書を知る



飛鳥 奈良 平安 鎌倉・南北朝 室町・安土桃山 江戸・近代 現代
600 700 800 900 1000 1100 1200 1300 1400 1500 1600 1700 1800 1900-

  

世尊寺行俊(-1407)    
足利義満(1358-1408)  
世阿弥(1363-1443)  
父観阿弥と共に幽玄な猿楽能を大成させた。「風姿花伝」など多くの芸論を遺 し、史料価値のみならず、文学的価値も高く評価される。  
細川勝元(1430-1473)  


 
山名宗全(1404-1473)  


 
一休宗純(1394-1481)  
早くから詩才に長じ、少年時既に洛中で評判となる漢詩を作っている。20代半ばにして風狂の生活に入る。諸国を漫遊し当時の禅宗の弊風を誹り、あたかも狂人の如く振舞う。仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食・女犯を行い、側女がいたりなど多くの奇行が伝えられている。後に、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。  
足利義政(1436-1490)  


 
蓮如(1415-1499)  
   



 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。
 
世尊寺行俊 (-1407)  
足利義満 (1358-1408)
11歳で室町幕府三代将軍職を継ぐ。有力な守護大名を次々に討ち滅ぼし、一方で南北朝を合一させて全国統一を成し、幕府権力を固め名実ともに公武両勢力の頂点に立つ。京都北山に金閣寺をはじめ広大な山荘を営み、新しい文化の中心となった、これが北山文化である。  
世阿弥 (1363-1443)
父観阿弥と共に幽玄な猿楽能を大成させた。将軍足利義満の絶大な寵愛を受け絶頂期を迎えるが、その晩年、跡取りの長男・元雅の突然の死、更に、義満没後、新将軍義教により佐渡流罪となるなど、晩年は不遇であった。「風姿花伝」など多くの芸論を遺 し、史料価値のみならず、文学的価値も高く評価される。  
細川勝元 (1430-1473)
細川家は9ヶ国の守護であったのに対し、山名家は8ヶ国の守護であり、当初、お互いに牽制し合い、婚姻関係を結ぶなど協調したが、ついには対立せざるを得なくなり応仁の乱に発展。  
山名宗全 (1404-1473)
応仁の乱で西軍の総大将として細川勝元の率いる東軍と戦った。策謀家として知られる細川勝元に対し、「赤入道」と称され直情的な親分肌・勇猛果敢な武将だった。  
一休宗純 (1394-1481)
後小松天皇の御落胤とも言われる。早くから詩才に長じ、少年時既に洛中で評判となる漢詩を作っている。20代半ばにして風狂の生活に入る。諸国を漫遊し当時の禅宗の弊風を誹り、あたかも狂人の如く振舞う。仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食・女犯を行い、側女がいたりなど多くの奇行が伝えられている。後に、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。  
足利義政 (1436-1490)
室町幕府の第8代将軍。将軍職を継いだ当初は政治に力を入れたが、のちには夫人の日野富子や側近に政治を委ねっ切りとなる。再三の一揆が幕府政治を揺さぶり頻繁な徳政令発令が余儀なくされた。将軍継承争い等に端を発し応仁の乱が起こり、政治は乱れ幕府の勢力は頓に衰えた。  
蓮如 (1415-1499)
異宗や他派に押されていた浄土真宗本願寺を中興し、現在の礎を築いた。蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた御文(おふみ)、御文章(ごぶんしょう)を中心に行なわれた。