戊辰戦争と明治維新

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「夜明け前」

雑学の世界・補考   

戊辰戦争

戊辰戦争
[慶応4年 - 明治2年(1869)] 王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

江戸時代の日本は江戸幕府と諸大名による封建国家だった。戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。
戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝)
石井はさらにこれを次の三段階に分けた。
1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)
2.「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権“奥羽越列藩同盟”との戦争」(東北戦争)
3.「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)
薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。
鳥羽・伏見の戦い1
開戦に至る経緯
四侯会議の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年10月13日、14日に討幕の密勅が薩摩と長州に下される。これを受け、江戸の薩摩邸は政治活動を活発化させ、定め書きを書いて攻撃対象を決めた。攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
しかし、慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝えた。慶喜は10月24日には征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。
しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。
慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。
一方、江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていた。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失。これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。
一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。— 討薩表(部分)
戦闘の勃発
慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる、藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、薩摩藩士税所篤が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。
新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により1月5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。
鳥羽・伏見の戦いの与えた影響
5日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望及び東海道鎮撫総督・橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩・桑名藩・高松藩・備中松山藩・伊予松山藩・大多喜藩の官位剥奪と京屋敷を没収、3月7日に姫路藩が追加された。藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩・大垣藩・宮津藩・延岡藩・鳥羽藩が藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。ただし、大垣藩は10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、13日に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて4月15日に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって賞典禄まで与えられている。なお、同藩の場合、新政府参与に同藩重臣(小原忠寛)がおり、彼のとりなしを新政府・大垣藩双方が受け入れた事が大きい。
11日には改めて諸大名に対して上京命令が出された。これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府はこれまで非協力的な藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針を突きつける事になった。特に西日本では慶喜討伐令と上京命令と鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵と追討回避のために親藩・譜代藩も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を諦めて赦免を求める事となった。1月末には藩主が慶喜とともに江戸に逃亡した桑名藩ですら、重臣や藩士達が城を新政府軍に明け渡し、3月には近畿以西の諸藩は完全に新政府の支配下に入った。
9日、長州軍が大坂城を接収、大坂は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督・高倉永祜が発遣された。また、神戸事件に誘発される形で、堺事件も発生した。
幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。
鳥羽・伏見の戦い2
[明治元年/慶応4年1月3日-6日 (1868/1/27-30)] 戊辰戦争の緒戦となった戦いである。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見で行われた。
背景
嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、国内の不安定化が進む中、薩摩藩は有力諸侯による合議態勢を模索するが、江戸幕府・関係諸藩との見解の一致は困難であった。武士階級は上位者に判断を委ねる構造で安定してきた為、余程の事態にならない限り、自身の職責の埒外を公然と論じる事はおろか、知ること、考える事ですら、ともすれば悪徳となっていた。宗家、親藩、譜代にとっては、特に従前の組織の運営と維持が義務であり美徳であった。
一方、外様で体制の末端におかれた下級武士の間では国学が流行しつつ有った。彼らは当初攘夷論を唱え、危機にあたって対応できない幕府への危機感を募らせた。しかし国学はイデオロギーに過ぎず、西洋諸国に対する客観的な状況を示すものではなく、夢想的な攘夷論が流行した。西国においては洋学に明るい者が幕藩体制の変革を訴え始め、幕府は安政5年から6年(1858年 - 1859年)にかけてこれを弾圧した(安政の大獄)が、万延元年(1860年)に主導者の大老井伊直弼が大獄の反動で暗殺され(桜田門外の変)、幕府の権威は失墜した。やがて国内の不安を背景に朝廷は政争の舞台となり、京都では攘夷派による天誅と称する幕府関係者への暗殺が横行するようになる。幕府は徳川系の親藩で大きな武力を持つ会津藩・桑名藩などに命じてこれを厳しく取り締まったが、これは安政の大獄と同じく、対症療法に過ぎなかった。
当初、過激な尊王攘夷論を背景に幕府と鋭く対立していた長州藩は元治元年(1864年)に勃発した禁門の変と下関戦争での完敗と幕府による第一次長州征討を経て、それまで失脚していた俗論派(佐幕派)に藩の実権が渡った。しかし、挙兵した正義派(倒幕派)が翌慶応元年(1865年)の元治の内乱で俗論派を打倒し、藩論を尊王倒幕の方向で一致させる。それを見た幕府は慶応2年(1866年)に第二次長州征討を行うも、敗北を重ねて失敗に終わった。この長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒し、幕府の威信を大きく低下させた。
一方、文治3年(1863年)に薩英戦争で挙藩一致を見た薩摩藩は、四侯会議が失敗すると、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、徳川家を排除した新政権の樹立へと方針を転換するようになる。対して幕府の主要な構成層には未だに情勢に明るいものが殆どおらず、意思統一は困難であった。大半の幕臣にとって、大政奉還こそが初めて自身に降りかかった火の粉となった。
慶応3年(1867年)10月13日、公武合体の考えを捨てた下級公家の岩倉具視らの働きかけにより、倒幕及び会津桑名討伐の密勅が下る。この動きに対し、翌14日、かねてより元土佐藩主山内容堂より建白の有った15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上表した。これは薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている(公議政体論)。外交能力を保たない朝廷は慶喜に引き続きこれを委任、思惑は成功したかに見えたが、諸国の大名が様子見をして上京しないまま諸侯会議は開かれず、旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。 そして、在京の旧幕府配下の諸軍から見れば、薩長軍は長年取り締まってきた天敵であり、それに敗北することは破滅を意味した。いずれにせよ、大政奉還により幕府が消滅したことで倒幕の大義名分は消失し、京都においても旧幕府の武力は健在な儘となった。
これに対し、薩摩藩士大久保利通や岩倉具視らは12月9日に王政復古の大号令を発し、前将軍慶喜に対し辞官納地を命じた。翌10日、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能と返答した。旧幕府の退勢を知らない主戦派の暴走を懸念した慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12日深夜には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、翌13日に大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入った後慶喜からの連絡が途絶えた。
23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度春嶽と慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた。
先の10月13日及び14日の討幕の密勅は江戸の薩摩邸にも伝わり、討幕挙兵の準備と工作活動が行われていたが、直後の大政奉還で、21日に討幕の密勅が取り消される。その討幕挙兵中止命令と工作中止の命は江戸の薩摩邸にも届いたが、動き出した攘夷討幕派浪人を止めることはできずにいた。度重なる騒乱行動を起こした攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸は匿っていたために12月25日に庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。28日にこの報が大阪に届くと、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まった。慶応4年(1868年)元日、慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府軍の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津(滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着しているが、揃えられた兵力はわずか50名であった。
3日(1月27日)、朝廷では緊急会議が召集された。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。
経過
鳥羽・伏見での戦闘
3日夕方には、下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽方面での銃声が聞こえると伏見(御香宮)でも衝突、戦端が開かれた。この時の京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れ、奉行所は炎上した。
近江方面
一方、旧幕府軍では伊勢方面から京都に向けて援軍として騎兵1個中隊と砲兵1個大隊が発進していたが、3日夜になって大津に潜入していた偵察から既に大津には新政府軍が入っているとの報告が入った。これは大村藩兵50名のことであったが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が結集していると誤認して大津から京都を目指す事を断念し、石部宿から伊賀街道を経由して大坂に向かうことになった。4日になると、朝廷から改めて命令を受けた佐土原藩・岡山藩・徳島藩の兵が大津に入り、彦根藩もこれに合流した。これによって5藩合わせて700名となり、6日は更に鳥取藩兵と参謀役の木梨精一郎(長州藩)を大津に派遣するも、新政府側が危惧したこの方面からの旧幕府軍の侵攻は発生しなかった。
近江方面の戦況について、大久保は5日付の蓑田伝兵衛宛の書状で、井伊直弼などを輩出した譜代の大藩である彦根藩の旧幕府からの離反に皮肉を込めつつも、彦根藩が味方に付いたことで背後(近江側)の不安がなくなり、旧幕府軍支配下の大坂から京都への物資の流入が止まったとしても、近江から京都への兵糧米の確保が可能になったと記している。また、東久世通禧も後になって大村藩が素早く大津を押さえたことで、旧幕府軍からの京都侵攻とこの戦いで未だに態度を決しかねていた諸藩部隊の新政府からの離反を防いだこと、同藩が大津にある彦根藩の米蔵にある米の新政府への借上げを交渉したことなどをあげて、大村藩の功労が格別であったことを述べている。
淀の戦い
翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、指揮官の佐久間信久らの相次ぐ戦死など新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退した。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走した。また同日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦旗を与え、新政府軍がいわゆる官軍となる(岩倉・薩摩藩は錦旗となる旗を事前に作成しており、戦闘に際して朝廷にこれの使用許可を求めたことをもって「薩長は錦旗を偽造した」とする説もあるが、朝廷の許可の結果掲げられたものであり、偽造説は公正さを欠いているが、天皇の許可を経たものではないとされる)。
5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、4日朝までとは異なり城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ(ただし、藩主である正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒絶された旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退し、旧幕府軍の負傷者・戦死者は長円寺へ運ばれた。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。
橋本の戦い
6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。
しかし、対岸の大山崎や高浜台場を守備していた津藩が朝廷に従い、旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。また、この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(後に死亡)を負ったとされる。
影響
6日、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。際して会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが長輝にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。
7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。2月には東征軍が進軍を開始する。
多数であった筈の旧幕府軍の敗北について、井上清は「幕府陸軍を除く幕府方諸藩の兵が旧式劣悪であったこと」「旧幕府軍も新政府軍も依然として身分制軍隊であったが後者の方が軍制改革が進んでいたこと」「旧幕府兵には農民からの強制徴集者や江戸の失業者などの貧困層(市儈遊手の徒)が多く士気が低かったこと」「新政府軍に対する民衆の支持」を4点を挙げている。石井孝は井上の最後の「民衆の支持」に対しては否定するとともに、新政府軍の火力の充実と旧幕府軍の兵士の技量の低さを最大の要因とする。一方、大山柏も火力の差が原因であることは井上と同様であるが、その原因を旧幕府軍の指揮官の火力に関する知識の低さに求めている。水谷憲二はこれらの見解に一定の評価を与えながらも、新政府軍が早い段階で江戸など東日本との交通・物流の要所である近江国大津を掌握して京都に向かう旧幕府軍への援軍・物資の動きを阻害しただけでなく、新政府軍の兵站を確保できた重要性を指摘している。
旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗れたが、これは新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい。両軍の損害は明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』によると新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれている。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。 
鳥羽・伏見の戦い3
大政奉還を成した徳川慶喜は、京都二条城にて情勢を見守っていた。宮廷の小御所では、会議が開かれ、新政府の方針が話し合われていた。その議論の中身は、慶喜の処遇で揺れた。結局 、徳川家の所領400万石とその領民を天皇に返す処置で決まった。完全に西郷ら志士たちの思惑が勝利した会議だった。
しかし、慶喜も黙ってはいなかった。国内の混乱を招かないためには、旧幕府の力を根こそぎ奪うやり方は愚策だと考えていた。旧幕府の所領を持つ幕臣たちが許さないだろう。そうなれば、命がけで兵乱を新政府に起こすことになる。そのようなことにならないようにするためには、旧幕府の力をいまのまま保持して、幕府や諸藩が天皇・朝廷に協力するという形の方が無難だと考えた。そこで、慶喜は朝廷に猛烈に工作を成し、旧幕府の領地だけを没収するのは、理にかなわない愚策であると提示し、旧幕府と諸藩がこの新政府の処置に不満を抱いて、大きな兵乱を起こす恐れがあると脅迫した。そして、この兵乱を起こさせないようにするには、旧幕府と諸藩に新政府の運営費を負担させることで政局参加を促し、天皇・朝廷を頂点に大名たちが集って国政を執り行うのが、秩序を崩さずに新政府を運営できると提案した。
この慶喜の意見は、朝廷内でも好評を得て、討幕を主張する岩倉や大久保たちの意見は、現状の秩序をむやみに乱す物騒な意見として段々と斥けられていった。慶喜の巻き返しは成功するかに見えた。天皇・朝廷は、これ以上国内の秩序を乱す乱暴なやり方を好まず、慶喜ら前政権の組織を新政府が継承すれば、平穏のうちに国政を刷新できると考えた。
この慶喜の巻き返しに焦った西郷たちは、その年の10月に江戸の治安をかく乱させて、旧幕府側に兵乱の火蓋を先に切らせるよう仕向けた。まず、益満休之助(ますみつきゅうのすけ)や伊牟田尚平(いむたしょうへい)ら薩摩藩士を江戸に送り込み、相楽総三らと協力して江戸治安を乱す暴挙を起こした。多数の盗賊や無頼漢・浪人をかき集めて、徒党を組ませ、江戸市中で暴行や略奪行為を繰り返し行わせた。それでも江戸治安を守る旧幕府側と江戸市中警備の任についていた庄内藩士たちは我慢した。慶喜から薩摩藩の挑発に乗ってはならないと厳しく命令されていたからだ。なかなか暴徒を鎮圧しない旧幕府側の反応にいらだった相楽たちは、風評を江戸市中に流した。それは12月に大風が吹く日を選んで、江戸市中数十ヵ所に放火し、江戸を火の海とし、この混乱に乗じて、江戸城に押し入り、静寛院宮(せいかんいんのみや※和宮)と天璋院(てんしょういん※島津斉彬の養女)を連れ去る計画が密かに薩摩藩邸内で進められているというものであった。この風評が流れてまもない23日に江戸城二の丸が全焼する騒ぎが起き、この風評は現実味を帯び、旧幕府側を大いに刺激した。これでも動かない旧幕府に対して、相楽たちは大胆にも江戸薩摩藩邸近くにある庄内藩屯所に向けて発砲する事件を起こした。これには、庄内藩も怒り浸透となり、ついに旧幕府側もしびれを切らして、庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲し、実行犯の捕縛を開始した。
庄内藩兵は、大砲で薩摩藩邸を焼き打ちし、藩邸内にいた150名の藩士や浪士たちと斬り合いとなった。この斬り合いで薩摩藩側は三分の一ほどが討死にし、益満ら多くの者が捕縛された。かろうじて包囲を破り脱出した者は伊牟田ら30名ほどで、彼らは薩摩藩船・翔鳳丸(しょうほうまる)に飛び乗り、追撃してくる旧幕府軍艦を振り切り、大坂へと急行した。
この江戸での薩摩藩邸焼き打ちの報せは、京都・大坂にも届けられ、以外にも新政府側よりも旧幕府軍側を大いにあおる結果となった。旧幕府軍は江戸の同志たちに遅れては成らないとはやり、新政府に攻撃する構えを見せた。
この時、大坂城にいた慶喜ら旧幕府側は、懸命の巻き返し工作で、旧幕府・諸藩による資金提供をもって、新政府への参加を認められる話にまでこぎつけていた。莫大な資金提供をする形で国政に携われるとなれば、400万石を領有する徳川慶喜が政権主導を握ることを意味していた。岩倉・大久保たちは頑としてこの案件を否定したが、慶喜の巧みな巻き返し工作には勝てず、慶喜中心の政権もまじかとなっていた。
そんな情勢の中、江戸薩摩藩邸焼き打ち事件の報が京都・大坂に飛び込んできた。慶喜は「しまった!」と叫んだ。もはや後の祭りだった。岩倉ら反幕府派たちに討幕の口実を与えてしまったのだ。大坂城にいた旧幕府軍は興奮の極地に達し、もはや慶喜とて抑えることができない状態となっていた。
慶喜は旧幕府軍の勢いを止めることができない以上、一戦交える以外にないと考え、1月1日に薩摩藩の罪状を列挙して、奸臣の引き渡しを要求した。もし、この要求が聞き入れられないのであれば、征伐するとして、「討薩の表」を朝廷に提出しようとし、この行動を諸藩にも伝え、援軍を要請した。
こうして、2日には、老中格・大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、若年寄並・塚原昌義を副総督とする旧幕府軍1万5000が大坂から進発した。その後、淀に本営を起き、京都の情勢を見た。ついで、会津藩兵を先鋒とする旧幕府軍が伏見に集結し、幕府陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげかた)を指揮官とした。新選組など幕吏も吸収して、伏見奉行所を本営とした。
慶喜が入京し、参内するのを待っていた松平慶永らは、旧幕府軍が大坂を進発したことを聞き、慌てて京都に進撃しないよう使者を送ったが、間に合わなかった。幕府軍は鳥羽・伏見の地に集結し、今にも京都へなだれ込もうと意気込んでいた。
この旧幕府軍の進撃を見た西郷や大久保は喜んだ。旧幕府を討幕する口実を得たのだ。西郷たち反幕府派の志士たちにとって、慶喜が京都に入り、参内すれば、討幕はもはや不可能となることを知っていた。西郷たち反幕府派の志士たちの立場も危うくなる。それが、旧幕府軍の軽挙によって、西郷たちは息を吹き返した。
大久保は岩倉・三条たちを説き伏せて、討幕の決断をうながし、三職以下百官の緊急会議を開き、徳川家を朝敵と見なし、旧幕府組織を討幕する決議を得た。
この緊迫した情勢の中、鳥羽・伏見の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)ともいうべき戦闘が2日夜に起きた。大坂を出港した薩摩藩の汽船・平運丸が幕府軍艦奉行・榎本武揚が率いる開陽丸・蟠竜丸(ばんりゅうまる)に突然、砲撃された。翌朝になって薩摩藩側は抗議したが、榎本は江戸薩摩藩邸を焼き打ちした時からすでに交戦状態にあるとして取り合わなかった。
さらに4日には紀淡海峡(きたんかいきょう)で薩摩藩の軍艦・春日丸と幕府軍艦・開陽丸とが遭遇して、砲撃戦となった。春日丸は戦線離脱をしたが、一緒に航行していた翔鳳丸は阿波で座礁し、乗組員は船を焼いて陸に逃れた。
伏見の地では、3日早朝から伏見奉行所に本営を置く会津藩軍に対して、新政府軍は道路を一本隔てた場所に布陣し、対峙した。新政府軍の中央には長州藩軍、西には土佐藩軍、東には薩摩藩軍が配置した。この新政府軍の布陣を見た旧幕府軍の指揮官・竹中重固は、徳川慶喜が入京するため先発隊が通過すると新政府軍に使者を送ったが、新政府軍は朝廷の指示があるまで通せないと要求を突っ返した。こうして、押し問答がしばらく続いた。
一方、鳥羽の地では、桑名藩軍や京都見廻組などが中心となっている旧幕府軍別働隊が鳥羽街道を北上していた。これに対して、新政府軍は薩摩藩軍が中心となって、鳥羽街道の起点である四塚関門から南下をはじめ、鴨川(かもがわ)にかかる小枝橋を渡り、東側に布陣した。この場所から旧幕府軍を迎撃する態勢を取った。
午後4時ごろになって、赤池まで進軍してきた旧幕府は、これに対峙する薩摩藩軍に通せと通達したが、通さぬと薩摩藩は要請を却下した。こうして、鳥羽・伏見の地では通過をめぐって、押し問答が続いた。
この押し問答にしびれを切らした鳥羽の旧幕府軍は、幕府大目付・滝沢具挙(たきざわともたか)が強行突破を決断し、部隊を進軍させた。午後5ごろであった。旧幕府軍が強行突破を敢行したことを知った薩摩藩軍は一斉砲撃を開始し、ついに鳥羽・伏見の戦いの戦端が開かれた。街道を進軍していた旧幕府軍に薩摩藩の至近弾が炸裂し、旧幕府軍歩兵部隊は隊列を乱したが、見廻組などの刀槍部隊が新政府軍に斬り込んで行った。旧幕府軍はこの戦闘で甚大な被害を受けたが、勇敢に戦い続け、夜になっても両軍は激しい応戦を繰り返した。
一方、鳥羽街道での砲撃音は伏見にも届き、伏見の地でも戦端が開かれた。幕府軍は伏見奉行所の正門を開き、新政府軍に対して白兵戦を展開した。これに対して、長州藩軍と薩摩藩軍は砲撃で応戦し、伏見方面の旧幕府軍本営が置かれている伏見奉行所を激しく砲撃した。伏見の地での戦闘では、抜刀して勇敢に斬り込んでくる新選組や会津藩軍のために新政府軍は押されぎみであったが、砲撃による巧みな攻撃で、次々と敵の勇将を討ち取り、旧幕府軍の攻撃は次第に弱まっていった。深夜になると新政府軍の優勢が明白となり、旧幕府軍は多大な戦死者を出したため、淀城に向けて、撤退を開始した。
この戦いで旧幕府軍は、西洋兵器を持った陸軍を持っていたが、指揮官にこの精鋭部隊を指揮する能力や知識、経験などが欠落していたため、威力を存分に発揮させられなかったことが敗因につながった。新政府軍はたかだか1000名ほどの小勢であったが、全てが最新式銃と西洋戦術の訓練を受けていたため、戦闘が巧みであった。
翌日4日に再び、旧幕府軍は鳥羽・伏見の地へ進軍した。伏見の地では旧幕府軍は高瀬川付近で新政府軍に迎撃され、あっさりと敗走した。高松藩軍などは攻撃することなく、武器弾薬を放り出して敗走したという。伏見方面では、旧幕府軍はよく善戦して、優勢に戦況を進めていたが、伏見方面の旧幕府軍を早々に打ち破った新政府軍が援軍に駆けつけてきて、伏見方面の旧幕府軍側面を攻撃した。これで陣形が崩れた旧幕府軍は仕方なく後退し、再び進軍することはなかった。
翌日5日には、鳥羽・伏見の地から後退して、淀城を拠点として防戦しようと旧幕府軍は淀の地へと向かったが、淀藩は旧幕府軍の入城を拒否した。淀藩は幕府老中・稲葉正邦が藩主であったが、戦乱を藩内に持ち込まれることを嫌って、旧幕府軍を見捨てる姿勢をとった。
やむを得ず、旧幕府軍は木津川大橋を渡って、八幡・橋本まで後退したが、行き場を失ったことで戦意は著しく低下した。特に幕府老中から見捨てられたことで旧幕府軍は大きな衝撃と失望を受けていた。
翌日6日には、新政府軍が後退する旧幕府軍を追撃してきたため、旧幕府軍は応戦態勢を取ったが、味方の津藩から側面を銃撃され、敗走した。淀・津藩から裏切られた旧幕府軍は、総崩れとなり、大坂城まで逃げ帰った。あと一歩で、旧幕府を中心とする政権を確立できたはずが、旧幕府軍の暴走により、好機を不意にした慶喜は、旧幕府軍が戦闘中、ずっと大坂城にこもり、情勢をただ見守るだけだった。大坂城に逃げ帰った旧幕府軍は、気勢を挙げて、再度新政府軍と戦う旨を慶喜に伝えた。負けることがわかっている戦争にやる気が起こらない慶喜は、自ら旧幕府軍を率いて出陣すると偽って、旧幕府軍が戦闘準備を成している間に、松平容保らを引き連れて、密かに大坂城を出て、海路幕府の軍艦で江戸へと逃走した。旧幕府軍の総大将である慶喜が逃亡したと知った旧幕府軍兵は「こんなことだから300年続いた幕府を3日で潰してしまうのだ」と非難の声を挙げた。旧幕府軍は大坂城を撤退し、江戸へと向かった。大坂城はもぬけの殻となったが、この時、大坂城中から金貨18万両を榎本武揚は、軍艦・富士山丸に運び入れ、江戸へと向かった。
この鳥羽・伏見の戦いは、徳川慶喜にとっては、生涯忘れられない悔しい出来事となった。もしも、旧幕府軍の暴挙がなければ、旧幕府・諸藩の体制を維持したまま、新政権に参加し、新政権の中で主導権を慶喜が取れた可能性が高かったからだ。この時は、西郷ら反幕府派たちは、政権の主導権を慶喜ら旧幕府側に奪われる危険があった。しかし、旧幕府軍の挙兵によって、西郷たちは、討幕の大義名分を得て、新政府は西郷たちが主導権を握り、運営していくこととなった。その意味で、鳥羽・伏見の戦いは、政権の主導権争奪戦という裏舞台が隠れていた非常に重要な政治局面に起こった戦争だった。この戦争によって、旧幕府組織は解体の一途をたどることとなる。逆に新政府側は、戊辰戦争を経て、大きな組織へと急成長していったのである。 
 

 

西国及および東海の状況
西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間では福山藩を除きほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。東海地方および北陸地方では尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へおくり勤皇証書を出させ日和見的立場から中立化に成功した。
東海
鳥羽・伏見の戦直前の1月2日、新政府は近江方面から旧幕府軍に京都を挟み撃ちにされることを警戒して橋本実梁に大津防衛を命じて、先発として大村藩兵が3日に大津に入る。旧幕府軍は大津侵攻を回避したために挟み撃ちの危険性が減少した5日、新政府は改めて橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じた。ところが、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩がこの段階で尊王に藩論を転換させて大津防衛の援軍を派遣しており同藩への出兵の必要性がなくなったことから、9日には大津にて桑名藩の征討に移った。膳所藩・水口藩の協力もあって大津など南近江一帯が新政府の掌握下に置かれると、本格的な東進が開始され、22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。藩主の座から追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の「勅命により死を賜る」との命により青松葉事件がおき、藩論は勤皇に一本化された。2月になると東海道鎮撫総督は東海道先鋒総督兼鎮撫使と改められて東進を開始、東海道最大の雄藩である尾張藩が尊王に転じた事をきっかけに2月末までに小田原藩以西の全ての藩が恭順を誓ったこともあり、大きな衝突もなく東進することが出来た。
東山道(中山道)
1月9日岩倉具定を東山道鎮撫総督に任じ、21日に京都を出発した。なお、大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩は定府大名が多く、江戸の居住そのものが旧幕府への加担としての疑惑を持たれたことから、沿道諸藩は対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗を行わず、藩主が鎮撫総督に恭順の意思を示したことで一旦下された謹慎や所領没収などの処分は解除されている。むしろ、北関東に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した世直し一揆などの動きへの対応に迫られることになった。
丹波・山陰道
すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。
四国の状況
公議政体派から勤皇を旨とする武力討幕派へ藩論を統一した土佐藩士・板垣退助の迅衝隊を主力部隊として、丸亀藩・多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。27日には残る伊予松山藩も開城し、四国を無血開城せしめて勤皇支持に統一された。
ところが、翌28日になって伊予松山城に近い三津浜に堅田大和・杉孫七郎率いる長州藩軍が上陸した。これは征討府における土佐藩と長州藩の合意に基づく出兵だった。しかし、この情報を知らされていなかった土佐藩本国の部隊は同藩が四国進出を目論むものと考えて激しく反発して協力を拒絶した。新政府内部の調整によって最終的に四国に関しては土佐藩に一任することとなり、3月3日に長州藩軍は三津浜から撤退して本州に帰還した。
中国路の状況
長州藩兵は上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し福山城に砲撃を加え、籠城する福山藩兵と銃撃戦を開始するが、家老・三浦義建及び御用係・関藤藤陰は長州に恭順の意を示したことから、勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政・山田方谷は城を無血開城した。姫路藩は藩主・酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守で、在藩家臣が降伏している。
九州の情勢
正月14日、長崎奉行・河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩・大村藩・薩摩藩・福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。日田代官所にあった西国郡代の窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中・小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主・小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。また、これとは別に薩摩藩は勤王と新政府への支持を表明する誓書の提出を対馬藩以外の九州全藩に求め、2月末までに唐津藩や鳥羽・伏見の戦いで敵対したとされた延岡藩、他の佐幕派である高鍋藩・府内藩も含めた全藩がこれに応じており、この時点で九州諸藩は全て勤王に転じたと言える。残された延岡藩の朝敵認定の解除問題も4月に藩主・内藤政挙が上京して短期の謹慎の後に赦免されたことで解決されることになった。
江戸への進軍
甲州勝沼および野州梁田の戦い
江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。
旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。
一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に対して、朝霧に紛れて三方からの奇襲攻撃をしかけた。幕府軍は応戦し、梁田宿一帯で市街戦が起こった。最終的には幕府軍の敗北で決着がついた。この戦いは梁田戦争とも呼ばれ、戊辰戦争の東日本における最初の戦いと称される。
江戸城無血開城
駿府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使ハリー・パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。
恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣・山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は「慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること」「江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること」等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。
船橋の戦い
慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。
宇都宮城の戦い
江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大挙して江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫・香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁で下総国流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発、途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。
上野戦争
徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・彰義隊があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝にとって、一定の成果ではあった。しかし実際は彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。江戸城会談での当事者となった西郷隆盛は、勝との関係から彰義隊等への対応が手ぬるいとの批判を受けた。大総督府は西郷を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。5月1日、大村は旧幕府による江戸府中取締の任を解いた。
東北地方・北海道・新潟で仙台藩藩主・伊達慶邦らにより奥羽列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日(同7月4日)、新政府軍は彰義隊を攻撃し上野戦争が始まった。兵砲学者出身の大村益次郎は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。
 

 

東北戦争
新政府の会津藩・庄内藩の処遇
文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主・松平容保及び桑名藩主・松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。
また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
奥羽越列藩同盟の成立
慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。
2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。
3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督・九条道孝、副総督・沢為量、参謀・醍醐忠敬、下参謀の世良修蔵と大山綱良を数えることができる。3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。
4月19日、藩主・伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。4月23日、沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍は庄内藩を攻撃した。しかし庄内藩が勝っており閏4月4日、庄内藩が天童城を攻め落とした。
4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。閏4月4日、仙台藩主席家老・但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した。そして藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。
閏4月20日、仙台藩で藩家老の命令によって世良修蔵が殺害され、続いて新政府軍部隊も殺害された。九条総督・醍醐参謀らは仙台城下に軟禁された。これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。
ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟が誕生したが、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。
輪王寺宮と幻の仙台朝廷
6月に上野戦争から逃れてきた孝明天皇の義弟・輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。
また仙台藩と会津藩には輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があったとされるが、史料が限られており、輪王寺宮の即位の有無は議論がある。また仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定だったとされる。
秋田・庄内戦線(庄内戦争)
列藩同盟の成立
新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。その後列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。
新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を仙台藩に派遣した。閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったために仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。
5月18日、前山と救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主・南部利剛は1万両を献金したが態度は曖昧なままだった。続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。沢為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖されており、そのため奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩にとどまることになった。そのため、結果的に総督府一行は久保田藩で合流することになった。
秋田戦争
久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の拠点となった。
久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。新庄藩の新政府軍への恭順に対して戦力の充実していた庄内藩は7月14日、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。さらに、庄内藩、仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で久保田城の目前にまで迫った。
また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することを決定し、8月9日に盛岡藩は久保田藩に攻め込み、大館城を攻略した。
9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日庄内藩は降伏した。盛岡藩兵は久保田藩に援軍が到着すると、藩境まで押し戻され、その後奥羽越列藩同盟の敗北に伴い降伏した。
白河戦線
白河市は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点でこの地は新政府の管理下となっていた。仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同日の閏4月20日、会津軍と仙台藩は呼応して白河城を新政府から奪い取った。
しかし5月1日、伊地知正治率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。
以後100日余りに渡って攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかったが、会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍4500人弱は7次にわたって白河城の奪取を試み失敗に終わった。この戦いで両軍併せ約1,000人の死者が出た。
北越戦争
越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。5月2日、新政府軍の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた各種支援の受け入れを拒否し、獨立特行の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府への権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。
長岡藩は河井により兵制改革が進められ武装も更新されていた。同盟軍は河井の指揮下で善戦したが5月19日に長岡城が落城。7月25日に同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたが(八丁沖の戦い)、この際指揮をとっていた河井が負傷(後に死亡)した。新政府軍はすかさず長岡城を再奪取し、4日後の29日に長岡藩兵は撤退した。一方、新政府軍が軍艦で上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。
平潟戦線
平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩だった。6月16日から20日にかけて官軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。
当時、榎本武揚の旧幕府艦隊は健在だったが、官軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、官軍の兵力は約1,500人となった。
6月24日、総督・板垣退助が率いる官軍の迅衝隊が白河から平潟との中間にあった棚倉城を接収した。さらに7月14日、迅衝隊は海岸に近い磐城平城を占領(平城の戦い)。16日には断金隊々長・美正貫一郎の尽力によって、三春藩が迅衝隊に進んで降伏し無血開城し、三春城は官軍の病院としての一翼をになった。22日に仙台追討総督四条隆謌が増援を率いて平潟に到着、29日に二本松城を三春城から北上した官軍が占領した(二本松の戦い・二本松少年隊)。8月7日、相馬中村藩が官軍に降伏。四条隆謌と参謀河田景与・木梨精一郎らは相馬藩兵を加えて単独で仙台方面へ侵攻、11日に藩境の駒ヶ嶺を占拠、ここで仙台藩と戦闘を繰り広げた。
白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが官軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。官軍総司令官・大村益次郎(長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。
東北戦争の終結
8月21日、二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。
9月4日、米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり10日に仙台藩は新政府に降伏、22日に会津藩も新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、24日に新政府に降伏した。
箱館戦争
榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。出航が遅れたのは、徳川慶喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容し、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。
榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。その後、新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。
 

 

戦後処理
慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる
戦功賞典 / 永世禄
10万石:島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)
4万石:山内豊信父子(土佐)
3万石:池田慶徳(鳥取)、戸田氏共(大垣)、大村純熈(大村)、島津忠寛(佐土原)、真田幸民(松代)
2万石:佐竹義尭(久保田)、藤堂高猷(津)、井伊直憲(彦根)、池田章政(岡山)、鍋島直大(佐賀)、毛利元敏(長府)、松前兼広(松前)
1万5千石:前田慶寧(金沢)、戸沢正実(新庄)、徳川慶勝父子(尾張)、浅野長勲(広島)、大関増勤(黒羽)
1万石:松平慶永父子(福井)、六郷政鑑(本荘)、榊原政敬(高田)、津軽承昭(弘前)、戸田忠恕父子(宇都宮)、黒田長知(福岡)、有馬頼咸(久留米)、秋元礼朝(館林)など
処分された藩
仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。
会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。
盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。
米沢藩 - 14万石に減封(18万石)
庄内藩 - 12万石に減封(17万石)
山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。
二本松藩 - 5万石に減封(10万石)
棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)
長岡藩 - 2万4千石に減封(7万4千石)。すでに死亡していた処刑が相当の家老2名は家名断絶とされた。
請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主・林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。
一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)
上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)
福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)
亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)
天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)
泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)
湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)
所領安堵となった藩
八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想に参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。
村松藩 - 家老1名が処刑された。
村上藩 - 家老1名が処刑された。
磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
三春藩
新発田藩
三根山藩
黒川藩
下手渡藩 - 下手渡の陣屋が仙台藩に攻撃されたため、旧領である筑後国三池に陣屋を戻して三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。
明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老・但木成行、仙台藩江戸詰め家老・坂英力、会津藩家老・萱野長修は東京で、盛岡藩家老・楢山佐渡は盛岡で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老の玉虫左太夫と若生文十郎が切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。
会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩は斗南3万石に転封となった。明治2年8月、当時若松県大参事だった岡谷繁実による猪苗代での会津藩5万石の再興の提言を受け、明治政府は明治2年9月11日に会津松平家を3万石で存続させることを許し、11月3日に封地を陸奥に決定した。下北半島の郷土史家の笹沢魯羊によると、転封地に関して新政府が斗南か猪苗代の選択肢を示し、会津藩内の議論の末、広沢安任の主張を採択して斗南を選択したと記述し、それが多くの書籍で引用されている。一方で野口信一は、猪苗代説の元史料の存在は認められず、議論は南部領への移住そのものに対する議論であると主張している。
斗南は元々南部藩時代より米農家以外は金・銭での納税が認められている土地で、実際に年貢として納められた米は7310石だった。収容能力を超えて移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。
庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。前庄内藩主・酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。
奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。
箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。
遺恨
戊辰戦争には様々な遺恨が語られている。
交戦した新政府軍と旧幕府軍の対立はもとより、奥羽越列藩同盟における内部分裂からの遺恨も目立つ。とくに、戦争の遺恨について語られるのが会津藩である。会津藩は開戦以前から薩長と対立しており、新政府に対する敵意は強く、戦後処理を担当した福井藩の対応にも怨恨を抱いていた。
後の西南戦争の際には、政府軍として参戦した旧会津藩士が「戊辰の仇」と叫びながら薩軍に突撃した、という俗説が生まれるなど旧敵に対する遺恨の話は多い。現代でも、太平洋戦争後に書かれた歴史小説などの影響で、山口県や鹿児島県を敵視する風潮があるとも言われる。
地域においては、奥羽越列藩同盟に残った藩と離脱した藩との間に確執がある。
戊辰戦争で降伏した亀田藩と盛岡藩は、新政府側についた久保田藩に所領の一部を割譲された。久保田藩の後身である秋田県は、昭和5年に県歌として秋田県民歌を制定したが、曲の3番が久保田藩の勝利を称えるというものであったことから、元々亀田藩と盛岡藩の所領だった地域は受け入れられず、この歌を忌避したとされる。現在は2番までを歌うのが通例となっている。
平成12年には、秋田県で開かれた「戊辰戦争百三十年in角館」で、当時の宮城県白石市長である川井貞一が久保田藩の寝返りを批判した。
また、福島県には、列藩同盟を離脱した三春藩を「三春狐」と揶揄する歌が伝わっている。  

江戸開城1

 

江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)とも江戸無血開城(えどむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。
背景
戊辰戦争勃発と慶喜追討令
慶応3年(1867年)10月大政奉還により政権を朝廷へ返上した15代将軍徳川慶喜は、新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、討幕派の公家岩倉具視や薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らが主導した12月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。慶喜はいったん大坂城に退くが、公議政体派の山内容堂(前土佐藩主)・松平春嶽(前越前藩主)・徳川慶勝(前尾張藩主)らの工作により、小御所会議の決定は骨抜きにされ、また慶喜も諸外国の公使に対して外交権の継続を宣言するなど、次第に列侯会議派の巻き返しが顕著となってきた。 大政奉還の少し前の慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩と長州に下される。江戸薩摩邸の活動も討幕の密勅を受けて活発化して定め書きを書いて攻撃対象を決めた。攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。江戸薩摩藩邸の益満休之助・伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて攪乱工作を開始。 しかし、慶応3年10月14日、同日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。 既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝える。 ただそれでも江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていた。江戸市中警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。
この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(鳥羽・伏見の戦い)。しかし戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。そのため淀藩・津藩などが旧幕府軍から離反し、慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。
新政府は7日徳川慶喜追討令を発し、10日には慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を没収するなどの処分を行った。翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。また21日には外国事務総督東久世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わないよう要請した。これを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。
旧幕府側の主戦論と恭順論
正月11日、品川に到着した慶喜は、翌12日江戸城西の丸に入り今後の対策を練った。慶喜はひとまず13日歩兵頭に駿府(現静岡市)警備、14日には土井利与(古河藩主)に神奈川(現横浜市)警備を命じ、17日には目付を箱根・碓氷の関所に配し、20日には松本藩・高崎藩に碓氷関警備を命令。さらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つの選択肢があった。
勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭並の榎本武揚らは主戦論を主張。小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、兵力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう。19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請をしている(後述)。続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた。
若年寄 : 平山敬忠、川勝広運陸軍総裁 : 勝義邦(海舟)、副総裁 : 藤沢次謙海軍総裁 : 矢田堀鴻、副総裁 : 榎本武揚会計総裁 : 大久保忠寛(一翁)、副総裁 : 成島柳北外国事務総裁 : 山口直毅、副総裁 : 河津祐邦
このうち、庶政を取り仕切る会計総裁大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。この時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。27日、慶喜は徳川茂承(紀州藩主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。さらに2月9日には鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分、翌日には同戦いによって新政府から官位を剥奪された松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じた。12日、慶喜は江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送った。
新政府側の強硬論と寛典論
新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた。大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる。このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。
一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。
新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。2月9日には新政府総裁の熾仁親王が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。大総督府参謀には正親町公董・西四辻公業(公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている この頃にはすでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。実際、これらの条件も前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった 。
徳川家側の動き
諸隊の脱走と抗戦
2月5日には伝習隊の歩兵400名が八王子方面に脱走(後に大鳥圭介軍に合流する)。また2月7日夜、旧幕府兵の一部(歩兵第11・12連隊)が脱走。これらは歩兵頭古屋佐久左衛門に統率されて同月末、羽生陣屋(埼玉県羽生市)に1800人が結集し、3月8日には下野国簗田(栃木県足利市梁田町)で東征軍と戦って敗れた(古屋はのちに今井信郎らと衝鋒隊を結成し、東北戦争・箱館戦争に従軍する)。
また、新選組の近藤勇・土方歳三らも甲陽鎮撫隊と称して、甲州街道を進撃し、甲府城を占拠して東征軍を迎撃しようと試みるが、3月6日勝沼で東征軍と戦闘して敗れ(甲州勝沼の戦い)、下総流山(千葉県流山市)へ転戦した。
これらの暴発は、陸軍総裁・勝海舟の暗黙の承認や支援を得て行われており、いずれも兵数・装備の質から東征軍には全く歯が立たないことを見越したうえで出撃していた。恭順への不満派の江戸からの排除という目的もあったと思われる。
天璋院・静寛院・輪王寺宮の歎願
13代将軍徳川家定正室として江戸城大奥の総責任者であった天璋院(近衛敬子)は、薩摩の出身で島津斉彬の養女であり、また明治天皇の叔母にあたる14代将軍徳川家茂正室の静寛院宮(和宮)も東征大総督有栖川宮とかつて婚約者であり、かつ東海道鎮撫総督の橋本実梁と従兄妹の間柄であったことから、それぞれ大総督府首脳部との縁故があった。また上野寛永寺には前年に輪王寺門跡を継承した公現入道親王(後の北白川宮能久親王)がおり、慶喜はこれらの人物を通じて、新政府や大総督府に対し助命ならびに徳川家存続の歎願を立て続けに出している。
正月21日、静寛院は慶喜の歎願書に伯父・橋本実麗、従兄・実梁父子宛の自筆歎願書を添え、侍女の土御門藤子を使者として遣わした。東海道先鋒総督の橋本実梁は、2月1日に在陣中の桑名(三重県桑名市)でこの書状を受け取る。しかし、下参謀西郷隆盛はいかに和宮からの歎願であったとしても所詮は賊徒からの申し分であるとして歯牙にもかけず、知らせを受けた京都の大久保もまた同意見であった。土御門藤子はやむなく上京し、6日に入京、議定長谷信篤・参与中院通富らに静寛院の歎願を訴えた結果、万里小路博房から岩倉具視へも伝わり、16日橋本実麗に対して口頭書ながら徳川家存続の内諾を得、18日に京都を発った藤子は2月30日に江戸へ戻り、静寛院に復命している。
いっぽう輪王寺宮公現入道親王は2月21日、江戸を発って東海道を西に上り、3月7日には駿府で大総督熾仁親王と対面し、慶喜の謝罪状と自身の歎願書を差し出したが、参謀西郷隆盛・林通顕らがかえって甲陽鎮撫隊による抗戦を厳しく咎め、12日には大総督宮から歎願不採用が申し下された。
また、天璋院は慶喜個人に対してはあまり好感情を持っていなかったといわれるが、徳川家存続には熱心であり、「薩州隊長人々」に宛てて歎願書を記し、さらに3月11日には東征軍への使者として老女を遣わしている。天璋院の使者たちは13日に西郷隆盛と面会し、同19日には西郷から天璋院に嘆願を受け入れる旨の連絡があった。なお、山岡鉄舟はこれらの使者の働きがほとんど影響を与えなかったと考えていたようである。
これらの歎願は、下参謀西郷隆盛らに心理的影響を与えた可能性があり、幕末の大奥を題材とした小説やドラマなどでは、積極的にエピソードとして採用されている。
山岡鉄太郎の準備交渉
差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を護衛していた高橋泥舟の義弟で精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)が、3月9日慶喜の意を体して、駿府まで進撃していた大総督府に赴くこととなった。山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問する。
勝は山岡とは初対面であったが、一見してその人物を大いに評価し、進んで西郷への書状を認めるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助を護衛につけて送り出した(山岡と益満は、かつて尊王攘夷派の浪士清河八郎が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知であった)。
山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、下参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。ここで初めて東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされたのである。このとき江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されたのは以下の7箇条である。
1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2.江戸城を明け渡すこと。
3.軍艦をすべて引き渡すこと。
4.武器をすべて引き渡すこと。
5.城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
これは去る6日に大総督府軍議で既決していた「別秘事」に(若干の追加はあるものの)概ね沿った内容である。山岡は上記7箇条のうち第一条を除く6箇条の受け入れは示したが、第一条のみは絶対に受けられないとして断固拒否し、西郷と問答が続いた。ついには山岡が、もし立場を入れ替えて西郷が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するかと詰問すると、西郷も山岡の立場を理解して折れ、第一条は西郷が預かる形で保留となった。
山岡はこの結果を持って翌10日、江戸へ帰り勝に報告。西郷も山岡を追うように11日に駿府を発って13日には江戸薩摩藩邸に入った。江戸城への進撃を予定されていた15日のわずか2日前であった。
焦土作戦の準備
勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。1812年にナポレオンの攻撃を受けたロシア帝国がモスクワで行った作戦を参考にしたというが、それとは異なりいったん火災が発生した後はあらかじめ江戸湾に集めておいた雇い船で避難民をできるだけ救出する計画だったという。勝は焦土作戦を準備するにあたって、新門辰五郎ら市井の友人の伝手を頼り、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭の家を自ら回って協力を求めたという。これらは後年の勝が語るところであるが、勝は特有の大言癖があるため、どこまでの信憑性があるかは不明である。しかし、西郷との談判に臨むにあたってこれだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じたと回顧している。
勝・西郷会談
山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁、陸軍総裁・勝海舟と、大総督府下参謀・西郷隆盛との江戸開城交渉は、田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において、3月13日・14日の2回行われた。小説やドラマなどの創作では演出上、勝と西郷の2人のみが面会したように描かれることが多いが、実際には徳川家側から大久保や山岡、東征軍側から村田新八・桐野利秋らも同席していたと思われる。
勝と西郷は元治元年(1864年)9月に大坂で面会して以来の旧知の仲であり、西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもあった。西郷は徳川家の総責任者が勝と大久保であることを知った後は、交渉によって妥結できるであろうと情勢を楽観視していた。
この間、11日には東山道先鋒総督参謀の板垣退助(土佐藩)が八王子駅に到着。12日には同じく伊地知正治(薩摩藩)が板橋に入り、13日には東山道先鋒総督岩倉具定も板橋駅に入って、江戸城の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。しかし西郷は血気にはやる板垣らを抑え、勝らとの交渉が終了するまでは厳に攻撃開始を戒めていた。
第一回交渉(3月13日)
江戸に到着したばかりの西郷と、西郷の到着を待望していた勝との間で、3月13日に行われた第一回交渉では静寛院宮(和宮)の処遇問題と、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認のみで、突っ込んだ話は行われず、若干の質問・応答のみで終了となった。
第二回交渉(3月14日)
3月14日の第二回交渉では、勝から先般の降伏条件に対する回答が提示された。
1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
4.城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
5.江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
6.暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。
これは、以前に山岡に提示された条件に対する全くの骨抜き回答であり、事実上拒否したに等しかったが、西郷は勝・大久保を信頼して、翌日の江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。ここに、江戸城無血明け渡しが決定された。この日、京都では天皇が諸臣を従えて自ら天神地祇の前で誓う形式で五箇条の御誓文が発布され、明治国家の基本方針が示されている。
「パークスの圧力」
西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、進撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。
正月25日の局外中立宣言後、パークスは横浜に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、公使館通訳アーネスト・サトウを江戸へ派遣して情勢を探らせるいっぽう、3月13日(1868年4月5日)午後には新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣している。
東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止したという。またパークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したという。このパークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったというものである。
ただしパークスの発言が実際に、勝と交渉中の西郷に影響を与えたかどうかについては不明である。そもそも上記のパークス・木梨の会談が行われたのがいつのことであるかが鮮明ではない。主に3月13日説をとる史料が多いが、14日説をとるもの、日付を明示していないものもある。しかし、いずれもパークスが先日上方へ軍艦を派遣した後に面会したと記載されている。パークスによる軍艦派遣は西洋暦4月5日すなわち和暦3月13日であることが確実なため、会談自体は3月14日以降に行われたと考えざるをえない。となると、前述の3月14日夕刻まで行われた第2回勝・西郷会談と同日になってしまうため、事前にパークスの発言が西郷の耳に届いていたとは考えがたい。そのため萩原延壽は、「パークスの圧力」は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用したのではないかと述べている。事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている。パークスの話を西郷に伝えた渡辺清も、後に同様の意見を述べている。
江戸城明け渡し
西郷の帰京と方針確定
勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京し、3月20日にはさっそく朝議が催された。強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも驚きをもって迎えられた。
西郷の提議で勝の出した徳川方の新条件が検討された。第一条、慶喜の水戸謹慎に対しては政府副総裁の岩倉具視が反対し、慶喜自ら大総督府に出頭して謝罪すること、徳川家は田安亀之助(徳川慶頼の子)に相続させるが、北国もしくは西国に移して石高は70万石ないし50万石とすることなどを要求した。しかし結局は勝案に譲歩して水戸謹慎で確定された。第二条に関しても、田安家に江戸城を即刻返すという勝案は却下されたものの、大総督に一任されることになった。第三・四条の武器・軍艦引き渡しに関しては岩倉の要求が通り、いったん新政府軍が接収した後に改めて徳川家に入用の分を下げ渡すことになった。第五・七条は原案通り。第六条の慶喜を支えた面々の処分については副総裁三条実美が反対し、特に松平容保・松平定敬の両人に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張した。結局は会津・桑名に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正された。この決定が後の会津戦争に繋がることになる。修正・確定された7箇条を携えて、西郷は再び江戸へ下ることとなった。
この間の3月23日、東征軍海軍先鋒大原重実が横浜に来航し、附属参謀島義勇(佐賀藩士)を派遣して徳川家軍艦の引き渡しを要求したが、勝は未だ徳川処分が決定していないことを理由にこれを拒否している。勝としては交渉相手を西郷のみに絞っており、切り札である慶喜の身柄や徳川家の軍装に関して、西郷の再東下より前に妥協するつもりはなかったためである。
3月28日、西郷は横浜にパークスを訪問し、事の経緯と新政権の方針を説明している(なおその前日には勝もパークスを訪問している)。パークスは西郷の説明に満足し、ここに「パークスの圧力」は消滅した。
城明け渡しと慶喜の水戸退去
江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。橋本らは大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。そして9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去。11日には慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大総督府が接収した。
それより前、4月8日に東征大総督熾仁親王は駿府を発し、同21日江戸城へ入城。ここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。また京都では4月9日、明治天皇が紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を平定したことを報告している。
榎本艦隊脱走
海軍副総裁の榎本武揚は徳川家に対する処置を不満とし、約束の軍艦引き渡しを断固拒否していたが、徳川慶喜が寛永寺から水戸へ移った4月11日、抗戦派の旧幕臣らとともに旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から出港し、館山沖に逃れた。結局、勝の説得により艦隊はいったん品川に戻り、新政府軍に4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)を渡すことで妥協したが、これにより降伏条件は完全には満たされなくなった。その後も再三にわたり勝は榎本に自重を求めたが、徳川家に対する処分に不服の榎本はこれを聞かず、結局8月19日に8隻(開陽・回天・蟠竜・千代田形・神速・長鯨・美賀保・咸臨)を率いて東征軍に抵抗する東北諸藩の支援に向かった。後に榎本らは箱館の五稜郭を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗した(→箱館戦争)。
抗戦派と上野戦争
上野戦争の図。画題は『本能寺合戦の図』となっているが、実際には上野の戦闘を描いている。
徳川家処分に不満を持つ抗戦派は、江戸近辺で挙兵するが、新政府軍に各個撃破されていくことになる。福田道直率いる撒兵隊は1500人程度で木更津から船橋へ出て東海道軍と衝突、撃破された(市川・船橋戦争)。大鳥圭介と歩兵隊は下総国府台(千葉県市川市)に集結し、新選組の土方歳三らを加えて宇都宮城を陥落させるが、東山道軍によって奪還され(宇都宮城の戦い)、日光街道を北へ逃走し、その後東北から箱館へ転戦した。
いっぽう一橋徳川家家臣の渋沢成一郎・天野八郎らは上野寛永寺に謹慎していた慶喜の冤罪を晴らし、薩賊を討つと称して幕臣などを集め、彰義隊を結成。上野の山に集結していた。江戸城留守居の松平斉民は、彰義隊を利用して江戸の治安維持を図ったが、かえって彰義隊の力が増大し、大総督府の懐疑を招く。4月11日に慶喜が上野を退去した後も、彰義隊は寛永寺に住する輪王寺宮公現入道親王を擁して上野に居座り続けた。閏4月29日関東監察使として江戸に下った副総裁三条実美は、鎮将府を設置して民政・治安権限を徳川家から奪取し、彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告した。その後、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告し、5月15日に大村益次郎率いる新政府軍が1日で鎮圧した(→上野戦争)。これらの戦いにより、抗戦派はほぼ江戸近辺から一掃された。
静岡藩の成立
関東監察使三条実美は閏4月29日、田安亀之助(後の徳川家達。6歳)による徳川宗家相続を差し許す勅旨を伝達した。ついで5月24日には駿府70万石に移封されることが発表となった。これにより新たに静岡藩徳川家が成立したが、800万石から70万石への減封によって膨大な家臣団を養うことはできなくなり、駿府へ赴いた者は15000人程度だったという。
江戸城から宮城へ
すでに大久保利通は正月下旬の時点で、京都には旧弊が多いとして大阪遷都論を政府へ提出し、木戸もこれに強く賛同している。これには公家などから反対が多く、結局大阪親征行幸の実行に留まったが、大久保・木戸らの間で遷都論は燻り続けていた。そんな中、江戸城が無血で新政府の管轄に入ったことは、遷都先として江戸が急浮上することに繋がった。
9月8日、年号が明治と改元されると、同月20日明治天皇が東京(7月に江戸から改称)行幸に出発し、10月13日に江戸城に到着。同時に名を「東京城」と改められ、東幸の際の皇居と定められた。幕府のシンボルであった江戸城に天皇が入ることで、天皇が皇国一体・東西同視のもと自ら政を決することを宣言するデモンストレーションともなった。この後、再度の東幸が行われるとともに、首都機能が京都から東京へ次々と移転。事実上東京が首都と見なされるようになり、東京城はやがて「宮城」(戦前)「皇居」(戦後)と呼ばれるようになったのである。
江戸開城の意義
当時、人口100万人を超える世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込まずにすんだことは、江戸開城の最大の成果であった。勝は後に西郷を「江戸の大恩人」と讃えている。また、江戸開城は一連の戊辰戦争の流れの中で、それまで日本の支配者であった徳川宗家が、新時代の支配者たるべき明治新政府に対して完全降伏するという象徴的な事件であり、日本統治の正統性が徳川幕府から天皇を中心とする朝廷に移ったことも意味した。諸外国の立場もこれ以降、局外中立を保ちながらも、新政府側へ徐々にシフトしていく。以後の戦いは、新政府軍の鎮撫とそれに抵抗する東北諸藩及び旧幕府勢力という構図で語られることが多くなる。また江戸時代に事実上日本の首都機能を担った江戸という都市基盤が、ほぼ無傷で新政府の傘下に接収されたことは、新国家の建設に向けて邁進しつつあった新政府にとっては、大きなメリットになったと言える。旧幕臣であるジャーナリスト福地桜痴が著書『幕府衰亡論』で江戸幕府の滅亡を江戸開城の時としているのは、そのインパクトの大きさを物語っている。
その一方で、無血開城という事実が一人歩きし、内外に戊辰戦争全体が最低限の流血で乗り越えられたといういわば虚像をも産むことになる。しかし江戸開城自体は、戊辰戦争史全体の中では序盤に位置する事件であり、それ以後の長岡・会津・箱館まで続く一連の内戦は、むしろこれ以降いっそう激化していったのであり、決して内戦の流血自体が少なく済んだわけではない。江戸城という精神的支柱を失った幕臣たちの中にも、榎本の艦隊とともに北上し、戊辰戦争を戦い続ける者たちも少なくなかった。
江戸城が無傷で開城したことは半ば予想されたこととはいえ、新政府の主要士族たちにとっては拍子抜けでもあった。なぜなら、政府内において親徳川派であった松平春嶽などの列侯会議派が常に政府の主導権の巻き返しを図ろうとしていたうえ、にわか仕立ての新政府軍は、事実上、諸藩による緩やかな連合体に過ぎず、その結束を高めるためには強力な敵を打倒するという目的を必要としていたからである。そこで諸藩の団結強化のため、江戸城に代わる敵として想定されたのが、先の降伏条件でも問罪の対象として名指しされた松平容保の会津藩(および弟の松平定敬)であり、開戦前に江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩、また去就を明らかにしていなかった東北諸藩であった。佐幕派の重鎮であった会津藩は、藩主の松平容保が恭順を示していたものの、藩内は主戦論が支配的であり武装解除も拒否していたことから、新政府は会津の恭順姿勢を信用していなかった。抗戦派を排除してまで恭順を示した徳川慶喜には、それほど強硬な処分を求めなかった木戸孝允も、会津藩を討伐しなくては新政府は成り立たないと大久保利通に述べており、大久保も賛同している。
また、江戸城とともに従来の幕府の統治機構である幕藩体制が存続することは、強力な政府の下に富国強兵を図り、欧米列強に対抗しうる中央集権的な国家を形成しようとしていた新政府にとっては、旧弊を温存することにもなりうる諸刃の剣であった。結局のところ近代国家を建設するためには、各地を支配する藩(大名)の解体が不可避であり、いったん藩地と人民を天皇に返還する手続きを取ったのち(版籍奉還)、さらに最終的には幕藩体制自体を完全解体する廃藩置県というもう一つの革命(こちらの革命は正真正銘無血で行われた)を必要としたのである。 
 
江戸開城2

 

東進を敢行する新政府軍は、3月15日を江戸総攻撃の日取りとしていた。新政府内では、江戸総攻撃を強硬に進める者と穏便に平和的解決を望む者と意見が分かれていた。江戸総攻撃を成し、徳川慶喜を死刑に処すことを強硬に主張したのは、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らであった。慶喜の死をもって、幕末動乱に終止符を打つ考えであった。それに対して、岩倉具視や木戸孝允などは、慶喜の助命を主張する、寛大論者であった。徳川家存続を天皇に奏上している。
幕府側では、強硬に徹底抗戦を主張する小栗忠順(おぐりただまさ)らと徹底恭順を主張する勝海舟・大久保一翁(おおくぼいちおう)らに意見が分かれていた。勝は熱心に恭順論を説き、その主張に納得した慶喜は、勝を陸軍総裁に任命して、事実上の幕府全権を委ねた。勝は、謝罪恭順を新政府に見せるとともに、現在の幕府が置かれている状況を新政府側に理解させる必要に迫られた。それは、幕府の統制は必ずしも、勝一人が掌握しているものではないということであった。徹底抗戦を主張した小栗忠順は、勝の謝罪恭順案に敗れると幕政を退き、自領で兵団を募るなど不穏な動きをしていた。また、江戸近辺でも幕府の弱腰を不満に思う旗本などが狼藉を働き、これに民衆も加わって、打ちこわしや一揆を起こしていた。
こうした、幕府が統制できない暴徒が多数いることを新政府側にわからせ、幕府の謝罪恭順が偽りのないことを示す必要があった。そこで、勝は山岡鉄舟を使者に抜擢し、前に起きた江戸薩摩藩邸焼き打ち事件で捕縛されていた薩摩藩士・益満休之助を釈放し、山岡の案内役とした。こうして、山岡は幕府の使者として、新政府軍に赴き、新政府の東征軍参謀となっていた西郷隆盛と面談した。西郷と山岡の話し合いの結果、後日に幕府全権の勝海舟が西郷と会談し、江戸と慶喜の処置を決めることとなった。
こうして、3月15日決行とされていた江戸総攻撃は土壇場で中止となり、20日には政府会議が開かれ、徳川家存続という方針で処分案が決められ、慶喜は死一等を減ぜられ、水戸藩へ隠退と決した。
西郷・大久保が厳罰をもって望んでいた慶喜に対する処置は、急きょ寛大論へと変化したが、これにはイギリス公使・パークスの働きかけが大きく影響していたらしい。慶喜らに対して苛酷な処分が成されれば、欧米諸国は日本の新政府を非難し、心証を悪くするだろうとパークスが忠告していたのだ。元々、将軍として一時期の間、国政を取り仕切り、欧米諸国にその名を知られていた人物を早計に処断するのは、ことの道理を著しく欠く行為であると外国人は考えていた。
この慶喜の知名度と外国人の知識人に対する処遇の扱い意識が、新政府の強硬論から寛大論へと変化させる大きな要因となったのである。4月4日に勅使一行が江戸城に入り、勅命を伝え、11日には、官軍諸隊が江戸入城を果たし、城の明け渡しは完了した。この日に慶喜は、大慈院を出て、水戸に向かい、政局の表舞台から隠退したのであった。 
 
勝海舟と西郷隆盛

 

1864年
寺田屋の過激派尊攘の薩摩藩士たちを説得する試みに失敗した西郷が久光の厳命を破ったかどで沖永良部島(おきのえらぶじま)へ流罪となり、一時、歴史の表舞台から姿を消す。
それもつかの間で1864年(元治元年)2月28日に長い牢獄生活から開放され、鹿児島へと返り咲いた。時代は一個の英雄を孤島に置きざりにできるほど安穏とはしていられなかった。3月11日には鹿児島から大坂へと赴き、伏見の寺田屋で大久保利通らの歓迎を受けた。藩邸に入った西郷は、軍賦役兼諸藩応接掛を命ぜられ、実質的に薩摩藩の全権者となった。西郷がこの重職に着任して以来、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐が勃発する。激動の時代の真っ只中にあって、西郷が初めて勝海舟に会うのは9月11日であった。当時の勝は、幕府軍艦奉行という重職にあり、神戸海軍操練所の頭取を務め、幕政改革を先駆する立場にあった。
勝が実質的に運営者となっていた神戸海軍操練所は、土佐藩脱藩の坂本龍馬が塾頭となっており、何かと操練所のことで奔走していた。その坂本龍馬が西郷を周旋し、勝と会談させた。勝は、西郷に会うなり、「今の役人は世間知らずで時勢遅れがはなはだしい。たまたま禁門の変で幕軍が勝ったものだから、幕府復権がかなったと有頂天になり、すっかり天下泰平になったと思っている。それでまたもや問題が起こると、責任逃れに精を出して、一向に問題解決には消極的である。そんなこっぱ役人をいくら退治してもきりがなく、また諸藩が協力して幕政改革をやろうとしても、意見は闇から闇へとほうむられて真剣に取り上げられることはない。」勝はこのように西郷に幕府の腐りきった現状を述べ、幕府はもはや回復不可能な組織であるとさじを投げて見放した言い方をした。これには西郷も驚き、まさか幕臣から倒幕論を聞くとは思ってもみなかった。西郷自身も勝に会うまでは、幕府に強い態度で諫言し、幕政改革を成すことを目指すいわば、諫幕論(かんばくろん)の考えを持っていた。しかし、勝はそれを完全に実現不可能と述べ、幕府支配の世の中の終焉を予見する。西郷は勝に感化されながらも、倒幕論のことは置いて、外国艦隊が大坂湾にやってきて開国を迫った時にはどうすべきかと尋ねた。すると勝は、外国人ももはや幕府をみくびっていて、まともに相手にはしないだろうから、国内にいる有能賢明な諸大名が諸問題を協議して国政を決め、一致団結して対外政策を推し進めるべきと述べた。特に現状の軍備力では諸外国にはかなわないのだから、軍備増強を目指し、一方では積極的に開国策を推進して、諸外国の進んだ技術や制度を取り入れていくべきだと国政のあり方も語った。
こうした勝の果断な理論は、西郷を大いに啓発させるものがあった。西郷はこの時の衝撃を大久保の手紙の中に書き報告している。”実に驚き入り人物”と高評し、”どれだけ知略のあるやら知れない”と勝の才覚の凄さに恐れ入った感想を述べている。
”ひどくほれ申した”と西郷が勝を絶賛し、幕臣の中にあって好感の持てる人物と西郷の目には映った。このことが、後に二回目の会談となる江戸無血開城の交渉で生きてくる。
勝は西郷に初めて会った感想を次のように述べている。「意見や議論は、俺の方が勝っていたよ。しかし、天下の大事を負担する者は、はたして西郷ではあるまいか、とまたひそかに恐れたよ。」勝の目にも西郷の表には出てこない奥底に潜む政略達人のオーラを感じていたのかも知れない。
この会談で歴史は大いに変化した。西郷は当初 、薩摩藩が掲示する公武合体策に同意していたが、勝との会見後に雄藩連合・武力倒幕という思想に目覚めていく。そして、第一次長州征伐において、幕府軍の参謀という重職に就いた西郷が長州を武力でねじ伏せるのではなく、平和的な話し合いで決着をつけるという方針を取ったのも、勝から受けた影響が主因となった。内戦を起こさず、早く国内を統一国家と成し、富国強兵策を断行し、諸外国と競合できる国力の充実を図るべきという積極的な開国策に開眼している。 
1868年
1868年(明治元年)3月13日、西郷は江戸高輪(たかなわ)にある薩摩藩邸に入り、幕府全権の勝海舟との会談に臨んだ。勝は当日、羽織袴の姿で馬に乗り、従者一人を連れて、薩摩藩邸に入った。部屋に入った勝がしばらく待っていると、庭の方から西郷が古びた洋服に下駄をつっかけて、やはり従者一人を連れてやってきた。「遅れまして、失礼」と挨拶した西郷が部屋に入ると両者は久しぶりに会った事の挨拶と、静寛院宮(せいかんいんのみや※和宮)の保護について話し合った。
翌14日に再び会談が設けられ、すでに予備折衝として駿府で山岡鉄舟と西郷の間で取り交わした約定について、議論が成された。その時にもめた第一条の徳川慶喜を備前藩に預けるという項目を水戸に隠居して謹慎するという内容に改正された。それ以外はほとんど西郷が提示する要求を幕府側が飲むことに決まった。ただ、治安維持という名目で幕府側にわずかな武器装備が許された。
西郷はこの会談で取り決めた内容を大総督の許可を得るためにすぐさま駿府に使者を出し、翌日に迫った江戸城総攻撃の中止を命じた。この一連の議題が済んだ後、西郷と勝はまた友人同士の会話を成し、会談終了後は、西郷が勝を見送りに外まで出て、両者は別れた。
勝はこの会談で西郷が取った礼儀を失わず、勝者振ることもなく、敗軍の将に接するようなところが少しもなかったと賞賛している。
西郷はこの会談の一ヶ月ほど前までは、江戸城総攻撃を断固遂行する考えでいた。しかし、この考えを揺るがす衝撃的な外交があった。イギリス公使・パークスが西郷に将軍・慶喜の処遇をどうするのか尋ねたところ、西郷が「大逆無道、その罪は死にあたるをもってす」と意気込んで答えると、パークスは「どこの国の法律でも、恭順し、降伏する姿勢を見せているものに更なる攻撃を加える法はない。まして徳川氏はこれまで天下統治の政権運営を300年も続けてきた。その徳川氏をあくまでも討ち滅ぼすというのであれば、英仏は合同して徳川氏を助け、新政府に攻撃を加える」という手厳しい非難を西郷に浴びせた。この意外にも諸外国が示す徳川氏に対する寛大処置要求を西郷は、重く受け止めた。これを契機として、西郷は慶喜の断罪回避を模索するようになり、勝が幕府全権となったことを知ると、これにて江戸強攻策が撤回できると喜んだ。
一方、勝は江戸無血開城がなるかどうかまったく予見できないため、平和的解決交渉に全力で取り組む考えには変わりはなかったが、もしも和平交渉が失敗した時のためにあらゆる手を尽くすことをしていた。まず、諸外国より伝え聞いていたフランスの皇帝・ナポレオンがロシアの首都・モスクワに侵攻した時にロシア側がとった焦土作戦を江戸でも実施する計画を立てた。この作戦は、敵軍が市街地に侵攻してきて、市街を焼き払う前に先手を打って防衛軍側が市街に火を放ち、その火力をもって敵軍の侵攻を阻もうという戦術。この作戦実行にあたって、勝は父・小吉以来、江戸の火消したちと顔なじみを活かして、新門辰五郎(しんもんたつごろう)ら江戸火消し衆に頼み込んで、官軍が江戸へ進軍してきた時には、江戸市街を焼き、官軍に対してゲリラ戦を展開するよう協力を要請した。
ついで、江戸市民を戦火から守るために避難用の舟を大小のこらず江戸の河川に集め、搬送手段を確保した。火つけようの道具をそろえるために莫大な資金も幕府より出費させて、準備万端、整えて交渉にあたった。この時に用意した火つけの道具が後に江戸無血開城がなって、江戸に入ってきた官軍に見咎められ、いらぬ嫌疑をかけられたらしい。
また、前将軍・慶喜の身を守るために横浜に停泊していたイギリス艦隊に慶喜を乗せ、政治亡命させる方法も計画されていた。
これら勝が幾重にも備えを成した策謀はすべて、江戸無血開城によって、無駄となったが、幕府側が官軍との交戦に備えて、首尾よく防衛体制を整えていたことで江戸市民に多少の安心感を与える効果にはなった。
ただ、江戸市民としては無血開城となっても生活不安を抱えていた。特に日本政治の中心という位置づけから離れたことで、江戸市民の収入口をどこに求めるべきか深刻な問題となっていた。江戸城を受け取った西郷側も江戸を開城後にどうするのかまったく提示がなく、ただただ治安維持を勝に任せるだけであった。そのまま西郷は東北戦線へと進発してしまい、江戸の将来はいまだに未定のままとなっていた。そんな情勢にあたって、勝は新政府で手腕を振るう大久保利通に目をつけ、江戸の現状を詳細に報告し、江戸の将来について危惧することを訴えた。大久保はこの勝の意見をよくよく考慮し、ついには無傷の大都市機能を日本の近代化に役立たないかと鉱脈を見出す。大久保は初め、新政府が誕生した当初から京都から遷都する候補地を探していた。そして、大坂を新たな国政の中心と成すことを新政府内に提言したが、受け入れてもらえずにいた。そんな折に勝から江戸無血開城によって、江戸の将来を危惧する訴えを知った大久保が江戸遷都に動いた。結果的に江戸遷都がなり、都市名も東の京という意味で”東京”と改称し、新たな近代日本の首都となったのである。
後に勝はこのいきさつを踏まえて、「江戸が無事に終わったのは西郷の力、東京が今日に至って繁盛しているのは大久保の力」と賞したという。 
 
上野戦争

 

1868年(慶応4年)2月、慶喜が謝罪恭順を決意し、上野の寛永寺大慈院に謹慎蟄居すると旧幕臣の一派が、慶喜の身を守ろうとする運動を始動し、幾度となく浅草本願寺で会合が開かれた。
この会合では130名ほどの同志が集まり、慶喜の身を護衛しようとする目的を持ち、部隊を結成した。席上で彰義隊と命名され、頭取には渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)、副頭取には天野八郎が決まった。渋沢は純粋に慶喜の身を守ることだけを考え、新政府側と事を構える行動は慎んだ。しかし、天野八郎は、新政府軍と再度決戦を望む好戦派であった。彰義隊は、当初から慶喜守衛を目的とする一派と新政府軍と好戦を望む一派に分かれていた。このころの江戸市中では、徒党を組む旧幕臣たちが闊歩し、市内は不穏な動きに満ちていた。集団数は300を超え、「大手前大隊」などは馬丁や火消しなど民衆も加えて、2千名を超える大所帯を構えていた。
この旧幕臣たちの集団の取り扱いに頭を抱えていたのが勝海舟であった。勝は当時、幕府総裁となっており、事実上の幕府全権を持つ幕府の最高責任者だった。勝は、江戸無血開城後も江戸市内の治安権を西郷たち新政府側から任されていた。西郷たちは、新政府側が旧幕臣たちを排除しようとするとたちまち江戸が戦乱となると考え、勝たち幕府側が旧幕臣たちの処置を取るのが平穏無事に済むと見て、勝たちに旧幕臣たちのことを一任していた。
勝が困ったのは、ただの無法者の集団ではなく、徳川家のために徒党を組んでいるという点で、簡単には敵視することができない存在だったのだ。彼らの主家を思う心情を踏みにじって、解散させるだけの強い権勢をいまの旧幕府組織は持っていなかった。そこで、勝は旧幕臣たちの俸禄や物資供給を停止するなど様々な手段を行って、徒党の解散を促した。これによって、かなりの数の集団を解散させることに成功したが、逆に彰義隊は、熱心に幕府上層部へ働きかけ、慶喜警護の役目を任されることに成功している。言わば、彰義隊は幕府公認の部隊となったのである。それまで、慶喜の警護の任には、山岡鉄舟が率いる精鋭隊と見廻組があたっていたが、彰義隊もこの任に加わった。そして、幕府との縁が深い上野を拠点に置き、江戸市中の取り締まりを勤めた。こうして、彰義隊の名が知れると彰義隊に入隊する者が日増しに増え、ついには3000人以上の大所帯を形成した。
4月11日、江戸城が無血開城を成すと、慶喜はこれを契機に政局の表舞台から退くべく、水戸藩へと旅立った。この慶喜の行動に彰義隊内部は二つに分断した。渋沢たちもと一橋家家臣たちは、慶喜を警護するために江戸を離れ、水戸に向かうべきことを主張したが、天野八郎らは、これに反対し、江戸に留まることを主張した。意見はまとまらず、ついに渋沢たちは彰義隊を脱退して、日光まで行き、そこで振武隊を結成した。
こうして、渋沢たちが去った彰義隊は、好戦的な天野八郎らが主導権を握り、上野でますます盛況振りを現した。新政府統治下となった江戸近辺で旧幕臣たちが徒党を組んで盛況するのを快く思わない勝は、山岡鉄舟を使者に立て、上野東叡山の実力者・覚王院義観(かくおういんぎかん)の協力を得て、彰義隊を説得し、解散させようと試みた。しかし、逆に義観は使者にやってきた山岡を徳川家に恩義を報いない逆臣呼ばわりをして、協力しない旨を伝えた。義観は、上野東叡山が徳川幕府によって、開山された経緯を知っており、徳川家のためには、新政府と一戦交えることも辞さないと考えていた。
彰義隊の説得工作は初手から大いにつまづき、仕舞いまで頑固一徹な彰義隊の説得工作は、成功することがなかった。こうした旧幕臣たちで組織された彰義隊が不穏な動きを見せていることを知った朝廷は、江戸の視察から戻った江藤新平の報告を受け、ついに武力によって、鎮撫することを決し、岩倉たちは幕末において、軍略の才随一と称えられる大村益次郎を呼び、江戸市中の秩序回復を図るよう命じた。軍防事務局判事という肩書きを得た、大村は江戸へ向かい、着いた早々から、軍議を開いて善後策を議論した。薩摩藩士で西郷とともに東征軍の軍務に携わっていた海江田信義と大村は馬が合わず、連日のように大激論を交わし、激しく対立した。ついには西郷の弱腰政策を非難し、大村は西郷に代わって東征軍の全権を掌握した。大村は平和的な懐柔策を捨て、彰義隊を市中取り締まりの任から解き、討伐の準備を進めた。海江田信義は、彰義隊が篭る上野の拠点を攻めるには、いま手元にある軍勢の10倍は必要と主張したが、大村はこれを斥け、現行の軍勢のままで討滅戦を行うことに決した。また、夜襲策が提案されていたが、これも排して、朝命による討伐には白昼堂々と戦うのが原則と述べ、白昼戦で一日にて決着をつけるとした。大村は、彰義隊は規律によって動く部隊ではなく、義によって動くことを知り、新政府軍は正々堂々と彰義隊に戦いを挑むと明記した挑戦状を江戸市中に布告し、上野の彰義隊拠点にも伝令した。決戦日時まで敵方に報せた大村は、なんとしても江戸市中にまで戦火が広がることを食い止めるため、極めて特異な作戦を立てたのである。
5月15日は、前もって大村が提示していた決戦日で、上野の彰義隊の拠点には、3000名もの彰義隊士が集結した。新政府軍は上野を正面の黒門口と背後の団子坂、側面の本郷台の三方向に布陣し、東の三河島方面だけは、逃げ口として空けておいた。逃げ口を設けることで、敗走者が江戸に舞い戻ることを防ぎ、探索の手間を省くという利点を得られる。
本郷台には、佐賀藩が誇るアームストロング砲が設置された。このアームストロング砲は、軍艦に設置する大砲であったが、これを佐賀藩が陸戦ように改造し、この上野戦争ではじめて実戦使用したのであった。
後方の団子坂には長州藩・大村藩・佐土原藩の三藩軍が設置され、長州藩軍には最新式のスナイドル銃が装備された。そして、この上野戦争で最も激戦が予想される正面の黒門口には、薩摩藩・因州藩・肥後藩軍が配置された。
こうして、各部隊が戦闘配置が完了し、5月15日早朝から激しい戦闘が開始された。天気は雨が降っており、まさに泥沼の激戦模様となった。黒門口は初手から激しい戦闘となり、正面を突破しようと薩摩藩軍が突撃し、彰義隊も主力部隊を黒門口に集結させており、激しい攻防戦が続いた。戦闘の前半は彰義隊が黒門口に新手の部隊を次々と投入したことから、彰義隊優勢となり、白兵戦ではしばしば薩摩藩軍を押し返す勢いを見せた。
この前半の黒門口戦闘の最中、後方から攻め込む役目を負っていた長州藩軍は動くことができなかった。それは、新しく実戦配備された最新鋭・スナイドル銃の使い方がわからず、一時の間、本郷台へ退いて練習をした上で、再び配置に戻り、攻撃戦に加わるという失態を演じた。
一方の本郷台に配備された佐賀藩も最強兵器・アームストロング砲を戦闘開始と同時に砲撃開始をしたが、命中率が悪く、ほとんどが不忍池に着弾し、敵方に被害を出すことができなかった。そうこうしているうちに戦闘の後半に突入するとようやくアームストログ砲の砲撃が敵陣地に命中するようになり、ついには彰義隊砲兵陣地を壊滅させるに至ると、彰義隊の攻勢は弱まり、午後に入るころには、彰義隊は完全な守勢に転じていた。
そして、黒門口も突破されると彰義隊からは、逃亡者が相次ぎ、これを見た新政府軍は一斉突入に踏み切り、防戦しきれなくなった彰義隊は敗走した。こうして、上野戦争は大村が計画を立てた通りに進み、わずか1日で終了し、戦火は江戸へ飛び火することなく済んだ。この戦いで大村は天才軍略家の声望を高め、一方の旧幕府側の勢力は極小化していった。 
 

 

 
会津藩

 

陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。
歴史
戦国時代
戦国時代、会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする戦国大名の蘆名家の領国であった。蘆名氏は会津守護を自称して勢威をふるったが、後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛を繰り返して次第に衰微し、天正17年(1589年)6月5日に蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗して 義広は実家の常陸佐竹家を頼って落ち延び、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入り、政宗は黒川を新たな本拠とした。
天正18年(1590年)7月に小田原征伐で北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、8月9日に会津黒川に入って奥州仕置を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した惣無事令違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された。秀吉は仕置において検地や刀狩、寺社政策など諸事を定めて帰洛し、会津には蒲生氏郷が42万石で入封することとなった。後に検地と加増で氏郷は92万石 を領有することになる。
氏郷は織田信長にその非凡な才能を評価されて信長の次女冬姫を正室に迎えることを許され、信長没後は秀吉に従い伊勢松坂に12万石の所領を得ていた人物である。秀吉も氏郷の才能を認め、東北の伊達政宗や関東の徳川家康を抑える枢要の地に大領を与えて入封させたのである。
氏郷は黒川を若松と改め、故郷の近江日野から商人や職人を呼び寄せ。、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、黒川城を新たに7層の天守を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた。
文禄4年(1595年)2月7日に氏郷は死去した。嫡子の蒲生秀行(数え13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫(正清院) を正室に娶わせた。だが蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、慶長3年(1598年)1月、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を宇都宮12万石へ減封した。ただし秀行の母、すなわち織田信長の娘の冬姫が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫が尼になって貞節を守ったことを不愉快に思った説、秀行が家康の娘(三女の振姫(正清院))を娶っていた親家康派のため石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説 もある。
上杉家の時代
代わって越後春日山から上杉景勝が入封した。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であった。景勝は戦国時代に「軍神」の異名をとった上杉謙信の養子(実は甥、生母が謙信の姉仙桃院)である。しかし入封してから間もない8月18日に秀吉が死去し、次の覇権を狙って徳川家康が台頭する。これに対抗しようと豊臣家五奉行の石田三成は上杉家の家老である直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した。しかしこの軍備増強は隣国越後の堀秀治や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。
神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた。7月、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した。9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。景勝は11月に家康と和睦するために重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させ、自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが、会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。
蒲生家の時代
慶長6年(1601年)8月24日、景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石の上で入封した。この加増は東軍の中ではトップクラスであり、正室が家康の娘ということが作用したといわれる。秀行は執政に津川城代2万石の岡重政を任命したが、これが原因で以前から続いていた家中内紛が再燃した。特に三春城代の蒲生郷成に至っては、岡と激しく対立して、遂には出奔するほどだった。
慶長16年(1611年)8月21日には会津地震が藩内を襲った。震源地は柳津町滝谷付近でマグニチュードは7と推定、若松城天守の石垣が崩れ、天守は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、死者は3700名に上り、山崩れのために23の村が没したという。秀行は家中内紛と地震のためか、この地震の翌年5月14日に30歳の若さで死亡した。
跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の忠郷で、忠郷は寛永元年(1624年)に将軍家光(従兄弟)、大御所秀忠を江戸屋敷に招くなど幕府との関係を強化した。一方、会津領内の産金は蒲生家再封時代に全盛期を迎え、280万両の採掘が行なわれた。
しかし忠郷は寛永4年(1627年)に25歳で若くして急死する。忠郷には子がおらず会津蒲生家は改易となったが、母が徳川家康の娘であるため、同母弟で出羽上山藩主の忠知を当主として伊予松山へ24万石で減封されて蒲生家の存続は許された。しかし忠知もこの7年後に子が無いまま30歳で急死している。
加藤家の時代
寛永4年(1627年)、忠知と入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が倍の加増の40万石で入封した。嘉明は豊臣秀吉の下で賤ヶ岳七本槍の1人に数えられ、朝鮮出兵では水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てた勇将である。この抜擢は縁戚の蒲生家に代わる奥羽の鎮守に信頼に足る人物は誰かと迷っていた大御所秀忠が最初は藤堂高虎を選ぼうとしたが、高虎が辞退して嘉明を推挙したため、秀忠は嘉明を会津に加増して入れたという。ただし所領が倍増されたとはいえ、既に嘉明は65歳の高齢の上、伊予松山で藩政の基礎を固めていたことに加えて、温暖な瀬戸内から寒冷の会津盆地への移封はうれしいことではなかったといわれる。
嘉明は積極的に藩内の整備を行ない、白河街道の整備、蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村を「火」を連想させることから甲賀町、福永村と改名する。しかし嘉明は、藩内整備の道半ばで寛永8年(1631年)に死去した。
第2代藩主は嫡子の明成が継ぐ。だが寛永13年(1636年)の江戸城手伝い普請における堀の開削費用、蒲生秀行時代の地震で傾いていたままだった自らの居城若松城の天守を5層へ改める工事、出丸工事など多額の出費が相次ぎ、加藤家の財政は逼迫した。このため加藤家は領民にかける年貢を厳しく取り立て、寛永19年(1642年)から翌年にかけて飢饉が藩を襲った際、農民2000人が土地を捨てて他藩に逃げる騒動にまで発展した。また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの家老である堀主水との対立を引き起こし、寛永16年(1639年)4月には堀が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲し、橋を焼き、芦野原の関所を突破して出奔して激怒した明成が血眼になって主水を追うという御家騒動(会津騒動)にまで発展した。主水は幕府に嘆願してまで高野山に逃げ込んだ主水の身柄引き渡しを求め、寛永18年(1641年)に進退に窮した主水は高野山を下りて3月に江戸に赴き、城の無断改築や関所の勝手な新設など7か条を挙げて、明成を幕府に訴えでた。しかし将軍家光自らの裁断により、主に非があるのは認めたが、それを諌めずあるいは自らの生命をもって諫死せず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れており、非は主水にあるとして、主水の身柄は明成に引き渡され、激しい拷問が行なわれて主水は殺害された。
寛永20年(1643年)5月、明成は幕府に会津40万石を返上し、幕府はこれを受けて加藤家から所領を没収して改易としたが、明成の嫡子明友に石見吉永藩1万石を与えて家の存続は許した。この際に加藤家の支藩二本松藩も改易されており、幕府は会津騒動や悪政が原因で改易したとされている。
会津松平家の時代
保科正之の時代
加藤氏改易後の寛永20年(1643年)、出羽山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が入封し、以後会津藩は会津松平家(保科家)の支配が定着する。会津松平家は幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。また、南山御蔵入領5万石も預かり地として任されたが、実質的には会津藩領同様に扱われており、実質28万石といってよかった(28万石では御三家の水戸藩を超えてしまうことからの配慮のためであるとされる)。
保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍家光の異母弟である。家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。家光没後、11歳の嫡子家綱が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務めた。正之は大老として江戸で幕政を統括したため、会津に帰国したのは正保4年(1647年)と晩年の数年間のみであった。この間、正之は幕政において明暦の大火における対策で敏腕を発揮しているが、藩政でも手腕を発揮して正之の時代に会津藩の藩政はほぼ確立された。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く保科正貞に譲って、徳川一門として認められており、正之は幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていたが、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやって辞退した。
保科から松平への改姓
正之の没後、藩主の座は子の正経、そしてその弟の正容が継いだ。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生した。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになった。家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いた。旗印は漢字1文字で「會」である。
財政危機
第4代藩主の容貞の時代である寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する。藩は鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などを行っている。宝暦年間における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり、藩は農政改革や年貢を定免法に改定するなどして対応するが財政は好転せず、かえって藩の借金を40万両に増やすことになった。明和4年(1767年)には財政再建を任されていた井深主水が俸禄や借金問題から藩を捨てて逃亡するという事件まで起こっており、その後も手形の発行などを繰り返すという自転車操業状態で藩の借金は総額57万両にも及び、会津の藩財政は実質的に破綻しているに近かった。
田中玄宰の藩政改革
第5代藩主容頌は財政危機に対処するため、家老の田中玄宰を登用した。玄宰は保科正之の名家老と称された田中正玄から数えて6代目にあたる人物である。玄宰は殖産興業政策の導入と農村復興、教育の革新による有為な人材の登用や役人の不正の処罰、教化主義による刑罰制度の改正など大規模な藩政改革を断行して成功させた。
会津松平家の血の変遷
田中玄宰の晩年、彼を用いた容頌の死後、跡を継いだ容住が早世し、わずか3歳の容衆が第7代藩主になるという事態になった。玄宰は自らも老齢で容衆を見守ることはできず、また容衆が夭折することで会津松平家が断絶することを恐れ、水戸徳川家の出身で美濃高須藩の養子になった松平義和の三男等三郎を容住の側室の子として貰い受けることで対処した。容衆は玄宰の死から14年後に20歳で嗣子に恵まれずに死去したため、玄宰により生前に万一の事態のために用意されていた等三郎が容敬として第8代藩主を継ぐこととなった。このため保科正之の血統は断絶したが、会津藩は断絶の危機を免れた。なお、容敬も継嗣に恵まれなかったため、甥の容保を婿養子にして跡を継がせている。
戊辰戦争
第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で親政して改革を行ない、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は嘉永5年(1852年)2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで 幕末の動乱期を迎えた。安政6年(1859年)、北方警備のため徳川幕府から根室・紋別を譲渡される。文久2年(1862年)閏8月に容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩と戦い、一時は長州の勢いに圧倒されるも、薩摩藩の救援もあり御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。
しかし慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御すると事態は一変する。慶応3年10月14日(1867年新暦11月9日)の大政奉還により江戸幕府が消滅。慶応3年12月9日(新暦:1868年1月3日)には王政復古の大号令が発令したことで新政府が誕生。薩摩藩の主導によって長州藩が復権すると、薩長と旧幕府との対立が激化し、慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発する。会津藩は、桑名藩や幕府軍とともに新政府軍と戦ったが敗北。この戦の結果、朝廷は会津藩を「朝敵」とした。その後の東北戦線において、会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある。なお、戊辰戦争の直前には、当時のプロイセン王国に対して蝦夷地(北海道)の割譲を提案し、その見返りとして列強の武器を得ようとしていたことが分かっている。
降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年(1869年)に容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(現在:青森県むつ市)に斗南藩を立てた。また、藩士数名はカリフォルニアに移民した。一方、廃藩置県を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。明治4年7月14日(1871年新暦8月29日)の廃藩置県では、会津地方は若松県となったものの、明治9年(1876年)8月21日には福島県1876年以前(旧の二本松藩など)と磐前県(旧の磐城平藩と中村藩)と合併され、福島県に入れられた。
戊辰戦争後
容保の家系からは初代参議院議長の松平恒雄・雍仁親王妃勢津子父子、福島県知事の松平勇雄や、現:徳川宗家当主徳川恒孝が出ている。惣領家の家系は、容保の孫である松平保定が、農林中央金庫職員を務めた後に、靖国神社宮司に推薦されたが、「薩長が祀られ、賊軍とされた会津の戦死者が祀られていないのに、会津人として、お受けするわけには、まいりません」と、固辞し、2007年から、猪苗代湖近くにある藩祖の墓の近くに住む。その長男の松平保久は、NHKエンタープライズのプロデューサーである。
福祉
会津藩は日本初となる老齢年金制度を創設した藩であった。開始されたのは寛文3年(1663年)で保科正之の時代であり、正之は藩内の90歳以上の老人に対して金銭ではなく米で1日5合、年間では約1石8斗、米俵で4俵半(約270キログラム)を支給した。当時の会津藩で90歳以上の高齢者は町人で男子は4人、女子は7人、村方では140人と合計すると155人以上おり決して少ない負担ではない。また正之は支給すべき者が高齢なため、歩行できたりする健常者は自ら支給を受け取りに来るよう命じたが、健常者でない者は子や孫が受け取りに来ることも認めていた。
危機管理
保科正之は凶作による飢饉に備えて明暦元年(1655年)に社倉制度を開始した。これは藩で米を7000俵余り買い入れて各代官に預け、翌年から通常よりかなり低率の2割の利子で困った百姓に貸し付け、その利子で年々蓄えるべき米を増やして凶作の備えとしたのである。また実際に飢饉が起こり、病人や工事人足、新田開発者や火災被害者などには無償で提供する例もあった。保科正之は各村に社倉と呼ばれる倉を創設して収納し、備蓄米は最大で5万俵になり、領内の23箇所に社倉が建設された。
斗南藩1
斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。
会津藩を没収された会津松平家は、改めて元盛岡藩(南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は江刺県に編入)。斗南藩に与えられた村数、石高は、明治4年に青森県から大蔵省へ送られた文書によると以下の通りである。
但し旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年(1870年)1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。柴五郎によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士秋月悌次郎が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される。また葛西富夫は、「南、すなわち薩長政府と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門 の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の青森県むつ市田名部の円通寺に移った。また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5,000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は柴五郎によって語られている。 その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は岩手県に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7,327人の内3,300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4,000人余の斗南藩士卒族が残留していた。その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。
藩主:松平容大(まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕 
斗南藩2
斗南藩縁起
表高23万石を誇り、独自の伝統文化を華咲かせていた会津藩。尾張・紀伊・水戸の徳川御三家に次ぐ家柄で、葵の紋を許された奥羽の雄藩でした。黒船来航の前年にあたる嘉永5年(1852)、会津では藩主が代わり松平容保(かたもり)公が9代藩主を継ぎます。ペリー来航を契機に佐幕派と倒幕派が対立する中、文久2年(1862)、容保公は幕府の命を拝し、京都守護職に就任。会津藩士達を率いて攘夷運動が激化し無法地帯と化した京都で治安維持に努め、天皇はもとより一般庶民からも厚い信頼を受けていました。公武合体の第一線に立って職務をまっとうしたものの、慶応3年(1867)大政奉還、王政復古の大号令が発せられ、5年にわたる京都守護職を解任されます。しかし薩長両藩を主軸とした新政府は、自らの威令を浸透させるためにも、旧幕府を載く会津藩を潰滅させようと画策します。こうして、会津藩と新政府の戦いの火ぶたが切って落とされました。
この戊辰戦争に敗れた会津藩は、天皇および幕府に対する厚い忠誠の念にもかかわらず、「朝敵・逆賊」の汚名を着せられ廃藩となりました。崩壊を余儀なくされた松平家ではありましたが、幸か不幸か明治2年(1869)にわずか1年1ヶ月余りで家名再興を許されます。そこで、容保公の実子で当時生後5ヶ月の容大(かたはる)が後を継ぎ、斗南藩3万石を立藩。しかし、容大公は幼令であったため、山川浩が権大参事となり新藩の全責任を負い、新領地を治めることになりました。23万石からわずか3万石に削封された会津人たちは、こうして北奥の斗南藩領へと移住することになったのです。
斗南藩の歴史
北の地への移住
これは会津人たちの新たな血と涙と苦汁の日々のはじまりでした。
明治3年(1870年)春。淡い希望と深い悲壮感を胸に、移転が始まりました。海路をとった第一陣300人は、品川を出港。以後続々と蒸気船で北上が始まり、大平や野辺地、八戸などに入港、そこから入植地の村々へと移っていきました。一方陸路で移転した者たちは、悲惨な旅路であったと言います。宿泊に難色を示す旅籠も多く、また晩秋のことで、みぞれ交じりの寒さに死者も多数にのぼり、自殺行為に等しいものでした。
入植先での生活もまた、目を覆うほどきびしいものだったようです。一人一日三合の扶持米は保証されていましたが、国産米に南京米を混ぜた粗悪なものでした。でんぷんを作ったり、海草の根を加工したり、松の木の白皮を食べたり農家の残飯を漁ったりしたと言いますから飢餓地獄そのものだったようです。冬に入ると餓死や凍死、栄養失調などで死者が続出しました。
新時代を見据えた施政
およそ、2800戸、17300人余りが移住していますが、藩がまず手がけたのは山川浩を参事にすえ、5つの局を組織しての機構整備でした。また、旧藩時代の家禄や身分制を廃止、特筆すべきは全国に先駆けての廃刀令や戸籍の作成など、新しい時代をにらんだ施政を行っています。また、子弟教育も怠らず、藩庁が置かれた円通寺に斗南藩校日新館を開校したほか、領内各地に分校に当たる郷学校を開設しています。さらに、安渡と大平を合併した大湊を東北の長崎と位置づけ、将来日本の開港場とする壮大な構想も視野に入れていました。
新たな街づくり
街づくりにも着手し、田名部郊外の妙見平と呼ばれる丘陵地帯を開墾し、大平地区には松ヶ丘に30棟の長屋が建てられています。ただ、こうした入植地に移住できたのはほんの一握りで、ほとんどの藩士と家族は、扶持米を頼りに細々と暮らしていました。
産業への取り組み
本格的な農業対策は明治4年の春、雪解けを持って行われました。開墾と養蚕をすすめ、藍、茶、煙草、甘藷、蜜柑の類まで栽培させ、鋳物の鋳造、瓦、煉瓦の製造、漆器細工、製紙、機織、畳などの手工業も奨励しています。失敗に終わった作物、産物もありましたが、茶や甘藷は相当の出来栄えであったといわれています。先住の百姓でさえ手を焼くやせた土地での苦労は並大抵のものではなかったでしょう。
度重なる苦難
明治4年7月、廃藩置県が行われます。9月には斗南、七戸、八戸、黒石、館の五県が弘前県に併合されてしまい、翌年には政府の援助も打ち切られ、さらにどん底の生活を強いられることになります。そして、生活の破綻と時代の移り変わりに翻弄され、多くの藩士が斗南を去りました。明治6年には扶持米の打ち切りと転業資金の交付があったため藩士の転出に拍車がかかり、この地に残ったのはおよそ50戸に過ぎませんでした。
斗南藩士が残したもの
斗南藩の治世はわずか1年余りに過ぎませんでしたが、会津人の先見の明と一徹なまでの姿勢は、物心両面においてむつ市を始めとするこの地方に残した功績は実に大きなものがあります。
斗南の由来
一説には、中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」からとったと言われています。北の辺境に流されてきたが、ここも天皇の国に変わりはなく、共に北斗七星を仰ぐ民であるというような意味ですが、望郷の想いといつかは南に帰りたいという願いが秘められていたのかも知れません。
もう一つの説は、「南斗六星」を語源とするものです。これは北斗七星に対してつけられた呼称であり、射手座の中央部を指します。この星座をよく見ると、射手が永久に放たれることのない矢を隣の蠍に向けているようです。もちろん蠍は薩長藩閥政府を、射手は会津を象徴しており、当時の会津人の心境がぴったりと重なり合います。
釜臥山と斗南藩
会津人は誰が言うでもなく、陸奥湾を猪苗代湖に、釜臥山を故郷会津の磐梯山に見立て、斗南磐梯とよんで墳墓の地を偲びました。明治3年に先発の藩士達がはじめて田名部に到着した際には、住民たちが軒先に提灯を吊し敬意を表して迎えたといわれ、感慨ひとしおであったことでしょう。
斗南藩のまちづくり
斗南藩が市街地を建設したのは、田名部川の流域に開けた平野をはさみ田名部の町に相対した妙見平と呼ばれる丘陵地帯でした。領内の開拓拠点となることを夢見たこの開墾適地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられました。市街地は一戸建て約30棟・二戸建て約80棟からなり、東西に大門を建築して門内の乗り打ちを禁止し、18ヶ所の堀井戸をつくりました。また、一番町から六番町まで大通りによって屋敷割りされ、1屋敷を百坪単位として土塀を巡らせて区画しました。
容大公と容保公
明治2年6月に、会津若松の御薬園で誕生した斗南藩主松平容大公は、幼くして斗南藩知事に任ぜられ、明治3年9月2日、籠におさまり、会津を出立しました。当初藩庁が置かれた五戸に仮寓し、田名部へ田名部へ藩庁を移したことに伴い、明治4年2月18日に田名部の地に入りました。藩庁の仮館となった円通寺では、業務を行い、徳玄寺を食事や遊興の場としていました。藩知事とはいえ、年端もゆかない幼君であり、実際の政務は山川権大参事をはじめとする家臣たちによるものでありましたが、陽春を迎える頃には家臣たちの差配により、移住者たちの激励、士気高揚のため、下北半島内の領内巡行に出向いています。
容保公は家名再興後も謹慎の身でしたが、明治4年3月14日には斗南藩へ預替えとなり、養子の喜徳とともに、東京から函館、佐井を経由し同年7月20日、円通寺に到着しました。円通寺では、幼い容大公が父である容保公を出迎え、多くの家臣たちが感涙にむせんだといいます。容保公と容大公にとっては、これが親子の発対面であったといわれ、二人は、喜徳とともに約1ヶ月の間、親子水入らずの日々を過ごしましたが、政府からの上京命令により、同年8月25日、斗南を後にしています。
この地を去るにあたり、容保公は、容大公の御名で布告(松平容大公書翰)を出しています。大意としては「このたび東京へ召喚され、皆と苦労を共にできないのは耐え難いが、公儀の思し召しでありやむを得ない。これまで幼齢でありながら重職を奉じおとがめも受けなかったことは、皆が苦難に耐え、奮励したおかげだと喜んでいる。この先も益々(天皇の)御趣意に遵って、身を削り、心を配して、(天皇の)限りない恩に報いることが私の望みである」という内容になっていますが、幕末から長年にわたる藩士の艱難辛苦の責を詫びる思いと、天皇を仰ぐ忠実な臣民であるとの訴えが読み取れます。

旧藩士の墓
斗南ヶ丘で唯一生き残った島影家や斗南会津会の人々が建てた碑が、わずかに残っている会津藩士の墓碑をあたたかく見守っています。明治元年九月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は翌明治二年九月太政官より家名再興の沙汰をいただき同年十一月松平容大公(数え年二歳)をもって陸奥国(現在の青森県の三戸・上北・下北の三郡と岩手県の一部)に禄高三万石の立藩が許されました。しかし豊かな会津盆地で生きそこで育った人々には、斗南の地はあまりにも過酷であり
   みちのくの斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ
   斗南藩権大参事   山川 浩
   と言わしめたほどでした。
天慈の覆育を祈り開拓に夢を託した藩士たちではありましたが、志半ばにして命を失った者や、この地を去る者が続出したのでした。
呑香稲荷神社
会津藩上級武士の5男で後に陸軍大将を務めた柴五郎が、明治3年12才で下北に移封された際、兄と共に仮住まいした所です。厳寒の中、暖をとる手段もなく、俵やむしろなどにくるまって、眠れぬ夜を過ごしたそうです。
風雪の落の沢
明治維新は、斗南藩(旧会津藩)にとって痛恨維新であった。明治三年斗南藩では士族授産を目的として、当地落の沢を相し松ヶ丘に荒川の渓流を引き、三十余戸の住宅を築造した。柴五郎(後の陸軍大将)が少年期に家族と共に同年六月に到着、落の沢で越冬した。寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞き五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ 会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」と言ったという。
明治四年廃藩置県により、忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得なかった。
斗南士族の胸中には「まこと流罪に他ならず、挙藩流罪という史上かってなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみであった。  
斗南藩3
西軍 (明治政府) は、明治2(1869)年の正月から藩士たちを捕虜 (戦犯の罪) として東京と高田藩の2組に分断し、移送を開始した。
追って、幕藩体制崩壊により無防備となってしまった北海道防備に困り、幽閉していた会津士族を日常は未開の地を開墾させ有事の際には兵士にしようと謀り、罪を許すとの条件で北海道開拓への移住を勧奨したが、応じた者はいなかった。
藩主と運命を共にする決意が固いと気付き、北国への流刑をもくろんだ。
実際に斗南藩成立前 (9月) に、会津藩士200戸を小樽に流罪として送り込み現地で罪が赦された形をとったが、現地での生活は幽閉時よりも悲惨な状況であった。
同年6月、容保の嗣子として生まれた慶三郎 (容大公) をもって、若松近郊の猪苗代に帰農したいと梶原平馬と山川大蔵が願い出たが、若松近郊など とんでもないと議題にものせられず、西軍は北国への流刑を決めた。
見せしめと、かつての大藩による反撃の恐怖からであった。
「下北と猪苗代を選ばせた」 と語られているが、歪曲した説を流布したのであって、当時のどの政府資料にも「猪苗代」の記載はない。
また、会津藩23万石と語られるが、当時は実質66万石あったことも隠されている。
同年11月、会津藩の家名再興との名目のもと、慶三郎改め容大公を藩主として新たな藩「斗南藩」が成立することとなる。
会津藩士4千7余名/2千8百戸、家族を含め総勢1万7千余人が移住した。
・統治  1年半 = 明治3(1870)年〜明治4(1871)年
・石高  3万石   実高7千石
元南部藩領の北郡・三戸郡・二戸郡内の3万石とされたが、肥沃な平地 (三本木原) は七戸藩領へ、漁港のある八戸は八戸藩領へと意図的に分割・除外され、両藩に分断された藩領は不毛の飛び地のみで実高は7千石にも満たなかった。
最初の藩庁を旧盛岡藩/五戸代官所に設置したが、田名部/円通寺 (むつ市) に移す。待っていたのは、飢えと病に冒され、多くの老人や子供が犠牲となった歴史であった。初めての冬を迎え、飢えと寒さで一家揃って死去した例は、珍しくなかった。斗南の地をあきらめ、故郷の会津へ帰郷しようとした方も多くいたが、路銀など持ち合わせているはずもなく、ほとんどが途中で消息不明となり、悲惨な噂と共に消え去った。
明治4(1871)年の廃藩置県により、多くが会津に帰郷しているが、旧藩領のあった大阪などの関西に移住した者も多い。残った藩士の多くは、町村長、吏員、巡査、教員に就いた。子孫として、北村正哉(青森県知事)、神田重雄(八戸市長)、菊池渙治(むつ市長)、杉山粛(むつ市長)、鈴木重令(三沢市長)など郡長・県会議員・町村長、小中高の歴代校長なども活躍している。想像を絶する辛酸をなめ、子弟たちの教育どころではなかった。斗南で生まれ育った者は、無学がゆえに、その後、どん底の生活から抜け出し、日本の中央で活躍できた例は皆無に等しい。世に名を残した旧藩士の多くは、東京に残留した者たちである。ある時期まで、元藩士の間で斗南藩を語ることは、タブーであった。昭和16(1941)年、会津若松市が刊行した「若松市史」にも、斗南藩については1行も記述されていない。
藩主  松平容大(かたはる)公
明治2(1869)年6月、容保の長男として慶三郎 (容大公) が御薬園にて誕生。
同年11月3日、会津松平家の再興のため、新たな陸奥国/斗南藩が立藩。
明治3(1870)年5月15日、廃藩置県により斗南藩は斗南県となり、藩知事に就任。
明治17(1884)年7月、子爵となる。
明治39(1906)年3月、貴族院議員に選ばれて、終世務める。
  ・明治2(1869)年6月3日〜 明治43(1910)年6月11日 (41歳)
  ・別称 慶三郎 (幼名)
  ・父  松平容保
  ・母  佐久(瑞光院、田代孫兵衛の娘)
  ・側室 鞆子(越智/松平武聰の娘、1873〜1941)
  ・兄弟 健雄(次男)、英夫(5男)、保男(7男)
  ・墓地 院内御陵に改葬
  ・神号 存誠もちさね霊神
立藩時
陸奥国 二戸郡 12村 / 三戸郡 50村 / 北郡 46村
後志国 太櫓郡 / 瀬棚郡 / 歌棄郡
胆振国 山越郡
廃藩時
陸奥国 二戸郡 16村 / 三戸郡 67村+1町 / 北郡 48村
後志国 太櫓郡 せたな町北檜山区太櫓 / 瀬棚郡 せたな町 / 歌棄郡 寿都町歌棄町
胆振国 山越郡 長万部町

斗南藩へ移住した人数は資料によって異なりハッキリしないが、移住者総数 17,320人 / 戸数 2,800戸 が妥当であろうとされている。従者や夢を託した町民・村民も含まれるので、会津藩士・家族に限定した概数は、斗南移住者 14,800人 / 若松で帰農 2,000人 / 東京で就職 1,200人 / 越後高田残留 若干名 / 不明者 2,000人 、総人数 20,000人 とされる。なお、斗南藩に移住しなかった者は藩籍がなくなり、平民となっている。
明治2(1869)年
9月  容保の実子/幼い容大公が家督相続を許される。
11月 3日  容大公に家名再興が許されて、下北地方・三戸郡と二戸郡の一部へ流刑。旧盛岡藩領の一部であるが、肥沃な土地は意図的に除外されている。当初は「三戸藩」と称していたが、まもなく「斗南藩」と改める。中国の詩文「北斗以南皆帝州」から採ったと流布されているが、中国の詩文には そのようなものは存在しない。「いつの日か”南/墳墓の地の会津”に帰る」の説は、そうもありなん。北斗七星に対する「南斗六星」を語源とし、「南 (西軍) と斗 (戦う)」を意味する。射手 (会津) の放とうとする矢じりの先には、宿敵/サソリがいる。何十年、いや何百年かかろうとも、いずれは西軍へ恨みを果たす決意で名付けたのである。
明治3(1870)年
1月 5日  藩士たちの謹慎 (幽閉) が解かれる。
4月18日  接収した旧南部藩領の三戸一帯を取締っていた黒羽藩から、旧盛岡藩三戸代官所において領地引継ぎの手続きを完了する。斗南藩では最初、藩庁を五戸代官所跡(現五戸町)に置いた。旧会津藩士および家族たちが、会津・東京・新潟などからの移住を開始したのは、この手続きが完了した翌日からである。移住方法は、船での海路と、陸路に分かれた。海路は、アメリカの外輪蒸気船7隻によって移送された。
・品川 (東京謹慎) から乗船し、鮫港 (八戸) に上陸
・新潟 (高田藩謹慎および若松/残留家族) から乗船し、野辺地に上陸
多くが海を見るのが初めてという人々であり、船酔いに苦しんだものの、数日で着くことができた。
4月19日に南部への移住者の第一陣/倉澤平治右衛門率いる300名が八戸に上陸し、翌日の20日には三戸に着いた。
陸路の人々は、悲惨な旅路であった。三戸まででも、約16泊17日かかったという。未整備の仙台道・松前道を通るの健康な者でも難儀なのに、老人や病人を伴っての無謀な道中であった。薩長どもの「分捕り」で財産は全て略奪されてしまい、家系図と位牌の他は日々使う飯炊き釜と什器類だけの着の身着のまま・無一文である。老人や病人だけでも駕籠代の支給を懇願したが、新政府に聞く耳など持ってはいなかった。後に斗南藩が一括して支払うとの宿札「旅籠代 (食費込み)」を渡していたが、新政府を はばかり泊めてくれる旅籠は ほとんど無く、役に立たなかったという。 食料の調達すら困難でカツオ節をかじって空腹に耐えるほど過酷を極めた。
最も悲惨だったのは、初秋から出立した人々であった。北の国は冬を迎えており、冷たいみぞれに打たれ、黙々と悪路を北上する途中で多くの方々が命を失い、路傍の露と消えた。
移住後も、悲惨な環境のもと餓死する方や、厳冬で凍死するなど多くの方が亡くなった。 極貧がゆえに寺に入れなかった方も多かった。古文書には、死ぬ人が多過ぎて埋葬する場所にも困ったとの記録がある。
9月 2日  藩主/容大公は、藩士/冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り駕籠に乗って若松を出立し、五戸へ向かう。当初、藩庁 (旧五戸代官所) が置かれた五戸に仮住まいする。容大公は幼令であったため、山川浩が権大参事となり、5つの局を組織し、新藩の全責任を負って新領地を治めはじめた。
権大参事 山川与七郎浩
小参事  山内頤庵知通 / 倉澤平治右衛門重為 / 永岡敬次郎久茂 / 広澤富次郎安任
旧藩時代の家禄や身分制を廃止し、全国に先駆けた廃刀令や戸籍の作成など国際的にも通用する施政を行なっている。子弟の教育も重視し、藩庁が置かれた円通寺に斗南藩校日新館を開校し、領内各地に分校 (郷学校) を開設した。
国際化に対応するため、東北の長崎を目指す壮大な構想も視野に入れ、港のある田名部へ藩庁を移す。すぐに安渡村と大平村を合併し大湊村を発足、松ヶ丘に30棟の長屋を建て、湾岸整備を着手している。
6月10日  大平浦への第1陣である蒸気船ヤンシー号が到着。
10月  藩庁 (円通寺) の田名部の町と田名部川を挟んだ妙見平と呼ばれる丘陵地帯に、未来の藩の拠点とすべく一戸建て約30棟・二戸建て約80棟の小屋を建てて18ヶ所の堀井戸を造り、乗り打ち禁止の1番町から6番町の市街地を造成し「第一新建」と名付け、200戸の移住者を入植させた。
明治4(1871)年
2月18日  寒さが緩む頃を待って、藩主/容大公が田名部の地に入る。藩庁(円通寺)で業務を行い、住居の徳玄寺を食事や遊興の場とした。幼君のため実際の政務は山川権大参事などの家臣が執行ししていたが、春を迎えてからは家臣の差配により、移住者の激励・士気高揚のため、下北半島内の領内巡行に出向いている。
3月14日  容保と喜徳公の禁固 (幽閉) が解かれ、斗南藩へ預替えとなる。東京から蒸気船で函館、佐井を経由し、円通寺に到着した。容保と容大公の親子初対面であり、やっと水入らずの日々を過ごす。
春  雪解けを持って本格的な農業対策が次々と実施される。陸稲・粟・稗・蕎麦・鈴薯・甘藷イモ・大豆・小麦・小豆・煙草・茶・藍などに加え、蜜柑の類まで栽培し、田圃造りまで挑戦した。産業への取り組みも怠らず、養蚕のため桑を植栽し、杉苗・雑木なども植え林業にも着手した。会津の名産であった漆器細工に加え、鋳物の鋳造、瓦・煉瓦の製造、製紙、機織、畳造りなどの手工業も推進した。先住の農民ですら見捨てていた痩せて過酷な土地にヤマセも加わり、茶や甘藷などを除き、その他の収穫は皆無に近かった。
7月14日  廃藩置県が行われ、斗南県となる、
8月25日  領地と藩主を切り離す策により、容大公も東京へ召還される。
「此の度 余ら東京へ召され 永々汝等と難苦を共にすることを得ざるは、情に於いて堪え難く候へども 公儀の思召在所止むを得ざる所に候 これまで戝齢をもって重き職を奉じ 遂にお咎めもこうむらざるは畢竟汝等艱苦に堪えて奮励せしが故と歓喜この事に候 此末益々御趣旨に従い奉り 各身を労し 心を苦しめ 天地罔極の恩沢に報じ奉り候儀余が望むところ也 (容保)」
9月 4日  二戸郡の一部は岩手県に編入され、残りの斗南県と弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県が合併し弘前県となった。同月の23日には弘前県が青森県と改称されている。
夢を託した斗南の名は、1年半ほどで消え去った。
そして扶持米も打ち切られ生活が破綻、藩主も不在となるなど、度重なる苦難に翻弄された藩士たちの多くは、斗南を去った。  
 
会津戦争1

 

[慶応4年/明治元年(1868)] 戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。 なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として別記する。
背景
文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行った。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも会津藩の恭順姿勢を信用してはいなかった。
慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。
追討を命じられていた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝に嘆願書を提出したが、東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之(こ)れなく」という基本方針は既に決定しており、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では赦免嘆願を目的としていたが、会津藩が明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる。
戦闘準備
会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが、容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。 また、藩側に逃げてきた農民や町人らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な税金を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。
とくに(藩の軍資金確保を名目に)資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を阻止するため、一部の村々を焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が、会津藩領の村々から大量の人夫・馬・軍資金などを徴発しても、反発するどころか歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。
経過
白河口の戦い
白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (旧暦)(1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
二本松の戦い
慶応4年6月24日(1868年8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、明治新政府軍はじりじりと北上した。7月29日(9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。 
若松城下への侵攻
二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。
二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃するなどの悲話が後世に伝えられている。
降伏
会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。
会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きた。
戦後処理
薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の計らいで容保は死一等を減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸(東京)に護送されることになった。
本来であれば家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野長修が戦争の責任を一身に負って切腹した。
江戸に送られることになった松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで藩の重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにもほとんど現れなかった。
会津藩の領土は明治政府の直轄地として占領され、会津若松城下には政府機関である「明治政府民政局」が設置された。
その後、各地で打ち壊しを行うヤーヤー一揆の農民たちに対して、明治政府は積極的に鎮圧はせず会津藩の旧村役人に交渉させ、一揆勢力の要求の多くを実現させた。
太平洋戦争の終戦後に書かれた『会津史談会誌第33号』の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には、新政府軍の命令によって遺体の埋葬が禁じられたという記述がある。この情報を元にした歴史小説などには「会津藩士の遺体埋葬を禁止し、腐乱するまで放置した」という記述が多く見られる。なお『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には「彼我の戦死者一切に対して」と記述してあり、会津側の遺体だけが放置されたとは記述されていない。他には、柴五三郎(柴五郎の兄)の著書『辰のまぼろし』に、町野主水が語った話として、原田対馬、町野主水、三沢仲三郎が遺体埋葬のため穢多に一千両を与えたが、死体が腐敗していたため埋葬をためらうなど雑に扱われたと書かれている。『辰のまぼろし』では遺体の一部埋葬をはじめたのは降伏した翌月の十月と記述されている。
領土を失った会津藩士は、転封先として「猪苗代(福島県耶麻郡)」と「斗南(現在のむつ市)」のどちらかを明治政府により提示され、最終的に斗南を選択し、移住して斗南藩を立てた。
後世への影響
近年でも以下のようなエピソードがあり、現在でも会津戦争の因縁の例として上げられる事が多い。
西南戦争では、多くの会津人が薩摩の巨魁(きょかい)である西郷隆盛への恨みを晴らすために政府軍に志願したといわれる。また会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。
1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。
2007年(平成19年)山口県の選挙区選出の安倍晋三内閣総理大臣は、会津若松市を訪問したときに「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った。
2011年(平成23年)3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故において、会津若松市は萩市から義捐金や核事故避難者用の救援物資の提供を受け、会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問した。また放射性物質の除染作業に自衛隊の山口県の部隊が携わった際には、部隊長が県知事に直々に作業報告に出向いた。
2012年(平成24年)11月26日、萩市長は会津支援の一環として会津若松を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行った。 
 
白河口の戦い

 

戊辰戦争における戦いの1つ。戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。
慶応4年閏4月20日から7月14日(1868年6月10日から8月31日)にかけて、南東北の要地白河小峰城(白河城)を巡る奥羽越列藩同盟側(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩)との戦い。列藩同盟側には名義上同盟には加わらなかった会津藩や旧幕府歩兵も参加しているが、これ以降それらの勢力も含めて列藩同盟軍と記す。
仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津藩・庄内藩と提携し新政府と敵対する軍事同盟成立に際し白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取った。ここに戊辰戦争の東北地域での戦闘・東北戦争が勃発した。しかし新政府軍は約700名程度で列藩同盟側約2500名の駐屯していた白河城を奪還した。同盟軍は白河を経由した関東への進軍を意図し約4500名まで増援を行い7回にわたって攻撃したが、新政府軍は劣勢な兵数で白河城を守りきった。
背景
白河は奥州街道沿いの要地であった。ここは白河藩の領地に当たるのだが、慶応2年(1866年)に藩主阿部正静が転封され二本松藩預かりの地となっていて藩主不在の状態であった。白河城は寛永6年(1629年)に丹羽長重によって改築された城で、仙台藩をはじめとする東北諸藩を仮想敵として設計されていたため、南方は比較的手薄となっていた。
慶応4年閏4月20日、二本松藩兵が守備していた白河城へ田中玄清の息子左内が率いる会津兵と新選組が侵攻しこれを占領した。会津藩遊撃隊長遠山伊右衛門と新選組(土方歳三が負傷により戦列を離れていたため山口二郎(斎藤一)が指揮)を城外南方の白坂口に配置、東の棚倉口には純義隊長小池周吾、原方街道には青龍隊長鈴木作右衛門を配置。朱雀隊長の日向茂太郎らは米村にいた。
参謀伊地知正治、部隊長野津鎮雄、川村純義の率いる新政府東山道軍は宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点として確保していた。新政府軍は薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で形成されていた。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。
25日払暁に新政府軍の先遣隊数百名は白坂口へ奇襲をかけて、会津藩遊撃隊と新選組は新政府軍と激しく交戦をした。この戦いを知った日向茂太郎が側面から樋口砲兵と共に新政府軍を攻撃、ここで新政府軍は浮足立った。更にそれに続いて棚倉口から小池が、原方街道から鈴木と集義隊の今泉と井口らが海側から側面を叩いた。この両側からの激しい攻撃に政府軍も敗走せざるを得なかった。新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、宇都宮城の戦いでの死闘による疲労と弾薬不足、そして宇都宮からの無理な強行軍の疲労と土地勘の無さも重なり損害を出して芦野へ撤退した。
翌26日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同若年寄横山主税が白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した。山口二郎や純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、西郷頼母は「兵力で勝っており不要である」として却下したものの、やはり白坂口や棚倉口にも兵を配備した。そして山口や純義隊を白河口に配置し本陣を守った。更に西郷は白河城南に位置する稲荷山に兵を重点に置き主力部隊と砲兵を置いた。
新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎたい所だったが、土佐藩は今市の戦いの最中であった。そこで東山道軍に伊地知正治率いる薩摩藩と長州藩と大垣藩と忍藩の部隊を合流させ増員した。兵力は新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2,000から2,500名であった。新政府軍は28日に激しい銃撃戦を展開させて会津兵を撃退させて翌29日に白坂口に本陣を置き、5月1日に白河城の攻略にかかった。
経過
新政府軍の白河城攻略
5月1日、新政府軍は兵力を3つに分け、本隊は伊地知が率い少数の囮部隊として中央から進軍、野津と川村が指揮する2部隊は左右へ迂回して列藩同盟軍を包囲、退路を断ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本体が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現在の九番町西裏 - 稲荷公園)に砲撃して注意と兵力を引きつけた。この際、稲荷山に激励に赴いた副総督の横山主税が銃撃され戦死した。西郷は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけた。
こうして手薄になった西の立石山と東の雷神山へ、新政府軍別動の2部隊が侵攻して占拠した。これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。
列藩同盟軍の反撃
この頃新政府軍は関東を完全に制圧できていなかったため、白河城へ増援する余裕が無く、黒川藩によってわずかに兵力を増強できたに過ぎなかった。一方、列藩同盟軍も連携が悪く兵力の集結や総攻撃の決断ができずに、5月16日から17日に小規模の攻撃を行った程度であった。こういった状況の中、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。
26日、列藩同盟軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に列藩同盟軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。列藩同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。6月に入ると、新政府軍は5月6日の今市の戦いや15日の上野戦争での勝利によって関東から旧幕府勢力を駆逐できたため戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援された。列藩同盟軍は6月12日にも白河城へ攻撃を仕掛けたが失敗に終わった。
戦闘終結
16日、平潟に新政府軍1500名が上陸。続々と派兵され7月中旬には3000の兵を擁するようになった。平潟の上陸軍に呼応し24日に白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて南東へ出発した。棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し両新政府軍が提携するために確保する必要があったからである。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏した。
25日、列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗。更に7月1日の攻撃にも失敗し、翌2日に西郷が総督を罷免され、後任として内藤介右衛門が就いた。しかし戦況は新政府へ傾き、8日に庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが列藩同盟から離反したとの報が入ったため、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。また13日、平潟の上陸軍は平城を占領し、以後軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始、三春にて板垣の白河軍と合流した。
列藩同盟軍の白河城への攻撃は14日が最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り・浜通りが新政府軍の支配下となったため、これに狼狽した列藩同盟軍は会津藩領を経由し白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結した。
影響
28日、29日に新政府軍は本宮へと進軍し、列藩同盟軍は迎撃にあたったが打ち破られて敗走した。また27日に本宮の陥落で進退窮まった三春藩が新政府へ降伏、これにより29日に新政府軍の別働隊が二本松城を攻撃した。二本松藩兵の多くが白河口へ出兵していたこともあり二本松城は落城した(二本松の戦い)。
白河口の戦いで新政府軍を率いた伊地知正治は、兵力劣勢ながら果敢な指揮をもって戦いを優勢に進めた。一方列藩同盟軍はリーダーシップを欠き、当初持っていた優勢な兵力を生かしきれずいたずらに損害を重ねた。白河から列藩同盟軍を南下させることによって関東地域の旧幕府勢力との協同・関東地域からの新政府軍の駆逐を目指した列藩同盟の意図は、白河城を新政府が確保し続け、関東地域の騒乱が新政府によって収拾されることによって挫折した。逆に板垣の白河軍及び平潟から上陸した新政府軍の中通り・浜通りへの進軍によってこの地域の列藩同盟軍は雲散霧消し、新政府は仙台藩と会津藩を直接攻撃できる態勢が整った。白河口での敗北によって列藩同盟軍は勝機を失い、東北戦争の大勢は決した。 
 
二本松の戦い

 

戊辰戦争時、徳川旧幕府軍に参加した二本松藩の居城二本松城を巡って行われた明治新政府軍との一連の戦いの総称である。二本松城の落城に際し、動員された少年兵が犠牲となった。
開戦の経緯
慶応4年(1868年)閏4月19日、会津藩救済の嘆願を拒み続けた明治新政府軍参謀の世良修蔵が仙台藩らによって暗殺されると、翌20日に徳川旧幕府側の会津藩、純義隊、新選組らは白河城を占拠した。情勢の変化を受け、東北の諸藩25藩は白石会議に参加し、23日には仙台藩と米沢藩を盟主とする奥羽越列藩同盟を結成、東北戦争が開始される。岩代国安達郡の地に10万700石を領する二本松藩も周囲の小藩と共に列藩同盟側に参戦した。
二本松藩
二本松藩は10万700石を領し、領国の岩代安達郡は会津藩の猪苗代盆地へ通じる奥羽街道の要衝に位置していた。周囲の小藩である守山藩(2万石)、三春藩(5万石)に比べて石高が高く、藩主の丹羽氏は丹羽長秀に連なる名門のために国主格待遇を受け、老中で白河藩主阿部正外の追放以降、白河城の城郭を預かっている。
戊辰戦争時の藩主は丹羽長国だったが、長国は病に伏しがちで藩政を差配していたのは家老の丹羽富穀(一学)だった。藩士の気質としては、会津藩同様に漢学が盛んで、忠君愛国の教育が家臣団に深く根づいていた。しかし、そのために軍制、兵装、戦術の洋化の動きは鈍く、結果として旧態依然の軍備で戊辰戦争に参加することになる。藩の兵力は1,000から2,000足らずとされ、戊辰戦争時は農民兵、老人兵、少年兵を動員してかろうじて2,000を維持していた。
二本松藩が管理していた白河城は、4月9日の段階で新政府軍参謀の世良修蔵の命令で新政府軍へ管理が移る。二本松藩兵は一部を残して退去し、会津討伐のための仙台藩、棚倉藩、三春藩らの兵が入っていた。だが、19日に世良が仙台藩に処刑されると、20日未明に二本松藩を除く各藩の兵士は白河城を退去し、代わって会津藩兵が白河城に入った。23日には家老丹羽富穀の主導の元、列藩同盟に参加する。白河城には会津藩、仙台藩、棚倉藩の2,300名の軍勢が入ることになり、二本松藩兵は自領へと軍を引き上げた。
しかし、大軍にも関わらず5月1日、新政府軍の攻撃により白河城が再び新政府側に戻った。会津藩は奪還のため二本松藩に増援を要請、二本松藩はこれに応え、8小隊と砲隊からなる主力を白河口に送った。しかし、会津、仙台兵を中心とする相次ぐ攻勢にも関わらず白河城への攻撃は失敗に終わり、二本松藩兵もしばらくの間、白河周辺に釘付けになる(白河口の戦い)。この時、二本松藩と白河城の間を守山藩、その北に三春藩といった同盟に参加した諸藩が隔てていたため、二本松藩を守る戦力は老人隊、少年隊、農民兵を含んだ予備兵のみだった。
棚倉の失陥と浅川の戦闘
5月1日、白河城を奪還した新政府軍は増援待ちの状態だった。旧幕府軍は白河城の再奪取のために度々攻撃をしかけてきたが、いずれも新政府軍が勝利して会津藩兵らを潰走させていた。しかし、兵力の不足から追撃を行うことはできず、戦略的にも北上できる兵力はなかった。状況が変わったのは5月27日、土佐藩からの増援がようやく到着し、続いて6月7日に薩摩藩、22日に長州藩、23日には東征大総督参謀・奥州追討白河口総督の鷲尾隆聚と阿波藩が到着し、ようやく積極的な軍事行動に移る兵力が揃う。
新政府軍の北上にあたり、一番の気がかりは東にある列藩同盟側の棚倉藩であり、これを放置すると後方で蠢動される可能性があった。そのため24日、板垣退助が800名からなる別働隊を率いて棚倉藩へ向けて出兵する。棚倉城は仙台藩と相馬中村藩が守備にあたっていたが、先立つ18日に平潟へ新政府軍が上陸していたために、対応すべく棚倉の旧幕府軍は平潟へ向けて移動して手薄となっていた。そのため、棚倉城は簡単に陥落する。白河と棚倉を抑え、北上の体勢の整った新政府軍は平潟方面軍の磐城平藩の攻略を翌月まで待ち続ける。これは磐城平藩制圧後、山道を通って三春藩を攻撃する平潟方面軍と歩調を合わせるための戦略的な判断であり、7月13日に磐城の戦いで磐城平城が落城して三春藩を二方面から攻めることが可能となった。
この時、旧幕府軍の主力は棚倉への救援には向かわなかった。旧幕府軍は新政府軍の兵力が二分される好機と見て白河城へ攻勢をかけていたからである。しかし、守りに徹する新政府軍は最新式の銃器によって計7度の襲撃全てを退け、14日に旧幕府軍は白河城攻略を断念した。
16日、仙台藩の大隊長塩森主悦は白河城への攻撃が埒が明かないと見て、棚倉の奪還に方針を変更して棚倉方面へと兵を向ける。その途上、棚倉北東にある浅川で新政府側の陣地に遭遇する。ここには北上に備えて土佐藩兵、彦根藩兵が駐屯しており、仙台藩の攻勢により一時苦境に陥るも棚倉城からの増援を得て撃退した。この敗戦と平潟に上陸した新政府軍の存在がきっかけとなり、仙台藩兵、二本松藩兵は白河城と棚倉城の攻略を断念して郡山へと撤退を始める。
なお、この戦闘中の出来事として「仙台戊辰史」では三春藩が裏切って後方から銃撃を浴びせたことを敗因に上げているが、新政府軍側の記録では寝返りの記述はなく、「仙台藩記」にも三春藩が戦闘途中で離脱したことのみが記されているため、戦闘の最中に直接的な寝返り(列藩同盟軍への攻撃)が行われたことについては不明となっている。しかし、三春藩は浅川の戦闘の数日後、板垣退助に恭順の使者を送っている。
三春、守山の帰順
24日、新政府軍の板垣支隊は棚倉城から北上を開始する。翌25日には土浦藩領の蓬田へ到達し、三春藩まで後一日の距離に迫った。この時、既に三春藩は板垣に恭順の使者を送っていたが、一方では旧幕府軍には援軍を求めるなど戦意高揚を装って仙台藩、二本松藩からの信用を得ていた。三春藩には増援及び監視役として200名の仙台、会津藩兵が駐屯していたが、24日には仙台藩が兵力を南西の郡山に引き上げたこともあって孤立した存在だった。また、駐屯する200の兵士も新政府軍の接近に伴って三春藩の求めるままほとんどが城外の陣地に入り、残された数十名の兵士も新政府軍が接近すると北に引き上げて三春藩の離反を止める要因はなくなった。
新政府軍が三春藩に接近した26日、三春藩は藩主の秋田映季自らが城外に出迎えて新政府軍に帰順する。この帰順は旧幕府軍にとってみれば直前まで信用させた上での手のひら返しであり、「三春狐にだまされた」と三春の変節を詰る歌が現在でも残るほどの禍根を残した。一方では、元々三春藩は勤王思想が強いため新政府よりの立場にあったが、周囲の力関係から仕方なく列藩同盟に加盟した事情がある。三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものであるという見解も示されている。
三春藩の帰順の翌27日、三春藩に平潟方面軍が到着し、板垣支隊はその兵力を倍以上に増強する。同日、三春藩から一日の距離にある守山藩も新政府軍に帰順して新政府軍は一気に戦線を北へと押し上げることに成功した。この時、二本松藩の主力は仙台藩と共に三春藩の南西にある郡山にあり、新政府軍と二本松藩の間には予備隊のみが存在していた。三春の即日無血開城は仙台藩、二本松藩とも想定外のことであり、旧幕府軍が集結する郡山以北に新政府軍が進出した状況となる。平潟方面軍が合流して兵力を増強した板垣支隊は、この機に三春と二本松藩の中間地点、本宮村に向けて兵を進める。二本松藩では新政府軍の接近に伴って降伏についての軍議が開かれたが、家老丹羽富穀による「死を賭して信義を守るは武士の本懐」の一言により抵抗の道を選んだ。
本宮村の戦い
三春藩の帰順に先立つ20日、新政府軍は二本松藩攻略に備えて三春藩の北12kmにある小浜を長州藩兵3小隊で占拠していた。本隊は三春にあり、27日には平潟方面軍が到着して合流を果たす。数を倍増させた新政府軍は、二本松領の糠沢(三春の北西30km)と本宮(糠沢の西8km)に二本松藩の兵士が展開していることを知り、大垣藩、三春藩、土佐藩、黒羽藩らの諸隊をまず本宮に向かわせた。しかし、それらの諸藩とは別に薩摩藩3隊と土佐藩2小隊が各自の判断で既に動いており、深夜に糠沢に奇襲を敢行して大勝して二本松藩兵26名を戦死させる。この薩摩藩の奇襲は、本宮へ向かった新政府軍には前もって通達がなされておらず、報告も行われていない抜け駆けに等しいものだった。この攻撃の原因を、板垣の慎重な指揮に対する反発と指摘する声もあるが、薩摩藩の独断専行は二本松藩、新政府軍の双方に影響を及ぼす。
本宮にあった二本松藩兵は糠沢を援護すべく兵を分け、本宮と糠沢を隔てていた阿武隈川を船で渡って向こう岸の高木に到着して糠沢へと向かわせようとする。しかしその二本松藩4小隊の進軍途中、本宮に向かっていた新政府軍の黒羽藩と遭遇、すぐに後続の新政府軍と抜け駆けしていた薩摩藩、土佐藩の部隊が殺到して二本松藩兵は撃破された。新政府軍はそのまま本宮の攻略に向かうが、高木と本宮の間は阿武隈川が隔てており、渡河のためには舟の確保が必要だった。新政府軍の先鋒となっていた黒羽藩兵と土佐藩兵は二本松藩の舟を奪取すべく河に飛び込み、狙撃によって土佐藩断金隊の隊長が戦死するなどの被害を受けた。これに対し、地理に明るい三春藩、守山藩の先導により黒羽藩が舟を確保するまで新政府軍は大砲と銃火を厚くして援護を続ける。舟を手に入れた新政府軍は火力で制圧した後に敵前で渡河し、本宮になだれ込んで二本松藩兵を撃破してこれを占拠した。
糠沢、本宮が新政府軍の手に落ちたことによって、北の二本松城と南の郡山の中間点を抑えられ、郡山の旧幕府軍は孤立する形となった。守山、三春、白河といった郡山を囲む要所にも続々と新政府軍の増援が到着して旧幕府軍の動きが封じ込まれると、旧幕府軍の一部は黒羽藩領に放火といったゲリラ戦を仕掛けたが、新政府軍も真名子、虫笠といった村落に放火してその拠点を脅かして状況の打破には至らない。そのため28日、本宮を奪還すべく郡山から仙台藩兵を中心とする旧幕府軍が出陣する。この時、旧幕府軍は総司令官の坂英力ではなく浅川で指揮をとった塩森主悦が指揮をとった。
塩森は新政府軍の占拠する本宮は東を阿武隈川に接していたため、残る北、西、南の三方向からの包囲を企図した。しかし、総司令官が郡山に残るために動員できる兵力は総兵力の一部であり、北と西の部隊に兵力を割くことができなかった。そのため、包囲を果たすことはできず、かえって新政府軍に各個撃破されていった。旧幕府軍は各戦線で抵抗したがやがて個々に撤退して戦闘は終結する。この戦闘により新政府軍の死傷者は26名、旧幕府軍は仙台藩が51名、二本松藩で93名の死者を出した。
二本松の戦い
本宮を抑えた新政府軍は続いて二本松城を攻め落とす方針をとる。この時、新政府軍の南の郡山には数を減らしたとはいえ仙台藩の兵力が駐屯していたため、二本松攻めが長引けば挟撃される恐れのある作戦だった。補訂戊辰役戦史をまとめた大山柏はこれまで合理的な戦略を続けてきた新政府軍には珍しい作戦とその非合理性に考察を加え、その背景には積極策を好む薩摩藩兵が派閥の異なる板垣を「手ぬるい」と突き上げて攻勢に出させたものと見ている。
新政府軍は本宮に忍藩、大垣藩ら280名を置いて郡山を警戒させるとともに、郡山の南にある守山藩に柳川藩と大村藩の計440名を配置し、有事の先は白河城にある部隊と合同して敵を背後から攻める方針をとる。これは28日に仙台藩兵と交戦し、旧態依然の機動力を確認したためにとられた措置だった。
二本松城へ向かう部隊は二隊に分かれ、一つは二本松城と阿武隈川を挟んで至近に位置する小浜から出撃する長州藩3中隊、薩摩藩4中隊に砲兵1隊、備前藩665名の編成であり、もう一隊は板垣自らが率いる本宮の主力部隊(薩摩6中隊、砲兵2隊、土佐藩、彦根藩、佐土原藩)であり、小浜隊は東から、板垣支隊は南から二本松城を目指して7月29日午前6時に出陣した。実際には郡山の旧幕府軍は本宮の戦闘後の夜間に仙台藩領へと撤退しており、二本松藩を救援できる戦力を有していなかった。
二本松藩は軍師小川平助の指揮の元、防戦の支度を始めていた。二本松城は丘陵と阿武隈川という天然の地形を利用した山城で、高地に二本松の12小隊が展開し、後方には仙台藩3小隊、会津藩5小隊が後詰として待機していた。だが、二方面から攻める新政府軍に対しては4kmの防衛線を守らねばならず、二本松藩には根本的に兵力が不足していた。そのため、老年の予備兵に加えて少年からなる二本松少年隊までもが動員された。さらに小川は不利を補うべく、自ら1小隊と共に本陣から南に離れた位置にある絶竣で知られる尼子平に突出する形で陣地を形成し、本宮からの板垣支隊への妨害を図った。二本松の戦いに先立つ28日、病を患いながらも城に留まろうとする藩主長国を無理に駕籠に乗せて二本松の北15kmにある水原に撤去させる。二本松城には軍事総督として家老の富穀が残った。
板垣支隊
29日、本宮を出た板垣支隊は一路二本松城へ向かっていたが、尼子平にさしかかると小川の1小隊から一斉に射撃を受けて行軍が停止した。すぐに先陣を行く薩摩藩11番隊がこれに反撃しようと尼子平に向かうが、切り立った地形を利した小川を崩すことができずにいた。代わって砲隊に任せようとするも、薩摩藩に随行して近づきすぎたために射角が大きくなりすぎて砲撃が叶わない。使用できない山砲に変えて威力が劣るものの使用可能な130ミリの携臼砲を使うしかない場面だったが、射撃の中でその作業は容易に進まなかった。後続の薩摩藩12番隊は先行する11番隊の苦境を見て援護を開始し、佐土原藩、土佐藩、彦根藩もそれぞれ尼子平の包囲に動く。
砲隊は支援を受けてようやく砲撃の体勢が整い、板垣支隊は尼子平の小川の部隊に総攻撃を仕掛けた。尼子平は抗戦の末に陥落し、小川も戦死する。これにより、板垣支隊は二本松城の目前の大壇陣地へ砲撃が届く距離に移動し、激戦の末に大壇陣地を攻略してついに二本松城に到達する。しかし、板垣支隊が尼子平に手間取っているうちに、東から攻め込んだ小浜支隊がいち早く二本松城に突入し、街の随所からは火の手があがっていた。
小浜支隊
小浜支隊は阿武隈川を越える必要があったが、二本松までわずか12kmの距離にあり、薩摩藩1番隊を先頭にして板垣支隊よりも一時間早い29日午前5時に出発した。それにも関わらず濃霧の中で船舶を確保するのに手間取り、舟を確保できた後も敵前渡河を強いられることになった。しかし、二本松城に東を守る守備隊は老年の予備兵であり、彼らの武装はほとんどが鎧兜に槍といった出で立ちで、火器はわずかに足軽が火縄銃を持つ程度だった。そのため、新政府軍の渡河を妨げる手段はなく、かえって砲撃が加えられると足軽隊は動揺して城に逃げ込んでしまった。残された老年兵も浮き足立ち、城に戻る者や、新政府軍に斬り込んでは射殺される者が相次いだ。小浜支隊はほとんど抵抗を受けないまま市街戦へと突入する。
落城
大壇を始めとする城外の陣地をほぼ攻略され、二本松藩の指揮官らは二本松城に撤退して最後の抵抗に移ろうとしていた。長国を米沢藩に脱出させた際に仙台藩の護衛がついたが、それはそのまま同盟に対する人質となって二本松藩は降伏を選ぶことができなかった。二本松藩の望みは会津藩と仙台藩の援軍だが、両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に要所に置かれた新政府軍によって半壊の被害を受けて撤退してしまっていた。また、城内の仙台藩兵、会津藩兵も城を脱出し、後には逃げ場所のない二本松藩兵のみが残された。
29日の正午、二本松にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかったことがさらなる悲劇をもたらす。激戦の最中に二本松少年隊の隊長と副隊長が相次いで戦死し、指揮できる者がいない中、二本松少年隊40名は最前線に放置される事態に陥っていた。彼らは戦場をさ迷ううちに1人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて1人1人命を落としていく。その中には13歳になる少年兵と遭遇した土佐藩兵が、幼さに驚愕して生け捕りにしようとするも、抵抗されたために射殺するしかなかったケースもあった。
この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。会津藩は39名、仙台藩は19名の死者を出し、対する新政府軍は17名の死者に留まったが、二本松藩の激しい抵抗により多くの戦傷者が発生し、その戦いぶりは当時一部隊の隊長だった野津道貫によって「戊辰戦争中第一の激戦」と賞された。
戦後
二本松城には明治新政府軍が入り、新政府軍は会津、仙台を戦略目標とした東北戦争において大きな前進を遂げた。北の福島藩に向かえば、中村へ進出した平潟方面軍と合同して仙台藩を直接攻撃可能であるし、西に向かえば会津藩の領地へついに足を踏み入れることができる。その2つの選択肢のどちらかを選ぶか、板垣と大村益次郎の討議の末に会津攻めが決定し、母成峠の戦いの戦いへつながっていった。
戊辰戦争終結後、二本松藩は改易の対象となって多くの人材、資産を失った上に、10万石から5万石へ領地が減少した。しかし、長国は自ら隠居することで婿養子の丹羽長裕を後継とし、家の存続には成功した。版籍奉還後は長裕が二本松藩知事となり、廃藩置県により二本松県となるまでその任に当たった。
二本松の戦いの影響として、三春藩の「裏切り」から派生した悪感情が、「会津と長州」「秋田と仙台」の対立同様に地域社会に残される形となった。しかし、時代が下るにつれて対立感情は和らいでおり、現在では当時の歌にその名残が残る程度とされている。 
 
母成峠の戦い

 

[ぼなりとうげのたたかい、慶応4年8月21日(グレゴリオ暦1868年10月6日)] 会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。会津藩境の母成峠(現・福島県郡山市・猪苗代町)を守る旧幕府軍800が新政府軍2,200と戦うが、兵力及び兵器の差で勝てず敗走し、新政府軍は若松城下に殺到する結果となった。
背景
江戸城無血開城の後、会津戦争が開始され、旧幕府軍は北関東で新政府軍を迎え撃ったが、白河口の戦いで敗れ、7月29日(グレゴリオ暦9月15日)に二本松城が陥落した(二本松の戦い)。これにより新政府軍は会津を東から攻撃出来る状態となった。
次の段階として、新政府軍は江戸に居る大総督府の参謀・大村益次郎が「枝葉(会津藩を除く奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす」と仙台・米沢への進攻を指示したが、二本松に居る参謀・板垣退助と伊地知正治は逆に「根元を刈って、枝葉を枯らす」と会津攻めを主張した。会津藩が国境へ兵を出して藩内を手薄にしている今が有利である上に、雪の降る時期になると新政府軍が不利になるため、その前に会津を制圧したいというのが主な理由であった。結果、板垣・伊地知の意見が通り、新政府軍は会津へ向かうことになった。しかし、会津への進攻口を選択するにあたり土佐藩参謀の板垣は東の御霊櫃峠(御霊櫃口)を、薩摩藩参謀の伊地知はそれより北側の母成峠(石筵口)を推して互いに譲らず、最終的に長州藩の百村発蔵の説得により、伊地知の案に決した。
会津へ入るには何か所かの街道があるが、その中で会津藩が特に警戒して防御を固めたのは南西の会津西街道(日光口)と南東の勢至堂峠(白河口)で、さらに二本松と若松を最短で結び、当時の主要街道であった中山峠(二本松口)であった。会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測した。しかし前述の通り、新政府軍はその裏をかく形で、母成峠へ板垣・伊地知が率いる主力部隊1,300と土佐藩の谷干城が率い勝岩の台場へ向かう兵約1,000、さらに別働隊として薩摩藩の川村純義が率いる300を送り、中山峠には陽動部隊800を先に派遣した。もっとも、旧幕臣の大鳥圭介は新政府軍主力が母成峠に向かったことを的確に把握していたが、いかんせん手持ちの兵力が少なすぎた。
経過
8月20日、二本松へ先制攻撃を仕掛けた旧幕府軍の内の一部隊が進軍中の新政府軍と遭遇し、坂下で前哨戦が行われた。大鳥麾下の伝習隊が奮戦する一方で、会津藩兵等は敗走したため、伝習隊は殿を務め白兵戦に慣れないため30余名を超える死傷者を出す大損害を受けたが、新政府軍の進撃を食い止めた。
翌21日、濃霧の中、新政府軍2,200は本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。新政府軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とし、他に長州藩兵、佐土原藩兵、大垣藩兵、大村藩兵を加えて6藩で編成されていた。母成峠の旧幕府軍守備隊は、峠から山麓にかけて築いた3段の台場と勝岩の台場、守将・田中源之進が率いる会津藩兵200ばかりであったが、大鳥が率いる伝習隊400や仙台藩兵100、二本松藩兵100、土方歳三が率いる新選組若干名が加勢し総勢800となった。
戦いは午前9時頃から砲撃戦で始まった。旧幕府軍の指揮官は大鳥であり、兵力を縦深陣地に配備し、その配下の伝習隊は善戦した。しかし、緒戦で木砲のみの第一台場(萩岡)が陥落し、大砲2門を置いた第二台場(中軍山)も新政府軍が山砲で攻撃した上に、長州藩兵の側面攻撃が功を奏して炎上する。さらに、勝岩の台場を固めていた守備隊も土佐藩兵の攻撃を受け、追い詰められた旧幕府軍は頂上に残った第三台場(勝軍山/母成峠)で大砲5門を以て反撃するも、新政府軍は第二台場から大砲20余門で母成峠を攻撃。濃霧の中、間道から現れた新政府軍に背後を襲われた旧幕府軍は大混乱に陥った。敗色が濃くなるに及び、大鳥の叱咤も空しく、またもや会津藩兵等は伝習隊を置き去りにして逃走した。やがて峠は新政府軍が制圧し、午後4時過ぎにはほぼ勝敗は決した。前日に引き続き再び殿となった伝習隊は大打撃を受け、大鳥の総員退却命令も伝達されないまま潰走した。
この戦いでの土方歳三の所在は不明だが、中地口に居る兵300〜400を率いる内藤介右衛門と砲兵隊長の小原宇右衛門へ猪苗代に対する警告を発している。しかし、内藤らは手遅れと判断し若松に戻ることを優先した結果、母成峠を突破した新政府軍は猪苗代城へ向けて進撃し、猪苗代城代・高橋権大夫は城と土津神社に火を放って若松へ撤退した。敗走する伝習隊は諸所に火を放ち新政府軍の進撃を遅滞させることを試みるも、22日に猪苗代に到着した新政府軍はそのまま若松へ向けて進撃を続け、台風による豪雨の中を川村純義の薩摩隊は猛進し、22日夕には十六橋に到達した(十六橋の戦い)。
会津藩の佐川官兵衛は先鋒総督として出陣し、新政府軍の若松進攻を阻止しようと十六橋の破壊を始めていたが、川村隊から銃撃された上に新政府軍の後続諸隊3,000余が相次いで到着するに至り、退却を余儀なくされた。新政府軍は橋を占領し復旧させるとこれを突破し、夜には戸の口原に進出した。会津藩は佐川が戸ノ口・強清水・大野ヶ原に陣地を築いて防戦し(戸ノ口原の戦い)、前藩主・松平容保も自ら白虎隊(士中二番隊)などの予備兵力をかき集めて滝沢村まで出陣したが、容保は戸ノ口原の戦いで新政府軍が会津軍を破って滝沢峠に迫ったとの報告を受けると若松城へ帰城した。新政府軍は23日朝には江戸街道を進撃し、午前10時頃に若松城下へ突入した。
影響
会津藩にとって、藩境がわずか1日で突破されたことは予想外のことであった。越後口や日光口では藩境あるいは藩外での戦いが続いていた頃である。前藩主・松平容保自ら滝沢本陣まで出陣して救援軍を差し向けたが全てが遅かった。結局は若松城下に突入され、白虎隊(士中二番隊)や娘子軍、国家老西郷頼母一家に代表されるような悲劇を引き起こすことになった。一方で、相次ぐ重税により藩に愛想を尽かしていた領民もおり、お上の戦に対しては他人事の様子で、中には新政府軍に協力する者もいたことが記録にある。
会津軍は籠城を余儀なくされ、他の戦線でも形勢不利となっていく。会津藩の降伏は1か月後のことだが、会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明し、奥羽での戦争自体が早期終息に向かった。母成峠の戦いが会津戦争ひいては戊辰戦争全体の趨勢を決したと言える。
現在、母成峠には、古戦場碑や戦死者の慰霊碑が建てられ、当時の土塁等も残されている。 
 
会津城籠城戦

 

[慶応4年閏8月23日 - 明治元年9月22日(1868年10月8日 - 1868年11月6日)] 会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。母成峠の戦いで勝利した新政府軍に対し、旧幕府側の会津藩は若松城において約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。
明治元年9月22日、会津城下甲賀町で降伏儀式が行われ、新政府軍から軍監の中村半次郎、軍曹の山県小太郎が全権代表として降伏文書を受け取り、新政府軍に城の明け渡す。 
 
白虎隊

 

会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。幕末の会津藩が組織した部隊には他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「白虎」からである。
概要
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、前装装条銃)のみであったとされる。これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた(そもそも東北諸藩のほとんどは、旧式軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入していた)。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災(もしくは城周辺から上がる湯気)を目にし落城したと誤認して悲観したとされているが、飯沼が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(飯沼からの聞き書きに飯沼本人が朱を入れたもの)によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。
途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
その後、飯沼は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に77歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に、日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。このほか「士中二番隊」の隊士であった酒井峰冶も生き残って精米屋を営み、没後の1993年に酒井家の仏壇の中から『戊辰戦争実歴談』が発見され、戸ノ口原の戦闘の様子が後年に残されている。
白虎隊の構成
○ 士中一番隊 49名、二番隊 42名
○ 寄合一番隊 106名、二番隊 67名
○ 足軽隊 79名
から成り、合計343名である。
備考
○ 白虎隊士墓のある飯盛山には、戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子約200名の霊を慰める石碑の「会津藩殉難烈婦碑」がある。墓域の整備に際しては根津嘉一郎の尽力があった。また、1935年に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ(Hasso von Etzdorf)が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑や、1928年にベニート・ムッソリーニが寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑がある。なおムッソリーニが記念碑を寄贈するに至ったのは、下位春吉という人物が当時の若松市の市長に対して「ムッソリーニは白虎隊の事績に感激し、記念碑を送ることを計画している」と述べたことがきっかけとなっている。とはいえ実際にはそのような計画は存在しておらず、下位による創作であった。しかしこの話題が新聞に掲載され、幣原喜重郎や元隊員でもある山川健次郎ら名士からの賛助も与えられたため、実際に記念碑を建てる必要が生じた。そこで外務省からムッソリーニへ打診を行い、建立に至ったという経緯が存在している。これらは第二次世界大戦後、進駐軍により破壊されたが、後に一部が復元された。
○ この記念碑の建立に際し建設会が組織され、高松宮宣仁親王が総裁、近衛文麿が会長、田中義一が名誉会長、徳川頼貞、大倉喜七郎が理事に就任し、地元では当時の若松市長で会津弔霊義会理事長でもあった松江豊寿等が活動した。
○ 北海道久遠郡せたな町に隊士の有賀織之助、永瀬雄次の従兄弟である丹羽五郎が開拓した丹羽(村)があり、飯盛山を遥拝するための「白虎隊遥拝所」がある。
○ 山口県萩市唐樋町の火除け地蔵堂に、額入りの石版画「白虎隊自刃図」がある。戦火に包まれた若松城下を望む少年たちが描かれているが、いつ誰が描いたものかは不明である。戊辰戦争終結10年以内に描かれたという由来文があるが、山と城の位置関係が間違っており従軍した者が描いたにしてはおかしいとの指摘を受けている。
○ 井深茂太郎の一族からは、後にソニーの創業者となる井深大が産まれている。
○ 石山虎之助は井深家からの養子であり、井深大の祖父・井深基(もとい)は虎之助の実の兄である。
○ 白虎隊をテーマにした歌曲は複数あるが、中でも名高いのが1937年に藤山一郎が歌った「白虎隊」(作詞:島田磬也、作曲:古賀政男)や、1986年に日本テレビ『年末時代劇スペシャル』第2弾で放送された『白虎隊』の主題歌である堀内孝雄の「愛しき日々」などが挙げられる。
飯盛山
福島県会津若松市の中心部から少し東側にある標高314mの山。またその周辺。白虎隊自刃の地としても知られている。会津若松市一箕町(いっきまち)に位置し、JR会津若松駅からはほぼ真東にあたる。会津盆地の東端でもあり、近隣には白虎隊記念館や団地などがある。
「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたという。
江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され抗戦するが、そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地でもある。「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れ、墓前に 山のふもとには土産屋が並ぶ。この土産屋一帯は、昔から存在し、無料の看板で駐車場へ誘うものの一定の土産物屋で買い物を迫る「買うように迫る商法」とよく言われ、強烈な誘いで有名。山へ登るのには2つのコースがあり、徒歩で登るコースと、エスカレータで登るコースがある。
中腹には、日本では大変珍しい木造建築物栄螺堂(さざえどう)(旧正宗寺三匝堂)がある。上りと下りで同じ道を通らず抜けられるという仕組みで、国の重要文化財に指定されており、これ目当てで観光に来る客も多い。頂上からは会津若松市内が一望できる。
佐原盛純
[さわらもりずみ、天保6年-明治41年(1835-1908)] 漢学者で明治時代の役人、教師。字は業夫、通称は佐輔、貞一、号は蘇楳、豊山。旧姓は金上。金上盛備の子孫である。
天保6年(1835年もしくは1836年)、現在の会津若松市に生まれる。実家は裕福な商人であった。少年時代から学問に没頭、18歳のときに江戸へ遊学し、添川完平らに師事する。文久3年(1863年)には横浜鎖港交渉にあたる幕臣・池田長発の侍講となり、河津祐邦の従者の名目で渡仏した。この際「航海日録」全4巻を著している。帰国後吉井藩の侍講となる。
士族・佐原氏を継いだのは明治維新後であった。司法省に勤めたが、明治8年(1875年)、40歳で帰郷し、会津中学などで教鞭をとる。明治17年(1884年)、私立日新館館長・中条辰頼の依頼により、"少年團結白虎隊 國歩艱難戍堡塞"ではじまる白虎隊詩を創作し、また白虎隊剣舞を教え子達とうみだした。
明治41年(1908年)、脳溢血のため死去。享年74。
二本松少年隊
幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。
戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算すると言う入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった。二本松少年隊は藩内各地に出陣した62名を指すが、藩の西洋流(高島流)砲術師範(元は同じ砲術の武衛流師範で後に江戸留学の際に西洋流(高島流)砲術を習得した木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷して称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。
地方の本では、三浦行蔵は倒れていたところを農民に助けられたが、仲間も戦死し、隊長も死んでしまったのに生き残った自分が情けないと悔やみ、その農民が少し目を離したすきにいなくなっていたという。
二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所がある。また二本松城跡である霞ヶ城公園には群像彫刻や顕彰碑が立っている。 
山川健次郎 
東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長を務め、人々から尊敬を集めた山川健次郎の原点は、故郷である会津藩への郷土愛であった。幕末、会津は天皇の敵とされる屈辱を味わった。それを晴らすためにも、彼はアメリカのエール大学で死にもの狂いで勉強した。
社会を導く人
山川健次郎は、物理学者であり教育者である。「星座の人」と呼ばれ、人々の尊敬を集めた。星座は人々に自分の位置を知らせる役割を持つ。それと同じく、山川健次郎は人々の「精神の拠り所」であり、「社会を導く人」であった。明治、大正、昭和初期にかけて、東京帝国大学(東京帝大)総長を2度も歴任し、京都帝国大学、九州帝国大学の総長も務めた。総理大臣も文部大臣も、まず健次郎の意見を聞いてから、教育行政に取り組んだと言われている。まさに教育界の重鎮であった。
日露戦争後、東京帝大の教授処分をめぐって文部省と帝大が衝突するという事件が起こったときのこと。総長であった健次郎が、この事件による混乱の責任を取って辞任を申し出た。この時、教授、学生など全学あげての慰留運動が起こったのである。九州帝大の総長から、再び東京帝大総長に転任する際にも、学生たちが立ち上がって健次郎の留任運動が起こったほどなのである。名総長と言われたゆえんである。
これほどまでに信望を集めたのは、彼の教育への情熱ばかりではない。高潔にして精錬潔白な人格によるところ大である。彼は清貧を旨とし、公私混同を嫌った。講演に行っても報酬は一切受け取らないし、芸者の出る宴には出席しない。近づきがたい堅物であるが、部下や学生には優しかったという。健次郎の娘は父を評して、「それは厳しく、神にも等しい人」と言った。
こうした人間性は、もって生まれた性稟というばかりではないだろう。彼の郷里、会津藩(現在の福島県会津若松)の教育、それと少年時代の体験が、少なからず影響を与えているように思われる。
白虎隊
1854年、健次郎は会津藩に生を受けた。江戸時代の幕引きが始まったと言われる黒船騒動(アメリカのペリー来航)の翌年のことである。それから時代は一気に徳川幕府崩壊へと突き進んでいく。会津藩は幕府側に付いて、最後まで薩長(薩摩と長州)を中心とする官軍(新政府軍)と戦った。まさに幕府側の最後の砦とも言うべき藩であったのだ。
城に立て籠もって、頑として抵抗を試みる会津の武士の強さには、官軍もあきれ果て、逆に感嘆するほどであった。主君を守るため、武士はもとより、女、老人、子供らが結束して、文字通り命をかけて戦った。これは会津魂として、今なお語り草になっている。
健次郎は、この時15歳(満14歳)。多感な少年は、数多くの悲劇を目撃した。親友の家では、母、祖母、兄嫁、姉、妹の5人が剣でお互いの首を刺して命を絶った。足手まといになってはならないという配慮からである。家老(重臣)の家でも、その母と妻ら女性全員が、剣で喉を突いて絶命した。父母、妻子を刺して、それから城に籠もった武士たちも決して少なくなかった。会津の街はさながら地獄絵図の様相を呈していたのである。
ここにもう一つの悲劇が生まれた。飯盛山の悲劇である。会津には、白虎隊と呼ばれた15歳から17歳までの少年兵による軍団があった。彼ら20名が、敵から逃れて城に戻る途中、城を見下ろす飯盛山にたどり着いた時のことである。街はすでに敵軍により黒煙をあげて燃えていた。かすかに見える城の天守閣も彼らには燃えて見えた。城は敵陣に落ちてしまった。もはやこれまでと、少年たちは、向かい合って互いに剣で喉を突き刺す。血が吹き出し、その場に崩れ落ちた。20人中、19名が絶命。1人だけ通りがかりの老婆に助けられたという。この時、実は城は落ちていなかった。少年たちの思い違いであったのだ。
この報が城内に伝えられたとき、城内の者は皆、絶句した。死んだ少年たちは皆、健次郎の友人であり、仲間である。死んだ一人一人の顔を思い浮かべながら、彼は号泣した。たまたま健次郎は体が虚弱であったため、白虎隊に入隊したものの、1日で除籍させられた経緯があったのだ。彼はこうした会津の悲劇を心に刻み込み、生涯忘れまいと誓った。健次郎の郷土愛は、こうした辛く悲しい原体験に裏付けられていたのである。
アメリカ留学
降伏後の会津藩に復興の希望を与えてくれたのは、敵である長州隊の参謀奥平謙輔である。彼と旧知であった会津藩士秋月悌次郎が、彼と会い、会津の少年を書生に使ってほしいと頼み込んだ。会津の再建は次の世代に託すしかないと考えたからである。会津の立場に深い同情を寄せていた奥平は、これを快諾し少年2人を引き受けることにした。こうして選ばれた少年の1人が健次郎であった。
アメリカ留学も、北海道開拓使次官黒田清隆(薩摩出身)の決断によった。留学生を薩長ばかりでなく、賊軍である会津からも選ぶべきだと主張して譲らなかった。ここに健次郎が選ばれたのである。
1871年1月1日、16歳の健次郎は汽船「ジャパン号」に乗り込み、アメリカに向かった。引率責任者は黒田清隆である。この船の中、健次郎にとって劇的な西洋体験をした。船内の張り紙に、「明日早朝、本船は日本に向かって航海する太平洋郵便会社の船に出会うであろう。日本に手紙を出したい人は用意するように」とある。そんなバカなことがあるものか。健次郎は疑った。しかし、翌朝二つの船は太平洋のど真ん中で遭遇し、確かに郵便物を交換したのである。健次郎は度肝を抜かれてしまった。科学技術の偉大さをはじめて体験することになった。
一行はサンフランシスコに到着し、列車で大陸を横断する。煙を吐いて走る機関車にまたもや仰天した。健次郎は科学技術の勝利を思わずにはおれなかった。会津藩は漢学を中心とした道徳教育に偏りすぎていた。科学技術を軽視したために敗北したのだと健次郎は考えた。会津のためにも日本のためにも、アメリカで科学技術を学ぼうと決意を固める。この科学技術の基礎は物理学である。こうして日本物理学の先駆者山川健次郎が誕生することになる。
死にもの狂いで勉強
健次郎の留学目標は、名門エール大学に入学し、その卒業資格を得て帰国することだった。しかしそれは簡単なことではない。アメリカ人と同程度の会話力、それと英語の読解力、想像力、応用力、このレベルが並のアメリカ人以上でなければならない。そのため、彼は一つの決断をした。日本人のいない街で勉強することだ。
彼が選んだ街は、ノールウィッチ。エール大学のあるニューヘブンから、北へ45キロほどにある人口1万人の田舎町。日本人は一人もいない。ここの中学に入学し、不眠不休、死にもの狂いで勉強したと言われている。
辛いとき、いつも思い浮かべたのは会津のことであった。会津の人々の期待を一身に担っての渡米である。途中で投げ出すわけにはいかなかった。死んでいった仲間の少年たちのことを思えば、どんな苦労にも耐えられた。
それに朝敵(天皇の敵)とされた会津藩は降伏後、下北半島(青森県)と現在の岩手県北部に移住を強制された。そこは本州最北端の地、土地はやせ、米も取れない。事実上の流罪であった。多くは先の戦争で男が戦死し、未亡人が幼子と老夫婦を連れての移住である。その上、極寒の地での慣れない農作業。うまくいくはずがない。飢えと寒さで、老人や子供はばたばたと死んでいった。朝起きると誰かが死んでいる。2度目の悲劇が会津を襲ったのである。ここに健次郎の家族もいた。
特に下北半島に移住した人々は悲惨であった。彼らは開墾に失敗し、全国にちりぢりになってしまった。この様子がアメリカの健次郎に伝えられたとき、彼はオイオイと声を上げて泣いた。会津の人々を思うと、健次郎は弱音を吐くことはできなかったのだ。
日本人初の物理学教授に
4年半の留学を終え、1875年秋、健次郎は帰国した。21歳になったばかりで、最短コースでのエール大学卒業であった。努力のほどがうかがわれる。
最初の就職先は、東京大学の前身である東京開成学校、役職は教授補。学者としての人生が始まった。1879年7月、25歳にして物理学講座の教授に就任。それまで教授は全て外国人によって占められており、健次郎がはじめて外国人の壁を破ったことになる。
教授として健次郎が力を入れたのは、自分の研究だけではなかった。国費を使って、アメリカで勉強させてもらったのである。自分の研究も大事だが、人を育てることを通して、その恩に報いたい。こう考えて、彼は教育に情熱を燃やした。
彼は何か一つの成果が出ると、それを弟子たちに譲ったという。いつの間にか弟子たちの方が有名になることもある。しかし彼はそういうことには頓着しなかった。教育者としての自分の喜びであったからだ。著名な物理学者である田中館愛橘、長岡半太郎は健次郎の直接の門下生で、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎はその流れに連なる物理学者であった。
晩年、健次郎は東宮御学問所評議員に選ばれた。皇太子(後の昭和天皇)を教育するという重責を担うことになったのである。会津は朝敵とされた藩である。その出身者が未来の天皇を教育するのだ。評議員を受託したその夜、帰宅して彼は、妻が差し出した盃を飲み干した。そして、「今日ほど嬉しいことはない。会津は朝敵ではないのだ」と言って、ぽろぽろと涙を流し、妻と一緒に泣いたという。
また健次郎が74歳の時、会津の旧藩主松平容保の孫娘が、健次郎の尽力により、皇室である秩父宮家に嫁ぐことになった。校長(武蔵高校)であった健次郎に教頭が、「会津藩の先代も、地下でさぞお喜びでございましょう」と祝いの言葉を述べ、深々と頭を下げた時のこと。健次郎は人目もはばかることなくハラハラと涙を流した。返事に詰まり、言葉にすることもできず、涙が机にぽたぽたと落ちるばかりであったという。
それから3年後の6月26日、健次郎は近親者に見守られながら、静かにその生涯を終えた。会津の屈辱の歴史を背負って、その無念を晴らそうと努力した日々であった。死んでいった多くの仲間を思えば、いい加減な人生を送ることができなかった。謹厳で、妥協を許さないその気骨ある生涯は、今なお「星座の人」としての輝きを失っていない。 
 
観光史学

 

主に第二次世界大戦後の日本の観光都市化政策において、先行する行政サイドの観光化の意図のもとに、地域の歴史を観光資源として動員しようとする考え方および歴史観。
戦後会津の観光史学
田中悟は、戦前の皇国史観・中央集権的歴史観による順逆の論拠は敗戦によって失われ、地方史(郷土史)はそれから解放され、より高次な視点を要求される中で観光史学へと開眼したと指摘している。その反面、取り扱われる歴史の在り方において、例えば戊辰戦争や日本の第二次大戦(大東亜戦争)等における、戦争犠牲者・戦死者への「忘却と召還」という問題の指摘もなされている。用語としての「観光史学」は福島県会津若松市の郷土史家・宮崎十三八(とみはち)が提唱をしている。
概要
戦後に会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八が担当した観光都市化政策のなかで、会津地方の歴史、とりわけ戊辰戦争史を観光資源化する考え方が現れた。宮崎は自身で「私の立場は観光史学であること」と自らのその立場を語っている。これに対し、「長州」・「萩」への和解を阻害する「史料的根拠が薄弱な怨念」や「靄のような怨念」への批判的分析をおこなった畑敬之助、戦後会津において、なお「旧態依然たる怨念史観」の延長線上で戊辰戦争史を観光資源化することへの反発を持つ牧野登のような宮崎「観光史学」への批判的捉え方がある。これらをふまえ、神戸大学大学院助教の田中悟はその研究論文で、これらの議論を含め〈戦後会津における「観光史学」〉として定義付けている。この田中論文では近代社会の「アイデンティティの危機」、とりわけ敗者のこの問題を、戦後会津の「怨念史観」・「観光史学」を題材にまとめながら近代の戦争で非業の死を遂げた死者に対する忘却を問題として提起し、しかもそれは会津という一地方の問題には留まらず現代日本の到達した境地そのものであるとする。
観光史学の形成と影響
雪冤勤皇期
明治維新以降、会津を賊軍ではないとする雪冤運動から始まり、旧会津藩士からなる『七年史』『京都守護職始末』等の出版による会津からの意見陳述がなされた。昭和期にジャーナリストの徳富蘇峰やその秘書で会津出身である早川喜代治等による「会津藩は朝敵にあらず」といった戦意昂揚的なプロパガンダなどにも絡んできた。その中で、大正年間より白虎隊終焉の土地である飯盛山を観光施設として喧伝しようとした動きが、「観光客を目的とした歴史の利用」の先鞭を告げる。当時より飯盛山の観光化に対しては批判があり、東京朝日新聞の杉村楚人冠は墓地整備の観光化に関して「この旧形破壊は何事だ。ムソリニがそれほどえらいのか」と厳しく批判している。これに対して、元白虎隊士でもあった山川健次郎は「一はもつて英霊を慰め一はもつて教育資料とするに便ならすむるためには、変更は止むを得ざる」と反論している。
「軍都」会津若松の時代
1908年(明治41年)以来、会津若松にも陸軍連隊が置かれ、軍都としての顔を持つようになった。そして戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズムや軍国主義に利用された。1928年(昭和3年)にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑や、1935年(昭和10年)に駐日ドイツ大使館員のハッソー・フォン・エッツドルフ(Hasso von Etzdorf)が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑がある。 また、戦時中には保科正之がブームになった時期もあったが、会津関連著作の多い中村彰彦は「明治以降殆ど闇に埋もれてしまった」と述べている。
「観光史学」の形成期
直接的な第二次大戦の戦争被害を受けなかった会津若松市では、戦後に「軍国主義的である」という理由で上記のような運動が顧みられなくなり、会津若松から出征したはずのこの近代戦における戦死者さえも遺族を除けば大方は忘却されるに至った。これが、以降の戦後会津の観光都市化政策において、近代戦の戦死者ではなく戊辰戦争の戦死者の、いわば現代への召還という状況を後々に生み出すことになる。すなわち、地方史の視点で明治維新を再検証する姿勢が出てくるようになり、これに戦後復興からくる観光ブームから、白虎隊が観光資源として扱われるようになった。これより、会津は観光資源が「会津の自然」より「会津の歴史」にシフトされるようになる。また、1957年には戊辰戦役90年祭として会津まつりが行われるようになり、白虎隊のパレードを見られるようになった。
会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八が、会津若松のスポークスマンとなってから観光と歴史のセッティングが始まる。宮崎は日本の敗戦により皇国史観の鎖が断ち切られた事で「それまで自分たちが(痛み)に耐えつつ無実を訴えつづけてきた壁が、一夜にして取り払われた」と主張し、次々に会津より作品を発表し始める。宮崎自身は「幕末だけでなく、上杉、加藤、保科と、鶴ヶ城をめぐる各時代の“時代劇散歩”をおいかけてゆきたい」と語り、歴史のロマンを語る、即ち「歴史」としてのロマンと地域の観光も含む「観光歴史」を語るようになる。
宮崎十三八の「観光史学」には、美しい郷土の自然と歴史ロマンを訪ねる、この「歴史散歩」的世界観が特徴となっていたが、それは当時の観光都市政策と合致したものであった。その一方では、戊辰戦争や近代戦争における戦死者の非業の死やその不条理とも離れた「死者不在」の、そして敗戦前には強く求められていた国家との関わりのない、つまり「ネイション不在」の側面を合わせ持っていた。
歴史小説と報道の影響
しかし、順調に見えた宮崎の「観光史学」の展開は、戊辰後100年祭を迎える1967年(昭和42年)を契機に、歴史的和解のために萩市の青年会議所からの和解・友好関係の勧誘を受けながらこれを会津若松市の青年会議所が拒絶するような事態に直面する。その約20年後の「会津戊辰戦争120年祭」にあたる1987年(昭和62年)に再度の萩市側からの和解の申入れが行われた際には、会津若松市長の応諾の意図を覆すほどの市民の反対意見が噴出した。これは、場を取り持つことに腐心した宮崎自身も当惑する事態であった。
これらの長州・萩市への和解への拒絶反応の背景には、宮崎が置き去りにしていた戊辰戦争における会津の長州に対する怨念があった。すなわちその怨念とは、戊辰戦争後に長州藩を含む明治新政府軍が鶴ヶ城下に残った2000人以上に上る会津藩士、商人、農民の死体の埋葬を禁じ、放置された藩士や女性、子供の死体は腐敗して、烏の餌になったとされる逸話や、戊辰戦争後も山縣有朋ら長州閥によって会津の人達が様々な部分で冷遇されたことがその原因とされている。会津若松市民の中には、賊軍という理由だけで埋葬を禁じた蛮行についての謝罪が一切ないことに対して、未だ許せないと考える人もいる。
しかし、会津藩戦死者に対する埋葬禁止の話の根拠とされる「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」に記されている官命では、彼我の戦死者、つまり会津側と新政府側、双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており、会津藩の死者の埋葬のみを禁じたものではなく、死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置と考えられる。また戊辰戦争後に会津の民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局に長州藩関係者は全くいない。このように長州に対する怨念には根拠が薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時の怨念を呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響が指摘されている。
とりわけ、戦後の《会津の語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩(萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、当初「宮崎の歴史散歩的世界観」に特徴付けられていた怨念の源流の忘却をむしろ前提として、司馬遼太郎・早乙女貢・綱淵謙錠・中村彰彦らの《会津もの》小説が新たな怨念の源泉を提供したとされる。マスメディアはこれらの小説を事実のように紹介したために、会津側住民に一方的な遺恨をもたらすこととなった。また、宮崎十三八自身もこの「怨念史観」を肯定的に受け止めざるを得なかった。こうして、宮崎の提唱した「観光史学」は「歴史散歩」と「怨念史観」という矛盾した2側面を持つようになり、それが彼自身の苦悶の末に「観光史学」の否定的脱却による、郷土会津の「古寺巡行」へと変容させたという。
宮崎「観光史学」のその後
しかし、現在の会津若松市の観光都市化政策が、和解への問題とされる「怨念史観」から離れ、当初宮崎の求めた「歴史散歩」の観光史学に回帰していると指摘される一方で、死者への忘却ではなく真摯な向き合いを求めたこの宮崎の晩年の方向性は、宮崎が辿り着いた二人称たる戦死者への向き合いを通じて自らの共同意識を持つ — 一人称複数の共同体構築への想いが受け継がれずに放棄されていると指摘されている。  
 
会津戦争2

 

会津藩の軍備強化と会庄同盟の締結
1868年(慶応4年)1月17日、新政府は会津藩追討を奥州仙台藩主・伊達慶邦に命じた。この情勢を受けて、会津藩主・松平容保は2月16日に江戸を発し、22日に会津若松城に帰藩した。
新政府の会津藩追討命令が下るとこの討伐軍を迎撃するために容保は、江戸を去るにあたって、武器商人・エドワード・スネルから、武器弾薬を大量に購入し、会津藩の軍備増強を図っている。また、旧幕府軍の抗戦派と連携を取り、軍資金や大砲・洋式銃などを手に入れて、会津藩へ持ち帰った。
帰藩した容保は、藩全体に対して、軍事優先を提唱し、藩全体が結束して、藩の汚名をそそぐよう諭告文を発した。これより会津藩は、新政府に対して、徹底抗戦の構えを見せたのである。
抗戦完遂に決した会津藩は、3月に入ると、これまでの長沼流兵法を止め、西洋軍制を採用し、藩軍編成を断行した。これまでは番頭中心の編成部隊であったが、年齢別による編成部隊に改め、白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・青龍(せいりゅう)・玄武(げんぶ)の四部隊とした。これらの部隊名は、中国の孫子の兵法書に出てくる軍神にちなんだでつけられた。主力部隊となる朱雀隊の兵力は1200人、青龍隊が900人、玄武隊が400人、白虎隊が300人であった。これら四部隊は、さらに身分的階級別をして、士中・寄合・足軽の三つに編成した。
この四部隊のほかに敢死隊(かんしたい)250人、遊撃隊180人、屈強な郷士による農兵精鋭部隊である正奇隊80人、領内の山伏による修験隊(しゅげんたい)80人、力士隊150人、猟師隊120人などが組織編成され、これら諸隊の総計は7000人に達した。
会津藩の所有していた小銃は4000挺余りで、その半数が戦国時代から受け継いでいた火縄銃であった。他の大部分も先込め式のゲベール銃で、新政府軍が所有する新鋭小銃から比べると、精度や連射速度などで大きく劣っていた。
会津藩の装備とは対照的に新政府軍の装備は、先込め銃でも命中精度が高いミニール銃やエンフィールド銃を装備し、上野戦争以来、配備された最新式の元込め銃であるスナイドル銃・シャスポー銃・スペンサー連発銃などもあった。
大砲については、両軍ともに大砲筒の前から砲弾を装てんする四斤野砲が主体で、会津藩はそれを50門以上装備し、新政府軍は100門以上装備していた。さらに新政府軍には、佐賀藩所有の最新式対艦砲であるアームストロング砲が陸戦用に改良されて配備されていた。射程距離は3000mにも達し、その破壊力は上野戦争で初めて実戦使用され、立証済みである。
旧式兵団から西洋式兵団へと急発展を進めていた会津藩であったが、その最中の3月19日に奥羽鎮撫総督・九条道孝と副総督・沢為量(さわためかず)が、総督参謀・大山綱良、世良修蔵、醍醐忠敬(だいごただゆき)を伴って、仙台藩領の松島湾に上陸した。朝命によって会津追討を行う仙台藩を直接指揮するために仙台藩に赴任してきたのだ。
仙台藩はこの時、長年に渡って隣藩として友好関係にあった会津藩を攻めるべきかどうかで藩論が二分したが、朝命とあっては仕方なく、3月下旬から会津藩境に向けて、藩軍を進発させた。
仙台藩がようやく動き出した頃、出羽では、庄内藩が旧天領の村山郡寒河江(さがえ)や柴橋一帯の村々を襲撃して、年貢米を奪い新政府への反発姿勢を明確にした。これに対して、奥羽鎮撫は秋田藩に庄内藩討伐を命じ、秋田へ奥羽鎮撫副総督の沢為量と参謀の大山綱良を向かわせた。
こうして、会津藩と庄内藩はともに追討対象となり、これを契機として会津藩と庄内藩は互いに協力し合うことを決め、4月10日に庄内藩重役・松平権十郎と会津藩士・南摩綱紀(なんまつなのり)らが会合を持ち、会庄同盟が結ばれた。
奥羽地方が同盟による連携態勢を強めると新政府側は、4月11日に江戸無血開城を成すと早々に関東全体へ進軍し、四月下旬には宇都宮付近まで達し、奥羽掃討を目の前とした。 
会津若松城の攻防
二本松を占領した新政府軍は、会津藩の本拠地・会津若松城まで60Kmと迫るとこの道のりを一気に進撃し、3日後には会津若松城下に突入した。
新政府軍の素早い動きに驚いた会津藩軍本隊は、滝沢の本陣を引き払い、会津若松城へ戻った。途中で松平容保は実弟の松平定敬を米沢に逃がし、自らは城内で篭城の準備指揮に尽力した。
城下に突入した新政府軍は、城を孤立化させるために藩士の邸宅や民家を放火した。このため、会津藩は早鐘(はやがね)を打ち、藩士の家族たちを城内に入れようとしたが、思った以上に家族たちの移動は遅れた。また、藩士の家族の中には、集団自決をするものも出た。
戊辰戦争の中でも、凄惨を極めたこの会津戦争は、会津藩軍の戦死者が460人に達し、これに殉じた家族は230余人にのぼった。夕方に入ると新政府軍は会津若松城を包囲し、篭城戦が展開された。
若松城の東南にある小田山を占領した新政府軍は、肥前藩が所有する破壊力抜群のアームストロング砲など5門を山上に据え付け、城目掛けて激しい砲撃を開始した。この無差別砲撃は数日間続き、藩士のほかに子女、老人も多数死傷し、凄惨を極めた。8月29日に佐川官兵衛が率いる1000余人の会津藩軍が城外へ撃って出て、新政府軍に最後の反撃を試みたが軍事力に差がありすぎて、多数の精鋭を失い敗退した。
9月に入ると米沢藩、仙台藩が次々と降伏し、列藩同盟の盟主である両藩が崩れた。こうして、会津藩は完全に孤立した。9月22日に会津藩は大手門に白旗を掲げ、1ヶ月続いた篭城戦を終えた。その日のうちに松平容保・喜徳父子は、新政府軍軍監・中村半次郎(桐野利秋)、軍曹・山県小太郎と対面し、降伏書を提出した。24日には若松城が明け渡され、会津戦争は終結した。会津藩が完全に降伏した日から二日後に会津藩と同盟を組んでいた庄内藩も降伏した。 
白虎隊、自刃す
奥羽戦に突入した新政府軍は、5月に白河城を奪取し、6月には棚倉城を陥落させた。7月末には二本松城を攻め落とし、会津若松へと進軍した。越後では、長岡城が陥落し、越後方面の新政府軍も会津へ進撃していた。
二本松から会津に進軍するルートは石筵口(いしむしろくち)、御霊櫃口(ごれいひつぐち)、中山口(なかやまくち)の三つの経路が考えられた。新政府軍白河口参謀・板垣退助(土佐藩士)は御霊櫃口を進撃することを主張し、一方、同じく参謀の伊地知正治(薩摩藩士)は石筵口を進撃することを主張した。二人は互いに主張を譲らず、激論となったが、結局、会津側の防備が手薄な石筵口ルートに決まった。
8月20日に薩摩・長州・土佐・佐賀・大垣・大村・佐土原の諸藩軍、総勢約2000が二本松を出立し、石筵から母成峠(ぼなりとうげ)を越えて一路、会津若松城へと進撃した。御霊櫃方面など各方面に兵力をさかれていた会津藩軍は、母成峠を手薄としていた。母成峠は天然の要害を持つため、それを頼みにわずか500余の農兵部隊を置いていた。その後、新政府軍が母成峠を進撃してくるとの報せを受けた旧幕府軍は、大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊が援軍に加わり、ついで二本松藩軍の残党なども守備に参加した。
一方、新政府軍は大砲20門を峠に運び入れて、会津側守備隊に向けて激しく砲撃し、その勢いに乗って、一気に進撃して会津側守備隊を21日に打ち破った。ついで新政府軍は進撃を重ね、22日には猪苗代城を陥落させ、猪苗代湖北岸の十六橋へと進軍した。十六橋は猪苗代湖の水が日橋川に流れ出る地点にかかっており、石造りの十六の橋脚を持った橋である。新政府軍がこの十六橋を渡る動きを見せたので、会津側はこれを阻止しようとこの橋を壊しにかかった。だが、一部の橋板を外した時点ですでに新政府軍が目の前に迫り、一気に川村与十郎率いる薩摩藩軍が突入してきた。この橋をめぐる攻防戦は新政府軍の勝利に終り、新政府軍はそのまま戸ノ口原へと進軍した。この十六橋をめぐる攻防戦が始まる少し前に松平容保は会津若松城を進発した。佐川官兵衛を先鋒とし、松平定敬、白虎二番隊、長岡藩残党など総勢200余で小雨の中を進み、滝沢村の本陣に向かった。会津藩軍本隊が滝沢本陣に入ってまもなく、戸ノ口方面に配備されている正奇隊、敢死隊、遊撃隊が新政府軍と交戦中との報告が入り、続いて苦戦との報告も入った。ここで容保は白虎二番隊に援軍へ向かうよう命令を下した。
白虎隊士中二番隊は日向内記を隊長とし、小隊頭・山内弘人、水野勇之進、半隊頭・原田克吉、佐藤駒之進の計五名だけが成人で、他の37名は16〜17歳の少年であった。白虎隊は滝沢峠を越え、強清水(こわしみず)を経て、夕刻になって戸ノ口原に到着した。彼らは急きょ出陣したため、食糧を持っていなかったため、戸ノ口原を守備していた敢死隊から握り飯を一人二個ずつ配給された。これが少年たちの最後の食事となった。食事を終えた彼らは、夜、降りしきる雨の中を進軍した。夜明けとともに新政府軍は、砲撃を開始した。白虎隊も旧式の先込めヤゲール銃を使い、激しく応戦した。戸ノ口原を守備していた敢死隊・奇勝隊なども新政府軍の攻撃に応戦したが、新式兵器を駆使する新政府軍の攻撃にはかなわず、会津側は多数の死傷者を出して、後退した。
この激戦の混乱の中で、白虎隊は小隊頭や半隊頭とはぐれてしまった。仕方なく若い篠田儀三郎(しのだぎさぶろう)が隊の指揮を執り、強清水まで引き揚げることにした。彼らは、主君と生死をともにしようと山道を急ぎ、滝沢不動の付近に出た。この地点で味方と間違えて新政府軍の部隊に声をかけてしまい、銃撃を受け、疎水の洞門に身を潜めた。この疎水は猪苗代湖の水を会津城下へ導き入れるために飯盛山の下をくり抜いて作られたものであった。そこで、隊士たちは長さ100mほどの洞門を通り抜け、飯盛山のふもとに出ることにした。腰まで水につかりながら進み、飯盛山のふもとに出た隊士たちは南方を見た。すると城下からは黒煙が出て、あちこちからは炎も見える。城が燃えていると思った少年たちは主君も城と運命をともにしたに違いないと早合点をした。実際にはこの黒煙は、新政府軍が城下に突入して、藩士の邸宅や民家を焼き払ったためにできた煙で、会津若松城自体はまだ無事であった。
しかし、少年たちは落城後も生きて恥じをさらすよりは、潔く城と運命をともにしようと考え、「君国に殉じ、武士の本分を全うしよう」と野村駒四郎(17歳)がみなに提言し、一同がこれに賛成し、まず石田和助(16歳)がまず腹に短刀を突き刺して、自刃した。そして少年たちは次々と切腹や刺し違えをして、20隊士が自刃した。このうち飯沼貞吉(16歳)だけは、手首を切って死のうとしたが、傷口が浅かったことから、まだ息があるうちに足軽・印出新蔵の妻に助けられ、奇跡的に一命を取り留めた。そして、唯一隊士で生き残った飯沼の証言によって、白虎隊の悲壮劇が後世に伝えられたのであった。この白虎隊の悲劇は、当時の武士たちが激しい悲壮感の中で、武士の意地を最後まで貫き通した世界観を後世にひしひしと伝えてくれている貴重な出来事であった。 
 
ヤアヤア一揆

 

聞いたことの無い方もいらっしゃるでしょうから、概要を書くと、以下のようなものです。
明治元年(1868年)。政府軍が会津若松(福島県)に攻め込み藩主である松平容保は捕らえられて会津は新政府の支配下となりました。そしてこの年の10月1日、藩のかわりに政府機関である「民政局」が置かれ幕府−藩支配の時代が終焉を迎えたのです。会津地方では、この時作成された「民政局」に対抗して、世直し一揆を勃発させます。この一揆は「ヤアヤア」と鬨の声を上げながら肝煎達を打ち壊しながら進んだので、「ヤアヤア一揆」と呼ばれています。政府は、「民政局」の名前で以下のような文書を布告しました。
「この明治絶対政府が会津を支配するために民政局を設置したのは、落城一週間後の一八六八年(明治元年)十月一日である。すぐにだされた農民統治の定めをみると、
   定
一、罪のないものは一切おかまいないこと。但し、たといこれまで手向っていた者でも降参する者はゆるすこと。
ニ、朝敵は隠しておかないこと。
三、当年は年貢の半分はくださること。
右のことがらをよく心得て、めいめい家に帰り安堵して、家業につとめさせるようにせよ。
辰十月   民政局
当年の年貢は半分納でよいと明治政権樹立のための布石を敷き、さらに、兵火によって焼失した家屋へは無代で木材等を与える。また、稲刈取りしないで放置しておくと腐敗するので早々刈り取ること、刈取らないところは、誰が刈取ってもよいという令を発して民政がはじまった。」
確かに、この文章を見ると御一新は新しい時代の幕開けを告げる画期的な文章に見えます。しかし、その内容は「町や村の支配は、旧藩時代の郷頭、肝煎(名主)、検断がそのままいのこり、しかも民政局に交代で出勤し、諸布告を触れる御用方となっていました。封建的土地制度はのこされ、これと密着した年貢徴収機構はそのまま継承されました。年貢半減は、兵火に焼かれた地区だけの処置でした。」といったものでした。これら政府のやり方に気づいた民衆は、会津各地でその蜂起の声をあげます。以下その概要を示します。
10月3日 会津大沼郡滝谷組各村から始まり、五畳敷村へ2千人がおしかけ、豪農・肝煎の家をうちこわす。東川、飯沢村高森、大成沢村、芋小屋、冑村、砂子原、大谷、宮下、西方、間方、山三郷、坂下、柳津、麻生、高田、本郷、尾岐村へと広がる。
10月15日 北会津郡荒井村より世直しが発生。河沼郡高久組もたちあがる。
10月16日 大沼郡新鶴からはじまった世直しは、高田、笈川、旭、永井野、川路、五畳敷、湯八木沢、滝谷、槍ノ原、西方、名入、川井、宮下、桑米、大登、大谷村に広がる。
10月18日 笈川組常勝村の藤吉を中心とする一揆衆が、佐野、中ノ目から出発。常勝村、扇田村、中台村、北田村、常畑村、上樽川村、佐野村、笠目村、田中村をまわる。19日には再び常勝村、北目村、雪谷村、高瀬村をまわっていく間に、米沢の兵隊が浜崎から攻めてきて 一揆は鎮圧される。
10月18日 喜多方山三郷の各村で一揆発生。
10月19日〜22日 猪苗代の東西各組の各村むらにて 一揆発生。これは、4日間にわたり各村の郷頭、肝煎を襲い、うちこわしを行う。
喜多方プラザ内の小荒井組下三宮村肝煎手代木家の柱の傷跡彼等の要求を下に示します。この内容を見てもわかるように、この一揆は江戸時代の藩幕体制下で行われた一揆とは違い、民衆によるブルジョア革命の意味合いを持ったものでした。
これら農民の掲げた世直しの綱領は、
一、新しいものをつくりあげる世直しだ。(農民革命の目標)
二、おらたちの手で新しい村役人を選びだそう。(村役人の農民的選挙)
三、土地をみんなに配分せよ。(土地所有と配分)
四、質物はかえせ。借用証文もとりかえせ。利息をつりあげる悪徳商人をゆるすな。(商業高利貸資本の排除)
五、むこう三年間無税にせよ。ゆくゆくは金納にせよ。うるしの税は四公六民にさせろ。(年貢並びに金納。)
六、田畑の作物は自由販売させろ。(農産物の自由販売)
七、賦役労働の運搬人足はやめろ。やらせるなら労賃を支払え。(賦役労働に基く交通政策の撤廃並に労賃支払要求)
八、小作地はおらたちの土地だ。残らずかえせ。小作料は払らわねえ。(小作地無償返還および小作料不納)
これらの行動綱領のもとで、藩政時代の農民統制の最先端である郷頭、肝煎宅を襲った。家屋の打ちこわしとともに、水帳や諸帳薄が焼き払われ、今迄の統治機構壊される。民政局や若松時代の施行にこれらの綱領は取りいれられた。
ところで、この一揆を政府はどのようにみていたのであろうか?ここに、1999年より順次発刊されている喜多方市の公式な歴史書である喜多方市史から参照してみよう。「喜多方市史」には、以下のように書かれている。
「郷頭・肝煎などの郷村役人はそのまま温存された。その出鼻をくじいたのが、十月三日に大沼郡大谷組五畳敷村(現、河沼郡柳津町)に発生し、またたくまに会津全域に広まったヤアヤア一揆(会津世直し一揆)であった。ヤアヤア一揆の特徴は、「肝煎征伐」をかかげて郷頭や肝煎を襲い、その家宅・家財を打ちこわし、検地帳・年貢帳・分限帳などの諸帳簿を取り上げまたは焼き払ったこと、農民たちがこの一揆を自ら「世直し」と呼び、肝煎の改選、村入用や諸割勘定の不正追求、年貢の減免または安石代納、用畑質地の返還などの「世直し」の要求を、組または村ごとに取りまとめたことである。一揆に襲われた郷頭や肝煎の多くは逃げ、一部は一揆勢に応対してその要求をうけいれた。新政府軍や民政局も、徒党を結び乱暴するのは厳禁(ただし、「王政御一新」につき今回は御用捨)という布告を出すだけで傍観した。」
始めに出てくる「出鼻をくじく」という文字が気になるところである。確かに役人にしてみれば、「民政局」をやっと発足させたのに「邪魔をするのは許せない」という気持ちが文章の中にありありと感じられる。この本が発刊されたのが1999年であるが、今の時代になってもまだこのような考え方でいるとは、驚きである。やはり官は官といったところか。つぎに、この文章の最後に「『王政御一新』につき今回は御用捨」という言葉であるが、以下の文章をみてほしい。
「民政局では一揆の指導者勝常村の藤吉をとらえて、西川原で首をはねました。大勢の農民が助命を嘆願し、泣きさけぶなかで藤吉は新政府の役人に首をはねられました。冬のくるのが早い会津の野づらに命をかけて、『肝煎征伐』をした藤吉の首は、いつまでも髪の毛をふりみだしたままさらされていた、ということです。」
なお、「ヤアヤア一揆」について書かれたHPによると常勝村の藤吉氏は、贋金つくりの罪に問われて処刑されたそうです。詳しい内容は資料を読んでいないのでわからないのですが、「民政局」の役人達が罪を捏造した可能性は否定できないような気がします。
この2つの文章は非常に矛盾しています。喜多方市史では、「今回は御用捨」であったはずが、日本近代史では「西川原で首をはねました」となっている。今回は原文を示していませんが、喜多方市史にはその原文が記載されています。だからといって、それが全てではないのでしょう。何かと理由をつけて藤吉は首をはねられたと考えます。いくら「今回は御用捨」といっても政府にとってみればこのような大規模な一揆を組織できる個人の存在を見逃すはずがありませんから。 
 

 

 
北越戦争1

 

戊辰戦争の局面のひとつとして長岡藩(現・新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。
背景
慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)を占領した。
長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と家老上席、軍事総督・河井継之助のもと、イギリス人の武器商人のウォーター、ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、スネル兄弟などからアームストロング砲とガトリング砲とイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、その内の1つを継之助が持っていた。
新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥家老・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介以下、上士の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。
こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出ることとした。 会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。
小千谷談判
5月2日(6月21日)、河井は長岡への侵攻の中止と長岡の獨立特行を主張する為に新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談した。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂する。5月4日(6月23日)、長岡藩はやむなく奥羽列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。このとき、長岡藩では門閥家老の稲垣平助など勤皇・恭順派5人が、出奔・逃亡した。
戦闘
地政的には開港場である新潟港が重要な拠点であった。奥羽越列藩同盟側は新潟港に武器弾薬の調達を頼っており、また新潟を制圧することにより、庄内方面及び阿賀野川を通じ会津方面へのルートを扼することができた。そのため新政府軍にとって新潟の制圧は最重要課題であった。幕府直轄領であった新潟港には米沢藩兵・会津藩兵らの同盟軍が警備と防御のため進駐していた。
小千谷談判の決裂後、長岡藩は摂田屋(長岡市)の光福寺に本陣を置き、先に新政府軍が占領していた榎峠(長岡市-小千谷市)を攻撃して奪回する。新政府軍は奪取された榎峠を攻撃するため、朝日山(小千谷市)の確保を目指し準備を進めた。新政府軍は山県が前線を離れた留守の間に時山直八の指揮で攻撃を開始したが、朝日山山頂に陣取る立見鑑三郎率いる桑名藩兵と長岡藩兵に敗れ、時山は戦死した。その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。新政府軍は小藩である長岡藩の頑強な抵抗によって被害を出しつつあった。
膠着した戦局を打破すべく新政府軍は5月19日に与板藩の御用商人による船の援助を受けて信濃川を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。当時、長岡藩をはじめとした同盟軍主力部隊は榎峠等の守備に回っており、城下はがら空きの状態だった。城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却した。しかし新政府軍に追撃する余力がなかったため、長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。その後今町(見附市)を奪回し、新政府軍と睨みあった。新政府軍は越後方面へ海軍も派遣し、5月24日の寺泊沖海戦で制海権を掌握した。
八丁沖の戦いの末に7月24日(9月10日)、同盟軍は長岡城を奪還し、新政府軍は敗走した。一度落城した城が奪還されるのは異例の事態であった。この事態に新政府軍は混乱状態に陥り指揮は迷走した。しかしこの戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、河井も脚に弾丸を受け負傷した。
新政府軍は、軍艦「第一丁卯」(長州藩)・「摂津丸」(広島藩運用)および輸送船「千別丸」(柳河藩)・「大鵬丸」(筑前藩)・「銀懐丸」(加賀藩)・「万年丸」(広島藩運用)から成り山田顕義を指揮官とする艦隊を投じて、7月25日(9月11日)に新発田藩領の太夫浜(現新潟市北区)へ上陸戦を開始。新発田藩は新政府軍への寝返りを決め、抵抗せず開城した。黒田清隆を指揮官とする新政府軍上陸部隊は、色部久長の指揮する米沢藩兵・会津藩兵・仙台藩兵を撃破して、7月29日(9月15日)に新潟港を制圧した。新政府軍は長岡城への再攻勢も行って同じ7月29日に再占領する。同盟軍の米沢藩・庄内藩等は寝返った新発田藩を攻撃するため新たな部隊を派遣し、中条付近で新政府軍の広島藩兵・新発田藩兵を破ったが、新潟港・長岡城陥落を知って引き返した。
同盟軍の残存部隊主力は、栃尾・八十里越を経由して会津藩領へ撤退した。河井は、会津へ落ち延びる途中で膝の傷から破傷風を併発し、8月16日(10月1日)に会津塩沢(只見町)で死去した。新政府軍は下関村を経て出羽国(米沢藩領)まで追撃し、旧暦8月中旬には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これ以降も新政府軍と同盟軍の戦いは東北地方で続いた(会津戦争・秋田戦争)。北越での戦闘は、戊辰戦争を通じて最大の激戦の一つであった。 
 
長岡城の攻防 / 北越戦争2

 

奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩は、河井継之助を総大将とする徹底抗戦を成した。当初は新政府側に恭順の姿勢を見せ、争乱防止を望んだが、新政府側の横暴により、やむを得ず、大抗争戦を展開す。長岡藩は藩境の拠点を新政府より奪取し、戦局を有利に進める作戦に出た。列藩同盟により、会津・桑名藩軍が援軍に駆けつけ、戦力は倍増していた。戦局を左右する要衝地を長岡の南方に位置する榎峠(えのきとうげ)と見た列藩同盟軍は、長岡藩軍と会津藩の佐川官兵衛・萱野右兵衛(かやのうへえ)らが率いる部隊とで包囲攻撃することとにした。列藩同盟軍に包囲攻撃された新政府軍はたまらず敗走し、榎峠は列藩同盟軍が占拠した。
榎峠陥落の日、北陸鎮撫総督参謀の山県狂介(やまがたきょうすけ※有朋)は、小千谷(おぢや)戦線が苦戦していると報告を受けて、時山直八(ときやまなおはち)とともに奇兵隊を連れて小千谷本営を視察に行った。そこでは軍監の岩村精一郎がのんきに食事などして、くつろいでいたため、山県は失望して、自ら陣頭指揮を取り、時山直八に榎峠に連なる朝日山を攻撃させ、奪取するよう命じた。ところが、思ったよりも列藩同盟軍の防衛線は厚く時山は援軍を待たなければならなかったが13日になって、時山はしびれを切らして攻撃をかけた。だが、長岡・桑名連合軍に猛反撃を喰らい、時山も被弾して倒れ、時山部隊は敗北した。この敗戦を受けた新政府軍は、小千谷に退き、以後は信濃川をはさんでにらみ合いとなり、持久戦へともつれ込んだ。
苦戦を強いられた山県は、海道軍軍監・三好軍太郎の部隊に長岡城を攻撃し、列藩同盟軍の防衛線を打ち破ろうと計画した。18日に三好が率いる薩摩・長州・高田・加賀など諸藩部隊2000が濃霧に乗じて、小舟で信濃川を渡り、長岡城攻めを敢行した。
この新政府軍による長岡城攻撃の急報は、摂田屋の本営で軍略を練っていた河井継之助に耳に届いた。井は防衛線の要所である長岡城を落とされては、まずいと考え、連射砲のガトリング砲二門を持って、戦場へと急行した。河井は自らこの新鋭砲を操縦して、殿(しんがり)を務め、城の外堀にかかる内川橋付近で激しく応戦した。だが、河井は応戦中に左肩を負傷し、城内に退いた。
河井は徹底篭城を考えたが、長岡城は攻略されやすい平城であり、その上、藩の精鋭部隊は榎峠方面を守備しており、城の守備兵はわずかで、あとは15歳以下の少年と50歳以上の老人たちだけで、兵力も欠いていた。仕方なく、河井は藩主・牧野忠訓と隠居の忠恭を城から脱出させ、本丸に火を放って、自らは栃尾に退却した。
長岡城が陥落したことで、再度戦局の見直しを迫られた河井は、各地に散らばっていた長岡藩軍を一度集結させ、5月21日に本営を加茂に移した。長岡藩軍・会津藩軍・米沢藩軍・旧幕府軍衝鋒隊などの諸隊を大きく三つに分け、新政府軍を両翼に引き付けておいて、中央部隊が正面中央に布陣する三好軍太郎の本営・今町(いままち)を撃破する作戦を立てた。
6月2日、作戦はみごと成功をおさめ、4時間ほどの激戦の末、新政府軍本営・今町を奪取した。この列藩同盟軍の巧みな戦術に敗北した新政府軍は、新たな援軍が補充されるまで、むやみな攻勢を避け、防衛線を布いた。これにより、両軍はにらみ合ったまま戦線は、こう着状態と化した。
その間に新政府側は、着々と兵力の増援作業を進めた。新たに朝廷より会津征討越後総督に任命された仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)が3000の軍勢を率いて、7月15日〜21日にかけて、越後の柏崎に上陸を果たした。この部隊とともに兵器弾薬も供給され、新政府軍は息を吹き返したのであった。
増強された新政府軍は、新たに戦略を練り、薩摩藩軍が列藩同盟の拠点となっている今町を攻め、長州藩軍が栃尾を攻めることが決まり、決行日を7月25日とした。
一方の列藩同盟軍は、新政府軍が新たな部隊増強を成したことを受けて、先手必勝とばかりに7月20日に長岡城奪還作戦を敢行しようとした。しかし、決行当日は豪雨のため、やむなく中止とし、改めて24日に奪還作戦を敢行した。7月24日の夜に河井は長岡藩軍700名を率いて、八丁沼を渡って、長岡城を目指した。八丁沼は長岡城の北東に広がる大沼沢地帯で、泥沼の深みに足が取られて、行軍が困難な場所であった。河井はあえて、この行軍が困難な場所を選び、この道筋ならば敵軍は天然の要害として守備を手薄にしているに違いないと考え、絶好の攻撃場所と見定めたのだ。
沼に足を取られぬように部隊兵には、みな命杖となる青竹を持たせて行軍させ、標識を立てて後続部隊を導いた。行軍中に月光が部隊を照らせば、あぜ道に伏し、月光が雲でさえぎられれば、その暗夜に乗じて行軍した。
全軍が沼を渡り終えると河井は総攻撃を全部隊に命じ、激しい銃撃戦が始まった。不意をつかれた新政府軍は、天然の要害を見越して守備が手薄であったことも手伝って、たちまち敗走し、長岡城奪還作戦は大成功をおさめた。
長岡城が敵方に奪還されたことを知った新政府軍は大いに奮起して、巻き返しの攻勢を始めた。市街 地戦が展開され、河井は新町口で戦う部隊を救援すべく急行したが、その途中で敵弾が河井の左ひざを直撃した。重傷を負った河井は、指揮を取ることも難しくなり、これを契機に列藩同盟軍の士気は低下し、応戦力も鈍り出した。
長岡藩軍総大将の河井が重傷を負ったその日、柏崎を出航した新政府軍1200が新潟湾松ヶ崎に上陸し、列藩同盟軍の背後を突く作戦に出た。この新政府軍の突然の渡航作戦に驚いた同盟軍側の新発田藩はあっさりと新政府側に寝返り、27日に新潟が新政府軍の手に落ちた。29日には長岡城も再び新政府軍の猛攻にて陥落し、列藩同盟軍は戦況不利と判断して、会津へと落ち延びていった。
河井の重傷は悪化の一途をたどり、会津藩領に入って、再起を願うも8月16日に塩沢村の医師・矢沢宅にて没した。長岡藩軍総大将の河井が没したため、再び越後奪回の作戦は、実行不可能となり、会津藩による最後の防衛線が奥羽の地に布かれることとなった。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
奥羽越列藩同盟1

 

[おううえつれっぱんどうめい] 戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟である。
元々は奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であったため、両藩は盟約書には署名していない(ただし両藩は会庄同盟を結成)。赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。同盟のイデオローグ・論理的指導者として、仙台藩の大槻磐渓の存在が挙げられる。なお、加盟各藩はいずれも当初新政府の奥羽鎮撫総督に従っていた。 
救会・救庄のための同盟
会津、庄内藩の立場
会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。会庄両藩の外交の動きは、2011年2月、東京大学史料編纂所箱石大准教授らにより、両藩が当時のプロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する北海道の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していたことを示す、ブラントから本国への書簡がドイツ国立軍事文書館で発見されたことにより、明らかになってきた。この文書において、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。しかしプロイセン海軍大臣は、日本が混迷している隙をつき、他国同様、領土確保に向かうべきであると進言している。
会津への出兵
会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。しかし、この武装恭順は認められず、慶応4年(1868年)1月17日、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することに一旦同意した。しかし、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。
庄内・清川口の戦い
一方、庄内藩では、江戸市中警備を行っていた新徴組を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の天領を旧幕府より与えられる。しかし、領民はこれを不服として仙台の奥羽鎮撫府に申し出たため、4月10日この申し出を口実に庄内征伐を決め、久保田藩、弘前藩の両藩に討ち入りを命じた。14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。
会庄同盟
あくまで武力討伐にこだわる奥羽鎮撫府に対して、会津藩は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。なお、松平権十郎は米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の萌芽が現れていたと言える。そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。結局、前述の仙台藩の会津出兵による説得は功をなさないものであったと言えよう。
天童の戦い
4月24日清川口の戦いで奥羽鎮撫府軍を撃退した庄内軍は勝勢に乗じて六十里越を通り最上川左岸(寒河江市・河北町)に布陣する。閏4月4日最上川を越えて天童を襲撃、市街地の半分を焼く。朝敵の誹りを恐れた庄内藩主酒井忠篤は撤退の命を下し閏4月12日に撤退するが、官位は剥奪され庄内藩は正式に討伐の対象になってしまう。
白石列藩会議
こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。
世良修蔵の暗殺
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いた。内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。
「奥羽列藩同盟」の誕生
会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟約書が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。
北越諸藩の加盟〜奥羽越列藩同盟の成立
翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
列藩同盟結成後の撫順総督府
副総督の沢為量が率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。5月1日、松島に新政府軍の佐賀藩、小倉藩の兵が上陸し、九条の護衛のため仙台城下に入った。九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督の沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日仙台を発って盛岡に向かった。
「北部政権」構想
奥羽越公議府
奥羽越列藩同盟の政策機関として奥羽越公議府(公議所とも)がつくられ、諸藩の代表からなる参謀達が白石城で評議を行った。
列藩同盟の戦略
奥羽越公議府において評議された戦略は、「白河処置」及び「庄内処置」、「北越処置」、「総括」であり、全23項目にのぼる。主に次のような内容で構成される。
白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
新潟港は列藩同盟の共同管理とする
薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
世論を喚起して、諸外国を味方につける
このほか、プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。
二人のミカド
上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。また、輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされるが、よくわかっていない。確かなのは輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされていたことと、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が知られているだけである。当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている。なお、輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮令旨」を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。幼君を字義通りに解釈すれば明治天皇の帝位を認めていることになるが、必ずしも輪王寺宮の即位を否定する根拠とならない。したがって、輪王寺宮が奥羽越列藩同盟の事実上の元首であったことは間違いないが、東武皇帝として即位したかどうか、統一した見解は得られていない。
組織構造
奥羽越列藩同盟は、まず列藩会議があり、その下に白石に奥羽越公議府が置かれた。その後輪王寺宮が盟主に就任し、旧幕府の閣老である板倉勝静、小笠原長行にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立した。
盟主 : 輪王寺宮
総督 : 仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲
参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
政策機関 : 奥羽越公議府(白石)
大本営 : 軍事局(福島)
最高機関 : 奥羽越列藩会議
この結果、形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、奥羽越政権としての評価は定まっていない。
戦闘
戦闘は大まかに庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線に分けることができる。このうち、秋田戦線については久保田藩の新政府への恭順により加わったものである。なお、同様に新政府側となった弘前藩との間では野辺地で盛岡・八戸両藩と戦闘となっている(野辺地戦争)。
庄内・秋田戦線
江戸警護役として「薩摩藩邸焼き討ち」を断行した庄内藩(酒井氏)と、列藩同盟に軟禁されていた九条総督を迎え新政府側に転じた久保田藩(佐竹氏)を中心とする戦い。
庄内戦線
薩摩藩、長州藩を中心とする新政府は、薩摩藩士、大山綱良を下参謀に、公家、九条道孝を総督にそれぞれ任命して奥羽鎮撫総督府をつくると、薩摩藩兵を海路、仙台藩に送り込んだ。仙台藩に会津追討を命じた総督府は、庄内藩を討つため仙台から出陣した。 4月24日、いわれなき「朝敵」の汚名を着せられた庄内藩は、清川口から侵攻してきた大山綱良率いる新政府軍を迎え撃った。新政府軍の侵攻を予想して、豪商、本間家からの献金で最新鋭の小銃を購入し洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優秀であったため、新政府軍を圧倒した。薩長の新政府軍が旧幕府軍を圧倒したといわれる戊辰戦争の一連の戦闘の中で、旧幕府軍が新政府軍を圧倒した数少ない例と言われる。
秋田戦線
5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが、盛岡藩はいまだ藩論統一をみない、新政府側家老暗殺の動きすらある状態であったことからこれを諦め、盛岡藩は金銭を支払う形で領内退去を願い、総督は6月24日秋田へ出発した。7月1日、九条一行は秋田にて沢副総督と再会し、東北の新政府軍が秋田に集結することになった。
同藩出身である平田篤胤の影響で尊王論の強かった久保田藩においては、同盟か朝廷かで藩論が二分されたが、平田学の影響を受けた若い武士により、仙台藩からの使者を斬殺するに至って(このとき盛岡藩士も巻き込まれているが泣き寝入りとなった)、政府軍への参加と庄内藩への進攻を決定した。仙台藩はこれに怒り久保田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ横手城を陥落させ、久保田城へ迫った。
庄内藩は新政府軍側についた新庄藩、本荘藩、久保田藩へと侵攻する。藩論統一が成されていなかった盛岡藩は仙台藩に恫喝される形で軍を発し、久保田藩領内北部から進入、かねてより仙台藩と親しかった家老楢山佐渡の指揮のもと、町村を焼き払いながら侵攻し、大館城を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入った。
秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていた。特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老酒井吉之丞は二番大隊を率い奮戦した。彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の秋田空港の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価された。
秋田北部の戦いでは盛岡藩は大館城を攻略した後、きみまち坂付近まで接近するものの、新政府軍側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
結果として、久保田領内はほぼ全土が戦火にさらされることになった。
北越戦線
長岡・米沢藩を中心とした列藩同盟軍と新政府軍との越後長岡藩周辺及び新潟攻防戦を中心とした一連の戦闘。
北越においては、5月2日(6月21日)の小千谷談判の決裂後、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。
家老河井継之助率いる長岡藩兵は強力な火力戦により善戦するが、5月19日には長岡城が陥落した。しかし、その後も長岡藩は奮闘し、7月末には長岡城を一時的に奪還したが、この際の負傷が原因で河井継之助は死亡した。結局長岡城は新政府軍に奪われ、会津へ敗走した。
新潟は列藩同盟側の武器調達拠点であるとともに、阿賀野川を制することにより庄内・会津方面の防衛線としても重要な拠点であった。
新潟は米沢藩を中心に守りを固めていたが、7月25日、新政府軍に寝返った新発田藩の手引きによって新政府軍が上陸。同月29日には新潟は制圧され、米沢藩は敗走した。
白河戦線、平潟戦線
会津藩及び奥羽越列藩同盟軍と北上してきた明治新政府軍との白河口、二本松、日光口、母成峠から若松城下の戦いに至る一連の戦闘。同様に、太平洋岸の藩である磐城平藩と中村藩と仙台藩による同盟軍と、明治新政府軍との一連の戦闘。
同盟結成後直ちに白河城を制圧した同盟軍であったが、5月1日、薩摩藩士、伊地知正治率いる新政府軍は同盟軍から白河城を奪還する。以後、白河城をめぐり3か月余りも攻防戦(白河口の戦い)が行われた。5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し白河城も陥落する。6月12日には仙台藩・会津藩・二本松藩連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗に終わった。6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退し須賀川へ逃れることとなる。
一方、太平洋側では、6月16日、土佐藩士・板垣退助率いる新政府軍が、海路で常陸国(茨城県)平潟に上陸した。6月24日、仙台藩兵を主力とする同盟軍は、新政府軍と棚倉で激突した。6月24日には棚倉城が陥落、さらに7月13日には、新政府軍と列藩同盟軍が磐城平で激突した。列藩同盟の準盟主格の米沢藩はこの戦闘には不参加で、列藩同盟軍は磐城平城の戦いに敗れた。中村藩兵と仙台藩兵が退却すると、新政府軍は中村藩兵と仙台藩兵を追撃。7月26日、同盟軍と新政府軍は広野で再び戦い、新政府軍は同盟軍を破った。その後8月6日には中村藩の降伏により、太平洋岸は完全に新政府軍が制圧した。
7月26日には勤皇派が実権を得た三春藩が新政府軍に恭順し、二本松方面へ攻撃準備に加わり、7月29日に二本松城が陥落した。二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標を会津にするか仙台・米沢にするかで意見が分かれたが、会津を攻撃することとなった。会津戦争の始まりである。
会津藩は江戸占領を意図し、南方の日光口を中心に会津から遠く離れた各所に部隊を送っていたが、二本松まで北上していた新政府軍は若松の東の母成峠から攻め、敏速に前進し8月23日には若松城下に突入した。遠方に兵力があった会津藩は新政府軍の前進を阻止できず、各地の戦線は崩壊し、各地の部隊は新政府の前進を阻止するでもなく若松への帰還を志向し、城下では予備部隊である白虎隊まで投入するがあえなく敗れた。
瓦解
7月26日まず三春藩が降伏、28日には松前藩で尊王派の正議隊による政変(正議隊事件)が起きて降伏した。続いて、29日に二本松藩の本拠・二本松城が落城した。次いで8月6日相馬中村藩が降伏。一方、下手渡藩が列藩同盟参加の時点で既に藩主が京都に入って新政府側に加わっていた事実が発覚、激怒した仙台藩は8月14日に同藩に攻め入った。
日本海側の戦線では、新政府軍は新潟に上陸した後、8月いっぱいは下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、遂に羽越の国境に迫られた米沢藩は9月4日に降伏、そして12日には仙台藩と、盟主格の二藩が相次いで降伏した。その後、15日福島藩、上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。
野辺地戦争
盛岡藩降伏後の9月23日未明、突如として弘前・黒石両藩が盛岡・八戸両藩が守備する野辺地へ侵攻したもの。一旦は盛岡・八戸藩が退却するも、反撃に転じ弘前・黒石軍を撃破する。
双方の戦死者は盛岡・八戸両藩が8名なのに対し、弘前・黒石両藩が29名(或いは43名とされる)であり津軽側の大敗であった。
この戦闘の原因は津軽側の実績作りといわれるが不明である。同様の小競り合いは鹿角郡濁川でも起こっている(濁川焼討ち事件)が、いずれも戦後処理においては私闘とされた。
奥羽越列藩同盟参加藩
白石列藩会議から参加した14藩
仙台藩 / 米沢藩 / 二本松藩 / 湯長谷藩 / 棚倉藩 / 亀田藩 / 相馬中村藩 / 山形藩 / 福島藩 / 上山藩 / 一関藩 / 矢島藩 / 盛岡藩 / 三春藩*
新たに奥羽同盟に参加した11藩
久保田藩(秋田藩)* / 弘前藩* / 守山藩* / 新庄藩* / 八戸藩 / 平藩 / 松前藩* / 本荘藩* / 泉藩 / 下手渡藩* / 天童藩
奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩
長岡藩 / 新発田藩* / 村上藩 / 村松藩 / 三根山藩 / 黒川藩
その他
請西藩
注)*は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く、なお下手渡藩は当初から新政府軍に通じた上での加入であった) 
 
奥羽越列藩同盟2

 

江戸無血開城が成され、徳川慶喜は謹慎するために水戸藩へ去ると、旧幕府軍は大義名分を失い路頭に迷うことになった。この状況を見た幕府軍歩兵奉行の大鳥圭介は、徹底抗戦を主張し、新政府軍と戦うべく江戸浅草報恩寺で同志を集め、これに応じた500名の同志とともに奥羽諸藩と連携して、新政府軍と戦うことに決した。
1868年(慶応4年)4月12日、下総市川に入った大鳥率いる旧幕府軍は、そこで新選組副長の土方歳三、会津藩重臣・秋月登之助、桑名藩の辰見勘三郎らと合流し、19日には関東宇都宮城を攻撃した。宇都宮藩は新政府側に立っていたため、この藩の居城を攻略して、旧幕府軍の前線基地にしようとしたのだ。宇都宮城を攻略した大鳥たちであったが、23日には、薩摩藩の軍略家・伊地知正治が率いる薩摩藩兵主力の新政府軍が宇都宮城奪還戦を展開し、大鳥ら旧幕府軍は大敗し、再起を謀るため、一路日光山へと敗走した。しかし、徳川家康・家光の霊廟を奉る日光を戦火に巻き込むわけにはいかないとして、元老中・板倉勝静らが大鳥ら旧幕府軍に対して、下山するよう要請してきたため、やむを得ず日光を離れ、会津藩を頼って、北上した。
東北地方では、会津追討の命を受けた仙台藩が4月中ごろから藩境まで藩軍を進行させて、会津藩軍とにらみ合っていたが、仙台藩は会津藩に同情的で、戦火を交えることはなかった。その上、仙台藩は家老をたびたび会津藩に遣わして、恭順することを勧めている。ついには仙台藩と米沢藩は会津藩を取り成してくれるということで、会津藩は新政府に降伏することとし、藩主・松平容保は、家老の西郷頼母らに嘆願書を作成させ、両藩を通じて、総督府に届けることにした。
4月4日、仙台・米沢両藩の家老から奥羽諸藩に対して通達がなされ、奥羽諸藩の代表たちは、会津藩救済のため、白石城で会議を開いた。11日には、奥羽諸藩の代表が決議し、会津藩を助ける嘆願書に調印した。翌日には会津藩の嘆願書と仙台・米沢両藩主の添え書き、奥羽諸藩の連名嘆願書の三通が奥羽鎮撫総督・九条道孝に提出された。当初はこの嘆願書は受理されるはずであったが、総督府参謀の世良修蔵が強く反対し、15日には、当初の受理方針から一転して、却下となった。このことに仙台藩士たちは激怒し、強硬に受理を反対した世良を恨むようになった。そんな険悪な雰囲気となっていた折、世良が薩摩の大山綱良に宛てた手紙の中に「奥羽皆敵」とみなす文面が書かれていたことで、仙台藩士たちの堪忍袋は爆発した。手柄欲しさに戦争継続を望む世良を兵乱を好む奸賊と見なし、福島城下にある遊郭・金沢屋にしけこんでいた世良を仙台藩士が引きずり出し、捕らえた。翌朝には須川の河原で奸賊の罪にて世良を斬首し、奥羽諸藩は、新政府に対して徹底抗戦の構えを取ることと成った。
世良斬首の一件後、仙台・米沢両藩は、会津追討命令を拒否する旨を総督府に伝え、会津藩境に布陣させていた藩兵を撤退させた。ついで、22日には奥羽25藩の家老が白石に集まり、5月3日に仙台城下にて奥羽列藩同盟が結成された。さらに北越の6藩も加入し、奥羽越列藩同盟が成立した。
奥羽越列藩同盟の構成諸藩は下記の通りとなる。
○ 陸奥・出羽の25藩
 仙台藩 伊達慶邦(だてよしくに) 62万5000石
 米沢藩 上杉斉慶(うえすぎなりのり) 15万石
 盛岡藩 南部信民(なんぶのぶたみ) 20万石
 秋田藩 佐竹義堯(さたけよしたか) 20万5000石
 弘前藩 津軽承昭(つがるつぐあきら) 10万石
 二本松藩 丹羽長国(にわながくに) 10万石
 守山藩 松平頼升(まつだいらよりのり) 2万石
 新庄藩 戸沢正実(とざわまさざね) 6万8000石
 八戸藩 南部信順(なんぶのぶよし) 2万石
 棚倉藩 阿部正静(あべまさきよ) 6万石
 中村藩 相馬誠胤(そうまともたね) 6万石
 三春藩 秋田肥季(あきたとみすえ) 5万石
 山形藩 水野忠弘(みずのただひろ) 5万石
 平藩 安藤信勇(あんどうのぶたけ) 3万石
 松前藩 松前徳広(まつまえのりひろ) 3万石
 福島藩 板倉勝尚(いたくらかつひさ) 3万石
 本荘藩 六郷政鑑(ろくごうまさあきら) 2万石
 泉藩 本多忠紀(ほんだただとし) 2万石
 亀田藩 岩城隆邦(いわきたかくに) 2万石
 湯長谷藩(ゆながやはん) 内藤政養(ないとうまさやす) 1万5000石
 下手渡藩(しもてどはん) 立花種恭(たちばなたねゆき) 1万石
 矢島藩 生駒親敬(いこまちかゆき) 8000石
 一関藩 田村邦栄(たむらくによし) 3万石
 上山藩 松平信庸(まつだいらのぶつね) 3万石
 天童藩 織田信敏(おだのぶとし) 1万8000石
○ 越後の6藩
 新発田藩(しばたはん) 溝口直正(みぞぐちなおまさ) 10万石
 長岡藩 牧野忠訓(まきのただくに) 7万4000石
 村上藩 内藤信民(ないとうのぶたみ) 5万石
 村松藩 堀直賀(ほりなおよし) 3万石
 三根山藩(みねやまはん) 牧野忠泰(まきのただひろ) 1万1000石
 黒川藩 柳沢光邦(やなぎさわみつくに) 1万石
奥羽越列藩同盟は上記の諸藩総計31藩で構成されていた。結成後、諸藩は盟約書と新政府に対する建白書に調印した。そして、この建白書は新政府に対する宣戦布告となった。内容は天皇・朝廷には忠誠を尽くすが、薩長両藩には協力しない、鎮撫総督には従わないとしていた。
この同盟に会庄同盟を加えると、合計約260万石にも及ぶ東北諸藩が新政府に対して、反旗を翻したことになった。この奥羽の情勢に奥羽鎮撫総督府は完全に孤立化し、身の危険を感じた総督・九条道孝は仙台を発って、盛岡に逃れた。
この奥羽越諸藩の反乱に慌てた新政府は、平穏な鎮撫政策を見直し、東征大総督に奥羽越諸藩の征討令を発し、徹底して武力鎮圧に乗り出した。大総督府軍務局判事・大村益次郎の提唱により、新政府軍各部隊を再編成し、新たな部隊配備を成した。白河口総督に鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)、越後口総督に西園寺公望(さいおんじきんもち)、平潟口総督に四条隆平(しじょうたかとし)が新たに任命された。
新政府軍は、すでに5月上旬に白河城を奪取し、奥羽征伐の足がかりをつかんでいた。6月に入ると平潟口総督の四条隆平が率いる軍勢が常陸平潟(ひらかた)に上陸し、進攻するとこれに呼応して、参謀の板垣退助が700名の精鋭を率いて、棚倉城を攻略した。ついで、平潟口に上陸した部隊は北上して、泉藩・湯長谷藩・平藩を攻めこれを落とした。
7月初めになると世良修蔵の後釜として、弱冠22歳で奥羽鎮撫総督参謀の任に就いていた長州藩の桂太郎(かつらたろう)は、秋田藩を新政府側につけるため、同じ参謀職にある薩摩藩の大山綱良とともに秋田藩主・佐竹義堯に直談判(じかだんぱん)して、説得に成功した。桂ら参謀の活躍で、奥羽越列藩同盟は、徐々に崩壊し始めたのである。秋田藩はその後、新政府軍の奥羽征伐にとって、有力な戦力となって活躍した。秋田藩の同盟脱退によって、弘前藩・新庄藩もこれに続いて同盟を脱退した。守山藩・三春藩は劣勢を悟り、新政府軍に降伏した。これら同盟の脱退や降伏などが相次いだことで、奥羽越同盟は大いに動揺した。
これら同盟に動揺が走る少し前、奥羽越列藩同盟は同盟の結束を固めるべく、旧幕府重臣らを同盟の中枢職に就け、抗戦する意義を高めている。まず、輪王寺宮(りんのうじのみや)を同盟の軍事総督に擁立し、公議府を白石城に置いた。ついで、元老中・板倉勝静、小笠原長行を同盟の重役に抜擢し、同盟の気勢を挙げている。
7月下旬に入ると、新政府軍は大軍を擁して、二本松藩の居城に進軍した。この時、二本松藩軍は、大部分を白河口方面へ出陣させており、城内には、わずかな手勢と老人、少年、婦女子ばかりがいた。藩主・丹羽長国は7月28日に城を出て、米沢へと逃げ去った。その翌日の29日には新政府軍による攻撃が開始され、三方向から二本松城は攻撃を受けた。窮地に陥った二本松藩留守部隊は、弱冠21歳の砲術師範・木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊による必死の防戦が行われた。木村は城の西南に位置する大壇口に防壁を築き、百匁玉大砲を設置して、激しく新政府軍と抗戦した。新政府側は薩摩藩軍を主力に突撃したが、二本松藩防衛隊にサンザン苦しめられた。だがその乱戦も木村が銃弾に倒れると勝敗は決した。二本松藩防衛隊は撤退を開始し、新政府軍は二本松城に迫った。城を打って出た少年部隊は、ゲリラ戦を展開したが、抵抗むなしくことごとく玉砕した。
城内では、もはや敗戦と悟ると城代家老・丹羽和左衛門、藩家老・丹羽一学らが本丸に火を放ち、家臣ともども自刃して果てた。こうして、二本松城をめぐる攻防戦はたった一日で終結したが、凄まじい戦闘と総員玉砕という甚だ痛ましい結果を招いた。二本松城の攻防戦が行われていた頃、北陸戦線では、新潟・長岡が激しい戦闘の末、陥落し、いよいよ奥羽越戦争の舞台は、大激戦となる会津戦争へと突入することとなった。
奥羽越列藩同盟の激しい抵抗には、巧みな軍略計画が成されていたことも要因として挙げられる。越後方面が奥羽越列藩同盟の要衝地と考えていた同盟側は、会津藩兵や米沢藩兵を越後に投入して防衛線を張ったり、武器弾薬の購入を推し進めた。特に米沢藩は新潟港を管理し、この港を同盟軍の補給基地と定め、武器商人・エドワード・スネルから武器弾薬を大量に購入した。これら武器弾薬は同盟諸藩へ分配され、諸藩の軍備増強を図った。この同盟軍の動きを察知した新政府軍は、越後攻略を急ぎ、新潟港の奪取を謀った。激しい交戦の末、新潟港を占領した新政府軍は、長尾城をも攻略して、米沢藩軍を打ち破り、敗走させた。
8月中旬に入ると、新政府は奥羽越列藩同盟の盟主が仙台藩と米沢藩であることを考慮して、同盟の結束を破るため、盟主の米沢藩に降伏勧告をした。素直に降伏すれば、本領安堵を約束するという妥協を示したため、米沢藩はこれを受け入れ、9月3日に降伏した。さらに米沢藩は、同じ同盟の盟主となっていた仙台藩にも降伏を勧め、これに同調して伊達家存続を条件に新政府に降伏した。この時、仙台藩に滞在していた旧幕府軍の榎本武揚と土方歳三は反対して、最後まで徹底抗戦を主張したが、受け入れられず、9月15日に仙台藩が降伏すると旧幕府軍は蝦夷地を目指して海路、敗走した。
この後、会津戦争は過熱し、凄惨な攻防戦の末に9月22日、ついに会津藩は降伏した。会津藩と同盟を結んでいた庄内藩も続いて26日に降伏し、最後に残った南部藩が10月11日に降伏して、同盟諸藩は全て新政府軍の軍門に降ったのである。
こうして、奥羽越列藩同盟は長岡藩、二本松藩、会津藩ら諸藩の激しい抵抗を見せたものの、次々と同盟の外壁が崩れ、ついには盟主である仙台・米沢両藩の降伏によって、完全に崩壊したのであった。この激戦は、回避する余地を多分に残しながらも、新政府側の強硬な姿勢が奥羽諸藩を刺激し、仕舞いには、その立場を追い込む形となって、ついに奥羽越列藩同盟の結束という結果を生んでしまった。その意味で、新政府は奥羽越地方の処置に失政したことになるが、この争乱によって、東北・北陸地方の時代に乗り遅れた諸藩が、戦闘を経ることで一気に目覚め、進歩的な躍動を見せたことは、歴史を遠大な見方で眺めて見ると有益な部分があったといえるだろう。その証拠にこの激戦で骨のあるところを見せた東北諸藩の逸材たちは、新政府の役人として大いに登用され、近代日本の開拓が大いに増進された結果から見てもわかる。ある意味で戦闘経験を経ることで、平和ボケした人材が啓発することとなり、新時代の活発な覇気をよみがえらせてくれたことは、日本にとって大きな有益となったのである。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
箱館戦争1

 

[慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)] 戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。
背景
慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。
榎本艦隊の北行
榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、4月12日、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の勝海舟の説得で品川沖に戻り、富士山丸・観光丸・朝陽丸・翔鶴丸の4隻を新政府に引渡すが、開陽など主力艦の温存に成功した。7月、榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、8月20日、開陽を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台を目指した。
この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。
榎本艦隊は出航翌日から悪天候に見舞われて離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給を行うとともに、庄内藩支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた長崎丸を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。
榎本艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、鳳凰丸を加え、桑名藩主・松平定敬、備中松山藩主・板倉勝静、唐津藩世子・小笠原長行、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などの兵を収容。榎本艦隊は官軍の仙台入城を受けて、10月9日、東名浜から牡鹿半島基部の折浜(現石巻市)に移動。その際、平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。更に官軍が石巻まで迫ったため、10月12日に折浜を出航し宮古湾に向かう。途中、回天が気仙沼で幕府が仙台藩に貸与していた千秋丸を拿捕。宮古湾で薪を補給、10月18日、蝦夷地に向け出港した。
箱館港には官軍の防備があるため、危険を冒しての敵前上陸を行わず、まず安全な地点に部隊を上陸させれば、兵力差のある新政府軍を野戦で撃破することは容易と考え、箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木を上陸地点とし、10月21日(グレゴリオ暦1868年12月4日)に約3,000名が上陸した。
経過
旧幕府軍の蝦夷地平定
箱館制圧
明治維新時には松前・江差周辺の松前藩領を除き蝦夷地の大部分は幕府が直轄し、箱館奉行が置かれていたが、新政府はこれに代わり、箱館府を設置した。幕府直轄時代には奥羽諸藩が蝦夷地に兵を派遣していたが、東北戦争に伴い悉く撤兵し、防備兵力は僅かな箱館府兵と松前藩兵のみとなっていた。かかる中、榎本艦隊の北行が判明したため、箱館府は援軍を要請、一番近い弘前藩から4小隊が10月19日、秋田に入港していた福山藩兵約700名および大野藩兵約170名が野田豁通に率いられ10月20日に箱館に到着、これらで旧幕府軍を迎え撃つこととなった。
旧幕府軍は上陸後、大鳥圭介率いる隊が峠下・七重方面から、土方歳三率いる隊が鹿部・川汲峠を経て湯の川方面からと、二手に分かれて箱館へ向けて進軍するが、無用な戦闘は意図しておらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に使者を派遣した。新政府への嘆願書をたずさえた人見勝太郎・本多幸七郎ら30名が先行するが、明治元年(1868年)10月22日夜、峠下に宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれる。
10月24日、人見たちと合流した大鳥軍が大野村と七重村で箱館府軍を撃破し、土方軍は川汲峠で箱館府軍を敗走させた。各地の敗戦を受けて清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、新政府軍は25日に秋田藩の陽春丸とチャーターしたプロシアのタイパンヨー号に乗船し青森へ退却した。旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させた。旧幕府軍は上陸後5日で箱館を占領することに成功した。なお、10月27日、旧幕府軍の箱館占領を知らずに入港してきた秋田藩の高雄を拿捕している。
松前藩との戦闘
蝦夷地を本拠とする松前藩は、家老・松前勘解由の下、新政府に恭順を示す一方で奥羽越列藩同盟にも参加する日和見策を執っていたが、7月28日に尊王派の正義隊によるクーデターが発生し、新政府軍に付いていた。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、戦うことを決意する。
10月27日、土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣。11月1日に知内で宿営中に松前藩兵の奇襲を受けるが撃退し、11月5日には松前城に到達した。その間、11月1日に蟠竜が松前を砲撃している。
松前城は既に10月28日、藩主松前徳広が内陸の館城に移動しており寡兵しかおらず、搦手門から攻撃された城兵は城門を開いては大砲を発射しまた閉じることを繰り返す守備を行ったが、数時間で落城。松前兵は城下に火を放ち、江差方面へ敗走した。
11月12日、旧幕府軍は星恂太郎率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃。途中大滝陣屋を陥落させ、15日、江差に迫ると、すでに松前兵は敗走、江差攻略の支援に来ていた開陽を中心とする海軍によって無血占領されていた。しかし、この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁する。箱館から回天と神速丸が開陽救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽は数日後に沈没。これにより旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。
他方、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊など500名が五稜郭を発ち、二股を経て、松前藩主が拠っていた館城攻略に向かった。11月15日に館城は落城するも、藩主は11月12日に館城を退去、松前藩領北端の熊石へ退いていた。22日、熊石に到着すると、藩主は君臣男女60余名とともに船で弘前藩へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定は完了した。
箱館政権樹立
12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、12月1日に蝦夷地の開拓を求める嘆願書をイギリスおよびフランスの軍艦に託したが、両国公使から嘆願書を受領した右大臣岩倉具視は、12月14日、これを却下した。また、旧幕府軍は、軍事組織を再編成し、来たる新政府軍の攻勢に備えて、江差、松前、鷲ノ木など支配地域の沿岸部に守備隊を配置した。なお、沈没した開陽の乗組員は開拓方となり、開拓奉行となった艦長・澤太郎左衛門とともに室蘭の守備と開拓に充てられている。
なお、旧幕府軍は、軍資金を確保するため、豪商らから御用金を調達したほか、一本木に関所を設け通行税を徴収、さらに貨幣を私鋳したことなどから、箱館住民の評判は良いものではなかった。このため、箱館府にいた村山次郎の下、「遊軍隊」というスパイ組織が作られ、旧幕府軍の市中掛の下役や弁天台場に隊士として潜入した者もいた。
新政府軍集結
10月30日、旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届き、新政府は直ちに津藩兵・岡山藩兵・久留米藩兵計約1,000名を海路で青森に送った。11月6日、奥羽征討軍参謀であった山田顕義が長州藩兵・徳山藩兵を率いて秋田から青森に入り、11月9日、青森口陸軍参謀に就任。そして11月19日には旧幕府軍追討令が出され、11月27日、青森に避難していた箱館府知事・清水谷公考が青森口総督を兼務することとなった。しかし、冬季作戦等の準備は全くないので、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始することとして青森周辺に冬営した。
陸軍は、明治2年(1869年)2月には松前藩、弘前藩兵を中心に約8,000名が青森に集結した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄を2月に購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成した。3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯)の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆した。
宮古湾海戦
旧幕府軍は、新政府軍艦隊が宮古湾に入るとの情報を受けると、甲鉄を奪取する作戦を立案する。3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天と蟠竜、箱館で拿捕した高雄の3艦は宮古湾に向けて出航した。
3月23日、暴風雨に遭遇した3艦は統率が困難となり、集結地点である山田湾には回天と高雄が到着したが、蟠竜は現れなかった。その上、高雄は蒸気機関のトラブルで速力が半分に落ちており、このままだと勝機を逸してしまうため、回天だけで決行することになった。
3月25日早暁、回天は、宮古湾へ突入するとアメリカ国旗を降ろし日章旗を揚げて、全速力で甲鉄へ向かった。奇襲は成功したが、外輪船の回天は横付けできず、甲鉄の側面に艦首を突っ込ませて『丁字』の形という不利な体勢になった事や、甲鉄より船高が3m高いこともあり、兵が甲鉄へ乗り移りにくく、思うように戦えなかった。その上、回天の艦首から飛び降りる旧幕府兵は、甲鉄に装備されていたガトリング砲や小銃の絶好の的になり、次々と撃ち倒され、戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船や反撃が始まったため、作戦は失敗し宮古湾を離脱した。回天艦長・甲賀源吾、旧新選組の野村利三郎など19名が戦死。機関故障のため速力が出ない高雄も新政府軍の春日に追撃され、田野畑村羅賀浜へ座礁させて火を放ち、乗組員は盛岡藩に投降した。
新政府軍上陸
宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、3月26日には青森に到着。兵員輸送用にイギリス船オーサカとアメリカ船ヤンシーをチャーターし、4月初には渡海準備が完了した。
海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が4月6日に青森を出発、4月9日早朝、乙部に上陸した。旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。陸兵が小競り合いを続けている間に、春日を中心とする新政府軍軍艦5隻は江差砲撃を開始。江差の砲台は反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に後退した。
新政府軍が江差を奪還すると、4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる2,800名、4月16日にも増援が江差へ上陸し、松前口(海岸沿いに松前に向かう)、木古内口(山越えで木古内に向かう)、二股口(乙部から鶉・中山峠を抜け大野に向かう)、安野呂口(乙部から内浦湾に面する落部に向かう)の四つのルートから箱館へ向けて進軍を開始する。
一方、旧幕府軍では、4月14日、仙台藩を脱藩した二関源治率いる見国隊400名がイギリス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭及び箱館防備に投入されている。
松前の戦い
4月11日、松前を守備していた伊庭八郎率いる遊撃隊と春日左衛門率いる陸軍隊を中心とする部隊500名が江差奪還のために出撃する。根武田(現・松前町)付近で新政府軍の斥候を蹴散らし、翌日には一気に茂草(現・松前町)まで進出、新政府軍は江差まで退却。このまま江差奪還を目論んだが、新政府軍が後方の木古内に進出中との情報を受け、松前へ撤退する。4月17日、新政府軍は松前を攻撃。新政府軍の艦砲射撃に加えて戦力差は歴然としており、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城を放棄して、知内まで敗走した。
木古内の戦い
木古内では4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介の指揮下、伝習隊、額兵隊などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、500名が布陣。新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所に部隊を配置していた。4月20日未明、木古内口の新政府軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで激戦が続いた。旧幕府軍は額兵隊と遊撃隊などが最後まで踏み止まっていたが、70名以上の死傷者を出して泉沢(現・木古内町)まで後退した。その後、本多幸七郎率いる伝習隊などの援軍を加え、知内に孤立した彰義隊など300名を救うために再び木古内へ向かう。孤立していた部隊も木古内突入を決め、挟撃を恐れた新政府軍が撤退し、木古内奪還に成功する。しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、地形的に有利な矢不来(現・北斗市)まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣した。
矢不来の戦い
新政府軍は木古内で木古内口と松前口の軍が合流。その後、補給を整えた新政府軍は、4月29日、陸軍参謀・太田黒惟信が1,600名を率いて本道、海岸、山上の三方から矢不来を攻撃した。旧幕府軍は、甲鉄・春日等による艦砲射撃で衝鋒隊の大隊長・天野新太郎や永井蠖伸斎など多数の死傷者を出し、総崩れとなった。大鳥圭介は富川(現・北斗市)で部隊の立て直しを図ったが果たせず、有川(現・北斗市)まで撤退。有川では榎本武揚自ら指揮を執るが、旧幕府軍は完全に崩壊、箱館方面へ敗走を始める。旧幕府軍はこの戦闘で160名の戦死者を出している。
二股口の戦い
土方歳三の指揮下、衝鋒隊・伝習隊からなる300名は、4月10日に台場山(現・北斗市)に到着し、二日がかりで16箇所に胸壁を構築、新政府軍を待ち構えた。13日正午過ぎ、700名の新政府軍が攻撃を開始し、対する土方軍は胸壁を楯に小銃で防戦。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返すが、土方軍は雨の中、2小隊ずつが交代で小銃を撃ち続けた。翌14日早朝、新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退した。旧幕府軍が撃った弾丸は、3万5千発に及び、16時間にわたる激闘であった。22日、新政府軍は再度攻撃を試みるが、土方軍はこれも撃退。23日午後、新政府軍は正攻法をあきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃を打ち下ろしてきた。そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明には瀧川充太郎率いる伝習士官隊が抜刀して敵中に突進、混乱する新政府軍を敗走させる。それでも新政府軍は次々と新しい兵を投入し、旧幕府軍は熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃で応戦し続けた。25日未明、ついに新政府軍は撤退。これ以降、新政府軍は二股口を迂回する道を山中に切り開き始める。4月29日、矢不来が新政府軍に突破されると、退路を断たれる危険があった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる。
箱館総攻撃
4月28日に青森口総督・清水谷公考が江差から上陸し、5月1日以降、松前・木古内から進軍した東下軍と二股から進軍した南下軍が有川付近に集結、箱館攻撃の態勢を整えた。敗色濃厚となったため、5月2日、ブリュネらフランス軍人はフランス船で箱館を脱出した。旧幕府軍は、大鳥圭介らが七重浜の新政府軍を数度に渡って夜襲したが、5月8日に榎本自ら出陣した大川(現・七飯町)への夜襲は失敗に終わっている。5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始、海陸両方から箱館に迫った。
箱館湾海戦
旧幕府海軍は、自らのミスから新政府軍に千代田形を奪われていたが、5月3日夜、遊軍隊のスパイ・斎藤順三郎により弁天台場の大砲が使用不能にされ、急遽、箱館湾に綱を敷設したものの、5月6日に新政府軍により切断され、軍艦を箱館湾に進出される。5月7日の海戦で回天が蒸気機関を破壊され、意図的に浅瀬に乗り上げ、浮き砲台となる。5月11日の海戦では一隻残った蟠竜が新政府軍の朝陽を撃沈し、旧幕府軍の士気は大いに高まったが、砲弾を射ちつくした蟠竜も座礁の上、乗組員は上陸して弁天台場に合流した。
四稜郭方面の戦闘
旧幕府軍では大鳥圭介が五稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や桔梗野などに伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して指揮を執っていた。5月11日早暁、新政府軍4,000名が大挙して押し寄せてきた。大鳥は東西を奔走し、自ら大砲を撃って力戦したが、夜には五稜郭に撤退した。また、旧幕府軍が五稜郭の北に急造した四稜郭では、松岡四郎次郎率いる一聯隊が防戦していたが、五稜郭との中間に位置する権現台場を新政府軍に占領されると、退路を断たれることを恐れ、五稜郭へ敗走した。
背後への奇襲上陸・箱館市街の戦闘
一方、同日未明、豊安丸と飛龍丸に分乗した陸軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名が夜陰に紛れて箱館山の裏側に上陸した。豊安丸の部隊は西北側の山背泊から上陸し、弁天台場の背後を脅かした。黒田直率の飛龍丸の部隊は西側の寒川付近に上陸し、絶壁をよじ登って箱館山の山頂に到達。山頂にいた旧幕府軍監視兵は驚いて遁走し、夜明けまでには箱館山を占領した。このとき、遊軍隊が箱館山薬師堂で奇襲部隊を迎え、山道の案内にあたった。新政府軍の奇襲上陸に対し、箱館奉行・永井尚志は弁天台場に入り守備を固め、瀧川充太郎が新選組、伝習士官隊を率いて箱館山へ向かった。しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、大森浜沖の陽春からの艦砲射撃もあって一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退した。午前11時ごろには箱館市街は制圧されたが、弁天台場の旧幕府兵が材木屋に放火、瞬く間に火が広がり、872戸を焼失した。箱館市街を制圧した新政府軍は一本木関門方面に進出する。これに対して、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死。さらに副総裁・松平太郎が箱館奪還を試みるが失敗し、五稜郭、弁天台場、千代ヶ岱陣屋のみが残るだけとなった。この間、箱館病院では院長の高松凌雲が、赤十字の精神で病院の非武装中立を謳い、敵味方の隔てなく戦傷者の治療に当たっていた。5月11日の戦闘の最中、新政府軍が病院内に乱入する。殺気立った新政府軍と患者を守ろうとする高松の間で押し問答が続いたが、薩摩藩士・山下喜次郎が高松の主張を聞き入れ、病院の門前に「薩州隊改め」の墨書きを残して退いた。分院の高龍寺では非武装が徹底されておらず、松前藩兵・弘前藩兵により十数名が殺害、放火されている。5月12日には五稜郭に対して箱館湾の甲鉄による艦砲射撃が始まり、古屋作久左衛門が重傷を負ったほか、死傷者が続出した。また、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。
戊辰戦争終結
5月12日夜、新政府軍参謀・黒田清隆の命を受けた軍監・村橋久成、監軍・池田次郎兵衛が諏訪常吉の見舞いと称して箱館病院を往訪。諏訪に降伏交渉の仲介を頼もうとするが瀕死のため、高松凌雲らと協議し、高松と病院事務長・小野権之丞の連名で榎本に降伏を勧告する。榎本は士官以上を集めた会議の結果、5月14日、これを拒絶したが、灰塵に帰するには惜しいとして榎本がオランダ留学時に入手した、海事に関する国際法と外交に関する書物『海律全書』を黒田に届けさせた。同日、榎本は永井の口利きにより千代ヶ岱陣屋付近の家屋で軍監・田島圭蔵らと会見した。榎本は降伏勧告を改めて拒絶するが、五稜郭にいる傷病者の後送を申し入れた。250人の傷病者はその日のうちに湯の川へ送られている。
弁天台場は艦砲射撃と背後の上陸部隊の攻撃に持ち堪えていたが、艦を失った海軍兵を収容していたこともあり兵糧が底を付き、5月15日、永井尚志以下240名が降伏する。同日、榎本は五稜郭に捕らわれていた新政府軍の捕虜11名を送り返した。
千代ヶ岱陣屋の陥落
五稜郭の前哨、千代ヶ岱陣屋にも降伏勧告の使者が訪れていたが、箱館奉行並・中島三郎助はこれを拒否した。一方、小彰義隊長・渋沢成一郎が隊士とともに湯の川に逃走した。5月16日、五稜郭からの撤退命令も拒否して、中島は浦賀与力時代の部下らとともに最後の抵抗をする。1時間の戦闘で守備隊は壊滅し、中島三郎助は2人の息子とともに戦死する。これが箱館戦争最後の戦闘となった。
5月16日、黒田は「海律全書」の返礼として、礼状と共に酒樽五樽・鮪五尾を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、同日の夕刻、榎本側から軍使を遣わし、返礼と翌朝7時までの休戦を願い出る。政府側はそれを了承し、五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告した。休戦の間、幕府軍首脳側は合議の上、降伏・五稜郭開城を決定する。同夜、榎本は敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆願の為に自刃しようとしたが、たまたま近くを通りかかった(介錯を頼む為、榎本が呼び止めたとも言われる)大塚霍之丞に制止されている。
翌17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の会見場に出頭、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願した。しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかった。これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条件降伏に同意。新政府軍が降伏の手順を明らかにする実行箇条の提出を要求してこの会談は終了した。その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた。
5月18日(グレゴリオ暦1869年6月27日)早朝、実行箇条に従い、榎本ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・澤太郎左衛門以下250名は、22日に投降している(6月11日箱館着)。
戦後処理
降伏した旧幕府軍の将兵は、一旦箱館の寺院等に収容された後、弘前藩ほかに預けられ、ほとんどが翌年に釈放。幹部については、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、松岡磐吉、相馬主計の7名が、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄に投獄された(明治5年釈放)。 
 
箱館戦争2

 

旧幕府艦隊の北上
徳川慶喜の恭順姿勢は、多くの旧幕臣たちの不満を残した。特に大鳥圭介や榎本武揚たちは、旧幕府軍の中でも西洋式軍制を布いた部隊を率いており、新政府軍と互角に渡り合える軍力を持っていたため、なおさら徹底抗戦を主張して聞かなかった。1868年(慶応4年)4月11日、江戸無血開城が行われ、旧幕府軍の本拠地は滅してしまい、旧幕府軍は、徹底抗戦を叫んで、関東・北陸・奥羽の地へと向かった。この時、旧幕府の所持していた兵器や軍艦は、交渉により新政府側に引き渡されることが決まっていたが、海軍副総裁・榎本武揚はこれを承知できず、旧幕府艦隊を率いて、房州館山に移動し、新政府側の動きをうかがった。これを知った実質的な幕府全権である陸軍総裁・勝海舟は、急いで館山に赴き、榎本を必死に説得した。旧幕府側の立場や江戸の仕置きなど意義を唱えた結果、榎本はついに折れ、艦隊を品川沖に回航させて、新政府側への引渡しに応じる構えを見せた。結果として、数隻の軍艦が新政府側に引き渡されることになり、富士山・朝陽・観光・翔鶴・飛竜などの軍艦が無事、引き渡された。だが、開陽・回天・蟠竜・千代田形の四軍艦と神速・咸臨などの運送船は榎本の手元に残った。軍艦・開陽は、幕府がオランダに造船させた最新鋭艦で、新政府軍が保持する軍艦をはるかに凌ぐ性能を持っていた。榎本にとっては、自身が海軍留学生となって、オランダに渡り、6年間の修業後、できたばかりの開陽に乗り込み、帰国した思い出深い軍艦であった。運送船・咸臨は、日本で最初に太平洋横断を成した船で、勝海舟が艦長を務めていた。太平洋横断後、咸臨は蒸気機関と大砲を外し、軍艦としての役目を終え、新たに運送用帆船として使われていた。
江戸無血開城後、5月になって、新政府側は、徳川家への処置を決めた。まず、徳川宗家当主には、田安亀之助(たやすかめのすけ※徳川家達)が後継者として決まり、駿河・遠江二カ国を領有することが認められ、合計70万石の一大名となった。幕府政権の時代には徳川宗家だけで500万石近い石高を領していたのが、維新後は70万石という減封となってしまった。そのため、徳川宗家に仕える旧幕臣8万人を養うことができなくなり、多くの旧幕臣たちが困惑した。この問題を解消させるため、榎本は蝦夷地に旧幕臣たちを移住させ、開拓にあたらせる案を新政府に提出し、救済を図った。
7月に入ると、奥羽越列藩同盟の密使が榎本に派遣されてきた。榎本が率いる旧幕府艦隊の協力要請であった。榎本はこれを了承して、北上することを決した。北上準備を整えた榎本は、8月20日に開陽・回天・蟠竜・千代田形・咸臨・長鯨・神速・美嘉保の八隻を率いて、品川沖を出港。列藩同盟の盟主・仙台藩が持つ仙台湾へと一行は向かった。この榎本艦隊の指揮官は、司令官に荒井郁之助、開陽艦長・沢太郎左衛門、回天艦長・甲賀源吾、蟠竜艦長・松岡磐吉、千代田形艦長・森本弘策という面々で、こぞって海軍の秀才ばかりであった。
その他に旧幕府の重役たちが搭乗していた。元若年寄・永井尚志、元陸軍奉行並・松平太郎が顔を連ねていた。また、渋沢成一郎が率いる彰義隊の生き残り部隊、伊庭八郎が率いる遊撃隊、そして、旧幕府のフランス軍事顧問団を脱退して、榎本らに協力している砲兵大尉・ブリュネらフランス軍人など、総勢2000余人も乗船していた。
旧幕府軍一行を乗せた榎本艦隊は出港翌日から悪天候に見舞われた。鹿島灘にさしかかったころには、艦隊は離れ離れになり、大量の軍需物資を積んでいた美嘉保は岩礁に乗り上げて、沈没してしまった。ついで、咸臨も荒波のため、大破して南西に流され、漂流の末に9月2日、駿河の清水港に漂着した。その港で、咸臨の修理を行っていたが新政府軍がかぎつけ、急襲されたため、旧幕府側に多くの死者や捕虜が出た。咸臨も新政府側に没収され、榎本艦隊は戦う前に早くも2隻を失うはめになった。
一時ははぐれた艦隊だったが、9月中ごろまでに次々と仙台湾に集結し、もとの艦隊に戻った。しかし、仙台湾にようやく榎本艦隊集結したころは、すでに列藩同盟はほとんど崩壊していた。列藩同盟の一翼を担う米沢藩が降伏し、会津藩も本拠地・若松城が新政府軍の包囲を受けていた。この劣勢を受けて、仙台藩までもが降伏しようとしていた。榎本は徹底抗戦を主張し、必死で仙台藩を説得したが、情勢の悪化を受けて、仙台藩は降伏してしまった。9月下旬までに会津・庄内・南部など列藩同盟を形成する諸藩も次々と降伏し、完全に榎本の活躍の場は失われてしまった。
奥羽の地での活躍の場がなくなったことを悟った榎本は、10月12日に仙台湾をあとにし、一行は空白地に近い蝦夷箱館へと向かった。出港にあたって、奥羽の地を追われた旧幕府軍を新たに艦隊に召喚した。桑名藩主・松平定敬、元幕府老中・板倉勝清、小笠原長行らもと幕府要職に就いていた重役たちを搭乗させた。また、旧幕府歩兵奉行・大鳥圭介、新選組副長・土方歳三、遊撃隊長・人見勝太郎、衝鋒隊長・古屋久左衛門、仙台藩額兵隊・星恂太郎ら兵団諸隊も乗船させた。こうして、徹底抗戦の姿勢を捨てきれない旧幕府軍の一団をかき集めた榎本は、10月20日に艦隊を箱館に近い鷲ノ木に接岸させた。接岸地点は、新政府側に立つ松前藩の拠点・箱館より10里ほど北に位置していた。榎本たちは、蝦夷地を占領下に置き、旧幕府側の最後の地にしようと計画していた。この後、松前藩を打ち破り、蝦夷地を占領した榎本たちは、西洋式政権を樹立し、共和制の下で新政府側と対抗する姿勢を取っていくのであった。 
蝦夷共和国
榎本たち旧幕府軍は艦隊に乗って、蝦夷地へと北上する計画を立てていたころの10月13日に明治天皇が江戸城に入り、これを東京城と改称した。新しい統一国家として明治政府は始動し始めたのである。元号も慶応4年9月8日に明治と改称され、一世一元の制が定められていた。
一方、蝦夷地への出港した榎本艦隊は、10月20日に蝦夷地に到着し、箱館より北に位置する鷲ノ木沖に停泊した。榎本たちが蝦夷地に到着した時期は、新暦で12月にあたり、積雪が30cmに達する寒冷の季節であった。榎本たちはまず、蝦夷地にいる新政府側に対して、使者を送り、蝦夷地に来た趣旨を伝えようと試みた。五稜郭にいる箱館府知事・清水谷公考(しみずだにきんたる)のもとへ人見勝太郎と本多幸七郎を遣わし、もしもの時のために護衛兵30名も付属させた。
吹雪の中を上陸させ、使者一行を箱館に向かわせた。その後、天候が回復した頃合を見て、約4000人の部隊を上陸させ、蝦夷地攻略の作戦を立てた。まず、大鳥圭介と土方歳三がそれぞれ別働隊を率いて箱館へ進軍させ、五稜郭と箱館の占領を目論んだ。一方、榎本軍が新政府側に徹底抗戦の姿勢を取っていることを知った清水谷は、使者として派遣されてきた人見たちに夜襲をかけ、討滅しようと謀った。だが、関東・北陸・奥羽と激しい戦闘を経験してきた人見たちは、巧みに応戦して、あっさりと箱館府軍を敗走させた。榎本軍の圧倒的武力の前に清水谷は敗北し、10月25日に秋田藩の軍艦・陽春に乗って、敗走した。こうして、榎本は難なく箱館と五稜郭を占拠し、榎本軍の本拠地とした。拠点を得た榎本は、松前藩に使者を送り、味方するように要請したが、新政府側が有利と見ている松前藩は、要請に応えない。仕舞いには使者が斬られたことを契機に松前藩が攻撃を仕掛けてきた。これに対して榎本軍は土方が率いる700名の精鋭部隊を出陣させ、激しく応戦した。また、蟠竜・回天の軍艦を海上から援護砲撃をさせ、圧倒的武力を現した。11月5日には、松前藩の本拠・松前城が陥落し、15日には江差(えさし)も占拠した。こうして榎本軍は上陸してわずか1ヶ月余りで蝦夷地の大部分を支配下に治めたのであった。この蝦夷地制覇戦で榎本軍は、予想外の多大な損失を出してしまった。江差沖に停泊していた開陽が大しけで暗礁に乗り上げてしまったのだ。榎本以下、乗組員全員が武器や荷物を持って、陸上に避難した。その後も波は荒れて、数日後には開陽は完全に大破して、沈没してしまった。開陽は榎本艦隊の主力艦で、当時国内にあった軍艦の中では随一の戦力を誇っていた。開陽は2800トン、400馬力、26門を備え、最強・最新鋭軍艦であった。また、この開陽を救援するために回天・神速のニ艦が向かったが、神速が機関の故障で座礁し、使用不可能となってしまった。こうして、榎本艦隊は新政府軍と戦う前にニ艦を失うという多大な被害が出てしまった。
榎本たちが蝦夷地統治に多忙を極めている時期の11月初旬、イギリス・フランス両国の軍艦が箱館に入港してきた。榎本と会見した英仏両艦長は、榎本たちの一団体を蝦夷政権として承認する旨を伝えてきた。「デ・ファクトの政権」(事実上の政権)となった榎本政権に対して、英仏は国内干渉をしないことを約束し、厳正中立の立場を取った。
12月15日に士官以下の投票によって、独立共和国の総裁には榎本武揚が就き、副総裁には松平太郎が就いた。こうして、共和制の下で蝦夷政権は確立し、諸役が随時決まっていった。
蝦夷共和国が成立すると榎本は、本営を五稜郭に置き、松前・江差に鎮台を置いて、新政府軍来襲に備える人事を行っていった。ついで、開拓奉行を設置して、部下250名を選抜して、室蘭に移住させ、開拓をさせながら守備の任にあたらせた。また、4000人を超す共和国家の役人や兵士たちを養い、新たな軍備増強などを図らなくてはならないため、榎本は思い切った圧政を蝦夷地の市町村に課した。市中の資産家たちに数万両の御用金を課すとともに賭博や産地品の生産を奨励して、莫大な運上金を捻出させた。ついには偽金の鋳造にまで手を伸ばし、運営資金の確保に全力を上げた。
その一方で箱館の大森海岸から一本木にかけて柵を立て、関門を設けるなどの土地整備を敢行し、そのために多数の住民を普請工事のためにかり出した。こうした圧政による住民への過重は、多大なものとなり、榎本政権に対する民衆の評判はすこぶる悪かった。だが、こうした積極的な運営方針を現したことで蝦夷地の開拓意欲は否応成しに盛んなものとなり、その後の明治時代における蝦夷地開拓運動へと続いていくことと成った。 
箱館戦争
蝦夷地にて、共和国家を樹立した榎本政権は、意気揚々と蝦夷地開発に着手していた。そんな中、1868年(明治元年)12月27日に欧米列強の代表者が会議を開き、戊辰戦争勃発時から局外中立の立場を取ってきた方針を改めることが決まった。翌日にはイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・オランダ・プロシアの六ヶ国公使が明治政府に通達を出した。欧米列強の局外中立の撤廃と内戦終了と見なすことを日本に報せたのであった。
新政府は、蝦夷にできた榎本政権を潰すべく、軍事行動を開始した。年が明けて、1869年(明治2年)1月に入ると、以前に幕府がアメリカに発注していた最新鋭装甲軍艦・ストーン・ウォール・ジャクソン号が新政府側に引き渡された。それまで、国内干渉をしない方針を取っていたため、新政府側への引き渡しが保留されていたが、前年に内政干渉が撤廃されたので、引き渡しが成されたのであった。
この装甲軍艦を「甲鉄」と改名し、新政府艦隊の主力艦と定めた。当時では日本唯一の装甲艦であった。この最新鋭艦を入手した新政府軍は、ついに蝦夷討伐を決行し、甲鉄を旗艦とし、春日、陽春、丁卯の四軍艦と飛竜、豊安、戊辰、晨風の運送船四隻からなる新政府艦隊を組織し、3月9日に品川沖を出港した。 一行は箱館を目指して、北上し途中、宮古湾に入り、装備補充を成した。
蝦夷討伐艦隊が出港したことを受け、榎本軍は、正々堂々と戦っては勝ち目がないとして、回天艦長・甲賀源吾の提案による奇襲作戦が敢行されることとなった。新政府艦隊が宮古湾に停泊しているとの情報を受け、これを奇襲して敵艦の甲鉄を乗っ取ろうというのである。3月20日に榎本軍海軍奉行・荒井郁之助が総指揮を執る回天・蟠竜・高尾の三艦が箱館を出港した。新政府艦隊に近づくにあたって、外国旗をかかげて敵を油断させ、攻撃直前に自国旗に変えるという欧州で使われている戦法を採用した。だが、作戦は初手からつまづいた。先に航行していた回天と高尾は蟠竜の航行が遅れているのを見て、山田港で蟠竜を待ったが、蟠竜は到着せず。高尾も機関が故障して出港できなくなり、仕方なく作戦は回天一隻で遂行することとなった。25日未明、甲鉄に接近した回天は、野村理三郎らの斬り込み部隊が甲鉄に突入した。だが、甲鉄の甲板にあった連射砲であるガトリング砲があったため、この連射攻撃にあって、斬り込み部隊はほとんどが死傷し、突撃はわずか30分で終り、回天は敗北した。この戦いで回天艦長・甲賀源吾が戦死した。
榎本軍との緒戦に勝利を収めた新政府軍は、討伐軍を青森に集結させ、春を待って蝦夷地へと渡海した。4月9日に新政府軍は、江差より10kmほど北に位置する乙部に上陸し、箱館戦争が開始された。新政府陸軍参謀兼海軍参謀・山田顕義(やまだあきよし)は、部隊を三分割し、松前口、二股口、木古内口へと部隊を進攻させた。松前口を進攻した部隊は、海上より軍艦の援護砲撃を得て、江差を無難に攻略した。ついで、松前を攻撃し、松前城を奪取した。その後、木古内、矢不来も相次いで攻略した。二股口を進攻した部隊も快進撃を続け、各地に配備された榎本軍は、全て敗退し、全軍は五稜郭と箱館に集結した。
五稜郭と箱館を包囲した新政府軍は、5月11日に陸海両面から総攻撃をかけ、一気に勝敗を決しようとした。新政府軍の陸上部隊は、有川、七重方面から箱館へと進撃した。また、別働隊は箱館山奇襲上陸作戦を敢行するため、豊安、飛竜に隊員を分乗させ、寒川から上陸を果たした。この別働隊は陸軍参謀・黒田清隆の指揮のもと、断崖をよじ登って、箱館山山頂を占領した。この陸上での戦闘を海上にいた新政府艦隊が援護砲撃を成し、箱館一帯は砲撃戦が展開された。これを迎撃する榎本軍は、回天、蟠竜の二艦で応戦させ、弁天台砲台、千代が岡砲台からも応戦の砲撃を行った。この激しい砲撃の応酬戦で、蟠竜が砲撃した一発が朝陽の弾薬庫に直撃し、朝陽は大爆発を起こして、海の藻屑と消えた。この快心の一撃によって、敵艦を撃沈したことは、榎本軍をはにわかに活気付かせたが、それもつかの間で、回天が集中砲火を浴びて、使用不可能となり、蟠竜も浅瀬に乗り上げて、操縦不能となり、乗組員は船を捨てて、上陸した。
海上戦が敗退一色となるとすかさず、箱館山を占拠していた新政府軍部隊が箱館の市街地へとなだれ込んで、市内を制圧した。箱館を奪還しようと榎本軍は、五稜郭より土方歳三が率いる決死隊が突撃していったが、指揮官の土方が腹部に敵弾を受けて、倒れついに絶命すると陸上戦でも榎本軍は敗退一色と化した。
完全に榎本軍の反撃がなくなると新政府軍は5月12日から甲鉄の主砲70斤砲を用いて五稜郭へと艦砲射撃を開始した。この激しい海上からの砲撃で五稜郭内の兵士たちは次々と死傷し、被害は拡大する一方となった。五稜郭が陥落寸前となって、榎本は自ら自決して最後を飾ろうとしたが、側近たちに推し止められ、ついに榎本軍は新政府に降伏することとなった。12月に入って、難攻不落を誇った弁天砲台が陥落し、翌日には千代が岡砲台も陥落した。そして、ついに18日に榎本たちは五稜郭を出て、新政府軍の軍門に降ったのであった。五稜郭を出て、降伏した者たちは1000名余に達した。
こうして、1年半の永きにわたって国内を激震させた戊辰戦争はこうして、終止符が打たれた。 
 
北海道開拓

 

明治以前の北海道
北海道の歴史をここに住んだ人々の生活史とすれば、それは日本列島と同じ程度の古さにさかのぼることができるでしょう。しかし、東北6県と新潟県を合わせた面積に匹敵するこの広大な島の歴史が内地と著しく異なる点は、他の地域が古くから農耕文化に染まっていったのに対して、北海道はつい近年まで縄文時代とさほど変わらぬ漁猟生活が営まれていたことでしょう。
明治以前までの蝦夷の地はおそらく有史以来一度も斧を入れたこともない大原始林に覆われ、そこに住む人々は鳥獣を狩り、野草を摘み、川や海の魚を捕って生活していました。彼らは蝦夷の先住民(原日本人とも言われている)でしたが、文字を持ってなかったのでその歴史はよく分かっていません。
本州とは古くから交流もありましたが、和人がこの地に渡り、独自の生活をするようになったのは室町時代、14世紀の末頃からでした。移り住んだのは青森県下北半島の豪族であった蠣崎氏。蠣崎氏は蝦夷人を排除して福山を本拠地とし、独自の政権を打ち立てました。5代慶広のとき豊臣秀吉に蝦夷島主と認められ、姓を松前と改めます。1604年、徳川家康により江戸幕藩体制の一藩に組み込まれますが、それでも勢力範囲は道南の函館から熊石までの数十里の地(松前地と呼ぶ)であり、農業生産のない松前藩に与えられた権限も石高で表される領地の支配権ではなく、単に蝦夷地交易の独占権にすぎませんでした。
1669年、「松前藩を追い払え」というシャクシャインの檄げきで、ほぼ全島のアイヌ人が決起、19隻の交易船が襲撃され273人の和人が殺されたとあります(シャクシャインの乱)。幕府は東北諸藩にも出兵を命じ、アイヌ軍は敗北しました。そして、松前藩に絶対服従の誓詞を提出します。この戦争はアイヌ民族の命運をかけた戦いでしたが、その結果、アイヌは和人に隷属する道を選ばざるを得なくなりました。
正式に1万石の大名として認められたのは1719年。藩財政も当初はアイヌ交易をはじめ鷹、砂金などの特産物収益に依存していましたが、この頃から松前蝦夷地は、ニシン、サケ、コンブをはじめ、いりこ、干しアワビなどのの産地として、幕藩制下の経済に大きな役割を果たすようになりました。 江戸中期から後期になると、ロシアはカムチャッカ半島から千島方面へと進出、他の外国船も北海道近海へ出没するようになります。老中・田沼意次は大規模な蝦夷地調査を行い、ロシアとの交易を進めますが、田沼の失脚(1786年)によって交易は中絶します。
さらに1797年にはイギリス船が室蘭に来航、ロシア人がエトロフ島に上陸。翌年、幕臣であり探険家でもあった近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵土呂府えとろふ」の標柱を立てます。1万石格の松前藩に任せておけなくなった幕府は1798年、松前藩を内地に移封して、蝦夷を直轄地とします。伊能忠敬の東蝦夷地の海岸測量、間宮林蔵の樺太探検・間宮海峡の発見はこうした背景での出来事でした。
1804年、ロシア使節が長崎に来航して貿易を要求しますが、幕府はこれを拒否。怒ったロシアは樺太・利尻などに侵入して幕府船を焼くなどの圧力を加えてきました。津軽海峡にも外国船が出没するようになり、幕府は松前藩に新たに城を築かせ、東北諸藩に警護を命じます。ロシアの艦長ゴローニン中佐は国後くなしり島に上陸、警備の日本側に抑留されますが、その報復として捕らえられた貿易商・高田屋嘉兵衛の尽力によってロシア側に侵略の意図はないことが判明し、日露間の緊張は緩和されました。 1854年、日本が開国を認めると、箱館は伊豆の下田とともに開港場になり、幕府は箱館奉行をおきます。この開港によって箱館は大きく変化します。西洋人の渡来、洋学校、五稜郭の築城、洋式造船、キリスト教会など、それまでの縄文式(?)文明の地から、一挙に近代文明の玄関口へと変貌することになるのです。
明治維新と北海道開拓使
1868年、王政復古の号令とともに新政府が樹立し、いわゆる明治維新が成立します。榎本武揚など旧幕臣は五稜郭に立て籠もり最後の抵抗を見せますが、翌年、五稜郭の陥落をもって戊辰戦争は終結し、名実ともに明治政府が誕生することになります。蝦夷の地も北海道と改め、省と同格の中央官庁である北海道開拓使が設置されました。
明治維新後、国策は一変します。失業した士族の救済、ロシアの侵攻に備えた屯田兵の創設、そして何より、欧米列強に対抗するため富国強兵の道を歩み始めた新政府にとって石炭、木材、硫黄などの無尽蔵とも思えた天然資源は、日本近代化の大きな原動力とうつりました。つまり、北海道開拓のもっとも主要な動機は、日本近代化のための資源の開発であり、このことが、北海道開拓の基本的なパターンを決定しました。
明治に始まる開拓使の設置は、北海道を維新後の国力増強に活用し、士族に授産することを目的として、札幌の開発、道路・港湾・鉄道の整備、鉱山開発、官営工場の建設、札幌農学校の設置などを進め、集団移住者と屯田兵による開拓を推進します。こうした中央主導型の開発とインフラ整備が、北海道農業の骨格を築き上げたといえるでしょう。
それまでは函館が中心地でしたが、南に偏りすぎていたため開拓使は札幌に移されます。そして明治4年、黒田清隆が10年間1000万円をもって総額とするという大規模予算計画を建議し、いわゆる「開拓使10年計画」が決定されます。
黒田は開拓使長官になると、その潤沢な予算を使って39の各種官営工場の設立、幌内炭山の開発、その石炭輸送のため幌内一小棒間の鉄道を敷設しました。また、アメリカの農務局長ケプロンら顧問の招聘し、西洋式農業の移入も図りました。
クラーク博士を招いて設立した札幌農学校や官園(東京、函館、札幌の農事試験場)によって開拓技術者の養成と洋式農法の導入をはかり、新道の建設や札幌、幌内炭坑を結ぶ幌内鉄道の建設などの交通手段を整備します。さらに、ビール、製糖、製麻などの農産加工工場や木工、鉄工、製網など生産や生活にかかわる諸工場や各種の鉱山など多くの官営事業を営みました。
また、開拓使による最初の移民政策は、政府募集の移民を送り込んで定住させるというものでした。移民には、米、費用、農具などを与えるという政府の補助がついていましたが、それほど効果はあがらず、明治5年には募集をやめ、既に定着した移民への援助に切り替えました。そして、明治6年、政府は北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始します。
北海道開拓使は明治15年に廃止され、函館県・札幌県・根室県の3県が設置。しかし、この3県時代は開拓不審の時代であったといわれています。明治18年、ハーバード大学で法律を学んだ大書記官・金子堅太郎によって詳細な北海道視察が行われ、その建白書に基づいて翌19年、3県を廃止して北海道庁が誕生することになります。
屯田兵
屯田兵とは、兵士を遠隔地へ派遣し、平常は農業を営むかたわら軍事訓練を行い、いざ戦争が始まったときには軍隊の組織として戦うことを目的とした土着兵のことです。中国では漢の時代から明代まで盛んに行われた制度でした。
新政府で北海道に屯田兵の設置を主張したのは西郷隆盛と言われていますが、彼の影響を受けた開拓使長官・黒田清隆が建議し、明治7年に制度が制定され、翌8年、札幌郊外の琴似兵村で兵屋200戸を建築、宮城・青森・酒田3県および北海道内からの志願者193戸、965人が移住したのがはじまりでした。 この制度の背景には、士族の失業対策がありました。士族に「兵」という誇りを持たせながら開拓という自活の道を開かせようとしたのです。したがって、最初の頃の屯田兵は士族のみを対象としていましたが、しばらくしてその制限も緩み、平民出身の屯田兵が開拓の中心となっていきます。明治37年に制度が廃止されるまで、各地で37兵村、7,337戸、39,911人が入植し74,755haの開発が行われています。
通常、1兵村は200〜240戸からなり、1戸当たり5町歩の土地が支給され、練兵場・官舎・学校など公共施設を囲んで兵屋が規則的に配列されていました。 生活規則は厳しく、起床と就業の時間が定められ、軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援、また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ねていました。
屯田兵は、西南戦争、日清戦争、日露戦争に参戦しています。余談になりますが、西南戦争では、下士兵卒には東北諸藩の士族出身が多かったため、戊辰戦争の敵だった薩摩士族を相手とするこの戦いには奮い立ちます。しかし、上官や将校は黒田清隆を中心とする薩摩閥が占めていたため戦意が乏しかったそうです。しかし、戦後の論功行賞では上官であった薩摩閥が優遇され、奮戦した下士兵卒の東北出身者には冷たかったため1人の将校が抗議の切腹をしたそうです。
屯田兵制度が北海道開拓に果たした役割には大きなものがありますが、特筆されるべきは現在の北海道における土地利用、なかんずく牧畜と大規模営農に適したアメリカ型の広大かつ整然とした区画でしょう。例えば、上川地方の屯田兵村では1戸当たり30間×150間(54×270m)の区画で10戸ごとに道路を設けて格子状にしており、道路の両側に宅地、その背後に耕地という開拓集落特有の形態をとっています。こうした屯田兵村の形態を基礎に明治29年、全道を統一的に規定する植民区画が施行されます。幅10間(18m)の基線道路とそれに直交する300間(540m)間隔の道路。300〜500戸を1村として共同施設を構えるという組織的な配置がとられました。
こうした区画割は、今でも農村部のみならず、都市にまで適用されています。現在、北海道は食糧基地としての地位を揺るぎないものとしていますが、その基盤として、こうした区画割に基づく大規模な農業経営があることは論をまたないでしょう。
開拓の風景
開拓移民が5町歩を開墾して、自作農として独立するためには3、4年かかるのが普通でしたが、その間の苦労は想像を絶するものでした。
移民は、まず郷里から入植地までの旅費と初年度の生活費を準備しなければなりません。そして、入植地に着くと着手小屋の建設費用。生活用品や家具代。さらに、開墾・耕作の道具、灯火用石油、薬代その他、渡航費を除いても最低200円程度の移住資金を要したといいます。
開墾は、原生林との格闘から始まりました。巨木の原生林と鉄の網のように密生する熊笹。それをマサカリとノコギリ、鍬だけで片付けていかねばなりません。播種適期の遅れはそのまま食糧を失うことになるので、家族総出の激しい格闘が続けられました。
初年度で1町歩も開墾できれば上等とされていました。収穫を終えれば、自給用食糧を残してもいくらか収入が得られるのですが、とても翌年の生活費までは稼げず、薪炭の製造や出稼ぎ、山の労働などで副収入を得ながら再び苦しい開墾を続けるという生活でした。
5町歩の開墾に成功して、晴れて土地の付与を受けるのに、普通は4、5年かかります。それも順調な平年作に恵まれてのことであり、開墾中に洪水や冷害に見まわれ、土地を捨てて流亡する例も少なくなかったといいます。
「開墾は、それはもう厳しいものでした。木の根があり、石があり、支給された鍬は、すぐ歯がボロボロになり何の役にも立ちません。まず木を切り倒し、薪にして売りに出します。その後、根を掘り起こし、大きな根は火薬抜根でおこしていきます。樹齢100年以上と思われる桂の木や、楢の木が何のためらいもなく次々と薪にされていったのです。やっとの思いで拓いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ等を植えましたが、斜里岳下ろしの強風にあおられ、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶、外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらの動きを伺っています。(中略)卵を得るために飼ったニワトリは寒さのため卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃やして暖をとり、夜はおき火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵にして休みます。朝起きると、布団の衿が凍っていたり、ふぶきの日には、布団の上にも雪が白く積もっていまいます。もう少しましな家が欲しい、と皆さんに手伝ってもらい、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」
「家といっても、小さな拝小屋でした。板、柾、釘等何もないので、やちだもの木の皮をむき、ぶどう蔓でゆわえて屋根にし、熊笹とか松の枝をぶどう蔓で巻いて壁にし、床は土間でした。真ん中に炉が切ってあり、大きな丸太んぼを常時くべ、火種を絶やさないようにしていました。くべる木は、なら、いたや、しころ等で、おんこや松ははねるので使いませんでした。何にしろ、寝るところが笹の葉をしきつめ、ムシロをしいていましたので、火がはねると大変なのです。(中略)海水は命の水でした。浜へ遊びに行く時は、それぞれが一升びんやがんがんを持って行き、帰りには必ず海水をいっぱい入れて帰って来ました。塩、味噌、正油が手に入るまでは、この海水が唯一の調味料でした。」
「ストーブもなく、川辺に石を積み、かまどを作って天気の良い日には外で食事、雨天はやむなく家の中で、煙突もない、かまどなので煙が家の中にたちこもり、天窓はありましたが開けられず、飯川さんの仏像が燻製になるのではと思いました。雨もりにも悩まされ、濡れては困るものを抱えて、一晩中逃げ回ったこともたびたびでした。ランプもなく、作業用ガス燈が一つだけでしたから、海岸でトッカリ(アザラシ)を捕り、その油を貝殻に入れて灯しました。肉も大切な栄養源でした。初めは、浜から拾った貝殻を食器替わりにしていました」(以上斜里女性史をつくる会発行『語り継ぐ女の歴史』より)。
これらの手記は昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録ですが、昭和時代でさえ、開拓民は縄文時代さながらの暮らしを強いられたことが分かります。明治の開拓民の厳しさはおそらく今の私たちの想像をはるかに超えるものであったと思われます。
稲作の展開
現在、北海道の米の生産量は作付面積とともに全国1位の座を獲得しています。しかし、今日の姿を明治の時代、誰が予測しえたでしょうか。
明治4年、開拓使が招聘したトーマス・アンチセルは石狩地方の調査に際して稲作の無理を説き、理由として「灌漑の用いるところの河水にして寒冷なれば穂を出すに至らざるなり」と報告しています。ケプロンやクラーク博士も、北海道では稲作は無理であり、本州のような小規模農業技術では非効率なので、麦作を中心に家畜や器械力を使った大規模農業を提案し、食生活も米からパン、ミルクへと主張します。彼らの提案どおり稲作は禁止されました。しかし、米作りへの執着は外国人の建言程度で変わるはずもありません。
青森県とさほど気候条件の変わらぬ道南地方では幕末から米作りがなされていましたが、札幌より北ではほとんど不可能とされていました。この常識に不屈の魂をもって挑んだのが米作りの名人・中山久蔵なかやまきゅうぞうでした。
明治4年、札幌郡広島村島松(現・北広島市島松)に入植した久蔵は、道南で栽培されていた地米「赤毛」と「白髭」を持ち帰り、10aの水田を造りました。しかし、やはり川の水は手を切るように冷たく、久蔵は迂回水路を造ったり、風呂を持ち出して湯を沸かし温水を苗代に注いだりして試みました。気温の下がる夜には徹夜をして風呂水を入れ替えたといいます。この結果、明治6年、345kgという高収益を得ます。翌年は不作に終わるものの、諦めることなく血の滲むような努力で水田を拡大し続けました。
そして同10年の第一回内国博覧会に自作の米を出品。大久保利通内務卿より褒章をもらうという快挙を成し遂げます。その後、何度も品評会に出品し、そのつど表彰を受けるまでになりました。
試作の末、彼が品種改良した「石狩赤毛」100俵を開拓者に無償で配り、農村を訪ね歩いて稲作の指導に当たりました。久蔵とそれにつづいた人たちの成果を見て、道庁も後に稲作奨励に方針を転換することになります。
明治25年、第4代北海道長官として赴任した北垣国道は、東京農業大学教授兼農商務省技師で当時の米作りの権威であった酒匂常明(さこうつねあき)を道庁財務部長として招きます。酒匂は農学士・農芸化学士でしたが、ドイツ留学で土地改良を学び、帰国後「土地整理論(ほ場整備)」を書くなど、最も先進的な学者でした。彼は、稲作が北海道の開拓を進展させると考え、道庁の施策として米作りを奨励しました。米つくりの名人・中山久蔵を道庁の嘱託として各地の営農指導にあたらせています。
彼の功績で特筆されることは、直播栽培の普及でしょう。今のように機械もない時代では北海道の農地区画は広すぎました。彼は直播試験を指示し良好な成績を収めます。直播栽培は石狩、空知、上川など水田規模の大きいところでは急速に普及し、稲作普及の大きな要因を作りました。
酒匂が赴任した明治25年には全道で2,400haであった水田面積は、同36年には16,200haにまで拡大することになりました。
特種土壌
こう書くと、いかにも順調に稲作が進展していったかのように思えますが、北海道の耕地の多くは作物の生育には不向きな特殊土壌(泥炭土、重粘土、火山性土等)でした。したがって、こうした特殊土壌を避ける形で水田が広がっていったことになります。
「肥料をやらなくても、5年はもつ」と勧誘の文句にはありました。しかし、後で分かったことですが、肥料をやっても作物が育たない不良地が多くあり、開拓の重労働に加え、特殊土壌との闘いが待っていたのです。この困難な土地への対応はわが国の土性調査の基礎づくりに多大な貢献をなしたとされています。
泥炭地
泥炭とは、沼沢地や湖沼などの湿原植物の繁茂する湿地に集積した分解不完全な植物遺体の堆積物であり、ピートとよばれることもあります。湿地帯の植物などは、枯れても酸素不足となった条件下では微生物などの活動が抑制されるため、分解が完全には進まず、まだ植物の組織が肉眼で識別できる程度に腐朽した褐色の植物遺体が集積します。要するに枯れた植物たちがたまっていって、分解されずに炭化してできたところ。スポンジのようにフカフカで、水をたっぷり含んでいますが、乾くと沈下します。人の重みで地面がブヨブヨとゆれ、時に腰までぬかるんだりします。また急激に排水すると泥炭の分解を促進し、多量の窒素が無機化されるので窒素過剰の害の危険があるといわれています。
乾いた泥炭層へ火が入ると、容易には消えません。土の層そのものが燃えることになります。「畑が燃えることへの驚きと怖れ。消しても消しても、地の底から炎が立ち、主人と夢中で川からバケツで水を汲み、何十回、いや何百回も汲み、火を消しました。衣服も何も泥んこです。やっと火が完全に消えた頃、東の空が明るくなっていました。精も根も尽き果てて、ぼんやり二人で座って空を眺めていました。そんな畑ですから隣家から“いなきび”1斗2升もらって播きましたが、収穫は2斗、製粉したら2升になってしまったという信じられない話もあります。(中略)味噌を作るため、外のかまどで火を炊き、作業の後充分気をつけて火を消したはずでしたが、泥炭層に火が入ってしまい、家まで延焼してきて、焼けてしまいました」(前出『語り継ぐ女の歴史』より)。干ばつの年など、煙草の火で土の中が10日間も燃えつづけたと記録にあります。一度燃えた土は雨が降っても浸透せず、風が吹けば「パフパフと飛んでしまう畑」になったといいます。
重粘土層
重粘土は明確な定義ではありませんが、「粘土含量が高く、粘質でしかも組織の堅密な土壌をいい、透水性は著しく不良で降水量が多いと停滞水を生じて過湿状態となる反面、乾燥時には干ばつを招きやすく、土壌が強く固結して耕耘が困難になる。砂質または礫質土は粘土および腐植含量に乏しく、粒子のあらい土壌で、通水性、透水性が過度で、夏季には干ばつを受けやすい。有機物の分解消耗が著しく、土壌自体の養分が少ないほか肥料成分の吸着保持力が弱い。一般的な対応策としては土壌反応を適正にし、有機物施用による微量要素の補給を行う。」(平凡社『世界大百科事典』より)
戦後開拓民の凄まじい生活を描いた開高健の『ロビンソンの末裔』は、小説ながらルポルタージュに近い作品ですが、その一節にこうあります。「・・・土でいちばん負けるのは重粘土だね。これには負ける。酸性だとかアルカリ性だとかちゅう土はいいかげんひどくても、客土するね、暗渠切るね、金肥撒く。そうすりゃなんとか息を吹きかえすちゅうことがあるけど、この重粘土って奴ァ、もう、どだい、作物の根が入らんのじゃけれ、またたとい根が入ったとしても息ができんのじゃけれ。」
火山灰地
「不良火山灰土とはシラス、ボラ、アカホヤなど火山性の特殊土壌のほか、火山灰土壌の作物生産に対する一般的な不良性質をさす場合がある。火山灰土壌の不良性は、主としてアロフェンとよばれる非晶質の粘土鉱物と、特異な腐植とから構成されているためである。アロフェン中には陰性コロイドと結合していない遊離のアルミニウムが多量存在し、植物根に直接害を与えるほか、有効態リン酸と塩基が著しく欠乏した酸性土壌となっていることが多い。」(平凡社『世界大百科事典』より)。
「朱円の土地は有名な風害地帯で、春の桜の咲く頃は風害の時期で、毎年のように芋種はコロコロ土から飛び出し、豌豆葉根をつけたまま茎ごと吹き飛ばし、空の馬車がひっくり返るほど・・・。話をしても信じてもらえないほど強烈でした。ここは石原なので表土が飛ばされると、畑に石がむき出しになってしまうのです。悲しい思いで補植をしましたが、今は畑地も改良されて良くなりました。風対策にと、毎年、防風林を一生懸命植えました」(前出『語り継ぐ女の歴史』より)
巨木を切り倒し、熊笹を払い、ようやく畑らしくなってきて作物を植えると、強風のため種も根も、土煙とともに作物すべて吹き飛ばされてしまう。また、防風林を植え直さねばならなかったといいます。

これらの特殊土壌の改良は早くから実施されています。農事試験場が泥炭地の改良試験に本格的に取り組むようになったのは大正9年から。初期の試験は主として明渠によるもので、その深さや間隔と作物収量との関係を調べて施工法を決めようというものでした。作物は燕麦、小豆、馬鈴薯などが供試されました。なお、明渠によるほ場排水は、潰れ地が多い、農作業の障害になるなどの理由から一般にはあまり普及しませんでしたが、戦後の泥炭地開拓ではこの方法が補助対象とされ、広く実施されました。
暗渠排水に関する試験は、昭和8〜9年に粗朶、木管、木桶、泥炭投げ込み等の資材比較試験他、多くの試験が行なわれています。
不良土壌の改良において、排水と並んで有効な方法として客土があげられます。客土が国費補助による土地改良事業として登場するのは昭和の年代に入ってからですが、すでに元禄11年(1698)に厚岸で客土が行なわれたという記録も残っています 大正8年には美唄に泥炭地試験地を開設するなど、さまざまな泥炭地で試験が行なわれてきました。北海道開拓の歴史は、土壌改良の歴史でもありました。
移民の進展と大農場の形成
明治の北海道開拓には、士族授産の目的もあったことはすでに述べました。とりわけ、戊辰戦争で敗戦となった東北諸藩は賊軍として扱われたため、会津藩の下北半島への減封に代表されるように、新政府は厳しい処分を下しました。これらの藩の士族は極度に窮乏します。
明治2年、伊達藩では藩主自ら移住地(現在の伊達市)を視察し、翌3年に家臣団とその家族220名が移住。支藩の白石藩もこれに続いて、現在の札幌市白石区に移住します。
また、廃藩置県(明治4年)、地租改正(同6年)によって財政的基盤を失った旧藩では士族の救済のために多くの藩が北海道への移住を行っています。石川藩は室蘭、佐賀藩は釧路、明治8年には尾張藩の徳川氏が八雲町に入植。会津士族(余市)、稲田士族(静内)などに続いて前田藩・毛利藩なども士族授産による大農場の建設を行いました。
さらに、同19年、北海道庁の設置とともに本格的な開発計画が推し進められると、函館の開進社、帯広の晩成社、札幌の開成社、江別野幌の北越植民社、浦河の赤心社といった会社・結社組織による移住が増えてきます。その後は、個人による移住が増え、東北・北陸・四国の各地方から、年間数万人もの移住者が渡航してくるようになりました。
明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられます。公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに払下げを受けて創立されたものですが、その後、蜂須賀農業となり、耕作面積は4000haを誇るまでになりました。蜂須賀氏は小作経営に変更する一方、私費を投じて、かんがい用水工事を行い、雨竜開拓の基礎を築きました。
さらに、明治30年の「北海道国有未開地処分法」は、本州の資本家に100万ha以上の大面積を無償で提供するというもので、成功の検査も曖昧なものでした。「開墾もしくは植樹に供せんとする土地は無償にて貸付し、全部成功の後、無償にて付与」するというもので、一人に対する面積も開墾用としては500町歩、牧畜用には833町歩、植樹には666町歩と大きなものでした。多分に投機目的で貸付を受けたものも多く、処分面積の大きさの割には未開地を残していました。この結果、大農場の建設が相次ぐこととなり、北海道の不在巨大地主制を決定づけることにもなりました。明治末には全国一の小作地帯になってしまい、多くの小作争議を生むことになります。
このあたりの状況は、小林多喜二の小説『不在地主』に詳しく描かれています。多くの不在地主が無償で得た土地を小作人に売り逃げする中で、作家でありキリスト教徒であった有島武郎は父から譲り受けた有島農場(ニセコ町)を無料で開放しています。
明治型開発の終焉
明治期における北海道開発の特徴は、資源略奪型の開発であったと言えるでしょう。水田が拡張していく一方で、丘陵地の畑では養分の収奪と土壌の浸食による荒廃が増えてきました。肥料もやらない略奪的農業により、地力の衰えが農地としての維持が困難になってきたのです。畑は有機物の分解が早く、栄養分は作物に吸収される一方で、雨水とともに流亡しやすい傾向があります。地道な土づくりを怠って収穫を続ければ、地力が減退し、やがて不毛の地と化します。略奪的な土地利用は、古代文明衰退における大きな要因のひとつと考えられています。こうした事態を避けるために、外国の畑作地帯では古くからそれぞれの国に応じた土地利用、農法が発達してきた。しかし、日本では畑作を主体とした大規模な土地利用型農業は未熟であり、(耕地が狭いこともあって)畜力の利用すら未発達でした。土地利用とは、人間と土地(環境)との相互関係性とも言えます。開拓者は当初、圧倒的な自然の営みの前に叩きのめされました。しかし、人間が増え、人力でそれを制御できる段階になると、今度は自然に対して無制限な収奪を続けるようになります。そして歳月を経て、再び土地(環境)から強烈なしっぺ返しを受ける。また、開拓事業によって森林の伐採、原野の開墾が進むと、河川の決壊が増えてきました。移民は大正9年をピークとして減少しはじめます。
明治33年に樹立された「北海道10年計画」は日露戦争で空中分解します。明治43年からの第1期拓殖計画(10年計画)では、当初の予算の3倍という巨額の費用を投入しますが土木事業中心の施策から産業施設へと重点が移ってきました。大正半ばから移民は減少して反対に北海道を離れる者が増加し、日露戦争後南樺太への移住が目立つようになってきます。続く昭和2年からの第2期拓殖計画(20年計画)では、農耕地158万haの開墾、移民197万人を目指して人口600万人を目標としますが、前半は恐慌と冷害凶作の連続、後半は戦争にまきこまれて空中分解することになりました。
第2次世界大戦敗戦により、樺太、千島、満州からの引揚者、さらに東京大空襲の罹災者たちが、北海道に移住します。これらの移民は集団帰農者と呼ばれるようになり、昭和20年7月から11月までに約1万7千人が入植していますが、土地の条件も悪く、農業経験の乏しさ、携行資金の少なさもあって定着率も悪かったようです。
昭和25年に北海道開発法が制定され、北海道開発庁が発足。総合開発の対象として北海道が再度見直されることになり、日本再生のため、北海道開発は国が行うようになりました。翌年、北海道開発局が設置。昭和27年からの北海道開発計画第1次5カ年計画。続いて昭和33年からの第2次5ヵ年計画を実施。開拓農政は一般農政の中に移行していくことになります。

さて、以上、簡単ながら北海道開拓の歴史を述べてきました。明治維新前後の北海道人口は、アイヌが2万人前後、和人が10万人前後と推定されています。現在では人口562万人余り(平成18年)。戦後の開拓も効果をあげましたが、やはり北海道の開拓は明治維新後の約半世紀でその骨格が出来上がったと見るべきでしょう。なによりも開拓者の血の滲むような格闘こそが現在の北海道を築いたといっても過言ではありません。
不毛の原野をわずか130年の短期間で一国にも匹敵する素晴らしい地域に造りあげたことは、世界的にも例がないとも言われています。日本が2千年かかつて創りあげてきた農業の歴史を、わずか百年そこそこで駆け抜けたとも言えます。 圧倒的な自然の営み、あらゆる辛酸を乗り越えてきた開拓者魂、そして、農業土木というわが国独自の技術体系。それらの見事な結実が、生産量日本一の水田とともに世界に誇るべきこの美しい北海道の田園風景を生んだと言えるのではないでしょうか。 
 

 

明治維新
明治維新1

 

江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制の転換とそれに伴う一連の改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。
改革までの経緯
明治維新は、黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つ。阿片戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、長年の国是であった鎖国体制を極力維持し、旧来の体制を維持しようとする思想が現れた。しかし江戸幕府は、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を選択したため、攘夷運動は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として広く展開されることとなった。
一方、開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、幕末は京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。 尊王攘夷運動は、薩英戦争や下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内統一・体制改革(近代化)を優先して、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。
幕府は、公武合体政策のもと朝廷の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を志向したため、次第に雄藩らの離反を招いた。また、黒船来航以来の威信の凋落もあって国内の統合力を著しく低下させ、幕末は農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩・越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、幕府を廃し、朝廷のもとに権力を一元化する国内改革構想が現れてくることとなる。また、それは旧弊な朝廷の抜本的な改革を伴う必要があった。結果として、この両者の協力により王政復古が行われ、戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立した新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。
改革の時期
開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1872年)、西南戦争の終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。
この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権)を特に明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)などと呼称することが多い。「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して御一新と呼ばれていた。
改革の理念
五箇条の御誓文
江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。
その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。
これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。
また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。
五榜の掲示
五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の高札が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「五榜の掲示」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策のなかで撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。
改革の組織
中央政府
首都の位置
首都については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→東京奠都の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。
行政
形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた。
王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行された。総裁には有栖川宮親王、議定には皇族・公卿と薩摩・長州・土佐・越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、明治天皇はまだ年少であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。
そこで、慶応4年閏4月21日、政体書の公布により、太政官を中心に三権分立制をとる太政官制(七官制、政体書体制)が採られ、さらに翌年(明治2年)7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足した。なお、明治2年の主な組織(一部のみ)と役職者はつぎのとおりである。
1. 輔相(三条実美)
2. 議定(岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正)
3. 参与(東久世通禧、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助)
そして、明治4年7月の廃藩置県の後には正院・左院・右院による三院制がとられた。
具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省への改組など幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。
立法
また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。しかし、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、明治14年(1881年)に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制国家が完成した。
司法
まず、明治元年に太政官の下に刑法官がおかれ、その後の太政官制の変遷にともない、刑部省、ついで司法省がおかれ、司法省に大審院が設置された。
宮中
廃藩置県と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行われ、旧来の宮中職や女官は廃され、士族を中心とした侍従らが明治天皇を武断的な改革君主にふさわしい天皇に養育することとなった。幕末期には病弱であった明治天皇も、士族による養育のためか健康も回復し、西洋的立憲君主としての心得も学び、「明治国家」の元首としてふさわしい存在になっていく。特に憲法制定過程における枢密院審議においては、そのすべてに臨御し、また国会開設前後の立憲政治未成熟期に首相が頻繁に辞任・交代した際も、政局の調停者として重要な役割を担った。
地方行政
明治新政府は、幕府から受け継いだ天領と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し、京都・長崎・函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。
まず、明治2年1月20日に薩摩・長州・土佐・肥前の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落むかえると、全藩に版籍奉還を命じた。この版籍奉還により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。
しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年旧7月14日(1871年8月29日)に、薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と木戸孝允らにより廃藩置県が実施され、府県制度となり(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。
薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇跡とも言える。
なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年(1879年)に沖縄県として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に琉球処分と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。
改革の内容
岩倉使節団の影響
1871年12月23日から1873年9月13日にかけて維新政府は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度を研究するため岩倉具視を正使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団を欧米へ派遣した。使節団は条約改正には失敗するものの、西洋の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の維新の動きに大きな影響を与えた。一方、日本国内においては「留守政府」と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの手によって、次々と改革は進んでいった。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。
改革された諸制度
留守政府が行った主な改革としては、学制改革、地租改正、徴兵令、グレゴリオ暦の採用、司法制度の整備、断髪令などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論につながったとも言われる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が明治六年政変によって征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。
軍隊
徴兵令を導入し、近代的な常備軍を最初に作ろうとしたのは大村益次郎であったが、彼が暗殺されてしまったため、山縣有朋に引き継がれた。明治3年、徴兵規則がつくられ、翌年の明治4年に廃藩により兵部省が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、陸軍省と海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。
身分制度
江戸幕府下の武士・百姓・町人(いわゆる士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳った。しかし、明治4年に制定された戸籍法に基づき翌年に編纂された壬申戸籍では、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、旧公家・大名や一部僧侶などを新たに華族として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。華族と士族には政府から家禄が与えられ、明治9年の秩禄処分まで支給された。同年、廃刀令が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱)につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の士族反乱であった西南戦争が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。
経済産業
維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの年貢は収量を基本とする物納が基本であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には田畑永代売買禁止令が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に地租改正条例が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に地券が発行されることとなって、所有する土地に対し地租が課せられることとなった。これにより、土地の所有権がはじめて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有財産権が完全に確立することで資本主義の発展の基礎条件が成立した。
富国強兵・殖産興業のスローガンの下、工部省(のちに内務省)が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。富岡製糸場をはじめとする官営模範工場が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、1880年には「官営工場払下概則」が制定され、造幣局や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから産業革命が進行し、工業化が進展していくこととなった。
金融制度でも旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」を導入(明治4年(1871年)。新貨条例を参照)、また国立銀行条例による国立銀行(ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。
流通分野では、1871年には前島密によって郵便制度が創設され、1872年には新橋駅から横浜駅間において日本初の鉄道が開通し、電信網の整備や船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。
思想
幕末から活発になっていた佐久間象山などの「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が行われ、横井小楠の実学から物理を中核とする福澤諭吉の文明論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、文明開化の動きが加速する。
明治新政府は国民生活と思想の近代化もすすめ、具体的には、福澤諭吉・森有礼・西周・西村茂樹・加藤弘之らによる明六社の結成と『明六雑誌』、福沢諭吉の『学問のすすめ』や中村正直の『西国立志編』『自由之理』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また土佐藩の自由民権運動の動きと連動して中江兆民や植木枝盛、馬場辰猪といった革新的な勢力と、佐々木高行、元田永孚、井上毅、品川弥二郎といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。
教育機関の整備では始めは大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道・渡辺重石丸らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の蘭学塾や漢学塾、それに幕府自身が造った洋学教育機関である開成所や蕃書調所が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。
維新まで松前藩による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの蝦夷地から北海道と改名し、同年開拓使が置かれて、積極的な開発が進められた。北海道の札幌農学校や、三田育種所など、各種の学校や研究所があいついで設置された。このように、ありとあらゆるインフラが整備されていった。
宗教
宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月 (旧暦)には神仏分離令が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向かった。
また、キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。
慶応4年4月21日、勅命により湊川神社に楠木正成を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房、北畠顕家ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。
明治2年(1869年)12月7日には、キリスト教信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令が各国の非難を浴びて、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わった事から、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。
神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、宗教界や一般民衆からも「邪宗門」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。
法律
明治初期の日本は、不平等条約撤廃という外交上の目的もあり、民法、刑法、商法などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であった。そこで、日本は、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆるお雇い外国人としてフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを起用するなどし、フランス法及びドイツ法を基礎に、日本特有の慣習や国情にも配慮しつつ、法典の整備を進めた。刑法は1880年(明治13年)に制定、2年後に施行され、民法は1896年(明治29年)に制定、1898年(明治31年)に施行された。日本は、アジアで初めて近代法の整備に成功した国となり、不平等条約の撤廃も実現したが、近年グローバル化の進展の中で、アジア各国が日本に法整備支援を求めていることには、このような歴史的背景があるとも言われている。
文化
新時代「明治」の雰囲気が醸成されていき、人力車や馬車の普及、鉄道の開通、シルクハット・燕尾服・革靴・こうもり傘などの洋装やザンギリ頭、パン・牛乳・牛鍋・ビールなど洋食の流行、ガス灯の設置や煉瓦造りの西洋建築などである。
自由民権運動がしだいに活発となり、徳富蘇峰が平民主義と欧化主義を唱え、民友社の設立し、『国民之友』を創刊し、それに対して三宅雪嶺は国粋保存主義を唱えて政教社を設立し『日本人』を発刊、志賀重昂らが参加した。陸羯南は日刊新聞『日本』で国民主義を唱え、近代俳句の祖である正岡子規らが記者を務めた。
この『日本』のような新聞が、徐々にさまざまな人々によって発刊されていくことになる。民間新聞のはじめは幕末に創刊された浜田彦蔵の『海外新聞』であり、沼間守一の『横浜毎日新聞』、福地源一郎の『東京日日新聞』、栗本鋤雲の『郵便報知新聞』、末広重恭の『朝野新聞』などがつづく。
教育
それまでは各藩ごとに独自の教育制度があったが、地域差が大きく、与えられる教育も異なっていた。それまでの教育では身分等で分けられており、学校教育の偏りが一部存在していた。 明治になり、政府は日本を強国にするためには、西洋のような一般国民にまで広く門戸を開いた、全国一律の教育制度が必要との認識に立ち、義務教育が開始された。
1872年(明治5年)に学制が公布され、1886年(明治19年)には小学校令や帝国大学令が発布された結果、全国に尋常小学校や高等小学校、大学が設立され、徐々に一般民衆も高度な教育を受けられる環境が整った。
また、明治になると女子教育の必要性も叫ばれるようになった。特に海外渡航の経験があって、欧米の女子教育を目の当たりにした渋沢栄一や伊藤博文たちは、その必要性を痛感しており、彼らによって女子教育奨励会が設立された。同じく女子教育に理解のあった黒田清隆は、欧米に10年単位の長期間、留学生を海外に派遣する岩倉使節団に、女子留学生も加えさせた。この時の留学生、永井しげ、津田うめ(後に津田塾大学の関係者となる)、大山捨松は、日本の女子教育に大きな功績を残すこととなる。
1874年(明治7年)に女子師範学校が設立された。女子への教育は、老若男女を問わず、学問に対する批評が根強かったため、男子への教育に比べるとその歩みは遅々としていた。しかし、徐々に女性への教育の必要性は広く浸透していき、女子も義務教育、高等教育を受けられるようになっていった。
外交政策
新政府にとって、最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、まだ時期尚早であった。そのため、欧化政策など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀におよぶ不断の努力を必要とした(→条約改正)。
一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。清との間には明治4年(1871年)対等条約である日清修好条規が締結される。明治7年(1874年)には台湾における宮古島民殺害事件をきっかけに台湾出兵が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。
李氏朝鮮との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年(1873年)には政府を二分する論争(いわゆる征韓論)となったが、明治8年(1875年)に起きた江華島事件を契機として日朝修好条規(江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。
琉球に対しては、明治5年に琉球藩を設置し、明治12年には琉球処分が行われる。
また、ロシア帝国との間では明治8年(1875年)に、千島樺太交換条約が締結され、それまで日露雑居地とされた樺太および千島列島における日露国境が確定した。
改革の結果
明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争・日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている。
朝鮮における壬午事変・甲申政変や清における戊戌の変法やオスマン帝国におけるタンジマートの失敗、長続きしなかったイランのイラン立憲革命やロシア帝国のヴィッテ改革・ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については金玉均など、清の改革については光緒帝、黄遵憲なども参照)。
一定の成功を収めた例としては、パラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイのチャクリー改革、トルコのアタテュルク主義、エジプトのエジプト革命、メキシコのベニート・フアレス改革が挙げられる。
日本は明治維新によって列強と化した事により、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは朝鮮や中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、オランダなどのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。
一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文やスカルノ、マハティール・ビン・モハマドや毛沢東をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。エジプトの初代大統領ナセルは『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している。
エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「有司専制」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破たんと植民地化を招いたことが指摘されている。
一方エジプト革命から半世紀以上前にオラービー革命を起こしたアフマド・オラービーは、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は生糸しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場である清の付属品、あるいは太平洋進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、スエズ運河を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという。 
 
明治維新2

 

1、明治維新の意味
明治維新は、しばしば世界史上の大快挙だと言われる。すなわち、鎖国によって西欧から300年以上も遅れていた日本を、わずか数十年でキャッチアップさせた大革命だというのである。もしもその通りなら、確かに世界史上の大快挙であろう。しかし、本当にそうだろうか?
この議論の基本的前提として、「徳川時代の日本は、世界的に見て貧しく劣等な後進国であった」という事がある。しかし、この前提は間違いである。
確かに、徳川時代の日本では戦争が無かったために軍事技術や造船技術などは育たなかった。しかし、それ以外の点では、必ずしも西欧に劣っていたわけではないのである。江戸は世界最大の人口を擁する一大文化都市だったし、飛脚などの通信網は完璧に機能していたし、都市部の上水道は世界に誇れるものだったし、しかも学問の発達によって民間の識字率は世界最高水準だったのだ。また、商業資本の発展は農村周辺に緊密な家内制手工業を整備しており、すでに産業革命の下地が出来ていたのである。明治政府は、これらの基盤をそのまま利用したのに過ぎない。
明治政府が行った重要な改革とは、西欧文化を導入し(憲法の制定、議会制度の導入、近代的常備軍の育成、太陽暦の採用、学校制度の普及、鉄道の施設、ついでに洋服、牛鍋、カレーライス、ざんぎり頭、ダンスパーティーの導入)、身分制度を打破し、廃藩置県を実施したことである。つまり、日本の国体を「近代的封建国家」から「西欧型の帝国主義国家」に改造したという話なのだ。必ずしも300年分の遅れを一気に取り戻したわけではないのである。もちろん、改造事業だけでも物凄い快挙であったわけだが。
明治政府が、これほど激しい改革に挑戦できた背景は、何といっても国家全体を覆いつくす「恐怖」という名の暗雲であった。この当時、西欧列強の世界征服の野望はますます激しさを増していた。特に、あのインドと中国が、列強の実質的な植民地にされてしまったことは、日本人に最大の衝撃を与えた。なにしろ、長い日本の歴史の中で、インドと中国は文明の「お手本」であったわけだが、その「お手本」が西欧文明に無残に敗れ去り搾取を受けている情勢は、「次は我々の番かも」という痛切な恐怖をもたらしたのである。明治政府の過激な改革が、国内の保守勢力に比較的スムーズに受け入れられた理由は、こうした深刻な恐怖感のおかげであった。
江戸幕府は、本質的に官僚的な組織であったから、こうした危機的な情勢を知りながら「問題先送り」をダラダラと続けていた。そういう意味では、薩長の若者たちが幕府を倒してこれに取って代わったのは大正解であった。また、江戸幕府が欧米と取り交わした「不平等条約」によって日本経済は塗炭の苦しみにあったから、これを改善するのが新政府に期待された急務であった。
明治政府は、西欧列強の侵略に対抗し、さらに不平等条約を改正させるための解決策を必死に考えた。そして得られた結論は、「自らが西欧列強の仲間入り」をすることであった。
論者の中には、これを指して「無節操」と非難する者がいる。かつて攘夷を唱えた連中が、政権を握ってから変節したというのだ。でも、それはたいへんな間違いだ。かつての維新の志士たちは、日本を列強の侵略から守るために攘夷を唱え、そして薩英戦争などで無残に敗北した。それを反省した彼らは、まずは西欧列強の軍事力を盗み取り、その後で攘夷を再開しようと考えたのである。その攘夷が実現したのが、すなわち日露戦争や太平洋戦争であった。つまり、志士たちは攘夷を捨てたのではなく、攘夷のやり方を変えたのだ。「日本を列強の魔手から守る」というコンセプト自体は、ここではまったく変わっていないのだ。彼らは、まずは西欧から「学ぶ」ことに特化したのである。
2、国体の大改造
明治政府は、まずは国体を西欧型に改良しようと考えた。
倒幕維新の成り行き上、「天皇を中心とした一元的国家」にするという基本コンセプトは既に決まっている。後は、これをどのように具体化するかが問題だった。
西欧を視察した新政府の要人たちは、イギリスの議会政治に着目した。彼らは、天皇をイギリス国王と同様の象徴的な地位に置き、実質的な国政は議会が行うこととしたのだ。そして議会は、国家の基本理念としての「憲法」に拘束される。すなわち、彼らは「立憲君主制度」を始めたのである。ここで重要なのは、新政府の天皇は、かつて後醍醐天皇が目指したような帝国主義国家の独裁者ではないという点である。天皇は、あくまでも議会に従属するのである。その議会を構成するのは、薩長の要人を中心とした議員たちであるから、彼らとしては天皇を飾り物にした方が、仕事がやり易くて好都合なのであった。
こうして制定された新たな国号は「大日本帝国」。その基本理念である「大日本帝国憲法」は、明治二十二年(1889年)に紆余曲折の末、発布された。
実は、日本には以前から憲法が存在した。すなわち「養老律令」である(718年制定)。しかし、公地公民制を前提としたこの憲法は、発布されて間もなく死文と化した。日本という国のおかしなところは、法令の本則を改訂したり変更するのを嫌う点である。死文化した「養老律令」は、それから1千年以上も「ほったらかし」であった。その間、鎌倉幕府の「御成敗式目」や室町幕府の「建武式目」、そして江戸幕府の「諸法度」といった様々な「通達」が憲法の代わりにこの国を統治していたのである。法令よりも通達の方が実効を持つというこの国の体質は、今に始まった話じゃないわけだ。これも、多神教ならではの大らかさといえば聞こえは良いが、日本人はあまり法を重視する民族ではないのである。
ともあれ、議会制度と憲法の発布によって、明治日本は、形の上ではイギリスみたいな国に変身できたというわけである。
ところで、行政面では、明治政府は江戸幕府の遺産を大いに活用した。幕府が遺した機構や仕組みは「保守的で官僚的」という欠点を除けばなかなか優秀であったから、使えるものはそのまま利用したのである。例えば、新政府の首都を江戸(東京)に定めたのは、幕府の中央官僚機構をそのまま利用しようという目論見があったからだ。
ただし、江戸幕府の基本コンセプトであった「鎖国」と「幕藩体制」は、抜本的な改正が必要であった。このうち、既に「鎖国」は崩れ去っているから、問題は「幕藩体制」である。
明治政府は、大名からその領土を取り上げて日本政府の直轄とした。これが「版籍奉還」である。公地公民制は、じつに1千年ぶりに復活したのであった。かつて後醍醐天皇が試みて大失敗に終わったこの改革が簡単に成功した理由は、前述のように「西欧列強の侵略の恐怖」のためだろう。大名たちは、もはや既得権益に固執していられる場合でないことを知っていたのである。彼らは、日本という国のために、一丸となって近代的な中央集権国家を樹立したいと願ったのである。もちろん、旧大名の中には華族になったり県知事になった者が多かったので、彼らもそれなりの見返りを得られたわけだが。
また、江戸幕府のコンセプトであった「士農工商」も廃絶された。身分差別は否定され、「四民平等」の社会になったのである。しかし、最下層民であった「えた」や「非人」に対する差別意識は払底できず、これは「部落問題」として今日まで継続している。
さて、「四民平等」によって最も大ダメージを受けたのは、特権階級の武士(士族)であった。士族の中でも、幕府中枢にいたエリート層はそのまま新政府に吸い上げられて重用されたのだが、それ以外の多くの者はサラリーを絶たれ、「ただの人」になってしまったのだ。彼らはもともと、先祖代々「官僚」であったから、世間のことなど何も知らないのである。仕方なしに慣れない商売を始め、大失敗する事例が相次いだ。いわゆる「士族の商法」である。そんな彼らの不満は、やがて戦乱の火種となる。
3、西欧文明の導入
当時の日本人は、西欧列強の仲間入りを果たすためには、国体だけでなく文明も西欧化しなければならないと考えた。
まずは、暦を西洋風の「太陽暦」に改めた(1872年)。それまでの日本は、中国から導入した「太陰暦」を用いていたのである。西洋化の第一歩は、暦からであった。
日本人は、それまで仏教の禁忌によって動物の肉を食べなかった。しかし、「文明開化」の美名のもとに、牛肉や豚肉を喜んで食べるようになったのである。その結果、牛鍋やライスカレーが食卓を賑わすことになった。いい加減といえば実にいい加減である。信心深いイスラム教徒やヒンズー教徒がこの事実を知ったら、きっと眉をしかめることだろう。
また、ファッションも様変わりした。人々は「髷(まげ)」を落とし、総髪(ざんぎり頭)になり、洋服を好んで着るようになった。男性はネクタイを締め、女性は下着をつけるようになった。建築物も、西欧様式が目立つようになった。無節操な気もするが、さすがは多神教ゆえの大らかさと言うべきだろう。
日本は、260年ぶりにキリスト教を公認した。その反動であろうか、この当時、日本にやって来た西欧人は、厳格な教育を受けキリスト教的価値観にこり固まった者が多かったようだ。彼らは、道徳について勝手な価値観であれこれうるさいことを言い、そして従順な日本人はその言いなりになる場合が多かった。例えば、男女間の風紀がうるさく指摘されたため、銭湯での混浴の習慣は無くなり、女性の処女性が重んじられるようになった。なんだか、「大きなお世話」という気がするが。
そういえば、「夫婦同姓」になったのは、実はこの時代からである。それまでの日本人は、庶民はそもそも姓を持たなかったが、武士や貴族の世界では「夫婦別姓」が当たり前だった。例えば、源頼朝夫人は北条政子、足利義政夫人は日野富子と実家の姓を名乗っていた。これは、中国がそうだからであろう。しかし、明治に入って西欧人に叱られたため、彼らの価値観に合わせて「夫婦同姓」になったのである。しかし、そこまで白人に媚を売る必要は無かったのではなかろうか?今日の日本では、ようやく夫婦別姓が議論されているようだが、筆者は原則的にこれに賛成である。日本は、伝統的に夫婦別姓だったのだから、元に戻すのはむしろ当然という気がする。白人の顔色を窺ってペコペコするのは、いい加減にやめたらどうだろうか?
話を明治に戻すと、井上馨などという政治家は、白人に媚を売ることで不平等条約を改正できると思い込んでいたらしい。彼は、鹿鳴館というダンスホールを作り、ここに白人を招いてパーティー三昧の日々であった。でも、そのような政策で条約改正できるほど、世間は甘くなかったのである。不平等条約の完全撤廃は、日露戦争の勝利の日を待たなければならなかった。
こうして見ると、当時の日本はすごく情けない状態だったようだが、意外と、文化的には西欧諸国の賞賛を浴びる存在であった。日本画や骨董品や庭園様式などは、ヨーロッパの文化に極めて大きな影響をもたらした。アールヌーボーなどがその好例である。また、日本を訪れた西欧人の中には、日本人の清潔さや礼儀正しさや優しさに深い感銘を受ける者が多かった。日本人は、近代技術はともかく、道徳や文化では決して西欧に負けていなかったのである。
そして、市井の文化人の中には、急激な西欧化を嘆く者も多かった。彼らは、この国が外見では西欧化しても、心だけは本来の美しさを残して欲しいと強く願ったのだ。すなわち「和魂洋才」である。正岡子規や夏目漱石らは、そういった思いを込めて優れた文学を書き残した。
今日の日本では、そんな彼らの奮闘はまったく忘れ去られている。
4、富国強兵
ともあれ、新しい文明の導入によって、都市部はハイカラになり華やかさを増した。しかし、不平等な関税条約によって経済事情は日増しに悪化し、農村部では江戸時代を懐かしむ声も出始めた。だが、明治政府は彼らの怨嗟の声を押さえつけ、なおも改革路線を邁進するしかなかった。日本を西欧に負けない強国に改造しなければ、より多くの苦難がこの国を覆うことになるだろう。明治政府は、この恐怖感を国民と分かち合ったのである。また、日本が「万世一系の天皇家を仰ぐ世界でも類例を見ない伝統ある国」であることを強調し、国民の愛国心と誇りを鼓舞したのであった。
新政府は、宗教を用いて民衆をコントロールしようと考えた。すなわち「廃仏毀釈」である。政府は仏教を弾圧し、そして伝統的な神道を強化したのだ。この当時、新たな神社が日本全国に出来た。日本史上の英雄は、片端から「神様」として神社に祀られたのだ。例えば、吉田松陰は松陰神社、楠木正成は湊川神社、菊池一族は菊池神社の祭神となった。明治天皇も東郷平八郎も、死んでから神様にされた(明治神宮、東郷神社)。戦死者は、靖国神社でまとめて神様になった。日本全国どこもかしこも神様で溢れかえったのである。日本の庶民は、こうした神々に囲まれて愛国心を燃やし、生活の苦しさに耐えながら必死に働いたのである。
そして、「富国強兵政策」は、こういった国民の愛国心を前提としていた。
国体の改造も西欧文明の導入も、実はこの政策の前提作りであったと言える。
地租改正は、全ての庶民から満遍なく税を取り立てるため。
学校制度の普及は、画一的教育によって未来の愛国心あふれる兵士を作るため。
全国民に姓名をつけて戸籍制度を導入したのは、徴兵制の施行のため。
鉄道などの最新技術を敷衍したのは、近代工業を根付かせるため。
こうして、日本に近代機械工業と近代的野戦軍が誕生した。酪農や牧畜の技術も急速に進歩した。日本人は、西欧から高給で招いた教官たちから熱心に学んだため、もともと潜在的能力を秘めていた近代化は、みるみるうちに進んだのである。
その一方で、日本は西欧から多額の借金をして海防力を高めた。最初のうちは、主要な港湾に巨大な大砲を据えつけたのだが、そのうち、それだけでは不十分だと気づき、造船技術を磨くとともにイギリスなどから軍艦を購入した。こうした分野では、徳川300年の安泰が仇となった。日本人は、海防と軍艦について、一から学ぶしかなかったのである。
こうした高価な大砲や軍艦を買うための財源は、貿易によって賄った。当時の日本が世界に輸出できた品目は、生糸と銅のみである。工場や鉱山で、庶民たちは必死に働いた。紡績工場では栄養状態が極端に悪い上に異常な重労働を強制され、「女工哀史」などの悲劇が生まれた。足尾銅山などでは深刻な公害問題が起きた。それなのに、不平等な関税条約のせいで、これらの血まみれの製品は外国に安く買い叩かれたのであった。しかし、こうした庶民たちの犠牲的な働きこそが、日本の躍進を助ける重要な原動力となったのである。我々は、彼らに心からの感謝を捧げなければならない。
5、大リストラ
政治の世界に目を向けると、明治新政府の閣僚は、倒幕維新で功績を挙げた諸藩の寄り合い所帯であった。その主流は薩摩、長州、土佐(高知県)、肥前(佐賀県と長崎県)の出身者たちであったが、岩倉具視や三条実美などのお公家さんも顔ぶれに加わっていた。
政界では、それなりに派閥闘争があったが、最も重大な事態をもたらしたのは、「征韓論」についての論争である。西郷隆盛や板垣退助らは、朝鮮半島の情勢に目を向けて、この国を日本と同様に近代化させる熱意を燃やした。もしも朝鮮がそれを拒むなら、一戦しても構わないというのである。しかし、西郷の幼馴染であった大久保利通らは、征韓論に反対であった。彼らは、まずは国内の改革に注力するべきであって、海外のことは後回しにすることを主張したのである。
結局、西郷ら征韓論派は政争に敗れ、そして官を辞して野に下った(1873年)。西郷隆盛という人は、基本的に革命家気質の冒険家であった。戊辰戦争のときに、最も徳川家に対して攻撃的だったのは彼であった。そして明治政府は、このような過激な人物を必要としていなかったのだ。
政争に破れて野に下った実力者たちは、しかし意外な運命にさらされた。リストラされた不平士族たちによって、反乱の神輿として担ぎ上げられてしまったのである。前述のように、新政府によって全ての特権を剥奪された武士たちは、新しい時代に順応することが出来ずに暗い怒りを研ぎ澄ませていた。徳川時代初期の「浪人」と同じ境遇に陥ったのである。そんな彼らは、次々に武装蜂起した。佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、萩の乱と続き、ついに鹿児島で最大の反乱が起きた。その総大将に担がれたのは、他ならぬ西郷隆盛。西南戦争の勃発である(1877年)。
東京の大久保利通は、容赦しなかった。直ちに、編成終わった近代的野戦軍を出動させたのである。彼は、幼馴染の西郷ごと、旧時代の残骸を一掃する決意であった。西郷軍は、熊本城で破れ、田原坂で破れ、ついに鹿児島まで押し返された。西郷は、最後まで奮闘して城山で散った。
無慈悲なことだが、これは近代日本にとって避けられない産みの苦しみだったのだろう。政治というものは、しばしば残酷でなければならない。
勝者となった大久保利通も、東京で不平士族の残党に暗殺された(1878年)。
これも、近代日本の悲しいドラマであった。
6、明治政府の実態
明治維新は、しばしば過大評価される傾向がある。その理由は、やはり司馬遼太郎などの大衆作家が、好んで小説のテーマに採り上げて美化したからであろう。その結果、「維新の志士たちはみな優秀だったのに若死にした。彼らが長生きして政権の中枢を担っていれば、日本はもっとマシな国になっていた」という神話が誕生したのである。
確かに、吉田松陰、佐久間象山、藤田東湖、橋本左内、高杉晋作、武市瑞山、坂本竜馬、中岡慎太郎らは、道半ばにして横死した。しかし、彼らが生き延びたとしても、日本の状況は大して変わらなかったと思う。例えば、志士の生き残りである木戸孝允(桂小五郎)は、新政府の閣僚になったものの、たいした仕事もせずに病死している。また、西郷隆盛は「負け組」となって敗死している。乱世の革命闘士は、高度に官僚化された近代国家の中では、必ずしもその能力を発揮出来ないのである。その点では、新政府樹立後に、閣僚にならず貿易商人になろうと考えていた坂本竜馬は、鋭い見識の持ち主であったと思う。彼は、暗殺を免れることが出来たなら、起業家として五代友厚や岩崎弥太郎に負けないくらいの働きを見せていたかもしれない。
ところで、明治新政府を担った政治家の中で最も重要な役割を果たした人物は、大久保利通であったろう。彼は、新生日本の改革を円滑に進めるための鍵を的確に見出したのである。すなわち、「官僚統制」である。
前述のように、明治政府は江戸幕府の全てを否定したわけではない。むしろ、江戸幕府が築き上げた「高度官僚統制システム」を承継し、これをそのまま利用したのであった。そして、この路線を強力に推進したのが大久保利通だったのである。
少々ややこしいのだが、明治政府は日本の国体をイギリス型の「立憲君主国」に変えた。天皇を擁立する薩長の閣僚たちにとって、その方が好都合だからである。しかし、それはあくまでも表向きのことであって、国家行政の実際的な運営方針は、むしろプロイセン型の「官僚主導国」のそれであった。その方が、江戸期以来の日本の国体に近くて運営しやすかったからである。
プロイセン(後にドイツ)は、当時の日本と良く似た状況に置かれていた。ドイツ民族は、プロイセン、オーストリア、ザクセン、バイエルン、マインツなどの中小領邦国家に分断されていて、近代化という側面ではイギリスやフランスに大きく遅れを取っていたのだ。しかし19世紀末、鉄血宰相ビスマルクを中心としたプロイセンは、猛然とドイツ民族の統一に乗り出す。そして1871年の普仏戦争の勝利によって、今日のドイツの基盤が形作られたのである。新生ドイツは、イギリスをライバル視し、猛烈な勢いでこれにキャッチアップを図った。そのためにこの国が採った方針は、「優秀なエリート官僚を大量に育成し、彼らにイギリスの技術を学ばせる。そして、彼らが国家全体を指導し啓蒙する」というものであった。まさしく、官僚統制型のシステムである。
当時の日本は、近代化を目指すという点でドイツと全く同じ立場に置かれていたから、慧眼の大久保利通らはその仕組みをパクッたのである。もともと日本は、江戸時代以降、官僚統制型のシステムが十分に整備されていたから、この路線は極めて容易に実現できたのだ。
もちろん、江戸期の官僚と明治の官僚は、その人材層を異にする。江戸期の中央官僚は、徳川家譜代の武士階級が世襲で就任していた。これに対して、「四民平等」となった明治期では、国家試験で優秀な成績を収めた庶民が官僚になるのである。それでも、徳川300年を君臨してきた官僚主導のドグマは生き残った。日本の官僚が、しばしば政治家をないがしろにする伝統は、既にこのときから始まったのである。
こうして日本には、二つの矛盾する政治の流れが出来上がった。
(1)イギリス型の立憲君主政治・・・政治家が官僚を統制する。政治的意思決定は政治家が議会で行い、君主(天皇)がそれに承認を与える。
(2)ドイツ型の官僚主導政治・・・官僚が政治家と民衆をコントロールする。政治的意思決定は、中央官庁が勝手に行う。
いわゆる明治の元勲が健在なうちは、前者の流れが優勢であった。しかし、優秀な元勲が死に絶え、そして政党政治家の失政が相次ぐうちに、いつしか後者の流れが顕在化したこの国は、官僚に乗っ取られてしまうのである。
明治政府というのは、結局は「形を変えた徳川幕府」だったのかもしれない。 
 
明治維新3

 

明治維新の成功を違う角度から見る
今年の大河ドラマは『花燃ゆ』。吉田松陰の妹・文を主人公に、松蔭はもちろん、久坂玄瑞や高杉晋作など長州の志士たちが、その生き様をたっぷりと魅せてくれるであろう。大河ドラマで幕末物は当たらないなどというジンクスはいつのことやら、『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』、そして今回の『花燃ゆ』と続くのも、近代日本の立ち上がりを振り返り、このところの閉塞感を打破するヒントを得たいという空気があるのだろうか。
ちなみに長州が舞台となるのは1977年の『花神』以来、38年ぶりだそうである。明治維新以来、現総理も含めてもっとも多くの総理大臣を輩出した地である。地元の皆さんはさぞかし期待しているに違いない。
覆される幕末のイメージ
さて、となればまた維新と「志士」の本はたくさん出版されることだろうと思うのだが、今回ご紹介する本は維新と「幕臣」の本である。
旧態依然とした幕府と、保身に汲々(きゅうきゅう)とするのみで時代の流れに取り残された幕臣。それに対して進取の気風に富み時代を読み、日本を近代化すべく戦った薩長をはじめとする西南雄藩と志士たち。しかしこうしたイメージは修正されつつある。
たとえば戊辰戦争における鳥羽・伏見の戦いのイメージはどうだろう。3分の1の兵力しか持たなかった倒幕軍に敗れたことから「幕府軍は数ばかりで、装備は古くさい鎧兜」だったのかと思いきや。実際には洋式装備の歩兵隊が八個連隊・9800人もおり、フランス軍事顧問団の指導を受けた精鋭部隊も擁していたという。
海軍ともなれば幕府軍が圧倒的で、主力艦の「開陽丸」も、当時、世界最大級の軍艦だったし装備も極めて優秀だった。薩長含め、対抗できる戦力は国内には存在しなかったのである。
幕府も時代の変化には充分に危機感をもち、軍制や税制、そのほかさまざまな改革を少しずつ積み重ねてはいた。そもそも開国・近代化を目指したのは幕府の方が先だったではないか。だが残念ながら幕府はガバナンスに失敗し、蓄えた優秀かつ大切なリソースも生かしきれず、明治維新となる。
維新時に秩序が保たれていたことは、幕府のおかげ
では幕府がそれまでに積み重ねたものはすべて無駄になったのかというと、実はそうではない、というのが本書『明治維新と幕臣』のテーマである。
明治維新は非常に大きな政治変動ゆえに、その変化ばかりに目を奪われがちだが、「いかにして統治したか」という行政の面からみると、江戸から明治への連続性が見えてくるというのである。
“明治維新に際して、戊辰戦争において戦地となった場所は例外として、全国津々浦々が混乱を極め、略奪や暴行が横行したという事態に至っていないということは、少なくとも社会生活を維持できるような秩序が保たれていたということになる。つまり、行政が機能しない状態にはほとんどならなかったということになろう”
たとえば大災害のときなどでも、日本人は秩序正しくふるまうことが折々話題になるが、道徳心もさることながら、行政に対する信頼感が実はとても大きいのである。行政がきっと対応する、援助がくると信じられるからこそ、暴動や略奪にはならない。
天下の体制ががらりと変わっても、幕末の人々が落ち着いていられたのも、日常生活に直結する行政が機能し続けていたからなのである。
新政府による旧幕臣の登用というと、勝海舟や榎本武揚、渋沢栄一などの大物の名前を思い浮かべるが、ここで頑張ったのは旗本や御家人などの幕臣たちであった。今風にいえばノンキャリの官僚たちである。
薩長土肥や越前・尾張などの雄藩は、藩の規模、いわば地方自治の規模での統治の経験しかなく、全国規模の統治は未経験だった。そのノウハウや人材を持っていたのは幕府のみだったのだ。
明治政府による旧幕臣の登用については「国難にあたり、敵味方の分け隔てなく優秀な人材を登用した明治政府の度量」という見方もあるが、実情は徳川400万石の幕領を統治する行政組織をそのまま活用しなければどうにも事が動かない、というのが実情だったようだ。
“見方によっては皮肉ではあるが、明治政府は、江戸幕府という前政権が有効に機能していたからこそ、全国政権としての体裁を為すことができたともいえよう”
「岩倉使節団」は、欧米の制度や法制を視察・研究するために派遣された専門官のほかに、実務にあたる書記官を多数含んでいたが、書記官の多くが幕末期の外交交渉にあたった旧幕臣であったという。それゆえに彼らは、使節団における地位は低くとも知識や経験は豊富だった。
現実の外交交渉の場ではかれらに頼らざるをえず、岩倉さえも頭が上がらない始末。しまいにはホテルの部屋割りに至るまでバチッと仕切ってしまったという。260年にわたりこの国を平穏に運営してきた幕府の官僚たちの意地を感じるエピソードである。
いつの時代も組織力が重要
変革の時、人々はヒーローを求める。新しいビジョンを示す人物を求める。しかし、どんな優秀な人物がどれほどすばらしいビジョンを描こうとも、それを実現するためには組織が必要であり、最前線で実行していく力をもつ人材が不可欠なのだ。
その人材の層にどれほどの厚みがあるかが、その社会の力、基礎体力ともいうべきものだろう。それがしっかりしていれば、どんな社会変動があっても乗り越えてゆけることを、幕臣たちの働きが教えてくれる。
明治政府の改革を支えた無名の幕臣たちを思いながら、「人」の力の大切さを軽んじるような世の中になりませんようにと願うのである。 
 
五箇条の御誓文と五榜の掲示 1

 

慶応4年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。
沿革
起草の過程
明治新政府は大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身の参与由利公正が、「議事之体大意」五箇条[3]を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのまま放置されていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。
福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「会盟」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする王政復古の理念にも反するという批判にさらされた。
そこで、参与で総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇(てんじんちぎ。簡単に言えば神)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、これが採用されることとなった。その際、木戸は、(1)福岡案第一条の「列侯会議ヲ興シ」を「廣ク會議ヲ興シ」(広ク会議ヲ興シ)に改め、(2)「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して、(3)木戸最終案第四条「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を新たに組み込み、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。この木戸五箇条が、天下に布告すべき日本国の国是として明治天皇の裁可を受け、慶応4年3月14日(1868年4月6日)、朝廷の偉大さを天下に確定させんとする木戸の狙い通り、誓約された。木戸は後日その意図について、「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている。
儀式と布告
御誓文は、明治天皇の勅命によって、儀式前日に天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫された。翌日、京都御所の正殿である紫宸殿にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰(明治維新の御宸翰)が披瀝されている。
儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。
御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に販売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を暫定処置として踏襲する五榜の掲示が出された。
政体書体制での御誓文
慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、アメリカ合衆国憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。このほか、同布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。
また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年8月7日(1868年9月22日)の「奥羽処分ノ詔」は御誓文第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は御誓文第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。
御誓文の復活
その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。明治8年(1875年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。
自由民権運動と御誓文
土佐藩出身の板垣退助の主導する自由民権運動が高まる中、御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして板垣らに解釈されるようになった。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、当初は民選議会を意図したものではなかったが、後に民選議会を開設すべき根拠とされた。例えば、明治13年(1880年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した「国会を開設するの允可を上願する書」が著名である。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて政府に対する批判を繰り返した。
戦後の御誓文
戦後、昭和21年(1946年)1月1日の昭和天皇の、いわゆる人間宣言において御誓文の全文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相がGHQに主導されて作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、GHQの許可を得て急遽加えられることになった。天皇は後に、
「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」— 昭和52年(1977年)8月23日記者会見
と語っている。
昭和21年(1946年)6月25日、衆議院本会議における日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及して、
「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」
と答弁した。このように敗戦後の初期には支配層は五箇条の御誓文は民主主義の原理であると主張した 。
内容
正式な表題は、法令全書によると、「御誓文」である。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば明治8年(1875年)の立憲政体の詔書)。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である。
御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。
(由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
(福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就いて』大正8年(1919年)に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る。)
前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。
後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本龍馬の船中八策(慶応三年六月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
(現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
(由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
(福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし
冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。
後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていることから、その影響を受けた由利は経綸の語を専ら経済の意味で用いていた。したがって、この条文のいう「盛に経綸を行う」とは由利にとっては「経済を振興する」という意味であったと思われる。もっとも、当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンとルビを振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解されることが多い。
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
(由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
(福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである。」と述べている。
冒頭の「官武一途」の語は福岡孝弟の修正案で追加されたものであり、「官」とは太政官すなわち中央政府、「武」とは武家すなわち地方の諸侯、「一途」は一体を意味する。これは福岡の回顧では「官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって天下の政治を行う」意味としている。この条文は、もともとの由利の意図では庶民の社会生活の充足をうたったものであったが、福岡が政治の意味を込めて「官武一途」の語を挿入したため、条文の主旨が不明瞭になったことが指摘されている(稲田正次)。
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
(現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
(木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし
この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である。
この条文を、戦前の研究者尾佐竹猛は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「天地の公道」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。
しかし、これに対し、稲田正次・松尾正人・佐々木克たちは、「天地の公道」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また木戸孝允自身が「打破すべき封建性」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を広く使用していること、また、大久保利通でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ(寺田屋事件〜西南戦争)、更に、岩倉具視も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を万国公法とはおよそ次元の異なる「天然自然の条理というような意味」で用いていることなどが挙げられている。総じて、「天地の公道」(木戸当初案では「宇内の通義」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
(現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
(由利案第三条)智識を世界に求め広く皇基を振起すへし
(福岡案第四条)智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
前段の「智識を世界に求め」については、前述の横井小楠「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とあり、ここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味である。
福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨である」と回顧している。
勅語
(現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの趣旨に基き協心努力せよ。年号月日 御諱
(意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。
この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。なお、明治天皇の言葉といっても、天皇自身が声に出した言葉ではなく、実際には三条実美が読み上げている。
勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名であり、ここには明治天皇の実名(睦仁)が記されている。
奉答書
(現代表記)勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印
(意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。
奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。3月14日当日には411名の公卿と諸侯が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府旗本のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。また、戊辰戦争で討伐の対象になった旧幕府方の諸藩も新政府から宥免が認められた後に署名を行っている。最終的には、公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、1藩(美作鶴田藩)当主の病気と名代となる世継ぎが幼少でいずれも上京出来ない状態であることを理由に署名の猶予が認められたまま、最終的には廃藩置県のために署名を行わなかった藩がある。また、木戸孝允ら藩士出身の新政府実力者たちの署名はない。
奉答書の日付が「慶応四年」となっているが、後の明治改元により慶応四年は1月1日に遡って明治元年に改められた(大正以降の改元とは異なるので要注意)。よって正式には「慶応四年」は「明治元年」に読みかえる。
備考
○ 天神地祇御誓祭で三条実美が御誓文を読み上げる光景を日本画家の乾南陽が描き、昭和3年に旧土佐藩主の山内家が明治神宮に奉納した。『五箇條御誓文』と題して明治神宮外苑聖徳記念絵画館で展示されている。教科書や歴史書にもよく載っている。
○ 小泉純一郎は首相在任当時、御誓文を元にした決まり文句「万機公論に決すべし」をよく遣っていた。平成13年に小泉首相の所信表明演説が書籍として出版された際のタイトルは「万機公論に決すべし」であった。
○ 平成17年7月7日、由利公正が作成し福岡孝弟の加筆訂正のある草稿が競売にかけられる旨の報道があり、5日後に福井県が2388万8000円で落札したと発表した。福井県立図書館(福井市)・福井県立若狭図書学習センター(小浜市)で公開された。
○ 静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋は、五箇条の御誓文と福澤諭吉の『西洋事情』との類似点を指摘している。『西洋事情』(初編、第一)冒頭の小引(序文)の日付は「慶應二年丙寅七月」(慶応2年7月、1866年8月)で、これは由利が御誓文の元を起草する1年半ほど前である。御誓文の各条と類似する文章の対応は、以下の通りである。
1. 御誓文第一条 - 『西洋事情』(初編、第一)の最初にある英国の政治機構の説明。
2. 御誓文第二条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第五条件である「保任安穏」(ほにんあんのん)。
3. 御誓文第三条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第一条件である「自主任意」。
4. 御誓文第四条 - 『西洋事情』(初編、第二)に全文掲載されているアメリカ独立宣言の最初。
5. 御誓文第五条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第三条件である「技術文学ヲ励マシテ新発明ノ路ヲ開ク」。
○ 御誓文は、諸大名や、諸外国を意識してだされたものであり、臣民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され「天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、臣民も旧来の陋習を捨てよ」と説かれている。
五榜の掲示
慶応4年3月15日(1868年4月7日)に、太政官が立てた五つの高札である。太政官(明治政府)が民衆に対して出した最初の禁止令である。
五榜の掲示が発出された前日には、五箇条の御誓文が発出されている。五箇条の御誓文は、天皇が神明に誓う形式で表明した施政方針であり、公卿や大名に示され、都市で発売されていた太政官日誌に布告されるのみであったのに対して、五榜の掲示は、全ての国民を対象に、全国各地の高札場で掲示され、周知徹底された。
五榜の掲示は民衆への新政府の姿勢が端的に表明されている。第一札から第三札は「永世の法」であり、第四札から第五札は、万国公法の履行と外人殺傷の禁並びに脱籍浮浪化を戒めた。 五榜の掲示の内容は、君主や家長に対する忠義の遵守、集団で謀議を計ること(徒党・強訴・逃散)の禁止、キリスト教・邪宗門の信仰の禁止など、江戸幕府の政策を継承するものとなっている。その一方で、同時に旧幕府時代の高札の廃棄も命じているところから、新政府の権威とその支配圏を象徴するものであった。そのため、新政府に敵対していた奥羽越列藩同盟に加盟する藩では、五榜の掲示は立てられず、あるいは新政府との開戦と同時に破棄されている。また、その他の佐幕派の大名・旗本領でも掲示されていない。
五榜の掲示のうち、第三札(切支丹邪宗門の禁制)は、慶應4年/明治元年閏4月4日(1868年5月25日)に、「切支丹宗門」と「邪宗門」を別条で禁じるよう改められた。また、明治4年10月4日(1871年11月16日)には、第五札が除却された。さらに、1873年(明治6年)2月24日には、高札制度が廃止されると同時に第一札から第四札も除却され、五榜の掲示に示された各条は事実上廃止された。
五榜の掲示の内容
第一札 五倫道徳遵守
   定
一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ惡業アル間敷事
   慶應四年三月   太政官
第二札 徒党・強訴・逃散禁止
   定
何事ニ由ラス宜シカラサル事ニ大勢申合セ候ヲ徒黨ト唱ヘ徒黨シテ強テ願ヒ事企ルヲ強訴トイヒ或ハ申合セ居町居村ヲ立退キ候ヲ逃散ト申ス堅ク御法度タリ若右類ノ儀之レアラハ早々其筋ノ役所ヘ申出ヘシ御褒美下サルヘク事
   慶應四年三月   太政官
第三札 切支丹・邪宗門厳禁
   定
一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事
   慶應四年三月   太政官
閏4月4日改正 / 先般御布令有之候切支丹宗門ハ年來固ク御制禁ニ有之候處其外邪宗門之儀モ總テ固ク被禁候ニ付テハ混淆イタシ心得違有之候テハ不宜候ニ付此度別紙之通被相改候條早々制札調替可有掲示候事
一 切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事
一 邪宗門之儀ハ固ク禁止候事
   慶應四年三月   太政官
第四札 万国公法履行
   覚
今般 王政御一新ニ付 朝廷ノ後條理ヲ追ヒ外國御交際ノ儀被 仰出諸事於 朝廷直ニ御取扱被爲成萬國ノ公法ヲ以條約御履行被爲在候ニ付テハ全國ノ人民 叡旨ヲ奉戴シ心得違無之樣被 仰付候自今以後猥リニ外國人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業等イタシ候モノハ 朝命ニ悖リ御國難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦 御交際被 仰出候各國ニ對シ 皇國ノ御威信モ不相立次第甚以不届至極ノ儀ニ付其罪ノ輕重ニ随ヒ士列ノモノト雖モ削士籍至當ノ典刑ニ被處候條銘々奉 朝命猥リニ暴行ノ所業無之樣被 仰出候事
   三月   太政官
第五札 郷村脱走禁止
   覚
王政御一新ニ付テハ速ニ天下御平定萬民安堵ニ至リ諸民其所ヲ得候樣 御煩慮被爲 在候ニ付此折柄天下浮浪ノ者有之候樣ニテハ不相濟候自然今日ノ形勢ヲ窺ヒ猥ニ士民トモ本國ヲ脱走イタシ候儀堅ク被差留候萬一脱國ノ者有之不埒ノ所業イタシ候節ハ主宰ノ者落度タルヘク候尤此御時節ニ付無上下 皇國ノ御爲叉ハ主家ノ爲筋等存込建言イタシ候者ハ言路ヲ開キ公正ノ心ヲ以テ其旨趣ヲ盡サセ依願太政官代ヘモ可申出被 仰出候事 但今後總テ士奉公人不及申農商奉公人ニ至ル迄相抱候節ハ出處篤ト相糺シ可申自然脱走ノ者相抱ヘ不埒出來御厄害ニ立至リ候節ハ其主人ノ落度タルヘク候事
   三月   太政官 
 
五箇条の御誓文2

 

諸話1 / 五箇条の御誓文と明治天皇の親政
「薩長同盟と討幕・大政奉還」では、西郷隆盛(西郷吉之助,1828-1877)を総指揮官(参謀)とする薩長軍が、「鳥羽・伏見の戦い」で15代将軍の徳川慶喜(1837-1913)率いる幕府軍を打ち破り、その後の江戸城無血開城(討幕)を実現しました。1年5ヶ月にわたる内乱の「戊辰戦争(1868-1869)」で薩長主体の新政府軍が勝利して、明治天皇(1852-1912)を主権者とする新政府(明治政府)が成立します。1868年当時、新政府の財政は極めて弱体でしたが、劣勢に追い込まれた幕府を見限った三都(江戸・京都・大阪)の大金融資本・商業資本が新政府に財政援助をしたため、戦費調達や財政政策の基盤が整い始めました。
1868年4月11日に、西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸城無血開城が実現した後も、新政府の方針に反対する旧幕府軍との戊辰戦争は続いていましたが、一橋家家臣と旧幕臣で構成される彰義隊を、大村益次郎率いる精鋭が「上野戦争(1868年5月15日)」で破って関東・江戸の支配権を確立しました。5月24日、公卿の三条実美(1837-1891)が関八州鎮将に任命されて、徳川宗家は駿河藩70万石に移封されることになり、江戸は新政府軍の管轄下に置かれることになります。最後まで徹底抗戦の構えを示したのは、会津藩藩主の松平容保(1836-1893)で、「玄武隊・青龍隊・朱雀隊・白虎隊(年齢別の軍隊)」を創設する軍制改革を行い、4月10日に庄内藩と同盟を結んで新政府軍に対抗します。会津藩と庄内藩を除く、東北・北陸の諸藩も反新政府の同盟を結び、1868年5月6日には北越6藩・東北25藩から成り立つ「奥羽越列藩同盟」が結成されました。
奥羽越列藩同盟と会津藩・庄内藩を敵に回す「東北戦争」は長期化しますが、新政府軍は7月29日に新潟と長岡城を占領して越後を支配下に収め、越後長岡藩の名臣として知られた河井継之助も重傷を負って8月16日に死去しました。8月23日には、堅牢な会津若松城が完全包囲されて新政府軍の略奪と暴行を受けることになり、日本史上の悲劇とされる少年兵である白虎隊の集団自決事件も起こりました。その後、会津藩の援軍が会津若松城に駆けつけたため、9月22日に無条件降伏するまで会津藩は徹底抗戦しましたが、最終的には新政府軍のアームストロング砲を用いた激しい攻撃を耐え切れずに降伏しました。会津藩よりも前に米沢藩と仙台藩も降伏しており、9月23日にはそれまで優勢に戦いを展開していた庄内藩も敗北を認め、9月25日には南部藩も降伏して「東北戦争」は新政府軍の勝利で幕を閉じます。1869年5月18日、「箱館戦争」で五稜郭に立てこもっていた幕府の海軍副総裁・榎本武揚が降伏して、1年5ヶ月続いた戊辰戦争の内乱は終結することになり、最後まで幕府について戦った新撰組の副長・土方歳三は戦死しました。
戊辰戦争が続いている1868年(慶応4年)3月14日には、福井藩出身の参与・由利公正と土佐藩出身の参与・福岡孝弟が原案を書き、木戸孝允・岩倉具視・三条実美が文章を編集した「五箇条の御誓文」が発布されました。五ヶ条の御誓文は、天皇中心主義による王政復古・公議政体を目指す建国の基本精神について述べたものであり、京都御所の紫宸殿において謹厳な神道の形式(天神地祇御誓祭)で発表されました。1867年12月9日には、既に「王政復古の大号令」が発布されていましたが、この時に岩倉具視の天皇の神格化を目指す主張により、「建武の中興(後醍醐天皇の新政)」ではなく「神武創業(記紀の神話時代)」が明治政府の主権理念として採用されることになります。明治時代以降の近代日本になって、天皇家は神話時代の初代・神武天皇から続く「万世一系の系譜」に公式に位置づけられ、その政治的権威と存在の神格性は特に昭和初期において急速に高められることになります。
五ヶ条の御誓文
一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
「広く会議を興し万機公論に決すべし」とは、重要なあらゆる事項は会議(議会)を通じてまとめていかなければならないという意味で、五箇条の御誓文を福岡孝弟らが起草した時には、自由民権論者のような「一般庶民も参加する議会」のことは想定されていなかったとされています。「上下(しょうか)心を一(ひとつ)にして盛に経綸(けいりん)を行うべし」とは、地位の高い者も低い者も一致団結して協力し、経済活動(経綸)を振興していこうという意味ですが、経綸は国家の政策一般のことを指すとも考えられています。「官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す」とは、中央政府・武家の諸侯・一般庶民がそれぞれの志を実現するために努力して、精神を倦怠(堕落)させないようにしなければならないという意味です。
「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基くべし」は、木戸孝允によって追加された項目で、「旧態的な封建制・因習・閉鎖性」を打ち破って、世界に普遍的(一般的)に通用する道理(人道)や法理(万国公法)に基づいた政治を行っていかなければならないという意味です。「智識を世界に求め大いに皇基(こうき)を振起(しんき)すべし」とは、先進的・実用的な知識を西欧世界(世界各国)に求めていき、天皇主権の統治の基盤を発展させていこうという意味です。  
諸話2
新政府の国家基本方針は、「五ヵ条の御誓文」によって、1868年(慶応4年)3月14日に発布された。予定されていた江戸総攻撃の前日であった。
「五ヵ条の御誓文」の原案は、越前藩士・由利公正(ゆりきみまさ)が作成した。由利は後に新政府の財政担当となっている。この原案は、鳥羽・伏見の戦い直前に一晩で書かれたといわれるもので、戦争を起こす以上、新政府側に大義名分が立つ意義のある国家方針を打ち出した方がよいと考えて作られた。
この原案は土佐藩士・福岡孝悌、木戸孝允が手直しなどをして、「五ヵ条の御誓文」として発布された。「広ク公議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」と始まり、個人独裁を排除して国政を執り行う旨が書かれている。この国家の基本方針宣言は、広く国民に対して宣言されたわけだが、発表のやり方は、天皇が天地の神にこの方針に従うことを誓うという形で行われた。そのため、天地の神を奉る祭壇に向かって、三条実美が誓文を読み上げる古典的な形式で発表が成された。
この誓文発表の翌日には、「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」と呼ばれる五つの太政官布告の高札が出された。第一札から第三札までは儒教道徳の倫理を勧め、徒党を組んで訴訟行動などを起こしてはならないとして、打ちこわしや一揆の禁止を示した。また、キリシタン・邪宗門の禁教を示し、幕府時代と変わらない禁令を出している。
国交を結んでいる欧米列強は、キリスト教などの禁令事項に猛反対をした。新時代らしい内容といえば、外国人への暴行を禁じ、万国公法に従うことと記したもの程度であった。
誓文では、開明的な新しい政策を打ち出すと誓いながら、民衆を統治するための禁令は、旧来どおりのものを継承する形を取り、新政府に対する統治姿勢は、旧幕府と余り変わらない秩序保守を厳しく律していた。 
諸話3 / 五箇条御誓文の意図
幕末というひとつの時代に「自由で平等な」社会をめざし、その青春をかけて闘った坂本龍馬の存在を知らない人は居まい。彼は維新後の世界を見ることなく遭難して亡くなったのだが、その意志は多くの若者達が色々な形で受け継ぐことになった。その一人に、越前藩出身の由利公正(三岡八郎)がいた。
彼は、坂本龍馬にその経済的な才能を見出され維新政府の高官として活躍することになった。五箇条御誓文はこの由利公正の発案したものであり、その思想的な基本は坂本龍馬の「船中八策」である事はよく知られている。しかし、由利の作成した文章が即其のまま「五箇条御誓文」となってはいないのである。
以前「五箇条御誓文の意味」に坂本龍馬の「船中八策書」について書かせてもらったので、詳しい内容はこちらを参考にしてもらいたいが、参考の為に引用しておこう。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
次に、由利公正がはじめに作成していた文章を見てみよう。
一、庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す。
一、士民心を一にし盛に経綸を行うを要す。
一、知識を世界に求め広く皇基を振基を振起すべし。
一、貢士期限を以って賢才に譲るべし。
一、万機公論に決し私に論ずるなかれ。
井上氏が本の中で書いておられるように、由利案のその第一にある「庶民志を遂げ」といったものが、発表された御誓文では「官民一途庶民ニ至ルマデ」となってしまっていた。本来であれば、庶民−一般人の生き方(新しい維新後の社会での)−の生き方を示す一文だったはずである。どうして、このような変化がおきてしまったのであろうか?由利らは、その考え方の基本に庶民があった。坂本龍馬らの考えた、「誰もがその志のままに生きられる時代」を想像してこれらの文章を作ったのであろう。それこそが本来あるべき明治の社会ではなかったのだろうか?しかし、その社会はまったく違う方向へ向かってしまっていた。それを端的に示すものが、この御誓文にあらわれているのだ。
その原因は御誓文の成立過程にあった。由利が作成した原案を土佐藩の福岡孝弟(藤次)が順序の変更・字句の変更を行い、最終的には長州の木戸孝允(桂小五郎)が修正したものが御誓文なのだ。福岡は知ってのとおり、土佐藩重役出身であり、木戸も長州藩内では指導的な立場にあった。彼らに、庶民の生き方・考え方に対して共感を示すという気持ちがあったかどうかは分からない。しかし、坂本や由利らと比較してその気持ちが少なかったことは言えると思う。そういった、庶民とか一般の人々への考慮に欠けていた人々が指導者となった新国家とその基本的な方針が明治という時代を作ったのだ。それは、時代の必然だったのかもしれない。なるべくしてなった世の中なのかもしれない。しかし、そこには何度か「やり直す」事が出来るチャンスがあったはずだ。そのチャンスと、その時に政府の進むべき路を考え、実践していった人々についてもっと良く知る必要があるであろう。
井上氏による「由利・福岡・木戸案の比較」という項目がある。この内容を一部抜粋すると、「・・・土佐藩重役出身の福岡の案は、主君山内容堂らの『公議政体論』の展開であることは、第一条の列候会議云々からして明らかで、由利案からは大後退、ほとんど異質のものになった。・・・木戸の修正が、土佐派の公議政体論をしりぞけ、天皇政権独裁の理念を基礎としていることは明らかである。・・・つまり五条誓文は、由利案のような庶民に近い立場の発想と、福岡案のような大名連邦の思想とが、木戸によって、天皇政権独裁下の天皇と人民の一体化論、・・・に総合せられたものである。」となろう。
ご誓文発表に向けて、それぞれの立場の人々が、それぞれの立場で考え、それぞれの意見にまとめ上げた文章。それはまるで、明治というその時代を集約しているようにも見える。庶民の立場、天皇主権者の立場、その中間的な立場、それぞれの意見のなかで最後は天皇独裁政権が残っていく。
諸話4 / 五箇条御誓文の意味
御誓文は、明治政府がそれまでの幕府から明治に変わった時に政府が宣言した誓約文である。あまりにも有名ではあるが、その内容は以下の5ヶ条からなっている。
一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ
この文章自体は、由利公正(三岡八郎)氏の起草したものを福岡孝弟(福岡藤次)氏が修正・木戸孝允(桂小五郎)氏がその文章を整理したものである。司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」によれば「・・・竜馬が長崎から京へのぼる途中、船中で起草し、後藤象二郎に渡した新国家綱領のいわゆる『船中八策』の思想がことごとくもられていた。・・・」そうである。それでは、対比する為にその船中八策も見てみよう。
第一策。天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事
第二策。上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事
第三策。有材の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事
第四策。外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事
第五策。古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事
第六策。海軍よろしく拡張すべき事
第七策。御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
第八策。金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべき事
司馬氏も書いておられるように、なるほどその最初の三ヶ条など「・・・五箇条の御誓文が竜馬の船中八策から出ている・・・」ようである。私がここで述べたい趣旨を読み違ってもらっては困るので、あらかじめ書いておくが「五箇条の御誓文が船中八策を基に考え出された事を否定するものでは無い。むしろその後に付加されている後ろの2ヶ条の意味を考える」事である。
龍馬氏の作成した『船中八策』には、『御誓文』の最後の2ヶ条に対する部分は存在しない(ように見える)。特にその第四条のなかの『公道ニ基ク』という部分、第五条のなかの『大ニ皇基ヲ振起ス』という部分は見つからない。ささいな文章の言い回しのように思われるかもしれないが、実はこの部分は大きな意味を持つのである。
それはこの2つの文章の基底に流れる「主権」のありよう。であると言っても良い。龍馬氏の考えていた明治(当時は明治という元号は存在しないのですが)と、木戸孝允氏らの考えていた明治とではその基本的な考え方がちがっている。龍馬氏はあくまでその社会の基礎を『人民』においているのだ。全ての人が平等であり、その意思によって自由な活動が出来る社会をこそ望んでいたのだ。だからこの文章には『皇基』などという言葉は存在しない。朝廷を中心とした(ありようとしては戦後の日本の姿のような)立憲君主国を望んでいたのだ。
それに対して、『御誓文』の方はあくまでその『主権』が天皇を中心とした皇室にある事を暗に明示している。『皇基を振起』する事によって天皇を中心とした、主権は国民にない社会・しいてあげれば『将軍』にかわりに『天皇』を据える社会を目指す事を宣言した文章となっているのだ。それこそが、『御誓文』の最大の特徴と言ってよい。明治政府をあげて『主権は民にあるのではなく皇室に存在』する事を宣言したのである。
ところで、宣言・宣言といっているが、『御誓文』は誰に対しての宣言であったのだろう。自らが今後の政局運営に対して宣言するのであればそれは『御誓文』ではない。『御誓文』とはその文章を『神』に対して宣言する目的で作られたのだ。しかもそれは、「・・・天皇みずからが群臣をひきいて神々に誓うかたちでなされた・・・」という形式で奏上されている。つまり、天皇みずから神々に対して奏上し、その後「三条をはじめ列席した群臣たち一同が、天皇が神々にたてた『御誓文』を実現すべく努力する旨を、同じ神々と天皇のまえで誓約するものである」。
『皇基を振起』する事を、天皇=神の前で誓った事がこの後の明治にもたらした影響は大きい。天皇自らが『祭祀者』として神道祭儀を行なう事の絶大なる影響力を明治の指導者達はまのあたりに見た。天皇が『最後の切り札』として利用されるようになったきっかけは実はこんなところから来ていたのである。 
 
版籍奉還

 

1869年7月25日(明治2年6月17日)から、日本の明治政府により行われた中央集権化事業の1つ。諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還。発案は姫路藩主酒井忠邦。
戊辰戦争中の1868年2月から5月(慶応4年1月から4月)にかけて新政府は徳川幕府の直轄地であった地域に対する統治機関として裁判所を設置した。同年6月11日(閏4月21日)の政体書で府藩県三治制が定められ、これに伴い裁判所を廃止し、新政府の直轄地のうち城代・京都所司代・奉行の支配地であった地域を府、それ以外を県として、府に知府事、県に知県事を置き、中央集権的な地方統治をおこなった。明治元年11月に姫路藩主の酒井忠邦から版籍奉還の建白書が出されたが、その背景には財政問題や戊辰戦争における藩内の内紛があったとされている。しかし、直轄地以外の地域については1869年6月(明治2年5月)の箱館戦争終了により戊辰戦争が終了し日本全国が新政府の支配地となった後も、江戸時代同様の各大名による統治がおこなわれていた。当時各大名に対する明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令も強制力のない太政官達で行うしかなかった。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとしたものである。
版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に変わり、陪臣である藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣(「王臣」)とされる事で朱子学に基づいた武士道(近代以後の「武士道」とは違う)によって位置づけられてきた主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定することになるものであり、諸藩の抵抗も予想された。そこで版籍奉還の実施に際してはその意義については曖昧な表現を用いてぼかし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた。もっとも、公議所では賛否の両論が伯仲したため、半数弱の公議人の署名による両論折衷の答申を出し、政権から失望されている。これに前後して戊辰戦争の恩賞である賞典禄について定めることで倒幕に賛同した藩主や藩士を宥めて不満を逸らした。
このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗も無く終わった。そして版籍奉還によって各藩の中で続いていた地方知行がなくなり、蔵米知行に一元化された。また、版籍奉還と同時に旧藩主の諸侯285家は公卿142家と同時に華族に列せられ華族制度が創設され、旧藩主の諸侯は武家華族と呼ばれる。
沿革
○ 1868年
6月11日(慶応4年閏4月21日)/ 幕府解体により成立した新政府が政体書を発布、大名領を新たに「藩」とし、大名を「藩知事」に任命して諸侯統治のかたちを残す府藩県三治制を打ち出す。
12月11日(明治元年10月28日)/ 藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設け、政府による藩統制を行う。
○ 1869年(明治2年)
2月(1月) / 伊藤博文、陸奥宗光らが6ヶ条からなる「国是綱目」の建白書を提出する。
3月2日(1月20日) / 新政府樹立を主導した薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が建白書を提出する。
6月22日(5月13日) / 上局・公議所において諮問が行われる。
○ 1870年10月4日(明治3年9月10日) / 藩制布告。
○ 1871年8月29日(明治4年7月14日) / 薩長土を主体とする御親兵による軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制が確立する。
呼称
藩というと幕藩体制というように江戸幕府下の制度と思われがちだが、厳密には江戸幕府下の体制で公式に「藩」という呼称はなかった(一部の学者などが書などで使用するのみであった)。ただし、幕末になると大名領を「藩」と俗称することが多くなった。「藩」という名称は中国史による。明治維新後、初めて藩という呼称が公式に使用されたが廃藩置県で藩が消失するまでのわずか2年程度の行政区名称である。

諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。
日本史で言う藩は、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語である。江戸時代の儒学者が中国の制度になぞらえて用いた漢語的呼称に由来する。
藩という呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の「藩翰譜」、「徳川実紀」等)。明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。
元々「藩」という語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。
当時の江戸幕府は、大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中(かちゅう)などの呼称が用いられていた。いずれも、その前に大名の苗字もしくは拠点(城・陣屋所在地)とする地域名を冠して呼んだ。
今日の歴史学上では、大名領およびその領地の支配組織を藩、藩の領主である大名のことを藩主(はんしゅ)、大名の家臣のことを藩士(はんし)という事が多い。同じく現代歴史用語として、藩に対して幕府の直轄領のことを天領(てんりょう)と呼ぶ事も多い。さらには、幕藩体制の研究者の中には豊臣政権における大名領国を「藩」もしくはその前身と捉え、藩の成立を豊臣政権もしくはその前の織田政権に遡って考察する考え方もある。
しかし、この藩について、当時の人々が実際に何と呼称していたかは詳しくはわかっていない。幕府からの命令は藩主個人名(例えば長州藩の場合は「松平大膳大夫殿」)に宛てて出されており、各藩側も自藩と他藩の区別さえできれば良かったので「当家」「他家」などの呼称で十分だったと考えられている。藩士についても「○○藩士」とは呼ばれず、例えば「仙台藩士」であれば公的には「松平陸奥守家来」と称された。また「藩主」より、封地名に「侯」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「仙台侯」、「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。
江戸時代
藩の内側は将軍と江戸幕府の権威・権力の枠の内側で一定の自立した政治・経済・社会のまとまりを持ち、小さな国家のように機能した。
藩は、守護大名が荘園を解体し、各農村に所領を持つ国人級の武士や、武士化した名主層(地侍)を被官化し、一円的領域支配を築いていったことに始まる。室町時代以前の武士の所領支配とは異なった新しい支配の形態である。戦国大名は領域の一円支配をさらに推し進める一方、家臣である配下の武士を城下町に集めて強い統制下に置く傾向が始まる。織田信長は取り立てた武士の所領を勢力・進展とともに次々に動かし、豊臣秀吉は徳川家康ら服属した戦国大名を彼らの地盤である領国から鉢植え式に新領土に移封させたので、安土桃山時代に武士と百姓間の職業的・身分的な分離が進み、関ヶ原の戦いと江戸時代初期の大大名の盛んな加増・移封によって完成された。
藩士である武士を城下町に集めて軍人・官吏とし、彼らの支配のもとで城下町周辺の一円支配領域にある村に石高を登録された百姓から年貢を現物徴収して、藩と藩主の財源や藩士の給与として分配する形態が藩の典型であるが、徳川氏によって新規に取り立てられた小藩の中には支配する領地が飛び地状に拡散していて一円的な支配が難しいものもあった。
明治時代
1868年(明治元年)に明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領(天領)として府・県に編成した際に、大名領は天子たる天皇の「藩」であると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名をもって「○○藩」という名前が初めて正式の行政区分名となった(府藩県三治制)。翌1869年(明治2年)までに版籍奉還が行われて藩主は知藩事に改められ、1871年(明治4年)の廃藩置県によりさらに藩が県に置き換えられた。これによって江戸時代以来の藩制は廃止され、藩領は整理された。
なお琉球は、その実質的な支配者である薩摩藩が廃藩置県によって県となったことを受け、翌1872年(明治5年)、独立王国から日本国に帰属する琉球藩へと改められた。以後1879年(明治12年)の琉球処分まで、琉球は廃藩置県後の日本国内において唯一藩制が行われていた地域である。
現在の県は廃藩置県時の諸県を統廃合して生まれたものだが、国主の格式を持っていた大藩の場合はかつての藩の領域と現在の県の領域がほぼ一致する場合がごく稀にある。
知藩事
明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。
明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還により領地・領民を朝廷に返還した旧藩主274名が任命されて成立した。これにより府藩県三治制という体制が確立した。
その職務は、徴税・賦役・生産力向上などの経済、刑罰・賞与などの司法、軍事、教育、戸籍調査など多岐に亘るものだった。
知藩事は従来の藩主に認められていた世襲がそのまま認められ、独自の軍隊・司法組織などを持つことが認められていた。その一方で、知藩事の家禄は藩の実収石高の十分の一と定められて藩財政から切り離され、藩の職制・禄制・兵制は中央政府が定めた規定に従うこととされており、藩の内情についても強く監督されていた。
しかし、当時の藩領と天領は複雑に入り組んでいたため、年貢の徴収は非効率的であった。そのため、国家財政の安定化を行なって明治新政府の中央集権を確立させる必要があった。このような事情に伴い、明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施され、知藩事全員が失職して華族となり、その役目を終えた。
知藩事と藩知事
官名だけを単独で用いる場合は「知藩事」である。例えば、廃藩置県の詔書(明治4年(1871年))には「新ニ知藩事ヲ命シ」とある。これに対して、藩名と結合させて用いる場合は「何々藩知事」とする。例えば、太政官から蜂須賀茂韶に対して出された文書(明治3年(1870年))の宛名には「蜂須賀徳島藩知事」とある。
府藩県三治制
明治初年の地方行政制度。1868年、政体書公布に伴い、維新後の徳川幕府の直轄地に置かれていた裁判所を廃止し、そのうち城代・京都所司代・奉行の支配地を府、それ以外を県として、府に知府事、県に知県事を置いたが、藩は従来どおり大名が支配した。1869年の版籍奉還によって三治制が確立して藩も国の行政区画となり、旧藩主(大名)は知藩事に任命された。知藩事は中央政府から任命される地方官であり、藩の領域も藩主に支配権が安堵された「所領」ではなく、地方官である知藩事が中央政府から統治を命じられた「管轄地」とされた。1870年に「藩制」が制定されて藩組織の全国的な統一が強制されるなど、中央政府による各藩に対する統制が強められる一方、多くの藩で財政の逼迫が深刻化し、廃藩を申し出る藩が相次いだ。1871年の廃藩置県により藩は廃止され、府県制となった。
名称と管轄区域
各府県および知藩事任命後の藩は、いくつかの例外を除いて、それぞれの府藩県庁所在地名によって「大阪府」「品川県」「山口藩」などと呼ぶのを原則としていた。しかし、府藩県の中には府藩県庁所在地を中心とする一まとまりの区域の外に遠隔地に飛地を持つものが少なくなかった。
たとえば、伊豆国韮山(現:伊豆の国市)に県庁を置いた韮山県は、伊豆国内だけでなく、相模国、武蔵国、甲斐国内にあった旧幕府直轄領(天領)や旗本支配地なども管轄していた。反対に、相模国(現:神奈川県)には国内に藩庁を置く小田原藩や荻野山中藩、あるいは近隣の神奈川県や六浦藩(武蔵国)、韮山県(伊豆国)だけでなく、下野国(現:栃木県)の烏山藩や三河国(現:愛知県)の西大平藩などが管轄区域を持っていた。特に旧幕府領や旗本支配地、藩領が錯綜する関東地方や近畿地方にこのような例が多い。
政府は、各府藩県の管轄区域を交換、整理統合して支配の合理化を図ろうとしたが、廃藩置県までに実現したのは部分的なものにとどまり、管轄区域の錯綜はほとんど解消されなかった。国や郡を単位とした一円的な管轄区域が確立するのは、廃藩置県後の明治4年10月末 - 11月(1871年12月)の全国的な府県再編を経て以降のことである。 
 
版籍奉還諸話

 

版籍奉還 諸話1
討幕の大企画に、身魂を没入した志士は、恐らくは未だ討幕後の建設事業には、十分の用意はできていなかった。今やこの問題に直面すべき時節は到来した。
最初にこれに気付き、その為に周到な思慮をこらした一人は、実に木戸孝允だった。同時に彼の背後には、その門下と言うか、其の友弟の伊藤博文がいた。
聡明なる木戸は、必ずしも伊藤らの指示を待たず、新政府の創業と同時に、やがて有名無実、尾大不掉に陥りつつある実相を看取ったに相違あるまい。
彼はこれを救い、これを打開する経綸について、その心魂を打ち込んだことは想像するに難しくはあるまい。
彼は慶応4年(明治元年)に、三條実美、岩倉具視に向かって建白書を出した。
その意見は、慶応3年12月徳川慶喜が、その封土版籍を奉還した趣旨を、さらに拡充して、これを300諸侯に施行させようとするものだ。彼が慶応3年の末、長州藩が四境戦争に際して占領した豊前、石見の地を奉還することをこいねがい、藩主毛利敬親をして、三條実美に進言したのも、その一端である。木戸が皇政一新の基礎は、封建制を廃して、郡県と為す、という意見を懐抱したのは決して一朝一夕のことではなかった。
木戸の意見は、三條、岩倉はもちろん同感であったに違いなかったが、彼らはその必須よりもその危険を痛感した。それは建武中興に際しても、その恩賞が武将を満足させなかった為、ついに中興の業は、半端で阻止させらた、苦い経験にこりた為だ。
充分に(恩賞)を与えなくてこうなのに、ましてやその版籍をとりあげたらどうなるだろう
よって木戸の意見はそのまま密封された。
木戸は藩主毛利敬親の了解を得て、薩摩藩で版籍奉還の発議をしようとし、まずこれを大久保利通に諮った。思うに当時木戸は廃藩置県の事を心中に期していたが、大久保へはただ版籍奉還に止めて、そこまでは言明しなかったものと察せられる。同日、木戸は土佐藩の代表者と目すべき、参与後藤象二郎にも、同様の事を談じている。
木戸の苦心は酬いられ、大久保は直ちに木戸から打ち明けられた問題について、薩摩の藩議を取りまとめるべく、評定をこらした次第は、簡単ながらも彼の日記で分かる。
即ち小松の寓所岩下方平、伊地知貞馨らと会同して、相談したことが分かる。だが、明治元年中には、ついに木戸の意見は、未だ実行の期には達しなかった。

木戸は薩摩において、その同志者たる大久保利通を見出し、その同藩の後進において、伊藤博文を見出した。伊藤はつとに封建制度を全廃し、郡県制度を設定しようとする意見を抱いてものにして、今同人が自ら語った所をあげれば、実に左の通りだ。
(明治元年5月に、吾輩は廃藩の大方針がとかく廟議とならないことを遺憾に思って、封建廃止、政体大変革の綱目を掲げて、朝廷に建白書を提出した。いわゆる兵庫論というやつだ。兵庫論は、国是の綱目を、私が書いたもので、郡県の政治にしなければいかんとか、兵制を変革して、海陸の兵力を統一しなければならないというようなことだった。そうして眼目とする所は、王制だ。
昔の王制論によって、開国の主義を採るというものだ。それには学校を興して、国民を教育しなければならないというような事も書いた。多くは働きを目に挙げ、趣意を綱に挙げたものだ。
陸奥宗光と、中島信行と二人を連れて、その建白書を持って京都へ出たが、その建白書の写しがどこへ行ったか分からない。その時分に幾通もの建白書を出した。それらの書類は今はどうなったか分からないよ。{伊藤公全集、末松謙澄記})
思うにこのいわゆる建白書は、版籍奉還の一事においては、木戸が戊辰2月の建白書と大体において、同一であったと察せられる。なお戊辰11月播州姫路藩の酒井氏が、その土地人民を、朝廷に奉還したいと出願した。その出願の動機は、当時同藩内における錯綜した事情があって、むしろこの挙に出るのが得策とした為であったと察せられるが、伊藤はこれを好機として、さらにこれを以て、全国に施行しようとする意見を開陳した。

以下所々抜粋したまとめ
『王制を復古したが、いたずらに幕府の政権を奪い、徳川氏の罪を責めるだけで、よしとするものではない。諸侯もまた自ずから省責する所がなくては、これはいたずらに幕府の威権が自分の上にあるのを憎んで、真に王政復古を望むものではないと言わざるを得ない。』
この一段は諸侯に自省を促すものだ。
「今まさに東北を平定し、武器が蔵に納まろうとしている時なので、皇国の安危に関する者は、ただその政体に立つ者と立たない者とが在る。いやしくも我が国で、海外各国と並立して、文明開化の政治を致して、天性同体の人民、賢愚其処を得て、上下等しく聖明の徳澤に浴びせようとするならば、ただ全国の政治をして、一斉に帰するしかない。」
政治の統一は、国連伸長の根本であることを言う。
「それこれを一斉に帰すると欲するなら、ただ今のように、各藩各自に兵権を擁し、互いに抗衝する弊を除いて、その権を悉く朝廷に帰させて政令法度一切を朝廷から出して、さらにこれを犯す者がないようにならなければ、海内の人民でもって、偏頗の政令を免れさせ、一様の徳化に服しめられないだろう。論歩一進、全国統一の政治は朝廷に一切の兵権を帰し、政令一途に出なければ、その目的が達成できないと言う。すなわち伊藤の胸中に描く所の経綸が何物であるかは、多言をまたずして知るべきだろう。そう、彼は全く廃藩置県を到着点としていたのだ。
伊藤の意見書は以下につづく
『かつ外国の侮を防ぎ、皇威を海外に輝かせようとしても、兵制が区々に別れ、司令が等しくいきわたらなければ、決してこれを行うことはできない。…』」
意見書さらに続くも割愛します。
「これにおいて分かる。伊藤の真意は、名目のみならず、真に廃藩置県、いわゆる封建を廃し、郡県制を樹立することにある事を。伊藤の意見書が、当時の朝廷に幾許の影響を与えたかは、詳しくないが、しかし木戸に取っては大きな声援だったことは、疑いをいれない。しかして、当時このような意見を懐抱した者は、必ずしも伊藤一人には限らなかった。何となれば皇政維新と、各藩割拠とは、到底両立できないが故である。」
「なお版籍奉還について、いかに大久保利通が、木戸と同心協力して、その実現につとめたかは、明治2年正月10日付け小松清廉、伊地知貞馨、吉井幸輔に与えた手紙で分かる。これは版籍奉還について、大久保は明治元年12月聖上に供奉して、京都に帰るや、直ちに大阪に下って、小松、伊地知、吉井らと協議し、その建言の事は、黒田清隆と専ら担当していたが、容易にそれが運ばないのを見て、更に3人に向かって、これを催促したのだ。また正月14日付、大久保から岩倉に答えた一書中に特筆してある。長の広沢、土の板垣らと会談。土地人民返上の件を合議した。三藩はいよいよ疑い合うことなく、土はことの他奮発していて安堵した。(とのような内容の手紙) とあるのを見てもいかに周旋奔走していたかが分かる。なお明治2年2月1日付け、在東京の木戸から三條、岩倉宛の書中でも、木戸が東京で、版籍奉還論の普及、徹底の為に、努力しつつあった事が分かる。同2月8日在京都大久保宛の書中を見ても、この版籍奉還の一件については、木戸、大久保両人の協力がいかに完全に行われたかを知るべきである。しかして、彼ら両人をしてその工作を完成させられたかは、岩倉の力が更に多いにあったことをまた記憶すべきである。」 
版籍奉還 諸話2 / 名古屋商人には3つのルーツ
版籍奉還という名の徳政令
版籍奉還は、後の廃藩置県につながる大きな改革であった。諸大名が領地(版図)と領民(戸籍)を天皇家に奉還するというものだった。これにより新政府は、全国に命令を出せるようになり、ようやく統一国家としての形が整った。
版籍奉還において、藩主は藩の収入の一部を保障されたうえで、華族に列せられた。公卿、大名らの称を廃し、華族と改めた。
大名は、それまでに残した借財に関して、責任を問われることもなかった。だから、お殿様たちにしてみれば、いってみれば借金棒引きの徳政令であり、反対する理由などなかった。
わが尾張藩は、明治2年(1869)2月に版籍奉還を申し出ている。
名古屋商人の3つのルーツ
ここで名古屋商人と呼ばれた人たちのルーツを解説しよう。名古屋は、御三家筆頭の尾張藩の城下町として、豊かな地域だった。その財力と系譜は、明治以降にも引き継がれていった。
名古屋の商人は、その出身の違いから主に3つに区分される。
第1グループは、土着派である。これは「清須越」を中心とする尾張徳川家の御用達商人の系譜だ。前述した通り、尾張藩は商人を格付けしていた。
現代につながるところでいえば、伊藤次郎左衛門(後の松坂屋)、笹屋の岡谷惣助(後の岡谷鋼機)、十一屋の小出庄兵衛(後の丸栄)、知多屋の青木新四郎(後の名エン)、材木屋の鈴木惣兵衛(後の材惣木材)などである。
第2グループは、近在派である。その代表的存在は、滝兵右衛門(現・タキヒヨー)、瀧定助だ。尾張藩の御用達商人とは異なり、彼ら自身の才覚により、台頭してきた。近藤友右衛門(信友)、八木平兵衛、原田勘七郎らもこの系譜に属する。
第3グループは、外様派である。これは主に県外出身者であった。その代表は豊田佐吉だった。いうまでもなく佐吉は湖西の出身である。また、オークマを創業した大隈栄一も外様派の1人だった。それから森村グループの創業者である森村市左衛門も他国派の1人といえそうだ。
これらのグループは、常に競い合うような形で起業することが多かった。例えば銀行とか、紡績業とか、倉庫業とか、何かしら競い合っていた。
やる気の源泉はお金と飯 明治時代の商家の労務管理
明治時代の商家の店員は、当時6年制だった尋常小学校か、あるいはさらに2年間勉強する高等科のいずれかを卒業して、丁稚として入店した。名古屋市外の郡部出身者は前者、名古屋市内在住者は後者が多かった。いずれにしても、12歳か14歳だった。
丁稚時代は「何吉」という呼称を与えられた。幼い丁稚は、まず奥の仕事から修業した。掃除、水汲み、薪割り、風呂焚きなどだった。そういう中で、行儀や挨拶をしつけられた。
この修業を済ませて10代半ばになると、外回りに出掛けることになった。初めは先輩が同行したが、しばらくして単独になる。計算や記帳の誤り、連絡ミス、帰店時刻の遅刻などは厳しく注意された。時にはソロバンで頭を殴られることもあった。
丁稚小僧の時代は、木綿ガスリの着物を着用した。基本的に素足で、冬でも着用を許されなかった。だが18歳になると、元服して羽織と煙草入れをもらうのが通例だった。足袋も履かせてもらえた。
明治30年代の丁稚小僧は、お小遣いとして、盆・暮れなど特別な行事の都度、それぞれの経験と年齢に応じて、1円から2円をもらった。年間では、10円から15円ほどだったが、衣食住付きだったから、生活には困らなかった。
丁稚が商いの駆け引きを身に付け始める頃になると、やがて徴兵検査の年がやってきた。徴兵検査は満20歳になったら行われた。
この徴兵検査が済むと、もう一人前となった。丁稚としての修業が終わると、次は手代になった。手代になったら呼称が「何七」という風に変わった。手代になると、初めて羽織を着ることが許された。決算祝いの際には、店の幹部や来賓と席を同じくして「何七」という改名披露も行われた。
「見習店員○吉ヲ通常店員トナシ、○七ト改名ス」
墨でくろぐろと書かれた自分の改名披露を誇らしげに見上げ、新しい羽織の袖を引っ張ってみるのが丁稚の見習い店員の目標だった。
商家の勤務時間は、季節によって異なっていた。4月から9月までの間は、午前5時起床で、6時出勤、午後10時就寝だった。10月から3月までの間は、午前6時起床、7時出勤、午後11時就寝だった。
住み込み時代の息抜きは、たまの外出だった。外出は毎月1回認められていて、門限が7時と決められていた。その外出時においても、外食は禁じられていた。
実家に戻ることは年1回許されていた。おおむね1週間程度で、旅費、小遣い、土産代まで支給された。
それから今でいうところの社員旅行もあった。店の閑散期には、例えば3泊4日で旅行に行った。名古屋の商家の場合、例えば蒲郡の海岸など、山や海へ出掛けた。
給与は、丁稚時代に10等級、手代時代に13等級ぐらいに分けられていた。おおむね半年に1等級ずつ昇給することが多かった。今日の年功給与の原型がそこにあった。
今でいうところの大入り≠フようなことも行われていた。月商が目標を超えた際には、その労をねぎらう意味で、ご馳走が振る舞われた。例えば、鶏肉とか、すき焼きだった。食べ盛りの店員たちだから、この大盤振る舞いが一番の楽しみだった。だから毎月末になると「それ、もう少しですき焼きだ」「見落としはないか、もう一度よく調べろ」という掛け声が聞かれた。
給与のほかに賞与も支給されていた。決算期が無事終わり、良い結果が出た時は店員に分配された。これが大いに励みになった。だから店側も「一生懸命に働けば、その報酬は必ずあるものだ。だが、それには順序がある。まず木の幹を太らせ(店を繁盛させ)、そこから枝葉を伸ばせ(各人の報酬)」と店員に叩き込んでいた。
今でいうところの退職金≠フような制度もあった。給与の一部は、主人が積み立てていて、将来別家する時にまとめて支給されたのだ。お互いの信頼関係を基礎にした賃金後払い制だった。
10年以上住み込み店員を続けて、年も20代半ばになると、別家を許された。それまでの住み込みから解放されて独立するのである。その際には、家具・什器・布団・鍋・釜・米・味噌・塩・醤油まで支給されたので、一切合切に至るまで面倒をみた。そのうえで、積立金と祝い金まで付いていた。住居は、主人の借家を使うことが多かった。家賃は通常の半額を会社が負担することが多かった。
この20代半ばというのは、男の適齢期でもあった。親たちは息子の結婚の相談を主人にお願いしにくるようになり、主人も面倒見良く世話を焼いたものだった。
別家といっても、そのまま勤務を続ける「仮別家」と、暖簾分けということで独立自営をする「本別家」があった。仮別家とは、妻帯して通勤するようになることだった。そうなると本当の一人前の店員≠ニみなされた。給与は月給になった。
仮別家を許された番頭は、さらに1年間の「お礼奉公」をするのが、義務付けられた習慣だった。それが済むと、去就は自由となり、独立するのも、転職するのも自由だった。
本別家となって独立する者に対しては、仕入れ帳が渡された。この仕入れ帳は価値があった。というのは、仕入れ先から信用取引で商品を購入できたからだ。当時はもの不足だったので、商品さえ入れば商売は成功したのと同じだった。
このように明治時代の雇用関係は、江戸時代からのものの考え方や習慣を引き継いだものだった。ひとたび雇用関係に入ったからには、主人は使用人の生活の面倒をみていくものだった。使用人の側にも、主人のために身を粉にして働くものだということが当然だと考えていた。 
版籍奉還 諸話3
戊辰戦争を経て、新政府が目指したのは、天皇を頂点とする統一国家を実現させるためだった。これには、旧来の幕藩体制は、討滅の対象でしかなく、以後は存続の有り得ない国家形成であった。
版籍奉還はまさにその統一国家形成へ向けての第一歩となる政策であった。版とは版図の意味で日本国土を指す。籍は戸籍の意味で日本国民を指す。幕藩体制は、幕府が国政を天皇・朝廷より預かっていたが、日本全土は各藩が各地を治め、自治を認めていた。そのため、各藩への統治方針は、幕府はあまり干渉せず、各藩独自に任せていた。そのため、幕藩体制の廃止を目指す新政府は、幕府を倒した後に残った各藩に対する処置を考えなくてはならなくなった。全ての藩をなくすことを最終目標として、各大名の反発を抑えながら、徐々に政策を推し進めていくことが求められた。各藩が持っている土地や人民を天皇に返還させるには、新政府の核となっている西南雄藩が率先して、返還することで全国の諸藩に模範を見せることが肝要として、1869年(明治2年)1月20日に薩摩・長州・土佐・佐賀の四藩主が連著して版籍奉還する願いを新政府に提出した。
版籍奉還を率先して行った四藩主は、木戸や大久保など新政府の中心人物たちの説得工作によって、承諾したものだったが、実際には戊辰戦争などでの功績を賞されて、後日に石高倍増などがされると思い込んでいた。しかし、藩政奉還後は、改めて新政府より再統治するといった処置は成されず、完全に四藩主たちは、新政府にだまされた形となった。論功行賞においても石高倍増といったことは成されず、不満の残る結果となったが、新政府の勢いに押されて、不満を爆発させるわけにもいかず、さまざまな懐柔策も打たれてしまい、完全に諸藩の反抗は封じ込められてしまった。
この四藩による版籍奉還が成されると、天皇は大いに感激したと賞賛し、これが諸藩に伝わると全国の藩は次々と奉還を申し出た。自主的に奉還を願い出て、強制的に新政府側から奉還勧告をされないようにした方が無難だとの判断があった。5月3日までに全国262藩の版籍奉還が提出され、完全に新政府の思惑は成功した。版籍奉還が完了した後、政府は6月に入って、各藩主たちにそれまで通りの領土を統治させる権限を与え、改めて知事として政府が任命した。この旧藩主たちに従来どおり、領土の政務を執らせたことは、各大名の反発を抑えるためであったが、木戸孝允などは猛反対をした。せっかく版籍奉還が速やかに実行されて、平穏のうちに完了したため、この新政府の勢いをもって、一気に藩領を没収する方がよいとする木戸たちであったが、急激な変革は避けるべきとの意見が採用された。大名や公卿の名称は廃止され、一様に華族という名称に改められた。
これら諸藩の不満を最小限に抑えつつ、新政府は戊辰戦争の論功行賞を発表した。薩摩・長州には、それぞれ10万石、土佐には4万石、佐土原・大村・松代・大垣・鳥取にはそれぞれ3万石が恩賞として配布された。 
版籍奉還 諸話4 / 明治維新の展開と廃藩置県・版籍奉還
明治政府は中央・地方の統治体制を整備するために、1868年1月17日に三職七課制、2月3日に三職八局制という臨時の政府機関を置いていましたが、4月21日にアメリカの合衆国憲法・連邦制度を参考にした「政体書」を発令します。この政体書の発令によって、形式的な三権分立を実現した「太政官制」を固めました。立法権は議政官が担当し、行政権は行政官が担当し、司法権は刑法官が担当しましたが、この三権分立は欧米諸国に追いつこうとする新政府の姿勢を示すものに過ぎず、実質的には「維新の英傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允など)」を中心とする薩長閥が非常に強い権限を握っていました。
明治政府の成立当初は、為政者や庶民が話し合って物事を決めるという「公議世論・公議政体論」の影響が強く、「中央集権的な天皇専制=天皇絶対主義」といった政治改革の方向性は明確ではありませんでした。明治天皇は公議世論(公論)を尊重しながら政治的判断を下す「近代日本の国家元首(立憲主義に依拠する啓蒙君主)」としての役割を期待されていたのであり、公論を超越する天皇主権(天皇親政・個人崇拝の神格化)の色彩が濃くなるのは、「日清戦争(1894年)」以後に本格的な帝国主義・植民地獲得競争の時代に入ってからでした。明治時代の初めには天皇主権の君主政治を標榜しながらも、実質的には「公議世論と天皇親政の両立」が模索されていたのであり、明治天皇自身も日本の政治経済の近代化を推進する啓蒙君主としての役割を受け容れていました。
明治政府による中央集権的な国家体制を確立するためには、藩を統治する封建諸侯の領地(版)と人民(籍)を天皇(明治政府)に返還させる必要があり、参与・木戸孝允は1868年2月から岩倉具視・三条実美に「版籍奉還」について打診していました。1869年(明治2年)1月14日には、すべての土地と人民は天皇(国王)が所有するという王土王民(おうどおうみん)の思想を根拠にして、大藩である薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が代表となって版籍奉還(藩主の土地と人民の天皇・政府への返還)に合意しました。1869年1月20日に、明治維新に功績のあった薩長土肥の四藩が版籍奉還の上表書を提出したので、他の諸藩もこれに追随して次々に版籍奉還に同意することになり、6月17日には274大名が版籍奉還に応じました。
各藩の大名が素直に版籍奉還に応じた背景には、明治政府への版籍奉還を江戸幕府の本領安堵と同じようなものだと勘違いしていたことがあり、大名たちはいったん政府に返上した土地と人民が再交付されるものと信じていたと言われています。版籍奉還が実施された明治2年(1869年)の段階では、幕藩体制は完全には解体されておらず、藩主は非世襲の「藩知事(知藩事)」に任命されてそれまでと変わらない統治権を保障されていました。幕府直轄の旧天領や旗本支配地などは政府直轄地とされて「府」と「県」に再編され、中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣されたので、版籍奉還の時の地方統治は「府藩県三治制」になっていました。藩主(大名)が知藩事に任命された時に、公卿や諸侯の封建的地位が廃止されて「華族」となり、武士階級の人達も「士族」としてまとめられるようになります。
版籍奉還によって、藩主(大名)は「封建領主としての地位・家臣との主従関係」を否定されることになり、非世襲の知藩事に任命されたことで「藩政」のような地方自治の独立性も失われることになります。幕藩体制の封建的な世襲制を否定する版籍奉還は、日本の近代的な中央集権体制が整備される起点となり、地方自治体は中央政府の命令に従う地方行政機構へと再編されていくことになります。薩摩・長州などに代表される大藩はまだ藩政改革をする余力を残していましたが、地方の中小藩は財政が逼迫しており自ら廃藩を名乗り出るところもあって、「政府内部の急進派(木戸孝允)・漸進派(大久保利通)の対立」を抱えながらも、中央集権体制を完成させる「廃藩置県」の気運が高まってきます。
クーデターとも言える廃藩置県の断行に大きな貢献をした西郷隆盛は、「産業経済の近代化・資本主義化」には反対の思想を持っていて、「軍備の増強・農本主義の維持」の思想を持っていたとされますが、大久保利通は政府改革の自説を政府で通すために西郷の支援が必要と考えていました。1871年1月に、藩政改革のために鹿児島に戻っていた西郷隆盛を東京に呼び戻しますが、新政府内部では、産業経済の発展を重視する開明派の「大隈重信・木戸孝允」と軍事強化・対外強硬策(征韓論など)を掲げる保守派の「西郷隆盛・大久保利通」の対立の溝が深まってきます。1871年2月10日には、版籍奉還で失業した武士(士族)に仕事を与えるための「親兵設置」の要請が認められますが、この軍隊の近代化と関連する軍制改革では、山県有朋と西郷隆盛の「藩主に忠誠を尽くす藩兵の否定=政府直属の兵士についての話し合い」が持たれていました。
1871年7月4日に、山県有朋の配下の鳥尾小弥太と野村靖が木戸派と西郷派の対立に危機感を感じて、山県有朋に対して「廃藩置県」のクーデターの即時断行を提議します。鳥尾と野村は井上馨も仲間に引き入れ、井上馨は木戸孝允を説得します。山県有朋のほうは、西郷隆盛と大久保利通の説得に成功し、大隈重信の同意も取り付けて廃藩置県の実行に確信を強めていきます。薩長閥のリーダーである木戸孝允も西郷隆盛も「新政府の求心力・団結力」を回復して、停滞する政局を打破するために「廃藩置県」が必要であるということで意見が一致しており、三条実美・岩倉具視・板垣退助らの同意も取り付けていきます。そして、1871年(明治4年)7月14日に、知藩事を東京に召集して明治天皇が「廃藩置県」の詔を出すという天皇専制の形式で廃藩置県が断行されたのです。知藩事に代わって明治政府から「県令」が派遣されることになり、藩札を廃止して政府発行の紙幣を流通させることで「貨幣の統一」も図られました。
日本の近代化を促進した廃藩置県には、薩長の藩閥政治の思惑と天皇専制政治の形式との両面が作用しており、「非薩長系の大藩(熊本藩・高知藩など)」との公論(議論)が採用されなかったことで藩閥政治と天皇親政の独裁的性格を強めたという弊害も生みました。この独裁的・閉鎖的な藩閥政治を批判する政治運動として、板垣退助に代表される「自由民権運動(民選議院の設立運動)」が力を持ってくることになりますが、近代日本では立憲君主制と議会政治が成熟する前に、薩長閥・軍隊と近代天皇制(天皇絶対主義)の癒着という「非民主的な専制の危機」が台頭してくることになるのです。 
版籍奉還 諸話5
徳川慶喜は、その将軍としての地位を投げ捨てて、大政奉還を断行した。その理由・原因を追求するのはこのページの目的ではないのでここでは省略するが、数多くの志士の犠牲の末大政奉還が行われ名実共に幕府の支配が終了したのである。版籍奉還はこの大名版といえるであろう。慶喜は、大政奉還を行う時に有力な大名による合議制を考えていたであろう。優秀な人材とその能力をもって、日本というこの国の舵取りを行う事が諸外国に対するのに最良な方法であったかもしれない。この仮説は当時の有識者の一般的な考え方だったのであるが実際には薩摩・長州によるクーデターの結果歴史は新しい流れへと向かっていってしまった。当然確保されるべき徳川家の所領は取り上げられ、明治政府による新しい流れから弾き飛ばされてしまうことになったのである。
大名や武士は、その統括者の失脚によって新しく作られた政府−薩摩・長州らによる−に従わざるを得なくなった。彼らにさからった会津をはじめとする奥羽の諸藩は新政府によって次々と打ち破られていった。この事実を見ている諸藩は、政府方針には逆らえなかったのである。そんな状況のなかで、薩摩・長州・土佐・肥前の各藩の藩主の連名によって「版籍」が「奉還」されることになる。明治2年1月20日の事である。彼ら自らの考えで版籍を奉還した訳ではない。彼らは、当然「慶喜」の受けた処置を知っているから自らの手で藩という領地と籍という人民を「奉還」するとは思えない。政府の高官となった自藩の藩士に言い含められての事であろう。彼らは、どのように藩主を説得したのであろうか?藩という独立国家と、中央政権という新しい勢力。例えて言えばそれまでの幕府と同じ立場に彼ら−数年前までは自分の部下であった−が立っているのである。実力も能力もある彼らの意見(いつのまにかその立場が逆転してしまった彼らの)意見に対して、あるいは逆らえなかったのかもしれない。
藩主達は何を考えそして何を求めて版籍を奉還したのであろうか?多分、その地位や収入の保証を考えたのかもしれない。あるいはそのように言いくるめられたのかもしれない。どのような話がなされたのか、私は不勉強でわからないのであるが何らかの『約束』でもない限りこのような事は出来なかったような気がするのである。
これら四藩の版籍奉還の報を受けたその他の藩も同様に版籍を奉還せざるをえなかった。これら雄藩の行動を見習わない限り、どのような不利益が自分達にふりかかってくるかまったくわからなかったのである。たとえば将軍であった「慶喜」でさえその領地を取り上げられているし、まして反抗でもしようものなら会津藩のように潰されてしまうであろう。それよりは「自藩も同じく版籍を奉還してなんらかの見返りを期待すべきだ」と考えたのである。当然だろう。「まさか、全ての領地を取り上げられる」などとは考えなかったのではないか?しかし、その結果は、藩主という立場を追われ知事という立場に任命される事になる。この時には知事は世襲であって今後もその立場を続けていられるかのような指示であったがここでも政府は微妙にその立場を操作していた。
すなわち、彼ら知事は今までのように藩の主人としての立場ではなく藩の役人としての立場に落とされたのである。彼ら旧藩主もその給料を「藩」という組織からもらうようになった。これは、言い換えれば藩主としての立場を追われ、一人の役人の立場になった事を意味する。この施政によって、彼らと藩士の関係は主人と使用人の関係から上役と下役の関係になりさがった。会社でいえば、そのオーナー(あるいは社長)の立場から役員の立場となった事と一緒なのだ。しかし、彼らには既に抵抗する為の手段も力も残されてはいなかった。政府はこのように着々とその絶対的な地位を確立していくのである。 
版籍奉還 諸話6 / 維新後の大名と侍
明治維新後、士農工商の身分制度が廃止され、農工商の人達は平民となって苗字を名乗ることが出来るようになり、結婚や職業の選択の自由も認められました。いわゆる四民平等です。
それでは殿様とお侍たちはどうなりましたでしょうか。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還(土地と人民を天皇に返すこと)で藩主は華族となり知藩事に任命されますが、領地の再交付はなされませんでした。しかし引き続き旧藩内に居住は認められ歳入の10%の家禄が保証されました。これは天皇の領土を管理する長官になったのであり、中央からの給与ということになります。侍たちは士族という名になり俸禄を政府から支給されました。その額は各藩まちまちで旧禄の半分とか一割になったところもありました。明治2年、東北地方は天候不順で収穫3割、米価3倍という状態に加え戊辰戦争の戦費で膨れ上がった借金は収入よりも何倍もあったので、その返済も有りどうにもならない状況となりました。そのため自ら廃藩を申し出たり、士族には帰農 、帰商を勧告するような状況になりました。
明治4年(1871年)7月、明治新政府は廃藩置県の際に各大名家の藩債を処分し、明治9年には秩禄処分を行います。
明治4年の廃藩置県がスムースに行われたのは、何十万両にも及ぶ各大名家の借金を新政府が肩代わりしたこと、また大名を華族として俸禄を与えたことがあげられますが、士族となった侍にも俸禄が保証されたのです。しかし明治9年の秩禄処分で俸禄が無くなり士族の不満は一気に爆発します。
藩債処分
明治4年(1871年)7月の廃藩置県の際に明治政府は、各藩の大商人や外国からの債務を肩代わりすることにしました。各大名家の負債を以下の三つとみなし、
(A) 天保14年(1843年)以前の借金と年号不明の借金総額約1,200万両を旧債とする。
(B) 天保15年から慶応3年(1867年)までの借金約1,100万両を中債とする。
(C) 明治元年から明治5年に出来た借金約1,300万両を新債とする。
(参考 : 幕府の年の収入は120万両位であった)
このうち(A)の旧債を破棄し、(B)の中債と(C)の新債を明治政府で引き受けたのです。旧幕時代の大名家はどこも破産同然の状態でありましたが、明治元年からの戊辰戦争での戦費で新たな借金が出来たため、この藩債処分は殿様たちにとっては渡りに舟の救済策だったのです。明治2年の版籍奉還の時に旧藩主は旧領地の現高の一割を家禄として支給されることになっていました。この額は旧幕時代の四分六の40%の年貢よりも割が良かったのです。自らの領土が無くなっても、領内での諸費用や家臣への俸禄が無く、殿様のみは東京で華族として迎えられたのです。つまり勝ち組になったのです。しかしこの一割の家禄も明治9年の秩禄処分で撤廃されました。
秩禄処分
新政府は華族、士族に家禄を支給してきましたが、その家禄が歳出の30〜40%に及ぶため財政負担軽減策として俸禄支給を停止して公債を発行することにしました。また四民平等・近代国家を目指す政府にとって、いつまでも華・士族に特権的年金を与えておくわけにはいかなかったのです。
明治9年8月、米の相場に合わせた現金を公債として与えるということにしました。まあ退職金とでもいうのでしょうか、5年分から14年分にあたる借金証書を渡したのです。
これは5年間据え置きで、6年目から年一回30年で返すというものでした。公債の総額は1億7579万円で利息が毎年1161万円に上りました。当時の国家の歳入は6000万円〜7000万円でしたので利息の額はたいへんなものでした。 しかし32万人の士族に支払われる金額は平均40円に満たない額で、これではとても生活出来る額では無いので、不平士族の乱へと発展しました。
260年あまり当たり前のように得ていた禄が無くなり、働かなければ生活できないということを認識するのにやはり戸惑いがあったのでしよう。
この内乱は結局全て鎮圧されましたので、下級士族は賃金労働者になり、頭の良い大名や高級士族は公債で土地を買ったり、投資をしたりで資本家となっていったのです。
不平士族の乱
明治6年の徴兵令 四民平等に兵役につくことが決められましたが、戦(いくさ)は侍の仕事でしたので一つの不満となりました。
明治9年3月の廃刀令 武士の魂である刀を取り上げられたので、やはり不満。
明治9年8月の秩禄処分 これまで補償されていた給与の全廃で大不満。  
以上のことから、明治7年から10年にかけて特権を奪われた不平士族によりいろいろな内乱がおきます。特に明治維新の勝ち組である士族によるものでありました。
佐賀の乱 明治7年(1874年)2月、征韓論で下野した前参議兼司法卿の江藤新平の率いる3000名が挙兵し佐賀県庁を占拠しましたが、大久保利通率いる新装備の政府軍により鎮圧されました。江藤新平は裁判にかけられたうえ死刑になり、首はさらされました。司法卿であるこの人によって汚職を追及された高官は多く、嵌められたのではないかとの説もあります。しかし期待していた西郷の薩摩も板垣の土佐も共に決起するということはありませんでした。
(九人の参議のうち征韓論は西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五名、非征韓論は木戸孝允、大久保利通、大隈重信、大木喬任の四人で数の上では征韓論派が勝っていたのですが、病に倒れた三条実美に代わって太政大臣代理になった岩倉具視が天皇に征韓不可を上奏し勅許を得てしまったので征韓派五名は辞職をしたのです。)
熊本神風連の乱 明治9年(1876年)10月24日深夜
読んで字のごとく、西洋化に反対する旧守派200名が廃刀令を期に、神官太田黒伴雄(ともお)を首領として熊本鎮台を襲撃した事件。翌朝態勢を立て直した政府軍により壊滅状態になり、 太田黒は銃撃を受けて自刃、他は四散し自刃した人も多く、死者は124名を数えました。この乱を契機に士族の乱が連鎖していくことになるのです。
福岡秋月の乱 同年10月27日
神風連の乱から三日後、敬神党(神風連)と約束していた秋月藩の士族宮崎車之介ら400名が決起。警察官を殺害後、同時決起を約束していた豊津藩に向かうが反故にされ、待ち受けていた乃木希典率いる小倉連隊の兵の攻撃を受けて退却、10月30日秋月党は解散し宮崎ら七名は自刃。残る抗戦派26名は秋月に戻り反乱対策本部を襲撃したが鎮圧され11月1日終息しました。
山口萩の乱 明治9年10月28日
首謀者前原一誠は大村益次郎の跡を継いだ兵部大輔(ひょうぶだゆう 国の防衛や治安を司る役職)でもあり、また元参議でありました。吉田松陰の松下村塾の出でもありますから萩ではエリートということになります。
前原一誠は「徴兵制」を巡る論議から木戸孝允や山形有朋と対立して下野していた人で政府には不満を持っていました。明治9年10月28日、前原一誠は500名に膨れ上がった「殉国軍」を率いて挙兵を致します。
反乱軍は山口県庁を襲撃しようとしましたが事前に察知され市街戦となり、結局軍艦まで出動させた政府軍に敗れます。11月5日前原は船舶で逃走中、島根で逮捕され12月3日判決のその日に斬首となりました。
またこの乱後、吉田松陰の叔父で松下村塾を主宰していた玉木文之進は子弟や養子の玉木正諠(まさよし)が乱に関係し死亡したことに責任を感じ自刃しました。玉木文之進のもとに養子に入った正諠は実は乃木希典の実の弟です。実の兄弟が敵味方になるということはよくあることですが、やはりドラマのように凛とした永訣の宴があったのでしょうか。
乱の当事者の心の中には必ず西郷が一緒に決起してくれるという思いがありましたが、むなしく全て鎮圧されていきました。政府の一連の士族対策のうち秩禄処分こそが不満士族の乱の直接原因であったのです。 
西南戦争
征韓論(征韓論は失職した士族の救済という面もあったのです)に破れ下野していた西郷隆盛がやっと立ち上がるのが、明治10年(1877年)2月15日、いわゆる西南戦争です。
西郷さんも可哀想です。忠臣蔵の大石内蔵助と同じで、嫌でもまわりが許してくれません。慕う部下に命を預けましたところで歴史が動き、旧制度最後の戦の火ぶたが切って落とされます。自由民権派も途中で加わり、総勢兵力三万人。
「今般政府に尋問の筋これあり」と鹿児島を発し、東京まで行くはずだったのが熊本城で引っかかってしまいました。そこからUターンして田原坂で死闘を演じ、鹿児島に戻って「晋どん、もうここいらでよか」と城山で腹を切ったのが9月24日。薩摩は治外法権のような状態でしたので、この戦によって封建武家制度は実質的に終結しました。
※「晋どん」とは別府晋介といって、西郷と最後まで行動を共にした軍人で、西郷を介錯したのち自刃、享年31歳。
華族になった殿さま
明治2年の藩籍奉還に伴い、公家・諸侯(大名)は華族となることに決まりました。明治17年には華族令の制定により、万民の模範になるようにと公・侯・伯・子・男の5爵に列せられることになりました。爵位は男系の戸主に授けられ、武家の場合は戊辰戦争の尊王・佐幕にかかわらず石高によって決められました。次に皇族、公家、神職・僧職を除く主だった大名の実情を示してみましょう。 幕府側についた諸侯も思ったより寛大な処置で全てが爵位を授かっています。
公爵 / 特例 / 薩摩・長州・静岡(徳川16代家達)・徳川慶喜・水戸・島津
侯爵 / 15万石以上 / 加賀・紀州・尾張・広島・福岡・徳島・佐賀・高知・鳥取・岡山・秋田・福井・宇和島・熊本・
伯爵 / 5万石以上 / 松江・弘前・盛岡・津・久留米・伊予松山・姫路・高松・柳川・冨山・新発田・米沢・仙台・彦根・大和郡山・小浜・福山・前橋・佐倉・平戸・対馬・・・等+ご三卿
子爵 / 小藩 / 斗南(会津)・高田・棚倉・陸奥磐城平・上野高崎・下総高岡・伊勢亀山・淀・小田原・・・等
男爵 / 江戸時代に大名ではなかった家、明治以降に大名家から分家した家、大藩の家老
注1 石高は表高ではなく実収入を基準にして決められました。彦根藩井伊家は35万石でしたが、殿様が暗殺された後、安政の大獄を行ったことにより10万石の減封を受けて25万石、さらに5万石は幕府からの預かりで20万石。そして実収入は9万石と計算されて、 侯爵のはずが伯爵となりました。官軍に恭順した仙台藩も62万石から28万石に減封されたが同様な理由で伯爵となりました。
注2 長州にとって憎んでも憎みきれない会津藩はお取潰しとなりましたが、明治2年東北の荒れ地に3万石を下賜され、 斗南藩となったため子爵となりました。
注3 赤字は墨田区に屋敷があった大名。
注4 大名以外で墨田区で有名な人は勝海舟で、この人は勝安芳という名で伯爵に列せられています。
注5 華族制度は第二次世界大戦終了後の日本国憲法制定に伴い全廃されました。
明治維新によって平等な世の中になると期待されましたが、生き残った新政府軍の上層部には「おれたちが命を懸けて創った世の中だ」と目もくらむような給料をとり、豪邸に住み、妾を囲うような生活をした人も多かったのです。また上記の殿様も特権階級として残りましたので、真の民主主義が訪れるのは第二次世界大戦後でそれもアメリカの主導により与えられたものです。 
 
廃仏毀釈

 

諸話1 / 廃仏毀釈
もともと日本にあった神を祭る習慣が形式化したのが神道ならば、その途中から日本に入ってきたのが、仏教であった。神道は、天皇を奉る上で欠かせない信仰精神の拠り所となる分野であるが、中国から輸入されてきた仏教は、聖徳太子の頃から、熱心に信仰されるようになり、その後の日本史を左右するほどの影響力を持った。幕末までは神仏習合の形が取られ、ともに祭祀が行われていたが、維新を迎えたころから事情が変わってきた。天皇を頂点とする統一国家が誕生すると、その理念を体系化した神道は、国教と見なされ、その顕在化をしなくてはならなくなった。仏教と融合さえされていた神道を引き剥がし、二つを分離する作業が必要となったのである。
それまでの神道と仏教は、神道習合がなされていて、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ※仏が人々を救うために神に姿を変えてこの世に現れ出ているとする説)に従って、神社は神宮寺(じんぐうじ)や別当寺(べっとうじ)などを設けて、神社の中に仏教思想を取り入れていた。そうして、別当僧が神官を兼ねたり、神社のご神体を仏像にしている所が多かった。
この神仏習合の状態を無くすべく、明治政府は「神祇(じんぎ)ヲ崇(たっと)ビ祭祀ヲ重ンズルハ皇国ノ大典、政教ノ基本ナリ」として古代の政治理念である祭政一致を唱え、神道を国教と定めた。そして、全官庁の最高位に神祇官を置き、皇室の祖先神を奉る伊勢神宮を国家の宗廟(そうびょう)とした。この新政府の方針のため、檀家制度に支えられ、国教的特権を有してきた寺院を神社から切り離す運動が全国的に巻き起こった。1868年(明治元年)3月、諸神社に対して仏僧が社務に従うのを禁止し、彼らを還俗させ、僧位・僧官を返上させた。また、菩薩や権現など神仏習合の神号を廃止し、梵鐘(ぼんしょう)や経文(きょうもん)・仏具類を神社に置くことを禁じた。
こうした運動は平田篤胤が提唱した排仏説に共鳴する志士たちによって、推し進められた。平田は「仏は日本の国の居候(いそうろう)である」と位置付け、勤王の志士たちに支持された。また、長年に渡って、僧侶に圧迫されてきた神職たちも不満をこの時に爆発させて、廃仏毀釈運動は促進されていった。
全国各地で行われた廃仏毀釈運動は、特に佐渡・富山・松本・美濃苗木・津和野・薩摩などで激しい運動が展開され、僧侶に対して、還俗・帰農が強制された。これら一連の過激な運動も、1871年(明治4年)に神仏分離や廃仏毀釈の行き過ぎから仏教の将来を案じた三河の僧侶たちが一揆を起こすと、これを境として、仏教迫害への運動も次第に鎮静化していった。
諸話2 / 神仏分離

 

井上清著の「日本の歴史」のなかに、以下のような記載がある。
「・・・飛騨に入って民衆から大歓迎された竹沢寛三郎も、あまりに民衆と密着したから、野心家と政府に疑われて、わずか一ヶ月あまり後の三月十三日には早くも免職され、ついで処罰された。その後任にきた梅村速水(水戸藩士、ときに二十七歳)は、かれの主観では、誠心誠意をもって護民官たらんとしたが、中央政府の方針を忠実にまもり、竹沢の発した年貢半減令はとりけし、管内の地主・豪商層に依拠する諸政策をとったため、地主・豪商の支持はうけたが、一般農民および高山の下層町人からうらまれ、ついにこの翌年早々の民衆蜂起で失脚する。旧幕府の飛騨郡代逃亡から梅村失脚までの歴史は、新政府と民衆の関係を典型的に示すもので、江馬修(えましゅう)氏の小説『山の民』に、それがみごとに描かれている。・・・」
「・・・阿波出身の竹沢寛三郎(後の新田邦光、神道修正成派の創始者)は、・・・ついで二月三日、旧幕領飛騨の高山に入り、当年の年貢半減・諸運上免除を令して民心獲得につとめた。・・・竹沢に飛騨の管理を命じたのである。世故にたけた心のあたたかい竹沢は、ときに四十歳、二月四日、高山に入り、郡代役所を接収すると、すこしも威圧的でなく、人心の機微をつかんで市中の秩序を回復し、年貢半減その他、民衆待望の画期的な負担軽減を令した。かれは民衆からまるで救世主のようにあがめられた。・・・」
後に明らかになるように、政府ははじめ民衆を幕府から引き離すために年貢の軽減等の方針を打ち出していたが、途中からその方針を取りやめそれまで行われていたやり方に戻してゆく。明治元年(1868年)8月に出された「・・・『諸国の風土をじゅうぶん明らかにしないうちに、にわかに新法をもうけるときは、かえって人情にそむくであろう、ゆえに一両年間はしばらく旧慣によれ』・・・」という命令に端的にあらわれている。『旧慣によれ』といえば聞こえは良いが、要するに「勝手に年貢を半減したりするような令を下してはいけない」という事なのだ。竹沢が免職させられたのも実際にはこのような背景があったものと考えられるのである。
歴史的な背景はここまでにして、「山の民」の内容についてすこし書いておきたい。それは、神仏分離についてだ。歴史の本などを見ると、簡単に「仏教と神を明確に分ける指示を出した」と書かれている。明治政府は、そのよりどころを天皇の存在に求めたが、天皇は日本というこの国を造った天照大神の子孫であるからまさに神を祭る事は神につらなる天皇を敬い祭る事と同じく重要なことであった。「大政復古」の大号令にも「・・・諸事神武創業ノ始ニ原ヅキ・・・」とあるように神の子孫である天皇の存在と、外来の仏(仏教はインドのブッタが始めたものであることは周知の事実ですが)の存在とが、渾然一体となった状況をほっておくわけにはいかなかったのだろう。このような考え方から出された「神仏分離」が、実際に民衆にどのように受け止められ、どのような反応を示したのかについてあまりに私は知らなさ過ぎたようだ。その事を「山の民」を読むことによってあらためて思い知らされた。
梅村は、中央政府の指示に従い、「神仏分離」を人々に浸透させようとした。その為に派遣した役人と山伏の一向は、村々に存在する神社の御神体を次々に調査してゆく。越中や加賀は知ってのとおり一向宗が最も盛んな場所であった関係上これらの場所に近い高山の民衆の中にもそうった関係から仏教徒が多かった。多くの民衆にとって、その村の神社で誰が祭られているかという事はあまり問題にもされずその結果神社の御神体が仏像である場合が多かったのであろう。神社に仏像、この取り合わせのちぐはぐさをあえて問題にする者もいなかったし、御神体が何であってもそれは関係無く崇拝の対象だったのだろう。それを、彼らは一つ一つ調べて、御神体を持ち去ってしまった。そのくだりは以下のように書かれている。
「・・・『ちぇっ、何ということじゃ』山伏はそう云ったかと思うと、骨ばった長い右腕をぐっとのばして、けがれたものでも取りのけるように、仏像をわしづかみにして取った。そしてさっさと社殿を出て階段をおりにかかった。『山伏さま』長作はきもをつぶして、追いすがるようにしてきいた、『その御神体をもって行ってしまわれますので?』『御神体?』と山伏はきびしい、腹だたしげな顔つきでこたえた。『なにが御神体じゃ?こりゃ仏像じゃないか。仏像を御神体がわりにするなんて、まったく言語道断じゃ。神罰をおそれぬにもほどがある』『これは役所に持って帰る』と地役人が仏像を山伏からうけとりながらぶっきらぼうに言った。『では、このお宮を無神になさりますので?』仁右衛門がおそるおそるそうきいた。地役人はまるで叱りつけるようなきびしい調子で答えた。『無神にするもせんも、初めからちゃんとした御神体が無いんじゃないか。それから、申し渡しておくが、あすの祭礼はかたくさし止める。御神体もないのに、祭礼でもあるまい。もしこれに違背したら、きびしいお咎めがあるからよく承知いたせ』・・・」
彼らは、このようにして村々の神社を回っていった。殆どの村の神社の御神体はこのようにして持ち出されてしまう。その後の、民衆の話のなかで、梅村は「御神体が無くなった神社に出来れば水戸烈公を御祭神におむかえしたい」と話していたというくだりがある。今の私達は、梅村が水戸藩出身であることから「水戸烈公をお迎えしたい」という気持ちになったのもわからなくは無い。しかし、当時の民衆はそのように「ミトレッコウ」と言われて理解できたとはとうてい考えられない。笑い話みたいだが、「ミトレッコウ」をキリスト教の神だと思い込み、「梅村はキリスト教信者でその為に御神体をもちさってしまった。」と考えたのである。
この場合に、梅村がどのような言い訳をしたとしても民衆はその言葉を理解することは出来なかったであろう。しかし、彼はそのようにはしなかった。梅村は自分の行っている行動はあくまで朝廷の−政府の思惑に従って行動しているだけで「他に何も間違った事はしていない」という自信があったから。そうであろう。指示された事柄を熱心に情熱的に推し進める事が、朝廷の意向であり民衆に今は理解されなくても4・5年すればきっと分かってもらえると信じていたのだから。
朝廷の考える通りに政策を推し進めることが、民衆の為になると信じて行動していたのだろうから。
しかし、彼にはひとつだけ見えていなかったものがあった。それは、民衆の考え・民衆の声だ。彼は、飛騨の実情をあまりに知らなすぎた。その辺りに梅村が失脚し失意の内に亡くなった原因があったのだろう。 
諸話3 / 廃仏毀釈 (廢佛毀釋、排仏棄釈)

 

仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。
明治期以前の廃仏運動
仏教が日本に伝来した当初は日本書紀の欽明・敏達・用明各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。
江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策をとった。
徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。
江戸時代後期の廃仏運動
光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。
また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の宗教政策に深く関与することになる。
明治期の神仏分離と廃仏毀釈
大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。
神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。
一向宗が強い三河や越前ではこれらの処置に反発する一向一揆が見られたものの、それを除けば、全体としては大きな反抗もなく、わずか2、3年後の明治4年(1871年)頃には終息した。
大阪住吉神社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年(明治6年)にほとんどが壊された。奈良興福寺の食堂は1875年(明治8年)に破壊される。出羽三山については、1874年(明治7年)以降に廃仏毀釈が始まる。
例えば千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。現在は修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。
伊勢国(三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。その為、全国平均に較べて古い建物の数自体が少なくなっている。
明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。
美濃国(岐阜県)の苗木藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。
一方、尾張国(愛知県)では津島神社の神宮寺であった宝寿院が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している。
廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。
一方で、廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代、寺院はさまざまな特権を与えられ、寺社奉行による寺請制度で寺院を通じた民衆管理が法制化され、それに安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発によるものという一面もある。藩政時代の特権を寺院が喪失したことによってもたらされた仏教の危機は、仏教界へ反省を促し伝統仏教の近代化に結びついた。
尾鍋輝彦は、近代国家形成期における国家と宗教の問題として、同時期にドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクが行った文化闘争との類似性を指摘している。
明治期の神仏分離政策後、政府の意図に反して、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。廃仏毀釈の原因は地域・事例ごとにさまざまであるが、廃仏思想を背景とするもののほか、近世までの寺檀制度下における寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院財産の収公を狙ってのことなど、社会的・政治的理由も窺える。政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。 
諸話4 / 廃仏毀釈の嵐

 

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。
梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。
標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。
「廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言葉を使って誤魔化しているが、このような文化財の破壊行為が犯罪にもならず取締りもされなかったことはなぜなのか。
また以前、兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡神社にも三重塔が残されていることを書いたが、このように神社の境内に仏塔が残されているケースはわずかだけで、数多くの塔がこの時期に破壊されてしまっている。
日本の風景を一変させた廃仏毀釈は平田篤胤の国学や水戸藩の排仏思想の影響が大きかったとよく言われるのだが、江戸時代の幕末にこの様な、過激な思想が拡がった背景についてわかりやすく解説している本を探していたところ、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、昭和18年に出版された菊池寛の『明治文明綺談』の文章が目にとまった。そこにはこう述べられている。

「徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…
それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』… 荻生徂徠も、『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」

儒者の熊沢蕃山(1619-1691)や荻生徂徠(1666-1728)までが、当時の仏教界をこれほど厳しく批判していることは知らなかった。排仏論を唱えたのは平田篤胤(1776-1843)のような国学者ばかりではなかったのだ。さらに名君と呼ばれた藩主までもが、かなり早い時期から、仏教の堕落を批判している。わかりやすいように藩主の生存年を付記して菊池寛の文章を再び引用する。
「…学者の排仏論のほかに、政治家であって真先に排仏論を唱えたのは、水戸光圀(1628-1701)で、その死ぬときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。そのほか領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をどし還俗させている。このほか、岡山の池田新太郎光政(1609-1682)、会津の保科正之(1611-1673)、さらに下って水戸の徳川斉昭(1800-1860)、当時名君といわれた藩主はみんな盛んに排仏をやっている。彼らの儒教的教養からみれば、仏教の堕落は、言語道断だったのであろう。こうした底流の下に、明治維新を迎えたのである。仏教が徹底的にやっつけられるのはやむを得ない形勢であったのだ。」
菊池寛は小説家だから、あまり信用できないという人もいるだろう。
以前、廃仏毀釈のことを書いたときに引用させていただいた、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という本がある。羽根田氏は仏教側の論客のようだが、この本の中で格式の高い寺院ほど腐敗していて、その仏教界の腐敗が廃仏毀釈を招いたと述べておられる。
「…諸寺の寺領は、諸侯の知行よりかは少なく、公卿の家領よりかは多かった。即ち日光山輪王寺の壱萬三千石、増上寺の壱万石、比叡山延暦寺、三井園城寺の各五千石を最多とし、以下二三千石、または数百石、或は数十石を最小として、いずれも幕府の墨印、奉行の朱印が下付せられてあった。そして寺領の石高は、幕府より現米で渡るのではなく、領地から年貢米として、寺門に収納するのである。…各寺に役所があり、俗役人があって、各領内の行政、すなわち領民の願伺届、及び訴訟の事務を取り扱った。そしてこれらの俗務は、寺侍いわゆる俗役人の専務にして、僧徒は毫もこれら俗事に関係せず、所謂、長袖風にて金銭の価格、収支の計算等、すべて経済の何たるも知らず、却って之を卑しめ、識らざるをもって誇りとしておった。……将軍家、及び諸侯の菩提所、勅願書はじめ、由緒ある寺院は、寺領の外に、堂塔、坊舎の営繕費などは、またみな官費、公費を以て、支弁するのは勿論、臨時の風水害等のある場合は、直に屋君を派遣して、損所を修理せしめた。ゆえに是等特待の寺院は、素より多額の寺領を有して僧侶は、手許の有福なるに任せ、曾て人生艱難の何たるも知らず、常に飽食暖衣して、日夜歓楽に耽り、宗祖の辛苦経営も、済度衆生の行業も、更にこれを知らず、ただ識るものは、栄花と、権威を振るうことばかりであった。実に仏教の衰勢を招き、近く明治維新の大打撃を受くべき素因を、早くここに、作っておった。実に自業自得の結果、如何ともすること、能わぬぞ是非もなき。」
羽根田氏はこのような仏教界の腐敗があり、排仏説を唱える平田篤胤らの説に多くの人々が共鳴したのは自然の成り行きだとも書いておられる。
「当時、世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしおる矢先に、かかる耳新しき、日本的の説を聞いたのであるから、靡然として、人心の之(平田篤胤らの説)に向かうのは、自然の勢である。しかも、当時水戸あたりから、しきりに尊王攘夷の説の宣伝せられ、上下一般に、その説を歓迎せんとする、傾向のあるを好機に、排仏思想の儒者も、国学者も協心一致して、神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要あるということに、儒者、神学者、国家者、みな同心一致して、その実施の機会を待っていたら、ほどなく幕府の大政返上となり、ついで王政復古の大号令となり、新政施行機関として、先ず神祇官、太政官、諸省の設置となり、人材登用の趣意により、右三者の有志家は、それぞれ官省に出仕して、国政に参ずる地位を得た。これが近縁となり、ここに各自理想の廃仏毀釈を、事実上に施行せんと企んだ。時に新政府は、内外の政務混乱して、緒に就かざる機会に乗じて、陽に朝威を借り、陰に私意を含み、無智、無学に、しかも惰眠に耽る僧界に対し、迅雷一声思いのままに、廃仏毀釈の暴挙を実行するに至った。」
神仏習合の神社においては社僧と呼ばれる僧侶がいて、社家の神主もいたのだが、社僧と神主との関係はどのようであったのか。羽根田氏はこう述べている。
「もっとも各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。……いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。……堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。」
このような流れの中で、慶応3年(1867)10月に仏教を厚遇してきた江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還したのち、維新政府は慶応4年(明治元年:1868)3月以降、神仏分離に関する命令をいくつか出している。
そのうちの幾つかを読み下し文で紹介したい。

3月17日神祇事務局達
「今般王政復古、旧弊一洗なされ候につき、諸国大小の神社に於いて、僧形にて別当*、あるいは社僧など相唱え候輩(やから)は、復飾**仰せ出され候…」 ( *別当:社寺を統括する長官に相当する僧職 / **復飾:僧侶になった者が、俗人に戻る事。「還俗」とも言う。)
さらに3月28日には、2つの神祇官事務局達が出ている。
「中古以来、某権現*、あるいは牛頭天王**の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地***等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと」 ( *権現:仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号 / **牛頭天王:祇園社などの祭神。祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも言う。/ ***本地:衆生を救うためにとる神などの仮の姿を垂迹と呼ぶのに対し、仏・菩薩の本来の姿を言う。)
また4月24日には太政官達が出ている。
「このたび大政御一新につき、石清水、宇佐、筥崎等、八幡大菩薩の称号止めさせられ、八幡大神と称し奉り候様、仰せ出され候こと」
維新政府の神祇官には国学者・平田篤胤の弟子で篤胤の婿養子となった平田銕胤(かねたね)や、銕胤の長男の平田延胤(のぶたね)や、平田篤胤の門人で苗木藩の全寺院を廃仏毀釈で破壊した青山直道の父親である青山景通がいて、神祇官の考えが「廃仏」に傾いたのは自然の流れであったと思うのだが、これらの維新政府の「達」には仏像や仏具などを「取り除き申すべきこと」とは書かれていても、「破壊せよ」とか「焼却せよ」とはどこにも書かれていないことは注目して良い。
明治初期においては政府の権力は脆弱で、神祇官事務局達や太政官達にはそれほど強い強制力はなかったようなのだが、全国各地に平田派の国学者が多数任官されていて、それに影響された神官が数多くいたという。
それゆえ、維新政府が考えていた以上に破壊行為に走るケースが多く、実際に破壊行為に及んだのは地方の事務官や神官だったという。
慶応4年4月10日の太政官布告では、仏像などの破壊行為を戒めている。意訳すると、
「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる。…」
とあるが、この布告は各地で極端な廃仏毀釈が行なわれたことを暗示している。
しかしながら、明治政府はその後も神仏分離を求め、寺院の収入源を断つような命令を出し続けて、仏像等を破壊する行為を厳しく取り締まることも処罰することもなかったのである。
新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)のように、廃仏毀釈で寺宝を強奪して売却することにより私腹を肥やしたとされる人物もいた。その意味では明治政府も共犯者である。明治初期に大量の文化財が破壊されたことについては、明治政府や地方の事務官や神官に責任があった事は確実なのだが、仏教界にも問題がなかったわけではない。
江戸時代の長きにわたり仏教界が腐敗していた状態を放置し、改革を怠ってきたことが排仏思想を生むきっかけを作ったのだが、仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れて明治維新が神仏分離の命令を出すと、多くの僧侶が抵抗らしい抵抗もせずに、信者を見捨てて自分の身を守るために還俗してしまった。そのことが廃仏毀釈時に多くの文化財を失うことに繋がってしまったのだが、このような時にこそ僧侶は体を張って、信者と力を合わせて文化財を護って欲しかったと思う。 
諸話5 / 明治政府が急ぐ近代化への道

 

国家神道
明治維新のおこなった、宗教政策の大転換
明治政府は王政復古をもとに、祭政一致を目指して神社を国家統合の機関にしようと意図した。天皇の政治支配を正当化する根拠を「記紀神話」に求めたのである。神道だけが、ただひとつの国教として正当化した。森前総理ではないが「日本は神の国」であったのである。
幼い天皇(当時15才)を補弼(ほしつ)している人々が、政治を壟断(ろうだん)しているという批判に対抗するため、天皇みずからが政治をするという体制を整える必要があったのである。そのため「王政復古」「祭政一致」の実現をめざした。
神祇官(じんぎかん)を再興と神仏判然の沙汰
明治元年(1868)3月13日、「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が出された。全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれたのである。神社が国民の戸籍を扱う国家機関のひとつとなったのである。
明治政府は、祭政一致を実現するためにも、諸社と諸祭奠の調査を行うことになった。明治元年(1868)12月20日、「延喜式神名帳所載諸国大小神社」の取り調べを府藩県に命じ、「式外ニテモ大社之分旦即今府藩県側近等ニテ崇敬之神社」についても同様に申し出ることを命じた。
明治2年6月10日の「神職神葬祭」、「神職継目」など主要神社精査に関する通達、その後、15項目に渡る調査票につながるのである。慶応4年3月以降出された「神仏分離」の諸布告である。
神仏判然の沙汰が生んだ過激な廃仏毀釈の動き
権現、明神、菩薩などの仏教的な神号を廃止すること、神社から本地の仏像を取り除き、仏具を神社に置くことが禁止された。この政策は仏教を廃し、釈迦の全てを否定して壊す「廃仏毀釈」となり、これまで、僧侶の下に置かれていた神官が政府の威をかりて廃仏毀釈に走ったのである。明治3年(1870)から4年にかけて頂点に達した。これらの政策により宗教界は大混乱となった。
特に有名なのが比叡山麓坂本の「日吉山王社の事件」である。慶応4年4月1日(1868年)、日吉社へ120人ほどが押し寄せ、神殿に侵入、仏像、仏具、経典などを破壊した。廃仏毀釈の最初の暴挙である。
また、興福寺でも僧侶全部が神主になり仏像や伽藍を破壊した、五重塔も金具を取ることだけで売られ、焼かれようとした、延焼をおそれた近隣の住民の反対で中止されたという。
これらの動きは全国に広がり藩ごとに強行された。富山藩では領内の1635ほどあった寺を6寺までしようとする凄まじいものである 。伊勢神宮のある地方では、196箇所の寺が廃寺にされ仏像は捨てられたりした。
明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、苗木藩、富山藩、松本藩などである。特に明治維新を起こした藩では民衆の参加も狂信的で仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、など全てが破壊された。今でも九州には有力な大寺はない。この時、破却、廃寺された寺は全国の半分になったという。はっきりした数は把握されていない・
しかし、政府にとっても江戸開城の前であり、仏教界の動向が必要な時期でもあるため、過激すぎた首謀者は処罰された。明治まで仏教との下におかれた感のある神職達が、政府に迎合する形で暴発した感じである。
廃仏毀釈は明治初年から4年頃まで荒れたが、廃藩置県の施行と供に徐々に民衆の抵抗に遭い頓挫していった。
廃仏毀釈と仏教界の衝撃
廃仏毀釈が仏教に与えた衝撃は大きかった。しかし、出来たばかりの新政府が脆弱な基盤のため、仏教界の協力を必要としていたことも事実である。両本願寺、特に西本願寺は鳥羽伏見の戦いの前から朝廷に忠誠を誓い、鳥羽伏見の戦いの際には、御所猿ケ辻の警備を命じられた。また、東本願寺は戦いの前に朝廷側についた。維新政府にとって両本願寺からの莫大な献金はありがたかった。太政官が真宗各派にたいして廃仏の意志のないことを明言したのである。真宗は神仏分離や寺領上知(じょうち)の影響を受けなかった、ただひとつの宗教である。廃仏毀釈の吹き荒れた地方でも真宗の寺は抵抗した。
明治4年に出た「寺領上知(じょうち)の令」
これは古来よりあった寺の領地を全て取り上げ、経済的な面から寺を追いつめた。古い大寺ほど徳川家を始めとする大名家から寄進を受けていた。古都奈良の寺や全国の由緒ある寺が一気に食べていく手段を失ったのである。そのため、寺は内部から崩壊して、神職に走るものや仏像や寺宝を持ち出すものなどが後を絶たなかった。ここからも多くの美術品の流失が始まったのである。
江戸時代の大和にあった寺の石高
興福寺15033石、東大寺2211石、一乗院1491石、法隆寺1000石、吉野蔵王堂1000石、内山永久寺971石、大乗院914石などである。大田区にも多くの寺領があった。南馬込の環七あたりは芝の増上寺の寺領であったという。この上令により僧侶達の動揺は凄まじく、食べるために僧侶を捨てる過激な廃仏毀釈に走ったのである。
日本型政教分離による国家神道
明治4年の欧米を訪問した岩倉使節団(右写真)は、訪問する各国でキリスト教迫害について抗議を受けた。明治政府は浦上キリシタンの弾圧を中止した。明治6年キリスト教禁止令が解かれた。また、各宗派の上に立つという神道はなくなり、明治15年に神官は葬儀に関与しないことになり、神道非宗教説に立つ国家神道が成立した。
民俗信仰の禁止
土俗的な風習への圧力は廃仏毀釈の狂気が収まった明治4年以降も、近代化政策(文明開化)のもとに押し進められていった。六十六部の禁止、普化宗の廃止、修験宗の廃止、僧侶の托鉢禁止、祈祷などの禁止などである。
修検道
特に神道とも 仏教とも違う修験道は、神仏分離の大きな影響を受けた。吉野や羽黒山の修験の中心地は、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心におおくの神社や寺があったが、明治7年に全山を神道化せよと命じられた。激しかったのは出羽三山で、道にあった地蔵様も谷に突き落とされた。
冨士講の禁止
富士山を霊山として信仰する富士信仰が、禁止されたのは明治7年の頃である。山頂には大日如来や多くの仏像があったが、全て除かれて山麓にあった浅間神社が移され山頂に据えられた。大田区にも富士信仰の冨士講の跡がある。

それ以外にも裸体、男女の混浴、入れ墨など民俗的な事柄も古いもの属し、近代化にはふさわしくないものとして禁止された。国により村の氏神だけが選び出されて、いま私達が村や町で見るような鳥居、社殿、神体などが成立した。
また廃仏毀釈は、民俗信仰とそれらの行事・習俗なども否定した、農民達が朝な夕なに拝んでいた地蔵様や地域に根ざした講などの集まりも禁止したのである。土俗的な神仏は迷信や呪術として抑圧された、民衆にとって葬儀などの一時的な変化より生活に根ざした民俗習俗の抑圧が大きな動揺をもたらしたのである。
政府は村々にあった神仏の中から、氏神(産土社)(うぶすな)のみを残し神社とした。いま我々が見る神社の風景である鳥居や社殿、神体(鏡)などはこの時成立したのである。 民衆の宗教心は政府から押しつけられた圧力ではなくならず、のちに多くの寺院が再興されていった。特に仏教界の真宗の抵抗が激しく、地域に根ざした住職の活動がめざましかった。  
諸話6 / 廃仏毀釈百年

 

日本には何度も失敗があった。白村江の戦いも、承久の乱も失敗だった。秀吉の大陸制覇は120%の失敗だし(愚挙といったほうがいいが)、天保の改革も70%ほどは失敗だろう。むろんどんな国の歴史にも、どんな民族の歴史にも失敗がある。革命の失敗、改革の失敗、指導者の失敗、戦争の失敗、通貨の失敗、市場の失敗、文化の失敗‥‥いろいろだ。外交もあれば、内政もある。全体の失敗も、部分の失敗もある。失政のばあいもあるし、著しい放置のばあいもある。失敗の原因には過誤もあれば、鈍感もある。盲信もあれば、過剰もある。原因はいちがいには指摘しがたい。むろんこうした失敗を惧れて、国家が萎縮する必要はない。内外の顔色を窺って右顧左眄することもない。なんであれ決断や実行には失敗はつきものなのだから、進むべきときは進み、後退すべきときは後退するしかないだろう。
しかし、国家の理念や国民の観念を大きく左右する失敗には、取り返しのつかないミスリードや傷痕や価値観の歪みが残映することがある。引きずることがある。ストレスが深くなりすぎることがある。最近のことでいえば、小泉・安倍政権が構造改革や郵政民営化や「美しい国」路線や教育三法に着手しているうちはまだしも、そこに国家の理念(たとえば憲法)や国民の理念(たとえば愛国心)があからさまになってくると、事態はあやしくなってくる。歴史においてとりわけ最も目立つのは、事態を二者択一に追いこんで、誤った方針を性急粗雑に実践してしまったときである。
明治維新における「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」ないしは「神仏並存」という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。
その神仏習合を鉈で割るように「神と仏」に分断して、制度においても神仏分離した。これは過誤である。ミスリードだ。神道各家や仏教諸派がこのような主張をすることは、いっこうにかまわない。宗教宗派とはそういうものだ。ときに神を争い、仏を取り合うこともある。しかしながら、日本という国家が神道と仏教を分断する必要などまったくなかった。まして廃仏毀釈はよろしくない。
なぜこのようなことがおこったかということについては、いろいろの分析が可能だ。徳川時代の全般をふりかえる必要があるし、幕末維新の異常な平田神道の波及にもメスを入れなければならない。近世仏教史の流れも俎上にのぼる必要がある。寺院と神社の関係、儒学と国学と仏教の関係、寺領や戸籍の問題、幕末の宗教政策の問題、王政復古の内情も、もっと見なければならない。
その後、廃仏毀釈は収まった。それでもいったん施行された神仏分離令がのこしたシステムは、そのまま国家神道として機能しつづけた。しかも、これもまた大問題なのだが、こうした神仏分離と廃仏毀釈についての研究や批判が、あまりにも少ないのだ。まるでこの問題に触れるのがタブーであるかのような、意図的で不気味な沈黙すら感じられる。

神仏分離・廃仏毀釈は岩倉具視や木戸孝允や大久保利通からすれば、王政復古の大号令にもとづく「日本の神々の統括システム」を確立するための政策の断行だった。薩長中心の維新政府からすれば、神権天皇をいただいた国体的国教による近代国家をつくるための方途だった。が、これはあきらかに仏教弾圧だったのだ。仏教界からすればまさに「排仏」であり、もっとはっきりいえば「法難」あるいは「破仏」なのである。むろん維新直後の当時は仏教界(とくに浄土真宗)からの猛然たる反対運動の声が上がったのだが、そしてさすがに明治政府はその展開と顛末をうやむやにしていくのだが(そして「信教の自由」を大日本帝国憲法にうたうのだが)、いったん断行された神仏分離による観念や価値観はその後もずっと日本人のなかに曳航されたのである。そのうえおまけに、今日のように近代日本の歴史解釈が東アジア社会のなかで一挙に浮上している時期においてさえ、この大問題はあいかわらず浮上しないままにある。
これは、いささか由々しいことだ。このままでは、日本が長きにわたる神仏習合・神仏並存の歴史をもっていた実態もわからなくなるし、国家神道がきわめて異質なものであった理由も見えなくなる。これらは日本史にながいあいだ流れていた神仏のイメージとは異なるものなのだ。わかりやすい例をひくのなら、伊勢神宮の内宮信仰が重視されたのも、明治になってからのことなのである(徳川時代では外宮人気のほうが高かった)。いわゆる「靖国問題」の発端は、明治2年の東京招魂社の祭祀が神道式になったことから始まっているのだが、それが神仏分離令によるものだったことも理解できなくなる。もっとカジュアルなこともすっかりわからなくなるだろう。たとえば、小学校唱歌に「村の鎮守の神さまは」とうたわれる一村にひとつはあるようないわゆる「鎮守の杜」も、明治期に統合整備されたものだったのだし(古代中世の鎮守は寺院にくみこまれていた)、今日ではごくごく当たり前だと思われている神前結婚式ですら、明治末期の大正天皇の挙式が雛型となって初めて日本中に広まったものだった。

この「神仏分離・廃仏毀釈」がどういうものであったかという問題をやや詳しくとりあげたい。
とりあげた一冊は、宮崎県の住職の佐伯恵達さんが綴った乾坤一擲である。研究書ではない。心情吐露の書だ。佐伯さんは長昌寺という浄土真宗系の寺の住職で、曾祖父の住職が廃仏毀釈にまきこまれ、父親がなんとか余命をつなぎ、佐伯さんがその問題の考究に入って、3代ごしの宿願の課題を書いた。怒りのこもった一書となった。書かないではいられなかったと告白しておられる。宮崎県の仏教迫害の実情にもとづいた告発だ。
明治初期の神仏分離・廃仏毀釈の実情がどういうものであったかということについては、それなりに詳しい資料はある。辻善之助と村上専精と鷲尾順敬による『明治維新神仏分離資料』全10巻(最初は全7巻)という全国的な調査にもとづいた資料はとくにすばらしい。名著出版から新版が刊行されていて、ぼくも図書館でざっと見てきた。
もちろん研究書もある。村上重良の『国家神道』から羽賀祥二の『明治維新と宗教』にいたる研究は、すぐれた問題提起や問題整理をした。圭室(たまむろ)文雄の『神仏分離』や安丸良夫の『神々の明治維新――神仏分離と廃仏毀釈』といった読みやすい新書もある。とくに安丸の著書は短いものながら、明治の神仏分離・廃仏毀釈が「日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換をもたらした」という視点で貫かれていて、たんに神仏混淆の禁止がおこったというより、「権威化された神々の系譜の確立」こそが神権国家樹立のための神仏分離政策の狙いだったことを強調した。安丸にはこれを発展させた『近代天皇像の形成』もある。
去年には村田安穂の『神仏分離の地方的展開』も上梓された。また、ごく最近になって著されたジェームス・ケテラーの『邪教・殉教の明治』も印象深い。富永仲基・平田篤胤・正司考祺の排仏思想の比較や、葦津実全・釈宗演・八淵蟠龍・平井金三の視点の比較など、たいへんユニークだった。
こういうわけで、神仏分離・廃仏毀釈をふりかえるならこれらのいずれの一冊をとりあげてもよかったのだが、ぼくは佐伯さんの懸命な叙述に惹かれて、あえてこの本を選んだ。このように本書は地元の住職によって地元の版元が出版したものなので、その半分ほどが宮崎県(また鹿児島県)の廃仏毀釈の悲劇的な実情にあてられている。たいそう悲しいドキュメントではあるが、地元の事情があまりに詳細にわたるので、そのへんのことは割愛せざるをえない。また、そういう本でもあるので、以下のぼくの文章には安丸良夫の本をはじめ、いくつもの類書を参考にした。

では最初に、明治維新政府が何をしたかというアウトラインを書いておく。一言でいえば神仏を分離した。神仏混淆を断罪した。「神と仏」を分けたのだ。“上級の神々”を国家神道システムにくみこむためだった。
それを慶応4年3月からの維新政府の上からの通達で連打した。まとめて「神仏分離令」(ときに神仏判然令)という。
ざっと順に説明すると、慶応3年3月17日の「神祇事務局より諸社へ達(たっし)」で、「このたびの王政復古の方針は悪い習慣を一掃することにあるので、全国各地大小の神社のなかで、僧の姿のままで別当あるいは社僧などと唱えて神社の儀式を行っている僧侶に対しては復飾(還俗)を仰せつける」という通達をした。
徳川時代、神社の多くは寺院の僧侶の手によって運営管理されていた。僧侶が社僧あるいは別当という名で神主の役をはたしていたことが多かった。それをやめさせて、神主を兼帯していた僧をすべて還俗させようというのである。還俗とは髪をのばすことをさす。
この通達がいかに早期の着手で、その手際が迅速だったかは、この通達が「五ケ条の御誓文」発表の3月14日のわずか3日後であったことでもわかると思う。王政復古とともに神仏分離がただちに開始されたのだ。
しかし、これはまだ前触れだった。その10日後の3月28日、今度は「太政官達(たっし)」が「仏像を神体にしている神社は神体をとりかえること」「権現・午頭天王などの神号をもっている神社はその由緒をあきらかにして改めること」「本地などと唱えて仏像を神社の前にかけたり、仏教の用具である鰐口・梵鐘を置いているところは取り除くこと」といった命令をくだした。世の神社にかかわる神号や神体から仏教色をいっさい駆逐しようというのだ。
激震が走った。さっそく動き出すものがいた。4月1日、比叡山麓坂本の日吉(ひえ)山王社を、突如として100人をこえる武装した一団が襲った。
日吉山王は長らく延暦寺の管轄になっていたところだ。そこへ「神威隊」と名のる者50名、人足50名、さらに日吉社の社司・宮仕20名が加わって、どかどかと土足で本殿に乱入し、安置されていた仏像を壊し、仏具・経巻のたぐいを次々に放り出して焼き捨てた。仏像の代わりに「真榊」(まさかき)と称する「古物」を置くと、そのほかの七社に対しても同様の傍若無人をはたらいた。
焼却された仏像・仏具・経巻は124点、掠奪された金具や調度は48点。「廃仏毀釈」の最初の断行の例である。リーダーは樹下茂国(じゅげしげくに)という日吉社の社司で、明治政府の神祇官の事務局の権判事に就いていた。岩倉具視と昵懇で、新政府の国教政策チームに玉松操(後出)を引き入れた当人でもある。
事態は一挙に加速する。さらに4月4日、4月10日、5月16日にも「太政官達」や「太政官布達」が出て、政府が社人と僧侶のあいだの私憤と紛擾にメスを入れることを予告し、「このたび全国の神社において神仏混淆は廃止になった」ということ、「仏教を信仰して還俗を承服できないものは神主として神に仕えてはならない」ということを申しのべ、加えて石清水・宇佐・箱崎などが八幡大菩薩の称号をつかっていることを禁止して、以降は八幡大神と称するように規定した。
このため石清水八幡は男山神社に、愛宕大権現は愛宕神社に、金毘羅大権現を祀っていた象頭山金光院松尾寺は金刀比羅宮に、竹生島の弁才天妙覚院は都久夫須麻神社に、奈良多武峰の妙楽寺は談山神社に、あわただしく改称していくことになる。まったく謂れのないことが、次から次へとおこったのだ。
こうして明治元年9月18日(明治に改元され、一世一元が定められたのは9月8日のこと)、「先日、神仏を混淆しないように布告を出した」という念押しが重ねて通達された。
ともかく矢継ぎばやの神仏分離令であり、電光石火の神仏混淆禁止令だった。お上のお達しだから、反論の余地はない。しかも、まだ版籍奉還も廃藩置県もおこなわれていない時期なので(版籍奉還は明治2年9月、廃藩置県は明治4年4月)、この新政府の命令を寝耳に水で受け取るのは藩主か、各地の神社仏閣のリーダーたちだった。一方ではたちまちさまざまな藩内で混乱がおこり、他方ではこうした下命を待ち望んでいたようなところでは、神仏分離や廃仏毀釈に着手する乱暴な動きがさっそくおこった。この日を待ちわびていた藩もあった。
津和野藩には養老館という藩校があり、嘉永期から国学が重んじられていた。とくに幕末には大国隆正(後述)や福羽美静(後述)といった平田国学のごりごりの直流の門下生が教授となって、新政府の王政復古イデオロギーの準備と確立に加担していた。そうした空気ができあがっていたなか、藩主の亀井茲監(後出)は「封内衰類ノ仏寺ヲ廃合シ、釈侶ノ還俗」を敢行し、総霊社を設立して葬祭を神社主導でとりしきることを決めた。これは全国にさきがけた祖霊社のモデルとなった。
松江藩預かりの隠岐(島前と島後)では、「正義党」が結成されて、島後の46ケ寺のすべてを廃絶していった。幕領であった佐渡でも判事奥平謙甫が「北辰隊」とともに乗り込んで、539ケ寺を80ケ寺に廃合する計画に着手した。富山藩でも暴挙がおこった。領内の313ケ寺を各宗1寺にして、全部でたった8カ寺にしてしまおうというのだ。
このほか松本藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩などでも、同様の神仏分離と廃仏毀釈が乱暴に進んだ。なかでも本書にも縷々のべられているように、宮崎県では延岡藩・高鍋藩・飫肥(おび)藩で廃寺廃仏がまたたくまに断行され、有無をいわせぬ悲劇的な事態が雪崩を打っていったのである。佐伯さんは「灰となった寺は南九州で一千寺におよんだ」と書いている。
実は幕末すでに薩摩藩ではすべての寺院に廃止令が出たのであった。それが鹿児島県となってからも続いた。これでは暮らしさえままならない。有名な話であるが、やはり廃仏毀釈の波が早くに襲った奈良県では、興福寺が寺院塔頭が維持できなくなって、五重塔を25円で売り払おうとしたことさえあった。
これらの進行に抵抗がなかったわけではない。あとでも少しふれるが、浄土真宗の各寺(本願寺系)の抵抗がとくに強かった。しかしながら全国的にはこれらの神仏分離・廃仏毀釈を通して一挙に神権的国家神道システムの基礎固めは狙い通りに首尾をあげたのだ。
廃合、廃寺、排仏だけではなかった。かつての寺院が神社になったり(石清水が男山神社に、愛宕が愛宕神社に、金毘羅が金刀比羅宮に、竹生島の弁才天が都久夫須麻神社に、多武峰妙楽寺が談山神社になったことはすでにのべた)。
それだけではなく、新たに神社がつくられていった。楠木正成を祀る湊川神社、崇徳上皇を祀る白峰宮、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇を祀る水無瀬神社などは、この時期に誕生した新造神社である。とくに明治2年に九段につくられた東京招魂社は、慶応4年の江戸城で盛大におこなわれた招魂祭をうけたもので、明治8年には嘉永6年以降に国事で倒れたすべての霊を祀ることが決まり、翌9年に「靖国神社」と改称されたまま今日におよんでいる。
これにともなって宮中の儀式にも大きな変更が加えられた。それまで天皇以下の皇族の霊は、平安時代このかたほぼ宮中の「お黒戸」(おくろど)に祀られてきた。お黒戸は民間でいう仏壇にあたるもので、そこに位牌がおかれ、仏式の慰霊がなされていた。それが明治4年にはお黒戸の位牌が水薬師寺の一室に移され、さらに方広寺境内に新設された恭明宮に移され、その後は京都の泉涌寺が預かることになった(泉涌寺はぼくが大好きなお寺だ)。
また、それまで宮中でおこなわれていた仏教行事が次々に撤廃されていった。真言宗による後七日御修法(これは空海以来の行事)、天台宗による長日御修法、さらに御修大法、大元帥法などがすべて廃止されてしまった。もっと大掛かりな変化は伊勢神宮を歴史上はじめて天皇が参拝したことで、これによってアマテラス信仰と天皇を現人神とみなすシナリオが動き出した。

ともかくも、ざっとこういうことが明治維新直後に急転直下の勢いでおこっていったのである。いったい誰がこんなことを断行しようと決めたのか。きっとそのことが気になるだろうから、まずその事実関係から片付ける。
通達や命令を出したのは神祇官と神祇科だった。慶応4年が明けてまもなくの1月17日、前年12月の小御所会議にもとづいて発せられた「王政復古の大号令」を受け、維新政府は太政官のもとに7科を設置、そのひとつに神祇科をおいた。
これを第一次官制というのだが、原案をつくった福岡孝悌は内国科・外国科など6科までを用意したのだが、岩倉らが廟議を通して神祇科を加えた。神祇事務総督に中山忠能(ただやす)・有栖川宮幟仁(たかひと)・白川資訓(すけのり)が、同係に六人部是愛(むとべよしちか)・樹下茂国(←前出)・谷森種松が任命された。
ここで亀井茲監(←前出)・平田鉄胤(かみたね)・福羽美静(←前出)などの平田派・大国派の国学者や神道家たちが登用され、神道国教主義のシナリオが大きく浮上した。あまつさえ神祇官は太政官の上に立つことにさえなった。
このシナリオの浮上には前段があった。すでに幕末期、古代王政さながらの神祇官を再興すべきだという建言や意見書が、猿渡容盛(ひろもり)・三条実万・六人部是香・矢野玄道(はるみち)・玉松操(←前出)らから提出されていて、これが岩倉具視の王政復古プランにくみこまれつつあったのである。
岩倉と国学者・神道家を引き合わせていったのは薩摩の井上石見だった。薩摩の諏訪神社の神職である。慶応3年3月2日の岩倉の書簡に、「神道復古、神祇官出来候由、さてさて恐悦の事に候。全く吉田家仕合に候。実は悉く薩人尽力の由に候」とある。吉田家とは吉田神道の社家たちのことを、薩人が井上石見のことをさす。
これでおよその見当がつくように、以上のお膳立ては岩倉と薩摩藩を結ぶ線の上で動いたものだった。
いまではあきらかなことだが、そもそも小御所会議と王政復古の大号令の内実は、有力な公家(二条・九条・近衛など)と有力な諸藩(越前藩・土佐藩など)を抑えて強行されたクーデターであり、そこには薩摩藩の武力が背景の圧力になっていた。岩倉は薩摩の軍事力を盾にして、明治国家を王政復古させ、立憲君主制による神権政治のスタートを切るシナリオを書いたのである。そこに最初に駆けつけたのが長州藩だったのだ。それゆえ以降は、薩長両藩と岩倉グループが維新政府を牛耳ったこと、言うまでもない。

幕末維新の天皇をいただく神権シナリオの起草者が誰であったかは、これでうすうすわかったと思うが、そのもともとのシナリオにも前段や前々段があった。たとえば水戸学(水戸藩の動向)、たとえば国学(平田篤胤派)、たとえば日本儒学、たとえば日本陽明学である。神仏分離思想はこれらにすでに芽生えていた。
ただし、これらは巧妙に組み合わさって前々段や前段をつくっていったので、いまそれを手短かに語るのは複雑すぎて難しい。けれども、おおざっぱには次のような流れがあったと思えばいいだろう。
大前提になるのは、日本において宗教弾圧の素地がどのようにあったのかということだ。宗派が相互に批判しあったり非難しあったりすることなら、南都六宗の昔からあった。そうではなくて、国家や為政者や政権が、特定の宗教や宗派に規制や排除をかける歴史はどうなっていたかという問題をあきらかにしておく必要がある。すなわちどんな「宗教抑圧のモデル」があったのかということだ。
これについては、第1にはやはりキリシタン禁圧をあげなければならない。信長・秀吉・家康のいずれもが取り組んだ。明治維新においても開国・文明開化とともにキリスト教がなだれこんでくることが予想されたので、維新政府と国学系のリーダーたちはキリスト教の抑圧に躍起になっていた。実際にはしばらくしてキリスト教は解禁され、そして札幌農学校をはじめとするキリスト教教育が始まって、各地にバンドができて、そこから徳富蘇峰・内村鑑三・有島武郎らが輩出するのだが、当初は宗教政策の第1にかつてのキリシタン禁圧モデルがよみがえりつつあった。
また第2には、信長の一向宗追い討ちや延暦寺焼き打ちを思い出さなければならない。こんな激越なことが可能になったという記憶は、その後の仏教界も日本人も忘れるはずはなかった。
さらに第3には、日蓮宗の不受不施派などに対する弾圧もモデルのひとつとして機能した。日蓮宗に対する仕打ちのひどさは日本宗教史ではきわめて特異なことで、これがのちの新興宗教や新宗教の強い「負の基盤」になっていったのである。

ついで重要な第4のモデルになるのは、徳川幕府が早期から着手していた「宗門改め」と「寺請制」であろう。幕府は仏教政策として寺檀制(寺院と檀家のシステム)と本末制(本山と末寺のシステム)をもちこんで、ここに戸籍管理体制をくみこんだ人民統括システムを樹立しようとした。仏教体制を整備することによって、そこに人別帳(準戸籍)のしくみを管理させたのだ。
これは、徳川社会では仏教が“国教”になったということにほかならい。心情的なことではない。国家のシステムとして仏教が採用され、それが幕藩体制によって認知されたということなのだ。これによって当然のことながら、社会に仏教システムが流れこんでいった。仏壇の普及や葬儀が寺院の管轄のもとにおこなわれるようになったことに、そのことがあらわれている。
これらのことから、近世日本社会は大きくは宗教抑圧モデルと仏教国教モデルという二つのモデルを先行してもっていたとみなすべきだろう。しかもこのような体制のなか、寺院と神社は仲良く神仏習合的に相乗りしていたのであって、幕藩体制としては寺院のほうに管理責任があるかぎり、国家の民衆管理はほとんど心配ないという見方をしていたわけなのである。
そして、ここまでのことでいえば、このような社会に神仏分離をしなければいけないような、どんな理由も理屈も見当たらなかったのだ。神仏は仲睦まじく共存してもらっていればよかったのである。むろん天皇の神権を強化して幕藩体制を維持する必然性も、まったくなかった。むしろ幕府は天皇を形式的にして、その権力をないがしろにすることのほうを積極的に選んだのだ。
ところが、ところが、だ。こうした水も漏らさぬ体制が少しずつ軋みはじめたのだった。原因はいろいろあるが、最大の要因は黒船来航という外圧にあった。異教の国に開国を迫られたことにあった。外国との条約には天皇の勅許が必要である。幕府には将軍を“日本国王”とする見方もあったのだが、制度化されているわけではない。やはり天皇を国王とみなすしかない。しかしそれでも、井伊直弼の対外政策と国内政策がそうであったように、幕府は天皇に国家のディシジョンを委ねる気など、毛頭もっていなかったのだ。
が、そのような軋みに、するすると平田国学や水戸藩の動向がからんでくると、事態は一筋縄では説明できなくなっていく。そのとき天皇神権論や排仏思想が頭を擡げてきた。

排仏論のモデルについても検討しておかなくてはならない。ごく端的なモデルだけを紹介するにとどめるが、その先頭を切ったのは荻生徂徠だった(さらに先行して山崎闇斎の「垂下神道」があるが、省略する)。
徂徠は『弁名』や『政談』で、「制度」の検討をすすめればおのずと幕藩体制の矛盾や危機を乗り切れるのではないかと見ていた。そしてその制度の根幹に「天・命・鬼・神」を祭祀することがあると考えた。これは中国儒学の朱子学からは導けないことである。『礼記』や『易経』などの六経に注目した徂徠の独自の日本儒学の結論である。それには古典に戻るべきで(それが徂徠の古学思想)、それならわが国の古代にもそのような「天・命・鬼・神」を祀る思想と慣習があったとみなした。徂徠の「天祖(アマテラス)、天を祖とし、政は祭、祭は政にして、神物と官物と別なし」という文章は、そうした徂徠の祭政一致思想をよくあらわしている。
徂徠の思想を継承発展させて、「天皇祭主論」のモデルともいうべきを提言したのは太宰春台である。春台は、国家が祭祀をおこなわないのは「国家ノ闕典」であると見た。『経済録』には次のようにある。「オヨソ天地ノ間ニアラユル事トイフモノ、人ノ為スコトノホカハ、悉ク神ノ所為ナリ。人ノナスコトモ、人力ヲ尽シタル上ニ其事ノ成就スルト成就セザルトハ、神ノ助ニ依ルナリ」。ようするに神を祀ることを政治の根本におかなくてはならないというのだ。

中井竹山にも注目したい。その主著『草芽危言』は寛政改革のための提言で、さすがに大筋には朱子学的な合理主義が目立つのであるが、その中身にはのちのちの維新政府が実現したものに近いコンテキストが多々ふくまれていた。
むろん当時のことだから、幕府の存在は大前提になっている。しかし竹山は、朝廷を改革し、仏教や民間信仰がもつ俗信的な要素を取り払っていくことが重要であると早くも気がついていた。
竹山は、そもそも朝廷が衰微してきたのは「仏ノ惑ヨリ」おこったことだとみなした。それを戻すには、一方で「暦年帝王ノ内仏説を排シ」、他方で即位礼を本来のありかたにして、天皇がときどき行幸をして民に朝廷崇拝の気風をもたせたほうがいいとする。天皇が院号を称することもやめて、一世一元制にして年号を諡号にするべきだとも考えた。のみならず、皇子や皇女の出家をやめて皇族をふやし、皇族の婚姻制度を一新すべきだとも提言している。
このような見方には、社会の秩序を仏門を離脱した天皇によって取り戻すことの有効性がうたわれている。天皇に権力をもたせるというのではない。社会秩序の混乱や混迷は天皇主義によって回復できるだろうというのだ。

こうして登場してきたのが、平田篤胤の国学や藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎の後期水戸学による尊王神国モデルである。
篤胤は『古史成文』の「天地世間の有状を熟観して、神代巻の出来たる上にて神典を読む」という立場から、国学によるコスゴモニー(世界生成論)のようなものをまとめて『霊の真柱』を著した。万物は未分化の「大虚空」(オホゾラ)から天(アメ)・地(ツチ)・泉(ヨミ)の順に生成されてきて、その系譜に神代が確立したというのだ。
さらに『三代考』では、日本の位置づけを試み、皇国は「天地のもと」から生まれたのであって、諸外国は少彦名神と大国主神があとからつくった国々だから、必ずや天に近い皇国のもとに諸国が臣従するはずだという奇説を展開した。総じて神代と皇国を、現世と幽冥界を、日本と外国をひとつながりにするもので、現世をアマテラスに、幽冥界をオオクニヌシに比定した。安丸良夫は「過剰に合理的なるがゆえに奇怪に非合理的な秩序の体系」になっていると評している。
篤胤はまた『出定笑話』では、一向宗と日蓮宗を神敵二宗と決めつけ、一向宗において阿弥陀仏を天照大神の本地仏にしていること、日蓮宗において神祇信仰が恣意的にとりいれられていることを非難した。
どうにも首肯しがたいほどのキマイラ性が濃いものではあるが、皇国思想と排仏思想が入り交じって尊王神国を支えているというこの思想は、やがて草莽の国学者に飛び火して、桂誉重(しげたか)の『済生要略』へ、宮負定雄の『国益本論』へ、六人部是香の『顕幽順考論』へもちこまれ、さらにさきほどのべた津和野の大国隆正の国学へ、その大国を師と仰ぐ亀井茲監や福羽美静の言説などとなって、維新政府の神権イデオロギーの骨格をつくりあげていくことになった。
ただし、このような平田派や大国派の国学は維新後の立憲君主制にもとづく国家神道の確立期においては、そのあまりの奇矯性が禍いして、大きなはたらきをしなかった。島崎藤村の『夜明け前』の主人公青山半蔵の「憤慨」に、そのことがよくあらわされている。
しかし近代日本はそれにもかかわらず、かつて日本史のどの場面でも確立されなかった国家神道というものを確立してしまったのである。

水戸藩の動向がおよぼした影響も大きかった。そもそも水戸学がどういうものであったかということは、尊王攘夷思想に特段の影響を与え、それが神仏分離や廃仏毀釈につながったのは藤田幽谷の『正名論』と会沢正志斎の『新論』である。
幽谷の『正名論』はむろん孔子以来の正名論の儒学的伝統にもとづくものであるが、徳川社会の文脈でいえば、幽谷の論法は日本社会における「名分」を正すことに徹していた。「天地ありて然る後に君臣あり。君臣ありて然る後に上下あり」という名分、「上、天子を戴き、下、諸侯を撫する」という名分が、日本の歴史に開闢このかた一貫していたことをのべ、それゆえにこそ天皇が万世一系をもって「覇主の業」に君臨していることをあきらかにした。
この幽谷の薫陶をうけた子の東湖は、若くして『回天詩史』を綴って意気軒高をうたい、とくに『正気の歌』では忠君愛国の道義を高らかに律動させて、尊王攘夷の志士の精神を高揚させた。幕末、これほど志士たちが愛唱放吟した詩はない。加えて東湖は『弘道館記述義』なども著して、水戸藩の藩政改革の中心人物ともなって、徳川斉昭のブレーンとして烈火のごとき排仏主義を発揮しはじめたのである。仏教を「胡鬼」、僧侶を「浮屠」と呼び、寺院が取り仕切っていた葬儀を、「自葬式」と称するものに転換させた。
そこへ会沢正志斎の『新論』が躍り出て、「国体、形勢、虜情、守禦、長計」の5章をもって尊王攘夷思想と国体思想を合体させていった。その思想は天人相関説とも神儒一体説ともいえる水戸学独特の折衷的なもので、天に近い国土をもつ日本が天皇のもとに国体を護持していくことこそ、開国を迫られている日本が断固としてとるべき態度だという強調に徹した。
このような気運のなか、水戸藩に仏教や僧侶を極端に軽視蔑視する傾向が広まった。「異化の徒(仏教徒)は横肆(わがまま)にして、天下の穀をついやして浮冗(むだな僧侶)」となっているという非難も日常茶飯事になっていった。天保年間に開始されたその排仏主義は、天保14年には寺社統廃合の令となって、折からの財政悪化の対策に奢侈に傾く寺院の撤廃や廃合が断行されていく。

こんなところが維新以前の排仏型神教主義のモデルであり、神仏分離と廃仏毀釈を正当化するイデオロギーの先行形態だったのである。むろん説明したいことはまだまだあるが、維新とともに神仏分離・廃仏毀釈がおこっていった大筋の理由はだいたいつかめたのではないかと思う。
それにしても、このような流れが薩摩藩から鹿児島県へ、そこから宮崎県になだれこんでいった異様な動向には、目を覆うものがある。本書で佐伯さんが薩摩の一向宗弾圧から筆をおこし、島津久光が菩提寺をすべて神社にしてしまったこと、それが宮崎に及んで飫肥藩や美々津藩の排仏廃寺運動になっていったこと、それが明治4年から6年にかけてピークに及んで、宮崎県でなんと650ケ寺に廃仏毀釈が降りかかってきたことを、詳細にレポートしておられる。
この数はただならない。のみならず、そこに宮崎神宮や霧島神社の創建や改称が加わり、県内全域が高千穂の神くだる地の色彩に塗り替えられていった。佐伯さんは神社や神道を嫌う人ではない。むしろ愛国の人であって、神奈備の心も十分にもっておられる人なのだが、この廃仏毀釈だけは許せなかったのである。
最後に、このようなまるで天災かウィルスのように猛威をふるった神仏分離と廃仏毀釈がどうなっていったのか、その後の状況を一言だけ説明しておきたい。
ごくかんたんにいうのなら、廃仏毀釈はしだいに収まっていった。自然消滅ではない。廃仏毀釈を食い止めるエンジンが火を噴いたのである。そのトリガーとなったのは浄土真宗の抵抗による。とくに西本願寺の島地黙雷(←前出)の活躍がめざましかった。島地は明治4年9月に教部省設立を求める建言を提出すると、その後も大教院がつくられて教導職が全国に神道国教主義を広める段になると、強く「政教分離」と「信教の自由」を主張して、ついに譲らなかった。
島地だけではない。西本願寺の長防グループの僧侶たちの活動もめざましかった。廃仏毀釈はこうした主として浄土真宗の僧侶たちの抵抗と建議によって収束したといえる。
しかし、これによって明治日本から神仏分離の動向が消えたわけではない。むしろ大日本帝国憲法の「信教の自由」のもと、国家神道は非宗教性を纏うことによってさらに拡張され、教育勅語の普及とともに実質的な国教の意匠を翩翻とさせるに至ったのである。 
諸話7 / 神仏習合

 

かつて六興出版という版元があった。かつてといってもそんなに古いことではなく、最近になって書店から見えなくなった。潰れたのかもしれない。『勢多唐橋』『前方後円墳と神社配置』『天武天皇出生の謎』『日本原初漢字の証明』といった、古代史をナナメから切り望むようなメニューが並んでいた。ときどき摘まみ読んでいたが、この『神仏習合』にはちょっと惹かれた記憶がある。さっきその理由は何だったんだろうかと思い返していたら、冒頭に聖林寺の十一面観音が出ていたせいだと承知した。白洲正子の『かくれ里』をあげたときもふれておいたように、ぼくはこの観音には目がない。それなのに、本書を思い出さなかった。その理由もさっきちらちらと思い返していたのだが、本書では十一面観音の美しさが議論されているのではなく、この6尺9寸の端正な観音像がもともとは大神(おおみわ)神社の神宮寺だった大御輪寺にあったことを話題にしていたせいだった。
明治になって日本の宗教史上、最悪の出来事がおこった。神仏分離令、いわゆる廃仏毀釈が断行されたのである。明治維新にはこの未曾有の悪夢が重なっていたことを忘れてはいけない。
それはともかくとして、この神仏分離令によって大御輪寺も大神神社の若宮になることが決まり、仏像も壊されそうになった。この噂を聞きつけたアーネスト・フェノロサが観音像を引き取ってくれる寺を探しはじめ、それで聖林寺に行く先が決まったというのである。フェノロサはすでに光背が壊れていたのを荷車にていねいに積んで、自分も一緒に運んだという。ところがこの話は風聞らしく、どうもフェノロサ周辺の研究をあれこれ見ていても、こういう“事実”が記録されていない。それでぼくもアタマから外していたのだろうと思う。
というわけで、本書は十一面観音ではなくて、また聖林寺でもなくて、大御輪寺に最初の焦点をあて、そこからしだいに神仏習合・和光同塵の奥へ入っていこうという内容になっている。すなわち、大神神社は奈良末期平安初期から大御輪寺を併存させていたばかりでなく、平等寺や浄願寺といった神宮寺をもっていたという話が起点になっている。ぼくは訪れたことがないのだが、大神神社の近くには若宮の大直弥子神社があって、これがかつての大御輪寺だったのだという。そうだとすれば、奈良期における三輪信仰とはそもそもが三輪山という神体山を背景にした“三輪の神宮域”という寺社域だったのである。

古代日本の神祇信仰は磐座(いわくら)や磐境(いわさか)や神奈備(かんなび)といった、なんとも曰く言いがたいプリミティブな結界感覚から始まっている。
アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。「場所」の特定が最初だった。神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。
やがてこの「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていったのだと思われる。この時期に、「祓い」の方法や「祝詞」などの母型も生じていったのだろう。アニミスティックな要素やシャーマーニックな要素がこうして神祇信仰として整っていく。
ところが氏姓社会が登場し、有力部族の筆頭にのしあがった蘇我一族の仏像信仰が登場してくると、二つの問題に直面する。日本人(倭人)はこの問題をやすやすと乗り越えていった。
ひとつは、部族的な信仰と氏族コミュニティが実質と形式の両面から離合集散をくりかえしていったことである。これによって「場所どり・信仰どり」ともいうべき神祇合戦がおこなわれた。けれどもこの神祇合戦は、神の数がおびただしく多い日本列島という国土のなかでは、互いに対立するよりも、むしろ互いに融合しながら交じっていったことが多かった。
もうひとつは、「仏」をどう扱うかという問題が急浮上した。神像をもたない神祇にとって、彼の地からやってきた仏像はかなり異色異様なものである。それをどう扱うか。
しかしながら、欽明天皇が百済の聖明王から招来された仏像を「きらきらし」と言い、初期の仏像が「蕃神」とも「漢神」(からかみ)とも呼ばれたように、日本人にとっての「仏」は最初から“神”だったのである。仏教は当初から神祇の範疇としても捉えられる土壌をもっていた。
もっとも蘇我と物部の争いのように、トップで「仏」をとるのか「神」をとるのかという二者択一になっていくと、支配層にとっては決定的なマスタープランの選択になっている。
そこで聖徳太子の時代に仏教こそが「三宝」となり、以来、日本の支配者は鎮護国家のもとの「三宝の奴」となったのだが、では日本各地でヤシロ化していった場所でも神仏の激しい選択がおこなわれたかというと、そういう過激な競合はおこらなかった。むしろここでは神と仏は融合していったのである。
その最も決定的な証拠が神宮寺や神願寺であった。本書は神仏習合のイデオロギーではなくて、この神宮寺と神願寺の事例を各地に追い求めて、神仏習合の実態がいかに底辺で成立していたかを検証する。

時代が進むにつれ、日本の各地は産土神(うぶすながみ)で埋められていった。初期は神体山を中心に山宮が想定され、ついで里宮が、田畑が重要になってくるとここに田宮が加わった。海辺では沖合の奥津宮、途中の島などに想定された中津宮、岸辺の辺津宮が組み合わされた。
一方、時代が進むにつれ、各豪族が氏族寺を建てていく。蘇我の法興寺(飛鳥寺)、巨勢の巨勢寺、大軽の軽寺、葛城の葛城寺、紀氏の紀寺、秦氏の蜂丘寺(広隆寺)、藤原の山階寺(興福寺)などである。これに百済寺や四天王寺などの大官大寺が加わった。
こうなると、寺院塔頂に勤務する僧侶・尼僧たちの規約が必要になる。僧正・僧都・律師などが決まり、服装をはじめとする服務規定が生じていった。とくにどのような経典を読み、どのように儀典をおこなうかが重要になってきた。詳細はともかく、こうして鎮護仏教システムが中央官僚によって築き上げられ、東大寺の華厳ネットワーク(国分寺・国分尼寺)のように中央から地方へというシステムの流出が試みられはじめたのである。
が、まさにその時期、地方では神宮寺が次々に発生していったのだ。スタートは8世紀のことだった。気比神宮寺、若狭比古神願寺、宇佐八幡神宮寺、松浦神宮弥勒知識寺、多度神宮寺、伊勢大神宮寺、八幡比売神宮寺、補陀洛山神宮寺(中禅寺)、三輪神宮寺、高雄神願寺、賀茂神宮寺、熱田神宮寺、気多神宮寺、石上神宮寺、石清水八幡神宮寺などである。いずれも7世紀から9世紀のあいだに登場した。
神宮寺や神願寺が建立された事情には、たいてい“神託”が関与している。その“神託”を読むと、神が苦悩しているので仏の力を借りたいというような主旨がのべられている。
こうして神宮寺では「神前読経」がおこなわれ、「巫僧」が出現し、寺院の近くの神社を「鎮守」と呼ぶようになっていく。のみならず石清水八幡の例が有名であるが、神に菩薩号を贈るということすら進んで試みられた、「八幡大菩薩」がその賜物だ。
かくして、これらの地方に始まった神仏習合の流れが、やがては本源としての仏や菩薩が、衆生を救うためにその迹(あと)を諸方に垂(た)れ、神となって姿をあらわしたのだという「本地垂迹」や「権現」の考え方に移行していった。
この動きはとまらない。11世紀半ばには「熊野の本地」に知られるように、各地で「本地仏」を争って決めていくというようなことさえおこる。春日五神はそれぞれ釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊の本地仏となり、熱田神は不動明王にさえなったのだ。
なんとも逞しいというか、なんともご都合主義的だというか、それとも、なんとも編集的だというべきか。

注目するべきはこのような本地垂迹説を編み出したのは、すべて仏教の側の編集作業だったということである。もうひとつ注目しなければならないことがある。このような本地垂迹が進むなかでついにこの編集に逆転がおこり、神社の側からの逆本地垂迹がおこったということ、それこそが度会や伊勢や吉田による「神社神道」というものとなっていったということである。聖林寺の十一面観音だけでなく、仏像を見るときは、それがどこから旅をしてきたかということを見なくてはいけない。 
諸話8 / 神道の成立

 

よくスピーチや談話の枕につかわれる無責任な話として、ときには海外では笑い話として持ち出される話がある。
日本人に「あなたの宗教は何ですか」と訊くと、たいていは答えに窮するというのだ。たしかにそうらしい。さっと答えが出る日本人は少ない。仏教か、神道か。それとも別の宗教か、あるいは無宗教か。どうも日本人は宗教をどのように自分の問題としてうけとめているのか、わからない。おそらく多くの日本人は無宗教という感覚にいるだろうものの、とはいえ、仏教や神道を否定する感覚をもっている者がどのくらいいるかというと、かなり低いはずである。初詣をするひとときでも敬虔な気分になっていないとはいえないし、葬儀や法事において仏前で手を合わせていることに躊躇をもっているわけではない。仏教の僧侶ですら多くは神社を否定しないし、他宗派すら否定しないことが少なくない。
それなのに「あなたの信仰する宗教は何か」と問われると、日本人からは答えがなくなっていく。神道に奉じている神職たち(ようするに神主さん)も、あらためて「神を信仰しているか」と言われると、困るはずである。
ぼくは何度か神社神道の会合や青年神職の全国大会などに出席して、多くの神職と話しあってきたけれど、かれらが「神を信仰している」という言葉で自身の立場を表明する場面には、めったにお目にかからなかった。「神を」というときの、その神そのものが多様多岐であるし、仮に神名を特定できたとしても、その特定の神をはたして「信仰する」と言えるのかどうかというと、どうも信仰にはあたらない気がするという意見が多い。
では、日本人は「いいかげん」で「はっきりしない」と断罪されるのか。神も仏も恐れない無宗教民族なのか。むろんそんなことはない。むしろ歴史の中ではつねに神仏とのかかわりを強調しすぎるくらいに強調してきた民族でもあったのである。
というわけで、この日本人の特徴の笑い話にさえされているかもしれない話には、容易に解決がつかない大問題が孕んでいるということになる。

どんな大問題が孕んでいるのかというと、まずは、日本人の信仰的生活感に対して、ヨーロッパの学問や政治や風習が確立してきた「宗教」あるいは「信仰」という概念をもって規定を与えようとするのが難しい。合わないのだ。
これまではどう説明しようとしてきたかというと、日本文化特殊論を持ち出すか、それとも国際的に確立されている宗教学をもってむりやりにでも厳密な特色を炙り出すか、そのどちらかだった。ユニバーサリズムか、パティキュラリズムか、そのどちらかになっていた。が、どうもどちらも役に立たない。
ではたとえば、日本人による日本人のための宗教学によって(そういうものがあるとして)、日本人の信仰形態をうまく説明することはできないのだろうか。もしそういう可能性があるのなら、そのためにはどういうことを考えるべきなのか。

ごく一言でいえば、本書はこのような疑問をもった日本人に対して、歴史の中からひとつの積極的な手がかりをつくろうとしたものだった。当時、本書は研究者たちのあいだで話題になり、たとえば西田長男さんはぼくにも「あの本はよかったね、あれが新しい出発点になる」と言っていた。西田さんは『日本神道史研究』がある神道研究の第一人者であった。けれども、本書が出てまもなく高取正男さんは亡くなり、このような問題を包括的に相談できる唯一の思索的研究者である西田さんも、まもなく亡くなった。
いま、この問題を継続的に議論されているとは言いがたい。誰もが難問すぎて避けるようになってしまったのだ。以前紹介した鎌田東二君の『神道とは何か』でも、「センス・オブ・ワンダー」の感覚こそが神道だという立場が採用され、神道は神教ではないことが主唱されていた。そして、それを日本語でいうと「ムスビ」とか「ありがたさ」とか「かたじけなさ」というものになるというふうに、とうてい宗教学には通用しないような用語になってしまうのだった。

実は海外では、日本学の半分の研究者たちが日本は仏教国だと考えている。理由がある。江戸時代初期に、キリシタン禁圧と宗門人別改めと寺檀制度の確立によって、日本人すべてが仏教徒ということになったからである。
もう半分の研究者たちは、日本をシントーイズムの国だとみなしている。シントーイズムは「神道イズム」のことで、簡単にいえば神社信仰あるいは神祇信仰をいう。
しかし、これらの見方はいまひとつなのである。最初の仏教国判断は、当時の江戸幕府による政治の決断であって、日本人の信仰形態であるわけではない。そう、決めただけのことなのだ。また日本がシントーイズムの国だというのは、明治以降の天皇万世一系主義を重視したり、民衆の鎮守の森の感覚を重視しすぎていて、それらをもってシントーイズムと断定するわけにもいかない。
仏教国でも神道国でもないとしたら、何なのか。そこで浮上してくるのがシンクレティズムだという判断になるのだが、これまた宗教学的にはけっこう無理がある。
たしかに、日本社会の歴史では、仏教と神道は交じってきた。これを総じて「神仏習合」とはいうが、それではそのように習合した宗教を信仰しているのかというと、すなわち日本人の宗教はシンクレティズムだったのかというと、高取さんは堀一郎とともに、日本の神仏習合をシンクレティズムと定義することはできないと言う。せいぜい修験道がシンクレティズムにあてはまる程度ではないかという結論なのである。

本書が古代中世のさまざまな事例を紹介しているように、日本人の習合感覚は神仏の習合だけにはかぎらない。
称徳天皇や桓武天皇の時期はあきらかに神仏儒の習合になっているし、礼儀の感覚がシントーイズムに入ってきている例がかなりある。また、本書ではまったくふれられてはいないけれど、そこに道教の影響が大きく関与していることも少なくはない(吉野裕子さんによる有名な伊勢神宮における「太一」信仰については紹介されているが)。
そうだとすると、シンクレティズムを「重層信仰」というふうに訳せば、それはそういう面もあるわけだが、重層的であるのはひとつひとつの神仏を信仰したどこかの民族や地域の慣習を離れて、それらの神仏などのイコンを日本人が重層したというのではなく、それらのイコンを含めた礼拝感覚やタブー感覚を日本的に重層させた直後から、やっと信仰めいたものが始まっていったというのが実情なのである。
実は仏教だって儒教がたくさん交じっている。仏壇の発達や仏式葬儀の仕方には、儒教からの影響が濃い。が、だからといって仏式葬儀が仏教ではないとはいえない。
こういうふうに、カーブやフォークやチェンジアップのような変化球が、神仏両面において数多く日本の信仰形態には入りこんでいると言わざるをえないわけである。

これは研究者のあいだでは意見が統一しているのだが、日本の近代化のプロセスでは、キリスト教社会でいわれるような「宗教の世俗化」にあたるものが認められない。もともと世俗化されていたからである。とくに神道はそういうものだった。
それでは神道は、のちに世俗化されたのではなくて、もともと世俗宗教(secular religion)として発生したり確立されていったのかというと、それもあたらない。
そこで著者は、あまり明快ではないのだが、おおむね次のようなガイドラインを提出する。
神道は(そのようによぶしかないから神道と言うだけだが)、常民の日常的な習俗とともに培われてきた民俗的な信仰やトーテミズムを含むものの、それをもって神道と言うわけにはいかない。しかしながら、両部神道や伊勢神道や唯一神道のように、独自の教説によって成立したものも神道の本来というものではなく、それらは広い意味での神道の一部にすぎない。
神道は民俗的な習俗をふまえながらも、伝統的な神に対するある自覚にもとづいたものであるはずであって、誰もが「それが神道である」と言えない領域に発達していったものなのである。
その理由はイデロギー的には説明がつかない。むしろ、日本の歴史の一つずつの"事件"に応じて形成されていったものだった。本書の書名の「神道の成立」とは、そういう意味なのだ。
ざっといえば、こういうことになる。だから、本書で神道の定義が読めると期待しても肩透かしに出会う。そのかわり、実に多様な"事件"の組み合わせが少しずつ「神道」を成立させていったことが、深く暗示されるのでもある。

それでは、以下は付け足しになるが、ぼくが本書で示唆をうけた"事件"について、二、三をあげておく。
ひとつは、藤原不比等の一族とは袂を分かって大中臣を名のった意美麻呂、清麻呂の父子が関与した事情のプロセスに「神道」が芽生えていた。またひとつは、大伴家持の「族(やから)に喩す歌」にうたわれた「隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらべ)に 極め尽して 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)」に「神道」が見えていた。
さらにひとつは、各地にのこる産屋の風俗と大嘗祭の神衣(かんみそ)の秘事との関係に、もうすこし冒険的にいえば、それらと寝殿における大庭(おおば)や塗籠(ぬりごめ)の出現との関係に、それぞれ「神道」の超部分が覗いていた。あるいは儒教儀礼の「郊祀」のありように「神道」の外来性のひとつが響いていた。
神道とはそうした"事件"のたびに登場した超関連的なつながりが生んだものなのではないかというのが、高取さんが遺したメッセージだった。
われわれは、結局、こう答えるべきなのかもしれない。「あなたの宗教は何ですか」「われわれはそのような質問に対する回答をもたないような日々をこそ送ってきているのです」と。べつだん宗教学にあてはまらない祈りの日々があったっていいのである。宗教学のほうがいずれベンキョーをして態度を改めればいいだけのことなのだ。 
 
明治のキリシタン迫害

 

1859年(安政6年)に開港した長崎の地にフランス人宣教師たちが西洋風建築のフランス寺を立てた。1864年(元治元年)に完成したこの教会は、日本人のキリスト教信仰を認めたわけではないが、外国人が居留地内で礼拝できるように教会の設置を許していた。
1865年(慶応元年)1月に献堂式が行われたが、長年に渡ってキリシタン禁令が成されていたため、日本人キリシタンは誰一人としていなかった。しかし、翌年の2月になって、日頃、好奇心で見物に来ている人たちとは別に十数人の老若男女がこの教会に訪れていた。プチジャン神父の勧めで礼拝堂に入った彼らは、「私たちの心は、あなたと同じです。サンタ・マリアの御像はどこですか?」と尋ねた。そうして、自分たちが浦上のキリシタンであることを告白した。こうして、長年キリシタン弾圧が行われてきた日本国内にも隠れキリシタンが存在したことが発見された。この名高い「信徒発見」が行われて以降、日増しに隠れキリシタンと名乗る信者が教会を訪れるようになり、仕舞いには半ば公然と信仰を表明するようになった。
これに対して、幕府もある程度の弾圧は行ったが、軍政面でフランスから指導を受けていた幕府は、立場上、徹底的な弾圧をすることができなかった。維新後の新政府は、幕府の方針と同じく、キリスト教を邪宗教として信仰を禁令とした。廃仏毀釈までして、神道を国教として顕在化に務めていただけに他宗教によって国民思想の統一が邪魔されることを防ぐ必要があった。
1868年(慶応4年)3月に出した禁令五ヵ条の一つとして、キリシタン禁令を掲げた。この禁令に列国公使が早速、抗議したが日本は頑として受け付けなかった。イギリス公使・パークスは、キリスト教を邪宗門とするとはなにごとかと怒鳴り込んだが、政府は無視した。
1868年(慶応4年)5月には、参与の木戸孝允はキリスト教が九州に流布する恐れ有りとして、九州鎮撫総督府と協議して、確認されている指導的信者114名を検挙し、長州・津和野・福山の三藩に分けて、投獄した。この迫害事件にパークスは憤激し、この処置が改められない限り、日本と断交する可能性もあると提示したほどだった。
それでも新政府は、キリスト教に対する姿勢を改めることはなく、その後も長崎に乗り込んだ長崎裁判所総督・沢宣嘉や井上馨・大隈重信たちによって、信徒への弾圧を敢行した。
しかし、欧米列強の反発は年々強まり、新時代の旋風がキリスト教への柔軟な妥協を成せると政府が判断したことから、1873年(明治6年)にようやく政府は、「一般熟知の事につき」として禁令を撤回した。この禁令撤回の裏事情には、条約改正との引き換え実現を見たためであった。しかし、この禁令撤回までに多くの流刑者が出て、その五分の一が亡くなるなど悲劇が残った。
幕末から明治時代
アメリカ合衆国からの要求をきっかけに日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した。
カトリック教会の復興とキリスト教解禁
カトリック教会の教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード(Théodore-Augustin Forcade)神父(司祭)が那覇に派遣され、二年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。その後1855年からユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)、プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール(Prudence Séraphin-Barthélemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ(Louis-Théodore Furet)の三人の神父が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として「日本二十六聖人の列聖」(1862年)が行われたことがあげられる。
1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean)神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになった。
しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続したため、信徒への拷問や流刑などが行われた。明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。
だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた。
カトリック教会は復興当初から宣教のみならず、教育と社会福祉事業に力を注いでいた。早くも1872年にはプティジャン司教の招きによってフランスから幼きイエス会(サン・モール会)が招かれている。最初の5人の修道女たちは横浜に修道院と孤児院を建てた。1888年には彼らの手で築地に高等仏和女学校が開かれた。これが後の雙葉学園の前身である。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会であるショファイユの幼きイエズス修道会にも修道女の派遣を依頼、これにこたえて1877年に来日した四名は神戸で孤児院と学校(後の大阪信愛女学院)を開いた。1878年には同じくフランスからシャルトル聖パウロ修道女会が来日、函館に仏蘭西女学校を開設した。同学校は白百合学園へと発展していく。キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年に上智大学を開いている。
プロテスタント教会の動向
プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会ジョン・リギンズ(John Liggins)と6月来日のチャニング・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)であった。これを皮切りに1859年中には,「ヘボン」とよばれたアメリカ合衆国長老教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)(10月17日)をはじめとし、アメリカのオランダ改革派教会から派遣された宣教師サミュエル・ブラウン(Samuel Robbins Brown)とグイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)、医療宣教師ダン・B・シモンズ(Danne B.Simmons)などが続々と来日した。さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル(Jonathan Goble)、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ(James Ballagh)などが日本の土を踏んだ。これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループである。
やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード)(American Board of Commissioners for Foreign Missions)のダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)が来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)が函館に着任した。
近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがある。それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」である。ここでいうバンドとは「団体」という意味である。
1863年にヘボンの開いた横浜英学所(ヨコハマ・アカデミー)はジェームズ・バラの弟ジョンに引き継がれ、バラ学校と呼ばれていた(バラ学校は1880年に築地居留地に移転して築地大学校となる)。1872年、押川方義(東北学院創立者)らバラ学校の青年たちが信仰を告白し、洗礼を受けた。このグループが「横浜バンド」である。同じ年、横浜に最初の教会「日本基督公会」(海岸教会)が開かれた。1873年にはサミュエル・ブラウンの自宅に集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足。生徒の中には前出の押川方義のほか、青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである井深梶之助、植村正久らがいた。このバラ学校とブラウン塾の流れから1877年に東京一致神学校が生まれ、1887年に東京一致英和学校(築地大学校の後身)・東京英和予備学校と統合した上で白金に移転して明治学院が誕生した。また,一時帰国していたブラウンと共に1869年に来日したメアリー・キダー(Mary E. Kidder)が,ヘボンの診療所で教育していた。ここから後のフェリス女学院が誕生する。
1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官リロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lancing Janes)は会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たちが信仰に入った。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループは、熊本洋学校廃止によってジェーンズが大阪英学校に移るとこれに従い、ジェーンズがすすめたことで(新島襄が1875年に開いた)同志社英学校に加わった。その中に宮川経輝、小崎弘道(同志社第二代総長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいた。
札幌農学校で教壇に立ったウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)とメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)である。クラークの教え子たちの中には佐藤昌介、大島正健、内村鑑三、新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいた(内村鑑三はのちに「無教会主義」を唱えることになる)。
日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展した。横浜バンドの流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」から日本組合基督教会が生まれた。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会が誕生した。初期の宣教師たちの宿願であった日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすすめられ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版された。
1873年までに、ほとんどのプロテスタントの教派が来日し、1882年時点で日本に在留していた宣教師は138名であった。初期の宣教師は聖書信仰と保守的な神学を持ち、その宣教の情熱の背景にはアメリカの大覚醒と呼ばれたリバイバルがあった。循環するリバイバルがアメリカのキリスト教の特徴である。ブラウンら宣教師は大覚醒運動の影響を受けていた。アメリカの宣教師によって日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた。
福音派(特にホーリネス運動)の源流の1つで「松江バンド」(1893年)も特筆に値する。1890年の聖公会牧師バークレー・バックストンの松江市での伝道が始まりであり、竹田俊造、三谷種吉、堀内文一らを輩出。1897年9月26日にバックストンの招きにより、パゼット・ウィルクスが来日し、日本伝道隊(1904年)や日本イエス・キリスト教団、関西聖書神学校などの設立に関わった。三谷種吉は日本最初の音楽伝道者であり、今も歌われる讃美歌「ただ信ぜよ」、「神は愛なり」を歌いながら、伝道した。
1878年5月15-17日に、第一回全国基督教信徒大親睦会が開催され、1880年に第二回が開かれていたが、1882年は耶蘇退治の迫害があった。1883年の5月8-12日に開催された第三回全国基督教信徒大親睦会からリバイバルが起こり、全国的に広がった。5月14日の基督教大演説会には四千人を集めた。1884年の同志社のリバイバルは、3月17日の祈祷会で最高潮を迎え、200名の学生が信仰を告白して、洗礼を受けた。
日本のプロテスタントは教育中心、上流階級と中流階級に対する伝道を行なってきたといわれる。日本の初期のプロテスタントの指導者は特に知識階級、佐幕派の士族階層が中心だった。
正教会の動向
日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会のニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道・日本正教会の建設」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであった。その後もニコライは、この基本方針を貫いた。
函館・仙台の人士が初期の信徒を構成した為、函館・東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年に神田駿河台の土地2300坪を得て、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議が東京で開催される。1880年にはニコライは主教に叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教を待たずに司祭・輔祭を叙聖する事が出来るようになり、日本正教会の神品が増加する環境が整った。1880年には現存するものの中では日本最古の木造教会建築である、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂が完成。1891年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。
また出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国した山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。正教会は急速に教勢を拡大していく。
しかし1891年の大津事件にみられるように日本の対露感情が悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地で迫害を受けていく。1904年にはついに日露戦争が開戦される。この時、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒達を激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の敗報に苦悩していたようだが、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通す事になる。同時に日露戦争時、日本の正教会は日本政府と協力し正教徒ロシア人捕虜の世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人の為だけではない正教会」である姿を両立させることとなった。
日露戦争終結直後、日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒に襲撃されるところであったということからも、当時の日本の正教会が置かれた立場が垣間見える。こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあって、カトリック教会に次ぐ規模であった。
明治最後の年、1912年にニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花環が与えられた。外国人宣教師の永眠に際して花環が与えられたのは異例の事であった。ニコライの伝道はその後、日本ハリストス正教会に結実する。 
明治から大正時代  
明治初期から中期にかけては、国をあげて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ者が増えた。福澤諭吉がキリスト教国教会論を主張し、上流階級がキリスト教に殺到した時代である。1888年末にプロテスタントは249教会、信徒15514人、宣教師451人、日本人教役者142人、神学校14校、神学生287名、年間の受洗者は約7000人を数えた。正教徒は1万7000人。
しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こる。1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言しているが、この中で信教の自由は限定的なものとされた。さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていく。このような風潮を象徴する出来事が内村鑑三の不敬事件(1891年)であった。
この時期はキリスト教にとって困難な時期ではあったが、売買春の廃絶を目指した日本基督教婦人矯風会(1886年)の発足や、石井十次による岡山孤児院(1887年)、石井亮一の聖三一孤女学院(1891年、後の滝乃川学園)のような養護施設活動、山室軍平による救世軍運動(1895年)などキリスト教的社会福祉事業、社会運動、廃娼運動が起こっている。このことはキリスト教精神がようやく日本社会に浸透し、社会への働きかけという形で実を結び始めたことの証ともいえる。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)なども、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。
プロテスタント教会の動向
また、この時期に自由主義神学、高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになる。1885年にドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーが来日し、聖書は人間の宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデルも来日する。この立場は、新神学と呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と称した。これは日本組合基督教会に強い影響を与えた。1887年にはアメリカからユニテリアンの宣教師が来日し、三位一体、キリストの神性を否定した。熊本バンドの小崎弘道はリベラルな新神学を受け入れ、1889年に同志社大学で開催されたキリスト教青年会の夏期学校で、「聖書のインスピレーション」と題して講演をした。また、1891年に金森通倫もモーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めであると主張した。
1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり、田村直臣牧師が免職になった。1893年に東京帝国大学の井上哲次郎教授は、『教育と宗教の衝突』を発表して内村鑑三を非難し、キリスト教と日本は相容れないとした。
1901年5月に20世紀大挙伝道の働きの中で、リバイバルが起こり、1907年にはプロテスタント人口が約6万人となった。
1901年9月から、リベラル神学を巡って、植村・海老名論争が起こる。1902年に福音同盟会は総会を開き、イエス・キリストの神性を確認し、海老名を追放したが、植村も十全霊感を否定した。
1903年には、それまで各教派別に編纂されていた讃美歌集を一つにまとめた共通『讃美歌』が作成された。
1904年の日露戦争では、海老名弾正、植村正久、井深梶之助、本多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三、柏木義円、白石喜之介が非戦論を唱えた。トルストイの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、西川光次郎、石川三四郎、片山潜らも無抵抗主義の非戦論だった。
1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日した。2万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望、大隈重信、明治天皇に面会した。1912年に救世軍病院が開設される。
1909年10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が開催された。1910年エディンバラ宣教会議の決議により、東京女子大学が設立。
1910年の朝鮮併合後に朝鮮総督府は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持ちかけた。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じた。日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を派遣。日本組合基督教会は朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げた。
明治の終わりから大正期にかけて、明治時代後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏基による三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのような印象を与えたが、その一方で昭和に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働組合運動など活発に社会運動を行ったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながった。
1918年は中田重治、内村鑑三、木村清松が再臨運動を展開した。1919年11月、淀橋教会の祈祷会から、ホーリネス・リバイバルが起き、四重の福音を唱えるホーリネスは教勢を拡大していった。
正教会の動向
大正以降の正教会の動向については、日露戦争・ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なる為に独特の経緯を辿った部分が少なく無い。
昭和初期以前、明治末から既に日露戦争に代表される日露関係の悪化から、日本正教会は日本において他教派よりも一層厳しい立場に置かれていた。正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。1894年にギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教とともに奉神礼を行った事を、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える。 
 
廃藩置県1

 

明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
新政府は、幕藩体制時代に築かれた国政体系を解消する必要に迫られていた。1869年(明治2年)には、版籍奉還を成し、藩主制度を廃止し、政府側が藩主たちに藩知事の職務を命じることにした。こうすることで、政府側が地方統治を藩知事たちに命じたという形が取られ、政府側に強い権限があることを示すことができた。
しかし、依然として幕藩体制時代の組織形体は変わってはおらず、旧藩主たちが地方を統治していた。そこで、兵制改革や財政面での処理利便を図るため、政府は1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県を敢行した。藩組織による地方統治が撤廃されたのである。政府は薩長土肥四藩の実力者と前もって協議を重ねており、実施にあたって充分な根回しが成されていた。また、岩倉・三条ら公卿出身の協力も得て、天皇の裁断を仰ぐとともに、天皇から直接、薩長土肥四藩主に対して、命じる異例の処置を取り、他藩の反発を押さえ込む工夫をこらした。
この政治工夫とともに諸藩がもし反発した場合を想定して、薩長土の三藩から1万人の藩兵を徴集して、天皇の「親兵」として東京に詰めさせる処置を取った。こうして、武力鎮圧部隊を手元に置いた政府は、わずか一日で廃藩置県実施を断行したのである。
廃藩置県実施の日、午前10時に天皇は小御所代に出御し、あらかじめ呼ばれていた鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大、高知藩知事・山内豊範の代理・板垣退助の四人を前にして、三条実美が勅語を読み上げ、布告した。まず、四藩が率先して廃藩置県を成したことを賞賛し、さらに廃藩置県を実施するにあたって、天下の情勢を察してぜひ協力してほしいことが告げられた。ついで、午後2時から天皇は、大広間に出御し、そこに集まった在京中のすべての藩知事を前にして、同じように三条が廃藩置県を成すことを布告した。こうして、全国に260余の藩が存在していたものがこの時を持って、一斉に廃止されたのであった。
予想された諸藩の反発はほとんどなく、むしろ歓迎する藩が多かった。それは、窮乏する藩財政に頭を悩めている藩が多かったため、廃藩置県によって、借金を政府が肩代わりしてくれるとあって、喜びこそすれ、反発する者はいなかったのであった。もちろん、家禄も従来どおり支給されるとあっては、文句の付け所がない。
唯一、薩摩藩の島津久光だけは、怒りを爆発させ、花火を打ち上げて、鬱憤晴らしをする始末だった。政府は旧藩主たちを華族という身分にして、地方統治の混乱を最小限にするため、全員を東京に住まわせることとした。そして、藩知事の跡目は中央から地方官が任命され、政府は完全に地方統治を支配統括したのだ。
この封建制度を完全に葬り去る政策を何ら兵乱を起こすことなく終えたことは、大いに政府の自信へとつながっていった。後に岩倉使節団の副使として渡米した伊藤博文は、サンフランシスコでの演説で欧州がかつて封建制度を廃止するために長い争乱を経験したことを上げ、日本ではその兵乱なく、わずか一日で制度廃止を成したことを自慢気に語っている。
廃藩置県を成した後、藩がそのまま県とされたが藩の数が余りにも多かったので、これを整理統合を成し、11月には3府72県とした。  
背景
慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古の政変は事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。
明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名から版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状はほとんど江戸時代と同様であった。
一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを「府藩県三治制」という。なお「藩」という制度上の呼称はこのとき初めて定められたものであり、江戸幕府下の正式な制度として「藩」という呼称はない。したがって、公式には「藩」とは、明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけの制度である。
当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いた。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出る所も出ていた(池田慶徳(鳥取藩)、徳川慶勝(名古屋藩)、細川護久(熊本藩)、南部藩など)。
明治3年12月19日(1871年2月8日)、大蔵大輔・大隈重信が「全国一致之政体 」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。
紀州藩(和歌山藩)の藩政改革
明治元年11月(1868年12月)、紀州藩第14代藩主・徳川茂承より藩政改革の全権を委任された津田出は、陸奥宗光に会い、郡県制度(版籍奉還 廃藩置県)、徴兵令の構想を伝える。
明治2年7月(1869年8月)、陸奥宗光は廃藩置県の意見書を提出するが、採用されず下野し、津田出らとともに紀州藩の藩政改革に参画する。紀州藩の藩政改革は、郡県制の実施、無益高(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施、カール・ケッペンらによりプロシア式の洋式軍隊を創設し、四民皆兵の徴兵制度と満20才以上の男子に徴兵検査を義務を実施した。また、藩主の下に執政を1人置き藩全体を統轄させた。執政の下に参政公議人を置き、執政の補佐や藩と中央政府との連絡を行った。また政治府と公用局、軍務局、会計局、刑法局、民政局の5局、教育を掌る所として学習館(後の和歌山大学)を設置した。それに加え、藩主の家計事務一切を藩政から分離する「藩治職制」を新設し、設置した。最低生活を保障する給与である無役高で禄高を10分の1に減額されたが、それぞれの官職についた者ついては文武役料が追加され、人材抜擢が行われた。この際、無役高のみの者に対しては、城下以外の移住、副業や内職のために農工商を営むことが許され、紀州藩での封建制度は崩壊した。なお、長州藩の鳥尾小弥太は、この改革に戊営副都督次席として参与している。この改革を西郷従道、西郷隆盛の代理で村田新八、山田顕義が見学した。この改革が、日本の近代国家のモデルケースとなり、明治4年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の徴兵令に影響を与えた。
実行前夜
だが、その実現には紆余曲折があった。当時、中央集権体制を進めるために廃藩置県の必要があることは政府内の共通認識となっていたが、その実施に向けた方策について急進的な木戸孝允と漸進的な大久保利通との対立が続いていた。また木戸が能力を重視して大隈とともに旧幕臣の郷純造や渋沢栄一らを新政府に登用したことについて、旧幕臣の腐敗こそが江戸幕府の滅亡の原因で維新のために尽力した薩長土肥の若い人材こそが政府に必要であると考える大久保には理解できなかった。
大久保は薩摩藩の藩政改革のために鹿児島にいた西郷隆盛に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとした。折りしも山縣有朋の御親兵設置構想が浮上すると大久保は岩倉具視とともに勅使として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのである。
ところが、出仕の際に西郷が出した意見書(「西郷吉之助意見書」)が大きな波紋を呼んだ。西郷は新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようであると糾弾した。それは大久保が批判対象とする旧幕臣を飛び越して一連の政策立案の中心である大隈をその最大の対象としまたこれを補佐する伊藤博文・井上馨ら、更に伊藤・井上を推挙した木戸に対する糾弾であった。
大久保は、西郷出仕の必要性を重視してこれを受け入れた。明治4年1月(1871年2月)に西郷は上京し、薩摩などの維新功労者の新政府登用策の受け入れのみで一旦は了承した。しかし、西郷の新政府への不満はその富国政策とその指導にあたる大隈ら大蔵官僚にあったために木戸・大隈との対決は避けられなかった。
また、長州藩の大楽源太郎による反乱やその支持者によると言われる広沢真臣暗殺、公家の愛宕通旭・外山光輔による新政府転覆計画発覚(二卿事件)など新政府内部は更に混乱の様相を見せ始めた。
大久保は6月25日(8月11日)に政府人事の大幅改造を断行して参議を西郷と木戸の2人に限定し、自分は大蔵卿として大隈らを掣肘することとした。しかし、西郷によって推挙された大蔵大丞・安場保和が大隈弾劾の意見書を提出したために大隈やこれを支持する江藤新平・後藤象二郎らが結束してこれに対抗した。弾劾は木戸との全面衝突を望まない西郷や大久保の反対で否決されたものの新政府は西郷派と木戸派に分裂しつつあり、廃藩置県どころか政務は停滞し新政府分裂の危機に至った。
7月4日(8月19日)、山縣の下に居合わせた鳥尾小弥太と野村靖(いずれも木戸派に相当する)が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。新政府を諸藩と対峙させることによって政権両派の再統一と求心力を回復させようとしたのである。これは、西郷が廃藩置県推進派の木戸と協力して新政府を支える意図があるのかどうかを確かめる目的もあった。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。
翌日には2人は井上を味方に引き入れ7月6日(8月21日)、井上は木戸を、山縣は西郷を説得して更に大久保や大隈にも同意を取り付けた。西郷も現状の政局を打破するために廃藩置県によって政府内の流れを変えることを望んだのである。かくして9日(24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長の要人間で木戸邸で密かに練られた廃藩置県案は三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈らの賛成を得たのである。
廢藩置縣ノ詔書
詔書
朕惟フニ更始ノ時ニ際シ內以テ億兆ヲ保安シ外以テ萬國ト對峙セント欲セハ宜ク名實相副ヒ政令一ニ歸セシムヘシ朕囊ニゥ藩版籍奉還ノ議ヲ聽納シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ數百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其實擧ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ萬國ト對峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廢シ縣ト爲ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無實ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ體セヨ
実行
明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。王政復古に次ぐ第2のクーデターであった。
10時に鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大及び高知藩知事・山内豊範の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・池田慶徳、徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統合された。
その後、県の数は明治5年(1872年)69県、明治6年(1873年)60県、明治8年(1875年)59県、明治9年(1876年)35県と合併が進み(府の数は3のままである)、明治14年(1881年)の堺県の大阪府への合併をもって完了した。だが、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため次は分割が進められて、明治22年(1889年)には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。
統合によってできた府県境は、令制国のものと重なる部分も多い。また、石高で30〜60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。
また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年(1873年)までには大半の同県人県令は廃止されている)、鹿児島県令の大山綱良のように数年に渡って県令を務めて一種の独立政権のような行動をする者もいた。
一方、その中で山口県(旧長州藩)だけは逆にかつての「宿敵」である旧幕臣出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとした。尚、この制限は文官任用制度が確立した明治18年(1885年)頃まで続いた。
同県人の知事起用明治5年(1872年)まで:静岡県、鳥取県、岡山県、徳島県、佐賀県
明治6年(1873年)まで:熊本県
明治8年(1875年)まで:京都府
明治9年(1876年)まで:高知県
明治10年(1877年)まで:鹿児島県
影響
廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものであった。
だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。
琉球藩
戦国時代、明国と冊封関係を利用し勢力を拡大していた琉球は慶長14年(1609年、万暦37年)、薩摩藩に破れ降伏し、1451年に日本本土からの技術援助によって建てられた首里城は落城した。江戸時代において、清への朝貢を装う行き来が盛んであったが、実体は薩摩藩による密貿易である。明治政府は明治5年9月14日(1872年10月16日)、琉球王国を「琉球藩」とし、明治12年(1879年)3月11日に沖縄県として実質的国内化を図った。「琉球藩」は、この間の琉球の公称である。
旧藩債務の問題
既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが黒船来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る藩主(藩知事)さえ出てくる状況であった。
これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった(藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の債務扱いとなる)。
廃藩置県によって旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年〜1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はなかった。
そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。即ち、明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、弘化年間(1844年〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)、そして天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令を発令したことを理由に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。
(なお新政府は朝敵となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた)
その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。
だが債務の大半、特に大名貸の大半は天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり有名な薩摩藩の調所広郷による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。貸し手の商人達から見れば大名貸は一種の不良債権であり返って来る見込みは薄くても名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえたがこの処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのである。
旧藩主やその家臣はこれらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。 
 
廃藩置県2

 

版籍奉還から廃藩置県まで
明治2年6月17日(太陽暦:1869年7月25日)、かねて各諸侯(旧大名)から出されていた版籍奉還の願い出が許可され、改めて藩が明治政府の下での行政区画とされて諸侯たちは順次知藩事に任命されました。この結果、政府直轄の府・県と並立して諸侯の管轄下にある藩により全国(北海道と沖縄を除く)が統治される、いわゆる府藩県三治体制が確立し、明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県によってすべての藩が廃止されるまで続きます。
ここでは版籍奉還直後から廃藩置県を経て同じ年の11月(旧暦)の第1次府県統合によって国郡を単位とした3府72県に統合されるまでの府藩県の変遷を表にまとめました。なお、第1次統合以降の府県の変遷については、こちらをご覧ください。
この表をご覧になるにあたり、以下の点にご留意ください。 •現在の地理教育で行われている8地方区分を基準に(一部に例外あり)、以下の地方別の表とした。
•日付は旧暦(太陰太陽暦)による。
•この段階の府藩県は、第1次統合以降の府県とは違い、必ずしも連続した領域を管轄しているわけではなく、多くの飛び地を持っているのが普通である。中には藩庁または県庁所在地の周囲よりも遠方の地方により広大な管轄領域を持つものもある(詳細は 解説 を参照)。しかし、この表では基本的に府藩県庁所在地を基準にして、その変遷をまとめた。
•藩および知藩事の名前の表記および読み方には、資料によりかなりの異同がある。ここに掲出したものはそれらさまざまに行われているもののうちの1つと理解されたい。他の表記・読み方もあるということである。なお、漢字の字体およびかなづかいについては、原則として現代表記(常用漢字表・現代仮名づかい)に従った。
[ 上段:旧国名 / 中段:第1次府県統合(1871年11月)段階の府県名 / 下段:現在の都道府県名 ]
北海道・東北
渡島国 陸奥国 陸中国 陸前国 磐城国 岩代国 羽後国 羽前国
青森県 盛岡県 一関県 仙台県 平県 二本松県 若松県 秋田県 酒田県 山形県 置賜県
北海道(部分) 青森県 岩手県 宮城県 福島県 秋田県 山形県
関東 常陸国 
下総国 上総国 安房国 下野国 上野国 武蔵国 相模国 伊豆国
茨城県 新治県 印旛県 木更津県 宇都宮県 栃木県 群馬県 入間県 埼玉県 東京府 神奈川県 足柄県
茨城県 千葉県 栃木県 群馬県 埼玉県 東京都 神奈川県 静岡県(部分)
中部
佐渡国 越後国 越中国 能登国 加賀国 越前国 若狭国 甲斐国 信濃国 飛騨国 美濃国 駿河国 遠江国 三河国 尾張国
相川県 新潟県 柏崎県 新川県 七尾県 金沢県 福井県 敦賀県 山梨県 長野県 筑摩県 岐阜県 静岡県 浜松県 額田県 名古屋県
新潟県 富山県 石川県 福井県 山梨県 長野県 岐阜県 静岡県 愛知県
近畿
伊勢国 伊賀国 志摩国 近江国 山城国 丹波国 丹後国 但馬国 河内国 和泉国 摂津国 播磨国 大和国 紀伊国
安濃津県 度会県 長浜県 大津県 京都府 豊岡県 堺県 大阪府 兵庫県 姫路県 奈良県 和歌山県
三重県 滋賀県 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 和歌山県
中国
因幡国 伯耆国 出雲国 隠岐国 石見国 美作国 備前国 備中国 備後国 安芸国 周防国 長門国
鳥取県 島根県 浜田県 北条県 岡山県 深津県 広島県 山口県
鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県
四国
淡路国 阿波国 讃岐国 伊予国 土佐国
名東県 香川県 松山県 宇和島県 高知県
兵庫県(部分) 徳島県 香川県 愛媛県 高知県
九州
筑前国 筑後国 対馬国 壱岐国 肥前国 肥後国 豊前国 豊後国 日向国 大隅国 薩摩国
福岡県 三潴県 伊万里県 長崎県 八代県 熊本県 小倉県 大分県 美々津県 都城県 鹿児島県
福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県
府藩県三治体制の成立
慶応3年12月9日(太陽暦:1868年1月3日)、京都御所において明治天皇睦仁の名で新政府樹立が宣言されました。「王政復古の大号令」と呼ばれるものです。かねて徳川慶喜から願い出されていた政権の返上と将軍職の辞任(10月14日[=太陽暦:11月9日]:大政奉還の上表文 )が許可され、将軍職と幕府が廃止されました。同時に、朝廷側でも摂政・関白をはじめとする旧来の制度が全廃され、総裁・議定・参与の三職を天皇の下におく政府が発足しました。これをもって17世紀初め以来2世紀半にわたった幕藩体制は崩壊し、鎌倉幕府以来の武家政権の時代も終わりを告げ、天皇政府による中央集権国家の建設へと向かうことになります。もちろん、宣言だけで新政府が確立するわけはなく、年が明けた直後の鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で旧幕府勢力の抵抗を排除していきながら、新政府の統治機構が徐々に整備されていきました。
慶応4年(9月に改元され明治元年)閏4月21日(太陽暦:1868年6月11日)に政体書が公布され、あまり実体のなかった三職政府に代えて、天皇とそれを補佐する2名の輔相を頂点とする太政官が設置され、その下で全国を統治するための地方制度も定められました。それが、政府直轄地に設置された府・県と諸侯(大名から改称)たちの支配下にある藩とによる地方統治の制度です。戊辰戦争の進展に伴い、新政府は旧幕府直轄領(天領)と旗本・与力らの領地を次々と接収してゆき、そこに順次府または県を設置してゆきました。多くは旧幕府の奉行所(町奉行および遠国奉行)や代官所を引き継ぎ、基本的に主要都市に府、農村部に県を設置しています(しかし、明治2年7月17日[太陽暦:1869年8月24日]の 太政官布告 により、府は京都・東京・大阪の3つのみとされ、他はすべて県に改称されました。 ---余談ですが、この布告では京都の方が東京よりも上位に置かれています)。そして、諸侯たちの領地が藩として初めて公式の行政区画に位置づけられました。
「藩」という呼称
実は、江戸時代を通じて藩という呼称が公式に用いられたことはないのです。通常、藩とは大名の領地およびその支配のための機構と理解されているのですが、このような用法が定着するのはかなり遅くなってからで(もしかしたら、近代以降の日本史研究を通じて?)、幕府による公式な呼称は領分・領知あるいは知行所でした。当初、藩という呼称を用いていたのは新井白石らに代表される一部の儒学者たちだけだったと言われています。公式名称でないのであれば、同一の藩に「伊達藩/仙台藩」「毛利藩/長州藩/萩藩」などというようにいくつもの呼称があるのも不思議ではないわけです。
そもそも藩というものを、律令制以来の国や郡のような行政区画と考えない方がいいのかもしれません。藩(大名領)というのは将軍に臣従した大名に対して知行地として将軍からあてがわれたものであって、それは鎌倉将軍が御家人に対して地頭職をあてがうのと本質的には変わらない。あてがわれた領地を支配するには当然統治機構が必要なわけであって、そのための組織が整備されていくわけだけど、彼らは別に律令国家の国司や郡司のような地方官として任命されて赴任しているわけではない。
だから将軍(幕府)は必要に応じて大名の領地を追加・削減したり没収したりもするし、その一方でとっくに現実の行政機能を失ってしまったのにもかかわらず国・郡といった地域区分が大名の領分を表す単位として使われつづけた(幕府は、中世以来の混乱で細分され変動したいくつかの郡について古代の区画や呼称を復活させようとしています)。そう考えてみてはどうでしょう。
ともかく、明治維新後の政体書によってはじめて藩が公式の行政区画となりました。そして、各藩は原則として藩庁所在地の名前によって「仙台藩」「山口藩」「高知藩」「鹿児島藩」などと呼ばれることになりました。
藩の領域
本来、大名の領地は必要に応じて将軍から与えられるものでしたから、その領地が連続した広がりを持っているとは限りません。もともと戦国大名として領域支配を行っていた外様大大名(伊達氏=仙台藩や島津氏=薩摩藩など)の場合は奥州大崎・葛西領(+その他数郡)とか薩摩・大隅2州(+日向南部)というまとまった領域を支配していましたが、そのような藩であっても意外な所に飛び地を持っていることは珍しくありません。まして、徳川氏の領地の中から知行地をあてがわれる譜代大名であればなおさらです。特に各地に散在する小領地を掻き集めてようやく1万石に達する小大名の場合、藩の本拠地周辺の領地よりも他の領地の方が大きいような藩も多いのです。たとえば、幕末から明治にかけて下総関宿藩(現千葉県東葛飾郡関宿町)の領主であった久世氏の場合、本拠地の下総よりも和泉(現大阪府南西部)に多くの領地を持っていました。太平洋戦争最末期の首相として終戦工作を行った鈴木貫太郎は関宿藩士の出身(とはいっても、彼は慶応3年=1867年生まれですが)なのでしばしば千葉県の生んだ(唯一人の)首相と紹介されますが、実際は彼は和泉にあった飛び地領の代官の息子で、したがって大阪府の出身なのです。さらに譜代大名や旗本・与力等の領地については江戸時代を通じてかなり頻繁に変更が行われました。これは大名の側から見ればたとえ藩の位置や石高が変わっていなくても領地の範囲はかなり頻繁に変わる、支配される村の側から見れば領主が次から次へと(天領になることも含めて)変わる、ということです。そもそも、譜代大名は現代のサラリーマン(国家公務員も)が配置転換を繰り返すように、藩そのものの移転を繰り返していたのですが(現代と違うのは決して単身赴任がないことですね)。
明治元年末までに行われた戊辰戦争に関与した藩への処分と徳川氏の駿河府中(静岡と改称)移転にともなう駿河・遠江各藩の上総・安房への移転のほか、若干の領地の入れ替えが明治政府によって行われましたが、ほとんどの藩は幕末以来の領地をそのままに公式な行政区画としての藩に移行しました。これは各地に散在する幕府直轄地や旗本領などをまとめて管轄する政府直轄の府県も同じであって、特に東京や大阪の周辺ではそれらの府藩県の管轄地域がどちらが飛び地かわからないような状態で複雑なモザイクを構成していました。
版籍奉還
明治2年1月20日(太陽暦:1869年3月2日)、山口(長州)藩主毛利敬親・鹿児島(薩摩)藩主島津忠義、佐賀(肥前)藩主鍋島直大(なおひろ)・高知(土佐)藩主山内豊範は連名で、いわゆる版籍奉還の建白書を天皇に対して提出しました。もちろん彼ら自身の意思からではなく、彼らの家臣である木戸孝允や大久保利通、板垣退助、大隈重信ら維新官僚たちのリードがあってのことです。いわく、王政復古によりわが国の支配権は天皇の下に一元化された。であるなら、土地(版)や人民(籍)に対する支配権も天皇に帰するべきであり、したがって4人の藩主はともに自ら土地と人民とを天皇に返還することを申し出る。その後の処置は天皇がしかるべく取り計らっていただきたい、というもの。「しかるべく」の原文は、
「願くは朝廷其宜(そのぎ)に処し、其(その)与ふ可(べ)きは之(これ)を与へ、其奪ふ可きは之を奪ひ、凡(およそ)列藩の封土更(さら)に宜(よろ)しく詔命を下し、これを改め定むべし。」
というわけで、ここには天皇から各藩主たちへ再び領地・領民の支配権が交付されることの期待ないしは願望が表明されて いる、という指摘もあります。いずれにせよ、どこよりも有力な4人の藩主が願い出たわけですから、以後ほかの藩主たちも雪崩を打つように版籍奉還を願い出てゆきました。もちろん、奉還後の版籍の再交付を期待して。
これに対して政府は6月17日(太陽暦:7月25日)、一斉に彼ら藩主たちの願い出を許可し、その上で今度は彼らを次々と知藩事(藩知事)に任命してゆきました。こうして彼らの地位は明治政府公認となるのですが、しかしこれは彼ら旧藩主たちの思惑とは微妙に違うものです。彼らは政府から知藩事には任命されたわけですが、しかし土地と人民に対する支配権を与えられることはありませんでした。知藩事というのは政府(天皇)の任命する地方官であって、かつてのような領地・領民を支配するお殿様=領主ではないのです。知藩事の地位を世襲することは前提となってはいて、いくつかの藩では廃藩置県までの2年の間に代替わりがありましたが、その任免の権限は天皇が握っていました。実際、明治4年7月(廃藩置県の直前)には藩内で起きた偽札事件の責任を問われて黒田長知が福岡藩知事を罷免され、かわって有栖川宮熾仁(たるひと)親王が知藩事に任命されています。おおよそ6月末までの間に旧藩主たちは、それぞれが以前の藩の知藩事に任命(一部知藩事は同年末ないし翌年に任命)されましたが、その地位は政府直轄の府県に配置された知府事・知県事と本質的に変わらず、藩という区域を管轄する地方行政官となったのです。しかし、このことによって明治政府による中央集権化は一歩前進しました。
廃藩置県へ
かつての藩主たちを知藩事に任命した政府は、次に藩の統治組織の統一を各藩に命じました。その中心をなすのが明治3年9月10日(太陽暦:1870年10月4日)に公布された藩制です。ここでは藩庁の職制を府県と同様のものとした上で、藩財政についても歳入の10%を知藩事自身の収入(家禄)として残りを藩庁経費と藩職員(つまりは旧家臣=藩所属の士族卒)の俸給とするなど、その運用のしかたに大きな統制を加えるものでした。要は、各藩が独自のやりかたで藩の運営を行うことができなくなったわけです。これもまた、藩が大名の領地ではなく政府の地方行政区画であることの表れです。
しかしこれを裏返せば、これによって政府は藩を府県と同様の行政区画として明確に位置付けたわけであり、この時点の政府は決して藩を廃止することを方針としていたわけではない、ということも意味します。
廃藩の動きは、むしろ藩の方から現れてきました。
各藩にとって、幕末以来の社会の急変に対する出費への負担は非常に大きなものでした。2度の幕長戦争(長州征伐)とそれに続く戊辰戦争への出費は藩財政の悪化へのダメ押しとなりました。さらに明治政権下で強要された藩制度の改革を通じて、多くの藩の財政が破綻に向かったのです。
なかでも深刻なのは、もともと財政基盤の弱い小藩や、戊辰戦争で「朝敵」となり戦後の処分で所領の多くを没収された藩でした。
たとえば、官軍との激しい戦闘で戊辰戦争の主役の1つとなった長岡藩(越後国古志郡:牧野氏)の場合、戦闘で長岡城下町が焼き払われた上に、戦後の処分で7万4千石だった所領の3分の2にあたる5万石が没収されて2万4千石の小藩に転落してしまいました(実は、それ以前幕末の段階で長岡藩は幕府から領地替えを命じられ、信濃川左岸の丘陵地帯の農村と引き換えに藩にとって重要な財源であった港町新潟を奪われていました)。
当然、藩の財政は破綻し、支藩であった峰岡(三根山)藩(越後国蒲原郡)から「米百俵」の援助(小泉政権発足後、首相の施政方針演説で突如有名になりましたが、もともとの意味を[わざと]間違って流布しているように私には思えてなりません)を受けたりもしましたが藩を維持することはできず、知藩事の牧野忠毅(ただかつ)は明治3年10月19日(太陽暦:1870年11月12日)は政府に辞任を願い出て、10月22日(太陽暦:11月15日)長岡藩は廃止されて柏崎県に編入されました(つまり、朝敵藩だから長岡に県庁が置かれなかったわけではありません。柏崎県は長岡藩の廃藩前からすでにあったのです)。
これと前後して全部で13の藩が廃藩置県を待たずに廃止されました。多くは5万石以下の小藩ですが、中で目を引くのが明治3年7月10日(太陽暦:1870年8月6日)に廃止された盛岡藩(=南部藩、陸中国岩手郡:南部氏)です。
この藩も戊辰戦争後、朝敵藩の1つとして20万石から13万石に削減され、一度は同じ朝敵藩の仙台藩(陸前国宮城郡:伊達氏)から没収された領地の一部である白石(磐城国刈田郡)に移転され、版籍奉還後に盛岡に戻ってきたばかりでした。盛岡復帰の条件として政府から要求された多額の献金が命取りになりました。
当時の政府指導者の中で伊藤博文は、藩を全廃して郡県制をしき中央集権国家を確立することを明確に主張し、木戸孝允も伊藤ほど明確ではなくともそれに近い意見を持っていたようです。しかし政府指導者の大半は、少なくとも当面は府藩県三治体制の下、藩への統制を強めていきながら、一方では藩を温存しつつ中央集権化を進めていこう、という方針でいたようです。その背景には、当時の政府は直属の軍を持たず、各藩が軍事力を所有しているという事情がありました。
しかし明治4年(1871年)に入ると、このような体制での中央集権化にあちらこちらで行き詰まりが見られるようになりました。政府はさまざまな対策を検討し、その中でやがて廃藩が現実の問題として浮上してきました。大久保利通ら政府指導者は西郷隆盛の協力を得て薩長土三藩の将兵による政府直属軍である親兵が創設され、軍事面で各藩に優位に立ちました。
このような情勢の下で、明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)、政府は各藩の知藩事を皇居に呼び出して藩をすべて廃止して県を置くことを一方的に宣言しました。
この宣言(天皇の詔書)をうけて、
七月十四日(布告) 藩ヲ廃シ県ヲ被置候事
という布告(「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第353)によって、「廃藩置県」が断行されました。
知藩事の誰もがその当日までこのことを知らなかったどころか、政府の(形式上の)トップにあった三条実美や岩倉具視でさえそれを知らされたのは数日前、という処分でした。これを聞いた鹿児島(薩摩)藩の事実上の支配者であった島津久光(知藩事は息子の島津忠義)が激怒して鹿児島の邸内で花火を打ち上げ、鬱憤を晴らしたとういのは有名なエピソードです。
廃藩置県以後
そもそも廃藩置県は明確なビジョンと準備があって行われたものではありませんでした。
それは藩の廃止とともに知藩事の全員が罷免されたのはいいとして、それに代わる知県事をはじめとする県幹部の人事がすぐには行われず、当面は旧藩の組織がそれを代行したことにも表れています。さきの布告に続けて、
七月十四日 今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ 御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事 (今般、藩を廃し県を置かれ候については、追って御沙汰まで大参事以下これまで通り事務取り扱い致すべきこと。)
という布告(「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第354)が出されています。 (なお、大参事とは、「藩制」によって知藩事の下、全国の藩に一律に設けることが定められた職であり、現在の副知事に相当するものです。幕藩体制下の家老に当たるものでしょうか。)
島津久光がそうであったように、知藩事たち自身や周辺の旧藩幹部の中にはこの処分に反発する者もありましたが、政府指導者たちがもっとも恐れた藩の軍事力による反乱は結局1つも起こりませんでした。むしろ、新しい支配体制への不安から住民たちによる一揆が各地で発生しましたが、これはすぐに鎮圧されています。
何しろ突然のことですから、当面は藩が県に変わったこと以外には呼称にも領域にも変更はほとんどありませんでした。藩が県に変わっても、多くの飛び地が錯綜するモザイク状態は以前のまま変わりません。
たとえば、現在の神奈川県中央部、相模川と境川にはさまれた旧高座郡7市1町(相模原市、座間市、海老名市、綾瀬市、大和市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町)の範囲では、幕末の段階でそのほとんどの区域が幕府領や旗本領などであったので、政府による接収後は神奈川県(当初は神奈川府)の管轄となりました。しかし、現在の相模原市や海老名市、藤沢市の一部には烏山藩(下野国那須郡:大久保氏)の、また海老名市・綾瀬市・藤沢市にかけては佐倉藩(下総国印旛郡:堀田氏)の領地が散在しており、これらは廃藩置県によってそれぞれ烏山県と佐倉県が管轄することになりました。
佐倉藩を経て佐倉県の管轄となったのは現在の海老名市域に含まれる国分村・上河内村と綾瀬市域の吉岡村・小園村、および藤沢市域の用田村の一部ですが、地図を見ればわかるとおり(基本的に現在の大字に引き継がれています)このたった5つの村でさえお互いに連続していません。
逆にその用田村には佐倉藩領だけでなく烏山藩領と旗本領が、また現在の相模原市域に含まれる下溝村には幕府領・烏山藩領のほかに荻野山中(やまなか)藩(相模国愛甲郡:大久保氏=小田原藩の支藩)の領地も設定されていたので、廃藩置県後も1つの村が神奈川県・烏山県と佐倉県または荻野山中県の3県に分かれて所属するというありさまでした。
もう1つ。現在は茅ヶ崎市に属する堤村と寒川町に属する大曲村の2つの村は版籍奉還当時は三河の西大平藩(愛知県岡崎市)に属し、廃藩置県後もさしあたり西大平県の管轄となっていました。
西大平藩の藩主は大岡氏。初代藩主は、8代将軍吉宗の時代の(江戸)南町奉行として有名な越前守忠相(ただすけ)です。実はこの2つの村は、寛永年間にこの大岡氏が旗本に取り立てられて以来の、大岡氏にとっては本領ともいえる領地でした。その後、大岡氏は各地で領地の加増を受け、特に忠相の代(ただし、忠相自身は大岡氏一門の他家からの養子)に将軍吉宗から相次いで領地を追加された結果、合計でめでたく1万石を突破して大名の仲間入り、となったわけです。このとき一番多く領地を与えられたのが三河国内の村々でした。そこで忠相が三河の領地内の西大平村(額田郡)に陣屋を置いたので、この藩は西大平藩と呼ばれているのです。ちなみに、忠相自身が三河の領地に行ったことはないといわれているし、彼の墓は三河ではなく、この堤村のお寺にあります。
このようなことが、全国各地にあったわけです。
さらに、1万石以下の極小藩から100万石規模の金沢藩(加賀国石川郡:前田氏)まで旧藩の規模にはあまりにも大きなばらつきがあり、そのままでは全国一律の県治体制を確立することはできません。小さな藩はいくつかを合併し、大藩は適当な規模に分割する必要があります。
これらの問題は同年11月(太陽暦:1871年12月〜72年1月)に行われた府県の統合によって解消されることになります。この統合によって、府県は旧来の国と郡を単位とした3府72県に再編成され、そのそれぞれに府知事・県令(知県事から改称)以下、府県幹部の人事が発令されました。
下野国(現栃木県)に県庁を置く烏山県や下総国(現千葉県)に県庁を置く佐倉県の飛び地を含んでいた相模国高座郡は郡全体で神奈川県(当初は足柄県)に所属することになりました。
その後、何度かの廃置分合を経て、現在の47都道府県に直接つながる地方行政区画が確立することになります。
大政奉還・王政復古
1) 大政奉還の上表文
○十月十四日 徳川慶喜奏聞
臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候臣慶喜国家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候以上
[ 臣(徳川)慶喜、謹つつしみて皇国の時運の沿革を考え候そうろうに、昔、王(が)綱紐こうちゅうを解き、相家しょうか(摂関等の貴族が)権を執とり、保平の乱(保元の乱・平治の乱で)政権(が)武門に移りてより、祖宗に至り、さらに寵眷ちょうけんを蒙こうむり、二百余年、子孫相承し、臣その職を奉ずと雖いえども、政刑、当を失うこと少なからず、今日こんにちの形勢に至り候も、畢竟ひっきょう、薄徳の致すところ、慚懼ざんくに堪えず候。况いわんや、当今とうこん外国の交際、日に盛んなるにより、いよいよ朝権一途に出申さず候そうらいては綱紀立ち難がたく候間そうろうあいだ、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰(=返)し奉たてまつり、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕つかまつり候得そうらえば、必ず海外万国と並び立つべく候。臣慶喜、国家に尽くすところ是これに過ぎずと存じ奉り候。さりながら、なお見込の儀もこれあり候得そうらえば、申し聞くべき旨、諸侯ヘ相達置あいたっしおき候。これにより此この段、謹つつしみて奏聞そうもん仕つかまつり候。以上。]
慶応3年10月14日 (太陽暦:1867年11月9日) 「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第1
※注)「法令全書」では慶応3年の通番第1太政官布告に対する「参照文書」としてこの上表文が収録されている。徳川慶喜の提出したこの上表文に対する朝廷の(当面の)回答を掲げ、諸藩の代表者へ上京(東京ではなく、京都への)を命ずる以下の布告が、「法令全書」冒頭に収録された最初の文書となっている。

十月十五日     諸藩へ
別紙之通被 仰出候ニ付テハ被為在御用候間早々上京可有之旨 御沙汰候事
[ 別紙の通り仰おおせ出だされ候そうろうについては御用あらせられ候間そうろうあいだ、早々上京これあるべき旨、御沙汰候こと。 ]
(別紙)
祖宗以来 御委任厚御依頼被為在候得共方今宇内之形勢ヲ考察シ建白之旨趣尤ニ被 思食候間被 聞食尚天下ト共ニ同心尽力ヲ致シ 皇国ヲ維持シ可奉安 宸襟 御沙汰候事
大事件外夷一条ハ尽衆議其外諸大名伺被 仰出者 朝廷於両役取扱自余之儀ハ召之諸侯上京之上御決定可有之夫迄処支配地市中取締等ハ先是迄之通ニテ追テ可及 御沙汰候事
[ 祖宗以来御委任厚く御依頼あらせ候そうらえども、方今、宇内うだいの形勢を察し、建白の旨趣、尤もっともに思食おぼしめされ候間聞食きこしめされ、なお天下とともに同心尽力を致し、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉たてまつるべく、御沙汰候こと。大事件・外夷(の)一条は衆議を尽くし、その外ほか諸大名伺い仰せ出だされし者、朝廷両役において取り扱い、自余の儀はこれを召し、諸侯上京の上、御決定これあるべし。それまでのところ、支配地・市中取締り等は、まずこれまでの通りにて、追って御沙汰に及ぶべく候こと。]
慶応3年10月14日 (太陽暦:1867年11月9日) 「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第1
2) 王政復古の大号令
十二月九日   宮堂上へ諭告
徳川内府従前御委任大政返上将軍職辞退之両条今般断然被 聞食候抑癸丑以来未曽有之国難 先帝頻年被害悩 宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決 叡慮 王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被為 行諸事 神武創業之始ニ原キ縉紳武弁堂上地下之無別至当之公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付各勉励旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉 公候事
[ 徳川内府(内大臣 徳川慶喜)、従前御委任の大政返上・将軍職辞退の両条、今般断然聞食きこしめされ候そうろう。そもそも癸丑きちゅう(嘉永6=1853年:ペリー来航)以来、未曽有みぞうの国難、先帝(孝明天皇)頻年ひんねん宸襟しんきんを害悩されし御次第、衆庶の知る所に候。これにより叡慮決せられ、王政復古、国威挽回の御基おんもとい立たせられ候間そうろうあいだ、自今、摂関・幕府等(を)廃絶、すなわち今先仮に総裁・議定・参与の三職(を)置せられ、万機行わせらるるべく、諸事、神武(天皇)創業の始めに原き、縉紳・武弁、堂上・地下の別なく、至当の公議を竭けっし、天下と休戚を同じく遊ばさるべき叡慮につき、各おのおの勉励し、旧来驕惰の汚習を洗い、尽忠報国の誠をもって奉公致すべく候事。]
一 内覧 勅問御人数国事御用掛議奏武家伝奏守護職所司代総テ被廃候事
[ 内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・守護職・所司代、総すべて廃せられ候事。]
一 三職人躰
総裁   有栖川帥宮  (熾仁親王)
議定   仁和寺宮  (嘉彰親王)
    山階宮  (晃親王)
    中山前大納言  (中山忠能)
     正親町三条前大納言  (正親町三条実愛)
     中御門中納言  (中御門経之)
     尾張大納言  (徳川慶勝)
    越前宰相  (松平慶永)
     安芸少将  (浅野長勲)
    土佐前少将  (山内豊信)
     薩摩少将  (島津忠義)
参与   大原宰相  (大原重徳)
    万里小路右大弁宰相  (万里小路博房)
     長谷三位  (長谷信篤)
     岩倉前中将  (岩倉具視)
     橋本少将  (橋本実梁)
      尾藩三人  (尾張藩3人:荒川甚作・田中不二麻呂・田宮如雲)
      越藩三人  (福井藩3人:毛受鹿之助・坂井十之丞・中根雪江)
      芸藩三人  (広島藩3人:桜井元憲・久保田秀雄・辻将曹)
      土藩三人  (土佐藩3人:後藤象二郎・神山郡廉・福岡孝弟)
      薩藩三人  (薩摩藩3人:岩下方平・西郷隆盛・大久保利通)
一 太政官始追々可被為興候間其旨可心得居候事
[ 太政官、始め追々興せらるべき候間そうろうあいだ、その旨、心得おくべく候事。]
一 朝廷礼式追々御改正被為在候得共先摂「ろく」*1門流之儀被止候事
[ 朝廷礼式、追々御改正あらせられ候そうらえども、摂「ろく)」・門流の儀、止められ候事。]
*1:「ろく」=「竹かんむり」+「録」
一 旧弊御一洗ニ付言語之道被洞開候間見込有之向ハ不拘貴賎無忌憚可致献言且人材登庸第一之御急務ニ候故心当之仁有之候者早々可有言上候事
[ 旧弊、御一洗につき、言語の道、洞開せられ候間、見込これある向きは貴賎に拘かかわらず忌憚きたんなく献言いたすべし。かつ、人材登庸、第一の御急務に候故ゆえ、心当りの仁じんこれ有り候者もの、早々、言上あるべく候事。]
一 近年物価格別騰貴如何共不可為勢富者ハ益富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至リ候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大宝百事御一新之折柄旁被悩 宸衷候智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事
[ 近年、物価(の)格別騰貴、如何いかんともなすべからず、勢富者は益々ますます富を累かさね、貧者は益々窘急きんきゅうに至り候趣おもむき、畢竟ひっきょう政令不正より致す所、民は王者の大宝、百事御一新の折柄おりがら、旁かたがた、宸衷しんちゅう悩ませられ候。智謀、遠識、救弊の策これある者、誰彼なく申し出ずべく候事。]
一 和宮御方先年関東ヘ降嫁被為在候得共其後将軍薨去且 先帝攘夷成功之 叡願ヨリ被為許候処始終奸吏ノ詐謀ニ出御無詮之上ハ旁一日モ早ク御還京被為促度近日御迎公卿被差立候事 右之通後確定以一紙被 仰出候事
[ 和宮御方、先年関東ヘ降嫁あらせられ候えども、その後将軍(家茂)薨去こうきょ、かつ先帝(孝明天皇)攘夷成功の叡願より許せられ候ところ、始終、奸吏の詐謀に出で、御詮これ無き上は、旁かたがた、一日も早く御還京(を)促させられたく、近日、御迎えの公卿(を)差し立てられ候事。]
右之通後確定以一紙被 仰出候事
[ 右の通り確定の後、一紙をもって仰おおせ出され候事。]
慶応3年12月9日 (太陽暦:1868年1月3日) 「法令全書」通番 慶応3年太政官布告 第13
府県設置
1) 府藩県の設置:政体書(抄)
閏四月二十一日
去冬 皇政維新纔ニ三職ヲ置キ続テハ八局ヲ設ケ事務ヲ分課スト雖モ兵馬倉卒之間事業未タ恢弘セス故ニ今般 御誓文ヲ以テ目的トシ政体職制相改候ハ徒ニ変更ヲ好ムニアラス従前未定之制度規律次第ニ相立候訳ニテ更ニ前後異趣ニ無之候間内外百官此旨ヲ奉体シ確定守持根拠スル所有テ疑惑スルナク各其職掌ヲ尽シ万民保全之道開成永続センヲ要スルナリ
  慶応四年戊辰閏四月   太政官
[ 去冬、皇政維新、わずかに三職を置き、続いては八局を設け事務を分課すといえども、兵馬倉卒の間、事業いまだ恢弘かいこうせず。故ゆえに今般、御誓文を以もって目的とし、政体職制、相改候あいあらためそうろうは、徒いたずらに変更を好むにあらず。従前未定の制度・規律、次第に相立候あいたちそうろう訳わけにて、更に前後異趣にこれ無き候間そうろうあいだ、内外百官、この旨を奉体し、確定守持根拠する所ありて、疑惑するなく各おのおのその職掌を尽し、万民保全の道、開成永続せんを要するなり。]
   政体
一 大ニ斯国是ヲ定メ制度規律ヲ建ツルハ 御誓文ヲ以テ目的トス
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決ス可シ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ルマテ各其志ヲ遂テ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク可シ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ 皇基ヲ振起ス可シ
右 御誓文ノ条件相行ハレ不悖ヲ以テ旨趣トセリ
[ 大いにこの国是を定め、制度・規律を建つるは、御誓文を以って目的とす。(御誓文 [=五箇条の誓文]略) 右、ご誓文の条件、相行あいおこなわれ、悖もとらざるを以って旨趣とせり。]
一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行政司法ノ三権トス則チ偏重ノ患無カラシムルナリ
[ 天下の権力、総すべてこれを太政官に帰す。すなわち、政令二途に出るの患、無からしむ。太政官の権力を分かって、立法・行政・司法の三権とす。すなわち、偏重の患、無からしむるなり。]
一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス但シ臨時都府巡察ト外国応接トノ如キ猶立法官得管之
[ 立法官は行政官を兼ぬるを得ず。行政官は立法官を兼ぬるを得ず。但ただし、臨時都府巡察と外国応接との如ごとき、なお立法官、これを管するを得う。]
(この間、5ヵ条分 略)
一 諸官四年ヲ以テ交代ス公選入札ノ法ヲ用フヘシ但今後初度交代ノ時其一部ノ半ヲ残シ二年ヲ延シテ交代ス断続宜シキヲ得セシムルナリ若其人衆望ノ所属アツテ難去者ハ猶数年ヲ延サヽルヲ得ス
[ 諸官、4年を以って交代す。公選入札の法を用うべし。ただし、今後初度交代の時、その一分の半(分)を残し、2年を延ばして交代す。断絶よろしきを得せしむるなり。もし、その人望の所属あって去りがたき者は、なお数年を延ばさざるを得ず。]
(この間、2ヵ条分 略)
一 官職
 ○議政官 (略)
 ○行政官 (略)
 ○神祇官 (略)
 ○会計官 (略)
 ○軍務官 (略)
 ○外国官 (略)
 ○刑法官 (略)
 ○府
  知府事 一人
   掌繁育人民富殖生産敦教化収租税督武役知賞刑兼監府兵
  判県事 二人
 ○藩
  諸侯
 ○県
  知県事
   掌繁育人民富殖生産敦教化収租税督武役知賞刑兼制郷兵
  判県事
一 官等 (略:第一等官〜第九等)
一 諸法制別ニ戴ス
一 右諸官司此規律ヲ守リ以テ失フナカル可シ若改革セント欲スルノ条件アラハ大会議ヲ経テ之ヲ決ス可シ
[ 右(の)諸官司、この規律を守り、以って失うなかるべし。もし改革せんと欲ほっするの条件あらば、大会議を経へてこれを決すべし。]
慶応4(明治元)年閏4月21日 (太陽暦:1868年6月11日) 「法令全書」通番 明治元年太政官布告 第331
2) 最初の府県
(京都府)閏四月二十五日 長谷宰相 京都府知事被 仰付候事
*法令全書 注:京都裁判所ヲ改テ京都府ト為スノ令他ニ見ル所ナシ姑ク之ヲ存ス、以下五条之ニ傚フ
(「京都裁判所を改めて京都府となす」の令、他に見る所なし。姑しばらくこれを存す。以下五条、これに傚ならう。)
(大津県)閏四月二十五日 辻将曹 大津知県事被 仰付候事
(笠松県)閏四月二十五日 田中源助 徴士濃州笠松知県事被 仰付候事
(日田県)閏四月二十五日 松方助左衛門 是迄之職務被免豊後日田知県事被 仰付候事
(富岡県)閏四月二十五日 佐々木三四郎 肥後天草富岡知県事被 仰付候事
(富高県)閏四月二十五日 木村得太郎 是迄之職務被免日向富高知県事被 仰付候事
慶応4(明治元)年閏4月25日 (太陽暦:1868年6月15日) 「法令全書」通番 明治元年太政官布告 第345〜350
※注1)1通目に「法令全書」が付した注のように、各府県を設置したことを明記する布告は見られない。したがって、「法令全書」では各府県知事の辞令をもって「府県の設置」としている。次の「大阪府」「江戸(東京)府」についても同様。
※注2)当時の習慣では、官職名としては知府事・知藩事・知県事であるが、各個別の任地に続けて呼ぶ場合には京都府知事のように呼んでいた。であるならば、たとえば4通目、松方助左衛門(正義)への辞令は「これまでの職務(を)免ぜられ、豊後日田に知県事仰おおせ付けられ候こと」と読み下すべきか。ただし、武蔵知県事などのような表記も多く見られる。
3) 大阪府・江戸(東京)府の設置
(大阪府)五月二日 醍醐大納言 是迄職務被 免大阪府知事被 仰付候事
慶応4(明治元)年5月2日 (太陽暦:1868年6月21日) 「法令全書」通番 明治元年太政官布告 第365
(江戸府)五月十二日 (各通)木村三郎 船越洋之助 河田佐久馬 土方大一郎 清田岱作 徴士江戸府判事被 仰付候事
慶応4(明治元)年5月12日 (太陽暦:1868年7月1日) 「法令全書」通番 明治元年太政官布告 第387
※注)「江戸府を設置する」旨の布告が見られず辞令で代えていることは上に同じ。ただし、府庁はまだ設けられず、また知府事の任命もない。下僚の判府事5名の辞令をもって「江戸府設置」としている。
4) 府の呼称制限
七月十七日
今度御改正ニ付京都東京大坂三府之外諸府被廃総テ県ニ被 仰出候事
[ 今度こたび御改正につき、京都・東京・大坂3府の外ほか、諸府総すべて廃せられ「県」に仰せ出され候こと。]
明治2年7月17日 (太陽暦:1869年8月18日) 「法令全書」通番 明治2年太政官布告 第655
※注:この時点で存在していた府には、上記3府のほかに以下のものがある。(日付は旧暦。ここでは、1868年について 9月7日まで を 慶応4年、9月8日以降 を 明治元年 とする。)
•神奈川府: 慶4.6.17 設置 → 明2.9.21:神奈川県
•(越後府[第1次]:慶4.5.29 設置)→ 新潟府: 明元.9.21 改称 → 明2.7.27:水原県(越後府と統合)
•越後府[第2次]: 明2.2.8 新潟府から分置 → 明2.7.27:水原県(新潟府と統合)
•甲斐府: 明元.10.28 設置 → 明2.7.20:甲府県
•度会府: 慶4.7.6 設置 → 明2.7.17:度会県
•奈良府: 慶4.7.29 設置 → 明2.7.17:奈良県
また、この布告に先立ち、次の2府が改称・廃止されている。
•箱館府: 慶4.閏4.24 設置 → 明2.7.8:開拓使
•長崎府: 慶4.5.4 設置 → 明2.6.20:長崎県
江戸改称・東京遷都
1) 江戸改称
七月十七日
   詔書
朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東国第一ノ大鎮四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ体セヨ
     辰 七月
[ 朕、今万機を親裁し億兆を綏撫すいぶす。江戸は東国第一の大鎮、四方輻湊ふくそうの地。宜よろしく親臨以もってその政を視みるべし。よって自今、江戸を称して「東京」とせん。これ、朕の海内かいだい一家、東西同視する所以ゆえんなり。衆庶、この意を体せよ。]
   副書
慶長年間幕府ヲ江戸ニ開キシヨリ府下日々繁栄ニ趣キ候ハ全ク天下之勢斯ニ帰シ貨財随テ聚リ候事ニ候然ルニ今度幕府ヲ被廃候ニ付テハ府下億万之人口頓ニ活計ニ苦ミ候者モ可有哉ト不便ニ被 思召候処近来世界各国通信之時勢ニ相成候テハ専ラ全国之力ヲ平均シ 皇国御保護之目途不被為立候テハ不相叶御国ニ付屡東西 御巡幸万民之疾苦ヲモ被為問度深キ 叡慮ヲ以テ 御詔文之旨被 仰出候孰レモ篤ト 御趣意ヲ奉戴シ徒ニ奢靡之風習ニ慣レ再ヒ前日之繁栄ニ立戻リ候ヲ希望シ一家一身之覚悟不致候テハ遂ニ活計ヲ失ヒ候事ニ付向後銘々相当之職業ヲ営ミ諸品精巧物産盛ニ成リ行キ自然永久之繁栄ヲ不失様格段之心懸可為肝要事
[ 慶長年間、幕府を江戸に開きしより、府下日々繁栄に趣おもむきき候そうろうは全く天下の勢いこれに帰し、貨財随したがって聚あつまり候ことに候。しかるに今度、幕府を廃せられ候については府下億万の人口頓にわかに活計に苦しみ候そうろう者ものもあるべきやと思食おぼしめされ候ところ、近来世界各国通信の時勢に相成あいなり候そうらいては専もっぱら全国の力を平均し、皇国御保護の目途立たされざり候ては相叶あいかなわず、御国につきしばしば東西御巡幸、万民の疾苦をも問わせらるるたび、深き叡慮を以もって御詔文の旨、仰せ出だされ候。いずれも篤とくと御趣意を奉戴ほうたいし、徒いたずらに奢靡しゃびの風習に慣れ、再び前日の繁栄に立ち戻り候を希望し、一家一身の覚悟致いたさず候ては、遂ついに活計を失い候ことにつき、向後銘々相当の職業を営み、諸品精巧物産盛んに成り行き、自然永久の繁栄を失わざるよう、格段の心懸こころがけなすべきこと肝要の事。]
慶応4(明治元)年7月17日 (太陽暦:1868年8月23日) 「法令全書」通番 明治元年太政官布告 第517
2) 東京への(事実上の)政府移転
二月二十四日
東京 御滞輦中太政官被表へ御移に相成候ニ付キ諸願伺等来ル四月朔日ヨリ東京ヘ可差出就テハ諸藩公用人ヲモ可差出置旨被 仰出候事
[ 東京御滞輦ごたいれん中(=天皇の東京滞在中)、太政官表へお移りに相成あいなり候につき、諸願伺等、来る4月朔日(=1日)より東京へ差し出すべし。ついては、諸藩公用人をも差し出し置くべき旨、仰せ出だされ候こと。]
明治2年2月24日 (太陽暦:1869年4月5日) 「法令全書」通番 明治2年太政官布告 第200
版籍奉還
六月十七日
   版籍奉還願出候面々
今般版籍奉還之儀ニ付深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採政令帰一之 思食ヲ以テ言上之通被 聞食候事
[ 版籍奉還(を)願出候そうろう面々(へ) 今般、版籍奉還の儀に付き深く時勢を察せられ、広く公議を採せられ、政令帰一の思食おぼしめしを以って言上ごんじょうの通り聞食きこしめされ候こと。]
明治2年6月17日 (太陽暦:1869年7月25日) 「法令全書」通番 明治2年太政官布告 第543
六月十七日
   版籍奉還不願出候面々
今般版籍奉還之儀列藩及建言候ニ付キ深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採政令帰一之 思食ヲ以テ言上之通被 聞食候依之於其藩モ封土版籍返上被 仰付候事
[ 版籍奉還(を)願出候わざる面々(へ) 今般、版籍奉還の儀、列藩(が)建言及び候に付き、深く時勢を察せられ、広く公議を採せられ、政令帰一の思食おぼしめしを以って言上の通り聞食きこしめされ候。これにより、其藩しはん(=その藩)においても封土版籍返上(を)仰おおせ付けられ候こと。]
明治2年6月17日 (太陽暦:1869年7月25日) 「法令全書」通番 明治2年太政官布告 第544
廃藩置県
七月十四日
   詔書
朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ朕「さき」*1ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
[ 朕惟おもうに、更始の時に際し、内うち以って億兆を保安し、外そと以って万国と対峙たいじせんと欲ほっせばよろしく名実相副あいともない、政令一いつに帰せしむべし。朕、さきに版籍奉還の議を聴納ちょうのうし、新あらたに知藩事を命じ、各おのおのその職を奉ぜしむ。然しかるに、数百年因習の久しき、あるいはその名ありてその実じつ挙あがらざる者あり。何を以って億兆を保安し、万国と対峙するを得んや。朕、深くこれを慨す。よって今、更に藩を廃し県となす。これ務つとめて冗じょうを去り簡に就き有名無実の弊を除き、政令多岐の憂うれいなからしめんとす。汝なんじ臣民、それ朕が意を体せよ。]
明治4年7月14日 (太陽暦:1871年8月29日) 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第350
*1:「さき」=「日かんむり」+「襄」「法令全書」注: [此日在京知藩事ヲ召 御前ニ於テ免官ノ御達アリ翌十五日在藩ノ知事名代トシテ在京ノ参事ヲ召同様御達アリ]
七月十四日
   鹿児島 山口 佐賀 高知 四藩知事ヘ
   勅語
汝等「さき」*1ニ大義ノ不明ヲ慨キ名分ノ不正ヲ憂ヘ首ニ版籍奉還ノ議ヲ建ツ朕深ク之ヲ嘉ミシ新ニ知事ノ職ヲ命シ各其事ニ従ハシム今ヤ更始ノ時ニ際シ益々以テ大義ヲ明ニシ名分ヲ正シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セントス因テ今藩ヲ廃シ県ト為シ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ更ニ綱紀ヲ張リ政令ヲ一ニ帰シ天下ヲシテ其向フ所ヲ知ラシム汝等其レ能朕カ意ヲ体シ翼賛スル所アレ
[ 汝等なんじら、さきに大義の不明を慨なげき、名分の不正を憂え、首はじめに版籍奉還の議を建つ。朕、深くこれを嘉よみし、新たに知事の職を命じ、各おのおのその事に従わしむ。今や更始の時に際し、益々ますます以って大義を明にし名分を正し、内以って億兆を保安し、外以って万国と対峙せんとす。因よって今、藩を廃し県となし、務つとめて冗を去り簡に就き有名無実の弊を除き、更に綱紀を張り政令を一に帰し、天下をしてその向かう所を知らしむ。汝等、それ朕が意を体し、翼賛する所あれ。]
明治4年7月14日 (太陽暦:1871年8月29日) 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第351
*1:「さき」=「日かんむり」+「襄」
七月十四日
   熊本 名古屋 徳島 鳥取 四藩知事ヘ
   勅語
朕惟フニ方今内外多事ノ秋ニ際シ断然其措置ヲ得天下億兆ヲシテ其方向ヲ定メシムルニ非レハ安ソ能ク宇内各国ト並立シテ以テ我国威ヲ皇張センヤ是朕カ宵[かん]*1肝憂慮スル所ナリ「さき」*2ニ汝等カ建議スル所互ニ異同アリト雖モ之ヲ要スルニ深ク従前ノ弊害ヲ鑑シ遠ク将来ノ猷謀ヲ画ス是汝等カ衷誠ノ所致朕之ヲ嘉ミシ将ニ施設スル所アラントス汝等更ニ能ク朕カ意ヲ体シ各其所見ヲ竭セヨ
[ 朕惟おもうに、方今内外多事の秋ときに際し、断然その措置を得、天下億兆をしてその方向を定めしむるに非あらざれば、安いずくんぞ能よく宇内うだい各国と並立して、以って我が国威を皇張せんや。これ、朕が宵「かん」しょうかん憂慮するところなり。さきに汝等が建議する所、互いに異同ありといえどもこれを要するに、深く従前の弊害を鑑し遠く将来の猷謀ゆうぼうを画す。これ汝等が衷誠ちゅうせいの致す所、朕これを嘉よみし、将まさに施設する所あらんとす。汝等、更に能よく朕が意を体し、各その所見を竭けっせよ。]
明治4年7月14日 (太陽暦:1871年8月29日) 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第352
*1:「かん」=「日へん」+「干」 *2:「さき」=「日かんむり」+「襄」
七月十四日(布告)
藩ヲ廃シ県ヲ被置候事
[ 藩を廃し、県を置かれ候こと。]
明治4年7月14日 (太陽暦:1871年8月29日) 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第353
七月十四日
今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ 御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事
[ 今般、藩を廃し県を置かれ候については、追って御沙汰まで大参事以下これまで通り事務取り扱い致すべきこと。]
明治4年7月14日 (太陽暦:1871年8月29日) 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第354
第1次府県統合 (明治4年10〜11月)
10月28日 群馬県
11月2日 姫路県・豊岡県・東北各県: 平県・二本松県・仙台県・若松県・一関県・盛岡県・秋田県・青森県・山形県・置賜県・酒田県
11月14日 関東・伊豆各県: 足柄県・神奈川県・東京府・入間県・埼玉県・木更津県・印旛県・新治県・茨城県・栃木県・宇都宮県
11月14日 九州各県: 小倉県・大分県・福岡県・三潴県・伊万里県・長崎県・八代県・熊本県・美々津県・都城県・鹿児島県
11月15日 四国各県: 名東県・香川県・松山県・宇和島県・高知県
11月15日 中国地方各県: 鳥取県・浜田県・島根県・北条県・岡山県・深津県・広島県・山口県
11月15日 東海各県: 静岡県・浜松県・額田県
11月20日 北陸・甲信越各県: 敦賀県・福井県・金沢県・七尾県・新川県・柏崎県・新潟県・相川県・筑摩県・長野県・山梨県
11月20日 大阪府・兵庫県
11月22日 近畿および隣接各県: 京都府・奈良県・堺県・安濃津県・度会県・名古屋県・岐阜県・大津県・長浜県・和歌山県 
 
岩倉使節団1

 

岩倉使節団は、欧米列強を外遊して、つぶさにその栄華の秘訣を探り、近代日本構築のための方策を定めることを目的として、非常に意義深いものであった。1871年(明治4年)11月12日、右大臣・岩倉具視を全権大使とする遺外使節団が横浜を出発した。これに随行したのは、新政府の開明派を中心とする欧米諸国に興味を持つ知識人たちであった。副使には木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳(やまぐちなおよし※外務少輔)がついた。他の随行者は、佐々木高行(※司法大輔)、山田顕義(※兵部大丞)、田中光顕(※戸籍頭)、田中不二麿(※文部大丞)、清水谷公孝(しみずだにきんなる※旧箱館府知事)、鍋島直大(なべしまなおひろ※旧佐賀藩主)、黒田長知(くろだながとも※旧福岡藩主)、中江兆民(※留学生)、団琢磨(※留学生)、女学生5名がいた。面々は華族、書記官、通訳、随員、留学生、女学生など総勢48名にのぼった。
また、使節団には欧米諸国の視察だけでなく、安政期に結ばれた条約改正の予備交渉を成すことも課題として挙げられていた。改正交渉は明治5年5月26日から始められたが、治外法権や関税問題などの不平等条約を改正するために欧米諸国を視察し、情報を得ることと改正交渉の機会を探ることが目的としてあった。
使節の派遣そのものには反論はなかったもののその随行者の人選には異論が出た。太政大臣・三条実美は木戸・大久保の両名が行くことを反対し、井上馨も上司である大久保の渡海を反対し、政局に空席を成さないよう懇願した。だが、近代日本を構築するには是が非でも、欧米列強の国政を直に視察する必要があり、政府の開明派をこぞって連れて行くだけの意義があるとして、岩倉の最終決断により人選は上記の面々に決まった。
ただ、岩倉・大久保たちが気がかりとしたのは、留守中の政局を統制する人材に不安が残ったことだった。政府内では開明派と武断派の二極が存在し、留守中組には武断派が占めていた。西郷隆盛を筆頭に大隈重信、板垣退助、山県有朋、江藤新平、後藤象二郎、井上馨らが顔を連ねていた。結局、これら留守組には極力、新規の政策は行わせず、大久保が前もって準備しておいた政策だけを実行するよう誓約を持って約束を求めた。また、人事の異動や増減も極力成さずにもしも、政策や人事に不祥事があれば、必ず使節団に報告して、指導を仰ぐべきことを求めた。こうした予防線を張ったものの大久保が欧州視察中に急報を受け取って、日本に急ぎ帰国した時には、全ての約束事が破られていた。政策には新たな征韓論が巻き起こされており、人事も汚職事件が摘発されて、山県有朋や井上馨などが司法卿の江藤新平の手によって、辞めさせられたり、窮地に立たされたりしていた。
こうした外遊組と留守組との間には、大きな政治思想の格差が生じてしまう。富国強兵を最優先事項とする外遊組と士族たちを保護するために征韓論をぶち上げる留守組との確執は、後の士族の兵乱へと続いていく。その意味で、この使節団は、近代日本の行く先を左右する大きな影響力を与えたことになる。政治的思想を外遊によって、広げた大久保たちは、欧米列強と方を並べる国力の増強を最優先とし、対外政策に対して、友好を持って接することが重んじられた。一方で留守組は直面する士族の苦境を脱すことが優先事項となった。そのために征韓論という無理な政策を執ろうとした。この国内政策に縛られた政治思想は敗れ、開明的な政治思想のもと、新政府は外国の文明を熱心に取り入れ、文明開化が大いに発展していったのである。
使節団は太平洋を渡り、12月6日にサンフランシスコに到着した。カリフォルニア州知事やサンフランシスコ市長らの大歓迎を受け、使節団を驚かせた。伊藤博文が「今日の我が国の政府や国民がもっとも切望していることは、先進諸国の文明の最高点に早く到達することである」と演説し、大喝采を浴びた。
使節団はその後、アメリカ大陸を東へ横断し、1872年(明治5年)1月21日に首都ワシントンに到着した。一行は大統領・グラント、国務長官・フィッシュと面談し、丁重なもてなしを受けた。友好的な大歓迎を受けた岩倉たちは、条約改正の交渉も難しくないと考え、条約改正の交渉を持ち出した。だが、予想に反して、アメリカ政府の対応は厳しく、条約改正で不平等条約の部分改正は成されず、それどころか居留地の拡大や日本国内の旅行、不動産取得のための内地開放、輸出税の全廃など新しい条約項目を使節団に提案してきた。そして、言論・出版・信仰の自由をも日本国内で実施するよう強く求めてきたため、岩倉はそれは十分に日本国内で保護実行されていると返答したが、それならば、その確証を見せて欲しいと意趣返しをされる始末で、使節団は外交交渉でおされ気味の展開となってしまった。
さらにこの予備的な条約改正交渉には、大きな問題が浮上した。それは使節団が条約交渉の全権委任状を持ってこなかったため、それをアメリカ政府に指摘され、条約改正交渉が行き詰まりを見せたのである。アメリカ政府の国務長官と交渉にあたっていた大使、副使、書記官たちは自分たちが天皇の信任を得ている者であるから心配ないと説明しても、これは万国法規で定められたことであるからミカド陛下の委任状を拝見したうえで交渉いたしましょうと断られてしまった。この問題を解決して、条約改正の譲歩を得たい使節団は、急きょ大久保・伊藤の両副使を日本に帰国させ、全権委任状を持ってこさせることにした。が、そう事はうまく運ばなかった。留守政府にいた外務卿・副島種臣や外務大輔・寺島宗則らは、使節の任務は条約改正の予備的意見交換にあって、条約改正を正式に行うには準備不足と反対したのである。準備も整えずに条約改正を行えば、かえって相手方の思う壺にされ、もっと不利な条約を結ばされる可能性があると指摘し、全権委任状を大久保らに渡すことを拒んだのである。しかし、大久保・伊藤たちはいまさら手ぶらでアメリカに戻ったとあっては、不名誉極まりないので、寺島宗則が彼らに随行して、全権委任状を与えるものの都合があって、交渉は中止にするという方針で問題を終息させることが提案された。こうして、条約改正交渉は、留守組の外務系たちのしっぺ返しを受ける形で、歯止めが成される結果となった。
アメリカでとんだ足止めをくった使節団は、7月3日にアメリカを発ち、欧州へと向かい、リバプールに到着した。一行はイギリスではビクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。大久保は日本に残った西郷に「英国ノ富強ヲナス所以(ゆえん)ヲ知ルニタレリ」と報告しているなど、使節団にとって、驚愕する体験が続いた。
イギリス・フランス・プロシア(ドイツ)へと視察した、一行は、プロシアで鉄血宰相ビスマルクと会見し、プロシアが英仏露など列強から独立と国権を維持している富国強兵策について色々と聞かされた。ドイツと同じ道を歩もうとしている黎明期の日本に対して、ビスマルクは激励した。このビスマルクの雄弁に感銘した大久保や伊藤は帰国後に日本のビスマルクを気取って、日本の近代化を目指すなど大きな影響を与えた。
ビスマルク謁見後、大久保はベルリンから急きょ帰国したが、使節団はその後もロシア・オーストリア・スイス・イタリアなどを視察して、6月8日にマルセーユ港を出港して帰国の途についた。使節団は1年10ヶ月かけて外遊し、100万円(※現在のお金に換算してざっと100億円)の巨費を投じて欧米列強の強さの秘訣を会得した。
この外遊は、日本の近代化を急がせる必要性が最大優先項目として挙げられる根拠と成った。黎明日本の新しい国体は、欧米列強と肩を並べる水準にまで押し上げる必要性を政府首脳部たちに悟らせたのである。それは井の中の蛙が、世界の中で日本がどうあるべきかを悟らせ、その処世術を学ぶことができた貴重な体験であった。その後の日本が近代化に弾みをつけ、つまづくことなく邁進できたのは、この外遊以降をもってなされたことであり、外遊が意味する歴史的意義は非常に大きなものを持っていたと言えるだろう。 
 
岩倉使節団2

 

岩倉使節団の結成
条約改正の議論
版籍奉還のあと廃藩置県をやり遂げた新政府内に、懸案であった領事裁判権を撤廃し、関税自主権を回復し、名実共に平等な条約を模索する条約改定の議論が起り始めた。特に前ページのヴァン・リードの項で記述したように、ハワイへの「元年者移民」で問題になった、日本の規則に反し移民を送り出したと怒る新政府が、当事者のヴァン・リードを直接処罰もできないという領事裁判権を撤廃する願望は特別に強かった。しかしこんな治外法権を撤去し、関税自主権を回復し、各国と対等の条約にしようとすれば、日本国内の法制度を外国と同等に整備し、外国人との雑居が出来るようにしなければならない事もまた明白に理解されていた。そのためには、早急に各国の制度、文化、風俗、技術、産業、交通、軍備など良く勉強した上で対策を立てることが必要と考えられたのだ。
こんな中で、明治3(1870)年4月の外務省内評議では、今から約2年後に各国と条約再検討の機会が来るが、今から準備し議論を煮詰める必要があると建議され、モデルとして、イギリスが過去から現在までに結んだ諸條約を翻訳し、内容をよく理解し、諸條約国と互角に議論できる準備をせねばならないと提案された。そしてこのための取調掛を任命し、翻訳方数名の任命をも決めたのだった。
もっともこれ以前に、新政府が出来た当初の明治1年の暮れにも、当時の東久世外国官副知事より各国公使へ、新政府になったから旧幕府の締結した条約を改正したいと申し出た事があった。しかし、「何処をどの様に変えたいか具体的提案がなければ、本国と連絡を取り談判の手筈も整えられない」と各国から回答され、国内ではまだ蝦夷共和国の動きにからみ戦争もある混乱期だったから、外務卿・澤宣嘉が2年半後に再開したいと答え、この件は沙汰止みになった経緯がある。そこで今回はその2年半後を目指し、準備を整えての再チャレンジだったのだ。
そして各省からは、新条約に向け夫々どんな改定が必要か意見が出されている。例えば輸出入関税について、大蔵省の大久保卿から太政官正院に宛て、
現條約は、輸出入物品税や貿易規則など全て條約書に盛り込み、その改正は日本と条約国の合意が無ければ変更できず、自主の権利を妨害されている。・・・今回の条約改正で昔の失策を挽回し、累年の宿弊を正し、日本固有の権利として保持したい。・・・この点を良く検討し、万国普通の公理に則り、従来闊歩した宿弊から脱し、至公の條約に改定し、現條約の輸出入税目などは全て我国の意志で決め、物産の多寡や流通の実情に応じ適正に処分決定できれば、物産の利益や富強に向けた基礎が出来、従って特別な威信も備わるから、この条約改正は実に国家の隆盛に関わる重大事である。
と申請が出された。前ページの「廃藩置県」の項でも述べたが、自ら参議の職から引き下がり、大蔵卿として国家の財政を見始めた大久保利通にとって、輸出入関税一つ変えるにも条約改正のように大掛かりな交渉が無ければ改正できないという現条約の弱点、すなわち「関税の自主権」を回復する事は焦眉の急であった。
新政府によって廃藩置県を断行し、真に内政を統一した今、次に外政に着手する事は討幕を決意した時からの課題だったし、不平等條約の領事裁判権や関税の自主権回復は一人前の独立国になるための通過関門であり、大いに議論が沸き立った。更に外国公使との交渉に際しても、イギリスのハリー・パークス公使のように、感情に任せて机を叩き大声を出すなどの非礼極まる振る舞いが旧幕府時代からあり、新政府になっても変わらなかった。対等国間の国際慣例からすれば、こんな非礼極まる行為は、日本がその政府に申し立てその公使を召還させる権利もあるが、日本とイギリスの国力の差から新政府はそれも我慢してきた経緯もある。三条実美が勅を奉じ、特命全権大使を欧米に派遣しようと決定する直前の明治4年9月、岩倉具視に書簡を送りその意見を聞いた中に、次の一節が有る。いわく、
各国政府や各国在留公使も、東洋は一種違った国体や政治風土だと認識し、異なった対応と異なった慣用手段で談判に臨み、我が国の法律が行き渡るべき事も彼らに及ぼす事が出来ない。我が権利に帰すべき事もそう出来ない。我が規則に従うべき事も従わす事が出来ない。我が税法に従うべき事も、彼らをそれに従わせられない。我らが自由に処置すべき道理がある事も、これを彼らと協議せねばならない。その他国内外に関する全てに亘り、彼らと対等で東西平等の交際ができない。甚だしい例では、公使の喜怒により、公然の談判も困難を受けるようになる。そもそも対等国の政府は、在留公使で不適当な者があれば、公法によってこれをその本国に送還するほどの権限があるべき筈なのに、この様に陵辱を受ける関係の下では、対等平等の国権を有するとは云えない。平等対等の交際をしているとは云えない。
と、その不平等と公使の暴挙とを挙げている(「岩倉公実記」)。
こんな経験もあり、早急に分裂した国体を建て直し、国権を中央政府に統一し、制度や法律を一新し、筋の通った政治を行い、民権を確立し、政令一途国論を統一し、列国と比肩できる基礎を建てねばならないという事が、国を挙げての悲願だった。そのために各国に使節を派遣し、新政府発足を伝え和親を促進し、万国公法に基づく条約に改定したいと日本の論点を説明し、前交渉を行い、更に欧米の政治システムや法整備を学び、科学技術の進展や軍備の調査などを目的に、米欧に向けた使節派遣が決定されたのだ。
使節の任命と約束
明治天皇は明治4(1871)年10月8日、右大臣・岩倉具視を特命全権大使に、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔(たいふ)・伊藤博文、外務少輔(しょうゆう)・山口尚芳(なおよし)を特命全権副使に任じ、その他の書記・理事・随行・通訳など合計48名に米国と欧州派遣を命じた。使節団の11月4日の発遣式にあたり天皇は、
今般、汝らを使いとして海外各国に赴かせるが、朕は素より汝らがよくその職を尽くし使命に耐える事を知っている。よって今、国書を与える。よく朕の意を知り、努力せよ。朕は今から、汝らがつつがなく帰朝する日を祝すことを待っている。遠洋の渡航だから、万が一にも自重せよ。と云う勅語を下すと、自ら国書を岩倉全権大使に授けた。
こうして岩倉使節団がアメリカやヨーロッパに出発することになったが、しかし当初は、岩倉、木戸、大久保といった新政府の原動力であり中枢である人々が、長期にわたり外国に行くことに多くの異論があった。主要な使節団人員決定に関し朝議で時間を費やしたが、参議・西郷隆盛が太政大臣・三条実美を補佐し、更に大蔵省の監督までし、板垣退助以下皆で政府の責任を持つとの合意によりようやく人選が決まった。そして更に出発を前にした11月7日、海外に行く使節一同と国内で政務をとる一同の間に意思の疎通は欠かせないし、同じ方向で協力せねばならないと、基本事項についての誓約書を作った。これは12ヶ条にわたる基本事項の合意書で、その目的とするところは、
万一議論矛盾し目的差違を生ずる時は、国事を誤り国辱を醸すべきにより、ここにその要旨の条件を列し、その事務を委任担当する諸官員連名調印し、一々遵守してこれに違背なきを証す。と云うものだった。
岩倉使節団の出発前にこんな約束までなされたが、つまるところこれは、これまで過去に例を見ないスピードで変革してきたが、使節団の帰国までこれ以上何も変えるなということだ。万一変える時は、外遊中の全権大使一行の意見を聞けということだ。現実面ではしかし、今までの改革の歪から毎日のように矛盾が国内の方々で噴き出すから、改革が一段落するまで現状維持はとうてい不可能だったし、外国にいる一行に連絡するだけでも時間がかかる。三条を支えると言った西郷は、その後こんな約束には見向きもせずどんどん改革を進めたから、結果的に気休めの約束に過ぎなかった。
またその裏を返せば、それまで西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、岩倉具視などが、いかに変革エネルギーの中心になって改革を主導していたかを物語るものだが、今回は国内を預かる一方の旗頭の西郷隆盛にとって、必要な時の必要な変革は避けて通れないものでもあったのだ。 
アメリカの首都・ワシントンへの旅
日本出発
明治4年11月10日(1871年12月21日)に東京を出発した使節一行は、同年11月2日付の外務大輔より各国公使宛書簡の付属書によれば、この時の総員は48人で、12日に横浜から太平洋郵便蒸気船・アメリカ号に乗船し、最初の上陸地・サンフランシスコに向け出航した。そしてアメリカ駐日公使・デロングもこの一行に付き添っている。当時全権大使随行として参加した久米邦武が記録・編纂した、「特命全権大使・米欧回覧実記」(以下「実記」)にこの船の記述があるが、4554トンの大型蒸気船で、合計92人収容の上等・次等の客室があったという。その他の大部屋などを合わせれば、1500人は収容できただろう大船だった。
このアメリカ号はニューヨークの造船所で造られ、当時アメリカでは最大の木造蒸気側輪船で、1869年に太平洋郵便蒸気船会社に引き渡され、アメリカ政府と契約しサンフランシスコと横浜・香港間の定期郵便船として就航した。当時最新の大型郵便客船だったが、しかし残念なことに、岩倉使節団を乗せた翌年8月24日、横浜に停泊中火災が発生し沈没してしまった。また同じ頃就航した木造姉妹船のジャパン号も、それから2年後に香港出航後火災が発生し沈没しているから、一般客を乗せる木造船に火は禁物で、消火ポンプを備えてはいても火災には弱かった。
このアメリカ号には、使節団と共にアメリカや欧州に行く留学生の54人も一緒だったが、この留学生の中には4人の若く幼い女子も含まれていた。こんな若き留学生たちの事跡は、また記述する機会が来るであろう。
サンフランシスコ
横浜出航以来、航海22日をかけて太平洋を渡ったアメリカ号は、明治4年12月6日(1872年1月15日)無事サンフランシスコに着いた。サンフランシスコでは現地駐在の日本国領事・ブルックスをはじめ領事館員の出迎えを受け、モントゴメリー街のグランド・ホテルに入った。ほぼ12年前の日本から、日米修好通商条約の批准書を携えた幕府の使節が来て以来の大型使節団だから、サンフランシスコは全市を挙げて歓迎した。
知事が歓迎のためホテルを訪れ、陸海軍の将官が歓迎に訪れ、サンフランシスコ駐在の各国代表者が訪れ、豪商たちも歓迎に訪れた。ホテルの前では砲兵隊の楽団が使節を歓迎する演奏をし、多くの市民が集まった。その前で岩倉全権大使がスピーチを行い、日本から同行したアメリカ公使・デロングがその内容を読み上げ、自らもスピーチを行った。岩倉具視のスピーチいわく、
天皇陛下の勅命を奉じ締盟各国に使いするその始めにサンフランシスコに来て、諸君より懇篤な接待を受け喜びに耐えない。我が国がアメリカと親しい関係を築いて以来、両国が強い友情で結ばれているのは真に通商の力による。それにより、我が国民が開化の国風を知る事が出来、海外の技芸・学問・物産・製造及び機械の諸術を研究し、良く理解したいと思う。今回の使節派遣の真意は、各国との親誼をより固くすることと、公正な政府とその国民の心の広さが、どのような繁栄をもたらしたかを見るためである。また、貴国の技芸・学問・物産・機械から、大小の学校、訴訟裁判の法制に至るまで良く見て、将来我が国に実施する参考としたい。これが我が国の繁栄への道であり、貿易は両国に利益をもたらすであろう。諸君のこのような心遣いと歓迎を天皇に伝え、日本全国の民衆も感謝に耐えないことと確信する。
日本ではかって人々が断固として尊皇攘夷と叫び、岩倉具視が中心人物の1人として徳川慶喜の征討軍を発し、戊辰戦争が始まって以来ほぼ4年後に行われた岩倉のこの、「両国が強い友情で結ばれているのは真に通商の力による」というスピーチだったが、如何に当時の日本国内の政治変化と西欧化が急であったか、改めて心を動かされるものだ。
一方、この10年前に始まり4年間続いたアメリカの南北戦争では、アメリカ合衆国が北部と南部に二分し、4年間に北軍で36万人、南軍で25万人、合計61万人にも上る戦死者を出した。筆者は2年にわたる戊辰戦争の戦死者数の詳細を知らないが、勝手に約1万5千人程と想定しても、日本国を二分し政府が入れ替わったほどの日本の国内戦争とアメリカを二分した南北戦争との戦死者数を比較してみると、日本の戦死者はアメリカの40分の1以下と、当時の日米の文化的背景や生死感、及び勝敗の思考形態の二国間での特異性が際立つ事も事実だ。
使節団が渡米したこの時のアメリカでは、南北戦争の激戦地・ゲティスバーグの戦いで敗北し追い詰められ、更にまた激戦地・ピータースバーグをも撤退して南下途中の南軍総司令官の将軍・リーを捕虜にし降伏させた、北軍総司令官の将軍・グラントが大統領になっていたが、岩倉使節団は首都・ワシントンでこの南北戦争の英雄・グラント大統領に会う事になる。
使節団はその後サンフランシスコにある大きな馬車製造工場を見学し、ブランケットやカーペットを造る毛織物工場を見学し、動物園や植物園、博物館などの建ち並ぶ公園を訪れた。更にサンフランシスコ湾内を蒸気船で遊覧し、かって咸臨丸を修理したメーア島の海軍造船所も見学した。また女学校や小学校も見学し、サンフランシスコの名士たちから自宅に招待されてもいるが、全てにおいてアメリカの裕福さを実感する体験だったようだ。
ワシントンへの大陸横断鉄道の旅
サンフランシスコで歓迎を受け先進技術を見学した後の12月12日、サンフランシスコから船で対岸のオークランドに渡り、そこから汽車で首都・ワシントンDCに向けアメリカ大陸横断の旅に出た。この旅は、使節一行と留学生の外にも同行しているデロング公使の家族も一緒だったから、全員が5両の客車に分乗していた。
汽車はオークランドからサンフランシスコ湾の東海岸を南下し、湾の終端辺りで東に折れて山を越え、サンオーキン平野を流れるサンオーキン河を渡り、サンオーキン平野の中でも比較的大きなストックトンの町を経由し、そこから北上しカリフォルニア州の州都・サクラメントに着いた。ストックトンの手前の平野を横断する汽車の窓からは、地平線が果てしなく続き、北東方向には山も樹木も見えず、ただ青草が地平線まで絨毯の様に続き、まるで青草の海原の中を行くようだった。現在でも、南北に650km、東西に100kmもある細長く広大なこの平野を車でドライブする時は、ほとんど耕地になってはいるが、当時使節一行が見た広い風景がある。
サクラメントで12泊し、州議会を表敬訪問し州政府のシステムを学んだ後、一行はまた汽車で東に向かいシェラネバダ山脈を越え、ネバダ州を横断し、12月26日(1872年2月4日)の早朝、ロッキー山脈の西麓にあるユタ地区ソルトレーク湖東岸のオグデン駅に着いた。この1872年当時のユタはまだ州になっていないから、オグデンも人口3千人ほどの町だった。オグデンに着くまで、シェラネバダ山脈を越える最中の外気は吹雪いて寒く一面の雪景色だったが、客車の窓ガラスは2重で蒸気暖房も良く効いていたから、花毛氈の上に腰かけ銀世界を眺めながらの快適な汽車の旅で、日本では想像もつかない旅だったようだ。オグデンを出るといよいよロッキー山脈を越えることになるが、ロッキーにも大雪が積もり汽車は動かないという。そこでオグデンの南にある中心都市・ソルトレーク・シティーのホテルで除雪を待つことになったが、ここにも雪はかなり積もっていた。ソルトレーク・シティーには18日間も缶詰になり、やっと明治5年1月14日(1872年2月22日)オグデンから汽車に乗り、東に向けて出発することが出来た。
途中ワイオミングの広大な丘陵地帯の草原を過ぎ、ミズーリー河岸のネブラスカ州オマハに着いたが、オグデンからオマハまでの約1600kmを3日間も汽車に乗りっぱなしだった。ここで汽車を乗り換え、更に引き続き約800kmの汽車の旅で、18日にやっと大都市・シカゴに着き、ホテルに入ることができた。シカゴはこの前年の10月に大火があり、繁華街の大半を焼き、2万もの家が消失した。岩倉使節一行はこの被災地を見て回ったが、世話になっているアメリカの災害を見て、5千ドルの寄付も忘れなかった。
シカゴのホテルで1泊した一行は、19日の夜にまた汽車に乗り、インディアナ州、オハイオ州、ペンシルバニア州、デラウェア州を過ぎ、21日の午前11時にメリーランド州バルチモアに着いた。バルチモアは当時27万人の大都市だったから、市中を通る鉄道は、安全のため北駅で客車をいったん切り離し、夫々を6頭の馬で南駅まで牽引し、あらためて機関車に接続するという珍しい体験をした。そして最終地のワシントンDCに向かい、午後3時に議事堂の傍らにある駅に無事到着した。
駅には日本から派遣されている現地駐在辨務使・森有礼をはじめ、アメリカ政府の接待係代表が出迎え、岩倉使節一行はアーリントン・ホテルに入った。明治4(1871)年12月12日にサンフランシスコを出発してから、翌年1月21日まで、1月以上をかけて首都・ワシントンに着いたのだ。カリフォルニア州都のサクラメント表敬訪問を除き、大陸横断に7日を想定していた予定を大巾に超過し、ロッキー山脈越えで雪に前進を阻まれ、ソルトレーク・シティーで18日間も缶詰になりながらも、汽車によるアメリカ大陸横断はインパクトの強い体験だったようだ。
アメリカでは、特に南北戦争が終わった直後から政府の後押しで鉄道網開発が促進され、多額な投機的民間資金も投入され、全国的に急速に蒸気鉄道網が設置されて行った。この1866年から1873年にわたる鉄道建設ブームはやがて終息し、経済危機にもつながってゆくが、岩倉使節一行の大陸横断時は鉄道事業拡大の最も華やかな時期だった。 
大統領会見と条約改定交渉
グラント大統領の歓迎と会見
汽車で明治5(1872)年1月21日ワシントンDCに着き、雪の降る中アーリントン・ホテルに腰を落ち着けた岩倉使節一行は、綺麗に晴れ上がった25日、正副大使は衣冠の正装で、書記官は直垂姿で、明治天皇よりの国書をホワイトハウスに持参し、グラント大統領と会見し直接手渡した。国書いわく、
朕、天の加護を得て萬世一系の皇統を継ぎ、天皇の位に就いて以来、未だ使節を派遣し和親の各国訪問をしていない。よって朕が信任する宰相右大臣・岩倉具視を特命全権大使となし、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務少輔・山口尚芳を特命全権副使となし、各々に全権を与え、貴国及び各国に派出し、訪問の礼をおさめ、益々朕が親好の意を表したい。かつ貴国と結んだ条約改正の時期は迫り来年であるが、朕が希望し意図するところは、人民に開明各国と等しい公権と公利を保有さすべく従来の条約を改正したいが、我が国の開化は未だ行き渡らず、政治や法律も異なり、時間をかけずしてその希望成就はない。故に、努めて開明各国に行われる諸制度を選び、我が国に適するものを採り、徐々に政治と習慣を改め、文明諸国と対等の位置を保ちたい。ここに我が国の事情を貴国政府に諮り、その考案を得て、現今と将来に向けた制度改良の手段を商議させる。使節帰国の上条約改正を審議し、朕の希望と意図を達成したい。この使節は朕が信任する重臣であり、大統領閣下、その発言を信用され、待遇されんことを望む。かつ心から大統領閣下の康福と貴国の安寧を祈る。
この様に、出来るだけ早く日本国内に西洋に比肩できる適切な制度を導入し、その上で西洋諸国と対等な条約改正を行いたいと、強い期待を表明している。使節の帰国を待って、条約改正を審議するというものだ。岩倉全権大使と会見し、日本の国書を受取ったグラント大統領は、
我が合衆国と最初に和親貿易の条約締結を行った日本から派遣された使節を、また最初に受け入れる光栄は歴史に名を留め、我が国と我が在職期間中の美事である。・・・一国の繁栄と幸福は、彼我の有益なる点を比較し、互いにその長所を取り政治法律を改正し、人権を尊重し、全国の富強を図るには学術を採用することである。・・・日本はその建国以来長い歴史があり、我が合衆国は新国のひとつに過ぎないがしかし、我が国は旧制を改める政治を行い、すこぶる繁栄している。そもそも人民が富強幸福を受ける理由は、外国と交際し貿易を鼓舞し、人の功労を尊重し、実学を用いて工作技芸を奨励し、国内の運輸を便利にし往来する交通を迅速かつ大量にし、移住してくる人民はこれを好み、他国の改革や才芸が集まる。出版を制限せず、人の信心や優れた能力を束縛せず、宗教を自由にし、我が国民は勿論我が国に居住する外国人といえども一切制限はしない事による。これは、従来の経験に照らし、疑いのない方法である。閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は我輩の喜びであり、両国間の貿易方法の修正は重要で望むところでもあり、国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に賛成するところである。
この様に、グラント大統領をはじめフィッシュ国務長官などアメリカ政府首脳は、日本の条約改正の希望に対し非常に友好的な考えを表明した。多国間に渡る条約改正という国際的な交渉経験がない岩倉使節団一行は、このグラント大統領の考えに大喜びし、「条約改正交渉に向けた法整備を習得し、条約改正の予備交渉をする」という初期の目的を超えて行動する事になる。しかしそれは、アメリカはよいとしても、その後各国を回り、それ以外の国々との交渉を考えると難点が少なくないことを理解し、条約交渉の難しさを痛感することになる。
この時のアメリカの国をあげての歓迎振りは、この大統領の言葉にもある通りで、サンフランシスコからワシントンまでの旅行中も、使節一行は至る所で身に沁みて感じていた。これは言葉だけでなく、1872年1月30日のアメリカ議会で、岩倉使節一行歓迎のための「5万ドルの予算」を計上した事でも良く分かる。
アメリカとの条約改正調印の試みと断念
こんなアメリカ政府の真に友好的態度に勇気付けられ、2月3日、岩倉大使と四人の副使をはじめ、アメリカ駐在辨務使・森有礼やサンフランシスコ駐在領事・ブルックスも参加し、フィッシュ国務長官と第一回会談が始まった。先日大統領に手渡した国書に記載された天皇の方針と大使・副使に委任された権限を読んでいる国務長官は、
長官:この度の使節には、条約を締結する権限はないと理解してよろしいですか?
岩倉:条約中、改正すべき条件を協議、討論する権限があります。我々はただこれを論ずるだけで、今回の談判で互いに述べ合った事を日本で取り結ぶべき条約の基とし、天皇陛下の批准後に本書を取り交わす運びです。
(この回答は「イエス」「ノー」がはっきり答えられていない。国務長官は再び、)
長官:使節公は、草案書に調印する権限をお持ちですか?
岩倉:その通りです。談判の結果を記載すべき書面に署名する権限があります。
長官:貴国天皇陛下よりの書翰中には、その権限を与えていません。今あなたの言われることに従えば、別途その権限を与えられているようですね。
岩倉:そうです。
長官:この書翰には条約の条項を取決める権限は与えられていません。ただこれを論ずることのみです。
(続いて日本での批准のタイミングの会話の後に、)
長官:草案に署名する事は政府がその条約を履行するということで、すなわち条約だから、すでに改正をした事と同様です。
岩倉:我々はただ、今度改めるべき条約条項を論じたいのです。そして我が政府の許可なしにはこれを決定せずとの約束だから、談判の結果を記載する書面に調印することは出来ます。
長官:それは困難ではありません。我が方でも上院と大統領の許可を必要とするからです。
こんな会話を見ると、出だしはうまくかみ合っていない。通訳の問題もあっただろうし、ここで日本語に訳された「草案書」という技術用語の理解が同じではなかったようにも見える。しかし、最終的にフィッシュも各条項の交渉に入ることに異存はなかったが、条約批准のタイミングを大いに気にしていた。アメリカで批准するには上院議員の3分の2以上の賛成がなければならず、2年毎にその3分の1が入れ替わるから、短期間に批准しないと上院の意見が変わる可能性があり、現政府としては大きな問題になる可能性もあった。従って現政府がやるからには、上院での批准まで出来るタイミングでないと、交渉の意味そのものがなくなるのだ。この時はグラント大統領の第1期めで、1869年3月4日に就任していたから、残すところあと1年という時期だった。
2日後の2月5日、再びフィッシュ国務長官と会談した岩倉は冒頭、
前回の会談の折に、自分の持参した国書に全権委任の文面がないとのお話しがあったので、その後自分の方から森少辨務使を通じ相談に及びましたが、早速同人へ必要とお思いなさる内容をお伝えいただき、これにより、当方では副使を帰国させ、天皇陛下より必要事項を明記した国書を願い受ける積りに決定しました。
と、岩倉の新しい方針を伝えた。更なる史料を持たない筆者はこの発言から推定するしかないが、岩倉の命令で、更に突っ込んでフィッシュ国務長官と話した森有礼に、あるいは国務長官から「すぐやる方が良い」とのアドバイスがあったのかも知れない。そして、森もアメリカの友好的態度をを好機と捉え、アメリカと条約の本交渉をし、すぐ調印するよう岩倉に進言したのかも知れない。当然同行の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳などとも協議したであろう岩倉具視は、アメリカとの条約改定・調印を決断し、副使・大久保利通と伊藤博文を日本に急きょ帰国させ、条約調印の権限を委譲する新しい委任状を申請し持ち帰ることに決定したのだ。そして新委任状入手を前提に、フィッシュ国務長官と条約改定交渉を継続している。
そこで大久保と伊藤は明治5年2月12日にワシントンDCを出発し、3月24日横浜に着いた。早速アメリカでの状況を政府に説明し、条約交渉の要点を
1.内地雑居の漸次拡大
2.治外法権の撤廃
3.信教の自由と外教禁令高札撤去
として改正条約締結全権委任状を稟議申請した。しかし、これは当初の使節派遣目的を変更する事になるため、政府内で議論が起き許可を得るのに1月半もかかった。しかし最終的に同意を得て、5月17日新しい全権委任状を携えて横浜を出発し、6月17日再びワシントンDCに帰って来た。しかしこの4ヶ月間に、ワシントンに滞在する岩倉使節を取り巻く状況はすでに大きく変わっていたのだ。
少し遡るが、日本政府は大久保・伊藤の要請による岩倉具視への改正条約締結全権委任状を発する事に決定すると、直ちに関係各国に向け、条約の改訂交渉と調印は岩倉使節団が出先で各国と行うとの通達を出した。これに基づき各国公使たちは自国政府と対策を協議し、あるいはイギリス公使・パークス等も打ち合わせのため召還・帰国をし始めた。そんな公使の1人、ドイツ公使・フォン・ブラントはアメリカ経由で帰国の途中、ワシントンDCで岩倉と会見した。これはまだ大久保利通と伊藤博文が新しい全権委任状を取りに日本に帰国中の事だが、フォン・ブラントいわく、日本政府の決めた外国を回っての条約改定交渉と調印は、むしろ日本政府にとって大きなマイナスであろうと述べた。その理由は、現条約に記載してある「最恵国待遇条項」にある。すなわち、アメリカとの交渉中少しでも日本側が譲歩した項目は次の交渉国にとっての既得権になり、たとへ瑣末なことでも日本側の各国への譲歩は次々に積み重なり、最終的に全ての国へ多くの譲歩をする事になってしまう、という実務上の論理だった。こんな考えは、条約交渉をしたこともない岩倉はもとより外国通を自負する伊藤博文さえも考え及ばなかったし、木戸や大久保も勿論知らなかった。
これにはフォン・ブラントに会った岩倉をはじめ木戸や山口は大いに驚いた。言われてみれば理論上その通りで、例え岩倉といえども意見のすり合わせなしに、出先でそんなに多くの譲歩や変更の決定は出来ない。ブラントの忠告を聞いて驚愕した木戸などからは、「こんな事もあろうかと外国通を自認する伊藤を連れてきたのに、気が付かないとは困ったことだ」と恨み節も出たようだ。こんな騒ぎの後にワシントンDCに帰ってきた大久保利通、伊藤博文を含め、岩倉はアメリカと約束した条約改定調印の対策を話し合ったが、外国での本交渉と調印は中止に決定し、伊藤に一任しこの変更をフィッシュ国務長官と協議させた。汗水たらし日本から飛んで帰ってきたばかりの伊藤は、「他人の言う事を聞いて、困ってくると俺に背負わせる」と文句をいいながらも、フィッシュ国務長官に掛けあわざるを得なかった。
伊藤は国務長官に会うと、新しい全権委任状は日本政府から交付されたが、交渉国が多いヨーロッパのロンドンかパリで一括交渉し調印したいので、アメリカからも交渉全権使節をヨーロッパに派遣して欲しいという希望を述べた。アメリカも日本での交渉ならいざ知らず、ヨーロッパまで出張し日本と条約改定交渉をする理由はないから、「お気の毒ながらそれは出来ない」とフィッシュ長官は受け入れず、条約交渉調印は白紙に戻ったという(「後は昔の記」、林董述、東京時事新報社、明治43年)。
この著述者・林董(ただす)は、当時岩倉使節団に二等書記官として随行した林董三郎(とうさぶろう)であるから、アメリカで岩倉具視の取った条約調印の決断とドイツ公使・フォン・ブラントに会った後のその修正の経緯は、ほぼこの通りだったと思われる。これは、当時の明治政府首脳がいかに条約改定を強く望み、不平等条約といわれる各国との通商条約改定に熱心だったかが良く分かる出来事だ。当時のアメリカ政府はグラント大統領をはじめとして、日本との通商条約改定に非常に前向きで、第2期も大統領に当選したグラント大統領の下でフィッシュ国務長官も続けて国務長官を務めた。そんな経緯から、4年後の明治9(1876)年に日本政府の提案で、フィッシュ国務長官と再び改税条約が話し合われた。そして翌年引き続き、ヘイズ新大統領とエヴァーツ新国務長官の下で後に「吉田・エヴァーツ条約」と呼ばれる税権を回復した改税条約が調印されたが、その後イギリスやドイツの反対で施行できず、幻の条約に終わった。
結果的に思わぬドタバタ劇で時間を費やしてしまった岩倉大使一行は、6月19日ホワイトハウスで大統領に謁見し友好と親切に感謝し、岩倉具視はフィッシュ国務長官の自宅も訪れ、感謝の意を表し暇乞いをした。そして一行は22日、夕方の汽車でワシントンを出発し、ボストン経由でイギリスに向かった。 
アメリカ国内の視察と研鑽
以下の各項目は、幾つか興味深い記述が出てくる、久米邦武の「実記」を中心に書く。その「アメリカ合衆国の部」の最後に、
アメリカの本質は、欧州から最も自主と自治の精神にたくましい人々が集まり、この国を主導している。その上、国土が広く肥沃で産物が豊富だから、自由な生産市場を開き、全てが繁栄し、世界の全勝者になった。これが米国の米国たるゆえんだ。
と久米に言わせた国だ。この佐賀藩出身の久米は、帰国後明治政府の国史編纂を行う修史館と内閣臨時修史局に勤め、明治21年から帝国大学・文科大学教授となる歴史学者だ。
地政学的体験
既にサンフランシスコで多くの工場や教育関係を視察し、州都・サクラメントで州政府の実際をも見学した後、大陸横断の汽車の旅では、身をもって国の大きさを体験した。そしてシカゴやピッツバーグ、フィラデルフィアやバルチモアなど繁栄する大都市をも通過しその経済活動を垣間見て来たが、東部から西部に向けたアメリカ開拓史にも強く心を動かされたようだ。久米邦武の「実記」に次のような記述がある。
一行の汽車がサンフランシスコから海岸山のトンネルを出て、はるかに広々とひろがるカリフォルニアの平地が、天に連なり地平線となっている様を見て以来、米国の開拓当時の様子を思い、皆の心に触れるものがあった。そして川を見ればその廻船や灌漑の様子に注意し、野を見ればその畑作りや道路に注意し、山を走ればその材木や鉱物に注意し、村の駅を過ぎればその生活状況に注意し、車中では皆が見るもの全てに開拓の話にならないものはなかった。すでにネバダやユタの貴金属鉱山の話を載せたが、ロッキー山で険しい地形の鉄路敷設、ミシシッピー河の水運、オマハでトウモロコシと移民、その他橋梁建設や道路修理、モルモン教徒が塩地を開墾し羊毛を紡織する等、全て荒地開拓の強い印象が残った。今シカゴを発しこの州(オハイオ)に来て見れば、野は熟し林は茂り人家は多く、すでに堂々たる開明・シヴィルの地域だ。・・・米国の人口の現今の全数は、我が国にほぼ相当する。しかしその数十倍もある国土をよく開墾している実績を見れば、非常に驚くべきことである。現地に行き実情を目撃すれば、かえって我が国の怠惰こそ驚くべきことのように思われる。
これは、広大な自然を相手に開拓が進んだ現状を汽車の旅で実体験し、強い印象を受けた記述だ。現代は汽車の代わりに車だが、アメリカ大陸の横断は同様に強い印象を受ける。
ワシントン府と連邦政府
合衆三十七州の首府にして、独立の縣をなす。その全地を総じて「ディストリクト・オブ・コロンビア」と云う。これは久米邦武の「実記」の記述だが、続けてワシントンDCについて、
合衆国の連合を盟約した後三十七州が相互に話し合い、規則を定め、入費を収集し、主者を公選し大政府を建てた。よってこの政府には法則と制度が所属し、土地と人民は各州の支配になり、大政府は必ずしも土地と人民を所有する必要がない。しかし大政府を設けた理由は、その大政府の地でなければ、他州に所属しては不都合なことがあるためである。だんだんと合衆国に統合する時、土地を許し与え大政府の所有にしたのだ。・・・全縣の人口は十三万七百人で、その内ワシントン府の人口は十万九千百九十九人である。バージニアとメリーランドの両州は共に昔、英人の開拓殖民した始めから多くの黒人を使役したので、縣中に黒人が多く、総人口の内四万四千人は黒人である。一般の風俗は非常に悪い。
という。そしてここは大政府の所在地だから、全国の官吏や将士、議員や代理人、外国公使など旅費の支給を受けた旅客が多く集まる事で繁盛しているから、物価の高い事は全国一だった。しかし、市中にはホテルなど広大な建物は多いが、商業都市ではないから景気状況は寂しかった。
市街は議事堂を中心に四っつの大路が配置され、中でも街の中心部を貫く最大のペンシルベニア・アベニューは、長さ4マイル、道幅160フィートもあった。そして議事堂と大統領館の間は往来が激しく、建物は特大で、貨物の行き来も錯綜していた。久米はまた、「道路が念入りに作られているのは、商業国の長所だ」という。ペンシルベニア街などはその好例で、160フィート(約50m)もの広さの道路の中央を車道とし、左右を人道とし、人道の広さは約20フィート(約6m)で、レンガを敷き詰め歩行に便利に出来ていた。
また馬車や汽車といった「車」利用の有用性を記述し、
西洋人は荷物を背負う事をしないし、馬にも荷物を負わせない。したがって荷物の運搬力は日本人の数十倍もある。そして馬一匹の力で三十トンの荷を動かす能力を持つようになった。こんな言い方をすれば、人々は疑い、にわかには信じないだろう。しかしこれは甚だ平易な理屈で、あえて驚くには当たらない。それは車輪の造り方が精巧で、道路が素晴らしく良いからだ。およそ一トンの重量は二十人が背負う重さで、馬なら七匹に付ける分に相当する。然るに精巧な車輪で運搬すれば、健康な馬一匹で十分だ。これを鉄軌道上で行えば、たった八ポンドの力で動かせる。車輪が重量物を運搬するに最適である事は、今なら日本全国のやや知識のある者は十分知っているはずだ。しかし、その摩擦と回転の抵抗力の理屈を知らねばならぬ。・・・その国に入ってその道路の精巧さを見れば、その政治の良し悪し、人民の貧富などが直ちに分かるほどだ。
と、首都・ワシントンの道路の素晴らしさと共に記述している。確かに日本は一、二の例外を除き、地理的にもまた歴史的にも、戦略上の重要点として、意識して道路をより広くより平にと改善して来なかったから、広い滑らかな道路造りはよほど印象深かったのだろう。
議会と共和政治の得失
久米はまた、「議会は米国の最上位の政府で、大統領は行政の権を統率し、副大統領は立法の長となり、大審官は司法の権を取る」と、その政治形態を説明している。次いで米国憲法が合意に至る大議論とその民主主義を尊ぶ国民性を述べ、
この様に議論を尽くし、日月を経て決定した憲法だから、よく道義にかない人々に受け入れられている様は、あたかも天の教えを戴くが如くで、独立宣言以来九十六年経ち、三十七州もの多くの州が加わっても変動する事もない。しかし各州で自主権を主張し、大統領の権限をおさえ、人民の間の討論は年を追って益々盛んになっている。・・・米国の国民はこんな政治体制の下で暮らしているから、百年も経てば、三尺の子供でも君主を戴くことを恥じるようになる。この習慣が日常のことになり、その弊害を知らないだけでなく、ただそれを長所と思い込み、世界中にこの国是を広めようとする。短時間の話でもそういう印象を与える。到底そういう考え方を変えそうもない、純粋な共和国の国民達である。・・・議員を公選し法律を多数決で決めるのは、一見実に公平に見える。しかし上下院の議員全員が最高の俊才達ではありえないから、卓見や深い思慮が必ずしも議員の理解するところとはならない。故に大議論の後に多数決で決めれば、上策が採用にならず下策が採られる事が多い。選任者達が一旦草起したものは、議論があっても十中八、九は必ず原案に決まる。従って下部で賄賂が無いとも言えず、行政官吏の私見が陰で立法院の議論を低めたり高めたりしないとも限らない。これらは全て共和政治の残念なところだ。
これは、「儒教」と「君臣の大義」の下に教育を受けた当時の日本人・久米邦武の、天皇親政の政治形態とアメリカの民主的共和政治形態についての考え方の一端を知る、非常に興味あるコメントでもある。また、「ただそれ(民主的共和政治)を長所と思い込み、世界中にこの国是を広めようとする」というくだりは、当時から約140年も経った現代のアメリカにもそのまま当てはまる観察である。
ワシントン府の主要施設の見学と女性論
首都・ワシントンでは、大久保と伊藤が明治5年2月12日に日本に向け出発の後、使節一行は2月25日から、白い花崗岩造りの特許局、印刷局、ドイツから購入した大反射望遠鏡を備えた天文台、大蔵省と紙幣印刷局、海軍省造船所、郵政局、農務局、アナポリス海軍学校、病院などを次々と見学して回った。
特に3月27日、フィッシュ国務長官やロビンソン海軍省長官らと共にメリーランド州アナポリスの海軍学校を訪問したが、久米にとって恐らく始めて見る珍しい体験を通じ、興味あるコメントを書いている。青い芝生でおおいつくされた広大な校庭の所々には木を植えて、極めて清潔な雰囲気の中で行われる訓練を見学した後に、校舎の中で昼食会に招かれた。それは、集まった男女数百人の立食パーティー形式で、素晴らしい食事と酒類も出され、狭い館内に溢れんばかりの男女の参会者は夫々に弾む会話を楽しんでいた。そして食事が終わると、講堂で男女の舞踏会が始まった。久米のコメントである。
米国は、官邸に女性を入れることを禁じない。海陸の軍校にも婦人が参観に集まり、訓練が終われば舞踏会を開き、男女が互いに手を取り合って舞踏し歓楽を尽くす。これが共和政治の風俗だ。・・・我が一行が横浜から米艦に乗り込んだ時から、全く変わった珍しい風俗や習慣の真っただ中で、我々の挙動は彼らの関心の的になり、彼らの挙動も我々には不思議に見えた。・・・中でも最も不思議だったのは男女の交際だ。日本では妻が舅や姑に仕え子が父母に仕えるが、彼らは、夫が自分の妻に仕えるのが道徳だ。明かりを持ち、履物を揃え、食べ物を取ってやる。衣装を直し、上り下りには手助けをする。座る時は椅子を進め、歩く時は荷物を持ってやる。婦人が少しでも怒れば愛をささやき、敬意をこめ、恐れ入って侘びを述べ、それでも受け入れられなければ、室外に出され食事をもらえない事もある。男女が船や車に同乗する時は、立派な男が立って席を譲り、婦人は辞退もせずにその席に着く。婦人が着席するため歩み寄れば、みな起立して敬意を表し、同席している間は控え目に、大声を慎み、常に婦人に先を譲る。婦人はあえて辞退することもない。婦人が座を立てば、皆は始めてホッとした表情になる。・・・これが大体西洋一般の風俗だが、米英はことに甚だしい。英は女王を立てる国だからこれを増長し、米は共和政治だから、男女同権論が普及している。近年米国では、婦人が参政権を持つべきだとの議論があり、ある州ではすでに公許したと云う事だ。・・・要するに、男女の義務は自ずから別のものだ。婦人を国防の任務に就けないこともまた明らかだ。東洋の教えは、婦人は内を治め外務を行わない。男女の違いをはっきりと見分けることには自ずから条理がある。識者は慎重に考えを巡らさねばならない。
久米はこの様に、アメリカやイギリスの女性のあり方に否定的だった。
フェリーとニューヨークの喧騒、ウエストポイント陸軍学校
四月中は、アーリントンを訪れた程度でほとんどその活動はなかったが、5月5日夜、寝台車に乗ってワシントン北駅を出発し、ニューヨークなどの北部視察を始めた。夜だから車窓からは草原や林が影のように見えるだけだったが、久米はその中を飛ぶ蛍を見たと書いている。早朝、ニューヨークからハドソン川をはさんだ対岸の人口8万人余りのジャージー・シティー駅に着いたが、この駅はニューヨークに渡る基点だから常に喧騒を極めていた。鉄道駅から馬車に乗り換えて波止場に着くと、波止場と同じ高さのフェリーの甲板に馬車ごと引き込む方式で乗船が終わった。待合室の建物に入って馬車が停止したと思っていると実はもうフェリーの中で、すでに船は動き出し四方は水で、またたくまにニューヨークの波止場に着いてしまったという。その手際のよさと設備の巧妙さに、愉快この上もなかった。
ニューヨークの市街に入ると道路の上を行く鉄橋があり、その上を汽車が走るという巧妙な仕掛けもあった。ブロードウェーの大道りはニューヨーク第一の繁華街で、レンガ舗装の広い道を乗合馬車がひっきりなしに走り、1分も待たずに次々とやって来る。この街の喧騒さに至っては、多くの車が常に通りを塞ぎ、四、五台の馬車が並走するのは通常で、左に向かうとすぐ右から割り込み、後から追い越すと思えば横から回り込み、御者もその操縦の腕を競い、一日中混雑している。世界中にこんな混雑は例を見ない。ホテルに入って通りに面した部屋に入ると、時には万雷が来る様に、時には松林に大風が吹くように、大音が鳴り響きとどろき渡り、言葉も通じないほどだった。
ニューヨーク市民の日用品、雑貨、食料売買など日常生活の中心をなすマーケットや広大なセントラル・パークを見た一行は、ハドソン川を蒸気船で遡りウエストポイント陸軍学校に来た。通常夏の始まる西洋暦の6月は期末試験や卒業式などがある季節だが、ウエストポイント陸軍学校でもその季節で、生徒の父兄や親戚の男女が集まりホテルも満員の状況だった。
陸軍省長官も来場し広い校庭で卒業操練があり、一連のプログラム終了後校内で食事会がもようされ、来場の男女も招待された。陸軍と海軍の伝統が違うのだろうが、海軍学校の時と違い男女は別室に別れて会食し、混雑も見られなかったという。翌日はまた校内施設や陸軍学校生徒の軽砲隊の試験を見、暗くなった8時過ぎから、400mほど離れて灯された明かりをめがけた炸裂弾砲発射の試験を見たが、的中はごくわずかだったという。久米のコメントは、
米国では大小砲の的射ちを見ることが多かった。その命中度は、我が邦人に比べ非常に低い。いつも未熟だナと思う。手指の技や臨機応変の才に関しては、我が邦人は常に欧米人より優れている。
炸裂弾砲発射のあと花火が打ち上げられた。西洋人はみな支那や日本の花火の技のほうが高いという。また久米のコメントだ。
発射時にまっすぐ打ち上げる方式はなく、落下傘方式で吊り下げ降下する技もなく、星になって四方に錯乱しすぐ消滅してしまうのは、見ていて飽き足らない。しかし、化学に長じ火薬作りに詳しく、かつ費用を惜しまないから、飛び出す星々が綺麗なことは本当に目が覚めるようだ。ここが西洋の長けている点だ。最近日本では大花火を禁じ、その長所を捨てて稚拙な業だけになってしまったが、惜しむべき点である。
この後更に北上し、アルバニー、シラキュース、ナイヤガラを見て、ボストンに回り、ニューヨーク経由ワシントンに帰ってきた。明治5年5月17日、すなわち1872年6月22日だった。首都・ワシントンではすでに議会も終わり、夏休みが始まって、官庁街は閑散としていた。しかし日本へ委任状を取りに帰った大久保利通と伊藤博文はまだ帰ってきていないから、6月17日まで更に1月も待つことになる。
アメリカからイギリスに向かう
ワシントンを出発した岩倉大使一行は、フィラデルフィア、ニューヨークを経由しボストンに向かった。ニューヨークからは客船に乗り込み、明治5(1872)年6月28日早朝、船はナラガンセット湾の北の奥にあるロードアイランド州の州都・プロビデンスに着き、港近くのボストン・プロビデンス鉄道会社の駅から汽車に乗り、マサチューセッツ州の州都・ボストンに向かった。プロビデンスからボストンは、北東に片道65kmの距離である。当時のプロビデンスは良港に恵まれ早くから商工業の開けた街で、大きな貿易港でもあった。
当時のボストンは人口25万人の大都市で、おそろしく地価の高い所だったという。ボストンを含むニューイングランド地方は、イギリスの植民地としてアメリカ大陸で2番目に出来て殖民が成功した地方で、歴史的に非常に古い土地だったが、当時マサチューセッツ州は綿・羊毛紡績で全米第一の生産高を誇っていたし、その他の工業生産も非常に高い地域だったから、使節一行はそんな大工場を幾つか視察した。
ボストンやプロビデンスでは熱狂的な歓迎を受け、久米はサンフランシスコ以来の盛会だったと書いている。特に、嘉永6(1853)年6月に浦賀にやって来て幕府にアメリカの国書を渡し、翌年1月に再来航し日米和親条約を締結したペリー提督は、このプロビデンスから南に約40kmほど離れたロードアイランド州ニューポートの出身だから、この地域から熱烈歓迎を受けた一要因でもあったのだろう。我が州出身のペリー提督が開国した国・日本から使節団がやって来てくれた、という感慨を込めた大歓迎でもあったはずだ。
またこの地域は昔からアジア貿易に船を出す船主も多かったから、日本が開国する以前から、オランダのチャーター船として何艘ものボストン船が長崎に来ていた。そんな事もあり、ボストンでは日本の茶や工芸品などが早くから知られていた事もあったろう。
岩倉使節一行は7月3日、いよいよイギリスに向かうため、ボストン港からボストン・リバプール間を運行する英国キュナード社の定期郵船・オリンパス号(2415トン)に乗組んだ。ボストンの街からは、ボストン港の出入り口にあるロングアイランド島の灯台辺りまで、7艘の船に100人以上もの別れを惜しむボストン市民が乗り込み見送りに来た。この灯台のあたりでいったんオリンパス号は停船し、船上で見送り人と共に最後のお別れ会が開かれた。久米は次のように書いている。いわく、
灯台の前まで来てここに船を止め、ボストンの下院議長・テイス氏を上席につけた立派な食席を設け、郵船の中で別れの宴を張った。そしてスピーチを行い、別れを告げた。米国の人は外国人を家族のように待遇し、よしみを通じ兄弟のようだ。殊にボストンに来てから5日の間、市中や付近の村々からは互いに親しみやよしみを通じ、親切極まりなかった。出船に際し、港口まで送って来てこの盛餐を設けたことは、東洋諸国の人に昔を回想させ、冷や汗が流れる思いをさせた。ああこの開明の際にあたり鎖国の夢を醒まし、和やかな世界交際が出来る事を、我が日本の全ての人々は、大事な事だと心に命じなければならない。
アメリカとの別れに際し、そのフランクさと親切さが久米の心の琴線に触れ、感傷的ともいえるコメントを書いた。確かについ5、6年前までは「攘夷」を叫んで外国人排斥をしてきた日本だったから、昔を回想し、「冷や汗が流れる思い」をし、鎖国と世界友好の落差の大きさがよほど印象深かったに違いない。 
 
征韓論1

 

征韓論は、西郷隆盛ら武断派政治家たちが国内でその身の置き場所を無くした不平士族たちの問題解消を成せる秘策として、打ち出された政策だった。西郷らが進めた政策は、確実に不平士族たちを用いて、朝鮮半島を一挙に蹂躙して、日本国内初の植民地にしようという壮大で無謀極まりない、卑しむべき強硬政策であった。西郷隆盛には、青年の頃から抱いてきた大志があった。それは島津斉彬に抜擢される前の藩庁税務助役を務めていた時までさかのぼる。西郷には、生涯を通じて精神の師匠ともいうべき正義感に燃える上役がいた。名を迫田太次衛門(さこだたじえもん)といった。郡奉行を務め、見識高く、農民への情愛が強い人物であった。迫田は薩摩藩内にはびこる不正賄賂の実態を嘆き、そのしわ寄せが農民たちに及んでいることを心苦しく思い、常に公明正大な振る舞いに務め、西郷のような正義感溢れる人物から支持を集めていた。だが、この迫田の正義感は、悪役人たちの目障りとなり、根も葉もない罪状をかぶせられ、無念の切腹となった。西郷は迫田の切腹を最後まで見届け、迫田の意志を受け継ぐことを誓ったという。この時から西郷は、貧苦にあえぐ農民たちを救う新しい日本を目指し、幕末動乱を飛び回った。そして、維新を迎え、新しい日本を築き上げる段階へと来た。しかし、そこには欧米列強による外夷から日本を守るためになんとしても富国強兵策を成さなくては成らなくなった。貧苦にあえぐ農民たちに再び、重課が成され、あまつさえ、士族たちも貧苦するようになってしまった。この国内問題を一挙に解決するには、対外における植民地政策を推進する以外に、画期的な解決策はないというのが西郷の念頭にはあった。横暴極まりないこの対外遠征に対して、西郷が躊躇することなく推し進めたのは、国内で苦しむ人々を救わんがための良心から出た答えだった。
しかし、そこには欧米列強と肩を並べることが最大優先事項とする外遊組には、理解のできない方策であったのだ。大久保たちは、内地整備が急務とし、財政赤字や輸入の増大による国富の流出、そして、朝鮮と戦争となれば、莫大な費用がかさみ、両国の疲弊につけ込むであろう欧米列強の怖さを指摘し、朝鮮への非礼だけを責めて、戦争するのは筋が通らないと征韓論に反発した。
西郷たち征韓論派は、大久保たち反対者が帰国する前に決議されたことを主張し、西郷を使者として朝鮮に出すことを強硬しようとした。朝鮮への使節を出すには、最後に天皇の許しを得なくては成らない。西郷たちは太政大臣である三条実美に決議された内容を天皇に上奏するよう求めたが、岩倉・大久保ら反対者からも強硬な反対があり、西郷、大久保の狭間に立たされた三条は苦悩のあまり精神異常をきたして政務を執ることができなくなってしまった。仕方なく、三条の代理として太政大臣代理に就いたのが岩倉であった。大久保と同じく征韓論に反対する岩倉が太政大臣となったことを知った西郷・江藤らは、早速岩倉のもとへ赴き、すでに閣議決定されている朝鮮使者派遣を天皇に上奏するよう求めた。しかし、岩倉は頑としてこれをはねつけ、上奏しない。江藤は得意の理論をぶち上げて、岩倉に上奏を強要したが、それでも岩倉は斥ける。結局、西郷たちを斥けた後、岩倉は朝鮮使者派遣が閣議決定されたこととは反対のことを天皇に上奏し、受理された。閣議決定の内容を偽り、征韓論を斥けた岩倉たちに憤激した西郷たちは、あっさりと辞表を提出し、政府を去った。西郷とともに板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らも辞表を提出した。また、西郷の部下である桐野利秋や村田新八たち軍部の者たちも多く辞めた。
西郷たち征韓論者が政府を去るとその政府要職には、伊藤博文・勝海舟・寺島宗則らが就き、辞めた近衛兵士官も新たに士官学校を卒業した者たちを補充させて、再編成された。こうして、大久保たちは、征韓論者たちが政府を去った後の穴埋めを進め、大久保はこの政府内の横暴が再び起きないよう、自ら内務卿となり、政府の主権を掌握した。
政府の内部分裂をこの事件以降は、未然防ぐことに務め、一方では不平士族の反乱に備えた動きを執り、未然に兵乱を防ぐよりも誘発させて、後顧の憂いをなくす方針さえ打ち出していく。こうして、非情政治家・大久保利通の本領が発揮されていくのだが、そこには征韓論によって、一時は、国政方針をめぐる抗争に発展しかけたことへの教訓があっての処置であった。かつて、徳川家康が「非情にあらずば、天下は取れず」と豪語したように大久保利通は、この考え方を継承したのであった。大久保が外遊から急きょ、日本に帰国した時、出発前の政府内の様子はガラリと変わっていた。司法卿の江藤新平がやり手の力量を発揮して、大久保が決めた人事をミルミル変えてしまい、独占的な勢いさえ見せていた。こうした政局の覇権をめぐる激しい抗争を見た大久保にとって、非情をもって行わなければ、自分が目指す理想国家の実現は不可能と考えたのだ。そこに大久保の非情政治を執った真相が見えてくる。一度、江藤らに奪われかけた政府の実権を再び取り戻した大久保の執拗な追撃は、不平士族の討滅という厳しい姿勢に現れている。一方で、これら不正士族に対して、同情的であった西郷が、西南戦争にて朋友であった大久保から非情な切り捨てにされたのも、貫徹すべきは友情にあらず、正当な国政にあるとする強い姿勢がもたらした悲劇であった。 
 
征韓論2

 

日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」という説もある)。西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。
名称
日本書紀の神功皇后紀では高句麗・新羅・百済を「三韓」と呼び、国学思想においては朝鮮半島を下に見る思想があった。これに対して「朝鮮」は太古の伝説から取って李氏朝鮮が使っていた正式国号である。太古の栄光の国号を用いることは北周・宋・西夏など広く見られる現象である。そのため征韓派は好んで「征韓」を用いた。
安政五カ国条約の勅許の奏請にあたり、間部詮勝は「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる。後年渋沢栄一は「韓国に対する私の考えは、三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに刺戟せられたものであろうが、兎に角朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである」と日清戦争後の対露強硬路線に同調した経緯を述べた。
概要
日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。幕末期には、松陰や勝海舟、橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。慶応2年(1866年)末には、清国広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった(八戸事件)。また朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、丙寅洋擾やシャーマン号事件の勝利によって、意気おおいにあがっていた。
そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こり、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。明治3年(1870年)2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年(1872年)1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
また政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。当時外交官として釜山に居た多田、森山等はこの乱暴な布告をみて直ぐ様日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。
明治6年(1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団の岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。
 
征韓論3 / 西郷の遣韓論

 

征韓論の経緯
西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。それでは、なぜ西郷が征韓論の巨魁と呼ばれることが歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきた、つまり悪化してきたのかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の交際(国交)を復活させようとしたことに始まります。元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていた間柄でした。しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧力に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は日本との国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、外国と交際を始めた節操の無い日本とは交際出来ないという判断だったのでしょう。このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている時間がありませんでした。当時の幕府としては、国内に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を通じて朝鮮との仲介役を務めていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。しかし、当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」や「奉勅」という言葉があるのを見つけ、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。朝鮮政府としては、先の「皇上」や「奉勅」といった言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。このように朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送り続けましたが、朝鮮政府はその受け取りを拒否し続け、一向にらちが開きませんでした。明治政府は、そんな朝鮮問題を解決するべく、外務権大録の職にあった佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。しかし、この三人は朝鮮の首都にも入ることが出来ず、何の成果も得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な「征韓論」を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわりました。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していません。この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允でした。後年、征韓論に反対したとされる木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかもしれませんが、これはまぎれも無い事実です。木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙の中に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。このように当時の木戸は征韓論に熱心になっていたのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題が先にあったため、征韓論ばかりに構っているわけにはいかず、また廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立つこととなったため、木戸としては一先ず征韓論を胸中にしまう形となりました。しかしながら、前述した佐田白芽らは征韓論の持論を捨てず、政府の高官達になおも熱心に説いてまわったので、征韓論は人々の間で次第に熱を帯びてくることとなりました。明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされました。朝鮮現地においては、まさに日本と朝鮮とが一触即発の危機にあり、その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。
西郷の遣韓大使派遣論
閣議に出席した外務少輔の上野景範(うえのかげのり)は、
「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」
と説明しました。その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。
「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」
板垣はそう述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議したのです。しかし、その板垣の提案に当時閣議の中心人物であった西郷は首を振り、次のように述べました。
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここはまず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす」
西郷の主張することは、まさしく正論です。西郷は、板垣の朝鮮即時出兵策に真っ向から反対したのです。西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな」と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ったのです。
「いいえ、兵を引き連れるのはよろしゅうありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」
西郷の堂々たる意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良いのではないか」と主張したのです。その意見に西郷は、
「政府の首脳が一同に会した閣議において、国家の大事の是非を決定出来もはんじゃったら、今から正門を閉じ、政務の一切を取るのを止めたほうがよろしゅうごわす!」
と、大隈に強く言い返しました。このように西郷に言われれば、大隈としてももはや異議を唱えることは出来ません。また、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、現在のこじれた朝鮮問題を解決出来るのは、自分しかいないとも自負し、相当の自信もあったのでしょう。しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。また、この朝鮮へ派遣される使節には、大きな危険が伴う恐れがあったため、西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあれば、政府にとってこれほどの危機はありません。そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。それでも西郷はあくまでも自分を朝鮮に行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。
これまで「征韓論」と呼ばれる一連の出来事の経過をごく簡単にですが書いてきました。これを読んで頂ければ分かって頂けると思いますが、西郷のどの言葉や行動にも、「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこないことが分かることでしょう。また、逆に「征韓論」について、反対意見すら述べていることが分かると思います。こういった事実とは反して、西郷を征韓論者だとする人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡(西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これは全く当ての外れた推測としか言いようがありません。この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後「テーマ随筆」で取り上げていくつもりですので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは控えます。しかし、一応この後のこの征韓論争の経過だけを簡単にですが、書いてみたいと思います。
その後、紆余曲折の過程を経て、西郷は正式に朝鮮使節の全権大使に任命されることになります。西郷としては大いに頑張るつもりでその準備を始めたのですが、ここに洋行から帰ってきた岩倉具視と大久保利通が西郷の前に立ちはだかりました。岩倉と大久保は、再び閣議を開き直し、その席上において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べたのです。その理由は次のようなことでした。
「西郷参議が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする余力はないので、朝鮮への使節派遣は延期するのが妥当である」
一見すればもっともな意見に思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず殺されて戦争になるということを前提にして反対意見を展開しています。しかし、西郷は戦争をしないために平和的な使節を派遣したいと主張しているのです。西郷としては、岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べることが納得出来ません。そのため、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局は西郷の主張が通り、西郷の朝鮮への派遣が正式決定されたのです。
しかし……、最終的には岩倉の非常に腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいます。岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとはせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上すると言い張ったのです。今から考えればそんな不条理なことがあるかと思われるかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。岩倉の行動を考えると、それでは今までの閣議は何のための会議だったのかと思わざるを得ません。一人の人間の私心によって、国の運命が決定づけられたのです。このようにして西郷が主張した遣韓大使派遣論は潰されたのです。
最後に一つ付け加えます。
「明治六年の政変」(いわゆる「征韓論争」)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれているものが多数を占めていますが、これはまったく事実と反します。まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一度も主張していません。前述したとおり、当初は板垣の主張した兵隊派遣に反対し、平和的使節を送ることを主張すらしているのです。また、内政を優先させるのが先決であるとして西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した大久保ですが、彼が中心となってその後した事と言えば、明治7(1874)年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌明治8(1875)年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮とも問題を引き起こしています。朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。西郷の使節派遣に反対し、内政の方が優先であると主張した大久保がこんなことをやってのけたのです。これをもってしても、「外征派対内治派」という構図が、いかにまやかしであったのかが分かるのではないでしょうか。歴史の通説において、いつの間にか西郷を征韓論者だと決め付けるようになったのは、当時西郷と対立した大久保らが自らの正当性を主張するがゆえのまやかしであったと考えるべきではないでしょうか。  
 
征韓論4 / 「征韓論」政変の評価

 

はしがき
一八七三年(明治六)十月二十三日、参議西郷隆盛は辞表を提出、郷里の鹿児島に向った。翌二十四日には参議板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣が辞表を提出した。かれらはいったん閣議で決定した朝鮮国への使節派遣が、太政大臣代理岩倉具視によって拒否されたため、辞職したのである。
西郷隆盛は鹿児島に隠棲したが、他の四人は翌一八七四年一月民撰議院設立建白書を提出した。このうち江藤新平のみは、まもなく佐賀の乱を起こし、敗れて処刑された。西郷隆盛もまた三年後挙兵し、敗死した。
この政変は従来「征韓論破裂」とか「征韓論争」とよばれており、一般には「征韓論」をめぐる政変と云われてきた。これは辞職した五人の参議が「征韓論」を主張したとするものである。すなわち当時の政府が「征韓」派と非「征韓」派に分裂し、「征韓」派が敗れたとするもので、非「征韓」派は「征韓」よりは国内政治を優先することを主張したことから、内治優先派とも云われる。
ところが近年毛利敏彦氏(大阪市立大学教授)は、『明治六年政変の研究』(有斐閣 一九七八年)、『明治六年政変』(中公新書 一九七九年)の二書を著わし、この政変に対し「明治六年政変」と命名し、まったく新しい説を提唱された。
毛利氏は従来「征韓」派とされてきた西郷隆盛は「征韓論」者であったことはなく、平和主義者であり、またもっとも強硬であった「征韓論」者江藤新平でさえも、非「征韓論」者であったと云われる。そして「征韓論」に反対し、内治優先派の中心であった大久保利通の方がむしろ「征韓論」であったとされる。
毛利氏の説が発表された直後の一九八〇年十一月の廃藩置県研究会(現明治維新史学会)第一回研究会において、原口清氏とわたくしが毛利氏の面前で徹底的な批判を行なった。毛利氏の史料解釈に多くの無理や錯誤があり、学説として成立しないというのが、わたくしの見解である。
しかしながらその後も毛利氏は随所で自説を繰り返され、最近では『江藤新平』(中公新書 一九八八年)を著わして、江藤新平が「征韓論」者でなかったという自説をさらに大々的に敷衍された。西郷隆盛のみならず、江藤新平さえも非「征韓論」者であったとすれば、あの政変は一体何であったのだろうか。
最近は『西郷隆盛全集』の解説をはじめ、西郷隆盛についての展覧会、テレビ・ドラマなどが毛利説によりかかっている。学界では毛利説に追随する者は少ないのに、世間では毛利説が流行のようである。今年(一九九〇年)のNHKの日曜夜八時からの大河ドラマ『翔ぶがごとく』は、司馬遼太郎氏の原作であるが、むろん毛利説ではない。しかし小山内美江子氏の脚本がどのように描くか注目される。
西郷隆盛については、多くの人々がそれぞれの想念を投影し、いろいろな西郷像をつくっている(1)。「征韓論」政変における西郷についても同じである。毛利氏も御自分の西郷像に固執され、史料の恣意的解釈に終始されているように思える。
毛利説については、いずれ全面的批判を行なうとして、ここでは政変の核心部分だけをとりあげ、毛利説を批判したい。 
一、岩倉使節団と留守政府の対立
最初に朝鮮問題が起こる以前に、政府の分裂が進行していたことを指摘しておきたい。
当時の政府は太政官三院制という組織である。これは一八七一年七月の廃藩置県によって設置されたもので、最高機関である正院、各省連絡機関である右院、法典編纂機関である左院の三院があった。正院は太政大臣・左右大臣・参議からなり、その会議を閣議あるいは廟議という。大蔵省以下の各省は正院の指揮下にあった。各省の長官は卿、次官は大輔であり、さらに次官補ともいうべき少輔があった。のちには参議と卿が兼任制になるが、この時期は分離されていた。
当時の正院のメンバーは太政大臣が三条実美、左大臣は欠員、右大臣は岩倉具視であるが、岩倉は条約改正交渉のため欧米に出張中であった。参議は西郷隆盛(薩摩=鹿児島)、木戸孝允(長州=山口)、板垣退助(土佐=高知)、大隈重信(肥前=佐賀)の四人であり、薩長土肥のバランス人事である。
このうち木戸は岩倉使節団に加わっていた。使節団には大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文も加わっており、政府は使節団と留守政府に二分されていたことになる。岩倉使節団と留守政府の間では、重要な改革と人事異動はしないという約定書が結ばれていたが、これには大臣参議の外、各省卿・大輔も署名していた。全部で十八名が署名していた。この十八名がこの時期の政府の実質的な最高首脳であるというべきであろう。
しかし留守政府と岩倉使節団の間にはしだいに対立感情が生じた。手紙の往復で三か月近くかかるのだから無理もないが、一々改革について了承を取り付けるのは困難であり、留守政府は廃藩置県の事後処理を越えて多面的な改革に突き進んだ。徴兵令、地租改正、学制、司法改革などである。
この改革の進行を使節団は不愉快に思うようになる。使節団の側では直接見聞した欧米の工業力や法律制度、あるいは市民生活の現実を参考にさまざまな改革構想を生みつつある。その欧米の現実を知らない留守政府の改革など笑止の沙汰であったかも知れない。
一方留守政府内部でも対立が生じていた。すなわち各省の改革が競争状態となり、予算を握る大蔵省と他省の間に紛議を生じ、とくに司法省(卿は江藤新平)と、大蔵省(大久保卿の留守を預る大輔井上馨)の対立は留守政府の分裂を来たすまでに発展した。江藤が肥前、井上が長州という藩閥感情もあった。
そこで一八七三年一月、三条太政大臣は岩倉使節団に書簡を送り、政府の内紛を解決するため木戸と大久保の帰国を要請した。これに応じて二人は帰国の途に就くが、二人が帰国する以前に、留守政府は明白な約定書違反をやってしまった。それが正院の参議の増員と太政官制潤飾である。
すなわち四月十九日政府は左院議長後藤象二郎(土佐)、司法卿江藤新平(肥前)、文部卿大木喬任(肥前)の三人を参議に登用した。反大蔵省側の登用である(1)。ついで五月二日各省(とくに大蔵省)の権限を削り、正院に権力を集中するとともに、参議を内閣議官とし、一切の政務は内閣議官を経るものとした。内閣という呼称はここではじめて登場する。これを太政官制潤飾という。
この改革は三条太政大臣と岩倉右大臣を棚上げし、さらに大久保大蔵卿の発言の場をなくする策といってもよい。翌日大蔵大輔井上馨と同三等出仕渋沢栄一は辞任した。約定書の署名者の一人である開拓次官黒田清隆は、激怒して自分の署名を切り取ったという。
焦点の一つは江藤新平の登用であった。江藤は約定書署名メンバーではなかった。かれは廃藩置県当時文部大輔であったが、まもなく左院の一等議員に転じた。そのかれが使節団の留守中に、司法卿となり、参議になるのである。これが物議を醸さないはずはない。
帰国命令で五月二十六日に帰ってきた大久保は、大いに失望した。これでは何のために急いで帰国したのか分らない。かれはやがて東京を離れ、関西地方で遊覧を重ねている。心中穏やかではなかったことであろう。
これが「征韓論」論争の背景である。
(1)毛利氏は反長州的な土肥政府と評価するが、この評価には賛成できない。 
二、西郷隆盛「戦は二段に相成居申候」
次に「征韓論」論争について述べよう。論争の経過を年表風に記した別表を参考にされたい。
第一段階は八月十七日の留守政府の閣議決定で、ここで西郷の使節派遣が内定している。
第二段階は十月十五日の閣議で、ここで正式に使節派遣が決定された。このあとにどんでんがえしの第三段階がある。それが十月二十三日の岩倉太政大臣代理の上奏で、二十四日に天皇がそれを裁可したのである。
まず第一段階から見よう。
六月十二日頃、朝鮮問題が閣議の議題となった。これは五月末の朝鮮国在勤の外務官吏からの報告に基づく。この報告には、釜山在住日本人の生活と貿易が圧迫を受けていること、その理由の一つが東京の三井組(または三越)の密貿易によること、釜山を管轄する東莱府が日本を批判する掲示を出したことが記されていた。
右掲示の日本批判の内容は、日本人は(西洋の)制を受けて恥じず、形を変え、俗を易えている、つまり西洋化を進めているというもので、これでは日本の人と云うべきではなく、日本とは従来の方式(日本旧様)でなければ交際すべきではない、最近の日本は「無法之国」というべきである、というのである。
明治維新以来明治新政府と朝鮮政府の間で国交樹立交渉が行なわれていたが、膠着状態がつづいていた。徳川幕府との友好関係を維持してきた朝鮮は、明治新政府の態度に疑念を抱き、国交樹立に消極的であった。朝鮮政府は先の掲示でいえば「日本旧様」にこだわっていたのである。これは近世の中華帝国の冊封体制(最近の表現では華夷秩序)に依然として属している朝鮮と、その秩序から脱して西欧的な権力主義的外交体制に移行しつつある日本との対立と云ってよい。
この報告を受けた外務省は、これを重大事と判断して太政大臣三条実美に報告し、対応策の指示を仰いだ。外務卿副島種臣は清国出張中であった。
太政大臣三条実美は、これを朝威・国辱に関わる事態と判断し、居留民保護のための小兵力を派遣し、その武力を背景に使節を派遣し、談判しようという議案を閣議に提出した。
六月十二日と思われる閣議では、朝鮮国への大官の使節派遣が決定された。西郷隆盛は自分が使節に任命されることを希望したが、副島外務卿が清国出張中のため、使節任命は延期された。
以後七月末までは事態の変化はなかった。釜山在留の日本人への圧迫はとくに増大してはいないが、交渉が進展したわけでもない。
閣議で一大隊急派論を唱えたのは板垣退助である。その板垣退助に対して西郷隆盛が七月二十九日に書簡を出している(1)。
それによると外務卿の副島種臣が帰国してきた(七月二十七日)ので、懸案の使節派遣を決定してほしい、兵隊の派遣は、即開戦となる危険があり、まず使節を派遣し、そこで相手が「暴挙」に出れば、「可討の名も慥に相立候」と述べている。
西郷は太政大臣の三条実美に対しても強く働きかけ、八月十六日西郷は三条邸を訪問し、ついに同意を取り付けた。
その模様を記した翌十七日付の板垣宛書簡によると「此節は戦を直様(すぐさま)相始め候訳にては決て無之、戦は二段に相成居申候」とあり、使節の派遣が第一段、その使節が「暴殺」された時に派兵するのが第二段という方針である。もし使節が「暴殺」されれば「天下の人、皆挙て可討の罪を知」るであろう、そして「内乱を冀ふ(こいねがう)心を外に移して、国を興すの遠略」という有名な言葉を書いているのである。
西郷の「戦は二段に相成居申候」という点に注目されたい。まず使節を派遣する、その使節が「暴殺」されれば「天下の人、皆挙て可討の罪を知」るであろう、そうすれば派兵の大義名分ができるというのである。もちろんこれは使節である西郷が殺されることが前提である。西郷自身には交渉をまとめる自信があったかも知れない。
またこれは「内乱を冀ふ心」すなわち一部士族らの激しい反政府感情を外国にそらすことが、「国を興すの遠略」になるというのである。この言葉のなかに何が含意されていたのであろうか。
八月十七日の閣議はともかく西郷の使節派遣を決定した。この決定そのものが使節団との約定違反であったろう。十九日三条の上奏に対して天皇は岩倉具視の帰国を待って熟議し、さらに奏聞するように答えたという。天皇の独自判断なのか、三条の具申かははっきりしないが、岩倉使節団を欠いたまま重大事を決定するのに躊躇するのは当然であった。
(1)西郷隆盛の書簡は『大西郷全集』第二巻、『西郷隆盛全集』第三巻による。 
三、大久保利通「未た俄に朝鮮の役を起す可からす」
帰国命令を受けた大久保は五月二十六日に、
木戸は七月二十三日にそれぞれ帰国していた。しかし二人とも政府をボイコットしている。二人とも岩倉が帰国した上で反撃に転じるつもりであったのだろう。
九月十三日に岩倉一行が帰国してきた。かれは早速十五日に三条実美邸を訪問し、朝鮮遣使問題の概要を聞いたが、両者は大久保と木戸の二人に「政府ニ出勤」を求める点で意見が一致したようである。
岩倉はこの時期に朝鮮問題に直面していたとわたしは考えている。毛利氏はこの時期には朝鮮問題はまだ問題になっておらず、大久保の参議就任とともに急浮上したとしているが、これは誤まりである。岩倉はこの段階で、朝鮮遣使の中止または無期延期を決意していた。
その手立ての最初が大久保利通の参議登用である。三条と岩倉は、関西遊覧から帰京した大久保に参議就任を要請したが、大久保は固辞した。以後大久保引き出し工作がつづく。
十月四日三条は閣議に提出すべき朝鮮問題の概要をまとめ、岩倉に提示した。これは朝鮮に派遣する使節の任務についての決定を求めたもので、使節派遣が戦争に直結する可能性を論じた論旨後半について毛利氏は「このあたりから、使節派遣問題と開戦→征韓論とが、混同されるようになったのではなかろうか」という。根拠のない憶測である。
大久保は十月八日になって参議就任を承諾した。そのさいかれは朝鮮使節派遣問題について処理方針を確定し、途中で変節しないこと、副島種臣も同時に参議に任命すること、ならびに伊藤博文を閣議に列席させるという条件を提出している。外務卿副島種臣も参議とすることは、「征韓論」者である副島の登用で、自分の就任とのバランスを取ろうとしたのであろう。こうして十月十二日、まず大久保が参議に任命され、十三日に副島が参議に任命された。
参議就任にあたって大久保は家族にあてて遺書を残している。この時の大久保は少年時代からの親友である西郷との政治的訣別を決意し、死さえ覚悟しているのである。毛利氏はこの点を過小評価している。
十月十三日以後政局は激動を迎える。
十三日のさまざまな動きについては省略する。問題は十四日の閣議である。この日病気の木戸を除き、大臣・参議全員が出席した。岩倉は樺太問題の先議を主張し、大久保は朝鮮への使節派遣が開戦を必至とすると論じて派遣の延期を主張し、西郷らは使節の即時派遣を主張した。
朝鮮国への使節派遣は、外務官吏ではなく、筆頭参議の西郷隆盛を派遣するかどうかという重大問題である。この時大久保は毛利氏の言を借りれば「使節派遣即開戦論」という前提に立ち反対していた。しかし毛利氏は「西郷は、このとき大久保の前提とは異った議論を展開したはずである。」と云われる。
毛利氏によれば、この時西郷隆盛はあくまでも交渉に徹するべきで、そのための使節派遣だと力説したらしい。「西郷のいう通りであるならば、使節派遣即開戦という前提に立って組み立てられている大久保利通の長大な反対論は、ほとんど無意味となる。」と毛利氏は云われる。しかしこの部分はすべて毛利氏の憶測によるものであり、われわれとしては「毛利氏のいう通りであるならば」という他はない。
十月十四、十五日の時点での西郷の主張は、この時西郷の対極の立場にあった大久保の意見書によって明確に判明する。いわゆる「征韓論に関する意見書」(1)である。大久保は七か条にわたる理由を列挙して朝鮮国への使節派遣に強く反対した。そのすべての条の最後に「未だ俄かに朝鮮の役を起す可からす」という文言がある。かれは使節派遣の結果交渉決裂となった場合、開戦は必至と見て、それに真っ向から反対したのである。
大久保は何も錯覚などしていない。大久保は会議の席上で西郷と丁々発止とやりあっているのであり、西郷の主張への反対論をまとめたのがこの意見書なのである。したがってこの意見書を丹念に読めば、その対極にある西郷の主張があぶり出されてくる。
たとえば大久保は、「然れとも未た兵を出して之を征するに、判然たる名義あらさるを以て、今般殊に特命の使節を派出し、その接遇の情形に従ては、則征討の師を起さんとす」と、まず使節を派遣し、その交渉次第では出兵するという西郷の主張を要約している。
要するに朝鮮遣使は、開戦の名義を得るためだというのである。これは西郷が前掲のように「戦は二段に相成居申候」と云っていることと完全に符合する。この点を西郷らが主張し、大久保らが反対したのである。あたりまえのことではないかと云われるかも知れない。錯覚しているのはその閣議の席におらず、百年後になってあれこれ書斎で想像している毛利氏の方である。
毛利氏が分析を放棄されたこの大久保意見書は、欧米視察によって裏打ちされた国際情勢についての透徹した認識、外交と内政の統一的提起など現実的政治家としての大久保の面目躍如たるものがある。
冒頭部分で大久保は次のように述べている。
「凡そ国家を経略し、其彊土人民を保守するには深慮遠謀なくんはあるへからす、故に進取退守は必す其機を見て動き、其不可を見て止む、恥ありといへとも忍ひ、義ありといへとも取らす、是其軽重を度り、時勢を鑑み、大期する所以なり、今般朝鮮遣使の議あり、未だ俄に行ふへからすとせし者は、其宜く鑑み厚く度るへき者あるを以なり」
ここで大久保は「深慮遠謀」の立場から、「進取退守」にあたっては「機」を重視し、「恥」「義」ではなく、「軽重」「時勢」を考えて決定することを主張している。その対極に「深慮遠謀」ではなく、「機」も考えず、「恥」や「義」という価値観から「俄に」「朝鮮遣使」を進めようとする主張があり、その中心人物こそ西郷隆盛であることが明白に浮び上がってくる。
大久保は「俄に」「朝鮮遣使」を進めることが、「俄に朝鮮の役を起す」ことになるとし、七か条にわたって反対理由を述べている。
第一条は国内の政治的不安定、第二条は財政赤字と外国債の負担の現状、第三条は海陸軍・文部・司法・工部・北海道開拓の分野の多くの事業の急務、第四条では輸入超過、金貨流出、国産の不振などの経済状況、第五条と第六条では国際情勢について、とくにロシアとイギリスの動向、第七条は欧米諸国との不平等条約の現状について述べている。
以上七か条を列挙した上で、大久保は最近の朝鮮国の態度を見れば、派遣使節への好遇は期待できず、あらかじめ「開戦の説」を決めておく必要があるというのである。
大久保利通によれば、開戦となれば十有余万の募兵が必要であり、弾薬銃器船艦運輸など出兵費用も一日あたり数万かかる、かりに勝利しても、数年間の長期占領の費用も多額となる、さらにロシア・清国の干渉も予想され、大変な危機となろう。
この点については九月二十二日に大久保に提出された池田寛治の派兵の財政的負担と内政への影響についての意見書(2)がある。これは藤村道生氏(3)がはじめて取り上げられたもので、大久保の見解をサポートした貴重な史料である。
いずれにせよ大久保意見書の分析を錯覚として回避した毛利氏の立論は砂上の楼閣なのである。
(1)『大久保利通文書五』
(2)『大久保利通関係文書』
(3)藤村道生「征韓論争における内因と外因」(日本国際政治学会『国際政治三七・日本外交史の諸問題V』有斐閣 一九六八年) 
四、西郷「護兵の儀は決て不宜」
閣議は十月十五日にも開かれた。西郷はこの日欠席するが、始末書を三条太政大臣あて提出している。これについて毛利氏は「朝鮮使節問題に関する西郷隆盛の正式かつ最終的な見解とでもいうべき重要なものである」と述べている。
西郷はまず日朝交渉の行き詰りについて
「朝鮮御交際の儀、御一新の涯より及数度使節被差立、百方御手を被尽候得共、悉水泡と相成のみならず、数々無礼を働き候儀有之、近来は人民互いの商道も相塞、倭館詰居の者も甚困難の場合に立至候」と述べている。ここに見られる西郷の日朝交渉に対する認識は、朝鮮側が「無礼」だという当時の政府当局者の共通認識と同じである。
この時期の日本側の外交方針は強圧的であり、朝鮮側の伝統的な中華的国際秩序観を理解していなかった。もし西郷が多少なりとも「道義」を理解していたのであれば、朝鮮側の立場にも理解を示し、日本側の外交方針をたしなめる言動があってもよさそうだが、そのような形跡はない。あくまでも日本側の立場を是とした上での立論である。この点は西郷の「平和的道義的立場」を協調する毛利氏はほとんど触れていない。
西郷はつづけて「無御拠護兵一大隊可被差出御評議の趣承知いたし候付、護兵の儀は決て不宜、是よりして闘争に及候ては最初の御趣意に相反し候間・・・」という。
西郷はあくまでも使節派遣に固執し、そのさいの「護兵」は不要であるとし、使節の単独派遣を主張している。この一大隊論は、当初の居留民保護のためのものではなく、使節の護衛として考えられたものであろう。西郷の身の安全を心配して考えられたのである。
西郷は「護兵」なしの使節派遣を主張し、その方が礼にもかなうとした上で、それでも相手が「暴挙」に出た場合は「初て彼の曲事分明を天下に鳴し、其の罪を可問訳に御座候」と依然二段階戦術を採っている。ここを大久保は衝いたのである。
毛利氏は「相手の誠意を信頼して徹底的に話し合いを尽すべきであり、あらかじめ戦争準備など非礼なことをしてはならないという平和的道義的な立場であろう。この始末書をみるかぎり、西郷は、征韓論からはるかに隔っていた。」「西郷は征韓即行論者はおろか征韓論者自体でもなかったとみなしてよかろう。」といわれる。ここで西郷は、護兵なしで一人で行くと云っているだけであり、そのこと自体「道義」とは関わりない。無謀なだけである。またこんな手放しの評価は右に見た西郷の朝鮮観とは符合しない。
毛利氏は、大久保利通の「征韓論に関する意見書」の分析をほとんど放棄した上で、立論されており、しかも西郷がそんなことを云った筈がないという思い込みで終始しているのである。 
五、「征韓論」破裂
十月十五日の閣議では激論があったが、三条太政大臣と岩倉右大臣のみで協議することになり、一時参議は退席した。再開されるや、やむをえず西郷の主張通りとするという決定が披露され、参議の多数は了承した。八月十七日の閣議決定は正式に追認されたのである。
しかし大久保はあくまで反対の意志を崩さず、十七日に辞表を提出した。これに驚いた岩倉も辞意を表明、木戸も辞表を提出した。
同じ十七日、西郷らは閣議決定を天皇に上奏することを三条に要請したが、両者の板挟みにあった三条は翌朝未明高熱を発して倒れた。ここから大久保らの巻き返しが始まる。 大久保は伊藤博文、大隈重信の協力を得て「一ノ秘策」を推進した。すなわち発病した三条に代って岩倉を太政大臣代理に任命し、太政大臣の権限を行使して閣議決定を空洞化させようとしたのである。
二十二日、西郷・板垣・江藤・副島の「征韓」派四参議は岩倉邸を訪問し、先の閣議決定の上奏を迫った。しかし岩倉は太政大臣は閣議の上に立つとしてこれを拒否した。
二十三日岩倉はこの問題を上奏したが、使節派遣は時期ではないとする自己の所見を述べた。この日西郷は辞表を提出して去った。まもなく鹿児島に向う。
二十四日天皇は岩倉の上奏を受け入れ、使節派遣を不可とする裁断を下した。同日他の四参議も辞表を提出、「征韓論」は破裂した。 一方政府は伊藤博文らを新参議に登用する人事を発表し、大久保利通中心の政権が発足した。いわゆる大久保政権である。
もちろん非「征韓」=内治派も、いずれは「征韓」=朝鮮侵略を実行する点では、「征韓」派と同じであった。ただ一八七三年の時点で「征韓」を実行するかどうかについては意見が異なっており、戦略的には一致していても戦術的には対立していたと言えよう。しかしその背後に外交戦略の相違があったことも指摘されている。
しかし「征韓」派の方が非「征韓論」であり、非「征韓」派の方が「征韓論」であったとする毛利氏の説は、黒を白といいくるめるようなものである。
毛利説に対しては、この時期の政治状況全体の把握に関わるため、多岐にわたる分析が必要である。この時期の太政官制の評価をはじめ、外交観、予算紛議、司法改革、サハリン・琉球問題、藩閥対立の多くの問題についても毛利氏の評価には異論がある。これらについては別の機会に譲ることとし、本稿はひとまずここで筆を置きたい。 
 
征韓論5 / 征韓論の系譜

 

明治維新後の政界を揺るがし、政変にまで至った征韓論は、どのような文脈から提唱されたのだろうか。この問に答えるためには、江戸時代の思想史にまで遡らなければならない。
江戸時代の学問の主流をなしたのは、儒学、それも朱子学であった。言うまでもなく、朱子学は中国の学問であり、中国を華とし、周辺国を夷と卑しむ華夷思想を、その内容として含んでいた。従って、朱子学をそのまま受取るなら、日本は中華の周辺国である夷狄だということになる筈である。事実、江戸儒学の草分けというべき藤原惺窩(1561〜1619)は、「中国に生れず、またこの邦の上世にうまれずして当世に生る。時に遇わずと謂ふべし」と嘆いたと言われる。
反面、こうした中華崇拝に反発する思想家も現れた。尊王斥覇論を唱えて明治維新の思想的原動力となった儒学者浅見絅斎(「靖献遺言」の著者。1652〜1711)は、「吾国を夷狄とし、甚だしき者は、吾夷狄に生まれたりとてくやみなげくの徒有之」と批判し、「其邦に生て其邦を主とし、他国を客として見」る自国本位の立場こそ正しいと主張した。また、山鹿素行(1622〜1685)も、「異朝の事を諸事よろしく存じ、本朝は小国故、異朝には何事も及ばず」と心得る風潮に異を唱え、「四海広しといへども、本朝に比すべき水土あらず」と日本の優秀性を唱えた。ところで、朱子学における華夷思想、名分論は、中国皇帝の権威に人倫秩序の淵源を見ることに帰するから、こうした朱子学的華夷思想に対抗して日本の自主性を確保するためには、中国皇帝の権威に対抗する日本独自の価値原理が必要とされることになり、この文脈で、日本の天皇を尊しとする尊王思想が浮上することになる。そして、多くの論者は、中国皇帝に比して日本の天皇を尊しとする根拠として、日本の天皇の万世一系たることを持ち出した。つまり、易姓革命により王朝の変遷を常とする中国や朝鮮に比して、日本は君臣の義が貫徹されているが故に易姓革命の生じる余地がなく、万世一系の天皇家が永続しているのであり、これは日本の道義的優越性を示すものとするのである。
こうした儒学的日本優越論に対し、国学派は中国伝来の「からごころ」そのものを否定し、端的に日本そのものの尊さを唱道する。賀茂真淵(1697〜1769)は「唐国の道きたりて、人の心わろくなり下がった」とし、人々が「心直く」「天地の心のまにまに治められていた」古代日本を理想とし、本居宣長(1730〜1801)は、「皇国」は「四海万国を照らさせたまふ天照大御神が御出生ましましし御本国」であるがゆえに優れていると論じた。
幕末に至り、欧米列強が日本近海に出没して国防意識が高揚するに伴い、列強に対抗しうべき国家意識の強化と国力の集権化の必要性が意識され始め、この文脈において、尊王論が脚光を浴びるに至った。その際、列強の威圧に対する危機感の昂進は、これに対抗するために国家意識のウルトラ化を生じさせた。
国学派の平田篤胤(1776〜1843)は、天地の始まりからの産霊神による万物創生神話を展開したが、そこでは伊邪那岐・伊邪那美の2神が日本を創生した後に外国ができたのであり、皇国日本こそが万国の祖国本国であり、天皇は万国の君帥として世界に臨むべきものとされた。また、儒学の系統に立つ水戸学は、藤田幽谷(1776〜1826)、藤田東湖(1806〜1855)、会沢正志斎(1781〜1863)らは、儒学における「天」とは天照大神とその子孫たる歴代天皇と一体のものであり、儒学における五倫の実は記紀神話に体現されており、未だかつて皇位を簒奪する者なく万世一系の天皇が無窮に皇統を伝える日本こそが、「君臣の義」を貫き通し万国に優越した「国体」を有するとして、儒学の日本化・国粋化を推し進めた。
ペリー来航は、志士達の危機意識をいやがうえにも掻きたて、その果てに近隣諸国を切り従えて日本の勢力圏を築き、これに拠って列強に対抗するべしとする拡張主義を生むに至った。
ペリー来航に対して幕府が列強と和親条約を締結する情勢を見て、幽囚中の吉田松陰は書簡の中で「魯(ロシア)・墨(アメリカ)講和一定す。決然として我れより是れを破り信を戎狄に失ふべからず。但だ章程を厳にし信義を厚うし、其の間を以て国力を養ひ、取り易き朝鮮・満州・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と書き送った。維新後の大日本帝国の軌跡は、この吉田松陰の書簡どおりにアジア進出を図ってゆくものであった。
この吉田松陰のアジア進出論は、どのような論理に基づいて導き出されたものであろうか。松陰が何よりも問題としたのは、日本の武士がペリーの威圧に対して、一戦も交えることなく屈服してしまったことであった。それは彼我の戦力の差以前に、日本側にペリーに対峙しうべき精神、志が欠けていたからであると考えられた。そうだとすれば、列強に対抗してゆくためには、戦力の増強以前に志を練り、気を養うことが先行しなければならない。そのためには、攘夷の主体としての日本、「吾が宇内に尊き所以」「我が国体の外国と異なる所以」を解明することが先決であるとされた。そして、松陰によれば、かかる日本の「国体」とは、易姓革命の常なる中国に対して、万世一系の天皇を抱くところに求められた。中国の伝統的政治思想が「天下は天下の天下」であるとするのに対し、「天下は一人の天下」であるのが日本であり、中国が「人民ありてしかるのちに天子あり」であるのに対して、日本は「神聖ありてしかるのちに蒼生あり」なのだとするのである。従って、中国における臣下は、自分を認めてくれる主君を求めて去就を決める「半季渡りの奴婢」の如きものであるのに対して、日本の場合は譜代の家臣であり、主人が死ねといえば喜んで死ぬ、絶対的な君臣関係なのだとする。
こうした松陰の「国体」論は、幕藩体制化における武士の主君に対する「奉公」の有り様を理念化し、その絶対的自己犠牲性に松陰の本領をなす強い倫理性を盛り込み、この君臣理念を天皇という一点に集約させ、以て、天皇を中心点とする一君万民国家を創設し、そこに宗教的自己犠牲の域にまで達した愛国心を立ち上げようとするものであり、儒学に代表される東洋政治思想の遺産を題材としつつ、欧米列強の世界制覇という世界史的情勢への対峙が生み出した「危機の政治哲学」であったと言えよう。こうした松陰的理念は、遡れば「忠臣蔵」のエートスと通じるものであり、降れば太平洋戦争末期の神風特攻隊にその最も純粋な形態を顕すであろう。
護持されるべき日本の道義性、「国体」の優越性がこのように把握されると、それは諸外国に対して宣明されるべきものということになる。そして、現に、日本がその「国体」を輝かせていた神功皇后や豊臣秀吉の征韓事業こそ「善く皇道を明かにし国威を張る」もので、「神州の光輝」と称揚される。逆に、近世に至って国体が不明確になったために、朝鮮は驕り服属しなくなったのだとされる。かくして、征韓事業は、国体論の帰趨を定めるものであり、日本の使命として遂行すべき事業として聖化されることになる。
以上に対して、征韓論の対象とされた朝鮮においては、どのような政治理念によって世界に対しようとしていたのであろうか。仏教が栄えた高麗王朝に対して、後継の朝鮮王朝は朱子学を以て国是とし、明王朝の冊封を受け、外交方針としては中国への「事大」を、思想的には中国への「慕華」を掲げた。明が「夷荻」の女真族に滅ぼされ、清に交代するや、朝鮮では、今や夷荻に支配されている中国に代わって、朝鮮こそが中華の正統を受け継いでいるのだとする「小中華思想」が支配的となった。尤も、外交的には清の侵入を受けて事大を余儀なくされたが、いずれ力量を蓄えた上で清に反撃しようという「北伐」論が唱えられた。このように、朝鮮においても、自らを尊しとし日本などを夷荻とみなす上下意識が成立していたのである。
このように双方共に自らを尊しとなし相手を夷荻と蔑む日本と朝鮮が、どのようにして外交関係を取り結びうるのかということが問題となる。徳川幕府は、清との間では遂に正式の外交関係を取り結ばなかったが、日朝関係については、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって断絶していた関係を修復して国交を取り結び、朝鮮からは徳川将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書を持った通信使が派遣され、江戸時代を通じてその回数は12回を数えた。その際、両国の交渉は対馬藩を介して行われた。ここで問題となるのは、両国ともが自国を尊しとし、相手国に優越しているとみなしていることで、このような双方の政治理念を前提としつつ、現実の関係において如何に相手の面子を立て、対等の関係を取り結ぶための様々な工夫が試みられた。例えば、朝鮮使節が江戸城で徳川将軍に国書を奉呈するときには、両者の間に使節が持参した国書が置かれ、朝鮮使節がなす四拝礼について、朝鮮側は自国国王の国書に対するものであると解釈し、日本側は将軍に対する拝礼であると解釈するといった工夫が必要になったのである。特に問題となったのは、双方の国書において、日本側の将軍をどう呼ぶかという点であった。朝鮮側からすると、朝鮮の国書は朝鮮国王名義のものだから、日本側の国書も日本国王名義のものでなければ対等性が保てない。他方、日本側においては、征夷大将軍というのは天皇の臣下の役職であって、将軍が日本国王を名乗るのは天皇との関係上、憚られる。また、朝鮮国王という称号は、中国皇帝の臣下であるという意味を含んでいるが、これと同等の日本国王という称号を用いると、それは中国皇帝の権威を認めることになりかねない。問題は、このように名分論的な錯綜をどうやって捌くかであり、間を取り持った対馬藩が国書を「日本国王」名義に改作して朝鮮に渡すといった事態も生じたが、最終的には、将軍の国書は「日本国源家光」のような形式にして称号を名乗らず、朝鮮国王からの国書の宛先は「日本国大君」とする形で決着した。
明治維新により天皇が統治権者として復活したことは、日朝関係における名分問題を再燃させた。名分論的な考え方からすると、江戸時代に徳川将軍と朝鮮国王が対等の関係を持っていたとすれば、天皇と徳川将軍との名分が正されて王政復古が実現した以上、朝鮮との関係においても名分が正されるべきであり、徳川将軍と同等の位置にある朝鮮国王も天皇に対して臣下の礼を取り、朝鮮は記紀に記されているように日本の属国となるべきだということになる。この問題は、維新政府発足後に対馬藩を通じて朝鮮側に王政復古を通知するために出された日本の外交文書(書契)を朝鮮政府が受け取りを拒否するという形で現実化した。このとき、朝鮮側は、書契の中で対馬藩の官位が引き上げられ、他方で朝鮮側への敬称が「大人」から「公」に引き下げられていることを問題とした。このときの事情を、当時の日本の外務官員宮本小一「朝鮮論」は以下のように述べている。「朝鮮国へ御一新の事を報知せしに快く受ず。且其返書をも差越さず因循する由、其説を聞くに、其以前幕府と同等の交礼をなせし処、今天朝と交際する時は、幕府は将軍にして天皇陛下の臣下なり、然れば朝廷と交際するには二三等下がらざるを得ずと。故に成べくは宗家と交際し、日本の国変に関渉せざる方、彼国王号に対しても都合よしとの説ありと聞く。」「方今朝鮮の事を論ずるもの曰く、王政復古し大号令天皇陛下より出る上は、朝鮮は古昔の如く属国となし、藩臣の礼を執らせねばならぬ也。」また、木戸孝允は書契受け取り拒否以前に、既に日記に、「速に天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣し、彼無礼を問ひ、彼若不服ときは鳴罪攻撃其土、大いに神州之威を伸張せんことを願ふ」と書き記していた。
こうして、維新期に形成された国体論的名分論に由来する対朝鮮強硬論は、1873年にいたり、西郷隆盛を皇使として派遣するという決定に至り、おりしも欧州視察から帰国した岩倉使節団との間の征韓論争を引き起こした。結果は西郷らの征韓論が敗れて、西郷らは下野した。このときの西郷の真意については争いがあり、西郷の発した「内乱を冀う心を外に移して国を興すの遠略」といった言葉にもかかわらず、西郷の真意は自らが平和的使節となって朝鮮を説得し、板垣退助らの軍隊派遣論を抑えることにあったとする見解もある。しかし、こうした西郷に対して意見する者は、「私にも数人の論を受け候次第に御座候処、畢竟名分条理を正し候儀は、倒幕の根元、御一新の基に候えば、只今に至り右等の筋を相正されず候わでは、全く物好きの倒幕に相当り申すべきなどとの説を以て、責め付け参り候者もこれあり候故、閉口の外他なき仕合に御座候」といった有様であり、国体論的名分論に拠って、新生日本の威光をはろうとする論者は少なくなかったようである。これに対して、西郷らの征韓論に反対した大久保利通の意見は、「凡そ国家を経略し・・・人民を保守するには深慮遠謀なくんばあるべからず。故に進取退守は必ず其機を見て動き、其不可を見て止む。恥ありといえども忍び、義ありといへども取らず。是其軽重を度り、時勢を鑑み、大期する所以なり」という現代のリアリズム政治学にも通じる観点からの時期尚早論であり、征韓論それ自体に反対したものではなかった。そして、その後の日清、日露の両戦役は、いずれも朝鮮半島の領有を掛金として戦われ、両戦役を勝ち抜いた日本は、遂に朝鮮を植民地化するに至るのである。
以上の徳川時代以来の名分論と征韓論との絡みを見て、以下のことが知られる。伝統的な東洋の儒教的政治哲学における名分論とは、決して、固定化され干からびた教条的身分秩序なのではなく、その時々の政治的社会的力関係を反映して流動的であり、かつ、交渉駆け引きの対象であったこと。それは、現実の政治的社会的力関係の観念的表現であると同時に、この観念をめぐる闘争自体が現実的政治闘争の一環をなしていたこと。こうした名分論に基礎付けられた中国を中心とする冊封体制も、中国に接した朝鮮がそれを受け入れ、海を隔てた日本がその枠外にありえたことに見られるとおり、少ながらず東アジア諸国における力のバランスの反映であったこと。こうした名分論が、幕末維新において、中国皇帝と同格で「王」よりも格上であることを含意する「天皇」を頂点とする「国体」に結晶したとき、それは、周辺地域に覇を唱える強烈な膨張的ナショナリズムのイデオロギー的表現となったこと。そして、こうした国体論的言説は、その後、日本がヨーロッパ国際公法体系に組み込まれ、名分論的東アジアの言説体系から離脱してゆくに伴い、後景に退いたが、昭和の15年戦争期に至り、「近代の超克」的風潮の中でプロパガンダ的に復活したこと。
かくして、今は忘れ去られた東洋的儒教的政治理念の言説を、今日の視点から、改めて様々な角度から翻訳しなおす作業が求められよう。そうすることによって、我々は、一旦は脱ぎ捨て去った過去の歴史を新たな視野から再構成することができよう。 
 
台湾出兵

 

1871年(明治4年)11月、沖縄の那覇港を出港した船が台湾の牡丹社(ぼたんしゃ)に漂着した。この時、漂着した琉球漁民66名が台湾原住民の高砂族(たかさごぞく)に襲撃され、54名が殺戮された。生き残った12名が清国に救われ、事の次第が日本へも伝わった。沖縄は、長年に渡って日本と中国の両属の関係を取り、事件が起きた時も、あいまいな状態が続いていた。これを危惧していた政府は、この台湾で発生した問題を契機として、沖縄を日本へ帰属させようと考えた。しかし、清国も最初は、日本に対して強気で応じ、なかなか沖縄の属国主張を取り下げなかった。琉球の支配権を持つ鹿児島では、不平士族たちが一斉に台湾とそれを属国と主張している中国を非難した。一戦交えるも辞さずと強硬意見が飛び交う中で、西郷や副島種臣はこの主張を抑えて、交渉を行うこととした。北京で開かれた会議では、清国側は台湾の原住民までは法治が及ぶものではないと逃げ口上を述べたため、日本は独自で対処すると明言して、会議は打ち切られた。
西郷たちは台湾へ出兵する準備を進め、陸軍大輔・西郷従道に台湾出兵の手配を任せたが、征韓論が浮上し、この問題のために台湾出兵はしばらく中止となった。その後、征韓論で敗れた西郷たちは下野した後、保留されていた台湾出兵を今度は大久保が取り上げた。これには木戸孝允が猛反対して、結局は物別れとなり、木戸は辞職した。
それでも大久保は台湾出兵を強硬に進め、1874年(明治7年)4月、陸軍中将・西郷従道を台湾蛮地事務都督とし、陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良らを従軍させ、台湾出兵を実行した。大久保は、台湾遠征に際して、物資輸送をアメリカの船を借りて、用を済ませようと計画していたが、日本の植民地支配に協力することはできないと反発したイギリス公使・パークスの横槍で、船を借りることができなくなってしまった。
輸送船が手配できなくなってしまったため、大久保は、急ぎ長崎へ向かい出征を延期しようとしたが、すでに軍船は出港しており、大久保は大弱りした。だが、遠征軍は台湾の牡丹社に到着してわずか一日で攻略し、遠征戦は手間がかからなかった。遠征に際して汽船を購入した政府は、この汽船を全て、岩崎弥太郎が経営する三菱会社に貸し、軍事輸送の一切を任せた。戦後はその汽船を無償で三菱に下げ渡し、政府は国内の運輸業を発展させることに力を入れた。台湾出兵で痛感した日本の海運業の弱さを鍛えることが日本近代化には不可欠との判断が成されたのである。 
 
佐賀の乱1

 

1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。
佐賀軍
征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高らを擁する憂国党による混成軍。旧佐賀藩士を中心とした反乱であり、以後続発する士族による乱の嚆矢となった。
乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったのだが、政府の強硬な対応もあり決起することとなった。しかし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少なかった。また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは藩内ですら実現しなかった。
佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しくはわかっていない。戦後に行われた裁判では赦免となったものも含めると約11,000ほどになるが、明治5年の版籍奉還時に提出された佐賀藩士の総数が約14,000ほどであることや、戦死者数が200人以下であることを考えると、全てが乱に加担した人数では無いと考えられている。明治7年に鎮圧に当たった参謀少佐渡辺央らが西郷従道に提出した「降伏叛徒概計」に6,327人とあり、徳富猪一郎は著書『近世日本国民史 89』でこれが実数に近いであろうと記している。しかし、これには戦闘に参加せずに降伏した数も含まれているとして、江藤新平の弟の孫に当たる鈴木鶴子氏が著書「江藤新平と明治維新」で征韓党が1500人、憂国党が3500人と記しているなど、およそ3,000人から6,000人ほどではなかったかとする説が主張されている。なお、記録に残るもので最も多いのは、佐賀城占拠後に山中一郎が戦果を喧伝するために各地に出した手紙にある「憂国党が一万、征韓党が五千、ほかにも各地から士族が集まっている」とするものだが、これは明らかに誇大なものと観られている。
征韓党
佐賀・与賀町の「延命院」に本拠を置き、「延命院党」「征韓大社」「開化党」「北組」などと呼ばれた。若年の下級士族が中心。
主宰(党首)
江藤新平(前参議)亜者(幹部)
山中一郎(海外留学生) 香月経五郎(岩倉使節団通訳・佐賀県中属) 朝倉尚武(陸軍少佐) 石井貞興(佐賀県大属) 山田平蔵(佐賀県中属)中島鼎蔵(左院奉職) 西義質(佐賀県大属・陸軍中尉)
憂国党
佐賀城下南に位置する「宝琳院」を本拠地とし、「宝琳院会」「憂国大社」「南組」などと呼ばれた。藩では位の高かったものが多く壮年のものも多かった。また征韓党より大規模でもあった。
主謀(党首)
島義勇(前秋田県権令)会軸(幹部)
重松基吉(島義勇の弟)副島義高(島義勇の弟) 村山長栄(佐賀藩一心隊隊長) 中川義純(元佐賀藩士ですでに隠棲) 福地常彰(佐賀藩極役)
佐賀の乱概要
薩摩や長州など諸藩の武士で構成された部隊が官軍を編成した戊辰戦争と違い、1873年(明治6年)に制定された徴兵令による国民軍が軍隊を編成して初めての大規模な内戦である。また、1871年から1876年までの短期間大日本帝国海軍に存在した海兵隊も戦闘に参加した。このほか、蒸気船(佐賀の乱には東艦・雲揚・龍驤・鳳翔の軍艦4隻、大坂丸など運送船9隻、チャーターした英米船2隻の計15隻が出動している)による迅速な行軍や電信技術なども使用されている。徴兵による鎮台兵は、佐賀士族に対して善戦し、徴兵による軍隊が、戊辰戦争を経験した士族とも互角に渡り合えることを示した。
このほか、大久保利通内務卿は、佐賀士族の蹶起によって刺激された福岡県士族が呼応して暴発することを未然に防ぐために、福岡県権参事の山根秀助(福岡県士族出身)に佐賀討伐の士族の徴募を指示している。これにより福岡県士族3600人が福岡城の大手門前広場に集まり、佐賀征討の軍事行動への参加を志願。その中から500人だけを選抜して、小銃と弾薬を与えて戦線に投入している。このほか、旧小倉藩からも500人の士族が志願している。士族の徴募は、軍事上の必要性ではなく、明治維新という大変動のあおりをくって、不平と鬱屈を詰まらせている士族の熱を、政治上の必要性から吐き出させるためのものであった。
ほか、不慣れな軍装による長距離の遠征で兵の多くが靴ずれを起こし進軍が遅れた例がある。また電信も、迅速な情報の伝達に威力を発揮したが、最初期に命令を受けた熊本鎮台への電信は佐賀を経由して伝えられたため、当然の如く命令は佐賀軍の知ることとなるなど幾つかの問題点も発生している。
開戦前
征韓論をめぐる明治6年の政変で中央を追われた江藤は、板垣退助や副島種臣、後藤象二郎からの説得や警告を受け流し、太政官より発せられた、「前参議は東京に滞在すべし」との御用滞在の命令を無視する形で佐賀に戻った。なお、江藤と同郷の大木喬任は、高木秀臣から江藤出発の報を聞くや、即座に佐賀出身の官吏を3人派遣して強引に江藤を連れ戻そうとしたが、彼らが横浜に着いた時には、すでに江藤が乗船した船は出航した後だった。このころの佐賀は、征韓論を奉じる反政府的な「征韓党」と、封建主事への回帰を目指す保守反動的な「憂国党」が結成されるなど、政情は不安定で政府からもマークされていた。
そのような情勢下、明治7年2月1日、憂国党に属する武士が官金預かり業者である小野組におしかけ、店員らが逃亡するという事件が起こった。これは即、内務省に電報で通知され、2月4日、政府は熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令した。これが佐賀の乱の第一歩である。
その中、島義勇は三条実美の依頼により、沸騰する佐賀県士族を鎮撫するため佐賀に向かったが、たまたま同船した岩村高俊の佐賀士族を見下した傲岸不遜な態度に憤慨し、さらに岩村に同行していた権中判事の中島錫胤から岩村が兵を率いて佐賀城に入る予定と聞き、父祖の地を守るためには官兵を打ち払わなければならないと決意。それまで不仲だった江藤と会談し、共に発つ決意を固めた。
さらに、明治7年2月9日、佐賀に於ける軍事・行政・司法の三権全権の委任を受けていた大久保利通内務卿は、文官でありながら兵権を握る権限を得ており、嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)が征討総督として現地に着任するまで、すべての事項を決裁した。大久保は東京から引き連れた部隊に加えて大阪の鎮台部隊等を直ちに動員し、博多に向かい、20日に到着すると現地で貫属隊の名目で兵を集める一方、本隊を指揮する野津鎮雄を朝日山へ向かわせ、博多の本陣には山田顕義を残した。後に三瀬峠に佐賀軍の別働隊を発見し山田顕義麾下の部隊を派遣した。
佐賀城攻防戦
政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台だが、兵の中にも佐賀出身が多く動揺が広がっていた。司令官谷干城も援軍を待っての進軍を主張していたが、新県令岩村高俊の命もあり、2月14日には駐屯する1個半大隊の中から、第十一大隊(大隊長:中村重遠中佐は出張中で不在)を二分し、左半大隊は参謀山川浩少佐と隊長和田勇馬大尉が率い海路から、右半大隊は参謀佐久間左馬太少佐と隊長山代清三大尉が率いて陸路から佐賀に向かった。翌2月15日に海路軍に護衛された岩村高俊らが佐賀に入城すると、江藤らは政府の真意を確かめるため山中一郎を代表として派遣した。しかし岩村の「答える必要はない」との返答を受け、同日夜県庁が置かれた佐賀城(佐賀県佐賀市)に籠もる鎮台部隊と交戦して大損害(3分の1が死亡)を与え敗走させた。佐賀の乱における政府軍の死者は大部分がこの戦闘におけるもので、佐賀県大属小出光照、中隊長大池蠖二大尉(佐賀の乱での官軍戦死者で最高位)、沢田正武中尉が戦死、敗走中に包囲された津井城郷吉中尉が自刃したほか、山川浩少佐、奥保鞏大尉が重傷、西島助義少尉が捕虜となった。また、この時、憂国党の副島義高は捕虜を殺害しないよう通達を出したが、佐賀城からの脱出時に岩村の命で公金2,000円を携行していた佐賀県権中属の中島脩平に対しては、これを公金横領と看做して処刑を行っている。なお、この敗走中、後の西南戦争で薩軍に包囲された熊本城から脱出に成功し援軍要請を果たした谷村計介が、単身先行し渡船を調達して部隊を窮地から救う功をあげている。
2月22日以降の戦闘
一時的に佐賀城を失った政府軍だが、すでに東京鎮台などを率いて福岡入りしていた大久保利通は、本隊として第四大隊(厚東武直少佐)・第十大隊(茨木惟昭少佐)及び第三砲隊(山崎成高大尉)を福岡との県境にある要衝「朝日山」(現:鳥栖市)に進撃させると共に、佐賀軍の別働隊を「三瀬峠」、椎原口などに認めたことから第十大隊第三中隊(小笠原義従大尉)を本陣警護として博多に残した。また、「府中」(久留米市御井町)まで退却した第十一大隊は、筑後川から「千栗」「豆津」(現・みやき町)周辺の佐賀軍を撃ち、朝日山で本隊と合流することにした。さらにこれ以外にも長崎に上陸した外務少輔山口尚芳が遠武秀行海軍秘書官ほか現地海兵隊を護衛に大村から武雄に向かい、乱への参加に消極的だった佐賀藩武雄領の説得を行わせている。これに対し、佐賀軍は長崎街道沿いを征韓党が、筑後川沿いを憂国党がそれぞれ受け持つことに決め、征韓党は朝日山に田尻種博(戊辰戦争時の大隊長)と井上考継を先鋒に西義質らを向かわせ、2月22日にはこの政府軍部隊を迎撃した。憂国党の指揮は村山長栄が取り、本隊との合流を目指す熊本鎮台部隊を迎撃した。
朝日山の戦い
二日市から原田を経て、田代に入った本隊は2月22日朝日山に向かい、第四大隊と第三砲隊は轟木道から正面へ、第十大隊の半数が山浦から側面に、残る半数が宿村から背後に出て包囲攻撃を行った。佐賀軍も猛烈に反撃したがすぐに弾薬が枯渇したため支えることが出来ず、中原に敗走し、ここでも敗れて隘路である切通で反撃に出た。このとき追撃を担当した第四大隊は分散しており1中隊のみで相対したため苦戦したが、最後にはこれも退け、苔野まで前進したのち中原まで退き、笛吹山から原古賀の佐賀兵を掃討した第十大隊と合流して宿営した。また、夜半には佐賀兵の夜襲も撃退した。これに対し第十一大隊は朝日山の本隊に合流しようと筑後川を渡り、千栗・豆津・江見などで佐賀軍を破ったものの、六田で奇襲を受け、永山貞応中尉が戦死するなど大損害を出し筑後川を渡り住吉(久留米市安武町)まで退却した。その後夜間再度渡河して千栗に宿営したため、この日の戦力の結集には失敗した。
寒津川・田手川の戦い
翌23日、政府軍は第十大隊を前軍とし、第三砲隊が続行、第四大隊を後軍として中原を出発。前夜合流した前山隊が中原の守備に当たった。佐賀軍は寒津村(現:みやき町)に本陣を置き、寒津川沿いで迎撃、中島鼎蔵の指揮の下左右から挟撃し、『佐賀征等戦記』に「官兵殆ど敗れんとす」と記されるほどまで追い込んだが、官軍指揮官の陸軍少将野津鎮雄が弾雨の中抜刀して先頭に立ち兵を励まし戦い、また中原から北山に転戦していた厚東武直少佐の第四大隊が反転して背後を突き、佐賀軍は総崩れとなり敗走した。しかし、本隊となった第十大隊第二中隊は中隊長阿部正通大尉が戦死し、代わって指揮を取った児玉源太郎大尉も重傷を負うなど被害が大きく、中原に到着した第十一大隊は一個中隊を割いて増援として差し出した。そのころ、朝日山の陥落を聞いて神埼まで出ていた江藤は寒津でも破れたことを聴くと馬を田手(現:吉野ヶ里町田手)まで走らせて陣頭指揮を執った。江藤は田手川に防御陣を敷き、一部の精鋭を持って背後を突こうとしたが、田手川下流を渡河した青山朗大尉率いる第十大隊第四中隊に逆に背後から攻撃を受け敗退した。さらに官軍が追撃したため、佐賀軍は神埼(現:神埼市)を焼き払い境原(現:神埼市千代田町境原)まで退却した。この敗退で勝機を失ったと見た江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めるため戦場を離脱した。なお、江藤は憂国党には無断で佐賀を離れており、この敵前逃亡ともいえる態度に副島義高ら憂国党の面々は激怒している。
三瀬方面
三瀬峠では佐賀軍一の用兵家とされる朝倉尚武(元陸軍少佐)が三個小隊を持って布陣していた。博多には広島鎮台などからの援軍が向かっていたものの当初は小笠原義従の一中隊しか残っておらず、守備する山田顕義少将は間道沿いからの攻撃を考慮して斥候を出し、飯場村に佐賀軍を発見したため、22日に一個分隊を進めたが佐賀軍は既に退却していた。23日には中隊全軍で三瀬峠に出撃、24日は福岡士族による貫族隊六個小隊が飯場村に出撃したが反撃を受け、小隊長幾島徳(安川敬一郎男爵の兄)が戦死するなどし金武まで後退した。しかし、26日には小笠原隊が背振口で佐賀軍を破り、翌27日は三瀬も取って佐賀軍を四散させた。しかし、地形が険阻な上、思わぬ苦戦を強いられた政府軍は博多に着いた井田譲少将、田中春風中佐、高島信茂少佐、古川氏潔少佐らが率いる広島鎮台第十五大隊の三個中隊を28日三瀬に進めた。この広島鎮台部隊は戦闘を行うことは無かったが、朝倉は正規軍四個中隊と現地召集の士族兵六個小隊を三瀬方面にひきつけることに成功した。また、3月1日に福岡に着いた谷重喜大佐の率いる大坂鎮台第十八大隊と第七砲隊一個小隊も三瀬方面に向かおうとしたが、既に佐賀軍はいないと判断した井田少将は谷大佐に援軍は不要であり本道から進むよう指示をしている。
境原の戦い
23日以降官軍も休息をとっており、戦闘は散発的であったが、27日には総攻撃を開始し、第十大隊および第三砲隊が本隊として姉村に、第四大隊を右翼として城原から川久保に、第十一大隊と第十九大隊一個小隊を左翼として蓮池にそれぞれ進軍した。佐賀軍が神埼以南の諸橋梁を破壊していたため、架橋しながら戦う第十大隊は苦戦したが、砲隊の榴散弾が佐賀軍の保塁に命中したのをきっかけに猛進し、また第十一大隊が後方から攻撃したため挟撃の形となり、佐賀軍を敗走させて境原を奪取した。またこの日の夜には佐賀軍は一千人規模の夜襲を敢行したが、蓮池を占領しに向かった第十一大隊が戻り、側面を突いたことで佐賀軍は壊走した。結果的に戦闘は一昼夜行われ、佐賀征討記ではこの日の戦闘を今役中第一の激戦と記している。
江藤らは2月27日には鹿児島に入ったが、西郷に決起の意志はなかったため、今度は土佐へ向かい片岡健吉と林有造に挙兵を訴えた。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日高知県東洋町甲浦で捕縛される。捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、江藤は裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかったという。
2月28日、政府軍が佐賀城下に迫ると、このころ東京から戻っていた木原隆忠(島義勇の従弟)と副島義高を使者に降伏と謝罪を申し出たが、官軍は内容が無礼として受理せず、木原を拘留した。島義勇は佐賀で討ち死にするつもりであったが、実弟の副島義高らが無理矢理脱出させた。島は、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが、3月7日に捕縛された。
戦闘終了後
江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に審議を行わせた。わずか2日間の審議で11名が4月13日の判決当日に斬首となり、江藤と島は梟首にされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝がある。その後もしばらくは佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、1877年(明治10)の西南戦争などに合流する士族もあったが、佐賀で反乱が起こることはなかった。なお、反乱後しばらく庶民の間で、江藤の霊を信仰すると眼病が癒り、訴訟ごとがスムーズに決着するとの風聞が流れた。
処刑された江藤・島は明治維新に大きな功があったため、当時から「戊辰戦争で政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎる」という意見があった。イギリス公使ハリー・パークスは1874年4月25日付の英外務大臣宛の公文書に「江藤・島は死刑に加えさらし首にされた。この判決は大きな不満を呼んでいる」「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と記している。
大久保による謀殺説については平沼騏一郎が回顧録において真偽は知らぬがこう聴いていると前置きした上で「佐賀出身の現職参議大木喬任が江藤の助命に動き、岩倉具視もこれに協力して明治天皇の裁可で特赦と定まった。岩倉が手紙を書いて使者が佐賀に発ったが、大久保の留守を預かっていた伊藤博文が使者が着く前に殺してしまえと大久保に伝えた。使者は死刑執行より早く着いたが大久保は翌日会うと言って会わずに死刑を執行した。翌日使者に会った大久保は江藤の助命の手紙であればなぜ昨夜出さなかったのかと使者を叱責したため、その使者は宿に帰って腹を切った。真偽は兎に角、使者が行ったこと、口供完結前に殺したことは実際である」と残している。この説については伊藤痴遊が自身の著書で触れているが園田日吉は著書の『江藤新平伝』で「小説的、講談的なフィクションだろう」と看做すなど、評価は定まっていない。
1919年(大正8)、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されるとともに、地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。 
 
佐賀の乱2 / 佐賀戦争の真実

 

佐賀では「佐賀の役」と言い習わされてきたが、歴史教科書では「士族の反乱」の一つとされ「佐賀の乱」と記載されている。しかし近年の研究により、この事件は明治政府の、とりわけ大久保利通等の陰謀だったとする説が、数々の証拠によって有力となっている。標題の「佐賀戦争」は、「江藤新平」や「幕末維新と佐賀藩」などの著書で明治政府陰謀説を打ち出し、論争をリードしている明治維新研究家で大阪市立大学名誉教授・毛利敏彦氏が用いている呼称である。「反乱」ではなかったのであれば「乱」を用いるのは誤りであり(あるいは、偏った見方であるので)、今後、教科書の記述改訂を求めて行かなければならい。でなければ、誤った史実を教え続けることになってしまうからである。
以下、明治6年の政変から佐賀戦争に至るまでを、年表によって事実を明らかにして行きたい。
明治6 / 西暦1873 月日   事件・事実
8/17 閣議において、西郷隆盛を朝鮮派遣使節に決定
8/19 天皇の裁可を得るも、岩倉使節団の帰朝を待って再度協議することとされた
9/13 岩倉使節団帰朝
10/13 大久保利通、副島種臣 参議に就任
10/14 閣議において、西郷は朝鮮使節を直ちに派遣するよう求めるも、大久保が延期すべしと主張
10/15 参議の江藤新平等が延期論の曖昧さを突き、他の参議が全て西郷派遣に賛成したため、先の決定どうりに決着
10/17 使節派遣決定を天皇に奏上するはずの三条太政大臣が高熱を発し人事不祥に陥る
10/20 岩倉具視、太政大臣代理に任命さる
10/22 西郷、江藤、板垣退助、副島の4参議が岩倉を訪問し15日の決定を天皇に奏上するよう要請したのに対し、岩倉は「自分は三条とは違う、閣議決定に加えて自分の意見(使節派遣は不可)も具申する」と発言。
10/23 西郷は岩倉の態度に抗議するため参議を辞任し東京を離れる岩倉は予定通り天皇に奏上し「使節派遣は不可」と付言
10/24 朝鮮使節派遣不可の裁定下る、江藤、板垣、副島、後藤象二郎が辞表を提出し下野
12/ 8 佐賀県権令・岩村道俊、大隈重信大蔵卿に書簡を出し、「宝琳院派(憂国党)の対策に苦慮している」と訴える
12/中旬 佐賀征韓党の士族2名上京し、江藤と副島に指導を依頼
明治7 / 西暦1874 月日   事件・事実
1/10 板垣、江藤等、わが国初の近代政党「愛国公党」を結成
1/12 江藤等が推敲した「民選議院設立建白書」完成
1/13 江藤 佐賀へ向けて東京を離れる後日伊万里に上陸し、嬉野で数日を過ごす
1/17 「民選議院設立建白書」が左院に提出される
1/25 江藤、佐賀入り。 佐賀県参事・森が騒擾鎮撫の協力を要請したが「僕(江藤)は局外中立にして敢えてこの事に関せず」として、26〜27日ごろ妻の実家、長崎・深堀へ行き潜伏・静養した
1/28 大久保内務卿は岩村道俊佐賀県権令に代えて、弟の岩村高俊を新権令に任命
2/ 2 福岡県庁から内務省に宛て「佐賀県貫(奸)族寺に集まり征韓論を唱え勢ひ日々に盛んなり、昨夜小野組に迫り手代残らず逃げ去りたり」との電報が発信される(原文はすべてカタカナ)
2/ 3 上記電報を内務省が受理
2/ 4 大久保、西郷従道と面談し、閣議も開かず陸軍省へ佐賀の鎮圧を通達 この日の「明治天皇記」(宮内省編纂)に「佐賀県士族暴動の兆しあり、新任権令・岩村高俊の申請を容れ、鎮定を謀らしむる」等と記載
2/ 7 長崎の小野組から東京の小野組へ「金皆ある、安心せよとのこと」等との電報が発信される
2/ 8 同じく長崎の小野組から東京・小野組へ「金いよいよ皆無事」等との電報が発信される
2/11 博多の小野組からも「金皆ある、安心すべし」等との電報発信(これらの電報はすべて公文録に保管されている)
2/12 江藤、佐賀入り(佐賀城下へ入ったのは13日? 14日とも)
2/13 岩村高俊 熊本入り
2/14 大久保、九州へ向けて出発 岩村高俊持参の陸軍省命令書により、熊本鎮台出兵を決定 島義勇、佐賀入り
2/15 岩村高俊、熊本鎮台兵とともに佐賀入城。直ちに江藤、島等に召還をかける佐賀県庁より内務省へ「士族動揺穏やかのもようの処・・・」とした電報を発信
2/16 江藤・征韓党、島・憂国党、佐賀城攻撃を開始
2/18 2月18日付、陸軍省日記・熊本鎮台届書に佐賀入城時の状況として「佐賀県士族動揺の勢いじんぜん分散の姿に候・・・」と記載 この日、征韓・憂国両党、佐賀城を占拠、鎮台兵敗走
2/19 大久保、博多到着。征討令布告 政府軍を増強(福岡・小倉の士族を募集)し制圧を謀る
2/23 江藤、征韓党を解散し、佐賀を脱出し鹿児島へ向かう
2/28 佐賀戦争終結
3/28 江藤、高知県甲の浦で逮捕
4/ 7 江藤、佐賀へ護送
4/ 8 8-9日の2日間審理が行なわれる
4/13 判決が言い渡され、島等とともに即刻死刑が執行される
大久保利通は、自らの日記(明治7年4月13日)に「江藤醜態 笑止なり」と記し、江藤の晒し首の写真をあちこちに送っている。
そもそも、この事件の発端の一つといわれる「征韓論」とは何だったのか?
当時、朝鮮の李王朝は江戸幕府とは交渉があったものの、幕府を倒した明治政府に対しては欧米の真似をしている下等政府として(朝鮮は中国を宗主国と仰いでいた)その存在を認めていなかった。中国(清)のように欧米列強に侵食されるのではないかと危惧し、日本も同列に見ていた。日本が通商などを呼びかけても応じないため、一部に征討すべしと言う強行論が持ち上がったが西郷隆盛は自らが国の代表使節として、李王家に赴き交渉をしたいと申し出、閣議において議論され、使節派遣が閣議決定された。
欧米視察から帰国した岩倉具視は大久保等を参議に加えて西郷の使節派遣を延期させようと画策した。この時点での日本は「まだ軍備が整っておらず、もし西郷が朝鮮で殺されても直ぐには軍隊を派遣できないから」と言うのがその理由であった。つまり、軍備を充分に整え、その武力を背景に朝鮮に開国を迫るというのである。西郷は「烏帽子直垂をつけ訪朝する。護衛兵も不要」と言っている。
しかるに大久保は「征台」(台湾への派兵)を実施している。旧薩摩士族の耳目を台湾へ向けさせ、不平を抑える狙いがあったと思われる。
つまり「征韓論」とは、平和的に使節を派遣して通交を開こうとする西郷派とあくまでも武力を背景に強引に開国を迫り、応じなければ武力で従わせようという大久保派との権力争いだった側面が強い。これに加えて、江藤新平によって「山代屋和助事件」「尾去沢銅山事件」などの汚職を追及され、窮地に立たされていた長州閥の山県有朋、井上馨等を助けるため伊藤博文等が暗躍し江藤追い落としを画策した。
西郷は強硬派の板垣退助に書簡を送り、派兵先行論に疑問を呈し、「自らが使節となって赴きその上で万が一朝鮮側が暴挙に及ぶようなこと、つまり自分が殺されるようなことがあれば、開戦の名義が生じる」であろうと伝えているが、これも使節派遣に否定的だった板垣を説き伏せるための方便だったのではないかと思われる。なぜなら、西郷はこのことを板垣以外の人物に対して言及することはなかったのである。
通説では西郷や江藤等は「征韓論に敗れて下野した」とされているが、閣議決定した「使節派遣」を反故にされたことに抗議のため下野したのである。天皇による不裁可は「内閣不信任」を意味し、その意味化からも辞表を提出したのだがこれが全く、長州閥や大久保等の思う壺だったのである。
結局、西郷の朝鮮使節派遣は認められず、西郷と共に江藤ら4人も下野した。大久保は外遊中に江藤が整えた法律や司法制度を知り、江藤の才能を恐れ、また、閣議において使節派遣延期論の曖昧さを論破されたことなどを恨み岩村高俊の意見を容れ、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った。
以下は「不敗の宰相 大久保利通」(加来耕三)の一節。「のちに佐賀の乱さえ起こさなければ、おそらくは「大日本帝国憲法」を起草したであろうといわれる男、江藤新平― 大久保はこの新たに出現したライバルと闘わねばならなかった。「内務省」という、警察と地方行政を握る国内政治の絶対権をもつ行政機関をつくろうとする大久保にとって、日本を法治国家のかたちで統一しようとする江藤は、国家ビジョンにおいて相譲れない相手であった。」
岩村高俊の意見は「自分を権令にしてくれたら、軍隊を派遣し有無を言わさず江藤等を捕らえて糾問する云々」と言うもので、長岡戦争で河合継之助の和平案を蹴って強引に戦端を開いたことで知られる岩村の出世欲から出たものであった。
ここにおいて江藤が東京を離れた機を捕らえ、権令を岩村高俊に入れ替え虎視眈々と出兵の機会を窺っていた。
「昨夜小野組に迫り云々」の電報は何故か福岡から打たれている。小野組に迫ったのは憂国等の面々で、金策に訪れたものである。刀をさした強面の連中が「金を貸してくれ」と談判したので怖くなって逃げ出したというのが真相だろうが、金を奪うなどの荒事は行なわれていないし、このことは後の電報でも明らかである。
にもかかわらず、大久保は閣議も開かずに出兵を命令し文官である岩村新権令にその権限(密命)を与えている。この時点で江藤は、まだ佐賀へ入っていない。佐賀県庁から「士族たちは穏やかだ」とする報告があったり、「じんぜん分散(何もせずぶらぶらして分散)」という状態であったにも拘らず、軍隊を差し向け、無理やり開戦を迫ったのである。
結果として江藤や島等、佐賀士族は自己防衛のために立ち上がるのだが、江藤は8日目に征韓党を解散し、島等も13日目には政府軍に鎮圧される。
江藤等の裁判は実質2日間しか行なわれず、弁護も許されなかった。司法職務定制第58条に「死罪及び疑獄は本省に伺い出でて、その処分を受く」と定められていたにも関わらず、大久保はこれも全く無視している。
また河野敏鎌は千円の報酬と出世欲につられ、江藤の恩も忘れ2階級特進の裁判長に就任し、法を捻じ曲げ、清国の法律(清律)によって斬首・梟首という判決を用意した。
以下は司馬遼太郎著「歳月」の一節である
「河野は法官たちを指揮して、日本の法律から中国の法律まで調べ江藤新平をいかにすれば、大久保の望む最高の惨刑に処しうるかという奇妙な作業に没頭し始めた。この時期、江藤の身柄はまだ佐賀に送られてきていなかったが、それは大久保や河野の法律感覚ではどうでもよかった。江藤をつかまえてからその容疑内容について審問し有罪無罪をきめるような常識ははじめから無視された。容疑者が法廷にあらわれる前にその罪をきめ判決文まで作りあげてしまうというすさましい裁判は、徳川幕府ですらやったためしがなかった。」
「歳月」は小説であるから、すべてが真実とは言えないまでも河野が晩年の懺悔を知れば、あながち虚構とも言えないのではないか。
江藤新平は佐賀の士族を抑える目的のほかに自由民権運動を佐賀でも興す希望を持って帰佐している。しかし、士族の動揺を抑えることは困難と判断し佐賀県・森参事に「僕は局外中立にして、敢えてこの事に関せず」と言い一旦は佐賀を離れ、長崎深堀に潜伏したのであった。
また佐賀の征韓論者は、政府が朝鮮派兵を決定した折には真っ先に戦陣に加わるつもりであったから、政府に弓を引く意図など毛頭無かったはずなのである。 (憂国党の場合は少し事情が違うようなのだが・・・)
江藤新平は突き詰めて言えば「政治家」ではなかった。一方の大久保利通こそ維新期において「唯一人の政治家」だった。江藤はあえて言えば、当時において最高の能吏であった。情報収集や根回しなどを一切行わなず(そもそもそういう考えがない)、不正を絶対に許せなかった江藤に比べて、幕末期の朝廷工作をはじめ西郷の裏で実際の政治活動を行ってきた大久保とでは大人と子供の違いほどの差があったということか・・・。
以下は杉谷昭著「江藤新平」の一節。「生まれが下級藩士であったばかりでなく、純粋な人柄であったので藩意識にこだわりすぎ、また理想主義者でもあり、反面、内面的な不平家としても成長していったのである。それだけにますます純粋な一徹者として政治家としてよりも政治学者のような非現実的な態度をとるようになったのであろう。西郷のような神経の太さも、大久保のような狡猾さも持ちあわせなかった。あたまのするどい、議論ずきな、テーブルにつき常に洋食を嗜んでいた青年政治家であった。」
明治44(1911)年6月20日の佐賀新聞に掲載された佐賀出身の歴史学者で「米欧回覧実記」著者・久米邦武の懐旧談で「佐賀事変の如きは全く江藤君の与らぬ処で、譬ふれば津波にさらはれたやうなものである。」と語っている。また、西南戦争直後に福沢諭吉は、論文「丁丑公論」の中で「乱の原因は政府にあり」と断言し、江藤の裁判についても「政府の体裁において大なる欠典」と断じている。
毛利先生等の調査研究によって国立公文書館などから数々の証拠書類等が発見されていることから、教科書の記述内容が改められ、呼称についても「佐賀戦争」または「佐賀の役」と改定されるよう世論が高まることを期待する。 
 
佐賀の乱3

 

中央政府にあって、江藤新平はまさに勇躍していた。あの豪腕政治家・大久保利通をも組み伏せる勢いを見せた江藤の政治手腕は、鋭敏にして他者への攻撃凄まじく、比類なき理論主張の大家であった。
この佐賀藩出身の敏腕政治家によって、佐賀藩は、西南雄藩の中で乗り遅れを挽回することができたのである。薩長土肥といわれる藩閥政治を形成できたのも、江藤の尽力あって構成できた四枠なのである。江藤の活躍とは裏腹に、彼の故郷である佐賀では、あまり江藤を高評しない集団がいた。それは、元秋田県令・島義勇を首領とする攘夷主義的な憂国党であった。江藤が首領となっている征韓党とは、仲が悪かったが、政府が次々と廃藩置県・秩禄処分・脱刀令・徴兵令などを打ち出し、士族の存在を脅かすと両派は政府に対して同じ不満を抱えるようになり、一致協力して政府に反発するようになった。
しかし、このことが、逆に政府に危険分子と見なされ、不平士族を討滅すべく兵乱を誘発させる挑発的行動を政府が彼らの目の前にちらつかせた。これに発奮した佐賀の不平士族たちは、挙兵をしかねない情勢までなってしまった。これに驚いた江藤は東京より、急きょ佐賀へと帰郷し、兵乱暴発を抑えようと説得工作を試みた。しかし、逆に政府の要職を務めた佐賀藩の出世頭が佐賀の不平士族を支援するために帰郷するとのうわさが飛び、江藤が佐賀に到着した頃には、士族たちの大歓迎が行われた。江藤の挙兵を抑える説得工作は、かき消され、江藤を盟主とする挙兵一団が結成されたのである。まさに江藤はミイラ取りがミイラになった状態であった。本人の意志に反して、挙兵運動はますます激しさを増し、江藤もこの狂乱を抑えるよりも新政府側に強硬な姿勢を見せて、我々の主張を認知させる方が良いかも知れぬと思うようになっていた。
しかし、この佐賀の乱は大久保の思惑通りに運び、鎮圧軍をすでに編成するなど、首尾よく準備を整えていた。特に大久保は、自分の座をも脅かした政敵として江藤を認知していたため、私怨も込めた鎮圧政務を執っていた。嘉彰親王を征討総督とし、陸軍中将・山県有朋、海軍少将・伊東祐麿を参謀としてつけ、近衛兵団や東京鎮台兵団を派兵した。すでに兵乱は熊本鎮台の手でかなり鎮圧されていたが、それでも出兵を命じたことは、不平士族の鎮圧を全国に示すとともに大久保が私怨に燃える打倒江藤の事情があったためである。江藤は西郷を頼って、鹿児島に逃れた。西郷は江藤が政府から逃れる道は薩摩藩の島津久光を頼る以外にないと進言した。今の政府主権は大久保が牛耳手いる。この大久保の暴挙を押さえ込めるのは、大久保の前の主君であった島津久光以外にいなかったのである。しかし、江藤はこれを断った。久光の卑屈な人間性を好きになれなかったし、政論もまったく異なっていたため、頭を下げてまで頼る気になれなかったのである。この最後の頼み綱を自ら断ち切ってしまった江藤は、政府の執拗な追跡を受け、とうとう四国の地にて、逃避行に終止符を打った。大久保の執拗なまでの私怨を受けた江藤は、かつて司法卿として辣腕を振るった偉大な業績を残しつつ、自ら極刑を持って裁かれてしまったのであった。死に臨んで江藤は、「ただ皇天后土(こうてんこうど)のわが心を知るのみ」と高らかに吠えて、42歳の生涯を閉じた。大久保は江藤の死について日記に「江藤の陳述曖昧(あいまい)、実に笑止千万、人物推して知られたり」と最後まで政敵・江藤新平への憎しみを込めた感想を記している。 
 
神風連の乱1

 

(しんぷうれんのらん) 1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。敬神党の乱とも言う。1876年10月24日に旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら、約170名によって結成された「敬神党」により廃刀令に反対して起こされた反乱。この敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたので、神風連の乱と呼ばれている。のち一部の関係者に名誉回復、すなわち贈位(大正13年2月11日、太田黒・加屋に正五位が贈られた後)がなされた。
1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。しかし翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。
敬神党側の死者・自刃者は、計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。
この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる。
敬神党
敬神党は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派である。
肥後藩では、教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党(河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅ら)が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。
この敬神党は、神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は、多くが神職に就いており、新開大神宮で「宇気比」(うけい)と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵したのである。

三島由紀夫 / 晩年、神風連の乱に強い関心を持ち、敬神党の思想に共感していたといわれる。
その他 / 種田が殺害された際、その場にいた種田の愛妾小勝は負傷しながらも、熊本電信局へ走り、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)と打った電報を、東京の親元に送信した。このエピソードは、短く簡潔かつ的確にまとめることが重要な電報文体の好例として「朝野新聞」紙上に紹介された。その後、仮名垣魯文が脚色したものが一般に広まり、電報の利用方法や有用性が広まるきっかけの一つになった。
桜山神社 / 熊本県熊本市中央区黒髪には、神風連の烈士らを合祀する桜山神社が鎮座し、その境内には神風連資料館や、林桜園、宮部鼎蔵、河上彦斎、神風連の烈士123士の墓などもある。
「奔馬」三島由紀夫
明治9年10月24日(1876年。 140年前の10月24日)、 熊本の旧士族太田黒伴雄(42歳)、 加屋霽堅かや・はるかたら神風連しんぷうれん (※1)の約170名が、明治新政府の欧化政策に憤り、熊本鎮台司令官宅と熊本県令宅を襲撃、4名を殺害し、熊本城内の新政府軍熊本鎮台を占拠しました。 「神風連の変」(「神風連の乱」とも) と呼ばれるものです。
明治政府の四民平等政策によって特権を失った旧武士階級は、日々不満を募らせていました。 明治6年、朝鮮出兵を巡って西郷隆盛(44歳)、江藤新平(39歳)、板垣退助(36歳)らが下野すると、それをきっかけに不平士族に火がつきます。 明治7年には江藤率いる初の大規模な士族反乱 「佐賀の乱」 が起きました。 「神風連の変」 はその次に起きた大規模なものです。
三島由紀夫の『奔馬』は、昭和初期が舞台ですが、神風連に傾倒する勳という少年が出てきます。 彼は “純粋” であろうとし、その規範を神風連に見出すのでした。
・・・純粋といふ観念は勳から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。 勳はスローガンを拵へた。「神風連の純粋に學べ」 といふ仲間うちのスローガンを。純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。 「花と散る」 といふときに、血みどろの屍體はたちまち匂ひやかな櫻の花に化した。 純粋とは、正反對の観念のほしいままな轉換だつた。 だから、純粋は詩なのである。・・・「奔馬」
『奔馬』 はかなり詳しく神風連に触れています。 その第9章などはまるまる、勳が愛読する 「神風連史話」 という読物がまるまる45頁にわたって出てきます。 著者は山尾綱紀とありますが、これは架空の人で、石原醜男という人が書いた 『神風連血涙史』 という本を元に三島が書いたとのこと。
三島は10代の頃から神風連に関心をもっていたと推測されています。 学習院の5年先輩の東文彦とは、三島は15歳から18歳にかけて100通以上の手紙を交わして親交しました。 この東の母方の祖父 石光真清いしみつ・まきよは神風連の加屋霽堅かや・はるかた と付き合いがあり、その著書 『城下の人』 で加屋に触れました。 東はこの本に挿絵を描くなどして関わりました。 十代の三島にも東を通して加屋や神風連の情報がもたらされたのではないかと考えられています。 
 
神風連の乱2

 

幕末の肥後の地で勤王の華が咲き乱れたのは、林桜園(はやしおうえん)の影響による。彼は、敬神思想と神秘主義を奉じて、妥協を許さない徹底した攘夷思想を展開し、1870年(明治3年)に彼が死んでも、その伝承を守る人々がいた。その中から急進的な行動を取ったのが、”人斬り彦斎”で名を馳せた剣客の河上彦斎(かわかみげんさい)、神官の大田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)らの集団で、これらは、敬神党とか神風連と呼ばれていた。
彼らは時代の流れを無視し、とにかく徹底した国粋主義者で、神事を中心とした信仰集団を形成していた。そのため、肥後の地に入ってくる西洋文化を嫌い、電柱の下を通る時は、扇を頭の上にかざして、汚れないようにし、洋服を着た人とすれ違えば、家に帰って、体中に塩をかけて汚れを取り除くといった徹底振りであたった。
明治政府が推進する国内の西洋化を激しく非難し、欧米諸国と仲良くする政府に我慢が成らなかった。彼らが政府に対して不満を募らせていたころの1875年(明治8年)に政府が千島・樺太(からふと)交換条約を成すと、神風連はこれに反対し、挙兵しようとしたが、神慮を伺ったところ不可と出たため、思いとどまった。しかし、翌年の1876年(明治9年)に廃刀令が公布されると、ついに彼らの堪忍袋の緒は切れた。彼らは大田黒を指揮官として、挙兵することを決し、神慮も挙兵すべしと出たため、挙兵準備もいいころ加減にして、挙兵した。
1876年(明治9年)10月24日に起きた神風連の乱では党員合わせて170名余が参加し、藤崎八幡宮境内から進発し、県庁と兵営を襲撃した。彼らの挙兵姿は、甲冑姿に神棚を背負って、出陣する者まで出て、大いに時代錯誤のあるいでたちであった。彼らは県令・安岡を襲い、重傷を負わせた(のちに死亡)。熊本鎮台司令官・種田少将の宿舎も襲い、重傷を負わせた(翌日に死亡)。
神風連の乱は不意の出来事であったため、鎮台兵とて最初は襲撃に慌てて、逃げ惑ったが二の丸が炎に包まれ、周囲が明るく照らし出されると、挙兵した敵の人数が少なかったことがわかり、即座に反撃に出た。こうして、大田黒・加屋ら指導者たち28名が討死にし、逃れた者の大半は自刃して果てた。無事に逃れたのはわずか4名だけだったという。
神風連の乱は、変わり行く日本の将来に国粋主義者たちは漠然とした不安を感じ、国体の進むべき道を問いただす目的を持って、政府批判や挙兵といった行動に出た。
 
神風連の乱3 / 神風連伝記

 

肥後勤王党思想起源、林桜園
肥後勤王思想の原点である林桜園は名を有道、通称を藤次と言い熊本城下山崎町の林又右衛門の三男として生まれた。幼少の頃は時習館に通っていたが、学風になじめず退学し、本居宣長の流れを組む国学者長瀬真幸の塾に入門。桜園はそこで国学と神道を学び「昇天秘説」を著す。四十歳で私塾原道館を設立。教科は国学、神道、兵学、蘭学など幅広い。原道館門人は勤王党、実学党、学校党、民権党など。その数、数千人にも及び久留米の真木和泉や長州の大村益次郎らもここで学んでいる。林桜園の理想は日本神道で天下国家を統治する事にあった。
桜園神道(内治)
「昇天秘説」
神道では世界は神界と人界の二つに分かれており、神界に生死は無く、人界にのみ有りとされている。死は日本神話におけるイザナミ・イザナギ二尊の故事に由来し、人間が最も憎むべきものとされているが、神道を知り心身共に清浄潔白にして常に神明の道に叶う時は生じもせず滅びもせず常住不変の域に至る。
「宇気比考」
宇気比は、日本太古の誓約祈祷である。神代天照大神が須佐之男命と高天原(天上界)にて宇気比する事によって数多の神々を生んだことから起こった。神代より伝わる神事の内で最も貴重な道であり、中古以来にはこの道を伝える人も途絶えてしまった。清浄無垢の真心を持って古き事実伝説を考え自ら神縁を得れば決して絶望せず、神道の誓約祈祷は猶溺者を救う船舶の如し。
「答或問書」
神道は神に仕える儀式であり、この儀式が盛んに行われた国は豊かに、民は安らかにあってこれを疎かにしては心身が穢れ皆我欲に走り内乱が起こるだろう。また、現世を知り示す天皇は即ち現世における神(最高神官)で在ると言われ、これに仕え奉れば幽世の神明に仕え奉ると世は自ら治めるべき道理とされている。この神明を承り方は三種。一つは「審神者を持って此れを承る」二つは「ト事(占い)を持って此れを承る」三つは「誓約祈祷して夢の教えを給う」
この三つは神武以来代々の天皇の神道によって国を治める為の大要となる。
自主獨立(外政)
わが国の兵器軍備では外国に敗れることは必然だが、上下国民が一致し百戦負けても尚戦えば、神の加護が必ず加わり外夷の精鋭を挫くだろう。さすればわが国の国威は雷雲の如く外夷に響き、恭順させるであろう。そこで初めて開国するか否かを決めればよい。これを自主獨立の外交という。

林桜園の学説は敬神党の思想精神を鍛え上げ感化する教典そのものであった。敬神党の烈士が時勢に逆行して信念を貫かんとした事こそ林桜園の影響によるものだった。桜園が病に倒れて後、井戸勘兵衛が兵学を継ぎ、太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎、上野堅五等が神道を継ぐのである。
勤王党から敬神党へ
幕末の肥後に儒教者高本紫溟、富田大鳳を中心に一派をなす肥後勤王党の存在があった。黒船来航以来その流派に属する、宮部鼎蔵、轟武兵衛、松田重助、河上彦斎、山田信道、太田黒伴雄、加屋霽堅らによって尊攘の主義は唱道されていくのである。
しかし維新が成るとこの勤王党内は革新と保守の二派に分裂。勤王党幹部の討議会で山田ら革新派は「今日のわが国の状況は、内治さえ出来ていないのにこの上対外策を弄するのは困難であろう」と述べ、新政府へ仕える事を主張。保守派の太田黒らは愕然とし「尊攘の大義は先帝のご遺志である。維新の大業もこの大義をあきらかにするために決行したのだ。今日の腑抜けた対外政策と幕末期の醜態と一体何が違うというのか」と批判し袂を分かつ。
太田黒伴雄、加屋霽堅らを中心にあくまで尊皇攘夷に固執し、また一方で林桜園の神道を崇拝継承したこれらの人々が敬神党となり、新政府と対立していくのである。
敬神党の主義精神
敬神党の理想は、林桜園から引き継いだ「神ながらの教え(神道)をもって国政人事を行っていこう」というもので、欧米の思想や文化を取り入れ二千年来続く国風を変化させるのは国の過ちであるとしていた。しかし政府はこれとは全く逆に、開国の国是をとり欧米の新文明をとり、旧を捨て新をとる政策を行っていた。彼ら敬神党の目にはこの急激な変化と政策により日本の滅亡の図すら映っていたのだ。次のような逸話がある。
一党の参謀である富永守国、三郎兄弟は、賞典禄を現金に換えるため熊本県庁へ訪れたものの、与えられた金が紙幣であったため、紙幣は西洋を模したものだとしてたちまち受け取りを拒否。後日箸を持って訪れた。箸は穢らわしい紙幣をつまむ為のものだった。
野口知雄は、戊辰戦争で藩主に伴い上京する際、西洋式の銃を担がされるが、身が穢れるのを恐れ途中川に入って羽織を洗濯する。また野口は道のあちこちに引かれた電信線の下を潜るのを大いに穢らわしとし、回り道をして家に帰るもどうしても下を潜らねばならないときは扇子を頭上にかざし通った。そして、常に塩を懐中し僧侶に遇えば撒き、洋服を着た人間に遇えば撒き、文明開化に酔いしれ精神の穢れた人に遇えば撒くという徹底ぶりだった。
一党は皆常に身心を清らかにし、鳥獣肉断ち、酒菓を断ち、首領太田黒伴雄に至っては、さらに神前にて七日間の断食の後百日間の火の物断ちをし、国に降りかかる邪気を宇気比でもって払おうとしていたのである。
同志結束
神明の加護によって時運の非を回避せんと祈り続ける甲斐も無く新政府の描く国家は益々敬神党の理想から遠ざかって行った。一党は暗然としてこれを座視することは出来なかった。数回に渡る参謀会議に集まる者は富永守国、阿部景器、石原運四郎、緒方小太郎等。この中には長者に混じって飯田和平(太田黒の甥)や野口満雄など若年の志士の姿もあった。若者の中には早くも挙兵の義を唱えて天下に先立ち所信を貫かんと必死に画策する者もおれば、挙兵には賛成せぬ者、御神慮を伺いたて吉と出れば水火も辞せずその命の儘に習うという者もいた。
敬神党志士達は大事決行の際は必ず御神慮を仰ぎ、堅実なる信仰心を以ってその成功を必とし御神慮即ち義に合い道に適う所以と信じ、首領・太田黒の御神慮の結果によって指揮を下せば、それが同志達にとって絶対的な命となるのだった。
反政府諸勢力との連結
欧化政策、封建制の解体、不平等条約締結などにより、新政府に不満を持つ士族たちが各地で現われ始める。鹿児島には西郷を始めとする一党が。また長州萩においては前原一誠が。佐賀には木原義四郎が。他、小倉・久留米など時勢の非を憤り機を睨んで現政府を叩かんと息巻いていた。諸所の主義政見は必ずしも相一致する所ではなかったが、それでも敬神党の志士達は密かに彼等不平志士達との気脈を通じて相互に提携しようとしていた。
明治九年四月には同志中より富永守国、阿部景器を代表としまず秋月へ渡り宮崎重遠らと会見し互いに意見を交わして結託。転じて長州萩を訪れ今度は前原一誠と会談、前原は最初容易に胸襟を開こうとはしなかったが富永の至誠を見、遂に彼等との結託を決意する。それらを皮切りに敬神党志士達は六月には久留米志士と、更には鶴崎の儒者毛利空桑等とも会談するに至った。この他佐賀で木原義四郎に会い、島原へも足を運び、何度か回を重ね様々な志士等との結束を深めていくのである。中でも萩の前原一誠は敬神党志士と対座し語るうち、「今まで話してきた志士は気脈通ぜんと言える位に話留め深追いする事もなかったが、今は初めて死生の友を得て愉快なり」といっている。前原が如何に敬神党に傾倒してその力に頼らんとしていたかが見受けられる。富永も心地よく会談し帰ったが、この時富永は前原を「人物は高けれど之を新開(太田黒を指す)に比べればはるかに劣るだろう」と評している。緒方も曰く前原の人物を評し一度是非太田黒に会わせて見たいとさえ言いった。
近年国難が相次ぎ事に久留米での大楽源太郎惨殺事件は多くの反政府派志士達の士気を沮喪させていたので、この度の肥後、秋月、萩、佐賀等の組織だった志士間の提携は再び反対派勢力に力を取り戻させた。
※ちなみに敬神党は反政府勢力の名だたる盟主と結束を結ぶが、薩摩の西郷党に対しては「互いに信頼するには至らず」と言っている。
ある時、敬神党は野口が薩摩へ入りその西郷党の実情を探った。野口は桐野と対談し其の中で、「桐野は気宇磊落一世の傑たるを失わず。然し、それは尊皇愛国の志士になるか否かに至っては疑いを持つ事はあたわず。恐らく敬神党と提携すべき者にあらざるべし」と評した。これ対し太田黒は「桐野らは恐らく信に国を憂う仁人にあらざるべし然れどもまた志士なればその真意を知らざるべからず。」と言った。
このことからも敬神党と薩摩の関係は至極冷淡なものであったと考えられる。
この様に敬神党を発して多く散らばる志士達は結束を以って欧風文化に対峙していくのであった。
神風連
勤王学者林桜園グループの一党である敬神党。
断髪令、キリスト教黙認、外国人との結婚許可など新政府が押し進める文明開化の世を憂い、
宇気比を以って日本に降りかかる邪気を祓っていた。
政府は「佐賀の乱」の経験から、各地域に鎮台を置くなどして全国に散らばる反政府勢力への警戒を強める。大きな脅威となりそうな反政府組織を懐柔しようと熊本県令は敬神党に官僚への仕官を誘いかけるが、これに応える者は一人としていない。そこで今度は神官として採用すると持ちかけた。敬神を掲げる彼らがこれを辞するわけにはいかず、それぞれ熊本の神社に神官として配属となる。
神官採用の試験が行われ、ある設問の解答で「国家正しき道へ進めば、元寇の時と同じく神風が吹き夷荻を誅すること間違いなし」と全員同じ内容の答えが書かれてあった。試験官は驚き、「これはまるで神風連だ」と言いったことから敬神党は“神風連”と呼ばれるようになった。「連」というのは、もともと熊本における郷党別団体の事を指し、他に「通町連」「坪井連」「山崎連」などがあった。これら地域的に分けられたものではなく、精神主義的な繋がりを持つ「連」こそが神風連なのである。
神風連の宇気比
神風連が日々神に祈る中、政府はついに樺太千島交換条約を締結。日本の国土をロシアに完全譲渡する。このような軟弱体制に怒り嘆く神風連。一党の首領太田黒伴雄が宮司を務める新開大神宮に集まり、宇気比〔うけひ(い)〕を行う。
「政府に建白するか、政府要人を暗殺するか、兵を挙げるか」
結果はいづれも不可と出、神は彼らの決起を許さず。愕然とした神風連は神前に誓うより強い結束を固めるのだった。
「我ら敬神を掲げ夷荻から国を守り国民を守る」
「廃刀・断髪令のごとき醜態は、たとえ朝令でも従わぬ」
「同志との結束を固め、礼儀を重んじ苦楽を共にす」
明治九年、廃刀令と断髪令が出ると、街にはまるで西洋の植民地にでもなったかのような意気の無い断髪丸腰の人間で溢れた。このような醜態を神風連は黙って見てはおれず、若者たちはこぞって新開大神宮に集まり、太田黒に「挙兵しよう!この一挙で死なせてくれ!」と嘆願するのであった。自身の怒気を抑えつつ神慮であるからと若い志士たちを何とかなだめる太田黒の胸中を考えると痛ましささえ覚える。彼は一同を集め、再び宇気比を乞うと今度は可と出た。ようやく挙兵が許されたのだった。
神風連一員である愛敬正元の家が藤崎八幡宮の裏手にあり鎮西鎮台に最も近かったので、一同はそこへ集まった。首領である太田黒伴雄の出で立ちは平服に刀、背には軍神八幡宮の御霊代を背負いそれを将帥の印とした。そして皆が「勝」と書かれた肩章と白い鉢巻をしていた。日本古来よりの刀槍で西洋式の武具を取り揃えた鎮西鎮台軍に戦を仕掛ける彼らに勝利への打算は全く無く、国のため神の名の下に立ち上がることのみに意義をなしていたのだった。太田黒は「これより先は神のみぞ知る。皆一身を献げ奮戦しよう。」と辞を述べ、隊を分けて出陣する。
神風連決起とその後
鎮西鎮台司令官種田少将邸討入は高津運記の一隊に任された。高津隊は種田邸の塀を梯子を使いよじ登り内より門を開けさせ蝋を灯しながら室内へ乱入。
種田は、東京から連れてきた芸妓小勝と共に眠っていた。高津は寝室に踏み込み、「国賊出でよ」と叫びながら頭上向けて刀を振り下ろしたが、種田は咄嗟に枕元に備えてあった枕刀で応戦。高津らは負傷者を出しながらも遂に種田少将の首を討ち取った。
丁度高津隊が行動を開始した時、石原運四郎の一隊は司令官参謀である高島茂徳中佐を討たんと途を急いだ。高津隊が丁度種田邸を引き上げる際、高島邸へ向かう石原隊と合流。ニ隊を以って高島邸に押し入ると一隊は石原指揮の下中佐捜索に当った。家中を探し回していると中佐はこれ以上潜むのは無理と何処からか逃げだそうとするが運悪く庭の泉水に躓き身を防ぐ術もなく斬られてしまった。
県令である安岡良亮邸へは吉村義節の一隊が向かった。この時安岡は参議警部ら数名と密議の最中であった。この日村上警部は安岡に敬神党志士らは他日必ず挙兵に出るだろう進言し安岡も彼等を捕縛せんとまさに動こうとしていた。これを聞いた吉村らは大いに驚きもはや一刻の猶予もなしとして、討入を開始した。
邸内に静に侵入すると村上警部や他密議にある者達を斬り付け遂に置くの間に安岡を発見。隊士の伊藤が安岡に向け一刀浴びせ重傷を負わせたが官吏に遮られ逃げられてしまう。吉村は必死に邸内隈なく探し挙げたが遂に見つけ出す事は出来ず已む無く一隊は本隊と合流すべく砲兵営へ向かうのである。
各隊が移動し始めた頃、本隊となる太田黒隊、富永隊はそれぞれに砲兵、歩兵営攻略を開始。まず砲兵営攻略を開始するは太田黒伴雄、加屋霽堅をはじめ上野堅五、斎藤求三郎以下七十名。午後十一時太田黒、加屋領袖の指揮の下、一隊は大声を上げて営内へ乱入。夜も更けて営兵も眠り始めた頃であった為この急襲に辺りは騒然となった。米村、寺田らは馬草などに火を放ち焼玉にして屯営に投げつけた。大島邦秀中佐に阻まれ一時苦境に落ちるも太田黒自ら刀を上げ中佐を斬殺。営内は混乱に陥り日本刀を振りかざし一戦に賭ける志士の前に営兵達は逃げ惑いながらも倒れていった。
遂に砲兵営は陥落。一党に死者も無く皆意気揚々と凱旋し引き揚げようとした時、背後の二の丸付近から喚声と銃声が重なり合って聞こえて来た。この二の丸付近にある歩兵営を攻め寄せる富永守国の一隊七十名は熊本城本丸付近まで進入するが、体制を立て直し始めた鎮西軍の一斉射撃に大きな被害を出してしまう。太田黒の部隊も砲兵営を片付けて富永隊の応援に駆けつける際、砲台を使おうとするもその操作が解らず。已む無く阿部景器、野口満雄らは砲兵を捕え操作法を聞きだした。一隊は勇んで前線へ持ち込むが、いざという時になって大砲は動かず太田黒は地団駄踏んで已む無く砲撃を諦め自ら先陣に立って柵門を突破を計る。この時、富永ら一隊は営兵の銃剣による攻撃に、武芸に長けた志士らを率い長槍や薙刀を用い善戦していた。数の把握が出来ぬ恐怖で押され陥落かと思われた時、燃え上がった営舎の明かりによって事態は急変した。僅かな兵力で攻める敵を知るや営兵はたちまち士気を取り戻し駆け付けた鎮台将校らの指揮の下、最新鋭の銃器による一斉射撃が行われ形勢は逆転。富永隊は一気に苦境に陥る。そして太田黒らの本隊も歩兵営に到着するが、先の戦線で快勝なしたこの本隊も堅固な営門最新式の銃弾の前に成す術もなく被害は拡大するばかり。
この激戦の中、加屋霽堅と斉藤求三郎が戦死。加屋霽堅は神風連副首領で、林桜園グループの“三強”の一人。斉藤求三郎はこの時五十八歳と一党の中では長老として慕われていた。太田黒伴雄も銃弾にやられ重傷を負い、法華坂(熊本城へ向かう坂)まで退き近くの民家を借りて義弟の大野昇雄に介錯させた。
神風連の首領たちが死んでいったあと、それぞれ一隊を率いていた者たちは仕方なく退き上げ一旦家に戻るが、戦死した者たちをしのび皆自刃。
阿部景器と石原運四郎はひたすら再挙を狙ったが、警戒が厳しく実現は難しいと分かると阿部の家でその妻以幾子と共に自刃する。

神風連の乱は、一日で鎮圧され生き残った者も自害し、世間から暴挙と呼ばれざるを得ない形となってしまいました。しかしここで考えなければならないのは、彼らが最初から勝つことを目的としていなかったことです。彼らは皆が皆、西洋文明そのものに嫌悪していたわけではありません。斉藤求三郎などは林桜園の勧めで蘭学を学んでおり、神風連団体の思想自体は対等に交渉が行えるのであれば開国にも反対はしないという、これこそ林桜園の示した自主獨立と言う思想でした。政府の弱腰交渉と見境無しに流れ込んでき急速にわが国全土へ浸透していく西洋文明。大きく転回しようとしている時勢に、不動の精神たる何かを刻み付けて置く事こそが彼らの本意であり本望であったのかも知れません。
※遺族らの懇願により、大正には烈士らの忠魂が認められ、賊名除かれ太田黒、加屋領袖には贈位もなされた。同時に「神風連の乱」は、「神風連の変」と改められた。 
 
萩・秋月の乱と思案橋事件

 

肥後で神風連の乱が起こると福岡の不平士族たちも大いに盛り上がった。旧秋月藩士・宮崎車之助らは挙兵し、500人余の集団で神風連を応援しようと動いた。しかし、神風連の乱はわずか1日で鎮圧され、その報告を受けた宮崎らは援軍に出ることを留まった。しかし、今さら旗揚げを下ろすわけにも行かず、豊前豊津の不平士族を扇動して、萩の前原一誠と合流しようとしたが、小倉の鎮台兵に鎮圧されてしまった。
萩の乱を起こしたのは前原一誠であった。前原は松下村塾出身で、干城隊(かんじょうたい)の副総督となり、第二次長州征伐に活躍した。戊辰戦争では山県有朋に代わり、北越軍参謀を務め、長州藩武断派として新政府にも参画した。1869年(明治2年)に越後府知事となり、信濃川治水工事を推進し、水害に苦しむ農民を助けるために一帯の税金を半減する情け深い政策を執った。しかし、勝手な税収半減を進めた前原を政府は批判し、政府高官から不評を買った。その後、参議となり、木戸や大久保たちと肩を並べたが、非情な政策を執る彼らとは意見が合わず、職を免ぜられた。その後、暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔(ひょうぶたいふ)に就き、兵制の整備に尽力しようとした。しかし、その時、起きた脱隊兵事件で、木戸は討伐することを主張し、ここでも意見が合わず対立し、結局前原が職を辞して萩へ帰ってしまった。前原は非情なまでの合理主義を貫こうとする木戸や大久保たちと考え方を相容れなかったのである。その後、江藤新平が佐賀の乱を起こすと、萩の不平士族たちも前原一誠を首領に担ぎ出して、兵乱を起こそうとしたが、前原はこれを抑え、暴挙に出ることを諌めた。しかし、前原が不平士族の中枢にいることに疑念を抱く木戸や伊藤博文たちは、密偵を放って、前原の行動を監視させた。これには前原もイラツキ、仕舞いには神風連や秋月の乱へ同調し、ついに蜂起することを決した。10月28日に前原軍は山口県庁を襲撃しようとしたが、政府軍が出動した報告を受け、いったん海路に出て島根へ向かうことにした。そして、スキをみて31日に萩へ戻り、大砲にて政府軍へ奇襲攻撃を仕掛けた。不意をつかれた政府軍は苦戦を強いられたが、二日ほどやり合ううちに、前原軍の攻勢が弱まってきた。食糧・弾薬も少なくなり、軍勢も疲労が強くなってきた前原軍は、防戦一方へと転じていった。政府軍は増援を得て、海上より軍艦の援護砲撃をもらい、激しい攻勢を成し、一時は500名を超える盛況振りを見せた前原軍も大敗した。漁船で逃亡を成した前原だったが、暴風雨に行く手をさえぎられ、一時非難しようと出雲宇竜崎に寄ったところを捕縛された。前原ら主導者8名が斬首され、48名が懲役刑を喰らい、403名が無罪放免となった。
江藤新平に続いて、幕末維新の功臣である前原が散り、いよいよ大御所・西郷隆盛の最大挙兵が起きるのであった。
前原と打ち合わせをしていた旧会津藩士・永岡久茂らは、前原挙兵の報せを暗号電報で受け、これに呼応するように挙兵した。同志十数人とともに千葉県庁を襲い、佐倉兵営から武器弾薬を奪う算段だったが、武器を携えて千葉通いの船が通る隅田川河岸の思案橋まで来たところ、警察の包囲を受け、大格闘の末に捕縛され、鎮圧の憂き目を見た。  
萩の乱
1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。後の内閣総理大臣(第26代)田中義一も13歳で反乱に参加している。
前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同志を募り、10月26日には県庁を挟撃するため須佐育英館長の坂上忠介や多根卯一、徳山の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇に直訴するため紫福を経て須佐より山陰道を東上するよう方針を転換し10月30日には須佐兵67人と合流し約300名にて地扱所を占拠し兵糧を確保する。しかし、海路で浜田に向かったところ悪天候で断念し江崎に上陸した後、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという説「須佐郷土史研究会」)により10月31日萩・越ケ浜より明倫館に戻ったが備蓄弾薬が池に破棄されており、待ち伏せていた政府軍と市街戦が発生。これを退けるも橋本町辺に68軒の焼失被害を出す(品川弥二郎書翰)。弾薬欠乏から前原らは軍勢を囮として小倉信一、有福洵允にまかせ幹部5名のみ直訴のため別行動をとった。小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。この際、長州藩剣術指南役を務めた内藤作兵衛が誤認射殺されている。
その後
別行動をとった前原・奥平ら幹部と従者白井林蔵、馬来木工の7名は東京へ向かうべく船舶にて萩越ケ浜を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中水先案内人に通報されたことで11月5日に島根県令佐藤信寛らに包囲され、弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。なお、前原は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。
12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平および横山俊彦、佐世一清(前原実弟)、山田頴太郎(前原実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説有り)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも、清水清太郎の日記では賊徒凡三千五百人ともある。)この処罰には司法卿大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。
乱による松下村塾への影響
この乱には松下村塾最年長の前原をはじめ多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。いずれも松陰実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進は切腹し塾も閉鎖された。松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。 
秋月の乱
1876年(明治9年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
1876年(明治9年)10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。
神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で説得にあたった福岡県警察官穂波半太郎を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら七士は自刃した。抗戦派の今村は他26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払ったのち、分かれて逃亡したが、11月24日に逮捕された。なお益田は挙兵前の10月26日に旧佐賀藩士族の同時決起を求めるため佐賀へ向かったが、その帰りに逮捕されている。
12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。 
思案橋事件
1876年(明治9年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。思案橋の変ともいわれる。1876年(明治9年)10月28日に山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより生起した。
1876年(明治9年)10月29日、萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしていた。しかし不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり、永岡ら数名はその場で逮捕された。逃走を図った者は中根米七を除き、最終的には逮捕されている。主犯の永岡は事件の時に負った傷が元で翌年1月に獄中死し、その年の2月7日に行われた裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となった。中根は1878年(明治11年)、喜多方町の寺院境内で切腹している。警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2名が殉職した。
当初の計画では千葉県庁を襲撃し県令を殺害したのち、佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原に呼応して挙兵する予定であった。 
士族反乱
日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。
江戸時代後期に開国し、王政復古により成立した明治政府は四民平等政策のもと、大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設する。秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれた。
1874年に江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧された。
1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入し鎮圧したが、兵数、装備、兵站など、政府軍はあらゆる面で西郷軍より有利な条件を有していたにもかかわらず、同等の戦死者数、戦傷者が発生するなど、政府の軍事的な弱さを露呈する結果ともなった。この戦いは日本のその後の富国強兵政策の礎になった。また、いわゆる薩長土肥出身者による藩閥を生むことにもなった。
西南戦争以後、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行する。
 
西南戦争1

 

征韓論に敗れた西郷隆盛は、下野すると故郷・鹿児島へと帰郷した。西郷は鹿児島にて若者たちを指導し、新しい近代日本を築く人材育成に励んだのであった。この西郷の姿勢に共鳴した桐野利秋、篠原国幹、大山綱良らは、積極的に西郷に協力し、私学校の興隆に勤めた。さしずめ西郷王国とでも称するかのごとくに鹿児島は、西郷中心に動いていた。西郷隆盛という英雄を頂いた鹿児島は、民衆に不評の明治政府を改善させるためのよき人材の育成に力を入れたのであった。しかし、ことはそううまくは運ばなかった。不平士族の不満はすでに限界に達し、新たな人材育成を形成するまで一刻も耐え忍ぶことができないところまできていた。新政府が不平士族を徹底的に踏み潰し、独占的な政治を執り行う以上、不平士族の不満はいつかは爆発する構造となっていた。
佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と次々と不平士族の叛乱は続いたが、いずれも夢を成就することなく散っていった。そして、明治政府は最後の不平士族の巣窟となっている鹿児島へと注意が向けられ、西郷隆盛という偉人の行動を監視するようになった。この疑念をもって鹿児島を監視する新政府の行動に西郷が開く私学校の若者たちは敏感に反応した。
西郷王国と化していた鹿児島には、薩摩藩時代から製造していた兵器・弾薬が大量に貯蔵されており、西郷たち私学校の組織が不穏な動きを成しているとの報告を受けた明治政府の陸軍省は、ただちに鹿児島にある武器・弾薬を大阪へと移すことに決めて、三菱汽船にて積込み作業を開始した。しかし、この政府の行動を察知した私学校党は、1877年(明治10年)1月29日未明から火薬局や海軍造船所を襲撃して、武器・弾薬を奪還するに至った。武器・弾薬の奪還を成した党員たちは、気勢を挙げて、鹿児島に帰省していた中原尚雄(なかはらひさお)警部補ら21名を捕らえ、激しい拷問の末に西郷暗殺の密命を政府から受けていたことを自白した。この自白を契機に党員たちは、ますます気勢を挙げて、明治政府を非難し、武装蜂起を成して、国政の即刻改善を求めて、明治政府を糾弾すべしと息巻いた。
私学校党員による暴動を知った西郷は「しまった」と一声挙げたが、これ以上は党員たちと共に死を覚悟して、新政府に対して改善の要求行動を起こす他はないと悟った。西郷は私学校に鹿児島県令・大山綱良を招き、挙兵上京する旨を正式に伝えた。それと共に方々から私学校に集まってきた西郷支持者たちによる兵団が結成され、歩兵五大隊と砲兵二大隊が編成された。一大隊の兵員を二千名とし、合計でおよそ一万四千名という大部隊での出陣となった。
各部隊の指揮官は次のとおりであった。
○ 一番大隊長ー篠原 国幹
○ 二番大隊長ー村田 新八
○ 三番大隊長ー永山 弥一郎
○ 四番大隊長ー桐野 利秋
○ 五番大隊長ー池上 四郎
○ 六・七番連合大隊長ー別府 晋介
この西郷軍たちは2月15日、50年ぶりという大雪の中を出陣した。熊本に入った西郷軍は、第一の関門となる熊本城に駐屯している熊本鎮台の兵団とぶつかった。当初、西郷たち司令官は、熊本鎮台は戦わずして、城門を開いて歓待してくれるものと決め込んでいた。幕末維新の英雄・西郷隆盛が上京するために進軍してきたというのだから、熊本鎮台はそれに一も二もなく従うものと考え、熊本に入るにあたって、先に熊本鎮台へ書状を送り、西郷軍の進軍するいきさつを伝えていた。しかし、熊本鎮台では、武器を所持して多人数にて行軍するは、暴徒の類として、この進軍を阻止することこそ、鎮台の役目と言い放って、西郷軍と対決する姿勢を見せた。
この熊本鎮台の身構えに対しても西郷軍の司令官・桐野利秋は農兵の如き鎮台兵など恐れるに足らずと豪語して、一戦にて勝敗を決する自信を見せていた。
一方で、熊本鎮台兵を指揮するのは、土佐藩出身の谷干城(たにたてき)であった。谷は西郷軍襲来の予見していた陸軍参謀の山県有朋から戦い方は任せるが熊本鎮台だけは死守するようにという厳命を受けていた。そこで、谷は自軍の鎮台兵の能力を査定し、いかにして戦うべきかを思案した。その結果、谷は以下の三つの観点から熊本城に徹底篭城戦を展開することに決した。
1 鎮台兵の兵力数は敵軍よりもかなり少ない4300名ほどであり、まともに1万数千もの敵軍と戦うことはできない。
2 熊本にも西郷軍に呼応する不平士族がおり、下手に守備範囲を広げて戦えば、西郷軍に呼応する熊本士族が敵対してきて、どこから敵兵が現れるか見当がつかない。
3 鹿児島から出陣してきている西郷軍は、気勢が揚がっており、勇敢に戦う気概が強い。まともに平原で戦えば、多大な被害をこうむって、大敗する可能性が高い。大敗を喫した後で、熊本城へ逃げ戻って篭城しても戦意を失った兵団で死守することは不可能と判断できる。
以上の分析から熊本鎮台司令長官・谷干城は、熊本城に篭城して、徹底篭城戦にて西郷軍を迎え撃つ決断を下した。これには当初、参謀の樺山資紀(かばやますけのり)が反対したが、鎮台兵が訓練が未熟な烏合の衆であることを見て、一変して徹底篭城戦に従っている。
篭城準備をしている慌しさの中で、熊本城の天守閣が焼け落ちるという事件が起きた。原因は不明であったが、この時、城内に蓄えていた食糧も焼失してしまった。しかし、このことで、鎮台兵たちは必死になって、食糧調達に奔走し、ついには前よりも多くの食糧を獲得することに成功している。
1877年(明治10年)2月22日から西郷軍は熊本城を包囲し、猛攻撃を開始した。西郷軍は、熊本鎮台が農兵による未熟な部隊と聞いていたので、一戦でカタがつくと考え、怒涛の突撃戦を敢行した。しかし、熊本鎮台側も勇敢にこれに応戦し、激しい砲撃戦が展開され、「砲煙、天を覆い昼なお夜のごとし」と記されるほどの大激戦となった。城兵たちは何時間もの銃撃戦のために鉄砲を打つ引き金にかける右手人差し指がはれ上がり、曲げ伸ばしもできないほどだったという。
この激戦で西郷軍は、強硬な突撃戦は愚策と判断し、もっぱらにらみ合いのこう着状態と化した。こうなると西郷軍はなんとしても熊本城を落とし、熊本城を根城にして、新手の新政府軍と戦う準備を整えなくてはならなくなった。そのため、西郷軍は熊本城に降伏勧告の書状を投げ込んだり、敵軍を罵倒して、城外に誘い出そうと必死に策略を展開した。しかし、熊本鎮台側はこの挑発に乗らず、援軍が来るまでは、ただただ城を死守することだけを念頭に置いて耐え忍んだ。
そうこうしているうちに新政府側も熊本鎮台救援 部隊を編成し、大部隊による西郷軍の追討が成された。黒田清隆が率いる背面軍と呼ばれる別働旅団が八代に上陸し、熊本県南にいた西郷軍を駆逐して、川尻を奪い、そのまま熊本城下へと進軍していった。熊本城へ活路を開いた黒田隊が到着するまで、実に熊本鎮台は54日間の篭城戦を耐えた。これによって、西郷軍は熊本城の包囲を解き、撤退を開始した。
熊本城包囲を解いた西郷軍は、いったんは熊本へと向かったがその後、植木の西方に位置する田原坂に布陣した。この地は天然の要害で、坂道が幾重にも曲がり、険しい道並みで左右には断崖がそそり立っていた。昼でも薄暗いこの天然の要害・田原坂を熊本士族たちは「腹切峠(はらきりとうげ)」と呼んでいた。というのも、この要害の地を攻め込まれるようなことがあれば、もはや抵抗しても無駄であり、切腹して果てる以外にはないということであった。
西郷軍はこの地を最後の拠点と定めて、絶対死守の構えを見せ、この要地の道脇に穴を掘って隠れ、道には大木を倒し、大石を積み上げて、敵軍の進入を阻止するといった防備を固めていった。また、西郷軍には薩摩士族だけではく、熊本士族も大勢参軍しており、彼らは現地の地理に詳しく官軍の裏をかく作戦を立て、神出鬼没のゲリラ戦を展開し、新政府軍を散々に苦しめた。
田原坂の緒戦では、官軍優勢に戦闘が展開されていったが、西郷軍の第二陣にぶち当たった時点から戦闘は西郷軍優勢に展開されていった。それというのも、西郷軍は決死の抜刀兵を組織し、気迫で官軍を打ち破っていったのであった。この抜刀兵の凄まじさに官軍の士気が低迷したことを受け、官軍側でもこれに対抗する狙撃部隊を編成し、狙い撃ちを試み、西郷軍側の司令官・篠原国幹を打ち倒すなど戦果を挙げた。だが、その狙撃隊までもが抜刀兵の度重なる襲撃によって、ほとんどが討ち取られていしまうという事態に陥り、ついには官軍側でも同じく剣術に長ける抜刀隊を組織した。100名からなるこの抜刀隊は、ゲリラ戦のように敵に近づき、本陣と呼吸を合わせて、一挙に敵陣になだれ込み、敵を切り伏せるという離れ業を敢行した。
こうした激戦の展開がしばらく続いたが、3月20日未明、激しい風雨の中、ついに堅固な田原坂の防備を打ち破った官軍は、ようやく戦争終結への決め手をつかんだのであった。3月4日以来、政府軍の精鋭部隊をすべてつぎ込んで猛撃した成果であったが、それまでに死傷者三千名を数え、消費した弾丸は毎日30万発以上、砲弾一千発以上という激しいものであった。
田原坂の激戦に敗北した西郷軍は、その後も人吉(ひとよし)・都城(みやこのじょう)・宮崎・延岡などを転戦したが、いずれも敗退を繰り返し、日をおうごとに兵力は弱まっていった。ここに至って西郷も諸隊の幹部を集め、戦勝の機運がないことを告げ、解散の命令を下した。各自、自由に行動をするようにとの命令によって、西郷軍は実質的に解散となり、この時に西郷軍から離れ、降伏した者は1万人余りに上った。
西郷軍が宮崎あたりを転戦していた頃、西郷軍が出払って空っぽとなっていた鹿児島に官軍が侵攻してきて、あっさりと制圧してしまった。この動きを知った西郷軍の司令官・桐野利秋が部隊を率いて、鹿児島奪還を計ったが逆に官軍の猛反撃に遭遇して、あえなく撃退されてしまった。
解散命令を出した後の西郷は、300人ほどを引き連れて、一路、故郷の鹿児島を目指した。鹿児島に戻って、再起を計ろうと考え、官軍の追撃を巧みにかわしながら進軍し、9月1日には城下に入って、城山に立てこもった。2月15日の出陣以来、実に199日振りの郷里であった。
西郷軍は最後の決戦を決め込んで、鹿児島県内に激を飛ばして、参軍を呼びかけた。これに呼応するものもあったが、西郷軍がたてこもる城山を幾重にも包囲する官軍が邪魔して、援軍に駆けつけることができない。西郷軍は城山が包囲されたことを見て、塹壕を掘って、守備を固めたが、所持する武器は小銃150挺ほどで大砲は数門程度しかなかった。
官軍は万全の包囲体制を整えてから城山に立てこもる西郷軍本隊の殲滅を計画し、城山包囲を形成した部隊は八個旅団にもおよび、総勢1万5千という大部隊であった。わずか300人足らずの西郷軍相手にこれほどまでの大兵団を終結させて、殲滅戦を展開しようというのである。余りの兵団の多さのために西郷軍の陣地と官軍の陣地がまじかに迫りすぎ、いざ戦闘が開始されると官軍の後方から発射された砲弾が官軍最前線の陣地に着弾するといった具合であった。
9月21日夜、西郷軍から官軍へ使者が送られてきた。その目的は、大久保参議たち新政府の要人たちが何故に西郷隆盛の命を狙ったのか。また、その理由を尋ねるために上京しようとした我らの行く手を阻み、討伐しようとするのは何故かとの質問であった。それに対して、官軍総司令官・山県有朋は、「暗殺のことをただすのであれば、紙一枚をもって告訴すれば済む。無用に兵団を整え、政府を脅すような構えを見せた以上は、これを討伐する権限は十分に備わる」と述べ、政府に何か訴えたいのであれば、まずは武器を捨てて降伏してからにせよと使者に伝えた。この官軍の反応を受けた使者が西郷軍へと帰っていったがこれに対する返答はなく、ついに最終決戦へと入っていった。この使者との問答の時に山県有朋は自ら筆を取って書状をしたため、西郷に宛てた手紙を使者に託している。この手紙の内容は、ともに維新の大業を成し遂げた西郷の悲運を悲しみ、維新の元勲である西郷を討たねばならない心情の苦しみを述べていた。
1877年(明治10年)9月24日午前4時ごろ、官軍の一斉攻撃が開始され、激しい砲撃が展開した。西郷軍側も多少の応戦を成すも兵力に大差があり、ほとんど抵抗らしい抵抗を見せることなく総員討ち死にを成した。西郷軍の生き残り部隊、総勢40名あまりは、西郷隆盛を中心として、山を下る行軍を開始したが、それも官軍の2400名にものぼる狙撃部隊がこれを捕らえ、一斉狙撃を開始。次々と西郷軍兵は討ち死にしていき、西郷自身も股(もも)と腹に銃撃を受け、ついに進退窮まるとそばにいた別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」と述べ、自刃して果てた。西郷自刃後、別府は残りの兵たちと共に奮戦し総員討ち死にを遂げている。こうして、不平士族最大の兵乱はここに終結する。この城山の戦闘では、西郷軍の戦死者159名を数え、官軍の戦死者は40名に及んだ。山県の回顧談によると陥落した城山にのぼり、一つ一つ死体を視察していた山県がふと首のない死体に気づく。どうもこれは西郷ではないかと言っていると、そこに誰であったか土に埋もれていた首を山県の元へと運んできた。泥を水で洗ってみるとやはりその首は西郷ではないか。その西郷の顔を見た山県は、その顔や温和なるやと述べ、維新の英雄のあっけない悲運な末路に涙をこぼして悲しんだという。  
 
西南戦争2 / 西郷の下野から西南戦争まで

 

西郷の帰国と私学校設立
岩倉の腹黒い術策で遣韓論を潰された西郷は、明治6(1873)年10月23日、辞表を提出し、鹿児島へと帰郷しました。
「このような最も非道なやり方で国の政治が運営されて良いはずがない。新政府に関しては、いつか改革しなければならない……」
推論ですが、帰国する西郷の心中は、次のような決意が秘められていたのではないでしょうか。そのように考えなければ、後の西郷の行動に筋が通ってこないのです。西郷の辞職及び帰国は、国内に衝撃を走らせました。西郷を慕う陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹(しのはらくにもと)ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官らが、西郷に付き従うかのように続々と鹿児島に帰郷することになったのです。鹿児島に帰郷した西郷は、その後は一切の俗事を離れ、畑を耕したり、川に魚を釣りに行ったり、狩猟に出たりと、まさに農夫のような生活を始めました。西郷がそのような田園生活をしていた頃、日本の国内には次々とまた大きな事件が起こったのです。明治7(1874)年1月には、右大臣の岩倉具視が東京の赤坂喰違坂において不平士族らに襲われ、負傷する事件が起こりました。また、同年2月には、江藤新平(えとうしんぺい)が佐賀で反乱を起こしました。そして、同月には前述した明治政府の台湾征討が行われたのです。このように西郷が去った新政府は、いきなり国内外の重大問題が頻発することとなりました。明治新政府においての西郷の影響力が、いかに大きいものであったのかがよく分かります。西郷が政府の中心にいたからこそ、平穏な日々が続いていたといって過言ではありません。明治の知識人である福沢諭吉も、西郷が政治の中心となっていた二年間は、民衆が不平がましいことも言わず、自由平等の気風に満ちた時期であった、というようなことをその著作の中で書いています。
明治7(1874)年6月、西郷は旧薩摩藩の居城であった鶴丸城の厩跡(うまやあと)に「私学校(しがっこう)」を設立しました。私学校とは、砲隊学校と銃隊学校及び賞典学校からなっていました。西郷の下野を追って帰郷した青年らの教育機関を作ろうと考えたことが、私学校の主な創設理由だったのですが、果たしてそれだけであったのでしょうか。俗に西郷はロシアや欧米列強の脅威に備えるために私学校を設立し、いざ国難が訪れた際にはそこで育てた人材や兵を働かせようと考えていたと言われています。確かに、西郷の心中には常に対ロシアという考えがあったと思われますが、西郷が私学校を設立した真の目的とは、前述した政府改革のためであったのではないでしょうか。私学校において優秀な人材と強力な兵隊を養い、いつか来るであろう政府改革のために使おうと思っていたのではないでしょうか。西郷は新政府が最も汚く腐敗したものであるということを、遣韓大使派遣の際に嫌というほど知らされました。西郷は、こんな堕落した政府は新しいものに作り直す必要があると考えていたのではないかと私はそう推測しています。
私学校暴発そして西南戦争へ
明治9(1876)年になると、各地で不平士族の反乱が頻発しました。10月24日、熊本において熊本県士族の太田黒伴雄(おおたぐろともお)を中心とする不平士族が、「神風連の乱(しんぷうれんのらん)」を起こし、同月27日には福岡県で「秋月の乱」、同月28日にも山口県で前原一誠(まえばらいっせい)が「萩の乱」を起こしています。このように反政府運動が頻発して起こる中、鹿児島にいた西郷はその動きに呼応することなく、微動だにしませんでした。西郷は、自分が起つ時は、政府改革の見込みが立った機が熟した段階でと考えていたと思われます。西郷としては、現在の日本の状況下では、まだ時期尚早であると考えていたのでしょう。
しかしながら、そんな西郷の思惑とは裏腹に、当時の明治政府は大きな罠をしかけました。新政府にとって、明治維新最大の戦力となった旧薩摩藩士族の動きは最も気になるところであったため、当時の警察庁長官にあたる薩摩藩出身の大警視・川路利良(かわじとしよし)は、同じく薩摩藩出身の中原尚雄(なかはらなおお)ら二十三名を密偵として鹿児島に送り込みました。中原ら密偵の目的は、鹿児島県の情勢調査と私学校生徒と西郷の離間を図るというものでしたが、今日でもこの密偵団には、「西郷暗殺」の密名が出されていたと伝えられています。後に西郷が挙兵した際、その挙兵の理由として、この密偵について政府に尋問があるということを掲げていることからしても、当時そう信じられていたことは間違いありません。事の真相は、今となっては闇に葬られ、事実関係を証明することは難しいのですが、私自身の感想から言うと、西郷暗殺の密命が出されていたことは十分にあり得ると推論しています。また、政府の中心人物であった大久保は、旧薩摩藩士族の力をそぐために、鹿児島にあった陸軍の火薬庫から、武器・弾薬を大阪に移送しようとしました。これが西南戦争勃発のきっかけとなったのです。私学校生徒は、政府の卑怯なやり方に憤激し、
「政府は先手を打ってきもした。西郷先生の暗殺団を送りこみ、なおかつ、武器を隠れて他に輸送しようとするとは卑怯ではごわはんか!」
とばかりに徒党を組み、明治10(1877)年1月30日夜、激昂した一部の過激な私学校生徒が、現在の鹿児島市草牟田(そうむた)にあった陸軍火薬庫を襲撃したのです。また、その騒動が飛び火して、過激な私学校生徒らは、磯の集成館、坂元、上之原などの火薬庫を次々と襲い、鹿児島市内は火を放ったような大騒動となりました。
一方西郷はと言うと、その頃大隈半島の小根占(こねじめ)へ狩猟に出掛けていました。西郷は私学校生徒が政府の挑発に乗り、陸軍の火薬庫を襲ったとの報に接した時、
「しまった! なんちゅうこっを……」
と、一言漏らしたと伝えられています。しかし、西郷としては、火薬庫を襲った若者らを捕え、政府に差し出すという非情なことは出来ませんでした。
「こいもまた天命ごわす……」
西郷はそう考え、自らの身をお前達に預けようと周囲の者に言い、全てを委ねました。 ここに西郷隆盛自らが挙兵することを決意したのです。
「今般政府に尋問の筋これあり」
西郷は自らの挙兵の理由を掲げ、明治10(1877)年2月17日、西郷率いる薩軍は東京へ向けて進撃を開始しました。
西南戦争において、西郷率いる薩軍は、最も拙劣な熊本城包囲策を取り、その後の戦況を悪化させることになります。西南戦争の戦いの経緯については、ここでは書きませんが、おそらく西郷としては、自分の行動が、これほどまでに大規模な戦いになるとは予想していなかったように思います。その西郷の心境については、それを示す傍証がいくつか残されています。西郷の考え方は、今から考えれば非常に見通しの甘いものと捉えがちですが、当時の日本の状況を考えれば、あながちそうは言い切れないものがあります。当時、全国各地には不平士族が充満しており、西郷が挙兵すれば、彼ら不平士族が雪崩を打って反政府行動に出ると考えられた時期です。もし、そんな事態にでもなれば、政府としては各地の反乱を全て鎮圧出来るはずもなく、西郷を政府に迎え入れて、その意見を聞き入れざるを得ない状況になりかねません。熊本城内の政府軍兵士達が臨戦態勢を取っていることを知った西郷は、大変驚いたと伝えられています。西郷としては、何の抵抗も無く、戦わずして東京に到着できると思っていたのかもしれません。鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏も、このような説を唱えられていますが、私自身もその意見に賛成です。実際、この西南戦争において西郷は、作戦を立てたり、陣頭で指揮を取るようなことは一切ありませんでした。西郷としては、熊本城の政府軍が抗戦の気配を見せた段階で、今度の挙兵は失敗した……、自分には天命がなかったようだ……、と考えたのではないかと私は推測しています。
西郷、城山に散る
鹿児島において意気揚揚と挙兵し、陸路熊本を目指した薩軍でしたが、結局、最後まで熊本城を陥落させることが出来ず、その後、「田原坂(たばるざか)」での大激戦や、大分、宮崎など各地において政府軍と戦いますが、多勢に無勢、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に対し、薩軍はどんどん追い詰められていきました。最終的に西郷は、宮崎日向北方の長井村(現在の宮崎県東臼杵郡北川町大字長井)において、正式に軍を解散し、残った薩軍幹部らと共に、険しい日向の山道を乗り越え、一路故郷の鹿児島に向かって引き返そうとしました。生まれ育った故郷・鹿児島で、最後の決戦を行い、死のうと考えたのです。鹿児島に戻った薩軍は、旧鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領して、土塁を積み上げ、陣地を作り上げました。しかし、すぐに政府軍も、その城山を幾重にも包囲し、城山の本営目がけて徹底的に集中砲火を浴びせたのです。
そして、迎えた運命の明治10(1877)年9月24日。
西郷隆盛と薩軍幹部ら生き残りの将兵は、本営の洞窟前に整列し、「潔く前へ進んで死のう」と決意を固め、城山を下山し始めました。政府軍の集中砲火が雨のように飛び交う中、西郷らは城山を降りて行ったのです。西郷に付き従った人々は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れていきましたが、それでもなお、西郷は前へ前へと進みました。その時、一発の銃弾が西郷の体を貫きました。流れ弾が西郷の肩と右太ももに当たり、西郷はその場でがっくりと膝を落としました。西郷にはもう歩く力はありません。西郷は傍らにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に対し、
「晋どん、もうここいらでよか……」
と言いました。別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ〜」と大きく叫んで、西郷の首を落としました。西郷隆盛49歳、波乱の人生の幕切れでした。
若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、西郷は常に人々の人望や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる原動力となりました。しかしながら、西郷自身はそのことに少しも驕ることなく、常に民衆のことを考えた政治を行い、自らも無欲で質素な生活をすることを常に心がけました。このような庶民性や人間性をもった英雄は、日本には彼一人しか存在していません。西郷隆盛は、日本史上最も清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えるでしょう。
 
「夜明け前」

 

「夜明け前」の時代
木曽路
島崎藤村の『夜明け前』は歴史小説である。未解決の問題に正面から立ち向かった作品であり、藤村が『夜明け前』で追求した問題はすべて今日の問題である。主人公青山半蔵は、木曽の馬籠で本陣・問屋・庄屋を代々の家業としてきた家に生まれ、家業を継ぐ。半蔵は、宣長、平田篤胤を敬い、平田篤胤の弟子として明治維新に王政復古の夢を託した。だが明治維新は半蔵が夢見たものではなかった。維新の現実に絶望した半蔵はついに狂い、座敷牢に生涯を終える。
徳川時代は交通手段も身分制度の下にあり、宿場の宿は階層によって異なっていた。本陣は武士のための宿であり、また彼らのために輸送手段を整える役割も果たした。本陣は幕府体制の根幹をなす交通産業そのものであった。本陣・問屋・庄屋を兼ねるということは、徳川幕府の地域支配の根幹を担うことを意味した。
物語は「木曽路はすべて山の中である」との一文ではじまる。徳川時代に幾年も幾年もくりかえされてきた宿場町の営みが、黒船を契機にして大きく動いていく。嘉永六年(1853)六月黒船来航、江戸は「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」と宇治煎茶の銘柄「上喜撰」と「蒸気船」をかけた狂歌が流行。一方、同年同月木曽地方は日照り続きで馬籠もまた大変という状況を重ねあわせながら、物語ははじまっていく。
馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入った最初の宿場である。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社がそれぞれ家業を継いできた。本陣、問屋、庄屋など支配層の末端にとって徳川の時代はよき時代であった。そんな平和な時代の終わり頃、馬籠に芭蕉の句碑が建った。半蔵の父らが建てたのである。「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」。江戸文化最後の輝きであった。
半蔵は、多くの若者の世間並みの遊び、魚釣り、碁、将棋の代わりに読書を選ぶ人だった。馬籠では、師を得られないままに『詩経』、『四書』、『易書』、『春秋』などを独学した。やがて馬籠の隣の中津川宿に友を得、そのつてで医者をする宮川寛斎に師事、平田派の国学を学んだ。
当時の中津川は中馬で栄えた宿場町であり、交通の要衝として物流・情報の拠点であった。尾張藩の東端に位置し、経済力とあいまって藩内でも独自な存在であった。中津川では、幕末の対外的な危機に促され安政六年以降急速に平田門人が増加する。国際問題に直面することで、日本国の町人としての自己意識が、平田思想を受け入れる素地となった。中津川は、全国的に見ても平田国学の重要な拠点であった。中津川商人は、以前から、京都での平田門人の宿泊場所として中心的役割を果たしていた生糸問屋の池村久兵衛と商売上深い関係にあり、そこへ同じ平田門下としての関係が加わり、池村に集まる情報は素早く中津川に届けられ、ここを経由して江戸の平田家に伝る。このような有様を藤村はくりかえし述べている。そんな環境のなかで、半蔵は向学心を平田国学にぶつけた。
支配体制の末端を担うということは、村民の生活に直に触れるということでもある。十代の後半、生活に迫られて木曽の御用林に入り伐採したことで、腰縄で取り調べられる山民の姿の触れることもあった。また、駄賃の上刎ねや荷送り状の書き換えなどで牛方を搾り取る悪徳問屋に対して、結束して闘い、ついに勝利した牛方の団結力にも強い衝撃を受ける。こうして封建支配の残酷さとそれを打ち破る力に触れ、半蔵は改革の志と「世直し」の理想を持ちはじめていく。
半蔵は三十二歳で父の吉左衛門から跡を継いだ。
王政復古
江戸では、安政の大獄(安政五年(1858))、桜田門外の変(万延元年(1860))と激動が続く。京都からは、皇女和宮が徳川家茂に降嫁していった。公武合体の切り札としての政略結婚であった。公武合体とは、幕府と朝廷との融和・結合をはかることで倒幕勢力に対抗しようとする幕末の政治運動の一潮流である。文久元年(1861)、輿入れの長い行列は馬籠を通り、木曽路を江戸へ下って行った。和宮は当初、東海道を下ることになっていた。しかし東海道では、この縁組に反対するものによる和宮奪回が起こる危険が高く、木曽路に模様替えとなった。村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立った。旅籠としての馬籠の最後の華やぎであった。
幕府は文久二年(1862)、参勤交代を廃止、江戸表に留まってきた各藩の家人が国元へ帰る。馬籠もまたそれらの人々が続いた。
参勤交代は幕府が中央集権制確立のために一定期間、諸大名を江戸に参勤させた制度であり、家光の時、寛永十二年の武家諸法度の改定によって制度化され、以来連綿と続いてきた。大名の妻子は人質として江戸居住を義務づけられた。参勤は将軍と大名の間で結ばれた「御恩と奉公」の主従契約を確認し、奉公を果たす主君のもとに大名本人と石高にあわせて保有を定められた兵力を出仕させる軍役である。同時にこれにより大名が謀反などを起こすことを抑えようとした。参勤交代は軍の移動であり、大名は配下の武士を大量に引き連れて江戸に出仕し、また領地に引きあげねばならなかった。それが大名行列である。参勤交代のために本陣や宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって繁栄した。大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まった。その参勤交代が廃止されたのである。
国学の徒であり、この時期最も明確な目的意識を持って行動したのが真木和泉であった。 真木和泉(文化十年(1813)三月七日〜元治元年(1864)七月二十一日)は筑紫の国の神官の子に生まれ江戸に遊学。後に筑紫に帰り藩の改革に取り組むが十一年の蟄居。この期間に全国の志士と交流し、またその思想を深めた。その後紆余曲折を経て、文久三年(1863)五月長州へおもむき毛利敬親父子に謁見、攘夷親征、討幕を説き、六月上京し学習院御用掛となった。真木は、早くから倒幕・皇政復古の主張を明確に掲げ、一貫して行動、倒幕勤王の志士たちを指導した。元治元年(1864)年六月、長州藩の出兵上洛にあたり、その委託を受けて諸隊総督となった。七月の禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊を率い、七月十九日堺町御門を目指して進軍、市街戦となった。このとき京の街には兵の死体が至る所に転がり、街々は炎上、大混乱に陥った。結局、福井藩兵などに阻まれて敗北、天王山に退却、真木和泉の率いた長州軍は、激戦場から二十日には山崎まで落ちのび、ここで従ってきた数十人を解散。長州兵の撤退を見届け、山崎に留まった真木和泉以下十七人は、いずれも長州の人ではなかった。天王山山腹「宝積寺」で一泊、二十一日天王山に登り、会津藩士と新撰組の二百名、見廻組の三百名の討伐軍を確認した。天王山の中腹に登り京都の見える場所で火を放ち、尊皇攘夷の志し半ばで,同志十六人とともに自刃した。五十二歳であった。
なんと多くの人間が死んだことか。藤村は真木和泉について哀惜をもって描いている。なぜ真木和泉は死なねばならなかったのか。闘って討ち死にするのではなく自刃である。なぜ逃げのび再起を図らなかったのか。これを、平田国学、神道が戦略をもった政治思想となり得なかった限界と見るか、自刃することで種をまいたと見るか。
同じ頃、水戸藩の過激派浪士らは 尊王攘夷の旗を掲げ筑波山に挙兵した。元治元年(1864)、世にいう水戸天狗党の乱である。天狗党は、幕府軍と戦闘をまじえながら北へのがれ、大子で態勢を立直して、武田耕雲斎を首領にえらび、尊皇攘夷の目的を達成し、幕府軍とやむなく対戦した事情を朝廷に訴えるため、京都へむけ西上を開始した。元治元年十月末のことである。西上軍の総勢は千人余りであった。真冬の下野・上野をへて信濃に至る。同年十一月二十六日は馬籠に滞在した。本陣には武田耕雲斎らが宿泊し和歌を残している。さらに美濃をへて、深い雪の峠を越して越前に到着した。この時彼らを待ち受けていたのは、水戸藩出身の徳川慶喜(禁裏守衛総督)が、朝廷の命をうけて西上軍を鎮圧するために出動したという報せだった。窮地に追い込まれた西上軍は金沢藩に降伏、ついで敦賀の鰊蔵に収容された。徳川幕府は西上軍の約三分の一を処刑するという苛酷な処置を行った。敦賀での処刑をまぬがれた約五百人の多くが農民身分であった。このように水戸藩尊攘派の運動には多数の農民が参加していた。
京都を舞台に煮えたぎるような日々が続く。 藤村は半蔵が“思いがけない声”を京都の同門の士から聞いたことを、伝える。
「彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田方面の心あるものからも聞きつけた。『王政の古に復することは、建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない』 その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居翁が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた。」
三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒然と伝わってきた。慶応三年の夏から三河で神符の降下を瑞祥として「ええじゃないか」の熱狂が始まった。この熱狂は三河から東西に広がり、関東、中国、四国地方に達した。特に東海地方では、大地震、津波、大雨が相次いで起き、安政五年にはコレラが流行した。そうした中で民衆は、農村にあった御蔭参りを基盤として、「ええじゃないか」のはやしをもった唄を高唱しながら集団で乱舞した。世の変革の兆しを感じつつ、重くのしかかる不安から世直しに熱狂した。
慶応三年(1867)十月将軍慶喜は政権を朝廷に返上(大政奉還)した。大政奉還は主導権を慶喜側が握ろうとする公武合体派の戦略であった。これを打ち破るべく、十二月、討幕派の西郷隆盛は京都に武力を集結、朝廷を動かし王政復古の大号令を敢行。こうして倒幕へ向けた闘いが開始された。「御一新」である。王政復古は鎌倉幕府以来の諸制度を廃止、武家の世を明確に否定した。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と納得する。
維新の変質
維新の現実は半蔵の夢を裏切っていく。半蔵は平田派国学の門人として王政復古の夢に生きようとする。だが、村民や宿場の人々を守らなければならず、友人達のように政治活動に身を投じることができなかった。それだけに御一新を待ち望む気持ちは強かった。
そこに赤報隊の悲劇である。
青山半蔵は新政府軍東征の先駆がくると聞いて胸躍らせる。相楽総三率いる赤報隊である。過ぐる慶応三年十月、江戸の薩摩藩邸に入った相楽総三は、集めた同志たちと共に江戸市中を攪乱する命を帯びる。これは、西郷吉之助・大久保一蔵・岩倉具視が立案したもので、江戸幕府を挑発し革命戦争に持ち込もうとするものであった。これに誘われた幕府は薩邸を焼き討ち、これが起因となり鳥羽・伏見の戦いが勃発した。1868年一月二日大坂から京都へ向かう幕府軍を官軍が鳥羽・伏見に迎え討つ。官軍完勝であった。これによって幕府側は朝敵の烙印を押され、大義名分が倒幕派のものとなった。兵庫に上陸し京に着いた相楽に西郷は手を取って涙を流して感謝したという。
相良総三らは東山道官軍先鋒赤報隊として江戸へ向け中山道を上る。途中農民の助力を掴むため「年貢半減令」の触れを出しながら進む。が、官軍の財政は厳しく、三井などの特権商人に金を借りることになる。商人は無条件で金を貸すことはなく、年貢米の請負を要求し、勅定にある年貢米半減の撤回を条件にした。岩倉らははじめから相楽らの行動に不満の色をなし半減令撤回を求めていた。布告の撤回は、新政府の信用に関わる問題であるから、年貢米半減を旗印にすでに進撃している赤報隊を呼び戻そうとした。聞き入れない相楽隊に対し「偽官軍」であるから召し取るべし、との命が信州諸藩に下された。下諏訪に布陣していた相楽隊は隊長以下幹部連が総督府に弁明のため出向くが捕縛され、1868年三月三日、斬刑に処せられた。総三はまさに従容として死に就いた。二十九歳だった。
藤村は赤報隊と半蔵との劇的だったにちがいない出会いの場面を描いていない。『夜明け前』では後日談として、「一行の行動を偽官軍と非難する回状が巡ったこと、軍用金を献じた地方の有志は皆付近の藩から厳しい詰問を受けることになること、半蔵も木曽福島のお役所に呼び出され、お叱りを受けたこと」が語られる。ここで初めて彼が二十両もの大金を赤報隊に提供したことが明らかになる。藤村が本作の拠り所にした『大黒屋日記』には、藤村の父、島崎正樹(青山半蔵のモデル)が赤報隊に資金提供したという記述は見あたらない。この部分は藤村の思想に基づく創作である。
半蔵が信じていた夜明け、馬籠の人々をはじめとする一般の人々を解放するような夜明けは来なかった。赤報隊の悲劇は、明治維新が農民や多くの人民の望みを掲げて開始され、政権がうち立つや彼らを裏切り、大商業家とそして生まれつつある産業資本家のものに転換していく画期であった。半蔵の夢はこうして最初の挫折を味わう。
木曽地方は維新後設置された筑摩県に属した。県は木曽山林に対する村民の入会権を認めなかった。半蔵は戸長らをまとめ県への嘆願書を作り、山林を村民の生活の場としようと奔走する。しかしこの試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職にまで追いこまれた。
半蔵は東京に行くことを決意する。そこで一から考え直し、行動をおこしてみるつもりだった。四十三歳のときである。縁あって教部省に奉職する。が、そこでも、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視されていた。維新直後の神祇局では、平田鉄胤をはじめ、樹下茂国、六人部雅楽(うた)、福羽美静らの平田国学者が文教にも神社行政にも貢献し、その周囲の平田延胤・権田直助・丸山作楽・矢野玄道らが明治の御政道のために尽力したばかりのはずである。それがいまやまったく反故にされている。祭政一致など、神仏分離など、ウソだったのである。半蔵はつぶやく、「これでも復古といえるのか!」。が、半蔵は、この問いに堪えられない。
半蔵は和歌一首を扇子にしたためて、明治天皇の行幸の列に投げ入れたのだ。悶々として詠んだ歌はこのようなものだった、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。半蔵はこの扇子を、近づいて来る第一の御馬車の中に扇子を投げた。そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。すべてが終わった。半蔵は「贖罪金」を支払い木曽に戻った。
何もかも未解決
半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司になる。その途上に馬籠に帰った半蔵は隠居を迫られ受け入れる。そして「斎の道」(いつきのみち)を踏もうと飛騨に入っていく。長く神仏習合の行われてきた飛騨の奥地。廃仏毀釈から間もないころの飛騨である。半蔵は、この地で古道を人々に伝えることが天命だと考えた。しかし思いの十分の一も果たせなかった。藤村は、宮司としての半蔵を、半蔵の生涯の親友で半蔵が馬籠に帰るのを待たずに死んだ伊之助の言葉として語る。「なんでも飛騨の方から出て来た人の話には、今度の水無神社の宮司さまのなさるものは、それは弘大な御説教で、この国の歴史のことや神さまのことを村の者に説いて聞かせるうちに、いつでもしまいには自分で泣いておしまいなさる。社殿の方で祝詞なぞをあげる時にも、泣いてお出なさることがある。村の若い衆なぞはまた、そんな宮司さまの顔を見ると、子供のように噴き出したくなるそうだ。でも、あの半蔵さんのことを敬神の念につよい人だとは皆思うらしいね。そういう熱心で四年も神主を勤めたと考えて御覧な、とてもからだが続くもんじゃない。もうお帰りなさるがいい、お帰りなさるがいい−−そりゃ平田門人というものはこれまですでに為すべきことを為したのさ、この維新が来るまでにあの人達が心配したり奔走したりしたことだけでも沢山だ、誰が何と言ってもあの骨折が埋められる筈もないからナ」
四年の後、再び馬籠に戻った半蔵は、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の二人の息子を東京に遊学させる。二人のうちの下の息子こそ、島崎藤村その人である。
このころまた木曽山をめぐる村民と県の争いが起こる。かつての経験をもとに半蔵も協力しようとするが、封建時代の末端にいた半蔵には、新たに争うものがよりどころとする「民有の権」が理解できない。半蔵の酒は深くなるばかりであった。半蔵は酒を制限される。そうしたある日、半蔵はついに狂う。明治十九年の春の彼岸がすぎたころの夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつけた。半蔵の放火は仏教への放火だった。我慢に我慢を重ね、仏教に背こうとした放火であった。仏に反逆したのではない。神を崇拝するためでもない。神仏分離すらまっとうできなかった「御一新」の体たらくが我慢できなかったのだった。
こうして半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々である。わずかに古歌をしたためるひとときがあったものの、狂気の人となって没する。鉄道の時代がはじまっていた。青山半蔵は廃れゆく街道とともに生涯を閉じた。まだ五十六歳だった。  
明治維新と国学

 

明治維新
この明治維新はいったいどのような変革であったのか。結論をいえば、これは完全なブルジョワ革命であった。ブルジョア革命とは何か。封建社会から近代資本主義社会への転換を実現するべく、新興の商業資本家とその利益を担う政治勢力が中心になって、封建支配のもとで苦しんだ広範な社会層を決起させ、封建社会の支配権力を打倒し、資本主義社会に道を開く政治権力を打ち立てることである。
これに対して「明治維新はフランス革命のようなブルジョア革命とはいえず、明治維新によって成立した政権は絶対主義政権である」という説が日本の歴史学者のなかでは有力である。藤田省三も『天皇制国家の支配原理』(1966)で「明治維新の劃期的意義が絶対主義と民族主権国家を形成したてんにあることは、周知に属している。」と第一章を始めている。
これは歴史現象の複雑さに惑わされて本質を見失った論である。この観点は、コミンテルンの「三二テーゼ」と、それに依拠した日本共産党およびいわゆる講座派のマルクス主義史学の立場から発しており、それはやがて日本戦後の近現代史学のもっとも有力な潮流となった。こうした傾向を決定づけたのが、山田盛太郎「日本資本主義分析」である。絶対主義天皇制は半封建制の上に立っていて、半封建制は絶対主義の絶対的な必要条件であるから、半封建制の解体とともに絶対主義天皇制も崩壊する、とするものである。この歴史観は十五年戦争後にまでもちこされた。占領下の日本共産党「五二年綱領」では、天皇制と寄生地主制を打倒し、占領制度を撤廃する「民族解放民主革命」が、第一段の革命として想定されていた。
これは木を見て森を見ない論である。フランス革命を美化するあまり、民主主義が実現しなかったが故にブルジョア革命とは言えないとするのである。フランス革命とて、1789年の革命以降、激烈な内部闘争を経てナポレオンがクーデターによって権力を確立、共和国八年の憲法で革命の幕を閉じる。待っていたのはナポレオンの軍事独裁である。絶対主義王制の独裁者を倒した革命は、新たなブルジョワ独裁者を作り出した。
明治維新を「上からのブルジョア革命」と規定する人もいる。が、これは現実の歴史過程としての革命の複雑さとそこにある本質を理解しない机上の理論である。いかなる革命も革命であるかぎり上からの力、つまりは目的意識をもった人々の行動と、下からの力、つまりはその体制を倒さなければ人間として生きることが出来ない人々の決起、このいずれもがなければならない。
事実として明治維新はブルジョア革命そのものである。
維新を担ったもの
革命の主力となって働いたのは封建制に反対する農民であり、貧農大衆である。江戸時代末期の百姓一揆・打ち壊しは実に激烈なものであった。幕末期には、労働集約的な工場制手工業が発展し、農民層の内部に小作農からも没落した無産の労働者層を生み出し新たな対立が生まれていた。とくに安政年間の開港以後良質な銀貨の流出、絹糸などの産物の輸出などが引き起こした急激な物価変動は,農地をもたない農民層をいっそう窮乏させた。彼らを主体とする経済的平等を求める世直しの闘争が,幕末一揆の中心となった。さらに慶応期にいたって,幕府と長州の戦争、全国的な内乱状況は世直しを激化させた。慶応二年(1866)の江戸・大坂の打毀しは,百姓一揆と同時的に起き、速やかに伝播,動乱というべき段階に達していた。同年の武州一揆、奥州信達一揆、幕長交戦地の一揆などとあわせて,幕長戦争に苦戦する幕府権力に大きな打撃を与えた。この闘争は“ええじゃないか”の民衆運動とともに,江戸幕府滅亡の原動力となった。
そしてこの革命を実際に指揮したのは勃興した都市商人階層とその利益を担った下層武士団であった。都市の大商人たちが革命軍の財政を一手に引き受けていた。
都市大商人は徳川封建制を打倒するために勤労人民・農民を味方につけ、その旗には、はっきりと民主主義的自由の文字をかきしるした(「尊皇壌夷」のスローガンは反徳川の統一戦線のためのものでしなかつた)。明治維新の先鋒となった赤報隊は「年貢半減」の標語をもって行進し、貧農大衆の熱烈な歓迎を受けた。だが、徳川封建制の崩壊が明確になり、討幕派の権力が樹立されるやいなや、民主主義的自由の旗は投げ捨てられ、都市商人によるブルジョア独裁が実現された。赤報隊は「偽官軍」とされ、隊長相良総三は理由も告げられぬままに斬殺された。この背後には「相良を斬れ。そうしなければ金は出さない」という大商人たちの意向があった。
明治維新で成立した政権は、ブルジョア独裁の有力な道具として、いくつかの封建的機構や制度を再編して活用した。その代表的なものが天皇制である。明治維新時、世界資本主義はすでに独占と帝国主義的な段階に到達していた。日本ブルジョアジーは大急ぎで日本資本主義の発展、強化、拡大をはからねばならなかった。産業政策から文教政策まで上から国家権力を最大限に動員して進めなければならなかった。富国強兵・文明開化、資本主義育成・学制発布・地租改正・秩禄処分を強行し、農民一揆・士族反乱・自由民権運動を弾圧した。明治政府は、過酷な搾取・収奪に対する農民一揆が多発するなか、1871年(明治四年)に「えた」「非人」の名称を廃止し、身分・職業とも平民同然とするとの布告である「身分解放令」を発する。同時に「新平民」等の官製差別用語まで作り差別をあおり、労働者や農民の怒りをそらす人民支配の道具として部落差別を再編した。
明治維新は日本における資本主義革命であつた。封建制の内部に成熟した商品経済と貨幣経済、ブルジョア的資本主義はもはや古い封建制を打破しなければ発展し得なかった。一国を一つの市場とし、土地から切り離された「自由」な労働者を求めていた。彼ら都市ブルジョアジーは、封建制度のもとで苦しめられていた、農民、下級武士、天皇のまわりの下級公卿と貴族、これらと連合し、この力で薩摩藩と長州藩などを連合させ、「倒幕・王政復古」を実現した。
この大号令が発せられた慶応三年(1867)十二月九日、十六歳の天皇の前で開かれた封建体制下の最後の会議は、すべて薩摩と長州の手によって準備されたものであり、しかもこの日には朝廷のまわりは倒幕軍の総司令官・西郷隆盛が指揮する大軍によってとりかこまれており、西郷が発したあの有名な一言「短刀一本あればすべて済むことだ」というこの力が天皇の号令をひき出したのであった。まさに天皇の命令はすべて倒幕軍の力が出させたのであって、当時「幕府軍と倒幕軍の双方の間では「玉(ぎょく、天皇のこと)をどちらがとるかが勝負だ」という声が叫ばれていたのをみても、天皇を利用してすべては革命軍がやったことであった。明治維新後日本はいっきょに資本主義へ移行、日清戦争と日露戦争を経て帝国主義へと転化していった。明治維新と近代日本とは、天皇を祭司としてまつりあげて発展、前進した日本資本主義、日本財閥、独占資本の巨大な権力とその前進の時代だということができる。
封建を打破する力
維新に立った一人ひとりは、何をよりどころにしたのか。多くの志士たちの思想は国学であった。国学はどのように人々につかまれ、変革主体の思想となったか。日本にはじめて生まれた歴史書である『古事記』と『日本書紀』は、天皇家を中心とする支配者文化の神話である。ユーラシア大陸や太平洋諸島に一定の広がりをもつ創世神話と、これに王権の究極の根拠は天上の神であるとする物語をあわせたものであり、そうすることでこの世の起源から天皇中心の王朝成立、およびその正統性の根拠を体系的に述べたものである。この二つの歴史書は、つまりは宗教的日本神話にもとづく大和朝廷の正統性の確認と、その万世一系の天皇支配権力の確立を宣言した歴史書でもあった。
宗教的日本神話にもとづく天皇支配の歴史書は、一君万民の皇国王義という日本民族主義思想へと成長転化された。日本民族主義思想の原型をつくりあげたものこそ江戸時代中期の国学者、本居宣長(もとおりのりなが、享保十五年〜享和一年、1730〜1801)であった。
本居宣長の時代はすでに生産力はいっそう高まり、商品経済、貨幣経済がすべての生活を支配するようになっていた。つまりは町人、商人(ブルジョアジー)が経済上の実権をにぎってきたということである。しかし政治上の実権は封建領主・武士階級(当時は徳川幕府)がにぎっており、その幕府の政治思想は中国からきた儒教であり、そのなかでも、一国の政治支配の安定は階級制と位階勲等にもとづく秩序の維持にあるとする政治学を含む朱子学が支配していた。ここに経済上の実権者と政治上の実権者との矛盾が激化しつつあった。
このような新しい時代、歴史の要求にこたえて出てきた政治上の新しい思想こそ、一君万民の古代へ立ち返れ、という民族主義思想であった。『夜明け前』で半蔵の思いとして述べられる「古代の人に見るようなあの素直な心」とは、封建制度の重圧からの解放を求める心そのものであった。
1700年代に本居宣長が説いたのは、日本国は神の国であり、神は天皇である。神はまた人間であり、人間の生きた生活の体現者である。故に万民は神こそ唯一の統治者であり、その神の前では万民は平等であるということであった。これはまさに徳川封建制度に対する反逆であり、その批判者であった。この思想はやがて明治維新の思想的背骨となった。一君万民思想は封建身分制度を内部から爆砕する。
『続日本紀』の養老五年(720)五月条に「日本紀を修す」とあるように『日本書紀』が養老年間に成立したことは確かである。それに対して『古事記』は本当に和銅年間に成立したのか平安初期に成立したのかなど議論がある。実際、『古事記』は長く公の場には現れなかった。『古事記』を発見したのは本居宣長である。現在の『古事記』という文書は、彼の『古事記伝』中に初めて出現した。宣長は『古事記』のなかに、原日本語を発見した。この「原日本語」によって「日本」、「日本人」、「日本民族」を定義した。
神道は中世以来、神仏習合によって本地垂迹的に読み替えられていた。主著『古事記伝』は営々三十五年の営みである。本居宣長は仏教的変質の中から神を救い出した。宣長は『古事記』を再発見し、そこに描かれた「日本」こそ固有の「日本」であるとしたのである。近代の国家は「国民」を定義することを求める。「日本人」を定義すること、これが本居宣長の仕事である。「日本」と「日本人」とは「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」と定義されたのである。
十六世紀後半から十七世紀初頭にかけて全国を統一した織田信長、豊臣秀吉につづく徳川家康による江戸幕府は、天皇を擁して自らの権力と政治支配を確立した。幕府は朝廷に小大名なみの御料(領地)と公家領をあたえ、幕府の援助で祭司的行事と、天皇制は残した。しかし幕府は天皇が政治上の実権をもつことは許さず、朝廷を厳しい統制下に置いた。天皇は名目的な作暦、改元、叙位任官の祭司的役割を保持していたにすぎなかった。権力は封建領主としての武士、武家がにぎったこの時代を封建社会と称した。仏教寺院は宗門改めや宗門人別帳などによって百姓、人民の管理を行い、封建支配体制を補完していた。
しかし、この時代にはもはや商品経済と貨幣経済がすべての経済生活と生産活動を支配し、経済生活上の実権は商人という資本を内包した階級がにぎってしまった。多くの封建領主が商人に借金をするという傾向は一般的となった。経済と政治の矛盾が蓄積される。このような時代、このような歴史が封建制度を覆し、商業資本やそれに基づく産業革命に道を開く世への革命を生み出す。そのような運動の精神的支柱となったのが、『古事記』の新たな発見としての本居宣長らによる国学であり、一君万民の民族思想であった。
本居宣長自身は江戸徳川の体制がまだ揺らいでいない時代に活動し、政治的配慮をこめて、「道をおこなふことは君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの学ぶ者は道を考へ尋ぬるぞつとめなりける」(玉かつま)と、自らの任務を真理の探究に限定し、「やすくにのやすらけき世に生れ遇ひて安けくてあれば物思ひもなし」(百鉾百首)とする非政治的な人生観を公にしていた。が、言葉から入って古代に仮託された人間を発見したことは、それ自身、封建体制を倒す方向へ人々をまとめていく力をもった。神たる天皇の前では万民は平等という思想は封建体制と両立し得ない。
平田篤胤の古道学
平田国学こそ青山半蔵が生涯の思想としたものである。
『夜明け前』は国学を次のようにいう。
「あの賀茂真淵あたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き貌を明るみへ持ち出すことが出来た。そこから、一つの精神が生れた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平囲篤胤、及び平田派諸門人が次第に実行を思う心は先ずそこに胚胎した。何と言っても「言葉」から歴史に入ったことは彼等の強味で、そこから彼等は懐古でなしに、復古ということをつかんで来た、彼等は健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それには先ずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をも撓めず慾をも厭わない生の肯定はこの先達が後から歩いて来るものに遺して置いて行った宿題である。」
平田篤胤(ひらたあつたね、安永五年〜天保十四年、1776〜1843)は、出羽国秋田佐竹藩の藩士の子として生まれた。幼少期に、浅見絅斎の流れを汲む中山青我に漢籍を学んだ。二○歳のとき江戸に出て苦学し、二五歳のとき備中松山藩士平田篤穏の養子となって藩主板倉家に仕える。本居宣長の古事記伝のことを妻に教えられ、ここに求めていたものがあると、古学に打ち込む。宣長に入門せんとするも宣長没により果たせず。三三歳のとき神祇伯白川家より神道教授、吉田家より学師の職を受ける。つまり、神道界はすべて平田篤胤の思想のもとに入った。没年に至るまで、該博の学殖と絶倫の精力をもって著述に従った。
篤胤は自らの学問を古道学(古学)ないしは皇国学と称した。古道とは、彼によれば
「古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる(古道大意、上)。」
宣長は、内にさまざまの思いを秘めてはいても、主著『古事記伝』はあくまで「事実としての古代」を明らかにするという態度で一貫していた。それに対して平田篤胤は秋田を出たときから行動の人であった。その思想は、実践的意思的性格を強くもち、さらに彼は、宣長とちがって、早くより大衆への講説を主要なる活動とした。また、一貫して儒教・仏教・神道諸派等とはげしく闘った。
篤胤の時代、北方ロシアが幾たびとなく近海に現れ開国を迫った。また篤胤は、キリスト教や西洋文物にも深い関心と理解をもち、迫り来る対外的な危機を見通していた。
平田篤胤の膨大な諸作の中で思想的な中心は『霊の真柱』である。この著作の目的を「大倭心を太く高く固めまく欲するには、その霊の行方の安定しることなも先なりける」と延べている。つまり西洋帝国主義の圧力をひしひしと感じつつ、この対外的危機に対する「国民」の思想主体の形成を目的としたのである。そしてキリスト教的創世神話や旧約聖書を念頭に置きつつ、天御中主神を創造主とする一貫した神道神学を、記紀神話を再構成する『古史成文』『古史伝』の営為をもとに、造りあげようとする。
これは江戸時代後期の思想世界に巨大な意味をもった。儒教的、朱子学的世界観を一掃するものであった。さらに平田篤胤は、天皇のもとにおける人民の平等を「御国の御民」として延べていく。一君万民思想の展開であった。
篤胤自身は幕藩体制を否定したのではない。ただ、古の人間に託して人間の生き方を提示した。一君のもとにおける万民の平等、それは必然的にそれを抑圧する幕藩体制への批判を内包した。その結果、平田国学は一つの政治的社会的力となった。全国に四千人を越える弟子(死後の弟子を含め)をもち、その膨大なつながりは幕末の大きな思想運動となった。 
今日の問題へ

 

神道とは
明治維新は半蔵の王政復古の夢を裏切った。明治政府は国学の徒の夢を裏切って成立した。このことは肝に銘じなければならない。明治以降のブルジョワ政府は、天皇を神に祭りあげて活用し尽くした。神道もまた国家神道として再編成され、軍国主義のために最大限に活用された。神道家もまた多くはこの明治国家の神道利用に手を貸した。しかし、恨みをのんで狂死した半蔵のことを忘れてはならない。明治政府は、一君のもとに万民の平等という形式をとりながら、実際は新興の資本家の政府であり、階級と差別の社会でしかなかった。
半蔵らは「古代の人に見るようなあの素直な心はもう一度この世に求められないものか」と考えてきた。が、それは実現しなかった。国学の側からいえば、一君万民の国学思想は新しい世を作り出すことも建設することも出来なかった。新しい人間の内実を生み出すことは出来なかった。
われわれにとって神道とは何なのかを明らかにしなければならない。
晩年の半蔵は飛騨の水無神社の宮司になった。つまりは神に仕える齋の道を歩もうとした。だが、余りにも平板に飛躍なく神官になってはいないだろうか。平田国学を学んだというだけで神官になれるのだろうか。神官とは何か。一般の人間と神官の間になんらかの飛躍がなくてはならないのではないか。
仏教では、出家し、得道し、あるいはさらに解脱しと、そこにはいくつかの段階の飛躍がある。青山家の菩提寺の万福寺は達磨の画像が掛かる禅寺である。新住職の松雲は諸国遍歴の修行の後に、京都の本山の許しを得てはじめて万福寺の住職になる。もとより江戸末期の仏道修行は形骸化し、僧堂遍歴の修行とていかほどに内容のあるものであったかはわからない。しかし少なくとも、仏教では大死一番、絶対否定とそこからの復活を経なければならなかった。あるいは絶対の阿弥陀の前で、その前に無限小である我に目覚めて、絶対他力の自己放下としての念仏者になるとしても、やはりそこには飛躍が存在していた。
神道にこのような飛躍はあるのだろうか。実際、神道にこのような飛躍はなかった。神道とは日々の生産活動の不思議への畏怖と、その生産に携わりつつ生きてきた先人の智慧そのものであるからだ。
人が協同してはたらくことを協働といおう。協働の場はあらゆるふれあい、広い意味の言葉を土台にする。協働の場を成立させる言葉、それは同時にその人をして人としている言葉である。それを固有の言葉という。働くものは、いのちのはたらきとして耕し、ものの世界から糧を受けとる。この形式はさまざまでも、この本質は人間に共通のものである。人間のいのちの響き、それは協同労働による生産である。いのちとは、ものの響きあいのひとつの形式そのものである。いのちを支える響きあいは、ものの環流であり、ものの交流と人間同士の交流そのもの、協同の労働による生産そのものである。ものの環流の結節点こそいのちである。生産は人間の協同の働きである。生産、それは世界の輝きそのものであり、世界の輝きと響きあいの人間における形式である。人間は、いのちの輝きと響きあいの形式そのものとして、協同の労働によって生きてきた。
この不思議への畏怖、ここに神道が成立する。
それぞれの固有の言葉は長い長い時間をかけて、協同労働とともに育った。言葉はまず何よりこの世界のなかで人間が生きるためにある。協同して働き、糧をうけとるためにある。はたらきの場こそ言葉が生まれるところである。言葉は、ものを分けて切りとる。それが世界を認識することである。どのように切りとるのかという枠組み自体、すでにこの言葉のなかにこめられた仕組みによって定まっている。言葉のもとで協同して働いてきた数知れぬ先人の智慧が、言葉の仕組みそのもののうちに蓄えられている。個々の人間は、言葉を身につけることで、この智慧を受け継ぎ人間としての考える力を獲得し、そして成長する。成長の過程で身につけた言葉は、その人の考える力の土台である。神道とは、言葉に蓄えられてきた智慧を時代の求めに応じてとりだし、明らかにすることそのものである。
神道は生産する力への畏怖を土台にした人がいかに生きるかの智慧に他ならない。生きるための智慧の結晶である。人がいかに生きるかの智慧を神の言葉、つまり「みこと」として言葉の中に聞きとることが出来てはじめて神官なのではないのか。「みこともち」が神に仕えるものの役目ではないのか。半蔵には、神と語らうということがなかったのではないか。神の言葉を聞き、神と対話し、語らうことが出来たならば、どのような時代にあっても、時代がどのように動こうとも、それはそれとしてそこでどのように生きていくのかはわかる。半蔵が絶望し狂ったのは神と語らうことがなかったからではないか。
神道を端的に言えば、言葉に込められた古人の智慧を聞きとり、語りあい、今に生かすこと、そのものである。日本語には、最も古い縄文時代の人々の生活とその言葉が込められており、そのうえに紀元五世紀になって、鉄器をもち田を耕して稲作をした弥生時代の生産の言葉が込められている。生産の不思議を言葉にし、この不思議に対して畏怖をもって祈りを捧げること、これが神道である。
もの、いき、こと
日本語の世界は弥生時代に飛躍的に深まった。縄文人がこの日本列島に定住し、青森県青森市の三内丸山遺跡のように、長期間にわたって定住生活、クリ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培、巨大木造建築物をもつ文明を発展させていたところに、紀元前五世紀頃、田を鉄器で耕し稲を栽培することを知る弥生人が西から東へ進んできた。日本列島は長く縄文系の人々と弥生系の人々が共存していた。弥生人は縄文人の世界観に深く影響されながら、農耕の智慧を日本語に積み重ねていった。縄文時代の考え方は日本語の奥深くに今も息づいており、時に奔流となって甦る。
世界のすべては「もの」である。ものほど深く大きいものはない。「もの」は「さだめ」や「きまり」など個別の人間を越えた存在を意味したが、弥生時代に、ここからいわゆる「物」に意味が普遍化された。この世界は「もの」からできている。森羅万象、すべてはものである。これが世界である。ものは存在し、たがいに響きあっている。これが事実である。世界はそれしかない。そのなかで、人とものとは豊かに交流しあい、語らいあう、これが世界の輝きである。ものは、いわゆる物質と精神と二つに分ける考え方での物質とは、まったく異なる。このような二分法ではない。「もの」は実に広く深い。この深く広いものを日本語は「もの」という一つの言葉でとらえる。この意義を吟味し、ここに蓄えられた先人の智慧に注目しよう。
「もの」は生きている。ものの生きた働きを「いき」という。この世界の輝きと響きは「いき」の発現であり「いき」そのものである。ものの生きる内容が「こと」なのである。「もの」は「こと」にしたがい、ことを内容として生成変転する。「もの」が生成変転することの中味が「こと」である。
「いのち」は、「もの」の一つの存在形式である。「もの」と、ものの「こと」と、ものがことにしたがってはたらく「いき」が、世界のなかで一つの単位をなすとき、それはいのちである。ものを生産し価値を生み出す労働の源泉としてのいのち、である。
これが「もの・いき・こと」として日本語に組み込まれたいのちの存在構造である。
人間もまたものからなる。生きるものはすべて、ものが「いのち」という位にあるものである。人間もまた生きものである。ものは孤立しているのではない。ものはつねにたがいに関連しあい係わりあって存在する。人もまたものの世界のなかに生まれ、ものと係わる。人が生きることはものとの係わりそのものである。ものと人が係わる内容、それが「こと」のはじまりである。
人はものの集まりの意味を聞きとり「こと」としてつかむ。この働きが人を人間にしている。人が、ばらばらにある「もの」を相互に関連する意味あるもののあつまりとしてつかむとき、そのつかんだ内容を「こと」と言う。話者と世界の関わりを、話者が統一してつかんだとき、それが「こと」である。人にとってこの世界は、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それを人は「こと」としてつかむ。
山の光景にわれを忘れ、職人が制作に没頭し、全精神を傾けて仕事に打ち込んでいるとき、人は「こと」のうちにある。そしてわれにかえり反省が生まれる。そのとき体験した「こと」を言葉にする。こととしてつかむ行為は、ものの生きた事実から、名づけられた言葉への転化であり、ものとの直接の出会いから、人間の考え方、つまり概念としての把握へ転化する。これが経験である。
ことそのものは言葉にならない。ことそのものは、有為転変する世界をこととしてつかむ行為の土台であり、その前提である。人はこれを神としてとらえてきた。「みこと(御言)」は神の言葉であった。今われわれはこれを「こと」そのものでつかむ。ことは直接に知るものであり、名づけるものではない。「こと」が、ものからものへ、あるいはものから人へとどけられ、新しいものが「なる」。
このようにして、人間は言葉によって協同の労働をおこなう生命体となる。
世界はいきいきと輝き運動を続けている。人間もまたこの世界のなかでいっとき輝きそして生を終えてものにかえる。そのいっときを「いのちある」ときという。いのちあるとき、それを生きるという。人が生きる内実は、「こと」の内に入って「こと」をつかみ、人生を動かしていくことである。この営みを「ことをわる」という。人生とは「ことをわる」営みそのものである。
「いのちある」というその「いのち」そのものはことばにならない。世界が、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それはいのちの発現である。人間がいのちあるのもまたいのちの発現である。人間が生まれ、そして帰っていく大元であり、人間にさちを贈る大元でもある。いのちは深い。いのちの発現は、つねに、ことをわるはたらきという形でおこなわれる。それが人間の存在の基本構造である。
人のいのちがはたらくとき、そのところで、ことは言葉となる。いのちは、ときであり、世界の輝きであり、世界の意味である。ものはたがいにことわりをやりとりしている。つまり、ともにはたらく場において「ことわりあう」。「語りあい」、「語らい」である。ものが語らう、これが世界である。ものが語らい響きあうとき、そのことそのものとしてことわりはひらかれる。
人が生きてはたらくことは、ものとひととのことわりあいそのものであり、世界との語らいである。人がこの世界で一定のあいだ生きること自体、ことわりである。いのちあるものとしての人は世界からものを受けとり生きる。それがはたらくということである。直接のもののやりとり、つまり直接生産のはたらきこそ、いのちの根元的なはたらきであり、その場でこそもっともいのちが響きあい輝く。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。つまり、人は語らい協同してはたらく、つまり協働することで人になる。
神道と天皇
弥生時代末期から古墳時代の日本列島は戦乱の時代であった。この時代、後漢が滅びた後であり東アジア全体が大動乱であった。中国大陸、朝鮮半島、日本列島はこの大動乱の渦中にあった。そのなかで日本列島を武力統一し、列島中央部を支配したのが今日の天皇家の祖先である。彼らは、もともとこの日本列島のなかから成長したものかどうかも定かではない。中国大陸や朝鮮半島から亡命するようにやってきたものもあった。応神も仁徳も土着のものでない。
強大な武力をもったものが支配を広げていくにあたって用いた方法は「土着の習俗を取り込む」ということであった。この日本列島はもともと縄文文明が開けていた。そこに弥生人が外来し、長く並存しながら弥生の農耕文明が支配的になっていった。さらにその上に天皇家の祖先がやってきたのである。
彼らは農業協働体が協同体の維持発展のために行ってきたさまざまの習俗を取り込み、あたかも天皇家がそれを代表するかのように振舞うことで支配の権威を打ち立てた。その典型は「すめらみこともち」として天皇を位置づけることであった。固有の言葉を神から受け取るものとしての天皇、である。そして新嘗祭である。当時の基幹の産業である農業の発展を願う人民の心を取り込むため、農業協働体のなかで行われてきた習俗を取り入れ、それを大嘗祭と結びつけることで、天皇が即位するにあったて正統性と権威づけを演じ出してきた。このような支配の虚構は天武天皇から天平時代に完成する。日本書紀編纂の過程がこの支配のあり方が仕上がっていく過程でもあった。
天皇家を中心とする貴族社会が支配権を失って以降も、その時々の支配者は「日本文化を体現するものとしての天皇」という虚構を支配のてこに深くかつ本質的に活用してきた。それは、現在まで続いている。
幕末、時代の変革を求める人々は「古代の人に見るようなあの素直な心」を世に取り戻そうとした。江戸時代にあっては天皇家もまた徳川支配のもとにおかれ、権威は失墜していた。このゆえに、反徳川の感情は天皇の権威を回復しようとする実践と結びついた。これは理由のあることであった。
しかし天皇が「古代の人に見るようなあの素直な心」を体現するというのは、作られた虚構であり、王政復古によってその「心」が回復することはあり得なかった。逆に、反封建の運動は天皇という回路を経由して新しい支配体制のなかに取り込まれていった。
歴史的には、天皇家の祖先が人民支配の方法として行った、文化の取り込みに源をもつこの体制保持の方法を打ち破らなければ、日本列島に生活する人民の未来はない。天皇家に奪われた人民の生活と労働に根ざした文化を人民の手に取りもどさなければならない。
神道は、天皇制を脱却しなければ本来の輝きを取り戻すことは出来ない。固有の言葉に根ざした生きる思想とはなり得ない。
それぞれの神道
日本語には日本語に結実した智慧としての神道があるように、 朝鮮語にも朝鮮語に結実した智慧としての神道があり、アイヌ語にもアイヌ語に結実した智慧としての神道がある。
それぞれの神道は互いに認めあって共生しなければならないし、 そのための智慧と実践が今日の課題である。 固有性を深く耕して徹底し、固有性を突き抜けた生きた普遍性をめざす。言葉のなかに蓄えられてきた智慧は、それが直接の生産を土台にする生きた人間の智慧であるかぎり、十分に掘り起こされたならば必ず通じあえる。人間はわかりあえる。西欧文明が押しつけた疑似の普遍性ではなく、固有性が解放された人間の生き生きとした普遍性は可能である。固有性が互いを認めあって共存するところ(場)としての普遍性は可能である。しかし、それを現実の世界で実現していくためには、膨大な努力の蓄積と、現実のちからが不可欠である。
これは日本語だけの課題ではない。それぞれの言葉を固有の言葉とするものが目的意識をもって言葉のなかに蓄えられてきた智慧を掘り起こし、現代に甦らせ、これからの言葉の土台とすること、これが必要である。それはまた、西洋語自体を相対化することである。
二十一世紀の基本的な問題としての「資本主義、国家、民族」について多くの論説があふれている。しかし、すべての言説は、その固有の言葉がその言説をとおして少しでも豊になるものでなければ、無意味であり、意識して言葉の土台を耕す作業を内包しないかぎり空疎である。
今日、民族国家を越えているのは「市場」という普遍性を掲げる国際資本である。しかしこの普遍性は、「もうかる」ことを第一の規準とし、そのためにすべてを単一の土俵に上げ、もうけの対象としていこうとするものでしかない。かつてのキリスト教の「普遍」もまた、西洋世界の拡大を支える論理であったが、それと同じである。「神」が「市場」に代わった。この「普遍」の下では固有性は抹殺される。この「普遍」に抵抗し闘い、新たな水準で真に「わかりあえること」を実現することは可能か。その道は何か。
二十一世紀に入り、日本国は完全に閉塞しつつある。これは必ず大きな崩壊に向かう。しかし、破壊なくして建設なし。多くの困難が伴っても、徹底的に破壊される方がいい。たとえ困難でも前途のある道を歩むことができる。破壊のなかから建設されるべきものは、固有性と普遍性が統一された人間の生きる場である。個別の日本語を深く耕すことをとおして、神道の精神は復興するだろう。それが半蔵の思いを現代に受け継ぐことである。  
諸話

 

諸話1 / 民衆教化政策と神道家
明治4年(1871年)5月14日の太政官布告がある。これは、神官・社家の世襲禁止を明記したものだが、この布告によって国内の神社が伊勢神宮を筆頭とし官幣大社・官幣中社・官幣小社・郷社・村社といった形に格付けされる事となった。これらの社格に漏れた神社は無格社とされ当時の11万を越える神社のなかでもっとも数が多かったのだが注意すべきなのはこれらの格付けを得る為に社の歴史が書き換えられ皇室の祖先神を祭っているように書き換えられた例があった事である。
こういった一連の流れに乗り切れなかった多くの無格社の宮司や神官はどうなってしまったのだろう?非常に気になるところだが、先日より谷川穣氏による「明治前期の教育・教化・仏教」という本を手にする機会があってこの本から以下の事を学ぶ事ができた。私は以前、岩井忠熊氏による「近代天皇制のイデオロギー」を読んで、「神官・社家の世襲禁止」が多くの神官を神道界から追いやってしまったものと想像していた。しかし、谷川穣氏の著書を読むと、それまでの仏式の葬儀から紳葬祭への転換指示により僧侶も葬儀から一時的にせよ排除されていた事が読み取れる。これら僧侶と神官にとって、大教院体制が新たな路を与えた。つまり、中央に大教院その下部組織としての中・小教院によって、民衆の教化−日本という国の成り立ちと天皇を中心とした国家体制を作る−を目的とした教育方針がとられる事になったのである。
国家主導で始められたこの教化政策へはそれぞれの立場の者がそれぞれの思惑で参加する事になる。例をあげれば
神官−より安定な収入を得るための神道の流布
僧侶−葬儀から外され、檀家を失ってしまう流れを押し留め或は復活させる
府県担当−国家の方針を民衆に円滑に伝達する補助として
大教院−「神道」を「国教」として確立する為の教化の要として
となろうか?個々の人々の思惑はあっただろうが谷川氏の研究の結果を概要すると上に示すような流れが見えてこよう。
こういった教化政策と平行して小学校の設立と教育も同時期に始められていて、教化による説教と教育との違いは比較的少なかったから、両方を兼任している者も多かったし一時期、教化の神官や僧侶を学校の教官とすることも是認されていた。しかし、その流れの長くは続かず、明治6年(1873年)8月28日には教導職と学校教員の兼務禁止令が出される。これによって、兼任していた者は僧侶・神官へ戻るかあるいは僧侶・神官を止め学校教育に着くかの決定を迫られることになった。神官の中には、教員として生きる道を選んだものも多数いたのであろう。単純に「神官・社家の世襲禁止」によって、神官を辞めてしまったわけでは無いのであって、そこにはやはり何らかの思惑が働いていたのである。
福島県においては、神官であった吉田光一や苅宿仲衛が明治維新以降に神官を辞めている。吉田光一は神官を辞めた後には教官になった記録も残されている。彼らがどのようないきさつで神官を辞めるようになったか、調べてみると面白いだろう。さらに、この二人自由民権運動に身を投じる事になる点も共通している。彼らが教導職による説教を行っていたとすればこれら説教熱にとって変ることになる演説−反政府を説く演説会へと進む道へと入っていったのはむしろ自然な流れだったのかもしれない。
諸話2 / 北白川宮能久親王について
「幕末の日光山」資料をみていたら、維新当時輪王寺門跡であった「公現(こうげん)法親王」が還俗して「北白川能久(よしひさ)親王」となられたと書かれていた。「北白川能久親王」は、日清戦争後に台湾を植民地にした際、人々の反抗を予想して近衛師団を送ったがその師団長となった人物である。彼は、台湾でマラリアに罹患して亡くなったのだが、その「北白川能久親王」と輪王寺門跡で還俗した「北白川能久親王」がどうしても自分の中では一致しなかった。
幕末の日光山
江戸から明治にかけて、日光山輪王寺・東叡山寛永寺(上野)・比叡山延暦寺の三山を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。そうして55世門主として天皇家より守澄(しゅちょう)法親王が迎えられ、輪王寺宮はその後明治時代まで13代続くことになりました。特に13代目、最後の輪王寺宮は幕末から明治にかけて起った社会の混乱の中務められました。幕末の日本、そして日光ではどのような事が起ったのでしょうか。
安政元年(1854)、アメリカを筆頭とする対外的圧迫のもとで、日本は日米和親条約を結んで開国しました。その後さらに通商条約の締結を強要され、幕府はこれに調印しようと、朝廷に裁可を求めますが、朝廷からは調印拒否の態度をとられ勅許を得られないまま、安政5年(1858)、日本はアメリカと日米修好通商条約を締結しました。この頃日光山では、異国船の来航に伴い、江戸からの要請で世上静謐(せじょうせいひつ)の祈祷が行われました。その後も幾度か国土安穏などの祈祷が行われています。
慶応3年(1867)、大政奉還により徳川幕府は朝廷に政権を委譲、日光山にも討幕運動の波が押し寄せ、旧幕府軍や新政府軍が足を踏み入れ始めます。明治元年(1868)、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が始まりました。輪王寺門跡である輪王寺宮公現法親王は旧幕府側とみなされ、一時東北へと逃れますが、旧幕府軍の降伏により、その後京都で謹慎させられます。明治3年(1870)、公現法親王は復飾(還俗)され名を北白川能久と復し、輪王寺宮は断絶しました。
日光においても明治4年(1871)、神仏分離発令により、寺社が分離され「輪王寺」号は廃止、旧名の「満願寺」を名乗ることを余儀なくされます。朝廷の敵とみなされた東照宮の存続か廃絶かも検討されていました。各御堂の移転も迫られていましたが、日光町民から移転阻止運動が起るなど、日光は騒然となります。明治9年(1876)、明治天皇が東北御巡幸の際日光へ立ち寄られ、輪王寺に宿泊されました。現状をご覧になられ、「旧観を失う事なかれ」の一声と御手元金を下賜いただいた事により、日光山の堂社は破壊を免れます。明治16年(1883)、皇室縁故寺院として輪王寺門跡の称号が復活し、現在に至ります。・・・

安政5年(1858)に12歳で輪王寺宮公現法親王となられ、慶応3年(1867)21歳で輪王寺門跡を相続されていました。この後、上野の寛永寺に彰義隊が篭った時に擁立されています。この関係から会津・仙台と向かいますが、幕府軍が降伏したことによって謹慎となりました。しかし、その後外国への留学等を経て明治5年(1872)には北白川宮を継ぎ、能久親王となられました。この後明治7年(1874)からは陸軍に入りついに明治28年(1895)には近衛師団長となって台湾へ行き、マラリアに罹患し49歳で亡くなったのです。なんと、波乱万丈な人生だったことでしょう?本来であれば、日光山輪王寺で一生を過ごすべき方が明治維新の波に巻き込まれ明治政府の軍隊で働くことになるとは。まるで2つの生を生きたかのようです。
諸話3 / 国家神道の成立過程
村上重良氏の書かれた「国家神道と民衆宗教」は以下の文章から始まっている。「一八六八年の明治維新から、一九四五年の太平洋戦争の敗戦にいたる日本の近代社会は、天皇崇拝と神社信仰を一体化した新しい国教である国家神道が、全国民を精神的に支配した時代であった。・・・」
明治維新以降、民衆を支配する道具として考案・運用されてきた国家神道は、それまでに民衆がはぐくんできた宗教−村上氏は民衆宗教と呼んでいるので、この名称を使用する−とは全く別のものである。日本の国は天皇が支配する国であるという思想(いわゆる日本の国体)はまさに国家神道そのものの教義であった。明治の時代になってから作り出されたこの国家神道はわずか七十余年で日本というこの国を崩壊寸前にまで追い込んだ。この恐るべき国家神道はいかにして作られいかにして民衆のなかに入ってきたのであろう。今回はそれを少し考えてみたい。
幕末に国学者の平田篤胤が復古神道を唱えている。「・・・復古神道の特徴は、復古を実現するための理論としての実践的性格にあり、そのために『古事記』『日本書紀』等の古典を根拠として天皇崇拝の絶対性を主張した。・・・復古神道は本質的には神道の学説にとどまり、宗教としての内容が未成熟のまま、幕末維新期の政争の激化を迎えることとなった。・・・このような、いわば異端の神道思想が、倒幕の政争の過程で政治上の指導的イデオロギーとなりえたのは、その宗教上の復古主義と尊王主義が、天皇の古代的宗教的権威の復活による日本の中央集権的再統一という王政復古の政治目的を、イデオロギー的に基礎づける性格をそなえていたからである。・・・」この復古神道の内容が維新政府にとっては非常に都合のよいものだったのであろう。政府はそれ自体としてなんらの権力も持ってはいなかった。彼らが政府として国を動かしてゆく為にはなによりもまずその正当性が必要であった。政府にとってはこの復古神道はまことに都合の良いものだった。「天皇崇拝」という理論的な裏付けが政府にはぜひとも必要だったからである。
当時の民衆の間では、天子の存在は殆ど知られていなかったが、伊勢神宮の存在は知っていた。伊勢神宮はそもそも天子の祖先を祀った神社であったが、中世以降は皇室の勢力が低下してきて伊勢神宮の存続自体が財政的に苦しくなっていた。こういった状況に対応する為に伊勢神宮は経済的な基盤を民衆に求めだした。神宮の御師(おし)達の努力の結果、神宮は農業神信仰の対象とされ、伊勢信仰はしだいに民衆に浸透していったのである。政府は天子がこの伊勢神宮の大神の子孫であるという説明から天子の存在を説明した。さらに、天子は正一位の神様(「稲荷大明神」−当時の民衆には稲荷神社もまた豊作祈願の神として有名だった)よりも偉いという点をも強調してその存在を印象づけようとした。
こういった説明に合せ、それまでの仏教による支配を止め神社による支配に変更しようとした。神道国教化の推進である。これまで、寺院の下に組み込まれ仏教勢力からの独立を求めていた神道関係者は政府による「穏便に進める」という布告を聞かず、急激な変化を求めたことが、大きな原因であった。いわゆる廃仏毀釈運動である。これらの方向性はいずれも効果がおもったほどにはあがらなかった。かえって、幕末から明治の初めには多くの民衆宗教が生まれ、信者を増やしていった。民衆にとっては、天皇の存在よりも現世的なご利益をもたらす民衆宗教のほうが馴染み深かったのは当然であろう「・・・当世の神詣りはかっての国家神道によって『俗信』とせられた『霊験』の信仰であって、・・・参拝者の心はそこにはなく、ひたすら『霊験』を祈っているのである。・・・」。
『霊験』を祈る、つまり御霊信仰にはじまる民衆宗教が、当時の一般的な民衆の信仰であった。国家神道が民衆に受け入れられるようになるのは、明治二十三年(一八九○)十月三十日に公布された教育勅語の公布によってであろう。教育勅語の内容は国家神道にのっとりながらも宗教的な臭いを取り除いたものである。だからこそ、教育勅語は「宗教」とは全く関係がなく道徳的に日本国民が守るべき指針だということで強制された。
権威付けのみでは、政治は動かない。政府は、天皇を絶対的は権威とすることによって政治権力としようとした。これを「祭政一致体制」と呼んで推進していたが、現実的には「権威」には「権力」はついてこなかった。天子である天皇が政治的な権力を得る為に必要なものそれが軍事力であった。天子である天皇は、大元帥となって陸軍・海軍を統率することによってはじめ天皇となった。「・・・重要なことは、天子であることが文武の大権を掌握する唯一の根拠とされていることである。しかも、天子なるが故に排他的に兵馬の大権を掌握する大元帥であり、大元帥であることいによってはじめて天皇としての職責を果たす事ができるという論理になっている。ここに三位一体の天子と天皇とのそれぞれの論理的関係が明らかにされている。・・・この理論はその後の明治憲法下の国家形態を貫く論理とされてきた。宗教的権威としての天子であることが、統治権の総覧者としての天皇であるための唯一最大の根拠である。これは法外の理論であり、法を超越する理論とされた。・・・」。天皇が憲法によって規定されたことによって、国家神道は理論的に確定された。明治憲法の制定と教育勅語の公布が国家神道の真の出発点となったと言える。
「国家神道は宗教ではなかった。」という理論が今でも存在する。しかし、神職が国家の官職であった点をのみ見ても、国家神道は国家自身が布教者となった、特殊な宗教であったことは間違い無い。大江氏は国家神道のあり方を「いわば天皇教とでもいうべき宗教」と規定し、「天皇自身が『惟神』(かんながら)の道の創始者であり、皇祖神を最高の絶対神とし、その皇祖神の唯一の祭祀者であることによってみずからもまた現人神であるのが国家神道である」と書かれている。これが国家神道の実態であり日本の国体であった。  
諸話4 / 政府による国民統制
今年の春、近所にある稲荷神社の例祭に参拝した。神主(稲荷神社には神主が居ないので国魂神社から来てもらって拝んでもらっている)が祝詞をあげているのを後ろの方から見ていた。(なお、稲荷神社は「五穀を司る神として信仰された宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)を祀った神社である。)拝殿の両側に高さでいうと20センチ位の大きさの白く塗られた狐が一対立っていてその中央に直径でいうと7〜8センチ程度の鏡が置かれていた。この神社ではあの鏡が御神体となっているのだろう。
私の住むこの町はそれほど大きな町ではないが小さな神社を入れると他にも数社の神社がある。以前はもっと多かった。日本には昔から「八百万の神」という考え方があつて鎮守の社などを加えるとかなり多くの神社あったが、その体制が大きく変貌を遂げたのは明治の時代になってからで、具体的には神仏分離が行われたことによる。明治という時代を考えるに当たってこのあたりの経緯を知っておく必要はあるだろう。
明治初年に、「神道国教化政策」がとられる。これは、明治維新自体が「王政復古の大号令」によって行われた事、そして神道家や国学家が重要な役割を演じてきたことから新政権の中で神道家の地位が高まって来たことによる。このことは、幕藩時代とかわらず(あるいはそれ以上に)キリスト教に対する弾圧があったことを意味する。一時的であったにせよこういった動向が国の基本政策としてとられたことは大きな出来事であったが、この政策は政府が条約改正と文明開化を当面の最大目標として推進している以上、(やみくもな耶蘇教弾圧や神道国教化政策は)修正せざるを得なくなった。そんななかで1871年(明治4年)に太政官布告が出された。その内容は神官・社家の世襲禁止であり、「神社の儀は国家の宗祀」であると規定さた。これによって政府任命の神職が神社に奉仕することになる。言葉を変えて言えば、神社に対する国家支配の基礎がこの時期に形づくられたということになろう。制度の変遷について見てみると、以下のようになる。
 制度の変遷 (略)
王政復古によって成立した神祗官が規模縮小を経て教部省に転換される。神道国教化政策の行き詰まりの影響である。1887年(明治10年)には、教部省は廃止。神社と宗教の区別が明確化され(神道非宗教説により)宗教局は文部省に移管され、神社局は内務省の外局である神祗院に昇格する。政府による神社行政は、神職の人事を含め全て内務省の管轄するところとなった。日本には本来多くの神社・信仰が雑多に存在していたがこれらが国家神道として組織化されてしまった。
続いて、神社の社格を見てみよう。神社は伊勢神宮の社格を最高なものとし、以下いくつかの段階に分かれている。図にしてみると分かりやすい。官幣社とは、歴代の天皇や皇族をまつる神社(又は、歴代天皇の崇敬顕著な神社)。別格官幣社とは、国社格について家に特別な功労のある臣下を祀った神社。国幣社「延喜式神明帳」にのる神社で地方の国司が祭る神社又は国土経営に功績のあった神社(各国の一宮またはこれに準ずる由緒ある神社)のことである。
1938年時の調査によれば、全国に11万の神社があるなかで、官・国幣社は200余社、村社が4万4千余、無格社は約6万社であった。なお、余談であるが靖国神社は別格官幣社であった。
1971年(明治4年)に制定された「郷社定則」には「郷社ハ凡戸籍一区ニ一社ヲ定額トス」と定められ、区内にある特定の一社を郷社に列格し、他の郷社付属の村社あるいは無格社とされた。この結果、無格社の中には破却されあるいは他社に合併されるか神官がいなくなる事態が頻発したという。本来村を中心として発達し祭られてきた民衆の為の神社の形態は、大きく様変わりした。それは、村の構成員である民衆の都合や利益といったものを全く無視し、国家神道を無理強いし統制・支配したことをあらわしている。
では、なぜ政府はこのような政策を推し進めたのであろう?その鍵は社格の決定に隠されていた。つまり、より高い社格を得る為には、国家の意に沿うような祭神が祀られているような由緒の神社が有利である。その為に、天皇を中心とする国家体制、神武天皇からはじまる天皇の系列の正当性を是認し、祀る必要があった。これこそが、政府の望んだ「国体」であった。
神職自体の任命すら内閣に握られている状況、及び神社と宗教を分離する事(「祭教分離」と呼ばれている)によって神社は非宗教の「国家の祭祀」となる。神社は仏教やキリスト教、他の宗教とは全く別とされたのだ。この機微について高橋哲哉氏は以下のように述べている。「・・・仏教やキリスト教を「宗教」として認めて一定の「宗教の自由」を与える。他方、国家神道は「国家の祭祀」であるから、どんな「宗教」を信じる者も日本国民であるかぎりその下にあり、その祭祀儀式を受け入れなければならない。・・・」。簡単に言うならば「どんな宗教を信じても構わない。ただ、国家として天皇の国家を敬う行動だけをとれば良い。」ということになろう。しかし、これがどれほど困難な事だったかは戦前のキリスト教の例を見てもらえば良い。彼らは、「祭祀」と「宗教」を分けること、「国民としての公の義務」と「各自の私的信仰」を分ける事で宗教を貫こうとしたがその結果、「祭教分離」はいつしか「祭教一致」となってしまっていた。つまりいくら神道は宗教では無いと言ってみても神道はやはり宗教の一つであった。一度に二つの神を祭ることは殆ど不可能であった。
国家神道が天皇と結びついた宗教である事、そして国家神道は日本人の中に昔から培われてきた信仰としての神道とは全く別なものである事は忘れてはならない。 
諸話5 / 「夜明け前」についての私信・宮本百合子
(前略)
藤村がフランスにいた間に、十九世紀というものを世界的な感情で感得し、日本の十九世紀というものを描きたく思ったということ。そして、十九世紀を維新後と徳川時代との区切りで見ず、昔をただ反動保守の力としてばかり見ず、その中に明治を生んだもの、その中に新しい活力をひそませていたものを描きたいということが、なかで読んだ藤村文学読本のどこかにあったパリでの感想中に書かれていました。このことは大変私には面白く思われた。
世界の十九世紀という時のうちに日本のその時代をおいて観察しようとする大きい規模・感覚、並に新しいジェネレーションに対して古いものが本質的にただ古いだけではないのだぞというところを押し出さずにはいられぬ藤村自身としての心持を感じ、その点を私は面白く感じました。
「夜明け前」は或る面から言えば一種の歴史叙事詩であるが、主観的に藤村は歴史の或る時代の或る役割をヘンスーの土地のかくの如きものも負っているということを(即ちマルクシストでない自分だって時代の動きに負わされているものがあるという心持を)たて糸としていることはたしかですね。だから貴方も書いていられるように、客観的に描かれているようで、全篇実に主観的である。このことは「夜明け前」の文章、描写の方法――貴方が「読み辛い苦汁のような」と言っていられる文章にもあらわれていると思います。
そしてこの文章の特徴は、作家藤村の本質的なものの表現として、「夜明け前」・藤村が批評される場合におとしてはならぬ点と思う。リアリスティックであるようだが(場面の登場人物、その動作、言葉、たとえば土地名物の餅のたべかたまでこまごまと書いてあるが)読者はそれがすべて藤村流の気分・心持で圧えられ、思い入れを伴って描かれ、人物自体、動作自体が地の文の上に浮動して活躍していないことを感じる。ダイナミックでない。自由でない。精緻であるが、縫いつぶしの刺繍を見るようなものを感じる。この窮屈な文章が藤村の気組みの反映、或は堂々さとして現代の人々に尊敬されることに、現代文学の貧弱さ、同時に健康な若い文学的反抗心のよわさ、確信あり自信ある発展的・前進的活躍がないフラフラ雰囲気に飽きた一般人をその窮屈さも或る快感として把えるところとなっている。更に、「夜明け前」を読まぬ者まで昨今はそれを一応尊敬するのが常識となって来ているということ、現代の人々が或る大きい事業(文学的にでも)をひどく求めていながらそれを自身やる根気もなく、又すっかりやられて目の前につきつけられなければそういう努力の過程をも野暮なことのように感じる神経衰弱症。そういう心理的な点は、私がなかで文章というものの諸問題について考え、藤村の文章に非常に特徴を発見し、それを浅くではあるが考えて見たときからの興味の中心です。
藤村が「あらゆる存在と必然とを肯定するに到った」その謎の説明として、貴方が藤村の社会的・階級的制約をあげ、小市民的インテリゲンツィアとしての観照的態度をあげてあるのは誤った解釈ではないと思いますが、彼が自分の長男をわざわざ木曾にかえして小さいながら自作農として暮させているところ、人生的な意味で「百姓の道」に対する藤村のつよい肯定的執着、その地味な根づよい営みということに幸福と「中庸の道」即ち時代的変化の血、人間のよってもって立つところ(経済的にも)をおいている点、何か都会の小市民的インテリゲンツィアというには云い切れぬ粘り、あくどさ、くい下りがある。藤村の右のものが彼として今日あらしめ、「夜明け前」をあらしめており、それは都会的なものとは異った粘着力、土の強情さ、外見従順でインギンな執拗さであると思います。藤村においてはこの点がひどく複雑である。
例えば「新片町より」の文章をよんで、誰があれを江戸っ子の浅草住居と言うでしょう。農民が珍らしい鮮魚のエラのうらまでを、味いつくしてたべ楽しむ、ああいう舌なめずりがある。外から来たもの、都会を発見したものの都会の味いかたです。人生におけるこの味いかた、この田舎っぺえさが藤村にあっては骨子をなしている。
私は、何だか藤村においては都会の小市民的なもの(教養)の底から根づよい中農性ががんばり、顔を出しているように思います。どうかしら。それが彼の根本的の押しとなって生存せしめている忍耐ともなっていよう。
藤村における「詠嘆的、慷慨的」なものを詩人的稟質と貴方は書いておられますが、どうかしら。こういうものは藤村が自身の教養と生活の道とを、所謂心も軽く身も軽き学生生活でのみ得ず、自力で自身の肉体でものにして来ているところからも生じているのではないでしょうかしら。
村山(知義)の意見に対して蔵原の批評をひき、貴方が半蔵によって明治変革は叢の中から、下から見られるとしていないことは賛成です。ただ半蔵が百姓の一揆を理解しても、或はセイタを背負うても、自身の「限界を越えることは出来ぬのである」とだけ書きすてず、何故それを越え得ず、越えなかったのはどの点だ、と説明すべきだったと思う。労働者のやるようなことをやったって労働者じゃない、小ブルとしての限界性は越えられないのだ、そう言い切ったのと似ているから。
平田イズムが当時にあっていかに発生し、いかに半封建の新興ブルジョア勢力(薩長、水戸一派)に利用されたか、そこからどの位の大衆の犠牲が生じたか、このことは十分くまなく、現代性をもって、貴方の獄中での潜勢力を傾けて解剖されるべき項だと思います。ここは面白い点です。
藤村が平面的に一つの思想の流れという風に扱っているだけ、半蔵の幻滅が大衆の悲劇の一典型として十分押し出されていないのではないかしら。
平田イズムが単純に社会的現実から時間的に乖離したのではなく、もっと悪どく当時の政権獲得運動者によって利用され、一般をその嵐にまき込み、しかも一時期の後、素早くそのイデオロギーの利用をすてたところもあるのではないでしょうか。尊王・攘夷という四字をいかにサツマの殿様、徳川、イギリス、フランスが手玉にとって、沢山の血を流させたことか。このところは本当にドラマティックです。
(後略)
〔 池田寿夫宛私信の一部 / 一九三六年九月〕  
 
東白川村の廃仏毀釈

 

私たちは今、豊かな文化に恵まれ平和でしあわせな生活をしていられるのは、現在の生活を支えた大勢の祖先があったればこそであります。
現在、一人の人には10代さかのぼると1,024人の祖先があります。20代さかのぼると実に104万8千余人の祖先があることになります。
私たちには、これら祖先の血が流れているのです。この人たちの愛情と養育、そして山を拓(ひら)き、生活の基盤を造った並々ならぬ労苦の上に現在の生活があることを思うとき、敬仰感謝の念を禁じ得ません。歴史の大切さをしみじみと教えられます。
歴史の中には産業、文化、教育、治政などいろいろな分野があります。これらが積み重なり相互関連、統合して大きな歴史の流れになっています。
その中でも特に宗教は、昔は寺社奉行という役所があって、お寺や神社を中心に藩内の行政全般を司っているように、藩政の中でも重要な役目をもっていました。
廃仏毀釈は、このような状況のなかで行われたのですから、当時は大事件でありました。
そこで私たちは、お寺の無い村東白川村の仏教についてまとめてみます。
仏法を廃し、釈迦(しゃか)の教えを棄却するという意で、仏教を絶滅することをいいます。
昔、中国で、北魏(ほくぎ)の太武帝(ぶてい)の四四六年、北周(ほくしゅう)の武帝の574〜577年、唐(とう)の武宗(ぶそう)の845年、後周(こうしゅう)の世宗(せいそう)の955年の4回にわたる仏教弾圧がありました。三武(ぶ)一宗(そう)の法難として有名ですが、いずれも国家財政との抵触、教団の腐敗堕落、道教との確執などが理由でした。
わが国では、明治初年、ときの政府の神道(しんとう)国教政策に基づいて、仏教の抑圧、排斥運動が行われ、特に慶応4年(1868)、神仏分離令が出されると、平田派国学者の神官を中心に仏堂、仏像、仏具、経文などの破壊、焼却が行われました。とりわけ苗木藩の仏教排斥施策は徹底していました。 
 
1 ああ 夢多きふるさと  

 

「麗(うる)はしき藍碧(らんぺき)の空に紺青(こんぜう)の山鮮かに匂ふ東白川(ひがししらかわ)の風光は、朝(あした)に好く、畫(ひる)に好く、夕べに好く、夜にも好く、春夏秋冬を通じて暖かい自然の夢に抱(いだ)かれて居(を)る。」
大正八年、岐阜日々新聞社の一記者がはじめて東白川村を訪れ、村の風光明媚(めいび)な自然と人心の和やかさに驚嘆しました。
そのころは、岐阜から下麻生まで自動車が通っていたようで、おそらく記者は下麻生までは自動車、それから村までは歩いて来たものと思います。
そして辿(たど)り着いた東白川村で記者が見たものは、当時としてはかなり発展した村の姿でした。養蚕、林業、白川茶、銅山など生き生きした産業があり、日向座(ひよもざ)、神田座(かんだざ)、相生座(あいおいざ)という3つの劇場があり、理想の教育が行われており、電灯事業の計画が緒(ちょ)についており、その上、山水の美を誇る情緒豊な自然と「柳暗花明(りうあんくわめい)の下(もと)より洩(も)れ來る絃歌(げんか)さんざめくを聞」く街の繁盛振りなど、記者を驚かせたのです。
この記者のルポをもとに岐阜日々新聞は、大正8年5月1日、「東白川發展號」と題して4ページにわたる特集をしました。
その柱となった記事にしばらく東白川村のよき時代を振り返ってみたいと思います。
大自然の美に富む 風光秀麗の絶勝地 東濃加茂郡東白川村
大自然の美に抱擁さる山紫水明の地たる東濃加茂郡東白川村は岐阜市より東十九里、飛騨街道筋下麻生町より中央線中津町に通ずる要路に當(あた)り、北に尾城山(おしろやま)の峻嶺峙(そばだ)ち、南に寒陽氣山(かんやうきやま)、捨薙山(すてなぎやま)の山嶽(さんがく)聳(そび)え、兩連山相對峙(あひたいじ)して頗(すこぶ)る偉觀(いかん)を極め、深山幽谷(しんざんゆうこく)より流れ出づる白川は北より南に走り中央を流る。
水勢滔々(すゐせいとうとう)として箭(や)よりも早く、永(とこ)しへの奮鬪(ふんとう)より來(きた)りて、永久(とこしな)の奮鬪に入り水勢鏘々(すゐせいせうせう)到る所に雄大なる造化の傑作を描く。
時や將(まさ)に新緑滴(したた)らんとして(はつらつ)の氣(き)、滿天滿地(まんてんまんち)に漲り、新葉若葉に風薫る四山の風光、げに筆舌の及ぶ所にあらず。
想ひ浮ぶ人皇第四十四代/元正天皇の御代より月日の小車(おぐるま)は流れ流れて八百六十有餘年彼の豐大閤秀吉公の砌(みぎ)り、郡上の城主遠藤大隅守胤基氏(ゑんどうおほすみのかみたねもとし)が領たりし往事を追懐(つひかい)せば、坐(そぞ)ろ人をして轉(うた)た過去を偲ばしむるものあらんか。吁々(ああ)、年も逝き、人も逝き、動ける萬象(ばんせう)、悉(ことごと)く逝きて、猶も残れるは山河のみおゝ歴史が語る悠々たる東白川の山河よ。
此の清麗(せいれい)なる山水の郷土史を按(あん)ずるに、太古時代既に白川は、豐魚(ほうぎょ)にして沿岸亦(また)農耕の利ありしを以て、人の住み居りしものゝ如(ごと)く、現今に到るまで往々、東白川の山麓(さんろく)より石器の現れ出づるを見も想像に難(かた)からず。
然りと謂へ共往古の歴史は詳かならず。昔、加茂郡河東郷白川(かもぐんかわひがしがうしらかわ)の莊と云ひ、後白川の郷と云ふ。何人の所領たりしや不明なりしも天正(てんせう)より慶長年間(けいてうねんかん)まで郡上領たりし、同城主胤基氏(たねもとし)より遠藤小八郎胤直(ゑんどうこはちらうたねなほ)に到所領歿收せらるゝに及び苗木城主遠山久兵衛友政(なへぎぜうしゅとほやまきうべゑともまさ)の領となり、維新に到るまで苗木藩領(なへぎはんれう)たり。
本村内氏性中「安江(やすえ)」を性(せい)とする者多し。其源(そのみなもと)は平重盛(たいらのしげもり)なりとか此の後胤(こういん)たる平政氏(たいらのまさうじ)、伊勢杉谷より起り、濃州岩村に暫く止りたる後東白川村に居(きょ)を定む。政氏(まさうじ)の祖平盛高(たいらのもりたか)は加州安江郷(かしうやすえがう)にて安江氏(やすえし)を稱す。此の故に、政氏の子孫世々「安江」を名乗りしならん。
天正年間(てんせうねんかん)檢地(けんち)ありしも、當時は人煙極めて稀(まれ)なりき。而して東白川村は元、神土村、(かんどむら)、越原村(おっぱらむら)、五加村(ごかむら)の三ヶ村に分れ居りしを明治二十二年町村制實施に際し合併して一ヶ村となれり。
爾來(じらい)歳月と共に進展し、現今人口實に四千六百餘、戸數八百餘を有し、東西三里二十一丁、南北二里十八丁に及ぶ。
白川(しらかは)に沿う平坦地は農作物豐熟(ほうじゅく)し米麥茶を産す。茶は香味可良、白川茶(しらかはちゃ)の名夙(つと)に聞ゆ。
又桑の栽培盛に行はれ養蠶業(やうざんげふ)は糸價好况の爲め益々隆盛の域に達し、蠶種(さんしゅ)亦優良種を製出す。生糸は東白川村に於る産物の最たるものにして之れ又年々、異數の發展に向ひつゝあるは國富増進上祝福す可く、林業は村内に八ヶ所の精材工場在りて、板類並に建築用材の移出多く、木炭の製造又盛なり。白川炭(しらかはずみ)の名高し。
畜産に到りては白川駒(しらかはごま)として聞ゆ。之れ亦良駒(れうごま)の名あり。
全村を行政上今三區に分つ。越原區(おっぱらく)は惠那郡加子母村(かしもむら)に接し東南には新巣山御料林(しんすやまごれうりん)の千古斧鉞の入らざるあり。區の中央には村社越原神社(そんしゃおっぱらじんじゃ)あり。本郷(ほんがう)に越原尋常小學校(おっぱらじんぜうせうがくかう)、大明神(だいめうじん)に其の分教場あり。
神土區(かんどく)は村の中央にして大字平(おほあざたひら)に市街地をなし商賈(せうこ)軒を並べ、市况活氣を呈し居れり。東白川村役場、東白川郵便局、神土尋常高等小學校、巡査駐在所、蠶病豫防事務所東白川出張所(さんべうよぼうじむしょひがししらかはしゅってうじょ)、神土種付所等あり。街の北に郷社神田神社(がうしゃかんだじんじゃ)ありて、境内老樹枝を交へ、日光を洩さず荘嚴を極む。
神土區(かんどく)に南接する五加區(ごかく)は白川茶の本場にして下野(しもの)に銅山あり。宮代(みやしろ)に五加尋常小學校(ごかじんぜうせうがくかう)、柏本(かしもと)に村社柏本神社(そんしゃかしもとじんじゃ)あり。
其の他當村の娯樂場として越原(おっぱら)に日向座(ひよもざ)、神土(かんど)に神田座(かんだざ)、五加(ごか)に相生座(あひおいざ)の三劇場あり。
加ふるに今や大正の開けゆく御代に全村民の心理状態一新して、行政に産業に、教育に、全く理想の域に向ひ、更に時代の要求として文明の風は彼重疉(てうぜう)たる千山萬岳(せんざんばんがく)を越えて吹き來り、電燈事業の計畫さへあり、親しく當村を目堵(もくと)したる吾人(ごじん)は其の一大發展を遂げ居る事實を見て、驚奇(けうき)の目を張りしものを、切に當局に向って東白川村の爲め一は國家福利の進展上一日も速に公衆電話の設置されん事を懇望に堪へざるなり。
若し夫れ、山水の美に誇る東白川の情調を語らんか、一輪の明月冴え渡る夜月影淡き白川河畔に一歩を踏めよ。夫れよ、柳暗花明の下より洩れ來る絃歌(げんか)さんざめくを聞き、その身の全く美しき繪巻物の如き夢路を辿(たど)るの思ひを湧かさしむ可く、花柳界の繁昌又以て街の殷賑(ゐんしん)を測るに足らん。
あゝ此の山清き水麗はしき自然の大景に支配さるゝ東白川の郷土は、春夏秋冬を通じて、夢の如き山水美に抱かれ居るを以て、一面遊覧地として、別莊地として最も好適なる歡樂(かんらく)の地と云ふ可く。その春は、清き流れの白川に沿ふ山麓一帶の岩躑躅(いはつつじ)が紅く燃えて水に映り、夜は石を洗ふ水瀬の響き一つ一つに河鹿(かじか)の聲(こゑ)さへ添ゆ。その夏は暑さを知らぬ白川溪(しらかはだに)の緑は珠を溶かして水に流るゝ静けさよ。その秋は滿山の紅葉赫(か)っと燃えて火焔(くわえん)の山かと思はるゝ燦爛(さんらん)の美よその冬は繽粉(ひんぷん)たる白雪の淨衣(ぜうい)に包まれたる氣高き四山の風色よ。
東白川は眞(しん)に自然美の最も勝たるもの。例へ俗物が如何に入り込むとも、此の山水を俗化する事能はざらん。再び云ふ。東白川は天下の絶景たり。永久に、不變に。その山容(さんよう)に水態(すゐたい)、ともすれば伊豆の修善寺に似たる哉。
未だ、(きてき)の音、車輛の響を聞かざるも、岐阜市より下麻生町まで自動車の通へるあり。白川街道又大に改修され交通の便開け居るを以て飛騨縱貫鐵道にして飛騨川沿岸たる下麻生町より西白川村天神橋畔の對岸に出でんか。當地方に於ける天惠の産物並に自然の寳庫は一大開發の緒に就かん。此の際、早くも東白川村に於ける先覺者は、何れも自奮して决起す。
吾人又最近親しく、此の大自然の美に抱擁さるゝ東白川の地を踏みしを以て、聊か茲に其の見聞を掲げ、特に發展號を輯(しう)し以て滿天下に紹介の勞を執り、併せて東白川全村民が、今や新機運に向って猛烈なる努力を試みつゝある向上心と更に人情美の濃厚なるに對し、切に其の前途に光あれかしと祈るものなり。 (陽生)

古き時代の活気に満ちた東白川村の姿をこの一文から察することができます。その東白川村はもともと仏教の村でした。神土には常楽寺(じょうらくじ)があり、五加には蟠龍寺(ばんりゅうじ)がありました。それが明治3年に急に神道だけになってしまいました。いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が断行されて仏教が無くなったのです。資料の中から、東白川村における廃仏毀釈がどのように行われ神道への改宗がどのように進められたかを探ってみたいと思います。 
 
2 東白川村の仏教  

 

東白川村に仏教が流入したのはいつの時代であるか詳(つまび)らかではありません。
しかし、岐阜県重要文化財となっている、白川(しらかわ)町和泉(いづみ)にある薬師堂の聖観音(しょうかんのん)座像は平安末期の作といわれますし(白川町誌)、また、白川町坂ノ東(さかのひがし)にある飛騨川沿いの臨川寺(りんせんじ)には、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の折、近くの村々から難を逃れて集められたであろうといわれる仏像群があり、その中に、平安時代のものがかなり多くあります。
ということは、白川筋を中心としたこの地域に、平安時代にすでに仏教が浸透していたことを物語っています。
歴史的にも平安初期以前の仏教は、いわば国家鎮護をもととして貴族や豪族などの支配者の間には流行しましたが、庶民仏教として一般大衆にまで及んだのは、平安期になってからとされています。
わが国へ仏教が伝来して以来、仏教と神道はさまざまにかかわり合い融合して、日本人の宗教生活の底流を形づくってきました。したがって、東白川村に仏教が行われるようになったのも、あるとき突然どこからか伝わったというようなものではなく、永い年月の中で徐々に定着していったものなのです。そういう中で、国家や貴族のための大寺院や官寺に背を向けて、山中での苦業修行で身につけた呪術(じゅじゅつ)をもって民衆の中に入った土着信仰の宗教者たちは、祈祷(きとう)、治病、除災、鎮魂(ちんこん)をもって、民衆から「聖(ひじり)」「菩薩(ぼさつ)」として奉られ、慕われました。
こうした密教への信頼は、現在の科学への信頼と同じように、天体も方位も、日の吉凶も民俗宗教として受け継がれ、村の祭りや年中行事、講など宗教と関係がないと思われるところまでも浸透し、生き続けてきました。
ところで、東白川村に寺院が創建されたのは、嘉慶(かけい)元年(1387)、安江佐右衛門尉正氏(やすえさえもんのじょうまさうじ)(正昭(まさてる))が伊勢大杉谷から神土に定住した前後、すなわち鎌倉時代末期から南北朝時代と推定できます。
なぜならば、源頼朝(みなもとのよりとも)の願旨によって文覚上人(もんがくしょうにん)が、建久(けんきゅう)3年(1192)から建久9年(1198)までの間に、美濃と飛騨の国境の御厩野(みまいの)(益田(ました)郡下呂(げろ)町大字御厩野)に建立したとされる鳳慈尾(ほうじび)山大威徳(だいいとく)寺の末寺に、かつての神土村常楽寺、大沢(おおさわ)村蟠龍寺、吉田(よしだ)村大蔵(だいぞう)寺(白川町佐見(さみ))があったとされることや、村内の随所に建てられていた観音堂や阿弥陀堂、辻(つじ)堂などの現存する建立棟札の記録や、大蔵寺が佐見に移される前は神土村西洞(にしぼら)にあったとする言い伝えや、中世の遺跡が地名として残った越原の「寺坂(てらさか)」、神土大口(おおぐち)の「寺屋敷跡(てらやしきあと)」などがあることなど、さらに、近辺では正和(しょうわ)元年(1312)に虎渓(こけい)山(多治見(たじみ)市)の永保(えいほ)寺が開かれ、観応(かんおう)元年(1350)には植苗木(うえなぎ)(福岡(ふくおか)町)の広恵(こえ)寺が開かれたことなどを考え合わせることができるからです。
また、大威徳寺が戦禍によって荒廃したのは永禄(えいろく)12年(1569)ごろで、天正(てんしょう)年間(安土桃山(あづちももやま)時代)に起こった大地震によって全く崩壊してしまったといわれますから、その末寺の常楽寺や蟠龍寺が創建されたのは、それ以前であることに間違いはありません。
宮代(みやしろ)村妙観寺(みょうかんじ)が、文明(ぶんめい)年中から常清入道政近(つねきよにゅうどうまさちか)が慶長(けいちょう)5年(1600)関ヶ原(せきがはら)の合戦で戦死するまで130年余り続いたとする記録も、東白川村へ仏教が流入した時代を類推する重要な手がかりとなります。
仏教の地方への伝播(でんば)は天台(てんだい)宗、真言(しんごん)宗の二宗が最初とされています。平安期約400年間は、専ら天台宗、真言宗の二宗が隆盛を極めており、山嶽(がく)信仰による修験道(しゅげんどう)との深いかかわりをもって、この地方の民衆の間に深く浸透したものと思われます。
やがて、天台宗、真言宗の二宗の他に浄土(じょうど)宗、真(しん)宗、時(じ)宗、日連(にちれん)宗、臨済(りんざい)宗、曹洞(そうどう)宗など鎌倉新仏教の台頭が相つぎ、大衆仏教は大きく変動していきましたが、中でも禅宗、臨済宗は美濃の守護土岐氏の庇護を得て東濃一帯に大きく広がり、専ら妙心寺派(みょうしんじは)の興隆が見られるようになりました。
江戸時代に入って、宗派ごとに本山、末寺の制度が設けられました。この地域では苗木(なえぎ)藩主遠山(とおやま)氏が創建した菩提寺天龍(てんりゅう)山雲林(うんりん)寺が臨済宗妙心寺派に属していましたので、領内村々のすべての寺院はその末寺となって改宗しました。わが村でも神土村常楽寺、大沢村蟠龍寺がこれにならいました。
寛永(かんえい)年間(1624〜43)、切支丹(キリシタン)禁制による寺請(てらうけ)制度が設けられました。寛文(かんぶん)4年(1664)には宗門改(しゅうもんあらた)めが実施されて、村人はいずれかの寺院の檀徒(だんと)になることとなりました。そして、当地域では家単位の檀家(だんか)制度によって、信仰による改宗の自由が許されなくなりました。このため仏教は大衆の信仰の中心として発展するところが少なくなり、寺院は檀那(だんな)寺として家々の葬式や供養を主とするようになりました。
明治初年の神仏分離令に続く廃仏毀釈の断行によって、東白川村からは、寺院をはじめ数世紀にわたって展開してきた仏教の歴史が閉ざされました。その後、復活することなく現在に及んでいます。
鳳慈尾(ほうじび)山大威徳寺(だいいとくじ)
飛州(ひしゅう)誌によると大威徳寺は戦国の兵乱によって荒廃し、天正年間(安土桃山時代)に起こった大地震によって全く崩壊してしまったと伝えられ、今は、益田郡下呂町御厩野にその跡だけが残ります。
創建は詳らかではありませんが、源 頼朝(みなもとのよりとも)の発願によって文覚上人が諸国を回った折、霊感があり、この地の上の池から大龍(だいりゅう)が現われるのを見て祈念すると、大龍が小童に変わって牛に乗って現われました。そこで、大威徳明王(みょうおう)と称して頼朝に告げ、大威徳寺を建立したと伝えられます。
安泰山常楽寺(あんたいざんじょうらくじ)
この寺は現在の東白川村役場の位置にありました。神土(かんど)村と越原(おっぱら)村一円を檀徒とし 、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)に属していました。できた年代は詳(つまび)らかではありませんが、その昔は常楽院といい、飛騨御厩野(ひだみまいの)(下呂(げろ)町御厩野)の大威徳寺(だいいとくじ)の末寺でした。
慶長19年(1614)、領主遠山友政(とうやまともまさ)が菩提寺天龍山雲林(うんりん)寺を創建し、その後、領内統治の一環として宗派の統一を図ったとき、改宗してその末寺に加えられ、安泰山常楽寺と称しました。
歴代住職は、神土平上之段(たいらうえのだん)墓地に並んでいる墓塔群と雲林寺旧蔵の過去帳の調べで、
1世 心叟玉和尚禅師      慶長6年(1601)4月11日亡
2世 了山全和尚禅師      寛永3年(1626)5月21日亡
3世 溪岩源和尚禅師      明暦2年(1658)4月26日亡
4世 銑翁午和尚禅師      延宝3年(1675)正月19日亡
中興
5世 大圭猷和尚禅師      享保7年(1722)4月25日亡
6世 円峰周和尚禅師      宝暦3年(1753)6月18日亡
7世 普翁門和尚禅師      明和5年(1768)7月28日亡
8世 鑒應古和尚禅師      明和8年(1771)8月21日亡
9世 聖外果和尚禅師      享和3年(1803)6月28日亡
10世 鳳宗來和尚禅師     嘉永元年(1848)3月6日亡
11世 自董(後に安江良左衛門と改名) 明治12年(1879)9月6日亡
となっています。
三世までは大威徳寺の末寺の時代で、雲林寺の末寺としては4世以降となります。
10世鳳宗來和尚のときの文化元年(1804)3月、火災が発生して本堂をはじめ建物の大半を焼失してしまいました。その時の模様について神土村庄屋留書(とめがき)には次のように記録してあります。
當(とう)村常樂(らく)寺燒失の事
文化元甲子年三月廿六日夜九ッ半頃に風呂場(ふろば)より出火仕り方丈並庫裡(くり)・物置・長屋・隠居屋(いんきょや)共に不残燒失仕候尤本屋・脇(わき)屋共三家残り候
取遺し申す品は印判・御本尊様三尊・十六善神(ぜんじん)圖一幅・大般若經(はんにゃきょう)百巻・半鐘・過去帳・位牌あらまし
右御代官井澤孫兵衛(いざわまごべえ)様 正岳院(しょうがくいん)様御兩所へ届申候
夫より文化五戉辰年四月十一日に御普請御届け仕候て 同月十六日に入仏供養相勤め申し候 御代官小池小左衛門様
明治初年、苗木藩は廃仏毀釈を断行し、領内の各寺院に対して厳しく廃寺帰俗を申し渡しました。常楽寺もその例にもれませんでした。11世自董はやむを得ず還俗して安江良左衛門正常と名を改めました。ときに明治3年9月、自董が60歳のときのことでした。
廃寺となった当時の常楽寺は、本堂5間×7間、庫裡(くり)5間×6間、それに2間4方の地蔵堂と鐘楼を配し、鎮守(ちんじゅ)は小祠で天神を祀(まつ)り、寺領は田4反歩、畑2反歩ほどを有していました。
廃寺後の本堂は小学校の校舎として転用され、明治24年(1891)まで存続しました。また、庫裡は近在の者に百五十両で売り渡され、製糸工場として移転改築されたといいます。位牌類は他の仏具とともに寺の境内で焼き捨てられたり、他領へ売り払われたりしました。寺の象徴であった梵鐘(ぼんしょう)が鐘楼とともに百両余りで尾張国前飛保(おわりのくにまえひぼ)村無量山深妙寺(むりょうざんしんみょうじ)へ売られて行ったのも、この年の秋のことでした。
青松山蟠龍寺(せいしょうざんばんりゅうじ)
この寺は五加大沢(ごかおおさわ)の通称「横引(よこび)き」から西に延びる旧道沿いの、南に面した山麓にありました。往昔は神土村常楽寺と同じように飛騨御厩野の大威徳寺の末寺でしたが、近世は苗木藩菩提寺天龍山雲林寺の末寺として臨済宗妙心寺派に属し、大澤(おおさわ)村、柏本(かしもと)村、久須見(くすみ)村、下野(しもの)村、宮代(みやしろ)村、中屋(なかや)村、須崎(すさき)村の七か村の檀那寺でした。
本尊は聖観音菩薩だったといいます。
この寺も草創の年代は詳らかでありませんが、雲林寺の末寺に属した以後、中興の祖南隣禪松から12世全理まで、およそ200年の寺歴があります。
中興
1世 南隣禪松      延宝6年(1678)10月12日亡
2世 大胸祖滿      宝永2年(1705)10月14日亡
3世 大秀玄智      正徳2年(1712)6月28日亡
4世 默室禪宜      元文3年(1738)5月17日亡
5世 北巖玄竺      延享4年(1747)7月5日亡
再中興
6世 希岳祖廉      宝暦13年(1763)2月24日亡
7世 定岳祖禪      天明5年(1785)7月7日亡
8世 大方禪珠      文化2年(1805)2月3日亡
9世 容道禪興      文化14年(1817)3月25日亡
10世 中寳文晢     安政4年(1857)10月8日亡
11世 祖恩      慶応4年(1868)5月29日亡
12世 全理
蟠龍寺の廃寺は、明治初年、12世全理が姫栗村長増寺(現在の恵那市笠置(かさぎ))から着任して間もなくのことでした。そのころは、神仏分離令が布告され、ようやく廃仏の声がやかましくなっていました。
あるとき、村の若者たちがいたずらに「穢(けが)れの者これより外に出るべからず」と大書した高札を寺の門前に立てました。全理は勝気な僧でしたので、早速「俗人の輩(やから)みだりに聖境へ入るべからず」と逆襲しました。このようなことが、だんだん村の人々の反感を買うようになり、全理は遂に寺を去ってしまいました。
こうして蟠龍寺は、藩庁からの廃寺帰俗の申し渡しを待たないで、事実上終焉(しゅうえん)を告げました。明治3年9月27日、廃寺の届出のあった領内15か寺の中に蟠龍寺の名前が見られないのはこのためです。
廃寺のときの蟠龍寺の所有地は、宅地が1反歩ほどと3人が生活できるほどの田畑、山林がありました。建物は6間×13間で、外に土蔵もありました。
本堂は飛騨高山へ売却し、祠堂(しどう)の位牌などは焼却しました。土地や什器(じゅうき)諸道具などは地元の世話方5人に売り渡しました。その代金は、15両を蟠龍寺の永代祭祀(えいたいさいし)料として前記の5人に渡し、残りは旧檀家であった7か村へ分配しました。
大般若経百巻のうち50巻と過去帳8冊は、藩役人の目を逃れて柏本の神職元安正院こと安江五郎正朝の家へ移されました。
それから時が過ぎて明治20年ごろ、野上正伝寺(しょうでんじ)(現在の八百津(やおつ)町和知(わち))の先住が蟠龍寺の再興を企図し、有志とともに2間×3間の小堂を建てましたが、暴風のために倒壊してしまい、とうとうその目的を達することができませんでした。
また、寺の大門先に建てられていた名号塔、庚申(こうしん)塔などは、廃寺以来倒されたまま放置されていましたが、大正7年(1918)、五加下野銅山の監督として大阪から出張して来ていた安川憲の発願で元の参道わきに建て直されました。
これらの石塔は、歴代住職の墓塔、敷地の石積みなどと共に、今もなお、寺屋敷跡の雰囲気を静かに漂(ただよ)わせています。
宮代妙観寺(みやしろみょうかんじ)
五加宮代の石戸(いわと)神社社殿のある一帯を字(あざ)妙観寺といいます。この字名は、中世期に存在した「妙観寺」という寺院の名が伝えられたものと思われます。田の中に一段高くなった畑があります。ここが妙観寺があったとされるところです。
妙観寺の創建の年代は分かりません。真言宗の寺であったとも、天台宗の寺であったともいわれますが、修験道の寺院であったもののようです。
『旧東白川村誌』(大正3年発刊)に掲載されているこの寺の由来を現代文にするとおよそ次のようになります。
宮代村に住む妙観寺常清入道政近という者は、僧の身で武家に仕官し、兼山(かねやま)の城主森武蔵守長一(もりむさしのかみながかず)の家臣となって当地に居住した。
もともと伊勢平氏(いせへいし)の子孫で伊勢神戸友盛(かんべとももり)の遠縁にあたる。文明のころは安江中務尉基政入道光安(やすえなかつかさのじょうもとまさにゅうどうみつやす)と称する者がこのあたりを知行(ちぎょう)したそうである。
かの妙観寺も光安の末族(ばつぞく)で安江と号した。慶長五年、石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)の反逆で、関ヶ原合戦において戦死し、あとは断絶した。
妙観寺は、文明年中から慶長5年までおよそ200年(註 実際は130年余りである)この地に居住した。しかし、政近の前七代の鈎書(かぎがき)を焼失したので、常清入道政近から記した。
(中略)
このほか、妙観寺の名は柏本八幡宮(現五加神社)の明応(めいおう)4年(1495)の再建棟札や弘治(こうじ)2年(1556)の上葺棟札にも見られます。また、元石戸神社が天正(てんしょう)2年(1574)に妙観寺が願主となって再建されています。このことは妙観寺がこれら神社の別当(べっとう)を兼ねていたものと考えられます。
天正17年(1589)の『下野村検地帳』(五加纐纈泰郎(こうけつやすろう)氏蔵)によると、当時妙観寺が所有していた農地は、水田が四反九畝余り、畑が四反三畝ほどと記載されています。宮代村の分が不明なのが残念ですが、おそらく下野村の分以上の寺領を所有していたものと思われます。
戦乱期には妙観寺は寺院というよりも土地の土豪的存在だったようで、前述した由来記にも「僧の身で武家に仕官し」とあり、このことを伺うことができます。
慶長五年(1600)、入道政近は関ヶ原合戦で戦死しましたが、このとき彼がどの陣営に属していたかは定かではありません。当時この地方の戦況は、小原(おばら)の城主遠藤慶隆(えんどうよしたか)が東軍に属し、犬地の城主小八郎胤直が西軍に属していました。『郡上郡史』によりますと「慶隆は小原が要害でないことを考え、最初に佐見(さみ)の吉田(よしだ)に堡砦(ほさい)を築いてここに拠(たてこも)り、守兵を宮代の妙観寺、坂本(さかもと)にも配して、上ヶ根(胤直方砦)に対し、互いに小競合(こぜりあ)いを繰り返した」と伝えています。妙観寺が焼失したのは、あるいはこの時のことではなかったでしょうか。
この寺の本尊であったとされる薬師如来像が、その末裔である某家に安置されている以外に妙観寺を偲(しの)ぶ何ものも存在しません。 
 
3 廃仏毀釈の背景  

 

復古国学と復古神道
廃仏毀釈のそもそもの原因となった思想は、何といっても国学四大人といわれた荷田春滿(かだのあずままろ)、賀茂眞淵(かもまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、それに平田篤胤(ひらたあつたね)を代表とする復古国学であり、復古神道(しんとう)の精神だということができます。
国学とは日本古来の思想を求めて古典を研究する学問ですが、国学として形が整ってきたのは、18世紀半ば以降であるといわれます。
復古神道の祖というべき人は、厳密な意味では賀茂眞淵でしょう。眞淵は元禄(げんろく)10年(1697)遠江国(とおとおみのくに)(静岡県)に生まれ、皇道復古の志を抱き古語や古典の研究が大切であることを説く京都伏見稲荷(ふしみいなり)神社の神官荷田春滿の門人となって古学を学びました。明和(めいわ)6年(1769)に亡くなりましたが、眞淵は「萬葉集」などの古典を研究して、古代人の生活や思想に立ち戻るべきであることを主張しました。また、儒教や仏教を強く排斥し、祝詞(のりと)が古神道の宝庫だといい、古道だけが天地自然の道であると力説しました。
その眞淵の学統を引いて、あるいは眞淵以上に出たものが本居宣長です。宣長は享保(きょうほう)15年(1730)伊勢国(三重県)に生まれました。
彼の学者生活を終生支えたのは医業で、生計が成り立たなければ何事も始まらないという決心から医学を修行しました。安永10年、宣長が52歳のときに抱えていた病人の家の数は448軒あったといいます。後年、国学の門人が多くなってからも、講義中、しばしば外診のために中座することがありました。  宣長の国学への執心は、彼が京都での医学の修行中に僧契沖(けいちゅう)(江戸前期の国学者で歌人。漢籍、仏典などに精通し、独創的な古典の研究を行い、国学を大きく展開させた。長歌にすぐれた人)などを通じて育まれていました。
眞淵を知ることとなってからその志をさらに強固にし、神話の研究には、後世の思想を加えないでそのままを信ずることだと説いて、明和元年(1764)35歳のとき「古事記伝」の執筆に着手し、寛政(かんせい)10年(1798)69歳で48巻の大著を完成するなど多数の古学に関する著作を発表しましたが、享和(きょうわ)元年(1801)に亡くなりました。
賀茂眞淵から本居宣長へと継承された復古国学は、宣長が亡くなったのち、さらに、その没後の門人の平田篤胤(ひらたあつたね)に至って神道思想が強まり、著しい躍進を遂げました。篤胤は、哲学的、宗教的観念によって、排他的な攘夷(じょうい)思想に結びつく、いわゆる平田学派を形成したのです。
平田篤胤は、安永(あんえい)5年(1776)出羽国(秋田県)に生まれ、通称を正吉(まさきち)といいました。成長するにしたがって古典、古学に心酔するようになり、神代文字(じんだいもじ)が存在することを主張し、熱烈に神道説を説きました。
篤胤は眼中人なしという趣のたいへんな自信家でしたが、宣長だけには絶対的な尊敬の念を抱いていました。  篤胤は仏教や儒教を激しく排斥し、それまでの仏教的神道や混淆(こんこう)神道を罵りましたが、気負った説教家として分かりやすく説教し、勉学を求めませんでした。この点が、多数の人々をひきつけ、世の人に与える感銘は大きく、篤胤神道は一世を風靡(ふうび)しました。
文化5年(1808)、神祇伯白川家から、諸国の神職に古学を教授することを委嘱され、「神字日文伝(かんなひふみのつたへ)」など多くの著書を残し、天保14年(1843)に亡くなりました。
眞淵、宣長、篤胤にはともに多くの門人がいました。なかでも篤胤の門人は563人、彼が亡くなってからは、1330人を数えました。その大部分は神職、庄屋、町役人、富裕町人などの地方の有力者や指導者でした。これらの人々の支持や働きで、復古神道は全国に普及し、尊皇攘夷運動と相まって幕末の政治に浸透していきました。
こうして復古国学の思想は、荷田春滿−賀茂眞淵−本居宣長−平田篤胤と受け継がれ、平田派国学の系統を引く者たちは、後に、明治新政府に登用されて復古神道を主張し、祭政一致、神仏分離など新政府の政策に少なからぬ影響を与えたのです。
平田派国学と苗木藩
仏教や儒教を排斥し、日本古来の神道に還元させようとする平田派国学はどのようにして苗木藩に導入されたのでしょうか。
その中心となった人物は、明治2年(1869)10月の藩政大改革によって大参事に任用された青山直道(あおやまなおみち)の父景通(かげみち)でした。景通は文政(ぶんせい)2年(1819)に生まれ、通称稲吉(いなきち)といいました。はじめは切米(きりまい)6石(こく)2人扶持(ぶち)の祐筆(ゆうひつ)として江戸藩邸に出仕し、苗木藩(なえぎはん)11代藩主遠山友寿(とおやまともひさ)の妻栄綱院(えいこういん)に仕えました。
そのころ、平田篤胤の養子銕胤(かねたね)は、篤胤の後継者として平田派国学を全国に広めていました。
その学風は「神道はわが国の大道にして、天(あめ)の下治(しろし)め給う道なれば、儒仏とならべいうまでもなく、掛けまくも可畏(かしこ)けれど、上(かみ)は天皇をはじめ奉り、下(しも)は万民に至るまで、儒仏を棄て、ただひたすら神道を尊(たっと)まし奉らん」とし、わが国古道が卓越していることと復古神道の立場を強調し、「政道は、神国の御風儀にて、神慮によって世を治め給い、神祭をもって第一とする」ことを説き、王政復古、復古神道の確立と祭政一致を目指すものでした。
ちなみに、平田銕胤は、寛政11年(1799)、伊予国(いよのくに)(愛媛県)に生まれ、篤胤が亡くなった後は京都荘厳院(しょうごんいん)に家塾を開き、維新後は、大学大博士、大教正(だいきょうせい)、待講(じこう)などを歴任し、明治13年(1880)81歳で没しました。
青山景通は、生来、学問に対する造詣が深く、嘉永(かえい)5年(1852)に平田銕胤の門に入りました。以来平田派国学に徹し、銕胤の著書の校正にたずさわり、それに署名するほどの高弟となりました。新政府が神祇官(じんぎかん)を再興する際は、神祇長官白川家の推挙により、慶応(けいおう)4年(1868)5月、徴士(ちょうし)神祇官権(ごん)判事に任命されて新政府の官吏になりました。
青山直道も、この父の影響によって、慶応元年(1865)9月には平田学に入門して時流に乗り、大参事に任用されてからは、専ら復古神道を基とした祭政一致を政治理念とするようになりました。
このように、藩政の理念として平田派国学がとり入れられてきますと、当然のことですが藩の新役人には優先的に平田門下に属する者の登用が多くなり、明治2年(1869)の旧藩士の中の平田門人は35人でしたのが、その後、藩知事をはじめ要職にある者が次々に入門し、同4年(1871)の平田門人は領内村役人を含めて56人を数えるに至りました。
明治2年12月には藩校「日新館」が開校しました。開校直後の同年12月15日、藩知事遠山友禄(ともよし)は大参事以下藩士一同を日新館に集め、学神として祀る国学四大人(荷田春滿(かだのあずままろ)・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤)の神前で次の四か条からなる誓詞を朗読させ、国学思想の啓蒙と普及を第一とする藩の施政方針を明らかにしました。
一  開国以来の天恩を仰ぎ、復古維新の盛世を楽しみ、大いに尽忠の志を興起すべし
一  祭政惟一(ゆいいつ)はわが皇国(みくに)の大道なり、故に天地神祇を敬祀(けいし)して、永久に怠ることなかれ
一  民は国の至宝なり、惨酷(さんこく)これに臨む事なく、努めて撫恤(ぶじゅつ)を加え、以って好世至仁(しじん)の聖化(せいか)に浴(よく)せしむべし
一  公平廉直(れんちょく)を挙げ、偏執阿党(へんしつあとう)をしりぞけ、上下一(しょうかいつ)にして教化浴(あまね)く布(し)き、風俗を敦厚(とんこう)、陋習(ろうしゅう)を除去するを専要となすべし
こうして、敬神復古思想の徹底指導は、士分の子弟に限らず、次第に領内の卒族(そつぞく)、平民に至るまで入門の範囲を広げ、許可するようになりました。領内全域に広がった平田派国学による敬神思想の影響は非常に大きく、時の新政府が打ち出した神仏分離の政策にとどまらないで、廃仏毀釈という思い切った政策へ突入したことは、平田派国学を信奉する人々にとっては当然の帰結でした。
日新館と青山藩政の教育
苗木藩の教育は、それまで、藩士や藩医の中で文学に秀(ひい)でている人物を選んで行っており、12代友禄(ともよし)の代になって、やっと、有能な漢学者を藩邸に招聘(しょうへい)して講義をさせることにしましたが、隣国の岩村(いわむら)藩などに比べると教育体制はかなり遅れていました。
明治元年初頭、政情の変革と共に、人材の開発が緊急の課題となり、学校設立の気運が高まったのです。その年8月になって「仮学校所」を設置し、教授世話方として曽我多賀八(祐申(すけのぶ)・勉斎)(平田門人。元治(がんじ)元年元方・目付兼帯、切米(きりまい)10石2人扶持。明治2年学校主事、のち少参事)を任命し、同時に学校世話方として石原謙次郎、岩嶋忠三郎、中島弓三の3人を任命しました。
明治2年12月5日、青山藩政の政治的基盤ともいうべき「日新館」が落成しました。
こうして、これまで和漢の歴史を学ぶことを教育方針としてきた苗木藩の教育は、平田派が藩行政の実権を掌握するにしたがって大きく変革することになり、日新館における教育は、国学を学ばせ、本居宣長や平田篤胤などの著書を講義して、国体精神の育成、啓蒙を基本とするようになりました。
そのころ領内には平田派国学がかなり広まっていましたので、日新館には士族だけでなく、一般の庶民も入学を許されました。
日新館完成と共に藩庁は祭神を祀ることに決め、館内に新宮を造営して、学神三神(八意思大神(やおおもいのおおかみ)・忌部広成(いんべのひろなり)・菅原道眞(すがわらのみちざね))と国学四大人(荷田春滿・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤)を祀りました。青山直道が大参事に就任した直後のことです。
青山直道
青山直道(あおやまなおみち)は弘化(こうか)3年(1846)、苗木藩士青山景通(かげみち)の長男として生まれ、佐次郎(さじろう)といいました。成長するにしたがって直道は、彼自身の力量と父景通の影響とによって、苗木藩主遠山氏に重く用いられ、後には苗木藩政を動かす人物となります。
文久(ぶんきゅう)2年(1862)9月24日刀番(かたなばん)となった直道は、慶応4年(1868)4月23日、藩主友禄(ともよし)の出京に際して刀番として随行し、同年7月24日には目付役となりました。直道が藩政を論じはじめるのはこのころからで、藩政に建議をするなど積極的な動きをして藩内の地位をだんだん固めていきました。
明治2年(1869)11月2日、藩の職制改革によって直道は、石原定安と共に大参事となりました。このことは、(1)藩の政治姿勢が平田派国学を柱とすること、(2)直道の父景通が神祇官権判事として明治新政府に登用されたことで、中央政府につながる人事が藩として好ましいこと、などが考えられたものと思われます。
明治3年、藩主友禄が平田派国学に入門するに及んで、直道は、さらに積極的な藩政を展開しました。
藩主友禄は直道に感状を与えて「勤王(キンノウ)ノ志(ココロザシ)業ヲ亮(タス)ケ、又克(ヨ)ク管内ヲ撫安(ブアン)ス」といい、その功績を高く評価しました。
大参事となった直道は、王政復古の大業を進めるために藩政の改革を主張しました。しかし、藩主が直道の大義名分論にしたがって家禄奉還(かろくほうかん)の決意を固めたことから、こうなれば藩士は禄を失い生活が苦しくなるといって、多くの藩士から反対を受けました。直道こそわれわれの仇敵であると、焼き打ち騒動にまで発展したのです。直道は大いに怒り何人かを召し捕って、入牢や閉門にし、騒ぎは一段落しました。
けれども、藩士のうらみは解決しそうになく、直道は藩政改革に急進的であっただけにこれらの藩士を恐れていました。
やがて、藩全体が平田学を学び、廃仏毀釈を断行しました。
のち直道は大参事を辞め、廃藩置県後は官吏となって、栃木、静岡両県に勤務し、次いで郡制が実施されると明治12年(1879)2月、岐阜県大野、池田郡(現揖斐郡)の初代郡長に任命されましたが、同14年(1881)1月退官しました。その後しばらく富山県の官吏となりましたが「眇(みょう)たる俗吏(ぞくり)に安着するを欲せず」といって、官吏を辞めました。
退官後は東京に出て易(えき)学を学び、易によって一家の生計を立てていたといわれ、晩年は極めて不遇でした。
俗にいう苗木騒動
明治2年11月2日の苗木藩の職制改革は、旧幕時代の支配体制を大きく変え、人材抜擢によって藩政担当者にも大幅な交代をもたらしました。慶応2年(1866)の段階で21人を数えた給人は、職制改革後は僅かに4人の登用となり、旧中小姓格が大部分を占めることとなったのです。したがって、当然のことながら、かつての重臣たちは後退を余儀なくされました。この職制改革に先立って知事は、9日、「等級の儀、それぞれ相定め候上は、おのおの分限を守り、長上に対し侮慢(ぶまん)の振る舞いこれあるべからず候」ことを達し、従来の下級士族層を登用することによる家臣の感情をたしなめ、さらに「盛衰は天地の常理に候間、士たるもの一浮一沈は常である。然るに己から用いられざるを憤り、私党を企て、あるいは忠義をもって口実となし、長官を凌礫(りょうれき)し、陰で誹謗(ひぼう)流言等相唱え候輩(やから)これあり候ては、全く嫉妬偏執(しっとへんしつ)の痴情(ちじょう)より出る、藩士の本意に非ず」と示達して、人材登用によって起こるであろう家臣内部の対立を予測し、それを戒めたのでした。
しかし、のち、世にいう苗木騒動が起こるのです。
事件の遠因は、明治元年、青山直道が藩政に徐々に影響力を発揮し始めたころに遡ります。千葉権右衛門(ちばごんえもん)という家老が永蟄居(えいちっきょ)の処分を受けました。「覚秘録」には次のように書かれています。
   千葉権右衛門へ
ソノ方儀、柱石(チュウセキ)ノ大任ニ罷リアリナガラ、(エコヘンシツ)ノ所業少ナカラズ、アマツサエ坂地(ハンチ)(大阪ノ地)ノ行跡ナド悉ク人心ノ不和ヲ醸(カモ)シ、怨口紛々(エンコウフンプン)遂ニ御政体モ相立タザル場合ニ至リ、コノママ捨テ置カレ候ハバ、如何ナル変動ヲ生ジ申スベクモ測リ難ク、罪籍分明不埒ノコトニ候。ヨッテ屹度(キット)御糺(オタダシ)ノ上、厳科(ゲンカ)仰セ付ケラレルベキ処、寛大ノ御仁慈ヲモッテ御役儀御取リ上ゲ、永蟄居仰セ付ケラレ、自今近親トイエドモ対面ヲ禁ジラレ候。家督ノ儀ハ同姓宮之進(ミヤノシン)ヘ七〇石下サレルモノ也。
   辰(タツ)(慶応四年)七月
家老職であった千葉権右衛門が、どのような理由で処分を受けたかは明白でありませんが、維新当時、藩論が朝廷帰順にあったのに対し、反朝廷、反政府的な行動に対する処分であったと見て差し支えないようです。それと同時に、下級出身の青山直道の台頭を、彼がこころよく思っていなかったことに対する措置であったことも事実でした。
なお、このとき、佐藤和左衛門、和田左五郎、山田新左衛門、中嶋弓三、東侑之進(権右衛門の弟)、伊藤杢允、神山健之進らが前後して処分を受けました。
かくて大参事に任用された青山直道は、着々と藩政を青山色に塗り変えていくわけですが、一方、職制改革によって大きく後退することを余儀なくされた元給人層は、反青山勢力として燻(くすぶ)り続けました。青山藩政を確固たるものにするには、これらの軋轢(あつれき)を解決しなければなりません。
そこで行われたのが、明治3年春の一斉弾圧でした。
藩知事の日記によれば
一  今日用の儀これあるに付き、士族初歩卒に至るまで正五時(いつつどき)(午前八時)惣(そう)出仕のこと。
一  幼少の面々、名代のこと。
一  書院へ士族一同相揃え、・・・・・・・・・自分ほか大小参事罷り出、青山直道より、監察、小監察共一同進み出候様申達候に付き、四人共脱劔(だっけん)にて敷居(しきい)内へ進み出る。そこにて中原央(なかはらなか)を呼び出し候処、二の間敷居を越え、脱劔罷りいで候に付き、直道より、御疑惑の筋これあるに付き、糾弾仰せ付けられ、監察共糾弾致し候様申達候て、直ちに監察局へ引き連れ罷り越し、手鎖腰縄に致し置き、・・・・・・・・・千葉武男前同断。また千葉鐐(りょう)五郎同断、これで相済み。直道より一同へ申達候は、右三人の者ども御疑惑の筋これあり、よって監察糾弾致し候に付き、・・・・・・・・・退席致すまじき旨申達候。
一  千葉権右衛門疑いの筋これあるに付き、召し捕りのため・・・・・・・・・書類そのほか探索のため紀野亀五郎、小林安五郎を差し遣わし・・・・・・・・・早速召し捕り罷り帰り候こと・・・・・・・・・(以下略)……
と明治3年1月12日のところに書かれています。
全員を集めた上で、疑いのある者を召し捕り、あるいは家宅捜索を進めたのです。したがって、事前にこのことを承知していたのは藩知事と青山大参事のみであったと推察できます。
このとき召し捕られ、家宅捜索を受けたのは、前掲の藩知事の「日記」に書かれた中原央、千葉権右衛門、千葉武男、千葉鐐五郎、八尾伊織、神山健之進ほか4人の計10人で、8人は入牢、2人は親類預けの仮処分を受けました。そうして、さらに罪状の調査が進められました。なかでも中心人物と目された千葉権右衛門、千葉侑太郎、中原央、神山健之進は同年1月25日、田畑や家財を没収され、家族は親類へ預けて謹慎させられるなど、取り調べは厳重なものでした。
こうして、同年8月8日、最終的に処断が行われました。内容は、終身流罪(るざい)4人(このうちの1人は処分前に死亡)、5年流罪2人、3年徒刑1人、3年徒罪3人、2年徒刑1人、隠居申付2人、親類預1人、永蟄居2人、謹慎2人、家族謹慎6人というもので、総計18人にのぼりました。流罪者5人は刑部省(ぎょうぶしょう)送りとなって、この一件は落着しました。
ところで、この一件の首謀者とみなされた千葉権右衛門に対する裁許状には
   権右衛門へ
ソノ方儀、勤役中奸曲(カンキョク)ノ所業尠(スク)ナカラズ、一藩動揺ヲ生ジ候ニ付キ、去々辰年(慶応四年)秋七月永蟄居申シ付ケ、近親タリト雖モ対面相禁ジオキ候処、窃(ヒソカ)ニ徒党ヲ結ビ、自ラ巨魁トナリ、流言虚説(キョセツ)ヲ唱エ、奸謀(カンボウ)ヲモッテ衆人ヲ煽動(センドウ)致シ、剰(アマツサ)エシバシバ朝廷官人ヲ呪咀調伏(ジュソチョウブク)ニ及ビ、加エテ央(ナカ)ガ悪計ニ与(クミ)シ、去巳(ミ)ノ年(明治二年)六月、今井七郎左衛門ガ東京ニ於イテ横死ノ儀ハ、青山大参事ノ所為ナル由誣告(ブコク)致シ、藩政ヲ顛覆(テンプク)為サント企テ候段、言語道断不届キ至極ノコトニ候。
右罪状ノ趣、刑部(ギョウブ)省ヘ窺イノ上、御指揮ニ仍ッテ終身流罪申シ付ケルモノ也。
とあります。さきの日記にある「御疑惑の筋」が具体的にどういうことなのか、これを見ても明らかにすることはできません。
「シバシバ朝廷官人ヲ呪咀調伏ニ及ビ」と一方的に押しまくって罪状としています。また、「今井七郎左衛門ガ東京ニ於イテ横死」した事件は、青山大参事が行わせたものであると、千葉権右衛門が七郎左衛門の子の元七郎に偽(いつわ)って証言させたというものです。千葉派の反論もあったでしょうが、資料は残っていません。
なお、「権右衛門始裁許一件」(覚秘録)=恵那市毛呂窪(けろくぼ)長谷川桂氏蔵=によると、今井元七郎(この時はすでに故人となっていました)の母に対しても次のように謹慎の申し渡しがされています。
ソノ方儀忰故元七郎、昨年東京ニ於イテ横死ノ節、央(ナカ)ガ悪計ニ欺(アザム)カレ、相手方青山大参事ナル由跡方(アトカタ)モコレナキ妄言(ボウゲン)申シ触レ候段……不埒ノコトニ候。ヨッテ叱リノ上、尚又謹慎申シ付ケ候モノ也。
こうして一連の粛正を見ると、明らかに、青山直道の失脚を狙う反青山派への徹底的な弾圧であったことが分かります。
反青山派に対するこのような処断は、直道にとっては強固な基盤を確立することを意味し、その後、廃仏毀釈に至るまで藩の施政を容易にするものとなりました。
しかし、藩権力の解消と共に、直道に対する不平分子が結集し、青山邸への放火事件、直道刺傷(ししょう)事件が相次いで起こるのは、それからしばらく後のことです。
平田学への入門
出羽国(でわのくに)秋田の家中に平田篤胤(ひらたあつたね)という人があります。幼少の時から深く学問に意を用いられ、さまざまな学問をされました。
ちょうど、伊勢国松阪(いせのくにまつさか)に住んで神道(しんとう)を学び、その道を見開き、神代からのことなど詳しく、多くの書籍に著わされたことにより世にかくれない本居宣長(もとおりのりなが)という人があります。
この人の著書を読んで、36歳になって神道の奥儀(おうぎ)を極められました。
それからは多くの人に神道の講釈をし、神道の尊い所以を説き、愚人の耳に聞きやすいように書籍を著わして出版されました。神代のことなどは特に詳しく、神の系譜を調べ、神代系図として大きな掛軸とされました。これを掛ける人もあります。
そういうことから、天下に名が知られるようになり、神祇官伯王(じんぎかんはくおう)の学頭を仰せ付けられてお勤めになりました。
代々英智の家柄で、養子の銕胤(かねたね)という人、その子息延胤(のぶたね)という人、共に大学大博士平朝臣(たいらのあそん)を賜わる日本無双の学者です。
日々、皇国の学問を基にして多くの人に教えておられましたが、昨年(明治3年=1869)9月に東京において大学を開校されたところ、諸国から学問に来る人が多くなりました。そのため、全国のどんな辺地までも名が知られるようになり、皇国の学問を志す人々がその門をくぐり、師弟の契約をして神の道を学ぶといいます。
昨年、当地の神主が上京したとき、この人たちが入門して帰ってきました。そして、そのことを志のある人に語り、入門の望みがあるなら東京まで行かなくても、苗木(なえぎ)に取次所があって取り次ぎができることを話しました。
柏本(かしもと)村の神主安江民部(やすえみんぶ)という人が神付問田(じんづきといだ)の今井賢三郎(いまいけんざぶろう)氏にすすめたところ、氏は神道の学問を好む人でしたので、直ちに入門願を出されたそうです。
今井賢三郎氏は私が幼少のころ手習いを教えてもらった先生です。それで私にも、門人になってはどうかといわれました。これには進物や礼金が必要であるし、誓詞という文を書かなければならないので、強いて勧めはしないが、君は日ごろしっかりしているので、今、入門を勧めないで、後から悔やむことがあってはいけないと思ったまで、という親切な話でした。
私は、やはり神祇の道を重く思う気持ちがありますので喜びました。早速入門したいからよろしくと申し上げました。
4月12日、柏本村八幡社の神主安江民部公を訪ねました。平田先生へ入門したいのでお取り次ぎ願いたいと申したところ、深く喜ばれ、神の道の尊い所以を種々お話しくださいました。お酒をいただき長居をしてしまいました。
私はまだ実名を呼ぶことにしておらないので、安江公にお願いしたところ、いい名を選んでやろうということでした。
また、誓詞の原稿も作っていただくようお願いしました。
さて、入門に伴い平田先生に贈る進物などは、御肴(おさかな)料として金100疋(ぴき)、扇子(せんす)料として金1朱(しゅ)としました。
(註=明治3年4月、柏本村の社司安江平正朝から贈られた名は「政道」でした。)

平田学へ入門をお願いしたからには、師の著書を読まなくては詮(せん)ないことですが、僻地(へきち)であるため容易にその著書を求めることができません。そこで尾張正名の商人栄左衛門という者を頼んで「伊吹於呂志(いぶきおろし)」という書を求めようとしましたが、名古屋には無く、正名の神主沢木(さわき)方に古本があって、これを持参したので、買うことにしました。
この本は2巻で、代金は2分(ぶ)と300文(もん)でした。

苗木の御家中に青山稲吉(あおやまいなきち)という人があります。この人は前から江戸で平田先生に従って国学を学ばれ、多数の門人の中でも才智にすぐれて、並ぶ者がないと聞きおよびます。
こういう世評に違わず、ついに京都へお召しになられ、神祇官(じんぎかん)の内のお役を賜って精勤なさっているそうです。
子息の佐二郎様は苗木の大参事ですし、また、助松という方は12、3歳と承りますが平田先生の養子になりなさったと聞きます。
親子とも雄才で、天下にその名を現わし、後世に美名を賑わされることは、まことにわが国の幸せであります。  
 
4 神仏分離と神葬改宗  

 

神仏判然令の発布
祭政一致の政治を標榜(ひょうぼう)する新政府がめざしたのは、仏教と神道との習合(しゅうごう)を分離させ、神道を国教の地位に据えることでした。新政府は神祇官を再興するとともに、慶応4年3月13日、次のような布告を発しました。
このたび王政復古、神武創業の始めに基づかれ、諸事御一新、祭政一致の御制度に御回復遊ばされ候に付いては、先ず第一に神祇官御再興御造立の上、追々諸祭典も興されるべく仰せ出され候。よってこの旨五畿(き)七道諸国に布告し、往古に立帰り、諸家執奏(しょかしっそう)配下の儀は止められ、あまねく天下の諸神社神主(かんぬし)禰宜(ねぎ)祝神部(はふりべ)に至るまで、向後右神祇官附属に仰せ渡され候間、官位を初め諸事萬端同官へ願出候様相心得べく候事。ただし、なお追々諸社御取調べ、並びに諸祭典の儀も仰せ出さるべく候得共、差し向き急務の儀これあり候者は訴え出るべく候事。
「あまねく天下の諸神社神主禰宜祝神部に至るまで、向後右神祇官附属に仰せ渡され候間」云々とは、すなわち、神道が仏教の支配下から分離して、神祇官に専属するという方針を明確にしたものであり、神仏の分離であるとともに神道を重視するという意向でもありました。
次いで、同月17日には、
今般王政復古、旧弊(きゅうへい)御一洗なされ候に付き、諸国大小の神社において、僧形にて別当あるいは社僧等と相唱(あいとな)え候輩は、復飾(ふくしょく)仰せ出され候。もし復飾の儀余儀なく差し支えこれある分は、申し出ずべく候。よって、この段相心得べく候事。ただし、別当社僧の輩復飾の上は、これまでの僧位僧官(そういそうかん)返上は勿論に候。官位の儀は追って御沙汰あらるべく候間、当今のところ、衣服は浄衣(じょうえ)にて勤め仕るべく候事。右の通り相心得、復飾致し候面々は、当局へ届出申すべき者也。
という神祇局からの社僧禁止の布令を全国の神社へ達し、各神社の別当あるいは社僧を還俗させたのでした。
このようにして、同月28日には、いわゆる「神仏判然の御沙汰」と称する次のような布告が神祇局から発せられました。
一  中古以来、某権現あるいは牛頭天王(ごずてんのう)の類、その外仏語をもって神号に相称え候神社少なからず候。いずれもその神社の由緒を委細に書き付け、早々申し出ずべく候事。ただし、勅祭(ちょくさい)の神社、御宸翰(しんかん)、勅額(ちょくがく)等これあり候向きは、これまた伺い出ずべく、その上にて御沙汰これあるべく候。その余の社は、裁判、鎮台(ちんだい)、領主、支配頭等へ申し出ずべく候事。
一  仏像をもって神体と致し候神社は、以来相改め申すべく候事。附、本地(ほんじ)等と唱え、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口(わにぐち)、梵鐘(ぼんしょう)、仏具(ぶつぐ)等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべき事。右の通り仰せ出され候事。
 それまでの神社では、実権は別当や社僧の掌中に収められており、神官は単に神事を行うに過ぎませんでした。したがって、祭政が一致し神社から仏教が排除されるとなると、神官たちの積年の欝憤(うっぷん)が爆発し、神社の仏像仏具を必要以上に破壊し、焼却することも少なくありませんでした。政府は、これらの行き過ぎを戒めるため、同年4月10日、次のような布告を発しました。
諸国の大小の神社の中、仏像をもって神体と致し、または本地等と唱え、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口、梵鐘、仏具等差し置き候分は、早々取り除き相改め申すべき旨、過日仰せ出され候。しかるところ、旧来社人僧侶相善からず、氷炭(ひょうたん)の如く候に付き、今日に至り社人共俄に威権を得、陽に御趣意と称し、実は私憤を霽(はら)し候様の所業出来候ては、御政道の妨げを生じ候のみならず、紛擾(ふんじょう)を引き起こし申すべきは必然に候。左様相なり候ては、実に相済まざる儀に付き、厚く顧慮して緩急の宜しきを考え、穏やかに取り扱うべきは勿論、僧侶共に至り候ても、生業の道を失わず、ますます国家の御用に相立ち候様、精々心掛くるべく候。また、神社中にこれあり候仏像仏具等取り除き候処分たりとも、いちいち取り計らいの向き伺い出、御指図受けるべく候。もし以来心得違い致し、粗暴の振舞い等これあるにおいては、きっと曲事仰せ付けらるべく候事。ただし、勅祭の神社、御宸翰、勅額等これある向きは、伺い出候上、御沙汰これあるべく、その余の社は裁判所、鎮台、領主、地頭(じとう)等へ委細申し出ずべき事。
このように新政府は、神仏を区別することにとどまり、進んで仏教を排斥することを好んでいるわけではありませんでした。その目的とするところは、仏教から分離した神道を重んずることにあったのです。
さらに閏(うるう)4月4日には太政官(だじょうかん)から
今般諸国大小の神社において、神仏混淆(こんこう)の儀は御廃止に相なり候に付き、別当社僧の輩は、還俗の上、神主社人等の称号に相転じ、神道をもって勤仕致すべく候。若しまた、よんどころなき差し支えこれあり、または仏教信仰にて還俗の儀不得心の輩は、神勤相止め、立ち退き申すべく候事。ただし、還俗の者は、僧位僧官返上は勿論に候。官位の儀は追って御沙汰これあるべく候間、当今のところ、衣服は風折烏帽子(かざおりえぼし)、浄衣(じょうえ)、白差貫(しろさしぬき)着用し勤仕致すべく候事。これまで神職相勤め候者と、席順の儀は、それぞれ伺い出申すべく候。その上お取り調べにて、御沙汰これあるべく候事。
という布達が出されました。還俗して神官になった者は、一応は無位の取り扱いを受けますが、それまでの関係を調べた上で、追って相当の待遇を与えることが約束されました。
そして、同月19日には「還俗した者は、従来通りの神勤順序でよろしい」という布令が出されて、社僧の時代に与えられていた待遇をそのまま許されることとなったのです。
こうして神仏判然令は着々として推進されていきましたが、年久しく根づいてきた神仏混淆から、直ちに神仏判然を実行するに当たっては、多くの勇気を要したし、無理なことも行われ、決して順風、無風の状態ではありませんでした。
苗木藩と神葬改宗
苗木藩での神葬改宗は、慶応4年(1868)8月16日、青山景通(かげみち)(通称稲吉(いなきち))が、「私儀家内に至る迄、神葬祭仕り度、この段願い奉り候」と、自らの神葬改宗を弁事役所へ願い出たのが最初です。これは、同年4月、神祇局から出された「神職の者、家内に至る迄、以後神葬相改め申すべき事」という布達にしたがって、当時神祇官権(ごん)判事の職にあった景通個人の意思によって決めたものでした。
このことは、景通が平田派国学の心酔者であることから、学問的に他へおよぼす影響が大きく、その門人たちの中に、仏葬を廃し、神葬を願い出る者が続出しました。
そしてこの傾向は、次第に領内の村々に広まり、村役人たちの中にも、自発的に神葬改宗を願い出る者が多くなっていきました。
苗木藩として本格的に神葬改宗をとり上げたのは、明治3年7月23日郡市局名をもって家臣一同へ「知事様近日御自葬御願相成候につき、士族ならびに卒族に至るまで自葬相願出候様仰出され候。この段心得のため申達するもの也」と示達し、自発的な改宗を予告したときからです。実際に知事遠山友禄(ともよし)が神葬改宗を弁事役所に願い出たのは、その数日後の27日のことでした。
藩知事自らが平田派国学に入門し、また率先して神葬に改宗したことは、平田派国学を藩政の柱とする大参事青山直道(なおみち)一派に大きな自信を与える結果となりました。
同年8月7日、苗木藩は、管内の士族、卒族その他一般のすべてが神葬に改宗する旨の伺い書を弁事役所に提出しました。これがその日のうちに聴きとどけられたことから、藩および領内の神葬改宗は、急速に進展することとなりました。
東白川村では、7月ごろ、すでに神土村里正(りせい)安江新八郎およびその脇家(わきや)一同151人が自葬願を出したほか、越原村里正安江猶一郎、神土村神戸弥介(かんべやすけ)、越原村五斗俊介(ごとうしゅんすけ)ら主だった人々が相次いで神葬に改宗することを願い出ていました。これらは初め、自発的な願い出の形式がとられていましたが、同年8月27日に郡市局と神祇局から「今般知事殿始め士卒族に至る迄、神葬願済み相成り候間、御支配一同神葬相改め申すべき事。但し、9月10日限り届出申すべき事」という布達が出され、村継ぎをもって厳しく申し渡されるに及んで、その年9月1日までには、神土村、越原村、柏本(かしもと)5か村ともに村びと全員の神葬改宗願が出されました。
急速な神葬改宗の強行であり、永い間の歴史と伝統を持つ宗教的習俗を一変する事態であるだけに、各地ではさまざまに混乱もありました。しかし、東白川村ではこれらの紛擾(ふんじょう)や混乱の事実は伝えられていません。
ともあれ、領内全域にわたって神葬祭実施に至った苗木藩では、各村々に神葬祭世話役を置いて、その普及と指導に当たらせました。
東白川村は、この時以来、仏式によって戒名(かいみょう)を記した位牌(いはい)や仏壇を廃して、霊棚(みたまだな)を設け実名を記した笏(しゃく)形の霊璽(れいじ)を祀り、墓碑、墓標も「何之誰之墓」と実際の氏名を記すようになりました。
一斉に神葬祭へ
知事様が自葬をお願いになったのは、領内一同が自葬に切り替えて、早く寺を廃するようにとの思し召しでした。が、下々(しもじも)の者はその気にならず、延び延びになっていましたところ、9月10日までに自葬の願いをするようにとお達しがありました。
若しそれまでに願い出ないで、仏道を立てなければならないと思う者は、仏道を廃してはならないという理由を早く申し立てるよう、厳しく申し付けられました。
とても、お上(かみ)の仰せに背いてまでも仏法でなければならないというような人はなく、いろいろ小言(こごと)をいっていた人も、否応(いやおう)なくお達しに従い、9月1日までに村中自葬になりました。
まことに快いことです。
里正はじめ士族脇家などは7月の末に、16、7軒すでに自葬をお願いしていますし、私も只今家内揃ってお願いをしました。
苗木の支配下はすべて神葬祭となりました。
このあたりは代々禅宗で、あまり仏道に凝(こ)らず、神を主に信心するところですから、仏を廃してもそんなにやかましくなかったのだと思います。 
 
5 廃寺廃仏の断行  

 

神仏分離から神葬改宗へと進んだ苗木藩の青山藩政は、それだけに止まらず、徹底した仏教廃絶運動に移行していきました。
一  村々の内、辻堂を毀(こわ)ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候。但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
一  諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候。
右の条々相達し候もの也。
   午(うま)八月十五日  郡市局
   御支配村々里正中
これは廃仏毀釈に関する最初の布達とされています。特別に由緒のあるものは残して、その他の辻堂は壊し、仏名や経典などを彫り付けた石碑類は土中に埋めるように命じたもので、そのやり方は当初から徹底していました。
さらに明治3年8月27日には、期限付で神葬への改宗を迫る一方、
一  諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
一  堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。
を命じました。
なお、このときの添え書きに「黒川村の儀は残らず神葬願済みに候得共、念のため申達し候事」とありますが、これを見ると、黒川村はこの時すでに全村の神葬への改宗を終わっていたことが伺えます。
苗木藩が管下の寺に対して、表向き正式に廃寺帰俗を要求したのは、同年9月3日のことでした。管下寺院の住職全員を藩庁へ呼び出し、大参事青山直道(あおやまなおみち)が、「今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける。よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀(みょうじたいとう)を許し、村内においては里正の上席とする」と申し渡しました。
住職たちは早速、遠山家の菩提寺である雲林寺に集まって対策を協議しましたが、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決しました。
ただ一人、雲林寺の17世住職浅野剛宗だけは頑としてこれを聞き入れませんでした。青山大参事が再三にわたって使者をおくり「五人扶持を与え、藩校の教師に任用するから速やかに還俗せよ」と勧めても、「領主の多年の恩顧に報い、歴代藩主の菩提を弔う」ためといって、領外の下野(しもの)村(現在の恵那郡福岡町)法界(ほうかい)寺への退去を願い続けました。藩はついに彼の懇請を受け入れ、雲林寺の仏具、什器類と金三百両を与えて退去を認めました。剛宗は、遠山家累代の位牌や雲林寺歴代住職の位牌をも貰い受け、雲林寺の末寺法界寺へ去って行きました。
同年9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官(中央役人)に届け出ました。
苗木村 雲林寺 同 所 仏好寺
黒川村 正法寺 坂下村 長昌寺
福岡村 片岡寺 姫栗村 長増寺
蛭川村 宝林寺 神土村 常楽寺
飯地村 洞泉寺 赤河村 昌寿寺
高山村 岩松寺 河合村 竜現寺
犬地村 積善寺 中野方村 心観寺
切井村 龍気寺 通計 十五箇寺
右今般知事始め支配地一同神葬罷り成り候に付き、廃寺帰俗を申し付け、活計相営み申すべく候。この段御届け申し上げ候。以上
庚午(かのえうま)九月二十七日 苗木藩
弁官御中
この届け書を見ると、廃寺の災厄を被ったのは15か寺となっていますが、実際にはこの外にもありました。例えば、苗木の雲林寺の塔頭(たっちゅう)正岳院や大沢(おおさわ)村の蟠龍寺(ばんりゅうじ)も、このとき廃寺になっています。正岳院は雲林寺の一坊ですから弁官への届出から除外され、蟠龍寺はそのころすでに住職全理が退去した後で、寺は事実上廃寺の状態にあったので届書には記載されなかったのです。
恵那郡下野村の法界寺や佐見村吉田の大蔵寺(だいぞうじ)も雲林寺の末寺でしたが、この村々には幕府の直轄領があり、笠松郡代(かさまつぐんだい)の支配下にあったので、廃寺の災厄を免れました。
藩は廃寺を命じた住職に「速やかに帰俗する者には、従来の寺有財産を与えて生活を保障する」と申し渡す一方、9月3日、村方に対して「雲林寺始め村々寺院、更に廃仏帰農仰せ付けられ候に付き、寺院、田畑、山林等委細取り調べ届け出ずべし。その外、宝物、家財の儀は、本人、役人、檀家共相談の上、宜敷(よろし)きに取り計らい申すべく候事」と布達しました。
神土村の常楽寺では、寺が所有していた田畑は檀徒の協議によって、元の住職自董こと安江良左衛門(りょうざえもん)の所有に移されました。
このほか村内には、阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂、薬師堂などが数多くありましたが、その多くは壊され、仏像や仏具は焼かれたり、土中に埋められたり、あるいは他領へ売り払われたりしました。
路傍に建てられた石仏、名号塔、供養塔なども、その主なものは打ち割られたり、引き倒されたりしました。神土村の常楽寺の山門に建てられていた名号塔が四つに割られて、池の端や畑の片隅に伏せ込まれたのもこのときのことです。
廃仏毀釈と民衆の動き
明治新政府による「神仏分離令」は、必ずしも廃仏を意図したものではありませんでした。神武創業の昔に復古する日本の姿を土台に、神仏混淆を禁じて、神道への切り替えを促進し、それによって旧習を打破し、天皇制支配に奉仕する政治体制をより強固にしようとするものでした。
しかし、為政者の大半が平田学派で占められている苗木藩の場合は、これが神葬改宗となり、さらには仏教排斥にまで進行し、その結果、大切な伝統的文化遺産である寺院、仏像、経典、塔碑の類を多く失うことになってしまったのです。
当時、藩庁から出されたさまざまな布達には、「今般朝廷より仰出され候…」とか「朝廷へ伺済み…」とかを冒頭にうたったものが多くありました。領民には、これらの命令があたかも朝廷から発せられた絶対的なものであるかのような印象を与えました。しかも明治3年は
・平民に苗字(みょうじ)を差許す(9月)
・平民惣髪束髪(そうはつそくはつ)勝手次第(10月)
・四民平等(11月)
など、維新の改革が広く及んだ年でもあり、廃仏政策もまたこの革新の一つであるように受けとめられたのでしょう。領民たちは仏罰におののきながらも藩の命令に従いました。
ところで、廃仏当時の状況を伺う史料は意外に少なく、藩から出された命令や布達などの公式文書は保存されていますが、村人がどのように動いたかを伝えるものは、あまり見当たりません。
しかし、わずかに残る史料の中の「明治3年見聞録」で村雲蔵多は、この地域は代々禅宗で、あまり仏道に頼らず、神を信心してきたから、仏を廃されても人々はやかましくなかったと述べており、付知宗敦寺沙門坂上宗詮(つけちそうとんじしゃもんさかがみそうせん)は「自叙伝」の中で、苗木領民の多くが臨済宗(りんざいしゅう)門徒であったから、暴動も起こらず平易に廃仏毀釈が実施できたが、もし一向宗(いっこうしゅう)の門徒が大半を占めていたら、あるいは暴動を起こし、苗木藩を倒すような挙に出たに違いないと語っています。
いずれにしても苗木藩では、廃仏毀釈という強行手段によって、仏教の全廃を期しましたが、坂上宗詮が「彼等は苗木一万石の廃寺を見て、日本全国悉く廃寺せりと思惟(しい)したるものの如(ごと)し」と指摘しているように、廃仏毀釈は全国にわたるものではなく、苗木藩のほか、信州松本、土佐(とさ)、薩摩(さつま)、伊勢山田などの各藩が一部行った程度でした。小藩ながら苗木藩ほど徹底したところは全国に類がなく、わが国仏教史上特筆すべき事件でした。
仏道から神道へ
王政復古、御一新につき、仏道は国の費えだから廃止して神代のように神葬祭にし、親が死んでも人手に渡さないで、丁寧に大切に取り納めるようにとお達しがありました。
当領内でも、3月、4月ごろから、書物をよく読む人が1村に2人3人と神葬祭を願い出て、すぐ聞き届けられ、太政官へ奏上されています。
寺との縁を切れば、一切坊主を頼まなくてもよく、はなはだよろしいことです。
無学文盲の者は、仏道を潰し、神葬祭になり、坊主に取りおきをしてもらわなければ、行きどころへ行かれないとか、仏道を廃止すれば世界が闇になるとか、人の気が強くなって世が治まらぬとか、なんのかんのと知りもせぬ語り話をして、お上(かみ)の御政治をそしる者があります。全く国家の罪人だと、私は思います。
とかく仏というものは外国から渡ってきたもので、もともとわが国にあったものではありません。実に不要の道具同然です。
だから、人々は早くこのことに気づき、神葬祭を願うことは当を得ています。
私も急いでお願いしようと思い、家の者に相談しました。しかし、家内の者はその気になってくれません。みんなが神葬祭を願い出た時に、いっしょに願い出ればよく、先走ることは見合わせた方がいいと言います。父母もよろしいとは言われません。仕方がないので、押して願うことはせず、時節の来るのを待つことにしました。
父母が、みんなが願うまで待てと言われるのには訳があります。
早く神葬祭を願い出た者が、道でつまづいて足の指をけがしても、人はよく言わぬもので、「あの人は神道(しんとう)じゃ」とか「仏をそそうにした罰が当たったのじゃ」とか言います。仏の罰などありもしないことを言って、人の心を惑わすのです。
父母は、そういうことをいやらしく思い、急ぐなと言われるのでしょう。
文盲(もんもう)で道理のないことを言う者に対しては、争わないで相手にしないことがよろしい。
中には、不法なことを言って世の成り行きをそしる人があります。こういう人には説得したいのですが、そんなことをすれば恨まれるだけですので、そのままにし、誠のことを聞きたい人にだけ説き聞かせることがよいようです。
何事によらず、不法の者は数にしないで、正しい者を友にし、相携えて真の道を渡れば過ちはないと思います。
茶菴堂の廃止
当村は昔から、少なくとも1組に1か所は観音、地蔵、弘法などを迎え、堂を造り、納めてきましたが、今、君から早々取り払えと申されましたので、27日ごろ(明治3年8月)から、みんなで取り除きにかかりました。
神付(じんづき)組でも茶菴堂(ちゃやんどう)に納めてあった地蔵はじめ、三十三番の観音、薬師、弘法大師の像などを取り除きました。しかし、だれもそれを預かるという人がありません。仕方がないので3体ずつ割あって組中みんなで預かることにしました。
この茶菴堂は古い堂で、その名は遠くへも聞こえていました。ここへ迎えたのは元来お地蔵さまです。しかし、中古に至って西国(さいごく)三十三所の観音の姿を迎え納めたといいます。
実に仏というものは、釋迦をはじめその弟子たちの作り出したことで、地蔵も観音もありし人ではありません。すべて彼等が悟ったものであります。ですから、日本には不要の品で、無くてもことかかず、あっても益のないものですから、このように廃されるわけです。
また、28日には、茶菴堂の西の方に建ててあった六地蔵、十三仏、南無阿弥陀仏などの石仏を残らず倒し、薦(こも)に包んで置きました。
常楽寺の最後
当村檀那寺安泰(あんたい)山常楽寺(じょうらくじ)も、檀家一同が自葬を願った以上は寺が不要になったので帰農し、従来の田地で百姓をされるそうです。裃(かみしも)、帯刀、苗字を許されたので、家名を安田屋(やすだや)とし、俗名を安江良左衛門と呼ぶことにされました。
10月27日から29日まで、仏具など不用の品を競り売りいたしました。方丈の方一帯は130両で神戸弥介(かんべやすけ)が買い取りました。釣鐘堂は鐘ともども百両余りで笠松辺の坊主が来て買い取りました。この堂は樫の丸柱造りで立派なものでした。 
 
6 四つ割の南無阿弥陀仏碑  

 

安らぎのシンボル
東白川村の仏教や廃仏毀釈、常楽寺などを語るとき「四つ割の南無阿弥陀仏碑」を抜きにして考えることはできません。
この塔は、昭和51年に東白川村の史跡第1号として指定され、役場前に保存されています。東白川村における廃仏毀釈がいかに厳しく徹底的に行われたかを、最も明確に語ってくれる唯(ただ)一つの証拠物で、寺のない村の象徴です。
この塔は、天保6年(1835)7月、神戸弥助政辰(やすけまさとき)、伊藤爲平盛豊(ためへいもりとよ)、服田喜三太正命(きさんたまさな)、の3人が施主となって、常楽寺の山門わきに建立しました。
塔の材質は俗にいう青石(濃飛流紋岩類(のうひりゅうもんがんるい))です。神土長瀞(ながとろ)付近の白川で採取したものだと伝えられていますが、実際にはもう少し下流の釜淵の堰の上にあったもののようで、神戸正弥氏所蔵の文書には次のように書かれています。
天保七丙申年(一八三六)二月出来
南無阿弥陀佛
金三両壱分弐朱弐匁五分
   酒屋四人肴代
金四両三分三匁
   石屋伝蔵上日百六人ちん銀
金壱分壱朱  苗木雲林寺様御礼ニ遣候
金壱分    常楽寺御礼
金壱分    常楽寺へ地料上ル
弐匁五分  同寺風呂有御礼
三朱ト三匁□分
   石屋爲蔵三人等ちん銀共
〆金九両壱分三匁三分五厘入用
大仏(名号塔のこと)の石は釜淵前堰の上の川にこれあり候 親田日雇神戸材木川狩の節代人忠左衛門と申す者棟梁にて引き申し候 材木十五六本敷材といたし候 新巣より仕出候 角なり 下屋定右衛門出火にて家を普請いたし候時右材木へいたし申し候
当時、このような大きな石を川から引き上げて運ぶということは大変なことで、村びとの常楽寺に寄せる思いを偲(しの)ぶことができます。
深い刻みの六字の名号は、苗木(なえぎ)藩主の菩提寺である雲林寺(廃仏毀釈により廃寺となりました)の住職逐安が雄渾な筆勢を振るったもので、信州高遠(たかとお)の石工伊藤傳蔵が精魂込めて刻みました。
それから35年、この塔は常楽寺のたたずまいとともに檀徒の心の安らぎのシンボルとなってきました。
涙の四つ割り
明治3年(1870)、苗木藩が強行した廃仏毀釈の嵐はこの塔にも及びました。藩役人から「名号塔を壊せ」という命令が出ると、急拠、高遠村へ飛脚が飛びました。駆けつけたのは、この塔の製作者傳蔵でした。「粉々に砕け」という藩命に傳蔵は、「わたしは苗木藩の者ではない。高遠の石工だ。仏の顔を踏みにじるようなことはできない」といって、鏨(たがね)を打ち込みました。傳蔵は涙と汗にまみれて鎚をふるいました。そして、節理に従って4つに割ったのです。
傳蔵には高遠石工の意地があったでしょうし、仏に対する敬虔(けいけん)な気持ちも人一倍だったでしょう。また、後世に期する何かがあったかも知れません。  割られた4つの石塊は、近くの「おくら(神戸正弥宅)」の畑の積石や裏の池の脇石などとして名号の文字が見えないように伏せ込まれました。また、台石は現在の役場前広場の東南隅の角石とされました。
こうして、事件は過去の語り草として、いつしか人々の記憶から遠ざかっていきました。
歓喜の再建
時は流れて昭和の年代に入り、日本が激動期の荒波に揺られ、人心も生活不安にかられていたころ、村内に悪疫が流行し、不幸が続出しました。だれ言うとなく「名号塔埋没のたたり」といううわさが流れました。
これが契機となって昭和10年(1935)、天祐館医師安江浩平(こうへい)(飛騨竹原出身)の主唱によって、当時の消防組の指導者を中心とした平(たいら)地区在住の壮年14人が世話人となり、四散した石塊を集め、一週間に及ぶ作業の末、現在地に再建しました。
ちょうど、夏の真っ盛り、7月の半ば過ぎのことでした。
明治3年9月以来65年ぶりによみがえった名号塔に人々は歓喜しました。
昭和10年8月1日、伊深(いぶか)(美濃加茂市)正眼寺(しょうげんじ)の僧や鹿塩(かしお)(川辺町)長昌寺の矢田祐保和尚など5人の僧侶を招いて盛大な供養祭が営まれました。稚児の行列も賑わしく、神土の住民はいうに及ばず、越原や五加の人々もこぞって参拝しました。
今でも毎年8月15日には平地区の人々の手によって盂蘭盆(うらぼん)の供養が続けられ、年中供花が絶えません。 
 
7 嵐のあと  

 

苗木藩が廃仏毀釈という強行手段を断行するより前、すでに明治新政府は祭政一致を目指して、神仏を分離し、僧侶が神社の別当となることを禁ずる一方、敬神の意識高揚に努めていたことは、前述しました。
新政府の方針を体した苗木藩では、いち早く、苗木城の守護神であった竜王権現を高森神社と改称することとし、「今般朝廷より仰せ出され候御趣意を以て竜王権現の御神号を、以来高森神社と御改唱仰せ出され候事」と布達しました。そして、領内各神社の神仏混淆を禁止し、社僧、別当職の還俗を命じました。更に翌明治2年12月にいたり、これらの人たちに、専ら神祇に奉仕する神職・社人としての身分を新たに与え、その序列を定めました。
一  村々の神職は社人とし、藩命のものは神職と心得(う)べき事
一  神職の者共、神用の節は里正(りせい)の上、庁用の節は次たるべし
右の通り相心得らるべき事
   明治二年十二月  苗木藩庁
神職序次 安江正朝 柘植土雄 後藤清道 奥田正神
村雲泰定 坂岡重広 小栗氏重 鷲見信秀
宮原栄造
社人序次 各務広忠 林 義一 安江正起 阿部良晁
加藤直道 安江能安 林 繁高 藤沢光順
安江正高 大沢道賢
これらの神職・社人は、かつては「行者さま」として庶民に親しまれた修験道から転向したものが多く、その中には、柏本村元安正院の安江民部正朝、神土村永正院こと村雲宮内泰定、越原村安江隼人正起らの名が連ねられています。
このころの苗木藩では、平田派国学の影響が著しく、神祇崇敬の風潮がとみに高まっていました。
その上、神土村の産土神社が延喜(えんぎ)式内の「神田神社」であるとの御沙汰があって村びとたちの神祇を敬う心も深く厚くなっていました。
こういう中での廃寺廃仏の断行でした。村びとたちは、仏罰を恐れながらも、一方では神祇崇敬の念もあって、冷静に藩の命令に従ったものと思われます。
明治3年9月29日、廃仏毀釈後初めての神田神社の祭典は盛大でした。藩知事遠山友禄が大参事石原定安、権大参事棚橋朝成、少参事水野忠鼎らと共に参拝し、毎年米7斗を祭祀料として永代寄進することを約束しました。
これらの詳細は別項に掲げた村雲蔵多の『明治三年見聞録』で知ることができます。
明治4年5月、新政府は、神社はすべて国家が尊ぶものであることを達し、神社を公的な存在に位置づけ、官国弊社、府県社、郷社などの社格を定めました。このとき苗木藩は管内を次の6区に分け、各区に郷社を1社ずつ定めるとともに、その年9月には、従来の神職・社人を廃して、祠官・祠掌を任命し、祭事に当たらせました。なお、10月には村社の決定がありました。
第1区  瀬戸村、上地村、町、日比野村、高山村=県社兼郷社神明宮(日比野村)−祠掌小栗氏重
第2区 蛭川村、黒川村、毛呂窪村=郷社佐久良田神社(黒川村)−祠掌阿部郁蔵
第3区 姫栗村、河合村、飯地村、峯村、下立村、塩見村、福地村=郷社中森神社(福地村)−祠掌柘植郡兵衛
第4区 中ノ方村、切井村、赤河村、犬地村、上田村、名倉村=郷社笠置神社(中ノ方村)−祠官心得柘植寿麿
第5区 田島村、宇津尾村、広野村、若松村、油井村、徳田村、成山村、室原村、久田島村、吉田村、寺前村、大野村、小野村、有本村、越原村、神土村、柏本村、下野村、久須見村、宮代村、大沢村、中屋村、須崎村=郷社神田神社(神土村)−祠掌俵実
第6区 田瀬村、上野村、坂下村、福岡村、下野村=郷社榊山神社(福岡村)−祠掌伊藤祐直
また新政府は、この年の6月には、村々にある神社をそれぞれ一つに合祀して、神事の統一を図ろうとし、格別に由緒のない神社は産土神社に合併することを命じました。そして、産土神社の祭りについても「始め春秋祭祀いたすべき旨申し達し置き候処、今般詮議の上、更に一歳一度は村中寄り集まり大祭致し候様相改め候事」とし、一年に一度は大祭を行うように命じました。さらにこの年の12月には、苗木県(七月に藩を県に改称)管下の各区とも郷社一社とその祠官および各区内の郷社、村社を一括しての祠掌が任命され、郷社、村社の祭祀が一様に行われるようになりました。
第1区 神明宮祠官=安江 静(平田門人) 祠掌=神田 巖(苗木藩士)
第2区 佐久良田神社祠官=土岐正雄(苗木藩士) 祠掌=奥田正道(平田門人)
第3区 中森神社祠官=俵 実(苗木藩士) 祠掌=柘植長雄(平田門人)
第4区 笠置神社祠官=柘植顕義(平田門人) 祠掌=吉田澄暢
第5区 神田神社祠官=阿部敬儀(苗木藩士) 祠掌=加藤清敬(苗木藩士)
第6区 榊山神社祠官=土岐正徳(苗木藩士) 祠掌=小栗民重(苗木藩士)
その年の神田神社の祭り
神土村産土神社の祭りは、昔から毎年9月29日に、氏子の者が土腐酒(どぶろく)を作ってお供えし、お参りするだけでした。その氏子も全部の人がお参りするわけでなく、実に勿体ないことでした。
ところが最近、日に日に神を敬う心が高まってきました。
もともとこの神社は、旧い神社で式内(しきだい)だと言い伝えられてきましたので、それが本当であるかどうかを確めるため、神戸弥介(かんべやすけ)氏が京都へ上られ、神祇(じんぎ)局にお尋ねになりました。たぶん式内だろうと思われますが、直ぐには分かりませんので、調査して回答をいただくことにして、お帰りになりました。
お上(かみ)からも京都へ御催促いただいたところ今年になって、延喜式(えんぎしき)の式内(しきだい)で「神田(かんだ)神社」であると御沙汰がありました。
そこで今年の祭礼には苗木藩知事らも参詣されることになりました。今までと違って、神国の掟により田畑の種々の初穂(はつほ)を献じ、さまざまに珍しい物を供えるようにとの仰せですので、それぞれ用意いたしました。
裃(かみしも)、帯刀(たいとう)を許されている者はそれを着し、それ以外の者は羽織袴で参詣するようにとも達せられていますので、一同礼服で参詣しました。
知事は29日5つどき(午前8時)においでになる予定でしたので、一同早朝からお待ちしましたが、4つどき(午前10時)に到着されました。総勢16人で、知事は馬に乗っておいででした。知事を迎える人の波は、酒屋(さかや)前あたりから邦好(くによし)付近までの田畑に隙間なく充満しました。
知事は里正宅へお入りなり、暫く休息された後、神田神社をあらかじめ見るためお登りになって、社司(しゃし)に詳しくお尋ねになり、神鏡(しんきょう)、宝物を拝見されました。
知事は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を召され、その他の役職者は裃(かみしも)を着けて参詣されました。
知事は、近郷の神主や係りの者が手送りするお供物を次々と神前に飾られました。
知事はじめ諸公の祝詞が奏上され、一同つぎつぎに拝礼し、お供物を下ろして神事を終わりました。
知事は御神酒をいただいた後、拝殿で少し休まれてから、里正宅へ行かれました。参詣人も多く賑やかだったので知事もお慶びだったようです。
村の者たち一同も、お供えの芋や大根を肴にしてお酒をいただき、賑やかな時を過ごして帰りました。
時移り世変わりゆけば・・・・・・のことばのように、これまでは、産土神ありといっても参拝する人が少なくて、神社もあって無いと同じようでしたが、今日の祭りは家に残る人がいないくらい、われもわれもと参詣しました。
神も敬わなければ幸せも少なく、こうして神を重く敬う心を持つ人が多くなったことはすばらしいことです。これこそ神国のしるしであり、神の恵みも厚く、村も栄えていくことでしょう。
今回参詣された方々の名前を記しておきます。
お客様
  苗木藩 知 事 遠山友禄公
  同 大参事 石原定安
  同 權大参事 棚橋朝成
  同 權少参事 水野忠鼎
  同 大監寮 岩瀬邦雄
  同 主辧事 纐纈正韶
  同 郡市理事 紀野維益
  同 勸農山林理事 山内勝孝
  同   吉田澄暢
  同 醫 師 安江義幹
  苗木高森神社神主 鷲見顕秀
    苗木藩 監 寮  西尾萬壽治
    同   馬 屋  金太郎
    同   夫 卒  平四郎
    同   石原家来  
    同   棚橋家来  鍬吉
神社方
  神田神社 神主 村雲宮内泰定
  柏本神社 神主 安江民部正朝
  宇津尾 神主 加藤玄蕃直道
  越護神社 神主 安江隼人正起
獻備世話方
  越護神社 神主 安江隼人正起
  平尾倉 神戸弥介正衛
  平若松屋 服田彦七正倍
  中通鈴原 桂川與左衛門盛壽
  平酒屋 伊藤政太郎
  中谷居母尾 安江清右衛門正房
  神付問田 今井賢三郎兼言
村役人
  里正 平邦好 安江新八郎正晁
  平組頭 平永楽屋 伊藤儀介
  東組頭 中通豆腐屋 早瀬清七
  西組頭 中谷中ノ谷 小池新右衛門吉保
ああ ありがたき産土神
いつの日か、菅原知明(すがわらともあき)という神道の講釈師が来て庄屋に泊まり、一晩講釈をしました。その者は、
「私は、生まれた土地の産土神を大切に尊敬しています。毎月朔日(ついたち)、15日、28日には必ずお参りしなければなりませんが、農家ですので白昼お参りする時間がありません。だから朝早く起き、朝食前にお参りすれば差し支えありませんので、そのようにしています。産土神へよくお参りし信心すると、きっと厚き幸(さきわ)えがあるでしょう。こうすれば、神土村の産土神は他のどの村の産土神よりも尊い社で、霊験あらたかであるといって、参詣する人も多くなるでしょう。そのようになれば、村もどことなく福々しくなり、村繁栄の基となります。また、産土神を粗略にし、村の者がお参りもせず、お宮があってないような状態にすれば、その村は産土神の守り給うところもなく、貧しくなり、自然に滅亡するでしょう。」と話しました。
今思い出しますと、実にこのことでした。わが村の神田神社の祭りは、今まで村の者でも参詣する人が少なかったのですが、今回、このように(延喜式内神社であり、知事が参詣したこと)尊いお宮であると方々へ聞こえ、近郷はいうに及ばず他国の人まで多くお参りしたということは、昔から聞いたことがありません。実に神国の有難さでこうなったものです。
思うに、神田神社は霊徳尊くしてその名は四方に隠れなく、日々の参詣が多く、これこそ村繁栄の基でしょう。めでたし、めでたしと私は独り喜ぶのです。
仏名を俗名に
仏道を廃してからは、法名などを書いた位牌を焼き捨てたり、墓に埋めたり、あるいは他に売った人もあるように聞きます。
仏道は世間の浮宝と見え飾り立てます。位牌なども大きいものがよく、漆を塗り、金箔をかけたものをよしとします。だから漆は汚いものです。これに本名も記さず、外国から渡ってきた仏法の戒名を書き、それだけを敬うことは、わが国の掟にも背きます。大体仏道というものは不実の法です。その次第は詳しく語るに及びません。
今、私が思ってみますと、歴々の家では位牌の裏に俗称を書きましたが、中から下(げ)の者はそういうこともなく、系図もありませんから、仏名をやめて俗名に改めようとしても、古い祖先の名は分からず、みんな戸惑いました。無理をして新しい名を作り、御霊を祭り替えた人もあります。
これをみても仏道の不実を知ることができます。表に戒名を記しても裏に俗名を書いておけば、今になって坊主をこのように悪く言わなくてもよかったでしょうに。おしなべて私たちも不明でした。
今、神葬を行うについて、これまでの分も残さず改めよという君(藩主)の仰せなので桜の木で笏(しゃく)の形を作り、それに俗名や実名を書き、裏には死亡年月日、何代目、父の名、続柄などを書きました。これで、何百年経ってもその名はその家に残り、祖先からのことが明らかになります。これこそ仏道の左道と違い、神国の真道で、神葬祭のお陰と思います。
10月16日、尾越(おこし)の房平(ふさへい)を頼んで、押場(おしば)から桜の木を貰い、御霊代にする笏の形を作ってもらいました。そして、竹で灯台と花立ても作ってもらいました。
葬儀のことなど
人が死んだ場合、従来は仏式によって葬儀が営まれていました。しかし、廃仏毀釈後の葬儀はすべて神式によって行うこととなったのです。
では、どのような姿で執行されたのでしょう。
奥書に「慶応元年七月、美濃守源朝長躬行」とある『喪儀畧』という文書(五加柏本安江益良氏所蔵)には、人の死に対する心構えや具体的な扱いが細かく記されています。
父母や祖父母などが病が重くて遂に死に至ったときは、その家の主人または葬儀のことを扱う人は、衣服を改め、手を洗い、口をすすいで、病床に入り、慎んで死者の名を御霊代(みたましろ)に墨書する。そして、死者に向かってその霊を御霊代に遷(うつ)すことをひそかに申しあげる。
これが終わってから御霊代に覆いを掛け、別室にこもを敷いて、南向きまたは東向きに安置し、朝夕にお供え物をし、夜は明かりを点す。また、親しい人たちからの贈物も供える。
死者の沐浴は夜に行う。12時を過ぎてから沐浴させ、爪を切り、整髪をする。それが終わったら新しい着物を着せ、枕を東にして寝かす。顔は北に向かわせる。頭に白の麻布を覆う。夏は涼しいところに寝かせ、大きい容器に酢を入れて近くに置き、遺骸を損なわないようにする。
あらかじめ、庭の木陰などに大きな穴を掘っておき、爪、髪の毛、手ぬぐい、整髪に使った用具、沐浴に使った桶や盥(たらい)など死者に使った物はすべてその穴に入れて埋める。
24時間ほど過ぎたら、親族は共に死者の部屋に入り、訣別して、棺の中に入帷子(いれかたびら)をのべ、遺骸を夜着や寝具に包んで収める。死者が生前、愛用していたもの、常に身の回りに置いていたもの、身に付けていたものなどは、ともに棺に入れる。それが終わったら、静かに蓋(ふた)をし、合わせ目にチャン(松脂(まつやに)などを原料とする濃褐色の防腐用塗料)を塗り、覆いを掛けて、葬式まで死体を安置しておく喪屋(もや)に移し、白米、水、塩を供えて拝む。
墓地を開くときは、まず土地の神を祀らなければならない。けがれに触れていない人がその土地を祓い清め、こもを敷き、神座を設け、くさぐさのお供えをし、祝詞をあげて祭る。しばらくして、供え物を下ろしてから、穴を掘り、棺を入れる外箱を埋め、炭の粉、または灰を入れて、その周囲をつき固める。場合にによっては穴を掘るだけでもよい。ただし、先祖の墓地に併せて葬る場合は土地の祀りは行わない。
柩(ひつぎ)は夜、門前に庭火をたいて送りだす。葬列は、松明、白杖(すわえ)、銘旗、柩と続く。喪主以下柩を送るものは、みな徒歩である。喪に服さなくてもよい人々はその次にしたがう。(病人、老人、その他特別の場合は馬車を用いてもよい。)柩を送り出した後は、留守の者が竹箒で家の中を払う。
さて、墓地ではあらかじめ穴の四隅にかがり火をたき、こもを敷き、柩が到着したならば台の上に据え、むしろを敷き、お供え物をする。葬主はまず手を洗い、口を濯(すす)ぎ、おのおの拝んだ後、お供え物をおろし、ついで柩を穴におさめる。(吊り下げた縄が抜き取れないときは切り取ってよい。)
柩の周りには炭末または灰を入れてつきならし、蓋をし、死者の籍や履歴、業績などを書いた墓誌を埋め、少し高く土をつき固める。その上に墓標を立て、芝垣を巡らし、竹または細い木の柱を建てて棚を造り、へぎ板、杉の葉などで屋根を葺き、風雪に備える。すべてが終わったら、みんなで墓を拝んで帰る。(山家などでは、重い石を塚の上に置いて獣の害を避ける。)
埋葬の帰り道、谷川にあらかじめ定めておいた場所でそれぞれ榊(さかき)で身を祓い清める。
家に帰ったら、みな御霊代を拝む。
埋葬が終わったら、門を閉じて、礼服を着け、人に会わないで、50日間を謹んで過ごす。この場合、伯叔父母、兄弟姉妹、子、甥姪などは30日である。しかし、仕官している人は、その他の定めがあり、街中も村ざともそれぞれの風俗があるので、その重い形式に従ってよい。ただ神職は定められた形式のままであってほしい。
もし、喪舎(葬式まで遺体を安置しておくところ。もがりのみや)のある人は野辺から直ちにそれに入って忌みこもりをし、日数が過ぎたら祓い清め、清潔な衣類を着けて家に帰る。(昔の人は、中陰(仏教で人の死後四十九日の称)は山寺などにこもって、かりそめにも家に帰ることはなかった。けれどもそれは裕福な家の人のことで、おおかたは家にこもって日を過ごしたものである。)
およそ家に不幸があったならば、直ちに知識経験のある人を選び、執事として喪のことを任せる。また、書記を定めて、弔い客の姓名、贈り物、葬儀などの諸道具、会葬者の氏名、使用人の数、金銭の出入り、物の値段に至るまで、つぶさに記録し、故人の姓名、死亡年月日、本籍、出身地、父母、年齢、出生年月日、続柄なども詳しく載せて、後に備える。(裕福なものは別に出納係を設ける。)親戚や知人の家に不幸があったときは、早く弔いに行ってさまざまに手助けし、その家が貧しいときは、金銭や人手間なども分に従って助け、葬儀が滞りなくできるように努める。
『喪儀畧』には、まず大要このように人の死についての心構えや心を込めた取扱いについて書かれています。次いで、葬儀に用いる用具を掲げ、その材料、寸法、用い方などを詳しく説明しています。ちなみに用具の名称だけ列記してみましょう。
霊璽(みたましろ)、(おおい)、(うわおおい)、高案(つくえ)、内衣(うちぎ)、襯衣(はだぎ)、布帶(おび)、褌(たふさき)、衾褥(ふすましとね)、野草衣(いれかたびら)、槨(おおどこ)、棺(ひつぎ)、枕(まくら)、充嚢(そえもの)、(ひつぎのこし)、(こしのだい)、銘旌(はた)、傘(からかさ)、白杖(すわえ)、竹杖(つえ)、墓誌(はかじるし)、墓標(かりのしるし)、卓(つくえ)、松明(たいまつ)、韓櫃(からひつ)、幸木(さかき)、
そのあと、葬式の具体的な方式について説明しています。
いずれにしても、現在の葬儀の風俗と比べた時、質素ではあったが、心を込めた喪の取り扱いが行われたということを伺うことができます。 
 
8 その明くる年  

 

廃仏毀釈という人の心を180度転換する改革が徹底的に進められた明治3年も暮れて、翌明治4年の正月が静かに明けました。村雲蔵多は『明治四年諸事記録』の中で、
正月は例年の通り1日から3日まで休日。年始の祝儀の贈答は一切致しません。門松もなるべく小さなものにするよう言い付けられています。その他の飾り付けは『平田御邸行事書』にしたがい、いろいろ工夫しました。
これまでは、元旦の朝早く隣家へ年始のあいさつに行きましたが、今年はまず早朝産土神へ参詣しました。
神酒をいただいた後、名主方へ新年の御祝儀を申し上げて帰り、そのあとで隣家や親戚へ年始のごあいさつに回りました。
門松は、去年までは3日の夕方倒し、15日に片付けるようにしていましたが、今年は、15日まで立てておくように言われていますので、そのようにしました。16日には例年のように神田神社で五穀豊饒を祈願する祭りがあり、氏子が参拝しました。
と書いています。質素ではあったが、落ち着いた年の初めであったようです。
小学校は正月6日から始まりました。
3月15日には苗木本学校で祭礼があり、平田学の門人となっている人たちが2泊3日の日程で参詣しました。苗木では見世物も多く、相撲の興行なども行われました。
廃仏毀釈の後処理は年を越えても、まだ少しは残っていたようです。神付の茶菴堂(ちゃやんど)にあった観音などは、既に尾張国宮田村(現江南市宮田町)へ売却されましたが、現品は運び出されないまま、神付の人たちの家に預けられていました。それが3月の中ごろ、代金と引き換えに運び出されました。村雲蔵多の家にあった掛け物などの仏具もこのとき売却されました。
廃仏毀釈の状況視察は藩の重要な仕事で、3月13日には青山大参事と石原定安大参事が揃って管内を巡察しました。農業に精を出し、孝養を尽くしている者に褒美を与えたりしました。  3月25日には神田神社で神武天皇の御霊祭が営まれました。この祭には有本村佐見新田の人たちも残らず参拝しました。
この年、枝宮、枝社など小さな宮は大きな神社に合併が進められました。享保の山論で斬首された2人の霊は、神付の神森神社の若宮として境谷に祀ってありました。場所が離れていて都合が悪いので、この際、神森神社に合併しようとしたところ、これは尊い神の社へ人の霊を併せ祀ることは甚だ宜しくないと、別に山の神の古祠を安置して祀ることになりました。
神森神社、越原村越護神社などが、例年6月14日に行っていた提灯祭は取り止めました。
廃仏毀釈前は七月盆といっていた7月14日、15日、16日の3日間の休日は廃止し、替わりに御霊祭りといって7月1日、2日、3日を休日としました。
これは正月は神を祭ることを第一とし、七月は先祖の御霊を祭ることを第一とする考え方をはっきりさせたものです。
各神社の秋祭は、神楽やしし舞が奉納され、例年以上に盛大でした。
こうして、廃仏毀釈という一大事変は、時間の経過とともに落ち着きを見せていきました。 
 
9 信州高遠の石工  

 

東白川村と高遠石工
東白川村には石仏や石垣などの石造物が多くあります。中でも石仏は廃仏毀釈によって破壊されてしまっただろうと思われてきましたが、探してみると意外に多く残っています。これらの石造物は、その銘文などから建立者や寄進者の名を知ることは比較的容易ですが、だれが彫造し、だれが積み上げたものかを知ることは、大変困難なことです。困難というよりもほとんど不可能のことが多いのです。役場前の「四つ割の南無阿弥陀仏碑」だけは古文書が残っていますので、信州高遠(たかとう)の石工が彫ったものと分かりますが、他はまったく手がかりがないか、あっても証拠付けることが極めて困難です。
しかし、周囲の他の市町村の状態などからおおよそのことを類推することはできます。
東白川村の石造物は、信州高遠の石工或いはその系統の人たちの精魂込めた作品が多いように考えられます。
高遠石工とは
『山里に花ひらく高遠の石工』によれば、元禄3年(1690)徳川幕府は厳しい検地(けんち)を断行し、高遠藩から6,300余石を召し上げました。
財政の逼迫(ひっぱく)した高遠藩では、窮余の一策として、耕地の分散を禁じ、農家の2、3男は他国へ出稼ぎに行くよう奨励しました。
そのため、高遠藩の藤沢郷や入野谷郷などの人々は石切の技術を習得し、石工となって全国各地へ旅稼ぎに出ました。
最初は、冬の間の農閑期だけの稼ぎでしたが、旅先での評判が良いので、長期に亘(わた)って逗留(とうりゅう)する者や、ついには旅先に定住して石切稼業を続ける者もいました。
高遠藩は、これらの諸国へ旅に出た石切職人を取り締まるため、各郷に「石切目付」を置いて運上金の取り立てを行いました。ちなみに文化8年(1811)高遠藩が石切職人に課した運上金は171両2朱だったそうです。
また、高遠藩は、他国へ出稼ぎに行った農民が、土地を離れたため農地が荒れてはならないと、「出稼ぎにでる石工は、役所へ一札(いっさつ)を入れて出国し、もし帰郷しない者があれば請人(うけにん)が迎えに行って連れ戻せ」と厳しい法度を制定しました。
しかし、それでも長期間の逗留で、旅先に定住する者が少なくありませんでした。
こうして、信州高遠から東濃路に出稼ぎに出た石工の中に、常楽寺の名号塔を刻んだ東白川村ゆかりの伊藤傅蔵がいたのです。
高藤石工と傅蔵
石工傅蔵は信州片倉村(現長野県高遠町片倉)に生まれました。石工としての伊藤家は初代八右衛門から傅蔵まで5代続きました。その系譜は次のようです。
常楽寺の名号塔を刻んだ石工は5代目傅蔵で4代目傅蔵の弟です。墓塔には明治19年9月20日に亡くなったと刻まれています。35年前に自ら彫った名号塔を、廃仏毀釈の際、血涙を絞って4つに割った名工です。
伊藤家の石工としての稼業は5代目傅蔵までで、後を継ぐ人がありませんでした。
高遠の石工は、寛保2年(1742)ごろから天保年代に亘って、東白川村の各所で石垣積みをし、またはそれを指導したらしいと識者はいいます。例えば、五加大沢蟠龍寺跡の石垣やその付近の農地の石積み、或いは神土平の旧道のうち、高橋北詰めの川の土手積みなどは間違いなく高遠式の石積みだというわけです。
他の地域に見る農地の石積みは、積み上げてから一定の草土手を造って畦(あぜ)にする方式がとられていますが、東白川村の場合は、作付け面積を少しでも広くするように工夫され、かなり高い石積みでも傾斜を付けないで、ほぼ垂直に積み上げ、草土手も設けていません。それでいて、100年も200年もびくともしないでいるのですから、今さらながらその技術の高さに驚きます。 
 
10 村雲蔵多と蔵多日記  

 

蔵多日記
歴史的に特筆される廃仏毀釈という史実を、東白川村という地域にポイントを置いて考えようとするとき、断片的な文書を系統的に、しかも庶民の立場から裏付けてくれるものに村雲蔵多が綴った4冊の貴重な記録があります。それは、
『文久四歳甲子肇 慶應三歳丁卯至 合四歳之間大概記録』
『從慶應四戊辰歳 至明治二己巳歳 貮歳之間記録』
『明治三庚午年見聞録』
『明治四辛未年諸事記録』
というものです。これらをまとめて「蔵多日記」と略称します。本書の中にも蔵多日記を意訳して引用した箇所が多くあります。そのことで史実を系統立てることができました。
蔵多日記の願い
村雲蔵多は、一農民として苗木藩政に影の協力をしながら日々起こる事柄を「後世のために書き残す」というはっきりした意図のもとに大切に記録しました。
村雲蔵多という人
村雲蔵多は、嘉永2年(1849)正月18日、村雲家の4代目として神土神付に生まれました。幼いころから勉学にいそしむ努力家で、苦労をして文字を学びました。敬神の志厚く、根っからの神道家でもあったようです。
慶應2年(1866)の元旦は「快晴家内滿足新春の祝を述べ神祇を祭り奉」りました。
その年4月8日、釈迦の誕生日に常楽寺で行われた灌仏会のとき、花御堂を作って誕生仏を安置し、甘茶(あまちゃ)を注ぎかけて供養する行事に対し、
「當村平安泰山常楽寺に て當日釋迦の生れ日と云像をうぶゆと云ふあまちゃをせんじ草木の花實に て奇麗なる屋根をふきその中に すがたを安置しうぶゆをかけ夫を呑むなり 是を便りに老若男女あわてふためきて参詣するなり 實に仏に意を入て見ればうかしきものなり其は いかにといふにしゃかと云ふも天竺かびらへ国の人なり 其人の生れたる日を祝ひ産水を呑といふはきたなき事の限りなり 是をのむはたれたる糞を喰ふにかわりなしやと吾思ふ也」
と極めて厳しく書いています。(「かびらへ」とは、釈迦の生誕地カピラバストゥの漢名「迦毘羅衛(カビラエ)」のこと)
慶応3年8月には、同じ志を持つ山下の安江鉄五郎と共に寄付を募って、神付に鎮座する愛宕社、津嶋社、若宮の3社に立派な「みす」を掛けました。
「吾國は神國なり さるに君(きみ)をはじめ臣に至迄神之道を重しと守らせ給ふ也 付ては下民ニ ても神祇をおもく守るの処・・・ (中略) ・・・御祭り毎に御戸を開候得共御神躰現(あらわ)ニ 拝し奉り餘り恐れ多き事ニ て神事之度毎に御みすをかけ奉りたらよろしき也」
という意図からでした。
こうして明治維新を迎え、明治3年4月、平田派国学に入門するに及んで、「神國之掟を守り一天萬乘之君奉守護神祇之道を厚く守」る心情がさらに強固になっていきました。
神葬改宗については、平田派国学に入門したこともあって、比較的早くその決意を固めました。しかし、家族の同意が得られないため、決意とは別にその時期が遅れましたが、神葬改宗に熱意をもって率先した一人でした。
系譜
村雲蔵多は慶応3年までは、「蔵太」と表記しています。その理由は分かりませんが、本書ではすべて「蔵多」としました。また、別名を桂川庄太郎といい、明治3年4月、柏本村社司安江平正朝(安江民部)から「正道」の名をもらい、桂川庄太郎平正道と名乗りました。そして、その年の10月、苗字(みょうじ)御免となったことから、姓を「村雲」とすることにしました。村雲庄太郎正道は同4年8月に若者頭に任命され活躍しました。
村雲家の初代桂川弥与介は、蔵多日記によれば中通の鈴原から別れ出たとありますが、蔵多日記がしたためられたころには、すでに故人になっていますので、詳細は不明です。 その長男村雲禮介は、天明4年(1784)8月5日の生まれで、幼名を丈介といいました。この人の場合も蔵多日記のころは高齢で、特別の記述が見られません。父喜蔵は文政5年(1822)3月18日の生まれ、当時は働き盛りの年代でした。幼名を万之介または貝介といい、五人組頭の職にもあったようです。 
 
11 仏教の名残−今  

 

明治三年、廃仏毀釈が断行されて以来、東白川村には寺がなくなり、仏像や仏教に関する器物がなくなりました。しかし、そのことで、長い間生活そのものとしてきた仏教に対する信仰心をすべて滅却することはできませんでした。
今、わたしたちの生活の中にある宗教的な行事やしきたりを振り返ってみると、日常、それと気付かないまま、根強く染みついている仏教とのかかわりに気付きます。  あえて、それらを列記することにしました。
盆と御霊祭り
8月1日から3日までをお盆の休日としています。そして、同じ日の14日から16日までを「うら盆」の休みとしています。「うら盆」は「裏盆」と解釈されているようですが、そもそも「盆」は7月15日に行われる仏教行事のこと、その上、似通った行事が1月に2回もあることは、何か変に感じます。
それを解き明かす資料が蔵多文書の明治4年の記録の中に見つかりました。それによると、
「王政復古御一新により苗木管内は仏教が廃止になり、神道となったので、「七月盆」といっていた14、15、16日の休日は差止めとなり、7月1日、2日、3日を「御霊祭り」と称して休日とすることになりました。これは、丁度一年の境の月に当たり、「裏正月」のような意味があります。正月は神を祭ることを第一とし、7月は御霊を祭ることが中心です。7月3日の内は、万事清らかにして、珍しい物を先祖の御霊さまに供えて祭ります。なお、7月15日は七節句の内であるので、休日とすることになりました。」というわけです。
これは旧暦ですから現在のように太陽暦にすれば8月になります。
「盆」というのは、「盂蘭盆」の略で、祖先の霊を自宅に迎えて供物をそなえ、経をあげる陰暦7月15日を中心に行われる仏事のことですから、当然、廃仏毀釈後は廃止されたわけです。その代わり1日、2日、3日を御霊祭りの休日としたのです。
ところが、いつの間にか「1日、2日、3日の御霊祭り」が「盆」に戻ってしまい、「14日、15日、16日」が「盂蘭盆」を「裏の盆」と勘違いするおまけまでついて復活し、定着してしまいました。  したがって、8月1日から3日間、心を込めた御霊祭りを行うのが神道の本来のあり方のようです。
また、迎え火を焚いて、祖先の精霊を迎え、送り火を焚いてお送りします。これは仏教でも行われますが、明らかに神道の思想から出たことです。
なお、あえて付け加えれば、お盆は、今や神仏が混ざり合って、仏教行事でも神道行事でもなく、完全に日本人の民間行事だとする識者もいます。
線香と抹香
神棚や御霊棚の前にお線香が焚かれているのを見かけることがあります。また、お通夜のとき、死者の枕べに線香の煙が揺れています。
そもそも香は仏教で用いるもので、インドの習慣が入ってきたもののようです。釈迦の遺骸は、香木で荼毘(だび)に付されたといいますから、死体の臭いを消すためにそのようにされたのだと思われます。仏葬のときの焼香には、やはりそのような意味があります。
したがって、神棚や御霊棚の前に線香は不向きといえるでしょう。
廃仏毀釈のころの神葬には、死体の側に酢を置きました。
香奠と玉串料
人が死んだとき、その故人を悼んで、霊前に現金を包んで供える場合、上書きに「御香奠」「御香典」と書いてあるのを見かけます。仏式の場合はこれでいいのですが、神式の場合はいけません。神式の場合は、蓮の花の印刷されていない袋に、「御玉串料」とはっきり上書きしたいものです。
先方の宗教がはっきり分からないときは、「ご霊前」と書くと無難です。神仏どちらにも通用します。
しかし、会話の中には、「香奠を包んでおけ」とか、「香奠を忘れるな」とか、香奠という言葉は抜くことができないでいるようです。
春と秋の彼岸
「彼岸」という語は、仏教の用語だということはお互いに知っていながら、毎年その時期になると「彼岸参り」をし、「お墓参り」をします。それほど「彼岸」は神道の東白川村にも定着しているのです。
日本仏教では、春分の日、秋分の日を中心として前後3日間ずつ、計7日間にわたって、彼岸会(ひがんえ)と呼ばれる法要が行われます。
春分または秋分とは、24節季の一つで、太陽の中心点が春分点または秋分点に来たとき、すなわち、太陽の黄径が0度になるときをいいます。このとき太陽は、赤道の真上にくるので、地球上の昼と夜の長さが等しくなります。太陽は真東からでて真西に沈みます。
日本人は古くから、死者の往く「根の国」は遠く海の彼方または地底深くにあると考えていました。仏教の場合も死者の極楽浄土は西方十万億土の彼方にあるとされています。したがって、春分の日、秋分の日に真西に沈む太陽を眺めつつ、ご先祖さまを偲ぶということは仏教のものだけではないといえます。
「彼岸」という語はともかく、東白川村の人びとの春分の日、秋分の日に対する考え方には、仏教渡来以前からの祖霊信仰が深く息づいているように思えます。 
 
斗南藩の人々

 

斗南藩とは、現在の青森県の下北半島、三戸、五戸の地域にあった藩である。戊辰戦争で敗れた会津藩は廃され、1869年(明治2年)、旧南部領に3万石を得て「斗南藩」を立てることになる。1870年(明治3年)に新天地への移住が始まる。約2800戸、家族を合わせて1万7000人におよぶ移動である。だが、新領地は荒廃地であり、実高は7000石ほどに過ぎなかった。しかも斗南での慣れない開拓事業は困難と悲惨をきわめた。そうしたさなかの1871年(明治4年)7月、明治新政府は廃藩置県を断行、斗南藩はわずか1年と数ヶ月のみで姿を消したのである。逆賊、朝敵と呼ばれ、蔑まされても、誇りを失うことなく生き抜いた、元会津藩である斗南の人々。移住した三戸町を中心に、それらの人々を追った。 
プロローグ 
青森県三戸郡三戸町。岩手県二戸市に隣接する人口約1万2000人の小さな町である。農業が盛んであり、りんごは県南の主要産地、葉タバコの売上高も全国有数規模として知られている。また、赤ちゃん土偶(沖中地域)、合葬人骨の発見(泉山地区)など、縄文期の貴重な遺跡がある町として、熱心な考古学ファンには馴染みがあり、春のゴールデンウィークともなれば、城山公園に咲き誇る約3000本の桜を愛でる人々でごったがえす。
この三戸町には今も「会津三碑」と呼ばれる墓碑が残されている。明治4年に建立された、わが国最古の「白虎隊の墓」、明治19年に建てられた会津藩日新館館長「杉原凱の墓碑」、そして明治27年に建てられた「戊辰殉難者招魂碑」である。これらは廃藩置県後も三戸町あるいは周辺地域に残り、会津武士としての誇りを守り、受け継いだ旧斗南藩の人々によって建てられたものだ。逆賊、朝敵と呼ばれつつも数々の苦難に耐え、新政府への反骨心を忘れることなく、新生青森県に根ざし「会津士魂」を地方自治や教育界を始め、各方面で花開させたそのシンボルでもある。この会津三碑についての詳細と、ゆかりのある人々の談話を交えながら、三戸町周辺における斗南藩士たちの苦しく厳しい生活ぶりと、捲土重来を果たした人々の足跡を追ってみた。
会津藩、南部の斗南へ
古来、三戸は糠部(ぬかのぶ)郡の一部であり、名馬の産地として全国に知られていた。数百年にわたり、広大な領地を治めていた南部藩だが、やがて領内に支藩ともいうべき八戸藩と七戸藩が設けられる。幕末の慶応には奥羽越列藩同盟に加盟し、薩長連合の新政府軍と戦ったが、慶応4年9月新政府軍に降伏、こうして糠部その他20万石の南部藩の支配は消滅する。明治元年、14代藩主利剛(としひさ)は総督府命令によって東京に召還され、菩提寺である芝の勝林山金地寺に謹慎。同年、利剛の長男である利恭(としゆき)が13万石を賜り、仙台藩領であった白石城(白石藩)に移されるものの、罰金70万両を明治政府に納める条件で(実際は一部を納めたのみ)半年後13万石で盛岡に復する。しかし明治3年には財政が逼迫し、明治4年の廃藩置県に待たずして盛岡県にしてもらい、同県を経て岩手県へと改称、藩領の大部分は新生岩手県の主要部分となったのである。
古くから南部領域であった三戸町もまた、岩手県に組み入れられてもらえるはずだと誰もが思ったに違いない。だがそうはならなかった。二戸(金田一以北)、三戸、北(七戸を除く)の三郡は新政府の直轄地となり、明治2年11月には斗南藩3万石が設置されることになったのである。斗南藩とは会津藩のことである。
明治元年10月、戊辰戦争に敗れた会津藩主の松平容保と世子の喜徳(のぶのり)および家族は東京に召還される。新政府に領地を没収された会津藩は、旧領の猪苗代か、旧南部領の一部を新領地にするかの選択を迫られる。首脳陣による議論は紛糾し、斬り合い寸前まで揉めたものの、移住反対派は会津にとどまり、藩としては旧南部領の地に斗南藩として再興を賭けることになった。
明治2年9月になって容保と喜徳の禁固が解かれ、容保の実子である容大(かたはる)が幼くして家督相続を許され、旧南部藩領であった一部地域(二戸郡金田一村以北の三戸、五戸、野辺地、田名部)を3万石として賜り、立藩を許可される。容大は併せて北海道の四郡(瀬棚郡、太櫓郡、歌棄郡、山越郡)の支配をも任された。ただし、土地の豊かな七戸、八戸は意図的に拝領地からはずされたため、実高は7000石に過ぎなかった。
明治3年4月、三戸一帯の取締りにあたっていた黒羽藩は、旧三戸代官所において斗南藩に対する領地引継ぎの手続きを完了する。斗南藩では最初、藩庁を五戸代官所跡(現五戸町)に置いた。旧会津藩士および家族たちが、会津、東京、新潟などから移住を開始したのは、この手続きが完了した翌日からである。この後、明治4年7月14日をもって廃藩置県が行われ、弘前、八戸、七戸、斗南、黒石などが県と改称、同年9月にこれらを弘前県に合併、同年9月23日には青森県と改称され、現在の青森県が誕生するのである。すなわち、斗南藩とは実質1年半ほどの短命の藩だった。開拓にはほど遠い荒涼とした地に会津藩、松平家の再興の花を咲かせようとした人々の無念さと落胆は計り知れない。そして移住した人々は次々と北郡や三戸郡の地を後にしたのである。
命がけの移動と移住
斗南への移住が開始されたのは前述のとおり明治3年4月からである。士族総数4000戸のうち2800戸、総数約1万7000人あまりである。「続会津の歴史」(葛西富夫著)によるとそのうち三戸郡(当時は三戸町、田子町、五戸町、新郷村など)への移住人員は約5600人、うち旧三戸町には800人ほどが移住したといわれている。
移住するにあたり、斗南藩では新政府に対して移住費と移住後の生活費として一時金と米3年分の拝借を願い出ている。会津戦争によってほとんどの家屋敷は荒れ果て、めぼしい物品も新政府軍による「分捕り」合戦の末にほぼ略奪され尽くし、大半が無一文だったからである。これに対して新政府は御扶持米ならびに移住手当緒入費として3万石を即時に、残り1万5000石を9月に下渡し、それより先の7月には東京や若松・越後高田でまだ斗南に移住していない者の移住費や生活費として玄米1200石、金17万両を下渡した。また、斗南藩としても陸路を辿る者や家族に対し、旅籠代(食費込み)は後に藩が一括して支払うことを条件に、各自に12銭5厘の宿札を多数持参させた。だがこれはさほど役には立たなかった。というのも明治2年、南部の領地は大凶作だったため、明治3年は米価が高騰する一方だったのである。しかも朝敵、賊軍であり、新たな小藩となった斗南藩の宿札であっただけに、宿泊に難色を示す旅籠が多く、盛岡では宿泊は渋々許可したものの、食事は粥のみという宿も少なくなかったという。
移住といっても今のように準備万端整えてというわけではない。大半が着の身着のままという有様である。生活に最低限必要な衣類や什器類などを持つのがせいぜいであり、斗南の地に落ち着いてから生活道具を送ってもらうよう計らった家族などはごく少数だった。
移住方法は船による海路と、陸路の二つに分かれた。東京に謹慎していた斗南藩士約300名は明治3年4月17日に蒸気船で品川を出帆する。常陸沖、磐木沖、金華山沖を経て19日に鮫港(八戸)に上陸、翌20日に三戸入りを果たしている。このルートの他に、西回りルートもあった。会津や越後高田から新潟まで出て汽船に乗船、野辺地に着いてから五戸、三戸へと移った人々である。多くが山国の会津から出たことはなく、海を見るのも蒸気船に乗るのも初めてという人々であり、船酔いに苦しめられたと各種の記録にある。
船酔いに苦しめられたものの、海路ルートで斗南にたどり着いた人々は恵まれたほうだった。移住地までに数日を要しただけであり、風雨にさらされることなく横になって休むこともできたからだ。哀れだったのは陸路を選択した、選択せざるを得なかった人々である。道路が今のように整備されてなかった仙台道、松前道を辿っての斗南入りは、健康な男女でも相当な不安が募ったに違いない。しかも老人や病人さえも混じっていたのである。会津藩では老人や病人に限り、駕籠代は政府が面倒をみてくれるよう懇願した。だが「賊軍・朝敵であるから駕籠の使用などはもってのほか」と許可はおりなかった。
白虎隊士として飯盛山で自刃した間瀬源七郎の姉、間瀬みつも家族総出で斗南に向かうことを決意、手記「戊辰後雑記」にこう書き記している。「若松を出発する時には、私ども一家に対し、人夫1人宛、年寄りには駕籠を用意してくださるとのことで、そのつもりでおりましたところが、猪苗代に着いてみますと、年寄りに駕籠を出してくださるということが沙汰やみとなりましたので、私共一家にとってこれが一大難儀のことになりました。そうかといって老母を南部まで歩かせることもできず、南部の三戸まで駕籠を雇わねばならず、これに対する毎日の支払いのため、最初の予定が大変狂ってしまいました」と嘆いている。みつ家族はまだ金銭的に余裕があったようだが、大半の移住者は長旅が困難な老人、病人を僅かな荷物と共に大八車に乗せて引いた。持ち物は家系図と位牌、そして飯炊き釜とわずかな什器類である。所持金もほとんどないまま数十人、百数十人単位で黙々と北上する姿はまさに難民の群れであった。
陸路ルートでも気候に恵まれた春から夏にかけて移住を果たした人々はまだましだった。悲惨だったのは初秋から晩秋にかけて斗南を目指した人々である。今でこそ温暖化の影響だろうか、10月の終わりまで暖かい日が続くが、一世紀前の青森、岩手では、その年によっては9月に早くも晩秋、10月にかけては冬の天候を迎えたことが記録にも残っている。こうした中、移住者たちは一日に3回、4回と草鞋を取替え、冷たい雨やみぞれや叩かれ、着替えもままならず、かつおぶしをかじって空腹に耐え、悪路をひたすら斗南を目指したのである。しかし道中での苦難に耐え切れず途中で脱藩する者も続出、行き倒れになって路傍に絶命するというケースも少なくなかった。
老人や病人を抱えての陸路での移住はやはり無謀な行為といえた。「太政類典第1編第93巻」によると、会津若松から病気のまま病院から移住した者は119人いたという。彼らに移住の指示が出されたのは初冬の10月。新天地である斗南の地にたどり着くことなく、飢えや寒さにより仙台や盛岡などで絶命した人々は少なくない。また、斗南の地に足を踏み入れて間もなく無念の死を迎えたケースもあった。現岩手県二戸市にある聖福院という寺には、斗南藩士の墓と呼ばれる墓石が二基ある。伝承によれば会津藩士の妻が下僕らしき侍とともに斗南の目的地へ向かう途中、健康を害して下斗米の地にとどまり、下僕は明治4年3月に、女性は同年5月に亡くなったのだという。女性は「中野藤蔵」(甲賀之者 大目付支配 9石3人扶持か?)の妻であり、下僕らしき侍は「鈴木丈助重興」と墓碑には彫られている。彼らが目指した地はどこだったのだろうか。
晩秋に陸路を経て三戸へ向かった一団のなかに、大庭勇助の一家もいた。この大庭家は後述するが、三戸町に移住後、勇助の子である恒次郎、茂、紀元の三氏が三代にわたって三戸町の教育界に多大な貢献をした家柄であると同時に、「会津三碑」とも深い関わりを持つ。戊辰戦争で勇助(当時44歳)は青龍隊(藩士のうち36歳から49歳の者で構成。朱雀隊とともに会津正規軍の中核をなして各地で激戦を展開した)に属し、猪苗代で奮戦、戦後は越後高田藩に収容された。勇助はいったん会津若松に戻り、家族と再会を果たした後に旧知行地の処分を済ませる。そして一家は妻こよ、母さき、長女よし(11歳。三戸移住後、白虎隊隊士で自刃した林八重治の弟林茂樹に嫁ぐ)、長男の恒次郎(6歳)を伴い、斗南へと旅立ったのは明治3年10月19日のことである。
大庭家に伝わる「記事留」には斗南までの旅程と会計等が詳しく残されている。それによると一家と同行したのは63人。うち7歳以下の子供は5人。3歳以下1人。この一団の取締(団長)は赤井伴助。彼は戦時中、進撃隊(会津城下戦では佐川官兵衛支隊として突出、交戦)に所属し、戦後は勇助と同じく越後高田藩に収容されていた。勇助は一手御払い方、すなわち手形、旅費、現金などの取り扱いを担当する。一団は猪苗代、仙台、一関、盛岡などの主要な旅籠に宿泊、16泊17日を要して無事に三戸入りを果たした。路銀の総支出は1186貫80文。当時の貨幣価値に換算すると86両余りである。勇助一家のほかにも会津で家や土地を処分し、僅かながらも金銭的余裕のある家族がいたらしく、そのため他の移住者たちよりも比較的スムーズに長旅を果たせたらしい。 
 
三戸という地域は貧しく野蛮?  

 

会津藩の人々が移住した明治初期の三戸郡は、どのような地域だったのか。「青森県歴史」に書かれているものを簡単にまとめると以下のようになる。
「東西16里、南北9里から7里。村数22、戸数1万4800余、人口8万6700余り。高地や峠が多く、高地は不毛で耕作地は10分の1に過ぎない。民は渓谷に住み、水田には米を植え、陸田には雑穀を撒く。牛馬を牧し、山仕事や猟を行い、暮らしは貧しい。市街をなしているのは八戸、五戸、三戸である。毎月、日を決めて市場が開かれ、農夫は五穀薪炭を持参して日用品と物々交換し、帰路酒屋に入って財布を傾け、舌を鳴らして鯨飲飲歌し、歓娯をきわめる。性情は頑愚で、商売人は倨傲(きょごう)で農夫を奴隷のように見下している」。
間瀬みつは秋から冬にかけての三戸をこう記している。「三戸町に出るといろいろな用事を足すことができました。三戸の家数は500かまど(戸数)と言われています。この辺は風が強くて毎朝夕、風がひどくなります。風の強い時は歩いていて転び、膝を傷つけることも間々あります。冬になればぬかり道で大難儀であります。会津のように道路に石があるのではなく、土ばかりであります。雪が降っても溜まらず、薄雪で屋根の雪下ろしなどということはなく、風があるので冬は大変に寒く、道に雪が積もれば板でさらい、会津のような『こうしぎべら』というようなものは見られません」。
前述したように三戸郡は藩政時代より交通の要衝であり、宿も整い、人と物が絶えることなく行き交う賑やかな商業の町だった。同時に古来より水田や畑などの耕作地は少なかったものの、大豆を始めとする雑穀が収穫でき、豊かな山々からは木を伐りだしての薪や炭などの生産も盛んであり、下北などの北郡と比べると住むには恵まれた土地柄といえた。とはいうものの、戊辰戦争の敗戦により20万石から13万石に減封され、しかも白石へ移封と混乱を極めていた。戸数、人口ともにさほど多くなかった各村や町の人々は困惑しつつも、共に戦って敗れた会津の同士を迎えざるを得なかったのである。
旧盛岡藩三戸代官所御物書役を務めた石井久左衛門父子が書き残した「萬日記」には、移住者への同情と戸惑いがこう書き記されている。
「会津なども23万石御取り上、日本一の粗地吟味の上、昨年来未曾有の凶作の場合下され候と見え候」(明治3年1月26日)
4月20日に三戸入りした一団は各家に5人、10人または大家では14、5人ずつ割り当てられることになった。久左衛門家でも会津藩士鈴木英八の4人家族が割り当てられている。「藩士1人につき畳2畳の割合で住居が与えられることになり、宿を申し付けられた家はどこも大騒動である。政府から与えられた玄米1人4合、光銭8文では一家が生きていく額としては少なすぎるし、下宿させる側も気が引ける。双方ともまことに気の毒というしかない。」(同年4月28日)
斗南藩少参事の広沢安任と親交を結び、後に広沢が牧場を経営する際には共同出資者となった八戸藩大参事の大田広城(ひろき)も日記にこう記している。
「会津藩の新領土たる地は8割から9割は不毛の土地柄であり、耕作して落ち着く家などは望むべくもない。しかも彼らは当面の生活に必要な家具、寝具はおろか薪炭、塩、味噌などにも事欠いている。百姓家一戸に6、7人も押し込まれて雑魚寝、雨露さえ凌げない状況にある人々も少なくない」。
旧会津藩士十倉新八家族の場合、最初の住まいは五戸の農家をあてがわれた。天井もなければ畳もない8畳間に一家5人が肩を寄せ合ったのである。「これではまだ馬のほうが幸せだ」と嘆いた。間もなく彼らは三本木、函館へと移り、晩年は村長などを歴任する。
初秋から晩秋の陸路を経てようやくたどり着いた一団は間が悪かった。不毛の土地柄とはいえ、僅かな耕作地、田畑を持った農家は収穫で多忙を極め、それら収穫物を商う商家も多忙を極めている最中だったのである。「収穫の季節になり、各家々に長々の下宿では狭くて困るとの意見が出ている。そこで百姓家では下宿免除を願い出た」(萬日記 同年10月2日)。「会津藩、10月25、6日ごろより日々250人づつ陸路を辿り着いたのはしめて8000人。うち5000人ほど引越しとなり各家々に下宿割りとなる。老若男女何れも歩行にて日数18、9日を要した。この時期の夜は冷たいのに、服は薄く、荷物は5貫目に限られている。いかに逆賊の汚名を着せられたとはいえ、同胞ではないか。しかも政府からの支給は1日1人玄米3合と減らされた。会津藩士はいよいよ窮地に追い込まれた」(萬日記 同年11月8日)。
移住者たちは町や村の中心部から、さらなる僻地へと追いやられる始末である。
移住先での悪戦苦闘
五戸に藩庁を置いた斗南藩では、権大参事に山川浩、少参事に倉沢平治右衛門、山内知通、永岡久茂、広沢安任があたり、刑法、司法、学校、開産、会計、庶務などの掛(部署)を設けた。このなかで陸奥の地を知っているのは山川と広沢などごく少数である。彼らはこの地で農業授産を中心に砂鉄の精錬所、煉瓦工場の建設、大湊港の開港、海産物の輸出などの計画を目論んでいた。これらの計画を軌道に乗せるためには、少なくても10年ほどの歳月と政府による援助が不可欠だった。加えて藩士や家族たちにはこれから遭遇するであろう数々の苦難や試練にも耐える覚悟が求められた。
山川は斗南藩士に藩政の理念をこう伝えた。「今般寛大のご盛典をもって家名を立てることができた。この上は旧来の藩籍にかかわる者は残らず扶助したいが、何分にも我々は小家となり、どのように分配しても不足である。さりとて生活ができない者は不憫至極である。とくとこの情実を察し、それぞれが家産を立て、農業、工業、商業いずれの業種であり自主の民となるべきである。これが斗南藩の基本であり、天皇のご意思でもある」と。
当面の食料、住宅の確保、そして開拓に必要な農機具を揃えることが藩の急務となった。移住にあたって政府から受け取った金は移住によって大半を使い果たし、残金も病人の手当や下宿代に当てられ、余分な金などは皆無だった。そこで山川は資金援助の陳情書を再三にわたって政府に提出する。「朝廷にもご多費の折柄、恐縮至極とは存じるが、窮迫が眼前に迫り、仰天伏地し、号泣してただただ神に祈るほかない。なにとぞご臨察を賜りたい」。賊軍とはいえ、藩のトップによる血を吐くような直訴に政府も渋々これに応じた。
ある程度の目途が立つまではとにかく耐えるしかない。藩士や家族たちも奮起した。藩では農業授産だけではなく、紙漉き、傘張り、提灯張り、小鳥網づくり、機織、屋根葺き、壁塗り、木地職、竹細工、筵織り、窯業などあらゆる仕事に取り組むことを求めた。だがこうした仕事は経験がある者でなければできるものではない。仕方なくその日の食べ物と僅かな金子を得るため、移住者たちはどんな仕事もいとわなかった。武士の面子をかなぐり捨て、ある者は百姓家で草取りを懇願したり、泥にまみれて田畑を手伝い、商家から品物を分けてもらって行商などもした。
仕事にありつけない者は野山に分け入り、アサツキ、蕨、ゼンマイ、アザミ、ヨモギ、蕗、ウコノギ、アカザ、山牛蒡、山椒などを手当たり次第に採取したり、蕨や葛の根を掘って澱粉をとった。山菜はもちろんのこと、柔らかい野草までも手当たり次第に摘み取っては空腹を紛らわせたのである。こうした姿を見て地元の心ない人間はこうたとえた。「会津のゲダガ」。ゲダガとは下北地方では毛虫を指す。つまり毛虫のように葉っぱなど喰えるものはなんでも喰うのが会津衆、という意味である。一方、上北地方では「ほしなも喰えぬ斗南衆」と。
ほしなとは味噌汁の具となる大根を干した菜のことであり、その干し菜さえも食べられないほど困窮している状態を指した。併せて松平家の始祖、保科家をもじったものである。さらに三戸地方では「会津のハド」と蔑称された。ハドとは鳩のことであり、馬の飼料として栽培した大豆を会津の人々が盛んに食べることからこう呼んだのである。三戸に移住してきた間瀬みつも手記にこう記している。「子供の喧嘩にも『会津の豆喰い』などと悪口を言っておりました。そのときの大豆の値段は10銭で7升5合、小豆は10銭で3升5合で、本当に安いことで、私共もよく食べました」。
満足に食事にありつけない者たちも少なくなかった。後に上京し、苦学の末に陸軍大将となった柴五郎の「犬の死体」を食した逸話は有名である。五郎が書いた「野辺地日記抄」(中央公論)を要約するとこうだ。「田名部川の氷がゆるみはじめた頃、円通寺裏の川の氷上にいた犬を射殺した猟師がいたが、薄氷のために取りにいけず、諦めて立ち去った。父の命令で少年五郎はこの犬を持ち帰るが、その話を伝え聞いた、やはり食料に事欠いていた斗南藩士に分けてくれと泣きつかれ、肉の半分を持ち帰らせた。犬の肉は塩茹でにして食したものの、四、五日もすると臭いが鼻につき、喉を通らなくなるが、他に食べるものはない。我慢して20日ほど食い続けたら、兄嫁は頭髪が抜け落ち、薄禿げになった」。
柴家に限らず、他の藩士家族も似たり寄ったりだった。なかには松の木の皮をはいで粉にしたり、あるいは農家の残飯を分けてもらい、どうにかこうにか糊口をしのぐという状況だったのである。
政府による支給米があることはあった。1人1日3合。少ないもののこれだけあればその日をなんとか暮らせないこともない。だが彼らはその支給米をできるだけ切り詰めて現金化しなければならなかった。布団や衣類などの生活必需品を購入しなければ厳しい冬を生きていくことなど適わなかったからである。
日々の満足な食べ物にありつけない者はやがて栄養失調に陥り、また粗悪な食べ物を常時口にしていた者は消化不良を起こして病の床に伏せる。医者に診てもらおうにも、薬を買おうにも金がない。床に伏せる者がかぶるのは藁の布団だった。雪国の寒さは体力をあっという間に奪う。明治4年6月から11月にかけて、病気に罹った移住者の数は田名部地域で660人。野辺地地域596人。五戸地域645人。三戸地域483人。合計2384人。全移住者の7人に1人は病臥にあった計算だ。
死者も相当な数にのぼった。明治3年から4年にかけての各地域の寺院の過去帳には実に多くの藩士とその家族が死亡していることが記載されている。ちなみに三戸の玉吟寺(真宗大谷派)では、明治4年の死亡者12人のうち7人が移住藩士の一族だった。前述した石井家の萬日記にも「我が家にも安藤久米之進という会津藩士が訪れ、祖母の死に遭遇したが、埋葬の場所も金もないと訴える。なんという不幸な人々であろう」との記述もある。ついに明治4年5月、斗南藩は大蔵省あてに「死者埋葬料金支給」についての願いを出す。会津城下での戦いでは仲間の屍体が横たわっていても埋葬どころか死体に手を触れることも許されず、野犬、野鳥に啄ばまれるままだった。一縷の望みを抱いてやってきた新天地においても、埋葬する場所と葬式代に泣かされるとは、誰が想像できただろう。
首脳陣たちの生活も困窮を極めた。藩の大参事である山川浩にしても給料はわずか3円、末端の職員が1円、見習いが75銭である。あまりの薄給から山川は豆腐屋に頼み込み、安価で栄養もある「おから」をすべて山川家で買う約束をとりつける。だがこれを聞きつけた同士たちから「皆が食べ物に泣いているというのに、安くて手に入りやすいおからを独占するとは何事か」と吊るし上げを食らい、おからの買占めを断念せざるを得なかったほどだ。また、幼君松平容大も粗食の日々に耐えていたのである。
貧すれば鈍するのたとえどおり、やがて犯罪に走る者や、武士道からはずれた行いをする者も現れ始める。窃盗をはたらき、斗南士族の身分を剥奪された者がいた。武士の魂である刀を鉈(なた)がわりして薪を割る者がいた。売春婦、妾になった女たちは仲間たちから糾弾されたが「生活の糧に肉体は売っても、魂までは売りませぬ」と慟哭したという。糾弾した側もやりきれなかったに違いない。大の男でさえその日の糧を得るのが難しいのに、多くの子供や病気の家族を抱えた女が、生活費や治療費をいかにして稼げるというのか。こうした窮迫した生活に耐え切れず、藩に無断で斗南領を脱走する者もかなり出た。下北半島の佐井村の場合、明治3年から4年にかけて70世帯、270人余りの会津藩士家族が居住したが、間もなく半分の150余人が脱走している。
士族を廃業する者たちも現れ始める。これは移住後間もなく見られたらしい。会津武士の誇りだけでは生きていけない。「三合扶持のホイト(乞食)よりも、商人になって金を稼いだほうが暮らせる」との決断からだ。地元の豪農、あるいは大きな商家に婿入りしたケースも見受けられる。また、藩士の娘を嫁にしたいとの申し出も多かった。悲惨な体験、苦労続きにも根をあげず、家族のために健気に働く姿は理想の嫁として映ったのだろう、そして教養もある。「嫁にするなら会津の娘」が流行言葉にもなるほどだった。 
 
地元に溶け込もうと努力する  

 

衣食の面は個人の努力と責任に任されたが、住居に関しては藩がなんとかしなければならなかった。いつまでも藩士たち家族を下宿させておくわけにもいかない。明治3年10月、藩は田名部郊外の妙見平に一戸建て約30棟、二戸建て約80棟の住宅を完成させ、約200戸、800人ほどが移り住んだ。さらに大湊に近い松ヶ丘にも約30棟の住宅を建て、やがて三本木、五戸、三戸でも20戸から30戸ほどの長屋が建てられ藩士たちを入居させた。これらのにわか集落は地元の住民たちから会津部落とか会津町、会津屋敷と呼ばれた。こうした住宅建築には、斗南藩の窮状を察した弘前藩や南部藩の支援と援助が大きかった。弘前藩では藩知事が500両を始め、士族や士卒なども併せて1050両を贈ってくれたのである。うち士卒の500両は鋤、鍬の現物支給だった。南部藩でも地元の大工たちの手配や住宅着工の一部資金などを工面したという。
三本木開拓にあたっては南部藩士で三本木開拓の父と呼ばれた新渡戸伝(にとべつとう)が、農具の援助、開拓の方法など全面的に協力してくれた。
三戸町で間瀬みつは同じ会津の人々と協力し合いながら、また地元の人々の暖かい手に支えられて生活を送っていた。引っ越した当初の下宿先は手狭で布団なども借りられず、家族は嫌な思いと窮屈な暮らしを強いられた。しかし程なく会津藩士の武川武士の紹介で沖田面村の商人、石井与五平方へ移ることになる。与五平の家族はいずれも親切で、布団、お膳、椀、土瓶、茶碗なども嫌な顔ひとつせずに貸してくれたのである。
与五平方でみつは商売の手伝いをする。「糸引車、枠というのを5つも貸してくれたので、それから皆々で糸引きをしました。白糸は大繰りで煮るのであります。それから板に巻いて大小のくりにして、三戸町、五戸町、八戸在、かるまへ宿(軽米)へ、市日ごとに売りに出るのであります。肩から脇の下へ紐で行李を提げ、大声で男女が「かなかな」と売り歩くのであります。かな売りは冬の内ばかりで夏はありません。他では仕事がなくて困っていたということですが、私共は良い宿のおかけで、冬の内は大変に景気がよくて仕合せに凌ぐことができました」。
みつの家族に限らず、移住してきた人々は町の生活に慣れよう、地元の人々とも親しくなろうと努めた。これは藩からの達しでもあった。「2、3年に一度は冷害に襲われ、慣れた百姓でも難儀する移住地である。素人がおいそれと開拓などできるものではない。必ずや地元住民の世話になることだろうから、決して地元住民と揉めたり、非礼、無礼な振る舞いをしてはならない。農業授産の成功・不成功はひとえに地域住民との協調にあるのだ」と。ひたすら忍従が求められたのである。とはいうもの、小さなトラブルはあったようだ。言葉(方言)が原因によるケースだ。田子に移住し、寺子屋を開いて地元の子供たちに読み書きを教えた根橋伝吾(後に田子小学校校長、田子村長)が山で薪をとり、背負って山を下りてきたところ、すれちがった村人から「根橋様はクセモノでござりあんすな」と声をかけられた。これを聞いた根橋は「曲者とはなにごとぞ」と、血相をかえて怒ったという。曲者とは強い者、勇気のある者を賞賛するこの地域の方言なのだが、根橋にはこれが理解できなかったのである。誤解はすぐに解消、互いに酒を飲み交わして胸襟を開くまでになった。
山川浩は藩士が外出する際、刀を差すことを禁止する旨を布達しているが、これは藩士と住民とのトラブルを防ぐための措置だといわれる。「武士の魂である刀を差すことができないとは何事か」と、当初はこの布達に異を唱える藩士も多々いた。大庭勇助も困惑したに違いない。というのも、勇助は「剣」で生計を立てていたからである。会津若松城下の南町鉄砲丁で一刀流溝口派の道場を構える師範として、居合い、棒、捕手、弓、鉄砲、柔術と、まさに武芸百般に通じ、多くの門弟を抱えていた。移住先の三戸で道場を開き一族を養おうと考えても不思議ではなかった。ところが刀を差して外出はならないとの布達である。しかも地元では栗谷川易太、松尾武八郎などが先祖伝来の道場を構えていて栄えていた。新参者が道場を開くには遠慮もあったのだろう。「今後、剣で生計を立てるのは難しい」と悩んだのではなかろうか。
外出する際の帯刀禁止令への反対意見もやがて止み、ほどなく全員が従った。お家再興が最優先、大事の前の小事と割り切ったのだろう。だが藩士たちのこの判断は後に生きてくる。明治9年3月、政府は廃刀令を出すものの、それに従わない各地の武士たちが猛反発、取締りに苦労させられるのだが、いち早く廃刀令に近い布達を出した山川を始めとする藩首脳陣、布達に従った藩士たちの評価を高める結果となったのである。
言葉や習慣などに違いはあるものの、礼儀正しく、清貧に甘んじても卑しさを表に出さない藩士やその家族を、地元の人々は好感を持って次第に受け入れていく。大庭勇助も武術の達人でありながらそれを鼻にかけることはなく、挨拶がすこぶる丁寧で、相手が頭を上げてみるとまだ下げたままだったという。移住後の生活は明らかではないが、一時、武術の腕前と度胸を買われ、役場で警護役を引き受けたこともあったようだ。背丈が低く、小男の部類だった勇助にはこんなエピソードが残されている。ある時、役場の公金を八戸に届ける最中、三戸町内のはずれで図体のでかい追剥(おいはぎ)に襲われたものの、勇助はとっさに柔術で投げ飛ばして撃退した。それを目撃していた町の者がいて町中の噂となった。当の勇助は「なに、相撲とりに柔を教えてくれと頼まれ、教えたまでのことです」と終始とぼけてみせたという。
謎の白虎隊の墓碑
明治3年はあっという間に過ぎた。みつ家族は貧しくとも三戸で平穏無事に明治4年の正月を迎えることができたと記している。
「三戸近辺では正月元旦から賑やかに若い娘や子供が遊ぶ習わしがあり、8日までに遊び上げといって、男女共にいる家では、3人でも5人でも、銘々が手の掌に餅を上げて出しますと、鳥数羽があたりを飛び回り、掌の餅をさらうのが例であります。また15日は女の年取りといって賑やかで、元旦同様21日まで遊び、22日に遊び上げ、前の8日と同様、掌の餅を鳥にやり、家ごとに男たちは外に出て賑やかであります。このようにすると、年中、鳥が菜園穀物などにいたずらしないということを、土地の者が話しておりまして、珍しいことと眺めておりました」。
三戸町にある浄土宗観福寺。応永27年(1420)3月7日開基の古刹である。雪が積もって訪れる人もない正月、1人の男が建てたばかりの墓の前で手を合わせていた。旧会津藩士の大竹秀蔵(推定34歳)である。墓には一年前に会津で没した大竹秀蔵の母親シヲの名と共に、会津飯盛山で自刃した白虎隊士17名の名が刻まれていた。少年たちの氏名は以下の通りだ。
簗瀬竹治、鈴木源吉、伊藤俊彦、石川虎之助、野村駒四郎、有賀織之助、西川勝太郎、永瀬雄次、篠田義三郎、伊藤弟次郎、池上新太朗、簗瀬勝三郎、安藤三郎、井深茂太郎、飯沼貞治、間瀬源七郎、石田和助。
飯盛山における白虎隊士たちの自刃については周知のとおり、慶応4年8月、黒煙に包まれた鶴賀城を望み見て落城したものと誤認、「もはやこれまで」と絶命した士中二番隊19名を指す。白虎隊員の屍は自刃後もしばらく風雨にさらされていたが、滝沢村の肝煎であった吉田伊惣次がこの惨状を目撃、妙国寺と飯盛山に埋葬した。だがこれが政府軍に露見、吉田は檻倉につながれたものの、吉田の自発的な行為と判ったため放免され、正式に飯盛山に埋葬することが許された。白虎隊の墓碑について、会津若松史第5巻では「明治7年に改葬されて以降、同16年、同23年、大正15年と次々と隊士の墓が拡張され、現在の形となった」とあるものの、まだ16、7歳の少年たちが藩と藩主に忠誠を誓って殉じた事実が公になったのは、自刃を試みたものの渡部佐平・ムメ夫婦と印出ハツに救出された飯沼貞吉の後年の証言によって、明治20年以降といわれている。明治14年、飯盛山上に一基の石碑が建てられたのが最初であり、同23年になって初めて19名1人1人の墓碑が建てられたとある。
大竹秀蔵が建立した墓碑に戻ろう。彼が刻んだ白虎隊士の数には誤りがあった。林八十治、津田捨蔵、津川喜代美の3名が欠けているのだ。代わりに蘇生した飯沼貞吉の名が刻まれていた。また氏名にも安達藤三郎が安藤三郎に、簗瀬武治が竹治、伊藤悌次郎が弟次郎、篠田儀三郎が義三郎と間違って表記されていたのである。
当時、この碑については移住した旧会津藩士の間でも、また地元の人間でもその存在を知る者、あるいは存在を口にする者はいなかった。
大正12年(1923)、たまたま観福寺を訪れた旧会津藩士の子孫、矢村績(いさお)がこの墓碑の存在を知り、80余歳になっていた大竹秀蔵と面会、その印象を「その人の現代に超絶し古武士の風あるを知り、以来この人と語るをもって得るところ少なからず」と賞賛している。そして次のような檄文を残している。「南に赤穂47士の忠臣義士あり、北に会津白虎隊の忠勇無比あり。倶に我国武士の亀鑑として世人の普く称揚するところなり。然るに赤穂義士の碑は高輪泉岳寺にありて香花絶えるときなく、独り白虎隊にあっては未だその碑のあることを聴かず。
是れ戊辰の役、会津藩主松平肥後守朝敵の汚名を受け、幼君容大公斗南3万石に封ぜられ、藩士一同随従斗南に移りしも、幾ばくもなく廃藩置県となり藩士また離散、白虎隊の霊を弔う暇なかりしなり。然るに、藩士の三戸町に止まりし大竹秀蔵氏、これを遺憾とし、旧会津藩士に謀り、戊辰の役に重立ちたる戦死者の氏名並びに白虎隊殉死者の名前を刻し、三戸町浄土宗観福寺に碑を建立してその霊を弔う。実に美挙と云うべし。白虎隊の遺族並びに旧藩士の子弟たるの人、応分の喜捨をなし大竹氏の挙を授けられんことを」(大正12年10月。主唱者 矢村績)。
それから長い年月が過ぎ、苔に隠れた白虎隊の碑を発見したのは昭和25年、当寺住職の高杉龍眼師によってであり、テレビドラマや映画で白虎隊が脚光を浴びるとともに、これが日本最古の白虎隊の墓碑として紹介され注目されるようになったのである。 
 
墓碑に託された会津魂  

 

それにしても謎の多い墓碑であり、大竹秀蔵なる人物も謎である。亡き母親の霊を弔うための建立は息子としては当然だが、そこに白虎隊の名前を刻むというのはどういうことなのだろう。そもそも大竹秀蔵は墓碑に刻んだ白虎隊を政府軍と戦っての「戦死」ではなく「自刃」として把握していたのか。もし自刃として把握していたならば、その事実をどこでどう知ったのか。惨劇を自分で目撃したのだろうか、それとも誰かから伝え聞いたのだろうか。先の矢村績は大竹秀蔵が「旧会津藩士に謀り(原文のまま)」墓碑を建立したと檄文にしたためたが、秀蔵から墓碑建立の相談を受けたという人物名は不明のままだし、記録もまったく残されていない。
前述したように白虎隊に限らず、会津藩の戦死者の埋葬は政府軍によってしばらくの間許可が出なかった(この説には、新政府による埋葬禁止令はなかったとの異論もある)。そしてもし勝手に埋葬すると厳しい沙汰が待っていた。斗南移住後においても病死などした家族は別として、会津の戦死者を弔ったり顕彰するような碑などはもってのほかだった。不穏な動きがないか、斗南には政府軍によって数多くの密偵が放たれていたのだ。そうした目をくぐり抜けての白虎隊の墓碑建立なのである。さまに命がけといっていいだろう。発覚すれば同士に迷惑がかけることは目にみえている。それなのに敢えて同士に相談して建立したのだろうか。
大竹秀蔵が住んでいた町には白虎隊士の間瀬源七郎の姉みつ家族が住んでいた。近隣の五戸町にも蘇生した飯沼貞吉の家族が暮らしていた。だが、彼らは白虎隊の墓碑の存在を知っていた節はみられない。仮に、墓碑の存在を知っていながらも密偵の目を気にし、厳に口を閉ざしていたとしても、後年になってから告白してもよさそうなものだが、それすらもないのである。大竹秀蔵にしても、彼が亡くなるまで間違えた白虎隊士の氏名の訂正、それに欠落していた隊士名を追加した形跡は見られないのだ。大竹秀蔵単独による密かな建立としか思えないのである。さらには墓碑の建立にあたり、その費用をどこから捻出したのかという疑問だ。小さな墓碑とはいえ、当時としてはかなりの出費に違いない。食うや食わずの生活を送っていたのに、どこにそんな余裕があったのだろうか。
そもそも大竹秀蔵とはどのような人物だったのか、簡単に紹介しよう。秀蔵の消息に関しては大庭茂氏と紀元氏の親子が丹念に追っていた。
大竹秀蔵は父新十郎(嘉永年間に死亡)と母シヲ(斗南移住直前の明治3年正月13日に死亡)の間に生まれた。家は会津若松の本二ノ丁と三日町通りの北西の角にあった。母シヲは1700石の家老、諏訪伊助の娘である。大竹家と諏訪家は道を隔てて向かい合っていた。大竹家の長兄である主計(かずえ)は450石取りの大組物頭(本陣の称で、大組物頭は番頭隊、新番頭隊の番頭や新番頭にあたる)であり軍事奉行を務めた上級武士だ。会津戦争の折には純義隊を率い遊撃隊隊頭を務めた。しかし9月5日、面川または御山で戦死したと伝えられ、その墓は面川の泰雲寺に建てられている。享年46歳。主計の弟である大竹梶之助は10石3人扶持。戦争当時、萱野右兵衛付属として戦ったが、8月12日、越後石間宝昌山で戦死。享年41歳。墓は不明。さらにその弟である大竹富記も10石3人扶持。役職は甲士勤で京都常詰御本隊御先備であった。戦時中は別楯組西郷勇左衛門付属。7月中、新発田で戦死。享年36歳。秀蔵は年齢からしてその弟、大竹家の四男と思われ、士分は不明である。秀蔵が三戸に移住したのは明治3年4月から10月の間と見られる。移住経路や月日については不明だが、叔父一家の甥として三戸入りをしている。
移住後、同郷のよしみだろう、大竹秀蔵はよく大庭家を訪れ、お茶を飲んだり食事を共にしたという。まだ10歳前後だった大庭茂は秀蔵の印象をこう記している「よれよれになった袴をいつもはいていた。両肩が怒って見え、いかにも古武士の風といった感じで、彼が辞去したあと、姉がシラミがいると大騒ぎしたこともある」と。
移住後、大竹秀蔵は飴の歩き売り、あるいはにわか占いをして糊口をしのいでいたようだ。飴を歩き売りしていた際の背負い箱が関係者の手で修復され残されていた。悪天候が続くと商売どころでない。そんなときはどのようにして食事や金銭をまかなったのだろうか。大庭紀元氏は「若庄の世話になったのではないでしょうか」と推測する。若庄とは大きな商家である。氏名は「小笠原庄三郎」、屋号を「若松屋」。若松屋の「若」と庄三郎の「庄」をとって通称「若松屋」と呼ばれていた。小笠原家は会津若松の出身であり、藩政時代から三戸で商売をしており、かなりの財産家としても知られていた。移住してきた会津の人々をなにくれとなく世話をし、秀蔵も移住直後からこの若庄で寝起きし、金銭的な援助も受けていたようである。だとすると、白虎隊の墓碑もこの若庄と関係がありそうだ。紀元氏も「白虎隊弔魂と母シヲを弔いたいと秀蔵に懇願されたのではないでしょうか。若庄も会津人としての誇りを持っていたし、事情を察して墓碑の費用などを用立ててやったと思います」。
若庄といえども、墓碑の建立費用の用立てが新政府に露見したらただでは済まないことぐらいはわかっていたはずだ。白虎隊と共に母を弔おうとする大竹秀蔵に同情、共感して費用を提供したのだろう。そして死者に対してまで非情な扱いをしてきた、新政府へせめてもの反抗の意思を示したのではなかろうか。
大竹秀蔵は生涯、独身だったが、南部町南古牧に住む宮久七の次男、末太郎を養子に迎え、さらにはこの末太郎が会津出身の荒木リヨ(先妻で早世。遺骨は会津に埋葬された)、さらには後妻のヤエを嫁にもらっている。この頃が秀蔵にとっては幸せな時期だったに違いない。だが、末太郎ならびにその妻たちに先立たれると再び孤独な生活が始まる。晩年は僅かな年金をもらっての淋しい生活を送っていたらしく、ある日、死期を悟ったのか「長々とお世話になりました」と言って、書物一冊と筮竹(ぜいちく)を大庭家に贈って去ったという。その書物は「運気発揚 万録寿宝 玉三世相」と表書きしてあり、巻末には大庭茂の兄一郎の筆跡で「大正14年(1925)4月3日、大竹氏より寄贈」と記され今なお大庭家で大切に保存されている。それから一ヶ月ほど後の5月11日に秀蔵は亡くなる。当時としては長寿の86歳だった。
南部町大字小向字古町に隅観世音という小さな祠がある。その祠の前に新旧雑然と並んだ墓石の中に、大竹秀蔵が生前に建立した墓があった。末太郎夫婦を亡くしてから「自分が死んでも墓を建ててくれる人は誰もいないから、古町の観音様の前に自分の墓を建てておいた」というものである。一方、三戸町の観福寺には、やはり生前に納めた白木の位牌がある。そこには母シヲと養子の末太郎、先妻リヨの名前が記されていた。これについて大庭紀元氏は「私の祖母が生前に語ったところでは、大竹秀蔵は死後、白虎隊の墓碑の傍らに埋められたかったそうです。それは表向きの理由で、本音としては白虎隊の墓碑の側面に刻まれた母親、その傍らで眠りにつきたいと願っての発言だったのではないでしょうか。秀蔵はそれほど母親を愛していた、慈しんでいたと思います」と語る。
大竹秀蔵の遺骨だが、生前に建立した墓にはなかった。紀元氏の執念ともいえる調査の結果、養子末太郎と後妻ヤエの墓がある宮家の墓地の並びに眠っていることが判明したのである。さらに、養子末太郎に子供は授からなかったのだが、前妻リヨ、あるいは後妻のヤエの子供だろうか(何かの事情で母方の元で育てられたのか)、大竹義休が末太郎の子として大竹家を継ぎ、祖先が現存していることも判ったのである。自分の身内がいることを知り、大竹秀蔵は墓の下でさぞ喜んでいるのではなかろうか。
多くの謎を残したことで無名の藩士、大竹秀蔵の名と三戸町の白虎隊墓碑は広く知られることになった。大庭紀元氏のように会津出身の人々や地元の歴史研究家も謎に包まれた秀蔵の生涯の解明に努めている。また会津関係者ばかりでなく幕末に興味のある人々も絶えることなく観福寺を訪れ、白虎隊の墓碑に花を手向けている。大竹秀蔵の目的はここにあったのではないだろうか。「どんなに時代が変わろうが、月日が流れようが、決して自分たちや白虎隊、会津藩のことを忘れてくれるな」と。 
 
救貧院の設立 

 

新年を迎え、藩首脳部はこれまでの総括と今後の見通しを話し合った。新政府に対して農業授産の旗揚げをしたものの、何一つ軌道に乗らない。新政府に対する借金は増えるばかりで、屈辱感も増すばかりだった。そこで心機一転、藩庁を五戸から海運にも夢を託せる田名部に移すことにした。田名部に隣接する大湊港は天然の良港であり海産物にも恵まれている。フグの干物やサメのヒレ、イリコ(ナマコを煮干にしたもの)などを中国などに輸出すれば大いに稼げるし、むつ、下北区域の山々からは見事なヒバが伐りだせる。財政再建の起爆剤になると判断したのである。こうして明治4年2月15日、五戸を出立、18日に田名部の曹洞宗吉祥山円通寺に藩庁を設けて巻き返しを図った。
斗南ケ丘では農業経営全体を取り仕切る出張所や板倉物置を設置し、桑苗、栗、稗、粟、蕎麦、小麦、馬鈴薯、甘藷、大豆、小豆、煙草、麻などを植えた。また、養蚕を行って生糸、口糸、手撚りなどの糸も作った。しかしいずれも藩財政に寄与するまでには至らず、藩士たち家族の生活を潤すまでにはならなかったのである。多くの移住者たちは年が明けてもなお寺院や百姓家、商家に身を寄せ、扶助米金に頼る生活を余儀なくされていた。そこで藩は同年6月、藩士と家族の救済策として25条の規則から成る「救貧所規則」を制定し、「救貧所」を設置する。これは無職の者、生活能力の無い者などを「救貧所」に入所させ、手に職や技術を身に付けさせて自立と自活が可能になるようにとの目的で作られたものである。今でいう職業訓練所に似ている。
救貧所は田名部の郷社裏、五戸の中ノ沢、三戸の熊野林などに設けられた。田名部の救貧所では漆器細工、製紙、機織、陶器、下駄の鼻緒、畳作りなどの指導が行われた。指導には会津から藩士たちと共にやってきた職人や領内の平民があたった。この他にも煉瓦場を設けて瓦、瓶、すり鉢を作ったり、鉄工場を設置して鍋や釜、鉄瓶、鍬、鋤、鎌なども製造したとある。
三戸の救貧所の場合、建設費400両は地元の有志による寄付だった。多いもので36両、少ないもので1両。当時は相当な不景気で金の価値が下落していたにもかかわらず、これだけの建設資金を集めたのである。このまま会津藩士家族たちを下宿させておくことはできないし、仕事を見つけてもらわなければ共倒れになってしまう、そんな危機感もあったのかもしれない。この救貧所は4棟、30戸ばかりの建物で入所は無料。明治40年頃まであったというが、次第に空き家となって製糸工場などに転用されたらしい。
間瀬みつの手記である。「五戸の中ノ沢という所に、救貧所という仕事場を設け、生活に困る人々や仕事を希望する者に機織、糸引き、その他色々な仕事をさせることになりました。親戚の赤植平治が役場頭取の関係などもあって、私の妹のぶ、つやの二人がつみ真綿の仕事を覚えている(三戸の与五平方で覚えたもの)ことを知って、そこへ出稼ぎに行くようにと勧めてくれましたので、二人にその仕事をさせることにしました。話しによると中ノ沢の長屋を貸してくださり、支給米を差し出しておけば、炊事場で毎日三度の食事を渡してくれるとのことでありました。それは白米飯または粥などであり、汁菜は自分の手でこしらえてそれを食べているとのことでありました」。
この救貧所での技術習得により、仕事先に恵まれたケースもある。明治5年に操業を開始した群馬県の富岡製糸工場に、旧斗南藩士族婦女子15名ほどが派遣されたのである。
廃藩置県に伴う藩士たちの流出
再起をかけて田名部に藩庁を移したものの、成果は芳しくなかった。気候条件も悪く、老幼婦女子を抱えての漁師仕事、原野開墾である。相変わらず新政府に救助米と生活資金を受けるものの、それすらも充分ではなかった。魚介類を拾って食料に充てたり、米と粟を取り換えて雑穀を混ぜて食したりしたせいか、消化不良、栄養不足などから病死する者が相次いだ。思うようにはかどらない各種政策に、移住者たちも我慢の限界に達した。「こんな悲惨な暮らしをいつまで送れというのだ。この責任は藩の大参事、山川(浩)にある。山川を斬るべきだ」という声もあがるほどだった。
そうした矢先、またしても衝撃的な出来事が藩士家族たちにもたらされる。廃藩置県である。同年7月、斗南県と改め、9月には5県を合併して弘前県となり、11月には6県が併合して青森県となったのだ。新政府としては近代的国家樹立のためには従来の藩体制は何かと支障をきたす。藩主と藩士の主従関係を絶ち、天皇を頂点とした郡県制度の設置が急務であると判断したのだ。そのため各藩の藩主を東京に呼び寄せ、東京府華族にまつりあげて主従関係を断ち切る策を考える。斗南藩の幼き藩主である松平容大も東京に呼び寄せられ、これまでの石高の10分の1に相当する禄高を与えられることになった。藩の再起と興隆を夢見、筆舌に尽くしがたい労苦に耐えてきた人びとは、東京に去る幼君を涙して見送った。そして今後の身の振り方を考えなければならなくなった。
廃藩置県を冷静に見据えていたのは広沢安任だった。斗南藩が県となったところで何も変わらないことを知り尽くしていた。彼の構想としては弘前、黒石、七戸、八戸、斗南の5県を合併させての大きな県を作ることである。これにより、農業、漁業、商業、林業、海運業など、ダイナミックに展開することが期待できると踏んだのだ。八戸藩大参事の太田広域は「弘前、黒石は津軽であり、南部とは犬猿の仲だ。果たしてうまくやっていけるのか」と不安を抱いたが、「南部の本体ともいうべき盛岡は組み込まれていない」と、説得に努めた。また、弘前県大参事に任命された旧熊本藩士・野田豁通(ひろみち)も広沢の構想に理解を示し、新政府との交渉に奔走した。広沢は旧知の大久保利通らの元勲に、野田は新政府の主だった首脳に訴える。新政府としてはお荷物ともいえる斗南藩にこれ以上の援助米や資金提供は大きな負担だったため、広沢らの構想は渡りに舟とばかりに、他の府県統合に先立ち、異例ともいえる早さで青森県を誕生させることになる。
同年12月、青森にあった旧弘前藩の御仮屋(現在の青森県庁所在地)で青森県庁の開庁式が行われる。県庁の上級官員の多くは政府の要人などが占めたものの、野田の計らいにより、斗南藩関係者からは梶原平馬が庶務課長に、山川浩が田名部支庁長、永岡久茂が田名部支庁大属のほか、小出鉄之助、野口九郎太夫、水島純、沖津醇、沢三郎、箕輪醇、小川渉、青木往晴、大庭恭平、脇坂照正、沢全秀、藤田重明ら20人ほどが採用された。まもなく野田豁通は青森県権参事となり、太田広域は小参事心得から三戸支庁詰めとなる。ともあれ、「斗南の窮士を救うため」新生青森県に賭ける広沢の思いは実現したのである。
だが、広沢の想いとは裏腹に、廃藩置県後、斗南の地を後に出稼ぎや移転する者が相次いだ。会津藩、松平家の再興が叶わぬ夢と終わったのだから、これ以上不毛の地に留まる理由もなかったからだ。明治4年9月、野田豁通が大蔵省にあてた報告書によると「約1万4000人のうち、3300人ほどは出稼ぎ、あるいは離散の由にて、老年ならびに疾病の者約6000人、幼年の者約1600人、男子壮健の者約2300人」とあり、明治5年になると「現今管下にある者総計約3300戸、1万2500人」と、歯が抜けるように故郷である会津や東京など全国に散って行くのである。
それからほどなく斗南藩士救済策の最終案ともいうべき、元斗南県貫属士族卒等処分方が布達される。その内容は明治6年3月限りで手当米は廃止する。斗南ケ丘、松ケ丘の開拓は中止し、家業は農工商各自自由とする。管内で自立を希望する者には米5俵、金5円、一戸につき資本として5円を支給する。開拓場は三本木1カ所にする。他管下への送籍を望む者に対し、1人につき米2俵、金2円、資本金として一戸につき10円が支給されるなどである。このため転出者が相次ぐ。ちなみに明治7年の会津への帰還者は全斗南移住者約1万7000人のうち約1万人という記述(元斗南藩人青森県より若松県へ移住その他戸数人口取調見込書「太政典類典」)があり、半数以上が故郷会津に戻ったことになる。
さらに明治8年、開拓事業は日の目を見ることなく打ち切りとなり、流出者は把握できないまでになる。斗南の地に残った人々といえば、病人を抱えたりしての経済的理由から移動が困難となった、あるいは生活の目途がようやく立ち始めた人びとだ。そうした人びとは地元に根ざそうと農耕を離れ、教員、役場の吏員、商人など各分野で働くことになる。明治14年の「旧斗南藩人名録」によると、当時、青森県に残留していた会津人は659世帯、約4000人ほどが居住していたとある。
自治体の公務員や教育者への道が開かれる
途方に暮れるしかなかった旧斗南藩藩士とその家族だが、廃藩置県に伴う行政機構の刷新により、藩士たちは思わぬ就業の機会に恵まれることになる。
明治4年4月、それまでの町村役人を廃止して戸長(民選)・副戸長と改称し、従来の町村役人の事務を行わせるという太政官布告が出される。その後の明治11年には郡区町村編制法が制定され、旧来の郡を行政単位として認め、郡役所と郡長(官選)が置かれる。さらには同21年、市制・町村制度施行に伴い市町村長を置くのだが、その戸長や郡長ならびに市町村長に、時代は前後するが以下のような斗南藩士が選ばれている。
相田覚左衛門(百石村戸長、初代下田村長)、石川巳濃次郎(2代三本木町長)、井関鎮衛(野沢村長)、大庭恒次郎(三戸町長)、小熊識三郎(三戸郡第20組戸長)、助役)、北村要(三沢村助役)、鈴木武登馬(三沢村村長)、鈴木良的(柏村助役)、津田永佐久(初代川内村村長)、林静(三沢村村長)、原田鉄治(三本木町長)、藤田重明(初代上北郡長)、沢全秀(第六大区区長)、柴太一郎(下北郡長)、林武蔵(下北郡長・野辺地町長)、大庭恭平(青森県官・函館県管)、石黒熊三郎(上北郡長・野辺地町長)、神田重雄(八戸市長)、神林茂(十和田市長)、菊池渙治(むつ市長)、河村碌(三本木町長)、太田直蔵(大湊町長)、大竹淳(大畑町長)、中島徹夫(大間町長)、林輿子(川内村3代村長)、山内啓助(川内町長)、田口主悦(横浜村長)、井山保太郎(天間林村長)、鈴木武八(天間林村長)、木村重功(佐井村長)、高畑熊三郎(大間村長)、藤森啓助(風間浦村長)、小島留彦(佐井村長)、林健(市川村長)、二瓶勝介(東通村長)、武田寅之助(風間浦村長)、根橋伝吾(田子村長)、北村友哉(三沢町助役)、小沼直忠(西田沢村長)、三浦梧楼(五戸村助役)。
また文部省の設置(明治4年7月)により、旧藩の地方教育はすべて政府の指揮監督下に入り、近代的な国民教育制度の確立を目指した「学制」(明治5年8月)を発布する。これはフランスの形式、アメリカの内容を参考としたもので、義務制、教育と宗教の分離、地方公共団体による経営、小学校が教育の基本というものである。全国を8大学区(翌7年には7大学区に改正)に分けて区ごとに1大学を設置し、1大学区を32中学区に分けて区ごとに1中学を設置、さらに1中学区を210の小学区とし、区ごとに1小学校を設立することにした。大学区には督学局を設け、督学を置いて区内の学事監督の任に当たらせ、中学区・小学区には学区取締りを任用して統括指導に当たらせた。
青森県は第8大学区(翌年第7大学区と改める)に属し、三戸郡は現在の岩手県二戸市とともに第17中学区に属した。三戸小学校が開設されたのは明治6年7月31日である。学区取締りには地元の名家であった松尾紋左衛門が任命され、北村礼次郎は同心得、渡部虎次郎、高木豊次郎、米田謙斎が小助教試補として採用された。「三戸郷土史」によると、開設当初の生徒数は80名。校舎は代官所建物を使用した。広い玄関には武者溜りがあり、床の間と違棚付きの大広間が並んであった。その大広間の畳をはがして平机を並べ、生徒たちは座布団を敷いて正座、訓導(当時の教師の名称)は黒板を使用して教えたとある。同年12月には生徒数は250人に増えている。
教員として採用された渡部虎次郎は斗南藩士の子弟であり、会津藩校「日新館」の出身である。彼はやがて三戸小学校の第3代目の校長となり、一連の教育施策を推し進め、三戸地区における初等教育の基盤を確立するのだが、渡部に限らず、学制に伴う公立小学校の設立によって、多数の斗南藩士ならびにその子弟たちが教育の第一線で活躍することになるのだ。
下北地方でも明治6年に4校の小学校が設立されたが、その初代校長がいずれも斗南藩士だった。飯田重義(大畑小学校)、山内平八(大間小学校)、井沢信(川内小学校)、沖津醇(田名部小学校)の面々である。また県下の名門校として知られることになる青森小学校(現在の長島小学校)でも、設立当初(明治6年7月)の教員8名のうち、6名が斗南藩士であり、青森、弘前地方でも多数の斗南藩出身の校長、教員の名が見受けられる。時代は前後するが、三戸郡や七戸、十和田周辺を見渡しても渡部のほか、田口主税(七戸小学校)、橋本博愛(七戸小学校)、神林茂(藤坂小学校)、田口常磐(下切田小学校)、田口勝造(下切田小学校)、星松太郎(榎林小学校)、鈴木是也(伝法寺小学校)、狩嘉津治(三戸小学校)、大庭恒次郎(三戸小学校)、大庭茂(三戸小学校)、井口信男(田子小学校、三戸小学校)、内藤信男(五戸小学校女子校)、林輿子(切谷内小学校・上市川小学校)、林健(多賀小学校・剣吉小学校・五戸小学校)、中市寛蔵(五戸小学校)、簗瀬栄(五戸小学校)、林健(五戸小学校)、根橋伝吾(田子小学校)、井関鎮衛(西越小学校・新郷村)、太田康衛(八戸小学校)、田口豊洲(八戸高等学校)、渡部英雄(長者小学校)、片峰勝豊(是川小学校)、渡部為治(大舌内小学校)など、斗南藩士ならびにその子弟が校長あるいは教員として採用されたのである。 
 
日新館の教育とは  

 

地方自治や教育の現場に多数の斗南藩士ならびにその子弟が採用された理由、それは会津藩独特の幼年教育と旧藩校「日新館」での教育・実務レベルの高さ、さらには移住後の教育実績などにあった。
会津松平家の始祖である保科正之は会津を領有して以来、積極的に教育を推し進めた。   教育によって会津武士たる人間を作り、ひいては藩、幕府に尽くす人材を輩出するのが目的である。寛文4年(1664)に「稽古堂」を開設以降、「郭内講所」「町講所」が設けられ、さらに「北・南学館」、「東・西講所」、そして「北・南素読所」「日新館」へと規模と内容を拡大充実させていく。面積8000坪にも及ぶ日新館は文化元年(1804)に開設された。敷地内には孔子を祀った大聖殿を中心として学寮、武学寮、武講、天文台、水練・水馬池(プール)、銃場、文庫(図書館)が立ち並び、当時としては内容・規模ともに奥羽地方最大の教育施設であり、全国的に見ても5指に数えられる藩学校であったといわれる。開設当初は身分の高い藩士の子弟のみを入学させ、このうち就学義務不履行の者に対しては罰則規定まで設け、教育を怠り、規定の学科を修めない場合には小普請料と称して禄に税をかけるほどの熱心さだった。
日新館での教育はやがて花色紐組以上(会津藩独特の身分制度であり、花色紐組以上とは知行取り、いわゆる士分を指す)の子弟を対象とし、10歳になるとすべて入学し、素読所(小学)で学ぶことが義務付けられる。等級と階層、そして習得すべき教科もきっちりと分けられていた。花色紐組以上は第4等、300石未満の長男ならびに300石以上の次男以下までは第3等、300石以上500石未満の長男が第2等、500石以上の長男が第1等である。花色紐組以上の者はすべて第4等の教科を終了しなければならず、12歳で終了した場合は賞が与えられる他、童子訓を除く十一経の素読がすむと試験なしで第3等に進級することができた。また、第3等の長男も必ず第3等の教科を終了しなければならない規則が設けられていた。家格地位が高いほど、低い身分の者よりも余計に勉強し、また指導者としての資質を研鑽しなければならないシステムだったのである。
大学ともいうべき講釈所への進学は必ずしも上級武士だけとは限らなかった。下級の者でも才能、力量次第で進学できる仕組みとなっていたのである。さらに優秀な者は藩命により江戸のエリート養成学校ともいうべき昌平校へ遊学できる機会も設けるほどだった。その恩恵にあずかった一人が広沢安任である。生家は貧困極まりない下級武士の家柄。早世した父の代わりに母を助けて働きつつ日新館で勉学に励み、昌平校に学んだのである。下級の士分であっても文武に秀でれば立身出世も不可能ではない。人材の活性化という面においても、日新館の果たした役割は大きいといえよう。
「什」という組織と「宅稽古場」の存在
教育の三本柱として知育、徳育、体育があげられるが、日新館ではそれらすべてに対応できる内容となっていた。また、日新館以外でもそれら教育をカバーする仕組みがあった。当時、武家における幼少期の教育といえば、家庭と寺子屋である。会津藩でも家庭内にあっては幼少の頃から父兄が躾と基本的な読み書きを教えていたし、6歳からは寺子屋に通わせて「孝経」の素読ができるまでになっていた。
このほかに什(じゅう)があげられる。これは会津藩における藩士の子弟を教育する組織だ。町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けたものである。6歳で仲間入りをしなければならず、什では「什長」というリーダーが選ばれる。什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を訓示した。有名な「ならぬことはならぬものです」というものである。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
子供たちの遊びにもこの什は反映され、「会津武士の子はかくあるべきである」という精神が刻まれていく。武士というものは庶民の上に立つ指導者であり、責任を負わなければならず、その言動はおのずと真剣にならざるを得ない。最悪の場合には死ぬ覚悟も辞さないというものだ。そのため幼い頃から家庭内で切腹の作法なども教え込まれた。日新館に入学すると日常生活の規範を示した「幼年者心得之廉書」、徳育の教科書ともいうべき「日新館童子訓」を徹底的に叩き込まれたのである。柴五郎も「童子訓こそは余の生涯に重大なる影響を及ぼせる書というべし」と「会津士道訓」の序文に書いている。
さらには「宅稽古場」の存在である。これは独礼(藩主との謁見が可能)以下襟制(足軽など身分の低い者)に至るまでの子弟が稽古したところである。私立ではあったが、すべて学校奉行の差配によるものであり、その作法は日新館の武学寮と異なるところはなかった。異なる点は月謝であり、これによって師範への謝礼や稽古場の修理、道具の新調などの費用に充てていたのである。その月謝だがおよそ一ヶ月銭15文ほどであり、締方勤めの者が取りまとめにあたっていた。
門下生たちは稽古ばかりでなく、リーダーを決めて日常生活の世話一切を自治的に行っていたようである。屋根や壁の修理、稽古場で使用する薪や藁などの収拾を手分けして行った。そして年長者や学問に秀でた者は、年下の者や学力が劣る者たちに勉強までも教えていたのである。また文武に優れた下級士分の子弟は師範のはからいにより、日新館への出入りを許された。このように、会津独特の卓越した教育制度と徹底した実践教育は、子弟の薫陶に偉大な功績をあげたのである。
会津での戦争に敗れ、新政府から謹慎を申し渡された最中にあっても、教育に傾ける情熱は変わることがなかった。東京では5か所に分散収容された会津藩士たちは、山川浩を総督と仰ぎ、飯田町火消屋敷跡に藩事務所を設けて新政府との折衝に忙殺されていたのだが、その折の様子をまだ幼い柴五郎は「ある明治人の記録」にこう記している。「謹慎所には年頃の遊び相手はなく、余一人幼くして年長者のなかに混じり、井沢清次郎先生主宰の仮学校に列席、素読を授かり、なお補習として佐藤美玉先生に論語を授かる。藩事務所においては旧藩の青年有望の士を集めて指導訓育せり。このうちには茂四郎兄、木村丑徳もあり、久々に講座再興せられ、武士の子弟としての自覚次第によみがえりを覚えたり」と、山川浩自らも教育にあたったといわれている。さらに斗南移住が開始される数ヶ月前の明治2年11月には芝増上寺の旧会津藩宿坊を仮校舎として学校を開設し、校長に竹村幸之進(俊秀)を任命して子弟教育にあたらせていたという説もある。驚くべきというよりも、凄まじいばかりの教育熱心さなのである。
移住先での日新館教育と、会津藩士たちによる寺子屋、私塾設立
山川は斗南への移住が決定するとすぐさま、旧藩時代の漢籍や和書等を田名部に運ばせると共に、新刊の洋書を購入させている。藩再興には新しい知識が何よりも不可欠であるとの判断からである。そして「文武の諸科を総監し、人材を養い国器を成さしめる事を掌る」ための司教局を設け、「日新館」の再開に着手する。
明治3年8月、田名部迎町の大黒屋立花文左衛門方を借用して講堂に充てた。入学に際しては斗南藩士の子弟のみならず、地域住民との融和を図る目的で一般庶民に対しても門戸を開いたのだが、藩士の子弟以外に入学したという記録は残されていない。
田名部の本校に通学が可能な生徒は一部に限られた。というのも斗南藩領は広くはあったものの、下北地方、三戸地方などの間に七戸、八戸が点在し、とても全子弟が通える状態ではなかったのである。全寮制にして勉強させるという方法もあったが、藩の財政がそれを許さなかった。そこで領内の各地に分校を設置して多くの子弟に入学の機会を与えた。漢学校は田名部、五戸、三戸であり、それぞれの学校には分局を設けた。田名部の場合、野辺地、大畑、川内、斗南ケ丘。五戸は市川、中市、三本木、七崎、八幡。三戸は二戸などである。だが、田名部を除いて、五戸、三戸に日新館の分校が設置され、教育が行われたという記録は残されていなかった。構想だけで実現は果たせなかったようである。
その代わりといおうか、移住してから間もなく、斗南藩士による寺子屋、私塾がいたるところで見受けられるようになる。ざっとあげても三厩村(氏名不明)、鯵ヶ沢町(北原房夫)、岩崎村(神指某)、十和田市(柴宮源右衛門)、野辺地町(安積泰助、土屋勝之進、佐瀬義之助、堀恒助)、百石町(丸山主水)、八戸市(山浦鉄次郎)、同(大垣義五郎)、三戸町(上島良蔵)、五戸町(倉沢平治右衛門)、同(内藤信節)、田子町(根橋伝吾)、新郷村(井関恪斎)などが記録されている。
このなかで代表的な私塾を取り上げてみたい。鯵ヶ沢町における北原房夫の塾は「会津塾」とよばれ、明治3年頃から同30年代まで経営されたとあり(新政府による「私塾廃止の布告」の影響がなかったのかどうかは不明)、同塾で学んだ寺子は145名に及ぶという。授業内容は読書、習字が主であり、指導方法は反復練習主義。快活な音読と師伝通りの解釈に遅滞のない場合のみ、新しい教材に入り、優秀な者は四書の指導を受けた。指導は厳しく、怠惰、不従順な寺子は草紙をまるめた円筒で後頭部を殴られたという。明治6年7月に鯵ヶ沢小学校が開校されてもなお会津塾は継続され、同塾と小学校の両方に通う者、あるいは会津塾のみに通う者が共存したらしい。後に北原は役場吏員として採用され、塾は明治33年になくなったものの、当地における教育者や漁業、商業の指導的立場で活躍する人材を多数輩出したのである。
野辺地町の安積泰助を始めとする斗南藩四氏による塾も「会津塾」と呼ばれた。漢字と書道を教え、後に旧盛岡藩代官所に移ったといわれている。明治6年9月、会津塾ならびに地元で寺子屋を開いていた工藤清一郎、中村次郎衛右門、林文内、川村藤右衛門、鈴木左居の各人が集い、寺子屋を合併、これを母体として学制にのっとった野辺地小学校が誕生する。主座教員は斗南藩士の土屋勝之進ほか7名とある。
百石町における丸山主水(もんど)の場合、明治6年、百石で寺子屋を営んでいた三浦義良に請われて寺子屋の師匠となったとある。明治10年に百石小学校が設立されると丸山は主座教員となる。百石小学校の二代目校長は丸山の実子である茂が継ぎ、孫の董(ただす)は三代目の校長となり、百石地区における初等教育に大きく貢献した。
五戸町の「中ノ沢塾」は倉沢平治右衛門が開いた。倉沢は上田八郎右衛門の六男。12歳で日新館に入学し、17歳のときに講釈所生に及第した俊英である。20歳のときに神道精武流の免許皆伝となり、同じ年に倉沢家の養子となった。斗南に移住後は小参事として藩の庶務を統括、野辺地支庁長を務める。後に五戸に定着し、明治10年頃に中ノ沢塾を開く。そこでは四書五経の素説を中心に儒教的教育精神を施したとある。倉沢の薫陶を受けて後に活躍した人物としては、江渡狄嶺(思想家)を始めとして教員、軍人、官吏、医師、実業家など多士済々である。こうした斗南藩士による寺子屋、私塾の経営と指導実績、さらには地元への各種貢献が評価されたのはいうまでもない。
盛岡藩には古くより藩校である「作人館」があり、多くの俊才を育英した。そして作人館の分校ともいうべき為憲場(三戸)、威昭場(五戸)を設けて子弟の教育にあたり、有為な人材を数多く輩出している。さらには文武に優れた地元の盛岡藩士や地侍ともいうべき「給人」(平時は百姓仕事などをし、戦争や変事が起こると武士の身分で出動した)による寺子屋や私塾も隆盛をみていた。学制に伴う小学校開設、それによる教員の確保にあたっては、士族、神官など知識階級を総動員することとなり、優秀な寺子屋の師匠、私塾の塾頭など、教員の資格の有無を問わずに採用されることになったのである。
斗南藩士ならびにその子弟の多くが自治体の長や官吏、教育の現場に採用された理由はこれだけではなさそうだ。新政府による配慮も見受けられる。戊辰戦争での敗北以来、不毛の地への移住、そして多くの病死者や飢餓による死者を出したみのならず、廃藩置県によって藩ならびに松平家再興の夢まで奪った新政府に対しては不満が鬱積していた。まさに爆発寸前である。しかも地租改正、徴兵令(ともに明治6年)の制定は全国の士族の反発を招き、小競り合いが頻発していたのである。さらに征韓論問題(同6年)では新政府内部で派閥抗争と内部分裂が表面化し、新政府に対する信頼は崩壊寸前といってよかった。もしこのまま旧会津藩士たちが先陣を切って新政府に反旗を翻したら、それこそ全国の士族たちがそれに呼応し、再び国を分けての戦争を招くとも限らない。不満をそらす意味でも、生活が成り立つ行政や教育の現場に斗南藩士を数多く採用したという説もある。いずれにしろ、就業の機会を得た旧斗南藩士とその家族は、薄給の身分ではあったものの、生活もようやく一段落する。大庭勇助家族も三戸町在府小路に住まいを構え、恒次郎など子供たちの教育・養育に努めた。 
 
節目となった天皇の東北巡幸  

 

お家再興の夢が潰えた藩士たちにとり、精神的支えとなったのが「我らは朝敵・賊軍にあらず」という強烈な思いである。そのために藩士たちは会津人としての存在感を世に知らしめようと努めた。その意味で明治9年という年は、青森県に残留した旧斗南藩士たちには一つの区切りとなる年となったようである。逆賊・朝敵という汚名を多少ではあるがそそぐことができたと実感できたからだ。明治天皇による「東北巡幸」である。民情、地方産業、教育事情の視察にとどまらず、孝子、節婦、産業功労者の表彰、高齢者、赤貧者への金穀授与等にも及んでいる。同行したのは北白川宮能久親王、有栖川宮熾仁親王、岩倉具視、大久保利通、大隈重信、大木喬任、高崎正風ら総勢148名。
同年6月2日に東京を発ち、白河、仙台、盛岡を経て三戸に入ったのは7月10日である。三戸駅に到着の折には、一般奉迎者とともに三戸小学校を始めとする小学生徒150人ほどが出迎えた。そして夕刻近く、三戸小学校に赴き当地産の馬160頭を天覧、5頭の馬を買い上げている。この際、給仕人として選ばれたのが小学生だった大庭恒次郎である。彼はこれを生涯の光栄とした。また、同校の教員だった渡部虎次郎は明治14年における二回目の東北巡幸の際には、行在所の表札を揮毫するという栄誉に浴しているのだ。
巡幸は三戸から五戸小学校へと移る。前にも記したように、五戸は多くの旧斗南藩士ならびに子弟が在住し、自治体の長、教育の現場で活躍していた地である。この折、巡幸御用掛の大役を無事に務めたのが青木準之助である。彼は会津若松に生まれて五戸に移住。青森県等外4等出仕を振り出しに、等外1等出仕、そして青森本庁勤務となり県会掛に任命されていた。二回目の巡幸の折にも同じ大役を務めている。
さらに旧斗南藩士族による三本木開墾地、西洋に学び近代的牧場を開業していた広沢安任の元を訪れ、広沢に金50円と椅子を下賜している。このとき、旧知の大久保利通が天覧前日に広沢のもとを訪れ、国のために仕官するよう説得に努めたが、「野にあって国家に尽くすのが自分の本分である」と固辞した話は有名である。
青森小学校(青森市)では同校のほかに白銀小学校(弘前市)、田名部小学校(むつ市)の3校から上等8級生徒をそれぞれ7名、10名、5名を出席させての天覧授業が行われ、「その優等なるをもって」輿地誌略一部代金として金1円をそれぞれが行在所から下賜されている。このとき田名部小学校の初代主座教員であり引率者だったのが沖津醇だ。しかも天覧授業に参加した5名の生徒のうち、中田操、木村重功、小池尚、山田茂の4名は旧斗南藩士の子弟だったのである。青森県教育史にはこう書かれている。「忠君愛国と士族意識の影響からか、沖津の引率は『われは賊軍にあらず』という天皇に対する弁解強調の立場をとったものと思われる」と。さらに青森小学校の受持ち教師細川弘と田名部小学校の受持ち教師井沢信もまた旧斗南藩士だった。
明治天皇によるこうした旧斗南藩士ゆかりの場所での天覧、ならびに学校視察や授業の叡覧は、学事、教育関係者に携わる旧斗南藩士のみならず、その子弟であった生徒たちに対しても大きな感銘と刺激、意欲を与えることになったのである。
大庭恒次郎は三戸小学校では抜群の成績を収めた。同期生に梶川重太郎(三戸町出身)がいた。梶川は後年、陸軍大学を首席で卒業し、恩賜の軍刀をいただいた俊英であるが、恒次郎は在学中、彼と常に首席を争ったのである。明治13年、恒次郎は同小学校を第一回目に卒業。三戸小学校の初代校長であり、私塾「暇修塾」を開いていた米田謙斎のもとでさらに勉学に励み、同20年、第一回青森師範学校卒業生として三戸小学校に赴任する。その後は東津軽郡視学(学校現場の現状を視察し、教育内容に関わる行政を司った中央・地方の職制)、三戸町町長、三戸郡視学、三戸尋常高等小学校校長を歴任する。
ちなみに初代の文部大臣となった森有礼(薩摩出身)は明治21年10月、三戸小学校を視察している。同校の沿革史には「高等科上級生の体操を観、大臣親しく簡易科3年生に暗算を課す」との記述があるが、体操向上と小学校簡易科の充実は、森が最も重視していた点らしく、特に所望しての視察だったらしい。三戸小学校は大臣視察に耐えるだけの優れていた学校だったといえるだろう。新人教師だった恒次郎もこれを名誉とし、さらに教育の普及と研鑽にまい進したのはいうまでもない。
杉原凱の墓碑と沖津醇の会津士魂
三戸大神宮は天照大神を奉斎する、三戸郷総鎮守として古い歴史と高い格式を誇る名社である。社伝によると文禄元年(1592)、伊勢神宮より分霊を勧請し奉斎したのが創祀とされている。以後、この地の支配者であった南部氏の崇敬が事のほか厚く、数々の祈願が寄せられたのみならず、武家や庶民の信仰も広く集めてきた。今も学業成就、合格祈願、神恩報賽で訪れる人々が絶えない。
この三戸大神宮で明治19年、一基の墓碑が建立された。日新館教授であった杉原凱の墓碑である。建立したのは沖津醇(田名部小学校初代主座教員)渡部虎次郎(三戸小学校三代校長)など、杉原から教えを受けた、あるいは影響を受けたと思われる十余名の旧斗南藩士たちである。
杉原凱とはいかなる人物か。先の大庭紀元氏ならびに三戸大神宮禰宜の山崎貴行氏が丹念に調べていた。両氏の資料を元にまとめると以下のようになる。
沖津醇が書いた「近世会津藩士偉行録並補遺」によると、生まれたのは文化3年(1806)。通称は外之助。士分は黒紐で上級武士だった。幼い頃から文学を好み、「日新館童子訓」や「新編会津風土記」の編集に加わり、四書訓蒙輯疏で有名な儒学者安倍井帽山に師事。学業を修めた後、若松で私塾を開いて子弟の教育にあたった。その数は100余名に及ぶといわれ、当時「学館より講釈所に及第せんとするに際しては、凱に従わざるものなし」と言われたほどであるから、優れた指導教授法を持っていたものと思われる。
天保(1840〜43)の末、日新館素読所北学館の学館預かりとなり北学館長に就き、後に医学寮師範補助を経て本草科(薬用植物の研究ならびに薬学一般についての研究)の教授に累進する。日新館から退いた後は自宅で経史などを教授、明治3年に三戸に移住したものの、一年後に66歳で病死、その遺体は三戸大神宮に葬られた。
同碑に沖津醇はこう刻んでいる。「先生は私がかつて付き添い学んだ恩師である。そしてその懐かしさを忘れることができないと、同門の人数人が相談して19年に墓の上に碑を建立した。その碑の銘にいわく『死後の世界と現実の世界とその堺を隔てている。しかし幾年月を経てもぼんやりとほのかにみえ、あたかもここに生きているごとくである。その声と姿形は忘れてはならない』と」(書は渡部虎次郎)。
杉原が没してから15年目の碑建立である。なぜこの時期の建立なのだろうか。それには沖津醇という人物とその教育にかけた生涯を知る必要がありそうだ。
沖津は旧名を甚太夫といい、天保2年(1831)の生まれ。松平容保が京都守護職に就任するとそれにつき従い、京都では諸藩の士と交友しながら進歩的な思想を吸収。会津の戦いでは中隊長の身分で白河口において奮戦した。斗南に移住後は前述したように田名部小学校初代主座教員を務める。それから間もなくその学識を買われて県15等出仕に抜擢され、明治7年には小学教授見習いのために東京師範学校、東京府講習所に長期出張を命ぜられる。
青森に戻ると青森小学校の一等教員となって県内の小学校を巡回して教授法を指導。再び県庁に戻って庶務課学校係となり史生(書記官)に任ぜられ、学校教育の重要性を説いた「学校興起ノ鄙見」を提出、ひたすら青森県の学政振興に腐心し、県内小学校教育の普及と充実に努力したのである。明治16年には青森県師範学校長兼専門学校長に迎えられたが、翌年には校長を辞して単に師範学校の嘱託教師となり、同19年にはその職も辞す。そして同20年4月、青森の松森町に私立青湾学舎を開設して小学部と青年部(夜間部)を設け、主に貧民の子弟を対象に教育を施したのである。杉原凱の碑建立は、沖津が県の学校教育の第一線から身を引き、今風にいえば「第二の人生」を私塾にも似た青湾学舎に託そうとするちょうど一年前にあたるのである。
沖津が杉原凱をいかに敬愛していたかは前にも触れた。私塾を開いて、あるいは日新館においても優秀な生徒を育てあげ、日新館を辞してもなお自宅で後進の指導にあたった杉原凱は、いわば「教え導く現場」にこだわり続けた人生だったといえる。沖津もまた、そうした現場にこだわり続けようとしたのではなかろうか。年齢、経験、身分からしても「教え導く現場」に留まることが難しくなり、管理職・名誉職的な立場へと祭り上げられていく。教え子たちと「常に付き添い学び合う」には私塾で教育を実践するしかない。杉原が自宅で教授法を指導したように。
また、政府による教育方針にも不満を募らせていたようだ。明治18年前後、青森県の小学校就学率は全国でも最下位だった。理由は授業料を支払って通学させるだけの余裕がなかったからである。そこで文部大臣の森有礼は同19年4月、「小学校令」を公布して教育制度の改革に乗り出す。これは尋常科と高等科の二科に分かれ、修業年数をそれぞれ4年とした。このうち尋常科の4年は義務教育年限としたものの、土地柄の状況に応じては修業年限3年の簡易科をもってこれに替えてもよいこととしたのである。さらに簡易科には授業料の免除、教科書の貸与などの特典を与え、貧困の児童でも就学が容易になるよう配慮もみせた。にもかからず、沖津は納得しなかったようである。陸奥新聞が沖津の心情をこう紹介している。「当時、町立小学校授業料規則改正のことあり、左なきだに督励上非常に困難なる貧民子弟のために、一層不就学の理由を与え、加うるに校舎狭隘のために、生徒の入学を拒絶したることありて、一時就学児童は著しき減少を来したり。氏(沖津)思う。今や教育の法、日に新に月に革り、追々完美の域に進むといえども、多くはこれ表面上の体裁を改良するに止まり、能く真に児童の心智を耕すもの少なし」と。
我が信ずる教育道を突き進む。この決意を確固たるものにすべく碑の建立を思いたったのではなかろうか。そこにはまた、旧斗南藩士とその子弟たち教育者に対し、「杉原凱先生の遺徳を偲ぶとともに、日新館教育の流れを汲む我らが、今後の青森県、ひいては日本の教育に貢献しよう」との、奮起を促す意味合いも含まれていると思われる。青森に限らず、中央や主要都市でも会津・斗南出身者が教育界で活躍し始めていたからだ。 
 
山川兄弟と斗南出身の大物教育者たち  

 

明治19年前後、教育界で頭角を現し始めた会津・斗南藩出身者の代表といえば、山川浩と健次郎の兄弟があげられる。浩の場合、失意のまま斗南を後に上京。明治10年に西南戦争が勃発すると彼は西征別働軍の参謀に任ぜられ、華々しい活躍をしたものの、陸軍大佐どまりの不遇な扱いを受ける。だが、文部大臣森有礼のすすめで軍人の身分のまま東京高等師範学校(明治18年)、東京女子高等師範学校(同19年)の校長に転進、旧制中学や高等女学校、師範学校の教員の養成にあたった。校長としての山川は学校運営や管理面などは教頭以下に任せ、その分、学生との対話に力を入れたという。また積極的に教育現場を視察しては、教師や生徒たちとも対話を欠かさなかったらしい。その教育姿勢は杉原や沖津とも共通する。
この山川浩が三戸を訪れたのは明治21年7月29日である。東京高等師範、東京女子師範の両校の校長に就任していた時代だ。職務上の巡回ではなく、個人的な避暑漫遊の旅行だったらしく単身での来県である。浩の宿泊先を訪ねたのは渡部虎次郎、大庭恒次郎など、旧斗南藩出身の教員数名である。そこで浩はこう語ったとある。「自分が戊辰戦争の後、この土地を去ってからすでに二十数年過ぎてしまったが、今この地にやってきて、実に自分の生まれ故郷にいるような気持ちになった。諸君がすでに分かっているように、自分は思ったことは口に出さずにおれん性分である。失礼な言葉も出たかも知れんが許してくれたまえ。もし今度三戸に来るようなことがあれば、公の立場で諸君と学校の教育現場で再会したいものだ。その時になって自分から叱言をもらわんよう、十分勉強しておいてくれたまえ」。記述はないが、杉原凱の墓碑を訪れて参拝したのは間違いないだろう。同郷の偉大な先輩にして教育界での大御所の言葉に、渡部虎次郎や大庭恒次郎たちは大いに励まされたに違いない。ちなみに山川浩が三戸を去ってから2カ月ほど後に、文部大臣の森有礼が三戸小学校を視察に訪れていることは前述したが、これは単なる偶然だろうか。
浩の弟である健次郎は会津降伏後、藩の公用人だった秋月悌次郎の手引きによって長州藩士の奥平謙輔を頼り、越後を脱走。その後は奥平の書生となって上京、英語を習得する。さらに北海道開拓使の留学生としてアメリカのエール大学で物理学を学び、帰国後は東京帝国大学の前身である東京開成学校教授補となる。同14年東京帝国大学教授に就任、日本人初めての物理学教授となり、同19年には理科大学教授(後に学長)。以降、高等教育会議議員、東京学士会院会員、東京帝国大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長、東京帝国大学名誉教授などを歴任し、同37年には貴族院議員に勅選され、大正12年には枢密顧問官となっている。明治から大正にかけて学界、教育界の大御所として知られた逸材である。ちなみに健次郎の恩人でもある秋月悌次郎は明治18年、東京大学予備門、後の第一高等学校の教壇に立ち、後に熊本の第五高等学校の教授に就任している。
東京高等師範学校の校長は、山川浩が就任するまでは斗南藩士であった高嶺秀夫だった。高嶺は明治3年、戦争責任で幽閉中、福地源一郎の門下に入って英語を学び、その後、慶応義塾で歴史と経済学を修める。やがて福沢諭吉の推挙を経て渡米、師範教育を研究する。留学中に世界的な教育者として知られたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ−に出会い、「民衆教育の父」といわれた彼の教育論から様々なことを学ぶのである。帰国後の明治11年、東京師範学校長に任命され、独自に考案したといわれる「心恵開発教育主義」を主唱し、師範教育の基礎を定めた。高峰は後に東京女子高等師範学校長に就任するが、山川浩が学校長として就任してからは同校の教頭として浩を補佐し、「高等師範学校には旧会津藩の2人のつわものが目を光らせている」と、師範教育における影響力を見せつけた。
明治学院大学創設にかかわったのが井深梶之助である。井深梶之助は、安政元年(1854)に城下本三之丁(現在の東栄町)に生まれた。父、宅右衛門は、藩校日新館で学頭を務める、会津藩きっての知識人だった。梶之助も14歳で日新館に入学する。会津藩の降伏により梶之助は西洋の圧倒的な技術力を知り、その背景となる西洋学を学ぶべく16歳で上京。斗南藩・土佐藩の私塾を転々とし、横浜の「修文館」の学僕となり、そこで英語を教えていた宣教師のブラウンと出会いが転機となった。明治10年、ブラウンの塾が発展的に解消して東京一致神学校となり、同19年には明治学院となるのだが、この際、梶之助は副総理を務めることになる。36歳でアメリカに留学し、帰国後は総理に就任する。
同23年、文部省は公認学校における宗教の儀式・教育を禁止するとの布達を発するが、井深梶之助はこれに猛反発、憲法に定める信教の自由を主張し、公認学校としての特典を拒否して宗教教育を堅持した。宗教系の学校がようやく日本にも根付こうとした矢先の出来事だっただけに、関係者は大いに勇気づけられたのはもちろんだが、政府の強権的な施策に反発していた人びと、そして旧会津・斗南関係者は溜飲を下げたに違いない。いずれにせよ、三戸町における杉原凱の墓碑は、斗南出身の教育者にとってはシンボル的存在となっていくのである。
招魂の碑
三戸町馬喰町にある悟信寺は、寛永4年(1627)に創建された浄土宗の寺である。明治27年8月、同寺に旧斗南藩戊辰戦死者を祭る「招魂碑」が建てられた。この年は戊辰戦争で亡くなった人々の27回忌にあたる。横書きの「招魂碑」という篆分は子爵となった松平容大によるもので、碑文の撰は維新後、京都中学、高等師範学校、東京帝国大学の教授を歴任した南摩綱紀、書は渡部虎二郎である。
大庭恒次郎は建碑にいたるまでの経過を「建碑日誌」にこまかく書き記していた。それによると同年4月、第一回の集まりを持ち、「斗南移住後は逆賊の汚名を蒙り、様々な苦労と辛酸を舐めつくしたものの、時の流れはそれを洗い流し、自治体や教育界で多彩な人材を多数輩出してきた。のみならず政府ならびに皇室へも多大な貢献をし、今や天下の諒とするところとなり、もって人臣の亀鑑となすまでになった。南部三戸に移住した旧藩士は今こそ相計り、碑を立て、その事を録し、もって後世に伝え、かつその魂を招き、これを祭るべきである」と、建碑に踏み切ったとある。委員長は渡部虎次郎、委員に鈴木林助、小林丈八、佐藤締助、和田鉄次郎、大庭恒次郎の計6名だ。
建設費用は25円。建設後の弔祭費が20円。合わせて45円である。このうち建設竣工までの費用は臨時社債を起こし、月2割の利子で借り入れることを決議する。そして弔祭費は一戸20銭ずつ出し合うこととした。
当時、米は一石8円。木炭1俵が25銭〜30銭。大工の一日の手間賃が27銭。尋常小学校校長の月給が15円。訓導が7円〜8円という時代である。一戸20銭という出費は大変だったに違いないが、会津戦争に敗れてこのかた、戦死者の埋葬、慰霊もままならなかったこれまでのことを振り返れば、どうしても区切りをつけたい碑の建立だった。
碑の台石、竿石の石材は三戸の城山にある石を60銭で払い下げてもらった。6月23日の朝、運搬作業は開始される。およそ30人の人夫を雇ったのだが、台石は約3トンもあり、これを板を敷いた上にコロを置き、綱でひっぱるという手間のかかる作業となった。昼過ぎ、通称「ベゴ(牛)の鼻」と呼ばれる崖っぷちから桐萩という地区に転げ落とすことができたものの、作業はその日で終わらなかった。作業は翌日に持ち越され、難儀な作業を知った三戸町在住の旧斗南藩士が次々と応援に駆けつけ、夕方近くになってようやく目的地である悟信寺に運びこむことができた。関係者はそのまま同寺に残り、酒盛りをして慰労をしたとある。時あたかも日清戦争の火ぶたが切って落とされる約1カ月前だ(宣戦布告は8月1日だが、7月25日の豊島沖の海戦で実質上の戦闘状態に突入する)。戦死者たちを丁重に弔うと同時に、西南戦争で功績をあげたように、会津士魂をもって清国を倒すべく気勢をあげたことだろう。いずれせよ、こうして三戸町における会津三碑は完成する。
それから時はさらに過ぎ、昭和49年5月、三戸町で「三八斗南会津会」の総会が開かれた。同会は三戸、八戸に住む、旧会津藩士の子孫によって結成されたものである。会長は広沢安任の兄、安連(やすつら)を先祖にもつ広沢安正氏であり、副会長が大庭紀元氏である。その折に白虎隊の墓碑、杉原凱の碑、招魂碑の三碑を参拝し、風雪に晒されたままのそれらを維持保存するために資金を募っている。そして今もなお、節目ごとに参拝を欠かさない。移住して間もない折には「会津のゲダカ」「会津のハド」などと馬鹿にされ嘲笑されたのだが、土地に根ざした斗南藩士とその家族、子孫たちは奮闘努力を積み重ね、今では「会津さま」と称されるまでになったのである。その不屈の会津魂は今も脈々と受け継がれ、生き続けている。 
 
西郷隆盛の西南戦争 諸話

 

諸話1 / 西郷隆盛
江戸城無血開城を決断し徳川幕府を終わらせ、廃藩置県を断行するなど、次々と近代国家の礎を築いた。しかし、その明治維新最大の功労者が、征韓論で失脚させられ、西南戦争で逆賊の汚名を背負ったままこの世を去った。西郷が最後まで貫いた「敬天愛人」とは?その激動の生涯に迫る。
東京・上野の銅像で知られ、今も“西郷さん”の愛称で人々に親しまれている。しかしその西郷さん、明治維新の後、西南戦争を起こし逆族として政府軍と戦った。その陰には「全ての人を愛し抜く」という信念があった。日本再生の原動力となった西郷隆盛、その壮絶な人生の裏側に迫る!
敬天愛人
西郷隆盛の好んだ“敬天愛人”。全ての人と平等に接する天を敬い、人々を愛し抜くという意味。西郷は若き日の体験から、この言葉に辿りついた。鹿児島城下で下級武士の家の長男として生まれた西郷。家は貧しく、父は農作業、母は内職をしてやっとの暮らしだった。幼い西郷は薩摩藩の優れた教育システムの中で、幼馴染の大久保利通と共に、剣術・勉学に励んだ。17歳の時、年貢徴収の記録係となった西郷は、農民たちの悲惨な生活を目の当たりにする。以降、彼らの暮らしを救いたいと藩に意見書を書き続ける。農民を守らなければ薩摩藩はつぶれる。そんな思いから10年も書き続け、やがて敬天愛人の精神が大切だと考えるようになった。
殿様の御庭方
27歳の時、転機が訪れる。薩摩藩主が島津斉彬に変わった後、西郷は参勤交代のお供に抜擢。江戸へ行くことになった。実は斉彬は藩主になる前、西郷の意見書に目を通し注目していた。
さらに人柄を認められた西郷は、斉彬にお庭方に登用される。お庭方とは藩主直々の命を受け、隠密のような活動をする私設秘書のようなもの。時は幕末。西郷は斉彬の命を受け、各藩との連絡係として全国を行き交った。他藩の殿様と謁見する大役も果たし、やがて「薩摩に西郷あり」と言われるようになった。
波乱万丈の幕末
西郷隆盛の運命は31歳の時に大きく変わる。藩主・島津斉彬が急死。西郷は後を追って自決を試みるも周囲に止められ断念する。その後、島津久光が藩主となるが、藩内のお家騒動などで久光派と仲が良くなかった西郷は度々、意見衝突した。そして二度の島流しとなり薩摩から離れることに。
島流し先で西郷は、貧しい島民の生活を助けようと寺子屋を作り、田を耕した。また島の女性、愛加那と結婚し子供も授かる。37歳の時、親友・大久保利通が久光に進言したことで、放免され藩に戻ることができた。戻ってからの西郷は、獅子奮迅の活躍をする。禁門の変で長州藩を打ち破り、その後、長州の力が必要だと考え、あの薩長同盟を結ぶ。大政奉還が成し遂げられると、それに対抗して王政復古の大号令を出し、新政府誕生に大きく活躍した。
明治の大改革
明治新政府が誕生すると、西郷は参議として改革に乗り出す。まず廃藩置県を断行して封建制度の終焉に手を打つ。これにより大名や全国の武士40万人が職を失った。
その後、岩倉具視や大久保利通ら新政府の主要が欧米視察に出発すると、西郷は留守内閣を預かり、次々と改革を断行していく。学性改革や身分制度の廃止、通貨制度、裁判所の開設など、1年半で日本は目まぐるしく変わっていた。さらに当時貿易が停止していた朝鮮との外交にも着手。自ら使節として交渉に行くことを閣議決定した。
新政府内の汚職そして孤立
改革を推し進める西郷の裏で、新政府内の汚職が次々と発覚。資材を蓄え、豪華な暮らしにうつつを抜かす者たちがいた。さらに山縣有朋や井上馨は、金銭絡みのスキャンダルを巻き起こした。西郷はすぐさま二人を更迭し、自分の信念に基づいて改革を断行した。
ところが欧米使節団が帰国すると西郷の立場は一変する。実は使節団が出発前に、留守内閣は大規模な改革は行わないと盟約を取り交わしていた。しかし西郷は数々の改革を断行。さらに陸軍大将で軍も動かせる存在だった。岩倉具視や木戸孝允は警戒を強め、西郷の政策の一つ、朝鮮使節を断固反対する。最終的に西郷の朝鮮行きは天皇の命により中止となり、新政府内で孤立した西郷は故郷・鹿児島に帰ることとなった。
西南戦争
鹿児島に戻った西郷は田畑を耕し、狩りに興じた。静かに余生を送るつもりだった。しかし西郷を慕って多くの士族たちが集まってくると、彼らのために私学校を作った。私学校では徴兵制に備えて鉄砲や大砲などを教えた。それは廃藩置県により行き場を失った士族たちの受け皿でもあった。
しかし廃刀令が発令されると、士族たちの不満が爆発。自分たちの刀まで奪うのかと各地で反乱が起こった。反乱を鎮めていく政府軍。最も警戒したのは鹿児島にある西郷の私学校だった。
そこで鹿児島にあった弾薬を密かに運び出そうとした新政府軍。しかし西郷の私学校生徒に見つかり略奪されてしまう。もはや血気盛んな士族たちは後戻りできなかった。西郷は「おいの身体、おはんらに差し上げもんそ。」と言い、挙兵。西郷は逆族として2万の兵を率い、明治政府に立ち向う。西南戦争の勃発だった。そして熊本城で西郷軍と新政府軍が衝突。最新の兵器を使い、次々と到着する新政府軍に敗北を重ねながら、7ヶ月後、西郷軍は鹿児島に戻ってきた。その時、兵は300人にまで減り、周りを7万の新政府軍が取り囲んでいた。
西郷の最後 そして英雄へ
明治10年9月24日、政府軍の総攻撃が始まる。雨のように銃弾が飛び交う中、西郷は政府軍に向かって突き進む。そして西郷は銃弾を受けて倒れた。
「もう、ここらでよか」傍らにいた別府晋介は泣きながら西郷隆盛の首を切り落とした。こうして西郷の死によって西南戦争は終結した。
それから12年後、大日本帝国憲法発布。明治天皇は西郷の明治維新での貢献を評価し、罪を許す恩赦を与えた。そして明治31年には東京・上野に西郷隆盛の銅像が建てられる。それは2万5千人の国民たちの寄付によるものだった。
人を愛した西郷隆盛は、国民の手によって逆族から維新の英雄へと返り咲いた。 
諸話2 / 西南戦争と西郷隆盛の生涯
西南戦争の薩軍の主戦力となった鹿児島の私学校というのは、西郷隆盛が設立した私設の教育機関であり、鹿児島県下で乱暴者(ぼっけもん)といわれる不平士族の暴走を戒めて統御し、未来の日本を背負って立つ人材を育成するという目的を持った学校でした。
明治政府の内務卿の大久保利通や大警視の川路利良は私学校を反政府主義の若者を教育する不穏な養成機関と誤解していましたが、確かに、私学校は今にも暴発しそうな薩摩隼人の集積場であり、西郷の制止がほどければ途端に新政府に対して反旗を翻す恐れを内包していました。私学校の校長は陸軍少将の篠原国幹(しのはら・くにもと)でしたが、西郷隆盛は学校の基本的な規則について篠原に問われ『おはんが、規則になればよかじゃないか』と簡潔に答えたといいます。
私学校の綱領
1.道を同じゅうし、義あいかなうを持って、暗に集合せり。ゆえにこの理を益々研窮し、道義においては一身をかえりみず、必ず踏み行うべきこと。
1.王を尊び、民を憐れむは学問の本旨、然ればこの天理を極め、人民の義務に臨みては、ひたすら難にあたり、一同の義を相立つべきこと。
江藤新平の佐賀の乱が鎮圧された後にも、熊本藩の神風連(しんぷうれん)と呼ばれた神道の思想を汲む敬神党が蜂起した神風連の乱(1876)が勃発しましたが、翌朝には児玉源太郎少将によってあっけなく鎮圧されることとなりました。当時の熊本県には、朱子学(儒学)の教育を基本とする学校党、横井小楠の尊皇攘夷思想を中核とする実学党、国学や神道など日本の伝統的な思想を重視する勤王党がありました。
勤王党の中でも熊本の国粋主義者の大物として知られた太田黒伴雄(おおたぐろともお)が率いた反政府主義の烈士の集団が敬神党であり、新開大神宮で『宇気比(うけい)』という神道の祈祷を行って「今正に、決起すべし」という信託が下ったことにより神風連の乱が起こりました