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宗祇(1421-1502)  
連歌、和歌、漢詩に長じ、それぞれの分野で多くの著作を残す。  
近衛政家    
雪舟(1420-1506)  


 
北条早雲(1432-1519)  


 
大内義與(1477-1528)  


 
大内義隆(1507-1551)  
父義與の跡を継いだ義隆は周防、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し、名実共に西国随一の戦国大名となり大内家は全盛期を迎えた。明との交易を独占し莫大な財を成し、学問・芸術の高揚に尽くし、キリスト教布教も許し、独特の大内文化が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。
狩野元信(1476-1559)  
狩野派の祖である父正信の跡を継ぎ将軍家の御用絵師となる。大和絵の装飾技法と漢画の技法を折衷させ狩野派の画風を大成させた。平明、率直な画風は朝廷、幕府、社寺はもとより町衆などの一般にも受け入れられ、狩野派の地位を不動のものにした。  
今川義元(1519-1560)  


 
細川晴元(1514-1563)    

 
三好長慶(1522-1564)    

 
毛利元就(1497-1571)    

 
武田信玄(1521-1573)    

 
松永久秀(1510-1577)    

 
上杉謙信(1530-1578)    

 
山中鹿之助(1545-1578)  


 
快川紹喜(1502-1582)    

 
明融(-1582)    

 
武田勝頼(1546-1582)    

 
織田信長(1534-1582)  
 
明智光秀(1528-1582)  
千利休(-1591)  

 
北小路俊孝(-1595)    
 
   



 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。
 
宗祇 (1421-1502)
近衛政家 ( )  
雪舟 (1420-1506)
日本水墨画の完成者。40代後半に明へ渡る。  
北条早雲 (1432-1519)
戦国時代の代表的武将。駿河の守護今川氏の内紛をおさめ、駿河の興国寺城主となり、さらに伊豆堀越公方の内乱に乗じ伊豆の実権を握ると伊豆韮山に拠点を置き、小田原城を乗っ取 るなど関東に進出し関東一円に勢力を広げた。  
大内義與 (1477-1528)
京都を追われた足利義稙を擁し上洛を果たし、管領代として中央政治を執行するなど、父政弘に次いで、大内家を再興させた。  
大内義隆 (1507-1551)
父義與の跡を継いだ義隆は周防、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し、名実共に西国随一の戦国大名となり大内家は全盛期を迎えた。明との交易を独占し莫大な財を成し、学問・芸術の高揚に尽くし、キリスト教布教も許し、独特の大内文化が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。しかし、義隆の晩年に家臣団対立が起こり、重臣の陶晴賢の謀反により自害する。  
狩野元信 (1476-1559)
狩野派の祖である父正信の跡を継ぎ将軍家の御用絵師となる。大和絵の土佐光信の娘と結婚したと伝えられるが、大和絵の装飾技法と漢画の技法を折衷させ狩野派の画風を大成させた。平明、率直な画風は朝廷、幕府、社寺はもとより町衆などの一般にも受け入れられ、狩野派の地位を不動のものにした。  
今川義元 (1519-1560)
老臣雲斎の助けを得て、駿河、遠江、三河を勢力下に置き、甲斐武田、相模北条と和を結び尾張への進出を図るが、信長に破れ田楽狭間で敗死、42歳。  
細川晴元 (1514-1563)  
三好長慶 (1522-1564)  
毛利元就 (1497-1571)  
武田信玄 (1521-1573)  
松永久秀 (1510-1577)  
上杉謙信 (1530-1578)  
山中鹿之助 (1545-1578)
生涯、尼子家の再興に東奔西走した忠臣。  
快川紹喜 (1502-1582)  
明融 (-1582)  
武田勝頼 (1546-1582)  
織田信長 (1534-1582)
日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将・戦国大名・政治家である。当時の常識や権力に囚われず、新しい考え方や文化を積極的に取り入れる見識の広さ、合理性と冷徹さを兼ね備えた知性によって、統一者のいなかった政治的混沌を収集に向かわせた人物である。その事業は大方向を示したところで重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれたことによって頓挫した。しかし、政権の実質的後継者となった羽柴秀吉が、信長の築いた足場をもとに天下統一を進め、ついには成し遂げることとなったことから、秀吉が継ぎ、徳川家康が完成させる形となった日本近世の形成事業の創始と言うべき位置づけにあった政治家である。 
明智光秀 (1528-1582)
 戦国時代、安土桃山時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。仮名は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。惟任光秀。妻は、妻木煕子。その間には、嫡男・光慶(十五郎)、織田信澄室、細川忠興室・明智珠(洗礼名:ガラシャ)がいる。 
千利休 (-1591)  
北小路俊孝 (-1595)