称念寺・新田義貞
称念寺新田義貞1新田義貞2義貞戦死義貞の墓1義貞の墓2泰澄大谷寺泰澄寺白山信仰1白山信仰2白山信仰3三馬場白山伝説福井市清水の奈良平安安国寺 
明智光秀縁光秀1光秀2光秀3安土御献立「鮒寿司」・・・

時宗・一遍 仏の世界   

 
称念寺 福井県坂井市丸岡町長崎
養老5年(721) 泰澄太師が長崎に阿弥陀堂を創建した。  
正応3年(1290) 称念坊兄弟等が伽藍を整備して時宗の念仏道場となった。  
延元3年/暦応元年(1338) 新田義貞公の遺骸が葬られた。  
長禄2年(1458) 室町将軍家は安堵状と寺領を寄進し(約100町歩)将軍家の祈祷所となる。  
寛正6年(1465) 後花園天皇の綸旨を受けて、天皇家の勅願寺となった。  
文明5年(1473) 朝倉時代に寺境内は長崎城となり、一向一揆の戦乱で、金津の東山へ墓所を除き避難移転した。  
永禄5年(1562) 明智光秀公が門前に寺子屋を開いた。  
慶長8年(1603) 結城秀康は称念寺に38石を寄進した。 以後,歴代福井藩主からの寄進で寺が整備された。  
元禄2年(1689) 8月芭蕉が称念寺を訪ねた。  
安永4年(1775) 境内3000坪に大伽藍(30の建物)完成 。 
明治 明治に入り、神仏分離令により寺は没落した。  
大正13年(1924) 寺が再興され、伽藍が整備された。  
昭和23年(1948) 福井震災で全建物が倒壊した。  
昭和42年(1967) 震災復興落成式  
はじまり
称念寺は長崎道場と呼ばれ、一遍上人という鎌倉時代のお坊さんが開いた時宗の寺です。
しかし、称念寺に伝わる縁起(歴史を書き記したもの)によれば、古くから長崎の地にあったことがうかがわれます。縁起によれば当地長崎が湖のほとりにあったころ白山権現がこの地に渡来した際、着岸した旧跡であったといいます。また泰澄大師というお坊さんがこの地を訪れ、養老5年(721)元正天皇の勅願を受け阿弥陀堂を創建したと記録してあります。つまり、称念寺が白山信仰ととても関係が深かったことがうかがえます。古い時代より、人々は高い山や大きな川などに神が宿っていると信じていました。越前地方では白山が代表的で、鎌倉時代に念仏信仰が広がる大きな下地になりました。長崎、舟寄の地名はこの湖の伝説と関係します。
また、漁に使うおもりが近くの畑から出土し、大きな川や湖が存在したことが想像できます。また縄文時代の遺跡が見つかり、そこで漁をしたことが伺えます。江戸時代の記録を見ると、福井のお殿様が「泰澄大師舟つなぎの松」と言うのを見にこられたことが記載されています。残念ながら、今は残っていません。
鎌倉時代  
鎌倉時代まで歴史は明らかではありませんが正応3年(1290)時宗(一遍上入が開く)の二代目の他阿(真教)上人が越前地方を遊行(おしえをひろめる旅をすること)のさい、当地の称念房が他阿上入をしたって建物を寄進したといいます。末の弟道性房は光明院という倉を寄進し、弟の仏眼房は私財一切を寄進したと伝えられています。
この時代に三国は日本海側で最も栄えた港でした。坂井平野でとれたお米や産物は九頭竜川や竹田川から舟で三国港へと運ばれました。そして長崎の庄には兵庫川があり、やはり舟が使われ運ばれたのです。時宗のお坊さんはこうした港などで布教したため、日本海側の各地に時宗の念仏道場が建てられたようです。越前地方で最も有力な道場になった称念寺もそのため、三国や富山、新潟県にまでその勢力を伸ばしていたことが当時の大乗院文書からうかがえます。つまり称念寺の経済は海運業にたずさわる人によって支えられてきました。同時に光明院の倉というのは、今の銀行の役割も果たしていました。 
遊行二代目真教上人は北陸と関東を中心に布教したため、長崎道場は北陸では一番の念仏道場になりました。またその末寺も、県下各地に建てられました。
南北朝時代  
鎌倉幕府も北条高時の頃になると、世の中が乱れ不満を持つ武士たちが現れました。その代表的な武士たちが足利尊氏や新田義貞、楠木正成です。そして鎌倉幕府を滅ぼした武士が新田義貞です。ところが足利と新田は争いとなり、南朝と北朝に別れ日本中を巻き込んだ戦乱の世になりました。ここ越前地方もそうした戦乱の舞台になりました。新田義貞は群馬県で生まれ、反幕府方として鎌倉を攻略し、ついで南朝方のリーダーとして京都や兵庫県で戦いましたが暦応元年(1338)に灯明寺畷の戦いで戦死しました。 
戦乱の中で味方を裏切ったり、兄弟で争ったりした時代に、新田一族は最後まで南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けた武士だったのです。新田義貞は称念寺の住職と古くより交友を深めていたので、その遺骸は時宗のお坊さん8人にかつがれて手厚く葬られました。(これを陣僧という)これにより、称念寺は新田義貞の菩提寺として知られるようになりました。 
敵方であった足利義政もその武勇をたたえ、長禄2年(1458)安堵状と寺領を寄進し、将軍家祈祷所として栄えました。こうして称念寺は寛正6年(1465)にさらに後花園天皇の綸旨(りんじ)を受け祈願所となり、その後、後奈良天皇の頃には住職が上人号を勅許されるなど着々と寺格を高めていきました。 
戦国時代  
時代が戦乱の時代になると、称念寺もその中に巻き込まれました。それに対し朝倉、柴田、織田、豊臣、丹羽氏などの諸侯は禁制(してはならないことを記した物)を称念寺に出して、保護を加えています。しかし、文明5年(1473)には朝倉敏景の勧告により長崎の北陸街道沿いから金津の東山へお墓を除き、寺ごと移転しています。それでもたびたび一向一揆などに巻き込まれたようで、天正2年には越前の一向一揆の大将七里三河守が称念寺を陣としたことが記録されています。 
永禄5年(1562)には浪入中の明智光秀が称念寺を訪ね、門前に寺子屋を建てて生活していました。この話は有名で、江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪れその頃の光秀夫婦を俳句に詠んでいます。 
徳川時代  
徳川時代になると戦乱もおさまり、徳川の先祖は新田義貞ということで、称念寺を大切に保護しました。元文2年(1737)には新田義貞の400回忌を行い、幕府は白銀100枚を寄進したことが記録に残されています。続いて天明8年(1787)には450回忌を、天保8年(1837)には500回忌の法要が行われたことが記録されています。安永4年(1775)には30の建物がありました。 
徳川家が新田義貞の末裔であると言うのは、徳川の元祖の次郎義季が末になる世良田親季親子が、足利方の追っ手を逃れるため、遊行十六代南要上人の下で時宗になり、流浪して三河松平家の養子に入ったと言う、伝えから来るものです。また、称念寺を新田の菩提所と認定するに当たり、全国の伝承のある墓所をすべて掘り起こし、称念寺以外からなにも出てこなかった事を確かめて、法要を行いました。
明治以降  
しかし明治の版籍奉還により、無檀家無俸禄になり、経済的にピンチにおちいりやがて称念寺には住む人もなくなりました。境内は畑になり、仏像や寺宝も売り払われました。しかし、新田義貞をしのぶファンや称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせ、大正13年(1924)にようやく再建しました。
この再建に身命をささげたのが、広島県尾道の海徳寺住職高尾察玄師です。察玄師は大正3年4月に入寺し、困難を乗り越えて再建をはたし、昭和12年に新田公600回忌法要を執り行いました。察玄師は昭和19年には次期の遊行上人に推されて、甲府の一連寺住職になりました。明治時代には新田公のお墓も、他に身売りされそうになりましたが、察玄師により見事に修復され、さらに散逸していた寺宝も買い戻すことができました。
戦後 
ところが、昭和23年6月28日にこの地方を襲った福井大地震により再び称念寺は壊滅的な打撃を受けました。檀家がないため一時は存続すら危ぶまれましたが多くの人々の協力により、今日までかかりようやく復興ができたのが現在の称念寺です。そのため規模や様子は大きく変わりましたが、新田義貞の菩提寺として訪れる人の多い寺として現在にいたっています。
この再建に身命を奉げたのが察玄師の弟子の高尾察良師です。戦後の混乱や震災で壊滅的になった称念寺の再建に生涯を賭け、昭和52年に新田公640年忌法要と落慶法要を行いました。続いて昭和62年には650年忌法要を、地域上げての法要として実施しました。以後毎年の新田公法要と10年ごとの大法要を、地域の人々と伴に行ってきました。
平成19年に新田公670回忌を、地域の奉賛会の人々と高尾察誠が実施し、さらに毎年の法要を行って、新田公の慶賛に努めています。   
 
新田義貞1 (にったよしさだ・1298/1300-1337)
鎌倉時代末期の御家人、南北朝時代の武将。正式な名は源義貞(みなもとのよしさだ)。 
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系/河内源氏の棟梁/鎮守府将軍源義家の三男/源義国の子/贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国(上州)に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882)8月7日贈正一位。 
新田氏(上野源氏)は、河内源氏三代目の源義家(八幡太郎義家)の四男・源義国の長子の新田義重に始まり、新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)を開発したが、義貞の時代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷に過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。 
文保2年(1318)10月の義貞の売券案が残っているが売主が新田「貞義」と誤記されており、幕府での新田本宗家の地位の低さをあらわしている。また、義貞の長子義顕の生母を安東氏とする史料があり、これを有力な御内人安東入道聖秀の娘であるとする説がある。これが事実とすれば、没落御家人の新田本宗家が得宗家御内人の安東氏の娘を娶ったことになる(または、聖秀の一族の上野国甘羅令(甘楽郡地頭)の安藤五郎重保(左衛門少尉)の娘の説もある)。 
霜月騒動で上野国の守護が安達氏から得宗家へと替わり、上野でも得宗専制の影響が強くなってきたと見られ、必死になって権力にすがり付いて衰退する新田本宗家を立て直そうとする父・朝氏と義貞の涙ぐましい努力が垣間見える。また、その衰退に伴って新田本宗家の一族に対する影響力も下降線をたどっており、元亨2年(1322)に、一族の岩松氏系の岩松政経と本宗系に近い大舘氏の大舘宗氏が用水争いを起こした際、幕府に裁定を持ち込んでいる。おそらく義貞の裁定では収まらなかったのであろう。 
挙兵から鎌倉  
元弘元年(1331)から始まった元弘の変では、大番役も兼ねて鎌倉幕府に従い、河内国で挙兵した楠木正成の千早城の戦いに参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。これを理由のひとつとして、幕府は新田荘に対し多大の軍費を要求し、横暴的な取立てを行っており、義貞が幕府に背き挙兵を決意する直接のきっかけになったとも考えられる。 
「太平記」と「梅松論」では、病気と称して新田荘に逼塞していた義貞が、軍費の取立てのため新田荘の検分に来た幕府の徴税使・金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)を捕えて、親連を幽閉し、彦四郎を斬ったことで、挙兵を決意したと記してある。両使が新田氏に銭6万貫を5日のうちに上納せよと命じ、これに義貞が反発したという。また、元弘の変で出兵中、ひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていたとの説もある。 
元弘3年/正慶2年(1333)5月8日、後醍醐天皇の呼びかけに応え、生品明神に一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵。最初に集まった軍勢はわずか150騎にすぎなかったと伝えられている。当初は利根川を超えて、一族が多数いる越後方面へ進軍する予定であったが、弟の脇屋義助に諭されて鎌倉攻めを決意したと伝えられる。 
越後の一族も加わり、新田軍は東山道を西へ進み、上野国守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後に足利義詮)の軍と合流した。北条氏と累代の姻戚関係にある外様御家人最有力者である足利高氏の嫡男が加わったことにより、周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。 
さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田貞国・金沢貞将率いる幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となり、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退却する。幕府軍は再び分倍河原に陣を張り、新田軍と決戦を開始する(分倍河原の戦い)。 
新田軍は一度は大敗するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦氏一族の大多和義勝らの兵を合わせて幕府軍を撃破しており、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている(関戸の戦い)。 
藤沢(神奈川県藤沢市)まで兵を進めた義貞は、軍を化粧坂(けわいざか)切通し方面、極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面に分けて鎌倉を総攻撃。極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。しかし、鎌倉陥落後、千寿王を補佐するために足利高氏が派遣した細川和氏・顕氏兄弟らと衝突し、居場所を失った義貞は上洛する。 
建武政権  
建武の新政においては、義貞は鎌倉攻めの功により1333年(元弘3)8月5日、従四位上に叙位。左馬助に任官。上野介、越後守等を兼任。同年10月には、播磨介を兼任。この年、武者所の長たる頭人となる。また、上野国・越後国両国守護を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、左衛門佐、左兵衛督などの官職を歴任。 
建武2年(1335)に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起きると、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐に上奏するが、逆に後醍醐は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。 
義貞は弟脇屋義助とともに矢作川の戦い(愛知県岡崎市)、手越河原の戦い(静岡県静岡市駿河区)で足利直義・高師泰の軍を破るが、鎌倉から出撃した尊氏に箱根・竹ノ下の戦い(静岡県駿東郡小山町)で撃破され、尾張国に敗走した後、京へ逃げ帰る。 
翌建武3年(1336)正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より上ってきた北畠顕家と連絡し、京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原(大阪府池田市・箕面市、豊島河原合戦)で破る。この功により同年2月、正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任。播磨守を兼任。さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の白旗城で篭城した赤松則村(円心)に阻まれて断念。 
尊氏は九州を平定し海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を空費する。楠木正成らと共同して戦った湊川の戦い(兵庫県神戸市)において義貞は和田岬に陣を構えて戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗し、西宮(兵庫県西宮市)で再起をはかるが京へ敗走する。 
北陸落ち  
新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町)湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、義貞の一族家臣堀口貞満が後醍醐に、「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、直前に阻止した。 
後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、折からの猛吹雪で凍死者を出したり足利方の執拗な攻撃に大迂回を余儀なくされたりしながらも越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。 
義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。金ヶ崎城は延元2年/建武4年(1337)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。 
同年夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年(1338)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。「太平記」においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。 
義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、「史記」の項羽の最期や「平家物語」の義仲の最期の記述にヒントを得た「太平記」作者の創作であると思われる(義仲の最期も「平家物語」作者の創作である可能性が高い)。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。年月日不明ながら、正二位を贈位。大納言の贈官を受ける。 
なお、江戸時代の明暦2年(1656)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。兜は国の重要文化財に指定されている。 
法名/源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位 
墓所/福井県坂井市・長林山称念寺  
同時代では、南朝を主導していた北畠親房との確執があったとも言われ、親房の「神皇正統記」では「上野国に源義貞と云ふ者あり。高氏が一族也」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている。また、「増鏡」には、「高氏の末の一族なる、新田小四郎義貞といふ者、今の高氏の子四つになりけるを大将軍にして、武蔵国よりいくさを起してけり」と書かれており、通称の小太郎を小四郎と、挙兵地の上野国を武蔵国と、それぞれ誤って述べられているばかりか、足利千寿王を鎌倉攻めの大将に立てたことにされてしまっている。 
これは、新田氏の祖である新田義重が源頼朝の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、幕府成立後には源義国の系統を束ねる棟梁としての地位が義重の弟足利義康の子足利義兼の系統に変移し、新田氏のみならず源氏の系譜を持った武士をその支配下に置くという慣例が定着したためであるという説がある。実際に新田一族の中でも足利氏を武家の棟梁と考える者もおり、新田一族でも本宗家から遠い山名氏などは、義貞が挙兵した際、足利千寿王(義詮)の指揮下に入ってその後も足利方についている。 
また、室町時代に成立した軍記物である「太平記」では、知略を巡らす智将として装飾的に描かれる楠木正成に対して、義貞には作者の共感が薄く、優柔不断で足利尊氏との棟梁争いに敗れる人物として描かれていると指摘される。その一例として、義貞が摂津豊島河原で尊氏を破り九州へ敗走させた後、勾当内侍との別れを惜しんで追撃を怠ったため、尊氏が勢力を盛り返し湊川で官軍を破って入京したという、義貞のだらしなさを強調する記述がある。 
その一方、「梅松論」には、箱根の戦いに負けた新田軍の兵士が天竜川にかかる橋を切り落とそうとした際、「橋を落としてもまた架けるのはたやすい。新田軍は橋を切り落とし慌てて逃げたと言われるのは末代までの恥となる」と言い、土地の者に橋の番を頼んで兵を引いた。その後追撃してきた足利軍の将兵がこの発言を聞き「弓矢取る家に生まれたものは誰でも義貞のようにありたいものだ」と賞賛したと言う記述がある。 
明治維新から戦前にかけては、皇国史観のもと、「逆賊」足利尊氏に対して後醍醐天皇に従った忠臣として楠木正成に次ぐ英傑として好意的に評価され、講談などで物語化された。戦後になると、一東国武将に過ぎなかった者が能力以上の大任を与えられた凡将との見方が現れ、戦略家としては凡庸であり愚将であると評価する意見もある。 
しかし、「太平記」の物語描写のみからの評価を疑問視し、尊氏との人望の差はそもそも先祖からの家格の差が大きいことや、短期間で鎌倉を陥落させ、圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破するなどの点から、武将としての資質を評価する意見もある。 また、群馬県の郷土かるたである上毛カルタでは「歴史に名高い新田義貞」で親しまれている。 
勾当内侍 
軍記物の「太平記」では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れを惜しみ時機を逸したとのエピソードが記されている。勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた一条経尹の娘をさす。年代などから実在は疑わしく架空の人物と考えられている。太平記では天皇の許しを得て義貞の妻となり、義貞は内侍との別れを惜しみ尊氏追討の機会を逃したと記されており、この事から義貞は皇国史観などでは南朝に殉じた武将として称えられる一方で、忠臣の楠木正成を死に追いやった張本人として厳しい評価もなされた。 
内侍は義貞の戦死を聞いて琵琶湖に投身した、あるいは京都または堅田(滋賀県大津市)で義貞の菩提を弔ったなどの伝説が残されており、墓所と伝えられるものも複数存在する。 
稲村ヶ崎の太刀 
鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が「太平記」などに見られ、文部省唱歌にも唄われた。 
なお、「太平記」では、この日を元弘3年5月21日としているが、1915年に小川清彦がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を計算したところ、同日は干潮でなく、実際には幕府軍が新田軍が稲村ヶ崎を渡れないと見て油断したところを義貞が海水を冒して稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。これに対して、1993年になって石井進が小川の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、「太平記」が日付を誤って記しているとする見解を発表している。 
 
群馬県太田市新田反町町896にある反町薬師(そりまちやくし・真言宗/瑠璃山妙光院照明寺)は、新田義貞の挙兵時の屋敷跡と伝えられ、「反町館跡」とも呼ばれる。館跡は「新田荘遺跡」の一部として2000年に国の史跡に指定されている。  
 
新田義貞2
鎌倉幕府を直接滅ぼし、一時は足利尊氏のライバルとして武家の棟梁の地位を争った新田義貞。群馬県の「上州かるた」では「歴史に名高い新田義貞」とうたわれ地元民の誇りである事が伺われる。しかし尊氏や後醍醐天皇の影に隠れる形になり存在感は一般的に薄い。戦前の皇国史観においては忠臣として顕彰されたものの楠木正成と比較して扱いは小さいものであった。戦後になると義貞の待遇は更に悪化し、時には暗愚の将としての評価すら見かける事もある。 
新田氏 
新田氏は上野国新田荘に拠点を持つ関東の御家人であり、源義国(義家の子)の長男・義重が新田荘の下司職となった事に始まる。因みに弟・義康は足利氏の祖となっている。 
治承4年(1180)源頼朝が挙兵した時点では平氏に服属しており、頼朝を討つためと称して領国に帰り兵を集めた。しかし頼朝と戦う訳でなく、臣従する訳でもなく中立的立場を保って日和見を決め込んでいた。 
そして北関東での頼朝の優位が確立した同年12月になって初めて鎌倉に参陣、その出処進退のため頼朝から叱責された。また、頼朝が義重の娘を側室にしようとした際、政子の怒りを恐れて応じず頼朝の怒りをかっている。そうした経過もあって義重は頼朝から冷遇される事となった。ただし、義重が死去した際には「源氏の遺老、武家の要須」であるとして将軍・頼家が蹴鞠を慎んだと言う話もあり一定の敬意は払われていたようだ。 
その後も新田氏の受けた待遇は恵まれていたとは言い難い。四代目の政義は京都大番役中に無許可で出家し所領没収されている。しばらくは分家の世良田頼氏が代わって新田一族を代表し出仕していたが、執権北条時宗とその兄・時輔の争いに巻き込まれ連座で処罰されている。その他の新田氏惣領に関しては明らかな事績が知られていない。先祖を同じくする足利氏が代々北条氏と縁戚関係を結び鎌倉政権下で有数の有力者となっていた事と比較すると雲泥の差といえる。 
そうした中で新田氏は地方豪族として新田荘・八幡荘を拠点として周辺に勢力を伸ばしていく。東北に額戸氏、東南に里見氏、西南に世良田氏と山名氏、南に岩松氏などの一族を配して現地支配を固めていき、越後にも一族は勢力を扶植していった。新田荘周辺は渡良瀬川による扇状地で、周辺の湧き水を水源とする農耕地帯であった。東には八王子丘陵があり、更に東には園田御厨がある。こうした地形は新田一族を素朴な騎馬戦士として鍛錬する事となった。 
北の鹿田天神山からは良質な凝灰岩が産出され、この地域における石材供給源として大きな利益を上げていた。また東山道が通っており、貢馬・石材の運搬路として、また軍用路として重要地点であった。新田一族の菩提寺である長楽寺がある世良田は門前町として周辺の商工業者を集めていた。また、家臣の長浜氏・由良氏は武蔵・上野国境地帯である武蔵国長浜郷に拠点を持っていた。その地域は鎌倉街道が甲斐・信濃方面と越後方面に分かれており、東を神流川・北を烏川が流れ軍事上の要地であると共に水上交通でも重要地点であった。 
そうした交通面での重要性から長浜郷では朝市が設けられていた。新田氏は一地方豪族ではあったが、商工業が台頭する中で収入源を確保し経済的にもそれなりに豊かであったと言えそうである。 
義貞は、第十代目・氏光の子として永仁元年(1298)から正安2年(1300)の間に誕生したと言われている。若い頃の事跡については殆ど知られていないが、文保2年(1318)に八木沼郷の田地を売却した事が文書から判明している。この当時の新田氏の経済的苦境を表しているとも言われるが、長楽寺再建のための臨時資金が目的であり必ずしも貧困とはいえないとする説もある。 
因みに長楽寺再建の際には新田一族のみならず周辺の御家人からの出資も受けている。新田荘に隣接する渕名荘は得宗領であり、義貞が得宗家臣・安東聖秀の姪を正室に迎えているのは得宗との関係が重要となっていた事を示唆している。 
時代情勢 
12世紀末の鎌倉幕府の成立以降は西を朝廷が、東を幕府が支配する形が出来上がっていた。そして承久の乱の後は幕府の優位が確立される。そして元寇を契機にして防衛のため西国・非御家人にも幕府は支配を及ぼすようになった。更にこの頃、皇室は後深草・亀山兄弟の嫡流争いを基に持明院統・大覚寺統に分裂し、幕府の調停を仰ぐ。そうした中で幕府の権限が強化され、国司の権限であった田文作成が守護の手に移り土地把握力が低下。 
一方で幕府は朝廷内の争いに巻込まれた上、西国の商業発展やそれに伴う「悪党」即ち武装した非農業民の台頭に悩まされる。それに対応するため幕府の首班である北条氏は一族の総領(得宗)の下で専制傾向を強化する。しかしこれは将軍体制化にある御家人達の反発を買うこととなり、更に朝廷や非農業民の不満も一身に負う様になった。時の得宗・北条高時の力量不足もあり政治混乱の兆しが見え始める。一方非農業民も日本を背負える程の実力はまだなく、一朝事あれば乱世に突入すると思わせる状態であった。 
そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行う中で鎌倉幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせ、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立を志向していた。元弘元年(1331)後醍醐は挙兵し笠置山に篭ったが幕府の大軍により陥落して捕らわれ、持明院統・量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵していた楠木正成は元弘3年(1333)幕府軍を翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。 
威信を傷つけられた幕府は大軍でこれを囲むが攻めあぐねた。これを受けて、かねてから幕府に不満を抱く豪族が各地で立ち上がる。彼等はこの頃盛んになった商業を背景とする新興豪族やかつて幕府に敵対し不遇に陥った地方豪族が中心であった。 
義貞起つ 
義貞は、幕府軍が楠木正成の篭る千早城を攻めた際にその「搦手衆」の一員として里見氏や山名氏と共に参加していた。その際、義貞は幕府軍の苦戦と威信低下を見て取り、実質的に討幕軍の総大将であった護良親王(後醍醐の子)を経由して綸旨を獲得したと「太平記」は伝える。戦いが持久戦となり国許の不安から帰国する者たちも現れる中、それに混じって決起する準備をし時期を待つため彼も新田荘に帰った。 
時を同じくして、鎌倉はかさむ戦費を調達するため関東各地から有徳銭の徴収を行っていた。義貞の下にも紀親連・黒沼入道が派遣される。新田領は長楽寺門前町の世良田を抱えており上野における経済の重要地であったため、戦費負担が期待されたのである。義貞は二人を捕え、黒沼を斬った。これは幕府への反逆行動を意味しており、これを切っ掛けにして倒幕派として挙兵するに至る。 
時は元弘3年(1333)5月8日生島明神で義貞は弟・脇屋義助をはじめ一族である大館宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・江田光義・桃井尚義ら150騎と共に決起した。神前での同志の誓いを表す一味神水を行い新田の家紋・大中黒(円の中に太く一文字)の旗を掲げ綸旨を拝した上で東山道を西に出て上野の中央部に進撃した。八幡荘に来たところで二千騎が合流。これは里見・鳥山・田中・大井田・羽川など越後在住の新田一族による軍勢で、「天狗山伏が触れ回ったため駆けつけた」と言われている。 
恐らくは挙兵に当たって修験者を密使として利用してかねて示し合わせていた一族と連携したものであろう。越後は修験道の本場であり、修験者は行動しやすい環境であったと思われる。更に、甲斐・信濃・越後から豪族が約五千騎を率いて加わった。最初に義貞が西に向かったのは彼らとの合流が目的だったのである。もう一つ、上野中央部の北条方に圧力をかける狙いもあったであろう。そうした目的を果たした上で、新田軍は鎌倉へ向けて南下を始める。 
 
鎌倉攻め 
新田の挙兵を受けた鎌倉方は迎撃体制を整えていた。11日金沢貞将が下総・下河辺荘方面に出陣し東関東を抑えると共に側面から新田の背後に回りこもうと図っている。新田軍の正面には桜田貞国・長崎高重らが入間川方面に進軍し迎え撃たんとしていた。5月11日小手指原(所沢市周辺)で両軍は遭遇し合戦となった。新田勢が以外に大軍である事に用心して北条方はす住まず守りを固め、新田軍は入間川を渡り攻勢に出る。 
戦闘を30回以上繰り返すものの決着はつかず双方痛み分けで一旦陣に引き上げた。翌12日夜明けと共に義貞は再び攻撃をかけ、北条方は軍勢を広げて迎え撃ち新田軍を包み込もうとする。一方で新田は固まって突破を図り激しい戦闘の末に新田軍が鎌倉方を打ち破った。 
同じ頃、世良田で足利高氏(後の尊氏)の嫡男・千寿王(後の義詮)が挙兵していた。同じ源氏でも義貞と違い幕府有数の有力者であった高氏は、畿内への援軍の将として出陣していた。しかし5月7日に後醍醐方に寝返り、京の幕府拠点であった六波羅探題を落とした。有力者ゆえの粛清への恐怖や天下への野心が足利氏挙兵の動機であったと言われる。これに先立って千寿王は家臣・紀政綱に伴われて鎌倉の屋敷を脱出、世良田に逃れて挙兵したのである。 
新田の重臣である船田氏に紀氏出身者がおり、その縁を頼ったものと思われる。千寿王が新田軍に合流したのが5月12日の事であった。名門・足利氏の嫡男が参加した事で馳せ参じる豪族も増加、軍勢は更に膨れ上がる結果になった。義貞と共に兵した岩松経家には事前に高氏から命令書が与えられており、一説では経家と義貞が同格の大将であったとさえ言われる。 
挙兵時期がほぼ同じであった事もあわせて足利・新田の連携が緊密であった事をうかがわせるが、同時に新田氏の勢威が足利氏の足元にも及ばない現実も明らかにしている。同時代の記録である「増鏡」「神皇正統記」は義貞を高氏の一門としか認識しておらず、千寿王を大将として義貞が代官を務めたと見る向きさえあったのだ。 
5月15日今度は北条泰家(得宗・高時の弟)率いる一万余騎の軍勢と分倍河原で衝突。北条軍はまず三千の射手を前面に立てて矢を激しく射掛けたため、新田軍は進めず立ち往生する。そこに北条方の騎馬戦士が攻撃をかけた。一方、義貞は精鋭を選抜して自らこれを率い敵中に突撃をかけるものの及ばず、一旦堀重に退却した。しかし勝利した北条方も少なからず損害を蒙っており追撃する余力はなかった。 
引き上げた義貞の下に三浦義勝が六千の軍勢と共に合流、再戦を進言した。義勝は足利氏の執事・高一族から養子に入っておりその縁で寝返ってきたものである。翌日、先陣を務めた三浦軍は敵への至近距離まで旗を立てず声も上げないで接近し北条軍に奇襲を仕掛けた。前日の激戦で疲労していた北条方は不意を疲れて混乱に陥り、そこへ義貞本軍が突入して泰家らを敗走させた。 
その後、義貞は味方の一手を下総の千葉氏・小山氏と合流させるため別働隊として派遣。17日には村岡合戦で北条方の反撃を受けるが大勢に影響は見られなかった。同日、下総方面に向かった金沢貞将の部隊が鶴見で敗北。時を同じくして畿内での六波羅探題滅亡の報が入り、鎌倉方は意気消沈すると共に新田・足利軍の士気は天を衝かんばかりとなった。 
軍の再編成を経て18日新田軍は軍勢を三方向から鎌倉攻撃に入る。大館宗氏・江田行義の率いる一万が極楽寺方面から、堀口貞満・大嶋守之の一万が巨福呂坂方面、義貞自らの数万が化粧坂方面から攻撃をかけた。一方、幕府方も極楽寺方面に大仏貞直の五千、巨福呂坂に赤橋守時の六千、化粧坂に金沢貞顕の三千を配置して市街地に後詰として一万を控えさせていた。鎌倉は三方を山・残りを海に囲まれ、通路は狭く切り立った要害である。 
幕府方は街道に逆茂木を備えて防御し、海には軍船を浮かべて守備を固めていた。同日に新田軍は各所に放火して攻撃を開始。巨福呂坂方面の赤橋守時が激戦の末に自害しまずこの方面が突破された。守時は執権(幕府執政)の地位に就いてはいたが実権はなく、妹が足利高氏の妻となっていたため寝返りの疑いを一門からかけられていた。そうした憤懣を込めての奮戦であり最期であったろうと思われる。 
一方、極楽寺方面では一旦新田軍が突入に成功するものの大仏勢に押し戻され指揮官の大館宗氏が討ち取られる事態になった。そこで義貞は21日自ら極楽寺方面に救援に向かった。その辺りの道は険しく、敵は木戸を構え逆茂木を作り防備を固めており、海からは水軍が矢を射掛ける構えを見せていた。「太平記」によれば義貞がこの時に黄金の太刀を海に投じて竜神に祈りを捧げ、それに応じて海が引いて大干潟ができ新田軍はそれに乗じて突破する事ができたと言う。 
尤も、恐らくは事前に干潮時刻を知って突破したと思われる。守る鎌倉方も干潮については知っていたであろうが、予想を超えた大干潟ができたとも言われている。或いは、味方の士気を高めるために干潮時刻にあわせて義貞がパフォーマンスを行った可能性はある。 
こうして新田軍は鎌倉市街に乱入、高時ら幕府首脳・北条一門は東勝寺に逃れて防戦した。大仏貞直は最後まで持ち場を守り討ち死に。金沢貞将もその奮戦を高時に称えられ餞に六波羅探題職(既に六波羅探題はなく今や幕府自体が滅亡に瀕しており実体はない)に任じられ、それを冥土の土産として敵中に乱入し最期を遂げた。22日激戦の末に高時ら北条一門283人は自害を遂げた。源頼朝による政権樹立以来、約130年の歴史を誇った鎌倉政権はこうして滅亡したのである。 
 
建武政権の下で 
鎌倉を占拠した後、足利と新田の間で主導権争いが起こった。参加した豪族たちはどちらの陣営につくべきかを見定めていたようで、中には双方に着到状を提出した者もいた。義貞は勝長寿院を本陣として北条の残党狩りを行い、足利方は二階堂に陣を設けていた。京で治安維持に当たっていた高氏は配下の細川和氏・頼春・師氏を鎌倉に派遣し千寿王を補佐させ義貞に対抗させている。 
結局は家柄で勝る足利に参陣する者が多数となり、義貞は不利を悟り対立を避けて6月に上洛した。もっとも、無位無官の一御家人に過ぎなかった義貞に馳せ参じる者が決して少なくなかった事は倒幕戦で義貞が指揮官として卓越した力量を見せた証であろう。 
さて、京では後醍醐天皇が律令的古代帝国・中世王朝的官職一家相伝・幕府政治のいずれでもない、新しい政治体制を構想していた。中央では経済・警察などの主要官職に近臣を就けて天皇に全権力が直結する様に図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。また、各国の寺社の支配再編にも意欲的であった。天皇が目指したのは商工業の力を利用した天皇専制による中央集権体制だったのである。勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとした。 
義貞は、その戦功を認められ従四位上の位を与えられ上野・播磨・越後国司に任じられた。また、長男・義顕は従五位上で越後国司、義助は駿河国司に任じられたと言われる。更に、新たに設けられた皇居警備を担う武者所において新田一門は主要な位置を占めた。五番編制のうち、一番に義顕・一井貞政、二番に堀口貞義、三番に江田行義、五番に脇屋義治(義助の子)が名を連ねている。足利尊氏(高氏から改名)が功績一番として篤く賞されてはいたが、危険分子として警戒されてもいた。そうした中で、屈強な東国武者を抱える新田一族は朝廷がそれに対抗するための武力として期待されていたのである。 
義貞は後醍醐天皇による建武政権下で、上野・越後において在地豪族の所領安堵や判決執行に従事し支配を固めようとした。越前には一族の堀口貞義を派遣し同様に勢力扶植に励んだのである。 
尊氏との対立 
建武政権は早い段階から、その強引な政策や恩賞への不満から強い反発を生んだ。中でも、恩賞の問題は深刻で全国の豪族全てが満足するような処理は困難であった。しかも実務処理・裁判における混乱や経済基盤に不安を抱えていた天皇が側近・寵妃の名義で自身に土地を集中させた事も人々の不満に拍車をかけた。しかも、朝廷にはそれを押さえつけられるだけの軍事・社会的実力を備えてはいなかったのである。京の風俗・政権の現状を皮肉った「二条河原の落書」が出現したのもこの頃である。 
こうした中で足利尊氏と護良親王が豪族たちの指導者の地位を争って対立していた。尊氏は源氏の棟梁として再び武家による政権樹立を目論んでいたし、護良はそれを危険視して自身の下に豪族たちをまとめようと考えていた。後醍醐天皇は双方を警戒していたようであるが、護良を密かに支援して勢力で勝る尊氏を討たせようとした。楠木正成や義貞もこの謀議には一枚噛んでいたようである。 
しかし双方の勢力差は大きく、天皇は尊氏方による讒言もあって護良を切り捨て足利直義(尊氏の弟)がいる鎌倉に流罪とした。こうして尊氏は自らの対抗馬をまず一人葬り去ったのである。 
建武2年(1335)7月信濃で高時の子・時行が挙兵し鎌倉に攻め寄せた。直義率いる足利軍が鎌倉を防御するも敗れ、北条氏残党が鎌倉を奪回する。それを受けて尊氏は直義救出のため無断で出陣し時行を打ち破って鎌倉に入った。そして尊氏は独断専行で論功行賞を行う。義貞の勢力圏である上野守護にも上杉憲房が任じられている。事実上の朝廷への反逆である。 
10月に入ると、尊氏から朝廷に義貞を弾劾し討伐を申し入れる旨が奏上された。曰く、@義貞は幕府の使者を斬った罪を免れるため尊氏の挙兵に乗じて蜂起したに過ぎないA義貞が苦戦する中で千寿王が参加し大軍となることで勝利できたB尊氏が北条討伐の苦心をしているときに策を巡らし讒言を横行させている、放置すれば大逆の災いとなるであろう、と。 
これに対し、義貞はすぐに反論し尊氏を非難している。@尊氏は日和見で、名越高家の討死を機に寝返ったに過ぎないA義貞挙兵は5月8日で尊氏は7日であり、京と関東の距離から言っても義貞が尊氏の挙兵を聞いて起った訳でないのは明らかB京占領後に京を専断し護良の従者を斬ったC鎌倉で将軍に奉じた成良親王を蔑ろにして専横D関東で乱鎮圧後の勅裁を用いていないE倒幕の功臣である護良親王を陥れて殺害した、という内容である。 
嘗て関東で見られた足利と新田の対立が再び表面化した。どちらの言い分を採用するかで朝廷の論議はしばらく揺れたが、結局は尊氏を討伐する方針で評議は決した。直接的には、護良の死に立ち会った女官の証言や直義名義での西国方面への義貞討幕軍督促状が決定打となったとされる。実際には、関東で自立の動きを見せ始めた最大実力者・尊氏に対し妥協するか対決するかが問題となり後者が採られたという事であろう。後醍醐の政治方針から言えば当然である。これを認めては何のために鎌倉政権を打倒したか分からない。 
11月8日義貞は朝廷から節度使に任じられ錦旗・節刀を賜った。ここに朝廷軍総司令官として尊氏を討伐する責任を負う事となったのである。護良親王亡き後となっては、尊氏への対抗馬を勤められる武将は家柄・実績から判断して、足利と並ぶ源氏の嫡流で鎌倉討伐の英雄である義貞しかいないと判断されたのであろう。 
また、朝廷としては尊氏や護良と比較して家柄・社会的実力に劣る義貞なら朝廷の威信を必要とするため操縦しやすいと踏んだとも考えられる。ともあれ、義貞はここで尊氏と対抗する存在として公式に認められた。朝廷軍は二手に分けられ、東山道を大智院宮・洞院実世らを奉じて江田行義・大館氏義が率いる一万の軍勢が、東海道を義貞自らが率い義助・義治や堀口貞満・綿打・里見・桃井・鳥山・細谷ら新田一族に加えて千葉貞胤・宇都宮公綱や大友・大内といった有力豪族も加わった数万の軍勢が東下した。 
 
箱根・竹ノ下の戦い 
足利氏による政権樹立のために動き出し、当面のライバルとなる義貞との対立に踏み出した尊氏であったが、天皇を向こうに回して戦うことには消極的であった。尊氏は当初は出陣せず、寺に篭り出家して朝廷への恭順を示そうとした。自立への動きを見せた後としては余りに覚悟の足りない態度といわざるを得ない。そこで足利方は直義が上杉憲房・細川和氏・佐々木導誉らを主力に吉良・石塔・桃井・上杉・細川ら一族のほかに武蔵七党・土岐・小山ら有力豪族による軍勢を率いて出撃し三河矢作川に陣を布いた。 
11月25日義貞は矢作川西岸に到達。自陣側に馬を駆けさせられる間隔を空けた上で、砂州に射手を出し矢を射掛けて足利軍を挑発した。それを受けて吉良満義・土岐頼遠・佐々木導誉ら六千が渡河し新田軍左翼を攻撃。堀口・桃井・山名の五千がこれを迎え撃つ。高師直ら一万強は新田軍右翼に攻め寄せ、大嶋・糠田・岩松ら七千が迎撃した。両翼とも防戦する新田軍が優勢に戦いを進め、中央では仁木・細川ら一万が義貞の本隊七千に攻撃をかける。義貞は盾を隙間なく並べ密集して敵騎兵を受け止める。戦闘で敵に疲労から来る間隙が生じた一瞬を見て義貞は突撃を命令し、足利軍は崩れ立った。 
敗れた足利勢は鷺坂に撤退するが、今度は宇都宮・仁科ら先の合戦に加わらなかった三千の新手が奇襲をかけたため更に手越河原まで敗走し直義直属の部隊と合流した。12月2日義貞は手越河原に進出し、両軍はそれぞれ数万ずつの軍勢で日中に正面から戦闘、夜になり引き上げて休息を取った。夜が更けた後、義貞は弓の名手を選抜して藪の影を伝い敵陣の後方に回らせ矢を射掛けさせた。 
不意を突かれた足利軍は、これまでの敗軍で士気が下がっていた事と昼間の疲れもあり潰走状態となり伊豆国府まで撤退した。足利軍から新田軍への投降が相次ぎ、新田軍は一気に膨れ上がる。義貞は、これらの軍を再編成する必要に迫られた事や箱根の要害を前にした事から進撃速度を鈍らせざるを得なかった。一説では奥州の北畠顕家が南下するのを待ち挟撃する意図が在ったとも言われるが真相は不明である。 
一方で直義は箱根に六千の軍勢で立て篭もり兄・尊氏の出陣を激しく促す。尊氏は、足利家の存在そのものが危機に瀕している事を認識し出陣。小山氏ら鎌倉に後詰として残っていた二千を先陣としたが尊氏出馬を聞き約一万の軍勢が集まった。11日朝、尊氏は箱根山を越え足柄明神の南・竹ノ下に出て、尊良親王を奉じる脇屋義助軍七千に奇襲を掛けた。義助らは驚き潰走、箱根では義貞が直義と対峙し優勢に戦いを進めていたが敗報を聞き挟撃を恐れて撤退。翌日、新田軍は佐野山で陣を立て直し勢い付いた足利軍と激戦を演じるが大友貞載の寝返りで敗北、13日伊豆国府も失った。 
義貞は敵陣を突破し敗軍をまとめながら東海道を下る。天竜川では船橋を掛けて西に逃れるが、渡る際に混乱が生じ橋桁が落ちるなど難儀をしている。全軍が渡り終えた後に部将が橋を落そうとしたが、義貞は「敗軍の我等でさえ掛けられた橋を勢いに乗った敵がまた架けるのに造作はない。橋を落とした所で我等が慌てて逃げたと笑い者になるだけで意味が無い。」と述べて橋を残させたと「梅松論」は伝える。追撃してきた足利軍はこの有様を知り、涙を流し感嘆して「疑いなき名将」と義貞を称えたと言う。 
面子に拘り橋を落とさなかった事で足利軍の進撃速度を速めたと義貞が非難されることも多いが、これには義貞としても事情があった。義貞は、元来は無位無官の地方豪族に過ぎない。つまり、今回従軍した有力豪族たちは数年前までは義貞と同格かそれ以上の家格だったのである。また、新田一族内部でさえ惣領・義貞に対抗する動きがあったのである。そうした連中を統率するためには威信を見せ続ける必要がある。 
なりふり構わず周章する様子を見せようものなら、忽ちに彼らは義貞を見限り軍が崩壊する事は想像に難くない。義貞としては弱みを見せるわけには行かず余裕があるところを常に示す必要があったのである。前述の稲村ヶ崎での逸話をはじめとして、義貞に派手なパフォーマンスが目立つのはそうした理由がある。 
京都攻防戦 
義貞の敗北が影響してか、高松の細川定禅・備前の佐々木信胤らを始めとして各地の不平分子が反乱した。そして、勢いに乗る足利方は一気に上京しようとしていた。その中で叡山の僧兵たちが近江伊岐代館に篭り京都防衛のための時間稼ぎを図る。しかし12月10日高師直軍により一日で落城した。 
朝廷側は、京都防衛のため軍勢を展開して防衛線を布いた。瀬田を名和長年・千種忠顕・結城親光らの三千が守り川に大木を流し乱杭を打って防衛体制を築いた。宇治には楠木正成の五千が橋板を外し中州に大石を積み逆茂木を組む。山崎には義助が洞院公泰・文観・宇都宮氏・大友氏らの七千を率いて堀・塀を作り櫓を建設していた。そして義貞は、大渡に里美・鳥山・山名ら一族を中心とする一万の軍勢を率いて布陣した。橋板を落とし、盾を並べて櫓を構え、馬が通れそうなところに逆茂木を作って足利軍を待ち受けた。 
年が明けて足利軍が上京、尊氏は宇治を避けて八幡に布陣し直義は瀬田、畠山高国は山崎に進出した。また、西からは細川定禅・赤松円心ら二万余が上洛して参加していた。義貞の率いる本隊では、筏を組み渡河を図る足利軍が乱杭にかかり進めないところを見計らい矢を射掛けたり、足利方の数人が奮戦して板の外された橋を渡り後続が続いた際に仕掛けを発動させて橋桁を落として敵を川に呑ませたりと善戦していた。1月10日細川・赤松軍が山崎に突入。 
義助は奮戦し支えようとするが元来が寄せ集め部隊である上に兵数で劣るため限界がありついに突破される。義貞はこれを見て守備を放棄し足利軍の追撃を受けつつも京に引き上げた。劣勢の兵力で京都守備をする事にそもそも限界があったといえる。 
この日、後醍醐天皇は京を逃れ比叡山に避難した。一方、長らく比叡山と敵対関係にある園城寺は対抗して入京した足利方につく。1月16日奥州から駆けつけた北畠顕家の五千が坂本に到着。義貞はこれと合同してすぐに園城寺に攻撃をかけた。顕家の二千、義貞の三千、義助の千五百が合同して出撃し数千の足利方に攻撃をかける。北畠軍は数に勝る敵軍を相手に苦戦したが、義貞はこれに加勢して追いたて更に細川定禅軍六千にかかった。蹴散らされた足利方は園城寺に逃げ込み門を閉ざすが新田軍はこれを突破し園城寺を炎上させた。 
義貞は更に洛中の足利本軍に迫り、配下の軍勢二万を将軍塚から真如堂・法勝寺を経て二条河原まで展開させた。この際、兵力に劣っていたため山を背にして布陣し兵数が敵に読まれないよう気を配ったという。一方で足利軍は、尊氏・直義が二条河原に本陣を置き、数万の兵を糺の森から七条河原にかけて布陣。前哨戦として高師泰が将軍塚に攻め上ったところ、義助の率いる数千は射手に盾の後ろから矢を浴びせさせ敵が崩れたところに突撃して撃退している。 
1月16日両軍が衝突し乱戦となるが、足利方は統制に苦しみ新田軍を圧倒できない。そこへ足利軍に潜んでいた新田兵が突然に新田の旗を敵の真ん中で掲げて鬨の声を挙げて撹乱したため足利方が同士討ちに陥る一幕もあったものの、側近・船田義昌を失うなど新田軍の被害も大きく義貞は京奪回を果たせず一旦引き上げた。 
更に1月27日楠木正成・名和長年・結城宗広らが三千で一乗寺下松へ、北畠顕家五千が山科へ、洞院実世が赤山禅院へ、叡山僧兵数千が鹿ケ谷へ、そして義貞の二万が北白川へと布陣し足利軍に総攻撃をかけた。再び激戦となり上杉憲房らを失った足利方が京を一旦放棄し新田軍が京に入るが、今度は細川定禅が少数の兵で新田軍に夜襲をかけ京を奪回している。翌日には糺の森から楠木軍三千が進軍し、盾を繋いで進み騎兵を防ぎながら上杉勢を翻弄した。 
一方で北畠軍五千は粟田口から四条・五条に侵入するが尊氏自らが数万の兵で迎撃し苦戦を強いられた。そこへ義貞の率いる二万が到着して突撃をかけ足利軍を撃退し京から再び追い散らしたが新田軍も大きな損害を受けて引き上げた。この時、義貞・正成が討ち取られたとの噂が足利軍に流れており、「太平記」によれば足利軍を油断させるための正成の謀であったという。この夜、大原・鞍馬に向けて数千の松明が移動するのを見た足利軍は、朝廷方が逃亡すると思い込み追撃のため軍勢を派遣し洛中は手薄となった。 
翌30日早朝、朝廷軍は二条河原に進出して足利軍本隊を奇襲。潰走した足利方は京を逃れ摂津に向かった。2月10日西宮で楠木軍が足利軍を捕捉し戦闘となるが勝敗はつかなかった。翌11日朝廷軍は豊島河原で足利方を攻撃。北畠軍は多数の足利方を撃破できず苦戦するが、義貞の数千がこれに加勢し激戦となる。更に正成が神崎に迂回したため足利軍は挟撃を恐れて撤退した。足利軍が軍の再編成を試みるため西国に逃れるのは翌日12日の事であった。
 
白旗城での苦戦 
2月初頭には後醍醐天皇は比叡山から帰京し花山院を皇居とした。尊氏を追い落とした功績を認められ義貞は左近衛中将、義助は右衛門佐に任じられる。無位無官の地方豪族に過ぎなかった義貞の絶頂であった。2月25日兵乱が続く世を憂いて「延元」と改元された。 
一方、京を追い落とされた尊氏は瀬戸内地域における水陸交通の要地に一族・腹心を置いて現地有力者と共に足場を固めさせ西国を支配下に置こうとしていた。 
四国に細川和氏・頼春・師氏・顕氏・定禅、播磨に赤松円心、備前三石に石橋和義・松田盛朝、備中鞆尾に今川俊氏・政氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防に大嶋義政・大内弘世、長門に斯波高経・厚東武実という配置である。全国的に朝廷への不満が高まっているのを背景に、尊氏は現地豪族の支持を集め背後を固めながら九州へ海路で逃れたのである。 
これに対する義貞ら朝廷軍の対応は迅速とはいえなかった。朝廷は新たに降伏してきた者を組み入れて軍の再編成を行ったり、凶作を背景として難航する兵糧集めをしたり、東国を中心に調略を行ったり、奥州失陥を防ぐため北畠顕家らを再度派遣する事に力を注いでおり寧ろ足元を固める事に精一杯であった。尊氏を追撃できず、その勢力挽回と反攻を手を拱いて見るしかない状況に焦燥を感じる朝廷方の武将は少なくなかったであろう。 
天下の人心は尊氏に傾いているため新田を切り捨ててでも尊氏と講和するべきだと楠木正成が献策したと「梅松論」が伝えているが、事実かは兎も角としてそうした風説がこの時期にあったのであろう。「太平記」によれば義貞は朝廷から賜った美女・勾当内侍への愛に溺れていたと言われるが、事実ならこうした情勢への焦りを紛らわせていたのかも知れぬ。朝廷の追撃が遅れたのを義貞の無能に帰する向きが多いが、そもそも義貞は天皇の管轄下で軍を動かす朝廷軍指揮官に過ぎず政略・国家戦略に関してはどの程度権限があったであろうか。 
義貞個人よりも朝廷の事情によるところが大きかったと思われる(更に言えば行動の遅延により追撃の好機を逃したという記述は足利方にもしばしば見られ、個人能力より軍再編成などの事情による事を裏付けている)。 
もっとも、義貞もこの時期に病に倒れており自身の出陣は叶わぬ状態ではあった。江田行義・大館氏明に三千の兵を与えて先行させた後、義貞が出馬したのは3月である。播磨白旗城に篭る赤松円心に対し、まずは播磨守護職を条件として帰順させようと図るが不調に終わり敵に時間稼ぎを許す結果となった。交渉決裂の後、城を包囲し攻城戦を展開するも攻めあぐね時間を重ねる。 
播磨は農業生産力が高いのみならず交通の要所であり、西国を攻めるには手中にする事は必須条件であった。義貞としては権限を与えられた土地でもあり、兵糧や背後の安全を確保するためのみならず自らの威信を保つためにも播磨を平定する必要があったのである。 
しかしながら、城塞を攻略するのは容易ではないのが通例である。白旗城攻撃に難航する事で威信低下を招くのみならず、反攻してきた尊氏を食い止める事が難しくなる。そこで主力を白旗城に置く一方で別働隊を編成して中国攻略を行った。まず江田行義率いる二千の軍勢を美作へ派遣し奈義能勢・菩提寺の城を攻略。更に大井田氏経や菊池・宇都宮ら五千に備中福山を落とさせた。義助は備前に向かった。精鋭を選抜して地元民の案内で間道を通じて三石の西から奇襲させ敵に打撃を与えてから三石城を包囲攻撃している。 
一方、尊氏は3月2日多々良浜で菊池氏を破り九州を平定、4月初旬には赤松からの援軍督促もあり水陸両路から西上を開始。水軍・陸軍ともそれぞれ数万に上る大軍であったと言われ、福山城を守る江田行義は5月18日足利軍来襲の際には篭城準備を整える暇がなく城を放棄して撤退した。 
また、三石を包囲していた義助も兵庫へ撤退した。義貞は全軍を兵庫に集結させここで足利軍を迎え撃つ事とした。義貞自身は味方が無事到着したのを確認して最後に渡河し兵庫に至っている。その上で、朝廷に急を告げて援軍を要請。元来が関東の地方豪族であった義貞は、西国においてその勢力・人的結合を有していなかったしそれを築き上げる時間もなかった。それが中国遠征の失敗に繋がったのである。 
 
湊川の戦い 
兵庫は、古来より畿内への入り口として重要な港であった。12世紀後半の源平争乱においても一時期は都を置くなど平氏が重要拠点として重視しており、上京を図る平氏を源範頼・義経が撃退した一ノ谷の戦いもこの地で行われている。義貞がこの地を決戦の場として選んだのはそうした背景があった。 
義貞から急報を受けた朝廷は、正成を召して戦略を問う。正成はこの時、義貞を召し返した上で比叡山に避難して尊氏を京に招きいれ、河内で自分が後方の補給を撹乱して義貞と共に尊氏を包囲・挟撃する作戦を具申した。しかし年二度にわたる天皇の避難が更なる威信低下・人心離反を招く事を恐れた朝廷はこれを受け入れず、兵庫での決戦を命じた。正成は状況に絶望し討ち死にを覚悟したといわれる。 
正成が兵庫に到着し義貞と対面したのが5月24日。義貞はこの時、正成の策の正しさを認めると共にこれまでの不首尾を自嘲し、この戦いでは勝敗を度外視して命運をかけると述懐。これに対し正成は、世間の勝手な言い草を気に留めないよう説くと共にこれまでの義貞の功績を称えて慰め、これまでの義貞の動向が理に適っていると励ましている。 
5月25日朝、細川定禅の四国水軍五百艘が湊川と兵庫島を左に見て神戸方面へ進撃。錦の旗・天照大神八幡大菩薩の旗を掲げた尊氏の御座船・数千艘の軍船が続く。水軍で二,三万に及んだと言う。陸上では中央から直義・高師泰が率いる播磨・美作・備前の兵、山手から斯波高経の安芸・周防・長門の兵、浜手から少弐頼尚率いる筑前・豊前・肥前・山鹿・麻生・薩摩の兵が進軍。陸軍は二万ほどと考えられる。 
一方、兵力に劣る朝廷側は水陸両面から迫る足利軍に対し各個撃破によって勝利の可能性を見出そうとした。兵庫港の船舶停泊地である経ヶ島に脇屋義助千五百、灯篭堂南の浜に大館氏明九百を配置して尊氏や細川定禅率いる水軍の上陸を阻止しようとする。一方で正成・正季二千が会下山一帯から夢野付近に布陣し直義軍に当たる。兵庫は平地が狭く幅の広い川も多い湿地帯で大軍の移動に適さず、この地の利を生かして直義軍を撃破する方針であった。 
楠木軍は軽装の歩兵を中心とし四天王寺や洛中での野戦でも実績を上げた部隊でありこの戦闘でも臨機応変な戦いぶりが期待されていた。そして足利陸軍を退けた後に全軍を挙げて水軍を撃つ作戦であったろう。和田岬に総大将新田義貞が最精鋭部隊を率いて陸・水両方面に睨みを利かしどちらの戦況にも対応できるよう陣取っていた。その数は七千五百程。正成や義貞は絶望的な思いを抱きもしたであろうし討死の覚悟もしたであろう。しかし飽くまでも最後まで勝利の可能性を模索もしていたのである。 
足利の陸軍は山手軍が鹿松峠から大日峠を超え、大手軍は上野山から会下山に通じる道を進み、浜手軍は水軍と連絡しながら海岸沿いに進み楠木勢に迫った。一方で水軍も戦端を開いていた。開戦に先立ち新田軍の本間重氏が鶚を足利の船に射落とし、更に射手を知ろうとした足利軍に自分の名を刻んだ矢を射た。足利方の返し矢が陸に届かず敵味方の嘲笑を浴びた為、憤慨した細川勢二百人が経ヶ島から強行上陸して殲滅される。 
その後に尊氏の御座船から戦鼓が鳴り響き、水軍・陸軍もそれに合わせ鬨を上げた。細川の水軍は船舶停泊所である経ヶ島でなく紺辺から上陸、新田の後方撹乱を図る。新田本隊は、水軍の上陸を阻止して陸軍を撃破する計画が頓挫するのみならず退路を絶たれる体制となったためそれを防ぐため陣を引払い細川勢を追う。そして細川勢と戦闘を開始したが、その間に経ヶ島に尊氏本隊が上陸し新田軍と楠木軍は分断された。 
「太平記」によれば、義貞は包囲の突破と楠木勢救出を目論んでか一旦兵庫に引き返し尊氏本隊と戦闘に入るが、兵力差は如何ともし難く劣勢に陥る。足利軍は義貞に矢の雨を降らせて討ち取ろうとするが、義貞は「鬼丸」「鬼切」の太刀を両手に持ち矢を切り払って防いだ。そこへ小山田高家が来援し身代わりとなってようやく義貞を逃れさせた。義貞は敗軍をまとめ細川定禅の軍勢を突破するのが精一杯の状態に陥り、楠木勢救出どころではなくなっていた。 
敵軍の包囲に残された正成らは一時は直義を追い詰めるという激烈な戦闘の末に自害。一説には義貞は正成を見下してこの際も見捨てて退いたと言われるが元弘以来正成が廷臣の信任を一身に受けてきた事を考えるとこれは穿ち過ぎであろう。 
こうして、朝廷は足利軍を食い止める力を失い足利軍は一気に上洛へと弾みをつけた。大きな犠牲を払い大敗を喫した義貞に残された道は、可能な限り戦力を残して他日の反攻に備える事のみであった。義貞は京へと撤退し天皇と合流する。 
北陸へ 
湊川での大敗を受け、衝撃を受けた朝廷は27日義貞らに守護されて比叡山へと再び避難する。それを追うようにして足利勢が入京したのが30日。朝廷軍は比叡山に篭城して北陸や奥州からの援軍を再び待つ方針であった。直義の指揮する足利軍は京から攻め入る大手軍と東坂本方面からの搦手軍に分かれ比叡山へ進攻。6月5日の戦いでは雲母坂で千草忠顕が戦死するなど朝廷軍は大きな損害を受ける。 
しかし足利軍も険阻な叡山を攻め倦んでおり、義助は城砦に数千の兵で立て篭もり、琵琶湖上に停泊する水軍の助けもあって高師重の度重なる攻撃を撃退していた。6月20日逆に師重が新田軍の奇襲を受けて討死する事態となる。直義は叡山攻撃から撤退し、戦場は洛中に移った。 
6月30日早朝、義貞は内野で細川勢に攻勢をかけて撃退し、大宮猪熊から東寺の尊氏本陣まで攻め寄せて門の扉に矢を射込み尊氏に一騎打ちを申し込んで挑発した。結局は果たせず多勢に無勢で包囲されぬうちに徹底を余儀なくされている。兵力に劣る新田軍としては、中央突破して敵の中枢を破るほかに道はなかったのである。この時に猪熊方面に進軍した名和長年が討死、楠木正成・結城親光・千草忠顕らに続き「三木一草」(建武政権での後醍醐の寵臣)は全滅した。 
その後も京に出撃を繰り返したが戦況を打開する事はできなかった。兵力で勝る足利方が次第に優位を確立し、9月に入ると小笠原氏・佐々木導誉が近江を制圧し叡山への糧道を断った。叡山僧兵達が尾張・美濃方面への通路を切り開こうとしたが果たせず、後醍醐軍は兵糧攻めに合うこととなる。 
11月尊氏と後醍醐の間で和平交渉が持たれた。条件は持明院統・光明天皇(8月に尊氏により擁立された)への譲位、皇太子は成良親王(後醍醐の皇子)とする、皇位は両統迭立で継承と言うものであったと思われる。これ以上戦いを継続するとジリ貧に追い込まれ全てを失う事が目に見えていた中、後醍醐にとって悪い条件ではなかった。天皇は独断で和睦を決定、これまで朝廷軍の総大将として働いてきた義貞を切り捨てる事にしたようである。 
足利と妥協して最悪でも子孫の皇位継承資格を確保し、状況によっては再起を図るにせよまずは叡山に閉じ込められた現状を打開する必要があると判断したのであろう。この時期になると朝廷軍の士気低下は相当広がっていたようで、江田行義・大館氏明といった新田一族の中からでさえ義貞を捨てて天皇に従う者が現れていた。 
一方、義貞は和睦については全く聞かされていなかった。洞院実世から聞かされても本当にはせず取り合わなかったといわれる。しかし堀口貞満が天皇の下に押しかけて激しく詰問し、これまでの新田氏の忠誠を挙げそれを見捨てる天皇の無情・無節操を非難した。次いで義貞が三千人を連れて天皇の下に参上しこれを取り囲んだ。この際の義貞は怒りの色に満ちてはいたものの尚も礼節を欠く事はなかったという。 
義貞とその家臣たちに取り囲まれた後醍醐は、この度の和睦は時節を待つための方便であり知らせなかったのは外に漏れるのを恐れたからだと陳弁。この時に義貞は和睦を認め自らは越前に落ち延びる代わり、朝敵の汚名を受けないよう皇太子恒良親王と尊良親王を擁立する事を妥協案として願い出ている。「太平記」によればこの時に後醍醐は恒良に三種の神器を譲渡し譲位したと伝えられる。 
こうして後醍醐天皇は下山して足利方に身を委ね、義貞らは一族や洞院実世・千葉貞胤・宇都宮泰藤らを伴い越前へ向かった。出発に先立ち、義貞は日吉山王社に参詣し太刀「鬼切」を奉納している。船で塩津・海津に上陸、斯波高経の軍勢が街道を遮断していたため東近江の峠を越える事とした。まだ冬には早かったが特に寒冷であり、吹雪に遭遇した新田軍はこの峠越えで多くの凍死者を出した。 
千葉貞胤は脱落して足利方に降伏、多くの者が討たれる。木曾杉の年輪からは、この年が特に寒冷であったことが分かると言う。11月13日多くの犠牲を払いながらも義貞らは敦賀に到着し気比大宮司の迎えを受けて金ヶ崎城に入った。 
 
金ヶ崎篭城戦 
金ヶ崎は、天筒山脈が海に向かって延びた岬に建設された要害である。そこに拠点を置いた義貞は、叡山で皇位を譲り受けた恒良の綸旨を発布して周囲の豪族を味方につけようとした。また、長男・義顕に二千の兵を与えて越後に赴かせるとともに義助に千の兵を与え現地豪族・瓜生保が守る杣山城へ向かわせて勢力拡大を図る。 
義貞としては天筒山に本城を置き金ヶ崎は詰の城としたかったところであったが、そうして守りきれるだけの兵力がなかった。義助・義顕を派遣したのは現地豪族や越後にいる一族の力でそれを補おうとしたためである。そして、海上交通を利用して越後などと連絡を取る方針であったろう。 
間もなく、越前守護・斯波高経が現地豪族の兵を動員して金ヶ崎城を包囲したため義助・義顕はすぐに救援のためとって返した。この際、義顕が旗を多く立てて援軍が来たと呼びかけ足利方の動揺を誘いそれに合わせて城から義貞が打って出たため足利軍は混乱し同士討ちに陥った。こうして一旦は足利軍を撃退する事に成功する。 
これで新田軍は意気上がり、瓜生氏が脇屋義治(義助の子)を擁立して挙兵し新善光寺を陥落させる。また、平泉寺も新田方に心を寄せるようになった。この時期は、金ヶ崎で舟遊びをして恒良らを慰める一幕もあり比較的余裕が認められていた。 
しかし、越前での敗戦を知った尊氏は延元2年(1337)1月高師泰を大将とした数万の軍勢を派遣。再び包囲された金ヶ崎を救援するため瓜生保らが出撃するが今川軍に迎撃され保は討死した。金ヶ崎では厳冬の最中であり兵糧の蓄えができておらず、やがて食糧難に陥り軍馬を殺してその肉を食い、更には死者の肉で生き延びる凄惨な状況に陥った。義貞は2月5日杣山へ脱出し援軍を編成するも、3月6日金ヶ崎は落城、恒良親王は捕えられ尊良親王・義顕は自刃した。こうして義貞の北陸経略は一旦頓挫したのである。 
なお、目を京に移せば、尊氏と和睦した後醍醐は光明天皇に神器を譲渡し上皇とされて幽閉されていたが、延元元年(1336)11月21日脱出し吉野へ逃れて自分が正統な天皇である事を宣言した。これ以降、尊氏が擁立する持明院統の京都朝廷を北朝、後醍醐天皇とその子孫による朝廷を南朝と呼ぶ。それにしても、結果としては後醍醐は尊氏のみならず義貞・恒良をも欺いてみせたことになる。 
ところで、この時期に義貞が恒良を天皇とする北陸朝廷を擁立していたという説が唱えられている。現在となっては証拠は明らかでないが、南朝興国7年(北朝貞和2年、1346)に越前で「白鹿」元号を用いた南朝方と思われる文書が見られている事は「北陸朝廷」の名残である可能性を思わせ興味深い。 
義貞の反撃 
一旦は北陸経略が挫折した義貞であるが、杣山城で軍を再編成して徐々に巻き返しを行っていく。まずは畑時能に越前・加賀国境に細呂木城を築かせた上で、加賀の豪族である山峯氏・上木氏らを調略して大聖寺城を手に入れ加賀を勢力化に置く事に成功している。また平泉寺も新田軍に再び誼を通じるようになった。 
義貞の勢力が再び拡大するのを見た斯波高経はこれを討伐しようとするが、逆に延元3年(1338)2月に義貞が三千の兵で越前国府に攻め入った。高経は出撃してこれを迎え撃ち激戦となるが、その間に平泉寺僧兵や杣山の軍勢が背後に回りこみ火を放ったためこれを見た斯波軍は潰走。 
高経は国府のみならず新善光寺城をも捨てて逃れた。これを受けて越前国内七十箇所以上の城が新田軍の支配化に靡くことになる。時を同じくして大井田・中条・鳥山・風間といった越後の新田一族が数万の軍勢で越中・加賀に侵入。短期間で北陸一帯に義貞は覇を唱える事となった。 
しかし高経は黒丸城に篭って捲土重来を図っており、北陸を完全に押さえるにはこれを陥落させる必要があった。不安定な情勢に乗じて北陸の大半を手に入れたものの、これは裏を返せば何かの契機で簡単に形勢が逆転しうるという事を意味していたからである。 
この時期、北畠顕家が再び奥州から上洛を開始し各地で足利方を破り美濃に迫っていた。そして義貞と顕家の攻勢は全国の南朝方を勇気付け、各地で蜂起が行われた。後醍醐と共に足利と和睦した江田行義・大館氏明はそれぞれ丹波・四国で挙兵し、得能氏・土居氏も四国で蜂起した。また金谷経氏は播磨で吉川氏と共に挙兵し遠江では井伊氏が立ち上がっている。これを受けて、吉野の後醍醐天皇から義貞にもこれと協力して京を奪回するよう綸旨が届けられる。 
しかし義貞としては高経を駆逐しない限り北陸が安定しないため動けない状態にあった。そこで比叡山と連絡を取った上で代理として義助に三千の軍勢を与えて南下させている。一方で顕家は延元3年1月28日に青野原で足利方を破った後、思いの外に被害が大きかったため父・親房が拠点を定めている伊勢に逃れて軍勢を再編したが、その後に奈良・石津で高師直に破れ5月22日討死。八幡に布陣して京を窺っていた顕信(顕家の弟)による北畠軍別働隊も7月に撃退され、新田軍との連携による京奪回は果たせなかったのである。 
 
藤島に散る 
斯波高経は、事態を打開するために平泉寺に藤島荘の安堵を条件として足利方に付くよう働きかけていた。平泉寺はこれを了承して藤島城に立て篭もり義貞に反旗を翻したのである。義貞は黒丸城を包囲すると共に、藤島城を攻略して越前を安定化させようと図った。閏7月2日義貞は河合荘に数万の軍勢を集結させて出陣。この時の壮観さは、尊氏を倒せる者がいるとすれば義貞に違いないと人々に確信させる程のものであったという。義貞は黒丸城の支城群を孤立させるため城砦を築かせ、藤島城を攻撃させた。 
藤島城攻撃がはかばかしくないのを見た義貞は、自ら兵士たちを督戦するために少数の側近を従えて藤島に向かう。丁度そこで黒丸城から藤島城へ救援に向かう足利方の軍勢三百がこれと遭遇し、深田で矢を射掛けてきた。義貞らは少数で盾も持たず、水田では騎馬の機動力を発揮して逃れる事もできない。義貞は馬を射止められて立ち上がろうとしたところに眉間に矢を受けて落命。享年は37歳とも39歳とも言われる。武家の棟梁を争う武将としてはあっけない最期であった。 
討ち取った斯波勢も当初は身分の高い人物としか分からなかったが、左眉の傷跡や所持していた太刀・後醍醐天皇の感状から義貞であると判明。遺体は時宗僧により往生院で荼毘に付され、首は京に送られて晒されたという。 
「太平記」は、義貞戦死のくだりに続いてその後の勾当内侍について語っている。義貞は北陸へ下る際に危険を慮って内侍を今堅田に留めるが、彼女は義貞への慕情止みがたく越前へと向かう。しかしそこで義貞の討死を知り、同じ場所で死のうとするも周囲がそれを留めて杣山を経て京に返した。京で内侍は義貞の首が獄門に懸けられているのを目にし、悲しみの余り嵯峨野往生院で出家し義貞の菩提を弔ったという。 
また、琴ヶ濱で身を投げたという伝説もあり、今堅田には彼女を祭る野上神社や彼女の墓が、本堅田には菩提寺である泉福寺が残っている。「太平記」を語る芸能者により彼女の物語も広められ、ゆかりの地の人々によって語り継がれたのである。義貞は不慮の事故ともいえる出来事であっけなく最期を遂げてしまったため、彼女の伝説により英雄義貞の最期を飾ろうとしたものであろう。 
新田氏その後 
義貞の死によって、尊氏は武家の棟梁を争う当面のライバルがいなくなった。同年8月に尊氏は北朝朝廷より征夷大将軍に任じられ名実共に頼朝の再来とも言うべき立場となる。一方で南朝は東国に北畠親房らによって勢力扶植して反攻を目論むが捗捗しくは行かず延元4年(1339)8月に後醍醐天皇が崩御。 
義貞の死後、総大将を失った新田軍は一気に空中分解し再び足利方が有利となる。しばらくは脇屋義助が北陸で形成挽回を図るが、その威信は義貞に遠く及ばず北陸経営の挫折をやむなくされる。興国2年(1341)に義助は懐良親王を奉じて伊予今治で勢力扶植に励むものの翌年に病没。 
義貞の次男義興・三男義宗は関東を中心に抗戦を続ける。一時は足利政権内での尊氏・直義両派閥による内紛に乗じて鎌倉を占領するが長くは続かず、正平13年(1358)に矢口渡で義興は謀殺される。 
その他の新田一族も各地で足利方への抵抗を続けていた。伊予の大館氏明は義助病没後間もなく細川頼春により滅ぼされる。その子孫は足利方に降伏し政所奉行として活躍した。丹後の江田行義や播磨の金谷経氏は正平年間に活動が途絶える。大井田氏経は越後山間部で活動し北陸における南朝方の拠点を確保した。また大井田義氏も三河・石見で活動している。その他、岩松氏は南朝・北朝に分かれて属しており、北九州でも新田禅師や岩松氏といった新田一族の活動が確認され、土佐でも綿打入道が足利軍と戦っている。南朝方の新田一族は多くが足利方によって滅亡に追いやられていく。 
一方、足利方として活動した者も少なくなかった。里見義宗は足利方について奉公衆となっている。大嶋義政は尊氏が義貞に破れ西国に逃れるときに周防の大将に任じられ直義との内紛でも尊氏方として活躍。その子の義高は一時期三河守護となっている。世良田義政も一時期上総守護として活動している。また、山名時氏が足利方として活躍し尊氏・直義の争いでも巧みに立ち回って勢力を伸ばし一時は一族の守護する国が十一ヶ国に上って「六分の一殿」と称されるまでになった事は余りに有名であろう。 
 
最後に、義貞の力量や敗因について評価してみたい。義貞が愚将と評価される根拠は以下のように要約できそうである。 
長じているのは平地での騎馬戦のみ / 対陣した尊氏が評しての言葉が元になっているが、実際にはこの戦いで義貞は弓兵を効果的に用いて山岳戦で足利軍を破っている。その他にも弓兵・歩兵や時には水軍を用いて足利軍を翻弄している事は上述の戦闘描写で読み取れるであろう。 
討死した時の軍編成は盾もない騎馬戦士のみであり弓を持った歩兵を擁する足利方と比べ時代遅れ / 急いで戦場に急行している際に敵に遭遇するという突発事故に近い状況であり、義貞の無用心さを攻める事はできるが軍編成に一般化して論じる事はできない。弓兵・歩兵も使いこなしている事から考えて、新田軍の編成が同時代の標準と比較して特に遅れているとはいえないであろう。 
尊氏との戦で一騎打ちに拘る時代錯誤 / 尊氏も一騎打ちに応じようとして側近に留められている描写があり義貞と大差があるとはいえない。また、兵力で劣る義貞としては一気に敵を突破して中枢を討ち取る他に打開策はなく、一概に責める事はできない。なお、軍事的側面のみならず社会的にも関東の一土豪に過ぎなかった義貞は貨幣経済の発達した時代に適応できなかったと言う論も見かけるが、冒頭で述べたように新田氏も貨幣経済による恩恵を相当に受けている存在であり義貞も正成らと同様に時代の子であったといえる。 
しばしば絶好の機会を逃しており機を見るに鈍 / 決断の鈍さゆえに機会を逃し敵殲滅できなかったという描写は足利方にもしばしば見られており義貞のみではない。義貞は朝廷軍の指揮官に過ぎずその戦略は朝廷の方針に大きく束縛を受ける。また、義貞個人の決断よりも様々な状況や束縛で動くに動けなかったと見るほうが妥当である。 
「犬死」と評価される最期 / 「太平記」が「犬死」と酷評しているのは義貞でなく彼を救えなかった部下であり、「神皇正統記」は元来が貴族自尊主義により義貞ら武家への評価が低い(正成に至っては戦死について触れられてさえいない)ため割り引いて考える必要がある。 
しかし、詳細に検討すればこれらの論拠は必ずしも当を得たものでない事が分かる。先入観を除いて評価してみると、義貞は少なくとも軍事指揮官としてはかなり優秀であった事が分かる。勇猛であるだけでなく、戦術面では正成のような奇策を弄する事は少ないものの十分に柔軟であり、戦略面でも様々な束縛の下で最善を尽くしているといえる。また人柄は実直であり部下思いであったことも知られる。しかし正統派の武人である事が逆に災いして後醍醐天皇・足利尊氏・楠木正成といった個性的な人物と比較して影が薄くなったのは否めない。 
しかし、尊氏が政治的な面にまで視野に入れて広く根回しを行っていたのと比べ、義貞は政治的な駆け引きや政略・国家戦略に長じていたとはいえない。尤も、尊氏もしばしば読みの甘さが指摘されているし義貞は晩年にはそれなりに政治的工作を行うようになっており両者の差は余り大きなものではないのかもしれない。ただ、尊氏が政治的力量に優れた弟・直義や執事・高師直による補佐を受けられたのと異なり、義貞には周囲に政治に長じた人物が存在しなかった。 
そして義貞もその軍事的力量でカリスマとして台頭したが、尊氏には直情的な義貞にはない不思議な人間的魅力があった。加えて何より、尊氏は不可解なまでに強運でありここ一番で不運に泣かされる事の多かった義貞とは対照的である。家系の経済・軍事力で劣っている以上は個人的力量で大きく上回っていない限り逆転は難しいのだが、尊氏が相当な傑物であった事は義貞にとっては悲劇であった。 
また、義貞は尊氏と比べて家柄で大きく遅れを取っていたため、彼と対抗するには朝廷軍の司令官として天皇の権威を借りる必要があった。しかしそれが朝廷への不人気の煽りを受け、豪族たちの広い支持を集める事ができなくなった原因となった。尊氏が「頼朝時代の再興」を公約に掲げ体制に不満を持つ豪族たちの受け皿となったこととは対照的である。 
豪族たちの期待の星である武家政権の棟梁であった尊氏と異なり、義貞は朝廷の傀儡としか見られなかった。朝廷の不人気に関しての責任は義貞でなく後醍醐が負うべきであるが。晩年には北陸で御教書を発布し尊氏同様に武家の棟梁として振舞うようになるが、その時は両者の勢力が隔絶しており余りにも遅すぎた。 
上記のように義貞は尊氏と争うにはかなりの不利があったにもかかわらず、後醍醐と尊氏の対立が不可避となる中で尊氏と家柄・力量・実績・人望で曲がりなりにも対抗できる人物が義貞しかいなかった。尊氏から見ても、「頼朝の再来」として武家の棟梁を目指す際に、名目上で競争相手となり敵手となるべき存在は天皇でもなく正成でもなく自身同様に源氏の嫡流である義貞しかありえなかったのである。 
こうなると黙っていても周囲が義貞を尊氏と争わざるを得ない方向へと持っていく。なまじ力量があり時流に乗って名を挙げたが故に強力な宿敵相手に絶望的な戦いを強いられた。それが義貞にとって、そして新田氏にとっての悲劇であった。
 
「太平記」義貞戦死のくだり
わずかに五十余時の手勢を従えて、藤島の城へぞ向はれける。その時、黒丸城より、細川出羽守と鹿草(かくさ)彦太郎両大将が、藤島城を攻める寄手どもを追ひ払はんとて三百余騎の軍勢にてあぜ道を回りける時に、義貞勢と真っ向から行き合ひたまふ。細川が方には、徒歩で楯を持った射手ども多く、泥田に走り下り、前に持楯を並べて、その隙間から散々に射る。 
義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一枚も持っていなかったので、前なる兵は義貞の矢面に立って、ただ的になつてぞ射られける。中野藤内左衛門(なかのとうざえもん)は、義貞に目で合図を送って、「大将は雑兵を相手に戦うべきではない」と申しけるを、義貞ききもあへず、「手下を死なせて自分一人 逃れるのは我が本意ではない」と言い放ちなお敵の中へ駆け入ろうと、駿馬にむち打った。この馬名誉の駿足なりければ、一、二丈の堀をも、たやすく越えたが、五筋まで射立てられたる矢にやよわりけん、小溝一つをこえかねて、屏風をたおすが如くころびける。 
義貞左の足が馬のしたじきになり、起き上がろうとしたところに、白羽の矢一筋、眉間の真ん中にぞ立つたりける。急所の痛手なれば、目が見えなくなり心迷ひければ、義貞は「もうこれまで」と思ひけん、抜いたる太刀を左の手に取り渡し、みづから首をかき切つて、深泥の中にかくして、その上に横たはつてぞ臥したまひける。越中国の住人・氏家中務丞重国(うじえなかつかさのじょうしげくに)、走りより、その首を取つて刀の刃先に貫き、鎧・太刀・刀同じく取り持ちて、黒丸城へ馳せ帰る。 
義貞と隔てて戦ひける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、馬より飛び下り、義貞の死骸の前にひざまづいて、腹かき切つて重なり臥す。この外、四十余騎の兵、射落されてたが、敵のひとりをも取りえずに、犬死して臥したりけれ。 
戦いが終わって後、氏家中務丞、高経殿の前に参つて、「この重国が、新田殿の御一族かと思われる敵を討ちて首を取つて候へ。だれとは名のり候はねば、名字は分からぬが、馬・物具の様子や従ひし兵どもの、死骸を見て腹をきり討死する様子は、普通の武士にはあらじと思う。これぞその死人のはだに懸けてあったお守りにございます」とて、血をもいまだあらはぬ首に、土が付いた金らんのお守りを添へて出だしたりける。尾張守この首をよくよく見たまひて、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所あるぞや。 
もしそれならば、左の眉の上に、矢の傷あるべし」とて、みづから櫛を以つて、髪をかきあげ血をすすぎ、土をあらひ落してこれを見たまふに、はたして左の眉の上に傷の跡あり。ますます思い当たることがあって、帯(は)かれたる二振りの太刀を取り寄せて見たまふに、金銀を延べて作りたるに、一振りには銀を以つて鬼切と言ふ文字を彫り込んである。もう一振りには金をもって鬼丸と言ふ文字を入れられたり。 
これはともに源氏代々の重宝にて、義貞の方に伝へたりと聞いているので、末々の者どもの帯くべき太刀にはあらずと見るに、いよいよ怪しければ、はだに付けたお守りを開いて見たまふに、吉野の帝の御宸筆(ごしんぴつ)で、「朝敵征伐の事、叡慮の向ふ所、ひとへに義貞の武功に在り、選んでいまだ他を求めず、ことに早速の計略をめぐらすべきものなり」とあそばされたり。「さては義貞の首に、相違なかりけり」とて、死骸を輿に乗せ、時衆八人にかつがせて、葬礼のために往生院(現・坂井市称念寺)へ送り、首をば朱の唐櫃(からふと)に入れ、氏家中務を添へて、ひそかに京都へ上せられけり。  
 
新田義貞の墓・供養塔1
戦死した越前・福井周辺、新田氏の本拠地である群馬県東毛地区、勾当内侍の伝承があるところ(特に京都)などにある。 
戦死した越前・福井周辺  
新田塚(福井県福井市新田塚) 
新田義貞が戦死したと伝えられる灯明寺畷。江戸時代に兜が発見され、その地が戦死伝承地となった。このエピソードが歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」大序のモチーフとなっている。 
藤島神社(福井県福井市毛矢) 
建立は福井藩主・松平光通。新田源氏を名乗る将軍家の遠祖として、また自分の祖先として「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建立し、遺跡を顕彰した。徳川家・松平家が新田源氏の末裔であることを世間に喧伝するためにも必要だといえる。ただし家康から数代下ると、松平・徳川家縁類の人たちは、自分たちは「(新田)源氏の血を引く末裔だ」と信じ疑っている様子は全くない。それは徳川光圀が、源義家を遠祖として讃え、位牌を祀っていることからも判る。 
称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎) 
義貞の遺骸が葬られている(首は京へ送られる)。現存する義貞の墓は、天保年間に福井藩主松平宗矩によって建てられたもの。 
太平記に「(義貞の死の報が伝わると)ただちに、時宗の僧8人が義貞戦死の地に差し向けられ、遺骸をのせた輿は、往生院称念寺に運ばれた」とある。 
この寺については「明智光秀」について書かれた本の方が詳しく載っている。「明智光秀」永井寛著(三一書房)によれば「称念寺は時宗の名刹で、新田義貞を葬っていることでも知られている。 
称念寺と義貞が関係するのは、延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命により、恒良親王、尊良親王を奉じて越前に下向した際、この寺をたびたび訪れ、時の住職の白雲上人より仏の道を学んだことからという白雲上人は、延元3年閏7月2日義貞が越前藤島(福井県灯明畷町)の戦いで討ち死にしたとの噂を聞き、僧7、8人を引き連れて、義貞の遺骸を運び、寺内に手厚く葬った。その後、後花園天皇により勅願の道場とされ、住職は天皇の「園」を賜って園阿上人を代々称し、昇殿を許された。」とある。 
この何代目か後の園阿上人と明智光秀が関わることになる。朝倉氏仕官以前の10年ほど、光秀は家族ともどもこの寺に世話になっている。だから細川ガラシャについて書かれた本にも称念寺が載っている(明智玉が生まれたのは永禄6年(1563)だからここで生まれている)。 
また、光秀の妻・煕子が髪を売って夫のために金を用意したという有名な逸話が残る場所であり、これに因んで松尾芭蕉が「月さびよ明智の妻の咄せむ」と詠んだ。この句碑は境内にある。明智家とこの寺の関係は深い。 
また光秀は、家族を称念寺に残し全国を放浪したという。これが後の光秀が財産となる。この称念寺は時宗である。時宗は全国に情報網を持つ特殊な宗派で(しかも南朝寄り)ある。その情報網を利用したに違いない。ちなみに、徳川・松平家始祖となる世良田(徳川)親氏も時宗の僧・徳阿弥となって、諸国を巡り三河に流れ着いたことなっている。 
余談として、称念寺は新潟県上越市にもあるが、これは「2世園阿の時、足利尊氏が新田義貞の菩提所として建てた越前長崎称念寺の住職を兼帯し称念寺と改称。慶長16年大久保長安から150石の朱印地を寄進され、葵の紋の使用を許された」とある。 
新田氏の本拠地である群馬県東毛地区 
円福寺(群馬県太田市別所町) 
円福寺は、かつて新田宗家の住居があったと伝わり、新田氏累代の墓がある。円福寺があったあたりが由良と呼ばれたことから「由良殿」ともいわれたという。後に義貞菩提寺・金竜寺を建立した横瀬氏が新田系を顕示するために「由良氏」を名乗ったのもそのような理由からだ。新田次郎著の小説「新田義貞」の中にこういった解説があります。「円福寺は、無住職の寺で、荒れ果てた境内の裏手を廻ったところに五輪の塔が数基並んでいた。 
新田氏代々の墓だといわれても、にわかに信じがたいような佇まいであった。新田氏代々の墓という感じはなく、どこかそのあたりにころがっていた五輪の塔をそこに集めて置いたようにさえ見えた。訪れる人は無いらしくなにもかも忘れさられた過去を見るように悲しい気持ちで五輪の塔に手を合わせると、頭上で小鳥の声がした。それが救いだった」と書いています。 
ここ以外にも、東毛地区の新田氏関連寺院には新田義貞の供養塔などが必ずある。太田の大光院、大慶寺など、この周辺にはかなりの数があると思われる。 
金龍寺(群馬県太田市金山町) / 金龍寺(茨城県龍ヶ崎市若柴町) 
金龍寺は、新田義貞の孫・貞氏を祖とする由良氏(横瀬氏)が、応永14年(1407)に金山の麓に建立した寺。天正18年(1590)に由良国繁が牛久城主になった時、金龍寺もいったん牛久の新地(現在の東林寺)に移り、その後、山口氏が牛久藩主に任じられた際に龍ヶ崎市若柴に移った。金龍寺は、新田家(由良氏)の菩提寺で、新田家累代の墓所や義貞の供養塔がある。上野国の金竜寺は、館林城主・榊原康政の手で再興され現在に至っている。 
また、一説には、金山城主であり新田氏族であった岩松満純が、越前の慈眼寺を開いた天真自性を呼び、義貞追善のために建立したのが始まりといわれる。義貞の遺骸を越前の称念寺から、その金竜寺に運んで、改葬して大法要を行ったといわれます。 
慈眼寺は、福井県今庄町にある。1387年のこと天真自性禅師が開基した曹洞宗の寺で、盛寺には末寺を千二百寺も有したと伝わっている。 
金竜寺と慈眼寺は、末寺と本寺の関係で、天真自性が上野国まで義貞の遺骸を運んで追善法要を行って寺まで建てたとなると、もしかしたら、新田・南朝に関係があった人物であるかもしれない。だが、ここで慈眼寺という寺名が出てくるのが実に因縁深い。 
勾当内侍の伝承があるところ(特に京都) 
往生院(京都府京都市右京区梅ケ畑上ノ町) 
滝口寺(京都市右京区嵯峨亀山町) 
蔵光寺(福島県東白川郡棚倉町富岡)
 
新田義貞の墓2
若柴上町(竜ヶ崎市)の一角、佐貫を見下ろす高台に太田山金竜寺という曹洞宗の古刹がある。市の広報などで紹介されている「藁干し観音のお話」と「牛になった小坊主」の伝説でお馴染みのお寺である。 
「藁干し観音のお話」は新田義貞が藁干しに隠れて難を逃れたと言うお話しで、恐らく金竜寺が上州金山にあった頃作られたと思われるお話で、鎌倉幕府を倒した悲運の武将新田義貞と金竜寺の関係を示唆するものである。それもそのはず、金竜寺境内の裏手には義貞を初め新田家歴代の墓が並んでいる。この事も市の広報、観光案内等で紹介されていて、金竜寺と新田義貞の密接な関係を証明している。そもそも新田義貞の法名は金龍寺殿眞山良悟大禅定門なのである。しかし、金竜寺に葬られている義貞の墓の信憑性は如何ほどかと、疑問視する声も多い。 
歴史は記録(文献)と遺跡遺物と伝承と歴史学者の想像で成り立っているが、郷土史となると更に想像の部分に比重が傾く。金竜寺の創建に関しては、寺報によると「開基は新田義貞の孫貞氏で、祖父の霊を慰め、その勲功を永遠に伝えるため、応永14年上州太田の金山に建立された。」となっているが、その他いろいろ説があり、特に新田義貞に関する部分に謎が残る。そこで、上州(群馬県)金山城時代の金竜寺に遡って考えてみよう。 
おそらく金竜寺は、金山城主岩松氏(新田義貞の末裔)の重臣横瀬氏(のちの由良氏)によって創建されたものであろう。明応年間頃までは上州金山城主は新田義貞の一族岩松氏であったが、重臣の横瀬氏(由良氏の祖)が実権を押え専横の感があった。やがて横瀬氏が名実ともに金山城主となるのだが、これは下克上時代のことゆえ、何らかの葛藤があったのだろう。(享禄の乱)。 
つまり、横瀬氏は岩松氏が金山城主として継承していたものを全て掠奪したと考えられる。城や領地だけでなく新田義貞が残した財宝や新田氏という血筋までを。余談だが、その中に、新田義貞が鎌倉攻めの時、戦火の中で北条氏から奪ったとみられるあの有名な寺宝、李龍眼が描いた国指定重要文化財「十六羅漢像図」が含まれている。 
新田義貞の墓はもともと義貞の戦没地に近い越前称念寺(福井県)に祀られていたのだが、横瀬氏の命により、応永24年(1417)建立まもない金龍寺の禅龍和尚が称念寺より遺骨をもちかえり、境内に葬ったと言われている。その当時、横瀬氏は既に実質的な城主で、岩松氏は傀儡であったのであろう。やがて横瀬氏が岩松氏を退け金山城主となるのであるが、その正当性を世に知ら示すために横瀬氏は金竜寺を己が一族の菩提寺として新田義貞の墓を奉ったと考えられる。 
由良氏の牛久移封後、上州大田の金龍寺は建物、木造、墓のみ残し荒廃する。その後、天正18年に榊原康政が館林城主になると、寺の再興を図り、武蔵国秩父郡赤染村の僧侶によって復興され、了菴派に改められ以後今日に至っている。天正13年(1585)由良成繁(横瀬一族)の子国繁は小田原北条氏に加勢し、全国制覇を目指す羽柴秀吉と敵対する。当然のごとくではあるが、天正18年(1590)小田原城落城とともに北条氏は滅亡、由良氏もこれに殉じて滅亡の運命であった。 
しかし、夫の成繁亡き後を城主のごとく支えていた赤井氏(国繁の母、一説によると輝子)は秀吉軍の筆頭前田利家の元に馳せ参じ、不本意ながら北条方陣営として戦かった事と、由良家は新田義貞の末裔で、血筋が絶えるのは忍びがたいことであると、我が子の苦境をを訴える。利家は、その訴えを聞き入れ秀吉へ上奏する。上奏文を読んだ秀吉は、その真意はともかく、利家への義理立てで、由良氏の存続を許すのである。 
こうして前田利家の取り計らいで存続を許された由良氏は、常陸の国、岡見氏没後の牛久城の城主となるのであるが、秀吉から由良氏へ与えられた領地5400余石は赤井氏へのものであった。当然のごとく彼女は領地を子の国繁へ譲り、自らは得月停(後の曹洞宗得月院)という隠居所を設け妙印尼となり余生を過ごすのである。 
天正18年(1590)このように、由良氏の牛久移封に伴い、金龍寺も新田義貞の墓と共に牛久に移された。場所は現在の牛久市新地町、東林寺である。東林寺は先代の牛久城主岡見氏の菩提寺であったが、由良氏の支配下のもとで廃寺となり、改めて由良氏の菩提寺金竜寺として再興される。こうして由良氏の前途は揚々たるものかに思われたが、しかし、由良氏の牛久城主の座は国繁一代限りであった。国繁没後、その領地は没収となり嫡子に相続権は許可されなかった。 
その真意は今も謎であるが、かつて秀吉の庇護を受けた由良氏にとって、大坂の陣は辛い戦いであったのだろう。徳川方として戦うものの、はたして豊臣家に弓を引くことが出来ただろうか。皮肉にも新たに牛久藩主となったのは関ヶ原及び大坂の陣の功労者山口氏なのである。とにかく、徳川家は豊臣家の恩恵を受けた者たちには冷たかったのである。加藤清正や福島政則の処遇を思えば納得出来るだろう。余談だが、山口氏は城を持たず、牛久沼を見下ろす景勝地(河童の碑付近)に陣屋を築き、ここで明治維新の廃藩置県まで牛久藩を支配したのである。 
さて、牛久城は廃城となり、城主の座を失った由良氏は東猯穴(ひたち野牛久駅付近)に僅かな所領を許され幕末まで続くのであるが、多くの家臣たちは浪人となって市井に溢れたことであろう。これに伴い、寛文6年(1666)金竜寺と義貞の墓は、幕府の庇護を受けて、ちょうど牛久沼の対岸、若柴の古寺を改修してこに移されたのである。 
このように、義貞の墓は越前国称念寺から数奇の運命を経て常陸国若柴金竜寺に変遷され、現在に至ったのである。尚、福井県丸岡町の称念寺には屋根付きの立派な義貞の墓が今も残っていて、県指定史跡となっている。更に群馬県太田市の金竜寺には新田義貞三百回忌法要に際し造立された立派な供養塔が建っている。それらは義貞にとって由緒深いところで、彼の事跡を振り返るに於て意義のある史跡と言えるが、いずれも再興されたものである。 
つまり、ご当地金竜寺に祀られた五輪塔こそ正統な流れを汲むものであるが、幾多の変遷には為政者たちの手の届かない人の思惑が加わり、墓の正当性を証明するものが筋書きどおり運ばれたとは限らない。また、新田氏と由良氏の関係の不透明さは、更にその信憑性を低くしている。まして、新田義貞にとって、常陸国若柴は、無縁の地であるがために、史跡としても、あまり重要視されていない。 
悲運の武将新田義貞は、没後もどこまでも悲運なのか。彼にとって血筋とは違う由良氏によって祀られ続けている。否、ここで血筋のことを言うのは止めよう。川の流れのように、血筋だって歴史の激流の中で新田氏と由良氏はどこかで混じり合っているのかもしれない。明治になって、由良氏は新田氏に改姓したという。 
旧水戸街道若柴宿の一角、新田義貞の墓は金竜寺本堂の裏手にひっそりと佇んでいる。周りは竹薮で囲まれていて薄暗く、訪れる人も少ない。ああ、これが義貞の墓か、と思わせるほど貧弱であるが、幾多の風雪を耐え忍んだ歴史の重みを感じることが出来る。 
四基並んだ五輪塔、向かって左から新田義貞、横瀬貞氏、由良国繁、由良忠繁の順に並んでいる。 
新田義貞の墓遍歴 
越前称念寺(延元3) > 上州金山金龍寺(応永24) > 桐生金龍寺(天正16) > 牛久金龍寺(天正18) > 若柴金龍寺(寛文6)  
 
泰澄
越の大徳泰澄/泰澄(たいちょう・682-767)は奈良時代初期の僧で、加賀・越前国境にある白山(2702m)に初登頂したと伝え、白山信仰(山岳信仰)と結びついて、越前・加賀・美濃には泰澄を開創と伝える社寺が極めて多い。しかしその事跡は伝承に満ちており、従来は伝説の人物とされてきたが、近年では実在Lたとする説が有力となっている。鎌倉未期に成立した虎関師錬の「元亨釈書」、正中2年(1325)書写の「泰澄和尚伝記」によると、次のようである。泰澄は、白鳳22年(682)6月11日越前国麻生津(福井市浅水町)に生まれた。 
父は三角安角(みかみのやすずみ)、母は伊野氏。11歳の時、北陸道遊行中の道昭和尚が見て神童と驚く。14歳で初めて十一面観音の霊夢を見て、その冬から越知山(福井県丹生郡朝日町)に登って修行を始め、その呪験力が世に知れる。大宝2年(702)21歳の時、文武天皇の勅使伴安麻呂(大伴安麻呂)の下向を迎え、鎮護国家の法師に任ぜられた。霊亀2年(716)白山神の霊夢を見、その導きによリ、翌、養老元年(717)36歳で白山登拝に成功、随従した臥行者・淨定行者とともに同3年(719)まで禅定(山頂)にとどまり、一千日の練行を積み下山した。 
以後白山は行者達の修行場となる。41歳で氷高天皇(元正天皇)から神融禅師の号を許され、天平9年(737)には、折から大流行した疱瘡を十一面法によって終息せしめた功によって聖武天皇より大和尚位を授与され、以後泰澄和尚と号した。天平宝字2年(758)77歳の時、最初の修行の地であった越知山の大谷に籠もり、神護景雲元年(767)3月18日大日の定印を結んで86歳をもって越知山で入寂した。  
大谷寺(おおたんじ)
泰澄大師の開創、1300年の歴史を誇る北陸屈指の古刹です。奈良佛教の盛期に、我国古来の神を尊崇し佛の信仰を併せて行う、本地垂迹神佛習合の説を流布して、山野を跋渉し、大いに道路を開拓して、民衆の教化に専念された越の大徳・泰澄大師が、本拠の地として苦修練行された処で、ここに越知山三所大権現の御本地佛・地主大聖不動明王を自ら彫んで安置し、威験無双の廟社を創建されました。 
時に持統天皇6年(692)と伝えられ、故に北陸佛法最初の霊場と称されます。この寺は、父三神安角氏の財力勢威を以て泰澄大師の熱意を汲み創建されたもので、後に泰澄大師はこれより西の越知山・日野山・文殊山・吉野岳・白山等々に登峰されご修行、諸国を巡錫されました。天平宝宇2年(758)77才の時ご帰山、神護景雲元年(767年)御歳86才にして大谷寺でご遷化されました。泰澄大師の御廟所を中心に一山の盛時は実に一千坊と言われて、大谷寺の本坊は大長院と呼ばれてきました。 
本坊東方に位置する大谷寺サンガパークはこの歴史と伝統の名刹に設けられた、宗旨、宗派を問わない全ての人たちの霊地です。泰澄大師の遺徳に抱かれて、永遠に眠る魂の故郷であり、明るさ一杯の仲良したちが集う広場です。大谷寺には所蔵の寺宝として、国指定文化財3件5点、県指定文化財1件8点、町指定文化財8件23点の他その数も多く、訪れる人々の心安らぐ霊場と言われています。 
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泰澄大師は飛鳥時代(7世紀末)、越前国麻生津(現 福井市三十八社町 泰澄寺)に生まれました。神童といわれた大師は11才の時、夢のお告げで越知山大谷寺に登り、苦行難行の後、ついに仏の教えを悟ったといいます。泰澄大師の名声は都まで届き、21歳の時、朝廷は鎮護国家法師に任じました。36才の時、2人の弟子、臥(ふせり)行者・浄定(きよさだ)行者と共に霊峰白山を開いたとされています。 
養老7年(722)元正天皇のご病気を祈祷によって平癒したことにより、神融禅師の号を賜わりました。神亀2年(724)行基が白山を訪ね本地垂迹の由来を問うたことより神仏習合説の祖と呼ばれています。天平2年(730)一切経を写経し法隆寺に納めました。これは、宮内庁図書寮に現存しています。天平8年(736)入唐帰朝の玄ムより特に十一面経を授受される。天平9年(737)全国に疱瘡が流行し、勅名により祈願を行い疫病を終息させました。このとき、天皇から大和尚位を授けられ、「泰澄」の尊称を賜わりました。 
神護景雲元年(767)越知山大谷寺に戻った泰澄大師は、釈迦堂の仙窟に座禅を組まれたまま86歳で遷化されました。 
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大谷寺は、福井県丹生郡越前町(旧朝日町)にある天台宗の寺院。山号は越知山。本尊は十一面観音、阿弥陀如来および聖観音(白山三所権現の本地仏)。この寺の創建年代等については不詳であるが、越知山白山三所権現の別当寺として金毘羅山のふもとに建立されたと見られ、白山中宮平泉寺(へいせんじ/福井県勝山市平泉寺)とともに山岳信仰の寺であった。明治初年の神仏分離に伴い越知神社と大谷寺に分離された。
泰澄寺 (たいちょうじ・福井市三十八社町)
福井市南の三十八社地区に、中近世の北陸道に沿って「越の大徳」として、今でも多くの信仰を集めている泰澄生誕地との伝説が残る泰澄寺(号白鳳山、真言宗智山派)が在る。泰澄は奈良時代初期の僧とされ、36歳のとき、加賀・越前・美濃の三ヶ国に跨る白山(2702m)を開いたと伝えられ、白山信仰と結びついて越前をはじめ近隣には泰澄開創と伝えられる社寺が多く建立されている。泰澄の事跡は「泰澄和尚伝」等にみえるが、どこまでが真実で、どこからが伝説なのかは判然としない。 
伝承を基に簡単に生い立ちを記せば、白鳳22年(682)生れで、父は三神安角、母は伊野氏でその二男として誕生した。幼少の頃より、他の児と遊ぶより泥土で仏像や堂をつくり、花を供えていたといわれる。持統6年(692)唐から戻り北陸道遊行中の道昭聖人が三神氏宅に宿をとり、泰澄を見てその才を見抜いたとされる。14歳の時、十一面観音の霊夢を見、越前の山々を望む越知山(612m・旧丹生郡朝日町)坂本厳屋に入り修行。大宝2年(702)文武天皇より鎮護国家の法師に任ぜられた。霊亀2年(716)白山神の霊夢を得、その導きにより白山登拝に成功、弟子とともに千日の練行を積んだ。 
白山は、これ以降行者たちの修行の場となった。養老6年(722)元正天皇の病気加持により神融禅師の号を許され、天平9年(737)大流行した疱瘡を十一面観音法によって終息せしめ、大和尚位を受けた。麻生津地区の旧北陸道沿いの石段を登ると、正面に大師堂、左に本堂があり、大師堂の奥には白山権現社が在る。また泰澄ゆかりの遺跡として、北東に坐禅石、北方に産湯池、隣接して泰澄の坐禅修行中の落雷を封じた池とされる雷之池がある。「越前国名蹟考」には「堂の後北の方へ一丁許に池二つあり。 
東にあるを御膳水(雷之池か?)とす。水清し。西は産湯水なり。清からず。少し南方へ上りて座禅石あり。盤陀石と云」と記されている。大師堂の手前には鐘楼が在るが、地元の伝承では、信長の越前侵攻で泰澄寺が兵火にかかった際、鐘は浅水川に投げ込まれたが、後に村人が引き上げ再建したとされる。その後泰澄は77歳で越知山に戻り修行に専念し、神護景雲元年(767)86歳で死去したとされる。  
 
白山信仰1
平安時代には、山中での修行を重視する密教や古来の山岳信仰と深く融合した修験道が盛んになった。白山信仰の祖といわれる泰澄を筆頭にして、多数の山中修行僧が修行に励んだのである。白山信仰の一修行拠点である平泉寺が、平安時代後期以降に延暦寺とつながり興隆してくると、宗教的権威を高めようと泰澄との縁を強く喧伝する寺が次々と出てきた。こうして白山信仰にまつわる如来や観音の造仏が盛んとなっていった。白山は、越前・加賀・美濃の国境にそびえる標高2,702mの名山である。 
これらの3国は白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川の流域にできた国々であり、白山連峰に降った雪や雨が、自然の恩恵となったり、時には脅威となったりしつつも、白山とは自然のみならず歴史・文化面でも地域と長い関わりがあり、白山が象徴的存在となっている。その名のとおり季節を通じて雪をいただく白山は、神々が宿る山として信仰対象となり、平安時代の「白山之記」によると天長9年(832)に、「三馬場」という登拝拠点が開かれたと伝えられている。 
この馬場とは、白山登拝のときに馬でそこまで行き馬を繋ぐ場所であり、あわせて修業道場も置かれていたところである。越前馬場の中心は、白山中宮で平泉寺(勝山市)、加賀馬場の中心は白山本宮で式内白山比盗_社(石川県鶴来郡)、美濃馬場の中心は白山中宮で長滝寺(岐阜県白鳥町)であった。これらの三馬場はもともと別個に発生し、独自に発達してきたものであったが、そのいずれもが「越の大徳」泰澄によってはじめられたという共通の伝承をもっている。 
泰澄は白鳳11年(683)6月11日、越前国足羽郡麻生津に生まれた。14歳のときに霊夢をみて丹生郡の越知山へ登り修行した。その名が朝廷にまで届き、大宝2年(702)に勅使伴安麻呂が下向して、泰澄をもって鎮護国家之法師とした。養老元年(717)36歳のとき白山に登ろうとして大野の隈、筥川の東、伊野原に至り祈念した。神亀2年(725)には行基が白山に参詣して泰澄と会見している。 
天平9年(737)に痘瘡が全国に流行したとき、泰澄は勅命によって十一面経を修し、悪疫を終息させたといわれている。このことにより天皇より大和尚位を授けられ、名を泰證と賜ったが、父を慕って泰澄と改めることを請い許された。天平宝字2年(758)に再び越知山に入り、神護景雲3年(769)に86歳で、その地に入寂したと伝えられている。泰澄の開基と伝えられる寺院は、越前では平泉寺、豊原寺(丸岡町)、千手寺(三国町)、糸崎寺(福井市)、大滝寺(今立町)、大谷寺(朝日町)、長泉寺(鯖江市)、など多くある。また、山川道路開削の功績も少なくないと伝えられている。  
白山信仰2
白山信仰そのものは原始的な山岳信仰に由来するが、平安初期の密教の展開のなかでそれと習合していくこととなる。「白山之記」によれば、天長9年(832)には白山に登拝する加賀・越前・美濃の三馬場が開けていたとする。ほぼこのころに宗叡(809-84)が越前白山で苦行を行なっており、9世紀初頭に越前馬場が成立していたことは確実である。また11世紀中ごろに成立した「法華験記」には、立山・白山などの霊所で祈願した越中の海運法師の説話や泰澄伝承が登場しているし、天喜年間(1053-58)には日泰上人が越前白山の竜池の水を汲んだという。 
こうした密教験者の活動のなかで、白山の山岳信仰は仏教と習合し、やがて本地垂迹説によって教理的に体系化されていった。しかもそのさい、白山での験者の修行の場はほとんどが「越前白山」と記されており、白山信仰の仏教化は三馬場のなかでも越前馬場によって主導された。長寛3年(1165)ごろに成立した「白山之記」によれば、白山は次のような構成となっている。まず白山の最高峰である御前峰には白山妙理大菩薩を、その北の大汝峰には高祖太男知大明神、南の別山には別山大行事を祀っており、それぞれの本地は十一面観音・阿弥陀・聖観音とされている。 
またそれぞれの山上には宝殿が設けられており、末代上人の勧進によって鳥羽院や越前国足羽の住人の願となる鰐口や錫杖が安置された。末代は富士上人とも号し、富士山に数百回登山して山上に大日寺を構えた験者で、鳥羽院の信任厚い人物である(「本朝世紀」久安5年4月16日条)。末代は、白山の宝殿に鰐口や錫杖を奉納して白山信仰の仏教化に積極的に関わるとともに、鳥羽院と白山とを結びつけた人物でもあった。白山信仰の越前での中心が、「平清水」「白山社」「白山平泉寺」などとよばれた平泉寺である。 
大治5年(1130)前後に鳥羽院は、院宣によってその側近である園城寺の覚宗を検校に任じて社務を執行させた。ほぼ同時期、鳥羽院は加賀馬場の白山宮でも、神主職の上に検校職を設置して側近の信縁を補任している。鳥羽院が末代を介して白山に仏具を奉納したことと、平泉寺や加賀白山宮に積極的に介入したこととは、密接な連関があろう。しかし、事態は必ずしも鳥羽院の思惑どおりには進まなかった。久安3年(1147)、加賀白山宮は延暦寺の末寺となって国衙・院権力のもとから自立しようとしたし、平泉寺も同年に住僧らが園城寺長吏覚宗の支配の過酷さに反発して自らを延暦寺の末寺に寄進した。 
延暦寺は鳥羽院に平泉寺の末寺化を認めるよう迫り、覚宗の没後に延暦寺末寺とするとの院宣を得た。覚宗は仁平2年(1152)に没しているので、まもなく平泉寺は延暦寺の末寺となったであろう。一般にこうした末寺化は国衙との政治的経済的軋轢が原因となることが多いが、平泉寺の場合も伊勢神宮役夫工米など一国平均役に対する抵抗が延暦寺末寺化の背景にあった。こうして平泉寺は、延暦寺と結びながら地域の権門寺院としての地歩を固めていったが、そのなかで軍事集団としての性格も強めていった。 
養和元年(1181)9月平通盛軍が木曾義仲追討のため越前から加賀に進撃したところ、平泉寺長吏斉明は平家方から寝返って、背後から通盛軍を襲撃して敗退に追い込んでいる。ところが寿永2年(1183)4月平維盛を将とする追討軍との南条郡燧城合戦では、斉明は逆に平氏に内応して源氏を破り、さらに加賀国へと侵攻している。結局、斉明は倶利伽羅峠の戦いに勝利した木曾義仲に捕らえられ処刑されたが、北陸道での戦いで平泉寺が重要な軍事的役割を果たしたことがわかる。こうした平泉寺の軍事集団化の背後には、武士団の寺院内への流入があった。 
平泉寺の長吏斉明は越前に勢力をもつ武士団である河合系斎藤氏の出身で、叔父には白山長吏広命が、甥にも平泉寺長吏実暹がおり、特に実暹の場合、長吏職を「相伝の所帯」と称している(「天台座主記」)。しかも斉明とほぼ同時期に疋田系斎藤氏からも平泉寺長吏賢厳が出ており、この時期に越前斎藤氏が平泉寺を掌握していたことがわかる。その過程では寺僧同士の殺し合いもおきており、平泉寺内での厳しい武力対決を経るなかで斎藤氏一族の覇権が確立したのであろう。 
こうした武士団の流入がある以上、平泉寺の軍事集団化は必然であった。丸岡町東部にあった豊原寺も治承・寿永の内乱や南北朝内乱で僧兵が活躍するが、ここも越前斎藤氏と密接なつながりがあった。「当国坂北群(郡)斎藤の余苗」や利仁将軍の子孫が帰依渇仰したといわれ、疋田以成とその一族が豊原寺の発展におおいに寄与している。おそらく斎藤氏は外護者の位置にとどまらず、平泉寺と同様、豊原寺内部にまで進出したはずである。 
両寺の中世的発展とその武装化は、在地武士団に支えられていた。中世平泉寺の重要な所領に吉田郡藤島荘がある。これは最終的には源頼朝の寄進によって平泉寺領となったが、斉明の兄弟に「藤島右衛門尉助延」という藤島を名乗る人物がいたこと、藤島荘は平家没官領とされており、内乱以前は平氏与党の支配下にあったらしいこと、内乱後、源頼朝が藤島荘を平泉寺に寄進していること、以上の事実からすれば、内乱以前の段階から平泉寺が藤島荘と関わりをもっていた可能性も高い。 
平泉寺における斎藤一族の覇権の確立の背後には、藤島荘の権益があったとも考えられる。さて天台座主慈円は、平和を回復するには仏法興隆の必要があるとして、建久6年(1195)から無動寺大乗院で勧学講を開催した。その費用を捻出すべく、慈円は東大寺大仏供養のために上洛していた源頼朝と交渉して、藤島荘から上がる年貢のうち1000石を勧学講に充てることを認めさせた。建暦2年(1212)の目録によれば、藤島荘の年貢4800石のうち、平泉寺の寺用が1000石、勧学講など延暦寺の仏事用途が2800石、本家である青蓮院得分が1000石となっていたし、綿3000両も勧学講と本家に充てられていた。 
藤島荘の年貢米の実に8割近くが延暦寺に奪われているのである。しかも平泉寺はこれ以外にも末寺役を負担していた。延暦寺の内部ではその後、藤島荘や平泉寺長吏職をめぐって梶井門跡と青蓮院門跡との間で紛議がおこり、建保2年(1214)には青蓮院門徒が離山する騒ぎとなっている(「天台座主記」)。平泉寺や藤島荘が天台座主の進止(支配)なのか、それとも青蓮院の別相伝なのかに紛争の原因があったが、結局、慈円・青蓮院側の主張が通ったようである。 
しかし文永2年に園城寺焼打ちを咎めて、幕府が座主最仁(梶井門跡)を改易して澄覚を補任したさい、藤島荘と平泉寺は座主澄覚の進止とされた(「新抄」)。これに対し平泉寺は、重い負担に不満をつのらせ、延暦寺の支配下から離脱の動きをみせるようになる。そして藤島荘などを押領するとともに、末寺役の納入を拒絶するようになった(「門葉記」)。建武4年(1337)平泉寺衆徒は新田義貞の追討に協力して藤島城に篭もるとともに義貞調伏の呪咀を行なったが、そのさい、平泉寺は延暦寺と争ってきた藤島荘の領知を北朝側に認めさせた(「太平記」巻20)。 
しかしその奪還は必ずしも容易に実現せず、これ以後も藤島荘は青蓮院の支配下にあったらしい(「華頂要略」)。しかしそのなかで延暦寺との本末関係は次第に実質的意味あいを失い、平泉寺は地域の有力権門寺院として自立し、その最盛期を迎えることになる。白山系寺院にはこのほかに、丹生郡大谷寺、今立郡大滝寺・長泉寺、坂井郡豊原寺・千手寺などがあった。なかでも豊原寺衆徒は僧兵として勇名を馳せており、平泉寺とともに越前を代表する大寺である。 
織田信長の焼打ちや明治期の神仏分離の影響もあって現在は廃寺となっているが、平泉寺と同様、故地には厖大な寺坊跡が残されている。15世紀中ごろに成立したと考えられる「白山豊原寺縁起」によれば、寛喜元年(1229)豊原寺は延暦寺と本末関係を結んで妙法院門跡領となっている。従来は園城寺や興福寺とも宗教的交流があったが、以後は山僧(延暦寺の僧)を学頭に迎えて天台宗への純化を図ったという。 
また嘉暦元年(1326)と至徳2年(1385)には平泉寺と相論となり、いずれが本寺であるかを争ったが、最終的に豊原寺の主張が裁許されたという。平泉寺との本末をめぐる同様の動きは、越知山大谷寺でもみえる。越知山は泰澄が白山を開く前に最初に修行をした霊地といわれ、平安後期の木像十一面観音像・阿弥陀像・聖観音像を伝えている。これは白山三所権現の本地仏としては最古の遺存例である。ところがこの越知山でも平泉寺の「本寺」であるとの主張が登場するようになる。 
その前提となったのは、越知山が泰澄の最初の修行地であり、また彼の入定地でもあるという伝承だが、泰澄伝のなかでこうした伝承が登場するのは鎌倉期の末になってからである。このころから大谷寺も白山信仰の主導権争いに名乗りを挙げたのである。越前の白山信仰は平泉寺を中心に展開したが、地域寺院としての自立化はむしろ寺院間の矛盾を顕在化させ、政治的・宗教的な葛藤を激化させることになった。  
白山信仰3
白山信仰の始まり 
霊峰白山(れいほうはくさん)は、富士山、立山(たてやま)と共に日本3名山の一つに数えられています。白山の秀麗(しゅうれい)な姿は、北陸、東海、近畿(きんき)の13府県から望むことができるといいます。白山がその存在をはっきりと現すのは、近くの山々が紅葉に染まる秋頃です。色とりどりの山々の上に、堂々とした純白の山が現れます。その姿には、人を簡単には寄せ付けない気高さが感じられます。 
そしてその姿は、桜が咲く頃まで変わりません。夏を挟んだ短い期間だけ頂上の雪は解けますが、頂上付近には常に万年雪(まんねんゆき)が存在しています。 白山は、一年の多くはその名のごとく白い雪に覆われています。平野から眺める白山は、はるか昔から人々のあこがれの対象であり、霊山信仰(れいざんしんこう)の聖地とされてきました。 白山の雪解け水は、手取川(てどりがわ)、九頭竜川(くずりゅうがわ)、長良川(ながらがわ)、庄川の4本の大きな川となり、山ろくの平野を潤しています。 
この水は、日々の生活水から稲作など農業を支える貴重な水ともなっています。そのため、永きにわたって住民達に命を与えてくれる水への信仰が深まり、その源流に存在する白山への信仰が始まりました。 また、海からもその姿を眺めることができます。日本海を航行する漁船(ぎょせん)や北前船(きたまえぶね)にとっては、白山の見え方や雲のかかり方が、航海(こうかい)の目印であり、天候を知る方法となり、大切な命の山と考えられてきたのです。 
神々の宿る聖なる山 
自然崇拝 
日本人は、古くからあらゆるものに神々の存在を感じて、「八百万の神(やおよろずのかみ)」を信じてきました。特に姿の良い山や岩場、樹木、池には神々が宿ると信じ、樹木の茂る空間は、神霊の籠もりやすい清浄な場と考えていました。そして、神の降臨する舞台として重視されたのが、山中にある泉や巨岩、巨樹などでした。 
仏教の伝来 
日本に仏教が正式に伝わったのは、6世紀中頃のことです。今から2500年前に釈迦(しゃか)が開いた仏教は、中国に伝わり様々な宗派を生みました。そして、それらが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を経由して6世紀中頃に日本に伝わってきたのです。6世紀末に推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう=君主に変わって政治を行うこと)となった聖徳太子(しょうとくたいし)は、積極的に中国の制度や文化や仏教を取り入れました。 
仏教は、宗教としての役割の他に政治的にも利用されたのです。奈良時代の日本では、国家が寺院を造り、そこで働く僧侶は国の役人のような存在でした。東大寺(とうだいじ)をはじめ、国々には国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんあまでら)が建てられ、そこでは仏教の教えについて学問的な研究が行われました。こうして、仏教は国を治めるために使われたのです。 
神仏習合と山林修行 
仏教が日本にもたらされると、日本に古くからあった神々をつかさどる信仰と仏教が融合し、発展していくことになります。奈良時代には神社に付属して神宮寺が建てられ、神の前で仏の教えであるお経が読まれました。こういった神仏習合(しんぶつしゅうごう)状態は、神仏分離政令が出される明治初年まで続いたのです。明治時代には神と仏が厳密に区別されたのですが、現在、再び神仏習合状態が見られます。例えば、家で仏壇と神棚を一緒にまつっていることもそのひとつです。 
また、仏教が伝わると、日常の生活を離れて山中で修行を行うことが流行し、多くの僧尼が山中に分け入りました。厳しい山林修行を行った僧侶には、天候を予知したり、病気を治す力があるとされ、こういった特別の力をもった山林修行者は特別な存在と考えられました。そして、山林修行者はさらなる霊験(れいけん)を求めて白山のような高い山を目指すことになったのです。 
泰澄大師伝説 
標高2702mの白山は、とても高い山です。純白の山頂は、神仏の宿る聖域であり、人が簡単には踏み込むことができない聖域と考えられていました。そこは、天に通じる空間、また、神や仏に最も近い場所と考えられたのです。そういった禁足地に初めて足を踏み入れたのは、越前の僧 「泰澄」でした。平安時代中頃に成立したと考えられる「泰澄和尚伝」には、白山開山を決意した泰澄が、養老元年(717)に母の生誕地である勝山市南部の地から白山の頂上に登り、御前峰、大汝、別山の三つ峰で、それぞれ神と仏の本来の姿を知ったことが記されています。泰澄が白山を開山して以後、そこは山岳修行の霊場、霊験あらたかな観音の聖地として発展していくことになります。  
三馬場と禅定道
三馬場 
石川県白山市の白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)に伝わる「白山の記(はくさんのき)」によると、天長(てんちょう)9年(832年)に越前、加賀、美濃の三方から白山への登拝道(とうはいどう)が開かれ、それぞれ信仰の拠点としての「馬場(ばんば)」が成立したといいます。「馬場」というのは、山に登るためにそこまで乗ってきた馬をつなぎとめておくための広場のことです。多くの人が集まり、にぎわう場所となり、馬場は信仰の拠点である寺院の意味をも持つようになりました。白山には越前馬場の平泉寺、加賀馬場の白山本宮(白山比盗_社)、美濃馬場の長滝白山神社の三馬場があります。 
禅定道 
この三馬場からは、「禅定道(ぜんじょうどう)」とよばれる白山の頂上を目指す参詣道(さんけいみち)が開かれました。「禅定」は、修行の到達点である「禅頂」、つまり白山の山頂を意味した言葉で、たくさんの人が禅定道で修行を行っていたのです。白山はそれまで、遠くから遙かに拝む 「遙拝地(ようはいち)」でしたが、泰澄大師(たいちょうだいし)による開山以後、登って拝む「登拝地(とうはいち)」へと変わっっていきました。3つの番場からそれぞれ白山の山頂へと続く道が開かれ、「三禅定道」と呼ばれるようになりました。
越前馬場 / 平泉寺 
越前番場(えちぜんばんば)の平泉寺(へいせんじ)が開かれたのは、養老元年(ようろうがんねん)(717年)のこととされています。白山登拝(とうはい)を目指した泰澄大師(たいちょうだいし)が母の生誕地である勝山市南部の伊野原(いのはら)を訪れました。そこで夢のなかでお告(おつげ)を聞いて、東の林の泉に行くと、そこで白山の女神を見たことが平泉寺のはじまりと伝えられています。この池は、現在、平泉寺白山神社境内の中心部から湧き出る御手洗池(みたらしいけ)と考えられおり、「平泉寺」という地名もここから付けられたとされています。 
平泉寺の歴史 
平泉寺が最盛期(さいせいき)を迎えたのは、中世(ちゅうせい)になってからです。当時の平泉寺は「48社、36堂、6000坊」といわれており、たくさんの寺社が境内に建ち並ぶ、巨大な宗教都市だったようです。平泉寺は当時、国内で最も大きな宗教勢力(しゅうきょうせいりょく)だった比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の傘下(さんか)に入ることで、この地方での支配力を強固(きょうこ)なものとしました。 
「平家物語(へいけものがたり)」や「太平記(たいへいき)」などの有名な書物に「平泉寺」が登場することからも、当時の勢力をうかがい知ることができます。源義経(みなもとのよしつね)一行が奥州(おうしゅう)へ落ちのびる際に平泉寺に立ち寄ったことも 「義経記絵巻(ぎけいきえまき)」に書き記されています。 
しかし、強大な宗教勢力となった平泉寺は、天正(てんしょう)2年(1574年)に一向一揆(いっこういっき)の攻撃を受けてすべて焼け落ちてしまいました。その後、再興(さいこう)に向いますが、かつての境内は10分の1程度となり、6000坊と呼ばれた多くの僧侶の屋敷跡は地中に埋もれてしまいました。さらに明治の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)によって平泉寺は廃止され、白山神社となりました。 
発掘調査が進む平泉寺 
平成元年度から始まった勝山市教育委員会(かつやましきょういくいいんかい)による発掘調査(はっくつちょうさ)では、かつての境内が東西1.2km、南北1kmの広範囲に広がることが確認されました。また、南側に広がる「南谷三千六百坊(みなみだに3600ぼう)」の跡では、川原の石を敷き詰めた石畳(いしだたみ)道や屋敷(やしき)を囲う石垣(いしがき)など、当時の建物跡がそのまま発掘されており、一大宗教都市(しゅうきょうとし)としての景観(けいかん)が浮かびあがってきています。 
現在、かつての境内全域が国の史跡・重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定されています。また、平泉寺白山神社を含む一帯は、白山国立公園(こくりつこうえん)にも含まれ、日本を代表する自然豊かな地域となっています。この他にも、旧参道(きゅうさんどう)が 「日本の道100選」、境内が「かおり風景100選」、「美しい歴史的風土100選」に選ばれるなど、数多くの選定を受けています。 
越前禅定道 
越前禅定道(えちぜんぜんじょうどう)は平泉寺(へいせんじ)の背後から白山への登拝道(とうはいどう)がのびていて、その全長は30kmとも40kmとも言われています。その道のりは、平泉寺から各宗教施設(しゅうきょうしせつ)を通って、白山の方向にほぼまっすぐに向かっています。 
このルートは白山を開山した泰澄大師(たいちょうだいし)が最初に切り開いた道として知られており、天正(てんしょう)2年(1574年)に平泉寺が一向一揆(いっこういっき)によって焼かれるまでのおよそ800年間、平泉寺僧を初め諸国(しょこく)の霊山(れいざん)を巡る修験者(しゅうけんしゃ)たちにより利用されていました。 
白山信仰と平泉寺 
「白山」という大山塊は、越前、加賀、飛騨の三国にまたがっていて、それぞれの登り口を、馬場(ばんば)という。馬場とは、明治までの日本語では「広い道路」というほどのことばである。三国それぞれの馬場には、白山を祭祀する社寺がある。越前馬場が、明治までの呼称である平泉寺(現在・白山神社)である。越前では白山の表道という意識があったために、とくに「白山馬場」と呼ばれていた。 
白山の山頂は中央の御前峰と、火山として古いという北の大汝峰、南に独立しているように聳える別山野三つに分かれている。 
御前峰の西北麓の千蛇ヶ池から流れ出る水は北に向かい、手取川となって金沢の平野を潤す。御前峰の北の、夏でも周囲に雪の残る翠池は庄川となって砺波の平野部へ流れる。別山の西南面の水を集めた石徹白川は九頭竜の流れとなり、越前大野の盆地を勝山市道に沿って西に向かう。やがて日野川、足羽川を合わせ、福井の平野部を北に流れ、三国港で河口となる。一方、別山の南東面の水は、長滝白山神社の側を流れて長良川となり、岐阜県金華山の北嶺を西に流れ、濃尾の大平野に出る。 
このうち、手取川は白山比メ神社、九頭竜川は平泉寺白山神社、長良川は長滝白山神社と、それぞれ結びつく。これが白山馬場(はくさんさんばんば)である。 
三馬場が開かれたのは、天長9年(832)という。ちょうどこの頃から修験者に導かれて、一般の人が白山に登るようになったといえる。泰澄が千日修行を終えた養老3年(719)から、宗叡など比叡山の僧侶が修行として登山した頃までは、岩の陰や洞窟などに寝泊まりして、生死の境を歩きながら登っていた。山頂に室堂ができて、一般の人も宿泊できるようになったのが、三馬場の開設の頃であろう。頂上から見ると、山越えの三方向への道が開けたことにもなる。 
三馬場のうち、越前馬場の中心が平泉寺白山神社であり、ここからの道を白山正面本道と称していた。江戸時代の神仏習合時代には、山頂を禅定(禅頂)と呼び、平泉寺が支配していた。 
「泰澄和尚伝」によると、霊亀2年(716)、泰澄は霊感を得て、養老元年(717)4月1日、白山に登ろうとして、大野のハコ川(現在の九頭竜川)の東、伊野原に至って祈念をした。 この伊野原という地名は、泰澄和尚の母が、伊野氏であることと関係し、現在の勝山市の猪野の地ではないかとされる。 
このとき霊神貴女が出現して「伊野原の東方の林泉の早く来なさい」と導かれ、ここで貴女は「我は天嶺にありといえども、恒に此の林中に遊び、此の処を以て中居と為す」と言ったという。 つまり白山山頂にいるのだけれども常にこの林中に遊び、ここを中居とするのだ、と。 
平泉寺白山神社の御手洗池の中島に影向石(ようごうせき)があり、十一面の古鏡が埋められているという。全国にある池沼奉納鏡の信仰とあわせ、池そのものが祀りの対象となっていたことを示している。 
平泉寺白山神社の成立には、この泉が重要な条件になっている。白山山頂の雪解け水が、この地に湧き出していると見られていたのであろう。古くから「平清水」とも言われ、 「本朝世紀」(平安末期、藤原通憲が編纂した未完の史書)久安3年(1147)4月13日の条には「社領字平清水」が見える。 現在の「平泉寺」の名は、「醍醐雑事記」(慶延著。平安時代末期から鎌倉時代初頭の醍醐寺に関する記録)長寛元年(1163)11月8日の官宣旨案や「百練抄」(平安中期から鎌倉中期までの編年体の公家方の記録。編者不詳)嘉応2年(1170)閏4月3日の条などに見えるのが早い例である。「ひらしみず」が徐々に「ひらいずみ」に変化して、「平泉寺」と名付けられたのであろう。 
越前一向一揆と平泉寺 
越前附中総社で平泉寺衆徒の攻撃をうける他阿上人一遍の跡を継いだ時宗2世の他阿真教が、正応5(1292)年に不忠総社で布教していると、平泉寺の衆徒が押し寄せて迫害した。 
強力な僧兵集団を背景とした白山平泉寺の動向は、しばしば越前騒乱の元凶となり、時の権力者の命運をも左右した。新田義貞や朝倉義景らは平泉寺にそむかれて非業の最期をとげ、文明7年(1475)、蓮如が去ったのちの吉崎御坊の破却にも、白山平泉寺の僧団がひと役買っている。 
しかし、天正2年(1574)に一向一揆軍の攻撃を受け、全山灰燼に帰して荒廃。その後、豊臣・徳川両氏の時代に再興が図られたが、昔日の隆盛を取り戻すまでにはいたらなかった。 
明治になって神仏分離令が発せられた折り、白山平泉寺は分離され、白山神社だけが残された。今も平泉寺白山神社の二ノ鳥居には「白山三所権現」の額が、また拝殿には「中宮平泉寺」の額が掲げられており、神仏習合の名残をとどめている。 
大変大きな富を誇った平泉寺は、領地を九万石・九万貫持っていました。 
そして平泉寺の中には48の神社、36のお堂、坊院(ぼういん)と呼ばれるお坊さんの家が6000建っていたといわれています。その建物の様子は、金や銀にきらびやかに飾り立てて、酒宴や歌声が一日中絶え間なく聞こえいたかもしれません。 
朝倉氏滅亡後の信長による越前支配は朝倉旧臣の前波長俊(のちに桂田と改姓)を一乗谷に「守護代」としておき、北庄三人衆(明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益、のちに津田元嘉・三沢秀次・木下祐久)がその目付となった。しかし翌天正2年正月に、富田長繁が桂田長俊を討つための兵をあげると、それに呼応して敦賀群をのぞく各地の地下人だちの一揆も蜂起した。 
人数三万以上とされる一揆勢は長繁とともに桂田長俊を討つと、加賀金沢より本願寺坊官である七里頼周を招いて総大将とし、この一揆が本願寺支配下の一向一揆であることを明白にした。2月には長繁やそのほかの武士たちも一揆勢に討たれ、ここに越前は「一揆持」の国となり、4月には大野郡平泉寺も一揆によって焼き滅ぼされた。 
本願寺は加賀一向一揆の歴史的教訓と信長に軍事的に対抗する必要から、越前一向一揆に対して強い統政策でのぞんだ。総大将として本願寺坊官の下間頼照(理乗)を派遣し、足羽郡司に下間和泉、大野軍司に杉田玄任、府中辺の郡司に七里頼周が任じられて、戦国大名と同じような支配体勢をとった。また国内の武士には朝倉氏時代と同じ所領支配権を認めている。 
蜂起した一揆の指導者は朝倉氏の本願寺門徒禁圧政策のもとでも信仰を守り抜いてきた道場坊主であったが、この道場坊主を中心とする門徒集団は番に編成され、大坊主と称される本願寺派有力寺院に奉仕する体制がつくられた。一揆蜂起後にあらわれる一七講や鑓講などの講の指導者も道場坊主であったろう。 
しかしまもなく本願寺は信長の侵攻にそなえて直接に門徒を掌握するため、道場坊主の支配していた番の門徒を大坊主の直参とし、これに不満をもち道場坊主や一揆指導者の百姓を謀殺した。こうした内部対立から国内は不穏な状態になったため、天正二年10月に本願寺・顕如は坊主・門徒に団結を求める書をくだしたり、北庄に御堂を建立する計画を発表している。 
しかし閏11月には吉田郡の門徒が下間頼照を討とうとして蜂起し、12月には足羽郡東郷の鑓官の人々が北庄の下間和泉を攻撃するなど、越前一向一揆は内部分裂状態になった。 
このころ信長を迎え撃つため木の芽峠の鉢伏城に立てこもっていた本願寺一家衆の専修寺賢会の書状によれば、前線の城から門徒の多くが脱走しており、また密告が横行し人々が疑心暗鬼の状態になっていたことが知られる。  
応仁の乱が始まり、戦国時代になると、越前でも朝倉氏(あさくらし)と斯波氏(しばし)・甲斐氏(かいし)が対立しました。斯波氏と甲斐氏は室町時代からずっと越前を支配していた人たちです。文明3年(1471)、斯波氏の家臣である朝倉孝景(あさくらたかかげ)は、力が強くなったので室町将軍足利義政(あしかがよしまさ)から越前国の支配を認められました。しかし、斯波氏と甲斐氏はこれに納得せず朝倉氏と対抗して戦いを繰り広げます。平泉寺もこの戦いに巻き込まれていきます。 
この戦いを勝ち抜いた朝倉氏は、文明13年(1481)越前を統一します。平泉寺も朝倉氏の支配下に入りました。そして平泉寺は朝倉氏の祈願所となりました。 
このような状態のままで天正3年8月に信長の攻撃をうけた一向一揆は内部からの離反者もでて、壊滅した。殺されたり奪いとられたりした人の数は、3,4万人に達したといわれており、山に逃げ込んだ人に対しても山狩りが行われ、徹底した殺戮が行われたのである。しかし、大野郡北袋(勝山市北西部)と加賀山内(手取川・大日川上流地域)の人々は越前一向一揆が鎮圧されたのちも共同して柴田勝家に抵抗している。彼らは天正8年にやぶれたが、加賀山内の16カ村はこのあと近代になるまで越前大野郡に属すことになったのである。 
80年ほどは小さな戦争はありましたが、順調に暮らしていました。しかし、織田信長が出てきて時代は大きく変わっていきます。天正元年(1573)、朝倉義景(あさくらよしかげ)は織田信長(おだのぶなが)に負けて一乗谷(いちじょうだに)から逃げていき、平泉寺の力を借りて、また信長に対抗しようとします。ところが、平泉寺は義景のライバルで大野を支配していた朝倉景鏡(あさくらかげあきら)と組んで、義景を裏切りました。 
義景は味方がいなくなり、大野で自殺してしまいました。 
そして平泉寺は、翌年の天正2年、越前国にいた一向一揆に攻め込まれて全て焼かれてしまいました。 
村岡山 
戦国時代越前勢力であった平泉寺は天正元年1573年一乗谷の朝倉義景を滅ぼした。 
逆臣景鏡を迎え入れ、また社寺での内紛をもあって加賀越前(志比)の一揆衆が平泉寺が討たんと来攻し、天正二年2月末日九頭竜川(滝波附近)で先陣を交えた。北袋(今の勝山)の一揆衆も壇ヶ端城(荒土町堀名)および中島(北郷町西妙金島附近)より、これが援護のため出陣したが敵軍の猛攻に敗れ島田将監らを大将とした一揆軍は壇ヶ端に引き返し城を築いて攻略の作戦と兵班を組んだ。 
そして平泉寺軍の監視所である村岡山と対陣一ヶ月半の四月十四日七三家(今の北谷)等の一揆衆は 
急遽対岡山を占領し壇ヶ端城と共に決戦の機を制していた。翌十五日、平泉寺軍は朝倉景鏡を大将とした全兵力八千を挙げて村岡山の奪還に出たが、一揆軍は激しく応戦。壇ヶ端城の一揆軍も志比方面の援軍を得てこれに加勢した。しかもこの援軍の、別動隊は暮見谷より本拠平泉寺の社院に火を放ったため出陣していた兵軍、この奇襲に狼狽敗し景鏡も遂に戦死(村岡小学校うら)した。この山は一揆軍が勝利を得たところから勝山と名付けられたが翌三年に織田信長の北陸征伐によって一揆軍は掃討され、越前は柴田勝家の領となり、勝山(村岡山)は甥の義宣の居城となった。 
その後、天正五年には義宣も一揆の残党のため討死(北谷小学校附近)その養子の勝安が城主となって同八年城を袋田(今の市民会館の地)に移しその地を勝山と称した。村岡はいまの勝山市の前身であり、山頂(301m)の城跡には御本丸や二の丸の跡と内堀・外堀がのこっており、山麗には人名や社寺名が地名として残っています。  
加賀馬場 / 白山比盗_社 
加賀禅定道(かがぜんじょうどう)の起点(きてん)となる加賀馬場(ばんば)は、現在「白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)」になっています。白山比盗_社は、白山市鶴来町三宮(つるきちょうさんのみや)にありますが、この場所は昔、三宮社(さんのみややしろ)があったったところです。15世紀末までは、手取川(てどりがわ)近くの安久濤ケ淵(あくどがふち)近くに「白山本宮」、あるいは「白山寺」とよばれる本来の加賀番場がありました。この地は、白山を開いた泰澄大師が白山の神からお告げを受けた場所とも言われています。 
白山本宮は、平安時代には白山七社(本宮4社、中宮三社)を擁する一大勢力を誇っていました。ところが、戦国時代に一向一揆の焼き討ちにあい、大きな打撃を受けました。さらに、江戸時代には白山をめぐる争いに巻き込まれ、白山の支配を逃してしまいました。その後、白山とその山麓は、幕府直轄領(ばくふちょっかつりょう)となり、実質、越前の福井藩が支配することになったのです。しかし、明治の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)によって、白山の山頂の仏教色が排除され、それに伴って三社や室の所属と管理が平泉寺から白山比盗_社に代わりました。現在は山頂部も白山比(しらやまひめ)神社の社領となっています。 
加賀禅定道 
加賀禅定道(かがぜんじょうどう)は現在、加賀番場(ばんば)の白山比め神社(ひめじんじゃ)から一里野(いちりの)までは、少し道を外れることもありますが、ほとんどが車道となっています。1987年に廃道(はいどう)となっていた一里野〜四塚山(しずかやま)までの禅定道が整備され復活しました。現在は一里野温泉から白山の山頂まで、18kmにも及ぶ登山道となっています。 
白山比盗_社2 
石川県白山市三宮町に鎮座する神社である。式内社、加賀国一宮で、旧社格は国幣中社。現在は、全国に2000社の白山神社の総本社とされる。現在の祭神は、白山比盗_社社蔵の 「神社明細帳」(明治初年)により、白山比淘蜷_(白山比盗_)、伊邪那岐尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)の三神を祀る。一般には白山(しらやま)さん・白山権現などともいわれる。創建は崇神天皇の頃とされる。元来は現在の加賀一の宮駅に隣接する古宮公園(安久濤ヶ淵に面する)の場所にあったが、文明12年(1480年)の火事の為に末社の三宮の位置(現在地)に遷座した。奥宮は、白山山頂の御前峰にある。神紋は、三子持亀甲瓜花。 
歴史 / 平安時代中期の9世紀頃になると、自然崇拝の山から修験者の山岳修行や、神仏習合思潮に彩られた霊場へと変質を遂げるようになり、加賀・越前・美濃の三方から山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に調えられていった。文献史料の中で白山の神が初出するのは、仁寿3年10月(853)「日本文徳天皇実録 」に加賀国白山比盗_が従三位に叙せられたというものである。 
10世紀中葉成立の延喜式神名帳では、加賀国石川郡十座の内、白山本宮が小社筆頭として扱われた。11世紀末、加賀国禅定道筋の白山系社堂(白山加賀馬場)の中心的存在であった白山本宮は、加賀国一宮となり、一国の神社を代表とする立場から、勧農を目的とした国衙祭祀を担う。 
久安3年4月(1147)越前禅定道筋の社堂(白山越前馬場)の中心である平泉寺が延暦寺末寺化の動きを示すと、同月に延暦寺山門別院となり、比叡山の地主神日吉七社をならい、本宮・金剱宮・三宮・岩本宮・中宮・佐羅宮・別宮による白山七社を形成した。加賀馬場において、白山本宮長吏は、白山七社惣長吏を兼帯し、他の六社の長吏と馬場全体を統括した。惣長吏は僧名に「澄」の通字を用いて真弟(実子)相続の結縁的な世襲制であった。 
白山本宮(白山比盗_社の当時の呼び名)は、平安時代中期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄えたが、室町時代中期以降は、白山本宮が鎮座する味智郷(みちごう)でも、富樫氏など武士の勢力が強くなり、白山七社の結び付きが弱まった。白山本宮は、洪水や火災に度々遭い、再建を重ね、文明12年(1480年)の大火で全ての社寺が焼失し現在の地に遷座した。 
これに先立つ文明3年、本願寺八世蓮如上人は、吉崎に道場を開き、北陸に浄土真宗を広めた。弥陀の本願を信じ、あの世の往生を願えという教えは、この世の幸せをいい、白山信仰に取って代わっていった。武士、農民からなる門徒集団は、長享2年(1488年)、加賀の守護富樫政親を金沢の高尾城に攻め滅ぼし、織田信長配下の武将柴田勝家が金沢御坊を攻め落とすまで、およそ100年間、加賀は「百姓のもちたる国」といわれ、中心が金沢へ移った。こうした一向一揆による加賀国支配に依って、白山の世俗的権力は衰微し、社頭も荒廃した。 
白山本宮の社頭は、近世加賀藩主前田家の保護を得て復興される。しかし、白山嶺上の管理を巡っては、江戸時代において越前馬場の平泉寺、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺(現 長滝白山神社)との論争が起きた。 
明治の神仏分離により、寺号を廃して延喜式神名帳に記載された社名である白山比盗_社に改称した。それまで、加賀・越前・美濃の馬場のそれぞれが白山信仰の中心地となっており、勧請元ということでは、むしろ美濃が最も多く、加賀は2番目であった。しかし、3社のうちで延喜式神名帳に記載されているのは加賀の白山比盗_社のみであるということから、ここが全国の白山神社の総本社とされ、越前・美濃はその下に位置する地方の白山神社のうちの一つということにされた。 
越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比盗_社の分霊社というように由諸を書き換えた。第二次大戦後は、越前平泉寺・美濃長滝の両白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗っている。  
美濃馬場 / 長滝白山神社 
美濃禅定道(みのぜんじょうどう)の起点となる美濃馬場(みのばんば)は、現在の長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)・白山長滝寺(はくさんながたきでら)です。主に、東海地方(とうかいちほう)の人達が白山へ登るための起点となっていました。明治の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)以前には、神社とお寺が一体となっており、 「白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうながたきでら)」と呼ばれていました。 
長滝寺は、泰澄大師(たいちょうだいし)が創建(そうけん)したと伝えられ、美濃地方の白山信仰の拠点としての役割をながく担ってきました。全盛期には、「六谷六院(6たに6いん)、神社仏閣三十余宇(じんじゃぶっかく30よう)、満山宗徒三百六十坊(まんざんしゅうと360ぼう)を」擁していたと伝えられており、「上り千人、下り千人、ふもと千人」と言う言葉が残っているように、多くの人でにぎわう場所だったようです。 
戦国時代になると浄土真宗(じょうどしんしゅう)の勢力が拡大し、多くの松寺(しょうじ)が改宗(かいしゅう)するなどして、長滝寺の勢力は衰えてしまいます。明治時代の神仏分離令で、長滝白山神社と白山長滝寺(現在の長瀧寺)に分かれることになりますが、現在でも神社と寺とが同じ境内にあり、 「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の姿を今に残しています。 
美濃禅定道 
かつての美濃禅定道(みのぜんじょうどう)は岐阜県の白鳥(しろとり)町にある長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)から白山の山頂へと続いていました。現在の登山道はそのうちの、石徹白(いとしろ)の大杉以降を歩くことが出来ます。古道そのままの禅定道といわれ、伝説の残る場所が多数あり、昔の人の足あとをたどることができます。  
白山の伝説・民話
泰澄の母のお話 
泰澄大師(たいちょうだいし)の母は我が子と共に、白山に登りたいと願っていました。白山は女人禁制(にょにんきんせい)の山なので、大師は「お母さんは絶対に白山に登ってはいけません。」となだめました。 
ところが母は言うことを聞かず、美濃の禅定道(みのぜんじょうどう)を登っていった大師の後を追って白山に入ってしまいました。 
母が石徹白(いとしろ)の道を進むと、神様がお怒りになり、雷を落とし、激しい雨をふらせました。それでも母は歩き続け、やがて「おたけり坂」と呼ばれる険しい上り坂にさしかかりました。すると神様はさらに怒って血の雨、槍(やり)の雨をふらせました。母はたまらず、おたけり坂の途中の岩の間で雨宿りをして激しい雨風をしのぎました。(雨宿りの岩屋) 
その後も、母はあきらめずに大師の後を追って登り続けましたが、いくつもの試練(しれん)を受け、ついに坂の途中で力尽きてしまいました。泰澄大師は仕方なく、石を割ってこの場所に母を閉じ込めてしまいました。これが「母御石(ははごいし)」で、石には大きな割れ目があります。 
四塚山の猫のお話   
昔、白山のふもとの尾添(おぞえ)村に、けちな婆さんが住んでいました。この婆さんはとても猫が好きで、3匹の猫を飼っていました。婆さんは猫に魚を捕まえさせては一つの皿で分け合って食べていました。猫たちも婆さんを慕(した)って、いつも一緒に白山の中を跳び回って遊んでいました。そのおかげで年をとっているのに若者のように体がとても丈夫でした。 
ある日、山の中で大蛇(だいじゃ)が現れ、婆さんに襲いかかりました。3匹の猫は婆さんを守ろうと、大蛇に飛びかかって戦いました。婆さんは猫が戦っているすきをみて、なんとかカマで大蛇を殺しました。そして猫たちはその蛇の肉を食べ、狼のように強くなったのです。婆さんも猫たちと同じ暮らしをしているうちに、手足にも毛が生え、顔も猫そっくりになってしまい、最後には本当に猫になってしまいました。 
「猫になったのなら仕方ない」と、婆さんは家を離れて山の洞穴に住むようになりました。山の中で猫たちと一緒になって悪さをしているうちにさまざまな力が備わり、終いには、雲をおこし、雨を呼び、空を飛べるようになってしまいました。 
そのころから、村では葬式(そうしき)があると雨が降り、棺桶(かんおけ)が盗まれるなど、いろいろな災害(さいがい)がおこるようになりました。困った村人たちは、越知山(おちさん)にいた泰澄大師(たいちょうだいし)の弟子(でし)の行者(ぎょうじゃ)に頼んで、魔物を退治してもらうことにしました。 
行者は三日間で四匹の猫をとらえてきました。そして、白山の北竜ヶ番場(ほくりゅうがばんば)に四つの石塚(いしづか)をつくり、二度と暴れないように封じ込めたのです。 
現在も北竜ヶ番場には四つの塚が残っており、この山は「四塚山(しづかやま)」と呼ばれています。 
蛇をとじこめた話 
昔、白山には悪さをする蛇(へび)がたくさんいました。毒をもった蛇にかまれるとたいへんなことになってしまうので、人々は蛇をおそれていました。 
泰澄大師(たいちょうだいし)は、白山へ登ってくる人たちが蛇にかまれていしまわないようにと、悪さをする蛇を白山の3か所に閉じ込めることにしました。 
泰澄大師は全部で3000匹の蛇を閉じ込めました。まず1000匹を越前禅定道(えちぜんぜんじょうどう)の途中にある「蛇塚(へびづか)」と呼ばれる場所に、穴を掘って埋めてその上に石をたくさん置きました。さらに1000匹を美濃禅定道(みのぜんじょうどう)から少し下った所にある「刈込池(かりこみいけ)」に沈めました。そして最後の1000匹を白山の頂上近くにある「千蛇ヶ池(せんじゃがいけ)」に沈め、万年雪(まんねんゆき)でふたをしました。 
泰澄大師のおかげで、その後は悪さをする蛇が少なくなり、安心して登山できるようになったのです。 
はくさんのわらじ  
白山のふもとの人達は白山が一番高い山だと信じて、ほこりに思っていました。あるとき、旅人がやってきて「白山と富士山(ひじさん)はどちらが高いのですか?」と聞きました。 
村人達はもちろん白山の方が高いと思っていましたが、富士山と白山に水を流す樋(とい)をかけて、どちらのほうが高いかを比べることにしました。 
ところが、いざ樋に水を流してみると、富士山から白山の方へ流れ出してしまいました。そこで、村の人たちははいていたわらじを脱いで、樋の下にはさみました。すると、流れていた水が止ったのです。人々は引き分けだと言って安心しました。 
そのときから、人々は白山の頂上ではいてきたわらじを脱いで積み重ねるようになったそうです。昭和(しょうわ)の初めごろには白山の山頂にわらじの山が残っていたと言われています。 
酒売りの婆さんのお話 
むかし、瀬戸(せと)という場所には怪しい術を使って人を惑わすとても欲張りな婆さんがいたそうです。この婆さんは酒を作って美女に売らせ、大もうけをしていました。 
婆さんはもっとたくさんの酒を売ってもうけようとたくらみ、その当時たくさんの男たちが修行(しゅぎょう)に励んでいる白山に登ってそこで酒を売ろうと考えました。婆さんはたくさんのカメに酒を入れて背負い、二人の美女を連れて加賀の禅定道(かがぜんじょうどう)から白山に登っていきました。 
白山は女人禁制(にょにんきんせい)であり、神様は激しくお怒りになりました。婆さん達が檜ノ宮(ひのきのみや)をこえたあたりで、「婆よ!神聖な場所を汚すな!」と神様が声が聞こえると、道がみるみる谷へと変わりました(しかり場)。 
婆さんは神様の声を笑い飛ばし、かまわず道をすすみました。すると怒った神様は、行く手にさらに大きな谷を作りました。こうして白山のなかで最も急な坂道のといわれる「美女坂」ができたのです。婆さん達はこの急な坂道を登り始めました。ところが、連れてきた美女達はついに坂の途中で石にされてしまいました(美女石)。 
それでも欲張りな婆さんは道を進んでいくと、大きな地響きが鳴り出し、大地が震えだしました。あまりにもすさまじい地震に、婆さんは背負っていたカメを落としてしまいました。カメは割れて持っていた酒は全部なくなってしまったのです(かめわり坂)。 
ついに婆さんは恐ろしくなって山を下りることにしました。しかし婆さんは道に迷い、山を下りることができず、結局最後には石になってしまったということです(婆石)。  
福井市清水の奈良・平安時代
律令(りつりょう)制度に基づく地方行政組織は国―郡―郷で、以後11世紀ごろまで続いています。丹生郡(にゅうぐん)には九つの郷があり、清水地域は賀茂郷(かものごう)に当たると考えられています。賀茂郷の遺跡として大森出村に鐘島(かねしま)遺跡があります。 
平安時代に編纂(へんさん)された「延喜式(えんぎしき)」の神名帳に賀茂神社が「雷(いかずち)神社」、片粕の白山神社(違う説もあります)が「大山御板(みたの)神社」として記されており、東大寺荘園(しょうえん)「椿原庄(つばきはらのしょう)」の開墾(かいこん)に賀茂郷の人が出ていることから、この頃には賀茂族の氏神「雷神社」がすでにありました。 
賀茂神社は賀茂氏が大和国鴨(かも)から分散した賀茂氏の一族が丹生郡に移り住んで、彼らの氏神を祭ったものが始まりだと考えられています。丹生郡一帯は丹生という地名のように赤土(丹色)に覆(おお)われており、この土の中に朱(しゅ)を採集する鉱物(辰砂(しんしゃ)といわれる硫化水銀(りゅうかすいぎん)を含む鉱物)が含まれており古代から朱を採集することが行われていました。 
古代人にとって朱は血液の色であり生命の源として、死者の体に塗って永遠の命を保つと考え、貴重品として尊ばれていました。竹生(たこお)には朱を採集する人が住んでいて、朱の神「ニウズヒメの神」を御祭神とする丹生神社を造営したと推測されます。越の大徳泰澄(たいちょう)大師は682年麻生津(あそうず)に生まれ、越知山(おちさん)や白山で修行をつんだといわれています。 
泰澄(たいちょう)大師入定(にゅうじょう)の大谷寺(おおたんじ)(座禅修行に入り、亡くなった場所)に近いので、清水地域には泰澄大師にかかわる伝説が多くあります。また、滝波(たきなみ)の五智如来(ごちにょらい)や笹谷(ささだに)の腹帯地蔵(はらおびじぞう)は行基(ぎょうき)(東大寺大仏建立(こんりゅう)の功労者として大僧正(だいそうじょう)の称号がおくられた高僧)ゆかりのものといわれています。 
椿原庄(つばきはらのしょう)[片山町・清水山町]奈良時代には、片山(かたやま)・新保(しんぼ)から南及び西側に広がる地域に東大寺(とうだいじ)の荘園「椿原庄(つばきはらのしょう)」、大森の出村付近には「賀茂郷(かものごう)」という集落がありました。聖武(しょうむ)天皇が東大寺大仏建立の発願(ほつがん)をしたとき、その費用のために、都に近くて広大な未開原野を持つ北陸の地が大規模な荘園として開拓されたました。椿原庄はその一つで、条里(じょうり)制がしかれていました。福井市では他に道守庄(ちもりのしょう)(旧社村)、糞置庄(くそおきのしょう)(旧上文殊・下文殊村)があります。  
鐘島(かねしま)遺跡[大森町、清水郷土資料館に出土品保管]出村(でむら)の鐘島(かねしま)遺跡は志津(しづ)川の護岸(ごがん)工事で発見された賀茂郷の遺跡で、木簡(もっかん)(字を書いた木の板)や陶器(とうき)、中国製の青磁器(せいじき)、木製の農具が出土しており、有力な豪族(ごうぞく)が住んでいました。 
正倉院(しょうそういん)文書(もんじょ)や平城宮(へいじょうきゅう)跡の木簡から、賀茂郷には佐味大長(さみだいちょう)、佐味磯成(さみいそなり)、宇治部公足(うじべきみたり)、宇治部荒浪(うじべあらなみ)、宇治部諸浪(うじべもろなみ)、土師古牛(はじこぎゅう)という名前の人物がいたことがわかっています。 
鐘島遺跡から出た土器に「真成」という人物名が書かれていますが、詳しいことはわかりません。また、鐘島遺跡の裏山には平安時代前期(8世紀末~9世紀)の山林寺院である明寺山(みょうじやま)廃寺が建てられ、仏像が安置されていたようで、多くの硯(すずり)が見つかっていることから、写経(しゃきょう)(お経を筆で写し書く)が行われていたようです。 
賀茂神社[加茂町]式内社(しきないしゃ)(平安時代に編纂された「延喜(えんぎ)式」に記載されている神社のこと)賀茂神社は大和国(やまとのくに)鴨(かも)から賀茂氏の一族が丹生郡に移り住んで、彼らの氏神の「ワケイカズチノカミ」を祭ったものと考えられています。現在の祭神(さいじん)は別雷神(わけいかずちのかみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、伊賀古夜比売命(いかこやひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)です。 
平安時代の終わりごろの寛治(かんじ)四年(1090年)には大森(おおもり)に京都賀茂神社の荘園「賀茂御祖領(かもみおやのりょう)志津庄(しづのしょう)」が成立するので、この頃に大森の賀茂神社を中心にした開発が進んだと考えられています。現在の大鳥居(おおとりい)は賀茂杉(かもすぎ)(賀茂神社の社地の山林で杉の大木が茂って「森」をなしていました。 
この様子を幕末の福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)公が「みゆき草子」に書いています。)で作られており、様式は両部鳥居(りょうぶとりい)で気比神宮(けひじんぐう)に次ぐ県内第二のもので、福井藩の儒学者(じゅがくしゃ)伊藤担庵(たんあん)筆の額が掲げられています。大鳥居から加茂内(かもうち)の真ん中をまっすぐに野口(のぐち)の柳が辻ため池付近まで平坦な道が続いていますが、ここはかって賀茂神社の馬場(ばば)で、京都の賀茂神社の例にならって流鏑馬(やぶさめ)が年中行事として行われていました。  
賀茂神社脇社(わきしゃ)祇園社(ぎおんしゃ)[加茂町]賀茂神社の両脇(りょうわき)に祇園堂があります。江戸時代の寛文(かんぶん)9年(1669)に造営されたもので、社殿(しゃでん)部の三方を回廊(かいろう)で囲む中世の神社建築の様式が残っています。 
木造大日如来(だいにちにょらい)坐像(ざぞう)と五智如来(ごちにょらい)[滝波町、金剛界(こんごうかい)五智如来堂]滝波(たきなみ)の金剛界五智如来堂には平安中期の金剛界(こんごうかい)大日(だいにち)如来(にょらい)坐像(ざぞう)が安置されています。奈良時代、行基(ぎょうき)によって開かれたという高野山(たかのさん)薬王寺(やくおうじ)に安置されていたと伝えられている仏像です(五智略縁起による)。 
大日如来は密教(みっきょう)では最高位の仏で、滝波の大日如来は手が智拳印(ちけんいん)を結んでいるので金剛界大日如来です。頭は天台(てんだい)や真言(しんごん)の密教(みっきょう)の大日如来とはちがい螺髪(らほつ)という巻貝(まきがい)のような髪型(かみがた)をしているので、雑密(ぞうみつ)という密教の一派の影響を受けて造られた大日如来です。 
また、このような大日如来の分布は限られた地域にしかなく、越前と大陸との交流が考えられます。大日如来は他の四体の四方仏(しほうぶつ)とともに祀(まつ)られることが多く、ここでも大日如来を中心に、向かって右側に薬師如来(やくしにょらい)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、左側に釈迦如来(しゃかにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)が配置され、全部で五体の如来が配置されており、これを五智如来といいます。 
滝波では「ごっつぁま様」といわれ五智如来にまつわる昔話(「清水町のむかしばなし」清水町民話編集委員会編)も残っています。見学は滝波町に申し込みが必要です。 
腹帯地蔵(はらおびじぞう)菩薩坐像(ぼさつざぞう)[笹谷(ささだに)町、腹帯地蔵堂]笹谷(ささだに)の腹帯地蔵堂に安置されています。奈良時代、行基(ぎょうき)によって開かれたという南朝寺(なんちょうじ)(南北朝(なんぼくちょう)時代に南朝(なんちょう)に味方したのでこの名がついたと伝えられている)に伝わった平安後期の仏像で、明治時代に南朝寺が壊されるときに笹谷に移されました。 
寄木造(よせぎづくり)で、整ったお顔や穏やかな作風から都周辺で製作されたものと考えられています。下着の結び目が見えることから腹帯地蔵といわれ安産の地蔵として信仰されています。見学は笹谷町(乗泉寺)に申し込みが必要です。  
 
安国寺
建武4年(1337)ころ、足利尊氏(たかうじ)直義(ただよし)の兄弟は夢窓疎石(むそうそせき・鎌倉末南北朝時代の禅僧、天龍寺を建立)のすすめによって、全国66国2島に一寺一塔を造立する大願をおこした。安国寺利生塔(りしょうとう)の造立である。ただし安国寺利生塔の呼称は、貞和元年(1345)に光厳院(こうごんいん)の院宣(いんぜん)を得た後に称されるようになったものである。 
仏舎利(ぶっしゃり)を奉安し、後醍醐(ごだいご)天皇をはじめ元弘の乱(鎌倉幕府討伐のために後醍醐天皇が企てた乱)以後の南北朝争乱の戦死者を弔うためといわれている。しかし他方では新興の禅宗勢力を利用して民心を収攬(しゅうらん)するという目的や、禅宗五山派の地方発展の拠点にするという宗教的な目的もあったという。建武5年(1338)の和泉国(大阪府)久米田寺の利生塔造立を最初として、全国的には貞和年間(1345-49)ころまでに造立設定されている。 
新たに造立された寺は少なく、大半はそれまであった寺を安国寺としている。66国2島に一寺一塔を設置するとあるが、実際には寺塔両方を備える国は10か国だけであった。九州では筑後・日向・薩摩の3国である。残りは利生塔だけの国が4か国で、大半は安国寺のみの設置であった。 
南北朝時代も末期になると、安国寺利生塔設立の機運はうすれ、足利義満が将軍となるころ(1370年ころ)には全く有名無実のものとなってしまう。義満はむしろ五山十刹(さつ)の官寺の制を強化充実する政策をとっている。このように安国寺の設置がほとんど不要になったと考えられる時期の応永年間(1394-1428)に開かれたと伝えられるのが、豊後の安国寺である。 
現在国東町大字安国寺にある太陽山安国寺がそれで、「豊後国志(ぶんごこくし)」「豊鐘善鳴録(ほうしょうぜんめいろく)」などによると絶海中津(ぜっかいちゅうしん・室町初期の禅僧、漢詩文にすぐれ五山文学の中心の1人)が開いたとある。もし絶海中津であるとするならば、彼の死去する応永12年(1405)までの間の創設ということであろうか。しかしここで問題になるのは、全国的に安国寺の開設が不要となった時期になぜ豊後の安国寺が開かれたかということである。 
南北朝時代の国東の地に覇を唱えた田原氏の動きからそれを追ってみる。田原氏の祖・泰広(やすひろ)は、鎌倉時代中期に田原・別符(べっぷ・大田村)の地頭職を手に入れ田原氏発展のもとを築く。2代基直(もとなお)には2人の子供がいた。兄・盛直(もりなお)は沓掛城(大田村)を築き、沓掛田原氏の祖となり、弟・直貞(なおさだ)が本流を継ぐ。その子貞広は観応2年(1351)飯塚城(国東町)を築きここに移っている。いわゆる国東田原氏である。 
彼等は南北朝の争乱では北朝方につき、足利尊氏の信頼を得ている。文和2年(1353)貞広(さだひろ)が針摺山(はりすりやま)で戦死すると、尊氏は貞広の父直貞に感状を出すほどであった。貞広の妻・無伝仁公尼は、無著(むちゃく)禅師を請じて泉福寺(せんぷくじ・曹洞宗国東町)を開き、子供の1人に南溟(なんめい)禅師がいることなどからみて、貞広も禅宗にはある程度の理解を持っていたと思われる。南溟禅師は今川了俊(いまがわりょうしゅん)の援助によって貞永寺(ていえいじ・静岡県大浜町)の再興を行っている。 
同寺は貞永元年(1345)の開創と伝えられ、遠州安国寺に指定された寺である。また当時豊後の臨済禅の中心であった万寿寺(まんじゅじ・大分市)には、たびたび高僧の来訪があり、中巌円月(ちゅうがんえんげつ・南北朝時代の禅僧で漢詩文にすぐれ五山文学の中心の1人)などは国東の地にも足を運んでいる。以上のようなことから考えて、貞広自身の禅宗への理解の深さと尊氏らの安国寺造立の趣旨とが重なり、豊後の安国寺創建は貞広の飯塚城築城とほぼ同時期の観応2年ごろということになろう。それでは「応永年中」に開くという伝えは根拠のないものであろうか。 
永和元年(1375)無著禅師が泉福寺を開くと、多くの弟子が集まる。彼等は次第に国東半島西部から豊後北部豊前地方に寺を開いていく。新たに寺を作るのではなく、衰退した天台宗寺院に入るという例も多かった。そのピークが「応永年中」だったのである。田原氏は貞広の子・氏能(うじよし)のあと勢力は衰えていく。安国寺も外護(げご)者の勢力縮小とともに十分な活動もできず、応永年間に再興をはかったのが「応永年中」に開くということになったのであろう。すなわち、応永年中は豊後安国寺の再興の時期なのである。 
安国寺には県指定有形文化財の、木造伝足利尊氏坐像一躯が安置されている。もと京都山科の願王山地蔵寺に安置されていた像である。康永年間(1342-45)尊氏が開いたと伝えられる地蔵寺は、明治11年(1878)廃寺となり本像は同地の華山寺に保管される。明治39年に時の安国寺住職後藤宗旭師が、同寺から譲り受けている。檜材の寄木造で彩色が施されている。総高92p。束帯を着け冠をいただき、笏(しゃく)を持って安坐する姿である。表現様式が著しく類型化していることから、室町末から桃山時代ごろの作といわれる。
備後・國分寺の歴史 
國分寺についてお話しを申し上げます。 
國分寺は皆さんご存知の通り、今からおよそ1270年ほど前、天平13年、741年に聖武天皇が、國分寺の詔という勅令を発せられまして出来たお寺です。全国66州、それに島に二つ、都合68の国に國分寺が出来て参ります。当時は今のように日本の国という観念がありませんで、それぞれ各国でバラバラに暮らしていた。 
それが、國分寺の詔の100年くらい前に大化の改新という大改革がありまして、中央集権体制となって、都を中心に一つの国にしていこうということになります。その50年後には大宝律令が制定されて中国をまねて律令制度という国の統一した制度によってまとめていこう、そのために各国に國分寺を造り、中央には奈良の東大寺を造って、人々の心を中央に向けて国を統一する礎とされたわけです。ですから、國分寺は、鎮護国家、それに万民の豊楽を祈願するというのが仕事でした。 
備後國分寺は、皆さん今参道を歩いてこられました入り口に南大門があり、古代の山陽道に面していた。少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂があった。金堂は、東西30m、南北20m、七重塔は、基壇が18m四方であった。講堂は東西30mあったと、昭和47年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。 
これは、奈良の法起寺式の伽藍であった。また、寺域は600尺四方、およそ180m四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には12の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。 
当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約5mの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われますが、当時の國分寺の中心には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経10巻が七重塔に安置されており、正式な國分寺の名称が「金光明四天王護国の寺」ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。 
それは、護国経典として、とても当時珍重されたものでもあります。で、その「紫紙金字金光明最勝王経10巻」、今どこにあるかと言えば、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、ここから持ち出されて、沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されております。国宝に指定されています。 
その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。 
おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたであろう。4年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。 
室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す、江戸時代には、延宝元年、1673年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、2年前ですか、文化財となっております。 
そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種候の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、人の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍ということであります。元禄7年にこの本堂が出来ました、今から310年前のことです。 
それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。 
それが仁王門前の詩碑に刻まれておりますから、帰りにでも、よくご覧下さい。それで、茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時の文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたのであります。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。 
國分寺の変遷を通しまして、このあたりの歴史にも触れお話しをさせて頂きました。当時の人々は今の私たちには想像も出来ないほどに、目に見えないもの、大きな私たちを支えてくれている存在に深く感謝とまことを捧げるために、このような立派な建物をお造りになった。その御心についてもどうか思いを馳せながら國分寺を後にして頂ければ有り難いと思います。本日は、ご参詣誠にありがとうございました。  


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明智光秀
享禄元年?-天正10年6月13日(1528-1582) 戦国時代、安土桃山時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。仮名は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。惟任光秀。 妻は、妻木煕子。その間には、嫡男・光慶(十五郎)、織田信澄室、細川忠興室・明智珠(洗礼名/ガラシャ)がいる。 
清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は享禄元年(1528)と大永6年(1526)、また「当代記」の付記による永正12年(1515)という説もある。場所は岐阜県可児市明智の明智城、山県市美山出身という2つの説が有力とされる。また恵那市明智町の明知城という説もある。 
青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名の斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556)道三と義龍の争いの際、道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉氏に仕えた。なお、 「永禄六年諸役人附」に見える「明智」を光秀と解し、美濃以後朝倉氏に仕えるまでの間、13代将軍足利義輝に仕えていたとする説もある。また、今川氏・毛利氏には仕える寸前までいったとされる。 「信長公記」は光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。 
足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触を持った。朝倉義景の母は若狭武田氏の出であり、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられることから、義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされることから、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったともいわれる。  
物語「光秀と称念寺 縁の段」 
美濃国守護の事/明智入道宗宿が事 
よくよくと日本や中国の伝記から国家の興亡や人の存亡を考えてみると、ただこれは人の心の善悪によってその分岐点で別の道を進んでいって、終には盛衰・吉凶が決まってしまう。天は良い事をする人には幸いを、悪い事をする人には禍を与える。これは必然の道理であって今も昔も日本でも中国でも違った事はない。 
天道は、本当に畏るべきものだ。道理をわきまえない人は良くない事をすると身に禍が降りかかってくる事が分からない。それどころかその危うさを軽く見て、その亡んでいくさまを楽しんで、他人が諫言してくれることを鬱陶しくおもう。例えて言えば、病気になっているのに病院に行かないようなものだ。それがむしろ自分の身を亡ぼしていくとも知らない。悲しいことだ。 
ここに昔にさかのぼって美濃国の国主の土岐氏の先祖を辿ってみると、源頼光から数えて七代目の子孫源光基の子息土岐光衡という人がいて彼は文治年間に源頼朝卿から美濃国の守護職を賜った。そしてこの国に居城を移した。光衡から数えて五代目の土岐頼清は足利尊氏公の時代まで美濃国を治めてその子孫は繁栄して嫡子の土岐頼康、次男の明智頼兼、三男の揖斐頼雄、四男の土岐頼忠そのいずれも分家相続を行った。 
その後土岐頼忠の六代目の子孫土岐芸頼の代になって各々の分国を治める政道はそれまでにないものとなった。世は戦国時代。隣国が計略を廻らして美濃国をうかがわないということは無かった。この頃、土岐家の家臣に斎藤竜基というものがいた。日頃から伊尹・召公の志を学び、韓信・張良の兵術をわきまえて、不正を正して、民をいたわったので他の家臣を始め主家土岐一族に至るまで主君の芸頼の愚かなこと歎き、美濃国が他国に奪われるのではと悲しんでいたた。 
そのため、美濃国民は皆竜基に従ったので美濃国は無事に治まっていた。その後竜基は出家して道三と号した。その子息義竜が道三に引き続いて美濃国を治めたので国民は平和な国になったと誇りに思った。そういうところに、美濃国が傾いてしまう原因の一端があったのであろうか。義竜は常日頃から嫡子たる竜興を差し置いて次男の竜重や三男の竜定を可愛がり、ゆくゆくはこの二人に斎藤家を譲ろうと思うといっていたた。 
それを知った竜興は立腹して親子間に対立がおこり、とうとう弘治2年の夏に竜興は義竜が狩にでる隙を窺って弟二人を偽って適当な理由で呼んで家来の日根織部と長井助右衛門に命じて殺害させた。その後井の口の因幡山の本城まで取って返して父に対しての謀反の意思を表明した。義竜は狩り場においてこのことを聞き、無念この上なしと思ったけれども突然のことだったのに加えて家臣の大半が竜興の下についてしまったためどうしようもなく婿の尾張国主織田信長に援軍を依頼したがなにぶん遠いためうまく行かなかった。 
義竜は寡勢で鷺山というところに陣を構え、井の口の城に向き合って親子の合戦を行ったけれどもついに衆寡敵せず、同年4月20日享年48歳にて息子の竜興のために討死させられてしまったことはいたましいことだ。 
そのころ義竜についた家臣の明智光安という人物がいた。彼は明智頼兼の七代目の子孫の明智光継の次男で兄の光綱が早死にした後、東美濃の明智というところに居城を構えていたが、土岐家が逼塞した後は斎藤道三に従っていて特に情けをかけられていた。義竜とも同じく懇ろだったので君臣水魚の思いだったところに、今度の竜興が親の義竜を殺してしまった事を怒って明智の館に篭城した。 
竜興はこれを聞いて長井隼人佐を大将として二階堂出雲守、遠山主殿助、大沢次郎左衛門、揖斐周防守、舟木大学、山田次郎兵衛、岩田茂太夫をはじめとして総勢三千騎余りを発し、同年8月5日に明智城に押し寄せ昼も夜も無く攻め立てた。城内でもかねてからこの日ある事を予期し待ち受けていたので勇敢な士卒、騎馬武者達は何度か城外へ打って出てここが死に場所と必至で防戦した。 
しかし、元々光安は一万貫の領主だったため城内に篭った兵は僅かに三百八十騎、義ということを頑なに守る勇敢な兵とは言え、度重なる合戦で次々に討たれていって残る兵は少なくなってきたため、光安が必死に督戦してもこれ以上は持ち堪えられなくなった。そのため同年9月26日の夕刻に弟光久と一緒に華やかに討死にをして後世に名を残した。同じ時に光安は甥の光秀も一緒になって討死にしようとするのを光秀の鎧の袖を掴まえて言うには 
「それがしは亡君の恩に報いるためにここに殉じる。しかしそなたはここで死ぬべき身ではない。生き延びて家名を再興してもらいたい。それこそが先祖への孝行となるのだから。そのうえ光秀は明智家の嫡孫でもありまた殊の外その勇才は優れた人物で並みの人とも思えない。そこで私の息子光春と甥の光忠をもどうか連れていってもらいたい。そしてどのようにでも育ててきっと明智家を再興してもらいたい。」 
としきりに諫言されたので光秀はその意を汲んで城を去るほか無くなった。そして一族を伴って涙を流しながら城を抜け出し、郡上郡を経て越前の穴馬というところに一族を落ち着かせ、自分は諸国を廻った後に越前に留まって太守の朝倉義景のもとに仕えて五百貫の領地を授かった。  
越前従り加賀一揆を鎮むる事 
そうしているうちに月日は流れ永禄5年秋、加賀の人民が一揆をおこして越前の大名朝倉義景の命令を聞かなくなった。そもそも加賀・能登・越中は以前から一揆が蜂起して一向宗の本山摂津国大坂の本願寺に随って勝手にしだしたため、先の弘治元年に越前から朝倉宗滴を大将として数万騎の兵を遣って数ヶ月に及ぶ合戦を経て手取川を国境として半国に及ぶ地域を越前の領土としていた。このように北陸では戦時下にあったため、米穀が京都に上らなかったので朝廷の愁いははなはだしかった。 
このため、将軍足利義輝は天皇のお考えを伺って、将軍から命をうけた大館左衛門佐、武田治部少輔が越前まで赴き朝倉家と本願寺の争いを収めて朝倉義景の娘を本願寺の跡継ぎ教如とめあわすようにと詰問した。両者はその意に従って和解した。このため加賀を本願寺に返させた。これより暫くは平穏になっていたところにまた、加賀の悪党達が納米を大坂に運送せずに好き勝手にしはじめたので、教如の父の顕如上人から朝倉家へこの事の経緯を弁明してきたため、加賀にその意を伝えたが聞き入れなかった。 
それどころか柏野、杉山、倉橋、千代などというところに要害を造って国を往来する荷物を理不尽にも奪い取るようになった。このため、皆義景の下に訴えてきて歎いたのでこれは放置できないと北庄城主の朝倉景行を大将として青蓮華景基、野尻主馬助、黒坂備中守、溝江大炊介、武曽采女、深町図書、細呂木薩摩守以下都合三千八百余騎が加賀へ向けて出発して月津、御幸塚、庄、安宅、敷地に陣取って一揆方へ使者を送り、 
「先年の約束を破って大坂に納米を上らせないとはどういうことだ。それどころか荷物の通行を妨害するということはとんでもないことだ。そのため事の是非をはっきりさせるためにここまで来た。おまえ達の考えによっては厳しく征伐するつもりだ。」 
と言わせると石川郡尾山の一揆の大将坪坂伯耆という者からの返事が来て 
「御使者の言う所は分かりました。おっしゃるとうりに昔の約束に随うべきだとは思いますが、皆と相談すのでそれまで暫くお待ちいただけないでしょうか」 
と言ってきた。しかしどうも怪しく思ったのでそれぞれの陣所を堅く閉ざしてしばらく様子をみていたところに青蓮華景基の陣所がある御幸塚の東の方にひとつの気が立って南にたなびきだした。皆これを知らなかったが青蓮華景基に従っていた明智光秀はこの軍気に気づき急いで景基に言上していうにいうには 
「東の方に一つの気が立っていて南を侵しています。これは戦闘を始めようとするときに起こるものです。ゆめゆめ御油断なされませぬように。」 
景基はすぐに光秀を連れて高台に上り軍気を見分し、諸隊に一層固く守るように通達した。そうしていた所に9月20日の夕方になって一揆勢が雲霞のごとく殺到してきた。景基は前からその陣の外に堀や柵を構えていたため全く騒がずに静まり返って待ち受けていたところ、先陣の一揆の大将金剛寺三郎右衛門という者が一揆勢二千を引き連れて太鼓を打って南方から攻めてきた。 
味方の兵が非常に近くまで敵を引き寄せたところに明智光秀、明智光春、明智光忠を筆頭に優れて鉄砲の名手が五十人、櫓に登り鉄砲を釣瓶落しに撃ちかけたところ、一揆勢は鉄砲という言葉は知っていてもどのようなものか知らなかった。そのため草のように立ち並んでいたのでどうしてこらえ切れようか。一向宗徒三百余人将棋倒しのように為す術も無く打ち倒された。一揆勢はこれを恐れて矛先を変えて東の陣に押し寄せたがそこを守っている中に朝倉家きっての大力の強者、真柄直隆とその息子真柄隆元、並びに随伝坊がいた。かれらは逃げ腰の一揆勢がやってきたのをみると三騎のみで木戸の小門から打って出た。 
この真柄親子はこの当時日本に並ぶもの無き大力無双のもので、愛用の太刀は越前の千代鶴という鍛冶の有国と兼則という者達と相談して七尺八寸(約2m34cm)に作らしたもので「太郎太刀」と名づけた。従者4人がかりで担ぐ大太刀なのを直隆は軽々と引提げた。その子隆基も「次郎太刀」という六尺五寸(約1m95cm)あるものを左肩に軽くのせ二番手に続いた。 
随伝は樫棒の一丈二尺(約3m60cm)あるものを六角にして筋金を渡して手元は丸く拵えたものを右手の脇に携えて声々に名乗り、相手と打ち交わすこともなく唯三騎のみで敵の大勢の中に割って入り縦横無尽に斬り回って四方八方輪違いに駆け破って八方に追いやって息つく暇も無く戦い続けると、向かってくる一揆勢はあっという間に八十余人を薙ぎ伏せた。この勢いに辟易して一揆の残党はそこかしこ突っ立って一息入れている。その有り様を明智光秀は一見して 
「今こそ討って出る時です」 
と青蓮華景基に申し上げれば青蓮華景基は 
「それであれば皆討って出よ」 
と下知し、赤塚、安原、野坂、立田、河崎、磯部などいう者達を先陣として精鋭五百騎が柵門を開いて槍の穂先を揃えて喚声を上げてどっと討って出ればもともと戦意を失っていた一揆勢は一支えもできずに皆我先に逃げ出した。逃げる一揆勢を六、七町(約650〜760m)も追っていった頃、光秀はまた青蓮華景基に向かって 
「「逃げる敵を追うは百歩にすぎず」とは兵書にも有りますれば、これ以上の長追いは無益であります。先遣軍よりも敵本軍が重要であります。」 
と申し上げれば青蓮華景基はそれもそうだなと思われたようだ。法螺貝で引揚の合図のを上げさせたので追討をしていた兵は各々要害に引き返してきた。この日の戦闘で討ち取った首級は七百五十と記録された。こうして加賀の一揆勢はこの御幸塚の一戦に敗北した後、全く変わってしまった。 
総大将の朝倉景行のいる月津の陣に降参して今後は一切いわれることに背くことはありませんとの証人と共にいろいろと詫び言を言ってきたため屋形の朝倉義景に窺いを立てて一揆勢からの人質を取り決めた後、遠征軍は越前に凱旋した。さて、この度の加賀役にて戦功が有った者についての論功行賞が行われた。真柄親子はこの度の働きこれまでにもないものとして今北東郡において千貫の所領を加えられた。明智光秀は敵が寄せてくる気を察して、特に鉄砲で多数の一揆勢を打ち倒してその上軍配への申し条が何れも的を得ていたと思われるので朝倉義景より感状を賜り、また褒美として鞍付きの月毛の馬を引いてこられた。その他の勇士にもそれぞれ賞が与えられた。  
明智光秀鉄砲誉事/諸国勘合の事 
こうして、朝倉義景の威勢は日を追って盛んになっていったので加賀のことはいうに及ばず、能登・越中までも威令下に置くようになった。さて又、若狭の武田義統も 
「私もその縁に連なるものであれば、朝倉家の幕下に属したい」 
と敦賀の郡代朝倉景恒を通じて懇望してきた。西近江や北近江の者達も越前に随う意向を表してきたために、いよいよ一乗谷は繁栄した。この朝倉家の先祖を溯ると人王三十七代の孝徳天皇の皇孫表米宮の御子荒嶋のといわれる方に行き着き、この方が但馬国の太守として朝来郡に居られて日下部氏の先祖となった。この荒嶋より二十二代目の裔の朝倉広景は斯波高経に従って延元の頃越前にやって来て坂南郡本郷の黒丸城を居城とした。 
この広景から家景まで六代の間は斯波武衛家の家臣であったが、教景の孫家景の嫡子敏景が(応仁の乱で)戦功が有ったので時の将軍足利義政から越前を自領として認めてもらい、足羽郡一乗という所に城塞を築き、文明3年5月21日に黒丸城から始めてここ一乗谷に移り敏景・氏景・貞景・孝景・義景まで五代百余年、掟を守り、武威は盛んにして隣国までもその勢力下に置いたので諸人は安心して暮らしていけた。そうしているうちに迎えた永禄6年の夏、義景は明智光秀を召され 
「そなたの事は去年の加賀一揆勢との一戦のときに鉄砲にて大勢の敵を撃ち倒して功名を挙げたと聞いた。鉄砲などというものは昔はなかった。永正の頃に異国から始めて我が国に入ってきたとは聞いているが近年まではめったに見る事の無いものであったのに、その方が鉄砲で名声を挙げたのは感心な事である。されば近日中にそなたの鉄砲の腕前を見てみたいものだ」 
と言われた。光秀は畏まって承り、諸役奉行の印牧弥六左衛門と相談して安養寺の側の西の馬場の辺りに的を設置してそこから北に向かって二十五間(約45m)の所で構えた。そうして義景がお出でになれば、城内の侍も多数付き随ってきて貴賎問わず群集してきた。即ち一尺(約30cm)四方の的を立てて4月19日の巳の中頃(午前10時頃)から撃ち始めて正午を告げる貝の音が吹かれる頃に百発の射撃を終了した。 
黒星(中心)に当たったのは六十八発、残り三十二発も的には的中していた。即ち百発百中と言うわけで、見物人は皆感嘆した。その後義景は光秀の才能の程に感心したのであろうか、百人を選抜し鉄砲寄子として光秀に預けたので光秀は秘術を尽くして鉄砲指南を行った。 
さて、ある時光秀に向かって義景が言われるに 
「汝は軍鑑鍛練のために天下を廻国して各家の軍配方法を調べてきたと聞いている。昨今日本は戦国の世であれば、もっともなことだ。兵法修行してきた所を遠慮無く言ってみるがよい。」と。 
光秀は承り、 
「申し上げるようなものでも有りませんが、御意には逆らえませんので憚りながら申し上げます」 
と言って義景の寵臣鳥居兵庫助に向かって語るに 
「それがしは去る弘治2年の秋、美濃国より当国にやって参りまして、幸い長崎の称念寺に所縁の僧が居りました故称念寺に妻子を預け置き、同3年の春頃加賀・越中を通り越後春日山へ伺候いたし上杉謙信の勇健な有様を見聞いたしました。 
その後、奥州会津の葦名盛高の城下を経て同じく奥州大崎の伊達輝宗、同じく奥州三閉森岡の南部高信、下野に宇津宮広綱、同じく下野の結城晴朝、常陸に佐竹義照、下総に酒々井の千葉親胤、安房館山の里見義頼を訪ね、相模小田原の北条氏康の坂東を随えさせている知謀のほどを察して、ここから甲斐に向かい武田信玄の武略のほどに納得して、駿河の今川義元、尾張の織田信長、近江観音寺に佐々木義賢を訪ね、ここから京に上り公方義輝様の治世を窺って、 
和泉堺の三好義長、播磨三木の別所友治、備前岡山の宇喜多直家、美作高田の三浦元兼、出雲富田の尼子晴久を訪ね、安芸の広島に毛利隆元の数カ国を治める猛威の行いに一見させられ、さて硫黄灘を豊後国に渡海いたして府内の大友義鎮、肥前の竜造寺隆信を訪ね、竜造寺旗下の鍋嶋・諫早・神代などという城下を過ぎて肥後は宇土の菊池義武を訪ね、薩摩鹿子嶋に島津義久の弓矢のほどを察し、ここから船に乗り海路土佐岡豊へ着岸して長宗我部元親の武勇の様子を聞き、 
さて阿波国に行って岡崎より海路紀伊の港へ渡りそこから高野山・吉野山を過ぎて泊瀬路を伊勢神宮に参詣し、伊勢国司北畠具教、同じく伊勢の長野祐則、同じく伊勢亀山の関盛信の館付近を通り帰途に就き、途中日吉大社で祈願を行い西近江を経て当地越前へ6年ぶりに帰って参りましたところ、早速御当家に召出され殊に幾人もの寄子を預けて頂いたことはとても大きな御恩でございます。」 
と述べた後、訪ね来た各家の方式、自領を治め敵国を討伐する際の武勇・知謀の兵術の次第とともに各家の宿老・武将・武勇の名が高い兵士らの名前を実名で各家毎に五十人・三十人ずつ書き付けた子細を記した日記を義景公に進覧したところ、義景公は大変喜ばれてしばらく日記を手元に置かれて、その後光秀の元に返された。  
朝倉義景永平寺参詣の事/城地の事 
義景公は御父上孝景公の十七回忌に当たられるため、永禄7年3月22日払暁に一乗谷を出発されて吉祥山永平寺に参詣された。仏事が終わって境内の諸閣を巡られた後、永平寺の開基について尋ねられた。住持の祚玖和尚が答えていうには、 
「そもそも当寺開山の道元和尚は、俗姓は久我通忠卿の御次男であられます。後堀川院の貞応の末年の頃道元24歳のときに震旦(中国)の太白山下の天童山景徳寺の如浄禅師に師事し悟道見性された。そして仏心曹洞宗を伝授されて宋に居られる事6年にして日本に帰ってこられ、肥後の国の河尻に如来寺を建立されてその後に都に上られ天福の時分に宇治に興聖寺を立てられた。 
その後、山居の志が有られた所に越前の先の太守波多野義重から頻りに招請されたため、道元和尚が考えられたのは、 「私が宋に居たときに、碧巌集を書写していたとき日本の北陸の鎮守白山権現の助筆を蒙りし事があった(一夜碧巌)。それであれば神恩に報いるためにも、また我が師如浄禅師は震旦の越州に御生まれになられたのであるし、あれこれ以って望ましい国だ 」として寛元2年の夏、越前に赴かれ吉田郡志比の庄に一宇の精舎を建立されて吉祥山永平寺と号せられた。山号は仏法興隆に吉祥の位があって太白天童山を彷彿させる。 
寺号は、天竺(印度)から震旦に仏心宗が伝わったのが漢の永平年間であった。今また、震旦より日本へ曹洞宗を伝えるにおいて三国にわたって同じ理が行われるようにと異国の年号をとって永平寺と云う。ここ永平寺には玲瓏厳、白石禅居、涌泉石、租壇地月、偃月橋などという十一景があります。また後嵯峨天皇より紫の方袍を授けられようとされましたが、道元は再三これを辞退されました。しかし許されなかったのでこれを受け取り上謝して曰く、 
永平谷浅しと雖ども 勅命重きこと重々 却って猿鶴に笑われる 粢衣の一老翁 
さてまた宝治元年の秋、北条時頼より頻りに招請されたため鎌倉に赴かれ最明寺時頼禅門(北条時頼)に菩薩戒を授けられた。禅門が尊敬する事は他より際立っていたけれども、永平寺の霊地を慕って翌年の夏帰山された。こうして御弟子の懐弉和尚を二代目と定めた。この人は藤原為実の子息とも云々。その他義介、義演、義尹、寂円、詮慧、義準、道荐以下の懐弉の法眷を皆懐弉の弟子とされて建長5年8月28日54歳で入寂された。全て正法に奇特なきところの奇特です」 
と道元、懐弉、義介、義演の行徳をじっくりと説明されると義景は随喜の涙を催された。義景がまた 
「永平寺の末寺はどうなっているのか」 
と尋ねられると住持が答えて曰く 
「永平寺前三代目住持義介和尚は天童山に参る用事が有ったため宋へ渡り数年後に帰国された。この人の俗姓は鎮守府将軍藤原利仁の的孫の斎藤信吉の子孫で越前の足羽郡で生まれました。そのため親戚であったのでしょうか、富樫家尚に招請されて永平寺から加賀へ赴き、徳治に年石川郡に昌樹林大乗寺を立てられた。義介の弟子瑩山和尚は能登まで赴き永光寺を建立した。瑩山の弟子の蛾山和尚は同じ能都の諸嶽山総持寺を取り立てて住んでおられましたが後宇多上皇の勅定によって京都に行かれて即ち帝の師となられて、紫衣を授けられました。 
この弟子の大源・通幻・無端・大徹・実峰以下、行徳を備えた門弟が多数参集したため諸国の末寺は繁昌しました。蛾山の法眷明峰・無涯・壺菴・孤峰・珍山等も各々寺菴は広い。さて義尹和尚も文永の頃大国(中国)に渡って霊隠寺の虚堂禅師に拝謁し、その後に帰朝する際に肥後の国守源泰明に是非にと乞われて滞在し、長橋というところに大慈寺を建立されました。彼の門弟斯道・鉄山・愚谷・仁叟以下、国々に寺院を建てられた。義尹は後鳥羽院の皇子にて修明門院の御腹から御生まれになったので亀山院の仰せになるときは「法王長老」と常に勅定があったとか。 
さて寂円和尚は太白の如浄禅師の甥であられたのですが、禅師は老体だったため道元を頼りにしたため道元はこれを承諾し寂円に我朝に来ていただき朝夕法味を授与された。大野郡宝慶寺の開山であります。その後永平寺後三代目住持義演和尚遷化ののち、寂円の弟子の義雲和尚をもって当寺の四代としました。五世を曇希、六代を以一、七代を義純といいます。今愚僧まで十八代になりまする。」と申された。 
さて朝倉殿が一乗谷に戻られるために徒歩にて山道を下っておられた折、ふと明智十兵衛を召し寄せて義景が言われるに 
「異国は知らぬが、我が国では防御のために昔は山城を築いていた。最近は鉄砲が普及し出したため昔のままでは役不足に思うのだが。我領内ではどこが居城として適しているか?遠慮無く申してみよ。」 
十兵衛は承り 
「御意の通り山の中腹より大筒を撃ちかけてきますため城域から二十余町(約2km以上)以内に山が無い場所に築けば悪くはないでしょう。しかし黄石公は三略に「国を治め家を安んずるは人を得ればなり」と申しております。また古人も軍法の狂歌として、 
人は城 人は石垣 人は掘 情けは味方 怨は大敵 
とありますれば、これら和漢の言葉からも言えるのは城の強弱は城郭によってのみ決まるのではないということです。但し、御当国の城地の事はそれがしが愚案するに平城なら北庄、山城なら長泉寺が然るべき場所だと見受けました。」 
と申し上げると 
「されば加賀の国ではどの辺りがよいか?」 
との問われたため十兵衛は 
「加賀にては小松寺の辺りがまずまずよいでしょう。」 
と申し上げた。すると義景がまた言われるに 
「上方ではどのような適地があるのか?」 
明智が承って曰く 
「京近辺にはこれと行った場所はございません。しかし御縁者であられる摂津大坂の本願寺の寺内こそまたと無き場所でございます。」 
と申し上げれば義景殿はそれを聞かれて 
「光秀は寺跡ばかり気に入ったものとみえる。」 
と言って笑われた。既に暮れようとする春の景色にて梢に残る遅桜、知った顔をして藤波の松に懸って色深く山吹の清げに咲き乱れたるなどに取り取りに興を誘われながら一乗谷へ帰城されていった。  
北海舟路の事/根上松の事 
永禄8年5月上旬、明智十兵衛光秀は小瘡を患ったため休暇を申し出、許されたので加賀山代の温泉へ湯治に行く事とした。それを聞いた長崎称念寺の園阿上人も丁度良い機会だからと同行する事になった。急ぐ旅でもないのでゆっくり遊興しながら進んで行き、三国湊に立ち寄って津の風景を眺望された。堅苔崎で称念寺の伴僧たちが堅苔、黒苔、若布などを取る。明智が言われるには、 
「あなたたちが取っている種類は、良くないな。私なら鯛・あわび・大蟹、三国の鮭・鱒等を求めたいものだ。」 
と相手が僧なのを知りつつの冗談をいいながら、そのあたりを遊覧した。そこから船で雄島へ参詣された。荘厳さを持つ森の景色・緋の玉垣に締縄がはられ、磯の巌石が切り立ち、白波が岸を洗い、沖をこぐ船に風はゆるやかである。兀良拾の国(モンゴル)はここから北方、日本海を越えた向かい側と聞いているのでうっすらと見えるかもしれない、とそちらの方を眺めてみる。島の姿は優雅で清水がわき出て、海へ流れ落ちたり、古松が枝をたれ儻樹が茂っている。 
本当に北陸に比べる場所も無いほどの地景である。絵に書こうとしても筆で表現するのは難しい。まるで蓬莱・方丈・瀛洲の仙人の島に来た気がしたので感涙を浮かべて、光秀は技巧も尽くさず思ったままを即興で詩を作った。 
神島の鎮祠雅興催す 篇舟棹さすところ瑤台に上ぼる 
蓬瀛外に向いて尋ね去ることを休めゆ 万里雲遙にして波堆を作なす 
園阿も腰折を綴ろうと 
帰るさを雄島の海士も心しれ 是やみるめの限り成るらん 
その夜は祝部冶部大輔のところで一泊して、連歌興行を行った。園阿と明智は両方とも名人だったため、両吟ですぐに百韻になる。さらに一巡しようと光秀の家来である三宅・奥田、称念寺の小僧である定阿弥を加えて、一晩中遊ばれた。そうしている処にここ三国浦の船乗の刀弥と言うものが来て、蝦夷人と干物を商売した折の話しをした。それを聞いた光秀は、 
「その方の話はまことに興味深い。ところでその蝦夷の松前という処は遥か遠くにあると聞く。しかし、その方はその島人と逢った時の話を話してくれた。されば、ここからその蝦夷地までは船路でどれくらいかかるのであろうか。その途中の港はどのような処がところがあるのであろうか」 
と尋ねられた。刀弥はその質問を承り、 
「はい。私は何年も大船で商売のために北から南まで航海していますので、港の名前で知らないところはありません。」 
と言って懐中から書付を取りだして、 
「これをご覧ください。ここに書かれている港の数々は大船四、五百艘が停泊しても狭くはない港です。殊の外当国においてはここ三国以外に大丹生・吉崎、加賀においては安宅・本吉・宮腰、また若狭においては「高浜の八穴浦」と言いますほど港が数多くありますが、その多くは大船が出入りできるようなところでは無いのでこれは除きます」 
と言って取り出した日記を示す。その内容としては 
「越前より寅の方角、船路にて三十里過ぎのところに能登国の福浦港がある。それより先は十八里で同国和嶋港、七里で同国珠洲崎塩津港、四十五里で佐渡国の小木港、二十五里で同国鷲崎港、十八里で越後国の新潟港、二十五里で出羽国の青嶋港、三十里で同国止嶋港、二十里で同国酒田港、三十里で同国秋田港、十八里で奥州霧山の渡鹿港、この先はどこまで行っても奥州の地になる。 
渡鹿の先は十八里で野代港、 三十五里で津軽の深浦港、十八里で鯵个沢港、十八里で十三港、七里で小泊港、ここから北に八里渡海して松前に到着。そこから北は蝦夷地なり。また、小泊から東に向かうと外浜・今別・小湊・南部の川内・田名部・佐井・大畑・志加留などという港がある。小泊から志加留までは百三十里となる。」 
などと書かれている。明智が言うには、 
「松前まではここ越前より三百七十里、奥州志加留までは五百里に及ぶということか。されば船路にて日数はいくらばかりかかるのであろうか。」 
と尋ねたので刀弥は 
「されば順風にて10日ばかりで到着いたします。毎年3月上旬に当港を出港して彼の地にて商売を致し、5月には戻ることに成っています。」 
と答える。光秀はまた 
「上方へも行けるのであろうか。」 
と問う。刀弥は承り、 
「中国を廻り、摂州大坂港・伊勢国の大湊まで二、三回参ったことがあります。対馬国の夷崎港、肥前国長崎港にも行きました。長門国の下関までは何度か行きました。」 
とこれもまた別の書付を取りだす。そこには 
「越前の三国港より二十五里で同国敦賀港、是より申の方角に十二里で若狭国の小浜港、十三里で丹後国の井祢、五里で同国経箇御崎、十八里で但馬国の丹生芝山、七里で同国諸磯、二十二里で出雲の国三尾関、十八里で同国加賀、十三里で同国宇竜の於御崎、十八里で石見の湯津、十八里で同国絵津、二十里で長門の仙崎、七里で同国蚊宵、二十五里で同国下関に至る。」 
と記してある。光秀はこれに感じ入って酒飯を与えてまた時服などを褒美として与えた。このようにしているうちに夜も明けた。空は晴れ気温は温暖なため海辺を回って北潟の御万燈を拝観する。それから潮越しの根挙松を見物される。その姿は遠くから見ると風情があり年を経ており、葉も短く色も鮮やかである。海辺近い砂岳に生えているので潮風が吹きつけて根もとの砂が吹き飛ばされて根が顕れてきたように見える。 
松の太さは二丈(6m)余りで根の挙っている様子は、元の地境まで一丈七・八尺ある。根の数は十余本で、太さも周囲四・五尺程で、付近に四方へ伸びている。日本は小国とはいえ七十州ある。光秀はそのうちの五十余州を廻り、名木と言うものも数多く見てきた。しかしこの木に似た色をしたものを見たことが無い。昔は業平中納言や西行法師達が詩歌を詠んで愛された。 
九郎判官義経も奥州に向かう途中、ここで休憩したと聞いたことがある。その折から四百余年を経た今でも変わらない松の色、幾千年の時を経てここにあるのだろうかと感嘆して遊覧しているところに村社の祠があった。里の人に聞くと「出雲大社を奉っている」と答えた。光秀は聞いて「出雲大社で奉られているのは素盞烏尊で、尊は和歌の祖神であるため、稚拙な歌だが一首作ろう。」と詠み、端紙に書いて近くにいた子供に与える。 
満潮の 越てや洗う あらかねの 地もあらわに 根あがりの松 
それから吉崎の湖水を船で渡って、加州へ向かい山代へ着いた。  
足利将軍家の長物語の事 
そして明智十兵衛は十日ばかり山代温泉に入っていると、小瘡はほとんどなおった。その逗留中に敷地の天神・山中の薬師・那多の観音に参詣した。その折に、園阿上人のもとに越前豊原の索麺を長崎から送ってきていたのでこれを「これは越前の名物ですから」と宿の主はもとより近所の人々や明智家の若党に至るまで皆に振舞った。 
その後茶の湯などをして話し込んでいる処に越前から飛脚が来て、「今月19日に京都で将軍義輝公が、三好・松永のために殺害されました」との報をもたらしてきた。しかしそれは京のみのことで、遠国では今のところ目立った動きは無いとも付け加えた。湯屋の主人はこのことを聞き、光秀に対して言うに 
「上方は大変なようですが、その外の国は落ち着いてるようで取りあえず安心致しました。さて、この公方と申される方は諸国の武士の主君だとは聞いていましたが、身分の低い私たちはそれまでのいわれを知りません。恐縮ではありますが、どういういわれがあるのか話をして頂けないでしょうか。」 
と願った。そのとき園阿上人が言うのには 
「やれこの私も将軍家の御先祖の方々については詳しくは存じませぬ。出家している身とは申せ同じ日の下に生きている身であればこれは聞いておくべきことだ。五月雨も静かに降っている事でもあるし、夜もすがら御話願えませんでしょうか。」 
といって、亭主と二人で「是非後学の為に」と頼まれると、その場に居る皆も一緒になってしきりに話しを頼んだ。それに応えて光秀が話されるには、 
「私も細部までは詳しく存じませんし、またとても長い話しに成りますので当座の興として話すのであればあらましをお話する事と致しましょうか。但し、元弘から応安の間の事は 「太平記」という書物に載っていますのでこれを略してお話致しましょう。」 
と言って話し始めた。 
「そもそも公方様の先祖であられる足利尊氏公は、強敵新田義貞を暦応元年(1338)閏7月2日に越前吉田郡藤嶋郷で討ち取り天下を握られ、その治世22年にして延文3年(1358)4月29日54歳にて亡くなられた。御子息の権大納言義詮公が天下を継がれたものの治世10年にして貞治6年(1367)12月7日38歳にて亡くなられた。 
義詮公の弟君である基氏公は鎌倉に居て、関東八州と伊豆・越後・佐渡・出羽・陸奥の以上十三ヶ国を治められていた。この方も貞治6年(1367)4月26日28歳で没せられた。基氏公の子息である氏満、その子の満兼、その子の持氏まで続いて四代を、鎌倉の公方と世間ではいいまする。さて将軍義詮公の子息である義満公は、応安元 年(1368)11歳で将軍職を継ぎ、細川右馬頭頼之を執事にして全国を統治されていた。 
ところが同3年(1370)の秋に、後醍醐天皇の皇子の後村上の味方として南方の敵が台頭してきたから、細川頼之・斯波越中守義将・畠山播磨守基国・山名陸奥守氏清・赤松筑前守光範などに大軍を率いて出発させた。そして楠左馬頭正儀と合戦をして楠を河内の南へ追いこんだ。その後南方の敵のおさえとして山名氏清を和泉の堺に留めておき、諸軍勢は帰陣させた。また九州で菊池肥後守武光は最初から南方の味方として良懐親王を吉野御殿から下向してもらって、親王は征西将軍宮と名のって筑紫を討ち取ることを計画した。 
このままにしておけないので応安7年(1374)春頃、征夷大将軍義満は都から九州へ出発し少弐・大友・伊東・大内を先陣として、細川・斯波・畠山・土岐・佐々木・京極・一色・赤松・今川・荒川以上の総勢十万余騎が、鎮西へ向かい菊池と合戦した。その結果武光は討ち負けて降服を願った。これらのことで筑紫の目代には駿河蒲原の将、今川伊予貞世入道了俊を配置して、同年9月に西国から義満公は帰京された。 
それから全国は平和になり永徳元 年(1381)春に後円融院は初めて将軍の屋敷へ行幸され、義満公を太政大臣に任命された。これからは公方と名乗りますます将軍家の威光が輝いてきた。その後山名陸奥守氏清は南方で楠次郎左衛門正勝と数回戦ったが、その度山名が勝利した。この理由は正勝の父である正儀が少し前に病死したので南方の勢力が衰えた為だとかいう。 
そうしたことで山名が威勢を誇って将軍に対し反逆をおこし、明徳2年(1391)12月下旬、和泉の堺から京に攻め上った。大将には山名氏清・子息の左馬助時清・二男の民部少輔満氏・三男の小次郎熈氏・山名播磨守満幸・同上総介義数・同中務大輔氏冬・山名弾正少弼義理・同駿河守氏重・小林修理亮・同上野介以下が内野と洛中へ攻め入った。 
将軍の味方には、細川武蔵守頼之・同頼元・斯波義重・畠山基国・大内義弘・今川泰範・一色詮範・同満範・佐々木満高・京極高詮・赤松義則・山名時熈・同氏幸などが参集して防戦して、すべての山名方を追い払った。大晦日に山名陸奥守氏清は内野で自殺した。山名の一族は討死したり敗北したりしてこの乱は終わった。また同3年夏には畠山尾張守義深は堺を出発し楠左馬頭と戦って、楠が篭城する千剣破(千早)の城を攻め落した。 
正勝は十津河(十津川)の城に引き篭った。その後正勝の弟である兵衛尉正元は密かに京都に入りこみ将軍の命をねらっていたが、露見して殺された。楠の一味である菊池肥後守貞頼と大宰少弐忠資・千葉・大村・日田・星野・赤星らは筑紫で陰謀を廻らせた。しかし大内介義弘がこれを平定した。義満公は38歳で出家され、鹿苑院道義と名のられた。応永5年(1398)斯波義将・細川頼之・畠山義深を三管領とし、一色詮範・山名時熈・京極高詮・赤松義則を四職に定めた。 
特に斯波は武衛と名乗り、全国の政務を行った。大内介義弘は三管領四職の何れにもなれなかったのを恨んで、和泉の堺にひき籍り反旗をひるがえす。このため将軍の義満公は八幡に兵を集められ、管領職の人々を泉州に派遣して堺を攻められた。その結果として大内介左京大夫多々良義弘は戦死した。その子息の持世は降服した。応永15年(1408)5月6日に将軍義満入道道義が51歳で没された。治世は40年で子息の義持公が後を継がれた。全国はすべて平安で四海も波静かなようすで、万民は万歳を叫んだ。 
義持公は応永30年(1423)春には、子息の義量公へ政権を譲られた。しかし同32年(1425)2月27日に義量公は19歳で他界された。正長元 年(1428)まで治世として6年。そして先の将軍義持公が、43歳で没せられた。治世は15年であった。政権をつぐための子息がないので、鎌倉の左馬頭持氏の子息である賢王丸を養子にされようとされたが、三管領四職の人々は協議をし、義持公の弟である僧で青蓮院にいた義円を還俗させて義教と改名してもらい六代目の将軍としてにして仰いだ。 
そうしたところ、永享10年(1438)鎌倉の賢王丸は鶴岡八幡宮で元服し左兵衛督義久と名のった。その執事である上杉安房守憲実が主君の持氏公へ諌言して言うには、「賢王殿が元服されるにおいて、先例に従えば京の将軍の御意を得るべきです」と、何度も持氏公に申し入れたのに承諾されなかった。このため憲実は怒って将軍へ訴えた。義教公はすぐに今川上総介範忠 ・武田太郎信重・小笠原信濃守政康、さらに武衛の名代である朝倉右衛円尉教景ら数万騎をつれて鎌倉に攻め入らせた。 
上杉憲実はこのとき持氏公に従わず将軍に意を通じて、上方勢と一緒になって持氏公と合戦をした。鎌倉方は討ち負けて、同11年 (1439)2月10日持氏・義久の父子は自殺された。義久の弟である春王丸・安王丸は、その家臣の結城弾正氏朝・同七郎持朝が迎えて結城に立て寵った。上方勢と上杉の一族などが激しく攻め戦い、嘉吉元 年(1441)4月16日結城氏朝・持朝の父子はみな討ち死をし、春王・安王は生けどられて京に送られる途中で誅せられた。それから数か年を経て、持氏公の四男である左馬頭成氏を関東の武士たちが主とし再び鎌倉に居ることを願った。 
その後事情があって下野の国の古河に移り、成氏・政氏・高基・晴氏・義氏の以上五代と続き、関東では古河の公方と呼ばれた。そうした中に赤松則祐の孫で義則の子である播磨守満祐は生まれつき小男であったため、将軍はいつもそれをからかわれた。その上満祐の娘を給仕の為と言って出仕させたが、殺してしまった。また嘉吉元 年(1441)夏の頃赤松の所領である備前・播磨・美作を没収し、彼の又従兄弟である赤松伊豆守貞村に知行させようと将軍義教公は思われた。 
満祐・同教康の父子はこれを聞いて深く恨んでいたが表情には出さず、「結城合戦の御祝いのため」とそれとない様子で将軍の義教公を赤松の屋敷ヘ招きたいと願った。それが聞きいれられ義教公は6月24日に赤松邸に来られて、遊宴・猿楽の遊びを楽しんだ。この頃に鎌倉の持氏の従弟である福井四郎左衛門貞国という将軍の近習がいた。貞国は持氏が滅ばされたのを心底憤激していた。これを赤松は誘っていて、よい機会をねらい満祐は太刀を抜き、即座に将軍を殺してしまった。 
義教公は48歳で、治世は12年である。これにより赤松父子は播磨の白幡の城にひき篭った。京の騒ぎは大変なもので、将軍の長男である義勝公が8歳になっていたのを主君にして播磨を攻撃した。追手には細川右京大夫持之・同讃岐守持常・大内介持世・赤松伊豆守貞村・武田大膳大夫信賢であり、搦手には山名右衛門佐持豊・同修理亮教清・同相模守教之などが赤松と激しく交戦した。 
山名の一族が大仙口から乱入したために、同9月10日に赤松満祐は自殺し、長男の彦次郎教康はその場は逃れたもののその後伊勢で没する事と成った。嘉吉3年(1443)7月21日将軍の左中将義勝公は、落馬がもとで没した。年は10歳で治世は3年である。弟の義政公が8歳で政権を継がれた。それから享徳3年(1454)夏頃から、畠山尾張守政長と畠山伊子守義就とは従弟であるのに仲が悪くなっていった。 
そのわけは政長が、管領の左衛門督持国入道徳本の甥を養子にしたからである。義就は徳本の実子であった。こうしたことで互いに家督について論争した。細川勝元は政長を手助けし、山名持豊は義就に味方すた。それから河内・大和の地域で小競合が絶えなくなった。またこの頃武衛である治部大輔義健が没した。しかし子がなかったから一度左衛門佐義敏を養子にしたが、適当でないとして改めて治部大輔義兼を武衛にした。こうしたことから両者は対立した。また富樫介の跡目を次郎政親と叔父の安高とが争った。 
細川勝元は政親を援助し、畠山徳本は安高を助けていい争った。その間も将軍の義政公は30歳になられても子どもがなかったため、弟の僧である義尋に政権を渡されることにされた。義尋は辞退されたが将軍の命令であるから寛正5年(1464)冬に還俗されて、今出川大納言義視と名のりすぐに細川右京大夫勝元を老臣に定められた。しかし義政公は政治の実権を手放す意思はなかった。 
こうしたところへ同6年(1465)義政公の奥方が男子を出生したので義尚と命名し、山名右衛門佐持豊入道宗全を老臣にされた。こうした理由で細川と山名の両臣は内心から不和になった。応仁元 年(1467)春には畠山義就と畠山政長とが対立したため、ついに天下の大乱になった。京で合戦になり政長方は細川右京大夫勝元を大将にして、京極持清・赤松政則・斯波義敏・富樫政親・武田国信以下の軍勢十六万騎が大内裏から東山に布陣した。 
義就方は山名持豊入道宗全を大将にして、武衛義廉・一色義直・土岐成頼・佐々木高頼・大内政弘以下約十二万騎が都の西野に布陣した。日夜、朝晩とも戦いの攻防はやまなかった。文明9年(1477)までの間にその前6年と後5年の都合11年間戦いがあり、その後に皆国々へ帰っていった。しかし各地での争いは一層激しくなりやむことは無かった。 
今出川義視公は大乱に嫌気がさし、伊勢の国司である北畠教具の所へ行かれた。後に将軍義政公から迎えがあって帰京されるが、その後また濃州の土岐のところへ下向された。応仁以降の度重なる戦の為に朝廷も焼けはてわが国の旧記も紛失し、公家の伝記もほとんど散らばってしまった。後花園上皇も将軍の屋敷である室町殿でなくなられた。 
文明9年(1477)冬に義尚公を征夷大将軍に捕任した。同12年(1480)義政公は東山慈照院に隠居した。それから茶道を好み、風流の道具を愛玩したり、華道を愛し盆石を探し、書画を楽しみ、古筆を集めたり、彫り物を寄せ、打物の銘作を選んだり、珍膳を味うなど風雅を好み、珍奇な物を愛されることは前代未聞のことであった。義政公の治世は30年であった。長享元 年(1487)秋に佐々木六角高頼が公方に謀反をしたから義尚公は江州へ出向く。佐々木は甲賀山にひき篭った。将軍はすぐに鉤の里に布陣した。 
翌延徳元年(1489)2月26日に江州鉤の陣中で将軍義尚公は25歳で病死された。治世は15年であった。政権を継ぐ方がないために義視公の子息である義材公は義政公の甥であったが、義政公はこれを養子にして大将軍にされた。この義材公は後に義稙と改名され二度将軍になった。また義政公の弟である伊豆堀越の政知公の子息である義澄はこれまた慈照院殿の甥であったから、義政公はこの人も養子になされようとした。 
延徳2年(1490)1月7日に慈照院義政公は56歳で没せられた。こうしている間に明応2年(1493)春に畠山尾張守は将軍義材公を奉じて河内の国へ出陣した。そして畠山伊予守義就の子である弾正少弼義豊の誉田の城を攻めた。義材公と政長は正覚寺に布陣した。こうしたところに管領の細川政元は将軍に恨みをもち敵の義豊と同盟して、4月23日逆に正覚寺を攻め政長を討ち取った。政長の子である尚順は紀州へ落ち延びた。 
将軍の義材公も敗れて周防の国の山田へ流浪し大内介義興を頼られた。治世は4年であった。同明応3年(1494)細川右京大夫政元・畠山義豊たちは、伊豆から義澄を迎えて主君とし大将軍にされた。こうしている中に永正4年(1507)夏に細川政元・同九郎澄之などが、家来のために洛中で殺されて都中は大騒ぎになった。大内介義興はこのことを聞くと同5年(1508)春に九州・四国の兵を集め、前の将軍である義材公を伴われて上方へ攻め上がってきた。 
このため同4月16日には、将軍の義澄公と細川澄元・同政賢以下は江州へ退いた。同6月8日に義材公は入京し、名前を義稙と改められ再び大将軍になった。そして大内介多々良義興を管領に任ぜられた。同年の冬に義澄公の味方をして三好筑前守長輝が兵を率い、阿波の国から攻め上がってきた。これに合わせて江州から佐々木高頼も京都に入った。しかし軍勢に利運がなく、三好長輝・弟長光・同長則などは都の百万遍・知恩寺で自害をした。 
この三好は小笠原長清の後継であったが、阿波の国では一宮と名のりその後三好と改めた。永正8年(1511)8月14日将軍義澄公は近江の国の岡山で病死した。22歳で治世は15年である。義澄公の家臣である細川右馬助政賢・佐々木大膳大夫高頼は、深く悲しんで主君の逝去を秘密にし兵をおこし急に都を攻撃した。このため同8月(10)7日には、将軍義稙公とさらに管領大内介義興などが丹波の国へ逃げ落ちた。こうしていたところ義澄公の病死が知られたから、義稙公は丹波から帰京し同8月24日には舟岡山で合戦をした。 
その際に細川政賢が戦死をし江州勢は敗北した。同9年(1512)春には義稙公は江州へ出発されて佐々木高頼を攻められた。戦いは思いのほか有利でなく、将軍は甲賀山へ入った。そこで発令した防敵命令を越前守護の朝倉弾正左衛門孝景が聞いて、兵を率い江州の観音寺の城に向った。このため佐々木は甲賀表の軍勢を撤退させて、観音寺に立て寵った。これでやっと将軍は甲賀山から帰京された。 
同15年(1518)秋には、大内介義興は義稙公に恨みがあって京都から住国の山口の城へ帰った。大永元 年(1521)春には、細川武蔵守高国・三好筑前守長慶・佐々木大膳大夫高頼などが、前の将軍である義澄の子息の義晴を擁立して都を攻撃しようとした。このために義稙公は、都を去って淡路島へ落ちられた。これを世間では 「島の将軍」といっている。 
義稙公は同3年(1523)4月9日58歳で没し、治世は13年で最初の4年を合わすと17年間将軍であった。それから義晴公は征夷大将軍に補任され、細川高国を管領にして右京大夫に任じた。この人は先の管領である政元の子である。それからどんなことあったか知らないが、高国は義晴公を恨み大永6年(1526)のころ四国へ行く。同7年(1527)冬には細川高国・三好長慶は、阿波の国から攻め上った。それで将軍の義晴公は都の西の桂川へ出向き、細川晴元・朝倉孝景らが阿波軍を防戦をした。その軍功によって阿波勢を追い崩し勝利をしたが、まだ高国は天王寺付近に留まって京都をうかがった。 
このために同4年(1531)夏に細川右京大夫晴元は摂州へ出向き、細川武蔵守高国と従弟であったが交戦した。ついに高国はうち負け尼崎で自害した。晴元は政元の甥澄元の子である。そうしている中に天文8年(1539)の頃から、将軍に晴元は敵対して争闘がたえなかった。将軍は京から去り江州の朽木民部少輔植綱の屋敷に入ったが、また帰京された。天文15年(1546)冬に義晴公は、政権を子息である義輝公に譲られた。 
同15年(1547)春には将軍の父子が北白河に要害を構えたが、同7月13日に細川晴元・佐々木定頼が北白河の城を焼き払った。その結果将軍は江州の坂本に篭居した。その後和解されて、晴元・定頼は坂本に参向した。この和睦により将軍父子は帰京された。 
同18年(1549)春には三好筑前守長慶は細川高国の子である次郎氏綱をとり立て、摂州中島の城に居陣した。これを聞いて細川右京大夫晴元は、摂州へ出陣し三宅の城に布陣した。三好下総守長秀入道宗三は、晴元に味方し江波の城にいて氏綱・長慶方と合戦を何回も行った。 
同6月11日には江口の渡しで宗三と長慶の叔父と甥とが激しく争い、将軍方は敗北し三好宗三入道も戦死した。このため将軍の父子と細川晴元・弟の晴賢・同元常・佐々木義賢以下、京を去って東坂本を仮御所とした。同7月9日に三好筑前守長慶が入京したが、滞在せずに摂州へ帰った。長慶は長輝の孫で薩摩守長基の子であり、細川の家来である。 
天文19年(1550)春には将軍は如意ヶ獄に要害を造り、穴太の山中と名づけ、将軍を移された。同5月4日に前将軍義晴公が、病気のため穴太山でなくなられた。年は40歳で治世は26年であった。同年の冬に三好長慶は摂州から上京して、東山・相国寺また大津などにたて寵る将軍方を追い払い、要害、人家まですべてを焼き捨て摂州へ帰った。 
それから将軍義輝公と細川氏綱・三好長慶とか和解し、天文21年(1552)1月28日に将軍は上京された。この日細川晴元は髪をそり出奔した。永禄始めの頃には毛利右馬頭元就・朝倉左衛門義景。長尾弾正少弼輝虎を御相伴衆に加えられた。同4年(1561)1月24日には、三好義長が上京し将軍の妹婿になった。 
3月末に将軍は三好の屋敷へ出向くことを申し入れた。御相伴衆は細川右京大夫氏綱・弟の右馬頭藤賢・三好修理大夫長慶・子息の筑前守義長・松永蝉正久秀であった。同7月 三好義長が急死した。その理由として家臣の松永弾正に毒を飲まされたと言う風説がまことしやかに流布している。義長には子がなかったので弟の左京大夫義継に家督を継がせて、長慶の後を継がせた。その後長慶は老死した。今の義継は若くて松永は策謀家で威勢がある。 
将軍自身の勢いは衰えてきたので、今度は三好と松永が謀反するのはまちがいなさそうである。義輝公は温和な方であり武将には適さない方であると聞いているが、本当に残念 なことである」 
と光秀は話終えると涙を流した。園阿上人を始めとしてすべての者は念仏をし、悲しみにくれた。このようにして五更(午前4時)も過ぎ夜も明け始めたので、明智十兵衛光秀は湯屋の主人に別れの挨拶をし、越前の一乗谷へ帰られた。  
  
明智光秀1
織田家臣 
信頼できる史料によると、永禄12年(1569)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を別って信長の直臣となった。各地を転戦して、元亀2年(1571)頃比叡山焼き討ちで武功を上げ近江国の志賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築いて居城とした。天正3年(1575)に、惟任(これとう)の姓、従五位下、日向守の官職を与えられ、惟任日向守と称した。 
城主となった光秀は、石山本願寺や信長に背いた荒木村重と松永久秀(有岡城の戦い・信貴山城の戦い)を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、天正7年(1579)までにこれを平定した。この功績によって、これまでの近江国志賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領し、丹波亀山城・横山城・周山城を築城した。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって重要な地位にあったことが伺える。 
また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいる。天正9年(1581)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。 
本能寺の変 
天正10年(1582)6月2日早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。 
二手に分かれた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。 
光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになった。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなった。 
山崎の戦い 
光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。本能寺の変から11日後の6月13日新政権を整備する間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎で迎え撃つことになった。 
決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。 
羽柴軍が山崎の要衝天王山を占拠して大勢を定めると、主君を殺した光秀に味方する信長の旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れた。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で、落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたとされる。 
「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも)。西教寺と谷性寺の記録によると首は三つ見つかっており、その全てが小柄で顔面の皮が全部剥がされていたという。 
評価 
主君織田信長を討った行為については、当時から非難の声が大きく、近代に入るまで"逆賊"としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。 
「明智光秀公家譜覚書」によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたとされる。 
光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波の地に、地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し、正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは吉田兼和である。兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる。 
「老人雑話」は、光秀の言葉として以下の言葉を紹介している。曰く、「仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり」。この言葉を光秀の合理主義の表れであるとする意見がある。高柳光寿は、著書「明智光秀」の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べている。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多い。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候」と讃えている。「信長公記」には他にも似たような記述が少なくない。 
天正3年(1575)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われる。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺える。 
ルイス・フロイスの「日本史」に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。鈴木眞哉・藤本正行は共著「信長は謀略で殺されたのか」の中で、フロイスの信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。 
西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。 
このように家臣を大切にしたことから、光秀直属の家臣は堅い忠誠を誓ったとされる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人の裏切り者も出さず、山崎の戦いでは劣勢にも関わらず奮戦したといわれている。山崎の戦いの敗北後、光秀を逃すために、家臣が二百騎ほどで身代わりとなって突撃を行ったという記録がある。 
しかし、明智軍の将校の忠誠の向き(求心力)を考えるには、別の考慮も必要とする。 
> 明智軍の多くは信長より預けられた与力であり、与力たちにとっての主君はあくまで織田信長であること 
> 変後の有力支持者が殆どいないこと 
> 変直後の明智軍内の混乱  
これらの事情から、光秀自身の持つ求心力よりは、織田信長に象徴される体制の持つ引力の方が強かったという見ることもできる。光秀と上級将校たちは、明智軍全体を信長殺害の共犯者に仕立て、軍団員が引くに引けない状況を作り上げることを意図していた可能性もある。 
光秀は諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人であった。また、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。 
現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる(亀岡市は亀山城の城下町。伊勢の亀山市との混同を避けるため、1869年(明治2)改称した)。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。 
逸話 
朝倉被官時代、有能さを朝倉直臣団に嫉妬され、そのため重く用いられなかったという。朝倉義景のもとを去って織田信長に仕えたのは、鞍谷副知なる者が義景に讒言し、それを信じた義景が光秀を冷遇したためとされる。  
鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を打ち落としたという逸話もある。  
「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(明智軍記)。  
他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。  
婚約成立後、花嫁修業をしている際に煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた 。 
しかし、この逸話については斎藤鎮実の妹で高橋紹運に嫁いだ妻の話に酷似しているため、後世の創作とされるが、光秀と親しかった京都吉田神社の神官吉田兼見の日記(「兼見卿記」)には光秀が重病のとき、煕子が兼見の屋敷を訪れ、光秀快癒のための祈祷を依頼したり、反対に煕子が床に付いたとき、光秀が病気平癒を兼見に頼んだことが書かれているため、光秀と煕子が仲が睦まじかったのは史実のようだ 。  
愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで何度もおみくじを引き続けたと伝えられている。  
光秀が濃州を追放され、諸国を武者修行していた頃、毛利に仕官を求めてきた。毛利元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」とその顔に凶相を見、後の厄を恐れて金銀を多く与え追い返した。とある。  
辞世の句 
「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」「明智軍記」 
「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ」 
史跡  
高野山奥の院に光秀の墓所があるが、何度補修してもよく亀裂が入るため、信長の呪いと地元で囁かれている。  
三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟三好長円が大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。 
この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町3丁にある「丈六墓地」では、昭和18年頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行なっていたが、現在では消滅している。  
桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩はゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという。 
光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。  
本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。  
溝尾庄兵衛が、光秀の首を持ち帰ったとされる谷性寺(亀岡市宮前町)には、明智光秀公首塚がある。 
愛宕百韻 
愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。 
光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。 
また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、源頼政らによる以仁王の乱、後鳥羽上皇の承久の乱、後醍醐天皇や足利高氏らによる元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。 
しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い。また、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。 
なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。  
本能寺の変の原因 
本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。 
怨恨説  
主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。 
信長に酒を強要され、下戸の光秀が辞退すると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けられた。同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。 
丹波八上城に人質として母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。激怒した八上城家臣は母親を殺害してしまった(絵本太功記による創作)。武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城にて行われた京料理での接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられ捨てられた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。 
また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。 
武田征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森蘭丸に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。ルイス・フロイスも、信長が光秀を足蹴にした事があると記している。  
野望説  
光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著「明智光秀」はこの説を採用している。 
佐久間信盛の織田家追放を佐久間家の視点で描いた「佐久間軍記」には、追放の要因が何者かの讒言である可能性を示唆している。それが“何者か”については、寛政重修諸家譜の信栄(正勝)の項には「後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府(信長)其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。」とある。光秀が讒言を行っていた場合、本能寺の変の理由の1つとして、謂れのない讒言であると明らかにされることを恐れたという可能性もある。  
恐怖心説  
長年仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。あるいは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。  
将軍指令説 / 室町幕府再興説  
光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。  
朝廷説  
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。 
近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(「晴豊記」)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。 
三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。朝廷又は公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。 
ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、「晴豊記」の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。 
一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。  
四国説  
比較的新しい説とされるが、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。  
イエズス会説  
信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(立花京子「信長と十字架」)。 
この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。  
諸将黒幕説  
織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や羽柴秀吉が主に挙がる。家康の場合、信長の命により、長男信康と正室築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。他に少数意見として、細川藤孝や織田信忠が黒幕という説もある。  
補足  
上記に加え、「本願寺黒幕説」や比較的近年の研究成果として「明智家臣団の国人衆による要請があったとする説」などもある。  
信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられる。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられる。 
しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はある。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要がある。  
長年の恨み説の中で登場する八上城攻囲に関して、人質とされている光秀の母親が偽者(叔母)であったとする説もある。この偽物説は、過去いくつかの書籍で取り上げられていたが、丹波味土野には、口伝として光秀の母堂を隠しその身を守ってきたとする伝承があり、これに信をおくとすれば、長年の恨み説の中で八上城に関する部分は人質である叔母の犠牲は伴うものの、本能寺の変の原因の主因としては考慮から外ずしてもよいことになる。  
これらの理由が決定的でない理由として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。  
光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずか3千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出している。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようである。 
本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われているが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかない。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺える(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、「明智家法」には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っている。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在する。  
平成19年(2007)に行われた本能寺跡の発掘調査で、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見され、本能寺を城塞として改築した可能性が指摘された。  
いずれにしても、本能寺の変は知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙とする意見も多い。本能寺の変の際、前田玄以や織田長益(有楽斎)らが三法師(織田秀信)を保護して京都から逃亡するのを許したことも、その例である。  
光秀は変の前に三回くじを引いた(全て凶だったといわれる)という逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。  
「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代中後期に、頼山陽が記した言葉である。  
南光坊天海説 
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。異説の根拠として、日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。 日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。 
徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測 / 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること /学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること / 光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと / 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)  
テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。  
「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの等があげられている。 
しかし、日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない。 また、寛永寺の公式記録では会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。比叡山の石碑に関しても後世の偽造との説も出ている。 
また、天海が明智光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の死後に長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する。)が生じる。また、諱についても秀忠の秀の字は秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。 
なお、僧と光秀の関係で言えば、光秀の子(とされる)・南国梵桂が建立した海雲寺→本徳寺(岸和田市)には光秀の唯一の肖像画が残されているが、この寺にある光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」と刻まれている。この文言と位牌の関係については現時点では不明である(文言から「光秀は慶長年間まで生きていた」と主張する者もいる)。  
称念寺・芭蕉句碑 
芭蕉句碑が建つ称念寺は、明智光秀が越前朝倉家に仕官を求めて訪れていた頃、称念寺の園阿上人の好意で門前に仮住まいしていた所という。その頃貧困であった光秀の妻は、ある連歌の会の酒肴を調えるに際し,夫に恥をかかせてはと女の命である黒髪を売って金をつくり客をもてなしたという。 
「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」 
芭蕉が伊勢の門人山田又玄宅で世話になった妻女におくった句で、同じ句碑が明智一族の菩提寺である滋賀県坂本の西教寺にも建立されている。 
光秀の妻について史実として残っていることは少ないが、逸話として次のような話がある。光秀は、妻木氏の娘熈子と婚約したが、婚礼間近になって彼女が疱瘡になり美貌の顔があばたになってしまった。父親は、熈子と瓜二つの妹を替え玉として送り込もうとしたが、光秀は父親をさとし約束どおり熈子を妻に迎えたという。光秀は、当時一般的であった側室をもつこともなく熈子のみを生涯の伴侶としている。  
光秀の妻 
「細川家記」には光秀の妻は妻木範熈の娘であると記すが、はっきりしていない点がありますが、逸話にはこと欠かせません。 
光秀と妻木範熈の長女熈子との婚礼も間近い頃、熈子が天然痘に感染、せっかくの容貌が痘痕面と化します。そこで範熈が熈子と瓜二つの妹娘を替え玉にしましたが、光秀に見破られた上、「容貌など歳月や病気でどうにでも変わるもの、ただ変わらぬものは心の美しさよ。」と訓戒されて送り帰される。そして、約束通り熈子が妻に迎えられたというのです。  
「月さびよ 明智が妻の 咄せん」 芭蕉 滋賀県大津市・西教寺 
また、諸国を流浪する貧乏時代の光秀夫妻が、一時期ある武士たちの仲間に加わりました。その頃の戦国武士たちは汁事と称し、持ち回りで仲間を家に招き、汁物を食す習わしがありました。もちろんそれだけでは済まず、酒や肴も出すことになります。回り番の日が近づき、光秀は途方に暮れます。ところが、当日熈子が用意した酒肴は仲間の家のどの会食よりも見事なものだったのです。 
解散後、一体どう工面したのかと尋ねる光秀に熈子は頭髪に巻いていたものを取ってみせます。すると、昨日までの丈なす黒髪は断髪に変わっていたのです。その後も熈子の黒髪は、病気になった光秀の薬代とか生活費を稼ぐのに役立ちます。光秀はその恩を終生忘れず五十万石の大身になろうと他の女性を顧みなかったというのです。 
さらに、光秀敗北を知った近江・坂本城では光秀の娘婿明智秀満を中心に篭城か出撃か、城を放棄し再起を図るか、小田原評定が繰り返されていました。ときに長々と続く軍議に熈子が終止符をうちます。 
 「当家の時運ももはやこれまで、空しく時を費やしては、各々方の落ちのびる機会も、ついに失われましょう。我ら一族が、この城で果てることは、かねて覚悟のこと。各々方、早々にご決意下されよ。」きっぱりと言い切ると熙子は家臣たちに金銀を与え城から脱け出させた後、秀満の刀で最期を遂げます。享年48とも53ともいいます。墓は西教寺(滋賀県大津市坂本本町)の明智一族の墓所にあります。なお、1576年妻熈子は光秀の看病中、夫の病を貰い、1576年11月7日急死すると記載してある文献もあります。 
妻木氏(妻木家頼)は、関ヶ原合戦で東軍につき、戦後交替与力格の旗本となり、東濃に君臨する。三代目頼次の時に後継なく断絶した。  
 
明智氏 
桔梗(清和源氏土岐氏流) 美濃の土岐氏の氏族で、美濃明智庄にいたことから明智氏を名乗るようになった。戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出現によって広く知られるようになった。しかし、それまでの歴代についてはほとんど明かではない。そもそも明智光秀の父親の名前からして不確定なのだ。「尊卑分脈」「続群諸類従」などの系図には、光秀の父を光隆とし、また光綱、また光国として一致しない。もっとも戦国武将に限らず、人名は一代の間に何度も変えることはよく見られる。 
ここでいう、光隆・光綱・光国は同一人物のことをいっているのかもしれないが、確定的ではない。いずれにせよ、それらの系図では土岐一族の明智氏から光秀が出ていることは確実なようだ。が、そうした考え方とは別に光秀を明智の出とはせず、まったく別のところからの出自のものが明智を名乗ったのだというものもある。たとえば、進士信周という侍の二男であったとか、若狭国小浜の鍛冶師の二男であったとか、さらには御門重兵衛というものが明智姓を称するようになったとか異説についてはいろいろとみられる。 
しかし、やはり美濃土岐氏の一族の出であったことは動かせないのではないだとうか。光秀は、美濃を出て越前の朝倉氏に仕官する。そこで朝倉氏を頼ってきていた足利義昭・細川藤孝主従と会い、義昭と織田信長の橋渡しを行い、以後二人に仕える形となり、信長が義昭を擁して上洛すると、村井貞勝らとともに京都の庶政に関与し、元亀2年には、近江坂本城主となった。その頃には、義昭との関係はすでに絶たれていた。やがて、天正10年6月本能寺に織田信長を攻めてこれを殺し、信長の嫡男信忠も二条城に滅ぼした。 
しかし、羽柴秀吉と山崎に戦い、敗れて近江へ逃れる途中、小栗栖というところで、農民の槍によって一命を落としたのである。光秀の娘の一人は細川忠興に嫁ぎ、キリシタン洗礼名であるガラシャ夫人の名で知られている。
 
明智光秀2
 
岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死した。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。 
煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとした。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。 
やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。1563年(35歳)100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(38歳)13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなる。 
 
足利義昭は幕府の復興を願っていたが、朝倉義景には天下を取る器量も野心もなかったことから、義昭は朝倉氏に見切りをつけ、桶狭間の戦以来、勢いに乗る織田信長を頼ることにした。1567年義昭に見込まれた光秀は、付き従う形で朝倉家を去り、両者の仲介者として信長の家臣となる。天下を狙う信長にとって、足利家が手駒になるのはオイシイ話。 
翌年(1568)信長は義昭を奉じて上洛し、14代義栄を追い出し15代将軍義昭を擁立した。40歳の光秀は、義昭の将軍就任を見届けて万感の思いだった。光秀は朝倉家で「鉄砲撃ち」をしていた自分を重用してくれた義昭に深く感謝しており、これで恩が返せたと思った。光秀は信長の家臣であり、室町幕府の幕臣でもあるという、実に特殊な環境に身を置くことになった。 
光秀は荒くれ者が多い織田氏家臣団の中にあって、和歌や茶の湯をよくした珍しい教養人。京都に入った光秀は、朝廷との交渉役となって信長を支え、積極的に公家との連歌会にも参加して歌を詠んだ。そして秀吉をはじめ重臣4人で京都奉行の政務に当たった。注目すべきは、まだ信長に仕えて2年目の光秀が、織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けていること。いかに信長が6歳年上の光秀のことを高く評価していたかが分かる。 
しかし、間もなく光秀が苦悩する事態に。1570年(42歳)信長は義昭のことを最初から操り人形だと思っていたので、「書状を発する場合には信長の検閲・許可を得ること」「天下のことは信長に任せよ」など脅迫的な書状を送り約束させた。信長からの締め付けが強くなるにつれ、義昭は影響力を排して自立したいと熱望し、諸大名に「上洛して信長を牽制せよ」と促した。この呼びかけに応えて浅井・朝倉が挙兵し、本願寺や延暦寺など宗教勢力も反信長勢に回った。 
6月「姉川の戦い」浅井・朝倉軍と織田・徳川軍。両軍の死者は2500人を超え、負傷者は数知れず。この凄惨な戦いで姉川は水の色が真っ赤に染まったという。光秀にとって朝倉義景は浪人時代に召抱えてくれた元主君。それも、ほんの3年前の事だ。非情な戦国の世とはいえ、辛い戦いだった(救いだったのは、徳川軍が朝倉軍を担当し、自軍は浅井攻めになったこと)。織田軍は激戦を制し、敵は敗走した。 
1571年7月光秀は信長から滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始する(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件だった。光秀は初めて自分の城を持っただけではない。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのだ(秀吉でさえ長浜城を持つのは3年後)。光秀の喜びは計り知れない「織田に来て良かった」。坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは後に「信長の安土城の次に天下に知られた名城が明智の城だった」と絶賛している。 
 
9月信長の家臣団は思わず耳を疑い、それが本気と知って青ざめた「(中立を守らぬ)比叡山を焼き払え」というのだ。しかも、お堂に火を放つだけでなく、僧侶、一般人、老人も子供も皆殺しにしろという。仏罰を恐れる家臣たちに「叡山の愚僧どもは、魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩じゃ」と殺戮を厳命。叡山に顔見知りが多くいた光秀は抗議する「確かに堕落した僧侶もいますが全員ではありません。 
真面目に修行に励んでいる者もたくさんいます」。信長は完全無視。家臣は信長の命令に逆らえるはずもなく(さもないと自分が斬られる)、織田軍は延暦寺を襲った。最澄による開山から約800年。叡山の寺院は軒並み灰燼と化し、男女約3000人が虐殺され、犬までが殺されたという。この焼き討ちは4日間続いた。諸大名がこれを批判し、武田信玄は「信長は天魔の変化である」と糾弾した。 
「信長は何をしでかすか分からん」。将軍義昭はこれ以上信長の権力が巨大化することを危惧し、武力対決への準備を進める。光秀は義昭直属の幕臣として、「今の信長公には絶対に勝てませぬ」と恭順するよう何度も説得したが、衝突は避けられぬことを悟る。同年暮れ、ついに義昭に暇を請い幕府を去った。1572年信長が最も恐れていた戦国最強大名・甲斐の武田信玄が動く。上洛を開始した信玄は「三方ヶ原の戦い」で軽く家康をひねり潰し、愛知まで迫る。 
1573年(45歳)。正月、義昭はほくそ笑んでいた「信長包囲網は完成した。信玄が来れば信長も終わりだ」。事実、信長は絶体絶命だった。東に信玄、西に毛利、南に三好・松永ら大阪勢、北に抵抗を続ける浅井・朝倉、しかも北陸には闘神・上杉が無傷で控えていた。3月「信玄接近中」の知らせに舞い上がった義昭は、上洛を待ちきれずに信長へ宣戦布告する。 
ところが翌月、信玄が病死。7月義昭が立て篭もる城への攻撃に、光秀も加わるよう命じられた。大軍に攻められ義昭は降伏。さすがに信長も将軍は斬らなかったが、京を追放した。ここに237年続いた足利政権は終焉を迎えた。光秀が身を粉にして復興させた室町幕府は主君信長の手で滅亡した。 
8月信長は3年前の「姉川の戦い」で敗走した朝倉・浅井両氏を完全に滅ぼす。浅井長政は信長の妹お市と結婚しており、長政は妻と娘の茶々(淀君)らを城から脱出させた後、徹底抗戦し自害した。 
同年信長は正親町(おおぎまち)天皇に「元号を変えよ」と前代未聞の要求を突きつけた。信長は自分が天皇より力があることを見せ付ける為に、天皇交代時の神事「改元」を命じたのだ。一人の戦国武将が元号を自由に出来る、朝廷はそんな前例を残したくなかったが、天皇は改元せねば殺されると思い震え上がった。 
そして年号は元亀から「天正」へ改元された。信長は幕府を滅ぼし、この年を元年にしたかったのだろう。 数ヵ月後に天皇は信長に従三位の位を授与すると、信長は官位が低いと激怒した。そしてなんと、正倉院に入って皇室の宝物中の宝物、香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取った。信長から届けられた木片を見て、天皇は「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを記す。天皇は抗議の意味を込めて、その木片を信長と対立している毛利氏に贈った。 
 
1574年信長に招かれ正月の宴に参加した重臣達は腰を抜かす。「昨年は浅井・朝倉の討伐、誠に大儀であった。ものども、祝い酒じゃ」。家臣達の前に並べられたのは、金箔で化粧された黄金色に輝く浅井父子と朝倉義景3人の頭蓋骨。信長はその頭部を割って裏返し、これに酒を注いで呑めと言う。しかも、光秀の前に回されたのは朝倉氏。「どうした光秀、呑めんのか」「これは、それがしの、かつての主君であり」。信長はこういう悪趣味を強要する一面もあった。 
実際、比叡山の焼き討ち以来、「天魔」「魔王」と呼ばれるほど信長の残虐度は加速し、狂気を帯び始める。特に一向一揆への弾圧は苛烈を極め、同年9月の伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降してきた一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。文字通り騙し討ちである。土地に子孫を残さぬこの作戦は「根切り」と言われた。 
信長は4年前に伊勢の一向衆に、愛する弟・信興を殺され怨みまくっていた。「姉川の戦い」直後で弟に援軍を送れず、見殺しにしたという自責の念が、この大虐殺に繋がった。 
信長最悪の殺戮は越前。この地は100年間も一向宗徒が独立国を作っていたので、住民全員を一揆衆と認定し、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数は信長に届けられた首の数だけでも12250とされ、総計4万人にのぼるという(うち3万は信長が越後に入って僅か5日間で殺されている)。信長は手紙にこう記した「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」。 
越前で発掘された当時の瓦に、こんな言葉が刻まれていた「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたままの千人を、はりつけ、または油で釜ゆでに処した」。 
1575年5月(47歳)信長は3000挺の鉄砲を用意して「長篠の合戦」に挑み、信玄の子・勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕。射撃の名手の光秀は大いに武功をあげた。翌月光秀は丹波国(兵庫・京都の一帯)を与えられ攻略を開始。10月四国の長宗我部元親から光秀に書状が届く。元親は信長が四国へ攻めてくる前に友好関係を築こうとして、子の命名を信長に求め、「仲介者になって欲しい」と心頼みにしてきたのだ。頼られると弱い光秀は「承知した、安心なされ」。信長は「信」(長宗我部信親)の一字を与え、四国において元親が戦で手に入れた土地を保証すると伝えた。 
1576年信長は安土城に入城(城の石垣には地蔵仏や墓石も混じっており、信長が神仏を全く恐れていないことが分かる)。4月大坂・石山本願寺の攻略戦(天王寺砦の戦)にて信長は鉄砲で足を撃たれる。石山本願寺は数千丁の鉄砲で武装した堅牢な要塞寺で信長は陥落に10年かかった。光秀も何度か援軍に向かっている。信長が撃たれたのは最前線に立っていた証拠。多くの大名が後方の安全な場所から指示を出していたのとは正反対で、家臣たちはそんな信長にカリスマを感じていた。 
1577年光秀は大和・信貴山城に籠城する松永久秀(ひさひで)を信忠(信長の子)と共に攻略。久秀は2度も信長を裏切っており、普通なら「一族皆殺し」となるはずだが、信長は久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」と交換条件に命を救うという。久秀は主君(三好家)を滅ぼし、将軍(13代義輝)を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちして大仏の首を落とした男。仏罰が当たると言われ「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた。久秀は信長軍に降伏せず、最期は「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死、天守閣を吹っ飛ばした。 
 
1578年(50歳)3月上杉謙信が急死。これで一気に信長は天下取りに近づいた。翌月信長は「もう朝廷の力など必要なし」と右大臣の官職を放棄。8月光秀の三女・玉子(ガラシア)が細川忠興に嫁ぐ。忠興は光秀の朝倉時代からの盟友・細川藤孝の息子だ。11月今度は逆に長女・倫子が離別されて戻って来た。倫子が嫁いだ先は荒木村重の息子。 
村重は信長配下の勇将だが、彼の部下が攻略中の石山本願寺に裏で兵糧を送っていたことが発覚し窮地に陥った。信長が詫びを聞き入れるとも思えず、「どうせ腹を切らされるなら反逆を」と謀反を起こし籠城した。つまり、村重は自分の裏切りで光秀に迷惑がかかるといけないので、決起の前に息子夫婦を離縁させ倫子を送り返したのだ。光秀は怒る信長を説得し、城を無血開城するなら城内の人間の命を助けるという条件を引き出した。ところが、村重は1年間の籠城後に城を抜け出すと毛利のもとへ逃げていった。 
信長は村重を対毛利の主要武将として考えていただけに、よりによって毛利へ寝返ったと聞いて激怒。裏切り者への見せしめとして、村重の一族37人を六条河原で斬首、女房衆(侍女)の120人を磔、侍女の子どもや若侍ら512人を4件の家に閉じ込めて焼き殺した。助命を願う者が最後に頼りとしたのは光秀。彼のもとに「拙者の命と妻の命を引き換えに」と荒木方の武将が駆け込むと、光秀は「武士の情けを」と信長に取り次いだが、なんと彼らは夫婦共に処刑され、光秀は絶句した。荒木村重はその後自嘲して「荒木道糞(どうふん)」と名乗る。秀吉に拾われ、利休の弟子(利休七哲)となり、最後は真田幸村と共に夏の陣で散る数奇な運命を送った。 
1579年光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しでついに丹波国の波多野秀治を下して畿内を平定した。しかし払った犠牲は大きかった。波多野氏を降伏させた際、投降後の身の安全を保証する為に自分の母親を人質として相手の城へ入れた。ところが、信長は勝手に波多野氏を処刑してしまう。怒った波多野の家臣達は光秀の母を磔にした。同年信長は家康の妻と長男信康が武田氏と内通していると疑い、家康に殺せと命じた。これは嫁(信長の娘)と姑の対立が生んだ悲劇で実際には無実だった。しかし、家康は信長の要求に抵抗できず、愛する妻子を殺すことに。 
 
1580年(52歳)10年の長きにわたった「石山合戦」が終結。本願寺11代顕如は寺から退去した。徹底抗戦を訴える長男を絶縁して次男に跡を継がせた結果、本願寺は東西に分裂。戦後処理が一段落すると、信長は家臣団のリストラを断行した。たとえ父の代から仕えていようと、成果を挙げない武将は任務怠慢として織田家を追放した。 
対象となったのは佐久間信盛父子、林通勝(秀貞)、安藤守就、丹羽右近の5人。林通勝の直接の罪状は、24年前に織田家の後継者を選ぶ時に、通勝が弟の信行を支持したこと。家臣たちは「24年も昔のことを理由に通勝殿が、明日は我が身だ」「30年忠勤に励んでも家臣(佐久間)に情をかけぬのか」と衝撃を受け、戦々恐々となる。 
この事件で信長の光秀への高評価がハッキリしたから。 
例えば本願寺攻めを担当した佐久間父子に突きつけた通告文はこうだ。 
・確かに本願寺は強敵だが、攻めることも調略もせず、無駄に時間を浪費した。 
・私は家督を継いで30年になるが、貴殿の功名を一度も聞いたことがない。 
・ケチで欲が深く、有能な家臣を召抱えないからこうなるのだ。 
・武力が不足していれば、調略するなり、応援を頼むなり、何か方法があろう。  
・それにひきかえ、丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し、秀吉の武功も比類なし。池田恒興は少禄にも関らず摂津を迅速に支配し天下の覚えを得た。柴田勝家もまた右に同じ。 
・どこかの強敵を倒してこれまでの汚名を返上するか、討死すべし。  
・いっそのこと父子共ども髪を剃って高野山に移り住め。 
注目すべきは光秀が単純に褒められているだけではなく、その順位だ。無数の家臣がいる織田家にあって、光秀は筆頭で称賛され、次に秀吉、恒興と勝家と続いている。信長の光秀に対する評価と信頼は、それほど絶大なものだった。ただしこの書状は信長の自筆で直接佐久間父子に届いているので、光秀は文面を見ていない可能性が高い。 
1581年(53歳)正月に光秀は坂本城で連歌会やお茶会を主催している(光秀は本当に連歌が好きで、24回の催行が確認されている)。2月信長は京都で馬揃(うまぞろえ)を挙行し、覇王信長の力を天下に見せ付けた。信長はわざわざ宮廷の側に大通りを造って、朝廷など一捻りじゃと軍事的圧力をかけた。光秀はこの重要行事の運営を任される栄誉を授かり、見事この任務を全うする。ここにも信長の光秀に対する満幅の信頼が見て取れる。 
信長は荒木村重の一族皆殺しから2年を経てなお怒りは収まらず、旧家臣を探し出しては斬っていた。8月高野山が村重の残党をかくまっていたとして、高野山の僧侶を数百人も虐殺する。同年一揆の鎮圧で人口10万の伊賀に4万の兵を送り、ここでも大殺戮。 
 
1582年3月光秀は甲斐征討に従軍。武田勝頼は「長篠の合戦」以後も抵抗していた。迫り来る織田軍に対し、武田家重臣の真田昌幸(幸村の父)は群馬の昌幸の城まで撤退して交戦するよう進言したが、勝頼はこれを却下。最期は部下の裏切りにあい自刃した。勝頼をいよいよ追い詰めた時に光秀が感じ入って「我々も骨を負った甲斐があった」と言うと、信長は余程機嫌が悪かったのか「貴様が甲斐で何をしたのか」と激高し、光秀の頭を欄干に打ち付け諸将の前で恥をかかせた。 
戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺した。燃え盛る炎の中で同寺の国師(高僧)・快川紹喜は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。 
4月信長は安土城から琵琶湖の竹生島参詣に向かう。往復100km以上あり、城の侍女たちは信長が一泊してくると思い、皆が緊張感から解放された。ところが信長は疾風の如く参詣を終え日帰りで帰って来た。お城は「仰天限りなし」とある。本丸で勤めているはずの侍女が二の丸にいたり、一部の者は城下町で買い物したり桑実寺にお参りに行っている。信長の癇癪玉は炸裂。外出した侍女たちを縛り上げて皆殺しにて、彼女達の助命を願った桑実寺の長老まで一緒に斬殺した。 
5月7日長宗我部元親は引き続き光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていたが、信長は元親との約束を撤回して「四国征討」を決定する。総大将は三男・信孝。長宗我部に対して「安心なされ」と言っていた光秀のメンツは丸潰れになった。しかも元親の妻は光秀の重臣・斎藤利三の妹。 
斎藤利三(としぞう)は元々同じ織田家の稲葉一鉄に仕えていたが、性格が合わず浪人となった。そこを光秀が重臣として迎えると、一鉄は急に利三が惜しくなり、信長に仲介を頼んで取り戻そうとした。「光秀、利三を一鉄に返せ」「私は一国を失っても大切な家臣を手放すつもりはありませぬ」「わしの命令が聞けぬのか」。信長は立ち上がって光秀の髪を掴むと床の上を引きずり回し、「聞けぬのか聞けぬのか」と廊下の柱に何度も頭を打ちつける。 
「聞けませぬ」。刀を手にかけた信長を「刀はいけません」と周囲が止めに入った。利三はそこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺後も最後まで明智軍に残ったため秀吉に斬首された。 
5月12日信長は自身の誕生日に「神格化宣言」を発布した。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによると、信長は宣教師から聞いた欧州型の絶対王政を目指していたが、この頃には君主を超えて「神」として礼拝されることを望むようになり、自身の神格化を始めたという。キリスト教徒のフロイスはこれを「冒涜的な欲望」と記している。 
具体的には、安土城内に巨大な石「梵山」を安置して「今よりこの石を私と思って拝め」と諸大名や家臣・領民に強制した。また、安土に信長を本尊とする総見寺を建立して信長像を置き、神仏を拝まず信長を拝めと朝廷にも命じてきた。信長が命じればただの石が神になるのだ。これは朝廷の宗教的権威への挑戦であり、彼は目に見える形で天皇の上位にあると宣言したのだ。 
信長は総見寺に「信長を拝めばこんな御利益や功徳がある」と木札を掲げた。内容は「貧しい者は金持ちになり、子宝にも恵まれ、病人はたちまち治って80歳まで長生きする。信長を信じぬ者は来世でも滅亡する。我が誕生日を聖日とし必ず寺に参詣せよ」。信長は「神」だから、国師や比叡・高野山の僧を虐殺しても平気なのだ。 
狂っている。朝廷は信長が自身を「神」と言い出したことから、いよいよ自分たちが滅ぼされると恐れただろう。「神」は2人もいらないからだ。ここに至り、朝廷は光秀に接近し、信長を葬り去るよう命じたと考えるのは容易に想像できる。かつて信長に上洛を促した光秀もまた、「私がこの怪物を育てた以上、この手で始末するしかない」と責任を感じ、自分一人が反逆者の汚名を被ることで「狂気」の幕引きを考えていたのかも知れない。 
5月15日家康が安土城に訪れる。事前に接待役を命じられていた光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ3日間家康をもてなした。そこへ毛利征伐で中国方面に向かった秀吉から援軍要請が入る。現在戦闘中の岡山・高松城の救援で毛利の大軍が上って来るというのだ。信長は「一気に九州まで平らげるまたとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備・待機させた。家康はこの後、「変」の当日まで京や堺の見物で関西にいた。 
この接待に関しては、入念に準備したのに突然中国遠征を命じられ恨みを抱いたとか、宴に用意した魚が腐っていて、信長が小姓の森蘭丸(17歳)に光秀の頭を叩かせたという説もあり、これを謀反の理由にする歴史家がいる。 
5月21日信長から正式な出陣命令が下る。その内容が光秀や重臣を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、坂本などの領地を召し上げ、代わりに毛利の所領を与える」というものだった。信長にしてみれば「それくらいの意気込みで毛利と戦え」「お前ならすぐに毛利の土地を切り取れる」、そんな激励だったのだろう。 
これまでの重用ぶりを見ても、「武勇を誇る家臣は幾らでも交換がきくが、光秀は光秀であり、代わりはない」と誰よりも認識していたはずだ。しかし信長の横暴ぶりを見続けた光秀は、もう前向きに考えることが出来なかった。領国経営に誠意をもって努めていた兵庫滋賀一帯の領地を全て没収し、まだ手に入れてもいない毛利の土地を国とせよは。 
本能寺の変 
5月28日坂本城を出陣した光秀は愛宕神社に参詣。建前は対毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、人生最後の連歌会を開いた。光秀は発句をこう詠んだ。 
「時は今 雨が下(した)しる 五月哉」 /「時」は明智の本家「土岐」氏。「雨」は天(あめ)。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」。 これに出席者の歌が続く。 
「水上まさる、庭の松山」 西ノ坊行祐(僧侶最高位)/みなかみ=皆の神(朝廷)が活躍を松(待つ) 
「花落つる、流れの末をせきとめて」 里村紹巴(連歌界の第一人者)/「花」は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい 
「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」 大善院宥源(光秀の旧知)/信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ) 
この連歌会に集まったのは天皇の側近ばかり。光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知り賛同していた。光秀はこれらの歌を神前に納める。5月29日信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、わずか180名しかいなかった。 
6月1日信長一行は本能寺に到着。なぜ本能寺なのか?信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、この日は本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうというのだ。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた(信長は本能寺へ茶器でおびき出されたようなものだ。 
三大茶碗の2つを所有していれば、あと1つも見たいだろう)。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺は信長、小姓、護衛の一部の約100人ほどが宿泊した。丸腰も同然だった。同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。信長が他将と合流すれば暗殺の機会はなくなる。決行は今しかない。彼らは命運を共にすることを血判状で誓った。京を越えていた明智軍13000の馬首が東向きに並んだ「敵は本能寺にあり」。 
6月2日桂川を越えた明智軍は、明け方に本能寺の包囲を終えた。前列には鉄砲隊がズラリと並ぶ。14年前、朝倉氏と別れて義昭と信長の仲介者となったことから全てが始まった。以来、幕府が滅びても、母が死んでも、僧侶を斬ってでも、織田氏家臣団として忠節を尽くしてきた。その自分が主君を討つ。光秀は深く息を吸い、そして叫んだ「撃てーッ」。ときの声があがり、四方から怒涛の一斉射撃が始まった。攻撃は6時頃、夏場の6時といえばすっかり明るくなっている。時代劇では夜襲で描かれているが間違いのようだ。 
13000対100、本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か攻め手は誰じゃ」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候」。火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。 
信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している、最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。午前7時明智軍の別働隊が二条御所を攻め長男信忠を自刃させた(信長の弟・織田有楽斎は脱出)。 
本能寺は2時間ほどで鎮火し、信長や蘭丸の遺体が焼け跡から見つかった。謀反人としてのイメージダウンを避ける為に信長の首は晒さず、遺体未発見としておき、織田家と縁のある阿弥陀寺の清玉和尚を呼んで丁重に葬るよう頼んだ(後日、秀吉が再三にわたって阿弥陀寺に信長の遺骸を渡すよう圧力をかけたが、亡骸を手に入れることで政治的に有利な立場を築こうという魂胆が明白なので、最後まで引き渡さなかった)。 
光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。 
 
6月3日遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としている。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。 
後継者争いの最初の被害者だ。午後2時俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は変から10日で全軍を京都に戻した)。安土城に入った光秀は、信長が貯めた金銀財宝を家臣達に分け与えた。同日興福寺から祝儀を受ける(仏敵・信長を倒した御礼か)。6日光秀は上杉に援軍を依頼。7日朝廷から祝儀を受ける。8日京へ移動。 
6月9日信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った自分に「武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉した。 
光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。引退。光秀は人々の上に君臨する野望や征服欲の為に信長を討ったのではない。ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。 
10日光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立した。11日京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。12日秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。 
13日「山崎の戦い」。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3000千が増えただけの16000。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。 
戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅した。「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。「堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍もやって来るだろう、大丈夫、まだまだ戦える」。 
しかし、天は光秀を見放した。同日深夜、大雨。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走中だった光秀は、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害した。その場で2名が後を追って殉死。 
14日朝村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したという。安土城を預かっていた明智左馬助(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。 
15日坂本城は秀吉の大軍に包囲される。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は「国行の名刀」「吉光の脇差」「虚堂の名筆(墨跡)」等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である、燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃した。光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。 
光秀は夜明け前の無防備な信長を急襲したことから卑怯者と呼ばれ、「主君殺し」と非難されることも少なくない。しかし領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する、心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。 
物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であった はず。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのだ。   
 
明智光秀3  
通説6つの謀反理由 
「野望説」 光秀が天下を取りを狙った。→細川父子への手紙のように、一連の光秀の言動から考えて野望はあり得ない。却下。 
「恐怖心説」 重臣・佐久間信盛のリストラをきっかけに、結果を出さねば追放されると不安になった。→武勲挙げまくりの光秀と比べること事態がおかしい。却下。 
「四国説」 本能寺急襲が四国遠征軍の出港予定日という点に注目。光秀は長宗我部の仲介となって信長と交渉していたので、侍の筋を通す為に謀反したというもの。事実、四国遠征は中止になった→複数原因のひとつとして採用 
「積年の恨み説」 人質となった母の死、丹波・近江などの領地没収の他、細かいことでは、髪が薄いことを「きんかん頭」とオチョクられた、酒が呑めずに断ると「ならばこれを呑め」と口に刀を突きつけられた、公衆の面前で髪のマゲを掴まれ引きずられた、等々枚挙に暇なし。→恨んで当然。 
「足利義昭黒幕説」 かつての主君・義昭の指令。→義昭に長年仕えていた細川藤孝が味方になっていない。却下。 
「朝廷黒幕説」 皇室が滅ぼされると思った朝廷から指令→光秀は連歌会や茶会で公家と親交が深く、実に説得力あり。これが事実なら、暗殺後に朝廷がバックにいることを書けばもっと味方が増えたのに、謀反の汚名を朝廷に着せない為に、一言も書かなかったことになる。天晴れというほかない。 
この朝廷黒幕説は、家康、秀吉の“見てみぬふり”説も生んでいる。朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知り、両者はすぐに行動をとれるよう準備していたというのだ。信長の死で誰が一番得をしたのか?後に天下人になったこの2人だ。信長がいる限り、家康も秀吉も天下を取れずに死んでいたのは確か。“信長の仇・明智を討った家臣”秀吉の発言力は格段に強まった。家康には信長に妻子の命を奪われた恨みがある。家康は事件当日に早くも信長の死を知っており、秀吉も翌日に気づいてる。そして家康は三河へ、秀吉は京都へすぐに戻った。幾らなんでも手際が良すぎる。 
じゃあ、光秀は利用された挙句に殺されたのか?僕は絶対に死んでないと思う。光秀の死をめぐる秀吉側の記録は矛盾だらけだ。
生き延び第2の人生 「天海」 
大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ土民・中村長兵衛が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?また、頭の切れる光秀が、追っ手対策の影武者を用意しておらぬハズがなく、それを土民が見抜けるのか? 
長兵衛はどうやって13人の家臣に気づかれずに接近し、正確に一撃で光秀の脇腹を竹槍で刺せたのか? 
しかも、その後の寛永年間の調査で、百姓「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった。村の英雄のはずでは? 
秀吉が光秀の首を確認したのは4日後。6月(新暦では7月)の蒸し暑さの中で顔が判別できたのか? 
明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝承されている。 
殉死したと伝えられている2人の家臣は、生きていて細川家に仕えている(当時の家伝に名前あり)。一人なら何かの偶然としても二名ともというのはおかしい。しかも細川は光秀の親友だ。 
光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能だ。 
では死んだのが影武者として、光秀はどうなったのか?実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという。これを単純にトンデモ話と笑い飛ばせない奇妙な一致が多々あるのだ。 
※南光坊天海…家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶。比叡山から江戸へ出た。絶大な権力を持ち将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。様々な学問に加え陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・日光東照宮や上野の寛永寺を創建し、江戸の町並み(都市計画)を練るなどして、107歳の長寿で他界した。 
家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、文字通り家康を“尻に敷いて”いる。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。※追記。この家紋説に関しては、桔梗より織田家の家紋・織田木瓜の方が近いことが後日に判明。 
日光の華厳の滝が見える平地は「明智平(だいら)」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる) 
2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。 
天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。 
年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。 
家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(&光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。 
強力な物的証拠もある。比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。 
家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。 
そして極めつけ。光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。※大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶり。空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。 
天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所だ。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。 
これらには反論もある。例えば「天海の鎧は大坂の陣で着用したのだろう」や「桔梗紋は他にも太田道潅、加藤清正らが使っている」と言うように。しかし、道潅の桔梗は花弁が細い“細桔梗”であり同じ桔梗でも形が全然違うし、第一光秀以外の桔梗紋の武士が「寅」の上に座って許されるハズがない。一つ二つの一致なら「偶然に決まってる」と笑えるが、土民に竹槍で刺された話から死後の「慈眼大師」の命名まで見渡すと、光秀死亡説の方がトンデモ話に見えてくる。諸文献の反論も「きっと」「だろう」ばかりで、全ての疑問に明快に反証しているものはない。 
山崎合戦後に比叡山に出家したのも合点が行く。信長を倒す為とはいえ、秀吉の攻撃が速過ぎて、一族、家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養したかったのだろう。また比叡山の方も、天魔・信長を討ってくれた「英雄」を手厚く迎えたという(光秀が石灯篭を寄進したのは彼が世話になった寺)。時が流れて“天海”が江戸で初めて家康と会った時の記録も意味深だ「初対面の2人は、まるで旧知の間柄の如く人を遠ざけ、密室で4時間も親しく語り合った。大御所が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例がなく、側近達は“これはどういうことか”と目を丸くした」。 
※天海が関東を活躍の場に選んだのは顔が知られてないから。晩年の秀吉は甥・秀次の一族を幼児まで皆殺しにしたり朝鮮侵略を行なうなどトチ狂っていたので、天海は信長の悪夢が甦り「早く豊臣を滅ぼし家康に天下を任せよう」と徳川政権の基盤確立に奔走したのだ。
墓 
光秀や左馬助の墓は滋賀坂本の西教寺にある。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚が京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたのだろう。 
※「明智軍記」が光秀の死から百年後に書かれていることを理由に、光秀の母の死、近江・丹波の召し上げ、家康接待事件、武田征伐での欄干事件などを“創作”とする意見もあるが、「明智軍記」には事実も書かれており、「絶対に事実ではない」と断言できるもの意外は採用した所存。また「叡山焼き討ち」に関しても、“光秀が周辺土豪に根回しをした書状があるから反対説は嘘”という歴史家がいるけど、根回し(事前通告)をせねばさらに事態が混乱する訳で、それをもって「反対してない」と決め付けるのはどうか。 
※光秀の天下は12日間(三日天下ではない)。 
※坂本龍馬の生家には「坂本城を守っていた明智左馬助の末裔(土佐まで落ち延びた)が坂本家」との伝承が伝わるという。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗紋。 
※フロイスいわく、信長は毛利を平定し日本66カ国を支配した後は、「一大艦隊を編成して中国大陸を征服し、自分は日本を出てこの国は子に与える」と言い放っていた。戦争は日本で終わらない…光秀でなくとも、戦続きで疲れ切った家臣達は、目の前が真っ暗になっただろう(これも謀反の原因に加えて良いかもしれない)。  
 
明智光秀4 / 天正十年安土御献立・鮒寿司

 

近江の郷土料理「鮒寿司」1 
日本を代表する発酵食品で特に滋賀県の郷土料理として有名。日本最古の寿司ともいわれる。材料には「鮒(ふな/主にニゴロブナ・ゲンゴロウブナ)」を使用する。毎年5月初旬産卵の為に琵琶湖の浅瀬に集まる鮒を穫り卵巣は残して臓物を除く。身を水で綺麗に洗った後、水気を除く。その後身の中に塩を詰め込み(塩切り)しばらく塩漬けにする。時期をみて身の中の塩を取り除き(塩出し)今度は身の中に挟み込む様に飯を詰め込む。この時に発酵を促進させる為、焼酎等のアルコールや米麹を加えたりもする。桶の中に飯と鮒を交互に敷き詰めて重石を載せて密封、1年〜2年位漬け込む。こうする事により桶の中では乳酸発酵が起こり鮒寿司が出来上がるわけだ。食べる時には詰め込んだ飯はドロドロに溶けてペースト状になっていて乳酸発酵による独特の臭気と酸味がある。非常に手間の掛かる料理である事と、近年原材料である鮒の減少で非常に高価な料理となっている。 
臭いが苦手な人が多いといわれる料理で、苦手な人が多いといわれる一方で、こんなに美味しい物はないという人もいる。 
「鮒寿司事件」 織田信長/明智光秀/徳川家康/本多正信 
時は天正十年(1582年)。長年の脅威であった甲斐の武田家を滅ぼした織田信長は長期に渡って東の押さえの役目(武田家の脅威の押さえ)を果たしてくれた同盟者である徳川家康を安土へと呼び豪華な饗応をする事にした。家康がいなければ信長は安心して尾張から西進し上洛を果たす事は出来なかったからだ。この大事な饗応役を信長から命じられたのが明智光秀であった。光秀は仕事を卒なくこなし饗応の準備も万端整った。そして安土での宴の夜、事件は起こった。 
その夜、信長と家康は酒肴を並べ能を堪能中であった。家康の謀臣本多正信が酒肴の膳の上にあった鮒寿司に箸を付けようとして一言光秀に文句をつけたのである。 
正信「明智殿は我が主に腐った魚を食べよと申されるか?」 
家康「これ!控えよ正信」 
光秀「あいや、これは近江の名物の鮒寿司と申しまして・・・云々」 
家康「明智殿、我らは山深い三河の田舎侍じゃによって知らぬ事とはいえ許されよ」 
正信「これは失礼致した」 
これで落着するはずであった。が、このやり取りを聞いていた信長が烈火の如く怒り出したのである。 
信長「不味い!」 
と一喝した後、座を立って出て行こうとしてしまう。それを必死で止める光秀。 
光秀「お待ち下さい!上様!京より腕に憶えのある料理人を多数揃え用意したる山海の珍味の数々・・よもや口に合わないはずがございませぬ!」 
信長としては決して酒肴に並んだ料理が不味いと言っているのでは無く、いくら腕のある料理人が作った有名な京料理・近江の珍味であったとしても大事な客人の口に合わない物を接待の席で出した光秀の事が許せなかったのである。それが光秀には分からない。止めようとする光秀を足蹴にするだけでなく光秀は「饗応役」を降ろされてしまう。加えて彼の近江・丹波の領地は没収、中国攻めの最中である羽柴秀吉の加勢にすぐに出陣せよとの命令が下る。彼・明智光秀が「本能寺の変」で信長を討つのはこの事件からわずか半月後の事であった。 
この「鮒寿司」のエピソードがホントの事であったのかは分らないが光秀が信長に対して逆心・謀反を画策とするいう異常な心理状態を盛り上げる為の数々の逸話のひとつとしてまことしやかに語られている。 
安土御献立2 
家康をもてなした料理、ひばりの焼き鳥・フナ寿司・ツルの肉など60品目以上 
戦国武将・織田信長が武田氏討伐で功を成した徳川家康をもてなした「天正10年 安土御献立」の復元レプリカが安土町に寄贈された。「安土御献立」は、信長が全国から集めた食材で作った当時の最高料理で、現在の日本料理の原典とされる。続群書類従にも記され、尾州茶屋家16代当主の妻で茶屋四郎次郎学園理事長の中島範(のり)さん(89)が10年前に復元し、翌年レプリカが作成された。「本能寺の変」の17日前の料理で、接待役は明智光秀。光秀は最大の心配りをしたのに、信長から「仕度が行き過ぎた」と怒られ、5日目に接待役を降ろされる。そして、3日後、毛利と戦っている秀吉の応援に行かされた。これが本能寺の変の引き金になったとも言われるいわく付きの料理でもある。 
明智光秀、徳川家康接待の下心 
甲斐の武田氏を滅ぼす織田信長の作戦に従軍し、功績で駿河一国を与えられた徳川家康が、礼参のため安土に上ってきます。 
これに対し、5月14日に公家の吉田兼見が「徳川安土に逗留の間、惟日在庄の儀、信長より仰せ付けられ、この間馳走以ての外(もってのほか)也」と日記に書いているように、かなり以前から信長は光秀に接待役の任務を課しています。 
そして、家康が到着した5月15日(旧暦)、兼見が「もってのほかの馳走」と記した光秀の接待大作戦がスタートしました。 
「信長公記」ではこの経緯を「五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至って御参着。御宿大宝坊然るべきの由上意にて、御振舞の事、維(惟)任日向守に仰付けられ、京都・堺にて珍物を調(ととの)へ、生便敷(おびただしき)結構にて、十五日より十七日迄三日の御事なり」と記録しています。 
光秀がどんな接待をおこなったか、その全ては把握できませんが、提供した料理については「安土御献立」として記録が残っています。 
光秀の接待は3日間にわたって繰り広げられる筈でしたが、最終日の17日、光秀は急遽本拠の坂本へ戻ります。信長が、備中高松城攻めに従事している羽柴秀吉から毛利軍出撃の報を受け、増援部隊を派遣して自らも親征すると決めたからです。 
光秀は領地で出陣準備に取りかかりましたが、半月後に軍を発した光秀は、中国方面ではなく京の本能寺を目指し、信長を討つ事となりました。 
ところで、この光秀の謀反、現在有力なのは、彼が土佐の長宗我部元親の取次役だったのに、織田信孝・丹羽長秀に四国攻めの司令官の座を奪われた事が原因とする説です。たしかにそれもあるかも知れませんが、徳川家康の接待役の任を解かれた事もその一因ではないかと思います。といっても、昔からよく言われる、「信長が光秀の接待内容に不満を持ってお役ご免にしたのを恨んだ」などというものではありません。 
家康接待というのは、あるいは家康に対する取次役に準ずる役目だったのではないか、と思うのです。 
織田家側で徳川家康の取次役を務めた者というと、清洲同盟締結の際に働いた水野信元や滝川一益が思い当たりますが、信元は7年前に処刑され、一益はこの年「関東管領」相当の職に任じられて現地赴任中(あとは信長側近衆が合戦などの都度「取次」に走っていますが、これは単なる連絡役です)。 
取次役というのは、取次相手との関係が決裂すると、その攻略の司令官となる役回りでもありますから、どちらにしても相手の内情に精通していなければ務まりません。 
接待役というのも、これだけ大がかりに織田家の威信をかけたものともなれば、取次役同様の重みを持つわけですし、これも相手の内情に精通していなければ到底成功できないでしょう。 
実際、光秀罷免のあとは信長が「忝く(かたじけなく)も信長公御自身御膳を居ゑ(すえ)させられ」(同書)と、自身で接待役の先頭を切っているのですから。 
本能寺の変では、光秀の兵は「てっきり家康を殺すのだと思った」と述懐しています(「本城惣右衛門覚書」)。この時点で、信長は家康を排除するだろうという展望を、かなり広い範囲の人々が持っていたわけです。そんな中、家康に対する取次役の座を確保できれば、近い将来信長が家康を不要として切り捨てる際に攻撃司令官となり、豊かな東海三ヶ国(駿河・遠江・三河)切り取り自由の権利を得られるかも知れない、光秀はそう思ったのではないでしょうか。そうなれば、四国攻めの司令官の座を逃がした失点も取り返せ、扶植した軍事力で、その後の九州攻めや奥州攻めにも参加でき、今一度織田家の中で大きな位置を占める事も可能だろう、と。トップのそういう考えは、部下に伝染するものです。 
「家康がターゲットだ」と部下の兵が考えていたのも、そういう背景があったからでしょう。その望みが中国増援で一瞬にして消えた時、光秀の心中に信長襲殺への暗い炎が点いたのかもしれません。
信長が家康を饗応した料理を再現した「安土献立」3 
天正10(1582)年5月15日。天下統一を目前にした織田信長は、三河の徳川家康を安土に招いた。饗応役には明智光秀が命ぜられたが、接待の準備の不始末からか信長の怒りをかい途中で任を解かれた。この事が本能寺の変の原因の一つと伝えられている。 昭和62年6月7日フェスタ信長87にて、信長の天下料理「安土献立」を復元しました。家康が安土に到着した時の料理を「安土献立」として、当時の資料「続群書類従」の記述に基づきでき得る限り忠実に復元しました。 
一の膳 / @金高立入/蛸(湯引たこ)A鯛の焼き物B菜汁C膾(なます)D高立入/香の物(大根の味噌漬)E鮒の寿司F御飯 
二の膳 / @絵を書いた金の桶入/うるか(鮎の内臓の塩辛、今回はこのわた使用)A高立入/宇治丸(鰻の丸蒲焼き)Bほや冷や汁C太煮(干ナマコに由芋を入れて味噌煮にしたもの)D絵を描いた金色の輪に乗せた貝鮑E高立入/はも(照焼き)F鯉の汁 
三の膳 / @焼き鳥(鶉・うずらの姿焼き、当時は雲雀・ひばり)A山の芋鶴汁(鶴とろ汁味噌仕立て、鶴はフランス産使用)Bがざみ(ワタリガニの一種)C辛螺・にし(にしがいの壷煎、巻貝の一種)D鱸・すずき汁 
四の膳 / @高立入/巻するめA鮒汁B高立入/椎茸C色絵皿入/鴫・しぎ壷(鴫の壷焼き、なすの田楽) 
五の膳 / @まな鰹さしみA生姜酢B鴨・かも汁(鴨の味噌汁)Cけずり昆布D土器入りのごぼう 
足付の縁高御菓子 / @から花(造花)Aみの柿(干し柿)B豆飴CくるみD花昆布E求肥餅(羽二重餅) 
十五日をちつき (徳川家康一行の安土到着時) 
●本膳 皮を取った蛸 鯛の焼き物 菜汁 鯉のなます 香の物(味噌漬) 鮒の鮨 飯 ●二膳 うるか(鮎の内臓の塩辛) 宇治丸(鰻を丸のままあぶって切り、醤油と酒、または山椒味噌をつける。鰻の鮨のことともいう) ホヤ冷や汁 太煮 鮑 ハモ 鯉の汁 ●三膳 やきとり(キジ) 山芋の鶴汁 かさめ(ワタリガニ) ニシ(貝の一種) 鱸汁 ●よ膳 巻スルメ 鴫つぼ(ナスをくり抜いて鴫肉をつめる) 鮒汁 しいたけ ●五膳 まな鰹刺身 生姜酢(刺身用) ごぼう 鴨汁 削り昆布 ●菓子 羊皮餅(餅菓子の一種) 豆飴 美濃柿 花煮昆布 から花(造花)  
十五日晩御膳 
●本膳 三つ和え(煮物三品。または’水あえ’か?) こまごま(数種類の和え物か?) 鮎の鮨 干し鯛 飯 ●二膳 串鮑 鯒(コチ)汁 なしつけ(奈良漬か?) ●三膳 菱喰(ひしくひ・鴨) 角煮(鰹か?) 鯛のあつ物 つぼ(内容不明) 折二かう(折詰二段) 角盛り・壷盛り ふくらいり(鮑・赤貝・ナマコ・イカなどの煮物) きしませに葡萄(不明) 折二かう かわらけの物(土器に盛ったもの) その他いろいろ  
十六日御あさめし 
●本膳 宇治丸 鱒焼き物 汁 鮒なます うど このわた(ナマコの内臓塩辛) 飯 ●二膳 ひばり かれい 鯛の汁 干鱈の削り物 麩の小串 イカ 冷や汁 ●三膳 塩引き(魚の塩漬け) 麩と雁の汁 切り蒲鉾・焼き鮎・酢ごぼう盛り合わせ 杉かかり(杉板を使った煮物で、杉の香を食材に移した。) とさか海苔 ●よ膳 大はも とへた(ツメタ貝) 山の芋・醤煎り・あま海苔色々 そぼろ 鱸 たてす(蓼酢) かけいり(魚のすり身団子) ミル貝 ●菓子 薄皮饅頭 山の芋 美濃柿 ビワ 麩揚げ  
十六日之夕 
●本膳 飯湯漬け 塩引き(魚の塩漬け) かりの豆(不明) 焼き物 和え混ぜ(スルメ・鮑等の酒和え) 飯 香の物(味噌漬け) ふくめ鯛(ふくめとは田麩のことか?) 蒲鉾 ●二膳 からすみ 皮を取った蛸 サザエ三つ あつめ汁(ナマコ・串鮑・麩・椎茸・大豆・あま海苔) 小串(何の串か不明?) 和えくしげ(和えクラゲ?) ●三膳 山椒はも 竹の子と白鳥 海老舟盛り 熨斗もみ(鮑の塩もみ) 鯉汁 ●よ膳 数の子 百菊(ももぎ)焼き(鳥内臓の焼き物) 青鷺汁 瓜もみ ●五膳 シギの羽盛 ウドと鯨の汁 バイ貝 ●菓子 羊羹 うち栗 くるみ 揚げ物 花煮昆布 おこし米 のし(鮑) ●点心 生姜・山椒 かた海苔 こたうふ(豆腐?) 椎茸 蒸し麦五枚(点心用の小麦粉製皮) 御そんさかな(御添え肴。菓子の時に添えた酒の肴)橘焼き(クチナシで黄色に染めた魚のすり身を丸め、からたちの枝にさしたもの)二本 角盛り・壷盛り 鯛のあつ物 折十かう(折詰十段)・杯の台、その他いろいろ出された。  
補足 
信長の生きた時代おける、醤油と鰹だしの使用について思ったことを述べます。 
当時の主な調味料は、塩・酢・酒・醤(ひしお)・味噌等だったそうです。料理の味付けは質朴なものだったと思われます。 
ただし、醤油の使用がまったくなかったわけではなく、それは室町後期から確認できるそうです。醤油を使うことにより、料理には格段の風味が加えられることになります。 
だしも味覚に重要な役割を果たしますが、この頃すでに鰹節(現代と製法が違って煮て日干しにしたもの)からだしを取るという方法が始まっていたそうです。 
これらのことから何が言いたいのかというと、信長の食膳には醤油や鰹だしが使われていた可能性があり、そこには現代の我々の知る日本料理に近い味があったのではなかったかということです。 
次に、料理の「見た目」についても触れておきたいことがあります。 
「天正十年安土御献立」の復元料理を雑誌で見たことがありますが、黒塗りの膳が使われていたせいか、受けた印象は「全体的に地味」とういものでした。ところが、最近になって 
、その復元に使われていた膳が当時のものとは違うかもしれないということを知りました。室町時代においては桧の白木の膳が塗り具よりも格上だったといいます。つまり、当時の正式料理は白木の三方で出されていたのです。 
そうすると、「安土御献立」の装飾に対する印象も変わってきます。料理は品によって「桶金絵入り」とか「亀足(きそく。紙飾り、あるいは串のことらしい)金」とか「紙立金」というように 
、飾りに金箔が多く使われています。白木に金というと、どこかしら格調高く美的なものを感じさせます。