三筆 書を知る



三筆 

書家、または画家で三人のすぐれたもの。
平安時代能書家 嵯峨天皇・橘逸勢(はやなり)・空海(弘法大師)
世尊寺流能筆 藤原行成・藤原行能・藤原行尹(ゆきただ)
近世寛永年間の能書家 近衛流の近衛信尹(のぶただ)、光悦流の本阿弥光悦、滝本流の松花堂昭乗
黄檗宗の能書家 隠元・木庵・即非、黄檗の三筆
幕末の能書家 市河米庵・貫名海屋(ぬきなかいおく)・巻菱湖(まきりょうこ)
 
書道三筆三蹟能書は筆を択(えら)ばず日本人の心と書古今著聞集に見る三筆書論と書写人間空海と芸術・・・
 
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平安 鎌倉 江戸

嵯峨天皇(786-842)
橘逸勢( -842)
空海(774-835)
藤原行成(972-1028)
近衛信尹(1565-1614)
本阿弥光悦(1558-1637)
松花堂昭乗(1582-1639)
隠元隆g(1592-1673)
即非如一(1616-1671)
木庵性瑫(1611-1684)
  即非 隠元 木庵
巻菱湖(1777-1843)
市河米庵(1779-1858)
貫名菘翁(1778-1863)
 

平安 鎌倉 江戸

書道

 

書道は毛筆と墨によって漢字や仮名文字を書くことだが、単に文字を書くということではなく、精神を集中させ、心の内面を書体によって表現しようとする日本の伝統的な芸術の一分野である。古代の日本にはさまざまな文化が中国からもたらされたが、“書”もその一つであり、飛鳥から奈良時代にかけて遣隋使や遣唐使によって伝えられた。
黎明期の書
当時の中国では端正な楷書体で書かれた「王義卿(おうぎし)」の書法が盛んなころで、我が国もまず最初にその書法を学んだ。次いで留学生として唐で学んだ空海が持ち帰ったのが「顔真卿(がんしんけい)」の新しい書法である。顔真卿の書風は感情を表に出した大胆なものであり、空海は「風信帳」などにその書法を取り入れた。
和様書
遣唐使の派遣が中止されたころから我が国独自の文化が発展し、延喜5年(905)の「古今和歌集」に代表される“和様の書”や“仮名文字”が発展・定着した。取り入れた中国風の文化から我が国独自文化への転換である。その後、和様書は我が国の書の本流として多くの流派を形成しながら継承されていったが、鎌倉期から室町期に禅僧の交流によって中国の宋・元時代の書法が流入し、精神的な奥行きを加味した“墨跡”という日中混合の書法が生まれた。“墨跡”は桃山・江戸期を通じて僧侶や漢学者らに受け継がれて唐様という流れを作り、和様と唐様は互いに影響し合うことない我が国の書の二大潮流となった。和様は筆をやや寝かせて構え、穂で紙面を払うように運筆することから字形が丸みをもって柔らかであり、一方の唐様は筆を立て気味に構え、穂を紙に突き刺すような運筆が多く、両者は対照的である。今日の書道界が「漢字」と「仮名」に分かれて存在するのも“和様”“唐様”の思考が底辺にあったからではないか、といわれる。
漢字の五体
楷書、行書、草書、篆書、隷書の五種の書体を漢字の五体という。
篆書 / 紀元前13世紀ごろの甲骨文字から、秦の始皇帝が制定した小篆と呼ばれる書体までのすべての文字をいうが、文字は縦に長く曲線的で、左右対称の字が多い。現在では印鑑に用いられる文字として知られる。
隷書 / 紀元前3世紀ごろに生み出され、漢代には公用書体となり、2世紀中ごろの後漢時代に完成された。木材を組むような感じで文字が構成され、字形はやや扁平。横画の収筆をはね上げるのが特徴で、身近なところでは紙幣に用いられている。
草書 / 紀元前2世紀ごろに篆書や隷書の速書体として生まれたといい、点画が省略されたり続け書きされたりする書体。行書に近いものから判読が困難なほど崩されたものまで多様である。
行書 / 隷書の速書体として草書と前後して発生したと考えられる。点画が連続的に書かれ、日常最も広く使われる書体。速く書けて読みやすい実用書体である。
楷書 / 中国・三国時代に生まれ唐の初期に完成されたとされるが、点画を省略することなく一画一画を区切って書かれた謹厳な書体で、今日の活字のモデルでもある。
三筆・三蹟
平安初期の三人の能筆家、「風信帖(ふうしんじょう)」の空海、「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」の嵯峨天皇、「伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)」の橘逸勢のことを“三筆”といい、同じく平安中期の三人の達筆家、「智証大師諡号勅書(ちしょうだいししごうちょくしょ)」を書いた小野道風、「離洛帖(りらくじょう)」の藤原佐理、「白氏詩巻(はくししかん)」の藤原行成を“三蹟”と称する。
 
三筆・三蹟

 

三筆・三蹟とは、平安時代の代表的な能筆家、つまり書道に優れた人々を後世に尊重して呼んだ言葉です。
三筆は9世紀頃に活躍した空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人を指し、また三蹟は10世紀頃に活躍した小野道風(おののみちかぜ、通称は「とうふう」)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ、通称は「さり」)・藤原行成(ふじわらのゆきなり、通称は「こうぜい」)の3人を指します。彼らは傑出した書家として古くから尊崇され、江戸時代には三筆・三蹟という呼び名が定着するようになりました。
三筆と唐風の隆盛
弘仁9(818)年、嵯峨天皇は大内裏(平安宮)の門号を唐風に改めるとともに、自ら大内裏東面の陽明門(ようめいもん)・待賢門(たいけんもん)・郁芳門(いくほうもん)の額を書き、南面の美福門(びふくもん)・朱雀門(すざくもん)・皇嘉門(こうかもん)の額を空海に、また北面の安嘉門(あんかもん)・偉鑒門(いかんもん)・達智門(たっちもん)の額は橘逸勢に書かせました。この3人が三筆です。
平安時代中期、9世紀頃までの日本の書法は、東晋の人で書聖と称された王羲之(おうぎし、303-61?)をはじめとする中国の書家にならったものでした。仏教や律令を導入したことにもあらわれているように、当時の日本が中国の制度や文化の摂取につとめていたことを考えれば、当然といえます。三筆の書風も中国に規範を求め、その強い影響を受けていました。
しかしその一方、彼らは唐風にならいながらも、それぞれ独自の書法を開拓し、やがて後に確立する和様(わよう)への橋渡しという役割を果たすことになります。
空海 五筆和尚(ごひつおしょう)
空海(774-835)は後に弘法大師(こうぼうだいし)と号され、真言宗の開祖として知られています。佐伯田公(さえきのたぎみ)の子として讃岐国(さぬきのくに、香川県)多度郡屏風浦(びょうぶがうら)に生まれ、上京して仏門に入りました。延暦23(804)年には遣唐使にしたがい入唐し、大同元(806)年に帰国して真言宗を開創しました。
空海は優れた宗教家であっただけでなく漢詩文にも秀で、唐では仏教のほか書法や筆の製法なども学びました。その達筆ぶりは、後世にさまざまな伝説を生み出しています。たとえば空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って一度に5行を書し、「五筆和尚」と呼ばれたと伝えられますが(「入木抄」<じゅぼくしょう>など)、これも能書家として尊崇されたことの反映といえます。現代でも「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」など、空海と書道にまつわることわざが残されています。
空海の筆跡として最も有名なものが、天台宗の開祖最澄(さいちょう、767-822)に宛てた手紙「風信帖」(ふうしんじょう、国宝)です。またこのほかにも、空海が高雄山寺(神護寺)で真言密教の秘法、灌頂(かんじょう)を授けた人々を記した「灌頂歴名」(かんじょうれきみょう、国宝)などが知られています。
こうした筆跡から窺える空海の書風は、伝統的な王羲之の書に、唐代の書家顔真卿(がんしんけい、709-85)の書法を加味し、彼自身の個性を加えたものとされています。また空海は様々な書体に優れ、たとえば唐で流行した飛白(ひはく)の書という技法もいち早く取り入れました。「五筆和尚」とは、のように多くの書体を使い分けたことに由来するともいわれます。
嵯峨天皇 能筆の天皇
嵯峨天皇(786-842)は、桓武天皇の第二皇子で平城天皇の弟にあたり、大同4(809)年に天皇となりました。詩文や書にすぐれ、在位中は宮廷を中心に唐風文化が栄えたことで知られています。
嵯峨天皇は唐代の書家欧陽詢(おうようじゅん、557-641)を愛好し、また空海に親近したことから、その書風にも影響を受けたようです。「日本紀略」には「真(まこと)に聖なり。鍾(しょうよう、魏の書家)・逸少(いつしょう、王羲之)、猶いまだ足らず」とあり、筆づかいは羲之らにも勝るとまでほめたたえられました。
嵯峨天皇の確実な筆跡では、光定(こうじょう)という僧が延暦寺で受戒したことを証明した文書「光定戒牒」(こうじょうかいちょう、国宝)が知られています。その書風には欧陽詢や空海の影響が認められるとされています。
橘逸勢 配流された能筆家
橘逸勢(?-842)は入居(いりすえ)の子で、延暦23(804)年、空海らとともに入唐して一緒に帰国しました。しかし承和9(842)年に起きた承和の変に連座し、配流地の伊豆へ向かう途中に病没するという非業の死を遂げました。
「橘逸勢伝」(たちばなのはやなりでん)によれば、逸勢は留学中、唐の文人たちに「橘秀才」(きつしゅうさい)と賞賛されたほどの学才があり、また隷書体(れいしょたい)に優れていたといわれています。残念ながら逸勢の確かな筆跡は残っていませんが、その筆と伝えられるものに、桓武天皇の皇女が興福寺東院西堂に奉納した「伊都内親王願文」(いとないしんのうがんもん)があります。
三蹟と和様の創成
以上のような中国を模範とした時代は、10世紀頃になると次第に変化を見せるようになりました。たとえば絵画での唐絵(からえ)から大和絵(やまとえ)への移り変わりや、文学に見られる物語文学の起こりなどがそれで、いわゆる国風文化(こくふうぶんか)の成立がそれにあたります。
書道でも、この頃には和様(わよう)と呼ばれる日本風の書法が創成され、新たな規範として広く流行することになりました。この和様を創始し定着させたのが、小野道風・藤原佐理・藤原行成の三蹟です。彼らの書は新しい日本独自の規範として長らく尊重され、鎌倉時代の書道指南書「入木抄」(じゅぼくそゆ)にも、
野跡(やせき)・佐跡(させき)・権跡(ごんせき)(小野道風・藤原佐理・権大納言藤原行成の筆跡)、この三賢を、末代の今に至るまで、この道の規模(模範)として好む事、面々彼の遺風を摸すなり。 と述べられています。
小野道風 「羲之の再生」
小野道風(894-966)は、篁(たかむら)の孫にあたる官人で、当代随一の能書として絶大な評価を受けました。延長4(926)年、醍醐天皇は僧寛建の入唐にあたり、唐で広く流布させるため、道風の書いた行書・草書各一巻を与えました。当時、道風は唐にも誇示すべき書家として認められていたわけです。また「天徳三年八月十六日闘詩行事略記」も「木工頭(もくのかみ)小野道風は、能書の絶妙なり。羲之(王羲之)の再生、仲将(ちゅうしょう、魏の書家)の独歩(どっぽ)なり」と評しています。
道風は羲之の書風を基礎としながら字形を端正に整え、筆線を太く豊潤なものとして、日本風の穏やかで優麗な書風、つまり和様をつくり出した人物とされています。
その道風の真跡としては、円珍(814-91)へ智証大師の号が贈られたときの「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」(えんちんぞうほういんだいかしょういならびにちしょうだいししごうちょくしょ、国宝)や、内裏の屏風に文人大江朝綱の詩句を書したときの下書きとなった「屏風土代」(びょうぶどだい)などが知られています。
藤原佐理 異端の能筆家
藤原佐理(944-98)は摂政(せっしょう)太政大臣(だじょうだいじん)実頼(さねより)の孫で、「日本第一の御手」(「大鏡」)といわれ、達筆で名を馳せました。円融・花山・一条天皇ら三代の大嘗会(だいじょうえ)で屏風の色紙形(しきしかた)を書く筆者に選ばれ、永観2(984)年には内裏の額を書いて従三位(じゅさんみ)に昇進するなど、その筆跡がもてはやされました。
しかし筆跡への高い評価とはうらはらに、宮仕えの貴族としての佐理は、非常識でだらしない人物と見られていたようです。関白(かんぱく)藤原道隆(ふじわらのみちたか、953-95)の依頼で障子の色紙形を書いたときには、日が高くなり人々が参集した後でようやく現れたため、見事な能筆ぶりを見せたにもかかわらず、場が興醒めとなり、恥をかきました。「大鏡」はこのことから佐理を「如泥人(じょでいにん、だらしのない人物)」と評しています。
佐理の真跡では、大宰府へ赴く途中に書いた手紙「離洛帖」(りらくじょう、国宝)や漢詩文の懐紙「詩懐紙」(しかいし、国宝)などが有名です。その筆運びは緩急の変化に富み、奔放に一筆で書き流したもので、道風や行成の丁寧な筆致とは違って独特の癖があるといわれます。こうして見ると、佐理の非常識な行動も、むしろ個性的で型破りな異才ぶりを際だたせているように思えます。
藤原行成 「入木相承の大祖」
藤原行成(972-1027)は摂政太政大臣伊尹(これまさ)の孫で、実務に堪能な公卿として藤原道長(966-1027)の信頼も高く、権大納言まで昇進しました。この頃の名臣を称したいわゆる「寛弘の四納言」の一人にあたる人物です。
行成は本人だけでなく子孫も代々書道を相承して、この家流は「能書の家」となっていきました。このことはそれまでと大きく異なる点といえます。そうして生まれたのが後世に多くの書流の源となった世尊寺流(せそんじりゅう)であり、行成はその始祖として「本朝(ほんちょう、日本)入木(じゅぼく、書道)相承の大祖」(「尊卑分脈」<そんぴぶんみゃく>)と尊重されるようになったのです。
行成は道風の書を尊重し、自分の日記「権記」(ごんき)にも、夢で道風に会って書法を伝授されたと記しました。道風への尊崇や、彼の創始した和様を継承しようとする意識が読み取れます。行成は穏やかで優美な筆致を持ち、まさに完成された和様の姿を窺うことができます。性格も冷静で温厚だったらしく、そうした人柄も書風に反映したのかもしれません。
行成の代表的な筆跡としては、菅原道真(すがわらのみちざね)らの文章を書写したもので本能寺に伝来したために「本能寺切」(ほんのうじぎれ、国宝)と呼ばれる書や、唐代の詩人白居易(はくきょい、772-846)の詩集「白氏文集」(はくしもんじゅう)を書写した「白氏詩巻」(はくししかん、国宝)などがあります。  
 
能書は筆を択(えら)ばず

 

この故事成語は「弘法筆を択ばず」ってことでしょう?
はいはい、とりあえずそういうことでございます。
ぢつは、弘法は筆をえらんでいた! という衝撃の事実が明らかになったのでございます。
語学堪能、字がものすごくうまく、有徳の僧侶で、頭がよく、死んだ人間もよみがえらせるような医学にも通じ、温泉や清水をずばり掘り当て土木工事の指揮もとり、予言を的中させ、おそらく超能力者で・・・。
もうはっきり言って弘法大師はスーパーマンである。日本人の弘法大師にたいする思い入れはものすごいものがあったようだ。
平安時代初期の代表的な漢詩文集に、「性霊集(遍照発揮性霊集)」というものがあって、これは弘法大師の詩文を、弟子の真済が編集したもの。
弘法大師の生涯や詩作だけでなくその時代の様子も書かれており、弘法大師はさほどスーパーマンではなかったのがわかるとしても、当時の社会資料としてなかなか面白い。つまりは弘法大師の考えや行動なんかが漢詩で書いてある本、とでもいいますか。
この「性霊集」巻4に、
「奉献筆表(筆を奉献するの表) 」とか、「書劉庭芝集奉献表(劉庭芝が集を書して奉献する表)」とか「春宮献筆啓(春宮に筆を献ずる啓) 」
などという文がありまして、時の天皇や皇太子に弘法が筆を献上したり、書いたものを献上したりしたときの様子を書いたもの。
そこにはなんと、筆を筆工にわざわざ作らせたこと、筆を楷書用、行書用、草書用、写経用にわけて奉献していること、字によって筆は取捨選択すべきということ、などなどが記されており、「弘法筆をえらばず」どころではないのがよくわかるのだ。
しかも「いい筆を持ってきてっていってもだれも持ってきてくれない。しかたなく腰の弱い筆で書いたんでいい字がかけなかった」と嘆いてみたり、さらに、「よい工人はまずその刀を鋭く研ぎます。字の上手な人は必ずいい筆を使います。工人が物を刻んだり模様をちりばめたりする用途にしたがって刀を変えるのと同様、習字でも字に従って筆を変えます。」と言い切っている。

「良工は先ず其の刀を利くす。能書は必ず好筆を用いる。刻鏤、用に随って刀を改め、臨池、字に遂って筆を易う」
そうか、弘法は筆をえらんでいたのかっ!
「弘法筆を択ばず=能書は筆を択ばず」ってなによ?これ、実は中国の故事。能書というところに、日本最高の能書である弘法を単にあてはめちゃっただけなのである。もちろんもともとは弘法のことではなかった。
だれのことかというと、、、。
日本に三大書家がいるように、当然中国にも字のもんのすごく上手な人たちがいた。
その筆頭が、晋時代の王義之(304-365:伝)で、この人の書を学んでそれぞれ独自の境地を開拓し、唐の太宗の書道の先生となったのが初唐の三大書家、欧陽詢、虞世南、褚遂良である。(彼らはいわゆる楷書の完成者なので、書道のお手本で現代の私たちも目にすることのあるお歴々。)
この中で1番若いのが、褚遂良だった。で、あるとき彼が先輩の虞世南に訊ねたんだそうな。
「わたしの書は、先輩の先生であります智英先生と比べてどんなもんでしょうか?」
「智英先生の字は一字に銭五万を出してもよいという人があるそうだ。君ではとてもだめだね」
「では欧陽詢先生とではどうでしょう?」
「彼はどんな紙、どんな筆を使おうと、自分の思うままの字がかけるというよ。君ではとてもだめだね」
「ではわたしはどうしたらいいのでしょうか」
「君の筆遣いにはまだ堅さがあるね。それを和らげ、整えるようしたら、きっと大成するにちがいない」

褚遂良嘗て虞世南に問いて曰く、「吾が書、智英に如何」と。答えて曰く、「吾聞く、彼が一字は値五万と。君豈此れを得んや」と。遂良曰く、「詢といずれぞ」と。曰く、「吾聞く、詢は紙筆を択ばずして、皆得ること志の如しと。君豈此れを得んや」と。
遂良曰く、「然らば則ち如何」と。世南曰く、「君若し手を和らげ筆を調なば、固より貴尚なる可し」と。

つまり、筆や紙を択ばなかったのは欧陽詢という人だったようで。おなじみの習字のお手本で欧陽詢のものは「九成宮禮泉銘」。一方褚遂良は「雁塔聖教序」がおなじみで、先輩にけなされてはいるものの、私は褚遂良の字のほうが好き。で、彼は弘法大師といっしょで、なかなか筆にはうるさかったそうなんだ。 

文字を書くのが上手な人は、筆のよしあしを問わない。というところから、本当の名人は道具のよしあしにかかわらず立派な仕事をする、という意味。  
 
日本人の心と書

 

書は、「聿(筆の意味)+者=書」。つまり、筆で書きつける意味があり、書くことや書道や書物などを指します。 
書は、「実用」と「芸術」の二面性を持っています。実用の点からだけで見れば、読めればいいのです。それに飽き足らない漢字文化圏の人々は、自らの美意識のもとに文字を美しく書こうという意識を持っています。つまり、芸術的要素を追求するようになります。アラビア文字 やアルファベットの文字にも美しく書こうとする意識を持つこともありますが、文字に芸術性を見いだすのは、漢字文化圏だけで、とても素晴 らしいことです。ただ、実用にも用いられていることから、多くの人はどう鑑賞すればいいのかわからないと思っている人が多いのです。それで、関心を持たれにくいのかもしれません。
字の上達は「手習い」ではなく「目習い」
さて、書について、皆さんに、1つご理解いただきたいことがあります。
よく生まれついての悪筆・といいますが、そういう事実はありません。だれしも、料理の味は美味しいほうがいいのと同じで、文字も上手 なほうがいいと思います。ただ、料理も書も、専門家まかせでいいと考えてしまいがちです。
書は、今からでも上手く書けるようになります。「目習い」をするようにすればいいのです。手習いは、子どもの頃から皆さんしていると思いますが、目習いはしていない。つまり、手本を見ている時間より、自分の書いている文字を見ているほうが長いのです。スポーツでいえば、例えばゴルフやテニス。自分勝手にいくら練習しても上手になりません。書の場合も、同様。だから、手本をよく見て書いている、という人が多いのですが、先に言うように手本より、自分の書いている文字を見る時間が多いのです。文字を上手く書くためには、上手な手本の文字をよく見なければいけません。
次に、全体を見ることも大切です。1字ずつは上手でも、全体的にいまひとつという場合があります。音楽などにも通じますが、曲想や構成があって、1つの作品として完成する。書も一緒なのです。文字の造形の美しさと、全体の調和が大切です。
道具の持ち方、姿勢など、ある程度の基本を学ぶことはとても大切です。文字を書く場合、筆記用具を正しく持ち変えるだけで、格段に字が変わってきます。
文字を書く場合には、上手に書くコツというものが幾つかあります。例えば、横線が連続する字を書く場合は、下に行くほど行間を狭くすると上手く見えます。縦線が続く場合は、右へ行くほど狭くするのがコツです。また、いいと思う作品を見た時に、自分の名前を探してみるのもいいと思います。それを目でしっかり覚えて、再現してみてください。すると、自分のほかの字もどんどん上手くなってきます。ぜひ、試してみてください。
書には、個人の美意識と、人間性が反映した格調美が映し出されるといっても過言ではないと思います。
文字の評価を段階でいうと、最も上位なのは格調があり、かつ字が上手。2番目は、技術はさほどでもないが格調があること。3番目は、格調はそれほどでもないが、字がうまいこと。4番目は格調もなく字も下手(笑)。やはり、人間性というのは文字に出ますから、格調ある字を目指したいものですね。
書に見る日本人のバランス感覚
書の歴史においては、書体も変遷し、その中で最も古いのは「篆書(てんしょ)」というものです。ただ篆書は、書くのに時間がかかります。そこで、効率化を図るために、「隷書(れいしょ)」といわれている波磔があるものが考えられ、その途中で考えられたのが行書や草書です。最後が楷書です。楷書は、4世紀から5世紀にかけて完成したと考えられ、それ以降、新しい書体はできていません。
それが、日本に伝来し、その漢字を用いて「仮名」が作り出されたわけです。文字どおり、「名を仮りる」と書きます。この名前の名は「文字」という意味です。漢字は本当(真)の文字(名)という意味で「真名」といい、仮名は、文字(名)を仮りて作ったので「仮名」というのです。日本では、その仮名ができたために、より日本人の気持ちを、和歌や文章で上手に表現することができるようになりました。日本文化を考える上で、これは極めて重要です。
「和魂漢才」という言葉があります。日本人は先進の中国文化を吸収し、独自の感性でアレンジしました。その特性によって作られた1つが仮名です。明治期においては「和魂洋才」で、西洋文化を頻りに取り入れました。実は、日本人の感性に合うものだけを取り入れたのです。これは、日本人の知恵であり才能です。日本人は、日本文化と外国文化の融合というバランス感覚に非常に優れています。これは、これからの日本にとっても重要なことです。
書の歴史
文字がいつ日本に伝来したか。これは確たる証拠はありませんが、中国との交流を物語る最も古い時代の遺品に、2センチ四方の「金印」と呼ばれる印面に「漢委奴國王」と書かれたものが、九州の玄界灘の小さな島で1784年に出土しています。これは、西暦57年に中国の後漢に日本の使節が訪れた際に、下賜されたものです。すでに、中国と交流ができる能力を持っていることから、日本には文字を理解する人々がいたことが考えられます。
漢字の本家である中国には、4世紀に王羲之という、書の神様、「書聖」といわれる人物が登場します。残念ながら肉筆は残っていません。現在残っていている臨書や複製の中では、最も高く評価されている双鉤填墨に「喪乱帖」が、わが国にあり、宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されています。
これをみても、文字の形が崩れていたり、字形が傾いたりで、1文字ずつみると素晴らしい字ばかりではないのですが、全体の調和が素晴らしい。このように1字1字ではなく、全体に調和が取れているのが良い書の条件なのです。
日本では、9世紀に唐に渡った空海が、中唐の能書・顔真卿の新しい書法を学び、多様な表現力を駆使した書を確立します。代表的な作品として京都の東寺に伝わる、空海から最澄への手紙である「風信帖」があります。
そして平安時代中期には、中国書法を参考にしながら、柔和な書の表現を始める小野道風という人物が登場します。遣唐使が廃止された年に生まれ、三跡の1人として名高い人物です。藤原行成がこれに続き、書の世界は中国書法一辺倒の時代から柔和な日本の書への大きな変貌を遂げ、優美な和様の書が完成しました。
これが、平安時代末期から鎌倉時代になると、今度は時代の流れに従って、力強い書が好まれていきます。
室町時代には、芸術の観念と道徳の観念が結びつき、茶道、華道などが生まれます。茶道では、袱紗の使い方をはじめとしたお手前が型どおりに行われます。型にはめる、型にはまることが精神修養として大切であると考えられた時代でした。書も同様で、師匠とそっくり同じ字形の文字を書くことを目指しました。こうした書は書流と呼ばれ、室町時代を通じて流行していきました。型の継承であり、文化の継承です。この考えは、本質的に現在まで受け継がれています。
安土桃山時代になると一転、公家の近衛信尹により、それまでの型にはまった書から、個性を外に打ち出す書が登場します。日本におけるルネッサンスというべき時代です。信尹は、公家でありながら秀吉の朝鮮出兵に同行を迫り、九州まで赴いた剛毅な気持ちを持つ人物ですが、教養も豊かで魅力的な力強い書を書いています。やはり「書は人なり」だと思わされます。現代作家が大きな字を書くようになっていますが、その嚆矢は近衛信尹にあるといってよいと思います。
21世紀の書とは
書の歴史を振り返ってきましたが、21世紀の書はどうなると思われますか。それは皆さんが作るのです。作品を書いている人ではなく、鑑賞している人が書を評価し、次の世代に残すのです。今残されている作品で考えれば、千年前のものは、30世代から40世代の評価を経て、今日に残っています。途中のだれかが処分してしまったら、残りません。価値のあるものという評価が連続したものだけが残るのです。従って、21世紀の書を次の世代に残すのは、皆さんなのです。
日本文化の評価は、経済と比べると十分ではないように思われます。まだまだ外国に知られているのは、その一部です。経済力は時代で移り変わりますが、エジプト、ギリシャ、ローマ時代、あるいは中国の唐代などの評価は、いつの時代でも高い評価を得ています。仮に、日本がこれから5年、10年、百年もの間、経済でトップに立てたとしても、勤勉さは評価されるでしょうが、得られるのは、妬みかもしれません。
文化の果たす役割はとても大きいのです。せっかく、漢字文化圏の国に生まれ育ち、書の文化に身近に接することができる皆さんには、まずは好き嫌いという感覚でいいので、書の作品を見ていただきたいと思います。そして、魅力というのは、見ているうちに徐々にわかってきますから、その魅力を少しでも、次の人に伝えていっていただきたい。伝えることで、より理解が進みます。それが文化の理解となり、伝承につながるのです。
 
古今著聞集に見る三筆

 

成立 / 鎌倉時代。建長六年(1254)十月成立とあります。
作者・橘成季(たちばななりすえ)。成季は、従五位下の下級貴族でしたが多能の人で、詩歌・管弦・画図を得意と師、退官後、折りをみてはそれらにまつわる過去の説話を編纂しているうち、説話の収集が他の分野にもひろがっていったといいます。そして五十歳くらいまでにこの説話集を書き上げました。花鳥風月の話の他に、下級官人の失敗談、笑い話、機知に富んだ人の話、エロ話なども多いことから、この成季という人物は、ジョークや猥談好きで、才能も多岐にわたる好人物だったのかもしれません。詳細は不明。
内容 / 平安貴族のあらゆる説話を、先行する説話集からは採るのではなく、家々の日記を調べたり直接聞いたりするなど、あくまで事実にもとづいて収集したのが、この古今著聞集です。編纂した成季をはじめ京に住む多くの貴族は、古代貴族世界に対するやみがたい追慕の情がありました。承久の乱での敗北以降、完全に政治から切り離され、京の狭い社会に閉じ込められてしまった貴族たちは、もはや新しい生活を生み出す力も気力もなく、ひたすら過去の栄光を懐かしむよりほか、どうしようもありませんでした。実質的な機能を奪われ、真綿で首を絞められるように滅びゆく自分たち。この世を動かし、文化をつくっていたのは、つい昨日までは自分たち貴族だったのだ・・・過去の時代の足跡を求め、「いにしえ」がいかによきものだったかを改めて知ることが、この著聞集を編纂した動機だったようです。
三分の一が鎌倉時代の説話で、残りの圧倒的多数が王朝時代の説話で構成されています。内容は30編あり、世界を「宗教」「人間」「自然」と三分して記述され、人事から自然まで、事実にもとづいたあらゆる説話が百科事典的に羅列されています。いかにも男性が手がけた感のある説話集です。 
285段 尺牘の書疏は千里の面目なる事
紙が今よりはるかに貴重だった頃、私信は一尺の木簡に書き付けられていた。そして文字が上手な人は、その名が遠く千里までとどろくほどだった。文字の達人は、永久不滅にその名が歴史に残ると言ってよい。すぐれた「書」は、あらゆる芸術を超える。 
286段 嵯峨天皇、弘法大師と手跡を争い給う事
嵯峨天皇と弘法大師は能書家で知られ、いつもその筆跡の上手を競っておられた。ある時天皇はお手本をたくさん持ち出して、大師に披露した事があった。お手本の中に、抜きん出て素晴らしい文字が書かれた巻物があり、「どうだね大師。これは唐の人の手跡だ。書いた人物の名は残念ながらわからぬ。とても真似ることはできない。これは私の秘蔵の一品なのだよ」と自慢げに言われる。この巻物について、天皇が色々ウンチクを語った後、大師は、「その巻物、実はこの私めが書いたものなのですよ」と申し上げ、天皇は絶句。
「それはまことか。嘘だろう。なぜなら今のそなたの手跡はこの巻物の文字とは違うではないか。はしごに登ったとて、この文字には並ばぬわ」と言われる。大師は、「お気持ちは大変よくわかります。ですが、巻物の軸をはずして合わせ目をよくご覧下さいな」と言う。天皇は言われたとおりに軸をはずすと、なんと「某月某日青龍寺において沙門空海これを記す」と書いてある。この書き付けを見て天皇はようやく納得し、「いやあ負けた負けた。私の負けだよ大師。しかし不思議だ。当時の文字の勢いが今はない。何故だ」と大師にたずねた。「実は、国によって文字を変えているのですよ。大国においては、大国にふさわしい勢いのある文字を、日本のような小国においては、小国にふさわしい今の文字を、と言うことですな」大師の答えに天皇はひどく恥じて、これ以降は筆跡を競わなくなったという。 
287段 弘法大師等が大内十二門の額を書す事ならびに行成が美福門の額を修飾する事
大内裏の東西南北をぐるりと囲む12の門に飾る額を、当代きっての能書家たちが書くことになった。南の三門は弘法大師が、西の三門は大内記小野美材が、北の三門は但馬守橘逸勢が、そして東の三門は嵯峨天皇が、それぞれ書くこととなった。この時、弘法大師の書いた額を見て小野道風が一言、「美福門の「福」の“田“の部分がちと広すぎるような。朱雀門の「朱」も“米“のようで…ははは」と難クセをつけた詩経を作り、笑いものにした。すると道風、脳卒中にかかり手足がマヒしてまともな文字が書けなくなってしまった。後年、行成卿が「美福門」を修理することになったとき、行成卿は弘法大師像の御前に花を捧げ、大江以言(おおえもちとき)に作らせた祭文を読み上げた。「このたび勅命を賜りまして、大師さまの筆の跡をなぞることを許されました。ですが、偉大なる聖跡を汚してしまうことを恐れております。かと言って、筆をとらずにいる事は勅命を断る事と同じ、国家の法に触れてしまいます。進退窮まり、わたしはどうすればよいでしょう。大師さまの尊像に伏してお願い申し上げます。額の修理をお許し下さるかどうかお示しください。もしお許しいただけるなら、もとの文字をなぞるだけに致します。お許しいただけないのでしたら、また改めて考え直すことに致します。ただ、勅命には絶対従わねばなりません。それをよくお考えになられ、どうか私の願いをお聞きくださいますよう、重ねて伏してお願い申し上げます」行成卿は小野道風の二の舞を恐れ、大師の像にこのように奏上した。
この後これらの門は、ある門は焼失し、ある門は倒れ、今では安嘉門・待賢門の二門のみが残っている。ちなみに、橘逸勢が書いた安嘉門の額は、下を通る人を取り殺してしまうという言い伝えがあるそうな。 
288段 小野道風、醍醐寺の額を書く事
延喜の帝(醍醐天皇)が在位のとき、醍醐に寺を建立しようと思い立たれた。門の額は小野道風が書くこととなった。道風は勅命どおりに楷書と草書で額の字を書いた。ところが、正式な書体である楷書で書き上げた額は正門(南大門)には掲げられず、草書体の額が南大門に掲げられた。道風は、「すばらしい賢帝であらせられる」と感心したと言う。風になびく柔らかな草のごとく書かれた草書の額は、帝の御気質をそのまま反映したようであり、「正門には正書を掲げるべきである」という世間の常識を改めさせた、非常にユニークな発想を道風は誉めたのだった。 
289段 法性寺忠通、小筆をもって大字を書く事
久安の御世、知足院の入道殿(忠実)は息子の法性寺殿(忠通)と対立が深まっていた。そんな折、法性寺殿が知足院のもとに参上した。日ごろ腹にためている気持ちを言ってもらおうと、知足院殿は屏風を一帖ぶん持ってこさせ、「なんでもよいからこれに書いてみなさい」と言う。法性寺殿は墨をすったあと小筆をとり、とても大きな字で屏風に、「紫蓋之峰嵐疎(紫蓋の峰の嵐おろそかして)」と書いた。一帖では足りず四枚いっぱいに書いて、父知足院に見せた。知足院はこれをじっくり見、「大変貴重な物だ」そう言い、のちに宝物蔵に納めたという。紫蓋之峰は和漢朗詠集にも載ってますね。快晴でないと見ることのできない峰を例えに、二人の間の確執も今日を境に消えたということでしょうか。  
290段 大納言大別当清水寺の額を修復の事
さる大納言の若君が、清水寺の僧のもとで育てられていた。実の父親が誰なのか、この若君は知らない。母親が清水寺に預けていたのだが、長じて「大納言大別当」と呼ばれるようになった。彼は能書を何よりも好み、彼自身も書をたしなんでいたため、多少思い上がりの心を持っていた。さて、この清水寺の門の額は、侍従大納言行成の書だったが、書かれたのはずいぶん昔のことだったので、額の文字が色あせ、わずかな文字のあとを留めるのみとなっていた。それを見た大納言大別当は、「完全に消える前に、この私が書き直したいのですが」と願い出た。古参の僧たちは「何と思い上がったことを言うか」そう非難したのだが、「いかに立派な字でも、消えてしまったのでは何の価値もないじゃありませんか。私が勝手に字を加えるなら差しさわりがあるかもしれませんが、わずかに形跡が見えている今のうちに、もとの文字をなぞって、その墨の色を濃くするだけです。古い仏像に金箔を貼り付けて、皆さんだって修復しているじゃないですか。あれと同じことですよ」大納言大別当の理路整然とした言い分に一同反論できず、とうとう修理を許してしまった。大納言大別当は額を降ろし、板をきちんと塗りなおした。そして、わずかに残る行成の筆の跡をなぞり、きれいに修理したつもりだった。
あくる日の天気は大荒れとなった。雷鳴は激しく、どしゃ降りの雨が書いたばかりの額の文字だけを洗い流してしまった。今までどんなひどい横なぐりの雨が降っても決してこの額が濡れることはなかったのに、たとえ濡れることがあっても、付け加えたところだけが完全に流れ落ち、もとの状態に戻るなんてことがあるだろうか。これはただごとではない、侍従大納言行成殿はお怒りだ…と皆大騒ぎだった。額を修理した大納言大別当は数日後、急に死んでしまったとか。
291段 行成の子孫行能が音楽堂の額を依頼された事
法深房(藤原孝時)は、管弦の道場として自分の持仏堂を開放し、そこには同好の士たちが絶えず出入りしていたが、堂の名「阿釈妙楽音寺」を書いた額を作製するべく、建長3年(1251年)8月13日、三位入道寂能(藤原行能)のもとに出向いた。この行能は名筆家行成の7代目子孫で自身も大変な能筆で知られていたが、この頃は重い病気にずっと臥せっていた。寝たきりの状態で苦しそうな息をしている行能に、法深房は大変驚き、「これほどまでにお悪いとはまったく存じ上げておりませんでし た。お願いしたいことがあってお伺いしたのですが、まずはお体を養生なされませ。ご回復なされましたら、また改めてお願いに参上致します」「いえいえ、ともかくご用件をお聞きしましょう。きっとこれが最期の対面になるかもしれませんので…」乞われるままに法深房は楽音寺の額の件を説明した。法深房の話を聞きながら、行能は手を合わせ泣き始めた。
「このお話について、たいへん不思議な因縁があります。何年か前、近江の国より参られた僧に額を依頼されたことがありました。ひどく荒廃した寺を何とか修復して、寺と同様に荒廃している周囲の土地を少しでも豊かにしたい…その僧の話に心を動かされたものですから、寺の門に掲げる額を作製したのです。
4、5年経ってからその僧が再び来られまして、「おかげさまで寺は再興し、周囲の寺領も平和になりました。よかったよかったと安堵しておりましたところ、先日の夢に、”すべての喜悦は件(くだん)の額の霊験なり”と告げる者がありまして。それであなたさまに一言だけでもお礼を申し上げたくて参上致しました次第でございます」と手を合わせに参られました。それっきりその話は思い出さなかったのですが、数日前…そうですね、8日の明け方でしょうか、病にかかった私の夢の中に天人とおぼしき人が、近江の僧に書いた額を持って現れて、”この額の文字損じたる、直して給え”と私に手渡しなさいました。確かに私の書いた額です。文字の一部が少し消えかかっており、私は夢の中で修理しました。直した額を受け取られた天人はとても喜んで下さり、帰り際に、”5日以内に額のあつらえを依頼に来る人物がいる。書けば極楽往生の機縁となろう”と告げられたところで目が覚めたのです。
私は一日一日と待ちました。そうして夢の中の天人のお告げどおり、5日目来られたのがあなたなのです。この額は精進潔斎してから取りかかりたいと思います。天人のお告げのあった額なのです、よもや完成する前に死ぬことはありますまい」行能は泣きながら喜んでいる。行能はさらに続けた。「世間広しと言えども管弦の道においてあなたさまの右に出る者はおりますまい。同様に、書の道において我が世尊寺流派が第一であると自負しております。実は、このたび帝(後深草天皇)の閑院内裏への遷幸で、年中行事の障子を書くよう宣旨が下されましたが、当主の私はこのとおり病気で書くことが出来ず、息子の経朝に書かせようにも関東に出向いており不在。それで古くとも由緒正しき障子を用意させたのですが、閑院内裏を再建した(鎌倉)幕府方が、「新築の内裏に、古いもので間に合わせるのは如何なものか」と文句をつけてきまして。どうしても世尊寺流派の書で新築の里内裏の障子を飾りたいと言うのです。何でもよいから世尊寺流の書を、と言われて用意させたのがまだ年齢九つの経尹(つねただ。経朝の子)に書かせた障子でした。以上のことから、管弦においては朝廷の公私の御用を立派に務められるあなたさまと同様に、我が世尊寺家も朝廷の大事をこなすことの出来る当代一の書のブランドだと思われるわけです。あなたさまのご依頼、極楽往生へのかけはしと思い、心を込めて務めさせていただくつもりです」
この話は「古今著聞集」の編者・橘成季が法深房から直接聞いた話である。夢のお告げなど一連の事情が書かれた行能の書状の実物を見せてもらったそうだ。
292段 行成・伊房・佐理の能書の誉れの事
書の名人で知られた藤原行成が内裏で行われた扇合わせに出席した時のこと。扇合わせとは、参加者を左右二組に分け、それぞれが持ち寄った扇の骨・紙質・描かれた絵や和歌などを競う優雅な遊び。選ばれた人々は贅を尽くした扇や奇抜な扇を披露したが、行成卿は、黒い骨に黄色の唐紙を貼って両面に自筆で楽府を書いた扇を披露した。(一条)天皇はこれを見て「他のどの扇よりこの扇がうるわしくめでたい」と大変喜ばれたという。
この行成卿の孫にあたる帥の中納言伊房もすばらしい能書家だった。彼は、藤原一族の氏神である春日大明神のお告げにより、お経を収める経堂に掲げる額を一枚作製したのだが、出来上がった額を今すぐ掲げるような経堂もなかったので、「必要もないのにお告げがあったのは、何か事情があるのだろうな」と思い、額をそのまま仕舞っておいた。その後、伊房が死んで何年も経った。ある年朝廷で一切経(仏教の大事典)を収める書庫が作られ、その経庫に掲げられる額が必要になった。「ああ、故伊房殿の夢のお告げはこの日のための神慮だったのだなあ」と皆感動したとか。
昔、藤原佐理が太宰大弐だった時、任果てて帰京の途中、瀬戸内の伊予あたりで船が動かなくなった。その時、佐理の夢に大山祇(おおやまつみ)神社の三島明神が現れ、「よろづの社にかかりたる額が我が社にはあらず。書の名人たるそなたが書いて給え」と告げたという。佐理は精進潔斎したのち三島に上陸し、「日本総鎮守大山積大明神」と書いて奉納した。このことにより、佐理の能書家としての名声はさらに高まったという。長徳3年の出来事である。
293段 弘法大師が「五筆和尚」の由来の事
弘法大師空海がまだ中国の唐にいた頃の出来事。長安の宮廷に、書聖と讃えられた王義之の書が掛けられていたが、痛みが激しく修復することになった。だが、達人の書を汚すことを恐れて誰も直そうとしない。その時同じように声をかけられた大師が、両手両足口に筆をとり、もとの書を一気に修理した。「五筆和尚」の由縁だ。これには別の説もある。草書・梵書・八体など、さまざまな書体を自由自在に使い分けた大師。その多彩さゆえに「五筆和尚」と讃えられたという。
 
書論と書写

 

書論と書写 1 のびのびと書く
書論とは、書を論じた文章などの総称です。ここでは、3回にわたって、数ある書論の中から書写に通ずる部分をつまみ食いしていこうと思います。
中国、唐の孫過庭という能書家が書いた、「書譜」という書論があります。彼はこの中で、書がうまく書けるときと、うまく書けないときの条件をそれぞれ5つずつ挙げています。私なりに解釈してみます。
《うまくいくとき》
1.仕事がヒマで、気持ちがゆったりしている。
2.頭がすっきりはっきりしている。
3.気候がよくて、適度に湿り気がある。
4.調子のよい紙と墨がある。
5.何となく書いてみようと思った。
《うまくいかないとき》
1.何かにせかされて、気が向かない。
2.頭の中にあれやこれや浮かんで、集中できない。
3.汗がだらだら出るような天気。
4.紙と墨の調子が悪い。
5.なんだかやる気がおきない。
今から数百年前の書の名人が、現代の私たちとほとんど同じ感覚なのはおもしろいことです。
さて、この条件をいまの小中学生に当てはめるとどうでしょう。「テストのことが気になって」「昼休みのあとの眠くなる時間」「いざ書こうと思ったら筆がカチカチ」……なかなかよい条件はそろいそうにないですね。
ではもう1か所。原文を書き下すと「士は己れを知らざるに屈し、己を知るものに申(の)ぶ。」これは、自分を認めてくれないときはやる気をださないが、真価を認められれば力を発揮する、ということです。書写の授業においても、子どもたちがのびのびと力を発揮できるような環境の整備や、さまざまな工夫が必要だと思います。 
書論と書写 2 日本の書論から学ぶ
今回は日本の書論です。
「弘法、筆を選ばず」ということわざがあります。言うまでもなく弘法大師空海は、日本を代表する能書家です。ところで、空海の書と伝えられる「狸毛筆奉献表(たたげのふでをほうけんするひょう)」という文書によりますと、彼は唐に留学中、筆の作り方を学び、帰国後、楷書・行書・草書・写経用の書体の違いにあわせて作らせた四本の狸毛筆を、嵯峨天皇に献上したことがわかります。つまり空海は筆にはずいぶんこだわっていたのですね。このことわざは、自分の技術不足を用具のせいにする人を戒めることばだということです。
日本で初めて書論を残したのは、空海です。彼は中国の古い書論を引用しながら、「書というものは、“散”である。自分の中にある思いを解放し、森羅万象を表現するものである。」という意味のことを言っています。さすがに天才だけあって言うことも大きいです。
さて、日本の古い書論は、秘伝書としての性格が強かったようです。つまりある流派に密かに受け継がれてきたものです。「決して外部にもらさぬように」とか、「密談して口伝えした」などと文中に出てきたりします。主要なものに「夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)」「才葉抄(さいようしょう)」「入木抄(じゅぼくしょう)」があります。
その秘伝書の内容は、状況に応じた細かい作法や、用具用材、書を学ぶ心構えなど幅広いものです。例えば、「天皇の前で書くときは、硯を向こう側に向けたままで書くこと」とか、「(固形の)墨を使ったあとは、よく拭いて塗りの入れ物に保存しておくこと」は「最上の秘事」であるなど、経験に基づいた方法論などが、事細かに記述されています。なかには「夜、字を書くときは昼間書くときよりも大きくなりがちだから、小さめに書くとよい」など、電気等のない当時の生活を想像できておもしろい部分もあります。
もちろん「いつもよい書を気をつけて見ること」、「自分の書いたものの良し悪しを考えること」と、鑑賞や自己評価の重要性に触れたり、「手本の筆使いや、意趣を理解しないでむやみに習ったのでは、応用がきかず習わない字は書けない」など現代の書写に通ずる内容も多く含まれています。 
書論と書写 3 「地声」を生かす
秋草道人の名で知られる会津八一は、歌人・美術史家・英文学者・書画家とさまざまな肩書きを持つ典型的な文人です。八一の「書道について」という講演を記録した長い文章には、昔の小中学校の習字の様子と、自身の悪筆ぶりが面白おかしく綴られています。また、書への深い傾倒がうかがえます。かいつまんでその内容を紹介します。
小学校に入ったときから書き方の時間が恐ろしかった。もともと左利きだったのを右手に変えさせられたこともあって、毛筆はずっと落第点であった。何より習字の手本どおり書くことのできない種類の人間だった。中学校に入っても、習字の先生から「おまえは他の科目はよくできるけれども、習字を見ると、私は涙が出てかなわん」と言われるほどだった。この先生とは後にも手紙のやりとりがあり、八一が大家になったあとも、書に対して「君の字は今もわからん」と評された。
学生時代、八一は考えた。自分は字が上手にはなれないけれども、意思を伝えるためには人にわかるような字を書かなければならない、と。早速、だれでも読める明朝体活字を手本に、独学で習字を始めた。その後さまざまな書道の法帖を見るが、自分のオリジナリティーに気をつけて、他人の影響を受けないように苦心した。
さらに、八一は書の学び方についても次のように言っています。
習字の手本を見て書くということは、手本を書いた人の人格とか、時代とか、その人の趣味とかいうものに対して、何のお構いもなしに類似品を作ることであり、声色の稽古と同じである。自分で気がつかないうちに自ら湧き出てくるのがその人の持ち味である。地声でもって声を習って、だれの真似でもない己の地声で大衆に向かって何かものを言うようにするのがいちばん必要なことではないか。
八一の主張は、その自尊心の強さとあいまって、いささか辟易とするところもあるのですが、現代の書写につながる部分も多いと思います。子どもたちの“自ら湧き出てくる持ち味”をどうやってすくい上げるか、子どもたちの“地声”をどうやって伸長させていけばよいのか。小中学校時代の習字教育に収まりきらなかった八一の強い“地声”が、われわれに書写のあり方を問いかけているような気がします。 
書写技能と模倣
書写の授業で、「手本をよく見て練習しましょう。」と生徒に指示したことはありませんか?教材文字(いわゆる手本)をよく見て練習することは書写学習の基本ですが、この指示は、書写の授業をどのように展開しているかによって、好ましくない指示となる場合があります。
例えば、「今日は教科書○○ページの<秋>を練習します。それでは、手本をよく見て書きましょう。」というような簡単な指示のみで練習活動に入るような展開、すなわち、本時の学習課題への理解を生徒に十分に図っていない場合です。この場合、「手本をよく見て」といいながら、多くの生徒は教材文字のどこを見ればよいのかわからず、単なる模倣作業に追い込まれてしまいます。書写学習は、教材文字を媒介として、そこに内在される書写技能を習得するための学習です。教科書の教材文字はあくまで字形の一例であり、字形を似せて書くことを想定した模倣教材ではありません。
一般的に、教科書の教材文字には、書写技能に関する学習課題が一つ設定されています。例えば「林」という教材文字(毛筆)があったとしましょう。この場合「左右からなる漢字を整える技能」の習得ということがメインの学習課題となります。「林」という形には、<偏と旁とでお互いにスペースを譲り合って一文字として整える>という理屈が働いており、その譲り合いの仕方が「左右からなる漢字を整える技能」です。だから「木木」ではなくて「林」なのです。授業を単なる模倣作業にしないためにも、「左右からなる漢字を整える技能」を技能として学習者に認識させることが肝要です。つまり、「秋」「料」「鏡」等の他の左右からなる構成の漢字群にも共通しているという法則性を認識させることが必要になってきます。応用のきかない技能は技能とは呼べません。毛筆で「林」がいくらそっくりに書けても、硬筆で「秋」を書いたときに「禾火」と書いていたのでは技能を習得したとは言えません。
また、教材文字に関する情報を過度に提示するのも模倣につながりますので要注意です。例えば、「偏の始筆より旁の始筆の方が5ミリくらい上。」「点の位置はこの画とこの画の間に。」等々の細かい指示のために、この教材文字では何を中心に学習するのかという点が不明確な授業も模倣のための授業になりがちです。教師は、教材研究の段階で、「@中心課題についての情報、A復習課題についての情報、Bその他の情報」というようにランクをつけて整理しておき、授業の際に必要に応じて提示することが望ましいと思います。
試行錯誤する時間的保証があれば、反復練習の中で子ども自らが技能を発見し定着させていくことも可能でしょうが、週に書写の授業が1時間あるかないかの今日では、教師の支援の仕方は重要なのです。 
「書写」学習の再考
今回は、少しかたい話になりますが、おつきあいください。
寺子屋の時代、「手習」は文字の書き方だけでなく、読み方や語彙の習得を目的とした合科的学習スタイルをとっていました。例えば、商業に携わる人々の子供は「商売往来」を学び、農業に携わる人々の子供は「農業往来」を学ぶというように、生活を見据えた教材選びをし、訓読(読み)を練習した後、繰り返し書いて練習するといった具合に学習が進められました。すなわち「手習」は、日常に生きて働く文字言語の学習として機能していたわけです。
ところが、明治5年に「学制」が頒布され近代学校教育制度がスタートすると、寺子屋の「手習」は、米国の教則にならって「習字」という一教科となりました。その学習内容ですが、読み方や語彙の学習は他の教科に譲り、「習字」は主に<文字の書き方>の学習に限定されることになったのです。明治33年に国語科が成立してからは、教科ではなくなり、「書き方」という国語科の一領域となりましたが、「書写」という呼称の今日に至るまで学習内容は大きく変わっていません。
今日、授業時数の減、学習内容の厳選といった教育界の動向の中で、いわゆる「書き取り」学習と「書写」学習の内容的重複が問題とされています。そのような中で「書写」は「もう必要ない」とか「時間数を減らすべきだ」という声があることも確かです。小・中学校における「書くこと」の学習全体を見通して、その基礎学習として「書写」を位置づけるべきであって、そこには、読み方の学習や語彙の学習にも配慮した、生きた文字言語を習得することをねらった学習活動を再組織する必要があると考えます。「書写」という世界に閉じこもるのではなく、そのことをむしろ「書写」のサイドから積極的にアプローチしていくことが求められていると思います。
このように考えますと、日常に生きて働く、また、国語科において機能する「書写」を今後組織していくために、少なくとも次のような点を日々の授業実践の中で検討しておくことが必要ではないでしょうか。
いわゆる手本を絶対視した毛筆大字一辺倒の授業になっていないか?
日常の書字活動との関連が図られているか?
国語の諸学習との関連が図られているか?  
 
人間空海と芸術

 

幼名「真魚」 
「空海」という呼び名が僕の脳裏に住み着いたのは一体いつごろからか定かではないのだが、物心がついたころには祖母がよく「お大師さん」と呼び親しんでいたことを思いだす。素朴な庶民信仰のなかに今も生きている人間空海、「弘法大師」という諡号は高野山のある和歌山県で生まれ育った僕にも、なじみ深い名前であった。
1200年も昔に生きた空海は今日においてもなお多くの人々の篤い信仰の対象として、ただ真言宗の宗派に属する人たちだけにとどまらず、広く日本人から愛され、崇拝されている。「大師は空海にとられ」ということわざがあるように、同時代の最澄や後の法然、道元などと比べてみても、真の大師としてこのように日本人に慕われ尊敬されてきた例は、ほかに類をみないのではないだろうか。この崇拝の最もはっきりしたあらわれが、四国八十八ヶ所霊場巡りにある。空海が42歳のときに人々の災難を除くために開いたとされる霊場で、後に空海の高弟が彼の足跡を遍歴したのが霊場めぐりのはじまりと伝えられている。人間には88の煩悩があり、四国霊場を八十八カ所巡ることで煩悩が消え、願いがかなうという。徳島阿波(発心の道場)、高知土佐(修行の道場)、愛媛伊予(菩提の道場)、香川讃岐(涅槃の道場)に至る1450キロを巡拝する四国遍路は昔も今も人々の人生の苦しみを癒し、生きる喜びと安らぎを与えてくれる祈りの旅となっている。同行二人、どこにあっても自分ひとりではなく、空海とともに歩み、心身をみがくという身体感覚は宗教、非宗教を問わず、また国籍、信仰を超えて多くの礼拝者を魅了している。
そういえば随分昔観た「旅の重さ」(1972年[松竹]斉藤耕一監督)という懐かしい映画をふと思い出した。主人公の16歳の高校生の少女がある日、自由と自立を求めて、家出同然で旅に出る物語なのだが、四国の札所を巡るお遍路のような苦しい旅を続けながら様々な人生模様に触れ、生きていくことの厳しさを学びながら自分をみつめなおしていく。孤独感や淋しさを乗り越え、やがて人間や自然に対する豊かな信頼を深め成長していくという物語なのだが、吉田拓郎の「今日までそして明日から」という挿入歌がやけに心に沁みたのを覚えている。美しい四国の自然やお遍路が鳴らす鉦の音、どこにでもある小さな港町、道行く老婆の笑顔など、情感あふれる映像は当時の僕の心にもしみじみと伝わってきた。人生の孤独、人々の生活のなかに現れる様々な苦悩、ひたむきさ、愛情など、青年期の空海が真理を求めて苦悶しながら歩いた道を彷彿とさせるような青春映画だった。
ところで「空海」という名は、四国の室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵求聞持法〔注1〕の修行をしていた時、明け方に明星が口の中に飛び込み「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験し、空海自らが名付けたとされている。なんともおおらかなスケールのある名前ではないか。空海についてなにか書きたいと思ったきっかけは10数年前に遡るが、自分の作品のタイトルに空海の幼名「真魚」を横文字にして、絵画「MAO」シリーズが始まったことにある。当時、制作にいきづまり、それまで描いていた「自然の異形シリーズ」を中断し、新たな展開を模索していた。
その頃作品のタイトルに人の名前を付けたいと考えていて、思案した結果、空海の幼い頃の名前にたどりついた。絵が未成熟な人間のアウラのようなものとして、空海のように大きく成長してほしいという願いをこめて名付けたのだが、空海の底知れない魅力と謎に魅せられたと言っても過言ではない。しかし、よくよく考えてみると当時は密教の知識などほとんどなく、空海についてもさほど知っていたわけではなかったのだが、なぜかいつも気になる存在として空海は僕の心の片隅に留まっていた。幼名「真魚」を拝受して以来、絵画「MAO」シリーズは遅々たる歩みを続けながら今日も日々進化している。 
楕円的人間 
空海が密教にたどりつく過程はものの本には様々に描かれてはいるが、なによりも空海の人間そのものに迫らねばならないだろう。それは空海が幼い頃、宗教や美術の文化的情報に対する鋭い感覚を育んだとされる、讃岐国多度郡屏風浦〔注2〕の環境を抜きにして語ることはできない。温暖な瀬戸内の風土はもとより、早くから海上交通の要路ともなり文化が開けた地にあって、地方豪族佐伯氏の三男として生まれた空海は「貴物」(とうともの)とよばれ親族の期待を一身に背負っていた。
7歳の頃、捨身ヶ嶽(73番札所出釈迦寺・奥ノ院)に登り、「仏門に入り多くの人を救いたい、この願いが叶わぬなら自分の命を捨てる」と、崖から身を投げた。その時釈迦如来と天女があらわれ、その身を助けたという伝説がある。空海にはこのような数多くの伝説が残されているが、これも民衆の永遠の救済者としてつくられた奇跡譚のひとつといえるだろう。ともかく幼少のころより仏典を好み、泥塔や泥仏を作っては礼拝したと中世以降の伝記類に記されている。単純な神秘化、神格化をあらわす逸話ではなく将来の空海を暗示するような伝承である。その後12歳に讃岐の国学〔注3〕で学び、15歳で叔父の阿刀大足に連れられ、上京し、18歳から大学の明経科〔注4〕に入学するが、官吏への道に絶望し、20歳すぎには「我習う所は古人の糟粕なり・・・(以下省略)」〔注5〕と大学を去り、山林での修行に入ったとされる。しかし空海の場合、山林修行に入ったといっても、正式な出家僧としてではなく私度僧(官許を得ず、僧侶を自称したということ)であった。その中退の弁明の意味ともとれるあの有名な、儒教・道教・仏教の比較思想論、「聾瞽指帰」(後に序文と巻末の十韻詩を改定して「三教指帰」となる)を著すのは24歳のころになってからである。
空海には幼い頃から本質的に聖なるものに対する強い志向性がそなわっていたのだろう。真理を求めるための多彩な世俗活動〔注6〕は、仏道一筋に精進するひたむきな求道者としての他の祖師とは違い、宗教家としてのみならず、思想、文芸、土木工事、教育、薬学、医学、地質学〔注7〕、はたまた能書家として幾多の業績を残し、日本文化の様々な分野に多彩な足跡を印している。  
以前空海に関する書物だったか、頼りない記憶で不甲斐ないのだが、人間の典型を円的人間と楕円的人間と捉えた場合、空海はまさに楕円的人間に相当するといった説を思い出した。空海の生涯は、俗と非俗の周期を交互に繰り返し進化するという、中心を二つもった楕円的人間の才能に満ちあふれている。讃岐国の名家に生まれ、官吏の養成を目指す大学に通い、漢文学や中国古典を学んだ少年期は俗、その後仏道を志、山林にわけ入り、自己啓発に臨む青年期(「聾瞽指帰」を著して以降、入唐するまでの7年の動向は不明とされている)は非俗、31歳で入唐し、インド密教を学んだあと師の恵果に出会い、真言密教の相承者となり、早々と帰国し、密教を日本に定着・流布させた壮年期は俗、さらに50歳を過ぎる頃から山林隠遁に憧憬を深め、62歳に高野山でその生涯を閉じる晩年期は再び非俗と、4つに大別されるといった見方がある。なるほど俗と非俗の二つの中心を行き来しながら旺盛な活動を展開する空海は焦点を二つ持っていたと考えた方がわかりやすい。ちなみに相対する円的人間とは、その人生に一つの中心をなす原則があり、この原則に従って一元的に説明できるというような人間像、まさに日本人の好む典型的な理想像だが、ちょうど最澄のような純粋な求道心を持った宗教者をイメージすることができるだろう。ともかく空海は俗世的な意志と遁世的な意志の振幅を最大限に発揮した奇跡の人と呼べるのかもしれない。 
真言密教と言葉 
空海が残した著作はそのほとんどが仏教に関する書物といわれているが、そのなかに一風変わった漢詩文を創作する際の実作指導をかねた文芸解説書で「文鏡秘府論」〔注8〕という著作がある。漢文を読み解く能力に欠ける僕にはなかなか近寄りがたい書物なのだが、その序の一節が現代訳で紹介されているので引用してみよう。「貧道幼にして表舅に就て頗る藻麗を学び、長じて西秦に入りて、粗々余論を聴く。然と雛も、志は禅黙に篤くして、此の事を屑しとせず。・・・(以下省略)」(空海が幼い頃、母方の伯父について文章を習い、中国に留学して再び文章を学んだが宗教的活動が忙しくて、あまり文章にうちこむ暇がなかった。しかし文章の好きな後輩がいて請われてこの本をつくった。)というのである。内容は大半が中国に伝えられていた文学理論や音韻論、創作技術が集められ編纂されているようだが、宗教活動の暇をみてこのような書物を著すとは、空海の情報収集力の高さと、とりわけ言葉に対する並々ならぬ関心、自信のほどが窺い知れる。よほど中国の語学に通じていないと、また自らも文章をつくる能力に長けていないとこのような作品成立は不可能であっただろう。空海自身はこの著作が宗教的目的のためではなく、純粋に文学的目的のためだと述べてはいるが、真言密教が言葉に実在のあらわれを見て、言葉を大切にする宗教であるということが、直に伝わってくるようだ。なんとも信じがたいほどの語学能力である。
しかしこの語学の天才にして完璧とも思える空海にも大きな挫折があった。空海の弟子真済が編集した「性霊集」に収められた空海の体験談で、「精誠感あって秘門を得、文に臨んで心昏し。」(青年時代の厳しい試練をのりこえ、幸いにして秘門と出会うことができて密教の教典を手にしたが、それは通常の仏教経典と違って、文字だけではその真意を把握することができない。)また「わが生の愚なる、誰に憑てか源に帰せん。ただ法の在ることあり。」(釈迦〈過去〉と弥勒〈未来〉の二仏の間に生まれた私の生来の不肖のために、求むべき師、根源にかえる道を指示してくれる指導者がいない。現にその根源の教えはここにあるというのに、その秘門に入るための手段、方法がまるでわからない。)と痛恨の極みに達した心情を吐露している。この秘密の鍵を解くために空海は海を渡る決心をしたというのだ。
入唐以前の状況を回想するかたちで記されたこれらの文章から、当時の空海が如何に絶望の淵に立たされていたかが読みとれる。
大学を中退し、山林修行に入り一旦は文字・学問から離れ実践修道に至った空海が、秘門の教えは文字・ことばだけでは門内に入れないとする「文字」という名の障壁にぶつかり愕然とするのだ。 
両界曼荼羅の図像 
真言密教の奥義はその後入唐し、師の恵果から伝授される両界曼陀羅〔注9〕や祖師図〔注10〕という図像(シンボル的体系)によって相伝されることになる。
密教の深淵なる宗教美術、両界曼陀羅や祖師図は教典や注釈書だけでは理解できない複雑な秘門のしくみを、具体的な姿・形として表現された図画・図像の観想と視覚世界を融合させることで、はじめて感覚的、直感的に把握することが可能になるという。
これまで宗教は洋の東西を問わず、無数の芸術作品を生み出してきたが、絵画であっても彫像であってもそれらの多くは礼拝や供養の対象としてあるのが一般的だが、「密教の教えは奥深く文筆であらわすことが困難なために図像を用いて悟らないものに示す。」と空海は述べている。
詰まるところ密教における図像・図画は単なる絵画ではなく、見ることによって悟りを開くことができるという大きな特質をもっているのだ。それは経典や論書という文献や言葉によって理性的に了解し、納得するというよりも、全身体的に把握することを要求される。そのため、他の仏教に比べて、視覚、聴覚などに訴える傾向が強くなり、極彩色の密教美術のような絢爛たる世界が生みだされたのだろう。
「御請来目録」〔注11〕の一節に芸術作品に対する空海の考えとして紹介された次のような言葉がある。「法はもとより言なけれども、言にあらざれば顕はれず。真如は色を絶すれども、色をもってすなわち悟る」(法や真如と呼ぶ絶対的な真理は、ことばやかたちを超越したものであるが、我々はことばやかたちを通してのみ、それに接することができる)。空海が持ち帰った多くの教典、密教法具はもちろんのこと、曼陀羅や祖師図は日常的な空間から解き放たれて「聖なる場・聖なる空間」において時間的・空間的創造を紡ぎ出すために、図像と同化するかのごとく特定の実践や儀式に身を置きながら必要不可欠な役割を果たしてきたのである。
密教は身・口・意の「三密加持」〔注12〕を総合的に実践することを強調しているという。それは人間の感覚を越えた聖なる仏たちとのつながりを意味する、いわゆる神秘主義的色彩の濃い宗教といえるだろう。「即身成仏義」〔注13〕に書かれた「三密加持すれば、即疾に顕わる」という空海の言葉は、この身このままで世界の在り方と相即不離であることを教えてくれている。
我々のような凡夫が如何にしてその秘密を解き明かし、衆生の三業(凡夫としての在り方、またその働き)を法身〔注14〕の働き(大日如来の在り方)へと昇華させ得るのか、真理そのものの根源作用(三密)は仏と同格とされる菩薩にも見えないのだという。さとりの当体(法身)は未だかくれたままの身体なのである。
空海についていろいろと書いてはきたが、知れば知るほど深みにはまっていくように、着地点を見失ってしまう。自分が何者であるかを知るための心の遍路旅はまだまだ始まったばかりなのである。人間空海に対する興味と謎はさらに拡がってしまった。空海、恐るべしである。 

〔注1〕(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣、密教の一行法。)空海は大学在学中に一人の沙門に出会い、その人物から虚空蔵求聞耳持法を教えられた。後の真言密教の大成者としての空海がはじめてであった密教開眼の第1歩といえるだろう。その意味で、この1人の僧との邂逅は、意味深い。 彼が教えた教典には「もし人が作法どおりに虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えれば、全ての教典を暗記することができる。」と記されている。この言葉に触発され空海は、阿波の太龍岳や室戸岬、石鎚山などで厳しい修行を重ねるが、そのうちに立身出世や財産がうとましく思え、22歳で受戒し空海と改めたとされている。
〔注2〕空海は宝亀5年(774年)6月15日に讃岐の国、屏風浦にて父佐伯直田公善通(さえきのあたいたぎみよしみち)と母玉依御前(たまよりごぜん)の間に生まれたとされる。屏風浦は今の香川県善通寺市にあり、父はこの地を治めた豪族で、母は阿刀(あと)氏の出であった。叔父の阿刀大足(あとのおおたり)は桓武天皇の皇子伊予親王の持講(家庭教師)をしている大学者であった。
〔注3〕讃岐の国学、あるいは国分寺に学んだ可能性もある。国府のあるところには国学があり、郡司クラスの家柄の子弟が入学できたという。国学は地方官吏養成機関。また当時都には大学が一つあり、基本的に五位以上か史部(ふみひとべ)の子弟など貴族のみ入学が許された。六位以下八位以上の子弟は試験に合格すれば入学を許可される。基本的に大学も国学も入学は、13才以上16才以下であった。
〔注4〕当時大学には六学科があり、書道科、音韻道科などもあった。明経科は、論語、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)などが教科の中心であったという。
〔注5〕「空海僧都伝」によれば当時の心境を「我習う所は古人の糟粕なり。目前に尚も益なし。況や身斃るるの後をや。この陰已に朽ちなん。真を仰がんには如かず」と伝えている。大学で学ぶことは古人の言葉の糟粕(酒の絞りかす)のようなもので何の役にもたたない、ということ。
〔注6〕香川県満濃池の修復工事や、綜芸種智院の設立など多岐にわたった社会事業に従事している。満濃池は高台にある溜め池であったため、大雨が降っては洪水になり、地元の人たちは手を焼いていた。国司や郡司たちは幾度と無く改修工事にあたったが、うまくいかない。弘仁12年(821年)、京都にいた大師は朝廷に満濃池修復の別当に任命され帰郷し、工事を指揮し、わずか3ヶ月で完成させたと言われている。築堤の技術はおそらく、在唐時代に学んだものであろうと言われている。この満濃池はいまも、日本一のため池として丸亀平野を潤している。また55歳の時に日本で最初の私立学校、綜芸種智院を開設する。当時は貴族中心の社会で、一般の人々はなかなか学問を学べなかった。そんななか空海はどのような身分の人でも平等に学問が学べるようにと全国で初めての私立大学を設立した。
〔注7〕空海と地質学というと奇妙な取り合わせのように思えるが、鉱物資源との関係は以外と深いとされる。空海は修験者や山師のネットワ-クを背景に財力を得て、入唐の費用や伽藍建立の費用に充てたとする説がある。後に下賜を願い出る高野山の麓を拠点とする、水銀を扱う一族、丹生氏(丹生神社)との関係、また八十八箇所の霊場は中央構造線と西南日本外帯のほぼ上に乗った分布を示し、それらの霊場に添うような形で、鉱山の採掘口、廃坑、発掘跡が併存している。端的な表現をするならば、水銀鉱山の採掘口の傍に殆どの霊場が建てられているといっても良い。これら金属鉱床の富鉱地帯が、若き日の空海の足跡と重なるということからそのような説が生まれたのだろうが、推測の域をでない。空海の最期は水銀中毒によるという説まである。
〔注8〕「文鏡秘府論」一巻から六巻まであり、第一巻(天)は音声論、第二巻(地)は詩文の構成や文体について、第三巻(東)は修辞論、第四巻(南)は詩文作成の作法及び文学の本質論、第五巻(西)は批評論、第六巻(北)は文法論ということである。また六巻の要諦を選びそれをほぼ三分の一にまとめた要約版「文筆眼心抄」を著している。その序文に空海は文の眼、筆の心であるという意味でこの名を付けたと述べている。
〔注9〕曼荼羅とは、仏の世界を表した組織図のようなもので、大きく二つの種類があり、ひとつを、胎蔵界曼荼羅、もうひとつを金剛界曼荼羅とよぶ。両方を合わせて、両界曼荼羅という。
胎蔵界曼荼羅 / 胎蔵界曼陀羅は「大日経」という経典によるもので、胎蔵界の「胎」は「母胎」をあらわし、仏の胎内を描いたものといわれている。全部で十二の部分(院)からなり、合計414体の仏で構成されている。中心には、法界定印(瞑想するときのポーズ)を結んだ大日如来がいて、それを取り囲む全ての仏のポジションを東西南北まで正確に再現しているのだが、実はどの仏も大日如来の化身であるとされていることから、この全体が、大日如来そのものであると考えられている。仏の胎内の全てが、大日如来で満ちていて、それこそが宇宙の姿であるということをあらわしているという。
金剛界曼荼羅 / 一方の金剛界曼陀羅は、「金剛頂経」という経典にもとづいていて、全体を九等分して描かれていることから、「九会曼陀羅(くえまんだら)」とも呼ばれている。九つのエリアに分かれて、計1461体の仏が描かれており、胎蔵界が空間的な広がりをあらわしているのに対して、金剛界では、右下のマス目を出発点として、渦巻き上に進み、中央に向かうという時間的な経過を表現している。中心にはやはり、大日如来が表されているが、胎蔵界の大日如来との違いは、結ぶ印が、智拳印(忍者が術を使うときのようなポーズ)と呼ばれるものになっている。胎蔵界が仏の身体、姿をあらわしているのに対して、金剛界は、仏の働きをあらわしていて、行者は、この両界図によって、仏の姿と働きを想像し、この想像(観想)の順序をあらわしているのが、金剛界曼陀羅である。
〔注10〕祖師図とはインド・中国から日本へ、密教を正しく伝えた8人の祖師(龍猛菩薩・龍智菩薩・金剛智三蔵・不空三蔵・善無畏三蔵・一行阿闍梨・恵果阿闍梨・弘法大師)たちのそれぞれ顕著な業績を、広い景観の中に描いた説話図のことをいう。ここでは恵果が空海に伝えた五幅の祖師図を指す。
〔注11〕我が国において本格的な目録が編纂されるようになったのは、平安時代に入ってからである。延暦23年(804年)に入唐した最澄(伝教大師)、空海(弘法大師)は、それぞれ多数の経典・仏具・図像等を持ち帰り、嵯峨天皇に献上した。それらの目録を請来目録という。空海の請来目録は、日本で最初に出版された目録とされている。
〔注12〕「三密」とは「身密」「口密」「意密」の三つを言い、印を結び、真言を唱え、瞑想することを指す。それは、如来の在り方を意味し、それに対して我々凡夫の在り方は、「三業」という。「業」〈サンスクリットkarman〉とは行為・働きを意味し、「密」は秘密の密であり、仏の働きは凡夫にとっては、測りしれないから、秘密ということになるのだという。「加持」という言葉はインドの言語のアディシュターナの漢訳で、アディとは「加える」という意味。シュターナは「位置づけられた」あるいは「場所」という意味で、仏と行者の行為が一体となることをいう。空海は、この「加持」の意味を「加」を仏からの働きかけ。「持」を我々凡夫が仏の働きを受けとめ、持つことであるという。
〔注13〕空海が「即身成仏義」で理論的に体系付けた原理論を指す。身に印契を結び、口に真言を唱え、心が三昧に住すれば自我と仏の合一、事実体験としての即身成仏が完成するという考え。即身成仏とはこの身のままで悟りをひらくということで密教、また修験道の修行はこれを目的とする。
〔注14〕〈仏教用語〉永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏の在り方。三身の一で、色身、応身、報身などに対応する。 
 

 


 
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