時宗(時衆)寺院
遊行寺熊野大権現宝厳寺真光寺四国時宗寺院常念寺誓願寺爪書きの岩善光寺芝原善光寺武蔵国の時衆道場中世の伊予高野山参詣因幡伯耆聖1聖2神田神社将門首塚・・・ 
寺院建築・・・

時宗・一遍 仏の世界   

 
清浄光寺(しょうじょうこうじ) 藤沢市 時宗総本山 遊行寺(通称)

時宗総本山寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。時宗の法主(ほっす)が代々「遊行上人」と呼ばれるので遊行寺(ゆぎょうじ)の通称の方が知られている。藤沢道場ともいう。  
俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族、俣野五郎景平が開基、その弟の遊行上人第4代呑海が、正中2年(1325年)に藤沢の地にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われ、現在より400mほど北の、光徳と呼ばれる場所にあった。 伝承では、現在の西俣野の北部の道場ヶ原にも呑海上人の関係する寺があったと言伝えられている。 
延文元年(1356年)清浄光寺と改称。 
永正10年(1513年)戦乱で全山消失。本尊が移転していた時期がある。 
元亀2年(1571年)武田信玄から、藤沢200貫、俣野の内100貫の土地が寄進された。 
慶長12年(1607年)再興。 
明治元年10月10日(1868年11月23日)には、東京行幸の際に明治天皇が宿泊をした。 
明治44年(1911年)7月6日に火災が発生し、書院、居間、番方庫裡および国宝一遍上人絵詞伝(遊行上人縁起絵)を焼失した。 
宗祖一遍上人 
一遍上人は七百余年の昔、四国は愛媛県の道後の豪族河野家に生れました。幼くして出家法然上人の孫弟子に当る九州の聖達上人から浄土の教えを学ぶこと十二年。のちに善光寺に参り、念仏一筋のほかに自分の道がないことを悟ります。それから故郷の窪寺や岩屋寺にこもって念仏三昧の生活を送り、ゆるぎない信仰を確立いたします。それからこの教えを総ての人々に広めようという念願をおこし、全国遊行の旅に出るのです。信州・佐久では踊り念仏をはじめました。16年間ほとんど日本国中を歩かれました。上人は正応2年8月23日(1289)神戸の観音堂(現・真光寺)で亡くなり、今もそこに御廟があります。その伝記は国宝「一遍聖絵」にくわしく、その教えは「播州法語集」としてまとめられております。  
御賦算 
遊行上人が巡り歩かれるところ、必ず御賦算なさいます。わかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。賦は「くばる」、算は「念仏札」であります。このお念仏のお札は遊行上人が、集まった人々に一枚づつ手ずから配られます。一遍上人は、生涯に251000余人に配られたと記録されています。お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお札であります。「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と刷り込まれていますが、「決定往生六十万人」とは、六十万人の人々にお札を配ることを願われ、また次の六十万人の人たちに、ついには総ての人々(一切衆生)に配ることを、念願されたのであります。遊行・賦算・踊り念仏は、今日では時宗独特の行儀であります。 
遊行上人と遊行寺 
遊行寺は時宗の総本山であり、一遍上人を宗祖と仰ぎます。一遍上人は、寺院を建立することなく、その生涯を日本全国、一人でも多くの人々に念仏をすすめて歩かれました。その志をつぎ遊行を代々相続する方を遊行上人とお呼びします。その遊行上人が、遊行をやめられて定住されることを「独住」といいます。遊行四代呑海上人は正中2年(1325)もと極楽寺の旧跡に寺を建てて独住されました。それが遊行寺のはじまりです。遊行の法燈をつがれて、念仏をすすめて歩かれる方を遊行上人といい、遊行の世代を次の方にゆずられて、遊行をやめて「藤沢山・遊行寺に独住された上人を藤沢上人といいます。そして現在では一人の上人が 「遊行上人」と「藤沢上人」の両方を兼ねておられます。 
お別時と一っ火 
この念仏会は、一遍上人以来今日まで、七百年も続けられている厳しい修行であります。明治のころまでは、12月24-30日までの七日七夜に渡る行事でありましたが、近年では11月18-28日まで執り行われ、27日夜には 「御滅灯」の式、つまり「一ツ火」の儀式が行われます。この行事は、一年間の罪業を懺悔して心身共に清浄になって新しい年を迎えることと、さらに重要なことは、極楽浄土への往生を体得することであります。この修行の中で最も厳粛なのは 「一ツ火」の式であります。27日の夜は、堂内の一切の灯火が消されて、シ一ンと静まりかえった暗闇の中で式がはじまります。遊行上人の底力のある念仏が静かな堂内に満ちてくると、未法のこの世の中に念仏のみがただ一つの救いであること、胸の奥ふかく沁みとおるようであります。しばらくの間は、身じろぐものもありません。そして新しい火が打ち出されて、つぎつぎに仏前の灯火が点じられてゆきます。堂内が次第に明るくなって、居ならぶ修行僧の顔が見えはじめるころには、念仏の声も一段と高く、ひびきわたってゆきます。闇黒と光と念仏と…。人々はこの三つが織りなす雰囲気に感激し、念仏のありがたさを体得するのであります。ここに七百年の伝統の火が念仏とともに輝き出 します。  
 
熊野大権現/熊野本宮大社  和歌山県 成道地

御祭神 
第一殿 伊邪那美大神(熊野牟須美大神くまのむすみ)事解之男神(ことさかのお) 
第二殿 伊邪那岐大神 速玉之男神 
第三殿 家津美御子大神(けつみこ)(素戔嗚尊) 
第四殿 天照皇大神 
第五殿 忍穂耳命 
第六殿 瓊々杵命 
第七殿 彦穂々出見命 
第八殿 鵜茅草葺不合命 
第九殿 軻遇突智命(かぐつち) 
第十殿 埴山姫命(はにやまひめ) 
第十一殿 彌都波能売命(みづはめ) 
第十二殿 稚産霊命(わくむすび) 
摂末社 
産田社(伊邪那美命荒魂)滝姫神社(湍津姫命)八咫鳥神社(武角見命)大国主神社(大国主命)須勢理姫神社(須勢理姫命)祓戸天神社(天児屋根命)海神社(底津綿津見命・中津綿津見命・上津綿津見命)高倉下神社(高倉下命・穂屋姫命)御所開神社(天手力男命)市杵島神社(市杵島姫命)真名井社(天村雲命)月見岡神社(天照大神・月読命)音無天神社(少彦名命) 
神紋  鳥紋(三本足の八咫鳥) 
神武天皇(磐余彦命)が、熊野から大和国へ侵攻するとき、深く険しい山越えを天照大神が遣わした3本足の八咫鳥の案内で、無事大和にはいることができたという。 八咫鳥は熊野那智大社に戻り石になったという鳥石が残っている。 また、三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すとも云われ、智・仁・勇、また、天・地・人の意を表すとも云う。また、奈良県宇陀郡榛原町にもこれを祀った八咫鳥神社がある。 
由緒 
熊野本宮大社(旧官幣大社熊野坐神社)は熊野三山(本宮、新宮、那智)の首座として熊野信仰の総本山として仰がれている。 
主祭神は家津美御子大神(熊野加武呂乃命)で、古史によれば、はじめ海原を治めていたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、八岐大蛇を退治され、天叢雲剣を得て天照大神に献上し、遠く大陸をも治めたとある。紀伊続風土記に「大神大御身の御毛を抜いて種々の木を生じ給い、其の八十木種の生まれる山を熊野とも木野とも言えるより、熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬ=家津美御子大神と同意)と称え奉るべし。」とあります。植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はここよりおこった。特に造船の技術を教えられ、貿易を開かれたので古代に海外へという思想があった。舟玉大神と仰がれる理由もここにある。誓約の神として、天照大神と天安河を挟み誓約をされたと古事記にもあり、正邪を正すとして崇められ、後世烏(からす)文字を用いた熊野牛王神符が誓約に用いられ、起請文となった。本地垂跡説が行われてから家津美御子大神を阿弥陀如来として熊野大権現と称え、守護神として夫婦結の信仰が厚く、死人も白衣をつけて熊野詣をするといわれ富貴神寿命神(ふうきのかみじゅみょう)として厚い信仰がある。熊野大神の神使は八咫鳥ですが、神武天皇御東征のおり、熊野鳥が大和へ先導した縁起から交通の守護神と仰がれ、成務天皇の御代高倉下の四世大阿斗足尼(おおあとたじ)、温泉を発見以後、斎屋(湯屋)を建て潔斎場となったのが湯峰温泉であり、全国に湯野権現として温泉守護神と崇められています。古より男子と生まれたるものは、先ず熊野へ参詣して初めて一丈夫となると言われ、出世、家門繁栄の守護神として尊崇されている。本社は上、中、下社の三社より故に熊野三所権現と言われ、十二殿に御祭神が鎮座ますところから熊野十二社権現とも仰がれたが、最初は家津美御子大神、熊野結大神、速玉、の三神であると伝えられている。 
御神階と社格 
平安時代、清和天皇の貞観元年正月従五位下熊野坐大神に従五位上を、ついで5月に従二位を授けられる。醍醐天皇延喜の制には明神大社に列す。延喜7年10月宇田上皇に行幸あるや正二位に、朱雀天皇天慶3年2月承平年中西国海賊平定の御奉幣あり正一位に達する。明治初年、神祇官直支配社となり、明治4年5月官国弊社の制により国幣中社に、大正4年11月官幣大社に列せられたが、大東亜戦の終戦と共に官制は廃され、一宗教法人となった。 
神代からの歴史 
熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白でないが、神武天皇御東征以前には既に御鎮座になったと云われており、崇神天皇65年に社殿が創建されたと「神社縁起」「帝王編年記」「皇年代略記」等に記載されている。熊野三山の新宮は景行天皇58年に社殿が造営されたと「皇年代略記」「延喜式神名帳」に、那智大社は、仁徳天皇の御代御鎮座と「熊野略記」「古今皇代図」に記載され上古の造営はつまびらかでない。熊野大神を斎きまつったのは熊野連、尾張連ですが、この氏族は饒速日命の子、高倉下の子孫である。その四世の熊野連大阿斗足尼は、成務天皇の御代に熊野国造に任ぜられ、代々大神に奉仕し、江戸時代末までに及んだ。 
 
社地の移転 
太古より熊野牟婁郡音無里(本宮町本宮)大斎原(おおゆのはら)に鎮まりましたが、明治22年熊野川未曾有の大洪水の際、上中下各四社の内上四社を除く外非常なる災害を蒙り、明治24年3月現地に遷しまつり、従来の地を別社地と称し、その所に仮に石祠二殿を造営し、西方に中四社下四社、東方に元境内摂末社を合祀しています。熊野に関する文書、記録は多いが、本殿に蔵せられた古文書、宝物などは寛政、永禄、明和年間の三度の大火及び明治の大洪水により、ほとんど焼亡流失し、今日蔵する古文書、記録、宝物類は極めて少ない。 
一遍上人と熊野本宮 
旧社大斎原に、昭和46年4月神勅六字名号碑が建立された。これは、一遍上人が熊野権現の霊告を感得してその證成を受け、遂に独一念仏を開顕した開眼供養の碑である。一遍上人は、熊野神勅に至る以前は、幼時より天台の教学、その後浄土教専修念仏、その他仏教教学を学び、また、他面神祇にも深く、日々行じていたが未だいたらぬ所があった。それを完成せしめたのが、熊野権現による神勅開眼の宗教体験であった。 
本宮証誠殿の百ヵ日の参籠のとき、熊野権現は白髪の山伏となって現れる。権現のたまわく「...一切衆生は往生すべきに非ず。阿弥陀仏と必定するところ也。信、不信をえらばず、浄、不浄を嫌わずその札をくばる可し」としめし給う。 
目を開けば十二,三歳なる童子、百人ばかり小さき手をさし伸べ「その念仏札うけむ」と札をとり、「南無阿弥陀仏」ととなえ、いずことなくさっていった。 これらの童子こそが、熊野九十九王子たちの化身といわれる。熊野神勅のあと一編は、「我生きながら成仏せり」と社壇を踏んで歓喜したとある。 
一遍上人は、一寺をもたず道場と称し、仏像を排し、ただ南無阿弥陀仏の名号の懸け軸を本尊とした。  
  となふれば 仏も われもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ 
さらに一遍上人は、すべてを捨てることに徹した。死に臨んで遺体すら「野に捨ててけだものに施すべし」とまで捨てきった。これが「捨聖(すてひじり)」といわれる所謂である。そして、上人は尼僧を伴って日本全土を廻り、正応2年(1289)8月23日兵庫の観音堂にて51歳の幕を閉じた。現在の神戸市兵庫区の時宗真光寺がその跡である。また、死に際しても一切の教典、書籍を火に投じ、一編の釈文をも残さなかった。わが化導は一期ばかりぞと、自坊もなく宗派を形成することもなく、遷化され、後世時宗の開祖となったのである。
 
宝厳寺 松山市道後湯月町 生誕地

宝厳寺1 
・豊国山遍照院宝厳寺、本尊阿弥陀慮来。 
・天智4年(665)斉名天皇勅願、越智守興創建、開山法興律師。法相宗寺院(熟田津来湯661対応) 
・天長七年(830)天台宗改宗。風早出身/天台別当光定の影響 
・正応五年(1292)時衆寺院(奥谷派)。中興開山 仙阿(一遍弟(伊豆坊)) 
・元弘四年(1334)河野系・得能通綱再建「一遍上人御誕生旧跡」碑建立。 
 本堂内大位牌@東禅寺殿観光(河野通信)A得能通俊(通信長子)B河野通広夫妻 
・康永三年(1344)二世珍一房(尼)遊行七世託何に帰信→遊行派(「条条行儀法則」) 
    (注)珍一房は河野家(嫡流・得能)、仙阿娘、河野家の支援?後継者? 
条条行儀法則 
遊行七祖(託何)他阿弥陀仏述 
時也閼逢□灘孟夏澣下、九州利益巳終趣四国之化儀畢、伊予州遊行シケルニ、奥谷菓厳寺開山仙阿一遍上人法弟也、彼弟子尼珍一房住持相続、遺跡共住願往生積行功ケルカ、予、初祖ヨリ以来遊行稟受シテ、利益昔こモ不劣、化導今こ盛ナルコトヲ感歎シテ、同行相伴ヒ来テ十念ヲ受、指カニ而行体思不更古、落涙而招請我道場之間、於是両三日逗留、其後連連音信不絶、帰伏志染ケルニコソ、 
亦八蔵ニ送日数ケルノ比、我来同朋常通、此所ノ日数終ケレハ、又道場へ立帰ケルニ、同六月廿一日、坊主珍一房来云、我一大事ヲ為奉申合、参詣之処自路次心地違例ケレトモ、是マテ参レリ、其故、遂我本意後彼道場ヲハ偏ニ可計賜云々、 
同廿一日晨、如是契約泣泣帰シケルニ、与阿弥衣著是可往生云云レハ、弥信伏随喜名残ヲ慕ケリ、而、帰、 
同廿六日辰時往生畢、是偏仏智所推也、更以風情不可思量、依之任遺言初遊行ヨリ坊主所定置也、彼僧尼等、重先師命、今用我詞、同誓同心入時衆、共住彼遺跡成厭離穢土思、励欣求 
浄土志、夫、門下時衆、従今身尽未来際、身命知識譲了、若破一一警戒、出足下程ナラハ、今生成白癩黒癩、来世漏阿弥陀仏四十八願、 堕三悪道永不可浮、成誓打金入時衆者也、此三心発、色顕事相為知知識帰依志、彼誓戒三世諸仏通戒、浄業正困也、サレハ、帰仏心ヨリ所持戒、以不護可云成浄戒波羅密、是他力止持、不可有自力作犯、正成三心正因戒、何有破事、金剛宝戒是ナリ、然、若破誓戒、誓心三心不発不可往生心也、是正行心也、能知識雖帰命、所帰仏体也、是故、(略)  
寶厳寺2 
縁起 / 遊行元祖一遍上人御誕生舊跡たる伊予国道後場之町時宗寶厳寺は、人皇第三十七代斎明天皇の勅願に依り、天智天皇即位四年国司散位乎智宿禰守輿命を奉して伽藍を創建し子院十二坊を置く、曰く法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願是なり、今の松ケ枝町は其址なり、本尊は春日作三尊阿弥陀如来なり、初め法相宗にして主僧法興律師之に任す、此地道後温泉の東方奥谷と呼び斉明天皇並に天智天武三帝御行在の古跡なり、大同元年弘法大師九州より皈途当山に留錫す、貞観十三年勅許に依ら出雲岡及び伊佐爾波二社神殿に於て祈雨の修法をなし、大に霊験あり爾来二社の別當を兼ぬ、天慶三年又勅命あり逆徒降伏の祈願をなし、主僧定照丹誠を抽んで奏功の後国守散位好方より橘郷饒田の里を寺領に賜る、建暦三年當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す、嘉禎三年前相国西園寺實氏下向の砌當山に入り如意輪観世音を信仰して霊験を蒙り厚く之を供養せり、延應元年河野通廣の二男松壽丸當山別院に於て誕生す、之を時宗の開祖一遍上人とす、天長七年天台宗に改宗し建治元年又時宗となる、明徳三年河野通範鐘棲閣を建立せり、文明七年河野刑部大輔通直本堂庫裡開山堂を再建す、天正十二年国守小早川隆景従来の寺領たる永田十五町三反歩を寄附す、然るに天正十六年国主福島正則故なく之を没収せり、寛文二年鐘楼門修繕四大柱は明徳三年の物を用ゆ、延寶五年松平隠岐守定直公寺禄二十石を寄称せり、寛永七年観音堂再建同九年縁應和尚梵鐘を再鋳せり、現在の本堂は安永三年の改築にして庫裏は元禄十三年の建築なり、現境内六百六十餘坪北東南の三面山を繞らし、松樹蓊欝として青翆滴るが如う、南伊佐爾波神社に界し西遥に松山戚を望見す。開基以来大正十五年千二百六十年の星霜を経過せり。  
遊行上人の巡化 
一遍上人は遊行の元祖なり、破衣一笠一所不住にして諸国に遊行し、芳躅殆んど全国に普ねし、爾後代々の上人亦祖師の遺風に随って広く全国に遊行せらゝること今も昔の如し、 而して遊行12代尊観法親王以後は朝廷に於ても特に南朝門流の格を以て破格の優遇を給はり、将軍義満宣旨を奉して之を諸国守護職に令しければ、遊行上人の巡化せらるゝところ、宿所食膳の設備、駅伝夫馬の使役等悉く其行先領主より支辨せられ教況盛大を極めたり、然れば随行の僧俗も常に七八十人に達せり。去れど當山は交通不便の地なるを以て、上人の巡化も餘り頻繁ならず、寛文年間には遊行42代南門上人當山に巡化せられて後醍醐天皇の御遠忌を奉修せられ、元禄13年46代尊証上人、享保元年49代一法上人、延享2年51代賦存上人、安永3年53代尊如上人、文政7年56代傾心上人、明治13年59代尊教上人、明治20年60代一真上人、大正10年には64代尊昭上人當山に巡化せられたり。 
寶厳寺(宝厳寺)3 
宗祖 / 時宗 証誠大師 一遍上人(智真)  
開宗 / 鎌倉時代(1274)  
本山 / 遊行寺(清浄光寺・神奈川県藤沢市〉  
本尊 / 阿弥陀仏 
 「南無阿弥陀仏」とお唱えするお念仏が一番大事なことです。家業につとめ、はげみ、むつみあって只今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく生かされて明るさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道はそこに開かれるとする教えです。  
経典 無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、六時礼讃 などの経典を読誦致します。  
一遍上人御詠歌  旅衣 木のねかやのね いつくにか 身のすてられぬ ところあるへき  
一遍は、鎌倉時代の僧で遊行上人といわれ、時宗を開祖した高僧である。「南無阿弥陀仏」を専らとして、宗教的感興にまかせて念仏踊りを勧め、農漁民など各層に広く支持を受けて、革新仏教を確立した。正応2年(1289)に兵庫和田岬の観音堂で51歳の生涯を閉じるまで衆生済度の旅を続けたのである。 
縁起 
湯月町にある古刹で、寺伝には天智天皇の4年(665)国司/乎智宿弥守興(おちのすくねもりおき)が天皇の詔によりて建立、のち伏見天皇正応5年(1292)再建され天台宗を時宗に改めた。時宗の開祖一遍上人(昭和15年澄誠大師(しようじようだいし)号宣下)誕生の地として名高い。河野四郎通信の孫に当り別府七郎左衛門通広の三男。十才で母を失いすぐ仏門に入り随縁と称し、太宰府の聖達上人の下で修業し智真と改名、のち紀州熊野権現に参籠して成道、これより一遍と名のり、南無阿弥陀仏を唱名しながら全国を遊行し世に遊行上人と専称された。寺は昔十二坊あり広大荘厳であつた。一遍上人木像は重要文化財で室町期の傑作。懸仏及び残欠一体は市指定文化財。寺境は一遍上人誕生地として県指定の史跡。明治二十八年子規は漱石と共に道後に遊び散策集に、「松が枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ。ここは一遍上人御誕生の霊地とかや。古往今来当地出身の第一の豪傑なり。妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく「一遍上人御誕生地」の古碑はしだれかかりたるもあはれに覚えて」と次の句を残した。 
古塚や恋のさめたる柳散る 色里や十歩はなれて秋の風  
道後温泉本館横のだらだら坂をのぼりきったところで、急にネオン坂が視界に飛びこむ。ここは明治10年以来昭和33年の売春防止法施行にいたるまで道後松ヶ枝町遊廓があったところだ。 
漱石が「左に大きな門があって、門の突き当りが御寺で、左右が妓楼である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。」と「坊っちゃん」で描写している花街は、いまは旅館と飲み屋に変貌している。そのつきあたりの寺が宝厳寺だ。 
この寺は時宗の開祖一遍の誕生地といわれる。一遍は、延応元年(1239)に伊予の豪族河野氏一門の子として生まれ、15歳のとき出家して、大宰府の念仏上人聖造のもとで行をおさめた。その後、伊予にかえり、久万菅生(すごう)山岩屋などにこもって苦行をつづけ、文永11年(1274)熊野権現に参籠してさとりをひらき、時宗をおこした。そして正応2年(1289)兵庫の観音堂で51歳の生涯を終えるまで、賦算(札くばり)と踊り念仏による念仏勧進の遊行をつづけた。 
宝厳寺は天智天皇4年(665)に創建され、正応5年(1292)の再建時に天台宗を時宗に改めたという。この寺に安置されている寄木造の一遍上人立像(重文)は、銘文に文明7年(1475)の作とあり、上人の崇高な、いのりの姿を表現した室町時代の肖像彫刻である。  
一遍上人 
鎌倉中期の僧。時宗の開祖。円照大師。伊予の人(1239-1289)。浄土教を学び、のち他力念仏を唱道。全国を巡り、衆生済度のため民衆踊り念仏をすすめ、遊行上人、捨聖といわれた。一遍上人は伊予河野家の出で、父は河野通広で名は智真坊。兄弟に伊豆坊こと仙阿上人、通定こと聖戒上人がいる。有名な河野通有の祖父と一遍上人の父が兄弟。戦乱の時代、わが子の命を長らえるため出家させたと云う。こんなことから上人は、幼い頃から人の世の儚さ、虚しさを感じたといわれている。
寶厳寺4 
豊国山遍照院寶厳寺 /本尊・阿弥陀如来 /宗派・時宗  
寶厳寺は一遍上人生誕の寺で、藤澤の遊行寺、神戸の真光寺と並んで時宗の三大聖地の一つである。  
寶厳寺の創建は古く、斉明天皇の勅願により、越智守興が天智天皇の4年(665)に創建したと伝えられている。斉明天皇が熟田津に来られたのが661年で、その縁によるものだろうか。万葉の情熱歌人額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかないぬ今漕ぎ出でな」と言う歌は、この時詠まれたものである。歌にまで詠まれた熟田津の場所は、今は地勢も変わってしまったため諸説あり、残念ながら判らない。筆者は多分松山市の御幸寺山の西側、姫原の辺りと考えるが如何であろうか。創建時の寶厳寺は門前の坂道の両側に支院各6坊ずつ、計12坊を擁していた。  
同寺は最初法相宗だったが天長7年(830)に天台宗に改められた。  
下って承久3年(1221)承久の変が起き、京方に立った河野氏は破れて一族の所領を殆ど失うと言う悲運に見舞われた。一遍の父、河野通広は通信の子であったが、承久の変の折には既に出家して如仏と号し、拝志郷別府の所領を子に譲って寶厳寺の支院に隠棲していたため難を免れた。一遍はこのように河野氏悲運の時代に寶厳寺の支院で生まれたのである。因みに母は大江氏の出で、河野氏と毛利氏はこの時からある種の縁で結ばれていたと言えそうである。  
一遍の死後、正応5年(1292)異母弟仙阿(聖戒)により、寶厳寺は時衆寺院となり奥谷派を立てた。よって仙阿を中興開山とする。一遍の生涯と教義を記す一遍聖絵は正安元年(1299)に完成した。  
時代は下がり、鎌倉幕府が倒れて建武政権が成立した翌元弘4年(1334)得能通綱は寶厳寺に拝志郷の一部の田を寄進し、支院を含め荒廃していたのを再建し、記念に総(惣)門脇に「一遍上人御誕生舊蹟」碑を建立した。総門は現在の寶厳寺門前の坂道を下った所にあったが、近年(大正末か昭和の始め)になって現在の場所に移された。この時の供養に祀られたと見られる大位牌が本堂に残っており、河野通信、得能通俊、河野通広各夫妻の名が記されている。  
余談だが、通綱(南朝方)が寶厳寺を再建した数年後に、今度は北朝方の河野通盛が湯築城を建設している。僅かの間に道後地区で2つの大きな土木・建設事業が、相対立する2つの勢力により行われたことになる。今と違ってこの事業の経済に及ぼす波及効果は非常に大きかったであろうし、道後地区はさぞ賑わったことであろうと推測する。この事実をどのように考えたら良いのだろうか。この時代、道後地区の支配者は誰であったのだろうか。僅かの間に支配権力の交替があったのだろうか。なお、この数年の間に下記年表に見られる如く、得能氏は明から暗に、河野氏は暗から明に、両者の運命は激しく変転している。  
再建10年後の康永3年(1344)遊行七祖託何(たくが)が四国遊行中この寺に留錫、仙阿につぐ二世珍一房(尼僧)が帰信、奥谷派を解消して遊行派に入った。この時寺の尼僧らに与えたのが「条条行儀法則」であり、時衆の文献として重視され、また年代不祥であるが「禅持論」が寺に残ったと言う。「禅持論」の中には、当時、寶厳寺庫裏の中に連歌の会所があり、盛んに連歌が巻かれていたことを示している。また文明14年(1482)の大山祇神社奉納の「万句連歌」には多くの時衆僧の名が見えると言う。時衆では連歌が盛んであったが、地方時衆寺院でも盛んに行われたことを示す事例である。  
同寺の重宝であり、国指定重要文化財である「木像一遍上人立像」は、檀那河野通直、願主弥阿弥陀仏によって文明7年(1475)造立された。寶厳寺は河野庶流の得能氏だけでなく、嫡流河野氏の外護も厚かったことが判る。  
江戸時代に入ると、一遍上人の誕生の地であるため、伊予を回遊する遊行僧が多く訪れた。九州の遊行を終えた一行は、同じ河野の分流である稲葉氏の臼杵に一泊、海路宇和島に上陸し、大洲願成寺から中山越えで寶厳寺に来て、他よりも長く滞在したと言う。寛文7年(1667)松平定長によって再建された伊佐爾波神社には、その北東陽の回廊(寶厳寺に一番近い所)の蛙股に遊行姿の一遍像が刻まれている。神仏習合の時代には、寶厳寺は石手寺と共に伊佐爾波神社の別当寺であった。  
明治4年愛媛県の記録「(寺院)明細帳」に林光庵跡の記録がある。その本尊であった観音菩薩を祀る菩薩堂が楼門を入った左側にあり、松山地方三十三観音巡りの札所になっている。1877(明治10)年、道後地区の整備と風紀取締のため、散在していた遊郭を寺の門前12支院跡に集中した。その結果山門をくぐり遊郭街を通って寺院に至ると言う珍妙な情景が現出した。明治28年病気療養のため帰郷した子規が漱石と共に訪れ「色里や 十歩はなれて 秋の風」と詠んだのはこの情景の時であった。漱石も「坊ちゃん」の中でこの珍妙な情景に触れていたと記憶する。  
前述したように近年に至り山門を現在地に移したが、遊郭街も戦後さびれ、当時の遊郭の多くは廃屋と化している。  
寶厳寺から程遠からぬ所、伊佐爾波神社の急な石段を降り、坂を少し下がった右手に冠山(出雲崗)と言われる小さな独立丘陵がある。その上に湯神社と中嶋神社がある。その中嶋神社の右奥に、七郎明神と崇められている小さな祠がある。寶厳寺蔵河野系図に「出雲岡烏谷に葬る。小祠建営、称河野父神廟」とあり、江戸時代この地を回国した遊行上人は寶厳寺を宿所として、七郎明神に詣でる習わしになっていたそうである。従ってこの七郎明神は一遍上人の父河野通広(別府七郎左衛門)の墓かも知れない。 
寶厳寺には至るところに河野氏系統の「折敷に縮み三文字」の紋が見られる。ところが本堂扉には「丸に九枚笹」の紋が刻されている。これが何を意味するか判然としないが、我が友人の渡部一義氏によると、一遍上人の研究家であった故足助威雄氏は、一遍上人の母の実家大江氏の紋と指摘したと言う。その根拠をご本人に確かめることは出来ないが、有力な仮説と思われる。更に同氏によれば、母の実家大江氏は相模国毛利荘に住み、毛利氏を名乗った。毛利荘は今の神奈川県厚木市の三島神社の辺り)で、三島神社は毛利季光の館跡と伝えられていると言う。その毛利荘はこの一帯にかなり広い地域を占めていたようで、厚木市中心部付近に毛利の名を冠する地名が今も残る。西国の雄毛利氏はこれの後裔で、戦国末期には河野氏中枢に入り込み、実質的に乗っ取ってしまったが、河野・毛利の関係はその400年近くも前から始まっているのは興味深い。
 
真光寺(しんこうじ) 神戸市 入寂地

大化元年(645)開創(諸説あり)健治2年(1276)おどり念仏でしられる時宗の開祖・一遍が中興。正応2年(1289)当寺の観音堂にて入滅し、後に弟子が建てたのが当寺とも伝える。時宗の三檀林(学問所)の1つとされ、境内には一遍の墓(五輪石塔の廟所)も残っている。 
農民や漁民から武家層に至るまで幅広い信仰を集めた上人は、正応2年8月(1289)和田の御崎島観音堂に没した。 のちに、弟子の他阿上人真教が一寺を建立し、伏見天皇から寺号を賜って真光寺と称するようになったといいます。 
「一代の聖教みなつきて南無阿弥陀仏ありはてぬ」とて所持の経典を焼きすてられ、「我がなきがらは野に捨てけだものなどに施せよ」のお言葉もありましたが、多勢の信者の人達によって荼毘にふされ、手厚く供養されましたのが、現在の五輪塔で御座います。 
尚元禄年間に現在の廟所に改造されて居ます。 
宗祖御詠歌/旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき 
真光寺2 
時宗の寺で、藤沢清浄光寺の末寺である。山号は西月山。正応2年(1289)時宗の開祖一遍上人はこの寺の観音堂で生涯を閉じた。敬慕する教信の故地である教信寺で臨終を迎えたいと願い、向かう途中であったという。弟子の他阿(たあ)上人真教が寺を建立、伏見天皇の勅願により真光寺と号した。寺の一遍廟所(びょうしょ)にある石造五輪塔(県指定文化財)は南北朝時代のものとされる。一遍の生涯からその弟子が別時念仏を行うまでを描いた、鎌倉時代の「紙本着色遊行縁起10巻」(国指定文化財・重文)もある。1945(昭和20)年、戦火にかかって全焼し、多くの寺宝を失った。 
 
四国・時宗(時衆)寺院

定善寺 
・松前町大字西古泉六五番地にある「金蓮寺」は古くは「性善寺」といった。尚「性善寺」は「定善寺」の転訛と推定する。(「俚諺集」) 
・定善寺は金蓮寺の一塔頭寺院。同寺の「鰐口」の銘に「佐川備中守寄進天文廿二発丑三月日 伊予松前定善寺」とある。(「県史」) 
・「松前村に在り。本尊薬師如来。後堀川院寛喜3年(1231)草創にして、唐僧明海上人開基也といへり。 「俚言集」に云ふ。 
後堀川院(86代天皇/1221-1232)御悩の時、明海を召され 修法有ければ御悩平癒し玉へり。其賞として永世此地を賜はり、伽藍を建立せり。中頃松前住人武内正勝と云人、法華経を一字一石に書写し、新田を寄付せり。 
文禄4年(1595)、加藤嘉明朝臣此寺を引て其跡へ松前城を築き給へり。この寺、古は性尋寺と言ひけるを、この時玉松山十二光除金蓮寺と改む。四方八町免許地なり。大森彦七盛長の鬼女に逢しは此ところの所の事なりと云へり。」(「面影」) 
・太平記に大森彦七猿楽をして色々怪事あり、楠木正成、源義経などの亡霊出たるといふは此寺也(「俚諺集」) 
・「松前城、筒井村に在り、此城の創業時代詳ならず。」(「伊予温故録」) 
・或曰、松前古城は、元弘、建武の此、其以前よりありしと云えり、三島大祝家記に見えたりと云々、(「俚諺集」) 
建武3年(1336)北朝方の祝安千親が南朝方の合田貞遠が籠る松前城を攻め、攻略した事が、大山積神社文書に残されている。湊川の合戦に功のあった大森彦七が松前城主となったが、後には荏原城主の平岡氏が城将となった。  
入仏寺 
・伊予市八倉616にある。林光山蓮花院。真言宗智山派(京都智積寺末寺)。本尊阿弥陀如来像。当寺は「八倉八社」の別当で、弘法大師開基。(「伊予市史」) 
・寺伝では弘仁(810-824)の初年、峠の谷に毎夜光るものがあり、村人が怪しんだが、地下三尺下から阿弥陀三尊像が出てきた。一宇を建立して入仏寺と称した。山号を林光山、蓮の花が咲いたので蓮花院と称し、谷を蓮花谷と呼んだ。河野氏は代々当寺を崇拝し祭典料や田畑を多く寄進した。(「伊予市史」) 
・「大洲秘録」では入仏寺は「京都大覚寺末谷上山宝珠寺末」であり、大覚寺と智積寺(院)との混乱がある。 
・「八倉」は「八蔵」であり、浮穴郡・伊予郡二郡の貢米収納で蔵が八倉あったことに拠る。浮穴郡側には「八蔵寺」がある。砥部町八倉に在る。山号は竜雲山で真言宗高野金剛三昧院の末寺で元禄年中(1688-1703)に建立された。現在は八倉公民館が建てられている。(「地名」) 
・「時宗末寺帳」から判断すると1344-1721年まで約400年間は時宗の末寺であったと想定される。入仏寺の真実の歴史が今日抹殺されているのは、同寺が谷上山宝珠寺の末寺であることと関わりがあろう。  
円福寺 
・愛媛県松山市藤野町甲87に在る。永徳山河野院円福寺と称し、伊予十三佛第四番霊場である。本尊は聖観世音菩薩である。貞観2年(860)第五代天台座主安慧により開山した。 由緒・縁起/貞観2年(860)第五代の天台座主安慧の開基。南北朝時代、新田義貞の子義宗ゆかりの寺で、義宗が残したと伝えられる武具が残っている。当山を含む湯山一帯が南朝に荷担した得能氏の所領であったところから、南朝滅後、当山の衰微もさけがたく、本家(河野一族)の所領となってのち、天文17年(1548)、河野通直が新田義宗(上新田神社)、脇屋義助の子義治(下新田神社)の祠を建て再建した。 その後、加藤嘉明と蒲生忠知が廟祠を新造。宝永元年(1704)11月三百年祭を松平定直が新田神社と円福寺で行った。円福寺の東北800mの山側(両新田神社の東側)に義宗、義治の五輪塔が残っている。また、明治時代には、夏目漱石が訪れ(1895)「山寺に太刀をいただく時雨哉」と詠み残している。 
・愛媛県松山市木屋町にある。真言宗豊山派である。寛永年間(1624-1643)松山藩主蒲生忠知(ただちか)の祈願所として祝谷に創建、松平氏の入封にともない常信寺拡張の為現在地に移建し円福寺とした。この寺に一遍筆と伝えられる名号札が所蔵されている。「県史」 
・近江国日野に「永福寺」なる時宗寺院が在る。(「末寺帳」)  
願成寺 
・宮床山本誓院願成寺、本尊阿弥陀如来、時宗、内子町廿日町。 
・願成寺は「願成就寺」の意である。 
・推古天皇(593-628)代に越智益躬が開創した吉祥院が嚆矢である。この地が喜多郡で初期に開発されたところで、竜王城に喜多守が住んだ。 
・開基は越智益躬、開基二祖一遍、ニ祖聖戒とし、三祖は貞忍法尼である。貞忍は一遍の従弟である河野道有の後家である。その後河野家の別府がある温泉郡石井村に隠遁した。越智氏の後をついで河野氏のゆかりの寺となった。
保寿寺 
・地名「陽」を調査中である。「小字」にはないので「ホノギ」と考えられる。私見では「一遍にゆかりの寺」として述べる松野町の「正善寺(法林山浄念寺)」と関連して内子願成寺から土佐国に到る街道筋にホノギの「陽」があるのではと考えている。愛媛大学の内田九州男教授も同様の見解である。いずれにしても、場所(陽)を特定して寺名を調査すべきであり、地名「陽」を無視して、寺名から類推、特定することが学問的とは云えない。  
 
常念寺 栃木県足利市

称名山常念寺、時宗の開祖一遍上人は、熊野本宮に参籠して神勅を感得し、立教開宗したと伝えられている。本寺は平安末期(1143)創建といわれる。一遍上人の法孫が遊行中荒廃した寺の再建に尽くされたと伝えられ、仏舎利泰安の寺である。 本堂厨子に素戔嗚尊と稲田姫命の夫婦の御神像がある。  
足利七福神めぐり/七福神めぐりの歴史は古く、室町時代に京都で始められたといわれています。足利の七福神めぐりは、昭和17年、町の繁栄と家運の隆昌、健康増進を願って生まれました。常念寺は毘沙門天をお祭りしている。 
常念寺には長い間本堂が無く、母屋の一角を本堂として使用して来た時代がありました。先代住職(内藤察純)は、福祉に取り組みつつも、ずっと本堂を建てる事を夢見て来ました。「自分が生きている内に本堂を建てたい」と言っていたそうです。そしてその夢は叶いました。本山から沢山の方が来山し、盛大に落成の儀を行う事が出来ました。しかし先代は落成した年に帰らぬ人となりました。落成の際、何十年ぶりかに来て下さった在勘仲間の元へ御礼に行った旅先の福井県で、事故にあってしまったのです。先代は、高齢ではありましたが、足腰が丈夫で、その時も一人で福井県まで行っていました。 
あまり語る事が無かったので、志半ばだったのか、やりたい事は全てやったのかは分かりませんが、尊敬に値する人物と思います。
 
ルンビニー園の建設 / お釈迦様の生誕の地がインドのルンビニーという花園だったと言われています。当施設ではその名前を頂戴して命名されました。しかし単にそれだけの理由で命名されたのではなく、園の創立者であり、初代園長であった常念寺住職故内藤察純氏の本園創立の精神に由来するものです。初代園長は昭和9年、寺の経営による保育園を設立して園長に就任、在籍者の中に障害児も多く見られ、卒園時期にはその子達の就学は猶予又は免除になってしまい、家庭での生活を余儀なくされてしまう状況にあり、それを見かね、この子達も社会で立派に生きて行く事の出来る人達であり、それには施設での適切な指導を受ける必要があるという事で、知的障害児施設の必要性を痛感し、この子達にも人生の花を咲かせたいとの一心から施設(花園)建設を発起し、施設建設資金募集の為の托鉢が始まったのです。約10年ほど、雨の日も風の日も肩から托鉢箱を下げ、手には鈴と幟を持っての托鉢が続きました。最終的に托鉢だけで施設を建てる事は出来ませんでしたが、そんな行為が認められ、市や県の補助、更には日本自転車振興会から補助を受け、暖かい市民の皆様の浄財により、施設建設資金を得、ルンビニー園が建設されました。実際に施設を建設する為には資金が足りず、出来る事は自分達でやらなければなりませんでした。親族だけでなく、檀家さん、市内の有志の方々、障害を持つ家庭の父兄達にも手伝ってもらい、まさに手作りで作り上げた施設です。
誓願寺 京都市中京区桜之町

紀州熊野権現に参籠し、御札を諸国にひろめよとの霊無を受けた一遍上人は、まず都に上り誓願寺に到りました。貴銭群衆の人々に混じって、信心深げな一人の女が現れ御札を受けた後「六十万人決定往生」とある文字を見て、六十万人より他は往生に漏れるのかと尋ねます。上人は「六十万人」とは感得の四句「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍證、人中上上妙好華」の略で済度の人数を限るものではないと教えます。女は歓喜して「誓願寺」と打ってある額を取りのけ、上人の手で六字の名号に書き替えて欲しいと請います。上人は御身は如何なる人かと問うと、自分はあの石塔の下に住む和泉式部であると告げ消え失せます。よって上人が額を改めていると、俄に異香薫じ、花降り、音楽聞こえ、額の効力で歌舞の菩薩となった和泉式部が、菩薩衆とともに姿を見せ、額を礼拝し仏徳をたたえるのでした。 
人皇38代天智天皇の勅願によって大和に建立された古刹であるが、のち伏見深草(長岡京)に移り、さらに平安遷都で西陣に移り、秀吉のころ現在地に転じたと伝える。昔は広大な寺であったが、度々の火災で規模も小さくなり、また、この地が新京極の繁華街の真っ直中にあるため、昔の面影はなく、盛り場の中に閉じこめられたような狭い境内に本堂・庫裏・鐘楼などの建物がある。この寺は念仏弘道の中心となり、念仏女人往生のさきがけとして、清少納言や和泉式部もこの地に別庵を設けて常念仏の生活を送ったという。 
「洛中洛外図屏風」 
中央に室町時代の誓願寺が描かれています。本堂右側に「せいぐわんじ」と書いてあります。一条小川にある頃の誓願寺で、天文5年(1536)の法華の乱により炎上(4回目の火災)し、天文8年(1539)に上棟された頃の誓願寺であると思われます。画面内の人々に注目すると、門前には頭巾を頭から被った女性が参詣していて、その側には物乞いする人が座り込んでいます。また本堂右側の柱に取り付けられた「法輪」を転ずる参詣人の姿や、本堂左側で「流れ灌頂」の経木卒塔婆に仏名を書いてもらっている参詣人の姿が見えます。門前左側に注目すると、矢を入れる器の靫を作る「靫師の店」が、また、画面右端には格子窓に何本も弓を立て掛けた「弓屋」が描かれています。誓願寺はまさしく「洛中」にあって様々な人々が出入りする信仰の場でした。  
 
善光寺 発心地

信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。「善光寺縁起」によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇13年(552)仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、 皇極天皇元年(642)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇3年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。 
善光寺奉納絵馬より「東下り」 
草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。大正13年と昭和27年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期・12世紀後半に編集された「伊呂波字類抄」は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました。 
鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、御本尊の模刻像が多く造られました。現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。 
戦国時代に入ると、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555)武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって42年振りに善光寺にお帰りになられました。 
善光寺参道 
戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされましたが、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き、一生に一度は善光寺詣りをと、多くの人々が参詣されました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。江戸時代に入ってからも火災に遭いましたが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって集められました浄財をもって、宝永4年(1707)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられました。 
御本尊/善光寺式阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)  
善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっています。しかし、御本尊様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません。 
「善光寺縁起」によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。その後、百済にお渡りになり、欽明天皇13年(552)日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと語られています。 
御本尊様は古来より「生身の如来様」といわれております。人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているというのです。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存しています。このように、人々と触れあう如来様として信仰を集めて参りました。 
善光寺の御本尊様の印相は特徴的であるといわれております。中央、阿弥陀仏の印相は、右手は手のひらを開き我々の方に向けた施無畏印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印です。これは法隆寺金堂の釈迦三尊像に代表される、飛鳥・白鳳時代頃の仏像に特徴的な印相です。左右の菩薩の印は梵篋印といい、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相をしています。その掌の中には真珠の薬箱があるといわれています。また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊が重なった臼型の蓮台に立っておられます。このような特徴を全て備えた一光三尊阿弥陀如来像を通称、善光寺式阿弥陀三尊像といっております。
 
 
善光寺縁起 
「善光寺縁起」とは、善光寺御本尊の故事来歴をつづった霊験譚です。 
平安時代末期には全国的に広まっていたといわれ、多くの人々の信仰を集めました。 
お釈迦様が印度・毘舎離国の大林精舎におられる頃、この国の長者に月蓋という人がありました。長者の家はたいそう富み栄えておりました。しかし、長者は他人に施す心もなく貪欲飽くなき生活をしておりました。ある日、お釈迦様は長者を教え導こうと自らその門を叩かれました。 
さすがにお釈迦様のおいでと聞き、長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出ました。しかし、「今日供養すれば毎日のように来るであろう。むしろ供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまいました。 
月蓋長者には、如是という名の一人の姫君がありました。両親の寵愛は限りなく、掌中の玉と愛育されておりました。 
ところがある年、国中に悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいました。 
長者は王舎城の名医・耆婆大臣を招くなどあれこれ手を尽くしました。しかし、何の効き目もありません。万金を投じ人智の限りを尽くしても及ばぬ上は、お釈迦様に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせました。 
長者は初め不本意でした。ですが、我が娘の病苦を取り除きたい一念から遂に大林精舎に参り、お釈迦様の御前に進み、従前の罪障を懺悔し、如是姫の命をお救いくださるようにお願い致しました。 
お釈迦様は「それは我が力にても及ばぬことである。ただ、西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。 
長者はお釈迦様の教化に従い、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供え、心からの念仏を続けました。この時、彼の阿弥陀如来様は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれました。  
すると国中に流行したさしもの悪疫もたちまちにして治まり、如是姫の病気もたちどころに平癒いたしました。長者はもとより一族の者は皆喜ぶことこの上なく、如来の光明を礼讃いたしました。 
長者はこの霊験あらたかなる三尊仏の御姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願し、再びお釈迦様におすがりいたしました。 
お釈迦様は長者の願いをおかなえになるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮檀金を竜王から貰い受けることとしました。 
竜王はお釈迦様の仰せに従い、この竜宮随一の宝物をうやうやしく献上いたしました。 
さてこの閻浮檀金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来様の来臨を請いますと、彼の三尊仏は忽然として宮中に出現なさいました。そして、阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫の光明とお釈迦様の白毫の光明は共に閻浮檀金をお照らしになりました。 
すると不思議なことに、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現したのでした。長者はたいそう喜び、終生この新仏に奉仕致しました。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める仏様であったのです。そして、この三尊仏は印度で多くの人々を救い結縁なさいました。 
時は流れ、百済国では聖明王の治世を迎えておりました。この聖明王は月蓋長者の生まれ変わりでした。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねておりました。ところが、如来様が百済国へお渡りになり、過去の因縁をお話しになると、たちまち改心して善政を行なうようになりました。 
百済国での教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げられました。百済国の人民は老若男女を問わず如来様との別れを悲しみ、如来様が船で渡る後を追う者さえありました。 
欽明天皇13年(552)尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれました。 
大臣・蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。 
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりました。稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改め、如来様を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺といいます。 
さてこの頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。 
炎々たる猛火はたちまちにして向原寺を灰燼にしました。ところが、彼の如来様は不思議にも全く尊容を損うことがありません。そこで尾輿は再び如来様を炉に投じてふいごで吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしました。しかし、尊像は少しも損傷されることはありませんでした。 
万策尽き、ついに彼等は尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。そして、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子と共に仏教を奨励しました。ここに初めて仏法は盛んになりました。 
聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、先に沈められた尊像を宮中にお連れしようと、その御出現を祈念されました。すると如来様は一度水面に浮上され、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠されました。 
その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。 
如来様は、善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になりました。そして、この日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。 
善光は初め如来様を西のひさしの臼の上に御安置し、やがて御堂を建てて如来様をお移しいたしました。ところが翌朝、善光が参堂いたしますと、尊像の姿はそこにはありません。慌てて家に帰ると、いつのまにか最初に御安置した臼の上にお戻りになっておられました。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになりました。 
また、善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でした。そうしたところ、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯されました。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれます。 
如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下されました。 
こうして、三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称しました。以来千三百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになりました。  
善光寺(ぜんこうじ) 大分県宇佐市大字下時枝字西ノ端

初めは天台宗、後に時宗 、寛文6年(1666)に浄土宗に転宗し現在にいたる。善光寺、別称は芝原善光寺、豊前善光寺。山号は梵天山。信州(長野県)甲州(山梨県)と並ぶ日本三善光寺の一つ。当寺鎮守は天満宮。江戸時代の塔頭(たっちゅう)として、来迎院/増長院/則成院/摂取院/薬王院/専称院/洞雲院/正覚院/大日堂/無量院/地蔵院が存在した。 
伝承によれば、天徳2年(958)遊行聖の光勝・空也上人( 醍醐だいご天皇の第5皇子ともいうが不詳)を開山として創建。上人は衆生普済の大願を発し、宇佐八幡宮に百日間参篭(さんろう)せられ御託宣 (神のおつげ)により、白髪の老尼の誘導に従い芝の地に来て、一宇を建立し本師如来を安置、その後、正暦4年(993)に永世護持の勅願所になったという。本堂の北東隣接地に空也上人の五輪塔がある。石囲いの芝自生の一区画がその伝承地で、芝原善光寺の寺号の由緒地でもある。五輪塔は凝灰岩製で、塔高130p、地輪に「空也上人」水輪に「開山」と彫られており、南北朝期の初期ころに造立されたものと推定されている。当寺は平安時代にすでに建立されていたようである。 
古代 中世において、遊行聖が全国を廻国(かいこく)していた。文永11年秋(1274) 一向俊聖は宇佐宮で四十八夜の踊り念仏を修しており、恐らく善光寺へ立ち寄られたであろう。「 一遍上人年譜略」(「続々群書類従」)によると文永8年(1271)一遍上人は求道のため信濃の善光寺へ参詣、建治元年(1275)37歳の時には宇佐宮にも参詣され、三七日(21日間)祈願したところ、夢の中に神が現われ託宣があったと記載している。宇佐郡に滞在されていた事実から、善光寺にも足を延ばされたことは確実で、善光寺の聖に多大の影響を与えたものと推定される。佐田神社(安心院(あじむ)町)にある正慶元年(1332)銘の板碑(いたび)に「四十八日 時衆 八十人各敬白」とあり、宇佐郡には早くから時宗が浸透していたことが知られる。当寺所蔵の近世文書によると、永和年中(1375-79)ころまで念仏宗 、一時期天台宗 真言宗 になったこともあり、永和年中以後は時宗に転宗したが、その間に禅宗浄土宗に転じたこともあったとしている。文明6年(1474)浄土宗布教のために天然が豊前国宇佐郡に来たといわれ、この時に時宗から浄土宗に転じたことも十分に考えられる。「到津(いとうづ)文書」の中に唯一注目すべき記事が見える。それによると、天文18年(1549)4月15日遊行上人の一行60人が豊後国から宇佐宮に参詣された後、善光寺へ出向かれており、この時に宇佐大宮司(だいぐうじ)宮成公建(きみたて)の女中も同行していたことがうかがわれる。善光寺に立ち寄られたという事実から、当寺が時宗寺院であったことが裏付けられ、この地域における時宗の一大拠点であったことが判明する。この時の遊行上人は28代遍円(へんえん)上人(25代仏天の弟子)で、同年2月9日豊後府中(大分市)の稱名寺(しょうみょうじ) を起点にして、賦算(ふさん)(「南無阿弥陀仏」の名号札(ふだ)をくばること)しながら諸国を巡行していた。天正10年(1582)時枝鎮継(しげつぐ)は善光寺に対し加燈料所として、田1町を寄進している。慶長13年(1608)細川三斎(さんさい)忠興(ただおき)も法事勤仕と本堂以下の修理料として、居屋敷分9石9斗、高家(たけい)村の内10石1斗、合計20石を寺領として寄進、以後領主の厚い保護を受けている。  
本堂(国重要文化財)は建長2年(1250)の再建で、修理をしながら現在に至ったもの。桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)七間、棟高10.68m、単層で屋根は寄棟造、本瓦葺、軒は二重繁垂木(しげたるき)、組物は三ツ斗、 斗拱(ときょう)には和様と唐様とが混入している。柱はすべて円柱。本堂の内部は、内陣(ないじん)、外陣(げじん)にわかれ、内陣は三間四面、折上格天井、柱は黒漆塗、外陣は化粧屋根裏を表し、四本の大虹梁(こうりょう)を架し、中央には枡(ます)組を置き、すべて素木造である。外陣は再建当時のままの様式を存している。江戸時代に付け加えた正面(南面)の唐破風造向拝(からはふづくりご(こう)はい)を含めて、建坪約165m2に及ぶという。建武4年(1337)銘の板碑(県有形文化財)は、比丘尼(びくに)穏阿の十三回忌に極楽往生を願って建立した供養碑で、比丘尼穏阿は時衆関係の人物と考えられる。本尊の銅像阿弥陀如来立像(県有形文化財)は、一光三尊形式のいわゆる善光寺如来の中尊で、南北朝時代(14世紀前半)のものと推定されている。頭に怪鳥をいただく鬼瓦(県有形文化財)は建長2年再建時のものといわれるが、様式から室町時代と推定されている。また、応永30年(1423)銘の宝筐印塔(ほうきょういんとう)の基礎も残存、「本願聖賢誓敬白」の銘があり、念仏行者が善光寺を本拠としていたことがわかる。  
阿弥陀寺 宮城県仙台市若林区新寺 
龍泉院を南に下るとまもなく道の東側に時宗法王山阿弥陀寺がある。ゆったりと落ち着いた境内をもつ立派なお寺である。この寺の起源は、時宗開祖一遍上人が、奥州を旅して当時福島の伊達郡に居城を構えていた伊達政依を訪ねたことに遡る。伊達政依の支援を得て、一遍は福島県伊達郡梁川町に法王山阿弥陀寺を建立した。これは伊達氏の拠点引っ越しとともに米沢を経由して仙台藩第二代藩主伊達忠宗のときにこの地に移った。本尊阿弥陀如来像は、政宗の祖父にあたる伊達家第14代伊達植宗が、その六男宗貞が夭折したときに寄進したものであると伝える。本堂の手前にある少し小ぶりの観音堂は、上品でしっとりしたとても良い雰囲気を残している。このような木造建築物は、大切に後世に残さなければならないと思う。境内には、開祖一遍上人の銅像がある。  
藤澤山 無量院 浄光寺 神奈川県横浜市南区 
遊行59代尊教上人によって、明治5年(1872年)に開港で発展する横浜に時宗総本山の説教所として開かれました。歴史は比較的若いお寺さんですが、横浜の開教寺院として創建当時の願い通り今でも布教に活躍されています。平成に入ってから都会的な客殿を建設され、催し物の開催や講話を聞く機会を設けられています。  
来迎山 引接院 正念寺 広島県尾道市 
遊行31代同念上人によって、天正2年(1574年)に開かれました。本堂の格天井は、花鳥、人物、山水等144枚の絵で彩られており、商業の町・尾道の商家の屋号が書かれています。境内に湧き出でる延命水と延命地蔵があり、参詣の人々を集めています。尾道古寺めぐり散策コースに沿って歩きました。踊り念仏などとても活発なお寺さんです。  
清龍山 浄光院 萬福寺 島根県益田市 
もと天台宗の寺であったものを、正和2年(1313年)遊行4代呑海上人が再興し、時宗の道場に転じたと言われます。寄棟造りの本堂は鎌倉時代の建築で、国重要文化財に指定されています。古い時宗道場の佇まいを良く残している本堂です。室町時代には画僧の雪舟が逗留し、国史跡及び名勝に指定されている庭園を作庭されました。巧みな石組で構成される庭園を眺めながらお抹茶をご馳走になりました。  
 
爪書きの岩 和歌山県本宮町湯峰

湯の峰温泉の熊野古道に一遍上人爪書きの岩がある。道端に突き出た崖を磨いて刻んだ磨崖碑で、上部には阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表わす三つの梵字が刻まれ、中央には南無阿弥陀仏の六字名号。その両側に、風化して判別がつかないが、文字が刻まれた痕跡がある。 
「西国三十三所名所図絵」によると、 
奉法楽 
熊野三所権現十万本卒塔婆并百万遍念仏書写畢 
南無阿弥陀仏 
乃至法界衆成所願也正平廿年八月十五日勧進仏子敬白 
と書かれているという。 
正平20年(1365)一遍が亡くなってから76年後のこと。したがってこの名号碑は、後世の時衆の念仏聖が爪書きしたもので、それをのちに一遍上人その人が爪書きしたのだと伝えるようになったのであろうという。  
 
武蔵国の時衆道場

私は鎌倉新仏教興隆の最後の担手として知られる一遍(1239-89.51歳)とその随伴者時衆が遊行回国を通じ仏教の弘通をはかった際、おもにどのような階層との接触がみられたのかという関心に基づきその傾向を抽出した。そこで指摘できたことは在地領主層と京都貴族層がきわだっていたということであった。こうした動きはその後の二祖他阿真教(1237-1319.83歳)によって拡大推進された。彼の正和5年(1316)2月書状によると、全国に設置された時衆道場はなんと百箇所に達したと述べている。この数字の大きさに時衆降盛の傾向をみることができよう。 
こうした中で、豊後国守護大友頼泰(1222-1300.79歳)が建治2年(1276)一遍と九州て対面し結縁を遂げ、この12年後には頼泰母(風早禅尼・深妙)が夫能直の墓堂について阿弥陀堂を建て時衆を招き供養をはかった。在地領主が時衆の教化に影響を受け時衆道場を領内に設置した、例があるのでここに紹介する。 
奉寄進専称寺御領越後国佐橋庄北条下村内、金丸名田畠并山林四至堺在別等事 
右酬年来之願念帰弥陀之弘誓建立一宇之道場、勤修六時之行業僧衆十余口、皆是一遍上人之門葉、専念称名之浄侶也、依之為継仏種於来際、擬于万代之資粮、割分立錐之領内、以金丸名永奉寄進当寺已訖、都鄙公私之課役、雖為一粒半銭不可懸此地、一円寺務不可有相違者也、子孫中若有斯状文成違乱者、且可為父祖之不孝子孫、又可為仏法敵対之逆徒、深任寄付之本意敢不可令違犯、凡厥志趣偏為先妣先考、及自身出離生死、往生極楽、法界衆生、平等利益也、恵葉遙及楼至之下生、親疎必昇安養之上品矣、仍寄進状如件、 
応長元年辛亥八月廿二日 
前丹後守大江朝臣在判 
越後国佐橋庄(苅羽部)北条の地頭大江氏(毛利時光)が応長元年(1311)8月自領内(北条下村)に時衆道場を建立し、その経営維持のため「金丸名田畠・山林」を寄進したことに関するものである。それにあたって大江氏は「都鄙公私の課役、一粒半銭たると雖も此地ヘ懸るべからず、一円寺務相違あるべからず」と子孫が寺領へ介入することを禁じた。更に文中「一遍の門葉、専念称名の浄侶」とは一遍の教えを継いだ二祖他阿真教に随伴した時衆で、この道場に勤修することになった僧侶をさしたものであろうが、その人数は「十余口(人)」に及んでいる点に注目しておきたい。この道場も、先述の他阿書状中にみえる道場百箇所のひとつに数えられたものであろう。 
このように僅かづつではあるが、在地領主との具体的な関係を示す資料を重ね合せて行くにしたがって結縁の経緯、道場の規模、領民と時衆の関係が明かになると考える。この結果、中世社会の中における時衆の歴史的役割が今よりもっと鮮明に描出できれば幸いである。 
以下に、時衆の「拠点」について考察を加えるもので、ここで対象とする年代・地域は室町期までの武蔵国についてである。同国内に設けられた時衆道場は石浜道場、芝崎道場、荒居道場などがある。この他にも存在したと思われる道場があるが確証がないので保留した。これらの道場が地名を名乗っているので凡そ見当がつこうが念のため紹介すると、石浜は台東区、柴崎は中央区、荒居は品川区に属している。なお、時衆の遊行拠点といった場合の「拠点」がどういうことを意味するのかについて一言述べておくと、もとより時衆道場の設定地を直接的にはさすが、同時に動く念仏集団を本姿とするはずの時衆がその過程で、何かの理由で道場を設けてきた、その地点での歴史的な結合性をも対象としている。小論も、この考えの上に立って追究しているもののひとつであることをおことわりしておく。 
石浜道場 
一遍は弘安3年(1280)奥州江刺郡内にあった祖父河野通信(1156-1223.68歳)の墓前に詣で「世の中をすつるわが身もゆめなれば、たれをかすてぬ人とみるべき」の歌を残し、翌年松島へ遊行。そして常陸国へ出てやがて武蔵国石浜へと遊行の旅を続けたことが知られる。 
「一遍聖絵」(以下「聖絵」と使用)によれば一遍・時衆は弘安4年暮から翌春までの間この石浜に逗留したようである。この時すでに集団は少くとも18名に達していたと思われる。このうちの四、五人が旅による過労のためか病気で倒れたという。一遍は石浜で「のこりいてむかしを今とかたるべきこころのはてをしるひとぞなき」の歌を残し、「ながさご」ヘ向い、そして鎌倉に赴くのである。この集団の中には、これを去る建治3年(1277)蒙古襲来に備え香椎宮で陣頭指揮をしていた大友頼泰との対面を終えたばかりの一遍とはじめて出会い随伴することになった真教がいた。彼は祖師一遍の死後、法灯を相続し他阿上人として事実上、時衆教団の教線拡大をはかりその基礎を作った。 
「一遍上人縁起絵」(以下「縁起絵」と使用)によると、この他阿真教は乾元元年(1302)の秋の頃「武州浅堤といふ所におはしける」とあり、武蔵浅草に遊行したことがわかる(6)。また「二祖上人詠歌」によると、乾元の時を含め武蔵国には最低三回、一遍の時を併せると四回、遊行している。 
この歌集には「世間ノウキニツケテソ急ルゝ我トハユカヌ弥陀ノ御国ヘ」の歌が収録されていて、その添書が「武蔵ノ国石浜ノ道場ニテ八月ノ別時勤行有ケル時フル事ヲ思出テヨミ給ヒケル」とある。 
ここに、武蔵国浅草・石浜の地は一遍更に他阿による数度の布教が行なわれ、少くとも他阿の存生中に時衆道場の建立が実現していたことを知ることができる。つまり時衆にとってはことのほか教化のメリットの有る地域であった、と考えておきたい。 
この地域は鎌倉期から南北朝期にかけてどのような特色を有した所であったのだろうか。これについては現在迄のところあまりよくわかっていない。このため直接的に時衆との関りについて述べるわけにはゆかないのであるが、時衆拠点の意味を深る目的で該地の歴史の特色について私の関心に基づき試論を述べたいと思う。 
鎌倉期に浅草が取り沙汰されたことがある。それは源頼朝(1147-99.53歳)の指揮に基づき「都市」建設を始めた時期のことで、京都の内裏に匹敵するといわれる鶴岡八幡宮の造営の件でであった。養和元年(1181)5月に材木座の元八幡宮を小林郷の北山へ新しく遷宮しようと計画され、相模国土肥郷(足下郡)を本貫とした土肥実平と同国懐島郷(高座郡)を本貫とする大庭景能(?-1210)が造営の奉行に命じられ、建材の調達に従事した。その建材が由比ケ浜へ到着したのが6月末であった。建材の内訳は柱十三本と虹染二支であった。発議の日から約一か月半を要した。 
翌月から造営に着工する予定であったところが造営の職人が「鎌倉中」に存在しないことがわかり、同月3日「武蔵国浅草大工字郷司」を召び寄せ従事するよう、浅草を支配していた「沙汰人」に御書を遣わした。同8日には大工郷司が鎌倉へ来て、同20日に至りようやく上棟式にこぎつけたのである。この時期の鎌倉は公共施設・住宅の建設があいついだ。八幡宮遷宮の計画の在った5月のこと、頼朝亭の側に娘の亭と頼朝の厩屋を建設するため安房国の国務に携る者に工匠を派遣するよう命じ、その5日後には作事に着手したようである。この例から考えると鎌倉近在の国衙を通じて工匠たちを徴発し「都市」の建設に従事させたと考えられる。浅草の例にみる沙汰人とは在庁の人という意味かもしれない。更に、八幡宮建設になぜ浅草の大工を必要としたのかは、はっきりとはわからないが、神事的な要素に加えて、鎌倉の建設需要に対し浅草の大工まで徴発しなけれは間に合わなかったということかもしれない。いずれにしろ、ここでは古代末から中世初期にかけて、ことに「都市」鎌倉建設に従事した浅草大工集団の存在を指摘しておくにとどめる。 
この時期、浅草近在の領主は誰れであったのかははっきりしないが、江戸氏の可能性が高い。この氏は治承4年(1180)10月源頼朝が下総の国府から武蔵の隅田宿へ進軍した時、古代以来武蔵に強い影響力を有した秩父一族の畠山・河越氏などとともに頼朝に帰伏したもので、まもなくこの江戸氏は武蔵国衙を指揮する重役に任ぜられた。 
この頼朝進軍に際し、「源平盛衰記」(以下「盛衰記」と使用)によると、江戸・葛西氏が隅田川に浮橋を架けたと伝えている。また室町期の「義経記」では更に詳しく、石浜に数千艘の船をならべ浮橋を作り渡河させたと述べている。 
いずれにせよ、鎌倉期における浅草・石浜は内陸を南下する隅田川と江戸湾との合流点に位置し、また「盛衰記」にみるように「武蔵と下総との境なる」重要な地であった。このように、多数の船の存在、更に先述の大工集団の存在などの事実を重ね合せて考えると、この地は、縦横になにかが交流する世界ではなかったかと想像される。 
康元元年(1256)9月藤原光俊(真観.1203-76.74歳)は鹿島神社参詣の折、隅田川と関宿のことについて次のように記している。「すみだ河のわたりにて、此のわたしのかみのかたに河のはたにつきて里のあるをたづぬれはせきやのさとゝ申、まへには海ふねもおほくとまりたり」と。江戸湾から隅田川を北上し関宿まで海船が入泊していたと伝えている。「義経記」の記事では西国船と述べているがはたしてそうであったかどうかは断定しがたいが、浅草・石浜地域は陸上・水海上交通の結節点であるうえに西国方面との物資の交流基地として機能していた可能性をうかがわせているといえるだろう。 
ところで江戸氏は鎌倉当初の勢いはしだいになくなるが、それでも南北朝期にあって、隅田川東岸一帯の地との関りを持っていたようである。貞和2年(1346)江戸次郎太郎重通が武蔵国石浜・墨田波・鳥越の三か村の知行をめぐり石浜入道との間で訴訟を起している。同年3月には浅草寺衆徒との間で千束郷の田畠知行をめぐり紛争を起してもいる。この事例からみても隅田川東岸、石浜・墨田・鳥越・千束の地はもともと江戸氏の本貫地であったと考えられる。 
この江戸氏について「浅草区史」は「江戸氏豈石浜ニ於ケル漕輸通商ノ利ヲ占擅セシ乎、或ハ江戸亦別ニ一ノ湊港トシテ江戸氏ノ富ヲ成サシメタル乎」と述べているが、まさに至言というべきであろう。 
一遍・他阿真教が時衆を伴ない数回にわたり遊行に訪れたこの地が河海の合流の要地であり、更に武総の境、すなわち交通の要地であったことと併せ、「義経記」にみえるように西国船が遠方から多数来泊し遠隔地社会との交流が展開された世界であったとすれば、さぞかし繁華な中世社会をつくりあげていたものであろう。この世界のなにかに、時衆の人々は拠点を設ける意義を覚えたにちがいない。他阿真教は生前、最低三回も行っていることは前に述べたが、その理由は教化のメリットをみたからであろう。具体的にどのようなメリットかということは、ここでは残念ながら課題としておかざるをえないが、かかる生産・流通に直接的に関与した人々、さらに後述するように輸送業の世界を支えた諸階層の人々との有縁がみられたと考えておきたい。なお、江戸氏との関係は深かったと考えている。 
現在、石浜道場は存在しない。地名が残っているのみである。しかし最近、橘俊道氏が「石浜道場」の篇額を他宗寺院のお堂の中から発見された。かつての拠点の存在をうかがわせる物証のひとつである。 
なお、ついでになったが、当地からやゝ西方に芝崎道場があった。弘安2年(1279)4月「多賀谷八郎(平重政)譲状」によれば、彼は武蔵国江戸郷芝崎村を所有していた。その譲状の「裏書」によれば元亨3年(1323)5月段階でも多賀谷氏相伝地となっている。多賀谷氏が時衆と関係を有した記録は未詳であるが多分、二祖他阿と結縁し道場の建立が実現したのであろう。その近在に建碑された平将門首塚供養碑は二祖他阿の手になるものであり、芝崎との有縁を裏づける物証のひとつになっている。 
 
荒居道場 
一遍の死後、故郷へ帰る時衆や祖師の跡を追い入水した時衆がいたというが、残った時衆たちは死を覚悟で断食を続けたと「縁起絵」は伝えている。しかしその過程において札をもらいにくるものが絶えず、このため時衆のリーダー格の真教は自殺から一転し積極的な布教に切り変えたという。この「真相」が何であったのかは一応措くとして、その後の他阿真教の布教は目ざましかった。それは次に示したところの、武蔵国をはじめとする南関東地方の時衆寺院の開山の調査結果によく表われている。 
表中に品川の荒居道場がみられる、現在の海蔵寺である。当寺の縁起によれば、永仁6年(1298)他阿真教によって開かれたという。更には当地に三年間逗留し衆生を教化したともいう。この荒居道場が正規の記録にみえるのは、永享6年(1434)になってである。 
宛行 
武州荏原郡南品川之端芝原之地之事 
右依仏地之所望、永代八郎三郎所補任也、仍四至境、東南ハ大道堺、西田堺、北荒居道場堀堺、以之竹木可調殖者也、仍宛状如件、 
永享六年甲刀五月十三日  
妙国寺別当御房へ  
この「某宛行状」によれば、妙国寺が所望した仏地は南品川の端にある芝原地であり、その地は品川を経由する鎌倉街道に面したところで、西側は田、その北側が荒居道場であり、道場の堀を境界とすると述べている。現在の両寺の立地と全く酷似している。街道に沿って江戸湾が続いていたのである。その近在の台地上に品川神社が江戸湾を眺望するように鎮座し、その下を江戸湾に注ぐ目黒川が南流していて、その川の対岸側辺に道場があったと思われる。こうした所にあった道場が永仁六年から永享六年の、約140年の間どのような活動を展開してきたのか。その様子を伝える記録はほとんど存在しない。ここに当地に関する諸記録を通じその歴史的な特色を考えてみることとしたい。 
品川の地は紀氏系品川・大井氏が支配した。品川氏は、鎌倉中期において伊勢国曾原御厨・武蔵国南品川・陸奥国長世保・和泉国草部郷等の地頭職を得ていた。更に承久の乱の勲功地として近江国三宅郷・紀伊国丹生屋村の地頭職等を得ている。一方、大井氏は元久元年(1204)武蔵国(木杜・永富・堤郷)、更に弘安元年(1278)の段階迄に伊勢国(鹿取庄)の地頭職等を得ている。 
両氏の祖である紀氏の出自ははっきりしないが、「品川区史」によれば国衙か郡衙に関係した一族ではなかったかと推定している。古代の郡衙と関係しているとすれば、品川の所属郡は荏原郡に位置するので、紀氏の拠地品川の地は荏原郡のなにか重要な役割を負った地ではなかったかと推定しておきたい。仮定であるが、郡衙の浦(津)としての機能がすでに古くから存在したのではないか。 
品川・大井氏は祖紀氏の拠地を受継ぎ、鎌倉御家人として上述の如き地頭職を得て地方へ赴くのであるが、鎌倉期から南北朝期にかけてその本貫地である地での活動はよくわからない。ところでこの両氏のうち、荒居道場の位置から言えば南品川郷の地頭品川氏がこの時衆道場と最も近い関係にあった。しかし品川氏が時衆と直接関係があったとする記録はなく、「品川区史」に収録された「三宅郷相伝系図」の中に阿弥号を有する人物をみるだけで、それも直接時衆と関係したかどうか即断できない。更には、荒居道場が記録に初登場した時には品川氏の支配は上杉氏のため大幅に減じられ、往時の勢力はみる影もない存在となっていた。更に、その余波であろうか、永享10年(1438)「憲泰寺領寄進状」によれば荒居道場に隣接した妙国寺に憲泰から寄進された近在地の中に「勢阿弥」の耕作地「畠一段」があったとあり、その位置関係から時衆の勢阿弥と思われるが、その作畠が圧迫を受けていることを知る。そうした中で注目したいと思うのは、品川浦を舞台として興る新しい階層との給びつきである。 
品川浦は、14世紀後半から具体的に記録にあらわれるが、その前の段階から浦としての機能を発揮していたのではないかともいわれていることは先述したとおりである。しかし鎌倉期におけるこの近在では、記録の上からすれば、西の神奈川浦が重要な浦であったようである。その浦を含むと思われる神奈川郷はすでに文永3年(1266)「北条時宗下文」において「鶴岡八幡宮領武蔵国稲目・神奈河郷」と見え、北条氏得宗領に準ずる郷であった。このことを「横浜市史」では、北条氏は房総と交流のある三浦氏対策に仁治2年(1241)六浦道を開さくし、更に安達氏の陸道支配に抗ずるために神奈川のルートをつくったと述べている。ここに北条氏により鎌倉-六浦-神奈川の連絡網が完成したのである。これが単なる軍事的レベルの需要のためだけでなく鎌倉を支配(経営)する者にとって経済(流通)上でも大きな意味を有したであろう。 
仮に六浦を例にとれば、正中2年(1325)称名寺領下総国東庄上代御内黒部村からの元亨4年分年貢結解文書によれば、船賃六石五斗余が年貢輸送にかかった経常費として差引かれていることから、鎌倉末期の段階で江戸湾を経由し六浦へ年貢米が輸送されていたことがわかる。また応安3年(1370)同領上総周東郡波多沢村の年貢も、「金沢御蔵」入れるにあたって黒部村の場合と同様のしくみで海上輸送されていた。 
これと併せ、多分この時期と前後した頃のことであるが、遠く熱海から「アタミ船」と呼ばれた船が六浦へ入津している。この船がもし年貢輸送船でないとすれば、地方産品を当浦へもたらした一地方船ということになろう。このような地方船が六浦へ入津しているとなれば、当然前節の浅草・石浜方面との交易も予想しなければならないであろうし、鎌倉末期六浦とのルートが開発された神奈川浦との交易も一応念頭に入れて置く必要がある。 
また、神奈川浦も、六浦ほどの規模を有したかどうかは未詳にしても六浦-鎌倉へ連結する重要な基地としての役割・機能をはたしていたのではないかと考える。特に重要な点は武蔵国衙との関連であろう。北条氏得宗が国衙を掌握することになるがその国庫はすでに鎌倉にあったことが知られている。この納物をどのように運んだかははっきりしていない。ただ少くとも神奈川浦を経由したことは充分考えられる。同時に後述する品川浦もそのひとつであった可能性は高いだろう。 
神奈川浦について更に言えば、当浦の隣郷が帷子郷であるがこの郷中にすでに「芝宇宿」があったとされる。四代遊行上人呑海が五代上人国阿への遊行賦算権を譲与した地がこの宿であった。鎌倉街道の宿として機能したと共に帷子川口に位置してもいることから海上交通との関係も無視できないであろう。また神奈川郷の東隣り郷は子安郷で此郷も鎌倉末期に既に記録上にあらわれる(26)。このことから鎌倉末期、神奈川郷を中心に近隣は海上交通さらに陸上交通の結節点としてあたらしい状況が生まれていたと考えておきたい。神奈川浦、更には帷子郷近隣は時代の降下と共に諸記録に再三登場してくる。この場合でも江戸湾内を中心とした海上交通を前提のひとつとしなければ理解できないだろう。ついでに石浜・品川・神奈川・帷子を例にとれば前項の西国との交流とは別に後背地との広い意味の交流が明かにされないと殷賑の具体的な解答は抽出来ないと考える。この点は別の機会にそのメカニズムについて考察を加えたい。 
ところで、先述の品川浦へ戻るとして、当浦が文書上に再登場するのは、永和4年(1378)になってからである。 
同年8月3日武蔵守護上杉憲春(?-1379)は守護代長尾入道(景守)に対し、円覚寺塔頭仏日庵の造営費用の捻出のため、品川・神奈川の両浦をはじめ諸浦の船に帆別三百文、宿屋一宇別の棟別銭の徴収を指令した中においてである(28)。その文書では三箇年間とあるが、その後も継続され、永徳4年(1384)に及んだ。 
この後、明徳3年(1392)8月称名寺金堂建立費用のためと称し、品川浦の船へ帆別銭が課徴された。それに際し「武蔵国品河湊船帳」が作成され、船名・船主そして問(丸)名まで詳記されたのである。同年正月から8月迄の間の「品川付分」の船数である。これらの船が品川浦から出航しどのような所を回船し、何を積載してきたのかは不詳である。 
この表で品川浦には三人の問の存在が知られる。六浦においても、また「ふんど」(上総国か)の浦においてもその存在が知られている。多分、神奈川浦にもすでに存在した可能性は高い。この問がどのような経緯を経て独立の専業者となったのかは不詳であるが、別表にみるように在地領主からは独立し、仲継取引・船の差配、宿舎の提供にあたっていたのであろう。なお、この問と船主との取分は各別であった。 
いずれにしろ流通面における海上輸送の基地としての品川浦の姿はおぼろげながら理解されよう。品川浦でみた状況は隣浦の神奈川でもほぼ同規模の状況であった。「武蔵国品川・神奈川両湊帆別銭納帳」によれば、明徳3年2月からの納入分として品川浦十六貫文(四箇月分)、神奈川浦十二貫文(四箇月分)と記されているから一箇月分は三貫文になり同額であった。 
以上のことから、鎌倉中期に開かれた六浦、鎌倉末期に開かれたと推定される神奈川浦、そして南北朝期迄には開かれたと考えられる品川浦の三か浦は武蔵国の主要な海上交通の基地として鎌倉、金沢を向き、機能したことをみた。ただ流通の結節点の構造・機構がどのようであったかは未詳であり今後の課題となろう。その中で、先述の称名寺金堂建立にあたり神奈川浦から「鍬」「アサオ」、品川浦・神奈川浦の一方から「鉄」・「榑」・「戸板」が購入されている。この点はすでに豊田武氏によって和泉・河内の鋳物師が遠く関東方面までその独占網を敷かんとしていたことが指摘され、更に中丸和伯氏により追認されていることから、品川神奈川浦とその後背地の産品との関係を重視することは意味なしとしないが、いまだし研究の余地はあると考えている。 
最後に、品川浦の海上輸送に関係した人々と時衆の荒居道場等との関係について展望しておきたい。 
天正6年(1578)2月飯沼城主北条氏繁が藤沢の遊行寺から「欠落」した時衆僧尼とも寺家門前へ立入るのを厳禁するとした文書の中に「品河三ヶ所道場」ヘもこのことを通達したとある。この三道場がいづれなのか不詳であるが、私は当然荒居道場が含まれたと考える。 
ところで「品川区史」によれば、現古文書で上限を確かめられる寺院(中世)は十一か寺であると述べている。このうち時衆は三か寺となっている。ところで同区史にはまた、南北品川の寺院創立をあげており、創立時が1400年までの寺院は十二か寺あげている。宗派別(現在)の内訳をあげると天台2/禅3/日蓮3/時宗2/真宗1/浄土1寺となっている。この内訳がそのまゝ中世中期の寺院のすべてだったとは断言できないが、流通の場品川浦と寺院存在との関係を考えるにひとつの傾向をうかがわせているのではなかろうか。この十二か寺のうちの二寺が南北品川にそれぞれ一寺づつ分れて存在した時衆道場であったと考える。この二寺が品川浦で展開された海上交通(輸送)とどのような具体的な関係を有したかは未詳である。 
ただ、前掲出の船主・問数を表した表の中に、阿弥号を有した人々の存在が注目される。具体的には、問丸の国阿弥、船主の禅阿弥・了阿弥である。更には称名寺金堂費用の帆別銭徴収にあたった道阿弥の存在を加えておく。これら海上輸送の需要が繁多となる時期に台頭した新しい階層で、鎌倉円覚寺、更には金沢称名寺といった大寺院の建造に伴ない顕著な活動をみせ始めた存在である。また輸送基地の条件のひとつともなった宿屋・庫倉の存在、その維持・運営のための人々も多数存在したと考える。既述の時衆道場がこうした地に存在することはとりもなおさずこの世界の人々との「結縁」を前提としなければならない。品川氏等の在地土豪等の凋落にかわって当地を動かし始めた交通・流通に携わる世界の人びととの交流が時衆道場の新しい活性をうながしたことはまちがいなかろう。
 
中世の伊予・河野氏と三嶋社(大山祇神社)

河野氏は、伊予国で発生し、中世の全期間にわたって存続した、伊予国最強の武士団として知られていますが、その武士団の形成・発展の過程を通じて、河野氏は三嶋社(大山祇神社)を氏神として精神的な支柱としました。しかし、両者の関係は、これまで具体的に明らかになっていません。河野氏と三嶋社との関係も一様ではなく、時代によって様相を異にしますから、年代を追って検討してみましょう。 
河野氏と三島社との関係 
中世前期(平安時代末期-鎌倉時代)に、河野氏は三嶋社と深い関係をもち始めたのですが、その端緒は、どのようなものでしょうか。 
その一つは平安時代末期から源平争乱期にかけての国庁における両者の関係です。河野氏は、源平合戦のさなかに伊予国の在庁官人として登場しますから、その頃河野氏は、伊予国の一宮として国庁で国の祭祀を挙行する三嶋社との関係が生じたと考えられます。ただし、その頃の様相は、大山祇神社に伝わる文書など確かな史料がないので、「予章記」や「予陽河野家譜」などの説話的記事のベ―ルに覆われていて全くといってよいほど実像を捉えることはできません。  
河野氏が三嶋社との関係をもった端緒としては、もう一つ考えられます。それは、河野氏が三嶋荘の荘務を管理する「三嶋七嶋社務職」という権益をもっていたことです。「予章記」長福寺本に承久の乱で後鳥羽上皇方に属して鎌倉幕府軍と戦い、敗れて領地を没収されたという記事中に >中ニモ三島七島社務職等ハ全ク他ノ競望不可有事ナレトモ、京都ヨリ善家ノ者ヲ進止セラルゝ事、誠無念ノ次第也。善三島ト云ハ飯尾末葉也。結句又小早河ノ者、善家ヲ追退テ存知スル事、更以無謂子細ナレトモ とあり、河野氏(通信)が本来保持していた「三島七島社務職」は、善三島という姓の者に与えられ、さらにそれを小早川氏が奪いとったといい、この文を記した者(挿入した文を書いた人物)は、無念であるとか、謂れがないなどという感想を述べています。おおよそ「予章記」などの後世編纂された河野氏関係の史書は、誤謬が多く、引用された箇所も注意して読まねばならないのですが、この記事は、小早川氏庶流の弥二郎徳平が善左近蔵人入道(善麻)の養子となって三島七島の一つ大崎下島を譲渡されていますから(「小早川家文書」)、大筋では事実とみてよいでしょう。その後も三嶋神領の下島をめぐって文安年間に三嶋方と小早川の諸庶家との武力衝突がみられます(同上)。なお、河野氏が失った三嶋七島社務職を与えられた善三嶋氏を源頼朝に仕えた京下りの公家衆の三善康信の子孫の飯尾氏の末裔と解する説がありますが、賛成できません。といいますのは、承久の乱後、鎌倉幕府の任命する三嶋荘地頭はいたようですが、三嶋荘の所務をつかさどる三嶋七島社務職は、伊予国の知行国主西園寺家の家政をとる家司(諸大夫)の三善氏と考えられます。といいますのは、鎌倉時代には西園寺家が三嶋大祝職の補任権を握っており、また、西園寺氏と同祖の徳大寺家(伊予守実基)が三嶋荘の領家職であつたといいますので、西園寺家の力が三嶋社(三嶋荘を含む)に及んでいます。そのように考えますと、この善三嶋(三嶋善とも記す)氏は、西園寺家譜代の家僕である三善氏(善氏)とみたほうが自然です。なお、善三嶋は善(三善)と三嶋という二つの姓が合体した姓(複姓)ですから、同家は三善家が三嶋大祝家の養子に入り創出されたものとみられ、擬制的な族的結合とみられます。 
さて、「三嶋七島」というのは、三嶋社の神領であり、「三島荘」という荘園をさします。かつて三島荘を旧伊予三島市域にみなす説がありましたが、それは誤解です。三島荘は「伊予国内宮役夫工米未済注文」に「三嶋御領嶋々八十九町二反小」とあり、瀬戸内海の島々の集合体であったことが分かります。「三嶋七島」という語は、室町時代初めに見えますが、大崎下島の大條浦(現広島県豊田郡豊町)に鎮座する宇津神社の祭神は七郎大明神といい、三嶋社の本地仏大通智勝仏の第七王子です。としますと、三嶋七島という概念は、鎌倉時代に遡るでしょう。「三島宮社記」には、三嶋七島中の神々を書き上げていますが、大下島(大気神社)、姫児島(血嶋神社)、岡村(岡本島か。一説には弘保島泊村比目木村神社)、御手洗島大長村(大崎下島。安芸国豊田郡。宇津神社)、津嶋(早瀬神社)、小気嶋(速津佐神社。俗に鉐明神という)とその他は大三島の三嶋社の境内かその近辺に祀られています。これら島々にあった三嶋社の末社は、三嶋荘内にあったものですが、それらはもともと三嶋社と称していたか、定かではありません。鎌倉時代末期の正安4年(1302)に三嶋社の境内に十六王子社が創建されました。元応2年(1320)夏に天台律宗僧光宗が伊予国へ下向して、三嶋社へ参詣したときの見聞録には、その頃十六王子社があり、浦戸に第一王子社(諸山積神社)があると記されています。大三島の三嶋社境内にある長棟の建物は、鎌倉時代の「一遍聖絵」には見えませんが、室町時代初期の古絵図に見え、それには第一王子、第十六王子社という注記がほどこされています。現在は十七神社として、第一王子社と十六王子社が接がれて十七神社と称しています。いずれにしても、十六王子社は三嶋荘という荘園の成立、展開過程で島々に祀られていた神々を組織化してまとめあげたものとみられ、信仰と経済が一体化したものでしょう。 
ともかく、河野氏は承久の乱以前に三嶋荘を管理する「三嶋七島社務職」という権益を手中にすることで、三嶋社との関係を深めたと考えられます。 
河野氏の三嶋社支配 
三嶋社の神官組織のトップである三嶋大祝は、その身が神体に擬せられ、半明神と称せられて現人神のような存在です(「三嶋大祝記録」)。三嶋大祝は、専ら祭事をとり行い、経済・軍事などの俗的な事柄は、祝という神官の地位にいた一族や、鳥生・高橋・三嶋善・庄林などの庶家が担当していたようです。 
三嶋大祝を補任するのは、伊予国を実質上支配する最高権力者です。承久の乱以前は、河野氏であったと推測されますが、乱後は伊予国の知行国主の西園寺家が補任権を掌握したとみられます。といいますのは、建治2年(1278)8月27日の伊予国宣で越智安俊に三島大祝職を補任したのは、奉命者の花押の形態から西園寺家の家僕三善氏とみられますから、そのころには、河野氏の三嶋社に対する権限は、失われていたのでしょう。 
河野氏が三嶋大祝職の補任権を取り戻したのは、室町時代以降です。永享9年(1437)7月28日に鳥生備中守に三嶋宮大祝職を補任した沙弥某は、戒能伊豆入道とみられます。彼は河野氏当主通久が豊後国姫ケ嶽で戦死したのち、幼主犬正丸(のちの教通)を後見した人物で、当時伊予国守護代の地位にありました。応仁の乱後の明応3年(1494)3月17日に越智貞吉に三嶋社大祝職を補任したのは、出家後の教通(法名は道基)です。天正5年(1577)2月9日に河野氏最後の当主通直(幼名は牛福丸)が安任に大祝職を安堵しています。このように、河野氏歴代が三嶋社大祝職の補任・安堵権を専有したのです。 
また、河野氏は三嶋社神官の間の紛争を採決する権限をもっていました。弘治4年(1558)2月12日に河野通宣は、「御籠物(おこもの)」(神事用の供物か)をめぐる神(こう)大夫(だゆう)(越智氏)と三嶋大祝(安任か)との紛争に対して、曽祖父教通のころの先例に準拠して、大祝に安堵しています。ただし、同一内容の安堵を来島村上氏の通康及び原興生が三嶋大祝にしていますから、三嶋社に対する来島村上氏勢力の影響が無視できなくなってきた様子がみてとれます。二神氏宛の村上通康の書状写にも「大夫役(たゆうやく)」、つまり三嶋社役について通達しており、永禄年間には来島村上吉継(甘崎城主)が三嶋社の島神主職に就任しており(大山祇神社所蔵門守神像銘)、戦国期には、三嶋社に対する実質上の支配権は、村上氏に渡ったとみてよいでしょう。 
三嶋信仰 
河野氏の三嶋社への信仰は、具体的にはどのようなものでしょうか。まず、信仰の証として社殿の造営があります。応永34年(1427)6月に三嶋社本殿が造営されていますが、そのときは、室町幕府の三嶋社造営使節の松田若狭守が伊予国へ下向しています。造営主体は河野氏ですが、幕府の援助を得て、伊予国守護の立場で竣功させたのでしょう。鎌倉時代の社殿造営も朝廷の命令により、伊予国内の領主たちに一律に費用が賦課されています。また、戦国時代には河野氏歴代は、三嶋大祝に対して祈祷を依頼し、所領・供米・太刀・馬・具足(鎧)など様々なものを寄進しています。さらに家臣の村上氏や重見氏なども祈祷を依頼しています。 
ところで、伊予国全域に三嶋社が勧請され、三嶋信仰の広がりがみられますが、まず国府所在の府中地域には、三嶋別宮(今治別宮)が勧請され、戦国時代には同宮別宮の大祝職も河野氏が補任しています。河野氏の支配圏内の中予・東予地域の一部には、各地に三嶋新宮が設けられました。例えば@新居郡西条荘内の三嶋新宮A府中の能寂寺領中の三嶋新宮B浮穴郡臼杵谷の三嶋新宮C風早郡忽那島の三嶋新宮D風早郡河野郷内の三嶋新宮(河野新宮・正岡宮)などがあります。これらは、別宮よりのちに、三嶋本社(大山祇神社)から新たに勧請されたものとみられますが、とくにDは、河野氏発祥の地に祀られたもので、もと高縄山頂にあり、のち山麓に移されたといいます(「高縄神社文書」・「水里遡回録」)。同社の神官は河野氏一族の正岡氏が勤めています。Bは天授元年(1375)に河野通直とみられる讃岐守が神託によって同社の祭礼の費用を寄進したり、「三島社領主次第」という三島荘の歴代領主の名を記した史料を所蔵したりしています。 
河野氏の支配圏外の南予地域にも三島社は多く勧請されています。その理由は、明確ではありませんが、やはりこの地域を代表する領主である喜多郡の宇都宮氏や宇和郡の西園寺氏などが、河野氏との友好関係を保っていた時代に、積極的に三島社を勧請したからでしょう。宇都宮氏が宇都宮神社を、西園寺氏が春日社を祀るのは当然ですが、数的にはとるにたりません。むしろ三島社のほうが圧倒的に多いのです。宇和郡を例にとれば、三島社のある地の領主は、河野氏の出という三間郷の中野殿河野氏郷の北ノ川氏、越智姓の津島氏、黒土郷の河野や、周知氏被官西ノ川氏などなんらかの河野氏との関係をもっています。その他、宇和海の法華津浦の領主法華津氏は、法華津湾内に三島社を勧請し、法華津城中で大般若経を書写して三島社(大山祇神社)へ奉納しています(「東円坊大般若経奥書」)。こういう海辺領主たちが、三島信仰をもち、三島社を進んで祀ったとみてよいでしょう。  
 
高野山参詣

戦国期、湯築城主河野氏は、さまざまな宗教と関わっていました。禅宗(臨済宗・曹洞宗)や時宗、観音信仰(京都清水寺の観音菩薩に対する信仰)、三島信仰(大山祇神社の三島大明神及び本地仏である大通智勝仏とその王子に対する信仰)、熊野信仰(熊野三所権現に対する信仰)、伊勢信仰(伊勢神宮に対する信仰)など様々な形態のものがありましたが、そのうちもっとも影響力があり、盛んであったのは、高野山参詣を中心とする高野山信仰であったとみられます。 
高野山参詣の流行 
高野山参詣が盛んになるのは、戦国時代末ですが、その前提として平安時代中期以降の弘法大師空海への信仰、高野山を浄土と観ることが貴族階級を中心に盛んになりました。ただ、その信仰は、上皇(院)や公家衆(院の近臣など)などの貴族階級あるいは貴族階級からの隠遁者などにとどまり、社会全体に及ぶものではありませんでした。 
中世に入ると、鎌倉幕府の有力御家人安達氏や執権北条氏などの幕府要路の武士たちが、町石を建立したり、高野板を開板したりするなど、高野山に対して篤い信仰を抱くようになりました。しかし、何といっても、武士階級の間に高野山信仰(参詣)が爆発的に広まったのは、高野山内における宿泊施設(宿坊)の発達がみられるようになった、室町期以降といってよいでしょう。なぜ高野山で宿泊施設が整えられるようになったかといいますと、地方の武士たちの高野山への信仰の高まりもありますが、それを促したのは、高野山側の事情でしょう。古代末から中世前期における高野山経済の主柱は、高野山領荘園です。他の例に洩れず、中世後期には、これらの寺領荘園は、武士の侵略等によってしだいに消滅していったのです。この趨勢をみて、高野山側のとった方策は、財源を土地からの収益(年貢)から人的資源へと転換させたことです。つまり、高野山の院坊は、地方の武士たちと契約を結び、彼らを檀越として、各家の位牌を安置して先祖の供養をし、奥の院(空海の入定した場所。霊廟がある。)での石塔建立(分骨を納める墓、供養塔)や院坊への宿泊を勧めました。ただし、宿泊料は徴収せず、檀越から供養料や銭・品物などの寄進を仰ぎ、その反対給付として祈祷札の配布、弘法大師の絵像や加持土砂の配布、高野聖を派遣しての土産物の賦りなど、中世後期から近世にかけて、多種多様の宗教活動とそれに付随する行為が展開されたのです。なお、これらの根幹をなすのは聖地である高野山への参詣といういわば一種の巡礼です。それは単独でもなされますが、熊野詣、伊勢参宮などと一緒に行われるケ?スも少なくありませんでした。 
河野氏とその被官の高野山参詣 
地方の武士のなかでも守護大名や戦国大名などの有力領主の高野山参詣は、領国(領域)内の武士への影響力からして一般の武士のそれと同一視できません。正確には把握できませんが、中世においても二十を超す有力領主と結びつきのある院坊が知られています。このうち、伊予国の河野氏は、高野山内の小田原にあった上蔵院(現在は金剛三昧院が名跡をもつ)を宿坊として宿泊したり、各種の宗教活動を展開したりしたのです。上蔵院に残る「河野家過去帳」では、鎌倉時代初めの河野通信、南北朝期の通盛・通朝・通堯の三代にわたる河野氏当主、通義・通之・通久など室町初期から中期にかけての河野氏当主が見えます。ただ、他の事例からみて、宿泊施設が発達せず、高野山参詣が常態化しない時代に、河野氏が参詣したとは考えられません。これらは、河野氏による高野山参詣が盛んになった戦国期に、先祖の位牌を新たに建立して追善供養し、過去帳に書き込んだのでしょう。現に同過去帳が戦国時代から年代順に書き継がれているのに、これら古い時代の河野氏当主の供養の記述が挿入されていることでも推測されます。「上蔵院文書」に現存する河野氏から上蔵院宛の書状でもっとも年代的に遡るのは、応仁の乱前後に活躍した河野氏庶流の通春のものですから、やはり、その頃、河野氏は上蔵院を宿坊として参詣するようになったと考えてよいでしょう。 
河野氏による高野山参詣が最も隆盛を見たのは、戦国期の通宣(刑部大輔)以降、通直(弾正少弼)・通宣(左京大夫)、通直(牛福丸)の歴代のころです。「紀伊続風土記」によると、通宣・通直は上蔵院に登り、発願して肖像画・系譜・本尊を納めてのち、伊予国へ帰り、「國中を當院の檀越となして寺産を付せり、其寄附状今に蔵す」とあります。この記事は、江戸時代後期のものですが、現存する上蔵院文書からみると、信用が置けましょう。とくに注目されるのは、天文13年(1544)4月14日河野弾正少弼通直が上蔵院へ提出した宿坊証文です。この中で通直は、高野山へ参詣したとき、自分が上蔵院を宿坊と決めるだけではなく、高野山参詣をした伊予国の武士で、上蔵院以外の坊を宿坊とすることを厳禁しています。やや年代を経た天正2年(1574)河野氏一門黒川氏当主通博(周敷郡剣山城主)は、同様に自分の領域内の武士や庶民が上蔵院以外の坊を宿坊とすることを禁じています。河野氏当主は、伊予国の守護としての立場から領国内の武士にこのような一種の宗教統制を敷いたのであり、黒川氏はそれに準じる立場から、河野氏の承認をえて、自分の領域内へ適用したのでしょう(河野・黒川両氏以外の領主は、このような文言を付した宿坊証文を提出した形跡が認められない)。いいかえるならば、河野氏は高野山参詣を政治的に利用して、支配圏内の武士を統制したとも言えましょう。現に河野氏支配圏外の南予地域の武士たちは、河野氏の宿坊である上蔵院を必ずしも宿坊としていません 。 
次に河野氏被官(家臣)の中で、高野山参詣をした武士たちを、上蔵院関係史料(上蔵院文書・南行雑録・河野家過去帳)から拾い出し分類しますと、(一)河野氏膝下地の河野氏一族(戒能・垣生・土居・寺町・大内・桑原・得居・浅海・重見・南・松末・正岡等)、(二)その他中予地域の武士(相原・松浦・古川・高市・出淵・東野等)、(三)来島村上氏一族とその被官(原・高田・神野)、(四)東予地域の河野氏勢力圏内の武士たち(黒川氏とその配下、壬生川・桑村・飯尾・櫛邊・高瀬等)に分類されます。とくに目をひくのは、河野弾正少弼通直の娘婿となって河野氏一門の列に加わった来島村上氏の当主通康とその一族です。 
村上通康から高音寺(伊予国における高野山上蔵院の布教拠点か。現松山市高木町所在。)宛の書状によれば、高音寺僧の高野山帰山にあたって、通康は和泉国堺津まで乗船する船の調達を約束しており、高野山参詣に果たす来島村上氏の役割の重要性が窺い知られます。その他、来島村上氏一族やその配下の武士で、高野山上蔵院と交流した武士たちは、少なくありません。河野氏滅亡後、江戸時代に豊後国森藩主となった久留島(村上氏)が「河野家過去帳」を書き継いでいるのも、戦国末期に来島村上氏が河野氏一門に加わり、河野、来島村上氏が一体化したことを、年代を経たのちも認識していた証拠になるでしょう。 
武士の高野山参詣 
河野氏による実質的な支配が及ばない喜多郡・宇和郡の武士たちは、高野山参詣をしたとき、どの宿坊に拠ったのでしょうか。 
まず、喜多郡では、大洲の宇都宮氏とその配下は見えませんが、菅田・萩森宇都宮・三崎が見え、宇和郡では津島・土居・有間今城・西ノ川・浪岡・岡・下岡等の武士たちが上蔵院を宿坊としました。かれらの名は、一部を除いて「上蔵院文書」には全く見えませんが(火災で関係文書が焼失したせいか)、「南行雑録」や「河野家過去帳」に姿を現します。喜多郡は宇都宮氏、宇和郡は西園寺氏がそれぞれ支配した地域であるのに、これらの地域の武士の中に、なぜ河野氏の定めた上蔵院を宿坊としたのでしょうか。 
全体的にいえば、かれらは宇都宮氏や西園寺氏の支配圏内にありながらも比較的独立的な立場にあり、伊予の中央部の河野氏と結びつきやすい状況にあったといえましょう。ただ、刻々と変化する戦国期の政治情勢を考慮する必要があり、平面的な図式で捉えることはできません。例えば、上蔵院を宿坊とした宇和郡三間郷の領主土居氏(土居清良の一族)は、土佐国西部、幡多郡・高岡郡を支配する土佐一条氏が宇和郡を窺がって同郡へ攻勢をかけたころ(弘治年間から永禄年間にかけて)、土佐一条氏とその被官が宿坊とした窪之坊に拠っています。つまり、土居氏の例をとってみても、年代を考慮する必要があろうかと思います。 
また、宇和郡の東南端、土佐国境に近い黒土郷の領主、西ノ川氏の場合、室町初期にすでに河野氏被官となり、在京しており、河野氏が滅亡したのちの天正十五年(一五八七)に高野山へ登り、上蔵院を宿として亡父の供養のために釣燈籠を献納しています(高野山金剛峰寺蔵)。この事実からすれば、河野氏と同じ上蔵院を宿坊とした南予の領主たちは、河野氏となんらかの縁故があったと者と考えられましょう。でも、これで一律に括れないのが南予地域の複雑さです。越智姓の北ノ川氏(宇和郡三滝城主)は、戦国時代末、名乗りに「通」の字を付け、河野氏被官になった形跡があるのに、河野氏や土佐一条氏とは異なる松門院(現在は本覚院が名跡をもつ)を宿坊(位牌所を兼ねる)としています。さらに、兵藤氏を中心とする長浜地区の領主たちは中島坊(報恩院を経て現在は普賢院が名跡をもつ)を宿坊としていました。つまり、南予地域は、河野氏の影響力がある程度及ぶ点とそうでない点が混在した地域であったことが、高野山参詣という宗教活動を通じて見えてきます。 
伊予の河野氏を始めとする戦国武士による高野山参詣は、すぐれた宗教活動ではありますが、経済的な背景や政治状況を反映するという側面もあったことが分かります。中世の伊予武士の信仰は、高野山信仰にとどまらず、広がりを呈しています。
 
因幡・伯耆

時宗は一遍上人によって開かれた鎌倉新仏教の1つです。伊予国(愛媛県)の豪族河野通広の子として生まれた一遍は、文永11年(1274)から全国各地を遊行し、「踊り念仏」によって布教を行いました。 
一遍は因幡・伯耆の地も訪れています。「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)巻8には、弘安8年(1285)に、一遍が丹後久美浜から但馬を経由して因幡に入り、その後伯耆「おほさか(逢坂)」を通って美作へ向かったと記されています。 
時宗の教えは一遍やその弟子たち(時衆)によって各地へ広められました。もと因幡国若桜郷高野(現若桜町高野)の光福寺にあったとされる太鼓(現島根県玉作湯神社蔵)の胴内には、一遍より5年早い弘安3年(1280)に、時宗信徒の「すいあ」がこの太鼓を奉納したという内容の墨書があり、この頃には時宗が因幡にも伝わっていることがわかります。 
因幡・伯耆において時衆の活動が最も盛んであったのは南北朝時代であるといわれています。それは守護山名時氏のあつい信仰に支えられたものでした。その後も室町時代にかけて山名一族の庇護(ひご)を受け、各地に寺院(道場)も建立されていきます。 
「鳥取県史」によれば、主な時宗寺院としては、善光院、西光寺、光清寺(以上鳥取市)、専称寺(八頭郡八頭町)、三明寺(倉吉市)、海福寺、万福寺(西伯郡大山町)、安養寺(米子市)、宝国寺、貞治寺(日野郡日野町)などがあげられます。 
これらの寺院の中にはその後廃寺となったものや、曹洞宗など他宗に転じたものもありますが、鎌倉-室町時代において時宗が因幡・伯耆一円に広がっていたことがわかります。 
現在、鳥取県内の時宗寺院は多くありません。江戸時代には6寺あったといわれる伯耆国の時宗寺院も現在は安養寺と万福寺のみとなっています。そのため中世の時宗の様子を多く知ることは困難です。そのような中、平成19年10月県内で中世の時宗勢力の活動を示す新たな資料の発見がありました。県史編さん室が県史編さん協力員の案内で旧大山町内の中世石造物の所在調査を行った際、町内の個人墓地で台座部分に次のような銘文の刻まれた石塔が見つかったのです。 
暦応2年(1339)の中世石造物銘文は幅46cm×高さ37cmの石の一面に刻まれていたものです。現在は五輪塔の地輪部となっていますが、もとは宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎であったと思われます。南北朝時代の北朝の年号です。詳細は不明ですが、末尾の「■阿」が勧進主となり、日阿・道義・見阿・妙阿の4名と世の中の衆生(命ある全てのもの)の平等利益を願って造立したものと思われます。「-阿」というのは「-阿弥陀仏」の略であり、時宗信徒に多くみられる法名です。この石造物が発見された場所の近くには、中世の時宗拠点であった万福寺や海福寺もあり、南北朝時代のこの地域の時宗勢力の活動の一端を示すものといえるでしょう。 
鳥取県には三徳山・大山を中心とする旧仏教系寺院のほか、中世以来の系譜を引く新仏教寺院も多くあります。しかし、近世以降に比べて中世の史料は少なく、未解明の部分も多く残されています。  
 
聖1

日本には、もともと「日知り」と言う言葉がありました。「日知り」は太陽信仰からきており、太陽信仰における司祭者・呪術者を指していました。 しかし、仏教伝来後は「聖」が幅を利かせ、「日知り」は影が薄くなりました。 
理由は、天皇家が神を捨てて、仏に走ったのだからです。 
平安中期の空也(くうや)は「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた。平安後期の源空(法然)弟子の親鸞は延暦寺黒谷別所の念仏聖(ねんぶつひじり)であり、聖人と呼ばれた。鎌倉時代中期の一遍は諸国を遊行しながら念仏を広め、「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた。 
聖とは、 
平安時代中期の末法思想を背景に現れました。 
未熟、または、出家していない半僧半俗の仏道修行者で寺院経済を支える檀徒でもあります。沙弥(しゃみ)、優婆塞(うばそく)など。 
寺院内の別所と呼ばれる場所に住んでいました。あるいは、遍歴しながら修行していました。 
沙弥(しゃみ)/仏門に入り十戒は受けているが、正式の僧になるための具足戒を受けていない7歳以上20歳未満の男の僧。 
優婆塞(うばそく)/正式の仏教信者となった男子、または、在家のままの仏道修行者。 
捨聖(すてひじり)/世俗の荷物(生活、しがらみ、その他一切)をすべて棄てて、遊行する聖という意味です。 
市聖/庶民の浄土教の宣教師、つまり、市井の聖と言うことです。 
念仏聖(ねんぶつひじり)/浄土教信仰を庶民に普及する僧のこと。 
高野聖(こうやひじり)/高野山の高野別所に住む念仏聖を言った。  
聖2

特定の寺院に属さず人里はなれた山中で修行したり、社会事業などをおこないながら民衆の教化につとめた僧。古くは「日知り」として、太陽のようにすべてのことを知っている聖帝、聖人のことをいったのが、奈良時代にはいり仏教が盛んになると僧の尊称となった。そのもっともはやい例は、民衆をひきいて土木事業や灌漑(かんがい)事業をおこなった行基で行基菩薩(ぼさつ)ともよばれた。平安時代にはいると阿弥陀仏に対する信仰がめばえ、念仏聖が活躍した。彼らは浄土教に帰依し、寺院からはなれて念仏にはげんだ。また庶民の間に仏教をひろめたのも聖であった。平安中期には、「市聖」とよばれた空也がでた。こうした半僧半俗の聖は草庵をいとなみ、「別所」とよばれる集落をつくるようになった。なかでも有名なのが、高野山につくられた別所で、ここに住した人たちを高野聖とよんだ。この念仏教化の大集団は中世を通じて庶民宗教に大きな影響をもちつづけた。ついで法然がでたが、彼も比叡山の別所のひとつである黒谷の念仏聖のひとりであった。その弟子親鸞も聖と同義である聖人(しょうにん)とよばれた。その後、鎌倉後期の一遍は踊念仏をもって全国を遊行し、「捨て聖」とも称された。  
 
【成道】(じょうどう)仏の悟りを完成すること。 
【示寂】(じじゃく)菩薩または高僧の死。 
【入寂】寂滅にはいること。特に僧が死ぬこと。  
 
神田神社

東京の中心、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内・旧神田市場・築地魚市場、108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。  
当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村・現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた・神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。 
その後、天慶の乱で承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発、嘉元年間(1303-1306)に疫病が流行した。将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。 
慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると9月15日神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。 
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。 
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。明治7年(1874)はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。大正12年(1923)未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。 
昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。 
御祭神 
一之宮/大己貴命(おおなむちのみこと)  
だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。れ、国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。  
二之宮/少彦名命(すくなひこなのみこと)  
えびす様。商売繁昌の神様。商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。  
三之宮/平将門命(たいらのまさかどのみこと)  
まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方です。明治7年(1874)一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっております。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしております。  
草創の説話  
創建について又その由来については諸説がある。  
天平2年(730)武蔵の国造(当時の地方長官)であった真神田臣が、豊島群芝崎村の地に社を建て、地祇(国神)大己貴命を奉ったとされ、この 社のことを真神田の社といっていたが、後に、これを略して神田神社と言うよなったと言う説。その二は、忌部族(海部族)が、今の房総半島に定住していたが、その人々の守護神、つまりは海神として安房神社に奉られていた神を、八世紀の始めごろ分社して、豊島群芝崎村の地に奉ったのが起源と言う説。  
又、天平2年(730)豊島群芝崎村の神田台(江戸城神田橋御門内、現在の大手町)にその地の人々によって、産土の神・鎮守の神が奉られ、神田の神社と呼ばれた。祭神は大己貴神であった。名の由来は、その地が伊勢神宮の神田であったことに因んでいると言う説。  
「神田とは、国家の公田をその神社に賃貸しした地子田のことをいい、厳密には社領でなかったのであるが、それが後には社領として恒常化したのである。神田は御戸代田とも、神戸田地ともいわれて、神田の民又は、近傍の民をして耕作させた。 神社は大体二割を田租とした。 これを神税ともいった。」 
このように、八世紀頃創建され、近郷の人々の産土の神・鎮守の神として崇められた。また、祭神の大巳貴命は、古事記によれば「海を光して依り来る神」とある。 遷座の地形からみて海の守護神としても崇められたことであろう。祭礼も旧暦9月15日に、天下太平・五穀豊穣又、豊漁や海路の安全を願う秋祭りとして盛大に行われていたという。
日輪寺1 
日輪寺(台東区西浅草3丁目)が神田明神の前身?で、将門の塚があったという伝説があります。 鎌倉時代、将門の滅亡(天慶3年・940)から三百数十年後の1303年、時宗の真教上人が将門塚を訪れた時、塚は荒廃し、付近の村には疫病が蔓延しており、これが将門の祟りだと恐れられていました。真教上人は将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈して塚を修復し、供養したところ疫病がやみ、喜んだ村人たちは上人に近くにある日輪寺に留まってもらうこととしました。真教上人は天台宗だったこの寺を時宗の念仏道場としました。1307年に真教上人は将門の法号を石板に刻み、塚の前に建てました。さらにその翌々年には旧・安房神社の社殿を修復し、将門の霊を合祀して神田明神としたことが日輪寺の記録にあったそうです。同時に日輪寺も「神田山日輪寺」と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となりました。ところで、当時、首塚・日輪寺・神田明神のあったこの芝崎付近は湿地帯で、対岸の駿河台や本郷とは川で分けられておりました。駿河台あたりは小高い山をなしており、当時から神田山と呼ばれておりました。神田山は「からだやま」、すなわち将門の胴体部分を埋めた山という意味だそうです。その後、神田神社(神田明神)も日輪寺も現在の場所に移転しました。なお、現在、将門の首塚に建てられている石塔婆は、上述の真教上人の建てたものから取った拓本を元に復元したものだそうです。  
日輪寺と芝崎町2 
「東京府志料」は「日輪寺 神田山ト号ス 時宗相州鎌倉郡藤澤山清浄光末寺 往古ハ芝崎村ニアリ今ノ神田橋ノ内ナリ 故ニ神田道場ト唱フ 天正十九年白銀町ヘ移リ慶長八年今ノ地ヘ再転ス 開山眞教」と記している。清浄光寺は、時宗の開祖一遍上人(別名遊行上人)の寺で、神奈川県藤澤市に現存し遊行寺とも呼ばれている。日輪寺開山の眞教は一遍上人二世であった。 
「新撰東京名所図絵」によると、眞教は嘉永3年(1305)芝崎村に日輪寺を創建し、明暦3年(1657)の江戸大火後、この地に移ったという。日輪寺の現在地移転後には、慶長9年(1603)と、明暦大火後の二説がある。どちらが真説かは不明。旧地の現千代田区大手町に平将門の首塚と伝えるものが現存する。日輪寺は将門とのゆかりが深く、その点でも名高い。昭和40年の住居表示前まで、この付近を浅草芝崎町といったが、その町名は日輪寺に由来している。  
平将門 
神田明神は、平将門公を祀る神社としての方が有名である。各時代の文書にも「神田明神は平将門公を祀る神社なり」とあるように将門公は主神と思われているのである。平将門は、承平5年〈935〉堕落し荒廃する京都政権をしり目に、東国の民及びその当時胎動しはじめた兵達に支えられて、いわゆる独立戦争的な戦いをおこした。その当時すでに坂東平野は、水運の便も開け、生産力も大きく、有数の馬の産地であり、その土地に合った独自の文化を持っていたのである。こうした東国は、京都の貴族政権にとっては、ただ遠い国「あずまえびす」の地であり、植民地として蔑視し、搾取の対象としての地としか考えられていなかった。京都で数年を過ごしたといわれる将門は、貴族達の何か欠落した生活、又律令体制の裏面のいやな事を数多く見たにちがいない。将門には我慢のならなかったことであろう。  
「天慶の乱」の蜂起は、わずか5年間という短い期間ではあったが、平将門のことは東国の民の目に武士の目にその心の中に、強く静かに記憶され、かの地の隅々にまで伝わって行くのである。将門は、皇位を狙った逆臣という汚名をきせられたまま、俵藤太によって討たれるのである。時に天慶3年(940)2月14日のことであった。首級は、京都の東の市において晒されるのであるが、何人かによって持ち去られ、豊島群芝崎村・神田の社の境内に手厚く祀られて、慰霊されることになるのである。 これが、有名な「首塚(将門塚)」である。  
将門についての話は、これで終わりにならず、その死後、いわゆる「将門伝説」「将門信仰」として残っていくのである。現在、将門ゆかりの場所は東京の都心部だけを取り上げてみても五ヶ所とは下らない。まして将門の本拠地であった、常陸・下総はもちろん東国(関東一円)には、そのゆかりの場所が、それこそ無数にある。  
江戸・東京に伝わる伝説では、将門の首は京都で晒されるが、ある夜、白く光を放って自ら、東の方に飛び去り、武蔵国豊島群芝崎村の地に落ちた。その音は物凄く、東国一円に轟き渡り、大地は、三日三晩鳴動し続けた。郷の人々は、恐れ慄き、近くの池で首を洗い、塚を築いて手厚く祀り、供養したので、その祟りが鎮まったと言われている。 
天変地異が続いた時、それを一人の人間の祟りと考え、その人間を祀る事で、それを鎮めようとする事が、古くはしばしば行われた。菅公、将門がそれである。この場合、その人々は、決して生前悪人だったのではなく、逆に民衆には、良い人間だったと記憶され、それが不運の中に死んでいったのだと信じられていたのである。前途の様な伝説と共に、神田の社をはじめ関東各地に将門が祀られた事は、将門が、如何に強く関東の人々の記憶の中で、尊敬され、同時に畏れられていたかを物語っていると思われる。 
余談ではあるが、後の江戸時代、神田明神の氏子達は、南天の箸を使わず、また成田山へのお詣りにも行かなかったという。それは俵藤太が、成田山新勝寺に戦勝の祈願をし、将門との戦いに臨んだ上、将門の一命を落とした御神矢が、南天の枝で作られた新勝寺の御神矢だったと言う、言い伝えがある為である。  
神田明神と成田山新勝寺 
この神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけない事と云われている。これは当時の朝廷から見て東国(関東)において叛乱を起した平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。即ち、成田山新勝寺を参拝することは平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。なお、同じく平将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。平将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。   
平将門の首塚1 
平將門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ(伝承地は各地にあるが、ここでは主に東京都指定旧跡のものを取り上げる)。 
首は平安京まで送られ東の市・都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町1-2-1にある首塚である。かつてはマウンドと、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であると考えられる。 
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村であった。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった他阿真教が徳治2年(1307)将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。 
首塚そのものは関東大震災によって倒壊し、周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。その後大蔵省が建てられるが、工事関係者や大蔵省職員の相次ぐ不審死が起こり、将門の祟りが大蔵省内で噂されることとなる。大蔵省内の動揺を抑えるため昭和2年に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。 
将門首塚2 
10世紀、天慶の乱。戦いに敗れた将門公の体は、終焉の地に近い公の菩提寺に埋葬された。現在の茨城県坂東市の延命院である。寺のある地を神田山(かだやま)といい「(将門公の)からだ」が語源と言われている。延命院の境内には拓本から起こした真教上人真筆の石卒塔婆が建てられている。一方首級は京に運ばれ河原にさらされたが、公の無念やるかたなく空を飛んで東国に戻り、武蔵国豊島郡の芝崎に下ったという。思うに有縁の者が願って(あるいは無断に)首を京より持ち帰り、当時は当局の目も届かない芝崎の地に埋め、しばらくして遺体も合わせて埋葬、塚を築いて供養したのであろう。このときにつくられた神社が築土明神(現築土神社・千代田区九段北1丁目)といわれる。社伝によればこの地の井戸で首を洗い上平川村の観音堂で供養、さらに塚を築き祠を建てたという。首桶は秘宝として長く同神社に伝えられたが、関東大震災で焼失。 
築土明神はほどなくして後の江戸城内に移転、江戸城築城に伴い牛込に移り、地主神の築土八幡と社を並べたが第2次大戦で被災したため草創の地に近い九段中坂に移り、世継神社と同じ地に社を新設して現在に至っている。祭神は明治年間にアマツホコニニギノミコトに定め将門公は相殿。  
時代は下って14世紀鎌倉時代の嘉元年間、遊行二世真教上人がこの地を通りがかる。上人は念仏をもって仏教を民衆の中に浸透せしめるという時宗の祖・一遍上人の教えを受け継ぎ諸国を旅していた。この芝崎の地では飢饉、天災などに人々は苦しみ、放置され荒れ果てた公の塚のたたりではと言う者もいた。上人は公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈、ねんごろに供養するとともに村人の願いに応じ近くの寺にとどまることとした。寺を天台宗から時宗の念仏道場に変え(神田山日輪寺)、ここが塚の管理に当たるようになった。徳治2年(1307)に上人は秩父石の板石卒婆を塚の前に建て、2年後の延慶2年(1309)傍らの荒れていた社を修復、公の霊を祀って「神田明神」とした。   
祟り伝説 
築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来たのも頷ける。そのことを最も象徴的に表すのが、第二次世界大戦後に、GHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとしたとき、不審な事故が相次いだため、結局、造成計画を取り止めたという事件である。 
結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、そのひと気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、聖域として守られている。 
隣接するビルは塚を見下ろすことのないよう窓は設けていないとか、それらのビルでは塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っているといったことが話題に上ることがあるが、これらは都市伝説の類である。  
将門伝説  
平将門の乱の歴史性  
「更級日記」にのみ登場した武芝伝説は、武蔵武芝が生きた同時代の平将門伝説という大きな物語のひとつでもある。大きな物語の中の小さな物語である。もし、菅原孝標女がたけしば寺跡で小さな物語を聞いたのなら、平将門の乱の記憶と共に、それは足立郡のなかに伝承されたものであっただろう。平将門の乱についてはたくさんの先行研究や歴史小説が描かれている。大きな物語にはたくさんの人々が注目する。ここでは武蔵武芝との関連の中で、平将門について論を組み立てた。そのひとつは水の道との関連である。  
将門の支配した下総国豊田郡・猿島郡一体は鬼怒川(もともとは毛の川であったろう。下野国、つまり毛の国から流れてきた川)や渡良瀬川に挟まれた低湿地であり、開発の遅れた地域であった。飯沼、菅生沼、鵠戸沼などたくさんの湖沼が乱流地帯であることを物語っている。広大であっても、そこは生産力の弱い地域であったろう。ここが父良持、あるいは母方から受け継いだ領地であった。「将門の所領は藤原氏に寄進されていたと見なすことが出来る。つまり豊田郡、猿島郡に開いた私営田を摂関家に寄進して,国衙支配から逃れようとしたのである。」(「将門記」1965年展望大岡昇平)ここから藤原忠平との関係が生まれていたと思われる。「将門記」では私の君と藤原忠平を呼んでいる。開発の遅れた地域であったからこそ、舎宅を営み、私営田の開発に意欲的であったろう。  
父良持は鎮守府将軍であり、桓武平氏という軍事貴族の一員であった。良持は将門を初め子どもたちに将のつく名前をつけている。これは自分が将軍であったことによる、という見解もある。この良持は、関東北部にたくさんの同族を持っている。国香、良兼、良正、良文などが土着して勢力を競っていた。この兄弟の父・高望王が889年寛平1頃に上総介となって下向したことから桓武平氏の歴史が始まる。父の死後、都から帰った平将門はこの血族間の争いに明け暮れることとなった。一族間の争いから隣国武蔵国内の争いに介入した武蔵武芝の事件は、将門が次の段階に入ったことを示す。この動きは新たな東国独立王国の自立への道につながっていた。このようなストーリーで平将門の乱の説明が始まるのは一般的である。  
なぜ、武蔵国への介入を平将門が行ったのか。突然の行動とも思われるが、ここは水運、陸運の要地であり、関東全体を抑えるには必須の地域であった。そして、平将門が支配する猿島郡・豊田郡に隣接したのが武蔵国足立郡である。東国独立王国をこの時点では、意図していたのではないとおもわれるが、それでも新たな布石を打つつもりはあったであろう。新たな布石は、当たり過ぎた。東国支配の要に立ち入ってしまったというだけではなく、源経基という人間の飛躍を用意してしまった。この点はまた後述するとして、坂東を一括で見る広域行政の要であることを強調したい。すでに、東海道への武蔵国編入について次のような目的を持って行われたという見解が出されている。この物資等の補給をもって平将門の父・良持も鎮守府将軍として水沢の地に赴いたのであった。佐々木虔一はいう。「『坂東諸国』を一つの広域行政区として再編制するために、注目されたのが武蔵国である。武蔵国は『坂東諸国』のほぼ中央に位置し、この地域の交通上の要地に当たること、また、国内を南北に多摩川・入間川(荒川)・利根川などの大河川が流れ、海に注ぐなど、水上・海上交通の便もよいことなどがその特色である。武蔵国のこの特色を生かして、『坂東諸国』を一つの広域行政区に編成するために行った措置が、771年の武蔵国の東山道から東海道への編入だったのである。」 
将門の支配地が、生産力の弱い地帯であると先に述べたが、富を生むのは農業生産だけではない。乱流による地形形成は自然堤防や舌状地を作る。ここは馬を飼うのに適した地形である。兵部省の官牧「大結馬牧」が置かれていた。馬の生産は強大な軍事力を形成する。また、この地形は一方からの風の通りを作り、製鉄に必要な炉の風送りを可能にする。小規模の製鉄炉が東国各地に広がる。将門の支配地入沼排水路に沿った尾崎で製鉄遺跡が発見されている。このような視点はつぎつぎに出されてきている。  
ここで新たな視点として紹介したいのは水運との関係である。承平・天慶の乱と西の藤原純友の乱と一括されるため、水軍(海賊)を基盤とする藤原純友と対比されて騎馬軍団が注目されてきた。だが、官道を押さえるのみならず、水の道を押さえることも重要なことである。大規模なもの、重いものは水運が必須である。米の運送も水運を主としたものと考える。「寛平6年(894)7月16日の太政官符では、上総・越後等の国解によると、『調物の進上は、駄を以って本となす、官米の運漕は、船を以って宗となす』とあり、上総国からも、官米の輸送が船を利用して行われていた可能性が窺えるのである。」(「古代東国社会と交通」)水運の使えるところは「船を以って宗となす」は合理的である。  
注目する論文を鈴木哲雄が発表している。  
葛飾区郷土と天文の博物館が開催している「地域史研究講座」シリーズの講座報告である。行われたのは1995年平成7年1月29日。その中で、鈴木哲雄の発表した特論「古代葛飾郡と荘園の形成」がすばらしい。関東には内海が二つあったのだという。ひとつは利根川=内海(古東京湾)、もうひとつは鬼怒川=内海(香取海)である。以下はその抜粋である。  
「古代から中世にかけての関東には、二つの内海がありました。ひとつは先にお話しした利根川=内海(古東京湾)地域の内海です。もう一つが千葉県の北部から茨城県にかけてかつて広がっていた内海です。現在は千葉県側に印旛沼や手賀沼が、茨城県側に霞ヶ浦や北浦がありますが、これらの湖は連なって大きな内海を構成していたと推定されています。私は後者の内海世界を鬼怒川=内海(香取海)地域と呼んでいます。平将門の乱はこの内海(香取海)世界で展開されました。」「しかし『将門記』には、舟も出てきますし、川の支配や渡しなどをめぐる争いもでてきます。将門の乱は、坂東の海のひとつである内海(香取海)世界で行ったのですから、鬼怒川などの河川や内海における船、水上交通、そういったものをめぐる戦いであったと見ることもできるのです。将門は内海(香取海)を征服したのち、下野国(栃木県)の国府(国の役所)を占拠します。下野国府の西の方は太日川(オオイガワ、フトイガワ)が流れていました。太日川は、現在の渡良瀬川から江戸川にかけてを流路とした河川で、その西側を利根川が流れています。下野国府の位置は、ちょうど鬼怒川=内海(香取海)と利根川=内海(古東京湾)地域との接点にあたるわけです。将門は、鬼怒川=内海(香取海)地域を征服したあと、東山道に属する下野・上野両国を占拠し、そして新皇(新天皇)を名乗りました。さらに利根川=内海(古東京湾)地域に軍隊を進め、武蔵国府から相模国府までをいっきに征服し、関東全域の支配圏を確保します。」  
この鬼怒川=内海(香取海)のひとつの拠点として霞ヶ浦の奥に常陸国府があった。現在の石岡市である。939天慶2年、11月21日、常陸国府の軍勢を破り、将門は常陸国府を焼き払った。これにより、国賊となった将門は関東八カ国の支配を目論んで各国府を落としていく。こうして12月19日には上野国府において「新皇」に即位する。  
「将門が内海世界の一番奥まった場所に都=王城を設置したことは確かだと思います。将門の都は内海に面した都であり京都と対比されています。」  
「『将門記』では、鬼怒川や小貝川の渡しである子飼の渡し、堀越の渡しなどがでてきまして、これらの渡しは、将門の乱での重要な戦場となっています。将門の乱の前半は、こうした鬼怒川=内海(香取海)地域の交通支配をめぐって戦乱がおこなわれたとみることもできるのです。地域の交通を支配する者が、地域自体を支配します。」  
「このとき将門は、関東を東西に結ぶ東山道、東海道などの陸の官道と、利根川・太日川・鬼怒川・那珂川などの関東を南北に結ぶ水の道と、そして東西南北の水陸交通を地域的に一本化させえる二つの内海(古東京湾・香取海)の交通を掌握したと考えられるのです。」(「古代末期の葛飾郡」熊野正也編1997年5月崙書房)  
新しい将門の世界が、新しい視点での東国の地図が、ここにはある。二つの海から平将門の乱をアプローチしたことによって、水と陸とを同じ視点で見ることができるようになった。関東を一つに押えるための新たな発想である。古代人から見た地域の再発見により、交易・軍事を考える場合の多様な発想が可能となった。私営田、そして荘園化という重要な要素とともに、物流が大きな富を生み出し、文化を広げる。古代の2つの海を制して、東国独立国家の樹立に走った平将門を捉えることができる。  
将門と道真  
平将門は上野国府を手中に収めた。都に最も近い国府である。ここで東国独立国家の樹立が宣言された。そのきっかけまことに不思議な事柄に触発されている。「将門記」にはこのような記述がある。「時ニ昌伎アリ、云ヘラク、八幡大菩薩ノ使ヒゾトクチバシル、『朕ガ位ヲ蔭子平将門ニ授ケ奉ル。其ノ位記ハ左大臣二位菅原朝臣ノ霊魂表スラク、右八幡大菩薩八萬ノ軍ヲ起シ朕ガ位ヲ授ケ奉ラム。今須ラク卅ニ相ノ音楽ヲ持テ早ク之ヲ迎ヘ奉ズルベシ』ト」神がかりした昌伎を介して、将門を新皇とせよとのお告げが八幡大菩薩によって告げられたのである。八幡神は豊後宇佐にある宇佐八幡である。お告げをする神として有名である。道鏡と和気清麻呂の話は知られている通りである。位記を書くのは都に降りた怨霊の菅原道真である。位記とは叙位の文書である。だが、位を授けるのは天皇なので、天皇の位には叙位はない。「爰ニ将門ハ項ヲ捧ゲテ再拝ス。」と続けて記されている。この後には興世王などへの除目がおこなわれ、新皇による東国政権が樹立された。  
菅原道真が流配地大宰府で亡くなった903年延喜3に平将門が生まれたという説がある。この説を昌伎が知っていたかは分からないが、「将門記」の作者は知っていたのであろう。  
大岡昇平は「菅原道真が流謫地大宰府で死んだのは延喜3年、その年将門が生まれたという説があることは前に書いた。その年は全国的に旱魃あり、疫病が流行した。7年、政敵藤原時平が急死し、8年、清涼殿に落雷あり、藤原菅根が雷死した。これらはすべて道真の怨霊の仕業と信ぜられた。宇佐八幡は和気清麿が受けた神託以来、皇室の信仰厚く、男山に勧請されている。道真が雷神として全国に流行するに及び、宇佐八幡の神人達がその霊験を全国に説いて廻った。この神託は興世王や藤原玄明の演出の疑いは十分にあるが、地方の巫女が巷説や俗信に基づいて霊感を口走ったとしてもおかしくない。」(「将門記」)と状況を読んでいる。興世王など都に育った受領階層が持ち込んだことも考えられる。それより早く民衆の中で伝播していくものであろう。都ばかりでなく、「宇佐八幡の神人たち」によって東国にも菅原道真の怨霊騒ぎが持ち込まれたとの確証はない。伝えられていった可能性はある。  
幸田露伴も「平将門」で「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。公の貶謫と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を籍りたなどは一寸をかしい。たゞ将門が菅公薨去の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした叡山の明達阿闇梨の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記に見えてゐるが、これなぞは随分変挺な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様なことを口走つたかとも思はれる。然らば、一時賞賜を得ようとして、斯様なことを妄言するに至つたのかも知れない。」 
この見解は通常の範囲である。だが、「道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。」という独特の言い方がいい。菅原氏は東国にあって人的にも身近な存在ではなかったか。怨霊の家系・菅原氏の一族も道真の左遷に伴って地方へ追いやられ、後に許されて都に戻るという出来事が起っている。道真の子の大学頭高視(土佐介)、式部大丞景行(駿河権介)、右衛門尉景茂(飛騨権掾)、文章得業生淳茂(播磨)も都から遠ざけられていた(「政治要略」)。が、906年延喜6には許されるところとなって都に戻る。大学頭高視(土佐介)につながるのが嫡流、孝標である。この中で、菅原景行はいち早く東国に向った。菅原氏の所領が東国にあったからだともいわれている。  
「将門は、幼少より、坂東太郎利根川や小貝川、鬼怒川付近の山野を駆け巡り心身を鍛え、常盤真壁郡羽鳥に住した菅原道真の子・景行に師事して学問を修め、文武両道に優れていた事が認められ,宮中近衛府の北面衛士として勤務する事12年、承平元(931年)、母より将弘が病死し領内周辺が伯父達の非違道に依って脅かされる事を知り」(「宍塚の自然と歴史の会20015斗蒔便り2001・12より抜粋」佐野邦一翁古老が語る宍塚の歴史<41>)と伝承では菅原景行が平将門の幼年時代に学問の師匠をしていたことになっている。別の伝承では将門の弟将平の師となっているようである。この菅原景行は909年延喜9に下総守となったとも記されている(7.11見紀略/1137)。また、929延長7には菅原道真三男景行(常陸介54歳)が大生郷天満宮(茨城県水海道市大生郷町)を祀ったといわれている。この年は平将門が京より戻る前年に当たる。海音寺潮五郎の「将門記」にも菅原景行は登場している。このような伝承がある程度史実に基づいているならば、道真の怨霊が、やがて将門の怨霊へと受け継がれていった東国での根は深い、と思われる。怨霊に仮託した人々の願いがそこに見られる。  
首を都に晒された将門は宙を飛んで東国へと戻ってきた。怨霊となった将門は、道真のように摂関政治の思惑の中で御霊に祭り上げられることもなく、怨霊のままに東国の守護神と化した。 
 
将門首塚

人物 
東国の武士だった。10世紀平安時代、京の都は飢えと夜盗を隣り合わせにしつつ雅(みやび)の世に浸っていた。その時来るべき武士の時代を体現したのが将門公だった。 
その半生は所領をめぐるファミリー内の争いで関東の地を駆け巡って過ごしたように見えるが、間違いなく新しい時代の到来の可能性を感じさせた。その反乱が中央を震撼させたのは、新しい勢力の巨大な力を感じさせたためである。 
武家出身で初めて最高権力者となった平清盛が、将門公を討った従兄弟の平貞盛(伊勢平氏の祖)の子孫であったことは歴史の皮肉といえよう。生年は一説では延喜3年(903)、10世紀初頭である。下総の国(現在の茨城県)に生まれる。父良将は陸奥鎮守府将軍。母は下総国相馬郡の犬養氏の娘。公の通称は相馬小次郎。幼少年期に母の里で過ごしたことをうかがわせる。公の一族は桓武平氏の祖・高望王の一門。高望王は平安京を開いた桓武天皇の曽孫、上総介に任ぜられ平姓を名乗ることになり東国に赴任(9世紀末)。土地の有力者と婚姻関係を結んで土着化する。将門公は桓武天皇5代の末裔ということになる。 
当時の有力者の子弟の習慣に従って京に上り、後の太政大臣藤原忠平の家人となって仕える。延喜11年(911)高望王、同17年(917)父良将死去。故郷に帰るが、そこでその後長く続く伯父国香、良兼らとの一族間の争いに入る。この間、公の妻が敵にとらえられ連れ去られる事件(結末については諸説)など曲折を経て、将門公が関東の有力者として立ち現れることとなる。争いは京に持ち込まれ公は上京して当局に主張を述べる。 
結局関係者の断罪はないまま国香、良兼の死とともに一族の争いは沈静化するかに見えた。しかし東国の実力者として名を馳せつつあった公の元に身を寄せた興世王、藤原玄明らの求めに応じて地域の紛争に介入、国司ら中央の権力機構と対立するようになる。勢いの赴くまま天慶2年(939)常陸国の国府を攻略、続いて下野に兵を進める。同年12月上野国の国府を落とした戦勝を祝う席で、史書によれば「新皇」を名乗る。 
反乱の報を聞き驚愕した京の朝廷は、翌天慶3年(940)1月公追捕の令と褒賞の官符を発す。長く公と敵対した国香の子平貞盛とそれに加勢する下野押領使藤原秀郷(俵藤太)らが公に戦いを仕掛ける。2月14日下総国猿島郡石井(現茨城県坂東市)の野で公は矢に当たり討ち死に。首級は京に送られ獄門にさらされた。 
 
「将門記」によれば平安京を開いた桓武天皇の五代の苗裔(びょうえい=子孫)であった。後に兵を起こした際、時の太政大臣藤原忠平に送った書状に「…帝王五代の孫なり、たとひ永く半国を領するとも豈(あに)非運と謂はんや(不思議ではないだろう、の意)」と宣言している。皇統の血筋に連なるということと勃興する関東の地の領袖であるというこの二点が、将門公を支えるものであったといえよう。 
公の生きた時代の関東は、新旧の土着勢力の間の確執、任地には赴かず遠くから収奪のみを心がけた中央の高官とその実行者たち、一方にはその対象となった農民、土地からの離散者、蝦夷地でとらわれた虜囚ムこういったエネルギーの衝突する世界だった。東国だけではない。このエネルギーの噴出として西国では藤原純友を見ることができる。しかし純友の乱と将門公とのいわゆる共謀関係は否定されている。 
父の残した下総の広大な領地が一族間の内紛を引き起こしたと見られる。公の事跡は当然のことながら下総、常陸が中心で、現在の茨城から千葉、埼玉に点在する。いまではベッドタウン化しつつある田園といったおもむきの景色の中に往時を思い浮かべるには想像力が必要だ。 
将門公と伯父の国香、良兼らとの争いは所領をめぐるものと見られているが、その一方で「将門記」は公と良兼との間には「女論」すなわち女性をめぐるいさかいがあったと記している。恋のさや当てかそれとも親(良兼)の許さぬ結婚(娘と将門公との)ゆえか、諸説あるがそれはさておき「将門記」に現れる将門公は争いに明け暮れるだけではない人間味を感じさせる人物である。宿敵貞盛(良兼の息子)の妻が争いの中でとらえられ公の部下により辱めを受けたことを聞くと、解き放つことを命じなおかつその身を案ずる(これも解釈はいろいろあるが)歌を一首詠じた。後の史家に、ただの草賊ではないの言があるのもうなずける。 
 
天慶の乱について。大日本史をはじめかつての史書は将門公を歴史の中でも第一の反逆者として扱っている。その言わんとするところは、明治7年、宗教行政を司る教部省(国家神道の総元締)が神田明神に対し将門公を霊神から完全に外すよう求めた言説に尽きるであろう。「謀反を起こした者はこれまでにもいたが、本当に天皇の位をうかがったのは将門ただひとりである(弓削道鏡ですら神勅を奪うことはできなかった!)」。確かに「将門記」によれば天慶2年11月上野国の国司を追い払った余勢を駆って「新皇」と自ら称すことになったとある。 
一方で歴史をたどれば、将門公の罪は公式に許されているのである。すなわち江戸初期の寛永2(1625)年将軍家光への勅使として江戸を訪れた烏丸大納言光広卿が神田明神を通りがかった際宮司に祭神について尋ね、宮司が「将門公であるが勅勘を蒙っているため700年余開張していない」と返答。卿は「勇猛な者ならば国家鎮守の役にも立とう」と後水尾天皇に奏上、翌年再び江戸を訪れた時に逆賊の名を除く准勅祭を行っているのである。 
このいきさつに関しては朝廷の徳川幕府への気配りが感じられるが、いずれにせよ皇国史観からしても将門公への非難は当たらないのである。にもかかわらずかくも公を敵視する人がいたということは、裏返しにしてみれば民衆の公への敬慕の念の強さを物語っているように思われる。実際、上に述べた教部省の見解も「衆庶」がかような信仰をなすことは捨て置けない、正さねば、と腹立たしげに述べている。 
「新皇宣言」については取り巻きにのせられたとの見方が一般的だ。親族間の争いの過程で力を広く認められた公の下に現体制への不平分子(アウトローでもある)が集まり、国家機関と衝突するうち勢いが余ってしまった、というのである。しかし解せない点もある。忠平に宛てた上申書では新皇について触れていない。文意は、自分には資格も実力もあるのだから(天下ではなく)これまでに奪った土地の領有を認めてほしい、と取れないこともない。天皇の位うんぬんは、中央の廷臣がつくりあげた虚構だとの説もある。 
論議はさておき、長く逆臣のそしりを受けてきたことは事実だから、それにもかかわらず篤い信仰の対象となってきたことに注目すべきだろう。 
 
将門公の事蹟についての後代の知識は「将門記」によるところが大きい。乱が終息して間もない天慶3年(940)の6月ごろに書かれたと見られている。原本は失われ残っているのは写本(主に2種類)で、それも冒頭部分は欠けている。筆者は不明。戦闘描写が詳しいところから東国にいた僧侶、公式文書を掲載している点からみて都の知識人、あるいは複数説などいくつかの説がある。平安朝の難解な漢文で書かれているが、現在は詳しい注釈付きの現代語訳も手に入る。 
謀反人として一方的に公を断罪するのではなく、その勇猛さあるいは心遣いなどを公平に記した部分もあり、現代人の共感を呼ぶ。単なる歴史文書ではなく、後世の軍記物の先駆けを成すとの見方もある。 
将門首塚 
地番は千代田区大手町1丁目1番1号、まさしく東京の中心。広さは約290m2、90坪ほど、鬱蒼とはいかないまでも樹木が生い茂り大都会の真ん中で異彩を放っている。西側は内堀通り、お堀を隔てて皇居東庭園、お堀の周囲はジョギングする人の姿が終日絶えない。西には大手町通りが走り、二つの通りを結んだ道に面して玉垣に囲まれた正面参道がある。敷地内には東京都、千代田区教育委員会など碑、案内板などがいくつかあり、由来はこれらに詳しい。「樅の木は残った」で知られる伊達騒動の主人公原田甲斐の終焉の地となった酒井雅楽頭の上屋敷跡でもあることが分かる。参道奥に建つ石碑は明治39年(1906)建立の「故蹟保存碑」。表書は昭和期の蔵相河田烈、撰文は渋沢栄一の女婿で建立時の蔵相阪谷芳郎、書は「平将門故蹟考」の著書があり塚の保存に尽くした史家織田完之。その記すところの大意は、明治となって大蔵省が置かれたこの地はその昔芝崎村と呼ばれ日輪寺という寺と(公の首を埋めたという)平将門の塚があった。徳治2年(1307)遊行真教坊が公に「蓮阿弥陀仏」の号を贈り碑を建てた。故事からもまた近代財政史の上でも重要な故蹟の地が忘れ去られないよう碑を建てる、といったものである。実際、明治の有力者が保存に意を用いたことにより塚の歴史は途絶えることなく今に続いている。真教上人が建てた板石塔婆は焼失したり盗難に遭ったりと転変を経てきたがその度に再建、いま見る表書は昭和45年(1970)遊行七十一世他阿隆然上人の筆になるもの。カエルの置物が多いのは、公の娘・滝夜叉姫がガマの妖術を使ったとのお話からの連想であろう。 
 
案内板には、将門塚、将門首塚と二通りの表記がある。 また石塔婆を建てた真教上人は時宗の僧で「蓮阿弥陀仏」は言うまでもなく仏式の号。一方で将門公は神田明神(神社)の祭神であり、毎年秋の彼岸中に行われる慰霊祭はおごそかな神式である。塚に参る人を見ても仏式あり柏手を打つ神式ありとさまざまである。もちろん決まりはない。この間口の広さも首塚の特徴である。 
 
織田完之が明治40年に刊行した「平将門故蹟考」には平面図とともに当時の塚の状況が記されている。 それによると敷地内には大きな池がありそのほとりに塚があった。樅の木、しいの木などの巨木が生い茂り昼なお暗く鬼気迫るものがあったという。 
塚の前に礎石が置かれその上に石灯籠が立っていた。板碑は紛失して行方知れず。また池の傍らには古い井戸があり将門公首洗いの井戸と伝えられていたとも書いている。 
ところで地図を見ると大蔵省の正門は大手町通りすなわち東向きに付けられている。塚もそちら側に向いて全体がつくられていたと思われる。 
現在、参道は南から北へ、板碑は西側を向いている。明治以降、この塚が幾多の変遷をたどったことがうかがわれる。 
首塚の歴史 
まずは塚の前史から始めなければならない。よく知られているように、古代には江戸湾は今よりはるかに内陸に入り込んでいた。現在塚のあるあたりは芝崎と呼ばれる海辺の寒村だった。 
房総半島の漁民がこの地に移り住み安房神社を建てた、といった専門的な考証についてはとりあえず置いて、ここでは神田明神の創建が社伝によれば天平、現在明神内に祭られている地主神の江戸、八雲神社(スサノオノミコトを奉祭)が大宝年間と、ともに8世紀であることを確認しておけば十分であろう。漁業の民の信仰を集める神社が古くからあった、ということである。 
10世紀、天慶の乱。戦いに敗れた将門公の体は、終焉の地に近い公の菩提寺に埋葬された。現在の茨城県坂東市の延命院である。寺のある地を神田山(かだやま)といい「(将門公の)からだ」が語源と言われている。延命院の境内には拓本から起こした真教上人真筆の石卒塔婆が建てられている。 
一方首級は京に運ばれ河原にさらされたが、公の無念やるかたなく空を飛んで東国に戻り、武蔵国豊島郡の芝崎に下ったという。思うに有縁の者が願って(あるいは無断に)首を京より持ち帰り、当時は当局の目も届かない芝崎の地に埋め、しばらくして遺体も合わせて埋葬、塚を築いて供養したのであろう。 
このときにつくられた神社が築土明神(現築土神社)といわれる。社伝によればこの地の井戸で首を洗い上平川村の観音堂で供養、さらに塚を築き祠を建てたという。首桶は秘宝として長く同神社に伝えられたが、関東大震災で焼失。しかし資料写真は残っている。 
築土明神はほどなくして後の江戸城内に移転、江戸城築城に伴い牛込に移り、地主神の築土八幡と社を並べたが第2次大戦で被災したため草創の地に近い九段中坂に移り、世継神社と同じ地に社を新設して現在に至っている。祭神は明治年間にアマツホコニニギノミコトに定め将門公は相殿。 
時代は14世紀鎌倉時代の嘉元年間、遊行二世真教上人がこの地を通りがかる。上人は念仏をもって仏教を民衆の中に浸透せしめるという時宗の祖・一遍上人の教えを受け継ぎ諸国を旅していた。この芝崎の地では飢饉、天災などに人々は苦しみ、放置され荒れ果てた公の塚のたたりではと言う者もいた。上人は公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈、ねんごろに供養するとともに村人の願いに応じ近くの寺にとどまることとした。寺を天台宗から時宗の念仏道場に変え(神田山日輪寺)、ここが塚の管理に当たるようになった。徳治2年(1307)に上人は秩父石の板石卒婆を塚の前に建て、2年後の延慶2年(1309)傍らの荒れていた社を修復、公の霊を祀って「神田明神」とした。 
さらに300年近い時を経て16世紀末、江戸の地に入った徳川家康は大規模な築城工事に着手、付近の寺社に転地を命じる。日輪寺は浅草芝崎町(現台東区西浅草)に、神田明神は神田山(駿河台)を経て湯島の現在地に移転する。 
神田明神は江戸総鎮守と認められ、将門公は江戸の守り神として信仰を集める。 
塚は手つかずのまま幕閣の有力大名に割り当てられた敷地いわゆる大名小路の中に残され、大老・土井大炊頭の屋敷の庭の一部となる。屋敷の主は江戸期を通じて十余人を数えるが、やはり伊達騒動の酒井雅楽頭忠清が有名。 
忠清以降も酒井雅楽頭が主人である時代は長く、邸内には将門稲荷がつくられ、鳥居、玉垣などが寄進されたという。また神田祭りの神霊渡御の際は神輿を屋敷の前に据え、神主が塚まで赴いて神事を行い神楽も奏されたと伝わっている。単に塚が存続しただけではなく、限定的ではあったが一般とのつながりも保たれていたことがうかがえる。 
明治に入り空気は一変する。 
国家の力を背景に神仏の分離など神社の純化、統制化を押し進める動きが現れるなか、神田明神は(明神そのものは神号ではあるが)神田神社へと名前を改める。将門公への風当たりは特に強く、公は明治7年(1874)祭神の座を降りて末社(将門神社)へと移った。三の宮として本社の祭神に復座するのは1世紀以上後の昭和59年(1984 )である。 
首塚はどうなったのであろうか。地図が示すようにかつての大名小路は官庁街となり、塚の付近には大蔵省、内務省といった枢要な役所の名前が見える。ここで上記の織田完之が登場する。織田は勤王の志士として活動、維新後は新政府に出仕、松方正義の知遇を得る。退官後は故蹟の保存に努め、首塚についても貴重な史料を発掘、保存している。 
故蹟碑の碑文が言うように「故蹟が滅び誰にもわからなくなってしまうのを恐れる」心からからの運動だったのであろう。徳川体制の遺物として取り壊されるかもしれなかった塚は、逆に保存の対象として歴史を刻み続けていくのである。 
大正期に大きな災厄が降りかかる。12年(1921)9月1日の関東大震災。大蔵省の庁舎は全焼、塚も崩れ落ちた。復興の過程で塚の学術調査を行うことになり11月、工学博士大能喜邦に依頼がなされた。その結果、地中から石の棺が見つかったが既に盗掘に遭っていたため塚は取り崩すことになり、池も埋め立ててその上に仮庁舎を建設した。 
昭和に入って2年(1926)6月当時の蔵相早速整爾(はやみ・せいじ)が病死、その他現職の職員からも10人を超える死者が出たほか政務次官が仮庁舎で転倒するなどけが人も続出、たたりではの声が起こり庁舎を取り壊したうえ鎮魂祭を行った。既に見たように塚とたたりへの恐れの結びつきは珍しくない。それよりも塚が忘れ去られ、なおざりにされそうになった時にこのような声が起こったことに注目したい。昭和15年(1940)6月20日。雨の中雷鳴が轟き、大蔵庁舎に落雷炎上する。ここでも塚との関連が取りざたされ、公の没後1000年にあたることから河田烈蔵相の指示で「壱千年祭」が行われる。また故蹟保存碑を新調し、表書は松方正義から河田烈へと変わった。 
第2次大戦の敗戦後、一帯はGHQが接収(大蔵省は移転、都有地となっていた)、駐車場をつくることが決まり工事が始まる。しかし墓のようなものの前でブルドーザーの運転手(日本人)が転落して死亡するという事故が起きた。 
そこでこの土地のことについて町会長に尋ねたところ塚の由緒が知れる。町会長ほか住民がGHQに「この地にとって重要な人物の墓である」と陳情、危ういところで工事は中止、塚の周りに柵が巡らされることになった。 
昭和34年(1959)に接収が解除され、都から民間に払い下げられる。塚は地元の管理となり、町会有志、関連企業が発起人となって史蹟将門塚保存会が発足する。 
36年(1961)植樹、玉垣つくりを含めた修復工事が行われ、東向きだった塚を西向きに改め、北側から参道を付けた。12月に慰霊祭を行う。 
高度経済成長の中、その後も変化は続く。北側にビルが建設されるため北参道を閉鎖することになり、また日比谷通りと内堀通りとを結ぶ道ができることに伴って土地を提供し、その新道に面した南参道を新たにつくる。ここで四方をビルに囲まれた現在見る姿となる。 
江戸以前  
ここで江戸時代の人間が描いた首塚および祭りなどについて眺めてみたい。 
取り上げるのは斎藤幸孝の著書である。幸孝は安永元年(1772)に生まれ文化15年(1818)に47歳で没。神田三河町一帯の名主を務め「江戸名所図絵」の著述、編纂に関わった。 
この書は幸孝の父幸雄の代に作業が始まり、幸孝の子幸成(月岑)の時に完成、天保5年から7年にかけて(1834-1836)出版。多くの図版とともに江戸の繁栄を伝える書として今も広く読まれている。 
幸孝はその一方でより身近な神田一帯の地誌、郷土誌も手掛けており、ここで取り上げるのはそちらの方である。 
「衢の塵(ちまたのちり)」は神田、「駿河台志」は駿河台を扱っている。神田明神旧地として首塚に言及している。 
直接見聞したものもあろうが、古老曰くといった伝聞さらにはうわさ話の類もあり厳密な考証ではないが、貴重な史料ではある。 
 
その前にまず左の図をご覧いただきたい。「家康入城のころ(1590)の江戸」と題した図は、鈴木理生氏の著書「幻の江戸百年」(筑摩書房刊)所載の図を基に彩色、作図させていただいた。当時の地形に現在の主な地名を重ね、あわせて今のおおよその海岸線も示した。 
注意されたいのは、将門首塚から下(南の方角)に延びる半島のような地形は房総半島ではない、ということである。これは「江戸前島(まえしま)」、現在の大手町から銀座方面へと突き出ていた陸地である。 
日比谷の入江は城の間近まで入り込んでいた。「江に面する地(戸)」という意味でこの入江の奥こそ江戸の地名発祥の地と著者は言う。であるならば、首塚は江戸そのものと言える。 
首塚のある場所は、海を渡って来た者が武蔵野の国に最初に足を踏み入れるに格好の地である。ここに房総に起源を持つ神社が建てられたことに不思議はない。ちなみに斎藤幸孝は平川(図で日比谷入江に流れ込んでいる川)を境に三の丸の地は江戸の郷、反対側(日輪寺)は神田の郷と言った、との古老の説を伝えている。図にある本郷台地の突端は神田山(当時何と呼ばれていたかは別として)となって海に迫っている。 
鈴木氏はこれまであまり触れられることのなかった前島に着目して、江戸の町づくりの跡をたどる。そこで非常に興味深いのが川あるいは広く水と町との関係である。 
図を見て分かるように、川の流れは現在とは大きく異なっている。江戸の町づくりの歩みは河川の流れを変え、運河をはじめとする水路を建設し、海を埋め立てた歴史と言っていい。目を大きく関東平野に向ければ、江戸期の歴史は利根川治水の歴史とも言える。 
先に将門公の本拠地下総を現茨城県と書いたが、平安期の関東の名称を現代の行政区分に当てはめることは、ほとんど意味がない。将門公の活動した現埼玉平野は利根川の水の中に所々乾いた土地が顔を出しているといった状態だった。そのような水と密接な関係を持った暮らしぶりは「将門記」の合戦場面からもうかがうことができる。 
では、大きく変わる江戸の町で首塚がどのように記憶され記録されたかを見てみたい。 
旧地での祭り 
幸孝は「衢の塵」の中で神田明神の旧地は一ツ橋御館の中にあり、隔年の神田祭の際は代々この屋敷前に神輿を据え、お神酒を供えることになっていると述べている。さらに「同旧地祭式」という小見出しを立て、その模様を詳しく紹介する。 
まず御館の中に椎(シイ)の木がありその下にしるし(社跡か)があったので、寛政4年(1792)正月25日に(神田明神)社司芝崎美作に命じてその古跡にあらたに社を立て神霊を鎮座奉った。以後、正月、5、9月25日には社司が奉幣の式を行った。古跡のほとりには小さな池が残っており、そこで魚を釣ることは禁じられていた。 
祭りの際は館よりも神馬二疋が引かれる。館の門より獅子舞が入り玄関まで進む、そこで先導の社家(神職)2人がとどめ、獅子は付き人の太鼓、発声とともに退出。その跡に神輿安座を設け、社家が屋敷の目付にその旨を告げる。二つの神輿が安座したところで神酒、白銀などが供えられる。 
時も宜しと社家が目付に(屋敷主人の)御代拝を申し伝え、用人がこの代拝を勤める。神主が奉幣拍手して用人は退座。神主は神慮平安に御着座あり目付に祝して儀式は滞りなく終了、神輿は立って門より出る。 
移転先 
幕府の江戸建設の進展により神田明神、芝崎道場は移転することになったが、その点についても幸孝は言及している。 
「衢の塵」では、神田明神は慶長8年(1603)に御城造営のころ駿河台・松平備前候宅の地に移ったが、元和2年(1617)に湯島の地に鎮座。芝崎道場は柳原(松枝町あたり)の南に移転、明暦の火事の後、浅草に移される、と述べている。 
また「駿河台志」でも移転先について触れている。神田明神が移った駿河台の地はどこであろうかと疑問を出した後、芝崎道場は今の戸田日向守邸の所であろうと述べる。さらに「紅梅坂辻甚太郎屋敷で先ごろ石室を掘り出した。中には髪と太刀があったとか。掘った者は狂気となってしまった。そこで元のごとく収めて、上に妙見社を勧請し、後に八岐彦と祝い、白川少将の額を与えた。この石室はもしかしたら神田の社地にあった墓ではないか」といった(うわさ)話も紹介している。いずれにせよ神田の郷で台といえるのは駿河台の甲賀町付近くらいで、神田山日輪寺(芝崎道場)というからには、このあたりにあったのであろう、といった意味のことを述べている。  
幸孝が載せている寛政4年の駿河台の図で該当すると思われる箇所をマークしてみた。もとより 厳密な話ではないのではっきりとしたことは分からない。当時の駿河台付近は、神田川が両岸を深くえぐって流れ、川に臨んだ崖は絶壁となってそそり立っていた。周囲の景観は大きく変わったが。その面影はお茶の水付近でかすかに偲ぶことができるように思える。  
 
紹介した記述を見ても、既に江戸時代を通じて土地や事柄についての記憶が薄れつつあったことが分かる。慶長から文化年間まで約200年、幸孝ら郷土誌家が古地図に当たってみても神田明神、芝崎道場(日輪寺)の移転の足取りはたどれなくなっていた。 
石室に関するエピソードは、取るに足らないうわさ話のように思えるが、首塚にまつわるさまざまな伝説のひとつと考えると、示唆に富むところがあるように思える。 
薄れつつある記憶がある一方で、一橋館での神事に見られるように連綿と続く人々の思いもある。神田明神の旧地という理由だけでは、江戸時代を超え現代までは続かないと思う。 
 
神田山日輪寺。最終的に落ち着いたのが浅草。かつては芝崎の町名も残っていたというが、現在の地番は西浅草。浅草ビューホテルのすぐ近く。周囲の建物の中に埋没してひっそりと建っている。注意深く探さなければ見つからない地味なたたずまい。石塔には「時宗檀林神田山日輪寺」とある。 
神田の起源 
神田という名称について少し考えてみたい。既に述べたように真教上人が荒れていた公の塚と傍らの祠とを整え、つくったのが神田明神である。神田明神はその後場所を変えたが名前はそのままに残り、湯島の現在地に至り江戸の総鎮守となった。将門公と深く結びついた神田という名称(地名)は江戸・東京を代表するものとなったのである。 
しかし、そもそも神田という地名はどこから来たのか? 神田明神があったからその付近が神田と呼ばれるようになったのか。それとも逆に神田という地に塚、祠があったから上人は神田明神という名を与えたのか? 文政2年(1826)に記された「神田山日輪寺寺伝」は「(上人は)境内の一社荒れ果てたるを修復し、(将門公の霊を)これに配祀し、神田一郷の産土神として隔年祭礼を怠らず。今の神田明神是なり」と書いている。霊を祀った際に「神田明神」という名としたのかどうかは、この一文だけでは判断しがたい。 
神田の地名起源に関しては二つの説に大別できる。 
からだ 
ひとつは将門公の「からだ」という音から来たもので、時とともに音が変化して「かんだ」となったという説。 
享保15年(1730)刊の「江府神社略記」は、将門公の首を追って体が常陸の国から武蔵国豊島郡に至り倒れたが、その後妖怪が出没して人民を悩ませた。「是将門の怨霊の祟りなりと謂うに因りて、郷民等一社の神と祭りて体(からだ)大明神と号す。後に神田(かんだ)と改むと云う。」と記している。「からだ」が「かんだ」になったという説明は、これより前の元禄7年(1694)刊の「増補江戸咄」にも載っているという。 
この説は、公ゆかりの地(本拠地)である下総国岩井、現茨城県坂東市周辺にある地名や寺社名と密接に関わっている。猿島郡にあった神田山(かどやま)村は加戸山または一作門山(まさかどやま)」と称することもあった。現在は坂東市岩井町となりその名称は残っていない。 
一方、神田の字を残す坂東市神田山(こちらも「かどやま」)の延命院本堂の北側には公の死後その体を埋めたといわれる「胴塚」(将門山ともいう)があり信仰を集めている。「からだ」から「かんだ」という音の変化は、まずこの地で起こり、中世に芝崎の地で将門公の霊を祀る社を整える際にその名称を引き継いだということは十分考えられる。 
みとしろ もう一方の説は「神田」は「みとしろ」すなわち伊勢神宮(大神宮)に初穂を供える田である「神田(しんでん)」があった所というものである。享保17年(1732)刊の菊岡沾涼著「江戸砂子」に見られる。著者は足立郡にも神田村という地名があり「みとしろ」が武蔵国の各地にあったことを示すといったような説明をしている。これに対して古代、中世の芝崎は海(入江)に面した地であったことは間違いなく、大神宮の御料になるような良田があったはずがない、との反論がある。「江戸砂子」が人気を博したことからこの「みとしろ」説は普及し、斎藤月岑の「江戸名所図絵」にも受け継がれている。 
興味深いのはこの説が、上に述べた茨城県の地名にも適用できることである。平凡社の「日本歴史地名体系」(1982年刊)の茨城県編を見ると、神田山村は古代、中世には伊勢神宮領相馬御厨に含まれていたと見られ、村名は神宮の「神田=しんでん」に由来するのではないかと記載されている。そうだとするならば、話は大きく一回転し「からだ、かんだ」の音が岩井から芝崎へと伝播したとしても、ルーツは「みとしろ」ということになる。しかしながら、語源がどうであれ岩井の人々が「かんだ」と読める「神田」の字に将門公の「からだ」の音、イメージを重ね合わせていたことは疑いないように思える。 
神田の歴史 
ここで別の資料を見てみよう。昭和13年(1938)に出版された東京市役所編の「東京市町名沿革史」である。 
「神田区」の項を見ると、神田には古くは韓田の表記があったことを記し、さらに「江戸記聞」を引用して古代には「神田=みた」があった所と、みとしろ説を採用している。  
この書の特徴は「神田」の語を文献史料の中にたどったころにある。まず、13世紀末から14世紀にかけて成立したとされる「吾妻鏡」の中に神田三郎なる人物の名が見える。この神田氏は平将門の後裔か、あるいはこの地に長く住んでいたため地名を氏の名にしたのではないか、と「沿革史」は公との関係にも触れて推測している。 
15世紀室町時代、太田道灌の歌集「慕京集」に「神田の社にて読める」の語が見えるが、この書には疑義があるとしている(どの点かは不明)。一方、16世紀半ばに成立、小田原北条氏配下の武士たちの所領について記した「小田原役帳」の中に、太田新六郎の知行として「江戸神田の内新掘方六貫五百八十文ノ」との記述があることから、この時点で神田の名称があったことは間違いないとする。 
さらに下って16世紀後半の天正年間の文献「天正日記」18年の条に「神田の台」の語が散見され、神田が地名として定着していたことは明らかと述べている。天正18年(1590)8月1日江戸に入った徳川家康は町づくりに着手、神田の台は湿地埋め立てのため取り崩され、後の駿河台となる。いずれにせよ、家康入府のときに地名・神田は存在していたのである。 
祟り 
将門公に関する言い伝えは多くの読み物、芝居の中で取り上げられ、庶民の心の中に「将門像」を形づくってきた。歴史上の人物・平将門とは当然異なるが、人々が将門公に託した思いをうかがい知ることはできる。もとより仔細な検討は手に余るので、ここでも史書に表れた将門公の言い伝えをいくつか拾い上げ、あわせて今も語られることの多い祟りについても考えてみたい。 
鎧と兜 まず鎧と兜、武具の名を冠した二つの神社を訪ねてみよう。どちらも将門公との関わりを今に伝える。 
北新宿3丁目の鎧神社は日本武尊が鎧を納めたことを縁起として神社名がついたという。将門公の縁者が鎧を納めたとの言い伝えも残る。さらには、公を討った藤原秀郷がこの地で病を得て、祟りではないかと思い公の鎧を奉ったとの伝説もある。境内に立てられた同神社の説明板にはこの3つの説が並んで載せられている。 
いずれにせよ同神社は日本武尊とともに将門公を祭神とし、柏木、淀橋地区の産土神として信仰を集めてきた。兜町の地名の由来である兜神社は東京証券取引所の近く中央区日本橋兜町1丁目にある。同神社世話人会のパンフレットによれば、江戸時代、楓川の鎧の渡付近に将門公を祭った鎧稲荷と兜塚があり、地元の鎮守として漁民の信仰を集めていた。 
明治以降、幾多の変遷を経て鎧稲荷と兜塚は兜神社となり証券業界の守り神となった。祭神の主神は商業の守護神・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。 
境内にある兜岩の言い伝えには源義家が兜を埋めたというもののほかに、将門公の首を兜に添えて持ち来った藤原秀郷が兜を埋めて塚となしたという説も紹介されている。 
巨大化 
「将門記」では公の最期は、矢に当たって倒れ、首は京に送られて獄門にさらされたと書くにとどまる。しかし、京を震撼させたこの大事件は、人々の想像力の中でさらに巨大化していく。 
将門公の首に関する伝説の典型は「太平記」に見ることができる。軍記物の古典とされるこの書は、室町前期14世紀中ごろから成立したとされ、南北朝の動乱を主題としているが、将門公の首に関する記述は巻16「日本朝敵事」にある。概略は次の通り。 
俵藤太に(2月に)切られた公の首は3月まで色変ぜず眼もふさがず、常に牙をかんで「わが五体はいずれのところにかあらん。ここに来たれ。頭(くび)ついで今ひと軍(いくさ)せん」と夜な夜な叫ぶので、恐れおののかない人はなかった。そこに通りがかった者が「将門は米かみよりぞ斬られける 俵藤太が謀(はかりごと)にて」と詠むと、首はからからと笑い、眼をふさいでついに朽ち果てた。 
江戸時代に刊行された歴史読み物「前太平記」では、このエピソードに続いて、こう記す。 
「それでも東国が懐かしかったのであろう、首は空を飛んで帰り武蔵の国のとある田の辺りに落ちた。それより毎夜光を発し、人々の肝を冷やさないではおかなかった。稀代のくせ者であるだけにどんな祟りをなすやもしれないと、その場所に祠を建て神田明神と祝い祀ったところ、怒りも鎮まったのか、その後は何事もなくなった」。 
ところで通りがかりの者が詠んだという歌である。その後も多くの書に引用されて今に伝わっている(「斬られける」が「射られける」というバージョンもある)。その意味は現代人にはいささか分かりにくいが、要するに「米」「俵」「はかり」が縁語になっている、いわば言葉遊びである。 
この歌に関するエピソードは「太平記」以前の史書にも登場、人々の間でよく知られていたことをうかがわせる。源平の争いを描き、鎌倉時代(12-14世紀)に成立したとされる「保元」「平治」物語のうち「平治物語」中の巻、源義朝の首が京で獄門にかけられた場面。過去の例として将門公の首のエピソードと共にこの歌が引用されるのである。その一節では、詠んだのは「藤六といふ歌読」ということになっている。岩波書店刊の新日本古典文学大系の注によれば、藤六というのは滑稽な歌を詠む人間の一般名称との説が載せられている。確かに、義朝の首に添えられた歌も滑稽(むしろ悪趣味といいたい)なものである。そこで「太平記」の将門公の首の場面を読み返してみると、機智に一本取られた首が引き下がるという、読者の笑いを取るための場面ではないかと思えてくる。「平治物語」では「義朝の首も笑うのではないか、とうわさした」と結んでいる。 
切られた首に対する人々の恐怖は、多くの史書にうかがえるが、それに関するエピソードは、現代の感覚では、おおらかな怪異譚といった趣きである。俵藤太にしても、もともと田原という地名を姓にしていたが、ムカデを退治して龍神から与えられた俵が使えど使えど中身が尽きないところから俵と呼ばれるようになった、という民話的世界を背景とした人物として立ち現れる。。 
将門公の祟り伝説を考えるとき、日常と超自然がいわば混然一体となった世界に生きた人々の心情に思いをいたさなければ真の意味は理解できないように思える。 
イメージ 祟りの話に移る前に、当時の人々が思い描いた将門公のイメージを史書に見てみたい。  
「保元物語」 
その昔承平のころ(原文のまま)、平将門が八カ国を討ち取って都へ攻め上がるというので、諸山では将門討伐のための祈祷が行われた。天台の座主・法性坊大僧都尊意は、比叡山大講堂で不動安鎮国家法を修したところ、弓箭を帯した将門が炎の上に現れ、ほどなく討ち取られたーと比較的シンプルに記している。これが「太平記」では、概略「平将門は、その身、鉄身で矢も剣も歯が立たない。そこで諸卿は詮議して鉄(くろがね)の四天王を鋳(い)奉って比叡山大講堂に安置。四天合行の法を行わせたところ、天から白羽の矢が一筋降って将門の眉間に立った」と、劇的に盛り上げる。 
「前太平記」は、これらをミックス、他の要素も加えてさらにドラマチックに仕立て上げている。 「将門記」の中で公の最期を描いた場面に次の一節がある。「ついに琢鹿(たくろく)の野に戦いて独り蚩尤(しゆう)の地に滅びぬ」(漢字の表記には異同がある)。蚩尤は中国古代の書「山海経」などに見える神話世界の人物。銅の頭に鉄の額、人の体に牛の蹄、角があるといわれる。雨、風、霧などを巻き起こす力を持ち、兄弟と共に天帝である黄帝と戦い敗死した。もちろん将門公を直接描写したわけではなく、その運命についての比喩ではあるが、いわば人間離れした力の持ち主というイメージは後世の将門像形成に影響を与えたことは間違いない。そうでなくとも、情報(ビジュアルの面で)の乏しかった古代、はるか離れた東国を瞬く間に席巻した武将の人物像が京の人々の間で、人間離れしたものへと肥大化していくことに不思議はない。ましてや、その首がさらされた時の興奮はどのようなものであったか想像に難くない。 
 
江戸後期、天保12年に刊行された絵草紙「源氏一統志」(松亭金水著)は「洛中の貴賎是を見んとて、群集すること、あたかも蟻の途渡(とわた)るに似たり。」と表現している。 
現代のように、さまざまなメディアを通じて人物のイメージに接することのできなかった時代に、生身の体(その一部)が持っていた力を感じ取らなければ、伝説の多くは理解できないように思える。 
祟り 
神田山日輪寺の寺伝はこう言う。 
承平の乱(まま)の後、所縁の者の所為であろう(芝崎の地に)平将門の墳を築いたのだが、星移り物換わりいつか塚は荒廃し花を手向ける者もなくなった。よって凶霊祟りをなし、病災、天災、枚挙にいとまなく大いに村民を悩ました。村民は恐れおののきながらも逃れる術もなく空しく歳が過ぎた。 
ときに嘉元年間、遊行二世他阿真教上人が東国に教えを広めに来られ、この地に至った。村人は上人に凶霊をなだめんことを乞い願い、そこで上人が法号を授与し供養回向したところ霊魂の祟りは退き、死に向かっていた者もことごとく回復した。 
もとより寺の立場から書かれたものではあるが、塚に関わる祟り、言い伝えの基本的なものである。江戸幕府が文政年間(19世紀初め)に町々の旧事・伝承を報告させ、それを基にまとめた資料文書「御府内備考」(正続)にも、塚の祟りについての記述はあるが、ほぼ寺伝と同様である。言い伝えの中で、古いところでは、天暦4年(950)、すなわち将門公敗死の10年後、首塚が鳴動、光を発し異形の武士が現れたという怪異なものもある。 
ところで寺伝に見られるような祟りの話は、明治以降の怪談的な祟り物語とはかなり印象が異なる。そこから浮かび上がるのは、塚の荒れるのを嘆き(もちろん恐れ)ながらも、霊を鎮めるためのしかるべき人物、徳の高い人物が現れるのを待っている人々の姿であるように思える。祟りはその願望の裏返しの表現ではないか。 
菅公 
 ここで菅原道真すなわち菅公の祟り伝説と比べてみたい。「将門記」では将門公に皇位を授けるお告げという重要な場面に菅公の霊が登場する。将門公と菅公になにかしら共通のものがあると、人々が感じていたことをうかがわせる。しかし、祟りという点で見た場合にはどうであろうか。菅公の怒りの雷は内裏を直撃する。菅公を陥れた(とされる)藤原時平の子孫は早逝する。すなわち祟りは、直接に対峙した者(その子孫)に向けられる。将門公を討った平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)に目に見える祟りはなく、子孫も繁栄した。秀郷の息子・千晴は謀反に連座して流罪となったが、これは祟りとは関係ないであろう。また、鎧神社の伝承に秀郷が、自らの病は将門公の祟りではと思ったとあるが、これも菅公のすさまじい怒りに比べれば祟りと言えるほどのものではない。 
将門公の祟りといわれるものは、公に害をなした者に関することではなく、塚が荒れ、魂が鎮まらないことに関するものだ、という点が特徴であるように思える。 
八所御霊 寛永年間(17世紀半ば)江戸にやって来た公卿の大納言烏丸光広卿が神田明神に足をとめ、将門公の勅免についてとりなそう、と請け合ったエピソードがあるが、その際に言及したのがが「八所御霊の例もあるので」ということだった。八所御霊は伊予親王(桓武天皇の皇子)、橘逸勢ら主に謀反の疑いで処罰され、その後冤罪と認められ許された高位高官の人物の魂を鎮めるために祭ったものである。もちろん菅原道真公も含まれる。 
しかし将門公の場合は、謀反の疑いをかけられたが後に冤罪と分かったというものではない。天皇の位を望んだか否かについては異論があるが、中央に対して(結果的にであれ)反乱を起こしたことは公自身、上申書の中ではっきり認めている。 
勅免の後、明治に入って朝敵論がむし返された所以でもある。公のこの世に残された思いは、疑いをかけられ、あるいは陥れられた無念さではなく、史書にあるように「今ひとたび戦をせん」というものであったろう。怨霊、祟りといったことを考える際に参考になるように思う。 
明治以降の祟りについては、時代が近いだけにより具体的なものとなり(いわゆる犠牲者の名前も特定されている)、マスコミの発達により話が増幅され広まっていった。それは今も続いている。いわく、ビルの谷間に塚が残っているのは、大企業といえども触れるのを恐れているからだ。現に、しかじかの不可思議な出来事があった…。これらの話を面白半分に受け止める者もいれば、まじめにとらえる者もいるだろう。受け取る者の自由である。ただ、将門公の祟りといった話は広く知られているだけに、これだけは確認しておきたい。 
祟りが怖いから塚には手を触れないというのであれば、祟りを恐れない時代が来た時に(そう遠くはないかもしれない)塚の命運は尽きるであろう。一方で、塚が荒れ、あるいは潰されそうそうになるなど危機に瀕したときに、塚の存続を願う人々の危機感が祟りを現出させるのだとするならば、塚はまだまだ今の場所にあり続けるだろう。 
 


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鎌倉時代の寺院建築

「鎌倉時代」は1185年から1333年の約150年間で、その鎌倉時代に再び中国と国交を回復すると新形式の建築様式が伝来し、今までの建築様式を「和様」と、新建築様式を「大仏様」「禅宗様」と呼び区別されました。後の時代ではそれらが入り混じった様式「折衷様」が新しく実現いたしました。 
そこで、今回は鎌倉時代の「和様建築」を、次回からは「大仏様建築」「禅宗様建築」「折衷様建築」について順次記載いたします。「和様」と言われましても我が国で純然と考案されたものではなく、中国から伝来した建築技法を我が国の気候、趣向に準ずるよう改変され国風化したものです。大仏様、禅宗様が今までの建築技法と大きく違っていたので、これらを大陸様だとすると今までの建築技法が我が国の建築技法すなわち和様となったのでしょう。和様と言っても時間経過と共に柱と柱の繋ぎを強固にする「貫」技法や細部装飾の「木鼻」など大仏様、禅宗様の様式が取り込まれて行きます。 
つい最近まで「大仏様」は「天竺様(てんじくよう)」、「禅宗様」は「唐様(からよう)」と呼称されておりました。 
法然の教えは、戒律による難しい行を実践しなくてもただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えさえすれば極楽に往生出来ると言うものでしたから庶民には大いにもてはやされました。阿弥陀如来像も救済を求める人々を直ちに迎えに行けるよう「坐像」から「立像」へと変わっていきました。 
前代は数多さを競って、念仏を百万編を唱えることを奨励されましたが「親鸞」にいたってはたった一回の念仏を唱えるだけで極楽往生出来ると主張いたしました。当然、これら鎌倉新仏教は一般庶民の心を引き付け、仏教が人々の中に浸透していきました。結果、人の出入りが多くなるに従い雨の日のため本堂に向拝を設けるのが定法となりました。  
それと、鎌倉新仏教は中国から請来した従前の仏教ではなく、我が国で生まれた仏教だけに開祖した高僧をお祀りする「御影堂」が盛んに建立され、その御影堂は後の時代には大規模な建築となりました。 
本堂内に「大型厨子」の設置が多くなり、そうなりますと大型厨子が本堂で、本堂は「中尊寺覆堂」の如く覆堂になったとも言えます。その「大型厨子」は奥深い内陣に設置されておりますので殆ど見ることは適いません。 
「塔」の建築様式は何故か和様が多く例えば平行垂木の使用などが見られます。それと四方に縁が設けられるのが普通となりました。またこの時代は「多宝塔」が優作揃いです。 
平安時代以降、基壇は自然石の乱積の上に縁、床を設け、その床下には盛土した亀腹が造られ、また、床は石の布敷だったのが板敷となりましたのを、そのまま鎌倉時代引き継がれました。 
「和様」では「蟇股」が唯一の装飾だったのが以後装飾部材も増えて参り、近代には彫刻だらけのごてごてした建築も現出しました。いずれにしても「蟇股」は意匠の中で一番力を注ぎ制作されました。 
和様の「窓」は連子窓一本だったのが禅宗様の花頭窓も一部取り入れられています。  
「扉」は桟唐戸、蔀戸が多くなりました。 
「屋根」は寄棟造が少なくなり、入母屋造、宝形造が主流となります。 
「木部」の彩色は丹塗りか彩色なしの素木ですが、素木の方が多いように感じました。  
大善寺は勝沼ぶどう卿駅の近接にあり駅名の通り周り一面ブドウ畑でした。近くには清白寺があります。楼門の時代ですが大規模な二重門である豪壮な山門(仁王門)をくぐり、石段を上がると本堂の建物が眼に飛び込んできたのでその大きさに一瞬たじろぎました。本堂ではなく薬師堂と呼称されておりました。その本堂はそれは雄大壮麗な建築でした。山梨県下最古の国宝建造物ですが屋根の桧皮は葺かれて間もないのか綺麗な状態でした。頭貫の木鼻は唐招提寺鼓楼の大仏様木鼻によく似ておりました。大仏様は早くに廃れましたが木鼻などは和様建築に取り入れられました。木鼻が大陸より伝来した鎌倉時代に既にこんなに遠い国で和様建築に取り込まれているとは驚きでした。
明通寺(みょうつうじ)は山号を棡山(ゆずりさん)と言う難しい読み方です。「棡」とは譲葉(ゆずりは)のことです。日本海側では国宝指定の建築は珍しいのに明通寺には本堂 、三重塔の2棟もある貴重なお寺です。2棟とも杉木立の中に静かに佇み非常に均整がとれた美しさを湛えておりました。本堂は1258年に再建されたもので乱積の基壇上に床、縁が設けられ、単層、入母屋造、屋根は桧皮葺です。多くの寺院のように正面側だけ蟇股で装飾されておりますが他の三面は間斗束です。正面すべて蔀戸で覆われており住宅風の仏堂です。三重塔は本堂の右手前に位置し石段を上がると僅かに切り開かれた空地に建築されておりました。1270年に再建されたもので回り縁が付き、屋根は桧皮葺です。大仏様の猪目(ハート型・赤矢印)の付いた拳鼻(こぶしばな)は現存最古の一つとして著名です。拳鼻とは手の拳を横から見たのに似ていますからの命名です。木鼻の一種です。心柱は二重目と止め、初層には仏像をお祀りするいわゆる仏像舎利であります。これら国宝建築が鬱蒼とした杉の老木で囲まれておりますだけに室生寺五重塔 のような悲しい事故が起こらないようお祈りするほかありません(杉は地表近くしか根を張らないため地すべり、杉の倒壊が起こりやすいものです)。
 
 
西明寺(さいみょうじ)は湖東三山の一つで、山間に位置するだけに自然豊かな清浄さの中にありました。本堂 、三重塔は釘を使用していないと説明されておりましたがそれは長期保存を考えた古の工人達の知恵でしょう。本堂は豪壮な建物でありながら正面だけでなく、西面からも眺められる配置となっております。窓は連子窓でなく花頭窓で、和様建築に禅宗様の窓が取り入れられた例です。「縁」が外陣と内陣の境界(青矢印)で切れているのは、天台系密教寺院の中で、外陣が板敷の床、内陣が土間(石敷)仕様の寺院があり、その場合縁は床部分には設けるが土間部分には設けない名残だと言われております。三重塔は本堂の西側で、本堂より高い位置にするためか高い土壇が築いてありました。三重塔は洗練された様式美で日本美人のような佇まいです。前庭が広く、明るい雰囲気の全体像が眺められ、屋根が大きく反り上がっておりますのが印象的でした。
金剛輪寺(こんごうりんじ)は湖東三山の一つで西明寺とは近い距離にあります。本堂は7間堂の大型建築でしかも樹木に囲われていたため広角レンズを使った撮影でも駄目でした。参拝される方にとっては自然に囲まれた本堂での礼拝には感激されることでしょう。正面に設けられております向拝はありませんでした。
長寿寺はどなたも居られず私一人でした。簡素な山門を潜って緑のトンネルの幅狭い参道を抜けると本堂が眼に入り、屋根が汚れていないため美しかったです。向拝は広く、とって付けたような狭いものに比べると非常に均整がとれた感じがしました。本堂は間斗束であるのに向拝には蟇股が付けられており、同じ手法の寺院は他でも見られます。床下には亀腹が設けられておりませんが基礎面は後ろに行くにしたがって少し高くなっております。簡単に整地出来た筈なので何か意味することがあるのでしょう。 
   
石山寺、境内には奇妙な岩石が目に付きます。その岩石は天然記念物に指定されている硅灰石(けいかいせき)で、この石が寺名の起こりとのことです。建物はこの硅灰石の上に建てられております。本堂に設けられた、紫式部が源氏物語を執筆した紫式部源氏の間を通り過ぎ階段を上ると多宝塔です。多宝塔は我が国で考案されたもので数多く造立されました現存最古の遺構です。我が国の三大多宝塔と評判だけに優美な塔です。また三方から眺めることが出来、感動を覚えること間違いなしです。裳階部分が大きいだけにどっしりとして安定感に富んでいます。多宝塔から少し行くと見晴らしのよい月見亭に出ます。石山の名月を観賞するため月見亭と名付けられているとのことでした。
大報恩寺は千本釈迦堂とも俗称されております。京都の市街地にあり探すのは簡単ではありませんでした。しかし、一歩境内に足を踏み入れるとそこは市街地とは想えないほど閑静な佇まいでした。本堂は京都では最古の仏堂で相次ぐ内乱にもよくぞ焼失せず残ったものだと感心させられました。黒ずんだ木部と白い壁と白色塗装した軒下の明るさが見事なアクセントを築いております。
蓮華王院の蓮華王とは千手観音のことです。蓮華王院は横長の大きな本堂で知られておりますが毎年1月に行われる通し矢でも有名です。本堂は裳階を入れると35間ととにかく南北に長く、この仏堂以外では考えられないほど横長の建物です。千手観音像を1001体もお祀りするのに必要なスペースであります。
蓮花門は三間一戸八脚門で東寺伽藍の西側に建てられており、一度境内を出て西側に回れなければ眺めることが出来ません。鎌倉時代に建てられたものとは思えないくらい天平様式で建築されておりました。略字の「花」ではなく「華」を使うはずですが奈良の法華寺も一時「法花寺」と記述されたことから何らかの事情で略字を使われたのでしょう。
法界寺はこじんまりとした樹林に囲まれた所にあり少し分かりづらいです。と申 しますのは親鸞聖人の日野誕生院の方がよく目に付き、数人の方が拝観されておりましたが法界寺には撮影中、どなたも訪ねて来られませんでした。阿弥陀堂ですのに東向きではなく南向きでした。しかし、阿弥陀堂の定法通りの桧皮葺、宝珠露盤、宝形造です。多くの人々を魅了してきた本尊の阿弥陀如来像に相応しく方七間堂という威風堂々とした建築で、正面の裳階屋根を薬師寺金堂、鳳凰堂のように一段上げてあります。裳階は4面にありますが吹放しです。柱間の中備は蟇股でなく間斗束です。 
海住山寺(かいじゅうせんじ)は京都府に位置いたしますが奈良市に近い距離にあります。山を相当距離上って行く必要があり山岳寺院そのものでした。時代は、三重塔が多くなるだけに五重塔は貴重な存在で、鎌倉時代唯一の五重塔です。しかし、三重塔を意識したのか三重塔の高さ位しかない小振りの塔です。五重塔で裳階付きは法隆寺塔と2塔のみで、当塔は吹き放しですが法隆寺の裳階には壁が設けてあります。裳階を設けてありますので重厚な感じでしかも均整よく端麗でした。塔は古風を守り、三手先でありますが当塔は小ぶりな形ゆえか二手先でした。
光明寺は君尾山(きみのおさん)の中腹にありますが林道を使えば近くまで行けます。駐車場から狭い山道を下れば二王門ですが雨の日はもう一方の道、国道から綾部温泉方面に行き、その温泉を過ぎると二王門駐車場に出ます。そこから320段の階段を上らなければなりませんが足許が濡れず滑らないので良いでしょう。二重門の二王門の屋根が栩葺(とちぶき)で初めて見るものでした。前面の生い茂った樹林が障害となり屋根なしの全景しか撮影できませんでしたので「裏側」からの写真も掲載いたしました。扉は設置されておりませんが扉があろうが無かろうが出入り口のことを戸(こ)と言います。ですからこの門は三間一戸(さんげんいっこ)となります。建築材料は「桧」材ではなく「杉」材のことですが多分地元産の良杉があったことでしょう。連子窓の枠は唐戸面で黄色塗装です。ところが連子子(れんじこ)は緑色でなくて青色塗装でした。柿葺、栩葺、木賊葺とは部材の木の厚みが違います。栩葺は栩板の厚さが1-3cmと甚だ厚いもので、種類は水に強い椹(さわら)、栗などでありますが当門は栗材が使用されております。仁王像の前に板敷の床があるので礼拝場所でしょう。現在は履物を脱がずに礼拝できるよう賽銭箱を手前に置いてあります。自然石の乱積の基壇上に色んな形状の礎石が使用されておりますのは周囲の自然環境との調和を考えて、手頃な石が使われたからでしょう。鎌倉以降の二重門では石手寺二王門、金峯山寺二王門がありますがこの門だけは構築物に遮られることなく自然に囲まれた貴重な二王門です。 
和様では鎌倉時代には珍しい三手先のうえ三軒で再建されております。基壇も床ではなく壇上積です。垂木は力垂木で、総ての地垂木が六角形です。時代は角地垂木形式ですが古代の円地垂木への郷愁からそのような形にしたのでしょうか?長野県の裳階付きの安楽寺三重塔と外観が似ております。東大寺は大仏様で再建されましたが興福寺は和様で再建されました。
十輪院の本堂は建物の背が低く、屋根勾配も緩やかで、感じとしてはこじんまりとした小型の仏堂です。奈良の市街地にあるわりには人影もなく静かな佇まいのお寺でした。寺院建築というより住宅建築と言ったほうが似つかわしく優しい雰囲気を醸し出しておりました。本尊は石仏龕に納められた石造の地蔵菩薩立像です。垂木の代わりに厚板を利用して軒を支える板軒という珍しい構造でした。板軒は禅宗建築の雰囲気ですね。従来形式の門から楼門に変わっていきます。その楼門の多くは三間一戸ですがこの楼門は一間一戸です。頭貫に大仏様の木鼻が設けられており、先述の大善寺の木鼻とよく似ております。
霊山寺(りょうぜんじ)は境内に一歩足を踏み入れると大辯才天の掲額を嵌め込んだ朱塗りの鳥居があるのに は少し驚きました。山岳寺院の面影がありきれいに掃除されており清清しいお寺でした。本堂の屋根は瓦葺で、奈良では珍しい密教寺院です。向拝の蟇股内の彫刻文様は薬壷で室生寺金堂と同じですが室生寺は絵模様です。向拝には円を組み合わせた輪違支輪と菱支輪があります。三重塔(鎌倉時代)は手入れが行き届いており、国宝指定にならないのは後世に手を加えすぎているのかどうかは分かりませんが、早晩国宝指定になることを祈っております。
長弓寺は霊山寺に近接しております。長弓寺の周辺には住宅が密集しているうえ人影もない静寂の中に佇んでいるためすぐには探しだすことが出来ませんでした。奈良の中心部に近く宅地開発が進みつつありますが今ところは静かな環境にあります。屋根は奈良では珍しい桧皮葺です。背景の雑木林に囲まれている本堂は優美な佇まいを感じさせていて、その本堂を数人の方が写生をされておりのどかな風景でした。聖霊院とは聖徳太子をお祀りしてあり、通常 「開山堂」「御影堂」「祖師堂」などと呼ばれているものです。
孝恩寺はわが大阪では国宝建造物の最初の紹介です。観音堂が木積(こつみ)の釘無堂(くぎなしどう)と俗称されるのは建築の際釘の使用を控えたからでしょう。行基葺、寄棟造ですが連子窓、蟇股と和様系、木鼻は大仏様系、桟唐戸は禅宗様系と色んな手法が用いられております。向拝がないだけに、古風な感じがいたしました。ただ、切石積の基壇は新しい手法です。
慈眼院(じげんいん)は孝恩寺とそう遠くない位置関係にあり、大阪では南の関西空港に近い場所にあります。基壇が高く、塔身が小振りな塔です。裳階部分が本来、面取の角柱であるのに丸柱となっておりますのは裳階が付随的な建物と言う考えが希薄になったからでしょうか?石積基壇は建物を湿気から守るのには適していると思いますが無いほうがバランス上良かったのではないかと思うのは素人の浅知恵でしょうか?塔の前庭には苔が植えてあり手入れがよく行き届いておりました。苔を踏むことのないよう注意をしながら撮影するのは初めての経験でした。周辺には根来寺大塔 、金剛三昧院多宝塔、長保寺多宝塔とあり多宝塔のメッカといえる地域です。
太山寺(たいさんじ)は神戸市にあります。本堂は神戸市内では唯一の国宝建造物ということですがよくぞ今まで保存できたものです。大規模を誇る7間堂で撮影位置を探しましたが堂前の左右には樹木が生い茂っておりこれが精一杯の撮影位置でした。地垂木に比べて飛檐垂木が短く、しかも、間斗束、板唐戸という様式で古風な造りでした。緑青色の銅板葺屋根は美しく風雅な本堂でした。
金剛峯寺(こんごうぶじ)は弘法大師が密教の教えを広めるため建立された寺院です。不動堂 は東向きに建てられた住宅風の仏堂です。桁行(正面)三間、梁行(奥行)四間で一間の母屋に一間の庇に縋破風の孫庇を付けた複雑な構造のため、説明するのが難しいので三方の写真を掲載いたしました。高野山の紅葉は最高に美しいです。
金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は金剛峯寺とは近接しておりますが至って静かな空間で霊山の雰囲気が充満しております。多宝塔は均整のとれた美しい姿です。慈眼院の多宝塔とは逆で下層の背が低いのが特徴です。それと、裳階の柱は慣例に従い面取の角柱です。蟇股は簡素で初期の形式です。
長保寺(ちょうほうじ)は密教寺院の三種の神器とも言える本堂・多宝塔・大門の3棟も国宝指定となっております希少な寺院ですが余り世間の方には知られていないのは残念至極です。多宝塔は上層にくらべて下層が大きく安定感のある優美な塔でした。裳階は丸柱で、相輪は当麻寺東塔と同じく八輪と珍しいものです。余談ですが寺名の場合「保」は「ほ」でなく「ほう」と呼称することが多いようです。
浄土寺のある尾道とは尾道水道と山との狭隘平地に住宅が密集しているところです。迫りくる山の階段を上がって行くと本堂 、多宝塔の2棟の国宝建造物が同じ南向きに建っております。国宝指定の本堂は掲載すべきがどうか迷いましたが折衷様のジャンルで掲載することにいたしました。多宝塔は雄大にしては優美な姿でした。黒ずんだ風腐した建物ばかりを眺めてきたので少し違和感を覚えましたが創建当初の姿を見るようで感激もいたしました。邪鬼と言えば四天王 の足許でもだえ苦しむ姿を想像されると思いますが建物を支え守る邪鬼の例です。
本山寺(もとやまじ)は香川県下では唯一の国宝建造物です。当寺も札所ですが訪れたのは夕方でしたのでお遍路さんの姿はまばらでした。本堂の屋根は背が低く両端の反りが少ないので穏やかな感じでしたが棟の長さが短いのが少し気になりました。本堂は弘法大師の一夜造りとのことで、室生寺五重塔も弘法大師の一夜造りの言い伝えがあります。中備は総て間斗束の上に蟇股を組合せたもので元興寺本堂と同じ形式です。本堂内陣に安置された大型厨子はよく見えませんでした。本堂と並んで建つ五重塔は初層と最上層の桁行の低減率が極端に小さく、一見、一重塔に四つの裳階付きの建築のようでした。
石手寺(いしてじ)は松山市内にあり後述の大宝寺、太山寺も同じ市内にあります。納められた由緒ある小石が寺名の由来とのことでした。二王門は最も優れた楼門と評判なだけに門の姿が見通せないとは残念でした。参道がアーケードになって店が並んでおり、これこそ門前市をなすということでしょう。2階部分の高欄付き回り縁は上がる階段も無いので装飾のためかと思いましたが設けた縁は装飾にしては広すぎる感じがいたしました。正面、背面は蟇股ですが側面は撥束で建築されております。草履奉納は大きくて滅多に見られるものではありませんでした。東大寺南大門に奉納されている草履はずっと小さいです。向かい合って奉納されている藁草履を撫でると足の病気が治るとか健脚になるとかいわれており「撫で仏」でなく「撫で草履」と言えるものでした。
大宝寺本堂は県下最古の木造建築とのことですが、右側の樹木は鬱蒼として多くの年輪を重ねた「うば桜」で、初めて本物の「うば桜」にお目に掛かりました。自然に溶け込むこじんまりとした建物の上、前面蔀戸でまるで仏堂というより住宅のようでした。庇部分は面取の角柱ではなく丸柱でした。
太山寺(たいさんじ)は第52番の札所で、次から次へとお遍路さんがお参りに来られては先達の合図で一斉にご詠歌や般若心経をあげられておりました。その間撮影は休憩するという初めての経験でした。県下最大の国宝建造物といわれるだけあって雄雄しい反りの屋根で豪壮な本堂でした。桁行より梁行が広いので破風も大きくなりその妻飾は見事で一つ一つの装飾部材は必見の価値があるものでした。