋”も、現在の麦屋節に影響なしとしない。お小夜は同地で没し、墓も猪谷に通ずる路傍に建てられている。
なお、当時の社会状況からみて遊女お小夜の五箇山定住は、五箇山民謡の充実発展に大きく貢献した恩人だったのでないかと、私は考えるものがある。
ヨーイトコシヨーヨーイトコシヨー 名をつけようならお小夜とつきやれ お小夜きりよよし声もよし 峠細道なみだてこえて いまは小原で佗び住まい
四ツ竹節
この民謡は、岐阜県白川村の民謡だが、いつの間にか五箇山民謡として取り扱われるようになり、四ツ竹を手でならしながら唄うことから、かく名付けられた。
越中五箇山 蚕の本場 娘やりたや あの桑摘みに 宝ゆたかな 麦やがお里 (他略)
といちんさ
五箇山には、サイチン(みそさざい)と呼ばれる小鳥がいて、雪深い季節になると、合掌造りの家屋の樋近くに現われ、流水を求めて、さえずり飛びまわるさまを、軽快なリズムと魅力ある旋律で表現し、労働を尊ぶ僻村の人たちの願いを唄いあげている。
鳥がナー さびしく機織る音に トイチン トイチン トイチンサ ヤーサレチトチレチ トイチンサ トイチンサ 拍子ナー 揃えて ササうたいだす やれかけ はやせよ トイチンサ トイチンサレーチ ヤサレーチ トイチンサ
むすび
以上大略を述べたが、ともかく本県民謡は地域的にみて、海から渡来した他府県民謡(ハイヤ節、まだら系)の影響を受けつつ工夫改良がなされた。他県に誇るべき民謡として、独特の技巧と曲節、歌唱表現を要する民謡として完成させつつ伝承し、現代に及んだと考えられる。しかし、国の近代化が進むにつれ、生業に関する往時の民謡も古物化しつつあり、それを語り継ぐ人も民謡人も少なくなった。民謡の舞台では、大衆好みのする民謡が華麗なショーとして展開され、土の香の漂う素朴さを表現とする識者を嘆かせている。私はここらで民謡人が、その民謡普及の企画に一工夫すべきでないかと考えている。  
生活と民謡−「わらべうた」を中心に−
「遊び」のうた
「手合せ」のうた
「手合せ」や「指あそび」の歌は、現在もなお子どもたちの中に生きている。インスタントなところが喜ばれるのか、通学のバスを待つ短い時間などに、子どもたちは、結構この遊びを楽しんでいる。
一二の三/二の四の五/三、一、二の四の/二の 四の五 (高岡)
数字を唱えるだけのこの歌は、「指遊び」の歌である。互いに向き合い、数字に合わせて指を出し合って遊ぶ。この歌は、もと「石けり」の歌だった。それを子どもたちは、「指遊び」に転用したのである。最近、その数字に合わせ、階段を上り下りして遊んでいる。別の遊びへの新しい転用である。
時に、仲間の誰かが祖母などから古い「手合せうた」などを教わったりすると、それがまたたく間に広がってしまう。旋律のアンティークな味わいを子どもたちは、一つのファッションとして楽しむのである。
一かけ二かけて三かけて/四かけて五かけてはしをかけ/はしのらんかん手を腰に/晴れたみそらを眺むれば/十七、八のねえさんが/花と線香手にもって/もしもしねえさんどこへ行く/私は九州鹿児島の/西郷隆盛娘です/今日は命日墓まいり/お墓の前で手を合わせ/なみあみだぶつと唱えます。(高岡)
「遊び方」は、セッセッセーノ、ヨイヨイヨイなどと掛声をかけて調子をそろえ、第1拍でそれぞれ手を打ち、第2拍で相手の手と打ち合わせ、これを繰り返す。
それにしても奇妙に錯綜した歌詞である。何かいろんな場面や物語の断片のようなものが入り混ざつている。もとは、西南戦争(明治10年)後の西郷隆盛を悼む御霊(みたま)信仰のようなものが歌詞の内容となっていたようだが、口写しに歌い継がれる中で詞章が崩れ、意味が風化していったのだろう。そして、言葉のイメージだけが連鎖し、奇妙な錯綜を醸し出すのではないだろうか。古いわらべうたには、このようなものが多く、伝承童謡(わらべうた)のひとつの特性となっている。しかし、そのこと−絶えず自由に歌い変えられているということによって伝承を保持し得たのかも知れない。したがって、ひとつの歌が伝えられる過程で、周囲には、歌に捨てられた類歌(ヴアージョン)が無数に累積する。どれを拾い上げて歌うかは、全く子どもたちの好みに任される。
だが、「わらべうた」は、仲間と一緒にうたって遊ぶ歌である。いつも一緒にうたっていると、歌はその中で調整され、「仲間のうた」ができあがる。ひとつの類歌の流布圏は、子どもの交友圏と重なるのである。類歌は、このようにして成立するので、歌詞や旋律の上に著しい地域性が生ずる。この歌の場合も、次のような詞章を付け加えた類歌が採集される。
お墓のあとの魂が/ふんわりふんわり/ジャンケンポン (宇祭月)
もしも、この子が男なら/士官学校(あるいは、「師範学校」)を卒業させ/イギリス言葉を習わせて/梅にうぐいすとまらせて/ホーホケキョーと鳴かせます。(砺波)
「手まりうた」
「手合せ」の遊びに用いている「一かけ、二かけ」の歌は、もとは「手まりうた」であった。また、「お手玉」をする時にも歌ったという。さらに「縄とび」にも使ったという。まさに万能「遊びうた」の感がある。また、この歌の旋律には、次のように全く別の歌詞を付けて歌われることもある。
一番はじめは一の宮/二また日光東照宮/三また佐倉の宗五郎/四また信濃の善光寺/五つは出雲のおおやしろ/六つ村々鎮守様/七つ成田の不動様/八つ八幡の八幡宮/九つ高野の弘法様/十で富山の招魂社 (富山)
歌詞は、数え歌の形式による全国寺社尽くしである。この歌にも異同が多く、
「三で讃岐の金比羅さん」(立山町)
「十で富山の反魂丹」 (富山)
などと、登場する名所名物が異なり、ここでもまた、末尾に次のような詞章が付け加えられる。
「十一いなかのお医者様/十二は二宮金次郎…」(射水)
「これほど信心したけれど/浪さんの病はなおらない/ゴウゴウゴウと鳴る汽車は/武男と浪子の別れ汽車/武男が戦に行く時は…。(滑川)
誰かが、ふと思い付いた言葉を挟み、それがまわりに承認され、そのまま類歌となって伝えられていくのである。小説『不如帰』(徳富蘆花)のエピソードを、いつ、どこで、だれがこの歌の中に持ち込んだのか、それはもうわからない。
「手まりうた」は、かつて「遊びうた」の王座であった。明治39年に編纂された『伝説俗謡童話俚諺調査答申書』(富山県教育課編)に収録されている165篇の「わらべ歌」の約3分の2が「手まり歌」で占められる。この調査の行われた明治30年代には、まだゴムまりが用いられておらず、手作りの「糸まり」が使われていた。糸まりは、ぜんまい綿やひじきなどを芯にして、もめん糸を幾重にも重ねて巻き、表面を赤や黄の糸で花や星の形をかがって作った。母親や祖母などが念入りに作って子どもに与えるのが普通だった。糸まりは、ゴムまりに比べてはずみが悪かったので、子どもたちは床にひざを落としてまりをついた。ゴムまりが県内に普及するのは、大正へ入ってからであった。
かつて、子どもたちにとっては、遊びの技法は、非常に重要な意味をもっていた。女の子では、手まりやお手玉、男の子では、竹馬やコマ廻しというふうに、それぞれの遊びには、初伝から奥伝にいたる技法の段階があり、子どもたちは、技法を磨き、奥儀を究めることに熱心であった。まりつきの技法の中心は、何といっても、まりを長く持続してつくことであった。いくつつけるか判定するために「手まり歌」の中では数が数えられ、時間を持たせるために歌の中に長い物語が仕組まれた。先の「一番はじめ」の歌は「数え歌」風であり、「一かけ、二かけ」の方は、より「物語」風である。しかし、1曲を歌い終えても、まだまりが続いている。そんな時、別な歌を思いついて歌い継いでゆく。そのうち、前の方を忘れて途中から歌い出したり、真ん中の部分が抜けてしまって前と後とがつながったりするなど、いろんな風に接続、分断を繰り返しながら歌は変わってゆくのである。
「お手玉、羽根つき」の歌
「お手玉」も「羽根つき」も技法を競う遊びであった。
一つご、二つご、かんじきはいた/いわして、まわろ、まわろ/なむ、なむ、はいたら、トン/中の一つご、一つご/中の二つご/一つ、ねえさんはいたら/いわして、きわろ、きわろ…。(富山)
「お手玉うた」である。意味のよくわからない言葉が続いているが、全体お手玉の技法を指示する言葉で成り立っている。土地の言葉で、しかも子ども独特の表現で歌われたため、意味がわからなくなったのである。よく知られる「おっさあらい」(右手で親玉をほうり上げ、それが空中にある間に下の子玉をさらい取る技法)をはじめ、お手玉遊びの歌には、直接、技法をうたい込んだ歌が多い。
ひとめ、ふため、みよかし、よめな/いつよの、むかし/ななおの、やかし/このまに、とおり。(城端)
数え歌の型式をとった「羽根つき」の歌である。この歌も土地によって様々なヴアージョンで歌われ、例えば、大山町では結びを、「ここの前でとまれ」、魚津では「ここの目でとまった」などと歌われる。先の歌の採集地の城端では、この歌を「どっこい、どっこい」と互いに間を入れ合いながら機場(はたば)の作業歌としても歌ったという。また、雪の多い本県では、「羽根つき」より、この歌で紙ふうせんをついて遊ぶことが多かったという。
やがて、遊びがレジャーとされ、ひまつぶしとされるようになって、子どもたちは、歌を真に自分のものとして打ち込むことができなくなる。それと共に、遊びの技術も未熟となり、まりつきやお手玉のように高度な技術を必要とする遊びは、子どもの中から次第に消えてゆく。そして、先のインスタントな「手合せ」遊びの中に、わずかな名残りを留めてゆくのである。
季節のうた
風や草や鳥のうた
かつて、子どもたちは、わらべうたの豊かな実りの中に生きていた。町の子たちが路地のどぶ板を踏みならして「手まり歌」や「花いちもんめ」に興じていた時、村の子たちは、畦(あぜ)に立って風や草や鳥のうたを歌をうたい、歌うということのほのかな情感にひたっていた。人は、風や草や鳥と共に生きていたから、風に尋ね、虫と語るという日々を送っていた。不思議なことがいっぱいあっても、それがいちいち合理的には説明されなかったから、子どもたちは、いつも自然に呼びかけ、「自然」から直接聞こうとしたのだ。
大かぜ、小かぜ/こうやの山から/風もってこい。(射水)
雨ふってござった/天竺(てんじく)のまっつりだ。(上新川)
つつじの花が/開いたり、つぼんだり/おらなんとこせ。(砺波)
だんぼ(とんぼ)だんぼ、とまらっせい/おまえさ、なんかにかもうけ。(下新川)
とんべ、とんべ/舞い舞いせ/蛇捕ってぶっちゃげよか。(平村)
これらの歌には、特にきわ立った旋律やリズムがあるわけではない。土地の言葉の抑揚や情感がそのまま旋律に転じたといっていい。会話の中のアクセントの高低が自ずと節(ふし)を作ったのである。
とかげ、とかげ/おら、なも、せんな/川原の石や、石や。(下新川)
とかげを殺してしまったことのいいわけである。
へびやまむしや、よるなや/なた、かま、腰にさしとるぞ。(砺波)
これは、へびへのおどし。
川の神さま、川の神さま/かんねして、くりゃっしゃいの。(下新川)
これは、川に小便しても、罰を受けないための唱えごと。子どもたちには、とかげやへびや川の神様に直接、語りかける−そのことがおもしろい。言葉は、旋律を伴うことによって言霊(ことだま)効果を発揮する。
雪と正月のうた
下、わたぼし/空、はえのこ/天じく、天じく、はえのこ。(婦負)
雪ぁ降る/みそさんしょうぁ(ミソサザイ)なく/かあかござらず/おら、どうするこっちゃ。(下新川)
大きなぼたん雪がいっぱいに降りしきる。雪の降る空へあおむくと、数知れずおりてくる虫のような黒い雪に不思議な興奮を覚える。雪の降った夕方は、あたり一面、うすい霧におおわれ、厚い層雲からもれる重い日ざしが乱反射を繰り返し、あやしげな薄明光をつくり出す。情感を刺激するのはそんな光だ。
昔は、雪が降れば、雪の降ったような生活をした。雪の中でじっと耐え、雪に自分を同化させようとした。はなやかな中に悲しさを秘めた雪は、北陸型の感情様式の象徴でもあったようだ。
雪の中で「正月」を迎える。
お正月さま、お正月さま/どこまでござった/くりから山の茶屋までござった/おみやげ何じゃ/みかん、こんぶ、かややかちぐり/あまの原の串柿。(砺波)
年神のうた。新しい年をもってきてくれる年神を、子どもたちは、「正月さま」と呼ぶ。正月さまは、おみやげをさげてきてくれるが、それは土地によって異なる。砺波地方では、一般に「みかん」「こんぶ」「あまの原の串柿」が多い。「あまの原の串柿」は、「あま(天井裏の部屋)につった串柿」(平村)が原型だろうか。そのほかに「みかん・くねんぼ」(下新川)、「ゆずり葉」(高岡)、「猫のふんだかいもち」(高岡)というのもある。
天神さま、天神さま/どこまでいらっしやった/くるくる林の下までいらっしゃった…。(宇奈月)
ここでは、「正月さま」が「天神さま」となっている。旧前田藩の領内では、「天神さま」を「正月さま」と受け取っている地域があった。領内では、天神さまは手習いの神様であり、子どもの守護神であるともされていたからだ。歌に戻って、「どこまでいらっしゃった」のあと、「くるくる山の下まで」と続くのが県内では最も多く、そのほかに「きりきり山のすそ」(平村)、「くろべの橋」(下新川)とも歌い込まれている。また、やっていらっしゃる「神さま」のかっこうについても言及し、「まえだま(繭玉)ふってござった」と歌われるのが多く、「とうふげたはいて、串柿かんで(かついで)長いてぼ(杖)ついてござった」(伏木)というていねいなものもある。
正月ちゅうもんは、よいもんや/月さまみたいなぼち(もち)たべて/あかしみたいなとと(魚)たべて/油みたいな酒のんで/正月ちゅうもんは、よいもんや。 (砺波)
手放しの正月讃歌。子どもたちにとって、正月は1年を通しての最も楽しいひと時であった。白米のおもちや魚などが容易に口に入らない時代の願望がよく写し出されている。
正月の歌としては、このほかに1月15日を中心とする「小正月」行事にうたわれる歌が数多く残されている。「左義長」「鳥追い」「成木責め」などの行事でうたった歌である。
(「鳥追い」は、鳥害を防止するための、「成木責め」は、果樹の豊作を願う呪術的な農村行事。砺波地方では、これらが連結して行われていた。14日の夜、子どもたちは、「左義長」の残り火でもちを焼いて食べ、そのあと、「鳥追い」のうたを歌って田畑をねり歩き、庭先へ戻って「成木責め」を行った。柿の木のそばへいって、一人が鎌で木の幹に傷をつけ「なるか、ならんか」と唱える。それに答えて他の一人は「イタイ、イタイ、なるなる」と唱える。そこで二人は、傷口に小豆(あずき)がゆを掛けて引きあげる)
これらの行事に参加することによって、子どもは、土地の生活にとけこみ、地域社会を支える一員としての地位を獲得していったのである。
子守うた
「子守」のうた
ねんねや、おろろわい/ねんねや、おろろわい 泣くなや、泣くなや/すずめの子/泣くと餌刺(えささし)が、とりにくる。ねんねや、ねんね。ねんねのお守は、どこへいった/山こえて里いった/里のみやげになにもろた/でんでん太鼓に、しょうの笛 赤いお皿に、ととよそて/赤いおわんに、ままよそて/ねんねやねんね。(富山)
「子守うた」には、「ねんねや、おろろわい」などという響きのよいリフレインが加わり、それが何度も繰り返される。このやさしい響きが子どもを落ち着かせ、場に情感を醸し出す。
先のうたには、この地方で歌われていた3種の歌が連なって出てくる。最初は「餌刺」のうた。「餌刺」は、藩政時代、鷹匠に属し、鷹の餌にする小鳥を捕えることを職業とした人たち。泣く子をすずめにたとえ、泣くと餌刺が刺しにくると、おどしているのである。朝日町で採集された歌では、この部分が「いたち」に変えられている。
…ねんねん、泣きや、いたつ(ち)の子/泣いちゃいたつ(ち)が刺しねくる/ねんねんねん…
中ほどに出るのは、一般に「江戸子守唄」と呼ばれている詞章。
最後に出てくるのは、正月の歌にも出ていた食事への願望。ここでは、「赤い皿、赤いおわん」と色彩が強調されている。次の類歌には、赤、白、青とさらに色彩が強調される。
…赤いちゃわんに、ままよそて/白いちゃわんに、おつけよそて/青いてっしゅ(小ざら)に、ここ(つけもの)よそて… (婦負)
「子守うた」は、子どもをあやすための、いわば実用的な歌である。子どもが寝つくまで、しばらくは歌い続けてやらなくてはならない。歌としての形を整える必要はなく、おどしたり、あやしたりしながら、思いつくままに、いろんな歌をうたいつないでいったのである。
「守り子」のうた
子守には、母親や祖母、あるいは姉など、身内の者があたるのが普通であったが、それ以外によそから少女を雇い入れ、子守をさせるという風習は、藩政時代からみられるものであった。しかし、それが非常に盛んになったのは、明治に入ってからで、あと大正を経て、昭和の初めにいたるまでこの風習が残っていた。こうして、全国、至るところの町や村には、手ぬぐいで髪をつつみ、小さな子を背負った子守娘の姿が多く見られたのであった。
「守り子」を置くことのできる家は、中流以上で、守り子を出す家は、それ以下の家であった。また、両親が遠方へ出かせぎに出る時など、子どもを守り子として働かせることを条件に他家に預けるという風習も多かった。しかし、いずれにしろ、守り子は雇い主の家では、最下級の使用人として扱われるのが普通であった。「守り子のうた」とでも称すべき一群の子守うたの中に、その苛酷な境遇が歌い込まれている。
子守りよな、おぞいもんな、どこにあろか/親に 叱られ、子に泣かれ、ひとの軒端(のきば)に、立ってあかす/ねえ、おやおや、ねえ、おやおや……子守よな、おぞいもんな、どこにあろか、雨が吹いても宿もたず/うちいきゃ、おっかに、ばめかれる/ねえ、おやおや、ねえ、おやおや。(黒部)
「子守うた」は、本来、大人が子どもに歌ってやる歌であった。しかし、子守に当たる者が子どもであったために、「子守うた」は、わらべうたの延長となり、そこで子ども自身の生活や願望がうたわれることになったといえよう。「守り子のうた」には、次のような数え歌型式のものも見られる。
ことし、はじめて、子守に出たら/一にいじめられ/二ににくまれ/三にさべられ/四にしかられ/五にごなりめそ、かづかせられて/六に、ろくなものくわせぬことに/七にしめしまであらわせられて/八に、はりつけられ、涙をこぼし/九に、くくらつけられ、/十に戸のところで、家へ泣き泣きもどる。(下新川)
〈さべられ〉は、告げ口されること。〈ごなりめそ〉は、泣き虫の子−というふうに土地の言葉だけでこの詞章が成り立っている。「守り子うた」の発生は、通常の「子守うた」にいろんなニュアンスを与え、「子守うた」の奥行きを深くしたと同時に、それが一般の「民謡」との接点を作った。民謡として歌われる「五木の子守唄」や「島原の子守唄」などは、みな「守り子のうた」として成立したのである。「守り子のうた」の果たした役割を柳田国男は、『民謡覚書』の中で次のように記している。
−明治以後になって新たに発生した民謡は、鉱山の穴の底、或いは大洋を走る船の上などにもあったが、日常我々の耳に触れる平地の歌としては、織屋、紡織などの工場から出て来る声、それよりも更に夥しい数は、村の小さな子守娘らの口すさびであった。年頃といふよりも少し前の少女を雇ひ入れて、その背に子供をくくり付けて外へ出す習慣は、決してさう古くからのもので無いらしいのだが、彼等は忽ち群を為し、群の空気を作り、一朝にして百、二百の守唄を作ってしまった。何人も未だ子守唄の作者を以て任ずるものは無く、流行歌(はやりうた)があってもその選択応用は、すべて彼等の自主であったが、しかも号令無く、また強制もなくしても、歌は悉(ことごと)く既に彼等の共有になって居(い)るのである。 
信仰と民謡
踊り念佛から念佛踊りへ
現在多くの人々は、念佛は極楽往生の願いを実現するために始ったと解している。
日本に伝えられた初期の念佛は、中国の五台山の法照流五会念佛(ホウショウリュウゴエネンブツ)で、天台宗の僧円仁(エンニン・794〜864)が行った比叡山常行堂引声(インゼイ)念佛といわれ、歌讃詠唱する音楽的念佛であった。これは願生(ガンショウ)浄土のためでなく、天台宗の四種三昧の実践であり、阿弥陀佛の名を詠唱して常行三昧を行ずることで摩訶止観(マカシカン)の諸法実相の理を悟るためのものであった。だから念佛は方便として用いられたのであった。この念佛の曲調を伝承して比叡山の常行堂の不断念佛に結番(けつばん)するのが堂僧であった。融通念佛の良忍(リョウニン・1072〜1132)がこの堂僧の中から出たのも理のあることであった。
この常行三昧の引声念彿が融通念佛に通ずるものである。
融通念佛は一般に「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」というのは、常行堂の引声念佛に源をもつ詠唱念佛であった。その曲調を、朗詠、今様のような日本的発声法にし、民衆に歌いやすくしたものが良忍の融通念佛であり、念佛を合唱することですべての人の往生を確かにする方法であった。
現存の詠唱念佛である六斉念佛は、先の融通念佛のうち「四編」(シヘン)「阪東」(バンドウ)「白舞」を入れているので、六斉念佛は融通念佛から出来てきたことを示している。
この融通念佛と踊り念佛は鎌倉時代の中頃に現われる。それは円覚十万上人道御(ドウギョ)であった。道御は正嘉(ショウカ)元年(1257)壬生寺(ミブデラ)で融通念佛狂言を始め、融通念佛は大念佛の名で踊り念佛化した。道御は唐招提寺や法隆寺の勧進聖で10万人を勧進するごとに大念佛会を営み十万人聖といわれ、生涯に100万人勧進をしたので、百万聖人(しょうにん)ともいわれた。また、謡曲「百万」はこの聖を題材にしたものである。
踊り念佛は空也(クウヤ)(903〜972)に始まる。『日本往生極楽記』に記されているように市聖(イチヒジリ)といい、阿弥陀聖というように念佛に重点をおく跳躍、足踏を中心に、鉦(カネ)や杓(ヒサゴ)を持つ程度とみられる。
すべての芸能は神や霊に対する鎮魂、呪術舞踊に出発し、死霊や怨霊による凶作や疫病をさけるために呪文、呪声、仮面、呪具、足踏(反閇(へんばい))があるけれど、呪具はやがて風流へ発展し、呪文は歌謡や念佛へ、呪舞は舞踊や行道へ発展したものである。空也上人の頃も大念佛や怨霊鎮魂の御霊会が屡々なされており、踊り念佛も大念佛となったことは自然の歩みとみられる。源平争乱による怨死者を亡魂する七日間大念佛が「法然上人行状画図」(巻三十)にみえる。地方では遊行聖(ユウギョウヒジリ)たちのすすめで大念佛がされている。
大念佛の場所に供養卒塔婆が立つことが多いが、空也没30年の後に記された『拾遺抄』に「市門にかきつけて待りける」とあり、寿永(ジュエイ)3年の『拾遺抄註』に七条猪隈(シチジョウイノクマ)の市門に石卒塔婆をのせている。この市門のあとに一遍の市屋道場が建てられたのである。
一遍上人(1239〜1289)は時宗の開祖で弘安2年、信州小田切で踊り念佛を始めたという。それは空也上人のものを受け継いだので、『聖絵(ヒジリエ)』を見ればわかるように「うたう念佛」であり、融通念佛であった。一遍の配った南無阿弥陀佛の賦算札は60万人を志したが、25万人で入寂(ニュウジャク)した。世間では時宗特有のものと考えているが、実は融通念佛のものであった。
『一遍聖絵』の踊り念佛では高台の館の庇の間に狩衣姿の主人、そして従者が座し、板縁に一遍が立ち鉢をたたく。庭では20人程の僧と俗が輪を作り、中心に鉢をたたく者がある。鉢と簓(ササラ)をもつ僧侶がいる。足拍子をそろえ、踊りに熱中している。老僧が撞木(ツエギ)をもち、若僧侶が鉢をもって、踊りの輪の中心で踊る。これが調声人物(チョウショウジンブツ)である。風流踊りの念佛では願念坊(ガンネンボウ)、願人坊(ガンニンボウ)、道心坊(ドウシンボウ)、新発意(シンボチ)に当る。
盆踊り
旧暦7月13日〜16日、新暦で8月13日〜16日を中心として孟蘭盆会にする舞踊を盆踊りという。村落で先祖を迎え、夜を徹して舞踊するものである。
折しも日本人は正月、お盆、春秋お彼岸に先祖がこの国土へ帰り来るとの霊魂観念を持っており、その折に先祖を迎えて交歓舞踊するもので、仏教の解説によって亡魂供養が広まった。
盆踊りは室町期の永享(エイキョウ)の頃、『看聞御記』によると風流(フリュウ)行列に念彿を囃す形が生じてくる。『経覚私要鈔』『大乘院寺社雑事記』が著された長禄から文明年間には、練り物と踊り念佛が華麗な盆踊りに変化してきた。
永禄(エイロク)11年(1568)京都烏丸の盆踊りに真ん中に幟(ハタ)をもち華麗装束の50人以上の町衆が二重の円陣で盆踊りをした。4年後の元亀2年、京都室町衆によって、7月16・17・18・19日に盆踊りが行われ、73の燈籠風流(フリュウ)で賑わった。
『多聞院日記』『実隆公記』『三藐記』『慶長日件録』を並べると、室町期、京都、奈良の盆踊りが150年程の間に公家衆、町衆に、また華麗風流(フリュウ)も踊り念佛として民間に浸透してきたことがわかる。一方踊り念佛も空也、一遍からみれば、これ又風流(フリュウ)により変化してきている。
次に、江戸時代の幕藩体制下での厳しい取り締りの下で、どういう姿に変化したかを理解しておかねばならない。
江戸期の風俗等を記した『風俗問状答』をはじめ、『飛州志七』『羇旅(キリョウ)漫録中』『中陵漫録巻十四』『守貞漫稿巻二十四』『嬉遊笑覧』をみると盆踊りは7月夜、笛、太鼓、三味線、鉦が入り、男女が踊り、音頭取がでて七七七五調の唄で流行唄伊勢音頭、ときに僧衣で「鉦をうち地獄極楽の事など作りたるものに、節をつけて唄い」「念佛踊りと名付、盆前より男女大勢入交りて、鉦太鼓等にてはやし踊り候その唄身ぶり実に鄙(ヒナ)ぶりにて甚だおかしく、それを楽しみ盆遊びにいたし候」(奥州白川)、丹後峯山では「町方いろは音頭、在方那須の与市扇の的」などから、一般に目蓮尊者(モクレンソンジャ)の物語りも唄の中へ入ってきた。
盆踊りの母胎は古代の鎮魂の儀礼であり、中世になつて風流(フリュウ)や踊り念佛と言われ、寺院の法会に付随してきた。近世になると、各地の様々な踊りの手ぶりが加わり、風流踊りとなり、念彿踊りになり、次第に娯楽化の方向へ転化してきたとみられる。
ところが踊りが何度も禁止されたのは、民衆の結集が大きな脅威であったからであり、江戸期に伊勢音頭はしばしば禁止された。富山県八尾町黒瀬谷の本法寺には盆踊りの折、伊勢音頭を唄うことを禁じた文書があり、伊勢音頭の波が年を異にして入っていたのである。
越中の盆踊りを眺めると、多種多様ではあるが大要を列挙しておく。
下新川…はねそ、口説き、ざんざか、千代萩、鈴木主水、見真大師口き説
黒部…はねそ、川崎、まつざか、二十八日口説、古代神、見真大師
魚津市…はねそ、蝶六、松坂、見真大師
滑川市…松坂、はねそ、古代神、心中物
上市町…川崎、鈴木主水、松栄、歓喜嘆
富山市…松栄、えんやら、やんさ、野下、鈴木主水
大山町…サッサ、えんやら、ガラテン、心中
婦中町…やんさ、川崎、どっとこせ−(お七くどき)、おわら、忠臣蔵、歓喜嘆
新湊市…口説き(サカタ)、ぼんぼら貝、野下、坂田、段物、忠臣蔵、やんさ、荷下、ちょんがれ、からくち、歓喜嘆
氷見市…青田、ぼんぼら貝、ちょんかり、鈴木主水、忠臣蔵
福光・城端…チョンガレ、さかた、目蓮尊者、けいけいづくし、松坂、八百屋お七、鈴木主水、村づくし
五箇山…ちょんかり、八百屋お七、草島ぶし、古代神、川崎、坂田、あさい、麦やぶし、平井権八
高岡・砺波・戸出…さかた、本回り、栗ひろい、すすはき、石山合戦、おさ物語 けいけいづくし、鈴木主水、平井権八 ないないづくし
庄川町…ちょんかれ、目蓮尊者、地獄めぐり、鈴木主水、石山合戦、袖しぼり、忠臣蔵、栗ひろい
井波町…ちょんかれ、地獄めぐり、宮本左エ門、一ノ谷村づくし ものづくし、ないないづくし、坂田、綽如上人
福野町…ちょんかれ、坂田、宮本左エ門、鈴木主水、石山合戦、目蓮尊者、釈迦一代記
小矢部市…さんかさ、目蓮尊者、鈴木主水、袖しぼり、八百屋お七、村づくし、古代神、ないないづくし
福岡町…坂田、さんかさ、目蓮尊者、鈴木主水、袖しぼり、すげさ、青田、ものづくし、盆踊り、チョンカレ節
盆踊りチョンガレ
北陸の盆踊りにチョンガレ節が広く歌われている。
チョンガレの名は念佛聖くずれの願人坊主が鉦(カネ)をたたき諸国を歌い歩いた音曲ともいうが、チョンガレの語は「ちょろける」「ちょうける」、関西の「悪ふざけ」、関東の「ちょき者」、瓢軽(ひょうきん)の意ともいう。
そのことばは福井市、加賀、能登、越中に分布している。特に越中の呉西では横綱、大関、関脇、小結、前頭という番付にして音頭取の美声を競い神社、寺院での大会では、その名を掲額している。
また、音頭取の師匠の碑が呉西地区(小矢部市・砺波市)にみられる。チョンガレ流行は、特に吉崎、二俣、福光、城端、小矢部、福野、川崎、桂(五箇山)と地図上で一直線に並んでいる。
一方、チョンガレ節の台本が福光、井波、戸出の各図書館に所蔵されている。特に福光町図書館には江戸末期から、明治のものが多く、県文化財に指定された。
この台本からもチョンガレの諷刺即妙の戯れの意を十分理解することができる。
新川地方の古代神は新保広大寺節(シンボコウダイジブシ)を母胎にした口説き節で、踊りの振りは願人坊主の踊りが基本である。また魚津のせりこみ蝶六は、この古代神から分かれて出来たものである。石川県津幡町のチョンカレ盆踊りは県指定文化財になっているが、実は越中から願人坊主が訪れて伝承されたものだと伝えている。
次に県内のチョンガレ保存会を紹介する。
小矢部市東蟹谷地区/ちょんがれ保存会
伝承によると、文明3年蓮如上人が越前吉崎から越中へ布教に来られ、蟹谷庄土山の土山御坊(現伏木勝興寺の旧跡)を作り、高木場(高窪)に移り、小原道は加賀、越中の交通要地で、この道筋にちょんかれ節が唄われ、報恩感謝の盆踊唄と伝えている。
盆踊りの場所は浄福寺(水落)、勝満寺(水島)、清月寺(芹川)が多く、9月の地蔵祭が最後であった。歌詞として次の如くである。
浄瑠璃風のもの…仮名手本忠臣蔵、太閤記、勧進帳、源平盛衰記等
仏教説話風のもの…目蓮尊者、釈迦八相記等
武勇風のもの…平井権八、岩見重太郎、鈴木主水、石山合戦等
人物風のもの…八百屋お七、箱根仇討等
この中で特に好まれたのが、「目蓮尊者地獄めぐり」「鈴木主水」「八百屋お七」等である。
福光町ちょんかれ保存会
ちょんがれ 『目蓮尊者 全五段』『石山合戦』『清八おつじの恋ものがたり』『蜈蚣(百足)退治』『鈴木主水 上・下』『八百屋お七 四段目』『平井権八 岩屋の段』『雲州作兵衛白石囃』『宮本武勇伝』
からくち 『俵藤太縄ケ池伝説物語』『けいけいづくし』『八百屋お七物語』『青物づくし』『草づくし』『国づくし』『赤間ケ関和尚おとし』等
城端ちょんがれ保存会
庄川町五ヶ種ちょんがれ保存会
石川県のチョンガレを、『石川県民謡』から引用すると
じょんがら…野々市町、鶴来町、能登町、寺井町、鹿島郡中島町、輪島町
ちょんがり音頭…河北郡津幡町、羽咋市神子原
ちょんがり節…輪島、珠洲、鳳至郡柳田
歓喜嘆…野々市町、河内村
蓮如おどり(シャシャムシャ)…加賀市塩屋町
この他に、能登時国の盆踊り、福井県芦原町浜坂の盆踊り、石川県白峰村桑島の「じょうかべ」の口説きなどのチョンガレがある。
北陸の福井、加賀、能登半島、富山県呉西地区の分布をみると、蓮如時代と言えなくとも真宗と深い関連がみられる。
チョンガレ節は一般に浪花節の前身とみられて、説教祭文から変化してきたと解されたが、特徴は節(フシ)が早口で軽快になり、冗談を交じえて人を笑わせ、独特の台本もできた。ときに浄瑠璃の一部を口説きにしたものが語られ、台本は古いもので、節だけチョンガレのものもあった。チョボクレ チョボクレ、チョンガレ チョンガレのはやし言葉も入るが、その発声法は「へばり声」と言われて、祭文も、チョンガレも、浪花節も同じとされている。また浪花節の節廻しは義太夫、祭文、歌舞伎の声色にも取り入れられ、近畿地方の盆踊り「江州音頭」にも取り入れられた。
浄土真宗の色が濃いのは、浪花節への以前に、浄土真宗の唱導に利用されていたらしく、『綽如上人記五段次第』『釈迦八相記ちょんがれぶし』『石山合戦ちょんがれ』『目蓮尊者ちょんがれ』『童子丸』『親鸞経』等が有力なものである。こうしてみると、チョンガレ節の民謡史上の位置を理解することができる。  
民謡と方言
越中民謡が西から流入したものを根幹に持つとする見方があるようだが、単に民謡の問題だけではなく、さまざまな暮らしぶりにも上方文化が色濃く投影している。
親不知(おやしらず)という交通の難所があり、藩政時代には越後の人との結婚が許されなかったという歴史的背景などもあって、生活圏が分断されたことから、富山が西部方言の東限と位置づけされることは十分にうなずける。
しかし、北前船の中継地として、また売薬の事業や北洋漁業などを通じて各地との交流もあったわけで、北陸道の行き止まりのようなこの地方が、さまざまな文化を咀嚼しながら独自の言語文化を醸成させたと見るべきであろう。
また、古事記・万葉集をはじめ古典文学などに登場する語彙(ごい)が富山方言の中に散見され、地方に古語が残るという方言研究での定説を裏付けている。そして、出雲方言と我々のことばに共通項が多いのは、古代からの交流の歴史とともに、民謡の伝播ルートを物語るものなのかもしれない。
200を超える富山県民謡のほとんどが地元の自然発生的なものではなく、海路・陸路を通じてもたらされたものだとする見方が一般的である。そして、五箇山民謡の一つ「古代神」が新潟県十日町の「お助踊り」の伝承であり、県内各地に広く分布する「荷方節」も越後から伝わったものらしいという記述もみられる。(『とやまの民俗芸能』伊藤曙覽)
新潟県境付近に東西方言の対立があると述べたが、例外的なケースとして「…サカイ(…だから)」という関西方言は、「サケ」「スケ」「ハケ」などと転訛(てんか)しながら日本海を北上し、津軽から岩手県北部にまで到達している。まして民謡の世界では方位的な仕分けは考えられないだろうし、歌い継がれた長い年月の間に地元のことばに裏打ちされ馴化(じゅんか)しているので、単にアクセントや語彙の面からそのルーツを手繰ることは困難である。もちろん、題名・文言・曲調などからの推論が重ねられてきている。
今回は、音声資料(♪)とともに、それによって書き起こされた歌詞の方言語彙を取り上げ、分布などについての考証を試みることとする。(< >は分布。『小学館の日本方言大辞典』に拠る)
さんさい踊り 富山市
♪…いちゃけ のこらず あいらしや イチャケ=古語「いたいけ(かわいらしいさま。可憐な様子)」の転。(京都・福井・石川・富山)
♪…ジョウセン 買(こ)うてもろて… ジョーセン=「地黄煎飴(水飴)」。関東以西、ジョーセンは関西系訛言。
♪…しょーらい まかのて… ショーライ=「精霊(しょうりょう)迎え火」のこと。各地に迎え火の風習はあるが、松明(たいまつ)を振りかざして呪文のように唱えるのは富山市中心。発声的には「招来」のように聞こえる。<富山> マカノー=「まかなう(用意する・やりくりする)」の音便。
♪じしろがそろた… ジシロ=地白(白地の布。白無垢)。方言としては「浴衣地」の意味で青森・津軽地方にある。また、
♪…紺屋が焼けて盆のカタビラ(湯帷子の略)白で着た…と歌われており、昔の浴衣は染めに出したことが分かる。
このことは、おわら節の古謡にも、
♪盆のカタビラ白で着しょう…
♪浅黄染めとはオワラ藍足らぬ…
などと歌われていて、昔の踊り手の浴衣へのこだわりなどが窺(うかが)い知れる。
♪るすごとせまいか… ルスゴト=「留守事(主人の留守にご馳走を作って食べたり、人を招いて振る舞ったりすること)」。<佐渡・彦根・山口・福岡>などに分布するが、足利期の『看聞日記』など、古典にも登場する。
♪…島の徳平の よめ 見まいか マイカ=特徴的な富山方言は…マイケ。マイカの語形は中部・関西以西で広く使われてきた。♪「目こそへがなれ」は「斜視だけれど」の意味で、美人の嫁さんをやっかんでいるようだ。
田植え歌 新川地方
中世歌謡の姿を留めるといわれる田植え歌が多い新川地方。〔注〕田植え歌の主流は近世になって、七・七・七・五と定型化した。(『とやまの民俗芸能』)
入善町のものに次の一節がある。
♪田ろじのあねまが、どれがそうじや…
♪田ろじのでゃさまが、酒好きで…  タロジ=「田主(たあるじ)」の転で、(1)農作業の中心となる人のこと。田植えに苗を配る人。[栃木・愛知](2)主人。[長野諏訪]など。平安期『栄花物語・御裳着(おんもぎ)』に「田あるじといふ翁」として登場する。デャサマ=他人の妻の尊称。黒東地方の呼び方。県内一円はジャーマ(卑称)が主流をなしている。
断定・強調・命令などを表す助動詞の「…だ」に相当するのは、県西部は「ジャ」または「ヤ」、中部は「ヤ」または「ダ」であるのに対して、東部は「デャ」という発音が中心。その傾向が「デャサマ/デャーサマ」にも出ているようだ。
田植え歌 宇奈月町
「シデの木」が詠みこまれている。これは「椎(しい)の木」 の新潟方言で、
♪越後のげやの橋、だりゃ架けた…  の歌詞とともに越後からの伝来を示す証左。しかし、どこからの移入であるにせよ、同じ歌の一節、
♪田のじの嬶マはベショじゃそうな…
♪田のじの兄マはダラじゃそうな…
をみると、ベショ(バカ女)は最も強烈な卑称で、ダラ(愚か者)とともに生粋の黒東方言で歌われていることに注目したい。また、「タロジ(田主)」はさらに訛(なま)って「タノジ」と変化している。
また、この一連や入善町の唄に「花がサス(咲く)」と歌われているのは関西方言の特徴である。ことばを重ねれば、ルーツの如何によらず、その土地のことばで歌い継がれることによって、初めて郷土民謡ということになるのではないだろうか。
はたおり唄
かつて製糸業が盛んだった東部の黒部・上市、西部の福野・福光・城端・五箇山などに、糸くり唄が多い。その一つ、
糸ひき唄 黒部市
♪あねまどこへいかす きんばたおりに おらもいきたや くだまきに ブンブンブン  アネマ=若い女性。キンバタオリ=絹機織りの転。イカス=行かれるの意味。語尾の「ス」は古語の助動詞(親愛・尊敬)で、下新川地方の方言の特徴を示す。クダマキ=(糸車の莞(くだ)を巻く音がブウブウと音を立てることに結びつけ)酒に酔ってくどくどいう意味なのだが、上方の紡績工場へ出稼ぎにゆく娘たちに対する「口説きごと」なのだ。屈折した若者の気持ちが、ブンブンブンという莞(くだ)巻きの擬音語に出ていて面白い。
手投げ機(はた) 城端町
♪うたは百ありゃ九十八まで色のまじらぬうたはない
などと、機織り娘を中心に置き、若者たちの「性」を明るく歌いあげている。
♪人の殿とるわしゃ悪けれど とられるあんねゃまの かいしょなし
浮気をして開き直っている。アンニャマに注目。富山市周辺のアンニャ(おまえ・貴様)の元になる訛言で、五箇山地方ではアンニャが敬語に近いことばとして使われているので興味深い。
また、機織りを企業化した先駆者が福井から機械と技術を導入したという背景があり、
はたおり唄 福野町
♪チョイナチョイナはどこから流行る
これは越前福井からの文言に納得させられる。しかし、この一連はすべて砺波方言である。
♪おっさまよいとは いかがなことじゃ おっさま新家新所帯  オッサマ=次男以下の男子。越中と加賀のことば。また、新家は、アラヤと読めば福井方言で、アライベないしはシンタクだとすれば富山方言となる。
題名は不詳だが、同じ福野町に、
♪腹が立ったらうたでもうたえ うたは苦界の理をつめる
「理をツメル」の意味がよくわからないが、苦界は公界ではないだろうか。世間の義理やしがらみのこと。それをしのぐことができると取るべきか。公界に立つ(役に立つ)・公界に立たん(世間しらず)・公界餅(つけとどけの餅)など、砺波地方ではよく使われてきたことば。
♪御坊の坊やさ罰あたらぬか 上がる御仏供にととそえて
真宗王国といわれる富山。そのお寺で、オブク(仏飯)のお下がりに魚のおかずというのは穏やかでない。生臭坊主の若はんを皮肉たっぷりに歌いあげてのうっぷん晴らしだろう。別の唄のサンマイ(三昧=火葬場)などとともに富山方言が随所に散りばめられている。
布施谷節(ふせんたんぶし) 黒部市・魚津市
能登の業者が船で鮮魚を魚津へ運び、振り売り(天秤棒で担いで売り歩く)しながら歌ったのが、伝来のルーツだという。歌詞は農耕・機織りなどの作業唄が多く、恋歌などもあるが、信仰に関する次の1首を引く。
♪寺にまいっらっせんかわが師匠寺へ 四升に一升足しゃ五升になる
師匠寺は、菩提寺のこと。師匠と四升はかけことば。五升は「後生(来世)」に通じ、信心深い人を「後生願い」といってきた。これに類するものは越中おわら節にもあるようだが、方言としてみれば気になる箇所がある。
字数の上から、師匠寺はシショージと歌うのだろうか。富山では、住職のことを「オッショハン(師匠)」と呼ぶが、シショージとは言わぬ。ところが、岐阜(シショーデラ)や島根(シショージ=美濃郡・益田市)でも菩提寺の意味で使われているようだ。語源については「僧侶が師匠となって寺子屋を開いたことから」(『島根県方言辞典』)があり、当地では「仏道の師僧=お師匠」とみられている。
マイッラッセンカ(お参りしませんか)の原型、マイラッセル(お参りになる)は愛知・岐阜の用法である。魚津・黒部では「参る」の敬語表現は「参らす」となるが、この場合の言い方だと「マイラッセンカ」は「マイラッシャランカ」になるのでないだろうか。
布施谷節が能登からの伝来だとしても歌詞の文言には若干の違和感がある。
小代神(しょうだいじん) 平村
♪聞いてサーエ やりたい子守の口説き
一つ他人より早よ起きにゃならぬ  二つ双生児の子守にゃ困る  三つ見ん間に池やせんちゃ(雪隠)囲炉裡の壷や湯鍋や石垣 危い所へ這うて行くにゃ困る  四つ夜なべに椀皿洗いや 素風呂の火とり雑仕せにゃならぬ  五つ何時もかも 食いさし残りや こぼいた飯拾うて食わにゃならぬ  六つ無理を言わずに 気長にかって歌でもうとたり 何でも喋ってだましてすかしてなだめにゃならぬ  七つ泣き声一つで腹が減ったか お腹が痛いか 虫が刺したか おしめが濡れたか 眠たて泣くのか聞き分けにゃならぬ  八つ痩せた子 おとみ子 いがんで泣いたり甘えて駄々こね やんちゃまくのに困る  九つ氷の寒中おしめ洗いや つづれのバットコ洗い干しに困る  十はとても辛抱は難しゅうござる 生まれ里へ返ろうと思う サーエ
雪隠=せっちん→センチャ→ヘンチャと転訛。便所のこと。素風呂=「据え風呂」の転。す風呂。おとみ子=年子でなくても、次の子ができると、上の子がかまってもらえなかったり、お乳がもらえなくてぐずついたり、体調を崩すこと。乙見患い。バットコ=(綴れ織り)綿入れの半纏(はんてん)。
この唄は「子守の愚痴」にことよせ、子育ての苦労を女性の側から訴えた口説き節である。ことば自体のあしらいは練れたものではないが、深みのある方言で切々と歌いあげており、貧しかった農山村の暮らしぶりが背後に見え隠れして心に沁(し)みる。
老人がバスを降りようとして、しきりに何かを探している。足元に小銭入れが落ちているので声をかけると、「こりゃ気の毒な。おらが探ねとるがに…財布も返事してくれりゃいいがに」という返事が笑顔とともに返ってきた。車内は明るい笑いに包まれた。巧まざるユーモアと心温まる方言との出会いである。
簡明なことばで意思を伝える。言いやすい方へ訛る。相手をソフトに包みこむ。そんな方言の特性が民謡の中には十二分に盛り込まれている。
富山方言の「ガ行」の多くは鼻濁音になり、やわらかい。また、さまざまなことばが音便変化してしなやかな風合いを生む。「返事してくれりゃいいがに」といったバスの老人の「口説き」も民謡の要素の一つである。
越中おわら節の歌詞には共通語の語句が多いといっても、お囃子は格別だ。
♪うたわれよ− わしゃはやす
「歌われよ(歌いなさい)」というのは尊敬の助動詞「れる」の命令形「れ」+助詞「よ」が付いたもの。敬語なら「歌われませ」となる。江戸時代までは全国で使われていたが消滅した。富山県と岡山県にだけ残る珍しい語法で、親しみをこめた独特の言い回しである。このイントロで、歌い手と囃子方の心は一つになる。
伝播ルートがどうであれ、元歌の歌詞がどうであれ、在所のことばで歌われてこそ「郷土の民謡」なのである。
♪来る春風氷がとける 嬉しや気ままに オワラ開く梅 
伝承される民謡
伝承しなくてはならなくなった大衆芸能
いつの時代も若者は恰好のいいことをやろうとするものである。
民謡に限らず、あらゆる大衆芸能を支えてきたのは若者である。現代でいえばロックやジャズなどがそれであろう。
かつて三味線が恰好良かった時代があった。それがいつからか、若者から縁遠い楽器になり、今「伝承」の必要が叫ばれている。再来年から文部省学習指導要領が一部改訂され、中学校の授業に三味線をはじめとする和楽器が導入されることになっている。
私は富山市の旧市街地で生まれ育った。かつて「東新地(あずましんち)」と呼ばれた街に隣接した場所だ。東新地とは遊郭や飲食店などからなる歓楽街、世にいう「色街」である。そうした街であるから清元や常磐津(ときわず)などがあふれていた。私は三味線に魅せられ、端唄(はうた)の先生から三味線を習った。当時、三味線を習いにいきたい、と親に言うと叱られたものだ。芸人は不良だと思われていたからだろう。三味線を教育委員会が推奨する現代から見れば隔世の感がある。
現在、民謡をはじめ伝統芸能と呼ばれている芸能は衰退している、と言い切っていいだろう。民謡、浄瑠璃、日本舞踊など大衆芸能として発展してきた芸能を国がかりで保護しなくてはならなくなっているのだ。
「うたは世につれ、世はうたにつれ」という。これは大衆芸能の盛衰を表している。恰好の良いもの、面白いものだと、若者たちが感じていれば、無理に伝承しなくても自然に今もあったはずだ。
では、なぜ若者たちは日本の芸能に見向きもしなくなったのか。
このことを考えなければ、これら芸能の「伝承」は難しいだろう。学校で、三味線や尺八の奏法を教えるだけでは、面倒な科目が一つ増えた−で終わってしまうだろう。
自らを縛ってしまった民謡
「民謡」という呼び名は昭和の初めからだと、記憶している。それまで「俚謡(りよう)」と呼ばれることもあったが、ジャンルとして扱うことはあまりせず、「越中おわら節」「麦や節」などと、それぞれ個別に曲名で呼んでいたことが多かったように思う。
また戦後、使われるようになった言葉に「正調」という言い方がある。この「正調」が生まれた背景には、大衆芸能である民謡を、伝統芸能と呼ばれるものに仲間入りさせてもらおうという考えがあったのだと思う。
ご存じのように民謡と呼ばれている歌のほとんどは、他の土地の歌や説教、浄瑠璃、歌舞伎などさまざまな芸能が互いに影響し合う中で育まれてきたものだ。行商人や旅芸人、江戸・上方など都会へ行ってきた人らが持ち込んだ最新の流行、面白い歌詞や踊りを取り入れて自分たちの歌と混合、融合させた。
現在、民謡の伴奏編成は三味線、太鼓、尺八が一般的だが、封建社会の農村部にそのような楽器が数多くある訳がなく、ある時期に浄瑠璃や新内(しんない)などを真似て取り入れたか、他の民謡に右倣(なら)えで三味線や尺八を使う編曲に変えている訳だ。
そこには自由な感覚があったはずである。自分たちが演奏したり踊ったりする芸能に取り入れて、より楽しめるものに作りかえることに何の遠慮もなかった。その作りかえの担い手は、新しいことや恰好いいものに敏感な若者たちであっただろうと想像できる。「福光めでた」など「めでた」は日本全国にあるし、「新川古代神」の歌詞のまくらの部分も「八木節」をはじめ数多くある。現在、「正調」と言っているのは、長い間ずっと姿を変え続けてきた歌の、ある時期、ある時点を「正しい」型として決めてしまったものだ。自由であったはずの歌の広がりを、たった半世紀前に自ら窮屈に限定してしまったのだ。
歌は世につれて変わらなくては価値がないといっているのではない。また、完成された芸能を否定しているのではない。
古くから伝わる歌には当時の生活や風俗、昔の人たちの美意識や、ものの見方など歴史として学ばなくてはならないものが詠み込まれているし、残し伝えるべき素晴らしい節がある。ただし、それを「正」とするのではなく、「古調」とした上で、伝えるべきだ。
同じく戦後、全国各地で始まった民謡のど自慢コンクールにも功罪の二面がある。
かつて舞台に上がって人前で歌をうたえるのはプロの芸能人だけだった。人はだれでも歌は好きなものである。のどに自信のあるものは大勢の聴衆の前で、思い切り歌ってみたい、という欲求が昔も今もあるだろう。のど自慢コンクールはこうした欲求に応えたイベントだ。
のど自慢コンクールはラジオ放送、後にはテレビ放送も盛んになり、戦後の民謡ブームの火付け役になった。民謡愛好者人口は増えていった。
しかしながら、のど自慢コンクールは公衆の面前で歌うものであり、ましてや放送するものということになると、表現内容は制約される。エロチックなものや反社会的なものを描いた歌詞は一切排除された。また、この歌はこのように歌うべし、というコンクール向けの定型が次々に現れた。民謡を高級な伝統・古典芸能の仲間入りさせようという流れと一緒になり、民謡を無害で現実味のない芸能にしたのではないだろうか。
民謡は本来、庶民の日常を映していた。どの土地の歌にも生活に潤いを与えるための笑い、男女の仲を描いたもの、社会に対する不満を表した表現がたくさんあったはずだ。若者たちはそれに共感し、また新作も生み出していったのだと思う。表現の制約が民謡を若者たちにとって魅力のない退屈な芸能にしてしまった、といえはしないか。
若者に伝承したい「感覚」
明治〜大正〜昭和の初めまで、大衆芸能の王様は「浪曲」だった。私の同級生でも浪曲師になりたくて、親の反対を押し切って木村流に弟子入りした者もいた。
浪曲は明治期に生まれたものだが、他の日本の芸能と同じように、さまざまな芸能が影響し合う歴史の中で出現したものだ。祭文、説教、浄瑠璃、ちょんがれなどの流れにある。芸の形こそ違え、室町時代あたりの中世から受け継いできた感覚を持つ芸能が、約半世紀前まで芸能の王様として大衆に受け入れられていたのだ。
端唄という都会の音楽から三味線を始めた私も浪曲を楽しんだものだ。そして田舎のにおいがする民謡という音楽にも面白みや、ある種の粋すら感じた。これらは違うジャンルではあるが、どれも理解できた。共通の感覚があるからだ。今の若者たちは昔くさく、また退屈にさえ感じているだろう。この感覚は、半世紀前まで、ずっと日本人がもっていたのではないだろうか。
私たちの生活はこの五十数年で大きく変わった。生活様式が短期間にこれほど変わった時代はかつて無かっただろう。民謡に描かれている風景はなくなり、地域社会や家庭での人間関係も変わった。民謡も含むかつての大衆芸能が描いている物事は分かりにくくはなっているだろう。しかし、中世から(中には古代から)時代の波を乗り越えて半世紀前まで受け継がれてきた芸能だ。現代っ子にも理解できるに違いない。
歌われている内容、その背景を解説する努力が、まず必要だ。民謡の歌詞に登場する方言は別にしても、歌詞の意味が今の若者には理解しにくいであろう。民謡に限らず、歌舞伎や文楽など大衆文化として発展してきた芸能で使われている言葉は、かつて特別な教育を受けていない庶民でも理解できた言葉だった。それが今は若者に限らず分からない人が多い。また、そこに描かれている風俗の説明、時代背景などはいうまでもなく、芸能の鑑賞の仕方を伝えなくてはならない。
また芸能は「悪所」と言われる場所を舞台にしたものや、アウトローの生き様や男女の恋愛などをテーマに扱ったものが多い。当然、民謡にもある。半世紀前に闇に葬り去った、この部分を避けては偏った歴史を教えることになる。今の若者たちが熱中しているロックなどがそうであるように、いつの時代も若者が関心を持つテーマだ。「臭い物にはふた」では駄目だ。昔の人たちも自分と同じようなものに感動し、同じことに悩んだのだなあ、という共感が現実味を帯びて迫ってくるはずだ。
21世紀への期待
現在、私が理事長職を務めている北日本民謡舞踊連合会が主催する民謡大会には数多くの子供の出演者がいる。また、富山が誇る「越中おわら節」をはじめ北海道、東北地方、沖縄県には大勢の若者が積極的に参加している民謡がたくさんある。しかし、それは全体から見れば一部にしかすぎない。珍しいから皆が注目するのだ。圧倒的多数の人たちは民謡や他の伝統芸能とも、まったく接触することすらない生活をしている。
「サツテモ節、のちに十日町小唄」「ちゃっきり節」など「新民謡」というものがつくられた時期があった。新民謡には楽しく、いい曲が数多くある。その土地その土地の名所や特産品などを歌詞に盛り込んだご当地ソングだ。これらを故郷の歌として奨励し、学校での踊り講習をするなビ普及に取り組んでいるところも多い。
しかしながら全国的にみると、そもそも伝承する「唄」がないところが大半だ。
自分の生まれ育った町に残っている歌がなくてもいい。日本全国に数多くある歌を我々の共通の財産として大切にすればいいのだ。
学校教育は日本の芸能をほとんど無視し続け、西洋の古典音楽を中心とした音楽の授業を続けてきた。三味線を見たこともないという子供は多いだろう。その反省から実施されることになった和楽器の授業だが、その奏法を教えるだけではなく、接することがなくなった民謡など日本の芸能を鑑賞できる機会を多くつくってもらいたい。そこから芸能を通じての世代を超えたコミュニケーションにも期待したいものだ。
若者たちが日本の芸能の素晴らしさに気づけば、21世紀には新しい民謡が次々と生まれるかもしれない。 
 
民謡

 

民謡は世界各地に存在する民俗音楽の1つであり、主に口承によって各々の土地に伝わる伝統的な歌唱曲を指し、ほとんどの地域で独自の民謡を有し、各々の文化の発展と非常に密接だと考えられているのだが、その起源の特定は難しいようだ。日本民謡の場合、各地で庶民の間に歌い継がれてきたもので、歌だけで伴奏のないものが多い。またリズムや拍子等は不規則なものが多く、土地や気候など外的要因もあってテンポも様々、曲調も様々であるが、古代より我々の心中に根付いてきた民謡だけあって、心を強く打つような、不思議な魅力に溢れている。民謡は伝播の流れにより曲風が類別できるようなので、本土の民謡とそれ以外の標記のものを中心に歴史を振り返ってゆこうと思うが、まず民謡の位置付けについて触れておこう。
民謡(みんよう)とは民衆の間で歌い継がれてきたもので、楽譜を用いないことが世界的に共通する特徴であるが、このことは音楽専門家が作曲したものではなく、歌い手が即興で歌詞や旋律を自由に改編してきたであろうことを意味する。演じられる場は祭祀儀礼・年中行事等、社会生活様式と密接で、歌い手側による基本の主旋律は伝統的な音楽様式を保ちつつ継承されるが、聴き手側による合いの手風の掛け声(いわゆる囃子言葉)や舞踊等が、歌唱部の非言語部分として重要であり、歌を引き立たせ、賑やかな雰囲気を創造し、また歌の情景や情緒を具現化している。これらは日本民謡についても言える特徴であるのだが、現在の日本民謡は社会生活を離れ、稽古事や民謡歌手が舞台で演じる芸能の1つとして独立したジャンルと見なす傾向が強くなってきているという。いずれせよ以前は聴き手の積極的な関与が民謡の展開・発展に大きく寄与した訳であり、この「囃子」という概念は能楽が発達した時期である室町時代に初めて誕生するという。演奏であれ、言葉であれ、様々な囃子が創造される端緒に、いわゆる「能楽囃子」が基にあり、江戸時代初期〜中期頃には各地の祭りで祭囃子が演奏され、また歌舞伎における歌舞伎囃子が演奏されるようになったという。日本民謡の囃子は上述のように始まったようだが、囃子の概念は日本特有ではなく世界共通のものであるようで、囃子という語は用いられないが、世界の民俗音楽の中には合いの手や囃子のような音楽が入るものが存在するのは不思議な感じがする。 
民謡という語の起源
民俗音楽の代表格として今では世界共通語のようになっている「folksong」の訳語として日本で定着した語であり、古くは「俚謡(りよう・さとうた)」「風俗(ふぞく)」「鄙歌(ひなうた)」などが同ジャンルを指す言葉として用いられ、また概して小歌や俗謡、地方・在郷歌に含められていた。「童歌(わらべうた)」や子守歌などという子供向けの歌が多いためか長らく研究対象とされず、西洋文明が入ってきた明治時代の中期、志田義秀が著した「日本民謡概論」で初めて学問の対象となり、この語が使用されたというので、民謡という語の歴史はまだ短い方である。レコード・放送業界で「民謡」という語が定着するのは戦後のことで、「田舎歌」を指す「俚謡」の差別的な印象を避け、「民謡」の文字が使用されるようになったという。こうした呼称の定着とほぼ同時に、自然発生的に生じた歌は「伝承民謡」、作者が明確な田園歌謡的な創作曲は「新民謡」と区分されるようになった。 
民謡(主に伝承民謡)の歴史
伝承民謡の多くは踊りを伴って誕生し、農民の慰安の意味も持ちつつ農村で発展したもので、特に厳しい自然環境に翻弄されながら僅かな道具と低い技術で物を生産していた人々が、農作物の無事や成功等を神仏に願う「対神仏歌(たいしんぶつうた)」に起源を求めることができるという。これは「祝い歌(いわいうた)」の通称で知られており、四季を通じ、自然崇拝的な土俗信仰の中で神仏へ捧げる歌として巫女(みこ)や神楽師、祈祷師らが当初うたっていた祝詞(のりと)風のものであった。自然が人間に及ぼす威力に尊敬や畏れを抱いていた農民らはこれを模倣し、農民達自らが祝い歌として歌った「季節歌」が生まれた。農民達の生活が四季に左右されることから「四季崇拝」が生まれ、「春歌」「夏歌」「秋歌」「冬歌」の4つを定め、各々の季節を無事に過ごすための「祝い歌」とし、季節毎に同じ歌をその季節に捧げつつ行動し、年中行事として定着していった。このように民謡を作り出し、歌い継いできたのは個人ではなく集団であるため、日本人という民族意識の底にあったであろう生活意識を民謡の中に見ることができる。
古代の祝い歌には「はつせ」「これさま」「目出度申し」「芋の種子」「蕎麦の種子」「大根の種子」等があり、現存しているものには古くは室町時代頃まで遡ると言われるような歌が全国に広く分布している。この頃の祝い歌には違う歌を用いたら凶作がくるというようなタブーもあったというので、歌の持つ意義が現在の民謡とはかなり違ったものであったことが想像できる。
その後、同じ歌でも用いる人の職業・目的・場等によりリズムや節回しの変化が生じ、歌の分化が起こる。分化した後に型が整えられ、各々の環境に適した曲名・歌詞が付けられ、独立した歌として存在するようになる。現在、日本民謡全体を明確に区分する分類体系が確立されていない状態であるが、民俗学的視野を基礎として現存する民謡の実状に即しているとして最も一般化されている民俗学者・柳田国男が発表した民謡分類法を紹介してみる。 
1. 田歌畑歌も含み、畠歌・田打歌・田植歌・草取歌・稲刈歌・馬使歌等があるうち「囃子田(はやしだ)」が有名。いわゆる「田植歌」のことであり、日本列島を縦断して全国に分布している歌である。サンバイ等と呼ばれる音頭取りが歌を歌い、囃子手が太鼓を叩き、早乙女(さおとめ)達に苗を植えさせるもので、サンバイの「サ」、早乙女の「早(さ)」は田の神を意味する。今日でも太鼓・笛・鉦(かね)などを鳴らしながら行う大田植えは、中国地方の山間部にほぼ完全な形で伝承されており、形式的に平安時代の絵画に描かれたものと大差がないというから必見である。
基本は水田稲作の調子、安心感や安らぎのあるゆったりとした2拍子のリズムで、水田・畑で農作業を行う時、両手両足を交互に使って前進・後退を繰り返すことに基づいている。狭い村の集落において日常の歩行以外に躍動的なリズムに出会うチャンスが非常に少なかったと推察でき、慎ましく目立たぬよう腰を落とし静かに歩くという日常的な身体の使い方により、自然な形の2拍子のリズムが形成されたと考えられている。
2. 庭歌屋敷内の作業場での仕事に伴う歌で、麦打歌・稗搗歌・麦搗歌・臼挽歌・粉挽歌・糸引歌(糸繰歌)・籾摺歌等があり、リズムは作業の調子に合う2拍子のリズムである。日中の庭仕事であるため明るい歌詞が多い。
3. 山歌山林原野に出て歌う歌で、山行歌・草刈歌・木おろし歌・杣歌等がある。野山へ作業に行く道中の馬の背で歌ったものや、作業中に歌う歌、また山仕事中の掛け声などがある。なお山村民の弾むようなリズムを持つものの代表として神楽があり、日本各地の山村に多くの神楽が存在するのだが、その動きには地形的な要因が大きく、膝・足首等を柔軟に用いる身体の使い方と共に呼吸法も上手いという。
4. 海歌水上の生活、一般の水産作業に伴う歌で、網起歌・舟歌・網引歌・船引歌・鯨歌等があり、特に舟を漕ぎながら、あるいは船を引きながら歌う歌が多い。漁労民のリズムとして波乗りのような上下のりズム感を用いており、九州・瀬戸内等の漁労民は共通のリズム感を有するという。瀬戸内では稲作文化の影響も強く、「阿波踊り」等は腰を落として手足でリズム感を出すので、2つのリズムが重なって創り出されたと考えられている。
5. 業歌特定の職業に携わる人、いわゆる職業専門家が歌う歌で、木挽歌・綿打歌・茶師歌・酒屋歌・仕込歌・舟方節・土方節・石かち歌・鉱掘歌・鋳物歌・炭焼歌・大工歌などがある。特に山で作業をする木こりの情景を描写した木挽歌は全国的に存在するが、共通してシンプルで開放的で、力強くのびのびとしたメロディーが多い。また酒屋歌は酒所に多く点在し、新潟・湯沢市では「全国酒屋唄競演会」が現在も恒例行事となっている。
6. 道歌馬方歌(馬子歌)・牛方歌・木遣歌・道中歌・荷方節等があり、特に「馬子歌」は東北地方には現在全国的に愛唱されているものが各地に残り、「馬子唄」「馬方節」「馬喰唄」等の名称で親しまれており、更に場面別に分類すると「駄賃つけ唄」「夜曳唄」「祭礼馬子唄」「朝草刈唄」等がある。「牛方歌」は港を往復し塩・魚・雑貨等を牛の背に積み運搬する道中に歌われたものと、放牧された牛を守りながら歌う牛追い歌に分けられる。「木遣歌」の木遣は、大きな岩・木材を掛け声を掛けながら大人数で引くことで、皆の士気を高め、力を合わせるために用いられた。
7. 祝歌座敷歌・嫁入歌・酒盛歌等があり、「祝儀歌(しゅうぎうた)」とも呼ばれる。安全・成就等を祈願・感謝し、神に捧げる歌として年中行事・慶事に際して歌われるもので、ハレの歌詞内容を有する歌である。嫁入り・家移り・酒盛り歌などが代表的であるが、歌詞内容が相応しければ労作歌でも祝儀歌に転用されるものも多い。「正月事始(ことはじ)め祝い歌」「節供祝い歌」「作神(さくがみ)祝い歌」「祝福芸祝い歌」「祭礼祝い歌」などは年中行事として用いられ、その後、事を始める際の成功を祈る「開始祝い歌」や、終えた際のお礼として「終了祝い歌」も生まれ、農作中心の生活様式を背景に「収穫祈願歌」「収穫祝い歌」が定着した。農作中心の祝い歌が、やがて漁業等にも流用され、更に人の成長過程に当てはめた「人の祝い歌」として「お七夜祝い歌」「成人祝い歌」「婚礼祝い歌」「厄年祝い歌」等が誕生した。死者への「枕念仏(まくらねんぶつ)」等もこれら「人の祝い歌」の一種と見られている。
なお「長持歌」とは「箪笥(たんす)長持歌」等とも呼ばれるように婚礼の際の花嫁道中に用いられ、武家諸法度で規定された大名行列の荷物運びに街道筋の農民らが「助郷」として参加した際、習い覚えた「長持担ぎ歌」が原型になっているという。農民らが村へ戻って花嫁行列を大名行列に見立てて歌ったという成立背景から、全国各地で同じ様な節回しで歌われているのだが、北海道と沖縄にだけは江戸幕府の支配が直接及ばなかったため「長持歌」がない。
8. 祭歌宮入歌・神迎歌・神送歌・念仏歌等があり「宗教歌」とも呼ばれる。特に有名なのが沖縄エイサーの念仏歌である。浄土宗系の僧が琉歌念仏を作り、節を付けて民衆に広め、次第に豊穣祈願や恋歌などの要素を伴いつつ振り付けが加わり、芸能色が強くなったものがエイサーである。
9. 遊歌盆歌(盆踊歌)・正月歌・踊歌・鳥追歌等があり、中でも盆踊歌は全国的に存在する馴染みの深いものである。西日本では「盆踊口説(くどき)」とよばれる七七七七調か七五七五調を繰り返す長編の歌で、音頭取りが延々と語り、踊らせる歌である。東日本では「甚句」と呼ばれる七七七五調の歌で、音頭取りなしで踊り手が交互に歌うことから「順コ」が転訛して「ジンコ」から「ジンク(甚句)」となったと考えられている。なお中部地方では「盆踊口説」「甚句」の双方が混ざり合って共存している。
10. 童歌数え歌・手鞠歌・お手玉歌・子守歌などで、子供によって歌い継がれてきた歌や、子供に歌って聞かせる歌で、遊びに伴うものが多い。親子間で伝統的に継承されてきたものであり、遊び歌以外にも年中行事・自然・動・植物を扱う歌等がある。なお子守歌は労作歌に含むとする考えもある。
以上の10種類に分けられるが、目的で分けると1〜6は労作歌、7・8は祝儀・祝歌、9は踊歌、10は童歌のジャンルとする分類もあるので、数も多い「労作歌(ろうさくうた)」だけ補足しておく。労働に伴い、効率良く作業を行う目的で広く歌われるもので、仕事歌・労働歌としての意義を有する。各地に伝承される田植歌・綿打歌・米つき歌などは労働のリズムを模倣した拍節を有し、長持歌・牛追歌などは労働に対する休養として歌われる。灘酒屋歌のように作業工程を歌詞に織り込んだものもある。上述の分類は、転用や酒宴に興を添える座敷歌として定着したこと等により、かなり錯綜しており、実際は一概に区分できないものも多い状態である。
音楽様式からの分類によると、八木節様式と追分様式とに大別できるとされる。「八木節様式」八木節に代表され、明確な拍節を有し、音域が狭くて単純な旋律・有節で、単純な動機を繰り返すこと等が特徴である。地搗歌・網引き歌等の労作歌や盆踊歌などである。八木節様式の曲は、集団で歌われることも多い。「追分様式」江差追分等のように拍子が存在しない自由リズム、装飾的歌唱法であるメリスマ的な歌い方が用いられ、広い音域を有すること等に特徴があり、馬子歌がこの様式に含まれる。追分様式の曲は歌い手に高度な技巧が必要とされるという。 
さて話は歴史に戻る。
現在一般的な「民謡」の直接的の起源を求めるなら、近世初期・江戸期の77775調の流行後と言える。都会で流行したものが人々の移動と共に地方に伝わり、ある程度の期間を経て再び都会へ紹介されるという伝播の過程をとるため、その過程で新しい歌詞・旋律・リズムを部分的に改編した結果、類似の旋律を有するような歌が異なる地方で散見される訳である。また江戸期は生活様式の転換期でもあり、江戸中期、農業技術の飛躍的発達に従い、安定した収穫が保証されるようになったため、神仏に捧げる「祝い歌」は、娯楽目的のものへと転換し始める。節回しの面白い流行歌を流用し、各地域・職業等の別から生じた個性を加味し、今日のいわゆる「伝承民謡」となったものが現存する日本民謡約3万曲のうちの9割に上るという。
こうした背景からも民謡は起源の追求が難しく、また分化の時期の特定も難しいので、大きな流れだけ以下に特記することにする。
江戸前期頃、大坂を中心に「ヨイヤナ節」と呼ばれる三味線歌が誕生して瀬戸内海方面へ広まり、中国・四国・九州地方から奄美大島、沖縄諸島にまで及んだという。東日本へは海路で広まったのだが、太平洋側では「エンコロ節」という名で宮城県まで、日本海側では「まだら」という名で秋田県まで及んでいるというので、全国的に影響力を持ったことは確実である。現存する民謡の最古のものが室町時代頃と推定されているので、短歌等の文芸の比べ、口伝に頼ってきた民謡の伝承は困難であったと考えられる。よって現存する多くが江戸期頃に誕生・分化・転化したものであることを注記しておく。
さて江戸中期以降、祝い歌であった「越後松坂」が新潟県を中心に日本海側に広まった。更に北前船等の船や越後瞽女(旅芸人)により越後松坂くずしが「謙良(けんりょう)節」等と名を変えて歌ったものが全国に広まり、北海道から鹿児島・屋久島にまで広く及んだという。
また伊勢信仰の神宮式年遷宮(20年に一度の大祭)の御用材を運ぶ「御木曳(おきびき)木遣」のうち「松前木遣」は、千石船の船乗りらによって全国の沿岸部一帯に広まり、「船曳歌」「綱曳歌」「網曳歌」「大漁節」等の基となった。また「伊勢音頭」は、伊勢参りの人気と相まって日本全域で祝い歌や木遣歌として広まった。
もう一つ、全国40ヶ所のハイヤ系民謡のルーツである熊本・牛深市の「牛深ハイヤ節」の伝播に触れておく。江戸時代後期に生まれたとされ、長崎県平戸島田助、鹿児島県阿久根、福岡県小倉など九州各地に広がり、船で北上して、新潟の「佐渡おけさ」・山形の「庄内ハイヤ節」・青森の「津軽アイヤ節」・岩手の「南部アイヤ節」・宮城の「塩釜甚句(ハットセ)」・茨城の「潮来甚句」等になって定着した。各地の「おけさ」系民謡のルーツでもある。いずれも宴席に興を添える賑やかな歌として、地域により歌詞・囃子が改編された。
明治期に入り、機械化による生産性の向上が急速に生じ、作業形態の変容に伴って、収穫を神仏へ依存する度合が薄れてゆく。中でも1964年の東京オリンピックは農業国から工業国へと日本が大変身する分岐点となり、これを境に民謡は次々と姿を消していったのだが、節の良いものだけは三味線や尺八等の伴奏を加えて酒席の歌として継承された。こうした民謡界の動きは大正末期頃から起こり始め、都会での流行歌は「歌謡曲」として、田舎の歌は「俚謡(りよう)」としてレコード・放送業界に登場するようになった。とは言え、花柳界の芸者衆による「お座敷歌」や、各地の「盆踊歌」程度しか採り上げられず、聴取者拡大を目論んでの俚謡の放送も、三味線伴奏付の俗曲的なものが主流であったという。そんな中の1946年、NHKが「のど自慢素人演芸会」という番組で広く一般にマイクを開放した結果、各地から「ふるさと歌謡」とも言える様な民謡を携えて参加したため、にわかに民謡ブームが起きた。その後の民間放送の誕生や、ふるさと芸能保存運動、都会へ出てきた人々の望郷の念等が拍車をかけ、各土地の愛唱歌のような存在となっていった。 
奄美民謡・琉球民謡・アイヌ民謡
「奄美民謡」奄美の島唄であり、集落によって歌い方が異なるが、南部の「ヒギャ」と北部の「カサン」に大別される。2つの違いは地形と似て、ヒギャは烈しい山谷と同様、高低の音程差があり、カサンは高い山がないのと同様、音程差が少なく大らかである。地理的に南方の遠隔地にあって中心を離れて交通が不便だった分、外来文化の影響が少なかったことにより、古い民謡の形態が比較的純粋に残っている。また琉球・薩摩藩の支配下にある時代が長く続いたという歴史的背景もあり、奄美民謡は哀愁の情を訴え・歌った島民の叫びとも言われ、独特の深い哀調を帯びている。なお「島唄(シマ唄)」という語は本来、奄美民謡を指すものであったが、沖縄のラジオパーソナリティーが沖縄民謡を「島唄」と呼称して以来、沖縄民謡も「島唄」と呼ばれるようになったされる。現・シマ歌ブームの代表曲「島育ち」「島のブルース」は全国的に有名である。
「琉球(沖縄)民謡」現在、一般に島唄とも呼ばれる沖縄民謡は、「おもろ(沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に収録される歌謡)」や、琉球古典音楽(琉球王朝の宮廷音楽)が源流であるという。大正末期〜昭和初期を中心に、男女が夜、野原や海辺で歌や三線に興じる「毛遊び(モーアシビ)」と呼ばれる風習が広く行なわれたことによって庶民に民謡が広まったと考えられている。「毛遊び」での民謡の歌い方は、自分なりの歌い方で味付けしたり、既存の曲にアドリブで歌詞を乗せたり、逆にある歌詞に好きな曲を乗せたりと、様々だったようだが、踊り・手拍子・囃子等を加えていたとも言われ、中世期に流行した歌掛け(歌垣)とよく似たものだったようだ。
沖縄民謡は今も人々に愛され、日々新しい曲が生まれているような活きた民謡であり、民謡のライブハウス的な「民謡酒場」に行くと、生で本格的な民謡を聴くことができるそうだ。「エイサー」は沖縄の代表的な祭として有名だが、宴会の最後を締める「カチャーシー」など、イベントの最後に全員で一斉に踊り出す光景は、映画やドラマでも見たことがあるかもしれない。結婚式等の祝い事の最後はこれで実際に閉めるのが通例らしく、その際には男性が囃子的な指笛を用いるという。古典作品はほぼ全て「沖縄口(ウチナーグチ、沖縄方言)」で歌われるが、民謡の中には大和口のものもあるようだ。
「アイヌ民謡」北海道に居住するアイヌが生活文化の中で生まれたウポポ(歌)で、ヤイサマ(即興歌)というジャンルもあるほど即興性が高いのが特徴であるが故に、現存するアイヌ民謡がどの程度伝承によるところかの判別が難しい側面もある。トンコリ(アイヌの伝統楽器)や太鼓が普及する前は、合いの手や手拍子等を他の人が返していたという。現存の民謡も子守唄や労働歌、豊作・豊漁祈願などレパートリーに富むが、ユーカラと呼ばれる口承文字を基として神(自然の恵み)への感謝を歌うものが多い。江戸期以降、和人(本土の人)との交流が増え、アイヌ独自の文化が変質していったという。 
まとめ
まず一番興味深いのに資料が非常に少なかった辺境民謡(後半に述べた本土以外の民謡)の中でも、アイヌ民謡においては特に困難であったが為に、昨今の「アイヌを先住民族と認定」の意味を考えさせられた。本土以上に純粋で長い文化を有していたにも関わらず、現存の民謡があまりにも少なく、また情報を発信する担い手も希少であるという現状に胸が痛む思いだった。
現存する最古とも言える民謡「君が代」に対する思いもこれに近い。歌詞は現在まで千年以上もの歴史を有し、鎌倉時代以降既に「祝い歌」として民衆の支持を得てきた歌謡が、「国旗と国歌の法制化」という形骸化したものとして現存する状態…これはアイヌ民謡と同じく危機的状況ではないだろうか。歌い手不在となって、伝承が途絶えた民謡は、消えてゆく運命にある。民謡が誕生した時の本来の目的・意義が消滅してしまい、伝統芸能化した現在にあっては、敢えて保存しない限り生き残り得ない。国歌として身近なものである「君が代」は興味の対象になり得るのでまだ良いが、比べてアイヌ民謡は非常に遠い存在である。刻々と伝承者が消えてゆく現在進行形の状態を真面目に考えないと、気付いた時には民謡の無い世界になってしまいそうである。 
付記
北海道・ソーラン節北海道西北部沿海のにしん漁の際、沖で歌われる労作歌である。大きい船で獲った魚を、陸へ運搬する船にすくい上げる作業中に歌う。大変激しい労働なので、力強く、しかも威勢良く歌うのである。
江差追分追分節には種々の伝説がある。信州浅間山麓の追分宿地方で歌っていた馬子歌を“信濃追分”と呼び、“越後追分”さらに北上して“酒田追分”“本荘追分”“秋田追分”等が生まれた。明治の初期、全国各地から北海道に渡った人が多く、越後出身者が追分節を広めたと言われている。
青森・津軽じょんから節慶長2年(1597年)に落城した城主の霊を慰めるために、家臣達が歌ったものだという。”じょんから”とは「上河原」という地名をいう。上河原に城主の墓地があり、同情と哀調を歌に作ったのが、始まりと言われている。
秋田・秋田おばこ“おばこ”とは、未婚の若い娘のことをいう。今の山形県庄内地方で歌われていた「おばこ節」が、馬市(岩手県)に往復する人々によって、秋田県にも伝わった。
岩手・南部牛追歌南部(岩手県)は馬の産地として有名である。また、牧牛も盛んな土地である。重い荷物を遠くまで運ぶには牛のほうが良く、米俵・炭俵等が運ばれた。1人の牛追いが7,8頭の牛を追いながら、悠々と山坂を越えて、2日も3日も道中に野宿をしていったときに歌った。
宮城・斉太郎節南部生まれの斉太郎という人が、たたら踏みの歌を漁をする船をこぐときに歌ったものという説と、「さいたら節」とか「さいとく節」という祝い歌が今に伝わったとも言われている。
山形・花笠音頭花笠踊りの発祥地は、東・北村山地方と言われているが、紅花の主産地である尾花沢、寒河江との説もある。踊りのパレードは尾花沢からはじまり、毎年8月初旬には山形市を中心に各地で行われる。
福島・会津磐梯山明治の初年頃に新潟県から来た油をしぼる仕事をする人が、会津若松市のお寺の境内で歌い踊っていたのが起こりである。昭和22年から会津の盆踊りの手を入れ、現在も歌い踊り継がれている。
新潟・佐渡おけさ“佐渡おけさ”という呼称は、1924年(大正13年)からである。九州の「ハイヤ節」が北上し、佐渡で大きく開花し、現在日本国中知らないものはいない。佐渡の相川町地方に歌われた「相川おけさ」が、佐渡の”正調おけさ”として一般に普及した。
栃木・日光和楽踊り大正2年の夏、日光にみえていた天皇・皇后陛下に御覧頂くため、足尾の精銅所の従業員が、この地方に伝わる盆踊りを“日光和楽踊”と呼んでお見せしたのが始まりである。栃木県の代表的な歌として歌詞も整い、広く歌われている。
茨城・磯節那珂湊に所属する祝町遊廓のお座敷歌として歌われていたのが、たまたま大洗が海水浴場として開けたので東京人が多く訪れるようになり、安中という盲人がこの歌をよくし、横綱常陸山広く紹介したものといわれる。
群馬・八木節栃木、群馬、埼玉3県の境が寄り合ったあたりで歌われる盆踊歌である。かつては、馬子たちが宿場での休憩時に空だるの蓋を叩いて歌ったと言われている。
埼玉・秩父音頭別名「秩父豊年踊」とも呼んでいる。この歌の発祥は秩父郡皆野町(荒川上流)であったが、その後歌詞を募集し、今の秩父音頭になった。歌と共にその踊りも昭和初年頃からしっかり定着した。“日光和楽踊り”、“相馬盆歌”と共に代表的な盆踊歌として、全国にその名を知られるようになった。
千葉・銚子大漁節数え歌形式の大漁節が生まれたのは、元治元年の春である。その年鰯が大漁で銚子港は足の踏み場も無い程鰯で埋まった。その大漁を祝うために歌詞を作り作曲してお祭りをしたのが始まりである。
東京・大島節伊豆大島の代表的民謡。東京から110キロの太平洋上にある島の人達が、茶を作る時や茶摘の時に口ずさんでいたり、祭りの時に歌ったものである。大島の三原山が観光地として脚光を浴びるようになり、島の観光用の歌となった。
神奈川・箱根馬子歌箱根街道筋の馬子の道中歌で、「箱根八里は」の歌詞で有名である。「箱根御番所に荒井がなけりゃ」の荒井とは浜名湖のそばにあった関所で、「今切の渡」ともいっていた。
山梨・武田節この歌は新民謡であり、歌詞の2番に続いて、詩吟の部分が挿入されて歌舞を盛り上げている。
長野・木曽節御嶽山信仰から発生した。御嶽山登山口にある福島町で、登山やハイキングに訪れる人を対象に盆踊り大会を催し、全国的に知られるようになった。”御嶽山”という歌の節をそのまま歌いついできたものである。
富山・こきりこ節富山県五箇山地方に伝わる神楽踊である。”こきりこ”とは23.3センチの乾燥した細竹で、これを打ってミハルスかカスタネットのような音を発して、拍子をとる手製楽器である。
石川・山中節北陸の名湯と言われる山中温泉で歌われている歌である。この地方にあった盆踊甚句形体の7・7・7・5調の3句目以下を繰り返すテンポの早い節回しの簡単なものであったが、元禄の頃から哀調を帯びた力まない伸びやかな歌になった。
福井・三国節三国神社を建立する際、地元の住職が地固めの人足音頭として作ったものである。三国港を中心に船人達に伝承され流行して行ったものの思われる。
静岡・ちゃっきり節昭和2年静岡鉄道が宣伝用に作った歌である。”蛙が啼くんで雨づらよ”と方言を取り入れ、郷土色を盛り上げている。“チャッキリ”は茶の芽を切るという意味ではなく、鉄バサミの音の擬音である。
愛知・岡崎五万石三河岡崎は、徳川家康生誕の地として格別注目され、江戸時代、岡崎は代々譜代の大名が藩主となった。五万石というと大名としては小藩であるが、格式高く、城下は常に繁栄した。曲調は”ヨイコノサンセ”という木遣り歌を応用したという説と、矢作川の船頭の船歌がその原調だと言う説がある。
岐阜・郡上節この歌は、盆踊歌であり、郡上踊り、郡上音頭ともいわれ、代々の郡上城主が民心融和の為に奨励したものが始まりと伝えられている。一節には「伊勢音頭」の変化したもの、また飛騨の「臼引き歌」がその原形だといった説がある。
三重・伊勢音頭伊勢神宮が江戸時代、一般庶民のお伊勢まいりとして熱狂的な人気があったことは明らかであるが、それだけに伊勢神宮を中心にして歌われた伊勢音頭も、実に広範にわたって愛唱された。全国的に広まったのは、木遣り歌を源調とする「ヤートコセー」囃子のものである。
大阪・河内音頭大阪府八尾市を中心とした河内地方の盆踊歌である。起源については、幾つかの説があるが定かではない。歌は、南、北、中河内で少しずつ異なるが、いずれも長文の口説で、野趣味のある熱っぽい歌と踊である。
兵庫・デカンショ節篠山節とも言う。土地の歌であるが発祥については諸説ある。丹波に行く酒造りの杜氏が、この地方の出身であることから「出稼ぎしよ」とする説や、この地方の方言の「でござんしょ」とするもの、またこの地の盆踊歌のはやしことばを元とする説などある。
京都・福知山音頭昔、明智光秀が丹波を平定したその居城から重臣のいる福知山城には、連絡のための馬を走らせた。歌詞は福知山から京都に向かった様子を歌っている。毎年の8月15日前後に行われる盆踊りで歌い踊られる。
滋賀・淡海節俗曲調のお座敷歌で、曲調は「名古屋甚句」から来ていると思われる。「淡海節」の名は、作者の志賀迺家淡海の名から来ている。
奈良・吉野木挽歌吉野川の上流は昔から吉野杉の産地として知られ、その木挽き業としては日本でも最も古いものとされる。そして木挽歌の発祥の地であるとされている。
和歌山・串本節串本港は、帆船時代、近海旅行の船の風待ち避難港として賑わった。江戸幕末頃、各地を回る人々が伝えた歌が串本に到着して、この節になった。毎年10月15日の祭りに、神輿の行列歌として歌われていたが、大正13年頃、レコードが出て全国的に普及した。
鳥取・貝殻節気高郡沿岸地帯に繁殖した帆立貝を採りに行く作業歌である。漁師は船でジョレンと呼ぶ漁具を網につけて海底をさらい、貝をひっかけ船に巻き上げる作業を繰り返す。その作業が大変辛いものであったので、歌詞にも歌われている潮の香をたたえた線の太い節まわしの中に、ほのかな哀愁もある。
島根・安来節出雲で”ハイヤ節”と共に日本の港町で歌われた”出雲節”が原調。”出雲節”は鳥取県の海岸部一帯と島根、岡山、広島の山間部、そして瀬戸内海の島々に今も残る”さんこ節”という歌から派生したとも言われる。
岡山・下津井節倉敷市の下津井港を誅しに歌われた座敷歌である。出所不明の流行歌の一種で、御手洗、下関、日本海側にも二、三歌われている。
広島・三原ヤッサ節三原市を中心に広く歌われる盆踊歌である。その原調は九州の”ハイヤ節”であるとされているが、土地の伝承によると、三原城の落城式に歌い踊った”阿波踊”から派生したものとも言われている。三味線、笛、太鼓、四ツ竹で極めて賑やかに歌い踊られる。
山口・男ならご維新当時は「維新節」と呼び、大正初期頃は「長州音頭」ともいわれたが、第二次世界大戦中「男なら」と変わったものである。萩市を中心に県下全域で歌われる酒席での騒ぎ歌である。
徳島・阿波よしこの節徳島市を中心とする盆踊歌で、”阿波踊り”、”徳島盆踊り”とも言われる。全国の盆踊りの中で最も陽気なものである。天正15年(1587年)蜂須賀家政が阿波の国主になったときに、その祝いに人々が踊り始めた。踊りは毎年8月14日から3日間、徳島市中で盛大に行われる。
香川・金毘羅船々琴平町地方を中心に幕末から明治初年(1868年)にかけて、全国的に流行した。琴平町にある金刀比羅宮は、漁師や船乗りから海上守護の神として信仰され、全国に親しまれている。この歌は、神社にお参りのときの道中に歌われた。
愛媛・伊予節文化12年(1815年)江戸中村座で上演された長歌の中にあり、幕末期に全国的に歌われた流行歌である。原歌は伊勢参宮の名所を歌ったものであったが、この歌が流行する間に伊予名物の歌詞が作られ、この地方の歌として定着した。
高知・よさこい節高知県の代表的民謡であるが、その起源はいくつかの言い伝えがある。慶長年間(1596〜1614年)高知城築城の現場で歌われた木遣り音頭の変化したもの。また、江戸時代の正徳年間(1711〜1715年)から各地に流行した”江島節”が土佐に入って、盆踊り化したもの等々ある。
福岡・黒田節福岡の黒田藩の武士達が愛唱したと言われている。旋律は雅楽の越天楽(平調)から出ている。歌詞は殆ど黒田藩士の作である。元来、無伴奏の手拍子で斉唱する豪快な曲調である。
佐賀・佐賀箪笥長持歌祝儀歌として歌われ、花嫁の調度品を収めた長持を婚家へ運ぶ時に歌う民謡である。嫁入りの道具を受け渡すとき掛け合いでうたい、歌詞も多種で即興歌も多く、荷替歌ともいわれてきた。
長崎・長崎ぶらぶら節古い開港地としての長崎の、春の凧あげ、夏の精霊流し、秋のお諏訪のオクンチの三大行事の名物をうたっている。民謡的な土臭さの無いのが特徴である。
熊本・五木の子守歌昔、源平時代人吉市から、25キロぐらい遡った五木村で歌われていた子守歌である。子守歌には空想的歌詞や子守り自身の境遇をしみじみと歌ったものなど、人の心を打つものがある。昭和21年にレコードが出て、全国的に流行した。
大分・大分地方の子守歌宇目の歌喧嘩(守り子歌)。村の広場に集まった子守り達が2組に分かれて、「送り」「返し」と交互に歌を出し合い、歌につまった組が負けという遊び歌である。
宮崎・刈干切歌宮崎県の代表的民謡である。日向一円で歌われている。九州では日向に限らず、野山の広い地方では夏から秋にかけて、萓や小笹を刈り、乾燥させて冬季のまぐさ(馬の餌)にしたり、田植え前に田に入れて肥料にしたり、あるいは萓屋根を葺いたりする。萓や小笹を刈るときに歌う。
鹿児島・鹿児島小原節“オハラ節”とも言い、作業歌とも地搗歌とも言われている。発祥地は伊敷村原良で、”原良節”の曲名で鹿児島全域で歌われ、あとになって頭に「小」がついて”小原良節”となった。昭和8年頃レコードが出て、南国らしい明るい歌詞が全国的に流行した。
奄美・俊良主節奄美大島の民謡としては最もよく知られた曲である。もともとは「船ぐら節」という恋歌の一つであったが、明治の頃地元選出の代議士基俊良の妻が、沖で貝取り中、潮にさらわれなくなられた事件があり、これをうたい込んでからは曲目も「俊良主節」と変わった。
沖縄・てんさぐぬ花わらべうたの1つである。琉球音階で旋律が美しい。”てんさぐぬ花”とは鳳仙花のことで、その赤い花びらの汁を爪先に染めて遊ぶように、親のいうことは心に染めよと言う教訓歌でもある。 
 
童歌(わらべうた)・童謡・唱歌・子守歌

 

表題の「童歌・童謡・唱歌・子守歌」の違いはご存知だろうか。いずれも子供向けの歌であり、歌の目的として子守歌は他と異質であることがすぐに分かるだろう。しかし他の3つ、筆者から見るとどこに線引きがあるのか判別し難く、唱歌は若干新しい響きであるように感じる。まずこの違いについて触れた後で、各々の項目に入ろうと思う。
童謡という語が歴史上初見されるのは奈良時代に成立した「日本書紀」の中だというのだが、当初は童謡という語は現在言われる「子供の歌」を意味しておらず、近世以降になって現在と同じような意義付けがなされたようだ。古来日本では、子供の歌と言えばいわゆる「童歌(わらべうた)」を指していた。例えば「ねんねんころりよ…」の歌詞で有名な「子守歌」は、江戸時代頃から歌い継いできたとされるし、手遊び歌や数え歌など、子供が遊びながら歌うものの総称と定義付けられている。こうした伝承が伴う全ての歌は民謡のジャンルにも入るようであるが、歌を入れる箱の違いで呼び方が変えられてきたということにもなる。どうやら今、子守歌のジャンルに入っているものも、当時は童歌ともされていたようなので、厳密にいえば「わらべうた」は今日の童歌と子守歌を包含していたようだ。その後の明治初期、明治維新によって西洋の近代音楽が紹介されて日本に伝わると、学校教育用として多くの「唱歌(正式には文部省唱歌)」が作られ、そして大正時代後期以降、子供が歌うことを前提として創作された歌を「童謡」と呼ぶことにした訳である。歴史的に古いのが「子守歌」「童歌」、最も新しいのが「童謡」ということになるが、以下、各々の定義と歴史について触れてみることにする。 
童歌
「童歌(わらべうた)」とは昔から子供により歌い継がれてきた、子供が遊びながら歌う歌であると定義される。親から子へと伝えられた口承遊びで、数え歌・唱え歌等、言葉・数字・行事等の導入を遊びながら学べる類も多い。ペンタトニック(五音音階)等の平素なメロディと単純なリズムで、古くから一般庶民の子供たちによって伝承されてきた歌であり、民謡の一種とみなす分類もある。大正時代に誕生した「創作童謡(いわゆる童謡)」と区別するため、わらべうたを「伝承童謡」、文学詩人の創作によるものを「文学童謡」と呼び分けるようになったようだ。室町時代以降、主として徳川期から明治末期にかけて発生・流行したものが多く、ほとんど作成年代や核となった地域等が明確でなく、誰が作ったのか分からない謎の歌ばかりで、流行り・廃りがあるという。従って中には時代の流れとともに衰退していったものもあるし、今でも変わらずに人々に愛され、歌い継がれているものもある。中には労働者の間から自然発生したような労働歌の類もあるという。
わらべうたの集大成として北原白秋と弟子らが著した「日本伝承童謡集成」という書籍がある。あらゆる方法で日本全国のわらべうたを蒐集し、昭和22年〜25年に成立させた書だというのだが、その分類は子守唄・遊戯唄・天体気象/動植物唄・歳事唄・雑謡とあるので、どのような子守歌か分からないが、当時の白秋が子守歌もわらべうたのジャンルとして扱ったことは興味深い。
さて最後に、音楽的立場から「わらべうた」を考察してみよう。明治以前から伝わるとされる童歌や民謡の中でも「陽旋法(ようせんぽう、日本の伝統的な音階のうち田舎節(いなかぶし)と呼ばれる俗楽の音階)」のものは、全て「ヨナ抜き長音階(ドレミの音階からファ・シを除いたもの)」と同じ音程を使う。教科書掲載の「どじょっこふなっこ」の元歌である東北のわらべうた「どじょっこふなっこ」等がこれに該当するらしい。なお明治維新以前の古い童歌は、西洋音楽の影響を受けていないため「ド」で終わるという考え方がないので、ラ(陽音階)かレ(律音階)で終わる曲が多いといわれる。現在まで歌い継がれている古いわらべうたがいずれも侘しいような独特の響きを持つのは、これらの音階の違いによるところが多いので、聞き比べて見ると面白いだろう。 
童謡
「童謡(どうよう)」とは、大正時代後期以降、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲の総称で、子供向けに大人が作った歌と定義される。子供たちに芸術的価値のある歌・物語を提供することを目的として、大正7年、鈴木三重吉(すずきみえきち)が創刊した児童雑誌「赤い鳥」に掲載されて多くの童謡が誕生した。成田為三が作曲した「かなりや」が日本で最初の童謡とされ、北原白秋・西条八十・野口雨情らの詩に、成田為三・山田耕筰・中山晋平らの作曲家たちが曲をつけ、現在も数多くの歌が歌い継がれている。この児童文学の潮流の発端は、子供の視点で心情を描き、子どもたち子供たち自ら楽し童謡・童話を子供たちに与えたいという鈴木三重吉の思いにあった。当時一流の作家らの賛同を得、童謡・児童文学運動が興隆したことにより、「赤い鳥」の後に続いて「金の舟」「コドモノクニ」など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種にも上ったという。この時期、優れた童話作家、童謡作家、童謡作曲家、童画家らも世に輩出し、児童尊重の教育運動が高まっていた教育界にも大きな反響を呼んだ。「赤い鳥」は近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えたとされ、鈴木三重吉は日本の児童文化運動の父と呼ばれている。
もう一つ、上の童謡の定義に入らないが日本国外の子供向け歌曲を「童謡」と呼んでいるので、外国から来た童謡について少し触れておきたい。日本に伝わり、日本語の歌詞が付けられ、長く日本に馴染み人々に愛されている類のものとして「ロンドン橋」「ドナドナ」「アビニヨンの橋の上で」「線路は続くよどこまでも」等がある。「ロンドン橋」などは「ロンドン橋落ちる〜」と二人の子供がアーチを作って他の子がその下を次々にくぐり抜ける遊び歌として日本でも愛されているのだが、「落ちたよ」と歌い終わった時に捕まる子供は、橋を作る時の人柱として選ばれたという意味を本来持っているという。イギリスでは17世紀頃から歌い継がれているというが、もちろん遊び歌で子供の人柱が立てられた訳ではなく大人の話を聞いて子供が遊びにしたのだろうけれど、子供の歌は概して意味深なものが多いので、素直に笑えないのも悲しいものである。 
唱歌
「唱歌(しょうか)」は、学校の音楽の時間に教わる歌、というのが一般的な定義ではないだろうか。明治維新以降、主に小中学校等の音楽教育の為に作られた歌を指し、1872年の学制発布後の1881年から3年を費やし唱歌の時間の教科書が3冊にまとめられて誕生したことに始まる。明治政府が近代国家形成のために最重視した「学制」の一環として作られた経緯から、日本国家としての意向を色濃く反映し、徳育・情操教育を目的として文語体で書かれたものや日本の風景・風俗・訓話などを歌ったものが多く、日本民族・天皇・家夫長制道徳賛美や軍歌等が数多く採用されている。よって現在も愛唱されている唱歌には、本来の意味を意図的に隠して文部省唱歌として採用されているものも多く、また欧米で広く親しまれている民族歌謡や賛美歌等を焼き直したものも多い。
「唱歌」という語の起源は、学制で小学校の授業の1科目として「唱歌科」が設けられたことに始まり、学校の音楽の授業のことを「唱歌」と呼ぶようになり、更に授業で使われる教科書も「唱歌」と呼ばれるようになった。このように戦前まで小学校の教科の名称の1つであったが、その唱歌の時間に歌われた曲の多くが戦後の教科書に引き継がれ、今日まで「文部省唱歌」として用いられ続けてきたのである。ちなみに明治43年に文部省唱歌が制定される前は「小学唱歌集」「児童唱歌」「ヱホンシャウカ」など民間発行の唱歌集が使用されており、この文部省制定の「小学唱歌集初編」「小学唱歌集第二編」「小学唱歌集第三編」の3冊が、日本初の官製の音楽教科書である。
この「文部省唱歌」は、当初作曲者名を挙げず「文部省著作」とだけ記されていたために「文部省唱歌」と一般に呼ばれるようになったため、公的な正式名称ではない。よって正式には、1911年、学年別に編集された「尋常小学唱歌」、1932年に全面改訂した「新訂尋常小学唱歌」などと名称を変え、1941年まで長く授業で用いられた。また「蛍の光」「むすんでひらいて」「庭の千草」等、日本の歌と思われがちな代表的な唱歌の故郷はスコットランドやアイルランド、スペインなど、様々な国であり、唱歌の多くが外国曲だった。初の音楽教科書に採用された最初の3曲は「見わたせば(フランスの哲学者ルソー作)」「蛍の光(スコットランド民謡)」「喋々(スペイン民謡)」であり、日本の伝統的な歌が1つも入っていないことからも当時の世情が伺える。
その後、音楽教科書なのに子供にとって意味が取りずらいような難解な歌が多いのは教育的にどうか、と疑問を呈したのが鈴木三重吉であり、先述した童謡の中の「童謡運動」に繋がっていった。また当初、唱歌は戦意高揚の目的で軍事的にも利用されたが、戦後は戦争を肯定するような内容の歌は削除され、日本人の心象を描いたもの、多くの人々に愛唱されるものへと移行していった。例えば「蛍の光」の歌詞は現在2番までしか知られていないが、本来は4番まであり、晴れ着姿の学生達の歌ではなく、当時日本の生命線を守るべく出兵する兵士の為の歌である。文部省唱歌が誕生した社会的背景を考えると、教育そのものに支配階級側の社会思想(イデオロギー)の影響が強く、国民の思想に強い方向付けをなしていることが見てとれる。
ところで「唱歌」には2通りの意味・読みがあることをご存知だろうか。雑学程度に触れておくが、本項で採り上げた「唱歌(しょうか)」とは別に「唱歌(しょうが)」が存在し、こちらは雅楽・祭囃子等で音階を覚えるための歌の一種を指す。楽器で演奏する前に「唱歌(しょうが)」として曲を暗記し、メロディーで奏でるものらしい。
最後に音楽的立場から「唱歌」を考察して次に移りたい。唱歌には「ふるさと」「朧月夜」「村祭り」など、日本的なイメージが強いにも関わらず「洋音階」のものが多く、わらべうたに見られるような「ヨナ抜き音階」のものでもドで終止している、というのも、文部省唱歌は明治維新後、文部省の監督の下で西洋音楽の理論で作られたために長調の曲は全てドで終止しているらしい。中でも「ふるさと」「朧月夜」は、3拍子の曲で曲想はあまり日本的ではないが、歌詞が日本人の心に合っているようで1世紀余り経た今でも変わらず愛唱されている。 
子守歌
さて次は「子守歌」であるが、子供が生まれてから一番最初に耳にすると思われるものであり、世界中に様々なものが歌い継がれている。その継承手段は極めて単純明快、記憶を頼りに親が幼少の頃歌ってくれたものを我が子に歌って聞かせて歌い継がれる…と現代の生活からは想像してしまうのだが、日本の子守歌は大別して3つあり、それこそが邦楽のどのジャンルに入るか一概には言えない複雑な部分でもある。以下、3つの違いが分かりやすいように紹介してみる。
まず最も一般的な子守歌が、子どもを寝かせるための「寝かせ歌」であり、世界的に広がりを見せる子守歌でもある。親に抱擁されながら親子が互いの絆を確かめる歌であり、自分では歌を歌えない幼児のための歌であり、生まれて初めて覚える歌である。恐らく即興で歌い出したような子守歌は無数に存在するのだろうが、最も有名なものが「江戸子守唄(えどこもりうた)」である。
「江戸子守唄」は「ねんねんころりよおころりよ」で始まる最も伝統的な子守唄で、日本の子守歌の起源であるという。江戸時代・文化文政期以前の成立と見られ、原曲は1820年に編纂された行智の童謡集に見ることができる。江戸で誕生して各地に伝えられたとされる歴史の長い歌で、「ねんねん」の囃子詞が仏教の「念念」から来ている等の見方から、和讃(仏教の声明の一つ)の形式を採り入れた歌とも言われるが定かではない。
「遊ばせ歌」は寝かせ歌同様、世界的に広がりを見せる子守歌であり、わらべうたや民謡のジャンルにも入る。眠らせるより目覚めさせておくような月齢の子供を手遊びなどで遊ばせたり、動植物を取り込んだり、物語を挟んだり、知恵付けを試みたりする。わらべうたとして成長した子供たち自らが歌うものもある。また親のみならず子守をする周囲の人々−祖父母等に伝承者が多いのが遊ばせ歌の特徴だという。
「守子歌」は子守奉公に行った守子たちが歌ったもので、口説き歌、嘆き歌等とも呼ばれる日本独特の子守歌で民謡のジャンルにも入るようだ。子供に歌ってあげるための歌ではなく、幼くして故郷を離れた子守娘ら自らが慰めに独り歌った子守歌であり、歌詞・曲調共に暗く、世間を辛辣に皮肉り、恨みを吐き出すものなども散見されるので「寝かせ歌」「遊ばせ歌」とは歌詞内容もかなり違っている。子どもが子守として労働するようになったのは16世紀末頃からのようで、守子歌は江戸末期から明治時代にかけて数多く作られたという。戦後役目を終えた歌というのも、子守奉公が当時独特の環境下にあり、戦後その存在が消えていったことが歌の発生・消失の背景にある。
日本人が好きな歌ベスト3に入る「赤とんぼ」(作詞・三木露風、作曲・山田耕筰)は、この子守奉公の女の子を歌ったものだという。身近なところに守子歌はあるかも知れないので、年配の方に聞いてみると面白いかもしれない。
日本の伝統的な子守唄に歌われている世界は封建時代の暗い部分が陰を落とし、短調で悲哀に満ちた節が多い。「ブラームスの子守唄」「シューベルトの子守唄」など世界で歌われている子守唄は、中産階級の豊かで幸福な家庭での子守唄であり、親が子を優しく寝かしつける歌であるのに比べ、日本の子守歌は子供が眠れなくなりそうな曲調である。そんな悲哀を帯びる日本の歴史を歌い込んだ有名な子守歌を少し紹介したい。教科書には載らないものも多いので、次世代に是非伝えていかねばと思う。
「五木の子守唄」山村の厳しい生活の中から生まれたもので、熊本県民謡で球磨郡五木村に伝わる子守り奉公をする娘たちの嘆きの歌「守子歌」に入る。戦後の農地改革まで、地主である「だんな衆」以外、大半が「名子(なご)」と呼ばれる小作人であり、地主から山・土地を借りて細々と焼畑や林業を営んでの生活は大変厳しく、子供は7歳余りで食い扶ち減らしのために奉公に出されたものの給金はなく食事の支給のみの状態で働いていたようだ。五木の子守歌には正調が一つではないとも言われ、様々な歌詞が存在するようだが、概して「おどまいやいや泣く子の守りにゃ泣くといわれて憎まれる」のフレーズが入り、子守奉公生活の悲しく辛いことを詠んだ歌詞が最後まで続く。
「島原の子守り歌」宮崎康平が作詞・作曲した長崎県島原・天草地方を詠んだ子守歌であり、1957年に発表・レコード化した戦後の創作子守唄で歴史は浅い。「おどみゃ島原の…」で始まり、貧しさ故に異国へ売られた娘達を哀れむ一方、少数ながら成功して帰る「からゆきさん」を羨む貧しい農家の娘の心を描写している。植民地の外国人相手の売春婦として密出国させられ過酷な運命に遭った「からゆきさん」は当時20万人に上ったとも言われ、その歴史の真実味を如実に物語り、今に伝える歌である。
「竹田の子守歌」京都・大阪にある複数の被差別部落に伝わる子守歌であり、守子歌である。脚光を浴びるのは尾上和彦が京都・竹田地区で老婆の歌を採譜し、フォークグループ「赤い鳥」の後藤悦治郎が1969年に歌ったことによる。当時、レコードが百万枚余り売れて全国的に知られるようになった大ヒット曲であり、以来放送禁止歌とされ封印された時期もあったが、近年再び脚光を浴びてカバーされている。「復興節」「ヨイトマケの唄」と同様、秀逸な歌でも、歌詞に何ら引っかかる部分があったために放送自粛・放送禁止になった歌も多く存在するが、子守歌などの伝承歌謡に対してナンセンスこの上ない気がする。
なお有名な日本の歌「さくらさくら」は童謡のジャンルに入らず、児童の演奏・鑑賞を目的として作曲された曲「童曲」、あるいは「日本古謡」というジャンルに入る。原曲は江戸時代、「咲いた桜」という筝の手ほどき曲・入門用の曲であり、宮城道雄が作曲した「さくら変奏曲」が有名であるが、明治21年に出版された「筝曲集」の中で「桜」として現行の歌詞「桜さくら弥生の空は…」が付された。後の昭和16年、「さくらさくら」と題名で「さくらさくら野山も里も…」の歌詞が付されて小学校の教科書に掲載されるようになった。ちなみに筝曲「咲いた桜」の歌詞は「咲いた桜花見て戻る…」だったので、3通りの歌詞(厳密に言うとそれ以上)が付された経緯を持つ。ちなみに現行の教科書では、小学校では「野山も里も」、中学校では「弥生の空は」と2通り掲載されているというので、ご自分の歌がいずれか、口ずさんでみたらよいだろう。 
大正時代に起こる童謡運動の中心にあった作詞家・作曲家
北原白秋(きたはらはくしゅう)「雨降りお月」「ペチカ」「揺籠(ゆりかご)のうた」等を作った童謡詩人・詩人・歌人であるが、むしろ「明星」「スバル」などに短歌・詩を発表した歌人として有名である。野口雨情・西條八十と並び大正期を代表する三大童謡詩人と称された。鈴木三重吉の「赤い鳥」の童謡面を担当したことから、創作童謡に新分野を開拓した。代表作に歌集「雲母集」、童謡集「からたちの花」等がある。
西條八十(さいじょうやそ)「かなりや」「かくれんぼ」等の多くの童謡を発表し、北原白秋・野口雨情と並び大正期を代表する三大童謡詩人と称された。童謡のみならず象徴詩の詩人として、「青い山脈」「東京行進曲」等の歌謡曲の作詞家としても活躍し、数多くのヒット曲を生み出した。
野口雨情(のぐちうじょう)「七つの子」「赤い靴」「しゃぼん玉」等数多く作詞した童謡詩人で、童謡の他にも日本・樺太・朝鮮・満州・台湾と幅広く地方民謡を作った。北原白秋、西條八十と並び三大童謡詩人と呼ばれており、児童文化運動の流れに乗って児童雑誌に童謡の発表をし、作曲家・本居長世、中山晋平、藤井清水等が雨情の試作に曲譜を付けたこともあって、現在も愛される有名な曲を数多く生み出した。63歳で亡くなるまでに2千余編もの詩を残した。
高野辰之(たかのたつゆき)作曲家・岡野貞一と組み「春が来た」「故郷」「日の丸の旗」「紅葉」「春の小川」「朧月夜」等を生んだ作詞家で、歴史的な国語・国文学者でもある。現在も愛唱されているこれらの歌には故郷を想う優しさが込められ、歌に触れた者に親しみと叙情への深い共感が湧く名曲ばかりである。
岡野貞一(おかのていいち)作詞家・高野辰之と組み「故郷」「朧月夜」等を作った作曲家で、音楽教育の発展に大きく貢献する一方で熱心なクリスチャンでもあった。40年間教会で毎日曜に礼拝のオルガンを弾き、聖歌隊の指導を続けるなど信心深く誠実な人格者であったという。63歳で亡くなるまでに市歌や校歌等、心に残る美しい歌を数多く残した。
中山晋平(なかやましんぺい)野口雨情らと共に「しゃぼん玉」「背くらべ」「てるてる坊主」等の童謡を作った作曲家で、日本の民謡を研究した人。島村抱月の書生になり芸術座の旗揚げに参加し、劇中歌「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」を発表して人気を博し、全国的に名を知られるようになった。「波浮の港」「出船の港」「東京行進曲」など多くのヒット曲を手がけ、日本の大衆歌謡に大きな影響を与えた作曲家である。
清水かつら(しみずかつら)「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」等の童謡を作った童謡詩人で、関東大震災により埼玉県和光市に避難した後、53歳で亡くなるまで過ごした。生涯を過ごした武蔵野の自然と、子供達の純真さをこの上なく愛し、両親が離婚したため4歳で実母と離別した経験より、実母を慕う心や寂しさ等、彼の人柄を映した数々の童謡は、現在も変わらず愛唱されている。 
まとめ
親が子に歌って聞かせる時に選ぶ歌はどんな歌だろう。子供が喜ぶ歌、子供に知ってもらいたい歌(一般的に言われる良い歌)、子供のためになる歌(数え歌や道徳的なもの)…色々基準はあるかも知れない。でも歌を子供のために作るとしたらどうだろう?赤ちゃんに作るなら愛情溢れる優しい歌、幼児なら身近な題材で面白い歌や子供が喜ぶ歌、小中学生だったら?少し難しい気もするが、旋律が美しいような音楽的な歌とか、心情や風光を詠んだ歌といったところか。親の意図がそのまま出た歌になるかもしれないが、それは自分の家庭の話だから許される。童謡のところで「支配階級側の社会思想(イデオロギー)」の影響に触れたが、軍国主義にあり、西洋化に焦る日本が推奨した歌は無論、そのような歌になって当然かと思う。しかし戦後長い年月が過ぎ、修正(部分的削除)はあったにしろ、そうした色の強い歌が残され、訳の分からぬ理由により教科書から消えた歌が多数存在することを注記して、本項を終えたいと思う。訳の分らぬ理由とは、全国の市町村合併で村が消えた県があるから「村」が付く歌はダメとか、「汽車」は存在しないからとか、「狸」と和尚が一緒に演奏するのは良くないとか、そんなレベルである。それ以上に大切なものと筆者が考える歌の心や歴史的価値・背景などを吟味され、文部省唱歌を見直したらどうかと思う。
 
「三曲」

 

「三曲」とは、三つの楽曲という意味ではありません。江戸時代から現代にかけて、日本の音楽として最も普及している3種類の音楽の総称なのです。すなわち、「箏(そう)曲」といわれる箏(こと)の音楽と、「地歌(じうた)」といわれる三味線(しゃみせん)の音楽と、それに「尺八(しゃくはち)」の音楽、以上の三つの総称なのです。
この3種の音楽を、なぜ総称するかというと、この3種の音楽は、それぞれ独立しても存在していますが、特に「箏曲」と「地歌」とは、その演奏者が共通するものであり、また、実際の演奏形式として、本来「箏曲」であった楽曲に、三味線が合奏されたり、あるいは、本来「地歌」であった楽曲に、箏が合奏されたりして、「箏曲」であるか、「地歌」であるか、区別がつかなくなっている面もあり、演奏家も、箏曲家といっても、もちろん、「地歌」の曲も演奏するのが原則となっています。
そして、「箏曲」にしても、「地歌」にしても、箏と三味線との合奏に、もう一つの楽器として、尺八が加えられることがあり、その場合に、特に「三曲合奏」といっています。そこで、そうした演奏形式についてだけではなく、音楽の種類としても、「箏曲」「地歌」「尺八楽」の三つの総称として、「三曲」ともいっているのです。
ただし、「三曲合奏」といった場合、尺八ではなく、胡弓(こきゅう)という擦弦楽器を加える場合もあります。古くは、箏と三味線と胡弓の三曲合奏の方が、一般的であったこともありました。この胡弓の演奏家も、「箏曲」と「地歌」の演奏家と共通していますが、胡弓だけの特別な楽曲もあり、それを「胡弓楽」ということもできます。しかし、その「胡弓楽」は、「箏曲・地歌」とまとめていった場合、その中に含めてしまうこともあり、現在では、「三曲」といえば、「箏曲」「地歌」と「尺八楽」とを総合していう場合が、一般的となっています。
なお、「尺八楽」の演奏家が、「箏曲・地歌」の演奏家を兼ねるといった例は、原則として極めて少ないようです。しかし、専門とする楽器は異なっても、扱う楽曲は共通するものもありますので、大まかには、密接な関係にある音楽の種目として、総合的に扱われているわけです。
そして、最も重要なことは、この「三曲」と総称される音楽は、日本の音楽の中で、専門演奏家による芸術音楽として存在しているだけではなく、家庭音楽として普及しているものとしても、最も一般的なものであるということです。日本の音楽には、いろいろな種類があって、それぞれ特色があります。ただ、演劇とか舞踊などと結びついて、むしろ総合芸術として存在しているものも多く、それを、音楽だけ切り離して演奏し、鑑賞することも多くなってはきましたが、そうしたものにくらべて、「三曲」は、その成立のはじめから、まったく音楽としてだけ存在してきた純粋の音楽としては、その代表的なものといえるでしょう。
また、「三曲」を含めた日本の音楽を、古典音楽とか、伝統音楽とかいうこともあるようですが、たしかに、「三曲」の中には、古典的な名曲が数多くあります。しかし、「三曲」は、決して過去の音楽ではなく、現在数多くの人に愛好され、広く普及している音楽です。かつては、関西の女学校では、箏曲が正課として教育されていたこともありました。現在でも、家庭で「三曲」を学習している人口は、ピアノの人口と比して、むしろ多いかもしれません。そうして、「三曲」そのものは、現代においても、その創作活動は続けられているのです。まさに、現代に生きている音楽なのです。
そうした意味で、少なくとも「三曲」の場合は、単に古典音楽とか伝統音楽とかいって、ふつうの音楽とは異質なものとして扱っていただきたくはありません。もちろん、ヨーロッパ音楽とは、その歴史も理論体系も異なっています。しかし、音楽である点では変わりなく、むしろ、日本で「音楽」といえば、ただちに「三曲」が代表的なものであるといってもよいのではないでしょうか。ちょうど、日本で「言語」といえば、ただちに「日本語」のことが、まず考えられるのと同じように。
「伝統」ということばも、古いものの良さを認める場合に用いられるようです。しかし、ヨーロッパで、伝統音楽というと、普通の音楽とは異なる習俗的な音楽という意味で、芸術音楽に対立するものとしていわれることもあるようです。もし、そうした意味で、「三曲」を日本の伝統音楽というとすれば、「三曲」は芸術音楽ではないということになります。
したがって、誤解を招かないように、「三曲」は、単に「音楽」であるといっていただきたいのです。いわゆる「洋楽」と区別しなければならない場合は、「日本語」を「国語」というように、「三曲」のような日本の音楽は、「邦楽」といっていただければよいのではないでしょうか。つまり、日本で行なわれている音楽には、「洋楽」と「邦楽」とがあるわけで、「三曲」を含む「邦楽」も、音楽であるということを、まず認識していただきたいと思います。 
三曲2

 

地歌三味線(三弦)、箏、胡弓の三種の楽器の総称。またはそれらの音楽である地歌、箏曲、胡弓楽の総称。後に尺八が加わった。また三曲合奏のこと。
由来
いつ頃から使われたかはっきりしないが、三種の楽器を合わせる意味においていくつかの用例がある。もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代初期から当道座に属する盲人音楽家の扱う楽器であり、彼らによってそれぞれの楽器による音楽である、地歌、箏曲、胡弓楽が順次成立した。これらの楽器や音楽を、同じく彼らの専門音楽であり、はるかに以前から行なわれて来た「平曲」 (平家琵琶の音楽) に対して区別するために「三曲」という言葉が使われ始めたのではないかと思われる。ただし江戸時代中期には箏、胡弓、尺八の合奏を「三曲」と呼んだ記録もあって、単に三種の楽器の組み合わせを漠然と「三曲」と呼んだ可能性もある (尺八は当道座の楽器ではない) 。「三曲」という言葉が文献に見えるのはこの頃からである。江戸時代初期には色々な楽器が合奏されていたようだが、まだ「三曲」と呼ばれた記録は見つかっていない。やがて芸術音楽として確立されるに従い、地歌、箏曲、胡弓楽は独自の楽曲を持つようになり、合奏されることのない、それぞれ独立した別個の音楽として成立した。しかし江戸中期頃からこれらの楽器は特に地歌を中心に合奏されるようになった。特に三曲の楽器三種をすべて合奏させることを三曲合わせ、三曲合奏と呼ぶ。「三曲」と「三曲合奏」の前後関係は不明。
尺八は当道座外の楽器であるが、古くから胡弓と交流があり、また江戸時代中期頃からしばしば三味線、箏との合奏に加わるようになり、明治以降本格的に参入した。従って三曲合奏には、ふつう三味線、箏、胡弓と三味線、箏、尺八という二通りの編成があるが、現在では後者の方がずっと一般的となっている。また明治以降胡弓を演奏出来る人が減ったため、「三曲」に胡弓を含めなかったり、無視する三曲人もいる。しかし胡弓は本来三曲の楽器であり、現在でも胡弓楽は伝承されているし、胡弓入り三曲合奏も引き続き行われているので、三曲から胡弓を除いたり過去のものにするのは不当である。
三味線、箏、胡弓の奏者は兼任が多いが、尺八はそれのみを専門とする演奏家が多い。三曲合奏は見た目も美しい為か、錦絵にもしばしば描かれており、その多くは胡弓入りである。
江戸時代中期以降、地歌、箏曲、胡弓楽はそれぞれ固有の曲も残しつつ、合奏のため同じ曲を共有する比率が高くなり、次第に一体化して、幕末までには不可分の状況になった。また尺八も明治以降、合奏に加わりレパートリーとして地歌曲、箏曲を演奏する比率が大きくなり、現代において作られる曲でも箏や地歌三味線との合奏が多く、独立した流派を持ちつつもやはり一体化している。そこで、これら地歌、箏曲、胡弓楽、尺八楽の四種の音楽を総称して「三曲」と呼び、他の邦楽種目、例えば長唄や義太夫節、清元、琵琶楽、能楽などと区別するために使われる。現代の三曲の奏者たちは、流派のほかに「三曲会」「三曲連盟」「三曲協会」などの音楽団体を結成している。
三曲以外の三曲
地歌は三味線音楽として最も長い歴史を持ち、他の三味線音楽の規範となった部分も多いためか、それ以外の三味線音楽でも時おり「三曲」を扱うことがある。たとえば、人形浄瑠璃及び歌舞伎の伴奏音楽である義太夫節では、「阿古屋の琴責め」が有名であり、ここでは地歌三味線、箏、胡弓の三曲がすべて演奏される。また長唄曲『三曲糸の調』や『三曲松竹梅』では、三味線、箏、胡弓が詠われ、またそれぞれの音楽を三味線で表現している (三曲の楽器を実際に用いるわけではない) 。
留意点
1. 箏曲のうち筑紫箏、八橋流は江戸初期、前期の音楽をほとんどそのまま伝えており他楽器との合奏を行わない。
2. 山田流箏曲ではふつう合奏において地歌三味線ではなく浄瑠璃系中棹三味線を使う。
3. 山田流箏曲は曲により三曲外のジャンルである一中節などの浄瑠璃と合奏(交互演奏。掛け合いという)することがある。
4. 地歌以外の三味線音楽は三曲に含まれず、基本的に三曲合奏も行わない。
5. 民謡、民俗芸能の三味線、尺八、胡弓は三曲には含まれない。 
 
「箏曲」

 

説明する前に、「箏」について少しだけ触れておきます。この楽器は、もともとは、「雅楽(ががく)」という古代成立の管弦楽の編成楽器の一つであったのです。したがって、箏の音楽として考えるとすれば、当然雅楽のことも考えなければなりませんが、現在、ふつうに「箏曲」といっている音楽には、この雅楽の音楽は含まれませんので、ここでは、雅楽の箏については、一応除外しておくこととします。
また「箏」という楽器のことを、ふつう「おこと」ともいっています。そうして、漢字をあてはめる場合、むしろ「琴」という字をあてて、「お琴」などと書く場合も多いようです。しかし、「琴」と「箏」とは、本来異なる楽器です。そうして、「こと」ということばは、「琴」も「箏」も含めて、むしろ弦楽器全部の総称として用いられた時代もあったのです。
ただ、江戸時代でも、すでに「琴」と「箏」とは、用字法の上で混用されていました。したがって、現在、「琴」という楽器、それは、狭義には「七弦琴」のことをいいますが、その琴が、ほとんど実用されなくなってしまっているので、「琴」と書いても「箏」のことをいう場合が多いのです。しかし、ここでは、正しい字として、「箏」の方を用いておきます。ただ、当用漢字の音訓の制限上、「ことづめ」などを漢字で表記する場合、「箏爪」と書くよりは、「琴爪」と書いた方がわかりやすいこともあるので、そうした場合に限って「琴」の字を用いても差し支えはありません。
ついでに述べておきますと、「絃」という字も、すでに江戸時代以来「弦」とも書かれてきました。後述の「三味線」のことを「三弦」ともいいますが、明治以来「三絃」と書く方が一般的であったので、専門家は、たいてい「三絃」と書いています。しかし、これは「三弦」と書いても誤用ではありません。当用漢字としては、「絃」の字がないので、これは、むしろ「三弦」と書く方を採用しておきます。
もう一つついでに、「唄(うた)」と「歌」ですが、邦楽の歌は「唄」と書く方が古典的であるように思われています。しかし、これも必ずしもそういえません。「ことうた」とか「じうた」といった場合は、むしろ「箏歌」「地歌」と書かれることもあったのです。特に、「地歌」は、もともと関西で起こった名称ですし、関西では、ほとんど「地唄」と書いた例はなかったようですから、この場合も、「唄」という字が当用漢字にはないことですし、ここでは「地歌」という書き方を、むしろ正式なものと認めておきます。江戸の三味線音楽である「江戸長唄」などは、慣用的に「唄」の字の方が多用されていますので、「地歌」の「長歌」と区別する意味でも、「長唄」と書くのは差し支えありません。
さて、「箏曲」ということばも、誤解されていることがあるようです。それは、「ピアノ曲」といえば、器楽曲、それも独奏曲をいうことが多いためでしょうか、「箏曲」も、箏の独奏の器楽曲であると誤解される場合があるようです。
しかし、「箏曲」という日本語は、箏の音楽の総称として用いられます。器楽も声楽も含みます。のみならず、独奏の場合でも、「箏曲」の場合は、1人の演奏者が、みずから箏を演奏しながら、歌も自分で歌うという、いわゆる「弾(ひ)き歌い」の演奏形式があります。箏歌曲の独奏といってもよいでしょうが、歌にも楽器にも同等の比重がありますから、厳密には、歌曲と定義するわけにも行きません。
さらに、合奏の場合、箏のパートだけとは限りません。三味線のパートが加えられ、尺八のパートまであっても、原曲が、箏の曲として作られたような場合や、箏に比重がある場合には、単に「箏曲」ということもあります。特に、三味線や尺八のパートもあるということをはっきりさせる場合には、前述の「三曲」という用語を用います。そして、この「三曲」の合奏の中において、箏や三味線の奏者が、「弾き歌い」として歌唱も担当するということも多いのです。一般に、古典曲の場合には、まったく歌を伴わない器楽曲は、むしろ例外的であるともいえます。
〈六段の調べ〉のような曲は、大変有名であって、しかも古典的名曲であることはたしかですが、必ずしも箏の独奏だけとは限りませんし、場合によっては、この曲を三味線だけで演奏するということも、皆無ではありません。そして、演奏形式はともかく、この曲が、「箏曲」の代表曲の一つであることは事実なのですが、しかし、箏曲の概念からいうと、むしろ例外的な曲であるとさえいえるかもしれません。
もともと、箏曲を芸術的な音楽として完成させた最初の人といわれる八橋(やつはし)城談(1614〜85)という音楽家の作品には、前期の〈六段の調べ〉のような器楽曲もありますが、数の上では、「組歌」といわれる歌曲形式の箏曲の方が多かったのです。最も狭義に「箏曲」といえば、「箏組歌」といってもよいのです。この「箏組歌」には、原則として、三味線や尺八または胡弓が合奏されるということは、まずありません。
しかし、八橋以後において、「地歌」の三味線曲に、箏が合奏されることも多くなりました。そうして、江戸時代の後半には、はじめから、三味線のパートも箏のパートも、同時に作曲されるか、箏のパートを加えることを前提とした三味線曲が多くなりました。それらの曲には、もちろん歌の部分もあるのですが、かなり長い間奏の器楽性に比重があります。そうした曲は、「地歌」というよりは、むしろ「箏曲」といった方が、適当であるかもしれません。
とにかく、こうして「箏曲」ということばが示す内容は、大きく拡大されるようになりました。そうして、同時に、箏だけを主奏楽器とするもので新しい形式の曲も、江戸時代末期から明治にかけて、さまざまに作られました。たとえば、〈四季の眺め〉とか〈八重衣(やえごろも)〉といった曲は、三味線のパートと箏のパートとが、ほぼ同時に作られた曲ですし、〈五段砧(ごだんぎぬた)〉とか〈千鳥の曲〉といった曲は、江戸時代後期に、新しい形式の箏曲として作られたものです。
ところで、もう一つ、江戸時代の後期には、特に江戸において、新しい形式の箏曲が創造されました。それは、江戸の山田斗養一(とよいち、1757〜1817)が創始したもので、江戸で行なわれていたさまざまな三味線音楽を、箏を主奏楽器とする音楽として改変したものです。それも、既成曲の編曲ではなくて、そうした新しい音楽として、〈小督曲(こごうのきょく)〉など数多くの作品を作りました。
結果としては、当時の江戸の三味線音楽が声楽に重きを置いていたので、この山田斗養一の新作も、声楽本位の曲が多く、つまり、箏を主奏楽器とする新歌曲を創造したものといえます。そして、この箏曲にも、三味線も合奏され、現在では、もちろん尺八も加えられ、曲によっては、胡弓も合奏されます。
その後、江戸では、この形式の箏曲の伝承と、新作品の創作が続けられました。こうした箏曲を、特に「山田流箏曲」といいますが、ただ、山田流箏曲の演奏家は、他の「箏曲」や「地歌」を演奏しないというわけではありません。また、この「山田流」に対し、それ以外の箏曲家を、八橋城談の孫弟子の生田(いくた)幾一(1656〜1715)の名にちなんで、「生田流」ということもあり、結局、生田流と山田流とでは、レパートリーに多少のちがいがあることになりますが、本質的には、同じ箏の音楽を扱うものであることにはかわりなく、共通するレパートリーも多いのです。
明治のはじめに、文部省に音楽取調掛(現在の東京芸術大学音楽学部の前身)が設けられ、その仕事の一つとして、日本の音楽を採譜・改良するということが行なわれましたが、その結果、明治21年に『箏曲集』という五線譜が刊行されました。
そこでは、生田流とか山田流とかの区別を立てず、古典的な組歌や〈六段の調べ〉などはもちろん、本来、山田流箏曲であった曲も、また、地歌であった曲も、すべて「箏曲」として扱い、さらに、新時代に国際的に日本の音楽を紹介するのにふさわしいように、新しく創作されたり、編曲・編調された曲も含まれています。こんにち、「箏曲」としてより、日本の古い歌として有名な〈さくら〉なども、実は、この明治21年の『箏曲集』で五線譜化されて広まったものなのです。
なお「山田流箏曲」としては、叙事的・劇的な歌曲が重んじられてはいますが、〈さらし〉や〈岡康砧(おかやすぎぬた)〉のような、間奏の器楽性に比重のある曲もあります。
こんにちでは、山田流の曲でさえ、山田流以外の演奏家が演奏するといったことも皆無ではなく、箏の音楽としての特質からいえば、山田流独自の曲も、「箏曲」であることにかわりはありません。とにかく、生田流・山田流のちがいは、多少のレパートリーの差であって、いわゆる封建的な家元制度的な流儀差ではないということを、はっきりと認識しておいていただきたいと思います。 
箏曲 2

 

箏(そう)つまり「こと」の音楽。特に現代では近世に発達した俗箏による音楽を指す場合が多く、大きく生田流箏曲と山田流箏曲に分かれる。三曲のひとつ。また、よく合奏される地歌(地歌)も含めた音楽ジャンルとみなされる場合もある。
歴史
筑紫箏
近世箏曲は、戦国末期から江戸時代はじめにかけて活躍した賢順が完成した「筑紫箏」(つくしごと)を始祖とする。彼は浄土僧でもあり、寺院に伝承される雅楽や歌謡を修め、また当時来日していた明人の鄭家定に琴(きん)を学び、 これらから箏曲を作り出した。これが筑紫箏である。ただし筑紫箏の音楽は、高尚で雅びであるが娯楽性は少なく、礼や精神性を重んじ、また調弦も雅楽に近い「律音階」に由っていた。
八橋流
賢順の弟子の法水に師事したのが当道座に属した盲目の音楽家、八橋検校であった。彼は三味線や胡弓の名手でもあったが、三味線の音楽などではすでに民間の新しい音階である「都節音階」が使われ、普及していた。八橋はこれを箏に応用し、これまでの律音階による調弦から、都節音階による新たな調弦法である平調子(ひらぢょうし)、雲井調子(くもいぢょうし)に改めた。以後現在に至るまで、この平調子は箏のもっとも基本の調弦法とされている。こうしてこの新たな調弦法にのっとり、多数の新しい曲を作曲した。これらは筑紫箏よりもより世俗的、当世風でかつ芸術性も高く、当時の世に広く受け入れられることになった。八橋検校の箏作品には「箏組歌」(箏伴奏付き歌曲)と「段物」(器楽曲)の二種があり、いずれも整然とした楽式構造を持つのが特徴である。組歌としては「菜蕗」(ふき)、「雲井の曲」など、段物としては「六段の調」などが知られている(「六段の調」の作曲者について異説もある)。八橋以後もこれらの形式による作曲が行なわれた。なお 八橋検校の時代には、箏曲、三味線音楽はそれぞれ別の音楽として成立しており、基本的に合奏されることはなかった。八橋検校の弟子たちによって八橋流は継承、発展していった。八橋検校の直接の伝承はその後も長く受け継がれ、現在でも細々と伝えられている。
生田流系
八橋検校ののち、北島検校を経て、元禄の頃に京都の生田検校によって箏曲は改変、整理されたとされる。これは実際には師の北島がすでに密かに行なっていたのを生田が受け継ぎ、公にしたとも言われる。また生田検校は地歌曲に箏を合奏させることを始めたとされている。そして三味線の技巧に対応させるため、箏の爪の形状が大きく変えられることとなる。ただしこの時代、生田のみならず、大阪の継山検校の継山流などでも同様の流れがあり、実際には必ずしも生田検校一人が行なったことではないと言われる。この他にも上方では新八橋流、藤池流なども生まれたが、それら各流間の差異は大同小異であり、次第に「生田流系」とでも呼ぶべき一つの流れに収束して行った。この生田流系はまた多くの派に分かれつつ、幕末までに京、大阪を中心にして、名古屋から中国、九州まで広く行なわれるようになった。
山田流
上方で箏曲が早くから隆盛していたのに比べ、中期まで江戸ではあまり人気がなかったのか、演奏する人が少なかった。そこで総検校の安村検校(1732年検校登官)は、江戸への勢力拡大を図り、弟子の長谷富検校を江戸へ下らせ、生田流系箏曲を広めさせたと言われる。その弟子山田松黒に教えを受けたのが山田検校斗養一であった。彼は江戸っ子好みの浄瑠璃を取り入れた新作を作り、山田流箏曲を創始した。山田は大変な美声の持ち主で、銭湯で歌ってはその技と曲を知らしめたと言う。かれはまた箏の改良も試み、より音量の大きな箏を完成させた。これを山田箏と呼び、現在では生田流諸派においても広く山田箏が愛用されている。こうして山田流箏曲は江戸人の嗜好に合い、以後江戸を中心に東日本に普及して、生田流と肩を並べる大流派となった。山田流箏曲は一中節などの浄瑠璃風の歌が中心である。
地歌との一体化、三曲合奏
その後、生田流系の箏曲は箏曲独自の作曲が次第に下火になり、幕末に至るまで、厖大な数の地歌曲にパートとして合奏、参加することで発展していく。地歌の肩を借り、地歌の後を追う形で進んで行ったのである。つまり多くの地歌曲は、箏のパートが作られ合奏されるようになって、箏曲のジャンルともなったことになる。こうして地歌と箏曲の一体化が進んでいった。また、さらに胡弓が合奏に加わるようになり、これら三種の楽器による合奏がよく行なわれるようになった。これを三曲合奏と呼ぶ。後に尺八が加わり、現代では三弦、箏、尺八による三曲合奏が圧倒的に多くなった。 江戸時代中期以降、大阪の峰崎勾当、三ツ橋勾当らにより器楽部分である手事を重要視した地歌の楽曲形式「手事物」が完成される。それに引き続き京都の松浦検校、石川勾当、菊岡検校らが京都地歌の曲を多数作曲し、それらの曲に八重崎検校らが箏のパートを作曲し、地歌の隆盛とともに複雑な合奏を楽しめる箏曲として発展した。これら京都で作られた曲群を「京もの」「京流手事もの」と呼び、更に光崎検校、吉沢検校、幾山検校らに引き継がれて行く。
幕末
さらに江戸時代後期には、光崎検校、吉沢検校らによって箏曲は一段と発展する。これまでリードを続けてきた地歌は、すでにこれ以上進みようがないほど音楽的に頂点に達し、音楽家たちは新たな展開を箏や胡弓に求めることとなった。こうして、実に久しぶりに、地歌から離れた箏曲が再び作られ始める。光崎検校は古い箏曲を見直し、組歌と段物を組み合わせた「秋風の曲」や、複雑精緻な高低二重奏曲である「五段砧」を作曲した。また吉沢検校は、雅楽の盤渉調からヒントを得て古今調子と呼ばれる調弦法を考案し、この調弦法による「千鳥の曲」、「春の曲」、「夏の曲」、「秋の曲」、「冬の曲」を作曲した。このころから、箏曲は三弦音楽から独立して新たに独自の発展を遂げていくことになる。なお、吉沢検校による革新的な古今調子の考案や、それに基づく作曲は、箏本来の曲を目指したこと、曲の歌詞などに古今集の和歌を多用したことなどから、復古主義と呼ばれることもある。
明治以降
明治時代に入り、箏曲の地歌からの独立は進み、寺島花野の「新高砂」など、「明治新曲」と呼ばれる、箏のみの曲が多く作られていく。ただし楽曲形式的にはほとんど地歌の手事物の踏襲であり、またこの時代でも、三味線と箏のための曲も引き続き作られてはいる。さらに、大正・昭和の時代になって宮城道雄が伝統に根ざし、西洋音楽などの影響も受けた新たな曲を多数発表した。主なものとして尺八との合奏曲である「春の海」がある。また宮城は、チェロ並みの低音域を持つ十七絃(通常の箏は13弦)や八十絃を開発した。このうち十七絃は、邦楽合奏における低音楽器として現在でも広く使われ、独奏曲も生まれている。 ことに大正末から昭和10年代にかけ、新しい作曲運動が大きな盛り上がりを見せ、宮城の他にも久本玄智、中村双葉、町田嘉声、中能島欣一、高森高山らにより、新しい形式、編成、作曲法による新曲がおびただしく作られた。これらを「新日本音楽」と呼ぶ。
戦後になると、邦楽系の作曲家に加え、これまで邦楽には疎かったクラシック系の作曲家も創作に参入するようになってきた。現代音楽の観点からは次第にクラシック音楽との違いが希薄になり、箏曲に限らずこうして創作される邦楽系の曲群を「現代邦楽」と呼んでいる。現代でも西洋音楽やポピュラー音楽など、幅広い分野の影響を受けて、新しい曲が作曲されており、それらは三曲、箏曲の世界において「現代曲」と呼ばれている。最近の傾向としては比較的ポピュラーに近いもの、またアジア的要素の強い曲が増えている。
音楽的特徴
近世邦楽としての箏曲は本来「組歌」という歌のみの楽曲形式による曲を最も正式なジャンルとし、またその後も地歌とともに発展したため、歌のついている曲が多い。純粋な器楽曲は江戸時代を通じ、「段もの」と「砧もの」の数曲のみである。しかし江戸時代後期には器楽部分を重要視する地歌の形式である「手事もの」が非常に発展したので、それに合わせて器楽的展開が見られた。一方、山田流箏曲は一中節など浄瑠璃の音楽要素を取り入れて作曲されているため、「段もの」及び「四段砧」を除きほとんど全ての曲が歌付きである。歌のついている曲の場合、演奏家は歌を歌いながら演奏する。箏の奏法は、筑紫箏を通じ雅楽の箏の奏法が取り入れられている。三本の右手指に爪をはめて奏する点も変わっていない。ただ三味線と合奏することになってから、三味線の奏法に対応するため、爪の形に大幅な変革が行われた。中でも三味線には特に「スクイ」という技法が多いので、生田流、山田流の箏の爪ではそれができるようになっている。地歌合流期の初期段階では、地歌の三弦の旋律とほぼ同様の旋律を演奏する曲が多かった。また、器楽部分では掛け合いと呼ばれる類似の旋律を三弦と交互に演奏するような作曲もみられる。その後、一般的に替手(かえで)と呼ばれる、地歌の三弦の旋律を引き立て、装飾するような複雑な旋律の作曲が多くなってゆく。さらに、地歌から独立した作曲が多くなってゆくと、箏独特の奏法を駆使した旋律による曲が作曲されるようになっていった。
代表的な曲
「六段の調(六段)」「八段の調(八段)」「乱れ」「秋風の曲」「五段砧」「千鳥の曲」「春の曲」「夏の曲」「秋の曲」「冬の曲」「新高砂」「水の変態」「春の海」「今様」
ただし、これらは箏曲として作曲された曲に限る。この他にも、箏は地歌の曲のほとんどすべてと合奏可能である。詳しくは地歌の項目を参照のこと。また胡弓本曲の伴奏として、胡弓と合奏されることもある。 
 
「三味線楽」と地歌

 

「三味線楽」すなわち三味線の音楽には、いろいろな種類があります。しかし、その三味線という楽器を、日本人向きに改良し、そうして、その芸術的音楽としての楽曲を作った最初の人たちは、それまで「平家琵琶(へいけびわ)」の音楽を扱ってきた人たちでした。すなわち、音楽を職業とする人たちだったのですが、その中でも、柳川(やながわ)応一(?〜1680)という音楽家が、まず、芸術音楽としての三味線楽を、組織的な形にまとめるということをしました。実は、「箏曲」の芸術音楽としての作曲を最初に行なった八橋城談も、はじめは、柳川応一といっしょに、三味線を演奏していたのです。
柳川応一は、それまでに作られていた三味線の歌曲を集めて、それらを改作したり、あるいは、みずから作曲も行なって、芸術的な三味線伴奏の歌曲の形式を整えました。それは、歌詞の上では、いくつかの短い別な歌が組み合わされている形式で、ちょうど箏曲の方でも、最初に芸術化されたものが「組歌」であったのと、期せずして似たような結果となりました。こうした曲を、三味線の方では、最も基本的なものという意味で、「本手(ほんて)」といいました。現在では、「箏組歌」に準じて、この「本手」のことを「三味線組歌」ともいっています。この「三味線組歌」には、箏や尺八が合奏されるということはありませんでした。
その後、この組歌形式の「本手」に対して、歌詞の上では一曲を通じて長いまとまりを持った「長歌(ながうた)」と呼ばれる歌曲形式のものも作られ、さらに、その「長歌」に対して、演劇の中で用いられたり、芸術的な演奏の場以外で演奏されたりした曲を、「端歌(はうた)」と呼びました。
こうした三味線の音楽を演奏した人たちは、同時に箏の音楽も扱っていました。つまり、当時の職業的な音楽家は、琵琶も三味線も箏も、そして胡弓まで扱っていたのです。ただ、琵琶は、「平家物語」を語る伴奏として用いられていたので、三味線や箏と合奏させるということはなかったのですが、前記の「長歌」や「端歌」といった曲は、三味線の音楽として作曲されたものではあっても、これに箏を合奏させるということも行なわれ、また、曲によっては、胡弓も加えられたのです。
もっとも、歌舞伎や、人形芝居の方では、演劇や舞踊の伴奏音楽としての別の三味線音楽も発達して行きましたが、一般家庭の人も学んだり演奏したりするもので、音楽だけを楽しむものとしては、こうした「長歌」や「端歌」の曲が、最も普及して行きました。
そのうち、その「長歌」や「端歌」の間奏部が、しだいに器楽性を持つ長いものに発展し、その部分だけを独立させて鑑賞することも可能なような形のものになり、その部分は、三味線だけでも異なるパートの合奏も行なわれるようになりました。こうした部分を、「手事(てごと)」といい、こうした部分を含む曲を「手事もの」というようになりました。
この「手事もの」で、異なる二つのパートがある場合に、主旋律のパートを「本手」といい、もう一つのパートを「替手(かえて)」といいました。「替手」は「本手」に対して、対位旋律であったり、装飾的な旋律であったりします。ただし、このパートが、単に「本手」の旋律を、時間的にずらしたり、同じ類型的な音型を連続的に繰り返すものであったりする場合には、「地(じ)」といいます。
一方、こうした三味線曲に合奏される箏の旋律は、はじめは、三味線とほぼ同じ旋律であるか、あるいは、時間的にずらしたりするだけのものでしたが、しだいにその技巧が発達して、前記の「替手」のパートを箏が受け持ったような形にまでなりました。そして、「箏曲」の説明でも述べたように、最初から、そうした箏のパートがあることを前提として作曲されるようにまでなったのです。こうした曲は、三味線の曲といってよいか、あるいは、箏曲といってよいか、どちらともいえないようなものになったのです。
以上に述べた三味線の音楽は、主に関西で発達してきました。ところが、江戸時代の後期には、江戸で発達していた演劇に付随する三味線音楽が、関西でも流行するようになりました。そこで、もともと関西の土地で発達してきた三味線の音楽の中で、以上に述べた音楽本位の曲を、「地歌(じうた)」と呼ぶようになりました。
「地歌」の「地」とは、関西の土地を意味したものと思われます。そうして、必ずしも歌曲だけではなく、前述したような「手事もの」も含んで「歌」といったのは、関西では、人形芝居の三味線音楽として、「義太夫節」の「浄瑠璃」と呼ばれるものがあり、それは一種の「語りもの」といわれる朗誦(ろうしょう)性に富むもので、しかも対話部分を含むものであったので、それに対して、わざわざ「歌」といったものと思われます。つまり、古くは、「浄瑠璃」に対して、単に「歌」といっていたものが、江戸のものに対して、特に「地歌」というようになったと思われます。
そこで、こんにちでは、「箏曲」と関係の深い三味線音楽の曲を、「地歌」と総称するようになったのですが、場合によっては、単に「箏曲」とだけいっても、「箏曲・地歌」を省略したような意味で、そこには当然「地歌」の三味線音楽も含んでいうことがあります。
ここで、注意しなければならないことは、こうした「地歌」の三味線音楽の歴史は、いろいろな形式の曲が、時代を追って単に新しく創作され続けてきたというだけではなく、同じ曲の演奏の形式も、時代を追って、さまざまに発展してきたということです。
たとえば、〈さらし〉という曲があります。この曲は、本来「長歌」として作曲された曲です。それが、その手事部分が器楽性を持つものに改作され、のちには「手事もの」として扱われるようになります。ところが、さらに、これに箏が合奏されるようになります。そして、その箏の旋律も、しだいに複雑なものに発展して行って、箏を主にした演奏さえ行なわれるようになります。その上、全体的に、あるいは箏、あるいは三味線の旋律がいっそう複雑なものとなり、即興演奏も加えられるようにまでなっています。
また、〈八千代獅子(やちよじし)〉という曲があります。この曲は、もともとは尺八の曲であったものを、胡弓の曲に移し、さらにそれを三味線の曲にかえて、「長歌」または「端歌」として扱うようになったのです。それが、さらに「手事物」として扱われるようになり、そして、箏の旋律もつけられて箏曲としても扱われるようになります。〈岡康砧(おかやすぎぬた)〉という曲などは、もともとは三味線の曲であったともいい、また、はじめから胡弓の曲であったともされます。それが、胡弓の曲として伝えられたものを、箏曲化し、さらに三味線も加え、異なるパートの箏の旋律、すなわち箏の替手も幾つか作られています。
〈六段の調べ〉にしても、もちろん箏曲として作られたものですが、かなり早くから三味線の曲としても演奏され、そして、まず三味線の替手が作られ、それが箏に移されて、箏曲の原曲と合奏され、いわゆる本手と替手の箏の合奏の形式にも発展して行きます。
とにかく、このように「地歌」と「箏曲」との区別は、ますますつけがたいものになってきたのです。そうして、箏曲のところで述べたように、山田流の演奏家も、もちろんこうした「地歌」三味線曲の箏曲化されたものも演奏しますし、その場合、本来は「地歌」であったという意識が薄れてしまっている場合もあります。
以上のことは、非常に複雑なようですが、本来、このような箏と三味線、そして胡弓を扱ってきた音楽家が、同じグループの職業的音楽家であった以上、こうした現象は当然のことで、箏と三味線とが不即不離の関係にあるのみならず、「箏曲」と「地歌」とは、不可分の関係にあるといえるのです。 
 
地歌(地唄)

 

江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌。当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄ともいう。長唄と共に「歌いもの」を代表する日本の伝統音楽の一つ。また三曲の一つ。
地歌は、多くの三味線音楽の中でも最も古くまで遡ることができるもので、多くの三味線音楽の祖であり、江戸時代を通じて他の三味線音楽分野に多大な影響を与え続けてきた。義太夫節など各派浄瑠璃や長唄も、もともと地歌から派生したとみなすことができる。
三味線を用いた音楽としては、初期に上方(京阪地方)で成立していた地歌は、元禄頃までは江戸でも演奏されていた。その後、江戸では歌舞伎舞踊の伴奏音楽としての長唄へと変化、また河東節などの浄瑠璃音楽の普及によって、本来の地歌そのものはしだいに演奏されなくなっていった。
幕末までには、京阪を中心に東は名古屋、西は中国、九州に至る範囲で行われた。明治以降には生田流系箏曲とともに東京にも再進出、急速に広まった。現在は沖縄を除く全国で愛好されている。ただし東京では「地唄舞」の伴奏音楽としてのイメージがあり、地唄舞が持つ「はんなり」とした雰囲気を持つ曲という印象を持たれがちであるが、地唄舞は地歌に舞を付けたものであって、最初から舞のために作曲されたものはない。また地唄舞として演奏される曲目は地歌として伝承されている曲の一部であり、地歌の楽曲全体をみれば、音楽的には三味線音楽の中でも技巧的であり、器楽的な特徴を持つ曲が非常に多い。
一方、三曲界内部においては、明治維新以来の西洋音楽の導入に伴って、その器楽的部分に影響を受け、江戸時代を通じて器楽的に発達していた「手事物」に注目されることも多い。しかしながら「歌いもの」の一つとして発達した地歌は伝統的な声楽としての側面も持っている。
一般的に地歌、三曲の世界では三味線を三弦と称する場合が多い(三絃とも書く)。
現在では箏曲と一体化しまた尺八楽、胡弓楽とのつながりも深く、全国的に普及している。また多くの三味線音楽が人形浄瑠璃や歌舞伎といった舞台芸能と結びついて発展してきた近世邦楽の中にあって純音楽的性格が強く、舞台芸能とは比較的独立している。
歴史
江戸時代初期
三味線の伝来と地歌の発祥
地歌は、三味線の伝来とほぼ同時に始まったと考えられるので、三味線音楽の中で最も長い歴史を持つ。すなわち、戦国時代末期に琉球を経由して大阪の堺に入ってきた中国の弦楽器三弦を、平曲(平家琵琶=平家物語の語り物音楽)を伝承していた当道座の盲人音楽家(琵琶法師)たちが改良して三味線を完成させ、琵琶を弾く撥によって弾き始めるという形で、三弦音楽としての地歌は始まったと考えられる。中でも石村検校は三味線音楽興隆の祖と言われる。その後も地歌は、主に当道座の盲人音楽家たちによって作曲、演奏、伝承されてきた。現存で最も古い楽曲としては、江戸時代初期に完成されたと考えられる「三味線組歌」がある (「琉球組」「飛騨(ひんだ)組」など)。
江戸時代中期
組歌の停滞と長歌の発生
これらは小歌曲をいくつか連ねた形式だが、やがて飽きられ、元禄の頃には一貫した内容を持つ「長歌」が作曲されるようになる。これは江戸の検校たちによって始められたらしく、作曲家として浅利検校、佐山検校などが有名である。やがて上方でもこれに倣った曲が作られるようになる。また長歌は江戸で歌舞伎舞踊の伴奏としても使われるようになり、長唄へと発展して行く。「桜尽し」「こんかい」「古道成寺」「花の宴」などが知られている。
手事物の始まり
いっぽうこの頃から、歌ばかりでなく、「さらし」「三段獅子」「六段恋慕」など、歌の間にまとまった器楽部分を持つ曲が作られるようになる。この部分を「手事」といい、こういった形式の曲を「手事物」という。手事ものは初めの頃はまだ曲も少なく、音楽的にも比較的単純なものが多かったが江戸時代後期に大発展し、地歌を代表する楽曲形式となる。
端歌の発生と流行
さらに、これらに含まれない雑多な曲も多数作られた。これを「端歌(はうた)」と呼ぶが、江戸の端唄とは別のものである(一部地歌の端歌から取り入れられている物もある)。端歌は一部流行歌など大衆的な音楽も含み、軽音楽的な要素もあって、地歌と大衆的歌謡との接点でもあった。プロである盲人音楽家だけではなく、素人の愛好家たちによって作られた曲もあり、全般的に叙情的な小品が多い。18世紀半ばになると端歌は大坂を中心に大量に作曲されるようになり、鶴山勾当、藤永検校、政島検校らによって洗練され、大いに流行した。同世紀末に作られた峰崎勾当の「雪」は、端歌もの地歌の傑作として有名である。このほか「黒髪」「鶴の声」「小簾の戸」「芦刈」「所縁の月」「袖の露」「菊の露」「落し文」「名護屋帯」「露の蝶」「袖香炉」などがよく知られている。
三曲と三曲合奏
もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、総称して三曲という。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地歌、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来たが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはなかった。しかし元禄の頃、京都の生田検校によって三弦と箏の合奏が行われるようになり、地歌と箏曲は同時に発展していくことになる。
現在伝承されている曲の多くは三弦で作曲され、その後に箏の手が付けられているものが多く、三弦音楽として地歌は成立し、ほぼ同時かその後に箏曲が発展してきたと考えられる。ただし箏曲の「段もの」は後から三絃の手が付けられたものであり、ほかにもしばしば胡弓曲を三弦に取り入れたものもある。胡弓との合奏も盛んに行われ、三弦、箏、胡弓の3つの楽器、つまり三曲で合奏する三曲合奏が行われるようになった。このような環境の中で地歌は、三弦音楽として発展した。
謡ものの始まりと諸浄瑠璃の吸収
18世紀末には、尾張の藤尾勾当が、能の詞章を取り入れた曲をいくつも作曲した。これを「謡(うたい)もの」と呼び、「屋島」「虫の音」「富士太鼓」などが有名であり、この後も能に取材した曲がいくつも作られている。また元禄の頃から浄瑠璃の半太夫節や永閑節などが地歌に取り入れられた。さらに18世紀後半には繁太夫節が地歌に取り込まれ、検校たち自身が浄瑠璃を作曲することにもなった。「紙治」「橋づくし」などが知られた曲である。このように地歌は劇場音楽との関わりも持っている。
作ものの発生
同じ頃、滑稽な内容を持つ「作(さく)もの」と呼ばれるジャンルも生まれた。これは「おどけ物者」ともよばれ、「曲ねずみ」「たにし」「狸」などの動物が主人公で智恵を絞って難を逃れる内容のものがある他、「寛活一休」「浪花十二月」等もある。物語性が非常に強く、擬音を用いるなど地歌では特殊なジャンルと言える。関西系地歌箏曲家が伝承している他、宮城派等の他派も演奏会で演目に挙げることがある。非常に多彩な技能を要し、どの曲も難曲といって過言ではない。
江戸時代後期
手事ものの完成
このように江戸時代中期から後期にかけて、音楽性の高い楽曲が数多く作られるようになった。特に器楽部分が発達して、手事と呼ばれる、歌の間にはさまれる長い器楽部分を持つ曲(手事物と呼ばれる)が多く伝承されている。手事ものを大成したのは、18世紀末に大阪で活躍した峰崎勾当であり、彼は前述のように「雪」をはじめ端歌ものもいくつか残しているが、その一方で「残月」「越後獅子」「吾妻獅子」「梅の月」など、手事を技巧的で長いものとし、三味線が器楽的に大いに活躍する曲をも多数作曲した。彼の後輩である三ツ橋勾当も「松竹梅」「根曵の松」の作曲で知られている。三ツ橋は曲中の手事の数を増やし、より長大で変化に富んだものとした。こうして地歌は器楽的な側面を強くしていった。
替手式箏曲の始まりと合奏の発達
また文化の頃に大阪の市浦検校が、これまでほとんどユニゾンに近かった箏の合奏を改め、もとの三味線に対して異なった旋律を持つ箏パートを作るようになった。これを「替手式箏曲」と呼び、更に八重崎検校らによって洗練されて行く。三味線同士の合奏も盛んで、やはり原曲と異なった複雑な合奏効果をもつパートである「替手」がいろいろ作られ、また元の曲と合奏できるように作られた別の曲を合わせる「打ち合わせ」など、三曲合奏とともに様々な合奏が発達した。
京ものの大発展
この後、手事もの作曲の主流は京都に移る。まず松浦検校が京都風な洗練を加えた手事ものの曲を多く作り、以後京都で作曲された手事もの地歌を「京もの」「京流手事もの」と呼ぶようになる。さらに菊岡検校(1792年 - 1847年)が京都で手事物を多数作曲した。それらのほとんどの曲には、同時代に活躍した八重崎検校(1776年 - 1848年)が箏のパートを作曲しており、地歌・箏曲の合奏曲として発展し、地歌としても最盛期を迎えたといえる。と同時に、地歌と箏曲はほとんど一体化した。他にも、京都の石川勾当が「八重衣」「新青柳」「融」など、非常に長大で複雑な技巧を尽くした曲を残している。また光崎検校も『七小町』、『夜々の星』等を作った。ここに来て、地歌はもはやこれ以上進む余地がないほど三味線の技巧の極致に達した。
撥の改良
大阪の津山検校によって、こんにち地歌で広く使われている形の撥「津山撥」が考案されたのも文政から天保初年にかけてのことである。
箏曲独立への胎動
菊岡検校の後輩である光崎検校はその頃に活躍した。彼は箏の名手八重崎の弟子でもあり、楽曲としての高度に発達を遂げて飛躍的な発展の余地が少ないと思われた地歌から、まだ発展の余地のある箏に眼を向け、箏のみの音楽をいくつか作る。こうして箏曲が再び独自に発展を始めることになり、以後吉沢検校らに受け継がれて、次第にこの傾向が発展して行く。
パート間の緊密化
光崎検校は従来の手事もの地歌でも「桜川」「夜々の星」「七小町」などを残しているが、多くの自作品において、はじめて三味線、箏両パートを一人で作曲した。これによってパートが固定され緊密化され、合奏音楽としての完成度が高くなっている。この傾向は後輩にも受け継がれ、幾山検校や吉沢検校なども同様に作品を残した。吉沢は更に進んで「玉くしげ」などにおいて三味線、箏、胡弓の三パートをすべて一人で作曲した。また幕末には京阪や名古屋のみではなく中国、九州などでも地歌が盛んになり、独自の曲が作られた。
明治以降
維新後の混乱と地歌の普及
明治時代になると、箏曲が独自に発展してゆき、地歌の作曲は少なくなっていった。もちろんまったく作られなくなったわけではなく、京都の古川瀧斎、松坂春栄、名古屋の小松景和、岡山の西山徳茂都などが作品を残してはいるが、箏のみの作品が圧倒的に増えていく。それは、すでに地歌音楽が完成され尽くしてしまっていたこと、西洋音楽や明清楽の音階の要素を箏の方が容易に取り入れることができること、恋愛や遊里色もある三味線に比べ、明朗、清新な時代精神に箏の音色が合致していると思われたことが、理由として挙げられる。また新政府により当道座が解散させられ、特権的な制度に守られた音楽活動はなくなったことは、この時代の大きな変化であった。
こうして権威を失った検校たちは困窮し、寄席にまで出演して稼がねばならない有り様であった。反面こうして地歌は一般にも広まり、特に、江戸時代中期以降は地歌が盛んでなかった東京をはじめとする東日本に、生田流系箏曲とともに地歌が再び広まる機会ともなった。長谷幸輝、富崎春昇、米川親敏、川瀬里子、福田栄香、金子花敏、中塩幸裕など九州、大阪をはじめ西日本各地から東京に進出する演奏家も多かった。やがて西洋一辺倒の時期が過ぎると、地歌は箏曲、尺八とともに全国に普及した家庭音楽となり、広く愛好されるようになった。ただし箏が主体となって、地歌単独での作曲は少なくなったが、地歌的な作品、地歌三味線を使った曲は宮城道雄をはじめ、こんにちに至るまで少なからず作られている。
また、三味線音楽のジャンルを超えた合奏曲(杵屋正邦の「三弦四重奏曲」、藤井凡大の「二種の三弦のためのソナタ」など)も作られている。三曲合奏は、胡弓の代わりに尺八を用いて、三弦、箏、尺八での合奏が多くなってゆき、現在ではこのような形式で演奏されることが多い。ただし胡弓入りの三曲合奏が廃れてしまったわけではなく、現在でも各地で行われている。
音楽的特徴
盲人作曲家によって作られた曲が多く、視覚的な内容よりも心情的な内容を表現した音楽が多いとされる。また劇場とは関係なく純音楽として発展して来たため、全体に内省的でデリートな表現が多く、劇的な表現は少ない。
多音的な合奏法
器楽合奏的側面が近世邦楽の中でもっとも強く、多くは合奏で演じられる。「手事もの」の発展に伴い、多音的で複雑な合奏が発達し、地合わせ、段合わせ、打ち合わせ、本手替手合奏、三曲合奏など、多様な合奏法がある。たいていの曲は合奏できる箏、胡弓、尺八のパートが付けられていて、また三味線の替手を持つ曲も少なくない。
器楽的要素
長い器楽部を持つ「手事もの」が、もっともよく演奏され、曲も非常に多い。これは歌よりも器楽部分である「手事」に重心が置かれ、また曲によっては3オクターヴ以上の音域を駆使するなど、色々な三味線の技巧が発達している。
数は少ないながら器楽曲を持つ。「晴嵐」「十二段すががき」「四段砧」がそれであり、また箏曲の器楽曲種目である「段もの」も三味線用に編曲されている。
単なる自然描写や心情の吐露の域を脱し、純音楽として高踏的な芸術性を発揮している曲も決して少なくない。
音域
特に「手事もの」では3オクターヴまで使う曲が少なくなく、もっとも使用音域の広い曲では3オクターヴと3度に達する。
三味線の技法
左手による、余韻を活かしたポルタメント奏法である「すり」、「打ち指」、「落し撥」などの装飾音的技法を多用し、手事では降ろし撥とすくいを細かく連続的に交互に続ける音型が多用される。また、「逆はじき」「摺り手」「撥消し」などの特殊な技法もしばしば使われ、これらは風の音、虫の声などの擬音技法として使われることが多い。逆に長唄や義太夫節のような劇場用三味線音楽のように、撥を叩きつけたりする劇的な表現はほとんどみられない。 全体に技巧的で、繊細な技法が発達している。
転調、調弦法
どんな小曲でも、たいていは曲中に部分的な転調があり、中規模以上の曲では頻繁に転調がある。属調、下属調への転調が普通だが、松浦検校らの作品には特殊な転調が見られるものがある。
使用される調弦法は低二上り、低本調子、一下り(三上り)、本調子、二上り、三下り、六下り、高三下りなどで、中規模の曲の多くが、途中一度は調弦を変える。大曲の場合はほとんど二回の調弦変えを行ない、三回変える曲も少なくない。ただし『八重衣』のように大曲でも一度も調弦を変えず、すべて左手のポジションにより頻繁な転調に対応する曲もある。いっぽう『浮舟』など端歌ものの小曲でも調弦を変えるものがある。調弦変えの目的は転調のためと、響きによる雰囲気の変化を求めるためである。
調弦変えの例
低本調子 - 低二上り - 三下り - 本調子 『融』など
低二上り - 三下り 『磯千鳥』『四季の眺』 など
低二上り - 本調子 『梅の月』など
低二上り - 一下り(三上り) - 本調子 『桜川』など
低二上り - 一下り(三上り) - 本調子 - 二上り『松竹梅』『根曵の松』 など
本調子 - 二上り 『吾妻獅子』『楫枕』など
本調子 - 三下り - 本調子 - 二上り 『玉川』『尾上の松』『玉くしげ』など
本調子 - 二上り - 高三下り 『新青柳』『笹の露』『宇治巡り』『七小町』など
三下り - 本調子 『萩の露』など
三下り - 本調子 - 二上り 『ながらの春』
三下り - 二上り 『面影』など
六下り - 三下り 『茶音頭』
歌唱
歌の節を聴かせる曲が多い。歌はたいていひとつひとつの音節を長く伸ばし、母音に様々な節をつけるよう作られている。特に端歌ものには、節回しの面白さを聴かせる曲が多い。また手事ものでも、歌の節に力点が置かれている曲もある。歌の旋律はもともと地歌の本拠地であった関西方言のイントネーションを基盤にしている。歌の音域が広く、ふつう2オクターヴ程度。曲によって高音域が多いものと低音域が多いものがある。これは女性的な内容の曲とか、追善のための曲など、内容による。
語りはほとんどない。『融』に少し語りの部分があるが、これは平曲の「素声」(しらごえ)を取り入れたもの。このほか語りが入る曲は非常に少ない。本来が劇場とは関係なく発展してきたので、劇的な表現は少ない。
その他
三弦を用いる近世邦楽の中では、演奏者が楽器を弾きながら歌を歌うことも特徴的である。京阪地方を中心に盛んだったために上方唄と呼ばれたり、また、当道座の盲人たちによって伝承されてきたために法師唄とも呼ばれることもあった (検校など当道座の盲人は髪を剃りユニフォームが「検校服」と呼ばれる僧衣に近いもので、僧形であったため。ただし平曲以外の演奏は民間の礼服である紋付羽織袴が多かった)。
三曲のひとつとして
江戸時代中期以降、三曲と総称される地歌、箏曲、胡弓楽は合奏のために共通の曲を持つようになり、次第に一体化し、後期には不可分の関係となった。また江戸末期以降、それまで地歌に便乗する形で発展して来た箏曲が、今度は先に立って発展したので、箏曲の一環にあげられることもあるが、三弦音楽として作られた曲が本来的な地歌である。したがって、「六段の調」、「八段の調」、「乱れ」などは初期の箏本曲(本来、箏のために作られた曲、これらも三弦、胡弓と合奏が可能)であり、「千鳥の曲」、「秋の曲」などは江戸後期の箏本曲(「千鳥の曲」は胡弓本曲でもある)であるので、本来的には地歌とは呼ばれない。また胡弓本曲の伴奏として地歌三味線が用いられることもある。
曲種の分類
地歌は非常に曲数が多く、歴史も長いため実に様々な傾向の曲が存在する。そこで、楽曲形式だけではなく、様々な切り口で曲種の仕分けが行なわれる。したがって一つの曲でも様々に分類づけることができる。例えば「新青柳」は手事もので京もの、謡ものであり、石川の三つものの一つである。また「松竹梅」は手事もの、大阪もの、祝儀もので十二曲の一つである。すべての流派で使われるわけではないものもある。
楽曲形式に由来するもの
三味線組歌(小歌曲をいくつもつなぎ合わせて作った曲群、またそれに倣って作られた曲群。現在ではごく一部の系統にのみ伝承されている地歌最古の曲群)
長歌(一貫した内容を持つ曲群。長い曲が多い)
端歌(雑多な曲群。短めの叙情曲が多い)
歌もの(手事ものに対し、歌のみ、もしくは手事はあってもごく短くあくまでも歌に重点が置かれた曲群)
手事もの(本格的な手事を備えた曲群)
段もの(本来箏曲の曲目)
砧もの(箏曲「砧」より移入しそれから発展した曲群)
器楽曲(歌が付随せず楽器だけで奏される曲。段もの、砧ものも含まれる)
取材先、移入元に由来するもの
謡もの(能の詞章を一部抽出し、ほとんどそのまま歌詞とした曲群)
半太夫もの(浄瑠璃の半太夫節から移入された曲)
繁太夫もの(浄瑠璃の繁太夫節から移入され、またそのスタイルで作曲された曲群)
内容、曲調に由来するもの
作もの(滑稽な内容を持つ曲群。手事のある曲が多い)
獅子もの(曲名に「獅子」の語が付き、荘重かつ華麗な曲調を持つ曲群。すべて手事ものに属する)
道成寺もの(道成寺に関連した曲群)
恋慕もの(曲名に「恋慕」という語がつく曲群。恋を明るく扱った曲)
祝儀もの(祝儀用に作られたおめでたい曲群)
追善もの(故人の追善用に作られた曲群)
節もの(歌に比重が置かれた曲群)
怨霊もの(怨霊をテーマとする曲群)
尽しもの(主題となる特定の器物や歌枕、地名などの名を連ねて一連の歌詞とした曲群。「何何尽し」という曲名が多い)
作曲された場所に由来するもの / 様式的な特徴も含む
大阪もの(大阪で作曲された手事もの)
京もの(京都で作曲された手事もの)
名古屋もの(吉沢検校とその系統により作曲された曲群)
九州もの(九州系で作られた曲)
教授システムに由来するもの
手ほどきもの
許しもの
三つもの
十二曲(大阪で特に大切にされた12曲の総称)
作曲者に由来するもの
松浦の四つもの(松浦検校作品中の四大名曲)
石川の三つもの(石川勾当作品中の三大名曲)
宮城曲(宮城道雄の作品群)
用途に由来するもの
芝居歌(芝居の伴奏として使われる曲群)
調弦に由来するもの
本調子もの
二上りもの
三下りもの
合奏に由来するもの
段合わせもの(手事が複数段に分かれている曲のうち、段どうし互いに合奏もできるように作曲されている曲群)
打ち合わせもの(元の曲に対し、合奏できるように作られた別の曲があり、実際に異曲合奏 {打ち合わせ} で演じられるのが普通に行なわれる曲群)
代表的な曲
「八千代獅子」「難波獅子」「黒髪」「狐会(こんかい)」「古道成寺」「玉川」「ゆき」「小簾の戸」「袖の露」「袖香炉」「残月」「越後獅子」「吾妻獅子」「西行桜」「末の契り」「若菜」「新浮船」「宇治巡り」「四季の眺め」「深夜の月」「四つの民」「松竹梅」「根曳の松」「夕顔」「茶音頭」「ながらの春」「楫枕」「磯千鳥」「園の秋」「今小町」「御山獅子」「船の夢」「笹の露」「竹生島」「梅の宿」「ままの川」「新娘道成寺」「八重衣」「新青柳」「融」「桜川」「七小町」「千代の鶯」「夜々の星」「萩の露」
地歌三味線(三弦・三絃)の特徴
1. 中棹に含められているが、地歌の三味線は棹や胴が浄瑠璃系の中棹三味線よりもやや大きい。ただし細棹三味線よりも更に細い柳川三味線(京三味線)を使う流派も少ないながらある。また糸(弦)も長唄よりもやや太いものを使うことが多い。
2. 棹が胴に接するあたりは、普通の三味線では棹の上面が徐々にカーブを描いて下がっていく(この形を「鳩胸」と呼ぶ)が、地歌の三味線では上面が胴に接するぎりぎりまで高さを保つように作られている。これにより、解放弦から2オクターヴと2度程度までの高い音を出すことができるようになっている(他の三味線は1オクターヴと5 - 6度)。これを考案したのは、明治に熊本、東京で活躍した九州系地歌演奏家の長谷幸輝(ながたにゆきてる・1843年 - 1920年)といわれる。手事もの地歌曲では高いポジションをよく使用するが、これにより明確な高音が出せるようになった。後にこのつくりは津軽三味線等民謡用の三味線にも取り入れられている。
3. 駒は水牛の角製のものが多く、まれに象牙やべっ甲製のものもある。裏面(皮に接する面)に金属のおもり(金、銀、あるいは鉛)を二カ所に埋め込んだものが多く使われる。おもりの重さによって音色も変わって来るので、地歌の演奏家は普通、楽器の癖、皮の張り具合、天候、曲調などに合わせいくつもの駒を使い分ける。なおこの駒を改良したのも長谷幸輝といわれ、本来九州系で使われていたものが次第に広まったもので、関西では水牛角製でもおもりがなく底辺の大きい「台広」といわれる駒を使うことが多かった。いずれにしても地歌の駒は音色を決める上で非常に重要なものであり、その点において世界の弦楽器の駒の中でももっとも発達したものと言ってもよい。
4. 撥は、多くの系統で「津山撥」と称する大型のものを使用する。これは文政から天保初年の頃に大阪の津山検校が改良したもので、撥が先に向かって急に開くあたりから厚みを急に減らし、それから先が急に薄くなっているもの。撥の開きも大きいこともあり、撥先が鋭く、弾力性も増して細かな技巧に適している。また弾く時には、撥を胴の枠木の部分に当て、撥音を立て過ぎないようにする。これも繊細な音作りのためである。これらは地歌が劇場のような広い場所での演奏でなく、また芝居や舞踊の伴奏ではない純粋な音楽として、音に注意を集中し、室内でじっくりと音色を味わう音楽上の性格から来ている。材質はすべて象牙でできたものを第一とし、それを「丸撥」(まるばち)と呼ぶ。他に握りの部分が象牙で、撥先をべっ甲にしたものもよく使われる。昔は握りが水牛の角製のものが多かった。もちろん現在では象牙、べっ甲共に稀少品なので、合成樹脂でできているものを稽古に使うことも多い。 
 
「尺八楽」

 

「尺八楽」とは、もちろん「尺八」の音楽のことをいいますが、こうしたことばが、古くからあったわけではありません。むしろ、単に「尺八」といっても、それがその音楽のことまで含む場合もありますが、ここでは、楽器としての「尺八」と区別して、「尺八」の音楽を「尺八楽」ということにしておきます。
「尺八」といっても、古くは、現在の尺八とは異なる形態のものがいろいろとありました。
もともと「尺八」ということばは、中国のことばですし、中国で基準とされる高さの音を出すことができる管が、その当時の中国の尺度法の1尺8寸(日本の尺度法とは異なりますから、必ずしも54.54センチとは限りません。43.7センチくらいであったろうと考えられています)であったことから、この名がつけられたといわれています。
したがって、「尺八」という楽器も、中国から渡来した楽器です。それも、かなり早くから渡来したものらしく、奈良の正倉院には、そうした古代の尺八が残されています。この尺八は、指孔(ゆびあな)が、前に五つ、後に一つ、合計六つあけられています。
その後、現在と同じような、前に四つ、後に一つ、合計四つの指孔を持つ尺八が渡来してきました。この渡来は、いつのことかはっきりしません。あるいは、鎌倉時代以後のことかもしれませんが、とにかく、かなり古くから5孔尺八も、日本に伝えられたようです。
その5孔尺八にも、いろいろな長さや形のものがありました。今の尺八と同じような形のものもあれば、全体にまっすぐで、竹の節(ふし)が一つしかないものもありました。この1節でできている尺八を、特に「一節切(ひとよぎり)」といいました。
この一節切の尺八は、特に江戸時代のはじめには、非常に流行しました。箏や三味線と合奏された尺八は、はじめは、この一節切の尺八であったようです。ただし、一節切の尺八にも、いろいろな長さのものがあったのですが、この合奏に用いられたものは、特定の長さのもの(1尺1寸8分)であったようです。〈六段の調べ〉や〈みだれ〉のような曲の原曲と思われる曲が、箏・三味線・一節切の合奏で演奏されたことを示す楽譜も残されています。ほかに、一節切独自の独奏曲もいろいろとあったようです。
これに対して、今の尺八と同じ形の尺八もかなり古くからあったようです。それは一節切とは別に存在していたはずなのですが、ただ名称が混同されていたこともあって、その区別がはっきりしません。しかし、一節切を改良して今の尺八になったわけではなく、はじめから一節切とは別に、今の尺八の祖と思われるものが存在していたのです。
この尺八は、かなり古くから、地方地方の民俗的な音楽の楽器としても用いられていたようです。すなわち、現在でも行なわれている民謡の伴奏のような用いられ方は、かなり古い時代にさかのぼることができると思います。しかし、そういえば、三味線や胡弓にしても、かなり古くから地方の民俗音楽としても用いられてきており、民謡の伴奏のみならず、地方独自の語り物音楽や、郷土芸能のお囃子(はやし)の編成楽器にも加えられていたようです。ここでは、そうしたものは、いちおう除外して述べて行くこととしましたので、尺八の場合も、そうした民俗音楽としての用いられ方については、ここではあまり触れないこととします。
さて、今の尺八が音楽に用いられた、その最初は、普化(ふけ)宗の僧侶の法器としてでした。つまり、仏教の儀式や修行の具であったわけなのですが、その場合に、楽器というのは、あるいは当たらないかもしれません。しかし、広く考えれば、こうした音楽性を持った宗教行事の音は、宗教音楽といえると思いますので、まず当初は、尺八は宗教音楽の楽器であり、その音は宗教音楽として存在したといってもよいのではないかと思います。
さて、この宗教音楽としての尺八の芸術化を行なった人として、初代黒沢琴古(1710〜1771)の名があげられます。この黒沢琴古が整理集成したものを、現在では「琴古流本曲(きんこりゅうほんきょく)」といっています。当初は33曲に整理されていたようですが、今では36曲を数えています。この本曲が、いわば、芸術音楽としての尺八曲の最古典なのですが、注意していただきたいことは、この初代黒沢琴古も、やはり普化宗に属した人であったということです。つまり、あくまでも、この本曲は宗教音楽としての音楽であったもので、その中で音楽的向上をはかって整理されたものであるということです。それまでの宗教尺八とはまったく別の音楽を創造したというわけではありません。
その後、明治になって、普化宗の制度が変わってから、純粋に音楽としてのみ尺八を扱うようになったのです。そうして、それと同時に、この尺八を、箏や三味線と合奏させることも盛んとなり、いわゆる尺八を加えた三曲合奏が普及するようになったのです。この合奏曲は、それぞれ原曲の作曲事情からすれば、箏曲なり地歌なりであったわけですが、三曲合奏として行なわれる楽曲を、尺八の方からいえば、尺八の「外曲(がいきょく)」ということになります。
ここでも注意しなければならないことは、この尺八を加えた三曲合奏は、明治になってはじめて行なわれだしたのではないということです。それは、江戸時代の中頃から、すでに行なわれてきたことです。それが、明治以後になって、非常に盛んになったということなのです。
もう一つ、尺八の流儀として「都山(とざん)流」ということがいわれますが、尺八の流儀は、琴古流と都山流だけではありません。明治以後にも、宗教的立場を守り続けた人びともあったのです。そうした派の人たちは、京都の明暗寺を中心としているので、「明暗(めいあん)流」などと総称されますが、これは俗称であって、さらにその中でも細分された流派もあるのです。
こうした明暗系の尺八に対して、音楽的立場を主にする流派が、琴古流と都山流、あるいはそれから分かれた流派ということになります。いわゆる三曲合奏を行なうのは、この系統の人たちということになります。
この都山流で、「本曲」と称する曲は、琴古流の本曲とはちがって、その始祖である初代中尾都山(1876〜1956)が、新しく創作した曲が大部分です。したがって、都山流尺八の本曲は、箏曲の明治新曲や新日本音楽などとともに、いわゆる創作曲として扱いうるものといえます。
しかし、とにかく以上が、「尺八楽」として扱いうる音楽の概要です。そして、音楽として見た場合、以上に述べた尺八の音楽は、すべて尺八という楽器の特性に基づく音楽でもあり、そして三曲合奏という点では、「三曲」という総合芸術の一要素としての特色を持つものなのです。その上、この他の楽器との合奏という点では、他の箏や三味線についてもいえることですが、今後において、いろいろな他の楽器と組み合わされ、新しい日本の音楽を創造するのに、無限の可能性を持つものであるともいえるのです。 
 
絵解・絵解き(えとき)

 

変相図を含む説話画等の仏教絵画を物語る行為、およびそれを行う日本の職能、芸能である。当初は僧職にある者が行ったとされるが、間もなく巷間芸能化・大道芸化した。
女性の「絵解」を絵解比丘尼・絵解き比丘尼(えときびくに)、あるいは歌比丘尼(うたびくに)、勧進比丘尼(かんじんびくに)、熊野比丘尼(くまのびくに)等と呼ぶ。
古代・中世
そもそも仏教の教義をイラストレーションとして表現する「変相図」は、中国の法顕(337年 - 422年)が師子国(スリランカ)で行われていた造形物を「変現」と呼んだのが最初であり、東南アジアを通じて日本に伝えられ、日本で独自の展開をすることになる。「絵解」が対象とする説話画は、曼荼羅、涅槃図、八相図、個別の寺社にまつわる祖師・高僧伝、寺社縁起、参詣曼荼羅を絵画や絵巻物、掛幅にしたものであった。とくに俗化以降は、地獄絵図(地獄変相)を多く取りあげた。
平安時代中期の10世紀、醍醐天皇の第四皇子・重明親王(906年 - 954年)が書いた日記『吏部王記』にある、931年の項目で、貞観寺(真言宗、現在の京都市伏見区)で『釈迦八相絵』の「絵解」が行われたのが、確認できるもっとも古い記録であり、醍醐寺の『醍醐雑事記』にも引用されている。
平安時代末期(12世紀)から鎌倉時代(12-14世紀)にかけて、「絵解」は芸能として成立し、地獄絵図を琵琶の演奏とともに語った。
中世(12-16世紀)期になると、熊野権現の勧進を目的として諸地域をめぐり歩く「熊野比丘尼」が登場する。小脇に抱えた大型の文箱から取り出した絵巻物による地獄絵図・極楽絵図の「絵解」をしながら、熊野牛王符と酢貝(アワビの酢漬け)を配り、歌念仏や『浄土和讃』、世間で流行した俚謡(民謡)や小歌を歌いながら、物乞いをした。当初は尼僧であると思われていたが、遊女としての側面も備え始める。「勧進比丘尼」とも呼ばれ、また、「絵解」をする者をとくに「絵解比丘尼」といい、これらは熊野信仰による「熊野比丘尼」の一種と考えられていた。
室町時代(14-16世紀)、俗人の「絵解」が登場し、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、千秋万歳法師とともに「絵解」として紹介され、描かれている。
近世
江戸時代(17-19世紀)には、「絵解」はついには宗教というよりも、明らかに大道芸となった。
かつて「熊野比丘尼」「勧進比丘尼」であると考えられていた者たちは零落し、「歌比丘尼」と呼ばれ、びんざさらを伴奏に小歌を歌う芸能者であり、盛り場で売春を行う街娼となっていた。「歌比丘尼」たちの年長者を「御寮」(おりょう、御寮人に由来)といい、これが小比丘尼たちに管理売春を行った。山伏を夫に持ち、江戸・浅草に「比丘尼屋」を開く者もいた。1688年(貞享5年・元禄元年)に完成する『色道大鏡』には、「熊野比丘尼」との遊び方が指南されてあり「遊宴の名匠、比丘尼の棟梁」として、
京大佛(現在の京都市東山区正面通大和大路近辺) - 祐清
建仁寺町(現在の京都市東山区の建仁寺北側周辺) - 周峯、周慶
江戸浅草(現在の東京都台東区浅草) - 清養、清壽、慶甫
大坂鱣谷(鰻谷、現在の大阪市中央区東心斎橋近辺) - 珠養、珠英
の4か所・8人の名を挙げている。
天和年間(1681年 - 1684年)には、尼僧の衣裳を着た遊女である浮世比丘尼(うきよびくに)が現れ、井原西鶴は、1682年(天和2年)に上梓した『好色一代男』に、「この所も売り子、浮世比丘尼のあつまり」(「ここも、売り子や浮世比丘尼のたむろする場所である」の意)とさっそく登場させている。元禄年間(1688年 - 1703年)には、伊勢寺の勧進であると称して、尼僧の衣裳をまとって諸地域を漂白する遊女である伊勢比丘尼(いせびくに)が現れる。18世紀の人形浄瑠璃『国性爺後日合戦』で、近松門左衛門は「絖の帽子の伊勢比丘尼」(「サテンの帽子をかぶった伊勢比丘尼」の意)というフレーズで登場させている。
1780年代(天明年間)以降には、これら売春婦としての「比丘尼」は廃れていったとされる。一方、1847年(弘化4年)に成立した本居内遠による当時の制度考証書『賤者考』には「勧進比丘尼巫女お寮」の項があり、「勧進比丘尼」を賤者として挙げている。 
 
熊野比丘尼

 

熊野比丘尼(くまのびくに)とは、熊野三山に属した有髪の女性仏教信者です。
熊野比丘尼が活動したのは戦国時代の頃から江戸時代にかけて。荘園を失い、参詣者も減り、経済基盤が揺るぎだした熊野三山の運営資金を集めるために熊野比丘尼は諸国を巡り歩きました。
熊野比丘尼は、毎年年末から正月にかけて熊野に年籠りし、伊勢に詣でたあと、諸国を巡り、熊野信仰を布教し、熊野牛玉符(くまのごおうふ)や梛(なぎ)の葉を配って、熊野三山への喜捨を集めました。
熊野三山のために勧進(かんじん。社殿などの造営修復のために寄付を求めて歩くこと)したので勧進比丘尼とも呼ばれ、「熊野勧心十界曼陀羅」などの「熊野の絵」を持ち歩き、その絵解きをして熊野権現の慈悲を説いたので絵解き比丘尼とも呼ばれ、また、ささら(竹を細かく割って束ねて作った楽器)を摺りながら歌念仏や流行唄をうたって人々を引き付けもしたので歌比丘尼とも呼ばれました。
熊野信仰を全国に広めたのは神主や巫女ではありません。
平安時代には熊野山伏であり、鎌倉室町頃には琵琶法師であったり、時宗の僧であったり、戦国時代には熊野比丘尼であったり。
異なる宗教の人たちや芸能者が熊野信仰を広めたというのは、神仏習合の霊場であった熊野らしいところ。
また女性が熊野信仰を広めたというのも女性の参詣を早くから積極的に受け入れていた熊野らしいところです
「牛玉箱(ごおうばこ)」は、熊野比丘尼が持ち歩いた箱です。中に熊野牛玉符や絵解きに使用した「熊野の絵」などを入れました。
文献に残る熊野比丘尼
犬俤(いぬおもかげ・江戸時代前期の連歌集)
○地獄の事も目の前にあり うつしゑを熊野比丘尼はひろけ置て
『犬俤』は江戸前期の連歌集。作者は三浦為春。熊野比丘尼が地獄絵の絵解きをしている様子が詠まれています。
私可多咄(しかたばなし・江戸前期の咄本)
○昔、熊野比丘尼が絵を掛けて、これは子を産まぬ人が死して後に灯心を持って竹の根を掘るところであると言うのを聞く。女子どもは涙を流し、さて絵解きが済んで後、比丘尼に問うて、子を産んでも育たぬものは、産まずと同じことかと言うと、比丘尼が答えるには、それは産まずより少し罪が浅い、だから灯心は許して、竹の根をいがらで掘らせると言ったのは、いい加減なことである。
江戸前期の咄本『私可多咄(しかたばなし)』。五巻四冊の短編笑話集です。中川喜雲作、菱川師宣画。この熊野比丘尼の話は巻三に収められています。熊野比丘尼が行った「不産女地獄図(うまずめじごくず)」の絵解きの様子。
遠碧軒記(江戸前期の黒川道祐の随筆)
○比丘尼を世にいう御庵は、熊野に4坊。尼を妻帯していて、女房の尼が年籠りに来る比丘尼の宿をする。その庵主を御庵という。方々の比丘尼の首を御寮という。庵頭の心である。
『遠碧軒記』は江戸時代初期の京都の医者・歴史家である黒川道祐の随筆。延宝三年(1675年)刊行。諸国を巡り歩いて熊野信仰を布教した熊野比丘尼は、年末から正月にかけて熊野を詣で、年籠りしました。
日次紀事(ひなみきじ・江戸前期の京都の年中行事解説書)
○春の初めに熊野比丘尼は熊野社を詣で、紀伊の海辺で酢貝を拾い、児女に贈る、(二月条)
○この月、熊野比丘尼は各々東国に赴き、勧進を請う、…(四月条)
『日次紀事』は江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。江戸時代初期、京都の医者・歴史家である黒川道祐の編。延宝四年(1676年)成立。京都にいた熊野比丘尼は、年末から正月にかけて熊野を詣で、四月に東国に勧進に赴きました。
籠耳(かごみみ・江戸前期の仮名草子)
○地獄沙汰銭  熊野比丘尼は地獄の様相を絵に写し、掛け物にして絵解きして女童をたぶらかす。かの産まずの地獄・両婦狂いの地獄はたやすく絵解きしないのを、女子どもはやはり聞きたがり所望すると、「百二十文の灯明銭をあげられよ、そうしたら絵解きしよう」というと、我も我もと数珠袋の底を叩き、銭を出し合わせて聞くと、また血の地獄・針の地獄などということを言い聞かせ、女の気にかかるように絵解きして、ひたと銭を取る。これより地獄の沙汰も銭というのだ。
『籠耳』は江戸前期の仮名草子。作者は苗村丈伯(なえむら じょうはく)。この熊野比丘尼の話は巻四に収められています。不産女地獄(うまずめじごく)・両婦地獄(ふためじごく、浮気した男性が堕ちる地獄)は「熊野観心十界図」に描かれた地獄。熊野比丘尼がこの2つの地獄の絵解きを特に大切にしていたことがうかがえます。「地獄の沙汰も金次第」という言葉が熊野比丘尼の絵解きに由来しているとは!
好色一代男(井原西鶴の浮世草子)
○今、男盛り二十六の春、酒田という所に初めて着いた。この浦の景色は、桜は波に映りまことに「花の上漕ぐあまの釣舟」と詠んだのはここだと、お寺の門前から眺めていると、勧進比丘尼(かんじんびくに:熊野比丘尼のこと)が声を揃えて歌いながらやって来た。これはと立ち寄ると、かちん染めの布子に黒綸子の二つわり前結びにして、頭はどの国でも同じ風俗である。もとは、このような事をする身ではないけれども、いつごろより御寮(おりょう:比丘尼の親方)が遊女同然に相手も定めず、「百文につき二人」というのがおかしい。
井原西鶴は、江戸時代の大坂の浮世草子(うきよぞうし)・人形浄瑠璃作者。浮世草子は町人の世態・人情を描いた小説。『好色一代男』は、井原西鶴の処女作。8巻8冊。発刊は天和二年(1682年)。巻三に、熊野比丘尼の様子が描かれています。
好色一代女(井原西鶴の浮世草子)
○さて、川口に西国船の碇を下して古里のかかあを思いやって淋しい波枕(船中の旅寝)をしている人を見かけて、その人に「売色の歌比丘尼はいかが」といって色船(美女をのせた船)がこの港を入り乱れる。艫(とも。船尾)に相当年をとったおやじが座ったまま舵をとって近づく。比丘尼はだいたい浅黄の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門の中幅帯(ちゅうはばおび)を前結びにして、黒羽二重(くろはぶたえ)の頭がくし(比丘尼は頭を黒い布で巻いていた)、深江(大阪市東成区深江町)のお七という笠作りが作った加賀笠、畦刺(あぜさし)の足袋(木綿糸で刺した足袋)を履かないということはない。絹の二布(ふたの。腰巻)のすそは短く、みんな同じいでたちをして、文庫に入れてあるのは熊野の牛玉、酢貝(すがい。さざえ科の貝)、耳にやかましい四つ竹(両手に二片ずつ持って鳴らす楽器)小比丘尼(子どもの比丘尼)には定まりの一升柄杓(熊野比丘尼が金品をもらうときに受ける柄杓)、「かんじ〜ん」声を長く引っ張り、流行り節を歌い、男の気を取り、他から見るのも構わず、碇泊中の親船(本船)に乗り移り、情事をすませてから銭百文つないださしを袂へ投げ入れるのも風情がある。あるいは薪をその代金として取り、またはさし鯖(鯖を背割にして塩漬にしたものを二枚ずつ刺したもの)にも代え、同じ流れとはいいながら、見馴れて風情がない。人の行末は少しも知れないものだ。私もいつということなく、不品行の数をつくして、今惜しい黒髪を剃って、高津の宮の北にあたり、高原といった町に、軒は笹でふいて幽(かすか)なる奥に、比丘尼の稼業に年功を経たお寮(比丘尼の親方)を頼み、勤めても浅ましくなるものだなあ。雨の日嵐の日にも免除されることなく、こうした尼姿の税として一人当たり白米一升に銭五十(それより年少の子供にも白米五合ずつ)毎日お寮に納めたので、自然といやしくなって、昔はこのようなことはなかったが近年は遊女のようになった。これもうるわしきは大阪の屋形町まわり、あまりよろしくないのが河内、津の国里々をめぐり、五月八月を恋のさかりとちぎった。私はどこかに昔の様子も残っているので、川口の船より招かれ、それをかりそめの縁にして、あとは小宿のたわむれ、一夜を三匁すこしの豆板銀で売る。何ほどのことと思うけれど、それが度重なるに従って、間もなく三人とも身代をつぶさせて、あとは知らん顔で小歌節を歌っている。薄情には違いないが、それも当然のこと。どんな安直な色事でも度重なると嵩があがるもの。その心得をせよ。浮気男よ。わかったか。
井原西鶴は、江戸時代の大坂の浮世草子(うきよぞうし)・人形浄瑠璃作者。浮世草子は町人の世態・人情を描いた小説。『好色一代女』は、井原西鶴の浮世草子。6巻6冊。発刊は貞享三年(1688年)刊。巻三に、熊野比丘尼の様子が描かれています。
世間胸算用(井原西鶴の浮世草子)
○熊野比丘尼は、身の一大事としている地獄極楽の絵図を拝ませ、または、息の根の続くほどに流行り歌を歌い、勧進をするけれども、腰にさした一升柄杓に一盃はもらいかねた。
井原西鶴は、江戸時代の大坂の浮世草子(うきよぞうし)・人形浄瑠璃作者。浮世草子は町人の世態・人情を描いた小説。『世間胸算用』は、元禄五年(1692年)刊行。全五巻。巻五に、熊野比丘尼の勧進の様子が描かれています。地獄極楽の絵図は熊野勧心十界図。
双子山前集(江戸時代中期の俳諧集)
○女同士 絵解き比丘尼を取巻て
門人の数が千人を越えたといわれる江戸前〜中期の俳諧師、立羽不角(たちば ふかく)が編纂した『双子山前集』に収められた讃秋の一句。熊野比丘尼の絵解きの聞き手が主に女性であることがうかがえます。
近世奇跡考(山東京伝の考証随筆)
○〔残口之記〕に、歌比丘尼は昔は脇に挟んだ文匣(ぶんこう:書類や小物を入れるのに用いる手箱)に巻物を入れて、地獄の絵解きをし、血の池のけがれを忌ませ、不産女の哀れを泣かせる業をし、年籠りの戻りに、烏牛王(からすごおう)を配って、熊野権現のことを世間に広く告げ知らせたが、いつのころからか、隠し白粉薄紅をつけて、付鬢帽子に帯幅を広くして云々……
『近世奇跡考』は、江戸後期の戯作者・浮世絵師の山東京伝(さんとうきょうでん、1761年〜1816年)の考証随筆。文化元年(1804年)刊行。歌比丘尼の項では、様々な書物の記録を集めて熊野比丘尼について考証しています。
尾張年中行事絵抄(江戸時代の尾張の年中行事解説書)
○練屋町 昔から比丘尼である。御祭礼巨細記に、比丘尼の熊野まいりとある。その姿ははなはだ古雅で、昔の絵を見る心地がする。もとは小比丘尼の笠の形は盃のようで、金ばくをおいた頭に造花を挿して、ひとしお古風であった。先へ老いた比丘尼で腰を屈めていくのを「おりょう」と言い習わした。古い祭礼の記録には「おりょうびくに」とある。かの老比丘尼は折節は背を伸ばして、扇つがいなどして、人々を笑わせ、一興とする。
『尾張年中行事絵抄』は江戸時代の尾張の年中行事を絵と文章で記録したもの。練屋町(愛知県名古屋市中区)には「比丘尼の熊野参り」と称する祭礼がありました。
尾張志(尾張藩による地誌)
○府下九十軒町に、熊野比丘尼遊興というものがいる。これはもと三慶というものが慶長五年に伊勢山田より清洲に来て、比丘尼シユサンというものと同居し、元和の末に当町に移って、歌比丘尼がササラというものを摺って歌うのは、古い習俗で漫歳などの類である。
『尾張志』は天保十五年(1844年)に成った尾張藩による地誌。九十軒町(愛知県名古屋市東区泉三丁目)には熊野比丘尼が居住していました。
出羽国秋田領風俗問答状答(江戸時代後期の記録)
○(一月)十六日 宝性寺曼陀羅参  郭外の寺町にある比丘尼寺なり。この日地獄変相の図を掛く。女児群参す。
出羽国秋田領の『風俗問答状答』は、江戸時代後期の江戸幕府御家人・屋代弘賢(やしろ ひろかた)が日本各地の風俗調査のために出した「諸国風俗問状」に対する出羽国秋田領の答書。主な執筆者は秋田藩の藩校明徳館の儒者、那珂通博(なか みちひろ)。文化11年(1814)に成立。宝性寺(秋田県秋田市)で行われていた年中行事「曼陀羅参」についての記録。宝性寺には「熊野観心十界図」が伝わるので、「地獄変相の図」とは「熊野観心十界図」のことと思われます。
増訂一話一言(江戸後期の大田南畝の随筆)
○比丘尼惣頭 / 今の比丘尼の惣頭というのは、本江州水口甲賀郡大峰の大先達飯道寺(御朱印二百石)の寺で、天台宗梅本院・岩本院である。ゆえに文台と言っているものに元は牛王を入れたという。このことは人が知っていることは稀である。
『一話一言』は、天明期を代表する文人・狂歌師、大田南畝(おおた なんぽ、1749年〜1823年)が安永四年(1775年)から文政五年(1822年)にかけて執筆した随筆。江戸随筆の代表とされます。この熊野比丘尼に関する記述は『増訂一話一言』巻四十八に収められています。「天台宗梅本院・岩本院」とあるのは「真言宗梅本院・岩本院」の誤り。
熊野絵図譲受状(佐渡の遊郭の水金町の楼主仲間11人が連署して山伏寺・熊野山常学院に提出した熊野観心十界図の受け取り状)
○入れ置き申す一礼の事 / この度、拙者どもの職業の始祖を取り調べましたところ、貴所様の先祖・清宝尼の師匠である清音比丘尼と申し奉る方に付き従って来ました尼女達の末流にあるとのこと。この由緒を依拠として、熊野絵図1枚をお譲りくだされ、確かに受け納め仕りました。今後、この所縁をもって互いに末永く隔てなく懇意にしてくださる旨をお申し聞かされましたこと、承知いたしました。よって一決連印をもって一札入れ置き申すところ、件のごとし。嘉永6丑年(1853年)11月
水金町の遊郭の始祖は清音比丘尼に付き従った尼女たちの末流と伝えられます。この文書は「熊野観心十界図」の裏貼り文書として伝わります。
熊野絵図譲証状(佐渡の山伏寺・熊野山常学院の第10代住職の長見が、遊郭の水金町の楼主仲間に宛てた、那智参詣曼荼羅の譲り状)
○証状 / 聞説、当院開祖の織田信長公息女・熊野比丘尼清音様御寮と申す御方が天正年中当国に渡海し、所々を経て、慶長6年に九郎左衛門町に閑居した。その跡を慕う中納言秀信卿類族らと抱女が承応年間に37人が同居した。抱女の内で女色を売るようになり、慶長年中に柄杓町を創建した。一部その遺風繁盛し、今は6町並びに山先町を開いた事に相違あるはずがない。よって姫君所持の重宝の熊野絵図1枚、後者の明証のために譲進しますので、ますます懇意を引き出し、尼公の尊霊が菩提糧の助けとなるでしょう。よって末永く主従盟約証状如件   嘉永6丑年(1853年)11月
熊野山常学院十世住 法印長見(花押) 水金町御宿中   
織田信長の息女が佐渡の熊野比丘尼の元祖と伝えられます。
熊野比丘尼由来証(熊野新宮本願所の周舜が美濃国(現在の岐阜県南部)祐勝寺の尼僧に授与した証書)
○一 天竺で摩耶婦人(お釈迦様の母親)において始まり、本朝では光明皇后及び北条時頼の北の方・最明尼がその法脈を身に受け、権現の示現以降、信心する者達が尼僧となること枚挙にいとまがない。然正血性可令法脈相続者也。よってその大意を知らしめた。文久第四甲子歳次(1864年)
仲春艮辰 熊野山 本願所 周舜記
熊野本願所は、諸国の熊野比丘尼にこのような証書を授与したのでしょう。熊野本願所とは熊野三山のなかに組織された寺院の総称。戦国時代の頃から江戸時代初期にかけて、熊野三山内の社殿堂塔の造営や修復のための資金集めを担いました。
建仁寺、薬師図子の熊野比丘尼
熊野比丘尼、勧進比丘尼とは、本来、中世ごろから諸国を遍歴して、ひとすくいの米麦や銭の法捨、報捨を受けたり、午王という、紀州熊野の三山から頒布された符印を売ったりしていた仏門の女達のことですが、いつしか遊女の言わば隠れ蓑として跋扈し、十八世紀の半ば江戸幕府が本腰を挙げて取り締まるまで、特に江戸の町で猛威を振るい、遊女の代名詞になったほどの繁栄をとげました。
この比丘尼には、地獄絵図の絵解きをしながら回る絵解き比丘尼や、ぴんざらざという薄い木の片を数十枚あわせ、両端を握り、これを伸ばしたり、縮めたりして鳴らす楽器にあわせ、俗謡をうたって勧進する歌比丘尼などがあり、明暦、寛文の頃、家綱の風紀取締りで、私娼などが閉塞した時代、町奉行に追いやられた遊女は、表向きは仏門の女を装い、当局の目をくらましたのです。
天和の頃の『紫の一本』に「めった町(神田多町)に永去、お姫、お松、長伝などという比丘尼ありし由を記す」といった一文があり、その装束を「今の小袖かたびらを宿つき着とぬぎ捨てゝ、あかし縮、絹ちゞみ、白さらし、うこん染の紅裏の袖口、うら襟かけ、黒繻子茶じゅす幅広帯、黒羽二重の投げ頭巾、または帽子で包むも有」と中宿(なかやど)と呼ばれた本拠地にもどると、外着から艶姿に着替える様子を捉えています。
この中宿は江戸、日本橋の玄冶店(和泉町の北側)京橋の八官町、畳町、赤坂にもありました。
『我衣』には、時代による比丘尼の変遷を「天和、貞享の頃は浅黄木綿、白き浅黄もあり。素足、わら草履、菅笠、手覆ひかけ、柄杓腰にさし、文庫をもたせたり。元禄頃より黒桟留額布を着す。これより他の色の布子を着す。されど無地なり。宝永より小比丘尼に柄杓をさゝせ、文庫をもたせり。元禄より中宿ありてこれに行く。」と記しています。
この江戸の比丘尼が元禄後の宝永三年(1706)の町触で、同じく風紀を乱した踊子隠売女とともに
一、 比丘尼の中宿致し、大勢人集りなど仕候者所々の数多これある由、これまた停止に候間、自今以後比丘尼宿堅く仕る間敷事
と槍玉に挙げられたのですが、江戸の町から比丘尼が消える事はありませんでした。

比丘尼には尼出、仕掛比丘尼、船比丘尼、売比丘尼、頭を丸めているので丸女(まるた)や竹釘、さらに繻子鬢などの多くの異名があったことでも、その勢いを知る一端となります。
幕府とて、取り締まりを続けたのですが、手入れがあれば中宿を移す、神出鬼没の比丘尼は町奉行の裏をかき増殖、正徳時代には、茅場町、同心町、浅草御門跡まで勢力を伸ばしたのです。
ところが元文六年、八官町の中宿で、桜田辺の身分のある武士が比丘尼と心中をした事件をきっかけ幕府も本腰をいれてこれに当たり、江戸の比丘尼はほぼ絶滅しました。
当時心中は相対死と呼ばれ、幕府がきついご法度としたもので、万一生き残ろうものなら、非人の世界に落とされました。前述の武士と比丘尼の死体も裸で路傍に捨て置かれ、野犬や烏の餌食になったと言います。
武士にこのような恥辱を与えた比丘尼は絶対許すことは出来ない、という強い覚悟が一斉取締りの裏にあったのか、比丘尼遊女はほぼ絶滅、寛政九年の『親子草』のも「比丘尼と云うものは今は一向に見当たらず候」と過去の語り草になりました。
比丘尼は眉をそらず、あるいは眉細く墨を引き、お歯黒をせず水晶のような歯を見せ、紅をつけ白粉を粧い、月代を中がりにして、まるで忌中の男のようだ、という記述からみると、その異形はよほど怪しい光を放っていたに違いありません。
又、この風俗が廃れたずっと後に書かれた『近世風俗志』でも『嬉遊笑覧』でも、この比丘尼には項を設けて詳しく考察している所を見ると、この女僧が突然変異のように遊女化した比丘尼に人々の興味は尽きなかったようです。
大阪の舟比丘尼については、ずっと後に踏み込んでみようかと思いますが、今回は建仁寺の南、六波羅蜜寺の西にある薬師図子、南に隣接する山崎町に元禄ごろ色を売った熊野比丘尼に関する記述を原文で紹介します。
『人倫訓蒙図彙(い)』 / 「哥(うた)比丘尼 もとは清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進をしけるが、いつしか衣をりゃくし、歯をみがき、頭をしさいにつゝみて小哥を便に色をうるなり。巧齢暦たるをば御寮と号し、夫に山伏を持、女童の弟子あまたとりて、したえる也。都鄙に有。都は建仁寺町薬師の図子に侍る。皆此末世の誤りなり」
『京雀跡追』 / 「山さき町 此所よりもくわんじんびくに多く出る所なり。ひがしがわにやくしあり。此づしにとりわけ多し。」
建仁寺町に周峯、周慶、さらに京大仏(正面通り山和大路)に祐清という比丘尼の棟梁がいたという話もありますし、鳥辺野の芳の絵図が近世風俗志に載りますので、京大仏、鳥辺野まで勢力を伸ばしていたようです。 
比丘尼が説いた老いの坂 / 熊野観心十界曼荼羅
今月末か来月初めには、「紀伊山地の霊場と参詣道」として熊野街道が世界遺産に登録される予定である。紀伊半島南端部の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社は、「熊野三山」と総称され、主要な霊場の一つである。信仰は平安時代に始まり、中世から近世初期にかけては、男女や身分の差を問わず多くの参詣者を集めた。当時、信仰の普及拡大に努めた「熊野比丘尼(びくに)」と呼ばれる女性の宗教者がいるが、彼女らが勧進の際に携行した「熊野観心十界曼荼羅(くまのかんじんじっかいまんだら)」という絵図がある。
縦1.5m、横1.3m前後の大きさで、何枚かの和紙を貼りつないで画面を構成している。通常は掛幅仕立てであるが、かつては本紙画面のみを折りたたんで持ち運んだらしく、折目の痕が明瞭に残るものが多い。
画面上半分に虹のような半円形の道を描き、そこに25人ほどの人物が置かれる。右端が生まれたばかりの赤ん坊で、それが成長するにしたがって幼児から少年・少女、やがて青年という具合に左方向へと描かれ、さらには壮年から老人へと人の一生を順に配し、最後は墓地が描かれる。「人生の坂道」あるいは「老いの坂」と言われるもので、その半円形のほぼ中心に当たる部分には、白地に金色で「心」の一文字が大きく表され、さらにそこから細い朱線が伸びて十の世界、すなわち十界を区切っている。
画面下方には、十界の中でも地獄・餓鬼・阿修羅・畜生の四世界が描かれ、特に地獄の様子は画面下半分の多くを占めている。また、その描写は非常に生々しく、見る者に強い恐怖感を抱かせる。
熊野比丘尼は、この絵を往来にかけて「絵解き」と呼ばれる解説を行い、熊野への参詣や募金を勧めた。その様子は、桃山時代の屏風絵中に見ることができる。
1983(昭和58)年、明治大学の萩原龍夫教授がこの曼荼羅を紹介された時、全国にわずか9点が確認されていたに過ぎなかった。しかし、その後の調査によって今では40点以上が確認され、何種類かの図柄が存在することも明らかになってきている。三重県は、全国で最も残存数が多く、およそ4分の1に当たる10点ほどが確認されている。
一志町の平楽寺に伝来する熊野観心十界曼荼羅は、6年程前、地元の資料調査員の方から報告があって、県史編さん事業の一環として調査を実施した際に、涅槃図とともに見つかったものである。県内で最も新しい発見例である。裏書きによると、妙真尼という熊野比丘尼とおぼしき一人の尼がこの絵を壁にかけて昼夜念仏していたとあり、死後、寺に納められて法要のつど掲げられていたが、傷んできたために1766(明和3)年に修理したという。
熊野比丘尼については、絵解きの実態や曼荼羅制作工房の所在地等よくわからないことも多い。平楽寺の曼荼羅は、熊野比丘尼が地域社会に受容されていく過程がうかがわれる非常に珍しいものである。さらに、図柄も古い要素をもつと言われているが、修理年から18世紀前半もしくはそれ以前に制作年代が特定でき、そうした意味でもたいへん貴重である。
三重県では、今後も発見される可能性が十分にあり、こうした資料の充実によって、熊野比丘尼の活動形態が明らかになることが期待される。
 
説経師 

 

『枕草子』 30段
説經師は顏よき、つとまもらへたるこそ、その説く事のたふとさも覺ゆれ。外目しつればふと忘るるに、にくげなるは罪や得らんと覺ゆ。この詞はとどむべし。少し年などのよろしきほどこそ、かやうの罪はえがたの詞かき出でけめ。今は罪いとおそろし。
又たふときこと、道心おほかりとて、説經すといふ所に、最初に行きぬる人こそ、なほこの罪の心地には、さしもあらで見ゆれ。
藏人おりたる人、昔は、御前などいふこともせず、その年ばかり、内裏あたりには、まして影も見えざりける。今はさしもあらざめる。藏人の五位とて、それをしもぞ忙しうつかへど、なほ名殘つれづれにて、心一つは暇ある心地ぞすべかめれば、さやうの所に急ぎ行くを、一たび二たび聞きそめつれば、常にまうでまほしくなりて、夏などのいとあつきにも、帷子いとあざやかに、薄二藍、青鈍の指貫などふみちらしてゐためり。烏帽子にもの忌つけたるは、今日さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらずと見えんとにや。
いそぎ來てその事するひじりと物語して、車たつるさへぞ見いれ、ことにつきたるけしきなる。久しく逢はざりける人などの、まうで逢ひたる、めづらしがりて、近くゐより物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇ひろうひろげて、口にあてて笑ひ、裝束したる珠數かいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあしほめそしり、なにがしにてその人のせし八講、經供養などいひくらべゐたるほどに、この説經の事もきき入れず。なにかは、常に聞くことなれば、耳馴れて、めづらしう覺えぬにこそはあらめ。
さはあらで講師ゐてしばしあるほどに、さきすこしおはする車とどめておるる人、蝉の羽よりも輕げなる直衣、指貫、すずしのひとへなど著たるも、狩衣姿にても、さやうにては若くほそやかなる三四人ばかり、侍のもの又さばかりして入れば、もとゐたりつる人も、少しうち身じろきくつろぎて、高座のもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがに珠數おしもみなどして、伏し拜みゐたるを、講師もはえばえしう思ふなるべし、いかで語り傳ふばかりと説き出でたる、
聽問すなど、立ち騒ぎぬかづくほどにもなくて、よきほどにて立ち出づとて、車どものかたなど見おこせて、われどちいふ事も何事ならんと覺ゆ。見知りたる人をば、をかしと思ひ、見知らぬは、誰ならん、それにや彼にやと、目をつけて思ひやらるるこそをかしけれ。
説經しつ、八講しけりなど人いひ傳ふるに、「その人はありつや」「いかがは」など定りていはれたる、あまりなり。などかは無下にさしのぞかではあらん。あやしき女だに、いみじく聞くめるものをば。さればとて、はじめつかたは徒歩する人はなかりき。たまさかには、つぼ裝束などばかりして、なまめきけさうじてこそありしか。それも物詣をぞせし。説經などは殊に多くも聞かざりき。この頃その折さし出でたる人の、命長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。
説教の講師は顔が良くなくちゃ。講師の顔をじっと見つめていてこそ、その説いてる事の尊さが身にしみて感じられるのよ。よそ見しちゃえばすぐに忘れてしまうもの。不細工な講師は罪でしょうって思う。この事はもう言うのは止めようと思うけど。年若かった頃はこのような罪を得ちゃうような事を書き表しただろうけど、今は罪がとても怖いから。
また、尊きことや、仏様を信じる心が深いからと言って、説教の行われるところならどこでも最初に行くというのも、この罪の心には、そんなにたいしたことじゃないでしょ、と思えるのよね。
蔵人などは、昔は前駆けなどという仕事はせずに、引退したその年くらいは内裏辺りでは姿も見えなかったのに、今はそんなことないみたい。蔵人の五位は、以前は忙しくお勤めしていたけれども、仕事を辞めて、その思い出にしんみりとしちゃって、心だけは暇があるような気がするに違いないのよ。説教の行われるところに、一度、二度と初めて聞きに行けば、いつも行きたくなって、夏のとても暑い時も、とても鮮やかなかたびらに、薄い二藍や青鈍色の指貫なんかを着て、裾を左右に蹴り広げて歩いてたりするらしいの。烏帽子に物忌みの札を付けているのは、物忌みでさわりがある日だけれども、功徳の方にはさわりがないと思っているのかしら。
説教をする聖とおしゃべりし、車を止めていることなども気にとめて見て、とりわけ慣れた様子なの。久しく会っていなかった人が詣でていて会ったので、珍しがって近くに行って、何か言っては頷き、面白かったことなどを話し出す。扇を広く広げて口に当てて笑ったり、きれいに身につけた数珠をもてあそんだり、手遊びしたりするし、またあちらこちらをちらっと見たり、車の良し悪しを誉めたりけなしたり、誰それが行った八講のこと、経供養を行ったこととか、あれこれあったことを言い比べているうちに、この説教の事は聞いてないの。何かね、いつも聞いてることだから、耳慣れて真新しくもないのかしら。
そうではなくて、よ。講師が来て少しすると、前駆けの声をすこしなさった車を止めて降りる人がいるの。その人は、蝉の羽よりも軽そうな直衣、指貫、生絹の単などを着ているのでも、狩衣姿であっても、そんな風に若くてすらりとした人が三,四人ばかりね。それに、お付きの人などがまたそのようにして中に入れば、初めからいた人々も少し身じろきして、隙間を広げて、高座の下に近い柱の元にその人を座らせるの。その人が微かに数珠を押しもみなどしながら説教を聞いているのを、講師も晴れがましく思うのでしょうね。どのように語り伝えようとばかりに説き出したのよ。
説法を聞くのだって騒いで、地に頭が着くほどにお辞儀をするような様子にもならないで、良い頃合いで立ち上がって出ていくときに、こちらの車の方などを見て、仲間同士で言葉を交わすのも、何事かしらって思うの。見知っている人は素敵だなって思うし、見知らぬ人は、どなただろう、あの人かしら、などと思って、じっと見送っちゃうのが素敵なのよ。
「どこそこで説教した、八講した」などと人が言ったのを「誰それはいた?」「どうだった?」などと決まって言うのはあんまりよ。どうして全然そういうのを訪れないのかしら。身分の低い女でさえ、結構聞くみたいなのに。
そうはいっても、初めの頃は、徒歩で行く人はいなかった。時たま、壺装束で若々しく美しく化粧した人はいたようだけど。そういう人も、物詣なんかをしたのよ。説教などには別にたくさん女の人は見られなかったもの。この頃のことは、その時外に出かけていただろう人がもし長生きしていたとしたら、どれほどにそしり、文句をいうでしょうね。  
『徒然草』 188段
「ある者、子を法師になして」
ある者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ。」 と言ひければ、教へのままに説経師にならむために、まづ馬に乗りならひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられむ時、馬など迎へにおこせたらむに、桃尻にて落ちなむは心憂かるべしと思ひけり。
次に、仏事の後、酒など勧むることあらむに、法師のむげに能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふ事をならひけり。
二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよ、よくしたくおぼえて、たしなみけるほどに、説経習ふべき暇なくて年よりにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこの事あり。
若きほどは諸事につけて、身をたて、大きなる道をも成じ、能をもつき、学問をもせむと、行く末久しくあらます事ども、心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつつ、まづさしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日をおくれば、ことごとなすことなくして、身は老いぬ。
つひにものの上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず。悔ゆれどもとり返さるる齢ならねば、走りて坂をくだる輪の如くに衰へゆく。されば一生のうち、むねとあらまほしからむことの中に、いづれか勝ると、よく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日のうち、一時のうちにも、数多のことの来たらむ中に、少しも益のまさらむことを営みて、その外をばうち捨てて、大事を急ぐべきなり。いづ方をも捨てじと心にとり持ちては、一事も成るべからず。
たとへば棊(ご)をうつ人、一手もいたづらにせず、人にさきだちて、小をすて大につくが如し。それにとりて、三つの石をすてて、十(とを)の石につくことは易し。十をすてて十一につくことは、かたし。一つなりとも勝らむかたへこそつくべきを、十までなりぬれば惜しく覺えて、多くまさらぬ石には換へにくし。これをも捨てず、かれをも取らむと思ふこゝろに、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
京に住む人、急ぎて東山に用ありて既に行きつきたりとも、西山に行きてその益まさるべきを思ひえたらば、門(かど)よりかへりて西山へゆくべきなり。
「こゝまで來著(きつ)きぬれば、この事をばまづいひてむ、日をささぬことなれば、西山の事はかへりてまたこそ思ひたためと思ふ故に、一時の懈怠(けだい)すなはち一生の懈怠となる。
これをおそるべし。
一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るゝをも痛むべからず。人のあざけりをも恥づべからず。萬事にかへずしては一(いつ)の大事成るべからず。人のあまたありける中にて、あるもの、「ますほの薄(すすき)、まそほの薄などいふことあり。渡邊(わたのべ)のひじり、この事を傳へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑笠やある、貸したまへ。かの薄(すすき)のことならひに、渡邊の聖のがり尋ねまからむ」といひけるを、「あまりに物さわがし。雨やみてこそ」と人のいひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は雨の晴間を待つものかは、我も死に、聖もうせなば、尋ね聞きてんや」とて、はしり出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し傳へたるこそ、ゆゝしくありがたう覺ゆれ。
「敏(と)きときは則ち功あり」とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄(すすき)をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。
ある人が、その子を法師にしようとして、「仏教の学問をして、説教師になって暮らしの手段とせよ」といった。そこで、その子は説教師になるために、まづ乗馬を習った。「輿(こし)も牛車も持たない身分で、佛事の主宰に招かれた時に、馬で迎えが来て乗馬が下手では心配だ」と思ったのである。次に、「佛事の後、酒など勧められるに芸がないと檀家が興醒めにおもうだろう」と、小唄を習った。乗馬と小唄は上達したものの、これらの習い事に忙しくて説教を習う暇がないままに歳をとってしまった。
この法師だけではなく、世間には、よくこんな事がある。
まづ、さしあたりの事だけに目をとられて月日を送っていると、どのような事も一つとして成し遂げないで一生を送ってしまうものである。ついに一芸にも秀でず、思っていたほどの立身もせず、あとになって悔いても歳は返らない。ただ、坂を走りくだる車輪のように老いて行く。だから、一生の望みのなかで、どれを一番にするかをよく考えて、その外の事は思い捨てて、一事のみを励むべきである。
一日のうちには、雑事が多いが、すこしでも利益になることのみに精励して、それ以外のことはうち捨てて、大事に集中すべきである。それにもこれにも執着しては、一事も成ることはない。
たとえば囲碁をうつ人は、一手も無駄にせず、相手に先立って、小をすて大につくようなものである。囲碁の場合に、三つの石をすてて、十の石を取ることは易しい。十の石を捨てて十一の石を取ることは難しい。一目でも利の多い方をとるべきであるのに、十目になると、それを捨てるのが惜しくて、それほど得にならない石と交換するのは難しいものである。
これも捨てず、あれも取ろうと思うから、あれも得ず、これも失うことになる。
京に住む人が、急ぐ用があって東山に行きついていても、西山に行ったほうが利益が優ると思うのならば、目的地の東山の門前からでも直ちに踵をかえして西山へ行くべきである。「折角こゝまで來たのだから、この東山の事をまず片づけて、とくに日限があるわけではないのだから、西山の用事は又の日にしよう」と思う心が一生の懈怠(けたい)となる。
これは恐るべきことである。
一事を必ず成そうと決心したならば、他の事ができないことを気にするべきではない。世間が嘲っても恥じることはない。あらゆることを犠牲にしなければ、一(いつ)の大事は成らないものである。
人がたくさん寄り集まっているところで、ある人が「ますほのススキ(薄)まそほのススキ(薄)と秘伝めかして言ったことがあると、攝津の渡邊に住んだ聖僧である渡邊のひじりが伝えている」と喋った。登蓮(とうれん)法師がそれを耳にして、雨が降ってきていたので、「蓑笠があれば貸してください。今すぐに、そのススキ(薄)のことを確かめに、渡邊の聖を訪ねたいから」と言い出した。
これに対して「そう急ぐこともないでしょう。雨がやんでからでは」と他の人が言った。そうすると、登蓮(とうれん)法師は「とんでもないことを仰る。人の命は雨の晴間を待ってはくれない。わたしが死に、渡邊の聖も亡くなれば訪ねて訊くことができなくなる」と、走り出ながら「習ったことを言い伝えてこそ値打ちがある。渡邊のひじりが聞き伝えているからこそ由緒がある」と仰った。
論語には「機敏であれば成功する」と書いてある。
このススキ(薄)の秘伝を知りたく思ったのは悟りを開く因縁と思える。 
『今物語』 (藤原信実) 第52話
「ある説経師の請用してことにめでたく貴く説法せむと」
ある説経師の、請用して、ことにめでたく貴く説法せむとしけるに、筥(はこ)のしたかりければ、こと忙しくなりて、よろづ急ぎて、布施も取り取らず帰りて、物脱ぎ散らして、急ぎ樋殿(ひどの)へ行きたりけるに、屁ばかりひりて、また、物もなかりけり。
「かかるべしと知りたらば、高座の上にても、しばしこらへて、説経をもすべかりけるものを」と悔しく思ひてけるほどに、その次1)の日、また人に呼ばれて説経しけるほどに、また筥のしたかりけるを、「すかしてむ」と思ひて、すこし居直る様にしければ、まことの物多く出でにけり。
この僧、すべきかたなくて、「昨日は筥にすかされて、屁をつかまつる。今日は屁にすかされて、筥をつかまつる」と言ひて、走り下りて、逃げ出でにければ、上の袴より垂り落ちて、堂の内、汚なくなりにけり。聴聞の人、鼻を抑へて興醒めてけり。
いとをかしかりけり。 
『沙石集』 [六上]
能説房之説法事
嵯峨ニ能説房ト云説經師有ケリ、隨分辨説ノ僧也ケリ、隣ニ沽酒家ノコ人ノ尼有ケリ、能説房キワメタル愛酒ノ上戸ニテ布施物ヲモツテ一向酒ヲカヒテノミケリ、或時此尼公佛事スル事アリテ、能説房ヲ導師ニ請ズ、近邊ノ者是ヲキヽテ、能説房ニ申ケルハ、此尼公ノサケヲウリ候ニ、一ノ難ニ水ヲ入ルヽニヨリテ思程モナシ、今日ノ御説法ノ次ニ、サケニ水入テ賣ルハ罪ナルヨシ、コマカニ仰ラレ候ヘトイフ、能説房各ノ仰ラレヌサキニ、法師モ存ジテ候、今日日來ノ本懷申聞クベシトテ、佛經ノ釋ハ、タヾ大方バカリニテ、サケニ水入ルヽ罪障ヲ勘ヘアツメテ、少々ハナキ事マデサシマジヘテ、思ホドニイヒケリ、サテ説法ヲハリテ、尼公其邊ノ聽衆マデ、皆ヨビアツメテ、大ナル桶ニ酒ヲ入テ取出テスヽム、能説房一座セメテ、サカヅキトリアゲテノミケリ、此尼公アサマシク候ケル事カナ、サケニ水イルヽハ罪ニテ候ケルヲ、シリ候ハザリケルヨトイフニ、水ノスコシ入タルダニヨシ、今日イカニ目出タクアラント思程ニ、能説房一度ノミテ、アトイヒケレバ、イカニヨカルラン、感ズル音カト聞クホドニ、日來ハチト水クサキサケニテコソ候ツルニ、コレハチト酒クサキ水ニテ候ハ、イカニト云ケレバ、サモ候ラン、酒ニ水ヲイルヽハ、罪ゾト仰ラ 
『宇治拾遺物語』 巻第五
仲胤僧都地主権現説法の事
これも今は昔仲胤僧都を山の大衆日吉の二の宮にて法華経を供養しける導師に請じたりけり 説法えも云はずして果て方に 地主権現の申せと候ふは とて 比経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 といふ文を打あげて誦して 諸仏 と云ふところを 地主権現の申せとは 我即歓喜 諸神亦然 と云ひたりければそこら集まりたる大衆異口同音にあめきて扇を開き使ひたりけり これをある人日吉の社の御正体を現し奉りて各御前にて千日の講を行ひけるに二宮の御料のをりある僧此句を少しも違へずしたりけるをある人仲胤僧都に かかる事こそありしか と語りければ仲胤僧都きやらきやらと笑ひて これはかうかうの時仲胤がしたりし句なり えいえい と笑ひて 大方はこの比の説経をば 犬の糞説経 と云ふぞ 犬は人の糞を食ひて糞をまるなり 仲胤が説法を取りてこの比の説経師はすれば 犬の糞説経 と云ふなり とぞ云ひける 
 
聖・廻国聖 (かいこくひじり)

 

…都鄙の庶民を教化し、庶民仏教の展開に主導的役割を果たしたのは実にこの聖たちであった。山林に入って断穀不食の苦修練行を積んだり、本寺から離れて別所や村里に隠遁したり、あるいは廻国遊行(ゆぎよう)して念仏、造寺、造仏、写経、鋳鐘、架橋などはば広い勧進(かんじん)活動を行い、穀断(こくだち)聖、十穀聖、別所聖、隠遁聖、廻国聖、勧進聖などその特徴から多様な呼称が生まれた。唱導文芸や芸能にも活躍し、唱導聖などとよばれ、また聖が多く集まる拠点にちなんで善光寺聖(善光寺)、四天王寺聖、高野聖などと称された。…
「六十六部」
「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。これは、日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者です。中世には専業宗教者が一般的でしたが、山伏などと区別のつかない場合も少なくありませんでした。また、近世には俗人が行う廻国巡礼も見られました。なお、奉納経典66部のことを指して六十六部という場合もあります。
六十六部廻国巡礼の風習がいつ、どのように始まったのかは、はっきりしません。縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」です。北条時政の前世は法華経66部を66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けたと説くのです。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世を六十六部廻国聖とする伝承が定着していました。これらは、六十六部廻国巡礼の起源が関東にある可能性を示唆しています。
史料的には、13世紀前半にすでに六十六部廻国が行われていたことが確認できますが、いつまで遡るのかは不明です。さかんに行われたのは室町時代以降、とくに近世でした。
六十六部廻国聖による納経は、その名の由来どおり1国1カ所が原則的でしたが、なかには1国内で66カ所をめぐった簡略形もありましたし、逆に1国66カ所を66カ国分納経した例もあります。いずれにせよ、固定された納経霊場がないのが特徴でした。
次に、六十六部廻国巡礼と阿波との関係を見ておきましょう。阿波における六十六部の痕跡は、中世末期の16世紀にまで遡ることができます。県外所在の資料では、島根県大田市南八幡宮鉄塔検出の銅製経筒群(16世紀)に、阿波在住の六十六部聖が廻国していることを物語る銘を持つ経筒が見られます。また、奈良市中之庄経塚出土の納経請取書(承応2〜4年[1653〜55])には、西国36カ国の六十六部廻国霊場が見られ、そのなかに阿波国那西郡の大瀧寺(阿南市の太龍寺)が確認されます 一方、徳島県内にある資料では次のようなものがあります。三好町馬岡神社の享禄2年(1529)銘の棟札に「本願六十六部越後国心海」とあったり、宍喰町願行寺の天正18年(1590)銘の山越阿弥陀三尊浮彫板碑に「為奉納大乗妙典経六十六部供養」等と見えるのが、かなり古いものとして注目されます。
時代が降って、近世の六十六部廻国巡礼に関しては、六十六部廻国供養塔などの石造物が少なからず見られます。こうした石造物の銘には関係者の名前や地名などが刻まれているので、実際に六十六部廻国聖がどのような行動をしていたか知るための有力な手がかりになります。
また、廻国巡礼者が用いた遺品が残されていることもあります。当館では、鳴門市在住の盛(もり)博さんからお預かりした巡礼資料を保管していますが、その中に六十六部廻国巡礼の笈や納札があります。
六十六部廻国聖の事例は断片的なものが多く、今後の調査蓄積が期待されるところです。廻国供養塔などは、身近に見られるかもしれません。皆さんも調べてみてはいかがでしょうか。 
『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」
時已(すで)に澆季(げうき)に及(およん)で、武家天下の権を執(と)る事(こと)、源平両家の間に落(おち)て度々(どど)に及べり。然(しかれ)ども天道(てんだうは)必(かならず)盈(みてる)を虧(かく)故(ゆゑ)に、或(あるひ)は一代にして滅び、或(あるひ)は一世をも不待して失(うせ)ぬ。今相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家、天下を保つ事已(すで)に九代に及ぶ。此(この)事(こと)有故。昔鎌倉(かまくら)草創(さうさう)の始(はじめ)、北条(ほうでうの)四郎時政(ときまさ)榎嶋(えのしま)に参篭(さんろう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いのり)けり。三七日に当りける夜(よ)、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房の、端厳美麗(たんごんびれい)なるが、忽然として時政が前(まへ)に来(きたつ)て告(つげ)て曰(いはく)、「汝(なんぢ)が前生(ぜんじやう)は箱根法師(はこねぼふし)也(なり)。六十六(ろくじふろく)部(ぶ)の法華経(ほけきやう)を書冩(しよしや)して、六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)の霊地(れいち)に奉納(ほうなふ)したりし善根(ぜんごん)に依(よつ)て、再び此土(このど)に生(うまる)る事を得たり。去(され)ば子孫永く日本(につぽん)の主(あるじ)と成(なつ)て、栄花(えいぐわ)に可誇。但(ただし)其挙動(そのふるまひ)違所(たがふところ)あらば、七代(しちだい)を不可過。吾(わが)所言不審(ふしん)あらば、国々に納(をさめ)し所の霊地(れいち)を見よ。」と云捨(いひすて)て帰(かへり)給ふ。其姿(そのすがた)をみければ、さしも厳(いつく)しかりつる女房、忽(たちまち)に伏長(ふしだけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)の大蛇(だいじや)と成(なつ)て、海中(かいちゆう)に入(いり)にけり。其迹(そのあと)を見(みる)に、大(おほき)なる鱗(いろこ)を三(み)つ落(おと)せり。時政所願成就(しよぐわんじやうじゆ)しぬと喜(よろこび)て、則(すなはち)彼鱗(かのいろこ)を取(とつ)て、旗の文(もん)にぞ押(おし)たりける。今の三鱗形(みついろこがた)の文(もん)是(これ)也(なり)。其後(そののち)弁才天(べんざいてん)の御示現(ごじげん)に任(まかせ)て、国々の霊地へ人を遣(つかは)して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名(ぞくみやう)の時政(ときまさ)を法師の名(な)に替(かへ)て、奉納(ほうなふの)筒(つつ)の上に大法師(だいほつし)時政(じせい)と書(かき)たるこそ不思議(ふしぎ)なれ。されば今相摸(さがみ)入道(にふだう)七代に過(すぎ)て一天下(いちてんが)を保(たもち)けるも、江嶋(えのしま)の弁才天の御利生(ごりしやう)、又は過去の善因に感じてげる故(ゆゑ)也(なり)。今の高時(たかとき)禅門、已(すで)に七代を過(すぎ)、九代に及べり。されば可亡時刻(じこく)到来(たうらい)して、斯(かか)る不思議(ふしぎ)の振舞(ふるまひ)をもせられける歟(か)とぞ覚(おぼえ)ける。 
六十六部廻国供養塔(ろくじゅうろくぶかいこくくようとう)
六十六部行者と呼ばれる、諸国を遍歴する行者に結縁して建立された供養塔のことをいう。六十六部廻国巡礼とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する巡礼行をさし、この巡礼に従事する行者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼んだ。中世後期、鎌倉時代末から室町時代にかけて、諸国を巡礼した六十六行者により、経巻を入れた金銅製の経筒が経蔵に奉納されたり、あるいは土中に埋納された事例が、文献上、あるいは考古学的な発掘調査により、実際に確認されている。このような六十六行者の淵源は、法華経を持して諸国を遍歴した源頼朝の前身である頼朝坊、北条時政の前身である箱根法師などに求められると伝承され、行者は彼らの末裔に連なるという。善光寺如来を背負って諸国を行脚する善光寺行者とも密接な関係にあるとされる。善光寺縁起では、秘仏であった善光寺如来を感得して模刻したのは伊豆走湯山(いずそうとうさん)の僧であり、走湯山や箱根山は鎌倉幕府ともかかわりが深い。東国でも信仰されたが、近世の大坂においても、厚い信仰を集めていたようである。
 徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止される。しかし、行者は特定の会所に所属しその支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ていた。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行った。ただし、六十六カ国をまわるというよりも、実際は西国巡礼や国分寺などをまわったようである。六十六部行者に対する信仰が盛り上がる時期は、世情が安定し、信仰の上でも出開帳(でかいちょう)などが活発に行われ始める18世紀前半以降のことである。中世のような経筒を奉納する事例は、近世ではほとんど見られない。それにかわって、行者に結縁したことを記念するための、石造供養塔を建立することが行われた。
 大阪市内でこのような廻国六十六部供養塔は、約30例確認されている。このうち、最も年代が古いものは、寿法寺境内に立つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。花崗岩製で総高は3mを超え、市内の事例では最も大きく、他例を圧する堂々とした供養塔である。下二段の台石については後補の可能性がある。宝永8年(1711)2月8 日の銘を持つ。「奉納大乗妙典六十六部」と記し、性誉妙心・心親宗春を施主して建立されたとものである。全国的に見て、元禄から宝永頃に建立された供養塔が最も早い年代の事例であり、この種の供養塔としては古例に属する。近世の大坂における巡礼行者信仰のあり方を考えるうえで、重要な史料である。

結縁(けちえん) / 世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること
伊豆走湯山(いずそうとうさん) / 現在の静岡県熱海市にある伊豆山神社の旧称。鎌倉時代から明治維新の神仏分離令により寺を分けられるまで、神仏習合の典型的な存在であった
寺請制度(てらうけせいど) / 江戸幕府が宗教統制の一環として設けた施策。人々を寺院に帰属させ、寺院が発行する寺請証文を受けることを民衆に義務付けた
出開帳(でかいちょう) / 普段は公開していない寺院の本尊や秘仏などを他の土地に運んで行う開帳
宝篋印塔(ほうきょういんとう) / もともとは宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔をさす。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた。
御朱印の起源
御朱印の起源は江戸時代の納経帳にありますが、さらに遡ると六十六部廻国聖の「納経請取状(のうきょううけとりじょう)」にたどりつきます。これは、歴史的な経過や変遷が資料として残っていることから明らかです。
六十六部廻国聖とは、詳しくは日本回国大乗妙典六十六部経聖といい、略して六十六部あるいは六部ともいいます。定められた作法で書写した法華経(如法経)66部をもって日本全国66ヶ国を巡り、一ノ宮や国分寺など各国を代表する神社仏閣に納めていく廻国の修行者です。
奉納する写経は法華経ですが、その一部(とくに普門品=観音経)だったり、浄土三部経(浄土宗などの寺院の場合)だったりすることもあったようです(ただし、実際に写経を奉納していたとは限らないようです)。
写経は青銅の経筒に入れて納経、あるいは埋経(経塚などに埋めること)したのですが、写経ではなく青銅の納め札(納経札)のみを納めることもありました。江戸時代には版経(木版などで印刷した経典)や納経札を納めることが多かったようです。
六十六部廻国巡礼は、13世紀前半には行われていたようですが、盛んになるのは室町時代からです。この頃から、納経した(納経札を含む)神社仏閣で「納経請取状」を発給してもらうようになるのですが、江戸時代になると、次第に納経帳に記帳押印してもらうという形式になっていきます。
また、江戸時代になると1ヶ国1社寺に限らず多数の神社仏閣を巡拝するようになり、中には1ヶ国66ヶ所を66ヶ国巡拝するという例まであるようです。その巡礼の道中に四国八十八ヶ所や西国三十三所を組み込むのは自然の流れであり、そこから四国遍路や西国巡礼の間にも納経帳が広がっていったようです。
さて、「納経」という言葉自体は経典を寺社に奉納することを意味します。有名な厳島神社の『平家納経』のような贅を尽くしたものもあれば、大般若転読に用いる大般若経600巻の施入とか、現代でも行われているような供養や祈願のために般若心経や観音経などを写経して納めるということもあります。
しかし、御朱印の起源となる納経帳については、六十六部廻国聖に由来することは、のこされた納経帳などの資料から明らかです。それは必ずしも写経の奉納が必須というわけではなく、納め札(納経札)を納めるケースが多かったと思われます。
つまり、いわゆる『納経帳』は、本来的な意味での納経、つまり経典を書写して寺社に奉納するという行為より、巡礼・巡拝という行為と深く関わっています。言い換えれば、「納経」とはいっても、必ずしも写経は必要ない、むしろ写経の奉納を伴わないのが一般的だったと考えられるわけです。だからこそ、もともと納経を伴わない四国八十八ヶ所などにも広がったのでしょう。
ところが、ネットや御朱印に関する書籍の御朱印の歴史に関する説明を見ると、納経帳に起源を求めるのはよいとしても、その納経が現代的な感覚での納経、すなわち供養や祈願のために般若心経や観音経などを書写し(明確に般若心経や観音経を挙げていなくても、それを念頭に置いているのだろうと思われる表現が多いようです)、神社仏閣に奉納して(たまに寺院に奉納していて、それが神社にも広がったと書いている例も見かけましたが、まさに現代的な感覚です)、その証しとして納経帳に御判(納経印・御朱印)をいただいた……というようなことを書いている例が少なからずあります。
御朱印の起源に関する典型的な誤解の一つといえるでしょう。
六十六部廻国聖も本来は写経を納めていたわけですから、写経を納めた証しとしてというのは間違いとは言えません。しかし、奉納する経典は法華経であって、般若心経や観音経のようなごく短い経典ではない、そう気軽に書写できるようなものではないわけです。法華経は「六万九千三八四(ろくまんくせんさんぱっし)」といわれるように1部8巻28品69,384文字から成り、260余文字といわれる般若心経を書写するのとはわけがちがいます。因みに観音経は法華経28品のうちの第25品「観世音菩薩普門品」の偈文と呼ばれる最後の部分、つまり法華経のほんの一部です。
それはともかく、御朱印の起源が納経帳にあるとはいっても、そういった一部の御朱印関連のサイトや書籍の説明でイメージされているものとずいぶん違うことは間違いありません。
それを示す資料があります。「(たぶん、自ら)書写した般若心経」と納経料の受領証、遠江国(静岡県)秋葉寺のものです。年代はわかりませんが、江戸時代のものです(秋葉寺は明治の初めに一度廃寺になっています)。
「書写心経千巻」「箱入」「奉納料 金百疋」とあります。般若心経の写経1,000巻(箱入りで)と奉納料銭100疋(1疋=10文なので100疋=1,000文=1貫文)を奉納したようです。担当者は「役寮」となっています。
次に、弘化4年(1847)の納経帳にあった秋葉寺の納経印。
秋葉寺の納経印(弘化4年)
左下の「遠秋」(遠江国の秋葉山もしくは秋葉寺の意でしょう)の黒印が共通する以外、形式も内容もまったく違います。担当者は「知事」。因みに「大乗妙典」は法華経のことです。
秋葉寺、御初尾の受領証
こちらは年代不明ですが同じ秋葉寺、神前の供物として奉納したらしい「御初尾(鮎)」の受領証です。担当者は「役寮」。般若心経の写経の受領証が、納経帳ではなく御初尾の受領証と同種であることは明らかです。
つまり、「供養や祈願のために、自ら書写した般若心経などの写経を奉納」した場合、他の一般的な供物と同種の受領証が出されたのであって、納経帳に御判をいただくというわけではないということです。
御朱印の起源について「供養や祈願のために般若心経などを書写・奉納して、その証しとして納経帳に御判をいただいた」というような説明は、現代的な「納経」のイメージに基づく誤解といえるでしょう。
天王河原山の経筒
経筒発見の経緯
成田山霊光館に市内青柳台字円馬戸の天王河原山より発見された経筒が収蔵されている。この経筒は文学者であり郷土史研究家として著名であった村上の伊藤サ(つとむ)氏が寄贈されたものである。伊藤氏は戦前より県内各地より収集した土器類を中心に多くの考古学資料を所蔵していたが、事情により五井町教育委員会に寄託すべく相談した。しかし、保存施設が無いことから受け入れを断られたことにより、成田山霊光館に寄贈することになったという。
この経筒の発見された所は、筆者が伊藤氏より伺ったところによると、昭和七年頃、JR内房線の白塚の跨線橋の構築事業が行われた際、天王河原山の土取り現場から発見されたという。 天王河原山は氷河時代より中世末まで柳原付近より姉崎台地に沿って西流した古養老川が白塚付近から北に向かって流路を替えて流れる曲流部分に当たる円馬戸地区に、小山のような堆積砂丘が形成された。地形図から検討すると約一万平方米を測り、高サは筆者の記憶では四〜五米はあった。また天王河原山の西北部に円墳状の塚が十二・三基分布していた。これも同地に突堤状の堆積砂丘が形成しれ洪水の度毎に崩漬・分断されて塚状の形態を呈するようになったと推定される。古養老川は如何に想像を超える大河であったかが容易に想像される。また、円馬戸地区の天王河原山周辺はラグ−ン地形を呈し、某氏の話によると、子供の頃、其處はマムシの巣窟だから入るなと云われたという。
古養老川の大洪水や波浪により形成された古環境の地形が遺存したが、中世末までは更に荒涼たる様相を呈していたものと推定され、経筒等を埋納するような聖地はなく勝地でもない土地であった。
(註)
1、現地青柳地区は、青柳台、西青柳、北青柳の三集落を併せて青柳一区であるが、江戸時代は青柳村、天王河原村の荷か二ケ村であった。また、天王河原村は白塚の分村であったと云う。
2、天王河原山の周辺にあった塚状砂丘群(発掘調査の折「青柳塚群」とした)は最近完了した区画整理事業により消滅した。
昭和十年初頭頃までJR内房線の白塚踏切り番が居て列車の通過時には旗を振って踏切りの安全を守っていたが、その頃、その踏切りの南側で跨線橋の工事が開始されていた記憶がある。 成田山霊光館発行の「考古資料解説目録」によると、伊藤 サ氏が経筒を入手したのは昭和六年と記されているが、誤記ではないかと思われる。筆者の記憶によれば、跨線橋工事中の発見とすれば、昭和十年前後と推定される。  白塚の跨ぎ陸橋構築の盛土の大半は「天王河原山」の堆積土であったようだ。その堆積土の土取り作業の人夫の中に、村上の伊藤氏の家の近くの人が幾人か居り、その人達が土取り作業中に偶然に経筒が発見されたと云う。伊藤氏は文学者として著名であるが、一方考古学に精通し、県内各地より考古学資料を収集していたことでも知られていた。経筒を発見した人達は躊躇せず伊藤氏に届けたと伝える。
残念ながらその後伊藤氏は現地調査していなかった様子で、経筒が天王河原山のどの地点で発見されたのか、また経塚の存在については一切不明である。また、筆者は、天王河原山の土地の所有者の一人である鮎川小太郎氏宅に度々尋ねて、経塚の有無や、経筒の発見地点について伺ったが、具体的な回答を得るに至らなかった。
県下最古の廻国経筒
文を書写して封入し経納するという事は、釈迦が入滅後五十六億六千万年後に再び世に現れて人々を救うと説かれている。弥勒菩薩が釈迦の教えを伝えると云うことから、それを目的として始められたと考えられている。奈良県吉野郡天川村洞川に紙本経を封入した銅製を埋納したの名文が初現埋経として有名である。
県内では香取郡大須賀の谷津経塚より発見された大治四年(1129)経筒である。その他平安時代より中世にかけての所産としては市川市八幡の葛飾八幡宮経塚、千葉市の千葉寺経塚、銚子市等覚寺の経筒等が知られている。この時代の経筒には規則に従って書写した如法経が経筒に納められている。
中世末になると六十六部廻国聖(単に六部とも云う)が現世と来世の幸せを願って全国の霊地に納経して廻るようになった。十六世紀になるといっそう盛んになった。室町時代末までに廻国聖が霊場に納められた数は全国で一〇七例が知られており、千葉県内に於いては五例知られている。
経筒に刻まれた銘文
天王河原山から発見された経筒の大きさは高サは約十四糎、太さ六糎、蓋の厚さは約〇・五糎程の大きさである。材質は胴製で鍍金の痕跡が認められる。蓋の上面に細かな格子文と蔦花文が線刻されている。
銘文は
十羅刹女 武州六郷之住呂
奉納大乗妙典 六十六部聖 圓勝
三十番神 大永八年 戊子 二月 日と線刻されている。
この銘文型式は室町時代末期に定型化して、法華経を書写して経筒に封入し廻国聖が全国の霊地・霊場に奉納して廻った。銘文の梵時は釈迦を示し、大乗妙典とは法華経のことである。十羅刹女は、人の精気を奪う鬼女であるが仏の説法により法華経の行者を守る十人の護法神。三十三番神は三十日の間、順に結番して法華経を守護する三十の番神のことである。
廻国経筒は県内で四例確認されており、その中で天王河原山発見の経筒が、六十六部廻国経筒としては県下最古の遺品である。  経筒の発見された天王河原山のあった所は、白塚村の分村で江戸時代では「天王河原村」と呼ばれ青柳とは別村であった。何時頃分村したのか集落の形成は明らかでないが、古養老川曲流部のラグ−ン地帯の微高地に形成された集落であり、仏教上の霊地や勝地ではなかった。従って廻国聖の圓勝が何故この地に経筒を埋納したのか大きな疑問である。考えられることは圓勝が納経を目的とした寺院は房州の誕生時が清澄寺であったと想定されるが、何等かの事情により納経の旅を断念し、青柳村に存在していた中世以来の寺院「成光院」に立寄り、同寺の協力を得て天王河原山に経塚を設け、其處に経筒を埋納したのでではないかと想定される。 
経塚
経典を土中に埋納した塚。仏教的な作善行為の一種で、経塚を造営する供養のことを埋経という。
仏教経典を書写する写経は国家仏教中心の奈良時代には官営事業として行われていたが、平安時代には浄土思想が普及し、個人的な祈願成就を目的に行われるようになった。永承7年(1052年)に末法の世が訪れるという予言思想である末法思想の影響で成立した信仰形態であると考えられており、起源は中国や朝鮮半島にあるとも言われる。
埋納される仏経典は主に法華経であるが、『般若心経』『阿弥陀経』『弥勒経』『大日経』『金剛頂経』『理趣経』などが用いられることもあり、『無量義経』や『観音堅経』などの開経・結経が添えられる場合がある。経典は紙に写経された紙本経である場合が多いが、粘土板や銅版、礫石、瓦、貝殻などが用いられることもある。経典は容器として金属製の経筒に納められ、経筒には銘文が彫られる。
経筒は小型の筒型であるが、箱型六角形のものや装飾が施された宝塔形のものもあり、上部に蓋がされる。経筒はさらに金属製や陶製、竹製などの外容器で入れ子にされることもある。埋納は、和鏡、銭貨、刀身、小仏、玉などの副納品や除湿剤として充填される木炭とともに埋納される。
埋納される場所は霊地や聖地と位置付けられている山頂や神社境内である場合が多く、土中や土上に石室が作られて安置され、封土が盛られる。洞窟や岩壁の隙間に造営されることもあり、中世には死者の追善的意味も加わり、路傍や墓所においても造営されている。
起源から中世まで
日本での造営は、寛弘4年(1007年)、藤原道長が大和国金峰山山頂に造営した金峰山経塚が最古で、はじめは貴族層が末法の危機感から弥勒下生に備え、経典を後代に伝えようとした意味があるという。
12世紀を盛期に一時衰退するが、中世には廻国聖が諸国で納経活動を行って庶民の間で広まり、現世利益や追善供養の意味が加わる。
近世
小型経筒を用いた経塚は近世には衰退し、代わって扁平な小石(礫石)に経典の字句のうち一文字を書写し、それを多数埋納する一字一石経や、複数文字を書写した多字一石経を納める経塚(このような経塚を「礫石経塚」と呼称することがある)が流行する。一石経も地中へ埋納して封土で覆われ、供養碑が立てられる場合もある。近世の経塚造営は農業生産の増加や貨幣経済の浸透を前提とした宗教行為の流行を背景に成立し、納経は寺院が主導し、多数作善思想のもと多数の人が加わって行われたという。  
 
甚句1

 

甚句(じんく)は日本の伝統的な歌謡の一形式である。詳細は不明だが江戸時代に発生したと見られる。歌詞が7、7、7、5で1コーラスを構成するのが特徴。様々な歌詞が生み出された。5、7、7、7、5となる場合もある。全国各地の民謡にこの形式が多い。囃子言葉が挿入されたり前後に付く場合が多い。有名曲は次の通り。花笠音頭、木更津甚句、箱根八里、越中おわら節。正調博多節、鹿児島おはら節、茅ヶ崎甚句 、郡上甚句。
甚句2
日本民謡の曲種。甚九とも。詩型はふつう七七七五調の26文字。宴席の三味線伴奏による騒ぎ歌の型が多いが、盆踊などに歌う甚句もある。全国各地に広く分布するが、東日本に多く、秋田甚句、米山甚句、新潟甚句などがある。

民謡の一。多く七・七・七・五の4句形式で、節は地方によって異なる。江戸末期から流行。越後甚句・米山(よねやま)甚句・名古屋甚句・博多甚句・相撲甚句など。「地(じ)の句」「神供(じんく)」の意からとも、また、越後国の甚九という人名からともいうが未詳。
甚句3
日本の民謡の種類。民謡の中には「米山甚句」「両津甚句」「木更津甚句」など,甚句を曲名にするものが数多くある。甚句は〈地ン句〉であり,〈地の句〉すなわち土地土地に発生した歌であるという説や,神に供える歌という意味の〈神供〉説もある。また江戸時代に流行した 「兵庫口説(くどき)」の中に「長崎えびや甚九」があり,〈こんど長崎海老屋の甚九 親の代から小間物売りで……〉と,長崎の商人海老屋甚九郎を歌った歌が流行して,「海老屋節 」や「甚九郎節」になり,それが各地に広まって甚句あるいは甚九として定着したとする説もある。
甚句4
日本民謡分類上の一種目であり、また曲名そのものにもなっている。「甚句」という文字は当て字で、文字そのものにはまったく意味はなく、必要なのは「ジンク」ということばである。「ジンク」ということばについては、(1)「地ン句」のことで、土地土地で歌われている唄(うた)、(2)「神句」の意で、神に供える唄、(3)「海老屋(えびや)甚九」で、海老屋の甚九郎が歌い始めたのによる、といった諸説もあるが、そうではない。まだ定説にはなっていないが、有力なものを掲げておく。
東北地方にはいまなお「ジンコ」という名の唄が各地に点々と残っている。東北弁では、名詞の後に「コ」の字を加えたがる傾向が強いから、「ジンコ」は「ジン」+「コ」ということになり、問題になるのは「ジン」ということばだけということになる。ところで「甚句」ということばは、「音頭と甚句」というぐあいに対句として用いられることが多い。この対句は演唱形式がそのまま曲名になったもので、「音頭」は、1人の人が唄の一部を独唱すると、他の人々が他の部分を声をそろえて斉唱する演唱形式の唄である。これに対して「甚句」すなわち「ジン」は次のように考えられる。秋田、岩手、青森3県の山間部の古風な盆踊りをみると、歌垣(うたがき)的な性格を色濃く残している。すなわち、男女が手拭(てぬぐい)でほおかぶりをし、輪になって踊りながら、そのうちの1人が思う相手に問いかけるようにして歌うと、異性がこれをうけて返歌を歌うという形式である。こうして一晩中踊りが続いていくだけに、「ジン」は「順番」の「順」ではないかと考察される。これに「コ」の字を加えて「順コ」、それが「ジンコ」となまり、江戸時代末期に「甚句」の文字があてられて、以後急激に東日本に広まっていったとするものである。その「甚句」は、七七七五調26音を基本とする詞型で、曲は旧南部領(青森県東部と岩手県の大半)の『ナニャトヤラ』を母体にして派生、『秋田甚句』や『越後(えちご)甚句』が中心になって、その多様化したものが東日本一円に広まり、盆踊り唄、酒盛り唄にと利用されている。そして新潟県糸魚川(いといがわ)から長野県松本、さらに静岡県浜松を結ぶ線以東に集中し、西日本では飛び火のような感じで存在するにとどまっている。  
相撲甚句1 
江戸時代から力士の間で歌われてきた。地方巡業などの取組前に、土俵上から独唱する七五調の囃(はや)し歌。「ドスコイ、ドスコイ」の合いの手が入る。相撲甚句の愛好家の集まりとして、全日本相撲甚句協会(本部・墨田区)のほか、元呼び出しの永男(のりお)さんこと福田永昌(のりまさ)さん(77)が会長を務める日本相撲甚句会(本部・墨田区)と、相撲写真資料館の工藤明さん(78)が幹事長を務める全国相撲甚句会(本部・墨田区)などがある。
相撲甚句2
相撲甚句は江戸時代の享保年間に相撲取りが地方巡業や花相撲で唄ったのが起源で、いろいろな流行歌が混じって定着しました。一般的には甚句というと民謡の秋田甚句、米山甚句、木更津甚句等が有名です。一方、角力甚句は明治の初期に相撲甚句を聞いた名古屋の芸妓が三味線を付け、”芸者殺すに刃物はいらぬ、甚句止めたら皆殺し”と言われるほど花柳界で大流行しました。名古屋甚句もその流れだといわれています。お座敷で唄われているものを角力甚句として住み分けをしてきましたが、レコードを見てみると戦前は芸者出身の歌手がほとんどでした。しかし、昭和30年代になると大相撲も若乃花、千代の富士、栃錦、大鵬、柏戸といった人気力士が同士が優勝争いをするようになってテレビの普及とともに相撲人気も高まり、この頃からは森の里など相撲取りの唄う甚句になってきました。戦前は「角力甚句」ばかりだったのが、戦後はほとんど「相撲甚句」となり、角力→相撲と変わった点が目に付きます。このように相撲甚句とは単に相撲取りが花相撲とは、地方巡業で唄うだけではなく、日本各地の民謡との関わりが深いようです。
お相撲さんが土俵の上で化粧回しをして唄っているものですが、独特の節回しと歌詞が相撲ファンに親しまれて伝わってきました。時代と共に土俵の上の甚句も変わり、最近ではのど自慢の力士が得意の声で唄い聞かせるようになってきました。近年では甚句独特の哀愁のある節回しが一般の人達にも受けて、全国に相撲甚句の会が結成され、北は北海道から南は九州まで、全国で約70団体1,000人以上の会員がおり、毎年全国大会も開催されています。
相撲甚句3
甚句とは「七七七五調の俗謡の一種」で、相撲甚句とは花相撲や巡業相撲などの取組前に、土俵上から独唱する七五調の囃(はや)し歌のことを言います。地方の神前相撲やお祭りの相撲大会から大相撲まで、それらが開催される時に唄われていて、「一つ拍子」と「三つ拍子」があり、地方の神社などで行われる祭礼では唄にあわせて相撲踊りが行われたりします。また、相撲甚句は越後甚句の流れといわていて、力士が余興的に土俵でうたい、それに合わせて踊ったのでこの名が生まれ、江戸時代末期から始まったと言われています。
横綱、大関の引退相撲には土俵歴、地方場所では土地の観光名所を織り込んだ新作が披露されることが多いのも特徴の1つ。力士が相撲甚句を歌いながら、円陣を組んで差す手・引く手、足を前後左右に運んで回るのは、元を正せば相撲の四十八手の型を表現していて、昔は甚句のことを型と呼んでいました。土俵の上で攻める型、守る型を見せながら唄っていたのですが、現在は化粧廻しを締め、手拍子・足の音頭に合わせて唄っていて近年はこの意味が薄れつつあるようです。
現在では、相撲教習所の教養科目として必須科目に取り入れられており、幕下以下の力士が相撲甚句を披露する場合、大銀杏を結うことが許されています。
そもそも「甚句」の出所には諸説あるのですが、最も有力だといわれているのが18世紀の初頭に関西地方で流行った「評語口説」の中に出てくるの長崎の呉服商・ゑびや甚九郎の物語をうたった『ゑびや甚九』という歌謡が『甚九郎節』として瀬戸内海沿岸から日本海沿岸に広まって、やがて北前船の船乗りを通じて東北から日本全国に広まり、盆踊り唄の一種としての「甚句」へと発展したといわれています。「口説」とは同じことを何度も、くどいほど繰り返すことから言われ、短い節回しに歌の一節を何度も繰り返して歌われます。一言で言えば、甚句とは18世紀における流行歌といえるものです。
相撲甚句4
相撲甚句とは、大相撲の力士らによって歌われる伝統的な民謡の一種。甚句と呼ばれる七七七五調の形式で、江戸時代から明治時代にかけて流行し、現在も歌われている。具体的には、地方巡業や引退相撲といった花相撲で、取組前や取組の合間などに披露される。また、宴席などでも披露される。土俵上の中心に相撲甚句を歌う力士が立ち、その周りを5、6人の力士が囲んで行われる。周りの力士たちは甚句に対して、「はぁー、どすこい、どすこい」などと声を掛け、土俵上を回りながら手拍子する。歌っている力士の甚句が終わると、次の力士が土俵の中心に移動して甚句を歌う。なお、相撲甚句は新入門の力士が相撲の実技や文化を学ぶ相撲教習所の科目にも採用されている。  
相撲甚句5
甚句の起源は、元禄時代にはやった<甚九郎節>から出たもの、<地ン句>となまったもの、神に捧げるうたの意味で<神供>のあて字とする説などがあるが定説はない。甚句の種類には、仕事うた(山甚句、ね草刈り甚句)、盆踊りうた(盆踊り甚句)、騒ぎうた(酒宴の席の騒ぎ甚句)などがあり、このほか甚句とは呼ばれなくても七五調の甚句の形式を備えているものを含めると、日本の民謡の約半数を占めている。
甚句は江戸末期から明治にかけて、流行歌として定着した。
角力甚句は、幕末から明治にかけて花柳界で流行した本調子甚句、二上がり甚句を相撲取りがお座敷で覚えて巡業ではやらせたもので、この角力甚句から、名古屋甚句、熊本甚句(おてもやん)、会津磐梯山、隠岐の島の相撲取り節、熊本のどっこいせ節(一名角力取り節)などが出ている。
地方の神社などで行われる祭礼では唄にあわせて相撲踊りが行われたりする、また、土俵の上で攻める型、守る型(相撲の四十八手)を見せながら甚句を歌っていたが今ではこの形は行われていない。
相撲甚句は単に相撲取りが花相撲の土俵で歌うだけのものではなく、日本各地の民謡と深いかかわりの中から生まれ、歌われ、これからも後世の人々に歌い継がれていく民族の歌の性格をもつものであるといえる。
相撲甚句といえばドスコイ。ドスコイ、私が入った時にはもうそうなっていましたが、戦前はドッコイ、ドッコイだったんです、秋田民謡の酒屋唄にそんなのがあります。これがね「アー、ドスコイ。ドスコイ」こうなったのは、私は芸者がはやらしたんじゃないかと思っているんですけどね。出所は相撲内部よりも、粋筋の方でね、二上がり甚句の。「トコ、ドスコイドスコイ」いつの間にかお相撲さんまでこううたうようになっちゃったと、ね、私はそんなふうに考えています。でね、昔は甚句そのものを聞かせるというよりも、相撲四十八手。この型をみんなに披露する意味もあったようですね。あの、長崎、宮城、それから越後周辺、ここらあたりは今でも女相撲が盛んなんですが。そこで女力士が土俵の上で輪になって、ね。「ドスコイ、ドスコイ」やってるでしょう。見てみますとね、踊りなんです。ただ面白いのは、その一つ一つの仕草が、よく見ると四十八手の型になっているんです。真ん中に唄い手さんがいて、踊り手の方は突っ張り、押し、四股の型までやってますよ。甚句は長崎なら「長崎名所」を、ドスコイ、ドスコイとやってんですけどね。こうゆうのを見ると、昔の甚句は踊りが主流だったんだな、と素直に納得できます。それがいつ頃からか、前へ歩いて、後ろに下がって、パンパンと手を打つぐらいで、ね、今の相撲甚句はそれだけ崩れちゃったんですね。四十八手の型はおろか、踊りにもなっていません。踊りよりも、ホラ、ノド自慢。いつしか歌が主流になったと。これが今の甚句だと思います。  
 
盆口説き・踊口説き

 

民謡においては長編の叙事的な歌を〈口説〉というが、盆踊歌として用いられることが多く、この場合は〈踊口説〉とよばれる。謡曲や平曲、義太夫節などにも〈クドキ〉と呼ばれる部分があるが、民謡の口説の叙事的な歌詞は、門付の芸能者の伝えた〈語り物〉の系譜である。盆踊の場合は主として音頭取が独演し、踊手ははやしことばを唱和する形式で語られる。「河内(かわち)音頭」「江州(ごうしゆう)音頭」など〈何々音頭〉という曲目名でよばれることが多く、「八木節」も音頭取中心の演唱形式で、前記2曲とともに踊口説の代表的なものである。
盂蘭盆会
盆踊りは盂蘭盆に踊られる一連の盆会の行事の一つです。娯楽の少なかった戦前までは、 盆は正月と共に民間年中行事の双璧であり、遠地に働きに出ている人も、この時には墓参に故郷に帰る楽しい行事の一つでありました。
盂蘭盆の起源は、(梵)から転化したウランバーナを音訳した語ともいわれています。ウランバーナは倒懸(さかさ吊り)という意味で、 釈迦の弟子の目蓮の母が、餓鬼道におちて倒懸の苦を受けていたので、目蓮は仏陀にこれを救う法を請うた。仏陀は「七月十五日に百味の飲食で 衆僧を供養すれば、七世の父母の苦難を救う。」と教えた。という盂蘭盆経の説などに由来するといわれています。
わが国では、盂蘭盆会は古く から行われ、日本書記の推古天皇十四年(606年)の条に「是年より初めて寺毎に四月の八日、七月の十五日に設斎す。」とあります。このこと がわが国における灌仏会、盂蘭盆会のはじまりとされています。
盆踊り
盆踊りは、盂蘭盆会におどられ、通常十三日から十六日にかけて、 寺の境内や町村の広場、辻などで老若男女が大勢参加して、他界から帰って来る精霊を迎え祭り、再び送るための踊りであります。
近年は、 その宗教的要素の薄れたものが多いが全国各地に見られ、最も大衆性の高い民族芸能であるといえます。
盆踊りは、記録的には「春日権現神主師淳記」 の明応六年七月十五日の条に「南都中、近年の盆おどり、異類・異形一興」と見えるのが最古と思われます。
盆踊りの源流は、もともと 盂蘭盆会に行われた念仏踊りであり、風流(浮立)であったことは「看聞御記」を見ると明らかで、その初見は応永二十三年(1416年)の「念仏拍物」 であります。
これは平安時代に始められた空也上人の踊躍念仏が、一遍の念仏踊りに引き継がれ、やがて時宗の活躍と共に民間に広められたとされていますが、流行の風流踊りを適宜に取り入れ、室町時代には風流拍物に念仏を加えて、念仏拍物となりました。
江戸時代初期には、伊勢踊りや小町踊りなどの影響を 受けたといわれています。盆には供養される精霊だけでなく、無縁の亡霊もやって来ると信じ、これは踊りの陽気なにぎわいの中に、上手にさそい出して村外 へ送り出す必要があったようです。
この外小歌・組歌・口説節などの歌の発展も盆踊りの発展に寄与しました。江戸時代中期の民謡集で「諸国盆踊唱歌」 とも「山家鳥虫歌」ともよばれるものには、健康な農民の労働歌や恋歌などがみられます。特定の作者をもたず、盆踊りなどの行事を通して創作されたものと 思われます。
念仏や和讃を唱えて踊る地方もあるが、近世以後、太鼓や笛の伴奏で七七七五調の民謡、あるいは即興的にうたって踊る場合が多く、また江戸時代 には口説が用いられ口説節が流行しました。
櫓の上で音頭取りが長々とうたえば踊り手は囃子言葉を入れて踊る。この形式が広く行われるようになったものです。  歌詞は、五七五句形、七七七五句形や七五句を反復するものがあります。五七五句形は少なく、七七七五句形は「揃うた、揃うたよ、踊り子が揃うた、秋の出穂より、 よく揃うた」などと、非常に数が多いようです。
また七七句の反復は、口説の「花のお江戸の、そのかたわらに、さても珍し、心中話」という形のもので、豊前地区 で最も多い句形です。  盆踊りに使用する楽器は(一)唄だけのもの(二)唄に太鼓を加えたもの(三)唄と太鼓に篠笛や鉦を加えたもの(この形式は非常に 多いようです。)(四)酒樽を主要楽器とするもの(五)音頭取りが酒樽をたたきながら拍子を取り、伴奏は別に篠笛、鉦、太鼓などが入っているもの(八木節) (六)三味線を入れたもの(佐渡の相川音頭・おけさ踊り、岐阜の郡上踊り、大分の鶴崎踊り)(七)胡弓を加えるもの(富士のおわら節)等があるようです。
盆踊りは寺の境内や広場などに櫓を設け、提灯をさげ、音頭取りがその上で傘をさして太鼓の伴奏等で唄い、踊り手がこの櫓を取り巻いて、櫓を廻りながら踊るのが 普通であり、このほかに流し・ぞめき・盆やっしなど称して、徳島の阿波踊りのように行列をなして、町を群舞して浮かれ歩くものもあります。
音頭取りが傘を持って立ったり、櫓や屋台を建てたりするのは、精霊迎えの意味があり、行列して群舞するのは精霊送りの意味があるといわれています。また初盆 の家で踊るところもあります。
服装(葬)は各自まちまちであるのが普通ですが、所によっては花笠・編み笠・頬冠り・頭巾などをかむって踊るところもあります。 特に棒踊りも一部であるようです。(日田方面)  盆踊りの振りは、最も簡単なもので行進の振りに僅かにしなをつけたものが多く、手拍子を打つのを境に、ほとんど 数拍ないし十数拍を出ない、しかしその踊り姿はなかなか美しいものであります。また、踊り子は、うちわ・タオル等を持つことが多いようです。  
 
説経祭文

 

江戸時代中期、たがいに起源の異なる中世以来の芸能である説経節と祭文語りの双方が結びついて生まれた門付芸・大道芸である。
説経節
説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能で、仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である。
イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本語文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しており、ささらを伴奏にして語られる説経節が乞食芸であったこと、そして、乞食のなかでも最下層のものと見なされていたことがわかる。
おもな演目は「苅萱」「俊徳丸(しんとく丸)」「小栗判官」「山椒大夫」「梵天国」「愛護若」「信田妻(葛の葉)」「梅若」「法蔵比丘(阿弥陀之本地)」「五翠殿(熊野之御本地)」「松浦長者」などであり、主人公の苛烈な運命と復讐、転生などをモチーフに中世下層民衆の情念あふれる世界を描いている。
古説経(初期の説経節)のテキストにおける節譜として、「コトバ(詞)」「フシ(節)」「クドキ(口説)」「フシクドキ」「ツメ(詰)」「フシツメ」の6種が確認されている。説経節は基本的に「コトバ」「フシ」を交互に語ることで物語を進行させていったものと考えられるが、「コトバ」は日常会話に比較的近い言葉であっさりとした語り、「フシ」は説経独特の節回しで情緒的に、歌うように語ったものと考えられる。これに対し、「クドキ」は沈んだ調子で哀切の感情を込めて語り、「フシクドキ」はそれに節を付けたものと考えられ、節譜への登場はわずかであるが、そこでは「いたはしや」「あらいたはしや」の語が語られるのを大きな特徴としていた。
近世に入って、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった。義太夫節に押されて早々と廃れてしまった上方に対し、江戸は三都のなかで最も説経節がさかんで、元禄年間には天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが櫓をかかげて説経座を営んだほか、説経太夫としては村山金太夫や大坂七郎太夫があらわれた。
しかし、18世紀初頭をすぎると江戸においても説経節による人形操りは衰退し、享保年間(1716年-1736年)にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消してしまい、再び、大道芸・門付芸となった。その時点で古い説経節のスタイルは消え、構成も詞章も浄瑠璃の影響の強い説経浄瑠璃のかたちになっていた。
祭文
仏教に起源をもつ説経節に対し、祭文は神道に主たる起源を有し、本来は祭りのときなどに神祇に対して祈願や祝詞(のりと)として用いられる願文であったが、神仏習合の進行著しい中世にあっては山伏修験者に受け継がれることとなった。修験者による祭文はやがて仏教の声明の影響を強く受け、錫杖や法螺貝を伴奏として歌謡化し、さらに修験の旅にともない日本列島各地に広がった。山伏は神事祈祷に際し祭文をよみあげ、神おろしや神の恩寵を願ったのである。祭文はさらに巫女など下級宗教者や声聞師など門付芸人の手にもわたって、その勧進活動・芸能活動にともない各地に伝播し、地方の文芸や娯楽に寄与し、さらに農村の宗教行事と結びついて、悪霊退散の呪詞などとして定着した。
江戸時代に入ると、祭文は説経節同様に三味線などと結びついて歌謡化し、これを「歌祭文」もしくは「祭文節」と称した。歌祭文(祭文節)は、元禄以降、「八百屋お七恋路の歌祭文」「お染久松藪入心中祭文」などといった演目があらわれ、世俗の恋愛や心中事件、あるいは下世話なニュースなども取り入れ、一種のクドキ調に詠みこむようになった。歌祭文ではまた、余興として「町づくし」「橋づくし」などの物尽しも語った。
歌祭文に対し、錫杖と法螺貝のみを用いた「デロレン祭文」(貝祭文)は、同様に世俗的な演目を扱いながらも語りもの的要素の強い芸能であった。このような祭文の隆盛により、祭文語りを専業とする芸人もあらわれた。そのほか、下層民と結びついて余命を保った本流の門付祭文があった。
説経祭文の登場
江戸では元禄以降、説経節が浄瑠璃に吸収されるかたちで衰退していったが、寛政(1789年-1801年)の頃、小松大けう・三輪の大けうという山伏によって説経が語り伝えられ、祭文と説経節とを結びつけた説経祭文が始まった。また、享和(1801年-1804年)年間には、本所の米穀店の米千なる人物が按摩(盲人)の工夫した三味線を用いて説経芝居を再興させている。
説経祭文で語られる演目には、歌祭文同様、「賽の河原」「胎内さがし」「八百屋お七(お七吉三郎)」「お染久松」「お初徳兵衛」「小三金五郎」「お千代半兵衛」「お夏清十郎」「おしゅん伝兵衛」などの世俗的な作品があり、そのほか「俊徳丸」「愛護若」「苅萱」「小栗判官」などのように中世以来の説経節の演目もあった。もとより、野外芸能に回帰した説経祭文は、門や辻での芸能であることから、通常は段物の一段やサワリ部分だけを語るものであり、説経節がかつてもっていた宗教性は失われ、いちじるしく世俗化していった。
やがて説経祭文の系統から薩摩若太夫が出たものの、再興された説経芝居は衰えてしまった。ただし、その流れはわずかに伝えられて、明治時代に入って若松若太夫があらわれている。薩摩若太夫の流れを薩摩派、若松若太夫の流れを若松派といい、両者を「改良説経節」と呼ぶことがあるが、ともに座はもたなかった]。
説経祭文の演じ手は、くずれ山伏や瞽女が多かった。瞽女はまた、北陸地方の盆踊歌であった松坂節と歌祭文が結びついて生まれた「祭文松坂」と総称される楽曲を演じることも多かった。
なお、説経祭文が座敷芸化したものとして、幕末期の名古屋の「説経源氏節」(または単に「源氏節」)がある。これは、新内節の岡本美根太夫が説経祭文と新内節とを融合させて新曲を創始したものである。
ちょんがれと説経祭文
ちょんがれは、祭文とりわけ歌祭文に起源が求められ、錫杖や鈴などを鳴らして拍子をとり、半分踊りながら卑俗な文句を早口で歌う大道芸・門付芸で、江戸後期の大坂を発祥とする。上述のとおり、祭文は現在のニュースのようにタイムリーな話題、とりわけ恋愛や心中といった話題を聴衆におもしろく聴かせたが、その読み口のテンポを速め、クドキ調で歌ったものが「ちょんがれ」「ちょぼくれ」「あほだら経」であった。ちょんがれは、のちの浮かれ節や浪曲(浪花節)につながる芸能であり、浪曲は、説経節と祭文の双方から強い影響を受けた語りものとして幕末期に大成された。
ちょんがれが日本の歌謡史において果たしたもう一つの役割としては、説経祭文を民衆のうたいやすいクドキ形式に変化させたことが挙げられる。クドキは民衆による物語歌謡(エピックソング)を可能にし、近畿地方の「江州音頭」や「河内音頭」、関東地方の「八木節」「小念仏」(飴屋節)「万作節」、東北地方の「安珍念仏」「津軽じょんから節」などクドキの民謡を多数生んだ。その意味で、ちょんがれは従来専門家によってになわれていた説経祭文を民謡へと変えていく大きな媒介となり、民衆自身が歌う歌謡を創出する役割をになったのである。 
 

 

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■諸話

 

 
瞽女の諸話
 
瞽女に期待する民間信仰
瞽女唄とその普及を民間信仰が根源で支えていたという事実がフィールドワークによって明らかにされた経緯を長々と見てきたが、最後のまとめとして鈴木昭英先生の言葉で締めくくりたい。(はすえ)
「今、その越後瞽女調査で確認された瞽女に対する庶民の信仰相を要約し、大別すると、
(一) 人間の生命の誕生と安全・保護に関する信仰
(二) 生業・生産物の艀化・発芽と育成に関する信仰
の二つに焦点を絞ることができよう。もっとも、第二の生業・生産物の孵化・発芽と育成に関する信仰は、究極的には人間の生存のための願いであって、その意味からすれば等しく人間生命の存続と安泰を瞽女に求めるもので、第一の要素に帰入する。だがここでは一応区別する必要がある。
この二つの信仰体系の委細をみると、第一の人間生命の誕生と安全・保護の信仰は、これを安産や子育てを総括する子安信仰と治病信仰の二種に分けることができるし、第二の生業・生産物の孵化・発芽と育成に関する信仰は、動・植物にわたっており、動物に関しては養蚕、植物は稲作・麦作・綿作等に端的に現われるもので、蚕種の孵化促進と蚕児の育成増産を願い、稲・麦・綿等の種の発芽促進、ひいては豊作を祈願するのであった。」
「まさに三味線伴奏は呪的リズムであり、歌謡は呪的言語、その他有形の衣装・道具類は呪具と観念されている。」
「結局、瞽女には、生命のある小さいもの、丸いもの、静止したもの、弱いもの、侵されているもの、異常なもの、不安定なものなどに作用して、それに活力を与え、誕生させ、生長させ、保護する力があると観ぜられたからにほかならない。」
三味線の糸が蚕の絹糸を縒(よ)って作ったものだから
瞽女唄の養蚕信仰や民間信仰の基は三味線の音によることをみた。さらにその奥にその理由が隠されていたようである。蚕が良く桑を食べたという事実はあったのであろうが、別の理由もあったようである。
「このようにして、三味線の奏でる音に異常な力を認めるわけは、その音を発する三味線の糸が蚕の絹糸を縒(よ)って作ったもので、それからそれへと同類を呼ぶためであると解釈されている。したがって、瞽女が巡業で使い古して切れた三味線の糸が、蚕のお守りとして重宝にされる。糸の切れっぱしを瞽女から分けてもらい、蚕棚のすみや蚕かごにしばっておいたり、蚕の掃き立てや選定に使う箸のつなぎ紐とする風習も見られた。その糸は、瞽女が旅の稼業でさんざん弾いて切れたものでなければ効果がないという。」
養蚕信仰の基は、歌詞・演目ではなく、三味線の旋律にあったらしい
先に、瞽女唄の農村の、特に養蚕を生業とする地域の方々から歓迎を受け、それは毎日を単調に送っている人たちに対して歌と世間話などの楽しい娯楽を与えてきたために歓迎される以上に、瞽女唄や瞽女の身の回りの持ち物などが養蚕信仰などの民間信仰によって、より高い意義を与えられてきたことが大きいことを見てきた。さて、では瞽女唄の何が養蚕信仰にとって重要とされてきたのだろうか、という素朴な疑問が生じる。
鈴木先生によれば、「蚕に唄を聞かせるというが、それは歌詞の内容、演目にはさほど関係がない。問題は伴奏楽器としての三味線の旋律にあったらしい。蚕は三味線の音が好きで、その音を聞くと桑の食い方が違うというのである。」(『瞽女 信仰と芸能』鈴木昭英より)という。歌詞がめでたいものだから、とか蚕が良く育つようにという特別の意味を持った歌詞もあったようだが、それより三味線の音が重要であったというのは、ちょっと驚きというか、素人はほんとかいな、と思ってしまうのだが、恐らく三味線の音を聞いた蚕は本当によく桑を食ったのだろう。そのあたりの観察眼は養蚕で生活してきた方々より優れるものはないと思われる。
越後瞽女の集団と上・中越地区の組織の違い
越後瞽女の集団と上・中越地区の組織の違いは大きく行って、新潟県中越は代々山本ゴイを襲名して家督を相続する「家元制」が、上越は高田に居を構える師匠が寄り合って組を形作る「座」の形態が主流であった。高田瞽女の方が長岡瞽女より古い形態を残しているといえよう。そして、両者とも巡業権の拡大にあっては、単に娯楽の提供だけでなく、そこには庶民信仰の対象として積極的に迎えられ、強く瞽女を支えていたという結論になっている。このあたり、長くなるが引用したい。
「越後には、系統を異にするいくつかの瞽女集団があった。中越には、中越全域から下越の一部にかけて多数の瞽女を擁し、盛時には四百人を越えたという「長岡瞽女」、それに刈羽郡から三島郡の一部にかけて分布していた「刈羽瞽女」の二集団があり、上越には、高田の町に家を構えていた「高田瞽女」、糸魚川に家があった「糸魚川瞽女」、中頸城の土底浜を中心とする「浜瞽女」、東頸城の大島村に本拠があった「山瞽女」などの集団が確認されている。そうした瞽女集団の詳細については別稿に譲るとして、ここでは中越・上越の瞽女集団の在り方に対象的な特色や相違があるので、そのことを略述しておきたい。中越地区の瞽女集団は、師匠瞽女が自分の生家で弟子を養成し、組を形成するというのが一般的法則であるが、上越地区のそれは、おおむね師匠が生家から離れて自分の家を持ち、そこで弟子を養成することが一つの条件となっている。そしてさらに、両地域の代表的集団である長岡瞽女と高田瞽女を比較した場合、これまた組織制度上に対象的な相違が見られる。長岡瞽女は、中越に散在する多数の組を統轄支配する本部として、瞽女屋というものが長岡にあり、そこへ入家した家督相続者は代々山本ゴイを襲名して、いわゆる「家元制」をとるに対し、高田瞽女は、高田の町に家を構える師匠たちが幾人か寄り集まって組を形成し、さらにその組が寄り合って瞽女仲間としての座を組織し、その中の最年長者が座元となるという、いわゆる「座」の形態をとっている。興味深い現象というべきであろう。これらの瞽女集団が訪れた巡業圏域は、今日の聞き取りからするも広範囲に及び、雪国越後の出稼ぎ気風をいかんなく発揮した。長岡瞽女は県内は中・下越全域、県外は群馬・埼玉・栃木・茨城・山梨などの関東諸県、それに長野・福島・山形などの周辺県に多く訪れたが、最近の調査では、東京・宮城・秋田に巡業した瞽女があったと聞いている。刈羽瞽女は、県内は中越地方に限り、県外は関東諸県・長野に及んでいる。高田瞽女は上越地方を主体に、長野は千曲川の流域をさかのぼり、埼玉・山梨との県境に達し、一部は群馬にも入った。糸魚川瞽女は西頸城を主体に松本街道を南下し、大町方面に足をのばした。浜瞽女・山瞽女は中頸城の平野部や東頸城の山間部を巡業したが、県外に出た形跡はつかめていない。県内では、米山を境に中越瞽女と上越瞽女は交流をなさず、互いに他域を訪れていないことが注目される。このような組織と巡業圏をもった越後瞽女の調査を通して、瞽女が単に娯楽をもたらす来訪者としての意義を有する以外に、庶民信仰の対象として積極的に迎えられた一面のあることが知られたのである。そして、これが巡業圏の拡大、組織の発展に密接な関係を持つものであり、これこそ瞽女の生態の本源を示すのではないかと考えられる。」
上越と中・下越の瞽女と触れ合う機会
素朴な疑問だが、新潟県は大きく上越・中越・下越と3分されて良く比較されるが、瞽女の世界ではどのような交流があったのだろうか。「上越と中・下越の瞽女と触れ合う機会は少なかった」というのが結論のようである。
「越後という土地、風土に形成された瞽女集団は数多く、それらは同じ語り物、歌謡を専業とする芸能集団ではあるが、居住形態は大きく二つに分かれ、その管轄体制も組織の整ったものとそうでないものとがあり、それらが組の形成、拡大に、あるいは瞽女の生活の有り様にも必然的にかかわってくる。それがまた芸能の内容、技能、伝承にも影響を与えていることは否めない。越後を地域的にみるならば、上越地区の瞽女と中・下越地区の瞽女とは触れ合う機会は至って少なかったことを知っておく必要がある。ただ、東頸城は山瞽女・浜瞽女、高田瞽女、長岡瞽女、刈羽瞽女などが入り込んで、幾分かは擦れ違う機会があった。この地区の居住民で瞽女を志す場合、そのいずれの組にも入れた。しかし、総体的には、米山山系が上越と中越の瞽女の交流を遮断していたといえる。これに対して、中越と下越の瞽女はこれを遮る壁がほとんどなかった。巡業地も共用するところがあり、交流が可能であったことは、伝承する唄や三味線芸に共通点が多いことに現われている。唄の文句や節回し、三味線の入れ方や旋律は、上越と中・下越ではかなりの開きがあるが、中越と下越は類似性が強くみられるのである。」 
長岡瞽女が四百人集団を作り上げた要因
落穂ひろいのようで恐縮だが、二、三、豆知識を取りこぼしていたようなので、「瞽女と組」の関係と「民間信仰」の項に、もうちょっと加えさせていただく。まず、長岡瞽女には大きな瞽女屋があって、大小含めるとその最盛期には四百人もの瞽女を擁していたという。何故、このような大集団を形成することが可能だったのか。その理由を述べた処を引用させていただく。
「長岡瞽女は、長岡の大工町に瞽女屋があり、山本ゴイという瞽女頭がいて一派を統轄したが、このように中越地方から下越の南部にかけてたくさんの組があり、大勢の瞽女がいた。町方支配所の管理であり、その権威が影響を与えることも少なくなかったが、基本的には里方集団であった。地域ごとに展開する師弟集団の自発的な活動と生家居住を建前とする瞽女生成の方式が、明治時代に四百人という大集団を作り上げる大きな要因になったのでなかろうか。」
「自分の目を片方やってもいいから」
今もそうだが、目が不自由であるということは生活そのものが不自由になるばかりでなく、職業選択の幅も狭められる。当時はさらに一般社会からの差別もあり、また、修業中のいじめも酷かった。小林ハルさんもこの陰湿ないじめによって子供を産めない体になってしまった。そうした苦しみが我が子に到来することが痛いほどわかっていた親の気持ちはいかほどであったであろうか。先にも書いたと思うが、どこかに良い医者あると聞けば、子供を背負ってでも連れて行き、そして大きな落胆を胸に帰途につくことの方が多かったと思われる。御講組の青柳ノイ(新飯田組)は次のように話す。
「父親の勇松は、菅谷不動へ籠って「自分の目を片方やってもいいから、この子の目を見えるようにしてほしい」と祈誓したという。ノイさんは、そのお陰で片方の目がかなり見えたと言っている。しかし、ノイさんが28才のとき父親は亡くなったが、人の目をもらうとその人が死ねば目も行ってしまうと言われるように、父の死の前年目が見えなくなったという。それでもかすかに見えていたが、最近再び目を病んで、明かりが完全に失われたという。」
小林ハルは桐生清次著の『次の世は虫になっても  最後の瞽女小林ハル口伝』で次の言葉を伝えた。「私が今、明るい目をもらってこれなかったのは前の世で悪いことをしてきたからなんだ。だから今、どんなに苦しい勤めをしても、次の世では虫になってもいい。明るい目さえもらってこれればそれでいいから、そう思ってつとめ通してきた」
昨日の「因縁」ではないが、こうして全ての苦労をあきらめて、それでも前向きに生きなければならなかった不運を自分なりに割り切った言葉ではないだろうか。師匠−弟子の関係も本人の意のままにはならぬ因縁である。下重暁子が書いた『鋼の女 最後の瞽女・小林ハル』に有名な言葉がある。「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」これは障がいの有無に関わらず人間すべてに普遍的に通用する重みをもった言葉だ。
77年養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入所し、78年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財の選択」に瞽女唄伝承者として認定され、さらにその翌年には黄綬褒章を授与されるという比較的恵まれた晩年をすごした小林ハルさんだが、最も大きな功績は自らの瞽女芸を次の晴眼者たちに師として晩年まで伝授し続けたことにあるとも言われる。今も長岡では「越後瞽女唄・葛の葉会」の4人のメンバーがハル師の直弟子、竹下玲子の唄を伝えている。
小林ハルは満4歳で弟子入りし105歳で亡くなる直前まで歌い続けた。「瞽女と鶏は死ぬまで唄わねばなんね」これも下重が記録した小林ハルの言葉である。
松の木臼の昔話(語り:関根ヤス)
いよいよ、このシリーズも終わりになります。最後にちょっとしたこぼれ話を少々。昔から瞽女は唄と共に、昔話の伝播者でもありました。水澤謙一さんが『瞽女のごめんなんしょ昔』という本にまとめるほどの語りを瞽女さんは知っていました。とても面白い話ですので、是非お読みください。
「松の木臼の由来話
松の木とはこうらと思うや。あの、それくさ、昔語ると、ジサ(爺)とバサ(婆)があってやな、あの川へ洗だくに行がいたれば、香箱が二つ流れて来たと、こういがさ。そうしてバサが、実のある香箱はこっちへ来い、実のねえ香箱はあっちへ行げ、というて、バサがゆってられると、実のない香箱はあっちへまあ流れて行ったろも、実のある香箱はこっちへ流れて来た。
そして、ばあさんはそれ上げてきて、まあうちの棚の上らか飯台の上らか、それはまあどこでもいいこての、上げて置いたれば、ジサが上がってこられて「ばあば、これはなんだいや、きれいなもんだねか」
「そうだすけ、香箱というもんでね。きょうおれが川へ洗だくに行ったれば、それが二つ流れて来て。そらんだ、おら実のある香箱はこっちへ来い、実のねえ香箱はあっちへ行げというたれば、実のねえのはあっちへ行ったろも、こらあ実があるとてこっちへ来たんで、おら拾て来た」。
「へえ、きれいんがらねかて」
と言うて、ふったって(持ち上げて)みようとしたれば、それが落ったてが。ほしたら、割れたれや、その中から可愛いげの女の子が出たてがさね。そして子持たずらんだの、それまあ自分の子供に育ってらいたと。
「なんて名にしるや」というたれば、「イゴという名にしよう」といわいたと、二人が。そっらんだ、「イゴイゴ、んな(お前)何いっち好きら」というたれば、「おら、あさげ(朝)の団子ぞうせい(雑炊)の団子いっち好きら」と。
団子好きな子らと。ほうせあ、ぢいやとばあばとの、団子が行ぐと、「そらイゴ、そらイゴ」とくれてかいたれば、なじょうねか(どんなにか)イゴは大きくなって、それ、いい子んなったてが。
ほしてまあ、畠らとか山へ行ぐどき、「イゴ、留守居しててくれや」というちゃ置いてがっろもの、こてぇげぇなったれあ、「ばあちゃん、おれがそれぶて(背負うて)行ぐいし」というてやの。
「いやいや、んななんでもばんでいいすけ、留守居していろ」
「んねんね(いえいえ)、ぶて行ぐすけ、おれ連れて行ってくっらっしゃえ」
そういうて、イゴは聞かんで、そのまあ、こい(肥料)樽ぶて、鍬持って行ったと。ほしてまあ、じっきそのまあ、坂上がるろき、「おら、一の坂よいとしょ、二の坂よいとしょ」というて上がって、三の坂でドコンと膝ついた。「イゴ、どうしたいや」というたれば、「でぇすけ、ここちーと鍬で掘ってみてくらっしゃぇ」というて。
そして、そこ掘ったればまあ、大判小判がザクザクと出たて。それまあ持って来て、うちで勘定していたれば、となる(隣)の貧乏ばあさが、ばったんぐつ履いて、「ひーとつくいて(くれて)くれ」というて、火の種もらえ来らえた。「ここんしょあ(ここの家の衆は)なんで銭(ぜん)いっぺえ持っていらる」というたれば、
「だあすけさあ、イゴがでっけぇなったれば、畑連れて行ってくれというのを、連れてがんねえ行がんねぇとまあいって。そしてあっらいし、こやし樽ぶて行って、ほしてあの、坂で膝ついたんだ、ここ掘ってみてくらっしゃえというだ、掘ったれば、まあこんげに金(かね)が出たて」、そうゆわいたと。
ほしたらそのバサ、「おんね(おれに)イゴ一日貸してくれ、貸してくれ」という。その衆は、「可愛いて貸せらんねえ」というろも、「貸せ貸せ」というて。そんで「イゴどうしる。そうせや、隣のばあちゃんがこうゆわっるがどうしる」というたれば、「ほうすれば行こうかのし、日中(ひなか)も」というた。「おーお、なじょうもそうしてくれや、そうせや」というて。やったれば、イゴはこんだこういうたてが。
「ばば、おれがこの樽ぶうて行こうけえ」というたら、「ばんでどうしょうば。ばせるとて借りてきたがろう」。「この鍬持って行こうけえ」「持たんでどうしょうば。持たせるとて借りてきたがろう」と。こんげんこといわれたすけぇ、イゴはご(業)焼いて、その坂登るとき「一の坂、二の坂」というて登ったろも、三の坂んどき膝ついたんだんが、「ここ掘ってみてくらっしゃえ」というて。「掘らんでどうしょうばや」。そして、そっつぁこと(そんなこと)ばっかりいうってるんだんが、掘ってみたれば、んーなきったねえ(きたない)牛のあっぱ(糞)らてやら、そんげぇんのがぞくぞくと出たて。ご焼いて、こんだあの、殺して、そこへ埋めてきて、そこへ松の木一本植えてこらいたてが。
ほしてそこんうちのしょは、イゴ迎えに行かれたれば、「いやー、あんつぁイゴ借りて行って、おおめのうた(大変な目にあった)。おらんーね(本当に)今日はこきたな(きたない)目にあわせらえて、ほんねおおめのうたいし」。
「そうけぇ、そら悪かったねか。イゴ返してくらっしゃえ」というたら、
「おら、そんなんな(そんなのは)あっらし、その坂の上がり口(ぐち)んどこへ殺して埋めてきた。そして松ん木一本そこへ植えてきた」
そういうて、いわっるんだんが、二人して泣き明かしていらいたろも、どうしょうば殺したがらんがと思うて。ほうして、こやし持っていっちゃ松の木にくれくれしたれば、その松がなじょうねかいい松んなって、太ったてが。
それこんだ、そこんちのジサやとバサば、イゴが松だがんに、というて切ってきて、臼こしょわいたてがんに。ほうして臼ふいた(碾いた)れば、また大判小判が出るてがさ。ほうして隣んしょうはまたそれ見て、その話したんだ、「おんに臼ちいっと貸してくれ、貸してくれ」というて。まあ、「いや、こんだくっさ貸せらんねぇ。こらほんにおらイゴが一生の思いの松のがんだがんに、貸せるずらねぇ」というて貸せらんねえかったろも、いつ持ってげえた(持って行かれた)こんだやらよーさる(夜)寝てたうちに持ってげぇたてが。
ほうしてまた臼ふかえたれあ、そんげぇとおりらんだぁ、なじょうにかまた、そんちゃら(そんな)臼叩き壊して燃やしてしもわんばならんというて、ほして燃やされたと。そして、そのばあばあ、「何ごともそんげぇんことばっかしられる」というて、「その日燃やされたあとのアク(灰)でもいいすけ、おらどこへうくして(よこして)くれ」というて、そして紙袋に入れてそのアク持ってこらいたと。
そしたら、あるとき、その殿様の通るときがあって、あっらてや(あれだと)、花見にジサ行ってさ、そのアク持って行って、殿様が来らっしゃるんだ、「下におれ、下におれー」と来らっしゃる。「そこにいたもんは何もんでえ」といわしたれば、「おら日本一の花撒きじいーや」というて、じーやゆわいたれば、「撒いてみれー」といわいたんだ、そのジサがアク撒かいたれば、なじょうねかきれいの花がおった(落ちた)ての。ほしたら殿様が「降っれや(降りれよ)降っれや、褒美くれる」というて、ほうしてまた銭(ぜん)こったい(たくさん)もらいてこらいたと。
それまた隣のバサ、こんだ「そんつぁアク、おら、自分のせんちん(せっちん)のアクでも持って行こう」ていうて、持って行がいたところが、そんつぁらアクらんだ、殿様目ん中へごみが入るやら。ほうて、ばあば、こんだ「ああ、じーや、きょうは金こったえ持って来らっる」というて。ほうして、んーな自分のもんどぶん中へ埋めて、ほうしておつゆ茶碗など持って、家の上へ上がって「ああ、きょうは晩にゃいっこう財産家にならっる」というて、ほしておつゆじゃもじでもって真剣におまんこ(女陰)はたいていらいたてや。そうしたれや、「おお、じいや、真赤ん着もん着てこらいた」というたれや、何が、じいや、んーな殿様にそこら切らいて、血だらけで来らいたてが。
こらまあ、昔の話で、年寄りバサてやらそんげぇもんがあるうちのもんが、聞かしたがらこての。そんげぇにいい松が出たんだんが、臼にしらいたがんだ。」
民間信仰の希薄化と日清・日露大戦
昨日の要約を、今日は日清・日露戦争の側面でやや詳しい事情を伺ってみたい。
「もともと弟子入りした子供瞽女がすべて師匠として大成するとは限らない。きびしい瞽女掟に耐えられず、組から脱落して行くものもある。男と交わり、あるいは家庭を持つ場合もある。盲女の職業は歌芸だけとは限らない。鍼・按摩・灸などの稼業に転向するものもある。家が無人で途中でやめる場合もある。そうした理由からする瞽女稼業の廃止は、時代の早晩に関係なく、歴史の上でつねに繰り返されてきたものである。しかし、そこにはおのずから瞽女道衰退のきざしというものがあり、急速に廃絶の運命をたどったのである。それが明治30年前後でなかったかと推定される。その衰退の理由としては、瞽女掟の厳格性という組織そのものに内包される原因以外に、医学の発達と衛生思想の普及、盲学校の設立や職業補導制度の充実、娯楽機関の増加、手引きの減少などがあることを前掲拙論に上げておいたが、さらに瞽女が民間信仰の対象として、これと密接な関連をもつて発達したが、その民間信仰の希薄化も大きな要因となったし、何よりも大事な、そして決定的な事項は、明治後半にはいって、日清・日露の両大戦を経験して軍国主義に進んだわが国では、それを契機に、国力増強策から盲唖者まで子供を生むことを奨励した。たとえ目は見えなくとも結婚しで子供をもうけ、出世兵士を戦場に送る気運となり、瞽女の多くは所帯を持ったのである。伊平タケさんは次のように言う。「10いくつのころ、日清戦争のすぐあとで村中に触れが回り、大屋様がみんなを集めて話をされた。大勢人がいなければ日本が強くならないから、目が見えなくとも、またしゃべられなかろうとも、結婚して子供を生めば人が育ててやる、というのであった。瞽女は男と交わってはならんし、結婚もできない掟であるが、それから亭主を持ってよいことになりました」と。事実、タケさんも大正元年27才のとき、夫伝五氏と結婚し、やがては子供を兵隊に送り出し、当時としては国のためせいいっぱい尽くしたという。そうした例は枚挙にいとまがないほどで、年明きの妙音講もつとめないで瞽女の社会から足をあらう人が、明治末から大正時代にかけて激増して行ったのである。盲目瞽女の嫁ぎ先はおおかた盲目の男性按摩師や鍼医である。この人たちとて、昔は段物や浄瑠璃を語ったり、端歌をうたうような芸人であった。瞽女たちは家庭を構えた後は、従来どおり門づけ瞽女を続ける例もあり、座敷瞽女となる者もあったが、これらはごくまれのことで、その多くは按摩稼業の道にはいって行った。戦争を契機に瞽女掟が緩和されたというよりも、社会の風潮に瞽女仲間の規律が押し流されたと言った方が妥当であろう。しかも、世は瞽女歌を楽しみ、それに陶酔するような悠長な時代ではなくなった。芸人では食べて行けなくなったのである。長岡瞽女・高田瞽女も明治30年代から衰運に向かうのであって、その点は刈羽瞽女と軌を一にするのであるが、組織力の弱い集団であった刈羽瞽女は、その崩壊がいっそう急速であったと言える。」
瞽女道衰退の理由
明治の中頃には400人を超えたといわれる瞽女を抱えた長岡の瞽女屋も、衰退の時を迎える。以下に簡潔に要点のみまとめられているが、これらの要素をよく考えてみると瞽女組織の崩壊も必然であったことが分かる。
「瞽女道衰退の理由としては、瞽女掟の厳格さ、衛生思想の普及、医学の発達、福祉対策の向上、盲学校の設立、職業補導制度の充実、娯楽機関の増加、手引きの減少、および戦争による食糧難、瞽女屋焼失など、いろいろの点が考えられる。さしも多数を誇った長岡瞽女は、このような理由から明治後期より次第に廃亡の一路をたどることになった。」 

 

長岡瞽女が急速に発展した最大の原因
今日は高田瞽女と長岡瞽女を比較して、何故長岡瞽女が巨大な組織になることができたか、その理由を聞いてみたい。
「高田では、高田の町に19軒の瞽女の「親方」の家があって、瞽女を志す者は、この親方の養女として弟子入りし、入家する。親方は家の戸主で、同時に師匠である。瞽女となったからには、必ず生家を離れて、親方の家にはいるのである。そして、この親方が何人か寄り合って幾つかの「組」を作っており、巡業は組単位でなされるという。さらにその組が寄り集まって、瞽女仲間としての「座」を作っている。その代表は、40年以上の修業を積んだもので、これを「座元」と称した。これに対して、長岡瞽女では、家元としての瞽女屋敷が大工町にあって、その配下に各地に散在する組頭があり、弟子を養成して組集団を形成し、年季を組頭の家で終えた弟子瞽女は、一人前になれば自分の生家にもどって弟子をとり、新しい組づくりが行なわれる。組の名は、親方の出身地名で呼称するのが普通であるが、かくして組は時代の推移とともにたくさんの枝派に分かれる。親組が子組を、子組が孫組をと、放射状に広がってゆく。高田では、遠い田舎の出身者でも、瞽女になるには高田の親方の家に養女としてはいらねばならない。長岡では、大工町の瞽女屋に直弟子として入門する場合もあったが、これは全体数からみれば微々たるもので、たいていは近くの家に住む親方に弟子入りする。身近に師匠に入門できたことは、瞽女の道にたやすく進むことが可能であったわけで、これが長岡瞽女発展の最大原因ではなかったであろうか。」
師匠が弟子を取ることが集団化の基礎
昨日の復習のようになるが、今回は瞽女の組が広がっていく要因を鈴木先生の言葉でたどってみたい。
「師匠が弟子を取ることが集団化の基礎になるが、その師弟の集団を「組」と言い習わす。「組」はいうまでもなく組することであるが、他の組と識別するため名称をつけることが多い。その名称は、一般的には師匠の出身地名または居住地名がつけられる。師匠がそこにいて、組のまとまりの中心がそこにあるからである。こうなれば、師匠はグループの長ということで、「親方」といわれる。もとより、師匠への弟子入りは年期制である。仲間は修行期間の年限を設けている。その期間弟子入りすれば一通りの芸が習得でき、師匠に対する奉公をつとめ、恩返しができるという立場を考えて割り出された年数である。その年期修行をつとめあげればめでたく出世し、今度は師匠になって弟子を取る資格が得られるのである。このようにして、弟子がやがて師匠になり、そして弟子を取るという行程が、時代の経過のうちに幾度も繰り返される。弟子を複数持つ師匠が多いから、仲間の瞽女の数は末広がりに増加する。一人の親方師匠からいくつもの枝派に分かれた師弟系譜に連なる集団の組が、全体の瞽女仲間としての組を形成してゆく。」
「拾い弟子」の意味
これから少し、瞽女組織の盛衰について見てみようと思いますが、基本として、瞽女は入りたての頃は瞽女唄も知らず(当たり前ですね)師匠から礼儀作法を含めて様々な所作・知識を得、瞽女唄を習得します。つまり、瞽女の最小限の組織として、この師匠−弟子という関係が基本単位となります。これを組と言います。先に触れたように、組は瞽女の師匠がいた地名を取ってお互い呼び合っていたようです。この組の在り方に地方地方で違いがあり、その違いが組の大きさを左右しました。長岡瞽女が高田瞽女より大きな組織になったのは、両者の組の仕組みに違いがあったことが大きかったわけです。(この組の違いは以前書きましたので読んでみてください。)。その後、弟子が何らかの事情で師匠がかわったりすることがあるのですが、「拾い弟子」という変わった言葉がありましたので、ちょっと説明を引用します。
「拾い弟子とは、小さいときから教えこんだ弟子ではなく、ほかの師匠が稽古をつけたものを後に自分の弟子とした瞽女のことである。」
妙音講のお斎の後の座談会(唄上げ)で逃げる
昨日に続き、渡辺キクさんの聞き書きから、今日は長岡の大きな瞽女屋で行われた妙音講についてみてみましょう。今も、昔も変わらぬ若いお弟子さんの姿が彷彿としてきます。
「法事のお経を読みに来るお坊さんは長岡の町の寺らしいです。門徒の寺のようで、門徒のお経でした。お経を上げたあとで、その昔からのいわれを、瞽女の立ち始まりと掟を読んで聞かせた。そのあとお斎が出ます。お斎がみんな終ると、今度は組々の師匠さん方がめでたい唄を弁天様に上げるんです。京唄、地唄と、そういう唄。その十三だか十五人だかの人が集まって。その前に集まって、さんざ(散々)三味線を稽古しておいて、三味線をそろえてその唄を上げるんだそうです。弁天様を祭るんです。その法事を済ましたあとで上げるんです。その十三人とか十五人というのは、みんな組の一番の師匠さん方。有力の師匠さん方が。私らがやっている時分は、もう十三人ぐらいしかありません。それが紋付の着物を着てね。おそろえの帯もしめて。そしてやるんです、三味線を弾いて。十三人。その頃は、私らはあれです、全部あとでつかまえられるのが怖いというので、親方がみんな連れて、町へ買い物に出してしまうんです。その地唄、京唄が上がったあとでね、みんながこんど、座談会というのでね、唄を歌わせられるんです。その組の弟子がね、師匠につかめられてね。それがいやだてがでね、恥かくというのでさ、それをみんな連れて出るんですて。逃げそこなった人がつかまるんですて、まごまごすると。それでお斎が済むと同時にこそこそこそこそとみんな逃げるんです。だから、その京唄も地唄もよく聞いていませんですけどね。」
長岡の大工町の瞽女屋はどういう所だったか
さて、長岡で妙音講などを行い、百人以上をゆうに収容できる「瞽女屋」とはどのようなものだったのか。長岡瞽女の渡辺キクさんの聞き書きから2回に分けて書いてみよう。
「長岡の大工町の瞽女屋は大きな家でした。私らがみんな働いて、その家を立って置いたんです。それがまあ、戦争[第二次大戦(はすえ)]になるまではそういうふうにして置きました。普段はそこで稽古をつけてもらう場所、身寄り頼りのない人がそこで身体の具合の悪いときに医者にかかったりして、体を休める場所として。それから春秋に会があって、そこに寄ったんです。春は四月十六日、秋は十月二十日です。「冬の掛かりがいくらいくらしましたので、皆さんからこれだけ出していただきたい」と、みんなが春集まったときにいわれました。秋はまた秋で、「夏の掛かりはこれこれだ」。ま、畳の表替えしたとか、布団が切れたのでこしらえたとか、よそへお産ができたのでお産見舞にこういうものをやったとか。春の四月十六日は、その、おゴイ様の亡くなった日で、それを兼ねてミョオンコウ(妙音講)をする。[渡辺さんが四月十六日とするのは十七日の記憶違いであろう(鈴木昭英註)]初代の先祖様が亡くなった日が十六日。毎年法事をやるんです。それで会をやったり、組が少ない人は「あんた方組が大勢らしいから一人貸してくれ」とか、「うちは大勢で困るからあんた方の方でつかってくれ」とかね。「仲間に入れて、冬うち連れて行ってくれ」とか、「夏うち連れて行ってくれ」とか、決めるんだそうです。私らの組はどこへも交じらなかったけどね、そういうふうにみんな交じって、借りたり、また願って他の組に入れてもらったりするんだそうです。そういうこと決めたり、掛かりを会費として出すのに集まるんです。私はそれでも、十年くらい師匠さんと一緒にそこに行きました。」 
瞽女の年明きの妙音講式次第(例)
瞽女さんの晴れの舞台は、なんといっても年明きぶるまいであり、一人前の瞽女になったお披露目なのだが、一般の結婚式と同様に考えることもできる。しかし、男と交わることを固く禁じられていた瞽女にとって、この年明きのお披露目はいわば音曲神との婚姻と言えるのかもしれない。このあたりの詳しい分析は置いておき、とりあえず、その祝言の壮大さを見てみたい。ここでは、刈羽瞽女を例にとるが、地域(組)により時代により、形態や規模などが異なることをご承知おきいただきたい。
「瞽女の年明きの妙音講の盛大さは言語に尽くしがたいほどであった。出世瞽女にとってもこれがひろめの祝言であるから、一世一代、まれにみる大事業である。なまじっかな目あきの結婚式よりはよほどにぎやかであったという。刈羽瞽女は都合の許す限りみんなが一張羅の紋付を着てよばれてくる。また旦那寺の住職、親類縁者、隣り組の村民までお祝いによぶのである。その式次第は、まず座敷の床の間に妙音菩薩の掛け軸をかけ、供花献灯し、香をたいて、旦那寺の住職が読経し、参集した瞽女たちに「御縁起」の朗読がある。次いでお斎の膳が出て酒席となる。一番膳は真ん中の床柱に住職その左右の上座に瞽女の年寄り衆や師匠格の人が坐り、順次年功序列にしたがって座を占める。ひろめの瞽女は末座である。丸まげを結い、嫁さんと同じように化粧し、紋付きを着て列座する。昔はお歯黒までそめた。お斎は精進料理だが酒も出る。お菓子の引物がつけられる。お斎が済むと歌の披露に移る。まずひろめの瞽女が本尊前に坐り、長唄などを歌って芸の上達ぶりを聞いてもらう。姉弟子とふたりで歌う場合もある。本人が終わると、こんどは姉弟子や師匠、友だち瞽女などが順に出て、常磐津や清元、新内、義太夫あるいはおけさや都々逸などをお祝いに歌ってやるのである。こうした妙音講には段物やくどき、はやり歌などはあまり歌わない。村でも瞽女の年明き妙音講などはめったにないし、歌が聞けるから、村の人や近郷近在からも大勢の人たちが押しかける。押すな押すなの群衆であるから、部屋の中でなく、縁側や庭に桟敷をかけて、そこで歌を披露する場合もあった。そして集まった人々にはお餅をついて配ったが、これを「妙音さんの餅」といい、何俵もついたという伝えを残しているところもある。こんな具合であるから、妙音講をつとめる瞽女の家ではたいへんな出費があった。また大勢がお膳につくから、小さい家ではできず、隣りの家を借りることもあった。伊平タケさんが、明治40年22才で妙音講したときは、本膳だけで104人であったというから、おして知るべしである。年明きの妙音講は、このように、年明きぶるまいの祝いと妙音様の祭りとが習合したものである。だから一般的にみると、法事のようでもあり、結婚式のようでもあり、演芸会のようでもあったという。しかし、妙音講としては、本尊妙音菩薩に香をたき歌を奉納してこれをお祭りし、仲間の規約を遵守することの誓いを立て、掟違反者に対して懲罰を行ない、あわせて瞽女の始祖といわれる相模宮姫以来の先祖・死者ヘの回向供養を行なうのが本義であったと思われる。ところで、当体者たるひろめの瞽女は、これが祝言であるから、人生の通過儀礼である。この妙音講をしてもらえば一人まえに商売することもでき、弟子を持つことが許されるのであって、いずれは年季修業中の妹瞽女からは「お姉さん」あるいは「お師匠さん」と呼ばれ、敬まわれるのである。」
刈羽組妙音講の本尊掛け軸には妙音菩薩・下賀茂明神・弁才天の3体が
妙音講の時には、本尊が描かれた軸を掛け、お寺様を迎える。ただ、不思議なことに瞽女縁起では瞽女の守り本尊は3体示されているが、ほとんどの掛軸には弁才天しか描かれていないのである。音曲の神として知られていた弁天様をお祀りすることはわかるが、縁起に記された他2体が描かれていないことの理由は不明である。
「われわれはここで、刈羽組瞽女の妙音講の本尊掛け軸の図柄が、瞽女縁起にあらわれる重要な神仏像3体を忠実に描いていることを注目しなければならない。長岡瞽女においては、瞽女の守り本尊として音曲の神弁才天を強く信仰し、大工町の瞽女屋の本尊も弁天であるし、各地の組で守り崇拝してきた本尊も、私のこれまで見受けた数幅はともに弁天の絵像である。高田瞽女の守り本尊も弁天であるし、毎年5月13日高田の天林寺で開かれた妙音講も弁天の祭りであった。しかし、ここ刈羽瞽女においては、妙音菩薩・下賀茂明神・弁才天の3体を描いて、その信仰がある点においてきわだった特色があると言えよう。」
瞽女縁起の概要
瞽女縁起の部分についてふれてみたい。難しい所もありますが、ちょっと読んでみてください。
「内容には共通した一定の方式がある。瞽女の由来を書いた縁起の部分と、嵯峨天皇が申し渡されたという「院宣之事」、および瞽女が守るべき規範や掟を示した「式目之事」の三部構成になっている。しかも、その中に書かれた条項はその組だけにしかない独自のものを含む場合もあるが、大方は類似したものであり、文章もほぼ同じい。 (中略) 「瞽女縁起」は、瞽女の世界に入った者がみな言い聞かされたものであり、真実のもの、絶対的なものとして受けとめてきた。したがって、内容はどうであれ、そこに重大な意義がある。ここにおいて、この瞽女縁起の大略を示すと次のようになる。嵯峨天皇第四宮の相模姫宮が瞽女一派の元祖にならせられたことは、かたじけなくも下賀茂大明神が末世の盲女をふびんに思われて母公の腹に宿らせられ、胎内より目しいて誕生されたのである。父天皇、母后は神社仏閣に御祈誓あったが、もとより大願成就の種なればさらにそのかいがなかった。相模姫宮が七歳のとき、夢中に紀伊国那智山如意輪観音が枕辺に立たれて「君は末世の女人盲人の司とならせ給うべき下賀茂大明神の応化であられる。諸芸をもととして世渡りを民間に下り、営み継がせたまうべき相友を授けようとの徳により、則ち五派と定め、ミヤウクワン派、カシワ派、クニハリマ派、ゴゼン派、オミノ派の弟子五人、これを友として諸芸を励みなさい」と告げられ、そこで夢が覚めさせられた。これを父母に物語りすれば、父帝、母后もありがたい徳があるとして、則ち御摂家のうちミヤウクワン派、カシワ派、二人の御弟子、一条姫君、播磨の国、国府より国司の御子をハリマ派と定め、下野の城主の御子をゴゼン派と定め、近江国の城主の姫君をオミノ派と申した。五人の御弟子を恰好の友とし、和琴かなで、唄芸その徳が開けた。(以下略) 以上の通りであるが、瞽女の元祖についてはなお別伝がある。それは座頭の間に伝わったもので、光孝天皇の娘雨夜尊を元祖とする。座頭もその流れであり、積塔もこの尊の弔いでするのだという。しかし、瞽女仲間はこの説をとらず、もっぱら上掲の「瞽女縁起」の相模姫宮説を主張する。」
『瞽女式目』の地域的な呼び名の違い
妙音講で語られる重要な項目として、瞽女の寄って来る縁起と瞽女が守らなければならない規則である。歴史は先にみたように、当道座の『当道縁起』を援用している部分が多く、信憑性には欠けるものがあるが、その背景を探ると重要な事柄が見えてくることを示した。  さらに、瞽女が守らなければならない規則は、日常の立居振舞から犯してはならない規律まで事細かに書かれていた。これらの呼び名が地域(組)によって異なるようなので、その部分を引用したい。
「仲間の堅い掟を破り、不正の所業を働いた者には制裁が加えられる。その成文化されたものには『瞽女式目』がある。ほぼどの組にも伝えられて、巻子本あるいは冊子本であるが、組仲間によって呼称が相違する。高田組・土底組・三条組は『式目』といい、長岡組は『御条目』、刈羽組は『御縁起』という。」
越後瞽女の伝承演目
瞽女唄の簡単な紹介を終えるについて、瞽女唄の段物と口説の演目をまとめて紹介したい。これは末尾に掲げた瞽女さんが知っている歌に限っており、勿論他にも演目があったであろうし、歌っていた瞽女さんもいたであろう。ただこれらは調査時点で知りえた演目という事でご了解願いたい。
<祭文松坂>
葛の葉子別れ / 小栗判官 / 俊徳丸 / 石童丸 / 山椒太夫 / 八百屋お七 / 白井権八 / 佐倉宗五郎 / 明石騒動 / 児雷也 / 景清 / 石井常右衛門 / 山中段九郎 / 片山万蔵 / 赤垣源蔵 / おすて敵討ち / 阿波の徳島 / 焼山巡礼
<口説>
安五郎口説 / 鈴木主水口説 / お吉清左口説 / お粂左伝治口説 / 臍穴口説 / お筆口説 / 問答口説 / 赤猫口説 / 鼠口説 / 徳利口説 / 上原口説 / 正月祝い口説 / 石童丸口説 / 三人心中口説 / 松前口説 / 後生口説 / おしげ口説 / お久口説 / お馬口説 / 御本山口説 / 二十八日口説 / 次郎さ口説 / まま子三次口説 / 金次口説 / 松の口説 / 巡礼口説 

 

瞽女が語る童子丸の昔話
瞽女唄といえば祭文松坂(段物)、段物といえば「葛の葉子別れ」。ということで今回は、葛の葉の歌詞を紹介するのではなく、これにまつわる童子丸の昔話を瞽女の渡辺キクさん(長岡組)が語っているので、それを聞いてみたい。
「安倍晴明霊験譚
段物の葛の葉子別れに出てくる童子丸は、後に安倍晴明という占い師になるんです。安倍保名の兄さんに阿倍仲麻呂という人がいました。その人が支那(中国)に渡って学問して、終って日本へ帰るとき、支那の港できれいな娘に日本に連れて行ってくれとせがまれた。人を乗せてはならない船だが、女だということで乗せたが、これが誤りであった。日本の港についてみたら、その娘がいないというわけ。それで、あえて探しもせず、大坂だかどこかの、家の名前は覚えていないが、とてもお金持の財産家があり、その家に子供がいなかった。
ある日、ふと家の杉林の中に赤子の泣く声が聞こえる。音をたよりに行くととても可愛い女の子だ。天の授けか、人が育ててもらうため捨てたのかと思ったが、その子を拾ってきて育てていた。いい年頃の娘に育って、またいなくなった。その童子丸は、腹は狐の借りだから、親が虫けら殺生するなとあれほどいいふくめていたが、それが聞けない。やっぱりそういうふうな血が交じっている。それで仕方なく、母親が預かってきた四品の品を童子丸に預けて勘当した。
童子丸は勘当をうけて、京へ上り、安倍晴明という位をもらうために何峠だかにさしかかった。その峠は江戸と京都の分かれ道であるが、その峠の登りきったところへ一服していると、両方から烏が一羽ずつ飛んできた。普通の人が聞くとカァカァしか聞こえないが、その人は母親からもらってきた四品の品を持っているので、それを耳に当てると鳥畜類の鳴く声が物をいっているのがわかる。
京都の烏が江戸の烏に「おい、おんさまのところはどういう状態になっている」といった。江戸の烏は「ああ、いま江戸は開けるこんで、徳川様大景気だ。京都はどうだ」。「京都は大災難が起きている。宮城に魔物が忍び込んで、とても天子様を悩ましている。そしてお后様を一人食いつぶして、お后になりすまして陛下様を悩ましている」と京都の烏はいった。
さあ、これはしめたと思った。京都にたちかかった。京都の町を小さい子供が「たちまちしりりき災難を知らんものから不欄なる、京都の町々西東上下西東上下」と、そういう唱えをしながら飛んで歩いていった。ある学者がそれを見かねて、「お前は面白いこと言って飛んで歩いているが、どういう意味だ」といった。「この意味がわからんか」といった。「お前にはわかるか」。「おれには手にとるようにわかる」。「それじゃ、お前は縄をいつけて(しばりつけて)引いて行くが、宮城へ行ってくれるか」。「いや縄なんてしばって連れていかなくたって、来いと言えばいつなんどきでも行く」といった。「じゃ来てくれるか」といった。
そうして、みんな行って、占って、「この中に一人魔物がいる」といった。「それじゃその魔物どうして払ったらいい」といったら、「アラナゲの木というのはとても魔物を除ける。この木を、大きいのを一本抜いできて、真ん中に立てて、そのまわりに十二人の后を並ばしたらよい」といった。
それでみんなその通りにしたんだそうです。みんな町中の人が、半鐘ついたら鍬でよし鎌でよし棒切れでよし何でもよし、それを持って宮城前に集まってくれとお触れを出した。そしてアラナゲの木を真ん中へ立て、そのぐるわへずっと十二人のお后を並べてみた。その中に一番器量のいいお后が魔物で、耳のところまで口が裂けていた。「さあこれだ」というと、その女はいたたまれないで、逃げ出した。正体見られたと逃げ出した。それで那須野が原に飛んで行って、毒石になった。また日暮れ方にそこを通る人びとを悩ました。そこを通る人がばたんと倒れたり、家に帰ると病気になる。その人を食って生きていたんです。
そしてこんど、元内和尚(げんないおしょう)が旅の修行の途中、それを聞いて、お経文を唱えながらその石を数珠で割った。それがプーと天に舞い上がって、そして九曜の星となって、六三、そこまめ、かまいたちと、こうなったという。それが三方へ散らばった。信州はそこまめ、越後はかまいたち、上州が六三。そうして、今もって人間を悩ましている。そのまた石の崇りのまじない方があるという。
そして、この童子が安倍晴明という位をもらって、京の五条大橋に差しかかったときに、白髪の老人が現われ、二人が大橋の欄干に腰をかけて一服していた。その日は日本晴れの澄みきった日であったが、この白髪の老人は「大荒れがくる」といった。晴明は「どうしてこんな日に荒れがくる」。老人は「金玉の毛がしくしくしくしくと差すときには大荒れがくるんだ」と、十二歳の安倍晴明をからかっていた。西の方から雲が出て、たちまち大荒れになった。童子丸は負けてしまったと、四品の品十二個を川へ流してしまった。だが八個だけ上がった。八卦はそういういわれ。当たる八卦、当たらぬも八卦。そうしたら、白髪の老人は「お前は人間でさない、おれは文殊菩薩だぞ」といって、姿を消したという。」
説経祭文薩摩若太夫正本が杉本キクエさんの段物の元か
昨日、瞽女の段物と九州地方の遊行宗教者地神盲僧との関係を示唆した文章を掲載したが、今日は、さらに瞽女の「祭文松坂」と説経祭文薩摩若太夫正本との関係を示す五来重説を紹介したい。
「さて、「祭文松坂」は中世以来瞽女が語り物の旗頭に掲げた説経祭文である。そのうちの「葛の葉子別れ」「小栗判官」「山椒太夫」「俊徳丸」「石童丸」などは古来五説経に数えられた名曲で、ほぼどの組にも伝わり、多くの瞽女に口演されてきた。しかし、それらが中世期の説経あるいは説経浄瑠璃であるかというと、そうではなさそうである。五来重氏は高田瞽女 杉本キクエさんの口語る段物「小栗判官」「石童丸」などの文言と説経祭文薩摩若太夫正本のそれとを比較して、後者が前者のテキストになったのではないかということについて、その推定に決定的証拠はないが、かなり蓋然性が認められると述べている。同じく杉本キクエさんの「山椒太夫」舟別れの段の内容も、説経節正本に似ているが寛文本以降の語りに近いといわれる。「景清」は近松門左衛門の「出世景清」の四段目の阿古屋自害、景清の十蔵殺しを基底に据えて再構築したものらしいという指摘もある。こうしてみると、今日の段物は、江戸時代初期から中期頃にかけて当時流行した説経祭文や浄瑠璃を取り入れ、新たに普及した三味線の曲調に合うよう、そして女性盲人の特徴ともいうべき哀調おびた瞽女節の文句に改作したものを受けていると思われる。中世に軍記物や仏教説話・神仏霊験譚を語っていた瞽女は、近世に入ると次第に説経浄瑠璃化し、悲劇を中心にした語り物を構成し、女性が語るにふさわしい内容・表現とした。その名は現われていないが、瞽女の語り物には優れた作家がいたのであろう。」
瞽女の段物は盲僧が近世に工夫した段物を受け継いだものか
さて、今回は瞽女歌の中でもお家芸ともいえる祭文松坂(段物とも言う)がどのような形で形成されて来たのか、その類縁性を北九州地方の盲僧が説教などをくずして唄い語った「くずれ」に見ている。前に元はシャーマンであった瞽女が祈祷ではなく、歌の方向へと進んでいったこととの関連性を念頭に置くと、十分肯けるのではなかろうか。
「瞽女が宗教より芸能への過程をたどったとみられるうえで参考となるのは、九州地方の遊行宗教者地神(じしん)盲僧の歴史であろう。中山太郎氏は、九州の盲僧は中世には琵琶を奏し、地神経や錫杖経を読んで加持祈祷するのみであったが、近世にはいると祈祷後の酒席での余興として「くずれ」を語り、種々段物を工夫するようになったとしている。その形態は、北九州地方の天台宗玄清法流の盲僧の間に近年まで受け継がれてきており、荒神祭りや地神祭りのとき、祭りのあとの余興に数々の「くずれ」(段物)や「ちやり」、端唄などを歌っていたという。そうした盲僧の近世における芸能化のあとに、瞽女芸人の来歴をうかがう重要な示唆があるように思われる。」
もう一つ、同書から同じ主旨の文章を引いてみよう。以上の説が五来重の説をもとに考察されていることがわかる。「五来説は、語り物芸能の始まりを説経・祭文とし、その活用の場を仏教の唱導と位置づけ、語り物に宗教的機能があることを強調した点に大きな特色がある。九州の地神盲僧は竃祓いの祈祷を第一の業務としたが、門付けの祝い唄で祝福することもあり、余興に「くづれ」(段物)を語ったもので、彼らの芸能は宗教的目的を持っていたといえる。その語り物ももとは説経から出た口説だろうという。説経は近世に入ると説経浄瑠璃化し、口説化するとともに、盲僧の「くずれ」ともなった。瞽女もこの地神盲僧と同じように過程をたどったと思われるが、近世に入ると城下町などに定着し、瞽女仲間を形成して固い自治組織を作り、活発な稼業活動を行う。そうした近世以降の瞽女も中世以来の説経を受け継ぎ、そのくずれた「くどき」を語り、また独自の門付け唄を歌って諸方を祝福しながら遊歴する。」
刈羽瞽女の盆踊り歌の特長
私なぞには、瞽女唄が盆踊り歌としても唄われていたという事自体が驚きである。そこまで庶民の歌として浸透していたんだなぁ、という思いがする。ただ、この盆踊り歌、お盆自体がこの世に恨みや慙愧の念を残して逝った人達の魂鎮めとして本来成立していたためか、心中もののくどきなどが好んで語られたというのもまた驚きである。
「盆踊り歌には、七七七五調による二十六字の短詩系統のものと、長篇の口説物語系統のいわゆる音頭歌と言われるものがある。発生的に見るならば、短詩系のものが古く、口説系のものは語り物芸能者の手によって流行したものであるから、概して新しい。刈羽の盆踊り歌としては、前者の系統も見られるが、音頭歌が広く行なわれ、県内の他の地方に比べてむしろ傑出して盛んであったと思われる。この地方の人たちは、これを一般に「刈羽甚句」と称しているのである。しかし、その歌の題材はほとんどが瞽女歌と共通しており、これが瞽女歌の影響を受けていることは疑いのない事実である。瞽女はこの面でも計り知れない貢績を残したと言えよう。刈羽甚句の音頭歌としてよく歌われたのは、鈴木主水・平井権八・明石御前馬方佐五平・お吉清三・葛の葉・笠松峠・自来也・小栗判官・八百屋お七などで、瞽女の段物やくどきにおける口説物語をほとんど網羅しており、さらに刈羽地方に起きた心中事件を物語化したいわゆる心中口説が多彩に登場する。その代表的なものを上げれば、「上原くどき」「赤田くどき(別名、おそやくどき)」「長崎くどき」「吉井くどき」「野田くどき」などがある。上原心中は、文政6年(一説、安政6年)刈羽郡柏崎在上原村(現在柏崎市)の心中事件で、清左衛門の末娘お久と杢右衛門の次男民吉が相仲の関係にあったが、娘が平井の村(一説、中田村)へ嫁に行かねばならぬことになって、二人が土蔵で首つり心中したもの。長崎心中は、柏崎在の長崎村(現在柏崎市)の与七の次男貞さと吉井村のおちやの心中事件で、おちやがよそへ嫁に行くことになったが、すでに貞さの子を身ごもって4か月、思い悲しんで2人が長崎村の池に投身した話。吉井心中というのは、弘化の初めころ、小吉井の三右衛門の息子が大吉井の正太郎の娘おとしと深い仲になり、これが添われないで「入田(えりだ)の池」に身を投げたもの(下条茂吉氏話)。野田の心中も、柏崎在野田の川東村(現在柏崎市)のおとわという娘が男と深い仲になったが、親が許さんため心中したもの(伊平タケ女話)。これらが通例の心中物であるに対し、赤田くどきは実に残酷悲惨な事件の物語りである。柏崎在赤田村(現在刈羽郡刈羽村赤田北方)の丸山大工が上州稼ぎの留守の間に、女房のおそやが間男し、その発覚を恐れて亭主の帰郷後これを毒殺し、その上かわいい2人の子供まで殺し、男と上州方面へ逃げた話である。悲恋の心中物は別として、このような残酷無比の物語りが、一般大衆の群がり集まる盆踊りの音頭歌に歌われたことは驚異である。盆踊りは、祖霊やたたり多い亡魂を慰め供養し、またはこれを送る行事であるから、その音頭歌として、非業の死を遂げた者や恨みを残して他界した人たちを扱う口説物語が、好んで採用されたものと思われる。」
祭文松坂とくどきの特長
「瞽女歌の本領は祭文松坂とくどきである。その祭文松坂は、七五調一句をほぼ数句で一節となし、その繰り返しによる語り物で、内容は説経祭文である。越後盆踊り歌松坂節との類似から祭文松坂という名がついたとみられる。したがって、この祭文松坂のことを一に「歌祭文」ともいう(桜井トメ女話)。葛の葉子別れや小栗判官・山椒太夫・俊徳丸・石童丸などは五説経に数えられたほどの名曲であり、平井(白井)権八や佐倉宗五郎などは祭文系の物語りである。しかし、この段物はくどきと同様に長編の叙事詩で、一節または数節を繰り返し繰り返え[ママ]し語る口説節となっている。桜井トメさんは祭文松坂を口説と称していたと言っている。この点については五来重博士も考証しておられ、さらに、瞽女が段物とくどきを区別しているのは、説経・祭文の原形に近いものを「段物」とし、そのくずれたものを「くどき」としたのであろうとの卓説を述べておられる(『日本庶民生活史料集成』第十七巻民間芸能における万才・チョンガレ節・口説解題)。」 
門付け唄演目の地域性
昨日の復習のようになるが、稼業に出て歌う門付け唄は地域によって違っており、それはその地域の人々の嗜好の違いであった。瞽女は当然ではあるが、その聞く人々のニーズに合わせて曲を選び、ほぼそれは定まっていて、瞽女仲間には共有されていたということである。まとめのような形で具体的にあげてもらおう。
「瞽女唄興行の演目には、地域住民の嗜好が大きく作用していることはいうまでもないが、その地域性は門付け唄というものに、より顕著に現われている。たとえば蒲原地方や米沢地方では段物、上州方面や最上地方では口説を歌うというのが通り相場であった。長篇の物語り唄だが、これを短かく区切って戸口ごとに歌い継ぐのである。上州の人は口説が好き、蒲原の人は段物が好きだとしての配慮からであった。どの組の瞽女が行っても、これはほぼ相違ないもので、慣例となっていた。これに対し、中越地方では、七七七五の詞章で男女相愛の情を譬喩的に歌った、その組独自の門付け唄が行われた。その場合、刈羽では松坂節で歌い、刈羽を除くその他の中越地方では甚句節に歌うのが一般であった。刈羽組瞽女はみな門付け松坂を伝承するが、長岡組瞽女でこれを知らぬ者が少なくない。門付け松坂を知らぬ瞽女が刈羽で岩室甚句を歌うと、人びとは面白くない瞽女だと嫌うこともあった。」
門づけ歌の特長
これからしばらく、瞽女唄そのものについて聞いてみよう。瞽女唄といえば祭文松坂(段物とも言われる)がお家芸だが、他にも三味線にのる唄はすべて歌えるよう努力していたという。今日は、中でも巡業の際に必ず唄った家々の前で唄う「門付け歌」について。
「門づけ歌は、刈羽瞽女が県内を巡業するときは、地元刈羽郡とその他の地方では歌を違わせている。すなわち、刈羽郡においてはいくぶん長くて丁寧さのある「門づけ松坂」というものを歌う。七七七五調の小歌で、三味線も軽い曲調である。刈羽郡から一歩外に出れば、長岡瞽女と同じ岩室甚句くずしの門づけ歌である。節はおはら節に似ているので間違いやすい。三味線の音も低く、「ざんござんござんこ」という合い三味線がはいる。地元刈羽の人が松坂節を好むから、そのような配慮をしたと思われるが、他地方においては長岡瞽女に準じたものであろう。このように、刈羽瞽女は中越地方の巡業において、門づけ歌を使い分けしたが、長岡瞽女は刈羽郡を稼業しても同じ岩室甚句くずしの歌で通すのであり、「門づけ松坂」なるものは長岡瞽女に伝承されていない。したがって、長岡瞽女が刈羽を旅すると、その門づけ歌は愛想がないとよく村人から言われたという(関根ヤス女話)。上州から関東諸県の門づけ歌は、ほとんどくどきに決まっている。長いくどきの1、2節を区切って戸ごとに歌い継ぐのである。これは長岡瞽女が訪れても、刈羽瞽女が訪れても同じこと、集団のいかんにかかわりない。関東の人はくどきが好きだからという。上州へ行くためにくどきを覚えた瞽女が少なくない。寺泊組は上州へ行かないから、くどきを覚える必要がなかったという。冬に上州へ出稼ぎする瞽女は、正月に「春の祝いくどき」を歌う。これも幾種類かあり、刈羽瞽女にも長岡瞽女にも大同少異のものが伝承されている。歳夜の晩に蚕を祭る「お棚」を各家庭で作り、正月20日をお棚払えとしたが、その期間、瞽女は家に招かれてお棚の前でこのくどき歌をうたって、養蚕の豊穣を祈願したのであり、これが瞽女のたいせつな勤め、ひいては瞽女を迎え入れた大きな要因となっている。蒲原平野から米沢の方面は、門づけ歌は祭文松坂である。これももちろん、1節、2節と区切って家ごとに歌って行くのである。刈羽瞽女はめったに蒲原平野に足を入れないが、蒲原にはいれば門づけは段物でやった。このように、瞽女の門づけ歌には、門づけ専用に創作された歌もあれば、段物やくどきが使用される場合もある。その選択は瞽女によるというよりも、これを聞く一般民衆の好みによるところが大きく、しかもそれがかなり広い地域の風土性に起因するものであることを痛感せずにはおられない。」
死人にお施餓鬼を上げてくれと頼まれた
これは、先に掲げた怪談の要旨を実際、生の言葉で語っているものであり、前の(イ)に該当する話である。まずは少し聞いていただこう。
「あんげぇんことがあるの。おらまあそんげぇめに会わなかったがの。おれの友達の人は、死んだもんが来て、頼まれたなんかいうて。ほんに、いうにはいわんねぇし、いわんけやそのもんがまたおんに伝うて来ると悪いし、と思うて、おらこってぇ心配しとう、といわれた。それはあの、小千谷の在の人らがね。その人はじっきこの西越というろこがあるんですて、そこへまあ泊まったてがさ。そしたれば、夜、そのわたしどもは夜はぇんーな目は見えねぇんだ、明かりもいらないしなんもいらねぇんだ、夜唄歌って、しもうてから髪とかして寝るがんですて。そして髪とかしていたれば、あらとの、何かこう人間が来たようらと。そしてその人のめえ(前)座ったと。そしたれば、その人はたら(ただ)こんげぇ山ん中らんだんが、若い衆がいたずらしいに来たと、こう思うたと。そらろも、一向その動かねぇし、そしてその髪とかした櫛が真ん中から折れて、気持ちが悪いし、そんだ「お前さん何だね、どういがらね。何か用事があるがらか。どういがらね、こきびの悪い」そういうたと。
そうしたらの、こういうたと。
「いや、まったく悪いろも、おら何もいたずらもしないがらし、何んでもしねぇがらろも、お前さんのあんまり度胸がようて、心がいいどこに、おらあれしてもらいに来たがら」。
「こきびの悪い、何いわっしゃる」というたれば、こういうたと。
「おらこの家の伜ら。伜らろも、うちが後妻での、大学へ上がっていたがらろも金が思うようにいがねえいんだんが、それが人と一緒にその肩背並べてあかんねぇのが残念で、うちの屋敷へ来て首っつりした」というたと。
「そらろいもね、まら行ぎどこおれが行がねぇすけ、うちの衆にお施餓鬼を上げてくれというてくれ」というたといの。
「ほんだかね、ほんだかね」と二度いうたというとう。「だすけ頼む頼む」というて、「おれもいっつから心がけているろも、なかなか頼む人てやねえんだ」というたと。
それからの、どうしてまあうちん人にゆいばいいやらと思うて、おらほんね、たんだ一晩だろも頭病んだといわれたいね。そしたら朝げの、お父さんがちょうど、あっらと、お茶出してくらして、「夕べはさぶねぇかったかえ」なんだかといわして。そらんだ「お父さんお父さん、おらほんねお前さんにいうも悪いろも、いわんでも行がんねぇことがあって、一つ聞いてもらわんけらならん」というたら、「なんだい」といわしたので、そのいうたのをみんないうたといの。ほうしたらこうゆわいた。
「そうかそうか、そうらかいのし。いやいや、よういうてくらした。その子の三年忌がきて、あさって法事しる」と、こういがらと。どうれぇ(道理で)、おけそく(仏に供える丸餅)丸めてやらなんだてやらいうてらいたといわいたいね。「おらほんね、おっかねえー」と、おれ、いうたいの。…笑…」語り:関根ヤス
瞽女が経験した怪談噺
旅に出ていると様々な出来事に遭遇するであろうことは想像に難くない。だが、これは本当の話なのだろうか。本当だったら…怖い!
「(イ) 長岡系瞽女才津組に属した小千谷在出身のおサダという瞽女が、三島郡西越に商売して某家に泊めてもらったときの話。夜、宿唄の商売もすみ、お客が帰ったあとのこと、髪をとかしていると誰か前に座ったようだ。山の中だから、若い衆がいたずらをしに来たと思ったが、一向に人影が動かない。それに、今までとかしていたくしが真ん中からポキリと折れた。気味が悪くなって「お前さん何しに来たかね。何の用があるかね」と聞くと、「いたずらなどはしないが、お前さん度胸もいいし、心もいいから、頼みたいことがあるんだ。おらこの家の伜で、大学へ上がっていたが、うちの母親が後妻で、金を思うように送ってこない。それで人と肩を並べて歩かれないのが残念で、うちの屋敷へ来て首つりした。まだ行くとこへ行かれないから、どうかうちの衆にお施餓鬼をあげてもらうように言ってくれ。今までなかなか頼む人がなかった」といった。朝起きてから、その一部始終を家の主人に告げると、父親は「息子の三年忌が来て、あさって法事をすることになっている」という。おサダはそれを聞いて安心したが、それまでは本当に怖かった。(おサダの姉弟子、関根ヤスさんの話)
(ロ) 刈羽瞽女野中組の伊平タケさんが、娘盛りのころ上州旅したときの話。いつも行っている前橋在の某村で、目の幾分見える年上のおテイと二人で門付けしていた。ある家に来て、戸が閉まっていたので「御免なんしょう」というと、「はいはい」と返事があった。正月だから戸をあけて三味線を弾きだしたら、奥の方から「お茶づけすみましたか」という。「いいえまだです」というと、「お茶つけ上がりなさいよ」といって、おわんの中へうどんを山盛りにして出してくれた。それをごちそうになって、お礼をいい、唄の一つも聞いてもらって、戸を閉めてきた。隣のうちに行くと「おタケさん、おテイさん、人のいないうちに入って、今まで何をしていたの」という。「いなしたですよ」。「留守ですよ、あそこのうちは」。「留守ではありません。若い娘さんがいて、私たちはお茶づけをよばれてきました」。「ばか言うんじゃない。おテイさん、冗談でしょう。おテイさんは目が見えるから分かるでしょうが、門牌が立っているだろうがね。あそこのうちは、おねえちゃんがこのあいだ亡くなったばかりだ」。そんな問答があったあと、隣の人は「今日はあの娘の三十五日だが、うちの人が朝飯食べてから前橋へ買い物に出かけた。人が来なしたら留守だと言ってくんなさい、と頼んで出かけたんですよ」。かくて、死んだ娘が自分に上げてもらったうどんを、タケさんなどにごちそうしてくれたのが分かり、二人は気味が悪くなったという。(伊平タケさんの話)」
旅の収入は百円が相場
昨日は、瞽女さんにとって上州への稼業が嬉しいものであったことを見た。では、一旅でいくらくらいの収入があったのだろうか。組によっても違ってはいたのだろうが、そのあたりの一例を見てみたい。
「ミスが入門した当時(1)、瞽女一人が上州稼ぎの一旅で上げる収入は、百円というのが相場であった。ミト(2)の旦那は裁判所の小使で、その当時月給は十五円ほどだったというから、年間を通せば、瞽女一人が夏・冬の二稼ぎに上がる収入とほぼ同じぐらいである。住み込みの弟子が十人いるとすれば、ミトは旦那の十倍の稼ぎがあったということになる。だから家庭においても、ミトの鼻息はずいぶん荒かったという。ミトにとって、トワに五十円や六十円を払うことはさして苦ではなかったのである。ともかく、瞽女の親方として身上を築いたのは、近辺ではミトが一番であったと言われている。」
注1.ミスが入門した当時=土田ミス大正6年頃
注2.ミト=四郎丸組の親方小林ミト、元治元年(一八六四)に生まれ。三十三才、明治二十九年に結婚して所帯を持ち、瞽女仲間から外れるが、盲の瞽女に下座を受け持たせ、旅回りに踊りと唄を併合するという、特異な芸業を行ない成功する。  私などは、結構稼いでいたんだなぁと感心してしまうが、いかがであろう。そういえば、どこかに自分の稼ぎで家を新築して後代に残したという話もあったように記憶している。たいしたものである。 

 

「米沢行ぎ」がやめられない訳
土地土地により、瞽女に対する見方、処遇はかなり違っていたようだ。ちなみに長岡はあまり良い方ではなかったと聞いたことがある。瞽女が感動して何度も行きたかった土地、米沢について聞いてみよう。
「米沢地方の人は常磐津や段物をいたく好んだという。それだけでも、唄を商売とする瞽女の巡業地にふさわしいが、その上、米沢は人情厚く、もてなしをよくして越後瞽女を迎えたという。常宿の人たちの心温まる扱いが、盲目の旅芸人の心をとらえて離さないのであった。泊まりつけの宿が「大抵今時分来ると思うて待っていた。ようござった」「もう一晩泊まっていってくれ」「来年もまたござれ」と言うてくれる家ばかりであったという。一日の門付けが終って宿に着くと、初湯に入れてくれて、御馳走作って、家の者より先に食べさせてくれる。一番よい座敷を掃除して、瞽女たちに部屋を任せてくれる。親戚へよばれたように、お客様扱いでいろいろ面倒みてくれる。タキさんは1軒の宿に2組11人で一度に泊めてもらったことがある。泊まり宿を探し歩くような心配のいらない土地である。トキさんは泊まりつけの宿が小国、米沢地方に200軒もあったという。朝の出がけに、ワラジを一人1足ずつ、それに銭10銭ほど持たせてくれる宿もあった。そんな具合だから、「泊まりつけの宿を捨てるのがもったいなくてやめられん」と言う瞽女がいたという。米沢の人は決して瞽女を軽蔑しなかったという。「瞽女ん様、瞽女ん様」と様づけで呼んでくれた。瞽女にとって、これ以上有り難い土地はないであろう。米沢の上杉殿様が越後から来たということで、「瞽女様が来たら泊めてやってくれ」と遺言を残した人もあったというから、その方面の恩情とひいきがあったことも事実であろう。蚕の増産や疾病平愈の祈願、信仰から瞽女を受け入れたことも悔れないが、このことは後で述べたい。かくして、小国、米沢地方は、この御講組を含めた下越地方の瞽女の稼ぎ場の金城湯池とはなったのである。瞽女となった以上、他に差し障りがなければ、毎年行くことを当然のように考えていたのであった。」
三国峠で杉の枝を尻の下に敷き雪の坂道をすべり降りる
今日は、ちょっと微笑ましい話。瞽女さんの巡業は野を越え山越えの大変な旅だったが、川を渡るのがやはり大変だったようだ。いわゆる丸木橋を渡ったりするのも恐かったが、近道をしようと川に飛び出ている石を渡るのは命がけだった。目が見えていても、すべりやすく安定性の悪い石渡りは遠慮したくなる。そこをあえて渡るのである。これが元で落命した瞽女さんも数多くいたとのこと。今日の話は、えっ、本当?と疑いたくなるような話だが実話である。随分思い切ったことをしたものだと感心してしまう。
「村をかえ、宿をかえてさすらいの旅を続けるが、3月7日の妙音講に間に合うよう故郷へ帰らねばならない。町の宿にみんな集まり、帰省の途につくが、三国峠はまだ雪が消えていない。三宿浅貝などで、杉の枝を手折って尻の下に敷き、急な雪の坂道をすべり降りる。「目あき衆でもあの真似はできない。あのようなことを思うと身がしびれる。それでも雪の崖下へ落ちて死んだ話を聞かない」と伊平タケさんは言っている。六日町から小千谷までは船で下った。
栃木県の方は瞽女を名前で呼んでくれた
瞽女が生きてこられたのも、人情の厚い土地柄を選んで巡業をしたためでもあろう。多く、乞食同然の扱いを受け、子供には石を投げられ、それでも黙々と歩き続けた。
「では、一朝一夕でなったとは思われない巡業地が、どうして形成されたか、その背景などを考えてみたい。瞽女たちは、ただ漫然と、行きあたりばったりに旅を続けはしない。冬に雪のない関東におもむくと言っても、関東ならばどこでもよいというわけにはゆかない。瞽女の気風には因襲性があり、先祖師匠以来の巡業地をそのまま踏襲する者が多く、新天地を開拓するほどの勇敢な瞽女は少なかった。新しい土地に踏み入るとすれば、いろいろ不安が付きまとう。土地の人情はどうであろうか、毎日の宿がはたして得られるであろうか、商売が成り立つであろうか、というふうに。したがって、瞽女稼業の金城湯池とみられる所は、何代も前からの瞽女たちの長い経験と知見によって求められた掛け替えのない土地であった。まず第一に、人情味のある、思いやりある人が多い土地であるということが、瞽女の足を自ら向けさせたのである。ともすると乞食同然に虐げられがちな盲旅芸人をあたたかく迎えてくれる旅の情けは、瞽女たちにとってこれほど嬉しくまさるものはなかった。加藤イサさんによると、栃木県の方は自分たちを「越後瞽女」と称して、みんなが大事にしてくれる。越後とはちがって、瞽女の名前を呼んでくれるのであるという。師匠の村松キヌ女は、40年間も上州から栃木の方に旅を続け、その間、年夜も旅で過した人であった。子供まで喜んで「おキサさん(キヌ女の芸名)、また来ましたね」と言って迎えてくれたという。冬の関東のからっ風は身にこたえるが、このあたたかい歓迎の気持が忘れられず、瞽女は年ごとに訪れるのであった。」
瞽女稼業ができたのは宿が泊まりつけであったから
これから少しの間、瞽女の旅稼業についてふれている部分を引いてみたい。瞽女は、婚礼や祝宴などに呼ばれると出向いていく「座敷瞽女」がいたが、多くは旅から旅の旅稼業。歩いてなんぼの生活であった。家にいる時は歌の稽古などもしたろうが、それでは金にならない。巡業や旅の門付けでいくらかの米や金をもらい、夜泊めてもらう家に集まった人からのご祝儀がその稼ぎのほとんどだった。この旅稼業に欠かせなかったのが、その日その日に泊めてもらう家(瞽女宿)であった。他人に施しができるだけの財力と温かな心の持ち主でなければ、瞽女宿は務まらなかった。その土地の名家だったのかどうか私は知らないが、瞽女にとっては瞽女宿の有無は死活問題で、瞽女宿は師匠から弟子へと人は変わっても宿は、いわば常宿として引き継がれていった。
「瞽女が安心して旅に出られたのは、宿が泊まりつけであったからで、その宿が法事か葬式、婚礼その他不時の都合ができ、泊めてもらえないとき、これほど困惑することはなかった。田舎へ入れば、旅籠などない村が多い。このような事態に落ち入った経験は、瞽女のほとんどが持っている。したがって、そのことのせつなさを、旅から帰ると、家の者に話をし、よその瞽女が来たときは宿泊を絶対断わらないでほしいと常々も言い、遺言までして死んでいった瞽女も少なくない。」
瞽女の祝言宗教者・亡霊供養者としての特色は唄にも反映されていた
主たる瞽女唄である段物や口説も亡霊供養という点で、宗教と密接な関係にあった。また、巷間に流布する歌を唄ったのも遊行祝言職としての祝福芸能として喜んで迎えられた。こうして、瞽女唄そのものもまた宗教抜きには語りえぬものであったという。
「瞽女の歴史もその芸能も、宗教を抜きにしては語れない。瞽女は遊行する祝言(しゅくげん)宗教者の面影を色濃く残していたが、瞽女が伝承し披瀝する数々の語り物や歌謡も、その宗教性に裏打ちされている。瞽女本有の性格により、また庶民の瞽女に対する信仰上の期待とも関連して、瞽女の唄芸には本筋となるべき大きな二つの流れが横たわっている。その一つは、中世以来、瞽女が軍記物を謡いいくさ語りをしたのも、段物として五説経を始めとして説経浄瑠璃を取り入れたのも、また心中口説を好んで語ったのも、みなものの哀れさをくどくどと口説き語ることに本意があり、そこに瞽女唄の真髄・本領が発揮されたのである。これは宗教と無関係でなかった。口説き語りが亡霊供養の意味を持っていたため、この種の涙をさそう語り芸が人びとの共感を呼び、広く浸透し、普及する要因になったと思われる。 (中略) もう一つは、瞽女は祝言職、つまり遊行宗教芸能者であり、そういう立場から見ると、語り物や歌謡はすべて祝福芸能であったということになろう。瞽女の唄芸の稼業が民間信仰に支えられていたことは、これまでしばしば述べてきた通りである。瞽女の口からほとばしり出る唄の文句や三味線の音は、呪的言語であり呪的旋律であった。そこに日常では考えられない威力を認めた。まさに神を代弁する祝福の芸能であったといえる。しかし瞽女は、人びとを言寿ぐための専用のめでたい唄を用意する努力をしたし、他の祝福芸人が持つ歌謡も自由に取り入れる融通性も示した。瞽女唄の領域が広がった理由でもある。」 
年期明け瞽女の祝言はシャーマニズム習俗が背景にあるだろう
先に書いた文章と重複するようであるが、鈴木先生は明らかに「瞽女の祝言と男子禁制の謎」の背景に「シャーマニズム習俗」があると結論付けているように思われる。瞽女という在り方を考察する時、シャーマンとしての要素を抜きには語りえぬことを実証したといえるのかもしれない。
「神と結婚するということは、いうまでもなく神と契りを結ぶこと、神と合一することである。この祝言は、巫女に神が憑依し、神が宿れる体になるためのあかしの決定的な儀式だということであろう(72)。瞽女の場合は神との結婚式であるとの解説は聞けないものの、巫女の神婚習俗の伝統を受け継いだものとみてよいのでなかろうか。瞽女は神がかり託宣の宗教儀礼からはすでに離脱しているが、そしてまた対象としての神というものを忘却しているが、祝言の儀式だけはいまだその姿を幾分残してきたものといえるであろう。いわゆるシャーマニズム習俗が背景にあることを考慮しなければ、この瞽女の祝言と男子禁制の謎は解けないであろう。巫女の場合、夫となるべき神は、巫女が信仰する神、守護神・守護霊ということになろうが、瞽女は結婚相手の存在すら語らない。が、「年期が明けて一人前の瞽女になるのは、弁才天から位をもらうのだ」という瞽女がいた。芸能者の立場でこの儀式に臨む者の守護神信仰がよく言い表わされているが、もし神との結婚が瞽女の間に意識されたとすれば、それはさしずめ弁才天のような音曲芸能の守り神ということになるのであろう。」
瞽女はシャマンであったが故に男子禁制の巫女の伝統を受け継いだのでは
考えてみれば、不思議である。何故、瞽女は結婚してはならなかったのか。結婚をしたからと言って芸道をおろそかにする理由にはならない。そこには別の理由があったに違いない。結婚はおろか、男女の交わりをしただけで、瞽女は厳しい咎めを受け、年を落とされ、最悪、仲間から外され「はずれ瞽女」として生きていかなければならなくなった。同じ目の見えない男性と結婚した瞽女も多いようだが、稼業はやめざるを得なかった。何故そこまでして結婚を排除したのか。今日はこの辺を聞いてみよう。
「ところで、瞽女仲間が男子を禁制し、女だけの社会を形成したのには、それなりの理由があるように思う。単に仲間の風紀を乱さないためとか、芸の習得の邪魔になるためとかいうだけでなく、本来的に備わった、もっと深いえにしの理由があったと思われる。瞽女はもともと生身の男性とは交わらず、結婚しないものでなかったか。その点で、同じく盲目者である口寄せ巫女の生態を見てみる必要があろう。東北地方の口寄せ巫女は、現在では結婚している人が大部分であるが、結婚しないのが本来のようである。神に仕える巫女は俗的生活を離れ、罪や穢れを身につけず、情欲にほだされないことが大切である。そうでなければ神に仕える資格はない。神が依りつき、神が宿る体を保っておくことが、巫女の大切な努めである。そのためにも身だしなみを正し、苦行を重ね、男と交わらなかったのであろう。この点に関し、巫女と瞽女の双方を研究対象とした中山太郎氏は、両者の共通性にうすうすと気づいていたようである。「瞽女が原則として夫を持たないのは、神に仕える巫女のそれのごとく、瞽女の源流を聖職とするものと見るべきか」と述べている。まさに瞽女は、元は聖職者・宗教者であったために、シャマンであったが故に、男と交わらないという巫女の伝統を受け継いだためでないか。」
瞽女の間での神との結婚は弁才天(音曲芸能の守り神)になるだろう
今まで瞽女が宗教者としての特質を祖型として持っていたことを話してきた。文字通り自らが宗教者であることによって、口寄せ、憑依などにより神となって願いに来た人に接してきた巫女、イタコなどが、男子禁制であった修業を終え、祝宴や入巫式に花嫁姿で臨むことは、神との結婚、すなわち神との合一を意味していた。この儀式により巫女の体内に神が宿れる証となるのであった。
「巫女の年期は短期間であるに対し、瞽女のそれは総体的に長期となっているが、技能修得のための厳しい修行も共通する。瞽女は寒声を使って発声の練習をする寒稽古が大切だとされるが、これは巫女や修験の寒修行と通じるものがあり、それを踏まえていると思われる。日常生活においても規律を正し、戒律を守ることが義務づけられる。そして最も象徴的なのは、これまで述べたように生涯男子を禁制し、出世するに当たって花婿はいないがめでたい祝言を上げることである。年期明け瞽女の祝言については、結婚の相手がだれだという伝承は聞けないようであるが、東北の巫女の間では一般にそれを神とする。津軽のイタコがユルシの祝いのさい花嫁姿で祝宴につくのは、神との結婚式であるといっている。同様に村山・最上地方のオナカマがシメキリの入巫式に花嫁姿で臨むのも、下越後のミゴドンがクライ取りで花嫁になるのも、神様の嫁になるのだと称している。神と結婚するということは、いうまでもなく神と契りを結ぶこと、神と合一することである。この祝言は、巫女に神が憑依し、神が宿れる体になるためのあかしの決定的な儀式だということであろう(註72)。瞽女の場合は神との結婚式であるとの解説は聞けないものの、巫女の神婚習俗の伝統を受け継いだものとみてよいのでなかろうか。瞽女は神がかり託宣の宗教儀礼からはすでに離脱しているが、そしてまた対象としての神というものを忘却しているが、祝言の儀式だけはいまだその姿を幾分残してきたものといえるであろう。いわゆるシャーマニズム習俗が背景にあることを考慮しなければ、この瞽女の祝言と男子禁制の謎は解けないであろう。巫女の場合、夫となるべき神は、巫女が信仰する神、守護神・守護霊ということになろうが、瞽女は結婚相手の存在すら語らない。が、「年期が明けて一人前の瞽女になるのは、弁才天から位をもらうのだ」という瞽女がいた。芸能者の立場でこの儀式に臨む者の守護神信仰がよく言い表わされているが、もし神との結婚が瞽女の間に意識されたとすれば、それはさしずめ弁才天のような音曲芸能の守り神ということになるのであろう。」
瞽女の祖型は宗教者であり宗教者の原体質から芸能者へと変質をとげた
本来、瞽女は唄を歌うという芸能者である。しかし、瞽女という形を構成する要素にはそれぞれ民間信仰とも呼ぶべき信仰が強く息づき、またそれにより瞽女そのものが支えられてもいた。そして、瞽女本人の来訪自体もめでたいもの、ありがたいものという思いを持って迎えられた。そこからどのようなことが言えるのか、聞いてみよう。
「庶民が瞽女に対して信仰上多様な期待を寄せ、吉兆や幸せをもたらす聖なる来訪者と考え、あるいは瞽女にお祓いや拝み・祈祷などの宗教行為を求めたことは、瞽女に不思議な霊力を認めたからにほかならない。芸能者瞽女そのものに、またその行動の様態に遊行宗教者の痕跡が残されてきたものといえるであろう。したがって、瞽女の祖型は宗教者であり、それがいつかはわからないとしても、宗教者の原体質から芸能者へと変質をとげたのではないかと思われる。近時は遊行芸能者としての機能をいかんなく発揮していたが、元をたどれば遊行宗教者ではなかったのか。そして瞽女となった後も、その特質の片鱗を近年まで幾分なりとも保持してきたと考えられないか。ともかく瞽女の生態の中に極めて高い霊性・聖性が認められ、瞽女を神の使い、神の代弁者、または神そのものと見る意識が庶民の間に存在していたことは否めない。」
瞽女芸の始まりは熊野比丘尼と関係がありそう
長岡の妙音講は旧暦3月7日(新暦では4月17日)に行われ、瞽女は必ず参加する義務があり、どんなに遠くに旅に出ていてもこの日までには帰ってきたといいます。山本家菩提寺の唯敬寺の住職を招いて仏壇にお経を上げてもらい、次に「瞽女御条目」の朗誦があり、その後、瞽女の優惰が沙汰され、掟に照らして賞罰が行われました。この御条目の構成は、瞽女の縁起、瞽女が守るべき掟からなり、鈴木先生はこの「瞽女縁起」の背景に熊野比丘尼の活動があるのではないかという仮説を披瀝されています。私は詳しいことは分かりませんが、鈴木先生の新知見のように思われるので、長くて専門的な論述の部分ですが、引用してみます。
「『瞽女縁起』では那智山如意輪観音の夢知らせが重要なモチーフになっているが、那智山と関係のある熊野比丘尼、または歌比丘尼の活動が背景にあって、これが瞽女の始祖伝承に取り込まれることになったのであろう。堀一郎氏は熊野比丘尼(歌比丘尼)は巫女の流れをくむ瞽女とは親縁関係にあったといっておられるが、『瞽女縁起』の内容から推して、瞽女芸の始まりは熊野比丘尼と何らかの関係がありはしないであろうか。ここにおいて、美濃国の「大寺瞽女」の始祖行智比丘尼の所伝が注目されてくる。大寺瞽女は美濃国瞽女の司の立場にあるもので、可児郡中村(現御嵩町)の天台宗大寺山願興寺(通称「蟹薬師」)の樓門の東に屋敷を構えていた。この大寺瞽女は、行智比丘尼が都で習い覚えた音曲を三人の盲女に授けて薬師如来の勧進をさせ、世過ぎの資としたのに始まるという。その行智比丘尼は、宮方の息女が尼になり、修行のため美濃に下り、蟹の大寺を建立し、その侍女が盲なので瞽女を名のらせ、行智比丘尼より永代御前(瞽女)の証文を渡されたと伝えている。
美濃国の瞽女は嵯峨天皇の姫宮の流れをくみ、その中にこの大寺派と日野派・権現派の三派があったというが、その伝えは大寺派に属する恵那郡久須美村(現恵那市長島町久須美)の瞽女でもいっており、広く認められていたものであろう。日野派の由来と実態はわからないが、権現派は同国洲原権現社の宰官の娘が盲の故に御前になったのが始まりだという。いずれにしても、美濃の瞽女が嵯峨天皇の姫君を始祖とするところに、一般の瞽女縁起の伝承を踏まえていることは否定できない。
美濃国大寺派瞽女の始祖伝承において、元祖の行智比丘尼が盲女に音曲の芸を授け、薬師如来の勧進をさせたということは、五来重氏が唱える、日本の語り物芸能を日本仏教の唱導芸能として捉える見方を瞽女の立場から容認する所伝として貴重である。行智比丘尼は遊行勧進比丘尼であり、配下に幾人かの瞽女を擁し、寺院建立や修造改築のため勧進にあたったもので、中世的な古い姿を伝えていたのである。大寺瞽女は大寺山願興寺と深い関係を保ち、勧進瞽女として歩んだ長い歴史があった。その元祖である行智比丘尼は勧進元の役割を果たしていたといえる。
行智比丘尼の所業はまさに熊野勧進比丘尼のそれであった。願興寺の本尊が薬師であることは、熊野三所権現のうち新宮早玉宮の本地が薬師如来であることと関係があるかも知れない。つまり、行智はもともとは熊野勧進比丘尼で、新宮の薬師如来の分身を携えてこの地に至り、瞽女を養育して勧進に出させ、願興寺を建立したという筋書になる。調査が行き届いていないから即断は避けたいが、可能性がまったくないとはいえないであろう。この大寺瞽女の例を踏まえて、同じく語り物と唱導勧進活動を行った熊野比丘尼と瞽女の動向を、今後幅広く見極めて行く必要があろう。」 

 

瞽女は祝言職として室町末期には既に諸方を巡りめでたい小唄を歌っていた
瞽女さんの唄う歌は昔からめだたいものだと思われており、いわば民間信仰と呼ばれているもののひとつであるが、その根拠を探っていくと室町末期までさかのぼれるという。瞽女が祝言職であったことを示す部分を引用したい。
「瞽女が祝言(しゅくげん)職として諸方をめぐり、めでたい小唄を歌っていたことは、室町末期の『鼠の草子絵巻』(天理大学図書館善本叢書『古奈良絵本集』所収)に三人連れの瞽女が描かれ、そのうちの一人が「いかにお光奥へ参りめでたき歌端唄少し歌ふて云々」と述べているので、その伝統は古くからあったと見なければならない。」
なお、『鼠の草子絵巻』は、桃山時代の作品で簡略化しているがストーリーは以下のとおり。
百二十歳になる権頭は鼠であるわが身を憂い、子孫はその宿命から救おうと人間との結婚を願う。観音様に祈ったところ、十七歳の愛らしい人間の姫と、正体を隠した上で結ばれることとなった。彼は嫁入り道具を全て用意したり、唐の楊貴妃風呂を作るなど、彼女に贅沢三昧をさせる。でもその楽しい日々は長く続かず、鼠であることがばれてしまった。態度を一変させた姫は、鼠取りの罠に夫をはめた上に屋敷から出て行ってしまう。それでも姫への未練を断ち切れない権頭は、陰陽師、巫女などを駆使して復縁を図るのであった。しかし時は遅し。既に姫は人間の男と結婚した後だった。悲しみの権頭は出家を決意する。高野山に向かう途中で宿敵「猫の坊」と出会うが、彼も妻と別れた身で鼠を食べる気をもう無くしていた。そんな二人は奥の院で出家ライフを共に過ごすこととなったのであった。
瞽女の起源は白拍子より巫女と考えた方が自然
先に瞽女と巫女との役割を峻別したわけだが、ここには瞽女の祖型として巫女が想定され、それを白拍子に見る意見を退けている。
「佐々木八郎氏は、盲御前の芸能人としての系譜は明らかでないとしながらも、『七十一番職人尽歌合』の「盲女」と「白拍子」を比較して、両者に類似のものがあり、服装も似ており鼓を持つ点も共通していることから、盲御前は白拍子の系統に属するものでなかろうかといわれる。白拍子は扇を持ち、謡いかつ舞うのが本意であるが、歌舞を捨て叙事主体の語りを本位としたものが、すなわち盲御前でなかろうかともいわれる。だが盲御前は、盲人の特性を生かして語りの世界に入ったものであり、舞いを舞う白拍子からただちに移行したと見るわけにはいかないであろう。盲御前の祖型を白拍子とするよりも、神がかり託宣を事とした民間遊行の巫女との関連を想定するほうが自然というものである。中世の盲御前が語りの伴奏に鼓を用いたことは、巫女が神がかりの愚依儀礼に鼓を用いたことと関連があり、それを受け継いだものといえるであろう。巫女の神がかり儀礼には、祭文読みの効果を高めるため、言葉に抑揚をつけたり、楽器をリズミカルに奏する。いわばそこに芸能性が要求されるのであるが、その祭文読調の芸能が宗教を離れ、語りを目的として人に聴かせるようになり、盲御前の本格的な語り芸能へと展開したのでなかろうかと推考される。」
巫女(託宣)と瞽女(唄芸)の役割分担はできていたはず
「室町時代から江戸時代初期にかけてよく制作された社寺参詣曼茶羅にも、境内の一角に坐して鼓を手に持ったり傍らに置いたりしている女性の姿を描いたものがある。その一つ、「葛井寺参詣曼茶羅」では、藤井寺本堂向拝階段の向かって右下に二人の女性がたたずむ。右手の女性は白い袍を着て鼓を持ち、その前に扇を広げ、その上や地面に十個ばかりの小玉を撒き散らしている。左の女性は赤い抱を着て、右手に扇を畳んだようなものを持つ。 「法輪寺参詣曼茶羅」にも、同じように本堂階段下向かって右の位置に白い袍を着た二人の女性が相対峙して莚の上に座り、傍らに鼓が一個置かれ、右の女は扇子を持つ。これらの女性が盲女かどうかは絵からは見極めがつかないが、これが巫女なのか瞽女なのか。この点について、福原敏男氏は巫女か瞽女らしい、としてどちらとも特定しないが、葛井寺図の右手の女性は米占の託宣をしているのであろうかと推測する。徳田和夫氏は、これを受けてか、これらは中世末期の遊行の巫女や瞽女の姿をよく表しているものとし、なおまた、巫女的な面と芸能的な面を兼ね備えた瞽女である、ともいっている。確かに、瞽女の性格や実態の中には巫女のそれを受け継いだものが色濃く見られるが、両者を混同したり曖昧にすることは許されない。巫女は神がかり託宣を中心に据える宗教者であり、瞽女は語り物・唄芸を中心に置くもので、たとえ中世であろうと、その役割分担はできていたはずである。」
信州飯田瞽女は、拝み、祓い、祈願などの宗教行為を行った
瞽女さんがただ歌を唄って聞かせるだけでなく、その人の頼みに応えて拝んであげたり、お祓いをしたりと言う、従来考えられていた瞽女の姿から逸脱したような行いをしていたという事実の発掘は大きいものがある。
「飯田瞽女がこうした場合に盛んに拝み、祓い、祈願などの宗教行為を行ったことは特筆されなければならない。芸人瞽女が宗教者でもあったのである。この機能が、芸能の世界に後で加わったとみるべきではなかろう。本来あったものが、近年まで残留したものと見たい。ただ東北の盲目の口寄せ巫女のように、神やホトケの口寄せをしたということは聞けなかった。」
飯田瞽女は“拝む”という宗教行為を行った
鈴木先生、新潟ばかりでなく信州まで調査の足を延ばした。そこで思わぬ収穫があったという。それは、新潟県内では聞かれなかった、瞽女による直接的な宗教行為であった。次の言を聞いてみよう。
「飯田瞽女が祓い詞を読んだり、祝詞を上げたり、お経を唱えたり、真言を誦して“拝む”という宗教行為を行ったことは、唄芸を職能とするものとしては異例のことであった。越後瞽女にはそのようなことは聞けなかった。まさに、本来の瞽女稼業に加えるに、祈祷宗教者の機能が備わっていたと見るべきであろう。」 
瞽女は歩く祝言宗教者
瞽女さんは歩く。とにかく年中歩いている。門付けをし、瞽女宿に泊めてもらってなんぼの稼業だから当然といえば当然なのだが、数は比較すると少ないが「座敷瞽女」という瞽女がいて、宴席などによばれて歌を披露するということもあった。だが、主流は歩き廻る「門付け瞽女」であった。瞽女の調査や取材で一番難しいのは、この歩き廻る目的の瞽女と出会うことだという。2011年9月23日に長岡市リリックホールで行われた当会提案の事業「越後長岡 語りの世界」のイベントの一つとして行われた「映像で振り返る「語りの世界」」の要約をお読みください。瞽女をテーマとしたドキュメンタリー映画「ごめんなんしょ瞽女の旅路」制作者と鈴木昭英の鼎談が掲載されており、その中で瞽女と会うための苦労話がでてくる。この冬も夏もかなり遠方まで足を延ばして歩き回ること自体に意味があると鈴木昭英は述べている。
「瞽女が信仰の対象となる根本的要因は、苦難を乗り越えて山野を跋渉し、諸方を徘徊遍歴するという、その遊行性にあるといえる。しかもそこでは、その職掌である唄芸が、単なる娯楽・鑑賞・嗜好の対象ではなくして、人間生活に直接する切実な要請に基づく信仰の対象であった。遠い国から訪れる瞽女を、大いなる力―病魔悪霊を払い、もろもろの生産を促し保護する力、わが身の罪を滅ぼし、死者の霊を慰め供養する力―の持ち主と認め、人びとを祝福してくれる聖なる来訪者と意識していた。まさに、瞽女の口からほとばしり出る唄の文句は呪文である。伴奏楽器三味線は呪具であり、哀調をもって奏でる三絃の調べは呪術的リズムである。われわれはそこに、歩く祝言宗教者の痕跡を認めることができる。」
宗教者としての瞽女
今まで瞽女と民間信仰の諸相を見てきたが、瞽女の唄を始め瞽女に関係するすべてについてなんらかの民間に伝わる信仰によって支えられてきた部分が大きいことが分かった。これからしばらくは、さらに一歩踏み込んで、宗教者としての瞽女という側面を記述した部分を紹介していきたい。
「瞽女に期待する民間の信仰は、いわゆる俗信・俗習の域を出ないが、そこに庶民の赤裸々な心情がよく現われている。瞽女は宗教者のように加持祈祷し、積極的に宣伝活動はしないが、それに準じ、あるいはそれと同等の行為や役割をなしている。昔は福をもたらす聖なる来訪者として民間に意識されていた」
瞽女に対する民間信仰の効用と目的
今まで、瞽女に対する民間信仰の諸相を見てきたが、いよいよ結論部分を引用したい。この鈴木昭英の実証的な研究成果により、今まで曖昧だった瞽女と民間信仰との密接な関係が証明されたと言っても過言ではなかろう。
「期待される瞽女の側についていえば、瞽女は福をもたらすもの、その来訪は縁起がよく、吉兆のしるしであると考えられたが、なお委細にいうと、旋律的な三味線のかなでる音、瞽女の口からほとばしり出る唄に霊力の根源があり、次いで旅で使用した三味線の糸、三味線を包む袋、瞽女が身につける着物・履物・歩行補助用具としての杖、唄の報酬にもらい集めた米、さらに瞽女が信奉する本尊にさえ異常な力を認めるのであった。まさに三味線伴奏は呪的リズムであり、歌謡は呪的言語、その他有形の衣装・道具類は呪具と観念されている。そして、こうした有形・無形の信仰対象が、先に述べた信仰諸相に適在適所に採用され、瞽女に対する民間信仰の効用と目的を形づくっているのである。」
来訪、歌謡、三味線の音、糸・揆・袋、履き物、杖、貰い米
瞽女は娯楽の少なかった当時、楽しい唄と噂話を聞かせて楽しませてくれる娯楽の提供者という見方が主流であり、楽しませてもらったお礼にわずかではあるが米や金を渡し、瞽女を泊めてやっていたと思われていたが、鈴木昭英氏の地道なフィールドワークにより、瞽女から聞いた実話を基に、瞽女の生態のあらゆる要素が信仰によって根強く支えられていたことが実証された。明日は、いわば瞽女と民間信仰との関係の結論のような部分を引きたいと思うが、今日も研究成果の結論的な部分を引用してみたい。
「瞽女は幸いをもたらすもので、その来訪は縁起がよいとし、大いに歓迎した。そのなかにも、細部にわたる効能、効験がある。瞽女の歌謡は呪的言語であり、三味線の音は呪的リズムである。旅で使った三味線の糸・揆・袋や歩行用具の履き物、杖などは呪具である。瞽女がもらい集めた米、瞽女が信奉する本尊の弁才天にも効力を認める。こうした瞽女に伴う有形、無形の諸要素が信仰相の適在適所に作用して、瞽女に関わる民間信仰を形成している。」
瞽女自身が蚕神としての弁天の信仰を広めた
瞽女は養蚕の盛んにおこなわれる地で特に歓迎された。三味線の糸を蚕棚に結わえつけたり、蚕種がよく育つように蚕種の前で歌を唄ったり、こうした瞽女の唄や三味線の糸などと蚕が病気せず順調に育つという信仰を結び付けていたのが、弁天神なのだという。弁天様といえば音曲の神としてよく知られているが、弁天神には蚕神という側面もあり、それに支えられながらも逆にその信仰を広めていったのも瞽女であるという。信州飯田瞽女の伊藤フサエさんからの聞き取り調査の結果から次のように述べている。
「伊藤さんは、弁天様は芸の守り神であるが、絹物をお召しになっているので蚕を守る神様でもあると、弁天が蚕神である理由を述べているが、もとより両者は信仰上結ばれていることから生まれた解釈であろう。瞽女の信仰する弁才天には蚕神としての性格が付与されているが、これは東北地方の口寄せ巫女もそうであり、それらと同列に置いて考えなければならない問題である。ともかく、瞽女屋で祀っている弁才天は養蚕守護の神であり、長屋は養蚕信仰の霊験所、祈祷所の観を呈していた。瞽女自身が蚕神としての弁天の信仰を広めたことは否定できないのである。」 

 

瞽女を泊める功徳
基本、瞽女さんは巡業の旅に出た時は、只で泊らせてもらう。代々その宿が決っていることが多かったという。あそこの土地ではあの家とあの家、というふうに決っていたし、またその御蔭で安心して巡業の旅にもでられたのである。しかし、時々先の都合でどうしても泊められないとなると瞽女さんたちは予定外の宿泊場所を求めて大変な思いをしなければならない時もあったという。定宿があったということは。瞽女さんたちにとって大変ありがたいことであり、また、感謝の気持ちを持って、夜、宿に集まった人たちに瞽女唄を唄って喜ばれた。以下に、長岡瞽女の関根ヤス聞き書(昭和47年10月25日聞き取り)から引用してみよう。やはり瞽女もにんげんなんだなぁ、と思わせる楽しい証言である。
「瞽女を泊めると功徳になると、それはまあどこでもいわ。まあ、可愛い子が死んだすけぇ泊まってもらうとか、今日はじいやの日だとかばあばあの日だとかということ、そらどこでもいう。中魚沼でも南魚沼でも、そらんーないわあ。ここらまあいわんぐらいだ。そうそう。群馬の方でもいう。まあ、死んだホトケの功徳に泊めてやるということだこての。たら(ただ)で泊めてくれるがら。そら功徳らと。ホトケの命日に、まあ唄を歌ってみんな人に聞かせれば、人は喜ぶんだ。それは死んだもんの功徳になると、こういうてら。この辺のもんはたんといわねぇろも、魚沼のあたりの衆は、他宗ろこらんだんが、そういうこといわあね。そういんだ、宿などいくらでもある。いや、あごんち(あこの家)はやら、ここんち(ここの家)はやら、て。おら今うちへぇっていると、思いますて。おらさんざそこら歩いたどきは、ほんにあごんちへ泊まるのやらいや、泊まれといわれっろも、なんというちゃ、別の家へ宿をとったなんかしたこともあるが、今そう思いますがて。人間てやわがままのんで、人泊めるということはなかなか厄介のもんだがんに、さらに何も知らない人を泊めてくれるがらが、ほんにそう思いますでね。今うちへへぇってからそう思います。宿は決まっていたろこもいくらもあっとの。あっろも、まあなーがいこと旅したこての、一年中らんだ。いろいろのどこも行ったし、いろいろの目にもおうたといわんけらならねえ。親切の人もあれば薄情の人もあれば。」
普段何の楽しみも無かった人たちに様々な土地であったことを語り、昔からの歌を唄い、また、流行の先端をいく歌も聴かせる瞽女の来訪は、かつては年に数えるほどしかなかった娯楽の一つであった。瞽女を泊める宿の人達にとって、代々やってきた恒例の催しであったとしても、それはやはり瞽女さんのため、近所の皆さんのためという大きな功徳の施しであったといえよう。
瞽女の米食べると健康に良いという
瞽女さんが門付けに来て、家の前で唄うとわずかな米を持って来て渡してやるという風習がよく見られた。私も地良い頃、毎日のように托鉢に来る坊さんに5円玉をあげるよう、家の者に頼まれたものだった。瞽女も地域によっては米ではなくお金やその土地でよく取れる品物を分けてもらうようなことがあったようだ。ただ、その米は農家が収穫した普通の米とは違った、人々の善意や何かしらの祈りのこもった不思議な力をもっている米だという一種の民間信仰の対象として珍重されることもあったという。長岡瞽女の関根やすさんは次のように証言する。
「瞽女の米食べるとまめになるとかなんかいう。身体の弱い子にオケエ(お粥)煮て食わせるとの、まめになるなんという人もある。米はそれ、あっらな、いろいろんどこから持って行ぐ米らんだ、んまねぇという人はあらね。そらんまねぇわけらこて。そらろも、身体の悪い子にオケエ煮て食わせるとまめになるという人がある。大人もそういうんじゃねえかね。そんげの家が何軒もあっとう。」
瞽女の生態の本源は民間信仰と習俗にある
標記に示した通り、鈴木昭英氏の瞽女研究の大きな成果の一つが、それまでその関連性が示唆されたことはあってもそれを証拠づけるだけの調査研究がなされてこなかった、この瞽女と宗教との関連性を地道なフィールドワークにより実証しえたことであろう。氏は次のように述べる。
「瞽女が門づけの流浪を続け、農山村で商売することができたということは、一方、これを迎え入れた側の地方民に娯楽が乏しかったということとうらはらの関係にある。まさに、その表看板は、歌を売る芸人そのものであったのである。ところが、これとは別に、瞽女が様々の民間信仰の対象として、社会に積極的に仰えられた一面があったことは、これまで注目する者がなかった。今となっては全く忘れ去られようとしているが、瞽女の巡業がこの庶民信仰に支えられている点は無視できない。むしろ、この庶民信仰とそれにともなう習俗が瞽女の生態の本源を語るものと考えられる。この点に関し、私は、昨年10月1日新潟市で開かれた第24回日本民俗学会年会において「瞽女の民間信仰」と題して研究発表した。その概要は近く機関誌「日本民俗学」に登載されるはずであるので、詳細はそれに譲ることにしたい。そこでは、越後におけるいくつかの瞽女集団にほぼ共通して見られると思われる瞽女の民間信仰の諸相を類別し、1生業に関する信仰 イ.養蚕 ロ.稲作 ハ.麦作 ニ.綿作、2子安信仰 イ.安産 ロ.子育て、3療病信仰と、いう項をたて、なお遊行宗教者などに普遍的に見られる信仰習俗として1瞽女が集めた米の力、2瞽女を泊めることの功徳の2項目を指摘し、紹介した。これらの事象から、瞽女が庶民の信仰の対象となった根本要因は、苦難を乗り越えて山野を駆け巡り、諸方を遍歴するというその遊行性にあり、その職掌である歌芸が、単なる娯楽や鑑賞・嗜好の対象であるばかりでなく、人間生活の根底にかかわりのある切実な信仰の対象であって、遠い国から訪れた瞽女を、大いなる力―病魔、悪霊を払い、生産を促し保護する力、およびわが身の罪を滅ぼし、死者の霊を慰め供養する力―の持ち主と認め、人びとを祝福してくれる聖なる来訪者として意識し期待されていたことを知ったのである。ここにいたれば、瞽女歌は呪文であり、三味線は呪具、その哀調を奏でる三絃の調べはまさに呪術的なリズムにほかならない。そこに歩く祝言宗教者の痕跡を認めることができ、したがって瞽女は遊行宗教者の系譜をひくと思われるのである。」
安産祈願に唄読みをし、お札を上げる
これは長野県飯田に住む瞽女の調査からであるが、瞽女が歌を唄うばかりでなく、安産祈願の祈祷をしたり護符を授けたりしたという貴重な報告である。
「お産する人が、瞽女が旅まわりで使った三味線糸をもらって腰につけたり腹帯につけておくと、お産が軽くなるといわれて、実行する人が少なからずあった。飯田瞽女長屋では、伊藤家以外の瞽女がよく糸を切ってそういう人に上げていた。越後瞽女も、よく求めに応じてこれはやったことであるが、なお越後ではお産を軽くするため、妊婦が糸切れを細かく砕いて飲んだり、煎じて飲むようなこともした。伊那地方ではそうしたことは聞かない、とフサエさんはいう。伊藤家の瞽女は、そういう人にはおまじないの「唄読み」をして護符を上げた。おまじないは師匠のサザエさんが知っていて、自分はそれを習ったのだという。飯田瞽女全員が知っているわけでなく、伊藤家の瞽女だけがやったものという。「おまじないはやたらの人に許しちゃいかんのだ」といって、内容を聞かせてもらえなかったが、「唄読み」といわれていたので、特別の文句があり、それに地蔵の真言でも唱えたものだろうか。護符については、「あれはお地蔵様のお札だった」といっておられたから、どこかに祀られている子安地蔵のお札でも、旅まわりに出かけたときなどに受けてきておいて、それをお守りに上げたのかも知れない。ともかく「唄読みをし、お札を上げると不思議なほど早速痛みが収まり、丈夫な子が生まれたな」と、思い出しては感嘆する。ここにも、祈祷宗教者の側面が顔を出している。」
瞽女が集めた米の効力
瞽女さんが門付けで、家の前で唄ってくれるとお礼に少額のお金や茶碗一杯ほどのお米などを与えたそうです。瞽女さんにとっては米よりも軽くて何にでも使えるお金の方が本当はよりありがたかったという人もいますが、このお米はけっこう他の方にも喜ばれたようです。米屋でお金に換えるときも、特別なお米と見られたようですし、また、宿を借りたときもそのお米を分けてほしいと言われることがあったそうです。そのお米は多くの方々の善意がこもっており、施す方の様々な願いや祈りなども特別な価値として付加されたものと思われていたといいます。また、瞽女のお米を混ぜて炊いたごはんを病人に食べさせると元気になる、無事に健康な子供が生れるなど、様々な効果も言い伝えられてきたようです。
「瞽女が巡業で集めた米は、多人数の作善の結晶であるから効力があると認めるのであり、そこには治病・先祖供養・滅罪という庶民の基本的な信仰が横たわっている。」 
長岡大工町の瞽女屋は蚕神弁天を奉安する本山
妙音講で祀られる弁天様は音曲信仰の神としてよく知られているが、この弁天様が養蚕信仰に深く関わっており、しかも、長岡にあった壮大な瞽女屋敷をその本山に喩えることは卓越した識見なのだろう。その弁を聞いてみよう。
「長岡大工町の瞽女屋では、毎年三月七日に妙音講が厳修され、配下の瞽女が当日必ず参集するものとした。瞽女屋の菩提寺の僧侶による読経、御条目の朗読があり、ついで本尊弁才天に唄を奉納し、また互いに唄を競演し合い、その他もろもろの相談ごとがなされたが、この日は瞽女小路に露店が立ち並び、瞽女が旅に使用する桐油合羽や白木の蚕箸を専門に売る店が出た。瞽女はここで思い思いに箸を買い、弁天に上げて供養する。妙音講が終われば直ちに旅に出かけるが、間もなく養蚕期にはいる。供養した箸を荷物の中に入れて出立し、世話になる宿に「弁天様に上げた箸だから」「妙音講の箸だから」といってみやげに差し出す。妙音講で弁天に供え、お経に合わせ歌に合わせた箸は大変な功徳があり、これを使えば蚕が丈夫に育つのであるという。長岡瞽女にこのような風習があるところをみると、瞽女の守り本尊と称される音曲神弁天は、また蚕神の性格を備えていたことが理解されるし、そのような観点にたつと、瞽女屋は蚕神弁天を奉安する本山であり、養蚕農民がそこにお参りはしないが、瞽女がその信仰を仲介したもので、御師・祈祷僧的な役割を果たしていたということになる。」
蚕がよく育つようにと瞽女を泊めた
「コイさんによれば、山形県の人は蚕様をはいたから三味線の音を聞かせてくれ、よほど元気を出すとか、達者に育つとよく言われた。蚕が喜んでふとるという。また、使い古した三味線の糸を蚕棚のところに縛っておくと、蚕が病気しないから、糸の切れを授けてくれという人があった。「なんのわけでおら大事にしてもらわれるのかというと、蚕様が三味を好きだから、自分の家が蚕を飼っているので、どうか泊まっていってくれ、と言う。蚕がよく育ったとしくじったのとは大違い。瞽女は一得があるのだのう。蚕よくして、そして面白いめして」とコイさんは言う。ひとりコイさんだけでなく、米沢へ訪れた瞽女はだれでも経験があった。このように、米沢地方は養蚕信仰を基調として、瞽女を迎える庶民の態度が自然深情けとなったと言える。瞽女としても、それにこたえるのが商売上手である。それでよくみやげ物を持参したが、善久寺のおツタはお菓子をいろいろコウリの中に入れておいて、世話になった家の子供にくれていた。だから旅の人から大事にされたのである。無いものでも出してくれようとした人であったという。ツタは年を取ってから芸を習ったので、芸そのものは達者でなかったが、子供扱いがよい。「ツタさん来たかね、よう来たね」と、自分の子か親、きょうだいが来たように言われたという。神か仏のように扱かわれたという。そういう人と一緒に巡業すると、連れの瞽女まで大事にされてよかったとコイさんは言う。商売上手のツタは、米沢だけでなく、栃木や相馬・仙台方面にも積極的に巡業活動をした人であった。」
三味線の音・三の糸・集めた米・三味線袋
最初に総論のようになってしまうが、標記について、高田瞽女の親方・杉本キクエさんと弟子で養女の杉本シズさんの掛け合いのような想い出話を聞いてみよう。高田市(現上越市)東本町の杉本家での証言である。( )内はシズさん。
「(信州へ行ぐとね、お蚕さんてものは、三味線の音が好きで、わたしら門付けして行ぐと、はぇお蚕さん桑食べていても、三味線の音しると、ちゃーんと桑食べないで、頭(あたま)上げて聞いているもんね、はい。だからね、あの信州へ行ぐと、「あんたがた三味線の糸の切れあったらくれてください」そう言っちゃね、その糸の切れを上げると、お蚕の棚にねいっつけておくの、縛って。そうしるとお蚕さん喜ぶんですってね。)そういの言う人多かったでや。(「三の糸でも二の糸でも、切れたのあったら、もらわんねえでしょうか」って。)糸は、切れたのをお蚕が喜ぶの。は、使ったのをね。(今こそみんなお産するときに病院でしょう。そういがろも、元はほらみんなうちで、お産婆さん頼んでうちで赤ちゃん生むでしょう。そうするとほら、重たい人はなかなか生まれない人があったでしょう。そうするとわたしらの三の糸のね使って切れたの、あったらほしいって言うんだよね。それせんじて飲むとね、お産が軽くなって生まれるらしいんだ。そんなもんで、お産が早く出来るって。)お産と言うんだもの、三の糸。(お産だからね、使って切れたらのだらね、産を引き出すと言うんですって、早く赤ちゃん生まれるように。それをせんじて飲ませると、あの早く生まれるって言ってましたよ。)そういうもんですってね。(だけど今はみんな病院でね、生むから。)越後のしょうはそれほども言わんかったけどもね、信州へ行くと、お蚕飼っていれば、お蚕がやめて聞くほどだもの。(また、うちのおかみさんたちも、「あのお嫁に行ったんで、お産が出来るんだから、軽く生まれるように、あんたがたの三の糸の切れを、あったら下さい」そう言っていました。お嫁もらったり、お嫁にやったりして、おなか大きくなっているから言うんでしょう。)そういの。それ欲しいと言ってましたよ。(信州は小県でも、佐久郡でも言うていました。)んーん。米もね、丈夫になるしね。(わたしらね、集めた米ね、食べるとあの丈夫んなるってんでね、わたしらの集めた米を売ってくれって言った人もありますし。)やはり、信州の佐久でね。(越後の人だたって、そう言ってた人もあるけどもね、たまに。あの、子供の弱ーい人やなんかね、わたしらの三味線袋をね、三味線袋を自分で縫って三味線入れておくよね、その三味線袋を欲しいって言った人あるよね。だけど、それは、それだって信州だわね。)ん。出来た子供のね、それをこわして、わたしらの使ったのをなんかにして着せるんでしょう。(ジバンに縫うやら、なんに縫うやらね、縫って着せるんでしょう。そうしると丈夫になるというの。)ん。(米は、炊けばあんた、病人だたって病人でねえたって、みんな瞽女さんの集めた米は、あの食べれば丈夫になるって。弱い人はね、そう言ってましたよ。)」
浜瞽女・山瞽女の特色
上越地方には、小さな組であったが、浜瞽女・山瞽女と呼ばれた瞽女達がいた。小さな組織ではあったが、「親方が必ず高田の町に自分の家を構え、そこで弟子を受け入れ、養育し、家督を相続させる」という高田瞽女本来の「座元制」とは異なる師弟関係をとっていた点で特筆すべきであるという。
「目を上越に移すと、西頸城・東頸城の浜瞽女・山瞽女も、これと対比すべき高田組は、高田の町に居を構え、座という強力な自治制度を保って結束してきたが、これらは員数も少なく、組織というにはあまりにも小さな師弟系譜集団で、田舎瞽女の域を出ない。中越の長岡組に対する下組瞽女のような、同じ立場にあったものと言える。しかし、それはそれなりに地域的な特色を有し、これらが高田町の郊外に宿をとり、巡業の拠点とするとともに、妙音講・名ぶるまいを行ってきたことは、高田瞽女を敬遠した意図があったかも知れぬが、別派としての独自性を物語るものであろう。その歴史は、三条組以上に知られなくなっているが、瞽女たちが自分の生家で家族の一員として生活し、弟子を養成したらしく思われるので、このあたりは高田瞽女と異なるようである。高田瞽女は、親方が必ず高田の町に自分の家を構え、そこで弟子を受け入れ、養育し、家督を相続させるのである。むしろその方式は、中越から下越にかけての瞽女組織との類似性が指摘できる。諸方に散在する瞽女組織の特色であろう。ただ、生存者からある程度のことが聞けた土底組について言えば、この組は、入門したとき親方から瞽女名をもらい、一人前の芸の修得ができた後、本格的な出世名をもらい、名ぶるまいの祝いをするが、これらは高田瞽女と共通したものである。これが高田組の影響か、模倣したものか、あるいはこの組独自に備わったものか、数ある瞽女集団の発生と展開の問題の一環として今後研究する必要がある。」
糸魚川瞽女の特色
糸魚川(いといがわ)瞽女については、知っている人も少なく詳細は不明という。
「糸魚川瞽女は、その出身地が農山村であるが、本拠を町に置いたと考えることができ、親方が家を構え、家督を弟子に相続させていた点は高田組と共通している。ただ、生存者が一人もなく、この組の修業年次や妙音講がどのようであったか知るつてがない。小人数ながら、その行動範囲は西頸城の農山村一帯に及び、なお松本街道を伝って昔から交通の盛んな長野県奥深く巡業の旅を続け、独自の活動を示している。」 

 

「新飯田組(にいだぐみ)」命名の由来
「私は、かってこの御講組瞽女の一人として活躍した現白根市東笠巻新田に住む坂田トキさんが伝えて言う「新飯田組」に注目し、それをこの御講組の組名として公称したいと思う。トキさんが白根市大郷の小柳ミテ(芸名ヒデ)師匠から教えてもらったところでは、「自分たちの組は下側瞽女の新飯田組だ」ということだった。 (中略) 私がこの「新飯田組」なる名称を取り上げるのは、この組によって大切に扱われてきた根本的文献資料と関連を有するように見受けられるからである。その文献は、『御条目』と言われる巻物で、後に詳しく紹介するが、この組仲間の什物として伝えられ、妙音講の席で毎年朗読されてきたが、昔この組の師匠が出た白根市神屋の飯田家に保存されてきた。」
三条組の特徴
三条を中心とした三条組があったが、その実態は今一つ明らかでないようだ。どうやら「妙音講」に皆が集り、そこでいろいろなことが決められた点で、「お講組」と言われたようだが、明確なことは分からない。
「視点を明治以降に置いた場合、三条組はその擁した員数からいうと、県内では長岡組・高田組・刈羽組に次ぐ、ほぼ第4位、あるいは第5位に当たる集団であったと考えられるが、長岡瞽女のような特定の瞽女屋も瞽女頭もおらず、その組織構造は刈羽組のそれと類似性が濃厚である。出世する年あき瞽女の生家で、その瞽女の年あきぶるまいと併修して仲間全体にかかわる妙音講を開く点は全く同じである。しかし、三条組の妙音講は、三条組以外の講員も含むお講組で維持・運営されてきた点、今後の研究は要するが、特殊性を持つ点であると言えそうである。総体的にみて、長岡瞽女のような大組ではなかったし、中心がなく基礎もしっかりしておらず、規律・懲罰も厳しくなく、儀礼的方面も形式化し、各師弟系譜の連係も弛緩を来し、組織が早く弱体化したようである。したがってその巡業圏域も、小集団であるから、県内・県外とも特定の小地域を占めるのみであった。」
高田瞽女の歴史概略
後にも触れると思うが、新潟県には大別するに長岡瞽女と高田瞽女があり、瞽女の人数が圧倒する長岡瞽女が筆頭にあげられることが多いが、この二つ、組織の形態が異なる。高田瞽女は、高田(現上越市)に居を構えた親方が弟子をもらい受け、芸を仕込み家督相続するという「座元制」であったのに対し、長岡瞽女は、もらいきりの弟子もあったが、稽古期間だけの住み込みや通い弟子もあり、また師匠が弟子の家に行って教えることもあるという「家元制」であった。当然、長岡方式の方が弟子は多くなる。さて、高田瞽女だが…
「高田瞽女は、寛永元年に藩主松平光長が越前北の圧から高田に移封の頃、川口御坊なるものが高田瞽女を取り締ったと伝え、その当時の領内の瞽女は二十三人であったという。下って、文化十一年の瞽女仲間議定証文には五十七人が署名し、さらに明治三十四年には八十九人と増加したが、大正十一年には四十四人に減じ、昭和八年には二十三人となり、もと十七軒の親方の家が高田の町にあったが、太平洋戦争時代以来、杉本キクエを親方とする三人家族の家一軒だけとなった。」
刈羽瞽女とは
「組」の考え方について分かり易く書いてある。ここでは「刈羽瞽女」について。
「一口に「刈羽瞽女」と言うが、これは抽象的、観念的な用語であり、この名称をもって呼ぶにはある程度の前提を述べておく必要があろう。まず第一に、刈羽瞽女と言うが、刈羽郡内出身の瞽女がすべてこの系統の集団にはいるとは言えないことである。長岡系瞽女で刈羽郡の出身者があったことは前の報告にも記した。調査が進展するにつれ、あるいは長岡系以外の別集団の瞽女が刈羽郡から出てくるかもしれない。次にまた、刈羽瞽女とは言うが、刈羽郡内居住者だけとは限らぬことである。瞽女の師匠や姉妹弟子たちの巡業の縁で、あるいは居住地の近隣、その他の関係で、刈羽郡以外の盲女もこの組織にはいり得たし、事実そのような人があったことは後に述べることで明らかである。刈羽瞽女の野中組に属した伊平タケさんは「刈羽組は長岡組と全然ちがいます。刈羽のうちにいても、長岡の衆の弟子になっていれば長岡組と言っています。親方が刈羽の方の者であれば刈羽組にしておきます。刈羽にも長岡瞽女がいたし、長岡にも刈羽瞽女がいっぱいいた」と、刈羽・長岡双方の組織が相違する点や、地域的な重複性を述べている。このような制約があるとしても、刈羽瞽女はやはり刈羽郡を中心に形成された瞽女集団である。例外を除けば、一般には刈羽郡に親方があって、そこから枝葉に分かれた弟子・孫弟子・曾孫弟子等々が刈羽郡内を中心に分居し活動した師弟系譜集団であったと言える。」
長岡瞽女の由来
長岡瞽女の由来を話すには、毎年春に行われる「妙音講」で繰り返し聞かされる「縁起」を紹介するのが一番いいのですが、まあ、昔の事ですから難しい言葉などがたくさんあって、ちょっと理解しにくい点が多いので、ここはとてもわかりやすい、瞽女の渡辺キクさんの語りを聞いてみましょう。長岡瞽女に関する伝承です。
「その、瞽女の先祖様は、長岡様、牧野様の妾の二号さんの子供です。山本ゴイという名前。牧野様の何代目の殿様だか、それは覚えていません。その殿様が、先には前橋の在の大胡というところに住んでいたんだそうです。国越えして新潟県に移ったんだそうです。それからその牧野の殿様が、長岡様が落ちる頃の子供じゃないのですか。落ちるころの子供だと思います。いつ戦争があって落ちたのか知らんけれども。それでその前には、みんな私らみたいな、そんな世渡りのできないものは手打ちにしたんだそうです。打ち首にね。その報いてだかで、その人の妾にね、目の見えない子供が一人できて、子供ができてみれば子を持つ親はみんな同じこと、手打ちになんか、無残なこと、可愛そうなことするわけにもいかんかったんでしょう。ですから、それで芸を教え込んでおいたら、いくら目が見えなくたっても世渡りができるし、楽しみもできるだろうと、それから目の見えない子供は生かしたんだそうです。目の見えない子供でも頭があれば何かできるだろうというので、それから芸を教え込んでね。その頃は大名方の子供さんの楽しみであったでしょう、芸がね。」 
「組」とは
まだ幼い目の不自由な女の子が自立のために瞽女唄を習いに師匠の下に付く。この行為が瞽女の基本単位を作る。いわゆる「組」という組織である。この「師匠−弟子」のペアが最小の組の単位となる。これについてしっかりした記述を見てみよう。
「師匠となって弟子1人を養成すれば、それはそれなりに最小単位の集団が成立し、基本的にはこれを「組」と称し、師匠は組親となり、師匠の出身地の村名あるいは郷名などを冠して組名とされる可能性を持つが、先祖師匠から2代・3代となった後の師匠がまた弟子をとっても、自らの組名をあらわさず、始祖師匠時代の組名をそのまま踏襲し、継承される場合が多い。始祖師匠の組名をのちのちまで依用した方が、瞽女仲間で系統的に識別しやすいという利点もあったためと思われるし、こんにちの伝承からは、その始祖師匠以前の系譜までは溯源できないということも関係があろう。」
声を良くするためにナメクジを食わされた話
瞽女の修行は厳しい。一例をあげると、「寒稽古」という厳寒の早暁、薄着をまとった程度で信濃川の岸に立ち、遥か彼方に見える向う岸に届けとばかりに声を張り上げて歌う。やがて声も枯れ、寒さで体が前に傾いてくる。それを後ろ髪を腰ひもに縛って無理やり上体を起こして、また歌う。雪が吹きつけ声が枯れていく。それを冬の間、何日間も行う。声帯を一回潰した声は、大きく長時間歌えるようになると言う。声を潰したままうまく歌えなくなった子供も多かったのではないか。心配してしまう。しかし、つぎの修行(?)は破天荒である。
「才津組の佐山キイは、声が悪いために水沢師匠にナメクジをさんざん食わされた。師匠としては少しでも声をよくしてやろうとの親心であるが、本人には身の毛がよだつほどのつらい思いであり、忍従であった。」
瞽女さんに育ててもらっても親方を捨てて逃げてしまう
これは高田瞽女のインタビューで少し分かりづらい所もありますが、師匠のつらさがよく伝わってきます。それでなくても手のかかる眼の見えない子供を一人前の瞽女さんに育てあげても簡単に逃げられてしまう気持ちは痛いですね。
「ああ、そうか。(それからはえ、昭和20年過ぎたら、順々順々にみんななくなって、それからはえもうずっと私ら1軒になったんですよ。)それやっぱりほら、高田のほうはもう厳しくてね、あの、旦那持たんねえんだから、だからそれによってみんな自分の子供欲しかったり、旦那欲しかったりしたもんだ、みんな外れて、瞽女さんのうちから出て、そして自分で気ままのことして。だからしまいには段々段々みんななくなっちゃった。(見えねえ人だってね、やっぱしほら、めえねえ人だったら、こうほら按摩さんね、按摩さんの旦那さん持ったりさ、子供欲しいから、そうやってみんな出たんですよ。だけどね、みんな瞽女さんのうちから、ほら6つ7つ9つ、そんなくらいでもらうんでしょう、そして育ててさ、そして芸仕込んでいるんでしょう、それだのに、自分がほら大きくなって、瞽女さんいやだといって、親方を捨てたりさ、して出るから、やっぱし運が悪いんですよね。みんなね、子供あったたっても、子供おいて死んでしまったんですよ。)自分の生んだ子供幾人も持ったといったって、なんにも楽しなんでね、死んでしまった。だから私そう言うの、人の御恩を知らんから、そのバチがあたったんだろうと。私、ね、目の見えねえ子供をさ、あんた、6つや7つから育てるというの容易じゃないですよと、芸も教えたり、世話して、あんたまあ、髪い(ゆ)ってくれたりさ、私いまここにいるシズ子というの、やっぱり、私も、昔の、やっぱり私も、昔の数えで7つで来た、シズ子も7つで来たが、だからやっぱり自分で世話になっているときは、まあわからないけれども、こんだこの子育ててみたら私は思い出したね。だからこのように親方の御恩あるのに、送らないで、みんな、ただ出てしまうからいいことないんだわね、と私のうちじゃ話していますの。みんなそうですの。出た子供の運のいい子供はない、はい。(見える人だったらさ、そらあ、見える人は旦那さん持たねえで商売しているということは、そりゃ無理だけど、あんた、見えない人だものね。見えないから親も承知したり、親もなかったり、あっても親が承知で瞽女さんからもらってもらえば、お金もいらないし、もとは按摩さんにするといったって、やっぱしね、お金もいるでしょう。だから瞽女さんから小さいときもらってもらえば、お金はいらないし。)何でも相談でもって、大勢見える子供を育ったんです。(見える子供もいっぱいあったけど。そら、旦那欲しいからね。はたち過ぎればみんな、暇もらって適当の旦那さん持ったってそれは仕方ないども、あんた、めえないのはね、まあ、せっかく瞽女さんになったり、してもらったり、育ってもらったりしてさ、そしてあんた親方を捨てて行って、自分の自由にするなんて、あんたちっとむごいでしょ。)」
年期修業の期間中の師匠への付け届け
これについては、後に触れるが、瞽女さんは組という組織に所属しており、その組によってそれぞれ異なるのであろうが、弟子が師匠にお渡しする盆・暮れの付け届けはどうなっていたのか。ちょっと興味があるところである。師匠から歌を習う訳だから、やはり何がしかの贈り物は差し上げたのではないだろうか。次の記述は「新飯田瞽女」に関してまとめた文章からの引用である。
「年期修業の期間中は、弟子の家では、稽古代のほかに、五節供の祝儀を師匠に差し出す。正月(または歳暮)、三月の節供、五月の節供、盆、九月の節供に礼をするが、これはどこの組の瞽女も行った慣習である。しかし、それのできかねる家庭もあるし、弟子入りのときの約束のつけ方次第である。坂田トキさんの場合、正月、3月、5月、盆だけで、9月は礼に行かなかった。塩田ノイさんの場合、旅に出ないときだけ、正月・盆に10銭ずつ包んで持って行ったという。」
徒弟における稽古
瞽女に入門すると、師匠や姉弟子から礼儀作法から始まり、何も知らない三味線の弾き方や簡単な瞽女唄を習うわけだが、ここでも師匠の教え方は様々であったようで、ちょっと面白い記述があったので書いてみる。もちろん、これが瞽女唄指導の在り方のすべてではないし、教え方の上手な師匠もいれば、小さい子を見るだけでいまいましいと、教えてくれない師匠がいたり、雪の中に二階から突き落とすような厳しい師匠もいたようだ。ここでは、一例としてお読みいただきたい。
「ミトが弟子に稽古をつけるにしても、それほどきちょうめんに教えた訳でもなさそうだ。ミスに対しては、覚えもよく、末の弟子でもあり、厳しいが丁寧に教えてくれたし、頭などは二回ほどしかたたかれなかったという。しかし、フジノやトキはよくたたかれていたというし、ヤス女はじっくりと教えてもらわなかったという。通い弟子ならよく指導するが、内弟子などは精魂入れないのが普通であった。ヤス女は、自分で聞いたり、点字で歌詞を研究して修得したものが多いという。いったん仲間と旅に出れば、寝ているほんの四・五時間が毎日の休み時間で、起きれば唄わなければならない。姉弟子から手を取って教えてもらう時間もない。「そんなゆう長なものではない。商売はそんな並優しいものではない。自分でなってみなければその苦労は分かるものではない」と言う。底辺社会にあって、生きるために闘わねばならなかった瞽女の心境が、この辺りによくうかがわれる。ヤス女はさらに言う。「初めてミトのところへ来たときは声がよかったが、休まずに唄わせられたので、つぶれて浪花節のような声になった。それで、こんどはお客に浪花節をやってくれという希望者があり、仕方なく浪花節を研究して語るようになりました。そんな具合だから、今でも満足に声が出ません」と。また、空っ風の吹く上州働きを続けでヤス女は体を壊したが、ミト女はその後も旅に出させたという。ともかく、子供たちは養われている立場であり、陰では何を話していようと、親方には面と向かって不平を言う者はなかった。そういう時代ではなかったのである。」 

 

瞽女入門者の年齢
昔は今に比べて、目の見えない方が多かったと聞きますが、どうなんでしょう。
「昔は先天的盲目というのは少なかった。癇目・風眼・はしか・庖瘡・そこひ・トラホーム等々、眼病による失明が大多数を占めている。それもほぼ三〜五歳の幼児期に発病し、急速あるいは漸次に、失明または半盲目となる。だから、七、八歳前後で瞽女を志し、師匠に入門するというのが多かった。」
もう少し、眼の病気について詳しく言うと、実際に鈴木先生がお会いした瞽女さんに聞いた結果があるので、見てみましょう。
「昔はいかに盲人が多かったことか、農山村地帯には衛生思想が普及していない。また思慮分別なく子供を生み、いそがしさにまぎれてその子をかえりみない。医学の光明にもまだ浴していない。伝染病に対しては何らなすすべを知らない。全てこうしたことが、目の障害をもたらしたのである。私が調査したものの中で、視力障害の原因が明確に知り得た者35人の内訳は次のようになる。
癇目 / 8 風眼 / 7 はしか / 5 疱瘡 / 3 おとみまけ / 3 そこひ / 3 トラホーム / 2 食べすぎ / 1 近眼 / 1 あやまち / 1 生まれつき / 1
いうまでもなく、風眼は膿漏性結膜炎の俗称であり、そこひは眼球内の疾病の総称である。はしかは結膜炎をともなうもので、トラホームとともに伝染病である。おとみまけというのは、ちのみ子のうちに母が次の子をはらんでつわりとなったため、乳離れをして起す小児病である。あやまちとしてあげた1例は、山本ゴイとなった中静マス女のことで、昔中静家は養蚕を行なっていたが、マスさんが3才のころその桑の枝でさして両眼をつぶしたという。このデータによって、癇や風眼、はしかによる目の障害が多いと知られるが、先天的の盲目というのは、五千石組の中島キクエさん1人だけであったことに驚かざるを得ない。しかも失明のほとんどが幼児期であった。年を取ってからの障害者としては、大郷組の親方小柳ミテ女が19才にアオソコヒ(緑内障)で目をつぶしたのが最年長であり、宮本組の加藤タマ女が娘のころ宿場の田村屋に女中奉公していて、15才のとき恐しい目の病気にかかって失明したというのがそれにつぐ。こんな例はむしろ稀で、ほとんどが3〜5才の幼児期に小児病で盲となったという。長年の間に徐々につぶれた人もあるが、一晩でつぶれたという者もあり、眼病の猛威をまざまざと感ぜさせられる。」
瞽女社会の戒律
昔は、幼くして目を患い、失明に至る子供が多かった。劣悪な環境もあるが、今ほど一人の子供に割ける親の余裕もなかった。未発達な医学や栄養保健知識など様々な原因はあるだろうが、視力を失っていく子供の将来を思う親の切なさは今も昔も変わらない。視力を失った子供に社会が与えてくれる仕事は数多くはなかった。瞽女はその少ない仕事の一つだった。
「瞽女の社会は戒律がきびしい。年季の期間には、芸はもちろん、いろいろめんどうな作法を教えてもらい、堅いことを守るのである。ビロードや絹天などの絹類は着てはいけない、化粧してはならぬ、師匠や姉の上座に坐るな、食べ物はいちばんあとで手をつけなさい、など。「御縁起」にも書いてある。もちろん男は禁物。ところが、瞽女は目は見えないが人間であるから、色気のある人もあれば、盗っと気のある者もある。そうした悪いこと、まちがったことをした者は、たとえ5年、8年、10年と年季をつんでいようが、またもとへ下げられる。これを「年落とす」とも「年とる」ともいう。学校の落第と同じである。10年ぐらい落とされると名前も替えられる。世間を情けで渡してもらう商売であるから、特に掟が厳格であった。」
瞽女の修行期間(年期)
「瞽女の弟子入り修行は年期制である。年期奉公が終了しなければ一人前の瞽女にはなれぬし、一人立ちもできない。弟子取りする師匠にもなれない。その年期の期間は、長岡瞽女・刈羽瞽女は足掛け二十一年(満二十年)、三条瞽女・高田瞽女・土底瞽女はほぼ十年ほどであった。これはあくまで原則であって、務めの良し悪しで年期明けが短縮・延長されるのである。」
随分長い修業期間である。高田と長岡などは事情は大分異なるが、弟子を取れる一人前の瞽女さんになるには、相当な稽古をしなければならなかったのである。しかし、瞽女稼業は修業中から行うことができ、巡業で得られた報酬も均等に配られたという。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幕末江戸の唄本屋 ―吉田屋小吉が発行した唄本について―

 

はじめに 
明治期、地方で発行された〈やんれ節〉口説の唄本を調べて行くうちに(注1)、幕末の江戸で発行された唄本の状況を詳しく知る必要がでてきた。幕末に大量の唄本を発行しているのは江戸馬喰町の唄本屋、吉田屋小吉である。そのため本稿はおもに吉田屋小吉の出版活動を考察したものである。
幕末から明治にかけての、数ある流行唄の中で、〈やんれ節〉ロ説の特徴を一口で言うならば、世間の耳目を驚かした、あるいは世間の人々が好奇の目を注ぐような何らかの事件を歌う叙事歌謡である、と説明することができよう。内容的には心中物と時事・災害物であることを特色とする。とりわけ題材に事欠かなかったのは巷で起こる男女の心中事件であった。しかし、心中事件を扱う出版物の発行は、幕府が出した享保八年(一七二三)の禁令以来、公然とは許されなかった。ところが、禁制の緩んだ幕末になると、そうした口説本が次第に世間に出回るようになる。ただし、口説の唄本は読売として売られたから、その発行年が明らかなものは安政三年(一八五六)の『湯本心中くどき』ぐらいで他はほとんど分からないが、『藤岡屋日記』弘化四年の条に載せる、「八丁堀松坂屋吉蔵板元」と発行者を明記する口説本「越後/信州地震くどきやんれ節」の例があって、状況判断から言えば天保の改革が過ぎた弘化年間(一八四四ー四八)あたりから災害を歌う〈やんれ節〉口説の唄本が出回り始めたと考えられる。また、心中事件を歌う〈やんれ節〉口説の唄本は、歌われた事件から見れば安政以前のものとして、
『富田村心中くどき』(嘉永三年の事件)
『しん板宝珠花心ぢうくどきやんれイぶし』(嘉永六年の事件)
などがあるが、これらは災害物より遅れて安政年間(一八五四ー六〇)以後に発行されるようになったと考えられ、そのきっかけとなったのは、江戸の民衆に「世直り」の出来事として受け止められ、世情を一変する出来事となった安政の江戸大地震であった(注2)。 江戸で〈やんれ節〉口説の唄本が出現する状況を大まかに言えばこのようになる。 
 
1 弘化年間の〈やんれ節〉 ー「天保騒動ロ説」についてー 

 

架蔵の唄本に『そうどふくどきぶし』(全三丁)と題する、福島の連続殺人事件をとりあげた作品がある。時は天保十五年二月、遊女に通い詰めて身を持ち崩した下級武士(足軽)が、自暴自棄になって起こした惨事である。発行者不明の唄本で吉田屋版ではないが、まずこれからとりあげてみたい。
この類の文献は散逸しやすいので次に全文を引用する。
(引用は、意味がとりやすいように、原文の仮名書き部分を漢字に改めたが、末尾〈資料一〉に写真を掲げておいたので参照されたい。*印は不明な文字。清濁は原文のまま。)
騒動くどきぶし
一 奥州伊達福島瀬ノ上両所
一 増田佐一郎と申物乱入いたし大勢の入を切ころしそふどふの事新文句作いたし候もの也
天保十五辰二月九日
今度 サイ 珍し騒動がごさる 国は奥州その名も高き 伊達の福嶋北町にては ここに刀屋金兵衛内に あまた女郎のあるその中に 御職 女郎の重の井こそは 人に優れて諸人に愛嬌器量骨柄たとへに言わば 春は三月桜の花に 香まさりし梅花の色に 姿やさしきその振り袖に 一目みる人心にかける ここに当所の御家中にては 増田氏とて足軽なるが 年は廿一男の盛り 人にすぐれて美男てあれは 初回座敷のその一座より 互へみ染しその折々に 積もり積もりて恋路の淵も 深くなるほど我が身の詰まり 使へ果たしたそのあとあとは 因果同士の月日を積もる 身請けならねはただうかうかと ここに同く福島にては 重きお役の御家中なるが 次男子供に丹次とゆふて 年は十九てみめよき男 かねて重の井心にかけて 或日二親その目を忍び 上がる二階は刀や内よ 初回初音の其うぐいすも 春の梅花に止まりし心 積もる恋路の重なる上は 移りやすきは女の心 遂に重の井丹次になびき 今は佐市郎よそ目に見れば 今は恋路の闇夜に迷へ まはす心に恋路をからみ 丹次殺してすへ遂けましよと その夜北町通りしおりに 月にまをなすそのむら雲に 佐市丹次に逢ふ夜の喧嘩 すでに切つけ殺さんものと 佐市見廻す其おりからに 夜の事なりやその場を遁れ 丹次我家に逃げ帰らるる あとに佐市は無念の歯噛み 明日にこの事知れたるならは 我が身斗はままにもしよが 知らぬ親まて難儀をかける いつそこれより駆け落ちしよと 無念ながらも涙と共に 何拠ともなく逃けゆくとのさ やんれい
ここに サイ 佐市郎 逃け退くとこは 伊達の半田のその金山に 少し知る辺を尋ねてあふて 我身子細をこまかに咄し まつはしばらぐ半田の山に 隠れ忍んて奉公いたす 積もる年月七年斗天保十五の其春なるが 二月八日のその日の事に だんな金山○○の留守に 箪笥開へて大小取て 金も少々蓄へいたし すくに瀬の上備中屋にそ泊る その夜は女郎買へなさる 初回お客の心も知れぬ 増田佐市郎女に向かへ 今宵一緒に駆け落ちしよと 佐肺近けなびかぬままに もはやその夜は天明ぬれは もののたたりは恐ろしものよ 差した刀は村正なれは 血吸へ名作たたりのゆへに 一夜添へ寝の女郎を殺し そのや二階を下へと落ちて 店の女を二人を切て すくに火事ぶれいたして逃ける となり玉屋の女房聞へて 出て見るより増田合は すぐにその場て切殺さるる 佐市乱気の心てあれと 人を殺した我身てあれは とても命はこれ迄なりと さあさこれより死ぬるも良へが おんへ残るは重の井斗 可愛可愛か積もりてみれば 憎さ百倍遺恨の刃 連れて冥途にゆくものならは 人の花にはなりやせまへと すぐに福嶋北町さして もはや北町刀屋なれは 表門より血刀もちて 入る茶の間の戸を押し開けて 敵も味方も白刃の刃 あたるものこそ無常風よ ここにあわれは子もりのおさわ 年は十三いま咲くつつぼみ 朝のまんまを食べおるとこを 水もたまらつ首打ち落とし 家内騒きて騒動いたす すぐに佐市は二際に上がる 下の騒動て重の井起きて帯を引き締め二階を下かる そこゑ来かかる佐市郎こそは 逃ける間もなく遺恨の刃 右の腕を打ち落とさるる 返す刀て首かき落とし 聞ぐもあわれや身の毛もよたつ すぐにその場に寝ておるおかた ものも言わつに上より切れは とんて下いとその場を遁れ すくに佐市も下へと落ちる 内の伜は近所へまいり 内の騒鰯それ聞くよりも 伜とぐちは刀を取て 抜へて合せし佐市郎なるが 乱気狂気の刀先なれは とぐちかなわづ手を負へながら すぐに町中火事ぶれいだし 人は火事よと仰天いたし ここにあわれは団子屋夫婦 出てて見るより佐市に切られ すぐに其場て即死をいたし 今は佐市郎その場を逃けて 喉はかわけは保原屋内て 水をくれよと無心おいたし 飲んて一息力をつけ さあさこれより死に恥かがは 末の世までも我身の恥辱 ふなば小路に身を隠されて 死出の三途の冥途の支度 腹お切らんとするそのとこへ 大勢人々折り重なりて 遂にその揚て打ち殺さるる 聞くもあわれやこの騒動は 世にも稀なる珍し事よ 末の世まても名をさ残すとのさ やんれい
表紙にある「天保十五辰二月九日」は、事件の日付であって、発行日ではない。これなどは比較的古い作品と思われ、災害口説に乗じて発行された唄本であったと推測されるが、発行年も発行者も書かれていない巷の事件を扱った瓦版の唄本である。「さうど サアヱヱ ぱなしや心中くどきせじやうせかいにかつある中に」(注3)と歌い出す口説本があるように、残された作品の数は少ないが騒動ばなしも心中事件同様に唄本に載せられる恰好の話題であった。
読んでいくつか気付くことは、次のような点である。表記からみると、「い」を「へ(エ)」と書いている部分が多いこと。「だでのふぐしま」など濁音が目につくこと。二階から下へ降りることを「落ちる」とも言っていること。その他、内容的には教訓的な言葉がいっさいないこと、また表紙の絵は素朴で浮世絵師が描いたものではないことなどから、地方色の濃い瓦版的な唄本である。
また、文中「聞くも哀れや身の毛もよだつ」の文句は、先行する地震口説からきていると考えられ(注4)、この唄本が〈やんれ節〉口説の流れのうちにあることが確かめられるのだが、歌い納めのことばが気になる。〈やんれ節〉口説は一般に「…サヱー」と始まり、「ヤンレー」と終わるのだが、これは末尾「ヤンレー」の前に「とのさ」と付いているからである。このような例はまだ見たことがなく、筆者の限られた知識から判断すれば、これは〈やんれ節〉口説としての形式がまだ整っていない時期のものであることを示していると考えられる。
この「とのさ」という語句から思い当るのは、〈新保広大寺崩し〉とも、〈越後節〉とも言われた〈とのさ節〉である。文政五年(一八二二)、松井譲屋編『浮れ草』(近世文芸叢書・第十一.「僅謡」所収)に載る〈しんぼ広大寺崩し〉の一例には次のような流行り文句が載る。
殿さヱとのさ羽織を、何に染よと紺屋で問えば、一に橘二に杜若、三に下り藤四に獅子牡丹、五つ伊吹の千本桜、六つ紫絞りか鹿の子か、七つ南天八つ山吹、九つこぼれ梅ちらしに付けて、十でとのさの心意気を染たやんれ
越後瞥女が流行らせたこれらの歌は、飴売などによって〈越後節〉として諸国に歌い広められ、「関東や東北ではこれを「とのさ節」と呼んでいる」(注5)という。形式面から見ればこの歌謡は、「三・ヱー・七・七七・七七・七七・・・七九・ヤンレー」となっているが、これに比べて『そうどふくどきぶし』の場合は、「三・サヱー・四・七・七七・七七・七七・・・七七(七九)・ヤンレー」となっていて、歌い始めにかなりの違いがあるから文化文政期の〈とのさ節〉そのままではない。むしろ例ば吉田屋小吉版・『於吉清三しんぢうくどき』(全四丁)のような〈やんれ節〉ロ説の唄本の、「今度サアヱ・あはれなしんぢうばなし」(三・サヱー・四・七)と始まり、「前のお堀へ身を捨てまするヤソレヱ、」(七七・ヤソレー)と終わる形式に近い(注6)。
しかし、普通〈やんれ節〉ロ説には無い末尾の「とのさ」の語をどう解釈すればよいのだろうか。〈とのさ節〉と称されるのは、もちろん文句の歌い出しによってであるが、右の例でいえば末尾の文句もまた「十でとのさの心意気を染たやんれ」と歌い納めている。『そうどふくどきぶし』の場合、前半の末尾「何処ともなく逃けゆくとのさ やんれい」も、後半最後の文句「末の世まても名をさ 残すとのさ やんれい」も、「とのさ」は意味の上では不要である。分かりやすく書き換えれば、「末の世まても名を(サー〉残す(トノサ ヤンレイ)」となるだろう。すなわち、末尾の形式は「七五・トノサ・ヤソレイ」であり、七七を繰り返した最後に七五で止める形式であることが確かめられる。
藤田徳太郎(『近代歌謡の研究』一九三七)以来、町田佳声(前掲書)、竹内勉(「新保広大寺ー民謡の戸籍調べ』一九七三)などの民謡研究者によれば、〈やんれ節〉口説は、越後の民謡〈新保広大寺〉から〈新保広大寺崩し〉を経て成立したとされる。そして天保年間には〈やんれ節〉口説の古典的な作品『鈴木主水白糸口説』が諸国に流行した(注7)。その末尾は、「聞くもあわれな 話でござる ヤソレヱー」と七七のままで終わり、幕末の〈やんれ節〉口説の唄本はこれをほぼ踏襲する。それから考えると、この『そうどふくどきぶし』は、〈新保広大寺崩し〉と〈やんれ節〉の中間に属する歌謡なのではないかと推測される。末尾の「トノサ」についても、もともと呼びかけだった「殿さ」から、「・・・だとさ」と言った伝聞の意に変わっていると考えられる。おそらくこれは安政の江戸大地震以前に発行された唄本であろう。〈やんれ節〉口説唄本の発行情況から考えれば、さらに時期を限定して天保の改革直後、弘化年間あたりに地方で発行されたと見てよさそうである。  
 
二 幕末の唄本屋 −吉田屋小吉についてー

 

弘化年間以後、〈やんれ節〉口説を含めたさまざまな流行唄が、唄本として発行されるようになった(注8)。次に、ここでは具体的な発行者を例にとって幕末の唄本の流れを検討してみたい。
幕末に発行された唄本は、とりわけ〈やんれ節〉口説のような時事的な事柄を歌うものの場合、多くは発行者の名前を記さない。残された僅かな例に、「舟かね」「哥かね」「哥政」「松竹梅」「竹浅」「竹弥」などがあるが、いずれも発行者本人を明示しないのが特徴となっている(注9)。これは世情の事件を読売にして売りあるくことを禁じた幕府の御触れに抵触することをきらう意識から来ている。そうした中で、〈やんれ節〉口説の唄本に堂々と発行者名を記載している例がある。吉田屋小吉である。ただし彼の場合、発行者を明記する替わりに、いわぽ際物を載せることはしなかった。
吉田屋小吉とは、いかなる害璋であったか。『改訂増補近世書林板元総覧』(一九九八年刊、日本書誌学大系76所収)には次のようにある。
吉田屋小吉 吉田氏 江戸馬喰町三町目☆三四郎店
商売往来千秋楽 文政2合
一枚摺番付・関東市町定日案内
尾張の源内くどき(上下八枚物)明治17
*瓦版多し。嘉永五年閏二月の月行事(地本草紙問屋名前帳)。
*石見銀山鼠取り薬で有名。守貞漫稿に看板あり。満類吉、丸喜知とも書き、商標が丸に吉ノ字。同じ町に和泉屋栄吉との合板多し。明治に栄吉は吉田氏を称している。
これを箇条書ききふうに言えば、@往来物を出版していたこと、A文政年間には出版活動をしていたこと、B一枚摺の番付などを発行していたこと、C明治期にも口説の唄本を発行していたこと、D瓦版を多く発行していたこと、E地本草紙問屋であったこと、F石見銀山鼠取り薬で有名だったこと、G満類吉あるいは丸喜知の号を使っていたこと、H同じ町に和泉屋栄吉(永吉とも、明治には吉田栄吉)という出版同業者がいたこと、となるだろう。
和泉屋永吉については、説経祭文(注10)などによれば、その住所が「横山町二丁目横丁」とも「馬喰町三丁目」ともなっている。また、吉田屋小吉は明治三年刊の『誠忠義士銘々伝』(隅田了古著・仮名垣魯文補)に九書肆との相版で「吉田屋」小吉と名を連ねているが、その後吉田小吉と名を改めた比較的早い時期のものとしては、明治十年九月発行の唄本『鹿児島太平くどき』がある。
(1) 文政・天保年間の唄本 −満留吉・仙女香−
さて、@の往来物には天保十四年刊『謹身往来』(吉田其幸著、三河屋甚助・近江屋太吉と相版)もあり、そのほか刊年不明の次のような書籍を出版している。
『智計雑談』(笠亭仙果一世編・梅暮里谷峨二世訂、竹屋次郎吉と相版)『ひとりうらなひ』
文政年間には出版活動をしていたようだが、いつごろまで遡れるのか分からない。唄本には発行年がないから直接的な資料にはならないけれども、吉田屋小吉が発行した唄本のうち「仙女香」の宜伝があるものが多少の手懸かりを与えている。仙女香は、江戸の「京橋南伝馬町三丁目、稲荷新道、稲荷社東隣」にあつた坂本屋から売り出された白粉の名で、「御顔の妙薬」、すなわちにぎびやそばかすを治し肌を綺麗にするという謳い文句で売られた薬用を兼ねた白粉だった。また、「仙女香の銘柄の由来は、名女形瀬川菊之丞の名で披露されたからで、彼が文化四年に仙女と改名した、その名をとったものという」(注11)。一包が四十八文であった。「仙女香十包ねだるばかむすめ」(『柳多留血百十篇)という川柳があるが、娘が欲しがったのは仙女香ばかりではなかった。次の広告を見ればなぜ十包もねだるのか知れよう。
・・・右の薬十包以上御求め成し御方えは江戸三芝居役者認る自筆の扇一本呈上仕候趣は三芝居座頭御弘め御披露申上候義に御座候 (文政七年刊『江戸買物独案内』二七九丁目)
なんと芝居小屋と提携した景品付き宣伝であった。仙女香十包買えば、役者の署名が入った扇一本を差し上げますというわけで、娘たちが夢中になるのも無理はない。仙女香の広告掲載は、吉田屋の唄本が女性客も有力な講読者だったことを思わせる。
また、「何にでもよく面を出す仙女香」といった川柳もあって、この白粉の発売者が「草双紙の改め役だったことから、その顔を利用して、江戸の小説本や錦絵などの版元、ひいては作者・浮世絵師にまで協力させ、あらゆる出版物の紙面を使って、当時としては画期的な大宣伝網を敷いたのである」(中田節子著「広告で見る江戸時代』一九九九所載、林美一「江戸の広告事情」)とも言われ、その売出しは、文政の始め頃まで遡る(注11同)ようであるが、さらに天保の改革によって「奢侈禁止令」が出た天保十二年(一八四一)以後は、仙女香のような化粧品の宣伝が大っぴらにはできなくなったと考えられるところから、「仙女香の集中的宣伝は、およそ文政末から、天保の改革(天保十二年)以前と思われる」という西沢氏の説(注12)が宜しかろう。
吉田屋版のうち、仙女香の広告が入った唄本には、
『いろは新文句 しり取よしこの』(上・下、各2丁)
『いせおんど 住よしおどり新文句』(上・下、各2丁)
『十ニケ月しんぐいぐいぶし』(上。下、各2丁)
『こころいき うかれ都々一』(上・下、各2丁)
『しんぱん とつちりとんぶし』(上・下、各2丁) (注13)
などがあり、発行者は「満留吉(満類吉)」とする。このほか、『こころ意気 しん内よしこの たまきや伊太八/さかいや尾上 帰咲抜書文句』(注14)には、「伯楽第三街 満留吉新選」とも記していて、「伯楽第三街」はすなわち馬喰町三丁目を洒落たものだから、これからも「満留吉」は「馬喰町三丁目吉田屋小吉」であることが知れる。なおまた、『心ゐき しん内よし此 浦里時次郎 明鴉抜書文句』(注15)にも、「伯楽第三街丸喜智新板」とあって、「丸喜智」と記す例も知ることができる。
また、『新文句 浄瑠璃入十二月よし此』(注16)には、「仙女香/美玄香価四十八字 江戸銀座町 坂本氏製」とあり、この「仙女香/美玄香」(「美玄香」は白髪染であり、白粉と黒・白で対比)の並列広告は文政四・五年ごろから現われ(注17)、天保四年(一八三三)刊の為永春水著『春色梅児誉美』四編末尾にも「美艶仙女/美玄好男」と角書した『玉手箱浦島日記』と題する春水の著者が予告されている(注18)ことから、天保年間まで続けられた宣伝である。総じて、「満留吉」の名で仙女香の広告を入れた吉田屋小吉の唄本の発行時期は、〈よしこの節〉唄本の存在から、その節が流行した文政年間まで遡りうるもの(注19)と考えられるし、また仙女香が盛んに宣伝された改革以前の天保期に多く発行されたと考えられる。
以下、幕末から明治初期にかけて発行された端唄類など〈やんれ節〉口説以外の「馬喰町三丁目吉田屋小吉板(版)」唄本を、現在知り得た限りで掲げる。
『いろは新文句 しり取よしこの』
『心ゐき しん内よし此 浦里時次郎 明鴉抜書文句』
『こころ意気 しん内よしこの たまきや 伊太八さかいや尾上 帰咲抜書文句』
『巽廓新文句 花の笑顔芸者吉この』
『伊呂波四十八もじ しり取文句新吉此 前編』
『新文句 浄瑠璃入十二月よし此』
『鴻賀じん内 抜書文句』
『いせおんど 住よしおどり新文句』
『伊勢おんど すみよし踊新文句』
『十二ヶ月 しんぐいぐいぶし』
『こころいき うかれ都々一』
『新文句 かりたくどどいつ』
『しんばん とつちりとんぶし』
『しん板 仇文句地廻りそそりぶし』
『道楽寺阿房陀羅経』
『しやれ文句 よしこの』
『春さめぞうし絵入あだもん句』
『新はん 夕ぐれかへうた』
『新板 川竹はうたもん句』
『流行 はうたいよぶし』
『しんもんく たびのそらはうた』
『当豊年世よし 大はうた』
『化粧の水 近江八景 はうたぶし』
『しん板 はうたいよぶし』
『十ニケ月いはふまりうた』
『大当り四季のまりうた』
『新板 けんうた やだちうぶし』
『二上り新ない 心の竹うさはらし』
『豊年万作そのわけたんよふし』
『あづまじまん 名人とつちりとん』
『しんばん とつちりとんぶし』
『新作 とつちりとんぶし』
『忠臣蔵十一段続 とつちりとん』
『十二月 とつちりとんぶし』
『とつちりとん 十二月吉原文句』
『巳のなるはな じゆうにつ木とつちりとん』
『あつまがた米で咲花ほどのたんとたんと』
『吉原どどいつ』
『しんもんく いせおんど』
『新板 江戸の花 向島八景 はうた大津ゑぶし』
『新作 ゑ入 大都画ぶし』
『新作画入 大津ゑぶし』
『新はん 大津ゑぶし』
『しんはん絵入 大津画ぶし』
なお、明治になっても吉田小吉の名で編集・発行した次のような都々逸の唄本がある。
『開化度々一』 明治十一年
『開化義太夫入都々逸』 明治十四年
(2) 説経浄瑠璃正本の発行 −〈やんれ節〉口説に先行する叙事歌謡と語り物−
吉田屋が「満留出口」の名で出した俗謡の唄本には、ほかに〈ちょぼくれ・ちょんがれ節〉があった。都立中央図書館「東京誌料」所蔵資料には、次の唄本を確認できる。
『しんはん ちよぼくれちよんがれ 鼠[不+寝]見古蔵剛傑話』
版元名は「満類吉」。これも下巻には「仙女香 阪本氏」と広告を入れてある。発行時期はやはり文政頃まで遡るのではないだろうか。本のサイズは他の唄本より大き目であるが、上・下各4丁、半丁8行の構成は〈やんれ節〉口説の唄本に踏襲されている。〈ちょぼくれ〉も〈やんれ節〉も同じく叙事歌謡であり、唄本の体裁としてその形式が受け継がれたものと思われる。
また、叙事的要素のいっそう濃い語り物として注目されるのは、説経浄瑠璃(説経祭文とも)正本の発行である。管見ではいずれも薩摩若太夫正本とするもので、次のような例が確認できる。
説経浄瑠璃 『小栗判官てるて姫 よろづやの段』
説経祭文  『小栗判官照手の姫 買物段』
説経祭文  『小栗判官照手姫 車引段』
説経祭文  『小栗判官照手の姫 矢取段』
説経浄瑠璃 『一ノ谷 首実検段』
説経浄瑠璃 『桜草語 浅倉川渡場』
説経浄瑠璃 『桜草語 浅倉当吾内の段』
説経祭文  『石童丸苅萱道心 行違段』
説経祭文  『安寿姫対王丸 兄弟道行段』
説経祭文  『出世景清 阿古屋自害』
小栗判官、石童丸、山椒太夫は古典的な説経の演目であり、『一ノ谷首実検段』は熊谷次郎と敦盛の話である。『桜草語』は佐倉宗吾すなわち佐倉宗五郎の義民伝であり、「佐倉」を「桜」と記すのは、江戸の中村勘三郎芝居で初演され評判をとった狂言『東山桜荘子』によるものと考えられるから、嘉永四年(一八五九)頃における佐倉宗吾物の大評判(『藤岡屋日記』)と重なり、そのころの発行と推測される(注21)。
これらはみな同一形態の本で「正本所 馬喰町三丁目 吉田屋小吉」と記されている。また、これらには俗謡の唄本と違って仙女香の広告はない。つまり仙女香の広告を目安にして、発行時期を天保の改革前後に推定することはできないが、これらの作品のうち、古説経物や『一ノ谷首実検段』などは佐倉宗吾のような講談物に対して発行の無難な作品であり、また天保の改革によっても唄本のようには打撃をうけなかった商品だったと思われる。
山伏の祭文語りから生れた説経浄瑠璃の始まりについては、『ききのまにまに』に、「説経上るり若太夫、薩摩座名代にて操芝居興行せしは、文化の始にや、夫より説経上るり語る者、今に薩摩某といへり」(一ハ七頁)とあり、また『嬉遊笑覧』(音曲の部)では、若太夫が薩摩若太夫と名乗って江戸堺町の芝居で薩摩座の名題をもって説経芝居を興行したのは享和の頃といい、没年は文化八年という。多少のずれはあるが、享和四年(一八〇四)は文化元年に当たるから、ほぼそのころのことであった。すなわち薩摩若太夫の説経浄瑠璃は新しい語り物であった。このことから、「若太夫直伝」と記す正本の発行の上限は文化年間とはなるが、具体的にいつから発行を始めているかは不明である。
後日の手掛かりになることも考えられるので、次にそれぞれの正本の太夫名を掲げておく(注22)。表紙には十人前後の太夫名が記されているが、その中で薩摩若太夫と書かれた左右に配されるおもだった太夫名と三味線弾きの名である。(太夫の莚摩、三弦の京屋は省略。)
吉田屋小吉発行正本(注23)
『小栗判官照手の姫 買物段』
『小栗判官照手姫 車引段』
『小栗判官照手姫 矢取段』
『小栗判官てるて姫ようつやの段』
『石童丸苅萱道心 行違段』
『安寿姫対王丸 兄弟道行段』
『出世最清 阿古屋自害』
『一ノ谷 首実検段』
『桜草語 浅倉川渡場』
『桜草語 浅倉当吾内の段』
和泉屋永吉発行正本
『小栗判官照手姫・清水の段』
『大江山酒呑童子 童子対面段』
『大江山酒呑董子 鬼神退治段』
結局これらの発行年代を特定することはできないが、歌謡史において重要な点は、説経浄瑠璃という江戸後期に新たに生れた語り物によって、古い説経の物語が再び甦ったということである。その後吉田屋は説経浄瑠璃の作品を〈やんれ節〉口説として唄本化してもいっている。歌謡史のなかで吉田屋が果たした役割の一端がそこにもある。
(3) 一枚摺番付の発行年代
唄本のほか、吉田屋小吉が発行したものの中には「B一枚摺の番付」もあった。都立中央図書館の
「東京誌料」には吉田屋が発行した次のような番付が所蔵されている。
『江戸名所旧跡繁花の地取組番付』
『江戸会席料理老舗番付』
『仇討番付』
『江戸より全国里程番付』
このうち『仇討番付』を見ると、最も新しいもので「下総絹川」「下総不津都村」「こじん原仇討」など天保年間の仇討が載っているから、発行はそれほど早い頃のものではない。「護持院原の敵討」、そのほかさまざまな瓦版が盛んに売り歩かれた弘化頃の発行であろう(注24)。また、弘化三年(一八四六)八月、井上某が父の敵本荘某を討った「護持院原の敵討」は今日まで瓦版が数種残されていてかなり評判の仇討だったが、これが番付にないところを見ると、それ以前の発行と思われる。
ちなみに『江戸より全国里程番付』は、旅人宿が多くあって訴訟事や江戸見物に地方の人々が多く集った馬喰町に店を構える吉田屋にとっていかにもふさわしい発行物である。
(4) 吉田屋の商売
吉田屋の店の様子は分からないが、その唄本はおもに読売りによって直接街を売り歩かれたと想像されるし、さきに「三四郎店」とあって店借りの身分であったからそれほど大きな店ではなかったと思われる。例えば唄本発行者のなかで「東屋伝蔵」なる者の住所は、両国横山町三丁目、八丁堀地蔵橋、八丁堀北嶋丁などとあり、しばしば転居している例があるように、この種のものは瓦版売りに近い身軽な商売でもあった。また、吉田屋小吉が「F石見銀山鼠取り薬で有名だったこと」もその商品販売方法を推測する手掛かりになろう。『守貞護稿(近世風俗志)』巻之六には、さまざまな江戸時代の行商人を載せているが、その中に「鼠取薬」を売り歩く者の姿を描いた絵があって、携帯する小幡(幟)の図に、江戸の例として吉田屋小吉のものを示している。売り子は、「いたづらものは居なひかな」と言いながら、このような姿で売り歩いたとある。『守貞護稿』は、著者喜田川守貞の巻頭文「概略」によれば、彼自身が天保八年以来の見聞に基づいて記したもので、もと上方に生まれた彼が江戸に移ったのは天保十一年九月というから、そこに描かれているのは天保末年以後の風俗である。そのころは吉田屋小吉が同時に唄本を盛んに売っていた時期でもあった。
読売たちの姿は江戸時代のさまざまな文献に残されている。書物といっても唄本は読むよりは歌うための文句を載せたものであり、その最もふさわしい販売方法は読売りであった。吉田屋の唄本も読売たちに提供されたと考えられる。また、説経浄瑠璃の正本は別として、番付類も読売によって売り歩かれたものであろう。もちろん、地本草紙問屋であった彼の店ば、女性客も有力な購買者だったと思われ、仙女香・美玄香の「取次所」(注25)もしていたことから、店での販売もあったと思われる。  
 
三 吉田屋小吉発行の〈やんれ節〉唄本について 

 

安政以前の俗謡〈よしこの〉〈いせおんど住よしおどり〉〈しんぐいぐいぶし〉〈都々一〉〈とつちりとん〉などの唄本や、説経浄瑠璃正本に比べて、〈やんれ節〉口説の唄本は新しく、安政の江戸大地震後に盛んに発行されるようになった。しかしもちろん前述のように安政の大地震以前からも発行されていたと推測される。吉田屋が、月行事を勤める地本草紙問屋であったとすれば、心中物などの出版に対する幕府の禁令を守らざるをえない立場にあったから、むやみに時事的な事柄を歌う〈やんれ節〉口説の瓦版的な唄本は出さなかったと思われるが、『鈴木主水白糸口説』や『平井権八小紫くどき』といった古典的な作品は安政地震以前から発行していたと考えてよいだろう。また、石動丸・小栗判官・佐倉宗吾などは、〈やんれ節〉流行の時勢に乗じて説経浄瑠璃(説経祭文)を口説化したものと考えられる。
次に吉田屋が幕末に発行した〈やんれ節〉口説唄本の全容を知るために、比較的多くの唄本を所蔵する都立中央図書館「東京誌料」の所蔵作品を掲げて、それらの作品の性格を検討してみたい。(都立中央図禰館「東京誌料」所蔵目録の「くどき節・やんれ節」の部については、吉田屋版以外のものも含めたすぺての唄本を末尾〈資料二〉の表に掲げた。)
外題
『平井権八小紫くどき』
『新板平井権八小紫くどき』
『平井権八小紫くどき』
『阿波鳴門順礼くどき子別れの段』
『佐倉宗吾一代くどき』
『さくら宗吾一代くどき』
『新板 梅川忠兵衛くどき』
『しん板 白いしくどき』
『江戸の花 お筆半三しん中くどき』
『新板 初花勝五郎くどき』
『新板 おしゆん伝兵衛くどき』
『浜の真砂子石川くどき』
『新板 かかみ山くどき』
『新ばん うら里時次郎くどき』
『新ばん お花半七くどき』
『石動丸かるかやくどき』
『しん板 鈴木主水しら糸くどき』
『奥州笠松峠女盗賊くどき』
『新板 桂川おはん長右衛門くどき』
『新板 お染久松くどき』
『志んばん お七吉三くどき』
『新板 お七吉三くどき』
以上が「東京誌料」に所蔵される吉田屋版の唄本であるが、この他に次のような吉田屋版もある。
『小栗判官照手姫くどき』
『新はん 夕ぎり伊左衛門くどき』
『於吉清三しんぢうくどき』
『新板 清三くどきやんれぶし』
『今度稀なる信州地震くどき』
もし説経浄瑠璃の正本が唄本になっているとすれば、小栗判官や佐倉宗吾などの他に、山敬太夫・竣徳丸あるいは葛の葉の唄本もあり得るはずだから、これらが総てとは言えない。しかし、吉田屋発行の〈やんれ節〉口説唄本の概要がこれでほぼ知り得るものと思われる。右の表に特徴的に蓑われていることは、浄瑠璃作品と共通するものが多いという点である。安永年間の浄瑠璃と共通するものが五点、天明年間の浄瑠璃と共通するものが二点あり、十八世紀後半として数・兄ると八点ある。この特徴は、十八世紀に上方を中心として流行した兵庫口説に見られる特徴と同じである(注26)。しかも、浄瑠璃を先行作品とする次の類の口説は、すでに兵庫口説にもあったものである。
「梅川忠兵衛くどき」
「白いしくどき」
「初花勝五郎くどき」
「おはん長右衛門くどき」
「お染久松くどき」
「お七吉三くどき」
(なお、「石動丸くどき」は説経種だがこれも兵庫口説にある)
では、どれが幕末の江戸で新たに生れた作品であったか。浄瑠璃物を除けば次のような作品が残るだろう。
『平井権八小紫くどき』
『佐倉宗吾一代くどき』
『江戸の花 お筆半三しん中くどき』
『新ばん うら里時次郎くどき』
『しん板 鈴木主水しら糸くどき』
『於吉清三しんぢうくどき』
『奥州笠松峠女盗賊くどき』
平井権八や佐倉宗五郎の話は、実録や講釈師による講談、あるいはちょんがれ節として人気を得ていた。これらは浄瑠璃よりもそういったものの人気を当て込んで作られた唄本と考えられる。
また、『江戸の花 お筆半三しん中くどき』の内容は次のようなものである。すなわち、江戸浅草蔵前の旅籠町に住む貧しい左官源二の娘お筆はたいへん利発な子であった。十六歳のとぎ近くの富裕な商家へ奉公に出て、主家の息子半三に見そめられた。ふたりはお互い深く思い合う仲になったが、身分違いの恋ゆえに心中を決意する。しかし、半三の叔父(伯父)の仲介で一転めでたく結婚することができた、という内容である。外題に「心中口説」としているが、実は心中口説ではないから禁制の対象とはならないということができるだろう。しかも、文中の「人は氏より育ちが大事、手かきもの読み寝る間も寝ずに、貧なものでも少しはならへ」といった文句から分かるように、貧しい家庭に育ちながらも学問を習おうと努めたお筆(その名も「筆」である)の出世物語であり、孝行話でもあるから、むしろ幕府の政策にそった唄本ですらあった。
この口説は、もと瓦版の唄本だったものが磐女唄になり、それが「ふたたび瓦版として板行されたもの」(西沢爽「日本近代歌謡史』一九九〇年一九〇頁)という。越後の薯女たちは、近代までこの「お筆半三」口説を歌っていた。吉田屋が唄本にしたのは、おそらく警女唄に歌われた後であろう。このほか警女唄の唄本化の例としては、警女が流行らせた口説「鈴木主水」もそうであるし、「お吉清三」(注27)などもその可能性が高い。その他、『うら里時次郎くどき』『奥州笠松峠女盗賊くどき』の二点も、新内節やちょんがれ節で歌われていたものの唄本化である。
これらを要するに、吉田屋が発行した〈やんれ節〉ロ説唄本の特徴は、当時の時事的な内容を歌わず、すでに他の芸能で定着した作品を再編集して出すという点にあった。ただし一点、次のような作品がある。
『今度稀なる信州地震くどき』
弘化四年(一八四七)三月、人々の耳目を驚かす大惨蔀となった信州善光寺大地震をめぐっては、楜沢龍吉『叙事民謡善光寺大地震』(一九七六)によれば、吉田屋版ほか十編の(やんれ節〉口説唄本が確認され、それらはほとんど江戸版であり、しかもそのうち八編は発行者が明記されているという。弘化四年三月以降、この惨事を歌う瓦版の唄本が江戸の町に大量に出回ったことが知れる。吉田屋もこれに便乗したものと思われる。
幕末における〈やんれ節〉口説の流行は想像以上のものであった。人々の関心が強かった大地震だけではなく、このほか物語的な内容の作品にしてもかなり売れたものがあったようで、例えば、お七吉三、お吉清三、佐倉宗吾、鈴木主水などは、吉田屋版だけで少なくとも二種以上の作品を残しているし、平井権八に至っては前掲吉田屋版だけで三種あり、しかも同じ版を摺り直して発行している例もある(注28)。 
 
四 終わりに 

 

吉田屋小吉は、ちょんがれ節、阿房陀羅経、端唄、都々逸、大津絵節、やんれ節口説など幕末俗謡文化の発信者であった。その唄本発行はかなりの量にのぼり、歌謡史にとって避けて通れない問題である。最近の研究書としてすでにジェラルド・グローマー『幕末のはやり唄』(一九九五)などがあるが、しかし実態はなかなか分からない。おおざっぱに言えば、ほぼ文政の初年あたりから書物を発行していたようである。書物といっても、吉田屋の場合は唄本を中心とする小さな発行物であった。まずは流行唄、さらに一枚摺の番付類、そして説経浄瑠璃(説経祭文)の正本などがその発行物として残されている。吉田屋の唄本も瓦版のように読売によって売り歩かれたと思われるが、決して幕府の禁制を破るような心中・騒動事件などの際物を扱った内容ではなかった。もちろん、刷られた板面も粗雑な瓦版とは違い、手慣れた仕上がりになっている。表紙絵は専門の浮世絵師によるものであろう。その点は、「地本草紙問屋」の組合仲間だったことと一致する(注29)。また、俗曲における新文句の提供も、歌謡史にとって大きな意味を持つ業績だが、それを誰が編集したかは知れない。明治期の唄本に「編輯兼出版人」と記すことからすれば、吉田屋主人の小吉であった可能性も高いだろう。吉田屋の唄本発行時代は、文政頃から明治二十五年頃まで、七十年あまりにわたる。そのうち何代か代替りしているだろう。
吉田屋は白粉の販売取次や鼠取薬の販売も手掛けていたが、時流に乗った唄本の阪売だけでもかなり儲かったようである。そもそも江戸時代のこの手の出版は重版の咎めもなく自由だった。すなわち「大津絵ぶしとか、よしこのとか云ふ様な赤本物は総ぺて自由出版となつて」(注30)いたという。明治になると唄本の類にも仰々しく「版権所有」と記すものがあるが、江戸の場合はそうしたこともなく、売れるものは似たり寄ったりの文句で自由に発行されたのである。そして、「商家の番頭手代などは主人に内密で、赤本とか、和印とか、よしこの大津絵ぶしと云ふやうな物を能く買ひましたが此等は割合に儲かつたものでござりました」という回想があるように、天保の改革のような禁制さえなければ江戸の庶民、そして江戸にのぼってくる地方の人々も競って買い求めた出版物であった。

(1) 拙稿「新潟県に於ける明治の唄本一〜三」(新潟県生活文化研究会編『新潟の生活文化』四〜六号、一九九七ー九年)
(2) この点、拙稿「新潟県に於ける明治の唄本三」(同右)で私なりに多少考察した。
(3) 発行者不明「小栗判官照手ひめくどき」(都立中央図雷館「東京誌料」所蔵)
(4) 文政十一年の越後大地震を詠んだ『越後地震ロ説』に「云も語も身のけがよだつ」とある。     
(5) 町田佳声「新保広大寺からとのさー越後口説まで」(『日本民謡大観』中部編・北陸地方、一九五五)、藤田徳太郎は、「越後節、磐女節、やんれ節、心中くどき、くどき節、鈴木主水節、とのさ節(大阪出版の歌本にかく題せるものあり、又、哩謡集神奈川縣にも出づ)等とも云ふが、何れも同じ節である」(『近代歌謡集』一九一一九)としている。
(6) 高田瞽女が歌っている口説の場合、「今度 サーエー」と始まり、「それを見る人 開く人 サー 共に ヤーレー 泣かん者こそ なか ヤーコレりける サーエー」(『お吉清三』)となっていて、「ヤーレー(やんれい)」の後にも歌い納めの文句が続き、末尾は七五で止める。
(7) 天保十五年(一八四四)、「主水/白糸ゑちごくどき」名古屋で流行(小寺玉晃編『小哥のちまた』による)。
(8) 拙稿「新潟県に於ける明治の唄本(三)」(新潟県生活文化研究会編『新潟の生活文化』第六号、一九九九年)。
(9) 時事にかかわらない俗謡唄本発行者には、発行人を明示した例として八丁堀の松坂屋吉蔵・滝弁などが目立つ。
(10) 『大江山酒呑童子』『小栗判官照手姫清水のたん』など。
(11) 花咲一男「坂本氏・仙女香図説」(『化粧文化』)
(12) 西沢爽『日本近代歌謡史』(一九九〇) また、仙女香の広告をさせた和田源七に関する『藤岡屋日記』天保十三年十月十日の記事(花咲一男「仙女香の広告文学」、『化粧文化』指摘)によれば、この年「押込」の罪科に処せられた和田源七は、「勤役五十四年」「年ハ七十余歳」とある。仙女香の宣伝は彼の「勤役五十四年」の間にも盛んになされたと思われるが、天保の改革によるなんらかの罪科を得たこの年をもって紙面から消えたと推測される。(なお、花咲一男「坂本氏・仙女香図説」では坂本氏の店舗の図例として「満留吉」版の「なぞ尽どどいつ」をあげ、発行者を嘉永頃に開業した丸屋吉兵衛としているが、この唄本の「満留吉」も吉田屋小吉であろう。)
(13) 以上、東北大学狩野文庫所蔵『俗謡集』より。「瓦版多し」とは、こうした唄本の発行をさす。
(14−15) 大阪大学忍頂寺文庫蔵(玩究隠士校注『江戸瓦版はやりうた八十種」より)。
(16) 同右所蔵。また、写真3『こころ意気 しん内よしこの』の広告にもある。
(17) 花咲一男「坂本氏・仙女香図説」(『化粧文化』)
(18) 仙女香・美玄香を二人の男女に配した趣向の話として刊行されているのは、ここの広告と同じ書肆永寿堂西村屋与八が天保四年に出した恋川春町作の『白木屋白妙/黒井九郎次恋衣仙女薫」(花咲一男「仙女香の広告文学」『化粧文化』)。
(19) 西沢爽『日本近代歌謡史・上』(一九九〇)第七章。同害では、「満類吉」発行の次のような「仙女香」広告入り〈よしこの節〉唄本をあげる。『江戸のはな名所文句芸者よしこの』『橋づくし新よしこの』
(20) *印は架蔵本、※印は上田図害館花月文庫所蔵本、★印は某古書目録写真。大字六行の形態で、表紙絵は無い。
(21) 『石童丸苅萱道心 行違段』の旧蔵記に「文久元歳…」とある例もある(中澤書店古書目録)。
(22) 説経祭文の太夫、薩摩辰太夫三代目を継いだのは群馬の関口幸平という人で、天保十三年(一八四二)生れ、大正六年に没したという(小山一成『貝祭文・説経祭文』(一九九七年 一六四頁)。しかし私が見た吉田屋(および和泉屋)発行の限られた正本からは辰太夫の名が見当たらなかった。
(23) 吉田屋小吉発行のものは桝太夫と浜太夫を主な太夫とするものが多い。この他、記載される太夫は、梅太夫・津賀太夫・音和太夫・歌根太夫・春太夫・滝太夫・千代太夫・勢喜太夫・三保太夫・岡太夫・若太夫・伊世太夫・千世太夫・、伊久太夫・小千歌太夫・高太夫・友太夫・綱太夫・岸太夫・君太夫・千歳太夫・仲太夫・千葉太夫・雛太夫・村太夫・千尾太夫・咲太夫・登賀太夫・小千賀太夫・沢太夫・文太夫・七五三太夫・国太夫・登志太夫など。三味線弾きは、和助・松五郎・亀吉・正蔵・浦吉.若吉・栄二・亀治・吾蝶・新造・粂七・錦糸・辰治などが見える。
(24) 喜多村信節の随筆『ききのまにまに』(未刊随筆百毬、第十一)。なお、弘化の年号を文句中に記す唄本に『巳のなるはな じゆうにつ木とつちりとん』(下)がある。また、「東京誌料」も。
(25) 『続文句どどいつこころいき』(西沢爽『日本近代歌謡史・上』四九三頁掲載)
(26) 拙稿「新潟県に於ける明治め唄本(二)ー兵庫口説との比較についてー」(注1同)
(27) 「お吉清三」の場合」京都の事件でもあり、音頭口説の分布が西日本に偏っていることから(成田守編『音頭口説集成』第一巻、一九九六)、もと兵庫口説に歌われていた作品かも知れない。
(28) 「東京誌料」。
(29) 仙女香の広告はその販路拡大を願った和田源七(発売元坂本氏との関係は不明)が絵草紙関係の出版取締をする肝煎名主だったことから、権威をかさにして入れさせたものであり(花咲一男「仙女香図説補遺」、『化粧文化』)、これから見ても吉田屋は出版統制を受ける町の本屋だったことが知れる。
(30) 三木佐助『玉淵叢話』下(『明治出版史話』ゆまに書房刊一九七七 所収)七頁
資料
〈資料一〉 『そうどふくどきぶし』
〈資料二〉 都立中央図書館「東京誌料」所蔵の<口説>本一覧表(『東京誌料目録』の「くどき節・やんれ節」の部を次に掲げる。)
『平井権八小紫くどき』
『新板 平井権八小紫くどき』
『阿波鳴門順礼口説』
『阿はの鳴門順れいくどき 子別れのだん』
『阿波鳴門じゆんれいくどき 子わかれの段』
『阿波のなると順礼くどき』
『新板 阿波鳴戸順礼くどき』
『高橋おでんくどき』初編
『五十三次恋の道行』
『佐倉宗吾一代くどき』
『新板 梅川忠兵衛くどき』
『日光道中恋ぢくどきぶし』
『大地震焼はらくどき』
『おん獅子がりやん連ぶし』
『新板 おん獅子がりくどき』
『新板 浮世悪とうくどき』
『新ばん源治くどきぶし』
『江戸の花お筆・半三恋じくどき』
『新板ちよんがれぶし 金沢/敵討 宮本左門之助』
『薪板ちよんがれぶし 佐倉宗吾一代話』
『新作ちよんがれぶし 宮本無三四 敵討巌流志満』
『江戸じまん もんどくどき』前編
『しん板 白いしくどき』
『神徳丸一代くどき』
『江戸のはな おふで半三しん中くどき』
『弥生のゆき桜田くどき』
『新板 お染久松くどき』
『朝顔日記くどき』
『新板 初花勝五郎くどき』
『新板 おしゆん伝兵衛くどき』
『天日坊おさ船くどき』
『上州板鼻おまき勘蔵しん中くどき』
『浜の真砂子石川くどき』
『新板 かかみ山くどき』
『しんじゆくどき』
『小栗判官照手ひめくどき』
『さくら宗吾一代くどき』
『新ばん うら里時次郎くどき』
『新ぽん お花半七くどき』
『石動丸かるかやくどき』
『御蔵前女かたきうち』
『新よし原 いな本内 小八重仙次心中新ぶん』
『東海道大ぢしんくどきぶし』
『しん板 鈴木主水しら糸くどき』
『奥州笠松峠女盗賊くどき』
『新板 かつら川おはん長右衛門くどき』
『しん板 あんちんきよひめくどきふし』
『下野国沼田在 山越村しん中くどき』
『しんばん ちよぼくれちよんがれ [不寝]見古蔵剛傑話』
『ちよぼくれ 鹿沼はなし』