書を知る



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詩序(707)

 
仏典以外では日本最古の写本という。書風は欧陽詢の流れを汲み、また、則天文字が随所に見られるのが特徴 (則天文字とは則天武后が作った漢字で水戸光圀の「圀」はその例である)。

多胡碑(711)

 
上野国三碑(山ノ上碑、金井沢碑)の一つ。国の特別史跡史跡。書道史上、那須国造碑、多賀城碑と並ぶ日本三大古碑の一つである。碑の内容から8世紀後半の建碑とされる。  

聖武天皇(701-756)

 

光明皇后(701-760)

 

王羲之「楽毅論」臨書  

鑑真(688-763)

 


 

孝謙天皇(718-770)伝

 

 

恵美押勝(706-764)

 


 

道鏡(-772)

 


 

万葉仮名文書(762以前)

 
万葉仮名が実用が確認される最古のものは、難波宮跡で発掘された652年以前の木簡である。7世紀半ばには実用化されていた事になる。  

大伴家持(718-785)

 
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。大伴氏は大和朝廷以来の武門の家柄で、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。  
   



 
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聖武天皇 (701-756)
大宝元年-天平勝宝8年(701-756)。奈良時代の第45代天皇、在位、神亀元年-天平勝宝元年(724-749) 。
即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子、母は藤原不比等の娘・宮子。
光明皇后 (701-760)
鑑真 (688-763)
54歳(742年)の第一回目渡日決行から748年の第五回目の決行までことごとく失敗、第五回目には激しい暴風にあい、14日間の漂流の末海南島へ漂着する。この間の辛苦の為、鑑真は失明する。753年渡日の決意は変わらず6度目悲願を達成し終に日本の土を踏む。仏教行政の最高指導者 「大僧都」に任命され、仏教界の風紀を劇的に改善した。その後、朝廷と意見が分かれ野に下る。71歳の時、私寺である唐招提寺を開き、多くの僧侶を育成、一方で 社会福祉施設・悲田院を設立し貧民の救済に取り組んだ。  
孝謙天皇 (718-770)
養老2年-神護景雲4年(718-770)、第46代天皇、在位、天平勝宝元年-天平宝字2年(749-758)。父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。即位前の名は阿倍内親王。生前は宝字称徳孝謙皇帝と称した。高野天皇・高野姫天皇・倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)とも呼ばれたこともある。淳仁天皇を経て重祚(ちょうそ、一度退位した皇帝が再び践祚(せんそ/皇帝に即位すること)すること)し、第48代称徳天皇(しょうとくてんのう・稱コ天皇)、在位 、天平宝字8年-神護景雲4年(764-770)。この称徳天皇以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいない。
恵美押勝 (706-764)
光明皇后の甥、旧名藤原仲麻呂。橘奈良麻呂の乱を治め政敵を滅ぼすと、皇族以外で初めて太政大臣の位まで上り詰める。光明皇后の死後、孝謙上皇の寵愛は道鏡に向けられ、終には上皇の激怒を買う事になる。かくして起こった反孝謙上皇・道鏡のクーデターが恵美押勝の乱(764)である。  
道鏡 (-772)
藤原仲麻呂の失脚後、孝謙天皇の寵愛を深くし、天皇の地位を狙うまでの高位に上り詰めたが、孝謙天皇(後の称徳天皇)没後に失脚。   
大伴家持 (718-785)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。大伴氏は大和朝廷以来の武門の家柄で、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。