一遍聖絵・書蹟
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時宗・一遍 仏の世界   

 
一遍上人絵伝「一遍聖絵」円伊筆

一遍の生涯を描いた絵巻。「一遍聖絵(ひじりえ)」とも呼ばれる。正安1年(1299)に一遍の高弟聖戒(しょうかい)が選述し、法眼円伊が描いた。13歳で出家した一遍は、諸国を遊行(ゆぎょう)して念仏布教の生涯を送り、時宗を確立した。 
絵巻にはめずらしい絹本を用い、画面には一遍の行状とともに各地の情景が展開される。人物を小さく描き、背景の寺社や山水の描写に大きな比重を置くなど、名所絵のような性格をもっている。やまと絵本来の手法を基調としながら、山水の構図、樹木や岩石などの描法には宋画の影響も見られる作品。巻第七には弘安7年(1284)大津の関寺(せきでら)、京都の四条道場、市屋道場などを巡りながら、念仏を唱え、札を配って布教するようすが描かれる。 
「一遍聖絵」は、各種模本がある中で、神奈川・清浄光寺本十二巻は、原本として最も重要である。「一遍聖絵」(以下「聖絵」とする)は、一遍の高弟聖戒が、円伊に命じて制作させたもので、正安元年(1299)に完成した。これは、一遍没後十年にあたり、この絵巻が、一遍の生涯をたどる上で、重要な資料となるのは、疑いもないことであるが、それのみではなく、当時の様子を知る上での貴重な史料でもあることは、周知の事実である。寺社の伽藍の配置とか、人々の生活の様子など、第一級の史料として尊重されている。  
絹本であることから、通常なものではなく、特別なものとして制作されたものであり、絵も書も大変に優れたものである。絵巻物の形式は、古くは奈良時代から、奈良絵と呼ばれる、「絵因果経」がある。経文の上に絵が描いてあるものが、残っている。しかし、いわゆる絵巻物が、盛んになったのは12世紀ころからで、かな物語の発展に伴いつくられた物語絵が基になっている。  
現存する絵巻は、全て12世紀に入ってからのもので、主なものとしては、「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」などがある。物語の内容に沿った、それぞれの工夫がみられ、宮中の貴族趣味を余すところなく描いた「源氏物語絵巻」は、感覚的で、耽美的である。後者二者は、説話物語は、長大な画面に出来事の推移を連続的に描き、大変に動きのある作品に仕上がっている。いずれも、個人の楽しみに作られたもので、物語というフィクションを扱っているだけに、人物に重きがおかれ、主観的な趣が強い。  
13-14世紀になって、絵巻物は多数多種に渡って制作される。物語絵、歌合絵、社寺縁起絵、高僧伝絵なども絵巻物として現われている。「聖絵」は、高僧伝絵ではあるが、旅を多く描いているため、各地の風景が描かれていることが特徴としてあげられる。一遍と言う人物が描かれながら、寺社などの楼閣、橋、山水などが多く描かれているのである。人物については、写実的であるといことがいえよう。これは、写実的なものが、中国から伝わって来たことからの影響であると考えられている。  
中国では、宋王朝の時代である。仏教では、禅宗が伝わって来たが、禅宗には、師匠の肖像を描いた頂相(ちんぞう)というものがある。頂相は、師に似せなければならなかったので、当然、写実的であることが要求されるものであり、髯の一本一本まで丁寧に描いている。一遍聖が、絵伝の中で少しずつ風貌をかえていくことや、人々の表情がよく出ているところに、その時代の風潮があらわれているように思われる。また、絵巻の最後に、一遍の墓所に肖像が祀られている様子が描いてあるのも、禅宗の高僧の肖像がたくさん作られていたこととは無縁ではないだろう。当時、遣唐使などの積極的な外交は、なかったが、文物の交流は、貿易、仏教を通じて、途絶えることなく続いていた。「聖絵」の山水及び町中の風景には、宋の絵画の影響が指摘されている。残念ながら、宋時代の絵画は、伝来するものが数少なく、正確にこれと結びつくものはないが、例えば「清明上河図卷」などがそれに近いものではないかといわれている。  
「清明上河図卷」は11世紀末から12世紀初め頃に描かれた図巻で、北宋の首都抃京(今の開封)の清明節(春分後の15日目)の情景を描いたもので、宮廷画家張択端が描いたとされるが、定かではない。一本の河に沿って、町の楼閣や、橋、船、店及び800人を超える人々が、描かれており、その正確な描写力と、美しさで、世界の人々を唸らせている作品である。西洋とは異なった遠近法があるといわれ、多定点からの遠近の表現、空気遠近法に近いものが見られる。  
これと同じものが伝わったわけではないが、類似したものが伝わったことは、十分に考えられる。例えば、巻七の空也上人遺跡市場の念仏踊りの場面などの群衆の遠近法などは、俯瞰的部分と、正面から見た部分が混在しているし、卷七の五条の橋の場面などは霧の効果で、空気遠近法に近いものがある。また、山水を描いた場面では、宋の山水画の影響が指摘されている。例えば、巻二の岩屋寺の場面である。富士山が描かれたのもたいへん珍しいことで、最も古い富士山の絵である。巻六の鰺坂入道の入水の場面では、空気遠近法を用いたような三次元的な広がりがあり、同時代の山水を描いたものの中では、優れて美しいと言うべきであろう。  
 
「一遍聖絵」に描かれた二人の僧

窪寺遺跡特定の経緯 
「窪寺遺跡」を巡っての歴史的な評価のずれがある。熊野権現(成道地)/神戸市真光寺(示寂地)/長野市善光寺(機縁地)/藤沢市清浄光寺(時宗本山)が「聖地」となっている。一遍智真生誕地(宝厳寺か河野氏別府か不明)は「聖地」として特定できない。 
「窪寺」といふところ  
史資料に書かれている主な窪寺の記述を下記する。  
「温泉郡誌」(明治42年3月刊)「昔は窪と称したれども、後、野字を加ふ。蓋此地方凹陥せる平野と云ふ義なり。」  
「空性法親王四国霊場御巡行記」寛永18年(1638)「桜の並木、窪の寺、浄瑠璃、八坂、八塚の西山王党由並の城鉢・・・」  
「一遍聖絵」巻一・第四段「同年秋のころ、予州窪寺といふところに、青苔緑薙の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、」  
「一遍聖絵」第九・第二段「丹波国の山内入道と申もの、(中略)最後のたび四国までつきたてまつりて、伊予の窪寺と申所にてつゐに往生をとげはむべりぬ。」  
内子時宗願成寺縁起(足助威男「若き日の一遍」引用)「八幡浜市矢野畑と東宇和郡宇和町河内にまたがる大窪山があり、ここに大久保寺があった。この大窪山の山麓あたりに一遍は庵を結んだのではなかろうか。(中略)窪寺は一つだけあったのではないだろう。顧成寺、大窪山、窪野等々、この時期に修行した寺を総称して」窪寺といったのではなかろうか。  
「一遍聖絵」では「窪寺」が二回記述され、年代は弘長8年(1271)と正応元年(1288)、場所は予州窪(寺)と特定出来る。丹波国の山内入道が窪寺住持となり、同地は今日入道に因んで丹波と呼称されている。早くから一遍、聖戒の影響で時宗(時衆)寺院化したのではないか。江戸時代には窪寺の寺格は失せ「窪の寺」なる小寺になったのではあるまいか。  
論者の大胆な推論では、伊予に残った聖戒は「窪寺」の住持となり、一遍・時衆一行が在国時は拝志郡別府での長逗留は考えられず、河野氏の支配下にある窪野の窪寺が生活拠点として河野氏(河野通有は一遍の従弟)や聖戒が積極的に支援したと推量する。時衆集団を迎え入れる場所・食料・風土・文化が窪寺にはあり、時衆の疲弊した体力を回復させ、経済的援助を与えた。当時の時衆にあっては「一遍聖絵」に列挙された著名な社寺仏閣に匹敵する寺であったに相違ない。残念ながら現地に史資料は一切残っていない。  
越智通敏は上記論文で「窪寺一遍上人修行地記念碑」近くに「丹波庵」があり「山内入道墓」の伝承と江戸期の時宗の尼の墓を紹介している。但し「山内入道墓」の存在は否定しているが反証は挙げていない。この地に時宗の寺(庵)があったことは墓石から明らかである。江戸期まで時宗寺院として存続しているので、夥しい「遍路記録」等から確認できるのではないか、必ずや史料を「発見」できると確信している。  
「一遍聖絵」巻一「窪寺閑室」に描かれた二人の僧 
平成6年から6年をかけて京都国立博物館で「一遍聖絵」の修復作業が実施され平成14年10月に同博物館で修理完成記念の特別陳列が公開された。修復を担当した京都国立博物館の若杉準治氏論文「国宝・一遍聖絵について」にもあるが、窪寺の図においても右の僧が大幅に書き換えられたことが判明した。この発表以前は左側の僧が聖戒、右側の僧が一遍の説が有力であったが、右側の僧が一遍ではないことが確認された。  
左僧の座っている場所の近くに脱い草履があり、右僧の草履がないことから右僧はこの屋形の者(地元の僧=地僧)と推察される。地僧から重要な話を聞いている一遍という取り合わせである。画像と文章が完全に遊離しているので話の内容は不明であるが、窪寺にて修行することを決意した一遍が地僧にその旨を申し出たとも考えられる。先行研究では聖戒の名前も挙げられているが、聖戒が介在する余地はなさそうである。  
論者としては、左の僧が一遍、右の僧が窪寺の住持で、窪寺内の「閑室」にて修行する旨の話し合いと考える。窪寺は河野氏の治める領地にあり修験道の宿坊を兼ねているかもしれない。ここで2年弱修行し、更に岩屋寺で参籠することになる。  
「窪寺新伝説」の提唱  
今回「窪寺再考」として通説を検証したが、通説を以って正鵠であるという結論にはならなかった。むしろ多くの疑問が生じた。  
事実と真実の狭間で一遍成道の地・窪寺並びに窪寺閑室を考えたが、現地検証が改めて必要であることを痛感した。新・窪寺伝説への取り組みとして窪野修験道の研究、河野別府の研究、窪寺の発掘、地元伝承の発掘が急務であろう。そのためには文献調査(資史料収拾、資史料分析/考古学(発掘、年代測定、非破壊的調査)/民俗学・伝承の援用/歴史認識、歴史観の共通理解を進める必要がある。  
現在疑問に感じている通説がある。既に一遍学者や宗門でも確定している「通説」であるが、納得がいかないので下記に掲載する。 
「一遍聖絵」の成立 
「一人のすゝめ」とは誰を指すのか  
「いつ」一遍聖絵は「正安元年(己亥)1299年8月23日完成 
「どこで」京・歓喜光寺? 
「誰が」西方行人聖戒<一遍の義弟とも息子とも? 
「何を」一遍聖の行状/絵四十八段=弥陀四十八願巻数十二軸=十二光仏  
「なぜ」一遍聖没後10年とも、聖戒が一遍の正統の後継者であることを示すためとも   
「どのように」一の人の勧めとも、一人=聖戒の発願とも  
「いくらで」一の人=摂政関白九条忠教の支援」とも、一人=聖戒への発願とも  
「一遍聖絵」では「一人のすゝめによりて此の画図をうつし、一念の信をもよほさむがために彼の行状をあらわせり」と書かれているが、漢語に置き換えると次のように表記される。     
「勧於一人 写此画図 催一念信 顕彼行状」[一人のすゝめによりて此の画図をうつし 一念の信をもよほさむがために彼の行状をあらわせり]  
論者としては次のように考えている。この一文は対語であり「一人」は「聖戒」であり、京での一遍聖追憶の発願により「一遍聖絵」は絹布の絵巻物として誕生する。南無阿弥陀仏信仰の普及と強力な貴族-民衆の結集力の証左ではなかったか。「高僧伝」ではあるが、同時に「一遍聖絵」の特徴は自然、社寺仏閣の紹介が画面の特徴であり、庶民にとってはまだ見ぬ「現世の極楽」の見世物絵巻でもあった。  
(参考)「一人」の解釈について「いちのひと」として「摂政関白九条忠教」説が有力であるが、一念(いちねん)との対比で「いちにん」と読むのが正しい。  
絹布は高級漉き紙に比し高価か  
「一遍聖絵」は絹布に描かれているが、「摂政関白九条忠教」の如き位人臣を極めた権力者でなければ手に入らない高価な画材であったかどうか、検証してみたい。若杉準治の先述の論文によれば絹本の絵巻は「春日権現記絵」と「誉田宗廣縁起」が知られるのみで、絵画制作に当たって円伊が絹本に慣れていた画家であったことが可能性の一つと推定されている。決して高価であることが第一義的事由ではない。鎌倉期の絹の供給量は計量することが困難であるが、宮中、貴族集団や上級武士層の衣料の使用量を想定すれば相当の量であったと考えてよい。教科書的には年貢は米であるが西国(九州並びに瀬戸内海経済圏)は別として東国即ち美濃、尾張以東は米年貢は例外的で、殆どが絹、綿、布、糸のような繊維製品であった。米を遠国から牛馬で運搬することは費用と労力の負担が重すぎ軽量の繊維製品に置き換えられたのは当然である。尾張、伊勢、三河、遠江、甲斐、下総、武蔵、下野、常陸のほかに西国でも丹後には絹或いは糸を年貢にした荘園がかなりあった。北陸の越前、越中、越後は綿年貢の事例が見られる。年貢は米を基準にして算出されたから鎌倉期に於ける絹布の価格を資料が検証できないが、米価との比較で以下の通り概算することが可能となる。「一遍聖絵」の全長は135mは絹帛2匹(一匹は布帛2反)に相当する。鎌倉時代の絹帛と米の換算比率は[絹帛1匹=米6石]であるから単純計算では絹帛1匹は米12石(30俵)に相当する。(12石=120斗(30俵)=1,200升=12,000合) 
「一遍聖絵」制作を発願した一人(聖戒)への布施としても貴賎さまざまに一俵から一合までの布施で実現可能といえる。一方「一遍聖絵」に使用した和紙の原産地等の詳細報告が不明である。絵巻物の絹布使用は資料的には少ないが、衣装としての絹布の多彩な色彩表現は平安時代に確立しており何ら特異な描写ではない。併せて高級漉き紙に比し、絹布は米と同じく貨幣基準として流通しており入手は困難とはいえないと考察する。  
聖戒と円伊(又は画家)は窪寺(現地)に立ち寄り、実景として絵巻物に描いたか。  
「一遍聖絵」では「窪寺閑室」に続いて「岩屋寺参詣」の画像となるが、この画像については伊予史談会理事山内譲氏は自然景観と「聖絵」の絵図との「印象はよく似ているが部分部分の形状は違っている」ことを指摘し「絵師が現地に出かけた」ことには疑問を呈した。 
「窪寺閑室」図は、聖戒の執筆した文章とは全く異なる情景を描き、描かれている二人の僧について説明はなく「意味不明」である。明らかに伊予国には訪れていないと断定しても差し支えあるまい。  
 
一遍上人お歌

38歳  
すてやらで こころと世をば歎(なげ)きけり 野にも山にもすまれける身を 
41歳  
はねばはね 踊(おど)らばをどれ春駒(はるこま)の のりの道をばしる人ぞしる 
   (江州守山閻魔堂)  
ともはねよ かくてもをどれ心ごま 弥陀の御法(みのり)と聞(きく)ぞうれしき(江州守山)  
こころより こころをえんと心得(こころえ)て 心にまよふこころ成(なり)けり 
   (ある僧にお返し) 
法(のり)の道 かちよりゆくはくるしきに ちかひの舟にのれやもろ人  
いはじたヾ こと葉の道をすくすくと ひとのこころの行(ゆく)こともなし(播州弘峰の八幡宮)  
42歳  
ゆく人を 弥陀のちかひにもらさじと 名をこそとむれ しら川のせき 
はかなしや しばしかばねの朽(くち)ぬほど 野ばらの土は よそに見えけり(奥州江刺郡)  
世の中を すっる我身も夢なれば たれをかすてぬ 人と見るべき(奥州江刺郡)  
43歳  
身をすつる すつる心をすてつれば おもひなき世にすみ染の袖(奥州江刺郡)  
のこりゐて むかしを今とかたるべき こ ゝろのはてをしる人ぞなき(武州石浜)  
44歳  
さけばさき ちるはおのれと散る(ちる)はなの ことわりにこそ身は成り(なり)にけれ 
   (相州片瀬浜の地蔵堂)  
花はいろ 月はひかりとながむれば こころはものを思わざりけり(相州片瀬)  
曇(くもり)なき 空はもとよりへだてね ばこころぞ西にふくる月かげ(公朝僧正へ御返歌)  
こころをば 西にかけひのながれゆく 水の上なるあはれ世の中(駿州井田) 
45-46歳   
をしめども つひに野原に捨(すて)てけり はかなかりける人のはてかな  
皮にこそ をとこをんなのいろもあれ 骨にはかはるひとかたもなし 
46歳   
とにかくに 心はまよふものなれば 南無阿弥陀仏ぞ西へゆくみち 
ほととぎす なのるもきくもうたたねの 夢うつゝよりほかのひと声(京都因幡堂)  
おのづから 相(あい)あふ時もわかれても ひとりはいつもひとりなりけり 
   (京都市屋道場御化益の頃) 
48歳   
いつまでも 出入(いでいる)ひとの息あらば 弥陀の御法の風はたえせじ 
   (兵庫光明福寺方丈へ御返歌)  
49歳  
となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛 
   (由良の法燈国師が印可を与へし歌)  
書(かき)うつす 山は高根(たかね)の雲きえて ふでもおよばぬ月ぞ澄(すみ)ける  
よにふれば やがて消(きえ)ゆく淡雪(あわゆき)の 身にしられたる春の空かな 
   (書写山にて)  
とにかくに まよふ心をしるべにて 南無阿弥陀仏と申(もうす)ばかりぞ(備中軽部の宿) 
51歳  
おもふこと 皆つきはてぬうしとみし 世をばさながら秋のはつ風(阿州大島の里河辺)  
消(きえ)やすき いのちは水のあはぢしま やまのはながら月ぞさびしき(淡州福良)  
主(あるじ)なき 弥陀の御名(みな)にぞ生まれける となへすてたる跡の一声(淡州福良)  
名にかなふ こゝろは西にうつせみの もぬけはてたる声ぞ涼(すず)しき(淡州二宮の社)  
旅ころも 木の根かやの根いづくにか 身の捨(すて)られぬ処あるべき(淡州遊行)  
阿弥陀仏は まよひ悟(さとり)の道たえて たヾ名にかなふいき仏(ぼとけ)なり(観音堂)  
南無阿弥陀仏 ほとけの御名(みな)のいづる息 いらば蓮(はちす)の身とぞなるべき 
   (御往生近づき給う時詠める)  
  
「一遍聖絵」後援者と「遊行上人縁起絵」作者・平宗俊

「一遍聖絵」(以下、「聖絵」)制作の後援者は、「聖絵」巻十二第三段の詞書に「一人のすすめによりて、この画図をうつし」とある「一人」である。この「一人」について、「いちじん」と読めば天皇であるが、「いちのひと」と読めば摂政・関白であるため、歓喜光寺所蔵「開山弥阿上人行状」にあるように、これまで関白九条忠教(一二四八―一三三二)と考えられてきた。しかし「一の人(いちのひと)」は、律令制度のもとで太政官を指揮する太政大臣(則闕の官)も意味する。また「いちにん」と読めば第一人者を意味し、奈良朝の藤原不比等が右大臣で太政官を指揮したように、太政大臣・左大臣欠員のときには太政官を指揮することから、右大臣を指すこともある。さらに「聖絵」には、中院通成(土御門入道前内大臣)・三位藤原基長・大炊御門冬輔(大炊御門二品禅門)など多くの公卿が登場する。 
「聖絵」の奥書によれば、詞書は聖戒が記し、絵は法眼円伊が描き、外題は世尊寺流藤原経尹が書いている。世尊寺流は三蹟藤原行成の子孫であり、経尹の子息である世尊寺行房・行尹兄弟に学んだ青蓮院門跡尊円法親王(伏見院皇子)によって青蓮院流(御家流)が立派されている。このような世尊寺流の人物が外題を書いていることからも、後援者は公家と考えられる。 
ところで、「聖絵」は絹をいろいろな色に染め上げて料紙(つまり料絹)として使用するなど平安時代の絵巻物の名残がある一方で、描法は伝統的な大和絵の描法というよりも墨調を重視した宋様式に通じる。同時代の西園寺公衡が願主であった「春日権現験記絵巻」の画風とは異なる。「聖絵」の後援者は、宋様式という新しさを好んだ公家と考えられる。そこで、「聖絵」に登場する公家から後援者にふさわしい人物を探してみよう。  
「聖絵」巻七第二段によれば、弘安七年(一二八四)京都因幡堂に移った一遍の許を、土御門入道前内大臣が訪ねて念仏の縁を結んでいる。公家で結縁した最初の人物である。この人物は、土御門通親の孫である内大臣中院通成(一二二二―八六)と考えられる。土御門一門は、藤原道長の女婿であった村上源氏右大臣師房に始まる公家の名門で、院政期に摂関家の対手として勢力を得た。後鳥羽院政期には、内大臣土御門通親が朝廷の実権を握り「源博陸(源関白)」と呼ばれている。 
中院通成は「尊卑分脈」では三条坊門と記されているが、「聖絵」では「土御門入道前内大臣」と呼ばれており、制作者が土御門通親の子孫を広く土御門流と捉えていたことが分かる。さらに「聖絵」巻九には土御門内大臣(于時大納言)が登場し、弘安九年(一二八六)に一遍と和歌の贈答をおこなっていることが記されている。この土御門内大臣については、当時大納言であった土御門定実(一二四一―一三〇六)や久我通基(一二三六―一三一一)が当てられる。同年十二月に通成は没しており、それを契機に一門の土御門内大臣(当時大納言)と一遍のあいだで歌の贈答はおこなわれたと考えられる。 
実は一遍と土御門家の関係が深い。証空は一遍の父通広(如仏)の師であり、一遍が九州で学んだ聖達や華台の師でもあるが、土御門通親の猶子(准子)であった。「聖絵」にも登場する土御門家の人びとならば、後援者として有力である。そのため、近年では土御門内大臣を土御門定実と同一人物と見て、彼が「聖絵」の後援者であったとする説が有力である。たしかに定実は才学があり、大納言辞職後も再出仕を求められ(「伏見天皇宸記」正応五年二月十日・二十日条)、のちに内大臣・太政大臣を歴任した。しかし定実が太政大臣に補任されたのは正安三年(一三〇一)であり、「聖絵」が成立した正安元年(一二九九)には前内大臣である。そのため、「聖絵」定実を太政大臣の異称「一の人」に当てるには無理がある。 
それでも、定実が内大臣であったときには太政大臣が空席だったため、太政大臣(一の人)、左大臣(一の上)、右大臣(一人)の異称がずれて、左大臣が「一の人」、右大臣が「一の上」、内大臣が「一人」と呼ばれたという推測もある。しかし当時は太政大臣が空席でも、大臣を兼任しない関白がいて、太政官の構成は関白鷹司兼忠(一の人)、左大臣二条兼基(一の上)、右大臣九条師教(一人)、内大臣土御門定実であった。しかも、従一位の定実(五十六歳)は、位階も年齢も正二位の右大臣九条師教(二十一歳)を越えていたが、席次は官の通り左大臣・右大臣・内大臣の順とされた(「公卿補任」)。当時、定実が太政大臣の異称「一の人」や右大臣の異称「一人」で呼ばれたと考えるには無理がある。  
そこで、当時はまだ結婚形態が女系から男系に移る過渡期であり、西日本の系図では女系も重視されたことを念頭におくならば、通成の親族を男系に絞る必要はない。 
そのような観点から見れば、中院通成は、太政大臣西園寺実兼(一二四九―一三二二)の正妻従一位顕子の父であり、左大臣西園寺公衡(一二六四―一三一五)や永福門院(伏見院中宮)・昭訓門院(亀山院准后)の外祖父である。「聖絵」が成立した正安元年(一二九九)には、女婿の西園寺実兼が前太政大臣(いちのひと)であり、外孫の公衡は右大臣(いちにん)の現職で、二人とも後援者「一人」の候補になる。しかも公衡は「春日権現験記絵巻」の願主であった。 
実際に、一遍は西園寺家の人びとと交流がある。「播州法語集」第八五に「西園寺殿の御妹の准后の御法名を一阿弥陀仏と付奉るに、其御尋に付て御返事」の手紙が収められているが、この「西園寺殿」は西園寺実兼であろう。「御妹の准后」については、一般的には今出河院嬉子(亀山院中宮)と考えられているようだ。今出河院嬉子は文永五年(一二六八)に女院になり、弘安六年(一二八三)に出家した。そのため、西園寺殿の御妹は今出河院とも考えられる。しかし彼女の経歴に准后はない。また法名も仏性覚である。「尊卑分脈」では、今出河院の姉妹である相子に「准后」と記されている。「西園寺殿の御妹の准后」は相子ではないだろうか。 
従三位相子は、一遍没年の翌年である正応三年(一二九〇)に准三后になり、新長講堂のある土御門第に住んだことから土御門准后とも長講堂准后とも呼ばれた(「続史愚抄」正応三年正月十九日条)。後深草法皇は、永仁三年(一二九五)と正安二年(一三〇〇)准后相子宛てに譲状を作成して長講堂領や新御領を譲与し、一期ののち後深草との間に生まれた陽徳門院に譲るよう指示している。「聖絵」の後援者「一人」を、天皇という意味で「いちじん」と読みたくもなる。 
さらに、その姉妹には前関白九条忠教の正妻がいる。忠教は、「聖絵」成立の正安元年(一二九九)には前関白(一の人)であり、やはり後援者「一人」の候補である。中院通成を中心に見れば、前関白九条忠教を「一人」候補者からはずす理由は見つからない。 
このように一遍の周辺には、中院通成を中心に中院(三条坊門)家・西園寺家・九条家に連なる人びとが登場する。これら三家は源頼朝の妹婿一条能保の娘たちの婚家であり、もともと姻戚関係にあった。広く中院通成の一家と見ることができよう。 
また中院通成の縁者のほかにも、「聖絵」に登場する公卿はいる。まず「聖絵」巻七第三段に、弘安七年(一二八四)一遍が従三位基長と結縁した記事がある。基長(生年不詳―一二九八)は藤原式家出身の文章博士で、正三位にまで昇った有識者であった。しかし一遍と同年の正応二年(一二八九)に没しているため、それから十年を経て成立した「聖絵」の後援者にはなりえない。 
さらに「聖絵」巻九第一段には、弘安九年(一二八六)冬、公家の名門大炊御門二品禅門が登場する。当時、大炊御門家で二位(「二品」)であった人物には信嗣・冬輔兄弟がいるが、信嗣(一二三六―一三一一)は正応三年(一二九〇)に内大臣を辞するまで現職であったため禅門ではありえず、しかも辞職したときの位階は従一位であったため、辞職後も大炊御門二品禅門と称されることはない。しかし弟冬輔(一二四八―没年不詳)であれば、ちょうど弘安九年(一二八六)に権中納言を辞職しているため、「聖絵」に登場する大炊御門二品禅門にふさわしい。ただし、正二位権中納言で辞職したため、「一人」と呼ばれることはない。 
「一人」を「いちのひと」と読めば摂政関白・太政大臣であり、九条忠教や西園寺実兼と考えられる。また「いちにん」と読めば、「聖絵」成立当時に現職の右大臣であった西園寺公衡の可能性は高い。しかし、「聖絵」に西園寺家の人びとが登場しない。西園寺家が後援者であれば、「播州法語集」に登場する「西園寺殿の御妹の准后」が「聖絵」に登場してもいいだろう。ところが登場しない。そうなると、西園寺公衡が願主であった「春日権現験記絵巻」と「聖絵」の画風が大きく異なることに注目できる。  
これまで後援者「一人」を摂関・太政大臣・右大臣に当てはめていたために、特定するに至らなかったのではないだろうか。そこで発想を変えて、「一人」を不定代名詞「ひとり」という意味で「いちにん」と読めば、土御門定実および大炊御門冬輔など、広く一遍に結縁した有力者のなかに後援者をもとめられよう。両者ともに「聖絵」の登場人物の一人である。とくに大炊御門冬輔であれば、絵師円伊に同定されている園城寺の円伊僧正の一門である。また土御門定実であれば、「伏見天皇宸記」正応五年二月二十日条にあるように「才学」の人物であった。しかし冬輔や定実であれば、あえて不定代名詞で記す理由は見つからない。「土御門内大臣」「大炊御門二品禅門」と呼べばいい。 
そこで不定代名詞で記さなければならなかった人物ということで、もういちど登場人物を検討してみると、やはり土御門内大臣(当時大納言)に注目できる。彼は土御門定実ではなく、久我通基(一二四〇―一三〇八)と考えられるからである。久我通基は土御門一門の嫡流に当たる人物で、土御門定実は近衛大将を兼ねなかったが、通基は兼ねた。 
「徒然草」一九六段の「東大寺の神輿」によれば、右近衛大将の久我通基が東大寺神輿の行列の先払いをしたところ、上卿の土御門定実が「神社の前で先払いするのはいかがなものだろう」と言ったが、通基は「近衛の随身の行動は、大将の家の者が承知している」と応えた。のちに通基は、「定実は北山抄を見ているが西宮記を読んでいない。神社の前では神の眷属の悪鬼・悪神を払うため、とくに先払いするものだ」と語ったという。通基は自らが近衛大将であることを自負していた。当時、淳和・奨学両院の別当は嫡庶に関係なく、村上源氏の現職の最高位の者が補任されたが、近衛大将については久我家だけが補任された。久我荘を除く根本所領を失っていた久我家だが、摂関家と同様、近衛大将に補任される家柄であり、近衛大将を兼任できない堀川・土御門・中院の各家との家格の差は歴然としていた。こののち家格が確定し、久我家は近衛大将をかねて太政大臣にいたる清華家、中院家は近衛大将を兼ねることなく太政大臣にいたる大臣家となる。堀川家・土御門家は断絶した。摂関に補任される摂関家と補任されない清華家の差は歴然としているが、近衛大将に補任される清華家と補任されない大臣家の差も歴然としていた。源頼朝が当時「右大将殿」と称されたのも、近衛大将補任がそれだけ名誉だったからである。 
弘安九年(一二八六)に一遍と和歌の贈答をおこなった土御門内大臣(当時大納言)が通基であれば、一門の嫡流として、中院通成と交流のあった一遍に連絡を取ったものと考えられる。 
しかも「聖絵」では中院(三条坊門)通成を土御門入道前内大臣と記すなど、土御門通親の子孫を広く土御門としているため、土御門内大臣(当時大納言)を久我通基と見なすことができる。 
正応元年(一二八八)七月に通基は内大臣になったが、十月には右近衛大将と内大臣の辞職を求められ、抵抗したものの両職を停止されている(「公卿補任」)。「北条九代記」巻十一「貞時入道諸国行脚付けたり久我通基公還職」では諸国を巡回した北条貞時によって復職したと記されているが、「公卿補任」によれば前内大臣のまま延慶元年(一三〇八)六十九歳で没している。「徒然草」百九十五段では通基が精神に異常を来した原因のひとつとして、両職の停止に憤激したためと考えられる。しかし、これは単なる個人的な憤激にはとどまらない。のちに土御門定実も内大臣停職に抗議しているように、五摂家が成立したことから大臣の席が不足して、一年のあいだに大臣が数回交替することもたびたびあり、形式的な大臣補任のあり方に対する危機感が募っていたと考えられるからである。 
さらに通基と定実の昇進競争があった。通基は定実より一歳年長であったが、昇進は一歩遅れていた。しかし通基は、定実が補任されなかった近衛大将を兼ね、さらに正応元年には定実を超えて内大臣に補任されていた。 
通基が内大臣に補任されると、定実は大納言を辞職して籠居していた。これは通基と定実のあいだで官位をめぐり確執があったことを示していよう。ところが久我通基は三か月後には内大臣と右近衛大将の両職を停止され、正応五年(一二九二)二月、定実は伏見天皇に才学を惜しまれて再出仕を求められ(「伏見天皇宸記」正応五年二月十日・二十日条)、三月二十九日に大納言に還任された。八月十四日には従一位に叙されて、九月五日准大臣として朝参するよう宣下を受けている(「公卿補任」正応五年)。これで位階が正二位の通基を超え、また現役の公卿源氏の最高位者として奨学院別当に補任されている(「公卿補任」永仁元年)。さらに永仁四年(一二九六)十二月二十七日には内大臣に補任された。それでも翌五年には内大臣を止められている。定実にとって本意ではなかったため、辞表を提出しなかった。かわって通基が従一位に叙され、通基の子息通雄も内大臣に補任された。「北条九代記」で久我通基が復職したと記すのは、このことを指しているのだろう。 
正安三年(一三〇一)六月二日定実は太政大臣に補任され、定実の子息雅房も大納言で近衛大将を兼任する機会があった。しかし、それでも院近臣の讒言によって雅房の近衛大将補任は実現しなかった(「徒然草」百二十八段)。これで土御門家は清華家に列する機会を失った。 
通基も定実も内大臣を停止させられたときに抵抗しているように、当時の官位昇進のあり方は一年間に数回も大臣が交替するという異常なものであり、官職の形骸化をもたらすものであった。また土御門一門のなかでの通基と定実の昇進競争は激しいものであった。この時期は、それぞれの家門のなかでの嫡庶は確定されていなかったからである。さらに当時の久我家は、その根本家領をめぐり西園寺家と係争していた。  
久我通光(一一八七―一二四八)は臨終にあたり、遺産のすべてを後妻三条(西蓮)に譲渡したため、先妻の子どもとの間に所領問題が生じた。通光の嫡子右大将通忠(一二一六―一二五〇)は継母三条に対して割譲を求めたが、後嵯峨上皇の院宣によって、通忠には山城国久我荘を認められただけであり、そのほかの所領は三条が相続した。さらに三条は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘の三か所を娘如月に譲り、如月の没後は中院通成の娘源顕子(今出川一位)に譲るよう譲状を記した。この源顕子は、前述のように西園寺実兼の正妻である。三条・如月母子は久我家との相続争いを有利にするために、西園寺家の庇護を求めたと考えられる。 
当時の西園寺家は、天皇家の外戚として、また関東申次として朝廷内で権勢を振るっていた。所領のうち近江国田根荘は、顕子から子息の西園寺公衡(今出川殿)に譲られて西園寺家領となり、さらに春日大社に寄進された。久我通基の奇行の原因のもうひとつに、この西園寺家との所領争いがあったと考えられる。 
久我通基が「聖絵」の後援者であれば、所領をめぐり係争していた西園寺家の人びとが「聖絵」に登場しないことも理解できる。さらに、西園寺公衡が願主である「春日権現験記絵巻」と「聖絵」の画風が大きく異なることも理解できよう。 
このように見てくると、通基の奇行の原因として、@内大臣・右大将の職を止められたこと、A久我家の根本所領をめぐる係争で敗れたことが挙げられる。「徒然草」でも「北条九代記」でも、通基は久我荘に隠棲している。通基の奇行の原因が所領争いであったことを物語っている。しかし「徒然草」に記された通基の奇行は、奇行とはいっても地蔵を田の水で洗うというものであり、小袖の下着姿で無心に地蔵を洗う姿は美しくさえある。これは異常を来した者の行動というよりも、反骨精神の表れであろう。 
中院通成の没年に久我通基(土御門内大臣)が一遍と歌のやり取りをしたのも、久我通基が中院流の正統であり、中院通成の娘顕子に譲られた中院流(久我家)根本所領の継承権が久我通基にあるという自負からだろう。通基であれば、「一人」と記して名前を隠すことは十分に考えられる。 
実は、後援者「一人」が久我通基であることを裏付ける事実がある。それが、「遊行上人縁起絵」の制作者が平宗俊(池刑部大輔)という事実である。  
「聖絵」と同様に資料価値があるとされている伝記絵巻に、「遊行上人縁起絵」(以下、「縁起絵」)がある。全十巻四十三段で、前半の四巻までが一遍の伝記、後半の五巻から十巻までが真教の伝記となっている。原本は現存せず、鎌倉時代から江戸時代の模写本が二十数本残っているだけである。 
それら模写本の詞書から、「縁起絵」作者は平宗俊(真光寺本)あるいは池刑部大輔(金蓮寺本)とされている。この平宗俊を北条一族の淡河氏と推測する学説もあるが、北条系図に宗俊は見えない。真教と縁があり、平氏で諱字「俊」を使用する人物ということから、真教に帰依した淡河殿の夫北条時俊(時房流)の末子であろうと推測したものだ。やはり金蓮寺本で池刑部大輔としていることを排除してはならないだろう。自らの学説に不利な資料を排除しては実証的研究とはいえない。 
まず「縁起絵」制作者を平宗俊とする資料と池刑部大輔とする資料があれば、両者を同一人物とする前提から出発する必要がある。その前提から出発する限り、宗俊を北条氏とする推測は成り立たない。そこで、あらためて「尊卑分脈」に注目すれば、平宗俊を桓武平氏高棟流に見つけることができる。六波羅評定衆の佐分利加賀守親清の子息、刑部権大輔平宗俊である。真光寺本と氏名「平宗俊」が一致するだけではなく、金蓮寺本とは官職「刑部(権)大輔」が一致する。 
宗俊の父親清は、「若狭国守護職次第」北条重時の項に「守護御代加賀守殿自延応元年拝領之」とあるように、六波羅探題で若狭守護を兼職した北条重時の若狭守護代を勤め、また六波羅評定衆にも列した人物である。高棟流桓武平氏は、太政官の事務局である弁官(左右大弁・中弁・少弁)を経て納言に昇進する「名家」の家柄であり、その一族が吏僚官僚として北条氏の被官になることは十分に考えられる。 
しかし宗俊は六波羅評定衆に列した形跡がない。金蓮寺本にある「池刑部大輔」の名乗りに注目すれば、同じく桓武平氏であり、鎌倉殿伺候の公家衆であった池流平氏の名跡を継承したと考えられる。池家は平清盛の弟池大納言頼盛の子孫であり、頼盛の母池禅尼が源頼朝の助命を清盛に嘆願したことから、平氏一門の都落ちには同行せず、鎌倉幕府に出仕する公家のひとりになった。鎌倉末期には池顕盛の養子佐々木万寿丸(朽木経氏)が池河内家の所領丹後国加佐郡与保呂村を継承しており(「朽木古文書」第一二軸甲一〇号)、宗俊も池家のいずれかの所領を継承して「池刑部大輔」と名乗ったと考えられる。 
ところで「縁起絵」によれば、正応六年(一二九三)頃に「越後国池のなにがしとかやいふ人」が、真教に帰依している。真教に帰依した人物であれば、「縁起絵」作者にふさわしい。「縁起絵」作者池宗俊を、この越後池氏の人物と考えることもできる。しかし越後池氏は、正応五年九月十八日付関東下知状(高橋文書)で「一之宮神官池宮内大夫」と記されているように越後国一宮の神官であり、公家衆である池流平氏の人物ではなく、古代豪族の高志池君の子孫と考えられる。平頼盛に還付された没官領三四か所を見ても、越後に池家の所領はない。もちろん、後に越後に所領を得たとも考えられる。佐々木万寿丸に譲渡された丹後国加佐郡与保呂村も、平頼盛の没官領三四か所のうちに含まれていないからである。しかし越後池氏は越後国一宮の神官であり、越後池氏と池流平氏はやはり別流と考えられる。 
また平宗俊の官が刑部権大輔であり、越後池氏の池頼章が宮内大夫、池頼定が中務大夫であることも両者の家格の差を示している。八省(中務・式部・治部・民部・兵部・大蔵・刑部・宮内)の上級次官である大輔は、正五位相当で公達や諸大夫が補任される官職だが、大夫とある場合は大輔のことではない。八省の判官(三等官)である丞(六位相当)が年功で従五位下に叙爵されながらも補任されるべき官をもたない散位のとき、前職の官名に大夫をつけて名乗りとする。宮内丞で叙爵された者は宮内大夫、中務丞で叙爵された者は中務大夫、左衛門尉で叙爵された者は左衛門大夫である。宮内大夫・中務大夫を名乗る越後池氏は、従五位下を極位とする侍身分であり、池流平氏ではなく地方豪族と考えるのが妥当だろう。近江佐々木荘の場合でも、領家・預所両職と地頭職を兼ねた総管領は宇多源氏であったが、氏神の沙沙貴神社神職は古代豪族佐々貴山公の子孫紀氏(木村氏)で従五位下権守(権大夫)を極官とした。どちらも佐々木氏を名乗るが別流である。 
刑部権大輔である平宗俊には昇殿の記事がなく、殿上人ではないようだが、晩年に年功により叙爵される侍身分よりも上位であり、四位・五位の官職を歴任する諸大夫といえる。越後池氏とは別流で、池流平氏を継承したと考えるのが妥当だろう。「縁起絵」の「越後国池のなにがしとかやいふ人」という表現も、作者平宗俊と越後池氏が別流であることを示していよう。 
宗俊が養子となった池流平氏と久我家の関係に注目するならば、池家の所領は久我家に相伝され、山城国久我荘を除く根本所領を失っていた久我家の中心的な所領群を形成していた。「聖絵」後援者久我家と「縁起絵」作者池宗俊はつながっていたのである。 
このように「縁起絵」作者が、池家を継承した刑部権大輔平宗俊と分かったことで、「聖絵」の後援者「一人」が久我通基である可能性がさらに高まったといえよう。「聖絵」「縁起絵」の制作は久我家所領問題と関係があり、久我家が「聖絵」後援者となり、久我家に多くの所領を譲渡した池家の人物が「縁起絵」作者となったことは興味深い。「聖絵」と「縁起絵」は久我家所領問題でつながっていたのである。 
しかも一遍と久我家の関係は、その父や師のときにさかのぼる。土御門通親の猶子(准子)である証空は、一遍の父河野通広の師であり、一遍の師聖達や華台の師でもあった。証空を介して一遍と久我家はつながっていたのである。そして「聖絵」と「縁起絵」の制作で時衆と久我家がつながった。 
このように「聖絵」後援者が久我通基であれば、「聖絵」に西園寺殿の御妹の准后が登場しないことも理解できる。久我家と所領問題で係争していた西園寺家の人びとが「聖絵」に登場しないことは、後援者が久我通基であれば当然であろう。  
  
「一遍聖絵」
 
遍上人没後役10年後に完成したもので資料的価値が高いとされる。すなわち、伝説化・神格化されていない。編者は一遍の異母弟、聖戒である。有名人の血縁者がおのれの価値を上げたいがために編集する本があるけれど、乱暴にいってしまえば同系統のものではなかろうか。だとしたらば、資料的価値が高いという一般的見解も眉唾になるのだが。聖戒が蓮如のごとくにやり手だったらば、いまの時宗の不遇はないのかもしれない。一遍や親鸞といった天才宗教家は一代かぎりのもので、どちらも教団運営の意図はなかったようである。人物的魅力ゆえに、どうしてか人が集まってきてしまうのだろう。教団を拡大するのは決まって後世の血縁者なのがおもしろい。建前としては偉人の教えを広めたい。本音は(まさかあるまいとは思うが)これは商売になるとの発見……。あるいは「先生」と尊ばれることへのあこがれがあるのかもしれない。  
果たして弟子は一遍の教えを理解していたのだろうか。親鸞は唯円という優秀な弟子を持ったことで後世の評価が高まった。実のところ、教団に必要なのは開祖のみならず優れた弟子なのである。オウム真理教は麻原彰晃のみでは運営できず、上祐史浩の存在が不可欠であった。一遍に話を戻すが、ほとんどの弟子は教えを理解していなかったのかもしれない。というのも、言葉は悪いけれど、一遍と踊り狂っているような連中だぜ。おそらく、一遍の教えにではなく人格に引かれて付き従っていたのだと思う。  
そう考えると「一遍聖絵」にある次のエピソードは興味深い。あるとき一遍が武家屋敷に行ったら酒宴のさなかである。上人はいつものように屋敷の主人に賦算(ふさん)する。賦算とは「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した札を配ること。酔っ払った武士は乱暴に言い放つ。「この坊主は日本一のインチキ野郎だな。どこが偉いもんか!」すると、宴会の客のひとりが問う。「なら、どうして札をもらったのか?」このときの回答を一遍は激賞するのである。  
「健治二年、筑前国にてある武士の屋形におはしたりければ、酒宴の最中にて侍りけるに、家主装束ことにひきつくろひ、手あらひ口すゝぎて、おりむかひて念仏うけて、又いふ事もなかりければ、聖は去給に、此俗のいふよう、「此僧は日本一の狂惑のものかな、なむぞのたふと気色ぞ」、といひければ、客人のありけるが、「さてはなにとして念仏をばうけ給ふぞ」、と申せば、「念仏には狂惑なきゆへなり」とぞいひける。  
聖申されしは、「おほくの人にあひたりしかども、これぞ誠に念仏信じたるとおぼえし。余人は、皆人を信じて法を信ずる事なきに、此俗は依法不依人(えほうふえにん)のことはりをしりて、涅槃(ねはん)の禁戒に相叶(あいかな)へり。ありがたかりし事なり」とて返々ほめ給き。げによのつねの人にはかはりたりけるものにや」  
武士はどうして札を受け取ったか。  
「念仏はインチキ(狂惑)ではないから」である。  
一遍上人はこの武士を褒めそやしたのはどうしてか。おそらく上人の周囲の弟子たちはみな一遍という人間を信じていたからだろう。そうではないんだよ。南無阿弥陀仏という六字の名号がすべてなんだ。人に依るな。法に依れ。依法不依人を知れ。しかし、幾人の信者が一遍の真意を理解したことだろうか。やはり一遍の言葉ではなく、いままでまみえたことのない圧倒的な人間存在としての輝きに参ったのではないか。さてまあ、初対面の武士から「此僧は日本一の狂惑のものかな」といわれる一遍という男はいったいどのような人物だったのだろう。悪口ではないが、カルト教団の教祖めいた胡散臭さを身にまとっていたように思う。本物の大人(たいじん)は、どことなくインチキ臭いものなのではないか。遠藤周作しかり、河合隼雄しかり、池田大作しかり。  
鎌倉時代、一遍は疑いもなく新興宗教の教祖だったわけである。いまでいえば幸福の科学の大川隆法みたいな存在だったことを忘れてはならない。かなり不穏で危うい人物だと当時の権力者が思ったのは間違いないだろう。歴史の淘汰を受けているから、一遍は偉人になっているだけの話で、存命時は「それ踊れ! もっと踊れ! 踊れ踊れ!」と声高にアジテーションをする危険人物だったのかもしれない。町中にこんな集団が現われたら怖いでしょう?これが一遍という男のやったことなのである。おなじ浄土教でも寺院に座していた法然や親鸞と根本的な相違があるような気がする。  
では、一遍の踊り念仏の根拠はどこにあるのか。  
1.空也上人が行なっていたという言い伝え。  
2.無量寿経の一節。  
3.善導の著作「往生礼賛」。  
以上3つから(=3つを「正しい」と思い)一遍は独自の踊り念仏を編み出した。順々に本書から引いてみる。  
1.「抑(そもそも)をどり念仏は、空也上人或は市屋、或は四条の辻にて始行し給けり」  
2.「曾(かつ)て更に世尊を見たてまつるもの、即ち能くこの事を信ず。謙敬し聞きて奉行し、踊躍して大いに歓喜す」  
3.「行者心を傾け常に対目す。神(たましい)を騰(おどら)せ踊躍して西方に入る」  
1〜3を根拠として一遍の始めた踊り念仏はいかなるものだったのか。まず無量寿経と善導の文を引用する。それから――。  
「文の意は、身を穢国にすてゝ心を浄域にすまし、偏(ひとえ)に本願をあふぎ、専(もっぱら)名号をとなふれば、心王の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ。これしかしながらみづからの行業をからず、唯他力難思の利益、常没得度の法則なり。然(しかれ)ば行者の信心を踊躍のかたちに示し、報仏の聴許を金ケイ(=楽器)の響にあらはして、長眠の衆生を驚(おどろか)し、群迷の結縁をすゝむ。是以童子の竹馬をはする、是をまなびて処々にをどり、寡婦の蕉衣をうつ、これになずらへて声々に唱」  
名号(南無阿弥陀仏)→踊躍  
おそらく一遍は無量寿経と善導「往生礼賛」に同一単語「踊躍」があることを発見して、踊り念仏なるパフォーマンスを発明したのだろう。法然が「往生要集」、善導、浄土三部経から南無阿弥陀仏を発明したのと、こと「おはなし」の創作に関してはおなじといえよう。人は複数の「おはなし」を頼りにして新しい「おはなし」を発明する。蒙古襲来の不安に脅えていた民衆は一遍の「おはなし」に飛びついたことだろう。いや、一遍の教えは「おはなし」だけではなかった。耳だけではなく手や足も必要とする「をどり」でもあった。当時のインテリは踊る民衆に怖れに近い感情を抱いたのではなかろうか。あるいは、そんな単純に救われてしまう底辺階層に憧憬を抱いたのか。踊り念仏は断じてインテリのものではない。貴族が庶民と一緒になって踊るはずがないことを考えたらわかるだろう。  
さてさて、「一遍聖絵」は興味深い極楽往生の例が挙げられている。これは一遍の爆弾発言「とく死なんこそ本意なれ」に通じているのだろう。近松門左衛門の世話浄瑠璃を読めばわかるが、南無阿弥陀仏は殺人も自殺(心中)も許容するような懐の広さがある。念仏しながら殺人も自殺もできてしまうようなところがあるのだ。念仏殺人をなかば肯定してしまったのが親鸞である。果たして念仏自殺は許されるのだろうか。聖(ひじり)=一遍上人はなんと口にしているか注意してお読みください。  
「武蔵国にあぢさかの入道と申もの、遁世して時宗にいるべきよし申けれども、ゆるされなかりければ、往生の用心よくよくたづねうけ給て、蒲原にてまちたてまつらんとていでけるが、富士河のはたにたちより、馬にさしたる縄をときて腰につけて、「なんぢらつゐに引接の讃をいだすべし」といひければ、下人「こはいかなる事ぞ」と申に、「南無阿弥陀仏と申てしねば、如来の来迎し給と聖の仰られつれば、極楽へとくしてまいるべし。なごりを惜む事なかれ」とて十念となへて水にいりぬ。すなはち紫雲たなびき音楽にしにきこへけり。しばらくありて縄をひきあげたりければ、合掌すこしもみだれずしてめでたかりけりとなん」  
一遍上人はなんといっているか。  
「南無阿弥陀仏と申てしねば、如来の来迎し給」である。南無阿弥陀仏と申して死ねば、ありがたくも如来が来迎してくださる!自殺をここまで推奨する教えを、まさか仏教で見るとは思わなかった。親鸞の「殺人OK」も衝撃的だが、一遍の「自殺OK」も相当なものではないか。親鸞の場合さすがに殺人を推奨してはいないが、一遍ときたら!一遍というのは、恐ろしい宗教家だったのではないだろうか。ものすごい人間的魅力を持っていたはずである。人生に深く傷ついた下層民を一遍上人はどれほど救ったことだろうか。残念ながら弟子や子孫に恵まれず時宗は浄土真宗ほど後世開花しなかったが、一遍は親鸞にも劣らぬ巨大な狂気を心中に持っていたのだと思われる。もとより遊行での布教をもっぱら行なった一遍である。住むところとてない捨て聖(ひじり)だ。まったく教団結成の意図はなかっただろうから、むしろ現在も時宗が残存していることを知ったら一遍は驚くのかもしれない。そのうえいまの時宗が「長寿」を推奨していると知ったらどんな顔をするか。  
そうそう、創価学会員さんへのメッセージを残しておこう。「本の山」は宮本輝ファンが多く訪問してくださるので、お気を悪くなされてはいけない。一遍は日蓮とほぼ同時代を生きているのである。日本各地あらゆるところを旅して布教した一遍である。おそらく、日蓮の弟子にからまれたこともあったのではないか。一遍の弟子が日蓮信者に喧嘩を吹っかけられたのかもしれない。法華経を最上の教えと信じるのが日蓮一派である(南無妙法蓮華経!)。いったい名号と法華(の題目)はどのような関係にあるのか。この問いに一遍はこう答えている。  
「法華と名号とは一体なり。法華は色法、名号は心法なり。色心不二なれば法華即(すなわち)名号なり。故に観経には、「もし念仏せむ者は、これ人中の分陀利華(ふんだりけ)なり」と説り。分陀利華とは蓮華なり。されば法華をば薩達磨分陀利華経と名付たりといへり、名号と分陀利華は一なり」(「一遍上人語録」  
法華=名号!  
最後のところはごまかしに近いのだが、まあ、わかりにくいよな。文庫下段の解説によると、サンスクリット語と漢字における音写と意訳を問題にしているらしい。  
「薩達磨分陀利華経=法華経」だから「名号=題目」という理屈だ。「音写→意訳」=「薩→妙、達磨→法、分陀利華→蓮華」だから、観無量寿経で「念仏者=分陀利華」と書かれている以上は、念仏者と法華経信者をイコールにしてもいいのではないかという論法である。まあ、日蓮サイドからしたら観無量寿経など認めないのだろうから、これは浄土教信者のみが使える詭弁なのだろう。しかし、法華経が観無量寿経より勝れているという証拠はどこにもない。法華経の「オレ最強宣言」はあくまでも自称だから信憑性に欠ける。科学的なことをいったら、観無量寿経も法華経も大乗仏典だから釈迦の真説ではない。目くそ鼻くその世界なのである。  
とはいえ、一遍のいう「名号=題目」はあんがい良いところを突いてはいないか?仏教とは縁のない人間からしたら、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もおなじように抹香臭いだけでしょう。わたし自身の感覚としても、名号と題目は似たようなものである。基本的に、人間を超える大きなちからを認めようということでしょう。ならば、南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも大した相違はないのではありませんか?どうして日蓮サイドが、ああも名号の悪口をいうのかわからない。やはり後発商品(法然→日蓮)というやましさがあるのだろうか。ともあれ、一遍の「名号=題目」発言はおもしろいと思う。ひそかに思っていたことを、ピシャリと指摘された気がする。  
一遍に寄り添っていた信者はどのような人たちだったのか。全国遊行で疲労困憊の一遍は50を超えたころおのれの死期が近いのを悟る。そのことをともに旅する弟子にも口にしている。もういつまで一遍さんと一緒にいられるかわからない。このときの弟子たちのさみしげな様子は胸打たれる。どれほど「をのをの」一遍上人を慕っていたことだろう。一行は明石浦にいた。淡路島の対岸にある港である。  
「をのをの州蘆の夜雨に涙をあらそひ、岸柳の秋風に情をもよをさずといふことなし。漁翁釣をたれて、生死の海に身をくるしめ、遊女棹をうつして、痴愛の浪にわかれをしたふさまゝでも、生者必衰のことわりをしめし、会者定離(えじゃじょうり)のならひをぞあらはし侍りける」  
うまく謳いあげているな〜と感動する。孤独な漁翁や遊女が一遍に付き従っていたのだろう。昼間は無心に踊躍していたのかもしれないが、夜半のこのさみしさはどうだろう。一遍が没したのち7人の弟子があとを追って海に身投げしたという。亡くなる20日ほどまえ一遍上人はこのように仰せになっていた。8月2日のことだった。  
「我臨終の後、身をなぐるものあるべし、安心定まりなばなにとあらむも相違あるべからずといへども、我執つきずしてはしかるべからざる事なり。うけがたき仏道の人身むなしくすてむこと、あさましきことなり」  
現代語訳はついていないから、自分で意味を推し測るしかない。「――私が死んだのち、自殺するものがいるだろう。すでに完全な信仰のあるものならばなにをしてもいいのだが、そうではなくまだ現世に欲があるものは、そういうわけにはいかない。せっかく人間として生まれてきたのだから軽々しく命を捨ててはならない」このくらいで正しいのだろうか?  
さて、一遍のあとを追って自殺した7人はどうだったのだろう?「安心定ま」るものたちだったのか、「我執つき」ぬものたちだったのか。「一遍聖絵」に答えは書かれていない。  
「さても、八月二日の遺誡のごとく、時宗ならびに結縁衆の中に、まへの海に身をなぐるもの七人なり。身をすてゝ知識をしたふ心ざし、半座の契、同生の縁、あにむなしからむや」 
 
一遍上人書蹟

 

「南無阿弥陀仏」小峰寺(白河市道場町) 
 作者/一遍(左) 他阿(右)

国宝/手鑑「藻塩草」縁起断簡    
 作者/伝一遍 
 
一遍の書を楽しむ・更新録 
この書の読み・意味の理解挑戦記録です。参加者の解釈・理由を下段に示し、以下に更新日を留めます。トップバッターは、もみじさんです。 
 
2009/7/9   もみじ/読み 
7/14 電児/「緊王」は緊那羅王の略? 
7/15 電児/読み 
7/22 電児/意味(恥外聞恐れぬ所業) 
7/24 もみじ/読み  
   書蹟文献を調査 
   「 緊王琴の音に不堪して三千の威儀を忌 
   給けるには草木皆なひきたるすかたあか」 
7/24 電児/意味 
8/24 電児/意味 
 
古語クロスワードパズルを楽しみました 
  > 電児の格闘記


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出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。  
 
 
一遍上人書蹟を読み解く

もみじ/読み 
緊王琴能音小石して三千能威儀遠忌 介る盤草來皆なひき堂る春可多あ 
( 緊王琴の音 小石堪して三千の威儀を忌けるは 草 木皆なびきたるすがたあ ) 
1 いろはは変体仮名です 
2 「三千」は仏語です 
  威 儀(いぎ)/[仏語]行・住・坐・臥(ふせる)を四威儀といい其々に守るべき戒律が定められ 
 ている。禅宗では「いいぎ」と読み規律にかなった正しい立居ふるまいをいう。 
3 を「堪」とすると読み不明となります 
4 「介る盤」のは不明な文字です判読してください 
もみじさんが?とした文字 
比較「小」 
  
もみじ/調査文献・読み 
緊王琴の音に不堪して三千の威儀を忌給けるには草木皆なひきたるすかたあか 
「古筆名葉集」の一遍上人(1229-1289)の条に「巻物切、鳥子帋、中字カナ交り、エンギ切」 とあり、また「増補古筆名葉集」には「雲山切、巻物、鳥ノ子帋、中字カナ交り、縁起」 とあるものに適合する。ところで、この切は、現在伝わっている「一遍上人絵伝」の詞書にも見出されないし、また内容から考えても、「一遍上人絵伝」詞書のものとは思えない。何か、京都東山の時宗関係の寺院に伝わった縁起の断簡ではないだろうか。料紙は、絵巻物によく用いられている楮(こうぞ)まじりの雁皮(がんぴ)紙、横にしわのあとが著しい。一行十七字程度、仮名交じり行書の書風より、鎌倉時代のものと考えられる。 
 
電児 恥外聞恐れぬ弩素人が読み解く (更新 2009/8/24) 
7/15  
 緊王琴の音(きんおうがことのね) 
 小石(こいし)供して三千の威儀を忌垣(いがき)ける小(ささ)は 
 草木皆なびきたるすがた 
7/19 
 >仏教第2祖・摩訶迦葉の伝説を背景とすれば「忘れ」と思われる。「小」は要再調査。 
 緊王琴の音(きんおうがそうのね) 
 小石(さざれいし)供(きょう)して三千の威儀を忘れける□□は 
 草木皆なびきたるすがた 
 緊那羅王が奏でる 瑠璃の琴の音の魅力に 
 小石を供え 三千の威儀をも忘れてしまう □□は 
 すべての草木が引かれ従う姿のようだ・・・
  
7/22  
 緊王琴の音(きんおうがそうのね) 
 小石(さざれいし)供(きょう)して三千の威儀を忘れける巾(はば)は 
 草木皆なびきたるすがた 
 緊那羅王が奏でる 瑠璃の琴の音に 
 心を込め小石を供え 三千世界の戒律も忘れて踊りだしてしまう 音の威勢は 
 すべての草木も従うような 魅力をもっている・・・ 
調査文献・もっともらしく解釈(7/24 暫定)  
 
緊王琴の音(きんおうがそうのね)に不堪(たえず)して 
 三千の威儀を忌(いみ)給けるには 
 草木皆なひきたるすかたあか 
 緊那羅王が奏でる瑠璃の琴の音の魅力に堪えられずに(踊りだすなら) 
 三千世界の仏法に 慎み精進するには 
 すべての草木がなびくように ただただ信じるが良い・・・ 
8/24 
 
>時宗は阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いている。 
 緊那羅王が奏でる瑠璃の琴の音の魅力に堪えられずに(踊りだすなら) 
 三千世界の仏法に 慎み精進するには 
 すべての草木がなびくように ただただ念仏を唱えるが良い・・・
 
 
読み解く情報

大迦葉(だいかしょう、Maha-ka-s'yapa)1 
仏教第2祖、釈迦十大弟子の一人。仏陀の死後、初めての結集の座長を務める。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。摩訶迦葉(まかかしょう)、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波とも呼ばれる。(なお迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるが、摩訶迦葉とは別人である。) 
声聞や菩薩の錚々たる面々が集った、ある日の釈迦の説法のこと。説法が一段落した正にその時、大地震が起こり、世界の様相は一変して真っ平らになった。やがて、上空には妙なる音楽が流れると共に、様々な異相が現れた。緊那羅の王が香山からやってきたのである。そして緊那羅王が瑠璃の琴を奏で始めると、何と大地が踊り出す。そして、最高位の菩薩達を除いた他の衆生もまた我を忘れて踊り出した。それは堅物で鳴らしている迦葉も例外ではなかった。普段の威厳もどこへやら、子供のように形振り構わず踊り狂っている。同席していた菩薩が呆れて迦葉をたしなめるが、迦葉は答えて曰く「自分でもどうしようもないのだ」。恐るべきは緊那羅王の音楽の魅力、そして菩薩の堅固な志操、と云う訳である。実は迦葉は今も生きている、と云う伝説がある。 
摩訶迦葉(まかかしょう)2 
頭陀(ずだ)第一の摩訶迦葉といわれます。大迦葉とも呼ばれます。頭陀とは衣・食・住にとらわれず、清浄に仏道を修行することです。畑仕事をしていて、土から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃します。間接的ですが、殺生の罪を感じ、この事がきっかけとなり出家します。清廉潔白で非常な厳格さをもって生き抜き、お釈迦さま亡き後は、教団で指導的役割を担いました。生い立ちについてはいろいろな経典に数多く登場しますが、南方に伝わったものと、北方に伝わったものとでは多少の相違があります。両親の名前など異なります。話題の多い生涯を送った人です。お釈迦様の弟子となったとき、すでに32相中、七つの相を具えていたといわれ、八日目には阿羅漢となっていた、と伝えられます。  
緊那羅1 
緊那羅(きんなら)は、インド神話に登場する音楽の神々(または精霊)である。仏教では護法善神の一尊で、天竜八部衆の一つである。漢訳は人非人・疑神。サンスクリットではキンナラ (Kiṃnara) だが、タイ語・インドネシア語・英語などではキンナラ (Kinnara) で、日本でもカナで表す場合は主にキンナラである。漢字ではあまり区別しないが、女性の緊那羅は、サンスクリットでキンナリー (Kiṃnarī)、タイ語・インドネシア語・英語などでキンナリー、キンナリ (Kinnari、英語では Kinnaree とも) と呼ぶ。 
緊那羅は音楽の神で、特に歌が美しいといわれる。ヤクシャ(夜叉)と共にブラフマーの爪先から生まれ、カイラス山にあるクベーラの天界で、楽師として音楽を奏でているという。キンナラ(男性の緊那羅)は、半人半馬であり、馬頭人身とも、人頭馬身ともいわれる。キンナリーは美しい天女であり、ときおり地上に舞い降り、水浴びなどして遊んでいるという。タイなど東南アジアでは、キンナリーは半人半鳥で、下半身が鳥に似ている。 
日本での緊那羅 / 神にも人にも畜生にも鳥にも当たらない、半身半獣の生物とされるため人非人ともいう。漢訳で人非人、疑神とされるのは、サンスクリット語でnara(人間)に由来するという説もある。仏教においては、乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされる。また密教では、胎蔵界曼荼羅の外金剛部院北方に配せられている。また「大樹緊那羅所問経」に、香山(こうせん)の大樹緊那羅が仏の前で8万4千の音楽を演奏し、摩訶迦葉がその妙なる調べに本来の気性や威儀を忘れて立ち上がって踊った、という故事は有名である。   
緊那羅王(きんならおう)2  
美しい歌声をもつことで有名で、天界の歌の神様。これと対になるのが楽師の神様、乾闥婆王(けんだつばおう)です。緊那羅王は仏教の神様になる前は、音楽に秀でた半人半獣でした。肩から鼓を提げて打っているところです。 文殊菩薩の化身とも言われます。 
仏教の八部衆の一で、二十八部衆の一。半人半鳥や半人半馬の姿をした歌神・楽神。乾闥婆と共に帝釈天王(帝釈天)に仕え、美しい歌声を持つとされる。妙法蓮華経 第一巻の「序品第一」 で四緊那羅王として、法緊那羅王・妙法緊那羅王・大法緊那羅王・持法緊那羅王があげられている。
琴・箏(こと)わが国の弦楽器の総称。古く、琴(きん)の琴(こと)、箏(そう)の琴、大和琴(やまとごと)、和琴(わごん)、七弦琴、新羅琴(しらぎごと)、百済琴(くだらごと)などのすべてをいった。箏(そう)の通称で、文字には「琴」を当てることが多い、江戸時代以後の呼び名。(箏は一三弦あるところから)一三の数をいう語。 
琴の音(ね)/琴を弾きならすしらべ。琴のねいろ。また、松の木に吹く風の音のたとえ。 
三千界(さんぜんかい)「さんぜんだいせんせかい(三千大千世界)」の略。 
三千世界(さんぜん‐せかい)「さんぜんだいせんせかい(三千大千世界)」の略。 
「三千世界の鳥を殺し、主と朝寝がしてみたい」高杉晋作の作といわれる、しゃれた都々逸(どどいつ)です。浄瑠璃「伽羅先代萩」に「三千世界に子を持った親の心は皆一つ」とあります。古代インド人の世界観によると、世界は須弥山を中心に、四大洲、九山八海、日、月などから構成されているとしていますから、太陽系世界ですかね。この一世界が千個集まったのを小千世界。小千世界が千個集まって中千世界。中千世界が千個集まったのを大千世界といいます。大千世界は、小中大の三種類の世界を含むので、三千世界とも三千大千世界ともいうのです。ですから、三千の世界ではなくて、十億の世界ということになります。 これが一仏の教化の範囲なので、一仏国と呼ばれています。「浄土和讃」はいいます / たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり 
三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)仏語。宇宙についての単位ともいえるもので、大千世界の別称。全宇宙は無数の三千大千世界からなるとする。仏教では、須弥山(しゅみせん)を中軸に、日・月・四大州・四大海・六欲天などを含めた広大な範囲を一世界とし、これの千倍を小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界という。大千世界はその中に、小・中・大の三種の千世界を含んでいるから、三千大世界ともいう。三千世界。三千界。三界。三千。一大三千大千世界。一大三千界。 
大千世界(だいせんせかい)仏語。三千大千世界の一つ。すなわち、須弥山(しゅみせん)を中心として、日月・四天下・六欲天・梵天がその周囲を囲むものを一世界とし、この一世界を千個集めた世界を小千世界、小千世界を千個集めた世界を中千世界、そして、この中千世界千個を集めた世界を大千世界という。大千界。大千。 
威儀(いぎ)「威儀を正す」とは、なり、かたちをととのえ、作法にかなった立居ふるまいをすることをいいます。「居ずまいをただす」とも「威儀をつくろう」ともいいますね。仏教では、行(行くこと)住(とどまること)坐(坐すこと)臥(ふせること)を四威儀といい、それぞれに守るべき戒律が定められています。「威儀」は日常生活での一切の行動を包括しているのです。禅宗では「いいぎ」と読み、規律にかなった正しい立居ふるまいをいいます。戒律上の細かな作法や規則も威儀といい、小乗には三千威儀、大乗には八万威儀と、戒律の異名にもなっています。また、袈裟の肩上から前後に通じる平絎(ひらぐけ)の紐も威儀と呼んでいます。 
忌む・斎む(いむ)けがれを避けて身を清め慎む。宇津保「長月はいむにつけても慰めつ」/仏の戒を受ける。蜻蛉「弱くなり給ひし時いむ事受け給ひし日」/心身を清浄に保ち、けがれを避け慎むこと。万葉「言(こと)の禁(いみ)もなくありこそと」  
「忌」のもうひとつ意味 / 「慎みて仏法聴聞に精進する」ということがあります。親鸞聖人の命日を御正忌と表現し、五十年ごとに迎える法要を遠忌法要、また私達が日頃使う、何回忌、あるいは月命日を月忌と表現する意味はいずれも後者の、亡くなられた方のお徳を偲びいのちの尊さに目覚めさせて頂き、この事を御縁に仏法を聴聞する事が「忌」の意味です。  
斎垣・忌垣(いがき)神社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣。みずがき。 
万葉集 に「伊垣」とある、「斎垣・忌垣」は近代の解釈で使われたのか、とするなら鎌倉時代の読みでは不適となる。 
[原文] 千葉破 神之伊垣毛 可越 今者吾名之 惜無 
[訓読] ちはやぶる神の斎垣(忌垣)も越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし 
[仮名] ちはやぶる かみのいかきも こえぬべし いまはわがなの をしけくもなし 
巾(はば)威勢、威光。「はばをきかす」「憎まれ子世にはばかる」 
草木(くさき)威勢が盛んなことを形容していう語。 
細・小(ささ)(狭いの意の「さ」を重ねた語。後世は、「さざ」とも)主として名詞の上に付けて、「こまかい」「小さい」「わずかな」の意を表す。ささら。さざれ。 
「緊」は形声文字であり声符は「臤」(けん) 「臤」は眼睛を破る形の字で、堅剛・堅固の意がある。「臤」は神に犠牲として捧げた臣僕の眼睛を破り、重要な祈願のときに用いた。のち「緊」は、緊急・緊密・緊切のように用い緊斂・緊張など、みな人事の重要な状態についていう。「緊褌一番」(きんこんいちばん)の「緊褌」は褌(ふんどし)をきつく締めること、「一番」はここ一番の勝負、思い切った試みの意である。このことから、決意を堅くして物事に取り組むこと、大きな事に当たるときに心を大いに大いに引き締めること、気合を入れて事にあたるさま、大事の前の心構えをいったもの。 
「ひしめく」という言葉がある。意味は、大勢の人が1か所にすきまなく集まる。また、集まって騒ぎたてる/「観衆がひしめく」。 ぎしぎしと音がする。漢字で「犇めく(緊めく)」と書きます。牛が狭い所に押し合い圧(へ)し合いしていて「ひしめいて」いる様子が伝わってきます。 
ヒシ(緊/ヒシ科/学名・Trapa japonica/花期・夏) 香川県には溜池が多い、夏休み魚釣りに溜池へ行くと、池の水面一面にヒシが広がっている。池の底から長い茎を伸ばし水面に放射状に葉を広げている。葉の付け根はやや膨らんでおり、スポンジ状で空気を含んで水に浮かびやすくなっている。和名が「緊」を当てることは調べてはじめて知った。核果の刺が鋭いことからだそうが、「菱」だとばかり思っていた。もっとも、「菱形」は葉や果実の形に由来するそうではある。果実は食べられる。 ヒシの果実の刺は2本、オニビシ(鬼緊)の刺は4本のようである。忍者が使う鉄ビシはこれをヒントにしたのであろうか。 
鳥の子紙(帋)(とりのこがみ) 
雁皮(がんぴ)で製される上等な和紙の一種。鳥の卵のような淡黄色をしているのでこの名がある。厚様・中様・薄様の区別があり、中古は書冊・書簡の用紙として、中世以後はさらに加工して襖紙・色紙・短冊などとして用いられた。五箇(福井県武生市)・名塩(兵庫県西宮市)産出のものを最上とする。 
由来 / 鳥の子の名の由来については、文安元年(1444)「下学集」では、「紙の色 鳥の卵の如し 故に鳥の子というなり」と説明している。また「撮壌集」には、「卵紙」と表記している。同様に「薄様」についても説明があり、鳥の子と区別していることから、鳥の子は厚手の雁皮紙(がんぴし)を指していたと考えられる。両集ともに厚様の説明が欠けていることから、平安時代から雁皮紙(がんぴし)の厚様を鳥の子と呼んでいたと考えられる。近世の「和漢三才図絵」には、鳥の子に関して「俗に言う、厚葉、中葉、薄葉三品有り」と記して、すべての雁皮紙を鳥の子と呼んでいる。 
鳥の子紙は、主に詠草(えいそう)料紙(りょうし)や写経料紙(りょうし)に用いられ、時には公文書にも使用された。特に表面がなめらかで艶があり、耐久性に優れた美しいものであるため、上流階級の永久保存用の冊子を作るのに好んで用いられた。明治期の「大言海」には、「楮(こうぞ)トがんびトノ皮ヲ原料トシテ、漉キタル紙。今ハ三椏(みつまた)ヲ用イル」とある。近世の正保2年(1645年)刊行の「毛吹草」や元禄期の「諸国万買物(よろずかいもの)調方記」「製紙一覧」などによると、鳥の子の名産地として、越前の他に摂津名塩(なじお)、近江小山、和泉天川と周防があげられている。 
明治初期の「貿易備考」には、近江の桐生、出雲の意宇の名をあげている。このほかに伊豆・美濃・土佐も雁皮紙(がんぴし)の産地として知られているが、「鳥の子」の紙名は用いていない。 
雁皮紙 / 斐紙(ひし)と呼ばれていた雁皮紙(がんぴし)は、特にその薄様が平安時代に貴族の女性達に好んで用いられ、「薄様」が通り名となっていた。さらに平安末期には美紙と呼ばれるようになっている。男性的な楮の穀紙や奉書紙に対して、肌合いが優しくきめの細かい雁皮紙は、詠草(えいそう)料紙(りょうし)として愛用された。平安末期には、取り扱いが難しく手間のかかる麻紙(まし)が作られなくなり、楮の穀紙や雁皮紙にとって代わられ、雁皮紙も特に薄様が主流となっていた。この雁皮紙が鳥の子と称されるようになるのは、南北朝時代頃からである。 
足代弘訓の「雑事記」(嘉暦3年(1328)頃に成立)に「鳥の子色紙に法華経を書写した」との記述があり、「愚管記」の延文元年(1356)の条に、「料紙鳥子」とあり、さらに後崇光院の「看聞日記」永享7年(1431)の条にも「料紙鳥子」の文字が見える。 
平安の女性的貴族文化の時代から、中世の男性的武士社会にはいって、厚用の雁皮紙(がんぴし)が多くなり、薄様に対してこれを鳥の子紙と呼んだ。鎌倉末期から鳥の子の名称が一般化し、近世に入ると雁皮紙(がんぴし)はすべて鳥の子紙と呼ぶようになった。 
越前鳥の子 / 「宣胤(のぶたね)卿記」の長享2年(1488)の条に「越前打陰」(鳥の子紙の上下に雲の紋様を漉き込んだもので、打雲紙ともいう)、文亀2年(1502)の条に「越前鳥子」の文字が記されている。「越前鳥子」の文字は他の史料にも多くあり、室町中期には越前の鳥の子が良質なものとして、持てはやされるようになっている。元来、公式の文書は奉書紙などの楮(こうぞ)紙が用いられ、鳥の子紙が公式文書に使用されることはまれであった。「雍州府志(ようしゅうふし)」には、「およそ 加賀奉書 越前鳥の子、是を以て紙の最となす」とあり、「和漢三才図絵」には、越前府中の鳥の子は、「紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久しきに耐え、紙王というべきか」とある。近世にはいると、「薄様」の名も消えて、雁皮紙をすべて鳥の子と呼ぶようになる。ガンピ(ジンチョウゲ科の植物)の生育する北限は加賀で、都で鳥の子の名声が上がるにつれて、加賀や越前では限られた原料で、優れた技術にさらに磨きをかけて良質な鳥の子を生産して名産地としての名を築いた。材料難からガンピに近縁の三椏や楮を混ぜるようになり、現在では三椏(みつまた)を原料として漉かれている。  
 
「小石」(さざれいし)と神仏

一升庚申(いっしょうこうしん・桐生梅田2丁目) 
米一升、酒一升を供え、貧しい者は小石十個でもよい、願かけすればご利益をくださる。 
桐生市立梅田中学校を右前方に見るあたりを梅田町の人々は「薬師前」と呼ぶ。その薬師前に西側の山頂へ向けて長々と石段がのびる風景が見られる、護国神社である。 梅田南小の児童が、いつかこの石段の段数を数えたことがある。365段とも366段ともいい。数は一致しなかったが、とにかく空に向かって長く遠く続く石段である。 石段脇の常夜燈近くに大きな庚申塔が建つ、2.4mを超える巨大な自然石で、実に雄大で風格のある「庚申塔」の三文字が、塔身いっぱいに薬研彫りされている。地元の人々は「一升庚申」の愛称をこの塔に贈っている。大きな文字それぞれの容積が一升(1.8l)あるからだ。 
一升庚申は、昔からネズミの駆除と商売繁盛にご利益があって、ひところは養蚕家や商家の人々が列をなし、整理のために村役人が出張ったと伝えられている。祈願には、愛称に因んで米一升またはお酒一升を供えるのがならわしだとされる。米一升分の粉で作った団子でもよいと言う風習もあった。米や酒を供える事のできない祈願者には、小石10個を塔の前に供えさせる事によって、ご利益を与えたと言う、粋なはからいもしただけに、一升庚申には人の波が絶えることがなかった。 
このため、塔の周辺は霊験あらたかな土地とされ、たとえ守護、地頭であっても、馬に乗ったままで塔の前を通りすぎることを禁じる「下馬の地」とされたのである。 
一升庚申がこのように霊験あらたかなのは、塔の文字が前関白近衛竜山(前久、まえひさ)公の書によるものだからと、地元には伝えられている。竜山公は、永録3年(1560)10月に桐生城に入城していると史書にみられる。越後の上杉謙信と桐生家の和議が成立した後の頃である。竜山公が、一升庚申の文字を書いたとすれば、この時をおいて他にはない。 
しかし識者の間では「伝承の域を出ない」とされ、とりあわない。竜山公書が事実ならば、庚申信仰の通説が根底からくつがえされてしまうからである。塔には造立年が刻まれていないが、周囲の石造物の銘が寛政となっていることを見ても、塔の造立はその年代に落ち着くのではなかろうか。永録3年が庚申の年であることも、不思議な因縁ではある。 
塔の前に立つと、小石十個を供え、「わしは、貧しくて、一升の米が供えられねえ。でも、しっかり働いて必ず米を持って来るだから、わしの願いを聞き届けて下せえ」と真剣に手を合わせる人の姿がフッと目の前に浮かんでくる。
「お地蔵さん」 
「お地蔵さん」という名で親しまれている仏さまの正式名称は「地蔵菩薩」。観音信仰と並び民間信仰の中心的存在です。観音さまは大変慈悲深く、その名を唱えるだけで33種にも変身して日常的な苦しみや災難を救ってくれるといわれ、民衆の支持を集めました。観音信仰はすでにインドにあって、仏教が日本に渡来するとほぼ同じに入り、法華経の普及とともに広まりました。現存する飛鳥時代の仏像でもっとも多いのが観音像です。観音33身説にもとずいて西国33所の観音巡礼が起こり、後には全国に観音霊場巡りが普及しました。地蔵は地獄に落ちる死者をすくってくれる菩薩(仏になる以前の段階にとどまり、人々を救済する存在)。平安時代中期から末期にかけて起こった末法思想、浄土信仰と結びついて貴族のあいだから広まっていきました。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道のいずれにも現れるとされ、六地蔵信仰も生まれました。民間信仰の中ではこどものこどもの守り仏として考えられるため、日本人の心情により訴えるところがあると考えられます。この世とあの世の境にいて、冥土にゆく者の苦難を救うとされたので、道中の安全を守る道祖神の信仰とも結びつきました。道路の傍らや村境に地蔵像が多く建てられているのはそのためです。「おいなりさん」と親しまれる稲荷同様、身近な信仰です。死後に賽の河原に集まるこどもたちを守ってくれるという信仰から、地蔵像の前に小石を積んだり亡くなったこどもの遺品や好物などを供える風習は各地で見られます。「お地蔵さま」として親しまれている「地蔵菩薩」。「観音さん」と並んで人を選ばす、わけへだてなく万人を救ってくれる点で庶民に広く指示されているのでしょう。
赤沢のおんばさま 
村はずれ、上村境の赤沢集落から十五分ほど登ったところに、大木に囲まれてトタンふきの小さなオチョウヤ(祠)があります。子どもが授かりますように、母親の乳がよく出るようにとお願いした「おんば(姥・乳母)さま」と、地元の人たちが親しみをこめてそう呼んでいる産神(うぶがみ)です。産神・姥神信仰は、出産の前後を通じて妊婦や乳児を見守ってくれる神として、呼び方、まつり方など違いはありますが、それこそ日本各地にあります。 
そのひとつに、姥石(うばいし)の伝説があります。 
昔、ある女性が女人禁制を犯して霊山に登ろうとしたところ、石になってしまったというもので、名山と呼ばれる山麓にはよくこの石がまつられています。古くから、石に霊魂が宿るという考え方があり丸い石や臼に似た石などを霊石として崇敬していました。また、子授け・安産・子育てを祈願する神に、箒神(ほうきかみ)・便所神・道祖神・子安神・山の神などがあり、お礼参りに底の抜けた柄杓や小石を供える風習があります。赤沢のおんばさまは、最初、古瀬直義さんの祖先がまつったものということですが、最近はこのような産土神(うぶすながみ)に対する信仰心が薄くなり、お参りに行く人もいません。
小正月 
正月元日を大正月と呼ぶのに対して1月15日を小正月、15日正月、粥正月などと呼ぶ。この日をもって正月の終りとするところでは、14日の年越し、上り正月、送り正月などという。古くは月の満ち欠けによって月日の推移をはかったので太陰暦の正月15日が元日であったためか、14日の晩と15日には粥占い、焼試し、成木責め、粥つり、左義長〔さぎっちょう〕、柱餅など多彩な正月行事が行われる。左義長はどんど焼きともいい、小正月に門松、注連縄などの正月飾りを焼く行事で、本県では海村に多く見受けられる。須崎市野見では14日の夜、各組ごとに決められた浜辺に、それぞれ正月飾りを持寄り、その前に一升桝に入れた徳利、白扇、白米を供えた後、火を付けて焼くが、その火で柱餅を焼いて食べると一年中病気をしないという。またこの時、海から恵比須様の形をした小石を拾って来て、左義長の火で焼き、宝物を拾ったといって大漁の時の櫓聲で囃しながら家に持帰り、「カネの神」と称して恵比須棚に供える。さらにこの晩には「潮ばかり」の行事がある。飾りをつけた12-13mの長大な孟宗竹を海中に立てる海神の祭りである。この晩小石を恵比須棚に供える行事は他所にもあり、安芸市一宮では「大潮を踏む」といい、夜の潮を踏む行事のなかに繰込まれて行われている。また幡多郡大月町柏島では、14日の昼には一切の注連飾り、門松を降してそれぞれ家の門口に集めて置くと、二つの組の子供達がそれぞれ集めて持帰るが、その途中トシトコ様の大根注連で、叩き合って奪いあい、多数取った方の組が勝ちとされる。翌日、子供達は組別に山の神の祠の前で集めた正月飾りを焼く。またこの日に正月棚や三方様に供えた米で、15日粥または初のお粥とよぶ粥を炊き、正月餅で作った柱餅と粥箸を、粥を入れた一升桝の上に置き神床に供えたあと、粥箸で大黒柱、床柱をコツコツと叩く(土佐市静神)。長岡郡大豊町上桃原では、牛王著、萱の穂、粥箸で、庭に降した正月飾りと、畑の麦や果樹に粥を刎ねかける。また物部村大古畑では、粥柱といって大黒柱、床柱などに粥を刎ねかける。さらに幡多地方に顕著な「カナミコ様」「カナムコ様」は家の金物類を祭る行事であるが、土佐清水市布では、14日に鍬、鎌、手斧、大工道具、庖丁、鋏などの金物を庭の涼み台の上に並べ、その前に鏡餅、生魚、四隅に譲葉を立てた一升桝に御飯を盛り、神酒を添えて祭る。また高岡郡中土佐町矢井賀でも十五日粥を炊き、一升桝の中に粥を入れ、両端に柱餅を1本ずつおき、カナミコ様に供える。前述の大月町柏島では、部落が東崎組と町前組の2組に分れ、まず子供同士の綱引があり、続いて大人同士の綱引がある。3回勝負で、1回が終ると、左義長を焼くといって、トシトコ様の餅とカケの魚を焼いて食べまた綱引に移るが、町前組が勝てばその年は豊漁であると占う。
賽の河原  
民間信仰で、死児の赴く所、三途の川の手前にあり、小石を積んで地蔵菩薩に供えることにより、罪障を去り、無事渡河できるとする。仏教の地蔵信仰と民俗の塞の神(道祖神)とが習合したとする。
古代の岩座という、神の依る岩、岩境のような霊域信仰の遺跡は各地に残り、奈良時代の国々の風土記にも神や仏などの形に似た石の信仰が載っている。さざれ石が巌となるといった成長する石の信仰、魂籠る石としての九石神、石を手むける信仰が仏教と習合した賽の河原の積石信仰や岩船地蔵など、神仏の信仰と石との関わりはきわめて多彩。
道祖神(どうそしん)・<塞の神(さいのかみ) 
各地の塞神社、また村の出入り口・村の境界の守り神 
天孫降臨の際に出会った天宇受売神と猿田彦神はこれが縁で結婚し、二人は一緒に道祖神になったと言われる。道祖神は塞の神とも言れ、一般に村の外れにあって外部から村に悪い霊が侵入するのを防いでいる。この神は天宇受売神・猿田彦神と結び付けられていない場合でも、しばしば男女神であるようで(伊邪那岐神・伊邪那美神という説もある)、そのいわれは、男女の仲の良い神様が守っていてくれると、そこを通り抜けようとした霊は「邪魔するな」とばかりに突き飛ばされるからとされる。男女神であるが故に、安産と子供の守り神ともされた。ここから道祖神と地蔵との混合も生れた。また道祖神は男女神であることから、しばしば神社には立派な陰陽石が祀られている。道祖神へのお供え物には、紙或は野菜で作った男女の性器の形のものが好まれ、安産祈願・子宝祈願に関わる 。 
天宇受売神・猿田彦神が道祖神であるとされた理由は、猿田彦神が天孫降臨のときに、天と地の境で一行を待っていたためだ。この二人については、猿田彦神は天狗に、天宇受売神はお多福になったという説もある。 
道祖神は庚申待ち・庚申講とも結び付けられた。庚申待ちは道教由来の風習で、庚申の日の晩に人間の体の中に住む上尸の虫・中尸の虫・下尸の虫という三尸の虫が天に登って、その人の行状を神様に報告し、悪いことをした分寿命を減らすという言い伝えに基づ く。この虫たちは人が寝ている間に天に登るため、庚申待ちではみんなで猿田彦神社に集まって酒を飲んで徹夜をし、眠らないようにする。庚申の日の次は辛酉の日で、庚・辛・申・酉というのが全て五行の金にあたる。そこで金気が強すぎることを嫌ったものであるとされる。猿田彦神が出てくるのは、申−猿の連想によるものか。地域によっては猿田彦神の代わりに青面金剛を祀る場合もある。青面金剛咒法という秘法があり、これが伝尸病を取り除く効果があるとされ、伝尸と三尸が結びついてなったもの。青面金剛像の下には、しばしば「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫られている。これは三尸の虫に悪いところを見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって、神様には報告しないでくださいとの願いが込められたもの。 
三尸の虫の普段の住処は、上尸の虫は頭に住み目を悪くし皺を増やし髪を白くし、中尸の虫は腸に住み内臓を悪くして悪夢を見させ、下尸の虫は足に住み命を奪い精を悩ますという。三尸の虫が天の登る日が申の日になった背景は、天の神が帝釈天とみなされ、帝釈天のお使いが猿であるためか。 
道祖神の変形で、おんば様・うば様・しょうづか婆さん・味噌嘗め婆さんなどと呼ばれる神様があり、一般に村と山との境に居る。 
おさばい様  
稲の成育をつかさどる民間神。稲霊そのものをさすという説もあるが定かでない。おさばえ様、さんばい様、おさばい荒神などの名称がある。そして社日と集合する等各地によって多少名称が異なる。高岡郡や幡多郡西部では、丸い小石を神体として祭るところから石やしろ様という。田植の前後に、臨時に田の水口に招ぎ降ろし、田植が終ると昇神する神で、一般的に降神を「おさばい様を降ろす」または「サイキヨ」といい、昇神を「さなぼり」という。ところによっては、おさばい様は春の社日から秋の社日まで、あるいは田植の時から収穫の時まで田にとどまって田を守って下さるという。常在の神として、佐倍、佐婆恵などの漢字を宛て、氏神さまの境内や田の畦に小祠を造り、また石グロを積んでいるものもある。おさばい様を降ろす時期は、籾種を苗代田に播く時、田植の時、田植直後と区別されるが、播種時と田植の時、播種時と田植直後といったように二度に亘って祭る土地も相当多いが、安芸地方では田に水のある間とか、出穂期までの節日ごとに祭ったり、早稲、中稲、晩稲と異なった品種を播くごとに祭る。場所は、播種の場合、苗代水口、田植、田植直後は最初に苗を植える田の水口(ミトグチともいい、田に灌漑用水を流入するところ)であるところから、この祭りを水口祭りとか苗代祭りといい、おさばいどころと呼ぶところがある。これらの田は通常最初に水がかりをする田で、谷間を開いた田では最上段に位置し、水は下段の田へ向って次々に流入する。このような田は往々三角地をなしており、祭りはその先端の水口で行われる。また一枚の田の水口のみと、田毎の水口毎に祭る土地とに別れ、さらにオサバイ田といって、神聖視する田の水口で祭る土地もある。祭り方もまた様々であるが、通常水口の畦に杉、樫、栗、柿などの小枝、ウツゲの花枝、萱、氏神社か寺かの護符、あるいは正月の幸い木、粥箸などの何れかを招〔お〕ぎ代〔しろ〕として立て、その前に米、大豆、雑魚、正月餅、干柿などを取合せ、椿、枇杷、柿、蕗の葉の何れかに乗せて神酒とともに供えるが、概して正月に用いた粥箸とか幸い木を立てたり、正月餅、歳徳神や三方様の米などを供える傾向が強い。また幡多郡や高岡郡の「石やしろ様」は丸い小石を置き、あるいはオンノベカヅラやニンドウカヅラの輪の中に、これらの物を立てる。ところによってこれを神座〔かみくら〕と称する。幡多郡十和村古城のごとく代掻きの時に、牛におさばい様を拝ますところもある。このようにしていよいよ田植にかかる前に、先ず3クラか5クラの苗を植え、豊作を祈願してから田植を行う。前述のとおり、播種、田植の前後に去来する田の神であることは「おさばい降ろし」「さのぼり」の言葉によっても窺われるが、その去来するところがさほど明確ではない。然し、土佐郡本川村では、おさばい様は山の神であるといい、同郡土佐山村でも春の社日に田に降りておさばい様となり、秋の社日に山へ帰って山の神となるという。またおさばい様は春、祠を出て田に降り、秋収穫が終ると祠に帰ると伝えるところもある。田植の時、最後の苗数本の根を洗って家に持帰り、倉入れ、おさばい入れ、さのぼりといって恵比須棚に供える。幡多郡西部では、旧6月末と、収穫時、秋の社日または旧10月初亥の日に「石やしろ様」の小石を家へ持帰ることを「さのぼり」という。山→田→山、祠→田→祠、家→田のパターンがあることがわかる。さらにおさばい様と早乙女との関係は深く、生理や出産の血の穢れのある者は、オサバイ田を植えることを禁じ、また、おさばい様への供え物は早乙女のみが食べ、田植に先立って、早乙女におさばい様の祠の前で神酒を飲ます。あるいは田植の最中には他の神の神参りが出来ないなどの習俗が伝えられているが、さばい、さんばい、早乙女、五月、五月雨、夕立〔さだち〕など言葉の頭に「サ」の字のつく言葉には稲作と関係があり、さんばい、さばいなど田の神を「サの神」つまり稲霊を意味するという説もある。
夫婦石神社 
子を授かる神として信仰されている。お参り時に夫婦石根の石を2個持ち帰り、自宅で神棚に納め、毎日信仰すれば子供を授かるとの言われがある。授かったときには、お礼参りとして、その石を拝殿に納め参拝する。 
夫婦岩 
夫婦岩・夫婦石は日本各地にある奇岩・名勝の名称。2つの岩が夫婦が寄り添うように見えることから名付けられる。海面から飛び出した岩と、山中の岩に大別できる。岩が3つ以上あって、そのうち2つだけを夫婦岩・夫婦石と呼ぶこともある。 
一般的には夫婦円満や家内安全や海上保安や大漁追福の象徴や祈願祈念でもあるが、古くは古神道における磐座(いわくら)信仰といわれるものがあり、自然に存在する象徴的な場所やもののうち、特に巨石・岩や山を神体とし、神が宿る場所として信仰した。そのため注連縄を飾り、鳥居を備えたりして、そこに神が鎮座している証としている。また古神道や現在の神道に息づく二律双生という概念の具現化であり、例えばこの世は、現世(うつしよ)と常世(とこよ)からなるという考えや、七福神のうち恵比寿と大黒が二柱そろって一つのものとして信仰されたり、身近では、夫婦茶碗があり、また箸や履物を両方そろって一膳や一足という数え方も日本独特といわれる。これら磐座信仰と二律双生という考えが、一体となって祀られる対象となったものが、夫婦岩である。 
夫婦石神社(茨城県鉾田市安房) 
大字安房字夫婦石1913番地に二つの石があり、この石は根が深く、世の人は昔から、鹿島の要石に連続していると言い伝えている。上にあるのを夫石、下にあるのをを婦石という。小石の〇〇したる形状は、あたかも石児を産生するかのように髣髴とする。児のない人は、遠近隣から、皆、伝え聞いて、この両方の石をうがち持ち帰り、神棚に納めて、信仰すれば、必ずその御利益があり児を産すと言われている石造の洞がある。毎年、三月九日を祭日とする。 
夫婦石神社(那須町) 
今から数百年前、戦国の世に一組の男女が敵に追われこの地に逃げてきた。あたりは一面の芦の茂み、この茂みに身を隠していると大きな石があり、男は女をかかえてその岩石の割れ目に身を隠した。追っ手がこの岩石のそばに来た途端、白蛇が2匹現れ巨大な石が揺れ動いた。それを見た追っては、恐れおののき逃げ帰った。2人はこのお石様のおかげで命を救われ、この地に住み、仲良く田畑を耕して暮らしたという。時代の移り変わりと共にこの地にも人々が住み、誰言うとなく「見落石」が「夫婦石」となった。この石は夜になると互いに寄り添っているという話が伝えられ、現在では夫婦神社として、諸願成就・縁結びの神様として崇められるようになった。 
志氐神社(三重県四日市市) 
市の中心街から2kmほど北に行ったところにある大宮町の志氐神社(しでじんじゃ)の表参道の石鳥居の傍に、ちょこんと「夫婦石」という石が置かれています。唐突過ぎるくらいに街中の路傍に置かれているわけですが、この石が一体どんな石なのか、現地には解説はありません。「志氐神社縁記」という文献を見てみると、僅かながら以下のような記述がありました。「また鳥居の側に神石あり。南北にサソリのような岩盤(飼ユ)が走りその深さは知れず。古よりこれを称して夫婦石という。」(意訳) 
現在は小さい1個の石が置かれている状態であり、ここの記述にあるような「地層奥深くの岩盤から露出している夫婦石」の姿とは大きく違いますが、付近一帯が宅地開発と地面の舗装で往時の見る影もないので、元々の夫婦石は記述の通りのような在り方だったのかもしれません。「神石」と言っていることから、この石が神聖視されていた聖石であることは疑いないようですが、いつ頃から、どの程度の思いで神聖視されていたのかは不明です。石の名前から「生産(安産・豊穣)」に関わる霊性を持った信仰対象であった可能性もありますが、推測の域を出ません。 
また東海道沿いにこれみよがしにあることから、江戸時代には好奇的・名勝的に夫婦石が位置付けられていた可能性もあるでしょう。神社の鳥居の横という場所にあることから考えて、神社側はこの夫婦石を信仰の中心や重要な存在として考えていた様子があまり見られません。 
この場合、夫婦石に対する人々の認識は亜信仰(霊的な力を期待するが、畏れはない。現代人が神社で軽くお祈りするぐらいの気持ち)だったと考えられます。 
諏訪神社(静岡県御殿場市寵) 
南御殿場駅のすぐ北側にJRの踏切に分断された諏訪神社(かまど神社)があります。諏訪神社は古くから「いぼかみさま」として信仰されています。かまど神社の寵(かまど)は建久4年(1193)源頼朝が富士の巻狩を行ったときの将卒が炊事をした寵場(かまば)からきた地名です。古くは諏訪神社の裏を流れる御手洗川(みたらしがわ)の水をイボにつけてイボを落とましたが、現在は神社の御手洗(みたらし)の神水(じんずい)をイボにつけます。 
古文書に踏切の東側の諏訪神社正門鳥居の右手にある夫婦石にイボトリのお話の記載があったとのことです。昔の街道の村外れの道祖神のところに川が流れていてそこの川原に夫婦石があって石の窪みに溜まった水をイボにつけたといわれています。その夫婦石を現在の位置に移動したそうです。
産飯(うぶめし) 1 
出産直後に炊いて産神に供える飯のことで、産婦と新生児に供えるとともに、産婆手伝い、近所の人々など、できるだけ多くの人に食べてもらう。それは、新い生命の誕生を広く認知させるためと、子がよく育つといわれるためである。膳には小石が供えられるが、この小石は産神の代わりといわれ、産婆の家からもってくる風習がある。 
お食い初め 2 
子どもが一生食べ物に困らないようにと祈りを込めて、生後100日目の赤ちゃんに食べ物を食べさせる儀式をいいます。昔からお膳に赤飯、お箸、お椀などを揃え、おかしらつきの魚と小石を供える風習があります。小石は赤ちゃんの歯が丈夫になるようにとの願いをあらわしたものだそうです。もちろん本当に食べません。食べるまねをするだけです。100日目にこだわらず、家の都合や赤ちゃんの健康状態などで決めてもよいでしょう。また離乳食の始まる第1日目を、「お食い初め」の日としてお祝いするのも一つの方法です。 
お食い初めの儀3  
お食い染めとは、男の子は生後120日目、女の子は生後110日目に行う儀式です。日本の古き時代では箸初とか箸揃と呼ばれていました。出産を司り育児を保育する産神様のご加護によって、ようやく首も座り、百日を迎えて人並みに食する意義を悟るようになります。生後百日は歯の生え始める頃で、産神様に安泰をお告げもうし、祝福を受ける為、成人と同じ様な食膳を供え、安らかなる行く末と成長をお祈りします。膳には赤飯、吸い物、他に賢く成長するようにお頭づきの鯛が供えられ、初めてのお宮詣りの祭、氏神様が境内より拾った小石(歯固め)を供え、神霊として赤子の歯が堅くなるようお祈りいたします。
「なぞらえる」  
日本には古くから「なぞらえる」という動詞で、はっきりとではないにしろ、とにかく、それとなく示されている或る精神作用の魔術的な効力に対して、奇妙な信仰がある。ところで、この「なぞらえる」という言葉そのものは、英語には、どうも適当な訳語がない。それは、この言葉が、信仰に基づくいろいろな宗教上の行事だけでなく、様々な魔法に類したことにも、関連して用いられるからである。「なぞらえる」という言葉の普通の意味は、辞書によると、「まねる」「たとえる」「にせる」であるが、その秘境的な意味は、「ある魔術的、ないしは奇跡的な結果をもたらすように、物ないしは行動を、他の物ないしは行動に、想像の中で代用すること」である。 例えば、諸君には寺を立てるほどの余裕はないが、もし建てられるほどの金持ちだったら、早速その寺を建てようという、敬虔な気持ちになるだろうが、それと全く同じ気持ちで、仏像の前に小石をひとつ供えるのは、たやすく出来ることだ。ところで、そのようにして小石を供える功徳は、寺を建てる功徳と同等、あるいはほとんど同等なのである。
石投げ地蔵・伝説  
石投げ地蔵 
天明の頃甲斐の武田一族の姫が常陸の国(茨城県)佐竹家に嫁したが不縁となり乳呑み子を残して国に戻された。 その後乳呑み子は美しい佐竹白百合姫となり乳母より真実を聞き母へ思慕の念から従士乳母を従え母の里甲洲へ目指し旅立った。やがて明王峠にさしかゝった時に姫は激しい腹痛におそわれて草むらに倒れ伏してしまった。乳母は驚き従士を村里へ助けを求めに走らせ介抱に努めるも苦しみはつのるばかり、乳母は姫を背負い峠を下りはじめたが弱り果てた姫は苦痛の中から母上様と呼び息絶えた。人里遠い山中の出来事に莊然をした乳母は姫の遺髪をとり手厚くこの地に葬った。村人達も白百合姫を哀れに思ひ地蔵尊を建て小石を供えて石投げ地蔵と呼び冥福を祈った。  
「じょうが塚と長者屋敷」 
むかし陣馬、明王峠付近に美しいお姫様が住んでいたそうです。お姫様は馬が好きで毎日、明王、景信を乗り回していました。ある日のこと馬に鞭打って走ってくるところを山伏の手にかかって射られてしまい憐れな最後をとげてしまいました。だれいうとなくお姫様が倒れたその場所を「じょうが塚」といい、今でもこぶしくらいの小石が沢山積まれています。またその近くには「矢の音」や「長者屋敷」という地名があり、長者屋敷はお姫様の屋敷跡ではないかといい伝えられています。  
明王峠・石投げ地蔵嬢が塚 
景信山と明王峠の山稜を結ぶ間に「堂所山」という小峰がある。その昔武田信玄が北条と合戦の時、鐘によって敵の情報を知らせるための鐘つき堂のあった跡でその名前が付けられた。また明王峠は武田不動尊を祀り武運を祈願した所と伝えられる。この峠の山頂に登り詰める一歩手前の道筋に、小石を積み重ねた小塚があるのが目につく。伝説に塚の由緒を記すが、時は天正年間、甲斐の武田一族の姫君が常陸の国佐竹家に嫁したが、不幸にして離縁となり幼女を残して生国の甲斐へと戻された。その後幾とせ、残された幼女は美しい姫となった。ある日、乳母より実母のことを聞かされ、次第にまだ知らぬ母に思慕の念がつのるようになった。やがて秋も深まろうとする頃、母と対面する好機が訪れ乳母と共に母の消息を尋ねたいと父に懇願し、許を得て従士三人乳母等五人で甲州に旅立つことになった。何分にも当時は戦国乱世の時、旅は決して楽なものではなく、敵方の難を逃れるため間道や峰道を通らねばならなかった、ある時は木の実を食し、沢の水で空腹を満たすほど殆ど不眠不休の旅であった。故郷を離れて幾月、かよわい足で野を越え山を越えてようやく辿りついた所がこの明王峠である。甲斐の山々が眼下に見下ろせる急に展望の開けたところにさしかかるや、食あたりか疲労のためか姫は急に腹痛におそわれ草むらに伏してしまったのである。突然の病に驚いた近従者は只、懸命な介抱につとめたがなにしろ人里離れた山中のこと、医者など到底呼ぶ間もなく幼くして急死したのである。従者たちはこの急な惨事に慟哭しながらも、姫のなきがらを手厚く、この地に葬り遺髪をもって、いずこかに去ったという。後に、武田・佐竹一族がこの地に参り小さな地蔵尊を建て懇ろに供養したのが嬢ヶ塚であり、又この峠を往来する旅人が線香の替りに供えたのが石上げ地蔵又は石投げ地蔵と呼ぶ。
年玉 
年玉は年毎に更新される生命力、あるいはその力のこめられている特別な呪物を意味していました。たとえば愛知県では祭に小石が神前に供えられたのち、参詣人に年玉といって分かち与えられます。これは祭に際して呼び込まれた生命力が、小石に分与されたことを意味しています。また正月の神詣でや若水迎えに際して供える米を年玉とよんでいる地方は多くあります。米粒に元来再生の力が宿っていると考えるのは当然といえるでしょう。 「振り米」と称して瀕死の重病人の枕もとで竹筒に入れた米を振ってその命をひきとめようとするのも米のもつ生命力を信じているからで、ゆり動かすことで力が発動するとするのは日本人の古代からの信仰でした。 鹿児島県の甑(こしき)島では大晦日の夜、「年どん」と呼ばれる鬼が家々を巡り歩いて子供達に訓戒をたれ、年玉と称される丸餅を与えます。「年どん」の来ない家では家長が眠っている子の心臓の上あたりに丸餅をのせますが、やはりこの餅も年玉とよばれます。 餅はもともと生命力のシンボルでした。杵(男性)と臼(女性)とによって生成された生命力を篭めたものを心臓の形を模して中高につくられたのが餅で、鏡餅をはじめとして正月の餅にはすべて再生の生命力としての年玉が搗き込められているのです。 日本人は新年にこの餅を食べて再生します。あらたまの年の始の「あらたま」は「再生した新しい生命力」であり、「新魂」をさしていると考えることができます。 日本人が年齢を数え年で数えるのは、生まれながらにして与えられているひとつの年玉に正月が来るごとに一つずつ「年玉をとりこむ」「年をとる」ためです。甑島では「年どん」が持ってくる年玉の丸餅で年をとり、出雲地方では歳神の投げる年玉にあたって年をとります。 元旦の食事はトシメシ、セチメシ、トシトリメシと呼ばれ、元旦に雑煮を食べることで年をとったと実感する人が多くいるとされます。雑煮に餅のほかに大根やサトイモが加えられる地方が多いのは大根・里芋は豊穣の力、「よ」が十分にとりこまれた生成力の大きな古来の植物だからでしょう。
庚申様 
路傍の石仏として辻や道端に多く残っている庚申様の中でも、特に和泉の松原の庚申様と猪方の辻にある庚申様には、足や耳の病の平癒を願って遠くからもお参りにくる人があったという。松原の庚申様は、珍しい「西向きの庚申様」なのでご利益があるといい、諸病のほか商売繁昌にも霊験あらたかといわれた。調布の入間などからも病気の子どもを背負ってくる人もあった。供え物には、おさんご(米)や賽銭(さいせん)などのほか、足の病にはわらじを、耳の病には穴のあいた小石を供えた。戦時中には無事を祈る出征兵士もあり、帰還できたお礼に大きなわらじを作って供えることもあった。
愛の地蔵尊(虫窪) 
虫窪には「泣き原の地蔵」がまつられている。これは、昔、土沢(平塚市)の者が伊勢参りに行った帰り、川の増水で流されてしまい、行方不明になってしまったことがあった。そこで霊をなぐさめるために地蔵をまつり、「泣き原の地蔵」とよぶようになったという。地蔵は昭和47年に盗難にあい、現在は道了尊から譲り受けた地蔵がまつられている。 この地蔵はイボとりの地蔵として霊験あらたかだといわれており、地蔵の祠には小石がたくさん供えられている。この小石でイボをこするととれるのだといい、そのお礼に小石を倍にして返した。また、婚礼の行列はこの地蔵の前を通ってはいけないという。どんな遠回りをしてもこの地蔵の前は通らなかった。
精九郎壇と山毛欅(せいくろうだんとぶな) 
精九郎壇とブナは滝根町と川内村(双葉郡)との境界に位置する金山地区にある。壇(塚)は高さ1m、直径8m前後の円形で無数の小石が積まれており一種の境塚である。その昔川内村と神俣村との境界争いの時に川内村の精九郎が正直に境を言いもらした、そのため川内村が争論に負け、精九郎は首だけ出して生き埋めにされたという。精九郎が生きている間は両村から食物を運んだという。その時精九郎は「川内村と神俣村の両村が見える処にうめられて満足だ、死んだら大きい石碑をたのむ」と言ったそうだが、不便な山頂のため石碑は立てるまでには至っていない。そこで、両村の人々は彼の霊をなぐさめるため、行く人来る人はせめてもと小石を供えたのだという伝説がある。この壇のあるブナは推定樹齢300年で、胸高周囲3.5m、樹高10.2m、全体の枝張り19.3mの古木である。樹勢は西からの強い風に耐えるように、枝全体がかしいでいる。
大雄山聖徳善応寺・一石一字法華塔(お経塚) 
昭和40年鶴谷団地造成中に善応寺との境界の所に大きな穴があき、中から小石一個に漢字が一字書かれた小石がぎっしり詰まっており、造成中の作業員を驚かせたのです。作業員は中に宝物が隠されているのではと大さわぎになっていました。たまたま通りかかった私がお寺に行って住職に聞いたところ 、絶聞(四代目住職)が亡父母の霊を弔うために、お経の文字を小石一個に一字書いて埋めた塚であり、その上に石塔があるはずで、集落の人はお経塚といっている所だとの説明であったので 、その旨を作業員に説明し埋戻しさせ、石塔をさがしたが、その時は石塔は発見出来なかったのです。お経の文字が書かれた小石を少し持ち帰り、我が家の佛壇に供えておきました。
「石文」(いしぶみ) 
テーマは「日本人の死生観」ですが、実はもう一つ重要なテーマがあって、それは「石文(いしぶみ)」というメッセージの伝え方。無数の石の中から、自分が選んだ1個の石で相手に何かしらのメッセージを伝える。言葉や文字がなくても、ちゃんと伝わる。もちろん、ちゃんと「伝わる」ためには、お互いに相手を信じていることが必要ですね。相手がどういう人かがちゃんとわかっているから石ころでメッセージが伝わる。こんなに奥ゆかしくて真正直なメッセージの伝え方があるとは。映画では、小さい頃に生き別れた父との関係に、石文が効果的に使われています。この二重テーマを、「くどい」と感じる人もいるようですが、石文がなければ大悟は父の「おくりびと」にはなれなかったかもしれないし、私はとてもいいつくりだなと思いました。こういう映画が日本で作られたことを誇りに思います。きっと、この映画「おくりびと」自体が「石文」なのです。世界中の人々に向けられた。死と生に対する立ち位置をふりかえるために送られた、奥ゆかしく、静謐な、しかも力強く、真正直なメッセージ。 
「石文」に気持ちを込めた 脚本家/小山薫堂 
物語をつくる上で、最初に「石文」を使おうと思ったんですよ。いま携帯電話全盛で、伝える側も伝えられる側もいかに楽ちんに伝えるかという時代じゃないですか。石文は向田邦子さんのエッセイで最初知ったんですが、石を選んで渡し、相手に思いを伝えるもの。これを何年も前から思っていたんですね。それと食について、生きていくための食、つまり命をいただくということ、食物連鎖というか、命のバトンタッチというか、それをテーマにしたいなと思ったんです。あと、個人的に好きなエピソードは銭湯のシーンですね。大人になって田舎に帰って、子供のころ行っていた銭湯で、番台のおばちゃんから『あら、大きくなったわねえ』とやさしく声をかけられる、そんなシーンを盛り込みたかったんです。その銭湯のおばさん(吉行和子)は、火葬場のおじさん(笹野高史)と大人の恋愛じゃないけど、独特の距離感があっていいなと思いますしね。あの笹野さんの造型は、シナハンで火葬場に行ったとき、そのまま役者にしたいぐらいのいい顔をしたおじさんがいたからです。笹野さんが(あの世におくるとき)劇中で、三途の川を「門かなあ」と評するセリフがありますが、その言葉もそのおじさんからいただいたもので、印象に残っていた言葉でした。 
物語の構成として、まず登場人物それぞれの人物像を考え、最後のオチとして石文を使ってどう劇的にするか考えました。ぼくは、娘からある石をもらっているんですよ。それを大切に金庫にしまっています。「ぼくが死ぬとき、あの石を持って行こう」と思っているんです。娘はまだ小さいですけど、大人になったとき、この映画を見てくれると思うんですよね。本人はぼくに石を渡したことなんて憶えていないと思うんだけど、それを思い出させるための「布石」としての映画なんです、この「おくりびと」は。娘に贈る遠大な「遺書」なんですよね。  
【石文】(いしぶみ)人が言葉を持たなかった時代、思いを伝えるために石を渡した風習。昔、人が言葉を持たなかったころ、自分の想いを相手に伝えるために、言葉のかわりに石を渡したのだそうです。贈るほうは、石の大きさやかたち、色、つや、重さ、感触、などから自分の気持ちにピッタリの石を選び、石に想い(心)を吹き込む。もらった人は、その石を見て相手の感情や気持ちを読み取るんだそうです。 
【石文・碑】(いしぶみ)事跡や業績などを記念し、後世に伝えるために、文字を石に刻み地上に建てたもの。碑(ひ)。石碑。 
【布石】(ぬのいし)布石敷として用いる石。土台下などに長く敷いた石。 
【布石敷】(ぬのいし‐じき)布敷に敷いた石あるいは石敷。布敷石。 
【布石】(ふせき)囲碁の序盤戦。戦いが起こるまでの石の配置。配石。石くばり。将来のために、前もって手くばりをしておくこと。 
【壺碑・壺石文】(つぼのいしぶみ)青森県上北郡天間林村にあったと伝えられる古碑。また、宮城県の多賀城の碑のこと。前者は、坂上田村麻呂が蝦夷(えぞ)征伐の時、弓の弭(はず)で日本の中央であることを書きつけたという。後世、多賀城の碑を壺の碑といったため両者が混同して呼ばれた。