明治大正の日本 [1]

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日本鉄鋼技術の形成と展開 / 序論知恵としての技術の時代伝統技術から洋式技術へ科学的技術の時代(日本鉄鋼技術の自立)
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雑学の世界・補考   

明治初期における朝鮮修信使の日本見聞

豊臣秀吉の朝鮮侵略、すなわち文禄・慶長の役によって最悪の状況にまで陥ってしまった朝日関係は徳川家康の努力によって回復に向った。1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝利を収めた家康は、早速「日本朝鮮の和平の事、古来の道なり。しかるに太閤一乱の後その道絶えぬ。通行は互いに両国のためなり。まず対馬より内々書をつかわして尋ね試み、合点すべき意あらば公儀よりの命と申すべし」と対馬の藩主宗義智に朝鮮との和平交渉に全力を注ぐよう命じた。その結果、1607(慶長12)年には国交回復の朝鮮使節が初めて江戸を訪ねるようになる。それ以来、朝鮮朝廷は200余年の間、合計12回に亙って日本に使節を送ってきた。これがいわゆる朝鮮通信使である。その規模4-500人におよぶ一行は漢陽(いまのソウル)を出発して大体6ヶ月から1年に近い日にちをかけて江戸まで往還してきたが、19世紀にはいってからは1811(文化8)年、最後の通信使を対馬に送ったきりで、日本との外交的交流は途絶えてしまった。これで朝鮮通信使の日本往還はなくなったのである。
その後、同じような状況が続くなかで、1865年12月には英国の商船ローナ号が忠清道調琴津に碇を降ろし、通商を求めたが追いはらわれる。1863年12月、自分の息子が王座についてから、大院君になって政権を握った李応は、大幅な国政改革を推しすすめる一方、1866年1月からは西教(天主教)に対する弾圧をはじめる。以前から密かに国内へはいり、布教活動を続けてきたフランス人神父たちは勿論のこと、大幅に増えている信徒を引きつづき逮捕、処刑したのである。そうしているうちに、同年7月には、アメリカの商船ゼネラル・シャーマン号の船長プレストンがキリスト教宣教師トマスをはじめ、4人の西洋人と19人の清国人およびマレイ人を乗せて、平壌の新場浦江にあらわれる。しかし、平壌観察使朴珪寿の退去要求に応じなかったため、シャーマン号は官民の火攻めに遭い、炎上してしまう。この事件をきっかけに朝廷は同年8月、斥邪綸音を頒布し、西教弾圧を一層強めるとともに、洋貨の貿易を禁止するようになる。
ところが同年8月には、フランスの東洋艦隊司令官ロズが率いる軍艦3隻が京畿道南陽府の沖にあらわれ、1隻は富平府勿島の前方まで進む。その後の9月、フランス軍は江華府と通津府に侵入し、放火と略奪を恣行したため、大院君は議政府に回章を送り、洋夷保国の決意を固めるようになる。他ならぬ鎖国政策の強化である。しかし、フランス軍は文殊山城と鼎足山城を引きつづき攻撃、朝鮮側の守兵と衝突したので、双方ともに多数の死傷者を出した後、フランス軍は撃退される。これが丙寅洋擾である。
翌年の1867年1月、アメリカ軍艦ウォトゥセト号艦長シュぺルトは平壌の大洞江入り江にあらわれゼネラル・シャーマン号事件の解明を要求したことがあり、その翌年の3月にはアメリカ軍艦セナンドア艦長ぺビガーがゼネラル・シャーマン号の生存者捜索の名目で大洞江入り江に停泊したこともある。1870年5月には、東京駐在のドイツ公使ブラントが、日本外務小丞馬渡俊邁、対馬通事中野許太郎と一緒にヘルター号で釜山にあらわれ通商を要求したが拒絶される。さらに1871年4月には、駐清アメリカ公使ローが通商を要求するため、アメリカのアジア艦隊司令官ロージャスとともに5隻の軍艦を率い、南陽府楓島沿岸にあらわれる。そして、アメリカ軍の陸戦隊は広城鎭を占領したが、朝鮮守兵の夜襲を受け母艦に退けられる。これがいわゆる辛未洋擾である。こうしたフランス軍とアメリカ軍との戦いで朝鮮側はなんとか勝利を収めたかのように見えたが、問題は日本だったのである。
朝鮮修信使の始まり
徳川幕府が倒れてからは朝日間の外交問題も新たな局面を迎えるようになる。明治維新に成功した新政府は、王制復古を各国公使に通告した後、朝鮮朝廷に対しても従来の関係回復を求めた。同年12月、対馬の家老樋口鉄四郎は日本の新政府成立通告書を朝鮮側に伝えようとしたが失敗に終る。1872(明治5)年にも釜山の倭館に滞留する外務省官吏が旧例とは異なる書契を伝えようとしたが退けられる。いよいよ1875(明治8)年1月、日本国理事官森山茂は外務省の書契を改めて東莱府に寄せ、その受付を要求したが、これも退けられてしまう。そうなると4月にはいり、日本側は森山の交渉を援助すると同時に朝鮮朝廷を脅かすため、軍艦雲揚号など3隻を釜山に入港させる。その後の8月、雲揚号は江華島の草芝鎭沿岸に移動してくる。一種の脅かし作戦であったが、江華島の守兵が砲撃を加えたので、雲揚号は退けながら永宗鎭に砲撃を浴びせた。これが江華島事件である。翌年の1月、日本からは特命全権弁理大臣黒田清隆、副使井上馨が京畿道南陽湾に到り、江華島事件の談判を要求するので、朝鮮朝廷は接見大臣申、副官尹滋承を送り江華営で協議を進めた結果、日本との条約が成立する。これが1876年2月2日(新暦2月26日)に結ばれた朝日修好条規(十二款)である。これは朝鮮朝廷が外国と結んだ最初の通商条約である。
朝鮮朝廷は鎖国政策を捨てざるをえなくなったのである。通商条約の成立によって日本との国交が改めて開いてから日本側の要求もあって、朝鮮朝廷は修好意思の標として日本に使節を送ることになる。これが他ならぬ朝鮮修信使の始まりである。こうして最初の修信使が海を渡ったのは1876(明治9)年4月のことである。その後の数年間、修信使の派遣はなかったが、1880年、81年、82年、84年にはいろんな事情から修信使が改めて日本に送られる。但し、その名称は時代の流れとともに特命全権大臣兼修信使、あるいは欽差全権大臣と変わっていくのだが、その性格に変わりはない。一方、修信使ではないが1881年にはいわゆる紳士遊覧団員12人と随員一行がそれぞれ一定の任務を背負って日本を視察しながら、相当長い期間に亙って政府各省と税関などを訪ね、その制度や法規を調査するとともに該当分野の実務を詳しく見習ってから帰国する。いずれにしても前後5回に亙る修信使派遣は1884年を最後にみえなくなる。最早ソウルに日本公使館が設置されていたので、その必要性がなくなったためである。
ここでは便宜上、こうした明治初期における朝鮮使節と実務研修団であった紳士遊覧団を一括して朝鮮修信使と呼ぶことにする。ところで彼らは、むかしの通信使とはいろんな意味で異なる。なによりも彼らは日増しに新しく生まれ変りつつある日本の現実をみたのである。それはいわゆる文明開化であり、西洋化であり、機械化であり、軍事化であって、当時の修信使たちはその社会と制度の変化一つ一つに対して目を見張ったに違いない。そういうわけで、明治初期における朝鮮修信使は、一般にむかしの朝鮮通信使から切り離して取り扱われる場合が多い。現に、いままで公になっている朝鮮通信使関係の著作には、大体明治初期の朝鮮修信使が含まれていない。それは両方の性格がそれほど異なるからであろう。
朝鮮修信使が残した記録
修信使一行が日本でみたのはあらゆる側面に跨っており、その内容も多様複雑である。中には往復の過程で自然に目にはいったものもあれば、日本政府側の勧めにしたがってわざわざ見物したものもある。当時としては最高の知識人であり、高級官吏でもあった修信使は、現代式に言えば外交官資格で日本を訪問する。だからこそ彼らはいつも使臣としての品格を保ちながら物事に臨まざるをえない。私的判断や感情的な言動は許されない。そういう当時の朝鮮人の目に映った日本の文明開化は彼らの記録に一応冷静に描かれている。しかし、たまには主観的判断を記す場合がなくもない。ところがすべてを批判的にみたわけではない。ある時は感動して讃えたり、ある時は驚いて嘆く。とにかく複雑な気持で日本の現実を経験したのであろうが、全体的にはやはり批判的な態度をみせる場合が多いといえる。彼らが残した日本見聞記はいろいろあるが、ここでは、当時日本の現実を知るうえで欠かせない価値を有すると知られている史料のうち、次のような文献を対象にして、その内容を垣間見ることにする。すべては漢文記録である。
金綺秀(正使)、「日東記游」4巻、1876年の見聞 巻1 事会、差遣、随率、行具、商略、別離、陰晴、歇宿、乗船、停泊、留館、行礼
巻2 玩賞、結識、燕飲、問答 巻3 宮室、城郭、人物、俗尚、政法、規条、学術、技芸、物産 巻4 文事、帰期、還朝
永(紳士遊覧団の一員)、「日槎集略」3巻、1881年の見聞 巻天 封書、別単、聞見録、海関総論、8月30日4更復命入侍時 巻地 日記
巻人 問答録、詩句録、同行録、散録 朴泳孝(正使)、「使和記略」1巻、1882年の見聞 日記 朴戴陽(従事官)、「東槎漫録」1巻、1884-5年の見聞
日記、東槎記俗、東槎漫詠 おおざっぱに言えば、日本で経験した物事に対し、金綺秀はすべてを冷静に見つめている反面、李永と朴戴
陽は時々率直な批判を躊躇わない。中でも朴戴陽は一層鋭い批判を加えている。正使でない彼にはそういう裁量があったからなのか、あるいは彼がもともと保守的であったからなのか、その辺の理由ははっきりしないが、恐らく後者だったと思われる。一方、朴泳孝はほとんど批判的態度をみせない。実際、彼は後日、親日的な開化派に加わり政変を企んでから日本に亡命した人物なので、最初から進歩的性向の持ち主であったからであろう。
詰まるところ今回は、以上のような記録の中から自分なりの基準によって歴史的に意味があると思われるいくらかの見聞内容を一定の基準によってまとめて読みながら、彼らが明治初期の日本について一体なにをどのような態度でみており、彼らの見聞は現代の我々にとってなにを意味するか、などについて暫く触れてみたい。
修信使の日程と訪問先
修信使たちの見聞内容を理解するためには、彼らが日本に渡るまでの歴史的背景と、彼らのおもな日程および訪問先を予め調べておく必要がある。それを一覧すれば大体彼らの見聞内容に見当がつくからである。ここに彼らが日本行きの蒸気船に乗る日から故国の港に戻る日までの足跡を簡単にまとめてみる。漢字表記は原文に従うが、特に人名、地名などの固有名詞にかかわる漢字の誤りは括弧のなかに正しい表記を添えておく。当時の朝鮮は依然として旧暦を使ったので、日付はいずれも旧暦であるが(2)、日本はすでに1873(明治6)年から新暦を取りいれたので、参考までにそれも併記する。
金綺秀
(1876年4月29日から閏5月7日、明治9年5月22日から6月27日まで)
朝日修好条規(1876年2月2日、新暦2月26日)の締結をきっかけに、長いあいだ途絶えていた日本との修好、それも当時の朝鮮朝廷にとっては決して喜ばしいとはいえない外交を再開するに際し、最初に選ばれたのは学者的気質の持ち主として知られた金綺秀である。応教(正四品)であった彼は、礼曹参議(正三品)に昇進すると同時に修信使に任命され、日本の土を踏むようになる。最初の修信使であった彼は、東京で20日間滞在しながらも、できる限り見物を避ける。そのため案内役と口論したこともある。
4月29日(5月22日) 釜山浦で日本火輪船黄竜丸乗船
5月1日(23日) 赤間(馬)関到着、永福寺で昼食
   4日(26日) 神戸到着、会社楼で昼食
   7日(29日) 横浜到着、火輪車で新橋に到り、人力車で延遼館到着
   8日(30日) 外務省訪問、到着挨拶
   10日(6月1日) 赤坂宮で天皇に挨拶
   12日(3日) 遠遼館(正しくは延遼館)で下船宴、その後、博物院見物
   15日(6日) 陸軍省訪問、教練場で軍隊操練参観
   17日(8日) 海軍省訪問、水戦操練参観
   21日(12日) 陸軍省兵学寮訪問、その後、工部省工学寮へ行き電線見物
   23日(14日) 太学、開成学校、東京女子師範学校訪問
   24日(15日) 元老院訪問、その後、延遼館で上船宴
   26日(17日)  外務省訪問、帰国挨拶
   27日(18日) 横浜到着、黄竜丸乗船
閏5月1日(21日)  神戸到着
   4日(24日) 赤馬関到着
   7日(27日) 釜山浦到着

(1881年4月8日から閏7月2日、明治14年5月5日から8月26日まで)
金綺秀が日本をみてきた後、朝廷の内部には外国との通商問題が大きな懸案として浮かびあがった。ところが中国は西洋諸国と通商するのはかまわないが、日本に対しては牽制するようにと勧告した。そこに1880年、修信使として日本に行ってきた金弘集は、日本との通商と開化政策を急ぐよう朝廷に申し立てた。そこで一応日本の実情を詳しく把握してみる必要があるという意見が出たので、朝廷はその一策として実務視察団を送ることにした。それがいわゆる紳士遊覧団である。全団員12人のうち、李金憲永は税関担当であったが、時々見物にも出かけている。公式使節ではなかった彼は比較的自由な立場で日本をみたようで、たまにははっきりとした批判も辞さない。
4月8日(5月5日)草梁港で日本商船安寧丸乗船
   11日(8日) 対馬の厳原、壱岐島経由長崎到着、人力車で築町一木(丁目)四十九番地吉見屋に行き一日間滞留。海関、師範学校など訪問
   15日(12日) 博多、小倉、赤馬関、多度津、明石経由神戸到着。海岸通四丁目に一日間泊まりながら海関、鉄道局訪問
   17日(14日) 火輪車に乗って大阪へ行き造紙局、紡績所、監獄署、博物会、療病院、造幣局、陸軍鎮台、博覧会など訪問または見物
   20日(17日) 砲兵工廠と師範学校訪問(本人不参)後、火輪車で西京 到着、三条石橋堂島町の旅所にはいる。翌日から博物会、西陣織錦所、女学校、盲唖院、西本願寺など見物
   24日(21日) 火輪車で大津へ行き琵琶湖、三井寺(正式の名は園城寺)見物後、神戸に帰る
   26日(23日) 税関にいって税務問答後、三菱商社の二帆広島丸に乗って神戸出発
   28日(25日) 横須賀経由横浜到着、火輪車で東京芝公園到着
5月1日(28日) 元老院大書記官森山茂の訪問を受ける
   3日(30日) 外務省大書記官宮本少一(正しくは宮本小一、以下は正しい表記で記す)の訪問を受ける。博物会、博物観(正しくは博物館であろう)見物
   4日(6月1日) 外務省、大蔵省訪問。清国公使館を訪問。夕方、旅所を淡路町へ移す
   5日(2日) 外務省を訪問して宮本小一と税務問答、大蔵省を訪問して関税局長と筆談で税則略論
   6日(3日) 宿所を駿河台南甲賀町へ移す
   7日(4日) この日からは関税局に出入りしながら本格的な海関事務問答を始める一方、外務卿井上馨私第、博覧会の頒賞(褒賞式)、農務局育種場、工部省電信中央局、太学校(大学校であろう)、教育博物館、博覧会、重野安繹私第、清国公使何如璋、陸軍省観兵式、隅田川の海軍競漕演習などを訪問または見物
   23日(19日) 火輪車で新橋を出発、横浜到着。弁天通二丁目の西村新七宅を宿所に決める
   24日(20日) この日から横浜税関と港湾に直接出入りしながら税関実務一つ一つを具体的に見習い始めるかたわら、瓦斯局、横須賀火輪船造所 (本人不参)訪問
6月19日(7月14日) 東京に戻り先日の宿所にはいる
   20日(15日) この日から再び大蔵省関税局に出入りしながら「条約類纂」の校正を始める一方、国立銀行局長私第、造紙局、築地三丁目の花房義質私第、芝離宮で行われた宴会、同人社(本屋)など訪問または参席
   7月8日(8月2日) 関税局訪問、帰国挨拶
   9日(3日) 外務省訪問、帰国挨拶
   14日(8日) 新橋で火輪車に乗って横浜到着、先日の旅所にはいる
   15日(9日) 税関訪問、各国人の居留地界見物。清国理事署、税関局長に別れの挨拶
   16日(10日) 三菱社の名古屋丸乗船、船長は洋人
   18日(12日) 神戸到着、海岸通町四丁目の旅所にはいる
   19日(13日) 旅舎を先日の所に移す。税関訪問問答、以後も続く
   22日(16日) 兵庫県庁訪問
   26日(20日) 県庁、税関に行き別れの挨拶
   28日(22日) 三菱社千歳丸乗船
   30日(24日) 赤馬関到着
閏7月1日(25日) 長崎到着。税関長に別れの挨拶
   2日(26日) 壱岐島経由草梁港到着。日本領事館に行き帰国挨拶
朴泳孝
(1882年8月9日から11月27日、明治15年9月20日から明治16年1月6日まで)
この年の6月、給料未払や給与食糧の変質などに不満を抱いた軍人たちが暴動を起こし、日本軍事教官堀本礼造少尉(3)を殺害した後、日本公使館を襲撃する事件が起こる。これが壬午軍乱である。日本公使花房義質は一応漢陽を脱出、長崎に逃れるが、7月には軍隊を率いて漢陽に戻り、高宗に要求条件を提示する。とどのつまり、朝鮮朝廷は日本側の要求を受けいれ、済物浦条約と修好条規続約を結ぶことで事件の決着を図る。そういうわけで朴泳孝が特命全権大臣兼修信使に任命され、日本に送られたのである。
8月9日(9月20日) 仁川で日本船明治丸に乗船出発
   12日(23日) 赤馬関到着
   14日(25日) 神戸到着、兵庫県令森岡昌純来見。新制国旗を宿舎に掲げる。暫く泊まりながら各国領事の訪問を受ける。
      21日(10月2日)、副使金晩植と一緒に写真館で写真撮影
   23日(4日) 汽車に乗って大津に立ちよってから西京到着、各所周覧
   25日(6日) 大阪に立ちより、砲兵工廠、陣(鎭)台の練兵など見物
   26日(7日) 神戸に戻る
   29日(10日) 東京丸乗船
9月2日(13日) 横浜到着、汽車に乗りかえて東京青松寺到着。外務省に到着通報
   5日(16日) 馬車で外務省に行き、外務卿井上馨、大輔吉田清成、少輔塩田三郎、朝鮮公使花房義質に到着挨拶
   8日(19日) 副使、従事官と一緒に赤坂離宮で天皇に挨拶
   9日(20日) 親王、各省卿、元老院議長、警視総監、東京知事歴訪
   10日(21日) 各国公使を訪問する一方、来訪人事接待と各国公使主催の晩餐会参席
   16日(27日) 横浜へ出かけ当地駐在の公使訪問、帰り道に神奈川県令訪問
   17日(28日) 文部省訪問、大学校生徒卒業宴会参席
   20日(31日) 横浜へ行き競馬見物
   22日(11月2日) 図書館、女子師範学校、博物館、昌平館、動物園訪問または見物
   23日(3日) 日比谷練兵場で行われた天長節行事参席。夕方、外務卿官邸舞踏宴会参席
   26日(6日) 浅草寺見物
   27日(7日) 工部大学校訪問、電信局、電機器械廠周覧
   30日(10日) 印刷局訪問
10月3日(13日) 延遼館で王妃の誕生日記念宴会
   4日(14日) この日から引きつづき各国公使および各省卿の晩餐会参席
   6日(16日) 王子の造紙所、水輪織布所訪問
   9日(19日) 戸山競馬場見物、午餐晩餐会続く
   19日(29日) 陸軍士官学校、砲兵機械廠訪問
   22日(12月2日) この日からは要路を訪問しながら別れの挨拶
   25日(5日) 横浜へ行き小輪船で横須賀へ渡る
   26日(6日) 造船所見物後、江島に着く
   27日(7日) 小田原経由熱海到着、富士屋にはいる。以後二日間温泉浴
   30日(10日) 熱海出発、小田原一泊後、翌日藤沢経由神橋(正しくは新橋)到着
11月5日(14日) 外務卿訪問、帰国日程協議
   9日(19日) 宮内省で天皇に帰国挨拶。以後、要路を訪問しながら別れの挨拶
   18日(28日) 横浜で名古屋丸乗船
   20日(30日) 神戸到着
   22日(1883年1月1日) 神戸出発
   24日(3日) 赤馬関到着
   27日(6日) 済物浦到着
朴戴陽
(1884年12月24日から1885年2月18日、明治18年2月8日から4月3日まで)
開化派の金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、徐載弼らは、この年の10月、郵政局の落成祝賀宴で政変を起こし、守旧派の閔泳穆、閔台鎬、趙寧夏、李祖淵、尹泰駿、韓圭稷らを現場で殺害する。いわゆる甲申政変である。それと同時に、日本公使竹添進一郎は軍隊を動員、昌徳宮を占領する。しかし、清国軍呉兆有、袁世凱、張光前らも軍隊を動員して昌徳宮へ進み、両国軍隊はついに衝突する。こうなると軍民たちは日本公使館を襲撃し、竹添公使は仁川に逃れるが、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼らは竹添公使の船に同乗、日本に亡命する。この事件に対しても日本との協議が必要となり、朝廷は参議交渉事務徐相雨を礼曹参判に昇進させ全権大臣に、協弁穆麟徳を兵曹参判に昇進させ副大臣に任命、日本に渡って問題の解決を図るよう命じる。この時、全権大臣従事官に選ばれたのが幼学朴戴陽である。使節一行は11月、吹雪に降られながら直ちに漢陽を出発したが、日本から特派全権大臣井上馨が入京したので、その交渉結果を待つようにと命じられる。そして12月の終り頃、交渉を終えた井上が帰国するにしたがい、途中で待ちつづけていた使節一行も改めて後を追うように出発する。
1884年12月24日 (明治18年、1885年2月8日)仁川で日本商 船小菅丸乗船出発
26日(10日) 赤間関到着
27日(11日) 三光丸に乗り換える
28日(12日) 神戸到着
29日(13日) 次の船便を待ちながら、大阪遊覧。造幣局、器機廠な ど見物
30日(14日) 山城丸乗船出発
1885年1月1日(15日) 横瀕(正しくは横浜)到着。汽車に乗り東京に 着いてから、精養館で夕食を取り、新橋南鍋町伊勢勘楼にはいる
2日(16日) 外務省に行き国書及び奏辞副本伝達
3日(17日) 福沢諭吉の学校から使いが訪ねてきて、(金玉)均の借金弁 済を要求しながら証書を見せるが、正使は断固拒絶、これを退ける
6日(20日) 天皇礼訪、国書伝達
7日(21日) 正使、各国公使訪問始める
10日(24日) 従事官が宿所の娘菊の要請に応じて一句の詩を書いて渡した ところ、各新聞はそれを話題に取りあげ、欽差大臣が菊娘を愛し、詩を贈った と報道する
12日(26日) 博物館、動物館など見物
13日(27日) 教場に行き歩騎砲三軍操練参観
14日(28日) 電信局、煤気局見物
15日(3月1日) 故宮後苑、増上寺見物
16日(2日) 正副使、横浜へ行き各国公使訪問、その後、横須賀の造船 (所)歴覧、翌日東京へ戻る
18日(4日) 海軍操練見物。正副使、工部大学校訪問(本人不参)
19日(5日) 夫子廟参拝。師範学校、陸軍士官教場、砲兵工廠見物
21日(7日) 大学校訪問、砿学、化学、医学など見物
23日(9日) 陸軍卿大山巌主催の鹿鳴館夜会参席
27日(13日) 印刷局訪問
2月1日(17日) 外務省訪問、国事犯(日本に亡命した金玉均、その他の犯人)送還を要求
3日(19日) 横浜灯台局見物
5日(21日) 天皇に帰国挨拶
7日(23日) 横浜に行き商船名古屋丸乗船出発
8日(24日) 神戸到着
9日(25日) 大阪、西京経由琵琶湖に着き見物後、夕方、神戸に戻る
10日(26日) 青竜丸乗船
12日(28日) 赤間関到着
13日(29日) 長崎到着
15日(31日) 徳国商船乗船
18日(4月3日) 釜山浦、済州島経由仁川到着
修信使の見聞あれこれ
朝鮮修信使たちの日本見聞記録は一種の情報収集を兼ねた報告書であるから、その中に個人的判断とか批判的見方はそんなに多くは出てこない。しかし、彼らが残した記録内容を読んでみれば、彼らの関心がなんであり、それをどういうふうに感じたのかを割りだすことができる。一般に、我々は初めてみる新しい物事に関心を寄せる。そして大体は正否、善悪、美醜のような二項対立的基準によって物事を判断する。当然、自分に慣れているとか、ごく平凡な対象にはなかなか目が向けられない。朝鮮修信使たちの見聞内容もこのような基準に当てはまる。彼らの記録は公式日程と事務に関する報告書的な内容を除けば、自分たちが直接見物した物事に対する情報収集的性格を見せている。それは当然新しくみえる対象に集中するしかない。明治初期の日本で彼らの目に新しくみえる物事があったとすれば、それは取りもなおさず西洋化による文明開化の流れであったに違いないと思われる。それは機械化であり、軍事化であり、あらゆる面に広がりつつある社会と制度の変化だったのである。先に掲げた彼らの日程を見れば見物内容もある程度見当がつく。これは多分日本側の意図的勧めによる結果であったと思われるが、これから彼らの目に映った見聞内容をいくらか具体的に拾ってみる。修信使たちの観察記録は非常に詳しいので別に説明は要らない場合が多い。したがって原文を直接読みながら必要なところには適当な説明で補えば充分である。引用は一応読みやすい現代文意訳で示す。原文に現われる独特な漢字遣いは現代の語形と異なる場合が多いが、それはかえって新文明に対する修信使たちの理解度を知るうえで大切なのでなるべく活かすようにする。そのようなところにはその都度、理解を助けるために現代的表現や解説を括弧の中に書き添えておく。場合によっては文脈を少し補うこともある。日付は原文通りの旧暦である。
機械化と設備
むかしの通信使たちは帆船で海を渡り、大阪から江戸までは陸路でいったが、新時代の修信使たちは火輪船(蒸気船、汽船)に乗り大体は赤間関、長崎、神戸、大阪、京都などに暫く立ちよってから横浜に着き、そこで今度は火輪車(汽車)に乗りかえて東京へ向う。要するに彼らの機械化経験は火輪船と火輪車から始まったのである。
火輪船、燈明台、船着場
修信使たちは草梁(釜山)あるいは済物浦(仁川)で日本の火輪船に乗り、初めて目にする蒸気船の規模と構造を注意深く観察している。イ (釜山で船に乗り)船の仕組みは見ても説明はできない。況や余は身持ちを慎んだので心行くまで見入ることもできない。1隻の船はすべてが機関であり、その内一つでも故障を起こせば船は動けなくなる。そういうわけで船の中には船を動かし、船を操る任務にそれぞれ担当者があり、その他にも何人かは油の壷と布切れを持ち、時々油を塗ったり拭いたりするから、銅の棒と鉄の鎖がいずれも鏡のように輝く。……(中略)……船の腰当たりには穴が開いており、梯子で出入りができるようになっている。……(中略)……ここは船の機輪が集まっている所である。腰を曲げて見下ろすと船底が見え、その中には丸いもの、四角いもの、上は丸くて下は四角いもの、半月形、斜めに鋭いもの、少しちぐはぐになっているもの、かなりちぐはぐになっているもの、紡車がまわるもの、篩の枠が往来するもの、互いに摩り合いながらチュウチュウと音を出しているもの、などなどがある。船底はどこも油塗れになっており、釜のなかでは水が沸いているが石炭を焚く所は終に見当たらない<「日東記游」巻1乗船> ロ (船に乗ってから)諸公と一緒に従船に乗って、黒巌の沖に到り、日人の火輪船に乗った。船の名は安寧丸、長さは33-4把(尋、約1.8m)、幅は5-6把程度に見える。帆は二つであり、外には煙筒が高く聳えており、内には廻っている汽輪が二つある船内の輪は闇輪、船外の輪は明輪という。船体の周りには鉄の欄干が掛けられ、舳先には時表と羅針機が備えられており、船窓は全部瑠璃であるが、その精巧さと豪華さは本当に初めて見る。船内の房(部屋)は3等に分けられているが、我らは上等に、随員は中等に、跟従(下人)は下等にはいり、卜物(荷物)は下層に置いた。上等部屋は5-6ヶ所あるが、一つの部屋は左右上下が層になって4人がはいれる。余は洪公(英植)、魚公(允中)と同じ部屋にはいった。部屋の中には青と紅色の毯で造られた一重の掛け布団と、西洋木で覆った褥と枕、画の飾られた磁器洗面器、その他にも船中灯燭、茶器、卓床、花瓶など備えていないものはない<「日槎集略」巻地4月8日> ハ 船を着ける海岸には必ず石を築き上げて橋を架け、時には水門と虹の橋(太鼓橋)を設けている。また、長い土手を造り、水を遮っているので、まるで湖のようになっている。その中に船を泊めるから波浪の心配は要らない。こういうわけで兵船と大船が密集し、その帆柱が恰かも林のように見える<「日東記游」巻1停泊> ニ 国内に軍艦は35隻あるが、その中に堅完なものは16隻に過ぎず、残りは全部朽敗して用に足らず、商船は300隻ある。それから横須賀ではただいま軍艦を造っているという<「東槎漫録」巻末東槎記俗> 日本人が蒸気船を初めて持つようになったのは1855(安政2)年8月で(4)、オランダ国王が幕府の長崎海軍伝習所に演習艦スンビン号(のち観光丸と命名)を寄贈した時からである。その後の相当長い期間は蒸気船を輸入してきたが、1871(明治4)年2月、横須賀製鉄所(4月に横須賀造船所と改称)の第一期工事の竣工に伴い、次第に蒸気船の自国生産体制を整えるようになる。そして1875(明治8)年2月からは、三菱商会の蒸気船が上海〜横浜間の運行を開始するが、これが日本初の外国航路運行である。反面、朝鮮人の手に蒸気船がはいったのは1883年のことである。翌年にはジャーディン・マディソン商会が上海〜仁川(長崎、釜山経由)間の航路を開設、南京号で運行を開始している。そういうわけで修信使たちは初めて蒸気船に乗り、その構造と設備に深い関心を見せている。イは1876年の黄竜丸の機関室、ロは1881年の安寧丸の船室内部を綿密に観察した記録である。いかにも解りやすく、しかも細かく描かれている。それほど彼らの目を引いたのであろう。当時の朝鮮にはそういう新文明設備がなかったからである。因みに、ハは船着き場すなわち波止場の構造に関する記録であるが、こういう設備も修信使たちには関心の的であったに違いない。最後のニは一種の情報として記録したものであろう。実際、横須賀造船所では1877年6月、日本初の軍艦清輝を竣工しているので、1885年に朴戴陽が軍艦製造の話を聞いたとしてもおかしくはない。
火輪車、鉄路
蒸気船のつぎに修信使たちの目を引いたのは汽車である。最初の修信使金綺秀は横浜から新橋(いまの東海臨海新交通の汐留駅)までを汽車で往復するが、その後の修信使たちは大体神戸から大阪まで、そこからまた京都あるいは大津までも汽車を利用して見物に出かける。そこで彼らは汽車をいろんな角度で観察し、記録に残したのである。イ 横浜から新橋までは火輪車に乗った。……(中略)……火輪車が既に駅楼で待っているというので、駅楼の外に出て、閣道(廊下)の端まで歩いても車は見えず、4-50間(広さの単位、1間は2.33m2あるいは2.99m2)位の長廊が道端にあるのみである。車はどこにあると聞いたら、それが車であるという。長廊のように見えたのが車だったのである。火輪車の仕組みは、先方の4間程度の車輛に火輪があって、前に機関が備えられ、後に人を載せるという。残る毎車は3間半で、3間は屋(部屋)、半間は軒(乗降口)である。1車1車は鉄の鈎で繋がり、それが4-5車乃至10車に至るから、すなわち3-40間、4-50間にもなる。人々は軒から乗り降り、屋に座る。外は文木(模様のはいった板)、内は皮と毛布(ビロードの意味)などで飾られている。両側は椅子のように高く、中間は低く平たいので、向き合って座れば、1屋には6人あるいは8人がはいれる。傍は両方ともに瑠璃で遮られ、装飾が玲瓏なので目を奪おうとする。車ごとに車輪があって、前車の火輪が一転するに伴い、衆車の車輪がみな転び、雷電のように走り、風雨のように突っかかるので、1時刻で3-400里(朝鮮の1里は0.4Km)を走るという。しかし、車体は安穏で少しも揺れない。左右からは山川、草木、屋宅、人物が見えると雖も、閃光のように過ぎ去るので、掴めにくい。喫煙一服、お茶一杯の間に最早新橋に着いたので、すなわち95里である。火輪車は必ず鉄路の上を行く。路は甚だしい高低がなく、低い所は補い、高い所は平らにしたからである。車輪の当たる両側には片鉄を敷いたが、その外側は仰ぐような形、内側は俯せるような形になっているので、その軌から車輪が外れることはない。路は一様に直線ではなく、時々旋回するが、そこも巧く通るのでやはり困ることはない。路面の舗鉄もまた必ず二面(複線)なので、こちら側の車が前の方へ進み、あちら側の車が向かい合って進んできても互いに妨げにはならない。往く車と来る車は必ず方位があって、来るのは左側、往くのは右側である。もし車が互いに出逢うとか 一時停車する時には、挨拶を交わす。こちら側の車が4-50間であれば、あちら側の車も4-50間である。こちら側の1屋1屋は前後が遮られていて、互いに干渉はできないが、あちら側の1屋1屋はこちら側に座って見ることができる。1屋には丈夫(男性)、1屋には婦人、1屋には本国人、1屋には外国人が乗るので、1屋ごとに異なる。両側の人々が顔を合わせ、お互いに挨拶を交わすやいなやの内に、(車は)火を噴きつむじ風のように去る。一瞬に見えなくなるから、ただ頭を掻き言葉を忘れ、名残惜しくも驚くばかりである<「日東記游」巻2 玩賞> ロ (神戸〜大阪間)諸公と一緒に鉄道局へ行き火輪車の造作工程を見てから、火輪車に乗るため待合所に集まった。午正(正午)、火輪車に乗る。発つ時には盪一声(汽笛)があり、よって鉄路の上を走る。路は平らで、真っ直ぐな鉄が四条(線)あるいは六条敷かれており、分路(分かれ道)には(それが)斜めになって横を向いて敷かれている。舗鉄の形は丸く、上の方に伸びた部分が一握り程度であり、車輪の半分はその上に置かれ、火気にしたがって雷電のように走る。車の上に板屋があり、その中に椅子と卓(テーブル)を置き、その間間は窓鏡(窓ガラス)になっている。1屋の中には15-6人が座り、上中下の3等別にこのような屋がある。通り路に鑿山通路(トンネル)が三つあって、そこを通る時には闇が漆のように暗い。また、鉄の欄干が付けられた長橋が7-8ヶ所ある。三宮、住吉、西宮、神崎(いまの尼崎)の4ヶ所で暫く停まるので、車に乗る人はそこで待てば、乗り降りできるという<「日槎集略」巻地4月17日> ハ 飯後午初(11時)、西京鉄路所で火輪に乗り琵琶湖に向う。稲荷と山科を通り過ぎ大谷に到ると長さ数馬場(長さの単位、1馬場は0.4Km)程度の鑿山通路(トンネル)がある。ここを通る時は、車内に灯火を掛けた<「日槎集略」巻地4月24日> ニ 横浜行きの船を待ちながら、神戸に泊まっている内、欝陶しい気分に耐えられず、一行は大阪へ行き遊覧することにした。腕車一名人力車に乗り駅逓所に着く。すなわち停車亭である。輪車がここに到り停車すると行人たちは乗ったり降りたりする。10里(1里は0.4Km)または20里ごとに必ず停車処があるがそこには男女別、上中下等別の待合所がある。恐らく車に3等級の処所があるからであろう。車がまだ到着していない時に行人たちはここで待ちながら車標を買う。標は紙で造られ、等級の他にどこからどこまでという文字が印されている。それから門(改札口の意味)を出ようとする時、その欄干には藜鉄(一種の防備具)が架けられ、辛うじて一人が通り抜けるようになっている。守門者が剪刀を持って傍に立ち、行人が門に臨み標を見せると、守門者は剪刀で標の一隅を切りとってから返す。いよいよ行人は門を通り抜け、車に乗って目的地に到ると降りる。門から出ようとする時、再び標が証拠になる。もし標をなくすと、さらに車賃を払う。十点鐘(10時)、火輪車に乗る。車の仕組みは、前には火筒、半ばには車屋、後ろには粧物(貨物車)がある。大きい時には車の屋数十輪、載物車十余輛もある。互いに牽制するから、その機関を動かすと汽が生じ、煙を噴きながら、前が引けば後ろは付いて行く。ゆっくり行くことも速く行くこともできるが、それは機関をどう操るかによる。故に、緩(普通)とか急(急行)という。鉄路で大阪に着いた。百里の距離を1時(間)で走ったのである。途中、山川風物はみなあまりにも速く過ぎ去ったが、ここに到り初めて原野が広く開かれ、田疇(田地)が平らに広がっているのを見た<「「東槎漫録」1884年12月29日> 横浜〜新橋間26Kmに鉄道が開通されたのは1872(明治5)年9月であるが、これが日本初の鉄道である。更に神戸〜大阪間は1874(明治7)年5月、それから大阪〜京都間は1877(明治10)年3月、京都〜大津間は1880(明治13)年7月にそれぞれ鉄道が通っている。反面、朝鮮に鉄道が初めて開通されたのは1899年9月、済物浦〜露梁津間33.2Kmである。そういうわけで修信使たちは日本で初めて汽車に乗り、実物を目にしたのである。彼らが汽車を細かく描いているのはそのためである。イには汽車の構造、走りぶり、鉄路の仕組み、客室の内部構造があたかも画のように描かれており、ロとハにはトンネルの話がみえる。ところで、ロにみえる阪神間三つのトンネルのうち、一つは恐らく石屋川トンネルで、1871(明治4)年7月に貫通された日本初の鉄道トンネルであり、ハに出てくるトンネルは恐らく逢坂山隧道で、日本人のみの手による最初のトンネルでもある。鑿岩機試用で1880年6月末に貫通されたのだから、7月の京都〜大津間鉄道開通直前のことである。そういうわけでこの二つのトンネルは、それぞれ日本鉄道史上記念碑的な存在であるが、李永は両方を通りながらもトンネルそのものには大した関心はあまりなかったようである。トンネルに関する知識をほとんど持っていなかったからであろう。一方、ニには切符の役割と取り扱いが浮彫りになっている。このような記録は彼らが一種の情報収集として汽車に相当な関心を寄せた証拠となろう。因みに、京浜間鉄道で日本人機関士が運転を始めたのは1879(明治12)年4月からのことである。それまでは英国人が汽車を動かしたので、当然金綺秀が乗った時も外国人機関士が運転したはずであるが、金はそれに気がつかなかったようである。もし金がそれをわかっていたら機関士を汽車から降ろすよう要求したかも知れない。なぜなら、彼は後日、帰国途中の船に西洋人航海専門家が乗っているのを見つけ、結局彼を船から降ろさせた事実があるからである。その経緯についてはのちほど改めて触れるが、とにかく金はそれほど西洋人を排斥したのである。
電信、電線、電信柱
修信使たちは日本で電信の不思議さを経験する。当然、彼らはその仕組みに注意を集中しながら細かいところにいたるまで見つめている。つぎのような記録がそれをものがたる。イ 工部省では兵器と農器と各種の器械を製造するが、暫く見ただけなので思い出せない。いわゆる電線というのはいくらよく見てもなかなか表現できない。……(中略)……工部省でこれを見ると電信線の端が建物の中に入っているのが、恰かも我が国の舌鈴(軒に着けて置く鈴)の紐が家の中にはいっているのと等しい。(電線を)床の上に垂らして、そこに機を設置し、その傍には櫃のような器があって、その中に電があるという。手でその機を敲くと櫃の中に電が生じぴかっと閃きながら、線に沿って直ちに上る。傍にはまた一つの器があるが我が国の大工の墨縄筒(墨壷)に似ている。その中では木の棒が廻っており、傍にはまた紙巻きがあって、その一端を木の棒が巻き上げると、紙の上に字が現われる。横に置いてある紙捲きを広げるとそこにも字がある。これはこちら側からあちら側に報じる文である。……(中略)……電線連絡の柱(電信柱)は道路のあちこちにある。長さ3-4丈(1丈は333cm程度)の真っ直ぐな木の上に磁器の杯を載せ、その上に線を架けて置く。柱ごとの線も一つだけではない。それが立っている場所もあちらこちらにある。ある所は多く、ある所は少ない。遠近も一様ではない。それはそうならざるをえない。山野に遇えばそれを高めるとか低める。大海に遇えばそれを水の底に沈めて通すという<「日東記游」巻2玩賞> ロ 神戸から大阪へいたる歴路には電気線鉄線が多い。(線は)1から2、あるいは3から4、または17に至り11、12になる場合もある。そのところどころに木の柱を立て電線を架けたのである<「日槎集略」巻地4月17日> ハ (工部省電信中央局で)電信および鉄道、鉱山に関わる数多くの工作機械を順次に見物した。電信とは大体鉄線が何千里の外まで延び、もし互いに伝えたいことがあれば、洋書26字をもって機を敲きながら、こちらで書けばあちらが応じるので、何千里離れた所でも互いに通じる。通じるというのは気の引力であり、引くというのは薬水の作用だという。蓋し、鉄線と薬水は電信の第一機であるが、その機の奇妙な作用は形容しがたい。関わりがあって互いに通じる所には悉く機を設けているが、(その数)30余所に至り、機ごとに一人の担当者があるという<「日槎集略」巻地5月13日> ニ 電信局を見た。局長工部大書記官石井忠亮が迎えてくれる。漢文で「欽差正月1日抵東京」という9字を局中の人に託して釜山に寄せしめる。ついでにそれを言葉で本国の京城に転達するよう頼んだ。電信を扱う人が目では字を見ながら手で器械を操ると、器械は手に従い高くなったり低くなったりしながら、その都度音を出す。恐らく手の動きが高くなったり低くなったりする時、自ずから機関は文字と言語を万里の外へ通知するのであろう。暫くしてまた釜山の陰晴を聞いたが、それは午前11点鐘であった。こちらの天気は清明であるが、釜山はいま曇り、風が吹くので雨が降るだろうという。ここから釜山までは六千余里である。万里の陰晴が同一である可能性はないと雖も、1時(間)足らずで互いの声息が通じるので面喰らうようなものであり、魔法使いの嘘のようでもある。しかし、従前の経験から見ると一点の錯誤もなかったので、西洋の法、人を眩惑させるのがおおかたこの通りである<「東槎漫録」1885年1月14日> 日本では1869(明治2)年8月、横浜灯明台〜横浜裁判所間に電信線が架設され、ブレーゲ式指字電信機による通信実験にも成功している。そして同年12月には東京〜横浜間で電信が実用化される。その後、1878(明治11)年には工部省中央電信局が東京木挽町で業務を始める。この頃までは全国重要都市に亙る電信網も整えられたわけである。一方、朝鮮に電信が通るようになったのは釜山〜長崎間の海底電線開通によるもので、1884年2月のことである。したがって、修信使たちが日本で電信をみて不思議に思い、関心を寄せたのは当然のことである。上に引いておいた彼らの記録に当時の様子がはっきりと現われている。中でも長崎〜釜山間に電信が開通された後、日本に渡った朴戴陽は、工部省中央電信局を訪問した際、釜山との交信を直接経験する。六千余里も離れているところで嘘つきのように声息が通じるのをみた彼は、「西洋の法、人を眩惑させるのがこの通りである」と書き残している。これが否定的見方なのか、驚きなのかは断定できないが、他のところに時々出てくる彼の保守的態度を合わせてみる時、多分否定的見方に近いと解される。
写真、写真機
それまでの肖像画といえば絵師が描くものだけだったが、最初の修信使金綺秀は機械で写す真像を日本で直接経験する。その様子をつぎのように観察している。イ ある日、館伴官が来て余の真像を写すというので、再三拒んでも余の話しを聞かない。ふと見ると、遠く木の上に架けられている四角い鏡が、恰かも我が国の鶏塒(止まり木)に似ている。木の柱四つを高く立て、その上に鏡を設置したのだが、鏡は四角い櫃であり、その表は明るい鏡である。上は布切れで覆われ、後ろには穴があるようだが、何物かで遮られている。遮られた物を若干外し、手で中を探るともう一つの鏡が通りすぎる。暫くたって鏡をもってきて余に見せる。余の顔がその中にある。鏡からは水が流れ落ちるかのように見えるが、櫃の外側の鏡は依然そのままである<「日東記游」巻1留館> ロ 午間(11時〜午後1時)、写真局へ往き写真を撮った。厳令(世永)、沈令(相学)、五衛将(金元)も同行して一緒に撮った。本局主人は鈴木雲である<「日槎集略」巻地7月3日> ハ (神戸で)副使とともに写真局へ往き影を照した<「使和記略」8月21日>。(大阪で)副使金校理(晩植)、徐従事官(光範)と一緒に写真局へ往き影を照した<「使和記略」8月27日>。(東京で)写真局に往き影を照した<「使和記略」9月15日> 日本では早くも1862(文久2)年、横浜と東京に写真館があらわれ、幕末・開化期の激動する社会を写し、いまに残る多くの幕末の志士たちの姿は上野で撮影されたという。(8)朝鮮に写真技術がいつはいったのかはまだ詳しく調べていないが、1885年4月、統理交渉通商事務衙門は日本から輸入される写真器械、紙属、薬種などの物品に対して免税措置を取っているから、少なくとも80年代初期にはすでに写真機がはいっていたと推定される。なぜなら1881年の紳士遊覧団は、ロで分かるように写真局へ往って写真を撮り、主人の名前まで記録しながらも、写真機とか写真技術にはなんらかの関心も示していないからである。その後、1883年の修信使朴泳孝もまた、ハから分かるように神戸と大阪と東京でその都度写真館に往き、前後3回に亙って写真を写しながらも、なんの説明もなしにその事実だけを簡単に書き残している。彼らが日本で写真館に往ったのは、恐らく記念写真を撮っておくようにと、誰かに勧められたのであろうが、写真を撮りながらも平気であったという事実は、以前から写真に関する知識を持っていた証拠に他ならないと思われる。反面、1876年の修信使金綺秀は初めて写真を目にしたのであろう。だから彼はイのように写真機の不思議さに関心を集中している。
造幣局、印刷局
経済活動に欠かせない貨幣製造も近代化の代表的象徴の一つであるから、日本側は慣例のように修信使を造幣局に案内したようである。しかし、修信使たちは造幣の大切さをあまり実感しなかったようにみえる。彼らが残した記録が意外に簡単なのはその証拠ではないかとみなされる。ただし、朴戴陽だけはいくらか詳しい記録を残しているが、実際は造幣過程を観察した内容ではなく、それを批判的観点から論じた内容である。いかにも朴ならではの態度であるともいえる。イ 造幣之局は所々にあって、金銭と銀銭は当百銭と当千銭の役割を担い、紙幣一枚はその価値が一万銭にもなる。これをまた毎日のように作って止まないという<「日東記游」巻3政法> ロ (大阪で)飯後、造幣局に往った。三つの門を順次に潜ったが、その内の両門には鉄箭が挿されている。局舎は非常に広く、何百間であるか知るよしもない。火輪で金銀銅三品の銭を鋳、銭は大小があって半銭から1-2銭まであるが、金銀(銭)はなく円があるのみである。一角で銭の形を造ると、一角では磨いてつやを出し、一角では字を印す。立ち見している内に数斗になる。1日中造り上げる大小の数はそれぞれ三万であるという<「日槎集略」巻地4月19日> ハ (大阪で)造幣局、機器廠工作鍛練などに往ってみた。造幣と製器はいずれも西法を学んでその速度が速いし、利益も多いから、富強に達するのは当然であろうが、国内が空虚であり民生は憔悴であるのはなぜであろうか。利を追求するのは充分であるが、その利は外国に流れるし、兵を治めるのはまめまめしいが、その兵は大本(農業の意味)を害するので、こうして国富を達成するとか、兵を強くしうるなんて余には信じられない<「東槎漫録」1884年12月29日> ニ(東京で)午後、印刷局に往ってみた。すなわち紙幣を造っている所である。おおかた紙幣を使用する法は銀金との価値が互いに一致しなければならない。例えば、金銀銭一万円を蓄えば紙幣一万円を造る。紙幣は、結局、必ず金銀銭で換給するから、それ以上の加減があってはならない。我が国の銭標去来いわゆる於音に等しい。しかし、我が国の銭標は私的手段なので、銭標をお金に替えてからでないとお金として流通できない。反面、紙幣は公的手段なので、紙がそのままお金として流通されても差し支えはない。しかし、現在日邦の紙幣は溢れるのに対し、金銀は縮まっているので、もし紙幣を金銀に替えようとしても兌換という文字は紙の上の空文に過ぎない。鋳てあった金銀銭は悉く外国の商利として国外に流れて行くが、民はその術に騙されながらも、愚かでそれを知らない<「東槎漫録」1885年1月27日> 日本は欧米諸国に匹敵する新貨幣を造る機関として、1871(明治4)年2月、大阪に造幣寮を設ける。それから同年7月には、大蔵省内に紙幣司を設け、1ヶ月後にはその名称を紙幣寮と改め、紙幣と公債証書の発行を始める。1877(明治10)年1月、紙幣寮の名称は紙幣局と変わり、さらに翌年12月には印刷局と変わる。(9)要するに紙幣寮の開業によって紙幣の国内製造が可能になったわけである。しかし、朝鮮修信使たちは先に指摘した通り、日本の造幣業務に対して積極的な興味を示していない。実際、イの文脈から判断する限り、金綺秀は造幣局を見物しなかったようである。彼は帰国途中、当時の外務卿寺島宗則から一通の手紙を受けとる。船が神戸で2昼夜滞泊するから、汽車を利用して大阪の造幣寮を是非見物するようにとの懇切な勧めであったが、あいにく体の具合いが悪くなったので見物をあきらめる。結局、大阪の造幣寮と東京の印刷局を直接訪ねたのは金綺秀以後の修信使たちで、ロとハとニはその時の見聞記録である。ことに、朴戴陽は富強の手段である造幣の大切さを認めながらも、その問題点を鋭く指摘している。当時の日本の現実を率直に警告した発言ともいえよう。
造船所
一国の経済面だけではなく、軍事面に於いても大きな役割を果たすのが造船技術である。だから日本側としては修信使に是非見物してもらいたいところが造船所であったに違いない。しかし、1876年の金綺秀は帰国途中、横浜を出発した船が横須賀で一泊するから、造船所を見物するよう勧められたが、病を言い分けに船から降りていないし<「日東記游」巻1停泊>、1881年の紳士遊覧団のうち、趙令(秉稷)、洪令(英植)、魚公(允中)は、横須賀の火輪船製造所を見物したが、李永は他の仕事があって、一緒に往けなかったという<「日槎集略」巻地6月18日>。結局、今度の資料からは造船所見物記録としてつぎの一つしか拾えない。(横浜を出発して帰国途中、横須賀の造船所に立ちよる)船を造っている規模が奇妙でありながら非常に大きい。火輪艦1隻ごとにそれぞれ石閘(ドック)を築き、(船をその中に)泊めて置いたが、一つの閘を築く費用は50万円にもなるという<「使和記略」10月26日> 早くも1853(嘉永6)年、アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが率いる軍艦、いわゆる黒船を浦賀沖でみた日本は、造船所建設に力をいれ、1865(慶応1)年9月には、横須賀製鉄所の着工に漕ぎつけ、翌年5月には最初の修船台(曳き上げドック)を竣工する。1871(明治4)年2月、第一期工事を終え、製鋼、錬鉄、鋳鉄、製缶の各工場および修理用ドックを設置した横須賀製鉄所は同年4月、その名称を横須賀造船所と改め、本格的な造船体制を整える。しかし、朴泳孝は先の引用文から分かるように、日本の造船施設と技術に対しては大した関心をみせていない。実際、彼は開化志向性の持ち主でありながらも、日本の文明施設に関心をみせたことはほとんどない。その代わり競馬や夜会や晩餐会は彼の記録に漏れなくあらわれるようである。
造紙所
修信使たちは、これから取りあげるいろんな文明設備にも関心を寄せている。特に、瓦斯設備と灯台に対する彼らの深い関心が注目を引く。(大阪で)諸公とともに造紙局へ往くと、本局の(官)吏真島襄一郎が茶果を勧める。いよいよ造紙所に行ってみると、火輪をもって機械に潅水しており、紙本には綿、布木、苧、絹織り、毛革、根皮などいろんな破片雑物がある<「日槎集略」巻地4月17日>
紡績所
(大阪で)紡績所に行ってみた。男女が一緒に集まっており、ここもやはり火輪で綿を打って糸を造っている。おおよそ造紙も紡績も非常に速くなされるので形容しがたい<「日槎集略」巻地4月17日>
瓦斯局、煤気局
イ (横浜で)申後(午後4時頃)、趙令(秉稷)、高主簿(永喜)と一緒に瓦斯局へ往った。この局は煤気の機器を設備する所であるが、煤気は石炭を焼いた煙である。横浜内各地の燃灯はこの煤気によるものである。油でも蝋燭でもないのに毎夜火が点り、暁に至って消される。ただ、火を付ける時には、人が他の火を灯内の芯に近づけ、消す時には芯を低めるのみである。横浜内の街路辺には鉄柱を立て、瑠璃灯を懸けており、家の中には鉄機を設け、そこに瑠璃灯を懸ける。街路辺の灯は500、家の中の灯も500あるが、毎一灯の火価は毎月4円だという。更に、煙を貯蔵する桶と袋もあるが、袋は革で造られる。四方を全部縫い、上段の中間に小さい穴を開け、これを鉄で飾って置く。その他にもまた、革紐があり、その周りの太さは縄位だが、長さは2尺程度で、中は空っぽになっている。この革紐の両端をそれぞれ煙の桶と袋の入り口に挿し込めば、煙が紐を通って袋の中にはいり、袋は膨れ上がる。適度な量を袋に入れて売ると、値段は30銭であり、一晩中の灯火を充分に付けるという。瓦斯局の石川善三が巧みに解いてくれた<「日槎集略」巻地6月13日> ロ 煤気局は海辺にあり、煤気を盛んに造っている。東京内の所々にある煤灯はみなこれによって燃えるのである<「東槎漫録」1885年1月14日>日本の場合、文明開化の象徴的な存在としてガス灯が初めて点ったのは横浜で、1872(明治5)年9月のことである。その後、1874(明治7)年には東京にもガス灯が点り、やがて全国に普及していったいう。そういうわけで、イに出てくる小売り用ガス袋の話には当時の様子が面白く描かれてある。
灯台局
航海の安全を図るための洋式灯台も新文明の産物の一つに違いない。それが修信使たちの目に珍しく見えたのは当然である。ただ、金綺秀は船の上で灯台を眺めたが、朴戴陽は横浜まで出かけ、それを詳しく観察している。恐らく、そこで旗による手信号の存在も初めて聞いたのであろう。イ 山の麓には時々白い建物が見える。これを灯明台という。夜にはそこに灯が点り、船路を明るく照らすので、闇の中でも道に迷う心配はなくなる<「日東記游」巻1停泊> ロ 横浜に灯台局があって、局長が灯台を見物するよう欽差一行を招いた。上午9点鐘、横浜に往ってみた。灯室は瑠璃で造られ、大きさは鐘程度で、その中は10余人もはいれる位であり、高さは2丈程であるが、幾層に重なり、魚の鱗みたいに繋がっている。石油を炊いて火を付けるのだが、灯が廻れば火炎は山のようになり、角が廻れば火の色が変わる。おおよそ灯は層になっているので火勢はもっと長くなり、角があるから火の色が変わる訳である。灯は3階の台の上にあるが、台は我が国の十字閣(矢倉)の制度と同じであるが少し大きい。真っ直ぐ海上に臨んでいるので、夜に火を付けると数百里の外を往来する輪船に風浪と暗礁を照らすことができるという。なお、各種の旗による信号があって、百里の外からも互いに問答ができる。もしある件について聞こうとすれば、一定の旗を挙げ、答えも同じく順次旗を挙げると、一場の談話になるという<「東槎漫録」1885年2月3日> 日本最初の洋式灯台は1869(明治2)年1月に現われた。横須賀近くの観音崎灯台がそれである。同年にはまた、野島崎(千葉県)に、その翌年には樫野崎(和歌山県)に、翌々年には佐多岬(鹿児島県)と剣崎(神奈川県)にもそれぞれ灯台が設置される。こうして明治初期には既に全国30ヶ所以上に灯台が設置されたという。金綺秀が日本でどこの灯台を見たのかは定かでないが、横浜に着くまでは所々でそれを見掛けたのであろう。船の上で見たのでその機能だけを簡単に記録している。反面、朴戴陽は灯台を直接見たのでその構造と機能をいくらか詳しく描いている。
人力車
修信使たちが日本で初めて経験した乗りものの中には人力車と馬車がある。人力車は日本独自の発明品であるが、馬車は開港以来西洋から習った乗りものである。それを珍しくみた金綺秀はその仕組みと走りぶりを相当詳しく観察したのである。延遼館の前には数えきれない程多くの人力車がある。人力車は両輪で、車輪の間に席を設け人を坐らせるのだが、もし2人が坐ると肩が互いにぶつかる。幕があって後ろは高く、両側は低いが、前にはそれがない。幕の後ろには襞畳(蛇腹のようなもの)あって、雨が降るとか日差しがある時には、(これを)広げて覆うと屋根の付いた乗り物になる。車輪は二つの木棒で支えられ、前の方に延びており、(それが)格子のような秤竿になっている。格子の中に一人がはいり、秤竿を胸に当て走るので、飛ぶような速さである。随員はみなその上に乗っている<「日東記游」巻1留館> 東京で人力車の営業が始まったのは1870(明治3)年3月のことである。それが1年後には一万台以上になり、1874-5年頃には上海や東南アジア地域にも輸出されたという。しかし、金綺秀は東京でそれを初めてみたのであろう。
馬車
馬車は一つの長い乗り物で双馬が引く。四輪で前は低く、後ろは高い。その上に屋を設けたが、屋根が高く、四面は瑠璃の窓になっており、左と右の方は自由に開けることができる。人が乗り降りする時には車に付いている階鉄が恰かも馬の鞍の鐙のような役割を果たす。車の中には前と後ろに床があるが、油の光彩が燦然である。2人ずつ向い合って4人が坐れるが、10数人が坐れるものもあるという。車の外側の前後には御者(馬丁)の坐る席があって、(馬丁は)そこに坐り手綱を握るようになっている。そして手綱を調節しながら馬を速く、あるいはゆっくり走らせたり、方向を左か右に向けるのも思うがままにできる<「日東記游」巻1留館> 日本で2頭立ての馬が引く馬車が営業を始めたのは1869(明治2)年3月のことである。横浜〜東京間を走った馬車は6人乗りだったので、当時は乗り合い馬車と呼ばれた。しかし、1872(明治5)年9月、横浜〜東京間に鉄道が通ってからは乗り合い馬車もその使命を終えたものの、その代わり、1874(明治7)年8月には浅草〜新橋間を走る2階建ての大型馬車が一時現われたが、まもなく軽便な乗り合い馬車に代わり、その名称もガタ馬車または円太郎馬車と呼ばれたという。そういう時期に東京で20日間泊まった金綺秀が実際に乗ったのは、4人乗りだったようで、一般の円太郎馬車ではなく特別に用意された公用馬車ではなかったかと思われる。燦然たる内部の構造まで分かっているのがその証拠になる。いずれにしても彼は馬車を細かいところまで描いている。それほどの関心を寄せたのである。
軍事化と操練
明治初期の日本におけるもう一つの国家的目標は強兵である。そういう意味から朝鮮修信使たちが新式軍事訓練に案内されたのは当然のことである。
陸軍操練
陸軍省操練で修信使たちが見たのは制式訓練と歩砲騎兵の共同訓練であった。イ 陸軍省内には広場があって、木柵に囲まれている。陸軍卿以下諸官が余を迎え椅子に座った。最初に歩軍を試した。歩軍は一組に5名、10名ずつ立っているが、一隊には必ず隊長があり、手には標旗を持っている。更に、一騎将があって往来しながら角(ラッパ)をもって指揮する。角声が一度鳴るに従い旗がそれに応じ、旗が動き出すと衆軍もまた動く。前へ進む時も、後ろへ退く時も一斉に動く。抜剣挿剣、挙銃植銃、だれ一人先にするとか後にするものはない。左から出て右へはいり、右から出て左へはいったり、前から出て後ろへ退き、後ろから出て前へ進んだりもする。あるいは走りながら通り過ぎたり、囲んだりするのは、まるで常山の蛇(「孫子兵法」9地篇にみえる陣勢の喩え)のように、腰と腹が攻められると頭と尻尾が来て救援する。次は馬軍を試した。……(中略)……軍士は皆壮健ですばしこく、腰には剣を佩き手には槍をもっている。身を飛ばして馬に乗り足で鐙を激励すると、馬は飛ぶように走る。緑茸芳草の地上からは動いている四つの馬蹄がちらりちらりとみえるのみである。一回は前へ一回は後ろへ、命令にすこしも違わぬのは歩軍と等しい。次は車軍を試した。戦車は両輪で駟馬がそれを引く。上に一将が坐り前後を軍兵が護衛する。後ろには鈎で繋いだ小車があるが、それは自由に切り放したり繋ぐこともできる。前には大砲を据え後ろには薬筒があるがいずれも銅製である。一度馳逐しながら一斉に砲を打つのだが、砲が所指にしたがって動くと砲声は大野を揺るがす。また砲を背負った馬がその後を追っているので、放砲に臨んでは砲を地上に降ろし一斉に打つのだがすこしも食い違いはない。命令通り進むとか退くのは馬軍と同じであるが、但しその陣法はあくまでも長蛇が地を捲くような気勢である<「日東記游」巻2玩賞> ロ いよいよ陸軍操練場へ行き、操練を見た。4人の隊長が歩兵2-300名を率いるが、それぞれ銃剣をもって隊列を作り、行陣しながら喇叭を吹く。隊長は口で指揮しながら、座らせたり、立たせたり、進ませたり、退けさせたりしても、衆軍は少しも違わずそれに応じる。丘の上に敵陣を設け、砲を打ちながら互いに応戦している内に、馬兵は馬車に大砲を載せ、陣を成して4-5砲を打った後、車輪を外して大砲と共に馬に載せ、急いで引き上げる。これで追ったり追われたりしながら、戦って勝利を決める格好を作るのである。行陣も破陣もただ喇叭一つによってなされ、銅鑼や太鼓や旗幟による指揮は勿論ない<「日槎集略」巻地4月19日>
海軍操練、競漕
海軍省では大砲発射訓練の他、隅田川で行われた競漕をみている。イ 海軍省では大砲術を見た。海岸に一屋があって、両側の頭部は細く腰部は広く、いずれも船のように見える。中へはいると10数ヶ所の戸が開いていて、恰かも船窓に似ている。窓の前には必ず機輪を付けた大砲が置いてあり、窓口を向いている。窓の左と右は真っ直ぐ斜めになって、それぞれ砲輪に当てる鉄路2条が設けられている。砲が左へ動けば左で支え、右へ動けば右で支える鉄道がある訳である。この時、一人は手に小旗を持ち、窓に近づき敵の様子を窺察し、もう一人が角(喇叭)を吹きながら信号を送ると、7-8人は(火)薬を載せて火を付けようとする。敵を窺察する人がいきなり手旗で右を指すと吹角もそこに応じる。放砲人たちが砲輪を推して右へ廻せば、砲口は窓に向けられる。只今、砲を撃とうとする所で、窺察者が改めて左を指し、角声が鳴ると、直ちに砲輪を推し廻す。砲躰が左に移されても砲口はそのまま窓を向いている。蓋し、左右前後に動く砲輪に合わせて鉄路を敷いたのはこのためであったのである。敵を左右から窺い、動きに合わせて撃つのだが、今のこの習放(発砲練習は敵に臨んだ時と違わない。7-8人が同時に力を合わせ、推すもの、整えるもの、(弾)丸を運ぶもの、火(薬を載せるものがそれぞれ自分の役割を果たすので、手と脚は忙しく動き廻り、一呼吸の間に諸砲一斉に発砲され、その音は山海を揺さぶり、両耳がぼやっとする。発砲に臨み伝語官2人が余の坐る床の両側に近より、余をしっかり掴む。余が驚き、揺さぶられるのを心配したからである。そこで余は笑いながら言った。「余、今少し疲れているとは雖も、最早不動心の年(40の年、出典は「孟子」公孫丑上)を過ぎている。若干の砲声の類がいかにして余を動かせるのでしょうか」<「日東記游」巻2玩賞> ロ 隅田川吾妻橋水戸邸の前で海軍競漕があると、外務省が五辻長仲を送り、見物するよう要請するので諸公と一緒に行ってみた。海軍大尉曾根俊虎と海軍の秘書堤従正が迎えてくれる。一大の火輪船が旗幟を掲げ、碇を降ろしている中に、1船ごとに海軍6名あるいは12名が乗っている小船が見える。1船の軍は紅巾、1船の軍は黄巾、1船の軍は青巾、1船の軍は白巾を着けており、それぞれ船の左右に分かれて坐り、櫓を握っている。大船で砲を撃つと、四つの軍船同時に放流して、20丁間を往来しながら、互いに先を競う。往来の時、審査官が船に乗って後を追いながら、その遅速を調べる。速いものには賞があり、遅いものには罰がある。先に着いた時には船から砲を撃つ。こうすること14回が終ると、今度は水雷砲を3回撃つ。電線を水中に入れ、薬丸でその火気を衝いたという。(水雷が)発砲される時、その音は霹靂の如く、波は山のように立ち上がる。初めて見る景観である<「日槎集略」巻地5月20日> 日本では1873(明治6)年1月10日、国民皆兵制を取りいれた徴兵令が制定されており、朝鮮修信使たちが日本を訪問したのはその後のことである。結局、彼らは日本の新式軍隊訓練を初めてみたのであるから、その訓練動作一つ一つに見入ったのは当然のことである。中でもロは海軍の競漕見物記であるが、日本では1877-8(明治10-11)年頃から東京大学の学生でボートを漕ぐものが出始め、1882(明治15)年東京師範学校も2隻のボートを造って漕いでいたが、1883年には両校の間でレースが行われたという。これをきっかけに東京大学に漕艇倶楽部が創設されるが、同年6月3日には海軍省も、明治天皇を迎え、隅田川で午前9時から午後3時までボートレースと水雷の打ち上げを行っている。しかし李永一行が海軍競漕を見物したのは1881(明治14)年5月20日(新暦6月16日)のことである。恐らく海軍競漕は早くから行われたようである。日本側は生まれたばかりの海軍競漕を彼らに是非見せたかったのであろう。しかし軍事施設や訓練をみた朝鮮使節の心は意外にも冷たい。かえって辛辣な批判を浴びせている場合もあるのである。ここにその適例があるのでしばらく引いてみることにする。
軍律と兵制に対する所見
イ 陸軍士官学校の教場と砲兵工廠をみにいった。馳馬、放砲、跳躍、材蹶(倒れたり覆えたりすること)しながら高いところを這いのぼり、険しいところを攻めながら先を競って勇ましさをみせるので、技芸はますます精熟する。また算数、測候、図画、工匠の術を学び、それを修めてから初めて上将になれる。日本の師律(軍律)と兵制が精強でないのではないが、西国人の目でみればまだこどもの戯れに過ぎないであろう。況んや幅員(地域)の広さと狭さが揃っていないばかりか、士馬の健気さと弱さが等しくないし、軍に地水(「易経」の地水師卦)の丈人(立派な統率者)がいないうえ、兵はみな市井の游民である。それなのに他人の術を学び人の要衝を倒そうとするのは難しいことではなかろうか。人々が逢蒙(「孟子」離婁下にみえる人物。夏の時代、弓術にうまい有窮国の王であったから弓道を習ったが天下一になりたい欲望で恩師を殺した残酷な人物)になってくれればよいが、そうでない限り、あちらの技は無窮であり、こちらの才はただ黔驢の手並み(見かけは立派であるが中身がない有り様。むかし中国の黔州で通りすぎる驢馬の鳴き声を聞いた虎はその大きな響きに驚き怖く感じたが、その足げが弱いことを見極めたので結局驢馬を殺して食べたという故事。出典は柳宗元「三戒」)に過ぎない。兵志のいわゆる泰山と累卵のように勝敗の形成は敵を待たずに決っているのである。故に自ら強くなろうとすれば徳を修める道しかない<「東槎漫録」1885年1月19日> ロ 孟津の軍士は紂の相手になれなかったし(「書経」武成の故事。周の武王が商の紂を討つ時のことである。出征1ヶ月足らずで孟津を渡ったが、武王の軍勢は少なかったため、紂の相手としては弱い立場であった。しかし慈しみ深い武王の徳に感心して民衆が悦んでついてきたので最後には戦いに勝つ)、縞素を着けた軍士は項羽の相手になれなかったが(「史記」古祖紀の故事。漢の劉邦が巴蜀で出師し、項羽を討つ時のことである。劉邦は、楚の義帝を殺した項羽の罪を問うという名分を掲げ、軍士に縞素すなわち白い喪服を着用させた)、結局は勝利を収めた。季梁が随にいたので楚の軍士が攻撃できなかったし、司馬光が宋の宰相になったので敵人が互いに警戒したのは、徳があるからであり勢力のためではなかった。豺狼は嫌でないのに、犬や豕がやたらに飛びかかるような事態になると、たとえあちらの制度を学んだとしてもその切っ先を防ぐのは難しいであろう。学んでも学ばなくても破れるのは同じである。もし徳を修めれば軍事的には破れても修めたところの徳はかえって失墜しない。……(中略)……なおかつ臨機応変の奇計で勝利を手にするのは、自得による権謀があるからであり、学んでからできることではない<「東槎漫録」1885年1月19日> 一目にも堂々たる兵略である。中国の歴史から適切な故事を引きながら日本の軍事政策の誤謬や間違いを真っ正面から攻撃している。結論は当然ながら歴史と儒教の教えにしたがって仁徳に帰るべきだというのである。いかにも朝鮮の文官らしい見方である。いずれにしても日本側が意図的に見せつけた立派な軍事的施設や訓練様子はねらい通りの効果はおろか、かえって逆効果として跳ね返ったともいえよう。
文化と各種制度、その他
修信使一行が見物した文化施設や各種社会制度のなかには博物館、博覧会、新式学校、新聞、救育院、監獄署、病院、盲唖院、競馬、議事堂、銀行、洋式宴会、舞踏会、洋式服飾などが含まれている。いずれも修信使たちの目には珍しくみえたようであるが、たまには批判的意見が書き加えられた場合もある。
博物院、博覧会
イ 延遼館での宴会が終り、帰る途中、博物院に立ち寄った。ここは一体何百、何千間なのか知るよしもないが、彼らの后妃の着物、朝廷の儀仗すべてが並べられており、余に見せるためである。殷彝(殷時代の儀式用器)、周敦(周時代の黍と稗を盛る器)……(中略)……一ヶ所に到ると色の褪せたぼろぼろの旗纛、表を藁縄で巻いた瓶、馬の鬣(たてがみ)で造った巾(一種の冠)、獣の皮で作った履物、紅い錦で拵えた女性用の裳(チマ、スカート)、青色の錦で拵えた上衣(チョゴリ)などが乱雑に展示されている。いずれも我が国の物である。これを見るのは気の毒であった<「日東記游」巻2玩賞> ロ (大阪で)博物会に往った。各国の珍宝と不思議な品物が集められており、ない物がないようだが、すべてが瑠璃で囲まれ保護されている。檻の中で暮している禽獣としては孔雀、錦鶏、鴛鴦、熊などがもっと奇観であった。一ヶ所には朝鮮の物件があったが、黒笠、草鞋、甕器瓶と缸(かめ)、毛揮(防寒用帽子)などであった<「日槎集略」巻地4月18日> ハ (西京で)飯後、博覧会に往き順次廻って見た。各品の珍異さと数は大阪より勝れた。一ヶ所に大きさが茶碗のような水晶玉があって、鏡のように閃く。値段は3500円だという。我が国のお金にして一万両あまりである。続いて一ヶ所に到ると朝鮮の物品があったが、明紬、春布、北布(いずれも織物)、尾扇、白笠、白鞋、衣(官吏の普段着)、小衣、木青裳、行纏(脚絆)、吐手(防寒用腕首覆い、腕袋)、青玉草盒などである。しかし、質の低い劣等品だけを集めて陳列しており、その意図が怪しい。一隅に一人の女人像が掲げられている。聞くとこの女人は三韓から日本にはいり織工を教えたのでその功を忘れないため残した像がいまもなお伝来するという<「日槎集略」巻地4月21日> ニ (東京で)諸公と一緒に教育博物館にいくと館長箕作秋坪が迎えてくれた。雛形(小型の模型)として作った品物を集め、小児に見習いさせるので教育博物館というのである。……(中略)……その後、博覧会に往き適度に見廻ったが、中では日月地球機といって、天の運行を擬したものが一番見事であった。しかし、これと■■玉衡(渾天儀、天文観測器具)とは一概に比較できないので、余の狭い見解ではでたらめのようであった<「日槎集略」巻地5月14日> ホ (東京で)正使に従い博物館に往ってみた。……(中略)……館内の上下2階を周游遍覧した。人形、仏像、書籍、刀剣、書画、琴簧、衣服、器物、農桑耕織や金銀銅錫や医薬卜筮に関わる品物、水から釣り、山から捕った不思議な禽獣や美花、異草などがある。……(中略)……門を潜り動物館にはいった。……(中略)……余が迎接人に、この動物館を建て、禽獣を集めて何年になるかと聞いたところ、10年になるという。余は考えた。開国以来数3000年にいたる間、日本にも必ず賢い国君と立派な補佐があり、その名が世に知られているだろう。しかし、夙にこのようなこと(博物館と動物館のこと)がなかったにも拘わらず、開化以来営造に汲汲し、遠近の工作物種を集めたが、その費用はさぞ多かったに違いない。物事の面で博識な人にこれを見せれば、なるほど取るべき物もあるだろう。なれど結局、今の天下において(それが)国の急務ではない。君心ますます豪蕩しがち、民生いよいよ困窮に陥るのは当然すぎるほど当然である。それにも拘わらず、かえって自ら大きいふりをしながら、隣国を軽視するのは一つの笑い種にも満たない態度である<「東槎漫録」1885年1月12日> 日本は早くも1867(慶応3)年、パリ万国博覧会に参加しており、1871(明治4)年のサンフランシスコ市工業博覧会には東京府が出品したこともある。しかし内国博覧会としては同年10月10日から11月11日まで開かれた京都博覧会と11月から開かれた名古屋博覧会が最初である。さらにその翌年3月10日から5月30日までには第一回京都博覧会が開かれており、それは毎年定期的に催されるようになる。一方、東京では1877(明治10)年8月21日から11月30日まで上野公園で第一回内国勧業博覧会が開かれている。その折、上野公園と博物館や動物園の建設計画が浮かびあがったという。そして1880(明治13)年1月に来日し、工部大学校造家科教師兼工部省営繕局顧問に就任した英国人建築家ジョサイア・コンダー(JosiahConder日本では普通コンドルと呼ばれている)の設計と監督に関わる上野博物館が開館したのは1882(明治15)年3月20日である。ところで金綺秀は1876(明治9)年に東京で博物院をみている。要するに彼がみたのは上野博物館ではありえない。日本の博物館の嚆矢は1870(明治3)年大学南校に設置された物産局仮役所で、ここに派遣された田中芳男は各地の物産を収集し、翌年には九段坂上に物産園を開いたというから、金綺秀が見物したのは恐らくそれに似た物産展示会ではなかったかと思われる。しかしホにあらわれる博物館と動物館は上野にあったものに違いない。朴戴陽はその博物館と動物館に対し、国の急務でもないところにお金を使ったとして鋭く批判している。
学校、学習
イ いわゆる学校は、その名称も一つだけではなく開成学校、女子学校、英語学校、諸国語学校がある。師範(先生としての模範)も鄭重であり、教授(教えること)も勤摯であるが功利の学に過ぎない。勤勉に努力を続け、昼夜にも休まないので、その逞しさはいうに及ばず、その勤勉さはもっというを待たない。算計の精密さと規度の繊細さは、秦の商鞅(宰相公孫鞅)が風聞を聴くだけで逃げる程であり、宋の王荊公(宰相王安石)も襟を正して敬意を表する程である<「日東記游」巻3俗尚> ロ (長崎の師範学校で)学校を廻って見ると、一ヶ所に八大家(唐宋八大家)を読む学徒があり、その他は画学、医学、数学、化学、理学があって、それぞれ先生と生徒はあるが、我々のいう学校ではなかった<「日槎集略」巻地4月12日> ハ (大倉組の社長喜八郎の招待に応じて隅田川の別業(別荘)にいった時)書画に優れた女性が4人いて、一人は12歳、一人は11歳、一人は8歳、そしていま一人は30歳だという。30歳の人は先生であり、残る3人はみな士族の娘で女学校に通っており、12歳の女の子は右大臣三条実美の娘だという。士族の娘が書画を習うのは、我が風俗にはないことだが、このような宴会の席にいながらも、ごく平気でいられるからもっと怪しい<「日槎集略」巻地5月9日> ニ 今度は工部所属の太学校(大学校であろう)へ往った。数百の学徒が化学、理学を学んでおり、長崎県の師範学校と異らないが、ただその規模が大きいだけである<「日槎集略」巻地5月13日> ホ 更に師範学校を見に行った。蓋し、男学校と女学校があって、男女4-5歳以上を選び、その上に長を立てて教える。各々処所があって、椅子に列坐するが間架はない。中でも一番幼いものはまず手戯を習う。針と糸をもって各種の色紙に穴をあけ、あるいは円くあるいは長くするのだがそれぞれ間隙があって竹纓(朝鮮笠につける竹製の紐)のようにみえる。やや大きくなったこどもたちは木片で家作りを学ぶ。7-8歳以上になると小学校にはいり文字、算数、図画法を学び、10歳以上は中学校にはいり小学で学んだ内容を深めながら、事物に対する知識を求める。女子もまた年齢にしたがって次第に内容を高めながら書籍、筆画、刀箚(彫ったり刳ったりすること)を教わる。食後には皆に運動をさせる<「東槎漫録」1885年1月19日> ヘ 大学校の鉱学、化学、医学などへ行ってみた。……(中略)……化学はもっぱら水火二気が互いに不思議な作用を起こし、その変化には限りがない。……(中略)……医学校に到ると、室内には髑髏(骸骨)が満ちており、その臭いは吐気を催す。また棚の上に置いてある瑠璃のかめには、人の腸腑を薬水に浸し、腐らないようにしてある。他の所に到ると、ちょっと前に死んだばかりの人体から刀で皮を剥き、肉を切り取りながら四肢を分解している。耳で聴くにも忍びがたいことであるが、況や目で見るからにはとても耐えられない。一行全員が目を逸らし、鼻を覆いながら方向を変える。おおよそ西洋の風俗として、難治の病に罹った人は死境に臨み、自分の屍体を医院に託して、皮を剥き骨を割って病気の原因を割り出し、他人の治療にその効果が廻るよう子弟に頼むという。人の子として父母を2度も死なせることはできないといって、その意思を無視すると、(人々は)かえってその子弟を不孝者として扱い、相手にしてくれないともいう。いまの人々がそのような法を慕い、死んだ骨まで売るようになったのは不仁の至りと言わざるをえない。いかにしたら人理をもって(それを)誅殺することができるだろうか<「東槎漫録」1885年1月21日> 日本では1870(明治3)年に大学規則、中小学規則が定められ近代新式教育が始まる。翌年には従来の大学のかわりに文部省が設置され、さらにその翌年9月には学制が頒布される。当然ながら朝鮮修信使たちが日本でみた学制とその学習内容はまったく新しいものだったのである。特に彼らが驚いたのは女子教育と化学、医学教育などであったようである。そして屍体解剖に対しては辛辣な批判を加えている。
新聞紙
イ いわゆる新聞紙(いまの新聞)は、毎日のように字を築き印刷されるのだが、これがない所はない。そうして公私の聞見、巷の語り種は、口の中の唾が乾かない内に速くも四方に伝わる。これを作る人は事業と看做し、そこに引っ掛かる人は栄誉か侮辱を味わう。また、その字は必ず荏胡麻のように小さく、その精巧さは比べる所がない。大体、彼らは活動を好み黙っているのを嫌うので、仕事がないと不安を感じ、それがあれば喜んで跳ね上がる。そういう訳で細やかなことを見ても眉を上げ、身を振るい、痒い所を知らない癖に10本の指で掻く。これが彼らの生まれつきの性格である<「日東記游」巻3俗尚> ロ ここに来て以来、新聞紙から我が国に関わる記事を見ると事実と異なる場合が多い。あるいは謝罪使、あるいは事大党といって(我が)朝廷を謗る時が多い。真に醜くて堪らない<「東槎漫録」1885年1月10日> 日本で日刊新聞が初めて現われたのは1870(明治3)年の横浜毎日新聞である。その後1872年には東京日日新聞(現在の毎日新聞)、1874年には読売新聞、1875年には東京曙新聞、1876年には大阪日報、さらに1879年には朝日新聞などが出ており、他にも隔日や週刊など多数の新聞が発行されている。金綺秀はそれを興味深く見ているが、朴戴陽は早くもその被害を訴えている。その内容については後で具体的に触れる。
救育院
救育院を設け孤児や貧しくて家を持たない子供を集めて養い、彼らが一人一人の成人になり産業があれば帰すことによって家庭の安定を図るという<「日東記游」巻3政法> ここに出てくる救育院は文脈から判断するかぎり孤児院の意味であろうが、金綺秀が日本を訪問した当時孤児院という名称の施設はなかったが、もしあったとすればそれはロシア皇太子の訪日に際して市内にたむろする乞食を収容する目的で1872(明治5)年東京に設立された養育院か、1875(明治8)年三井組が許可を申請した育児院(21)のような施設であったかも知れない。当初の計画によるとこの育児院は翌年の1月に施行する予定だったので、それが予定通り実行されたとしたら5月に東京へはいった金綺秀がそれを見物した可能性はありうる。しかしこの記録はただの伝聞であった可能性もある。
監獄署
(大阪で)飯後、諸公とともに監獄署へ往った。罪人の士族と婦女はそれぞれ別の所にあって、士族は本を読み、婦女は針仕事や機織りをしながら家庭同様に過ごしている。どんな罪であれ、処決は裁判所を通るので監獄署の仕事ではないし、未決囚と既決囚は1500余名あるという。既決の者は赤い衣服を着けて公役(懲役)にはいるが、罪の軽重により1日または1年から終身まであり、重罪は殺人者であるという<「日槎集略」巻地4月18日> 日本で裁判所という名称が一般化したのは1871(明治4)年7月司法省設置にともない、同年12月26日(新暦明治5年2月4日)東京裁判所が設けられてからのことである。その後1872(明治5)年8月には各裁判所、検事局、明法寮章程など司法省職制章程が定められる一方、11月には監獄則も定められる。これで司法制度や行刑制度が一応整えられるわけであるが、要するに上の記録に出てくる監獄署はむかしのような厳しいところではなく、新しい感じをほのめかすところである。それを記録に残したのはそのためであろう。
療病院
(大阪で)療病院に往った。10人の医長(医師)が学徒3-400人を教えるが、病者もまた何百人あって、ある者は布団を被って横になっており、ある者は寝床に凭れて坐っている。また、木を彫って作った半身人形があって、腸腑と筋絡がみな備えられ、恰かもむかしの銅人(漢医学で経穴を知るために作った銅製の人形)に似ている。また見ると骨を掻き、肉を切り、喉を通り、膀胱を触る鉄製の器具がある。更に聴くと屍を解剖し、その腸腑を直接診て病因を割り出すというのだから、驚きと怪しさはいうに及ばない<「日槎集略」巻地4月18日> 幕末から明治初期にかけては病院という語がなく、普通は「医院、施薬医院、済院、普済院、養病院、大病院、避病院、療病院」などとも呼ばれたので(22)、上の引用文にみえる療病院とは他ならぬ現代語の病院を意味する。日本にこういう新しい病院が最初に現われたのは1877(明治10)年である。海軍省が伝染病患者を収容するため品川にたてた避病院がそれである。(23)朝鮮使節は大阪でそういう新しい病院内部を見物しているが、ここでも屍の解剖には否定的な態度を捨てていない。
盲唖院
(西京で)盲唖院に往って見ると、各自の教坊(教室)が設けられており、陽刻の板を使って、書字と地図を手触りで分かるようになっている。また、読書、手算、方向探し、直行能力、速やかな手真似は盲者のための学習である反面、女は刺繍と糸扱い、男は習字と造器、これが唖者のための学習である。学徒は数百人あるという。盲唖者に至るまで捨て物にせず、工業に専念させるのは、一見、一般人の生活にまめまめしく導くように見えるが、これもまた利益を追求するためではないのだろうか<「日槎集略」巻地4月22日> 中村正直、古川正雄、岸田吟香、宣教師ボルシャルトらが東京で盲人の保護教導のため楽善会を組織したのは1875(明治8)年5月のことであるが、ジョサイア・コンダーの設計による訓盲院は1879(明治12)年12月竣工され、実際の授業は翌年の2月から始まっている。この訓盲院は1884年にいたり訓盲唖院になるのだが、これも盲唖院という名称ではない。ところが紳士遊覧団一行が京都に立ちよった1881年にはもはや京都に盲唖院があったようである。上に引いた記録がその裏付けになる。とにかく彼らは盲唖院のような新文明の社会福祉施設を初めて見たのであるが、ここでも少しは疑いの目を向けている。盲唖者教育を利益追求ではないかと疑っているのがそれである。
競馬
巳時(午前10時前後)、汽車に乗って横浜の競馬場に着いた。日本朝廷の君臣と各国の公使がみな家族揃いで集まったので、天皇が呼び寄せて労った。観光に来た男女が塀をなす程多く集まっている。周り一帯を柵で囲み、それが5里もある。馬に巧く乗るものを選び、柵内を走らせるのだが、馬は全部大宛国産種である。雲に向って嘶き、空中に跳ね上がる気勢があればこそ、走るのが流れ星のように速い。限標(ゴール)まで先に着く者には賞を懸けて励ますので、よほど面白い<「使和記略」9月20日> 日本でスポーツとしての近代競馬が初めて行われたのは文久年間(1861-1863)のことで、開催主体は横浜居留地の外国人たち、開催場所は幕府から借りた横浜根岸村の一角であった。この競馬は年を追うごとに盛んとなり、やがて日本人にも有料で見せ、馬券を売るようになったという。一方、日本人による初の競馬は1870(明治3)年9月兵部省が九段の招魂社(のちの靖国神社)で催したものだった。この招魂社競馬は、兵部省廃止後も陸軍省が引き継ぎ、年3回の例祭にはかならず開催された。明治政府は軍馬の改良と増産に力を入れたこともあり、競馬用の馬軍づくりも熱を帯びたため、明治天皇や外国の要人も競馬をよく観戦した。上の引用文からもそれがはっきりうかがわれる。因みに、横浜競馬場をすでに見物した朴泳孝はその後の10月9日(新暦11月19日)、さらに東京の戸山競馬場に行ったが、そこにも各国公使がみえたという。この戸山競馬場は、東京芝の三田育種場内から戸山学校内に移されたもので、後日上野の不忍池畔に大規模な競馬場が作られるまで存続した。
議事堂
元老院は門墻頗る高く揃っている。一度そこに行ってみると、いわゆる御門というのが他の官衙とは比較にならない。二品(朝鮮の位)官職の親王が我らを迎え、一緒に議事堂へはいった。議事堂は高くて平直であり、長い卓子を備え、その両側に椅子110余を設置した。ここは大会議がある時、彼らの皇帝が親臨し、議官たちが列席する所だという<「日東記游」巻2玩賞> 元老院とは1875(明治8)年4月14日に出された立憲体制樹立の詔によって創設された立法諮問機関で、同年4月25日には元老院章程と職制、官等が定められた。そして最初の議官には後藤象二郎、陸奥宗光、河野敏鎌ら14名が任命され、4月28日には議官の投票によって選ばれた後藤が副議長に就任する。それから7月5日には元老院の開院式が行われるが、勅選の議長として有栖川宮熾仁親王が就任するのは翌年の5月18日のことである。ところで金綺秀が元老院を訪問したのは同じ年の6月15日(旧暦5月24日)である。したがってここに出てくる親王は議長に就任してまだ1ヶ月も経っていない熾仁親王であり、金綺秀は熾仁親王の案内で議事堂を見物したのである。しかし金綺秀は議事堂の内部構造を簡単に説明しているだけで、その本務や役割に対してはあまり興味を示していない。実はそこに一つの言い争いがあって、金はやむをえず議事堂を訪問したのである。その経緯についてはのちほど改めて触れることにする。
銀行
銀行を設けてからは公卿宰相のような豪貴な人や富商大賈と雖も、家に家財を蓄えるのではなく、銀行に任せ、所用に従い計算に合わせて引き出して使う。したがって、家に持っているのは什物や服飾や器用に過ぎず、後はなにもない。故に火災があっても家屋を焼かれるだけで、家産には及ばない<「東槎漫録」巻末東槎記俗> 日本では1872(明治5)年11月国立銀行条例の布告にともない、翌年の6月11日には第一国立銀行が東京に設立され、7月20日からは営業を開始している。その後、全国各地にも次第に国立銀行が設立され、1880(明治13)年にはその数が153におよんでいる。他方、1876年7月1日には私立三井銀行も開業するようになる。しかし朝鮮修信使たちが近代経済の象徴である銀行に案内されたことはほとんどなかったのであろう。その役割は説明を聞くだけで理解できるからである。引用文にみえる簡単な説明がそれを物語っている。その代わり彼らは、前述した通り、造幣局に案内され貨幣の製造過程をみている。しかし彼らは銀行と造幣局との関係や銀行の大切さにはあまり気がつかなかったようである。
宴会、夜会、舞蹈会
修信使たちは公式宴会や夜会や舞踏会でも新しい文化を経験する。彼らにとってはその一つ一つが初めての経験であるから関連記録もことのほか具体的である。
延遼館での下船宴ー洋式食事(1876年5月12日、新暦明治9年6月3日)太政大臣三条実美以下13人の官人が既に来ている。大きい卓子を囲んで坐った。……(中略)……一人一人の前には磁器皿二つが置いてあり、一つには白布と餅が置いてある。白布は食べる時、水の滴が落ち(着物を汚さないように)支えるものであり、餅は飲食を助けるものである。皿一つにはなにも置いていない。その横には大中小三つの匙(実はフォーク)が置いてあり、歯があって食べ物を摘んだり刺したりしながら食べることができる。右側には刀(実はナイフ)が二つあり、その後ろにも匙が二つあるがどちらも一つは大きく、一つは小さい。いよいよ食べ物を運んで来たが、固いものと柔らかいもの、汁と切肉は量が少ない。固いものは歯の付いた匙で押さえながら刀で切り取り、柔らかいものと汁は匙で掬い上げながら食べる。あるいは匙で掬ったり、あるいは刀で切ったりしながら食べるが、一応食べたら、それを皿の上に置く。この時、侍者がその皿を持ち出し、綺麗に洗って再び返す。刀も匙も以前の場所に置かれる。改めて食べ物が運ばれ、この前のように食べる。皿をまた返し、刀と匙を以前の所に置くのも前と変わらない……(中略)……酒を少しずつ飲んで、杯にまだ酒が残っていても、その上に酒を注ぎ、食事が終るまで飲んだ。杯を勧める時には、その都度音楽を奏するが、非常に速く流れている内にだんだん低くなる。その制作は巧みであったが西洋の音楽だという<「日東記游」巻2燕飲> 餅のような食べ物は日にちが経ち既に忘れてしまったが、食べながら筆を持って描いても形容しにくい。その作り方がおかしく、大体は初めて見るので、見てもその名を知らず、食べてもその味を知らなかった。いわゆる氷汁というのは氷を磨り減らして粉を造り、卵黄と砂糖を混ぜるものだというが、汁のみで氷ではなかった。一口だけでも口の中にはいったら、歯の端まで冷たくなるので、どういうふうに造られたのかわからない。また、氷製というのは五色に光っており、形は仮の山に似ているし、味は甘くて食べられそうだが、一度口の中に入れると肺臓まで冷やっこくなるので、これもまた不思議なものであった<「日東記游」巻2燕飲> 延遼館は現在の東京中央区旧浜離宮正門内の芝生の一角にあった建物で、むかしはこの一帯が将軍家の鷹場であったという。1652(承応元年)年三代将軍徳川家光の次男甲府宰相松平綱重に譲られ、下屋敷になったところ、綱重の死後彼の息子綱豊が六代将軍家宣になったので、ここも浜御殿と呼ばれるようになる。その後からは将軍家の別邸として大修築が行われ江戸を代表する名園になったところである。幕末の1866(慶応2)年、海軍奉行の所轄となってから、ここには洋風木骨石張建物(石室)が建てられる。この石室は1870(明治3)年、延遼館と命名され、外国からつぎつぎと訪れてくる賓客の宿泊所すなわち迎賓館に当てられた。実際、1879(明治12)年来日したドイツ皇帝の孫アルベルト・ヴィルヘルム・ハインリヒ親王、アメリカの前大統領グラント将軍などがここに泊っている。それより3年前には金綺秀もここで20日間泊まったのである。ところで上の引用文は金綺秀の入京を祝うため延遼館で開かれた宴会の食事場面であるが、ここには西洋式食事の過程がとても細かく描かれてある。ここにみえる食べ物や飲み物の名前もさることながらその解説が面白い。たとえばナプキンを「白布」、パンを「餅」、フォークを「歯のついた匙」、ナイフを「刀」と表現している。固いものを歯のついた匙で押さえながら刀で切り取って食べたというから恐らくそれはビーフ・ステーキだったのであろう。それを「切肉」と呼んでいるのも面白い。最後に出てくる氷汁はかき氷(氷水)、氷製はアイスクリームである。日本に西洋料理が紹介されたのはオランダやポルトガルからでわりと早いが、1866(慶応2)年頃には西洋料理店があちこちにできていたことが記録に残っており、その翌年には福沢諭吉が西洋料理の食べ方などを紹介しているという。一方、1869(明治2)年6月には横浜馬車道に町田房造が氷水店を開業し、氷水やアイスクリームを販売したという。(27)金綺秀は西洋料理やパンと氷水やアイスクリームを初めて食べたので、その形や食べ方をじっと見つめているが、当時の日本ではそれらがすでに見慣れている西洋文明の一部であるに過ぎなかったといえよう。
天長節夜会(1883年9月23日、新暦明治16年11月3日) 午後6時、外務卿官邸に往った。火戯(花火遊び)が大きく開かれたが、その珍しさや不思議さは形容しがたい。各国公使と日本朝廷の縉紳が家族連れで集まり、主人井上馨は夫人と令愛(令嬢)とともに門の前で客を迎えた。身なりはみな洋装であった。暫く経って楽隊が太鼓を敲き、笛を吹きながら演奏を始めると各国の旗章が正堂に掲げられた。多数の公使が夫人と娘の手を互いに変えながらぐるぐるまわり、足を踏み鳴らしながら踊る。その姿が天真爛漫であったのは日皇の天長節を祝うためである。踊りが終ると音楽も止まった。立ったまま食べ物を食べる集いを催し、賓客5-600人が卓子の周りに集まって、酒を酔う程飲み、食べ物を腹いっぱい食べたが、これは西洋の宴会法をまねたことである<「使和記略」9月23日> これは天長節の夜井上馨外務卿官邸で行われた西洋式パーティの風景である。洋装の姿で集まった外交官と日本朝廷の高官は夫婦同伴であり、主人井上夫妻は令嬢と一緒に入口で客を迎える。やがて楽隊の演奏が流れるとダンスが始まる。踊りが終るとカクテル・パーティにはいる。修信使朴泳孝は初めて目にするこの西洋式宴会過程を興味深く眺めたようである。ところで日本人による最初の舞踏会は1880(明治13)年11月3日の天長節に上記の延遼館で開かれた夜会でのことであったという。(28)外務卿井上が主催し、工部大学校で開かれた前年の天長節夜会でも舞踏会はあったが、外国人だけがダンスをしていたに過ぎない。その後1883(明治16)年1月16日には京橋区木挽町の明治食堂でも舞踏会が催された記録がある。幕末に締結された西洋諸国との不平等条約を改正するため外務卿井上馨は必死の努力を傾けた。西洋人と同じような舞踏会を催すのもその一策として採りいれられた。そのため彼はつぎの項目に出てくる鹿鳴館の建設に力をいれていたが、その開館パーティを目の前にして催されたのが上記の天長節夜会である。結局、この夜会にダンスが組み込まれたのは井上ならではの思惑で、間もなく開催される予定の鹿鳴館落成式および開館パーティの予行練習のつもりであった感じがなくもない。
鹿鳴館舞踏会 (1885年1月23日、新暦明治18年3月9日) 夜、大山巌(当時の陸軍卿兼参議)招待の鹿鳴館夜会に参席した。楼上、楼下の煤灯(ガス灯)と蝋燭は集められた花房のように見え、綺麗な花や芳しい草は錦の屏風を開いて置いたように見える。楼の3階(実は2階、鹿鳴館は2階の建物であった)に上ると黒くて肌寒い男が、白くて目まぐるしい女の装いで、おもちゃと香り袋をしなやかでなまめかしく揺すぶりながら、笛の音に節を合わせると、諸々の文武百官は自分の婦女を従え、各国人男女と交わって、二人ずつ互いに抱き合い、夜遅くまで踊り続けた。その光景は錦のような花びらの中で鳥と獣が群がって戯れにもてあそぶように見えた。日本の女子はみな西洋の着物を着けている。これは維新以後の風俗だという。女子の開化が男子の開化に勝るとも劣らないのを見ると、開化以前には女子にいい風俗がなかったことと推測される。殊に、一つの笑い話しになるのは、20歳余りに見える一人の美しい女が、大勢の人波の中で余の手を握って何かを話し掛けたのである。舌人(通訳)に聞くと、それが他ならぬ陸軍卿の夫人で、宴会にお越し頂いたことに対し感謝の意を表したという。床頭(机先)の一介の書生に過ぎない余は、夙に娼婦や酒母の手を握ったことも一度だにないので、いきなりの出来事に戸惑うしか仕様がなかった。舌人は「これが我が国で貴賓を接待する第一の作法です。怪しく思わないで下さい」という。そこで余は急に欣然な顔を見せながら、宴会へのお招きに預かったこと、お蔭さまで立派な宴会に参らせて頂いたことについて感謝した。これは俗に「気違いの傍に立つと正常な人も気が狂う「という表現にぴったりと当てはまる。男女に倫理がなく、尊卑に法がなくなったこと、ここに至るとは、嫌らしくて堪らない<「東槎漫録」1885年1月23日> 井上馨が寺島宗則の後を継いで外務卿になったのは1879(明治12)年9月10日のことである。彼は外務卿に就任するやいなや欧米諸国との間に締結していた1858(安政5)年の不平等条約を改正しなければならないと考えた。そのためにはまず日本人が欧米諸国と同じ水準の生活をしており、すでに近代国家として十分な条件を整えていることを内外に示しながら不平等条約の改正に踏み切ろうと考えた。そこで生まれたのが欧化主義の実行である。日本人の生活を西洋化し、外国人との交際を深めるのがその具体策として浮かびあがったのである。折しも諸外国から国賓級の人物が訪れることも多くなったが、適当な宿泊施設がなかったので、浜御殿内にあった延遼館を修理して、上述したようにハインリヒ親王やグラント将軍をそこで迎えていた。しかし井上馨はそのような仮設の宿泊施設に外国の賓客を泊めながら不平等条約の改正のような難問に立ちむかっては勝算がないので、早急に本格的な施設を作らなければならないと考えた。そして1880(明治13)年外国人接待所の建設計画がたてられ、井上はその設計を工部大学校教師ジョサイア・コンダーに頼んだ。最初は国賓の宿泊にふさわしい施設をたてるつもりであったが、当時の日本にはまだ在留外国人との交際に適当な場所がなかったので、社交場ともなる建物を目指して計画を修正することにした。こうして東京麹町区旧山下門内の元薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町一丁目の大和生命敷地、帝国ホテル隣地)に竣工されたのがおよそ440坪余りもある洋風煉瓦造2階建の鹿鳴館である。(30)鹿鳴館の「鹿鳴「とは井上の夫人武子の前夫にあたる桜州山人中井弘が「詩経」の「鹿鳴章」からとった名称で、迎賓接待の意味を象徴しているという。鹿鳴館の落成式は1883(明治16)年11月28日に行われた。当初は明治天皇の行幸が予定されたようであるが、急に取りやめられ、その名代として有栖川宮熾仁親王と薫子妃が出席した。その他に伏見宮と同妃をはじめとして参議、知事、県令、各国公使などおよそ1200名が招かれた。そして当日の舞踏会は夜半におよび、翌日の午前2時頃になってようやく静けさを取り戻したと言われる。鹿鳴館が外国からの賓客の宿泊や接待のために建設されたのはたしかである。しかしそこにはもう一つのねらいがあった。日本は決して未開野蛮の国ではなく、欧米諸国にも劣らないほどの文明開化国であることを外国人に印象づけようとしたねらいがそれである。そういうわけで鹿鳴館では外務卿井上馨夫妻はいうまでもなく、陸軍卿兼参議大山巌夫妻、文部卿森有礼夫妻の尽力で夜ごとのように舞踏会が催された。上記の引用文に見える夜会もその一つであったのである。当夜の主催役は大山巌だったので、大山夫人は当然ホステスとして朴戴陽に近づき手を握ってお礼の言葉をかけたのである。実はその夫人こそ山川捨松であって、彼女は1871(明治4)年11月、岩倉具視一行の米欧視察団に随行してアメリカに赴いた5名の女子留学生の一人である。彼女は帰国後、相手は再婚であったにも拘わらず、望まれて大山巌の夫人となり、鹿鳴館に深くかかわることになった女性である。捨松は日本最初の女子留学生の一人でもあったし、当夜のような夜会や舞踏会にはなれていたに違いない。しかし彼女の西洋式儀礼作法が儒教思想の持ち主であり、典型的な朝鮮の文官であった朴戴陽には理解できるはずがなかった。結局、朴は「男女の倫理や尊卑の不在」に対する嫌らしさを率直に吐き出している。彼女と朴との間には互いにまだそれほどの時代的隔たりがあったのである。因みに、当時の日本でも鹿鳴館を鋭く批判する世論が時々あらわれた。華族や政府高官といった特権階級が舞踏会だ夜会だとうつつを抜かしている裏では、日々の食べものにも事欠く多くの人がいて、苦しい生活を強いられているとか、鹿鳴館に象徴される日本の西洋化は単なる猿の物まねにすぎないという厳しい目が向けられていたのである。これをみると朴戴陽の怒りや嘆きが決して時代遅れの頑固さであるとは限らないといってもよさそうである。当時の日本と朝鮮の間には依然として古くからの感情的溝が横たわっていた。朝鮮修信使たちが日本の文明開化をできる限り認めようとしなかったように、日本人の中にも朝鮮人の時代遅れを嘲るものが少なくなかった。たとえば、1876(明治9)年5月7日(新暦5月29日)、修信使金綺秀一行が東京に着いた時のことである。朝鮮使節の東京到来は1764年の通信使以来112年ぶりだったので、人々の様子はお祭りの出し(山車)を待つような雰囲気だった。しかし修信使の行列や服装は旧時代と一向に変わりがない。そういうわけで、百年前までは賛嘆の対象であった朝鮮使節の官服が異様であり時代遅れにみえることを笑い、また行列の人数が多いことを嘲るものが多かったという。こういう時代だったのだから朴戴陽のような保守的朝鮮知識人の目に映った大山巌夫人捨松の行動は相手の立場を少しも顧みなかった行きすぎであり、儒教的倫理の衰退という側面からも批判の対象にならざるをえなかったのである。ここから一歩進んで朝鮮修信使たちは日本の文明開化そのものを精神文化の破壊という側面から大したものではないと認識したかも知れない。
西洋式服飾
イ (洋服、靴)衣冠はすべてが洋製だという。その公服だが、袴は体に密着し、少しのゆとりもないので立ち上がると、臀や外腎の憤起処があらわになるので、触らなくてもわかる。襦(上衣)もまた肘から肩までは袴の脚部分と同じであるが、体に近いところは広く余裕があって僧襦に似ている。多くは毛氈を使うが、たまには白色もあり、白色はその間に黒緯(縦の縞)を入れたものもある。縫裁も横と縦がちぐはぐになっており、布切れを繋ぎ合わせたようで、弛んでいる隙間(ポケット)にはものを入れて置く。そういう訳で煙具、吹灯、筆研、刀鐫、時針、子午盤などを容易く取り出すことができる。靴は黒漆皮を使うが、前の方は豚の口に似ており、後ろの方には木履のような歯がある。履く時には襪(足袋)のようにするが、踝の上まで上がり、脱ぐ時には履物のようにして、そのまま地面に置く。しかし、踝がきつく挟まれるので靴を脱ぐとか履く時には力が要り、中国女の纏足のように相当苦しい業である<「日東記游」巻一行礼> ロ 国王の服色は頭に冠がなく、着衣は短い襦に狹い袴で、諸臣のものと異ならないが、ただ襦の金飾だけが異なる。朝官の服色は一般人と等しいが、やはり襦の金飾が文武官の表章になっている。頭に着けた帽子の本体は大きく、遮陽は小さいが平常時のものとは少し異なり、氈(毛織物)で作られている。ひょっとすると額掩(婦女たちの防寒帽)のように見える。……(中 略)……諸公と一緒に博覧会の局門の外へ出てから丘の上に登り国王の還宮儀式をみた。国王が馬車に乗ると、2頭の馬がそれを引き、また2頭の馬が左右に随う。馬車の中には参乗者があり、海陸軍楽隊楽隊の海軍は紅い襦に青い袴、陸軍は青い襦に紅い袴を着けたと旗を執った騎兵数10名と銃剣軍数百名が護衛した。しかし朝官の陪従は略少であった。その威儀と節次は簡便になるよう努めたようであるが、章服の制度は礼度に大きく合わなかった<「日槎集略」巻地5月14日> ハ (天皇の大礼服)日主の身長は6-7尺、顔が長く、浅黒い目には精彩があった。身には洋服を着けており、前後(正しくは左右であろう)の両襟には黄金色の菊の花の刺繍がある。これは陸軍の標である。両肩の上には金条(金糸)織りの紐を横から着けており、また金色の刺繍で円く作られた楪子(皿)ようなものを両脇の上につけている。これは海軍の標である。更に幅3-4寸程度の長い一条の帯を左肩から右脇に掛けて結んでいるが、これは我が国の金銀牌に似ており、兵隊の標である。身の辺には4-5の勲表(勲章)を着けているが、これは各国が互いに授与する慣例である。礼帽を脱いで手に持ち、椅子の傍の左右に立っている侍臣10余人の服色も大した差はない。ただ、海陸軍の標を兼ねたものはなく、勲功のあるものには勲表があるのみである。勲表は金あるいは宝石で作られ、五色を備えている。形は時表(時計)に似ており、あるいは角が立ち、あるいは円い<「東槎漫録」1885年1月6日> ニ (帽子)帽子は頂きが丸く、真っ直ぐに頭脳を圧している。周りには軒があって、ようやく日差しを遮る程である。色は黒いかまたは白く、すべてが毛氈で作られているが、籐糸か竜鬚(藺)で精製したもの、あるいは黒緞で作ったものもある。帽子を脱ぐ時は必ず手で圧しながら折り畳み、膝の底あるいは床の上に置く。帽子を被る時は、折り畳みのところを手で立たせると、どんと大きな音が響き、折り畳みの痕は見えなくなる<「日東記游」巻1行礼> ホ (官服)彼らのいわゆる品服として、襦には金綉(刺繍のはいった錦を用いるが、綉の多少が品(位)の高下を表わす。帽子は広げられていない荷葉(蓮の葉)に等しいが、一般には貂皮を用い、毛は相当長い。客とか目上の前では被らないのが敬意を示すことで、品服を着ている時には敬意を示すため、帽子を手で握るだけで、頭に被るのを見たことはない<「日東記游」巻1行礼> いずれも西洋式服装に関する観察内容である。初めてみる異様な西洋式服飾なので、修信使たちは誰もが相当な関心を寄せている。イは公式服装としての洋服と靴について観察した結果であり、ロは1881(明治14)年6月10日(旧暦5月14日)第二回内国勧業博覧会(34)の褒賞式に参席した明治天皇と文武官の服飾、そこに軍楽隊の制服をごく簡単に描いたものである。ハは国書の伝達式典でみた天皇の大礼服と侍臣の服装をわりあい細かく描いた内容であり、ニは西洋式帽子すなわち中折れ帽子とその作法に対する観察である。修信使たちは以上のような西洋式服装の珍しさに並みならぬ関心をみせながらも、積極的な論評はしていない。ただロからは服装が礼度に合わないという指摘がみえるが、その対象が軍楽隊の制服に限られるのか、あるいは他の服装全般におよぶのかはいまのところはっきりしない。
意見衝突と嘆きの挿話
修信使たちは現地で時々予想もしなかった言い争いや意見の食い違いを経験したり、気に入らない新聞報道に対して不満を抱いたりしたこともある。そのような場合、修信使たちはいかにして姿勢を崩さずその場を乗越えたり、あるいは悔しさを堪えたのかもいまは面白い挿話になりうる。ここではそのような挿話三つを拾って読みながら、修信使たちが他国で味わった苦労をしばらく垣間見ることにしたい。
元老院訪問を協議中、誤解が起こる
外務省の通訳官古沢経範が訪ねてきて日程を協議する途中、元老院訪問の話が出た。古沢は元老院の招きに応じるかどうかを聞いた。「まだ承諾していませんが、元老院はどういう事務を司る官庁ですか。余は近頃体の具合いがよくないので命令通りに従うことはできません。「古沢が言った。「元老院には行かれるべきです。元老院の議長はすなわち我が皇上の至親で、二品の親王であります。親王さまが貴公にお逢いしたくてお招きなさったのに、なぜ行かれないのでしょうか。願わくは改めてお考え願えれば幸いです。」余は急に腹が立ち、顔色を変えながら言った。「親王は何の親王ですか。修信使が大した者ではないと雖も他国の奉命使臣です。ともすれば、見たいと言って容易く呼び出すのは、体統と礼節に照らしてもありえません。余は疲れてもいますが、今度のことに対しては断然と命令に従いません。「古沢が言った。「そうではありません。自分の言葉に誤りがありました。親王さまは尊体として閤下を呼び寄せるのではなく、すなわち招請するという話しであります。元老院は我が朝廷の大小事を会議する所で、その議長が他ならぬ親王であります。ただいま両国が改めて旧好を取り戻すようになったので、我が国の規模と施設を貴国にお知らせしなければなりません。従って私邸ではなく元老院に招請したのです。先生はなぜ過慮なさるのでしょうか。」 <「日東記游」巻2問答> この解明で誤解は一応解け、結局招請には応じるが、感情的には勝手な呼びだしに不満を抱いていたようである。実際に金綺秀は何回かの見物勧めを適当な言い訳で退ける。外務省を初めて訪問した時、大丞宮本小一は金に、せっかくの機会であるから何ケ月でもゆっくり休みながら暇をみて遊覧するよう勧めたが、金は王が自分を待っているので速やかに戻らなくてはいけないと言っている。また、権大丞森山茂も八省の卿を順次訪問するよう勧めるが、金は夙に例がないと言って難色を示す<「日東記游」巻2問答>。その他にも上述したように帰国途中、横浜を出た船はなぜか横須賀で一泊する。ここには造船所があって、いま火輪船を造っているから見物するよう再三勧められるが、病を言い訳に船から降りなかった。さらに外務卿寺島宗則は大阪の造幣局を是非とも見物するよう頼んだ。神戸から大阪は火輪車に乗れば日帰りもできると言うのであった。しかし、神戸に着いた時は、実際病に罹り、大阪行きは結局取り消しになった<「日東記游」巻1停泊>。東京滞在中にも金はなるべく見物を避けた。その証拠として面白い実話がある。東京に着いて旅舎にはいる時、伝語官は表に坊曲番号を記した紐付の木牌2-30枚を渡しながら「これを随員たちに配って自由に出入りさせて下さい。路に迷う心配がなくなります」という。それを警官に見せれば案内してもらえるとのことである。しかし、金はそれを寝床の傍に放っておいたまま、旅舎を出る時返した。見ると埃がつき、牌面の字がよくみえない程度であったという。もう一つの実例を引くと、ある日、外務省から旅舎に戻る途中のことである。正午に出発したが、いくら走っても旅舎は見えず、路上で夕方を迎えたのである。日本側が金に見物を勧めてもなかなか動かないから、市内のあちこちを遠回りしながら自然に見物できるよう配慮したのである。それを見極めた金は旅舎に着き、車(人力車か馬車かははっきりしない)から降りるやいなや小通事に笞を掛けた。あちら側の無礼に対して黙っていた罪である。それからはあちら側もあえてそんな行為を取らなかった<「日東記游」巻1留館>という。
西洋人の下船を要求する
これも帰国途中のことである。船が横浜を出発する時、ふと船上に洋人が一人見えたので、金綺秀は早速護送官に伝えた。「この船は確か日本船と雖も、今回の運行目的は我が行次を専送することである。よって我々が船から降りるまでは我が船とも言える。いかにしてこの船に洋人を乗せることができるのか。ただちにその人を船から降ろさせ、これ以上船に留めてはいけない」<「日東記游」巻1乗船> 実は、それまで日本人の技術だけでは蒸気船を安全に運行できなかったようである。そういうわけで、外務省はわざわざその西洋人を乗せ、船の安全運行を図ったのである。護送官はそのわけを明かした後、自分としては修信使の意向を外務省に報告し、その回示を待つしかしようがないという。その後、外務省の回示があったのか、西洋人は神戸で降りたのである。
旅舎の娘に与えた朴戴陽の絶句と新聞報道
朴戴陽一行は東京到着以来、新橋南鍋町の伊勢勘楼に泊まっていたが、主人には菊という娘が一人あった。彼女が朴にまめまめしく一筆を頼むので、朴はつぎのような絶句を書いて渡す。
金閨種菊度年華 金閨に菊を植え、年月が経ち
聞是東京第一花 聞けばこれ、東京第一の花
不有淵明誰得採 陶淵明なき今、この花誰が採ろう
色香惟属酒人家 色と香ただ酒飲みの宿に属するのみ
<「東槎漫録」1885年1月10日> 詩の内容は「東京に菊という名前の人がいると雖も、陶淵明のような靖節(綺麗な節操、操)を持つ人がいない今、菊の美しい色と香りは酔っぱらいが出入りするようなこの家で時を無駄にしている」程度の意味になる。いくらか侮って弄んだつもりであるが、これが新聞に取り上げられたのである。日邦人はその意を知らず、朝鮮の欽差大臣が菊娘を愛し、詩を贈ったと多くの新聞紙に載せた。ばかばかしいことである。秋堂丈(正使徐相雨)は、この話しを聞いて絶句三首を詠んだ。余も和答の詩で弁解した<「東槎漫録」1885年1月10日> 弁解の詩は巻末にまとめられてある漫詠につぎのような注記とともに出てくる。毎日、時事新聞を見ると虚構と捏造で紙上を飾る。秋堂大人がこれを見て絶句三首(実際はなぜか二首しか見えない)を詠み志を表わした。余も和答の句で弁解した。東来使節寸暇無東へ来た使節、一寸の暇もない時事伝聞語太殊時事を伝聞すると、その語あまりにも違う只信中心如白玉ただ中心は白玉のごときを信じ不関蝿鳥自喧呼自らうるさい蝿と鳥には関与しない <「東槎漫録」巻末東槎漫詠> ここにみえる時事新聞が1882(明治15)年3月、福沢諭吉と中上川彦次郎が創刊した日刊の時事新報であるかどうかは必ずしも明らかでないが、朴戴陽の詩は「使節として日本に来ている自分にはなんの暇もない。新聞が何といっても自分の心は潔白なので蝿や鳥の勝手なまねには関心がない」という意味である。自分の本心とは程遠い新聞報道に対する悔しさをそのように詠んで耐えきったのであろう。
結び
いままで朝鮮修信使たちの見聞を一応以上のようにまとめてみたが、全体的にはなぜか当時日本の新文明にかかわる施設とか制度に傾いている。ここにはそれなりのわけがある。明治初期における日本の政策は富国強兵である。そのため、一旦、開放に踏みきった日本政府は、西洋文明を積極的に取りいれたので、当時の日本はあらゆる部門で生まれかわる最中であった。当然ながら、日本政府側のひとびと、中でも朝鮮の開化と通商を促すため、それがいい意味であれ悪い意味であれ、相当な努力を注いできた外務政策関係者たちは、当時としては朝鮮より一歩進んでいたいろんな施設や制度を朝鮮修信使に見てもらいたかったのであろう。実際、当時の外務政策担当者であった井上馨、宮本小一、森山茂、花房義質などは修信使と逢う度に日本の開化と新文明をよく見物し、いいものがあれば朝鮮もそれを思いきって取り入れるよう繰りかえして勧めている。その時、日本側は協力を惜しまないつもりであるともいっている。実際、修信使たちの記録にもそういう問答内容がところどころにあらわれる。しかし、朝鮮修信使たちの耳には、それが必ずしも甘く聞こえる話ではなかった。時代が早すぎたのである。確かに彼らがみた日本の機械化や軍事化、進んではあらゆる部門における文化と各種制度の変化は珍しかった。そこで彼らは珍しくみえる新文明の現実を一種の新しい情報として記録に残した。ただそれだけのことである。だから彼らは日本で見物した機械化と軍事化、その他の機構に対する構造と様式を細かいところまで記録しながらも、その一つ一つに対しては、むしろ肯定的な態度より否定的な態度を見せる場合が多かった。大体は守旧的であった当時の高級官吏が取るべき態度はそれしかなかったのである。その後の朝日関係が意外にももつれてしまい、最後には両国合邦にまで走った原因がそこにあったと思われる。なぜなら、朝鮮時代の官吏といえば、大体は保守的な文官であり、学者的気質の持ち主である。彼らは大体伝統的に実利を恥じとみなし、名分のためには死も辞さない。中でも修信使に選ばれる程度の人物であればなおさらのことである。彼らに機械化や軍事化のような新文明の実利を見せつけたのは、日本外務当局者たちの見当違いだったのである。勿論、中には金弘集、金玉均、朴泳孝のようにわりと開放的、進歩的な態度をみせた人物がなくもない。しかし、朝鮮朝廷の大多数の官吏はそれを容易く認めようとしなかった。そこから日本に対する疑いと反発が一層深まった事実を見逃してはならない。修信使たちがいつも批判的な態度をみせたのではない。彼らは日本の自然美や人々の勤勉さと誠実さに讃えの言葉を惜しまなかったのである。自ら進んで重野安繹や中村正直のような学者を訪ね、その意見に耳を傾けたこともある。もし、当時の日本外務当局者が真に朝鮮朝廷との修好を願ったとすれば、修信使たちに機械化や軍事化を見せつけるより、朝鮮官吏の伝統的な性格を少しでも詳しく把握し、文化的接近を適切に図るべきであったと思われる。勝手ながら、これが朝鮮修信使以後の歴史を顧みながら現代を生きている自分なりの結論的判断である。
最後に一言書き添えておけば、修信使たちの見聞記録は韓国語学にも並みならぬ意味を持つ史料になる。そこには当時の日本で生まれた新生文明語、すなわち西洋文明を受容する過程で新しく生まれた漢字語が数多く見えるからである。修信使たちの記録に現われる新生文明語すべてが日本で生まれた言葉とは限らない。しかし、現代韓国語に生きている新生漢字語の中には日本語から直接受けいれたものが多い。それを受けいれ始めたのが修信使たちの記録なのである。
 
朝鮮修信使と明治政府 

 

朝鮮修信使とは、1876年から1883年にかけ、四度にわたって日本に派遣された朝鮮の外交使節である。本論文は、朝鮮修信使の日本認識を再検討し、日本側の対応をもふまえつつ、日朝の相互認識に及ぼした影響を分析しようとするものである。
65年ぶりの対日派遣使節となった第一次修信使の金鋳秀(KimKi-su)は、日本が誇示する近代的文物に驚きを示しつつも理解不能が目立ち、時には拒絶反応を示し、必要以上の文物の導入に否定的な姿勢をとった。しかし、1880年に派遣された金弘集(KimHong-jip)の第二次修信使は、不平等条約の修正という外交交渉は不首尾に終わったが、明治維新と洋務運動という日清両国の動きが具体的に把握され、朝鮮が開化政策を推進していく大きな契機となった。1882年に派遣された朴泳孝(ParkYong-hyo)の第四次修信使は、壬午事変の謝罪を目的としたが、外務卿井上馨は柔軟な姿勢を示す。
しかしながら、清国との対立回避を優先し、開化派である朴泳孝が要請した直接的支援は拒絶された。朴泳孝は積極的に駐日欧米公使を歴訪し、国際慣例の中に自らを位置づけようとした。日本政府の修信使に対する接遇は丁重だったが、幕末の内憂外患を克服し開化に一歩先んじた優越意識が存在し、在野においても日本による開化への誘導を当然の前提とする論調はより強くなる。
修信使は、近代化に向けての大きな刺激を得たという点で高度な役割を果たし、朝鮮の外交機関が近代的国際関係に対応していく縫子ともなった。しかしながら、日本型の開化への懐疑と評価が交錯し、朝鮮国内には強圧的な日本の外交姿勢に対する憎悪も根強かった。また、複雑な国内政治の党派的抗争と外国の様々な思惑の絡み合いにより、開化路線の展開は順調には進捗しなかった。そして、日本と朝鮮の双方とも伝統的観念から抜け切れていない状態のまま、ナショナリズムにもとつく国民感情が相互認識として形成されていく。 
はじめに
朝鮮修信使とは、1876年から1883年にかけ、四次にわたって日本に派遣された朝鮮の外交使節である。修信使の記録は、韓国史料叢書第九輯『修信使記録』(大韓民国国史編纂委員会、1974年)に収録されているが、朝鮮通信使の膨大な研究蓄積に比して研究事例は少ない。近代日韓関係史における古典的研究で、現在も依拠されることの多い田保橋潔『近代日鮮関係の研究上巻』(朝鮮総督府中枢院、1940年)も、第一次修信使については章を割くものの、第二次以降の修信使に関する記述はきわめて簡略である。現時点において、修信使を直接のテーマとした日本文による研究事例としては、下記があげられる。
田屋姫「第一次修信使のみた明治日本」/ 宋敏「明治初期における朝鮮修信使の日本見聞」/ 河宇鳳「開港期修信使の日本認識」
このうち、田星姫論文は金鋳秀の日本観と西洋文明に対する認識を検討している。宋敏氏の報告記録は、四次にわたる朝鮮修信使の報告を詳細に分析し、あわせて手鑓永や朴載陽の見聞も紹介している。また、河宇鳳論文は朝鮮通信使との比較や開化派形成との関連を論じている。
ただし、いずれも研究事例が僅少であることから基礎研究の性格が強く、また韓国史の視点に立脚しているので、日本側の状況や朝鮮認識については検討が十分とはいえない。本論文は、上記の論考をふまえつつ朝鮮修信使の日本認識を再検討し、日本側の対応をもふまえつつ、日朝の相互認識に及ぼした影響を分析しようとするものである。
前述した大韓民国国史編纂委員会編「修信使記録』に収録された修信使の記録は、次のとおりである。
第一次修信使金鍔秀『日東記游』、『修信使日記巻一』
第二次修信使金弘集『修信使日記巻二』
第四次修信使朴泳孝『使和記略』
第三次修信使は『聞見事件』と題する簡略な記録を残しているが、ここには収録されていない。このほか、1881年5月5日〜8月26日に派遣された紳士遊覧団(朝士視察団)については李鍮永『日嵯集略』、1885年2月8日〜4月3日に派遣された特命全権使節については朴戦場『東嵯漫録』が、それぞれ随員の記録として残されている。なお、史料は漢文表記で、田屋姫氏、宋敏氏の論考を参照した部分があることをあらかじめお断りしておく。また、『修信使記録』からの引用箇所は本文中に真数を示しておいた。 
1.第一次修信使の派遣
修信使派遣は、1876年5月22日〜6月27日に派遣された第一次修信使を嗜矢とする。朝鮮からの国使来日は、対馬での易地聰礼となった1811年(文化8)以来65年ぶり、政治の中枢である江戸・東京への訪問は1763年(宝暦13)以来、実に113年ぶりであった。金鋳秀(礼曹参議正三品)を正使とし、総勢76名だった。使節の派遣は、この年3月に行われた日朝修好条規(江華条約)締結の交渉過程で、日本側から全権大臣黒田清隆、副大臣井上馨の派遣に対応する回礼使の渡日と、日本国内の物情調査が要請され、朝鮮側がそれに応じたことで実現した。国王高宗は、「文明開化」を標榜する日本の実情に強い関心を持っており、偵察的な役割も期待されていたといえよう。なお、従来の通信使ではなく、「旧交を修め信義を厚くする」という目的を名乗る「修信使」の名称が使われたのは、朝鮮通信使が将軍襲封ごとに派遣されるという規則性を有していたのに対し、朝鮮修信使は外交懸案の発生時に臨機に派遣するものとして、位置づけの違いがあったためである。そうした機能の違いを反映し、朝鮮通信使とは異なって国王の国書。公社単はなく、三値のうち副使・従事官も任命されず、礼曹書契のみと簡略化され、人員も最大500名を数えた朝鮮通信使に比べて73人と激減している。このうち楽隊など儀礼要員が21名を占めるという点も使節の性格を物語っている。
一方、日本側は使節を厚遇し、提携の必要を説くとともに開化政策へ誘導し、宗主国である清国への優位を確立しようと意図していた。金鋳秀ら第一次修信使の行程は、釜山一下関(永福寺)一神戸一横浜一東京一横浜一神戸一下関(永福寺)一厳原(西山寺・宗義和邸)一釜山というもので、釜山・横浜間の往復日本船黄龍丸、横浜・東京間は鉄道を利用した。大坂から江戸まで陸行した朝鮮通信使と異なって、海路が主体となっている。
金鋳秀の記録している訪問先は次の通りである。
外務省、赤坂仮皇居、延遼館、博物館、日比谷操練場、海軍兵学寮、陸軍砲兵本廠、工学寮、開成学校、女子師範学校、書籍館(湯島聖堂)、元老院議事堂なお、日本側の記録によると、一行は上記の他に次のような箇所の訪問や見物を行っている。
手品師柳川一蝶斎、写真師内田九一、角兵衛獅子、紙幣寮、浅草(本願寺、浅草寺、花屋敷、広瀬自恕の電気仕掛け)また、別道堂上玄昔運は帰路に横須賀造船所に招かれた金鏑秀の代理として軍艦天城・迅鯨の建造現場を見学し、書写官副司果朴永善は種痘館を訪問して種痘の伝習を受けた。
金鋳秀の『日東記游』は修信使の使行記録で最も詳細で、なおかつ緻密な文体で描かれている。内容は事会・差遣・随率・行具・商略・別離・陰晴・歌宿・乗船・停泊・留館・行礼・玩賞・結識・燕飲・問答・宮室・城郭・人物・俗尚・政法・規条・学術・技芸・物産・文事・帰朝・後叙の項からなり、多岐にわたる観察がなされたことがわかる。なお、一行に与えられた視察項目は軍事制度と器械の利便性、さらに日本の社会と風俗だった。
金鋳秀は出国にあたり、「士大夫出身事君、君耳忘身、国耳忘耳」と悲壮な決意を抱いていた。また、日本との交渉に際しては、修好の回復を本旨と信義を重んじつつも、国家の威儀を守り、「不激不随」の態度で冷静に振舞い、君命を辱めないことが肝要と心得ている。
ところで、彼の聞きおよんでいる日本認識は「洋之茅也」、「其言甘如飴」、「其情則匝測」など、伝統的夷狭観を前提としており、「彼之婦女亦甘心我丈夫、白昼大塗、解胸相招、子之行、必慎之」と、日本女性の誘惑に注意せよとの忠告を加える人物もいたというが、朝鮮通信使の使行記録にもとつく知識であろう。
両国関係者の交流については、日本側からの書画の要請が多い点は通信使派遣当時と異ならず、詩文交換も「遠遼館宴後、宴中諸人、各以一連書送、皆新構中多寓意、彼亦有具眼、筍欲慕我而従我者、先王之法言法服、豊我之私自有也」と盛んで、宮本小一や亀谷行、増田貢など政府官員から贈られた詩が『日東記游』に収録されているが、「留館多日、只有官人幹事来者、無一儲生来與之結識……量彼亦有禁而然欺」と、警戒が厳重で民間人の来訪がないことを、日本側が何らかの制限を設けているのではないかと不審に感じている。
日本が誇示する近代的文物に対し、金鏑秀は驚きを示しつつも理解不能が目立ち、時には拒絶反応を示したことを率直に吐露している。釜山で日本側が用意した汽船を目撃した際は、「出車梁津、望見一大船、立中流、爽板隻帆、帆間煙突、可謂夢想之所不到也」と驚嘆しているが、帰路には乗組員に西洋人がいることに気付き、日本側に猛抗議して下船させている。一方、渡日後に写真撮影をしきりに勧められ困惑したことを「一日館伴富来見、要写余真像、再三却之、不余聴也」と記している。神戸で初めて目撃した欧米人については「目皆陰沈無精彩、如死人之目未及瞑者」と観察し、彼らの世界進出を不思議に感じている。横浜から新橋まで乗車した鉄道については、「有一長廊、可四五十架者在道傍、余聞車何在、日此即車也……一時刻可三四百里云、而車体安穏無少摂動、……火輪車之行、必由鉄路、路無甚高低」と、驚きを隠していない。
金鋳秀は日本で接した人物についても詳細に記述しているが、まず、赤坂仮皇居で謁見した「倭皇」(明治天皇)に関しては、「行礼」の項で「中等身材、面白微黄、眼燗欄有精彩、神気端穆、未尽諦察」と面貌を詳細に記録し、帰国後の報告でも「励精図治、勤勤不怠、関白可廃則廃之、制度可変則変之」と、勤勉かつ英明果断で、有能な人材を集めていると高い評価を与えている。また、「結識」の項目には日本政府関係者の人物評が記されており興味深い。主だった人物を取り上げると以下のようになる。
三条実美(太政大臣)/風姿紳約如美人好女、善書善談論、遠遼館法宴達見之、送迎起居輯身自為主、再四致礼、臨行手書一詩、伴以小影索来、以示盤勤惜別之意。
寺島宗則(外務卿)/使事始終、無有不與此人幹当、務主方便、與之言言不多而周至、体順而長、休休然有長者之風、坐間、輻手旗頷、仰身椅子、諄諄以国計之、不可不慮、隣誼之不可不篤、言之不已。
伊藤博文(工部卿)/短少精惇、両眼彪彪、苦諌論、間以譜誰、寓言坤輿之内、足跡殆遍云。
山県有朋(陸軍卿)/長身修頸、痩骨峻噌、與之言、老成典重、可念寺島宗則一流人。
鮫島尚信(外務大輔)/中等身材、美貌端麗、一見歓治、如休日之好、毎有遊翫、輻以身先之、善欧羅各国語、毎逢人迎笑握手、以示倦倦之意、似其俗然也。
黒田清隆(開拓使長官)/面大眉粗、少文秀気、霧髪当頷処削而不留、尤見其巖猛、言動黙重、全少慾沿、似有傲慢自大之色。
森有礼(特命全権公使清国駐筍)/面方髪鞍懸、放言無拘束、見帯:専権使臣、環瀕之地、行将遍歴、為問我国市蹄宮室之制及延接使客之節、握握不已。
井上馨(元老院議官)/面有刀傷痕……抵掌説軍国利病、馨馨不乱、是多才謂、諸機務之人、亦帯専権使臣云。
宮本小一(外務大丞)/端潔秀雅有文字気、幹事精当、処事周便、聞其方見留用、所以各国事務、必須此人断決。
森山茂(外務権大丞)/両眼酋酋有精彩、而転晒洗腸之際、少有廉属気、善言一開口千枝万葉支離為説、恒帯衿誇之意。
宗重正(元対馬藩主、前外務権大丞)/典重温雅、而時有脂紋気、方住江戸城外深川地、外若宙王朝、而其実軟禁云。
浦瀬裕(通訳)/一似露寒秀才…帰時随行至釜山告別、有無限恋結之意。
林友幸(内務少輔)/含杯盤勤、夫始不為天涯奇縁、寅又臨別、一聯托意鄭重、有足盛人者。
九鬼隆一(文部大丞)/如久病新起未杭頭者、間我国学制、握握不己。
宗重和(元対馬藩主)/設家宴、激余歓治、貌=豊碩闊大長者、年六十余、不小衰、有子数十人。
なお、当時の政界を実質的に主導していたのは、右大臣岩倉具視と内務卿大久保利通であったが、岩倉は三条太政大臣が直接応接しているためか修信使と接触せず、大久保は東北巡幸に先発する視察のため東京を離れていた。また、参議から内閣顧問に転じていた木戸孝允は、前年からの体調不良もあって、あまり政治の表舞台に立たなくなっていた。江華島事件前の朝鮮外交で、大院君失脚に伴う朝鮮の柔軟化につけこんで強圧的姿勢をとった森山茂や、つい数ヶ月前に江華島に乗り込んできて、桐喝的に日朝修好条規を締結させたばかりの黒田清隆・井上馨などに対してはいささか傲慢さを感じたようだが、全体的には偏見は感じられず、寺島宗則や山県有朋、林友幸などのように高い評価を受けた人物もいる。
「関白」(将軍)徳川慶喜の消息については、日本の政情の安定度をうかがう尺度として国王も高い関心を持っていたが、「旧関白、方以従四位、食庫居江戸、亦不敢有怨尤之色・概観之意云」と、あえて怨望の色も時機をうかがう意図もないことを記している「蒸飯」の項には日本での八度にわたる饗宴の様子が描かれている。延遼館で二度の宴席が行われた他は、いずれも私邸での饗応で、宮本小一、宗重正、森山茂、井上馨、伊藤博文、宗重和に招かれた。洋風建築の接待所である延遼館での下船宴は、政府最高位の三条実美が主催し、最大限の歓迎の意が示されている。食事は洋食で行われ、合間に西洋音楽の演奏が流されたが、その感想は「楽声促殺製作精妙」とある。帰国時の上船宴も同様の形式だったが、余興として舞楽が唐楽の蘭陵王と高麗楽の両龍交織という演目で行われ、続いて騎兵による場上打毬(ポロ)が供された。宮本邸では小一の父母の丁重な接遇に感銘を受けている。旧対馬藩主宗家の当主重正については、前述のように「江戸」で軟禁状態に置かれていると観測しているが、深川の庭園の見事さに感嘆し、会食や詩文を交すなど「足謂天涯奇縁」だったという。厳原に残って断髪をせずに旧来の生活をしている父親の重和に対しても好感を持ったようで、帰路に波浪のため厳原に臨時寄航した際に手厚い歓待を受け、「要職我国楽声、命大吹打一回、更演與民楽、尽歓而帰」と、朝鮮の音楽で大いに盛り上がったことが記録されている。森山茂邸・井上馨邸については、市街地にあるため家屋には見るべきものがなく、一方で酒食は過剰で、「森山少有強作之意」と評している。なお、森山の蒐集した豊富な書画典籍に、申叔舟の「通信日記」の原本らしき貴重書が含まれていることを、「此我之所無、而彼有之、亦一可慨也」と嘆いた。伊藤博文邸では室内に天皇・皇后の真影が掲げてあり、「大是不敬也」と批判している。
食事に関しては、パンは食べつけなかったようで「餅餌之属、非直久己忘之」とし、アイスクリームの印象は「肺臆為之凛例、亦一怪也」と記している。他の食事については不満を述べていないが、砂糖菓子は好評で、酒類は「所謂日本酒者、香烈色清」とする。果物は、梨は朝鮮産より味が悪いとするが、朝鮮ではみられなかった枇杷は美味だったと記している。
東京市街については、「徒跣行可無汚」・と欧米人と同様に街路の清潔さを指摘し、排水の工夫や掃除夫の配置にいたるまで観察がおよんでいる。ガス灯については宮本に導入を勧められるが、「余以自鏡池、人亦無才、不敬為此術外之術、以骸人為辞」と、特に必要とは思えないと消極的態度を示した。日本に見習うべき点があるのを認めつつ、必要以上の文物の導入に否定的な姿勢において金鍔秀は首尾一貫している。
日本人一般に対する感触は、「人物」と「俗尚」の項目で述べられるが、「人物、一見可愛、日.所見千人万人、非其人人俊情、大抵極凶極醜之人、絶不可見」とする。また、節約に熱心で食事などの際に潔癖に努めている点も評価し、別の項でも勤勉で富強を事とし、技術を尊んでいるとしている。国王への報告でも「人皆柔順款曲、則無強桿者」と述べ、国内で聞かされた「鬼而仮也、賊而諜也」といった固定概念的な夷狭観から離脱レている。女性に対しては全般的に柔順との感触を抱き、西洋人がことごとく嫌悪したお歯黒の習慣についても、「婦女迎婿、便法其歯……矢夫不二心者」と、貞操を守る節度として理解を示した。
ただし、学校に関しては、「師範鄭重、教授勤摯」と教師の能力は評価しつつも、教育内容については「則無遺功利之学耳」と切り捨てている。文部大丞九鬼隆一に、「我国学則五百年来、只知有朱子、背朱子者、直以乱賊諌」と朱子学の浸透に胸を張った金鋳秀は、湯島聖堂が「当初設置、似極崇奉、而今剥落巳甚、蛛糸車壁、苔痕没増」と荒廃し、また「真俗、9旧尚先神而後仏、先仏而後儒者、神仏如此、儒復何論」と日本で儒教が低く扱われてきたことを慨嘆しており、日本の教育に対しても批判的になったのであろう。
産業に関しては、「物産」の項目で「農器之巧、農夫之勤」や潅概技術など日本の農業を高く評価している。また、「文事」の項には「附観陸軍省精造局記」が掲載されているが、とくに蒸気機関に驚嘆し、「苛波淫巧、亦惟日、是将利用而厚生、利用厚生、学之可也」と、近代技術の「奇技淫巧」といえども「利用厚生」を考えたならば学ぶべきなのかと動揺したことを隠していない。しかし、以下に見るように富強の術が物価騰貴をもたらし、むしろ国を窮乏に陥れる可能性があることにも言及している。
物価騰踊、勢所固然、於是日造銭幣而当之、銭賎物貰、況無技不巧、無芸不精、奪尽造化、無復余地、外様観之、莫富莫強、如右所陳諸条、而陰察其勢、亦不可謂長久之術是白斉。
金鋳秀は、近代化;西洋化された日本の文物に時には驚愕し、あるいは困惑しつつも、それを朝鮮に導入することに関しては非常に消極的だった。たとえば、「問答」の項では外務省を訪問した際に、大丞宮本小一が洋服の導入について「日本人心、本旨軽薄、見人新様器物、必愛之而欲之也。故任其好」と、新しいもの好きな日本人の心性を指摘し、その願いに従って許したまでだとしたのに対し、金鍔秀は「公等之服、既皆洋製、則公等亦有所好而為之者欺」と揚げ足を取り、互いに大笑いとなる場面があったが、宮本が続いて「貴国衣制、亦宣撫随時而変者耶」と問うたのに対しては、「一従明制、干今五百年、上下貴賎同一規、未之或一変也」と、明にならった朝鮮建国以来の服制の不変を誇り、衣服を引き合いに先進の文物の導入を勧める宮本の議論を受け流している。さらに外務卿井上馨が使節の宿舎を訪問してきた際、ロシア進出による危機に対応するためには、朝鮮も工業を起こし精強な軍隊を建設して防御に努めるほかないと説いたのに対し、金鏑秀は宮本との問答と同様に五百年来の服制を引き合いにし、さらに「今難死耳亡耳、不願為奇波浮巧、與人争長」と、外国からの技術導入を拒絶した。そこで井上は重ねて、下関砲撃や薩英戦争の手痛い打撃から日本はやむなく西洋化を進めたのであって、もとより望んだことではなかった。それ故にこそ貴国が事に先んじて対策を講じ、「他日之悔」が残らないように切望しており、こうした日本側の意思を朝鮮政府に必ず伝達してほしいと説得した。これに金鋳秀は「感謝感謝、当一一帰省我朝廷也」と応じて対談を終えているが、井上の要望を真剣に受け止めたとは考えられない。その後、井上の私邸に招かれた金鋳秀は、井上から世界地図を贈呈されるとともにロシアの脅威を聞かされているが、ここでも「感謝感謝、……一一帰告我朝廷也」とのみ返答し、西洋化を勧める井上の忠告を腕曲に拒絶している。
「後叙」の項では、結論として、開国して「目通西人」した日本式の開化は彼らにとっては有益であるかもしれないが、「在彼劉豪、而在我為鵬毒、則固不可舎己而従之」と、朝鮮には有害であろうから安易に模倣するべきではないと拒絶する一方、「然忠信而将之、而復温其外、而貞其中、恵其来、而警其往忠信」と、忠信をもって統御し、表面は温和を保ち、寛大と警戒を適宜に処する措置を取ることが肝要と唱え、従来の王道にもとつく価値観の固守を主張している。
帰国後における国王への復命の様子は「修信使日記巻一」の「人待莚説」の項に記録されている。高宗からは日本の実情や外交、世界情勢について多岐にわたる質問が発せられたが、簡単な回答しかなされず、あるいは「上目、自起礁見否、使日、未得見之、而縦或見之、不可卒乍学得、故初不問之」といったように理解不足も目立ち、金鏑秀は日本探索という国王の要望に不十分なかたちでしか応じることはできなかった。とはいえ、随員の中には渡日経験をもとに朝鮮の改良に功績を残す人物も存在する。たとえば、種痘館で伝習を受けた書写官副司果朴永善は帰国後に種痘の普及に努めている。また、通訳を務めた朴瑛湶は学校教育および鉄道敷設の必要性を痛感し、のちに釜山に開成学校を設立したほか、大韓鉄道会社を結成して民族資本による京元線と京義線の敷設を試みたが、日露戦争下での韓国保護国化によって挫折した。 
2.第二次修信使と金弘集
次に高宗17年(1880年)6月26日〜8月11日に派遣された第二次修信使は、正使金弘集(礼曹参議正三品)ほか総勢58名で、日本側からの代理公使派遣への答礼と物情調査を目的としていたが、仁川開港と日本公使のソウル常駐という日本の要求に対処する外交上の懸案があり、とりわけ釜山での関税徴収と米穀禁輸措置の継続を要請するという、不平等条約下での国益保護を図る重大な使命を帯びていた。日朝修好条規締結の半年後に宮本小一と趙寅煕の交渉によって調印された貿易規則は、朝鮮の輸出入品を不課税にしたが、その後、朝鮮政府は釜山豆毛鎮税関を設置して朝鮮人からの輸入税徴収を図った。しかし、代理公使花房義質が陸戦隊上陸を示唆して桐喝を加え、税関は余儀なく閉鎖に追い込まれる。そして、開港場内の日本人の自由貿易が承認された結果、貿易量が当初の予測を大きく上回る規模に拡大し、朝鮮側に少なからぬ不利益が生じたので、その是正が図られた。派遣に際して国書・公礼単は発せられず、副使・従事官も帯同されず礼曹書契のみという形式は前回同様だったが、儀礼要員はさらに削減されている。外交交渉については結局、使節に全権が委任されていないとして日本側に交渉を拒絶され、不首尾に終わった。
第二次修信使の行程は、釜山一神戸一横浜一束京一神戸一釜山で前回同様である。訪問先は延遼館、外務省、清国公使館、興亜会、赤坂仮皇居と、形式的な視察より実務に力点が置かれた。とくに清国公使館へは六度にわたって訪問し、公使の何如璋から国際情勢に関する情報提供を受けるとともに、参賛の黄連憲から、東アジア三国が結束し、さらには洋学を受容するとともにアメリカと結んでロシアに対抗し、自強と勢力均衡を図ることを説く「朝鮮策略」を示された。なお、日本側が勧めた欧米の駐日公使との面談を金弘集は拒否している。
使行の記録は「修信使日記巻二」として『修信使記録』に収録されており、内容は「修信使金弘集復命書」、「修信使金弘集人待莚説」、「書契謄本」、さらに「朝鮮策略」、「大満鉄使筆談」、「俄羅斯採探使白春培書啓」から成っている。金弘集の記録は文人的な金鏑秀に比べると記述が簡略で分量も薄く、観察は感情を交えず淡白だが、具体的である。
訪問先のうち、興亜会はこの年の2月に創設された団体で、長岡護美を会長、渡辺洪基を副会長、幹事に曽根俊虎・金子弥兵衛・草間時福を選挙して発足し、清国を中心にアジアとの密接な交流を図り、「皆な彼此たがいに言語相い通じ、情事諸よく練する」ことによって衰微の域を脱して「欧美諸洲に比医する」ことを趣旨としていた。正則による中国語の語学学校を併設するほか、会報も漢文を主体とするなど清国人との連帯を意識していた。会員は外務省を中心に官員の比重が高い。何如璋公使や玉翰ら清国人も名を連ねている。20年前に沿海州を奪われ、眼前にイリ紛争を控えていた清国は、日本以上にロシアの朝鮮進出に対する脅威を抱いていた。一方、冊封体制にもとつく中華帝国秩序を根底から揺るがした前年の琉球処分に対しては、日本に強い反発を抱いていたが、何如璋らは興亜会の趣旨そのものには賛同したのである。興亜会からは修信使に例会参加の勧誘があり、李祖淵、サ雄烈、姜璋:の3名が送られている。
金弘集は興亜会について、「其意、欲與清日本及我三国、同心同力、無為欧羅巴所侮云」と、アジア連帯論にもとつくものと好意的に理解した。また、西南戦争について「年前、武長薩摩人西郷隆盛、議犯我国、而今右大臣巌倉具視、以為不可、西郷意不平、煽其徒作乱、與之相戦、久乃討平是白斉」と述べ、征韓論は沈静化したと把握している。明治維新については、欧米列強の開国要求に適切に対処しきれない幕府に対して「憂時之士」が擁夷論を唱えて立ち上がったのが契機で、「挙積世流弊而更張之、易如反掌、時事転移、亦有自然之勢而然欺」と、自然の成り行きだったと肯定的に理解している。このほか、日本国内の現状については西洋式軍隊とともに警察が整備され、「近以故犯之者少」と治安が安定していること、貴賎を問わず教育が普及していること、工業技術の導入が盛んに図られていること、街路や人々の衣装が清潔であることなどが記されている。一方、西南戦争時の不換紙幣濫発に端を発するインフレーションがもたらした、物価高騰による日本の経済的危機についても正確に把握している。
造紙幣而当、然実多虚額、浮於現在銭数、故物価日以昂貴、況西洋人去時、必投紙幣換金銭而帰、漏厄不塞、謳為其福、大凡利必有害、盛則有衰、乃天道固然、人力無以善其後是白斉。
帰国後の国王との問答を記した「修信使金弘集人待莚説」で、金弘集は日本側の対応について、悪意は見られず親睦を旨とし、滞在費や交通費に関しても外務省がすべて負担してくれたと評価している。天皇に関する印象については「頗似英明」と答えた。清国公使何如璋については「真言、以為他郷逢故人」と親近感を覚えたとし、人となりについては「甚宏通有幹局」と絶賛している。なお、日本は朝鮮と「同心合力」できると信じるに足りるかという高宗の問いには、「彼情誠不可深信、而惟以我国、不識外事為悶」と、一定の警戒心が必要であると指摘した。
金弘集はキリスト教の容認を含む「朝鮮策略」を国内に持ち帰ったことから、兵曹正郎劉元植がきびしく非難し、さらに慶尚道の儒生李晩孫などから「嶺南万人疎」が国王に上書されるなど強い糾弾を受ける。しかし、彼の使行によって明治維新と洋務運動という日清両国の動きが具体的に把握され、統理機務衙門や別技軍設置、日本への紳士遊覧団派遣および清国への技術学生派遣など、朝鮮が開化政策を推進する大きな契機となっていく。 
3.第三次修信使派遣
第三次修信使(高宗18年8月27日〜11月10日)は、趙乗錦(吏曹参判従二品)を正使としている。彼らは仁川開港に先立ち、米穀と紅参の輸出禁止や一般商品に輸入税を一割賦課することなど税権回復交渉に臨んだが、またも日本側から全権委任の書類上の不備を指摘され、成果はなかった。また、高宗が求める物情調査は、直前まで滞日していた開化派主体の紳士遊覧団が専門的見地により十分に遂行しており、そうした役割は趙が保守派に属するということもあって、ほとんど期待されていなかったようである。なお、日本側が国書を事前に送っていたために今回は国王国書が持参され、大使の織紐は正三品から従二品に格上げされ、従事官李祖淵を伴っていた。以下の随員は下記の通りである。
堂上玄普選判事金允善高永喜軍官李圭鶴
書記金広培他1名伴個崔慶錫他1名通事2名従者23人
全体で35名となり、人数的には前回より簡素である。
第三次修信使の訪問先は、朝鮮側の記録では詳細不明となっているが、日本側の断片的記録で追うと、1881年(明治14年)9月28日に漢城(ソウル)を出発して10月19日に釜山港を出航、10月23日に神戸に到着している。従事官趙漢容ほか3名が日帰りで大阪城などを観光したが、大阪府官員の勧めた工場見学や京都訪問は、時間切れを理由に実現されなかった。
一行は26日に和歌の浦丸で出航、横浜を経て28日に東京に入っている。11月9日に天皇に謁見して国書を差し出したのち、17日より外務省と交渉を開始し、12月17日に東京を出発して即日横浜から出航した。この間の信使ρ視察先などは不明な点が多いが8)、12月5日に本郷天文台を訪れており、10日には延遼館での午餐に招かれ、管弦・舞楽の披露が行われている。
なお、随行した張大鋪と申福摸が陸軍戸山学校で陸軍下士の学術を、李銀突が陸軍教導団で歩兵嘲夙術科の伝習を受けた。14日には戸山学校で趙乗鏑らの練兵観覧が実施される予定だったが、信使の「脳病」で中止となる。随員は内務省測量課や牛痘種継所などを見学し、玄昔運らは興亜会に参加しているが、全体として積極的な行動は見られない。 
4.第四次修信使
第四次修信使は高宗19年8月10日〜ll月27日(1882年9月20日〜1883年1月6日)に派遣された。全権大臣朴泳孝(前国王哲宗の娘婿)以下、全権副大臣金晩植、従事官徐光範、さらに閏泳翅、金玉均、愈吉溶など開化派の人物が随行していた。派遣目的は壬午事変の収拾であり、済物浦条約における「朝鮮大官」の渡日謝罪要求に応じたかたちとなっている。賠償問題の協議に関しては、後述するように外務卿井上馨は繰り延べに応じるなど柔軟な姿勢を示し、交渉はひととおり成功した。国王国書持参と三使体制が取られている点は通信使の形式の復活ともいえるが、朴泳孝は公的には「特命全権大臣」、さらには「公使」を称し、積極的に欧米の駐日公使を歴訪し、国際慣例の中に自らを位置づけようとした。
第四次修信使の行程は、仁川一下関一神戸一京都一大阪一神戸一横浜一束京一横浜一横須賀一鎌倉一江ノ島一熱海一小田原一横浜一束京一横浜一神戸一下関一仁川となっており、仁川からの発着や、神奈川県内の観光が加わっているなど、従来の使行との変化がみられる。訪問先は次の通りであるが、滞在期間の長さを反映して、第二次、第三次の修信使に比べて多岐にわたっている。
大阪砲兵工廠大阪鎮台、京都、写真館、外務省、赤坂仮皇居、東大卒業式、競馬場、図書館、女子師範、上野博物館、第一回内国絵画共進会、昌平館、動物園、工部大学校、電信中央局、工部省器械製造所、印刷局、鋭兵場、王子製紙場、陸軍士官学校、各国公使館、横須賀造船所、精養軒、能楽、井上外務卿邸での饗宴
日本側によって近代文物の積極的な視察が設定されていたが、朴泳孝は西洋各国の公使と連日のように積極的に交流し、また太極旗が国旗として国際舞台で初めて使用された。また、金玉均ら開化派人物を帯同しており、彼らは福沢諭吉などと会見している。ただし、使行の記録である朴泳孝『使和記略』は、事務日誌的で簡潔な内容となっている。
仁川から花房義質公使と同船で8月14日に神戸に到着した朴泳孝は、市民の「通宵放灯」という歓迎に「繁華霊淑風気」を感じ、ひるがえって壬午事変の際に義兵を称して決起しながら解散命令に「皆快快而散」した自国民について、「観我邦民気柔儒、未曾見散策之風」と嘆き、葱1鬼に堪えないとした。なお、この日に朴泳孝は太極旗を新制の国旗として居館に掲げている。翌日、朴泳孝は副使金晩植とともに兵庫県令森岡昌純を訪問したが、森岡は剰桿で鳴る薩摩出身と自己紹介し、自分も幕末は頑固な撰夷鎖港論者だったが、時勢の変化に従って以前は嫉妬した西洋人から多く学んでいるとし、以下のように朝鮮の開化の必要を説いた。
如貴国向日之擾、固是料中事也、願貴国鑑於弊邦、務使有条理、不可因喧廃食、且日、貴国現経理不敷、不得不大開破務、朴泳孝は森岡の説教がましい忠告を「握握百言」と記している。一行は随員の一部と生徒を横浜に先発させた後、半月ほど神戸に滞在し、イギリス・アメリカ・ドイツ・ベルギーの領事との会見や、京都・大阪視察を済ませている。そして、8月29日に外務卿井上馨と同船して横浜に向かい、9月1日に東京に到着したのち、11月18日まで2ヵ月近く滞在することとなる。
9月5日に外務省を訪問して壬午事変の謝罪と関係者の処分を報じる書契を示したのち、8日に赤坂仮皇居を訪れているが、明治天皇の印象は「目星起立免冠、容儀整粛、中等身材、眼恢恢有量」と記されている。その後は日本政府高官や駐日各国公使の歴訪に追われているが、9月15日に井上外務卿との間で、済物浦条約に定められた補償金の支払い期間を5年延長して10年とするなど交渉の妥結を見たのち、9月22日(1882年11月2日)に批准書が交換される。翌23日には井上外務卿邸での天長節祝賀に招かれるが、西洋式の婦人同伴による舞踏会の様子は次のように記されている。
井上馨與其夫人令愛、候門迎客、皆洋装也、少頃、楽隊奏鼓吹、懸各国国旗章於正堂、諸公使替携妻女之手、環廻踏舞、天真燗漫、所以費目皇天朝節也、舞罷楽撤、設立食会、来賓五六百人、続卓酔飽蓋彷泰西宴法也、随員亦斉至、夜深而散。
10月2日には延遼館で各国公使との祝賀宴が開かれたが、各国の国旗と並んで、会場の四隅と中央に一対の6ヶ所に太極旗が掲げられた。朝鮮が国際社会に主権国家としての存在を示した瞬間といえるが、朴全権の祝辞、井上外務卿および英公使パークスの祝辞に続いた宴会の模様は「楽隊奏洋楽、燈火如昼、酒呑成霧、酔飽尽灌、夜深而散」と、盛会だったと記録されている。
なお、第四次修信使の帰国に際しては、井上馨の後援で福沢諭吉門下の井上角五郎、牛場卓造らが新聞発行の要員として同行し、彼らの技術的支援を得たうえで、全権副大臣を務めた金晩植が主管する博文局のもとで1883年10月に『漢城旬報』が創刊されている。『漢城旬報』は甲申事変後に廃刊となったが、金允植(金晩植の従兄弟)により『漢城局報』として引き継がれた。両紙とも創刊時に井上角五郎の指導を受けた点は否定的に評価されているが、編集・発行の大部分は朝鮮人によってなされ、ハングルも使用しながら朝鮮の啓蒙開化を先導する役割を果たした。 
5.日本側の対応
最後に、日本側の対応を検討することとする。第一次修信使の汽船黄龍丸乗船については、朝鮮側に日本渡航可能な船がないため借用が要請され、日本側は外務大丞宮本小一により「彼よりは火輪船賃井賄方とも自費営弁の筈に申来候得共、此方にては一切官費を以支給し遣はされ候積り」との方針が事前に決められていた。迎接の外務少録水野誠一らは1876年(明治9)4月28日に玄海丸で横浜を出航し、大阪に停泊中の黄龍丸の点検を済ませた後、5月10日に同船で神戸を出航し、13日に釜山に到着した。迎接官に海軍中軍医島田修海が加わっていたが、5月22日の抜錨までの間、現地で医療活動を行っている。島田の報告書によると、上陸翌日の5月13日に別道訓導玄音通が打ち合わせのために倭館を訪れた際、天然痘の害を説いて種痘の実施を勧めたが、拒否された。そこで、日本では数十年間に数万人に種痘を施しているが、非常に好成績で実害はなく、是非とも朝鮮でも実施を布告すべきと説いたところ、玄音通はようやく疑念を解いたが、自分の子供に施して実効をみるまでは布告できないと述べたので、「然うハ我力ヲ以テ人民ヲ説諭シ施行スルモ妨ナキ理ナリ、如何」と尋ねたところ、「妨ナシ」との返答を得る。翌日、近郊の住民を説得したが、猜疑が甚だしいので「兎唇」の村民を倭館に呼んで治療したところ、狂喜して村に戻り、「是ヨリ頑民猜疑卒チ氷解シテ尽ク種痘ヲ乞フ」ようになり、さらに「神医来ルト四方二伝称シテ治ヲ乞ハント欲スル者甚タ衆シ」と患者が殺到したという1D。前述のように、修信使の随員として渡日した朴永善は東京で種痘法を習得し、それを朝鮮に普及させているが、島田の活動も若干の影響を与えたのかもしれない。
日本側の修信使に対する接遇は、船舶や宿舎の手配はいずれも全て日本側の負担で行われ、延遼館の饗宴は政府最高位の三条太政大臣が終始立ち会うなど最大限の配慮が示された。また、各所の視察や見学が盛りだくさんに設定され、丁重な対応が図られている。しかし、政府高官の修信使観は、表向きの歓迎ムードと必ずしも一致したわけではない。たとえば、警備の責任者だった大警視川路利良は、東北巡視で東京を離れていた大久保利通に宛てた6月15目附の書翰で次のように述べている。
朝鮮人も十八日比当地出発之様承候得共、能ク相分不申迄は例之行列二而ブウブウードンー御座候処、ちと化セリと見へ追々馬車ニテ俳徊候由二御座候。何分雨具を持セさる連中ニテ、何レ江も雨を恐る〜風聞御座候。当庁ポンプ調練も見るべき趣ニテ待居候得共、余り見物多キ故十八日迄二は漣も見取リ中間敷、最早帰り前少として朝鮮連中諸方相見へ、是は極メテ土産買方二も可有之今日は沢山見掛申候、比以前之鹿児嶋人の下り土産取りに似たる風二御座候ハ・、笑可被下候。
また、金鋳秀が「一聯托意鄭重、有足感人者」と親近の情を覚えた林友幸にしても、6月22日にやはり大久保に宛てた書翰で「彼国は只今之体ならは開化之模様は更二相見不申」と冷淡に述べている。
マスメディアは、113年ぶりに江戸・東京の地を踏んだ朝鮮の使節の正服をみた沿道の見物人が、固随な身なりだと嘲笑したと伝え、雑報では彼らを椰楡する内容の報道も行っている。
一昨三日正午、延遼館に於て朝鮮国の正使と上々官二人を西洋料理にて御饗応ありしに、〔中略〕延遼館の立派なる、料理の美味なる、奏楽の面白き、博物館の珍奇なる、何もかも肝を潰さざるものなしだと申すこと、あんまりつぶしてヒヨツと頓死でもしたら又厄介ものだらうと、掛り合ひのない新聞屋まで心配いたします。(東京曙、1876年6月5日)
しかし、江華島事件や日朝修好条規をめぐって新聞・雑誌が硬軟幅広い論調を示し、積極的な論争を展開したように、報道が上記のような侮蔑に終始したわけではなく、十数年先んじたにすぎない皮相な開化にもとつく傲慢さを糾弾する議論も少なくない。たとえば、不平士族の主張を代弁した過激な政論雑誌である『評論新聞』は、1876年5月に刊行された九十七号に「朝鮮人西洋支那ヲ濱斥シタル話井評」という記事を掲げ、朝鮮人が西洋の敷物まで忌諒して横浜税関の室内への入室を拒否したとの話を紹介したうえで、中山喜勢なる人物が次のような批評を加えている。
吾輩ハ此説ヲ聞クニ及ンテ第一二朝鮮人ノ蚕愚固随ヲ啖笑シ、第二ニハ我国人民力此朝鮮人ノ蚕愚固随ヲ喧笑スルノ地位二進歩シナガラ猶ホ卑屈奴隷ノ範囲ヲ脱スル能ハスシテ、其醜態ノ却テ朝鮮人ノ蚕愚ヨリモ甚シキモノアリ。〔中略〕独立ノ精神ヲ発達スル能ハス、民権ヲ興張スル能ハス、自由ヲ快復スル能ハス、万事万端唯政府ノミニ是依頼シテ、自ラ進ミ自ラ取ルノ志操ナク、常二欧米人ノ笑トナリ、以テ自ラ知ラサルニ在ルナリ。
また、「近事評論』も6月10日刊行の第二号に「朝鮮国使節ノ来着」という論説を掲げ、十数年前には幕府が欧米に派遣した使節が西洋人から同等の軽侮を受けたのであり、今の日本人は隣国の使節を外見のみで笑うものの、内面の発達は果たしてどれほどのものかと、わずかな進歩の差で朝鮮を侮蔑する傲慢さを以下のように慨嘆している。
観者ハ韓客ノ衣服風俗ノ日本人ノ目二新奇ナルニ因リ、或ハ其随ヲ蛋ヒ或ハ其迂ヲ嘲り、凌侮蔑視至ラザル所ナシ。吾輩ハ此間ニアリ、衆人ト其思想ヲ同フスル能ハズ。……追憶スレバ綾二十余年、我邦八東洋二孤立シテ頑然固守、外国交際ノ何物タルヲ知ラザリキ。……安政六年ノ条約ハ、本年江華湾ノ条約ト幾何ノ優劣カアル。馬関ノ償金ハ江華ノ問罪ト幾計ノ差違カアル。彼ヲ思ヒ是ヲ想ヘバ、今日傲然自負シテ韓人ノ風采ヲ嘲笑スルハ、安ンゾ内二願テf田尼タラザルヲ得ンヤ。然リト錐ドモ、我使節往年米府二笑ヲ取ルモ、韓客ノ我市人ノ嘲りヲ得ルモ、同ク是服飾儀装ノ外面二過ドザルノミ。試三眠ヲ転ジテ我国内部ノ実況ヲ熟思セヨ、人民ノ気象ハ晒劣卑窟ノ風習ヲ脱シタル乎。
政府の言論弾圧を受けて発禁となった『評論新聞』の後進である『文明新誌』は、1877年5月12日に刊行された三十三号に「朝鮮ノ新報」という評論を掲げ、以下のように述べている。
朝鮮ニチハ当時慷慨激烈ノ士人頻二鎖港論ヲ主唱シ、之二応スル者甚夕多ク、官吏ハ専ラ和平ヲ以テ人民二示諭スレトモ、朝野淘々トシテ皆ナ乱ヲ思フノ勢アル故へ、廟議頗ル困難ナリト云。妖気天二滋リ、殺気地ヲ捲キ、亜細亜東部ハ将サニ腱風血雨ノ形情二迫ラントス。実二是レ英雄争競開明暢達ノ時ト云フ可シ。世ノ創業二意アル者、安ソ興起セサルヲ得ンヤ。鳴呼、快ナル哉、快ナル哉。
争乱を好む不平士族の立場からの議論であり、なおかつ西南戦争が続いている時期という点も考慮しなければならないが、朝鮮の撰夷論に一定の理解を示したものともいえよう。
不平等条約の修正を目的とする第二次修信使に対しては、二度目ということもあって椰楡めいた報道は見られなくなったが、.幕末の内憂外患を克服し開化に一歩先んじた日本側による開化への誘導を当然の前提とする論調はより強くなる。たとえば、民権派の大新聞である『朝野新聞』は1880年(明治13)9月7日付の論説で、随員の興亜会参加を報道しつつ次のように述べる。
〔前略〕公使は彼国政府の命令により、公事已むを得ざるよりは、他の招待集会等に赴き難き事情あるを以て断わられしかども、興亜会の厚情已むべからざるより、遂に李祖淵、ヲ}雄烈、姜璋の三氏が参会せられたり、聞く修信使の一行は愈よ明日帰国と決せり、此回は我邦の形勢を目撃し、感発する所少なからず、帰国の上政府へ論述さる、ヶ条のある由なれば、定めて朝鮮鎖港の迷夢を覚すの端緒となる可し。
一方、「政府寄り」とされる『東京日々新聞』の主筆である福地源一郎は、仁川港の開港、米穀の輸出禁止、海関税目の改正という朝鮮側の要求に対し、8月20日付の論説で朝鮮を弱小国とする認識に立ちつつも、20年前の日本の状況を回顧すれば、彼らの要求は当然のことと同情的に論じている。また、23日付の論説では以下のように、目先の利害で朝鮮外交を進めるべきではないと述べた。
請フ、我が交ヲ朝鮮二修ムルノ主眼ヲ考ヘヨ。項々タル貿易二依リテ我が小利ヲ謀ルが為乎、将夕東洋海岸ノー要地タル朝鮮ノ独立ヲ保守セシメ、他国ノ有タルコト無カラシメンが為乎。貿易上ノ小利ヲ謀ルが為メナリト云ハゴ我復何ヲカ言ンヤ。荷モ大計ノ為ナリト云ハゴ報酬ノ有無ハ我二於テ何カアランヤ。……翼クバ、識者コノ大計ノ東洋政略二緊要ナルヲ覚り、目下ノ小利ヲ棄テ・前途ノ大利ヲ謀り、以テ長鞭馬服二及バザルノ悔ナカランコトヲ。
さらに9月11日の論説においては、第二次修信使を文久3年(1863)に横浜鎖港談判のために派遣された、池田筑後守長発の第二回遣欧使節団に比定していう。幕府は孝明天皇の信頼確保と尊穰派抑制のために、撰夷論者の池田を正使としてヨーロッパに送った。池田は最初の訪問国であるフランスの文物に驚愕するとともに、外相ドルーアン・ド・リュイスから開国からの逆行は不可能と諭され、イギリスなど他国の訪問を打ち切って帰国し、一転して積極的な開国論を唱えた。しかし、池田は使命の不履行を糾弾されて半知召上のうえ蟄居の処分を蒙り、その後は精神に異常をきたす。福地は、金弘集らが日本見聞で大いに得るところがあったとしても、外交上の失敗により池田のように国内で糾弾されるだろうと憂慮し、朝鮮側の要望を拒絶した日本政府の対応を次のように批判している。
現二今日ノ官員中二八当時池田等二随行セル方々モアリ。又池田等ヲ劾弾セル人々モアレバ、必ズ往時二感ズルコトアルベシ。今ノ修信使ニシテ信二我国情ヲ知り復命ノ日二於テ大二韓廷ノ迷夢ヲ喚ヒ覚サントスルコトアラバ、悪ゾ池田等二同シキノ禍二罹リ、進ミテ其国ヲ利セズ退キテ其身ヲ誤ルノ嘆ナキヲ保タンヤ。
文中にいう「当時池田等二随行セル方々」とは、外務大丞塩田三郎や外務省一等書記官で駐清国公使館在勤の田辺太一を指している。彼らは旧幕府外国奉行在勤当時からの豊富な海外経験や外交事務を通じ、国際法や外交慣例、外交史を熟知している人物で、やはり幕臣だった宮本小一とともに近代外交の論理を振りかざして対アジア外交の基礎を構築していた。周知の通り福地源一郎もまた旧幕臣で、塩田や田辺とは岩倉使節団に共に加わった仲である。
帰国後、金弘集は処分されることなく、むしろ彼らの使行は統理機務衙門設置や別技軍設置、紳士遊覧団派遣など開化政策推進の直接的な契機となるので、池田長発の二の舞となるだろうという福地の憂慮は杞憂に終わったといえよう。ただし、金弘集は日清戦時下に日本の後ろ盾で甲午更張が開始された際の総理大臣となるが、1896年に関妃殺害事件への消極的対応と断髪令に憤った民衆が「滅倭討賊」の旗幟を掲げて義兵闘争を展開し、隙をついて李完用ら親露派がクーデターを起こした際に、群集に路上で惨殺される。なお、随員のサ雄烈は帰国後に別技重鎮官となり、壬午事変後は逼塞や亡命を余儀なくされたが、のちに大韓帝国の軍部大臣となる。1896年に徐載弼らと独立協会を設立するサ致昊は雄烈の息子で、1881年に紳士遊覧団の一員として日本に留学した。
壬午第事変の処理のために来日した第四次修信使への対応は、謝罪使と位置づけつつも、それまでの修信使と同様に丁重に接遇する方針がとられた。1882年10月10日に外務大輔吉田清成は太政大臣三条実美に、花房弁理公使の「可相成丁寧二被成候方、此節柄彼方ノ感触モ宜敷、交際上二於テ稗補不少儀ト存候」という上申をもとに、次のような伺を立て、承認されている。
今般朝鮮使節来朝致候二付テハ、通常使節トモ殊リ候義二付、接待向等ノ義、花房公使へ見込ヲ為申述候処、交際上ノ関係モ有之、可成手厚ク取扱相成度旨、別紙写ノ通申出候。就テハ此節二限リ該使節滞在中、官費ヲ以取賄候方可燃、尤食料其他一切ノ費用一ヶ月ノ概算金五千円程ノ額ヲ可要見込二有之候〔下略〕。
なお、外務卿井上馨は朴泳孝を神戸まで出迎え、横浜までの船中で協議を行った。在欧の伊藤博文に宛てた書翰によれば、朴泳孝は清国によって大院君が拉致され、漢城(ソウル)駐屯の清国兵による乱暴も絶えず、「今日の勢を以て此末尚干渉されては国王の身上も遂に如何されるや難測」と慷慨しており、日本の支援を得て独立を図りたいとするのに対し、井上は「今日の状勢を以て考ふるに朝鮮に於て其独立を計るは却て得策にあらさるべし」と反対論を唱えた。その理由は、朝米条約締結など朝鮮政府は清国の示唆に依拠する部分が多く、独立を図る実力は現状では不十分で、「朝鮮は独立せんと欲する精神あるも、能く清国制圧を免れ自立する事は最大困難の事なるべし」というもので、とりあえずは清国の意向に従っておくのが安全策だと述べたという。井上の方針は、党派の抗争が複雑な朝鮮の内政には不干渉の態度をとり、消極的に朝鮮の急進開化派を支援するというものだった16>。軍事力のうえで日本は清国に対して劣勢であり、当面の対決を回避しつつ、松方財政下で軍備増強が積極的に図られることとなる。壬午事変直後には派兵論をはじめ、領土割譲や高額の償金を要求して結果的に権益の獲得を図るべきだという強硬論も日本国内に存在したが、井上は補償金50万円を年額10万円5ヵ年賦で支払うという済物浦条約の当初の規定を、5万円10ヵ年賦に修正して朝鮮側の負担を軽減し、急進開化派である朴泳孝に功績を与えて朝鮮を親日に誘導しようとしている。 
おわりに
修信使派遣の全体的傾向として、後になるほど儀礼的性格から実務的性格へと移行し、正使の職級が格上げされ、滞留期間も長くなることが河学風氏によって指摘されているが、これは朝鮮が既存の外交態勢から脱却し、近代的外交関係の構築に向かう過渡的段階を反映したものといえよう。1885年に派遣された特命全権大臣徐相雨らの使節は、もはや「修信使」の名称を用いていない。翌年に弁理大臣駐箭日本として手鑓永が派遣されるが、同時期に欧米にも公使が派遣されて各国信任を受けており、「万国公法」に立脚したシステムのなかに対日関係も位置付けられていくこととなる。
修信使は、近代化に向けての大きな刺激を得たという点で高度な役割を果たし、朝鮮の外交機関が近代的国際関係に対応していく挺子ともなった。しかしながら、使行が外交交渉と視察に重点を置き、さらに日本政府が官公署や工場など近代的文物の視察に重点を置いた結果、民間人との交流は希薄だった。日本側には、前近代以来の「神功皇后三韓征伐」伝説などと結び付けて朝鮮を属国視する観念や、武力的優越感に加え、西洋化に先んじたという先輩意識が存在しながらも、アジアとの連帯論も幅広く唱えられていた。一方、修信使たちの間には日本型の開化への懐疑と評価が交錯し、朝鮮国内においては従来からの「倭」=夷狭の観念に加え、強圧的な日本の外交姿勢に対する憎悪も根強かった。また、複雑な国内政治の党派的抗争と外国の様々な思惑の絡み合いにより、開化路線の展開は順調には進捗しなかった。そして、日本と朝鮮の双方とも伝統的観念から抜け切れていない状態のまま、1884年12月の甲申事変によって金玉均らの急進開化派が壊滅し、清国の宗主権が強化される一方で「親日」誘導が破綻した。
このことは、福沢諭吉の「脱亜論」にみるように、日本の民間に感情的なアジア観を生み、相互認識に禍根を残すこととなる。現地報道など日本での朝鮮情報はより具体化するが、明治初期の啓蒙期にみられた議論の多様性や客観性は失われていく。また、日清戦争にかけてナショナリズムが高揚するなか、相互認識も敵意や蔑視を含む「国民世論」となって現れていくこととなる。 
 
日本疾病史考 / 梅毒・黴毒(ばいどく)

 

医学史を勉強しているうちに病気の歴史そのものにも興味がわいてきました。時代と場所によって、病気の文化的な解釈も、その物質的な現れ方もたいへん違いますので、その歴史も限りなく面白くなってきました。ということは、病気の歴史的な変化が分かれば、その文化と社会の歴史的な変化も理解できます。この点を少し説明したほうがいいでしょう。
われわれが現在、使っている病気の名前のほとんどは歴史的に新しいものです。病気の名前そのものが古くても、現在の意味はわりあいに新しいのが殆どです。医学の技術や思想の変化があまりにも早くて、たとえば150年前に言った「黴毒」の意味と今のそれとは理論的にも治療上にもずいぶん違います。「どこが違うか」というよりも「どこが似ている」と聞いたほうが適切だと思います。また、一般的にも、世間の黴毒に対する反応も今と150年前とは違います。この医学的及び文化的な変化を辿っていって、その変化のきっかけがわかれば、日本の社会と文化の大きな変動もある程度、明らかになると思います。
ところが、細菌の進化は大きな生物よりは何倍も早いので、新しい病原菌がエイズ菌のように突然に現れてくる可能性もあるし、また古い病原菌が消えてしまう可能性もあります。このようなことがありますので、疾病史のなかで、百パーセント問題のない事実はほとんどありません。
黴毒の場合はとくにむずかしいのです。一般的に、コロンブスが西インド諸島から帰った時に彼の船に乗っていた人のだれかが、はじめてヨーロッパに黴毒菌を持ち込んだといわれています。ある学者の間でもこれが定説になっていますが、その信憑性が非常に実証しにくいものです。その当時の菌が残ってればすぐ分かりますが、いうまでもなく残っていません。もし黴毒菌が西インド諸島から来なかったとしたら、すでにヨーロッパか中近東にあった黴菌が進化上、変身して新しい種類のものになった可能性もあります。ですから、黴毒菌の由来はよくわからないとしかいえません。
しかしいずれにしても、黴毒はほぼ500年前から確かにヨーロッパで流行しました。その当時の名称も非常に意味深いものです。イタリア人はそれをフランス病と呼び、フランス人がそれをナポリ病と呼んで、ドイツ人はそれをフランス病とかイタリア病とか、またスペイン病と呼びました。イギリス人はそれをフランス病とかスペイン病と呼び、ロシア人にとってはポーランド病でした。いずれの呼称にも、黴毒が外国だけではなく必ず敵国からきた病気だったという意識が明らかに現れています。現在使われている言葉、つまり「ジフィリス」は、1521年にはじめてあらわれました。それまで一定の名称はありませんでしたが、そのあとに「ジフィリス」といわれたものは必ずしも現代の医者が黴毒と呼んでいるものではありませんでした。実は、西洋医学の場合にも、19世紀の後半まで黴毒とその他の性病はあまりはっきりと区別されていませんでした。
また、東洋の場合にも黴毒の呼び名に歴史の物語が潜んでいます。まず、中国の場合を少し見てみましょう。この講演会のポスターを見て、「黴毒」の字が読めてもその意味がよく分からなかった人がいたらしい。「カビの毒ってなんでしょうか」といったそうです。しかしそれは実に大事な質問なのです。それから、どうしてこの「カビの毒」は、もっと有名な「梅の毒」と連想されるようになったのでしょうか。この両方の呼称はその当時の価値観や基本的な考え方を表現しています。
黴毒の起源論も含めて、16世紀のはじめに中国に新しいかたちの性病がはじめて現れたことは確かです。ヨーロッパ人が黴毒を持ち込んだ可能性が非常に高いですが、当時、中国の医者たちはそのように解釈しなかったらしいのです。中国人が付けた名称のほとんどはその病気に特有の症状を現しています。現代の黴毒と思われるような病名は1533年に書かれた中国の文献にはじめて出ます。それは「楊梅瘡」、つまり「ヤマモモカサ」なのでした。黴毒の初期の症状はヤマモモに似ているのでそのような名前が付けられました。同じように、このころから「綿花瘡」ともいわれました。また、地名とも結び付けられました。おそらく、広東地方に多かった病気だったので最初は「広東瘡」と呼ばれました。それが省略されて、「広瘡」になりました。16世紀のはじめから18世紀の終わり頃まで、「黴毒」の名前は爆発的に増えました。1799年に書かれた黴毒についての専門的医学書のなかに、少なくとも57の異なった漢語の病名が出ています。そのほとんどは何らかの黴毒に特有の症状が起源を現しています。
「カビ」という字を使っている「黴毒」は、症状のことも原因のことも表現しています。黴毒の初期の症状はカビのようなものに見えたらしいし、またカビそのものがその症状の原因としても考えられました。1632年に中国で書かれた「黴瘡秘録」という本のなかで、黴毒の原因は次のように説明されています。つまり、広東の近辺には湿気が多くて、マラリアをおこす湿っぽい雨がよく降ります。その食べ物はいつも辛くて熱い。蛇とか虫とかが非常に多くて、あちらにもこちらにも、ものが腐っている。このような環境のなかで男と女が淫れると「淫熱」、つまりミダレタネツの邪気が生じてきます。淫熱の邪気がつもってくると毒瘡がおこります。この毒瘡の傷口と接触すると伝染します。
 これを少し言い替えれば、「黴瘡秘録」の著者にとって、黴毒は中国で自発的に現われてきた伝染病であるといってもべつに医学の理論的な問題にはならなかったのです。そしてこのときから19世紀の半ば頃まで、中国でも日本でも黴毒が湿っぽい環境とも淫らな性行為とも連想されるようになりました。
ところが、なぜ「カビ」の字が「ウメ」の字になったかは、よく分かりません。といっても中国語には少なくとももう一つの例があります。「梅雨」、つまり「ツユ」の漢語の「梅」も、もともと「黴」としてかかれました。ツユのあいだにカビがよく生えるということでしょう。梅毒の「ウメ」も梅雨の「ウメ」も、もともと「カビ」だったらしい。しかしツユのこともバイドクのことも、カビと連想されることよりも、ウメと連想されるほうが少しでもより愉快ということでしょうか。
黴毒はいつ日本に着いたかということがはっきりしません。少なくとも中世前期より、わりあいに軽い性病が日本にありました。といっても、その当時に書かれた医学書が描写している症状だけで何の病気だったかよく分かりませんが、確かに黴毒の症状ではありません。16世紀の初期にいわゆる倭寇が黴毒をはじめて日本にもたらしたとよくいわれています。しかし最近の説によるとそれよりも早く北海道にきていたそうです。いずれにしても、黴毒はいつ日本にはじめて入ったかという質問自体に問題があります。というのも、黴毒のような慢性病はおそらくいくつかの経路を通して日本に入ってきたのでしょうから。まったく違う船の乗組員がおなじころに平戸・長崎・熊本・境の諸港で黴毒の種をばらまいていたことは想像に難くないことです。つまり、多重・複数の経路があったと思います。いつ、どこが一番最初ということが大切というよりも、16世紀全期にわたり、黴毒はどのように伝播されたかということが大事なのです。
黴毒については、当時の日本で呼ばれた病名がその伝播経路についての示唆を与えてくれます。1512年に「唐瘡」や「琉球瘡」という病名が京都に住んでいた竹田秀慶の「月海録」にでています。そして長崎では、「ヒエ」と「ポク」ということばがありました。ヒエはおそらく湿気のことをさしていますが、ポクはヨーロッパからの外来語に違いないでしょう。江戸では黴毒は単に瘡(カサ)と呼ばれたそうですが、東北の方ではそれに「江戸ホウソウ」という名前がつきました。また、全国的に長崎瘡や肥前瘡という名称が使われました。これらの名前のうちに、16世紀後半に編集された「日葡辞書」に「唐瘡」(トウガサ)しかのっていないので、それがおそらく当時によく使われたことばだったのでしょう。いつごろ使われたのかよく分かりませんが「南蛮瘡」(ナンバンガサ)という名称もありました。ということは、日本人もヨーロッパ人とおなじように、この病気にその発祥地と思われたところに因む名前をつけていました。「花柳病」は今もよく知られている黴毒の名前ですが、それは明治期から流行しはじめたのでこの場合には関係はありません。
 戦国後期と江戸初期によく使われたもう一つの名前は「横根」でした。この単語は「日葡辞書」にも、ルイス・フロイスの「日本覚書」にも出ています。「横根」はたぶんこの病気の初期症状を描写しているように考えられます。この名称はべつとして、フロイスのコメントは非常におもしろいものです。
フロイスは次のように書いています。「われらにとっては、横根にかかるなど、きたならしく、恥ずかしいことである。日本では、男も女もそれをありふれたこととして、少しも恥とはしない。」フロイスのこの文書は二つのことを示唆しています。その一つは、彼が見たかぎり、黴毒かそれに似ている性病が非常に多かったということです。そのもう一つは、当時の日本人が性的なことにたいして当時のヨーロッパ人よりもかなりおおらかだったということです。フロイスはたしかに日本の女性の自由さを見て驚きました。彼はつぎのように書いています。「日本の女性は処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。」そのうえ、日本の女性は自由に動きもとれたし、また、何回離婚しても、何回妊娠して堕胎しても、社会的に問題はなかったということです。そのうえ、当時の都会に住んでいた多くの男性は遊廓や岡場所へよく通っていたことはいうまでもありません。このような環境のなかで黴毒が広く伝わったことは不思議ではありません。といってもこれは少し大げさにとられる可能性もあると思います。江戸時代の医学書と最近の考古学と民俗学の資料によると、明治時代まで黴毒はおもに都会に住んでいた人々の健康問題でした。18世紀の日本を歩き回った医師は、1788年に次のように書いています。「予諸国ヲ経歴セシ内、肥前長崎或ハ京大阪江戸ナドノ如キ都会繁華ノ地ハ十人ニ八、九人ハ此病ヲ病。」(永富)医者の目からみても、この時期の日本の黴毒はたいへんな問題でした。人口の8割から9割ぐらいが黴毒にかかっていたことは、じつに驚くべきことです。しかし最近の考古学の研究によると、この数字はそれほど大げさなものではありません。江戸の墓地に埋められていた頭蓋骨の調査に基づいて、ある人類学者が江戸の人口の55パーセントが黴毒にかかっていたという結論を出しました。社会階級による差もありました。武士階級と思われる人の約40パーセントが黴毒にかかっており、町人の下層階級では約70パーセントにもなっていたそうです。
ところが、江戸時代の間に、農村や漁村は非常に閉鎖的な共同体を守ったので、黴毒の煩いから殆ど免れました。瀬川清子という民族学者の全国的な調査によると、明治中期か後期まで、田舎の村の人々は男女を問わず、結婚前の性行為はかなり自由に行われていたそうです。しかし田舎の男性が都会の遊廓へ通い始めた時期から、この病気が大きな問題になりました。問題といっても、当時の田舎の男性にとって、黴毒は恐れるべきもの、または恥と思うべきものよりも、むしろ誇りに思っていました。瀬川氏は漁村について次のように書いています。「結婚が自村のなかで行われていた頃には、若者・娘の健康もそれなりに維持されておったのだが、明治期に入って急速に交通の便がよくなると、遠国の漁船が長崎県の五島の近海にくるようになり、またこちらからも遠国に出漁するようになりました。すると村々にも性病が蔓延してナンバンガサを経験してはじめて男一匹の器量が定まるなどといった。」(pp.330,536)この場合には普通と逆の事情がみられます。つまり、性的な自由のために黴毒が蔓延したというよりも、黴毒が蔓延しはじめたために漁村に性的な自由がなくなりました。そして明治中期からは、兵士が都会で黴毒にかかり、それを自分の村へ持って帰った例も多かったことでしょう。いずれにしても、明治時代になってから黴毒がはじめて都会中心の問題から全国的な問題に転じたようです。
すこし遡りますが、江戸時代の医学書を通して、黴毒にたいする考え方に大きな変化が見えます。
戦国後期から江戸中期にかけて、黴毒が医学書の中で現れると、症状と伝播様式と治療に対する短い説明に限られています。その症状はとても大ざっぱに描写されていますので、現在で言う黴毒も淋病も確かに含まれています。西洋の医学でも19世紀の終わりごろまで、この二つの病気はあまり区別されていませんでした。それから、少なくとも江戸初期から黴毒は伝染も遺伝もするように思われました。このような発想は医者の間にも民衆の間にもそのまま20世紀まで続いています。そして治療としては水銀が入っていた薬もこの時点から推薦されていました。この水銀の治療のなかには技術の伝達の謎が潜んでいます。日本人はこの療法を中国人に習ったのでしょうが、中国人が自分でそれを発見したか西洋人にそれを習ったかが分かりません。とにかく、水銀療法も20世紀のはじめごろまで黴毒の主な治療に使われました。
しかし黴毒の症状の描写も、伝播様式の説明も、治療法も江戸時代いっぱいあまり変わらなかったとしたら、いったい何が変わったのでしょうか。
まずは、黴毒の独特な伝染経路のため、医者がその病状と治療だけではなく、その伝染を促すような社会事情についても倫理的なコメントをするようになりました。たとえば、小石元俊という京都の医者は18世紀後半に次のように書いています。「凡黴毒ハ古昔無シテ後世ニ至テアリ其故ニ古昔ハ世ノ淳厚ニシテ聖人ノ道天下ニ盛ナル故ニ青楼ノ娼婦ノ如キ者ナシ是ニ依リテ此ノ病気ナシ後世ハ聖人ノ道衰ヘ世ノ風軽薄ニシテ青楼娼婦往々ニナル 故ニ因テ起レリ」。ということは、昔の人はみな儒教の理想的な倫理価値観にしたがい、自分の欲望を統制するような自制力をもっていました。この倫理観が崩れてしまったので、黴毒がはやり病になりました。
しかし、倫理観が崩れてしまったといっても、小石氏の分析はその社会的な原因を探さないで医学的な説明しかしていません。彼は続けて書いています。「青楼娼婦ヨリ起ルコト必セリ。蓋シ娼婦ノ為物日ニ数十人ト交接ス故ニ陰中ノ気血変シテ濁ノ邪気トナル是ニ因テ娼婦トナリテ後大抵ニ三四年ノ中自其毒ニカブレテ黴毒ヲ病ムヲ青楼ノ言ニトヤスルト云其毒男子ニ著テ病アリ黴毒ノ因概子カクノ如シ」。つまり娼婦たちの行為によって、黴毒がその体のなかで自発的に発生するというのです。このような黴毒の原因論は中国にもありましたが、小石氏はその他の日本の医師とおなじように、同時にいくつかの原因論を唱えています。娼婦の性行為に黴毒の原因を置きながらも、そのうえに外国からきたものでもあるという医師がかなり多かったのです。その矛盾はとくに問題として考えていませんでした。
また、18世紀の後半から19世紀の後半まで、日本のほとんどの医者は、ある病気はほかの病気に変化する可能性があると考えていました。著者によって、黴毒が癌・瘰癧・結核・労症などの病気に変化していくと書いています。ということは、この当時の医者にとって、病気の分類は一定したものではありませんでした。むしろ病気が体の一つの状態として考えられて、個人の体の特徴によってあらゆる方向に走っていく可能性を持っていました。
このような医学思想の背景があったからこそ、日本の医師は19世紀の後半まで黴毒と公衆衛生との関係についてあまり発言していないことは不思議ではありません。医師の仕事は患者を治すことであって、町の健康を守る役ではなかったのです。ですから、日本の最初の検黴制度は日本人が自発的に作ったものではなく、西洋人に促されてできました。異邦人が自分達の健康のことを心配していただけだったのです。
江戸時代から明治後期にかけて、もう一つの大きな変化がありました。それは一般民衆にとって、黴毒が「少しも恥ずかしくない」病気から大変な恥として考えるようになったことでした。これはたぶん、このテーマのもっとも面白い問題でもあると思いますが、またもっともつかみにくい問題でもあります。いまのところは、それを説明するために推測しかできませんし、また、あまり時間もありませんので、いまのところはそれを省いて置きます。
さて、最初の質問にもどりますと、黴毒の歴史的な研究をして、何がわかるでしょうか。まず、われわれは黴毒を一定したものとして考えやすいのですが、江戸時代の人はもちろん、明治時代の人も、われわれとは大分違う考えを持っていました。しかし、もっともだいじな結論のひとつは、江戸時代の日本人はけっしてこの病気に対して統一した考え方を持っていなかったことです。黴毒になって恥ずかしいと思った人もいれば、なんとも思わない人もいました。このこと自体はそんなに大したことではないと思いますが、この病気を通して日本の文化の多面性が浮き彫りに見えて来るようです。
 
報恩古式大相撲

 

相撲は、時代の変遷、社会的変化、政治的影響に従います。
この明白な観察は、ほとんど認識されてきませんでした。相撲は、その周囲との依存関係から離され、純粋で自然、かつ不変な対象として、文献資料の中で理解されてきました。相撲は、太古の昔に由来する(隕石)のように、存続したものとして研究されてきたのです。
独立した存在としての相撲を維持するために、重要な概念は、伝統です。伝統文化としての相撲は、それを推進する関係者だけではなく、相撲研究者、学術研究者、マスコミや外交関係者によって、明示されてきました。
無論、この考え方は、政治的意味合いにおいて、非常に有益です。連続性の考えを強固なものにするだけではなく、支配的文化とのあらゆる共犯関係を隠すためです。伝統は、変化の重要性を軽視し、相撲を揺るぎない位置に置き、社会的現実とのつながりに関する研究を断念させます。
この流れは、日本における相撲についての文献作りを完全に支配し、政治・文化的ナショナリズムの必要性と融合します。
とはいっても、相撲が、古い伝統であったことはありません。その出自は、都市文化における、社会の最下層の娯楽です。鎌倉時代では、盗人、子女誘拐者、浮浪者、恐喝者と同列の扱いです。
伝統は、現存する資料や、既に存在しなかったり、想像された資料を駆使した選りすぐった過程において、獲得されました。その昔からの性格を強調するために役だつものすべては、はっきりと目に見える形で、授けられました。
選択の過程にはまた、意図的な忘却も含まれていました。理想像と矛盾するものや、新しいアイデンティティを強調するのに役立たないものすべては、視界から消され、忘却のかなたに追いやられました。
明治42年(1909)、国技という新しい役割において、相撲はその出自を切り捨てる必要がありました。もし、伝統となりたければ、その起源をどこか別の所に求めなければなりませんでした。豊作を願う清めの儀式に、頃合な起源が見つかりました。皇室との提携は、社会の底辺とのつながりを、永遠に浄化してくれます。
相撲を取る者は、(怪物)でも巨人や女であるわけがなく、横綱の位置づけに見られるように、神であり、最低限(強い武士)か(力・士)でなければなりません。
その実践は、勝負を単に見せるのではなく、神聖なる儀式となります。ゆくゆくは、娯楽の世界に別れを告げることになるのです。現在では既に、伝統文化となってしまったのですから。
私の最初の観察もまた、道具、飾り、紋章、服装、儀式、清め、数え切れない身体的な動きを検証することに、知らず知らず向けられました。その他に、あまたの(通)たちが、相撲の謎に関して、微に入り細にうがった多くの説明を無償で提供してくれました。その様々な解釈は、時間がたつにつれ、不信、深い疑惑の念を誘発していきました。その一例は、これから私が申し上げたいことの中で、浮かび上がってきます。
手刀
私はフィールド・ワークをしている時、手刀にまつわる情報を入手しようとしました。私は、こうしたことに 最も通じていると言われる、親方の一人を選びました。
私が受けた説明は、概ね次のようなものでした:「相撲界で、とても古くからある感謝の形である。右手の動きは天、大地、最後に懸賞を受け取る人間を示す」。
それから、相撲記者クラブに属する新聞記者は、それとは異なる説明をしてくれました。彼の説は、「手の動きは、四つの方向を示す」というものでした。また、刀で切ることを表す、との説明をしてくれた人もいました。
私は、同じ質問に関する説明内容の違いに納得がいかず、相撲の歴史の権威に相談をしました。それによりますと、手の動きは、勝利の三神、つまり、中央の天御あめのみ中主神なかぬしのかみ、右の高皇産巣霊神たかみむすびのかみ、左の神皇産巣霊神かみむすびのかみに捧げられる、とのことでした。その他にも、こうした動きは、農耕に関わる他の神々に捧げられる、とする別の説もあります。古い儀式であることには、皆、同意するものの、その意味を巡っては意見が多岐に分かれています。
私は研究を続けていくうちに、「手刀」はごく最近になって導入されたことを発見しました。ある力士が昭和17年(1942)に、非公式に始めたとされています。その様が優雅で、威厳に満ちているということで、その力士を真似するようになりました。しかしながら、昭和41年(1966)まで、それが義務づけられることはありませんでした。昭和41年とは、あまりにも最近のことで、過去から神々がやってきて、Hobsbawnの有名な言葉を思い起こさせてくれます。彼はこう述べています:「古くからの伝統と呼ばれるものの中には、かなり新しく、時として作られたものもある」。
神前結婚
相撲以外で、別の例を挙げましょう。神前結婚は、私の論点を説明する一例です。
神前結婚は、日本では伝統的な結婚式だと考えられています。(千年以上も続く儀式であると思われています)。しかし、日本の結婚式のスタンダードとなるのは、かなり新しいことです。神前結婚が行われるようになったのは、明治33年(1900)、当時の皇太子が神前結婚をしてからです。明治時代以前には、めったに神社で結婚式が挙げられるようなことはなかったとされています。相撲におけるように、こうした儀式の革新の裏には、新秩序の象徴として、皇室制度を使いたかった、明治政府の政策が存在していたのです。神前での儀式は、キリスト教の結婚式のアナロジーとして役立ちました。天皇を神道の伝説の中に決定的に位置づけることで、何世紀もの間、隠れていた日本の(真実の)秩序を回復させたのです。
古式大相撲
同じような目的を持つ、シンボリズムや文化的装飾の使用は、相撲の中では多く見られます。ここでは、平成 7年(1995)2月5日に行われた(古式大相撲)での儀式の事例を取り上げたいと思います。その分析は、シンボルをいかに操り、存在しない過去との虚構のつながりを拡げていったのかを、理解させてくれます。その目的は、目に見える形で、連続性を想起させることです。
古式大相撲は、昭和天皇に捧げる、「報恩古式大相撲」の儀式として開催されました。昭和天皇は、20世紀における相撲の合法化にとって重要な存在でした。主催は、報恩大相撲実行委員会、協力は、財団法人相撲協会、昭和天皇崇敬会でした。1200年前に行われていた相撲の再現として、マスコミに伝えられました。
ここでは、古式大相撲が行われた舞台の全体が見えます。この古式大相撲は、平安時代の相撲節会はこうであったのではないか、と描かれた絵巻をもとにしています。
しかしながら、この絵巻は明治時代に作られため、平安時代の相撲節会の忠実な描写であるのか、または、相撲の歴史を明治時代の先入観で変えてしまったのか、正確に裏付けすることはできません。(相撲を題材にした版画の中には、明らかに想像の産物であったものもあります。)
古式大相撲と一致しない点が、2点あることに、すぐ気づきます。まず、とりおこなった期日です。相撲節会は7月、七夕の日に開催されたのに、古式大相撲は2月に行われました。
次は、平安時代に行われた相撲節会が宮廷内の庭で行われたのに対し、古式大相撲は国技館で開かれました。古式大相撲の観客の存在は、相撲節会が平安時代の天皇と宮廷人のためだけであった、その閉鎖性と矛盾するものです。
全般的に言って、古式大相撲は、現在の相撲と相撲節会の儀式を一致させようとする、多大な努力の結晶です。その結果、現在と古いと想定される様相が混成されています。相撲節会の舞台を手本にしているにもかかわらず、現在の相撲をそのまま残した部分もありました。例えば、平安時代には土俵は存在しなかったのに、古式大相撲では存在します。どうしてでしょうか?
国技館では、土俵は床の下に収納することができます。国技館が相撲以外の他の催し物に貸し出される時には、土俵は収納されてしまいます。古式大相撲の場合もそうしたら、より相撲節会に近づいたことでしょう。しかしながら、実際には土俵は、まるで平安時代にも存在したかのように、そのまま残されました。というのも、土俵は、現在の相撲において、最も神聖なるものを象徴する要素の一つであるからです。現在のところ、靴を履いて土俵に上がることはできません。女性に至ってはもう、土俵を触ることすら許されません。神聖なる土俵が汚れてしまうからです。
そうはいっても、土俵は比較的新しいものです。相撲を取る場所は、江戸時代初期の頃は、明確に定まっておらず、偶発的なものでした。基本的には、(人方屋(ひとかたや))と呼ばれる、相撲を見物しようとする人たちが周りを囲んで作る人垣が、現在の土俵の代わりでした。
しかし、江戸幕府が再三に渡って相撲を禁止したため、見物人と相撲を取る者たちを離す境界線の設置は、必要に迫られました。相撲を取る場所は、当局に認められるために、統制され始めました。俵を間に置くようになり、17世紀後半には最初の土俵が生まれました。
18世紀には、様々な形態の土俵が試されましたが、確固たる均一な土俵ができるのは、江戸末期まで待たねばなりませんでした。卑俗な出自を忘れる必要から、寛政3年(1791)吉田追風に、当時の将軍・徳川家斉の上覧相撲のために、(方屋開)を考案させることになりました。
この儀式は、その後、明治天皇臨席の下での儀式の中で、また作り上げられ、後年写真で見るように土俵祭りとして、さらに作り上げられることになります。
神聖性は、江戸幕府による禁止令を乗り越える必要性から生まれました。宗教の中に何かを発見することは、相撲を行う許可を得、禁止令を受けずにすむ合法的な手段となりました。古式大相撲において、土俵をそのまま残すことは、やっとの思いで獲得した神聖不可侵の雰囲気を保証することにつながりました。
吊り屋根もまた、古式大相撲の儀式の間ずっとありました。もちろん吊り屋根も取り外すことができるのですが、そのまま残しました。どうしてでしょうか?土俵と同じように、吊り屋根も宗教性と古さの雰囲気を醸し出すのです。
もちろん、この吊り屋根は相撲節会においては存在しませんし、明治時代に描かれた絵巻にもその存在はありません。
吊り屋根の出現は、かなり新しいことです。20世紀の前半、(館(やかた))または屋根は、次第に関心事となっていきました。その形式も変遷しました。
簡単なもの(小屋根)から、より洗練され東洋色が際だつ(入母屋(いりもや))のようになりました。
昭和6年(1931)以降、皇室との決定的な提携を模索し、伊勢神宮の屋根を模倣する、吊り屋根に変わりました。
昭和28年(1952)、観客やテレビ・カメラの邪魔にならないよう、ケーブルで天井に吊り下げられることになりました。
また、古式大相撲では、土俵や吊り屋根だけがそのまま残されたのではありません。現在の職業相撲における構成員である、力士、行司、審判、呼び出しが相撲節会を模倣した役割を果たし、そこにまるで歴史的な連続性があるかのように見せました。雅楽演奏だけが唯一、相撲協会の関係者の手によるものではなく、専門家の助けを借りました。
まず、現在の力士達が相撲人を模倣しました。
しかしながら、相撲人は、相撲を職業としてはいませんし、相撲部屋に住んでもいませんでした。彼らは毎年、強制的に徴発されたのでした。それにまた、取り組みは、現在の勝負制度に沿うものでもありません。当時は、仕切りも立ち会いもありませんでした。現在のようなまわしをつけておらず、(とうさぎ)と呼ばれる、形も素材も異なるものでした。その結び方もまちまちでした。それにもかかわらず、古式大相撲では、過去に存在していたかのように、そのまま使われていました。そしてまた、明治42年(1909)に義務づけられた大銀杏髷もそのままで、相撲節会の時代の髪型を尊重していません。
相撲節会では、取り組み時の進行役に当たる人物がいませんでした。先に倒れた者が敗者となりました。しかしながら、古式大相撲の取り組みでは、現在に倣って判定が行われました。行司が、現在幕内で行われているように、立ち会いを指揮しました。
しかし、明治42年(1909)に国技館が建設された後、皇太子の訪問を前にして、行司の役割に威厳を与えることになり、それにふさわしい装いを探しました。
それ以来、行司は足利時代の烏帽子や直垂をつけることになりました。その結果威厳あるものとはなりましたが、時代考証で何世紀かの誤りが生じました。古式大相撲では、これを訂正することになりました。行司は、相撲節会における近衛次将の立ちを真似ていました。しかし、行司は、近衛次将の装いを特徴づける、弓も矢も持っていませんでした。その代わりに、その手は、江戸時代に大分入ってから導入された軍配団扇を持ったままでした。
そのあいまいさの極みとして、手刀がそのまま行われました。古式大相撲の時には懸賞のためではなく、橘と夕顔の花を受け取るためでした。しかし、相撲節会の描写においては、相撲人たちは立ち去る時、その花を髪に挿して行きました。それも、行司から手渡されたのでもなければ、ましてやそれを受け取る際、現在、行われている手刀を切ったわけでもありませんでした。
また別の問題は、審判にありました。過去に復活・・させるために、審判の問題はどうしたのでしょうか?その答えとして、彼らに烏帽子をつけさせました。相撲節会には審判に当たる者がおらず、唯一真似できる人物は、宮廷の庭に座っている(出居(いでい))でした。
審判はえんじ色の(すおう)をつけ、いつもと同じように土俵下に陣取りました。審判の人数は、江戸時代に審判が生まれて以来、変化してきました。昭和5年(1930)審判が土俵下に座り始めるようになった頃、その人数は5人と定められました。この規定が最も新しく、古式大相撲でも、この人数が採用されました。
相撲における呼び出しもまた、比較的新しい役割です。呼び出しという言葉が最初に記録されているのは、江戸末期のことで、最終的に確立されたのは19世紀後半のことです。江戸時代初期の頃のその役目は、行司の役目と区別がつきませんでした。
タッツケ袴と呼ばれるその興味深い服装は、江戸時代には専ら旅装として用いられたり、動きの多い下人が着けたもので、ポルトガル語のカルサオに由来するとも考えられます。しかし、古式大相撲では、呼び出しは烏帽子をかぶり、白い服装で現れます。
呼び出しの誕生は、土俵の出現と共にやって来ました。つまり、力士の名を呼び上げたり、土俵を作ったり、 その世話をしたり、太鼓を叩いたりする人手が入り用だったのです。
こうした役目は、相撲節会においては何ら必要ありませんでした。しかし、古式大相撲では、呼び出しは相変わらず土俵の掃除をし、塩と力水のそばを離 れませんでした。古式大相撲では、呼び出しは、相撲節会における(唱名ふしょう)と名を変えました。結局のところ、相撲人の名前をどうやって天皇に伝えたのかは、はっきりとわかっていませんが、古式大相撲において、力士の名前は、行司によって大きな声で呼び上げられました。
この日には、また別の儀式がとりおこなわれました。例えば、三段構え、神相撲などですが、これらもまた同様に、今まで申し上げたように、非連続性の観点から分析することができます。
古式大相撲は、新しい儀式を設定するための実験でした。この分析を通してみると、相撲における多くの儀式は、実質的に、望ましいものの集合体であり、望まないものを消去することで生まれました。出羽海理事長は当時、こう述べています。
「色々説はあるのですが、それを取捨選択して、一つの形にしたわけです。これを今後の基本にするつもりでいます」。
結論
相撲節会を思い起こすことと、それを現在の相撲と合体させるために、混合させることとは別問題です。まず、相撲協会が独占している相撲は、国技の名称を継承していくためにも、「古くからのものであること」を必要としています。しかしながら、もし相撲節会を、従来語られてきたように表現すれば、そこから得るイメージは現在の相撲とはかけ離れてしまいます。その代わりに、常に現在から端を発しながら、相撲節会との虚構のつながりを探すのです。様々な儀式と結びつけ、色々なシンボルを挿入し、登場人物を他の登場人物にすり替えたりすることで、現在の相撲が古来から存続しているように見せるのです。こうして混成された儀式に、(古い)または(古式)という冠がつけられます。
 
国家神道

 

国家神道の前段階・一
歴史に関するテーマですから最初のところから始めたいと思います。と言いますのは国家神道は僕の感覚では1884-1890年当たりから存在して、その前に二つの前段階があったと考えます。1868年つまり明 治元年から、いきなり国家神道になったわけではありません。最初の前段階と言いますのは、明治元年から明治4-5年までで、神道をそのままに国教にした時期です。神道の思想を国家が受けて、神道の要求する立場を神 道に与えた時代です。完全なる国教でした。神道を国教にするために、まず元の神道を復活させる必要があり、仏教的要素を排除する必要がありまして、神仏分離を行いました。その神仏分離は実際の問題として、廃仏策に発達したところが多いのですが、それはど うやら政府の意思によるものよりは、地方の行き過ぎ、政府の意思の誤解とか色々な要素があって、政府は意識的に仏教を圧迫しようという気配はあまりなかったようです。勿論政府の中にある神祇宮は別ですが。ただ政府 の政治的部門にはそういうつもりはなかったと私は思います。しかし仏教を守ろうとする気持ちもなかった、仏教はどうでもよい、ともかく邪魔物ですから切り捨てようという感覚でやったように思います。
最初に神仏分離が行われて、またそれと平行して神道を国教とする具体的な現れとしては、明治元年からの神道に関する最高官庁の経歴なんですが、最初に神祇事務課が設立されまして、政府には七つの課--今の省に相 当するもの--があって、その第一位を占めたのが神祇事務課です。それは間もなく局と改名されて神祇事務局になって、総裁局の後の第2位に位置付けられました。明治2年の神祇官制度では、神祇宮は太政営と並んで最 高の権威を占めたのです。その繁栄の時期は約2年半くらい続いて、格下げになって神祇省を経て、教部省になったのですが、その繁栄の時期が示しているのは、神道の思想が国家に精神的基盤を与える、祭政一致の精神を 実現する、という思想の現れだったと思います。官庁だけではなく、神社は明治4年には世襲制の社家を廃止して、神社には「国家の宗祀」という性格を与えました。国家の宗祀とは国家の祭式・国家の儀式を行う場所という意味ですが、国家の宗祀という性格を与えて、 その性格は1945年まで続きました。再び排除されることはありませんでした。もっと前からなんですが、神主も官僚化されました。官僚化は格上げを意味するだけではなく、その代償も高かったと思います。つまり官僚となれば元々神主でない人も神主になりうるし、また転勤にもなります。神道の 場合にその地方別の習慣・慣習、やり方、柏手を3回か2回か、あるいは8回打つか、など場所によって違うのですが、そういう地方性の高い宗教の場合は、神主さんが転勤となると宗教色が薄れるという心配だけではなく、 実際にその弊害もありました。又は統一的な官僚主義の感覚で、幾つかの伝統的な神職の類が廃止になりました。例えば明治まではいた祝(はふり)がいなくなりました。今は宮司・禰宜・主典・宮掌しかないのです。神道の宗教性、宗教色、宗教と しての権威がそのために落ちたことは否定できません。一方国家の権威を借りて、権威を得たという側面もあって、そのプラス・マイナスを計算しますと、どちらの方が強かったのかは分かりません。しかしマイナスの面も あったということだけを強調したいと思います。そして一番重要な措置なんですが、明治4年の5月に神社を国家の宗祀にするという宣言をした日と同じ日に、社格制度を作りました。
その日に何もしなかったのは伊勢神宮で、伊勢神宮は格別なものなので法規は触れなかったのです。要するに伊勢はトップにあってその下に官幣大社・宮幣中社・宮幣小社、国幣大社・中社・小社、そして明治5年から小 社と同じランクで、天皇と国家のために頑張った人、豊臣秀吉とか湊川神社の楠木正成などをまつる別格宮幣社も加わってきます。後ほどの靖国神社はこの類です。宮幣社と国幣社は同格で、ただ順序としていつも宮幣社の方を先に並べます。月給も同じでした。その下に府県社があって府社・県社、最初は藩社もあったのですが、郷社、そして村社もその後に出来たのです。約2-3 か月後に郷社定則が出来、それによって氏子と郷社との関係に関する決まりが細かく出来、また氏子調べがされました。氏子調べとは江戸時代の宗教政策の延長で、ただお寺と変わって今度は神社に、各々の全ての日本人は どこかの神社に所属しないといけなくなりました。氏子調べはすぐ1-2年後に廃止されたのですが、しかし一度あったために全ての日本人は、神社への所属が明確になった。つまり神社ピラミッドに制度的につながったこ とになります。そうしますと国民の信仰が、最も下層の無格社や、村社から、ずっと伊勢まで導かれました。そして伊勢は皇室・政府につながりました。逆に上からのイデオロギーは宗教の面を通して、国民に浸透することになります。精神史・思想史にてらしてみると非常に上手く導くようにしたのです。それがこの時期の宗教政策の一番重要な点で、後々まで一番効果のあった処置でした。しかし神道をもって、つまり古代の概念をもって近代国家を設立しようという試みは、当然無理がありました。その精神的な力、イデオロギー的な力は神道にはありませんでした。
国家神道の前段階・二
政府には辞めるか改造するかの二つの選択があって、神道を改造することにしたのが、明治4-5年の宗教政策の改革の意味です。明治5年から神道を道具にして格下げさせまして、そして教えを中心とする宗教に改造し ました。そのために不完全な祭教分離・祭と教義の分離を試みて、しかし不完全に行い、祭祀を式部寮の管轄にし、またその時に以前にあった神祇宮の神殿が宮中に移り、今の宮中三殿の一つになりました。祭式統一の色々 な措置も行いました。祭祀は宮中または式部寮の行うところとし、残ったものつまり宗教的な側面を政府が定義して、その内容を政府が決めたのです。大教宣布運動の時代となります。大教宣布運動とは--当時神道、もっと正確に言えば祭政 一致の思想を大教と言ったのですが--これを国民に広げることでした。その大教宣布運動で教えたのは、宗教的なものだけではなく、一般道徳的なものも、または近代国家の基礎知識、例えば権利義務の概念、それはそれ までの日本にはなかったのですが、富国強兵のようなものも説教のテーマとなりました。つまり説教というよりは啓蒙的運動・宗教的道徳的政治的側面のある啓蒙運動でありました。全ての神主さんがその担い手となりまし た。しかし神職だけではなく、ついでに、力が足りなかったせいでしょうけれども、仏教の坊さんも全部動員され、さらには落語家など、話しの上手な人も使いました。この国家の定めた教え以外はどんな説教も禁止されました。仏教に対する政策の面で面白いのは、政府の定めた大教宣布運動の内容を伝えることは許されても、仏教的説法は禁止されたことです。仏教に対する以前の神仏 分離政策、廃仏棄釈政策よりも厳しくなったと思われます。仏教にとっては一見再び国家に関係が出来て、良い結果という解釈も出来るでしょうが、実際を見ますともっと厳しい政策になりました。こういうふうにして神道に教えを持たせ、それを神道の中心的なものにしようという試みでした。このような政策は1882-1884年まで続きました。82年とは神職と教導職の兼任が禁止になった年です。教導職 とは大教宣布運動の担い手です。そしてその2年後大教宣布運動の教導職そのものを廃止したのです。なぜ廃止したのかといいますと、一つに当然仏教からの反対が強かったからです。もう一つは神道が教法宗教ではない、 神道の性格に反した政策であったため、続くわけにはいかなくなったからです。大教宣布運動は成果を上げたか、上げなかったかという評価は下しにくいのです。文献を見ますと、著者によって評価が違うし、今更それを調べ る方法もあまりないでしょう。しかし、それを続けることが不可能になったという意味では失敗に終わりました。その後の継続性はありません。行き止まりとなって、政府は明治4-5年の宗教政策の改革に戻らざるをえなか った。といいますのは当時中途半端に行った祭教分離を、今度は徹底的に行いました。徹底的と言ってもしかし、完全ではありません。しかし以前よりも遥かに徹底的に祭教分離を行いました。一方で教派神道の独立を認めました。そうすると黒住教とかその類のものは、神道の宗教的側面の担い手を得ました。一方神社に対して説教とか葬式を禁止しました。葬式とは、すべての日本の学者が言うように、単に葬 式だけではなく、宗教的活動一般をさすと解釈すべきでしょう。神社には説教も宗教的活動も禁止になったわけで、前の説教宗教とは正反対の180度の方針の変化だったのです。しかし面白いことに、宮社と民社にわけるのですが、官社においては禁止、民社は禁止だけど当分の問はその限りに非ずでした。その当分の間とは1945年まで続いた。つまり基本的には禁止、しかし実際問題としては 認めようということです。当時の宗教政策の曖昧さゆえの有効なやり方の典型でした。神社のある機能が失われて、そのために格下げになったのは当然でしょう。しかし格下げとは国から遠ざかるのではなくて、却って国家ともっと密接な結びつきが出来たと解釈すべきでしょう。以前の神祇宮・式部寮・教 部省などの管轄は、今度はもっと多くの分野において、府県知事の責任になった。府県知事は大変近くにおり、実際的な事情が分かっているので、より権力者となる、そういう意味でさらに密接な関係が出来たと解釈すべき でしょう。
国家神道化の完成
そして1884年の教導職廃止の時からか、その6年後の教育勅語が重要な意味を持つようになったので、その時からか、完全な国家神道が出来上がりました。前段階の一番目は、神道を完全な宗教にして国教にした。こ れが明治元年から明治5年までです。2番目が5年から15年までで、教法宗教に改造した時期です。そして第3番目は82年と84年の改革です。または90年です。それ以後は完全な国家神道と言えるでしょう。その時までに体制は一応整っていました。確かに明治33年(1900年)には内務省にあった社寺局は二つに分けられ、一つは神社局で一つは神社以外の宗教を担当する宗教局となりました。これは教派神道も、仏教、 キリスト教等を担当する局です。そういう変換がありましたし、1940年には神祇院が出来ましたが、これらは二次的な問題で、基本的な性格は遅くても教育勅語から出来上がったと考えるべきです。教育勅語の意義に触れる必要もないと思いますが、何世代もの生徒が暗記して、色々な道徳的な項目を身につけました。内容は専ら儒教的ですが、しかしその道徳の基盤は皇室であり天皇であったのです。道徳を行うべき 理由はどこにあったのかは、天皇の良い臣民であるためであったのです。全ての道徳の基盤は天皇にあり、また天皇と臣民の関係は道徳によって結ばれます。国家神道と教育勅語の目的は全く同じですから、「教育勅語は国 家神道の聖書」という性格付けは、当たっているであろうと思います。国家神道の出来上がった制度とはどういうものでしょうか。それに触れる前に今日の関心から言いますと、国教への発展は計画的であったか、また偶然の成り行きであったか、を調べる必要があるのではないかと思います。
なぜ神道だったのか
その前に明治国家の基盤として、どうして神道を選んだのか。アメリカ人の神道の研究家のホルトムが言ったことは、次のようなことです。キリスト教はもってのほか、圧迫されて日本国民から不信感ばかりがあって国教 にするわけにはいかないし、仏教は堕落して儒教の方からも国学の方からも批判をされて国民から顰蹙をかっている、また江戸幕府との密接な関係もあって仏教も不可能、残るのは神道だけであった、と。確かに一理あると思います。しかしそれだけではないはずです。一番直接的で単純で大きな理由は、言うまでもなく天皇でした。明治維新は尊皇懐夷をスローガンに始まって、王政復古に変わり、最初から皇室を掲げて幕 府に対して戦ったわけです。最初から明治国家の基盤は天皇でした。伊藤博文は有名な枢密院における演説で--1888年の憲法会議を始めた時に、枢密院で基調演説を行ったものですが--その中身は、憲法には精神的 な基盤が必要である、西洋においては宗教である、日本にはそういう基盤がない、神道を含めて全部弱すぎる、そうすると日本において国家の基盤になりうるものは天皇しかない、そうはっきり言ったのです。それは1888年以後の問題ではなく、もっと前からのものでもあります。新しい国家の基盤は天皇だったのです。天皇の基盤は何処にあるのかは、言うまでもなく神道にあるのです。三種の神器を預かっているし、天照大神の子孫でも あるし、祭祀、特に新嘗祭・大嘗祭・祈年祭などを行うし、そういう側面なしには天皇は考えられません。その天皇の性格・天皇の権威を強化するために神道を強化する必要がありました。神道が明治国家の国教となったの は、必然的な結果でした。後で切り捨てることが出来なかったのは、天皇は相変わらず国家の基盤であって、天皇の支配の正当化のために宗教的な側面も必要でした。また図のピラミッドに戻りたいと思いますが、皇室とこのピラミッドとの繋がりは、伊勢神宮だけではなく、色々なところにあります。天皇が伊勢に参拝することは明治元年が最初のことで、それ以後はしょ っちゅう参拝することになりました。この繋がりを強調し、皆にわかるようなものにしました。その繋がりの一つが伊勢神宮です。又は古代の平安時代にもあった勅祭社、皇室は特定の神社に供え物を送る制度を復活させま した。そして別格宮幣社、天皇のために頑張った人を祭る神社という新しいカテゴリーを作りました。さらに、全ての神社のランクにおいて天皇を祭る神社--平安神宮、明治神宮、橿原神宮等--―を新しく作りました。それらは以前にもあったのですが、ある程度組織的に、このような神社を作ったのは明治になってからのことです。このピラミッドと天皇との繋がりは色々なところにあって、勿論神社そのものとの繋がりもありました。
国家神道形成の誹画性
神道は必然的な成り行きで国教になり、国家神道が出来上がったのですが、その計画性において、さっき言いました明治4-5年・明治15・17年の二つの宗教政策の変革を見ますと、かなり極端な変革でした。計画的 にやればこのような変革が起こるはずはありません。神社の最高官庁を明治元年1月17日に神祇事務課、2月には神祇事務局にしています。明治元年閏4月には神祇宮だったのが、明治2年には新しい神祇宮、明治4年に 神祇省、明治5年に教部省です。そのときには仏教も採り入れて他の宗教も管轄することになりました。明治10年に教部省が廃止されて、内務省の社寺局になり、この社寺局は明治33年に二つの局になっています。とにかく移動が余りに多くて、またその官庁の位の変化も激しくて、計画的とは見えません。明治4年の社格制度を図示して紹介したのですが、明治4年の前にも色々な社格に準ずる社格みたいなものがありました。勅祭 社・準勅祭社・神祇宮直支配社等がありました。しかしこういう制度をさらに発展させることなしに、明治4年に新しいスタートをやったのです。氏子調べは明治3年の9月に仮の規則が出来て、明治4年の4月に本格的な規則が出来、2年後に廃止されました。これも計画的とは思えません。まして最初から矛盾をはらんだ政策でしたから。まとめますと一つの計画性があって、これを組み立てようとか国教にしようとかいうことは、まったく見当たりません。しかしコンパスのような方針が大体頭の中にあって、ある程度の政策を取って、方向が間違ったこと に気がついた時に訂正をしたということでしょう。コンパスはあったが、マスタープランは無かったと思います。
国家神道の定義
国家神道の本質と国家神道の性格はどこにあったのでしょうか。まず言わないといけないのは、ドイツ語の スターッ神道」、また英語の「ステート神道」という単語が、戦前の国家神道の時代にはありましたが、日本 語で「国家神道」という単語は殆どなかった。確かに豊田武の1930年代に書いた「宗教制度史」には、国家神道という単語はあるにはあるが、これは稀な例であって、一般的に使われるようになったのは、戦後の1945年の12月の神道指令からです。神道指令でも国家神道の定義がなかったらしく、「ステートシントウ、神社神道」と並列的に使って、神社神道を禁止するつもりはなかったらしいのですが、国家神道の定義がなかったので、しかたなくそう書いたのでし ょう。国家神道という単語はなかっただけではなくて、国家神道という概念も日本にはなかったように思います。これは非常に重要なことです。それは現在から見てどういうものだったのでしょうか。いままでちゃんとした定義は、なかったといえます。描写はあっても、定義は僕は見たことがない。まず国家神道を捕らえようとする場合に、困るのは神道には色々 な類があることです。神社神道・家族神道・皇室神道・教派神道その他です。その片一方の神社神道は国家神道で、教派神道はそうではない。そういうふうに分けようと思っても中々難しいのです。例えば神社神道と言っても下の方の稲荷の信仰は、国家神道的性格が薄い。また逆に上の方の伊勢神宮の場合でも、個人的な宗教的側面もまだある。完全に分けるわけにはいかない。教派神道にせよ、確かに天理教のよう な純粋宗教的なものもあったのですが、大教宣布運動の本部であった大教院が分かれて、その神道側の跡継ぎの管轄機関としての神道事務局が廃止されてから、神道教派を作ったのです。新しい神道教派です。名前は神道で あった。教派神道ではあるのですが、元々そういう性格でしたので国家神道と関係がないとは言えないでしょう。つまり神社神道は国家神道で、教派神道はそうではないなどとはとてもいえないのです。一応形式的に定義をしてみますと、「国家神道は神道の国家と関係がある側面の個々の現象を総括した概念である」。この形式的定 義と並べて内容的に言いますと、「国家神道は皇室神道と神社神道を基盤として構築された国家的祭式の体系であり、それに付属した制度的基盤及び教学上の上部構造を含む」とこのようになると思います。教学上の上部構 造とは専ら教育勅語などをいいます。
国家神道の宗教的感党
国家神道が効果・効力を持つ条件として、1882年に宗教的側面と祭祀の分離が行われて、宗教と祭祀を分離したのが一つ。もう一つはこの分離は本物ではなくて擬制でした。この二つの条件が前提でした。完全に分離 したのなら、効果が上がらないでしょう。あまりにも密接な関係が続くならば、皆そういう擬制を見抜いて効果が上がりません。擬制と言ったのは最後まで府県社以下の民社も国家の宗祀という性格をもっていたからです。宗教的感覚や概念は全て同じです。説教が禁止されたとは言え、学校教育で歴史の時間に、天照大神以降のものを歴史として覚えさせたのですから説教をしなくても済むのです。もう一つは特に民社で宗教的感覚が育てられて、同じ御祓をどこで受けても、効果は同じで感覚は同じです。説教・説明をしなくても済むのです。ここは神道の凄い強さの前提だったと思いますが、感情だけに訴えて理屈 は一切言わない。そして神道は宗教ではないという理解に苦しむ理屈を、権力をもって通した。そうすると宗教でなければ他の宗教との相対化も不可能です。絶対的なものになったのです。理屈を言わないので反論も出来ない。反論をしようという気持ちも起きてこない。しかも宗教心という感覚は、持たない人もいるでしょうが、大体の人が持っています。そして儀式は直接に感情・感覚に訴えて、反論もない ので、効果をもったのは当然です。そして最低限の知識は宗教的側面、つまり民社や学校で身につけるという上手い絡み合いがあり、効果を持たざるを得なかったでしょう。非常に上手く出来た制度である。上手く出来たと 言えば、言い方が悪く、悪気があってずるく、そういうふうに作り上げたというふうに聞こえるでしょうが、そういうつもりで言っているわけではありません。長い発展の結果としてこうなったので、いつも修正を上手くや って、行き過ぎもあまりなくて、非常に力があり非常に上手に発展した制度であるといえます。その場合に宗教的側面と非宗教的側面の距離が重要なものだったのです。分けているようで分けていない、だけど距離を適切に した。これも一つの前提であったのです。さっき言いました82年のところで説教は禁止、しかし民社の場合、当分の間その限りにあらずという措置は、とても適切であったと思われます。国家的神道とそうでない神道、具体的には内務省の神社局と宗教局の管轄の違いですが、それをもって神道を分けた印象を与えたのですが、勿論そうではありません。神道は国家の範囲に含まれるものと、国家にはあんま り関係がないものと一見二つに分けていて、しかし、実は神道は相変わらず一つのもので、神道そのものは二重性格を持つようになりました。しかしこの上手く出来た、強い効果の条件は、その弱さの条件でもあったのです。と言うのはその性格は非常に曖昧で、色々な矛盾の絡み合いに基づいていたわけです。把握したり理解することは出来なくて、定義をする ことも出来なくて、動かすことも出来なくなります。国家にとっても誰にとっても。もう一つは国家との関係が余りにも密接で、独自の立場がないことです。つまり明治5年から道具として使われて、独自の発展を国家が許さなかったため、自分の哲学、自分の感覚、自分の価値観をもっていません。独自 の性格・哲学はなく、国家と非常に密接な関係にある。ヨーロッパにおいて教会が力を発揮出来たのは、国家と別の立場があって、その立場に立って国家を動かそうとしたのです。それが良いというのではありません。ただ、 国家を動かすためには独自の立場が必要です。密接に抱きついて国家を動かすことは不可能です。逆に国家から言いますと、神道はちっぽけなものではないのです。大きな存在で伝統のある、動かしようのないものです。国家も神道を動かすことができなければ、神道も国家を動かすことができない。その結果として共 倒れです。共倒れというのは言うまでもなく第二次世界大戦に走ったということです。
国家神道の機能
それを具体的に言いますと、国家神道の果たした機能はどういうものだったでしょうか。一つは天皇支配の正当化です。しかし天皇は自分であまり決定を行わなかったのです。決定をしたのは政府であって天皇ではありま せん。しかし政府は誰に対して責任があったかと言うと、天皇なのです。天皇はなにもしない。そうすると天皇の支配の正当化はそのまま、しかも盲目的にどんな政権でもよく、時の政権の正当化となります。自分の価値体 制は成り立ちません。もう一つ、国家神道の持っていた神国思想は非常に面白いものです。伝統的な「国家」の定義とは、国土があって国民があって支配があるという、三つの要素があれば国家があるということですが、これを日本に当てはめ ると国土は神によって生まれ、国民も神によって生まれ、支配は天照大神の命令によって天皇が行うという具合に三つの要素ともに神様に由来するわけです。まさに神国であるのです。この神国思想が国粋主義に繋がったこ とは当然だし、八紘一字に繋がったことも当然でしょう。八紘一字は別に侵略的な要素ではなくて、日本が当然のこととして日本に与えられた地位を占めようとする。そしてそういうことを他の国々が当然のこととして認め ないといけない、そういう悪気のない感覚だったと思います。三つ目の機能は、国家的義務と宗教的義務を同一にしたために、国民の思想的統合の機能も果たしたことです。僕がドイツ語で考えたことの、下手な日本語訳なんですが、「磁気をかけるという精神的機能を国家神道が果た しました。その結果、神社に参拝しなければ非国民になるのです。この三つの機能と、その悪い結果は必然的なものではない。国家神道が出来てからも第二次世界大戦時、またその以前の専制主義もあれば、もっと前には大正デモクラシーもあった。国家神道はあの結果をもたらしたとは いわない。言いたくもありません。しかし日本がそういうふうに走るようになった時に、妨害する物を設けなかっただけではなく、寧ろ進める方に力をなした。決定的な要因ではなくて、強調要因として働いたと思います。
国家神道の現在
これは全部過去の歴史についてのものであって、現在についてはどういうことが言えますでしょうか。まず現在にとっての意義です。明治時代と同じように、非計画的に幾つかの処置が取られる、また取られそうになる。例えば伊勢神宮への参拝は佐藤首相が始めた習慣で、大平首相でさえも逆らえないほどの伝統になった。今、不思議なことにマスコミ は全然騒がない。靖国の場合は騒いで、伊勢神宮の場合には既成事実があるために、誰も何も言わない。ましていつも報道されるのは、首相は政治に関してどういうことを言ったのか、行ったことに対してではなくて、その 発言を報道する。そうすると神道の立場から言うと、首相は伊勢神宮に参拝して、伊勢において国政を語る。神に対してではなくて新聞記者に対してだが、その方向の違いさえ見過ごせば、一番理想的です。伊勢神宮におい て国政を報告する。これは祭政一致の実現ではないかと思われます。靖国問題もいずれその法案の実現になるかどうか、それは進行中の問題ですが、しかし靖国で言えばいささか呆れたというか、腹が立ったというか、明治時代とまったく同じ論じ方があります。明治時代では「神社は宗教 に非ず」だから…‥というわけです。靖国法案の第一条だったか第二条だったか忘れましたが、靖国神社は宗教施設ではないと明確に規定しています。もうそろそろ新しい考えを思いついて欲しいのですが、明治時代と全く 同じ論じ方で、同じ結果をもたらそうとするわけです。次に皇室の祭式ですが皇霊祭・新嘗祭等には、首相、参議院・衆議院の議長等が出席します。ただしプライベートな資格です。肩書で呼んで、プライベートの資格で出席をするなんて、ちょっと不思議な現象なんですが、 それもいままで批判を呼んだことがない。靖国の場合はニュースになりますが、皇室の場合はタブーみたいです。この幾つかの現象の復活が、しかも明治時代と同じやり方で見られます。もう一つの現在的意義というか、どうして国家神道は勉強に値するのかと言うと、今の指導層がどういう意識を持つのか見えてくるような気がするからです。例えば靖国神社の場合に、すぐに話題になるのは軍国主義とい うことです。僕はそれは信じない。軍国主義は問題ではないと思うのです。いくら今、約6%の成長率を目指して、防衛費がGNPの1%を突破したとか言っても、今の世界情勢の中で、軍事大国になる力もなければ、地理 的条件も整っていないし、気質にも含わないし、軍国主義はナンセンスと思います。しかし何が問題になるのか。神道は集団、元々個人ではなくて、共同体の宗教ですから、集団主義を助長し、国民の生活感覚を統合させる、 まさにこの統合させるという意味で効果的である。今の政府がこのように色々な処置を取るのは、この目的というか、目的と言ってもマスタープランがあるのではなく、コンパスがあって、そういう目的でやっているのでは ないかと思います。いささか言い過ぎがあったかも知れませんが、僕は分析だけ述べたつもりです。最後も分析です。第三者、つまり日本人ではない人として、日本の事情を眺めますと、今の政教分離制度、国家神道のために出来た厳しい分離制度--国家は一切宗教活動をやってはいけません。宗教活動のために税金を 使ってはいけない。憲法第20条・第89条です。--この厳しい分離制度は実際問題として厳しすぎる。最高裁が言ったように、宗教にも社会的側面も外的側面もあって、完全に分離することは不可能です。厳しすぎるた めに非現実的です。そのために問題がしょっちゅう出て来るわけです。つまり信教の自由の目的のために、ある程度の関わり合いを認めた方が良いのではないかという考え方もあるのです。例えば伊勢の近くの津市の地鎮祭を例といたしますと、体育館を建設しようとした時に地鎮祭を行った。町や市は公の金を使って宗教的活動をする。これは明らかに憲法違反であろう。市議会の議員が訴訟を起こして最高裁まで行ったのですが、その結果として合憲である、憲法に違反しないという結論が出てしまいました。訴 訟を起こさなければ、曖昧な状態が残った。起こしたために事情がかなり変わった。戦術的には--また信教の自由のためにも--非常に下手だったと思います。君が代とか日の丸に対する反対意見もそうです。ドン・キホーテのように風車に対する戦いの印象があるのです。僕が不思議に思うのは、学校の儀式に国家がどういう関係があるのか。卒業したり入学式において、どうし て国家的要素が入るのか。それは分からないのですが、しかし反論としてよく読むのは、法律的基盤がないとかいう議論です。あれは別にあってもなくても、事実上、国歌・国旗であり、それに対してこのような理論をもっ て戦うのは、勝ちようがないし、逆効果をもたらすのではないでしょうか。最後に言ったのは意見表示に聞こえますが、もう一度繰り返して言いますが、これもまた分析のつもりで言いました。まとめますと、国家神道、つまり1945年までの状況を厳密に眺めますと、現在のいくつかの発展をより正確に理解することができるし、またそのいくつかの発展の間の関連性も見えてきます。なかなか面白いテーマです。
 
明治初期日本文学におけるマルチメディアの役割

 

概要
マルチメディア状況とメディアとその受容の変化に関して、日本近代の初期段階における二つの事例を示して問題提起とする。
第一の事例は、明治前期の新聞報道に関わる。小説の掲載は今日の日本の新聞の特徴の一つであるが、その習慣の起源は日本における新聞の成立から間もない明治初期に遡ることが出来る。「小新聞」(知識人に向けた政治的な主張を中心とする、大判で比較的高価な「大新聞」に対して、娯楽的な読み物を中心とする小型で安価な新聞)における雑報欄(いわゆる三面記事)の事件報道がシリーズ化した「つづき物」が新聞小説の起源とされる。事件報道が、物語化される
ことによって始めて読者にとっての可読性を獲得し、虚構化されることによって情報価値が高められたのである。報道された事件が、別の形式、別のメディアに翻案されるのは、「つづき物」だけではない。
明治10年前後には「新聞錦絵」が流行し、また事件が「つづき物」を経て「明治式合巻」として出版されることもあった。そこに見られるのは、新聞という新しいメディアが広範な読者を獲得していく際に、読者の在来のメディア・リテラシーに適合した物語の形式が召喚され、それが新しいメディアと読者を媒介する現象である。同時に、読者にとってお馴染みの物語の形式は、それに適合した古いメディアを呼び戻す場合もある。それは必ずしも古いメディアへの回帰ではなく、新しいメディア状況の中での古いメディアのリニューアルと言える。先の事例でそれにあたる「新聞錦絵」や「明治式合巻」は、その高度な視覚性が挿画というかたちで後の文学メディアに受け継がれていくことになる。そこでは新旧メディアが単に直線的に交代するのではなく、波状的な新旧の交代過程が、新旧メディアの融合を生じているのである。
第二の事例は、日清戦争後のメディア状況に関わる。日清戦争は日本の新聞、雑誌メディアを拡大させたが、そこには戦後のメディア縮小の局面の乗り切りという新たな課題が生まれた。その手段として浮上したのが読者参加型のイベントと連載小説であった。尾崎紅葉の「金色夜叉」は、明治三十年代の新聞を支えた「家庭小説」というジャンルの嚆矢となった。「金色夜叉」を始めとして、多くの「家庭小説」は舞台上演され、明治三〇年台後半には、その観劇ツアーが読者参加イベントとなる循環が出来上がる。そこには小説の「金色夜叉」は読んだことがないが、芝居の「金色夜叉」は知っているという読者群が生まれる。彼=彼女らは様々な舞台上演や、バリアント、翻案によるイメージを通して〈金色夜叉〉に触れる。それは直接の読者よりも大量で多層的な読者群であり、そこで受容されるのは「金色夜叉」と家族的類似性をもった〈金色夜叉〉である。読者群は〈金色夜叉〉に媒介されることによって、一つの読者共同体になる。そこでは、複数メディアの連繋が新しいコンテンツの領域と、それを受容する共同性を作り出している。
以上の事例は、インターネットや携帯電話が新しいメディアとして登場した現代社会を考える上で示唆的であるように思われる。

私の専攻分野は日本近代文学です。19世紀後半から20 世紀前半にかけての日本文学を主な研究対象にして、この時期に形成された日本近代文学の特徴を構造論的に明らかにすることと、文学を含めた当時の言説空間の特質をメディア論や文化研究の視角から明らかにすることを目指しています。そこで、本日は、マルチメディア状況とメディア・リテラシーの変容に関して、日本社会の近代化の比較的初期の段階における二つの事例を示して、コロキウムの主題にかかわる問題を提起したいと考えています。
第一の事例は、明治前期の新聞報道にかかわる事例です。ほとんどの有力新聞に小説を掲載する場所が確保され、毎日少なからぬ読者が事実の言説と並行して虚構の言説を読んでいることは、今日の日本の新聞の大きな特徴の一つです。そのような習慣の起源は、日本における新聞の成立から間もない明治初期に遡ることができます。「小新聞」(紙面の中心に知識人に向けた政治的な主張があり、大判で比較的高価な「大新聞」に対して、娯楽的な読み物を中心とする小型で安価な新聞)における雑報欄(いわゆる三面記事、今日の社会面)の事件報道がシリーズ化した「つづき物」が新聞小説の起源とされます。事件報道という情報が、物語化されることによって始めて当時の読者にとっての可読性を獲得し、情報の速度や正確性をあえて犠牲にして虚構化されることによって、その情報価値が認証されたのです。新聞に報道された事件が、別のメディア、別の形式に翻案されたのは、「つづき物」だけではありません。明治10年前後には、新聞記事の内容を多色刷りの一枚物の木版印刷物として出版する「新聞錦絵」が流行します。また事件が「つづき物」をへて、木版画をメインにした絵入り読み物のシリーズである「明治式合巻」(近世の草双紙合巻に相当する出版物です)として出版されることもありました。さらには、浪花節のルーツとされるちょぼくれ、口説節、祭文、演歌などのオーラル文芸、民衆芸能に翻訳されていきます。
原田キヌの事件
〔事件〕 明治5年2月20日 原田キヌ、主人の金貸し小林金平毒殺の罪で斬首、さらし首となる。/〔新聞報道〕 明治5年2月23日 東京日々新聞 捨札の内容を報道/〔新聞錦絵〕 明治7年8月および10月 (嵐璃鶴の出獄)/〔続き物〕 明治11年5月28日- 「さきかけ新聞」 雑報欄 「毒婦阿衣の伝」/〔合巻〕 明治11年6月-11月 「夜嵐阿衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)」
高橋お伝の事件
〔事件〕 明治9年8月27日 高橋お伝、古着商後藤吉蔵を殺害し、逮捕。明治12年1月31日 処刑。/〔新聞報道〕 明治9年9月12日 「かなよみ」などの各紙 → 明治12年1月31日 「東京絵入新聞」など/〔続き物〕 a 「東京絵入新聞」「毒婦お伝のはなし」明治12年2月(16回、挿画つき連載) b 「かなよみ」「毒婦おでんの話し」(仮名垣魯文)明治12年2月1日-(2回で中絶) c 「東京新聞(東京さきがけ)」「其名も高橋毒婦の小伝・東京奇聞」(岡本起泉)明治12年2月-4月/〔合巻〕 b 「高橋阿伝夜刃譚」(全八編)明治12年2月-4月 c 「其名も高橋毒婦の小伝・東京奇聞」(全七編)明治12年2月-4月/〔歌舞伎〕 「綴合於伝仮名書筋書」(「歌舞伎新報」明治12年5月15日・30日掲載)/〔新聞錦絵〕 「東京各社撰抜新聞」 明治12年5月10日/〔口説節〕 「たかはしおでんくどき」 明治13年5月
花井お梅の事件
注1 明治19年(1886) 「読売新聞」が小説欄を開設。/注2 明治20年(1887) 判決確定前の事件報道・上演が禁じられる。
ここに見られるのは、新聞という新しいメディアが読者にその意義を認められ、より広範な読者を獲得していく際に、読者の在来のメディア・リテラシーのあり方に適合した内容の形式(少しおかしな言葉遣いですが、新聞というメディアによって流通する情報には、その内容と不可分なかたちで、それを構成する一定の形式、すなわち話法や論理のパターンが想定できます。それをここでは「内容の形式」と呼んでいます。「仇討ちもの」「お家騒動物」などの話型がその典型です。)が召喚され、それが新しいメディアと読者を媒介するという現象です。しかしながら、読者にとってお馴染みの「内容の形式」は、さらにそれに適合した古いメディアそのものを呼び戻す力となる場合があります。もちろん、それは必ずしも古いメディアの直接的な回帰ではなく、新しいメディア状況の中での古いメディアの新発見あるいはリニューアルと言えるものです。先の事例では、「新聞錦絵」や「明治式合巻」がそれに当たるのですが、その高度な視覚性は、挿画というかたちに変形されて、この後の文学メディアに受け継がれていくことになります。したがって、そこでは新旧のメディアが単に直線的に交代しているのではなく、揺り戻しを含んだ新旧の波状的な交代過程があり、新旧のメディアの共時的な併存による諸メディアの部分的な融合が生じているのです。
注目すべきことは、新聞がマス・メディアとして確立する過渡的な状況において、新聞が報道するニュースの情報価値が、別の在来型のメディアによって認証されるというプロセスが見出されることです。そこでは、マス・メディアを基軸に均質化された情報が諸メディアを覆い尽くして、支配的な社会的言説が単一的に構成されるという事態は生じていません。確かに、例えば「毒婦もの」のような共通の話題が様々なメディアを連接させる事態は生じているのですが、必ずしも均質的な大きな物語が諸メディアを覆い尽くしているわけではありません。それぞれのメディアでは、それぞれのメディアの特質に従った話題の形式的な加工が行われ、それがメディア間で相互にフィードバックし合うという現象が生じているのです。したがって、複数のメディアが流通させる単一の話題は、一方で一つの大きな物語を構築する力となっているとしても、同時に、相互的な差異を浮かび上がらせ、物語の多面性、多層性を構成しているのです。このことは、今日のマルチメディア状況の中で生み出される物語の均質性を考える上で示唆的です。
第二の事例は、日清戦争(1894)後のメディア状況にかかわる事例です。戦争はマス・メディアを肥大させるという通説にたがわず、日清戦争は日本の新聞、雑誌メディアを大きく拡大させました。しかし、同時にそれは戦後におけるマス・メディアの縮小局面の乗り切りという新たな課題の発生を意味します。明治期の日本の場合、戦後状況を乗り切る手段として浮上したのは読者参加型のイベントと新聞連載小説でした。戦争の後には文学の季節が来るのです。明治期を代表するベストセラーである尾崎紅葉の「金色夜叉」は、徳冨蘆花「不如帰」と並んで、明治三十年代の新聞を支えた「家庭小説」というジャンルの嚆矢となりました。
「家庭小説」とは、家庭の読み物として、それ以前よりも広範な読者に対応できる小説(当時、そのような小説は「社会小説」とも呼ばれました)を求める声に応じて出現したもので、その多くが現代の上流家庭を舞台に、若く美しく聡明な妻が、夫との愛情関係を唯一の支えに、家をめぐる古い因習や病などの困難にたちむかうというストーリーを持っています。紅葉の「金色夜叉」を始めとして、多くの「家庭小説」は舞台上演され、明治三〇年台後半(日露戦争の時期です)には、その観劇ツアーが新聞の読者参加イベントとなって新聞紙面を賑わすという循環が出来上がります。観劇は、当時日本に始めて登場したデパートによって導入された消費的な欲望のあり方と結びつきます。同一平面の上で様々なモノを比較しながら見ることが、それらのモノを所有する見られる自己像に反転して(ウインドウ・ショッピングの構図です)、見られる主体としての欲望を喚起するという構図が両者に共通すると同時に、より直接的な意味で劇場はデパートのウインドウとして機能するのです。小説・演劇・新聞というメディアミックスが、デパートに典型的な消費的欲望という共通の土台の上で実現するのです。
家庭小説と演劇とデパート
「金色夜叉」の様々なバリアント
そのような状況の中に生まれるのは、小説の「金色夜叉」は読んだことがないが、芝居の「金色夜叉」は知っているという読者群です。様々な台本によって上演される「金色夜叉」や、勝手に出版される続編などの様々なバリアントや、新体詩や演歌に翻案される「金色夜叉」の名場面、絵画やキャラクター・グッズに表現される「金色夜叉」のイメージを通して、小説とは別の〈金色夜叉〉に接している多数の読者群が生まれるのです。それは明らかにベストセラーとなった「金色夜叉」の直接の読者よりも、さらに量的に大きく、質的に多層的な読者群であり、そこで受容されるのはもはや小説「金色夜叉」ではなく、それと家族的類似性をもったイメージの総体としての〈金色夜叉〉なのです。読者群はそのような〈金色夜叉〉に媒介されることによって、一つのまとまりを持った読者共同体になるのだと言ってもよいでしょう。ベネディクト・アンダーソンが言う意味での「国民」です。ここでは、複数のメディアの連繋が新しいコンテンツの受容される領域を生み出し、それを受容する共同性を作り出しているのです。
「金色夜叉」に代表される「家庭小説」がマルチメディア的な展開を見せることは、一つの話題が複数のメディアで変奏されるという意味では明治前期の「毒婦もの」の場合と同じですが、その変奏の果たした機能においてはきわめて対照的です。「毒婦もの」の変奏は、新しいメディアの媒介する情報の価値が確立していない段階で、在来メディアでの可読性を経由することで新しいメディアの情報価値を発見する媒介となりました。メディア毎に展開される全く違う話が、逆にメディア間での個別的な翻訳可能性を浮上させたわけです。それに対して「家庭小説」の変奏の場合、メディア間の翻訳可能性は既に自明の前提となっており、個別的なメディアを超えた場所に意味領域が構成されたことに注目する必要があります。それが可能であったのは、日露戦後の日本社会がいわば消費社会の初発期に到達しており、読者の消費的な欲望が単一の意味領域の構成の台座となったからではないでしょうか。ここには、マルチメディア的な状況が、個別メディアを超越した普遍的意味領域に短絡してしまい、単一的で均質的な意味を反復的に自己認証する場となっている現代社会の状況の萌芽が見出せます。
以上の事例は明治期という日本の近代の始めに見出せるものです。しかしながら、マルチ・メディア状況が新旧のメディアを媒介しながら新しいメディア・リテラシーを形成すると同時に、メディアの形態そのものに影響を与える過程や、マルチ・メディア状況が新しいコンテンツの領域を生みだし、それを受容する読者群に共通の基盤を与える過程は、インターネットや携帯電話が既存の文化を根本的に変容させる可能性を持った新しいメディアとして登場した現代社会を考える上で示唆的であるように思われます。また、現代のマルチメディア状況の中での、意味生産の多様性と均質性の関係も、歴史を鏡としながら検討すべき問題であるように思えます。
 
神馬 / 横光利一

 

豆台の上へ延ばしてゐた彼の鼻頭へ、廂から流れた陽の光りが落ちてゐた。鬣が彼の鈍つた茶色の眼の上へ垂れ下ると、彼は首をもたげて振つた。そして又食つた。
肋骨の下の皮が張つて来ると、瞼が重くなつて来て、知らず知らずに居眠つた、と不意に雨でも降つて来たやうな音がしたので、眼を開くと黄色な豆が一ぱい口元に散らばつてゐた。で彼は呉れた人をチラツと見たきり、鼻の孔まで動かして又食つた。いくら食つても、ウツラウツラとしてゐる中に腹の皮がげつそり縮つてゐた。彼は食ひ倦きると、此の小山の上から下を見下ろした。
淡紅の蓮華畑や、黄色な菜畑や、緑色の麦畑が幾段と続いてゐた。そのずつと向ふには、濃い藍色の海が際涯しなく拡つてゐて、その上を水色の空が恰も子守りでも命ぜられてゐるかのやうに柔く圧へてゐた。彼は豆台を飛び越えて走りたくなつて来た。が又豆がパラパラと撒かれると何もかも忘れて了つた。一間程前で、朱の印を白い着物中にペタペタ押した爺が、檜傘を猪首に冠つて、彼を拝んでゐた。彼はその間ムシヤムシヤ頬張つてゐた。顔を揚げると、傍で小僧が指を食はへて、不思議さうに彼を見てゐた。
(何て小つぽい野郎だらう。だが此奴は呉れよらん。)彼は眼を爺様にむけた。爺は拝み終へて子供の頭を圧へながら云つた。
「さあ、さあ、拝まつしやれ。そんなに見たら眼がつぶれるぞ。」
子供は圧へられてゐる頭の下から未だ彼をジロジロ見てゐた。軈て彼らは去つた。
(阿奴ら変梃なことをしやがる。何をしやがつたんだらう?)
急に臀部が気持ち悪くなつた。彼は下腹に力を容れた。そして尾をあげるとボトボトと床が鳴つた。瞼が下りかけた。と石段を辷つて地べたの上を音もたてずに、すばらしい勢で走り過ぎた小さい影を見た。何かしら? と思つて過ぎた方をよく見ると、高い空で鳶が気持ちよささうに輪を描いてゐた。
(何だ、鳶か俺は又牛虻でも来やがつたのかしらと思つたら)そして彼は又眠らうとしたが、木の影から黄色な鯉が竿の尖端に食ひついて遊んでゐるのが眼につくと、それを瞶めてゐた。広い道が畑の間を真直に延びてゐた。首を振り乍ら歩いてゐる馬や、唄を歌つてゐる頬冠りした人間や、車等が沢山往つたり来たりしてゐた。
(出て歩きたいな)と思ふと、両側の柱から垂らして口もとで結んだ縄を噛み切りたくなつて来た。と何日か二三度逃げ出た時、三四日の間一食もくれなかつた苦痛を思ひ出した。
(あんな目に合せやがる―)彼は首を振つた。風が吹いて来た。前の榊の枝がざわついた。下の道に白い塵埃が舞ひ立つて人も車も馬も飲み込まれた。鯉は竿に縋り、ガランが激しく鳴つた。塵埃が向ふの山の麓の方へ走り去ると又静になつた。そして暗くなつた山の峰が直き明るく輝いた。蓮華畑の横で女の子らが寝転びながら摘草をしてゐる。他の二三人は麦畑の中で隠れんぼをしてゐる。見つかるとキツキツと云つた。お転婆らしい。掘り返した畑で大分腰の曲つた男が肥料を撒いてゐる。白い煙を吐いた下り列車が山際をノロ/\這つてゐる。石段の方から鈴の音が響いて来た。彼は急いで首をその方に向けた。赤銅色にギラギラ光つた顔の男が長い杖をつき乍ら下りて来た。男の顔には鼻がなくて真中に小さな孔が二つ開いてゐるだけである。
(妙な野郎、呉れるかしら?)が男は彼れを見るのは見たが、素通りした。
(あかん。おや! 又来たぞ)下から下駄を叩きつけるやうなあわたゞしい音がして来た。
(駄目駄目。奴は毎日通る奴だ。)
直ぐ下の方が又喧しくなつた。暫くすると五十人余りの子供らが教師に連れられて上つて来た。彼の前で教師は子供らを些よつと止めて説明した。
「皆さん。この馬は、日露戦争に行って、弾丸雨飛の間をくゞつて来た馬であります。馬でさへ国のため君のために尽して来たのでありますから、皆さんは猶一層勉強をして、国家のために尽さねばなりません。」
子供らは口をポツクリと開けてみな彼を見てゐた。誰も顔をほてらしてゐる。
(あいつらは何だらう俺をジロジロ皆見やがる。だが呉れさうもない)そして彼は食ひ残した前の五六粒の豆を拾つた。子供らは又饒舌くりながら、塵埃を立てゝ石段を昇つて行つた。彼は食ひ物がなくなると、何かそこらに落ちてゐないかと思つて、あたりを見廻した。が何もなかつた。眼の前の箱にもつた豆を食ひたいが口がとゞかぬ。つと榊の下に捨てゝあつた黄色な橙の皮に眼がついた。
(何だらう、あれや?)彼は色々考へてみたが遂々分らなかつた。然れ共食ひ物に違ひないとだけは思つた。そして妙に気にかゝつてならなかつた。(食ひたいな)
その時遠くの方から馬の嘶声が聞えた。彼は刺されたやうに首をあげて耳を立てた。
(おや! あれや牝馬の声だぞ。)もう橙のことを捨てたやうに忘れて了つて、猶じつと聞いてゐた。(牝馬だ。牝馬だ)迅速な勢でギユーと何かしら背骨を伝つて下へ走つた。彼は前足を豆台の上へ乗つかけて飛び出ようとした。両側の縄がピンと張つて口をウンと云ふ程引いた。で彼は直ぐ足を落ろした。頭の中がガーンと鳴つてゐた。狂ひ出しさうになつた。で後足に力を込めて、無茶苦茶に床板を蹶つた。社務所から男が来て彼を鎮めた。それでも未だ馬舎の中で立ち上つたりした。頭がはつきりした時には、牝馬の嘶声が聞えなかつた。彼はその方にじつと向いてゐた。
淡藍の遠山がかすんでゐた。海には白帆が二三点見えた。暖い陽が総てのものゝ上に愉快げに見える。子供の喇叭を吹く音が聞えて来た。入道雲が動かない。
(何処で嘶いたのだらう。)
彼の前には綺麗な若い娘と白髪を後頭で刈り切つた老婆とが立つてゐた。老婆は財布から二銭玉を出して、机の上にのせて、一升の豆を豆台に投げた。それから両手で何かを頂くやうな真似をした。其処へ黒犬の大きいのが尾を振りながらやつて来て、立ち止つて彼を見た。少し首をかしげてゐる。
(ははア、此奴、豆を盗まうと思つてゐやがるんだな)彼はあわてて豆を食つた。老婆も娘も犬も彼の前から去つた。
軈て人通りが少くなつた。日が落ちた。淡闇が海を渡つてきた。白帆がもう見えぬ。星が廂の角で光つてゐる。湿つぽりした風が緩く吹いて来た。鳥が海から帰つて来る。畑にはもう人が見えぬ。奥から鐘がゴーンと鳴つて来た。いつもの男が彼の所へ、豆粕と藁とを混ぜた御馳走を槽に容れて持つて来た。彼は残らず平げた。そして男は重い戸をピツタリ落ろした。真暗になつた。外で錠前の音がカチカチとした。今日も知らない一日を彼は生きた。

ある地方の年中行事

 

年中行事とは、毎年定時期に慣行儀礼として農民の生活に圧倒的に多かった。本来は農耕活動に伴った儀礼の日であった。時代の推移によって信仰、生産方法の変化により行事が廃されたり意味が忘れられたものも少なくない。年間で重要な正月と盆は、ともに祖霊を迎え祭りをしていたことなど忘れられている。太陰暦を太陽暦に改めたのは、明治五年一月九日「改暦の詔」に従った。新暦になったのは明治五年十二月十三日を明治六年一月一日と改められた。元来、太陰暦は月(太陰)が地球を一回運行すると、一か月を二十九日または三十日かかると考えた。十二か月を一年とすると、月の朔望と運行とは少差がありこれを積んで一か月とし五年に二度、十九年に七度の割合で増して行き、閏月がある年は一年が十三か月になる。太陰太陽暦において閏年の前後では一か月以上もくいちがってくるので不便であることが考えられたが、太陽暦を施行した後も年中行事を中心にした生活暦は伝承され、大正末になっても季節に順応して生活を営む農民の間には自然現象を目安にして作業をすすめる慣習が広くみられ、特定の草木の開花を農作の目当とする風習は一般的であった。例えば、新暦正月は一か月早くなり、盆は一か月遅れになり、霜月祭は新暦十一月に行われている。名月のように旧暦でなければ祝えない行事もある。新暦一本化は季節的な違和感を与える。三月の雛節供には桃の花は咲かない。新暦が定着したのは、三重町は昭和三十年前期である。古老たちの時代は旧暦であった。既に廃絶しているものが多いので旧暦で記すことをことわる。
正月準備の行事
箸掻き / 二十三夜に箸掻きをした。一年分使うだけの膳箸、揚げ箸(うどん・そば・油揚げ)を削った。戦後まで続けていた竹箸掻きである。若者たちが集まって 、家々で箸掻きをした。割った竹を角と丸にコギ(削り)角箸は客用に使う。箸は、高黍を煮て赤く染めた。箸を束にしたとき、径15cm束を三束仕上げた。角箸は三分の一作る。箸はなくなるほどいい。箸は荒神様の矢であると言われている。箸は魔除けの矢となって射られるからなくなった。二十三夜は、冬至のころに当たる。中国ではこの日から新年の始まる日で先祖をまつる習俗がある。新年を迎えるための魔祓いのためであろうか。
煤払い / 正月を迎える準備の煤払いは、八日ごろから十三日ごろまでにする。年末も押し迫って二十八日ごろにする所もある。女竹を切って各家の屋根裏・鴨居・柱・台所・床板をはずして床下を箒で掃き出す。神棚・仏壇を掃除し家族の者は心を清め、夜はご馳走を食べた 。
餅つき / 二十二日ごろから二十八日ごろまで搗いた。ヨンネ搗きをする家が多かった。午の日は火が早いというのでこの日は避ける習慣がある。臼は三升搗きで三人で餅搗きをした。四斗から八斗ぐらい搗いた。餅の半分は糯米を使い半分は粟・粉米・きびを糯米と混ぜて搗いた。初めの臼は小餅にする。二臼三臼目からお鏡餅やお供え餅をつくった。小餅は丸型にした。餅搗きの途中に大きな餡餅を加勢人や家族の者に食べさせる。これを手ぬくめといい年とりをすることが出来たといって祝った。花餅は搗き餅を小さくまるめて、竹笹の小枝の先に赤・白の餅を飾りつける。神棚・広間・土間の米俵などに供えた。かき餅は寒に入ってから搗いた。
年の夜 / 大晦日を「年の夜」という。主人は正月を迎える年飾りをする。トシトコサマ(歳徳様)・仏壇・カマド荒神などに榊を供える。鍬・鎌などの農具類も一か所に集めた。お鏡は神仏に供える。トシトコサマは、最も大きい二段重ねの餅に周りに小さい二段重ねの餅を一二個(閏年は一三個)を供える。鏡餅にはウラジロ・ツルシバを敷き、上にみかんを飾る。仏壇には小さい鏡餅を供える。荒神様は三段重ねにする。他の神々には二段重ねにして供えた。年飯が遅いと一年中の仕舞いが悪くなるといって早く食べるものとされた。氏神様・天神様・山神様・田神様・地蔵様・墓などに参る。歳徳様・仏壇に本膳を供え、牛馬には駄の物に飯や餅を混ぜて年取りをさせる。家族全員が揃って膳に着き、主人が一年間の労をねぎらい来る年の息災・幸福を祈り、全員でお神酒をいただく。年飯は白飯に刺身・吸物・酢あえ・煮つけである。
年の夜はいろりで大火を焚いて遅くまで起きている。下赤嶺では、種木は長さ一間くらいの大きな檪を十五日まで焚いた。夜遅く運そばを食べて翌年の幸運を期待する。当年中に近親者やカクラに死者があった家には「年悔やみ」に行き、米一升を仏前に供えて「お淋しい年越しでございます」と挨拶する。
正月の行事
元日 / 正月に迎える神をトシトコ(歳徳)様とよぶ。正月・盆は祖霊祭である。除夜の鐘が鳴ると我家のトシトコ様、仏壇に初詣をして氏神様に誰にも会わないように早く参る。元日は、福の神を逃さないため、雨戸を早く開けたり座を掃くことはしなかった。主婦はイノコ(泉)から桶に若水を汲み神仏に供えた。片内では女性がイノコか川に行って若水迎えをした。「試し物」といって、早稲や中稲などいろいろな種籾をそれぞれの茶碗一杯に入れて水に浮かべ、すぐ沈んだ茶碗に入っている種籾で作れば吉、沈まないものは凶と占った。
朝茶は、湯を沸かして茶を入れるのは主婦がする。八十八夜の茶を入れ、正月餅を焼き、干柿を食べて歯固めをする。朝飯は雑煮を作り年の夜の料理を食べた。正月三が日は、数の子・煎子・昆布・鯣・黒豆など食べた。
若水汲み / 二日、朝早いほどマン(運)が良いとして、他家よりも早くイノコ(湧水場)に若水汲みに行った。燗瓶のお神酒をホカウ(供える)。最後の一滴まで注がないと水神様は気に入らないから、酒宴の時に燗瓶の最後は「水神様のお神酒」といって注ぐ。一つまみの米をイノコに入れてすうっと沈めば豊作、かぶりを振りながら落ちれば風年で不作とした。
鍬入れ / 二日は早朝から、田に鍬入れをする。苗代田に鏡餅二段一重ねを白紙に包んで土を掘り上げた中に埋める。三方から土を鍬で掛け中心に松を立てる。田に一鍬入れると千石、二鍬入れると二千石の収穫があるといい今年の豊作を祈願した。
フクカリイといって、一年の福を持ち込むように山から樫の若木を枝の付いたままに、伐り倒したものを持ち帰り、倉の脇に置いておく。この日は、農家の仕事始めに縄ない、足半、草履、牛馬に使う藁細工、縫い始め、書初めをして天神様に納めると字が上達する。
疫病除け / 正月六日、ダラ(タラ)の木を切って、広間の上り口であるジン戸口・庭戸口・外便所・馬屋に、一本ずつ疫病除けに立てた。十四日年の夜、焚いたおきの灰になったぐあいを翌朝見て年の天候を占った。これをしない年は病気になったりしてとがめたので、終戦の年までしていた。
七日正月 / 六日年をとる。お神酒とトシサカナ(鯛)を用いて簡単な年とりをした。神仏に供えた松下げをして普通の花に替えた。七日は七草粥で祝った。牛馬の正月を祝った。馬つくりいをして、馬の尾毛を切ったり、馬の口の上アゴをやいた。駄草に餅を切って混ぜた飼を食べさせ、お宮に連れて参る。馬頭観音(大野町)大将軍様(野津町)に参ってお礼をいただいた。
吉祥 / 十一日は「吉祥」といって鏡開きをする。鏡餅を下げて家族に一個ずつ配り、歳徳様の鏡餅を雑煮にして食べた。帳面を作って帳祝いにそばを朝食に食べた。この日は作神様のオミタテ(出立ち)であるからお神酒を上げかえ、お神酒すずに差したツルノハ(譲り葉)を白紙ののしにかえる。この日は帳祝いといって「こより」を一年分作った。
十四日 / 六日年と同様に、お年酒と年魚で簡単な年とりをした。シメ飾りや門松をはずした。牛馬の尻を叩く「ブチ」切りを女竹を三尺ぐらいのものを二〇本ぐらい作った 。
若水迎え / 大正時代末まで、明き方に行って一つまみの米を撒き、松・杉以外の薪になる木を伐って若水迎えをした。十五日朝、若木のおきをかまどの額に一二個並べ、白く灰になれば晴れが多く、黒い場合は雨が多いと月ごとの天候を占った。
十五日正月 / 主人が鏡餅を入れた小豆粥を炊いた。宇対瀬では粥に浸した藁しべで籾殻を撫で、籾殻の付きぐあいで年の豊凶を占い、荒神様に供えて豊作を祈願した。下赤嶺では、節季末に切っておいた女竹を粥を炊いたおきであぶり、牛を追うブチ(むち)を三〇本くらい作った。また、「ねずみも出るな、オグラモチ(もぐらもち)もほぐな、蛇も入るな」と唱えながら、縄を付けたセイコン槌(藁打ち槌)を家の周囲を引き、粥を炊いた鍋の洗い汁を撒いて回った。山方ではなり木に刃物で刻みを入れ、「なるかならんか、ならにゃ伐り倒すぞ」といって、刻み口に粥を塗りつけてなり木の結実を願った。
山神 / 十六日。正月、九月の山ん神祭りには、カクラごとにある石の祠に参る。お神酒を持って祠に参詣し、さげていただく。昔は、長径二寸くらいの楕円形のヒトギ(粢)を供って供え参詣人にも配った。山の神は二月から田の神となり、秋の収穫が終わって山の神となるといわれている。山で働いている人たちは、獣類や樹木を守る神と考えている。氏子の者たちが一緒にお神酒を供えて山の神祭りをしている。山の神は荒々しい畏怖の念があるとされている。十六日は山に行くと怪我をするといわれた。この日は「薮入り」といって盆の十六日とともに休業し、嫁、奉公人は親里に帰っていた。
果つる廿日 / 二十日を正月の終わりとした。この日コガシ(煎り麦の粉)を作り、焼き餅を湯に浸してコガシをまぶして食べる。「正月様は、コガシになって舞うち去ぬる」といった。
春から夏の行事
二月一日 / 並びの朔日といって厄年の人は二月一日に年をとりなおす。餅をお宮に供えて神官に祈祷してもらう人もある。
二日 / 田畑の貸借りの定め、使用人(名子)の入れ替えを行った。名子(男衆・女衆)の出替は十二月三十一日はひまとりであった。二日は「名子の正月」といい、この日はご馳走をした。契約を更新したり新たに雇入れるツレの日とした。奉公は一年極りが多かった。
二日灸 / 二月二日に灸をすえた土地は県内に点在する。片内ではこの日に家ごとかどこかに集まってすえていた。鬼塚では「キユウケンリ」といってカクラがよって来て子供も大人も灸をした。この日は煎米(モチ米と大豆)を食べた。
御涅槃さま / 二月十五日はお釈迦様の亡くなった日であるという。禅宗寺院では涅槃会が催される。門徒の家では、正月に供えた花餅やあられを煎って神仏に供える。
お彼岸 / 旧暦では二月。春分と秋分の日を中心に前後三日間をいう。中日は仕事を休んで寺や墓に参る。墓には水・花・線香を供える。寺では説教を聞いた。地獄の苦しみを去って極楽に行けるよう善根を積むことがすすめられる。新仏のある家は、死者と生存者との極楽往生を願うという願望がある。家々では彼岸団子をつくり、米の粉団子にきな粉を混ぶしたものを仏壇に供えた。この日は、「地獄では釜の蓋が開く」といわれる。彼岸の供養をし休業した。春の彼岸には豊作の神が天から降りられ、秋の彼岸まで豊作物を守って下さる。
お接待 / 弘法大師のお接待である。三月と七月の二十一日は大師さまの遺徳をしのぶ日として、信仰している人が中心になって、地区内の組回り番で祭り座をつとめる。大師堂に主婦たちが集まって、赤飯、春は餅、夏は饅頭、駄菓子など通行人や参詣人に接待する。子供たちはお接待袋を持ってお参りにいった 。
甘茶もらい / 四月八日はお釈迦様の生まれた日とされている。寺院では甘茶を釈迦の立像に注ぎ、子供たちは甘茶で墨をすり字を書けば上達するといって甘茶をもらいに来る。甘茶は瓶に入れて持ち帰り、仏壇に供えて飲んだり、家の周囲に撒くと蛇・虫よけになった 。
八十八夜 / 立春後八十八日目をいう。「八十八夜の別れ霜」といわれ、霜害の心配もなくなるので稲の種蒔などが始まる。新茶摘みが始まる。八十八夜に摘んだ茶を飲むと万病の薬になるとか、中風にかからないという 。
端午の節供 / 端午とは月のはじめの午の日をいうのであるが、五月五日を端午といっている。蓬と菖蒲の束を軒先の三か所にさしていた。五月は田植え月であり、田植えの主役であった早乙女が蓬や菖蒲のように香気の強い葉で清められた家で、忌み篭りしていた名残であろうか。
杭掘り / 水不足の年でも、「中はスラセ(過ぎても)、半夏は待つな」といい、「半夏半作」ともいう。半夏生を過ぎれば収穫は半減するので、中(夏至)が田植えの最盛期である。ヨンネ(寄り合い)組の家ごとの主田植えが終われば、稲荷寿司・酒饅頭・サンキレ(三帰来)餅などで、手間換えの人々を慰労する。サナボリであるが坪寄せといい、一握りの洗った苗を荒神様に供えて豊作を祈願する。荒神様の作神的性格は衰えているけれども、荒神信仰は現在も強く生き続けている。
地区内の田植えが終了すればクイホリ(田植えよこい)である。足裏などに刺さった杭(とげ)を掘り取る意である。昔は杭掘りが一日だけであった地区は、畑仕事を続けねばならなかったからで、十日後くらいに粟蒔きよこいをした。地区によっては、田植えと畑の播種が終わってから作り上げをした 。
半夏 / 夏至から十一日が半夏生である。半夏には田植えをするなという。また、大雨の降ることが多いので半夏水といい、「半夏半作」ともいう。半夏生には天から毒気が降下するので井戸に蓋をして毒気を防ぎ、この日に採った野菜を食べないなどの風習がある 。
大祓 / 六月三十日をオンバライという。夏越しのはらえともいわれ、半年間に積もった身の罪穢を祓い清める祭りである。この日七度水を浴びれば病気がつかぬという。午後は仕事を休んだ。大人も子供も水浴びをする。朝草切りから帰ると、牛馬を川へ連れて行って水浴びをさせる。牛馬の背中に「コウカの木」の葉をぬりつけ、水洗いをした。牛馬の皮膚病にかからないように消毒する。この日は牛馬にご馳走を食べさせ休ませた。水神様に榊・お神酒・塩・イリコ(煎干し)を供えた。 他では七月七日に子供が水浴びをし、牛馬を川で洗った。
土用 / 四季に土用があるが、夏は小暑のあと一三日目から立秋の前日までの一八日間の酷暑にあたるので、夏ばてをしないように丑の日は鰻、タニシを食べる。長湯・黒川・湯平に入湯に出かける人もある。ドクダミ・ゲンノショウコ・ヨモギなどの薬草を採って陰干しにする。土用中に各家では大掃除をしていた。畳を戸外に運び出し、表を内側にして立てかけて干す。よく叩いて敷き込み拭き上げた。床下・家周り・便所に石灰を散布する。衣類の虫干しは大掃除後に家の中に何本もの麻縄を張って干した。
雨乞い / 雨乞い・虫送りは、共同で祈願するのが古くからのしきたりである。明治中期の雨乞いは大野郡では、「多人数相集リ神社或ハ高山ニ登リ祈願ヲナシ、又ハ神官・僧侶ニ祈祷ヲ托スル等ナリ」とある。森迫・宇対瀬で戦前にした雨乞いの方法は、氏神様で般若心経をあげることと水もらいの二つである。水もらいは大正時代のことで、代表者二、三人がお神酒を入れた竹筒を持って出発し、山下池にお神酒を供えて水を汲んで帰った。その間、地区の全戸が氏神様に篭って般若心経をあげた。五〇戸であったから二〇巻あげれば一〇〇〇巻になるので、代表が柴で回数を数えた。水もらいの帰着を菅尾駅で迎え、水は氏神様に供えてから溜池・井堰に注いだ。
水利事情の悪い川辺では千巻心経をあげたり龍回しをした。全戸が朝食後に弁当を持って氏神様に集まり、区長や神社総代が音頭を取って般若心経をあげた。回数は竹に通した一〇〇枚の木札で数えた。二、三日間、般若心経をあげても雨が降らなければ龍回しをした。百枝・川辺・向野・上田原・西原の五地区ごとに一頭ずつの龍を作った。龍の頭は竹ひごで編んで紙を貼り、角は木の枝、目は電球、歯は銀紙、口は赤く塗った。胴は竹の輪に紙を貼って鱗を描き、長崎の蛇踊りのように柄をつけてあった。地区ごとの農家全戸が、太鼓を叩きながら百枝小学校に集合した。村長の挨拶後に行列を作って西原の和田ノ淵まで行き、裸になって川に入り、龍を押し回してから淵の底に沈めた。三重駅ができた年が龍回しの最後であった。それでも降らなければ御田植芝居を神社の下で催した。雨乞い祈願の御田植芝居は県内では唯一の例である。中絶して四十数年を経過しているから復活は至難であろうか。
祖母山祭り / 七月四日。「風祭り」「祖母山祭り」「青物祭り」といい、川辺では「久住山祭り」という。青物はとってはならない。作物にも手をふれない。この日草を切ると祖母様の足を切ることになり、大風が吹くといった。中原には「くじゅうさま」と称される五重塔があり、この日に風の害が避けられるように祈願祭をしている。組内の全戸が集まって赤飯・お神酒・榊など供えて心経をあげて祭りをする。
七夕 / 七日の朝内山では里芋の葉に溜った露を硯の墨にして、短冊に思い思いの文句を書いて竹笹に結びつけ庭内に立てた。八朔の日に川に流した。この日は牛馬を川に連れて行き水浴をさせた。七回洗うと病気にかからない。井戸さらえをした。
盆の行事
墓さらえ / 七日は、墓さらえといって前日竹筒を切り一墓に一対の花筒を作る。仏具磨きをし、盂蘭盆に帰って来る仏の霊を迎える準備をする。墓地に参って掃除をし、古い花筒は一か所に集めて焼却する。墓石に水をかけ、榊を生け、ろうそく、線香を供える。十四日には迎え火に来る。この時にはお花のあげ替えをする。七日の日は物干し竿を切ると洗濯物はどこから通しても構わないとされ、各家では必ず何本か切った。この日井戸さらえをする所が多い。
精霊迎え / 盆は正月とともに最も重要な祖霊祭りである。森迫・川辺では、門口に一対の花筒を打って榊を生け、その外側に串を一本ずつ立てる。串は長さ一bほどの女竹の先端を割って肥松を挟んだものである。正月の門松は門口の一対の花筒にさし、盆には盆花をさすのが、大分郡から豊肥地方にかけての古い姿であろう。
十四日には夕方早く墓地に参り、迎え火を焚いて祖霊を迎える。川辺では、墓地の周囲に竹の棚を組んで石塔の数の肥松を焚き、森迫では墓地の周囲に立て並べた串を迎え火にした。川辺の迎え火は外側に向け、森迫では内側に向ける。墓地で迎えた祖霊を家に案内して門口の串に火をつける。仏壇には酒饅頭・団子・そうめん・野菜・果物・菓子などを供えて祖霊を歓待する。
初盆供養 / 初盆の家の供え物は、普通の家庭のそれよりも豪華で品数も多く、定紋入りの提灯を中心に、親類・縁者から贈られた灯篭・提灯を華やかに飾る。このように初盆供養が祖霊よりも派手であるのは、死者への愛惜の念が強いだけでなく、清められていない新精霊を慰め鎮めようとする意図が潜んでいることを感じる。
新精霊の供養のため、地区ごとに踊り・柱松・コダイ(小松明)などが催される。踊りは初盆の家を門回りに催していたが、広場で合同でするようになって娯楽性を強めた。
豊肥地方の特色は、柱松・コダイなどの火祭りが盛大に催されることである。柱松は、長い杉や竹の先端に麦からを漏斗状に編み付け、燃え易い麦から・おが屑・籾殻などを詰める。薄暗くなってから若者・子供たちが、投げ松明を振り回して投げ上げ、早く鉢に点火させることを競う。川辺では、初盆の家が、墓地で柱松・コダイをしていたから毎年ではなかったが、昭和四十五年ごろ納骨堂が建ってから盛大となった。昭和六十年には、孟宗竹三本をついだ二〇b以上の柱松が五本立てられた。コダイは納骨堂利用の家が一〇本ずつ、約七〇〇本を十四、五日の両晩に灯して供養をした。コダイは必ずしも新精霊や祖霊の供養だけでなく、神仏への献灯としても行われる。森迫では昭和初年まで、七月二十四日に愛宕様を祀る大辻山に向けて、路傍に戸数ほどの串を立てていた。
精霊送り / 十五日は送り団子を供え、夕方遅く門口で火を焚いて墓地へ送る。墓地の送り火は、川辺では迎え火と同じように外側へ向け、森迫では迎え火とは逆に外側に向ける。上田原・宇対瀬では、十六日夜に精霊船を流す。新精霊の船は長さ一.五b、幅一bの小麦から製で、初盆の家からの提灯や供物が供えられる。家ごとのは三角の板に紙を貼ってろうそくを立てる。精霊船は、合掌した近親・縁者の読経に送られて岸を離れて流れ下る。
虫送り / 戦後、農薬の使用が普及するまでは、ウンカ・イナゴ・メイチュウなどは稲の大敵であった。明治三十年代になれば、県の指導によって虫害対策が功を奏し始めるが、それまでは江戸時代以来の虫送りが広く行われた。大野郡では、「古来、多人数相集リ、夜間各松明ヲ携ヘ鐘・太鼓ヲ鳴シ、稲田ノ畦畔を縦横ニ歩行シ、又螟虫ノ生セシトキハ、寺僧或ハ神官ニ頼リテ其祈祷ヲ托スル等ノ習慣今尚存セリ」であった。
松明を持って夜間に行う虫送りは、県内ではほぼ明治時代末までに姿を消すから、町内の下赤嶺で行われている虫送りは、県内では唯一の例である。下赤嶺の虫送りは、八朔(旧暦八月一日、現在は九月一日)から始まる、市辺田八幡社境内の善神王祭りのヨドの行事である。岡・中・下の三地区であったが、東・旭ケ丘が加わって五地区の子供たちが、松明を持って「作頼む」と唱えながら農道を歩き、最後は市辺田八幡社境内で松明を集めて焚いている。
なお、社寺の祈祷札を虫除けに立てることは戦後も続いていた。川辺では、六月十日に神職を招いて豊玉様の祭りをし、塩水で洗い清めて供えた川砂とお札を全戸に配る。砂は田に撒き、お札は田に立てて虫除けにする。
秋から冬の行事
八朔 / 八月一日を「八朔」といい、稲の出穂を祈願する。森迫ではお神酒を供え、「作の神様よう出来ました。よう出来ました。頼みます」と田を誉めてまわった。下玉田では、田の中に、田神様の祠がある。子供のころ、八朔の日に田の一枚ごとに畦草を少し切って投げ入れ、「タナカン様、タナカン様、田の神様頼みます」と豊作を祈願した。
名月様 / 八月十五日は名月を祝う。稲穂・里芋・蒸した唐芋・枝豆・栗・油火・線香・お神酒を供えた。手箕に入れた一升桝の上に、稲穂・里芋・唐芋・大豆を縁側に置いた。子供たちは数人で供え物を盗みにきた。この日は子供は盗んでも咎められなかった。九月十三日は焼き米を神仏に供えた 。
栗節供 / 九月九日は重陽、菊節供とよばれる。菊花酒を飲んで長寿を祈願する。また、栗飯を炊き神仏に供える 。
亥の子 / 十月の亥の日に祝う。亥の日は三度あり、百姓・町人・家畜を祝うといったが、一番亥の子を多く祝った。この日は餡餅を神仏に供え、家内息災と子孫繁栄を祈願した。子供たちは藁を強固に束ね縄でクルクル巻きあげた。上の藁しべの方を二つに分け、縄にない手に持たれるように結んだ。長さ1m、径10cmぐらいの藁すぼを手に持って子供たちは、口々に「亥の子餅ャ搗かんかァ、搗かんもんな蛇生め、角んはえた子生め」と家々をパタン、パタンと叩いて、餅をもらって歩いた。その搗き棒で野菜畠をたたくとモグラが来ないという 。
鳥追い / 十月初とりの日に農家は、青竹を半ばまで二つ割り、割らない部分を手に持ちパチパチ鳴らしながら、「米ン鳥も粟ン鳥もホーイホイ、ホーイホイ」と呼びながら鳥を追って田畑をまわり歩いた 。
ヨド火焚き / 十一月中・下旬に行われる霜月祭りは、全県的に甘酒祭りともよばれるように稲の収穫祭りである。三重町で霜月祭りに注目したいのは、ヨド(宵宮)に大火焚きが行われることである。ヨドの火焚きは、臼杵市と久住町を結ぶ線より南で行われる。町内で現在も行っているのは、入北・下赤嶺・川辺・鬼塚の四地区にすぎないが、かつて盛行していたことは第1図「ヨド火焚き」のとおりである。
川辺では毎年行うとは限らないが、氏神様や天神様の境内に大きな生木を井桁に組み、生木や枯れ木を径三b、高さ一.五bに積み重ねる。一五歳未満の少年たちは、前日に切っておいた女竹を大火であぶり、「ヤマケーケー」と叫びながら石・木・地面に叩きつけて爆発させて喜ぶ。宇対瀬では戦時中に廃絶し、上小坂・久原では昭和二十年代に火災予防のために止めた。
霜月祭りは旧暦では冬至のころである。ヨド火は衰えた太陽の回復を祈念して焚くのか、魔除けのために竹を爆発させるのかいずれとも決め難い。「ヤマケーケー」という囃し言葉の意味がわかれば、ヨド火焚きの目的がはっきりするのではあるまいか。
冬至 / 夏至(六月二十一日ごろ)と反対に夜が最も長くなる日である。十二月二十二日ごろに当たる。中国ではこの日から新年の始まる日で先祖をまつる習俗がある。カボチャを食べると中風にかからないといわれる。柚湯に入ると風邪をひかないと全県的にいう。
十二月一日 / 「乙子朔日」といって神々にお神酒を供えて祝う。糯米に粳米を少し入れた餅を搗いて食べた。これを食べておけば、シワスガワ(師走川)に落ちても死ぬことがないといわれた 。
誓文払い / 十二月八日は誓文払いといって、一年間についたうそを払うために豆腐に味噌をつけて食べた。裁縫のお師匠さんの家では、針子たちが持ち寄った古針を豆腐に刺し、ご馳走を食べて針供養をし、この日だけはお針道具を休ませた 。
乙寄り / 十二月二十日ごろ、区長宅に全戸の親方が寄り合って年間の諸経費の収支決算をし、役員選出をする。一年の労をねぎらってお神酒上げをする。二十日を「果つる二十日」といい、山の神の日であるから仕事を休み、公役均しをする 。

或阿呆の一生

 

僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何(いか)にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥(は)ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。
昭和二年六月二十日   芥川龍之介
久米正雄君
時代
それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子(はしご)に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧(むし)ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一行(いちぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない。」
彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を弾(ひ)きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳(は)ねまはつてゐた。
彼は血色の善(い)い医者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と変らなかつた。少しも、――彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。
「ぢや行かうか?」
医者は彼の先に立ちながら、廊下伝ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを満した、大きい硝子(ガラス)の壺の中に脳髄が幾つも漬(つか)つてゐた。彼は或脳髄の上にかすかに白いものを発見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴(た)らしたのに近いものだつた。彼は医者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。
「この脳髄を持つてゐた男は××電燈会社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」
彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空(あ)き罎(びん)の破片を植ゑた煉瓦塀(れんぐわべい)の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔(こけ)をまだらにぼんやりと白(し)らませてゐた。

彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の緩(ゆる)い為に妙に傾いた二階だつた。
彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。
東京
隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸(ぼろ)のやうに憂欝だつた。が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。

彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子(テエブル)に向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。彼は余り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
彼の先輩は頬杖(ほほづゑ)をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我(が)」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓(よろこ)びも感じた。
そのカツフエは極(ごく)小さかつた。しかしパンの神の額(がく)の下には赭(あか)い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。

彼は絶え間ない潮風の中に大きい英吉利(イギリス)語の辞書をひろげ、指先に言葉を探してゐた。
Talaria翼の生えた靴、或はサンダアル。
Tale話。
Talipot東印度に産する椰子(やし)。幹は五十呎(フイート)より百呎の高さに至り、葉は傘、扇、帽等に用ひらる。七十年に一度花を開く。……
彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は喉(のど)もとに今までに知らない痒(かゆ)さを感じ、思はず辞書の上へ啖(たん)を落した。啖を?――しかしそれは啖ではなかつた。彼は短い命を思ひ、もう一度この椰子の花を想像した。この遠い海の向うに高だかと聳(そび)えてゐる椰子の花を。

彼は突然、――それは実際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見てゐるうちに突然画と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの画集は写真版だつたのに違ひなかつた。が、彼は写真版の中にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。
この画に対する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頬の膨(ふく)らみに絶え間ない注意を配り出した。
或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。
ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歳の彼の心の中には耳を切つた和蘭(オランダ)人が一人、長いパイプを啣(くは)へたまま、この憂欝な風景画の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……
火花
彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也(かなり)烈しかつた。彼は水沫(しぶき)の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は不相変(あひかはらず)鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。
死体
死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮を剥(は)ぎはじめた。皮の下に広がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。
彼はその死体を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死体の臭気は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、静かにメスを動かして行つた。
「この頃は死体も不足してね。」
彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死体に不足すれば、何の悪意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。
先生
彼は大きい(かし)の木の下に先生の本を読んでゐた。の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤(はかり)が一つ、丁度平衡を保つてゐる。――彼は先生の本を読みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。……
夜明け
夜は次第に明けて行つた。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。市場に群(むらが)つた人々や車はいづれも薔薇(ばら)色に染まり出した。
彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。が、彼は驚かなかつた。のみならずその犬さへ愛してゐた。
市場のまん中には篠懸(すずかけ)が一本、四方へ枝をひろげてゐた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。空には丁度彼の真上に星が一つ輝いてゐた。
それは彼の二十五の年、――先生に会つた三月目だつた。
軍港
潜航艇の内部は薄暗かつた。彼は前後左右を蔽(おほ)つた機械の中に腰をかがめ、小さい目金(めがね)を覗(のぞ)いてゐた。その又目金に映つてゐるのは明るい軍港の風景だつた。「あすこに 「金剛」も見えるでせう。」
或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと阿蘭陀芹(オランダぜり)を思ひ出した。一人前三十銭のビイフ・ステエクの上にもかすかに匂つてゐる阿蘭陀芹を。
先生の死
彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラツトフオオムを歩いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラツトフオオムの向うには鉄道工夫が三四人、一斉に鶴嘴(つるはし)を上下させながら、何か高い声にうたつてゐた。
雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は巻煙草に火もつけずに歓(よろこ)びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……
そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡(なび)かせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。
結婚
彼は結婚した翌日に「来(き)々(そうそう)無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑(わ)びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……
彼等
彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。

彼は薔薇の葉の匂のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでゐた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには気づかなかつた。

藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅(つばさ)の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。

彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)今まで知らなかつた寂しさを感じた。……
人工の翼
彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷(ひやや)かな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」の哲学者に近づいて行つた。
人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。
彼はこの人工の翼をひろげ、易(やす)やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮(さへぎ)るもののない空中をまつ直(すぐ)に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘(ギリシヤ)人も忘れたやうに。……
械(かせ)
彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。
狂人の娘
二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の来るのでも明らかだつた。後の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して恋愛ではなかつた。若(も)し恋愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける為に「兎(と)に角(かく)我等は対等だ」と考へない訣(わけ)には行かなかつた。
前の人力車に乗つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の為に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪を感じてゐた。
二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蠣殻(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黒(くろず)んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を軽蔑し出した。……
或画家
それは或雑誌の(さ)し画(ゑ)だつた。が、一羽の雄鶏の墨画(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの画家のことを尋ねたりした。
一週間ばかりたつた後、この画家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を発見した。
或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽(たちま)ちこの画家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神経のやうに細ぼそと根を露(あら)はしてゐた。それは又勿論傷(きずつ)き易い彼の自画像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ発見は彼を憂欝にするだけだつた。
「もう遅い。しかしいざとなつた時には……」
彼女
或広場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟(むね)もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。
彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」と言つて頬笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明(うすあかる)い広場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる為には何を捨てても善(い)い気もちだつた。
彼等の自動車に乗つた後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑(おさ)へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顔はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。
出産
彼は襖側(ふすまぎは)に佇(たたず)んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤児を洗ふのを見下してゐた。赤児は石鹸の目にしみる度にいぢらしい顰(しか)め顔(がほ)を繰り返した。のみならず高い声に啼(な)きつづけた。彼は何か鼠の仔(こ)に近い赤児の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――「何の為にこいつも生まれて来たのだらう?この娑婆苦(しやばく)の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつも己(おれ)のやうなものを父にする運命を荷(にな)つたのだらう?」
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。
ストリントベリイ
彼は部屋の戸口に立ち、柘榴(ざくろ)の花のさいた月明りの中に薄汚い支那人が何人か、麻雀戯(マアチアン)をしてゐるのを眺めてゐた。それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下に「痴人の告白」を読みはじめた。が、二頁(ペエジ)も読まないうちにいつか苦笑を洩らしてゐた。――ストリントベリイも亦情人だつた伯爵夫人へ送る手紙の中に彼と大差のない(うそ)を書いてゐる。……
古代
彩色の剥(は)げた仏たちや天人や馬や蓮の華(はな)は殆ど彼を圧倒した。彼はそれ等を見上げたまま、あらゆることを忘れてゐた。狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さへ。……
スパルタ式訓練
彼は彼の友だちと或裏町を歩いてゐた。そこへ幌(ほろ)をかけた人力車が一台、まつ直(すぐ)に向うから近づいて来た。しかもその上に乗つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。
「美人ですね。」
彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。
「ええ、中々美人ですね。」
殺人
田舎道は日の光りの中に牛の糞の臭気を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の両側に熟した麦は香ばしい匂を放つてゐた。
「殺せ、殺せ。……」
彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何(いか)にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。
すると黄ばんだ麦の向うに羅馬(ロオマ)カトリツク教の伽藍(がらん)が一宇(いちう)、いつの間にか円屋根(まるやね)を現し出した。……

それは鉄の銚子だつた。彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形」の美を教へられてゐた。

彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。寝室の窓の外は雨ふりだつた。浜木棉(はまゆふ)の花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。彼女の顔は不相変(あひかはらず)月の光の中にゐるやうだつた。が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。彼は腹這(はらば)ひになつたまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。
「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」
彼は彼自身にかう質問した。この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。
「おれは未(いま)だに愛してゐる。」
大地震
それはどこか熟し切つた杏(あんず)の匂に近いものだつた。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外悪くないと思つたりした。が、死骸の重なり重(かさな)つた池の前に立つて見ると、「酸鼻(さんび)」と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折(えうせつ)す」――かう云ふ言葉なども思ひ出した。彼の姉や異母弟はいづれも家を焼かれてゐた。しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯した為に執行猶予中の体だつた。……
「誰も彼も死んでしまへば善(い)い。」
彼は焼け跡に佇(たたず)んだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。
喧嘩
彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。彼の弟は彼の為に圧迫を受け易いのに違ひなかつた。同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。彼の親戚は彼の弟に「彼を見慣(みなら)へ」と言ひつづけてゐた。しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだつた。彼等は取り組み合つたまま、とうとう縁先へ転(ころ)げて行つた。縁先の庭には百日紅(さるすべり)が一本、――彼は未だに覚えてゐる。――雨を持つた空の下に赤光りに花を盛り上げてゐた。
英雄
彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹(はげたか)の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亜(ロシア)人が一人、執拗(しつえう)に山道を登りつづけてゐた。
ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……
――誰よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。――
色彩
三十歳の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。そこには唯苔(こけ)の生えた上に煉瓦や瓦の欠片(かけら)などが幾つも散らかつてゐるだけだつた。が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変りはなかつた。
彼はふと七八年前の彼の情熱を思ひ出した。同時に又彼の七八年前には色彩を知らなかつたのを発見した。
道化人形
彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相変(あひかわらず)養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした。が、意識の外の彼自身は、――言はば第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短篇の中に盛りこんでゐた。
倦怠
彼は或大学生と芒原(すすきはら)の中を歩いてゐた。
「君たちはまだ生活慾を盛に持つてゐるだらうね?」
「ええ、――だつてあなたでも……」
「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」
それは彼の真情だつた。彼は実際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。
「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」
彼は何とも答へなかつた。芒原はいつか赤い穂の上にはつきりと噴火山を露(あらは)し出した。彼はこの噴火山に何か羨望(せんばう)に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。……
越し人
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅(わづ)かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。
風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
復讐
それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。
少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、媚(こ)びるやうに彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似てゐやしない?」
「似てゐません。第一……」
「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」
彼は黙つて目を反(そ)らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへない訣(わけ)ではなかつた。……

彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。彼の友だちは焼林檎(やきりんご)を食ひ、この頃の寒さの話などをした。彼はかう云ふ話の中に急に矛盾を感じ出した。
「君はまだ独身だつたね。」
「いや、もう来月結婚する。」
彼は思はず黙つてしまつた。カツフエの壁に嵌(は)めこんだ鏡は無数の彼自身を映してゐた。冷えびえと、何か脅(おびやか)すやうに。……
問答
なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
資本主義の生んだ悪を見てゐるから。
悪を?おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?
――彼はかう天使と問答した。尤(もつと)も誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。……

彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎(ろくまくえん)、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……
しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻を啣(くは)へたまま、向うの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けてゐた。それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だつた。彼はその音楽の了(をは)るのを待ち、蓄音機の前へ歩み寄つてレコオドの貼り札を検(しら)べることにした。
MagicFlute――Mozart
彼は咄嗟(とつさ)に了解した。十戒を破つたモツツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子(テエブル)へ帰つて行つた。
神々の笑ひ声
三十五歳の彼は春の日の当つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。……

夜はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず水沫(しぶき)を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歓(よろこ)びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ。」
「檣(ほばしら)の二つに折れた船が。」

彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死(いし)しようとした。が、帯に頸(くび)を入れて見ると、俄(には)かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那(せつな)の苦しみの為に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何も彼(か)もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を検(しら)べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗(やみ)の中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。
Divan
Divanはもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。若しこの詩人の足あとを辿(たど)る多少の力を持つてゐたらば、――彼はデイヴアンを読み了(をは)り、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的宦官(くわんぐわん)に生まれた彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。

彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な(うそ)に充ち満ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪(らうくわい)な偽善者に出会つたことはなかつた。が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみ透(とほ)つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。
絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許す訣(わけ)はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末(こずゑ)から枯れて来る立ち木のやうに。……
火あそび
彼女はかがやかしい顔をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすらひ)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし恋愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の体には指一つ触(さは)らずにゐたのだつた。
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽(あ)きてゐるのです。」
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎(しひ)の若葉を眺めながら、度々死の彼に与へる平和を考へずにはゐられなかつた。
剥製の白鳥
彼は最後の力を尽(つく)し、彼の自叙伝を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為だつた。彼はかう云ふ彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剥(む)いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と真実と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文芸上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ気も彼には働いてゐた。彼はその為に手短かに彼の「詩と真実と」を書いて見ることにした。
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製(はくせい)の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐(おもむ)ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。
俘(とりこ)
彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。
「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」
この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇(ばら)の花さへ食つてゐたと云ふことだつた。彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。それはこの友だちの愛した「検察官」の作者の半身像だつた。彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。
彼はすつかり疲れ切つた揚句(あげく)、ふとラデイゲの臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑ひ声を感じた。それは「神の兵卒たちは己(おれ)をつかまへに来る」と云ふ言葉だつた。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘はうとした。しかしどう云ふ闘ひも肉体的に彼には不可能だつた。「世紀末の悪鬼」は実際彼を虐(さいな)んでゐるのに違ひなかつた。彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出来なかつた。あのコクトオさへ信じた神を!
敗北
彼はペンを執(と)る手も震へ出した。のみならず涎(よだれ)さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。  (昭和二年六月、遺稿)
 
学問のすゝめ / 福沢諭吉

 

合本学問之勧序
本編は余が読書の余暇随時に記(しる)す所にして、明治五年二月第一編を初(はじめ)として、同九年十一月第十七編を以(もつ)て終り、発兌(はつだ発行)の全数、今日に至(いた)るまで凡(およそ)七十万冊にして、其中(そのうち)初編は二十万冊に下らず。 之に加るに、前年は版権の法厳(げん)ならずして偽版(ぎはん)の流行盛なりしことなれば、其数も亦(また)十数万なる可し。仮に初編の真偽版本を合して二十二万冊とすれば、之を日本の人口三千五百万に比例して、国民百六十名の中一名は必ず此書を読たる者なり。古来稀有の発兌(はつだ)にして、亦以て文学急進の大勢を見るに足る可し。 書中所記の論説は、随時急須(きふす急場)の為にする所もあり、又(また)遠く見る所もありて、怱々(そうそう)筆を下(く)だしたるものなれば、毎編意味の甚だ近浅なるあらん、又迂闊(うくわつ)なるが如きもあらん。今これを合して一本と為し、一時合本を通読するときは、或(あるい)は前後の論脈相通ぜざるに似たるものあるを覚ゆ可しと雖(いへ)ども、少しく心を潜めて其文を外(ほか)にし其意を玩味(ぐわんみ)せば、論の主義(趣旨)に於(おい)ては決して違ふなきを発明す可きのみ。 発兌(はつだ)後既に九年を経たり。先進の学者、苟(いやしく)も前の散本(さんぽん)を見たるものは固(もと)より此合本を読む可きに非(あら)ず。合本は唯今後進歩の輩(はい後輩)の為にするものなれば、聊(いささ)か本編の履歴及び其体裁の事を記すこと斯(かく)の如(ごと)し。 明治十三年七月三十日 福沢諭吉記
学問のすゝめ初編
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位(くらゐ)にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働(はたらき)を以(もつ)て天地の間にあるよろづの物を資(と)り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨(さまたげ)をなさずして各(おのおの)安楽に此世を渡らしめ給ふの趣意(しゆい意味)なり。 されども今広く此(この)人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人(げにん)もありて、其(その)有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明(あきらか)なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由(より)て出来るものなり。 又(また)世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。其むつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人と云ふ。都(すべ)て心を用(もち)ひ心配する仕事はむつかしくして、手足を用(もちふ)る力役(りきえき)はやすし。故(ゆゑ)に、医学、学者、政府の役人、又は大なる商売をする町人、夥多(あまた)の奉公人を召使ふ大百姓などは、身分重くして貴(たつと)き者と云ふべし。身分重くして貴ければ自(おのづ)から其家も富て、下々の者より見れば及ぶべからざるやうなれども、其本を尋(たづぬ)れば唯(ただ)其人に学問の力あるとなきとに由て其相違も出来たるのみにて、天より定たる約束にあらず。 諺(ことわざ)に云く、天は富貴を人に与へずしてこれを其人の働に与(あたふ)るものなりと。されば前にも云へる通り、人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
学問とは、唯むつかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を云ふにあらず。これ等(ら)の文学も自から人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すやう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少く、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、其子の学問に出精(しゆつせい)するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟其学問の実に遠くして日用の間に合はぬ証拠なり。されば今斯(かか)る実なき学問は先づ次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。 譬(たと)へば、いろは四十七文字を習ひ、手紙の文言、帳合(ちやうあひ簿記)の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱等を心得(こころえ)、尚(なほ)又(また)進(すすん)で学ぶべき箇条は甚多し。地理学とは日本国中は勿論(もちろん)世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て其働(はたらき)を知る学問なり。歴史とは年代記のくはしき者にて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。脩身(修身)学とは身の行(おこなひ)を脩(をさ)め人に交り此(この)世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。 是等(これら)の学問をするに、何れも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或(あるい)は年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押へ、其事に就き其物に従ひ、近く物事の道理を求て今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、此心得ありて後に士農工商各(おのおの)其分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。
学問をするには分限を知る事肝要なり。人の天然生れ附(つき)は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、唯自由自在とのみ唱(とな)へて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。 即(すなは)ち其分限とは、天の道理に基(もとづ)き人の情に従ひ、他人の妨(さまたげ)を為(な)さずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界(さかひ境)は、他人の妨を為すと為さゞるとの間にあり。譬へば自分の金銀を費(つひや)して為すことなれば、仮令(たと)ひ酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然(しか)らず。一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教(をしへ)に妨を為すがゆゑに、其費す所の金銀は其人のものたりとも其罪許すべからず。 又(また)自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。我日本は亜細亜〈アジア〉洲の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交(まじはり)を結ばず独り自国の産物のみを衣食して不足と思ひしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易の事始り今日の有様に及びしことにて、開港の後も色々と議論多く、鎖国攘夷などゝやかましく云ひし者もありしかども、其見る所甚だ狭く、諺(ことわざ)に云ふ井の底の蛙にて、其議論取るに足らず。 日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合相同じき人民なれば、こゝに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互に相教へ互に相学び、恥ることもなく誇ることもなく、互に便利を達し互に其幸を祈り、天理人道に従て互の交を結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐入り、道のためには英吉利〈イギリス〉、亜米利加〈アメリカ〉の軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てゝ国の威光を落さゞるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。 然(しか)るを支那人などの如く、我国より外に国なき如く、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)々々と唱へ、四足(よつあし)にてあるく畜類のやうにこれを賎しめこれを嫌らひ、自国の力をも計らずして妄(みだり)に外国人を追払はんとし、却(かへつ)て其夷狄に窘(くるし)めらるゝなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人(いちにん)の身の上にて云へば天然の自由を達せずして我儘放蕩に陥る者と云ふべし。 王制一度(ひとたび)新(あらた)なりしより以来、我日本の政風大(おほい)に改り、外は万国の公法を以(もつ)て外国に交り、内は人民に自由独立の趣旨を示し、既に平民へ苗字乗馬を許せしが如きは開闢(かいびやく)以来の一美事(びじ)、士農工商四民の位(くらゐ)を一様にするの基(もとゐ)こゝに定りたりと云ふべきなり。されば今より後は日本国中の人民に、生まれながら其身に附たる位などゝ申すは先づなき姿にて、唯其人の才徳と其居処(きよしよ)とに由て位もあるものなり。 譬へば政府の官吏を粗略にせざるは当然の事なれども、こは其人の身の貴きにあらず、其人の才徳を以て其役義(やくぎ)を勤め、国民のために貴き国法を取扱ふがゆゑにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。 旧幕府の時代、東海道に御茶壷の通行せしは、皆人の知る所なり。其外御用の鷹は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路(みち)を避る等、都(すべ)て御用の二字を附くれば石にても瓦にても恐ろしく貴きものゝやうに見え、世の中の人も数千百年の古(いにしへ)よりこれを嫌ひながら又自然に其仕来たりに慣れ、上下互に見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟是等(これら)は皆法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、唯徒(いたづら)に政府の威光を張り人を畏(おど威)して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威(きよゐ)と云ふものなり。 今日に至りては最早全日本国内に斯(かか)る浅ましき制度風俗は絶てなき筈なれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平を抱くことあらば、これを包みかくして暗に上を怨(うら)むることなく、其路(みち)を求め其筋に由り、静にこれを訴て遠慮なく議論すべし。天理人情にさへ叶ふ事ならば、一命をも抛(なげうち)て争ふべきなり。是(これ)即ち一国人民たる者の分限と申すものなり。
前条に云へる通り、人の一身も一国も、天の道理に基(もとづき)て不覊自由なるものなれば、若(も)し此一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るゝに足らず。此一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、何れも安心いたし、唯天理に従て存分に事を為すべしとは申ながら、凡そ人たる者は夫々(それぞれ)の身分あれば、又其身分に従ひ相応の才徳なかるべからず。 身に才徳を備んとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。是即ち学問の急務なる訳なり。昨今の有様を見るに、農工商の三民は其身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並(ならぶ)るの勢(いきおひ)に至り、今日にても三民の内に人物あれば政府の上に採用せらるべき道既に開けたることなれば、よく其身分を顧み、我身分を重きものと思ひ、卑劣の所行あるべからず。 凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐むべく亦(また)悪(にく)むべきものはあらず。智恵なきの極(きよく)は恥を知らざるに至り、己が無智を以て貧究に陥り飢寒(きかん)に迫るときは、己が身を罪(つみ)せずして妄に傍の富(とめ)る人を怨み、甚しきは徒党を結び強訴一揆などゝて乱妨(らんばう略奪)に及ぶことあり。恥を知らざるとや云はん、法を恐れずとや云はん。 天下の法度を頼(たのみ)て其身の安全を保ち其家の渡世(とせい)をいたしながら、其頼む所のみを頼て、己が私欲の為には又これを破る、前後(全く)不都合(不届き)の次第ならずや。或はたまたま身本(みもと)慥(たしか)にして相応の身代ある者も、金銭を貯(たくはふ)ることを知りて子孫を教(をしふ)ることを知らず。教へざる子孫なれば其愚なるも亦怪むに足らず。遂には遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少からず。 斯る愚民を支配するには、迚(とて)も道理を以て諭(さと)すべき方便なければ、唯威(ゐ)を以て畏(おど)すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自(みづ)から招く災(わざはひ)なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。故に今、我日本国においても此人民ありて此政治あるなり。 仮に人民の徳義今日よりも衰へて尚無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、若(も)し又人民皆学問に志して物事の理を知り文明の風に赴くことあらば、政府の法も尚又寛仁大度(くわんじんたいど)の場合に及ぶべし。法の苛きと寛(ゆる)やかなるとは、唯人民の徳不徳に由て自(おのづ)から加減あるのみ。 人誰か苛政を好て良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮(あなどり)を甘んずる者あらん、是即ち人たる者の常の情なり。今の世に生れ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思を焦がすほどの心配あるにあらず。 唯其大切なる目当は、この人情に基きて先づ一身の行ひを正し、厚く学に志し博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備へて、政府は其政(まつりごと)を施すに易く諸民は其支配を受て苦しみなきやう、互に其所を得て共に全国の太平を護らんとするの一事のみ、今余輩(よはい我輩)の勧(すすむ)る学問も専(もつぱ)らこの一事を以て趣旨とせり。 端書 / 此度余輩の故郷中津に学校を開くに付、学問の趣意を記して旧(ふる)く交りたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴(つづ)りしかば、或人これを見て云(いは)く、この冊子を独(ひと)り中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せば其益も亦広かるべしとの勧(すすめ)に由り、乃(すなは)ち慶応義塾の活字版を以てこれを摺(す)り、同志の一覧に供(そな)ふるなり。明治四年未(ひつじ)十二月  
二編
学問とは広き言葉にて、無形の学問もあり、有形の学問もあり。心学、神学、理学等は形なき学問なり。天文、地理、窮理(きゆうり物理)、化学等は形ある学問なり。何れにても皆知識見聞(けんもん)の領分を広くして、物事の道理を弁(わきま)へ、人たる者の職分を知ることなり。知識見聞を開くためには、或(あるい)は人の言(げん)を聞き、或は自から工夫を運(めぐ)らし、或は書物をも読まざる可(べか)らず。 故に学問には文字を知ること必用なれども、古来世の人の思ふ如く、唯文字を読むのみを以て学問とするは大(おほい)なる心得違(ちがひ)なり。文字は学問をするための道具にて、譬へば家を建つるに槌(つち)鋸(のこぎり)の入用なるが如(ごと)し。槌鋸は普請(ふしん)に欠く可らざる道具なれども、其道具の名を知るのみにて家を建(たつ)ることを知らざる者は、これを大工と云ふ可(べか)らず。正(まさ)しくこの訳(わけ)にて、文字を読むことのみを知て物事の道理を弁へざる者は、これを学者と云ふ可(べか)らず。所謂論語よみの論語しらずとは即(すなはち)是なり。 我邦(くに)の古事記は諳誦(あんしよう)すれども今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と云ふ可し。経書(けいしよ)史類の奥義には達したれども、商売の法を心得て正しく取引を為すこと能(あた)はざる者は、これを帳合(ちやうあひ簿記)の学問に拙(つた)なき人と云ふ可し。数年の辛苦を嘗め数百の執行金(しゆぎやうきん学費)を費して洋学は成業(せいげふ)したれども、尚も一個私立の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎き人なり。 是等の人物は、唯これを文字の問屋と云ふ可きのみ。其功能は飯を喰ふ字引きに異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨る食客と云ふて可なり。故に世帯も学問なり、帳合も学問なり、時勢を察するも亦学問なり。何ぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみを以て学問と云ふの理あらんや。 此書の表題は、学問のすゝめと名(なづ)けたれども、決して字を読むことのみを勧るに非(あら)ず。書中に記す所は、西洋の諸書より或は其文を直(ただち)に訳し或は其意を訳し、形あることにても形なきことにても、一般に人の心得と為(な)る可き事柄を挙て学問の大趣意を示したるものなり。先きに著したる一冊を初編と為し、尚其意を拡(おしひろめ)て此度の二編を綴り、次で三、四編にも及ぶ可し。
人は同等なる事
初編の首(はじめ)に、人は万人皆同じ位にて、生れながら上下の別なく自由自在云々(うんうん)とあり。今此義を拡(おしひろめ)て云はん。人の生るゝは天の然らしむる所にて人力に非(あら)ず。此人々互に相敬愛して各(おのおの)其職分を尽し互に相妨ることなき所以は、もと同類の人間にして共に一天を与(とも)にし、共に与に天地の間の造物なればなり。譬へば一家の内にて兄弟相互に睦(むつま)しくするは、もと同一家の兄弟にして共に一父一母を与にするの大倫あればなり。
故に今、人と人との釣合を問へばこれを同等と云はざるを得ず。但し其同等とは有様の等しきを云ふに非ず、権理(けんり権利)通義(つうぎこれも権利)の等しきを云ふなり。其有様を論ずるときは、貧富強弱智愚の差あること甚しく、或は大名華族とて御殿に住居し美服美食する者もあり、或は人足とて裏店(うらだな)に借家して今日の衣食に差支(さしつかふ)る者もあり、或は才智逞(たくまし)うして役人と為(な)り商人と為りて天下を動かす者もあり、或は智恵分別なくして生涯飴やおこしを売る者もあり、或は強き相撲取りあり、或は弱き御姫様あり、所謂雲と泥との相違なれども、又一方より見て、其人々持前の権利通義を以て論ずるときは、如何にも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。 即ち其権理通義とは、人々其命を重んじ、其身代所持の物を守り其面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働を与へて、人々をして此通義を遂げしむるの仕掛を設けたるものなれば、何等の事あるも人力を以てこれを害す可(べか)らず。 大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり。豪商百万両の金も、飴やおこし四文の銭も、己(おのれ)が物としてこれを守るの心は同様なり。世の悪しき諺に、泣く子と地頭には叶はずと。又云く、親と主人は無理を云ふものなどゝて、或は人の権理通義をも枉(ま)ぐべきものゝやう唱(となふ)る者あれども、こは有様と通義とを取違へたる論なり。 地頭と百姓とは、有様を異にすれども其権理を異にするに非ず。百姓の身に痛きことは地頭の身にも痛き筈なり。地頭の口に甘きものは百姓の口にも甘からん。痛きものを遠ざけ甘きものを取るは人の情欲なり。他の妨(さまたげ)を為さずして達す可きの情を達するは即ち人の権理なり。此権理に至ては地頭も百姓も厘毛の軽重あることなし。 唯地頭は富て強く、百姓は貧にして弱きのみ。貧富強弱は人の有様にて固(もと)より同じかる可(べか)らず。然(しか)るに今富強の勢(いきほひ)を以て貧弱なる者へ無理を加へんとするは、有様の不同なるが故にとて他の権理を害するにあらずや。 これを譬へば、力士が我に腕の力ありとて、其力の勢(いきおひ)を以て隣の人の腕を捻(ねぢ)り折るが如し。隣の人の力は固(もと)より力士よりも弱かる可けれども、弱ければ弱きまゝにて其腕を用ひ自分の便利を達して差支なき筈なるに、謂(いは)れなく力士のために腕を折らるゝは迷惑至極と云ふ可し。
又右の議論を世の中の事に当はめて云はん。旧幕府の時代には士民(しみん)の区別甚しく、士族は妄(みだり)に権威を振ひ、百姓町人を取扱ふこと目の下の罪人の如くし、或は切捨御免などの法あり。此法に拠れば、平民の生命は我生命に非ずして借物に異ならず。百姓町人は由縁(ゆかり)もなき士族へ平身低頭し、外に在ては路(みち)を避け、内に在て席を譲り、甚しきは自分の家に飼たる馬にも乗られぬ程の不便利を受けたるは、けしからぬことならずや。
右は士族と平民と一人づゝ相対したる不公平なれども、政府と人民との間柄に至(いたり)ては、尚これよりも見苦しきことあり。幕府は勿論、三百諸侯の領分にも各小政府を立てゝ、百姓町人を勝手次第に取扱ひ、或は慈悲に似たることあるも其実は人に持前の権理通義を許すことなくして、実に見るに忍びざること多し。 抑(そもそ)も政府と人民との間柄は、前にも云へる如く、唯強弱の有様を異にするのみにて権理の異同あるの理なし。百姓は米を作て人を養ひ、町人は物を売買して世の便利を達す。是即(これすなは)ち百姓町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し善人を保護す。是即ち政府の商売なり。この商売を為すには莫大の費(つひえ)なれども、政府には米もなく金もなきゆゑ、百姓町人より年貢運上を出して政府の勝手方を賄はんと、双方一致の上、相談を取極めたり。是即ち政府と人民との約束なり。 故に百姓町人は年貢運上を出して固く国法を守れば、其職分を尽したりと云ふ可し。政府は年貢運上を取て正しく其使払(つかひばらひ)を立て人民を保護すれば、其職分を尽したりと云ふ可し。双方既に其職分を尽して約束を違ふることなき上は、更に何等の申分もある可らず、各其権利通義を逞うして少しも妨を為すの理なし。 然るに幕府のとき、政府のことを御上様(かみさま)と唱へ、御上の御用とあれば馬鹿に威光を振ふのみならず、道中の旅篭(はたご)までもたゞ喰ひ倒し、川場(かはば)に銭を払はず、人足に賃銭を与へず、甚しきは旦那が人足をゆすりて酒代を取るに至れり。沙汰の限りと云ふ可し。 或は殿様のものずきにて普請(工事)をする歟(か)、又は役人の取計にていらざる事を起し、無益に金を費(つひや)して入用不足すれば、色々言葉を飾りて年貢を増(ふや)し御用金を云付け、これを御国恩(こくおん)に報(むくい)ると云ふ。 抑(そもそ)も御国恩とは何事を指すや。百姓町人等が安隠に家業を営み盗賊ひとごろしの心配もなくして渡世するを、政府の御恩と云ふことなる可し。固(もと)より斯(か)く安隠に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設(まうけ)て人民を保護するは、もと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と云ふ可らず。 政府若し人民に対し其保護を以て御恩とせば、百姓町人は政府に対し其年貢運上を以て御恩と云はん。政府若し人民の公事訴訟を以て御上の御厄介と云はゞ、人民も又云ふ可し、十俵作出したる米の内より五俵の年貢を取らるゝは百姓のために大なる御厄介なりと。所謂売言葉に買言葉にて、はてしもあらず。兎に角に等しく恩のあるものならば、一方より礼を云ひて一方より礼を云はざるの理はなかる可し。
斯(かか)る悪風俗の起りし由縁(ゆえん)を尋るに、其本(そのもと)は人間同等の大趣意(しゆい)を誤りて、貧富強弱の有様を悪しき道具に用ひ、政府富強の勢を以て貧弱なる人民の権理通義を妨るの場合に至りたるなり。故に人たる者は、常に同位同等の趣意を忘る可らず。人間世界に最も大切なることなり。西洋の言葉にてこれをレシプロシチ〈reciprocity〉又はエクウヲリチ〈equity〉と云ふ。即ち、初編の首(はじめ)に云へる万人同じ位とはこの事なり。
右は百姓町人に左袒(さたん味方)して、思ふさまに勢を張れと云ふ議論なれども、又一方より云へば、別に論ずることあり。凡そ人を取扱ふには、其相手の人物次第にて自(おのづ)から其法の加減もなかる可らず。元来人民と政府との間柄は、もと同一体にて其職分を区別し、政府は人民の名代(みやうだい)となりて法を施し、人民は必ず此法を守る可しと、固く約束したるものなり。 譬(たと)へば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従ふ可しと条約を結びたる人民なり。故に一度(ひとた)び国法と定まりたることは、仮令(たと)ひ或は人民一個のために不便利あるも、其改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々謹(つつしみ)て守らざる可らず。是即ち人民の職分なり。 然るに、無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、其無学のくせに慾は深く、目の前に人を欺(あざむき)て巧(たくみ)に政府の法を遁(のが)れ、国法の何物たるを知らず、己が職分の何物たるを知らず、子をばよく生めども其子を教るの道を知らず、所謂恥も法も知らざる馬鹿者にて、其子孫繁昌すれば一国の益は為さずして却(かへつ)て害を為す者なきに非ず。 斯(かか)る馬鹿者を取扱ふには、迚(とて)も道理を以てす可(べか)らず、不本意ながら力を以て威(おど)し、一時の大害を鎮(しづ)むるより外に方便あることなし。是即ち世に暴政府のある所以なり。独(ひとり)我旧幕府のみならず、亜細亜諸国古来皆然り。 されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為(せゐ)のみに非ず、其実は人民の無智を以て自から招く禍(わざはひ)なり。他人にけしかけられて暗殺を企る者あり、新法を誤解して一揆を起す者あり、強訴を名として金持の家を毀(こぼ)ち酒を飲み銭を盗む者あり。其挙動は殆ど人間の所業と思はれず。 斯(かか)る賊民を取扱ふには、釈迦も孔子も銘案なきは必定、是非とも苛刻の政(まつりごと)を行なふことなるべし。故に云く、人民若し暴政を避けんと欲せば、速(すみやか)に学問に志し自から才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざる可らず。是即ち余輩の勧る学問の趣意なり。  
三編
国は同等なる事
凡そ人とさへ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、其権義に於(おい)て異なるなしとのことは、第二編に記(しる)せり。〈二編にある権理通義の四字を略して、こゝには唯権義と記したり。何れも英語のライトと云ふ字に当る。〉今この義を拡(おしひろめ)て国と国との間柄を論ぜん。 国とは人の集りたるものにて、日本国は日本人の集りたるものなり、英国は英国人の集りたるものなり。日本人も英国人も等しく天地の間の人なれば、互に其権義を妨(さまたぐ)るの理なし。一人が一人に向(むかひ)て害を加ふる理なくば、二人が二人に向て害を加ふるの理もなかる可し。百万人も千万人も同様のわけにて、物事の道理は人数の多少に由て変ず可らず。 今世界中を見渡すに、文明開化とて文字も武備も盛んにして富強なる国あり、或は蛮野未開とて文武ともに不行届にして貧弱なる国あり。一般に、欧羅巴〈ヨーロッパ〉、亜米利加の諸国は富(とん)で強く、亜細亜、阿弗利加〈アフリカ〉の諸国は貧にして弱し。されども此貧富強弱は国の有様なれば、固(もと)より同じかる可らず。然るに今、自国の富強なる勢を以て貧弱なる国へ無理を加へんとするは、所謂力士が腕の力を以て病人の腕を握り折るに異ならず。国の権義に於(おい)て許す可らざることなり。 近くは我日本国にても、今日の有様にては西洋諸国の富強に及ばざる所あれども、一国の権義に於ては厘毛の軽重あることなし。道理に戻(もと)りて曲(きよく)を蒙(かうむ)るの日に至ては、世界中を敵にするも恐るゝに足らず。初編第六葉〈岩波文庫版一四頁〉にも云へる如く、日本国中の人民一人も残らず命を棄てゝ国の威光を落さずとはこの場合なり。 加之(しかのみならず)貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由て移り変る可きものにて、今日の愚人も明日は智者と為る可く、昔年の富強も今世の貧弱と為る可し。古今其例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力を慥(たしか)にして先づ一身の独立を謀(はか)り、随(したがつ)て一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るゝに足らん。 道理あるものはこれに交り、道理なきものはこれを打ち払はんのみ。一身独立して一国独立するとは此事なり。
一身独立して一国独立する事
前条に云へる如く、国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸(のぶ)ること能(あた)はず。其次第、三箇条あり。 第一条独立の気力なき者は、国を思ふこと深切(しんせつ親切)ならず。
独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に依りすがる心なきを云ふ。自(みづ)から物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵に依らざる独立なり。自から心身を労して私立の活計を為す者は、他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくして唯他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引受る者はなかる可し。これを譬へば盲人の行列に手引なきが如し、甚だ不都合ならずや。 或人云く、民はこれを由らしむ可しこれを知らしむ可らず、世の中は目くら千人目あき千人なれば、智者上(かみ)に在て諸民を支配し上の意に従はしめて可なりと。此議論は孔子様の流儀なれども、其実は大(おほい)に非(ひ)なり。 一国中に人を支配するほどの才徳を備(そなふ)る者は千人の内一人に過ぎず。仮にこゝに人口百万人の国あらん、此内千人は智者にして九十九万余の者は無智の小民ならん。智者の才徳を以て此小民を支配し、或は子の如くして愛し、或は羊の如くして養ひ、或は威し或は撫(ぶ)し、恩威共に行はれて其向ふ所を示すことあらば、小民も識らず知らずして上(かみ)の命に従ひ、盗賊、人ごろしの沙汰もなく、国内安穏に治まることあるべけれども、もと此国の人民、主客の二様に分れ、主人たる者は千人の智者にて、よきやうに国を支配し、其余の者は悉皆(しつかい全員)何も知らざる客分なり。 既に客分とあれば固より心配も少なく、唯主人にのみ依りすがりて身に引受ることなきゆゑ、国を患(うれ)ふることも主人の如くならざるは必然、実に水くさき有様なり。国内の事なれば兎も角もなれども、一旦外国と戦争などの事あらば其不都合なること思ひ見る可し。無智無力の小民等、戈(ほこ)を倒(さかしま)にすることも無かる可けれども、我々は客分のことなるゆゑ一命を棄るは過分なりとて逃げ走る者多かる可し。 さすれば此国の人口、名は百万人なれども、国を守るの一段に至ては其人数甚だ少なく、迚(とて)も一国の独立は叶ひ難きなり。
右の次第に付、外国に対して我国を守らんには、自由独立の気風(きふう精神的傾向)を全国に充満せしめ、国中の人々貴賎上下の別なく、其国を自分の身の上に引受け、智者も愚者も目くらも目あきも、各(おのおの)其国人たるの分を尽さゞる可らず。 英人は英国を以て我本国と思ひ、日本人は日本国を以て我本国と思ひ、其本国の土地は他人の土地に非ず我国人(こくじん)の土地なれば、本国のためを思ふこと我家を思ふが如くし、国のためには財を失ふのみならず、一命をも抛(なげうち)て惜むに足らず。是即ち報国の大義なり。 固(もと)より国の政を為す者は政府にて、其支配を受る者は人民なれども、こは唯便利のために双方の持場を分ちたるのみ。一国全体の面目に拘(かか)はることに至ては、人民の職分として政府のみに国を預け置き、傍(かたはら)よりこれを見物するの理あらんや。既に日本国の誰、英国の誰と、其姓名の肩書に国の名あれば、其国に住居し起居眠食自由自在なるの権義あり。既に其権義あれば亦随て其職分なかる可らず。
昔戦国の時、駿河の今川義元、数万の兵を率ゐて織田信長を攻めんとせしとき、信長の策にて桶狭間に伏勢を設け、今川の本陣に迫て義元の首を取りしかば、駿河の軍勢は蜘蛛の子を散らすが如く、戦ひもせずして逃げ走り、当時名高き駿河の今川政府も一朝に亡びて其痕(あと)なし。 近く両三年以前、仏蘭西と孛魯士〈プロイセン〉との戦に、両国接戦の初め、仏蘭西帝ナポレオンは孛魯士に生捕られたれども、仏人はこれに由て望(のぞみ)を失はざるのみならず、益(ますます)憤発して防ぎ戦ひ、骨をさらし血を流し、数月籠城の後和睦に及びたれども、仏蘭西は依然として旧(もと)の仏蘭西に異ならず。彼の今川の始末に較(くらぶ)れば日を同(おなじ)うして語る可らず。其故は何ぞや。 駿河の人民は、唯義元一人に依りすがり、其身は客分の積りにて、駿河の国を我本国と思ふ者なく、仏蘭西には報国の士民多くして国の難を銘々の身に引受け、人の勧(すすめ)を待たずして自から本国のために戦ふ者あるゆゑ、斯(かか)る相違も出来(いでき)しことなり。これに由て考ふれば、外国へ対して自国を守るに当(あた)り、其国人に独立の気力ある者は国を思ふこと深切(しんせつ)にして、独立の気力なき者は不深切なること推(おし)て知る可きなり。 第二条内に居て独立の地位を得ざる者は、外に在て外国人に接するときも亦独立の権義を伸(のぶ)ること能はず。
独立の気力なき者は必ず人に依頼す。人に依頼する者は必ず人を恐る。人を恐るゝ者は必ず人に諛(へつら)ふものなり。常に人を恐れ人に諛(へつら)ふ者は次第にこれに慣れ、其面(つら)の皮鉄の如くなりて、恥づべきを恥ぢず、論ずべきを論ぜず、人をさへ見れば唯腰を屈するのみ。所謂(いはゆる)習(ならひ)性と為るとは此事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり。 譬へば今、日本にて平民に苗字乗馬を許し、裁判所の風も改まりて、表向は先づ士族と同等のやうなれども、其習慣俄(にはか)に変ぜず、平民の根性は依然として旧(もと)の平民に異ならず、言語も賎(いや)しく応接も賎しく、目上の人に逢へば一言半句の理屈を述(のぶ)ること能はず、立てと云へば立ち、舞へと云へば舞ひ、其柔順なること家に飼たる痩犬(やせいぬ)の如し。実に無気無力の鉄面皮と云ふ可し。 昔鎖国の世に旧幕府の如き窮屈なる政(まつりごと)を行ふ時代なれば、人民に気力なきも其政事(せいじ)に差支(さしつか)へざるのみならず却(かへつ)て便利なるゆゑ、故(こと)さらにこれを無智に陥れ無理に柔順ならしむるを以て役人の得意となせしことなれども、今外国と交るの日に至てはこれがため大なる弊害あり。 譬へば田舎の商人等、恐れながら外国の交易に志して横浜などへ来(きた)る者あれば、先づ外国人の骨格逞しきを見てこれに驚き、金の多きを見てこれに驚き、商館の洪大なるに驚き、蒸気船の速きに驚き、既に已(すで)に胆(きも)を落して、追々(おひおひ)この外国人に近づき取引するに及んでは、其掛引(かけひき)のするどきに驚き、或は無理なる理屈を云掛けらるゝことあれば啻(ただ)に驚くのみならず、其威力に震ひ懼(おそ)れて、無理と知りながら大なる損亡(そんまう損失)を受け大なる恥辱を蒙ることあり。 こは一人の損亡に非ず。一国の損亡なり。一人の恥辱に非ず、一国の恥辱なり。実に馬鹿らしきやうなれども、先祖代々独立の気を吸はざる町人根性、武士には窘(くるし)められ、裁判所には叱られ、一人扶持取る足軽に逢(あひ)ても御旦那様と崇めし魂は腹の底まで腐れ付き、一朝一夕に洗ふ可らず。 斯る臆病神の手下共が、彼の大胆不敵なる外国人に逢て、胆をぬかるゝは無理ならぬことなり。是即ち、内に居て独立を得ざる者は、外に在ても独立すること能はざるの証拠なり。 第三条独立の気力なき者は、人に依頼して悪事を為すことあり。
旧幕府の時代に名目(みやうもく)金とて、御三家などゝ唱(となふ)る権威強き大名の名目を借て金を貸し、随分無理なる取引を為せしことあり。其所業甚だ悪(にく)む可し。自分の金を貸して返さゞる者あらば、再三再四力を尽して政府に訴ふべきなり。然るに此政府を恐れて訴ることを知らず、きたなくも他人の名目を借り他人の暴威に依て返金を促すとは卑怯なる挙動ならずや。 今日に至ては名目金の沙汰は聞かざれども、或は世間に外国人の名目を借る者はあらずや。余輩未だ其確証を得ざるゆゑ、明(あきらか)にこゝに論ずること能はざれども、昔日(せきじつ)の事を思へば今の世の中にも疑念なきを得ず。 此後万々一も外国人雑居などの場合に及び、其名目を借りて奸(かん)を働く者あらば、国の禍(わざはひ)実に云ふ可らざる可し。故に人民に独立の気力なきは、其取扱に便利などゝて油断す可らず。禍は思はぬ所に起るものなり。国民に独立の気力愈(いよいよ)少なければ、国を売るの禍も又随(したがつ)て益(ますます)大なる可し。即ち、此条の初に云へる、人に依頼して悪事を為すとは此事なり。 右三箇条に云ふ所は、皆人民に独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生れ苟(いやしく)も愛国の意あらん者は、官私を問はず先づ自己の独立を謀(はか)り、余力あらば他人の独立を助け成す可し。父兄は子弟に独立を教へ、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守らざる可らず。概してこれを云へば、人を束縛して独り心配を求るより、人を放(はなち)て共に苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなり。  
四編 / 学者の職分を論ず
近来窃(ひそか)に識者の言を聞くに、今後日本の盛衰は人智を以て明(あきらか)に計り難しと雖(いへ)ども、到底(たうてい)其独立を失ふの患(うれひ)はなかる可しや、方今(はうこん現在)目撃する所の勢(いきほひ)に由て次第に進歩せば、必ず文明盛大の域に至る可しやと云て、これを問ふ者あり。 或は其独立の保つべきと否とは、今より二、三十年を過ぎざれば明にこれを期すること難かる可しと云て、これを疑ふ者あり。或は甚しく此国を蔑視したる外国人の説に従へば、迚(とて)も日本の独立は危しと云て、これを難(かたん)ずる者あり。 固より人の説を聞て遽(にはか)にこれを信じ、我(わが)望(のぞみ)を失するには非ざれども、畢竟この諸説は我独立の保つ可きと否とに就ての疑問なり。事に疑(うたがひ)あらざれば問の由て起る可き理なし。今試に英国に行き、貌利太〈ブリテン〉の独立保つべきや否と云てこれを問はゞ、人皆笑て答る者なかる可し。其答る者なきは何ぞや。これを疑はざればなり。 然(しから)ば則(すなは)ち我国文明の有様、今日を以て昨日に比すれば或は進歩せしに似たることあるも、其結局に至ては未だ一点の疑あるを免れず。苟(いやしく)も此国に生れて日本人の名ある者は、これに寒心(かんかん)せざるを得んや。今我輩も此国に生れて日本人の名あり、既に其名あれば亦各(おのおの)其分を明にして尽す所なかる可らず。 固より政(まつりごと)の字の義に限りたる事を為すは政府の任なれども、人間(じんかん)の事務には政府の関る可らざるものも亦多し。故に一国の全体を整理するには、人民と政府と両立して始て其成功を得可きものなれば、我輩は国民たるの分限を尽し、政府は政府たるの分限を尽し、互に相助け以て全国の独立を維持せざる可らず。
都(すべ)て物を維持するには力の平均なかる可らず。譬へば人身の如し。これを健康に保たんとするには、飲食なかる可らず、大気光線なかる可らず、寒熱痛痒外より刺衝(ししよう刺激)して内よりこれに応じ、以て一身の働(はたらき)を調和するなり。今俄(にはか)にこの外物の刺衝を去り、唯生力の働く所に任してこれを放頓(はうとん)することあらば、人身の健康は一日も保つ可らず。 国も亦然り。政は一国の働なり。この働を調和して国の独立を保たんとするには、内に政府の力あり、外に人民の力あり、内外相応じて其力を平均せざる可らず。故に政府は猶(なほ)生力の如く、人民は猶外物の刺衝(批判)の如し。今俄にこの刺衝を去り、唯政府の働く所に任してこれを放頓することあらば、国の独立は一日も保つ可らず。 苟(いやしく)も人身窮理(きゆうり)の義を明にし、其定則を以て一国経済の議論に施すことを知る者は、此理を疑ふことなかる可し。
方今(はうこん現在)我国の形勢を察し、其外国に及ばざるものを挙れば、曰(いはく)学術、曰商売、曰法律、是なり。世の文明は専ら此三者に関し、三者挙らざれば国の独立を得ざること識者を俟(ま)たずして明なり。然るに今我国に於て一(ひとつ)も其体を成したるものなし。
政府一新の時より、在官の人物力を尽さゞるに非ず、其才力(さいりよく)亦拙劣なるに非ずと雖ども、事を行ふに当り如何ともす可らざるの原因ありて意の如くならざるもの多し。其原因とは人民の無知文盲即(すなはち)是れなり。 政府既に其原因の在る所を知り、頻(しき)りに学術を勧め法律を議し商法を立(たつ)るの道を示す等、或は人民に説諭(せつゆ)し、或は自から先例を示し百方其術を尽すと雖ども、今日に至るまで未だ実効の挙るを見ず。政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気無力の愚民のみ。或は僅(わづか)に進歩せしことあるも、これがため労する所の力と費す所の金とに比すれば、其奏功見るに足るもの少なきは何ぞや。 蓋(けだ)し一国の文明は、独り政府の力を以て進む可きものに非ざるなり。
人或は云く、政府は暫(しばら)く此愚民を御するに一時の術策を用ひ、其智徳の進むを待て後に自から文明の域に入らしむるなりと。此説は言ふ可くして行ふ可らず。 我全国の人民数千百年専制の政治に窘(くるし)められ、人々其心に思ふ所を発露すること能はず、欺(あざむき)て安全を偸(ぬす)み詐(いつはり)て罪を遁(のが)れ、欺詐(ぎさ)術策は人生必需の具(ぐ)と為り、不誠不実は日常の習慣と為り、恥(はず)る者もなく怪む者もなく、一身の廉恥既に地を払(はらつ)て尽きたり、豈(あに)国を思ふに遑(いとま)あらんや。 政府はこの悪弊を矯(た)めんとして益(ますます)虚威(きよゐ実のない権威)を張り、これを嚇(おど)しこれを叱(しつ)し、強(しひ)て誠実に移らしめんとして却て益(ますます)不信に導き、其事情恰(あたか)も火を以て火を救ふが如し。遂に上下の間(あひだ)隔絶して各(おのおの)一種無形の気風を成せり。其気風とは所謂スピリットなるものにて、俄(にはか)にこれを動す可らず。 近日に至り政府の外形は大に改りたれども、其専制抑圧の気風は今尚存せり。人民も稍(やや)権利を得るに似たれども、其卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず。此気風は無形無体にして、遽(にはか)に一個の人に就き、一場の事を見て名状す可きものに非ざれども、其実の力は甚だ強くして、世間全体の事跡に顕はるゝを見れば、明に其虚(きよ)に非ざるを知る可し。 試(こころみ)に其一(ひとつ)を挙て云はん。今在官の人物少しとせず、私に其言を聞き其行(おこなひ)を見れば概(おほむ)ね皆闊達(かつたつ)大度(たいど)の士君子にて、我輩これを間然(かんぜん非難)する能はざるのみならず、其言行或は慕ふべきものあり。又一方より云へば、平民と雖ども悉皆(しつかい全員)無気無力の愚民のみに非ず、万に一人は公明誠実の良民もある可し。 然るに今此(この)士君子、政府に会(くわい)して政(まつりごと)を為すに当り、其為政(ゐせい)の事跡を見れば我輩の悦ばざるもの甚だ多く、又彼の誠実なる良民も、政府に接すれば忽(たちま)ち其節を屈し、偽詐(ぎさ)術策を以て官を欺き、嘗(かつ)て恥るものなし。 此士君子にして此政を施し、此民にして此賎劣に陥るは何ぞや。恰も一身両頭あるが如し。私に在ては智なり、官に在ては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集(あつむ)れば暗なり。政府は衆智者の集る所にして一愚人の事を行ふものと云ふ可し。豈(あに)怪まざるを得んや。 畢竟其然る由縁は、彼の気風なるものに制せられて人々自から一個の働を逞(たくまし)うすること能はざるに由て致(いた)す所ならん乎。維新以来、政府にて学術、法律、商売等の道を興さんとして効験(かうけん)なきも、其病の原因は蓋(けだ)しこゝに在るなり。然るに今一時の術を用て下民(げみん)を御(ぎよ)し其知徳の進むを待つとは、威を以て人を文明に強ふるもの歟、然らざれば欺きて善に帰せしむるの策なる可し。 政府威を用(もちふ)れば人民は偽(ぎ)を以てこれに応ぜん、政府欺(ぎ)を用れば人民は容(かたち)を作てこれに従はんのみ。これを上策と云ふ可らず。仮令ひ其策は巧なるも、文明の事実に施して益なかる可し。 故に云く、世の文明を進むるには唯政府の力のみに依頼す可らざるなり。
右所論を以て考(かんがふ)れば、方今我国の文明を進むるには、先づ彼の人心に浸潤(しんじゆん)したる気風を一掃せざる可らず。これを一掃するの法、政府の命を以てし難し、私(わたくし)の説諭を以てし難し、必ずしも人に先(さきだ)つて私(わたくし)に事を為し、以て人民の由る可き標的を示す者なかる可らず。 今此標的と為るべき人物を求るに、農の中にあらず、商の中にあらず、又和漢の学者中にも在らず、其任に当る者は唯一種の洋学者流あるのみ。 然るに又、これに依頼す可らざるの事情あり。近来此流の人漸(やうや)く世間に増加し、或は横文(わうぶん)を講じ或は訳書を読み、専ら力を尽すに似たりと雖ども、学者或は字を読て義を解さゞる歟、或は義を解してこれを事実に施すの誠意なき歟、其所業に就き我輩の疑(うたがひ)を存するもの尠(すくな)からず。 此疑(うたがひ)を存するとは、此学者士君子、皆官あるを知て私(わたくし)あるを知らず、政府の上に立つの術を知て、政府の下に居るの道を知らざるの一事なり。 畢竟漢学者流の悪習を免かれざるものにて、恰も漢を体(たい)にして洋を衣(い)にするが如し。試に其実証を挙(あげ)て云はん。方今世の洋学者流は概(おほむね)皆官途(かんと)に就き、私(わたくし)に事を為す者は僅(わづか)に指を屈するに足らず。 蓋し其官に在るは、唯利是れ貪(むさぼ)るのためのみに非ず、生来の教育に先入して只管(ひたすら)政府に眼(まなこ)を着し、政府に非ざれば決して事を為す可らざるものと思ひ、これに依頼して宿昔(しゆくせき)青雲の志を遂げんと欲するのみ。 或は世に名望ある大家先生と雖どもこの範囲を脱するを得ず。其所業或は賎むべきに似たるも、其意は深く咎(とがむ)るに足らず。蓋し意の悪しきに非ず、唯世間の気風に酔(よひ)て自(みづ)から知らざるなり。名望を得たる士君子にして斯(かく)の如し。天下の人豈(あに)其風に傚はざるを得んや。 青年の書生僅(わづか)に数巻の書を読めば乃ち官途に志し、有志の町人僅に数百の元金(もときん)あれば乃ち官の名を仮りて商売を行はんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、凡そ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。 是(ここ)を以て世の人心益(ますます)其風に靡(なぴ)き、官を慕ひ官を頼み、官を恐れ官に諂(へつら)ひ、毫(がう)も独立の丹心(たんしん真心)を発露する者なくして、其醜体見るに忍びざることなり。 譬へば方今出版の新聞紙及び諸方の上書建白の類(たぐひ)も其一例なり。出版の条令甚しく厳なるに非ざれども、新聞紙の面(おもて)を見れば政府の忌諱(きき)に触るゝことは絶(たえ)て載せざるのみならず、官に一毫の美事あれば慢(みだり)にこれを称誉して其実(じつ)に過ぎ、恰も娼妓の客に媚(こぶ)るが如し。 又、彼の上書建白を見れば其文常に卑劣を極め、妄(みだり)に政府を尊崇すること鬼神の如く、自から賎(いやしん)ずること罪人の如くし、同等の人間世界にある可らざる虚文を用ひ、恬(てん)として恥る者なし。此文を読て其人を想へば、唯狂人を以て評すべきのみ。 然るに今、この新聞紙を出版し或は政府に建白する者は、概(おほむね)皆世の洋学者流にて、其私(わたくし)に就て見れば必ずしも娼妓に非ず、又狂人にも非ず。然るに其不誠不実、斯の如きの甚しきに至る所以は、未だ世間に民権を首唱する実例なきを以て、唯彼の卑屈の気風に制せられ其気風に雷同して、国民の本音を見(あら)はし得ざるなり。 これを概すれば、日本には唯政府ありて未だ国民あらずと云ふも可なり。故に云(いは)く、人民の気風を一洗して世の文明を進むるには、今の洋学者流にも亦依頼す可らざるなり。
前条所記の論説果して是(ぜ)ならば、我国の文明を進めて其独立を維持するは、独り政府の能(よく)する所に非ず、又今の洋学者流も依頼するに足らず、必ず我輩の任ずる所にして、先づ我より事の端を開き、愚民の先を為すのみならず、亦彼の洋学者流のために先駆して其向ふ所を示さゞる可らず。 今我輩の身分を考ふるに、其学識固より浅劣なりと雖ども、洋学に志すこと日既に久しく、此国に在ては中人以上の地位にある者なり。輓近(ばんきん最近)世の改革も、若し我輩の主として始めし事に非ざれば暗にこれを助け成したるものなり。或は助成の力なきも其改革は我輩の悦ぶ所なれば、世の人も亦我輩を目(もく)するに改革家流の名を以てすること必(ひつ)せり。 既に改革家の名ありて、又其身は中人以上の地位に在り、世人或は我輩の所業を以て標的と為す者ある可し。然(しから)ば則ち、今、人に先(さきだ)つて事を為すは正にこれを我輩の任と云ふ可きなり。抑(そもそ)も事を為すに、これを命ずるはこれを諭(さと)すに若かず、これを諭すは我より其実の例を示すに若かず。 然り而(しかう)して政府は唯命ずるの権あるのみ、これを諭して実の例を示すは私(わたくし)の事なれば、我輩先づ私立の地位を占め、或は学術を講じ、或は商売に従事し、或は法律を議し、或は書を著し、或は新聞紙を出版する等(など)、凡そ国民たるの分限に越えざる事は忌諱を憚らずしてこれを行ひ、固く法を守て正しく事を処し、或は政令信ならずして曲を被(かうむ)ることあらば、我地位を屈せずしてこれを論じ、恰も政府の頂門(ちやうもん)に一釘を加へ、旧弊を除て民権を恢復せんこと、方今至急の要務なる可し。 固(もと)より私立の事業は多端、且(かつその上)これを行ふ人にも各(おのおの)所長(長所)あるものなれば、僅に数輩の学者にて悉皆(しつかい)其事を為す可きに非ざれども、我目的とする所は事を行ふの巧(たくみ)なるを示すに在らず、唯天下の人に私立の方向を知らしめんとするのみ。 百回の説諭を費すは一回の実例を示すに若かず。今我より私立の実例を示し、人間の事業は独り政府の任にあらず、学者は学者にて私(わたくし)に事を行ふ可し、町人は町人にて私に事を為す可し、政府も日本の政府なり、人民も日本の人民なり、政府は恐る可らず近づく可し、疑ふ可らず親む可しとの趣を知らしめなば、人民漸く向ふ所を明にし、上下固有の気風も次第に消滅して、始めて真の日本国民を生じ、政府の玩具たらずして政府の刺衝(批判)となり、学術以下三者も自(おのづ)から其所有に帰して、国民の力と政府の力と互に相平均し、以て全国の独立を維持すべきなり。
以上論ずる所を概すれば、今の世の学者、此国の独立を助け成さんとするに当て、政府の範囲に入(はい)り官に在て事を為すと、其範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒したるものなり。 都て世の事物を精(くは)しく論ずれば、利あらざるものは必ず害あり、得(とく)あらざるものは必ず失あり、利害得失相半するものはある可らず。我輩固より為めにする所ありて私立を主張するに非ず、唯平生の所見を証(あか)してこれを論じたるのみ。世人若し確証を掲(かかげ)て此論説を排し、明に私立の不利を述る者あらば余輩は悦(よろこん)でこれに従ひ、天下の害を為すことなかる可し。
附録
本論に付二、三の問答あり。依てこれを巻末に記す。 其一に云く、事を為すは有力なる政府に依るの便利に若かずと。 答云く、文明を進むるは独り政府の力のみに依頼す可らず、其弁論既に本文に明なり。且政府にて事を為すは既に数年の実験あれども未だ其奏功を見ず、或は私の事も果して其功を期し難しと雖ども、議論上に於て明に見込あればこれを試みざる可らず。未だ試みずして先づ其成否を疑ふ者は、これを勇者と云ふ可らず。 二に云く、政府人に乏し、有力の人物政府を離れなば官務に差支ある可しと。 答云く、決して然らず、今の政府は官員の多きを患(うれふ)るなり。事を簡にして官員を減ずれば、其事務はよく整理して其人員は世間の用を為す可し、一挙して両得なり。故(こと)さらに政府の事務を多端にし、有用の人を取て無用の事を為さしむるは策の拙なるものと云ふ可し。且此人物、政府を離るゝも去て外国に行くに非ず、日本に居て日本の事を為すのみ、何ぞ患るに足らん。 三に云く、政府の外に私立の人物集ることあらば、自から政府の如くなりて、本政府の権を落すに至らんと。 答云く、此説は小人の説なり。私立の人も在官の人も等しく日本人なり。唯地位を異にして事を為すのみ。其実は相助けて共に全国の便利を謀るものなれば、敵に非ず真の益友なり。且この私立の人物なる者、法を犯すことあらばこれを罰して可なり、毫(がう)も恐るゝに足らず。 四に云く、私立せんと欲する人物あるも、官途を離れば他に活計の道なしと。 答云く、此言は士君子の云ふ可き言に非ず。既に自から学者と唱(となへ)て天下の事を患(うれふ)る者、豈(あに)無芸の人物あらんや。芸を以て口を糊するは難きに非ず。且(かつその上)官に在て公務を司るも私に居て業を営むも、其難易異なるの理なし。若し官の事務易くして其利益私の営業よりも多きことあらば、則ち其利益は働の実に過ぎたるものと云ふ可し。実に過ぐるの利を貪るは君子の為さゞる所なり。無芸無能、僥倖に由て官途に就き、慢(みだり)に給料を貪(むさぼり)て奢侈(しやし)の資(し)と為し、戯れに天下の事を談ずる者は我輩の友に非ず。  
五編
学問のすゝめは、もと民間の読本又は小学の教授本に供(そな)へたるものなれば、初編より二編三編までも勉(つと)めて俗語を用ひ文章を読み易(やす)くするを趣意と為(な)したりしが、四編に至り少しく文の体を改めて或はむつかしき文字を用ひたる処もあり。又この五編も、明治七年一月一日、社中(しやちゆう社員)会同(会合)の時に述べたる詞(ことば)を文章に記したるものなれば、其文の体裁も四編に異ならずして或は解(げ)し難きの恐なきに非ず。畢竟四、五の二編は、学者を相手にして論を立てしものなるゆゑ此次第に及びたるなり。 世の学者は大概(たいがい)皆腰ぬけにて其気力は不慥(ふたしか)なれども、文字を見る眼は中々慥にして、如何なる難文にても困る者なきゆゑ、此二冊にも遠慮なく文章をむつかしく書き其意味も自から高上になりて、これがためもと民間の読本たる可き 「学問のすゝめ」の趣意を失ひしは、初学の輩(はい)に対して甚だ気の毒なれども、六編より後は又もとの体裁に復(かへ)り、専ら解(げ)し易きを主として初学の便利に供し、更に難文を用ることなかるべきが故に、看官(かんかん読者)此二冊を以て全部の難易を評するなかれ。 明治七年一月一日の詞 我輩今日慶応義塾に在て明治七年一月一日に逢へり。此年号は我国独立の年号なり、此塾は我社中独立の塾なり。独立の塾に居て独立の新年に逢ふを得るは、亦悦ばしからずや。蓋(けだ)しこれを得て悦ぶ可きものは、これを失へば悲(かなしみ)となる可し、故に今日悦ぶの時に於て他日悲むの時あるを忘る可らず。
古来我国治乱の沿革(変遷)に由り政府は屢(しばしば)改まりたれども、今日に至るまで国の独立を失はざりし由縁は、国民鎖国の風習に安んじ、治乱興廃外国に関することなかりしを以てなり。 外国に関係あらざれば、治(ち)も一国内の治なり、乱も一国内の乱なり。又この治乱を経て失はざりし独立も唯(ただ)一国内の独立にて、未だ他に対して鋒(ほこさき)を争ひしものに非ず。これを譬へば、小児の家内に育(いく)せられて未だ外人に接せざる者の如し。其薄弱なること固(もと)より知る可きなり。
今や外国の交際俄(にはか)に開け、国内の事務一(ひとつ)としてこれに関せざるものなし。事々物々(じじぶつぶつ)皆外国に比較して処置せざる可らざるの勢(いきほひ)に至り、古来我国人(こくじん)の力にて僅(わづか)に達し得たる文明の有様を以て、西洋諸国の有様に比すれば、啻(ただ)に三舎を譲る(遠く及ばない)のみならず、これに傚(なら倣)はんとして或は望洋の歎(思案に暮れること)を免かれず、益(ますます)我独立の薄弱なるを覚(さと)るなり。
国の文明は形を以て評す可らず。学校と云ひ、工業と云ひ、陸軍と云ひ、海軍と云ふも、皆是れ文明の形のみ。この形を作るは難(かた)きに非ず、唯銭(ぜに)を以て買ふ可しと雖ども、こゝに又無形の一物あり、この物たるや、目(め)見る可らず、耳聞く可らず、売買す可らず、貸借す可らず、普(あまね)く国人の間に位して其作用甚だ強く、この物あらざれば彼(か)の学校以下の諸件も実の用を為さず、真にこれを文明の精神と云ふ可き至大(しだい最大)至重のものなり。蓋し其物とは何ぞや。云く、人民独立の気力、即(すなはち)是なり。
近来我政府、頻(しき)りに学校を建て工業を勧め、海陸軍の制(せい)も大に面目を改め、文明の形、略(ほぼ)備(そなは)りたれども、人民未だ外国へ対して我独立を固くし共に先を争はんとする者なし。啻(ただ)に是と争はざるのみならず、偶々(たまたま)彼の事情を知る可き機会を得たる人にても、未だこれを詳(つまびらか)にせずして先づこれを恐るゝのみ。他に対して既に恐怖の心を抱くときは、仮令(たと)ひ我に聊(いささ)か得る所あるもこれを外に施すに由(よし)なし。畢竟人民に独立の気力あらざれば、彼の文明の形も遂に無用の長物に属するなり。
抑(そもそ)も我国の人民に気力なき其源因(原因)を尋(たづぬ)るに、数千百年の古(いにしへ)より全国の権柄を政府の一手に握り、武備文学より工業商売に至るまで、人間些末の事務と雖(いへ)ども政府の関らざるものなく、人民は唯政府の嗾(そう促し)する所に向て奔走するのみ。 恰(あたか)も国は政府の私有にして、人民は国の食客たるが如し。既に無宿の食客と為りて僅(わづか)に此国中に寄食するを得るものなれば、国を視ること逆旅(げきりよ宿屋)の如く、嘗(かつ)て深切の意を尽すことなく、又其気力を見(あら)はす可き機会をも得ずして、遂に全国の気風を養ひ成したるなり。 加之(しかのみならず)今日に至ては、尚これより甚だしきことあり。大凡(おほよそ)世間の事物、進まざる者は必ず退(しりぞ)き、退(しりぞか)ざる者は必ず進む。進まず退かずして潴滞(ちよたい停滞)する者はある可らざるの理なり。今日本の有様を見るに、文明の形は進むに似たれども、文明の精神たる人民の気力は日(ひび)に退歩に赴(おもむ)けり。 請う、試にこれを論ぜん。在昔(ざいせき)足利徳川の政府に於ては、民(たみ)を御するに唯力を用ひ、人民の政府に服するは力足らざればなり。力足らざる者は心服(しんぷく)するに非ず、唯これを恐れて服従の容(かたち)を為すのみ。 今の政府は唯力あるのみならず、其智慧(知恵)頗(すこぶ)る敏捷(びんせふ)にして、嘗(かつ)て事の機(き)に後るゝことなし。一新の後、未だ十年ならずして、学校兵備の改革あり、鉄道電信の設(まうけ)あり、其他石室(せきしつ)を作り、鉄橋を架する等、其決断の神速(しんそく迅速)なると其成功の美なるとに至ては、実に人の耳目を驚(おどろか)すに足れり。 然るに、此学校兵備は政府の学校兵備なり、鉄道電信も政府の鉄道電信なり、石室鉄橋も政府の石室鉄橋なり。人民果して何の観(見方)を為す可きや。人皆云はん、政府は啻(ただ)に力あるのみならず兼(かね)て又智あり、我輩の遠く及ぶ所に非ず、政府は雲上に在て国を司(つかさど)り、我輩は下に居てこれに依頼するのみ、国を患(うれ)ふるは上(かみ)の任なり、下賎の関る所に非ずと。 概してこれを云へば、古の政府は力を用ひ、今の政府は力と智とを用ゆ。古の政府は民を御するの術に乏(とぼ)しく、今の政府はこれに富めり。古の政府は民の力を挫き、今の政府は其心を奪ふ。古の政府は民の外(そと)を犯し、今の政府は其内を制す。古の民は政府を視ること鬼の如くし、今の民はこれを視ること神の如くす。古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む。此勢(いきほひ)に乗じて事の轍(てつやり方)を改ることなくば、政府にて一事を起せば文明の形は次第に具はるに似たれども、人民には正(まさ)しく一段と気力を失ひ文明の精神は次第に衰ふるのみ。 今政府に常備の兵隊あり。人民これを認めて護国の兵とし、其盛なるを祝して意気揚々たる可き筈(はず)なるに、却(かへつ)てこれを威民(ゐみん威圧)の具と視做(みな)して恐怖するのみ。今政府に学校鉄道あり。人民これを一国文明の微(しるし)として誇る可き筈なるに、却てこれを政府の私恩に帰し、益(ますます)其賜(たまもの)に依頼するの心を増すのみ。 人民既に自国の政府に対して萎縮震慄(しんりつ)の心を抱けり、豈(あに)外国に競ふて文明を争ふに遑(いとま)あらんや。故(ゆゑ)に云く、人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るも啻(ただ)に無用の長物のみならず、却て民心を退縮(たいしゆく萎縮)せしむるの具と為る可きなり。
右に論ずる所を以て考(かんがふ)れば、国の文明は上(かみ)政府より起る可らず、下(しも)小民より生ず可らず、必ず其中間より興(おこり)て衆庶(しゆうしよ民衆)の向ふ所を示し、政府と並(ならび)立て始て成功を期す可きなり。 西洋諸国の史類を案ずるに、商売工業の道一(ひとつ)として政府の創造せしものなし、其本は皆中等の地位にある学者の心匠(しんしやう工夫)に成りしものゝみ。蒸気機関はワットの発明なり。鉄道はステフェンソン〈GeorgeStephenson〉の工夫なり。始て経済の定則(法則)を論じ商売の法を一変したるはアダムスミスの功(こう)なり。この諸大家は所謂ミッヅルカラッス〈middleclass〉なる者にて、国の執政に非ず、亦力役(りきえき)の小民に非ず、正に国人の中等に位(くらゐ)し、智力を以て一世を指揮したる者なり。 其工夫発明、先づ一人の心に成れば、これを公にして実地に施すには私立の社友を結び、益其事を盛大にして人民無量の幸福を万世に遺(のこ)すなり。此間(かん)に当り政府の義務は、唯其事を妨げずして適宜に行はれしめ、人心の向ふ所を察してこれを保護するのみ。故に文明の事を行ふ者は私立の人民にして、其文明を護(ご)する者は政府なり。 是を以て一国の人民恰も其文明を私有し、これを競ひこれを争ひ、これを羨(うらや)みこれを誇り、国に一(いつ)の美事あれば全国の人民手を拍(うち)て快と称し、唯他国に先鞭(せんべん)を着けられんことを恐るゝのみ。故に文明の事物悉皆(しつかい)人民の気力を増すの具と為り、一事一物も国の独立を助けざるものなし。其事情正しく我国の有様に相反すと云ふも可なり。
今我国に於(おい)て彼のミッヅルカラッスの地位に居(を)り、文明を首唱して国の独立を維持す可き者は唯一種の学者のみなれども、此学者なるもの、時勢に付き眼を着(ちやく)すること高からざるか、或は国を患(うれふ)ること身を患るが如く切ならざるか、或は世の気風に酔ひ只管(ひたすら)政府に依頼(依存)して事を成す可きものと思ふか、概(おほむね)皆(みな)其地位に安んぜずして去(さり)て官途に赴(おもむ)き、些末(さまつ)の事務に奔走して徒(いたづら)に心身を労し、其挙動笑ふべきもの多しと雖ども、自からこれを甘んじ人も亦これを怪(あやし)まず、甚しきは野(や民間)に遺賢(ゐけん才能)なしと云てこれを悦ぶ者あり。 固(もと)より時勢の然(しか)らしむる所にて、其罪一個の人に在らずと雖ども、国の文明のためには一大災難と云ふ可し。文明を養ひ成す可き任(にん)に当(あた)りたる学者にして、其精神の日(ひび)に衰(おとろ)ふるを傍観して之を患ふる者なきは、実に長大息(ちやうたいそく慨嘆)す可きなり、又痛哭(つうこく悲嘆)す可きなり。 独り我慶応義塾の社中は、僅(わづか)にこの災難を免れて、数年独立の名を失はず、独立の塾に居て独立の気を養ひ、其期(き)する所は全国の独立を維持するの一事に在り。   、時勢の世を制するや、其(その)力急流の如く又大風の如し。此(この)勢(いきほひ)に激(げき奮激)して屹立(きつりつ仁王立ち)するは固(もと)より易きに非ず、非常の勇力(ゆうりよく強い力)あるに非ざれば知らずして流れ識らずして靡(なぴ)き、動(やや)もすれば其脚(きやく)を失(しつ失脚)するの恐(おそれ)ある可し。 抑も人の勇力は、唯読書のみに由て得べきものに非ず。読書は学問の術なり、学問は事をなすの術なり。実地に接して事に慣るゝに非ざれば、決して勇力を生ず可らず。我社中既に其術を得たる者は、貧苦を忍び艱難を冒(をか)して、其所得(えるところ)の知見(知識)を文明の事実に施(ほどこ)さゞる可らず。 其科(か)は枚挙に遑(いとま)あらず。商売勤めざる可らず、法律議せざる可らず、工業起さゞる可らず、農業勧めざる可らず、著者訳術新聞の出版、凡そ文明の事件は尽(ことごと)く取(とり)て我私有と為し、国民の先(せん)を為して政府と相助け、官の力と私の力と互に平均して一国全体の力を増し、彼の薄弱なる独立を移して動かす可らざるの基礎に置き、外国と鋒(ほこさき)を争(あらそひ)て毫(がう)も譲ることなく、今より数十の新年を経て顧(かへりみ)て今月今日の有様を回想し、今日の独立を悦ばずして却てこれを愍笑(ぴんせう憫笑)するの勢に至るは、豈一大快事ならずや。学者宜しく其方向を定めて期する所ある可きなり。  
六編 / 国法の貴きを論ず
政府は国民の名代(みやうだい代理)にて、国民の思ふ所に従ひ事を為すものなり。其職分は罪ある者を取押へて罪なき者を保護するより外ならず。即(すなはち)是れ国民の思ふ所にして、この趣意を達すれば一国内の便利となる可し。 元来罪ある者とは悪人なり、罪なき者とは善人なり。今悪人来りて善人を害せんとすることあらば、善人自からこれを防ぎ、我父母妻子を殺さんとする者あらば捕てこれを殺し、我家財を盗まんとする者あらば捕てこれを笞(むちう)ち、差支(さしつかへ)なき理なれども、一人の力にて多勢(たぜい)の悪人を相手に取り、これを防がんとするも、迚(とて)も叶ふ可きことにあらず。 仮令(たと)ひ或(あるい)は其手当(てあて準備)を為すも莫大の入費にて益もなきことなるゆゑ、右の如く国民の総代として政府を立て、善人保護の職分を勤めしめ、其代(かはり)として役人の給料は勿論(もちろん)、政府の諸入用をば悉皆(しつかい)国民より賄ふ可しと約束せしことなり。 且(かつその上)又政府は既に国民の総名代となりて事を為す可き権を得たるものなれば、政府の為す事は即ち国民の為す事にて、国民は必ず政府の法に従はざる可らず。是亦国民と政府との約束なり。故に国民の政府に従ふは、政府の作りし法に従ふに非ず、自から作りし法に従ふなり。国民の法を破るは、政府の作りし法を破るに非ず、自から作りし法を破るなり。其法を破て刑罰を被るは、政府に罰せらるゝに非ず、自から定めし法に由て罰せらるゝなり。 この趣(おもむき)を形容して云へば、国民たる者は一人(いちにん)にて二人前の役目を勤るが如し。即ち其一の役目は、自分の名代として政府を立て一国中の悪人を取押へて善人を保護することなり。其二の役目は、固く政府の約束を守り其法に従て保護を受ることなり。
右の如く、国民は政府と約束して政令(立法)の権柄(権限)を政府に任せたる者なれば、かりそめにも此約束を違へて法に背く可らず。人を殺す者を捕て死刑に行ふも政府の権なり、盗賊を縛(しばり)て獄屋(ごくや)に繋ぐも政府の権なり、公事訴訟を捌(さば)くも政府の権なり、乱妨(らんばう)喧嘩を取押(とりおさふ)るも政府の権なり。是等の事に付き、国民は少しも手を出す可らず。 若し心得違して私(わたくし)に罪人を殺し、或は盗賊を捕てこれを笞つ等のことあれば、即ち国の法を犯し、自から私に他人の罪を裁決する者にて、これを私裁(しさい)と名(なづ)け、其罪免(ゆる)す可らず。此一段に至ては、文明諸国の法律甚だ厳重なり。 所謂威(ゐ)ありて猛(たけ)からざるもの乎(か)。我日本にては政府の威権(ゐけん威光と権力)盛なるに似たれども、人民唯政府の貴きを恐れて其法の貴きを知らざる者あり。今こゝに私裁の宜しからざる由縁(ゆえん)と国法の貴き由縁とを記すこと左の如し。
譬へば我家に強盗の入り来りて家内の者を威し金を奪はんとすることあらん。此時に当り、家の主人たる者の職分は、この事の次第を政府に訴へ政府の処置を待つべき筈なれども、事火急にして出訴の間合もなく、彼是(かれこれ)する中に彼の強盗は既に土蔵へ這入(はい)りて金を持出さんとするの勢あり。これを止めんとすれば主人の命も危き場合なるゆゑ、止むを得ず家内申合せて私(わたくし)にこれを防ぎ、当座の取計(とりはからひ)にてこの強盗を捕へ置き、然る後に政府へ訴出るなり。 これを捕(とらふ)るに付ては、或は棒を用ひ、或は刃物を用ひ、或は賊の身に疵(きず)付(つく)ることもある可し、或は其足を打折ることもある可し、事(こと)急なるときは鉄砲を以て打殺すこともある可しと雖ども、結局主人たる者は我生命を護り我家財を守るために一時の取計を為したるのみにて、決して賊の無礼を咎(とが)め其罪を罰するの趣意に非ず。 罪人を罰するは政府に限りたる権なり、私(わたくし)の職分に非ず。故に私の力にて既に此強盗を取押へ我手に入(はい)りし上は、平人(へいじん一般人)の身としてこれを殺しこれを打擲(ちやうちやく)す可らざるは勿論(もちろん)、指一本を賊の身に加ふることをも許さず、唯政府に告げて政府の裁判を待つのみ。若しも賊を取押へし上にて、怒(いかり)に乗じてこれを殺しこれを打擲することあれば、其罪は無罪の人を殺し無罪の人を打擲するに異ならず。 譬へば某国の律(りつ法律)に、金十円を盗む者は其刑笞(むち)一百、又足を以て人の面(かほ)を蹴る者も其刑笞一百とあり。然るにこゝに盗賊ありて、人の家に入り金十円を盗み得て出でんとするとき、主人に取押へられ既に縛られし上にて、其主人尚(なほ)も怒に乗じ足を以て賊の面(かほ)を蹴ることあらん、然るとき其国の律を以てこれを論ずれば、賊は金十円を盗みし罪にて一百の笞を被(かうむ)り、主人も亦平人の身を以て私(わたくし)に賊の罪を裁決し足を以て其面を蹴(けり)たる罪に由り笞(むちう)たるゝこと一百なる可し。国法の厳なること斯の如し。人々恐れざる可らず。
右の理を以て考れば、敵討の宜しからざることも合点す可し。我親を殺したる者は即ち其国にて一人の人を殺たる公の罪人なり。此罪人を捕て刑に処するは政府に限りたる職分にて平人の関る所に非ず。然るに其殺されたる者の子なればとて、政府に代りて私にこの公の罪人を殺すの理あらんや。差出がましき挙動と云ふ可きのみならず、国民たるの職分を誤り、政府の約束に背くものと云ふ可し。 若しこの事に付、政府の処置宜(よろ)しからずして罪人を贔屓(ひいき)する等のことあらば、其不筋(ふすぢ)なる次第を政府に訴ふ可きのみ。何等の事故あるも決して自から手を出す可らず。仮令ひ親の敵は目の前に徘徊するも、私にこれを殺すの理なし。
昔徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討とて吉良上野介を殺したることあり。世にこれを赤穂の義士と唱(とな)へり。大なる間違ならずや。 此時日本の政府は徳川なり、浅野内匠頭も吉良上野介も浅野家の家来も皆日本の国民にて、政府の法に従ひ其保護を蒙(かうむ)る可しと約束したるものなり。然るに一朝(一時)の間違にて上野介なる者内匠頭へ無礼を加へしに、内匠頭これを政府に訴ふることを知らず、怒に乗じて私(わたくし)に上野介を切らんとして遂に双方の喧嘩と為りしかば、徳川政府の裁判にて内匠頭へ切腹を申付け、上野介へは刑を加へず、此一条は実に不正なる裁判と云ふ可し。 浅野家の家来共(ども)この裁判を不正なりと思はゞ、何が故にこれを政府へ訴へざるや。四十七士の面々申合せて、各(おのおの)其筋に由り法に従て政府に訴出(うつたへい)でなば、固(もと)より暴政府のことゆゑ最初は其訴訟を取上げず、或は其人を捕てこれを殺すこともある可しと雖(いへ)ども、仮令ひ一人は殺さるゝもこれを恐れず、又代りて訴出で、随(したがつ)て殺され随て訴へ、四十七人の家来、理を訴て命を失ひ尽すに至らば、如何なる悪政府にても遂には必ず其理に伏し、上野介へも刑を加へて裁判を正しうすることある可し。 斯くありてこそ始て真の義士とも称す可き筈なるに、嘗(かつ)て此理を知らず、身は国民の地位に居ながら国法の重きを顧みずして妄(みだり)に上野介を殺したるは、国民の職分を誤り政府の権を犯して私に人の罪を裁決したるものと云ふ可し。 幸(さいはひ)にして其時徳川の政府にてこの乱妨人を刑に処したればこそ無事に治(をさま)りたれども、若しもこれを免(ゆる)すことあらば、吉良家の一族又敵討とて赤穂の家来を殺すことは必定なり。然るときは此家来の一族、又敵討とて吉良の一族を攻(せむ)るならん。敵討と敵討とにて、はてしもあらず、遂に双方の一族朋友死し尽(つく)るに至らざれば止まず。所謂無政無法の世の中とはこの事なる可し。私裁の国を害すること斯の如し。謹まざる可らざるなり。
古(いにしへ)は日本にて百姓町人の輩、士分の者に対して無礼を加ふれば切捨御免と云ふ法あり。こは政府より公に私裁を許したるものなり。けしからぬことならずや。都(すべ)て一国の法は唯(ただ)一政府にて施行す可きものにて、其法の出(いづ)る処愈(いよいよ)多ければ其権力(効力)も亦随て愈弱し。譬へば封建の世に三百の諸侯各(おのおの)生殺の権ありし時は、政法(法律)の力も其割合にて弱かりし筈なり。
私裁の最も甚しくして、政(まつりごと)を害するの最も大なるものは暗殺なり。古来暗殺の事跡を見るに、或は私怨のためにする者あり、或は銭を奪はんがためにする者あり。此類(たぐひ)の暗殺を企るものは固(もと)より罪を犯す覚悟にて、自分にも罪人の積りなれども、別に又一種の暗殺あり。 此暗殺は私のために非ず、所謂ポリチカルエネミ《政敵》を悪(にくん)でこれを殺すものなり。天下の事に就き銘々の見込を異にし、私の見込を以て他人の罪を裁決し、政府の権を犯して恣(ほしいまま)に人を殺し、これを恥ぢざるのみならず却て得意の色を為し、自から天誅を行ふと唱ふれば、人亦これを称して報国の士と云ふ者あり。 抑も天誅とは何事なるや。天に代りて誅罰を行ふと云ふ積り乎(か)。若し其積りならば先づ自分の身の有様を考へざる可らず。元来此国に居り政府へ対して如何なる約条を結びしや。必ず其国法を守て身の保護を被る可しとこそ約束したることなるべし。 若し国の政事(せいじ)に付(つき)不平の箇条を見出し、国を害する人物ありと思はゞ、静(しづか)にこれを政府へ討ふべき筈なるに、政府を差置き自から天に代りて事を為すとは商売違ひも亦甚しきものと云ふべし。畢竟この類の人は、性質律儀なれども物事の理に暗く、国を患ふるを知て国を患ふる所以の道を知らざる者なり。試に見よ、天下古今の実験に、暗殺を以てよく事を成し世間の幸福を増したるものは未だ嘗てこれあらざるなり。
国法の貴きを知らざる者は、唯政府の役人を恐れ、役人の前を程能(ほどよく)くして、表向(おもてむき)に犯罪の名あらざれば内実の罪を犯すもこれを恥とせず。啻(ただ)にこれを恥ぢざるのみならず、巧(たくみ)に法を破て罪を遁(のが)るゝ者あれば、却てこれを其人の働としてよき評判を得ることあり。 今世間日常の話に、此(これ)も上(かみ)の御大法なり彼(かれ)も政府の表向(おもてむき)なれども、この事を行ふに斯く私(わたくし)に取計へば、表向の御大法には差支もあらず、表向の内証などゝて、笑ひながら談話して咎るものもなく、甚しきは小役人と相談の上、この内証事を取計ひ、双方共に便利を得て罪なき者の如し。 実は彼の御大法なるもの、あまり煩はしきに過ぎて事実に施す可らざるよりして、此内証事も行はるゝことなるべしと雖ども、一国の政治を以てこれを論ずれば、最も恐るべき悪弊なり。斯く国法を軽蔑するの風に慣れ、人民一般に不誠実の気を生じ、守て便利なるべき法をも守らずして、遂には罪を蒙ることあり。 譬へば、今往来に小便するは政府の禁制なり。然るに人民皆この禁令の貴きを知らずして唯邏卒(らそつ巡査)を恐るゝのみ。或は日暮など邏卒の在らざるを窺て法を破らんとし、図らずも見咎めらるゝことあれば其罪に伏(ふく)すと雖ども、本人の心中には貴き国法を犯したるが故に罰せらるゝとは思はずして、唯恐ろしき邏卒に逢ひしを其日の不幸と思ふのみ。実に歎かはしきことならずや。 故に政府にて法を立るは勉めて簡なるを良とす。既にこれを定めて法と為す上は、必ず厳に其趣意を達せざるべからず。人民は政府の定めたる法を見て不便なりと思ふことあらば、遠慮なくこれを論じて訴ふべし。既にこれを認めて其法の下に居るときは、私(わたくし勝手)に其法を是非(判断)することなく謹んでこれを守らざるべからず。
近くは先月我慶応義塾にも一事あり。華族太田資美(すけよし)君一昨年より私金(しきん)を投じて米国人を雇ひ義塾の教員に供へしが、此度交代の期限に至り、他の米人を雇ひ入れんとして当人との内談既に整ひしに付、太田氏より東京府へ書面を出(いだ)し、この米人を義塾に入れて文学科学の教師に供へんとの趣を出願せし処、文部省の規則に、私金を以て私塾の教師を雇ひ私に人を教育するものにても、其教師なる者本国にて学科卒業の免状を得てこれを所持するものに非ざれば雇入を許さずとの箇条あり。 然るに此度雇ひ入れんとする米人、彼の免状を所持せざるに付、唯語学の教師とあれば兎(と)も角(かく)もなれども、文学科学の教師としては願(ねがひ)の趣(おもむき)聞き届け難き旨、東京府より太田氏へ御沙汰なり。依て福沢諭吉より同府へ書を呈し、この教師なる者、免状を所持せざるも其学力は当塾の生徒を教(をしふ)るため十分なるゆゑ、太田氏の願の通りに命ぜられたく、或は語学の教師と申立てなば願も済むべきなれども、固より我生徒は文学科学を学ぶ積りなれば、語学と偽り官を欺くことは敢てせざる所なりと出願したりしかども、文部省の規則変(へん)ずべからざる由にて、諭吉の願書も亦返却したり。 これがため既に内約の整ひし教師を雇入るゝを得ず、去年十二月下旬本人は去て米国へ帰り、太田君の素志(そし)も一時の水の泡と為り、数百の生徒も望(のぞみ)を失ひ、実に一私塾の不幸のみならず、天下文学のためにも大なる妨(さまたげ)にて、馬鹿らしく苦々しきことなれども、国法の貴重なる、これを如何ともすべからず、何(いづ)れ近日又重ねて出願の積りなり。 今般(こんばん)の一条に付ては、太田氏を始め社中集会して其内話(ないわ)に、彼の文部省にて定めたる私塾教師の規則も所謂御大法なれば、唯文学科学の文字を消して語学の二字に改れば願も済み生徒のためには大幸(たいかう)ならんと再三商議(協議)したれども、結局の所、此度の教師を得ずして社中生徒の学業或は退歩することあるも、官を欺くは士君子の恥づべき所なれば、謹んで法を守り国民たるの分を誤らざるの方(はう)上策なるべしとて、遂に此始末に及びしことなり。 固より一私塾の処置にて其事些末に似たれども、議論の趣意は世教(世論)にも関るべきことゝ思ひ、序ながらこれを巻末に記すのみ。  
七編 / 国民の職分を論ず
第六編に国法の貴きを論じ、国民たる者は一人にて二人前の役目(やくめ)を勤るものなりと云へり。今又この役目職分(しよくぶん)の事に就き、尚其詳(つまびらか)なるを説(とき)て六編の補遺(ほゐ)と為すこと左の如し。 凡そ国民たる者は一人の身にして二箇条の勤(つとめ)あり。其一の勤は政府の下(しも)に立つ一人の民(たみ)たる所にてこれを論ず。即ち客の積(つも)りなり。其二の勤は国中の人民申合せて一国と名づくる会社を結び、社の法を立てゝこれを施し行ふことなり。即ち主人の積りなり。 譬へばこゝに百人の町人ありて何とか云ふ商社を結び、社中相談の上にて社の法を立てこれを施し行ふ所を見れば、百人の人は其商社の主人なり。既にこの法を定めて、社中の人何れもこれに従ひ違背(ゐはい)せざる所を見れば、百人の人は商社の客なり。故に一国は猶(なほ)商社の如く、人民は猶社中の人の如く、一人にて主客二様の職を勤むべき者なり。 第一客の身分を以て論ずれば、一国の人民は国法を重んじ人間同等の趣意を忘る可らず。他人の来りて我権義を害するを欲せざれば、我も亦他人の権義を妨(さまた)ぐ可らず。我(わが)楽む所のものは他人も亦これを楽むが故に、他人の楽(たのしみ)を奪て我楽を増す可らず、他人の物を盗(ぬすん)で我富と為す可らず、人を殺す可らず、人を讒(ざん中傷)す可らず。正(ただ)しく国法を守て彼我同等の大義に従ふ可し。又国の政体に由て定まりし法は、仮令ひ或は愚なるも或は不便なるも、妄(みだり)にこれを破るの理なし。 師(いくさ)を起すも外国と条約を結ぶも政府の権にある事にて、この権はもと約束にて人民より政府へ与へたるものなれば、政府の政(まつりごと)に関係なき者は決して其事を評議す可らず。人民若し此趣意を忘れて、政府の処置に就き我意に叶はずとて恣(ほしいまま)に議論を起し、或は条約を破らんとし、或は師(いくさ)を起さんとし、甚しきは一騎先駆け白刃(はくじん)を携(たづさへ)て飛出すなどの挙動に及ぶことあらば、国の政は一日も保つ可らず。 これを譬へば、彼の百人の商社兼(かね)て申合せの上、社中の人物十人を撰(えらん)で会社の支配人と定め置き、其支配人の処置に就き残り九十人の者共我意に叶はずとて銘々(めいめい)に商法を議し、支配人は酒を売らんとすれば九十人の者は牡丹餅(ぼたもち)を仕入れんとし、其評議区々(くくまちまち)にて、甚しきは一了簡(れうけん)を以て私(わたくし勝手)に牡丹餅の取引を始め、商社の法に背て他人と争論に及ぶなどのことあらば、会社の商売は一日も行はる可らず。遂に其商社の分散するに至らば、其損亡(そんまう損失)は商社百人一様の引受なる可し。愚(ぐ)も亦甚しきものと云ふ可し。 故に国法は不正不便なりと雖ども、其不正不便を口実に設てこれを破るの理なし。若し事実に於て不正不便の箇条あらば、一国の支配人たる政府に説き勧めて静(しづか)に其法を改めしむ可し。政府若し我説に従はずんば、且(かつ)力を尽し且堪忍して時節(じせつ)を待つ可きなり。 第二主人の身分を以て論ずれば、一国の人民は即ち政府なり。其故は一国中の人民悉皆(しつかい)政(まつりごと)を為す可きものに非ざれば、政府なるものを設(まうけ)てこれに国政を任せ、人民の名代として事務を取扱はしむ可しとの約束を定めたればなり。故に人民は家元なり、又主人なり。政府は名代人なり、又支配人なり。 譬へば商社百人の内より撰ばれたる十人の支配人は政府にて、残(のこり)九十人の社中は人民なるが如し。この九十人の社中は自分にて事務を取扱ふことなしと雖ども、己が代人(代理)として十人の者へ事を任せたるゆゑ、己(おのれ)の身分を尋(たづぬ)ればこれを商社の主人と云はざるを得ず。又彼の十人の支配人は現在の事を取扱ふと雖ども、もと社中の頼(たのみ)を受け其(その)意に従(したがひ)て事を為す可しと約束したる者なれば、其実は私に非ず商社の公務を勤る者なり。 今世間にて政府に関ることを公務と云ひ公用と云ふも、其字の由(よつ)て来(きた)る所を尋れば、政府の事は役人の私事(しじ)に非ず、国民の名代と為りて一国を支配する公(おほやけ)の事務と云ふ義なり。
右の次第を以て、政府たるものは人民の委任を引受け、其約束に従て一国の人をして貴賎上下の別なく何れも其権義を逞(たくまし)うせしめざる可らず。法を正(ただし)うし罰を厳にして一点の私曲(しきよく不正)ある可らず。 今こゝに一群の賊徒来りて人の家に乱入するとき、政府これを見てこれを制すること能はざれば政府も其賊の徒党と云て可なり。政府若し国法の趣意を達すること能はずして人民に損亡を蒙らしむることあらば、其高の多少を論ぜず其事の新旧を問はず、必ずこれを償(つぐな)はざる可らず。 譬へば役人の不行届(ふゆきとどき)にて国内の人歟(か)又は外国人へ損亡を掛け、三万円の償金を払ふことあらん。政府には固より金のある可き理なければ、其償金の出(いづ)る所は必ず人民なり。この三万円を日本国中凡(およそ)三千万人の人口に割付(わりつく)れば、一人前十文づゝに当る。役人の不行届十度を重ぬれば、人民の出金(しゆつきん)一人前百文に当り、家内五人の家なれば五百文なり。 田舎の小百姓に五百文の銭あれば、妻子打寄(うちよ)り山家(やまが)相応の馳走(ちそう)を設て一夕(いつせき)の愉快を尽す可き筈なるに、唯役人の不行届のみに由り、全日本国中無辜(むこ)の小民をして其無上の歓楽を失はしむるは実に気の毒の至りならずや。 人民の身としては斯(かか)る馬鹿らしき金を出す可き理なきに似たれども、如何せん、其人民は国の家元主人にて、最初より政府へこの国を任せて事務を取扱はしむるの約束を為し、損徳共に家元にて引受くべき筈のものなれば、唯金を失ひしときのみに当(あたり)て役人の不調法を彼是(かれこれ)と議論す可らず。 故に人民たる者は平生よりよく心を用ひ、政府の処置を見て不安心と思ふことあらば、深切にこれを告げ遠慮なく穏(おだやか)に論ず可きなり。
人民は既に一国の家元にて国を護るための入用を払ふは固より其職分なれば、この入用を出すに付き、決して不平の顔色(がんしよく)を見(あら)はす可らず。国を護るためには役人の給料なかる可らず、海陸の軍費なかる可らず、裁判所の入用もあり、地方官の入用もあり。其高を集(あつめ)てこれを見れば大金のやうに思はるれども、一人前の頭(あたま)に割付けて何程なるや。 日本にて歳入の高を全国の人口に割付けなば、一人前に一円か二円なる可し。一年の間に僅か一、二円の金を払ふて政府の保護を被り、夜盗押込の患(うれへ)もなく、独旅行(ひとりたび)に山賊の恐もなくして、安穏に此世を渡るは大なる便利ならずや。 凡そ世の中に割合よき商売ありと雖ども、運上(税金)を払ふて政府の保護を買ふほど安きものはなかる可し。世上の有様を見るに、普請に金を費す者あり、美服美食に力を尽す者あり、甚しきは酒色のために銭を棄てゝ身代を傾(かたむく)る者もあり、是等(これら)の費(つひえ)を以て運上の高に比較しなば、固より同日の話に非ず。不筋(ふすぢ無駄)の金(出費)なればこそ一銭をも惜む可けれども、道理に於て出す可き筈のみならずこれを出して安きものを買ふべき銭なれば、思案にも及ばず快く運上を払ふ可きなり。
右の如く人民も政府も各(おのおの)其分限を尽して互に居合(をりあ折合)ふときは申分もなきことなれども、或は然らずして政府なるもの其分限を越て暴政を行ふことあり。こゝに至て人民の分として為す可き挙動は、唯三箇条あるのみ。即ち節を屈して政府に従ふ歟(か)、力を以て政府に敵対する歟、正理(せいり正義)を守て身を棄る歟、此三箇条なり。 第一節を屈して政府に従ふは甚だ宜(よろ)しからず。人たる者は天の正道に従ふを以て職分とす。然るに其節を屈して政府人造(じんざう)の悪法に従ふは、人たるの職分を破(やぶ)るものと云ふ可し。且(かつ)一度び節を屈して不正の法に従ふときは、後世子孫に悪例を遺(のこ)して天下一般の弊風(へいふう悪習)を醸(かも)し成す可し。 古来日本にても愚民の上に暴政府ありて、政府虚威(きよゐ)を逞(たくまし)うすれば人民はこれに震ひ恐れ、或は政府の処置を見て現に無理とは思ひながら、事の理非(是非)を明(あきらか)に述べなば必ず其怒(いかり)に触れ、後日(ごじつ)に至て暗に役人等(ら)に窘(くるし)めらるゝことあらんを恐れて、言ふ可きことをも言ふものなし。 其後日の恐(おそれ)とは、俗に所謂犬の糞でかたき(卑劣な復讐)なるものにて、人民は只管(ひたすら)この犬の糞を憚(はばか)り、如何なる無理にても政府の命には従ふ可きものと心得て、世上一般の気風を成し、遂に今日の浅ましき有様に陥りたるなり。即是れ人民の節を屈して禍(わざはひ)を後世に残したる一例と云ふ可し。 第二力を以て政府に敵対するは固(もと)より一人の能(よく)する所に非ず、必ず徒党を結ばざる可らず。即是れ内乱の師(いくさ)なり。決してこれを上策と云ふ可らず。既に師(いくさ)を起して政府に敵するときは、事の理非曲直は姑(しば)らく論ぜずして、唯力の強弱のみを比較せざる可らず。然るに古今内乱の歴史を見れば、人民の力は常に政府よりも弱きものなり。 又内乱を起せば、従来其国に行はれたる政治の仕組を一度び覆(くつが)へすは固より論を俟(ま)たず。然るに其旧(もと)の政府なるもの、仮令(たとひ)如何なる悪政府にても、自(おのづ)から亦善政良法あるに非ざれば政府の名を以て若干の年月を渡るべき理なし。故に一朝の妄動にてこれを倒すも、暴を以て暴に代へ、愚を以て愚に代るのみ。 又内乱の源(みなもと)を尋(たづぬ)れば、もと人の不人情を悪(にくみ)て起したるものなり。然るに凡そ人間世界に内乱ほど不人情なるものはなし。世間朋友の交(まじはり)を破るは勿論、甚しきは親子相殺し兄弟相敵(てき)し、家を焼き人を屠(ほふ)り、其悪事至らざる所なし。斯る恐ろしき有様にて人の心は益(ますます)残忍に陥り、殆(ほとん)ど禽獣(きんじう)とも云ふ可き挙動を為しながら、却(かへ)て旧の政府よりもよき政を行ひ寛大なる法を施して天下の人情を厚きに導かんと欲する乎(か)。不都合(不届き)なる考と云ふ可し。 第三正理(正義)を守(まもり)て身を棄(すつ)るとは、天の道理を信じて疑はず、如何なる暴政の下に居て如何なる苛酷の法に窘(くるし)めらるゝも、其苦痛を忍(しのび)て我志を挫(くじ)くことなく、一寸(ちよと)の兵器を携へず片手の力を用ひず、唯正理を唱て政府に迫ることなり。 以上三策の内、この第三策を以て上策の上とす可し。理を以て政府に迫れば、其時其国にある善政良法はこれがため少しも害を被ることなし。其正論或は用ひられざることあるも、理の在る所はこの論に由て既に明なれば、天然の人心これに服せざることなし。故に今年に行はれざれば又明年を期す可し。 且又力を以て敵対するものは、一を得んとして百を害するの患あれども、理を唱て政府に迫るものは、唯除く可きの害を除くのみにて他に事を生ずることなし。其目的とする所は政府の不正を止(とどむ)るの趣意(趣旨)なるが故に、政府の処置正(せい)に帰すれば議論も亦共に止む可し。 又力を以て政府に敵すれば政府は必ず怒(いかり)の気を生じ、自(みづ)から其悪を顧みずして却て益(ますます)暴威を張り、其非(ひ)を遂げんとするの勢に至る可しと雖ども、静(しづかに)に正理を唱ふる者に対しては、仮令ひ暴政府と雖ども其役人も亦同国の人類なれば、正者の理を守て身を棄るを見て必ず同情相憐むの心を生ず可し。既に他を憐むの心を生ずれば自から過(あやまち)を悔い、自(おのづ)から胆(きも)を落して必ず改心するに至る可し。
斯の如く世を患(うれひ)て身を苦しめ或は命を落すものを、西洋の語にてマルチルドム〈martyrdom〉と云ふ。失ふ所のものは唯一人の身なれども、其効能は千万人を殺し千万両を費(つひや)したる内乱の師(いくさ)よりも遥に優れり。 古来日本にて討死せし者も多く切腹せし者も多し。何れも忠臣義士とて評判は高しと雖ども、其身を棄(すて)たる由縁(ゆえん)を尋るに、多くは両(ふたつの)主(ぬし)政権を争ふの師(いくさ)に関係する者歟(か)、又は主人の敵討等に由て花々しく一命を抛(なげうち)たる者のみ。其形は美に似たれども其実は世に益することなし。己が主人のためと云ひ己が主人に申訳なしとて、唯一命をさへ棄(すつ)ればよきものと思ふは、不文(無学)不明(無知)の世の常なれども、今文明の大義を以てこれを論ずれば、是等の人は未だ命のすてどころを知らざる者と云ふ可し。 元来文明とは、人の智徳を進め人々(にんにん)身躬(みみづ)から其身を支配して世間相交(まじは)り、相害することもなく害せらるゝこともなく、各(おのおの)其権義(権利)を達して一般の安全繁昌を致すを云ふなり。されば、彼の師(いくさ)にもせよ敵討にもせよ、果してこの文明の趣意に叶ひ、此師に勝てこの敵を滅(ほろぼ)し、この敵討を遂げてこの主人の面目を立れば、必ずこの世は文明に赴き、商売も行はれ工業も起りて、一般の安全繁昌を致す可しとの目的あらば、討死も敵討も尤(もつとも)のやうなれども、事柄(事実)に於(おい)て決して其目的ある可らず。 且彼の忠臣義士にも夫(それ)程の見込はあるまじ。唯因果ずくにて旦那へ申訳までのことなる可し。旦那へ申訳にて命を棄たる者を忠臣義士と云はゞ、今日も世間に其人は多きものなり。権助(ごんすけ下男)が主人の使(つかひ)に行き、一両の金を落して途方に暮れ、旦那へ申訳なしとて思案を定め、並木の枝にふんどしを掛けて首を縊(くく)るの例は世に珍しからず。 今この義僕が自から死を決する時の心を酌(く)んで、其情実を察すれば亦憐む可きに非ずや。使に出(い)でゝ未だ返らず身先づ死す、長く英雄をして涙を襟(えり)に満たしむ可し(杜甫「蜀相」:出師未捷身先死、長使英雄涙満襟)。主人の委託を受て自から任じたる一両の金を失ひ、君臣の分を尽すに一死を以てするは、古今の忠臣義士に対して毫も恥づることなし。其誠忠(忠誠)は日月(じつげつ)と共に耀(かがや)き、其功名は天地と共に永かる可き筈なるに、世人皆薄情にしてこの権助を軽蔑し、碑(ひ)の銘を作て其功業を称(しよう賞)する者もなく、宮殿を建てゝ祭る者もなきは何ぞや。 人皆云はん、権助の死は僅(わづか)に一両のためにして其(その)事の次第甚だ些細なりと。然りと雖ども事の軽重は金高(きんだか)の大小人数の多少を以て論ず可らず、世の文明に益あると否とに由て其軽重を定む可きものなり。然るに今、彼の忠臣義士が一万の敵を殺して討死するも、この権助が一両の金を失ふて首を縊るも、其死を以て文明を益することなきに至(いたり)ては正しく同様の訳にて、何(いづ)れを軽しとし何れを重しとす可らざれば、義士も権助も共に命の棄所(すてどころ)を知らざる者と云(いひ)て可なり。 是等の挙動(行動)を以てマルチルドムと称す可らず。余輩(よはい我輩)の聞く所にて、人民の権義(けんぎ権利)を主張し正理(せいり正義)を唱(となへ)て政府に迫り其命を棄てゝ終りをよくし、世界中に対して恥(はづ)ることなかる可き者は、古来唯(ただ)一名の佐倉宗五郎(徳川将軍に悪税を直訴し磔になる)あるのみ。但し宗五郎の伝は、俗間に伝はる草紙(さうし小説)の類のみにて、未だ其詳(つまびらか)なる正史を得ず。若し得ることあらば、他日これを記して其功徳を表し、以て世人の亀鑑(きかん手本)に供(きよう)す可し。  
八編 / 我心を以て他人の身を制す可らず
亜米利加のヱイランド〈Wayland〉なる人の著したる「モラルサイヤンス」〈MoralScience〉と云ふ書に、人の身心の自由を論じたることあり。其論の大意に云く、人の一身は、他人と相離れて一人前の全体を成し、自から其身を取扱ひ、自から其心を用ひ、自から一人(いちにん)を支配して、務む可き仕事を務(つとむ)る筈のものなり。 故に、第一、人には各(おのおの)身体あり。身体は以て外物に接し、其物を取て我求る所を達す可し。譬へば、種を蒔(まき)て米を作り、綿を取て衣服を製するが如し。 第二、人には各智恵あり。智恵は以て物の道理を発明し、事を成すの目途(もくと目的)を誤ることなし。譬へば、米を作るに肥しの法を考へ、木綿を織るに機(はた)の工夫をするが如し。皆智恵分別(ふんべつ)の働なり。 第三、人には各情欲(じやうよく欲望)あり。情欲は以て心身の働を起し、この情欲を満足して一身の幸福を成す可し。譬へば人として美服美食を好まざる者なし。されども此美服美食は自から天地の間に生ずるものに非ず。これを得んとするには人の働なかる可らず。故に人の働は大抵皆情欲の催促を受(うけ)て起るものなり。此情欲あらざれば働ある可らず、此働あらざれば安楽の幸福ある可らず。禅坊主などは働もなく幸福もなきものと云ふ可し。 第四、人には各至誠の本心あり。誠の心は以て情欲を制し、其方向を正しくして止(とどま)る所を定む可し。譬へば情欲には限(かぎり)なきものにて、美服美食も何れにて十分と界(さかひ)を定め難し。今若し働く可き仕事をば捨て置き、只管(ひたすら)我欲するものゝみを得んとせば、他人を害して我身を利するより外に道なし。これを人間の所業と云ふ可らず。此時に当て欲と道理とを分別し、欲を離れて道理の内に入らしむるものは誠の本心なり。 第五、人には各意思あり。意思は以て事を為すの志を立つ可し。譬へば世の事は怪我の機(はづみ)にて出来るものなし。善き事も悪き事も皆(みな)人のこれを為さんとする意ありてこそ出来るものなり。
以上五(いつつ)の者は人に欠く可らざる性質にして、此性質の力を自由自在に取扱ひ、以て一身の独立を為すものなり。扨(さて)独立と云へば、独(ひと)り世の中の偏人奇物(きぶつ)にて世間の附合(つきあひ)もなき者のやうに聞ゆれども、決して然らず。 人として世に居れば固より朋友なかる可らずと雖ども、其朋友も亦吾に交(まじはり)を求(もとむ)ること、猶(なほ)我朋友を慕ふが如くなれば、世の交は相互のことなり。唯この五の力を用(もちふ)るに当り、天より定めたる法に従て、分限を越えざること緊要なるのみ。 即ち其分限とは、我もこの力を用ひ他人もこの力を用ひて相互に其働を妨ざるを云ふなり。斯(かく)の如く人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるゝこともなく、天に罪せらるゝこともなかる可し。これを人間の権義と云ふなり。
右の次第に由り、人たる者は他人の権義を妨げざれば自由自在に己が身体を用るの理あり。其好む処に行き、其欲する処に止り、或は働き、或は遊び、或は此事を行ひ、或は彼の業(わざ)を為し、或は昼夜勉強するも、或は意に叶はざれば無為にして終日寝(いぬ)るも、他人に関係なきことなれば、傍(かたはら)より彼是(かれこれ)とこれを議論するの理なし。
今若し前の説に反し、人たる者は理非に拘らず他人の心に従て事を為すものなり、我了簡を出すは宜しからずと云ふ議論を立る者あらん。此議論果して理の当然なる乎。理の当然ならば凡そ人と名の付たる者の住居なる世界には通用すべき筈なり。 仮に其一例を挙て云はん。禁裏(きんり天皇)様は公方(くばう将軍)様よりも貴きものなるゆゑ、禁裏様の心を以て公方様の身を勝手次第に動かし、行かんとすれば止れと云ひ、止まらんとすれば行けと云ひ、寝るも起きるも飲むも喰(く)ふも我思ひのまゝに行(おこな)はるゝことなからん。公方様は又手下の大名を制し、自分の心を以て大名の身を自由自在に取扱はん。大名は又自分の心を以て家老の身を制し、家老は自分の心を以て用人(ようにん)の身を制し、用人は徒士(かち)を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するならん。 扨(さて)百姓に至ては最早目下の者もあらざれば少し当惑の次第なれども、元来この議論は人間世界に通用す可き当然の理に基きたるものなれば、百万遍の道理にて、廻はれば本に返らざるを得ず。百姓も人なり、禁裏様も人なり、遠慮はなしと御免を蒙り、百姓の心を以て禁裏様の身を勝手次第に取扱ひ、行幸あらんとすれば止れと云ひ、行在(あんざい)に止まらんとすれば還御(くわんぎよ)と云ひ、起居眠食皆百姓の思ひのまゝにて、金衣玉食を廃して麦飯を進るなどのことに至らば如何ん。 斯の如きは即ち日本国中の人民、身躬(みみづ)から其身を制するの権義なくして却て他人を制するの権あり。人の身と心とは全く其居処(きよしよ)を別にして、其身は恰も他人の魂を止(とどむ)る旅宿の如し。下戸の身に上戸の魂を入れ、子供の身に老人の魂を止(とど)め、盗賊の魂は孔夫子(こうふうし孔子)の身を借用し、猟師の魂は釈迦の身に旅宿し、下戸が酒を酌(くん)で愉快を尽せば、上戸は砂糖湯を飲(のん)で満足を唱へ、老人が樹に攀(のぼり)て戯(たはむる)れば、子供は杖をついて人の世話をやき、孔夫子が門人を率ゐて賊を為せば、釈迦如来は鉄砲を携(たづさへ)て殺生に行くならん。奇なり、妙なり、又不思議なり。これを天理人情と云はんか。これを文明開化と云はんか。三歳の童子にても其返答は容易なる可し。 数千百年の古より和漢の学者先生が、上下貴賎の名分(めいぶんけじめ)とて喧(やかま)しく云ひしも、詰(つま)る処は他人の魂を我身に入れんとするの趣向ならん。これを教へこれを説き、涙を流してこれを諭し、末世の今日に至ては其功徳も漸く顕れ、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、学者先生も得意の色を為し、神代(かみよ)の諸尊、周の世の聖賢も、草葉の蔭にて満足なる可し。今其功徳の一、二を挙て示すこと左の如し。
政府の強大にして小民を制圧するの議論は、前編にも記したるゆゑ爰(ここ)にはこれを略し、先づ人間男女の間を以てこれを云はん。抑(そもそ)も世に生れたる者は、男も人なり女も人なり。此世に欠く可らざる用を為す所を以て云へば、天下一日も男なかる可らず又女なかる可らず。其功能(こうのう働き)如何にも同様なれども、唯其異なる所は、男は強く女は弱し。大の男の力にて女と闘はゞ必ずこれに勝つ可し。即(すなはち)是れ男女の同じからざる所なり。 今世間を見るに、力ずくにて人の物を奪ふ歟、又は人を恥しむる者あれば、これを罪人と名づけて刑にも行はるゝ事あり。然るに家の内にては公然と人を恥しめ、嘗(かつ)てこれを咎(とがむ)る者なきは何ぞや。女大学と云ふ書に、婦人に三従の道あり、稚き時は父母に従ひ、嫁(よめい)る時は夫に従ひ、老ては子に従ふ可しと云へり。稚き時に父母に従ふは尤(もつとも)なれども、嫁(とつぎ)て後に夫に従ふとは如何にしてこれに従ふことなるや、其従ふ様(さま)を問はざる可らず。 女大学の文(ふみ)に拠れば、亭主は酒を飲み女郎に耽(ふけ)り妻を詈(ののし)り子を叱(しかり)て放蕩淫乱を尽すも、婦人はこれに従ひ、この淫夫を天の如く敬ひ尊(たふと)み顔色(がんしよく)を和(や)はらげ、悦ばしき言葉にてこれを異見(意見)す可しとのみありて、其先きの始末をば記さず。 されば此(この)教(をしへ)の趣意は、淫夫にても姦夫(かんぷ)にても既に己(おの)が夫と約束したる上は、如何なる恥辱を蒙るもこれに従はざるを得ず。唯心にも思はぬ顔色を作りて諌(いさむ)るの権義あるのみ。其諌(いさめ)に従ふと従はざるとは淫夫の心次第にて、即ち淫夫の心はこれを天命と思ふより外に手段あることなし。 仏書に罪業深き女人(によにん)と云ふことあり。実にこの有様を見れば、女は生れながら大罪を犯したる科人(とがにん)に異ならず。又一方より婦人を責(せむ)ること甚しく、女大学に婦人の七去(しちきよ)とて、淫乱なれば去ると明に其裁判を記せり。男子のためには大に便利なり。あまり片落なる教ならずや。畢竟男子は強く婦人は弱しと云ふ所より、腕の力を本にして男女上下の名分(差別)を立(たて)たる教なる可し。
右は姦夫淫婦の話なれども、又こゝに妾(めかけ)の議論あり。世に生(うま)るゝ男女の数は同様なる理なり。西洋人の実験に拠れば、男子の生るゝことは女子よりも多く、男子二十二人に女子二十人の割合なりと。されば一夫にて二、三の婦人を娶(めと)るは固より天理に背くこと明白なり。これを禽獣(きんじう)と云ふも妨なし。 父を共にし母を共にする者を兄弟と名づけ、父母兄弟共に住居する処を家と名づく。然るに今、兄弟、父を共にして母を異にし、一父独立して衆母は群を成せり。これを人類の家と云ふ可きか。家の字の義を成さず。仮令ひ其楼閣は巍々(ぎぎ)たるも、其宮室は美麗なるも、余が眼を以てこれを見れば人の家に非ず、畜類の小屋と云はざるを得ず。 妻妾(さいせふ)家に群居して家内よく熟和するものは古今未だ其例を聞かず。妾(めかけ)と雖ども人類の子なり。一時の欲のために人の子を禽獣の如くに使役し、一家の風俗を乱(みだ)りて子孫の教育を害し、禍(わざはひ)を天下に流して毒を後世に遺すもの、豈これを罪人と云はざる可けんや。 人或は云く、衆妾を養ふも其処置宜きを得(う)れば人情を害することなしと。こは夫子(孔子)自から云ふの言葉なり。若し夫(そ)れ果して然らば、一婦をして衆夫を養はしめ、これを男妾と名けて家族第二等親の位に在らしめなば如何ん。此の如くしてよく其家を治め人間交際の大義に毫も害することなくば、余が喋々(てふてふ)の議論をも止(や)め口を閉して又言はざる可し。 天下の男子宜しく自から顧(かへりみ)る可し。或人又云く、妾を養ふは後(のち)あらしめんがためなり、孟子の教に不孝に三(みつ)あり、後なきを大なりとすと。余答て云く、天理に戻(もと)ることを唱(となふ)る者は孟子にても孔子にても遠慮に及ばず、これを罪人と云て可なり。妻を娶り子を生まざればとてこれを大不孝とは何事ぞ。遁辞(こじつけ)と云ふも余り甚(はなはだ)しからずや。苟(いやしく)も人心を具へたる者なれば、誰か孟子の妄言を信ぜん。 元来不孝とは子たる者にて理に背きたる事をなし親の身心をして快(こころよ)からしめざることを云ふなり。勿論老人の心にて孫の生るゝは悦ぶことなれども、孫の誕生が晩(おそ)しとてこれを其子の不孝と云ふ可らず。試に天下の父母たる者に問はん。子に良縁ありてよき媳(よめ嫁)を娶り、孫を生まずとてこれを怒り、其媳を叱り其子を笞(むちう)ち、或はこれを勘当せんと欲するか。世界広しと雖ども未だ斯る奇人あるを聞かず、是等は固より空論にて弁解を費すにも及ばず。人々自から其心に問て自からこれに答ふ可きのみ。
親に孝行するは固より人たる者の当然、老人とあれば他人にてもこれを丁寧にする筈(はず)なり。まして自分の父母に対し情を尽さゞる可けんや。利のために非ず、名のために非ず、唯己が親と思ひ、天然の誠を以てこれに孝行す可きなり。古来和漢にて孝行を勧めたる話は甚だ多く、二十四孝を始として其外の著述書も計(かぞ)ふるに遑(いとま)あらず。然るに此書を見れば、十に八、九は人間に出来難き事を勧る歟(か)、又は愚にして笑ふ可き事を説く歟、甚しきは理に背きたる事を誉めて孝行とするものあり。 寒中に裸体にて氷の上に臥(ふ)し其解(とく)るを待たんとするも人間に出来ざることなり。夏の夜に自分の身に酒を灌(そそぎ)て蚊に喰はれ親に近づく蚊を防ぐより、其酒の代(だい)を以て紙帳(しちやう蚊帳)を買ふこそ智者ならずや。父母を養ふ可き働もなく途方に暮れて罪もなき子を生きながら穴に埋(うづ)めんとする其心は、鬼とも云ふ可し蛇とも云ふ可し、天理人情を害するの極度と云ふ可し。 最前(先刻)は不孝に三ありとて、子を生まざるをさへ大不孝と云ひながら、今こゝには既に生れたる子を穴に埋めて後を絶たんとせり。何れを以て孝行とするか、前後(全く)不都合なる妄説ならずや。畢竟この孝行の説も、親子の名を糺(ただ)し上下の分を明にせんとして、無理に子を責(せむ)るものならん。其これを責る箇条を聞けば、妊娠中に母を苦しめ、生れて後は三年父母の懐(ふところ)を免(まぬ)かれず、其洪恩(こうおん大恩)は如何と云へり。 されども子を生みて子を養ふは人類のみに非ず、禽獣皆然り。唯人の父母の禽獣に異なる所は、子に衣食を与ふるの外に、これを教育して人間交際の道を知らしむるの一事に在るのみ。然るに世間の父母たる者、よく子を生めども子を教(をしふ)るの道を知らず、身は放蕩無頼(ぶらい)を事として子弟に悪例を示し、家を汚し産を破て貧困に陥り、気力漸く衰へて家産既に尽くるに至れば放蕩変じて頑愚(がんぐ)となり、乃ち其子に向て孝行を責るとは、果して何の心ぞや。何の鉄面皮あればこの破廉恥の甚しきに至るや。 父は子の財を貪らんとし、姑は媳(嫁)の心を悩ましめ、父母の心を以て子供夫婦の身を制し、父母の不理屈(屁理屈)は尤(もつとも)にして子供の申分は少しも立たず、媳は恰も餓鬼の地獄に落ちたるが如く、起居眠食自由なるものなし。一(いつ)も舅姑の意に戻(もと)れば即ちこれを不孝者と称し、世間の人もこれを見て心に無理とは思ひながら、己が身に引受けざることなれば先づ親の不理屈に左袒して理不尽に其子を咎(とがむ)る歟、或は通用の説に従へば、理非を分たず親を欺(あざむ)けとて偽計を授(さづく)る者あり。豈これを人間家内の道と云ふ可けんや。 余嘗(かつ)て云へることあり。姑の鑑(手本)遠からず媳(嫁)の時に在りと。姑若し媳を窘(くるし)めんと欲せば、己(おの)が嘗て媳たりし時を想ふ可きなり。
右は、上下貴賎の名分より生じたる悪弊にて、夫婦親子の二例を示したるなり。世間に此悪弊の行はるゝは甚だ広く、事々物々(しじぶつぶつ)、人間の交際に浸潤(浸透)せざるはなし。尚(なほ)其例は、次編に記す可し。  
九編 / 学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文
人の心身の働を細(こまか)に見れば、これを分(わかち)て二様に区別す可し。第一は一人たる身に就(つき)ての働なり。第二は人間交際の仲間に居(を)り其交際の身に就ての働なり。 第一心身の働を以て衣食住の安楽を致すもの、これを一人の身に就ての働と云ふ。然りと雖ども天地間の万物、一(いつ)として人の便利たらざるものなし。 一粒の種を蒔けば二、三百倍の実を生じ、深山の樹木は培養せざるもよく成長し、風は以て車を動かす可し、海は以て運送の便(ぺん)を為す可し。山の石炭を掘り、河海(かかい)の水を汲み、火を点じて蒸気を造れば重大(巨大)なる舟車を自由に進退す可し。此他(このほか)造化の妙工(めうこう仕組み)を計(かぞふ)れば枚挙に遑あらず。 人は唯この造化の妙工を藉(か借)り僅(わづか)に其趣を変じて以て自から利するなり。故に人間の衣食住を得るは、既に造化の手を以て九十九分の調理を成したるものへ、人力にて一分を加ふるのみのことなれば、人は此衣食住を造ると云ふ可らず、其実は路傍に棄(すて)たるものを拾取るが如きのみ。
故に人として自(みづ)から衣食住を給するは難(かた)き事に非ず。この事を成せばとて敢(あへ)て誇る可きに非ず。固より独立の活計は人間の一大事、汝の額の汗を以て汝の食を喰(くら)へとは古人の教なれども、余が考には、この教の趣旨を達したればとて未だ人たるものゝ務(つとめ)を終(をは)れりとするに足らず。此(この)教(をしへ)は僅(わづか)に人をして禽獣に劣ること莫(なか)らしむるのみ。 試(こころみ)に見よ。禽獣魚虫、自(みづ)から食を得ざるものなし。啻(ただ)にこれを得て一時の満足を取るのみならず、蟻の如きは遥(はるか)に未来を図り、穴を掘て居処(きよしよ)を作り、冬日(とうじつ)の用意に食料を貯(たくはふ)るに非ずや。然るに世の中には此蟻の所業を以て自から満足する人あり。 今其一例を挙ん。男子年(とし)長じて、或は工に就き、或は商に帰し、或は官員と為りて、漸く親類朋友の厄介たるを免かれ、相応に衣食して他人へ不義理の沙汰(さた)もなく、借屋にあらざれば自分にて手軽に家を作り、家什(かじふ家具)は未だ整はずとも細君丈(だ)けは先(ま)づとりあへずとて、望の通りに若き婦人を娶り、身の治りも付て倹約を守り、子供は沢山に生れたれども教育も一通りの事なればさしたる銭もいらず、不時(ふじ)病気等の入用に三十円か五十円の金にはいつも差支(さしつかへ)なくして、細く永く長久(ちやうきう)の策に心配し、兎(と)にも角(かく)にも一軒の家を守る者あれば、自から独立の活計を得たりとて得意の色を為し、世の人もこれを目(もく)して不覊(ふき)独立の人物と云ひ、過分の働を為したる手柄ものゝやうに称すれども、其実は大なる間違ならずや。 此人は唯蟻の門人(弟子)と云ふ可きのみ。生涯の事業は蟻の右に出(いづ)るを得ず。其衣食を求め家を作るの際に当(あたり)ては、額に汗を流せしこともあらん、胸に心配せしこともあらん、古人の教に対して恥ることなしと雖ども、其成功を見れば万物の霊たる人の目的を達したる者と云ふ可らず。
右の如く一身の衣食住を得てこれに満足す可きものとせば、人間の渡世は唯生れて死するのみ。其死するときの有様は生れしときの有様に異ならず。斯(かく)の如くして子孫相伝へなば、幾百代を経(ふ)るも一村の有様は旧(もと)の一村にして、世上に公の工業を起す者なく、船をも造らず橋をも架(か)せず、一身一家の外は悉皆(しつかい)天然に任せて、其土地に人間生々(せいせい)の痕跡(生きた印)を遺すことなかる可し。 西人(せいじん)云へることあり、世の人皆自から満足するを知て小安に安んぜなば、今日の世界は開闢(かいびやく始まり)のときの世界に異なることなかる可しと。此事誠に然り。 固より満足にも二様の区別ありて、其界(さかひ境)を誤る可らず。一を得て又二を欲し、随(したがつ)て足れば随て不足を覚え、遂に飽くことを知らざるものはこれを慾と名(なづ)け或は野心と称す可しと雖ども、我心身の働を拡(おしひろめ)て達す可きことの目的を達せざるものはこれを蠢愚(しゆんぐ愚鈍)と云ふ可きなり。 第二人の性は群居を好み決して独歩孤立するを得ず。夫婦親子にては未だ此性情を満足せしむるに足らず、必ずしも広く他人に交り、其交り愈(いよいよ)広ければ一身の幸福愈(いよいよ)大なるを覚(おぼゆ)るものにて、即是れ人間交際の起る由縁なり。 既に世間に居(をり)て其交際中の一人となれば、亦(また)随て其義務なかる可らず。凡そ世に学問と云ひ工業と云ひ政治と云ひ法律と云ふも、皆人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば何れも不用のものたる可し。 政府何の由縁を以て法律を設(まうく)るや、悪人を防(ふせ)ぎ善人を保護し以て人間の交際を全(まつた)からしめんがためなり。学者何の由縁を以て書を著述し人を教育するや、後進の智見を導て以て人間の交際を保(たも)たんがためなり。 往古或る支那人の言に、天下を治ること肉を分つが如く公平ならんと云ひ、又庭前(にはさき)の草を除くよりも天下を掃除せんと云ひしも、皆人間交際のために益を為さんとするの志(こころざし)を述べたるものにて、凡そ何人にても聊(いささ)か身に所得あれば、これに由て世の益を為さんと欲するは人情の常なり。 或は自分には世のためにするの意なきも、知らず識らずして後世子孫自(おのづ)から其功徳(くどく)を蒙(かうむ)ることあり。人に此性情あればこそ人間交際の義務を達し得るなり。古より世に斯る人物なかりせば、我輩(我々)今日に生れて今の世界中にある文明の徳沢(とくたく恩恵)を蒙るを得ざる可し。 親の身代を譲受(ゆずりうく)ればこれを遺物(ゐぶつ)と名(なづ)くと雖(いへ)ども、此遺物は僅(わづか)に地面家財等のみにて、これを失へば失ふて跡なかる可し。世の文明は則ち然らず。世界中の古人を一体に視做(みな)し、この一体の古人より今の世界中の人なる我輩(我々)へ譲渡したる遺物なれば、其洪大なること地面家財の類(たぐひ)に非ず。 されども今、誰に向(むかつ)て現にこの恩を謝す可き相手を見ず。これを譬へば人生に必用なる日光空気を得(う)るに銭を須(もち)ひざるが如し。其物は貴しと雖ども、所持の主人あらず。唯これを古人の陰徳恩賜(おんし賜物)と云ふ可きのみ。
開闢の初(はじめ)には人智未だ開けず。其有様を形容すれば、恰も初生の小児(新生児)に未だ智識の発生を見ざる者の如し。譬へば麦を作てこれを粉にするには、天然の石と石とを以てこれを搗砕(つきくだ)きしことならん。其後或人の工夫にて二(ふたつ)の石を円(まる)く平たき形に作り、其中心に小さき孔(あな)を堀りて、一(ひとつ)の石の孔に木歟(か)金(かね)の心棒をさし、この石を下に据ゑて其上に一(ひとつ)の石を重ね、下の石の心棒を上の石の孔にはめ、此石と石との間に麦を入れて上の石を廻(ま)はし、其石の重さにて麦を粉にする趣向を設けたることならん。即是れ挽碓(ひきうす)なり。 古(いにしへ)はこの挽碓を人の手にて廻はすことなりしが、後生に至ては碓の形をも次第に改め、或はこれを水車風車に仕掛け、或は蒸気の力を用(もちふ)ることゝ為りて、次第に便利を増したるなり。何事もこの通りにて、世の中の有様は次第に進み、昨日便利とせしものも今日は迂遠(うゑん)と為り、去年の新工夫も今年は陳腐に属す。 西洋諸国日新(日進月歩)の勢(いきほひ)を見るに、電信、蒸気、百般の器械、随(したがつ)て出(いづ)れば随て面目を改め、日に月に新奇ならざるはなし。啻(ただ)に有形の器械のみ新奇なるに非ず、人智愈(いよいよ)開(ひらく)れば交際愈広く、交際愈広ければ人情愈和らぎ、万国公法(国際法)の説に権(けん力)を得て、戦争を起こすこと軽率ならず、経済の議論盛(さかん)にして政治商売の風を一変し、学校の制度、著書の体裁、政府の商議、議院の政談、愈改れば愈高く、其至る所の極(きよく果て)を期す可らず。 試に西洋文明の歴史を読み、開闢の時より紀元千六百年代に至(いたり)て巻(かん)を閉(とざ)し、二百年の間を超て頓(とみ突然)に千八百年代の巻を開(ひらき)てこれを見(みれ)ば、誰か其長足の進歩に驚駭せざるものあらんや。殆ど同国の史記とは信じ難かる可し。然り而して其進歩を為せし所以(ゆゑん)の本(もと)を尋(たづぬ)れば、皆此れ古人の遺物、先進の賜(たまもの)なり。
我日本の文明も、其初は朝鮮支那より来り、爾来我国人の力にて切瑳琢磨、以て近世の有様に至り、洋学の如きは其源(みなもと)遠く宝暦年間に在り。〈蘭学事始と云ふ版本を見る可し。〉輓近(ばんきん最近)外国の交際始りしより、西洋の説漸(やうや)く世上に行はれ、洋学を教(をしふ)る者あり、洋書を訳する者あり、天下の人心更(さら)に方向を変じて、これがため政府をも改め、諸藩をも廃して、今日の勢に為り、重(かさね)て文明の端(たん)を開きしも、是亦古人の遺物、先進の賜と云ふ可し。
右所論の如く、古の時代より有力の人物、心身を労して世のために事を為す者少なからず。今この人物の心事(しんじ気持)を想ふに、豈(あに)衣食住の饒(ゆたか)なるを以て自(みづ)から足れりとする者ならんや。人間交際の義務を重んじて、其志(こころざ)す所蓋(けだ)し高遠に在るなり。今の学者は此人物より文明の遺物を受けて、正(まさ)しく進歩の先鋒(せんぽう先頭)に立(たち)たるものなれば、其進む所に極度(終点)ある可らず。 今より数十の星霜(せいさう年月)を経て後の文明の世に至れば、又後人をして我輩(我々)の徳沢を仰(あふ)ぐこと、今我輩が古人を崇(たふと)むが如くならしめざる可らず。概してこれを云へば、我輩の職務は、今日この世に居り我輩の生々(せいせい)したる痕跡を遺して、遠くこれを後世子孫に伝ふるの一事に在り。其任亦重しと云ふ可し。 豈唯数巻の学校本を読み、商と為(な)り工と為り、小吏と為り、年に数百の金を得て僅(わづか)に妻子を養ひ、以て自から満足す可けんや。こは唯他人を害せざるのみ、他人を益する者に非ず。 且(かつその上)事を為すには時に便不便あり、苟も時を得ざれば有力の人物も其力を逞うすること能はず。古今其例少なからず。近くは我旧里(ふるさと)にも俊英の士君子ありしは明に我輩の知る所なり。固より今の文明の眼(まなこ)を以てこの士君子なる者を評すれば、其言行或は方向を誤るもの多しと雖ども、こは時論の然らしむる所にて、其人の罪に非ず、其実は事を為すの気力に乏しからず。唯不幸にして時に遇はず、空しく宝を懐にして生涯を渡り、或は死し或は老(らう)し、遂に世上の人をして大に其徳を蒙らしむるを得ざりしは遺憾と云ふ可きのみ。 今や則ち然らず。前にも云へる如く、西洋の説漸く行はれて遂に旧政府を倒し諸藩を廃したるは、唯これを戦争の変動と視做す可らず。文明の功能は、僅(わづか)に一場(いちぢやう一時的)の戦争を以て止(や)む可きものに非ず。故にこの変動は戦争の変動に非ず、文明に促(うなが)されたる人心の変動なれば、彼の戦争の変動は既に七年前に止(やみ)て其跡なしと雖ども、人心の変動は今尚依然(いぜん不変)たり。凡そ物動かざればこれを導く可らず。学問の道を首唱して天下の人心を導き、推(お推進)してこれを高尚の域に進ましむるには、特に今の時を以て好機会とし、この機会に逢ふ者は即ち今の学者なれば、学者世のために勉強せざる可らず。  
十編 / 前編の続、中津の旧友に贈る
前編に学問の旨を二様に分(わかち)てこれを論じ、其議論を概すれば、人たるものは唯一身一家の衣食を給し以て自から満足す可らず、人の天性には尚これよりも高き約束(目標)あるものなれば、人間交際の仲間に入り、其仲間たる身分を以て世のために勉(つとむ)る所なかる可らずとの趣意を述たるなり。
学問するには其志を高遠にせざる可らず。飯を炊き風呂の火を焚(た)くも学問なり。天下の事を論ずるも亦学問なり。されども一家の世帯は易くして天下の経済は難し。凡そ世の事物これを得るに易きものは貴(たふと)からず。物の貴き所以(ゆゑん)はこれを得るの手段難(かた)ければなり。私(ひそか)に案ずるに、今の学者或は其難(かたき)を棄てゝ易きに就くの弊(へい)あるに似たり。 昔封建の世に於ては、学者或は所得あるも天下の事皆きりつめたる有様にて、其学問を施す可き場所なければ、止むを得ずして学びし上にも又学問を勉め、其学風は宜しからずと雖ども、読書に勉強して其博識なるは今人(こんじん)の及ぶ所に非ず。今の学者は則ち然らず。随(したがつ)て学べば随てこれを実地に施す可し。譬へば洋学生、三年の執行(しゆぎやう修行)をすれば一通りの歴史窮理書を知り、乃ち洋学教師と称して学校を開く可し、又人に雇はれて教授す可し、或は政府に仕て大に用ひらる可し。 尚これよりも易きことあり。当時(現在)流行の訳書を読み世間に奔走して内外の新聞(情報)を聞き、機に投じて官に就けば則ち厳然たる官員なり。斯る有様を以て風俗(流行)を成さば、世の学問は遂に高尚の域に進むことなかる可し。 筆端(ひつたん表現)少しく卑劣に亙り、学者に向て云ふ可きことに非ずと雖ども、銭の勘定を以てこれを説かん。学塾に入て執行(修行)するには一年の費(つひえ)百円に過ぎず、三年の間に三百円の元入(もといれ元手)を卸(おろ)し、乃(すなはすぐに)ち一月に五、七十円の利益を得るは、洋学生の商売なり。彼(か)の耳の学問にて官員と為る者は此三百円の元入をも費さゞれば、其得る所の月給は正味手取の利益なり。世間諸商売の内に斯る割合の大利を得るものある可きや、高利貸と雖どもこれに三舎を譲る可し。 固より物価は世の需用の多寡に由り高低あるものにて、方今(はうこん現在)政府を始め諸方にて洋学者流を求ること急なるがため、此相場の景気(高騰)をも生じたるものなれば、敢て其人を奸(かん悪)なりとて咎るに非ず、又これを買ふ者を愚(ぐ)なりとて謗(そし)るに非ず、唯我輩の存意には、この人をして尚三、五年の艱苦を忍び真に実学を勉強して後に事に就かしめなば、大に成すこともあらんと思ふのみ。斯くありてこそ、日本全国に分賦(ぶんぷ分布)せる智徳に力を増して、始て西洋諸国の文明と鋒(ほこさき)を争ふの場合に至る可きなり。
今の学者何を目的として学問に従事するや。不覊独立の大義を求ると云ひ、自主自由の権義を恢復(くわいふく)すると云ふに非ずや。既に自由独立と云ふときは、其字義の中に自から亦義務の考なかる可らず。独立とは一軒の家に住居して他人へ衣食を仰がずとの義のみに非ず。こは唯(ただ)内の義務なり。尚一歩を進めて外の義務を論ずれば、日本国に居(ゐ)て日本人たるの名を恥しめず、国中の人と共に力を尽し、この日本国をして自由独立の地位を得せしめ、始て内外の義務を終(をへ)たりと云ふ可し。 故に一軒の家に居て僅に衣食する者は、これを一家独立の主人と云ふ可し、未だ独立の日本人と云ふ可らず。試(こころみ)に見よ、方今天下の形勢、文明は其名あれども未だ其実を見ず、外の形は備はれども内の精神は耗(むな)し。 今の我海陸軍を以て西洋諸国の兵と戦ふ可きや、決して戦ふ可らず。今の我学術を以て西洋人に教ゆ可きや、決して教ゆ可きものなし。却てこれを彼に学(まなん)で、尚其及ばざるを恐るゝのみ。外国に留学生あり、内国に雇(やとひ)の教師あり、政府の省、寮、学校より、諸府諸港に至るまで、大概皆外国人を雇はざるものなし。或は私立の会社学校の類と雖ども、新に事を企るものは必ず先づ外国人を雇ひ、過分の給料を与へてこれに依頼するもの多し。 彼の長を取て我短を補ふとは人の口吻(こうふん口癖)なれども、今の有様を見れば我は悉皆短にして、彼は悉皆長なるが如し。固より数百年来の鎖国を開て頓(とみ)に文明の人に交ることなれば、其状恰も火を以て水に接するが如く、此交際を平均せしめんがためには、或は彼の人物を雇ひ、或は彼の器品(きひん製品)を買て、以て急須の欠を補ひ、水火相触るゝの動乱を鎮静するは必ず止(やむ)を得ざるの勢なれば、一時の供給を彼に仰ぐも国の失策と云ふ可らず。 然りと雖ども他国の物を仰(あふい)で自国の用を便ずるは、固より永久の計に非ず、唯これを一時の供給と視做して強(しひ)て自から慰るのみなれども、其一時なるものは何れの時に終る可きや。其供給を他に仰がずして自から供するの法は如何(いかに)して得べきや。これを期すること甚だ難し。 唯今の学者の成業(せいげふ成長)を待ち、此学者をして自国の用を便ぜしむるの外、更に手段ある可らず。即是れ学者の身に引請(ひきうけ)たる職分なれば、其責急なりと云ふ可し。今我国内に雇入たる外国人は、我学者未熟なるが故に暫(しばら)く其名代を勤めしむる者なり。今我国内に外国の器品を買入るゝは、我国の工業拙(せつ)なるが故に暫く銭と交易(かうえき交換)して用を便ずる者なり。此人を雇ひ此品を買ふがために金を費すは、我学術の未だ彼に及ばざるがために日本の財貨を外国へ棄(すつ)ることなり。国のためには惜む可し。学者の身と為りては慚(は)づ可し。 且人として前途の望なかる可らず、望あらざれば世に事を勉る者なし。明日の幸(さいはひ)を望て今日の不幸をも慰む可し、来年の楽(たのしみ)を望て今年の苦(くるしみ)をも忍ぶ可し。昔日は世の事物皆旧格(きうかく仕来り)に制せられて有志の士と雖ども望を養ふ可き目的なかりしが今や然らず。此制限を一掃せしより後は、恰も学者のために新世界を開きしが如く、天下処(ところ)として事を為すの地位あらざるはなし。 農と為り、商と為り、学者と為り、官員と為り、書を著(あらは)し、新聞紙を書き、法律を講じ、芸術を学び、工業も起す可し、議院も開く可し、百般の事業行ふ可らざる者なし。然かも此事業を成得(なしえ)て国中の兄弟相鬩(せめ)ぐに非ず。其智恵の鋒を争ふの相手は外国人なり。此智戦に利あれば則ち我国の地位を高くす可し。これに敗すれば我地位を落す可し。其望大にして期する所明なりと云ふ可し。 固より天下の事を現に施行するには前後緩急(優先順位)ある可しと雖ども、到底此国に欠く可らざるの事業は、人々(にんにん各人)の所長(長所)に由て今より研究せざる可らず。苟も処世の義務を知る者は、此時に当て此事情を傍観するの理なし。学者勉めざる可らず。 是に由て考れば、今の学者たる者は決して尋常学校の教育を以て満足す可らず、其志を高遠にして学術の真面目(しんめんぼく)に達し、不覊独立以て他人に依頼せず、或は同志の朋友なくば一人(いちにん)にて此日本国を維持するの気力を養ひ、以て世のために尽さゞる可らず。 余輩固より和漢の古学者流が人を治るを知て自から脩(をさむ)るを知らざる者を好まず。これを好まざればこそ、此書の初編より人民同権の説を主張し、人々(にんにん)自から其責に任じて自から其力に食(は)むの大切なるを論じたれども、この自力に食むの一事にては未だ我学問の趣意を終れりとするに足らず。 これを譬へば、こゝに沈湎(ちんめん)冒色(ぼうしよく酒色惑溺)放蕩無頼の子弟あらん。これを御するの法如何(いかん)す可きや。これを導て人と為さんとするには、先づ其飲酒を禁じ遊冶(いうや遊興)を制し、然る後に相当の業に就かしむることなる可し。其飲酒遊冶を禁ぜざるの間は、未だ共に家業の事を語る可らず。 されども人にして酒色に耽(ふけ)らざればとて、これを其人の徳義(美徳)と云ふ可らず。唯世の害を為さゞるのみにて、未だ無用の長物たるの名は免かれ難し。其飲酒遊冶を禁じたる上、又随て業に就き身を養ひ家に益することありて、始て十人並の少年と云ふ可きなり。自食の論も亦斯の如し。 我国士族以上の人、数千百年の旧習に慣れて、衣食の何物たるを知らず、富有の由て来る所を弁ぜず、傲然自から無為に食してこれを天然の権義と思ひ、其状恰も沈湎冒色前後を忘却する者の如し。この時に当り、この輩の人に告るに何事を以てす可きや。唯自食の説を唱へて其酔夢を驚かすの外手段なかる可し。 是流の人に向て豈(あに)高尚の学を勧む可けんや。世を益するの大義を説く可けんや。仮令ひこれに説き勧るも、夢中(むちゆう)学に入れば其学問も又夢中の夢のみ。即是れ我輩が専ら自食の説を主張して、未だ真の学問を勧めざりし由縁なり。故にこの説は周ねく徒食(としよく無為)の輩に告るものにて、学者に諭す可き言に非ず。 然るに聞く、近日中津(なかつ)の旧友、学問に就く者の内、稀には学業未だ半(なかば)ならずして早く既に生計の道を求る人ありと。生計固より軽んず可らず。或は其人の才に長短もあることなれば、後来(こうらい将来)の方向を定るは誠に可なりと雖ども、若し此風を互に相傚(なら)ひ、唯生計を是れ争ふの勢に至らば、俊英の少年は其実を未熟に残(そこな)ふの恐なきに非ず。本人のためにも悲しむ可し、天下のためにも惜む可し。 且生計難しと雖ども、よく一家の世帯を計れば、早く一時に銭を取りこれを費して小安を買はんより、力を労して倹約を守り大成の時を待つに若かず。学問に入らば大に学問す可し。農たらば大農と為れ、商たらば大商と為れ。学者小安に安んずる勿れ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗(つ)く可し、薪も割る可し。学問は米を搗きながるも出来るものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を喰ひ味噌汁を啜り、以て文明の事を学ぶ可きなり。  
十一編 / 名分を以て偽君子を生ずるの論
第八編に上下貴賎の名分(めいぶん差別、けじめ)よりして夫婦親子の間に生じたる弊害の例を示し、其害の及ぶ所は此外にも尚多しとの次第を記(しる)せり。抑(そもそ)も此名分の由て起る所を案ずるに、其形は強大の力を以て小弱を制するの義に相違なしと雖ども、其本意は必ずしも悪念(あくねん)より生じたるに非ず。 畢竟世の中の人をば悉皆(しつかい全員)愚にして善なるものと思ひ、これを救ひこれを導き、これを教へこれを助け、只管(ひたすら)目上の人の命(めい)に従(したがひ)て、かりそめにも自分の了簡(れうけん主張)を出さしめず、目上の人は大抵自分に覚えたる手心(手腕)にて、よきやうに取計ひ、一国の政事も一村の支配も、店の始末も家の世帯も、上下心を一にして、恰(あたか)も世の中の人間交際を親子の間柄の如くに為さんとする趣意なり。 譬へば十歳前後の子供を取扱ふには固より其了簡を出さしむ可きに非ず、大抵両親の見計ひ(判断)にて衣食を与へ、子供は唯親の言に戻(もと)らずして其差図(指図)にさへ従へば、寒き時には丁度綿入の用意あり、腹のへる時には既に飯の支度調(ととの)ひ、飯と着物は恰も天より降り来るが如く、我思ふ時刻に其物を得て何一つの不自由なく安心して家に居る可し。 両親は己が身にも易(か代)へられぬ愛子なれば、之を教へ之を諭し、之を誉むるも之を叱るも、皆真の愛情より出ざるはなく、親子の間一体の如くして、其快(こころよ)きこと譬へん方(かた)なし。即(すなはち)是れ親子の交際にして、其際には上下の名分も立ち、嘗て差支(さしつかへ)あることなし。 世の名分を主張する人は、此親子の交際を其まゝ人間の交際に写取(うつしと)らんとする考(かんがへ)にて、随分面白き工夫のやうなれども、爰(ここ)に大なる差支あり。親子の交際は唯智力の熟したる実の父母と十歳ばかりの実の子供との間に行はる可きのみ、他人の子供に対しては固より叶ひ難し。仮令ひ実の子供にても最早二十歳以上に至れば次第に其趣を改めざるを得ず。況んや年既に長じて大人と為りたる他人と他人との間に於てをや。迚(とて)も此流儀にて交際の行はる可き理なし。所謂願ふ可くして行はれ難き者とはこのことなり。 扨(さて)今一国と云ひ一村と云ひ、政府と云ひ会社と云ひ、都(すべ)て人間の交際と名(なづく)るものは皆大人と大人との仲間(集合)なり、他人と他人との附合なり。此仲間附合に実の親子の流儀を用ひんとするも亦難きに非ずや。されども仮令ひ実に行はれ難きことにても、之を行ふて極めて都合よからんと心に想像するものは、其想像を実に施(ほどこ)したく思ふも亦人情の常にて、即(すなはち)是れ世に名分なる者の起りて専制の行はるゝ由縁なり。 故に云く、名分の本は悪念より生じたるに非ず、想像に由て強(し)ひて造(つくり)たるものなり。
亜細亜諸国に於ては国君(こつくん君主)のことを民の父母と云ひ、人民のことを臣子(しんし)又は赤子(せきし)と云ひ、政府の仕事を牧民(ぼくみん)の職と唱へて、支那には地方官のことを何州の牧(ぼく)と名(なづ)けたることあり。此牧の字は獣類を養ふの義なれば、一州の人民を牛羊(うしひつじ)の如くに取扱ふ積りにて、其名目(みやうもく)を公然と看板に掛けたるものなり。余り失礼なる仕方には非ずや。 斯く人民を子供の如く牛羊の如く取扱ふと雖ども、前段にも云へる通り、其初(はじめ)の本意は必ずしも悪念に非ず、かの実の父母が実の子供を養ふが如き趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙て之を輔け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水の如く直きこと矢の如く、己が心を推して人に及ぼし、民を撫(ぶ)するに情愛を主とし、饑饉には米を給し、火事には銭を与へ、扶助救育して衣食住の安楽を得せしめ、上(かみ)の徳化は南風の薫ずるが如く、民の之に従ふは草の靡(なび)くが如く、其柔なるは綿の如く、其無心なるは木石の如く、上下合体共に太平を謡(うた)はんとするの目論見ならん。 実に極楽の有様を模写したるが如し。されどもよく事実を考れば、政府と人民とはもと骨肉の縁あるに非ず、実に他人の附合なり。他人と他人との附合には情実を用(もち)ゆ可らず、必ず規則約束なる者を作り、互に之を守て厘毛の差を争ひ、双方共に却て円く治るものにて、此(これ)乃ち国法の起りし由縁なり。 且(かつ)右の如く聖明の君と賢良の士と柔順なる民と其(その)注文(理想)はあれども、何れの学校に入れば斯く無疵なる聖賢を造り出す可きや、何等の教育を施せば斯く結構なる民を得可きや。唐人も周の世以来頻(しきり)に爰(ここ)に心配せしことならんが、今日まで一度も注文通りに治りたる時はなく、度々(どど)の詰り(とどのつまり)は今の通りに外国人に押付られたるに非ずや。 然るに此意味を知らずして、きかぬ薬を再三飲むが如く、小刀細工(小手先)の仁政を用ひ、神ならぬ身の聖賢が、其仁政に無理を調合して強ひて御恩を蒙(かうむ)らしめんとし、御恩は変じて迷惑と為り、仁政は化して苛法と為り、尚(なほ)も太平を謡はんとするか。謡はんと欲せば独り謡(うたひ)て可なり。之を和する者はなかる可し。其目論見(もくろみ)こそ迂遠(うゑん無益)なれ。実に隣(となり)ながらも捧腹(抱腹絶倒)に堪へざる次第なり。
此風儀(やり方)は独り政府のみに限らず、商家にも学塾にも宮にも寺にも行はれざる所なし。今其(その)一例を挙て云はん。 店中(みせぢゆう)に旦那が一番の物知りにて、元帳(もとちやう)を扱ふ者は旦那一人、従(したがつ)て番頭あり手代ありて各(おのおの)其職分を勤(つとむ)れども、番頭手代は商売全体の仕組を知ることなく、唯(ただ)喧(やかま)しき旦那の差図(指図)に任せて、給金も差図次第、仕事も差図次第、商売の損徳(損得)は元帳を見て知る可らず、朝夕旦那の顔色を窺ひ、其顔に笑を含むときは商売の中(あた)り、眉の上に皺をよするときは商売の外れと推量する位のことにて、何の心配もあることなし。唯一つの心配は己が預りの帳面に筆の働を以て極内(ごくない内密)の仕事を行はんとするの一事のみ。 鷲(わし)に等しき旦那の眼力も夫(そ)れまでには及び兼ね、律儀一片(一辺倒)の忠助(忠義者)と思(おもひ)の外に、欠落(かけおち)歟(か)又は頓死(とんし)の其跡にて帳面を改(あらたむ)れば、洞(ほら)の如き大穴を明け、始て人物の頼み難きを歎息(嘆息)するのみ。 されどもこは人物の頼み難きに非ず、専制の頼み難きなり。旦那と忠助とは赤の他人の大人に非ずや。其忠助に商売の割合をば約束もせずして、子供の如くにこれを扱はんとせしは旦那の不了簡と云ふ可きなり。
右の如く上下貴賎の名分を正(た順守)だし、唯其名のみを主張して専制の権を行はんとするの源因(原因)よりして、其毒の吹出す所は人間(じんかん)に流行する欺詐術策の容体(ようだい)なり。此病に罹る者を偽君子と名(なづ)く。 譬へば封建の世に大名の家来は表向皆忠臣の積りにて、其形を見れば君臣上下の名分を正(た)だし、辞儀をするにも鋪居(敷居)一筋の内外を争ひ、亡君の逮夜(通夜)には精進を守り、若殿の誕生には上下(かみしも)を着(ちやく)し、年頭の祝儀(儀式)、菩提所の参詣、一人も欠席あることなし。 其口吻(こうふん)に云く、貧は士の常、尽忠(じんちゆう)報国(ほうこく)、又云く、其食(し)を食む者は其事に死す(清見寺の咸臨丸殉難者記念碑の碑文「食人之食者死人之事」榎本武楊揮毫)などゝ、大造(たいそう)らしく言ひ触らし、すはと云はば今にも討死せん勢にて、一通りの者はこれに欺かる可き有様なれども、窃(ひそか)に一方より窺へば果して例の偽君子なり。 大名の家来によき役儀(やくぎ)を勤る者あれば其家に銭の出来るは何故ぞ。定(さだまり)たる家禄と定たる役料にて一銭の余財(よざい)も入る可き理なし。然るに出入差引して余(あまり)あるは甚だ怪む可し。所謂役徳(役得)にもせよ、賄賂にもせよ、旦那の物をせしめたるに相違はあらず。 其最も著しきものを挙(あげ)て云へば、普請奉行が大工に割前を促し、会計の役人が出入の町人より附届(つけとどけ)を取るが如きは、三百諸侯の家に殆ど定式(ぢやうしき)の法の如し。旦那のためには御馬前(ばぜん)に討死さへせんと云ひと忠臣義士が、其買物の棒先(ばうさき)を切るとは余り不都合(不届き)ならずや。金箔付の偽君子と云ふ可し。 或は稀に正直なる役人ありて賄賂の沙汰も聞えざれば、前代未聞の名臣とて一藩中の評判なれども、其実は僅(わづか単)に銭を盗まざるのみ。人に盗心なければとて、さまで誉む可き事に非ず、唯偽君子の群集する其中に十人並の人が雑(まじ)るゆゑ、格別に目立つまでのことなり。 畢竟此偽君子の多きも其本を尋れば古人の妄想にて、世の人民をば皆(みな)結構人(好人物)にして御し易きものと思ひ込み、其弊(へい)遂に専制抑圧に至り、詰る所は飼犬に手を噛まるゝものなり。返すがへすも世の中に頼みなきものは名分なり。毒を流すの大なるものは専制抑圧なり。恐る可きに非ずや。
或人云く、斯の如く人民不実の悪例のみを挙(あぐ)れば際限もなきことなれども、悉皆(しつかい)然るにも非ず、我日本は義の国にて、古来義士の身を棄てゝ君のためにしたる例は甚だ多しと。答(こたへて)云く、誠(まこと)に然り、古来義士なきに非ず、唯其数少なくして算当(さんたう計算)に合はぬなり。 元禄年中は義気(ぎき)の花盛りとも云ふ可き時代なり。此時に赤穂七万石の内に義士四十七名あり。七万石の領分には凡そ七万の人口ある可し。七万の内に四十七あれば、七百万の内には四千七百ある可し。物換(かは)り星移り、人情は次第に薄く、義気も落下の時節と為りたるは、世人の常に云ふ所にて相違もあらず。故に元禄年中より人の義気に三割を減じて七掛けにすれば、七百万に付三千二百九十の割合なり。今、日本の人口を三千万と為(な)し義士の数は一万四千百人なる可し。此人数にて日本国を保護するに足る可きや。三歳の童子にも勘定は出来ることならん。
右の議論に拠れば名分は丸つぶれの話なれども、念のため爰(ここ)に一言を足(た)さん。名分とは虚飾の名目を云ふなり。虚名とあれば上下貴賎悉皆無用のものなれども、この虚飾の名目と実の職分とを入替(いれかへ)にして、職分をさへ守れば此(この)名分も差支あることなし。 即ち政府は一国の帳場(ちやうば)にして人民を支配するの職分あり。人民は一国の金主(きんしゆ)にして国用(こくよう国費)を給するの職分あり。文官の職分は政法(法律)を議定するに在り。武官の職分は命ずる所に赴て戦ふに在り。此外学者にも町人にも各(おのおの)定(さだまり)たる職分あらざるはなし。 然るに半解半知の飛揚(とびあが)りものが、名分は無用と聞て早く既に其職分を忘れ、人民の地位に居て政府の法を破り、政府の命を以て人民の産業に手を出し、兵隊が政(まつりごと)を議して自から師(いくさ)を起し、文官が腕の力に負けて武官の差図(指図)に任ずる等のことあらば、これこそ国の大乱ならん。 自主自由のなま噛(がみ生かじり)にて無政無法の騒動なる可し。名分と職分とは文字こそ相似たれ、其趣意(意味)は全く別物なり。学者これを誤認(あやまりみとむ)ること勿れ。  
十二編
演説の法を勧むるの説
演説とは英語にてスピイチと云ひ、大勢の人を会(くわい)して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝るの法なり。我国には古より其法あるを聞かず、寺院の説法などは先づ此(この)類(たぐひ)なる可し。西洋諸国にては演説の法最も盛にして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合より、冠婚葬祭、開業開店等の細事に至るまでも、僅に十数名の人を会することあれば、必ず其会に付き、或は会したる趣意を述べ、或は人々平生の持論を吐き、或は即席の思付(おもひつき)を説(とき)て、衆客(しゆうかく)に披露するの風なり。此法の大切なるは固より論を俟(また)ず。譬へば今世間にて議院などの説あれども、仮令ひ院を開くも第一に説を述るの法あらざれば、議院も其用を為さゞる可し。
演説を以て事を述れば、其事柄の大切なると否とは姑(しばら)く擱(さしお)き、唯口上を以て述るの際に自から味を生ずるものなり。譬へば文章に記せばさまで意味なき事にても、言葉を以て述れば之を了解すること易くして人を感ぜしむるものあり。古今に名高き名詩名歌と云ふものも此類にて、この詩歌を尋常の文に訳すれば絶て面白き味もなきが如くなれども、詩歌の法に従て其体裁を備ふれば限(かぎり)なき風致(ふうち味はひ)を生じて衆心を感動せしむ可し。故に一人の意を衆人に伝ふるの速(すみやか)なると否とは、其(その)これを伝ふる方法に関すること甚だ大なり。
学問は唯読書の一科に非ずとのことは既に人の知る所なれば、今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。 在昔或る朱子学の書生、多年江戸に執行(修行)して、其学流に就き諸大家の説を写取り、日夜怠らずして数年の間に其写本数百巻を成し、最早学問も成業(成就)したるが故に故郷へ帰る可しとて、其身は東海道を下り、写本は葛籠(つづら)に納めて大廻しの船に積出せしが、不幸なる哉(かな)、遠州洋(ゑんしうなだ)に於て難船に及びたり。此災難に由て、かの書生も其身は帰国したれども、学問は悉皆海に流れて心身に附したるものとては何(な)に一物(いちもつ)もあることなく、所謂本来無一物にて、其愚は正しく前日に異なることなかりしと云ふ話あり。 今の洋学者にも亦この掛念(懸念)なきに非ず。今日都会の学校に入て読書講論の様子を見れば、之を評して学者と云はざるを得ず。されども今俄に其原書を取上げて之を田舎に放逐(はうちく)することあらば、親戚朋友に逢ふて我輩の学問は東京に残し置たりと云訳けするなどの奇談もある可し。
故に学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働に在り。此働を活用して実地に施すには様々の工夫なかる可らず。ヲブセルウェーション〈observation〉とは事物を視察することなり。リーゾニング〈reasoning〉とは事物の道理を推究して自分の説を付(つく)ることなり。此二箇条にては固より未だ学問の方便を尽したりと云ふ可らず。尚この外に書を読まざる可らず、書を著(あらは)さゞる可らず、人と談話せざる可らず、人に向て言を述べざる可らず、此諸件の術を用ひ尽して始て学問を勉強する人と云ふ可し。 即ち、視察、推究、読書は以て智見を集め、談話は以て智見を交易し、著書演説は以て智見を散ずるの術なり。然り而して此諸術の中に、或は一人の私を以て能(よく)す可きものありと雖ども、談話と演説とに至ては必ずしも人と共にせざるを得ず。演説会の要用(えうよう重要)なること以て知る可きなり。
方今我国民に於て最も憂ふ可きは、其見識の賎しき事なり。これを導て高尚の域に進めんとするは、固より今の学者の職分なれば、苟も其方便あるを知らば力を尽してこれに従事せざる可らず。然るに学問の道に於て談話演説の大切なるは既に明白にして、今日これを実に行ふ者なきは何ぞや。学者の懶惰(らんだ怠慢)と云ふ可し。 人間の事には内外両様の別ありて、両(ふたつ)ながらこれを勉めざる可らず。今の学者は内の一方に身を委(まか)して外の務めを知らざる者多し。これを思はざる可らず。私(わたくし)に沈深なるは淵の如く、人に接して活溌なるは飛鳥(ひてう)の如く、其密なるや内なきが如く、其豪大なるや外なきが如くして、始て真の学者と称す可きなり。
人の品行は高尚ならざる可らざるの論
前条に、方今我国に於て最も憂ふ可きは、人民の見識未だ高尚ならざるの一事なりと云へり。人の見識品行は、微妙なる理を談ずるのみにて(は)高尚なる可きに非ず。禅家に悟道(ごだう)などの事ありて、其理頗る玄妙なる由なれども、其僧侶の所業を見れば迂遠(うゑん迂闊)にして用に適せず、事実に於ては漠然として何等の見識もなき者に等し。
又人の見識品行は唯聞見(ぶんけん見聞)の博きのみにて高尚なる可きに非ず。万巻の書を読み天下の人に交り尚一己(いつこ一個)の定見なき者あり。古習を墨守(ぼくしゆ固執)する漢儒者の如き是なり。唯儒者のみならず、洋学者と雖ども此弊を免かれず。 今、西洋日新の学に志し、或は経済書を読み或は脩身(修身)論を講じ、或は理学或は智学、日夜精神を学問に委ねて、其状恰も荊棘(けいきよく)の上に坐して刺衝(ししよう批判)に堪(た)ゆ可らざるの筈なるに、其人の私に就て之を見れば決して然らず。眼(まなこ)に経済書を見て一家の産を営むを知らず、口に脩身論を講じて一身の徳を脩るを知らず、其所論と其所行とを比較するときは、正しく二個の人あるが如くして、更に一定の見識あるを見ず。
必竟(畢竟)此輩の学者と雖ども、其口に講じ眼に見る所の事をば敢て非と為すには非ざれども、事物の是(ぜ)を是とするの心と、其是を是として之を事実に行ふの心とは、全く別のものにて、此二(ふたつ)の心なるもの、或は並び行はるゝことあり、或は並び行はれざることあり。医師の不養生と云ひ、論語読みの論語知らずと云ふ諺(ことわざ)も是等の謂(いひ意味)ならん。故に云く、人の見識品行は玄理(げんり理論)を談じて高尚なる可きに非ず、又聞見を博くするのみにて高尚なる可きに非ざるなり。
然(しから)ば則ち人の見識を高尚にして其品行を提起(向上)するの法如何(いかん)す可きや。其要訣(えうけつ要諦)は事物の有様を比較して上流に向ひ、自(みづから)から満足することなきの一事に在り。但し有様を比較するとは唯一事一物を比較するに非ず、此の一体の有様と彼の一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざる可らず。 譬へば今少年の生徒、酒色に溺るゝの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄長老に咎めらるゝことなく或は得意の色(いろ)を為す可きに似たれども、其得色(とくしよく得意顔)は唯他の無頼生に比較して為す可き得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、之を賞するに足らず。人生の約束(目標)は別に又高きものなかる可らず。 広く古今の人物を計へ、誰に比較して誰の功業に等しきものを為さば之に満足す可きや。必ず上流の人物に向はざる可らず。或は我に一得あるも彼に二得あるときは、我は其一得に安んずるの理なし。況や後進は先進に優る可き約束なれば、古を空(むなし)うして比較す可き人物なきに於てをや。今人(こんじん)の職分は大にして重しと云ふ可し。 然るに今僅(わづかに)に謹慎勉強の一事を以て人類生涯の事と為す可きや、思はざるの甚しき者なり。人として酒色に溺るゝ者は之を非常の怪物と云ふ可きのみ。此怪物に比較して満足する者は、之を譬へば双眼を具するを以て得意と為し、盲人に向て誇るが如し。徒(いたづら)に愚を表するに足るのみ。 故に酒色云々の談を為して或は之を論破し或は之を是非するの間は、到底議論の賎しき者と云はざるを得ず。人の品行少しく進むときは、是等の醜談(しうだん)は既に已(すで)に経過し了(れう終了)して、言に発するも人に厭(いとは)るゝに至る可き筈なり。
方今日本にて学校を評するに、此の学校の風俗は斯(かく)の如し彼の学塾の取締は云々とて、世の父兄は専ら此風俗取締の事に心配せり。抑も風俗取締とは何等の箇条を指して云ふ乎。熟法(じゆくはふ)厳にして生徒の放蕩無頼を防ぐに付き、取締の行届たることを云ふならん。之を学問所の美事(びじ)と称す可き乎。余輩は却て之を羞るなり。 西洋諸国の風俗決して美なるに非ず、或は其醜見るに忍びざるもの多しと雖ども、其国の学校を評するに、風俗の正しきと取締の行届たるとのみに由て名誉を得るものあるを聞かず。学校の名誉は、学科の高尚なると其教法の巧みなると、其人物の品行高くして議論の賎しからざるとに由るのみ。故に今の学校を支配して今の学校に学ぶ者は、他の賎しき学校に比較せずして、世界中上流の学校を見て得失を弁ぜざる可らず。 風俗の美にして取締の行届たるも、学校の一得と云ふ可しと雖ども、其得は学校たるものゝ最も賎む可き部分の得なれば、毫も之を誇るに足らず。上流の学校に比較せんとするには、別に勉る所なかる可らず。故に学校の急務として所謂取締の事を談ずるの間は、仮令ひ其取締はよく行届くも決して其有様に満足す可らざるなり。
一国の有様を以て論ずるも亦斯の如し。譬へば爰に一政府あらん。賢良方正の士を挙て政(まつりごと)を任(まか)し、民の苦楽を察して適宜の処置を施し、信賞必罰、恩威行はれざる所なく、万民腹を鼓して太平を謡ふが如きは、誠に誇る可きに似たり。 然りと雖ども、其賞罰と云ひ恩威と云ひ、万民と云ひ太平と云ふも、悉皆一国内の事なり、一人或は数人の意に成たるものなり。其得失は其国の前代に比較する歟、又は他の悪政府に比較して誇る可きのみにて、決して其国悉皆の有様を詳にして他国と相対(あひたい)し、一より十に至るまで比較したるものに非ず。 若(も)し一国を全体の一物と視做して他の文明の一国に比較し、数十年の間に行はるゝ双方の得失を察して互に加減乗除し、其実際に見(あらは)れたる所の損益を論ずることあらば、其誇る所のものは決して誇るに足らざるものならん。
譬へば印度の国体、旧ならざるに非ず、其文物の開けたるは西洋紀元の前数千年にありて、理論の精密にして玄妙なるは、恐くは今の西洋諸国の理学に比して恥るなきもの多かる可し。又在昔(ざいせき)、土耳古〈トルコ〉の政府も威権最も強盛にして、礼楽征伐の法、斉整(せいせい整備)ならざるはなし、君長(くんちやう主君)賢明ならざるに非ず、廷臣(ていしん)方正ならざるに非ず、人口の衆多(あまた)なること兵士の武勇なること近国に比類なくして、一時は其名誉を四方に燿(かがや)かしたることあり。 故に印度と土耳古とを評すれば、甲は有名の文国にして、乙は武勇の大国と云はざるを得ず。然るに方今(現在)此二大国の有様を見るに、印度は既に英国の所領に帰して其人民は英政府の奴隷に異ならず、今の印度人の業(ぎよう)は唯阿片を作て支那人を毒殺し、独り英商をして其間(かん)に毒薬売買の利を得せしむるのみ。 土耳古の政府も名は独立と云ふと雖ども、商売の権は英仏の人に占められ、自由貿易の功徳を以て国の物産は日(ひび)に衰微(すいび)し、機(はた)を織る者もなく器械を製する者もなく、額に汗して土地を耕す歟、又は手を袖にして徒に日月を消(せう)するのみにて、一切の製作品は英仏の輸入を仰(あふ)ぎ、又国の経済を治(をさむ)るに由(よし)なく、流石(さすが)に武勇なる兵士も貧乏に制せられて用を為さずと云ふ。
右の如く印度の文(ぶん)も土耳古の武(ぶ)も、嘗て其国の文明に益せざるは何ぞや。其人民の所見僅に一国内に止り、自国の有様に満足し、其有様の一部分を以て他国に比較し、其間に優劣なきを見てこれに欺かれ、議論も爰に止(とどま)り、徒党(とたう集団)も爰に止り、勝敗栄辱共に他の有様の全体を目的とすることを知らずして、万民太平を謡ふ歟、又は兄弟(けいてい)墻(かき)に鬩(せめ内輪揉め)ぐの其間に、商売の権威に圧(あつ)しられて国を失ふたる者なり。 洋商の向ふ所は亜細亜に敵なし。恐れざる可らず。若し此(この)勁敵(けいてき強敵)を恐れて兼て又其国の文明を慕ふことあらば、よく内外の有様を比較して勉る所なかる可らず。  
十三編 / 怨望の人間に害あるを論ず
凡そ人間に不徳の箇条多しと雖ども、其交際に害あるものは怨望(ゑんばう恨み)より大なるはなし。貪吝(たんりん)奢侈(しやし)誹謗の類は、何れも不徳の著しきものなれども、よく之を吟味すれば其働の素質に於て不善なるにあらず。之を施す可き場所柄と、其強弱の度と、其向ふ所の方角とに由て、不徳の名を免かるゝことあり。
譬へば銭を好(このん)で飽くことを知らざるを貪吝と云ふ。されども銭を好むは人の天性なれば、其天性に従て十分に之を満足せしめんとするも決して咎む可きに非ず。唯理外の銭を得んとして其場所を誤り、銭を好むの心に限度なくして理の外に出(い)で、銭を求るの方向に迷ふて理に反するときは、之を貪吝の不徳と名(なづ)くるのみ。故に銭を好む心の働を見て直(ただち)に不徳の名を下(く)だす可らず。其徳と不徳との分界には一片の道理なる者ありて、此分界の内にある者は即ち之を節倹と云ひ又経済と称して、当(まさ)に人間の勉む可き美徳の一箇条なり。
奢侈も亦斯の如し。唯身の分限を越ると否とに由て徳不徳の名を下す可きのみ。軽暖(けいだん)を着て安宅(あんたく)に居(を)るを好むは人の性情なり。天理に従て此情欲を慰るに、何ぞ之を不徳と云ふ可けんや。積(つん)でよく散じ、散じて則(のり)を踰(こ)えざる者は、人間の美事と称す可きなり。
又誹謗と弁駁と其間に髪(はつ)を容(い)る可らず。他人に曲(きよく不正)を誣(しふ)るものを誹謗と云ひ、他人の惑(まどひ)を解きて我真理と思ふ所を弁ずるものを弁駁(べんばく)と名く。故に世に未だ真実無妄(むまう無謬)の公道を発明(発見)せざるの間は、人の議論も亦何れを是とし何れを非とす可きや之を定む可らず。是非未だ定らざるの間は、仮に世界の衆論を以て公道と為す可しと雖ども、其衆論の在る所を明に知ること甚だ易からず。故に他人を誹謗する者を目して、直(ただち)に之を不徳者と云ふ可らず。其果して誹謗なる歟、又は真の弁駁なる歟を区別せんとするには、先づ世界中の公道を求めざる可らず。
右の外、驕傲(けうがう)と勇敢と、粗野と率直と、固陋と実着(着実)と、浮薄と穎敏(えいびん鋭敏)と、相対するが如く、何れも皆働の場所と、強弱の度と、向ふ所の方角とに由て、或は不徳とも為る可く、或は徳とも為る可きのみ。
独り働の素質に於て全く不徳の一方に偏し、場所にも方向にも拘はらずして不善の不善なる者は怨望の一箇条なり。怨望は働の陰(いん)なるものにて、進(すすん)で取ることなく、他の有様に由て我に不平を抱き、我を顧みずして他人に多を求め、其不平を満足せしむるの術は、我を益するに非ずして他人を損ずるに在り。
譬へば他人の幸と我の不幸とを比較して、我に不足する所あれば、我有様を進めて満足するの法を求めずして、却て他人を不幸に陥れ、他人の有様を下だして、以て彼我の平均を為さんと欲するが如し。所謂これを悪(にくん)で其死を欲するとは此事なり(「論語 」顔淵十)。故に此輩の不幸を満足せしむれば、世上一般の幸福をば損ずるのみにて少しも益する所ある可らず。
或人云く、欺詐(ぎさ)虚言の悪事も其実質に於て悪なるものなれば、之を怨望に比して孰(いづれ)か軽重の別ある可らずと。答て云く、誠に然るが如しと雖ども、事の源因と事の結果とを区別すれば、自から軽重の別なしと云ふ可らず。欺詐虚言は固より大悪事たりと雖ども、必ずしも怨望を生ずるの源因(原因)には非ずして、多くは怨望に由て生じたる結果なり。怨望は恰も衆悪の母の如く、人間の悪事これに由て生ず可らざるものなし。
疑猜(ぎさい猜疑)、嫉妬、恐怖、卑怯の類は、皆怨望より生ずるものにて、其内形(ないけい)に見(あら)はるゝ所は、私語(ささめき)、密話、内談、秘計、其外形に破裂する所は、徒党、暗殺、一揆、内乱、秋毫も国に益することなくして、禍の全国に波及するに至ては主客共に免かるゝことを得ず。所謂公利の費(つひえ)を以て私(わたくし)を逞うする者と云ふ可し。
怨望の人間交際に害あること斯の如し。今其源因を尋るに、唯窮(きゆう)の一事に在り。但し其窮とは困窮貧窮等の窮に非ず。人の言路(げんろ発言)を塞ぎ人の業作(ぎようさ行動)を妨る等の如く、人類天然の働を窮せしむることなり。
貧窮困窮を以て怨望の源とせば、天下の貧民は悉皆不平を訴へ、富貴は恰も怨(うらみ)の府にして、人間の交際は一日も保つ可らざる筈なれども、事実に於て決して然らず、如何に貧賎なる者にても、其貧にして賎しき所以の源因を知り、其源因の己(おの)が身より生じたることを了解すれば、決して妄(みだり)に他人を怨望するものに非ず。其証拠は故(こと)さらに掲示するに及ばず、今日世界中に貧富貴賎の差ありて、よく人間の交際を保つを見て、明に之を知る可し。故に云く、富貴は怨の府に非ず、貧賎は不平の源に非ざるなり。
是に由て考れば、怨望は貧賎に由て生ずるものに非ず、唯人類天然の働を塞(ふさぎ)て禍福の来去(らいきよ去来)皆遇然(偶然)に係る可き地位に於て、甚しく流行(頻発)するのみ。
昔孔子が、女子と小人(しようじん)とは近づけ難し、扨々(さてさて)困(こまり)入たる事哉とて歎息したることあり(「論語」陽貨二五)。今を以て考るに、是れ夫子自から事を起して、自から其弊害を述たるものと云ふ可し。人の心の性は、男子も女子も異なるの理なし。又小人とは下人と云ふことならんか。下人の腹から出(いで)たる者は必ず下人と定(さだまり)たるに非ず。下人も貴人も、生れ落ちたる時の性に異同あらざるは固より論を俟たず。
然るに此女子と下人とに限りて取扱に困るとは何故ぞ。平生(へいぜい普段)卑屈の旨を以て周(あま)ねく人民に教へ、小弱なる婦人下人の輩(はい)を束縛して、其働に毫も自由を得せしめざるがために、遂(つひ)に怨望の気風を醸成し、其極度に至て流石に孔子様も歎息せられたることなり。
元来人の性情に於て働に自由を得ざれば、其勢必ず他を怨望せざるを得ず。因果応報の明なるは、麦を蒔て麦の生ずるが如し。聖人の名を得たる孔夫子が此理を知らず別に工夫もなくして、徒に愚痴をこぼすとは余り頼母(たのも)しからぬ話なり。
抑も孔子の時代は、明治を去ること二千有余年、野蛮草昧(さうまい)の世の中なれば、教の趣意も其時代の風俗人情に従ひ、天下の人心を維持せんがためには、知(しり)て故(こと)さらに束縛するの権道(けんだう便法)なかる可らず。若し孔子をして真の聖人ならしめ、万世の後を洞察するの明識(めいしき)あらしめなば、当時の権道を以て必ず心に慊(こころよ)しとしたることはなかる可し。
故に後世の孔子を学ぶ者は、時代の考を勘定の内に入れて取捨せざる可らず。二千年前に行はれたる教を其儘にしき写しゝて明治年間に行はんとする者は、共に事物の相場(価値)を談ず可らざる人なり。
又近く一例を挙て示さんに、怨望の流行して交際を害したるものは、我封建の時代に沢山なる大名の御殿女中を以て最(さい)とす。抑も御殿の大略を云へば、無識無学の婦女子群居して無知無徳の一主人に仕(つか)へ、勉強を以て賞せらるゝに非ず、懶惰(らんだ怠慢)に由て罰せらるゝに非ず、諌(いさめ)て叱(しか)らるゝこともあり諌めずして叱らるゝこともあり、言ふも善し言はざるも善し、詐(いつは)るも悪し詐らざるも悪し、唯朝夕の臨機応変にて主人の寵愛を僥倖するのみ。其状恰も的なきに射るが如く、中(あ)たるも巧(たくみ)なるに非ず、中たらざるも拙なるに非ず、正に之を人間外の一乾坤(けんこん別世界)と云ふも可なり。
此有様の内に居(を)れば、喜怒哀楽の心情必ず其性(せい)を変じて、他の人間世界に異ならざるを得ず。偶(たまた)ま朋輩に立身する者あるも、其立身の方法を学ぶに由なければ唯これを羨むのみ。之を羨むの余(あまり)には唯これを嫉(ねた)むのみ。朋輩を嫉み主人を怨望するに忙(いそが)はしければ、何ぞ御家(おいへ)の御ためを思ふに遑(いとま)あらん。
忠信節義は表向の挨拶のみにて、其実は畳に油をこぼしても人の見ぬ所なれば拭ひもせずに捨置く流儀と為り、甚しきは主人の一命に掛る病の時にも、平生朋輩の睨合(にらみあ)ひにからまりて、思ふまゝに看病をも為し得ざる者多し。
尚一歩を進めて怨望嫉妬の極度に至ては、毒害(毒殺)の沙汰も稀にはなきに非ず。古来若し此大悪事に付き其数を記したるスタチスチク(統計)の表ありて、御殿に行はれたる毒害の数と、世間に行はれたる毒害の数とを比較することあらば、御殿に悪事の盛(さかん)なること断じて知る可し。怨望の禍、豈恐怖すべきに非ずや。
右御殿女中の一例を見ても、大抵世の中の有様は推して知る可し。人間最大の禍は怨望に在て、怨望の源は窮より生ずるものなれば、人の言路は開かざる可らず、人の業作は妨ぐ可らず。試に英亜(欧米)諸国の有様と我日本の有様とを比較して、其人間の交際に於て孰(いづれ)かよく彼の御殿の趣(おもむき)を脱したるやと問ふ者あらば、余輩は今の日本を目して全く御殿に異ならずと云ふには非ざれども、其境界を去るの遠近を論ずれば、日本は尚これに近く、英亜諸国は之を去ること遠しと云はざるを得ず。
英亜の人民、貪吝(たんりん)驕奢(けうしや)ならざるに非ず、粗野乱暴ならざるに非ず、或は詐る者あり、或は欺く者ありて、其風俗決して善美ならずと雖ども、唯怨望隠伏(いんぷく陰険)の一事に至ては必ず我国と趣を異にする所ある可し。
今世の識者に民撰議院の説あり、又出版自由の論あり。其得失は姑(しばら)く擱(さしお)き、元(も)と此論説(議論)の起る由縁を尋るに、識者の所見は蓋し今の日本国中をして古の御殿の如くならしめず、今の人民をして古の御殿女中の如くならしめず、怨望に易(かふ)るに活動を以てし、嫉妬の念を絶(たち)て相競ふの勇気を励まし、禍福譏誉(きよ)悉く皆自力を以て之を取り、満天下の人をして自業自得ならしめんとするの趣意なる可し。
人民の言路を塞ぎ其業作を妨るは専ら政府上に関して、遽(にはか)に之を聞けば唯政治に限りたる病の如くなれども、此病は必ずしも政府のみに流行するものに非ず、人民の間にも行はれて毒を流すこと最も甚しきものなれば、政治のみを改革するも其源を除く可きに非ず。今又数言(すげん)を巻末に附し政府の外(ほか)に就て之を論ず可し。
元来人の性(せい)は交を好むものなれども、習慣に由れば却て之を嫌ふに至る可し。世に変人奇物とて、故(こと)さらに山村僻邑(へきいふ)に居(を)り世の交際を避る者あり。之を隠者と名く。或は真の隠者に非ざるも、世間の附合を好まずして一家に閉居し、俗塵を避るなどゝて得意の色を為す者なきに非ず。
此輩の意を察するに、必ずしも政府の所置(しよち)を嫌ふのみにて身を退(しりぞく)るに非ず、其心志(しんし)怯弱にして物に接するの勇なく、其度量狭小にして人を容るゝこと能はず、人を容るゝこと能はざれば人も亦之を容れず、彼も一歩を退(しりぞ)け我も亦一歩を退け、歩々(ほほ)相遠ざかりて遂に異類の者の如く為り、後には讐敵(しうてき)の如く為りて、互に怨望するに至ることあり。世の中に大なる禍と云ふ可し。
又人間の交際に於て、相手の人を見ずして其為したる事を見る歟、若しくは其人の言を遠方より伝へ聞て、少しく我意に叶はざるものあれば、必ず同情相憐むの心をば生ぜずして、却て之を忌み嫌ふの念を起し、之を悪(にくん)で其実に過ぐること多し。此亦人の天性と習慣とに由て然るものなり。
物事の相談に伝言文通にて整はざるものも、直談(ぢきだん)にて円く治ることあり。又人の常の言に、実は斯くの訳なれども面と向てはまさか左様にも、と云ふことあり。即是れ人類の至情にて、堪忍の心の在る所なり。既に堪忍の心を生ずるときは、情実互に相通じて怨望嫉妬の念は忽ち消散せざるを得ず。
古今に暗殺の例少なからずと雖ども、余常に云へることあり、若し好機会ありて其殺すものと殺さるゝ者とをして数日の間同処に置き、互に隠くす所なくして其実の心情を吐かしむることあらば、如何なる讐敵にても必ず相和するのみならず、或は無二の朋友たることもある可しと。
右の次第を以て考れば、言路を塞ぎ業作を妨るの事は、独り政府のみの病に非ず、全国人民の間に流行するものにて、学者と雖ども或は之を免かれ難し。人生活溌の気力は、者に接せざれば生じ難し。自由に言はしめ、自由に働かしめ、富貴も貧賎も唯本人の自から取るに任して、他より之を妨ぐ可らざるなり。  
十四編
心事の棚卸
人の世を渡る有様を見るに、心に思ふよりも案外に悪を為し、心に思ふよりも案外に愚を働き、心に企るよりも案外に功を成さゞるものなり。如何なる悪人にても生涯の間勉強して悪事のみを為さんと思ふ者はなけれども、物に当り事に接して不図悪念を生じ、我身躬から悪と知りながら色々に身勝手なる説を付て、強ひて自から慰る者あり。
又或は物事に当て行ふときは決して之を悪事と思はず、毫も心に恥る所なきのみならず、一心一向に善き事と信じて、他人の異見などあれば却て之を怒り之を怨む程にありしことにても、年月を経て後に考れば大に我不行届にて心に恥入ることあり。
又人の性に智愚強弱の別ありと雖ども、自から禽獣の智恵にも叶はぬと思ふ者はある可らず。世の中にある様々の仕事を見分けて、此事なれば自分の手にも叶ふことゝ思ひ、自分相応に之を引受くることなれども、其事を行ふの間に思(おもひ)の外に失策多くして最初の目的を誤り、世間にも笑はれ自分にも後悔すること多し。
世に功業(こうげふ事業)を企てゝ誤る者を傍観すれば、実に捧腹(抱腹)にも堪へざる程の愚を働(はたらき)たるやうに見ゆれども、其これを企たる人は必ずしも左まで愚なるに非ず、よく其情実(事情)を尋れば亦尤(もつとも)なる次第あるものなり。
必竟(畢竟)世の事変(事故)は活物(いきもの)にて、容易に其(その)機変(変化)を前知(ぜんち)す可らず。之がために智者と雖ども案外に愚を働くもの多し。
又人の企は常に大なるものにて、事の難易大小と時日の長短とを比較すること甚だ難し。フランキリン云へることあり、十分と思ひし時も事に当れば必ず足らざるを覚ゆるものなりと。此言(げん)真に然り。大工に普請を云付け、仕立屋に衣服を注文して、十に八、九は必ず其日限を誤らざる者なし。こは大工仕立屋の故(こと)さらに企てたる不埒(遅延)に非ず、其初に仕事と時日とを精密に比較せざりしより、図らずも違約に立至(たちい)たるのみ。
扨(さて)世間の人は大工仕立屋に向て違約を責ることは珍しからず、之を責るに亦理屈なきに非ず。大工仕立屋は常に恐入り、旦那はよく道理の分りたる人物のやうに見ゆれども、其旦那なる者が自から自分の請合ひたる仕事に就き、果して日限の通りに成したることあるや。
田舎の書生、国を出るときは難苦を嘗めて三年の内に成業と自から期したる者、よく其心の約束を践(ふ守る)みたるや。無理な才覚をして渇望したる原書を求め、三箇月の間に之を読み終らんと約したる者、果してよく其約の如くしたるや。有志の士君子、某(それがし自分)が政府に出づれば此事務も斯の如く処し彼の改革も斯の如く処し半年の間に政府の面目を改む可しとて、再三建白の上漸く本望を達して出仕の後、果して其前日の心事(しんじ計画)に背かざるや。
貧書生が、我れに万両の金あれば明日より日本国中の門並(かどなみ軒並)に学校を設て家に不学の輩なからしめんと云ふ者を、今日良縁に由て三井、鴻ノ池の養子たらしむることあらば、果して其言の如くなる可きや。此類の夢想を計(かぞふ)れば枚挙に遑あらず。皆事の難易と時の長短とを比較せずして、時を計ること寛(ゆるやか)に過ぎ、事を視ること易(やすき)に過ぎたる罪なり。
又世間に事を企る人の言を聞くに、生涯の内又は十年の内に之を成すと云ふ者は最も多く、三年の内一年の内にと云ふ者は稍(や)や少なく、一月の内或は今日此事を企てゝ今正に之を行ふと云ふ者は殆ど稀にして、十年前に企(くはだて)たる事を今既に成(な)したりと云ふが如きは余輩未だ其人を見ず。
斯の如く期限の長き未来を云ふときには大造(たいそう)なる事を企るやうなれども、其期限漸く近くして今月今日と迫るに従て、明に其企(くはだて)の次第を述ぶること能はざるは、必竟(畢竟)事を企るに当て時日の長短を勘定に入れざるより生ずる不都合なり。
右所論の如く、人生の有様は徳義の事に就ても思の外に悪事を為し、智恵の事に就ても思の外に愚を働き、思の外に事業を遂げざるものなり。此不都合を防ぐの方便は様々なれども、今爰(ここ)に人のあまり心付ざる一箇条あり。其箇条とは何ぞや。事業の成否得失に付き、時々自分の胸中に差引の勘定を立ることなり。商売にて云へば、棚卸の総勘定の如きもの是なり。
凡そ商売に於て最初より損亡(そんまう損失)を企る者ある可らず。先づ自分の才力と元金とを顧み、世間の景気を察して事を始め、千状万態の変に応じて或は中(あ)たり或は外れ、此仕入に損を蒙り彼の売捌に益を取り、一年又は一箇月の終(おはり)に総勘定を為すときは、或は見込の通りに行はれたることもあり、或は大に相違したることもあり。
又或は売買繁劇(はんげき多忙)の際に此品に付ては必ず益あることなりと思ひしものも、棚卸に出来たる損益平均の表を見れば案に相違して損亡なることあり、或は仕入のときは品物不足と思ひしものも、棚卸のときに残品を見れば、売捌に案外の時日を費して其仕入却て多きに過たるものもあり。
故に商売に一大緊要なるは、平日の帳合(ちやうあひ)を精密にして、棚卸の期を誤らざるの一事なり。
他の人事も亦斯の如し。人間生々(せいせい)の商売(努め)は、十歳前後人心の出来し時より始めたるものなれば、平生智徳事業の帳合を精密にして、勉(つとめ)て損亡を引請けざるやうに心掛けざる可らず。過る十年の間には何を損し何を益したるや、現今は何等の商売を為して其繁昌の有様は如何なるや、今は何品(なんしな)を仕入れて何れの時何れの処に売捌く積りなるや、年来心の店の取締は行届きて遊冶懶惰など(と)名(なづく)る召使のために穴を明けられたる事はなきや、来年も同様の商売にて慥(たしか確か)なる見込ある可きや、最早別に智徳を益す可き工夫もなきやと、諸帳面を点検して棚卸の総勘定を為すことあらば、過去現在身の行状に付き必ず不都合なることも多かる可し。其一、二を挙れば、
貧は士の常尽忠(じんちゆう)報国(ほうこく)などゝて、妄に百姓の米を喰ひ潰して得意の色を為し、今日に至て事実(現実)に困る者は、舶来の小銃あるを知らずして刀剣を仕入れ一時の利を得て残品に後悔するが如し。和漢の古書のみを研究して西洋日新の学を顧みず古を信じて疑はざりし者は、過ぎたる夏の景気を忘れずして冬の差入(さしい初め)りに蚊帷を買込むが如し。
青年の書生未だ学問も熟せずして遽(にはか)に小官を求め一生の間等外(とうぐわい下役)に徘徊するは、半ば仕立たる衣服を質に入れて流すが如し。地理歴史の初歩をも知らず日用の手紙を書くこともむつかしくして妄に高尚の書を読まんとし、開巻五、六葉を見て又他の書を求るは、元手なしに商売を初めて日(ひび)に業を変ずるが如し。
和漢洋の書を読めども天下国家の形勢を知らず一身一家の生計にも苦しむ者は、十露盤(そろばん)を持たずして万屋(よろづや)の商売を為すが如し。天下を治るを知て身を脩むるを知らざる者は、隣家の帳合に助言して自家に盗賊の入るを知らざるが如し。口に流行の日新を唱へて心に見る所なく、我一身の何物たるをも考へざる者は、売品(ばいひん売り物)の名を知て値段を知らざるものゝ如し。
是等の不都合は現に今の世に珍しからず。其源因(原因)は、唯流れ渡りに此世を渡りて、嘗て其身の有様に注意することなく、生来今日に至るまで我身は何事を為したるや、今は何事をなせるや、今後は何事を為す可きやと、自から其身を点検せざるの罪なり。
故に云く、商売の有様を明にして後日の見込を定るものは帳面の総勘定なり。一身の有様を明にして後日の方向を立るものは智徳事業の棚卸なり。
世話の字の義
世話の字に二つの意味あり、一は保護の義なり、一は命令の義なり。保護とは人の事に付き傍より番をして防ぎ護り、或は之に財物を与へ或は之がために時を費し、其人をして利益をも面目をも失はしめざるやうに世話をすることなり。
命令とは人のために考て、其人の身に便利ならんと思ふことを差図(指図)し、不便利ならんと思ふことには異見を加へ、心の丈けを尽して忠告することにて、是亦世話の義なり。
右の如く世話の字に保護と差図と両様の義を備へて人の世話をするときは、真によき世話にて世の中は円く治る可し。譬へば父母の子供に於けるが如く衣食を与へて保護の世話をすれば、子供は父母の言ふことを聞て差図を受け、親子の間柄に不都合あることなし。又政府にては法律を設けて国民の生命と面目(名誉)と私有とを大切に取扱ひ、一般の安全を謀て保護の世話を為し、人民は政府の命令に従て差図の世話に戻(もと)ることあらざれば、公私の間円く治る可し。
故に保護と差図とは両(ふたつ)ながら其至る処を共にし、寸分も境界を誤る可らず。保護の至る処は即ち差図の及ぶ処なり。差図の及ぶ処は必ず保護の至る処ならざるを得ず。若し然らずして、此二者の至り及ぶ所の度を誤り、僅に齟齬することあれば、忽ち不都合を生じて禍の源因と為る可し。世間に其例少なからず。蓋し其由縁は、世の人々常に世話の字の義を誤りて、或は保護の意味に解し、或は差図の意味に解し、唯一方にのみ偏して文字の全き義を尽すことなく、以て大なる間違に及びたるなり。
譬へば父母の差図を聴かざる道楽息子へ漫(みだり)に銭を与へて其遊冶(いうや)放蕩を逞うせしむるは、保護の世話は行届て差図の世話は行はれざるものなり。子供は謹慎勉強して父母の命に従ふと雖ども、此子供に衣食をも十分に給せずして無学文盲の苦界(くがい)に陥らしむるは、差図の世話のみをなして保護の世話を怠るものなり。甲は不孝にして乙は不慈なり。共に之を人間の悪事と云ふ可し。
古人の教に朋友に屢(しばしば)すれば疎(うとん)ぜらるゝとあり。其訳けは、我忠告をも用ひざる朋友に向て余計なる深切を尽し、其気前をも知らずして厚かましく異見をすれば、遂には却てあいそつかしと為りて、先きの人に嫌われ或は怨まれ或は馬鹿にせられて事実に益なきゆゑ、大概に見計ふて此方(こちら)から寄付(よりつ)かぬ様にす可しとの趣意なり。此趣意も即ち差図の世話の行届かぬ所には保護の世話を為す可らずと云ふことなり。
又昔かたぎに、田舎の老人が旧き本家の系図を持出して別家の内を掻きまはし、或は銭もなき叔父様が実家の姪(をひ)を呼付けて其家事を差図し、其薄情を責め其不行届を咎め、甚しきに至ては知らぬ祖父の遺言などゝて姪の家の私有を奪ひ去らんとするが如きは、差図の世話は厚きに過ぎて保護の世話の痕跡もなきものなり。諺に所謂大きに御世話とは此事なり。
又世に貧民救助とて、人物の良否を問はず其貧乏の源因を尋ねず、唯貧乏の有様を見て米銭を与ふることあり。鰥寡(くわんくわ寡婦)孤独、実に頼る所なき者へは救助も尤(もつとも)なれども、五升の御救米(すくひまい)を貰ふて三升は酒にして飲む者なきに非ず。禁酒の差図も出来ずして漫(みだり)に米を与ふるは、差図の行届かずして保護の度を越えたるものなり。諺に所謂大きに御苦労とは此事なり。英国などにても救窮の法に困却するは此一条なりと云ふ。
此理を拡(おしひろめ)て一国の政治上に論ずれば、人民は租税を出して政府の入用を給し、其世帯向を保護するものなり。然るに専制の政(まつりごと)にて、人民の助言をば少しも用ひず、又其助言を述ぶ可き場所もなきは、是亦保護の一方は達して差図の路は塞りたるものなり。人民の有様は大きに御苦労なりと云ふ可し。
此類を求て例を挙れば一々計(かぞ)ふるに遑あらず。此世話の字義は経済論の最も大切なる箇条なれば、人間の渡世に於て其職業の異同事柄の軽重に拘はらず、常にこれに注意せざる可らず。或は此議論は全く十露盤づくにて薄情なるに似たれども、薄(うす)くす可き所を無理に厚くせんとし、或は其実の薄きを顧みずして其名を厚くせんとし、却て人間の至情(しじやう気分)を害して世の交際を苦々しくするが如きは、名を買はんとして実を失ふものと云ふ可し。
右の如く議論は立てたれども、世人の誤解を恐れて念のため爰に数言を附せん。脩身道徳の教に於ては、或は経済の法と相戻(もと)るが如きものあり。蓋し一身の私徳は悉皆天下の経済に差響(さしひび)くものに非ず、見ず知らずの乞食に銭を投与し、或は貧人の憐む可き者を見れば其人の来歴をも問はずして多少の財物を給することあり。其(その)これを投与し之を給するは即ち保護の世話なれども、此保護は差図と共に行はるゝものに非ず、考の領分を窮屈にして唯経済上の公(おほやけ)を以て之を論ずれば不都合なるに似たれども、一身の私徳に於て恵与(けいよ)の心は最も貴ぶ可く最も好(よ)みす可きものなり。
譬へば天下に乞食を禁ずるの法は固より公明正大なるものなれども、人々の私(わたくし)に於て乞食に物を与へんとするの心は咎む可らず。人間万事十露盤を用ひて決定す可きものに非ず、唯其用ゆ可き場所と用ゆ可らざる場所とを区別すること緊要なるのみ。世の学者、経済の公論に酔て仁恵(じんけい人情)の私徳を忘るゝ勿れ。  
十五編 / 事物を疑て取捨を断ずる事
信の世界に偽詐(ぎさ)多く、疑(うたがひ)の世界に真理多し。試に見よ、世間の愚民、人の言を信じ人の書を信じ小説を信じ風聞を信じ神仏を信じ卜筮(ぼくぜい占ひ)を信じ、父母の大病に按摩(あんま)の説を信じて草根木皮(ぼくひ)を用ひ、娘の縁談に家相見(かさうみ)の指図を信じて良夫(りやうふ)を失ひ、熱病に医師を招かずして念仏を申すは阿弥陀如来を信ずるが為なり、三七日(さんしちにち二十一日)の断食に落命するは不動明王を信ずるが故なり。
此人民の仲間に行はるゝ真理の多寡(たか)を問はゞ、これに答て多しと云ふ可らず。真理少なければ偽詐多(おほ)からざるを得ず。蓋し此人民は事物を信ずと雖ども、其信は偽を信ずる者なり。故に云く、信の世界に偽詐多しと。
文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、其働の趣を詮索して真実を発明(発見)するに在り。西洋諸国の人民が今日の文明に達したる其源(みなもと)を尋れば、疑(うたがひ)の一点より出でざるものなし。ガリレヲ〈GalileoGalilei伊1564-1642〉が天文の旧説を疑て地動を発明し、ガルハニ〈LuigiGalvani伊1737-1798〉が蟆(がま)の脚の搐搦(ちくじやく)するを疑て動物の越歴〈エレキ〉を発明し、ニウトン〈IsaacNewton英1642-1727〉が林檎の落るを見て重力の理に疑を起し、ワット〈JamesWatt英1736-1819〉が鉄瓶の湯気を弄(もてあそん)で蒸気の働に疑を生じたるが如く、何れも皆疑の路に由て真理の奥に達したるものと云ふ可し。
格物窮理(物理)の域を去て、顧(かへりみ)て人事(じんじ社会)進歩の有様を見るも亦斯の如し。売奴法(奴隷制度)の当否を疑て天下後世に惨毒(さんどく害悪)の源を絶(たち)たる者は、トーマス・クラレクソン〈ThomasClarkson英1760-1846〉なり。羅馬宗教の妄誕(まうたんペテン)を疑て教法(教義)に一面目を改めたる者はマルチン・ルーザ〈MartinLuther独1483-1546〉なり。仏蘭西の人民は貴族の跋扈(ばつこ)に疑を起して騒乱の端を開き、亜米利加の州民は英国の成法(せいはふ法律)に疑を容(い)れて独立の功(こう)を成したり。
今日に於ても、西洋の諸大家が日新の説を唱へて人を文明に導くものを見るに、其目的は唯古人の確定して駁(ばく)す可らざるの論説を駁し、世上に普通にして疑を容る可らざるの習慣に疑を容るゝに在るのみ。
今の人事(じんじ社会)に於て男子は外を務め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、スチュアルト・ミル〈JohnStuartMill英1806-1873〉は婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり。
英国の経済家に自由法を悦ぶ者多くして、之を信ずる輩は恰も以て世界普通の定法の如くに認(みとむ)れども、亜米利加の学者は保護法を唱へて自国一種の経済論を主張する者あり。
一議随(したがつ)て出れば一説随て之を駁し、異説争論其極る所を知る可らず。之を彼の亜細亜諸州の人民が、虚誕妄説を軽信して巫蠱(ふこ)神仏に惑溺し、或は所謂聖賢者の言を聞て一時に之に和するのみならず、万世の後に至て尚其言の範囲を脱すること能はざるものに比すれば、其品行の優劣、心志の勇怯(ゆうけふ)、固より年を同(おなじう)して語る可らざるなり。
異説争論の際に事物の真理を求るは、尚逆風に向(むかつ)て舟を行(や)るが如し。其舟路(ふなぢ)を右にし又これを左にし、浪に激し風に逆(さから)ひ、数十百里の海を経過するも、其直達(ちよくたつ)の路を計れば進むこと僅に三、五里に過ぎず。航海には屢(しばしば)順風の便ありと雖ども、人事に於ては決して是れなし。人事の進歩して真理に達するの路は、唯異説争論の際にまぎるの一法あるのみ。而(しかう)して其説論(せつろん)の生ずる源は、疑の一点に在て存するものなり。疑の世界に真理多しとは、蓋し是(こ)の謂(いひ)なり。
然りと雖ども、事物の軽々信ず可らざること果して是(ぜ)ならば、亦これを軽々疑ふ可らず。此信疑の際に就き必ず取捨の明(めい知力)なかる可らず。蓋し学問の要は、此明智(知性)を明(あきらか)にするに在るものならん。我日本に於ても開国以来頓(しきり)に人心の趣(おもむき)を変じ、政府を改革し、貴族を倒し、学校を起し、新聞局を開き、鉄道、電信、兵制、工業等、百般の事物一時に旧套(きうたう)を改めたるは、何れも皆数千百年以来の習慣に疑を容れ、之を変革せんことを試て功を奏したるものと云ふ可し。
然りと雖ども、我人民の精神に於て此数千年の習慣に疑を容れたる其原因を尋れば、初て国を開て西洋諸国に交り、彼(かれ)の文明の有様を見て其美を信じ、之に傚(なら)はんとして我旧習に疑を容れたるものなれば、恰も之を自発の疑と云ふ可らず。唯旧を信ずるの信を以て新を信じ、昔日(せきじつ)は人心の信、東に在りしもの、今日(こんにち)は其処(ところ)を移して西に転じたるのみにして、其信疑の取捨如何(いかん)に至ては果して的当(てきとう適当)の明あるを保(ほ保証)す可らず。
余輩未だ浅学寡聞、此取捨の疑問に至り一々当否を論じて其箇条を枚挙する能はざるは固より自から懺悔(ざんげ)する所なれども、世事(せいじ世間)転遷(てんせん変化)の大勢を察すれば、天下の人心この勢に乗ぜられて、信ずるものは信に過ぎ、疑ふものは疑に過ぎ、信疑共に其止まる所の適度を失するものあるは明(あきらか)に見る可し。左に其次第を述べん。
東西の人民、風俗を別にし情意を殊(こと異)にし、数千百年の久しき各(おのおの)其国土に行はれたる習慣は、仮令ひ利害の明なるものと雖ども、頓に之を彼(かれ)に取て是(これ)に移す可らず、況(いはん)や其利害の未だ詳(つまびらか)ならざるものに於てをや。之を採用せんとするには千思万慮歳月を積み、漸く其性質を明にして取捨を判断せざる可らず。
然るに近日世上の有様を見るに、苟も中人(ちゆうじん普通)以上の改革者流、或は開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人之を唱(となふ)れば万人これに和し、凡そ知識道徳の教より治国、経済、衣食住の細事に至るまでも、悉皆西洋の風を慕ふて之に傚(なら)はんとせざるものなし。或は未だ西洋の事情に就き其一班(いつぱん一片)をも知らざる者にても、只管(ひたすら)旧物を廃棄して唯新(しん)を是(こ)れ求(もとむ)るものゝ如し。何ぞ夫れ事物を信ずるの軽々にして、又これを疑ふの疎忽(そこつ不足)なるや。
西洋の文明は我国の右に出ること必ず数等ならんと雖ども、決して文明の十全(じふぜん完璧)なるものに非ず。其欠典(欠点)を計(かぞふ)れば枚挙に遑あらず。彼の風俗悉く美にして信ず可きに(は)非ず、我の習慣悉く醜にして疑ふ可きに非ず。
譬へば爰に一少年あらん。学者先生に接して之に心酔し、其風に傚はんとして俄に心事を改め、書籍を買ひ文房の具を求めて、日夜机に倚(より)て勉強するは固より咎む可きに非ず。之を美事と云ふ可し。然りと雖ども此少年が先生の風を擬(ぎ真似)するの余りに、先生の夜話(やわ夜会)に耽(ふけり)て朝寝するの癖をも学び得て、遂に身体の健康を害することあらば、之を智者と云ふ可きか。蓋し此少年は先生を見て十全の学者と認め、其行状の得失を察せずして悉皆これに傚はんとし、以て此不幸に陥りたるものなり。
支那の諺に、西施(せいし)の顰(ひそみ)に傚ふと云ふことあり。美人の顰は其顰の間に自から趣ありしが故に之に傚ひしことなれば未だ深く咎(とがむ)るに足らずと雖ども、学者の朝寝に何の趣あるや。朝寝は則ち朝寝にして懶惰不養生の悪事なり。人を慕ふの余りに其悪事に傚ふとは笑ふ可きの甚しきに非ずや。されども今の世間の開化者流には此少年の輩甚だ少なからず。
仮に今、東西の風俗習慣を交易(交換)して開化先生の評論に附し、其評論の言葉を想像して之を記さん。
西洋人は日に浴湯(よくたう)して日本人の浴湯は一月僅に一、二次ならば、開化先生之を評して云はん。文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促(うなが)し以て衛生の法を守れども、不文(ふぶん無知)の日本人は則ち此理を知らずと。
日本人は寝屋(ねや)の内に尿瓶(しびん)を置きて之に小便を貯え、或は便所より出でゝ手を洗ふことなく、洋人は夜中と雖ども起(おき)て便所に行き、何等事故(事情)あるも必ず手を洗ふの風ならば、論者評して云はん。開化の人は清潔を貴ぶの風あれども不開化の人民は不潔の何物たるを知らず、蓋し小児の智識未だ発生せずして汚潔(をけつ清濁)を弁(べん区別)ずること能はざる者に異ならず、此人民と雖ども次第に進(すすん)で文明の域に入らば遂には西洋の美風に傚うことある可しと。
洋人は鼻汁を拭(ぬぐ)ふに毎次紙を用ひて直(ただち)に之を投棄し、日本人は紙に代るに布を用ひ随て洗濯して随て又用(もちふ)るの風ならば、論者忽ち頓智を運(めぐ)らし細事を推(お)して経済論の大義に附会(ふくわいこじつけ)して云はん。資本に乏しき国土に於ては人民自から知らずして節倹の道に従ふことあり、日本全国の人民をして鼻紙を用ること西洋人の如くならしめなば、其国財の幾分を浪費す可き筈なるに、よく其不潔を忍(しのぴ)て布を代用するは自(おのづ)から資本の乏しきに迫られて節倹に赴(おもむ)く者と云ふ可しと。
日本の婦人其耳に金環(きんかん)を掛け小腹(せうふく下腹)を束縛して衣裳を飾ることあらば、論者人身窮理の端を持出して顰蹙(ひんしゆく)して云はん。甚しひ哉(かな)不開化の人民、理を弁じて天然に従ふことを知らざるのみならず、故(ことさ)らに肉体を傷(きず)つけて耳に荷物を掛け、婦人の体に於て最も貴要(きえう重要)部たる小腹(下腹)を束(つか)ねて蜂の腰の如くならしめ、以て妊娠の機を妨(さまた)げ分娩の危難を増し、其禍(わざはひ)の小なるは一家の不幸を致し大なるは全国の人口生々(せいせい)の源を害するものなりと。
西洋人は家の内外に錠を用ること少なく、旅中に人足(にんそく)を雇ふて荷物を持たしめ、其行李に慥(たしか)なる錠前なきものと雖ども常に物を盗まるゝことなく、或は大工左官等の如き職人に命じて普請を受負はしむるに約条(やくでう契約)書の密なるものを用ひずして、後日に至り其約条に付き公事訴訟を起すこと稀なれども、日本人は家内の一室毎(ごと)に締(しま)りを設けて坐右(ざいう)の手箱に至るまでも錠を卸(おろ)し、普請受負の約条書等には一字一句を争ふて紙に記せども、尚且(かつ)物を盗まれ、或は違約等の事に付き裁判所に訴ること多き風ならば、論者又歎息して云はん。難有哉(ありがたきかな)耶蘇(やそ)の聖教、気の毒なる哉パガン〈pagan〉外教(異教)の人民、日本の人は恰(あたか)も盗賊と雑居するが如し、之を彼の西洋諸国自由正直の風俗に比すれば万々(ばんばん)同日(どうじつ)の論に非ず、実に聖教の行はるゝ国土こそ道に遺(ゐ)を拾はず(治安が良いこと 「史記」塗不拾遺)と云ふ可けれと。
日本人が煙草を咬(か)み巻煙草を吹かして西洋人が煙管(きせる)を用ることあらば、日本人は器械の術に乏しくして未だ煙管の発明もあらずと云はん。日本人が靴を用ひて西洋人が下駄をはくことあらば、日本人は足の指の用法を知らずと云はん。味噌も舶来品ならば斯くまでに軽蔑を受ることもなからん。豆腐も洋人のテーブルに上らば一層の声価(せいか評判)を増さん。鰻の蒲焼、茶碗蒸等に至ては世界第一美味の飛切りとて評判を得ることなる可し。是等の箇条を枚挙すれば際限あることなし。
今少しく高尚に進て宗旨の事に及ばん。四百年前西洋に親鸞上人を生じ、日本にマルチン・ルーザを生じ、上人は西洋に行はるゝ仏法を改革して浄土真宗を弘め、ルーザは日本の羅馬宗教に敵してプロテスタントの教を開きたることあらば、論者必ず評して云はん。
宗教の大趣意は衆生(しゆじやう)済度(さいど救済)に在て人を殺すに在らず、苟も此趣意を誤れば其余は見るに足らざるなり。西洋の親鸞上人はよく此旨を体し、野に臥(ふ)し石を枕にし、千辛(せんしん)万苦、生涯の力を尽して遂に其国の宗教を改革し、今日に至ては全国人民の大半を教化したり。其教化の広大なること斯の如しと雖ども、上人の死後、其門徒なる者、宗教の事に付き敢(あへ)て他宗の人を殺したることなく亦殺されたることもなきは、専ら宗徳(しゆうとく宗旨)を以て人を化(か教化)したるものと云ふ可し。
顧て日本の有様を見れば、ルーザ一度び世に出でゝ羅馬の旧教に敵対したりと雖ども、羅馬の宗徒容易にこれに服するに非ず、旧教は虎の如く新教は狼の如く、虎狼相闘ひ食肉流血、ルーザの死後、宗教のために日本の人民を殺し日本の国財を費し、師(いくさ)を起し国を滅したる其禍は、筆以て記す可らず、口以て語る可らず。殺伐なる哉野蛮の日本人は、衆生済度の教を以て生霊(せいれい民衆)を塗炭(とたん苦境)に陥れ、敵を愛するの宗旨に由て無辜(むこ)の同類を屠(ほふ殺害)り、今日に至て其成跡(せいせき成果)如何を問へば、ルーザの新教は未だ日本人民の半(なかば)を化すること能はずと云へり。
東西の宗教其趣を殊にすること斯の如し。余輩こゝに疑を容るゝこと日既に久しと雖ども、未だ其原因の確かなるものを得ず。窃(ひそか)に按(あん考へる)ずるに日本の耶蘇教も西洋の仏法も、其性質は同一なれども、野蛮の国土に行はるれば自から殺伐の気を促し、文明の国に行はるれば自から温厚の風を存するに由て然るもの歟。或は東方の耶蘇教と西方の仏法とは初より其元素を殊にするに由て然るもの歟。或は改革の始祖たる日本のルーザと西洋の親鸞上人と其徳義に優劣ありて然るもの歟。漫に浅見(せんけん)を以て臆断す可らず、唯後世博識家の確説(かくせつ)を待つのみと。
然ば則ち今の改革者流が日本の旧習を厭ふて西洋の事物を信ずるは、全く軽信軽疑の譏(そしり)を免る可きものと云ふ可らず。所謂旧を信ずるの信を以て新を信じ、西洋の文明を慕ふの余りに兼て其顰蹙(ひんしゆく)朝寝の僻をも学ぶものと云ふ可し。
尚甚しきは未だ新の信ず可きものを探り得ずして早く既に旧物を放却し、一身恰も空虚なるが如くにして安心立命の地位を失ひ、之が為遂には発狂する者あるに至れり。憐む可きに非ずや。〈医師の話を聞くに、近来は神経病及び発狂の病人多しと云ふ。〉西洋の文明固より慕ふ可し、之を慕ひ之に傚はんとして日も亦足らずと雖ども、軽々之を信ずるは、信ぜざるの優(まされる)に若(し)かず。
彼の富強は誠に羨(うらや)む可しと雖ども、其人民の貧富不平均の弊をも兼て之に傚ふ可らず。日本の租税寛(かん)なるに非ざれども、英国の小民(せうみん庶民)が地主に虐(ぎやく)せらるゝの苦痛を思へば、却て我農民の有様を祝せざる可らず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼(ぶらい)なる細君が跋扈して良人(おつと)を窘(くるし)め、不順(ふじゆん反抗的)なる娘が父母を軽蔑して醜行(しうかう非行)を逞うするの俗に心酔す可らず。
されば今の日本に行はるゝ所の事物は、果して今の如くにして其当(たう)を得たるもの歟。商売会社の法、今の如くにして可ならん歟。政府の体裁今の如くにして可ならん歟。教育の制今の如くにして可ならん歟。著書の風、今の如くにして可ならん歟。加之(しかのみならず)現に余輩学問の法も今日の路(みち)に従て可ならん歟。之を思へば百疑並び生じて殆ど暗中に物を探るが如し。
此雑沓混乱の最中に居て、よく東西の事物を比較し、信ず可きを信じ、疑ふ可きを疑ひ、取る可きを取り、捨つ可きを捨て、信疑取捨其宜しきを得んとするは亦難きに非ずや。然り而して今此責(せめ)に任ずる者は他なし、唯一種我党の学者あるのみ。学者勉めざる可らず。蓋し之を思ふは之を学ぶに若かず。幾多の書を読み幾多の事物に接し、虚心平気活眼を開き、以て真実の在る所を求めなば、信疑忽ち処(ところ)を異にして、昨日の所信は今日の疑団(ぎだん)と為り、今日の所疑(しよぎ)は明日氷解することもあらん。学者勉めざる可らざるなり。  
十六編
手近く独立を守る事
不覊独立の語は近来世間の話にも聞く所なれども、世の中の話には随分間違もあるものゆゑ、銘々にてよく其趣意を弁へざる可らず。
独立に二様の別あり、一は有形なり、一は無形なり。尚手近く云へば品物に就ての独立と、精神に就ての独立と、二様に区別あるなり。品物に就ての独立とは、世間の人が銘々に身代(しんだい)を持ち銘々に家業を勤めて他人の世話厄介にならぬ様(やう)、一身一家内の始末をすることにて、一口に申せば人に物を貰(もら)はぬと云ふ義なり。
有形の独立は右の如く目にも見えて弁じ易けれども、無形の精神の独立に至ては其意味深く其関係広くして、独立の義に縁なき様に思はるゝ事にも此趣意を存して、之を誤るもの甚だ多し。細事ながら左に其一箇条を撮(とり)て之を述べん。
一杯人酒を呑み三杯酒人を呑むと云ふ諺あり。今此諺を解けば、酒を好むの慾を以て人の本心を制し、本心をして独立を得せしめずと云ふ義なり。今日世の人々の行状を見るに、本心を制するものは酒のみならず、千状万態の事物ありて本心の独立を妨ること甚だ多し。
此の着物に不似合なりとて彼の羽織を作り、此の衣裳に不相当なりとて彼の煙草入を買ひ、衣服既に備はれば屋宅の狭きも不自由と為り、屋宅の普請初て落成すれば宴席を開かざるも亦不都合なり、鰻飯は西洋料理の媒妁(ばいしやく仲介者)と為り、西洋料理は金の時計の手引と為り、此より彼に移り、一より十に進み、一進又一進、段々限(かぎり)あることなし。
此趣を見れば一家の内には主人なきが如く、一身の内には精神なきが如く、物よく人をして物を求めしめ、主人は品物の支配を受けて之に奴隷使(し)せらるゝものと云ふ可し。
尚これより甚しきものあり。前の例は品物の支配を受る者なりと雖ども、其品物は自家の物なれば、一身一家の内にて奴隷の堺界(境涯)に居(を)るまでのことなれども、爰(ここ)に又他人の物に使役せらるゝの例あり。彼の人が此洋服を作たるゆゑ我も之を作ると云ひ、隣に二階の家を建たるがゆゑに我は三階を建ると云ひ、朋友の品物は我買物の見本と為り、同僚の噂咄(うはさばなし)は我注文書の腹稿(ふくかう草稿)と為り、色の黒き大の男が節くれ立たる其指に金の指輪は些(ち)と不似合と自分も心に知りながら、此も西洋人の風なりとて無理に了簡(れうけん気持ち)を取直して銭を奮発し、極暑の晩景浴後には浴衣(ゆかた)に団扇(うちは)と思へども、西洋人の真似なれば我慢を張て筒袖(洋服の袖)に汗を流し、只管(ひたすら)他人の好尚に同じからんことを心配するのみ。
他人の好尚に同うするは尚且許す可し、其笑ふ可きの極度に至ては他人の物を誤り認め、隣の細君が御召(おめし)縮緬(ちりめん)に純金の簪(かんざし)をと聞て大に心を悩まし、急に我もと注文して後に能々(よくよく)吟味すれば、豈(あに)計(はか)らんや、隣家の品は綿(めん)縮緬に鍍金(めつき)なりしとぞ。
斯の如きは則ち我本心を支配するものは自分の物に非ず又他人の物にも非ず、煙の如き夢中の妄想に制せられて、一身一家の世帯は妄想の往来に任ずるものと云ふ可し。精神独立の有様とは多少の距離ある可し。其距離の遠近は銘々にて測量す可きものなり。
斯る夢中の世渡りに心を労し身を役(えき)し、一年千円の歳入も一月百円の月給も遣ひ果して其跡を見ず。不幸にして家産歳入の路(みち)を失ふ歟、又は月給の縁(えん)に離るゝことあれば、気抜(きぬけ)の如く間抜の如く、家に残るものは無用の雑物(ざふもつ)、身に残るものは奢侈の習慣のみ。憐れと云ふも尚おろかならずや。
産を立るは一身の独立を求むるの基(もとゐ)なりとて心身を労しながら、其家産を処置するの際に却て家産のために制せられて独立の精神を失ひ尽すとは、正に之を求るの術を以て之を失ふものなり。余輩敢て守銭奴の行状を称誉するに非ざれども、唯銭を用るの法を工夫し、銭を制して銭に制せられず、毫も精神の独立を害すること勿(なか)らんを欲するのみ。
心事と働と相当す可きの論
議論と実業と両(ふたつ)ながら其宜しきを得ざる可らずとのことは普(あまね)く人の云ふ所なれども、此云ふ所なるものも亦唯議論となるのみにして、之を実地に行ふ者甚だ少なし。
抑も議論とは心に思ふ所を言に発し書に記すものなり。或は未だ言と書に発せざれば、之を其人の心事と云ひ又は其人の志と云ふ。故に議論は外物に縁なきものと云ふも可なり。必竟(畢竟)内に存するものなり、自由なるものなり、制限なきものなり。
実業とは心に思ふ所を外に顕はし、外物に接して処置を施すことなり。故に実業には必ず制限なきを得ず。外物に制せられて自由なるを得ざるものなり。古人が此両様を区別するには、或は言と行と云ひ、或は志(こころざし)と功(こう)と云へり。又今日俗間にて云ふ所の説(せつ)と働(はたらき)なるものも即是れなり。
言行齟齬するとは議論に言ふ所と実地に行ふ所と一様ならずと云ふことなり。功に食(は)ましめて志に食ましめずとは、実地の仕事次第に由りてこそ物をも与ふ可けれ、其心に何と思ふとも形もなき人の心事をば賞す可らずとの義なり。又俗間に、某の説は兎も角も元来働のなき人物なりとて之を軽蔑することあり。何れも議論と実業と相当せざるを咎めたるものならん。
されば此議論と実業とは、寸分も相齟齬せざるやう正しく平均せざる可らざるものなり。今初学の人の了解に便ならしめんがため、人の心事と働と云ふ二語を用ひて、其互に相助けて平均を為し以て人間の益を致す所以(ゆゑん)と、此平均を失ふよりして生ずる所の弊害を論ずること左の如し。
第一人の働には大小軽重の別あり。芝居も人の働なり、学問も人の働なり。人力車を挽(ひ)くも、蒸気船を運用するも、鍬(くは)を執(とり)て農業するも、筆を揮(ふるひ)て著述するも、等しく人の働なれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽(くるまひき)の仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著者の業に従事するが如きは、働の大小軽重を弁別し軽小を捨てゝ重大に従ふものなり。人間の美事と云ふ可し。
然り而して其これを弁別せしむるものは何ぞや。本人の心なり、又志なり。斯る心志ある人を名づけて心事高尚なる人物と云ふ。故に云く、人の心事は高尚ならざる可らず。心事高尚ならざれば働も亦高尚なるを得ざるなり。
第二人の働は其難易に拘(かか)はらずして用を為すの大なるものと小なるものとあり。囲碁将棋等の技芸も易き事に非ず。是等の技芸を研究して工風(くふう)を運(めぐ)らすの難きは、天文、地理、器械、数学等の諸件に異ならずと雖ども、其用を為すの大小に至ては固より同日の論に非ず。
今此有用無用を明察して有用の方に就かしむるものは、即ち心事の明なる人物なり。故に云く、心事明ならざれば人の働をして徒(いたづら)に労して功なからしむることあり。
第三人の働には規則なかる可らず。其働を為すに場所と時節とを察せざる可らず。譬へば道徳の説法は難有(ありがたき)ものなれども、宴楽(えんらく宴会)の最中に突然と之を唱ふれば徒に人の嘲(あざけり)を取るに足るのみ。書生の激論も時には面白からざるに非ずと雖ども、親戚児女子(じぢよし)団坐(だんざ車座)の席に之を聞けば発狂人と云はざるを得ず。
此場所柄と時節柄とを弁別して規則あらしむるは、即ち心事の明なるものなり。人の働のみ活溌にして明智なきは、蒸気に機関なきが如く船に楫(かぢ)なきが如し。啻(ただ)に益を為さゞるのみならず却て害を致すこと多し。
第四前の条々は人に働ありて心事の不行届なる弊害なれども、今これに反し、心事のみ高尚遠大にして事実の働なきも亦甚だ不都合なるものなり。心事高大にして働に乏しき者は常に不平を抱かざるを得ず。世間の有様を通覧して仕事を求るに当り、己が手に叶ふ事は悉皆己が心事より以下の事なれば之に従事するを好まず。去迚(さりとて)己が心事を逞うせんとするには実の働に乏しくして事に当る可らず。
是(ここ)に於てか其罪を己に責めずして他を咎め、或は時に遇はずと云ひ或は天命至らずと云ひ、恰も天地の間に為す可き仕事なきものゝ如くに思込み、唯退(しりぞ)きて私(ひそか)に煩悶するのみ。口に怨言(ゑんげん)を発し面(おもて)に不平を顕はし、身外皆敵の如く天下皆不深切なるが如し。其心中を形容すれば、嘗て人に金を貸さずして返金の遅きを怨む者と云ふも可なり。
儒者は己を知る者なきを憂ひ、書生は己を助(たすく)る者なきを憂ひ、役人は立身の手掛りなきを憂ひ、町人は商売の繁昌せざるを憂ひ、廃藩の士族は活計の路なきを憂ひ、非役(ひやく)の華族は己を敬する者なきを憂ひ、朝々暮々(てうてうぼぼ毎朝毎晩)憂(うれひ)ありて楽(たのしみ)あることなし。
今日世間に此類の不平甚だ多きを覚ゆ。其証を得んと欲せば、日常交際の間によく人の顔色を窺ひ見て知る可し。言語容貌活溌にして胸中の快楽外に溢るゝが如き者は、世上に其人甚だ稀なる可し。余輩の実験(実見)にては、常に人の憂ふるを見て悦ぶを見ず。其面(つら)を借用したらば不幸の見舞などに至極宜しからんと思はるゝものこそ多けれ。気の毒千万なる有様ならずや。
若し是等の人をして各其働の分限に従て勤ることあらしめなば、自(おのづ)から活溌為事(ゐじ仕事)の楽地(らくち楽土)を得て次第に事業の進歩を為し、遂には心事と働と相平均するの場合にも至る可き筈なるに、嘗て爰(ここ)に心附かず、働の位は一に居(を)り、心事の位は十に止(とど)まり、一に居て十を望み、十に居て百を求め、之を求めて得ずして徒(いたづら)に憂を買ふ者と云ふ可し。之を譬へば石の地蔵に飛脚の魂を入れたるが如く、中風の患者に神経の穎敏(鋭敏)を増したるが如し。其不平不如意は推して知る可きなり。
又心事高尚にして働に乏しき者は、人に厭(いと)はれて孤立することあり。己が働と他人の働とを比較すれば固より及ぶ可きに非ざれども、己が心事を以て他の働を見れば之に満足す可らずして、自(おのづ)から私(ひそか)に軽蔑の念なきを得ず。妄に人を軽蔑する者は、必ず亦人の軽蔑を免かる可らず。互に相不平を抱き互に相蔑視して、遂には変人奇物の嘲を取り、世間に歯(よはひ伍)す可らざるに至るものなり。
今日世の有様を見るに、或は傲慢不遜にして人に厭はるゝ者あり。或は人に勝つことを欲して人に厭はるゝ者あり。或は人に多(た)を求て人に厭はるゝ者あり。或は人を誹謗して人に厭はるゝ者あり。何れも皆人に対して比較する所を失ひ、己が高尚なる心事(しんじ志)を以て標的(へうてき基準)と為し、之に照らすに他の働を以てして、其際に恍惚(くわうこつ)たる想像を造り、以て人に厭はるゝの端を開き、遂に自から人を避けて独歩孤立の苦界(くがい)に陥る者なり。
試に告ぐ、後進の少年輩、人の仕事を見て心に不満足なりと思はゞ自から其事を執て之を試む可し。人の商売を見て拙なりと思はゞ自から其商売に当て之を試む可し。隣家の世帯を見て不取締と思はゞ自から之を自家に試む可し。人の著書を評せんと欲せば自から筆を執て書を著はす可し。学者を評せんと欲せば学者たる可し。医者を評せんと欲せば医者たる可し。至大の事より至細の事に至るまで、他人の働に喙(くちばし)を入れんと欲せば試に身を其働の地位に置て躬(み)自から顧みざる可らず。或は職業の全く相異なるものあらば、よく其働の難易軽重を計り、異類の仕事にても唯働と働とを以て自他の比較を為さば大なる謬(あやまり)なかる可し。  
十七編 / 人望論
十人の見る所百人の指す所にて、何某(なにがし)は慥(たしか)なる人なり頼母しき人物なり、此始末を託しても必ず間違なからん、此仕事を任しても必ず成就することならんと、預(あらかじ)め其人柄を当てにして世上一般より望を掛(かけ)らるゝ人を称して人望を得る人物と云ふ。
凡そ人間世界に人望の大小軽重はあれども、荀(かりそめ)にも人に当てにせらるゝ人に非ざれば何の用にも立たぬものなり。其小なるを云へば、十銭の銭を持たせて町使(まちつかひ)に遣(や)る者も十銭丈(だ)けの人望ありて十銭丈けは人に当てにせらるゝ人物なり。
十銭より一円、一円より千円万円、遂には幾百万円の元金(もときん)を集めたる銀行の支配人と為り、又は一府一省の長官と為りて、啻(ただ)に金銭を預(あづか)るのみならず、人民の便不便を預り、其貧富を預かり、其栄辱をも預ることあるものなれば、斯る大任に当る者は必ず平生(へいぜい)より人望を得て人に当てにせらるゝ人に非ざれば、迚も事を為すことは叶ひ難し。
人を当てにせざるは其人を疑へばなり。人を疑へば際限もあらず。目付に目を付るが為に目付を置き、監察を監察するが為に監察を命じ、結局何の取締にも為らずして徒に人の気配(きはい気分)を損じたるの奇談は、古今に其例甚だ多し。
又三井大丸の品は正札にて大丈夫なりとて品柄(しながら品質)をも改めずして之を買ひ、馬琴の作なれば必ず面白しとて表題ばかりを聞て注文する者多し。故に三井大丸の店は益(ますます)繁昌し、馬琴の著書は益流行して、商売にも著述にも甚だ都合よきことあり。人望を得るの大切なること以て知る可し。
十六貫目の力量ある者へ十六貫目の物を負はせ、千円の身代ある者へ千円の金を貸す可しと云ふときは、人望も栄名(えいめい名誉)も無用に属し、唯実物を当てにして事を為す可き様なれども、世の中の人事は斯く簡易にして淡泊なるものに非ず。
十貫目の力量なき者も坐して数百万貫の物を動かす可し。千円の身代なき者も数十万の金を運用す可し。試に今富豪の聞えある商人の帳場に飛込み、一時に諸帳面の精算を為さば、出入差引して幾百幾千円の不足する者あらん。此不足は即ち身代の零点より以下の不足なるゆゑ、無一銭の乞食に劣ること幾百幾千なれども、世人の之を視ること乞食の如くせざるは何ぞや。他(た)なし、此商人に人望あればなり。
されば人望は固より力量に由て得べきものに非ず。又身代の富豪なるのみに由て得可きものにも非ず。唯其人の活溌なる才知の働と正直なる本心の徳義とを以て次第に積(つみ)て得べきものなり。
人望は智徳に属すること当然の道理にして、必ず然る可き筈なれども、天下古今の事実に於て或は其反対を見ること少なからず。藪医者が玄関を広大にして盛に流行し、売薬師が看版(看板)を金にして大に売弘め、山師の帳場に空虚なる金箱(かねばこ)を据ゑ、学者の書斎に読めぬ原書を飾り、人力車中に新聞紙を読て宅に帰て午睡(ごすい昼寝)を催す者あり。日曜日の午後に礼拝堂に泣て月曜日の朝に夫婦喧嘩する者あり。滔々(たうたう)たる天下、真偽雑駁(ざつぱく)、善悪混同、孰れを是とし孰れを非とす可きや。
甚しきに至ては人望の属するを見て本人の不智不徳を卜(ぼく判断)す可き者なきに非ず。是に於てか、稍(や)や見識高き士君子は世間に栄誉を求めず、或は之を浮世の虚名なりとして殊更に避る者あるも亦無理からぬことなり。士君子の心掛けに於て称(しよう賞)す可き一箇条と云ふ可し。
然りと雖ども、凡そ世の事物に就き其極度の一方のみを論ずれば弊害あらざるものなし。彼の士君子が世間の栄誉を求めざるは大に称す可きに似たれども、其これを求ると求めざるとを決するの前に、先づ栄誉の性質を詳にせざる可らず。
其栄誉なるもの果して虚名の極度にして、医者の玄関、売薬の看版(看板)の如くならば、固より之を遠ざけ之を避く可きは論を俟(ま)たずと雖ども、又一方より見れば社会の人事は悉皆虚を以て成るものに非ず。人の智徳は猶花樹の如く、其栄誉人望は猶花の如し。花樹を培養して花を開くに何ぞ殊更に之を避くることを為(せ)んや。
栄誉の性質を詳にせずして概して之を投棄せんとするは、花を払(はらひ)て樹木の所在を隠すが如し。之を隠して其効用を増すに非ず。恰も活物(かつぶつ)を死用するに異ならず。世間の為を謀(はかり)て不便利の大なるものと云ふ可し。
然(しから)ば則ち栄誉人望は之を望む可きもの歟。云く、然り、勉めて之を求めざる可らず。唯之を求むるに当て分に適すること緊要なるのみ。心身の働を以て世間の人望を収るは、米を計て人に渡すが如し。升取りの巧(たくみ)なる者は一斗の米を一斗三合に計り出し、其拙なる者は九升七合に計り込むことあり。余輩の所謂分に適するとは、計り出しもなく又計り込みもなく、正に一斗の米を一斗に計ることなり。
升取りには巧拙あるも、之に由て生ずる所の差は僅に内外の二、三分なれども、才徳の働を升取りするに至ては其差決して三分に止る可らず。巧なるは正味の二倍三倍にも計り出し、拙なるは半分にも計り込む者あらん。此計り出しの法外なる者は世間に法外なる妨(さまたげ)を為して固より悪む可きなれども、姑く之を擱き、今爰(ここ)には正味の働を計り込む人の為に少しく論ずる所あらんとす。
孔子の云く、君子は人の己を知らざるを憂ひず、人を知らざるを憂ふと。此教へは当時世間に流行する弊害を矯(た)めんとして述たる言ならんと雖ども、後生無気無力の腐儒は此言葉を真ともに受て、引込み思案にのみ心を凝(こ)らし、其悪弊漸く増長して遂には奇物変人、無言無情、笑ふことも知らず泣くことも知らざる木の切れの如き男を崇めて奥ゆかしき先生なぞと称するに至りしは、人間世界の一奇談なり。
今この陋(いや)しき習俗を脱して活溌なる境界に入り、多くの事物に接し博く世人に交り、人をも知り己をも知られ、一身に持前正味の働を逞うして自分の為にし兼て世の為にせんとするには、
第一言語を学ばざる可らず。文字に記して意を通ずるは固より有力なるものにして、文通又は著述等の心掛けも等閑(とうかん)にす可らざるは無論なれども、近く人に接して直(ただち)に我思ふ所を人に知らしむるには、言葉の外に有力なるものなし。
故に言葉は成る丈(た)け流暢にして活溌ならざる可らず。近来世上に演説会の設(まうけ)あり、此演説にて有益なる事柄を聞くは固より利益なれども、此外に言葉の流暢活溌を得るの利益は、演説者も聴聞者も共にする所なり。又今日不弁(ふべん訥弁)なる人の言を聞くに、其言葉の数甚だ少なくして如何にも不自由なるが如し。
譬へば学校の教師が訳書の講義なぞをするときに、円き水晶の玉とあれば分り切たる事と思ふゆゑ歟、少しも弁解を為さず、唯むつかしき顔をして子どもを睨み付け、円き水晶の玉と云ふ許りなれども、若し此教師が言葉に富(とみ)て云ひ舞(廻)しのよき人物にして、円きとは角の取れて団子の様なと云ふこと、水晶とは山から掘出す硝子の様な物で甲州なずから幾らも出ます、此水晶で拵(こしら)へたごろごろする団子の様な玉と解き聞かせたらば、婦人にも子供にも腹の底からよく分る可き筈なるに、用ひて不自由なき言葉を用ひずして不自由するは、必竟(畢竟)演説を学ばざるの罪なり。
或は書生が日本の言語は不便利にして文章も演説も出来ぬゆゑ、英語を使ひ英文を用るなぞと、取るにも足らぬ馬鹿を云ふ者あり。按ずるに此書生は日本に生れて未だ十分に日本語を用ひたることなき男ならん。国の言葉は、其国に事物の繁多(はんた)なる割合に従て次第に増加し、毫も不自由なき筈のものなり。何はさておき、今の日本人は今の日本語を巧に用ひて、弁舌の上達せんことを勉む可きなり。
第二顔色容貌を快くして、一見、直に人に厭はるゝこと無きを要す。肩を聳(そびや)かして諂(へつら)ひ笑ひ、巧言令色、太鼓持の媚(こび)を献ずるが如くするは固より厭ふ可しと雖ども、苦虫を噛潰して熊の胆(い)を啜(すす)りたるが如く、黙して誉められて笑て損をしたがるが如く、終歳(しゆうさい年中)胸痛(きようつう)を患(うれふ)るが如く、生涯父母の喪(も)に居(ゐ)るが如くなるも亦甚だ厭ふ可し。
顔色容貌の活溌愉快なるは人の徳義の一箇条にして、人間交際に於て最も大切なるものなり。人の顔色は猶(なほ)家の門戸の如し。広く人に交て客来(きやくらい)を自由にせんには、先づ門戸を開て入口を洒掃(さいさう掃除)し、兎に角に寄附(よりつ)きを好くすることこそ緊要なれ。然るに今、人に交らんとして顔色を和するに意を用ひざるのみならず、却て偽君子を学で殊更に渋き風を示すは、戸の入口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を安置するが如し。誰か之に近く者あらんや。
世界中に仏蘭西を文明の源と云ひ智識分布の中心と称するも、其由縁を尋れば、国民の挙動(きよどう振舞)常に活溌気軽にして言語容貌共に親しむ可く近(ちかづ)く可きの気風あるを以て源因の一箇条と為せり。
人或は云はん、言語容貌は人々の天性に存するものなれば勉て之を如何ともす可らず、之を論ずるも詰る所は無益に属するのみと。此言或は是なるが如くなれども、人智発育の理を考へなば其当らざるを知る可し。凡そ人心(こころ)の働、之を進めて進まざるものあることなし。其趣は人身(からだ)の手足を役(えき)して其筋(きん)を強くするに異ならず。されば言語容貌も人の心身の働なれば、之を放却(はうきやく放棄)して上達するの理ある可らず。
然るに古来日本国中の習慣に於て、此大切なる心身の働を捨てゝ顧る者なきは大なる心得違に非ずや。故に余輩の望む所は、改めて今日より言語容貌の学問と云ふには非ざれども、此働を人の徳義の一箇条として等閑にすることなく、常に心に留めて忘れざらんことを欲するのみ。
或人又云く、容貌を快くするとは表を飾ることなり。表を飾るを以て人間交際の要(えう目的)と為すときは、啻(ただ)に容貌顔色のみならず、衣服も飾り飲食も飾り、気に叶はぬ客をも招待して、身分不相応の馳走するなぞ、全く虚飾を以て人に交るの弊あらんと。
此言も亦一理あるが如くなれども、虚飾は交際の弊にして其本色(ほんしよく本質)に非ず。事物の弊害は動(やや)もすれば其本色に反対するもの多し。過ぎたるは猶及ばざるが如しとは、即ち弊害と本色と相反対するを評したる語なり。
譬へば食物の要は身体を養ふに在りと雖ども、之を過食すれば却て其栄養を害するが如し。栄養は食物の本色なり、過食は其弊害なり。弊害と本色を相反対するものと云ふ可し。されば人間交際の要も和して真率(しんそつ正直)なるに在るのみ、其虚飾に流るゝものは決して交際の本色に非ず。
凡そ世の中に夫婦親子より親しき者あらず。之を天下の至親(ししん親密)と称す。而して此至親の間を支配するは何物なるや、唯和して真率なる丹心(たんしん真心)あるのみ。表面の虚飾を却け又之を掃ひ之を却掃(きやくさう除去)し尽して始めて至親の存するものを見る可し。
然ば則ち交際の親睦は真率の中に存して虚飾と並び立つ可らざるものなり。余輩固より今の人民に向て、其交際親子夫婦の如くならんことを望むに非ざれども、唯其赴く可きの方向を示すのみ。今日俗間の言に人を評して、あの人は気軽な人と云ひ、気のおけぬ人と云ひ、遠慮なき人と云ひ、さつぱりした人と云ひ、男らしき人と云ひ、或は多言なれども程のよき人と云ひ、騒々しけれども悪(に)くからぬ人と云ひ、無言なれども親切らしき人と云ひ、可恐(こはい)やうなれども浅(あつ)さりした人と云ふが如きは、恰も家族交際の有様を表(あらは)し出して、和して真率なるを称したるものなり。
第三道同じからざれば相与(あひとも)に謀らずと、世人又この教を誤解して、学者は学者、医者は医者、少しく其業を異にすれば相近くことなし、同塾同窓の懇意にても塾を巣立ちしたる後に、一人が町人となり一人が役人となれば千里隔絶、呉越の観を為す者なきに非ず、甚しき無分別なり。
人に交らんとするには啻に旧友を忘れざるのみならず、兼て又新友を求めざる可らず。人類相接せざれば互に其意を尽すこと能はず、意を尽すこと能はざれば其人物を知るに由なし。
試に思へ、世間の士君子、一旦の偶然に人に遭ふて生涯の親友たる者あるに非ずや。十人に遭ふて一人の偶然に当たらば、二十人に接して二人の偶然を得べし。人を知り人に知らるゝの始源は多く此辺に在て存するものなり。
人望栄名なぞの話は姑く擱き、今日世間に知己朋友の多きは差向(さしむとりあへず)きの便利に非ずや。先年宮の渡し(名古屋)に同船したる人を、今日銀座の往来に見掛けて双方図らず便利を得ることあり。今年出入の八百屋が来年奥州街道の旅籠屋にて腹痛の介抱して呉れることもあらん。
人類多しと雖ども鬼にも非ず蛇にも非ず、殊更に我を害せんとする悪敵はなきものなり。恐れ憚る所なく、心事を丸出にして颯々(さつさあつさり)と応接す可し。故に交(まじはり)を広くするの要(えう要領)は此心事を成る丈け沢山にして、多芸多能一色に偏せず、様々の方向に由(より)て人に接するに在り。或は学問を以て接し、或は商売に由て交り、或は書画の友あり、或は碁将棋の相手あり、凡そ遊冶放蕩の悪事に非ざるより以上の事なれば、友を会(くわい出会ふ)するの方便たらざるものなし。
或は極めて芸能なき者ならば共に会食するもよし、茶を飲むもよし、尚下(くだ)りて筋骨の丈夫なる者は腕押し、枕引き、足角力も一席の興として交際の一助たる可し。腕押しと学問とは道同じからずして相与に謀る可らざるやうなれども、世界の土地は広く人間の交際は繁多にして、三、五尾の鮒が井中(せいちゆう)に日月を消するとは少しく趣を異にするものなり。人にして人を毛嫌ひする勿れ。  

付録 福沢全集緒言「学問のすゝめ」
学問のすゝめは、一より十七に至るまで十七偏の小冊子、何れも紙数(かみかず)十枚ばかりのものなれば、其発売頗(すこぶ)る多く、毎編凡そ二十万とするも、十七編合して三百四十万冊は国中に流布したる筈なり。書中の立言、往々新奇にして固より当時の人気に叶はず、上流社会の評論に於ても、漫語放言として擯斥(ひんせき)するもの多し。殊に明治六、七年の頃より、評論攻撃ますます甚だしく、東京の諸新聞紙に至るまでも、口調を揃へて筆鋒を差向け、日に其煩(わづらひ)に堪へず。
畢竟、世間の読者が、文章の一字一句を見て、全面の文意を玩味せず、記者も亦、数枚の小冊子に所思(しよし)を詳(つまびらか)にすること能はずして、双方共に堪へ難き次第なれども、毎人(まいじん)に向て語る可きにあらず、唯そのまゝに打捨て置く中に、明治七年の末に至りては、攻撃罵詈の頂上を極め、遠近より脅迫状の到来、友人の忠告等、今は殆んど身辺も危きほどの場合に迫りしかば、是れは捨置き難しと思ひ、乃(すなは)ち筆を執りて長々しく一文を草し、同年十一月七日、慶応義塾五九樓仙萬(ごくらうせんばん)の名を以て、朝野(てうや)新聞に寄書(きしよ)したるにぞ、物論漸く鎮まりて、爾来世間に攻撃の声を聞かず。
蓋し従前盛(さかん)に攻撃したる者も又攻撃せられたる者も、唯双方の情意相通ぜざるが為めに不平を感ずるのみ。
苟も其真面目を明にして相互に会心(ゑしん)するときは、人間世界に憎む可きものなく、怒る可きものもなきの事実を知るに足る可し。今その寄書の全文を記(き)すこと左(さ)の如し。
学問のすゝめの評
近来福沢氏所著の学問のすゝめを論駁するもの多く、而して其鋒を向くる所は其第六編と七編なるが如し。世の識者固より各其所見を述ぶるの権あり。
余輩敢て其駁者を駁し以て一世の議論を籠絡せんとするに非ざれとも、識者或は此書の通編を見ざるのみならず、其駁論を目的とする所の六七編をも通覧吟味せずして、唯書中の一章一句に就き遽に評を下すに似たるもの多し。是余輩が爰に一言を述て世に公布する所以なり。
学問のすゝめ第六編は、国憲の貴き由縁を論じて私裁の悪弊を咎め、国民の身分を以て政府の下に居るときは、生殺与奪の政権をば悉皆政府に任して、人民は此事に就き秋毫の権ある可らず、其趣意を拡て極度に至れば、仮令ひ我家に強盗の犯入することあるも妄に手を下すの理なしとまでに論じて、痛く私裁の宜しからざるを述べ、巻末に赤穂の義士並に政敵の暗殺等を出して其例を示したるなり。余輩の第六編を解すこと斯の如し。
第七編は巻首に云へる如く六編の補遺にて、其趣意は、人の了解に便ならしめんがため人民の身分を主客の両様に分ち、客の身を以て論ずれば、苟も政府の憲法を妨ぐ可らず、既に彼を政府と定め此を人民と定め、明治の年号を奉じて政府の下に居る可しと約束したる上は、仮令ひ政法に不便利なることあるも其不便利を口実に設けて之を破るの理なしとて、専ら政府たるものゝ実威(実質的な権威)を主張し、又主人の身を以て論ずれば、政府の費用を払ふて銘々の保護を託したるものなれば、損徳共に之を人民に引受けざる可らず、政府の処置に不安心なることあらば深切に告げて遠慮することなく穏に之を論ず可しとて、日本の人民何れも皆この国を以て自家の思を為し、共に全国の独立を守らしめんとするの趣意なり。
巻の半に至て政府の変性を説き、政府若し其本分を忘れて暴政を行ふときは、人民の身分に於て如何す可きやと難題を設けて之に三条の答を付し、第一、節を屈して暴政に伏すれば天下後世にに悪例を遺し全国の衰弱を致す可きが故に、国を思ふの赤心あらん者は斯る不誠実を行ふ可らず、第二、然らば則ち腕力を以て其暴政に抗せん歟、内乱の師は禍の比す可きものなし、決して行ふ可らず、第三、人民の身として暴政府の下に立つには正理を守て身の痛苦を憚らずマルチルドムの事を為す可しとて厳に人民の暴挙を制し、腕力に依らずして道理を頼み、理を以て事物の順序を守らんとするの趣意なり。
此一段は亜国(米国)ウェーランド〈Wayland〉氏修身論第三百六十六葉の抄訳なれば、今原文の続きを訳し其意の足らざる所を補ふて之を示さん。同書第三百六十七葉の文に云く、英国にて第一世チャーレス〈Charles〉の世に、国民、政府の暴政に堪へず、物論蜂起して遂に内乱の戦争に及び、王位を廃して一時共和政治と為したれども、人民はこれがために自由を得たるに非ず、其共和政治も数年にして止み、第二世チャーレスを立るに及で、国政は益々専制を主張し、英人は恰も自由を求て自由を失ひ暴を行て暴政を買たる者の如し。
内乱の不良なること以て知る可し。第二世チャーレスの時代には、人民其気風を改め腕力に依頼せずして道理を唱へ、理のために身を失ふ者此々(しきりに)相続き、マルチルドムの功徳を以て今の英国に行はるゝ自由独立の基を開きたりと。
巻末は此マルチルドムの話なり。内乱の師とマルチルドムと比較して其得失如何ん。人間の行ひに於て忠義は貴ぶ可きものなれども、唯一命をさへ棄れば忠義なりとて一筋に之を慕ふの理なし。
忠僕が縊死も、其時の事情を考への外に置て唯其死の一事に就て之を見れば、忠義の死と云はざるを得ず。忠臣義士の死も死なり。権助の死も死なり。然ば即ち権助の死は人の手本とも為る可きもの乎。決して然らず。狷介(けんかいかたくな)の犬死のみ。其之を犬死とするは何ぞや。世の文明に毫も益することあらざればなり。
扨忠臣義士の談に亘り、古の歴史を見るに国のため人のためにとて身を殺したる者は甚だ多し。北条の亡びたるときに高時自殺して従死する者六千八百人とあり。高時は賊にても此従死したる者は北条家の忠臣と云はざるを得ず。其他武田上杉の合戦にも双方共に君の為めに身を殺したる者は挙て計る可らずと雖も、今日より之を論ずれば何のために死したるか。仮りに今日の日本にて甲越の戦争起ることあらば、其討死の士は之を徒死と云はざるを得ずとの趣意なり。
又外国の例を引て其意を足さん。在昔仏蘭西及び西班牙にて宗旨のために戦争を起し、君命を以て人を殺し、君命を重んじて身を殺したる者は幾千万の数を知る可らず。其人物の誠忠は実に天地に恥るなしと雖も、開明の今の欧州の眼を以て見れば宗旨論に死する者は之を犬死と云はざるを得ず。
右の如く忠臣義士の死を徒死と為し犬死とするは何ぞや。当時未開の世に当り人の目的とする所のもの各其一局に止て、一般の安全繁昌に眼を着するに至らざればなり。こは人の罪に非ず、時の勢なり。古に在ては忠死なり、今に在ては徒死なり。故に後世より之を観れば其志は慕ふ可くして其働は則(のつ)とる可からざる者なり。
朝野新聞第三百六十六号愛古堂主人の評論中に、「前略事柄に於て決して其目的ある可らず、此禁止の辞、解し難し」とあれども、時勢の沿革文明の前後を察すれば数百年の上に在て其人物に今の文明の目的あらずと云ふも万々差支あることなし。其目的あらざればとて之を古人の恥と云ふ可からず。
又今日に至ては文明の事物大に見る可きものありと雖も、これを以て今人の面目と為し、今人は古人に優るとて誇るの理なし。古人は古に在て古の事を為したる者なり。今人は今に在て今の事を為す者なり。共に之を人類の職分と云はざるを得ず。
楠公の事は「学問のすゝめ」中に其文字なしと雖も、世論の所見に次で之を論ぜん。公の誠忠義気は又喋々論ずるを俟たず。福沢氏は楠公と権助とを同一の人物なりと云たる乎。元弘正平(げんこうしやうへい南北朝時代)の際に公の外に権助あらば其功業に優劣なしと云ひたる乎。筆端に記せざるは勿論、言外にも其意味を見ず。
氏が立論の眼目は時勢の沿革、文明の前後にあるものなり。其忠臣義士と権助とを比したるは唯死の一事のみ。譬へば義士は正宗の刀の如く権助は錆たる包丁の如し。死の一事を以て論ずれば、正宗も包丁も共に其地金は鉄なれども、其働と品柄との軽重を論じて之を同時同処に置く時は、雲壌懸隔固より比較す可らず。啻に理に於て不都合のみならず、之を聞て先づ捧腹す可きに非ずや。苟も人心を具したる者なれば是等の弁別はある可し。
元弘正平の際に楠公が功業を立てたるは此宝刀を燿かしたる者にて、王室のために謀れば全国この燿光の外に見る可きものなし。然らば則ち公の貴き所は其死に非ずして其働に在るなり。其働きとは何事を指して云ふや。日本国の政権を復して王室に帰せんとしたる働なり。此時代に在ては公の挙動毫も間然す可きものなし。其分を盡したる者と云ふ可し。
然りと雖も爰に時勢の沿革を考へ、元弘正平年中と明治年中とを持出して、日本国人の常に務む可き働を論ずれば大に異なる所なかる可らず。元弘正平の際に王室政権を失ふと雖も、之を奪ひたる者は北条なり又足利なり。結局日本国内の事にて、然も血統を以て論ずれば北朝にも天子あり。往古より如何なる乱臣財子(賊子)にても直に天子の位を窺ふものなきは公も自ら信ずることならん。
然りといへども公は尚これを以て満足するものに非ず。飽くまで正統を争ふて其権柄を王室に復せんとし、力盡て死たるものにて、其一局の有様を想へば遺憾限なしと雖も、其政権は遂に去て外国人の手に移るに非ず、外に移らざるものは再び復するの期もある可ければ、公は当時失望の中にも自ら万分一の望をば遺したることならん。
故に明治年間に在る日本人の所憂を以て元弘正平の時勢を見れば尚忍ぶ可きものありて、楠公の任は今の日本人の責よりも軽しと云ふ可し。是亦時勢の沿革、文明の前後なり。思はざる可らず。目今(もくこん)の有様は実に我国開闢以来最も始めにして最も大なる困難に当りたる時勢なり。
抑も明治年間の日本人にて憂ふ可きものとは何ぞや。外国の交際即是れなり。今外交の有様を見るに、商売を以て之を論ずれば、外人は富て巧なり、日本人は貧にして拙なり。
裁判の権を以て論ずれば、動もすれば我邦人に曲を蒙る者多くして外人は法を遁るゝ者なきに非ず、学術も彼に学ばざるを得ず、財本も彼に借らざるを得ず、我は漸次に国を開て徐々に文明に赴かんとすれば、彼は自由貿易の旨を主張して一時に内地に入込まんとし、事々物々、彼は働を仕掛けて我は受け身となり、殆ど内外の平均を為す能はず。
此勢に由て次第に進み、内国の人民は依然として旧習を改ることなくば、仮令ひ外国と兵革の釁(きん戦争)を開かざるも、或は我国権の衰微なきを期す可らず。況や万一の事故あるに於てをや。之を思へば亦寒心す可きに非ずや。
此困難の時勢に当り日本国民の身分において、事あれば唯一命を抛つと云て其職分を終れりと為す可きや。余輩の所見は決して然らず。元弘正平の政権は尊氏に帰したれども、明治の日本には尊氏あるべからず。
今の勁敵は隠然として西洋諸国に在て存せり。本書第三編に云ふ所の大胆不敵なる外国人とは蓋し此事ならん。今の時に在て我国の政権若し去ることあらば、其権は王室を去るに非ずして日本国を去るなり。室を去るものは復するの期ありと雖ども、国を去るものは去て復た返る可らず。
印度の覆轍(ふくてつ)豈復た踏む可けんや。事の大小軽重に眼を着す可き也。此困難の時勢に当り楠公の所行学ぶ可きや。余輩の所見は決して然らず。公の志は慕ふ可し、其働は手本と為す可らず。前の譬にも云へる如く、楠公の働は猶正宗の刀の如し。刀剣の時代には固より此刀を以て最上の物と為す可しと雖ども、時代の変革に従へば宝刀も亦用を為す能はざるの勢に移るが故に、別の工夫を運らすことなかる可らず。即是れ変遷(変通)の道なり。
公の時代には外国の患(うれひ)なし。此患なければ之に応ずるの工夫も亦ある可らず。公の罪に非ず、決して之を咎む可らず。然るに今世の士君子、古の忠臣義士を慕ひ、其志を慕ふの余りに兼て其働をも学ぶ可きものゝ如く思ひ、古の働を以て今の時務(じむ時勢)に施し、毫も工夫を運らすことなくして其まゝに之を用ひんとする者あるが如し。
其趣を形容して云へば、小銃の行はるゝ時節に至て尚古風の槍剣を用ひんとするに異ならず。余輩の疑を生ずる所以なり。余輩の眼を以て楠公を察するに、公をして若し今日に在らしめなば、必ず全日本国の独立を以て一身に担当し、全国の人民をして各其権義を達せしめ、一般の安全繁昌を致して全体の国力を養ひ、其国力を以て王室の連綿を維持し、金甌無欠の国体をして益々其光を燿かし、世界万国と並立せんとて之を勉むることなる可し。
今の文明の大義とは即ち是なり。此大事業を成さんとするに豈唯一死を期するのみにて可ならんや。必ず千状万態の変通(へんつう臨機応変、融通無碍)なかる可らず。
仮に今日魯英(ロシア)の軍艦をして兵庫の港に侵入することあらしめなば、楠公は必ず湊川の一死を以て自ら快とする者に非ず。其処置は余輩の敢て測る可きに非ざれども、別に変通の策あること断じて知る可し。
結局死は肉体の働なり、匹夫(庶民)も溝瀆(こうとく)に経(くび)るゝことあり(「論語」憲問十八忠義の死)。変通は智慧の働なり。時勢の沿革事物の軽重を視るの力なり。楠公決して匹夫に非ず、今日に在らば必ず事の前後に注意し、元弘正平の事に傚はずして別に挙動もあり、別に死所もある可し。
概して云へば元弘正平の事は内なり、明治の事は外なり。古の事は小なり、今の事は大なり。是即ち公の働の元弘と明治とに於て異なる可き所以なり。故に楠公の人物を慕ふ者は仮に之を今の世に模写し出し、此英雄が明治年間に在て当(まさ)に為す可き働を想像して其働に則(のつと)らんことを勉む可し。
斯の如くして始めて公の心事を知る者と云ふ可し。元弘正平の楠公を見て、公は数百年の後今日に至ても尚同様の働を為す可き者と思ふは、未だ公の人物を盡さずして却て之を蔑視する者と云ふべし。公の為に謀て遺憾なきを得ず。
結局公の誠意は千万年も同一なりと雖も、其働は必ず同一なる可らず。楠公の楠公たる所以は唯この一事に在るのみ。
変通と云はゞ、血気の少年輩は遽に之を誤り認めて鄙怯(卑怯)なる遁辞などゝ思ふ者もあらんが、よく心を平にして考へざる可らず。
弘安年中に北条時宗が元使を斬たるは之を義挙と云て妨げなからん。されども此義挙は弘安に在て義挙なり。若し時宗をして明治年間に在らしめ、魯英の使節を斬る歟、又は明治の人が時宗の義挙を慕ふて其義に傚ふことあらば如何。之を狂挙と云はざるを得ず。
均しく外国の使節を斬ることなるに、古は之を以て義と為し今は之を以て狂と為すは何ぞや。時勢の沿革なり、文明の前後なり。都て時代と場所とを考への外に舎(お)くときは何事にても便ならざるはなし、何物にても不便利ならざるはなし、変通の道とは正に此辺にある者なり。
福沢氏が立論の趣意は右の如し。是に由て之を観れば、氏は楠公を知らざる者に非ず、之を知ること或は識者より詳(つまびらか)ならん。然り而して近日紛紜(ふんうん混乱)の論議を生ずる所以は、未だ互に其両端(りやうたん全体)を盡さずして論の極度(極論)を以て相接すれば也。
蓋し世の新聞投書家の如きは愛国の義気固より盛なる者と雖も、其外国交際の難きを視ること氏が如く切ならず、国の独立を謀ること氏が如く深からず、時勢の沿革を察すること氏が如く詳ならず、事物の軽重を量ること氏が如く明ならずして、遂に枝末近浅の争論に陥りたるものなり。
思ふに福沢氏は世論の喧(かまびす)しきを恐れずして、却て我日本国内の議論未だ高尚の域に進まずして其近浅なること此度の論駁の如きものあるを憂ふことならん。
世人又福沢氏を駁するに共和政治又は耶蘇教云々の論を以てする者あり。何ぞ夫れ惑へるの甚だしきや。氏が耶蘇教に心酔して共和政治を主張することは、果して何の書に記して誰に伝聞したるや。
福沢氏は世界中に行はるゝ政治の専制を好まずして民権を主張する者なり。其(その)これを主張するや私に非ず公然と此説を唱へり。
我日本国にも古来専制の流幣ありて人民の気力これが為に退縮(萎縮)し、外国の交際に堪ふ可らざるの恐れあるが故に、氏の素志は勉めて此弊を糺し、民権を主張して国力の偏重を防ぎ、約束を固くして政府の実威を張り、全国の力を養て外国に抗し、以て我独立を保たんとするに在るのみ。
都て事物を論ずるには先づ其物の区別を立てざる可らず。共和政治なり耶蘇教なり、民権なり専制なり何れも同一の物に非ず。氏は専制の暴政を嫌ふ者なり。是亦氏に限らず凡そ人類として之を好むものはなかる可し。何ぞ独り福沢の如き奇人にして暴政を悪むと云ふの理あらんや。
又宗教と政治とは全く別の物なり。宗教の事に就ても積年氏の持論あり、爰に贅(ぜい敷衍)せず(此論も世人の氏を視る所の心を以て聞かば必ず驚愕することあらん)。
又この専制と云ひ暴政と云ふものは必ず立君の政治に伴ひ、民権と云ひ自由と云ふものは必ず共和政治と並び行はるゝもの乎。果して何の書を読み誰の言を聞て此臆断を為すや。請ふ、試に之を弁ぜん。
専制は猶熱病の如く政治は猶人身の如し。人身には男女老幼の別あれども共に此熱病に罹る可し。政治にも立君共和等の別あれども共に専制の悪政を行ふ可し。唯立君の専制は一人の意に出で、共和の悪政は衆人の手に成るの別あるのみなれども、其専制の悪政を行ふの事実は異なることなし。
猶人身に男女老幼の別あれども熱病に罹るの実(じつ事実)は同一なるが如し。何様の臆度(おくたく)を以て事を断ずるも、熱病は必ず男子に限り専制は必ず立君の政治に限ると云ふの理なし。
仏国ギゾー氏の文明史に云へることあり。「立君の政は、人民の階級を墨守すること印度の如き国にも行はる可し、或は之に反して人民群居漠然として上下の別を知らざる国にも行はる可し、或は専制抑圧の世界にも行はる可し、或は真に開化自由の里にも行はる可し。
「君主は恰も一種珍奇の頭の如く、政治風俗は体の如し。同一の頭を以て異種の体に接す可し。君主は恰も一種珍奇の果実の如く、政治風俗は樹の如し。同一の果実よく異種の樹に登(みの)る可し」と。
右はあまり珍しき説にも非ず。少しく学問に志す者なれば是等の事は早く既に了解したる筈なるに、今日に至るまでも尚耶蘇教共和政治などの如き陳腐なる洋説を以て区々(くくくだらない)の疑念を抱くは、必竟(畢竟)掩はるゝ所ありて片眼以て物を視るの弊ならん。
其掩はるゝ所の次第を尋るに、人民同権は共和政治なり、共和政治は耶蘇教なり、耶蘇教は洋学なりと、己の臆度想像を以て事物を混同し、福沢は洋学者なるゆゑ其民権の説は必ず我嘗て想像する所の耶蘇共和ならんとて、一心一向に之を怒ることならん歟。
爰に鄙言(ひげん)を用ひて其惑を解かん。云く、酒屋の主人必ずしも酒客に非ず、餅屋の亭主必ずしも下戸に非ず、世人其門前を走て遽に其内を評する勿れ、其店を窺(うかがひ)て其主人を怒る勿れ。固より其怒心は其人の私(わたくし)に非ず、国を思ふの誠意なれども、所謂国を思ふの心ありて国を思ふの理を弁ぜざる者と云ふ可し。
明治七年十一月七日 慶応義塾五九樓仙萬記 記者評(ひやうして)曰(いはく)議論正確而(にして)巧緻(かうち)麻姑掻痒(まこさうやう痛快)  
 
近代女子袴の歴史

 

平安時代以来、一定階級以上の女性たちが着用してきた袴ですが、鎌倉時代以降衰退して、宮中以外で女子が袴をはくことは見られなくなりました。この女子の袴姿が復活するのは明治になってからです。
西欧文明の導入と共に、立って歩き椅子に座る生活が公式になってきますと、女子も外を歩くことが容易で、裾さばきを気にしない服装が必要になってきます。宮中では袿袴姿の袴を切袴にして、袿の裾をたくしあげた「袿袴道中着姿」が導入されました。一般の女性たちも、外出を必要とする職業にある当時のキャリアウーマンたちは、必然的に袴をはくようになります。
当初は女子も男の袴、仙台平などを着用していました。学制公布の明治4年の錦絵では、仙台平の袴を着用した女教師の錦絵が描かれています。学校の教室は机と椅子の生活なので、教師・生徒共に裾の乱れを気にするようになったため、文部省は女学校開設にあたり太政官布告で女教師・女生徒の袴着用を認めたのです。明治4年に官営富岡製糸場が開設されたとき、全国から集まった工女(後年の女工哀史時代の立場とは違い、国策である「殖産興業」をささえる地域指導者のたまごとして、士族の子女が多く参加しました)たちは男子の袴を着用していました。
しかし、女子が男の袴を着用するのはやはり奇異で、明治16年、文部省は女学校の服装に規制を定めて「習風ノ奇異浮華二走ルコトヲ戒ムルハ、教育上惣ニスヘカラサル儀二候」として、女子の男袴着用を禁止しました。
下田歌子という明治の女子教育界の巨星がいます。
安政元年岐阜県に生まれ、士族の娘ながら宮中女官となって明治天皇・昭憲皇太后の信任も篤く、明治18年、学習院女子部の前身である「華族女学校」開設時には幹事兼教授に任ぜられ、翌年校長谷干城入閣後、学監となり校長事務を代行しました。 現在の女袴は、下田歌子が創案したものと言われています。
その事情を紹介しているものとして、次のようなものがあります。
「明治事物起原」(石井研堂)
「女学生の袴の海老茶色なるは、華族女学校に創まり、校長下田歌子の案なりといふ。これより、女学生に「えび茶式部」の俗称あり」
「海老茶式部の母」(井上ひさし)
「明治十八年、いまの学習院女子部の前身である華族女学校が開校したとき、そこの学監だった彼女は、それまでの姿がとかく女子としての礼容を欠き、高貴な御方々の前ではなんとしても畏れ多いと考え、従来の緋袴と指貫とを折衷して新しく華族女学校専用の袴を考え出した」
正確なところは判りませんが、下田歌子が宮中女官の切り袴をもとに新たに作ったのが女袴のようです。
男子の袴と違って股のない、スカート状の行灯(あんどん)袴であるためトイレの便が良く、背中に腰板もなく優美であるのは宮中袴の流れです。こうして時代にマッチして優美、しかも実用性に優れた「装束の申し子」女袴が生まれたのです。裾を気にすることなく颯爽と歩くことが出来る袴姿は、新しい時代の女学生の若々しい姿を象徴するものとなったのです。
海老茶式部
現在でも学習院中・高に似せた制服が全国の私立学校で見受けられますが、身分制度の色が濃く残っていた明治時代ならばなおさらで、女学生の袴姿はまたたくまに普及しました。華族女学校の袴の色は海老茶。紫がかった暗赤色です。これは下田歌子が宮中袴の未婚者の色である「濃色(こきいろ)」をもとに発案したことは容易に想像されます。全国の女学校でもこれにならったため、女学生のことを紫式部になぞらえて「海老茶式部」と呼ぶこともありました。
明治37年の俗謡「松の声」(神長瞭月)
「勤め励めよ恋の道、今は昔紫の、式部は人に知られたる、女子の鑑と聞たるが、恋に違は無かりしと、紫ならぬ薄海老茶。年は移りて紫も、今は海老茶に変れども、兎角変らぬ恋の道。」
紫衛門
スタンダードであった海老茶に対して、独自の色彩を主張したのが跡見女学校です。
跡見花蹊は公家屋敷(姉小路邸)内で私塾を開いていましたが明治8年、跡見学校を開校しました。私塾時代も公家の子女を集めていましたし、当時のことですから生徒のほとんどは華族などの上流階級の子女でした。
華族女学校の女袴をいちはやく導入。しかし同じ色を潔しとしなかったのか、紫色の袴として東京市民の目を引き、海老茶式部に対して「紫衛門」とも呼ばれました。これは平安の歌人である赤染衛門になぞらえたものです。跡見女学校でも後年は紫を海老茶に変えています。
こうして女学生の活動的な衣服として認知され、ステータスを確保した女袴は、卒業生が社会に出るに従って、職業婦人たちにも愛用されました。当時は女性の職場は限られていましたが、女教師をはじめ女子判任官(公務員)など、知的な職業に従事する女性たちに愛用されたのです。
また小学校においても裕福な家庭の子女は、ステータスを示すものとして幼い頃から着用されました。
こうした袴の着用は、女性が社会とどのように係わるかの問題と密接に関係しているのでしょう。宮中に仕えることを平安の昔から「宮仕え」と言いましたが、近代では一般の組織で仕事をすることもそう表現することがあります。つまり女性がプロ フェッショナルとして社会と接するパブリックな「宮仕え服」として、袴姿が広く普及したと言えるのではないでしょうか。
明治から大正にかけては女性が女学校に学ぶことは少数派であり、女学生たちは非常に意識が高かったことでしょう。また職業婦人も極端に少なかった時代、彼女たちの矜持は現代のキャリアウーマンとは比べられないほど高かったことでしょう。ですから「宮仕え服」としての袴姿の流行は、単なるトレンディファッションというような形而下のものではなく、もっとメンタル、スピリット的なものではなかったかと思 います。今日、社会で活躍する女性たちに、この矜持の表れである袴姿をぜひ受け継いで欲しいと思います。
こうした女子の袴着用は、昭和初年頃まで続きます。関東大震災以降、昭和に入ってからは洋装が一般家庭にまで浸透し、女学校制服もセーラー服が普及したため、袴姿は急速に衰退しました。現在では女子大生の卒業式、小中学校の女教師が卒業式で着用するなど、ごく限られた用途で着用されるだけにとどまっています。その利便性と優美さを考えますと、これは本当にもったいないことだと思います。  
 
松浦武四郎の石碑

 

はじめに
筆者はかつて大阪府守口市内に所在する佐太天神宮の境内で「聖跡二十五拝第九番佐太天‥」と刻まれた石碑を見つけた。下半部は欠損しており、また長年の風雨により汚れ苔むしているために材質は分かり難かったが、関西の石造品に使われる御影石や和泉砂岩でないことは確かであった。珍しいものと直感して調べたところ、松浦武四郎の建てた石碑であることが判明した。それ以来、折にふれて彼の建碑に関する文献を探し、石碑をたずね歩いた。今回ある程度まとまったので、ここに報告するものである。
松浦武四郎の石碑と天神信仰
松浦武四郎は幕末に日本の北方を探検し、「北海道」の命名者として有名で、北方史研究では極めて重要な人物である。大阪府立弥生文化博物館では、平成16年春季特別展「弥生のころの北海道」の図録のなかで「北海道の名付け親」として紹介している 。
ここでは「国史大事典13」(吉川弘文館平成4年4月)より彼の経歴を略述する。
江戸時代後期の北方探検家。文政元年(1818)伊勢国一志郡の生まれ。幼名を竹四郎。天保四年(1833)から日本国中を遊歴、北方に関心を強め、弘化元年(1844)単身北行した。同二年から嘉永二年(1849)蝦夷地・クナシリ・エトロフ島を探検して「蝦夷日誌」などを著わし、安政二年(1855)幕府が蝦夷地を再直轄すると、蝦夷御用掛に起用され、同三年から同五年まで蝦夷地を探査して「竹四郎廻浦日記」「東西蝦夷山川地理取調日記」などを著わした。同六年江戸に帰って御雇を辞し、以後市井において蝦夷に関する多くの著書を刊行した。明治元年(1868)東京府付属、同二年開拓使判官に任用され、北海道の道名・国・郡名を選定したが、新政府のアイヌ政策に同調できず、翌年辞任し、以後全国遊歴と著述の日を送った。明治二十一年(1888)七十一歳で没した。
彼はこのように北方研究史上大きな功績を残しているのだが、彼の天神信仰について詳しく知る人は非常に少なかった。しかし近年彼への関心が高まって調査研究が進み、それについても徐々に知られるようになってきた。
彼は明治維新後に天神を篤く信仰し、西日本の天満宮二十五社選んで聖跡と定め、巡拝を念願した。そして明治17年(1884)から同20年(1887)にかけて、この二十五社を参拝して石碑を建てるとともに神鏡を奉納し、これに関連して「聖跡二十五霊社順拝双六」を作成した。 筆者は彼の石碑を探して、追って聖跡二十五社の巡拝を発願したのである。
松浦武四郎の石碑
松浦は天満宮25社に一番から二十五番までの番号を振り、そのすべてに石碑を建てた。彼は明治17年(1884)から同19年(1886)にかけて関西を遊歴し、同20年(1887)には九州・四国方面にまで旅行しているので、この時期に建碑されたものと考えられる。そして平成16年(2004)現在、その存在が確認できるものは14社である。
石碑は幅・奥が18cm前後、高さ100〜105cmの尖頭形角柱で、同一規格で製作されたものと思われる。尺貫法で六寸角、三尺半の石碑となる、
石材は黒に近い灰色を呈する安山岩系と黄白色に近い灰色を呈する凝灰岩系の二種類がある。これらは近世から近代にかけて江戸・東京で多く使われた伊豆半島産石材と思われる。伊豆石は硬軟二種に大別され、安山岩と凝灰岩質があるとされている[金子2001]。また碑文内容から製作時期が明治18年(1885)と判明するものがある(後述)。以上から石碑は、1885年頃に東京で六寸角、三尺半の同一規格で製作されて、各天満宮に持ち運ばれたものと推定できる。
現存する石碑が原位置のままであるかどうかは分からない。各天満宮はここ100年余の間に改修されたり災害に遭うなどによってかなりの改変を受けている。石碑自体が動かし易いものなので、ほとんどが原位置から移動していると見た方がいいであろう。
銘文については、典型例として第8番の道明寺天満宮例を示す。
このように石碑正面の最上部には「聖跡二十五拝」と番号、中央部には天満宮名と「寶前」、右端(向かって左端)には揮毫者名と一部に落款印が刻まれる。また側面には発起人である松浦武四郎の名前が刻まれるが、願主や資材主等の名前を併せて記されるものも一部にある。建碑は松浦が発起し、協賛者を募ったことが分かる。
京都における松浦の建碑
京都府下では下記の六社が聖跡と定められた。
第一番菅原院天満宮(京都市上京区)/第二番錦天満宮(京都市中京区)/第三番菅大臣天満宮(京都市下京区)/第四番吉祥院天満宮(京都市南区)/第五番長岡天満宮(長岡京市)/第二十五番北野天満宮(京都市上京区)
このうち菅原院、菅大臣、吉祥院の三天満宮の境内に石碑が遺存する。三碑とも完存である。菅原院は道真公生誕地の伝承を有するために一番になったようである。長岡は改修が繰り返し行なわれた結果、行方不明になったとのことであった。
大阪における松浦の建碑
大阪府下では二十五の聖跡のうち、下記の六社が定められた。
第八番道明寺天満宮(藤井寺市)/第九番佐太天神宮(守口市)/第十番大阪天満宮(大阪市北区)/第十一番露天神社(大阪市北区)/第十二番福島天満宮(大阪市福島区)/第二十四番上宮天満宮(高槻市)
このうち道明寺、佐太、上宮の三天満宮に石碑が遺存する。道明寺例と上宮例は完存であるが、佐太例では前述したように下半部が欠損している。大阪市内の各天満宮では、戦災や大火によって亡失となっている。なお露天神社は近松の曽根崎心中で有名なお初天神である。
奈良・兵庫における松浦の建碑
奈良県下では二社、兵庫県下では五社が聖跡と定められた。
第六番与喜天満宮(奈良県桜井市)/第七番威徳天満宮(奈良県吉野町)/第十三番長洲天満宮(兵庫県尼崎市)/第十四番網敷天満宮(神戸市須磨区)/第十五番休天神社(兵庫県明石市)/第十六番曽根天満宮(兵庫県高砂市)/第十七番大塩天満宮(兵庫県姫路市)
このうち与喜、威徳、休、曽根の四天満宮に石碑が遺存する。いずれも完存である。曽根例には「岡本迪七十五歳」という銘文があり、1811年生まれから計算して石碑の製作が明治18年(1885)であったことが分かる。網敷例は平成7年(1995)まで存在していたが、阪神大震災の際に行方不明となった。郷土史家の真野修によって記録されていたのが幸いで[真野1996]、現在では境内に松浦の説明板が建てられている。長洲は戦災・震災に遭い亡失となっている。
四国・中国・九州における松浦の建碑
香川県下で一社、広島県下で二社、山口県下で一社、福岡県下で二社が聖跡と定められた。
第十八番滝宮天満宮(香川県綾南町)/第十九番御袖天満宮(広島県尾道市)/第二十番厳島神社摂社天神社(広島県宮島町)/第二十一番防府天満宮(山口県防府市)/第二十二番網場天満宮(福岡県福岡市)/第二十三番太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
このうち御袖、厳島、防府、太宰府の四天満宮で石碑が遺存する。太宰府例は長年亡失していたが、昭和60年(1985)に実施された境内での遺跡発掘調査の際に出土し、報告書に記録された[小西1988]。拓本が掲載されており、本稿でも利用した。中央部分が欠損しているが、他の三例は完存である。この厳島例は現在接近できず、詳細は不明。[宮島町1993]に記録があるが、揮毫者がないなど内容は疑問である。滝宮例は材質が他と違って周辺の石造物に使われる花崗岩であり、角柱ではなく方形柱、碑文内容も他とかなり違うことから、松浦の建碑ではなく地元による再建碑と思われる。
石碑に刻む協賛者名
石碑は松浦が発起し、協賛者を募って建てられた。石碑には前述のように発起人である松浦武四郎だけでなく、建碑に協賛した揮毫者、願主、資材主の個人名が記されている。彼らは松浦の友人・知人の政治家や学者、文化人、商人たちで、現在の歴史辞典にも名を残す著名人が多い。松浦の晩年の交友関係を知る上で貴重な資料となる。協賛者の経歴や生没年について、次のように表としてまとめた。
松浦の奉納した鏡
松浦は聖跡二十五社すべてに石碑とともに鏡を奉納した。奉納は石碑と同時期と思われる。これまで神鏡として保管されてきたので公開されているものはなく、直接見ることは難しい。
[加美山2001]の写真より、典型例として第1番菅原院の奉納鏡の背面銘文を示すと、聖跡第一番/菅元院天満宮/願主松浦武四郎 である。他も同様で同様で「聖跡番号/天満宮名/願主名」が記される。
この鏡背面の拓本25枚が集められて掛軸として製作され、現在松浦の子孫が所蔵しておられる。加美山はこれに基づき銘文を集成し、発表している。本稿では前述の天満宮一覧表にその成果を利用した。
なお25面の鏡の遺存状況は、真野によると10面確認(文献含む)、加美山によると14面現存であるが、重複を除外すると16面となる。写真が公表されているものは、菅原院、道明寺、佐太、大阪、網敷、曽根、北野の七天満宮である[真野1996、加美山2001、網敷天満宮説明板]。このうち佐太例は日本画家で著名な河鍋暁斎のデザインによるものとされており、美術的価値が高いと考えられる。
松浦の製作した双六
松浦は自ら定めた聖跡二十五社の双六を製作した。これは「聖跡二十五霊社順拝雙六松浦武四郎造古梅居士題」と題するもので、真野の所論において公表されている[真野1996]。題名の揮毫者である「古梅居士」は、建碑の協賛者の一人である巌谷一六が「古梅」という字を有しているので、彼であると思われる。なお製作年代について真野は明治17年(1884)としているが、加美山は明治19年(1886)としている。
双六は木版一枚刷りで、フリダシの第1番菅原院天神からアガリの北野天満宮までと番外の天満宮七社を含めて32コマである。そのうち27コマに道真ゆかりの場面を描く絵画が挿入される。双六の番号と天満宮は、石碑や奉納鏡のそれと一致する。
番外七社のうち、全国天神社一覧表などから所在が確認できるものは次の四社である。
大和國菅原社(菅原神社奈良県奈良市)/北野天神(網敷天神社大阪市北区)/きぬかけ乃社(衣掛天神社福岡県太宰府市)/榎寺(榎社福岡県太宰府市)
他の山崎休石天神社、吉野宮瀧、天拝山の三社は不詳である。
まとめ
北海道の名付け親として有名な松浦武四郎は明治維新後に天神信仰を深め、西日本に所在する二十五の天満宮を選んで聖跡と定めて鏡とともに石碑を奉納した。石碑は十四社に現存し、そのうち十三社では今なお境内に建ち、いつでも見ることができる。
二十五例のうち約120年の間に亡失したのは十一例となるから、亡失率44%と計算される。このなかに最近の阪神大震災によるものが一例(網敷)ある。しかし長年亡失していたものが遺跡発掘調査の際に出土して現存となった例(太宰府)もあるので、他の亡失例も含めて今後の神社周辺の発掘や土木工事に期待したいところである。
筆者は松浦武四郎翁の遺徳を偲び、彼の石碑をたずねて聖跡二十五社の参拝を発願した。しかし第22番網場天満宮だけは未だ参拝できておらず、また第23番太宰府天満宮の石碑は未見である。大願成就には至っていないが、本稿が松浦の晩年の天神信仰についてある程度明らかにできたものと考える。
(参考文献)
・小西信二「「宝庫」下より出土の石柱考察」(太宰府天満宮「太宰府天満宮―太宰府天満宮境内地発掘調査報告書第一集」1988年)
・宮島町「宮島町史資料編・石造物」1993年
・真野修「失われた松浦武四郎の石碑」(神戸史学会「歴史と神戸」194号1996年2月)
・真野修「曽根天満宮と松浦武四郎」(曽根天満宮社報「神麓」24号1997年7月)
・加美山史子「松浦武四郎の天満宮二十五霊社奉納と河鍋暁斎」(河鍋暁斎記念美術館「暁斎」72号2001年1月)
・金子浩之「伊豆石丁場」(柏書房「しらべる江戸時代」2001年10月)
・吉村健「北海道の「名付け親」」(大阪府立弥生文化博物館「弥生のころの北海道」2004年4月)
・須磨網敷天満宮「北海道の名付け親」(境内に建てられた説明板)
経歴
1818年(文化15年)-1888年 江戸時代、幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家である。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)の郷士・松浦桂介の四男。山本亡羊に本草学を学んだ。早くから諸国をめぐっており、1838年には平戸で僧となり文桂と名乗った。1844年に還俗し蝦夷地探検に出発。その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。1855年に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治に入った1869年には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。1870年に開拓使を批判して職を辞してからは余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。
晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。遺骨は、武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に1889年に建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる。  
 
内藤湖南先生の真蹟 / 高麗太祖顯陵詩について

 

内藤湖南先生の厖大なる全集14巻(筑摩書房刊)には収録されていない真蹟が、韓国の延世大学校の名誉教授、西餘閔泳珪博士(87歳)の珍蔵により、韓国の地に伝存されている機縁があった。七言四句の漢詩である。すなわち、左記の漢詩である。

統一肇基功絶倫裔孫猶自薦繁蘋松満山護幽宅刻石依稀十二神
満山松誤倒
高麗太祖顯陵
湖南査客虎□
右真蹟の漢詩を和訳してみることにする。詩義不会からくる言葉の足りぬのは致し方がない。
訳一
天下一統の基礎を築きあげた太祖の功(いさお)は絶倫だ。遠孫湖南は今、粗末な供養の誠を捧げる。もりあげられた山いっぱいの若い松と(ひさぎ)は、しっかりと陵墓を守ってござる。石に刻した十二神將が在りし日の幕僚そっくりだ。満山と松を誤って倒置した。高麗太祖顯陵を詠う。湖南査客虎□
訳二
(高麗の太祖は)国を統一し、(平安なる)治世の基(もと)いを固められた。その功績は比類ないものである。(それゆえ)子孫たちは、なお自ら供物を(その陵墓に)捧げるのである。松や(ひさぎ)は(その陵墓のある)山に満ち、(太祖の)死後の住まいを護っている。太祖を守護する十二神がかすかに浮かんでいる。満山と松を誤って倒置した。高麗太祖の顯陵を詠う。湖南査客虎(次郎)□
顯陵詩の作詩年代は記録されていない。しかし関係のあろうと思われる、二通のハガキ内容(「内藤湖南全集」)から明治39年(1906)湖南41歳の作であろうと思われる。すなわち、同年8月17日、韓国の平壌臨江ホテルにて、大阪東区内淡路町二丁目三番地、内藤郁子宛のハガキと、8月26日「関野君の見のこし物」を紹介しよう。
(1)郁子夫人宛のハガキ、「昨十六日京城出發開城にて一泊高麗の都を觀今十七日當地着明日は滞在明後日出發の豫定にて同日は清國の安東縣に着可申候奉天着は廿一日になるべく候……。
(2)関野君の見のこし物、八月二十六日奉天総領事館内より、京都市室町中立賣上ル富岡謙三宛、高麗太顯陵十二■■象の一、海東金石苑所載新羅角干の墓と比較すべし寫眞も取て置き申候」。という絵ハガキは湖南先生の自筆である。その絵ハガキの絵は「海東金石苑」(観古閣叢刻第十五輯)の第九番目の申(さる)象とよく似ている。
右二つのハガキの内容から湖南先生の41歳の際、高麗太祖の顯陵を巡礼した時の漢詩であろうと推察されるのである。右の漢詩を書き終えて後に「満山松誤倒」と六字の夾註されたことは、修正された方が漢詩作法に如何に洗練されたかを、または湖南先生の詩眼の世界を垣間見ることができる。勿論湖南先生は13歳の時漢詩をつくり、16歳の時には、明治天皇東北御巡幸を歓迎する「奉賀聖駕東巡」の詩を残されている。漢文を読み漢詩をつくる訓練は、近代学校制度が生まれるまでは東洋人の教養の基本であったことは周知のことである。
湖南先生の全集14巻の「寶左文」「玉石雜陳」「湖南文存」は漢文である。鵜呑みであるが座右に置き折に触れて読み返してみては緊張せずにはいられない。「内藤史学は、エッフェル塔のように、それ自身のがっちりした骨組みで大空を凌いで立っている(宮崎市定)」といわれた通りである。その骨組みは他ならぬ漢学であったと私はおもうのである。しかし湖南先生の学域は固より広大で、漢文、漢詩はその一部に過ぎないのは言うまでもないことである。蛇足承知で新出語句に解説を加えることにする。
高麗(918-1392)は34代継承した王国である。史書に高句麗(BC37-AD668)は韓国の古代三国中の一であるにも拘らずコーマというふりがなで高麗と混同する例をみるが修正区別すべきである。一方高麗を建国した王建(877-943)は在位918-943年間である。太祖とは廟号、顯陵は陵号、謚号は神聖という。顯陵の所在地は、松都開域市中西面鵠嶺里、神恵王后と合附(一緒にほうむる)。蘋、はそまつな供物、祭需のこと。新羅角干墓、新羅角干(伊伐・舒発翰)は新羅十七官等の首位、金信将軍は百済を合併後に大角干、更に高句麗を合併してから太角干に昇進するようになり、角干の上に二個の官等が更に加わることとなる(三国史記雑志第七職官)。角干墓は「海東金石苑」清劉喜海撰、観古閣叢刻第十五輯とその影印本(亜細亜文化社刊)により金信将軍墓と思われる。
内藤(1866-1934)先生の名は虎次郎、字は炳郷、号を湖南とされた。先生の虎次郎という名は生まれ年が丙寅でひのえとらからつけられたといわれることもあったが、実はそうでないようである。月報12号によると、先生の誕生に当たり、父君調一翁の「松陰吉田寅次郎の人となりを崇拝するあまり、寅次郎と命名した」との手記を思い出した(高橋克三氏)。同じ月報に、「父の思い出」という題で、山元祥子(さがこ)氏の文章を読み、成程先生は先見の明があったと思われることがあった。祥子氏は子宝に恵まれた先生の四男四女の末子であられる。先生の還暦パーティのとき、五歳であって、現在は唯一人の御令女である。すなわち、次のような内容である。
…しかしこの楽しい庭の散歩の時に言った父の言葉で、私が今日まで誰にも話さなかったことがある。いくら冗談とはいえ、あまり傲慢なようで気がひけるのだ。けれども又これは如何にも自負心の強い父の一面を表しているようで省くわけにはいかない。父はこう言った。「何時かこの蔵(書庫)に人々はお灯明をあげて学問が上達するようにとおがむだろう」(1972/9/28)。
「お灯明をあげて学問が上達するようにとおがむだろう」という宣言は形は変わったが、現代のお灯明のように思われる出来事があった。それは1999年6月30日付けの産経新聞の記事であり、これを読み心からの拍手を送った。「内藤湖南の文庫目録関西大CD-ROM化」という見出しで、「東洋史大家の業績に光当てる」、ということである。記事によると、
関西大学総合図書館(大阪府吹田市)は29日までに、東洋史学の大家、内藤湖南が収集した書籍からなる「内藤文庫」の目録をCD-ROM化した。国宝級の中国の古書を中心に計4257点を紹介、うち26点はフルカラーで画像化した。七百部を製作、他大学の人文系学部や公共図書館などに配布、研究に役立ててもらう。バブル後の混迷の時代にあって、実証的で自由な湖南の学風に、再び光を当てる機会ともなりそうだ。
湖南は秋田県出身。秋田師範を卒業後、大阪朝日新聞などの記者を経て明治40年に42歳で京大講師となった。歴史を教訓的、倫理的に見るのではなく、事実として実証的に研究する東洋史学を確立した。主著に「日本文化史研究」「先哲の学問」がある。「先生の業績は東洋学の専門家の独占にゆだぬべきものではなく、政治、思想、芸術など文化のあらゆる領域において独創と努力の尊さを知る人のこぞって読むべき国民的遺産」(故桑原武夫氏)その縦横無尽の学風を高く評価、影響を受けた学者は数知れない。関西大では昭和58年、湖南の蔵書約三万冊と、湖南が晩年を過ごした京都府加茂町の「恭仁(くに)山荘」を、内藤家から譲り受けた。蔵書の中には、中国・清代の考証学者、章学誠の史論「文史通義」の稿本(手書き本)や江戸時代のサンスクリット学者、慈雲による経典翻訳書「梵学津梁」の自筆稿本など、学術的に極めて価値の高い書籍をはじめ、親交のあった森 鴎外が、全文手書きして湖南に贈った江戸時代の書誌学者、渋江抽斎の「語(えいご)」など珍本もある。図書館で整理、目録を作成するとともに、学内の学生、教員だけでなく学外の研究者に閲覧を認め「内藤文庫」の名は広く知られることとなった。今回、CD-ROMに収録されたのは漢籍3706点、国書313点、そのほか外国書238点の計4257点(21430冊)で、文庫の三分の二に上る。文庫資料の中には、湖南の蔵書印や自筆の書き入れが見られる。これらは湖南の学問を知るうえで貴重な情報源で、どんな書き入れをしているか調べることができるよう「湖南書入」というキーワードで検索できるようにしたのが特徴。漢籍の目録をCD-ROM化したのは本邦初。一般に使用されない漢字をデータ化するのに手間がかかり、製作に約3年を要したという。布川香織・学術資料課主事は「これまで内藤文庫とは縁のなかった人にも、興味を持ってもらうきっかけとなれば」と話している。
産経新聞の内容は以上の通りである。すなわち、湖南先生は、関西大学のCD-ROMによって復活されたのである。それは現代科学技術による、灯明の行列に外ならぬ出来事なのだ。しかしその内藤文庫にも、高麗太祖の顯陵詩は収録されていないという。
私が最初、湖南先生のご尊名を拝したのは、大正10年3月、京都帝国大学教授内藤虎次郎博士の手によって写真複製され「景印正徳本、三国遺事」(コロタイプ版)として発刊された本がご縁であった。それは故趙明基教授の個人所蔵品で、誰にも秘密で珍蔵されておられることと、絶対誰にも見せてはならないという注意を受けてからの借覧であった。まるで秘密でも漏らされるように、内藤先生は国学者爲堂鄭寅譜先生、六堂崔南善先生も、高く評価する人物であるということを教えて下さった。あのときの思い出はいまも生々しい。
そのきっかけとなったのは、たしか坪井九馬三博士刊行の「三国遺事」に、避(ひ)諱(き)の問題である重要な個所を缺点として暴きだしたことについて疑問をもち質問したところ、削除しない方もおると言われた。それではその方は誰ですかとしつこくねだりつき、趙先生の自宅にご一緒して頂き拝覧させて頂いた。褐色の風呂敷で包蔵されていた。先ず目についたのは、湖南先生の 「三国遺事」の漢文でなる序文であった。七百字程の短い文章であった。しかしあの問題の避諱の個所は生かされていた。筆写したい希望を申し上げたところ、先生は勉強するがよいと渡して下さった。あのときから 「三国遺事」の一字一句が新しい興味を呼びおこしてくれた。師の恩の尊いことが心の内に知らされる。
当時は、史学界で避諱が問題にされなかった時期である。すなわち、葛城末治の金石文の避諱と缺筆(朝鮮金石攷1935年)と陳新会の「史諱挙例」が学会に問題を投げかけたことからも分かるように、湖南先生の判断と史観は先駆的であったと思われる。
避諱は中国の周(BC1134-250)から始まり「秦」から「宋」にかけた期間に盛行したが「元」代には施行されることがなかった。その後「明」代の泰昌(1620)以後更に厳しく実施された。文章の叙述において致しかたなく当代または先代の君主及び尊貴者の名前と同一の文字または同一音の字に該当する字が避けられない場合、その内容を避ける方法であった。その避諱法は韓国の古代に自生的な制度ではなくて、中国の風習が輸入されたものであった。したがって韓国で独自的に施行されたというよりは、中国との間に政治的状況と一致して施行され、また消滅された。その結果統一新羅の初期から高麗末期の時期にまで、国内の諸王との避諱よりも、中国歴代王朝が施行した避諱法の影響を受けている。故に避諱法は当時国内の政治状況とこれによる中国との外交的な関係等を明す場合における補助資料的側面もある。故に避諱法は歴史上の人物名称に関して、異字の表記例がある。先ず留意すべきことは避諱の問題である、帝王または尊長の名前に使用された文字との抵触である。これを無視しては変改以前の人名、官名、地名、書名、年号等の識別ができない。これは古代韓国と中国の間に不可欠なる問題であったことである。
日本の古雅なる京の都で、湖南先生の遺業について先生の全書を拝覧する機会に恵まれたことは私にとっては実に幸運である。まるで雲の上の存在であった湖南先生の体臭を感じる思いである。私が先生のことを学行一致の実践家であったと仰ぎみるのは、特に1911年の辛亥革命の時中国から日本に亡命する文化人は湖南先生を頼り、京都にやって来るが、その数多い中国人のなかで王国維(1877-1927)のことからである。王国維の名著 「宋元戯曲考」は先生のご厚情によるものといわれる。その王国維が本国に帰り、1927年旧暦5月2日「五十の年、ただ一死を欠くのみ。この世変を経て、義として再び辱(じょく)しめらるること無し」という遺書を残し、頤(い)和(わ)園(えん)の昆明湖に身を投じるという衝撃的な最期を遂げた。汨(ベキ)羅(ラ)に身を投じて死んだ屈原(BC343-BC277)、楚辞の代表的作家で「離騒」・「漁父」などをつくり、のちの文学に大きな影響を与えた人を想起させる。この消息が京都に伝わり、湖南先生は、五条坡袋中庵にて王静安(王国維の号)先生の追悼会を開く。参加者は狩野直喜鈴木虎雄神田喜一郎等の諸氏であったという。実に東洋の君子之交の文化人たちならではの法会であったことと思われる。王国維の死後、少なからざる噂が流れた、そのとき狩野直喜は次の如く言われたという。「若し国史の本伝に上(の)ぼすとせば正しく儒林、忠義の雨伝に加ふるべき人である」と。実に東洋のためにも文化のためにも残念なことであったと思われる。当時は現在のように日中友好とかいう時代ではなかった。暴支膺懲(ようちょう)の嵐のなかで暗く長い日中戦争の間にも湖南先生の君子之交は守りぬかれた。京の都の文化人達の高い文化水準に頭がさがる。湖南先生には王国維の死が他国の他人の死ではなかっただろうと思われる。義を生命よりも重んじる中国の文化人達が湖南先生を頼り日本国にやって来たのは、他ならぬ湖南先生の人格を深く信じたことからであったと私は思う。
私が日文研のお世話になることが確定した去年の暮である。西餘先生を座長に仰ぎ、教授、弁護士、言論人等少数のメンバーが月三回の学習会をしていたが、この日は送別会ということで全員が集まった。何時もの通り西餘先生の自宅と距離がほど近いソウル麻布区の第一ホテルの喫茶店であった。皆が着席すると西餘先生は稀にみる喜色満面でのお姿で、お芽出度う、日文研は京都でしたね、記念にこれを持って行きなさいと、渡して下さったのが湖南先生の真蹟高麗太祖の顯陵詩の掛け軸であった。その質感が明るい電灯に照明を受けて輝きいまにも毛筆の墨が匂ってきそうなほどに生々しかった。湖南先生の落款がまぶしい程鮮明であった、珍蔵された西餘先生の所蔵者印、行半山人印が捺してある、縦42cm-横22cmの小品であった。
所蔵者行半山人という自号は、先生の謙遜深い人格の表現だと思われる。しかし西餘先生は、延世大学校文科大学長、同大図書館長、韓国図書館協会々長、同大東方研究所々長、同大国学研究院々長を歴任、大韓民国学術院会員、特に最近80老令にも拘らず、盛唐の詩仙といわる李伯(701-762)の詩題で有名な蜀道難の險難の道路を三度も巡礼して確認された、 「四川講堂」という著述は名著といわれる。李商隠(813-858)の四証堂碑と、新羅無相の静衆寺趾等の確認は初期禅宗史の研究に欠かせぬ力作であるといわれる。「宝林伝」(偽書)を金科玉条として信じていた南岳―馬祖に継がれる系譜は北宋以後の記録に依るのに対して、智―處寂―無相―馬祖―西堂―道義の系譜は四証堂碑等唐代の記録に土台を置くことを、文献と遺蹟を通じて確認したのは四川省探査チームの蜀道長征による成果であった。
国破山河の荒城、高麗の旧都にて高麗太祖の顯陵の詩を詠う湖南先生の心境は、湖南先生以外の人は知るすべはないであろうが、私にはその詩の餘韻が荒城に春の空気のように温かい気持ちを誘い掛けてくる感じがする。湖南先生のことを山脈とかエッフェル塔などになぞらえる。もっともなことであるが私には富士山頂のような存在であられたと思われる。町の流行歌の一節に、「富士のたかねに降る雪も、京都ポント町に降る雪も、雪に変わりはないけれど、とけて流れば皆同じ」と。しかし富士のたかねの雪はとけて流れることなしに、一年中とけないことから、いわく萬年雪という。萬年雪を踏みご来光を拝む心境の経験のない方には想像もできないくらいすがすがしい、神秘の世界そのものであった。私は1965年7月28日、日本国土最高地点富士頂上にて、ご来光を拝み拙作の漢詩を得たことがあった。漢詩の形式をぬきにした写生的なものである。
噴火口呑萬年雪 脚下滄溟劫外寒 雲自捲舒近河漢 扶桑独露第一峰
(噴火口萬年雪を飲みこみ 脚下の海原月光のごとく冷たく 雲は自ら捲きひらき天川近し 扶桑に独露第一峰なり)
富士山は縁起が良いといわれる。すなわち、標高をいうとき「ミナナロ」(皆成ろ)という。3776mのことである。誰れかさまの富士山ではなく、みんなの富士山であるからである。大変僣越と思いながらも湖南先生を富士山になぞらえるのは、適当なくらべようがないから日本一の山を思い出したまでである。
明治・大正・昭和の時代のことは戦争が中心的になりがちである。しかし明治・大正・昭和の苦しい長い間を「君子之交」の実践に生きぬいた湖南先生のことは流行歌手にも及ばず、話題になることが稀であったが幸甚にも関西大学総合図書館で湖南先生の文庫目録をCD-ROM化したことによって光が当たることになった。日文研ではいろいろな共同研究・個人研究が成果をおさめている。実に「友ありて遠方より来たりたのしからずや」の理想が実践されている。そのなかに湖南先生の広くて深い業績についても共同研究の課題になりうると思うのである。それは日本人のアイデンティティーにつながることと思う。
湖南先生の真蹟高麗太祖の顯陵詩についてご紹介させて頂いた。不慣れな日本語で失礼を重ねた。

出島 / サダキチ・ハルトマンと倉場富三郎

 

第一章 サダキチ・ハルトマンと倉場富三郎の背景
憧憬とは、少し距離をおいてみると気づく記憶から造られる、組み立てられた真実の状態である。つまり遠く離れた生まれ故郷や過ぎ去った時代の記憶の破片を今の暮しの中に取り入れて、それらを重ねあわせてアイデンティティーを作り上げるときに、基となるものである。少なくとも私はそのように考えている。もっと簡単に言うと、「憧憬の旅」は精神に戻る旅である。ここでは、サダキチと富三郎という二人の人物がたどった生まれ故郷への憧憬の旅について述べたい。私の場合は留学生となったので、日本でその思い出を作ることにより生まれ故郷や記憶の組み立てを行なった。
したがって憧憬という概念は遺伝や血のつながりといった事実からではなく、我々それぞれが人生の中で得た真実から作り上げるものである。私もここで魅惑的なセイレンの歌のように自分自身のことにも少し触れながら、長崎で生を受けた二人の男性について述べたいと思う。彼らが作り上げたものや、どのように人生を生きたかは、彼らが誰であるかという核心にふれるものである。
二人が後世に残した作品や功績は、その中に埋め込まれたアイデンティティーの遺伝的記号を切り離して語るには無理なほど、それぞれのアイデンティティーが関わりあっている。彼らは二人とも、日本人とヨーロッパ人との混血である。それぞれの親たちにとっては憧憬の旅の終着点で、二人は混血として生まれたのだ。そこに彼らと私との違いがある。二人は身近なところに外国というものを含んでいた。二人とも長崎の外国人居留地で、数年違いで生まれている。どちらもヨーロッパ人の商人と日本女性の愛人との間に生まれたが、父親同士は知り合いではなかったようだ。サダキチの父カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマン(一八四○―一九二九)はプロイセン人で、富三郎の父トーマス・ブレーク・グラバー(一八三八―一九一一)はスコットランドのアバディーン出身であった。明治時代になる前の一八五五年から一八六五年は徳川幕府が調印した通商条約後で、自由貿易が許された時代であり、彼らは長崎で事業の道を切り開いた。景気が上向いていた上海で、長崎に活躍の場があるという情報を得たのであった。
それぞれの息子サダキチと富三郎は二人とも、実際には二つのアイデンティティーを持っているけれども、主として日本人の方を受け継いでいることを明らかにするように、生まれたときからルックスの良さが備わっていた。
ここでは混血である二人の男性が、どのように日本人のアイデンティティーの方を選ぶことになったかをたどっていきたいと思う。サダキチは幼い頃に日本を離れ二度と戻らなかったが、富三郎は長崎で活発に活動していた外国人社会の中で人生を過ごし、短い期間アメリカに留学した以外は海外へは行かなかった。 
サダキチ・ハルトマン(1867-1944)
カール・オスカー・ハルトマンと日本人の母おサダとの間に長崎で生まれ、ドイツからアメリカに渡り、第二次世界大戦終戦の直前に、フロリダに住む娘の一人を訪れているときに亡くなった。サダキチは晩年カリフォルニア州バニングで、自分で建てた小屋に住んでいたようだ。そこは、また別の娘ウィステリア・リントンが住むモロンゴ・インディアン族の居留地の一角であった(1)。
晩年のサダキチは、アメリカにとって敵国であるドイツと日本両国の血を引いていたために、FBIの諜報部員から監視されていた。しかしながら二つの世界大戦の合間は幸せな日々を送り、偉大でロマンティックでエキゾティックな東洋人としてもてはやされていた(2)。
サダキチは十歳(一八七七)の頃までには父の国ドイツのハンブルグに戻り、少年たちの兵学校にいたことが記録されている。同じ頃、富三郎も日本で撮った制服姿の写真があるが、どちらも典型的な両国の少年である(3)。新興勢力のドイツと現代化が進む日本は、軍や学校の「制服」を大切にすることが「母国愛」と同じ意味を持つと表現した。母国に対する憧れも憧憬の一つではあるが、サダキチの場合はそんな愛国主義的なものではなかった。
サダキチはまもなくドイツを離れたので、これらの思想からも遠のいた。父から勘当された彼はアメリカのフィラデルフィアに移住し、英語を身につける。作家、評論家、俳優としてのキャリアはここが大きな分岐点となった。
一八八四年から約十年の間、サダキチは、フィラデルフィアの対岸ニュージャージー州キャムデンに住む詩人ウォルト・ホイットマンを訪れている。一八八七年から一八八九年にかけてはボストンに住んで戯曲を書き、以後、家庭を持ち五人の子供に恵まれた。一八九六年から一九一六年はニューヨークに腰を落ち着け、アメリカにおける初期の偉大な写真家アルフレッド・スティーグリッツ(一八六四―一九四六)の写真に関する批評を執筆している。それから一九二○年代から一九三○年代はハリウッドやカリフォルニアの他の町に暮らし、ヴァンプのような生活を送った。同棲していたウィステリアの母親とも一九二二年頃にはすでに破局を迎えている。ハリウッドではサイレント映画の名作 「バグダードの盗賊」(一九二四)に出演し、ダグラス・フェアバンクスと共演した。そしてジョン・バリモアをはじめハリウッドのバンディ通りに住む俳優たちと飲み仲間になった。サダキチはいつも会話の中心であり、必要とされている仲間であり、日独の混血だからといって仲間はずれにされることもなかった。
サダキチは日本の知識階級としての自分の虚構を楽しんだ。一生の間で、生まれてから数年しか日本で実際暮らした経験はないのだが、全部ではなくても日本人の特徴がよく出た顔かたちに誇りを持っていた。日本人の血を引いていることは、モダニズムに対する芸術的な意見や論評の手助けとなったし、外見からただようエキゾティシズムは、アメリカの読者の興味を引き注目を集めた。サダキチは非常にハンサムな男性であった。 
倉場富三郎(1871-1945)
英名をトーマス・アルバート・グラバーと言い、サダキチより数年後に同じ長崎で生まれたが、富三郎は特権的な家柄であり将来有望な道が引かれていて、サダキチとは正反対であった。富三郎の父トーマス・ブレーク・グラバーは、長崎に住む外国人の中では最も裕福な暮らしを送っていた。父グラバーは交換比率の違いを利用して、日本の金貨(小判)を上海に船で持ちこんで洋銀(ドル)に替え、それをまた日本でお金に替えることで三倍に増やし財をなしていた。
父グラバーは一八五九年、二十一歳のとき上海を経由して長崎にやって来た。一八六四年には長崎で最もりっぱで個性あふれる家を、湾が見渡せる岬の上に建てている。現存するその家は、長崎市指定の公園グラバー園の中に建つ。プッチーニの代表的なオペラ 「蝶々夫人」の家として広く世界に知られているが、蝶々夫人は架空のヒロインで、モデルとなる女性がその家に住んでいたわけではなく、ましてやプッチーニがそこを訪れたこともなかった。父グラバーはそのオペラが有名になる前に東京で亡くなっている。長崎の観光コースになっているその家に、毎年多くの日本人観光客が押し寄せるのは、 「蝶々夫人」への憧憬であろう。
富三郎は海外へ留学していた短い期間を除いて、父が東京の芝公園近くの別宅に移ったときも、父が建てた岬の上の邸宅を離れることはなかった。富三郎は長崎の商業社会の中心人物として穏やかに仕事をこなし、礼儀正しい人物として通っていた。父トーマスの妻で、富三郎にとっては継母であるおツルが亡くなったときに、富三郎はワカという娘と結婚した。ワカは英国商人と日本女性の間にできた娘で、以前より二人は父から婚約を勧められていた。二人には子供がなく、一九三○年代の陰うつな時代の最後の日までグラバー邸で平和な日々を送った。
富三郎の世界文化への重要な貢献はいずれ認められなければならない。彼は、手書きのイラストが入った日本最大の魚類事典の編集に力を注いだ。一九一二年から一九三六年の間に長崎在住の画家たちに描かせたもので、長崎付近の海に住む魚や海洋生物のみごとなスケッチは八○○を越える。
富三郎が長崎の文化的生活に大きく貢献したものに、長崎に住む外国人と地元の人々が親睦を図る社交クラブ「内外倶楽部」の設立とその建物がある。建物は今も出島に残されている。出島は外国人居留地として一六三六年に長崎港内に作られた島で、約二○○年もの間オランダ商人との交易が許されていた。富三郎は、長崎の町の歴史保存や保護に取りかかっていた。二○○○年の今年、日蘭交流四百年という機を得て出島は部分的に再興されている。
サダキチと富三郎の成長した頃の写真がある。私がこの二人を素晴らしいと思うのは、二人が異文化の中でアイデンティティーを築くことができたからであり、意識的な構図の上で、それぞれに日本生まれでありながら日本を憧憬することを基にして、日本とアメリカに意味のある文化的貢献をしたからである。政治も経済も、西洋の血が半分流れる二人の人生を崩壊させるのに協力した。二人の父は軍艦の建造や武器弾薬の供給に関係し、息子たちはどちらも日本での西洋的な商売を拒絶した。
私もまた実は軍と関係がある。それについて少し触れておきたい。私の父はボーイング社に勤めていて、日本に大打撃を与えたB―29爆撃機の翼の組立て作業をしていた。長崎に原爆を投下した爆撃機も含まれているだろう。私はその仕事を拒絶したが、父を拒んだわけではない。同じようにサダキチは長崎から連れ出されたが、長崎は決して彼から離れなかった。また富三郎は父の事業を拒絶したが、父を拒んだわけではなかった。サダキチと富三郎の組み立てられたアイデンティティーは、出生に基づいた憧憬である。二人とも遺伝的な二重性を放棄する決心をした。つまりサダキチの場合は、エキゾティシズムの輝かしい存在として生きるためであり、富三郎の場合は長崎市民と共に生きていくためであった。二人が文化的に成し遂げたことを私は評価したい。二十世紀を生きた彼らに降りかかった不当な差別を思うと、心が痛む。彼らの憧憬が続くことは許されなかった。それは今の時代でも起こりうることである。 
第二章 サダキチ・ハルトマンの文化的貢献
サダキチの父カール・オスカー・ハルトマンは、レーマン&ハルトマン商会の経営者の一人で、上海にあるマセソン&ジャーディン商会の事務所を経由して来日し、その英国系貿易会社の代理人として、自由貿易港である長崎で新しい取引の機会を調査するのが仕事であった。一八五五年から一八六七年は長崎が急激な発展を遂げていた頃で、カール・オスカー・ハルトマンにとっても同じであった。
しかしサダキチには長崎についての記憶はほとんどなく、母おサダの思い出も、生涯持ち続けたたった一枚の写真以外にはなかっただろうと言われている。おサダは目鼻だちが整った美しい女性であったらしく、角ばったあごと細おもての顔だちは、長崎の友人によると、うりざね顔といって長崎の典型的な顔だそうだ。年を取ってからのサダキチは特に母親に似てきたようで、一九二○年頃以降の写真にはほとんど、母のしっかりした顔だちとあごの特徴が出ている。子供の頃の写真にドイツ兵学校の制服姿があるが、柔和な丸顔で、よりドイツ人の輪郭に近い。若い頃はドイツ系統の顔かたちが目立っていたのに、本質を表す顔は人生の後半に現れるようだ。今日の長崎でも見られるように、目鼻だちが整っていて細おもてで角ばったあごの特徴がだんだん現れてきている。ここSで注目したいのは、サダキチが自分の経歴や性格の中で最も誇りとしたことは、遺伝や顔かたち、様々なしぐさやふるまいに出る日本人らしさであったということだ。人々はそれをサダキチの中に見いだし、またサダキチもそれを伝えようとした。
私は、父オスカー・ハルトマンとサダキチとの関係に興味をそそられる。というのは、サダキチが父の経歴や事業を拒否したからである。サダキチが日本から最初に移り住んだ地ドイツのハンブルグでは、祖母を除いて親戚はみな彼に軽蔑した態度を取った。一方その頃、父オスカーは日本で武器弾薬を売買していたが、結局のところそれもうまくいかず、さまざまな方法やいろんな場所に成功の道を求めていた。それらは、サダキチのように文学が好きで詩人肌の少年には、しっかりとした教育にはならなかっただろう。サダキチは、父オスカーが軍と密接な関係にあるとみなしていた。サダキチはハンブルグを出て兵学校に送られ、後に放校処分を受けたらしい。その理由は十分想像できる。兵学校時代の写真は制服を着た悲しげなドイツの少年で、数十年後「グレニッチ・ヴィレッジのボヘミアンの王者」とアメリカ大陸中の噂になったサダキチとは似ても似つかない。人生は決まっているかのように、サダキチが日本に戻ることは二度となかったのだが、日本を離れる前から父がほとんど家にいず、日本人に銃を売っていたことをサダキチは知っていたにちがいない。
そうしてサダキチと兄タルーはドイツに送り返された。父は大阪で、徳川幕府に抵抗している和歌山藩とともに騒動に巻き込まれていた。徳川幕府の権力は失墜して明治時代となり、明治政府は富国強兵や徴兵制度など新しい中央集権体制を敷くつもりであることも明らかになった。父オスカーが正しいことを間違った人々のためにしていたのは皮肉である。悪いことに、彼は明治政府の首脳部の中で新しく力を持ち始めた商人たちの間では適職を見つけることができなかった。しかし真相はちがうのだが…。父オスカーは日本を去ることになった。サダキチと兄はすでにドイツにいたし、父も二度と日本に戻ることはなかったようだ(4)。
サダキチは兵学校からパリへと脱走する。父はサダキチを勘当し、フィラデルフィアに彼を追い払い、そこに住む親戚の世話に託すことにした。
サダキチはその親戚をたより、無一文で一八八二年六月アメリカに到着している。そこで町の図書館や古本屋に通い、独学で読書を始める。
サダキチはすぐにアメリカに溶け込んだ。たとえ歴史が浅くても、少なくともアメリカは彼にとっては一つの統一された国であった。生まれた国日本とも父の国ドイツとも異なっていた。そこには精神力があり、労働観が存在していた。人が望めば何でも実現するような自由な感情があった。
サダキチの経歴に大きく影響を及ぼした出来事に、ウォルト・ホイットマンとの対話がある。その白髪の老人は、「草の葉」で知られる卓越した詩人であった。一八八四年、サダキチはフィラデルフィアの対岸ニュージャージー州キャムデンに住むホイットマンを初めて訪れている。サダキチは十七、十八歳であっただろう。以後彼を何度も訪れることになる。サダキチによる 「ウォルト・ホイットマンとの対話」は、ホイットマンの死後一八九五年に出版された。当時も大きな噂になったが、ホイットマンの遺言執行人は偉大な詩人に対するサダキチの辛らつな表現を快く思わず、出版を差し止めようとした。それにその内容は諷刺に満ち、当時活躍していた芸術界の著名な作家たちの欠点を容赦なく指摘していた。おそらくその中傷的な内容ゆえか、批評家たちは誰もが、サダキチが記録に残した会話は実際にはありえないとか、全部インチキだと言ってよい程誤りもはなはだしいと嘆いた。私はその短い作品を読んでみたのだが、当時の評価は悪かったにせよ、実際はその時代の事実を正確に伝えようとしていたのではないかと思う。ホイットマンは無愛想な人物で、自分よりも劣っていると思う芸術界の作家たち、特に資本家階級の人々を激しく非難したことで知られている。サダキチの記述には真実がこもっているのだ。 
ホイットマンの顔を見ても圧倒されるようなことはなかった。しかしその健康的な男らしさはすぐに好きになった。私には、精神的に深められた現代アメリカ人のイメージのように見えた。つまりアメリカ人は真に労働者の民族であるから、理想の労働者の姿だ。とりわけ、自由に流れているような白髪やあごひげ、ブーシェのような、健康的でしっかりとした血色のよい顔に関心を持った。彼の顔立ちは、濃い眉毛と青みを帯びた灰色の目の間が広く離れている(冷静沈着な感じを与えている)。私の人相学的な観察によると、率直、大胆、傲慢な性格を表していて、とりわけ私の興味を引いた。(5)
サダキチがホイットマンに持った初めの頃の印象では、彼は素晴らしい人物で、見習うべきところがたくさんあると言っている。ホイットマンの遺伝子がサダキチの顔に移ったようだ。自分がこうありたいと願うことで、一体化を招いたのである。同じ評論の中で、後にサダキチは長崎の美しさについて述べている。長崎で生まれたことが自分の世界観にいかに深く影響しているかをホイットマンに印象づけるかのようである。ホイットマンがサダキチに人生で何をしたいのかを尋ねる場面では、次のような会話が交わされている。
その頃の私は演劇に熱中していた。それで演劇に専念したいのだと自分の気持ちを話した。シェイクスピア劇に出てくる道化について特に研究しようと考えていた(道化の役を演じるには背が少し高すぎるけれども…)。
ホイットマン(首を振りながら)「それはどうかな。我々には生まれ持った特徴や性格、つまりアメリカ人気質というものがたくさんある。君にはそれが身につかないだろう。支柱で支えることはできても、結局のところ、桃の木にバラを咲かせることはできないのだ」
私はほとんど記憶にはないけれども、日本のこと、それも長崎の美しい湾のことを話した。
ホイットマン「あー、美しいところなのだろうね」
帰るとき、彼は私に「つまるところ、ただ創造するだけではいけない」という詩のゲラ刷りを一部くれ、父親のようにこう言った。「これを六回でも八回でも読みなさい。そうすればわかるだろうからな」(6)
この短いやりとりを通してサダキチが私たちに言いたかったのは、ホイットマンのような偉大な詩人の忠告に、うわべではなくアメリカの真髄をくみ取り、その真髄を自由にイメージして、自分の個性を完成すべきだ、ということである。結局、ホイットマンは自分が最適な広告代理人であったようで、出版社を通すというよりは、自宅から直接自分の出版物を販売していた。 「つまるところ、ただ創造するだけではいけない」という詩のコピーをくれたことをサダキチが記事にしているのは、まさに適切である。そこには、ホイットマンが考えるアメリカの精神の真髄が含まれているからだ。サダキチへのメッセージは最初の三行にある。
つまるところ、ただ創造するだけではいけない。ただ建設するだけでもいけない。
おそらく、すでに建設されたものを、遠くから引き戻し、
均等で、限りなく、自由な我ら自身そのものを、それに与えることだ。(7)
演劇は控えるようにというホイットマンの忠告を無視して、サダキチは俳優になること、少なくとも演劇の世界に少しでも足を踏み入れることを決心した。それは、どうしても彼から離れない魅力であった。アメリカで初めて書いた戯曲 「キリスト」(一八九三)は、劇中に前向きの全裸の場面があり、他にも多くの点で現代性の先がけとなる劇であった。(8)三幕からなる劇詩であるとサダキチが言う「キリスト 」の中で、ジェシュア(キリストのこと)は、妹のマグダレンが住む小屋にいる。その時巡礼者ハンナが現れる。ハンナは幻想の中に送り込まれたような奇妙な感情を持ち始める。次に挙げるのが、特に論評で物議をかもした部分である。
(ハンナが入ってくる)変な気持ちだわ。自分のことがわからない。
(一本のユリを折ってそのオシベを摘む)(中断)
二人(前のまま)私たちの無邪気な夢は混乱して、満たされない欲望に染まっていった。私たちの愛は、心を蝕む想いに毒されている。創造の神秘は、私たちのエデンの園のような夢の中で誘惑となっている。(彼らの声は小さくなり、涙が彼らの目から落ちる。あまりに激しくすすり泣くので、のどが震えている。ジェシュアはハンナの足元にひざまずき、悲痛な想いで頭を落とし、嘆く。ハンナは言いようのないほどの悲しみの表情でジェシュアを見つめる。彼女の全身が震え、太陽が雲の間から現れる。彼女の表情は美しくあどけない笑顔に変わり、神々しい美しさのその身体から身につけていたものがすべりおちる。
音楽…ハンナは急いで自分の裸体の背景をなしていた衣を整える。
ジェシュア貴方の裸体は祈りである。(詩人エロサールにむかって。エロサール登場)。まもなくあなたは私の声を聞くでしょう。私の人生の使命はまさにこの時を始めることです。(聖母マリアが庭に入ってきて、ハンナと言葉を交わす)
エロサール今、人々は奇跡だけを信じています。
ジェシュアそれでは私がそれを起こして見せましょう。
エロサールあー、私がいつもあなたと共にいることができるなら。
ジェシュアあなたは自分自身を忘れることができても、あなたの芸術を忘れることはできないだろうに。
エロサールあー、私の最も大切な芸術よ。
ジェシュア一日が喜び多いものを。
エロサール来るべき時代が喜び多いものを。芸術は美しいものはすべて永久に伝えるのです。純粋な心で組み立てられた考えはどれも、生き生きとした空気を吸う権利があるのです。色彩、音楽、あるいは思考のインスピレーションは、ピラミッドが廃墟と化し、エホバの神殿が悠久の碧空にむかって金色の丸屋根をもはや持ち上げなくなっても生き残っているでしょう。ジェシュアおそらくそうでしょう。しかし何のために…?エロサール美しくするために、美しくするために!(9) 
裸体、照明と音楽、衣装は、アメリカ以外ではこれまでに使われてきた技術であり、スキャンダラスな要素は全くない。一九○○年パリ万博でのルイ・フューラーのダンスにも見られ、ヨーロッパの詩人や作家たちを大いに喜ばせた。五感を混合し、十九世紀フランスの象徴主義と同じようなシネステイシア(共感覚)の書き方は、サダキチの戯曲の核心にあるものだ。当時のアメリカは、フランス的な概念を受け入れるには単にまだ準備ができていなかったのだ。特にキリスト教の第一のイコン(聖像)を同じ舞台にあげる大胆さに驚かされたのだ。詩人のエロサールがジェシュアに言うように、キリストの言葉自体の基本的な機能は純粋に美的だ。実用的でないことに気づかなくてはいけないとまで言っている。その点である。まだまだ根本主義的なアメリカは、キリストの言葉を象徴的表現として受け取る準備ができていなかったのだ。サダキチは、照明や裸といった現代的な技術や、文学としての宗教的なテキストといった現代的な考えをアメリカの舞台に紹介したのであった。その結末はスキャンダルであり、逮捕であり、やっかいな裁判であった。
しかしサダキチの天職というものは、ジャーナリストや評論家であり、人生を楽しみ自由奔放に生きるボヘミアンとしての人生であった。ニューヨーク的な感覚、ヨーロッパ的な嗅覚を持ち、新しく作られた東洋的な偶像として、自由恋愛や社会主義、精神的解放を熱心に唱え、文学や美術の新しい形の芸術家としての人生であった。
戯曲は失敗だったが、ニューヨークにいる間、サダキチは写真に関する多くの評論を残している。十九世紀最後の十年間と二十世紀最初の二十年間、つまり一八九○年代から一九一○年代に書かれた写真に関する評論は、最近になってサダキチが書いたとわかったものもあり、写真評論の入門書として再刊されている(10)。これらの記事の中でサダキチが主として伝えたかったのは、アメリカに芸術としての写真を紹介することであり、すぐれた評論家としての自分の地位を確立することであった。アメリカではサダキチがその先駆者となった。ここでは、サダキチの写真評論について詳しくは扱わないが、日本の絵画が写真の現代性を確立する手助けになったという概念を、彼は何度も評論の中で使っている。
美術評論家としては、アメリカでの日本美術に関する最初の本「日本の美術」(一九○四)を執筆した。日本美術の影響について述べた章では、ヨーロッパでジャポニズムが大流行している理由を一般の読者に説明しようとしている。 
ヨーロッパの芸術家たちは、人物や場所の巧みな設定、生き生きとした動き、表現力、形態や色彩への情熱、陰影を用いない人物描写のスケッチなどの点においては、日本人の芸術家たちと同等である。しかし彼らは、とるに足らないような日本の絵本にすら見ることのできる制限のない暗示性にたどり着くことは決してできなかった。この暗示性が現代芸術を征服したのだ。
タイミングもちょうどよかった。ヨーロッパではあまりに哲学的に描かれすぎていた。最も平凡なものから最も荘厳なものまですべてが収集され、目録に載り、論評され、内容の乏しい知識をあちこちかき集めるためだけに集められてきた。ヨーロッパ美術界にたまっていた埃やクモの巣を取り払う必要に迫られていたのだ。その知識のかたまりを浄化し、再編し、発展させることで、新しい生命を吹き込む必要があった。それを成し遂げるには日本美術をおいて何があるだろうか?その影響は至るところに感じられる。たとえばそれは、アンデルセン、ツルゲーネフ、ヴェルガ、フランスやスカンディナヴィアの現代作家たちが得意とする短編小説を生み出した。実際に語る以上のものを暗示する簡潔な表現に向かう傾向となった。少し変化をつけながら表現を繰り返す方法は、ポーの詩やフランス象徴主義者の作品にたどることができる。特にモーリス・メーテルリンクの作品には、中世ギリシャと日本美術を連想させる一風変わった組み合わせが見られる(11)。 
サダキチはこの時代に他にもたくさんの本を書いた。それらの著書によりアメリカの絵画や彫刻に対する評価が確かなものとなった。著書には「アメリカ美術史」(一九○三)、 「芸術にみるシェイクスピア」(一九○一)、「絵画における構図」(一九○九)、「ホイスラー研究」(一九一○)、「風景画及び人物画の構図」(一九一○)、「現代アメリカ彫刻 」(一九一八)などがある。
サダキチはハリウッドで映画の脚本を書いたこともある。サイレント映画の名作「バグダードの盗賊」(一九二四)ではダグラス・フェアバンクスと共演し、サダキチは魔法使いの役を演じた。その映画には他にも二人のアジア人が出演している。一人はモンゴルの王女を演じたアンナ・メイ・ウォン(一九○五―一九六一)で、非常に美しい中国系アメリカ人であり、ハリウッドの他の映画にも多数出演している。もう一人は上山草人(一八九一―一九五四)で、アンナ・メイ・ウォンの兄の役であるモンゴルの王子を演じた。上山は後に、黒澤明監督の 「七人の侍」(一九五四東宝)にも出演しており、三船敏郎と共演している。サダキチは映画に出演したアジア人の草わけ的存在の一人であった。
一九三○年代、サダキチは“バンディ・ドライブ・ボーイズ”として知られるハリウッドの俳優仲間たちと親交があった。その中には、ジョン・バリモア、ジーン・ファウラー、W・C・フィールド、ジョン・デッカーなどがいる。ジーン・ファウラーが書いた 「最後の集いのノート」(一九五四)の回想によると、バンディ通りはジョン・デッカーのスタジオと自宅があったところで、今やOJシンプソンのうわさで有名となったカリフォルニア州ブレントウッドの中にある。おそらく隣人達はいつもイライラしていただろう。ジョン・デッカーはハリウッドの俳優仲間を持つ芸術家であった。“バンディ・ドライブ・ボーイズ”は、無作法だが都会風で、ウィットに富み、不道徳で、辛らつ、誠実だが大胆、ハードな生き方の(ハードな飲み方の、とも言える)グループであり、サダキチは彼らをとても楽しませていた。この頃、サダキチは 「美的真実」という長編に取り組んでいたが、出版されていない。サダキチは喘息もちで大酒飲みであり、このバンディ通りのパーティーでしばしば道化を演じていた(12)。
第二次世界大戦中、サダキチは娘の一人ウィステリア・リントンの家の近くに樫板の小屋を建て、変人のような生活を送っていた。その小屋をサダキチは「キャットクロー・サイディング」と呼んでいた。彼は一九二三年にカリフォルニア州バニングにあるその場所に移ってきたのだが、そこはモロンゴ・インディアン族の居留地の一角であった。彼は一九四四年、七○歳後半で死ぬ少し前までそこで過ごしていた。彼が亡くなったのは、最初の妻との間にできた娘ドロシア・ジリランドをフロリダ州セント・ピーターズバーグに訪ねていたときであった。
サダキチについて日本語で出版された本は、「叛逆の芸術家―世界のボヘミアン=サダキチの生涯」(太田三郎著一九七二)のみである。また現在、越智道雄氏(明治大学教授)が三省堂 「ぶっくれっと」に「サダキチ・ハートマン伝」を連載中である。美術史や評論についてのサダキチの著書はほとんど出版されておらず、忘れられた存在であるが、アメリカ芸術や戯曲、写真、絵画、彫刻に対するアイデンティティーを創り出そうと努力した芸術家たちへの影響は今もって驚くべきものがある。カリフォルニアの田舎に追いやられてからも、一九四四年に死ぬまでアメリカの文化的エリートたちと交流を続けていた。彼の手紙の中には、詩や美術に関してエズラ・パウンドから来たものも八通あり、それらもカリフォルニア大学リヴァーサイド校の特殊文献図書館に保管されている。 
第三章 倉場富三郎の文化的貢献
日本人の母親と日本国民ではない父親との間にできた混血児たちが、合法的に父親の姓を名乗ったり財産を受け継いだりすることは望みの持てない時代であった。そんな中で、日本人のアイデンティティーの部分を主張することについては、倉場富三郎はサダキチよりもはるかに幸運であった。富三郎の父トーマス・グラバーは日本女性ツルが正式な妻となるよう取り計らった。ツルは晩年東京でグラバーと暮らしていたが、「グラバー」の日本語読みに近い「倉場」姓を名乗るために新しい戸籍謄本の手続きが長崎で行われた。結婚はしていてもグラバー姓の戸籍謄本がないので、ツルは富三郎がすでに入っていた倉場姓の籍に同じく入った。富三郎は二十三歳で、正式に倉場姓を名乗っていた。ツルは実際には継母であったが、便宜上、実母として登記された。
このようないきさつで富三郎は、少なくとも一九三○年代の軍国主義の陰うつな時代に自分が生まれた国と自分の血が流れるスコットランドが戦うまでは、長崎の外国人社会の中で尊敬され、多忙な日々を送り、長崎実業界の名門のままであった。
一八九九年、富三郎は「内外倶楽部」の設立に加わった。それは長崎の外国人社会と地元の人々が親睦を図るための初の社交クラブであった。また、外人居留地以外では日本国民でないものは土地の売買や貸借が許されていなかったが、一八九九年にその境界線が廃止された。十六世紀以来、日本の中でも最初にヨーロッパやアジアの人々が暮らし、商売を営んできた歴史上重要な町長崎にとって、真の国際化時代の始まりとなった。
富三郎と、父の友人で雇い主でもあるフレデリック・リンガーは、内外倶楽部の拠点となる新しい建物の建設にも出資し、その建物は一九○四年に完成した。日清戦争後、長崎港は再び栄え、忙しい日々が続く中で、経済力のある男性会員のみというそのクラブは、外国から商用で訪れる人たちに長崎を印象づける最適な顔となった。クラブは日露戦争(一九○四―一九○五)の苦しい時代も存続し、乃木希典大将のもと日本が勝利したことで、アナトリー・ステッセル将軍の指揮により一四○○人のロシア軍捕虜が長崎を経由してウラジオストックに帰国するときも立ち会った。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」は一九○四年にミラノのスカラ座で初演されたが、後に内外倶楽部で年一回行われる仮装パーティーでは、世話役をしていた富三郎がピンカートンに扮したこともあったという。長崎を有名にしたそのオペラのピンカートンをまねるときでさえ、富三郎は完璧な英国紳士の立場をわきまえていた。事業も外交も活況を呈していたこの時代は、混血でも受け入れられる恵まれた頃であった。
内外倶楽部は、温和な性格の富三郎がうまくまとめて一九四○年代まで続いた。クラブの建物は木造二階建て、アジアでよく見られるコロニアル風で、至る所に富三郎の好みや西洋での経験が生かされていた。各部屋に置かれたマントルピース、二階の広々としたベランダ、広い階段と磨きぬかれた手すり、大理石を使った化粧室など、明治様式の印象を完ぺきに与えている。会議室や応接室、図書室、ヨーロッパ製のテーブルと椅子を配した食堂、ビリヤード室、バーなども富三郎の設計であった 。
同じ頃、富三郎は日本人社会とも幅広く交際を続け、三菱の代々の社長である岩崎家とも父以来の親しい付き合いが続いていた。しかし良き時代は終ろうとしていた。一九三六年に行なわれたイギリス王ジョージ六世の戴冠を記念する華やかなパーティーが最後となった。そのパーティーにはワカも出席し、富三郎はいつものように紳士的な態度で接待役をこなした。南山手の丘に立つ邸宅から、あまり目立たない丘のふもとの古い洋館九番館へ引っ越すまではすべてが順調であった。丘の上のその邸宅は一八六四年に父が建てたもので、個性あふれる堂々とした家であったが、一九三九年、三菱造船所よりそれを提供するよう求められた。父グラバーは若くして、邸宅の下の方にロシア船の修船場を作る事業を行っていた。それは修理だけでなく造船場にも容易に変えられるようになっていた。彼は三菱の重役の一人であったので、後にそこに日本最大の軍艦建造場を作ることになったのだと思われる。三菱造船所は父グラバーの助けで長崎での事業の足がかりを得たのに、今やその三菱が富三郎に敵意を示したのである。というのは、その造船場は丘の上の邸宅から見下ろせる場所にあり、絶対機密の時代にそこに住みつづけるのは許されることではなかった。そして富三郎は、事実上自宅監禁のような生活となった。そうしている間にも、父グラバーが初めて本格的な造船場を造った敷地で、二十世紀の転換期に日本海軍は世界最大の戦艦「武蔵」の建造を進めていた。
ワカは一九四三年に亡くなるまで、愛国婦人会の会員として出征兵士の見送りなども行なっていた。そして富三郎は、原爆が落ちた十七日後、九番館の二階の寝室で首を吊っているのが見つかった。原爆は浦上地区を襲い、天主堂や半径五内の建物をすべて破壊した。彼の死体は原爆投下直後のこともあって、瓦礫の中埋葬されないままの何千という他の遺体と一緒にされた。
富三郎が残した最も偉大な功績は、日本の魚類や海洋生物についてまとめた「日本西部及南部魚類図譜」(一九三六)である。これは、丘の上のグラバー邸や、出島に残る内外倶楽部の建物と同様に生き延び、今日、それらはすべて再興されている。それは一世紀を越えてグラバー家と友人のようにつきあってきた長崎人たちの間に、富三郎への愛情が続いているおかげである(13)。 

(1)ウィステリア・リントンは、父サダキチの原稿、写真、個人的な資料などすべてをカリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館に寄付した。サダキチに関する写真はすべて、同校の好意により掲載させていただいた。写真は、晩年、バニングで小屋に住んでいたときのものである。円熟期に撮った写真は日本人らしさがよく出ていたが、この頃のサダキチは、明らかに日本よりヨーロッパの血を多く受け継いでいるようにみえる。混血の民族性は、このように子供時代と老年に特徴が出るが、自ら選んだアイデンティティーは、憧憬の旅をしているときに強く現れる。
(2)サダキチを諷刺した漫画は、ハリウッド時代の友人の一人ジョン・デッカーが描いたものである。組み立てられた日本人らしさゆえ屈折したボヘミアンの面が強く影響しているこの時代の彼をよく描いている。
(3)私も子供の頃、セーラー服と半ズボン姿の写真を撮られたことを覚えている。日本の中学校で今も普及している学校の制服は、これをモデルにしている。
(4)サダキチは知らなかったと思うが、実際の話はこうである。長崎のレーマン=ハルトマン商会は、プロイセン陸軍が使用しているライフル銃であるツュントナーデル銃の輸入代理店となった。その銃はプロイセン陸軍のためにジョアン・ニコラス・フォン・ドライゼ(一七八七―一八六七)が開発したものである。レーマン=ハルトマン商会は、その銃の威力を示せる人物を捜すことで、和歌山藩から注文を取りつけていた。それでその銃の製造工場に派遣されたことのあるドイツ人と接触を持った。一八六七年にその人物ケッペン(一八三三―一九○七)にこの仕事についての手紙を書き、日本に来て和歌山藩にその銃の使い方を教えるという契約を彼と交わした。一八六八年末、ケッペンはそのライフル銃三○○○挺と弾薬を持ってドイツを出発し、一八六九年六月二十九日に神戸に到着したが、十一月になってから和歌山に入った。というのは、一八六七年に明治維新が起こり、政治的状況が一変し、明治政府が徴兵制度を導入しようとしていたからである。レーマン=ハルトマン商会とケッペンは、新政府のもと新興勢力となった和歌山藩と契約を交わした。
一八七○年から七一年に独仏戦争が勃発し、プロイセン軍がフランス軍に快勝した。プロイセン軍の強さが日本人の関心を呼んだが、一八七一年、日本は中央集権体制による廃藩置県により新しく府県制が敷かれ、軍事力を特に強化していた和歌山藩も廃藩となった。これにより、レーマン=ハルトマン商会が和歌山藩の軍事訓練に独占的に関わっていたのも終りとなった。ケッペンは一時的にドイツに戻り、また和歌山に戻ってきたときには、彼が交わした契約はキャンセルされていた。彼は、残りの契約金を得てドイツに帰らざるをえなかった。
レーマン=ハルトマン商会と、日本でそれ程必要とされたケッペンとプロイセン式ライフル銃との関係には、興味深いものがある。おそらく、一八六九年にケッペンが大阪に着いた後レーマンとハルトマン二人ともが長崎の記録から消えた理由もそこにあるのであろう。それまでにレーマン=ハルトマン商会は事務所を大阪か神戸に移したので、サダキチはハンブルグに送り返された。ケッペンが和歌山藩との契約をキャンセルされたと知ったとき、レーマンもハルトマンも日本にとどまっても有益ではないと気づいた。ケッペンが帰国したのは明らかだが、他の記録からハルトマンも生まれた国ドイツに戻ったようだ。おそらく自分の兄に預けている二人の息子サダキチとタルーがいるハンブルグに戻ったのだろう。一八六九年一月以降のレーマンの消息はわからない。(これらは長崎県立図書館の本馬氏の好意により、公文書資料から荒木康彦氏が書いた記事を参考にさせていただいた)
(5)ジョージ・ノックス編「ホイットマンとハルトマンの論争」P67
(6)同P68
(7)第一連の残りの部分である。拒絶し破壊するよりも、むしろ受け入れ、溶かし、蘇らせ、指揮するばかりか服従もし、先導するよりもあとにつづく、これらのことも我らが「新しい世界」の教訓であり、所詮「新しい世界」などいともささやかなものでしかなく、「古い昔の世界」こそ実に、実に偉大であり。長く長く長く草は茂りきたり、長く長く雨は降りつづけ、長く地球は回転を止めず。(酒本雅之訳 「草の葉」中岩波文庫P68〜69より転載)一八七六年のフィラデルフィア百年祭によせた「博覧会の歌」より。「つまるところ創造するだけではいけない」という題で一八七一年に出版された。 「草の葉と自伝」P441―50
(8)アメリカでの若い頃のサダキチについては、太田三郎著「叛逆の芸術家―世界のボヘミアン=サダキチの生涯」を参考にさせていただいた。
(9)「仏陀、孔子、キリスト―三人の預言者の戯曲」P148―49
(10)「サダキチ・ハルトマン―クリティカル・モダニスト」を参照。
(11)「日本の美術」P160―61
(12)ここに抜粋し掲載した情報のほとんどは、「カリフォルニア大学リヴァーサイド校の新着書及び収蔵書季刊報、UCRブックス」に掲載された記事(一九七三)による。それらはジョージ・ノックス教授により書かれたものだが、出版はされていない。
(13)富三郎の内外倶楽部建設への援助やグラバー家の情報に関しては、多田茂治著「グラバー家の最期」を参考にさせていただいた。また富三郎が生きるために選んだ社会よりも自分のアイデンティティーにとって心地よい方の呼び名を選んだ、つまり両方を取ることができなかった富三郎について、英語で書かれた心を打つ概論であるブライアン・バークガフニ著 「倉場富三郎の人生スケッチ――両方を取ることができなかった男」を参照した。この人物の西洋的な一面は憧憬であった。人はこれを富三郎の生き方、つまり彼の物の見方や彼が建てた物、成し遂げたことに見ることができる。 
参考文献
・荒木康彦「レーマン=ハルトマン商会とカール・ケッペン」川口居留地研究会会報第十三号、一九八八年八月発行(長崎県立図書館所蔵)
・同「レーマン=ハルトマン商会と幻の「第二の維新」」「特集開化大阪と外国人」よりP62―67、書名及び発行日不明(長崎県立図書館所蔵)
・同「撃針銃にみる維新期の紀州」P3朝日新聞、一九九七年十二月二十六日付
・太田三郎「叛逆の芸術家―世界のボヘミアン=サダキチの生涯」東京美術、一九七二年
・越智道雄「サダキチ・ハートマン伝」三省堂ぶっくれっと、一九九八年〜
・サダキチ・ハルトマン「仏陀、孔子、キリスト―三人の預言者の戯曲」ハリー・ロートン、ジョージ・ノックス編、ニューヨーク:ヘルダー・アンド・ヘルダー、一九七一年
・同「日本の美術」ニューヨーク・ホライズン・プレス、一九七一年
・同「サダキチ・ハルトマン―クリティカル・モダニスト」ジェーン・カルフーン・ウィーヴァー編、バークレー・カリフォルニア大学プレス、一九九一年
・ジョージ・ノックス編「ホイットマンとハルトマンの論争」(「ウォルト・ホイットマンとの対話」及び他の評論を含む)ベルン・ピーター・ラング、一九七六年
・同「ウィステリア・ハルトマン・リントンの収蔵品とハルトマン研究の経緯」カリフォルニア大学リヴァーサイド校図書館の新着書及び収蔵書季刊報一―一号、一九七三年六月
・ウォルト・ホイットマン「詩集草の葉と自伝」フィラデルフィア・デヴィット・マッケイ、一九○○年
・ウォルト・ホイットマン作・酒本雅之訳「草の葉」中、岩波文庫、一九九八年
・多田茂治「グラバー家の最期」福岡・葦書房、一九九一年
・ブライアン・バークガフニ「倉場富三郎の人生スケッチ――両方を取ることができなかった男」P51―73、クロスロード長崎歴史文化新聞三号、一九九五年夏号
・鶴田欣也「越境者が読んだ近代日本文学」東京・新曜社、一九九九年

明治教育家成瀬仁蔵のアジアへの影響 / 家族改革をめぐって

 

1 はじめに
ただいまご紹介に預かりました陳暉でございます。あいにく雨降りとなりましたが、お集まりいただいた皆さんに厚くお礼申し上げます。
私がなぜ明治教育家成瀬仁蔵をテーマにしたかというと、そのきっかけは二つあります。一つは明治期の日本文化の中国に対して及ぼした影響が大きいからです。とくに中国では先進知識人が日本を通じて西洋文明を吸収したのが特徴です。明治期から日本に留学した中国人は少なくありません。とりわけ日清戦争以後、有志の青年が日本に赴いて留学することは風潮となりました。留学生、修業生を合わせてのべ三万人もいました。一八九六年〜一九三七年の四二年間、留学生の人数は八千人で遊学、研修、修業生を含めて五万人を越えていました。精確な統計によると、(一九一三年、一九二四年、一九二五年の数字が欠けているため、不完全なものですが)、総人数は一一三、四〇〇人です。
多くの人々が東遊日記を書いて日本人の性格、社会制度、家族の状況、衣食住について紹介し、また留学生の中から多くの革命家、社会改造家が現れました。本論ではその中の一人、著名な画家であり、中国国民党の長老、国民党の最初の女性党員で、一九〇三年から日本女子大学校に留学した何香凝をご紹介いたします。そして何香凝と校長の成瀬仁蔵の接点を探ります。明治期の成瀬仁蔵の思想は中国の近代化に一定の影響が見られます。
もう一つのきっかけは、私が近代化と家族変遷の領域で研究しているからです。私の国際日本文化研究センターでの研究テーマは「近代化と東アジア家族の変遷」ですが、とくに中国と日本の家族像の変遷に関心を持っています。二〇世紀の留学のブームが家族の改革に何か影響があったのかどうかを調べると、何香凝の留学という意味深いケースが見つかりました。家族改革の歴史的道程を振り返って見たときに歴史を動かす人物を見落としてはなりません。その時、歴史を動かした、と言える人物論は一般論より遥かに有力です。近代化への道程は家族の変遷、女性の地位の向上とは必ずしも一致しているとは言えません。その時々の逆流、逆コースに抵抗し、優れた貢献をしたのは日本では成瀬仁蔵、中国では何香凝、宋慶齢、ケ頴超、李徳全などの名が上げられます。
今日は以上のことについてお話を進めていきたいと思います。歴史を動かすものは人間であります。個人の事跡が明らかにされない歴史の叙述は完全ではあり得ないのです。明治教育家の成瀬仁蔵の一生を追って見ると、彼のアジアへの影響、とくに家族改革の面での功績が大きいという点が顕著であります。明治三大教育家のうち、新島襄、福沢諭吉は日本国内で優れた業績があり、一方アジアの女性教育のために貢献したのは成瀬仁蔵だけです。
これまでの先行研究では青木生子の「いまを生きる成瀬仁蔵」、中嶌邦の「成瀬仁蔵」などの図書や論文がありますが、すべて成瀬仁蔵の日本国内での活動を評価するものであります。これら先行研究の中では成瀬仁蔵の中国への影響についてはほとんど論じられていません。中嶌は「中国語訳の(成瀬の)「女子教育論 」は中国の女性解放にも何らかの影響を与える書となったと思われる」と指摘していますが、本稿は新しい資料の発掘に基づき、成瀬仁蔵とその教え子であり、中国近代女性運動の先駆者、国民党の長老、同盟会の最初の女性会員であった何香凝との接点を探り、近代化と東アジア家族改革の像を提起するものです。 
2 成瀬仁蔵の生涯
成瀬仁蔵は一八五八年(安政五)六月二三日に、現在の山口県山口市吉敷に士族成瀬小左衛門、同歌子の長男として生まれました。吉敷は長州藩主の一族吉敷毛利家の領地であり、成瀬家は代々吉敷毛利家の祐筆をつとめ、漢学の素養深く、教育家の家として知られていました。幼少のころは幕末の動乱を身近に見ながら、藩校憲章館に学び、長じては、明治維新の変革によって、禄を失った父の家塾を手伝い、山口県の教員養成所に学び、小学校長などをつとめました。この間に七歳で母を失い、十六歳のときに弟と父を失い、死に向き合う体験をもちます。
成瀬は母の死と宗教心のおこりについてその後も触れており、晩年、「予は、七つの時自分の一番慕つて居た母を失ひ、其の母にもう一度逢ひたいと言う事が何よりの希望であつた、これが予の宗教心の起つた初めである」、と述べています。成瀬は信仰に生きることを決意し大阪の沢山保羅牧師を訪ねました。
キリスト教との出会い
同郷の沢山保羅は一八七二年(明治五)アメリカに渡り五年間滞在し、プロテスタント教会の外国人受洗者の第一号であったといいます。のちに教会費自給論を主張します。日本の近代社会の展開の中で、キリスト教徒となったり、牧師として活動する人々の多くは、維新の変革に際しての佐幕派やその変革に参加しにくかった藩の出身者であったといわれるが、沢山保羅は信仰ゆえの例外者となった。帰国した沢山はアメリカン・ボードの宣教活動の一つの場であった大阪で日本組合教会に属してキリスト教をひろめながら、医療活動を行う松村診察所で働きはじめた。次第に新しい公会(後に教会と称する)の設立が話題となり、その宣教の核となる人物として、沢山保羅が周辺の一致した推奨を受けるようになった。成瀬は一八七七年(明治十)十一月三日浪花公会において澤山によって洗礼を受けました。彼は外国宣教師の間で「聖書を持つ青年」と云われるほど信仰に熱心でありました。
成瀬が従事するキリスト教女子教育
アジアにおける近代教育体制の成立過程で、キリスト教はプロテスタントを中心に宣教が始められますが、同時に女子教育は女性を通して日本の家庭をキリスト教化する手段として重視され、特にプロテスタント系の宣教は女学校を設置することに熱意を示し、東京を始めいくつかの都市に開校されました。こうした宣教師による学校は、他の私立学校の開校をも促して女子教育の推進に重要な役割を果しました。一八七八年(明治十一)一月発足した梅花女学校がその先鞭となったといえるでしょう。学校設立の背景としては梅本町公会(後の大阪教会)と浪花公会(後の浪花教会)によって、前年の明治十年十月組合教会の信徒懇親会がひらかれ、成瀬もそれに加わり、そこで女学校の設立の議が出て会員の賛成を得たのでした。日本では明治十年代、女子教育の飛躍的な発展が見られました。女学校教育に携わることとなって成瀬仁蔵の女性観も大きく変化しました。かつての「男尊女卑」とする儒教的な女性観から、神の前に人としての個、男性と女性の間に差別のない平等な存在であることを認識させられることとなりました。その頃であろうか、聖書の言葉「誰か賢き女を見出すことを得ん、その価は真珠よりも貴し」(箴言三一の十)が成瀬の胸に啓示の如く響いた。
「婦女子の職務」の出版
一八八一年(明治十四)九月、成瀬仁蔵は処女作「婦女子の職務」を発刊しました。その中で「家は夫婦の二本柱」として男女を同等にとらえ、一生を決める婚姻に七項目の注意点を挙げ、慎重に決定することを促しています。その場合、家は「国の基」であるが、「政府は家のため」にあるとし国家あっての家ではないと把えています。そして女性の真価を知らず、用いなければ国家的損失となるであろうともいい、文明開化期の教育普及が女性にも広く及ぶことを強く求めています。この本の意義について、中嶌は次のように指摘しています。成瀬の女子教育論も当時のキリスト教女性教育論と同様に、家庭内における女性の役割、特に子女の教育それを重視するものであるが、ここには一人の人としてのあり方が基本となり、夫との関係も同等、社会での活動の役割も考えられ、女性の立場によりそって論じられている点は注目してよいであろう。
アメリカ留学へ
一八九〇年十二月三一日、成瀬はサンフランシスコに上陸しました。一月十一日にはボストンに着き、牧師レビットに迎えられ、その家に落ち着きました。レビット夫妻には七人の子供があり、成瀬を迎え入れるために「一名の僕婢をも置かず」、また「家族は個人としても自立しながら、それぞれに家事を分担してよく働くこと、秩序のある家庭」であり、成瀬はその助け合い支えあう家庭生活に感心しました。
アンドーバー神学校に通い始めた成瀬は、翌年の六月末まで籍をおいたと見られますが、この間の「日記」などから、これからの一生の目的、自らの使命、天職について沈思している様子が窺われます。
〈わが生涯の目的〉わが生涯の目的はわが日本全体の家庭を通じて、即ちConvert(変換)して日本社会を救うにありとす。各々の家に天国を来たすにあり。是れ吾が天職と信ず。これを遂げる準備として女子教育、社会改良、結社、貧民救助、著書、新聞雑誌発行、伝道、男子青年の教導、また之に関する著書・演説等に従事す可し(一八九二年一月一四日)成瀬にとって新しい社会の核となるものは家庭であり、これまでの女子中等教育の経験とアメリカで体験し考察を重ねてきた高度な教養をもった女性がここに育つことにより、日本社会が根底から変わることを願ったのであります。近代日本の家庭の再構築は長期的展望を要することでもありました。
彼はアメリカで社会学を勉強し、また英語で「澤山保羅伝」を書いて、日米の交流にも貢献しました。
一八七七年にアメリカで女子高等教育を支持するマサチユセッツ協会が生まれて会員を募り、奨学金を出したり、女性に対しての社会問題や教育問題の講演会をおこなっています。このような動きは社会的な女性高等教育へのニーズを高めたと言えるでしょう。そしてブリンマー、ウエルズレー、スミス、バーナード、ラドクリフ等に続き、その後も著名な女子大学が設立されて、女性の高等教育の上昇期にありました。成瀬のウエルズレー女子大学への訪問については、 「女学雑誌」(二六七、二六九号)に掲載された「ウエレズレー女子大学観察略記」によって報告されています。
米国滞在の満三年間は成瀬にとって今後の方向を決める重要な時期でありました。いわば日本社会を客観視し、日本社会の改良を実現するための方向を探るものであったのです。
次に成瀬が求めていた社会の近代化、特に欧米の家族事情について簡単に紹介します。 
3 近代化と家族改革の流れ
近代化とはなにか、富永社会学の定義によれば、四つのサブカテゴリーを考えることができる、とされます。
(1)技術的―経済的近代化技術的―経済的近代化は「産業化」であって、これはエネルギー使用が人力・畜力から機械力に移行するメカニゼーション(産業革命)に始まり、高度産業化といわれるオートメーション(自動化)を経て、ポスト工業化といわれる情報化・サービス産業化にまでいたる諸発展段階を含む。
(2)政治的近代化政治的近代化とは、「民主化」を意味する。これは、中世封建制から近代国民国家への移行にはじまり、封建的束縛と王の専制からの離脱、人民主権、議会制民主主義の確立、男子普通選挙権、そして婦人参政権にまでいたる政治変動をさすものである。……日本は、明治維新において、多数の封建制小国家を統合して国民国家へと移行した点でヨーロッパと同じであるが、明治憲法は天皇主権を規定して人民主権をとらず、大正デモクラシーは明治憲法の枠内での民主化にとどまった。日本における政治的近代化の本格的な実現は、第二次大戦後のことである。
(3)社会的近代化……[富永は]これを、家父長制家族の解体と核家族化、氏族・親族集団・村落共同体などの基礎社会(血縁と地縁のゲマインシャフト)の解体と目的集団(ゲゼルシャフト)の優位、都市人口の膨張と都市的社会関係・都市的生活様式・都市的社会意識の拡大を意味する都市化、初等・中等・高等の順に教育が大衆化していく過程としての教育の普及、身分制の解体、社会階層構造の平準化と社会移動による機会の平等化、などを総称する語として用いている。その理由は、家族、親族、村落、都市、社会階層などは、私が「狭義の社会」(または準社会)と呼んでいるものであるからである。これらは、「自由と平等の実現」として括ることができるであろう。なぜなら、家父長制家族の解体、親族集団や村落共同体の解体などは、血縁、地縁のゲマインシャフトによる拘束からの自由を意味するし、都市的社会関係や都市的生活様式などは人びとの生活を自由にするし、教育の普及、身分制の解体、社会階層の平準化と社会移動などは、人びとを平等にするからである。
笠谷和比古によると、血縁と地縁のゲマインシャフトの解体と目的集団の優位が日本では徳川時代に行われました。農民・町人といった非武士身分の人間にも武家の世界に参入して活躍できる機会を与えてくれるもので、徳川時代の武家組織は、非武士身分のものの血と能力を不断に導入していく回路を設けていたことを意味しているのです(笠谷和比古 「武士道の思想」NHK人間講座より)。つまり社会階層移動は近代化の条件ですが、日本では徳川時代にすでに備えていました。
(4)文化的近代化文化的近代化というのは、科学的思考の普及、迷信や呪術からの離脱、意識における合理化と理知化など、合理主義と知性主義の広範な普及の諸過程を、総称するものである。
近代化を以上のようなサブカテゴリーに分けてみると、西洋においては、ルネッサンスと宗教改革にはじまる文化的近代化が最もはやく、氏族・親族集団・村落共同体など血縁・地縁のゲマインシャフトの解体にはじまる社会的近代化がこれに次ぎ、市民革命にはじまる政治的近代化が三番目で、産業革命にはじまる経済的近代化が最も遅かった、という事実に気がつくであろう。これに対して、日本を筆頭とする非西洋諸国の近代化においては、西洋と反対に経済的近代化が最初に来て、政治的近代化がそれに次ぎ、社会的・文化的近代化は最も遅かった。これは、それら非西洋諸国の近代化が、西洋からの文化伝播によるインパクトから出発して、軍事力・経済力において西洋からの遅れを取り戻すことに全力をあげ、精神的要素の近代化はあとまわしにしたことの結果であった、といえるであろう。
十八世紀末ごろからイギリスでは、職を求めて都市に流入した人びとは、一家全員が賃金労働者となって劣悪な労働条件の下で就労します。そこでは、従来の労働現場における家族が単位となった就労が失われるのです。この挙家離村型の労働力は不況などの際にも「帰るべき場所」を持たず、都市にスラムを形成します。
これに対して東アジアの工業化は出稼ぎ型です。労働力の「型」に注目するならば、イギリスがエンクロージャによる挙家離村型の帰るべき家を持たない労働者の群れを前提としたのに対して、日本はいわゆる農村を基盤としての出稼ぎ型です。自分が帰属する帰るべき場所を農村に持ちつつ、近代産業の労働力となるのです。これは何も日本だけの現象ではありません。東アジア全体がほとんど同じです。後発近代化で広大な農村が残される場合、大規模なプランテーション農業などで、農村が雇用吸収力を失ってしまう場合を除けば、産業化を支える労働力は実家を農村に持ち、自らもそこにアイデンティファイしつつ、一種の出稼ぎのような形で農村を析出します。
富永社会学の近代化のサブカテゴリーの(4)に指摘されているように、西洋では宗教改革に始まる文化の近代化が最もはやく、とくに都市に挙家離村型の家族に新しい家族の規範をもたらしました。
ヴィクトリア女王の治世(一八三七―一九〇一)に特定の家庭規範が成立します。それは二つの異なる源泉を持ち、一つはピューリタニズムや福音主義(Evangelicalism)がもとになった勤勉と愛に満ちた家庭像、今ひとつは上流階級を源泉とする有閑階級の女性像です。
ピューリタニズムおよびそれを基礎にする福音主義の家庭観ですが、ピューリタニズムは家族集団を信仰生活の最小単位として重視して、しかも性衝動を(男性の)人間性の一部として認め、当事者の愛と魅力に基づく結婚を奨励しました。そこに生まれるのは愛と信仰にあふれた家庭のイメージです。これらの家族の改革は宗教観に基づくものでありますが、挙家離村型の家族は信仰生活を通じて容易に家族改革をすることができました。しかし、アジアでは農村を基盤としての出稼ぎ型です。自分が帰属する帰るべき場所を農村に持ちつつ、近代産業労働力となるのです。家族改革は容易なものではありません。
アメリカはイギリスの植民地であった関係上、ピューリタニズムの価値観を通じてイギリスの女性規範、家庭規範を直接輸入しており、アメリカ近代の主婦はその成立過程こそイギリスと異なるものの、それを支えた規範は基本的にはイギリスと共通であります。とくに夫婦愛の比重は他の文化圏に比べて高いことにありました。イギリスの「男=生産労働、女=再生産労働」という役割区分をやぶって、即ち男女の空間的な隔離・配分はさほど強くなく、女性の家の外への進出が徐々に肯定されるようになりました。
本論の成瀬仁蔵がアメリカ滞在中にみたアメリカ家族像は以上のような背景があります。成瀬仁蔵の改革しようとした日本の家族の実態は「この家族を統括するのは夫である。この家族は近代国家の単位とされる」
また、山田昌弘は次のように指摘しています。
明治時代政府主導で、イエ制度が形成され、「生活の責任単位」が上から強制的に押しつけられた。イエ制度こそは前近代の遺物ではなく、日本的な近代家族の一つのあり方だと思われる。
家族の中に、人格や愛情を閉じこめ、家族に再生産責任を負わせることによってのみ、資本主義生産が発展する。その事実を知っていたと思われる明治政府は情緒的満足の代わりに 「家イデオロギー」をおいて「イエ」の中に生活の責任の単位を固定化させたのである。
つまり江戸時代の女性は一定の自由度がありました。けれども、ナポレオン法典の導入と明治三一年に成立した明治民法(ドイツ式編制法)によって、家族国家理念を受け入れたものであり、女性への束縛が強化されました。けっしてデュルケムのいう婚姻家族たる近代家族ではなく、夫婦の人格的平等などあり得ないのです。 
4 成瀬仁蔵と中国―教え子何香凝の中国での活動
1)日本女子大学校の創立
一八九〇年(明治二三)教育勅語が発布され、復古的な風潮にのった女性論が横行し、女子教育の必要性に水をさすものがありました。布川清司は明治一七年から二九年には女性解放の倫理がそれまでの開明的思想から反動期となるといいます。成瀬はこうした事態に応えて一八九六年二月、 「女子教育」という書を青木嵩山堂から出版し、日本の女性高等教育の方針を打ち出して、
第一、女子を人として教育すること
第二、女子を婦人として教育すること
第三、女子を国民として教育すること是れなり
と結んでいます。本書は楊廷棟、周祖同により中国語にも翻訳され、「女子教育論」として上海作新社より一九〇二年に出版されました。
人としての教育を第一においたことは、翌一八九七年三月の日本女子大学校第一回創立披露会での講演「女子教育振起策」(「女子教育談」所収)のなかで、この三つの区別や順序を誤ってはならないと言っており、人としての教育を基本にしていたことが分かります。「女子と小人は養い難し」といった男尊女卑の思想や行為が一般的に見られる中で、当時は人と言えば男性を指していました。そこで人としての教育を男女区別なく主張したことは注目されるでしょう。また国民として教育することを最後において、教育勅語や家族国家観とは一線を画しました。
一九〇一年(明治三四)四月二〇日、日本女子大学校は現在の東京都文京区目白の地に創設されました。その開校のいきさつは中国上海の「点石斎画報」にも次のように報じられました。
蘇報によれば、日本では今まで女子大学はなかった。今成瀬仁蔵という人が次のように指摘した。日本では文明開化男女同権を提唱し、女子大学校を興さないと人材は育てられない。男尊女卑は同権の義に背くものである。募金活動をして三〇〇人の寄付を得、大坂の城南に五〇〇〇坪あまりの土地が買収された(明治三十二年五月二十二日)。後援者は伊藤侯爵、岩崎男爵、大山侯爵、大隈伯爵、松方伯爵、近衛公爵、各爵夫人、住友吉佐衛門、など十七名また、賛成者は多数…… 
2)何香凝のパーソナリティーの形成
何香凝(一八七八―一九七二)は、政治運動家、画家、中国国民党長老として広く知られ、中華民族に模範をしめす、と毛沢東に評価された人物です。
何香凝は一八七八年六月二七日、香港の資産家の家庭に生まれ、育てられました。何香凝の出身地は広東省南海県綿村郷で、婚約者の廖仲凱の原籍は広東省帰善県窰前村、アメリカ、サンフランシスコ生まれの華僑で、結婚相手の条件は天足(纏足しない自然の足)であることとしていたため、二人は「天足縁」と称えられて一八九七年旧式結婚方式で結婚しました。当時の清政府は腐敗し無能状態でありました。主権を失い国を辱めることをたくさん行いました。何香凝、廖仲凱も怒りを覚えました。日清戦争以後、有志の青年が日本へ留学することは一時風潮になっておりました。廖仲凱も日本へ留学するつもりでした。彼の父はアメリカで客死し、兄は清政府の外交官に就任していました。兄は廖仲凱の留学に資金を出そうとしませんでした。金が足りなくて彼は「国家がこんな危険に曝され、われわれは黙っていられようか。日本の留学界は元気溌剌とし、有志者は雲集している。私も日本にわたって留学したいがただ学費がなくて困っている」とよく嘆きました。そして「将来、清王朝は必ず滅亡し、新しい人間に取って代わられるに違いない。両親がもうなくなって、兄は満清の官僚だから学費を出してくれない。もし一千元あればいけるけれど」。
廖仲凱の志をまっとうさせるために何香凝は実家からもらった真珠、宝石、貴重品を売りました。すでに慣れてのんびりした裕福な生活をすてて、夫は一九〇三年一月日本へむかいました。後を追って彼女は四月日本に到着しました。何香凝が東京に着いたとき、夫は神田区の松本亀次郎の開設した日本語学校に入学していました。二人は東京の早稲田付近の貸家を借りました。このアパートは「覚盧」といい関乾甫、蕭友梅など同じ広東人の留学生が住んでいました。
はじめは何香凝も日本語学校で日本語を勉強しました。なかなか進歩できないため、人の紹介で東京目白の日本女子大学校に入学して寄宿舎に引っ越し、校長の成瀬仁蔵の世話になって、宿舎の管理人夫婦に日本語を教えてもらいました。その後一九〇八年まで、何香凝は同校と縁がありました。
日本女子大学の久保田文次教授は、何香凝が成瀬の「女子教育」を読んで、日本女子大学校の創立を知って入学したのだと指摘しています。(中国テレビ番組「二〇世紀中国女性史 」より)
一九六一年、何香凝の回想録によれば、「当時私の日本語の程度が低いので、授業を完全に聞き取れなかった。当時の日本女子大学校の校長の成瀬仁蔵は学校の寮の管理人夫婦と相談し、私に日本語を教えてくれた。成瀬仁蔵は私の学習に大変関心を寄せ、一方ならぬ世話になった。私はいまになっても感謝の気持ちを抱いている」
何香凝は小さいとき反抗心の強い子供で、母が彼女に纏足させましたが何度も纏足をほどいたため、母は諦めるより仕方がなかったのです。また母方の親類が大平天国の乱に参加したことがあるので、小さいときから満清王朝を覆す話を聞いていました。彼女も太平天国の女性戦士のように刀を腰に騎馬で町を纏足のまま歩きたいと思っていました。
彼女は幼少期に女書館(私塾)での二年間の伝統的な儒学思想教育しか受けさせてもらえなかったので、結婚前後の活動範囲は家を超えたことがなかったのです。維新後の資本主義の日本社会で元気溌剌とした日本女子大生のなかで集団生活をし、二四歳までずっと憧れていた学生生活をやっと実現することができたのでした。
人として国民として
この時期の彼女の思想活動は「わが同胞姉妹に訴える」という文章から窺えます。この文章は日本に着いてから二、三カ月後に書いたもので、日本女子大学校での見聞を基礎にして書いたものであります。とくに人として国民としての認識が深まったといえます。七百字の文章は中国婦女運動史上、早期の有数の文章の一つに数えられます。
嗚呼!国のことは聞いてはいけない!わが国民はまぬけでありながら亡国を待つしかないのか?それとも意気込んで向上を求めて、英雄になって白人と競争するか?明末清初の思想家、顧炎武(亭林)は「天下の興亡は、匹夫にも責任あり」と述べている。これはもとより男子の義務であるが、男子と同じように耳目を持ち、同じ身体を持っている女性は非人類であるのであろうか。同じ人類であれば、天下の興亡を我々二億の女性同胞はどうして見過ごすことができようか?巣がひっくり返れば割れない卵はない。薪の上にいれば幸せなんか言えようか。(中略)西洋の諺は言う、 「女子は文明の生産者である」また「女性は社会の母である」、だから女性は社会の中で最も重要な人であり、責任のもっとも重要な人である。こんな重い責任を持とうとする人は終日女性の居間にいて大門も出ない人だとすれば、だめである。重大な責任に堪えないからである。わが姉妹よ、古い習慣をなくし、新しい知識を勉学し、外国に遊学し、自分になる、一人前になる。責任を放棄し、座して死を待つ。香凝は学問が浅く、こんな大きなことを言うべきではないが、個人がなければ、社会があるはずはない。私は皆さんとお互いに励ましあいましよう。
女性として
何香凝は成瀬の「女子教育」の中国語訳本を何度も読みました。その中の「依頼心多き人民の増加する度に応じて国家は益々衰微に傾くもの」や「一生に一業を成就し、以て自己の幸福を増し、社会の公益を図る」などの教えに心を打たれました。それを自分の実践に移しました。
彼女は一九〇三年九月、神田神保町の中国留学生会館で孫文と出会い、革命活動に参加しました。一九〇三年冬、何香凝は日本女子大の寄宿舎を離れて、東京牛込区の貸家に引っ越しました。革命派の学生は東京青山にある大森運動場で射撃練習などの軍事訓練を行っており、女中を雇って家事をさせたら警察に知られる恐れがあるので、五、六年の間それらの学生のために何香凝はご飯を炊くなど家事労働をしていました。自伝の一章からその当時の様子を見ます。
中国では――特に数十年前――親に可愛がられるお嬢さんたちは裕福な家庭で生活していて、炊事なんかしないのである。それは使用人の仕事である。私も例外ではない。私の父母は私を宝物と見て、家庭の経済状況もよくて、家庭では台所とは無縁である。廖仲凱先生と結婚してから食事の仕度も使用人に任せる(実家から二人の使用人に来てもらった)。日本に留学してからある使命感を覚え、自らお嬢さんの高い身分を捨てて、雇った日本の女中からご飯の仕度を学んだ。このことは記念すべきことだと思われる。
革命活動のために、神田で七、八室の部屋の貸家(当時二五円)を借りて、学校に通いながら、革命派留学生のために食事の仕度をしなければならない。そのとき、東京ではガス、電気、水道がなかった、私はこの家事は中国革命のためだと思って、どんなつらい目にあっても堪えて毎日愉快であった。
時がたつのは早いものである。これはもう三五年前の物語である。私の個人生活について、親の前でお嬢さんであり、社会に出て労働者であり、家庭内で食事の仕度や家事をやれるし、台所をでたら、政治活動に参加できる。うまい料理も賞味できるが、粗末な料理もかまわない。のんびりした生活もすることができるが、苦難な日にも耐えることができる。(中略)、一般の女性は女性としてどうしたらいいか。生活の技能を学んだほうがいいし、苦しみやつらさを耐え忍ぶ心構えが必要である。国家、社会のことに関心を持つ、自分のことを他人に任せないでちゃんと自立したほうがいい。国家が女性に対する態度はこうすべきだ。男女平等を原則とし、女性も男性と同じように教育を受ける権利があり、各種の職業に就き、社会活動に参加する能力を持たなければならない。女性を台所や家庭に閉じこめるようなことは数十年前でも不可能である。私自身はよい例である。中国革命は女性の参加がなくていいわけがない。しかし今になっても、真の平等的な待遇を勝ち取ることができず、本当に申しわけがたたない。将来国民憲法を制定する人は女性同胞全体が得るべき利益――くわしく男女一律平等の条文をなおざりにしないでください。
このように何香凝は人として、女性として国民としての立派な人格形成の手本であり、成瀬の教育思想を徹底的に実現した教え子であります。 
3)三民主義の一環としての何香凝の家族改革論
日本の近代化は上からの近代化であるため、成瀬仁蔵の家族改革は上層、中産階級の家庭の範囲内に行われる制限がありました。成瀬は日本女子大の卒業生の同窓会の桜楓会が出版した 「家庭週報」を通じて社会への影響を拡大していました。中国では、清政府を打倒して、孫文の「連ソ」、「容共」、「労農扶助」の方針の下で、何香凝の労農階級の女性を解放する実践は可能となりました。
何香凝の家族観について紹介します。一九〇七年日本留学中の何香凝は一時アナーキズムの家族解体論に賛成しました。一九〇七年八月三一日東京で出版された中国語のアナーキズムの雑誌 「天義」に寄付金六元を贈りました。
辛亥革命後の一九一二年二月十三日、孫文の革命勢力と清王朝の残留勢力との闘争結果、孫文は辞任に追い込まれ、二月十五日、新政府側を代表した袁世凱が臨時参議院で臨時大総統に推挙されました。袁世凱が中華民国大総統の座についた後、女性運動派は弾圧されました。袁世凱は婦人団体を解散させ、女子法政学校を廃止し、法律上の女子の自由権利を奪い取りました。社会風俗においては烈女を表彰し、女性にだけ貞操を要求しました。
一九一三年八月、孫文の二次革命が失敗し、何香凝は夫と一緒に日本に亡命しました。一九一四年五月、三六歳の何香凝は孫文の中華革命党に加入し、その年、日本留学中の中国人学生に袁世凱反対の連絡、宣伝の仕事をしていました。一九一六年四月まで日本にいましたが、そのとき多くの日本の友人、宮崎滔天、山田良政、犬養毅などの人々と付き合っていました。
一九一九年から一九二〇年まで中国では五四運動の影響として、男女交際の自由、教育の男女平等、封建的婚姻観の打破、家族改革の思想的準備が整えられました。何香凝は一九一八年二月広東軍政府のために日本に赴いて公債の発行や日本の支持を求める政治活動に熱心に参加していました。そして五四運動を支持し、東京で留学生集会を開き応援しました。
反帝国主義、反軍閥を掲げた国民革命は一九二四年の孫文による国民党改組と国共合作によって始まりました。この時期から、何香凝は女性運動に本格的に取り組むようになりました。女性解放運動を積極的に推進し、女性運動の側面から政治に参画するようになったのです。国民党に初めて婦人部が設けられたのは彼女の尽力によるものです。初代婦人部長となった何香凝は中国国民革命の成功は人口の半分を占める婦人の自覚如何にかかっていると考えていましたから、共産党員の婦人らとも手をつないで順次婦人解放のために努力していきました。
何香凝は、国民党の綱領のなかに「男女平等」の一文を入れるよう主張しました。一九二四年一月、国民党第一次全国代表大会が広州で開かれました。この大会では「法律上、経済上、教育上、社会上の男女平等の原則を確認し、女性権利の発展を図ること」という提案が採択され、大会の宣言に盛り込まれました。孫文も新三民主義の民権主義が男女同権を包括していることをはっきりと説明しました。何香凝はまた中国初の国際婦人デー記念集会開催のため尽力しました。一九二四年三月八日、広州で初めての婦人デーの記念活動がありました。三月三日何香凝が広州で講演会を開き、廖仲凱が招かれ講演しました。廖仲凱は「社会、国家の諸問題を解決するために、婦女問題を併せて解決しなければならない。婦女問題を解決するために、自らの力を求めなければ成らない、他人の力は頼りにならない」「中国の男女不平等は他のどの国よりもひどい、たとえば多妻制不平等、労働賃金の不平等、教育の不平等、など他の国には及ばない」と講演しました。
国民党第一次全国代表大会後、国民党中央執行委員会に婦女部が設立され、上海、北京、漢口の特別区執行部にも婦女部が置かれました。一九二四年十月国民党中央婦女部は女性運動を発展させるため、婦女運動委員会を設立しました。会員は三〇〇人でした。国民党婦女部の設立後、中国の女性運動は組織的、系統的な活動を開始しました。
一九二六年一月一日、国民党第二回全国代表大会が広州で開催されました。この会議に出席した女性代表は一六人でした。何香凝、宋慶齢、ケ頴超の三人は婦女運動報告審査委員会を作り、広く意見を求めて討論を繰り返した後に大会に「婦女運動決議案」を提出しました。「決議案」はこれからの女性運動の中で実施すべきものとして次の項目を提出しました。
甲法律部門
一男女平等の法律を制定する
二女性が財産の相続権を持つことを規定する
三人身売買をきびしく禁止する
四結婚、離婚の完全自由の原則に基づいて、婚姻法を制定する
五抑圧されて結婚から逃げ出した女性を保護する
六同一労働、同一賃金の原則と母性及び幼年労働者保護の原則に基づいて、婦女働法を制定する
乙行政部門
一真剣に女子教育を向上させる
二労働者、農民女性の教育に留意する
三各行政機関を開放し、女性を受け入れて職員とする。
四各職業機関を女性に開放する
五託児所を開設する
この決議案は中国の婦人運動に画期的な成果をもたらしました。その後分裂した国共両党に伝統的な父権家族改革の課題を義務付けることになりました。
成瀬仁蔵の女子教育の精神が、その没後七年目に中国で開花したのです。その主導者がかつて二三年前に日本女子大の寮に住んでいた中国の女性留学生だとは成瀬先生は予測できたでしょうか。先生はいったん播いた思想の種は必ず開花すると堅く信じていたでしょう。先生の絶筆である「徳不孤、必有隣」(徳は孤ならず、必ず隣あり)はその証拠です。
何香凝の家族改革論の影響
何香凝の提出した家族改革論は進んだ理論で、後に中国共産党の一九三〇年代の婚姻制度の規定に影響がありました。たとえば、封建婚姻の解除、売買婚の禁止、童養嫁の排除、結婚離婚の自由などのスローガンを提出し、婚姻制度では婚姻の自由原則を提唱し、一夫一妻制を実行し、離婚後の財産、生活費などの問題で女性を保護しました。一九三九年四月公布された 「陝甘寧辺区婚姻条例」なども婚姻民主の精神を貫きました。
蒋介石国民政府の一九三〇年代の「民法」に対しても影響がありました。それは民商法合一主義をとり、商法典を作らないのはこの民法典の特徴です。また、いち早く男女平等の原則、権力濫用の禁止の法理を導入しています。これは国民党蒋介石の一〇年間の近代化の産物でした。今日台湾に限って引き続き効力を有するのです。
国民政府は、家族制度の上では清王朝体制との絶縁を明確にしました。一九三一年に実施された民法の親族・相続両篇では宗族継承の規定をなくし、遺産継承権を男女平等としたほか、父母の主婚権や教令権も制限し、家長は家族間の推挙によるとされるなど家族制度上の大改革が行われました。例を上げると、当事者双方の合意による結婚の締結および相互の同意による離婚が認められるようになりました(九七二条、一〇四九条)。一九二九年四月二七日の司法院の正式規定では、女子は嫁いだかどうかを問わず男子と同じ財産継承権を有すること、になりました。一九三〇年民法第五編継承編一一四四条規定によれば、配偶者はお互いに遺産を継承する権利を有すること、嫁いだ娘とまだ結婚していない娘は法律上男子と同等な継承する権利を有すること、以上が一九三一年五月五日正式に施行されました。これらはあくまでも都市部に止まって農村ではあまり知られていなかったのです。
現在への影響として一例を挙げてみると、たとえば結婚、離婚の自由は、つい最近の二〇〇三年八月十八日、婚姻登録条例を公表してやっと実現しました。
結婚、離婚は職場の証明書が要らない。結婚する場合、双方単身、非近親である声明書に署名すればよい離婚する場合、離婚登録は即時完了(今まではかなり時間がかかった)離婚も単位(職場)の紹介状や組織の同意などは不要である
結婚・離婚の自由の実現は、何香凝の提出した家族改革論より四分の三世紀の時間が過ぎていました。 
4)実業教育を起こす
何香凝は、日本の教育の発展に感心して、また成瀬仁蔵の女子教育への熱心さに感銘を受けての帰国後、絶え間なく教育の発展に努めました。
成瀬の「女子教育」の第五章「実業教育」では、実業教育は知育と結びついた手工教育を行うことで、女子労働の見直しと社会に対する義務、国家に尽くす責任ある女子をそだてうる、と述べています。
その精神に感化され、何香凝は一九二四年、女性の文化水準を高めるために広州で三つ婦女労働者学校を創立すると提案し、これを国民党婦女部が決議しました。五〇〇名の女工が募集されました。十月廖仲凱の協力を得て、広州女子美術研究所を組織しました。一九二五年には広東の順徳県で二箇所の女工補習学校を設立しました。
何香凝はまた女性運動の人材を育てました。一九二六年九月十五日、広州で国民党中央婦女運動講習所を設立し所長に就任いたしました。蔡暢が教務主任を担当しました。各省から婦女運動の幹部九〇人を募集しました。さらに何香凝の主管のもとで婦女運動人員講習所を創設して女性運動の幹部を育てました。
一九二五年八月二五日、夫の廖仲凱が暗殺されたあと、何香凝は労農扶助方針を貫くために、また廖仲凱が一生労農を愛護したことと、その労農扶助の意志を記念するために、一九二五年十月十五日、国民党中央執行委員会第一一七次会議で仲凱農工学校案を提出し採択されました。
この学校を創立するために、主任の何香凝は設置の地や資金募集、教職員を採用するなど、苦心して関係方面の人々をくりかえし訪問しました。そして自分の絵画を売って資金を集めました。学校の方針は養蚕、製糸分野の実務の教育です。この学校は今でも存続し優秀な人材を養成しました。これも成瀬の教育観を継承したものです。 
5)成瀬校長の「信念徹底」精神の体現
成瀬仁蔵は学生たちに実践倫理の授業を行いました。日本女子大学の三綱領は成瀬の晩年に総括したものですが、「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」の精神は成瀬の一貫した思想です。何香凝はその点についてよく実践しました。
何香凝は同盟会結成時期からの長い活動歴を持つ国民党党員として、孫文一家と二〇年の付き合いがありました。孫文は彼女のことを日本語でおばさんと呼びました。一九二五年三月十二日孫文の死に際して、その遺言の証明者の一人となったこと、また孫文から特に夫人宋慶齢の後事を託されたことがその後の彼女の歩みに大きな影響を与えました。何香凝はその後、孫文の遺訓と遺志を継承することが自己の「歴史的使命」だと決意し、終始、自分なりの道を歩みました。一九二〇年代、孫文の遺訓を実現するために、廖仲凱夫人として、国民党内に影響力を持ちました。彼女に対する蒋介石や汪精衛の協力の要請に不協力の態度をとっていたのは蒋介石が孫文の遺訓を裏切ったからです。
しかし国民革命も一九二七年、蒋介石の四・一二クーデターによって崩壊し、一、〇〇〇名以上の共産党の婦人活動家が虐殺されました。このときはさしもの何香凝も挫折に泣きました。勝気な性格は彼女を再び奮い立たせました。国民党での職をすべて捨てて彼女は国民党中央から離脱し、共産党の労農運動指導上での「過火」に対する批判的態度を明らかにして、子供が留学しているフランスにわたり、満州事変勃発を契機に一九三一年十一月に帰国しました。蒋介石が抗日に立ち上がろうとしないと知ると、彼女は蒋介石を諷刺して詩を作りました。
まげてみずから男児と称し、甘んじて敵人の気を受け、戦わずして山河を贈るは万世羞恥を同じうす。我ら婦女たち、願わくは砂場に往きて死せんわがスカートをもってきみが軍服に換えていかん。
帰国後は抗日民主運動を経て、一九四〇年後半に中国国民党民主促進会、中国国民党革命委員会を設立し、民主党派の指導者の一人としての道を歩んでいきました。  
5 成瀬仁蔵とインド
成瀬仁蔵はまたインドと連帯して、インド女子大学の成立にも貢献しました。
インド女子大学の創立者ドーンド・ケシャウ・カルウェ(DhondoKeshavKarve,一八五八―一九六二)はインドのカーストの最上位であるバラモン(司祭階層)の家に生まれ、早くから女性解放の願いをいだき、インド女性の地位に根本的に関わる寡婦再婚問題に取り組み、寡婦および一般女子のための教育活動に身を挺していきます。社会や国を改善するには「教育以外に問題の根本解決はない」と考え、女子高等教育の必要性を痛感していました。
カルウェには未知の人から日本女子大学に関する冊子が贈られていました。送り主は二人で、一九一五年日本に行った時日本女子大を訪ね感銘し、半ダース買い求めたもので、カルウェが手にしたのはその内の一冊です。彼の自叙伝 「回想」(LookingBack)にはこれについて次のように記していました。「私はこの冊子を思い出した。頁を追って読み進み、雷に打たれでもしたように感じた。新しい生命の躍動を覚えた。この冊子は日本女子大学を説明したものであった。成瀬氏、夢想家、そして一九〇〇年におけるその大学の創設者は偉業を成し遂げた。この冊子はその記述であり、一九一二年までの経過であった。インドの条件に合う大学を導入するに当たって、私はわが日本の兄弟の足跡を辿るべきであると考えはじめた」
女子高等教育にとって「最寒時代」に日本女子大学校の歴史を語ると同時に将来の抱負を述べた著書を英語版としても出版されたことは注目されなければなりません。そこには目をアジア、世界に向けることを忘れていない成瀬がいます。日本女子大学校の教育理念とその具体化を述べたこの英文冊子の果たした、日本からアジアへの発信は例の新渡戸稲造の 「武士道」(一八九九年)や岡倉天心の「東洋の理念」(一九〇二年)を想起させるといってもあながち過言ではないでしょう。
一九一五年末、ボンベイで開催された全国社会会議の議長を担当したカルウェは基調演説の中で随所にこの成瀬の英文冊子を引用して自分が創設しようとする女子大学の構想を語りました。カルウェは英文冊子の建学の精神にインスパイアーされ、インドにもこのような女子大をと志し、日本女子大の名称にならって、インド女子大と命名する学校を創立したのです。そして、カルウェがインド女子大を創設した一九一六年に、ラビンドラナート・タゴールは来日して成瀬と直接触れあい共感を深めることになり、そこには東洋とのさまざまな縁が思われます。
タゴールの来日
タゴールは一八六一年生まれ、インド出身の詩人、劇作家、評論家として知られ、母国で小規模の学校を運営し、教育にあたりました。一九一三年のノーベル文学賞をアジアの人として初めて受賞しました。
一九一六年来日したタゴールは、各地における講演で、西洋文明の単なる模倣に疑問を投げかけ、人間的価値の忘却と権力欲や国家の集団的エゴイズムへの盲目的崇拝の現状に警告を発します。彼は思想や行動の自由についてすべてヨーロッパに指導を仰ぐことはない、とアジアからの対等の主張をいたしました。
成瀬はかねてタゴールの著作に親しみ、東京大学、慶応大学で行われた彼の講演を聴き、成瀬が渋沢栄一等と共に設立した「帰一協会」の思想運動とも共鳴する、人類の共存というメッセージとして受けとめ、日本女子大学校にもタゴールを招きました。
成瀬はその後もタゴールと語り、その人格に共鳴するものを感じ、「東洋の歴史が、物質万能主義や形式的教育を亡びさせ、世界を変革し得る」ことに同感しました。さらに八月半ば軽井沢に招かれたタゴールは、講演と瞑想の指導を日本女子大学校三泉寮の学生に行いました。タゴールは「今回の日本訪問の真の目的は人心の知合を求めるためである。神は婦人に愛と美を授けた。ゆえに婦人の貢献すべき時がくるであろう」と語りました。
タゴールの哲学は瞑想をし、詩人の直感を通して、宇宙的な哲理を基本として神と人間との霊的交流、調和合一を説き、そこに表れる善と愛とに偉大な力を見ました。成瀬とタゴールの出会いはその思想の同調者として確信と信頼を相互に得たといえるでしょう。
タゴール記念会「タゴールと日本」によれば、タゴールは軽井沢の自然の中に身をおき、霊感に燃え、生の実現と宗教的感性があふれたのです。成瀬がなくなってから四回にわたる来日のときにも日本女子大学校を訪れ、講演を行っています。軽井沢での滞在を記念して、このとき以来タゴールと交流を続けた高良(和田)とみが代表者となって、碓氷峠にタゴールの記念碑「非戦」が建てられました。その高良とみは、非戦精神の実践者として戦後の中日関係に貢献した人で、初めて中華人民共和国を訪れた日本人です。  
6 今を生きる成瀬仁蔵
成瀬仁蔵の生涯の特色はいくつかの良き「時」に会ったことです。第一の時は明治維新であり、第二の時はキリスト教との出合いでありました。第三の時は米国留学です。第四の日本女子大学校の創設は、女子教育に政策としても理解を見せ始める時期でありました。
成瀬の個の人格形成を核とする人間観なり、社会観は日本近代社会を形成する過程では少数派であり、異質なものであったといえます。資本主義経済を導入し、立憲君主制(天皇制国家)を形成し、家父長制の色濃い民法の下で、女性に対しては良妻賢母の教育を浸透させていく日本の近代社会の現実との差異は大きなものがありました。
しかし、成瀬のアジア全体への視野と人間存在への深い関心は魅力あるものでした。その教え子である中国の何香凝は成瀬の思想に啓発され、中国の家族改革を促しました。何香凝の息子の廖承志は長い間中日友好協会会長をつとめ、中日関係に貢献しました。
また教え子の高良とみは日本と中国の戦後の友好に貢献し、平和や人類の課題の解決の目標への成瀬先生の理想を受けついだのです。
 
渋沢栄一と張謇 / 日中近代企業家の比較

 

はじめに
十九世紀後半、侵略と拡張に走るヨーロッパ資本主義工業文明の挑戦を前に、日本と中国は相次いで、「富国強兵」の実現を目指し、ヨーロッパに学び近代化運動を繰り広げた。伝統的農業社会から近代的工業社会への歴史的変化の過程において、日本は民族的危機を克服し、「文明開化」、「富国強兵」を実現した。一方、中国では近代化の歩みは紆余曲折を経て、最終的に経済的立ち遅れや侵略によって悲惨な状況を招くことになった。同じ時期、同じ国際環境の下にありながら、日中両国の近代化の運命はなぜこのように異なるに至ったのであろう。甲午(日清)戦争後、中国では国家の安危に関心を抱く人々が、中日両国の比較を始めた。そして一世紀以上にわたり内外の学者はこの問題に対する研究を続けており、すでに豊富な研究成果を収めた。しかし、今までの成果を詳細に検討すると、中日両国の近代化に関する比較研究の領域において、未着手の多くの問題があり、近代中日両国企業家の比較研究もその一つであると言える。このため、私はここで日本の渋沢栄一と中国の張謇を代表人物として近代中日両国企業家に対し一つの比較を行ってみたいと思う。  
1 なぜ渋沢栄一と張謇を近代日中企業家の代表として比較を行うのか
近代の資本主義経済における行動主体としての企業家に対し比較研究をするのは、歴史的にしても現実的にしても重要な意味があると思っていたが、では、渋沢栄一と張謇を近代日中企業家の典型的代表として取り上げたのは、主に以下の理由によってである。
(一)
渋沢栄一と張謇は、基本的に同じ時代に生きており、またよく似た社会環境の下で青年時代を過ごし、かつ企業家としての生涯を送り始めた時期も近かった。彼らは近代の中日企業者における誰もが認める代表的人物であり、それぞれの国の工業化を推し進めるうえで重要な役割を果たし、多くの偉大な業績を残した。彼らはまた、実業思想、株式会社制度の導入や普及、社会公益事業への関与等の方面において功績を残している。二人には多くの共通性があるが、また生まれ育った国による違いもある。彼らを比較することによって、我々は近代東アジアにおける企業家の形成と発展の過程や特徴に対する分析を深めることができるであろう。
(二)
渋沢栄一と張謇は、企業家活動を行なうと同時に、自伝、日記、手紙、文書、講演の原稿等の多くの貴重な資料が残されている。それらには、彼らが経験したさまざまな重要な事柄が書かれている。そのほか、親族や同僚や友人達が書いた彼らに関する伝記や文章もまた価値あるものである。これらの貴重な資料は、われわれの研究に対して確かな根拠を提供しており、彼らの思想や行った事業を広く歴史的事実に沿って分析する際に、また彼らに対するさらに客観的かつ実証的比較を行なう際に、役に立つものである。
(三)
渋沢栄一と張謇の企業家活動は、日本と中国の近代化の過程において重要な地位を占めている。このため、彼らに対する研究は中日両国の経済史・経営史研究で重視されている。しかし、残念なことに企業家史学の視角から両国の比較研究を行った成果は極めて稀であり、まだ多くの課題が残されている。このため、彼らに対する比較研究がこれからの中日両国学術交流の新しい分野になるべきではないかと考えている。  
2 日本の著名な企業家―渋沢栄一
2-1 企業家になる前の渋沢栄一
渋沢栄一は一八四〇年(天保一一年)二月一三日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県大里郡豊里村)に生まれた。渋沢栄一の父は農業と藍玉の売買に従事していたが、子供の教育にも非常に熱心で、渋沢が七歳の時には隣村の尾高新五郎(淳忠)の親族に師事させ正式な教育を受けさせた。尾高新五郎の指導の下、渋沢栄一は一〇歳までに四書五経、 「左伝」、「史記」、「十八史略」を学んだだけでなく日本の歴史も学んだ。渋沢は学問を好み、両親は喜びはしたが、渋沢に儒者になって欲しいとは思わなかった。渋沢が一四歳の年、父親は渋沢に家の仕事を手伝わせ始め、折りに触れて藍の葉を採取しに連れて行く。渋沢自身も幾度となく外出し、社会の実態により多く触れる機会に恵まれたことにより、視野が広がり、意志を鍛えることができた。しかしながら、渋沢にとって、当時の社会が彼に与えるものは、往々にして受け入れがたく、かつ不平等は耐えがたいものであった。一七歳の時に渋沢が父親の代理として出席した御用金徴収の会議の際、彼は農家の出身という理由により役人の蔑視と嘲笑を受けたのである。このことは渋沢の心に深い傷跡を残した。
渋沢が少年から青年へと成長していく時期は、日本がちょうど西洋列強の脅威に直面し、国内での対立が非常に先鋭化していた時期でもあった。当時は社会情勢がひどく混乱しており、有識者の憂国意識はかつてないほど強くなっていた。渋沢は尾高新五郎の影響を受けて、二二歳の時に家業を捨て、反幕府の攘夷運動の一員となった。一八六三年、渋沢と他の数名の志士達は極めて大胆にも、武力による攘夷運動の計画を立てていた。しかし、計画を実行に移す前に内部で意見の対立が起こり、一時中止にせざるをえなくなった。この時、折り悪く内情を知る者が捕まってしまった。計画が漏れて身に危険が降りかかることを恐れた渋沢は、やむなく地方に身を隠した。思うにこの失敗が渋沢の初志とはまったく違う道に歩ませることになろうとは、本人も予想しえないことであったろう。彼は知人の紹介により徳川慶喜の下に降り、幕府要人の家来となった。これにより渋沢は反幕府の攘夷運動から姿を消すこととなる。
一八六五年、第十五代将軍に任命された徳川慶喜は、ほどなくして、弟の昭武を幕府の代表としてフランスのパリで開かれた万国博覧会に出席させた。この時、渋沢は昭武の随員に選ばれて欧州に渡った。フランスに滞在中、渋沢は万国博覧会に陳列されていた当時の世界で最も先進的な工業産品を参観したばかりでなく、フランス語の学習にも励み、各界との交流が広範囲にわたるにしたがって、彼は見るもの聞くもの全てにおいて日本との差は大きいと感じるようになった。例えば当時の日本では公家、武士と商人との社会的地位には天と地ほどの差があり、商人が公家や武士に会う時には頭を下げて腰をかがめなければならない。しかしフランスでは政府の官吏と商人の関係は「両者の間に少しの距りがなく、地位は全くの対等である」、「両者の接触するさまは、官尊民卑の日本人の目から見ては驚くばかり親密で、遠慮なくいろいろ議論などする(1)」というものである。このことが渋沢に、日本に帰ったら実業を振興させ、士農工商という古い悪習を打破しなければならないと思わせるに至ったのである。
フランスでの学習と視察が一段落した後、渋沢は再び昭武に従って欧州諸国のスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを訪問して回った。これらの国々で渋沢は同じように数多くの工場等を見学し、至る所で同じように見聞を広め、工業文明の力に深く感銘を受けた。とくに、昭武と共にベルギーの国王レオポルド二世に拝謁したことは、渋沢に終生忘れえない印象を残した。レオポルド二世は渋沢達にこう伝えた。「これからの世界は鉄の世界である。従って製鉄事業の盛んな国は必ず富み栄えると信ずる。又鉄を用いる事の少ない国は事実に於いて必ず弱国であり、且つ将来衰うるに至るであろうが、鉄を盛んに用うる国は必ず強く、其の国家も富むのである。……日本が将来鉄を盛んに用いるようになったなら、是非我が国の物を用いるようにせられたい(2)。」渋沢はこれにより再度思想上の啓発を受けることとなった。一国の君主でさえ貿易のことをはばからず話してくれるのであるから、商工業者がこれらの国でいかに大切にされているかがわかったのである。要するに、西洋諸国への訪問を通し、渋沢は人々の憧れの世界を見て、思想の上でも西洋文明の洗礼を受け、西洋諸国が何故強大であるのかを悟ったのである。こうして渋沢は単純な攘夷排外思想と政治主張を徹底的に放棄することとなった。
一八六七年、戊辰戦争を経て討幕運動は決定的な勝利を収め、日本は明治新政府の設立により新しい時代へと突入して行く。欧州から帰国して後、渋沢が昭武の供をして訪欧した際に示した財務管理能力と才能は当時すでに広く評価されていたので、ほどなくして彼は明治政府の大蔵大輔大隈重信からの要請によって租税司の租税正に就任した。それ以後、辞職までの四年の間に渋沢は紙幣頭、大蔵少輔などの要職を歴任し、ほとんど全ての重大政策(貨幣制度改革、廃藩置県、国立銀行の設立、公債の発行、地租改革等)の起草と制定に関与し多大なる政治業績を挙げた。  
2-2 商工業界に身を投じた後の渋沢栄一
渋沢栄一は大蔵省在職中、著しい業績のために絶えず昇進をしたが、彼は財政均衡主義者であり、国家の財政は収入とにらみ合わせて支出する原則を維持しなくてはならない、といつも主張したため、一八七三年、軍費と財政予算の増加策を巡ってついに当時の大蔵卿である大久保利通と正面からぶつかったことで、官を辞して商工業に従事することを決めた。
士農工商の身分意識が依然として強い社会状況の中、要職にあり、赫々たる業績を挙げた人物が官を捨てて商工業界に身を投じるということは確かに並大抵のことではなかった。そのゆえ、渋沢が辞官願いを出した後、何人かの友人たちは皆もう一度考え直すべきだと忠告した。しかし渋沢は彼らに感謝すると共に自分の考えを打ち明け、こう言った。「御忠告はかたじけないが、信じるところもありますから、思った通りにします。……もし人材がみな官界に集まり、働きのない者ばかりが民業にたずさわるとしたなら、どうして一国の健全な進歩発達が望めましょう。忌憚なく言うと、官吏は凡庸の者でも勤まるが、商工業者は才能ある者でなくては勤まりません。しかも現在の商工業者にはそういう人が少ない。士農工商の階級思想に引きずられて、政府の役人たることは光栄に思うが、商工業者たることには引目を感じる。この誤った考えを一掃することが急務です…(3)。」
渋沢栄一が官を辞した後に最初に行ったことは、日本が初めて行ったことでもあった。日本最初の株式会社銀行である第一国立銀行を設立したのである。ここから渋沢の華麗な企業家としての生涯が始まった。渋沢の七〇年代における企業活動は主に金融業を中心に展開された。第一国立銀行の頭取として、いくつもの想像もつかないような困難と挫折を乗り越え、経営を成功に導いた。これと同時に彼は別の仕事にも着手した。一八七三年に三井組、小野組、島田組を説得し共同出資会社である王子製紙社を設立した。一八七五年に森有礼を援助し商法講習所を設立し、翌一八七六年一月に東京会議所会長に就任し、同五月には養育院及びガス局の事務長も担当した。さらに、一八七八年に商法会議所会頭に就き、翌一八七九年には東京海上保険会社を発起設立させた。
一〇年余りの激しい変革期を経て、十九世紀八〇年代以降になると、日本の社会と経済状況は目に見えて変化してきた。このような新しい環境の中で、渋沢の企業活動は海運、造船、鉄道、紡績、ビール、化学肥料、鉱山開発等の産業部門に全面展開を始め、新しい段階へと進むこととなる。同時に、渋沢は積極的に社会活動に携わり、日本の商工業界で最も注目を集める人物となった。彼はたびたび様々な会議、活動に参加し、各地の招きに応じ講演や指導活動を行った。その満ち溢れた精力と強い責任感から、彼はあらゆるチャンスを利用し己の実業思想と経営哲学を宣伝した。しかし、商工業界での活躍ぶりとは対照的に、渋沢は政治活動に対しては無関心な態度を取り続けた。一九〇〇年に伊藤博文は政友会を組織し、これに渋沢を参加させて党の声望を高めようと強く願ったが、渋沢はこれを拒絶した。一九〇一年、伊藤が失脚すると、伊藤は松方正義とともに井上馨に内閣を組織することを要請した。これに対し、井上馨は渋沢を大蔵大臣に任命することを条件に内閣就任を承諾した。山県有朋、伊藤博文らはこのため何度も渋沢を説得しようと動いたが、渋沢は政治のいざこざに巻き込まれるのを恐れ、結局大蔵大臣への就任を拒否した。
一九一〇年、渋沢は齢七〇を迎えた。この年、第一銀行、東京貯蓄銀行及び銀行の集会所での職務以外、実業界での職務から一切退いた。一九一六年(大正五年)、渋沢は喜寿を迎えようとした時、年老いたことを悟り、四五年の長きに渡って務めた第一銀行の頭取を辞任し、実業界から退いた。渋沢の引退後の生活は慈善事業の継続と「論語」を再度読み解くことに費やされた。彼は一八七六年から携わってきた慈善事業に非常に熱心であり、この世を去るその時まで彼は東京養育院院長の職務を続けたのである。これと同時に、渋沢が高齢であることも省みず、「論語」の講座を開き、「論語」を人生の指南書とし、経済道徳統一論を強く主張した。片手に「論語」を携え、片手に算盤を持って実業活動をしろと呼びかけた。一九三一年一一月一一日、渋沢はこの世に永久の別れを告げた。九一年の人生の旅であった。  
3 近代中国の企業家―張謇
3-1 青少年時代の張謇と彼の士大夫の道
清の咸豊三年五月二五日(一八五三年七月一日)、張謇は中国江蘇省海門常楽鎮の農家に生まれた。彼は幼い頃、家庭が比較的豊かであったことに加えて、父親が息子の大成を心から願っていたため、五歳の時には読み書きを教えられ、付近の私塾に入った。邱畏之という先生の教育を受け、一〇歳までにはすでに 「千家詩」「孝経」「大学」「中庸」「論語」「孟子」「詩経」「国風」等の書籍を学び終えた。
張謇は一五歳の時から科挙を受け始めたが、当地の古い習慣によると、受験生の前三代までにおいて科挙で秀才以上の成績を修めたものが出なかった場合、その受験生は「冷籍」と呼ばれ、一定の資格もしくは地位のある者が保証人とならなければ試験を受けることは叶わなかった。そのため、張謇の父親は張謇の師である宋璞斎に周旋を頼み、資格を持っている如皋県・豊利鎮の金持ちである張駒を祖とし、名も張育才と改めさせることで、どうにか科挙の受験資格を取得させた。この後、一年の歳月も経たないうちに張謇は優秀な成績を以って院試に合格し秀才の称号を得た。しかし籍を偽って試験を受けたことはもとより違法であり、万一暴露し告発されでもしたら秀才の称号を取り消されるだけでなく、牢獄に繋がれる可能性もあったのである。そのため張駒らはこれにつけ込み、張謇の家に絶えず金銭を要求してきた。張家はなんとか耐えてきたが、要求に対処することが本当にできないところまで来ると、父親は張謇が元の籍に戻れるように宋璞斎に取り成しを頼んだ。しかし、張駒はそれでも飽き足らず役所に訴え出た。役所はまず張謇を学宮に取り押さえ上役に報告する準備をし、秀才の称号を剥奪し罷免するつもりで牢獄に入れた。その後、幸いにも顧延卿らの友人が金銭を工面し、便宜を図ってくれたため、張謇はやっと牢獄の外に出ることができた。また、張謇の才能を愛する通州知事の孫雲錦らの斡旋により、三年が過ぎた同治一二年(一八七三年)、張謇の「改籍帰宗」は礼部の認可を受け事態はやっと一段落を告げた。
「改籍帰宗」の承認を得た後、張謇はもう二度とびくびくする必要はなく、正々堂々と科挙試験に参加した。しかし、五年にものぼる一連の騒ぎによって張家の財産は残りわずかとなっており、その経済状況は張謇がこれまでと同じように勉学に専念することを許さなかったため、張謇本人も自立して身を立てることを考え始めた。同治一三年(一八七四年)、つまり張謇が二一歳になったその年、通州知事の孫雲綿はすでに江寧の発審局に転任していたが、張謇の暮らし向きが貧しいのを慮り、自分の所の書記に張謇を招いた。その後の光緒二年(一八七六年)閏月、張謇は慶軍総領呉長慶の幕府に入り、機密書記を務めた。呉長慶の父親は孫雲綿の親友で、その人となりは度量が大きく賢者を礼遇する学者肌の将軍であったため、張謇も非常に重んじられた。呉長慶は張謇の胸に秘めた志をよく知っていたので、できるだけ様々な方面において面倒を見た。張謇はこのことをとても幸運なことだと感じた。しかし、彼のその後の科挙合格への道は順調とは言えず、郷試にもたびたび失敗した。光緒一一年(一八八五年)の春に、張謇は都に赴き順天郷試に参加し、ついに合格し、挙人の肩書きを得た。けれどもこの後、進士に志向する張謇にとってその道は相変わらず曲折であった。光緒一二年(一八八六年)から光緒一八年(一八九二年)までの間、四回の会試を受けたが、その結果は全て思うようにはいかなかった。
光緒二〇年(一八九四年)、西太后の六十歳を祝うため、朝廷では特別に恩科なる試験が行われた。しかし、この時の張謇には科挙に受かりたいという長年の情熱がすでに消えうせてしまっていたので、試験に参加したいとは思っていなかったが、父親と兄の苦心の勧告により、仕方なく都に上り試験に参加した。この時の結果は予想の範囲を超えるもので、一次試験では六十位に入り、二次試験では十位に入った。そして四月二二日の殿試(最終試験)では一位である状元になり、その名を天下に轟かせたのである。二六年もの長きに渡って科挙に通るために奮闘してきた者にとって、本来状元になることは光栄で幸運なことであったが、この時の張謇には成功した喜びはほとんど無かった。彼はこの時のことを日記にこう記している。「門に生息する海鳥に本より鐘鼓の心(功名心)は無く、伏櫪の轅駒は久しく風塵の想いに倦む。一旦分不相応なる事をさせようと思えば、それはゆえの無い事である(4)。」一八九四年四月二四日明け方、張謇は光緒帝に拝謁し、二五日、太和殿で儀式が厳かに行われた。朝廷の慣例に従い、新状元である張謇は翰林院修撰を授かった。  
3-2 商工業界に身を投じた後の張謇
光緒二〇年(一八九四年)六月、すなわち張謇が官についてまだ二ヵ月も経過していない頃、日中間で甲午(日清)戦争が勃発した。張謇は軍機大臣である李鴻章の講和政策を激しく非難して、「戦争を以って和を求めよう」と主張したが、その時に、父親が病死したという訃報が突然届き、張謇はやむなく慣例どおりに職を離れ喪に服した。やがて甲午(日清)戦争が終結すると、清朝は日本に 「馬関条約」を結ばされた。この屈辱の結果を前にして、喪に服していた張謇も己の歩む道について考え直し始めた。張謇は僅か半年にも満たない官吏生活の中で、清朝が統治者として腐敗してしまったことと、その無能さをすでに深く理解していた。国家が戦争で危機に陥っているその時に、西太后は己の還暦を祝い、天下太平を謳歌し歓楽に身を委ねていた。また、李鴻章に至ってはその弱腰きわまる外交政策のためにすでに国民の憤りを買っていたにも拘らず、相変わらず庇護、重用を受けていた。こういった状況は張謇に官吏としての前途に疑問を抱かさざるを得なかった。また他方で、日本が勢いを増す中より啓発を受け、商工業が国家繁栄の原動力であることを目の当たりにした。こうして、張謇は官を辞して商工業に従事しようと決心した。
張謇の実業活動は最初、紗廠の設立から始まったのである。これは、南通が中外に有名な綿花の産地であり、かつ自家製布の生産もすでに発展し、労働力が豊富、交通も便利であり、立地条件が非常に優れているからである。一八九六年二月、紗廠の創設の件に関する報告は正式に朝廷に認可されたため、紗廠の資金の募集活動はそれで序幕を開いたのである。しかし、資金の募集活動は想像したより困難であり、曲折の連続であった。まず、張謇がその後で「通州の地は風気また開けず…」と話したように、資金力のある人は少なかった。張謇本人も金持ちではなく、持っているのは状元という肩書きだけである。資金力のある人から見れば、四書五経を読んだ文人はただ空論だけを重んじ、実務の能力がないため、その企業設立に疑いの態度を持たざるをえない。また、最初は何人かの上海商人が張謇に協力し半分ぐらいの資本金の応募を約束したが、その後の上海の綿糸市場に不景気の兆しが出てきて、幾つかの紗廠が相次いで難局に陥り、紗廠の前途に不安を生じたため、最終的に約束を破ることになった。しかし、張謇はこれらの当初思いもつかなかった状況に直面しても、けっしてその意気は挫けなかった。彼はあらゆる労苦を厭わず、万難を克服し、四年もの歳月をかけて二万錘余りもの紡績機を擁する紡績工場を完成した。その後、張謇は「天地之大徳曰生」という儒家の名言中の大と生二字を取って大生紗廠と命名した。
一八九九年、大生紗廠が操業を始めた時、あいにく中国民族紡績工業は「綿貴紗賤」という現象の影響を受けてまさに衰退状態に陥った時期に当たっていた。綿貴紗賤というのは綿花価格の上昇と綿紗価格の下落が同時に発生することを指す。張謇は市場のこの実際状況に応じて、「当地生産と当地販売」経営方針と有効な市場対策を制定した。いわゆる「当地生産と当地販売」というのは、当地の有利な地理と社会条件を十分に利用し、綿花資源の競争と粗紗の販売には勝機を取ることだ。このため、張謇は綿花購入のネットワークの建設に力を入れ、安定した仕入れ先を確保すると同時に、市場調査と市場変化による綿花購入策略の調整を通じて出来るだけ原料コストを削減する。一方、当地の自家製の粗布生産の需要に応じて、粗紗を主とする製品戦略を実施する同時に、薄利で販売する方針を堅持し、地方の商人たちとの密接な個人関係を大生紗廠の販売ネットワークに活かした。この「当地生産と当地販売」経営方針のお陰で、大生紗廠は大変厳しい環境の中でしっかり第一歩を踏み出して大きな成功を収めた。緒戦に勝利を収めた張謇は非常に励まされ、各領域に事業を拡大展開し始めた。一九〇〇年には通、海の州境一帯で通海墾牧会社を設立し、その後、三〇余りの各種企業を相次いで設立し、僅か何年かの間に大きな企業グループを作り上げた。
一九〇三年初頭、日本の在江寧領事官である天野はすでに中国実業界で有名な人物となっていた張謇に、日本に赴いて第五回国内勧業博覧会を見学するよう要請した。張謇は明治維新後の日本経済が飛躍的に進歩発展していることをすでに耳にしていたので、すさまじい勢いで躍進する東方の隣国を自ら視察してみたいとずっと考えていた。それゆえ、張謇はこの機会を捉えて訪日し、六三日間の訪日期間中に、長崎、神戸、大阪、名古屋、京都、東京、横浜、青森、札幌等二〇余りの大、中都市に行き、三〇件に上る農工商企業や団体、さらに三五ヵ所の学校と教育機関を訪問した。彼は苦労も厭わず、その日に見聞したもの、またその日に会得したことをできるだけ細かく記し、自分に感銘を与えてくれたことを次のように書いた。日本は「維新変法を行なって三〇余年、教育、実業、政治、法律、軍政等一心に欧米を模倣し、朝野上下たゆまずに心と力を尽して欧米に追いつこうと励んでいる。その用意の最も適当なるのは上がまず方針を定め、下に大義を明らかにすることだ(5)。」さらに、これこそが日本が成功を収めることができた貴重な経験であり、中国がまず初めに学習し、見習わなければならない点であると考えた。張謇はまた、日本が国民の教育に力を入れ、民度を向上させたことに極めて感心し、日本の教育が成功した点は「一億人に普通の知識を求め、幾人ばかりかの非凡を求めず」という考えにあり、「強い国とは兵の強弱ではなく教育の程度で決まる(6)」のであると考えた。このように、僅か六三日ばかりの視察の中で、張謇はかつてない啓発を受け、視野を広げ、中国が直面する問題を改めて観察分析し認識することとなった。
戊戌変法の失敗後、張謇の政治に対する態度はすでに比較的冷ややかであり、ただ実業に専念したいとの一心で人々の利益になることだけをしていた。しかし心の奥底では依然として中国が立憲君主制になることによって社会の変革を実現させることを願っていた。二十世紀に入り、腐敗しきっていた清朝が国内外の強い圧力に押される形で改革に応じる姿勢を示すと、中国で立憲君主制を実現させたいと願う張謇の前に一筋の希望が灯り始めた。特に日本での視察が張謇に大きな刺激を与え、彼に改めて中国の政治変革問題に関心を持たせることとなった。一九〇四年、張謇は両江総督である張之洞のために 「立憲奏稿」を起草し、立憲制にしなければ中国の存在と復興は有り得ないということを論じた。さらに張謇は「日本憲法義解」、「議会史」等の小冊子を印刷し朝廷重臣に配付した。立憲制の内容について、張謇は日本のそれを真似しようとしてこのように主張した。「中日両国は比較的近いので、日本を模倣するべきである。日本はドイツから学び、英国を参考にしており、ドイツ、英国からも同時に学ぶべきである。仏蘭西、米国を模倣するのとは違う、その意図するところを観察するのみである(7)。」光緒三二年(一九〇六年)七月、清朝から立憲制を立てる準備をするように詔が下り、張謇は鄭孝胥、湯寿潜らと共に上海で立憲準備公会を誕生させ、彼はそこの副会長に推挙された。立憲準備公会は政治方面に活動の重点を置いた以外にも、諮問局を置くことや、国会請願運動において少なからず役割を果たした。一九〇八年、西太后と光緒帝が崩御すると、三歳にも満たない溥儀が帝位を継承した。清朝は政局の安定を図るため、各省に立憲政治を準備し実施するための諮問局を設置し、張謇を江蘇省の諮問局局長に任命した。
辛亥革命が成功を収めると、張謇は実業方面での業績と社会的名声により政権者の重用を受けた。一九一二年元旦、孫中山(孫文)が臨時大総統の職に就くと、張謇を実業総長兼両淮(淮北、淮南)の塩政総理に任命した。しかし、僅か一ヵ月余りが過ぎた頃、臨時政府が漢冶萍会社を抵当に入れて日本に借金を申し込んだことが納得できなかったため、張謇は実業総長の職務を辞した。袁世凱が大総統に就任すると、彼と良友である熊希齢の度重なる説得を受け、一九一三年一〇月に熊希齢内閣に参加し、農商総長を務めた。その在任三年の間、張謇は経済関係の法律の制定を非常に重視した。彼は商工業の発展を保護するとともに、金融体系の整頓に積極的に着手し、中央銀行と地方銀行を建設し、商工業の発展と輸出を促進する一連の税金政策や方針を制定した。中国経済をいち早く正しい軌道に乗せるため、張謇は全ての心血と力をこれらに注いだのである。しかし、中国の政治情勢の変化がまたもや彼に大きな精神的打撃を与えた。彼は支持してきた袁世凱が政治を弄び、国を盗むようなペテン師だとは思いもしなかったのである。張謇はどうしても我慢することができず、封建制度を復活させた袁世凱に対する怒りを示すため、一九一五年三月、職を辞し故郷に帰って行った。
張謇は政治の表舞台から退きはしたが、依然として国家の行く末を案じていた。この時の張謇はすでに還暦を過ぎていたが、その雄々しい志は依然として健在で、故郷に帰った後も紡績業と墾牧事業の拡大にいっそう力を入れると共に、いくつもの新事業を完成させていった。一九一六年に天生港果園を設立すると、一九一七年には郊外の道路を整備し、東南西北中の五つの公園を造り、一九一八年に大同銭庄と南通不動産会社を設立した。一九一九年には伶工学社(当時中国で唯一の演劇養成学校)を創立し、更俗劇場を建設した。また同年、淮海事業銀行を創設し、工商業補習学校、蚕桑講習所、女紅教習所を設立して、南通図書館の新館も建設した。一九二二年、第三養老院を建設した。一九二三年、地方の道路を整備し、自ら全県の水利計画を立てた。しかし、残念なことは、本業の紡績業及び墾牧事業の拡大はあまりにも急激すぎ、さらに二〇年代に入ると、市場環境は劇的に悪化し、収益の激減による債務返済の危機に陥った。このため、張謇は外資の利用を思い付き、日本とアメリカの関係者に資金の協力を打診したが、いずれも期待通りには実現しなかった。こうして、一九二五年までに、張謇はついに大生企業グループの再建を断念し、大生紗廠ごとを上海の中国銀行、交通銀行などの金融機関からなる債権者団に譲り渡した。
張謇は大生企業グループの失敗で企業家の生涯を閉じたのである。けれども、その後の張謇はあいかわらず多忙の毎日を送っていた。彼はいくつもの社会団体でも職務に就いた。一例をあげれば、中国紡績工場協会の会長、中国技師学会並びに中国鉱業学会の名誉会長等である。付言すれば、張謇は中国の水利建設を大いに重視しており、一九二二年から、新運河の工事監督を兼任し、高齢であるにも拘らず、度々各地の水利資源と工事状況の視察に出かけた。一九二六年八月初旬、すでに体の状態が思わしくない事を感じていたが、張謇は酷暑の中、長江沿岸の堤防工事を視察し、その結果働き過ぎが祟ったのか病状を重くし、同二四日に永遠の眠りに就いた。享年七三歳であった。  
4 渋沢栄一と張謇の経歴と近代日中社会
以上、我々は渋沢栄一と張謇の主な経歴を見てきたが、かりに歴史人物の研究という観点から見ても、この考察は極めて概括的なものであったと言える。だが、われわれは時代と社会の変遷の痕跡が両者の経歴のいたるところに残されているということを見て取ることができよう。渋沢栄一が生きた九一年間で、日本は江戸、明治、大正、昭和と四つの時代を過ごし、いくつもの大きな社会の変革と歴史的出来事を経験した。また、張謇が生きた七三年間で、中国は列強の侵略を受け民族の存続危機が絶えず深まっていった一方で、二千年もの長きにわたった封建時代が終結し、伝統社会から現代社会への転換を迎えた。このような共通点のある時代背景の下、両者の人生には非常に似通った部分が存在する一方、いくつかの相違点の存在も見受けられる。では、その共通点と相違点はどのようなものであろうか。また、そこからどのような問題点を見つけることができるのであろうか。  
4-1 渋沢栄一の「早年出仕」と張謇の「大器晩成」
上述したように、少年時代の二人の境遇には確かに似通った部分が存在している。彼らは共に農家の出身で、幼少の頃より私塾で教育を受け、四書五経を学び、受けた啓蒙教育も内容の上では基本的に同じであった。両者とも農民出身であったために、若い頃には虐げられた経験をもち、そのため自身の社会的地位を変えることを常に夢見ていた。しかし、両者のその後の経歴は大きく異なる。渋沢栄一は自分の境遇を変えるため攘夷の旗を掲げ倒幕を目指そうとし、逆に張謇は朝廷に叛こうなどとは考えもしなかった。そして、渋沢は一五代将軍徳川慶喜を頼ることで、武士階級となり、二八歳の時、明治の新政府で大蔵省の高官に就いた。これに対し、張謇は最後まで初志を貫徹し、科挙を通り出仕するために二六年もの間奮闘を続け、不惑の年で大望を果たした。この相違点は両者が直面したそれぞれの社会、現実を如実に反映するものであった。
江戸時代末期、日本の官僚制度は依然として世襲制と門閥制を続けていた。このような制度は社会での地位を変えることを願う人々に二つの道しか選ばせなかった。一つ目の道はこのような制度を変えるために攘夷倒幕に参加することであり、もう一つの道は籍を変え、名を改めて幕府か藩に仕えることであった。渋沢も例外ではなく、当初一つ目の道を歩み、それに敗れた後はもう一つの道を歩んだ。この二つの道はそれぞれ違う政治的意義を持っていたが、一人の人間にとってはどちらの道も自身の社会的地位を改善するためにやむなく選んだ道であったと言える。しかし、明治維新後の渋沢はとても幸運であった。資本主義社会への変革が起こり、身分差別が廃止され、能力主義の社会原理がだんだんと出来上がって来たのである。新政府は人材を採用するにあたってこだわりを持たず、渋沢が旧幕府の家臣であったことなど気にもしなかった、これにより、渋沢はその才能を思う存分に発揮し、青年期から国のために尽力する事ができたのである。
しかしながら、科挙制度が行われていた中国において、張謇の直面したものはそれとは違う社会と現実であった。科挙制度は世襲制度とも門閥制度とも違い、能力主義の色合いが強いものであった。このような制度の下では、たとえ貧しい農家の出身であっても、殿試に合格さえしてしまえば国家の最高級の官僚になる条件を手に入れることができる。この点では、張謇は渋沢栄一と比べ幸運であったと言える。なぜならば、このような制度の存在は他人から差別されてしまうような社会的地位を自らの力によって変えることが出来るからであり、渋沢のように反逆の道を歩む必要もなかったからである。こうして見ると、封建社会の下では科挙制度は世襲制度や門閥制度と比べてより合理的であり、世襲制度や門閥制度にはない社会的包容力と機能が備わっていたと言える。ここで言う社会的包容力と機能とは主に次の三点で表される。第一は、全国の各階層から人材を集め、見識のある者を起用し、能力のある者を政治に参加させるという点である。第二は、すべての人々に向けて官僚になる道を開き、能力のある者たちに己の運命を変え己の大望を実現させたいという理想を一つの試験に託させ、他の手段を用いて差別を受けるような社会地位を変える必要を感じさせない点である。第三は、社会伝統の倫理道徳観念に符合するという特徴によりすべての人々から科挙は正道であるということが公認されているという点である。以上三点から科挙制度の持つ社会的包容力が非常に大きく、それは統治者と被統治者の間における衝突と矛盾を緩和する機能がある。しかし、もう一つの視角から見れば、科挙制度の持つ社会的包容力は中国封建制度が長く続けられる一因であったと言える。この制度のもとで、多くの優秀な人材は進士試験に熱中し、合格までの長い年月の間その才能は社会に何も役立たないので、人材の巨大な浪費をもたらした。張謇のいわゆる大器晩成はまさにその最たる例証である。  
4-2 渋沢栄一と張謇の辞職と経営ナショナリズム
身分の差があり、商人を軽んじる意識が強い社会の中で、渋沢栄一と張謇が官を捨てて商工業界に身を投じたことは封建社会の世俗が持つ偏見に対する大胆な挑戦であった。彼らが官を捨てた直接の原因から見てみると、渋沢栄一は仕事の上での意見の相違とそれに伴う不満であることに対して、張謇のそれは統治者の腐敗と無能さに対する失望と不満であった。政治的な意味は同じというわけでもなかった。しかし、なぜ商工業界に身を投じたのかという点では、両者は似たような理由を持っていただけでなく、思想上の特徴にも共通性があったのである。
まず始めに、彼らが実業界に身を投じた時の時代背景と動機が同じであるということがあげられる。すなわち、彼らは個人もしくは家庭の繁栄や富貴を求めたためではなく、祖国を救い、強くするために商業に従事したのであった。渋沢はこう言った。「欧米諸邦が当時の如き隆昌を致したのは、全く商工業の発達しているゆえんである、日本も現状のままを維持するだけでは、いつの世か彼等と比肩し得るの時代が来よう、国家の為に商工業の発達を図りたい、という考えが起こって、ここに初めて実業界の人となろうとの決心が着いたのであった(8)。」また、張謇はこのように言っている。「かりに工業が興らなければ、何時までたっても国家に不貧の期は無く、民は永遠に不困の望がない。中国はただ工芸の一端を善くするのみで、日に日にそれが向上し、一体どのように憂貧の事に至るのか。これすなわち養民の大経であり、富国の妙術であり、外国の侮りに抵抗するためだけに工業勃興を計るのではなく、外国への抵抗というものは自ずとその中(工業勃興の中)にあるものである(9)。」このように、彼らの国を富ませたいという気持ちは明らかであり、商工業を興さなければならないという認識も明確に一致している。ここからわかるように、渋沢と張謇は愛国心と社会的責任感に満ちている人物であり、彼らが商業に従事したことは完全に国家の事を思い、国家の急を考えての行動であり、個人の得失など度外視したものであった。このため、彼らは極めて似ている実業思想を持っている。渋沢は論語算盤説を提出し、経済と道徳の合一、公益と私利の合一、義と利の合一を強く主張し、実業界に国益優先を呼びかけた。一方、張謇は「言商仍向儒(商名儒行)」という理念を提出し、「非私而私也、非利而利也(私にあらざるも私となり、利とあらざるも利となる(10))」という思想を主張した。つまり企業家にとって企業を経営するにはまず国家のための思想を樹立し、国家の急を急するべきであり、私利の追求を主要目的においてはならず、最終結果から見てそのようにすることが客観的には自己にとって有益であり、私利を謀ることなくして私利を得るという効果を収めることができるのである。明らかのように、渋沢と張謇は共に儒学思想の忠実な擁護者であり、共に儒学思想とその倫理観を企業活動の精神的支柱とし、西洋資本主義の経営方法でこれを補完するという経営ナショナリズムの鼓吹者と実践者であり、彼らは共に東洋の精神文明と西洋の物質文明との結合を探求する過程で近代企業家への変身を遂げるのである。  
4-3 渋沢栄一の訪欧と張謇の訪日
言うなればそれは或いは近代の歴史の流れの中で起きた一種の必然であったのかもしれない。西洋文明がその抗いようの無い勢いを以って全世界を席巻し、後発国が民族独立と「自立」を求めている中で現れた歴史人物にとって、先進国を訪問した経験は往々にして彼らの人生における新しいスタートラインとなるものである。渋沢栄一と張謇はその機会に恵まれ、彼らの訪問はやはりその後の人生と信念とに多大なる影響を及ぼした。渋沢は欧州訪問を通して、日本で株式制度を普及させることを目指し、自らの行動を以って身分差別のある封建的意識を改善させようと決心した。張謇は日本訪問を通して、政府の助けが商工業の発展と社会改革を行うことにとって切実な事であると深く感じ、地方自治の道を歩むことを心に決めた。彼らのように伝統社会で生まれ育った者にとって、もしそのような思想的洗礼を受けることがなかったならば、彼らのその後の人生と企業家としての活動はまた違った様相を呈していたのかもしれない。
しかしながら、比較という観点から見ると、渋沢栄一と張謇の訪問にはいくつかの明らかな相違点があることにも注意しなければならない。まず、時間的な側面から見ると、張謇と比べて渋沢は幸運であった。初めて欧州に渡ったのは彼が二七歳の時であった。彼の思想上の未成熟さは、彼が新しいことを受け入れる大きな余地を残していた。また、さらに重要なことは、この時の訪問期間は二年近くにも及んでいたことである。これほどの長い時間は、渋沢に語学をマスターさせただけでなく、その国の生活に深く関わらせられることとなり、欧州視察をより充実したものにさせることとなった。逆に、張謇の日本での視察は僅か二ヵ月間であった。このような短い時間では、彼がまったく新しい国家と社会を理解するには明らかに不十分である。また、視察対象から見ても、渋沢が渡ったのは近代資本主義と産業革命の発祥地である欧州の6カ国であり、その中には当時世界で最も発展していた工業国のイギリスも含まれていた。それゆえ、渋沢が見たものは伝統社会とは正反対の近代社会であり、工業化と西洋の精神文明に彼は洗礼されざるをえなかった。他方、二〇世紀初頭の日本は三〇年余りの奮闘により、「後れた国」というイメージを振り払い、帝国主義列強の一員と成っていたが、西欧の資本主義国家と比べてはまだ確かな差があり、伝統社会の痕跡をどことなく残していた。このため、張謇が日本で見たものは近代国家にまだ完全には生まれ変われていない社会であり、これは張謇の近代社会への理解に大きな制限を加えざるを得なかった。このほか、張謇が日本に行ったのは彼が五〇歳の時であり、長きに渡る科挙の道と紡績工場を設立する苦労を経験していた彼の思想はすでに成熟していた。このことは日本での視察で新しいものを吸収しようという張謇にとって、有利な点もあり、また不利な点でもあった。これらからわかるように、訪問した先進国の違いが、渋沢栄一と張謇の近代工業化に対しての認識に差を生み、この差が彼らのその企業活動にそれぞれ違った影響を及ぼしたのである。  
4-4 渋沢栄一と張謇の政治に対する姿勢
渋沢栄一と張謇の経歴からよくわかるように、両者が官を辞して商工業に従事した後の政治参加姿勢には明らかな違いがある。渋沢は実業活動に専念し続け、官界に戻ることはなかった。彼の企業活動は政府官僚と密接な関係を保っていたが、いかなる政党にも参加せず、明治以後の政治界にはいかなる足跡をも残さなかった。これに対して張謇は終始政治活動を放棄しなかった。こういった事情が、彼に著名な企業家としてだけではなく、近代中国政治で重要な地位を占めさせることとなった。それでは、それぞれの国で最も代表的な企業家である渋沢と張謇の政治に対する姿勢になぜこのような大きな差が生まれてしまったのであろうか。個人の経歴と社会の環境、この二点からその答を導き出してみたい。
個人の経歴から見てみよう、前文でも触れたように、渋沢栄一は少年時代から人並み優れた商才を発揮してきたが、政治にまったく関心がないわけではなかった。彼が反逆の旗を掲げ倒幕運動に参加したことがこれを証明している。しかしながら、その後幕臣となった変節行為によって、彼は社会変革に相対する立場に身を置く一方で、時代後れというイメージを人々に与えた。そして、彼自身にも政治に関与することは良くないという教訓を与え、政治は個人に左右出来るような簡単なものではないと感じさせることとなった。渋沢栄一はつぎのように言っている。「元来政治と実業とは互いに交渉錯綜せるものであるから、達識非凡の人であったら、この二途に立ってその中間を巧妙に歩めばすこぶる面白いのであるが、余の如き凡人がさようの仕方に出るときは、あるいはその歩も誤って失敗に終ることがないとも限らない。故に余は初めから自己の力量の及ばぬところとして政治界を断念し、もっぱら実業界に身を投じようと覚悟した訳であった…(11)。」この発言はこの教訓に対する彼の消極的な総括であると言える。一方、張謇は政治生活において教訓や挫折がなかったわけではなかったが、清朝の腐敗と愚昧さを前に、深い失望感を覚え商工業界に身を投じた過程自体に、政治に対するその消極的な態度が反映されていたといえる。しかし、張謇はまがりなりにも二六年の歳月を科挙に費やした知識人であり、儒家思想を以って天下を安定させるという考え方が骨の髄まで沁み込んでしまっていたことも確かであった。これは政治とは無縁ではいられない、また政治の世界からは離れられないことが彼に運命づけられていたといえる。
次に、社会環境の観点を見てみよう。明治維新後の日本は、一連の改革を経て資本主義制度が確立しており、明治政府の殖産興業政策の実施及び個人企業に対する援助は、企業が発展する上で非常に有利な社会的条件を作り出していた。政界では情勢が変わることもしばしばで、派閥争いも絶えず起こってはいたが、資本主義の路線を歩むという基本方針が変わることはなかった。そのため、企業の発展過程において国の制度からの妨害や干渉は起こらなかった。このような背景の下、どの政党が政権を握っても、彼らは商工業界からの声に耳を傾けたし、企業家とは常に密接な関係を保っていた。渋沢はこれにより商工業界の経済利益が政治に反映されないことを心配する必要がなかった。
一方、中国の状況はこれとは完全に異なるものであった。洋務運動を何十年も続けていたとはいえ、封建社会制度には何の変化も見られず、これは張謇の企業活動を異常なほど困難なものとした。このような過酷な現実は張謇に「実業の命脈は全て政治に関わっている(12)」ことを悟らせざるを得なかった。そして自分が惹かれていた実業を以って国を救うという考えは、制度の上での有力な支持が得られなければ目的を達するのは困難であり、中国の政治制度の変革は個人による実業救国よりもさらに重要であると考えるに至った。こうした政治に対する意識や姿勢は大部分において彼が直面した社会環境によって形成されたものであり、それは彼が渋沢とは違って政治の世界から離れることが出来ない大きな原因となっていたのである。  
4-5 企業活動の成否と社会環境
渋沢栄一と張謇は同じ実業救国の理念を抱いて商工業に身を投じたものであったが、しかし両者の人生はまったく異なる結末となった。渋沢は望み通りに日本の富国強兵を見ただけではなく、自分の事業の成功も収めた。これに対して、張謇の目に映った中国は相変わらずの貧困と後進に苦しみ、万難を排して創設した大生企業グループもついに失敗に終わった。それでは、大生企業グループはどのように繁栄から没落に陥ったのか。言うまでもなく、どの国にも企業家の経営活動の失敗はかならず個人的な要因がある。張謇の場合は主に二つが取り上げられる。その一つは近代企業管理知識の不足、もう一つは近代企業経営意識の欠如である。例えば、張謇は「機械と工廠の建物において、減価償却という例がある。…しかし 「旧」くなっていないうちに、「折」(減価償却)をやらなくてもいい。これも「折旧」(減価償却)という言葉そのものと名実相伴う(13)」と述べていた。明らかに、張謇の頭の中で機械設備を定期的に更新する観念がなく、減価償却を通じて、資本の蓄積を促したり、機械設備の価値の下落を防止したりするような意識もなかったのである。それゆえ、減価償却を企業経営においては採用すべき基本的な制度の一つと見なすことができなかったのである。
しかし、大生企業グループの破産の経緯から見れば、張謇の失敗はただ個人的な要因によるものではなく、あくまで中国の社会環境と政府の政策に大きな関連があると言える。つまり、大生企業グループが窮境に追い込まれた時、困難を乗り越えるために、途方に暮れた張謇は政府に緊急の資金援助を請求した。しかし、この時でさえ政府は依然として傍観し何も助けてくれなかった。ところが、偶然の一致であるかもしれないが、二〇年代の初めの日本経済も一時恐慌を生じた。第一次大戦後、日本の経済は再び繁栄して、企業の投資も非常に増加し、生産量も大幅に高まった。しかしこれらは生産過剰と信用関係の急激な膨張を招き、ついに金融危機と不景気を突然もたらした。信用関係の破壊と株価、物価の大幅な暴落により、金融機関と紡織などの企業はかなり深刻な打撃を受けた。しかし日本政府はその情勢に歯止めをかけるために、大規模な緊急救助措置をとった。これらの資金援助などの緊急な措置の実行は主要な商業銀行と株式取引所及び大企業を一時の苦しい境遇から救い出し、金融の恐慌を克服し、景気の大幅な悪化を防ぐのに大きな役割を果たした。中日両国のこの対照的な政策に直面して、張謇は非常に感傷的になり、彼は「中国の政府ははるかに日本に及ばない。南通の各事業は今中断時期にある。私はこの不況をそのまま放置しておけるものか。ただ日本人のように政府からの援助をうけられないことは遺憾きわまりない(14)」と述べた。このことから見ても分かるように、中日両国の政策の対照的な帰結は、張謇の失敗と渋沢栄一の成功がただ両国の近代化が辿った異なった運命の縮図にすぎないことを示す。張謇が自分の不運を嘆いたのは自己の失敗の口実ではなく、彼の直面した社会の現実から生じた必然的なものであったのである。  
参考資料
1.土屋喬雄「渋沢栄一」、吉川弘文舘平成元年版、一一二頁。
2.「青渊回顧録」上卷、青渊回顧録刊行会昭和二年版、第一八三頁。
3.渋沢秀雄「明治を耕す話」、青蛙房昭和五五年版、第一一九-一二〇頁。
4.「張謇全集」第六卷(日記)、江蘇古籍出版社一九九四年版、第三六二頁。
5.「張謇全集」第六卷(日記)、江蘇古籍出版社一九九四年版、第四九〇頁。
6.「張謇全集」第六卷(日記)、江蘇古籍出版社一九九四年版、第五一一頁。
7.「張謇全集」第一卷、江蘇古籍出版社一九九四年出版、第一〇三頁。
8.「論語と算盤」、国書刊行会、一九八五年版、第五七頁。
9.「代鄂督条陳立国自強疏」、「張謇全集」第一卷、第三八頁。
10.「大生紗廠股東会宣言書」、「張謇全集」第三卷、江蘇古籍出版社一九九四年版、第一一四頁。
11.「論語と算盤」、国書刊行会、一九八五年版、第一五六頁。
12.張孝若「南通張季直先生傳」、上海書店一九九一年影印版、第二七四頁。
13.「大生紗廠第二届説略並帳略」「張謇全集」第三巻、江蘇古籍出版社、一九九四年、四四頁。
14.「張謇全集」第一巻、江蘇古籍出版社、一九九四年版、五九九頁〜六〇〇頁。  
渋沢栄一 
明治時代、今日の日本経済の基礎が確立された。そのために果たした渋沢栄一の役割は絶大なものであり、他を圧倒している。江戸末期、渋沢はフランス留学を経験した。そこで彼は資本主義の制度、精神を徹底的に学んで帰ってきた。
道徳と経済の一致
渋沢栄一は経済界の巨人である。明治の代表的経済人と言えば、渋沢栄一と三菱の創業者岩崎弥太郎の二人を誰もが躊躇なく上げるであろう。
しかし、商工会議所を作ったり、銀行を始めとする日本の金融制度の確立に尽力したり、自ら五百以上の会社の運営に関与したことなどを勘案すれば、岩崎よりもはるかに大きな影響を経済界に残した人物である。「銀行」という言葉を発明したのは、渋沢栄一であることからも、彼の影響力の大きさがうかがえるのである。
しかし彼の偉大さは、その経済人としての影響の大きさばかりではない。彼の信条そのものにあると言ってもいい。経済界で活躍する彼の一貫した信念は、「道徳と経済の一致」であった。彼は常に「論語とソロバンを一致させなければならない」と説いていたという。
ライバルの岩崎は、儲けるために手段を選ばないといった「事業の鬼」に撤した経済人であった。それに対し、渋沢は武士道の精神を経済で生かす道を考えていた。彼にとっての武士道とは、「人として、歩まなければならない道」であり、「踏み外してはならない道」のことであった。つまり精神を律する道徳心と言ってもいいだろう。彼はこうした信条を死ぬまで守り通した。
資本主義の末路が欲望刺激主義であり、現代日本社会がその毒牙にすっかり汚染された社会であるとすれば、渋沢栄一の問題意識は、実に今日的である。
幕末にフランスへ留学
渋沢栄一は、不思議な運命をたどった男である。農民の子でありながら、武士になる。それも徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜の家臣。その男が徳川幕府を倒した明治政府に用いられ、その後日本の経済界を背負って立つ人間になるのである。
さらに彼は徳川時代末期にヨーロッパに留学した数少ない日本人の一人であった。主君である慶喜の弟昭武のフランス留学にお供として付き添い、フランスに2年近く留学した。この時、フランスやイギリスで見聞したもの、学んだものが彼の将来を決定づけるものになったのである。
昭武と共に、渋沢が留学した当時の日本は、まさに幕末の激動期であった。討幕運動が薩摩、長州を中心として展開し、そこにヨーロッパ列強が加わり、先の見えない混沌状態が続いていた。イギリスは徳川幕府を見限り、「日本の外交権は天皇にある」と言って、天皇中心の新しい政府を目指していた薩摩藩や長州藩に肩入れしていた。一方フランスは、イギリスとの対抗上、徳川幕府の外交権を主張して、幕府に肩入れしていたのだ。
そのフランスが1876年パリ万国博覧会の主催国であったため、日本にも参加を呼びかけた。将軍慶喜の弟昭武がその代表に選ばれ、ついでに数年間昭武は、渋沢と共にパリで留学生活をするという計画であった。しかし時代の激動は、彼らの長期留学を許容してはくれなかった。67年1月に横浜港を発った彼らではあったが、翌年には徳川幕府崩壊の報をフランスで受けることになった。その年の11月には帰国を余儀なくされた。彼らの留学生活は約2年間で終止符を打つことになる。
渋沢は幕末の激動期に「パリにいて良かった」と常々感じていた。もし日本に残っていたら、徳川慶喜のブレーンの一人だということで必ず殺されていたであろう。事実、日本に残っていた慶喜のブレーンは全て暗殺されてしまっていた。
二人のフランス人顧問
使節団一行がヨーロッパに向かう途中、おもしろいエピソードが伝えられている。彼らの船がスエズに到着して、そこからアレキサンドリアまで汽車で移動している途中のできごとであった。一行が汽車に乗るのはもちろん初めて。ガラスというものをそれまで見たこともなかった。一人が窓の外を見ると景色が透き通って見えるので、何もないものと思って、みかんの皮を窓から捨てようとした。しかしそこには透明のガラスがあるのだから、皮は車内に跳ね返ってくる。不思議に思って、また繰り返す。こんなことが何度か続いた。そこにいた西洋人が注意をしたが、言葉がわからない。それで喧嘩ざたになったという。こういうエピソードが渋沢の回顧談に残されているほどに、一行にとってヨーロッパは見るもの、聞くもの、みな珍しいことばかりであった。
後の渋沢の活躍にとって忘れてはならない二人のフランス人がいる。一人は銀行家のフロリヘラルト、もう一人は軍人のビレット。徳川幕府がフランス政府に頼んだ特別顧問である。一行の面倒を見るために雇われていた。とくにフロリヘラルトは、幕府から名誉総領事の立場を与えられて、積極的に彼らの面倒を見たという。
渋沢は、このフロリヘラルトから多くを学んだ。銀行のことはもちろん、株式取引所、株式公債、有価証券など金融にまつわるほとんど全てを彼から習得した。この時に得た知識と経験が、後に日本の金融制度、株式会社制度を確立する上で、大いに役立ったことは言うまでもない。
しかし彼は単に資本主義の制度的な側面ばかりを学んだわけではなかった。彼が驚いたのは、この二人の顧問達の関係であった。一人は銀行家、一人は軍人。日本ではこの二人の間の身分格差は決定的である。士農工商が確立していた日本では、銀行家はあくまで商人であるので、社会の一番低位に位置する。軍人は武士であるので、一番上である。
ところが、この二人のフランス人の間には全く上下の意識がないのである。全く対等であった。銀行家フロリヘラルトは軍人ビレットにずけずけとものを言う。ビレットは腹を立てるわけでもなく、それを謙虚に受け入れる。日本ではおよそ考えられない光景であった。彼は新しい発見をする。日本では、政治といえば武士が担うものであった。しかしヨーロッパでは必ずしもそうではない。商人が政治を主導することもあるのである。後の大実業家・渋沢栄一の本性がむくむくと頭をもたげてきた。
新政府に奉仕
渋沢が帰国したのは、徳川幕府が倒れ、明治の新政府が出発した直後の混乱期である。徳川慶喜は静岡藩に退き、地方の一大名に成り下がっていた。渋沢は静岡に赴き、慶喜に留学の詳細を報告したのち、慶喜のもとで官に仕える道を頑なに辞退し、民の立場で静岡藩の発展のために貢献する決意を固めていた。フランスで学んだ実業(様々な経済的事業)の知識と経験をまず、静岡藩で実験しようと心に決めていたからである。
静岡藩で一定の成果を上げた渋沢を明治政府は見逃しはしなかった。日本は彼を必要としていた。説得にあたったのは、大蔵省の大隈重信である。渋沢は静岡で商人の共同体組織である商法会所を設立し、その評判が政府にも知れ渡っていた。これは彼の「道徳と経済の一致」という考えを実現するために作られた組織であった。
商業は一歩間違えば、目先の利益追求だけに目を奪われ、人々の幸福にとって阻害要因になることを彼は危惧していた。これを避けるには、商人が共同体を組織し、手を取り合って運営すべきであるというのが彼の考えである。これが商法会所を設立した彼の信念であり、後に商工会議所として商工業の発展に大きく貢献することになる。
大隈の説得は、渋沢が静岡で作った商法会所を日本全体に及ぼしてほしいというものであった。彼は新政府に入るつもりは全くなかった。旧幕臣であったからであり、民で実業の世界で生きる決意をしていたからでもある。しかし大隈の説得は彼の決意を鈍らせた。小さい頃から、国家のために「何事かなさんとする志」を持ち続けてきた彼の中の熱い思いが大いに刺激され、国家に奉仕する道を選択するに至ったのである。
実業の世界へ
渋沢の大蔵省での官僚生活は3年半に及んだ。しかし台湾を征討し国威高揚を主張する外務省と財政の健全化を主張する大蔵省の対立の中で、渋沢は政府を去ることにした。このことは渋沢にとって、まさに「篭から解き放たれた鳥」であった。フランスで学んだ実業のノウハウを政府を通して実現しようにも、政治の論理がそれを妨害することが少なくなかった。
大蔵省を辞任することで、彼は自由を得た。日本実業界の振興のために活躍する場を得たのである。水を得た魚のように、彼の本領が遺憾なく発揮されることになるのである。驚くべきことに、この時彼はまだ33歳であった。92歳まで生きた渋沢の実業界への貢献は、実に60年間に及ぶことになる。 
 
頭痛と樋口一葉

 

樋口一葉、頭痛を語る
井上ひさしさんの戯曲に、「頭痛肩こり樋口一葉」というちょっと変わったタイトルのものがあります。
「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を残した樋口一葉は、まさに激しい頭痛と肩こりに悩まされた人でもありました。
とりわけ頭痛は、一葉の10代の頃からの悩みの種でした。
「おのれ十四斗(ばかり)のとしまでは病ひといふもの更に覚えず」(「筆すさび」)
という丈夫な一葉でしたが、その後大人びるにつれ、
「ここかしこに病ひ出来て、こと更にかしらいたみ肩などのいたくはれなどすれば、物覚ゆる力とみにうせて耐えしのぶなどといふは更に出来うべくもあらず・・」
と書いています。女性として成熟するにつれ、さまざまな病気、とくにかしらいたみ(頭痛)と肩のはれに苦しめられるようになりました。
「たけくらべ」には、主人公の少女・美登利(みどり)が初潮を迎えたときの、微妙な心の乱れや女性としての変化が見事に描き尽くされています。明治という時代に、公然と語ることなど思いもよらなかった女性の生理を、真正面から描いてみせた一葉の大胆さと、描写の巧みさには驚かされます。
その一方で日記と合わせ読むと、一葉の頭痛はおそらく、美登利と同じような年頃から始まったであろうことが連想されます。
一葉は日記に、頭痛のことをよく記しています。
「頭痛たへがたければ此夜は早くふしたり」
「頭痛はげしく暇を乞いて灸治(きゅうじ)に行かんとす」
「頭痛いとはげしければ暫時ひる寝」
「我脳痛いとはげし。水にてかしらあらひ、はち巻などす」
「かしらはただいたみに痛みて何事の思慮もみな消えたり」
「脳の痛みたへがたくして、一日うち臥したり」 (井上ひさし「樋口一葉にきく」より抜粋)
日記からは、一葉の頭痛がかなり激しいものであったことがうかがわれます。早く床についたり、灸をしたり、髪を洗ったり、なんとか頭痛の解消を試みている様子も伝わってきます。
鉢巻は、机に向かって小説を書くときなど、頭痛対策でよくしていました。
病院から鎮痛薬をもらってもいましたが、あまり効き目はなかったようです。
それでも一葉は薬包紙を、しおり代わりにして本にはさんでいたといいます。何気ない習慣にも、耐えるしかない一葉の頭痛のつらさが偲ばれます。
代表作のひとつ「にごりえ」は、菊の井という銘酒屋で働く酌婦お力(りき)と、お力を目当てに遊びにくる男たちとのやりとりを描いた悲劇的な物語です。
お力は酌婦仲間にも慕われる「姉さま風」の魅力的な女性ですが、同時に、やり場のない生の空虚感を体現した遊女そのものとしても描かれています。
そのまなざしは、世俗の塵のなかから陽の当たる世界を眺めつづけた、一葉自身の視線ともからみあっています。
お力はまた、頭痛持ちの女性としても描かれています。お力がしばしば頭痛を起こしたことは、小説の文中から読み取ることができます。
ただ、実際にお力が頭痛に悩む場面はごくわずかで、
「お力は起って障子を明け、手摺りに寄って頭痛をたたくに・・」
といった、さりげない一瞬の描写に留められています。
けれどもそのさりげなさが、かえって自分が創造したお力という女性への、一葉の肉体的な、官能的な共感を感じさせます。 
一葉の頭痛の原因を探る
樋口一葉の頭痛には、いくつかはっきりした原因がみられます。
そのひとつは、さきほどの「筆すさび」のなかで、
「親はらからもみな脳の病ひにくるしむなるを・・」
そう一葉自身が書いているように、親兄弟に頭痛持ちが多かったことです。
頭痛そのものは遺伝しませんが、頭痛が起こりやすい器質を受け継いでいたのです。
二つめは、これも一葉自身の言葉から読み取ることができますが、頭痛が女性としての成熟にともなって起こっていることです。頭痛にはいくつかのタイプがありますが、女性によくみられる「片頭痛」は、思春期や更年期にはじまりやすい特徴があります。
原因は、ホルモンバランスの変化(乱れ)によるものです。そのため若い女性に多いだけでなく、それまで頭痛を知らなかった女性が更年期を迎える頃に、頭痛を起こす例もあります。
三つめは、一葉が強度の近視だったことです。
新しい5000円札にも採用された一葉の肖像は、亡くなる少しまえの23歳頃のもので、実際の一葉にもっとも似ているといわれます。凛とした大きな瞳がなによりも印象的ですが、人の顔すら近くに寄らないと判別できないほどの近視でした。
一葉の親友であった伊東夏子の思い出に、ユーモラスなエピソードが語られています。
歌がるた取りのとき、近眼の一葉がかるたに頭を近づけるため、ほかの人から見えなくなってしまうのです。「かるたが見えないので眼鏡をかけてちょうだい」と注意したものの、一葉は頑として眼鏡をかけようとしなかったといいます。
強度の近視は遺伝的要因によるものが多いのですが、一葉の場合は子供の頃から蔵のなかで本を読みふけったことが、近視の進行をいっそう早めたようです。
強い近視の人は、ピント調節がうまくいかないため、どうしても目が疲れやすくなります。また読書中はまばたきをあまりしないため、涙が不足し、ドライアイによる目の疲れも生じます。
こうしたことから一葉は、眼精疲労にともなう頭痛、あるいは頭重を起こしていた可能性もあります。
四つめは、小説を書くという仕事上、同じ姿勢を長時間つづけざるをえなかったことです。
同じ姿勢をつづけていると、首や肩の筋肉のこりはもちろんですが、頭皮の筋肉も硬くなって血流が悪化し、それが頭痛を引き起こす原因となります。
「緊張型頭痛」といわれるもので、長時間のデスクワークをする人に多くみられます。
これらの要素だけでも、頭痛持ちの資格は十分すぎるほどです。
しかし原因もさることながら、一葉と頭痛との関連で注目したいのは、一葉の「生き方」とのつながりです。一葉の頭痛には、かなり屈折した思いがこめられているように直感されるのです。
それを探るためには、一葉の生涯を少し振り返ってみる必要があります。 
一葉にみられる父親の残像
樋口一葉は明治5年に東京で生まれました。父の則義(大吉)は東京府の下級官吏でしたが、もとは山梨県塩山市の大菩薩峠を望む農村の出身です。
則義は幕末期に、同じ村に住む多喜(滝子)と一緒になるため故郷を出奔し、江戸に出てきた人です。その後、幕臣の従者などを勤めながら金を貯め、八丁堀同心の株を買って武士の身分を手に入れました。
ところがわずか数ヵ月後に明治維新となり、武士の身分ははかなく消滅します。それでも士族としての身分は残りました。明治の新しい制度(華族・士族・平民・新平民)では、華族に次ぐものです。
則義は下級官吏を勤めるかたわら、内輪で金融業を始めます。同郷の出身者などを相手に、一時は自分の月給の数倍の金銭を貸し付けていたようです。
一葉というと、だれもが貧困生活を連想します。
ところが実際には、士族の娘として生まれ、少女時代は父親の羽振りもなかなかのもので、経済面での不自由はしていなかったのです。
ただ父親の高利貸しについては、一葉は少女らしい潔癖さで嫌っています。
「ただ利欲にはしれる浮よの人あさましく厭(いと)はしく・・」
という日記の一節は、父親に向けられた言葉でもあったでしょう。
興味深いのは、一葉の人生には、その父親の指向とよく似た面がみられることです。社会的地位(身分)の向上を望むだけでなく、実利(金銭)を手に入れることにも人一倍関心が強いのです。
それは今でいえば上昇指向ですが、当時の言葉でいう立身出世欲のほうが似合っています。
樋口家の家運が傾きはじめたのは、明治20年に父親が警視庁を退職した頃からでした。同じ年に、大蔵省出納局に勤務する長男の泉太郎が結核のために23歳の若さで亡くなり、一家に暗い影が落ちはじめます。
翌年になって樋口家では、まだ15歳にすぎない一葉を相続戸主にしました。
女性の戸主は江戸時代には珍しくありませんが、明治の士族階級ではごく少数でした。
さらに翌年、父の則義が事業に失敗し、心痛から体調をくずして亡くなります(結核との説もあります)。この決定的ともいえる事態によって、幼い一葉の双肩に一家の主としての責任が重くのしかかってきました。
当時、一葉は中島歌子の主宰する萩の舎(はぎのや)という私塾に通っていました。和歌の塾ですが、生徒の多くが華族令嬢たちで、上流社会の雰囲気の漂うサロン的な学校です。
ツテを頼って一葉を萩の舎に入れたのは、父の則義でした。「女には学問はいらない」という母の反対を押し切っての入門は、則義らしい指向の表われともいえます。
萩の舎での一葉は、抜きん出た優秀な生徒であり、中島歌子からも可愛がられました。
しかしその一方で、爵位をもつ権門名家の娘たちとの差異は明白でした。一葉が幼い頃から抱いてきた、士族の娘としてのわずかな矜持(誇り)は無残に打ち砕かれ、さらに経済状態においてもはっきりとしたコンプレックスを味わうことになったのです。
父譲りといえる一葉の立身出世指向には、かなり意識的な部分があります。
「かくて九つ斗(ばかり)の時よりは、我身の一生の、世の常にて終らむことなげかはしく、あはれ、くれ竹の一ふしぬけ出しがなとぞあけくれに願ひける」
のちの日記に、一葉はそう回想しています。
萩の舎という上流サロンに身を置きながら、一葉が口惜しさを感じていたことは十分に想像されます。
「くれ竹の一節でも」他人より抜きん出たいという必死な思いは、より現実的な解決法を求める行動へと一葉を駆り立てていきます。
一葉が小説を書こうと思い立ったのは、同門の先輩の田辺花圃(たなべかほ)が「藪の鶯」という小説を書き、33円の原稿料を手にしたことがきっかけでした。その当時、一葉の家の生活レベルならば月10円もあればまずまずの暮らしができたので、33円はかなりの大金です。
田辺花圃の成功で、小説が手っ取り早く金になりえることを一葉は知り、さっそく自分でも書きはじめたのです。 
生活という名の劇場
明治23年、18歳のときに、一葉は最初の小説を書いています。その後、東京朝日新聞の記者として大衆小説を書いていた半井桃水(なからいとうすい)を訪ね、指導を受けるようになります。
やがて一葉は桃水を慕うようになり、自宅へと足しげく通うようになりました。桃水もまた同人誌を発行し、一葉に小説家としての活動の場を与えようとしました。
一葉の日記には、桃水との男女関係について、はっきりとは記されていません。
日記には一部欠落した部分が随所にあり、それは桃水にかんする記述個所に多いことが研究者によって指摘されています。一葉の死後、妹の邦子か誰かの手で破棄された可能性もあります。
日記にはあまり記されていませんが、一葉は桃水からしばしば生活費の援助を受けています。しかもそうした関係は、晩年まで断続的に続いていたようです。
一葉と桃水の交流は、あるとき突然に解消されます。二人の仲が萩の舎で噂になっていることを知り、一葉は動揺しました。師である中島歌子の勧めもあって、一方的に桃水との関係を絶ってしまったのです。 その見返りに田辺花圃の紹介で、「都の花」という文芸誌に作品発表の機会が与えられました。
この頃の一葉の原稿料は微々たるものでした。実際の生活は、母と妹邦子の針仕事と洗濯で支えられていました。
戸主である一葉は、強い責任を感じていたでしょう。小説で食べることを一時断念し、経済状態を立て直すために「実業」をはじめます。荒物や駄菓子などを商う小さな店を、下谷龍泉寺町に開いたのです。
吉原遊郭に近い下谷龍泉寺町は、それまで暮らした本郷菊坂とはまったく雰囲気の違う町でした。店は、下谷から吉原へと抜ける通り沿いの商店街にあり、隣が人力車夫たちの合宿所になっている二間長屋でした。
店の前の通りは、遊郭へ通う客たちの行き来や、とりわけ人力車の鉄輪の響きが深夜まで絶えません。ある晩、一葉が店前を通る人力車を数えたところ、10分間に75輛もあったそうです(日記「塵之中」)。
現在、一葉たちが店を開いた近くに、樋口一葉記念館があります。
慣れない荒物商売は結局うまくいかず、1年も経たずに店を閉める羽目におちいっています。
ただ、華やかな妓楼の建ち並ぶ遊郭と、その周辺に働く下町の人々の生活ぶりは、のちの一葉の小説に大きな影響を与えました。
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯黒溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く・・」
「たけくらべ」の冒頭に描写された吉原遊郭の光景は、一葉が日々眺めたものでもあったのです。
この頃、一葉は非常に奇妙な行動をみせています。本郷に住む久佐賀義孝(くさかよしたか)という男をいきなり訪問し、借金を申し込んだのです。久佐賀は得体の知れない人物で、米相場で大金を手にしたといわれる、いわゆる成金でした。
一葉の唐突な申し出に対し、久佐賀は妾になることを要求します。一葉はそれを拒絶し、以後の交渉は途絶えたことになっています。
ところがその久佐賀からもある時期、何がしかの金を受け取っていたといわれます。
明治28年の日記では、久佐賀が一葉の家(丸山福山町)を訪ねてきて、夜遅くまで話し込んでいます。そのおりにも一葉は、60円もの借金を申し込んでいます。
この大金は一説によれば、相場の資金を借りようとしたともいわれます。もし借金できていたら、一葉の一世一代の大博打がみられたかもしれません。
一葉の日記には、久佐賀との関係もあまり記されていません。執筆上のスポンサーを求めていたという解釈もありますが、一方で久佐賀のことを隠そうとしていた風もあります。
一葉が、半井桃水や久佐賀義孝からどのような形で、またどのような思いで援助を受けていたのかは、想像するほかありません。
一葉は多くの友人、知人から借金をくり返し、その返済に追われています。桃水や久佐賀も、そのひとりだったのでしょうか。
一葉の年齢になれば、なんらかの男性関係があっても少しもおかしくはありません。しかし一葉の場合、単純にそうした視点からだけでは、推し量れない多様な面があります。
明治という、女性にとって開放的とはいえない時代環境のなかで、一葉自身が巧みに隠したり、修飾したからにほかなりません。
手がかりは、日記よりむしろ作品のほうにあるように思えます。それは「たけくらべ」の美登利と、「にごりえ」のお力の姿です。
「たけくらべ」の美登利は、大巻という遊女を姉にもつ活発でおきゃんな少女です。近所に住む正太という少年にとっては憧れの的であり、子供たちのあいだの女王的存在でもあります。
その美登利がある日(初潮)を境に、髪を島田に結い上げ、大人の女性として変化していく様は、少年期への別離の余韻をこめた小説の白眉ともいえます。
「しかも一言も直接的な言葉を使わず、これ以上正確に、美しく、女のさけ難い生理と、それ故にやがて受けねばならぬ女の運命の哀しさの予兆を、こうまで暗示的に詩的に描いてみせた作品があっただろうか」(瀬戸内寂聴「わたしの樋口一葉」)
酉の市のにぎわいを背景に、美登利はそれまでの日常と訣別し、姉と同じ道を歩むであろう宿命が暗示されています。
ここには女性の性、そして生というものを、搨キけたといえるほどクールに見つめる一葉の視線が感じられます。そのクールさがあったからこそ、この時代に女性の生理を真正面から描きえたのでしょう。
それはまた、我が身にも密着した性と生の宿命を、あえて突き放して見ることで核心をとらえようとする、一葉の冷徹さにも通じています。
一方、「にごりえ」のお力は、初対面の客の財布を取り上げ、仲間の女たちに分け与えてしまうような気風のある女です。そのくせ自分では一銭もとりません。
一見、男を手玉にとるような女でありながら、自分の利には走らず、ひとり遠くを見つめているような魅力的な女性像が描かれています。ここにも性と生を見つめる、女のクールな視線があります。
ここにはまた、男たちから一時期にせよ援助を受けながら、それは自分のためではなく、家族を養うためだとする、他人にはいえない一葉の託された屈折した思いが見え隠れしているようにも感じられます。
かりに男性との関係があっても、一葉にとっては表立って恋とはいえない内面的な事情が秘されていたと思われます。
文壇に名が知られるにつれ、銘酒屋の建ち並ぶ丸山福山町の一角にある一葉の家には、「文学界」の若い同人たちが数多く訪れるようになります。馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村、上田敏、川上眉山、幸田露伴、斎藤緑雨といった人々です。
森鴎外にいたっては一葉を崇拝するあまり、葬儀のときに騎馬正装での参列を申し出て、家族から断られています。
一葉は彼らに囲まれ、ときにはご馳走をしたりして、楽しいひと時を過ごしています。一葉の短い生涯で、もっとも華やかで充実した時期だったでしょう。
その姿は不思議なほど、正太の憧れであった美登利や、苦界にあっても男たちや仲間に慕われ、「姉さま風」に振る舞うお力と重なります。
そのお力に、自分と同じ頭痛という病気を与えたところに、一葉らしい面目と、たどり着いた境地がかいま見られます。
一葉は「たけくらべ」の少女美登利に「そうありたかった少女の姿」を、そして「にごりえ」のお力に「こうありたい大人の女性の姿」を、託したのではなかったでしょうか。
ただしそれは単純な理想像ではなく、肉体の苦しみ、生の空虚感に満ちた宿命的、あるいは悲劇的ものでした。一葉なりの、女の個人史ともいえます。
美登利からお力へ、それは奇しくも一葉の頭痛の歴史とも符合しています。
もちろん頭痛は、一葉の生涯を覗く小さな穴にすぎません。しかし同時に、一葉の生涯を通底する神経軸のようなものでした。
一葉の女としての生々しさ・・その片鱗を、頭痛という肉体上の異変に予感させる。一葉はそれを心得たうえで、お力を創造し、その原点としての美登利を創造した・・そんなふうに思えてくるのです。
「にごりえ」「たけくらべ」「大つごもり」といった代表作のほとんどを、わずか1年余のあいだに書き残し、一葉は24歳の11月に兄と同じ結核で急逝しました。
彗星のようにはかない生涯ともいえます。が、一葉という女性は思われている以上に人間臭く、油断のできない、それだけ魅力的な存在でもあるのです。 
頭痛という不思議な病気
明治26年の一葉の日記に、
「脳痛はなはだしく、終夜くるしみて胸間もゆるが如く、人生の浮沈人情の非情こもごも感じ来りて、くるほしき事いうべくも非ず(あらず)」とあります。
こうした苦しさは、実際に激しい頭痛持ちの人にしかわからないでしょう。頭痛の経験のない人は、「たかが頭痛でずいぶん大げさな」と感じるかもしれません。
頭痛は、周囲の理解が得られにくい不思議な病気です。胃痛や腹痛だと、周囲も「どうしたの?」と心配してくれますが、頭痛に対しては「ああ、そう」といった程度の反応しか示しません。
しかし頭痛は、15歳以上の約40%が悩んでる病気です。患者数にして3000万人以上ともいわれます。
これほど苦しんでいる人が多いにもかかわらず、なぜか軽視されてきたのです。
最近になって、頭痛のメカニズムが少しずつ解明され、また有効な治療薬がいくつか開発されるようになりました。その影響もあって「頭痛外来」を設置して専門医をおく病院も増え、ようやく本格的な治療が始まったといえます。
頭痛の大半を占めるのは、原因のはっきりしない慢性頭痛です。慢性頭痛には大別すると、「片頭痛」と「緊張型頭痛」があります。
片頭痛は、ズキンズキンという強い痛みがして、吐き気がともなうことも少なくありません。光や音にも過敏になり、テレビを観ているのもつらい状態にもなります。
片頭痛といいますが、実際には頭の両側に痛みが起こる人もたくさんいます。
男女比でいうと、10歳くらいまでは差がないのに、15歳以上では女性のほうが3-4倍にもなります。このことから、女性ホルモンがなんらかの形で関与しているといわれます。
一葉の日記には、母親の多喜が「血の道」でしばしば寝込んだことが記されています。一葉自身も同じ症状で、朝遅くまで寝込んでいたこともあります。
母娘に共通して、生理不順や生理痛があったのでしょう。
ただ最近の研究では、片頭痛は女性ホルモンの変化に加えて、なんらかのストレスを受けたときに起こりやすいことがわかってきました。 ストレスを受けると、脳の血管をとりまく三叉神経が刺激を受け、セロトニンという神経伝達物質が働いて血管を収縮させます。その後セロトニンが放出されるさい、脳の血管が拡張するとその周辺が炎症を起こし、それが痛み(頭痛)となるのです。
片頭痛の引きがねとなるストレスは、人によって違います。寝不足や寝すぎ、人ごみ、寒さや暑さ、室内での軽い酸欠、空腹、食べ物や飲み物など、さまざまです。
飲食物では、チョコレートや赤ワイン、匂いの強いチーズ、化学調味料などによって頭痛を起こす人が多いようです。
また仕事などで忙しいときより、仕事が終わってホッとした翌日に起こりやすい傾向もみられます。 
片頭痛と緊張型頭痛との違い
もうひとつの緊張型頭痛は、首や肩のこりをともなう頭痛です。頭が締め付けられるような痛みや、重い感じがすると訴える人が多くみられます。
一般的には寝込むほどひどい症状ではありませんが、毎日のように起こる人、めまいをともなう人もいます。
男性にも多く、男女比ではほとんど違いはありません。
緊張型頭痛は脳とは関係なく、頭・首・肩の筋肉が緊張から疲労し、収縮して血流が悪化することから起こります。
頭と首と肩の筋肉(後頭筋群や側頭筋群、僧帽筋群など)はつながっているため、頭痛だけでなく、首や肩のこりが一緒に起こります。また頭の筋肉が収縮するため、締め付けられるような痛みとなります。
筋肉の緊張は、長時間同じ姿勢をつづけていると起こりやすくなります。そのためパソコンやデスクワークを長時間つづける人に多くみられます。
精神的なストレスを受けているときも、緊張型頭痛が起こりやすくなります。人間関係や仕事上の悩みなどをかかえているときです。
たとえば苦手な人のことを考えたり、当人に会ったりすると、無意識に体が堅くなります。そうした状態が長くつづくと思えばいいでしょう。
精神的ストレスを受けると自律神経が刺激され、血管が収縮します。それにともなって筋肉も緊張し、収縮するため、頭痛が起こります。
一葉の場合でいえば、戸主としてなんとか生活の糧を得なければならないという思いや、人に頭を下げて借金することは、大きな重圧となっていたでしょう。早く小説で身を立てたいという強い気持ちも、プレッシャーになっていたはずです。
小説を書くこと自体に加え、こうした精神面のストレスが頭痛の原因になっていた可能性は十分にあります。
ところで片頭痛と緊張型頭痛は、同じ慢性頭痛とはいっても、治療法はまったく違います。
たとえば片頭痛は血管の拡張から起こるため、一般的には頭を冷やすほうが治りやすくなります。ところが緊張型頭痛は筋肉の緊張と血流の悪化が原因なので、患部を温めてリラックスさせたほうがよくなる傾向があります。
頭痛が起こったとき、シャワーを浴びたり、お風呂に入る人も多いでしょう。緊張型頭痛の場合は、シャワーの刺激やお湯の温かさで筋肉がほぐれ、血行もよくなるので、いい方法だといえます。
ところが片頭痛では、血管の拡張をうながし、症状がかえってひどくなってしまうこともあります。
一葉は頭痛のとき、寝るという方法をよくとっています。片頭痛が起こると外界の刺激(光や音)に過敏になるので、寝て刺激をさけるのもいい方法です。
しかし緊張型頭痛では寝るよりも、むしろストレッチなどの運動によって筋肉の緊張をほぐしたり、ウォーキングや散歩で気分転換を図るほうがおさまりやすい傾向があります。
頭痛が起こると、まず市販の解熱鎮痛薬を使う人が多いはずです。しかし病院では、頭痛のタイプによって違う薬が処方されます。
片頭痛の場合には、血管の拡張や炎症を抑える薬を使います。それに対して緊張型頭痛では、緊張をほぐし、体や心のストレスを緩和するため、筋弛緩薬や抗不安薬、抗うつ薬などを使います。
片頭痛と緊張型頭痛では、これほど違いがあります。
頭痛がなかなか治りにくいのは、じつは片頭痛と緊張型頭痛を併発している人が少なくないからです。
一葉も、そのひとりだったと思われます。寝込むほどの激しい症状に加えて、一葉にはひどい肩こりもあったからです。 
一葉の日記に頭痛のきっかけを探る
病院では最近、患者自身に「頭痛日記(日誌)」をつけてもらうように指導しているところが増えています。頭痛日記とは、頭痛が起きたときに、その日時、症状、対処の仕方などを記録しておくものです。
受診のとき頭痛日記を医師にみせることで、頭痛のタイプや程度を知るための手がかりとなります。
頭痛日記には、できれば前日の出来事や食べ物、また天候の変化なども記録しておくほうがいいでしょう。
とくに片頭痛の場合には、さきほど書いたように、自分でも気がつかないことが頭痛の引きがねとなっていることがあります。また緊張型頭痛でも、知らずに精神的なストレスを受けていることがあります。
日記をつけることで、それを自覚できるようになるからです。
一葉は自分の日記にしばしば頭痛のことを記していますが、その前後の記述を読むと、非常に興味深いことに気づきます。
要点だけを抜粋してみます。
<明治25年>
 2月22日 「雨天寒し」、「風邪にやあらん、頭痛たへがたければ此夜は早くふしたり」
 7月23日 「一同帰宅の後頭悩はげしく暇を乞ひて灸治に行んとす」、「途中大雷雨」
 8月24日 「晴天ながら折々に鳴神の音するはやがてここにも降らんとすらん」、「おのれも今宵はかしらいといたくなやめば早う臥たり」
 8月29日 「晴天時々雷鳴す」、「頭痛いとはげしければ暫時ひる寝」
<明治26年>
 2月6日 「空はくもれり、又雨なるべし」、「かしらはただいたみに痛みて何事の思慮もみなきえたり」
 4月25日 「六時過るより空ただくらく成に成て雷雨昨夜にかはらず」、「かしらただなやみになやみて雷雨のおそろしきも何も耳に入らず」
 5月21日 「雨降る」、「これより脳痛はなはだしく終夜くるしみて胸間もゆるが如く」
これらの記述から、一葉の頭痛は天候の影響を受けて起こりやすいことがわかります。とりわけ雷鳴・雷雨のような、天候の変わり目、低気圧の接近が、きっかけとして目立っています。
この傾向は、一葉が下谷龍泉寺町に店を開いてからもみられます。
8月20日からは千束神社の大祭で、商いも忙しく過ごしていますが、その間、幾度か急な雨に見舞われています。
その最後に一葉は、「此処(このところ)四五日事のせわしさなみなみならざるが上に脳のなやみつよくして寝たる日もあり」と記しています。
さらに9月1日にも、「例之脳病起りてしばしもたつことあたはず終日ふしたり」、「午後より雷雨おびただし」とあります。
天候の悪化や低気圧の接近が頭痛の引きがねとなることは、けっして珍しくはありません。原因ははっきりしませんが、憂うつな気分になりやすいことに加え、気圧の変化そのものが脳血管や血圧になんらかの刺激を与えている可能性もあります。
一葉は明らかに、天候の変化の影響を受けやすい女性だったといえます。
一葉の日記からはそれ以外にも、萩の舎の会席などで大勢に会ったあと、借金の返済が迫っているとき、親戚のごたごたに巻き込まれて憤慨したとき、祭りで商いが忙しかったときなどにも、頭痛が起こりやすいことがわかります。
気ぜわしさが、頭痛のもうひとつのきっかけになっていたようです。
一葉自身は気づいていなかったでしょうが、頭痛日記によって自分なりの頭痛のきっかけがわかれば、対策をとることができます。
今日(明日)は頭痛が起こりそうだと思えば、睡眠(寝不足、寝すぎ)に気をつけたり、ストレス解消(音楽や運動、趣味など)で気分転換を図ったりできます。かりに人間関係や食べ物が頭痛のきっかけなら、できるだけそれを避ける方法もとれます。
慢性頭痛に悩む人にとって、頭痛日記は予防のための大切な情報源なのです。一葉の日記は、その良い例ともいえます。 
 
明治維新の史学史 / 「社会科学」以前

 

明治維新の研究はすでに約150年の歴史を持つ。近年、歴史家たちの関心は大正期以降や第二次大戦後に向い、維新への興味は薄れているとはいうものの、この間に蓄積された研究と史料は膨大である。到底、すべてを網羅し、適切な解釈をするこ
とはできない。かつ、筆者はこれまで、あまり史学史に関心をもってこなかった。したがって、以下の考察は、かなり恣意的に対象を選び、解釈したものであることを予め断っておかねばならない。
さて、維新の研究は、その特徴によって、およそのところ、三期に分けて考えることができる。第一は同時代から明治末、1910年代までの政治史の時代、第二はその後、1960年代までの社会科学の時代、第三は経済の高度成長以来、今日までの多様性の時代である。ここでは、第一期の政治史の時代に絞って、その特徴を概観したい。
1.幕末から明治初期の歴史編纂
維新に関する歴史叙述や史料編纂は、ほぼ同時代に始まっている。徳川幕府は開国のしばらく後、諸外国との間に交わされた外交文書の編纂を始め、大名家もそれぞれの政治的理由から家史の編纂を始めた。他の国々と同じく、日本でも、革命の研究は、政治家たちの事績を調査・記述したり、論評したりすることから始まったのである。歴史の政治的利用への強い動機は精力的な史料発掘を促し、かつ勝者と敗者の競争を通じて多様な維新理解を生むこととにもなった。それは同時に、バイ・プレーヤーであった多くの大名や政治抗争の圏外にあった庶民たちを歴史の蚊帳の外に置くことともなった。
維新史の編纂・記述のなかで最も初期のものは、越前松平家のそれではないかと思われる。その家臣中根雪江は、1859年、幕末の政治的動乱が始まった翌年に、幕府によって処罰された主君の冤を雪ぐため、1853年のペリー来航を起点として越前家の事績を書き始めた。彼はのち、1862年と1868年の諸事件について短い続編を著したが、越前家は後者の執筆された約20年後、1890年から1892年にかけて、それらの空白を埋める続編を編集し、ペリー来航から王政復古にいたる時期の越前家の幕末史を完成している。
越前家は徳川家の親藩のなかで三家に次ぐ4番目の家格をもつ大名であり、幕末には今日の民主政の源流となった「公議」運動のリーダーとなったことで知られる。当初は薩摩などと組んで将軍家の専制・抑圧政策に対抗する勢力のリーダーとなり、明治新政権の発足の際にも無視し得ぬ役割を果たした。したがって、越前家の編纂した幕末史は、その豊富な史料引用も手伝って、明治政府のもとで正統視された王政復古史観、あるいは薩摩や長州に専ら注目する歴史解釈に対して有力な反証を提供 している。のちに、最後の将軍徳川慶喜の伝記(徳川慶喜公伝、1918年刊)編纂にあたって中心的な史料として用いられ、さらに尾佐竹猛らの憲政史研究(1920―30年代)でも重視された。
他方、徳川幕府の外国方も幕末に外交記録の編輯を始めている。彼らは、1867年から、開港直後2年間の外交史料を編輯し始め、『通信全覧』をまとめた。ペリー来航以前に編まれた近世外交史料の集成『通航一覧』や『続通航一覧』5の続編に当たる。この事業は、明治政府の外務省にも引き継がれ、幕府瓦解までを扱った編年の部は1879年に完成している。
他方、明治新政府も維新史の編輯を始めた。『復古記』という戊辰内乱(1868年)の戦史である6。これは、大政奉還以後約1年間の中央政局と戊辰内乱に関わる諸大名と公家の史料を網羅的に収めたクロノロジーであり、廃藩置県により大名家が公権力を失った後、1872年から17年の歳月をかけて編集された。刊行は1889年であるが、それ以前に綱文を集めた『明治史要』が刊行されている(1876年、追加編は1882年)7。王政復古、すなわち明治新政権の勝利を記述した書であるが、積極的な解釈は施していない。戊辰内乱は敵味方の明白な戦争だったが、しかし、そこに強い解釈を持ち込むと、王政復古を主導した薩摩と長州の間、また薩長とそれに味方した大名たちとの間に功名争いが起きる可能性が高かったためではないかと思われる。
『復古記』の着手後、明治政府は古代の六国史8をつぐべき日本史の編纂を企て、そのために、1876(明治9)年、各大名家に史料の提出を命じた9。旧大名家のうち、長州や薩摩のように資金や政治環境に恵まれた大名は、これを機にすでに着手していた家史の編纂を加速したが、一般的にはこの事業は遅々として進まなかった。当時の関係者は家禄処分後の生活再建、および西洋制度の移植による新体制の創出に全力を注いでおり、過去を振り返るゆとりがなかったからであろう。この状況が変化したのは、帝国議会が開会した1890年前後であった。
2.初期議会期の史料編纂と史論の流行
明治憲法に基づく帝国議会の開会は、王政復古以来の政治的勢力配置を再編成するまたとない機会となった。立憲王政の制度化は、公平無私の王権の下に日本国民が平等の資格で秩序形成に参画することを可能にするものと解釈された。王政復古の立役者たちだけでなく、維新の敗者も、新たな政界参入者も、議会への進出とともに、歴史の書き直しを通じて、明治国家の内部に自らの位置を確保しようと図ったのである。
この運動は、各大名家を単位とする史料編纂と、おりから活況を呈し始めたジャーナリズム上での史論との二つのレヴェルで展開した。
前者は1889年の「史談会」結成に示される。これは元来、島津家の動きから始まった事業であった。その請願を受けた宮内省は、前年、薩摩・長州・土佐・水戸に対して補助金を下し、維新における「国事詇掌録」を3年間で編纂・提出するように命じた。明らかに王政復古、およびその思想的基盤となった尊皇攘夷の思想と運動を主導した大名と皇室との関係を強調しようとする企てである。ところが、維新の家史の記述には関係ある諸大名と公家の史料の収集が不可欠であり、彼らの協力が必要となった。このため、4大名家は公家の三条・岩倉・中山3家と協力して「史談会」を結成し、孝明天皇の誕生から廃藩置県まで(1831―1871年)の史料収集を始め明治維新の史学史―「社会科学」以前ることとした。まず、宮内省から王政復古時に敵となった旧将軍家・会津家・桑名家、および味方となった尾張徳川家・浅野家に対して史料の提出を命じさせ、さらにその範囲を次第に広げて、1892年には琉球の尚家を含む255家を網羅するまでに至ったのである。この年、史談会は諸家の加入を得た上で組織を更め、史料収集を主な任務としながら関係古老の聞き取り調査もあわせ行うこととし、『史談会速記録』の刊行を始めた(1938年まで)。これに伴い、最初の4家の国事詇掌録は各家に架蔵されるに留まることとなった。
大名家と公家による維新史編纂が解釈希薄なものとなったことは、明治維新と明治体制それ自体の性質をよく反映している。王政復古を薩摩と長州の同盟が主導したことは疑いない事実と見なされた。しかし、近世の政体が二百数十の大名の連合体であった以上、新政府の構成もその後の改革も、他の大名の協力なしには不可能であった。したがって、新政府の樹立を顕賞しようとすると、必ず薩長以外の旧大名家の自己主張も発生する。政府が維新史の編纂に関わる限り、当代政治を混乱させないためには、薩長中心の記述をある程度抑える必要が生じ、いきおい史料の収集と羅列という方策に落ち着くこととなったのである。
同時代には、史料編纂に別の動きも生じている。一つは、将軍家の遺臣勝海舟の編修した『海軍歴史』や『陸軍歴史』(いずれも1889年刊)である。これは幕末の将軍家が行った洋式軍隊の編成に関わる史料集に過ぎないが、明治における文明開化の源流が徳川将軍家の改革にあった事実を提示し、それによって薩長主導の維新史に対抗し、これを監視する意味合いを担っていた。同年には旧旗本たちによって江戸会が結成され、雑誌『江戸会誌』を刊行し始めたが、江戸時代への懐旧を主としながらも、同様の意味を担わされたと見て良いだろう。もう一つは、民間のジャーナリスト野口勝一の「野史台」が継続的に刊行した『維新史料』(1887―1896)である。大名家や官庁の背景なしに史料集を刊行したのであるが、これは明治20年代初頭に生まれた維新史ブームが、商業的な出版を可能にするほど大きなものであったことを示している。
他方、帝国議会の開会は、ジャーナリズムに維新をめぐる史論の刊行をうながした。中心となったメディアは、徳富蘇峰の『国民の友』(民友社)である。いずれもこの月刊誌への連載後、単行本として刊行されたが、その主なものには、竹越與三郎『新日本史』(上1891年、中1992年、下未刊)、福地源一郎『幕府衰亡論』(1892年)・『幕末政治家』(1898年)、徳富蘇峰『吉田松陰』(1893年)などがある。
民間での維新史論は、維新に関する議論という広い意味にとると、福澤諭吉の『文明論之概略』(1875年)や田口卯吉『日本開化小史』(1877―82年)に始まる。
前者に見えるように、「文明」を近代西洋文明と等置した上で、人類史を「未開」から「半開」をへて「文明」に至る「開化」・「進歩」の歴史と解し、その中に日本を置いて、未来のあるべき姿を考えようとした著作である。これらと同じ発想に立ちながら、具体的な歴史上の事件や問題を、史料を収集・解読した上で描いた最初の書物は、おそらく藤田茂吉『文明東漸史』(1884年)であろう。これは、西洋と日本の関わりについて戦国期からペリー以前までを概観し、その中で特にいわゆる「蕃社の獄」(1839年)を取り上げ、蘭学に対する権力の弾圧事件と見なして詳述したものである。
その背景には、著者自身の加わった民権運動と明治政府との緊張関係があったものと思われる。他方、1887年には、島田三郎の『開国始末』が刊行された。これは、幕末の政治的動乱の発端をなした安政五年政変(1858年)で、幕府を代表して反対者たちを弾圧した大老井伊直弼の評伝である。井伊家所蔵の史料を基に、井伊大老の開国政策の正当性を示し、翻って明治政府の要人たちが幕末に展開した尊攘運動に疑問を投げかける、従来の維新像への挑戦の書であった。
このように民間の維新史論は、当初から明治政府との対抗関係をはらんでいた。これは、明治のジャーナリズムが、幕府瓦解後に民間に下った徳川の洋学者によって創始され、それゆえに「文明開化」という目標を政府と共有しながら、その先駆者として政府を監視するという姿勢を持っていたことに起因する。島田三郎はその典型例であるが、この態度は、徳富蘇峰のような維新の勝敗に無関係の土地から来たニュー・カマーにも共有された。彼は熊本の豪農出身で、自分自身は長州尊攘派の元祖で伊藤博文や山県有朋など当時の政府指導者の旧師であった吉田松陰の評伝を書いたが、彼はそれだけでは不十分と認識していた。幕府の側から書いた歴史もないと公平な維新史像は得られないと考え、もと長崎の町人で旧幕の外国方で働いた福地源一郎に徳川から見た維新史論の執筆を依頼したのである。福地は、旧幕出身ながら明治政府の代弁者として知られたジャーナリストであったが、にもかかわらず、彼の維新史論はいずれも、通常の維新史とは逆に、旧幕府を主とし、薩長などを客として書かれている。このような蘇峰の編集方針には、帝国議会の開会に対し、維新の勝敗を越え、出身地を越えた、新たな「国民」的地平の創出を期待するというメッセージを読み取ることができる。
初期議会期の史論には、単なる政治事件史や人物伝の域を越え、多様な視点と豊かな洞察を提示したものがある。蘇峰の『吉田松陰』は、松陰の人物像に深い洞察を与えただけでなく、徳川後期の社会に関する卓越した社会学的な分析を展開している。その点でさらに興味深いのは竹越與三郎の『新日本史』であろう。この書は上巻で徳川時代から国会開設に至る時期の政治史と外交史、中巻では社会・思想・財政・宗教の変遷を論じている。この書は「新日本・史」であって、「新しい日本史」ではない。つまり、維新前の「旧日本」に代わる「新日本」、すなわち民権の日本の誕生を描いた歴史である。特定のモデルによって体系的な分析を展開しているわけでなく、事実認識の誤りも少なくないが、しかし、ここには後世には認めがたい自由な発想が至るところに出現する。一例だけ挙げると、大革命に復古的革命、理想追求的革命、乱世的革命の三種があると述べた上で、明治維新は「決して回顧にあらず、決して理想にあらず、唯だ現在の社会に不満に、現在身に降り積もりたる痛苦に耐えずして発したる乱世的の革命たるや明かなり。……これを引きて勤王の感懐に出でたる復古的の革命と為すは抑も孟浪の言のみ。而して此乱世的革命の動機は、実に社会の結合力漸く弛みて、将に解体せんとしたるにあり」と述べている。彼は、1)維新の主題の座から世間で自明視されていた王政復古を外し、2)革命を個々人や理念を越えた社会自体の自己運動として捉え、3)革命を導く理念として、復古と進歩がともに働きうることを示したのである。筆者は、この観察をうまく組み替えれば、今日に至る維新史学がつねに失敗し続けてきた、維新の革命としての性質がより適切かつ明治維新の史学史―「社会科学」以前明瞭に把握できるのではないかと信じている。
3.政治史の成熟と偏り
史談会の維新史料収集の事業は、1905年、文部省に引き継がれた。その後、1911年に至り、勅令によって維新史料編纂会が設置され、文部省に事務局を置いて史料編纂を始めた。それまでは史料編纂の主力は大名家であったが、以後は維新の元勲たちの発意によって、政府が直接に維新史編纂に関与することとなったのである。以前と同じく、この事業は薩長中心となるのではないかとの疑念にさらされ、その業務はやはり史料編纂に限定された。各種史料を編年的に編修した史料が『大日本維新史料稿本』として一旦完成したのは、1931年のことである。その一方、外務省が行っていた外交史料の編纂も1906年に東京帝国大学文科大学の史料編纂係に移管された。これは直ちに『大日本古文書幕末外国関係文書』として刊行が開始されている。
この明治末年から大正にかけての時期は、長年をかけて収集された史料が公刊されただけでなく、維新の政治史叙述が一応の完成を見た時期でもあった。一方では、維新の立役者たちの伝記が編纂されている。宮内庁図書寮編『三条実美公年譜』(1901年)、多田好問編『岩倉公実記』全3巻(1903年)、勝田孫也『大久保利通伝』全3巻(1910年)、やや時期が下るが妻木忠太ほか『松菊木戸公伝』全2巻(1922年編纂完)などである。同時に、それまで尊攘・倒幕運動の敵として発言の余地に乏しかった大名に関係する編纂物も公刊されるようになった。会津松平家に関わる北原雅長『七年史』(1904年)、山川浩『京都守護職始末』(1911年)や、彦根井伊家の中村勝麻呂『井伊大老と開港』(1909年)などである。
そのうちでもっとも興味深いのは、最後の将軍の伝記、渋沢栄一編『徳川慶喜公伝』全8巻(本伝4巻、史料4巻、1917年)である。これは、旧臣渋沢栄一が慶喜の雪冤のため福地源一郎に委嘱して編纂を始めたものであるが、一旦挫折した後、帝国大学の史学科を出た新進の学者に委嘱し、かつ慶喜本人の聞き取りを行い、その校閲を経て完成された。慶喜手元の史料は瓦解時にすべて焼却されたが、公家と大名家に対して広汎な史料収集を行い、これに厳密な史料批判を加えて、幕府瓦解までの政治史の全体を叙述している。努めて評価を抑え、諸勢力の動きに広く目配りするスタイルをとり、引用史料は少ないものの、出典はきちんと記している。このため、本書は今日なお、幕末政治史を研究するものが最初に学び、かつ随時参照すべき書となっている。かつ、この編纂に関与した学者たちがその後発表した著作は、政治史の研究において、今日なお無視しえないものとなっている。藤井甚太郎、井野邊茂雄らの研究であり、とくに後者の『新訂増補維新前史の研究』は、ペリー到来前の対外論を網羅的に分析した貴重な業績である。
他方、政治的には対極から出発しながら、同じく学問的批判に耐えうるレヴェルに到達したものに末松謙澄『防長回天史』全12巻(修訂版、1921年)がある。これは毛利家の委嘱と全面協力によって編纂が始められたものであるが、史談会がその業務を文部省に譲ったころに、編集長であった末松謙澄の単独事業となり、彼が全編を修訂することによって完成された。これまた、特定の大名家の事績顕賞から始まりながら、結果的には、長州に視座を置きつつ日本全体の政局を叙述する書となり、引用史料の豊富さと史料批判の的確さとが相俟って、アカデミックな批判に耐えうる古典となっている。
さて、維新政治史の到達点としては、文部省維新史料編纂事務局『維新史』全6巻(本編5、付録1、1939―1941年)に触れておかねばならない。これは「大日本維新史料稿本」を基礎に書かれた、官製のものとしては最初の解釈を伴う維新史である。孝明天皇の践祚から廃藩置県まで、きちんとした史料的裏付けをもって網羅的に叙述しているが、王政復古という目的論的な主題ゆえに生じたバイアスがあるほか、その後の研究で解明された側面も少なくないので、今日となっては鵜呑みにはできない。研究上は先行する前二著の方が有用な場合もある。
維新史料編纂事務局の時代は、維新の諸史料の公刊が相次いだ時代でもあった。先の『幕末外国関係文書』につぎ、「大日本維新史料稿本」を元にして『大日本維新史料』が刊行され始めたが、まもなく中断された。現在、「大日本維新史料稿本」自体が電子化されてネット上で閲覧できるようになっているが、稿本自体の作成は必ずしも慎重に為されたわけではなく、原史料から抽出する際に重要史料が欠落した例も少なくない。これに対し、維新史料編纂会の関係者らが結成した日本史籍協会は、会員制の予約を取って、重要史料を187冊刊行し(1915―1935年)、のち1970年代になって続編93冊を追加した。これらは、現在の維新政治史研究の基礎史料となっている。しかし、史料の選択は恣意的で、同じ史料でも一部のみの収録に留まった場合が少なくない。原本に当たることが必要であるが、関東大震災と第二次大戦下の空襲で焼失したものもあって、残念である。
維新政治史の研究で使われている史料は、したがって未だに偏ったままである。もっとも痛いのは幕府の史料のほとんどが無くなったことである。多くは瓦解当時に焼却され、遺った史料も、町奉行所史料を除いて、散逸したり、震災などで焼亡したりした。また、幕府の政治を主宰した老中の史料も阿部正弘や井伊直弼関係以外はまだ公刊されておらず、原史料が遺っていることが分かっている場合でも研究されていない。幕府政治を実質的に担った旗本の史料も手つかずである。まして、政局の衝に立たなかった大名に関しては、譜代・家門と外様とを問わず、ほとんど研究されていない。王政復古時の敗者、そしてアウトサイダーは、史料の利用状況だけから言っても、無視され続けているのである。
むすび
以上、簡単に、維新の研究史を主に明治期について概観した。1920年代からの「社会科学」の時代とそれ以後については、他日を期すことにしたい。
 
世界を白人支配から救った明治維新 / 歴史に学ぶリーダーの研究

 

明治維新が人類史上、400〜500年に一度起こるか起こらないかの大事件であったことが、時間がたつほどにはっきりしてきました。
昨年アメリカで、同国史上初の黒人大統領・オバマが誕生しましたが、これも明治維新がなかったら未だ実現していなかったでしょう。明治維新=明治政府が行なったことは、コロンブス以来、数百年にわたって続いた白人による有色人支配を打ち壊す画期的な出来事だといえます。
明治政府が成立した段階でアジアの完全な非植民地は、日本を除くとタイだけでした。それほどアジアは白人だけが支配する世界になっており、日本は白人勢力の到来が最後になりましたが、自らの努力で植民地にされる運命をまぬがれ、巻き返しの始まりになったわけです。
20世紀と21世紀を比べてみても、20世紀のはじめは人種差別が当然のことのようにあり、一部の人間を除き誰も疑いませんでした。ところが21世紀の現在では、いかなる国も大国と同等に扱われるようになりました。人種差別への厳しい監視の目もあります。この100年で一変したのです。
その変わる源になった出来事が明治維新でした。日本で明治維新が成功していなければ、世界中は完全に白人支配の下に入り、それを覆す勢力は少なくともその後の1、2世紀は現れなかったかもしれません。
このことは、外交評論家の岡崎久彦氏も「アフリカ諸国に行くと、首脳たちは皆、明治維新を意識している」とおっしゃっていました。もちろんアジアでも同じです。インドでガンジーの後継者となったネール首相、東京裁判で唯一、被告人全員の無罪を主張されたパル判事、インドネシアの独立を主導したスカルノ元大統領、さらに、ベトナム指導者のホー・チ・ミン、韓国の朴大統領、中国共産党の首脳部も皆、明治維新は「うらやましいもの」だったのです。
岡崎さんは元駐タイ大使ですが、タイ国でも同じことを聞かされた、とおっしゃっておられました。
私は今から50数年前、ドイツに留学していましたが、そのとき私が住んでいた隣の部屋に韓国人の教授がいました。また、知り合いのドイツ人の家にも、やはり韓国・京城大学(現・ソウル大学)の教授が下宿していました。我々は仲が良かったのです。というのも、お二人とも戦前の日本に留学していて、全員学歴が日本だったからです。非常に話が合い、彼らの口から必ず出てきた話題が「日本には明治維新があってよかったなあ。我が国にはなかった」でした。
幕府崩壊を決定づけた小御所会議
その明治維新、別の言葉でいえば徳川幕府の終焉ですが、それはいつでしょうか?日本のジャーナリストの先駆けで戦前のオピニオンリーダーだった徳富蘇峰の見解によれば、慶応3(1867)年12月9日から10日にかけて京都御所で開かれた「小御所会議」だといいます。
これより先、将軍・徳川慶喜は、10月14目に坂本竜馬や後藤象一郎などの公武合体論者に突き動かされた土佐藩の山内豊信(容堂)の勧告を受け、「大政奉還」をしています。
すでに当時の幕府は、黒船の来航によって開国を迫られるとともに、「尊皇攘夷」の声が澎湃(ほうはい)と沸き起こり、さらに武力で成り立っている徳川幕府の中心人物の井伊大老が、江戸城に入る直前の桜田門外で、わずか20人前後の浪人に殺されるという前代未聞の事件が起こるなど、その統治システムはガタガタになっていました。
そこで考えられたのが「公武合体」です。
タガがゆるんでいるとはいえ、実際に政治を行なっているのは数百年にわたって徳川幕府と幕府の下にあった大名たちです。いくら「尊皇」を叫んでみても朝廷自体が3万石ぐらい、そこに仕える公家たちは皆、江戸でいえば下級旗本くらいの禄しかもらっていない状態でした。そんな人たちに政治ができるわけがない。だから公武が合体して、実際の政治は代表的な公家と大名が集まってやろうではないか──という最も無難と思われる案でした。
しかし、歴史というものは、無難な案をいとも簡単に乗り越えていきます。
NHKの大河ドラマ『篤姫』でも知られる薩摩藩主の島津斉彬も西郷隆盛、大久保利通も最初は皆、公武合体論者でした。しかし彼らはその後、藩主の島津斉彬は亡くなりますが、西郷も大久保も皆、武力による討幕を目指すようになります。
会議の雌雄を決した岩倉、大久保のひと言
この公武合体案が完全に崩れたのが、「小御所会議」でした。
小御所会議とは、この日に発せられた王政復古の大号令で、摂政・関白・将車を廃止し、有栖川宮熾仁親王を総裁に、新たに議定、参与の合計三職を設けて、この三職による政権運営を決定した政府首脳が集った最初の会議でした。明治天皇も御簾を隔てられながらもご出席された近代日本の最初の御前会議です。主要議題は徳川氏への処分問題でした。この会議の内容は、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に詳しく書いてあるのですが、それを読むと、明治維新の四傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視)に岩倉さんが入る理由が分かりました。
というのは、小御所会議には、議定に選ばれた山内容堂、松平春嶽(慶永)、薩摩藩主・島津茂久などと、参与の岩倉具視、大久保利通、後藤象二郎などが参列しましたが、前将軍・徳川慶喜を呼ばなかったのです。
これに対して徳川慶喜に公武合体を説き、大政奉還をさせた山内容堂が「大政を奉還した慶喜公をこの場に招かないとはなにごとか。この集まりは陰謀である。天皇がお若いことをいいことに、詐術をもって政権を決めようとしているのではないか」と文句を言ったのです。
そうしたら、その言葉尻を岩倉具視がとらえ、小御所会議には、御簾の奥に若き明治天皇が臨席されていましたので、「今そこにいらっしゃる天皇は、お若いといっても聡明な方である。その聡明さを抜きにして、天皇がお若いからわれわれがインチキをやっているとは何事であるか。無礼であるぞ」と戒めました。これには山内容堂も反論が出来ずに沈黙してしまいます。彼の言葉は、さすがに天皇が愚かだといわんばかりで、天皇が幼いからお前たちいい加減なことをやっていると言っているのと同じことになるわけですから、それは天皇を侮蔑したことになるぞ、という岩倉具視の発言に正当性がありました。
それからは、岩倉具視の独壇場です。どんどん会議を引っ張っていきます。それでも、なんとか徳川慶喜を出席させようとする大名もおり、会議は紛糾しますが、そのときに出たのが大久保利通の発言でした。「出席したければすればいい。その前に、大政奉還をしたのだから800万石を無償で返してから出てこい」と言ったことで幕府側に同情した人たちは沈黙。それによって公武合体論も露と消えました。
それから数日後に、戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)が始まりますが、もうこのときは錦の御旗が登場するような状況になっていました。
このように、小御所会議が本当に天下の分かれ目だったのです。維新の元勲たちも、あのときから明治維新が始まったという意識がありますから、岩倉さんを立てるわけです。岩倉さんもはじめは公武合体論者なんですよ。しかし天下の流れを見て、ここだ、というときに一気に慶喜をナシにするような発言をして、それで勝ってしまいました。だから、会議というのは怖いですね。本当に重要なことが、演説ひとつでガラリと変わるということがあるんですね。 
 
幕末の名医の食養学 / 石塚左玄の粗食健康法

 

石塚左玄 / 嘉永4年-明治42年(1851-1909年) 日本の軍医・医師・薬剤師。玄米・食養の元祖で、食養会をつくり普及活動を行った。福井県出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱する。「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではと述べ、その言葉で寄付が集まったという。しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった。天皇家の献立は食養学に基づいている。
少食のすすめ
栄養学者が金科玉条としている「栄養価値の高いものを楽しく食べる」ということの中には、恐るべき落とし穴があります。
働きて食へばたのしも貧しかる 夕餉の膳に言うこともなし(新万葉)
Hunger is the best sauce(空腹にまずいものなし)
「腹八分医者いらず」は、誰もが知っていることわざです。
最近、アメリカの栄養学者は、「腹六分にすればガンは十分の一に減る」とさえいっているそうです。
アメリカ人は日本人より1000kcalも多く食べていますから、アメリカ人の腹六分は日本人の腹八分に相当する、と考えていいでしょう。
時間がきたから食べ、喉が乾いていないのに飲み、むやみと味や色、匂いをつけたものを好奇心から食べることほど愚かなことはありません。少食が健康上大切なことを示すことわざや言葉は、洋の東西を問わず沢山あります。
三食の中の二食は自分のため、他の一食は医師のため、なるべく簡単に、なるべく少なく食べよ(ソクラテス)
僧侶、隠者の長寿はみな少食による(ベーコン)
私の同僚たちの中で、元気でたくましく、大いに飲み、大いに食べた者の大半は、平均寿命を超えるはるか前に他界しました。彼らの「太く短い人生」が、多食多飲の結果だったことは明らかです。
ここで石塚左玄の教えを、改めて噛みしめたいものです。左玄が説いた人間主体の栄養論は、東洋的、総合的、哲学的で、それはまさに「食養道」とも名づけられるべきものです。
事実、左玄は「食養道」という言葉を好んで使いました。もっとも、「過ぎたるは及ばざるが如し」で、『養生訓』で名高い貝原益軒(1630−1714)は、「飲食節に過ぎれば脾胃を損なう」と、いたずらな節食と少食を戒めています。少食については甲田光雄博士の詳しい研究があります。
実例が語ること
石塚左玄以降の栄養学者で、少食論や少蛋白論を説いた人にチッテンデン(アメリカのエール大学生理学教授)のほか、デンマークのヒンド・ヘーデ教授と日本の二木謙三先生(文化勲章受賞者、東大教授)がいます。デンマークは1909年(明治42年)、ヒンド・ヘーデのために国立栄養研究所を新設しました。
農村出身のヘーデは医科大学に入ったとき、健康を保つには肉を食べなければならないと教わり、大いに肉食に励みました。しかし、講義の内容と実際との間には大きなギャップがあり、彼は体調を崩し、頭の冴えもなくなったので、肉を減らしたところ体調はよくなりました。そこで肉食をやめたら、さらに体調はよくなったのです。3週間、2カ月、3カ月を過ぎても栄養不良の徴候は出ないどころか、かえって体質は改善され、心身ともに爽快になりました。
50歳のときヘーデは、体重67kgを保つのに蛋白20gあれば足りるとし、蛋白118gは必要だとするフォイト教授の標準食とは大きな相違を示しました。第一次世界大戦(1914−1918)中、デンマークはヘーデの学説によって食糧を用意し、終戦まで1人の栄養失調者も出しませんでした。
一方、ドイツは、フォイトの弟子のルブナーの指導で食糧を用意しましたが、戦争の後半では栄養不良者や餓死者を出し、国土に敵を一歩も入れなかったにもかかわらず戦いに敗れたため、「ドイツを敗北させしめたのはカイゼルではなく、献立を誤ったルブナーである」と、非難されたものです。
大戦に参加したアメリカも、食糧不安を感じ、作戦上、不都合が生じ、食糧担当の政府顧問だった栄養学者のベネディクトは、チッテンデン教授を非難しました。が、大規模な実験の結果、同教授の説の正しいことを知り、論文をもって陳謝したのでした。二木謙三先生は玄米、菜食の少食論者でした。最初、二食論を唱え、それを実行後、体重は落ちましたが、半年ほどで元に戻り、体調もよくなられたので、一食を試みました。80歳を過ぎてからのことで、とても健康になられたのです。
私も時折り、二本先生のお供をしましたが、食事になると先生は一人分しか注文せず、その四分の一を皿に取り、残りを私によこされるのです。そのため、随分とひもじい思いをしましたが、それも楽しい思い出になっています。 
一物全体食論
石塚左玄は口癖のように、「健康を保つには生命あるものの全体を食べることだ。野菜は皮をむいたり、湯がいたりせず、魚なら骨やはらわたを抜かず、頭から尻尾まで食べよ。食物に陰陽の別はあっても、生きているものは、すべてそれなりに陰陽の調和が保たれているのだから、その部分だけを食べたのでは健康長寿は望めない。自然界の動物たちの食べ方をよく見るべきだ。彼らは人間のように包丁を用いたり、味付けをしたりはしない」と、言っていました。
片瀬学説で知られる片瀬淡(あわし)元阪大教授も、「あらゆる生物がすみやかに発育するには、生体内における酸とアルカリとの間の平衡が保たれていなければならない。小魚でも平衡を保った生体であり、それを丸ごと食べれば人体も平衡が乱れる恐れはない。野菜、果実、その他あらゆる食物についても同じことが言える。牛でも豚でも全体を食べれば何の害もないのだが、こんな大きな動物になると、肉だけ食べて骨も内臓も捨ててかえりみないから、その害たちどころに至るのである」と述べています。
たくましき自然食者たち
戦前、私は山梨県の河口湖畔で、休憩中の連隊と出会ったことがあります。連隊長と知り合いだったので声をかけたところ、連隊長は、周りでぐったりしている将兵を指して、「この連隊を率いて三ツ峠を越えてきたが、あのとおりのざまで動こうとしない。それにつけても思い出されるのは武田軍団の強さだよ。武田一万の軍勢は鎧兜の完全武装で早朝甲府を出て、この三ツ峠を越え、鐘カ淵で戦い、その日の夕方には甲府に引き上げた。どうして一万もの兵を動かせるのか分からない。道も今より狭くて通りにくかっただろうし、食糧は梅干し入りの麦飯のにぎり飯だった。彼らの頑強さには驚くほかないね」と、苦笑まじりに言うのでした。
武田軍団の活力のもとは、自然食と梅干しだったのです。これは、肉食でなければエネルギーを出せないと、誤った食事観に毒されている一部の現代人には、どうにも理解できないことでしょう。
細嚼(さいしゃく)は飢え難し
噛まずに丸飲みする者は満腹に馴れ、食物が乏しくなると一番先にまいってしまうけれど、よく噛む者はたやすく飢えない、という意味です。俳人の外川飼虎(とがわしこ)は戦時中、粗悪で乏しい食物で生き抜くことを余儀なくされたとき、この言葉を思い出して、ひたすら噛み続けました。
よく噛まない戦友たちは栄養不良になり、病気を併発して全員死亡したそうです。
それは、寒い夜、干し藁(わら)を噛み続ける馬だけが凍死を免れたことと相通じるのです。
日本人に少ないラクターゼ
私たち日本人の小腸には、乳糖を分解する酵素であるラクターゼが欠如しています。乳糖とは哺乳動物の乳の中にある当分のことです。このラクターゼは乳児には認められるけれど、離乳期になると消えてしまいます。これは離乳を促すメカニズムの一つだといわれますが、欧米人には大人になっても、このラクターゼが小腸内に残っているので、老人になってからでも牛乳を飲めるのです。
日本人の食物アレルギーの半数近くは、牛乳および乳製品のせいだという研究報告もあります。
牛乳が日本に渡来したのは七世紀のころといわれ、その後の江戸時代にもオランダ人が持ち込んだという記録はありますが、日本人の食生活の中に定着しませんでした。いずれにせよ、日本人を含め東洋人は牛乳を飲まない民族であったことは、その遺伝子が証明しています。
第二次大戦後、牛乳の栄養価は高く評価されて、学校給食に欠かせなくなりました。粉ミルクの功徳は計り知れないほどですが、そのかわり、昔はなかったアトピーや花粉症は、このあたりからきているとも考えられます。
肉食後、体内はどうなるか
仏教伝来後、肉食の習慣を断ってきた日本人が、何万年も肉食をつづけてきた欧米人なみの食生活に軽々しく切り替えてよいはずがありません。前にも記したように、モンゴリアンが肉食のイヌイットになるには1〜2万年の年月と厳しい淘汰が必要だったのです。
私たちが動物性食品を摂取すると、腸内菌はあの鼻持ちならぬ悪臭を発する化学変化を起こし、肝臓はそれを解毒するための働きを求められます。その肝臓に障害があれば、もちろん解毒できなくなり、その結果、アンモニア血症や肝性脳症、肝性昏睡などを引き起こします。寿命や老化に腸内菌が深くかかわっていることは明らかです。(略)
肉食後の糞便のインドール(不快臭)は、菜食の場合の十倍になるといわれます。たとえ必須アミノ酸から成る優れた蛋白質でも、過剰に摂りこまれた分は排泄されるか、さもなければ肝臓に負担をかけるアンモニアの原料になります。しかもそのアンモニアは肝臓で尿素になり、これを排泄するにはたくさんの水を使わなければならず、排泄が不十分だと尿素から尿酸がつくられ、これが結晶状のまま関節周辺の軟組織に蓄積されて、あの激痛を伴う痛風を引き起こすのです。(略)
肉を食べると当然、肉に含まれている燐酸や硫酸が血液を酸性にするので、これを中和させるために歯や骨のカルシウムを溶かすことになります。肉食の欧米人に骨粗しょう症や骨の多孔症、骨のわん曲が多いのはそのせいなのです。
ヨーロッパ人と肉食
ヨーロッパ人は昔から、ずっと肉食をつづけてきましたが、それにはそれなりの背景があります。
日本では台風も含めて多量の雨が降り、夏には太陽が照りつけるため、牧畜に向かない繊維の硬い植物が繁茂しています。この気候風土が日本人を、米や雑穀、野菜などをつくられる農耕民族にしたのです。牛1頭を飼うには1ヘクタールの牧草を必要としますが、その1ヘクタールから穫れる米は30俵から160俵で、12人から64人の人間を養うことができます。つまり日本は、その労力さえ惜しまなければ、牧畜よりはるかに効率のよい食糧(米)をつくる条件を備えているのです。 
国貧論 / コメを食してこそ「日本人」
人は食で変わる。
英語でいえば、”You are what you eat.”である。直訳すれば、「あなたは、あなたが食べるもの」となり、日本初のマクロビオティック(正食)料理は、外国人(白人系欧米人、とくにユダヤ人)に大人気があり、食の思想の巨人、桜沢如一の遺志を継ぐ久司道夫博士の門を叩き、「ガンやエイズをなおしてください」と哀願する人の数は絶えることがない。
文明の危機を感じた多くの欧米人が、久司道夫氏の教えに従い、氏のボストンのマクロビオティックセンターで玄米を黙々と噛んでいる。静かだ。食事中はあまり話すな、と叱られた昔を思い出す。われわれ日本人は、肉食を好む欧米人になってしまった。肉を食べだした明治のころから、日本人の身心は穢れ始めたという説もある。
これは極端にしても、何人ものアメリカ人から、「なぜ日本人はアメリカ人がジャンク・フード(くず食)というファースト・フードを好んで食うのか。日本人の血も薄くなり、HIVに対する抵抗力を失いAIDSが増えるだろうな」と言われると、ギョッとする。
よく噛む人は、日本人であれ外国人であれ、思考に深みがあり、落ち着いて、言動が慎重だ。めったに人の悪口を言わない。
そういう価値観の人は、食物の価値観も似通っているものである。食物に好き嫌いの激しい人は、人の好き嫌いも激しく、肉食を好む人は、言葉も攻撃的になる。
身土不二(しんどふじ)という正食の道を外した日本人は、皮膚は東洋人でありながら、身も心も白人化している。昨年夏、ハワイのアラモアナ海岸で知り合った韓国の中年のビジネスウーマンは、私にこう語った。「日本人はもう白人よ。東洋人のプライドを失っている。そのうちに東洋に戻れなくなるわよ。ワイキキの浜辺に行ったの?日本人の若い女性向けに日本語で『ローカルな男性に近づかないでください』と書かれたあの看板。ハワイの東洋人に笑われているわよ。私の知っている昔の日本女性は、もっと貞操観念があったのよ」
肉食は、かつての精神的な日本の若者を物欲的に、そして現世的にさせた。肉食を主とする白人系欧米人は、どうしても植民地的、帝国主義的にならざるを得ない。
その攻撃性がビジネス感覚に結びつくと恐ろしい。教育でも医学の分野でもすべて、ビジネスが優先するという価値観に結びつくからである。赤ひげは病院ビジネスには向かなくなった。自然治癒という神道経営では食べていけないのだ。だから、患者を薬漬けにして逃さないようにマネーマシーンにすることだ。「仕方がない。医療の仕組みがそうなっているんだから」と制度のせいにし、儲け第一にしている。こういう不正義は法では取り締まれない。
 
氷川清話

 

西郷と江戸開城談判
西郷なんぞは、どの位ふとっ腹の人だったかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談(はなし)はとても纏まらなかっただらうヨ。その時分の形勢といえば、品川からは西郷などが来る、板橋からは伊地知などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといって大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼においた。
そこで、今話した通り、ごく短い手紙を一通やって、双方何処にか出会ひたる上、談判致したいとの旨を申送り、また、その場所は、すなはち田町の薩摩の別邸がよからうと、此方から選定してやった。すると官軍からも早速承知したと返事をよこして、いよいよ何日の何時に藤原屋敷で談判を開くことになった。
当日おれは、羽織袴で馬に騎(の)って、従者を一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従へ、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控へたものとは思はれなかった。
さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」──西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいふ事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集して居るのに、恭順の実はどこにあるのかとか、いろいろ喧(やかま)しく責め立てるに違いない。万一さうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいはない。その大局を達観して、しかも果断に富んで居たには、おれも感心した。
この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などいふ豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗って居る。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけて居る。その有様は実に殺気陰々として、物凄い程だった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののやうに、談判を仕終へてから、おれを門の外まで見送った。
おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せてきたが、おれが西郷に送られて立って居るのを見て、一同恭(うやうや)しく捧銃(ささげつつ)の敬礼を行なった。おれは自分の胸を銃先にかかって死ぬこともあろうから、よくよくこの胸を見覚えておかれよ、と言い捨てて、西郷に暇乞いをして帰った。
この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかった事だ。
西郷の胆量の大きさ
西郷はちっとも見識ぶらない男だったよ。あの人見寧(ひとみやすし)といふ男が若い時分に、おれのところへやって来て「西郷に会ひたいから紹介状を書いてくれ」といったことがあった。ところが段々様子を聞いて見ると、どうも西郷を刺しに行くらしい。そこでおれは、人見の望み通り紹介状を書いてやったが、中には『この男は足下を刺す筈だが、ともかくも会ってやってくれ』と認(したた)めておいた。
それから人見は、ぢきに薩州へ下って、まづ桐野へ面会した。桐野もさすがに眼がある。人見を見ると、その挙動がいかにも尋常でないから、ひそか彼の西郷への紹介状を開封して見たら果して今の始末だ。流石に不敵の桐野も、これには少しく驚いて、すぐさま委細を西郷へ通知してやった。
ところが西郷は一向平気なもので、「勝からの紹介なら会って見よう」といふことだ。そこで人見は、翌日西郷の屋敷を訪ねて行って、「人見寧がお話を承りにまいりました」といふと、西郷はちょうど玄関へ横臥して居たが、その声を聞くと悠々と起き直って、「私が吉之助だが、私は天下の大勢なんどいふようなむつかしいことは知らない。まあお聞きなさい。先日私は大隅の方へ旅行したその途中で、腹がへってたまらぬから十六文で芋を買って喰ったが、多寡が十六文で腹を養うような吉之助に、天下の形勢などいふものが、分る筈がないではないか」といって大□を開けて笑った。
血気の人見も、この出し抜けの談に気を呑まれて、殺すどころの段ではなく、挨拶もろくろく得せずに帰って来て、「西郷さんは、実に豪傑だ」と感服して話したことがあった。知識の点においては、外国の事情などは、かへっておれが話して聞かせたくらゐだが、その気胆の大きいことは、この通りに実に絶倫で、議論も何もあったものではなかったよ。
西郷の力と大久保の功
先に見せた草稿にもある通りに、この東京が何事もなく、百万の市民が殺されもせずに済んだのは実に西郷の力で、その後を引受けて、この通り繁昌する基を開いたのは、実に大久保(利通)の功だ。それゆえにこの2人のことをわれわれは決して忘れてはならない。
あの時、おれはこの罪もない百万の生霊を如何(どう)せうかといふことに、一番苦心したのだが、しかしもはやかうなっては仕方がない。ただ至誠をもって利害を官軍に説くばかりだ。官軍がもしそれを聴いてくれねば、それは官軍が悪いので、おれの方には少しも曲ったところがないのだから、その場合には、花々しく最後の一戦をやるばかりだと、かう決心した。
それで山岡鉄太郎が静岡へ行って西郷に会ふといふから、おれは一通の手紙を托(あず)けて西郷へ送った。山岡といふ男は、名前ばかりはかねて聞いて居たが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考へだから用心せよといって、ちっとも会はなかったのだが、この時の面会は、その後十数年間“莫逆の交り(=非常に親しいつきあい)”を結ぶもとになった。
さて山岡に托けた手紙で、まづおれの精神を西郷へ通じておいて、それから彼が品川に来るのを待って、更に手紙をやって、今日の場合、決して“兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐ(=内輪もめをする)”べきでないことを論じたところが、向ふから会ひたいといって来た。そこでいよいよ官軍と談判を開くことになったが、最初に、西郷と会合したのは、ちょうど3月13日で、この日は何もほかの事は言はずに、ただ和宮の事について一言いったばかりだ。
全体、和宮の事については、かねて京都からおれのところへ勅旨が下って、宮も拠(よんどころ)ない事情で、関東へ御降嫁になったところへ、図らずも今度の事が起ったについては、陛下もすこぶる宸襟(しんきん=お心)を悩まして居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の御身の上に万一の事のないやうにせよとの事であった。それゆえ、おれも最初にこの事を話したのだ。
『和宮の事は、定めて貴君も御承知であらうが、拙者も一旦御引受け申した上は、決して別条のあるやうな事は致さぬ。皇女一人を人質に取り奉るといふごとき卑劣な根性は微塵も御座らぬ。この段は何卒御安心下されい。そのほかの御談は、いづれ明日罷り出で、ゆるゆる致さうから、それまでに貴君も篤(とく)と御勘考あれ』と言ひ捨てて、その日は直ぐ帰宅した。
江戸を戦火から守る
翌日すなはち14日にまた品川へ行って西郷と談判したところが、西郷がいふには、「委細承知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」といって、傍に居た桐野や村田に進撃中止の命令を伝へたまま、後はこの事について何もいはず昔話などして、従容として大事の前に横たわるを知らない有様には、おれもほとほと感心した。
この時の談判の詳しいことは、いつか話した通りだが、それから西郷に別れて帰りかけたのに、この頃江戸の物騒な事といったら、なかなか話にならないほどで、どこからともなく鉄砲丸が始終頭の上を掠めて通るので、おれもこんな中を馬に乗って行くのは剣呑だと思ったから馬をば別当に牽かせて、おれは後からとぼとぼ歩いて行った。
そして漸く城門まで帰ると、一翁を初めとしてみなみながおれの事を気遣って、そこまで迎へに出て居ったが、おれの顔を見ると直ぐに、まづまづ無事に帰ったのは目出たいが、談判の模様はどうであったかと尋ねるから、その顛末を話して聞かせたところが、みなも大層喜んで、「今し方まで城中から四方の模様を眺望して居たのに、初めは官軍が諸方から繰込んで来るから、これは必定明日進撃するつもりだらうと気遣って居たが、先刻からはまた反対にどんどん繰出して行くやうなので、如何したのかと不審に思って居たに、君のお談であれば西郷が進撃中止の命令を発したわけと知れた」といふので、おれはこの瞬間の西郷の働きが行き渡って居るのに実際感服した。談判が済んでから、たとへ歩いてとはいふものの城まで帰るに時間はいくらもかからないが、その短い間に号令がちゃんと諸方へ行き渡って、一度繰込んだ兵隊をまた後へ引戻すといふ働きを見ては、西郷はなかなか凡の男でない、といよいよ感心した。
畢竟、江戸百万の人民が命も助かり、家も焼かれないで、今日のやうに繁昌して居るのは、みんな西郷が諾といってくれたお蔭だ。
東京今日の繁昌のもと
さて西郷の一諾で、ひとまづ事は治まったが、ここに今一つの困難といふのは、これから先、江戸の人民をどう始末せうかといふ問題だ。しかしおれの方では、徳川の城さへ明渡せば、後はみな官軍の方で適宜に始末するだらうと思って、初めは黙って見て居た。そこはおれも人がわるいからネ。しかるところ、これには向ふでも困ったと見えて、西郷も相応には人がわるいサ、「府下の事は何もかも勝さんが御承知だから、宜しくお願ひ申す」といって、このむつかしい仕事をおれの肩へ投げかけておいて、自分はそのまま奥州の方へ行ってしまった。おれも忌々しかったけれど、仕様もないからどうかかうか手を付けかけたところが、大村益次郎などいふ男がおれを悪(にく)んで、兵隊なんか差向けて酷くいぢめるので、あまり馬鹿々々しいから家へ引込んで、それなり打ちゃっておいた。すると大久保利通が来て、是非々々と懇ろに頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気に肩を入れるやうになったのだ。
この江戸の市中の事は、おれはかねて精密に調べておいたのだが、当時の人口はざっと150万ばかりあった。そのうち、徳川氏から扶持を貰って居ったものは勿論、そのほか諸大名の屋敷へ出入りする職人や商人などは、みな直接間接に幕府のお蔭で食うて居たのだから、幕府の瓦解とともに、こんな人たちは忽ち暮らしが立たなくなる道理だ。
全体江戸は大坂などとは違って、商売が盛んなのでもなく、物産が豊かなのでもなく、ただただ政治の中心といふので、人が多く集るから繁昌して居たばかりなのだ。それゆえに、幕府が倒れると、かうなるのはもとより知れきって居る事サ。
就いてはこの人たちに、何か新たな職業を与へなければならないのだが、なにしろ150万という多数の人民が食ふだけの仕事といふものは容易に得られない。そこでおれは、この事情を精しく大久保に相談したら、流石は大久保だ。それでは断然遷都の事に決せうと、かういった。すなはちこれが東京今日の繁昌のもとだ。
ちょうどこの事の決する時には、大久保と吉井とおれと3人同席して居ったのだが、大久保も吉井もすでに死んでしまって、おればかり老いぼれながらも生き残って居るので、まことに今昔の感に堪へないよ。先に見せた草稿の中に、江戸が無事に終ったのは、西郷の力で、東京が今日繁昌して居るのは、大久保の力と書いておいたのは、まづこんなわけサ。 
 
内村鑑三の「代表的日本人」

 

西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮
内村鑑三(1861-1930)は東京英語学校(東京大学の前身)で英語教育を受けた英語名人世代の代表格であり、日本に一神教の神に帰依するキリスト教信仰を導入した人物として知られる。内村鑑三は少年よ、大志を抱けの名言で有名な札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886)の薫陶を受けて、メソジスト(プロテスタントの宗派)のキリスト教徒に転向した。
内村鑑三は日本にキリスト教文化や西欧文明を導入すると同時に、西欧社会に向けて日本文化や日本人のイメージを積極的に情報発信した人物であり、Representative Men of Japan(代表的日本人)もそういった海外向けの日本人論の作品として書かれた。明治時代にセレクトされた代表的日本人であるから、当然、現代的な意味での代表的日本人ということはできないが、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮といった内村鑑三が選んだ日本人には、現代の日本人にも好まれやすい自己犠牲や勤勉・禁欲の要素がある。
内村鑑三が生きた明治時代から約100年の時間が流れているが、内村が掲げた代表的日本人の原像には日本人の長所と短所が凝縮されており、日清戦争以降の日本の近代の戦争そして敗戦も、代表的日本人の有した滅私奉公の理念や結果を求めない玉砕精神がもたらしたという側面を指摘することができるだろう。
合理的な功利主義による損得勘定を受け容れない代表的日本人、あるいは、論理的・科学的な議論(理屈)を好まず大義名分や自己犠牲の精神(純粋至誠の心持ち)によって“天意”を得ることができるという精神主義を掲げた代表的日本人……現代の日本人と近代の日本人には多くの違いがあるが、自我意識の根底において物質(損得)・科学(事実)・個人(自由)よりも精神(理念)・文学(物語)・共同体(同調)を重んじるような感受性や価値観は今でも多く残っているのではないかと感じる。
そういった伝統的な集団主義(自己主張抑制の個の滅却)や禁欲主義というものは、団結力や公徳心を高める美徳・長所になり得るものだが、状況が切迫してくると全体のために個人の犠牲を強いて殉死を美化する集団圧力(原理主義的な社会道徳規範)へと変質することもある。
本書は内村鑑三の代表的日本人の概説書の体裁を取っているが、童門冬二は西郷隆盛をはじめとする各人物の事績と人物像(パーソナリティ・生活歴)を辿りながら、今の時代に各人物の信条をどう生かすべきか(代表的日本人から何を学び取れるか)ということを考えている。内村鑑三は近代日本の義戦論から非戦論へと転向した人物であるが、内村のキリスト教信仰に基づく戦争否定の非戦思想は積極的な反戦・懲役拒否にまで至ることはなく、キリスト教徒の徴兵・戦死に無抵抗主義の実践による贖罪の救済を見ることになった。
内村鑑三が代表的日本人を上梓したきっかけの一つは、西欧列強に追いつくために富国強兵に邁進する日本人が道理・大義に反した戦争を無闇に仕掛けることがない道徳的精神性を備えた民族であること、そして、強兵によって他国を侵略するような国家ではないことを欧米世界に伝えることであったとされる。
当時の日本は経済的にも軍事的にも急成長を遂げており、西欧列強は日本も軍事力を強化して帝国主義的な外交政策を展開するつもりなのではないか(自分たちヨーロッパ諸国と武力で競い合って東アジアに領土・利権の拡大を狙っているのではないか)と疑心暗鬼の視線を送っていたが、内村鑑三は明治期日本の現実の政治判断はともかくとして、日本が率先して軍事衝突を引き起こす可能性が低いことを私利私欲の乏しい清貧な代表的日本人のイメージを通して伝えようとした節がある。
日清戦争や韓国併合以降に、内村が代表的日本人の著作に込めた楽観的期待は裏切られることになるが、内村は国民を守る護民官としての政府・為政者に政治の理想を見ており、国家が一時的に進む方向性を見誤ったとしても、日本人の精神に内在する道徳性の普遍的価値(勤勉・禁欲・思いやりの寛恕)が完全に消滅することはないという信念を持っていた。
内村鑑三は分野別に5人の代表的日本人を選んでいて、政治家としての西郷隆盛、地方大名としての上杉鷹山、農民指導者・教育者としての二宮尊徳(二宮金次郎)、地方の教育者としての中江藤樹(近江聖人)、宗教者としての日蓮についてその事績と思想、人間性をコンパクトにまとめている。原作を読んだことがない人でも、本書で童門冬二の簡便な解説と一緒に読み進めれば、各人物の人生や思想の概略を大まかに掴める構成になっているが、ひとりひとりの事績や思想について深く掘り下げられているわけではないので、各人物について詳しく知りたければ伝記・評伝を補足的に読んでいったほうが良いと思う。
内村鑑三が自己の理想的な日本人像を投影しながら、少ない参考資料を元に描きあげた人物像なので、必ずしも史実と一致しているわけではないと思うが、明治期日本の代表的知識人である内村が見た日本人の精神性・人間性のエッセンスを垣間見ることができる。西郷隆盛の為政者は民衆を愛し守る父母になるべしというようなパターナリズムは、現代の自由主義や個人主義とは相性が悪いが、明治政府で最高権力に近い地位にまで上り敬天愛人の思想を掲げた西郷の為政者(リーダー)としての気概や理想に触れることができる。
西郷隆盛は正直者が馬鹿を見るような事態や金権政治の腐敗を酷く嫌い、新政府の元の権力や地位を求めて薩長出身の武士たちが猟官運動をする状況を軽蔑していたが、こういった道徳的価値観というのは合理主義が全盛の現代においてもかなりの強度で生き残っている。失業した士族の反政府感情と共に西南戦争で没した西郷隆盛は、自己犠牲によって明治政府の懸念事項であった不平士族の問題を解決へと導いたが、童門は赤ん坊の無垢な精神(道教的な無為自然の境地)を西郷に見出している。
米沢藩の財政再建と産業振興を実現した名君とされる上杉鷹山(うえすぎようざん)や、貧苦に耐える蛍雪の勉学をして廃村復興の農業指導や公共事業に人生を捧げた二宮金次郎(二宮尊徳)のエピソードも、質素倹約の禁欲主義や民衆保護のリーダーシップに重点が置かれているが、基本的にこれらの徳性を率先垂範で求められるのは為政者・指導者の側であった。そこには王道政治の理想を唱導する儒学の士(士大夫)の思想があるが、中国の王朝官僚政治を支えた文官の士(士大夫)は徳川幕府が安定秩序を築いた近世日本では文官・武官を兼務する武士にも当てはめられるようになり、“学識教養・武芸胆力・道徳的人格性”を備えた文武両道が江戸期の武士道の道徳的なエートスになっていく。
日本の武士が軍事活動を専門的に担う生粋の武官であった時代は意外に短く、江戸時代の武士は戦争を行う武官としての側面よりも、内政(財務)・事務・人事を管掌する文官としての側面のほうが強くなっていた。朱子学と陽明学を修めて儒学的な徳目を謙虚に実践した近江聖人の中江藤樹のエピソードでは、人に知られない善行・自己主張のない奉仕が示されている。陽明学の主題である主体性の自覚・知行合一によって、中江藤樹は学識・言論の徒から教育・行動の聖人へと変容したのだが、中江藤樹の白眉たるところは形式化した道徳を他人に説くのではなく、自らが求める道徳を自分自身で静かに実践したことだろう。
法華経を最高の経典として元寇を予言した日蓮の立正安国論は、日本の民族意識やナショナリズムの起点として捉えられているが、日蓮宗というのは日本では珍しい不寛容な排他主義の宗派である。自らの生命と安全を振り返らずに法華経の教えを広めようとした日蓮は、“海辺の貧しき民”として生まれながら“仏陀の使者・預言者”としての使命感に支えられた波乱万丈の人生をまっとうしたが、その恐れを知らぬ気性の激しさと自説を曲げぬ強固な信仰心こそが国僧・日蓮のアイデンティティそのものであった。
迫害や差別の苛烈な逆風に晒されながらも、孤立した山の上の一本杉のように毅然として耐え抜いた日蓮は、自らの信仰を貫き国の危機管理の必要性を訴えた。この日蓮の何ものをも恐れぬ信仰者としての生き様(法華経布教と日本国に生命を投げ打った生き方)は、敬虔なクリスチャンであった内村鑑三の宗教者としての意識を強く揺さぶったようであるが、現実レベルの妥協や調和を知らない日蓮の信仰は「目的達成」か「自己破滅」かという諸刃の剣でもある。内村鑑三代表的日本人を現代に生きる私たちが読む時には、勤勉・禁欲・公共性・自己犠牲といった日本的精神性の持つ“道徳性・利他性”と“危険性・個人の軽視”の両面に絶えず意識的である必要があるように思う。  
 
日本国の大困難 / 内村鑑三  
日本国に一つの大困難があります。それは富の不足の困難ではありません。また学問の不足の困難でもありません。法律の不整頓の困難でもありません。農商工の不振の困難でもありません。それはモット深い、根本的の困難であります。その困難があるからこそ、日本の社会は今日のやうな稀代なる状態をあらはしてゐるのであります。しかるに日本人のほとんど総体は、困難をその根本において探らずして、資本の欠乏を歎じ、道徳の衰退を悲しみ、政治家、教育家の腐敗、堕落を憤ってをります。そのことそれ自身が実に慨歎すべきことであります。
日本国の大困難、その最大困難とは何でありますか。私は明白に申します、それは日本人がキリスト教を採用せずしてキリスト教的文明を採用したことであります。これが、わが国今日のすべての困難の根本であります。この大なるアノマリーすなはち違式があるゆゑに、わが国今日の言ふべからざる種々雑多の困難が出て来るのであります。
キリスト教的文明とは、読んで字のごとく、キリスト教によって起こった文明であります。すなはち、キリスト教なくしては起こらなかった文明であります。ゆゑに、キリスト教を学ぶにあらざれば解することのできない文明であります。しかるに日本人はキリスト教的文明を採用して、その根本たり、その起因たり、その精神たり、生命たるキリスト教そのものを採用しないのであります。これは、あたかも、人より物をもらって、その人を知らず、その人に感謝しないと同じことでありまして、かかる不道理なる、かつ不人情なる地位に自己を置いた日本人が、限りなき困難に際会しつつあるのは、最も当然のことであると思ひます。
まづその二、三の例をあげてみませう。日本人は、日新今日の学術なるものは、これはキリスト教のたまものでないどころではない、常にキリスト教の反対を受けて今日に至ったものであるから、これを採用し、これを応用するに、なにもキリスト教にたよるの必要はないと言ってをります。しかし、これ西洋歴史を少しも知らない者の言ふことであります。私は今ここに、大科学者なる者の多数が熱心なるキリスト信者であったことについては語りません。近世科学の草昧時代にあって、万難を排して宇宙の現象の観察に従事したニュートン、ダルトン、ハーシェル、ファラデーの輩が、謙遜なるキリストのしもべであったことについては語りません。しかしながら、よく考へてごらんなさい、何ゆゑに、回教全盛の時代において、トルコやエジプトやモロッコやスペインにおいて培養された科学が、その産出の地においては発育を全うすることができずして、欧州のキリスト教的社会に移されてより繁殖するに至ったのでありますか。何ゆゑに、インド人の鋭き脳髄をもってして、インド半島に科学が起こりませんでしたか。科学なるものは、ほかのものと同じやうに、大科学者の顕出をもってのみ起こるものではありません。これを促し、これを迎へ、これを奨励する社会があって初めて起こるものであります。
ことに科学思想は政治思想と同じく、思想の圧抑のある所に起こるものではありません。偶像崇拝の国に科学の起こらないのは、人の心が受造物に圧せられ、それがために、天然を凌駕し、これを究めんとの心が起こらないからであります。一神教の信仰と科学の勃興との間には深い深い関係が存してゐるのであります。このことを知らないで、知識に富みさへすれば、いづれの国民でも、科学をもって世界に鳴ることができると信ずるのは、実に浅い考へであります。
近世教育なるものが、おほむねキリスト教のたまものであることは、少しく西洋の教育歴史を読んだ人の否むことのできない事実であります。誰もペスタロッツィの伝を読んだ人で、彼が非常に熱心なるキリスト教の信者であって、彼の新教育なるものはみな、深き彼の宗教的観念の中に案出されたものであることを拒む者はないはずであります。フレーベルも同じことであります。ヘルバルトも同じことであります。彼らフレーベルやヘルバルトより、キリスト教の信仰を取り去ってごらんなさい。彼らの始めた教育の精神は取り除かれるのであります。しかるを、今の日本人は、ペスタロッツィ、フレーベル、ヘルバルトの教育法を採用して、その根本たり、原因たり、生命たるキリスト教は、きらってこれを採用しないのであります。日本国の教育が実に異常のものであって、体あるも霊魂なく、四肢あるも脳髄がないやうなものであるのは、全くこれがためであります。
また、われら日本人が世界に向かって誇るその新憲法なるものはどこから来たものでありますか。伊藤博文侯はその憲法注解において、これはわが国固有の制度を新たに制定したるものであると言ってをりまするが、しかし、さうならば、何ゆゑに、明治の今日まで、代議政体が日本国に布かれませんでしたか。また、もしさうならば、何ゆゑに、キリスト教国なるババリアやオーストリアの憲法に深く学ぶところの必要がありましたか。代議政体なるものは元からこの日本国にあったもので、決して西洋から借りたものではないなど言ふのは、あまりに小児らしく聞こえまして、日本憲法を一読した西洋の政治学者にかかることを聞かしたならば、彼らはただ笑ふのみであります。
今日、文明国で唱へるところの、自由であるとか民権であるとかいふものは、決してキリスト教なくして起こったものではありません。自由は世の創始より有ったもので、人類のある所には必ず自由ありなど言ふ人は、いまだ自由歴史を究めたことのない人であります。ローマやギリシャに、古人が唱へてもって自由と称せしものはありましたが、しかしミルトンや、クロンウエルや、ワシントンや、リンカンが唱へた自由なるものはありませんでした。これは実に新自由であります。これはプラトンもソクラテスもカトーもセネカもシセロも知らなかった自由であります。これはすなはち、初めてナザレ人イエス・キリストによって初めてこの世において唱へられた自由でありまして、彼と彼の弟子によらざれば、決してこの世に現はれなかった自由であります。人権におけるも同じであります。人に固有の権利ありとは、人は何びとも、その欲するがままをおこなうてもよいといふことではありません。また人は何びとも、その所有を、おのが欲するままに使用することができるといふことでもありません。権利なるものは言ふまでもなく、責任に付着したる能力でありまして、責任が無くなると同時に、これに付着したる権利は消滅するものであります。さうして人の責任なるものは、神と万有と人とに対する彼の心霊上の関係より来るものであります。神を認めず、不滅の霊魂の実在を認めずして、責任の観念はその土台からくづされ、その結果として、人はただ知能をそなへたる利欲の動物となってしまひます。責任の観念は実に宗教的観念であります。これは科学的に説明することのできるものではありません。これはまた社会を組織するための必要上より人間が定めたものでもありません。責任の観念を堅く維持せんと欲せば、必ず強き宗教の力にたよらなければなりません。
その他、会社組織の原理といひ、信用組合の原則といひ、深くその本を探れば、みな深い道徳的、宗教的の原理がその底にあるのであって、その根底の精神がなくしては会社も組合も決して成り立つものではありません。
しかるに日本の今日はどうでありますか。日本人は西洋人にならってその憲法を制定し、西洋人にならってその法律を編制し、西洋人にならってその教育制度を定めました。しかるに彼らは、西洋文明の精神たり、根底たり、泉源たるキリスト教をきらひ、われにはわが国固有の宗教あり、なんぞこれを外国より借るの要あらんやなどと申してをります。あるいは、学は西洋に則り徳は東洋に取るなどいふ馬鹿を吐いてをります。しかし馬鹿は馬鹿としても、国家はいつまでも馬鹿で押し通すことのできるものではありません。天然には天然の法則なるものがあります。日本人はいかに大なる国民であるにもせよ、天然の法則に勝つことはできません。キリスト教は自己を採用されないとて日本人を罰しはいたしませんが、しかし天然の法則は何の遠慮するところなく、今やきびしく日本人の愚と無情と傲慢とを罰しつつあります。これを日本今日の状態においてごらんなさい。
西洋科学は四十年間、この国において攻究されました。さうして、その医術のごときは、欧米のそれに比べて遜色なきものであると言はれます。しかし退いて考へてごらんなさい。四十年間の攻究の結果として、日本よりどんな科学上の大発見が出ましたか。また哲学上、どんな新学説が出ましたか。発明といへば、みな小なる工業上または薬物学上の発明ぐらゐにとどまり、なんの一つも世界の科学に貢献して恥づかしくないやうなものはわが国の科学社会よりは出て来ないではありませんか。それはそもそも何のためでありませうか。わが国に天性の科学者が無いからでありませうか。または研究の資力が無いからでありませうか。私はさうは思ひません。日本国の科学者や哲学者に、真理に対する愛心が足らないからであります。利益のためにする科学に大発見はありません。名誉のためにする科学に大進歩はありません。道楽のためにする科学は、科学の名にさへ値しないものであります。真理は、すべての利欲心を離れて、真理そのものを愛するにあらざれば、深く探ることのできるものではありません。発明といへばただちにこれに金銭上の利益と社会上の名誉が付随してゐるもののやうに思ふ科学者からは、決して大なる発明は出て来たりしません。これをコペルニクスに聞いてごらんなさい。これをニュートンに糺してごらんなさい。これをダーウィンに尋ねてごらんなさい。彼らはみな一様に答へて申します、「科学は決して商売ではない。これはまた道楽でもない。これは実にまじめなる仕事であって、これに従事せんと欲する者は、苛厳なる主人に仕ふるの心をもってなさなければならない」と。しかるに日本人の科学なるものはいかなるものでありますか。幾多の大学生が工学を修めんとするのは何の目的でありまするか。日本の工学技師ほど卑しい者はないとは、彼らをよく知る者の放つ歎声ではありませんか。日本人の医学なるものはいかなるものでありますか。これは、おもに病人を医して金を作るの術ではありませんか。日本の動物学や植物学はいかなるものでありますか。これは学校の教員となる下ごしらへでなければ、天然界の奇物を探る道楽の一種ではありませんか。日本の哲学なるものはいかなるものでありまするか。これは無理やりに忠君愛国主義を哲学的に弁護せんとするための方便でなければ、また欧米大家の学説を玩味せんとする、これまた道楽学問の一種ではありませんか。日本に科学はあります。すなはち科学の利用はあります。その玩用はあります。しかしながら未発の真理を発見して人類の知識の領土をひろめんとする宏遠なる希望の上に立つ科学は、日本にはほとんど無いと言うてもよいほどであります。日本の科学は実にはなはだツマラないものであります。
その次は日本の教育であります。これは実に世界の見物であります。これほど奇妙なるものは世界にありません。その教育制度たるや、外形上、実にりっばに見えます。これは欧州諸国においてすら、多く見ることのできない制度であるなど誇る、わが国の教育者もあります。しかし、どうでありますか。ヘルバルトが神と書きしところを、これはわが国体に適はずとてこれを削り、その代はりに、天皇陛下と加へしは、いかにも誠忠らしくは見えまするが、しかし、これは彼、大教育家ヘルバルトに対して不忠実きはまる所行でありまして、いやしくも教育家の聖職にあるところの者の、決してあへてなすべきことではありません。しかし堂々たる日本の文部省では、かかる非学者的のことをなすのを少しもとがめず、神の名を削りて、天皇陛下の名を加へしものを、真正のヘルバルト主義の教育学であるとて、これを国民の上に強ひたのであります。
ゆゑに天然はかかる欺騙の罪をゆるしません。すでに虚偽に始まったる日本の教育の虚偽の結果をごらんなさい。教員はだれもまじめに児童を教育せんとはなさず、教育をもって一種の職業と見なし、教育家が地位を探るにあたって、まづ第一に探るものは俸給の高であります。毎年三月下旬より四月上旬にかけて、新学年の始まるころに、全国の師範学校または中学校の校長たちが教員雇ひ入れのために上京するころは、日本の教育界はさながら一種の市場の状態を呈し、何県は何百円で格が安いとか、何府は何百で割りが高いとか、実に教育とは最も縁の遠い事柄をこれら教育商の口から聞くのではありませんか。それのみではありません、かの書肆の教科書運動をごらんなさい。世に言ふ「腐敗屋」なるものは何でありまするか。これは、学校長または教授、教諭、さては視学官などを、あるいは金銭をもって、あるいは酒色をもって、買収せんために、わが国の書肆が使役する運動員の名称ではありませんか。「腐敗屋」!! なんと恐ろしい名ではありませんか。彼は「恭倹おのれを持し、博愛、衆に及ぼし……徳器を成就し、進んで公益を広め」等の皇帝陛下の勅語を国民に教ふるために著はされたる倫理教科書を売りひろめんために、わが国教育者の腑腸を腐らしむるために特別に運動する者であります。さうして日本の教育家はかかる腐腸漢を断然排斥するかといふに、決してさうではありません。喜んで彼らと結托し、彼らの供する利を食らひ、もって彼ら書肆の利を計るではありませんか。この世界に児童の教育が始まって以来、百何十人といふ教育家が収賄の嫌疑のために一時に縛られて牢獄に投げ入れられたといふ例は、いつの世、いづれの国にありますか。ここにおいてか日本にはフレーベル、ヘルバルトの教育はもちろん、教育といふ教育は一つもないことが証明されました。明治政府の施した教育はみなことごとく虚偽の教育であります。これは西洋人が熱祷熟思の結果として得たところの教育を盗み来たって、これに勝手の添刪を加へて施した偽りの教育であります。さうして、その結果は、すなはち、この虚偽の結果が、今日のいはゆる教科書事件であります。神の無い、キリストの無い、キリスト教的教育(日本今日の教育はそれであります)の終はるところは、教育家の入牢であります。知事、博士、学士の捕縛であります。虚偽はすべての罪悪の源であります。ペスタロッツィを欺き、ヘルバルトを欺いた日本の教育は、ここに前代未聞の醜態を呈するに至りました。
もし世にキリスト教が無くとも自由はおこなはれると言ふ人があるならば、その人は日本今日の政治界を見るべきであります。日本国には憲法が布かれてあります。その憲法には日本人の権利自由が保証されてあります。しかしながら日本の政治界には自由はほとんど、おこなはれてをりません。日本人はその代議士を選むにあたって、自由をもってせずして、余儀なき情実をもってします。脅迫にあらざれば情実であります。誘惑であります。日本今日の政治なるものは、これら三個の区域を脱しません。自由、自由意志、正義のほかに何にも屈しない意志、神のほかには何者をも恐れない勇気、利欲を卑しみ、名誉を糞土視し、人望を意に介しない独立心、手に一票を握るをもって、われは天下の権者なりと信ずる自尊の心、そんな貴いものは日本今日の政治界にはほとんど痕跡だもないと言はなければなりません。この国においては、政治は教育のごとく、すべて利益より算出されます。まかぬ種ははえぬと唱へられまして、何びとも資本をおろして、それ相応の利益を収めんとしてをります。代議士に成るのも、会社の株主に成るのも、同じやうに思はれてをります。世に情ない、つまらないものがあるとて、日本今日の政治のごときものはありません。これはすべて、そろばんをもって、前もって計算することのできることでありまして、自由意志を持ったる人間の事業であるとは少しも思はれません。
公法学者として世界に有名なるサー・ヘンリー・サムナー・メイン氏は言ひました、「今日、吾人が称して平民的政治となすものは、その源因を英国において発せしものなり」と。さうして、いつ、何びとによりて、おもにこれが英国において始められしかといへば、もちろん十七世紀の始めごろ、クロンウエル、ミルトン、ハンプデン、ハリーベーン、ピムらによって始められしものであります。さうして、これらはどういふ人であったかと尋ねてみますと、何よりも先に、まづ第一に熱心なるキリスト信者であったのであります。キリスト教なしに、かの大革命は始まりませんでした。さうして、かの十七世紀の革命なしには、米国の独立戦争も、一八四八年の欧州諸邦の大革命もなかったに相違ありません。十八世紀の終はりの仏国革命は、十七世紀の英国の革命のまねごとでありました。ナポレオンは、クロンウエルよりその宗教を取り除いた者であります。ゆゑに今日のいはゆる代議政体または共和政体(二者はその原理において同じものであります。共和政治といへば、なんでも君主の首を斬ることであると思ふのは、歴史学の無学より起こる誤りであります)は、みなその源を十七世紀の英国に発してゐるものであります。さうして十七世紀の英国の革命なるものが宗教的革命でありしことは、少しでも世界歴史を読んだ者の疑ふことのできない事実であります。
キリスト教なしの代議政体、自由制度、これはアノマリーであります。異常であります。違式であります。霊魂のない躯であります。機関をそなへない汽船であります。世に持て扱ひにくいものとて、こんなものはありません。しかるに日本の代議政体はこれであります。実に困ったものであります。
その他、日本今日の商業について、工業について語るひまはありません。ただ一事は火を見るよりも明らかであります。キリスト教なしのキリスト教的文明は、これはこれ、つひには日本国を滅ぼすものであります。この点については、シナやトルコやモロッコは日本よりもはるかに幸福であります。彼らの文物は彼らの宗教にかなってをります。ゆゑに彼らは自己の反対より滅びる恐れはありません。しかし日本国は彼らと異なり、その宗教は東洋的で、その文明は西洋的であるのであります。これは非常の困難でありまして、もし今においてただちにこの不合則を直すにあらざれば、日本国はつひに自己の反対より滅びてしまひます。
ゆゑに、われらの今日なすベきことは何でありませうか。われらは西洋文明を捨てませうか。否、そんなことは決してできません。ゆゑに今よりただちに進んで、西洋文明の真髄なるキリスト教そのものを採用するのみであります。これ日本国の取るべき最も明白なる方針であります。このことは実に難事であります。しかし日本国の青年が釈然としてここに覚るところがあり、憤然として起って、純正のキリスト教をわが国に伝ふるに至りますれば、日本国の将来は少しも心配するに足りません。日本国の愛国者よ、今はキリストのため、日本国のため、全身をキリスト教の伝播に注ぐべきときであります。
(一九〇三年三月『聖書之研究』)  
 
宗教と政治 / 内村鑑三  
宗教と政治との関係は内と外との関係なり。神と形との関係なり。一国の社会的制度はその国民の宗教的観念の表顕にして、その政治組織は常にその信じ来たりし宗教に原因す。いはゆる政教一致なるものは、国民統御の必要より来たりし便宜上の一致にあらずして、二者の根元的関係より来たりし生体的一致なり。政は教の表彰にして、教は政の動機なり。同一の天則、外を治むるにあたりてこれを政と称し、内を修むるにあたりてこれを教と言ふ。まづ教を布きて、しかる後に政に及ぼす、これ順道なり。まづ政を施して、しかる後に教を吹入す、これ逆道なり。前者は自然的国家建設法にして、その成功の遅々たると同時に、その結果ははなはだ健全なり。後者は人為的建設法にして、あるいは迅速の成功を奏せざるにあらずといへども、これに伴ふの危険はなはだ多く、その結果たるや、早熟者の羸と弱とをまぬかるるあたはず。
宗教家は最も大なる政治家なり。彼らは政治上の成功はこれを千百年の後に期するがゆゑに、彼らの存命中に政治を語らず。彼らは単に生命を社会に注入するをもって職とし、民衆の改善を真理そのものの行動に任して逝く。彼らはいはゆる革新事業なるものに干与せず。しかも最も効力ある革新家は彼らなり。もしその結果より算すれば、キリスト、釈迦にまさる政治家のあるなし。前者は、彼の教訓に成りし政治、法律、習慣をもって、彼の死後二千年の今日、文明世界のほとんど全部を支配し、後者は、彼の教義によりて、大王大帝にまさる威力をもって、彼の死後二千五百年の今日、東洋五億人の争ふべからざる主宰なり。同一の理由をもって、パウロはシーザーよりも大なり。親鸞は義時、泰時よりも大なり。日蓮は時宗よりも大なり。アウガスチンはシャーレマンよりも大なり。ノックスはクロンウェルよりも大なり。天を論じて地を論ぜざる宗教家はついに天国を地上に来たす者にして、経綸を地上に布くをもって唯一の目的とする政治家は、ただに地をも改良開発し得ざる者なり。
政治家の大は、徳教に与へし彼の注意の強度に比例す。道徳的に小なりしナポレオンは、欧州全土を席巻せしも、政治家としては最も小さき者なりき。宗教的に大なりしクロンウェルは、英の一国を治めしにとどまりしといへども、彼の行績は英国今日の強大をいたすの基礎を造り、彼の理想は、彼の本国においてはおこなはれざりしも、大西洋の彼岸において適用せられ、世界最大の共和国は、彼の立案に成りし制度にのっとりてその国是を定めたり。アウガスチンの神学書をもって、彼の政治的教科書と定めしシャーレマンは、中古最大の統治者として知られ、仏のルイ第十一世は今なほ仏国の有せし最善最大の為政者として認めらる。「政治の目的は、善をなすに易く悪をなすに難き社会を作るにあり」とは、故グラッドストン氏の言なり。マシュー・アーノールド氏いはく、「人生の四分の三は正義なり」と。倫理を離れて政治は論ずべからず。政治を政策と同視する者は、いまだ政治の神髄を知らざる者なり。
ゆゑに、最も小なる政治家は、政治を先にして道徳宗教を後にし、政治をもって国家的存在の基本なりと信じ、政策の配合によりて属衆を済度せんと夢想する者なり。仏のナポレオン三世、墺のメテルニッヒ、あるいは多くの東洋の政治家なる者はみなこの類なり。彼らは策の富饒をもって誇り、策をもって国家を土台的に調理し得るものなりと妄想す。彼らはすなはち手品師の政治家と変化せし者なり。彼らは宇宙を、からくりなりと信じ、歴史を劇場のごとくに見なす。処世は、彼らにとりては技芸の一種なり。彼らはすなはち浮虚空耗の人にして、国家を調理し得ざるのみならず、厨房をも整理し得ざる者なり。政教一致して健全なる国家あり。政治、宗教を離れて、国家やぶる。ゆゑに、国家を改造せんと欲せば、まづその宗教より改造せざるべからず。自由制度は平等主義を宗とする国民の上にのみ施くを得べし。自由慕ふべし。されども自由ならざる民に自由の付与すべきなし。まづ霊性において自由ならざるよりは、権利上の自由はこれを享有するを得ず。すでに自由制度あり。しかしていまだ自由宗教あるなし。すでに開進の機関のそなはるありて、これを動かすの動機あるなし。英国にウィックリフ、ノックスなくして、クロンウェル、ピット起こりしとせんか、欧大陸にルーテル、カルビンなくして、蘭のウィリヤム、スエーデンのグスタフ起こりしとせんか、余輩は固く信ず、彼ら政治家の業は徒労に属し英国は今なほシナ的頑冥のうちにありしなるべし、蘭と瑞とは今なほペルシャ、トルコと類を同じうするなるべしと。いかに大策士の手腕をふるふことあるも、自屈の民よりは自由の民を作るは得じ。自由のよって来たるや深遠、これを一朝の政変、または一夜作りの法文において求むべからざるはもちろんなり。
(一八九八年七月東京独立雑誌)  
 
外国人のみた創立期官営八幡製鐵所

 

はじめに 
問題の所在
本稿は、1901 年操業を開始した官営八幡製鐵所(正式には農商務省所管製鐵所1))について、海外の人々はどのように見ていたのかを検討することが課題である。なぜ、こうした考察が必要とされるかというと、当時の国内の八幡製鐵所に対する見方と外国人の見方とはかなりの差があったという事実があるからである。八幡製鐵所に対する評価の違いがなぜ生じてきたのかを検討することによって、八幡製鐵所の性格の一つの側面が浮かび上がってくるからである。
結論的に言うならば、当時の日本の帝国議会や報道の八幡製鐵所に関する評価が大きくバイアスのかかっていたのである。そして、日本側のこうしたバイアスのかかった見方は、その後の八幡製鐵所のあり方を左右する問題となったのである。従来、八幡製鐵所研究ではこの点について十分な考慮を払ってこなかったため、1901 年の操業開始から1906 年までの間を一貫して捉えられ、同時に否定的評価が定着してしまっている。しかし、そうした評価が人為的に作られたとすると、実態についても謙虚に検討しなおし、政策的な評価も再検討する必要が出てくるはずである。本稿では、何故、八幡製鐵所の評価が異なってきたのかも含めて、従来殆ど省みられていない外国人の評価を紹介し、何故日本人との間に評価の格差が生じたのかその理由についてまで明らかにしたい。 
創立期八幡製鐵所の概況と論点
創立期製鐵所の経緯についてはすでにいくつかの著作2)があり、ここで詳細に論ずる必要はない。しかし、本稿で問題とする課題を提示するうえで若干の論点をあきらかにしておくことが必要であろう。そこで経過を簡単に紹介したうえで、何を問題とするか、ここで簡単に整理しておこう。
八幡製鐵所は、1901 年2月高炉の火入れがおこなわれ、同年11 月18 日には議員、外国商人、官僚、皇族、新聞記者を招待し、大々的な作業開始式を開催した。しかしながら、この際作業上のトラブルがあり、その後の八幡製鐵所の評価を著しく下げることになった。八幡製鐵所の操業過程と同時に、1900 年に装甲板および砲身材について呉造兵廠3)において生産する製鋼所建設予算が第15 議会(1900年12月25日〜1901年3月34日)に上程されていた。これは、製鐵所と海軍の二重投資になるとの厳しい批判があり、衆議院は予算通過したものの、貴族院で否決され、01 年3月両院協議会の結果、第15 議会で通過をはたさなかった4)。この呉拡張予算の議会通過失敗について、海軍軍拡を進める海軍は危機感を深めていた。呉拡張予算は、漸く第16 議会(1901年12月10日〜02年3月9日)を通過し、呉において製鋼所建設が行われた5)。
一方、八幡製鐵所の建設は、予定の通り進むことができず、創立費予算(1896 〜 1901 年度の継続費)だけでは設備を完成することが出来なくなることが明らかとなった6)。開始式に製鐵所操業を間に合わすための設備費用に支出して、既に外国に注文した機械類の支払い費用を追加予算で要求するという形(議会の事後承諾という形式)をとらざるをえなくなった。すなわち、議会の事前の承認をえずに、予算を流用せざるをえなくなった7)。その責任をとって、製鐵所建設を実質的に指導してきた責任者である和田維四郎製鐵所長官は、開始式の3ヶ月たらずしか経っていない02 年2月3日休職し、最終的には懲戒免職になった。和田にかわって、4月、陸軍総務長官であった中村雄次郎が製鐵所長官となった。そして、02 年には設備の未完成のままで操業していた製鐵所について、その後のあり方を調査検討する製鐵事業調査会(1892 年度予算)が発足した。同調査会は製鐵所の民営化を答申した。しかし、日露戦争を前に答申は実現されず、日露戦争による設備の大拡張によって製鐵所は事実上完成し、安定的な操業を維持するにいたった。
以下では、第1に、製鐵所開始式における外国人側の評価をまず検討し、それが日本側の評価と何故異なるものとなったのか、その理由も合わせて検討する。第2に、和田長官辞任についての外国人側の評価と日本側の評価について検討する。 
1、製鐵所開始式前後の評価 
八幡製鐵所開始式と外国人
成立した製鉄所は、一体どのような性格のものであったのか。外国人の目からみた八幡製鐵所がどのようなものであったのかを紹介しつつ、製鉄所の性格を考えてみよう。
[1] 1901 年11 月18 日の開始式に招待されたThe Japan Weekly Mail の記者は、The Iron Foundry at Wakamatsuという記事8)の中で、製鉄所開始式の実態と見学によって得た製鉄所の状況を克明に報告している。八幡製鐵所への招待状を受け取った記者は、晴天の下、開始式に参加した人々、式次第について詳細に報告している。製鐵所開始式の様子を極めて好意的に
描いている。
記者は、来客の挨拶、約30 人の外国人招待客に配られた弁当にはワインと炭酸水がついていたこと、箸がついていたが、牛肉や羊肉にはナイフとフォ−クがなくて食事に難儀したことなどさまざまなエピソ−ドをまじえて外国人が開始式に招待された模様を報告している。領事、アルフレッド・グラバ−などの商人が、長崎、横浜、東京から招待されたと伝えている。記者らは、食事の後、工場の視察に移った。工場視察は、かなりいいかげんな(desultory)もので、外国人を案内する人間もいなかったようである。外国人たちは、一応、製鐵所の中の鋳銑場、平炉工場、圧延工場など主要設備を見て回ったようである。イギリス人であると思われる記者は、一部はアメリカ製であるが殆どがドイツ製であると設備の状況を説明し、しかも、非常に巧妙なドイツの最新製のものであると指摘している。製鐵所が棒鋼、鋼板、レ−ルなど商業用の鉄鋼(Commercial iron)を製造するためのもので、装甲板(Armor Plate)、大砲をつくるための設備がなく、記者の理解するところでは、戦時中に海外からの鉄鋼を自給するために建設されたのではないかと述べ、その目的を達成するためにはさらに追加投資が必要になるだろうと指摘している。記者は、鉄鋼の専門家ではないと断りながらも、鋭い観察を行っている。
建物や工場の計画構想は、非常にうまく設計されており、鉱石や製品の運搬設備の巧みさなども評価されている。設備は、最新式で、ドイツ製がほとんどで、ただ、こうした巨額の支出によって建設された製鉄所が経済的に成功するかどうかは部外者には判断できないと謙虚な態度もしめしている。現場の作業で彼らをおどろかせたこととして、外国の同種の工場と比較して、あまりにもたくさんの職工が、働いており、これでは賃金支払いの上昇をまねき、生産費を高騰させるのではないかという疑念を表明している。記者は、2−3年で製鐵所は民間会社に売却することになり、民間工場となった製鐵所は初期投資を回避して、輸入鋼材と競争できる価格で棒鋼、鋼板、レ−ルなどの鋼材を生産することができるようになると予想していた。
記者は、この日を最も成功した日(a most successful day)であり、招待客に対する hospitality を賞賛しているのである。
[2] もう一つは、イギリス領事E. A. Griffith がイギリス外務省に報告したImperial Japanese Government Iron and Steel Works at WAKAMTSUという報告である9)。この報告は、The Japan Weekly Mail10)の中に引用して紹介している。この報告はきわめて興味深い内容を示している。
この報告は、海軍省所管製鋼所案から農商務省所管製鐵所として八幡製鐵所が成立していった事実経過を正確におい、1901 年成立した製鉄所の土地、港湾施設、鉄道、運搬設備、建物、原料、機械など詳細に報告している。ただ、設備の説明は、ドイツ製が多いということを述べているにすぎず、他の詳細な寸法、能力の紹介とともに客観的なものとなっている。この報告で注目するべき点は2点である。第1点は、1894 年釜石における銑鉄製造の操業が成功した後に、日本における製鐵所建設を決心したということを指摘している。つまり、釜石の高炉操業の成功が官営製鐵所設立の契機になったとしているのである11)。第2点は、陸海軍需要に応えるための元来の構想が、和田の考えによって、変更され、もっと一般的な広範な需要に応えるものに変更されたということである。そして官庁向け販売価格が直近5年間の輸入価格を基準に協議して決定されるということが公的に発表されたことを明らかにしている。そして、日本人一般に対して、大部分の鋼材は、輸入価格以下で供給することになるとしているのである。
The Japan Weekly Mail の記事は、イギリスがかなり詳細にこの間の事情を掌握しているうえ、製鉄所の詳細について熟知していたことがわかる。
[3] さらに、もう一つの報告を紹介し、検討してみよう。Emile Schrödter によるThe Japanese Imperial Steelworks という報告書である12)。これはドイツ人が調査したもので、製鉄所の完成図面、第1高炉、周りの風景、熱風炉など建設途上の製鐵所の写真5枚が掲げられ、設備の規模まで詳細に報告した極めて貴重な報告書である。同報告書は、この製鐵所の建設は、ヨ−ロッパとアメリカ合衆国によって独占されていた世界の鉄鋼市場に新たな競争者が出現したとしている。そして次のようにのべている。
「かつて提案された軍需素材をつくる考え方は、放棄されている。東アジアの工業発展の最も重要なステップとなったこの事業の将来は、興味をもって観察されるだろう。隣国中国においては同じ性格の製鉄事業が過去においてはじめられたが、中国の官僚的な政策のために、それは死んだも同然となった。
この日本の新しい企業(enterprise)は、最初から大きなエネルギーで始められたばかりでなく、取り巻く環境は大きく異なっている。そのため、中国の失敗の繰り返しは多分ありえないであろう」13)製鐵所は、グーテホフヌングヒュッテの設計による製鉄所計画であるから、ややその賞賛は差し引いて考える必要があるが、製鐵所が軍需素材をつくるという構想を放棄したことを明らかにしたうえで、中国と比較した製鐵所の建設の相違を明確にしている。その近代的な設備とすぐれた構想力は、様々な困難があるとしても、製鉄所建設の成功とそれが東アジアの工業発展の画期となっていることを明確に示していたのである。それが、軍需需要ではなく、一般工業用素材供給の製鉄所として建設されたという点を指摘している。
[4] 日露戦争勃発直後のThe Board of Trade Journal においては、東京からの報告として、製鐵所の現状を伝える記事が掲載されている14)。この報告は、前3つのものと異なり、時期的には数年後のものである。この点を注意する必要がある。この報告は、製鐵所の沿革と製鐵所の立地条件、設備、原料条件、製品、販売など包括的な報告であり、たんたんと客観的に製鐵所の現状を伝えている。注目するべき点をあげてみると、第1に、製鐵所の建設が実行に移されたのは、釜石製鐵所の試験操業が成功したことであるとしている。これは以前の報告書と同じ論旨である。第2に、製鐵所製品の仕様をすべてあげ、製造販売している鋼材の詳細を掲載している。生産物のかなりの部分が海軍向けになっている。最大の生産物である重軌条も京釜鉄道向けになっている。日露戦争勃発時の製鐵所の実態が軍需に応ずる製造所であることを伝えている。しかし、装甲板を製造していないことはきちんとおさえている。第3に、圧延設備に関して詳細に検討されていることである。イギリス製の圧延機は外輪、薄板、鍍金関連設備であり、アメリカ製は厚板(plate)、線材、線材延伸であること、その他は殆どドイツ製である。
こうした設備の配置を次のように評価している。「2−3の例を除いて、製鐵所当局は、ヨ−ロッパとアメリカで得られる最良の機械を購入する賢明な政策を採用している。いくつかの機械は、最も安い市場価格で購入していることは明らかである。設計が時代遅れで完成から程遠い機械もある。しかし、こうした設備は例外である。製鐵所で利用されている機械は殆ど総てが最も現代的なタイプのものである。」15)工場の建物は、波板型の鉄骨作りであり、運搬機械、ボイラ−などはイギリス製であると、自国の製品や技術がどのように使われているかを検討している。
以上で紹介した外国人の[1]〜[4]の観察についてまとめておこう。
第1に、外国人記者や雑誌の基調は、製鐵所がすぐれた設備であり、後進国として出発しながら、すぐれた技術水準の製鐵所を建設しえたことを高く評価している。[3]のように東アジアにおいて新たな競争者の出現という画期的な意義を評価しているものもある。
第2に、日露戦前には、製鐵所は専ら普通鋼材生産の製鐵所として建設されていたが、日露戦争勃発後では軍事生産向けの製鐵所となっている。[1]〜[3]の報告が製鐵所をいずれも普通圧延鋼材を生産する一般工業向け製鐵所として建設されていると把握している。
第3に、製鐵所がドイツの設備をほぼそのまま持ってきているが、同時にイギリス、アメリカの設備が部分的に使用されていることに注目している。これらの設備の殆どが当時の最新鋭の製鐵設備であることは、共通に指摘している。設備の有力な売り込み先としての日本の発注にも関心を寄せていることが行間からも読み取ることができる。
第4に、相当詳細な設備技術情報が、外国に知れ渡っていることは注目に値する。[3]は、製鐵所建設時の写真をはじめ、設備内容について詳細に報告がされていた。外国人達は、東洋の小国であった日本の製鐵所の建設に関心をもってみている。しかし、それは未だに欧米諸国の水準とは大きくかけ離れており、実際の競争相手のなるという評価にはなっていないが、将来的には、その競争の基盤が出来つつあるという認識であった。
第5に、製鐵所建設の経過は、海軍省所管製鋼所案から製鐵所の建設にいたる過程についてもかなり正確にその経緯を捉えている。[1][2]の報告は、釜石の高炉操業の成功16)を前提にして製鐵所建設に踏みだしたという点を指摘している。製鐵所建設を釜石操業と連続的に捉えていることは注目に値する。 
製鐵所作業開始式の失敗と日本側報道
製鐵所開始式の失敗については、日本の新聞、雑誌などで大いに取り上げられ、各方面から製鐵所の技術的未熟さを攻撃された。
『時事新報』1901 年11 月27 日では、「枝光の製鐵所は盛大なる開業式を行うて衆賓の眼前に其伎倆を示さんと為したれども事心と違ひ予期したる如き良好なる成績を挙ぐること能はざりしに反し海軍省の呉造兵廠にては製鋼の作業素人を驚かしたる由にて東京より二製造所を見物に赴きたる人々の帰京するや孰れも枝光を貶して呉に感服し居れり製鐵所に取っては恰かも呉の名を成さんが為め骨を折りたるが如き姿に終」ったという貴族院議員の言が掲載された。さらに、「製鐵所の所謂不成績は啻に開業の当日に止まらずして万一後日に至りても思はしき結果を収むること能はざらん」と鉄道作業局の注文に対する製鐵所の納期の遅れについて指摘していた。
『報知新聞』に至っては、1902 年10 月11 日から11 月26 日まで26 回にわたって「製鐵所の真相−失敗せる製鐵所」という記事を連載し、製鐵所の経営、技術、予算、計画、原料獲得について酷評した。『東京経済雑誌』(第1109 号、1901 年11 月30 日)においても「枝光製鐵所の失態」という記事をかかげ、開始式における高炉作業の失敗と軌条圧延の失敗について紹介し、「御臨場の伏見宮殿下を始め奉り、貴衆両院議員、当局大臣皆茫然たりし有様」と当日の模様を伝えた。製鐵所開始式の不始末とは、開始式において、来賓に出銑の様子を見せようとしたが、炉温がさがって、コ−クスが吹き出すという失態を見せてしまったという事態をさすものであり、その結果、来賓たちは出銑の模様をみるのに1時間近くも待たされるという事態になったのである17)。政治的思惑もあり新聞や雑誌記事が事態を客観的に報道しているとは言いがたいが、総じて製鐵所開始式の作業失敗は事実であり、そのことは製鐵所のその後の予算獲得などにマイナスに作用したことは明らかである18)。当日の事態については、技術的にみて大きな失敗ではなく通常よく起こりうることであることは、和田長官がその後新聞などに談話を載せて反論したが19)、一度出来てしまった評判を回復するのは至難の業であった。
さらに製鐵所開始式における作業不始末のため、海軍が製鐵所開始式に合わせてセットした呉造兵廠(製鋼所設立計画)見学会の結果と比べられることになり、製鐵所への風当たりを一層強める結果となったのである。 
2、海軍省の議会工作と製鐵所 
製鐵所作業開始式と海軍
海軍省は、第15 議会に呉造兵廠を拡張して、製鋼所を建設する予算案を提出した。この予算は、呉において装甲板及び大砲砲身を製造する設備を建設するために、製鋼所を拡張建設するというものであった。これは、1900 年8月29 日海軍大臣山本権兵衛から内閣総理大臣宛に「軍艦用甲鉄板並砲盾用鋼板製造所設立」として、提出されたものであった。これは、請議のとおり可決され、9月12 日大蔵省へ予算20)として通牒された。閣議の決定によれば、機械費560 万円、建築費68 万3千円合計628 万円の1901 年度から05 年度5ヵ年継続費であった。このうち既定継続費の流用、汽船の払下によって、65 万円が一般会計財源から支出されるという計画であった21)。しかしながら、第15 議会衆議院では、かろうじて呉造兵廠拡張費は通過したが、貴族院においては同予算を削除したため、1901 年3月22 日両院協議会が開催された。協議会は貴族院修正のごとく削除することに決定し、呉造兵廠拡張費は第15 議会を通過しえなかったのである22)。これまで殆どの艦艇をイギリスなど先進国からの輸入に頼っていた海軍は、艦船の自給化を進めるためには、装甲板など主要な兵器素材も国内で生産する計画をたてていたのである。製鋼所予算の獲得は、こうした海軍の計画の重要な一環であっただけに、当時の海軍首脳は、製鋼所予算の議会における否決に危機感を深めていたのである。
呉造兵廠拡張費の予算通過を実現できなかった海軍は、議会に対して海軍拡張費の理解を求めるために海軍をあげて議会工作活動を開始した23)。この活動は、極めて政治的な意味合いをもった活動で、創立期製鐵所の日本国内における評価を下げる意味をもったものであった。
1901 年11 月18 日の製鐵所開始式にあわせて、呉造兵廠の見学会を開催し、議員を呉に招待するための活動を積極的に開始した24)。これは、海軍が、呉製鋼所予算の議会通過をにらんだ「御馳走政策」ともいわれ、議員の懐柔策であった25)。この呉造兵廠への招待に対する工作内容は、「貴衆両院議員其他招待呉造兵廠観覧ニ関スル件」(『公文雑輯』明治34 年雑件二止28)26)の中にかなりのボリュ−ムで残されている。貴族院議員、衆議院議員の全ての氏名をあげ、呉への招待の確認をとっている。そればかりでなく、内閣総理大臣桂太郎をはじめ各大臣、秘書官、次官、総務長官まで、対象としていたことが確認できる。
その対策は海軍あげてのものであった。山本権兵衛海軍大臣から製鐵所開始式に出席する議員に対する製鐵所開始式の送迎招待状が発送された。そのための宿泊設備の手配、送迎のための準備は海軍あげて行われた。海軍艦艇(磐手、常磐)を派遣し、艦艇に乗り切れない議員らには、製鐵所開始式の帰り11 月19 日午前6時発臨時列車の無料乗車切符を発行し、それに乗らずに呉にくるものに対しては運賃割引証を発行した。
2隻の艦艇に便乗した議員たちは、11 月13 日早朝横浜をたち、16 日に呉を見学し、18 日門司着までわずか食料費1日1 円という格安の食事つき旅行であった。往きに立ち寄らせることは勿論のこと、往きに訪問できなかった者にも訪問の便宜をはかるという周到さであった。議員に対して発せられた招待状の1通では以下のようになっている。
「拝啓此度枝光製鐵所開始式ニ臨マルヽ御序ヲ以テ呉造兵廠ヲ御覧被下度儀御案内申上候處御請相成候ニ付テハ幸茲ニ磐手、常磐ノ二艦来ル十三日ヲ以テ横浜出発呉ヲ経テ門司ニ回航ノ便宜有之候ニ付キ同艦ニ御便乗相成候ニ於テハ枝光ニ臨マルヽニ先チ呉ヲ御覧濟ノ御都合ニ取計可申候二艦ノ義ハ寝室ノ数ニ限有之一艦二十五名宛合セテ五十名以内御便乗差支無之候ニ付テハ貴答ノ到着順ニ依リ御申込ニ応スヘク候間思召有之候ハヽ来ル十二日午前八時マテニ到著候様得貴答度左スレハ同日中ニ航海発着日割等差上可申候
明治三十四年十一月      海軍大臣 山本権兵衛
猶々枝光ヨリノ帰途呉ニ御立寄ノ諸君ノ為メニ十九日ニモ造兵廠ヲ入御覧候コトハ変更セサル儀ト御承知相成度猶又磐手、常磐ノ二艦ハ十八日夜門司港外ヲ発シ十九日朝呉方面ニ到著候様回航致候ニ付テハ枝光御覧後宮島宇品又ハ呉マテ御便乗ノ儀差支無之候 又便乗御申込数満員後ニ御申込ノ方ニハ更ニ便乗御断ノ通知ヲ発シ諾否ヲ明ニ可致候」27)
呉における海軍側の製鐵所開始式出席者にたいする攻勢はかなり組織的に行われた。当日の呉の様子を伝える新聞記事はその異様な様を伝えている。18 日の製鐵所開所式に出席した議員を中心とした賓客は、19 日軍艦常磐と鉄道で約100 名以上が呉海軍造兵廠へむかった。山本権兵衛海軍大臣、斎藤実総務長官、柴山鎮守府長官、山内万寿治大佐など海軍関係者は、総出で製鐵所開始式に出席した議員らを出迎えた。工廠内の砲材及び弾丸鋳造工場(第3工場)、魚形水雷工場(第4工場)、弾丸鍛錬水雷缶工場、弾丸工場、大砲砲架製作工場などほとんどすべての工場をくまなく案内し、さらに弾丸発射実験をおこなって、呉製鋼板の優秀さを実際に見せ付けることによって、呉製鋼所への予算への理解を求めたのである。「熱心に」山内が先頭にたって、説明した。山内は、「見よ英国製十二尹鋼板を打貫きしに一発の弾丸に脆くも貫通されたり、而して本廠特殊の技能を以て製鋼したるものは々六尹の鋼板すら些の弾痕を止めたるまでにて容易に貫通せられてあらざるを」28)と説明して貴族院衆議院議員に対して呉製鋼所の優秀さを印象付けたのである。
あまりの攻勢に対し、記者ですら次のような報告を送らざるをえなかった。
「今期の議会に於ても製鋼所の問題の議事日程に上されんとするを聞く、製鋼所の独立当否如何は遽に之を論断することを為さず今は唯本日議員観覧の実況を聞けるまヽ報道し夫の製鐵所作業の報と相対看するに便ならしめんが為通信に付すること爾り、但し山本海相以下が特に西下して開院間際の今日両院議員を迎へて造工廠を隈なく通覧せしめ仔細なる説明を与へて其技術振りを納得せしめんと努めたるが如きは蓋し為す所なくして然らんや」29)
すなわち、海軍は、製鋼所作業、砲弾発射実験を議員、報道陣に披露し、海軍挙げて議会の意見を海軍側に取り込む作戦を展開した。呉造兵廠の山内は、斎藤実の下で、装甲板の検討をしていたが、この実験のために用いる装甲板の分析をはじめ、ニッケル、クロム以外にどのような成分が含まれているかを分析し、そのための材料さがしをはじめ「議会前ニ一働」30)したいと予算獲得のための周到な準備をしていたのである。しかし、海軍は、装甲板製造の充分な準備ができていたわけではなく、予算獲得のための工作をしていたといってもよいのである。
とりわけ議員を印象付けた射撃実験は、11 月9日亀ケ有(呉)において試製した装甲板が、16日の観覧実験にようやく間に合ったのであった31)。
製鋼所予算の貴族院における否決を覆すため、世論を誘導しようとする露骨な海軍のやり方を新聞記者すら感知せざるをえなかった。偶然ではあったが、製鐵所開始式の製鐵所側の不手際と、この海軍造兵廠の用意周到な招待とが対照的であっただけに、世論誘導は一層の効果を高めたのである。海軍が、製鐵所開始式への送迎を利用して、自らの予算獲得のための活動を展開していたといっても過言ではないのである。
海軍予算の成立と製鐵所評価
貴族院議員子爵堀田正養は、第16 議会で次のように、両者を比較して、呉製鋼所拡張予算の通過を主張している。
「若松ハ創業ノ時デアリマスカラ、決シテ十分ノ結果ハ得ナイ、随分れーるヲ拵ヘル所モ見マシタ、又鉄板ヲ拵ヘル所モ見マシタケレドモ、未ダ職工ノ不慣レト又十分ノ試験ノ期日ヲ経ナイト云フ所カラ十分ニ出来ハ致サナイ、ソレデアルカラ若シモ是デ例ヘバサウ云フ鋼板ヲ拵ヘルトシテモ、ナカナカ容易ニハ出来得ナイト云フコトデアッテ、時ノ短イ間ニハ到底出来得ルト云フコトハ考ヘラレナイ・・・・若松デサウ云フモノヲ製造スルヨリハ呉デ製造スル方ガ余程早イト云フコトガ一ツアル、ソレデ呉ノ如キハ大分二十一年頃カラ既ニサウ云フ鉄ノ工作上ニ付テハ色々ノ仕事ヲシテ居ルガ為ニ、今日デハモウ其試験ノ時期ハ経過シテ仕舞ッテ、ナカナカ熟練シテ居ル、既ニ我々ノ参ッタ時分ニ鋼板ノ試験板ヲ製造スル所ヲ見マシタケレドモ、ナカナカ慣レテ手際宜ク我々素人ガ見テモ出来ルヤウニ思フ、ソレデ既ニ其拵ヘタ板モ我々ノ参ッタ時分拵ヘタ板ヲ試験スルノハ見マセヌガ、併シ同ジ物ヲ試験シタ所ヲ見マシタケレドモ、其成績ハ我々素人ニハ分リマセヌケレドモ、段々承ッテ見ルト英吉利アタリデ試験スル法則ニ適ッタ試験ノ仕方ヲシテ、サウシテ、試験ノ結果及第シテ居ル有様デアリマスカラ、斯ノ如キコトデアルナラバ呉デ鋼板ヲ製造スルコトトシタナラバ必ズ出来得ル」32)
八幡製鐵所と呉を案内された、議員たちは呉における作業や実験を見学し、八幡製鐵所と比べて呉の作業がかなり熟練度の「あがっている」ことを目の当たりにして、呉への装甲板設備の可能性を強く自覚するにいたった。既に述べた、海軍の周到な議員工作は功を奏したのである。
海軍は、とりわけ堀田正養一行に実験を披露するために、タ−ゲットを絞っていたことは確実である33)。即ち、海軍の思惑通り堀田は演説したことになるのである。
呉製鋼所と八幡を見学した衆議院議員佐藤通代は、新聞紙上で、次のように述べていた。
「製鐵所は世人の知る如く軍器独立の旨意にて最初四百万円を投じて着手したるが其後追々増資し今日にては二千万円近くも支出したることなるに事初志に反し軍器独立は扨置き実際は普通一般の鉄器を製造するに過ぎざる有様とは驚入るの外なし是れとて完全なるものを製造するまでには尚ほ一千万円位は要する事ならん余は爰に至りて政府が今日斯る巨額を投じて該事業を遂行するの必要あるやを疑はざるを得ず何となれば国家財政之を許さヾるのみならず実は民間に移すべき性質の事業なればなり斯く製鉄所を視察して余は其重要を感ぜざりしが転じて呉造兵廠を見るに当り四百メ−トルの距離に於て英国製の十吋と八吋との鋼板を的に下瀬火薬にて小形の弾丸を放ちたるに的中して二個の穴を貫きたり次に又六吋の鋼板に試験したるに同じく貫徹せり夫より呉製の纔か四吋程の鋼板に対して同じく下瀬火薬を以て一倍の弾丸を放ちたるに的中したるも貫徹せず微かに弾丸の跡を認むる程にて極て好成績なりし元来十五議会に於て政府委員は製鋼の見込あるや否やの問題に対し曖昧なる答弁を為したるを以て吾々反対したるなれば若し右の試験の如く優に外国品を圧する程の成績を得る以上は製鉄所の不要に反し製鋼所設置の必要を断言するものなり」34)
製鐵所と呉造兵廠の見学結果についてのこの2人の貴族院、衆議院議員の感想は、八幡製鐵所の技術的な未熟さと呉製鋼所の作業技術の確かさを表している。製鐵所開始式における作業上のトラブルは、この両者の優劣を一層際立たせるものとなった。八幡製鐵所の場合は、1896年官制発布以後、和田長官の下で、製鐵所構想の変更があり、規模が拡大し、しかも2回にわたって追加予算を実施したにもかかわらず、未完成設備を残していた。さらに追加予算を議会に上程してもそれを通過させるのは、財政状況が逼迫しており、政党を納得させることは非常に難しくなっていたのである。しかも、海軍省所管製鋼所案から操業開始に至るまでに、製鐵所の性格も変化してきていたのである。和田意見書によって製鐵所構想が変化したことの意味を、日本の議会関係者も含めて、一部の当局者を除いて、正確に理解している人は少なかったのである。また、議会関係者や新聞雑誌記者は、製鐵所の生産技術についての知識をもっていなかったのである。こうした状況のもとで、海軍の周到な接待戦略に、多くの人々がはまっていたと言わざるをえないのである。
政党は製鐵所の性格について、外国人記者たちより明らかに貧弱な知識しかもっていなかった。佐藤通代にも見られるように、製鐵所が軍器独立のための素材供給製造所であることに一面的に理解されるような状況があったのである。海軍省所管製鋼所案ですら70 %を一般工業向けの素材を製造する製鐵所構想35)であったことが、理解されていなかったのである。銑鋼一貫製鐵所の普通圧延鋼材量産は、軍事用にも利用されるが、殆どは一般工業用のものである。
そうした、生産構造的性格をもたざるを得ないのである。  
3、和田製鐵所長官の辞任問題
和田長官の辞職をめぐる評価
和田製鐵所長官は、林農商務大臣の許可をえて、製鐵所作業開始を急ぐ余り、そのための設備費用に、既に注文をし、年度内に支払うべき海外機材購入予算の支払いを繰り延べ、議会に不足した分を予算要求するという計画であった。しかし、それは議会の承認するところならず、和田は、1902 年2月3日に休職となり(罷免され)、8月18 日懲戒処分された36)。
和田製鐵所長官の辞職をめぐる評価は‘Wakamatsu Foundry’ The Japan Weekly Mail、Aug. 23 1902、 PP197-198.に詳しい。その要旨を紹介しよう。
和田が、限定された資金状況のもとにあって、製鐵所の完成と操業を優先して、既に発注済の支払わなければならない海外発注の機械の支払い資金を、操業に要する工場費(既定の創立費予算継続費)に流用し、そのために懲戒処分となった経過を詳細に紹介している。もし、和田が、議会からの要求に従うとしたら、今度は公的に承認された計画からの乖離について責任をとわれることになったであろう。彼は、製鐵所事業を中断するよりも予算の使途を変更して製鐵所を完成させることを優先することによって、自らの経歴をリスクにさらす決心をしたのである。彼は、農商務大臣に同意を取り付けた上でこうした措置をとったにもかかわらず、懲戒免職となったのである。国民は、これにたいして極めて同情的である。もともと日本に不利にならないような条件で製鐵所を建設操業し、一定期間経過した後国家に引き渡そうという外国企業からの提案があったという。政府は、それを振り切って独力でうまく出来るという結論に達したのである。しかし、その決定を正当化することはできない。展望は現在のところない。
そうした中で、呉製鋼所の建設を国会は承認している。我々の目からみると、余りに急ぎすぎているようである。現在考えられるのは、最も安価に最も効率的な方法でその目的を達成する方法である。必要な援助は提供されるであろう。現在の事態は、惨憺たる結果におわった釜石の事態をおもいださせるものだ。若松製鐵所は、全く失敗というわけではないが、この不安の黒雲から脱するには多くの犠牲が必要である。それに対する犠牲の少なからざるものは、和田のような人間を追放することであった。
この記事は、日本が独力で製鐵所を実施することはかなりの困難があり、多くの犠牲を払わなければ成功する見込がない。和田の懲戒免職処分は、その経過から見ても、決して正当なものではなく、むしろ和田のような優れた人材を失うことが日本にとって大きな犠牲となるということを主張しているのである。議会の要求や日本の新聞の論調が如何に当時の議会の駆け引きや政治工作に左右されていたのかを物語るものであった。
Steel Works in Japan、 Iron Age、 Oct. 16 1902 は、The Japan Weekly Mailの記事37)を引用して、さらに詳細な記事を掲載している。
この記事によれば、製鐵所が大島道太郎技監による構想の変更によって、創立費予算が膨張してきたこと、予算不足が物価上昇によって生じたこと、和田は海外注文分の支払いを延期して、製鐵所建設に予算を流用したことは状況から見て仕方がない選択であった。和田は、名誉においても正義においても反するものではなく、責任がないのであり、彼に対する多くの同情が寄せられている。彼は、自らの仕事に熱心のあまり思わぬ犠牲をしいられたのであると評している。
こうした和田の辞職について同情を寄せつつ、さらに製鐵所建設は失敗するとは思えないが、正常に稼動するまで巨大な資金が追加投資として必要となると予想される。製鐵所の建設と経営は、長い経験を必要とするのであり、この課題に勇気(Pluck)と進取の気性(Enterprise)で取り組んだということを賞賛した。そして、ことを急ぎすぎず、ゆっくりとやるべきであり、そうすれば進歩は確実である。最初はもっと小規模から始めるべきであると述べている。
Daily Mailの記事としてこのことを紹介しているのである38)。
イギリス、アメリカ双方の記事は極めて、和田の辞職について同情的である。このことは、製鐵所建設が議会の政治的駆け引きと政治工作に利用されてきたことを表すものであった。
明治半ば頃和田長官、大島道太郎技監に対する批判は、厳しいものである。前述したように『報知新聞』(1902 年10 月11 日から11 月26 日)連載記事をはじめ、議会においても厳しい批判が浴びせられていた。製鐵所建設の直接の責任者である大島に対しては製鉄事業調査会の内部ですら人格を否定するような厳しい批判をあびせる者もあった。
「大島君ハ製鉄事業ニ経験ガナイ、他ノ銅山カ何カシテ居ツタ人デアル、ソレヲ兎ニ角日本ノ此大事業ヲ託スル十分ノ伎倆ノアルベキ人トシテ此重任ニ当テタノデアリマス、其事柄ハ善シトシテ、此ノ為ニ無益ニ此ノ製鐵所ノ成立ヲ遅ラシタト云フノハ私ハ甚ダ遺憾ニ感ジマス」39)と述べて、大島がヨ−ロッパ方面に視察に行って建設の時期を遅らせたことを非難した。そして「長官ト技監ノ専断デ総テヤルコトニナッタノデアリマス、之ハ自分ノ徳義上又自分ニ国家観念ト云フモノガアレバモウ少シ人ニ謀ルト云フ推量ガナケレバナラヌ」。嘱託委員を置いていながら、「長官ト技監ノ専断デ総テヤルコトニナッタ」40)。
予算の不足、流用に至った点についても、1902 年には予算が足りなくなることがわかっていたにも拘らず、放置しており、「無責任ノ予算」になってしまっていた。「此大事業ノ衝ニ当ル者ガ充分ニ盡シ得ルノ途ヲ求メ又避ケ得ル途ガアルノデ盡サナカッタノガ失態ノ元ト思ヒマス、・・・官制ノ表面カラ言ヘバ長官ガ無論技監ヲ監督シ技監ヲ率ヒテ一切ノ責ニ当ルノデアリマスカラ、長官ノ責ト云ヘバ責デアリマスガ、私ハ遺憾ナガラ今日マデノ失態ハ行政官タル長官ヨリハ寧ロ技監以下技師ノヤリ損ヒト云フコトヲ事実ニ於テ認メルノデアリマス」41)
日本側の製鐵所批判は、議会、新聞のみならず、元製鉄所長官心得堀田連太郎、製鉄事業調査会委員長谷川芳之助42)からも和田、大島に浴びせられていた。日本国内の、和田、大島に対する批判は、人格攻撃まで含む厳しいものであった。外国人からみると、製鐵所建設や操業の困難さは大きいものであるとの認識があり、むしろ有能な人材を製鐵所から流出させる結果となることを指摘していたのである。
こうした批判は、それ以後の製鐵所経営を規律づける意味では有効であったが、1901 〜2年における和田、大島に対する攻撃は極めて異様なものであった43)。  
おわりに 
東洋における本格的な銑鋼一貫製鐵所である農商務省所管製鐵所は、当時の外国人からはかなり好意的にみられ、賛辞が寄せられていた。イギリスの報告は、製鐵所の設立経過や実態をかなり正確におさえたものであり、議会や周辺の日本人より客観的に内容を捉えていた。製鐵所が、鉄鋼供給体制を整え、将来的にはヨ−ロッパと競争する可能性をもったこと、日露戦前までの時期においてはむしろ一般工業用鋼材を製造するものであること、ドイツの最新鋭技術を用いながらも要所でイギリス、アメリカ各々の進んだ技術を導入していること、などを的確に捉えていた。
一方、外国側の見方とは対照的に、創立期における日本における製鐵所についての評価は厳しいものがあった。製鐵所開始式前年からの呉海軍造兵廠における製鋼所建設予算の議会上程という錯雑した政治の荒波にもまれ、議会と政府の財政政策をめぐる対立のなかで、製鐵所の評価を低めてしまった。海軍は、呉造兵廠における拡張予算を獲得するために、衆議院、貴族院議員にタ−ゲットをしぼり、製鐵所開始式にあわせて、呉造兵廠の見学と射撃試験を披露した。それは、意図せざる偶然的要因もかさなって、海軍側の意図を実現することになった。海軍の周到な準備に基づく予算獲得策は功を奏したのである。対照的に製鐵所の低い評価を増幅せしめることになってしまった。国家資本として成立した製鐵所は、議会という政治の舞台でモニタリングを受けるという当然の政治的経済的性格にあまりに無防備であった44)。
創立当初の製鉄所は、1901 年度創立費補足予算の獲得も失敗し、未整備のまま放置されるという最悪の事態に追い込まれていたのである。創立期の内外のギャップが埋まるのは日露戦後のこととなったのである。 

1)正式名称の農商務省所管製鐵所のほかに八幡製鐵所、若松製鐵所、枝光製鐵所、門司製鐵所など様々な名称が明治期の文献にはでてくる。単に製鐵所という場合も、農商務省所管製鐵所を指す場合がある。本稿では通称である八幡製鐵所を用いる。
2)三枝博音、飯田賢一『日本近代製鉄技術発達史』(東洋経済新報社、1957 年5月)、佐藤昌一郎「戦前日本における官業財政の展開と構造」T、U、V(『経営志林』第3巻第3号、同第4号、第4巻第2号、1966 年10 月、1967 年1月、10 月)、佐藤昌一郎『官営八幡製鉄所の研究』(八朔社、2003 年10 月)、長野暹編著『八幡製鐵所史の研究』(日本経済評論社、2003 年10 月)、小林正彬『八幡製鐵所』(教育社、1977 年10 月)、岡崎哲二『日本の工業化と鉄鋼産業』(東京大学出版会、1993 年6月)などを参照。
3)1889 年、東京造兵廠の敷地が狭隘になったことから、造兵廠設立取調委員が設置され、90 年2月から土地の買収に入り、1901 年度に至るまでの13 年間にわたる継続事業で造兵関連設備の建設が始まった。日清戦争が勃発すると、兵器の独立自給のため、兵器製作所構内に新たに仮工場が建設されることになった(1894 年9月25 日勅裁)。仮兵器工場建築のために山内万寿治はヨ−ロッパに派遣され95 年6月帰国した。95 年6月21 日仮兵器製造所が設立され、山内万寿治が所長に任命された。山内がヨ−ロッパに行き発注していた機械類は到着し、85 年度末には仮工場は竣工し、96 年3月26 日勅令によって仮呉兵器製造所条例が公布され、4月1日に施行された。96 年度には12 拇砲15 拇砲薬莢、保式魚雷等を製造し、97 年には12 拇速射砲が竣工した。1897 年5月21 日兵器製作所と仮呉製造所を合わせて呉造兵廠となった(『海軍造兵史資料 仮呉兵器製造所設立経過』防衛庁防衛研究所)。
4)製鐵所と兵器用鋼材との関連については、製鐵所設立からその経過をまとめたものに、「大臣命ニ依リ鉱山局長調査 製鐵所ト兵器材トノ関係」(秘書科『復命書並報告書 自明治三十年 至同四十三年』製鐵所文書)がある。本資料を無批判に引用することは注意する必要がある。これは、当時の農商務省鉱山局長の理解するところをまとめたものであり、これが全て事実であるかの如く考えると大きな間違いを犯すことになるおそれもある。当時の農商務省官僚の見るところを大臣から諮問され記述したものである。例えば、「議会ニ提出シタル予算ハ閣議ヲ経タルモノナルヘキハ勿論ナルノミナラス製鐵所長官ハ製鉄所ノ計画ニ関スル意見ヲ定メテ之ヲ農商務大臣ニ具申シ農商務大臣ハ之ヲ採納シテ其ノ実行ニ必要ナル予算ヲ要求シ大蔵大臣ハ反復詳細ニ其ノ説明ヲ玩味シテ之ニ同意シ遂ニ閣議ニ提出セラレテ其ノ是認スル所トナリタルモノナル以上ハ今日ニ於テ製鐵所ノ事業計画ニ付キ海軍大臣ノ意見ト農商務大臣ノ意見一致セスト云フカ如キハ甚タ不可思議ナル現象ト云ハサルヲ得ス」(前掲「大臣命ニ依リ鉱山局長調査 製鐵所ト兵器材トノ関係」)と製鐵所が手続きを踏んで拡張予算を組んだことその内容については海軍も同意していることを主張している。
いわば、和田長官などの行ってきたことを正当化するために作成されたものであり、資料としては貴重なものであるが、扱いには充分注意する必要がある。筆者の見るところでは、製鐵所の見方が基本的には正しいと思われるが、創立期製鐵所の評価を下げて行くにしたがって、製鐵所の手続き上の正当性もかき消されて行き、結果だけが残って行くということになり、各所で誤った評価や事実誤認が生じた。本稿では、これら製鐵所文書の利用の仕方を踏まえたうえで、あえて外部から創立期の問題を捉え直して、なぜこうしたバイアスが生じたのかその原因までさかのぼってみようとする試みである。
5)この間の経過については、清水憲一、松尾宗次「創立期の官営八幡製鐵所─第2代長官和田維郎を通して─」(長野暹編著『八幡製鐵所史の研究』日本経済評論社、2003 年10 月)、清水憲一「創業期八幡製鉄所と兵器用鋼材」上、中、下『九州国際大学経営経済論集』第9巻2、3号。第10巻第2号、2002 年12 月、2003 年3、12 月)を参照。
6)「製鉄所創立費追加予算ニ関スル件」1901 年9月28 日、秘書科『明治三十年至同明治三十四年重要書類 但事業関係ノ部』製鉄所文書
7)和田長官の懲戒処分の理由は、正式には下記の通りである。
「三十四年度ノ初ニ於テ創立費ノ残額ヲ以テ既ニ負担スル義務ヲ支弁スルトキハ必要ナル工場ハ僅ニ一小部分ノ完備セサルモノアルカ為作業ヲ為ス能ハサルノ実況ナリシヲ以テ時ノ製鉄所長官和田維四郎ハ当時ノ農商務大臣林勇造ノ決裁ヲ経テ已ニ負担セル義務ノ内其ノ支弁ヲ延期シ得ルモノハ之ヲ延期シ追加予算ノ成立ヲ俟チ之ヲ支弁スルモノトシ差当リ作業上必要ナル工場ノ設備ヲ完カラシムルノ方針ヲ取リ漸ク作業ヲ開始スルコトヲ得タリト雖其ノ結果国庫ヲシテ予算外ニ巨額ノ義務ヲ負担セシムルニ至リタリ」(閣第148 号、明治35 年5月5 日 農商務大臣平田東助より内閣総理大臣伯爵桂太郎宛『公文雑纂』明治35 年農商務省1巻83 所収)やや分かりにくい文章であるので、解説すると、製鐵所創立費継続費の最終年度である1901 年度の予算において、外国からの購入代金と関税改正による物品代価の上昇分100 万円の追加予算を申請し、これによって作業を開始させることを優先し、不足金額の調査結了した後02 年度予算で要求することとした。01 年度予算における追加予算は、第15 議会へ提出の手続きをしたが義和団事件による軍事費の拡大のなかで砂糖消費税、酒税法などの消費税の改正によって税収の増額を計らざるを得ない財政状況になっていた。したがって、各分科会の予算査定の方針では、経常部臨時部の新規要求は削除、各庁費の増加拒否、物価騰貴を理由とする増額要求の否認、管理の増俸拒否など、厳しい財政方針がとられたのである。こうした中にあって、製鉄所の追加予算要求が通過する見込みはなく、提出されなかったのである(『明治財政史』第3巻1083-1085 頁)。しかし、既に契約し、支払わなければいけない外国から購入した機械類の支払いを優先すれば、事業を開始するための設備投資費用が不足する事態に直面したのである。外国への支払いを先にして、事業開始を延期するか、製鐵所の事業開始を優先して、外国への支払いを後回しにして、後に議会に追加予算を請求するかという選択に迫られたのである。既に、第1高炉の操業が始まっており、技師、職工、雇い外国人も雇用し、原料も積み上がっているなかで、経費的にも損失が大きいばかりでなく、長年懸案であった製鉄事業に対する信用を失い、製鉄事業開始を延期するリスクが大きかったのである。和田は、農商務大臣の許可も得て、事業開始を優先する政策をとったのである。しかしながら、第16 議会では、創立費追加予算補足費の要求は、「其予算ナキニ既ニ外国ニ向テハ物品ヲ注文シ内国ニ在テハ工事ヲ契約シ予算の要求ト謂ハンヨリハ寧ロ事後承諾ヲ求ムル者ト謂フヘク甚タ不当」(立憲政友会『第16 議会報告書』1902 年4月10 日、22 頁、『帝国議会報告書集成』第3巻)であるとの意見により、否決されてしまったのである。議会からみれば、議会の承認を得ずに、継続費予算の追加を前提に製鐵所開始式を挙行したことになり、議会や周辺の人々の和田に対する批判は、厳しいものであった。農商務大臣は責任をとらず、責任は、和田のみが一身で引き受けたのである(同様の経過を説明した清水、松尾論文146-147 頁の事実認識にはやや疑問がある。)。
8)The Japan Weekly Mail、 Nov. 23 1901
9)Public Record Office の資料の中から、筆者は、この報告の原文を見つけることができなかった。
10)The Japan Weekly Mail、 Oct. 21 1902
11)このことは、釜石を民間の製鐵所として位置付けて単に技術的観点からだけ評価する見方に修正をせまるものである。つまり、釜石製鐵所を単に民間製鐵所と位置付けることはできないということを含意しているのである。
12)Emile Schrödter、 The Japanese Imperial Steelworks、 The Iron and Coal Trade Review、February 2、 1900 この報告は、Stahl und Eisen の翻訳に、写真や図を提供をうけて掲載されたものである。
13)Ibid. p. 215
14)Imperial Japanese Government Steel Works、 The Board of Trade Journal、 Feb. 28 1907、この報告は、Japanese Government Steel Worksという題で、Iron Age、 March 21 1907 にその要約が掲載され、アメリカの人々にも日本の製鐵所の情報がイギリスを介して伝えられていた。
15)Ibd p. 430
16)釜石田中製鐵所の成功の技術史的な意義は従来から、高く評価されてきたが、釜石田中の連続操業が官営製鐵所建設へと政府を踏み切らせる決定的な要因となったというグリフィスの報告は注目に値する。田中製鐵所を単に所有形態からだけ見て、民間製鐵所として捉える味方に修正をせまるものである。筆者はかつて、釜石の田中への払下過程を分析して、釜石ついて「海軍は田中に製鐵事業を委託したかのような形」をとっていると指摘したことがある(長島修「官営製鐵所成立前史−官業釜石鉱山廃止以降−」『立命館経営学』第42 巻第4号、2003 年11 月35 頁)が、さらに深く検討するべき課題となっている。
17)志摩海夫『鉄の人』(日本出版配給株式会社、1943 年8月)136 〜 139 頁。1901 年11 月18 日、開始式において、来賓に出銑の様子を見せようとしたが、炉温がさがって、コ−クスが吹き出すという失態を見せてしまった。また、レ−ルの圧延作業においても失敗があったといわれている。これは、製鐵所の技術の未熟さを示すものであり、来賓の議員などの八幡に対する信頼を低めてしまった。小花冬吉製銑部長はのちにその責任をとって辞職した。和田製鐵所長官によれば、炉孔を塞ぐ粘土が漏水のために、固結し、出銑に時間を要することになったとのことである(和田製鐵所長官演述「製鐵所談」『門司新報』1901 年12 月7日)。
18)勿論、全ての人が八幡を厳しく見ていたわけではない。製鐵所建設構想の段階から深く関っており、八幡にはむしろ厳しい見方をしていた政治家であり、実業家でもある井上角五郎は、八幡、呉ともに見学してその所感を『門司新報』(1901 年11 月22、23 日)に掲載しているが、そこではかなり、両者を客観的に評価しており、「強ち枝光のみを批難する能はざるなり」として、両者を客観的にとらえている。しかし、こうした論調は、中央の新聞などにはほとんどみられない。
19)和田製鐵所長官演述「製鐵所談」『門司新報』1901 年12 月7日。
20)『公文別録』海軍省明治21 〜大正6年第2巻、明治32 〜 39 年、所収、国立公文書館所蔵。
21)軍艦水雷艇補充基金特別会計により艦艇を国内で建造する計画をたてていた海軍は、1905 年度までにどうしても製鋼所を呉造兵廠の中に設置する必要があったのである(堤恭二『帝国議会に於ける我海軍』原書房、1984 年8月、146 頁)。
22)前掲『明治財政史』第3巻1092 頁。
23)清水、松尾論文167 〜 168 頁において、呉製鋼所予算期の議会の状況について、触れられているので参照。
24)清水、松尾論文132 〜 133 頁は、山内万寿治より山本権兵衛宛書翰(1901年10 月2日、10 月5日、斎藤実文書、国会図書館憲政資料室)を全文引用しており、当時の海軍が如何に世論を気にしていたかを表している。
25)海軍は、呉製鋼所予算獲得のために、呉海軍工廠の設備見学会を開催し、技術的な知識に暗い議員に工場の稼動している様子を見学させ、八幡の作業の滞留と比べさせ、議員達を「煙に巻いた」とも言われている(一柳正樹『官営製鐵所物語』上、鉄鋼新聞社、1958 年5月、336 〜 338 頁)
26)清水、松尾論文注72 参照。
27)『公文雑輯』明治34 年雑件二止28(防衛庁防衛研究所所蔵)については、清水・松尾論文でも触れているが、そのことの持っている意味について検討を加えていない。
28)『大阪朝日新聞』1901 年11 月22 日。
29)『大阪朝日新聞』1901 年11 月22 日。
30)山内万寿治より斎藤実宛書翰(1901 年8月27 日、斎藤実文書、国会図書館憲政資料室所蔵)
31)山内万寿治より斎藤実宛書翰(1901 年11 月10 日授、斎藤実文書)。海軍側の議会報告や説明は多くの点で疑問がある。山内はあたかも、特許も獲得せずに、呉独自で装甲板の技術が確立したと第15 議会(1901 年3月閉会)で答弁し、自らの予算獲得の理由としているが、これは明らかに鉄鋼技術について知識のない議員たちをだました答弁である。実際、山内の斎藤宛書翰などによっても、充分に成分分析すら出来ていないことを明らかにしているのである。和田長官の国際法の観点もいれ、論理をわきまえた答弁(清水論文(中)85-90 頁に長文の引用参照)とは対照的な欺瞞的な答弁である(和田答弁がもっている意味などについては筆者と意見の異なるところもあるが、清水の一連の論文、清水・松尾論文を参照)。海軍のこうした政治的な狡知の前に、製鐵所技術官僚たちはなすすべもなかったというのが真実のところである。
32)『第16 議会 貴族院予算委員会議事速記録』第3号1902 年2月5日、40 〜 41 頁。
33)山内万寿治より斎藤実あて書翰(1901 年11 月10 日授、斎藤実文書)においては、「堀田氏一行未ダ来タラズ明日来ルカト被考候」と来呉を待ち望んでいることを述べている。結果的には、議会で堀田は海軍の予想した通りの演説をしたことになる。
34)『時事新報』1901 年11 月26 日、
35)長島修「官営製鉄所成立史の一局面−海軍省所管製鋼所案の性格に関連して−」(高村直助編著『明治前期の日本経済:資本主義への道』日本経済評論社、2004 年10 月)246 頁。
36)「閣第148 号、明治35 年5月5 日 農商務大臣平田東助より内閣総理大臣伯爵桂太郎宛」(『公文雑纂』明治35 年農商務省1巻83 所収)。『官報』第5573 号、1902 年2月4日、第5738 号、1902 年8月19 日を参照。
37)‘Wakamatsu Foundry’、 The Japan Weekly Mail、 Aug. 23 1902、 PP197-198.
38)Iron Age、 Oct. 16 1902、 P.28
39)「製鉄事業調査会第13 回議事速記録」堀田連太郎発言(1902 年12 月7日、411 頁、『明治後期産業発達史資料』第58 巻所収)。堀田は、山内提雲初代長官の後、和田長官が就任するまで心得として臨時に製鐵所長官を勤めていた。堀田のような身内からの厳しい批判もあった。
40)「製鉄事業調査会第13 回議事速記録」(1902 年12 月7日、413 頁、『明治後期産業発達史資料』第58 巻所収)。
41)「製鉄事業調査会第13 回議事速記録」(1902 年12 月7日、417 頁、『明治後期産業発達史資料』第58 巻所収)。
42)長谷川芳之助もまた嘱託委員であったが、堀田の発言を支持し、同趣旨の発言を同じ場で展開していた(「製鉄事業調査会第13 回議事速記録」(1902 年12 月7日、418 〜 424 頁、『明治後期産業発達史資料』第58 巻所収)。
43)「製鋼所一件も・・・先ツ通過之勢ニ相成申候、議会ハ万事歳費増加之為メニ都合よろしく、右増加之宏徳は、洵々明々御座候、製綱・・・所之事ハ、閣下ガ一度御見聞ニ相成候末、いよいよ呉ニ置クコト必要ト御見認メ相成候ハ、此度も大ニ力ラヲナシタル様ニ御座候、又福岡県製鉄所は、大分彼是ニ評判あしく、多少政府之失体ト相成候て、困り物ニ御座候・・・製鉄所和田モ、イヨイヨ辞表ヲ差出シ候由、是ハ中々機敏ナル事ニ而、丁度辞職ニハ良キ口実モ有之、其関係ハとにかくに、宏大ナル枢機ニ相成候間、辞表モ中々尤ニ相聞ヘ申候ヘトモ、本人の心中ニハ色々相混じ居可申、種々不評判有之、本人の耳朶ニモ触レ居候事ト存候」(九鬼隆一より松方正義宛書翰、明治34 年2月6日、『松方正義関係文書』第7巻、212 〜 213 頁、大東文化大学東洋研究所)を見ると、1901 年2月には既に和田長官が辞表を出した背景は、製鐵所の失態が辞表提出の「良キ口実」としてあったことを伺わせ、背後には別の「枢機」があると匂わせている。これが何をさすかは明らかではない。『報知新聞』では、機械設備の発注におけるリベ−トが政党に流れたとの憶測が流されている。この頃より、製鐵所は、政争の中に巻き込まれていたことは、清水・松尾論文132 〜 134 頁に掲載されている書翰にも、井上馨らの手足となっていたかのような記述も見られる。
しかし、山内万寿治の書翰(1901 年10 月5日)による評価をそのまま使って、製鐵所の動きを評価するのはもっと慎重であるべきである。1901 年7月23 日付け山内から斎藤海軍大臣宛書翰(斎藤実文書)では、山内は、第15 議会での和田演説の内容について十分検討していなかった。
議会での格調高い論理的で筋の通った和田演説について軽視し、和田意見書の構想から言えば、当然製鐵所は部分的に呉製鋼所構想と重複してくるということを認識できながら、和田を「反対ノ主本」などと山内が批判するのは当たらないと言わなければならない。それは、あくまで海軍側の自らの予算を議会で通過させるための障害物としか見ていない一方的な見方と言わなければならない。海軍側の巧みな議会工作と政治的経済的性格を熟知していなかった製鐵所官僚の稚拙な対応が創立期の製鐵所の評価にバイアスをかけ、偶然的要因がそれを増幅してしまったと言わなければならない。
44)この問題は、国家資本のモニタリングという別の角度からの研究が必要である。佐藤昌一郎氏が明らかにしたように、製鐵所は設備投資にかかわる予算は、創立費として一般会計予算の審議対象となる。したがって、財政的な余裕のない初期議会から日清戦後経営期には、製鉄業に殆ど情報をもたない議員が、予算審議を行うのである。したがって、しばしば、的外れな方向に予算審議がむかい、そのために製鐵所建設に支障が生ずるという事態がたびたび生起したのである。製鐵所は確かに国家資本としての非効率や財政制度上の制約をもっていたが、実はそれなりの厳しいモニタリングをうけていたのであり、こうした点についても従来の研究ではほとんど注意が払われてこなかったという問題がある。
なお、付言しておけば、社会主義下の国有企業は殆どの場合、財政民主主義が充分に確立していないために、国家資本の予算についても議会のモニタリングがなされていなかったのである。したがって、国家資本は、不正や汚職、予算の無駄遣いなどが恒常化する可能性が存在していたのである。創立期八幡製鐵所は、この点では、初期議会から日清戦後の特殊な状況で、厳しいモニタリングを受けなければならなかった。したがって、国家資本一般のレベルで議論を単純に処理することはあきらかに誤った結論に導くおそれがある。 
 
「女優」と日本の近代 / 松井須磨子

 

はじめに
明治時代の文明開化において熱心に論じられたテーマに、演劇改良論がある。西洋をモデルにして近代的な劇場を建て、それに見合う劇作を実践し、旧劇の歌舞伎を離れて新しい演劇を作り出すことが目標とされた。そして、新劇の創造において最も必要とされたのが、新しい役者、それも女優の養成だった。江戸時代の寛永6(1629)年以来、女役者が公的な舞台に立つことは禁じられ、歌舞伎の伝統では男が女を演じ、女形という独特な芸を作り出したことはよく知られている。しかし、近代的な国民国家を作り出そうとする時代に、「古来の習俗」をそのままにしておくことはふさわしくないという判断が、西洋を見聞してきた財界・政界人のなかに浮上する。女優を登用することを含む演劇改良論が、近代的な国民性を高め、高尚な趣味を灌養するために西洋の芸術制度を導入するという、一種の国家的なプロジェクトともいうべき位置づけをもっていたことは、きわめて興味深い。財界・政界の要人たちが後援して洋式建築の帝国劇場を建設し開場したのは、明治も末のころだった。財界政界の要人たちだけでなく、明治期に続々と「洋行」し、西洋文明に学び、近代的な学問知識を得、制度としての芸術を享受して帰国してきた知識人たちが、実際に演劇改良の実践に関わった。
明治大正時代の演劇を論じた演劇史や演劇研究に新劇の誕生と関わって、近代的な洋式建築の劇場建設や、女優の登用を奨励する演劇改良論に触れていないものはない。しかし、女優が近代化の一端を担い、いわば、開化のシンボルとも成りえたことの意味が、近代的な国民国家、とりわけ帝国の創出における新たなジェンダー秩序の編成、性別役割の構築、表象と関わらせて、十分に論じられているわけではない1)。この論文で考察したいのは、そのことである。とりわけ、女優は近代演劇においてどのような身体・言語表現をもたらしたのか、近代的な劇場空間、演劇空間のなかで観客のどんな視線にさらされたのか、近代的な女優として何が期待されたのか、旧劇の伝統的な女形の芸でなく、西洋近代劇をモデルとする新劇の世界に入り女優になろうとした女性たちはどんな主体意識をもっていたのか、どういう矛盾にぶつかったか、という問いである。演劇は、身体表現を基盤として実現されるために、女優が演じる女の身体、セクシュアリテイ、性愛関係等に対する議論は不可欠であるが、同時に、それらは、当時の一般の女性たちの身体、セクシュアリテイ、性愛関係をめぐる言説、規範、性意識の成立とどう関連し交差していたのか、そのことを分析することが決定的に重要になってくる。ここでは、近代女優第一号と言われた松井須磨子に焦点をあて、女優の身体の構築と表象を読みといてみたい。 
1 下駄、カラスネ、垢、色事、ヌレゴト、ヤキモチ女
明治維新から復古と欧化の交錯するなかで、明治10 年代に激しい勢いで闘われた国会開設を求める自由民権運動は10 年代末には抑え込まれ、政治機構を整備した伊藤博文を総理大臣とする内閣は、明治も中期になると、一種のゆとりを持って国会開設と憲法制定を準備しているように見えた2)。政界・財界、そして当時のエリート知識人主導の欧化政策としての演劇改良論は、そのころに始まった。1886(明治19)年、伊藤の娘嬪、末松謙澄主催で演劇改良会が発足している。政界からは伊藤博文、西園寺公望、井上馨、財界から渋沢栄一、三井養之助、学会からは福地桜痴、依田学海、外山正一らが参加している。ここでは、末松謙澄3)と外山正一4)の演劇改良論をみておきたい。二人とも、明治政府中枢のエリート官僚であった。
二人の演劇改良の提言は、西洋風の「煉瓦石造り」の劇場建設、新しい演劇(狂言内容形式の刷新、俳優(役者/女優の登用)、観客、演劇制度にわたり、ほとんど同じ内容であり、改良すべき対象となった当時の日本の芝居見物の観客、役者の特徴が生き生きと活写されていて興味深い。
末松の「演劇改良意見」5)は、まず、「日本一の大都会」である東京に「中等以上の人に真にその耳目を娯しまし且つその精神をなぐさむるに足るべき者とてなし」(S、 p. 99)と指摘し、「そもそも演劇は最も人情を感動し巧みにその喜怒哀楽を動揺することは申すまでもなくその出来さえ巧みならば人心に最も楽しきもの」(S、 p. 100)であると説き起こす。欧州で見聞してきた劇場の内部について図「パリ大舞台より見物の方を見たる図」/「オペラ座」、「テアトル・フランセ」やイタリアのミラノの劇場の平面図などを示しながら、西洋式の豪華な劇場建設を期待している。
しかし、洋式の劇場を日本に導入する場合、まず問題になるのは、面白いことに、「足駄や駒下駄」をどうするかということであった。末松は、福沢諭吉、福地桜痴の「両先生」から「履物の始末」(S、 p. 103)を問われたと言う。わたしたちは、洋服を着用し、靴を履き始めてからまだ約110 年しか経っていない。女性に洋装が奨められるのは、1880(明治20)年、皇后から女子服制に関わる「思召書」が出されてからのことである。天皇の洋服着用は、すでに1873(明治4)年に実現していた。欧化のシンボルともいうべき鹿鳴館が1885(明治16)年に建設され、外国の公使や貴賓を招いて、華族、官僚、政府家高官の夫人や令嬢が、夜会や舞踏会でもてなし、洋装したことはよく知られている。しかし、一般の庶民は、ほとんどが、まだ着物に下駄の生活スタイルであった。歌舞伎の芝居小屋では、観客席は平土間に板敷き、座布団に座る。時には、外山によれば、「アンカやヒバチ」を持ち込んでの見物である。板敷きの平土間では、下駄をぬぎ、持って入るか、入り口で預かる。煉瓦石造りの大劇場では観客席は椅子になる。「江戸時代の生活感情」6)を残した芝居小屋の見物と洋風の劇場の観劇スタイルとではきわめて大きな開きがあった。
下駄に続いて、これまでの伝統的な芝居見物のマナーや制度が一々細かく取り上げられている。たとえば、日本人はむやみに茶をがぶがぶ飲み頻繁に便所へ行き、幕間の菓子売り、お茶売りは、「うるさく不体裁」(S、 p. 105)であるという。
酒もこぼせば、食物もこぼし、茶屋の若い者を始め幾百人とも知れぬ人が毎日ハダシであるきまわり、木地の所は真っ黒になり、食事の最中といえどもその上をカラスネの男女が股まで出してバサバサとあるき、あるいは大股にまたぎ行く如きは不潔極まる垢の分子が空中に散乱して精血を清むべき大切なる空気を汚し、弁当の中にも盃の中にも西洋料理の胡椒の如くにスネの垢やモモの垢が飛び込む日本芝居はこれぞ不潔の隊長芝居。尻まではしょれる若い者が、きりなく見物の頭の上をあるきまわる如き習慣は貴人紳士の見物すべき芝居には甚だ不適当なるものなり。今日に在ては如何なる身分の人でも土間にて芝居見物を為さむには日に何たび茶屋の若い者の股をくぐらせらるるかも知れず、実に言語同断の至りなり7)。
この茶屋制度についての外山の非難には、末松の「うるさく不体裁」という感覚に加えて、あらたに衛生観念の強調がある。その衛生観念には、無作法な他者のむきだしの肉体「ハダシ」「スネ」「モモ」への不快感、それらから否応無くこぼれおちる垢に対する強烈な不快感、当時の芝居小屋の土間で身分の区別なく混在し接触せざるをえないことに対する嫌悪感が結びついている。洋式の近代的な劇場の建設は、新しいブルジョワ層からなる観客の、こうした身体感覚に基づいている。
末松も外山も、演劇改良の最も大切な点として、「女役者の事」を説いた。二人ともまだ女優という言葉を使っていない。なぜ、女優が必要なのか。ここでも、外山の根拠は、きわめて具体的である。「女の役を男が勤め居るうちは決して高尚なる芝居は出来ざるなり。女子にあらずば女子の情を示さむことは決して出来ざるなり。色女の体や花嫁の体は云うも更なり、継母の仕打ちや、ヤキモチ女の身振りは真の女子にあらずば決して充分には出来ざるなり。」(T、p. 143) 外山の「色女の体や花嫁の体」という「自然主義」も、「継母の仕打ちや、ヤキモチ女の身振り」といった「女性性」のステレオタイプ化も、あまりにも単純すぎるが、現在でも、このタイプの女優論、演技論は少なくない。歌舞伎で男が女を演じる女形の演技を「不自然」で、「型にはまったもの」と見る評価は、女が女を演じるのが自然であるとして、ジェンダーやセクシュアリティを本質主義的性差二元に固定し強化し続けることになった8)。
ところで、女優を登用すると、なぜ芝居が高尚になるのかについては、この外山の説明だけでははっきりしない。男女混合の舞台は、「色事」「ヌレゴト」の場合、風俗を乱すことがあるのではないかと心配するむきもあるかもしれないが、むしろ、女役者が混じることで、「却って今の如き猥褻のことも大いに減省し総体演劇は大いに上品にならむ」(T、 p. 144)と外山は続けている。むしろ、歌舞伎の場合は、男同士の演ずることで、大目に見ていたが、「女役を女が勤め男役を男が勤むる上は今日の如く甚だしきことは決して天下の許さぬこととなりて、色事もこれまでの如く肉交上にあらずして情交上のものを演ずる様にならむこと疑いなければなり」(T、 p. 144)、と。「肉交」と「情交」という差異化は、明治末から大正の青年たちの間で論議された「霊」と「肉」の二項対立を思わせるが、外山のねらいは、「高尚な」芸術や美術としての演劇を「中等社会の人士」に提供しようとするものであり、歌舞伎の役者同士や観客との男色や異性愛も含め、とりわけ、舞台上の多様な性愛表現は「天下の許さぬこと」として、女役者をそのリスペクタビリティの枠組みに囲い込み、監視することだったといえる。 
2 芸者・女優
末松が、女役者がなくては真の芝居は出来ないと断言しながら、「女役者はどこから取るかどうして仕込むかはまだ未発の事ゆえ今日は申し上げかねます」(S、 p. 110)と慎重であるのに対して、外山は、「ただ女役者が出来たらば芸者輩がヒマにならむが、さすれば芸者が女役者になるまでのことなり」(T、 p. 144)と「女役者」と「芸者」の交換可能性を気軽に言い切っている。
有名な伊藤博文の芸者遊びを引用するまでもなく、当時の財界・政府高官たちは、女たちには、貞操、純潔の性規範、性道徳を押しつけながら、自分たちは制限なく放蕩三昧を尽くした。
外山のこの気軽さには、国家を論ずる公的な場と隣り合せに成立している男だけに開かれたくつろげる享楽の場、芸者のもてなしを享受している男たちの身体感覚から出てくるものだろう。
むしろ、その裏の世界の芸者の芸の実力を知っているからこそ、それは、彼自身本気で推薦したもので、必ずしも、女優をおとしめるつもりで言ったのではないようにみえる。しかし、欧州という文明社会の性規範 ―ヴィクトリア朝時代のそれ自体矛盾したダブルスタンダードであるが―、その強者の規範を意識したときに、芸者、遊女の世界は卑しむべきものと自覚された。「芸者」と「女優」の互換性を気楽に口にしたすぐその後で、外山は、新しい演劇には、「人の最も賎しむべき遊女や遊女屋のこと」(T、 p. 146)をテーマにすべきでないとクギをさしている。「遊女遊女屋のことは必要害」(T、 p. 146)であり、それを卑しむことが「文明社会の法」(T、 p. 147)である、と文明社会のそれ自体偽善的な芸者蔑視を進んで共有した。
我が日本も文明諸国に仲間入りをしたる以上は、これと同等のツキアイがしたくばヒトリ遊女のみならず芸妓といえども一たび足を洗い立派に婚姻して、士大夫の北野方となりたる以上は格別、鑑札を所持して芸者商売をなしおるうちは娼婦同然世人の最も賎しむべきものなり。
芸者たり娼妓たり文明の世にありては晴天白日の身分にあらざるがゆえにかかるもののことは文明世界の狂言や歌には決して作るまじきことなり。(T、 p.147)
外山がこの演劇改良論を述べた13 年後の1899-1990(明治32-3)年に、川上貞奴は、欧米で舞台に立った日本の女優としてセンセーションを引き起こした。貞奴は、元売れっ妓の芸者で、16 歳のとき、伊藤博文に水揚げされている。その後オッペケペ節で有名な書生芝居の川上音次郎と「正式に」結婚し、川上一座が欧米で芝居をしたとき、「間に合わせの女優」9)として舞台に立ったが、プロの芸者として小さいときから鍛えられた踊や唄といった芸の実力があったからこそ、表現は堂に入ったものだった。
皮肉なことに、「芸者と武士」の彼女の演技が絶賛されたのは、芸者の舞踊と武士のハラキリを求める欧州の人々のエキゾチックなまなざしのもとではあったが。ジードやロダンの絶賛は10)、日本の伝統的な芸の表現−ノン・ミメティック/ノン・リプレゼンタティヴ(非写実的)な美学−が、絵画に劣らず、ヨーロッパへのインパクトを与えた例といえる。日本国内では、女優と芸者を同一視して賎視する性規範と言説は確実に強化されていった。演劇改良論は、日本が文明国家の仲間入りを果たすための、それにふさわしい健全で、清潔、上品なミドルクラスの国民/臣民の育成という、一種の国家的なプロジェクトだった。
川上貞奴は、1908(明治41)年に帝劇女優養成所を開設し、伊藤や渋沢、福沢桃介らの後援を得て、女優を養成し、帝劇に女優劇のレパートリーを提供した。この養成所の第一期生に跡見女学校を出た森律子がいる。森律子は、1890(明治23)年生まれであるが、女優に応募したことで、跡見女学校の交友会名簿から除名された。森律子は、帝劇女優養成所の開設時の渋沢栄一の挨拶「日本で三百年来賎しむべからずして賎しまれたのは、実業家と婦人と俳優の三つだが、皆さんはその賎しまれていた婦人にして、しかも俳優になろうとする方だ」11)を、『女優生活廿年』の自伝に記録している。
帝劇の女優養成所に女学校出身で飛び込んだ森律子は、その後イギリスに演劇の勉強をしに渡り、日本と比較して、著名な俳優の地位の高さに驚いている。滞在中、イギリスで、芸術家として尊敬される名優たちが貴族や高位高官の政治家たちと対等であるのを見て、日本での「河原乞食」呼ばわりにみられる役者蔑視に強い憤りを感じている。姉が女優になったことをからかわれ、そのことを苦にして一高に在学していた弟が自殺をしてしまうという森律子の状況は、役者に対するエリート男子学生たちの見方を物語る12)。また父親が著名な代議士であったために、森律子の女優志願は、当時の新聞にもニュースとして書き立てられた。彼女自身、士族の娘という自負心も高く、「芸者扱い」されることを嫌い、高い「教養」を身に着けた芸術家を目指していた、と自伝の中で語っている。
女優たちは体にひまのあるときは、当時のブルジョワの屋敷へ呼ばれて行って、芝居はしませんでしたが、それぞれの余技をいたしました。・・・ある日、ある名流の家にパーティーがあって、私たちの出演がすんだあとに、その屋敷でお客に対して私たちにお酌をするようにといったことがありました。森(律子)さんは私たちを引き連れて、そのお屋敷を蹴って帰ったことがあります。そのとき、森さんは、われわれは芸者さんとは違う、仕事の性質をはっきりしたい、という意味のことを述べられたことをおぼえております13)。
ここには、もちろん、ブルジョワの女性蔑視の要求に対する正当な怒りの表明があるが、自分たちの芸を芸者の芸と差異化することで、演劇を高尚で上品な世界へ引きあげようとする、近代の女優の能動的な主体の構築がある。それは、ブルジョワエリート官僚、末松謙澄や外山正一の演劇改良論と共通したものをもっている。欧州の文明化に倣い、公的な表舞台から「芸者・芸妓・遊女」を排除し、新俳優の社会的な地位の高さを求め、その制度化を図る「文化国家/帝国」創りへぴったり、寄り添うことにもなる。日本の近代以前の「悪場所」14)的な芝居小屋の世界を封殺する近代の視線は、ひとり、帝国中枢部ののエリート官僚においてのみ成立したわけではない。 
3 「青鞜」グループと女優−「新しい女たち」の誕生
坪内逍遥の門下生、島村抱月は、1905(明治38)年の秋、ヨーロッパから日露戦争最中に帰国し、坪内とともに1906(明治39)年2月17 日の文芸協会の創立と実践に深く関わることになった。抱月は、1902~05(明治35~38)年にかけての英独へ留学中、150 本以上の芝居を観、当時の主要な女優、エレン・テリー、レーナ・アシュエル、ミセス・パットたちの堂々たる舞台表現を目のあたりにしている15)。西洋の女優たちのなかに参政権運動に活発に関わっている「新しい女たち」がいることを見てきたリベラルな知識人で、新劇の発展に女優を欠かすことはできないという確信を持っていた。
文芸協会は、「国勢の勃興に応ずべき文運を振作するを目的となす」総合的な文化機関をめざし、教養ある新しい俳優を養成するために、1909(明治42)年研究所試験を実施し、男女の俳優を募集した。その文芸協会の第一期生に、当時、二度目の結婚をしたばかりの22 歳の松井須磨子がいた16)。
その松井須磨子主演の『人形の家』が坪内逍遥邸の私演場で上演されたのは、奇しくも『青鞜』創刊の1911 年9月だった。同じ年の11 月帝劇でも上演され、松井須磨子は、一躍近代劇の女優として脚光をあびる。女性史研究者の堀場清子は、「青鞜」グループと女優の同時誕生を次のように書いている。
現在からは想像もしにくいが、舞台の上の女は、女形によって演じられてきた伝統から、女優は必要か否かが論議の的だった。須磨子演ずるノラの実在感が、それに決着をつけた。この年3月落成したばかりの帝国劇場でもすでに森律子らの女優劇を上演し、敢然とこの新職業に飛びこんだ女たちが”新しい女”の一群を形づくりつつあった17)。
そして、演劇史研究者、大笹吉雄は、後に島村抱月と松井須磨子が中心になって進める新劇運動が内包する将来の問題を見通して、次のように書いている。
体当りでノラを演じた松井須磨子は、その自然な演技が注目されて、土肥・東儀に替わるトップスターの座を占めた。が、このことは、逍遥にとって予想以上の出来ごとだった。予想以上という理由の一つは、わずか二年の養成で、まったくの素人が驚異的な商品価値を生んだこと、その二つは、国劇の観念とずれたところで、協会の舞台が注視の的になったこと、その三つは、文芸協会の公演が、社会秩序を脅かしかねない大事件になったことだった。
どちらの松井須磨子評にも、「実在感」、「体当り」、「自然な演技」という言葉にみられるように、女優の身体表現に関わって、肉体の「自然性」が強調され、女優の身体表象の構築性については、踏み込んでいない。実際に当時の舞台上の須磨子を見た観客は、その「自然な」台詞回しや表現に圧倒されている。
日本に生まれた女優の口から初めて自然な台詞を聞く事が出来た18)。
ほんとにびっくりした。芝居がなんとも自然なんですよ。それもただ自然だというんじゃない。芸になってました。だから、女形を修業中の私は、じぶんのやることが急にばかばかしくなってしまった。こんな女優がいるなら、なにも自分は女形をやるこたあないと思った19)。
ところで、『青鞜』の反応は、どうだろうか。すでに創刊号に、イプセンの「ヘッダ・ガブラー」論を掲載していた『青鞜』は、第2巻第1号(1912 年1月)で、さっそく『人形の家』観劇後の合評を試みている。松井すま子の談も掲載している。全体として、父親の手からから夫へと渡され可愛がられていた人形のような生活から、独立した一人の人間としての自覚に欠けていたことに目覚め、夫や子供を捨て家を出るノラの姿に勇気ある「新しい女」の覚醒を見て、ノラに声援を送る感想が多い。そしてノラよりもっと過酷な家制度に苦しむ日本における女性問題を論じるものもある。
そのなかで、平塚らいてうの「ノラさんに」は異色である。「ノラさん私はあなたがあれで自覚を得られたものとはまだなかなか信じていません。真の自己はそう容易に見えるものではありません」20)、とノラを批判しながら、らいてうは、しかし、ノラに直接呼びかけ、問いかけ、対決するナラテイヴを作り出している。らいてうは、ノラを単に劇のなかのヒロインとして解釈するのではなく、ノラとの直接対決的対話というナラテイヴによって、「真の自己」とは何か、ということを徹底して考え抜こうとした。そしてそれは、ノラ一人との対話というよりは、社会的事件になった『人形の家』上演に触発されて巻き起こった「新しい女」論争に参入し、むしろ皮相な「新しい女」論争を越えて、「真の」新しい女とは何かを突き詰めようとする、超越的で、モノローグのような宣言となっている。
このらいてうの精神性に重点を置いた超越的な覚醒論と松井須磨子の談ほど隔たっているものはない。同じ号の『青鞜』に載った松井の談「舞台の上で困ったこと」は、一読して、ちょっと拍子抜けするような芸談である。無邪気な人形妻から覚醒する一個の人間への変化に関わって、ノラが踊る象徴的な舞踊タランテラがいかに須磨子にとって難しかったかについて語っている。それは、激しい回転を伴い、胸の内に抱える葛藤を自ら抑えこもうとする表現で、この劇の重要なシーンでもあるが、その難しさを、須磨子は、「踊りくるっている間にだんだん髪がほぐれて肩へ下がるというのでしたが、それがどうしてもうまく行きませんでした」(pp.162-163)というふうに語る。一見、単に演技上の細かい技術問題であるかのように語っている。しかし、それは、いかに単純なコメントであれ、当時の日本の女という制度に深く根差した身体技法の問題と関連させて理解する必要があるだろう。それはまた、日本の近代の新劇に女優の養成を不可欠の事として、自ら実践した演出家でありプロデューサーでもあった島村抱月が洞察した身体技法の表現の困難さと結びついているように思われる。彼は、松井須磨子の自伝『牡丹刷毛』21)に与えた「序に代へて」で、次のように書いている。
君がはじめて『人形の家』のノラの稽古をした時は、其の差し伸べる腕がまだどうしても永く直線を描いてゐるに堪へなかった、それを見事な直線にするまでには可なり長い練習を要したやうである。また其の舞台声が所謂ピイピイ声でなくなったり、笑いがお壷口でなくなるまでにも、相応の年月がいったに違いない。やはり日本女性の柔和性は一方に残っている、それが自身の芸術に対する狂熱的愛着で力張せられているのである。(略)舞台の上にみなぎらす熱力と其の鮮明にして強烈な表情とは、今の日本の女性が達し得る限域を越えている22)。
これは、先に挙げた、舞台上の女の「実在感」「自然な演技」といった評に比べると、その「自然」自体に踏み込んで、より深く掘り下げ、制度としての女の身体の表象に関わって批評の新たな次元を切りひらく。同時に、らいてうの「真の新しい女とは何か」という問いにも関わってくる。「女らしさ」言説・規範は、身体技法と切り離されてあるものではない。抱月は、そのことを、「差し伸べる腕」の弱々しさから「見事な直線」を描きうるまでの練習と時間、肉体という「自然」の構築のプロセスに見ている。「ピイピイ声」や「お壷口」から、はっきりした台詞の言い回し、大口をあけて笑える身体技法の習得が、「新しい女」の表象に不可欠であることのみごとな洞察となっている。
須磨子は、先の『青鞜』誌上で、「ノラが自覚して強く冷やかな女になったとき、驚いた方は少なくない、平土間のあたりで驚いたねといった方がありました」、と観客の反発に気づいて付け加えているが、平土間の観客の視線や言葉に直接反応しながら、新しい女、ノラの表象に「体当り」していた。そのプロセスは、「人ごみが大嫌い」で、「芝居の嫌いな」らいてうが、書斎でひとり静かに読むことに沈潜して思考を掘り下げるプロセスとはやはり異なってくる。
しかし、らいてうが自己内省の深みから自覚的に実践した行為、『青鞜』グループの活動、出版も、松井須磨子に平土間から投げかけられる好奇な視線や冷笑に共通してさらされていたように思われる。 
4 「視覚的快楽」と「ナラテイヴ・ドラマ」23)
フェミニスト映画批評のなかで、ローラ・マルヴィは、映像テクストと観客の複雑な交渉に対して精神分析的な読みを試みたときに、「ナラティヴ・シネマ」の家父長制的閉鎖構造が、ヒロインのプレゼンスと関わって、ときおり破綻し、隙間を生み出すことがあることを指摘している。ハリウッドの古典的なメロドラマの美貌の弱々しいヒロインは、はかなく早死にしたり、50 年代のフィルム・ノワール(犯罪もの)の悪女(妖婦)たちは、次々と男を魅了し男たちの裏をかき、社会のコードに反逆しながらも、最終的には家父長制的なナラテイヴの内部で、罰され、殺されるといったナラテイヴの閉鎖性を、どう読みとくかという問題につながる問いを提起している。
ローラ・マルヴィの論文「視覚的快楽とナラテイヴ・シネマ」は、映像表現に関する考察であるが、舞台上の「生身」の身体表現という表象の政治学を考える上でも、重要な分析視角を提供しているように思われる。「ナラティヴ・シネマ」ならぬ「ナラティヴ・ドラマ」と「視覚的快楽」の間の矛盾をはらむ緊張関係も、多様な観客のまなざしの交差しあう交渉の場である。この節では、ローラ・マルヴィの分析視角を借りて、女優の舞台上のプレゼンスと家父長制的なコード/ナラティヴとの緊張関係を掘り下げてみたい。その前に、まず、『青鞜』のマグダ評を見ておこう。
『青鞜』第2巻第6号、1912(明治45)年は、文芸協会の次の公演『マグダ』にも批評を掲載した。長谷川時雨の批評は、『人形の家』のノラを演じて注目を浴びた松井須磨子が、続けて『故郷』のヒロインのマグダを演じることで、「当代一の女優」(p.2)であることを確立したと賞賛している。ノラの時にはまだ生硬な点があったが、マグダでは一段と落ち着き貫祿が出て、「芸と一所に容貌も一段立上がったように見受けられた」(p.2)という。須磨子の強い演技−「喧嘩調子」−に加えて、「マグダのような性質の女」の抱く「甘えた心地」、「親子の中の情」などを、「も一つ優しく見せたならば・・・声だけでももすこし柔らくしたならー終末の悲劇が、もっと、深く私達の胸にきたであらう」、と注文をつけているが、「あの冷静な光を宿したあの目、マグダの誇りと媚を表し得たあの目、あの力強い瞳の色が、すま子氏を生々させる」(p.2-3)というふうに、須磨子の魅力を要約している。舞台衣装にも注意を払い、長いスカートがよく似合い、背も高くなって立派だったと感じている。
小竹紅吉は、「あれだけ忠実にあれだけ真面目に、自分の身体を働かせている人は恐らく無いだらう」(p.16)、と感嘆し、『読売』に出る批評を読んで、一々嬉しそうに、賛同している。
「技巧、芸術、生、働、これらの事を皆一所にして誉めておく」(p. 16)、と。
冷淡な批評は、長沼ちえのもので、「少くも自己といふものに思ひ至りし程のものならば田子作のおかみさんも行き当り申すべき新旧思想の衝突に候。日本にも『ザラ』に有うべく今更マグダを見せられて、形を見て驚いた所で始まらない」とそっけない。「田子作のおかみさん」も経験する新旧思想の衝突という批評は、らいてうのマグダ批評にも共通する。面白いのは、らいてうの「読んだ『マグダ』」というタイトルである。「人込みの大嫌いな自分は芝居も嫌いなものの一つ」(p.2-13)で、実際に舞台を見ているのだが、読んでいろいろひとりで思い巡らすほうが、らいてうの性格にはあっているようだ。それに、「罪悪を超越し、自主自由の生活を誇りとするだけの人格の強さも、大さも、高さもなく、どこか薄っぺらで、わるくすると単に浮気な、あばずれとばかり見えやうとする『観たマグダ』を評する気にはなれない」(p.6)、と松井須磨子の演技にも好感をもっていない。
らいてうは、ズーダーマンのマグダを読んで、むしろ、イプセンの大きさに気づいたようである。イプセンはノラだけでなく、超越的で、「神経過敏」な新しい女ヘッダを作り出した。
それに比べてマグダは、「真理に対する情熱」(p.6) に乏しく、「自己の思想を徹せむとする峻烈」(p.6) に欠け、前回、ノラを酷評したらいてうも、その点で、到底イプセンの「ノラ」に及ばないとし、「所謂新しい女かも知れぬが、真に新しい人ではない。新しい女ではない」(p.7) と断定している。らいてうにとって不満なのは、ちえの批判と同じく、ヒロイン、マグダの凡庸さである。彼女の家出の行動は、無自覚であり、「軽薄才子」(p.9) の「肉欲の犠牲」(p.9) になって、「私生児」(p.9) を生むという結果になったが、彼女にとって「最も神聖なもの」(p.11) は、母性愛であり、オペラ歌手としての芸術ではない、と断じている。「彼女の芸術も彼女自身にとっては其子供にパンを与えるものに過ぎない」(p.11)。真の自己に無自覚なまま、苦労し、「経験せざるを得ずして経験」(p.9) した苦労によって成功したが、「生活の為に精も根もなくなった憐れな奴隷」(p.11) であるというのである。単に疲れ果て、故郷、安らぎを求めるなら、それでは「真正の『故郷』」(p.13) は得られないという。真の自己、真の自覚、所謂ではなく真に「新しい女」、「真正の故郷」といった言葉に共通する「真の」強調は、らいてうのキーワードであるが、らいてう自身がひとつひとつ自分のとるべき行為を徹底して考えぬき、行為の意味づけをし、選択していくという自己の在り方と、無自覚なままの苦労によって得られる自覚を差異化していた。その差異化の視線は、「田子作のおかみさんも行き当たる」自覚と見る視線でもある。らいてうやちえをとりまく周辺の視線が通俗的であればあるほど、かれらの「真の」を追求する目線は高くなった。
また、らいてうが「マグダ」の批評で、「肉欲の犠牲」「私生児」という言葉を使用しているのが興味深い。それらは、明治近代に流入した新しい概念、言説である。らいてうは、通俗的なドラマにおけるヒロインの無自覚な行為とその結果を批判的にみるなかで用いているのだが、「罪」などと並んで、再吟味されなければならないだろう。娘の「純潔」や「貞操」を何よりも重要視する父親に対して、マグダが挑発的に言う「お父さん、是までに私が身を許した男はあの人一人だと思っていらっしゃるの」という台詞については、それが旧式の父親を一撃のもとに殺す言葉であるとは感じているが、らいてうは、突っ込んだ議論をしていない。マグダの「身を許した男は一人ではない」という挑発的な台詞は、「堕落した女」に対する世間の蔑視、ステイグマに対する挑戦であり、世間の性規範がいかに古くさく外的な条件にすぎないと見えても、当時の日本の社会では、「肉欲」「罪」「私生児」といった世間に流通している新しい近代の言説と結びあって、女のセクシュアリテイを縛る性規範道徳が、確実に強化されていく現実があった。「マグダ」の上演禁止問題は、そのことをよく示している。
娘が父親に従わないのは、国民道徳の根本を説いた教育勅語[1889(明治23)年発布]に反するとして、1912(明治45)年の文芸協会第3回公演『故郷』(Heimat、 1893)に警視庁から上演禁止命令が出された24)。「所謂マグダ問題の記録」によれば、明治45年5月3日から10日間、有楽座で上演された後の禁止であるという。当時は検閲制度があり、演劇を上演するには、警視庁に脚本を検閲され許可されてはじめて上演できることになっていた。警視庁では一度許可を出していた。外国の脚本であり、「演劇の改新と国民趣味の開発に努力している文芸協会の技芸員が演ずるから」、つまり、「この観客は知識あり趣味あり、又高級な批判性を持っている頭の高い人々であるから決して雷同し盲動する恐れがないと見た」ために許可をしたが、上演を観に行った内務省文部省の官吏は、内容が「日本の倫理道徳に反し個人主義等の、新道徳鼓吹の気味あるを認め」、今後一般に及ぼす影響を考え、上演禁止を出した。「帝国の教育方針たるや23 年の教育勅語に根拠を置く事勿論にして之に反する者は即ち国家の教育方針に矛盾する者と云わざるべからず、然るに脚本『故郷』に現われたる女主人公マグダの言動を見るに・・・(中略)・・章かに教育勅語に宣れたる孝道と全く違反する行動にして断じて家庭に容る可らざる事に属す因って政府は此点につき興行を中止せしめたる迄にして又他意なし」という。
島村抱月ら文芸協会首脳部は、原作に手を入れて、次のような台詞を最後に付け加えて解禁された。
マグダ「みんな私の罪です。あなたのご指導に従います。」
牧師「ありがとうございます。では御一緒に神の許しを乞いましょう。そして中佐のために祈りましょう。」マグダ無言の儘熱心に祈祷する)幕静かに下る25)。
新聞、雑誌上で、言論界は、上演禁止を不当とし、論陣を張った。原作に手をいれて再上演を解禁された島村抱月の妥協に、「奪胎せるマグダ」(『都』)「骨抜きとなったマグダ」(『東京朝日』明治45、 5.25)と評判はよくなかった。
「故郷の問題は決して単なる一芝居一協会の事柄ではない。僕はこの点に於て何うも我が文芸の士に熱のないことを遺憾に思う。彼等は何故起って政府と戦おうとしないのか。社会の興論を喚起しようとしないのか26)。
“Thus Magda becomes a woman whose hand the authorities should like to grasp with warm appreciation.
But Suderman? Would the creator of that living creature Magda recognize her after “Suffering a sea-change into something rare and straggle.”27)
しかし、岩佐壮四郎は、『マグダ』の上演「解禁」に関する島村抱月のねらいについて、次のように批評している。
抱月にとって不本意だったのは、「無解決」のまま閉幕し、そのことによって、「新道徳の前途にはなほ幾多の曲折のあるべきことを提示」しようという意図が、一つの「解決」を与えられることで歪められてしまったこと。だが、それもまたおそらく本質的な問題ではなかった。彼にとっても、また日本の近代劇にとっても大切だったのは、「故郷」という「女主人公中心」の「問題劇」が松井須磨子という女優によって演じられ、父を罵倒し、不実な男を嘲笑する女性の肉声が舞台をつんざき、客席にこだますることだった筈だからである28)。
岩佐の結論に、わたしは、半ば同意し、半ば不満を持っている。たしかに、須磨子が舞台上で、家父長制の性規範、道徳に抗して、否認や挑戦の身振りと台詞を発することは、その「肉体」や「肉声」と相まって、圧倒的な効果を観客に与えるだろう。しかし、オープン・エンデイングでない、悔い改めて頭を垂れ祈る姿の締めくくり方は、やはり、一方的、固定的な幕切れであるといわざるをえない。とりわけ、西洋近代劇が、ドラマとして、発端、山場(クライマックス)、急転して最後に大団円で締めくくるという、直線的な劇の進行と閉じた構造とナラティヴを制度化していくときに、女優の肉体を見せ、肉声を響かせるという「自然主義」は、「視覚的快楽」に満ちたメロドラマを量産した。岩佐の分析は、「解決」をむりやりつけたドラマ、つまり、結果的に緊張や破綻を排除したナラティヴ・ドラマを十分考察することなく、マグダ・須磨子を見る視角的快楽に一義的に還元することにならないだろうか。
岩佐の評は、一見、ローラ・マルヴィの分析視角を共有するように思われるが、ナラティヴの閉鎖性に踏み込んで論じなければ、女優の「肉体・肉声」を規定する家父長制的なコードの完結との緊張関係を見落とすことになるだろう。「マグダ」上演の読みは、当時の日本帝国「臣民」の主体構築と関わって、男性対女性観客といった性差二元のジェンダー関係だけでなく、芸者対女優の差異化のまなざしや、当時の日本の「中等以上の人士」や「世間多くの低級な 低級未開の人々盲味未開なる民衆」29)といった表現にみられる階級・階層関係の差異化のまなざし、そしてアジアの人々のまなざしの交錯のうちにひらかれなければならない。 
5 “カチューシャバンド”は唄に乗って
文芸協会は、この後、島村抱月と松井須磨子との関係がスキャンダルとして騒がれ、内紛もあって、解散する。抱月は須磨子と芸術座を結成し、新たなスタートを切った。抱月は、新劇運動の実践のために、早稲田大学の教授を辞し、妻子を捨て、須磨子と同棲する。新しい演劇を目指す芸術座も、松井須磨子を看板女優とする島村抱月の方針に反対した男優たちのボイコットによって、危機に陥るが、抱月が留学中に観て女優の演技が印象に残ったトルストイの小説を劇にした『復活』の上演によって、文字通り、復活した。
1914(大正3)年の松井須磨子主演の「復活」は、ヒロイン、カチューシャの劇として大評判をとった。とりわけ、劇中の「カチューシャの唄」が、大ヒットし、全国津々浦々にひろまった。その唄とともに、須磨子の扮装を真似てカチューシャ髪が流行し、カチューシャの名をつけた櫛やかんざし、リボン、指輪が売り出されたという。新潮社から出版された抱月の脚本(トルストイ原作、 Resurrection、 1899、 アンリ・バタイユの劇化に基づく)は、異例の7000 部を売りつくし、須磨子の吹き込んだレコードは、2万枚(4万枚説も)を売りさばいた。芸術座は、「復活」をもって、日本全土はもちろん、当時植民地の台湾、朝鮮、満州、そしてウラジオストックまで巡業し、巡業先は、計195 ヵ所に及ぶ。抱月が1918(大正7)年、スペイン風邪で突然死んだ後、その2ヵ月後、1919 年1月5日に須磨子が後追い自殺をとげ、芸術座が解散するまで、「復活」は計444回上演されている30)。
ところで、川村邦光の『オトメの身体ー女の近代とセクシュアリティ』31)によれば、月経用品は[安全帯]や[ビクトリヤ]などのほかにも多く販売され、早いものとしては、「ファインダー腹巻付」という月経帯や[カチューシャバンド]がある、として、「カチューシャバンド」の広告を上げている(p.145)。しかし、そのネーミングの由来については、あまりにも自明と思ったのか、触れていない。「カチューシャバンド」は、もちろん、須磨子主演で大評判をとった「復活」のヒロインの名前から来ている。先にふれたように、須磨子のカチューシャ人気にあやかって、便乗商売のカチューシャ・グッズが出回った。「カチューシャの唄」の流行に乗って、オトメたちの月経用品「カチューシャバンド」も売り出されたのである。戦後の「アンネ・ナプキン」に劣らぬ、卓抜なネーミングといえる。
川村は、前掲書に、月経処置や青年期の思い出について、身近な女性から聞き取りをした天理ďuc2大学生の報告を載せている。一つは、1903(明治36)年、福岡県粕屋郡篠栗町に生まれた女性からの聞き書きである。
そりゃ普通の通りたい。なーもないけん、脱脂綿を使いよったけん、いつも濡れとったたい。
あのときゃビニールやら、なかったけんね。脱脂綿ばっかりやったき、パンツも、おばちゃんが二十歳の頃のときゃーなかったばい。肌着のげなっを。パンツはなかっちょるよ。ちょっと漏らしずめたい、生理のときゃあ(p.171)。
もう一つは、淡路島に、1912(大正元)年に生まれた女性から。
脱脂綿こうて、パンツにはさんどった。すぐ、ぼんじょった(漏れた)。まなしに(頻繁に)便所に行くように、気をつけとくようなもんや。昔は、着物きて、汚しとるひと、いっぱいいたよ。そのときは、恥じじゃなかったもん。みんな、そうやったからなあ(p.173)二人とも、1886(明治19)年生まれの松井須磨子より、ずいぶん若い(17-26 歳の開きがある)が、同時代に生きていて、月経の始末については似たような苦労を味わったはずである。
ここで、興味深いのは、月経用品は当時は脱脂綿で、漏れるため、着物が汚れていただけでなく、それが常態だったから、「恥じじゃなかった」という身体感覚である。わたしはここで、彼女たちの身体を近代の抑圧を知らない「解放的な」身体として持ち上げたいのではない。前近代と近代をそのように二項対立的に単純に分類するよりは、当時の女たちが用いていた下着や服装にそくして作り出されていた身体感覚をよりていねいに見ておく必要があると思っている。先に見たように、1886 年には、外山正一が、演劇改良論のなかで、「カラスネ」の若い女が、劇場内で、茶や酒、寿司を「バサバサ」と売り歩き、垢をふり撒きながら貴人紳士の上をまたぎ歩く様子に強い不快感、不潔感、衛生観念を表明したが、それとの対比で言えるのは、当時の女たちは、ブルジョワ層を別として、それらを不潔だと意識し、「恥じ」だと思う身体感覚・意識はなかったということである。
二人のうち年上の女性の証言では、当時パンツはなかったという。その女性より年上の須磨子も、パンツを身に着けずに育ったオトメたちの世代であった。この点と関わって、当時の女の身体、セクシュアリティをめぐるもう一つの「他者」のまなざしに女たちが、さらされていたことを上げておこう。差異化のまなざしは、幾重にもからみあい屈折して交差していることがみてとれるはずである。 
6 帝国のまなざしとセクシュアリティ
レイ・チョウは、『女と中国の近代性:西洋と東洋の間で読むことの政治学』32)において、ユー・ダフューの短編小説「落下する」33)を取り上げている。その小説は、1910 年代、日本に留学していた一人の中国の青年に焦点を当て、その青年が自己の性的アイデンティティー確立に挫折していく過程を取り扱っているが、レイ・チョウは、その葛藤をもうひとつのアイデンティティー構築のコンテクストと関わらせて論じている。
「落下する」という小説の中で、日本という異郷で、孤独な青年は、中国人であることと男であることの二つの困難さに直面する。その青年は、日本の女たちに性的な欲望を抱くが、直接親密な交渉をもつことができない。次の一節は、彼が日本の女たちを見つめることから引き起こされるエロテイックなの欲望のフェティシズムに満ちた描写である。
日本の女性はパンツ(drawers)の代わりに短い腰巻(a short petticoat)を身に着けている。その上にボタンの付いていない長袖の着物を着て、14 インチ幅の帯を締め背中には四角の帯結びをしている。この衣装のために、彼女たちが歩くたびに、着物がぱっと開き、なかのピンク色の腰巻が露出し、ふっくらした腿がちらりと見える。これが、彼が通りを歩いている彼女たちを眺めるときにはいつでも大いに注目する日本女性の特別な魅力である。この見つめてしまう習慣のために、彼はまた自分自身をケモノ、卑劣な犬、卑しむべき臆病者と呼ぶことになるのだった34)。
レイ・チョウは、ユー・ダフューのこの一節を引用して、性的な対象としての他者への青年の激しいまなざしが、最終的には自己を嘲笑する対象として自分自身に向けられることになることを指摘している。西洋列強の帝国主義だけでなく、アジアの盟主を気取る日本の帝国主義の植民地を見るまなざしを意識し、その帝国日本の地に在って、若い中国人男性の留学生が、自己の男としての性的主体/マスキュリニティを構築しようとする苦闘が、侵略された中国の国家主体/ナショナル・アイデンティティーの構築と関わってくる。彼は、パンツを身に着けていない当時の日本のオトメたちが歩くごとにあらわになる「ふっくらした腿」を見ることに、エロテイックな魅力を感じてしまう自分自身を恥じる。
彼の「恥」の感覚は、日本人に「豚や犬のように蔑視」35)される中国人であるということからくる。彼は、娼婦のもとへ行き、「どちらから」と出身を聞かれ、答えることができない。
こうして、ナショナル・アイデンティティーと性的主体の構築が密接に結びつく。日本の帝国主義的なまなざしのもとで、「女性化」された中国と彼自身を重ね合せ、帝国日本への敵意、嫌悪を募らせながら、マスキュリニティーとナショナル・アイデンティティーの二重に重なりあった構築の枠組みにとらわれ続けることになる。それは、自己を恥じる「自虐的な」まなざしを伴った。彼自身の屈折した視線が対象化/客体化するものは、彼自身であり、彼が交渉しようとして果たせない日本の女たちではない。レイ・チョウが言うように、「他者、すなわち、彼自身のまなざしの真の対象は、彼自身と彼のナショナル・アイデンティティーである」(p.144)。
ここで、わたしたちは、明治の初めに文明国への仲間入りを果たそうとしながら、国家的なプロジェクトとしての演劇改良を論じたエリート官僚たちのまなざしをもう一度思い返してみてもいいだろう。文明化された近代的な国家と「高尚」で「上品な」文化を持つことを奨励したブルジョワエリート官僚、外山正一のまなざしは、1886(明治19)年には、パンツを身に着けない、「カラスネ」の女たちを「不体裁」で「不潔」きわまりないと差別しはじめていた。
帝国のヒエラルキーのなかで、「中等以上の人々」(末松謙澄)「貴人紳士」(外山正一)の楽しめるような劇場空間を帝都東京に創立することが彼らの目標だった。同時に、月経の血の付いたキモノをひらひらさせた日本の女たちを「恥じる」意識が創り出されていた。日本帝国臣民として日本の男たちが自己のアイデンティティーを確立するときに、日本の中等以下の階層の女たちだけでなく植民地の女たちに向けたまなざしは、このブルジョワエリート官僚の意識を深く共有していたのではないか。そして彼らのまなざしは、ユー・ダフューの描いた日本帝国に在る中国人留学生の「自己対象化」の視線を欠落させたものだった。
それでは、パンツを身に着けず、経血の付いた着物を着ていた日本の女たちは、何を見ていたのだろう。月経の血の付いた着物を着て恥と思わないお互いの「解放的」な身体と、カチューシャの唄を歌う、復活祭のお祝いに髪に飾りを着けたロシアの素朴な村娘、小間使い、カチューシャを演じる須磨子であった。須磨子の扮装に憧れる女たちは、カチューシャ・バンドを身に着けたいと思い始めたかもしれない。そこには、女同士の同性に対する羨望とエロチックなまなざしの交歓も交差していたように思われる。
『復活』では、青年時代に軍人であった貴族ネフリュードフと恋に落ちた純朴な村娘カチューシャが、一夜の結びつきで妊娠し、捨てられて「転落していく」。そのドラマは、ミドルクラスの無邪気な人形妻から覚醒し夫と子供を捨てて家を出ていくノラと違って、当時の女たちには、身近に感じられたに違いない。『復活』は、その後娼婦になったカチューシャが、10 年後、客を毒殺した疑いで裁判にかけられ、偶然に陪審員になったネフリュードフが、カチューシャの転落の責任が自分にあることに良心の呵責を感じ、カチューシャを救うためにシベリア流刑になる彼女と結婚することを決心するドラマである。トルストイの『復活』はネフリュードフ自身が犯した罪の煩悶に焦点を当てたが、松井須磨子の「復活」は、カチューシャ中心の物語になった。純朴な娘、客を殺害した娼婦、悔い改めた女囚の復活劇である。最初、初恋に裏切られ、ネフリュードフに反発と憎しみを感じていたカチューシャが、最終場面では、彼の真情に愛を感じるようになっている。しかし、「汚れた」身であることを理由に結婚を断わり、お互いの新しい生活を祝して別れを告げるところで幕になる。男を愛しつつも、あるいは愛しているからこそ、ヒロインは、「転落した」女として引き下がるというメロドラマの定型が成立している。
ここで、わたしたちは妥協的な「マグダ」上演の問題を論じたように、メロドラマのナラテイヴの拘束とカチューシャを演じる須磨子の舞台上のプレゼンス(存在感)、「肉声」の「視聴覚的快楽」の関係をどう読むか、という問題に突き当たる。「復活」の舞台で、観客が最も楽しんだのは、「カチューシャの唄」に便乗したカチューシャ・グッズの流行に見るように、須磨子の歌う「カチューシャの唄」が響くなか、カチューシャが初恋に燃え男と初めて関係をもつ復活祭の夜の場面だった。カチューシャは、ドラマの中のまぎれもない主人公であり、演劇空間の中心を占め、「転落」しようとも、その具体的な身体表現によって観客を圧倒する。しかし、メロドラマという虚構の現実は、それ以上の効果を最終的にもたらす。ちょうど、椿姫のように病死したり、カルメンのように殺されたり、マダム・バタフライのように自害したりして、観客の憐憐を呼び、秩序回復の強力な効果を実現するのである。カチューシャが男に対して自分自身を「汚れた」身と感じ引き下がるという禁欲的な性意識、性規範は、メロドラマのナラティヴを構成し、ヒロインを家父長制のコードにそって消費回収する。そして、その性の規範、言説は、日本帝国の臣民の主体意識とまなざしにも確実に浸透していた。
島村抱月は、日本全土をくまなく巡業するなかで、そのようなまなざしにさらされ、いくつかの妨害にもあっている。次の引用は、巡業地の静岡で、芸術座を中傷する新聞のキャンペーンに遭って、抱月が憤慨し、「現代の教育家というものの識見の程度を表わすものとして後世の資料に残しておいてよい」36)、と書き写したものである。
「堕落せる島村の為めに惜しむ」野瀬女子師範学校長談―自分が前任地に居た時分東京に『カチューシャ』と云う唄が大流行をして居ました、私は今に東北線を通じて流行して来るナと思って居ると案の如く枯野に火をはなったような勢いで流行して来ました、随分と小学校生徒までに悪影響を与えました、社会の多くの人が自覚する時代が来たのです、自分は個人として島村の為に妖婦須磨と握手したのを惜しんで居ました(p.5)「断じて生徒等の観るを許さず」坂口高等女学校教頭談―「青春の血がみなぎっている女生徒に取ってはアンナ邪劇、殊に演者が婦人の最も尊重すべき貞操を庇とも思わぬような須磨子に至っては其の被る害毒は実に予想以外です、・・・要するに彼等のような人道破壊者は一刻も早く社界から葬らなくちゃなりません(pp.6-7) 
7 結びに代えて
抱月の「朝鮮だより」37)は、芸術座の巡業を歓迎する朝鮮の若い知識人たちと抱月の知的な交流の場があったことを記録している。抱月は、朝鮮の若い知識人のおかれた植民地の政治状況を意識して、慎重な配慮を見せているが、同時に、彼らに日本語使用を奨励し、彼らの生活と伝統から新しい思想や文芸が沸き起こることを期待するという矛盾をも表わしている。日本のリベラルな知識人であり、須磨子との恋愛のスキャンダルで大学教授の地位や家を捨て、社会の支配的な規範から逸脱し、自由な芸術活動を実践した抱月も、植民地における日本帝国の欲望とまなざしから自由ではなかった。
須磨子のカチューシャは、植民地で植民地の人々と植民者側の人々のどのようなまなざしにさらされていたのか、そして、須磨子自身は、何をどう見ていたのかという記録はほとんど残っていない。地方や海外巡業で稼いだ資金で、抱月と須磨子が東京に建てた芸術クラブでは、演劇学校を開き、朱双雲(上海)と玄哲(朝鮮)が学んでおり、それぞれ帰ってその地の近代劇運動に力を尽くしたと伝えられている38)。
芸術座は、「復活」を帝劇のような洋式の近代的な劇場だけではなく、全国各地の劇場へ、そして「満韓に落ちる」39)と新聞に書き立てられながらも、台湾、朝鮮、満州、ウラジオストックへ巡業した。また、浅草六区の劇場にも出した。芸術か商業主義的堕落か、と批判され40)、「須磨子は最早芸術的の女優ではない、貞奴と同じ商売人の女役者だ」41)という意味の批評さえ加えられた、と芸術座で劇作家だった中村吉蔵は書いている。実験的な演劇を試演する小劇場を含む「芸術クラブ」を建設し、これからというときに、1918(大正7)年、抱月は突然病死し、須磨子は、その2カ月後、1919 年、1月5日、その芸術クラブで首を吊って抱月の後を追った。
1917(大正6)年には、ロシア革命が勃発し、日本帝国は革命に干渉しシベリアに出兵、当時米価の高騰に憤り自然発生的に起こった日本の女たちの米騒動は、芸術座の「復活」上演の日々と同時代だった。全国巡業、海外植民地巡業を通し、須磨子という近代演劇第一号の女優は、20 年代に本格化する消費文化を先取りして、平土間の観客からだけでなく、劇場外の観客のまなざしを意識し、それらと交渉しながら、近代の女の主体・身体・セクシュアリティの一つのモデルを提供した。
同時代のラジカルなジャーナリスト宮武外骨は、滑稽雑誌『スコブル』の創刊号42)で須磨子を槍玉に上げ、女優須磨子の15 面相と「カチューシャの唄」の替え唄で風刺している。当時のメディアは、「新しい女」、「転落の女」、「妖婦」、「情婦」といった性的主体・身体としての女優を、飽くことなく表象した。現代のわたしたちは、明治大正の抱月と須磨子のロマンスを失われた初恋のようにノスタルジーをこめて思いだし、今でも演劇・映画にくりかえし再現しようとする43)。しかし、当時のメディアの表象の政治学を批判的に考察し、かれらの芸術活動が抱え込んだ近代の矛盾について考えるなら、わたしたちは、そのようなノスタルジックなわたしたち自身のまなざしを問わなくてはならない。 

1)加野彩子、1997、“Japanese Theater and Imperialism、” U.S. - JAPAN WOMEN’S JOURNAL、 no.12.pp.17-47.、 1998、加野彩子/大串向代訳「日本演劇と帝国主義:ロマンスと抵抗と」、『日米女性ジャーナル』第23 号、pp.19-48.フェミニズム、帝国主義、表象の問題を日本演劇を通して考察した刺激的な論文。帝国主義の再生産にジェンダーはどんな役割を果たすのか、帝国の「臣民=主体(subject)」意識はどのように構築されるのか、とりわけ、女性の身体を通じてそうしたイメージや幻想がどう形成され、帝国主義や植民地主義の再生産に貢献するのかといった加野氏の問題意識は、私自身の問題意識と共通する。
2)飛鳥井雅道、1985、『文明開化』岩波新書。復古と開化が奇妙にオーバーラップしあう矛盾に満ちた明治期の国民国家形成過程に対する批判的視角が示唆に富む。また文化変容については、西川長夫他編『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』(新日曜社、」1995 年)が参考になる。
3)末松謙澄(1855-1920)、1874 年『東京日日新聞』記者になり、その後、伊藤博文と知り合い、政界の中枢に入っていく。1875 年には、特命全権弁理大臣黒田清隆に随行して朝鮮へ行っている。1907 年には、子爵になり、日本に留学中の韓国皇太子の教育係りを勤めた。20 代初めに、外交官の仕事で英国に行き、ケンブリッジ大学に入学し文学や法学を学んだ。9年の外国生活を遂えて帰国した初仕事が、演劇改良会の発足である。
4)外山正一(1848-1900)、1866 年に幕府派遣留学生に選ばれ、英国で学んでいる。明治の新政府から、外務省に任官され、森有礼に随行し、渡米する。その後、職を辞め、一留学生として、ミシガン大学で理学、哲学を学んだ。晩年には東京帝国大学の総長になっているが、西園寺公望の後任として、1898 年、第三次伊藤内閣の文部大臣をも勤めた。
5)末松謙澄、1886、「演劇改良意見」『明治文学全集79 明治芸術・文学論集』(1975 年初版、1989年第4刷、筑摩書房)pp.99-111. 以下、引用は、(S、 p.99)と示す。末松、外山の演劇改良論からの引用は、現代仮名使いに修正している。
6)松田直行、1991、「帝劇・三越・宝塚ー近代日本におけるショーの系譜」早稲田大学演劇学会『演劇学』第32 号、pp. 1-10.
7)外山正一、1886、「演劇改良論私考」『明治文学全集79 明治芸術・文学論集』(1975 年初版1989 年第4刷、筑摩書房)pp.138-148. 以下、引用は、(T、 p.143)と示す。
8)加野彩子は、前掲論文で、女優が、男性が女性役を演じる伝統的な「女形」にとって代わることで、「女優たちは演技によって構築されたのではない、生身の女性の身体に根付いた『女らしさ』の定義を肯定していったのである。そしてこの定義は、たとえば、男性が女性に扮するのは不自然で倒錯的だという印象を与えてしまうというように、ある意味では抑圧的に作用したといえる」と指摘している。p.31.
9)山口玲子、1993.『女優貞奴』朝日文庫、p.21.
10)山口による引用。ジード、pp.130-132. ロダン、p.136.
11)森律子、1930、『女優生活二十年』実業之日本社. p.46.
12)大笹吉雄、1985、『日本現代演劇史 明治・大正編』、白水社、p.27.
13)高橋とよ『沸る』、大笹吉雄による引用、p.60.
14)広末保、1970、『悪場所の発想』三省堂.
15)岩佐壮四郎、1998、『抱月のベル・エポック』、大修館書店。
16)松井須磨子、(1886-1918)、長野松代の小さな村の出身で、17 歳の時に上京して以来、東京の姉の家、お菓子屋の店番をしているときに、千葉の料理屋兼旅館の若旦那に「見初められ」21 歳で結婚した。この最初の結婚は、わずか3ヵ月の短期間のもので、遊び人だった夫から性病をうつされ、彼女の「肺疾」という形で、離婚している。また姉の店を手伝い、病気の回復期に出会った男性と再婚するが、夫の支持も得て女優志願を決意、文芸協会に入って、稽古熱心なあまり、その結婚も長く続かなかった。小学校卒で、当時の裁縫女学校に通っただけで、学力は、文芸協会の要求した教育水準からみれば低く、女子大卒の他の文芸員と違って、文芸協会の学科の勉強、西洋の劇のテクストなど英語を読むときには、須磨子は一々カタカナをふって読み、苦労したと伝えられている。文芸協会に入る前に隆鼻術で整形をしたときのエピソードも面白い。松井須磨子の評伝を『女優』というタイトルで小説に書いた渡辺淳一は、当時の隆鼻術を受けた女性のなかに、与謝野晶子を上げ、新しい時代の女を自任する女性たちのあいだで、この手術は結構人気があったと書いている。『渡辺淳一全集第13 巻』(1997 年、角川書店)、pp.22-23.「女優」初出は、『MORE』1977 年7月号~1980 年9月号連載、その後、『女優』、集英社刊 上・下(1983 年初版)
17)堀場清子、1988、『青鞜の時代−平塚らいてうと新しい女たち』岩波新書、p. 82.
18)川村花菱、1968、『随筆松井須磨子』青蛙書房
19)花柳章太郎、1913、2月第5回公演『アルト・ハイデルベルヒ(思い出)』有楽座を観た評、大笹による引用、p.90.(尾崎宏二『女優の系図』)
20)平塚らいてう、1912、「ノラさんに」『青鞜』第2巻第1号、pp.137-138.
21)松井須磨子、1914、『牡丹刷毛』不二出版、1986.
22)島村抱月「序に代へて」『牡丹刷毛』p.6.
23)Laura Mulvey、 “Visual Pleasure and Narrative Cinema、” Screen、 16、 no.3 (Autumn 1975)、後に、Visual and Other Pleasures (Bloomington and Indianapolice: Indiana University Press、 1989) pp.14-26. に再録されている。
24)早稲田文学記者「所謂マグダ問題の記録」『早稲田文学』1912、第83 号、 pp.285-298.
25)Hermann Sudermann、 1893、 Heimat、 島村抱月訳、1919、「故郷」『抱月全集第5巻』復刻版、1979、日本図書センター、p.130.
26)石橋湛山、1912、(東洋時論)「所謂マグダ問題の記録」に引用されている。p.296.
27)Japan Times の記事、「所謂マグダ問題の記録」に引用されている。p.297.
28)岩佐壮四郎、1995、「『故郷』の上演をめぐって」日本近代文学会編『日本近代文学』第53 巻、pp.135-136.
29)前掲書『早稲田文学』第83 号「所謂マグダ問題の記録」
30)大笹、p.149.渡辺淳一「女優」『渡辺淳一全集』第13 巻、角川書店、1997、p.159.
31)川村邦光、1994、『乙女の身体 女の近代とセクシュアリティ』紀伊国屋書店
32)Ray Chow、 1991、 Woman and Chinese Modernity: The politics of Reading between West and East. University of Minnesota Press. p.138.
33)Yü Ta-fu’s “Sinking” (“Chenlun、” 1921)、 trans、 Joseph S.M. Lau and C.T. Hsia、 in Joseph S.M. Lau、 C.T. Hsia、 and Leo Ou-fan Lee、 eds.、 Modern Chinese Stories and Novellas 1919-1949 (New York: Columbia University Press、 1981)、 pp.125-41.
34)Yü Ta-fu’s “Sinking、” p.139 Modern Chinese Stories and Novellas 1919-1949、 quoted in Chow、 p.143.
35)Yü Ta-fu、 p.139、 quoted in Chow、 p.144.
36)抱月、1917、「僕のページ」『早稲田文学』第134 号、「付録」、p.1.
37)抱月、1917、「朝鮮だより」『早稲田文学』第143 号、p.227.
38)大笹、p.154.
39)抱月、1917、「中村吉蔵氏へ」(大正6年8月、読売新聞)、『抱月全集第8巻』p.378.
40)小山内薫、1975、「新劇復興のために」『小山内薫演劇論全集』第6巻、p.202。
41)中村吉蔵、1919、「芸術座の記録」『早稲田文学』第161 号、p.33.に引用されている。
42)宮武外骨、1915、4月、『スコブル』創刊号
43)わたしが見た最近の例で上げておくと、1999 年8月1日〜 26 日、大阪の新歌舞伎座で演歌歌手の藤あや子主演、相手役名高達男で松井須磨子と島村抱月の恋を描いた芝居『女優ーその恋』(田中林輔脚本・演出)があり、川上貞奴と川上音次郎の演劇活動については、1999 年10 月3日〜 27 日、福岡の博多座で、新派特別公演として2代目水谷八重子と近藤正臣の『博多のぼせ者−音二郎と貞奴』(金子成人作・西川信広演出)があった。どちらも、観客に分かりやすい、泣かせ笑わせ感動の生涯といった大衆演劇のツボを押さえたシナリオと演出だった。とりわけ、どちらも、主演女優が明治・大正期のパイオニア的な女優の心意気を表現することに力を入れていたように思われる。恋愛にも舞台にも一途に燃えた愛すべき女優像という物語の定版となっている。 
 
中村ハル

 

第一部 教育者の道をたどって 
生いたち
私は明治十七年六月一日の生まれになっております。当時は今のように電気はなく、夜ともなればアンドンをともし、車といえば人力車のことであります。しかし、世界の帝王の中で最も優れた方とあがめ尊ばれた明治天皇の御代に、しかも日本の勃興期に生まれた私は実に幸運児だったと今更ながら有難さで一杯であります。
家は今でいう中農程度の農家で、父徳右衛門はなかなか知恵も多く、世話好きで当時の福岡県早良郡西新町(現福岡市)における顔役だったそうであります。母サトは粕屋郡仲原では大農の部に入る末若家の出で、この人は本当に人情に厚い方でございました。徳右衛門の父即ち祖父専太と母サトの父長平とは兄弟の間柄ですから、私の父母はいとこ同士の結婚ということになります。私の兄弟は本来六人ですが、私がもの心づいたときはそのうちの兄一人が幼没していましたので五人になっております。長女タミ、長男松次郎、二女が私で、二男関次郎、三男専吉という順序で、私が八才になるまでは家には祖母ヤス、両親、子供五人と貧しい中にも睦じく和気あいあいの中に育てられ成長したものであります。
運命決めた股関節脱臼
私は小さいときからとても元気がよく、またきかん気の負けずぎらいのところがあったそうです。
ちょうど四才のとき、近所の子供達と一緒に遊びたわむれていたところが、私が急に足を痛めて泣きわめき始めました。両親が飛んで来て見ると、足が立たなくなっている。早速、その頃はやりの稲荷神社信仰のお婆さんに見せたら「これは、二、三日前にここで崖崩れで死んだ人のたたりだ」という訳で、毎日毎日祈祷ばかりして全快を祈るだけで一向によくなる気配はない。それどころか、左モモはますます腫れあがって熱も高く、朝から晩まで泣き続けていたそうであります。遂に困りはてて医者に診てもらい「ボングヤ」とかいうとても飲みにくい薬を飲まされたそうですが、この飲みにくい薬を我慢して飲んだのには両親はじめ祖母も驚いたそうであります。とにかく、私は幼いときから気が強かったのでしょう。このようにして熱もおさまり、たまった膿が左モモから水鉄砲の勢いで出尽くしてしまうとともに痛みもとまり、その後は日一日と快方に向かいました。今でも左モモにそのときの傷あとが残っています。年老いて右膝の関節の痛みの治療でレントゲンを撮ってもらうときについでにいろいろと調べてもらいましたが、この幼少の頃の事故は結局股関節脱臼だったことが判りました。医術の進まない時代とはいえ、脱臼の手当さえ正式にしておれば全快していただろうにと思います。このようにして生まれつきならぬ一生の傷となって残り、私が一生涯不自由をしのばねばならぬ破目となったのであります。しかし、物は考えようで、今から思いますとこのような身体になったればこそ私の今日があるのであって、運命の機微はなかなか人間の知恵では容易に推し測られません。
左足の痛みがとれて後、両親はよく暇ができたら豊後(現在の大分県)の温泉に入湯につれて行くと喜ばせていましたが、とうとうこれは実現いたしませんでした。それもそのはずで、この頃はまだ汽車はなし、入湯に行くにも人力車か、歩いて行くよりほかに方法はなく、親が子供をつれて旅することは並大抵のことではなかったのであります。
兄のお守に入学
左足の故障はなおらずびっこをひきながらも身体はいたって健康で人一倍わるさもひどかったそうです。七歳(数え年)になって小学校に入学することになりました。当時は満七歳で入学するはずのところ、兄松次郎が学校に通うのをいやがるものですから妹の私が兄の監視役としてつけられ、一年早く入学したわけです。この頃の尋常小学校は四年でしたが、必ずしもしいて入学しなくともよい位の時代で、尋常小学校を卒業すればよい方で高等小学校に進む人は男女ともよほど裕福な家庭の子供に限られていた時代であります。
私は尋常小学校一年から四年で卒業するまで優等生で通しました。卒業式のとき、西新町長伊勢田宗城氏その他の来賓の前で「孝心なる猿の話」と題した講演をさせられ、来賓の方々から非常な賞賛をいただいたことを今でも憶えております。
若き母の死
子供にとって最も慈愛深き母サトは私が八歳(数え年)のとき、今でいえば流行性感冒にかかり他界いたしました。このときの家庭は、姉タミの十四歳を頭に、二歳の末弟専吉を含め三男二女と父、それに祖母を遺し三十五歳の若さで病没したのです。このときの父の悲嘆がどんなであったかは想像に余るものがあります。しかし、気骨のあった父はこの程度のことで運命に負けてはならないと決意を新たにしたようであります。当時の農家は大体がよく働くようになっていましたが、父は特によく頑張りました。早朝から夜おそくまで田や畑に出て働き、姉
と四、五人の雇婦がこれを助けました。年老いた祖母が家の炊事をし、私と長兄は学校から帰ると「カラウス」と言う米描きの道具で白米にすることを手伝ったものです。
人間というものは苦難の道に立たされると、私どもの当時の家庭のように家族全員が一致団結するものです。私のような小学校に通いはじめたばかりの幼い子供ですら、米描きをして家族が何とかやって行ける力になるものです。甘やかしては我がままな子供しか育ちません。決して強い人間には成長せぬものとつくづく思います。
このような家庭の状態が続き、どうやら落ちついて来つつあるときに、今度は頼りにしていた祖母が八十八歳の高齢で亡くなりました。ちょうど私が高等小学校二年生のときであります。(当時は小学校四年、高等小学校四年)
こうなりますと、炊事の方は平素は人を雇ってやらせていましたが、夏休みや冬休みになると昼食、夕食の用意はわずか十二歳になる私の細腕にかかって来る訳で、家族と雇人計十数人前の食事を引き受けてやることになりました。当時、あの若さでよくやったものとわれながら感心しますが、皆からほめられるのが嬉しさに頑張ったものです。
子供を育てる家庭教育の場でも、或いは学校教育に於ても、その年齢に応じそれぞれ独立心を養うように努力させれば、それなりに成長して行くものであることを、私の体験上より痛感いたします。
食事がすむとアンドンの薄暗いあかりの下で、国語、地理や歴史等の本を開いて勉強したり習字や絵等も書いていました。こんなに暗いあかりの下で勉強していましたので眼が悪くなったかといえばさにあらずで、私八十歳をこえた今日でも眼鏡をかけることは稀で、よほど小さい字を読むとき以外は絶対眼鏡はかけません。
近頃の若い青年学生は実に恵まれていて、電気の煌々たる光の中で勉強していながら近眼が多く、体格は立派でも、いつも眼鏡をかけているのが不思議でなりません。
また、あまり勉強もせず、夕食がすむとすぐラジオやテレビの前に座りこんで、なかなか動こうとしないのが多いのではないかと思います。この文明の利器も上手に使えば効果も大したものですが、家庭の教育がしっかりしていないと、かえって勉学の邪魔になります。道徳教育を阻害するような番組も少なくないので、これらの影響によって面白半分で一つやってみょうかな―などといつの間にか悪の道にふみ入る少年青年も少なくないのではないかと考えます。
幼稚園、小学校時代では学校と家庭とがよく連絡をとってテレビの活用の仕方についてよく訓練しておかなければなりません。中学校、高等学校では時間をきめて教育上弊害あるものを発表する時間には絶対見せないようにすることです。一方において、ラジオやテレビ局はどんなにしたら国民の教育、道徳、文化の進展に役立つかを考えて番組をつくり、害にならぬ程度にやってもらわねば、何でも面白くさえあれば…というような今の調子では実は有難迷惑とさえ思われます。アンドン時代、ランプ時代に大切な青少年時代を過ごされた方々が、戦後の日本の再建の先頭に立ち今日の日本の復興の指導者になられていることを思うとき、明治時代の力強さを感じ、また人創りは必ずしも文明開化のみによるものでもないと痛感します。
町長の頼みで高等小学校へ
かくて私は尋常小学校卒業後、すなわち明治二十七年四月に高等小学校に進学、ここで鍛えられること四カ年でした。この頃、高等小学校に入学するものは早良郡全域から女子だけではせいぜい三十四、五人程度。よほどのお金持か家柄のうちでないと高等小学校までは進まなかつた時代であります。このように教育程度の低い当時、どうして私のような農家生まれの、しかも家庭は母を失くして困っている状況の者が高等小学校に入学したかについては、ぜひふれておかねぱならない事情があったのであります。
ときの西新町長は伊勢田宗城氏という方でかねがね同氏は西新町から一人立派な教員を出したいと願っておられました。そこで目をつけられたのが私というわけで、その町長さんは私の父を口説いて農家の手も不足だろうがハルさんをぜひ教員にして欲しい、それには尋常小学校だけで辞めさせるわけにはゆかぬということとなったのであります。私も高等小学校に進んでから、いつも成績は首席を占めて、卒業いたしました。この頃の高等小学校の存在は、ちょうど現在の高等学校ぐらいに匹敵するのではないかと考えます。この頃の女性は自らをきびしく持する気風が強く、また明治天皇の教育勅語を道徳の基盤として朝な夕な訓育を受けていまして、生徒として現在中学、高校に見られるような暴力行為や非行はありませんでした。私が高等小学校四年生のときクラスの女生徒が某青年から手紙を貰ったとかで、私の知らぬ間にクラスの全員から非難され制裁を受けたことがあります。いわゆるクラスの共同制裁で一人でも変な噂を立てられる人があると同級生がそのまま放任せず、団結して矯正して行く風潮があった訳です。私が級長をしていたものですから、そんなに強く当たるのは可哀想だと止めるくらいで、もちろん組担任の先生はまったく御存じないことでした。
これを今日の中学生や高校生に見ると、生徒の非行が世間に知られ話が大きくなると、担任の先生がうろたえて本人や父兄に注意はするが、他の生徒は何知らぬ顔で平気。これをクラスや自分たちの恥とも何とも感じていない。中学生や高校生で親の目を盗んで桃色遊びにふけったり睡眠薬遊びに迷いこんでいる者をときどき聞くが、これをとがめる愛情ある同級生が居ない。気をもみ真剣に取り組んでいるのは担任の先生や校長だけという有様。これからみると、明治時代の学童の道徳教育と戦後のそれとの間には雲泥の差があるといえます。
日本国民も、こんなに落ちぶれたかと思うとほんとうに情けなくなります。
また、私の高等小学校時代は、あたかもあの有名な明治二十七、八年にかけての日清戦争時代にあたります。この頃の日本人は明治の学校教育、教育勅語の教えを受け、軍人は軍人勅諭により鍛練され忠孝一本個々の家と国とのつながりも強かったものです。国に一旦緩急ある場合に一命を捨てるのを男子の本懐とし、親もそれを名誉この上なしと考えていました。軍人として出征するときは村、町内こぞって日の丸の国旗を振って送ったものです。今だに私の頭の中に当時の模様や万歳の声が残っております。このようなわけで国を挙げて一致団結、戦いはいたるところで連戦連勝、私ども学校の生徒は戦勝の号外が出る度に日の丸の旗を手に手に町中をパレードしたものでした。日本人の頭の中には、日本軍は愛国心に燃え、かつ強いので、戦えば必ず勝つものときめていたくらいです。  
姉弟そろって首席
明治三十一年三月、西新尋常高等小学校を首席で卒業いたしました。私のすぐの弟関次郎はこのとき高等小学校一年生から一級とび越えて三年生になっていましたが、成績は私よりはるかによく各学科の得点はほとんど百点、悪くて九五点以上でこの点姉として少々ひけ目を感じていました。このように姉弟二人が同じ高等小学校で首席を占めていましたので、妻を失くした淋しい父は有頂天になって子供のことをいつも自慢しているような風でした。
前にも述べていますように、私は七歳(数え年)で尋常小学校に入学した関係で、高等小学校を卒業して師範学校に入学しようとしても年齢が二歳足りません。仕方がないので、当時ありました福岡師範学校付属の補習科に入ることになりました。この補習科には師範学校入学準備のために入っている人が三十人ばかり居たように思います。補習科の授業は師範学校の男、女教諭が担当されていました。女教諭では東京女高師御卒業のパリパリの土屋先生、富岡先生、広田先生等がおられ、いつも整然とした服装で美しく、しかも御指導ははきはきしていて若い私の心を強く打つものがありました。これらの先生方の御姿を見れば自然頭が下がり、なにか神々しいものを感じたものです。明治時代の東京女高師御卒業の先生方の態度は、今日では拝むことの出来ないくらい気品高いものがありました。
この補習科時代、私の頭に刻みこまれていることの一つは付属小学校でも、また私共の属している補習科でも、清潔整頓の厳しかったことです。付属小学校の生徒も上級生は薄暗いうちから学校に来ていて便所の掃除などやっていましたが、私は西新町の自宅から補習科の校舎まで徒歩で通学しているくらいですから、それこそ朝暗いうちに提灯をつけて掃除にかけつけるというぐあいでした。女の先生が御登校にならないうちにきちんと掃除を終り、先生の御出勤を待って検査をお願いすると、先生は隅から隅まで見てくださってニコニコ顔で「ハ、ヨク出来マシタ」「御苦労サマ」と簡単に褒めて下さいます。私は先生のこのお褒めの言葉を頂くのが何より有難く光栄に感じていました。今考えると純真そのものだったのです。
今一つこの補習科時代で忘れえないのは、付属小学校主事をしておられた大久保先生の講堂修身のことであります。まず楽器の音に合わせて歩調を揃えて堂々と講堂に入場、暫く黙想、それから教育勅語の暗誦を命ぜられた生徒の発表。それが済んで最後に大久保先生から訓諭があるのが常でしたが、この講堂修身は私にとりましては修養上非常に為になったと考えます。
年齢ごまかして師範入学
いよいよ補習科の一カ年間も終り、師範学校の入学試験を受ける段階になりました。しかしさきに述べたように私は小学校に一年早目に入学している関係で、満十五歳には達しておりません。当時師範学校に入学出来るのは満十五歳以上と言う年齢の制限があったわけです。しかし、伊勢田町長が西新町から立派な教育者を一人出さねばとの強い念願で、私にしいて高等小学校や師範学校補習科入学をすすめたいきさつもあって、年齢不足は町役場の方で少し戸籍面をいじり入学試験を受けることができました。当時はその方面は割合のんびりしていたのでしよう。これが明治三十二年二月のことであります。なにさま年齢満十五歳以上でなければ入学出来ないのに、本当は満十四歳と数カ月なので口頭試問でも子供らしいことばかり答えたらしく、校長の浜口先生や補習科のとき教わった土屋先生、富岡先生方から年をもぐって入学しておくと後でわかるとたいそうな罰金を出さねばならぬがそれでもよいかとひやかされる始末でした。私は伊勢田町長さんから満十五歳と一ヵ月余るように作っておくからそう答えなさいと指示を受けていましたので「満十五歳と一カ月余ります」と真面目くさって申すものですから先生方もおかしくなってふき出してしまわれました。
こんなことなので、私も今回は駄目だろうとあきらめて百道松原に松露採りに行っていました。ところが「学校の方から合格の通知が来たよ」との使いがきたのです。私は飛び上がらんばかりにして喜んだことを記憶しています。この頃は高等女学校も全国的に数少なく、中学校といえば県内では修猷館、久留米の明善校、柳川の伝習館くらいのもので、このときこの師範学校に県下からの受験生約九十名のうち三十五名が合格したのであります。私も幸いにその中の一人に入りましたので、父はもとより伊勢田町長さんも大喜びでした。当時の我が国の教育の水準はその程度だったのです。
師範教育のきびしき
この頃の福岡師範学校は今の福岡市荒戸、いわゆる荒津山の麓に一校あるだけでした。男女合同の校舎でしたが、現在いわれているような男女共学ではありません。女生徒は女子だけ、男生徒は男子だけの組編成になっており、したがって授業の時間割も別々です。全寮制で女子寄宿舎は校舎を中心にして西の端にあり男子寄宿舎は東の端にあって、舎監も女子寄宿舎には女教諭の方がおられました。舎監長は男子の先生でした。寮生活の食事はもちろん、衣服、はき物までいつさい官費支給ですから、あたかもその頃の軍隊と同じ扱いです。
冬着は老人の着るような質素な瓦斯縞のあわせ着、夏着は地味な久留米緋が毎年一枚ずつ支給されます。下着は必ず白地の晒布でこれは各自が作るのですが、衿はすべて白ということになっていました。袴は黒地の毛嬬子のお揃いでこれも支給品でした。
食事の作法や夜間の黙学時の厳しさはまた格別、黙学時間中は私語はいっさいできません。座る姿勢も正しく座って横ずわり等は許されませんでした。黙学時間の午後七時から九時までは真剣に勉強したものです。なにしろ県下から僅か三十五名だけしか入っていない優秀生ぞろいですので、皆競って勉強したものです。黙学時間がすむと、あと一時間は自由な勉強時間でこの間は少々の私語は許されていました。
清潔整頓はいたってやかましく、着物はチャンとたたんで白布に包み棚の上にキチンと並べておかねぱなりません。夜具のたたみ方にしても、少しでもゆがんでいたら上級生から注意されるほど厳格でした。
三度の食事に出される御飯は米の方が少ないくらいの麦飯で、おかずはきわめて粗末なものでした。いまのように栄養についてはあまり考えられておらず、ただ腹がふくれればそれでよい時代。肴は鯖一切れ、それに時々は牛肉もつく程度、朝は必ず味噌汁一杯はついていました。しかし食事の時間が正しいのと朝の起床と夜の就寝時間が正しいことや運動、勉強を規則正しく行なっていましたので、師範生は皆ぶくぶく太って身体強健な者ばかりでした。生活を規則正しく保つことは、何よりの健康増進のもとということがわかります。御馳走とてもない寄宿舎生活のこのような実態が、そのことを如実に物語っています。
入学当初は二年、三年生の上級生が恐ろしく、食事のときにあまりたくさん食べたらにらまれはしないかとおそるおそる食事するので、いつも腹ペコでしょうがありません。そこで土曜日曜の外出日には、いの一番に飛び出して実家に帰り夢中で一週間分の食いだめをして寮に帰つた記憶があります。それも二年生、三年生と進むにつれ遠慮なく食べるようになり、その頃は随分肥ったものです。おやつは毎週金曜日の午後渡っていましたが、それも色の黒い黒砂糖を混ぜたアンパンでした。これが私達師範生の一番の楽しみで、そのほかの六日間はまったく菓子は渡りませんでした。
寄宿舎生活の規則による運営はみな上級生がこれに当たっておりました。炊事についていえば、炊事長がいて炊事当番は材料の注意から煮炊き食後の食器の洗いかたづけまで分担します。この当番は室回しになっていました。室長は三年生がなっていました。舎監はせいぜい外出の帳簿の点検ぐらいで全部生徒の自治により一糸乱れずうまく運営されていたと思います。生徒は民主主義とか自治とかをやかましく申したてないで、自分達で静かに整然と規則を守り自治的自発的に管理してやっておりました。一人でも寄宿舎の規則を犯すものがあったら、上級生が承知しません。夜会合して下級生を呼び出し訓戒したものでした。福岡師範には年頃の男女生徒が居ましたが、今のように男女共学でなく七歳にして男女席を同じくせずの孔子の教えに従い学習も別教室、寄宿舎ももちろん別世帯でしたので、男女の変な関係等聞いたことも見たこともなくそれはそれは清潔な生活ぶりでした。年齢でいえば満十五歳から女子は三カ年間、男子は四カ年間でしたので今日の高等学校と少しも変わりません。十五歳から十八歳くらいの悪さざかりの者でも、教育薫陶のやり方一っではこのように立派に躾けられるものであります。
戦後日本の文化、文明はおそろしく進み、昔は歩いていたものが、現在では自動車、飛行機、汽車、電車等々、また都会の夜は昼を欺かんばかり電気がついているのに、青少年の堕落ぶりはひどいもので毎日の新聞を賑わしている姿は見られたものではありません。これはいったいどこに原因するかをつきつめて見ますと、私は小学、中学校の大切な義務教育期間の徳育の不徹底と申したいのであります。そしてその根本をつきつめると学芸大学という何とも知れない学校名のもとに再出発した教員養成機関のなまぬるさ、不徹底さのせいと思うのであります。誰がいっ頃から学芸大学などと命名したものか、なぜ教育者の養成機関ならば教育大学又は師範大学としなかったのか。
私の師範学校生徒時代でも、男性で師範学校に入るのを卑下し、本心は実業学校に入りたいのだが官費で学費が要らないだけの理由でいやいやながら師範に来た人の例を二、三聞いたことがあります。戦後はそのようなことでわざわざ学芸大学などと名前をつけたのでしょうか。
まず何よりも自分は立派な教師になって教育に専念し、教育者の使命の貴さを認識して全身全霊をあげて子女の教育に従事しなければ本当の教育は行なわれないのであります。特に小学校児童は、ほんとうに神の子で、まことに純真そのものです。立派な教師が熱意込めて私欲を離れて教育に当たれば子供の躾は自由自在、人形を作るより徹底的にやれるものであることは私の永年にわたる小学校教育の体験から証明されます。これと反対に、もし教師の人となりが間違って、日本の少年児童の教育に自分の国をけなし、中国やソ連を美化してこれにおもねるような態度で教育に当たったらその結果はどうでしょう。小学校時代に植えつけられた精神は、中学校、高等学校に入学してもなおるものではありません。中学校、高等学校でどんなに努力しても、やきついた、曲がった訓育、徳育の傷はなかなかなおりません。日本人としての正しい立派な人づくりはまず小学校教育の根本的改善が必要で、その第一歩は小学校の先生の養成機関である学芸大学をとりあげ、この学芸大学のあり方を国家として根本的に樹て直すことが先決問題と考えます。
小学校下級学年の間に、立派に日本国民の魂は植えつけられると考えます。しかし、これには今一つ現在の母親の再教育も並び行なわないと、どんなに学校で子供の徳育に力をつくしても、家庭に帰って母親が正しい教育や躾をしなかったら、これはちょうど底の抜けた器に水を盛るようなものでいっこう効果は上がりません。小学校では母の会を作って子供と同時に母親の教育もする。かくて現在の小学校男女児童が成長して大人となった時代にはまた、明治天皇の御代のように隆々たる日本が期待されると思います。
私は明治三十五年師範学校を卒業いたしましたが、その頃の小学校教師で俸給の多少や賞与金の多寡につき不平をいうような先生がいると、あの人は教育者の風上にも置けぬと言ってけいべつされたものです。もっとも、その頃の教員の俸給は一般官吏や会社の従業員に比べるとかなり優遇されてはいましたが、教師自身は物質欲を離れ、生徒愛に燃えて教育に専念したものです。また、この頃師範学校に入学する者の家庭は、ある程度の財産持ちで生活には困らない程度の者が入学して来たようです。その点生活に追われていないことで、のん気に構えていたともいえます。
ここでふれておきたいのは、現在の制度では学芸大学卒業生以外に一般の公私立大学を卒業して中学、高等学校の教員になる人も多数にのぼっております。これらの人にはその大学卒業後、教育大学に研修科みたいなものを置き、そこに入ってもらって半年か一年みっちり教育者としての人間陶冶と生徒の指導法や教授法を修得させ、試験のうえ採用するようにしたら、優れた教員が出来るのではないでしょうか。とにかく現在のようなありさまでは日本の将来が心配でなりませんが、これは私の取り越し苦労でしょうか。
試験の最中に非常ラッパ
私が福岡師範生徒時代で今だに忘れえない苦笑するような記憶が二つあります。
その一つは学期試験の真最中に、夜中の午前三時非常ラッパに叩き起こされて千代の松原まで駆け足行軍させられたことです。師範学校生徒は非常の場合に備え、服装一揃い身近に整頓しておくのが規則になっていますので、当日もチャンと揃えて寝(やす)みました。
午前三時頃、突如聞えて来るラッパに「スワ、火災か」と、早速服装を整え前庭に出て見ると、あにはからんやこれから千代の松原まで駆け足行軍とのこと。私たちの頭のなかは、今日は化学の試験のある日。何とか一生懸命化学の公式を暗記して床についたのに、これには閉口いたしました。でも走らねば退学になるかも知れないので、格好だけはニコニコ顔で千代の松原まで往復駆け足、そして洗面、食事というわけです。ところが走ることだけでくたびれてしまって、せっかく一生懸命覚えていた公式はほとんど忘れてしまう始末。
いよいよ化学の試験の時間が来て、若い先生が問題用紙を配られます。そこでたまりかねて年長者の誰かが「今日は頭がボケてしまっていますから試験はこの次の時間に願います」と申し入れましたが「出来なければ白紙を出したまえ」との一言に取りつくしまもなく泣く泣く受験したことを憶えています。
この一事でも、昔の師範学校がいかにきびしい訓練をしていたかがわかります。しかしよく考えてみると、大切な神の子を預かる重大な責任のある教育者を養成する機関ですから、これくらいきびしくして人づくりをしておかないと、人を感化させるだけの人物は出来ないはずです。しかも荒戸町から千代の松原の往復といえば三里(十二キロメートル)はありましょうか。今の学生は遠足とか行軍はまったく駄目。バス遠足、汽車旅行で歩くのはほんの僅か。足の訓練が足りません。歩くということは何よりも健康の基ですから、たとえ乗物はあってもなるべく歩くのが、特に小柄な日本人には必要ではないでしょうか。
いま一つの強い思い出は三年の後期、半年間付属小学校に教授法の実習に教生として出向いているときのことです。
私は付属の高等小学校三年の組に配属され外国地理の担当をさせられました。ある日地理の受持ちの訓導である釜瀬新平先生から私の地理の授業を参観いただき、批評を仰ぐことになりました。釜瀬先生は地理科のベテランの先生だったのです。教材は印度の物産と、印度の首府その他の都市についてであります。
そこで教壇に立つ十日も前から教案を練り印度の人口から物産、都市のこと全部頭に入れてこれなら大丈夫と考えていよいよ先生の参観を仰ぎました。黒板に大きな印度の地図を掛けて地図を指す一間(約一・八メートル)もあるような長い竿を持って教壇に立ちました。ところがどこからどう間違ったのか、教壇に上がると同時に、今まで立派に覚えていたはずの印度の地理はまったく忘れてしまい人口とか物産など一つとして出て来ません。
私は泣くに泣かれずほうほうの体で、長い竿を持って教壇の上を右往左往するばかりだったそうです。自分は夢中ですからどんな格好をしていたかよく覚えていないわけです。冷汗をかきながらやっと授業を終り、とにかく実地授業を参観していただいたのですから釜瀬先生の御批評を願いましたところ、先生日く「今日の授業は弁慶が長いなぎなたを持ってうろうろしているのにそっくり」と唯一言。あとは何も申されません。私は口惜しくてなりませんでした。
最初はこんな失敗もありましたが経験を積むにつれて生徒の扱いもうまくなり、ときには面白いこともいって生徒を喜ばせるようなゆとりも出て来ました。たしか実地授業の点数は九十点は貰ったと思います。しかし、半年間も付属小学校の実地授業にたずさわるのは容易ではありません。毎日毎日勤務の状況を批評され、この実地授業の成績が良くないと絶対に卒業させてくれません。我ながらよく頑張ったもので、優秀な模範訓導からみっちり仕込まれて段々先生らしくなり、半年間の教生生活を終えて無事卒業いたしました。
最初は便所掃除を教える
明治三十五年三月二十五日、福岡県立師範学校を卒業し、その翌月四月十日付けで福岡県鞍手郡直方高等小学校訓導を拝命しました。
だいたいが師範学校卒業の訓導が少いのに、田川、嘉穂、鞍手方面には師範卒の先生の配置がほとんどないくらいで、まともな正訓導は少なく、雇いとか検定試験に合格しただけの先生が大部分でした。師範卒の女子訓導で直方高等小学校に配属されたのは、私と田中やすさんとの二人だったのです。ほかに田川郡後藤寺小学校に清松さんという方が赴任されましたが、これが師範卒の女子正訓導配置の始まりと聞いております。私は当時やっと十九歳(数え年)になったばかりで世間のことはよくわからず、ただ県学務課の指令のままに赴任したものです。
ところが、この頃の直方は炭坑の一番景気のよい時代。日清戦争は勝利のうちに終って日本の興隆とともに産業は起こり、船でも汽車でもみな石炭を使っているものですから、いくら掘っても足りないくらい石炭は売れました。
直方でも貝島太助氏一家の豪勢振りは、まるで昔の一国の殿様扱いでした。
私は直方町の資産家で質屋を営んでおられた山本さんの離れを借り、そこに下宿住まいすることにいたしました。当時の私の初任級は月俸十二円です。その頃米一俵(六十キロ)が五円でした。
直方の町そのものは活気にあふれ、新興の勢いに燃えていましたが、炭坑地だけあって何となく荒っぽいところがあり、私が一番困ったのは生徒が使う便所の不潔なことです。直方高等小学校は男女別々の組分けで、男子は男らしく女子は女らしく優しくする教育が施され、私は三年の女子組の担任になりました。ところが、男子、女子便所とも掃除の不行届きと使い方が悪いので足の踏み場もないほど汚れています。そこで、私は考えて炭坑地の教育はまず清潔整頓から手を着けねばいけないとし、担任の三年の生徒にまず便所をきれいにしようではないかと提唱、私自身が先頭になって全校生徒の便所の洗い掃除をし、きれいに拭きあげました。休み時間になると、私の組の生徒を手分けして一々便所の使い方の見張りに立たせ、汚した生徒には後始末をさせました。今考えると、たった十九歳で思いきったことをしたものと自分で感心しています。
若い頃は音楽が好きで、特に筑前琵琶に凝ったものです。当時、貝島炭坑の大工さんをしていた石村旭光先生に学校の休みのときよく教わったものです。最初は歌詞調の「龍田の紅葉、野田の藤…………」などの簡単なものから段々程度の高いものまで習得して、特に「太田道潅」の曲は私のもっともおハコとするところでした。
郡視学の川島渕明先生はよく私を婦人会の研修会につれて行っては琵琶を語らせ、私も調子に乗って「そもそも太田道潅と申しけるは…………」というような工合でやったものです。
川島先生の奥様や、ときの直方高等小学校の名校長といわれた有吉先生の御宅にも時々行って琵琶の指導をしました。
琵琶といえば、当時は随分流行したもので、私の実弟関次郎は特に名人で、語る方よりも奏でる方が素晴らしかったものです。なかでも「明智の近江の湖水渡り」の琵琶の弾奏は、聞きほれるほどでした。
直方高等小学校に赴任したての新米訓導の私を、どうやら一人前の教師として育てて下さったのは小畑伸校長先生でした。この先生は実に穏健な方で、職員を愛の精神で指導なさり、まさに円熟された人柄の方です。私もこのような校長先生に仕えて指導を受けることを心から感謝いたしておりました。しかし、この学校の職員はさすがに炭坑地のことなので、気が荒く、たびたび校長先生と論争をし、ときにはつかみかかって校長先生をひどい目にあわせることもありました。十九歳の若い教員の私は、師範学校時代真面目で誠実に自分の職務を尽くせとだけ訓練されていて、炭坑地の気の荒い職員の内状などわかるはずもありません。あんな立派な校長を、こんなにまでしていためつけなくてもよさそうなものをと同情はしても、手は出せずただオロオロするばかりでした。
その後、小畑先生は門司市の視学として栄転され、後任には有吉邦蔵先生が校長として赴任して来られました。この方は人格といい、実力といい、福岡県随一のやり手とされ、まだ年も若うございました。このような校長先生が来られては、職員の方も手も足も出ません。学校内は静かになり、職員もみんなそれぞれの仕事に励むようになりました。どういうものか、私はこの有吉校長先生にも可愛がられました。
私は高等小学校三年生の組担任から四年生へと持ち上がり、各教科の授業はもちろん体操もやっていました。持に音楽の授業が得意で、高等小学校の生徒三組を合併にして男生徒に唱歌の指導をしたものです。炭坑地の荒っぽい男子組三組も一緒にして二階の講堂に入れ、年若い十九歳か二十歳の女教師でよく指導したものと我ながら感心しています。これは、やはり師範学校時代厳しく教育されていたことの顕われだと思われます。十九歳、二十歳は数え年ですから、今でいえば高等学校三年生と同じ年頃です。
県庁から視学が来校されるとどういうわけか、有吉校長先生はいつも私の学級を自慢して参観させておられました。また川島視学が視察に来られても同様で、不思議に私は郡視学や校長から可愛がられる性質でした。したがって私も得意で、毎日気持ちよく働くほかに何の欲もなかったように思います。この頃の私たちは、特に待遇のことなど少しも考えたことはありません。ただただ立派な教員になり、少しでも生徒に喜んでもらうことが楽しみでしたし、そのように心掛けたものです。
月給は、一年半に一度くらいの割で昇給いたしております。初任給が先に述べましたとおり女教員で十二円。それから一年半たって一円増俸で十三円、三年経って十四円です。十四円くらいでは家庭に仕送りする余裕はありません。下宿料を差し引くと二、三円くらい残るのですが、二、三円家庭に送っても着物を作るときにまた加勢してもらわねばなりませんので同じことです。
とくに若い女が炭坑地の直方に永く勤めるのもどんなもんだろうということになり、家庭の方からのすすめもあって、直方高等小学校に三年五カ月勤めて草ケ江高等小学校に転任することになりました。 
結婚の申込みを断わる
私が直方高等小学校に赴任して間もない頃のことでございます。当時私の実家は西新町にありまして、近くに東山という小高い山がありました。ここで、広島県人でながいことアメリカのロサンゼルスで働き相当の金を貯えて内地に帰って来た石田豊次郎という方が、炭坑事業を思い立ったのです。この方はまだ独身でありましたし、炭坑事業を始めることで父ともいろいろ接触があったようです。私が師範学校卒という関係で嫁にと申し込まれ、相談を受けたことがあります。ところが、師範学校は官費制ですからどうしても三年間は教員として勤めあげねばならぬことになっていました。私もよい縁だな一と一度は考えたのですが、結局は潔よく断わることにしました。
私のような不きりょうの女でも、若いときには貰ってくれるような人があったのかな一と今考えておかしくてなりません。
縁談は、これが最初で最後だったことになります。
培った教員魂
明治三十八年九月十二日付けで草ケ江高等小学校訓導拝命、俸給は月十五円です。
その頃の草ケ江高等小学校は直方とは違い、生徒の家庭は良し、父兄の教育程度も高い県下の優良校で、福岡師範学校の教生がよく見学に来ていました。この学校に赴任してからは、学校には、実家から通勤できるようになり、父も安心したようです。校長は広田波毅先生で、温厚な優しい人でございました。
間もなく福岡師範が男子師範と女子師範に分離されることになり、このとき女子師範は鳥飼の方に新しく校舎を建てて移ったのであります。私はどうしたわけか、両校分離の年、すなわち明治四十年三月十四日付けで男子師範の方、福岡県師範学校付属小学校の訓導を拝命しました。この小学校で、師範生徒の教生の指導にも当たることになったのです。卒業直前の師範生に教授法の実地指導をする役目なのです。
明治三十五、六年から四十五年頃までは、福岡師範の黄金時代といってよいでしょう。それに伴って付属小学校の方の教員陣容も多士済々で、若年の私を除いては主事以下堂々たる顔ぶれでございました。主事には最初森脇先生が座っておられましたが、この方がやめられたあと広島高等師範学校の先生をされていた中川直亮先生が着任されました。年は三十五、六歳位でしたでしょうか、若くて頭脳は明断、学識豊かで非常に明るい方でございました。これに配する各訓導もまた、若くて優れた方ばかり。首席訓導が北原先生、続いて立石仙六先生、山川敬行先生、織田信雄先生、木村哲郎先生、清水甚五先生等々。女子の訓導は、最初は山根ソマ先生と私の二人でしたが、中途で山根先生が退職されて私一人になりました。当時は男子師範学校を本校、付属小学校はもちろん付属と称していましたが、その本校の教諭は当然男子ばかり。付属の方に女訓導として私一人。しかも年齢わずか二十二歳ですから、肩身せまく心細いものでした。このような優れた先生方の中に入れられて第一に感じたことは、自分の未熟さ、とりわけ教育に関する学識の不足、技術の劣ることであります。ここで私も大いに奮起いたしまして「よし、女性なりとも大いに勉強して男子訓導以上の力を持つようになってみせるぞ」と、朝は必ず五時には起き、登校前二時間は教育に関する書物を勉強いたしました。夜はたいてい十二時か午前一時までの勉強です。このようにして教育に関する書物をほとんど読みつくし、各教科の指導書、参考書などすべて目をとおして自信を持ち、教生の指導に当たられるよう若い意気で頑張ったものです。
私がその後の生き方として一つのことに取り組んだら徹底的に追究する習慣―というより、性格を備えたとすれば、この青春の時代すなわち付属小学校時代のはげしい研究修業で培われたといえます。
この頃の付属小学校は県下小学校教育の指導機関であるばかりでなく、全国でも指折りの名声を博していたのであります。よくいわれておりましたが、東は長野県、西は福岡県が小学校教育がもっとも進んでいたのです。
長野県と福岡県はお互いに競い合い、福岡県では長野県の研究成果を取り入れるように試み、一方長野県の方ではこれまた福岡県の優秀な先生を招待して初等教育研究の状況を学ぶなどなかなか活発なものでした。そのほか、鹿児島県など他の県からもよく招請されていました。
このように、当時の福岡県が教育県として、特に初等教育の分野で全国的に名声を馳せたのは、その頃の県下小学校教員が一つの教員魂とでもいえるものを持っていたからと思います。そしてこの教員魂はどこで培われたかといえば、優れた先生方が揃っていた師範学校で、しかも全寮制度のもと徹底した訓練によるものと確信いたします。
これは私の年来の主張ですが、小学校、中学校の教師たらんとする者は、人間のもっとも大切な時期の魂を創るのですから、何とも知れないような学芸大学とかいわないで教育大学、あるいは師範大学で結構、そして必ず全寮制度にして厳しい訓練を施す。その代りに学費、生活費は一切国の支給とし、教員の俸給も一般会社より数段上にするくらいの思い切った政策が必要と思います。
このように男子師範付属小学校訓導を足かけ四年間勤めました。以前から好きだった琵琶も、この間はプッツリ止めて昼も夜も仕事、研究、読書の連続で、とにかく教育の道一筋に専念したのであります。このときの努力が、その後の私の一生を大きく左右したと思います。
弟、関次郎病いに倒れる
人間のしあわせというものは、そうそうながく続くものではありません。私の楽しい教員生活の中で、思いがけない事件が起こったのです。それは、私が一番可愛がっていた実弟の関次郎が肺結核に倒れたことであります。
弟の関次郎は尋常小学校、高等小学校とも常に首席を占める成績だったことは、既に前に述べたとおりであります。高等小学校卒業後、中学修猷館に進み、ここでも常に学業は優秀でございました。また、特に剣道にすぐれ、その頃武藤先生といわれる剣道の先生がいらっしゃいましたが、その方の愛弟子で体格もガッチりしていたのであります。修猷館卒業後、海の男を志して東京の越中島にあった東京高等商船学校航海科に入学いたしました。この年、修猷館から四名がこの学校に入学していますが、弟は成績が優秀とかで横浜郵船会社の特待生となり、学費はその方で負担してくれていました。
ところが、忘れもしません明治四十二年十二月二十四日、商船学校の忘年会で得意の筑前琵琶を奏でている最中に突然喀血し、学校でも大騒ぎになり、私宅にもその旨電報が入りました。
家では関次郎が休暇で帰省して来るのを一日千秋の想いで待ちわびている最中のことだったので、父は気落ちしてとうとう寝込んでしまいました。
私は若くはあるし、汽車の旅にも馴れていましたので、早速付属の主事中川先生の許可を受けて独りで越中島まで病人を引取りに出かけました。病気も小康を得、少しおさまったとのことで先生方の助けをかりて帰省の用意を整えました。汽車も一等車に乗せ、寝(やす)んだまま、沢山の同窓生の見送りの中を東京駅発。私が看護人として、一緒に自宅に帰って来たのです。
これからが、私の苦労の始まりであります。
私ども、兄弟姉妹は幼い頃母を失ない、その後、父は後妻をめとりませんでした。家事の方は私どもの手を煩わしたり、親類や近所の人、または女中を傭ったりして何とかしのいで来ていましたが、母の死後十年、父はやっと後妻を入れ、その頃私どもには、異母弟妹になる子供が三人出来ておりました。明治時代の肺結核といえば、現在と違いもっとも金がかかり、しかもほとんど不治と見なされていたような"業病"です。家には小さい子が三人いましたし、うつりはしなかとの心配があり、義理の母に対する遠慮もあって、弟としても随分悩んでいたことと思います。私が学校から帰って来ると、いつもしょんぼりした青い顔で縁側に座っていました。家の中は暗くなるし、弟が可哀想で矢も楯もたまらぬ気持ちに追いこまれました。このままでは、とても弟の病気は癒りはしない。せっかく優秀な才能を持っている弟をもう一度再起させるには、思いきって転地療養をさせた方がよいと考えつきました。
弟を元気にしてやりたい一念でした。長姉のタミは、このとき既に保坂家に嫁していましたが幸い近くに居りましたので、父と姉と私と三人で相談し、私が月給の大部分をはたいて弟の治療費の面倒を見ようということになったのです。このような段取りをつけたのは、私が田隈小学校に転勤して二年目のことです。このときからながいこと弟の回復を祈りながら、私はその収入の大部分をつぎこんでゆく運命になったのでした。
生徒の連れ出しに家庭訪問
明治四十三年六月二十日付けで、私は付属小学校訓導から早良郡田隈小学校訓導に転任になりました。普通の常識からすれば、付属小学校の訓導から田舎の小学校の訓導に転任するのは都落ちの格下げと考えられます。私が心を動かしたのは新設校であること、農村の小学校の経験を味わいたいことと、もう一つは付属小学校訓導の田丸三次郎先生が校長になられるのにもう一人付属小学校から先生をつけてやらねばうまく行くまい、ぜひにという熱意にほだされてのことでした。したがって、私もむしろ自分から進んで転任することにしたわけです。二十六歳の血気ざかりでした。
ところが赴任してみて、びっくり仰天いたしました。付属小学校では生徒の服装は立派で家庭もよし、よく勉強する者ばかりです。大抵の覚悟はしていたっもりですが、頭で考えたことと実際は大違い。服装の悪いのは当時の農村ですからまあまあとして、農繁期には赤ちゃんを背負って学校に出て来る始末。出席率も非常に悪く、授業の始まる前に一々家庭訪問して生徒を連れ出して来るのも再々でした。また勉強することにまったく関心を持たない子供がクラスのうちに七、八人いましたので、これらの生徒のために廊下に一教室つくり特別指導をするなど、今まで知らなかった苦労をしたものです。しかし、校長の田丸先生が先頭に立って教育者として一生懸命頑張っておられるものですから、私も先生の片腕のつもりで大いに成績を上げねばと学芸会を特別にとりあげて大々的に催したり、村の女子青年団を氏神様に集めて作法の稽古をしたり村全体の教育にまで手を拡げました。五十数年たった今日でも、その頃の教え子が中村先生、中村先生と慕って時々訪ねて来てくれます。皆それぞれ一人前になっていますが、昔の鼻たれ小僧時代のことを思い出し、懐しくてなりません。これが教師冥利というものでしょうか。
この田隈小学校の教員時代も以前と同様、睡眠時間はせいぜい四時間か五時間ぐらいで、月給の上がることなどは毛頭頭になく、ただ働くだけでした。
一方、弟関次郎には私の月給の大部分を治療費として送らねばならぬ境遇で、まさに内外ともに多事多難の苦難を味わいました。これが天から授かった自分の運命と諦めて、月給が渡されると喜んでそのうちの二、三円を自分の手許に残し、あとは全部弟の療養先に送金したものです。
有田高小を進学校に
こうして田隈小学校に勤務すること四年半、大正三年一月今度は早良郡有田高等小学校に転任になりました。俸給は二十二円で、この額は当時三十歳くらいの平訓導としては破格の高給だったそうです。そのかわり、高等小学校で女子一年生、二年生合同の複式学級七十二名をひとりで担当し、国語、数学、理科、地理、歴史、図画、習字、おまけに体操まで全教科を一人で教えねばなりませんでした。
この有田高等小学校に赴任するときに、ときの郡視学浦江先生から特に私に注文がつけられたのであります。それは「実は早良郡に高等小学校が三校ある。西新校と草ケ江校と有田校と。草ケ江校はサラリーマン家庭の子供が多く教育程度も高い。男子は修猷館、女子は県立福岡高女によく合格して入学率もよい。ところが、有田校の方は農家の子弟が主であまり勉強もせず、入学試験を受けてもさっぱり合格しないので弱っている。あなたが有田校へ赴任したら、入学試験にもどんどん合格者を出すように努力してくれ」とのことでした。
その頃の有田高等小学校は高小だけの独立の学校で、教員組織もいたって小じんまりしたものでした。校長は福田丑之助先生で、地元の生まれ。碁がいたってお好きな方で、村会議員さんとよく碁盤を囲んでおられました。まことにゆったりとした好人物でした。教頭は井上忍先生で羽根戸の地主さん。のびのびとした明朗な方。そのほかに、訓導の先生が四人と、別に裁縫に若い女の先生が一人。まったく家族的なふんいきでお互い気心はわかっておるし、思う存分のことが実行できる有難い職場でした。
この有田高等小学校の教育における想い出を二、三述べてみましょう。
その一は、前にも述べた一、二年の複式学級のやり方です。これは一年生が理科の時間は、二年生は習字。二年生が国語の時間は、一年生は図画という風に、どちらかは自習ができるように組み合わせて一、二年一人の先生で授業を進めて行くわけです。ただ体操と音楽だけは教室の関係でそうもゆきませんので、これだけは、一、二年合併で同じ材料で指導していました。
その二は、秋の公開運動会のことであります。この運動会のために、四月には既に計画を樹てました。歩調練習と飛箱、中飛びなど運動場に平素から設備しておき、生徒は朝掃除が済むとおしやべりをしないで早速運動場でそれぞれの練習をするのです。秋の本運動会のときは生徒がこのように興味を持って自分から進んで鍛えた技を公開するのですから美事なもので、私が号令一つかけると一糸乱れず歩調をとって七十二人の生徒が行進するさまは団体行動の極致といっても過言ではないくらいでした。体操にしろ、飛箱にしろ、中飛びにしろ、自由自在にできるものですから、見物席の父兄や一般有志の方々からまるで女の幼年学校(軍人養成の学校で士官学校に入る少年を教育する学校)のようだと評されたものです。
生徒は教師の熱心と適切な計画さえあればどのようにも育ってくれるもので、私のように足の悪い女教師でも専門の体操の先生がはだしになるくらいやればやれるものとの自信をっけました。このように成績の上がったときの満足感はとても金に替えがたいものがあるもので、これが本当の教育者の喜びではないでしょうか。
その三は、中学校に進学する生徒の補習授業のことであります。その頃は、男は修猷館、女は県立福岡高等女学校を希望する生徒が大部分であります。私は赴任のとき、すでに郡視学の浦江先生から言い渡されていることでもあり、意地でも修猷館や県立高女にパスさせて見せねばと決心いたしました。とにかく教師の熱意と努力さえあればできないはずはないと気負い込み、結局それでいつの間にか補習授業は全部私が背負い込むような形になってしまいました。
私はこのとき、補習授業を一般補習と特別補習の二段階に分けて実施しました。
まず一般補習について述べますと、これは放課後掃除が済むと進学希望者全員を集めて学校の教室で補習授業を始めます。時間割は
第一回目補習、午后三時-六時
夕食(持参の弁当)休憩
第二回目補習、午后七時-九時
一般の補習を受ける生徒はこれで終り、もうそのころは暗くなっているので提灯をとぼして家路につくというありさまです。
男女合同の補習クラスで、科目は主として数学、国語の二科目で特に数学に重点をおいて授業しました。私は数学が得意な教科でしたからいろいろと研究し、高等小学校の数学を種類別に分類して手の混んだ問題は図解するやら特別の解説を加えて指導したものですから、難かしい問題でもよく解けるようになりました。計算問題などは浴びせかけるように宿題を課して自習させ、よく出来た場合はほめるものですから皆どんどん成績が上がり、大体県立中学や県立高女にうかる程度に力もつきました。
特別補習の方は、生徒の父兄から特別の依頼を受けてそれ以上の補習をすることです。そのころ男生徒四名、女生徒四名くらいだったと思いますが、これらの生徒を私の下宿先の家有田村のさるお寺1に二間借りてそこに泊らせ、夜学のまた夜学を強行してどうでもこうでも合格できるまで鍛い上げるやり方です。
この特別に預っている男女八人の生徒は、学校の一般補習が終るとみんな宿であるお寺に引き揚げ、それからまた勉強に入るのです。たいてい夜中の十二時頃までやりましたが、どうかすると朝方鶏の鳴き声を聞き、うろたえて床につかせたこともありました。
このように激しい補習をいたしましたが、誰一人不平を言う者もなく、また父兄の方も預けた以上は私に一任で、その結果県立中学にも全員合格する好成績をおさめました。かくして草ケ江校との格差もなくなり、有田校は一躍有名になったのであります。
以上のように、補習時間は毎日一般補習生で五時間、私の下宿先に泊っている特別補習生は七時間と激しいものでしたが、校長は当たり前と考えておられて特別の手当もなし月給二十四円、それだけでございました。
父兄の方も昔のこととて呑気なもので、教師に謝礼など考えているようすもなく、私自身も謝礼や手当て目当てにやっているのでもありませんでした。浦江先生の期待の言葉に励まされ、教師としての意地からやっていることですから、生徒がみんな受験に合格さえしてくれればそれでよかったのです。三十歳から三十五、六歳の働き盛りのころとはいえ、自分ながらよく頑張ったものだと思っています。
この補習について、今一つ思い出話があります。ある冬の夜のことです。風が強く、雪は降るし、まことに寒い日でした。張りきっている私はその日も平常通り夜の補習を行なうと申し渡したところ、三、四人の男生徒が「先生、今晩は特別寒いので補習はやめにして帰らせてください」とのこと。私はムッとしましたので「よろしい。帰ってもよい。そのかわり修猷館に入学出来なくとも私は責任は負いませんよ」とつっぱねました。そのため、生徒たちは帰ることをやめて、元気よく夜七時からの補習にも参加しました。
ところが数学の解説の真っ最中、黒い覆面頭巾をかぶった男が廊下から声をかけるので、いまごろ誰だろうと外に出て見てびっくりしました。視学の浦江先生の巡視だったのです。宿直の男の先生は、寒いためか、早く床に入ってやすんでおられたので黙って入って来たとのことでした。
浦江先生は頭巾をぬぎながら「今日、原小学校の青年学級を視察に行ったら、寒いので皆勉強は中止して火にあたっておしゃべりしていた。今から壱岐小学校の青年団を視察に行くところだが、その途中立寄ってみたのです。有田高小の生徒はなかなか元気者ばかりじゃ。これでは県立中学に合格することうけあい。しっかり頑張り給え」と激励されて去られました。私も心中大いに感激するし、生徒の勉強も一段と熱が入ったようでした。
補習授業も一々手当てを貰わねばやらないという小遣銭とりのやり方では、実力はつかないと思います。補習を担当した以上、責任をもって是が非でも合格させてみせる。また合格させねば教師たるものの面目丸つぶれという意地と情熱が大切で、生徒愛よりほとばしる熱意が最後の栄冠を得るものだと私の体験からいえます。
私は個人的には弟の療養費を貢いでやらねばならず、当時の俸給二十四円のうちから二十二円五十銭を割き、私の手許にはわずか一円五十銭しか残りません。このころの二十四円は、女教員としては最高俸で、事情を知らない人は中村先生はさぞ貯金も多いことだろうといっていたそうです。 
教員の待遇激変
大正九年一月十六日付けで、私は福岡県三井郡松崎実業女学校教諭に転任を命ぜられ、家庭科主任として赴任いたしました。
この松崎実業女学校の校長先生は私の師範学校時代の同窓生山田かめさんの厳父だった関係で、ここでも可愛がられ、幸わせな教員生活を送ることができました。
このころのことで特に強く記憶に残っていることは、教員の待遇の激変であります。
大正三年に勃発した第一次世界大戦の影響で日本は好景気となり、ドルはどんどん流れ込み、会社、銀行等の好況は目ざましいものがありました。それにつれて、会社員、銀行員の給料もずんずん上がり、物価もこれに劣らず上がるというありさま。ところが、ここで一番困るのが月給の少ない小学校の教員です。
しかし、このころの教員は厳格な師範学校教育を受けているし、第一教師たる者が俸給の多寡を云々するとは教育者の風上にも置けぬと考えていた時代、つまり武士は喰わねど高楊子式の風潮の強い時代ですから、誰一人待遇云々という人もなく、ただ我慢して黙々と懸命に生徒のため、愛の教育に専念いたしておりました。
しかし、世の中はめくらばかりではありません。政府当局ならびに一般の世論も、学校の先生方の待遇を改善せねばということになり、大正七年ごろから九年ごろにかけて先生方の増俸が急ぎ実施されるようになりました。小学校、中学校の教員に年功加俸の制度が出来たのもこのときからと思います。私の手もとにある当時の辞令を拾って見ますと、次のようになります。
一、大正七年五月二十二日有田高等小学校訓導中村ハル 自今月俸二十九円
一、大正七年九月三十日有田高等小学校訓導中村ハル 自今年功加俸年額四十八円
一、大正九年十月一日松崎実業女学校教諭中村ハル 自今年功加俸年額六十円
一、大正九年十二月十五日松崎実業女学校教諭中村ハル 自今月俸八十二円
一、大正九年十二月十六日松崎実業女学校教諭中村ハル. 自今年功加俸年額百八円 
 
第二部 料理研究に燃やす執念 

 

弟、関次郎の死に誓う
明治四十二年十二月に弟関次郎が発病したことはさきに述べたとおりですが、家庭の都合と本人の希望で、その後、転地療養を続けさせました。療養先も、末弟専吉が住んでいた糸島郡波多江にしたり、あるいは、深江の方に移したりしました。もちろん、この間の療養費は私の負担でまかないました。ときには遠く別府の温泉治療にやるなど、とにかく本人の気の向くままにさせたのであります。
このころのことを、弟が私淑していた友人の安川第五郎先生が覚えておられて、後日話ですが「関ちゃんが別府の帰りに戸畑の自分のところに寄って、筑前琵琶を弾いて聞かせてくれたのが未だに耳に残っている」といわれたことがあります。発病して九年目ごろにはほとんど病気もなおり、身体の調子もよくなったのであります。
そこで、弟としては、沖縄の未開地に行って一事業を起こし、姉や私、そして末弟、父親に世話になった恩返しをせねばと、心に決めたのでありましょう。急に、沖縄に行きたいといい出したものです。私たちも気候が暖かく、それに土地を変えるのもかえって良いのではないだろうかと考えて同意いたしました。しかし、あとになって判ったことですが、これが大失敗だったのです。炎熱焼くが如き沖縄の気候は、肺結核にはかえって悪く、十年間も苦心して養生させたのがすべて水泡に帰し、再度病気が悪化したのであります。沖縄から電報が入ったときは、すでに病勢も極度に悪くなり、遂に大正十年四月、はるか遠く僻地の沖縄で不帰の客となつたのであります。十二年間、ただただ弟の恢復だけを祈り、青春を捧げてきた私です。気持ちの張りを一度に断たれ、自分を失い、何度か死場所を考えたこともありました。しかし、いやいや、ここで自分が死んだりしてはいよいよ一人の父に迷惑をかけると思い直しました。
いくら悔んでも、死んだ弟は帰って来るものではありません。また弟のためには十二分のことをしたつもりですし、これも運命と諦めて、強く生きる道を選ぼうと決心いたしました。
弟は私が転地療養先に療養費を持って、時たま訪れると、いつも涙を流して押し頂き、帰りには私の後姿を手を合わせて拝んでいたそうです。沖縄の地で病態が悪化し、死期が近まってから私に送った手紙の中に
「病床について十数年のながい間、母代りとして姉さんに本当に御世話になりました。この大恩は、たとえ死んでも忘れることはできません。不幸にして、私は先立つことになりますが、霊魂不滅を信じています。私の霊魂は必ず残って姉さんの生涯を守り抜き、せめてもの御恩報じをいたします」
と、いい残したのであります。このことも私を大いに力づけてくれました。
このころ、私は松崎実業女学校家庭科教諭をいたしておりましたが、本来が家庭科専門の道は通ってきていませんし、田舎の方にくすぶることも気が進みません。弟も遂に亡くなって、その点は身軽くなったといえます。年齢は既に三十六歳、いまさら結婚しても後妻におさまるのが関の山と考え、ここに生涯を教育の道に捧げる決心を新たにしました。
中央へ出る
松崎実業女学校には家庭科主任の教諭として迎えられたのですが、私の教員としての過去の経歴は、家庭科専門ではありません。何とかこの方面の勉強をせねばと、かねがね思ってはいましたが、田舎に引っ込んでいては、それも思うに任せない状態です。東京方面に出たいと思っていた矢先に、弟の死が一つの転機を作ってくれたのでした。一生を教育の道に捧げ、ひとつ優れた家庭科の教員たらんと志を立てました。
ちょうどそのころ、横浜市の教育課長が福岡師範卒業の児崎為槌先生で、そこの視学が私の付属小学校訓導時代に主事をしておられた中川直亮先生。おまけに横浜市の新設校岡野尋常高等小学校長には、元福岡師範付属小学校の訓導で、私が師範生時代教わった久芳龍造先生がいられるということを知りました。早速、中川直亮先生に事の委細と中央に出て勉強したい気持ちを書いて送りました。付属小学校訓導時代の私の努力や働き振りをよく御存じの中川先生は非常に喜ばれて、すぐにでも横浜市岡野尋常高等小学校訓導に採用したい旨の返事を寄越されたのであります。私も、こんな好都合なことはまたとない。これも亡くなった弟の霊の引き合わせかと喜び、松崎実業女学校長山田先生の許しを得て、単身神奈川県の方に赴任することにいたしました。
もちろん、父親や姉の保坂タミともよく相談してのことでしたが、このとき姉がいってくれました。「どうせ結婚など考えないで、好きな教育の道に一生を捧げる決心をしたのだから、それはそれで一つ頑張ってごらんなさい。その代りに、老後のかかり子として、私の四男久雄が少し利口そうだから、これを将来養子にやりましょう。」これで、私も後顧の憂いなく働かれるようになりました。このときの久雄君(当時四歳)が後日、私が私学の設立、経営に乗り出すようになったとき、事務局長として大いに私を助けてくれたのであります。
岡野校の”中村式移動水流し”
大正十年四月十六日付けで神奈川県へ出向の辞令を下付されました。月俸は一足飛びに九十円に上がりましたが、このころ小学校女教員でこれだけの高給取りは横浜市には私以外一人もいませんでした。田舎の福岡県から赴任早々最高の待遇を受けたわけですから、私自身も大いに感激し、責任を感ぜずにはいられません。大いに活躍して、福岡師範卒業生の名をけがさぬよう心に誓ったものです。
ところで岡野小学校の高等小学校の方の家庭科を担当したのですが、料理を教えようにも何一つ調理の設備はなし、困り果ててしまいました。設備がないからといってほうっておくわけにも参らず、ここで中村式移動水流しという面白い設備を工夫考案しました。校長の久芳先生に相談すると、それくらいの費用は出そうとのことで安心しました。
この移動式水流しというのは、調理をするときに一番大切な流しを移動式にし、足にピアノの車をつけて棚も作りつけ、上の段には洗った器具が置かれるようにし、また杓子などは吊られるように釣り金具をっけました。下の段にはスリ鉢やザル、砥石などを置くようにしました。流しそのものはトタンで内張りし、鍋や釜、茶碗などが洗われるようにしました。給水、排水にはすべてゴム製のホースをそれぞれ一本宛つけて、排水用のゴムホースは長目にして教室の外の庭に流されるよう考えました。給水用のゴムホースは直接水道管につながるようにしたのです。
この移動式水流しは平素廊下においていて、いざ料理の時間になると教室の中央に移動させ、そのまわりに生徒用机二個を突き合わせて一台の実習台にし、これをズラッと並べて実習室に早変りさせる仕組みであります。
実習のときに机が傷まないよう水はじきの良いカバーで机の天板を覆い、その上に爼や庖丁、その他の道具を置いて実習にかかるように考えました。ところが庖丁が一本もないのです。このころの東京、横浜ですら、高等小学校の家庭科では理論だけで、掃除の仕方や料理にしても、正式に実習などはなく、従って爼もなければ庖丁もないのが実状でした。
私の考えでは、家庭科のあり方として理論を説き、科学的な掃除の仕方や看護、衛生、調理の知識を持たせるのももちろん大切だけれど、それだけでは不充分で、更に一歩進めて、これらの実習をとおして、技術を体得させ、実習を通じて人創りをすすめるべきだとしていました。庖丁一本、爼一枚なしでは実習どころではありません。
そこで、当時教育界一流の校長といわれた久芳龍造先生に、このみじめな実状をじかに観ていただき、大いに応援してもらって、せめて姐と庖丁くらいは必要数揃えてもらいたいとの一念から、校長先生に、私が実地授業をやりますから是非参観願いたいと申し出ました。熱心な久芳先生は大いに喜ばれ、期待されて、いよいよその当日になったのです。
このときの模様がなかなか傑作でした。教室と言っても、普通教室の中央に、私の考案になる移動式水流し台を据え、排水、給水ができるようにホースをつないであります。実習台は生徒机二個で、一台のにわか造り。その上にカバーをかぶせ、爼(まな板)がないので代りに厚手のボール紙を爼の大きさに切って据えてあるというぐあい。庖丁は家庭から菜切庖丁を持って来ている者も居るし、都合のつかない者は止むなくナイフで間に合わせる者もいるといったありさまでした。さて、いよいよ大根や菜葉の切り方練習から始まりました。ところが、本式の爼でなくボール紙の上で切るものですから思うように切り刻まれません。なかには、もしや机に傷がついてはと、時々ボール紙爼を持ち上げては下をのぞき込む者もいる始末。
三十分間くらいは久芳先生も喜んで参観されておられましたが、このチグハグな実習風景に嫌気がさされたのか、授業の途中でさっさと引揚げて行かれました。私は、これは授業がまずかったのかな一と心配でなりません。やがて、授業を終えて、早速久芳先生のところに授業の批評をうかがいに行きました。ところが、先生は顔を真赤にし頭をおさえていらっしゃいます。
「どうも中村さんすまなかった。僕は男だもんで、家庭科の実習についての考えが足らなかつた。なるほど調理の実習には爼も要るし、庖丁も要る。あなたが考案した流し台と爼と庖丁、鍋、釜、コンロなどは、これら実習に欠かせない基礎の道具で、これらが揃ってないことには実習ができないことを、マザマザと見せつけられました。実は恥かしくなって、あの場に居たたまれず、ほうほうの体で逃げて来たようなしだいです。早速、実習道具を全部揃えるから遠慮なく申し出なさい。その上で父兄会の幹部の方々に相談して、とにかく揃えましょう」
私も嬉しくなって、直ちに必要な器具類を書き出しました。お陰で学校の方で全部揃えてもらう運びになりました。教師の一念岩をも通すというところです。
大正十年ごろの東京横浜あたりの家庭科の実習がこの程度では、まったく話になりません。
いわんや、地方の都市や農村はおして知るべしであります。
東京で料理修行
私が福岡を去って横浜市に出て来たのには、もう一つ大きな目的があってのことでした。
それは昼間は教員として学校の職に奉じ、夜間、日曜日、長期休暇には、東京や横浜にある日本料理、西洋料理、中華料理店の一流と目されるところの料理人から指導を受けたいという念願があったからです。実際に、夜間や、日曜日は京浜電車に乗って東京に出かけ、一流の料理長やコックさんについて親しく学びました。
名物料理の店と聞けばそこに入り込んでじかに学んだものですが、そのうちの数例をここに披露しておきましょう。
(1)西洋料理はまず一番に帝国ホテルに入り込みました。
今日では東京にも随分大きなホテルができておりますが、大正十年ごろではホテルといえば帝国ホテルが代表で、洋食は帝国ホテルといわれたものです。横浜で懇意にしていた石川女史に頼んで料理長に紹介してもらって、入り込むことができました。この方は腕もすぐれていましたが、また人物も立派な方です。コックさん方が料理を作っておるのを見せてもらっては、その料理長に質問をし、ノートしていきました。ソースの秘法は直接教えてはくれませんでしたが、それでもいろいろと見聞きして、ドゥミグラスソースやブラウンソース、トマトソースやマヨネーズソース等々と習得いたしました。
(2)中華料理は雅叙園で教わりました。
このころは雅叙園が新築店開きしたばかりで、建物は東洋一といわれるくらいでした。それにもまして、内部の装飾が、これまた素晴らしいものでした。絵なども一流の画家のものばかりで、まるで極楽浄土にでも遊んでいる気がしたものです。料理は北京料理と上海料理でしたので、両方とも勉強することができました。これら勉強したものは細大漏らさず記録したものです。
(3)日本料理はあちこちで教わりましたが、強く印象に残っているのは、両国橋のたもとにあった料亭中村です。
国会議員の宴会などよくあつていました。私が見た一番大仕掛かけの宴会は、国会が終了して大正天皇から鯛の下賜があったときのことです。このときの料理は、大阪でとれたスッポンの料理や大鯛の生作り、その他、珍しい料理ばかりで、これにお給仕はお裾引きの紋付、丸帯姿の芸者さんで、さすがに東京だな―と、その豪勢さに舌をまいたものです。このような大物をこなしきる調理の大家がいられる東京は、よい稽古場なのです。
そのほか、休日には、東京の料理店で味の良いところを食べ歩きしたり、腕の達者なところに入り込ませてもらい料理長や料理人の腕を盗み歩いたものです。盗み歩くというと、いかにも聞えは悪いのですが、鮨でも、天ぷらでも、何でも、東京一との評判をとっている店に入り込むことは、料理の研究を志す者にとっては非常に参考になることが多いのです。鮨ひとつにしても、一流の鮨屋の主人になると、幾十年もの間、鮨だけに熱中して苦労と工夫と研究を積んできておられます。これを見せてもらい、いろいろと指導を受けると、その道の名人の幾十年にわたる成果が一度に吸収できるわけでまことにもって好都合なのです。すまない気がいたしましたが、そのような要領で勉強しました。
(4)東京で一流のある鮨屋の例をあげてみましょう。浅草観音様近くにそのころ数十軒の鮨屋が並んでいましたが、そのうちの一軒だけはいつも満員盛況です。そこで私もその店に入って食べてみましたが、酢の加減、塩加減、甘味の加減、それに飯の炊き方、何ともいえない出来栄えです。
これは是非教えてもらいたいと決心し、店のご主人に会ってお願いしましたが、なかなかうんといって承知してくれません。大切なコツを盗まれては商売上ったりになりますとの返事。私はなおもねばっていいました。
「私は横浜のある高等小学校の先生で、決して鮨屋を始める者ではありません。家庭科の教育の参考にするに過ぎないのですから、是非お宅の鮨のつけ方を拝見させていただきたいのです」
と、少々の謝礼を出してお願いしました。ご主人もこれは感心な先生と思ってか、今度は気持ちよく許してくれ「それでは奥に入って鮨をつけているところを御覧になったらよいでしょう」といってくれました。私は飛び立つ思いで、「お許し下さいませ」と奥の調理場に駆け込みました。
まず御飯を高圧釜でふわふわと上手に炊いているのが目につきました。しかし、ここで最も感心させられたのは、鮨の調味料の加減と鮨のつけ方に工夫研究が積まれていることです。さすがに十五、六歳から五十幾歳まで三十五、六年間、鮨一途に凝って研究苦労したな一と感じ入りました。
ここで、その店の鮨のつけ方を披露しておきましょう。
(イ)まず合せ酢の調合
 米一升(九カップ)にっき
 米酢一合三勺(一・ニカップ)
 塩八匁(三〇瓦)
 砂糖二十匁(七五瓦)
 味の素少々
この分量は人により幾分の差はあっても構わないが
(ロ)一番大切なコツは釜からとり上げてすぐの温かいご飯の温度と、酢、塩、砂糖、味の素を鍋に入れて熱を加え、これがやっと溶け合ったときの温度が一致しなければいけない点です。
つまり、あついご飯に、それと同温度の合せ酢を一方から順々に振りかけながら、杓子で軽く混ぜ続けてつけ終り、大体合せ酢がよく混り合ったときに、急に上の方からうちわであおぎ下ろし急に冷やす。こうすると鮨の風味と飯粒の艶が出るところが、この店のコツでした。それに、この店では千客万来なものですから、人手をかりてうちわであおぐくらいでは間に合わず、天井に大うちわをつけてこれを電気仕掛けで動かす工夫も凝らしていました。
鮨は急に冷やすと飯粒が立つとか艶が出るとかいいますが、なるほどとうなずけます。その鮨を握りにしたり、押し鮨にしたり、盛りつけにすることはどの店でもやっていることで別段珍らしいことではありません。
私はよく中村式鮨として、学校や講習会で紹介してきましたが、そのつけ方はこの浅草の鮨屋の方式をとり入れており、鮨そのものとしては、いまひとつ神戸の八雲鮨を参考にしています。
ついでに、ここで記録に残しておきましょう。
(ハ)神戸の高級八雲鮨
この八雲鮨は東京鮨よりいっそうご飯がやわらかで、しかも飯粒が少しもこわれず、何ともいえない風味があります。これは上等の出し昆布の水だしを作り、この昆布だし汁でご飯を炊くからです。
そのだし汁の濃さは、およそ水十カップにつき昆布二十センチ(巾は普通)程度の長さのものを使います。最初に昆布の塩気をよく拭きとって、これをボールに入れ、この上から冷水十カップを強く打ちかける。そしてその後、水をすくっては昆布に打ちかけることを数回くり返し、それが終るとそのまま二十分間位放置しておく。すると、おいしい昆布のだしが水に出てくるわけです。このとき気をつけねぱならぬのは、昆布を余り長い時間水に浸しすぎると、いわゆる昆布が風邪をひいてヌルヌルが出てきて風味をこわすことです。二〇分くらいつけてヌルヌルがでない程度でボールから昆布を引き上げ、このだし汁を使ってご飯を炊くのです。
八雲鮨は角型に打ち込んで長方形に切って出すのですから、ご飯はかた目よりも少々やわらか目の方がよい。ただこのとき注意せねばならぬのは、合せ酢を混ぜるときご飯がやわらかいのでよほど慎重にやらないと、ご飯粒がくずれてしまって糊のようになり、こうなると食べられたものではありません。
この神戸の高級八雲鮨は、明石でとれた生鯛を三枚におろし、胸骨をとって酒の中に塩・砂糖・酢少々を合せた中につけこみます。この味つけした鯛を刺身型に切ってご飯の上にのせ、肴とご飯の間にワサビを少々入れて押し型で角型に押し出し、適宜長方形に切って、これを一人前宛皿に盛って出すのです。別に、何ひとつそえ物はつけない鯛鮨ですが、大阪風の具のゴテゴテした鮨とは違い上品で、天下の珍味といわれる鮨料理だと思います。
(5)新宿中村屋の印度式カレーライス。
いろいろと食べあるきして最もびっくりさせられ、また思い出の深いのは新宿駅の近くの中村屋というパン屋の特殊料理である純印度式カレーライスについてであります。俗にインデアンカレーライスといっていました。
ここのカレーライスは日本一だという評判ですから、料理研究を志していた私としては、何としてでもこのインデアンカレーライスの全貌をつかまねぱ腹の虫がおさまりません。ある日曜日の朝、この中村屋を訪づれて、まずパン屋の奥の間のカレーライスの店に入り注文いたしました。
普通、日本式のカレーライスはメリケン粉でドベリをつけている加減か、御飯の上にかけた姿を見ると、まるで猫のタバキ(吐き物)のかかった感じで、私なんか口をつける気持ちが起こりません。ところが、皆さんはこのタバキのようなカレー煮をスプーンで御飯にまぜてさもおいしそうに飯べておられます。
本式の印度式カレーライスは、そんなドベドべしたものではありません。
給仕人が持って来た中村屋のを見ますと、飯一人前と別にカレー煮の方は綺麗なカレー鉢に盛って盆の上に飯皿と並べておき、スプーン一本そえているのです。
なるほどな一と、第一番に感心しました。聞けば、カレーライスそのものは実は印度人の食べる雑炊だそうで、印度や南方方面の酷暑の地ではカレー粉を炊き込んで舌が切れるくらい辛味をつけて食べねば辛抱ができないところがら、印度や印度シナ方面ではこの料理が好まれているとのことです。
そこで、まずカレー煮の方を調べてみました。姿はドベドべしないでサラサラしていて、日本の吸物にちょっと粘り気のある程度。一口味わってびっくり、辛くて辛くて目の玉が飛び出るとはこのこと。いかな私も閉口しましたが、その辛味のなかにいうにいわれぬ旨味を含んでいます。
中の具を調べてみますと、(1)鶏の骨付き身二切れで、これはちょうど日本の水炊きのときの鶏肉くらいの大きさで、□に入れると簡単に身と骨がはぐれます。(2)大切りの馬鈴薯二切れ一これも形は大きいが、フワフワと煮えて口に入れるとすぐとろけるほど臼あとは玉葱五、六切れです。
汁の方は何かミジン切りみたいなものが少々混っているだけで、サラサラと黄褐色ですが、その辛味とうま味の配合は何ともいえません。
さすがに日本一といわれるほどのことはあると感服いたしました。
一人前食べ終っていろいろ考えました。このカレーライスの味は何からとった味だろうか?
まさか鶏肉や玉葱だけであれだけの味は出るものではない。私の探求心からこのままですむはずもなく、思い切って帳場に行き調理場の見学を願い出たのであります。ところが、キッパリと断わられました。
しかし、何としても諦め切れません。横浜に帰って、日夜このことを考えているうちに一計を考えついたのです。1それはこの中村屋が本来パン屋であるのにカレーライスを営業して天下に名をなしているのは、中村屋の一人娘の養子婿にビハリ・ボースという印度独立の志士がいるからであろう。このピハリ・.ボースならば、印度の独立運動に身を投じて英国の官憲の目を逃がれている身です。日本に上陸して以後、困っているときに、私と同じ郷里西新町出身の頭山満翁がかくまってやり、その後この中村屋に婿入りさせたと聞いている。よし、ここは一つ頭山満先生の御力添えを願おうと―――。
これはよいところに気がついたというわけで、早速頭山満先生の屋敷をたずねて行きました。カレーライスの話をして、その調理法を教わりたいので、是非調理場に入れるよう取り計らってくださいと訴えました。頭山先生も感銘されてか、それほど熱心ならば、郷土の後輩としてビハリ・ボースに頼んであげようといわれ、紹介状を書いてくださいました。ビハリ・ボースにとっては、頭山先生は命の恩人。おかげで一も二もなく、調理場に入ることを許可されたのです。
さて、調理場に入ってびっくり仰天。鶏の臓物といっても大腸、小腸が、山のように積んであるのです。そのころの日本では、肝臓とか砂ずりなどはともかく、その他の臓物は捨てていた時代です。それなのに腸の山積みを見せられたものですから、年若い私が肝をつぶすのも無理からぬこと。そこで、いったいこの腸はどうするんですかと尋ねて二度びっくり。この腸が中村屋のカレーの素ということで、腸のミジン切りがカレーのドベリのもとをなしていたのでした。
次にカレー粉が特別辛くて、しかも高尚な風味のあるのは何故かと質問しました。
「ここの店ではカレー粉は一種でなく、印度産のほかにシャム産、.フィリッピン産等々三種類も四種類も混用しています。そのほか、いろいろの香辛料を混合して、このように強い、良い香気と辛味を出しているんです」
ということで、それぞれ実物を見せていただきました。
つまり、カレー煮はスープとカレー粉、その他の香辛料とほどよいドベリに鶏の腸のミジン切りのカレーの素が主で、中の具はたいして大切なものでなく、何はおいても味と辛味、香気に重点を置いて調理すべきものと聞いて大いに啓蒙されました。
(6)中村式カレーライスの考案。
中村屋のカレーライスは汁があまりサラサラして澄し汁のようで、これでは日本人の好みにどうかな一と考えました。帝国ホテルのやり方を見学いたしましたところ、ここではドベリを出すのにメリケン粉は使わず、中華料理によく出てくる餡の考えを入れております。すなわち最後に片栗粉の水溶きしたものを流し込んで、艶とドベリを出す方式です。
私がよく言っている中村式(中村屋ではありません)のそれは、以上の中村屋のインデアンカレーライスを基本に、それに帝国ホテル式および私独自の考案を加味して作り上げたものです。
少しくだいていいますと、中村式というのは、中村屋のカレーライス方式を基として、これに玉葱、人参などの野菜の切り屑を鶏の腸にまぜてドベリとし、甘味には砂糖のかわりにトマトケチャップを少々使用したこと。また、ドベリには帝国ホテル式の片栗粉を用いる中華料理館の考えを入れたことなどであります。
御飯の炊き方も、白米だけにしないで美観を添えるため、グリンピースや小さく細の目に切った人参を入れるなど、見て美しく、食べておいしく、そして栄養の点を考えております。
およそ、料理の研究を志す者は、先輩の人々が研究し遺された美点を謙虚に学びとり、さらにこれに満足しないで自分でもなおそのうえに風味の上から、あるいは栄養の点から、さらに考案を重ねてより以上のものを創作していく心掛けが肝要と思います。
現に、わが中村料理学院で教えていますカレーライスは、印度人ビハリ・ボースの印度式カレーライスを基として、これに工夫、考案を加えて改良し風味の点でも日本人向きに、栄養的にも理想に近づけており、その苦心の結晶をみていただきたいと思います。 
感心した看護婦教育
この横浜在職期間は、未だ年齢も若く、家庭科教育についての研究意欲最も旺盛な時代でした。家庭科の範囲に含まれる分野の研究では、前に述べた料理のみに限らず、被服以外の住居、看護、衛生、育児、家庭経済について東京女高師、目白の日本女子大学校の夏期、冬期講習にはたいてい出席して受講し、先輩の諸先生方の研究の成果を勉強させていただきましたが、これらについては特に記録に残すほどのことはありません。ただ看護、衛生の勉強については、その後の私の教育のあり方に強い影響を与えたようですから、ここで記録に止めておきましよう。
病人の看護法は家庭科の教科の中の一単位をなすのですが、これは高等師範や女子大の講師の先生よりも、むしろ実地に看護婦さんについて勉強した方が良いのではないかと考えました。
そのころは、看護婦さんといえぱ、日本赤十字社の看護婦さんが教育も徹底し訓練も行き届いていると聞いていました。日露戦争後の影響もあってか、女性の一種のあこがれの対象にもなっていたのです。そういう関係で大正十一年八月、横浜市教育課長児崎為槌先生にその趣旨を話し、市教育課から紹介してもらい、二十日間の予定で、東京渋谷にある大日本赤十字病院に見習い看護婦となって入り込みました。
横浜からの通勤で、朝は七時に病院に入り、内科病人の看護の仕方、負傷者の手術のときの看護婦の仕事、縄帯の巻き方、傷の手当、産婦人科の看護の仕方、小児の病人の看護の仕方、しまいには伝染病の看護まで指導を受けることになりました。あまり親切に、これもあれもと仕込まれましたが、さすがに伝染病室だけはこわくなり、こちらからお断りしたいくらいでした。しかし、いったんお願いした以上逃げるわけにもいかず、チブス、赤痢患者の病室まで入り込んでの勉強でした。
伝染病棟に入るときは、あらかじめ、消毒された白衣に着かえたり、その他たいそうなことでしたが、係りの看護婦長さんがチャンと準備してくださっていましたので安心はしました。
この日赤病院で受けた看護法の訓練はその後大いに役立ちましたが、実はそのほかに教育上大いに参考になったことがあるのです。それは看護婦さん方がきわめて(1)礼儀正しく、(2)規律も厳正(3)態度が軍人のようにしっかりしている(4)しかも慈愛深く(5)動作がキビキビしている、ことでした。
服装も上品、軽快で、女性の私どもが見ていても惚れ惚れするいでたちですし、履物も上靴でゾロンコゾロンコでなく、コツコツと威勢よく歩いていました。それを見た私はこれはひとり日赤の看護婦さんに限らず、女子大生や女学校生徒の訓練や服装も、このようにしなければならないのではないかとしみじみ考えさせられました。
博多弁丸出し
この横浜時代で、私の一番のにが手は言葉づかいでした。なにさま早良郡西新町の生れで、昔から福岡独特の方言やなまりがある。現在のように標準語を使うよう小学校で指導もしていない時代ですから、福岡で三十六年間も育った私が中央に出たからといって、にわかに東京弁が使えるはずもありません。それに自分の生まれた郷土の言葉を簡単に捨てる気にもなれない頑固な私でした。
ところが、私が料理の方は深く研究しているものですから、視学の先生から婦人会への料理講習を仰せつかります。料理はうまいが、さて、言葉の方は「ドウスルケン、コウスルケン」「コウショルバッテンガ」「ナニシガッシャルトナ」「コゲンスルトバイ」「フテーガッテドウジャロカイ」「コゲナヨカコトハホカニナカバイ」云々と博多弁丸出しでやるので、婦人会の方々から「中村先生は料理はうまいが、言葉のわからないところがあって困る」との批判が出てきました。
視学の先生からも「中村さん、言葉を少し東京風に変えてくれんかね一。婦人会員から言葉がよくわからないところがあると、苦情が出ているんだよ」と忠告されました。けれど、とうとうこればかりはなおりませんでした。また、変えようともしなかったのです。
岡野高等小学校の生徒も、中村先生の言葉は鹿児島と同じでどうもよくわからないところがあるとこぼしていましたが、教授法がうまかったので授業は皆喜んで受けておりました。
これでも待遇の方は横浜市小学校女教員中最高級で、東京の木内きょう先生と私の二人が小学校女教員の日本における最高級待遇だったのです。
そのころは全国女教員会という組織ができていまして、毎年一回東京で大会を開催していました。この大会には、全国から研究熱心な優秀な女教員が参加し、それぞれ研究発表を行なったものです。この世話は帝国教育会が担当していましたが、その幹部の野口援太郎先生はよく世話の行き届く方でしたが、同郷の関係もあってかよく私を可愛がられ、いつの間にか私は全国女教員会の幹部級にまつり上げられました。
悲惨!関東大震災
大正十二年九月一日。その日は朝からサーツと吹き抜けるような風が強く、日中になるにつれて温度も上り、おまけに時たま雨もぱらつく無気味な天候でした。
朝のうちに二学期の始業式はすみ、生徒は全部帰宅しました。そのころ、私は文部省が行なっている中学校家庭科教員の検定試験を受けるため懸命の勉強をしていました。その勉強を、平素は二階の裁縫室でやっていたのですが、この日だけは、どうしたわけか中庭への出口に近い私の担任教室の入口のところに机を置いて始めていました。
お昼ごろだったと思います。雨がパラパラおちてきましたから、小使さんが私のところに来て「先生雨が降りそうになってきましたね。修理に出していた雨傘を、とって来ておきましょうか」と話しかけてきました。私も「それではお願いします…」といって、修理代をあげておこうと左側の本棚の上においていた財布を取ろうとしたときです。
その瞬間、万雷が一時におちたかのようなごう音とともに校舎がゆらゆらっと揺れました。
「先生っ、地震ですぞっ!!早く逃げなさい!!」小使さんはそう叫ぶなり、すっ飛んで行ってしまいました。
私も財布、時計は置いたまま、草履を片足につっかけて、無我夢中で中庭に飛び出しました。
しかし、こんどは地面が上下に動いていて、とても立ってはおれません。すぐ地面に平つくぱいになって見ているうちに、五十間(九十メートル)もある岡野尋常高等小学校の新築本館が、あっというまにべシャンコになってしまいました。
とみるまに、崩れた校舎の西側の端の方から火の手があがりました。そして、炎は折からの風にあおられて見る見るうちになめるような勢いで全体に拡がり始めたのです。「ここにいては危ない」と直感した私は、這うようにして中庭から逃げ出し、便所づたいに校外に走り出ました。
道という道には大きな亀裂が入っていて、危なくて思うように走れません。裂け目に足をとられぬよう気をつかいながら、神奈川県立女子師範学校の松林目がけて急ぎました。
命からがらやっとのことで女子師範学校にたどりついたら、消防隊がやって来て大声でどなりました。
「ここも危いから、向うの山の上にある私立神奈川女学校に避難せよ」
こうなっては指示通り動くのが一番と、皆と一緒に山の上の女学校に落ちのびて、やっと一息つくことができたのです。
人心地ついて横浜市を見下ろすと、家はもちろん川の水まで炎をあげて燃え盛っています。木造の家は全滅状態で、このとき初めて地震の恐ろしさを知りました。
消防隊はいましたけれども、このような大天災になると、自分の家がつぶれるやら家族のことが気にかかるやらで人事どころではなかったのでしょう。思うように消火作業もできなかったようです。
横浜市は一面焦熱地獄に変わっていました。火災も恐ろしかったが、それ以上に恐ろしかったのは人の心でした。よく地獄の様相といいますが、このような混乱が起こりますと、平素は紳士然としていても人間の皮をかぶった動物同然。まるで猛獣の姿になって恥も外聞もなく、食物を盗んだり、倒れた他人の家の中をあさって着物をとったり、金を盗んで知らぬ顔。まったく無警察状態の世の中を現出したのです。それにいろんな流言ひ語も飛びました。
やっとのことで命拾いした私は、山を下りて宿舎に帰って見ますと、崩れてはいますが焼けてはおりません。何とか雨露はしのげそうですが、食べ物がありません。ところが、ここに本当に嬉しいことで救われました。それは、岡野小学校の生徒に、学校の近くのいわゆる貧民街から通っている者がいました。家は貧しく、食うや食わずで、その生徒はもちろん身なりもよくありません。私は宿舎から学校に通勤するのに毎日そこを通っていたものですから、その生徒のお父さんも私のことを知っていたのでしょう。震災直後、私のところに見舞いに来ていってくれました。「中村先生は女の先生のことですから、米をかつぎ出すこともできず、食物がなくて困っておられるでしょう。実は、私たちは役所の指令で国の倉庫に入っていた米だけはとってもよいとのことでしたので、力にまかせてうんと取って来ております。これをひとつ分けてあげましょう」
米の量はわずかでしたが、このような無学の人が日頃の恩に感謝して申し出る行為の美しさ、嬉しさ。それに引きかえ、平素紳士然としていた人のあさましい行為ほどみにくいものはありません。
やがて、地方からの救援物資が送られて来たのか、横浜市役所からの達示に「大阪、神戸からの見舞品として玄米がたくさん届いたから配給します。受取りに来るように」とのこと。食糧不足で空腹に悩んでいた市民が、まさに早天に慈雨を得た思いで喜び勇んだのも当然です。
ところが、白米とは違い玄米飯は、よほど気ながに炊かないと御飯にはなりません。
市の役人方も震災後の世話で、日夜ぶっとおしの活動をしているので、私に「役人方へ玄米飯の炊出しをしてください」との依頼がありました。私も同じ市の教員ですから、断るわけにいかずこれを引受けることにしました。
朝食の準備は午前三時に起きて炊き始め、途中で水を追加すること二ないし三回。時間も二時間ないし三時間かけてゆっくり炊かねば玄米の飯にはなりませんので、ずいぶん苦労しました。
そのころ有名な栄養学者で玄米飯を奨励している方がありましたが、炊き上げる時間と燃料の消費、食べたあとの不消化、おいしくないなどの点から、やはり、米は外皮をはいで七分搗きとか半搗米にするのが理想だと思います。
震災直後といっても、あの恐ろしかった九月一日から数日たって、私は生徒二名をつれて横浜市内を見て歩きました。普通の瓦葺きの木造住宅のほとんどは崩れたり、焼けたりしています。鉄筋コンクリート造りの室町小学校と正金銀行は残っていました。そのほかトタン葺きの家がチラホラと残り、山手の方の家はかなり残っていました。水道は破壊されて水は出ません。井戸の水が唯一の頼りです。
道を歩いていると、そこここに人間の焼けた死骸や、馬や牛の焼死体が転がっていて、とても見るに見かねる悲惨な状態です。とくに目をおおわしめたのは、正金銀行の惨状です。この建物は横浜一の鉄筋の豪華なものでした。従って、ここに避難しておれば大丈夫ということで、男女市民数百人がこの建物に逃げ込んで来たのです。ところが、横浜市全体が火の海になってしまったので、正金の建物は焼けないが、まわりから押しよせて来る熱と炎のために窓硝子がやられて、炎が建物の中にまで吹き込んで来たのです。中に避難していた人はたまりません。逃げ出す場所がなく、全員焼死という事態になってしまったのです。しかも、焼けただれて顔かたちも分別できないほどになっていました。とにかく、市内を歩いて見たり聞いたりするものすべてが「悲惨」の一語に尽きる状況でした。
このような横浜に、九日間頑張っていましたが、学校が始まるわけではなし、私みたいなよそ者は、目的を失ってしまうと心細くなってきます。
そこで、視学の中川先生に頼んで、一応郷里の福岡に帰省させていただくよう願い出ました。
先生も気の毒に思われたのか、市当局に願い出で許可がおりました。
久し振りに故郷に帰る「だから晴着でも着て帰りたい」といったら、中川先生がおっしゃいました。「晴れ着でも着ていたら、それこそ大変だ。この震災で人の心はすさみ、荒れ狂っている。途中で着物をはがされ、殺されるかも知れない。大事をとって寝巻の単衣に草履をはき、頭に手拭いをかぶった乞食や避難民の姿でなくては危ない」
そこで、私の宿舎は崩れはしていても焼けばしませんでしたので荷物を整理して中川先生の家にあずけ、私は先生から教えられたとおり乞食姿になって、天井のない貨車に乗り込んで横浜駅を発ちました。
途中、名古屋駅で避難民として握り飯や茶菓などの接待を受けました。大阪、神戸、岡山、広島と汽車が駅にとまるごとに、握り飯や衣類の寄贈を受け、同胞の温かい厚情に感激しながら、まる二昼夜かかって、やっとなつかしい博多駅につきました。
”亡霊”故郷に帰る
横浜で九日間、風呂にも入らず、顔もろくに洗っていないうえに、無蓋貨車で二日間さらされてきたのです。おまけに、寝巻きに草履のいでたち。頭には手拭いをかぶっているのですから、誰が誰やら見わけがっかないのもあたり前です。駅のホームには婦人会の方々がたくさん出ておられて、佐賀や熊本方面に帰省する罹災者にいろいろと接待されています。ホームに降り立った私は婦人会の方々に「ただいま、横浜から帰りました」とあいさつしたのですが、一向取り合う風もなく、ただ「ああ一、そうな」だけ。
他県の人々には忙しそうに接待しているのに、全滅といわれた横浜から辛くも避難して来た私には「ああ一、そうな」だけとは情けないと腹が立ちました。けれど、我が家に帰れば手厚くしてくれるであろうと思い直して、ホームを通って改札の方に出たとたん、新聞社の記者の皆さんに見つけられました。
新聞記者はさすがに勘がよいのです。やつれた乞食姿の私が中村ハルと知って、五、六社の新聞記者が私をとり巻いて質問攻め。
「中村先生、ようこそ無事で帰って来られましたなー。横浜市は全滅と電報が入ったまま一人も帰って来る人もないので、やはり福岡県人は全滅かな一とあきらめていたんです。よかった、よかった」
それから根ほり葉ほり、福岡県出身の人々の消息をきかれます。
「中川直亮先生は?児崎為槌先生は?久芳龍造先生は…その他あれこれ」
「いま、おっしゃられた方は、だいたい命だけは助かっておられます。私だけ一足先に帰って来ました」
そして、私は横浜市で見たり聞いたりした震災の模様を逐一話ししてあげました。
「川に流れ込んだ石油に火がつき、川まで三日三晩燃え続けていました」
「瓦葺きの家は一ぺんでペシャンコになりましたが、トタン葺きの家はチラホラ残り、山手の方の家はだいたい残っているようです」
惨たんたる横浜の様子を説明したものですから、新聞社としては横浜の状況がよくわかったと大喜び。早速、翌朝の各新聞に
三日三晩川の水まで燃え続けた横浜市
中村ハル女史の帰省談
と発表したものです。
やっと新聞記者から解放されて我が家(といっても、父は大正十一年九月に病没していたので姉の保坂の家)にたどり着いたのが夕方のことです。「姉さん。私、今帰って来ましたよ」と声をかけると、じっと見ていた姉が裏口の方に逃げ出します。私の亡霊とでも思ったのでしょう。
私は姉を追いかけてなんども繰り返さなければなりませんでした。
「ちがう、ちがう。私は亡霊ではありません。ハルですよ。生きて帰って来たんですよ」
姉はまたじっと私の顔をしばらく見ていましたが、やっと本物とわかって「ハルしゃんな!!あんたは生きとったとな」というぐあいです。そしてつけ加えていうのです。
「今度の震災で横浜は全滅と新聞で知って心配になり、実は易者のところに行って占ないを立てたら、一人の易者は死んだといい、もう一人の易者は助かっているというもん。その後、何の音沙汰もなかけん、矢張り駄目だったかと諦めとったとこよ。ハルしゃんな可哀想なことをしたと悲しんどるとこに、姿を現わしたもんで、てっきり、これは亡霊が姿を見せたものと早合点した。すまんやった、すまんやった。それにしても、その格好じゃ思い違いするよ。まあ、何はともあれ座敷に上がってゆっくりしなさい」
それから、姉が喜んで、家中大騒ぎになりました。それというのも、私どもの実母は姉が十四歳、私が八歳のとき亡くなり、父も前年に亡くなっていました。
母亡きあとは姉が母代りとなり、姉が保坂家に嫁いでからも、何やかやと私の面倒を見てくれてきたのです。姉にしてみれば、一時は諦めていた妹がヒョッコリ現われたのですから、その喜びは大変なものだったと思います。早速、風呂を沸かして十二日間の垢を落しなさいと、姉自らが私の身体を洗ってくれました。
久し振りに風呂に入って垢をおとし、人心地ついた気持ちになりました。その晩は家族一同揃って、無事を喜ぶやら、震災の恐ろしい話をして時の経つのも忘れるくらいでした。寝に就くのが遅かったのと、旅の疲れ、横浜の苦労が一度に出て、翌朝はどうしても頭があがりません。午前八時ごろまでぐうぐう寝込んでしまいました。
ところが、姉が私をゆり起こして「お客様ですよ」とのこと。目はさましましたが、頭はあがらないので、布団の中から「お客様とは誰ですか」と聞いてみますと「いま、福岡市の婦人会の幹部の方々が二、三人みえているんですよ」という。
私は婦人会と聞いて、実はあまりよい気持ちはしない。昨日のあの駅のホームの冷淡な扱い方が頭に残っていて、むしょうに腹が立っていたからです。
私のみじめな姿を見て、暖かい取り扱いをしない婦人会。第一、避難民だから、そんなきれいな格好の出来ないことくらいはわかりそうなものをと思っていたから、気がすすみませんでした。しぶしぶ起きて、お会いしました。
「昨日はどうも失礼いたしてすみませんでした。中村先生がまさかお帰りとは夢にも知らず、誰だろうかくらいに扱ってすみません。そこで今一度御迎えをやり直しますので、面倒でも博多駅に戻っていただきたい」と、幹部の方が懇願されるのです。
何と馬鹿々々しいことをいい出したのだろう。福岡市の婦人会は、何と田舎くさいことをするのだろう。自分はいま、横浜で女教員の上席に位しているだけのものにすぎないのにと思っていましたが、姉がしきりに「ああまでいっておられるのですから、婦人会の方々の気のすむようにしてあげなさい」といいますので、仕方なく博多駅まで出向きました。そして、おかしくはありましたが、出迎えのやり直しをしていただきました。
聞くところによると、その日朝の新聞を見て、昨日の乞食姿が「さては中村先生」と気づいて、この騒ぎになったそうです。それにしても、考えてみるとまあ親切なことではあります。
さて、いったん郷里に帰って来たものの、丸焼けになった学校の跡始末や、生徒の授業などが気になり始めました。そこで、横浜が落付き次第、また学校に戻って、今後の計画を立てなくてはならないな一と思っているところに、横浜市役所の方から小学校児童の教科書を古本でよいから福岡県の方で、できるだけたくさん蒐集して、横浜の方に帰って来るようにとの連絡に接しました。私も、これは最も大事な仕事だと考え、すぐ福岡市役所を訪れ、市内各小学校で各学年にわたって教科書の古本を集め、横浜に送ってくださるようお願いしました。市教育課も喜んでこのことを引き受けると、約束されました。
続いて、八幡市役所、小倉市役所、門司市役所、それから久留米、大牟田市役所まで足をのばし、横浜市の尋常小学校、高等小学校あてに教科書の古本を多数御寄付くださいますよう、お願いして回った結果、予想以上の教科書が集まり、これを一纏めにして貨車で横浜に送りました。これらの教科書は全部、福岡県から横浜市への寄付として扱われました。
各市訪問の旅費などは、ちょうど私が手許に持っていた現金七十円ばかりが役に立ちました。
教科書集めの仕事が終るとともに、私はまた横浜の岡野高等小学校に帰任しましたが、そのころはまだ余震がときどきあり、東京、横浜はこわい都市だな一と思ったものです。
生命を守ってくれた弟の霊魂
関東大震災を体験して、いやというほど震災の恐ろしさを痛感いたしました。それと同時に、人間の運命の玄妙さと申しましょうか、因果応報とか、われわれがいっているが、これも実感として味わいました。端的にいえば、霊魂の不滅を信じるようになったのです。
考えれば考えるほど、この大震災で私が命拾いしたことが不思議でならないのです。
前にも述べましたように、私はこの年の夏休みを文部省が行なう教員検定試験を受けるための勉強にあて、それまではいつも二階の裁縫室に閉じこもって勉強していました。この九月一日は始業式がすんで生徒は皆帰り、学校に残っていたのは私と若い男子の先生方四、五人、そして小使いさんだけです。先生方は職員室で碁を打っておられました。私だけはいつもの通り二階の裁縫室に行って勉強を始めたのですが、暑くて暑くてしょうがないものですから、参考書を引っさげて一階の自分の担任の教室に移動しました。しかも、暑い暑いといって教室の入口に机を動かし、片足は廊下に突き出して勉強を始めたのです。そのうち、小使いさんがやつて来て、修理に出した雨傘のことをたのんでいるときにあのゆらゆらです。小使いさんの「先生地震ですぞっ”早く逃げなさい“」の叫びに、無我夢中で中庭に飛び出して腹這いになって見ているうちに、校舎はペシャンコに倒れてしまいました。この間、一分間くらいたっていたでしょうか。間もなく倒れた校舎の一隅から火が出て、あたり一面またたく間に火の海に包まれてしまったのでした。私は辛うじて山の手に逃げのびて命を全うしましたが、職員室に残っておられた四、五人の男子の先生方は行方不明と発表されました。おしい青年教師の方たちでしたが……。
それにしても、その曰いつものように二階の裁縫室で勉強していたら、とても逃げ出すひまもなく、あわれ校舎の下敷となり………と想像し、その日に限って一階のしかも中庭にすぐ飛び出せる所に移動していたことが、私の運命の岐れ目になったと考えるとき、何かそこに人間わざでなく神仏の加護を信ぜざるを得ません。
そこで思い当たるのは、弟関次郎が沖縄の地で死期をさとり、私に送った手紙のことであります。
「病床について十数年のながい間、母代りとして姉さんに本当にお世話になりました。この大恩は、たとえ死んでも忘れることはできません。不幸にじて、私は先立つことになりますが、霊魂不滅を信じています。私の霊魂は必ず残って、姉さんの生涯を守り抜き、せめてもの御恩報じをいたします」
人は、あるいは、それは迷信だとか、自分の勝手なひとりよがりだとか申すか知れませんが、私にとっては、正真弟の霊魂の加護としか考えられません。
それ以来、今日まで、何か事あるごとに、常に弟の霊魂が私を見守っていてくれているのだな一という信念を強く持たされること再々であります。今日、私がかくあるのは、私自身平素誠実にコツコツと努力を重ねた結果と、それにもまして、数多くの方々の善意による引立てと御協力の賜物であることは常々肝に銘じておりますが、それ以外にもう一つ何か事が難かしくなって、にっちもさっちも行かなくなるような難局に会うと、不思議と自然に運が拓けて来て、物事が順調に運びはじめる人間以上の何等かの力添えがあるのではないかと痛感されてなりません。このようなときいつも弟関次郎が言い遺した言葉の真実を忘れることができないのです。 
 
第三部 努力は涙とともに  

 

新しい世界を神戸に求めて
震災後一応横浜に帰り、以前と同じく岡野尋常高等小学校の教員として勤務しました。しかし、校舎はいつ建つか見通しがっかず、樹の下を借りたりしての勉強。先生方のなかには亡くなられた方も多く、とにかく授業も思うように手につきません。それでも、私が横浜市民なればどうでもこうでも学校が復興するまでがんばらねばならないところですが、もともと私が横浜に赴任して来た大きな目的の一つは、中央に出て料理と家事科の勉強を進めたいことにありましたから、この関東大震災は私の修業計画を大きく狂わせてしまいました。
といって、みすみす福岡に帰る気にもなれず困っていたときに、また新しい道が拓けて来たのです。
横浜市体育課に勤務されていた今井学治先生が、震災後、神戸市兵庫尋常高等小学校に校長として転任されました。今井先生は以前福岡県男子師範学校の体操の教諭をしていられた関係で、私ともじっ懇の間柄でした。この今井先生が神戸に着任されて、ときの神戸市教育課長横尾繁六先生に私のことを詳しく話されたとみえて、神戸市から赴任方の打診がありました。私自身としましても、すでに横浜在職三年以上にもなり、東京方面の名流料理だけはだいたい学んだことだし、今度は京都、大阪、神戸方面でさらに料理の勉強をしたいと念願していましたので、校長の久芳先生に事の次第を話し相談しました。久芳先生もこれを諒とされ、特別の計らいで、神戸市に赴任することが決定したのです。
このとき、横浜市教育課では震災後の困難な時期にも拘わらず、特別の扱いで月俸を百円に増俸してくれましたので、神戸市の方ではさらに一級増俸して月俸百十円で迎えてくださいました。
そのころ、小学校の女教員で月給百十円というのは東京にもなく、私は全国一の高給取りになったわけです。一般に、神戸市は外国貿易港で財政も豊かだったのでしょう、教師の待遇はよかったのです。それにしても、よほど今井学治先生の説明がよかったのではないかと想像されますし、また教育課長横尾先生の英断には感謝のほかありません。
こうして大正十四年四月一日、神戸市兵庫尋常高等小学校訓導として神戸に赴任、家庭科担任の教員として新しい活動に入りました。
この学校にちょうど一年間勤務しているうちに、教育課長横尾先生の新しい構想に基づき、神戸市に全国初めて男子高等小学校、女子高等小学校を尋常小学校と分離して設置することになり、男子の方は兵庫男子高等小学校、女子の方は明親女子高等小学校となり、私は明親女子高等小学校の方に配属されました。
独自の家事参考書を出版
明親女子高等小学校の初代校長は藤本先生といわれる方で、姫路師範学校の卒業です。女子の先生方は、家庭科裁縫に東京の渡辺裁縫学校や共立専門学校の卒業生の方がいましたが、あとでは皆共立専門学校卒業生だけになりました。食物の方は私がひとりで担当しました。私はそのほか、看護法、衛生、一般家事などをいま一人若い女の先生を助手につけて受け持ちました。
この神戸時代が、四十歳を少し越したくらいで一番よい年ごろだし、実際私の一生のうち教員としては最も充実感を味わった「花の季節」だったと思います。それらの思い出を記録に残しておきましょう。
この神戸時代も横浜のときと同様、夜や日曜日、長期休暇を利用して料理研究を続けました。
そのころ勉強の場所として指導していただいた個所は、洋食の部門では(1)神戸のオリエンタルホテル(2)京都ホテル(3)みやこホテルなどであります。
日本料理では(1)大阪の鶴屋、(2)京都松原の精進料理、(3)特殊の料理では祇園の芋棒等々でありますが、なかでも大阪の鶴屋には一番熱心に通ったものです。
中華料理は(1)神戸市南京町にあった有名中華料理店、(2)京都の広東料理店や中華鍋料理店等等で、横浜とはまた変わった趣向の料理研究ができました。
次に、私が教員としていささか誇り得る業績は、独自の家事科の教師用参考書を編さんし、刊行したことであります。
私の主義とする家事科の指導のあり方は、文部省編さんの教師用指導書を使っていてはうまくいきません。そこで独自の教師用参考書と生徒の学習帳を出版したのです。
教師用の参考書は「学校を生活の場所としたる家事教育」と題したB5版三一九頁のものでした。
そのころ高等小学校の家事科の指導は理論はよく組み込まれていましたが、家庭で実際に行なうことと、ピッタリ合ってないことが多いようでした。これでは何のための家事科かということになります。そこで、私としては学校における家事科での指導と、家庭における実際とがピッタリ合うように学校を一つの大きな家庭と見立て、家庭で実際やるように学校において掃除にしろ、整頓にしろ、看護法にしろ、家庭と思って常々作業をさせる方針をとりました。
これが家事科指導における私の主義主張であります。
従って、例えば授業で清潔整頓を教わったら、校舎内外の掃除も自分の家をきれいにするのと同じ気持ちで隅から隅まできれいに掃除をする。便所でも、教室でも、廊下でも、壁でも傷めないように丁寧に、しかもきれいにする。また洗濯法を教わったら、学校のカーテンでも宿直室のシーツでも、テーブルクロスでも何でも、汚れているものは自分の家庭のものと考えてきれいに洗濯しアイロンをかけるのです。
野菜も自給自足
食物の調理についても、自分の家庭でやっている考えで実習させる。野菜でも一から十まで店先の野菜を買わないですむ工夫をして、空地があったら耕して種子を蒔き、朝の味噌汁の具になるくらいの野菜は自分で栽培する習慣をつける必要があります。
この野菜栽培の知識は家事科教育の一環でもありますが、また女性として植物や野菜の栽培は趣味としても味のあるものだし、第一自分で野菜を作ってみると農家の苦労もわかってきて、野菜を粗末にしないようになり、家庭経済上非常に益することにもなるのです。
明親女子高等小学校における野菜栽培のことについては、ほほえましい思い出がありますので、もう少し書き綴りましょう。
私の家事科指導の趣旨から野菜栽培を是非実行しなければと思いたち、さっそく校長先生にお願いして運動場の片隅を拝借、つるはし、唐鍬を揃えてりっぱな畑に耕しました。最初は夏野菜から始めました。キュウリ・カボチャ・ナス・トマト・青菜などです。
肥料は今日のように化学肥料はあまりありませんので、もっぱら下肥を使うことにし、肥柄杓や肥桶の用意をしました。しかし、皆都会の生徒ばかりですから下肥など扱った者は一人もいません。教師たる私が率先垂範で下肥を汲み出し、野菜にかけて見せます。すると数人の生徒は、鼻をつまんで逃げ出してしまいました。私がわざといやな顔もしないで、どんどんかけて行きますとまた数人逃げ出すといったぐあいでした。
次の割烹の時間のまず最初に「先生が下肥をかけるのを見て、鼻をつまんで逃げ出した人には栽培した野菜は使わせませんよ。その代わりに店先にさらしてあるしなびた古い野菜を使ってもらう。先生と協力して野菜作りに精出した人には畑にできた新鮮なつやつやした野菜で実習してもらうことにするから、そのときになって不平を言っても知りませんよ」と約束しました。逃げ出した生徒も、これでいくらかこたえたらしい。だんだん日がたって、ナスに美しい実が下がり、トマトが可愛い実をつけ初めると、生徒は「まあかわいい」とか「美しい」とか喜びの声をあげて、畑に入ってきては、草をとったり、ついには野菜の手入れなどを手伝い始めました。
さて、いよいよ夏野菜を使う料理の時間が参りました。私は畑でとれたつやつやしたナスと、店から買って来たしなびたナスを並べて「野菜作りから逃げた人は、このしなびたナスを使いなさい。野菜作りを手伝った人は自分たちで作ったものを使ってよろしい」と材料を渡したものですから、野菜作りにそっぽを向いていた生徒もついに詫びを入れ、それからというものはわれもわれもと野菜作りに精を出し、下肥えも厭がらずかけるし、除草や耕し作業も進んでやるようになりました。これらの作業は放課後課外活動として私の指導の下にやるのです。
高等小学校の生徒はかわいいもので、教師の指導一つで良い方に向うものです。
校長の藤本先生も、畑を御覧になってびっくりなさいました。運動場の片隅のやせ地に、専門の農家でさえ顔負けするような野菜がりっぱに育っているのですから……。熱意ひとつで、こんなにもできるものかと感心しておられました。
このころは全国各地から明親女子高等小学校における家事教育の実状を参観に来られる方々が多かったのですが、その方々にこの野菜栽培の模様をお目にかけると、その出来栄えに皆感嘆されるのでした。
このことが県の学務課の方々の耳に入り、部長や課長がわざわざ見学に来られたことがあります。そして申されるに「県立の農学校は専門でありながら、野菜栽培というとすぐ温室、温室といってろくなものは作りきらん。明親女子高等小学校では素人の女生徒の手で運動場の片隅を耕している。みんなの熱意ひとつで、太陽の熱はこんなに見事な野菜を与えてくれる。
農学校は、まるでなつとらん」といわれて帰られました。おかげで、私も鼻を高くしたものです。
このような実績がだんだん評判になり、確かに神戸市における家事教育は実生活に即したやり方であるとのことで参観者は引きもきらず、私も神戸市の教育のため面目を施したつもりでおりました。
次に私がいろいろと考えたのは、家事科の教具のことであります。教具を整備するには、次の二通りの手段によるべきであると考えました。
1 公費で揃えてもらうもの
2 教師や先徒の創意と努力によって自主的に自分たちで揃えるもの
家事科のなかの衣・食・住・看護・衛生・育児・家庭経済の各部門のうち1の公費によるものは何か2の教師生徒が自分たちで揃えるのは何々がよいか、徹底的に研究分類して、たとえば教師や生徒の手に負えないミシン・アイロン・鍋・釜・コンロ・庖丁などは学校で揃えてもらう。しかし、その他の教師生徒の創意、工夫、収集努力によった方が第一勉強にもなるような標本や簡単な模型、資料等は自分たちで揃えることにしました。私は収集するのに特別強い趣味を持っていたものですから、教室いっぱいこれらの標本や模型を集めたものです。
神戸の鐘紡工場には綿糸、綿布の製作工程模型を作ってもらい、京都の西陣織工場を訪ねては実物標本を分けてもらい、大阪の淀川地区の各種工場を訪ねては家事に関する種々の標本を寄贈していただきました。淀川地区は随分広い地域に工場があちこちとありましたが、煙突目あてに足の悪い私が標本の集まるのを唯一の楽しみにして一日中よく歩いたものです。
地方で初めての全国女教員大会
小学校女教員会全国大会を神戸市で引受け、私はその運営責任者として大いに活躍しましたが、これも大きな思い出になっています。
神戸市の小学校女教員は二〇〇人ほどおられたかと思いますが、立派でそうそうたる先生が揃っていられました。そのなかで、私は最高の待遇を受け、赴任後一年半にして月俸二一〇円になりました。これは教頭に匹敵する待遇で、市教育課長横尾先生も大いに目をかけてくださったからでありましょう。そのようなことで、いつの間にか女教員の指導的立場に立たされ、ついに兵庫県女教員会会長に祭り上げられました。県女教員会議があるときはいつも議長をつとめねばなりませんが、割合いうまくやっていたとみえて、この会議の主宰振りを傍聴された市の課長さんから「中村先生の議長振りは県会の議長よりましだ」と冷やかされたことを覚えています。
このころ、教育界の組織されたものとして帝国教育会というのがありました。本部は東京です。小学校の男女教員はこの帝国教育会の研究発表会に全国から集まり、そこで研究の発表討論を行なうわけです。小学校女教員会はいつも東京で、しかも夏休みを利用して開催されていました。私が神戸に赴任してからは、兵庫県下の若いそうそうたる女子教員に研究課題を出し、神戸市でその発表会を持ち、なかで最も優秀と認められた先生二十人ばかりを選んで私が引率、中央の全国女教員会に出席するのです。研究発表では、東京対裡尺横浜対神一尺大阪対神戸といったような組み合わせで研究討論を重ねました。神戸はなかなか重きをなしていたのであります。
昭和三年の小学校全国女教員会のときだったと思います。それまでこの大会は東京開催が慣例になっていましたが、地方開催もときには変化があってよくはないかとの意見が出され、大阪はどうだろうとの提案がなされました。ところが大阪の代表の方から、来年の大会は請け合いかねますと断わられましたので、私は決断してそれでは神戸が引き受けましょうと約束しました。
全国大会を地方で開催することは大変なことです。神戸市の面子もあることですので、つまらぬ大会にしてはなりません。さっそく市女教員の幹部七、八人を選んで、幾回となく会合を重ね、どのように準備を進めたらよいかを研究しました。
まず第一番に資金を用意しなければと、東京、大阪方面の資産家、実業家の別荘地須磨、明石、舞子の浜に手分けしておもむき、寄付金を集めてまわりました。
教育課長の横尾先生も、地方で開催される第一回目の大会が神戸市で行なわれるということで「これはぐずぐずしてはおれない。東京や大阪をアッといわせるくらいにやろうではないか」と大張り切りで、私たちもおかげで活気づきました。
大会では、帝国教育会から理事の野口先生が出席され、帝国教育会からの出題、各県からの協議題について活発な討論、討議が行なわれました。
また現場の研究授業も見てもらおうと、神戸市内の三、四校を指定、そうそうたる女の先生の実地授業を行ない、それの批評会も持ちました。
大会後の懇親会もなかなか豪華なものでした。第一に神戸市長から宝来丸という船を出してもらって大阪湾を遊覧、船上で市長招待のお茶の会を催す趣向です。二番目は私どもが集めた寄付金で全員を宝塚の歌劇に招待しました。そのほか、神戸港、造船所の見学、宿舎の手配など至れり尽くせりのもてなしをしましたので、全国の小学校の幹部の女教員の方々も大いに満足されるし、同時に兵庫県女教員会、神戸市女教員会の名声も大いに上がったのであります。
それとともに、今度は神戸市家庭科研究部編集の「学校を生活の場所としたる家事教育」はとたんに教育界の脚光を浴び、中央の帝国教育会の方で出版の世話まで引き受けようということになりました。
この参考書の編集は神戸市家庭科研究部となっていますが、もともとは明親女子高等小学校における私の家事教育の実情を著書にしたものです。これと生徒が用いる学習帳は各地から注文が殺到するようになりました。その範囲も関西を中心にして、東は名古屋方面から、西は広島、岡山方面にまで及びました。
文部省の指導書があるのに、これだけの広範囲にわたり私が責任を持って出版した教師用参考書、生徒用学習帳が採用されたことはまことにうれしい限りでした。このため私は関西一円、四国、中国と家庭科講師として随分招かれたりしました。
すっかり上がったホテルの食事
神戸時代、私が女性なるがゆえに笑うに笑えない、自分で苦笑するような思い出があります。昭和四年十月一日付けで、私は兵庫県視学委員を拝命したのです。視学委員になって初めて私は県の学務部長や課長さん、それに姫路師範や御影師範学校長さんらといっしょに県下家庭科の指導視察に回りました。女性は私のほかにもう一人だけです。
さて、視察がひと通り済んで、神戸市のオリエンタルホテルで慰労会が持たれました。そのとき私は四十五歳でしたが、世間なれしないうぶなところもあったのです。宴会が始まり、オードヴル、スープと順序に従って料理が出ましたが、男性の偉い方々がずらりと並んでおられるなかに、女性はたった二人。恥ずかしくて恥ずかしくて食べる気持になれず、もじもじしているうち、料理はかってに出されてはさっさと引かれて行きます。オードヴルが引かれる。スープも口をつけないうちに引かれる。魚・肉皿もナイフ、フォークをちょっとつけただけで下げられる。この間、男性の方々はおいしそうにパクパク食べておられるのがうらやましくてしょうがない。とうとう最後のデザート、コーヒーになってしまいました。
これで宴会はすんで解散。男性の方々は、さも満ち足りたように陽気に帰られる、ホテルから出て二人になってからの話がおもしろい。
「あなたひもじくないですか」
「ええ、おなかがすいてたまらない。このままではとても、今晩眠れそうにない」
「では、近くのうどん屋にでも寄って食べて帰りましょうか」
かくて話は決まり、うどん屋で素うどん一杯食べて、おなかをふとめて帰ったことがあります。
兵庫県の視学委員・家庭科の指導員ともあろう者が、洋式宴会の席上で料理によく手をつけきらないで、もじもじして上品ぶっていたそのころの私の心根がかわいくもあるし、やぼったくもあるし、おかしく思われてしょうがありません。
今から考えると、そのころの女性は、男性の前では一厘の値うちもないくらい弱い存在だったのでしょう。いま時の若い女性は男性の前でも堂々と振舞えるのでしょうが、昔の女性はだいたいこんなところだったかも知れません。
神戸における活躍振りが教育界で高く評価されたらしく、一時私を小学校長にしたらという話が視学さん方のなかで出たそうです。教育課長の横尾先生からも、あるときその話が出ました。
「もしそうなったら教員組織が大切だから、どんな教員を揃えたらよいかそろそろ心組みをしておくように、また校長となる場合の教育方針等考えて心構えを作っておくように」ということでした。ところがそのころ兵庫県では姫路師範の卒業生でいて教頭止まりでなかなか校長に昇進出来ない先生方が多く、この方面から女の校長に反対する声が上がって、このことは実現しないまま、やむを得ない事情のため郷里福岡にどうしても帰らなければならないことになりました。 
郷里福岡へ帰る
私が四十七歳(数え年)で再び郷里福岡に帰って来るようになったことについては、私立九州高等女学校の創立者であった釜瀬新平初代校長の病死が大きく左右しております。釜瀬新平先生は前に述べたように地理の大家で、私が福岡師範学校生徒時代に親しく指導を受けた恩師です。
この因縁の深い釜瀬先生が亡くなられる一年前、ひょっこり明親高等小学校に参観に来られました。私の活動状況を知られてたいへん喜ばれて申されるには「これは相談だが、中村さん。ひとつ我が九州高等女学校に来て家庭科の指導を担当してくれんか」とのことです。私は九州高等女学校とはどんな学校か、そのころはまったく知りませんので、はっきりした返事も出来ず「私もいつまでも神戸にいるつもりはありません。いずれは故郷の福岡に帰らねばならぬと考えています。その節は御校に御世話になることと思います。よろしくお願いします」と申しあげておきました。.このとき釜瀬先生は上京の途中神戸に立ち寄られたの.ですが、時間の余裕もあるようでしたので神戸牛の専門店みつわに御招待しました。先生も御満悦の様子で、牛肉の料理やスキヤキをつついておられました。夜行の神戸発で東京に発たれましたが、私は駅まで見送りに行きました。これが先生との最後のお別れになったのです。
その後、お礼状も来ねば何の音沙汰もありません。福岡に帰郷したついでに先生を尋ぬて行ってみますと、東京で発病されて帰宅されたまま御重病で回復もむずかしかろうとのこと。人間の因縁とはまことに異なもので、神戸で御会いしたのが不思議な縁だったなあと悲しく思われてなりませんでした。
その後間もなく、釜瀬先生が亡くなられたとの知らせに接しましたが、学校の都合で暇がとれず弔電を打ってはるか神戸の地から先生の御めい福を祈ったのであります。
この釜瀬先生が亡くなられたころは世の中一般が不景気のどん底にあえいでいる時代で、私立学校に入学して来る生徒も少なく、福岡県下の私立学校はどこも一様に苦労していたと聞いております。そこへもってきて、創立者である初代校長がなくなられるという二重の苦難に見舞われた九州高等女学校の窮状はどんなだったか大体の想像はっきます。
これを見かねて、釜瀬先生と親友の間柄であった安河内健児先生が福岡県視学の地位を退いてこの学校の態勢を立て直すべく二代目校長として就任なさる決心をされたとのことであります。
県視学といえば、当時教育界の目付役的存在で、私がかつて福岡県で小学校教員をしていた時代、県視学の安河内先生は切れ者のそうそうたる方であると聞いていました。その安河内先生が、釜瀬先生のあとにすわられるのですから、並々の覚悟ではなかったことがうかがわれます。
安河内先生は教員組織を新しく強化することを重視され、国語科には誰々、数学科には某々、地歴科は何先生との構想を持たれ、家庭科主任として私に是非就任してくれとのお頼みです。釜瀬先生との約束もあり、いずれは九州高女に御世話になる覚悟はしていたものの、そのころは神戸で最もはなやかに活躍している最中で未練もあり、そうたやすく神戸を離れたくもありません。しかも、昭和五年の六月には増俸して一挙に百六十円の月俸になることになっていました。それでしばらく待って下さいと再三、お断わりしたのですが、安河内先生の腹づもりでは、四月始めに一新した教員を勢揃いさせたい意向らしく、一向にこちらの言い分を聞いて下さる風もなく、電報を続けざまに打たれての矢の催促です。私の将来の都合、具体的にいえば恩給にしても六月以降に神戸を辞めればぐっと違ってくるのですが、恩になった方のことで無下にも断わられず、とうとう腹をきめて神戸市教育課に願い出て退職することにしました。
ここに、神戸市明親高等小学校訓導を最後に、明治三十五年四月以降二十八年間にわたる公立学校教員生活に別れを告げ、以後私立学校に関係するようになったのであります。そのときの辞令
昭和五年四月二十二日
小学校施行規則第百二十六条第二号後段により退職を命ず
この辞令をいただいて、最もはなやかな思い出の残る神戸をあとにし、寂しく九州高等女学校に赴任したのであります。
九州高女再建に努力
実をいうと、私が九州高等女学校への赴任の話が起こるまで、この学校があることさえ知らなかったのです。福岡の出身で、しかも母校の福岡師範のそばにありながらどうして九州高女を知らなかったのでしょうか。昔はそれほど私立学校を問題にしていなかったことがわかります。さて、九州高女に着任して校舎内を見てまわってがっかりしました。以前おりました神戸の明新高等小学校は高等小学校とはいえ、鉄筋コンクリートの堂々たるもの。特に、家事科の設備に至っては私が思うように設備をしてもらっています。調理室の実習台も至れり尽くせり。
ことに洗濯実習室では、洗濯槽は皆コンクリートで作り、部屋の一隅に湯沸器をおいてコック一つひねればガスに火がついて湯が出る仕掛け、洗濯のときは湯でも水でもコックを回せば自由自在に出るようになっていました。もっとも、この設備をするときは市の横尾課長が「中村先生はとんでもない理想的な設備を申し出られるので、金がかかって困る」とこぼしておられたとは聞いていましたが。………もっとも、後には神戸市の家事教育の進んでいることが世間に拡がり、毎日のように参観者があるようになると、横尾先生も自慢の種で悪い気はしていなかったようでした。
話が少し横道にそれましたが、そのような学校で家事教育の指導に当たってきているものですからがっかりするのも当然です。割烹室は板張りが古くなって所々床が落ちそうなところもある実習台は、木造トタン張りはよいとしてさびだらけ。廊下の天井を見上げると、松の丸太がそのまま見るのでちょうど農家の倉庫の感じ。私はこれはしまった。もう少しよく調べておけばよかったと思ったが、後の祭り。胸の中には何となく釈然としないわだかまりが残ってはいましたが、いまさら愚痴をいっても始まらないし、第一大人気ないと一通り校舎を見まわって帰ってきました。安河内校長先生は待ちかまえていたように「中村さん、今日は釜瀬新平氏の御霊前にお参りしましよう。そして、あなたの待遇も決めておきましょう」とのこと。
待遇のことも安河内先生のことではあるし、つまらぬことはなさるまいと安心してそんなことにはまったくふれることなく、矢の催促の電報にせき立てられて赴任した私でした。
釜瀬先生の自宅に案内されて、釜瀬先生未亡人と私と安河内先生と三人だけで仏前に合掌しました。お茶を頂いていると、安河内先生が話しかけてこられました。
「中村さんは、神戸では月給百十円、百二十円-今回は百四十五円になっていたそうだが…。この九州高女は私立学校の一番苦しい時期、おまけに校長先生まで亡くなられてとても困っている。借金が十万円ばかり、これを返すのにも十年はかかる。生徒の入学も減ってきてどうしょうかと思っているくらいだから、百四十五円なんかとても出せません。………まあ、八十円に値下げして頂かねばならないでしょう。昔からおられるほかの先生方の俸給も皆値下げしているのですから、八十円で辛抱してくれませんか」
値下げも一級か二級くらいなら世間には例もありますが、百四十五円から一挙に八十円とはひどい話です。そこで、私もはっきりいいました。
「待遇の件は先生のことですからお任せして安心して赴任しましたが、八十円とは人が聞いたら笑いますよ。そんなに財政が苦しいんでしたら、無理はいいません。せめて百円ぐらいでしたら辛抱しましょう」
「人には百円といっておいてよいじゃないですか。今の状況では八十円…」しばらく黙って算盤をはじいておられましたが、先生は思い切ったように、「それでは八十五円にしておこう」と大きな声でいわれました。
私も気の毒になってそれ以上無理をいう元気もなく、それでは八十五円で辛抱してがんばりましょうと約束したのです。
月給の方はこんな調子でしたが、教員としての席次は上の方で家庭科の主任につけられました。安河内先生は私が以前福岡県内で教員をしていた時代に御世話になった方で、その先生が何とか釜瀬校長亡きあとの九州高女を隆盛に導こうと腐心されている姿を見て、私も待遇などにこだわらず全力をあげて教育に専念、この九州高女の名声を高めるよう損得を度外視して働き続けました。
こうして五年たったある日、校長室に呼ばれました。一体何の用事だろうかと伺いますと
「中村さん、五年間一銭も増俸しなかったので、あなたも寂しかったろう。今日は久し振りに増俸してあげます」とおっしゃって五円増加、これで月給九十円になったわけです。
このころの九州高女の入学募集については、いろいろと思い出があります。
だんだんと九州高女にもなれ、私立学校の事情などもわかってきて疑問に思ったのは、
「どうして九州高女には生徒の集まりが悪いんだろう。あの偉い釜瀬先生の経営にしてはあまりにみじめな状況だが……」
私が赴任してしばらくたってあちこちに生徒募集に回りました。最初、近くの当仁小学校に行って校長の伊藤先生に会いました。この方は、私が以前男子師範付属小学の訓導時代に知り合いになった方。生徒募集に参った挨拶をしますと、先生がいわれるのに「中村さん、すまないが九州高女希望の者はたった二人しかいない。しかも成績が悪くて困っている」とのこと。
これで私もがっかりして、いろいろ考えさせられました。近くの当仁小学校の父兄が九州高女をきらうのには、何か以前九州高女のやり方にまずい点でもあったのではなかろうか?
とにかく、成績の良い者は女子の場合、まず県立高女(現中央高校)に行くのはまあやむを得ないとして、第二は私立筑紫高女に行きます。同じ私立でも、筑紫の方はなかなか評判がよいのです。
「どうしてこんなに違うのだろうか?」
私はやっきになって生徒募集に回りました。
「私立は生徒をたくさん入れねば経営はうまくいかないんだから」と自分にいい聞かせて…。横浜や神戸では女教員として日本一の待遇まで受けた私でも、時世が変ればいたし方ありません。そこで自分の金を出して菓子箱を買い、夜分小学校の女の先生宅を訪問し、おなさけの先徒を一人でも二人でも九州女学校に送って下さるようコトコト歩き回って頼んだものです。
博多の冷泉小学校を訪問したときのことです。入試組担任の先生が入れ替り立ち替り会って下さいました。例の通り、是非多数の生徒を九州高女に送って下さいと頼みましたところ、男子の先生は皆「九州高女には希望者は一人もありません」との返事。たった一人、最後にお会いした若い女の先生が「私のクラスに一人おりますが、この生徒でよかったら送りましょう」とのこと。そこでその子の成績を見せてもらってびっくりしました。成績がビリなんです。私は神戸時代はなやかな教員生活を送ってきたものですから、侮辱されたと思いムッとして「いくらなんでもこんな生徒は入れられません」と奮然として断わってしまいました。後日、このことが問題になったのです。山田先生といわれ、早くから九州高女に勤めておられた先生が、私のあとその小学校に生徒募集に行かれたところ「先日、中村先生が来られてそんな成績の悪い子は我が九州高女にもいりませんとけられましたので、九州に行く生徒は一人もいませんよ」との返事があったということが会議の席上問題にされたのです。
「劣等生だろうが何だろうが、何でも入れないと入学者が足らんじゃないか」と、さんざん文句をいわれ、私はもう情けなくてくやし涙が出ました。
またしても、私の頭の中に疑問がかすめるのであります。この九州高女にしても、創立の歴史からいえば、私立筑紫とそう違わないのにどうしてこんなみじめな状態なのだろうか。
こんな学校とは知らないで赴任したことが、急に悲しくなりました。こんなに九州高女の評判が悪いのは一体どこに原因があるのかを知るため、春吉小学校や警固小学校を尋ねて行きました。春吉には宮原校長、警固には奥園校長がおられたからです。両先生とも私が付属小学校訓導時代の同僚で気やすい方でした。両先生とも同じように
一、九州高女は非常に寄付金が多く、何かといえばすぐ寄付金募集がある。
二、小学校の若い先生を呼んで飲ませ食わせして生徒募集をやっている。
「こんな学校には私共が預っている大切な生徒は送られません。しかし、安河内校長が後継され、あなたや男子の優秀な先生方が赴任されたそうだから、これからは生徒も送りますよ。中村さん、しっかりがんばんなさい」とあとでは激励を受けました。
やはり教育というものは物質金銭をはなれ、誠心誠意生徒に対して愛の教育を行なわねば学校は発展するものでないことをつくづく感じさせられると同時に、
(一)私立学校の通弊である寄付金募集はいけない。
(二)本当に教育のため全心全霊を打ち込んで活躍するりっぱな教師をそろえ、充実した教員組織を作ること。
が如何に私立学校経営上大切なことであるかをいやというほど知らされました。
庭球部監督に
学校内の態勢もおいおい整い、安河内校長を中心として地歴、数学、美術、家庭科とおもだった幹部の先生方が一致団結して校内の空気刷新を図ったものですから、釜瀬校長時代重用されていた大酒飲みの有能な先生もそのために他に転職せざるを得ないはめになった方もありました。
この衰微した九州高女を振興し、発展させるために、具体的方針として次の二つのことがとり上げられました。
その一は補習教育を強化して学力をつけ、女子師範や福岡女専などへの入学率を高めること。
その二はどうせ学力は県立に劣るのだから体育を盛んにして、競技の面で優勝をかちとり気勢をあげることであります。
補習教育の方は元気はつらつたる山田先生が責任を持たれ、自から進学組の学級主任を担当されて大いに鍛われましたので、女子師範への入学率もぐんと上がり、福岡女専にも堂々と多数入学できるようになりました。県立高女や私立筑紫と肩を並べるようになったのも、あまり年数の経たないうちにでした。
運動競技については、もう少し詳しく述べておきましょう。
運動競技の方も、山田先生統括のもとバレー部は体育科の堀井先生、バスケットが緒方(女)先生、そして庭球部は専門でもないのに家庭科の私が監督につけられました。
これら運動の選手は全員私が担任をしている家庭科クラスに入れて預り、平素からきびしい規律に服するようにし、また倒れて後やむ気慨を養成するよう鼓舞するとともに、体力が衰えないよう食べ物にも気をつけたものであります。
バレー部には熱心な父兄の応援者的野さんといわれる方がおられたのを覚えていますが、何しろ監督の堀井先生が中心になって鍛われるものですから、めきめき強くなり、地元の強敵私立筑紫を破って県代表で明治神宮に出場すること数回、ついには全国優勝をなしとげて福岡県に九州高女ありとその名声をとどろかせたのであります。
庭球の方は、外部からコーチを二人ほどつけて私が監督です。練習のときは放課後にしろ、日曜、祭日、休暇中にしろ、頭に手拭いをかぶった私が審判台に上がってのそれこそ監督です。
猛練習の甲斐あって力もグングンつき、ある年は地方予選で八女津、糸島高女、福岡県立高女を破って優勝し、福岡県代表として明治神宮全国大会に出場しました。このときは二回戦で尾張高女と対戦、惜しくも敗れました。
ここで考えられることは、庭球にはズブの素人の私が監督をしてここまでよくまあ伸びたということです。
運動競技にしろ、何にしろ、指導者の熱意ひとつでは専門家以上の成績をあげるものです。要はその衝に当る人の熱意と迫力、努力と頭脳にあると思います。特に運動競技のような技術だけではなく、精神力を必要とするものにおいては、生徒の精神的訓練をなし得るような教師でなければ永久に優勝の栄冠はかち得ないことを痛感する次第であります。
運動の方もさることながら、九州高女に赴任して二年目、すなわち昭和七年には私の家事科教育の集録として神戸時代に引続き二冊目の著書として「郷土に立脚したる家事科の施設及指導の実際」二五〇頁を出版しました。
大成功収めたバザー
九州高女時代にまつわる思い出はたくさんありますがそのうち二、三について残しておきましよう。
先ず最初はバザーについてであります。
この九州高女のバザーは他の女学校のどれよりもすぐれ、私の自慢の一つでした。
よその女学校のバザーを見ておりますと、汁粉、すしや、おでんにしろ専門の業者を呼んで来てこれに作らせ、学校ではこれをただ来客に売っていくらかの利益を得る程度のことですが、これは本当のバザーではなく、また教育的とはいえません。
本当のバザーは、生徒が平素学習し、実習し、会得した成果の中から品目を選んで、材料注文、製作販売、来客への接待一切を行なうところにあると思います。従ってその計画、準備は綿密に、周到に進められなくてはなりません。ここに私がやってきたバザーの例をあげることにします。
1.バザーに必要な製作部門、バザー券の売り捌き部門、来客への接待部門、食器の返納洗浄部門ごとに係を置き、生徒を各係ごとに割当て配置する。たとえば、誰と誰と誰は製作係、また誰と誰はバザー券係というように。
2.バザーで最も主役になる製作係は、そのなかでまた各品目別に班に編成、生徒の分担を定める。たとえば、汁粉班は誰と誰とかいうように。そして、各班ごとに主任の先生を一人ずつつける。
3.材料注文は製作係各班で行なう。バザー券の売れた数は各品目ごとに大体事前に把握されるので、その材料数量をはじき出し、各班で食料品店に注文する。たとえば、汁粉班では二千人分作らねばならぬとすれば、砂糖何十キロ、小豆何百キロとか。
4.製作係の各品目ごとの班では、製作する場所に必要な道具、器具をあらかじめ手配しておく。
5.当日のバザー券の即売、来客への接待、食器の返納、洗浄の仕方については事前によく訓練しておく。
以上を前もって充分習熟させておけば、生徒は自信を持っておもしろくやるし、バザーの運営もうまくいくはずです。
私は料理専門の教師ですから、当日は監督采配の方は他の女の先生に依頼して、私自身、助手と適当数の生徒をとっておき、一番難かしい鮨とカレーライスの製作担当に当たったものです。
鮨の方では調理室のそばの屋外に大型テントを張り、一斗釜を三個も据えて、飯を一斗ずつ炊いては自分で鮨をつけてやる。これを生徒は日ごろ教わった通り、お好み鮨と名付けて
1 握り鮨(東京式)
2 巻き鮨(大阪式)
3 箱鮨(神戸式)
を手際よく作り、盛り合わせて出す。福岡市内の鮨屋はそっちのけです。
東京式や大阪式、神戸式と一流の鮨を長期にわたり実地に学んだその結果を平素教え込んでいますから、作る生徒も自信満々。私自身、三十数年間苦労して学びとった鮨のことではあるし、鮨の飯にしろ、調味でもまずまず満点。好評を博し、すばらしく売れました。
また中村式カレーライスは前に述べたように、ビハリ・ボースのインデアンカレーライスにさらに改良を加えて、鶏の臓物のほかに玉葱、人参のミジン切りも加えているので、これまた市内の店で出しているカレーライスとは雲泥の差。これも人気がよく、ついには売り切れて困るくらいでした。
そのほか「雑煮」「おでん」「うどん」「汁粉」「サンドイッチ」等々、万人向きのものをおいしく生徒が作るので、二日間のバザーに入場者は一万人近くにものぼり、利益も莫大な額に達しておりました。
九州高女では毎年十一月の上旬に、このバザーを催しておりました。年ごとに入場者も売り上げもふえて校長の安河内先生も大喜ぴ。
この利益は学校の借金払いにも使われたのでしょうが、私の方はその一部で調理実習用具を買ってもらっていました。またほんの一部は全職員慰労の意味で慰安旅行費にあてられたようで、糸島方面に出かけたことを覚えています。
バザーについてもう一つ大切なことは、バザー券の前売りをしておくこと。その前売りの数量をきちっとつかんでおくことです。九州高女のそのころは事務長に毛利先生がおられて、手配に抜け目はありませんでした。品名と価格を印刷した券を卒業生や生徒の手を通じて一般や父兄に売り捌きますので、バザーの前々日までにはきちんと各品目毎に売れた券数がわかるのです。これを製作係の方に連絡してくださいますので、製作係の各班では前売りの分に当日即売の見込数を加算して材料を注文し、製作にとりかかります。当日即売を少し控え目に見込んでおけば、品切れになるくらいで、作っただけは全部売れてしまう。従って利益も多く、私はこの九州高女時代十五回のバザーを担当しましたが、いつも予想以上の利益を上げ、もちろん損をしたことは一回もありません。
私の考えでは、このバザーは女子の高等女学校以上の学校では年に一回ぐらいはやるべきだと思います。とにかくこのときは生徒も真剣です。
券を前売りした以上はいやがおうでも作って出さねばならないし、ぐずぐずしていてはお客様が承知しないのですから、平素の料理の実習とは異なり、生徒も一生懸命にならざるを得ません。
私の体験では、バザー後は生徒の実習態度がよくなり、人間も変るし、第一生徒が自信を持つようになります。少々授業に差支えはありますが、それ以上の効果があると思います。年に一回が無理ならば、せめて二年に一回ぐらいはやった方がよいと思います。  
戦争の混乱のなかで
昭和十六年十二月八日、日本が大東亜戦争に突入しました。最初のうちは大勝につぐ大勝で、私ども教師にしろ、生徒にしろ、戦争の直接影響を受けることはなかったのですが、だんだん戦局が悪くなるにつれ、私どもの学校も急速に変って行きました。昭和十九年以後は特にそうであります。
当時、私は寄宿舎の舎監を以前に引続き仰せつかっていました。このごろになると、学校の授業はなく、生徒は朝から弁当持参で筑紫郡にあった渡辺鉄工所(大きな兵器工場)に出かけ、弾丸造りの手伝いが日課になっていました。寄宿舎の生徒は毎朝五時に起床し、冬でも夏でも洗面をすませたら二列縦隊に並ばせ「一二一二」のかけ声でまず西公園の光雲神社に参詣して戦勝祈願。それから帰って来て六時に食事をすませ、七時には工場に出かけるのがならわしになっていました。
夜、いやな空襲のサイレンが鳴ると、飛び出してすぐ前の学校の校庭に集まり、校舎の警備に当たります。解除のサイレンで寄宿舎に帰って来て寝るといったありさまで、舎監の仕事も容易なことではありません。
それのみか食物が欠乏してきて、野菜や魚、米麦の配給も思わしくないようになってきました。米麦は卒業生のうちに特別頼んで何とか配給を受け、魚は湊町の漁業会社に嘆願して、ときどき特別の配給を受けましたが、一番困ったのは野菜です。
そこで校長先生にお願いして運動場の隅二個所を借り受け、これを耕して畑にしました。
ここに、ナス、青菜、カボチャ、キュウリ、トマトなどあらゆる季節季節の野菜を作りました。舎監たる私が先頭に立って、寄宿舎の生徒皆で野菜作りです。土地がやせているものですから、西公園の山に行うて腐葉土をとって来たり、よく馬糞拾いもしました。これが町の有名な話にもなったのです。人間の熱心さは恐ろしいもので、丹精こめて作った結果、野菜屋にも見られないりっぱなカボチャやトマトなどができ、生徒はいつもみずみずした新鮮な野菜を食べることができました。
忘れもしません。昭和二十年六月十九日夜の福岡大空襲。この空襲で、九州高女も火災に遇い、学校はプールと寄宿舎だけを残して全焼してしまいました。このときの無念さ、悲しさは、今だに思い出しても涙の出るほどです。とにかく生徒が入る教室はまったくない状態になってしまったのです。それ以後、校舎が戦後完成するまで、近所のお寺三カ所を借りて間に合わせるまことにみじめな状況になったのです。
私はこの九州高女在職中三回表彰を受ける栄誉にあずかっています。今その事績を拾って見ますと、
1.昭和八年十一月十一日帝国教育会創立五十周年記念日に、我国教育功労者として教育功労賞を授与せらる。
2.昭和八年十二月五日右により、福岡市教育会より祝いの記念品を授与せらる。
3.昭和十五年十一月十日紀元二千六百年記念祭のとき、我国教育功労者として文部大臣賞を授与せらる。
となっています。
このような過分の表彰を受けるようになったいきさつについては、私はまったく知らないことでした。恐らく安河内校長先生が、月俸を随分切り下げられて赴任し、しかも何年間も増俸はできないのに、私が何ら不平不満を漏らさず教育のために全心全霊を打ち込んで働いていることに対するせめてもの感謝の気持ちから、関係当局を動かしてのことではないかと推測しています。
安河内先生という人はそういう方でもありましたし、私自身も感激し、大いに感謝したしだいであります。私としましては、教育者はこれでいいんだと思っております。金銭にとらわれ、常に不平不満を持って働くのは、教育者の道にあらずと思っていますから。
昭和二十年に、二代目校長の安河内先生が他界されました。安河内先生とは足かけ十五年間苦楽を共にしてやってきた間柄です。三代目校長として創立者釜瀬新平先生の実弟にあたられる釜瀬富太先生が門司市の助役をやめて就任なさいました。
私は安河内先生が亡くなられたのを機会に、自分も九州高女から身を引くべきであると決心しました。退職願いも再三提出しましたが、釜瀬新校長から「中村さんが辞めたら九州高女がまた弱くなる。あなたは留まって死ぬまで勤めてくれ」となかなか聞き入れてもらえません。
仕方がないので、家族の者や親類の者に相談したら「それほどいわれるのなら二、三年辛抱したがよかろう」ということになり、私も三年ぐらいと考えて勤めをつづけることにしました。
新校長の釜瀬富太先生は、実兄が創立された学校をさらにりっぱな女学校にせずにはおかないとの一念で、燃えるような情熱で学校のことに取り組んでおられます。私もこの熱心さに意気投合して調子が出、安河内先生時代と変らぬ勤務振りだったものですから、新校長も非常に喜ばれて私を重用されたものです。
バザーで教室をつくる
昭和二十三年に入って間もなく釜瀬富太校長から呼ばれ、厳粛な態度で、中村さんに一つお願いがあるということでした。
「実は、校舎は戦災に会って全焼し、御覧の通りお寺を借りて授業を続けている状態です。このまま卒業生を送り出すのもかわいそうでならない。せめて卒業生なりともしばらくまともな教室で授業して送り出してやりたい。冬の雪空で気の毒だが、例のバザーをやって木造二教室分の純益をあげてくれませんか」という相談でした。私も考えました。二月の寒中はまあ辛抱するとして、戦禍のため米は少なし、野菜はなく、甘藷でさえ思うに任せず、まして砂糖などは見たこともない時である。これは困った相談だなあとは思いましたが、本来私は学校のためなら身を粉にしても尽くす信念を持っていますから、断わる勇気もなく、「よろしうございます。何とか工夫してやれるだけやりましょう。」と答えました。釜瀬先生は大喜びで「ありがとう。ありがとう。無理だろうが、どうか生徒のためやっていただきたい」と、話だけは簡単にきまりました。
さあ、それからが大変。私の苦労といったら、ひととおりではありません。請け合ったものの野菜は無し、砂糖はなし、食品は手に入らない。
米は、卒業生のうちで米屋をしている人に頼んで特別配給をしてもらいましたが、一番困ったのは甘味料です。大牟田市の三井染料でズルチンやサッカリンを作っていると聞いたものですから、そこへ行ってできるだけたくさん分けてもらいました。しかし、それだけではとても足りそうにありません。
今度は黒崎の化学工場に行って、ここでもズルチン、サッカリンを分けてもらいました。砂糖の方は市内の菓子屋さんに一軒ずつ頭を下げて回り、少しずつ譲ってもらい、これで甘味料も何とか揃いました。甘藷は姉の保坂が大きく農業をやっているので、こちらに手配を頼みました。その他の材料も不自由ながらどうやら揃ったので、品目も「お好み鮨」「カレーライス」「おでん」「雑煮」「蜜豆」「汁粉」などにし、生徒に調理法を指導し、熟練させて曲がりなりにもバザーを開催したのです。
九州高女のバザーといえば、昔から定評がありましたので、時期が悪い二月の寒中というのに、もう一つは終戦後皆食べ物に困っていることも手伝って八千人もの入場者があり、純益二十万円を挙げることができました。この益金で予定どおり木造二教室が完成、卒業生は卒業間ぎわに本式の教室で勉強ができたのであります。
釜瀬先生の御満足は一通りではありませんでした。職員会の席上で非常に喜んで披露なさいましたが、私にとっては雪の中に甘藷を集めるやら、砂糖を分けてもらいに歩くやら、まさに地獄の責苦のなかのバザーだったのです。
ところが、この職員会の席上で、一部の教員からバザーについての非難めいた言葉が出ました。
「汁粉の味も鮨の味もなっとらん。風味も何もない」
「あんなおいしくないバザーはかえって学校の恥さらしだ」
などというのです。
私はこのときほど、胸が煮えたぎり口惜しかったことはありません。
私はこの悪口、雑言をじっと聞きながら、胸のなかで考えました。「考えてもみなさい。終戦後調味料食糧品のない今の時代に、バザーを完全にせよというのが始めから無理な話。しかも寒中バザーするのがまちがっている。しかし、生徒のことを思えば校長先生がいわれるように不欄でならない。この私は横浜以来三十数年間、料理研究一途に苦労してきているんだ。九州に帰ってからでも、休暇を利用して自費で料理研究に打ち込んできた。材料さえまともに揃えば、こんなバザーぐらい何のことはない。というのに、わからない者は勝手に……ああ、こういう学校にはもう長くおられない」
九州高女に対する私の情熱が急速にさめていったのは、それからでした。
 
第四部 教育の花ひらく 

 

九州高女を去る
昭和二十三年の寒中バザーの一件以来、私としては何となく九州高女に対する愛着が薄れてきました。それ以前から釜瀬富太校長先生に対し一部教員の排斥の動きがあっていた様子で、どうも学校内の空気が従前のように一致協力というわけにいかなくなってきていました。
私としては、教師というものはただひたすら生徒に対する愛の教育を実践しておけばよいとの信念ですから、これらの動きに加担することもしないし、その必要もありませんでした。このような態度が反発を招いたのか、今度は私に対して追い出し工作が始まりました。こうなると、私もいつまでも九州高女に便々と勤める気はありません。もともと安河内校長一代限りで暇をもらう決心をしていたくらいですから。
昭和二十三年十月初旬退職願いを出して一時、養子久雄君が勤務している宮崎県の塚原(上推葉の下流。久雄君はそのころ日本発送電の水力発電所技師)に落ち着き、静養かたがた将来の方針を考えることにしました。ひとつには福岡に居ると教え子や卒業生が押しかけて来て、もう一度教壇に帰れとせがまれ、学校との間にいやな抗争が起きるのを避ける気持ちからでもありました。
昭和五年四月以来十八年有余、苦労を共にした九州高女とも訣別したのであります。六十四歳(数え年)の秋のことです。
中村割烹女学院創立
宮崎県の山奥でゆっくり静養しながら、いろいろと将来の構想を練ってみました。このころは敗戦直後で食糧には最も不自由していた時代です。「この少ない食糧をうまく使いこなして、おいしく、しかも栄養のある料理を作り得る婦人は非常に少ない。私は幸い健康には恵まれている。自分が教育者として最後の働きを全うするには、横浜時代、神戸時代、九州高女時代を通じて三十年間にわたる料理研究の成果を生かすべきである」と思い至りました。息子夫婦に相談すると大賛成でした。それでは、ここでもう一ふんばりしょうと宮崎を引き上げて福岡に帰って来たのです。
さっそく校舎を何とかせねばと、そのころ福岡市議会議員をしていた異母弟の中村七平氏に頼んで、やっと唐人町公会堂を借用することが決まりました。昭和二十四年新春早々のことで県の方に中村割烹女学院設置認可申請を出して無事認可になり、その年の四月から開校したのです。これが、私学経営に乗り出した第一歩になったわけであります。
このときの陣容は、私が院長、事務会計には師範学校の後輩末松みさをさん(現中村学園女子高校長末松先生のお母さん)、助手には九州高女時代の教え子山崎さんと島村さんとの二人、というほそぼそとしたものでスタートしました。
しかし、私が料理学校を開いたと聞いての応援者は多く、これも師範時代の後輩の原小学校教頭の郡司先生や、馬出小学校教頭の大野先生などは開校の宣伝ピラを配布するのに大活躍をなさるなど、師範同窓生の方々のこのときの応援は私として一生忘れられないことであります。
このころ、市内には江上トミ先生が料理学院を平尾の方に開いておられたくらいで、ほかにはなかったと思います。中村割烹女学院の看板をかけていよいよ先徒募集を始めますと、入学者が何と四百五十名も集まる大盛況です。小学校の先生方や有名な御婦人方も多数おられました。
本格的な料理学校としては市内唯一といわれたかも知れませんが、現在のように至れりつくせりとはいえません。しかし、実習の調理台だけは十二台私の設計になるものを揃え、当時としてはまずまずの出発だったのです。とくに、物資の少ない昭和二十四年ごろでしたから。とにかくスタート早々四百五十人もの入学者がありましたから私も意気盛んで、料理の指導にも熱が入るし、生徒さん(といっても上は五十歳ぐらいから下は十七、八歳まで)も熱心なものでした。
うれしかった姉の心づかい
この中村割烹女学院を創設するときに、私の姉保坂タミの陰ながらの応援を記録に残しておきたいと思います。
九州高女から頂いた退職金八万円はいつの間にか創立の費用に飛んでしまい、調理台やいろんな器具の購入資金がありません。そこで五十万円を福岡無尽(のちの福岡相互銀行)から借りるようにしたのですが、どうしても担保がいるとのこと。もともと金とか財産に余り関心のない私には不動産などあるはずもありません。この担保のことを末松みさを先生に話したら、それは保坂の姉さんに頼まれたらどうでしょうとのこと。さっそく姉に相談したところ「まかせときなさい」と、こころよく引受けてくれました。間もなく、銀行から五十万円の金が出ました。いろいろの支払いをすませ、私はそのま、五十万円の金がどんないきさつで借りられたか、気にも掛けず忘れてしまっていました。
後日といっても数年経ってからそのときの真相を知り、感謝の念で頭が下がった次第であります。その裏話とは………
保坂の姉があのとき「まかせときなさい」と大見得を切ったあとが大変だったそうです。まず主人保坂国吉名儀の家屋敷の権利証書と実印をこっそり持ち出し、銀行の係員を呼んで借用証書その他の手続きをすませたのですが、これはあくまで主人や家の者には内緒ですから近所の家の座敷を借りての作業です。ついで銀行員が担保物件の評価に来ましたが、これも家のまわりをうろうろされてはバレてしまいそうなのでなるべく遠くの方からそれとなく調べてもらうなど、随分神経を使ったようです。
このことは、割烹女学院が繁盛してもうこれならば大丈夫というころになって主人にもわかり、笑い話になったそうですが、創設のころは海のものとも山のものともっかない試みであるだけに、随分思い切った冒険だったわけです。
笑い話ですまされるようになって、姉に「よくまあ、思い切って助けてもらったが、そのときの気持は?」と聞きますと、姉は「あたきはこの料理学校はあたると思うとった。日本人がみんなひもじい思いをしとる時じゃけん、食べ物の仕事はこれはよい思い付きばい。それにハルしゃんのことじゃけん、必ず成功すると信じとった。ひょっとうまくいかんときは死んで、主人や家の者にはお詫びするつもりじゃった」と、カラカラと笑いとばしてしまいました。
苦労して育った姉は、洞察力の鋭い腹の大きい女性だったのです。まったく頭が上がりません。
次ぎにこんな笑い話もあります。
学校の方も万事好都合に運んでいたある日、突然税務署の方が来られて帳簿を見せてくれとのことです。私は教えることで頭が一杯で、税務署のことなど考えたこともありません。第一、学校は税金がかからないぐらいにしか考えていない世間知らずでした。事務会計の末松さんも福岡市の優秀な女教員だったのですが、その方はとんと無知。こんなのが二人揃っているものですから、帳簿はなっておりません。金銭出納は書き込んではあるのですが、まるでメモ帳です。随分長いこと帳簿を調べていた税務署の方も、しまいにはついに怒り出して「これは何が何かさっぱりわからん。見込みで税金をかけますよ」といって帰ってしまわれました。
こちらも経営状態がどうなっているのかよくわからないで、とにかく支払いだけはきちんとやっているし、銀行にも不都合なく返Lているから、それでいいんだくらいの考え。教える方は専門ですが、経理や財政のことになるとまったく弱かったのです。後日、税務署から税金納付書を送ってきたのを見ると、ちょうどいいくらいに掛けてあったようでした。
このころの生徒さんは多種多様で、割合に年配の人が多く、生徒さんの中から世話人が出て忘年会とか謝恩会とかよく世話が行き届き、非常に楽しい思い出になっています。
開校二年目にはいよいよ入学者もふえて、一挙に七百五十人近くも入る盛況ぶりです。
こうなると唐人町公会堂では手狭になってきました。そこで、会計の末松さん、姉の保坂や異母弟の中村七平氏と相談のうえ、校舎を新築することにいたしました。
土地は地行西町の菊池さん所有のもの二百二十坪を五十五万円で譲ってもらい、校舎百五十坪約三百万円は勝呂組の請負で工事、昭和二十六年夏に完成したのです。
同年九月から唐人町公会堂を引き払い、この新築校舎で授業を開始しました。このときも福岡無尽から三百万円借用しております。
発展する割烹学院
この地行西町二二番地の新校舎は、当時としてはモダンな建物で、アメリカ進駐軍人が日本にも料理学校のしゃれたのができたと写真に撮ってアメリカの郷里に送ったところ、アメリカの新聞にもわが中村割烹女学院が紹介されたと聞いております。
アメリカ進駐軍といえば、こんな話があります。
あるとき、通りがかりのアメリカ進駐軍人が数人つかっつかっと学校の中に入って来ました。彼らにしてみれば、日本のきれいなお嬢さん方がたくさん集まってガヤガヤいっているのが外から見えるものですから、何事ならんと入って来たものと思われます。
ただ見学するだけならよかったのですが、美しい日本料理特にはなやかな鮨料理を見ると、たまりかねてか無断で手にとってムシャムシャ食べ始めたのだそうです。生徒さんは悲鳴をあげて院長の私のもとに、何とかしてくださいと訴えて来ました。....
私も進駐軍のことではあるし、無作法と叱るわけにもいかず、致し方ないので、別室につれて行きました。
「この学校は、結婚前の若いお嬢さん方や」家の主婦の方々が戦後の日本の食生活をいろいろと研究するため、授業料や材料代を乏しい家計の中から出して皆勉強に来ていられるのです。できあがった御馳走は自分で試食して味のぐあいを調べたり、家に持って帰って家族の者に食べさせる大切なものです。だから、みだりにつまみ食いされては生徒が困ります。見るだけにしてください」
と頼んだあと、彼らに聞きました。「ところで皆さんはおすしが好きですか」
「日本の鮨、大好き」
「それでは、明日私が腕によりをかけて美しい、おいしいお鮨をいろいろ作ってあげますから、また学院においでなさい」
と申しますと、みんな喜んで「では、また来ます」といって帰りました。
ああいって帰ったものの、はたして来られるかなと半信半疑で、握り鮨、二重巻鮨、箱鮨を作り、鉢盛りにして待っていると、昨日の顔ぶれ以外の人までつれて愛敬をふりまきながら彼らはやって来ました。私もつられてうれしくなり、いろいろ親切にもてなしていますと、一人の軍人が「僕の国もとにも、あなたのような年ごろの母が待っている。子供も二人いる。近い中に引き上げて本国に帰ることになっているから、今日のお礼にアメリカの料理の雑誌や調味料をお送りしましよう」と、まるで友だち同志のような雰囲気になってしまい、鮨をみんな食べつくして賑やかに帰って行きました。
その後このことは忘れるともなく忘れていたのに、しばらくしてアメリカから荷造り一個がひょっこり到着、そのころ日本では珍らしい洋胡傲、パプリカ、ニッケイ類が詰めこんであります。わずか鮨ぐらいのことでこんなに丁寧にされて恐れ入るとともに、アメリカ人のおおらかさ、信義の厚さに感心しました。
このころの割烹女学院の生徒数は、本科、研究科合わせて一千名を突破する盛況で、院長の私がほとんど一人で、昼、夜二回に分けて料理の示範、指導を行ない、これに助手六名、事務会計は末松さんほか一名、用務員二名の陣容でした。いかによく頑張っていたか、想像がつくと思います。
このころから少し年代は遅れますが、昭和三十年三月二十日中村割烹女学院の卒業式における私の式辞がありますので、ここに再録いたします。私の料理学校経営の考え方や当時の日本の状況など思い起こすのに参考になれば幸いです。
中村割烹女学院第六回卒業式式辞
春雨そぼ降る静かな日に本学院第六回卒業式を挙行いたしますに当たり、我らの杉本県知事殿を始め多数来賓各位の御臨席を恭うし、かくも盛大に式をあげ得ますことは、まことに歓喜に堪えない次第でございます。
思うに、我国が終戦後新たに独立国家として国際社会に伍するに至ってより最早や三周年の春を迎えましたが、国内の経済状態は相変らず不振の一途をたどり、従来五大強国の一つとして誇りを持ち八紘一宇を夢想していた大和魂はどこへやら影をひそめ、自主自立の経済に乏しい我国では未だに外国依存の、見るに忍びないものがあります。ところで国家の素因をなすものは一家庭なのでありますから、家の消費経済のやりくりを背負う私ども女性は、直接間接に国の経済の不振についての責を負わねばならぬと痛感いたします。
特に昨今の如く、社会情勢が不景気のどん底に落ち、切りつめた生活態勢をとらねばならぬ際には、一家の主婦は衣、食、住のうち特に食生活に万全の注意を払い、新鮮で栄養豊富な食品を獲得するためには、.生産の労も敢て惜しまないという立場で野菜も栽培しなければなりません。また最も廉価で買い入れる工夫も必要であります。そして、最少限度の食品を使って最大限度の栄養価値を発揮するよう、献立、調理に細心の考慮を払うのはもちろん、燃料の節約や一切の無駄を排除して、いつも愛と誠意のこもった保健食を与え、和気あいあい、身体的にも、経済的にも、健全なる家庭の育成に遭進ずることが女性の本分だと考えます。
本日、御卒業の皆様は数多くの女性の方々に先駆して本学院に御入学になり、清節の徳を研ぎつつ、この食生活の研鎌に一年一日の如く精進されましたことは、指導者と致しまして感激のほかございません。
とくに若い奥様のなかには、赤ちゃんを背負い、あるいは一人、二人と幼な子の手を引いて、一日も欠かさずつとめられた方さえおられます。
かくて今日の晴れの式場に於て、皆勤賞を授けられるお方が二〇四名、その他精勤賞、努力賞、早納賞、模範賞等を授けられるお方、受賞者総数七〇五名、賞品が御覧の通り山と積まれているのを見ても、皆様がいかに真面目に、真剣に努力されたかということがうなずかれるのであります。
さて、本学院の姉妹校として建設いたしました福岡高等栄養学校は、新学年度の入学志願者が、その数に於ても、その優秀さに於ても、開校当初の昨年に比し倍加いたしています。近き将来には栄養短期大学への昇格も計画している関係上、教師の陣容も九州大学、学芸大学その他各種専門の大家をもって組織されております。本学院卒業生三千名に対しては長期休暇を利用して再教育講習会を催し、日進月歩の文化の進展に遅れないよう指導をつづけたいと考えます。皆様も学校の意のあるところを諒とせられ、振るって御参加下され、健全家庭建設のため御奮闘あらんことを希望いたします。以上を以て、式辞といたします。
昭和三十年三月二十日 中村割烹女学院長 中村ハル
学校法人中村学園の設立
福岡県に各種学校連合会というものがありまして、わが中村割烹女学院もその会に加盟していました。昭和二十七、八年ごろの会長は高山平一先生で、非常に世話の行き届く方でした。
私立学校経営についてまったく素人といってよい私どもは、何かというと高山先生の意見を聞いたり、親切に指導を仰いだりしたものです。
この方があるとき、全国各種学校連合会長の牛窪先生・事務局長の渡辺先生と一緒に学校に来られました。
「中村さんはながいこと料理とか、栄養とかを研究されていると聞いています。この料理学校も非常に盛況で、頼もしい限りです。ここで一つ栄養学校をつくって栄養士の養成に当たったらどうですか。いま九州には栄養士の養成校は三、四校しかなく、とても足りないのです。幸い、料理学校はすでにあるのだし、前の空地(地行西町の割烹女学院の道を狭んで東側に二〇〇坪程度の空地がそのころありました)を買い足して、普通教室を二、三作ればいいんですから」
と、すすめられます。私も大いに心動かされるものがありました。といいますのも、栄養のことは永年勉強してきたことでもあるし、また料理の指導をするにしてももう一段深いところの栄養の分野にまで入らないと、駄目だというのが従来からの私の主義だったからでもあります。
それにもう一つ大きな動機となったものは、この地行西町の中村割烹女学院の横を日系米人の軍人がよく通っていまして、その体格の素晴らしいことに驚かされました。これは遺伝とか、体質とかではなく、やはり栄養が一番大きな原因ではなかろうか、今後は栄養のことを考えなくてはいけないと思い至ったからでもあります。
さっそく関係者にいろいろ指導を仰いで、前の空地に校舎を建て、その程度でよいものかどうか設計までいたしましたが、とてもそんな簡単なことでは栄養学校にはなりません。
それでは新しく土地を物色しようということになり、藤永さん所有の市内上中浜町一丁目、田、七二七坪を坪当り四千円で譲ってもらうことになりました。これが、その後の栄養短大であり、現在中村学園女子高校の水仙寮になっているところであります。
このころ、県からいろいろ指導を受けましたが、そのとき栄養士の資格を与えるような、社会的に見てきわめて公共性の強い栄養学校のような学校の経営は、学校法人で行なうべきであるとの結論に達し、ここに初めて学校法人設立の準備にとりかかったのであります。
当初の理事の顔ぶれは、次の通りでした。
理事長 中村ハル
理事 広畑竜造(当時九大医学部生化学教室主任教授)
    森田武雄(味の素株式会社福岡支店長)
    郡司秋生(女)(原小学校を教頭で退職、後に福岡高等栄養学校総務課長に就任)
    中村久雄(私の養子で当時九州電力技師)
こうして昭和二十八年十二月、福岡県知事より学校法人中村学園設立および福岡高等栄養学校の設置認可が下りたのであります。
さっそく第一回目の生徒募集にかかったところ、やはり社会的要求も強かったとみえ、定員百名のところに百五十数名の応募者があり、そのうちから百十名余に入学を許可しました。このころの入学生は現在と違い、高校卒ばかりではなく、旧制中学卒もかなり居て、年もまちまちで実に多種多様でした。この第一回卒業生のなかから現在料理学院副院長の中村シズ子や短大の江上一子先生、その他そうそうたる人材が多数出ているのであります。
学校の方はなかなか好調なスタートでしたが、資金の方はとても苦しく、中村割烹女学院の私の手もとから常時応援しなければ給料も払えない状態です。これが積もり積もって一千万円になりましたので、これは寄付することにしました。
この福岡高等栄養学校は昭和二十九年四月開校したのですが、最初から私の持論である制服を制定しております。
授業の方は広畑先生の御世話で九州大学から栄養学、食品学、公衆衛生学のそれぞれベテランが担当され、私も校長をしながら調理実習を自ら担当し、生徒の訓練に当たったものです。
中村割烹女学院の方と福岡高等栄養学校の方と両方掛け持ちでしたから、なかなか忙しい毎日でした。
この学校法人中村学園の設立と福岡高等栄養学校の開校を祝して、昭和二十九年五月十七日記念式典を催しました。これがその後、中村学園の創立記念日になったのであります。 
待望の栄養短大
さて、この福岡高等栄養学校を経営し、また校長として実際教育に当って生徒をみると、何となく品性に劣るところがあります。やはり職業教育だけにかたよっては駄目です。一般教育も取り入れた総合教育を施さねばいけないと、ひしひしと感じました。生徒の方も同じ二年間勉強するのだったら、短期大学に昇格できるようにして下さいと強く希望してきます。
私もすでに栄養学校があるのだから、これを短期大学に昇格するくらいのことは簡単なことだろうぐらいに考えて、申請書の作製を郡司先生にお願いして細かく研究はしませんでした。
ただ一度、昭和三十一年の六月ごろ文部省に行き係官にお会いして、実はこういう事情で短大をつくりたいと思いますのでよろしくお願いしますと、事前あいさつに行っただけ。しかも、そのとき係官の方も軽く考えられてか「よろしうございます。しっかりやんなさい」と激励されるものですから、こちらは社交辞令とは露知らずもう認可されたような気持ちになっていました。
ただこのときわかったのは、校舎は福岡高等栄養学校のままでは不足で、相当これに継ぎ足し増築せねばならないことだけでした。
いよいよ九月下旬になり、書類もできたというので上京することにしました。書類の表紙には、福岡高等栄養学校を短期大学に昇格するのですから「中村栄養短期大学昇格認可申請書」と大威張りで書きました。
文部省のこのような大学や短大の新設の場合の書類の提出締切は九月三十日までと聞いていましたので、たしかその三、四日前と記憶いたしますが、文部省の技術教育課に伺い、村越係長に書類を提出しました。ところが、村越係長は書類を見るか見ないうちに、ひどくおこりはじめられたのです。
「この書類は何ですか。いやしくも短大一校つくろうというのに、こんなお粗末な書類では内容を見なくともわかっています。第一、すでに表紙の申請が違っているではないですか。あなた方は昇格と普通に思っているかも知れないが、文部省の方からいえば、今の栄養学校を廃止してその校地、校舎を活用して短期大学を新しくつくる解釈になるのですから、あくまで中村栄養短期大学設置認可申請になるのです。もう少し、ものの分かった事務官を入れてきちんとなさい。とにかくこの書類は受取るわけには参りません。持って帰って下さい」
私も簡単に考えていたものですから、まさにこのお小言は青天のへきれきです。しかし、この場は何とかつくろわねばなりません。「本当にすまんことをしました。素人ばかりでやっているものですから。まだ締切りまで三、四日ありますので、先生の御指導を受けて書類を作り直し、持って参りますからよろしく御願いします」
と、平身低頭で引き下がりました。
さあ、それからが大変です。旅館に帰り、かねて懇意にしている楢橋渡代議士に相談いたしますと、それは僕の秘書がその方の知識は持っているからそれに加勢させようとのこと。地獄で仏とはこのことです。文部省の指導を仰ぎながら、どうやら受理できる体裁の書類に作り直し九月三十日提出、一応申請受付けだけは完了しました。そのとき文部省の係官が言われるには「これからがほんものですよ。今日のところは書類上のことだけですが、これからは書類の内容と実際との審査を行なっていきます。教員の資格審査でまた内容が変るかも知れません。そのときは書類の一部差し替えは構いません。十月一杯によく検討されて、もし差し替えがあれば十月三十一日までは構いません。今まで短大の認可になったところでは、事務員の一、二名倒れるのは珍しくありません。それほど認可はむずかしいんですよ」
と、親切に注意して下さいました。
飛行機の中で申請書の糊を乾かす
近ごろは、短大や大学の新設の申請も数多くて文部省の指導も形式的になっているようですが、昭和三十一年ごろはせいぜい全国で短大新設七、八校程度で行き届いたものでもあり、時間的にもその点ゆっくりしていたような気がします。
私は帰りの汽車の中で、これはとんでもない難事業に手をつけたものだ、しかし絶対成功せねばおかぬと決心したものです。
さて、福岡に帰って来てこのような短大新設に深い知識と経験を持った人がいるだろうかといろいろと考えをめぐらしているとき、ふと霊感のようにひらめいたのは福岡大学の河原由郎先生(現福岡大学長)のことであります。
福岡大学には、かつて私が九州高女時代仕えていた安河内校長のお嬢さんの婿で、教授をされている河原先生がいられる。福岡大学は近ごろめきめき発展しているので、このようなことに詳しいのではなかろうか。
そこでさっそく連絡をとり相談しましたところ、御加勢するのは当然ですが、私だけでは本務があって、しょっちゅうというわけに参りませんから、私が昔から知っている桜井匡先生も加えて下さいとのこと。よかろうということで、私と河原先生と桜井先生と三人で話し合い、この際専門の事務員を置くことにし、これにはちょうど桜井先生の息子さん敬君がよいということになりました。しかし、経営のことや資金面のこと、建築のことについては内輪の者でないとわからないということで、この方面のことは養子の久雄君が九州電力大分支店の係長をしているが、時々福岡に帰って来て手伝ってもらえばよろしかろうということになりました。
格式ばったものではありませんが、世間流にいえば設立準備委員は私と河原先生、それに桜井先生と桜井敬君、養子の久雄君で構成し、これに福大から課長さん一人にときどき加勢してもらうという構成です。河原先生や福大の事務の方は、昼間は本務の都合で動けませんので、打ち合わせばもっぱら夜間になり、ときには随分遅くまで御迷惑をかけたものです。この準備委員会の事務所を、地行西町の中村割烹女学院の二階におきました。
これが十月初旬のことでした。これから本格的な短大づくりの業務が開始されたといってよいでしょう。九月三十日に何とか文部省に受理してもらった申請書の内容を再検討してみるととても短大の認可どころではないこともはっきりしました。それでは根本的にやり直そうと、教員組織の折衝は桜井先生に担当願い、校地、校舎の増設の方と経営の方は久雄君の担当。逐次計画が具体化して行くのと並行して、認可申請書も整備されて行きました。こうしてこれならばまず大丈夫だろうと思われる申請書が完成したのが十月三十一日です。製本して糊の乾く時間もなく、私と久雄君と桜井敬氏の三人が飛行機に飛び乗り、飛行機の中で糊を乾かして文部省に届けたときはホッといたしました。当時は、今のようにジェット機ではなく、飛行機が遅れはしないかとハラハラしたものです。
当日は、書類を以前提出したものとの差し替えだけにし、さて翌十一月一日文部省に出頭し技術教育課の係官に内容を点検してもらいましたところ、これならどうやら脈がありそうだとの批評でした。
その後審議会にかかり、また実地審査も受けいくらか内容の変更もありましたが、結局は認可になったのであります。
ときに昭和三十二年三月十五日のことでした。ここに中村栄養短期大学の誕生をみたわけで、これが現在の中村学園短期大学食物栄養科の前身なのであります。
このとき私は、大学設置審議会、資格審査委員会で調理理論、調理技術教授「可」の判定を受けております。過去の私の経歴や努力が認められたのでしょうか。
この短大の設置認可については、まったく苦労の連続でしたが、昭和三十二年四月開学後は入学志願者も多く順調な歩みを続けてきました。
これも学内諸設備は小規模ながらもキチンと整えましたし、教員組織も九大、福大の御協力を仰ぎ、優秀な先生方が揃われたこζ、また後援会の御援助それに学生が私の教育精神をよく理解して独特な中村栄養短期大学の校風を育ててくれて社会のよき評価を得たことによるとありがたく思う次第であります。
昭和三十二年十一月一日に短大の開学式典と校舎の落成式を挙行しました。そのときの私の式辞の原稿を再録しておきます。
中村栄養短期大学開学式ならびに学舎落成式式辞
新興日本の隆盛を計るには何はさておき、国民の健全な身体、健全な精神に侯つところ大であります。而して、その健康の増進を図る方途は種々ありますが、日常の栄養食問題と公衆衛生のこの二問題はその中核をなすものでありますから、一家の食生活の衝に当たる女性はもちろんのこと、男性の方々にもこれが認識を深からしめねばなりません。特に国家が少国民の体位向上を目指し多大の国費を投じて実行しつつある小学校給食や保育所の給食、食事療法に侯たねぱならぬ病院、あるいは集団給食を施す自衛隊、ならびに大工場の寮等では、栄養学の知識、公衆衛生に明るく、かっ科学的調理の技術に堪能な栄養士を配置して万遺漏なきようにせねば、所期の目的を達成することは到底出来ないと考えます。
不肖、私、女子教育に従事すること五十有余年。就中、食物科の研究に専念すること三十五年間、この貴い体験を生かし、食生活の向上、環境衛生の改善に力を注ぎ、国民の体力増強と家庭の消費経済の合理化を促し、ひいては国家の富力にいささかなりと貢献し、以て教育者としての最後の使命を果たさんと決意し、終戦直後食糧事情が混沌としたる際、昭和二十四年三月中村割烹女学院を開設、これを基盤に昭和二十八年十二月福岡高等栄養学校を設立、翌昭和二十九年四月栄養士養成施設として厚生大臣の指定を受けました。
爾来、その道の大家や熟練な栄養指導者諸賢を招聰して御協力を仰ぎ、優秀な栄養士の養成に真蟄な努力を続けて参りました結果、世間の信望も高まり、卒業生の就職も九十彩という高率を示し、開校三年目には定員の三倍の入学志望者をみるに至りました。
しかるに第一回、第二回と送り出した卒業生の成績より考えまして、単なる栄養士養成の職業教育では完全なる人格の陶冶、高度の教養の涵養に欠陥があることを痛感し、いっそう栄養短期大学として専門的必須科目の研鑽を今一歩深め、かつ一般教養科目としてて倫理学、哲学を課して日本国民としての高度の教養を修め、以て教育の充実を計らんと、昭和三十一年九月栄養短期大学設置申請の手続きをとりました。さいわい文部省当局を始め郷土の知名有志の方々のなみなみならぬ御助力によりまして、翌三十二年三月十五日文部大臣の認可を受け、四月開学して今日に至ったものであります。
しかし、かくなるまでの私の踏んだ道は実にイバラの道で、決して坦々たる道ではありまぜんでした。この苦しみは、教育者としてはまことに貴い苦しみであったと考えます。今日の祝いに、厚生省から御臨席下さいました水長事務官殿は、その当時格別の御厚意を受けた御方で、改めて厚く御礼申し上げます。
何と申しても開学当初のことゆえ、設備万般未だ不充分な点は多くありますが、一応軌道に乗りましたので、この好季節に日ごろ一方ならぬ御厚意、御支援を仰ぎつつある方々に感謝の意を表する意味に於て、開学式典ならびに学舎落成式を執り行ないました次第であります。
さて、前途の計画は遼遠でありますが、まず第一にニカ年の栄養短大で充分の好成績をあげるには、その前身校たる高等学校教育と密接な提携を最も必要とする関係上、大学の予科としての高等学校併置の件も考慮せねばならぬし、また一般教養科目の実施もただ単に空理空論に止まらず学生の実習実行に訴えてこそ始めて効果を発揮するものでありますから、これまた実習施設を要するはもちろんであります。
さらに本学に課せられた使命より考えますと、広く食品学、栄養学、公衆衛生学、統計学、科学的調理の実技修得等々、総合された研究の府として社会の期待に応え、郷土文化の向上をはからなくてはなりません。かくのごとく本学の希望計画は次から次へ燃ゆる思いですが、要はあせらず、たゆまず、うまず、着々と実行の歩を進め、新時代に即応した理想の栄養短期大学の出現を標榜して、努力奮闘を続ける決心でございます。皆様におかせられても、これを諒とせられ、今後とも相変らず力強い御支援と御鞭捷を賜わらんことを祈りまして、式辞といたします。
昭和三十二年十一月一日  中村学園理事長 中村栄養短期大学長 中村ハル謹言
清節・感恩・労作女子高校生まれる
中村栄養短期大学を開学して後、学生の学習内容の実際をみると、とても短大二年間には盛り込めないくらいに講義、実験、学外実習がつまっています。これではよほど基礎学力を持って入って来ないと実力はつきません。そのためには、短大の下につける予科的な高等学校の必要ということも漠然と考えていました。
そのような考えを持っているところに、私をしてどうしても高等学校設立へ踏み切らせた一番大きな動機は、この中村栄養短大に入って来る女子学生の生活態度を見たことであります。私の短大では、授業終了後の掃除は当然のこととして学生の務めになっていますが、あるとき掃除のしぶりを見ておりますと、雑巾を足の先につっ掛けて使ってみたり、雑巾の絞り方ひとつ知りません。
また先生にお会いしても、会釈の仕方ひとつ知らず、これでは女性としての躾は全く零です。恐ろしい気がしました。
今の高等学校は何をしているのだろう。進学のことや、知育のみで終わって、徳育はほったらかしになっているに違いない。
よし、それでは自分で高等学校をつくって、ひとつ理想的な教育をやってみようと決意したのであります。昭和三十四年ごろのことです。
ちょうどそのころ、草ケ江にある県立福岡学園が糸島の方へ引越すのではないかとのうわさを耳にしました。さっそく県の方に当たってみましたが、はっきり決まったわけではなく、いつのことやら予想がつきません。
そうこうしているうちに、幸運にも中村治四郎先生(九州産業大学理事長)が短大事務局長、久雄君のところへ来られ「君の方で高等学校設立の計画があるなら、城西中学の西側に野上辰之助氏が、七、八千坪持っているが相談したらどうだ。君の方で要らんなら僕の方で欲しいくらいだ」と、教えて帰られたと聞きました。渡りに舟とばかり現地をみると、栄養短大からはわずか三百メートルくらいしか離れておらず、格好の土地なのであります。よく調べてみると、野上辰之助氏は炭坑業で財をなした方で、野上鉱業の会長をしておられることがわかりました。直ちに譲り受けの交渉に入ることになり、結城正雄氏(日活九州支社長)と県会議員の曽我薫先生に野上氏の意向を打診してもらうと、教育事業にその土地が生かされるのであれば条件次第では譲ってもよいとのこと。さっそく事務局長と桜井匡教授(野上辰之助氏とは以前よりの知り合い)をやり譲渡の折衝に入らせました。
折衝も大詰めにきたところで私が出向き、野上氏に会って二十分間で結論を出し、契約を結びました。六、七〇〇余坪を一回目、二回目、三回目に分けて譲渡する云々の内容でした。
これが昭和三十四年五月ごろのことです。
この土地は野上辰之助氏が農地のまま所有され、都合により福岡刑務所に服役中の受刑者のほぜ野菜畑に提供しておられたもので、そのころは一面の櫨の木畑でした。農地ということであれば、これはそのままでは学校の用地にされません。
当時は農地転用は非常に厳しい制限がありまして、この許可申請にも事務局は苦労したようであります。許可はなかなか下りませんでした。校舎の建築に早くかからないと、翌年四月の開校に間に合わないようになります。ついにせっぱつまって、また楢橋渡代議士を煩わし、一ときの農林大臣福田哲夫氏を動かして農地転用の許可を急いでいただきました。
さて、校舎建築についてはいろいろと深く考えてみました。今度は思い切って斬新な建築をやってみたい。それにしても、資金は充分ではない。どの建築業者がよいか、いろいろ検討し、結局辻組がよろしかろうということになりました。
辻組の社長辻長次郎氏は前からよく知っていましたので、学校に来てもらって相談しました。
「今度の高等学校の校舎はモダンなものを作りたい。辻組さんにお願いしたいと思っている。ただ資金の方は余り持ちませんから、支払いの方は少々延びるでしょうが、それでもやってもらえますか」「中村先生のことですから間違いないと信用しています。ひとつ立派なものをつくりましよう」
と、辻さんは言下に約束してくださいました。
結局、設計は大部、的場、岡田の三者協同で大部設計事務所が直接責任者になり、建築施工は辻組で建築にかかったのでした。
ところで、高等学校が発足したあかつきには私が校長で大いに自分の教育理想を実践したいと意気込んではおりましたが、ここで考えなければならないのは女房役の教頭の人選如何ということです。
教頭を誤ると、学校運営はうまくいきません。そこでいろいろと考えたすえ、かつて中村割烹女学院で苦労を共にした末松みさを先生の御長男慶和氏が九大卒業後、学芸大学の先生をしておられ、教育界に顔の広いことを思いつきました。すぐに、慶和氏に来ていただきました。
「今度このような女子高等学校をつくることになりました。先生は九大教育学部の御出身で、県内教育界の人物についても詳しいと思います。九大の教育学部とも相談して教頭適任者を推薦してください」
真面目な末松慶和先生は私の願いに、九大の平塚教授や原教授とも相談され、二・三人教頭候補を持って来られました。しかし、どうも今一歩というところで人物に難点があります。それも駄目、これもどうもと断わるもんですから、末松慶和先生も弱っておられたようです。平塚教授のところに何回も通っておられるうちに、先生から「中村先生の気にいる教頭はおらんぞ。末松君、いっそ君が行ったらどうだ。そうし給え」ということになり、末松慶和先生は学芸大学助教授の現職を捨てて本校に赴任なさるようになったのです。昭和三十四年秋のことでした。実際の着任は、翌三十五年からになりましたが…。後になって、このときのことを末松先生は頭をかきながら「あのときはとうとうミイラ採りがミイラになってしもうて」とよく笑って話ざれますが、そういえぱその通りです。
このときの末松教頭先生が昭和四十四年九月から二代目校長に就任されたのです。
高等学校を新設するための県あての申請事務を進めるため、坂田政二郎先生、富沢民次先生は早目に就任してもらい、県あての折衝および事務に当たっていただきました。
ここで、特に書き残して、おかねばぱならないことがあります。
その一つは、この高等学校は私の信念に基づき、女子高等学校として女子教育を専門にしたことであります。私は以前から高等学校、すなわち後期中等教育の段階では、男女別学がよいとの立場に立っていますし、また実際に男女共学の高等学校では男性、女性の本質に基づく人間教育は甚だむずかしいことであると考えております。
その二は、徳育の中心となる徳目を掲げて人間教育を重視する高等学校をつくるということであります。この女子高校では清節 清く、正しく、優しく、強く 感恩天地自然の恵みに対する恩・国の恩・君の恩・師の恩・父母・兄弟・姉妹の恩・友の恩などに感謝して生きていく労作頭脳を使って働き努力を重ねて生きていくを、その三つの徳目に掲げることにしました。
このような趣旨から、建築の方も第一期工事に引き続いて第二期工事は女子教育に特に必要な家庭系実習室を重点に建設しました。第三期工事は人間教育の道場として講堂を建設しました。次々の建築で事務局長も財政的には随分苦労したようですが、この間の親戚一同の応援は忘れてはなりません。
幸い教頭以下竹森事務長、それに優秀な教師が次々に揃われ、入学志望者も逐次ふえて学校の基礎も固まった次第です。
その後のことは、ここに改めて記録に止めなくとも皆様御承知のとおりです。
情熱充たす中村学園大学
私の教育に対する欲望と情熱は膨らむばかりでした。それまで栄養短大の実績をみてきた私には、学問研究の深さにおいてとても短大程度では満足することはできません。やはり四年制の大学でなければ、高度の研究は無理であるとの考えを懐くようになってきました。そのころのことです。高等学校設立のときうやむやになっていた県立福岡学園が、今度は筑紫郡の方へ本当に移るらしいという情報を耳にしました。事務局長に当たらせますと、県の方でもかなり具体的に進めているとのことであります。
すぐ理事会にはかりますと、理事会でも私の考えを理解されて相当の困難は覚悟の上で、中村先生の最後の教育執念を実現しようと一決しました。
これが昭和三十八年ごろのことであります。このころは高等学校の方も軌道に乗っておりますし、中村栄養短大も十年に近い実績を積み、事務組織、教員組織も一応体をなしてきていましたので、私がいちいち細かいところまで手を下さなくとも、それぞれの指示によって事が運ぶようになってきていました。
しかし、それでもこの草ケ江の県立福岡学園の土地の払い下げについては、そのむずかしさは並み大抵のことではありませんでした。私も三、四回、ときの知事鵜崎多一先生にお会いし、私の教育に対する信念を吐露して訴えたことを忘れ得ません。鵜崎知事も、こと教育のことであればと非常な理解を示してくださいました。この土地の払い下げが本格的に決まったのは、昭和三十九年も暮れがせまってからであります。
細かいことは私の知る由もございませんが、ときの短大の父兄後援会長永島武雄氏の陰の御尽力はとても筆舌に尽くせないものであったと覚えております。一時はこの土地の払い下げは断念した方がよくはないかと思ったくらいでした。土地の話が一進一退ながら進みつつあるとき私は新大学の構想を練りました。食物栄養学科は当然のことであります。とすれば、学部は家政学部ということになります。文部省では少なくとも一学部に二学科は設けなくてはいけないと指導されています。このとき天啓のようにひらめいたのは、もう一学科は児童学科だということでした。私が教育者として最後に遺すものは、児童学科しかないとの決論に達したのです。
理事会の席上、この構想を発表いたしましたところ、皆さんはあまりよい顔をされないばかりか、四年制大学で児童学科のあるところが全国で十二、三校あるが、どこも入学志望者が少なくて困っているようだ。短大の児童教育科などにはわんさと押しかけているが、四年大学の方は学生の集まりが悪く、ひいては経営上苦労が多いですよ、とのこと。けれど、私の考えは違います。学校の経営とか、財政のことがどうあれ、とにかく今後の日本に必要なのは健康な身体であり、立派な精神を持った人間なのです。この身体づくりの基をなすのが食物栄養学科であり、人づくりの基をなすのが児童学科との信念を持っています。理事の皆さんもどうかこの私の悲願を理解してかなえてもらいたいと訴えました。皆さんも理事長がそれほどまでに固い御決意であれば、何をかいわん、皆その理想を生かすように協力してやっていこうと決議されました。このようにして学部-家政学部、学科食物栄養学科、児童学科の二学科を設置することになりました。
文部省あての大学新設の設置認可申請についてはこのころはしっかりした事務局ができていましたのでそれほど心配はしませんでしたが、県立福岡学園の土地の払い下げが文部省で要求される計画通りに行なわれていない理由で、一とん挫あるやに思われました。だが、福岡県関係当局の英断でこれも解決し、あとは何とか順調に運び、昭和四十年一月二十五日付けで文部大臣の認可を得たのであります。
食物栄養学科、児童学科とも、その後優秀な先生方が揃われ、また内部の施設設備も整い、食物栄養学科においてはこの学科をさらに二つの専攻に分離して1食物栄養学専攻2管理栄養士専攻となり、さらに児童学科のために大学付属あさひ幼稚園を開設して今日に至っております。
五月十七日、本学園の創立記念の日をトして大学開学式ならびに第一期新築校舎の落成式を執り行ないましたが、そのときの私の式辞がありますので記録に残しておきます。
中村学園大学開学式ならびに第一期新築校舎落成式式辞
野も山も新緑に包まれる五月晴れのこの佳き日に、中村学園大学の開学式ならびに第一期校舎新築落成式を挙行いたしますに当たり、文部大臣代理玖村学芸大学長を始め県市御当局、財界の知名士、郷土の知名士、父兄後援会の方々など多数御臨席を賜わり、かくも盛大に式をあげ得ますことはまことに光栄の至りに存じます。
さて、世界の文化はこの二十世紀に於て驚くべき発展を遂げましたが、わけても我が日本は大東亜戦争の敗塵の中から立ち上がり、わずか二十年の間に急速に進歩し、経済、文化に於て世界の一等国と肩を並べるようになりました。そのゆえんは、大和民族の特徴である隠忍自重、奮闘努力によるものであります。しかし、この際われら同胞が心を新たにして世界の情勢を静観する必要があると思います。
現在、文明はなるほど進んではいますが、ひるがえって精神生活は……と考えますと、逆に退歩してはいないかと疑われるのであります。これははき違えている民主主義者と、革命を目的としている共産主義者とが相争い、相かみ合って、人類社会を騒がせているからではないでしょうか。
人間は他の動物と異なり、精神が最も大切であります。同じく民主主義と申しても、英国には英国式の民主々義があり、米国には米国式の民主主義があるごとく、我が日本には長い歴史と立派な伝統があり、それに国民は愛国の精神に燃えて、今日まで日本国を育ててきたのであります。近来、その民主主義をはき違える人々が多くなり、世の中を混乱させていますが、そのためか不良化青少年の犯罪が増加してきています。
これは戦後、和合を欠いだ家庭での母親の教育の不徹底にもよると考えます。ともあれ、私どもは日本国民として進むべき進路を見きわめ、祖国日本の建設を一段と堅固ならしめるためには国民それぞれの立場に於て忠実に努力することが最も大切であります。
私は明治三十五年三月、当時福岡県が日本一の教育県として称揚されていたころ福岡師範を卒業しました。十八歳より教員生活に入りまして、二十六歳のときあたかも福岡県男子師範学校付属小学校訓導時代、弟関次郎が東京高等商船学校航海科在学中結核にかかりましたので、母に死別した私ども姉弟のなかで、私が母に代って弟の病気治療の一切を引き受けることを決心しました。何とかして弟を全快させたいものと苦心惨たんすること十数年間、しかしその甲斐もなく弟はあの世へと旅立ちました。時に、私は三十六歳。ここで、父や姉と相談のうえ姉の末子久雄氏を私の世継ぎにいただき、私は独身生活を決意、一生を日本一の家庭科教師として立たんと元気を振るって横浜市岡野小学校に赴任しました。昼は学校教師、夜分、日曜、長期休暇には帝国ホテルや雅叙園、さては日本料亭に入り込んでコックとなって調理の技術を磨きました。東京をすませて、次は神戸市明親女子高等小学校の家庭科教師をつとめ、また神戸京都、大阪の一流ホテル、料亭で調理の腕を磨くこと前後十年間。福岡市九州高女の興隆に尽くさんと神戸市教育界を辞して、昭和五年同校に赴任しても長期休暇を利用しては東京、大阪、京都へ出かけてコック生活十八カ年間、随分の苦労でした。
大東亜戦争敗戦後食糧事情が著しく悪く、国民の体位の下落見るにしのびず、料理学校を建てて、食品の合理的な使い方や料理の技術、さては栄養の知識を授けて、少ない材料でより以上の効果をあげる調理法を教えて食糧難を救わんと、昭和二十四年四月に中村割烹女学院を創設しました。入学者引きもきらず、三年後には一千名を突破する盛況でしたが、これが私の私学経営の最初であります。
その後研究の結果、栄養士養成の必要切なるを感じ、昭和二十八年に福岡高等栄養学校を設立、ついで昭和三十二年には同校を母体として中村栄養短期大学を設立し、同時に短期大学教授の資格を得て学長に就任しました。
かくて、公立高校卒業の女子学生をあずかって教育を行なっているうちに、高校の男女共学は教育理念にもとる点多々あるをさとり、模範的な女子高校をという意味でやむなく中村学園女子高等学校を昭和三十五年四月開校いたしましたが、風をしたって入学する生徒は九州一円、中国にまたがり、現在では生徒総数二千五百名を突破し、教職員数百十数名を数える大世帯になりました。
ここで、私の胸を打つものが三つあります。その一つは、小、中学、高等学校の少年少女の不良化の何と多いことかということ。いま一つは今回のオリンピックで見せつけられた日本人の体格、体力が、世界のそれよりレベルが低いこと、そしてわが国経済力がまだ低いことであります。
私、身を教育に捧げること六十五年、就中家庭科教師として特に食物、育児、家庭経済のこの三科目について格別の研究を積んで今日に至った関係上、最後の国家社会に奉公するのはこのときと立ち上がり、ここに四年制大学家政学部を設立せんと決意、まず児童学科と食物栄養学科を設けることにしました。さっそく理事会にはかりましたところ、教育に格別熱意を持たれる奥村茂敏理事、杉本勝次理事、徳島喜太郎理事、山田、桜井両理事の賛同を得たので、中村事務局長を先頭に、若いそうそうたる事務職員が立ち上がり、すぐ文部省や厚生省あてに設立認可申請書を出すことになり、徹夜の勢いで奮闘した結果が実を結び、第一回で見事パスしたわけであります。
これについて、第一に申し上げておかねぱならぬ敷地の件があります。これは五、六年前より私がわが中村学園の校舎敷地として目をつけていた福岡学園の移転の跡地で、環境といい、便利といい、大学敷地としては最適であります。また建築の方では、第一期工事は辻組に命じて超突貫工事で見事出来上がり、今日落成式を行なう運びに至った次第でございます。かくなったのは県市御当局の方々、県市会議員、父兄後援会の方々の並々ならぬ御後援の賜で、高いところがら深く感謝の意を捧げる次第であります。
中村学園大学という特異の大学が西日本に産まれ、この大学において賢明なる母親を養成し、身体健康、頭脳明断で、立派な日本人を育てうるすぐれた人材の育成と、管理栄養士を養成して今一歩高い国民の栄養指導者を育て、教育者としての最後の御奉公をいたす決心でありますので、皆様におかせられましても陰となり陽となって御指導下さいますよう御願いして、今日の御挨拶にかえます。
昭和四十年五月十七日 中村学園理事長 中村学園大学長 中村ハル謹言 
たたえる日の丸の十二徳
昭和三十七年前後のことであります。中村栄養短期大学長と女子高校の校長をも兼ねておりましたが、青少年の非行化の問題とか、戦後教育の荒廃とか、私は私なりに日本の教育のあり方につきいろいろと思い悩みました。それが私の思想から発するものか、体験に基づくものか、恐らくその両方が混ざり合ったものでしょうが、何か日本の教育に一本抜けたものがあると漠然と感じていました。
種々思い悩み、研究し、考えをまとめているうちに、だんだんとはっきりして参りました。すなわちそれは戦後の教育改革により、我が国には教育基本法なるものが制定されましたが、これは日本人に対する教育観としては何か欠けています。戦前には教育勅語が厳存し、日本人はかくあって欲しいという人間理想像が示され、またわれわれもそうありたいものと努力をしてきたはずであります。それが戦後取り除かれてしまって、われわれ日本人の実践的倫理綱領がなくなったからに違いないと悟りました。
ちょうどそのころ、私は福岡県日の丸会副会長の職についておりまして、国旗日の丸についての研究もし、関心が強かったのであります。日本人と日の丸-日の丸の表現する美しさ-このなかに、私が理想とする日本人としての人間形成目標が示されていると感得したのであります。具体的にいいますと、国旗日の丸が持っている色や造形を精神的意味にとらえ、これを人間陶冶の徳目として掲げ、日常の徳性酒養のもとにする考えに至ったのであります。私はこの「日の丸の十二徳」を入学式、卒業式、その他の行事ごとに学生、生徒に説き、私の訓話の一部といたしております。
また本学助教授河村順子先生の御世話で「日の丸の歌」を私の責任で制定し、学生、生徒にも愛唱させております。
ここに重複をいとわず「日の丸の十二徳」を記録に残しておきます(略)。
全国料理学校協会会長に就任
昭和三十二、三年ごろには、わが国の料理学校は北は北海道から南は九州まで、数にして三、四百校を数えるほどになっていました。わが国食生活の改善向上に大きく貢献し得る存在になっていたのです。しかし、各個バラバラで統一した力を発揮するまでには至っていませんでした。これではいけない。何とかこの料理学校の連帯を強めようではないかと呼びかけられたのが、食味評論家の多田鉄之助先生。それに中央の日本料理研究家山下茂先生、服部料理学校の服部道政先生等であります。九州にも呼びかけがあり、私もこれに参画し、全国各地からも主だった料理学校の先生方が集まられて、ここに全国料理学校協会が誕生したのであります。九州の方では、この全国料理学校協会の結成にならい、私が中心になって地区組織の結成を呼びかけ、昭和三十四年六月結成のための総会を開き、会員の方々の推挙によって私が全九州料理学校協会会長に就任しました。こうして、私は九州全域の料理学校のお互いの協調と、その発展に尽力しなければならない立場に立たされたわけであります。
昭和四十年に全国料理学校協会初代会長多田鉄之助先生が退任なされ、二代目会長に大阪の辻徳光先生が就任され、私はその副会長に推されました。このころから料理学校協会のことで随分遠方に出掛ける機会が多くなりました。昭和四十三年には辻徳光会長が病気で亡くなられた後を受け、全国料理学校協会三代目会長に推されて就任しました。九州の僻地の私が全国の会長に推されたのは、東京と大阪との間に以前からしこりがあり、そのため中立の私が最適任とされたためのようです。ともあれ、この協会内部には以前から地方ごとに利害の複雑な関係があって、なかなかまとまりがしっくりいきません。私はそのために、何度も飛行機で遠方に出かけ、いろいろのもつれの調停に出なければなりませんでした。そのためとうとう昭和四十三年夏にはもともと悪かった膝をいよいよ悪くしてしまい、ついに車椅子の厄介になる羽目になったのであります。
努力に光る勲章
昭和三十八年十一月、思いもかけず私は藍綬褒章受章の栄に浴しました。教育功労者としての受章でございました。私ごときものがこのような栄誉に与かるとはと、心から感激いたしました。受章のため上京して天皇皇后両陛下に拝謁したときは、私のような明治生まれの者にとっては膝頭がふるえるほどの興奮をおぼえたものです。宮城内を参観してよろしいとのことでしたが、私は足が悪いのでとても全部は見て歩けないと諦めていたところ、ちょうど以前福岡県衛生部にいられた宇土条治氏が宮内庁の課長をしておられるのを思い出して連絡をとりますと、わざわざ出て来られ、車で宮城内を見て回れるように取り計らって下さいました。重ね重ねの光栄に身の縮まる思いで参観させてもらいましたが、陛下が植物研究をなさる研究所などまことに御粗末なもので、その質素さに恐縮したものです。
昭和四十年十一月、今度は勲三等瑞宝章受章の栄に浴しました。勲記、勲章は文部大臣から頂き、続いて宮中に参内して親しく天皇皇后両陛下に拝謁を許され、恐れ多くもねぎらいの言葉まで頂きました。このときの感激は終生忘れ得ぬところであります。
それにしても、私ごときものが二度も受章の栄に浴し、教育功労者として身に余る栄誉を担ったことは、これはひとえに私をして今日まで陰に陽に助け、指導し、協力され、後援された多数の方々の賜ものであって、何とも感謝の言葉もないほどです。私自身、今後とも長生きしてなおいっそう社会のため、わが国教育のためにつくしたいと決意を新たにした次第であります。
このごろ、私のところによく教え子から何か色紙を書いてくれとたのまれます。私はそのときたいてい「努力の上に花が咲く」と書くことにしております。私の一生が努力の連続でありましたし、その努力が報いられて今日の私があると思うからであります。そして、そのような生き方がまた、人生の一つの指針にもなればと思うからでもあります。 
 
大山巌

 

大山巌1
天保13年-大正5年(1842-1916) 日本の武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した軍人。
天保13年(1842年)、薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれた(幼名岩次郎)。同藩の有馬新七等に影響されて過激派に属したが、文久2年(1862年)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる。
薩英戦争では西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣江川英龍の塾にて砲術を学ぶ。戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見や会津などの各地を転戦。討幕運動に邁進した。12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行い、これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称された。
維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。
陸軍では順調に栄達し、西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争においては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。ともに、日本の勝利に大きく貢献した。同藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。
明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼の所謂「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって勤め、また、参謀総長、内大臣なども歴任。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた。
東京・穏田に邸宅を構えていたほか、静岡県沼津市、栃木県那須に別荘を所有、特に那須を愛し、農場も持っていた。
大正5年(1916年)、内大臣として大正天皇に供奉し福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内府在任のまま死去した。75歳だった。臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為驍ネどが一堂に顔を揃え、まるで元帥府が大山家に越してきたようだったという。12月17日国葬。大山の愛した那須に葬られた。
栃木県那須塩原市の大山巌墓所参道。モミジ・ヒノキの並木が整備されており、新緑や紅葉の時期には美しい景観となるという。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
西南戦争では政府軍の指揮官として親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。
ジュネーブ留学時、ロシアの革命運動家レフ・メチニコフ(医学者イリヤ・メチニコフの兄)と知り合う。のちに「東京外国語学校 (旧制)」教師として赴任したが、大山の影響によるといわれる。著書が渡辺雅司により2冊訳されている。『回想の明治維新 一ロシア人革命家の手記』(岩波文庫)と『亡命ロシア人の見た明治維新』(講談社学術文庫)。
従兄弟の西郷隆盛も大柄で肥満体だったが、大山もなかなかのものであった。その体型と顔の印象から「ガマ」(ガマガエル)というニックネームで呼ばれていた。しかも西洋かぶれでかなりの美食家であった。息子の大山柏の回想によると40cm以上もある鰻の蒲焼がのった鰻丼をペロリと完食し、ビーフステーキとフランスから輸入した赤ワインが好物で、体重は最も重いときで95kgを越えていたという。その結果晩年は糖尿病に悩まされていた。妻の捨松は友人への手紙で「主人は最近ますます太り、私はますますやせ細っています。」と愚痴をこぼしていたという。ただし、『元帥公爵大山巌』(大山巌伝刊行会編、1935年)では肥満になったのは晩年のことで、当初はどちらかというと痩せ気味であったといい、槍術を得意としたという。
大山は非常に西洋文化への憧憬が強く、また造詣も深かった。捨松との再婚の時の披露宴招待状は全文がフランス語で書かれた物で人々を仰天させたという。陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸はドイツの古城をモチーフとした物だった。しかし、見た目の趣味はお世辞にもいいとはいえない代物で、ここを訪ねた捨松の旧友(アメリカ人)にも酷評されている。巌はこの新居に満足していたが、妻・捨松は「あまりにも洋式生活になれると日本の風俗になじめないのでは」と、自分の経験から子供の将来を心配し、子供部屋は和室にしつらえていた。この建物は1923年(大正12年)の関東大震災により崩壊した。また後藤象二郎、西園寺公望らと共に「ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っている。
大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられる。日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。ただし俊異の性格は日露戦争中も残っており、児玉が旅順に第3軍督励のため出張している間は、大山が自ら参謀会議を主宰し、積極的に報告を求め作戦を指揮したという公式記録が残っている。
日清戦争直前には右目を失明していたという記録が残っている。
明治38年(1905年)12月7日にようやく東京・隠田の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている。「茫洋」か「俊異」かという事項についての大山自身によるひとつの解答であろう。
病床についてから死ぬ間際まで永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。
大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の武将からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の二人だけだった。
大山家は、東京・表参道(隠田一丁目=当時)に広大な私邸を持っていたが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で焼失した。その際アメリカ軍は大山邸などを目標にしていたと言われる。
陸上自衛隊宇都宮駐屯地には大山の遺品が多数収蔵され、資料館に展示されている。 
大山巌2 / 任せた以上は口出さず、責任は自分が負う
薩摩藩士の西郷隆盛の父の弟は彦八といいますが、その彦八が大山家の養子となり大山彦八となります。そしてその次男として1842年に生まれたのが岩次郎、通称 弥介、後の大山巌です。大山巌は西郷隆盛やその弟の西郷従道と従弟という血縁関係にあります。
大山は6、7歳からから西郷隆盛が頭をしていた郷中教育で、読み書きや薩摩武士の精神を学びます。特に「真田三代記」「武王軍談」「三国志」「太閤記」「漢楚軍談」「呉越軍談」などを読み、特に記憶力が非常によく「真田三代記」や「武田三代記」などは暗誦して周囲を驚かせていたといいます。卑怯なことを嫌い、死を覚悟する潔さを西郷隆盛から学びます。
1862年、大山は島津久光公の上洛で京都に行き、各藩の攘夷派と合流します。しかし大山は寺田屋事件で鎮圧され帰国して謹慎させられました。
謹慎放免後、薩英戦争に従軍してイギリス艦乗っ取りの決死隊に参加し、敗退するも、黒田清隆らとともに江戸の江川太郎左衛門塾に派遣されます。大山はこの江川塾で砲術を極めて砲術の免許皆伝となりました。ここで砲の研究をおこない「弥介砲」という十二斤綫臼砲をつくり上げました。
戊辰戦争で大山は薩摩藩の二番砲兵隊長として従軍し、この弥介砲と免許皆伝の砲術を駆使して戦果を挙げました。
維新後、ヨーロッパに留学し海軍の造船所や大砲の製造所などを見て回ります。「規模や精度はまだまだ日本は遅れている。こんな国と戦争をしたら日本は勝てない。国の独立には兵器の独立が必要だ」という気持ちを抱いて帰国しました。
帰国して8ヵ月後にまたヨーロッパに留学します。普仏戦を観戦したことをきっかけに、軍事学を学び、陸軍をフランス式からドイツ式に改め、新しい知識を基礎に日本陸軍をつくりあげることを決意します。
それからスイスに移り住みフランス語修得に励んでいた大山に日本から手紙が届きました。そこには「西郷隆盛が多くの薩摩藩士とともに鹿児島に帰ってしまったので、明治新政府が危機である。そのためにすぐ帰国してくれ」と書いてありました。
3年ぶりに鹿児島へ帰ってきた大山は西郷を訪ねます。大山は腹を割って西郷を新政府に戻そうと説得します。しかし西郷の決意は固く変わりませんでした。
西郷は不平を持った武士達とともに死ぬつもりでした。これが西郷の国家へのご奉仕でした。大山は西郷の心の中がわかるだけに辛い気持ちになりました。
西郷のもとを去り、幼い頃から多くのことを教えてもらった西郷ともこれが今生の別れだと思うと涙が流れて止まりませんでした。
1877年、西郷のもとで武士達が立ち上がりました。この西南戦争が起こると、大山はこれを鎮圧するために、新政府の指揮官として鹿児島に向かうことになります。西郷を敵として戦うのは大山にとってこれほど辛いものはありません。
半年以上の激しい戦いでついに西郷のたてこもる城山へ砲撃する時が来ました。その砲撃は大山がやることになります。
午前4時からの攻撃は明け方までに勝負は決まりました。西郷は別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、襟を正し、跪座し、東に向かって拝礼して自刃します。
午前9時、城山の戦いが終わるとともに大雨が降りました。雨後、浄光明寺跡で山縣旅団長たちが立ち会いのもとで検屍が行われました。西郷の遺体を大山は見ることが出来ませんでした。
大山は西郷の夫人に弔慰金を渡して突き返されました。また大山の姉は泣きながら大山を責めました。
大山は寡黙に一切の弁明をしませんでした。西郷だけがわかってくれていると信じていたのかもしれません。西郷亡き後、それまでは快活明朗だった大山は、人が変ったように寡黙になり多くは語らなくなったといいます。
しかし、翌年に明治天皇が北陸や東北をご巡幸をなされたときに大山は同行を命じられ、陛下からこのように言われました。「私は西郷に育てられた。西郷は賊の汚名を着せられ、さぞ悔しいと思う。私も悔しい。西郷亡き後、私はその方を西郷の身代わりと思うぞ」
大山は陛下のこのお言葉に身が震えました。「もったいないお言葉でございます。全身全霊を陛下に捧げる所存でございます」大山は陛下のこのお言葉でひかりが差しました。「兄さぁの代わりとなろう」大山の目から熱い涙が流れ落ちました。
日本はロシアとの間に日露戦争が起こります。野戦軍と東京の大本営の間の機関として満洲総司令部が設置されます。この満洲軍総司令官は山縣有朋が選ばれるはずでしたが、明治天皇は大山巌を選びました。
明治天皇は大山に、「山縣も不適任とは思わないが、困ったことに軍司令官たちが喜ばないようだ。山縣は鋭いし万事に気がついて細かく指導するので敬遠されるだろう。軍司令官ともなれば、ある程度の自由を欲するだろう。そこで、あまりうるさくない人物がよかろうということで大山に決めたわけだ」それに対して大山は「大山はボンヤリしているから総司令官に任命する、というふうにも聞こえますが。」明治天皇は「まず、そんなところであろう」と、笑って言われたといいます。
日本が国家の存亡を賭けてのぞんだ日露戦争の陸戦の総司令官として、大山は陛下に大いに期待されました。
事実、大山には「大山のもとでなら必ず勝てる」という人徳と人望がありました。日露戦争の陸軍の勝利は大山と作戦を立てる参謀次長の児玉源太郎にありました。大山は児玉の作戦を全面的に信頼して任せました。任せた以上は口出しをしない、しかし結果の責任は自分が全て負う。大山はこのような姿勢を貫きました。
ある時、沙河付近で秋山好古少将の騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されます。ここが崩れると全軍が分断してしまいます。総司令部では児玉は怒鳴り、騒然として戦慄が走りました。
この様子は大山の部屋にも伝わりました。大山は自分で指揮をとるしかないと考えますが、西郷ならばこの場合どうするかを考えてみました。
そして大山は昼寝から目覚めたようにして総司令部の部屋をのぞくと、「 なんじゃ、賑やかじゃのう。児玉さん、今日もどこかでいくさがごわすか」
突然の大山のこの言葉に総司令部のみんなは笑い出しました。これで緊張感がほぐれ、冷静になって的確な状況判断が出来たといいます。知っていても知らない振りをする。何ごとにも動じない大山の忍耐力のある器量がものをいいました。この統率力こそが日本軍の強さであったかもしれません。
大山は1885年、陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣就任。その後4回陸軍大臣となり、さらには海軍大臣にも1度就任し、参謀総長、内務大臣をも勤め元老となります。長州閥の山縣有朋と並ぶ陸軍の実力者でしたが、政治には関与しなかったといわれています。
愛妻家で子煩悩な大山は仕事が終わると寄り道をせず、芸者遊びもせずに真っ直ぐ家に帰る。
日露戦争後は栃木県の那須の別邸で農業に打ち込む生活をするようになりました。大山はけっして家人に威張ることがなく、悪口を言うこともない。海のように広い心を持ち、誰に対しても謙虚でした。
大正5年12月10日、享年75歳で死去。意識朦朧の中、「兄さぁ」とうわごとを言い、後妻の捨松は「やっと西郷さんに会えたのね」と大山に話しかけました。
大山は西南戦争以来、一度も鹿児島に帰らなかった。 
史料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌
 日露戦争前夜の参謀本部と大正期の日本陸軍
「大山侯ハ実ニ恐露病ニ侵サレタル人ナリ迚モ新事業大決断ヲ決シ得ル人ニアラス」(松川敏胤「明治三十五年 随筆」)。
この大山評は、明治三十五年に、参謀本部第一部長に就任した松川敏胤歩兵大佐のものである。
大山巌(鹿児島県出身、元帥陸軍大将、公爵、明治三十五年当時、参謀総長)。この当時の大山は井口省吾、松川ら参謀本部の中堅層より早期開戦を迫られていた。
明治三十五年五月十五日、参謀本部の部長会議開催の命令が出され、毎週三回会議が開催されることになった。翌十六日の会議の席上、田村怡与造参謀次長が、部長会議の目的を「本会議ニ於テ諸事ヲ決定セラレタシ」と述べ、部長会議が参謀本部の意思決定機関として機能するよう要望した(防衛省防衛研究所所蔵「参謀本部 明治三十五年五月起部長会議録」)。
「明治三十五年 随筆」執筆時から一年経過した明治三十六年六月の部長会議の席上、対露開戦に慎重であった大山が、「ロシアは大国でごわすからなー」といったきりで何も言わず対露開戦に慎重な姿勢を示したとされる(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、一九三五年、二二頁)が、これを裏付ける史料が残されている。
明治三十六年六月八日、満洲問題に関する各部長の意見を聴取するための部長会議が開催された。参会者は、参謀総長大山巌、参謀次長田村怡与造、総務部長井口省吾、第一部長松川、第二部長福島安正、第三部長大沢界雄、第四部長(心得)大島健一および藤室松次郎らであった。この席上大山は「諸官ノ意見ハ軍人トシテ実ニ志シスベキ意見ナレドモ今日之ヲ実際ニ行ハンコトハ頗ル困難ナリ露モ大国ナリ決シテ和ヲ講フノ結局ニ出デズ、一度開戦セバ五億六億ニ止ラズ費用ハ遂ニ我国ヲ亡スノ結果ニ陥ルコトヲ恐ル、内閣諸公ト雖モ安易ニ決心シ得ルモノニアラズ」と、開戦を迫る部長たちに向って「慰撫的ニ意見ヲ述」べた(前掲「参謀本部 明治三十五年五月起部長会議録」)。大山が退出後、井口省吾が「駄目だ、今の返事はどうぢゃ」と大声で怒鳴ったが、これに対して大島健一が「それは無理もないだろう」と述べ、おさまりのつかない井口が「イヤあんなこつちやいかん」とやり返すと、大島が「だが貴様達総長になつてわれ〱の席に出て来ても、直ちにそれは御尤も、やらうぢやないかとはいはないだろう、暫く様子を見ようぢやないか」と説き、井口もようやく納得したという(前掲『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』二二頁)。
なお、大山は平生、寡黙な人物であり、一諾を重んじる人物であった。松川がこれに関して次のような証言を残している。「私は少佐時代、日清戦争の第二軍の参謀として大山元帥に従ひ、又日露戦争にも満洲軍総司令部参謀として、元帥の下に従事したから、元帥には比較的長い間御厄介になつた。日露戦争には元帥も余程御心配になつて居られたに相違ない。特に旅順の陥落が思はしく捗らなかつたのと、奉天大会戦には最も頭を痛められたのであるが、併し胸中の心配は、少しも顔にも態度にも現はされずに常に泰然自若温容悠々たるもので、私等は古今の名将であると、屡々感じた事であつた。総参謀長の児玉大将を始め、我々末輩の参謀の申す事も、元帥は一々能く聴かれ、最後に『宜しい』と言はれる。この『宜しい』は実に千鈞の重みがあつて、苟も一旦『宜しい』と言はれた以上、山が崩れやうが、海が裂けやうが、断じて変更されない。それは即ち遠謀深略の結果に外ならぬ。元帥が一旦承諾された以上、それを変更せられないのは凡人より考ふれば、事情の推移を御存知ないからかと云ふに、決して左様ではない。今は日本軍が不利であるとか、此の戦は何う、此の次は斯うと、皆知つて居られた。それで『宜しい』と決せられるには、充分の注意を払はれた結果であるから、断じて変更されない訳であつて、一諾千鈞の重き所以は即ち其処にある。平生口で何事も云はれないが、能く気が付かれて目から鼻へ通り、善悪良否を見るの明は、実に驚く計りでありました」(尾野実信『元帥公爵大山巌』大山元帥伝刊行会、一九三五年、八八八頁)。
大山は満洲の戦陣で寝食を共にした満洲軍総司令部参謀田中国重も「今日にいたるまで大山元帥が如何なる人であらうかといふことは、私も疑問の一人としてをる」(前掲『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』五九頁)と評すほど、茫洋として捉え所がない人物であった。だが、松川の回想を読むと、大山はすべてを知っていながら、何も知らない風を装っていたというのが正確なところであろう。これを裏付ける挿話がある。日本軍にとって苦戦となった沙河会戦中のエピソードである。松川をはじめとする幕僚が戸外で協議談合していた。その時に、散歩から帰ってきた大山が、松川に向って「松川さん大砲の音はもう聞こえませんか、戦はすんだのですか」と話した。幕僚が戦況の推移に苦心惨憺している中で総司令官である大山が平然とした顔でこのように意外な発言をしたため、松川はこのことを一つ話にしていたそうであるが(前掲『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』五八頁)、ところが、これも諧謔好きの大山の芝居であった。奉天会戦十周年の記念日に、「総司令官と云ふものは、どんな心掛けで、戦をするものですか」と息子から聞かれた大山は、「知つちよても、知らん振りすることよ」と簡単に答えたそうである(前掲『元帥公爵大山巌』八一六頁)。
「明治三十五年 随筆」当時は手厳しかった松川の大山評は、日露戦役を共に戦う中で変化し、大山の薨去に際し、松川は、「嗚呼終に我日本の活国宝たる此大偉人を喪へり。実に惜みても尚惜しき事なり。余は冷たき元帥を拝したる時胸一杯になり暗涙を禁する能はさりき。」と述べている(松川敏胤「詩仏耶日誌 巻十九」大正五年十二月十日)。 
日露戦争
満州軍総司令官。日露戦争における実質の総司令官である。
血筋は西郷隆盛の従兄弟にあたり、西郷の弟の従道とともに器の大きさで知られる。大らかでデンと構え、どこか抜けたような風貌ながら、幕末の動乱期を前線でかいくぐってきた猛者であり、当事は常に西郷のそばで補佐する立場にあった。大山の、薩摩武士の首領としての振る舞いは西郷の影響を色濃く反映したもの。明治初期には「薩摩はバカだ」という陰口があったというが、これは西郷を始めとする薩摩の主要連中の事を指しており、細事にこだわらず、また雄弁を嫌う薩摩式のリーダー像が、他藩から見ればのろまに見えたという事だろう。その薩摩式の本流を行く大山が、当事の西郷そのままの像で、国運をかけた戦の総司令官となった。
大山は開戦前に、とある人物に「勝っている時は児玉さんに全てをまかせる。いよいよ敗け戦になる時には自分が出て行かなければならない」と語っているように、日露戦争中は全てを参謀総長の児玉源太郎らに委ねる形をとった。結局、形式上は勝ち続けたため、大山の出る幕はほとんどなかったと言ってよく、代わりに激戦中での大山のボケたエピソードばかりが残されている。が、西南戦争のころより、大山が(意図的に)ボケて見せるのは戦況が非常に厳しい時であるとされ、すなわち大山の『本当の意味での出番』はすぐそこまで来ていた証でもある。
ちなみに、大山が語った、先述の“とある人物”とは海軍大臣の山本権兵衛だ。山本は開戦に先立ち、対露の停戦交渉こそが日本の生命線である事を大山に念押しに行った際、上記の台詞を受け取っている。この時山本は、大山に国内大本営に残るよう提案したというが、あっさりと断られている。大山が言うには「彼らは戦は私よりもずっと上手だが、必ず我を張って作戦に支障をきたす」という事なのである。だから自分が現場で総指揮をとらねばならないと。ここでいう彼らとは、第一軍の黒木と第四軍の野津のことである。共に薩摩武士の上がりであり、黒木などは大山と同郷の下加治屋町の出だから幼時の頃から知っている間柄だろう。
ところで大山は、砲術の第一人者だ。祖先の代から何かと飛び道具に縁があり、父の影響もあって若い頃から大筒の研究に余念が無かった。幕末の戊辰戦争においては砲術長として活躍。自らの名のついた『弥助砲』というものも開発している筋金入りの砲兵家である。明治に入ってからはドイツ留学でさらに磨きをかけており、またこの時に普仏戦争におけるメッツ要塞の攻略戦(独の勝利)に観戦武官として従軍。近代要塞における戦闘規模のすさまじさを自らの眼球に焼き付けてきた人でもある。これらの経歴から分かるように、一見のろまでうすボケの人物は全く以って表面上のものでしかなく、「大山さんの偉さは、下で使われた者しか分からない」という、当事の桂首相の言葉が現実味を帯びてくるわけだ。
とは言え、もちろん大山も万能ではない。結果から見れば適切ではなかった判断もある。旅順要塞の203高地である。海軍の秋山真之参謀より、攻略の主眼を203高地に集中すべきとの案が出た際、東京の大本営はその道理に賛同し、すみやかにこれを実行に移すべきと判断した。だが、現地での決定権を持つ大山はこれに否定的だった。203高地については、攻略を担当する乃木と、その参謀長の伊地知が非難の対象となりがちだが、実際に現場で敵と対峙している人間には、いまひとつその攻略の意図がつかめないものだったのかもしれない。もしくは砲術の専門家である伊地知がそうであったように、砲のエキスパートである大山も何らかの固定概念があり、それが要塞攻略の正面突破にこだわりを持たせ続けたのだろうか。
ともあれ、大山の難色が旅順攻略に一定の影響を与えた事は確かであり、後日児玉参謀総長を旅順に遣る事(及びそれに伴ういくつかの英断)によって大いに挽回する事になった。
戦後は那須で農業などしながら静かに暮らしたが、故郷の鹿児島へは遂に帰らなかった。これは自らが強く慕った西郷を討伐せざるをえなかった西南戦争の感傷によるものとされている。何度か首相に推されながらその都度断り続けたのは、西郷を逆賊として貶めた明治政府に対する抵抗であったとも言われる。その大山もいよいよ臨終が迫った際、「兄さぁ(西郷の事)」とうわ言を放っており、最後までその精神の支柱が西郷である事を周囲に知らしめた。 
芥川龍之介「本所両国」のある風景 表忠碑
「両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巖侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。・・・僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年前の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣には行かなかつた。・・・」
円覚寺の弁天堂脇に建っている。日露戦争の戰病没者を表忠する碑。表忠とは忠義をあらわすという意味。
(正面)
「表忠碑」の篆額の下に、「加まくらや  む可しな賀良乃  鐘の音耳 寄りつとふら志 も能ヽ婦能靈 孝阿」と孝阿のの歌が刻まれている。
(裏面)
老友船茂孝阿翁東京向島人以慈悲博愛
爲楽家有餘貸則義捐公事賑恤窮困園有
餘地則貸與学校不收其價頃者在鎌倉寄
書曰圓覺寺梵鐘北條貞時所鑄蓋祈其父
時宗及元寇殉難士冥福也吾亦欲建碑於
鐘樓側弔卅七八年役彼我戰死病歿者余
謂慈悲佛陀之本願也博愛人道之極致也
翁之此擧不獨足慰藉死者靈其關世道人
心不為尠故余喜記之併及翁平生如此
明治三十九年二月
陸軍教授従六位勲六等丸山正彦撰竝書
藤澤廣田仲太郎刻之
篆額 當山二百十世大教正
宮路宗海書 
 
夏目漱石と天皇制

 

明治の末年から大正の始めにかけて、「大逆」事件(1910年)、南北朝正閏問題(1911年)、辛亥革命(1911年)、明治天皇の死と大正天皇の践祚・改元(1912年)、明治天皇の大葬との乃木大将の殉死(1912年)、明治天皇の死後1年半あまりで、その後を追うように同じ腎臓病で死去した昭憲皇太后の死と葬儀(1914年)、そして、即位の大礼(1915年)など、 天皇制について深く考えさせられる事件が続いた。美濃部達吉の「憲法講話」(1912年)が出て、天皇機関説をめぐる論争が繰り広げられたのもこの時代である。「大逆」 事件後の「冬の時代」から「民本主義」が強調される「大正デモクラシー」の時代へと、思 想的文化的な時代の相貌は大きく変わって行った。
漱石についていえば、この明治から大正への代替わりの時期は、修善寺の大患以後のいわゆる後期三部作を書いた時期であり、最晩年の『道草』、『明暗』へと続いて行く時期である。従来、漱石の文 学はこうした時代の動きと無関係に、ひたすら漱石個人の内面的世界の発展展開として読まれて来た。しかし、この時期の漱石は、毎年のように相次ぐ大きな病気に苦しみ、次第に迫って来る自己の死をじっと見つめながら、自己の生涯と明治という時代の終焉を重ね合わせ、新しい時代について、人間と社会、日本の天皇制についてなど、自己の外部に広がる世界について真剣に考え、最後の力を振り絞って書き続けていたのである。
1912年(明治45)7月20日の日記によれば、漱石はこの日の晩、号外で「天子重患」のことを知った。 尿毒症で昏睡状態ということで、両国の川開きが差し止められた。漱石はこの川開きの中止について、「天子未だ崩ぜず川開を禁ずる必要なし。細民これがために困る者多からん。当局者の没常識驚くべし」と書いた。そして、演劇その他の興業ものの停止について、「停止とか停止せぬとか騒ぐ有様也」 と当局者の狼狽ぶりに対する軽蔑の感情をあらわに示し、「天子の病は万臣の同情に価す。然れども万民の営業直接天子の病気に害を与へざる限りは進行して然るべし。当局之に対して干渉がましき事をなすべきにあらず」と批判した。
もし 「臣民」 に中心より遠慮の意があるならば、営業を勝手に停止するのは勿論自由だが、「然ら ずして当局者の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば、表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども其実は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。 恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に醸すと一般也」と、漱石は当局者のやり方を厳しく批判した。新聞紙は異口同音に「都下闃寂火の消えたるが如し」というが、「妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聴」しているので、これは「天子の徳を頌する所以」でなく、かえって「其の徳を傷くる仕業」であると、鋭い観察を下している。
これに先立つ六月十日の日記にも、皇室に関する同様な記述がある。行啓能を見た感想として、皇后、皇太子は喫煙し、他の観客は禁煙であることについて、これは陛下殿下の方で我等臣民に対して遠慮があってしかるべきだと述べ、もし、自身喫煙を差し支えなしと思うのならば、臣民にも同等の自由を許されるべきだと記している。さらに、陛下殿下に対して煙草を煙管に詰めてやったり、火をつけてやったりしていたのは「見てゐても片腹痛き」ことで、「かゝる愚なることに人を使ふ所を臣民の見てゐる前で憚らずせらるゝは見苦しき事なり。直言して止めらるゝ様に取計ひたきものなり。宮内省のものには斯程の事が気が付かぬにや。気が付いてもそれしきの事が云ひ悪きや。驚くべき沙汰也」と批判している。
漱石は「帝国の臣民陛下殿下を口にすれば馬鹿丁寧な言葉さへ用ひれば済むと思へり。真の敬愛の意に至っては却つて解せざるに似たり」と述べ、「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴えて敬愛の念を得らるべし。それが一番堅固なる方法也。それが一番長持ちのする方法也」と記している。そして、「政府及び宮内官吏の遣口もし当を失すれば皇室は愈重かるべし而して同時に愈臣民のハートより離れ去るべし」と述べている。
当時の日記のこの二つの文章は、漱石が皇室の前途に「恐るべき結果」が生ずる危険を感じ、「堅固なる方法」「長持ちのする方法」を真剣に考えていたことを示している。漱石は天皇制否定論者ではなかった。しかし、天皇を絶対化し神格化し、人民を押さえ付ける道具とすることに反対だったし、また、天皇を利用して私利私欲をはかる権力者の在り方にも敏感で、そうした傾向が次第に露骨になって来ることに天皇制の危機を感じていた。この危機感の根底には1910年の「大逆」 事件があり、清朝が滅んで宣統帝がラストエンペラーになった1911年の辛亥革命があった。
「大逆」 事件の名の下に、堺利彦や大杉栄など当時獄中にあった者を除いて、無政府主義者ばかり でなく社会主義者までも根こそぎ検挙された1910年は、漱石のいわゆる「修善寺の大患」の年であった。この年以後、漱石の文学に大きな変化が見られるが、それはすべて大患による変化と解釈するのが、これまでの漱石論の大勢でる。たしかに、大患が与えた思想的影響は深く、「大逆」 事件に関する直接の発言はない。しかし、「大逆」 事件とその後のいわゆる「冬の時代」は、後期の漱石の文学に 大きな影を落としているのである。 
『野分』(1907年)の主人公は「電車事件」の犠牲者救援のための演説会で演説する。これに反対の 妻は、「社会主義だなんて間違へらるとあとが困りますから」と引きとめるが、「間違へたつて構わな いさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」といって、 会場に赴くのである。 「電車事件」というのは、1906年3月の東京市内三電車会社の電車賃値上反対市民大会に対して凶徒 聚嘯罪が適用された事件のことと思われるが、 8月にも電車賃値上げ反対のデモが行われている。こ れに関連して、夏目漱石についても関係のある記事が都新聞に出たらしい。 8月12日の深田康算宛書簡に漱石は次のように書いている。
都新聞ノキリヌキワザく御送被下難有存候電車ノ値上ニハ行列ニ加ラザルモ賛成ナレバ一向差シ支無之候。 小生モアル点ニ於テ社界ママ主義故堺枯川氏ト同列ニ加ハリト新聞ニ出テモ毫モ驚ロク事無之候コトニ近来ハ何事モ予期シ居候。新聞位ニ何ガ出テモ驚ロク事無之候。都下ノ新聞ニ一度ニ漱石ガ気狂ニナツタト出レバ小生ハ反ツテウレシク覚エ候
この時期の漱石は、高浜虚子に宛てて「世界総体を相手にしてハリツケにでもなつてハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい」(1906年7月3日)などと書き、鈴木三重吉に宛てて「苟くも文学を以て生命とするものならば・・・(中略)・・・維新の当士[時]勤皇家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。 間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ」 (1906年10月26日)と書いたりしていた。この激しい気持ちで『野分』を書き、「文芸上の述作を生命とする」(「入社ノ辞」 1907年)者として朝日新聞に入社したので あった。
この時期の漱石の激しい精神には、たしかに社会主義者の精神に通いあうものがあった。しかし、朝日新聞入社後の第一作である『虞美人草』の甲野さんには、もはや『野分』の白井道也の直進する激し さはない。そこには明らかに漱石の挫折が認められる。そして、その挫折の背後には、この時期に顕著になった明治の社会主義運動の分裂と後退という事実がある。思えば電車賃値上げ反対の市民大会は、明治の社会主義運動の最後の高揚という感があった。この時は国家社会主義者の山路愛山が代表者になっていたのだし、社会主義者の大きな結集があり、市民の盛り上がりも大きかった。しかし、社会主義に対する弾圧は苛酷を極めた。普通選挙を実現し、議会制民主主義によって社会主義を実現する可能性は極めて乏しかった。幸徳らは人民の直接行動を主張する無政府主義に転じ、一方、木下尚江らは絶望して運動から離脱していった。
『虞美人草』の末尾に、次のような甲野さんの日記の言葉がある。「悲劇は遂に来た。来るべき悲劇はとうから預想して居た。預想した悲劇を、為すが侭の発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である」 「隻手を挙ぐれば隻手を失ひ、一目イチモクを 揺ウゴかせば一目を眇す。手と目を害うて、しかも第二者の業は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖に、眼を閉づるは恐るゝのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶に本来の面目に逢着せしむるの微意に外ならぬ」
この言葉には『野分』の激しさはない。しかし、道也の激しさがともすれば内容を欠いた抽象的観念的な決意の表白となり、言葉ばかりが空転する空虚さを免れなかったことを思うと、ここには絶望的な現実をふまえ、かえってそこに、作家としての自己の使命を見出した作家としての決意が語られていると見ることも出来る。ここには現実に対して知識人が如何に無力であるかが語られている。現実にはびこる悪を除去しようとすれば、たちまち弾圧されて手も足も出ない。現実が現実自身の法則により、それ自身の矛盾によって破滅への道を進むのをどうすることも出来ず、手をこまぬいてじっと見ているよりほかに方法がないのである。
人は破滅=悲劇に直面してはじめて、自己の罪を自覚し、自己に目覚めて、再生の道を求める。作家は現実の時間を圧縮し、作中において想像的にまざまざと破滅=悲劇を体験させ、読者が自己の罪を自覚し、自己に目覚めることを可能にしようとする。漱石はそこに作家としての自己の道を見出した。『虞美人草』以後、漱石はもはや現実をに能動的に働きかけ、現実を変革しようとする積極的な 主人公を作中に登場させることはない。これ以後、漱石文学には直接的な救済も解放の道が示されることはもなく、作中人物たちは最も深刻に近代の悪に毒され、身動き出来ぬ自己疎外に陥った人々となる。漱石は近代の暗黒を徹底して追及したのであり、そこに解放と救済の可能性を探り求めたのである。
『それから』では、平岡の口から「幸徳秋水といふ社会主義の人を政府がどんなに恐れてゐるか」が語られる。秋水の家の前には巡査が二三人ずつ昼夜張り番をしている。一時は天幕テントを張って、 その中から狙っていた。秋水が外出すると巡査が後をつける。見失いでもすると大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人のために月々百円使っているという。平岡はこれを戦争で儲けた大倉組の詐欺的商法と並べて、「現代的滑稽の標本」だという。代助は社会主義に興味を持たないので黙っていたというが、この作品は日糖事件という政財界癒着の汚職事件を扱っており、この作品に当時の腐敗した社会に対する厳しい批判が込められていることは明らかである。しかし、石川啄木が鋭く指摘したように、それは如何ともし難い「時代閉塞の現状」であった。代助は自分を「精神的敗残者」という。漱石はこの時代の閉塞状況を生きる代助の絶望と退廃を描き、人間的生存の可能性を探った。
漱石が幸徳らに対してどのような見解をもっていたかを直接知ることは出来ないが、強い関心と同情を寄せていたことは否定出来ない。漱石の探偵嫌いはよく知られている。 政府はひたすら警察の力で秋水らの運動を外部から押さえこんだばかりでなく、さらに密偵を用いて運動と組織の内部に忍び込み、内部から撹乱して運動を崩壊させようとした。漱石がこうした政府のやり方に反感を持ったのは当然である。しかし、同時に強い不安と恐怖にとらわれたことも否定出来ないと思う。
『それから』には冒頭から不安の色が濃厚に立ち込めている。そして、代助はアンドレーエフの 『七刑人』の最後の処刑の場面を思い起こして「ぞっと肩をすくめ」るのである。代助の生きる現実世界を取り巻くものとして、幸徳らの運動があり、日本の警察による探偵たちを動員しての執拗な追及があり、『七刑人』の恐怖がある。幸徳らはこの作品が書かれた翌年検挙され、一年もせずに処刑されてしまった。それは理不尽な裁判であった。もはや『七刑人』の恐怖は、単に外国の作品に見られる想像的現実に過ぎないものではなかった。
幸徳らの事件は「修善寺の大患」と重なっており、漱石におけるこの事件の意味は見失われがちである。大患後の後期三部作の作品論的検討は別の機会に譲らなければならないが、これらの作品において、主人公たちの自己閉塞と自己疎外がますます深刻になって来ていることだけは、容易に指摘することが出来る。これらの作品は、「大逆」 事件以後の「時代閉塞の現状」を生きる知識人の苦悩を 追究したものと見る時、漱石の文学世界はもう一つの新しい光で照らし出されることになる。 
幸徳秋水逮捕の記事が解禁になって新聞紙上に出たのが1910年6月3日のことである。 事件の概略が報じられたのは6月5日、漱石が長与胃腸病院に入院したのは6月18日のことであった。当時の新聞記 事によれば、幸徳は病気の身ではあるし、警戒も厳しくて身動き出来ないので、直接的な運動からは身を引き、療養と著述に専心するために湯河原の天野屋に滞在中で、同志からは変節者として糾弾されていたのだという。幸徳がやがて、この事件の首班として処刑されるなどとは、この段階では、到底想像出来ないことであった。しかし、半年後の1911年1月24日、幸徳らは不敬罪で狡首刑に処せら れた。この時、漱石は修善寺の大吐血後、 再び長与病院に入院中であった。退院は2月26日である。 この幸徳らの逮捕から処刑に至る半年余りは、日本の思想と文学にとって極めて重大な時期であった。石川啄木が思想的に大きな飛躍を遂げるのもこの時期であったが、この重大な時期に、漱石は修善寺で大吐血をし、生死の間をさまよい、長い療養生活を送ったのであった。この時期、1910年7月1 日に病院に啄木が見舞いに来ており、5日にもまた立ち寄っている。特別な意味はないかも知れない が、同じ朝日新聞に職を持つとはいえ、あまりに掛け離れた境遇の二人であり、これまで交流がなかっただけに、やはり気になる出来事である。
この時期の漱石は、入院中にもかかわらず朝日新聞紙上に連続的に評論を発表している。1910年7 月のものに「文芸とヒロイック」「艇長の遺書と中佐の詩」「鑑賞の独立と統一」「イズムの功過」などがある。大患の後は「思ひ出すことなど」が病院で書かれるが、1911年2月以後になると、「博士問題とマードック先生と余」 「マードック先生の日本歴史」 「博士問題の成行」 「文芸委員は何をする か」 「学者と名誉」 などを相次いで発表する。 このように連続的に大量の評論を発表したのは、 漱石 の生涯でこの時だけである。
この間に、6月には長野で「教育と文芸」 と題して講演し、 8月には関西地方で開かれた朝日講演会 に参加して、13日には明石で「道楽と職業」、15日には和歌山で「現代日本の開化」、17日には堺で 「中味と形式」、18日には大阪で「文芸と道徳」と、連日の講演旅行をしている。 病後で小説が書け ないから、 朝日のこの講演依頼に応じたというのだが、 交通事情も悪く、 冷房などもちろんない時代に、病後の身にとっては余りにも強行軍であった。その結果は、ついに胃潰瘍が再発し、大阪の湯川 病院に入院する破目になった。何がこの時期の漱石をこのように激しい言論活動に駆りたてたのだろうか。それを「大逆」事件と関係がなかったと考えることは出来ない。
幸徳らの事件そのものが、言論、思想、学問に対する、政治権力による不当な弾圧であった。そしてこれを契機に、文学や思想の各方面にわたって発禁が相次ぎ、広い範囲にわたって言論活動に対する無法な弾圧の嵐が吹き荒れた。幸徳らが処刑された直後には南北朝正閏問題が起こっている。南北朝併立の見地に立つ当時の小学校国定教科書が、万世一系皇統連綿の公理に反すると批判され、国粋団体大日本国体擁護団などの動きも絡み、新聞紙上を賑わす政治問題化した。その結果、教科書は書き換えられ、国定教科書編纂官の喜田貞吉は休職になったのである。
漱石の博士号辞退はこの時期に起こった。これは決して、単に漱石の偏屈というような個人的気質の問題に還元してしまうことの出来る問題ではない。もともと『吾輩は猫である』や『虞美人草』などにも、博士号を有り難がる気風に対する批判はあった。しかし、幸徳らが処刑された直後に博士号 が授与され、 しかも、 辞退したにも拘わらず辞退を認めないという、政府の一方的な高圧的態度に接するに及んで、 漱石の怒りは爆発した。
政府は一方で学問思想に対する苛酷な弾圧を続けながら、その手で漱石に博士号を授与して、 学問的権威を付与しようとした。 しかも辞退することを許さないというのである。それは国家が学問に対する評価を行い、権威づけをすることであり、国家を学問の上に置く思想の現れであった。しかも、 辞退を許さぬというのは、 学問的には何の権威もない国家が、 学問の問題にまで自己の権威を絶対化し、 学者個人の意志を無視蹂躙するものであった。
漱石には政府の横暴に対する怒りがあったばかりでなく、 国家の権威を妄信し、学問の内容も分 からず、むやみに博士号を有り難がる世間一般の風潮に対しても反感と怒りがあった。博士をむやみに有り難がるのは、博士ならざる学者を、たとえ彼がどのような研究をしていても、ただ、その名の故に博士より劣る者ときめこみ、低劣な研究と生活の条件に放置して顧みないことである。漱石は、博士は学者中の貴族だといっている。博士号授与は学者の中に差別を持ち込むものである。しかも、学問的には何の権威もなく、むしろ学問・思想の圧迫者である政府がその選別をするのである。当時 世間を騒がせた漱石の博士号辞退事件は、政府が代表するとする国家の権威が、学問の世界にまで力を及ぼそうとすることに対する戦いであり、学問における権威主義、さらには権威主義一般に対する戦いであった。
この時期、漱石は博士問題だけでなく、「文芸委員は何をするか」「学者と名誉」などで、政府が国家的な文芸院や学士会院などを作って、文学や学術奨励のために賞を授与することに強く反対した。 「文芸委員は何をするか」で漱石は、「政府はある意味に於て国家を代表している。少くとも国家を 代表するかの如き顔をして万事を振舞うに足る位の権力者である」と述べている。国家と政府を区別して考えている点は、漱石の思想を考える上で興味があるが、この政府によって委員に選任された文学者の見解は、様々な見解の中のひとつであり、「一家の批判」に過ぎない。それなのに、「政府の威信」によって「普通文士の格を離れて、突然国家を代表すべき文芸家」にされ、「天下をして彼等の批判 こそ最終最上の権威あるものとの誤解を抱か」せることになるのである。これは「その起因する所が文芸そのものと何等の交渉なき政府の威力に本づくだけに猶更の悪影響」を与えるものであると、漱石は「文芸委員」の制度そのものを鋭く批判している。
「(政府が)文芸委員を文芸に関する最終の審判者の如く見立てて、この機関を通して尤も不愉快 なる方法によつて、健全なる文芸の発達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物のみを奨励して、その他を圧迫するは見やすき道理である」と、漱石は政府の意図を鋭く暴露した。そして「政府は今日迄わが文芸に対して何らの保護を与えていない。寧ろ干渉のみを事とした形迹がある。それにも拘わらず、わが文学は過去数年の間に著しい発展をした」として、余計なお世話をせず「野生の儘で放って置けば、此先順当に発展する丈である」と述べた。
一方で幸徳らを理不尽に処刑し、言論・学問・思想に対して横暴苛酷な専制的弾圧を加えながら、一方で官製文芸委員によって文芸保護をはかるという政府の欺瞞性、それが文芸保護に名を借りた干渉であり、政府による文芸の統制に道を開くものであることを鋭く暴露したのである。 
「文芸委員は何をするか」の見地は、1912年(大正元年)10月、明治天皇の大葬の直後に書かれた「文展と芸術」にも受け継がれている。漱石はこの一文を「芸術は自己の表現に始まつて、自己の表現に終はるものである」という一句で始めているが、この言葉は漱石の芸術観の根底をなすものとして、文中で繰り返して述べられている。芸術家はひたすら自己の内的衝迫に忠実に、自己の表現に終始すべきもので、他者の評価をあてにして創作してはならないというのである。漱石はこの見地から、美術家の登竜門とされる文展に対する厳しい批判を展開した。文展は国家の権威を背景とする文部省主催の官選美術展である。芸術が徹底した自己の表現であることによって、常に新しく創造的であることが求められる以上、芸術評価の基準は決して一元化されるものでなく、芸術に国家の権威を持ち込むことは許されない。漱石は、国家の権威を背景にすることによって、文展が美術家に対する世間の評価に大きな影響を持ち、文展に落選したために妻君から離縁されたという話まであるといって、このような文展は、「既に法外な暴威を狭サシはさんで、間接ながら画家彫刻家を威圧していると見て宜ヨロシかろう」と述べている。そして、この頃のように文展の及落が画家彫刻家の間で大問題になる以上 は、やがては「御上の御眼鏡」にかなって仕合せよく入選した作家でなければ画家として世間に立つことが出来なくなるだろうと指摘している。
「文展と芸術」の漱石は、自分が個人主義の立場に立つことを宣明し、いつかこの問題をもっと深く考え、そしてもっと明らかに語りたいと述べている。さらに、自分が「如何に権威の局所集中を忌むか」「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものの勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」をも「最も明らかに語りたい」と述べている。
この約束を果したのが、1914年(大正3)11月の学習院での講演「私の個人主義」である。「私の個人主義」で展開される思想は、「文展と芸術」の根底をなす思想であり、「大逆」 事件以後、修善寺の大 患をはさんで展開された一連の評論活動と密接に結びついている。
「文展と芸術」 の漱石は、「個性を尊重すべき芸術を批評するのに、自分の圏内に跼蹐して、同臭 同気のものばかり選択するという精神では審査などの出来る道理がないあ。具眼者ならば、己れに似寄ったものの代りに、己れに遠きもの、己れに反したもの、少なくとも己れ以外の天地を開拓しているものに意を注いで、貧弱なる自己の趣味性に刺激を与え、爛熟せる自己の芸術観を啓発すべきである」と述べた。審査の任に当たる者は「同類相求むるの旧態」を捨て、「異類相援くるの新胸懐」を開いて批判の席にすわるべきだというのである。
漱石は作中に常に自己と異質の人物を登場させ、他者の眼を導入して、作品世界を新鮮にし、現実認識を深化し続けた。漱石における個人主義の問題は、人生観、社会観、世界観の問題にとどまらず、それは直ちに芸術観の問題であり、批評方法、創作方法の問題であった。人生観、社会観、世界観の問題が直ちに芸術観、批評方法、創作方法の問題と結びついて一つの世界を形成しているところに漱石の特質がある。
漱石の権威主義に対する批判、「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛かる所謂モッブなるもの」に対する批判は、政府が文芸院や学士会院や文展などをを作って、国家の権威を背景に学問・芸術を支配しようとすることに対する批判であるだけでなく、西欧の「新しい」文芸思想の権威を笠に着て、派閥の力で狭い文壇を支配しようとする傾向、特に当時の文壇を支配した自然主義派なるものに対する批判でもあった。
1910年7月の「文芸とヒロイック」では、故障で沈没した潜航艇の佐久間艇長が、酸素の欠乏のた めに、呼吸が困難になり、刻々と死が迫って来る状況において、事故の実態を最後まで乱れる筆で書き記した事実に深く感動したことを記し、ヒロイックな行為をすべて虚偽とする自然派の主張に対して、「重荷を担うて遠きを行く獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議な行為があると 云ふ事を知る必要がある」と述べている。自然派も狭い文壇の中で通用すればいいというのでなければ、「彼等と雖も亦自然派のみに専領されていない広い世界を知らなければならない」というのである。
これは現代の人間にもなおあるヒロイックな行為についての感動を述べると共に、既製の人生観やイズムによって人生はかかるものと決め込んで、現実そのものに眼をふさぎがちな現代の傾向、イズムに縛られて、現実を固定的公式的にしかとらえられない自然派の傾向を批判したもので、「イズムの功過」に連なる見解である。
この時期に漱石がヒロイックなものに改めて強い関心を寄せたことは、一身を犠牲にして人民の解放を目指した幸徳等の事件と関係があるのではないかと思われるが、一方で漱石は、軍神と崇められる広瀬中佐が旅順口閉塞に出発する時に残したという詩について、必要もないのに自己のヒロイックな感情を誇張して表現しており、自己広告の感があるとして厳しく批判した。
漱石が強調しているのは人間的真実ということであり、自己の内的必要に迫られるということである。そこにはじめて人間と現実の新しい発見が生まれる。漱石はこの新しい発見を何物にも増して重視した。固定的なイズムの枠の中に現実を閉じ込めることに反対すると共に、自己をみせびらかすために、自己の感情を誇張する大袈裟な表現、紋切り型の表現を厳しく批判したのである。
現実は常に自己の意識を超え、既製のイズムや理論を超えている。現実は常に解き難い謎なのである。たしかに他者の経験、既製の理論やイズムに学ぶことによって自己の認識が拡大されるということは否定できない。しかし、他者の経験、既製の理論やイズムに縛られ、世界をその枠の中に閉じ込めるならば、自己の狭い主観に閉じこもるのと同様に、人生の真実、現実世界の真実から隔てられ、遠ざけられる。
あらゆるイズムや既製の理論は、自己の認識を拡大し、解放するためにあるので、その枠の中に自己を閉じこめるためにあるのではない。この現実に直接触れ、この現実を直接生きる苦難に満ちた生存の戦いそのものこそ、本質的に人間の認識を拡大し、発展させる。あらゆる創造的な認識の源泉はそこにあり、新しい創造的な文学の源泉もそこにある。
「イズムの功過」の漱石は、イズムは「既に経過せる事実を土台として成立するもの」「過去を総束するもの」「経験の歴史を簡略にするもの」「与えられたる事実の輪廓」であり、「型」であるとして、「此型を以て未来に臨むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で拵コシラえた器に盛終モリオオ せようと、あらかじめ待ち設けると一般である」と述べている。そして、自然主義もまた一つのイズムであり、「西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして舶載した品物である」から、「吾人が此輪廓の中味を充◇ジンするために生きて居るのでない事は明かである。吾人の活力発展の内容が、自然に此輪廓を描いた時、始めて自然主義に意義が生ずるのである」と強調し、「人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来を其中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其処に自然主義の恒久を認識してもらう方が彼等のために得策ではなかろうかと思う」と論じた。 
漱石がイズムを嫌ったのは、多くの場合、イズムは自己を絶対化し、普遍化し、自己完結的に、 すべてを自己の支配下に置こうとするからである。それは認識を一面で拡大する便利なものだが、一面で、認識をその枠内に閉じ込め、事実を無視した観念的一面化に陥り、思考と言語の硬直化、固定化を招きがちである。この欠陥が最も露骨に現れ、狂気にまで達するのが、戦争の時代の国家主義である。
漱石が作家としての道を歩き始める出発点となった『吾輩は猫である』は、人間が「万物の霊」などと称して自己を絶対化し、自己中心の自分勝手を脱し得ない愚かさを、猫の眼と言葉を借りて嘲笑するものであった。『吾輩は猫である』の執筆は日露戦争の最中だった。戦争は人間の精神を硬直させ、痙攣させ、狂気にまで駆り立てる。戦争は自国を絶対化し、敵国を絶対的に否定する。「正義」 「人道」の旗を掲げぬ戦争はなく、敵国の非を鳴らし、悪をあばかぬ戦争はない。『吾輩は猫である』の漱石は、この人間精神の硬直と痙攣、その狂気性を「猫」の言葉、滑稽諧謔の文章で嘲笑した。
『吾輩は猫である』と平行して書かれた「倫敦塔」から「趣味の遺伝」にいたる『漾虚集』の諸作品は、戦争の狂気と暗黒の現実を見つめ、この現実の彼方に絶対的な愛の幻想を歌いあげている。「幻影の盾」の漱石は、戦争を「君の為め国の為めなる美しき名を藉カりて、毫釐ガウリの争に千里の恨を報 ぜんとする」ものと言い、「正義と云ひ人道と云ふは朝嵐に翻がえす旗にのみ染め出イダすべき文字で、 繰り出す槍の穂先には嗔恚の◇ホムラが焼け付いている」と記した。
「陽気のせいで神も気違いになる」という一句で始まる「趣味の遺伝」は、戦争の狂気性と暗黒性を描き、この戦争で引き裂かれた神秘的な愛を、戦争とは対照的な静かさと永遠性において、幻想的に展開している。
戦争の時代ほど内容のない美辞麗句が氾濫する時はない。戦争の言語は生身の人間の実感を疎外したきまり文句の世界である。真実は覆い隠され、美辞麗句に飾られた虚偽の言語が国民の情緒に訴えかけ、国民的狂気を煽り立てる。理性の言葉、戦争の真実に迫り、個人の真情を表現する言葉は、非国民扱い、国賊扱いされ、孤立化し、圧殺される。
天皇は国民を戦争、狂気と死に駆りたてるためのイデオロギー的、情緒的シンボルであった。戦争を賛美し、天皇を担ぎあげる言語は、必ず自己を失って、古臭い美辞麗句に色どられた硬直した言語、虚偽の言語、紋切り型のきまり文句となる。それが戦争の言語、天皇制の言語の避け難い運命である。漱石が広瀬中佐の詩に虚偽を感じ、不快の念を隠そうとしなかったのは、それが中佐自身の言語であるよりは、戦争の言語であり、天皇制の言語だったからである。
「文展と芸術」 で「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものの勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」を強調した時、漱石は単に自然主義者達の派閥的な文壇支配を問題にしていただけではないだろう。言論機関をあげて遂行された国民大衆の情緒的思想的動員と、直接に警察力を動員した国家権力による言論思想の弾圧とが結びつき、国民的な一大狂気を実現した戦争の時代の経験は、それ以上に「恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべき」ものとして、漱石の心に生き続けていたに違いない。
新聞雑誌は戦争一色に塗り潰され、この国民的狂気を推進し、鼓舞激励する機関となった。たとえば、与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」は、発表当時、 大町桂月によって「もしわれ皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加うべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるもの也」(「詩歌ノ骨髄」 『太陽』1905年1月)と論難された。これは単に大町桂月の問題にとどま るものではなかった。
天皇と国家の名による、国民の思想的情緒的動員は「大逆」 事件でも行われた。戦争と国家主義は つきものだが、「大逆」 事件は平和の時代に、天皇を利用して、ありもしない国家の危機を作り出し、 政府に反対するものを根こそぎ弾圧し、天皇主義、国家主義を国民に浸透させようとしたのである。 1914年、学習院での講演「私の個人主義」で漱石は、「たとえば私が何も不都合を働かないのに、 単に政府に気に入らないからと云って、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせたら何ドんなものでしょ う」「又は三井とか岩崎とかいう豪商が、私を嫌うという丈の意味で、私の家の召使いを買収して事 毎に私に反抗させたら、是又何ドんなものでしょう」と述べている。権力と金力が自己を絶対化し、自己に反対するものを無法に圧迫することに反対したのである。
そして、国家主義について、今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように言いふらし、またそう考えて、個人主義なるものを蹂躙しなければ国家がほろびるようなことを唱導している者が少なくないが、「そんな馬鹿げた筈は決してありようがないのです」と言い、「事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に又個人主義でもあるのです」と述べた。
漱石は自分の立場を、「党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団体を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです」と言う。
「国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家々々と云って恰アタカも国家に取り付かれたような真似マネは到底我々に出来る話ではない。常住座臥ジョウジュウザガ国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断なく一つのことを考えている人は事実ありえない」国家主義者の主張は事実を無視し、自己の真実を偽った虚偽のものであり、この虚偽の上に立って、他の国民の個人の自由と真実を抑圧し、虚偽の言葉を氾濫させ、国民の道徳を低下堕落させる。
「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものの様に見える」と漱石は言う。国と国とは、「辞令」はいくらやかましくても、「徳義心」はそんなにない。「詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なもの」である。「国家を標準とする以上、国家を一団と見 る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でいなければならない」と、漱石は指摘している。
「大逆」 事件のそのものが権力によるでっちあげであった。「詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテ ンに掛ける、滅茶苦茶なもの」という漱石の言葉そのままのものであった。それが如何にひどいものであるかは、裁判の結果を伝えた当時の新聞を読むだけでも明瞭であった。
石川啄木は1911年(明治44年)1月18日、幸徳らの判決の日の日記に、「日本は駄目だ」と考えたことを書いている。そして、夕刊の一新聞が法廷で微笑した幸徳の顔を「悪魔の顔」と呼んでいたことを記している。翌1月19日には、朝、枕の上で国民新聞を読んでいたら「俄かに涙が出」て、「畜生! 駄目だ!」という言葉が我知らず口に出たという。「御用記者」は「社会主義は駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、さうして日本代々社会政策を行ってゐる国である」などと書いていた。啄木は事実を無視するその言葉を、深い悲しみを以て書き写している。 「ああいふ奴は早速殺して了はなくちゃあ可かん。さうしなくちゃ見せしめにならん。一体日本の国体を考へて見ると、彼奴等を人並に裁判するといふのが既に恩典だ。諸君は第一此処が何処だと思ふ。此処は日本国だ。諸君は日本国に居って、日本人だといふことを忘れとる。」 啄木は当時ひそか に書き記した「A LETTER FROM PRISON」の「EDITOR'S NOTES」に、この事件を国際的な観点から批評した国際法学者を、「建国の精神」や「日本の国体」を忘れていると罵り非難したある地方版担当記者のことを書き記してている。
「こういう極端に頑迷な思想」は、ある新聞などによってやや誇大に吹聴されているけれども、実際はごく少数者で、国民の多数は被告二十六人に同情もしていなかったが、憎悪の感情を抱く理由も持たなかった。国民はそれだけ皇室から遠く離れて暮らしていたのであり、この事件の重大さを理解するだけの「知識的準備」を欠いていたと啄木は述べている。社会主義に対する無知は民衆だけの事では無かった。警察官も、裁判官も、その他の官吏も、新聞記者も、この事件に質問をした議員までも、社会主義と無政府主義の区別さえ知らなかった。予審決定書にさえ「この悲しむべき無知」が見られると啄木は述べている。啄木自身もまた、「大逆」事件に直面して、あわてて関係文献を読みあさるまでは、同様に「この悲しむべき無知」の中にいたのである。
啄木が読みあさった社会主義関係の文献は、もちろん「国禁の書」であった。天皇制は日本を「特別な国」とし、強固なタブウによって、国民の言論・思想、学問・芸術、政治的社会的運動を厳しく抑圧した。この抑圧が国民の「悲しむべき無知」を生んだ。しかも、この事件を契機に弾圧は益々強化された。国民は政治に対して益々無関心となり、「無知な」政府、「無知」な官吏、「無知な」警察官、「無知な」裁判官が、「無知な」国民を、天皇の名によって専制的に支配した。これが天皇制の特質である。
「衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モッブなるものの勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ軽蔑に値すべきか」を強調した「文展と芸術」の言葉は、何よりも鮮烈に、言論・思想・表現の自由の抑圧の上に成り立つ日本の社会、この天皇制の現実を撃つ言葉であった。 
1910年夏、胃腸病院入院中の断片に「アルismヲ奉ズルハ可。 他 ノismヲ排スルハlifeノdiversityヲunifyセントスル智識欲カ、 blindナル passion[yuouthful]ニモトヅク。 さう片付けねば生きてゐ られぬのはmonotonousナlifeデナケレバ送レヌト云フ事ナリ。 片輪トモ云ヒ得ベシ。lifeハactionニテdeterminateナリ思想(感情)ニ於テindeterminateナリ。 indeterminateナルハ茫漠ナル故ニアラズ。 アラユルalternativeヲ具備スル故ナリ」「Lifeノharmonyトハアラ ユルelementsが援ケ合フテone endニleadスルノ意ニアラズ。oposing elements,カンセリングfactorsニdue placeヲ与ヘテvaluationノgradationヲツケルコトナリ。ダカラ結果ハresultantナリ。additionニアラズ。dualismニテモtrialismニテモ差支ナシ。 elementsニbalanceガ取レタトキハinactivityデ差支ナシ」等々注目すべき言葉を書き記している。
この断片の見解は、やがて「イズムの功過」等の評論になり、「中味と形式」その他、翌年の関西地方各地での講演へと発展するが、幸徳らが検挙され、「大逆」 事件なるものが世の中を騒がせ始めた 直後に、漱石がこのような、一元主義、絶対主義を否定する見解を改めて確認し、活発な評論活動を展開したことの意味は大きいと思う。
『吾輩は猫である』の独仙は「昔はお上の御威光ならなんでも出来た時代です。その次にはお上の御威光でもできないものができてくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかることができない世の中です。はげしくいえば先方に権力があればあるほど、のしかかられる者のほうでは不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世は昔と違って、お上の御威光だからできないのだという新現象のあらわれる時代です。昔の者から考えると、ほとんど考えられないくらいな事柄が道理で通る世の中です」と述べている。これと同様な言葉を、漱石は『吾輩は猫である』執筆当時のノートにも記している。
独仙は、「昔と今は人間がそれだけ変わってる」「世態人情の変遷 というものはじつに不思議なもの」というが、「大逆」 事件はこのような時代の変遷を無視し、天皇の名によって、政府に反対する者を理不尽に勦滅しようとするものであった。言論思想の自由に対する、 この時代錯誤的な専制的絶対主義の横暴は必ず反動を呼び、国家 体制の危機を招かずにはいない。漱石は革命の立場に立つ者ではなかった。しかし、言論思想の自由を求め、革命の危険を深刻に憂える者として、政府の横暴に反対しないではいられなかった。「危ない、気をつけないと危ない」という言葉は、『草枕』にも『三四郎』にも繰り返されている。しかし、漱石は公然と政府を批判したり、警告を発したりすることは出来なかった。
社会に対して積極的な関心を持てば持つほど、現実との接点を失 い、世間から孤立して、自閉的な懐疑の泥沼にのめり込み、はてしない自己矛盾に苦しまなければならないのが、この時期の知識人であった。これ以後展開される後期の漱石の文学活動は、それだけ屈折したものになることを免れなかった。
後期三部作の世界はますます自閉的になる知識人の問題を軸に展開している。『彼岸過迄』の須永は「軍人の子でありながら軍人が大嫌いで、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義の男」であった。「少なくとも敬太郎にはさう見えた」のである。
『行人』の一郎は学者でありながら、学者としての自己の存在の意味を疑っている。「兄さんは書物を読んでも、理屈を考へても、飯を食つても、散歩をしても、二六時中何をしても、其処に安住する事が出来ないのださうです。何をしても、こんな事をしてはゐられないといふ気分に追ひ掛けられるのださうです」とHさんはいう。「自分のしてゐる事が、自分の目的エンドになつてゐない程苦しい事 はない」と一郎はいうが、前記の断片によれば、元来、人生が一つのエンドに導かれる予定調和的なものである筈はなかった。そのような幻想が破れ、人間解体の危機に直面する所にこの時代の知識人の苦悩があった。
漱石はこの知識人の苦悩を、時代の先端に立つ者の苦悩として徹底して追究し、内部から描き出した。しかし同時に、漱石は一貫して、この知識人の自己閉鎖性、観念的一元論的な自己絶対化を批判し、その克服を課題とした。漱石が追究した近代知識人の苦悩と暗黒は、天皇制下の日本の知識人一般の問題であったために、漱石研究家の多くは、漱石の主人公たちに同化し、その苦悩を絶対化する観点に立つ場合が多かった。しかし、漱石は自らその苦悩を担いながら、同時にその自閉性を批判し、広い世界に眼を向け続け、ついに『道草』を経て『明暗』に至る道を切り開いて行った。天皇制下の知識人の苦悩を描いただけではなく、それを超えて新しい生の可能性を求め続け、自己を超えた広い世界に眼を見開こうとしていたのである。
漱石の政府に反対する意思は、直接には、わずかに自分自身にかかわる博士号辞退問題や文展批判において、権力による学問芸術思想の支配に対する執拗な抗議と批判として展開されたにとどまる。しかし、この時期の漱石は、積極的に講演活動を行い、直接、多数の聴衆に語り掛ける機会を数多く持った。
また、『彼岸過迄』の序文に自分の作品の読者について、「文壇の裏通りも露地も覗いた経験」のない、「全くたヾの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息してゐる丈」の「教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる」と述べた。関西地方各地での朝日講演会でも、常に普通の生活をしている聴衆を意識しながら、直接、その聴衆に語りかけているのである。
「自分は凡て文壇に濫用される空疎な流行語を藉カリて自分の作物の商標としたくない。たヾ自分らしいものが書きたい丈である」と漱石は『彼岸過迄』の序文に書いている。「自分の作物を新しいくと吹聴する事も好まない。今の世に無暗に新しがってゐるものは三越呉服店とヤンキーと夫ソレから文壇に於る一部の作家と評家だらうと自分はとうから考へてゐる」というのである。
しかし、1911年(明治44)1月3日付森田草平宛書簡には「われ等は新しきものの味方に候。 故に『新潮』式の古臭き文字を好まず候。草平氏と長江氏はどこまで行つても似たる所甚だ古く候。われ等は新しきものの味方なる故敢て苦言を呈し候」と書いている。もちろん、これは親しい弟子に宛てた手紙で、いくらかふざけている所があるとは思われるが、西洋の新しい文学思想の輸入に専ら努め、文壇的新流行を撒き散らしている『新潮』を、敢えて古臭いと言い、新しい思想に敏感な草平や長江を「どこまで行つても似たる所甚だ古く候」といって、「われ等は新しきものの味方に候」という言葉を二度も繰り返しているのである。
漱石は文壇の流行思想を全く陳腐なものと感じ、文壇の中だけで通用する、自己満足的な片言めいた符丁のやり取り、きまり文句の世界を軽蔑した。漱石は文学を狭い文壇から解放しようとした。この観点から、「文壇の裏通りも露地も覗いた経験」のない、「全く たヾの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけ」の「教育あるかつ尋常なる士人」を相手に、文壇の流行などは度外視して、ひたすら「自分らしいもの」、自分の眼と心で とらえた真実、自己の経験そのものに根差した文学に、真の新しさを主張したのである。
漱石が「教育あるかつ尋常なる士人」をはっきりと意識しながら、その言論と文学の活動を展開したのは、修善寺の大患で生と死の間を往還するという大きな経験をし、自然としての人間、まわりの人々の好意によって辛うじて生命をつなぐ「たヾの人間」としての自己を痛切に感得したからに違いない。漱石にとってこの「ただの人間」としての自己の発見は痛切であり、新鮮であった。そして、この 「たヾの人間」こそ社会にあって真面目に働き、人々の生活を支え、新しい時代を切り開いて行く。
文壇の流行思想は言葉であった。既に言われたものであり、人々の手垢にまみれたものである。どんな新しい思想も文壇内部ではたちまちきまり文句になり、現実はそのきまり文句に絡め取られてしか語られない。しかし、「たヾの人間」はこのような言語から自由な、現実そのものを生きる生身の人間達であった。その世界は、未だ表現されない、どれほど探究しても探究しつくすということのない無限の謎であり、文学の宝庫であった。漱石はこの「たヾの人間」の立場に立ち、「たヾの人間」を読者とし、決まり文句でない「たヾの人間」の言語で、自己の文学世界を創造して行こうとした。
漱石は「時代閉塞の現状」を生きる知識人としての自己そのものの矛盾と苦悩を掘り下げることによって、後期の諸作品を展開した。それは出口のない迷路であり、袋小路であった。しかし、漱石は実にしばしば頭をあげて大空を仰ぎ見、「全くたヾの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息している丈」の「教育あるかつ尋常なる士人」を思い浮かべた。また、『彼岸過迄』のお作や『行人』のお貞さんのような、謙虚に自己の運命を受け入れ、真面目に働く素朴な庶民を思い浮かべた。
時代の先端にあって矛盾に引き裂かれて生きる知識人の苦悩を、特権化し、絶対化し、それだけ切り離して追究するのでなく、多様な人間が同時に生きている大きな人間世界、更に大きな自然世界の中でとらえ、巨大な自然と人間の歴史の流れの中でとらえる時、個別人間の苦悩は新しい光でとらえなおされ、新しい相貌を現出することになる。
このように見て来ると、「食うべき詩」や「性急な思想」等で、詩人の資格を「人であること」「普通の人であること」に求め、近代主義批判を展開した啄木と、漱石がその世代を異にし、境遇を異にしながら、しかもあまりに共通した問題に直面していたことに驚かされる。
そして、若き啄木が、時代の先端で苦闘する知識人として、「時代閉塞の現状」を打開するために、新しい「明日の必要」の観点から、今日の現実の組織的考察を求めたのに対して、漱石は自然的また社会的存在としての、人間存在の根源的なありように探究の眼を注ぎ、大きな人間の生の営み、その生成と発展の歴史を展望することによって、現代の社会と文明を批判し、新しい明日の展望を探り求めたのである。「道楽と職業」「現代日本の開化」「中味と形式」「文芸と道徳」と展開する1911年(明治44)夏の関西地方各地での講演は、 直接時局に触れることはなかったが、そのような意味を担うものとしてとらえ直される必要があると思う。 
1911年夏の一連の講演で、漱石は一貫して「現代」を問題にし、時代の変化を強調している。この傾向は前記1910年夏の「断片」にも見られ、『吾輩は猫である』以来、漱石の文学に一貫して見られる特徴であるが、 特にこの時期 の漱石は、新しい視座から自己の生涯を、自分の生きた時代と重ね合わせて概括的に検討し直そうとしている。それは明治という時代の終焉にめぐりあわせて、『こゝろ』や『道草』を生み、『明暗』という作品の世界へと展開するのであるが、これらの作品を生み出す基盤はとなるものは、修善寺の大患と幸徳事件を契機に、既にこの時代から漱石の内部に発展していたである。
「マードック先生の日本歴史」(1911年3月)に漱石は、「維新革命と同時に 生まれた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である」と述べている。し たがって、 自分にとっては明治の歴史は何の不思議もない当然至極なものでしかなかったのに、この自分にとって至極当たり前の日本の歴史が、西洋人であるマードック先生には極めて驚くべきものだったのである。そのことに漱石は驚いている。
修善寺の大患は、自己について、人間について、根源的な認識の拡大をもたらした。「大逆」 事件は否応無く、明治という時代を支配する天皇制の問題に 眼を向けさせた。そして「マードック先生の日本歴史」は、明治の日本を西洋人の眼で照らし出し、日本の近代をもう一つの眼で見ることを教え、西洋人の日本を見る眼と考え方について考えさせた。
「歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今の吾等は刻々に押し流されて、瞬時も一所にてい徊して、吾等が歩んで来た道を顧みる暇を有たない。吾等の過去は存在せざる過去の如くに、未来の為に蹂躙されつつある。吾等は歴史を有せざる成り上がり者の如くに、ただ、前へ前へと押されて行く」と、「マードック先生の日本歴史」の漱石は書いている。「財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸け隔たった国民が、鼻と鼻を突き合わせた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう」のである。それは、この高いものと同程度にならなければ、「わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼等を真向マトモに圧迫する」からである。我等の二つの眼は「二つながら、昼 夜ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮アセリ に焦慮アセツて、汗を流したり呼息イキを切らしたりする」。そしてその結果、「 恐るべき神経衰弱はペストより劇ハゲしき病毒を社会に植付けつつある」と漱石は述べている。この神経衰弱は漱石自身が苦しんだ病気であり、また後期の作品で追求し続けたテーマである。
「夜番の為に正宗の名刀と南蛮鉄の具足とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵の尻尾を噛って日夜齷齪するにも拘わらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴えている」と漱石は言う。日露戦争後の日本が、ますます軍備の拡張を進め、国民の経済が破壊されていることを指摘しているのである。しかも、このように無理に無理を重ねても、日本の未来が決して明るいものとは思えないと漱石は言う。「吾等は渾身の気力を挙げて、吾等が過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するのである」と言い、「吾等は吾等の現在から刻々に追い捲られて、吾等の未来を斯の如く悲観している」と述べている。
「現代日本の開化」で漱石は「内発的開化」と「外発的開化」について論じたが、「富国強兵」「殖産興業」を旗印として、国民の犠牲の上にひたすら軍事力の強化に努め、近代産業の確立を理想とする国家主義的な近代化路線は、豊かで多様な「人間活力の発現」としての「内発的開化」の可能性を抑圧し、ひたすら「外発的開化」の道を、痩せ馬に鞭打って突き進もうとするものであった。明治の日本は無理に無理を重ねて、世界が驚く驚異的な発展を遂げた。この無理が祟って、社会的・文化的・道徳的に、至る所にその矛盾と破綻を暴露していた。「大逆」 事件はその一つに過ぎない。「大逆」 事件直後の日本にあって、漱石は明治日本の過去と現在を眺望し、暗い心で日本の未来に思いを馳せた。 
「中味と形式」で漱石は、「現今日本の社会状態」というものは 「目下非常な勢いで変化しつつ」あり、それにつれて我々の内面生活というものも「刻々と非常な勢いで変わりつつある。瞬時の休息もなく運転しつつ進んでいる」と言う。今日の社会状態は20年前、30年前とは大変違っており、我々の内面生活も違っているのだから、政治経済、社会の体制もこの激しい変化に対応して変わって行かなければならないと論じている。
「何故徳川氏が亡びて、維新の革命がどうして起つたか。つまり 一つの型を永久に持続することを中味の方で拒むからなんでせう。なるほど一時は在来の型で抑えられるかも知れないが、どうしたって内容に伴れ添はない形式は何時か爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思ふ」と漱石は言う。
「明治に適切な型」は、「明治の社会的状況」、それを形造る「貴方方の心理状態」にぴたりと合うような「無理の最も少ない型」でなければならない。個人主義や自然主義がしきりに問題になるのは、我々の生活の内容が昔と自然に違って来た証拠で、これが「在来の型」と衝突しているのである。「昔の型」を守ろうとする人はそれを押し潰そうとするし、「生活の内容に依って自分自身の型を造ろうとする人は、それに反抗する」。今の時代にふさわしい「一種の型」を考えるのは、貴方方の問題でもあり、一般の人の問題でもあり、 「最も多く」人を教育する人、人を支配する人の問題でもあると、 漱石は述べている。
漱石は個人主義や自然主義について述べていて、無政府主義や社会主義については論及していない。しかし、「大逆」 事件直後のことである。これらの講演の背後にこの事件の衝撃があったことは否定出来ない。この現代の文化・道徳の諸問題を中心に論じた一連の講演は、いずれの場合も、日本の未来に対する強い関心と、現代社会の行き詰まりに対する鋭い批判的洞察に貫かれている。
特に「中味と形式」は、題目は抽象的哲学的であるにも拘わらず、その内実としては、現実生活と社会制度の関係を論じ、「斯カクの如き社会を統べる形式と云うものはどうしても変えなければ社会が動いていかない。乱れる、纏まらないと云うことに帰着するだろう」というように、生活の実態に応じて形式=制度を変える必要を説き、しばしば革命の可能性を問題にするなど、「大逆」 事件以後の漱石 の強い危機意識が濃厚に現れている。
この一連の講演を通じて、漱石は「人間活力の発現の経路」としての「開化」と、それを阻害する社会制度や文化・学問・思想・道徳の問題を論じている。この「人間活力」は形なきもので、旧思想、旧道徳、旧社会、旧制度との摩擦葛藤を通じて「発現」するのである。漱石は未来のあるべき姿について明確な見解を示さず、いずれの講演も結論が曖昧である。漱石は専ら現状の分析につとめ、その矛盾を指摘するにとどまっている。
もちろん、「大逆」 事件直後の厳しい思想抑圧の現実があり、それが議論を抽象的で曖昧なものにしているという事実もあるに違いない。しかし、漱石は未来を形あるものとして提示することより、未だ形のない、未定の未来に向けて運動する「人間活力の発現の経路」、その運動の過程、未来を切り開く人間の在り方、その精神を重視した。そこに漱石の思想の特質があった。
注目すべきことは、「自然の進化の法則」という言葉を用いていることである。いかに権力が抑圧しても、「人間活力の発現の経路」は「自然の進化の法則」に基づくものであり、それを抑えることは出来ない。問題は、いかにそれを無理なく、摩擦少なく、展開させるかであった。それを可能にする社会体制の確立が、現代の緊急な課題であると漱石は言う。
『それから』では、金力と権力の結合による醜悪な汚職事件が、決して日糖事件に限られるような部分的なものではなく、日本の政治と経済の全体にかかわる構造的なであることを鋭く暴き出している。そして幸徳ら無政府主義者の活動に対する苛酷な抑圧体制を取り上げ、平岡に現代的滑稽の見本と言わせている。
この『それから』執筆中の日記(1909年6月17日)に、「○○○ 東宮御所の会計をしらべてゐる。皇太子と皇太子妃殿下が二人前の鮪のさしみ代(晩食だけで)五円也。一日の肴代が三十円なりと。天子様の方は肴代一日分百円以上なり。而して事実は両方と[も]一円位しかかゝらぬ也。あとはどうなるか分からず」と、皇室の経済の乱脈さについて書いている。そして、 「伊藤その他の元老は無 暗に宮内省から金を取る由。 十万円、五万円。なくなるとよこせと云ってくる由。人を馬鹿にしてゐる」 と、皇室を食い物にする元老の腐敗と横暴を憤っている。 このような権力の腐敗と横暴を厳しく糾弾する漱石は、現代社会の批判の上に立って、明治の現実に最も適切な社会の「型」を問題にしたのである。
しかし、政府は「大逆」 事件に名をかりて、無政府主義者を苛酷 に弾圧したばかりか、人民の実際生活や、思想感情の実態を無視して、言論思想、政治活動の自由をひたすら抑圧した。この極端に反動的な政府のやり方は、「自然の進化の法則」に逆らい、「人間活 力の発現の経路」を阻害しようとするもので、かえって革命の危険を招き寄せるものと思われた。
この時期の漱石は、決して革命の立場に立ってはいないが、革命の可能性に思いをめぐらし、その危険を警告していたのである。この時、中国で辛亥革命が起こり、漱石の不安と恐れを決定的なものにした。
1911年11月11日の日記に漱石は辛亥革命について、「近頃の新聞 は革命の二字で持ち切つてゐる。革命といふやうな不祥な言葉として多少遠慮しなければならなかつた言葉で全紙埋つてゐるのみならず日本人は皆革命党に同情してゐる」と記している。8月16日以来 中断していたのを、この日から再開したのである。この間、関西各 地の講演旅行の途中に大阪で発病し、8月から9月にかけて、大阪の湯川病院に一ケ月近く入院するという事件が起こった。帰京してからは痔を切開している。さらに朝日新聞の池辺三山が辞職し、漱石も辞表を出すという事件が起こった。この後も辛亥革命の経過は日記にその都度書き記しているが、その間にさらに、末娘のひな子が急死するという事件が起こっている。公私にわたり思いがけぬ事件が次々起こり、不安な感情に襲われ続ける日々であった。
「革命の勢がかう早く方々へ飛火しやうとは思はなかった。一ケ月立つか立たないのに北京の朝廷はは殆んど亡びたも同然になった様子である。痛快といふよりも寧ろ恐ろしい」「仏蘭西の革命を対岸で見た 原 ゐた英吉利と同じ教訓を吾々は受くる運命になったの だらうか」とこの日の日記に書いている。漱石はディッケンズの 『二都物語』を愛読した。「二百十日」の圭さんはこの作品について語り、「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりや、あゝなるのは自然の理屈だからね。ほら、あの(火山が)轟々鳴って吹き出すのと同じ事さ」と言う。ここでも「自然の理屈」と言い、「当然の現象」と言っている。「 大逆」 事件の直後に辛亥革命に直面した漱石は、政府に敵対するものを天皇の名によって不当に処刑し、言論思想、政治活動の自由を徹底して抑圧する暴虐な明治国家と天皇の行く末を暗い思いで見詰めなければならなかった。
この頃、漱石は痔の治療のために佐藤病院に通院しており、後にその経験を素材として『明暗』を書くが、『明暗』にはこの不安な心情がはっきりと書き表されている。病院の帰りの電車の中で、津田は始めて痔の激痛に襲われた時のことを思いだし、「此肉体はいつ何時どんな変に会はないとも限らない。それどころか、今現に何んな変が此肉体のうちに起りつゝあるかも知れない。さうして自分は全く知らずにゐる。恐ろしい事だ」と考える。そして、「偶然の出来事といふのは、ポアンカレの説によると、原因があまりに複雑過ぎて一寸見当が付かない時に云ふのだね」という友人の言葉を思い出す。
この論稿の冒頭に引用したが、行啓能を見た感想を記した1912年6月の日記に「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くし て我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也」と書き、天皇重患が伝えられ、同年7月20日の日記に両国の川開きが禁止され、演劇その他の興行 物の停止が問題になった時に、このようにして当然の営業を休むならば、心の中では皇室を恨み、不平を内に蓄えて「恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀す」ことになると記したのは、決して偶然ではない。漱石はあきらかに、 政府のやり方次第では日本にも革命が起こり、 天皇制が覆滅される可能性があることを感じていたのである。 
天皇死後の諸行事について漱石は強い関心を寄せ、改元の詔書、朝見式詔勅、陸海軍人に対する詔勅、陸軍大臣、海軍大臣の奉答文、朝見式詔勅に対する西園寺首相の奉答などは、全文日記に書き写している。また、拝訣式、納棺式については、「御船(内棺のことか)の厚さ七分、中棺は二寸、三棺の間はセメントを詰込、総体の長さ一丈、高さ3尺四寸・・・・」「御船の中に入れる遺骸には白羽二重の清 き衣、同じ枕、三襲の褥、丹其他の香数種」 といった具合に細かく書き記している。 また、じゅ車(牛車)や、青山から桃山までお棺を運ぶ御輦についても実に細かく記している。明治国家が成立して始めての儀式に対する漱石の関心の深さが分かる。
この儀式についての漱石の見解は記されていないが、それを明治の日本に「最も適切な型」であると考えたとは思われない。行啓能や天皇重患の際の日記では、皇室の神格化、皇族に対する余りに特権的な仰々しい取り扱いを厳しく批判していた。この観点からすれば、このいかにも古代的、権威主義的で、国民が親しみを込めて哀悼の意を表することなど到底許さない儀式の在り方は、当然厳しい批判の対象になっていた筈である。
英国留学中、ヴィクトリア女皇が死去し、漱石はその葬儀の行列を見た。エドワード七世の戴冠式の時は、下宿の主人の肩車に乗って見物した。英国の国民は大変気軽に、自由な気持ちでこれらの行列を見物したのである。この英国の皇室と民衆の間の関係からすれば、日本の皇室はいかにも国民から遠く離れた存在であった。漱石の日本の皇室の在り方に対する危惧と批判は、この英国での経験に基づく所が大きかったと思われる。
英国の王室の歴史は、王権をめぐる絶えざる対立抗争の歴史であった。その歴史を背負って現在の王室と国民の関係が作り出された。これを題材としたシェークスピアの歴史劇を、漱石は大学の講義でしばしば取り上げ、『マクベス』については『趣味の遺伝』などの作中で、直接論及している。『倫敦塔』もまた、この暗い歴史に直接題材を求めた作品である。天皇の死去後の諸儀式に対する漱石の関心の深さは、日本の皇室と国民の関係、ひいては、日本の天皇制の未来に対する危惧と深く結び付いていたのである。
8月1日の新聞に出ていた図のような喪章の広告を、漱石は丁寧に日記に書き写している。天皇死去の翌々日、大正改元の翌日に、森又組という商店が、いち早く大正屋と改称し、天皇の死を商売に利用する広告を出したのである。漱石はその抜目なさに現代を見たのであろう。天皇に対する個人的、人間的感情ではなくて、国民の現実から掛け離れた天皇の神格化と、儀礼的形式的な弔意の表明の強制、そして、それを利用した金儲けや、政治権力の強化といった動きばかりが目立った。
『こゝろ』で漱石は、天皇の死と乃木大将の殉死を取り上げている。先生は、天皇の死と乃木大将の殉死を直接のきっかけに自殺するが、乃木大将の心は自分には分からないと言い、乃木とは正反対 の死に方を求めた。
乃木は妻を道連れにし、死の直前に夫婦そろって、厳かな礼装で写真を撮った。それはある意味では、はなばなしい儀礼的な行為であった。これと反対に先生は、ただ一人の親しい人である妻にも自殺と分からぬように、ただ一人でひっそりと死ぬつもりだと、ただ私ひとりだけに宛てた遺書に書いている。先生の自殺はただ先生個人の、個人的以外の何ものでもない行為であった。それはまったく非儀礼的であった。「内発的」な、「自己本位」の行為であった。 自己の内部に「異様の熱塊」があると信じ、島田や姉を、自分とはまったく違った世界の人間だと思っていた『道草』の健三は、やがて、自分と彼らを何の懸隔もない同じ人間だと思うようになる。学問だとか社会的位置だとか、すべての虚飾や形式をはぎ取って、赤裸の人間存在そのものを直視するようになったのである。新年を迎えた健三は、「一夜のうちに変つた世間の外観を、気のなさゝうな顔をして眺め」、「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ」と思う。この思いはただ正月の風景に向けられただけのものではなかったろう。
明治天皇の死去に際して、あれ程こまかく記録した漱石であるが、大葬についての記録は何もない。ただ、「乃木大正の事。同夫人の事」とぽつりと記されているだけである。明治天皇の死後一年半で昭憲皇太后が、天皇と同じ腎臓病で死去した。やはり大袈裟な葬儀が行われ、新聞は連日その模様を紙面一杯使って大きな活字で伝えた。しかし、漱石の日記はこれについて何も伝えていない。漱石が『こゝろ』を執筆したのはこの直後である。『こゝろ』の漱石は天皇の死を契機に引き起こされた大きな騒ぎを背景に、この時代に背を向けて生きた一人の知識人の、まったく個人的な心の問題を追及し、人間存在の根底にある問題に迫ろうとしたのである。
「過去四十五年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史と終始して忘るべからざる大行天皇去月三十日を以て崩ぜらる」という言葉に始まる、天皇の死の直後に書かれた「明治天皇奉悼之辞」の言葉は、学界を代表する者の言葉として、決して単に儀礼的なだけのものではなかったろう。漱石は明治という時代と自己の生涯を重ね合わせ、明治という時代のシンボルとして、天皇の生涯を深い思いで回想し、哀悼の意を述べたのであろう。
たしかに、天皇の生涯は明治という時代そのものであり、漱石自身の生涯と深い所で結びついていた。しかし、明治という時代と自己の生涯の結びつきの深さを思えば思うほど、明治という時代に生きていながら、明治という時代に対立し、時代の外に生きるしかない、人間としての自己の問題が深刻な問題になった。
前述のように、「芸術は自己の表現に始まり、自己の表現に終はる」という言葉を繰り返し、政府の芸術に対する干渉と支配に激しく抗議した「文展と芸術」は、1916年10月、 明治天皇の大葬の直後に書かれた。そして作品としては、周囲との対立と自己疎外の感情に苦しむ知識人の苦悩を追求したを『行人』が書かれる。この時期漱石は強い神経衰弱に陥り、『行人』は途中で中断されなければならなかったほどである。漱石の内部に、天皇の死を利用するかのように巨大なページェントを日本全土にわたって展開し、マスコミを動員して国民の感情をあふりたてた政府のやり方に対する反感と抗議の感情が強まっていたことは否定できないと思う。 
1914年8月、『こゝろ』連載中に第一次世界大戦が起こった。漱石 が『明暗』の執筆途中にこの世を去った時は、ロシア革命のまさに前夜であり、世界大戦は継続中であった。晩年の漱石は、世界の激動をひしひしと感じ、一つの時代の終焉を痛切に自覚しながら、若き日の自分を回想し、明治という時代と、明治と共に終始した自己の生涯を、深い感慨で反芻していた。そして、新しい時代に向けて、己の生涯を賭けたメッセージを送り続けていた。
『硝子戸の中』の漱石は、しばしば幼時を回想し、病気続きの現在の健康に触れて、「継続中」ということを言っている。「凡て是等の人の心の奥には、私の知らない、又自分達さへ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでゐるのではなからうか。もし彼等の胸に響くやうな大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果して何う思ふだらう」「所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾 を、思ひくに抱きながら、一人残らず、死といふ遠い所へ、談笑しつゝ歩いて行くのではなからうか。唯どんなものを抱いてゐるのか、他も知らず自分も知らないので、仕合せなんだらう」漱石は自己の内部に潜み、人々の内部に隠れている、自分の気付かぬ恐ろしいものに目を向けた。
『道草』の末尾で、健三は「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時までも続くのさ。たヾ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」と言う。『道草』の世 界は、自分も変わり、周囲も変わる、人間も自然もすべてが変わって行く世界である。漱石はこの変化して止まぬ世界に、人間と自然の「活力の発現の経路」を見た。人間存在の根源にある生命を見、人間が生きる限り免れることの出来ない人間の罪業と暗黒を見た。
「人間活力の発現の経路」としての開化は、ただひたすら明るいものではなくて、避け難く血と罪業につきまとわれている。しかも「 自然の進化の法則」として遮り止めることが出来ない。健三は何度 となく、「畢竟己自身は何うなるのだらう」という感慨に駆られない ではいなかった。
自己が何物であり、世界がいかに成り行くかを、ついに人は知ることが出来ない。自分自身が自分を知らずにいるのだし、まして生まれつきと境遇を異にする他人の心は、到底理解することが出来ない。『明暗』の世界は、謎の心を抱いて、謎の世界を彷徨し、自己の意識を超えた世界に直面して、自己を根底から揺り動かされ、自己変革を迫られる人間の物語である。
お延は「丸で別世界に生れた人」としか思われない小林の出現に心を掻き乱され、津田は小林から読まされた「丸で別世界の出来事としか受け取れない位の」不幸な青年の手紙に衝撃を受ける。「今迄前の方ばかり眺めて、此所に世の中があるのだと極めて掛つた彼は、急に後を振り返らされた。さうして自分と反対な存在を注視すべく立ち留まつた。するとあゝあゝ是も人間だといふ心持が、今日迄出会つた事もない幽霊のやうなものを見詰めてゐるうちに起つた。極めて縁の遠いものは却つて縁の近いものだつたといふ事実が彼の眼前に現はれた」と漱石は書いている。東京を去って温泉場を目指す津田は、暗い夜の山中の風景に、「あゝ世の中には、斯んなものが存在してゐたのだつけ、何うして今迄それを忘れてゐたのだらう」と思うのである。
津田の過去の真実を知ろうとして焦りに焦るお延について漱石は、「それが彼女の自然であった。然し不幸な事に自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥か上にも続いてゐた。公平な光りを放つて、可憐な彼女を殺さうとしてさへ憚らなかった」と書いている。
大戦は「継続中」であり、革命の波はロシアを始め世界各地に広がろうとしていた。中国・朝鮮を始め、アジアの国々には、反抗の波が次第に高まり、自由と独立を求める運動が強まってて来ていた。日本国内でも、抑圧された民衆が次第に反抗の声を上げ始めていた。この大きな世界の渦の中で、いったい自分はどうなるか、そして日本はどうなるか。自己の死を見詰める漱石は、自分を取り巻く世界の動向に暗い目を向けた。
生涯の最後の年、大正5年正月に発表した「點頭録」で、漱石は自己の生涯を振り返り、軍国主義について論じている。前年の『硝子戸の中』がひたすら自己の狭い世界について語ろうとしたのとは反対に、「點頭録」では、病気のために中断しなければならなかった けれども、世界的な視野で政治や社会の問題を論じようとしたのである。
漱石は世界大戦について、「人道の為の争いとも、信仰の為の闘 いとも、又意義ある文明の為の衝突とも見做す事」が出来ず、ただ「軍国主義の発現」としてしか考えられなかったと言っている。この戦争で自分の興味をひくのはただ「軍国主義の未来」ということ だけで、「独逸だの仏蘭西だの英吉利だのという国名は自分に取ってもう重要な言葉でも何でもなくなった」と言う。どちらの国が勝つかではなくて、「独逸に因つて代表された軍国主義が多年英仏に於て培養された個人の自由を破壊し去るだらうか」ということに、はるかに鋭い神経を働かせているというのである。
そして、ドイツの軍国主義は敵国たる英仏にも多大の影響を与え、その軍国主義化を招いているのだから、戦争が片付かないうちから、英仏は精神的にはもうドイツに負けたと評しても好い位なのだと言う。漱石は、この大戦のもたらしたものは「軍国主義の勝利」ということだけだと言い、「此時代錯誤的精神が自由と平和を愛する彼等に斯く多大の影響を与へた事を悲しむものである」と述べている。
軍国主義の勝利は文明を破壊する以外に何の効果もなく、軍国主義にその償いを期待することは出来ないと漱石は言う。漱石にとって世界の未来は暗かった。しかし、日本の未来はさらに暗い。 日本の政治は言論思想を抑圧することしか知らなかったと漱石は言う。もともと軍国主義的傾向の強い日本は、ますます軍国主義化を強めるだろう。言論・思想、政治活動の自由はますます苛酷に弾圧されるだろう。その果てに待っているものは何か。
1915年の7月[?]の書簡で漱石は、「戦後における日本人の覚悟」についてやまと新聞の質問に答え、日本人がむやみに西洋の新しいものに食いつき、ただ次々に新しい名前を追い掛けるばかりの、軽薄な表面的模倣に明け暮れていることを批判している。そして、 「若し覚悟といふ覚悟が必要なら、日本は危険だとさへ思って、それを第一の覚悟にしてゐれば間違ひはありますまい」と述べている。漱石にとっては、戦前も戦後もなかった。日本の社会と文化の根本的な在り方そのものが問題なのであった。
列強が軍国主義を強めて相互に戦い合う現代にあって、日本の軍国主義はますます急ピッチで強化されるに違いない。そのために、ますます天皇を国民支配の権威の根拠、国家主義の根源として担ぎあげ、ますます国民の自由を奪い、旧道徳旧思想旧制度に縛り付けることに努力するだろう。しかし、ひたすら国民の自由を奪い続けるならば、「人間活力の発現の経路」は「自然の進化の法則」として、必ず爆発し、「革命を招く」ことになる。天皇制軍国主義は、その内部に必然的な崩壊の危険をはらんでいた。
さらに、国民の人間としての自由、自由な思考と自由な研究のない所に「内発的開化」の道は開けない。狭隘な国家主義の旗を高く掲げ、自国の文化の特殊性を誇りながら、しかも、ひたすら模倣をこととする「外発的開化」の道を突進するのである。それは国家主義の強調にもかかわらず、文化的に「西洋の奴隷」になることであり、所詮、 西洋に追い付くことは出来ない。 列強がひたすらアジアの植民地化を競い、力に頼って戦い合う世界的な軍国主義の時代に、ひたすら「外発的開化」の道を突進し、文化的に「西洋の奴隷」になるしかないならば、日本の前途は危険極まりないと考えざるを得ない。 
漱石は「外発的開化」の避け難さを自覚しながら、「内発的開化」を説き、国民の人間的自由、言論・思想・学問・芸術の自由を求めた。そして、それを可能にする明治の日本に「最も適切な型」=社会体制を求めた。しかし、それは一体いかなるものか、また、いかにしてそれを実現するのか、これらの問いに答えることは漱石には出来なかった。日本の現実に身動き出来ぬ苦しみを味わいながら、漱石は広い世界に眼を向け、さらに大きな「自然の進化の法則」に眼を向けたのである。
漱石は自己の無力を知っていた。そうでなくても、個人の力ではどうすることも出来ないことであった。「中味と形式」の漱石はそ れを国民すべての問題だと言った。「それを具体的にどう現はして宜いか」は諸君の判断だと述べた。特別な個人ではなく、一般的な国民一人ひとりの人間的自覚と国民的主体の確立が必要だった。
『彼岸過迄』で「たヾの人」を問題にし、「中味と形式」で生活する 「普通の人」を問題にした漱石は、「素人と黒人」では芸術における 専門家と非専門家を論じて、「昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、其人は黒人ではなくつて素人でなければならない。人の立てた門を潜るのではなくつて、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである」と論じた。この素人である「たヾの人」、国民一般の創造的エネルギーが解放されなければならない。漱石は芸術や学問を狭い専門家の枠に閉じ込めることに反対し、広い国民的基盤の確立を求めた。その創造の源泉は普通の人の生活の現実にあると考えたのである。
学問や芸術に限らず、政治や社会の問題においても、漱石は普通の人の生活の現実を重視した。現代に最も適切な社会の「型」を決定するのは、普通の人の日々の生活の必要であった。新しい社会と文化の主体としての国民の問題を漱石は提起し、その自由と解放を求めた。そして、国民一般のそのような人間的国民的自覚を求めた。しかし、その実現は決して短日月に可能ではなかった。漱石はそれを未来に求め、青年達に期待した。晩年の漱石が病気の身にも拘わらず、一高や学習院や高等工業などで、文学が専門でない若い学生達に対して、創造的文化について、個人主義について熱心に講演したは、このような気持ちの現れであった。
一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを、漱石は強く感じていた。やがてこの世を去らなければならぬ者として、漱石は若い世代に期待していた。自己のすべてを語り、自己を伝えて、青年の胸に「新しい命」として蘇ることを求めた。さらに漱石は、彼らに触れることで自分の古い血を新しく蘇らせようとした。
1916年8月24日、漱石は芥川龍之介と久米正雄に宛てて、一日の うちに続けざまに二本の手紙を書き、「君等の手紙がまあり 原 に 溌溂としてゐるので、無精の僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はヾ君等の若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです」と書いている。
漱石は、「君方は能く本を読むから感心です。しかもそれを軽蔑し得るために読むんだから偉い」と言い、「牛」になることの必要を説いた。「あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出なさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知ってゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。うんく死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」と漱石は書いている。
芥川等に宛てた手紙に見られるのは、若い世代に期待するというだけではなく、若い世代に敬意をはらい、それに触れて自分を新しくしようとする謙虚な気持ちである。漱石は死の直前まで、絶えず自己を新しくし、「人間」を押し続けて、新しい世界を切り開いて行こうとした。漱石は「文士を押す」のでなく「人間を押す」のだと強調している。文学に始まって文学に終わるのでなく、普通の人間の生活の現実に根差し、現実に必要なものとして文学が発展することを求めたのである。
「若し活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば・・・・・存在するならばではない、そんなものは死文芸としてより外に存 在は出来ないものである、枯れて仕舞はなければならないのである。 人工的に幾ら声を嗄らして天下に呼号しても殆ど無益かと考へます」と、「文芸と道徳」の漱石は述べている。ここには文芸と「活社会」の関係がはっきりと示されている。
1906年(明治39)11月、教師をやめて専門的に作家の道を歩き始める決意が強まった時期に、十年計画で敵を倒す積もりだったが、十年計画では無理なので、百年計画に改めたという意味のことを高浜虚子に宛て書いている。当時の漱石は「百年の後を見よ」ということをしばしば手紙に書いている。
朝日入社直後には、東京美術学校で「文芸の哲学的基礎」と題して講演し、「自己が真の意味に於て一代に伝はり、後世に伝はつて、 始めて我々が文芸に従事することの閑事業でないことを自覚するのであります。 始めて自己が一個人ではない、社会全体の精神の一部分であると云ふ事実を意識するのであります」と述べている。『こゝ ろ』や芥川等に宛てた手紙を見ると、漱石のこの考えは死を前にして、ますます強まっていたと思われる。
漱石は天皇制という言葉も知らず、もちろん、直接天皇制の批判する言説も発表してはいないが、漱石の生涯は一貫して天皇制に反対する戦いであったということが出来る。
『趣味の遺伝』の漱石は、凱旋する軍隊に対する万歳の渦の中で、どうしても万歳が言えぬ男を描き、戦死した友人とその母のために熱い涙を流している。漱石は常に現実の暗部に眼を注ぎ、そこに自分の文学の根拠を置いた。芥川は始めて漱石の家を訪ねた時、漱石が他の客に「自分はまだ生涯に三度しか万歳を唱えたことはない」と言って、「最初は、・・・・・・二度目は、・・・・・・、3度目は、・・・・・・」と克明に数え上げるのを聞いたと伝えている(「漱石山房の冬」)。
万歳は1889年、憲法発布の当時、 国民が声を合わせて唱和して、天皇を讃美するために作られた。明治天皇制の確立と呼応し、これを讃美するために案出された人工的なもので、自然の声でも、昔からの習慣でもない。その後、個人のために使われることもあったが、主として戦争とかや国家的な行事の際に、天皇と国家をを讃美して、「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と唱え、万歳、万歳、万々歳と繰り返して唱和したのである。漱石としては、個性を没却して集団的興奮の渦に埋没する、新しい習慣の万歳はどうしても唱え難く、生涯、その習慣がつかなかったのであろう。それは、漱石の思想と無関係ではないが、それ以上に、ハートの問題であり、感性の問題であった。それは、漱石の天皇制に対する嫌悪や反感が、単に頭脳の問題ではなくて、心臓=ハートの問題であり、感性の問題だったということを示している。
漱石の生涯は、天皇と国家を絶対化し、それによって国民の自由と独立を奪い、「内発的開化」を阻害する明治の国家体制=天皇制と 徹底して対立するものであった。しかし、漱石の生きた時代は暗かった。天皇制を批判する運動も思想も弾圧しつくされた。このような時代にあって、漱石は直接に政治的社会的見解を述べることはしてい。漱石は主として、このような時代に生きる人間の内面に向かい、個人的道徳について語った。私達は、様々な言説を通してわずかにその輪郭を想像すことが出来るだけである。そして、天皇制下の知識人の暗い閉塞状況を徹底して描き出し、あらゆる希望を拒絶して、この社会をひたすら暗黒として描いた漱石に、明治日本の現実と徹底して対立する作家を見るのである。
すべてを一元的に統一し、現実を一つの「型」にはめこもうとする観念的思想に漱石は反対し、現実の多義性と多様性を強調した。この多元的思考は漱石の思想の思想と文学の特徴として、その生涯を貫いて見られるが、これは国家主義の押し付けに反対し、個人の自由と独立を何よりも重視する個人主義の主張と重なり合うものである。漱石においては政治的社会的思想が、哲学的人間観、文学観、創作方法と結び付いている。それはまた、万歳についてのエピソードに見られるように、感覚的生活的なものまでも支配し、生活全体的、全人間的なものであった。
しかし、天皇制下に生きる以上、そのための歪みを免れることは出来ない。天皇制を批判しながら天皇制に侵食されるのである。 『行人』の一郎や『こゝろ』の先生、『道草』に描かれた健三など、いずれもそうした歪みにつきまとわれている。漱石自身にこれらの人物と重なり合うものがあったのは否定出来ない事実であった。しかし、漱石の文学はこれらの歪みを摘出し、歪みを歪みとして描き、そのことによって、その克服を目指す所に特徴があった。
漱石は決して未来のあるべき姿を描き出すことはしなかった。その意味での人間や社会の理想を語ることもしなかった。自己の内部の暗黒を見詰め、自己の死を直視する漱石は、常に「世界滅却の日」を思い、破滅の危険にさらされている暗澹たる日本の前途を思った。漱石の文学は暗い。天皇制下の暗い現実を徹底して描く漱石は、絶えず暗い絶望にとらえられた。
しかし、漱石は大きな自然に眼を向け、遠い過去から生き続けて来た人間の歴史の大きな流れを思って、眼前の暗黒に溺れこむことから自己を救った。絶望にとらえられる漱石は、絶望を拒否する漱石であった。漱石は、どんな時でも苦難の生を黙々として生き続ける普通の人達を思った。「牛になること」が必要なのだ。漱石は死を見詰めながら、黙々として、牛のように「人間」を押して行くことの必要を思った。漱石は「人間の活力の発現の経路」しての開化と、「 自然の進化の法則」を思い、その目を若い世代に向けた。そこに、 絶望にとらえられながらも、ついに自分の見ることの出来ない「百年の後」を思う漱石がいる。 
 
横浜遊郭史

 

横浜遊郭1 (駒形町仮宅 1859年6月〜1859年11月)
開港以前の横浜は、東海道より離れた一寒村であり。遊郭とは無縁な土地で有った。
しかし、黒船襲来と共に横浜の歴史は変貌する。
西洋列強に翻弄される幕府は、安政5年6月19日(1858年7月29日)神奈川の小柴沖(現金沢八景)の米艦隊ポーハタン号船上にて、井伊直弼指示の元、下田奉行の井上清直と米国外交官タウンゼント・ハリス(後の初代駐日公使)は、不平等な日米修好通商条約を集結し3港(函館、長崎、神奈川)の開港を約束させられた。
当然優位に立つ米国側は、開港に対して幾つかの要望を挙げて居る。その内の一つに、異人慰安の娼館設置要望があった。
そこで幕府は、横浜の地を居留地として開放する意見を上げるが、当時の横浜は僻地であり大変不便な地の利の為にアメリカ各国が難色を見せた。
その為、江戸や神奈川の開港を熱望した各国は、領事館を横浜以外の品川や神奈川等に開設している。此れが後に様々な問題を引き起こさせ、倒幕に滑車がかかる事と成る。
何としても武士から隔離したい幕府は横浜の太田屋新田と呼ばれる造成地の沼地を埋め立て、遊郭設置の計画を立てた。
要は、諸外国に対し開港地横浜へ目を向けさせる必要があり要望の全てを満たす事が必要であった。
しかし、沼地の工事が難航し開港期限に間に合わず。条件を満たせぬ事を危惧した幕府は開港期日までに、遊郭を急遽仮設設置する事にした。
これが、横浜初の遊郭である“駒形町遊郭”となる。
場所は、日米和親条約を交わした玉楠の木がある水神祠の裏手となる。
異国の文献より(注:日本側地図と上下逆さま。Aが運上所、Yが玉楠の木、Pが駒形町御貸長屋)

現在の位置関係は、像の鼻と大桟橋で有名な旧イギリス波止場前に運上所(現神奈川県庁)そして隣の横浜開港資料館(旧イギリス公館)及び水神祠の森があり。
更に裏手となる現ホテルコンチネンタル横浜から本町通りを跨いで三井住友海上横浜ビルにかけて“駒形町遊郭”が作られたと推測される。
駒形町遊郭は、太田屋新田の遊郭が出来る間の仮施設で有った為に、遊郭独自の堀も無く単に塀で囲った簡易的な物であったと記されて居る他、駒形町を記した他の古文書には、「安政六年横濱村の中央に運上所を建築し、其近傍に官舎二十餘棟を建設し駒形町と名付く」と有る。この事から元々官舎(御貸長屋:幕府が下級異国軍人の為に、設営した簡易宿舎)として準備された建物を一時的に与えられたと考えられる。
尚、遊郭に付き物の何かの神社が祭られていたかも不明である。
駒形町遊郭が営業していた時期は、安政6年5月10日(1859年6月10日)より安政6年10月(1859年11月)までの5ヶ月程と成る。
当初計画された太田屋新田の埋め立てが安政6年10月(1859年11月)に完成し、駒形町遊郭が太田屋新田に移転され江戸の吉原を手本とした本格的な遊郭として、港崎町遊郭が誕生する。
駒形町遊郭は、俗称駒形屋と呼ばれ狭い長屋に各揚屋が入居するかたちで営業が開始され、品川宿の岩槻屋佐吉及び神奈川宿の鈴木屋善二郎を中心に5軒の揚屋と見番、料理屋、茶屋及び長屋で構成されていた。
集められた女郎は、神奈川宿の旅籠(飯盛旅籠:飯盛女と呼ばれる女郎を抱えた旅籠)より強制的に集められた。
これは、横浜開港前に多くの異国人が東海道筋に有る旅籠へ出入りする様になり。その中でも多くの女郎を抱える神奈川宿は特に異国人が集中した為に、幕府(神奈川奉行所)は武士との事件を懸念し神奈川宿での飯盛旅籠営業の一切を禁止した。
その事により売春行為を禁じられた女郎約50人は新設された横浜駒形町遊郭に半ば強制的に送らる事になる。
短期間ではあるが、異国人相手に営業を始めた駒形町遊郭の岩亀楼では妾として身請けされた遊女が早々に現れます。
「お島」と言う女郎が、オランダ領事のホルスブルックに身請けされたと在ります。しかし、お島は神奈川宿桑名屋の女郎で、駒形町遊郭以前にホルスブルックと通じ合って居た可能性が在ります。
尚、ホルスブルックは最も早く横浜居留地への領事館移設を行った人物です。ホルスブルックが親日家と言うよりも日本人女性を大変気に入った事で、幕府の言う事を聞いた方が得策と判断したのか判りません。
しかし、ホルスブルックの女好きは間違いなく、駒形町遊郭以降もホルスブルックに付いての話題があります。
それは、港崎町遊郭時代に、本町通りの商人文吉の娘”おてふ”を町で見染め洋銀100枚でおてふの雇い入れを申し出るも神奈川奉行により不許可とされた。
之は”らしゃめん”(異国人専用の女郎)以外の娘は、異国人の妾に成れず。と言う物で、おてふが町娘であった事から妾とする事が出来ませんでした。
しかし、諦め切れないホルスブルックは、おてふを港崎町遊郭の岩亀楼へ売り飛ばし、遊女長山として見番にあがります。その後、長山は月極15両のらしゃめんとして万延元年10月18日にホルスブルックの妾と成りました。
また、「つる」と名乗る女郎を身請したのが米国外交官タウンゼント・ハリスの通訳として同行したヘンリー・ヒュースケンである。
因みに、ヒュースケンもまたオランダ人である。
らしゃめん1
(羅紗緬、羅紗綿) 綿羊のことで、日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。洋妾(ようしょう)、外妾(がいしょう)とも言われる。幕末開国後の1860年頃から使われだした言葉で、西洋の船乗りが食用と性欲の解消の為に船にヒツジを載せていたとする俗説が信じられていたためといわれる。パンパン、イエローキャブと同じような使われ方をする。
安政6年(1859年)の開国・横浜開港と同時に、江戸幕府公認で、主に外国人の相手を目的とした港崎遊郭が関内に開業、幕府は外国人専用の公娼(羅紗緬)を鑑札制にし、管理を遊女屋に託した。遊郭内では、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。
また、幕府は日本人の娘が外国人男性と結婚するのを禁じていたが、外国人からは遊郭の遊女以外の女性の要望も強く、せめて妾は許して欲しいと主張されて遊女であれば外国人の自由にさせても攘夷の浪人を憤慨させることはあるまいと、万延元年(1860年)、港崎遊郭の羅紗緬に外国人の妾になることも許した。遊女は遊女屋と証書契約を結んで鑑札を受けてのちに外国人の妾となり、給料の中から遊女屋へ鑑札料を支払っていた。以降、羅紗緬は増加し、文久2年(1862年)神奈川奉行所の調べでは、羅紗緬鑑札の所持者は500人であった。
一方で遊女を好まない外国人もいて、素人の羅紗緬も出現する。鑑札所持者からはこれはもぐり羅紗緬と苦情が出たが、妾は結婚ではないから奉行所は取り締まることができなかったため素人が増加、文久2年から慶応2年頃までには異人館通いの羅紗緬が2400〜2500人にも増えたという 。
また、白人に身を任せる日本人一般女性を見つけることが当時は困難だったため、被差別部落の女性が羅紗緬の多くを占めたとの史料もある。
しかし、慶応2年(1866年)の豚屋火事で港崎遊郭が全焼して以降は衰えた。明治5年(1872年)、吉原遊郭では羅紗緬は鑑札を要せず、在住地官長への届け出制となった。
らしゃめん2
外人の妾(めかけ)。洋妾。「文久元甲子(こうし)三月版、広重筆『横浜売物図絵』(大錦絵)に黒色のやぎを図して『ラシャメン』と傍記(ぼうき)し『此(この)毛を俗にラシャに成と伝(つた)ふなり』とある。らしゃめんは綿羊の毛で作った洋織物であって、現今単に羅紗(らしゃ)と称するものに当り、外国人は大方此羊毛織物に包まれて臥(ふ)すものと断じ即ちらしゃめんなる動物の毛を以て製織したものを抱擁して暖(だん)を取る事に及ぼし、果ては之(これ)を擬人化し日本婦人にて外国人の妾となれるものを称してらしゃめんと呼んだものと思はれる。」(昭和7年版「横浜市史稿風俗篇」)
また洋妾は外人から貰ったラシャを身にまとうからだという説もあると同書はしるしている。外人が洋犬と共にベッドに眠るところから、犬や綿羊をおかすとおもい、犬羊と同じ境遇となる洋妾を、らしゃめんととなえたという説は古く「守貞漫稿(もりさだまんこう)」にある。
名高い「らしゃめん」
きち(斉藤きち) 安政4年(1857年)、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに召し抱えられた伊豆国下田の芸者。同時に、通訳ヘンリー・ヒュースケンも同じ芸者の「ふじ」を召し抱えた。ハリスが依頼したのは「看護婦」だったがそのような概念を理解していなかった日本側が「妾」だと勘違いして芸者を派遣したという説と、幕府がハリスの江戸出府を引き止めさせるために芸者の手配を行ったという説がある。3か月で解雇されて以降は周囲の偏見から酒に溺れ、自殺した。
喜遊(亀遊) 港崎遊郭にあった岩亀楼の遊女。文久2年、外国人に妾にならないかと言い寄られ、「露をだに いとふ倭の 女郎花 ふるあめりかに 袖はぬらさじ」と辞世を残して自刃したという。尊王攘夷派の創作という説もある。
斎藤きち
(さいとうきち、天保12年/1841-1890) 幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ、4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。
安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。
当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉が羽振りの良くなっていくと次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、以降も冷たい目を常に向けられることとなり、この頃から酒色に耽るようになる。
慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。
その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。
下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。
こぼれ話
当初、ハリスがスケベな為に遊郭を準備させた様に思えたがハリスは非常に固い人物で、初の在日米国領事館を下田に開設した当初、日本側に秘書を依頼したが下田奉行の勘違いから遊女を差し出している。これが有名な唐人お吉で、ハリスは彼女が娼婦である事が分かった即日に解雇している。
又、以下の様な話も残っている。
慶応2年2月1日(1857年2月24日)下田奉行岡田備後守役宅にて、ハリスは岡田備後守に対して「日本人は、信じられぬ程に淫奔である。会食後は必ず女の話に・・・」と大変迷惑していると述べられた様だ。
一方、ハリスに同行していたヒュースケンは下田の夜も満喫していた様だ。
当時の日本は、混浴が普通でありヒュースケンは厳格なハリスに白い目で見られながらも毎晩通ったようだ。しかも入浴せずに長時間居座って見学していたと記録がある。
最後に、開港地横浜は大岡川に阻まれ吉田橋を渡らなければ成らず関所と成る関門が設けられ武士の横浜入りを厳しく禁止していた。
此れは、異人とのトラブルを避ける目的があった。
当時、倒幕を目論む水戸藩の浪人を中心に攘夷論を唱え異人との事件を起こす度に、幕府に多額な保証金を相手国に払わせる事で幕府を経済的に追い込もうと言う事である。
※攘夷論=神聖なる神国日本を野蛮なる異人に汚されると異人排他運動を言う。
飯盛旅籠の料金相場(安政元年)
品川宿、神奈川宿、戸塚、藤沢 共に一晩500文
遊郭の料金相場
揚代は、6段階
最安値の下級遊女で2000〜2500文
太夫等の上級遊女で3両(27000〜30000文)
(当時の貨幣単位は、両に対しての文は時価の為1両=8000〜10000文と成ります。) 
当時の物価
長屋一ヶ月の家賃 500文前後
そば一杯 20文
酒一升 400文
500文と言う貨幣価値は、現在の7〜8千円程度と考えられ長屋とは言え家賃が安い。其れに対して遊郭での揚代は非常に高価である。又揚代以外にも費用は掛かる。(飲食代や宿泊代みたいなもの)
最安値の遊女で2000文現在の価値にすると3万円よく知りませんが現在の相場に近い?
当時の通貨レートは、1両=1ドル25セントな為ホルスブルックとヒュースケンは飯代の様な5ドルもあれば遊べた訳で、かの福沢諭吉は1860年に渡米し日本との物価相違に驚いて居る。その格差100倍以上、この不条理なレートもまた日米修好通商条約により取り決められ。日本が保有してきた多くの金銀が国外へ持ち出された事は言うまでも無い。 
横浜遊郭2 (港崎町遊郭 1859年11月〜1866年11月)
江戸前期の横浜は、長崎の出島の様に閉鎖された場所であり現在の関内以降西側に内海が広がっていた。
江戸中期この辺りの内海は、水田用地として埋め立てられ、今のJR根岸線を境に海側を太田屋新田、山側を吉田新田と呼ばれていた。
さて、開港を迫られた幕府はアメリカの要望に沿って太田屋新田の一部を埋め立て、遊郭建設に着手するが、弱体化した幕府は末期の財政難?でありお国上げての大事業を民間へ託す事に…
幕府は有志を募り埋め立て後の土地利用権(名主)を与える事で、遊郭建設を考えた。
名乗りを挙げたのは、神奈川宿の鈴木屋善二郎と後の遊郭岩亀楼の亭主“岩槻屋佐吉(佐藤佐吉)”であり。当時の佐吉は、品川宿(現北品川)にて飯盛旅籠岩槻屋を営んでいた。
飯盛旅籠とは、表向きは旅籠であるが女郎を抱えた売春宿で、遊郭と呼ぶには余りに品位の欠ける低俗な宿を指す。
当然、佐吉にすれば事業の格上げが出来る好機到来と言える。
彼は、私財を投げ込み当時沼地で有った太田屋新田の一部を埋め立て港崎町の名主と成った訳である。
因みに、造成直後は有志5名でスタートした共同事業であったが膨らむ建設費に一人また一人と抜け、最終的に佐吉一人がやり遂げた大事業であった。
※当埋め立て事業は、神奈川宿の五十鈴楼店主鈴木屋善二郎が申請し許可され始めた事業である。鈴木屋善二郎は短期間で埋め立てを完了する為に遊郭予定地横の沼底を掘り起こしその土で造成する等、なかなか知恵のある者であった。しかし、資金繰りに失敗し佐吉に後を託す事になる。
この事より、佐吉は大変な資産家と想像出来る。また、江戸期より姓を佐藤と名乗っていた処からも大変な実力者(資産家)と見られる。
港崎町遊郭は、先の駒形町遊郭とは異なり江戸の吉原遊郭をモデルに造成され遊郭の四方に壕を廻らし、遊郭への唯一の玄関となる大門には橋を架け大変立派な遊郭であった。
大門に通じる辻は、運上所より太田町通りを越えた辺りに、小さな橋があり其処から衣紋坂(現みなと大通り)と呼ばれる坂が作られた。この衣紋坂の名称より江戸の吉原を手本にされた事が判る。
中でも佐吉が経営した岩亀楼(がんきろう)は、絢爛豪華で沢山の文献が残されている。因みに店名の岩亀楼(がんきろう)は、彼の出身地である岩槻(いわつき)の音読みを当てたと言われている。
現在の位置関係は、横浜スタジアムより若干広く横浜市役所側に大門があり球場を挟んで反対側のメガネスーパー裏辺りに金毘羅さまが祭られて居たと推測される。
金毘羅さまは、佐吉が讃岐国象頭山の金比羅大権現を勧請したとある。本来、吉原を手本にしたのであれば稲荷さまか弁天さまの筈である。勧請する伝が無かったのかもしれないが、何故金毘羅さんと成ったのだろうか。
佐吉が抱く遊郭のイメージから遊郭=戯れ歌「こんぴらふね、ふね、しゅらしゅしゅしゅ〜」と金毘羅さんを勧請しようと至ったのであろうか。
佐吉は其処まで無学では無い様で、女郎や楼主向けが一般的な社を勧請する事は無く、あくまで客である異人(船員)の航海安全祈願の為に勧請したのだろう。
この事より、岩槻屋佐吉は真に客思いの商売人であり、お客を大変思いやる気持ちがある人物だと伺える。
集められた遊女は、江戸の吉原、品川、神奈川を中心に集められていた。しかし、異国人相手の遊郭は当時長崎の丸山遊郭のみであり。接客に付いて港崎町遊郭は、丸山遊郭を手本にしたと言われている。
又、港崎町遊郭では、異国人専用と日本人専用に分けられて居た事から異国人の要望だからと建前を言いながら。分けてしまった事で、異国人の抱いた女は抱けねえと当時の日本人の本音と自分達も遊ぶ事が明確に判る。
当時の日本人は、異国人を大変野蛮な人種とみなし異国人に抱かれる事は家畜以下とみなされ羅紗緬(らしゃめん)と呼ばれ、軽蔑されていた。
この羅紗緬とされるのは、本来羅紗緬とは綿羊の事であるが当時の異国人船は食用の為に”羊”を乗せて居たが、性欲の捌け口に使われたか確証は無い。
下の図は洋書の挿絵だが米艦船サスケハナ甲板上に船員と羊、山羊、豚、鶏が描かれている。(少なくとも羊を乗せていた事は間違い無い)
当初、羅紗緬に選ばれる遊女は下級遊女が殆どであり彼女達の間でも屈辱的な事であった様だ。又、羅紗緬の遊女のみ幕府が鑑札を交付し管理されていた。
異国人が遊郭内で、気に入った遊女が居ても羅紗緬でなければ成らない為に苦渋を舐めた異国人は多い様だ。
それ故に、有名な喜遊の伝記が残る一方で金品目的か判断出来ないが、次第に羅紗緬を要望する遊女が増え、管轄する奉行所が発行した鑑札は500以上になった。
又、異国人の妾に成ることを許可した後に、横浜市内はもぐりの羅紗緬が急増したと記録が残っている。
彼女達をヨタカと呼び、夜な夜な小船で黒船に密通する者が増えた。
この様に、大変繁栄した港崎町遊郭は、7年後の慶応2年10月21日(1866年11月26日)豚屋大火で焼失してしまう。
豚屋大火とは、港崎町遊郭の大門前で豚肉屋を営む鉄五郎宅より出火し横浜の大半(3分の1)を焼失した。焼失は、居留地にも及んだ為、その後の港崎町の再建に異議が唱えられた。
燃えやすい木造家屋が多い日本人街と外国人居留地を分断する公園及び防火道(現在の横浜公園及び日本大通がそれに当たる)を設ける要望があった為に豚屋大火後、港崎町での再建を諦め埋め立ての進む吉田新田に移設される事に成る。
港崎町遊郭跡地である横浜公園内の日本庭園に古い灯篭がある。これは岩亀楼の灯篭で明治初期の灯篭だろうと言われている為、江戸末期に消失した港崎町時代の物では無いと考えられる。
それでは、何故この灯篭が此処に設置されたかの経緯は、昭和57年(1982年)横浜市西区の妙音寺に保管されていた岩亀楼の灯篭を当時の住職が横浜市に寄贈した経緯がある。
しかし、何時から、如何して妙音寺に灯篭が有るのかはっきりしていない。
勝手に想像すると西区の妙音寺は久保山に上る途中にあり、比較的距離が近い羽衣町の吉原遊郭が年代的にも有力だと思われる。
本来、遊郭と縁の深い常清寺に有ったとすれば話は別だが妙音寺と成ると、吉原遊郭の移転に関係すると考えられ、当時人口が急激に増えた市内の用地確保の為に久保山周辺への移転が候補地として上がっていた。
そこで、久保山に移転すると勘違いから運ばれた可能性は高い。又、灯篭に延焼した形跡が無い為、災害後に運ばれたとは考えられない事と久保山移転騒動以降に、久保山(妙音寺)との接点が無い事から現時点では当説が濃厚と推測している。
尚、現在灯篭が置いてある場所は仮に港崎町遊郭時代の灯篭としても全く関係無い場所に置かれている。
そもそも港崎町遊郭の岩亀楼が有った場所は、現横浜スタジアムのグラウンド内一塁側と想像され、現在の日本庭園及び灯篭は遊郭外又は隅と思われる。
豚屋大火後、焼け出された遊郭は、6ヶ月ほど開発の進む太田屋新田沿いで太田町仮宅にて営業している。
豚屋火事
1866年11月26日に横浜の関内で発生した火災。豚肉屋から出火したためこう呼ばれ、横浜開港から7年目の関内を焼尽した。別名関内大火。旧暦の慶応2年10月21日午前8時頃、港崎遊郭の南(現・神奈川県横浜市中区末広町)にあった豚肉屋鉄五郎宅から出火。 港崎遊郭へ燃え広がり、遊女400人以上が焼死、更に外国人居留地や日本人町も焼き尽くし、午後10時頃鎮火した。この大火により、遊郭跡地は避難場所も兼ねた洋式公園(現・横浜公園)となり、町屋は洋風石造へと建て替えられて、関内は欧風の近代都市へ改造されていった。
こぼれ話
大火の罪を犯した鉄五郎は、講釈師でもあり幸いにも生き延びた後に江戸へ三代目石川一夢という名で逃亡している。しかし、豚屋大火の2年後、またも幸いな事に明治政府が樹立し何故か大火の大罪は無罪放免となった。なんとも強運の持ち主… 
因みに、豚屋とは豚肉専門の飲食店であり江戸末期に流行した鍋料理の様だ。 
横浜遊郭3 (太田町仮宅 1866年12月〜1867年6月)
慶応2年10月21日(1866年11月26日)朝8時頃、末広町(現太田町)の豚屋鉄五郎宅より出火。 燃え上がった炎は、鉄五郎宅近隣の港崎町遊郭に燃え移り仕事を終え寝入っていた女郎400人が犠牲に成った。 この炎は、西風に煽られ居留地の一部と日本人街を延焼し、運上所を含む関内一帯を焼失した。
鎮火は午後10時と記録にあり大変な大火であったと想像出来る。
7年目にして、全てを失った港崎町遊郭は移転地も決まらず業を煮やした遊郭経営者は、港崎町遊郭の目と鼻の先である太田町運河(現在の太田町3丁目4丁目)の土手に、小さな掘建て小屋を建て仮営業をはじめた。
土手ではじめた太田町遊郭は、次候補地が決まる迄の仮宅であり遊郭と呼ぶには粗末であった様だ。
太田町遊郭は、現在の常磐町通りに面して馬車道方面に向かって軒を並べて居たそうだが岩亀楼を含む数件であり。他の揚屋は居留地を囲む様に石川町や本町の民家を各々借り受け営業していた。(出世楼は、元町5丁目石川喜兵衛宅を借用。)尚、女郎の調達や移転費用の捻出が出来ない揚屋は撤退を余儀なくされた様だ。
神奈川奉行所は、各国を代表とするイギリス領事との会談で幕府に対し都市計画の悪さを酷く攻め立て、港崎町での遊郭再建を拒否。
日本人街(遊郭を含む)と居留地との間に緩衝地域を設ける事を要望。この事から遊郭候補地を関外の吉田新田北一つ目沼先の畑を造成し建設する事に決まり、次期遊郭施設が建設される迄の6ヶ月間(慶応2年11月頃〜慶応3年5月28日)を市内を点在する形で営業が行われた。
尚、次期遊郭建設予定地は港崎町遊郭の約半分の敷地であり港崎町遊郭時代の岩亀楼の様な大規模な楼閣は断念された。
港崎町遊郭で大いに繁栄した横浜遊郭は、流転の歴史が始まることに成る。 
横浜遊郭4 (吉原町遊郭 1867年7月〜1871年12月)
1867年7月1日(慶応3年5月29日)吉田新田北一つ目沼に隣接する田畑を造成し目抜き通りである港町、道中が行われる仲乃町、仲見世が立ち並ぶ比翼町、茶屋や料理屋が並ぶ和花町、芸者屋の青柳町、湯屋(銭湯)がある梅ヶ杖町とした。又、遊郭敷地外の大門前に姿見町を創り姿見橋を隔てて吉田橋繋がる通りと成った。
又、関内より吉原町遊郭へは吉田橋を渡らねば成らないが、吉田橋袂の関門内になる為、関内から自由に行き来できた。
この吉田新田北一つ目に出来た各町を総称して吉原町遊郭と呼ばれ。又、遊郭内に病院を併設し、更に港崎町遊郭の災害を教訓に幾つもの裏門が作られた。
尚、併設された病院は遊女の微毒(梅毒)検査を主とする病院であり、イギリス人医師ジョージ・ニュートン(George.B.Newton)を筆頭に松山棟庵を助手に開設された西洋式病院と成り、当時諸外国より問題視されていた日本人の性病に対する認識の低さに、業を煮詰めたイギリス領事から外国奉行(神奈川奉行)へ病院創立が要望され実現しました。
発端は、1867年(慶応3年9月)横浜に駐留するイギリス海兵隊(赤服さん)の梅毒蔓延を重要視した軍医ニュートンが、在日英国領事バークスへ調査依頼した事が発端と成りました。
当初は、戸長である佐藤佐吉より吉原町会所を借り受け横浜微毒病院の仮施設とした。
1868年(慶応4年5月4日)に仮施設より病棟を新たに建設し、わが国初の駆微病院として吉原町検微病院(横浜微毒病院)が開業する。
この微毒病院では、梅毒以外にも天然痘等の流行り病予防を積極的に行い多くの日本人医師がニュートンの門下生と成っている。
この中でも明治元年に、書店の大手「丸善」の創業者となる早矢仕有的を雇い入れている。彼は医師として学びながら医学書の必要性から丸善の前身と成る丸屋を創業した。当初は洋書以外に医薬品等の扱いも有った様だ。
明治2年1月26日の資料では、遊女数750人に対し開院後の横浜微毒病院にて検査を受けた総人数は3084人に上がったそうです。
その内入院患者数は56人だった様です。この数字は年間の患者数となります。
順調に見えた横浜微毒病院ですが、明治3年1月23日ニュートンは、神奈川県令(県知事)に吉原町遊郭楼主に対し微毒検査の妨害を受けていると上告しています。
之は、微毒にかかり営業出来ぬ女郎が増えた為に楼主が微毒検査に対し難色を見せ、雇いの用心棒に嫌がらせを行わせていた。
当初は口頭注意で済んで居たが是正される事がない為に、明治4年11月14日神奈川県は、布達として週1回の微毒検査を強要する事に成ります。当検査を受けぬ者は女郎鑑札取上げの上廃業を通達すると強行策に出てきます。
この様な、障害を受けながらもニュートンは、より多くの日本人に微毒を理解して貰おうと明治3年10月10日横浜を出帆し長崎に渡る。
明治3年10月25日大徳寺(長崎県長崎市西小島町)境内に仮病院を開院したが、現地の遊女や楼主及び長崎県令に理解されず。運用は失敗に終わっている。
明治4年5月24日志半ばにしてニュートンは長崎で死去。健康な遊女に検査が何故必要か説得するが思いは届かず長崎市内のホテルで亡くなった。(病死と有るが、長崎では必要以上の嫌がらせを受けていたと記述があり他殺の可能性も拭えない。)
一方横浜の吉原町検微病院(横浜微毒病院)は主医官を失った為に、明治4年6月21日イギリス海軍軍医 ヘンリー・セジュウィチ(Henry N. M. Sedgwich)が着任します。しかし、イギリス側の都合にて6ヵ月後の明治5年1月イギリス海軍軍医 ジョージ・B・ヒル(George B. Hill)が着任、又、イギリスはヒルを横浜・神戸・長崎の微毒病院を兼任院長に任命する。
一方的な人事権を行使するイギリスに対し、神奈川県はヒルの解任を求めている。
之は、歴任の院長が日本政府との雇用関係に無い為に公立化を果たしたい政府及び神奈川県は雇用関係が確立した院長を求めていた。
しかし、イギリス海軍は自国民防衛の為であり微毒病院に付いては日本政府及び神奈川県の意向は聞き入れぬと言う態度をとられてしまう。この一方的な微毒病院の管轄権は暫く続く事になる。
(イギリスの言い分は、発展途上の日本に自国の兵士を任せる事は出来ないと医療関係では全く信用していなかった。)
さて、当時の治療とはどの様なものなのか触れておくと以下の様な薬品が使われて居た。
キニーネ剤、ヨード鉄を原料にした強壮剤治療、及び水銀剤、ヨード剤、砒素剤の内服が当時の一般的治療方法でした。
ニュートンは、更に重症患者への処置として水銀を使った蒸気浴治療や水銀剤の直接注射する等の治療を行いました。
現在の常識から考えると非常に危険な治療で有った事が判ります。
尚、微毒検査の費用は、楼主及び遊女より微収された。
現在の位置関係は、蓮菜町3丁目、羽衣町3丁目、末広町3丁目、伊勢佐木町2丁目と成り、伊勢佐木モールを含む吉田中学校近辺と成る。遊郭の表玄関である大門は、横浜パセラリゾーツ関内ビル裏手の一角と成り、病院は吉田中学校校庭に在った。
太田町遊郭に留まった揚屋、及び民家を仮宅として営業していた揚屋の多くが吉原町遊郭に戻ったが、港崎町名主であり岩亀楼店主の佐藤佐吉と共に、開港以来横浜遊郭建設に携わった鈴木屋善二郎の五十鈴楼は、再建叶わず吉原町遊郭の新天地にその看板を揚げる事が出来なかった。
明治元年、吉原町遊郭に文明開化が訪れる。岩亀楼は港崎町遊郭時代の勢いは無く、代わりに勢いが在ったのが神風楼である。
神風楼は、芸を売りにする岩亀楼とは一線を画する事でサービスに重点を置き、その甘美なサービスから異国人よりネクタリンやNo9と呼ばれ、新たな人気店と成ったそうです。以降、神風楼は「Nectarine No9」と店頭に表記する様に成ります。
(新規参入の神風楼は、明治初期に行われた余多嫁狩りで捕らえられた私娼を受け入れています。この為、外国人に対し手馴れた女郎を多く得た事で成功したと考えられます。)
吉原町遊郭の港町と仲之町を通る道には、春は桜、夏は菖蒲が植えられ。その季節毎に花魁道中(太夫道中)が行われた様です。
吉原町遊郭で人気を博した太夫は、神風楼の”小町”で、彼女の生い立ちは元徳川家に仕えた御茶坊主(明治初期、朝廷(神教)の権力が復活し、幕府や藩(仏教)お抱えの坊主は職を失い窮地に立たされています。)の娘と言う。
14の頃から神風楼にて仕込まれ、16で水揚げ(客取りの為、見番に立つこと)17で太夫になった。
太夫になった小町は、桜咲く時期に妹女郎七町の水揚げし、道中の主役である小町は、水揚げした七町を祝うかの様に、七町に八文字を切らせたと在ります。八文字とは、遊女特有の高下駄を八の字を描くように歩を進める歩き方で太夫のみ許される行為であり水揚げ間もない七町に切らせたのは、七町を可愛がって居たのだと思います。
この道中に3千円(当時は、まだ円が使われて居ない為、当話を聴取した時点(昭和3年)での金額と思われラーメン10銭の時代3千円は、現代の金額にして1千5百万円の価値)の借金をし、お付の者までも3日間行われた道中に、日毎揃えた衣装で豪勢に行われた様です。
小町は、太客であった原木仙之助を七町の水揚げの為に譲客(女郎同士で、客を譲り渡す事)しています。
後の明治5年の芸娼妓解放令にて原木は七町と夫婦に成ったそうです。
一方、小町は行くところが無いと高島町遊郭の神風楼へ身を寄せます。
これは、芸娼妓解放令に拠って女郎は開放されたが身を寄せる処が無い小町は再び女郎に戻ったと言う事です。
1871年6月2日(明治4年4月15日)野毛山に伊勢山神宮が国費を以て創建され、神奈川を揚げての大祭、大神宮御還宮祭が4月15日(和暦)より5日間行われた。
この大神宮御還宮祭は、様々な山車が練り歩き、其れは盛大に行われた様です。廓方(吉原町遊郭)女郎連中から踊屋台の山車が出され、披露された踊は岩亀楼の芸子演じる”揚巻助六白玉”(遊郭を舞台にした歌舞伎の演目「助六」をイメージした踊りだろうと想像される)と手古舞踊り衆が15名ほどあったと記録されています。
手古舞は、山車を先導する踊り衆であり現在でも各地の祭りで見る事が出来るが、本来花街(遊郭を含む)の芸者(芸子)により手古舞が披露されていた。
因みに、稲荷寿司を助六と呼ぶ事がある。この助六とは上の歌舞伎より由来され助六の愛人である”揚巻”の名を次のように語呂合わせした事に由るそうだ。
稲荷=揚(あぶら揚)、寿司=巻(巻き寿司)、揚巻を好きなのは助六だから稲荷寿司を助六と言う事らしい。
1871年12月(明治4年10月27日)、出生楼より出火(ある書籍では神風楼裏手の局見世長屋より出火ともあり)し吉原町遊郭も又焼失してしまう。
この時の犠牲者は30余名(ある書籍では20名とあり)とあり、逃げ遅れた長屋の女郎数十人は、大門側へ回った火の手が行く手を遮り逃げ場を失った彼女達は、仕方なく裏門を目指した。
しかし、袖揚橋にも火の手が回っており数人が渡った処で焼け落ち、残された数人が近くに泊めてあった小船で避難しようとしたが、逃げ遅れた妹分を火の粉が降り注ぐ中待っていた為に、堀際の家屋が焼け崩れ遊女数人を乗せた船は燃えながら沈んだそうです。 
横浜遊郭5 (長者町9丁目仮宅 1871年12月〜1872年10月)
横浜遊郭で火災にて焼け出されるのは、二回目であり楼内での出火は初めてである。
全国的に遊女の自殺や放火は珍しくなく、日常的であったと言われている。
港崎町遊郭の火災は、楼外の火災が原因だが、吉原町遊郭の火災は遊女の放火が原因と見られる。
明治4年12月4日(1871年10月27日)早朝に、吉原町内出世楼裏方より出火吉原町遊郭の半分を焼失させた。しかし、時間帯や多くの裏口の存在で多くの遊女が助かって居る。
吉原町遊郭の岩亀楼を含む約半数の遊女屋は焼け残り火災後も同地で営業を始めている。
一方焼け出された楼主は、吉原町遊郭の目と鼻の先である長者町9町目に仮宅を建て翌年早々に営業を開始した。
焼け出された遊女屋は、港町(伊世楼、松永楼、出世楼)港町1丁目(静松楼、甲子楼、二見楼、大豊楼、三国楼、神風楼)及び長屋である。
当時の長者町9丁目近辺は、常清寺の境内である日の出川沿いで始めている。(現在は埋め立てられ、車橋、長者町1丁目から日の出橋がある9丁目迄を貫く道路に整理されている。) 
横浜遊郭6 (高島町遊郭 1872年11月〜1881年3月)
高島町遊廓は、鉄道建設の為に高島嘉右衛門が横浜石崎(野毛先の姥が岩辺り)から神奈川の青木町まで埋め立てた土地で、鉄道及び道に沿って宅地が作られ夫々の埋立地は島の様に幾つかの橋(月見、万里、富士見)で結ばれていた。
この土地は、埋め立てに当たった事業家高島嘉右衛門が工事費用の見返りに国より頂戴した土地と成り自身の姓より高島町と名付けられた。
高島町は1〜8丁目で構成されたが、海を埋立た地である為に農地や住宅地としては不向きであり、四方を海に囲まれた同地はまるで遊郭の様な閉鎖された土地であった為に、嘉右衛門は遊廓候補地として横浜吉原町遊廓の誘致を企てる。
さて、高島嘉右衛門とはどの様な人物であったのであろうか。
高島嘉右衛門は、江戸三十堀間町材木商遠州屋嘉衛門の第6子として清三郎と名付けられる。裕福な家庭であったが清三郎22歳の時、父が亡くなり莫大な借金を抱えている事を知らされる。
清三郎は、一念発起し亡き父の名を襲名し材木商を継ぐ事になるのだが商才に優れた嘉衛門は数年足らずで完済し、横浜に伊万里焼を主力製品とする肥前屋を開業するなど成功者としての片鱗を見せていたが1859年(安政6年)肥前屋の顧客である外国人とご法度とされる金交換を行い5年間に渡り囚われの身と成る。釈免後横浜に材木商を起し再び才覚を見せ様々な人脈を構築して行く、彼は幼少期より易にたけ自身の商売も易による結果と言われている。この特異稀なる力は財界、政界で評判と成り彼の親交は伊藤博文や大隈重信より先生と呼ばれる程人気があった。
当然、伊藤博文や大隈重信の政治判断を嘉右衛門が占った事は有名だ。
中での和暦から西暦に変えられた明治の改暦は、嘉右衛門より知恵を借りた大隈重信が発起人と成る。
又、伊藤博信と大熊重信に鉄道の有効性を説いたのも嘉右衛門であり、日本で始めてのガス会社創立や高島学校(藍謝塾)創立と嘉右衛門は、日本の文明開化を経済界より起こした人物と言える訳だ。
当然、個人による遊郭の誘致は、非常に稀な事で嘉右衛門が神奈川県令(現県知事)陸奥宗光に計画を打ち明けた際、陸奥宗光は嘉右衛門の計画を微笑しながら否定し、遊郭の移転は考えていないと嘉右衛門に断言している。
※陸奥宗光は嘉右衛門と親しい間柄であった為に、嘉右衛門が遊郭と言う様な低俗な事業に加担することに難色を示したと言われている。
しかし、後の明治4年11月に吉原町遊郭は失火により焼失する訳だが、嘉右衛門の高島町遊郭計画は焼失の1年前に練られていた事案であった。
また、嘉右衛門が陸奥宗光に遊郭移転計画を打ち明けた後、神奈川県による遊郭移転計画が各楼主へ伝えられて居る。
その内容は、明治2年に洲干に有った弁天(現厳島神社)を吉原町遊廓の門前町である姿見町へ移転したのを切っ掛けに、芝居小屋や中小の飲食店等の娯楽施設が出来、吉原町遊廓は繁華街の中心と成ってしまった。
この為、遊廓が町の中心にある事を懸念した神奈川県令陸奥宗光は、郊外である久保山を候補地として暫定するが、遊廓関係者に反対され話は頓挫することに成る。
※当時の久保山は、墓地と死刑場以外に何も無い寂しい場所であり、現在の様な巨大な共同墓地や多くの寺は未だ無く、非常に人気の無い山の中であったと考えられます。
一方、嘉右衛門は、陸奥宗光の突然の不意打ちに対抗するかの様に、久保山移転を打診され難儀する岩亀楼の佐藤佐吉と神風楼の紙屋田兵衛を密かに呼び出し酒の席を設けた。嘉右衛門は県の了解を得てないにも関わらず高島町移転の話を持ちかけた訳だ。
しかし、岩亀楼と神風楼の店主は、県に背き勝手に移転するのは問題があると嘉右衛門の申し出に難色を示したが、嘉右衛門にはシナリオが有った様で、一通の免状を出し両人を捲し上げるかの様に話し出した。
「当地は、県より権限のある国より譲り受け、一切の制限を受けない土地であり自由にして良しと国より一筆頂いて居る。県が口出し出来る筈も無く何の心配も無用。」と言い切った。
県は無理難題な久保山移転を推し進める事が予想され、正にタイミングを逃すと久保山移転に決定してしまうと考えた両楼主は、早々に高島町への移転を望んだが本当に問題(遊女屋免状の剥奪等)が無いだろうかと不安を嘉右衛門へ漏らしている。そこで嘉右衛門は県令陸奥宗光の元に訪れ次の事を述べている「今回の一連の移転騒動は県が関与するべき内容では無い。したがって黙認して欲しい」と嘉右衛門が伝えると陸奥宗光は「口も金も出さぬ。勝手にするがよい」と答えを返した。
陸奥宗光は、財政難の折元々移転など望んで居らず久保山を引き合いに出したのは各楼主が久保山移転を拒否した上で各々勝手に高島町へ移転するだろうと考えての事であった。
要するに、陸奥宗光は県令としての立場から高島町を含む他の土地への移転は当初より認める事は出来なかった。しかし、友人である嘉右衛門へ間接的ながら加担した様だ。
この様な経緯を抱えた高島町遊郭移転は、沈黙する県を横目で見ながら岩亀楼と神風楼の両店が高島町1丁目へ娼館を建設し始めた。
しかし、中小規模の楼主は何も言わぬ県に恐れ高島町移転が適当とは思えず。明治4年11月の吉原遊廓焼失後も遊廓移転先について県令が出されるのを待ってしまう。
依って焼け出された彼等は、6ヶ月間吉原遊廓の側である長者町9丁目で仮営業している。しかし、県側は高島町遊廓地への移転指示は最後まで出さなかった。
最後まで長者町9丁目に残留した長屋や局見世は県に背いていないか半信半疑で、結局の所、嘉右衛門に促され高島町へ移っている。
そして、全てを移し終えた嘉右衛門は、明治5年7月神奈川県令陸奥宗光の元に高島町遊廓移転完了通知を出し受理されている。
移転完了通知を受け取った事で、初めて県は高島町遊郭を遊郭地として認めた事に成る。
こうして、完成した高島町遊廓は神奈川駅を出て直ぐの月見橋を渡った所から現在の横浜駅東口前を横切り横浜駅前郵便局と崎陽軒の間の道沿いに孤を描く様に現在の高島町まで広がって居た。
岩亀楼と神風楼は、桜木町より富士見橋を渡った所にあり現在の国道1号とJR根岸線が交わる辺りの首都高速陸橋下付近の交差点と成る。
因みに現在富士見橋は埋めたってられその名も過去の物となってしまった。(現在、歩道橋南側スロープを降りた辺り)
バスの右側に富士見橋方面、左側に分岐して居る道が元鉄道跡地。岩亀楼や神風楼は写真の高速道路支柱手前の白い軽自動車辺りから右手に有った。現在は交差点と成っている。
岩亀楼の佐藤佐吉は、楼の組合長的な席にあり長年の思いであった鷲神社を勧誘することが叶い鷲神社と金毘羅社は青木橋寄りの高島町8丁目の海側に祭られた。高島町8丁目は他に高島町微毒病院や高島町会所が設けられた。
また、佐吉の岩亀楼は高島町遊廓移転第一号であり、時計塔がある洋館を建て再起を図ったが、吉原町遊廓で才覚をあらわした神風楼が同規模の館を建て対抗し大変な人気と成った。
吉原町時代はその館の造りが粗末な為、錦絵や写真は殆ど残って居ない。
しかし、高島町遊廓は港崎町遊廓時以上の資料が残されている。
此れは、当時の人々に驚愕と感銘を受けられる出来映えだった事が伺える。
明治5年6月、品川―横浜(現桜木町)間に鉄道が開通し花町である高島町遊郭内を汽車が走る。之は現在でも稀な事であり当時の政府が掲げる近代化の中で、尤も影に追い込みたい風俗が諸外国及び民衆にさらけ出す結果と成り、後に政府主体で高島町遊郭の移転に動き出す事に成ります。
同年9月12日、新橋―品川間が開通し盛大な開通式が行われ新橋発横浜行きの一番汽車にて明治天皇が横浜に臨幸する事に成り、慌てた神奈川県権令(現副知事)の大江卓は高島町遊郭の営業を中断させ線路に面した窓を閉めさせた上に日の丸と提灯で飾りつけ祝賀ムードを盛り上げた。
之は、元々派手な遊郭を日の丸と提灯でカモフラージュすると言う大江卓の妙案であり後に、祝日の定番として定着していく事に成るのだがボロ隠しの飾り付けが元とは何とも皮肉な話だ。
しかし、日常的に繰り広げられる窓越しのチョンキナ踊り(当時流行した裸踊りであり野球拳の様な遊びだ。以前より横浜拳と言われる同様の遊びが有るが違いは判らない。凡そお囃子や掛け声の違いだと解釈している。又遊郭以外にもチョンキナ屋と呼ばれるチョンキナ踊り専門店が伊勢山(野毛町)に数件あった。)に眉をひそめる政府は、神奈川県に対し営業の差止めを要望するが、高島嘉右衛門が起こした事業だけに容易では無かった。
そこで、神奈川県と国は異例なことに使用期限10年と言う制約を付け営業を認め、更に後の高島町を高島嘉右衛門より国が買い上げる事で決着した。
元々国の土地である高島町を国に買い取らせるとは、嘉右衛門の計算高さに脱帽である。
しかし・・・
上記の内容は、高島嘉右衛門を中心に書かれた様な内容であり余りに話しが出来すぎな感が拭えないと独自に調べた所、後に高島嘉右衛門を題材に作られた落語と判明した。
落語や浄瑠璃、歌舞伎等の話が歴史を含んで居る事はよく言われる事だが、話を盛りすぎて事実とはかけ離れてしまう。
其れでは、高島町遊郭の生い立ちを当時の日日新聞や関係資料及び書状等を調べると次の事が判った。
先ず、神奈川県令が示した移転候補地は久保山では非ず太田村中畑山(現在の中区南太田京浜急行南太田駅裏の山側斜面)であり焼け出された遊郭は、長者町通り八丁堀空き地(現中区長者町9丁目)にて仮宅としている。
打診された移転用地は山を切り開き整地する必要があり、各楼主にその様な経済的余裕は無かった。又、神奈川県より仮宅である長者町からの移転も期限付きで布達されていた。
さて、鉄道用地として埋め立てられた高島町を高島嘉右衛門より誘致された事や嘉右衛門が神奈川県令陸奥宗光に話を通した事実は無く、楼主を代表して佐藤佐吉(岩亀楼店主)が高島町の地主である高島嘉右衛門の元へ出向き契約を取り付けた上で、神奈川県へ嘆願書を提出し許可されたのが事実の様だ。
此処に、当時の嘆願書がある。提出者は吉原町戸長啓之助父(町長である佐藤啓之助の父と言う意味。佐吉は、明治2年に引退し息子である敬之助に一切を任せていた。)佐藤佐吉と山口条蔵と成っている。
この嘆願書は佐吉が書いた物であり原文は少々難読な為、簡単に説明します。
吉原町遊郭移転についての嘆願書
吉原町
戸長啓之助父:佐藤佐吉
同町
町竝遊女屋:山口条蔵
当吉原町遊郭は去年11月に焼け出され後、県の指示により太田村中畑山へ移転を急ぐよう指示がありました。吉原町一同の家屋を建てる為に34文程山を切り崩す必要があり取り出された土の運搬費用及び当地田畑の持ち主へ支払う示談金を含め見積もると78万両の出費及び整地に1000日程掛かる故、当地への移転は至急に行うことは出来ません。
又仮宅である長者町での永住も間々ならぬ事は承知していますが、昨今遊女屋も不景気な為金子の用意立てにも一同苦慮している所です。
太田村替地の通知は少々難があると思われる為、我々は自力にて再興する為に次の地への移転を許可して頂きたいと思います。
昨今造成された鉄道線石崎海岸通高島嘉右衛門造成地へ神奈川宿の旅籠共々移転を要望し、高島嘉右衛門殿には示談了解済みと成ります。
造成の必要も無い為、退去期限に遅延無く移転を済ませ無用な心配をお掛けする事も有りません。以上
明治5年7月20日
山口条蔵 佐藤佐吉 戸長 島田源兵衛
と言う様な内容で嘆願書を神奈川県に提出しています。因みに、書面末尾の戸長:島田源兵衛は神奈川宿の町長だと思われます。
又、許可した神奈川県は二ヶ月後に開業する鉄道(明治5年9月12日)に関して問題が発生する事を予測出来て居ませんでした。翌年の明治6年4月神奈川県は高島町遊郭戸長である佐藤敬之助に「汽車より神奈川ー横浜間に於いて、醜態を晒し一刻の猶予を許すものでは無いが使用期限を明治15年4月迄とし、当内期日に限り県の条例に準じた上で営業を許可する」と前年に布達された芸娼妓業規則に準じる事を条件に、10年と言う期限付きで認められています。
要するに、規則と言う檻に追い込まれつつ高島町遊郭も又仮宅としての意味合いが有った様です。
尚、明治天皇が横浜に臨幸の際は高島町の遊郭は完成していない。おそらく、建物を建設中であったと考えられる。
佐吉達一同は、嘆願通りに短期間での移転を行っています。
当嘆願書を提出したのが明治5年7月20日ですが、岩亀楼等の20件余りの遊女屋が高島町遊郭への移転を同年11月に終えています。
明治5年10月、後に佐吉達を窮地に追い込む出来事が布達されます。芸娼妓業規則の発効である。
この芸娼妓業規則は細かく幾度と無く布達され、その内容は揚代の課金方法にまで及びます。明治5年10月の布達では、女郎及び貸座敷の鑑札料(発行及び更新時)と課税の二大柱であり佐吉達はこれ等の税金に苦しめられる事に成る。当規則では、納税が出来ぬ場合は鑑札の発行及び更新は出来ぬと言うモノであり即ち廃業を意味している。尚、更新は一ヵ年と取り決められて居た。
又、明治6年4月鉄道の開通に伴い神奈川県布達として「汽車通行の際、高島町芸娼妓による雑言を防止するために遮蔽物を設置すること。」と記述があり汽車より遊女屋を覗き見る事は出来なかった様です。
明治13年末程より高島町遊郭を離れ仮宅である長者町3丁目付近に移転し仮営業を始めて居ます。
之は、高島町遊郭の使用期限が迫る中次期候補地に山吹町・富士見町・千歳町一帯と長者町1から5丁目付近の二地域が候補に挙がっていた事と、更に明治13年9月に関東地方を襲った台風にて、海岸沿いの家屋に多大な被害を与えた為に早々に移転を始めた。又、長者町3丁目付近へ移転した背景には有力候補であった山吹町・富士見町・千歳町一帯の整地が整って居なかった為に先に整地の済んでいた長者町3丁目付近へ仮宅を移した。
又、高島町遊郭時代の岩亀楼は、経済的に窮地に立たされ巻き返す事が間々ならぬ内に佐藤佐吉は病に倒れてしまい、佐吉は岩亀楼が永真遊郭地に移転を叶えた明治16年1月に帰らぬ人となっています。
佐吉が亡くなった後に敬之助は岩亀楼の歴史に幕を引くことに成りますが、啓之助は高島町より仮宅と成る長者町移転後の明治14年7月4日に神奈川県より税金滞納により廃業を申し付けられて居ます。(この時に、15件もの遊女屋が廃業を申し付けられて居ます。)
敬之助は、税金の納付を3年間の猶予を願い出て永真遊郭での再建と奮闘したのですが、佐吉を失った後盾は大きく明治17年秋に再び台風により家屋が崩壊し再建を断念。明治17年9月15日廃業と成りました。
岩亀楼は、激動の1859年から1884年の25年間と言う短い歴史に幕を閉じたのです。この25年間で尤も長く営業したのが仮宅扱いの高島町遊郭だったのです。
当初、横浜公園の岩亀楼灯篭は吉原町遊郭から高島町遊郭へ移転する時に紛失したものと思っていましたが、最終的に流れ着いた永真遊郭で、廃業時に借金の形に持っていかれた様です。
最後に、横浜遊郭の特徴である横浜微毒病院に付いても触れておきましょう。
吉原町遊郭に併設されていた横浜微毒病院も高島町9丁目に高島町検微病院(横浜微毒病院)として明治6年に移設されました。
高島町検微病院(横浜微毒病院)の院長は吉原町遊郭時代より歴任してイギリス海軍軍医 ジョージ・B・ヒル(George B. Hill)が着任しました。
高島町検微病院(横浜微毒病院)では、微毒検査を受けた事が無い元神奈川宿の貸座敷(旅籠)の雇遊女(当時、芸娼妓開放令が布達され自由の身と成った為に”雇い”と言う表現が成されています。)達は、明治6年10月神奈川県布達として検査を受けるよう指示されましたが、当検査を拒否し多くの雇遊女が廃業したと有ります。
之は吉原町遊郭時代より週1回の検査が神奈川県より布達されており検査を受けないと鑑札取り消しになる決まりが有りました。
資料では、明治7年1月5日高島町検微病院(横浜微毒病院)にて1540人が微毒(梅毒)検査を受けています。
しかし、検査を受けた遊女より在籍する遊女の方が多い事より吉原町遊郭時代と異なり元神奈川宿の貸座敷(旅籠)抱えの女郎にて遊女鑑札を持っていない者まで居ることが判明します。
之を受け神奈川県布達により明治7年3月14日戸長主体で鑑札確認が実施され、多くの遊女が廃業しました。
(鑑札を受けている者も明治10年代には、女郎鑑札税が払えぬ者が続出し廃業者を多く出している。)
神奈川県は、県内の遊女屋に属する遊女の微毒検査を実施します。先ず明治8年には、保土ヶ谷宿及び川崎宿の雇遊女の微毒検査を高島町検微病院(横浜微毒病院)にて実施しています。
担当地域が広がった高島町検微病院(横浜微毒病院)は神奈川県の指針により多くの雇遊女を検査しなくては成らず。手狭と成った高島町検微病院(横浜微毒病院)を明治10年12月23日久良岐郡戸部町字野毛坂(現、横浜市中区野毛の老松中学校敷地)の十全病院隣りに移設し横浜梅毒病院と名称を変えています。
高島町微毒病院移設後、高島町の遊女達を楼外である野毛坂の横浜梅毒病院へ週一回訪問させる事は経済的に困難と元微毒病院跡を明治10年11月に高島町出張所とする様高島町会所が県に要望し承諾される。
(当時、遊女が外出する場合に人力車を手配しなくては成らず。高島遊郭より野毛山まで週一回遊女が乗った車列が出来たそうだ。)
明治11年4月9日横浜梅毒病院院長であるジョージ・B・ヒルがイギリスへ帰国、後任はイギリス海軍軍医リチャード・C・P・ローレンソン(Richard C.P. Lawrenson)が着任した。彼は、横浜、神戸、長崎の梅毒病院と新たに神奈川、藤沢、浦賀、横須賀、三崎の梅毒病院を兼任する事に成った。
明治11年12月2日 イギリス主体で始まった横浜微毒病院を政府は公立横浜梅毒病院とした。公立化する事で国の公立病院規則が適応され公立病院規則改定にて念願の日本人院長である浦井宗一を院長心得に就任させた。
明治14年5月27日 ローレンソンが帰国する。
明治30年遊郭取締規則布達により県内13箇所の出張所を統合し真金町に横浜娼妓病院を創立、後の真金病院と成る。
横浜街道を戸部から雪見橋方面に横に入ると岩亀横丁と呼ばれる一帯があります。
この岩亀横丁には、佐藤佐吉が吉原町遊郭時代に建てた岩亀寮が有りました。現在は、岩亀稲荷が有る辺り。
この寮は、岩亀楼で働き病(主に梅毒)にて働けなくなった女郎が終身暮らす寮と成ります。
港崎町遊郭時代に岩亀楼ラシャメン高窓が、微毒を発病し民間治療や漢方医の処置に佐吉は限界を感じ、当時名医と名高いヘボン博士を呼び出し高窓の微毒治療を依頼した。
ヘボン博士は、外科手術(微毒患部を削除する治療)にて高窓を救った事を大変喜び佐吉は、遊郭内で由一微毒検診の必要性を痛感すると共に遊女保養の為に掃部山に岩亀寮の建設はじめる事に成る。
佐吉は、ヘボン博士を頼る様に成り自身が抱える遊女の病は全て彼に依頼する様に成る。
しかし、ヘボン博士の診察料は高額であり他の楼主は佐吉の行動に冷ややかな目で見ていた。
微毒検査の必要性は港崎町時代より認識していたが、当時は他の楼主を説得する事は出来なかった。
その後、イギリスの圧力に負けた県より吉原町遊郭に於いて、検微病院創立の為に佐吉は吉原町会所の提供を快く引き受け、後の微毒検査に積極的に協力したり、各楼主を説得する等の微毒撲滅に積極的であった。
通常の遊女屋では、遊郭外に出す事は稀であり鼻が落ちたりした遊女は所謂「布団部屋」にて余生を過ごすのが一般的であったが、籠の鳥である遊女を遊郭(吉原町遊郭)外の岩亀寮に何故移したのか詳細は不明ですが、当時の岩亀横丁は人気の無い静かな海辺だった様です。
醜く変わり果てた遊女を人目から離し、余生を過ごして貰おうと言う佐吉の思いからかも知れません。
因みに、其れまでの常識として微毒は勝手に直ると考えられ風邪程度の認識で有った様です。女郎は、微毒に成り初めて一人前と言われた程です。
この事から上位の女郎(花魁)が微毒であった確立は大変高かったと思われます。
明治6年の芸娼妓開放令布達後、岩亀寮に収容されていた元遊女達は親元に帰される事に成りますが、多くの元遊女達は田舎に居留まる事が出来ず再び岩亀寮に舞い戻る始末であった。
明治17年9月岩亀寮は、岩亀楼の廃業と共に閉鎖され数人の元遊女が居た様です。彼女達が以後どの様に成ったか記録がありませんが、野毛山の横浜梅毒病院に収容された可能性が高いと思われます。
因みに、永真遊郭にも病院が併設されたが野毛山の横浜梅毒病院とは異なる。
高島町遊郭での話として日本人外国商館員と岩亀楼雇女郎のピストル心中が有名だが、当事件は明治17年1月と成る。
先に記載している様に、高島町時代は明治14年までとなり事件当時は永真遊郭時代の廃業8ヶ月前の事に成る。
之も永真遊郭時代の岩亀楼が衰退し人々より印象が余りに薄く成っていた証だろうか。 
横浜遊郭7 (長者町3丁目仮宅 1881年4月−1882年4月)
吉原町遊郭焼失後、神奈川県が提示した太田村中畑山移転に対し当時の楼主達は、開発に困難を極めるとして高島町への移転を願い出て10年の期限にて神奈川県より許可された経過があります。
要するに高島町は仮宅の意味があり、何れ太田村中畑山を開発し移転を完了しなくては成らなかった訳です。
明治11年神奈川県は、開発が進まぬ太田村中畑山の状況に危機感を募らせ高島町会長を呼び出し退去期限迄に準備が出来るのかと確認しています。
しかし、町会長は勿論楼主達は、この移転問題を神奈川県に意思確認される迄一切考えて居なかった様です。(使用期限10年と言う約束は県が前戸長である佐藤敬之助に布達を出して居たが、各楼主及び本人も忘れたか。それとも真に受けなかったのだろうか。)
高島町を半永久的に使えると考えて居た楼主が殆どだった(岩亀楼や神風楼等の大手が仮宅の地に、あるまじき本格的な家屋を建てた事が他の楼主に仮宅との認識を忘れさせた。)之も佐吉が現役の時には有り得ぬ事象であり、県と楼主の意思疎通が出来なかった事と如何に主導者が不在だった事が伺えます。
高島町会を中心に、楼主が集められ明治15年4月末日迄に転居せよと当局より催促された事を告げます。正に移転の話は寝耳に水と言う状態であり町会長を中心に調査会(神山謙次・岡崎讓)が結成され中畑山の造成の模索が始まる。しかし、立ちはだかるは資金である。
頭を抱える調査会の元へ、噂を聞いた関外開発を行う業者(伏島近蔵・河野興七・山内冶助)が訪れ高島町遊郭の関外近辺への移転企画を持ち持ち込んだ。
彼らが掲示した場所は、吉田新田二つ目及び三つ目(山吹町・富士見町・千歳町一帯の埋立地:当時は埋め立て前)※明治15年1月に町名改正にて千歳町、山田町、富士見町、山吹町の各3丁目が永楽町1・2丁目
山田町、富士見町4・5丁目が真金町1・2丁目と改正された。
又は吉田新田一つ目(長者町1丁目から4丁目:既に造成が済み数件の民家が有った)であり、両地の地主と交渉した結果。
吉田新田二つ目及び三つ目の地主池田候爵の管理人・長瀬鎧蔵に了解を取り付け高島町遊郭の移転運動を起こします。(吉田新田一つ目は民家が点在していた為に破談と成った。)
当然次期移転地が仮宅では困る楼主を説得し、半永久的に使える移転地として行政と折衝すると言う伏島達に一任する事に成り、翌年の明治12年1月15日付けにて「遊郭移転に関する建白書」を県に提出。
明治13年4月、県は太田村中畑山の移転計画を白紙撤回し、伏島案を了承し吉田新田二つ目及び三つ目(山吹町・富士見町・千歳町一帯の埋立地)を移転地と公認した。
10年近く解決しなかった遊郭移転問題が解決した訳だ。
神奈川県は、当該地決定後早々の移転を望んで居たが地主と楼主の利害関係で地割が決まらず手続き上で難航した。(尚、埋め立て工事は平行して行われて居た。)
同年9月に襲った台風は高島町遊郭に多大な被害を与え、同地での営業再開の目処が立たず多くの楼主は、次期候補地への移転を要望した。之は、神奈川県の指導(明治11年に、高島町会長に指示していた内容で、家屋の新築及び改装、増築、修繕を今後一切禁止する)があっての事だが、吉田新田二つ目及び三つ目(山吹町・富士見町・千歳町一帯の埋立地)の造成中であり完了するまでの期間を待たねば成らない事態に成ってしまった。
明治14年1月に、吉田新田一つ目での仮宅営業を願い出て許可され造成が済んでいる長者町3丁目へ明治14年4月に移転する事に成った。
その後、移転先である吉田新田二つ目及び三つ目(山吹町・富士見町・千歳町一帯の埋立地)の造成が済んだ地域より移転をはじめ長者町3丁目仮宅は徐々に縮小して行った。
吉原町遊郭を焼け出された後、長者町9丁目仮宅から高島町(多くの楼主は仮宅と認識していなかった)と10年にも及ぶ永い間、仮宅として流浪の歴史を刻んできた横浜遊郭もこの長者町3丁目仮宅を最後に落ち着く事になる。
一方で、経済的理由により移転が間々ならぬ貸座敷は神奈川県へ期限延長を願い出でています。最後の貸座敷が退去したのが明治21年6月30日と記録にあります。
最後に、当移転騒動で一番不服を抱いたのは、元神奈川宿の女郎屋であろう。彼らは、佐吉達吉原町遊郭に誘われ新天地高島町へ移設した訳であり。
吉原町遊郭の彼らとは異なり、行政より立ち退きを迫られた訳でも無く移転した高島町が仮宅と言う夢にも思わぬ事態に、怒り心頭だったと想像出来る。 
横浜遊郭8 (永真遊郭 1882年5月−1958年3月)
永真遊郭は先に造成を終えた永楽町遊郭(旧千歳町、旧山田町、旧富士見町、旧山吹町の各3丁目を造成し永楽町1・2丁目と町名改正)と富士見川を挟んで造成された真金町遊郭(旧山田町、旧富士見町4・5丁目を造成し真金町1・2丁目と町名改正)
と二つの遊郭に二分され永楽町遊郭と真金町遊郭は別々の組織体であった。
前者の永楽町遊郭は明治16年秋頃より造成を終えた宅地へ順次移転が始まり。一番初めに移転したのが岩亀楼であった。
岩亀楼の住所は、永楽町2丁目大門通り西側とあり富士見川(明治29年6月に埋め立て)に架かる真金橋側と考えられる。
後者の真金町遊郭は先に移転を始めた永楽町遊郭を追いかける様に始まり。両遊郭の移転が完了する迄に、5年の歳月を必要とし明治21年7月と成る。
又、明治17年には、横浜梅毒病院高島町出張所が移転し永楽町出張所が永楽町1丁目に開業する。(後に、保健所管轄の健康診察所と成る。)
その後、明治29年6月に永楽町遊郭と真金町遊郭を隔てた富士見川を埋め立て、両遊郭を統合し永真遊郭と名称を変更する。
因みに大通り公園の長島橋交差点より永楽町と真金町を二分する一方通行の通りが元富士見川と成る。
梅毒検査に付いては、明治30年に永楽町出張所と県内の出張所13箇所(神奈川、保土ヶ谷等)を統合し横浜娼妓病院を創立する。(後の真金町病院となる。)又、各遊郭の元出張所は後に保健所主体の健康診察所と成る。
さて、経営的に苦しんだ高島町遊郭時代より徐々に右肩上がりで好調と成って行く永真遊郭であるが、明治30年から大正初期迄は開港依頼続く横浜遊郭の中で尤も好調であったと言われている。
当時の資料より、永真遊郭に於ける以下の様な貸座敷数と娼妓数の移行が判る。
明治26年 貸座敷数 56件 娼妓数 778人
明治41年 貸座敷数 67件 娼妓数 1463人
大正元年 貸座敷数 80件 娼妓数 1800人
と全盛の時代をすごした。
しかし、第一次世界大戦や世界恐慌の余波で徐々に低迷を始める。
第一次世界大戦に尽いては、イギリスより参戦要求を受け大熊重信が参戦を了承した。
しかし、日本政府は参戦に慎重であり連合国より再三要求され環太平洋上においてドイツ帝国が統治する南太平洋の島々及び中国の青島攻略を一任される。
戦後、連合軍は日本の働きに対し南太平洋の元ドイツ領を委任統治として譲り受け、更に常任理事国として日本は国際的に大きく発展する切欠を得る。(この事が、列強大国と肩を並べたと錯覚させ20年後の第二次世界大戦を招いてしまう。)
大正11年 貸座敷数 83件 娼妓数 1200人
大正14年には、横浜市内(永真遊郭を含む)を全滅させた関東大震災が発生し、再建に1年近く掛かって復興したがその数は全盛期に比べ半減してしまう。
昭和4年 貸座敷数 70件 娼妓数 525人と大幅に縮小され、その後も貸座敷・娼妓数共に増える事はなかった。
其れでは、全盛期の永真遊郭はどの様な感じだったのであろうか。
明治30年代、近代化が進む市内にて由一江戸風情を色濃く残す遊郭内には多くの飲食店(屋台)が立ち並び、今で言う江戸ミュージアムの様な遊郭は横浜市民の社交場として人気があった様だ。多くの飲食店が立ち並んだ通りは現在横浜橋商店街と成っている。
※ 現代人が昭和30年代を懐かしむ様に、明治の人々も同様の気持ちで有ったと思われる。
明治23年に、横浜共同電灯会社が創立され横浜市内に送電が開始され遊郭内の明かりが電灯に換わりより明るく照らされた事だろう。
娼妓開放令が施行され30年近く経っているが借金と言う名目の元に依然拘束される者も多く、この状況を憂いだ政府は、明治33年10月2日に娼妓自由廃業令を布達する。
※ 明治5年9月義娼妓解放の令とは、神奈川県布達として遊女芸者禁止の布達が出された。
此れは、先のマリア・ルス事件を受け遊女及び芸者は人身売買された奴隷と認め抱き主は全ての女郎を解放しなさいと布達を出した訳だ。
先ず娼妓開放当時(明治5年)の新聞には、以下の記事が掲載されている。
「今般神奈川県ニ於テ、遊女男女芸者等抱ヘ入レ渡世ノ儀、禁止ノ布達アリテ、是迄抱置クシ遊女等ハ10月5日ヲ限リ父兄又ハ親類ヘ差戻シ、身代金及ビ従来ノ貨金ハ、當人(当人)父兄親類等ヨリ示談ヲ似テ左ノ方法ニ依リ受取方相定ラル。
金二拾両以下ハ六ヶ月、五拾両以下ハ十二ヶ月、百両以下ハ十八ヶ月、二百両以下ハ二四ヶ月、三百両以下ハ三十ヶ月、但シ當人共抱主ノ手ヲ離レシ後、自分ノ好ミニヨリ更ニ遊女芸者渡世致度者ハ、其趣願ヒ出、官ニ於テ始末取調ノ上免許鑑札渡方相成リ、偽遊女屋、引手茶屋等モ貸座舗渡世願ヒ出シ者ヘハ、更ニ免許相成ルト云。」
しかし、娼妓開放は進まずその原因は借金の問題であった。当時の新聞の見出しに当問題が進まぬ事を記事に見る事が出来る。
「牛馬に、物の返済を迫れる筈も無い」と明治5年の新聞見出しです。
之は、年季や奉公名目で売られ金銭的に拘束された娼妓や芸妓を牛馬に例え、返済を求めるなと言う布達です。
司法省布達第二十二號。
明治五年十月二日太政官第二百九十二號ニテ被仰出候次第ニ付、左ノ件々可心得事。
一、人身ヲ読買スルハ古来制禁ノ處、年季奉公等種々ノ名目ヲ以テ、其實売買同様ノ所業ニ至ルニ付、娼妓藝妓等雇人ノ資本金ハ賍金ト看做ス。
故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上、其金ノ全額ヲ可取揚事。
一、同上ノ娼妓藝妓ハ人身ノ権利ヲ失フモノニシテ牛馬ニ異ラズ、人ヨリ牛馬ニ物ノ返済ヲ求ムルノ理ナシ。
故ニ従来同上ノ娼妓藝妓ヘ借ス所ノ金銀等ニ売掛滞金等ハ一切償フベカラザル事。
但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニアラズ。
一、人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ為シ、娼妓藝妓ノ所業ヲ為サシムルモノハ、其實際上則人身売買ニ付、從前今後可及厳重ノ處置事。
明治5年10月9日東京日日新聞
又、一連の話として明治5年11月21日廃妾案(当時の妾は戸籍に記載する定めであった)として司法省より自今妾の名義を廃止、一家一夫一嫁と定めると報じられている。
之により法律的に妾が認められなく成った。
しかし、人身売買は表向き鳴りを潜めたが質入と言う形態に変わり明治8年8月14日に、人身質入の禁止として更に布達された。
丁稚として勤める様に成るのだが、奉公期間が決められ拘束される事に変わりは無かった。
そして、明治33年10月2日の娼妓自由廃業と成る訳だ。
本筋に戻ると世界的に不景気な中、打開策を見出せぬ当時の各楼主は様々な取り組みを行い客寄せを行っている。
例えば、最早老舗と言われる様に成った神風楼では、低迷を続ける大正9年には神風楼敷地内に温室を建て、当時流行していた菊を栽培し秋に菊祭りを開催。翌年には、この菊祭りが好評と成り地元新聞に取上げられている。
この様な、客寄の功が実を熟さない内に災難は再び襲います。大正11年1月30日に永楽町にて火災(200戸余りが焼失)発生。この火災で60件近い貸座敷(遊女屋)が焼失した。
創業以来、常に被災と復興に向き合う横浜遊郭に更なる試練が襲います。
大正12年9月1日関東を襲った大地震により永真遊郭は倒壊、炎上で瓦礫と成った。
当然、横浜市内もまた見る影も無く一面瓦礫の山であった。
この惨劇で、多くの娼妓が亡くなり遊郭内は絶望的な程に破壊され再建の見通しも付かぬ楼主の中には廃業を決める者も多く、生き残った娼妓達は各々避難した為に大方の消息は不明と成ってしまった。
永真遊郭内の犠牲は以下と成ります。
貸座敷総数83軒 全滅
娼妓人数 1027人 内144人が犠牲と成った。
この関東大震災により崩壊した建物の瓦礫を、横浜市は同じく、倒壊したグラウンドホテル前(山下町海岸通り沿い)の海岸一帯を瓦礫置き場に指定。(因みに、日本最初の国際水泳大会は明治31年8月13日にグラウンド・ホテル前の海岸で行われた。)
当然、永真遊郭の瓦礫もグラウンドホテル前の瓦礫置き場に集められた。
大正12年10月22日に早くも永真町遊郭の貸座敷がバラックで再開する。
復興の兆しが見えてきた大正13年11月13日、横浜市内の瓦礫で埋め尽くされた山下町海岸を含む湾岸復旧工事が始まる。
因みに、崩壊したグランドホテルでは再建中の昭和2年2月16日にグランドホテルが解散しています。之は、イギリス人経営者が震災により緊急帰国してしまい当ホテルを放棄した為です。(東日本大震災時と同じく、多くの外国人が帰国に付いたそうです。)
当時のホテルは、建物を失い来日する外国人よりテントホテルと呼ばれていたと言われています。
要するに、倒壊したホテル跡地にテントを張り営業を行っていたと言う事です。
しかし、表玄関である横浜のホテルがテントではと横浜市長が支援を表明し日本人経営者として同年12月1日に再興したのがホテル・ニュー・グランドです。
しかし、横浜の顔であったグランドホテルとの関係は殆ど有りませんでした。
永真遊郭の話に戻すと、震災後初めての地図は昭和2年まで待たなくては成らず実に2年以上に及ぶ間、細かい状況が把握出来ない事に成る。
しかし、当地図を参照すると2年後には大方復旧され真金町病院(後に税務署と成る)と健康診察所の文字が確認出来、復興後と言って間違いないと思います。
又、関東大震災後倒壊により廃業した多くの楼主は銘酒屋として新規事業に乗り出した者も多く後のカフェー(特殊喫茶)と呼ばれる形態に変化して行く。
震災より復興された真金町病院は、ペニシリンが開発された昭和2年以降、検梅は健康診察所に一任され真金町病院は役目を終える事に成ります。
震災後、復旧が進むに連れ外国人達が横浜に戻りはじめたが昭和16年戦時色が再び濃くなり、開戦を迎えると永真遊郭は南方に出兵する兵士で溢れ、再び外国人達の姿を見る事は困難となる。
昭和17年消耗戦を繰り返す大本営を尻目に、横浜空襲が実地され再び焦土とかしてしまう。
戦時下、開店休業状態の永真遊郭の主な顧客は、兵役条件が緩和され出兵を控えた若者と成る。
昭和20年5月29日横浜大空襲にて再び焦土とかしてしまう。戦況が悪化する中遊郭の維持は困難であり多くの楼主は、休業を決め夫々抱えていた娼妓達を疎開させた。
終戦を向かえた翌日(昭和20年8月16日)に連合軍が日本へ進軍し婦女子が危険に成ると言う話であり、横浜市では役場の女子職員を即日解雇、当面の生活費を渡し地方へ避難する様に指示しています。
神奈川県警察史に拠ると玉音放送の行われた翌日には、県内の至る所で「米軍の大部隊が横浜に上陸する」又は「働ける男は全員逮捕され、青年は去勢。娘は強姦される。」と言う内容のデマが流布した。
この事から、当時横浜市長であった半井清は神奈川県藤原知事と渡辺警察部長に対し「米軍が進軍して来る前に、良家の娘を非難させた方が良い」と相談した。と記録されています。
はじめは、逗子や鎌倉の良家の娘を非難させる手筈が、噂が広まり老人に至る市民までも避難する騒ぎに成ったそうです。
警察内部でも退職者が相次ぎ敗戦と言うショックが、相当なモノであったと考えられます。
又、連合国軍側の指示通告として「もし上陸に際し連合軍へ一発でも発砲した場合に、直ちに武力進軍に切り替える」と言う一文があり政府は大変懸念する内容であった。
之は、過去に大日本帝国が中国へ進軍した時に戦勝国軍(日本)の兵士がどの様な行動をするか良く判っていた。
その内容とは、「強姦」「強奪」と言った蛮行であり。この様な兵士の行いに耐え切れなく成った敗戦国民(中国)より襲撃された過去が有った為に、政府は「進駐軍の強姦・強奪に拠る逆襲事件。再度戦火の中に」と最悪の事態を回避すべき案として、内務省警保局より各主要都市の警視へ「進駐軍特殊慰安施設の準備指令」が出されます。これが日本政府に拠る戦後最初に行った政策であるRAA計画である。
RAA計画とはRAA「特殊慰安施設協会」主体の進駐軍専用慰安所となる。
RAAは、進軍して来る占領軍に対して「一般婦女子を守る=進駐軍と一般民とのトラブルを避ける」為に計画された事で、マッカーサ上陸の8月30日迄に、全国主要都市へ当慰安所を作る指示が警保局長通達にて各警察へ出された。
神奈川県警は、当通達を受け進駐軍専用慰安所開設に動き出す。しかし、戦後の横浜に娼妓は誰一人として残って居らず。
警察は苦肉の策として、元取締り対象であった楼主や私娼館主の伝手を使い80名の娼妓を集めた。
又、開設する場所は焼け残った山下町の互楽荘(同潤会アパート)が選定され同年8月30日より営業開始した。
この慰安所の経営は、永真遊郭主の共同経営となり初日の来店人数は2000人以上の米兵が押し寄せ、大変な人気と成る訳だが1週間で閉鎖される事に成る。
そこで、警察の判断で元永真遊郭跡地と本牧チャブ屋跡地(北方地区)にてRAA慰安所の再建を早急に行った。その後、横須賀や神奈川と慰安所が作られ町の復興より慰安所建設が優先された様だ。
しかし、RAA慰安所はマッカーサへ知れる事に成り翌年の昭和21年1月慰安所の運営をGHQは禁止した。
この結果、元RAA慰安所跡地は楼(永真遊郭)やカフェ(北方)として一般市民より早く復興している。之も警察による優遇処置があった為だ。
此処で、RAA慰安所や開港場での幕府に拠る遊郭設置の思想そのものが、全く同じ考えの下に実地された事に驚くと共に、開港以来日本人は何も成長していない事が明らかである。
その上、中国内に於いて我々日本人は多くのモノを奪った事実を垣間見る様な内容であり残念だと思う。
※ 征服者に対して、女を差し出すと言う原始的な思想。平和的回避と言われているが一部の人間が生き残る為に、犠牲に成れと言う事であり。太古の日本で神に捧げた生贄と同じ意味合いだと受け取れる。
又、女を差し出すと言う様な思想は余りに野蛮であり、過去に日本軍が武力を行使して女を得た事実は余りにモラルに欠ける。
そして、売春を嫌った初代米国領事ハリス同様にRAA慰安所設置の経由を知ったマッカーサは酷く立腹だったと記録に残されている。
因みに、マッカーサは東京湾の米海軍ミズリー艦上で行われた降伏調印式に、開国を迫ったペリーが米海軍ポーハンタ艦上で行われた日米和親条約調印式で、掲げた星条旗を持参した事は有名だ。
之は、未だに未開(野蛮)の日本人に対しマッカーサは日本人の精神的鎖国を開国せよと意味していたかも知れない。
昭和23年吉田橋の第一イセビル(伊勢佐木モール入り口にあるビル。日本酒やカメラメーカのネオンで有名)にて、戦争未亡人を集めたキャバレー「メリー・ウィンド・サロン」がオープンする。
この「メリー・ウィンド・サロン」は、黒人米兵に人気が有った様だ。
当時のアメリカでは、黒人差別が色濃く残っていた時代であり。近辺(伊勢佐木町1丁目不二家ビル)に黒人兵士用のクラブ45があり主な顧客と成っていた様だ。
因みに、吉田橋袂には昭和21年まで松屋デパート(現新横浜道上り線道路上)があり、近辺に伊勢佐木町店(現エクセル伊勢佐木)もあった。松屋デパートの発祥は、横浜石川町亀の橋にて創業した鶴屋呉服店となる。
昭和50年代まで、伊勢佐木町には松坂屋、松屋、ミドリ屋(現丸井であり場所は現パチンコ屋のPIAと成る)と3っのデパートが有った。
昭和32年、政府は之迄の売春行為一切を禁止する売春防止法可決させ翌年春を執行する勧告を行った永真遊郭では、施行目前の昭和33年2月27日 永真診療所(旧健康診察所)にて解散式を行い事実上、横浜遊郭(永真遊郭)及び全国の遊郭は終焉を迎えた。
永真診療所は遊郭閉鎖と共に閉所され跡地は、中華料理屋を経て現在アパートと成っている。
昭和33年4月1日売春防止法施行される。
横浜遊郭のシンボル金毘羅さまと大鷲神社は、現在に於いても毎年酉の市が行われる。
昭和初期に永真遊郭より大鷲神社へ寄贈された石柱は、横浜大空襲時の猛火を今に伝える。
皮肉な事に、遊郭の火が消えた昭和33年(1958年)は開港100周年であり。
横浜市では開港100年を祝う式典が行われ、その式典の会場が元港崎町遊郭の跡地である横浜公園にて5月10日に開会式が行われた。
横浜遊郭の歴史は、異国人の脅威より己を守る為に設けられ、RAA 慰安所として又しても異国人より防衛すると言う役目で歴史に幕を閉じた訳だが、昭和21年にRAA 慰安所(横浜遊郭)が終焉を迎えた事で、日本人の鎖国が解けた訳であり。経済等の鎖国は歴史の教科書で教わった通りであるが、精神面の鎖国はつい最近まで有った訳だ。
マッカーサが持参した星条旗の本来の意味は不明だが、裏歴史を紐解く事で表の歴史が意味するものが見えて来るかも知れない。
こぼれ話
昭和30年代初頭は、高度経済成長期に入り巷では「もはや戦後では無い」と言われ始めた時期だけに、戦後タブー視された軍事色を売りにする商売が受けた様だ。
昭和34年4月関内に「軍隊キャバレー」がオープンする。
このキャバレーの趣向は陸軍野戦部隊を想定したキャバレーであり、要はコスプレ・キャバレーっと言った内容だ。
当時の紹介記事を抜粋すると、ボーイは旧日本陸軍の軍服着用で事ある毎に敬礼。ホステスは皆従軍看護婦姿と大変癒してもらえそう。
他に海軍キャバレーもあったとか…経済が高度成長期に入り安定したと言う事であろうか。
又、昭和30年代は私娼(青線)全盛期となり、本牧・北方(青線、現在の小港3丁目より北方2丁目付近)の主役はホテル(所謂連れ込みホテル。この地区では米兵目当てのパンパン娘が多く居た。)と成り。
一方で元永真遊郭地は壁や大門が撤去され、大小合わせて数千軒がカフェーに転業した。
※昭和32年横浜市住居詳細地図の永楽町2丁目を参照するとソープランド大手角海老(現在は福富町へ移転)の名も見受けられるが表記がカフェー角海老と成っている。
面白い事に、翌年の昭和33年横浜市住所詳細地図の真金町と永楽町を見るとカフェーと表記されていた箇所が旅館やバーに変更されている。之はカフェーが非合法だった為に行政側が旅館又はバーとして翌年修正したと思われる。勿論、建前上の表記であり実質的にはカフェーである事には変わりない。
所で、昭和30年代の主役カフェーを正式に何と呼ぶかご存知だろうか。
カフェーは、特殊喫茶と呼ばれカテゴリ的にはノーパン喫茶やカラオケ喫茶と同じ形態だ。
之は、スターバックス等の純喫茶に対して付けられた名称であり営業許可書に使われる。
因みに、カフェーとは売春サービスを主体にしたバー又はスナックと言える。 
横浜遊郭史
安政06年05月(1859年06月) 横浜初の遊郭として、駒形町仮宅(駒形屋)営業開始。
安政06年10月(1859年11月) 港崎町遊郭へ移転。
安政06年11月(1859年12月) らしゃめん許可権を岩亀楼が管理する事により1両2分の歩合金を微収する権利を岩亀楼が得る。
万延01年03月(1860年04月) 初の港崎細見発行される。
文久02年11月23日(1863年01月12日) 岩亀楼らしゃめん喜遊自害
文久03年03月16日(1863年05月03日) 生麦事件を発端とする日英戦争に緊迫する横浜では神奈川奉行が、庶民並びに楼主へ横浜(関内)より避難する様に指示。港崎町遊郭営業中止する。幕府の徹底抗戦の構えにイギリス以外の締盟各国は、打開策を提案するもイギリスは04月02日に再度要求する。
文久03年04月04日(1863年05月21日) 幕府は、開港を拒絶する事に決定し一般に布達したが、緊張が膨らむ中04月21日諸外国に説得され幕府はイギリスへの賠償金支払いを決める。
文久03年04月22日(1863年06月08日) 約一ヶ月に渡る関内閉鎖が解かれ港崎町遊郭営業を再開する。
慶応02年11月(1866年12月) 港崎町遊郭焼失の為、太田町仮宅へ移転
慶応03年06月(1867年07月) 吉原町遊郭へ移転
吉原町遊郭門前である姿見町にて揚弓屋が流行る。
明治04年12月(1871年12月) 吉原町遊郭焼失の為、長者町9丁目仮宅へ移転
明治05年11月(1872年11月) 高島町遊郭へ移転
明治10年12月(1877年12月) 高島町の微毒病院が戸部山へ移転
明治14年04月(1881年04月) 高島町遊郭使用期限超過の為、長者町3丁目仮宅へ移転
明治14年05月(1881年05月) 高島町遊郭取り壊し作業始まる
明治15年05月(1882年05月) 永真町遊郭(永楽町遊郭・真金町遊郭)へ移転開始
明治21年06月30日(1888年06月30日) 高島町遊郭移転完了申請を神奈川県へ提出
大正10年 永楽町遊郭側で軒を連ねた屋台が発祥の私設市場が神奈川県より真金町公設市場に認定された。(後の横浜橋通り商店街)
昭和33年03月(1958年03月) 売春防止法施行により全国の遊郭閉鎖。
横浜には、私娼街として相鉄線和田駅北側の「楽天地」や南浅間町の「新天地」そして「曙町」と「黄金町」「本牧(北方・十二天)」「大丸谷」があり、「楽天地」と「新天地」はカフェーを主体とした特殊飲食店街(赤線地域ではあるが遊郭では無い)であり、戦後、米兵相手に開設されたRAA慰安所として再起したが、昭和33年03月(1958年03月)の売春防止法施行により閉鎖された。
又、「黄金町」は京急黄金町−日の出町間のガード下を中心に小規模飲食店(青線地帯であり遊郭ではない)街が形成されあらゆる悪(賭博、ひろぽん、人身売買)が凝縮された闇の町(ある一部の団体にとって一等地であった。)として名をはせた。売春防止法施行後も、ちょんの間(表向きスナック)として長らく悪行を続け終焉と成る2000年代はアジア系及びロシア系や南米系の女性が刺激的な下着姿で客引きする姿が見られた。
しかし2009年の”横浜開港150周年”を目前とした2005年に当時の横浜市長(中田市長)と伊勢佐木警察肝いりの市内浄化作戦(バイバイ作戦)が展開され黄金町の小規模飲食店街は、伊勢佐木警察と初黄町会により閉鎖に追い込まれた。
最後に、あらゆる法規制を掻い潜って来た「曙町」は、カフェー街から発祥し、その営業形態を時代と共に変化させ現在でも親不孝通りを中心にヘルス等の風俗店が軒を並べているが、その店舗数も激減し細々と営業している感は拭えないが、元横浜遊郭の受け皿(引退した娼婦が店を構えた土地)として機能していた事は語るまでも無い。
「本牧(北方・十二天)」「大丸谷」は、明治期に出現したちゃぶ屋と呼ばれ、その業態は異国人相手の飯盛旅籠と言えよう。その後ちゃぶ屋は進化を続けカフェーの前身と言える。
開港場横浜を舞台に、未知なる異国より日本防衛と言う重責を任された”なでしこ”
彼女達の歴史を追って来ましたが、近辺には保土ヶ谷宿や神奈川宿にも夫々遊郭がありました。
保土ヶ谷宿や神奈川宿の遊郭は、元飯盛旅籠であり宿場内に点在していた為に当初遊郭では無かった。
しかし、保土ヶ谷宿内の飯盛旅籠を岩間上町新開地へ移転(天王町駅より旧東海道を戸塚方面に向かうと大門通り交差点が遊郭の大門であり敷地は川側一帯と成る)し保土ヶ谷遊郭と成る。その後、瀬戸ヶ谷に移転。
一方、神奈川宿の飯盛旅籠は明治初期に高島町遊郭を経て、神奈川町(神奈川台場までの埋立地)へ移転し神奈川遊郭と成る。その後、明治33年5月に反町(現反町公園:スケートリンクの有る公園)へ移転した。(飯盛旅籠時代は私娼、遊郭時代は公娼)※明治33年5月以降を青木町遊郭と呼ぶ場合がある。
両遊郭は、宿場の飯盛旅籠を起源に持ち横浜遊郭の様な政策的意味合いは勿論持ち合わせて居ませんでした。
今回、伝えたかったのは昭和と言う時代まで日本人は”性”を使った政策が実在した事実を認識して欲しいと考えた為です。横浜遊郭と言う特殊な存在を忘却されない様、多少乱文では有りますが書き残したいと思います。 
遊女の朝帰り
横浜開港側面史は、横浜貿易新報社が明治43年に同社発行の「横浜貿易新報」と言う新聞に掲載された過去の記事を纏めたものである。
その横浜開港側面史上にて次の記事を見つけた。
「遊女の朝帰り」之は幕末を知る当時の老人より聞いた話しを記事にしたものだ。
以下原文。
遊女ノ朝歸
今ノ水道局ノ邊ニ遊女屋ガアツテ、ソレカラ今ノ公園ノ噴水ノ邊ヘ引移ツタガ、其時分御屋敷ガ二十件モアツテ、夜ニナルト遊女ノ方カラ襠ヲ着テ駕籠ニ乗ツテ出掛ケテ行キ、朝ニナルト遊女ハ昨夜ノ儘ノ仕度デ宿ヘ歸ルト云フ有様、花魁ノ朝歸リトハ他所ニ見ラレナイ圖デセウ、其時分ノ事デス無提灯デ夜中通行ハナラナイ云ウ事デ、按摩迄ガ提灯ヲツケテ歩イタナドハ實ニ馬鹿ゲテ居テ全ク嘘ノヤウデス。
目の見えぬ按摩(あんま)さんが提灯を持って歩くと言う笑い話だが、この水道局(現横浜情報文化センター旧横浜商工奨励館)の所に有った遊郭が駒形町遊郭と考えられ、その後移転した場所と言う公園の噴水(明治期、スタジアムは無く庭園中央に噴水があった)とは横浜公園を指し、港崎町遊郭で有ったと考えられる。
要するに、港崎町遊郭の遊女は夜に成ると駕籠に乗り朝帰りすると言う事であり、更に他では見られぬと記述がある所から西洋人の妾(らしゃめん)と考えられる。
其れでは、何故無提灯での夜間通行を禁じたか。当時の横浜では攘夷論者が多く西洋人の妾である遊女が嫌がらせを受ける事が頻発した。
主な被害としては、汚物を投げかけられる等の軽微なものから駕籠より引き摺り出し着物を剥ぎ取る等の嫌がらせを受けたり、更に命を狙われた等の危険もあった様だ。
其処で、神奈川奉行は待ち伏せする攘夷論者を取り締まる為に提灯の携帯を義務化したと考えられます。
要するに、提灯携帯では闇夜に紛れる事も出来ないと言う事でしょう。
この様な、時代背景を含みながら按摩の提灯と言う笑い話の様な状況ではあるが、無提灯で夜間通行した場合には、例え按摩であっても罰せられると言う奉行所の厳しい対応を物語っている。 
福富町・伊勢佐木町の歴史
江戸中期以後、現福富町・伊勢佐木町界隈は吉田新田と呼ばれ現長者町9丁目には当地を開発した吉田家のお屋敷が有った。
また、吉田家の菩提寺である常清寺を長者町8丁目(現福富町)へ吉田勘兵衛が誘致している。
この事より初期の現福富町・伊勢佐木町界隈は、吉田家のお屋敷と寺があり周りに沼地と田畑が広がった田園風景と言った所だった様だ。
又その風景は、100年以上大きく変わる事は無く農民達の小屋と吉田勘兵衛が新たに誘致した加藤清正公の社と若干の埋め立てが進んだ位の変化に留まった。
この長者町8・9丁目(現福富町)近辺は、吉田勘兵衛が住居として埋め立てた場所であり吉田新田の中でも初期に埋め立てられた土地と成る。しかし、初期に埋め立てられた当地は長年水害に悩まされた様であり。
その様子を横浜開港側面史より回顧雑話として、吉原町遊郭が有った時代を常清寺住職伊奈老師は次の様に語っている。
この長者町8丁目付近は、海面より低く毎年6・7月には寺の座敷に座っていても6尺程水位が高く墓地も冠水し、墓石の中でも尤も大きな吉田家代々の墓石ですら頭が見える程度迄水が張り大変なものでした。と語っている様に、吉原町遊郭も同様に冠水し易い土地であった。
吉原町遊郭内では、遊女が検番に上がる時に「下駄を脱ぎ、着物を腰まで捲くり移動した」との記録も残っている。
幕府が横浜を開港場と決めると長閑な田園風景が変貌を遂げていく。横浜道を切り開く時に、先に開発されていた現長者橋経由は避けられ新たに野毛に橋が架けられ吉田町経由と成った。
之は、先に村がある長者町を開港場より切り離す為に吉田町経由が選ばれた訳であり。
当時は、長者町と吉田町の間に沼があり大岡川の土手を迂回しなくては成らなかった様だ。
当時の面影を残す野毛山の横浜道は、直進すると長者町(現日の出町)だが吉田町側に左折している。もしかしたら、長者町経由の横浜道が最初の計画であったのかも知れない。
其れでは、当時の吉田町は如何だったかと言うと数戸の民家が有ったが関門を設置する為に、長者町9丁目の大岡川沿いを埋め立て元吉田町とし、住民を移転させている。
※町名に”元”と付く地名は、元祖を名乗っている訳ではない。例えば、横浜の元町は開港に伴い横浜村(現太田町近辺。当時は町名が無かった)の住民を移転させた場所が元横浜村住民の町と言う事で元町と成っている。
その後、大きな変化が訪れるのは港崎町遊郭焼失後と成る。遊郭の移転候補地として長者町8丁目の常清寺側の沼地が選ばれ吉原町と姿見町が作られ吉田町へ姿見橋で渡された。
明治初期、常清寺寄りの沼地も埋め立てられ新吉田町と成り。この新たに埋め立てられた新吉田町と元吉田町そして常清寺のある長者町8丁目が後の福富町となる。
因みに、関門や吉田橋のあった場所が吉田町であり当時吉田町、元吉田町、新吉田町とあった訳だ。
明治7年11月に、神奈川県は衛生上の問題と再開発の為に布達を発令、市内の墓所全てを久保山に移転する事と通達があり常清寺は長者町8丁目から移転する事に成った。
先に、移転している吉原町遊郭跡地と合わせ再開発が行われ吉田橋より真直ぐに道が設けられた。之が現伊勢佐木モールである。
姿見町と吉原町の一部が伊勢佐木町と改名されるのは明治17年の事で、それまで新吉田町、元吉田町の名称も福富町と名付けられた。
因みに福富町仲通りと東通りに挟まれた地域(GMビルやキンガビルを含む一帯)は常清寺の墓地であった。
又、サミタス横浜ビルの辺りに本堂が有ったと推測される。
行政指導により一旦移転した常清寺だが、地元の嘆願により墓地のみ久保山へ移転し同寺は1945年の横浜大空襲まで福富町東通りに残った。
戦災後、焼け残った清正公のお堂を当地に残し常清寺は、久保山へ移転している。
一方、清正公のお堂は、米軍に接収されたが1952年に返還され維持されてきた。しかし、1978年に常清寺の経済的理由により久保山に移転された。
移転後の清正公跡地は、清正公横丁と言う小さな飲み屋街を形成して居たが、再開発の為に清正公横丁は、取り壊されセイショーコープラザ132が建設されて居る。
GMビルについて…
昭和が終わろうとしていた福富町仲通りのGMビルには、全身白尽くめの老婆が居た(白装束とは異なりフリルの付いたワンピースにストッキング、ヒールそして、化粧は石灰を塗った様な白粉と白髪。正に前身白尽くめであった。)この老婆は長年私娼で生計を建て、横浜ではメリーさんを知らぬ者は居ないと言う程に有名人であった。
GMビルにメリーさんが住み着いたのは晩年の事であり。
当時のメリーさんは、明け方に7階の廊下に置かれたベンチで仮眠を取った数時間後に、伊勢佐木モール内の森永ラブへ食事と身支度に向かったそうだ。
同店に何時間も居座り夜に成ると再びGMビルに戻り、エレベータ前でエレベータガールを行いながら客引き(メリーさん相手の売春。因みに当時70台)を行う。と言う事らしい。
横浜吉原遊郭門前であった姿見町では、銘酒屋が犇き多くの外国人で賑わっていたが、1871年6月(明治4年5月)に、神奈川県布達として「外国水夫に気発の酒類を売り渡す事を禁ず。」之は、軍艦の乗員である水兵や商船の水夫が、羽目を外して酩酊した末に喧嘩や道端での眠り込み等で、特に水夫においては、出帆時間に遅れ帰国出来なく成った者が乞食同然で住み着く為、販売を禁止すると言うものである。
この布達により、銘酒屋は酒を提供しない揚弓屋(温泉地等にある射的(的当)屋みたいな業)及び小料理屋へ業態を変え、麦湯の姉さん的商法の私娼が現れる。当然、彼女達の目当ては外国人であり先の銘酒屋に出入りしていた私娼は“余多嫁”と呼ばれた。
揚弓は、古来より神楽を元に派生した神事であり縁日等の屋台と共通する所がある。
これは、神社で行われる神事(縁日)は数日だが、遊郭は通年を通して行われる神事そのものであると言える訳であり。神農と呼ばれた穢多身分の的屋(てきや)、香具師(やし)、三寸(さんずん)等と呼ばれる職業の者が、遊郭の門前で営業していたと思われる。又、揚弓の延長線上に、射撃やスマートボールがありパチンコに行き着く訳だ。
因みに、危険を意味する「やばい!」は、当揚弓屋から来ている。
的より矢を回収する場所を矢場(やば)と呼び、矢を回収する女を矢場女又は矢取女と呼んでいた。この矢取女は私娼であり明治期に衛生観念が広まった事で、微毒検査を受けていない矢取女を衛生面で大変危険と言う事で矢場女(やばめ)を語源に「やばい」と言われる様に成ったそうだ。
此処に、矢場の悲劇を伝える横浜毎日新聞がある。
記事によれば、横浜吉田町の清正公境内にて私娼である矢取女と恋人が心中未遂したと有ります。
祭りの準主役と言えば夜店である。そして夜店を仕切る的屋(てきや)は漢字より判るように、この揚弓屋を元にしている。
同年11月に横浜吉原遊郭が火災に拠って焼失するが姿見町までは延焼を逃れ、後の再開発で姿見町周辺は芝居小屋や見世物小屋が多く集中する歓楽街(伊勢佐木町)として変貌していく。
この頃には、芝居小屋等を隠れ蓑にする私娼も居た様だ。
明治17年、歓楽街伊勢佐木町の取り締まり強化を目的に吉田橋袂(現新横浜通り上り線路上)に伊勢佐木警察署開設する。
大正12年9月1日の関東大震災により、伊勢佐木町の芝居小屋は全滅し再開出来なかった芝居小屋の跡地に商店が出来。
時代と共に芝居小屋から映画館へ代わり現在に近い環境がこの頃に出来上がった。
又、吉田橋袂に有った伊勢佐木警察署は震災後、蓬莱町3丁目(現ワシントンホテル)へ移設。跡地の吉田橋袂には百貨店松屋が出来た。
第二次世界大戦後、伊勢佐木町の一部(不二家等焼け残った建物)と福富町及び若葉町全域はGHQに接収され焼け野原と成った福富町にかまぼこ兵舎が立てられ、若葉町には飛行場が建設された。
接収解除され返還された福富町は、先ず清正公跡地を囲む様に飲み屋街が形成され「清正公横丁」と呼ばれた。
この清正公横丁が、現在に於ける福富町の中核であり昭和50年代後半までその飲み屋街は存在していた。
多くの店舗は数人が入れば満席と成る様な小さな店で、殆どの店がスナックと銘打っていた。
清正公横丁は、再開発によりセイショーコープラザ132が建設され、面影は無くなったが通りとビル名に名残を残す。 
 
「日本改造法案大綱」北一輝

 

緒言
今や大日本帝国は内憂外患ならび到らんとする有史未曽有の国難に臨めり。国民の大多数が生活の不安に襲われて一に欧州諸国破壊の跡を学ばんとし、政権軍権財権を私せる者はただ竜袖に陰れて惶々その不義を維持せんとす。しかして外、英米独露ことごとく信を傷づけざるものなく、日露戦争をもってようやく保全を与えたる隣都支那すら酬ゆるにかえって排侮をもってす。真に東海粟島の孤立。一歩を誤らば宗祖の建国を一空せしめ危機誠に幕末維新の内憂外患を再現し来れり。
ただ天佑六千万同胞の上に柄たり。日本国民はすべからく国家存立の大義と国民平等の人権とに深甚なる理解を把握し、内外思想の清濁を判別採捨するに一点の過誤なかるべし。欧州諸国の大戦は天その驕侈乱倫を罰するに「ノア」の洪水をもってしたるもの。大破壊の後に狂乱狼狽する者に完備せる建築図を求むべからざるはもちろんのこと。これと相反して、わが日本は彼において破壊の五ヵ年を充実の五ヵ年として恵まれたり。彼は再建をいうべく我は改造に進むべし。全日本国民は心を冷やかにして天の賞罰かくのごとく異なる所以の根本より考察して、いかに大日本帝国を改造すべきかの大本を確立し、挙国一人の非議なき国論を定め、全日本国民の大同団結をもってついに天皇大権の発動を奏請し、天皇を奉じて速かに国家改造の根基を完うせざるべからず。
支那インド七億の同胞は実にわが扶導擁護を外にして自立の途なし。わが日本また五十年間に二倍せし人口増加率によりて百年後少なくも二億五千万人を養うべき大領土を余儀なくせらる。国家の百年は一人の百日に等し。この余儀なき明日を憂いかの悽惨たる隣邦を悲しむ者、如何ぞ直訳社会主義者の巾幗的平和論に安んずるを得べき。階級闘争による社会進化はあえてこれを否まず。しかし人類歴史ありて以来の民族競争国家競争に眼を蔽いて何のいわゆる科学的ぞ。欧米革命論の権威等ことごとくその浅薄皮相の哲学に立脚してついに「剣の福音」を悟得するあたわざる時、高遠なるアジア文明のギリシアは率先それみずからの精神に築かれたる国家改造を終ると共に、アジア聯盟の義旗を翻して真個到来すべき世界聯邦の牛耳を把り、もって四海同胞みなこれ仏子の天道を宣布して東西にその範を垂るべし。国家の武装を忌む者のごときの智見ついに幼童の類のみ。 
巻一 国民の天皇
憲法停止
天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めそがために天皇大権の発動にょりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く。
注一権力が非常の場合有害なる言論または投票を無視し得るは論なし。いかなる憲法をも議会をも絶対視するは英米の教権的「デモクラシー」の直訳なり。これ「デモクラシー」の本面目を蔽う保守頑迷の者、その笑うべき程度において日本の国体を説明するに高天ヶ原的論法をもってする者あると同じ。海軍拡張案の討議において東郷大将の一票が醜悪代議士の三票より価値なく、社会政策の採決において「カルル・マルクス」の一票が大倉喜八郎の七票より不義なりというあたわず。由来投票政治は数に絶対の価値を附して質がそれ以上に価値を認めらるべきものなるを無視したる旧時代の制度を伝統的に維持せるに過ぎず。
注二「クーデター」を保守専制のための権力濫用と速断する者は歴史を無視する者なり。「ナポレオン」が保守的分子と妥協せざりし純革命的時代において「クーデター」は議会と新聞の大多数が王朝政治を復活せそとする分子に満ちたるをもつて革命遂行の唯一道程として行ないたるもの。また現時露国革命において「レニン」が機関銃を向けて妨害的勢力の充満する議会を解散したる事例に見るも「クーデター」を保守的権力者の所為と考うるははなはだしき俗見なり。
注三「クーデター」は国家権力すなわち社会意志の直接的発動と見るべし。その進歩的なるものにつきて見るも国民の団集そのものに現わるることあり。日本の改造においては必ず国民の団集と元首との合体による権力発動たらざるべからず。
注四両院を解散するの必要はそれによる貴族と富豪階級がこの改造決行において、天皇および国民と両立せざるをもつてなり。憲法を停止するの必要は彼らがその保護をまさに一掃せんとする現行法律に求むるをもってなり。戒厳令を布く必要は彼らの反抗的行動を弾圧するに最も拘束なれざる国家の自由を要するをもってなり。しかして無智半解の革命論を直訳してこの改造を妨ぐる言動をなす者の弾圧をも含む。
天皇の原義
天皇は国氏の総代表たり、国家の根柱たるの原理主義を明らかにす。
この理義を明らかにせんがために神武国祖の創業、明治大帝の革命にのっとりて宮中の一新を図り、現時の枢密顧問官その他の官吏を罷免しもって天皇を補佐し得べき器を広く天下に求む。
天皇を補佐すべき顧問を設く。顧問院議員は天皇に任命せられその人員を五十名とす。
顧問院議員は内閣会議の決議および議会の不信任決議に対して天皇に辞表を捧呈すべし。ただし内閣および議会に対して責任を負うものにあらず。
注一日本の国体は三段の進化をなるをもって天皇の意義また三段の進化をなせり。第一期は藤原氏より平氏の過度期に至る専制君主国時代なり。この間理論上天皇はすべての土地と人民とを私有財産として所有し生殺与奪の権を有したり。第二期は源氏より徳川氏に至るまでの貴族国時代なり。この間は各地の群雄または諸侯がおのおのその範囲において土地と人氏とを私有しその上に君臨したる幾多の小国家小君主として交戦し聯盟したるものなり。したがって天皇は第一期の意義に代うるに、これら小君主の盟主たる幕府に光栄を加冠するローマ法王として、国民信仰の伝統的中心としての意義をもってしたり。この進化は欧州中世史の諸侯国神聖皇帝ローマ法王と符節を合するごとし。第三期は武士と人氏との人格的覚醒によりおのおのその君主たる将軍または諸侯の私有より解放されんとしたる維新革命に始まれる民主国時代なり。この時よりの天皇は純然たる政治的中心の意義を有し、この国民運動の指揮者たりし以来現代民主国の総代表として国家を代表する者なり。すなわち維新革命以来の日本は天皇を政治的中心としたる近代的民主国なり。何ぞ我に乏しきものなるかのごとくかの「デモクラシー」の直訳輸入の要あらんや。この歴史と現代とを理解せざる頑迷国体論者と欧米崇拝者との争闘は実に非常なる不祥を天皇と国民との間に爆発せしむるものなり。両者の救うべからざる迷妄を戒しむ。
注二国民の総代者が投票当選者たる制度の国家がある特異なる一人たる制度の国より優越なりと考うる「デモクラシー」は全く科学的根拠なし。国家はおのおのその国民精神と建国歴史を異にす。民国八年までの支那が前者たる理由によりて後者たるベルギーより合理的なりと言うあたわず。米人の「デモクラシー」とは社会は個人の自由意志による自由契約に成るといいし当時の幼稚極まる時代思想によりて、各欧州本国より離脱したる個々人が村落的結合をなして国を建てたるものなり。その投票神権説は当時の帝王神権説を反対方面より表現したる低能哲学なり。日本はかかる建国にもあらず、またかかる低能哲学に支配されたる時代もなし。国家の元首が売名的多弁を弄し下級俳優のごとき身振を晒して当選を争う制度は、沈黙は金なりを信条とし謙遜の美徳を教養せられる日本民族にとりては一に奇異なる風俗として傍観すれば足る。
注三現代宮中は中世的弊習を復活したる上に欧州の皇室に残存せる別個のそれらを加えて、実に国祖建国の精神たる平等の国民の上の総司令者を遠ざかることはなはだし。明治大帝の革命はこの精神を再現して近代化せるもの。したがって同時に官中の廓清を決行したり。これを再びする必要は国家組織を根本的に改造する時ひとり宮中の建築をのみ傾柱壊壁のままに委するあたわざればなり。
注四顧問院議員が内閣または議会の決議によりて弾劾せらるる制度の必要は、天皇の補佐を任とする理由によりて専恣を働く者多き現状に鑑みてなり。枢密院諸氏の頑迷と専恣とは革命前の露国宮廷と大差なし。天皇を累するものはすべてこの徒なり。
華族制廃止
華族制を廃止し、天皇と国民とを阻隔し来れる藩屏を撤去して明治維新を明らかにす。
貴族院を廃止して審議院を置き衆議院の決議を審議せしむ。
審議院は一回を限りとして衆議院の決議を拒否するを得。
審議院議員は各種の勲功者間の互選および勅選による。
注一貴族政治を覆滅したる維新革命は徹底的に遂行せられて貴族の領地をも解決したること、当時の一仏国を例外としたる欧州の各国が依然中世的領土を処分するあたわざりしよりも百歩を進めたるものなりき。しかるに大西郷ら革命精神の体現者世を去ると共に単に附随的に行動したる伊藤博文らは、進みたる我を解せずして後れたる彼らの貴族的中世的特権の残存せるものを模倣して輸入したり。華族制を廃止するは欧州の直訳制度を棄てて維新革命の本来に返えるもの。我の短所なりと考えて新なる長を学ぶものと速断すべからず。すでに彼らのあるものより進みたる民主国なり。
注二二院制の一院制より過誤少なき所以は輿論がはなはだ多くの場合において感情的雷同的瞬間的なるをもってなり。上院が中世的遺物をもってせず各方面の勲功者をもって組織せらるるゆえん。
普通選挙
二十五歳以上の男子は大日本国民たる権利において平等普通に衆議院議員の被選挙権および選挙権を有す。
地方自治会またこれに同じ。
女子は参政権を有せず。
注一納税資格が選挙権の有無を決せる各国の制度は、議会の濫觴が皇室の徴税に対してその費途を監視せんとしたる英国に発すといえども、日本国自身の原則としては国民たる権利の上に立てざるべからず。すなわちいかなる国民も間接税の負担者ならざるはなしという納税資格の拡張せられたる普通選挙の義にあらず。徴兵が「国民の義務」なりという意義において選挙は「国民の権利」なり。
注二国家を防護する国民の義務は国政を共治する国民の権利と一個不可分のものなり。日本国民たる人権の本質において、ローマの奴隷のごとく、また昇殿をも許されざる王朝時代の犬馬のごとく、純乎たる被治者としてある治者階級の命令の下にその生死を委すべき理なし。この権利とこの義務とは一切の条件によりて干犯さるることを許なず。したがって、たとい国外出征中の現役将卒といえども何らの制限なく投票しかつ投票せらるべし。
注三女子の参政権を有せずと明示せる所以は日本現存の女子が覚醒に至らずという意味にあらず。欧州の中世史における騎士が婦人を崇拝しその眷顧を全うするを士の礼とせるに反し、日本中世史の武士は婦人の人格を彼と同一程度に尊重しつつ婦人の側より男子を崇拝し男子の眷顧を全うするを婦道とする礼に発達し来れり。この全然正反対なる発達は杜会生活のすべてにかける分科的発達となりて近代史に連なり、彼において婦人参政運動となれるもの我において良妻賢母主義となれり。政治は人生の活動における一小部分なり。国民の母国民の妻たる権利を擁護し得る制度の改造をなさば日本の婦人問題のすべては解決せらる。婦人を口舌の闘争に慣習せしむるはその天性を残賊することこれを戦場に用うるよりもはなはだし。欧米婦人の愚昧なる多弁、支那婦人間の強好なる口論を見たる者は日本婦人の正道に発達しつつあるに感謝せん。善き傾向に発達したるものは悪しき発達のものをして学ばしむる所あるべし。このゆえに現代をもって東西文明の融合時代という。直訳の醜はとくに婦人参政権間題に見る。(国民の生活権利参照)
国民自由の恢復
従来国民の自由を拘束して憲法の精神を毀損せる諸法律を廃止す。文官任用令。治安警察法。新聞紙条例。出版法等。
注周知の道理。ただ各種閥族等の維持に努むるのみ。
国家改造内閣
戒厳令施行中現時の各省の外に下掲の生産的各省を設け、さらに無任所大臣数名を置きて改造内閣を組織す。
改造内閣員は従来の軍閥、吏閥、財閥、党閥の人々を斥けて全国より広く偉器を選びてこの任に当らしむ。
注徳川の君臣をもって維新革命をなすあたわざる同一理由。ただし革命は必ずしも流血の多少によりて価値を決するものにあらず。あたかも外科手術において流血の多量おる理由をもって少量なる者を不徹底なりというあたわざるがごとし。要は手術者の力量と手術せらるべき患者の体質如何にあり。現時の日本は充実強健なる壮者なり、ロシア・支那のごときは全身腐肉朽骨の老廃患者なり。古今を達観し東西に卓出せる手術者のあらば日本の改造のごとき談笑の間に成るべし。
国家改造議会
戒厳令施行中普通選挙による国家改造議会を召集し改造を協議せしむ。
国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討論することを得ず。
注一これ国民が本隊にして天皇が号令者なる所以。権力濫用の「クーデター」にあらずして国民と共に国家の意志を発動する所以。
注二これ法理論にあらずして事実論なり。露独の皇帝もかかる権限を有すべしという学究談論にあらずして、日本天皇陛下にのみ期待する国民の神格的信任なり。
注三現時の資本万能官僚専制の問に普通選挙のみを行なうも選出なるる議員の多数または少数は改造に反対する者および反対する者より選挙費を得たる当選者なるをもってなり。ただし戒厳令中の議員選挙たり議会開会なるをもって有害なる侯補者または議員の権利を停止すべきを得るは論なし。
注四かかる神格者を天皇としたることのみによりて維薪革命は仏国革命よりも悲惨と動乱なくしてしかも徹底的に成就したり。再びかかる神格的天皇によりて日本の国家改造はロシア革命の虐殺兵乱なく、ドイツ革命の痴鈍なる徐行を経過せずして整然たる秩序の下に貫徹すべし。
皇室財産の国家下附
天皇はみずから範を示して皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す。
皇室費を年約三千万円とし、国庫より支出せしむ。
ただし、時勢の必要に応じ議会の協賛を経て増額することを得。
注現時の皇室財産は徳川氏のそれを継承せることに始まりて、天皇の原義に照すもかかる中世的財政をとるは矛眉なり。国民の天皇はその経済またことごとく国家の負担たるは自明の理なり。 
巻二 私有財産限度
私有財産限度
日本国民一家の所有し得べき財産限度を壱百万円とす。
海外に財産を有する日本国民また同じ。
この限度を破る目的をもって財産を血族その他に贈与しまたは何らかの手段によりて他に所有せしむるを得ず。
注一一家とは父妻子女および直系の尊卑族を一括していう。
注二限度を設けて壱百万円以下の私有財産を認むるは、一切のそれを許なざらんことを終局の目的とする諸種の社会革命説と社会および人性の理解を根本より異にするをもってなり。個人の自由なる活動または享楽はこれをその私有財産に求めざるべからず。貧富を無視したる画一的平等を考くることは誠に杜会万能説に出発するものにして、ある者はこの非難に対抗せんがために個人の名誉的不平等を認むる制度をもってせんというも、こは価値なき別問題なり。人は物質的享楽または物質的活動そのものにつきて画一的なるあたわざればなり。自由の物質的基本を保証す。
注三外国に財産を有する国民にこの限度の及ぶは法律上当然なり。これを明示したる所以はこの限度より免かるる目的をもってする外国の財産を禁ずるを明らかにしたるもの。フランス革命の時の亡命貴族の例。租界に逃居して財産の安固を計る現時支那官僚富家の例。
注四杜会主義が私有財産の確立せる近代革命の個人主義民主主義の進化を継承せるものなりとはこのゆえなり。民主的個人をもって組織なれざる社会は奴隷的社会万能の中世時代なり。しかして民主的個人の人格的基礎はすなわちその私有財産なり。私有財産を尊重せざる杜会主義は、いかなる議論を長論大著に構成するにせよ、要するに原始的共産時代の回顧のみ。
私有財産限度超過額の国有
私有財産限度超過額はすべて無償をもつて国家に納付せしむ。
この納付を拒む目的をもって現行法律に保護を求むるを得ず。
もしこれに違反したる者は天皇の範を蔑にし、国家改造の根基を危くするものと認め、戒厳令施行中は天皇に危害を加うる罪および国家に対する内乱の罪を適用してこれを死刑に処す。
注一経済的組織より見たるとき、現時の国家は統一国家にあらずして経済的戦国時代たり経済的封建制たらんとす。米国のごときは確実に経済的諸侯政治を築き終れるものなり。国家は、かって家の子郎党または武士らの私兵を養いて攻戦討伐せし時代より一現時の統一に至れり。国家はさらにその内容たる経済的統一をなさんがために、経済的私兵を養いて相殺傷しつつある今の経済的封建制を廃止し得べし。
注二無償をもって徴集する所以は、現時の大資本家大地主らの富はその実社会共同の進歩と共同の生産による富が悪制度のため彼ら少数者に停滞し蓄積せられたるものにかかわるをもってなり。理由の第二は、公債をもってことごとくこれらを賠償する時は、彼らは公債に変形したる依然たる巨富をもって国家の経済的統一を致損し得べきかを有するをもってなり。第三の理由は、国家として不合理なる所有に対して賠償をなすあたわず、実にその資本をして有史未曽有の活用をなすべき切迫せる当面の経綸を有するをもってなり。
注三違反者に対して死刑をもってせんというは必ずしも希望するところにあらず。またもとより無産階級の復讐的騒乱を是非するにもあらず。実に貴族の土地徴集を決行するに、大西郷が異議を唱うる諸藩あらば一挙討伐すべき準備をなしたる先哲の深慮に学ぶべしとするものなり。二、三十人の死刑を見ば天下ことごとく服せん。
改造後の私有財産超過者
国家改造後の将来、私有財産限度を超過したる富を有する者はその超過額を国家に納付すべし。
国家はこの合理的勤労に対してその納付金を国家に対する献金として受け明らかにその功労を表彰するの道を取るべし。
この納付を避くる目的をもって血族その他に分有せしめまたは贈与するを得ず。
違反者の罰則は、国家の根本法を紊乱する者に対する立法精神において、別に法律をもって定む。
注一現時の致富と改造後の致富とが致富の原因を異にするを了解すべし。
注二最少限度の生活基準に立脚せる諸多の杜会改造説に対して、最高限度の活動権域を規定したる根本精神を了解すべし。深甚なる理論あり。
注三前世紀的社会主義に対する一般かつ有利の非難、すなわち各人平等の分配のために勤勉の動機を喪失すべしというごとき非難をこの私有財産限度制に移し加うるを得ず。第一、私有財産権を確認するがゆえに尠しも平等的共産主義に傾向せず。しかして私有財産に限度ありといえどもいささかも勤勉を傷けず。壱百万円以上の富は国有たるべきがゆえに、工夫は多くの賃銀を要せず商家は広き買客を欲せずと思考する者なし。
注四私人壱百万円を有せば物質的享楽および活動において至らざる所なし。国民の国家内に生活する限り神聖なる人権の基礎として国家の擁護する所以。数百万数千万数億万の富に何ら立法的制限なきは国家の物質的統制を現代見るごとき無政府状態に放任するもの。国家が国際間に生活する限り国家の至上権において国家の所有に納付せしむる所以。
注五私産限度超過者が法律を遵守せずして不可行に終るべしと狐疑するなかれ。刑法を遵守せずして放火殺人をあえてする者あるがゆえに刑法は空想なりという者なし。国憲を紊乱する者に課罰する別個重大精密なる法律を制定する所以なり。
在郷軍人団会議
天皇は戒厳令施行中、在郷軍人団をもつて改造内閣に直属したる機関とし、もって国家改造中の秩序を維持すると共に、各地方の私有財産限度超過者を調査し、その徴集に当らしむ。
在郷軍人団は在郷軍人の平等普通の互選による在郷軍人団会議を閉きてこの調査徴集に当る常設機関となす。
注一在郷軍人はかって兵役に服したる点において国民たる義務を最も多大に果したるのみならずその間の愛国的常識は国民の完全なる中堅たり得べし。かつその大多数は農民と労働者なるがゆえに、同時に国家の健全なる労働階級なり。しかしてすでに一糸紊れざる組織あるがゆえに、改造の断行において露独に見るごとき騒乱なく真に日本のみもっぱらにすべき天佑なり。
注二ロシアの労兵会およびそれに倣いたるドイツその他の労兵会に比するとき在郷軍人団のいかに合理的なるかを見るべし。在郷軍人団は兵卒の素質を有する労働者なる点において、労兵会の最も組織立てるものとも見らるべし。
注三現役兵をもって現在労働しつつあるものと結合して、同族相屠ふる彼らは悲しむべき不幸なり。かつ日本の軍隊は外敵に備うるものにして白己の国民の弾圧に用うべきにあらず。
注四国民の資産納税等に関与する各官庁を用いざる所以はそれらと大富豪との納托はすでに脱税等に見るごとく事々国家を欺きて止まざればなり。第二の理由はこの改造が官僚の力による改造にあらずして国民みずからが国民のためにする改造なる根本精神に基づく重大なる眼目。
注五もとより在郷軍人団がその調査と徴集に一の過誤失当なきを期するために必要なる官庁をして必要に応じて協力補佐せしむるは論なし。しかしてまたもとより在郷軍人団会議は各種の労働団体によりて協力補佐せらるるは論なし。
注六現在の在郷軍人会そのものにあらず。平等普通の互選と明示せるを見よ。 
巻三 土地処分三則
私有地限度
日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価拾万円とす。
この限度を破る目的をもつて血族その他に贈与しまたはその他の手段によりて所有せしむるを得ず。
注一国民の自由を保護し得る国家は同時に国民の自由を制限し得るは論なし。外国の侵略またはその他の暴力より完全にその土地を私有し得る所以はすべて国家の保護による。資本的経済組織のために国内に不法なる土地兼併が行なわれて、大多数国民がその生活基礎たる土地を奪取せられつつあるを見るとき、国家は当然に土地兼併者の自由を制限すべし。
注二時価拾万円として小地主と小作人との存立を認むる点は、一切の地主を廃止せんと主張する社会主義的思想と根拠を異にす。また土地は神の人類に与えたる人権なりというがごとき愚論の価値なきは論なし。すべてに平等ならざる個々人はその経済的能力享楽および経済的運命においても画一ならず。ゆえに小地主と小作人の存在することは神意ともいうべく、かつ杜会の存立および発達のために必然的に経由しつつある過程なり。
私有地限度を超過せる土地の国納
私有地限度以上を超過せる土地はこれを国家に納付せしむ。
国家はその賠償として三分利付公債を交付す。ただし私産限度以上に及ばず。
その私有財産と賠償公債との加算が私産限度を超過する者はその超過額だけ賠償公債を交付せず。
違反者の罰則は戒厳令施行中前掲に同じ。
注一日本現時の大地主はその経済的諸侯たる形において中世貴族の土地を所有せるに似たるも、所有権の本質において全く近代的のものなり。中世の所有権思想はその所有が奪取なると否とを問わず強者の権利の上に立てるものなりき。維新革命は所有権の思想が強力による占有にあらずして労働に基づく所有に一変すると共に、強力がその強力を失いてその所有権を喪失したるもの。これに反してこの私有地限度超過を徴集することは近代的所有権思想の変更にあらず。単に国家の統一と国民大多数の自由のために少数者の所有権を制限するものに過ぎず。ゆえに私有財産限度以下において所有権に伴う権利として賠償を得るものなり。
注にゆえに中世貴族の所有地を現今に至るも解決するあたわずしてついに独立間題にまで破裂せしめたるアイルランドの土地問題と、この私有地限度制とはその思想においても進歩の程度においても雲泥の差あるを知るべし。また現時ロシアの土地没収のごときは明らかに維新革命を五十年後の今において拙劣に試みつつあるものに過ぎず。彼が多くの点すなわち軍事政治学術その他の思想において遙かに後進国なるは論なし。土地問題において英語の直訳や「レニン」の崇拝は佳人の醜婦を羨むの類。
土地徴集機関
在郷軍人団会議は在郷軍人団の監視の下に私有地限度超過者の土地の評価徴集に当るべし。
注前掲の如し。
将来の私有地限度超過者
将来その所有地が私有地限度を超過したる者はその超過せる土地を国家に納付して賠償の交付を求むべし。
この納付を拒む目的をもつて血族その他に贈与しまたはその他の手段によりて所有せしむることを得ず。違反者の罰則は、国家の根本法を紊乱する者に対する立法精神において、別に法律をもって定む。
徴集地の民有制
国家は皇室下附の土地および私有地限度超過者より納付したる土地を分割して土地を有せざる農業者に給付し、年賦金をもってその所有たらしむ。
年賦金額年賦期間等は別に法律をもって定む。
注一社会主義的議論の多くが大地主の土地兼併を移して国家そのものを一大地主となし、もって国民は国家の所有の土地を借耕する平等の小作人たるべしというは原理としては非難なし。これに反対してロシアの革命的思想家の多くは国民平等の土地分配を主張してまた別個の理論を土地民有制に築くもの多し。しかしながらかかる物質的生活の問題はある両一の原則を予断してすべてを演繹すべきものにあらず。もし原則というものあらば、ただ国家の保護によりてのみ各人の土地所有権を享受せしむるがゆえに、最高の所有者たる国家が国有とも民有とも決定し得べしということこれのみ。ロシアに民有論の起るは正当なると共に、アイルランドの貴族領が国有たるべきも可能なり。すなわち二者のいずれかを決し得る国家はその国情の如何を考えて最善の処分をなせば可なりとす。日本が大地主の土地を徴集することは最高の所有者たる国家の権利にして国有なり。しかして日本が小農法の国情なるに考えてこれを自作農の所有権に移し、もって土地民有制を取ることも日本としての物質生活より築かるべき幾多の理論を有す。かつ動かすべからざる原理は都市の住宅地と異なりて農業者の土地は資本と等しくその経済生活の基本たるをもって、資本が限度以内において各人の所有権を認めらるるごとく、土地またその限度内において確実なる所有権を設定さるることは国民的人権なりとす。
注二この日本改造法案を一貫する原理は、国民の財産所有権を否定するものにあらずして、全国民にその所有権を保障し享楽せしめんとするに在り。熱心なる音楽家が借用の楽器にて満足せざるごとく、勤勉なる農夫は借用地を耕してその勤勉を持続し得るものにあらず。人類を公共的動物とのみ、考うる革命論の偏局せることは、私利的欲望を経済生活の動機なりと立論する旧派経済学と同じ。共に両極の誤謬なり。人類は公共的と私利的との欲望を併有す。したがって改造なるべき社会組織また人性を無視したるこれら両極の学究的憶説に誘導さるることあたわず。
都市の土地市有制
都市の土地はすべてこれを市有とす。市はその賠償として三分利付市債を交付す。
賠償額の限度および私有財産とその加算が私有財産限度を超過したる者は前掲に同じ。
土地徴集機関また前掲に同じ。
注一都市と限りて町村住宅地を除外せる所以は、公有とすべき理由が町村の程度においては完成せざるをもってなり。
注二都市地価の騰貴する理由は農業地のごとく所有者の労力に原因するものにあらずして大部分都市の発達そのものによる。都市はその発達より結果せる利益を単なる占有者に奪わるるあたわず。もってこれを市有とするものなり。
注三都市はその借地料の莫大なる収入をもって市の経済を遺憾なからしむるを得。したがって都市の積極的発達はこの財源によりて自由なると共に、その発達より結果する借地料の騰貴はまた循環的に市の財源を豊かにす。
注四家屋は衣服と等しく各人の趣味必要に基づくものなり。三坪の邸宅に甘ずる者あるべく、数拾万円の高楼を建つるものあるべし。ある時代の社会主義者の市立の家屋を考えしごときは市民の全部に居常かつ終生画一なる兵隊服を着用せしむべしというと一般、愚論なり。
注五すでに都市の私有地を許なざるがゆえに、設定せられたる地上権より利得を計ることを得ず。すなわち借家をもって利得をなす者は家屋そのものよりの利得にして、地上権に伴う利益を計上するを得ず。このために市は五年目ごとに借地料の評価をなす。
国有地たるべき土地
大森林または大資本を要すべき未開墾地または大農法を利とする土地はこれを国有とし国家みずからその経営に当るべし。
注一下掲大資本の国家統一の原則による。
注二わが日本においては国氏生活の基礎たる土地の国際的分配において将来大領土を取得せざるべからざる運命にあり。したがって国有として国家の経営すべき土地の莫大なるを考うべし。要するにすべてを通じて公的所有と私的所有の併立を根本原則とす。
注三日本の土地問題は単に国内の地主対小作人のみを解決して得べからず。土地の国際的分配において不法過多なる所有者の存在することに革命的理論を拡張せずしては、言論行動一瞥の価値なし。(「国家の権利」参照) 
巻四 大資本の国家統一
私人生産業限度
私人生産業の限度を資本壱千万円とす。海外における国民の私人生産業また同じ。
注一私有財産限度と私人生産限度とを同一視すべからず。合資株式合名または自己の財産にあらざる借入金をもって生産を営む後者の制限は財産の制限たる前者と全く別事なり。
注二限度を設けて私人生産業を認むる所以は前掲の諸注より推して明なるごとく幾多の理由あり。人の経済的活動の動機の一が私欲にありというもその一。新たなる試みが公共的認識を待つあたわずして常に個人の創造的活動によるというもその二。いかに発達するも公共的生産が国民生活の全部を蔽うあたわずして、現実的将来は依然として小資本による私人経済が大部分を占むるものなりというもその三。国民自由の人権は生産的活動の自由において表われたるものにつきて保護助長すべきものなりというもその四。数うるに尽きざるこれらの理由は社会主義がその建設的理論において未だ全く世の首肯を得ざる欠陥を示すものなり。「マルクス」と「クロポトキン」とは未開なる前世紀時代の先哲として尊重すれば可。
私人生産業限度を超過せる生産業の国有
私人生産業限度を超過せる生産業はすべてこれを国家に集中し国家の統一的経営となす。
賠償金は三分利付公債をもって交付す。賠償の限度および私有財産との関係等すべて私有財産限度の規定による。
違反者の罰則は戒厳令施行中前掲に同じ。
注一大資本が社会的生産の蓄積なりということは社会主義の原理にして明白なること説明を要せず。しからば社会すなわち国家が自己の蓄積せるものを自己に収得し得るはまた論なし。
注二現時の大資本が私人の利益のために私人の経営に委せらるることは人命を殺活し得べき軍隊が大名の利益のために大名に私用せらるることと同じ。国内に私兵を養いて私利私欲のために攻伐しつつある現代支那が政治的に統一せるものというあたわざるごとく、鉄道電信のごとき明白なる社会的機関をすら私人の私有たらしめて甘んずる米国は金権督軍の内乱時代なり。国民の安寧秩序を保持することが国家の唯一任務なりとせば、国民の死活栄辱を日夜にわたり終生を通じて脅威しつつあるこれらを処分せずしては国家なきに同じ。無政府党は怖るるの要なし。国家が国家みずからの義務と権能とを無視することを畏るべしとなす。
注三積極的に見るとき大資本の国家的統一による国家経営は米国の「トラスト」ドイツの「カルテル」をさらに合埋的にして国家がその主体たるものなり。「トラスト」「カルテル」が分立的競争より遙かに有埋なる実証と理論によりて国家的生産の将来を推定すべし。
注四大生産業の微集においてそれらを有し、さらに上地徴集においても各所にそれらを有する大富豪らは、要するにただ壱百万円を所有し得るのみなり。これと同時に壱百万円以下の株券を有し合資を有する者は、その干与せる株式会社・合資会杜の徴集せらるるとき一の傷害なき賠償を受くるものなり。すなわちいわゆる上流階級なるものを除ける中産以下の全国民には寸毫の動揺を与えず。
資本徴集機関
私人生産業限度を超過せる資本の徴集機関は在郷軍人団会議たること前掲に同じ。
注私有財産限度超過者の調査と徴集が根本なるをもって土地超過者と資本超過の処分に当ることはただ根本を収めて枝葉に及ぶものに過ぎず。在郷軍人団をもってする時、必ずしも三年の戒厳令を要せず。
改造後私人生産業限度を超過せる者
改造後の将来、事業の発達その他の理由によりて資本が私人生産業限度を超過したる時はすべて国家の経営に移すべし。国家は賠償公債を交付しかつ継承したる該事業の当事者にその人を任ずるを原則とす。
違反者の罰則は国家の根本法を紊乱する者に対する立法精神において、別に法律をもって定む。
その事業が未だ私人生産業限度の資本に達せざる時といえどもその性質上大資本を利としまた国家経営を合理なりと認むる時は、国家に申達し双方協議のうえ国家の経営に移すことを得。
注一壱千万円以上の生産業が国営たるべきために起る疑惑は事業家の奮闘心を挫折せしむべしということなり。これに対して人類は公共的動物なりという共産主義者の人生観が半面より最も有かに説明し尽したるは人の知るごとし。かつ利己的欲望そのものを解剖するも、事業家の事業経営においてはその手腕の発揮を見る自己満足、その経営的手腕の社会に認識せらるるを欲する功名的動機が多大に合有せらるるを発見すべし。現代の将軍らが愛国心のほかにこれら功名的動機、軍事的手腕を発揮せんとする自己満足の動機のために戦場に死戦するを見よ。かの戦国時代の将軍らが一州を略せば一州を領し一城を抜けば一城の主たりという私利的経済的欲望を掲げたる争闘より劣るものなし。もとよりあえてすべてを事業家の公共的動機に要めず。その利己的欲望中に合有さるるかかる幾多の動機は、その事業を発展せしめたる国家的認識と、国家に移れる事業をその人に経営せしむる手腕発揮の自己満足とによりて、実に争いて私人生産業限度を超過せんとする奮闘心を刺戟し鞭撻すべし。いわんやかかる改造組繊の後においては、公共的動物たる人類の美性はこれを阻害する悪制度なきがために、いちじるしく国民の心意行動を支配するに至るは確定したる理論を有す。
注二私人壱百万円の私的財産を有するに至らば、一切の私利的欲求を断ちてただ社会国家のために尽くすべき欲望に生活せしむべし。私人壱千万円の私的産業に至らばその事業の基礎および範囲において直接かつ密接して国家社会の便益福利以外一点の私的動機を混在せしむべきものにあらず。ゆえにこの二者の制限は現今まで放任せられたる道徳性を国家の根本法として法律化するに過ぎざるなり。
国家の生産的組織
その一銀行省
私人生産業限度以上の各種大銀行より徴集せる資本、および私有財産限度超過者より徴集したる財産をもって資本とす。
海外投資において豊富なる資本と統一的活動。他の生産的各省への貸付。私人銀行への貸付。通貨と物価との合理的調整。絶対的安全を保証する国民預金等。
注一現時の分立せる銀行とこの銀行省との対外能力を考うる時、その差等はほとんど支那の私兵と日本の統一軍隊ほどの懸隔を見るべし。私兵を糾合して対外利権を争うがごときは資本の乏しき日本にとりて必敗なり。
注二貿易順調にして外国より貨幣の流入横隘しために物価騰貴に至る恐ある時、銀行省はその金塊を貯蔵して国家非常の用に備うると共に、物価を合理的に調整するを得べし。経済界の好況をかえって反対に国民生活の憂患とする現下の大矛盾は一に国家が「金権」を有せざるに基づく。
注三国民膏血の貯金または事業の運命を決すべき預金等が銀行の破産によりて消散することは国民生活の一大不安なり。いかに岩下清周に重刑を課するも幾万人の被害者に何の補いたらず。大日本帝国が国民と共に亡びざる限り銀行省の預金に不安なし。
その二航海省
私人生産業限度以上の航海業者より徴集したる船舶資本をもって遠洋航路を主とし海上の優勝を争うべし。造船造艦業の経営等。
注これ海上の鉄道国有に過ぎず。その外国同業者との競争能力等は「トラスト」「カルテル」より推論し得べく、以下の各省みな同じ。
その三鉱業省
資本または価格が私人生産業限度以上なる各種大鉱山を徴集して経営す。銀行省の投資に伴う海外鉱業の経営。新領土取得の時私人鉱業と併行して国有鉱山の積極的開発等。
注一資本のみならず鉱山の価格を明示せる所以。機械その他の設備を資本として鉱山そのものの価格が資本なることを忘れんとする誤解を防ぐ。
注二国民の屍山血河によりて獲得したる鉱山(例えぱ撫順炭鉱のごとき)を少数者に壟断しつつある現時の状態は実に最悪なる政治というのほかなし。愛国心の頽廃も無政府党の出現も国家みずからが招くもの。
その四農業省
国有地の経営。台湾製糖業および森林の経営。台湾、北海道、樺太、朝鮮の開墾。南北満洲、将来の新領土における開墾、または大農法の耕地を継承せる時の経営。
注台湾における糖業および森林に対する富豪等の罪悪が国家の不任不義に帰せらるるごときは国家および国民の忍び得べきものにあらず。将来台湾の幾十倍なる大領土を南北満洲および極東シベリアに取得すべき運命において、同一なる罪悪を国家国民の資任に嫁せらるることは日本の国際的威厳信用を汚辱し、土地の国際的分配の公正のために特に日本の享有せる領土拡張の生活権利を損傷ん、いかなる大帝国建設も百年の寿を全うするあたわざるべし。
その五工業省
徴集したる各種大工業を調整し統一し拡張して真の大工業組織として、各種の工業ことごとく外国のそれらと比肩するを得べし。私人の企てざる国家的欠陥たるべき工業の経営。海軍製鉄所、陸軍兵器廠の移管経営等。
注工業の「トラスト」的「カルテル」的組織は賢本乏しく列強より後れたる日本には特に急務なり。また今回の大戦に暴露せられたるごとく日本は自営自給するあたわざる幾多の工業あり。自己の私利を目的とする資本制度に依頼して晏如たることは、今日および今後日本の国際的危機の忍ぶあたわざるところなり。
その六商業省
国家生産または私人生産による一切の農業的工業的貨物を案配し、国内物価の調節をなし、海外貿易における積極的活動をなす。
この目的のためにすべて関税はこの省の計算によりて内閣に提出す。
注一すでに私有財産限度あり、私有地限度あり、私人生産業限度あり。私人は悪用すべき大資本を奪われたるがゆえに国家の物価調節に反抗して買占め売り惜しみ符をなすことあたわず。したがって国家の物価調節は一糸紊れず整然として行なわるべし。大地主と投機商人との有する大資本が米穀の買占め売り惜しみを自由ならしめて現時の米価騰貴を現出しつつあるを見よ。すべての物価問題ことごとくここに発す。彼らの大資木を奪わずして物価調節をいうごときは抱腹すべき空想政治なり。
注二国内の物価が世界的原因、すなわち世界大戦中のごとき世界的物価騰貴のために騰貴するときは、国家は一般国民の購買能力と世界市価との差額を輸出税として課税すべし。公私生産品一律に課税さるるは論なし。かくして国内物価の暴騰を防ぐと同時に、貿易上の利益を国庫に収得するを得べし。ただしこれらは非常変態の経済状態にして輸出税を課するごとき原則にあらざるは論なし。しかも非常に遭遇したるとき国民の不安騒乱を招くがごとき国家組織をもってして、如何ぞ大日本帝国の世界的使命を全うするを得べき。将来一大戦争を覚悟するならば特に非常時に安泰なるべき改造を要す。
その七鉄道省
今の鉄道院に代え、朝鮮鉄道、南満鉄道等の統一。将来新領土の鉄道を継承し、さらに布設経営の積極的活動等。
私人生産業限度以下の支線鉄道はこれを私人経営に開放すべし。
注一鮮血の南満鉄道が富豪に壟断さるるの不義と危険とは鉱業省の注に述べたるがごとし。もし将来の大領土における諸多の鉄道を再び南満鉄道に学ばしむることあらば国民に闘志なきこと明白なり。
注二鉄道の国有なるがゆえに現時のごとく民間の鉄道布設が阻害せらるるは、第一国民の経済的自由を蹂躙するのみならず、国有鉄道そのものの利益を滅殺するものなり。陸上の鉄道なるがゆえに山間僻村の支線をも国有とし、海上の鉄道なるがゆえに全世界に通ずる幹線をも民有とすべしとは道理に合せざるもはなはだし。鉄道の国有たるべきものと民有たるべきものと、また実に私人生産業限度の原則および大資本の国家統一の原則の下に律せらるべし。国家の大本は一にして二なし。
莫大なる国庫収入
生産的各省よりの莫大なる収入はほとんど消費的各省および下掲国民の生活保障の支出に応ずるを得べし。したがって基本的租税以外各種の悪税はことごとく廃止すべし。
生産的各省は私人生産者と同一に課税せらるるは論なし。
塩、煙草の専売制はこれを廃止し、国家生産と私人生産との併立する原則によりて、私人生産業限度以下の生産を私人に開放して公私一律に課税す。
遺産相続税は親子権利を犯すものなるをもって単に手数料の徴収に止む。
注一国家の徴集し得べき資本の概算は推想するを得べきも、その真実を去るはなはだ遠きことは在郷軍人団の調査徴集を必要とする所以なり。
注二国家の生産的収入の増大するに従いて、ただに悪税のみ、ならず多くの租税を廃止し得るの時来るべきは推想し得べし。
注三遺産相続を機として国家が収得を計らんとする社会政策者流の人権的思想に不徹底なるを思考すべし。 
巻五 労働者の権利
労働省の任務
内閣に労働省を設け国家生産および個人生産に雇傭さるる一切労働者の権利を保護するを任務とす。
労働争議は別に法律の定むるところによりて労働省これを裁決す。この裁決は生産的各省個人生産者および労働者の一律に服従すべきものなり。
注一労働者とは力役または智能をもって公私の生産業に雇傭せらるる者をいう。したがって軍人・官吏・教師等は労働者にあらず。たとえば巡査が生活権利を主張する時はその所属たる内務省が決定すべく、教師が増給運動をなす時は文部省が解決すべし。労働省の与かるところにあらず。
注二同盟罷工は工場閉鎖と共にこの立法に至るべき過程の階級闘争時代の一時的現象なり。永久的に認めらるべき労働者の特権にあらざると共に、一躍この改造組織を確定したる国家にとりては断然禁止すべきものなり。ただしこの改造を行なわずしてしかもいたずらに同盟罷業を禁圧せんとするは、大多数国民の自衛権を蹂躙する重大なる暴虐なりとす。
労働賃銀
労働賃銀は自由契約を原則とす。
その争議は前掲の法律の下に労働省これを決定す。
注一自由契約とせる所以は国民の自由をすべてに通ぜる原則として国家の干渉を背理と認むるによる。真理は一社会主義の専有にあらずして自由主義経済学の理想にまた犯すべからざるものあり。等しく労働者というも各人の能率に差等あり。特に将来日本領土内に居住しまたは国民権を取得する者多き時、国家が一々の異民族につきその能率と賃銀とに干渉し得べきにあらず。現今においては資本制度の圧迫によりて労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃銀契約をなしつつあり。しかも改造後の労働者は真個その自由を保持していささかの損傷なかるべきは論なし。
注二自由(すなわち差別観)を忘れてただ観念的平等に立脚したる時代の社会主義的理想家は国民に徴兵制のごとく労働強制を課せんと考えしことあり。人生は労働のみによりて生くるものにあらず。また個々人の天才は労働の余暇をもって発揮し得べきものにあらず。何人が大経世家たるか大発明家、大哲学者、大芸術家たるかは、彼らの立案するごとく杜会が認めて労働を免除すという事前に察知すべからずしてことごとく事後に認識せらるるものなればなり。社会主義の原理が実行時代に入れる今日となりてはそれに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし。
労働時間
労働時間は一律に八時問制とし日曜祭日を休業して賃銀を支払うべし。
農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応じて賃銀を加算すべし。
注説明の要なし。ただし余の時間をもって修養に享楽に自由なる人権に基づきて、家庭的労働をなしまた他の営業をなすは等しく個人の自由なり。
労働者の利益配当
私人生産に雇傭せらるる労働者はその純益の二分の一を配当せらるべし。
この配当は智能的労働者および力役的労働者を総括したるものにして、各自の俸給賃銀に比例して分配す。
労働者はその代表を選びて事業の経営計画および収支決算に干与す。
農業労働者と地主との間またこれに同じ。
国家的生産に雇傭せらるる労働者はこの利益配当に代わるべき半期ごとの給付を得べし。事業の経営収支決算に干与する代りに衆議院を通じて国民として国家の全生産に発言すべし。
注一労働者はその労働を売却するものなりとは旧派経済学の誤説なり。企業家がその企業的能力をその資本たる機械・鉱山・土地等に加えて利益を計ると同じく、労働者はそれらの資本に労働を加えて利益を計る者なり。機械そのものは人類の知識を結晶したる祖先の遺産たり、社会の共同的産物たり。鉱山土地等そのものは全く自然の存在にしてそれを所有せしむるすべての力は国家なり。しかしてこれらの資本より利益を得んとしてここに各種の人力を要す。企業家は企業的能力を提供し労働者は智能的力役的能力を提供す。労働者の月給または日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費のみ。一方の提供者には生活費のみを与えてその提供のために生れたる利益を与えず他方の提供者のみ生活費のほかにすべての利益を専有すべしとは、その不合理にして無智なることほとんど下等動物の杜会組織というのほかなし。労働者が経営計画に参与するの権はこの一方の提供者としてなり。
注二国家生産の労働者に利益配当を用いざる所以は、国家は全生産の永遠的経営を本旨とするがゆえに、全国家の生産的活動のためにある省にはことさらに投売を行なわしめて損失を顧みざることあるごとく、ある省を犠牲としてある省の対外競争をもっぱらならしむることもあるべきをもってなり。かかる場合において各別に利益配当をなす時に非常なる不公平を生じ甲省の労働者の利益配当を奪いて乙省のそれに与うるがごときを生ずべし。したがってまた生産方針に干与するの権は国家全局の生産成績を達観し得べき衆議院においてせざるべからざる所以となる。
労働的株主制の立法
私人生産業中株式組織の事業はそれに雇傭さるる肉体的精神的労働者をして、みずからその株主たり得る権利を設定すべし。
注一これ自己の労働と自己の資本とが不可分的に活動するものなり。事業に対する分担者としての当然なる権利に基づきて制定さるべし。別個生産能率をも思考すべし。
注二私人生産業限度内の事業において将来半世紀一世紀問は現代のごとき腐敗破綻を来たす怖れあるものと推定すべし。したがって、労働的株主を併存せしむることは内容的根本的につねに該事業を健確に支持すべし。
注三労働的株主の発言権は労働争議を株主会議内において決定し、一切の社会的不安なからしむべし。
借地農業者の擁護
私有地限度内の小地主に対して土地を借耕する小作人を擁護するために、国家は別個国民人権の基本に立てる法律を制定すべし。
注一限度以上の土地を分有せしむる大本は別に存せり。しかも小地主対小作人の間を規定して一切の横暴脅威を抜除すべき細則を要す。
注二一切の地主なからしめんと叫ぶ前世紀の旧革命論を、私有限度内の小地主対小作人の間に巣くわしむべからず。旧杜会の惰勢を存せしむるすべてのところに、旧世紀の革命論は繁殖すべし。
幼年労働の禁止
満十六歳以下の幼年労働を禁止す。これに違反して雇傭したる者は重大なる罰金または体刑に処す。
尊族保護の下に尊族において労働する者はこの限りにあらず。
注国民人権の上より説明を要せず。満十六歳以下とせるは下掲の国民教育期間なるをもってなり。体刑を課する所以は国家の児童を保護するに最も厳励なるべきをもってなり。実に国家の生産的利益の方面より見るも幼童にして残賊するよりもその天賦を完全に啓発すべき教育を施したる後の労働が幾百倍の利益なるは論なし。四海同胞の人道を世界に宜布せんとする者が、みずからの国家内における幼少なる同胞を酷使して何の国民道徳ぞ。
婦人労働
婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。ただし改造後の大方針として国家はついに婦人に労働を負荷せしめざる国是を決定して施設すべし。
国家非常の際に処し婦人が男子の労働に代わり得べきために男子と平等なる国民教育を受けしむ。(「国民の生活権利」参照)。
注一現時の農業発達の程度においては婦人を炎天に晒らしてその美を破り、または貧困者多き近き将来においては婦人を工場に駆使してその楽を奪うとも止むを得ざる人間生活なり。しかしながら大多数婦人の使命は国民の母たることなり。妻として男子を助くる家政労働のほかに、母として保姆の労働をなし、小学教師に劣らざる教育的労働をなしつつある者は婦人なり。婦人はすでに男子のあたわざる分科的労働を十に分に負荷して生れたる者。これらの使命的労働を廃せしめて全く天性に合せざる労働を課するは、ただに婦人そのものを残賊するのみならず、直にその夫を残賊しその子女を残賊する者なり。この改造によりて男子の労働者の利得が優に妻子の生活を保証するに至らば、良妻賢母主義の国民思想によりて婦人労働者は漸次的に労働界を去るべし。
注二この点は女子参政権問題におけるがごとく、日本と欧米とが全然発達の傾向を異にし来たりかつ異にすべき将来を示すものなり。日本婦人の人格は欧米のごとく男子の職業を争いて認めらるべき将来を仮想するの要なし。国家組織が下掲のごとく母としてまた妻としての婦人の生活を保証し、婦人が男子と平等の国民教育を受くるならば、その妻としての労働、母としての労働が人格的尊敬をもって認識せらるるは論なし。
注三婦人は家庭の光にして人生の花なり。婦人が妻たり母たる労働のみとならば、夫たる労働者の品性を向上せしめ、次代の国民たる子女をますます優秀ならしめ、各家庭の集合たる国家は百花爛漫春光駘蕩たるべし。とくに杜会的婦人の天地として、音楽・美術・文芸・教育・学術等の広漠たる未墾地あり。この原野は六千年間婦人に耕やし播かれずして残れり。婦人が男子と等しき牛馬の労働に服すべき者ならば天は彼の心身を優美繊弱に作らず。 
巻六 国民の生活権利
児童の権利
満十五歳未満の父母または父なき児童は、国家の児童たる権利において、一律に国家の養育および教育を受くべし。国家はその費用を児童の保護者を経て給付す。
父生存してしかも父に遺棄せられたる児童また同じ。ただしこの場合において国家は別途その父に対して賠償を命じ、従わざるものは労働を課して賠償に充てしむ。
父母の遺産を相続せる児童、または母の資産あるいは特種能力において教養せられ得る児童は、国家と協議の上この権利を放棄せしめらるべし。
注一人の居常かつ終生の憂惧は子女の安全なる生長にあり。封建時代の武士がすべて後顧の憂なきがためにその道義的奮進または犠牲的冒険を敢行し得たるごとく、国民はその子女の国家的保障のため戦場においても平和のそれにおいてもなんら後顧の憂なし。その児童の権利として児童そのものを権利主体とせるは、父母の如何にかかわらず、第二の国民たる点において国民的人権を有するをもってなり。
注二父なき児童が孤児と同一なる権利を有する所以は、婦人は男子たる父と同一なる労働をなすあたわざる原則に基づく。慈悲深き賢母を労働の苦役に駆り貞節なる良妻を売淫の汚濁に投ずるは、夫たり子女たる国民の忍ぶあたわざるところ。国家は夫と子女と婦人そのものとのためにその義務を完うせざるべからず。ただし母その人の生活は母自身の維持すべきものとす。
注三父生存して遺棄せられたる児童また同じきはすべてこの理由による。結婚と単なる情交とを差別せず、しかして賠償を別途に命じて同居を父に強いざる所以は、遺棄んたる事情が背徳にせよまたは積極的活動のためにせよ干渉すべからざる別事なればなり。
注四父母共になき児童を孤児院に収容せざる所以は、孤児院の弊害はなはだしきと、児童の保護者として血族長者の保護に優る者なきをもってなり。全然保護者なき孤児は国家の収容すべきは論なし。
注五以上児童の権利はおのずから同時に母性保護となる。
国家扶養の義務
貧困にして実男子また養男子なき六十歳以上の男女、および父または男子なくして貧困かつ労働に堪えざる不具廃疾は国家これが扶養の義務を負う。
注一実男子または養男子として婦人に扶養の義務を負荷せしめざる所以は、婦人は自己一人以上を生活せしむる労働力なき原則による。かつその女が他家に嫁して余力ある者といえども、その老親の扶養を夫の資産労働に依頼せしむることは、父母の屈従不安を招きさらに婦人をして夫の前にその人格的尊重を傷づくるに至らしむ。すなわち婦人に老親を負担せしめざるは日本古来の不文律にして同時に婦人人権の擁護なり。
注二実男子または養男子に貧困なる老親を扶養せしむるは欧米の贋的個人主義と雲泥の差あるもの。かの「ロイドジョージ」氏の試みたる養老年金法案のごときは、国民の大部分が扶養すべき男子を有するがゆえに、日本においてはここに掲ぐる例外的不幸を除きて無用なる立法なりとす。
注三不具廃疾者をその兄弟遠族または慈善家の冷遇に委するは不幸なる者に虐待を加うると同じ。その母または女子に負荷せしめざる所以は、愛情ありといえども扶養能力なきがゆえに、結局その兄弟または娘の夫の負担となりて、立法の精神を殺すものとなるをもってなり。
注四兵役義務のために不具廃疾となれる者の国家扶養の義務は別に法律をもってその扶養を完うすべし。もとより別個の問題なり。
国民教育の権利
国民教育の期間を、満六歳より満十六歳までの十ヵ年間とし、男女を同一に教育す。
学制を根本的に改革して、十年間を一貫せしめ、日本精華に基づく世界的常識を養成し、国民個々の心身を充実具足せしめて、おのおのその天賦を発揮し得べき基本を作る。
英語を廃して国際語(えすぺらんと)を課し第二国語とす。
女子の形式的また特殊的課目を廃止し小学、高等小学、中学校に重複するものを廃して一貫の順序を正しくす。
体育は男女一律に丹田の鍛冶より結果する心身の充実具足に一変す。したがって従来の機械的直訳的運動および兵式訓練を廃止すべし。
男女の遊戯は撃剣・柔道・大弓・薙刀・鎖鎌等を個人的または団体的に興味づけたるものとし従来の直訳的遊戯を廃止す。
この国民教育は国民の権利として受くるものなるをもって無月謝、教科書給付中食の学校支弁を方針とす。
男生徒に無用なる服装の画一を強制せず。
校舎はその前期を各町村に存する小学校舎とし、後期を高等小学校舎とし、一切物質的設備に浪費せず。
注一男女共中学程度終業をもって国民たる常道常識を教育せらるるもの。ようやく文字を解し得るか得ざるかの小学程度をもって国民教育の終了とするは国民個々の不具と国家の薄弱を来すものなり。これ教育すべき国家の窮乏せると、教育せらるべき国民に余裕なかりしをもってなり。一貫したる十年間の教育は、その終了と同時に完全具足したる男女たるべく、さらにその基本をもっておのおのその使命的啓発に向って進むを得べし。
注二女子を男子と同に一教育する所以は、国民教育が常識教育にしてある分科的専攻を許すべき年齢にあらざると共に、満十六歳までの女子は男子と差別すべき必要も理由もなきをもってなり。したがって女学校特有の形式的課目女礼式、茶湯、生花のごときまた女子の専科とせる裁縫、料理、育児等の特殊課目は全然廃止すべきものとなる。前者を強制するは無用にして有害なり。後者は各家庭において父母の助手としてみずから修得すべし。女子に礼式作法が必須課目ならば男子にも男子のそれがしかるべく、茶の湯、生花がしかるならば男子に謡曲を課せざれぱ不可。車夫の娘に「ビフテキ」の焼方を教授し外交官の妹に袴の裁方を説明し、月経なき少女に育児を講義するごとき、今の女子教育のすべては乱暴愚劣真に百鬼夜行の態なり。学校はすべてにあらず。各人の欲するところに随い各家の生活事情に応じて学ぶべき幾多のものを有す。
注三一切にわたりて英語を廃する所以。英語は国民教育として必要にもあらず、また義務にもあらず。現代日本の進歩において英語国氏が世界的知識の供給者にあらず。また日本は英語を強制せらるる英領インド人にあらず。英語が日本人の思想に与えつつある害毒は英国人が支那人を亡国民たらしめたる阿片輸入と同じ。ただ英語ほど普及せずしてしかも英語思想以上に影響を与えたるドイツ語によりてその害毒の緩和せられたる天佑を有するのみ。英語国民の浅薄なる思想を通じて空洞なる会堂建築として輸入されたるキリスト教。人格権の歴史的覚醒たる民主々義が哲学的根拠を欠如したる民本主義となりて輸入されつつある「デモクラシー」。英米人の持続せんとする国際的特権のために宣伝されつつある平和主義・非軍国主義が、その特権を打破せんがために存する日本の軍備および戦闘的精神に対する非難として輸入されつつある内容皆無の文化運動。単にこれらをのみ視るも一利に対して千百害あること阿片輸入の支那を思わしむ。言語は直ちに思想となり思想は直ちに支配となる。一英語の能否をもって浮薄軽兆なる知識階級なるものを作り、店頭に書冊に談話にその単語を挿入して得々情々として恥無き国民に何の自主的人格あらんや。国民教育において英語を全廃すべきは勿論、特殊の必要なる専攻者を除きて全国より英語を駆遂することは、国家改造が国民精神の復活的躍動たる根本義においてとくに急務なりとす。
注四国際語を第二国語として採用する所以。しかしながら実に他の欧米諸国に見ざる国字改良、漢字廃止、言文一致、ローマ字採用等の議論百出に見るごとく、国民全部の大苦悩は日本の言語文字のはなはだしく劣悪なることにある。その最も急進的なるローマ字採用を決行するとき、幾分文字の不便は免るべきも言語の組織そのものが思想の配列表現においてことごとく心理的法則に背反せることは、英語を訳し漢文を読むにすべて日本文が顛倒して配列せられたるを発見すべし。国語間題は文字または単語のみの問題にあらずして言語の組繊根抵よりの革命ならざるべからず。しかして不幸なる幸は中学教育に英語を課し来れる慣習のために、その程度の教育者も被教育者も、何らかの言語を習得すべきことを必須的に確信せることなり。国際語の合理的組織と簡明正確と短日月の修得とは世人の知るごとし。成年者が三月または半年にて足る国際語の修得が、中学程度の児童、一二年にして完成すべきことは、英語が五年間没頭してなお何の実用に応ずる完成を得ざる比にあらず。児童は国際語をもって国民教育期間に世界的常識を得べし。しかして欧米の革命的団体は大戦のはるかに以前これをもって国際語とせんと決議せしほどのもの。最も不便なる国語に苦しむ日本はその苦痛を逃るるためにまず第二国語として並用する時、自然淘汰の理法によりて五十年の後には国民全部がおのずから国際語を第一国語として使用するに至るべし。したがって今日の日本語は特殊の研究者にとりて梵語、「ラテン」語の取扱を受くべし。
注五国際語の採用がとくに当面に切迫せる必要ありという積極的理由。下掲国家の権利に説くごとく、日本は最も近き将来において極東・シベリア・濠州等をその主権下に置くとき、現在の欧米各国語を有する者のほかに新たにインド人・支那人・朝鮮人の移住を迎うるがゆえに、ほとんど世界すべての言語をわが新領土内に雑用せしめざるべからず。これに対して朝鮮に日本語を強制したるごとく我みずから不便に苦しむ国語を比較的好良なる国語を有する欧人に強制するあたわず。インド人・支那人の国語また決して日本語より劣悪なるというあたわず。この難間題は実に三、五年の将来に迫れるものなり。主権国民がシベリアにおいて露語を語り濠州において英語を語る顛倒事をなすあたわざるならば、日本領土内に一律なる公語を決定し彼らが日本人と語るときの彼らの公語たらしめざるべからず。劣悪なる者が亡びて優秀なる者が残存する自然淘汰律は日本語と国際語の存亡を決するごとく、百年を出でずして日本領土内の欧州各国語、支那、インド、朝鮮語はまた当然に国際語のために亡ぶべし。言語の統一なくして大領土を有することはただ瓦解に至るまでの槿花一朝の栄のみ。
注六体育を丹田本位と決定する所以は、ただ肉体の一面のみを見るも根本的体育たるをもってなり。すでに日本の各方面に先覚者の簇出して実証を示しつつあるところなり。これらに示さるるごとくインドに起りたるアジア文明は世界より封鎖せられたる日本を選びて天の保存したるもの。単に手足を動かし器具に依頼し散歩遠足をもって肉体の強健を求むる直訳的体育は実に根本を忘れて枝葉に走りたる彼らの悪摸倣なり。特に女子をして優美繊麗のままに発達したる強健を得せしむるには丹田の根本を整うる以外一の途なし。変性男子のごとき醜き手足を作りてしかも健康の根本を培わざる直訳体操はとくに厳禁を要す。
注七兵式体操を廃止する所以は、その形式また実に丹田の充実を忘れたる外形的整頓に促われたるものによるも一理由なり。かつ下掲のごとく日本国民は永久に兵役の義務を有し、かつ一年志願兵特権はこれらの訓練あるを一理由となすをもってそれをも廃止するがゆえに、兵役においてすべきことはすべて兵営においてすべし。さらに他の一理由は日本の将来は陸上にあると同一以上の程度において海上にあるがゆえに、国民教育においてただ陸軍的摸倣をなさしめて海兵的訓育を閑却することの矛盾なるをもってなり。国民教育の要は根本の具足充実にあり。丹田本位の心身を鍛冶し十年間一貫の常識教育を施さばもって海兵に用うべくもって陸兵に用うべし。兵の素質において二等卒も今の少尉級に劣らず。
注八単純なる遊戯として男子が撃剣柔道に遊び女子が長刀鎖鎌を戯るるはその興味において「べースボール」「フートボール」等と雲泥の相違あり。精神的価値等を挙げて遊戯の本旨を傷くべからず。こは生徒の自由に一任すべし。現今の武器の前に立ちてこれらに尚武的価値を求むるに及ばず。日本人の一般生活に没交渉なる直訳的遊戯を課するの滑稽さは床柱を背にして小猿のごとく跪坐する洋服姿と同じ。
注九国民教育の児童に対して無月謝、教科書給付、中食の学校支弁とする所以は、国家の児童に対する父母としての日常義務を果すものなり。現今の中学程度における月謝と教科書とは一般国民に対する門戸閉鎖なり。無月謝より生ずる負担は各市町村これを負うべく、教科書は国庫の経費をもつて全国の学校に配布すべし。中食の学校支弁の理由は第一に登校児童のために毎朝母を労苦せしめざることなり。第二の理由はその中食に一塊の「パン」薩摩芋、麦の握飯等の簡単なる粗食をなさしめ、もって滋養価値を云々して真の生活を悟得せざる科学的迷信を打破するにあり。第三の理由は幼童の純白なる頭脳に口腹の欲に過ぎざる物質的差等をもって一切を高下せんとする現代までの悪徳を印象せしめざるにあり。学校としては簡単なる事務にして、もし児童の家庭が悪感化によりて食事を肯んせざる者あらば教師の権威をもってその保護者を召喚訓責すべし。
注一〇今の中学程度の男生徒に制服として靴洋服を強制することは実に門戸閉鎖の有力なる一理由なり。その不合理なることあたかも現時の欧米に「キモノ」服が普及したるをもってそれを室内の制服として強制せんというと一般なり。和服の不便なる裁方なりというは別問題なり。居常の衣服を登校に用ゆるを得ざる大々的不便をその父母の経済に課して何の便不便ぞ。実に今の日本教育のすべては教育にあらずして.ただ外形の摸倣なりとす。
注一一校舎に巨費を投ずるはまた最悪なる直訳的摸倣なり。この国民教育の根本的革命は戒厳令施行中より実施すべきものなるをもって、現時の校舎を直ちに使用すべきことを明示したり。器械的科目たる理化学においても今の中学校程度において別個の教室を設備するごとき摸倣的浪費の一。
注一二以上の国民教育の説明によりて大学および大学予備校の方針、またそれが生徒の自費たること等は推想し得べし。しかして不用なるべき各地の中学女学校舎はあるいはこれを取り毀ち、または大学予備校の校舎または単科大学の校舎となすを得。
婦人人権の擁護
その夫またはその子が自己の労働を重視して婦人の分科的労働を侮蔑する言動はこれを婦人人権の蹂躙と認む。婦人はこれを告訴してその権利を保護せらるる法律を得べし。
有婦の男子にして蓄妾またはその他の婦人と姦したる者は婦の訴によりて婦人の姦通罪を課罰す。
売淫婦の罰則を廃止しそれを買う有婦の男子はこれを拘留しまたは罰金に処す。
注一現行法律における離婚の理由たる虐待云々の意味にあらず。かつこの訴は必ずしも離婚を目的とせず、実に婦人が男子の労働に衣食するかの誤解ありて、男子の労働がその実かえって婦人の分科的労働の助力あるがゆえに行なわるるを忘却する横暴なる行為を禁じ、特に法律をもって婦人の人権を擁護するものなり。もしこの立法が男子の道念によりて行なわれざるならば忌むべき婦人労働となり婦人参政権運動となるべし。
注二男子の姦通罪を罪することは第一に一夫一婦たる国民道徳の大本を明らかにするがためなり。国家の興廃はことごとく男女の大本の清濁にあり。現時の欧州諸国に「ノア」の洪水が来れる所以を考え、同胞残害して地獄を現世に示しつつあるロシアを考えよ。いかに早くすでにこの大本が腐爛し尽したるかを見ん。日本国民が全アジアの盟主たる大使命あるならば、人倫の大本を厳守励行する立法は実に一日を忘るべからず。第二の理由は国家の児童に対して大父母たる立場においてその生みの父母は単なる保姆の任を負うものなり。保姆の一方が残虐なる苦痛を他の一方に加えて横暴と悲惨とを居常見聞せしめらるる児童の悪感化に対して、国家は大父母の権利において残虐なる一方を処罰すべし。第三の理由は婦人人権の擁護なり。
注三この一夫一婦制の励行はかの白由恋愛論の改訳革命家と人生の理解を根本より異にせるものなり。かれに従えば男子の姦通罪を罰する法律の代りに女子の姦通罪を罰する現行法律を廃止せば足れりというべし。自由恋愛論の価値は恋愛の自由を拘束する時代の政治的経済的宗教的阻害者を打破せんとする点にあり。これを途方もなき一夫一婦制に対する反逆と考うるは、あたかも政治的特権者に向つて叫ばれたる政治の自由を平等なる国民間に脱線せしめて、相犯さざる各自の自由を蹂躙することも等しく政治の自由なりという低能者の昏迷なり。国民平等の自由が特権にあらざるごとく一夫一婦制は何らの特権にあらず。自由は自由の侵害者を拘束せざるべからず。一夫一婦は妻の恋愛を自由ならしめんがために夫の濫用せんとする恋愛の自由を拘束せんとするなり。彼らの昏迷せる自由の解釈は、自由をもって放火の自由殺人の自由も自由なりと結論せしむるものなり。すべての自由が社会と個人その人の利益のために制限さるるごとく、恋愛の自由また国民道徳とその保護者とのために制限せらるるは論なし。この一夫一婦制は理想的自由恋愛論の徹底したる境地なり。ただし今はこれを説くの時期到来せず。
注四現行法律が売淫婦人をのみ罰して買淫男子を罰せざるは姦通罪が婦人をのみ、罰して男子に及ばざると等しき片務的横暴なり。貞操の売買はこの改造組織の後においては漸次消滅すべきことを信ずと共に、しばらくの近き将来に存在すべきそれらに対して、国家は両者共に法律をもって臨まざる方針を取るべし。ただし有婦の男子が淫を買うは明らかに一夫一婦の大本を紊る者なるをもって別個の意味において加罰するものなり。拘留罰金をもってせるは婦の訴なき場合において姦通罪を検挙せざる原則による。かくして軽き国家の制裁を受くることによりて、男子は家族に対する権威を失し交友における信用を損する重大なる苦痛を受くるをもっておのずから身を慎みまたもって婦人人権の擁護となり、全家族生活の保障を加うることとなるべし。
注五独身の男子を除外せるは決してその性欲を正義化する所以にあらず。婦人が純潔を維持するごとく男子がその童貞を完うして結婚することは双方の道義的責務なり。そのこれを罰せざる理由は、末婚婦人が純潔を破るも法律の干与せざると等しく道徳的制裁の範囲に属するをもってなり。
国民人権の擁護
日本国民は平等自由の国民たる人権を保障せらる。もしこの人権を侵害する各種の官吏は別に法律の定むる所によりて半年以上三年以下の体刑を課すべし。
末決監にある刑事被告の人権を損傷せざる制度を定むべし。また被告は弁護士のほかに自己を証明し弁護し得べき知己友人その他を弁護人たらしむべき完全の人権を有すべし。
注一人権を蹂躙してかえって得々たることわが国の官吏のごときは少なし。これ欧米諸国より一歩を先んぜんとする国民的覚醒を裏切る大汚濁なり。体刑と明示せる所以はその弊風実に体刑をもってせずんば一掃するあたわざる官吏横暴国なるをもってなり。この戦慄より来たる反省改過は鏡にかけて見るがごとし。
注二末決監にある被告を予備囚徒として待遇しつつあることは純然たる封建の遺風なり。これを反対に無罪なる者と仮定するとき現時のごとき凌辱なし。警察また然り。要するに有罪を仮定するがゆえに末決期の日数を刑期に加算する等のことあるにて明らかなり。この根本にして明白ならば末決監中の人権蹂躙はおのずからにして跡を絶つべし。
注三被告人は罪人にあらずしたがって弁護人の自由を無視または制限さるる理由なし。特に職業弁護人と限らるるがために被告の平常事件の真相に通ずる者をもって直接に法官と対せしむるあたわず。ために事件の鑑察、法の適用において遺憾多く、被告の不利および延いて法官の判断を誤り法の威厳を損傷するはなはだしき現状なり。
注四社会主義者のある者のごとく一切の犯罪なき理想郷を改造後の翌日より期待するは空想なり。もとより現今の政治的経済的組織より生ずる犯罪の大多数は直ちに跡を絶つべきは論なし。国家の改造とはその物質的生活の外包的部分なり。終局は国民精神の神的革命ならざるべからず。十年一貫の国民教育が改造の根本的内容的部分なり。
勲功者の権利
国家に対しまたは世界に対して勲功ある者は、戦争・政治・学術・発明・生産・芸術を差別せず、一律に勲位を受け、審議院議員の互選資格を得、いちじるしく増額せられたる年金を給付せらるべし。
婦人また同一なるは論なし。ただし政治に干与せざる原則によりて審議院議員の互選資格を除く。
注一国民は平等なると共に自由なり。自由とはすなわち差別の義なり。国民が平等に国家的保障を得ることはますます国民の自由を伸張してその差別的能力を発揮せしむるものなり。かの勲位を忌み上院制を否む革命的思想家は、人類の進化程度を過上に評価せる神学者的要求に発足する者なりと見るべし。
注二勲功に伴う年金が現時のごとき消極的の小額なるは不可なり。すべての光栄はそれを維持すべき物質的条件を欠くべからず。
私有財産の権利
限度以下の私有財産は国家または他の国民の犯すべからざる国民の権利なり。国家は将来ますます国民の大多数をして数十万数万の私有財産を有せしむることを国策の基本とするものなり。
注一社会主義共産主義を誤解してその私有財産を分与するものなるかのごとく考え、または国民のすべてにその日暮しその年暮しの生活をなさしむるものと考うるがごときは、現実的改造の要求せられつつある現代社会革命説の躍進的進歩を解せざる者なり。したがってこの改造後の国民にしていかなる思想に導かるるにせよ、国民の財産権を狙す者は、人類社会の存する限り存すべき法律の原則によりて、強窃盗として罰せられまたは乞食として待遇せらるるは論なし。
注二年々多大の収益ありて近く私産限度を超過すべくしかして超過額を国家に納付するを欲せざる目的をもつて、限度以下の時において、白己自身の欲望に従いて消費せんとするはまた国民権利なり。この権利は国家の保障する所有権の行吏にしてその消費が道徳的なると酒色遊蕩なるとを問うの要なし。人はおのおのその人を中心または分子としたる小社会を国家内に有し、ある者は国境を超越したる大社会の中心または分子たり。したがってその消費せるところを収得する者は国家の手を経由せざる国民なり。私産限度制は国家の国民を審せざる程度の富の限度を定むるもののみ。これを誤解して限度超過額の上納を促すものとしまたは国民の独自放胆なる消費を拘束するものと考うべからず。
平等分配の遺産相続制
特定の意志を表示せざる限り、父の遺産はその子女に平等なる分配をもって相続せらる。父の妻たるその母また同じ。
母の遺産は夫たる父においてすべて相続せらるべし。
注一遺産相続の正義を規定するに見るも、合理的改造案が必ず近代的個人主義の要求を一基調とすることを知るべし。
注二現代日本にのみ、存する長子相続制は家長的中世期の腐屍のみ。父母の愛の百千分の一に足らざる長子の愛情利害に一切弟妹の運命を盲従せしむるは没人情の極。本然の人情そのものがすべての法律道徳の根源なるを忘るべからず。
注三遺産相続に際して国家が課税の理由なきことは、相続者則被相続者の肉体的延長なるをもってなり。 
巻七 朝鮮その他現在および将来の領土の改造方針
朝鮮の郡県制
朝鮮を日本内地と同一なる行政法の下に置く。朝鮮は日本の属邦にあらずまた日本人の植民地にあらず。日韓合併の本旨に照して日本帝国の一部たり一行政区たる大本を明らかにす。
注一朝鮮をして日本のアイルランドたらしむるごときことあらば、将来大ローマ帝国を築かんとする日本は全然その能力なきことを第一歩において立証するものなり。由来朝鮮人と日本人とは米国内の白人と黒人とのごとき人種的差別あるものにあらず。単に一人種中最も近き民族に過ぎざるなり。したがって過般の暴動と米国市中の黒白人争闘とを比較するときその恥辱の程度において日本は幾百倍を感ぜざるべからず。朝鮮間題は同人種間の問題なるがゆえにいわゆる人種差別撤廃問題の中に入らず。ただ一に統治国たる日本そのものの能力問題たり、責任問題たり、道義間題たりとす。
注二朝鮮人が異民族たる点はその言語と風俗との一部なり。国民生活の根本たる思想においては有史以来日本の文明交渉が朝鮮を経由したるによりて明らかなるごとく全然同一系統に属するものなり。しかして現在吾人の血液がいかに多量に朝鮮人のそれを混じたるかは人類学上日本民族は朝鮮・支那・南洋および土着人の化学的結晶なりとせらるるにても明白なり。とくに純潔の朝鮮人の血液を多量に引ける者は彼と文明交渉の密接せし王朝時代の貴族に多く、現に公脚華族と称せらるる人々の面貌多く朝鮮人に似たるはすべてその類型を現すものなり。すでに王朝貴族に朝鮮人の血液が多量なりということは、実にその貴族の血液が皇室に入り得べき特権階級たりし点において、日本の元首そのものが朝鮮人と没交渉にあらずということなり。あえて今次の朝鮮太子と日本皇女との結合をもって日鮮の融合が試みらるるにあらず。これ決して人種問題の範囲にあらず。
注三要するにすべての原因は朝鮮が日本、支那・ロシアの三大圏に介在して自立するあたわざりし地理的約束と、その道義的廃頽より一切の政治・産業・学術・思想の腐敗萎微を来して内外相応じて亡びたるものなり。朝鮮そのものの歴史が示すごとく、また清国がこれを属国とせんがために起りたる日清戦争、および満洲に来たれるロシアがそれを侵略せんとせしがために破れたる日露戦争に示すごとく、その亡国たるべき内外呼応の原因は統治者が日本たらざる時は露支両国のいずれかなりしは明白なり。日本の国防に取りて彼が日本の脅威たる強国の領有または同盟者たる危機は、あたかも英国に取りてベルギーがドイツの領土たり同盟国たるそれと同じき存亡問題なり。今次の大戦においてもしベルギーがドイツと握手ししかして英国の軍隊がそれを撃破してベルギーに滞陣せしとせよ。彼は講和会議においてその独立を承認せざるのみならず明らかにその領有を主張すべきは論なし。朝鮮の亡国的腐救はことごとく事大的国是となりて現われ、日清戦争においては清国に従い、日露戦争においてはロシアを迎え、いささかも英国とベルギーの結託に似たるものなかりしは開戦原因を顧れば明白なり。この間においてかの革命党のみは大局を達観し日本と結びて独立を企画して労苦止まざりしといえども、ついに日露開戦に至るまで国政を把りて志を行なうあたわざりき。しかして戦争中日本の朝鮮における立場は英国のベルギーにおけるごとくならず、朝鮮全部を掩有するに実力をもってしたり。国内の革命党は依然として志を得ず、露国また依然として強大を維持し講和条件は単なる休戦条約として調印せられたり。自立しあたわざる地理的約束と真個契盟するあたわざる亡国的腐敗のために、日本は露国の復讐戦に対する自衛的必要に基づきて独立擁護の誓明を取り消したることが真相なり。これ侵略主義にあらず、またいうところの軍国主義にあらず。朝鮮を領有する結果より見て、あたかも百万円を貯蓄したる結果より見て、それが高利貸によると忠実なる労働によるとを考査せずして等しく守銭奴と詈り侵略者と誣ゆるは昏迷者の狂言なり、重大なる罪悪なり。朝鮮の亡国史を知り露国の脅威に戦裸したる危機を顧るならば、アイルランド独立問題を朝鮮に直訳して論及するの理なし。空疎守旧の学説と薄弱なる意志と衆愚の喝采を足れりとする虚栄と、実に通俗政治家の標本たる「ウイルソン」輩の通弁に得々たりしいわゆる学者なる者の反省を要す。
注四ゆえに日本存立の露防上より朝鮮は永久に独立を考うべきものにあらず。ロシアの脅威が「ツァール」の亡びたるをもって去れりと考うるごときは歯牙に足らざる浅慮。「ツァール」が侵略し来れると「レニン」が幾多の謬妄を付帯せる社会革命説を奉じて殺到し来るべきと、日本が国防上朝鮮に拠りて戦うことは国家の国際的権利なり。特にロシアの脅威は過渡時代の「レニン」にあらずして「レニン」なき後真に再建せらるべき十年後の将来に存す。ようやく中世史の革命を学びつつある未開後進なる彼に対するには現代的再建を想像するよりも、反動の襲来または真乎の建国者によりて「ピーター」大帝の再現をも打算外に置くあたわず。
注五この国防上朝鮮を独立せしめずということは、英人がインドを独立せしめずまたアフリカ植民地を独立せしめずということとは全く別事なり。インドが英国の属邦たり英領アフリカが植民地たるに対して、朝鮮は日本の属邦にあらずまた植民地にあらずと明示せし所以なり。インドまたはアフリカの住民が全然英人と人種を異にせるに対して、日鮮人は古来の混血融合のみならず同一人種中の最も近き異民族なる点において属邦たるべからずまた植民地たるべからず。朝鮮は日本の一部たること北海道と等しく正に「西海道」たるべし。日本皇室と朝鮮王室との結合は実に日鮮人のついに一民族たるべき大本を具体化したるものにして、泣く泣く匈奴に皇女を降嫁せしめたる政略的のものにあらず。実に現時の対鮮策なるものは甚だしく英国の植民政策を模倣したるがゆえに、根本精神よりして日韓合併の天道に反するものなり。朝鮮が日本の西海道なる所以を明らかにするとき百般の施設ことごとく日鮮人の融合統一を来たなざるものなく、独立問題のごとき希うといえども生起せざるは論なし。
注六「コルシカ」島民の大皇帝は「コルシカ」独立の戦陣に孚まれ独立の憤を抱きて敵国の士官学校に学べり。しかも革命フランスが「コルシカ」をフランスの本国と平等ならしめ「コルシカ」島民をフランス人の自由に開放するや、独立党の青年士官はフランスに対する愛国心を「エルパ」島に葬るまで変ぜざりき。日本海を庭池として南北満洲と極東シベリアとに革命大帝国を建つる時、朝鮮は特にその心臓肺肝の重きをなさんとす。日本本国の一部としての平等、日本人としての自由を対鮮策の眼目となす。
朝鮮人の参政権
約二十年後を期し朝鮮人に日本人と同一なる参政権を得せしむ。
この準備のために約十年後より地方自治制を実施して参政権の運用に慣習せしむ。
注一これ流行のいわゆる民族自決主義にあらざるは論なし。朝鮮が日本の西海道たり朝鮮人が日本人と大差なき民族たる理由によりて、日本国民たる国民権を最初にかつ完全に賦与せらるるを明らかにするものなり。
注二ナポレオンの世界統一主義に対して起れる民族主義が近世史の一大潮流なりしは言うの要なし。ただこれがかの暗昧なる「ウイルソン」の口より民族自決主義と呼ばるるに至りて空想化し滑稽化したるなり。自決とはそもそも何ぞや。ある民族がその国家組織を失う所以は外部的圧迫と内部的廃頽とによりて自決するかを欠けるがためなり。覚醒せる民族が内的興奮によりて外部的圧迫を排斥せんとする時、これ無用なる自決の文字を加えざる伝来の民族主義なり。幾多の民族の中において自決するを得る覚醒的民族と然らざる者とあるは、あたかも等しき人間の中において自決するあたわざる八十歳の老婆あり十歳の少女あるがごとし。民族主義の本旨は人道主義というがごとき合理的命題なり。これを民族自決主義と名づくるに至りては人道主義の命題に代うるに人間自決主義というがごとき笑倒の沙汰。老幼男女を論ぜず各人の人格を認識する人道主義を滑稽化して八十歳の老婆にも生活を自決せしむべく十歳の少女にも恋愛を自決せしむべしといわば如何。ある民族は老婆のごとくある民族は少女のごとし。この国際間にかける民族の老幼をも圧迫し虐遇せざるべき人道主義がすなわち民族主義の終局理想たるべきものなり。現時の強国中各種老幼の民族を包有せざるものなきこと各家庭において老婆少女を有するがごとし。これらに向って自決を迫らば各家庭の分散すべきごとく一切の強国は分解すべし。強国の無用をいうか。しからば「ウイルソン」は「ヴェルサイユ」に行かずしてスイスの社会党大会に列席すべかりしなり。しかしてその主張を堂々たる非国家主義世界統一主義に宣明する彼らは大いなる歓迎をもって噴飯すべきこの命題の製造者を潮弄すべし。
注三実に朝鮮は含併以前自決の力なかりしことは八十歳の老婆のごとく、合併以後未だ自決のかなきこと十歳の少女のごとし。末節枝葉においていかなる非難あるにせよ、朝鮮はロシアの玄関に老婆のごとく窮死すべかりし者を、日本の懐に抱かれて少女のごとく生長しつつあるはこれを無視するあたわず。すでに日本の懐に眠れる以上、日本建国の天道によりて一点差別なき日本人なり。日本人とし日本人たる権利においてその生長と共に参政権を取得すべき者なるは論なし。
注四約十年といい約に十年という年限を予定したるは、過去の専制政府等が民権運動に譲歩するときなるべく長く専制を維持せんと欲する期間の留保にあらず。数百年問の半亡国史は実に朝鮮人の道念をも生活をも腐敗し尽したるをもって、真の国家的覚醒ある鮮人はこれを現在新精神によりて教育せられつつある人々の生長に待つのほかなきをもってなり。教育とは必ずしも「サーベル」教帥にあらず。必ずしも日本語の教科書にあらず。愛国的暴動のごときこれを覚醒して顧るとき貴重なる政治教育の一なり。医学に万能の薬品なきにかかわらず政治学に参政権を神権視することは欧米の迷信なり。かの投票神権説に累せられて、鮮人にまず参政権を与えて政治的訓練をなすべしと考うるは、その権利の根本たる覚醒的生長を閑却したる愚人の云為なりとす。日本は真個父兄的愛情をもって、かかる短時日間にこの道義的使命を果たし、もって異民族を利得の目的とせる白人のいわゆる植民政策なるものに鉄槌一下せざるべからず。
三原則の拡張
私有財産限度、私有地限度、私人生産業限度の三大原則は大日本帝国の根本組織なるをもって現在および将来の帝国領土内に拡張せらるるものなり。
注一東洋拓殖会杜の横暴は実に当年の東インド会社に学ばんとする一大罪悪なり。日本のアジアに与えられたる使命は英人の罪悪を再びするを許さず。拓殖会社の土地は土地私有限度によりて一度国家に徴集すると共に、朝鮮にある内鮮人は平等の権利においてその分配を受くべし。日本建国の精神は内外人によりて正義を二にせざることを誇りとす。朝鮮におけるいわゆる拓殖政策なるものまた実に欧人の罪悪的制度を直訳したるもの多し。日本はすべてにかいて悪摸倣より蝉脱してその本に返らざるべからず。
注二将来の帝国領土中、先住国民の大富豪大地主ありて多大の土地を独占しまたは生産業を専有する時これを是認するごときあらば、日本国家はただ彼らの不義なる財産の保護を負担せしめられ、日本国民はただその小作人たり労働者たるに過ぎざるべし。これ主権国民たる自負と欲望において忍ぶあたわざるところ。ためについに国家の法律を狂げて自国民を保護し彼らの財産を奪わんとする非違を頻出し不仁の名を国家に冠せしむるに至る。ゆえに日本本国においてまずこの三大原則を確立して拡張せられたる領土に臨むとき、真の公平無私はおのずからにして得べし。大領土を有する名実具足の大日本帝国を考うるものこの三大原則を確立する日本みずからの改造が実に将来の建設に避くべからざる準備なるを悟得すべし。
現在領土の改造順序
朝鮮・台湾・樺太等の改造はこの三大原則を決定するに止め、漸を追いてその余を施行し、十年ないし二十年後において日本人と同一なる生活権利の各条を得せしむるを方針とす。
ただし日本内地の改造を終り戒厳令を撤廃すると同時に三大原則の施行に着手す。
これらの領土内に在郷軍人団なきをもって、国家任命の改造執行機関をして土地資本財産の調査徴集に当らしむ。
改造執行機関は日本内地の改造に経験を得たる官吏または同じき在郷軍人団中より任命す。
注一日本の改造を終りたる後に着手する所以は、無智と事情不通とのために日本内地と同時に着手するときは、内地の粉囂を誤伝したる不安騒擾を醸すべきをもってなり。第二の理由は在郷軍人団なる好適の機関なく、今の植民政策的頭脳の総督府等にこの大任に当らしむるは明白に不正不義を残して改造の精神を傷くるのみならず、あるいは意外の変を招くべきをもってなり。第三の理由は三年間の日月は日本の整然たる改造組織を伝聞せしむるに十分なるがために、日本大多数国民の歓喜を伝えて彼らの大多数国民また速やかにその福利恵沢に浴せんことを欲するに至るべきをもってなり。
注二過般朝鮮の内乱は今の総督政治が一因ならずとはいわず。しかも根本原因は日本資本家の侵略が官憲と相結びて彼らの土地を奪い財産を掠めて不安を生活に加え怨恨を糊ろの資に結びたることに存するを知らざるべからず。「ウイルソン」輩の呼号何の影響あらん。国家の内外を毒してついに大ローマをも亡ぼしたるものの金権政治なりしことを忘るべからず。
改造組織の全部施行せらるべき新領土
将来取得すべき新領土の住民がその文化において日木人とほぼ等しき程度にある者に対しては、取得と同時にこの改造組織の全部を施行すべし。ただし日本本国より派遺せられたる改造執行機関によりて改造せらるるものなり。
その領土取得の後移住し来れる異人種異民族は、十年間居住の後国民権を賦与せられ日本国民と同一無差別なる権利を有すべし。
朝鮮人台湾人等の未だ日本人と同一なる国民権を取得すべき時期に達せざる者といえども、この新領土に移住したる者は居住三年の後右に同じ。
注一たとえば濠州を取得したる時その住民の文化程度は直ちにこの改造組織の下に生活するを得べし。極東シベリアのごときはその程度まず三大原則を施行し順を追いて施行すべきものなり。
注二将来の新領土は異人種異民族の差別を撤廃して日本みずからその範を欧米に示すべきは論なし。濠州にインド人種、支那民族を迎え、極東シベリアに支那・朝鮮民族を迎えて先住の白人種とを統一し、もって東西文明の融合を支配し得る者地球上只一の大日本帝国あるのみ。したがってこの改造組織をそれらの領土に施行して主権国民みずから私利横暴を制すると共に、先住の白人富豪を一掃して世界同胞のために真個楽園の根基を築き置くことが必要なり。単なる地図上の彩色を拡張することは児戯なり。天道宣布のために選ばれたる日本国民はまさに天譴に亡びんとする英国の二舞をなさざるは論なし。
注二朝鮮人台湾人がその故郷にありて未だ取得する時期に達せざる国民権をこの領土において三年後に取得し得べき理由は、すでに移住し居住するほどの者は大体において優秀なるをもってなり。第二に白人の新移住者、インド人、支那人の移住者が取得するところを、すでに早く日本国民たりし彼らに拒絶すべき理由なきをもってなり。第三の理由は東西文明の融合を促進するために、特に日本の思想制度に感化せられたる彼らの移住を急とするがゆえなり。
注四日本人の改造執行機関をもってして土着人に当らしめざる所以は主権本来の性質として説明の要なし。 
巻八 国家の権利
徴兵制の維持
国家は国際問における国家の生存および発達の権利として現時の徴兵制を永久にわたりて維持す。
徴兵猶予一年志願等はこれを廃止す。
現役兵に対して国家は俸給を給付す。
兵営または軍艦内においては階級的表章以外の物質的生活の階級を廃止す。
現在および将来の領土内における異民族に対しては義勇兵制を採用するものあるべし。
注一支那において傭兵というもの英米において義勇兵と名付く。すなわち雇傭契約による兵士なり。これ彼らの国民精神に適合する制度なり。米国の建国が社会契約説を理想として植民せる者の契約結合なるは前説のごとし。英国また実にその謬説の誕生地なるをもって、今なお「ジョンブル、ソサイテー」と名づくるごとく英帝国そのものを組合視し会社視してことごとく社会契約説に基づく立法ならざるなし。したがってその国防においても組合と組合員との間に雇傭契約を締結するは、米の建国としてまた英の国家組織として少しも不可なし。しかもこのゆえをもって「ヴェルサイユ」会議において英米が傭兵制度を日本に強いたるは何たる迷妄ぞ。日本は建国精神より、また現代国民思想のすべてにおいて、日本帝国を契約によりて組織したるものと一考せしこともなし。日本国民の国家観は国家は有機的不可分なる一大家族なりという近代の社会有機体説を、深遠博大なる哲学的思索と宗教的信仰とにより発現せしめたる古来一貫の信念なり。徴兵制度の形式は独仏に学びたるも、徴兵制度の精神たる国民皆兵の義務は、中世封建の期間を除きて、上世建国時代に発源しさらに現代に復興して漲隘しつつある国民的大信念なり。日本の講和委員は何がゆえに英米と日本とが国民精神の根本、国家組織の信念より異にする所以を指摘して、日本国民本有の国家有機体的信仰を彼らに訓ゆることなかりしか。徴兵制そのものが直ちにいわゆる軍国主義にあらざることは、徴兵制なりしがゆえに辛うじてドイツを防止するを得たるフランスが、会議の人々より軍国主義なりしとて攻撃せられざりしがごとし。日本の講和委員は何がゆえに、「カイゼリスム」と日本の国家有機体的信仰より結果せる国民皆兵主義とを混同して臨みし無智の昏迷者に学ばしむるところなかりしか。軍国主義なるか否かは傭兵と徴兵とによりて決せらるるものにあらず。軍備に依頼して弱国を併呑しもって私欲をほしいままにせんとする意味のものが軍国主義ならぱかって陸上においてドイツが然りしごとく、海上において英国のなしつつあるものは実に遺憾なく完成したる海上軍国主義なり。この軍国主義が、単に自己が間題外なる傭兵制なりというの理由をもって、他の徴兵によりてかかる軍国主義者の侵害を防衛せんとするものに己の冠を冠せんとせしは悪むべし。かの愚昧なる善人がかかる悪魔のラッパ卒に使役せられてそれを日本に向つて吹きしことは米国史上空前の恥辱なりとす。
注二したがって傭兵と徴兵との強弱を論ずることは無用なる詮議なり。英米の国情においては必ずしも強兵を意味せずして、日本の建国と信念とにおいては備兵は必ず弱兵なるは論なし。これ徴兵制を明確に永久の制度なりとせる所以なり。ただドイツが最後に破れたるがゆえに徴兵制の価値を疑うは非常なる妄断なることを注意す。一人と五人と角力してすでに三人を倒したる者が他の二人より足を奪われたるを見てその人を弱者なりというあたわず。特にドイツの実戦したる軍隊は徴兵制のフランスとロシアにして、甲の徴兵国が乙の徴兵国に破られたりといい得べし。今次の大戦における英米はただ海上封鎖によりて食料と軍需品とを遮断したる任務に働きし者。英米の傭兵とドイツの徴兵との優劣は実戦によりて立証せられたるものにあらず。ただ退却将軍の報告文として古今独歩の文豪「ヘーグ」元師によりて英国傭兵の光栄は十分に認知せられたるは周知のごとし。
注三ある理想またはある信仰に基づきて徴兵を拒否せんとする者の欧米に多きをもって、日本が国家の権利として主張するを非議する者あらん。しかしながら政治の自由、経済の自由、恋愛の自由が他の社会的生活を犯さざる自由の意味において、思想の自由信仰の自由また絶対的のものにあらざるは論なし。自由の誤解せる解釈より来る思想の自由信仰の自由は、自由恋愛説の注に説明したるところを移して直ちに説明とするを得べし。思想または信仰の点を考うるとき、実に価値なきまたは有害なるものを神のごとく裁決し得るの大処に立つを要す。インド人が生殖器の形像たる「リンガム」を頸に掛け寡婦がみずから薪を抱いて夫に殉死することを天国に行く道なりと信仰すとも、チベット人蒙古人が諸神と動物との生殖行為の彫像図画を礼拝して極楽行を信仰すとも、キリスト教徒中の旧教一派が一度結婚したる者の離別は地獄の火に焼かると信仰すとも、これらの信仰が信仰なるがゆえに自由なりと認むるあたわざることは、恋愛なるがゆえに自由なりと認むるあたわざると同じき意味と程度において然り。思想信仰の価値はその民族精神または世界思想に戦いて凱歌を挙げたる時に認めらるるものなり。戦の中途においてまたは退却あるいは降伏の状態において信仰の自由を鳴号するごとき信仰は、ついに十字架上「我れ勝てり」として国家と世界の上にその自曲を建設する価値なきものなり。かの兵役忌避を本旨とする「クェーカー」宗のごときは、小乗教のキリストにおいてすら天国の戦を指し、地上においてなお我れ刃を出さんがために来れりと宣してついにローマを天火に亡したる一面を有するにかかわらず、ただその殺すなかれの一項を盾として盲守するに過ぎざる者。同じき一神教において「マホメット」は刃を出さんがために来れるを明言して「殺すべし」と教うるにあらずや。「コーラン」と共に剣を示して殺すべしという信仰と殺すなかれという信仰とを両立せしむるにLibertyなる「アルファベット」七個に依頼せんとするがごとき浅薄なる信念にて何の信仰ぞ。「クェーカー」宗の価値は天理教より遙かに以下にして「リンガム」礼拝よりいささか以上なる程度のものなり。彼らの信仰が強固にして犠牲を甘んずる事例を挙げて対抗するならば宗教の低級なるものにおいてかかる例の他に無数なるものを挙ぐべく、さらにかく頑迷移さざるもの多きがゆえに殺すべしという回教の信仰によりて答えざるべからず。神は全智にして全能なるがゆえに、いにしえ「ノア」の洪水をもって大殺戮をなし、現時また六月二十八日に始まりて六月二十八日に終れる五年間の屍山血河あり。神を信じてしかも殺すことを否む「クェーカー」宗徒は、神の能力と智見がこの殺戮を防ぐあたわざりし完き者にあらずという信仰根本の矛盾に立つ者。キリストその人すら彼の弟子らに向いて明らかに「我が神」「汝の神」として神その者に自他彼此大小高級を差別したり。日本国民の神は「クェーカー」教徒の神に対して弥陀の利剣を揮うべきのみ。生死の煩悶を天空に求むるごとき低級極まる小乗的信仰をもって、インド文明の密封せられたる宝庫としてようやくまなに二十世紀の今日を待ちて開かれんとする日本民族の大乗的信仰に対せんとするごときは、真に竜車に向う蟷螂の斧。信仰すでに然り。いわんや学者文士輩の口耳より濫造せられたる思想なるものの自由をや。将来「クェーカー」宗のごときまた浅薄なる非戦主義のごときを輸入して徴兵忌避を企つる者あらば、刑罰は断々としてその最も重きものを課して可なり。
注四徴兵猶予一年志願兵等は現時の教育的差等より結果せるものなるをもって、十年一貫の国民教育によりてこれらを存置する善悪一切の理由は消失すべし。とくにその兵質が、前注説明のごとく今の少尉級に匹敵すべきをもっておのずから現役年限の短縮となるべく、一年または一年半の軍隊的軍艦的訓練はいかなる専門的使命ある者も身心の根源を培養してその使命の大成を準備せしむるものなり。今の徴兵猶予は速成学士の「ローズ」物を官庁会社に売出さんとする現経済組織より来れるもの。とくに彼らのほとんどすべては今の大学教育なる高等職業紹介所に入ることをもって一種の特権階級のごとく考え、心裏実に徴兵忌避の私を包蔵してその猶予を求むるものならざるはなし。この一点を寛過するは実に国家の大綱を紊るもの。他に百利ありと仮想するも存置せしむべき除外例にあらず。
注五現役兵に俸給を給付すべきは国家の当然なる義務なり。俸給が傭兵のそれと全く別個の義なるは論なし。国民の義務にせよ、父母妻子の負担ある男子よりその労働を奪いて何らの賠償をななざることは国家の権利を濫用するものなり。この権利濫用の下に血涙を呑みし爆発は眼前に見るロシアの労兵会の蹶起なり。軍隊の強盛を念とする軍事当局すらこの強兵をなす根源を提唱する者なく、すべての国民の義務なる道念に忍びて一にただ忘却に封じつつあるとき、兵卒そのものが憤恨に爆発するの日はすなわち労働者と結合したる労兵会の出現ならざるべからず。「ボルセヴィキ」はこれを防ぐべく、「ボルセヴィキ」を必然する義務の忘却は可なりというの理なし。あるいは国庫の負担堪えざるをいわん。しからば多大なる俸給による傭兵をもって戦いし英米を見よ。生産各省の収入優に余りあり。
注六兵営または軍艦内における将校と兵卒との物質的生活を平等にする所以は自明の理なり。古来将は卒伍の飲食に後れて飲食すというがごとく、口腹の欲に過ぎざる飲食に差等を設けて部下の反感を平時に養成し戦時にも改めざるごときはほとんど軍隊組織の大精神を知らざる者なり。敗戦国または亡国の将校がつねに兵卒の粗食飢餓を冷視しておのれ独り美酒佳肴を列べしは一の例外なき史実なり。これに反して皇帝に堕落せざる以前のナポレオン軍の連勝せし精神的原因は、彼の無欲とその物質的生活が兵卒と大差なかりし平等の理解に立ちしがゆえなり。日本の最も近き将来はナポレオンの軍隊を必要とす。乃木将軍が軍事眼より見て許すべからざる大錯誤をなしてかの大犠牲を来たせしにかかわらず、彼が旅順包囲軍より寛過されし理由の一はおのれみずから兵卒と同じき弁当を食いし平等の義務を履行せしがゆえなり。士卒を殺して士卒に赦さるる将軍は日本の最も近き将来において千百人といえども足れりとせざる必要あり。まさかに兵卒と同じき飲食にては戦争に堪えずという者あるまじ。これその飲食をなす兵卒が戦争するあたわずというもの。かかる唾棄すべき思想が上級将士を支配するとき、その国の往くべき唯一の途は革命か亡国かなり。労兵会を作らしむべき宮廷の権臣と腐欺将校とは、実に日本に「レニン」の宣伝を導くべき内応者なりというべし。ただし家庭等の隊外生活において物質的差別あるべきは兵卒が等しくその範囲において貧富に応じたる自由あるがごとし。
開戦の積極的権利
国家は自已防衛のほかに不義の強力に抑圧さるる他の国家または民族のために戦争を開始するの権利を有す。(すなわち当面の現実問題としてインドの独立および支那の保全のために開戦するごときは国家の権利なり)。
国家はまた国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す。(すなわち当面の現実問題として濠州または極東シベリアを取得せんがためにその領有者に向って開戦するごときは国家の権利なり)。
注一近代に至つて世界列強が戦争を開始せんとするときことごとく自他を欺く旧道徳的名分を掲げ、またはこれを自己防衛の口実に求むるは国家生活の権利を半解するより来る卑怯なり。真の徹底的理解はおのずからにして正々堂々たる宣布となるもの。日本が積極的発展のために戦うことの単なる我利私欲にあらざることは、他の民族が積極的覚醒のために占有者または侵略者を排除せんとする現状打破の自己的行動が正義視せらるるごとく正義なり。自利が罪悪にあらざることは自滅が道徳にあらざると同じ。したがって利己そのものは不義にあらずして他の正当なる利己を侵害しておのれを利せんとするに至って正義を逸す。正義とは現在の状態そのものにあらざるは論なし。英国がインドを牛馬視しておのれを利しつつある現状が正義にあらざるごとく、日本および近接のアジア七億の民族より濠州を封鎖しつつある現状は同一なる不義なり。支那を併呑し朝鮮を領有せんとしたる「ツァール」の利己が当時の状態において不義なりしごとく、広漠不毛のシベリアを独占して他の利己を無視せんとするならば「レニン」政府現在の状態また正義にあらず。正義とは利己と利己との間を画定せんとするもの。国家内の階級争闘がこの画定線の正義に反したるがために争わるるごとく、国際間の開戦が正義なる場合は現状の不義なる画定線を変改して正義に画定せんとする時なり。英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり。散粟の島峽を画定線として国際間における無産者の地位にある日本は、正義の名において彼らの独占より奪取する開戦の権利なきか。国内における無産階級の闘争を認容しつつひとり国際的無産者の戦争を侵略主義なり軍国主義なりと考うる欧米社会主義者は根本思想の自己矛眉なり。「ヒュース」が労働者出身なりとも、「レニン」が社会主義者の尊敬すべき同志なりとも、国際的対立より見て彼らが〔大地主〕たることは、昔時魚売りたりし大倉喜八郎、貧書生たりし加藤高明が無産階級より見て富豪たると同じ。国内の無産階級が組織的結合をなしてかの解決を準備しまたは流血に訴えて不正義なる現状を打破することが彼らに主張せらるるならば、国際的無産者たる日本がかの組織的結合たる陸海軍を充実し、さらに戦争開始に訴えて国際的画定線の不正義を匡すことまた無条件に是認せらるべし。もしこれが侵略主義軍国主義ならば日本は全世界無産階級の歓呼声裡に黄金の冠としてこれを頭上に加うべし。合理化せられたる民主社会主義そのものの名においても日本は濠州と極東シベリアとを要求す。いかなる豊作をもってすとも日本は数年の後において食うべき土地を有せず。国内の分配よりも国際間の分配を決せざれば日本の社会問題は永遠無窮に解決されざるなり。ただドイツの社会主義にこの国際的理解なく、かつ中世組織の「カイゼル」政府に支配せられたるがために、英領分配の合理的要求が中世的組織の破滅に殉じて不義の名を頒ちたることを注意すべし。したがって今の軍閥と財閥の日本がこの要求を掲ぐるならばドイツの轍を踏むべきは天日を指すごとし。改造せられたる合理的国家、革命的大帝国が国際的正義を叫ぶときこれに対抗し得べき一学説なし。
注二インド独立問題は来るべき第二世界大戦の「サラエヴォ」なりと覚悟すべし。しかして日本の世界的天職は当然に実力援助となりて現るべし。たとい英国が彼らのいわゆる自治を許容して「ジョンブル、ソサイテー」の組合を脱せしめざらんと計るときも、彼にして全然没交渉なる独立を欲して蹶起するならばもとより然るべきは論なし。大戦中におけるインド独立運動の失敗はすべて日本が日英同盟の忠僕たりしがためにして、したがって英国が一時的全勝将軍たるがために瞬時雌伏するに過ぎず。しかして日本の実力援功につきて大方針とすべきは海上においてのみ彼の独立を援護することなり。インドの独立はなお米国の独立のごとし。米国の十三州独立戦はその始めつねに英兵に敷られつつ幾年を経過したる後、最も有力なる実力援助を与えたるフランス海軍が英国海軍を「メーン」岬に決定的に一撃破して陸兵輸送を不可能ならしめたることに存す。外力の援助なくして植民米人が戦うべき武力を有せざりしごとく、一切の武器を奪われしインド独立軍に対してほしいままに鎮圧軍を輸送せしむるならばその独立は永久に期待すべからざるものなり。実に米国の独立を決定したる者がフランス海軍なりしごとく、インド独立の能否を決定する者は一にただ英国海軍を撃破し得べき日本および日本の同盟すべき国家の海軍力如何にあり。日本の陸軍援助は多く有用ならず。かえって戦後にかける利権設定等の禍因を播き、インドそのものよりは何らの報謝を求めざる天道宣布の本義に汚点を印しやすきは予め深く戒むべし。「レニン」政府のなお存続して陸上よりの援助を仮想すとも、決定的成否はすでに海軍力を喪失せる露国にあらず。日本はこの改造に基づく国家の大富力をもって海軍力の躍進的準備を急ぐべし。日英両国は中立的関係に立つあたわずして、彼の従属的現状を維推するか彼の分割を結果する征服者たるかの二なり。日本が永遠に政治的言語的思想的属邦としてインドの志士を屠らんとせば止む。国を挙げて道に殉ずる天道の使徒として世界に臨まんとせば、英国の海上軍国主義を砕破するに足るべき軍国的組織は不可欠なり。「カイゼル」は海上にあり。これフランスが陸上の英国に対して軍国的組織を放棄し得ざりし所以。日本に加冠せられたる軍国主義とはインド独立の「エホバ」なり。この万軍の「エホバ」を冒涜して誣妄を逞しうするいわゆる平和主義なる者は、その暴戻悪逆を持続せんとして「エホバ」の怒を怖るる悪魔の甘語なりとす。英人を直訳する輩は「レニン」を宣伝するよりも百倍の有害なり。
注三支那はまた大戦の結果によりて急転直下純然たるインドたらんとす。日本がインドの独立を欲するごとく支那の保全を希うならば、眼前に迫れる支那と英国との衝突は日英同盟を存立せしめざるものなり。英国が早くすでに支那を財政的准保護国とせることは説明の要なし。たとい平家全滅の前の隆盛のごときにせよ、英国が今次の大戦において本国を脅威せしドイツと、インドを脅威せし露国とに恐怖なきに至れることは、支那においてに国がまた同様なる脅威を満蒙と青島より加えたる恐怖を除去したるものなり。英国は日本をほかにして支那に恐るべき実力を見ず。しかして日本の奴隷的臣従は大戦中と講和会議とにおいて彼の十分に安意したるところ。すなわち彼はチベット独立の交渉中に青海・四川・甘粛の一部を包有する要求を加え来れり。これ日露戦争によりてロシアが南下の途を日本の満洲に塞がれたるがゆえに、直路中央アジアより中部支那に殺到せんとせし大道の継承を要求するもの。インドを基点としてすでにアフガニスタンに及びペルシャに及びたる彼が中央アジアに進出するは論なく、極東海上の基点香港と相応じて中部支那以南の割取を考え始めたるは明白なり。これ往年ロシアの満洲に進出したるよりも支那の一大危機。しかして支那保全主義を堅持する日本は彼との衝突においてその支那経略の根拠地香港の有害なることは、日露戦争における旅順・ウラジオストックの根拠地に優るとも劣らず。彼は日本の口舌的抗議等を眼中に置かず天下無敵の全勝将軍として支那に臨むべし。これ単なる推定にあらず。事実をもって立証せらるるの日はすなわち日英両国が海上に見ゆるの日なり。支那保全にかける日英開戦はすでに論議時代にあらざるなり。
注四日本は支那において東洋のドイツを学ばんとする野心国なりという世界の批評に対して男子的に是認ししかして男子的に反省し改過すべし。周知のごとく英独協商は香港を根拠とせる英国と青島を根拠とせるドイツとが、支那分割のアフリカ大陸のごとく実現すべきことを確信して、北支那をドイツに中央支那以南を英国に妥協したるものなり。かの津浦鉄道が南北に分割されて列車を直通するあたわず、南段の英資に対して北段の独資なるはまず投資的分割に現われたるもの。しかるに今次の大戦中において日本はドイツの青島を領有して支那に還付せざらんことを企つると共に、ドイツの投資を継承しさらに北支那に投資的侵略を学びたることことごとくドイツの跡を追う者ならざるはなし。天道は甲国の罪悪を罰して乙国の同一なるそれを助くるものにあらず。日本が東洋のドイツなりといわれ、ドイツと等しき軍国主義侵略主義の国なりといわれ、列国環視の問「ウイルソン」輩の口舌に萎縮して面上三斗の汗を拭うの恥晒しをなせしものことごとくこれ天意。あえて軍閥内閣と党閥内閣とに差等を付するの要なし。明治大帝なき後の歴代内閣のなすところことごとく大帝降世の大因縁たる日露戦争の精神に叛逆せざるものなし。一幸徳秋水のみが大逆罪にあらず。その罪まさに大帝の陵墓を発くの大逆政策を改めずして支那の排日を怒り米国の排日に憂えなおかつ浩々然として天佑を夢む。彼らは講和会議において英国の保護を蒙りてドイツの利権を継承することを認容せられたるとき相賀して「国難去れり」といえり。何ぞ然らん。英国は英独協商の相手方を日本に代えたるがゆえに、今や該協商の目的たりし中部支那以南の領有を現実ならしめんとしてここに青海・四川・甘粛を包有せるチベット独立の要求となりて現れたるなり。早くすでに楊子江流域は英国人勢力範囲なりといわるる今日、日本を相手方として英独協商を日英協商として支那に臨む時、明治大帝は何のために日露大戦を戦いしかを解すべからざらんとす。日本は「ヴェルサイユ」に救われたる同盟の誼によりて英国の支那本部併合に報謝すべしというか。排日の声が支那と米国とに一斉に挙れる所以は日露戦争によりて保全されたる支那と、日露戦争を有力に後援して日本に支那を保全せしめたる米国とが、天に代りて当年の保全者に脚下の陥穽を警告するものなり。驕児「カイゼル」は世界的排斥に反省せずして陥穽に墜落したり。米支両国の排日に省悟一番して日露戦争の天道宣布に帰る時、日本は排日の実に天寵限りなきを見るべし。英国の恩恵の下に青島に租借地を得るよりも、英国そのものの香港を奪いて日本の海軍根拠地とせよ。香港に根拠せば青島のごときは無用の長物なり。山東苦力として輸出せざるべからざるほどに人口漲隘せる支那の貧弱なる一角に没頭するよりも、支那そのものより広大にして豊饒なる英国の濠州を併合せよ。日本にとりて支那はただ分割されざれば足る。四千年住み古したる支那を富源なるかのごとく垂挺する小胆国民にして、如何ぞ世界的大帝国を築くを得べき。日本が首を抬げて英領を直視する時、支那の排日は根本的に永久的に跡を絶つべし。
注五この支那保全主義の徹底より見る時、日本の極東シベリア領有は日本の積極的権利たると同時に、支那を北方より脅威せるロシアの伝統的国是を打破するもの。日本が東清鉄道を取得して、極東シベリアとを結合する時、内外蒙古は支那みずからの力をもって露国の侵略を防禦するを得べし。かくして日本は北に大なる円を画きて支那を保全し、支那また日本の前営たるべし。ロシアの外蒙古進出に押されて日本また内蒙古に進出して防備を試みんとする軍閥の支那保全策は、ある程度において支那を保全しつつある程度において支那を分割する者、その無策と不徹底と断じてアジア聯盟の盟主たるべき器にあらず。とくに「セミョノフ」輩を用いて内外蒙古の独立を策しつつあるごときは誠に小策士の陰険手段。国家の有する開戦の積極的権利を心解せば公々然日本および支那の必要を主張して「レニン」その人に向つて極東シベリアの割譲を要求すべし。「チェック、スローバック」援助のろ実の蔭に国家の当然なる権利を陰蔽するがゆえに野心を包蔵すとなして敵味方の警戒を受くるなり。日本の対外行動は取るべからざる者より寸土を得ざると共に、天日照覧の下いやしくも奪うべくんば全地球をも大なりとせざるべき大丈夫の健脚に立つべし。
注六要するに日本は日本海・朝鮮・支那の確定的安全のために、すなわち日露戦争の結論のために、極東シベリアを領有すべくロシアに対する大陸軍を欠くべからず。しかしてインド独立の援護、支那保全の確保、および日本の南方領土を取得すべき運命の三大国是において、英国と絶対的に両立せざるがゆえに実に大海軍を急務とす。もし今次の大戦に際して大西郷あり明治大帝ありしならば、ドイツの陸軍と東西呼応して一挙露国を屈服せしめ、海軍また東西に相分れて英国艦隊を本国とインド濠州との防備に両分せしめ十分なる優勢を持しておのおのこれを撃破し、朞年ならずして早くすでに北露・南濠に大帝国を築きたりしはず。ドイツの敗因実にその始めにおいて背後に迫れる露軍のためにパリ占領の好機を逸し、さらに英国艦隊全部を本国に集中せしめたるがために一挙根本を屠るあたわざるのみならず、かえってその艦隊を「キール」軍港に封鎖せられて国内物質の空乏を来しわずかに潜航艇戦の窮策に訴うるや、またかえって米国を脅威してこれを敵に駆りしに基づく。開戦当初より露の陸軍と英の海軍とを両分し得べき日本一国の向背実に世界大戦の勝敗を決したるを見るべし。日本は明らかに英独の間に「キャスチングヴォト」としてその力をもってドイツを亡ぼし英国を活かせしもの。しかるを挙国一致この天寵を逆用してかえって両立すべからざる敵国の犬馬につき、救国の恩主倒まにその脚下に俯伏して糞土に値せざる小群島と一青島とを哀訴す。国政を執って国を亡ぼさんとするかくのごとき者に加うべき大逆罪の法文なきを如何せん。
注七ただ一大事因縁を告ぐ。「ヴェルサイユ」にかける調印はドイツを目的として聯合したる列強が、さらに英国を第二のドイツとして新たなる聯合軍を組織すべき天与の一大転機。日本は米独その他を糾合して世界大戦の真個決論を英国に対して求むべしということこれなり。講和会議はインド洋の波濤を「テーブル」とすべし。米国の恐怖たる日本移民。日本の脅威たるフィリッピンの米領。対支投資における日米の紛争。一見両立すべからざるかのごときこれらが、その実いかに日米両国を同盟的提携に導くべき天の計らいなるかのごとき妙諦は今これをいうの「時」にあらず。一にただこの根本的改造後に出現すべき偉器に待つものなり。天皇に指揮せられたる全日本国民の超法律的運動をもってまず今の政治的経済的特権階級を切開して棄つるを急とする所以のもの、内憂を痛み外患に悩ましむるすべての禍因ただこの一大腫物に発するをもってなり。日本は今や皆無か全部かの断崖に立てり。国家改造の急迫は維新革命にも優れり。ただ天寵はこの切開手術において日本の健康体なることに在りとす。 
給言
「マルクス」と「クロポトキン」とを墨守する者は革命論においてローマ法皇を奉戴せそとする自己矛盾なり。英米の自由主義がおのおのその民族思想の結べる果実なるごとく、独人たる「マルクス」の社会主義露人たる「クロポトキン」の共産主義が幾多の相異扞格せる理論をもって存立することはおのおのその民族思想の開ける花なり。その価値の相対的のものにして絶対的にあらざるは勿論のこと。
ゆえに強いてこの日本改造法案大綱を名づけて日本民族の社会革命論なりという者あらばはなはだしき不可なし。しかしながらもしこの日本改造法案大綱に示されたる原理が国家の権利を神聖化するを見て「マルクス」の階級闘争説を奉じて対抗し、あるいは個人の財産権を正義化するを見て「クロポトキン」の相互扶助説を戴きて非議せそと試むる者あらば、それは疑問なく「マルクス」と「クロポトキン」の智見到らざるのみと考うべし。彼らは旧時代に生れその見るところ欧米の小天地に限られたるのみならず、浅薄極まる哲学に立脚したるがゆえに、躍進せる現代日本より視る時単に分科的価値を有する一に先哲に過ぎざるは論なし。過去に欧米の思想が日本の表面を洗いしとも今後日本文明の大波濤が欧米を振憾するの日なきを断ずるは何たる非科学的態度ぞ。「エジプト」「バビロン」の文明に代りてギリシア文明あり。ギリシア文明に代りてローマ文明あり。ローマ文明に代りて近世各国の文明あり。文明推移の歴史をただ過去の西洋史に認めてしかも二十世紀に至りてようやく真に融合統一したる全世界史の編纂が始まらんとする時、ひとり世界史と将来とにおいてのみその推移を思考するあたわずとするか。インド文明の西したる小乗的思想が西洋の宗教哲学となり、インドそのものに跡を絶ち、経過したる支那またただ形骸を存してひとり東海の粟島に大乗的宝蔵を密封んたるもの。ここに日本化し更に近代化し世界化して来るべき第二大戦の後に復興して全世界を照す時往年の「ルネサンス」何ぞ比するを得べき。東西文明の融合とは日本化し世界化したるアジア思想をもって今の低級なるいわゆる文明国民を啓蒙することに存す。
天行健なり。国は興り国は亡ぶ。欧州諸国が数百年以上に「ジンキス」汗「オゴタイ」汗ら蒙古民族の支配を許さざりしごとく、「アングロサクソン」族をして地球に濶歩せしむるなお幾年かある。歴史は進歩す。進歩に階梯あり。東西を通じたる歴史的進歩においておのおのその戦国時代につぎて封建国家の集合的統一を見たるごとく、現時までの国際的戦国時代につぎて来るべき可能なる世界の平和は、必ず世界の大小国家の上に君臨する最強なる国家の出現によりて維持さるる封建的平和ならざるべからず。国境を撤去したる世界の平和を考うる各種の主義はその理想の設定において、これを可能ならしむる幾多の根本的条件すなわち人類がさらに重大なる科学的発明と神性的躍進とを得たる後なるべきことを無視したるもの。全世界に与えられたる現実の理想は何の国家何の民族が豊臣徳川たり神聖皇帝たるかの一事あるのみ。日本民族は主権の原始的意義、統治権の上の最高の統治権が国際的に復活して、「各国家を統治する最高国家」の出現を覚悟すべし。「神の国はすべて謎をもつて語らる。」かつてとるこの弦月旗ありき。「ヴェルサイユ」宮殿の会議が世界の暗夜なりしことはそれを主裁したる米国の星旗が黙示す。英国を破りてとるこを復活せしめ、インドを独立せしめ、支那を自立せしめたる後は、日本の旭日旗が全人類に天日の光を与うべし。世界の各地に予言されつつある「キリスト」の再現とは実に「マホメット」の形をもってする日本民族の経典と剣なり。
日本国民は速かにこの日本改造法案大綱に基づきて国家の政治的経済的組織を改造しもって来るべき史上未曽有の国難に面すべし。日本はアジア文明のギリシアとしてすでに強露ぺルシャを「サラミス」の海戦に砕破したり。支那・インド七億民の覚醒実にこの時をもって始まる。戦なき平和は天国の道にあらず。
大正八年八月稿於上海   北一輝 
北一輝
(きたいっき、本名:北輝次郎(きたてるじろう)、明治16年(1883年)4月3日-昭和12年(1937年)8月19日)は、戦前日本の思想家・社会運動家。早稲田大学聴講生の時に、社会主義に傾倒する。中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼であった事から「片目の魔王」の異名を持つ。国家社会主義者で、1923年、「日本改造法案大綱」で国家改造を主唱、その後の国粋派右翼のバイブルとなった。二・二六事件を引き起こした青年将校達のイデオローグになるなど、事件の理論的首謀者とされ処刑された。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名。
大正4(1915)年から大正5年にかけて辛亥革命の体験をもとに「支那革命外史」を執筆、送稿し、日本の対中外交の転換を促した。大隈総理や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。
北は右翼思想家と評価されることが多い。その一方で、23歳頃に出版した『国体論及び純正社会主義』は社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛されていた。また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。ゆえに北を右翼思想家ではなく一種の革命家と見る意見もある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ、」と述べている[4]。このように北には単純な国粋主義者とは括れない面があった。久野収は北を「ファウル性の大ホームラン」と評している。
また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても北の方がずっと人民主義であると評した[5]。
また、北は安岡正篤や岸信介にも強い影響を与えたとされている。 
 
中江兆民

 

前口上
中江兆民は歴史的には日本における最初の唯物論者として、そして又自由党初期の指導的理論家として記憶されている。しかし、一般に彼の名前は軽妙な毒舌家として、或は明治期の代表的な奇行家として知られている。
中江兆民に対する多くの同時代人の評価は「直言の士」という点で一致していた。例えぱ、大石正己は「中江君は実に単刀直入で、思う所を云い、為きんと欲する所を為すという点に於て我邦の絶品であった」と書いているし、後藤象二郎は中江を評して、彼は三国志に出てくる禰衡だと言っていたという。
禰衡は酒興に名をかり、全裸体となって宴席上に踊り出て、権勢並ぶものない曹操を罵倒した人物である。この後藤の批評は中江を知る者の共感を集めたらしく、中江=禰衡論は広く人口に膾炙するところとなっている。
しかし私は中江兆民に関する本を読むたびに、彼の純理的な一貫性・徹底性に強く惹かれる。彼は、波乱にみちた騒々しい一生を送ったように見える。だが、先入観を捨てて眺めたら、誰でも彼の生涯全体を貫ぬき流れている基調音の簡潔さや、鬼面人を驚かすその言説の背後にある魂の地平の静けさなどを感じ取ることが出来る。
学生時代に、中江兆民の経歴を調べ、彼の著作を読んでいるうちに、目を洗われるような驚きに襲われた。ダムの水が水路の未端まで届くように、兆民の思想はその生涯の最後の瞬間にまで行き及んでいるのである。
中江兆民の数ある逸話のうちで、一番好感が持てるのは次のようなエピソードだった。兆民は自分が開設した「仏学塾」の学生達と近くの飲屋に行って談論風発するのが常だった。学生達は、師匠の兆民を平気で、「中江君」と呼び棄てにし、兆民の方も淡白にこれに応じていたというのである。
彼の門下生だった小山久之助(自由民権運動家)は、世に出てからも兆民のことを「中江君、中江君」と言っていたが、これも「仏学塾」以来の習慣からだった。
これが明治十年代の話なのである。師弟間に儒教道徳に基く厳然たる区別のある時代に、現代においてすら成り立ち難いこうした自由な師弟関係を生み出したのは、中江兆民のパーソナリテイの独自構造によっている。
師弟・親子の間には、この世に出現した時期の先後という差があるだけだ。教師が教え、親が育てるのは、当然の世代継承業務であり、そのことをもって特別の恩愛を期待しあういわれはない。弟子がその師を神のごとく畏敬するのは、実は教師の方でそれを求め強要しているのである。
人間はすべて単位存在として完全に平等につくられている。これが中江兆民の信じてやまないところであった。
中江兆民の新しさは、畑を全部天地返しするように、自らの全生活を理によつて鋤ぎ返した人間の新しさであった。知らぬ間に私達を縛っている習慣的な思考や感情から自由になり、感傷的残滓を徹底的に削ぎ落したあとには、せいせいした単純な世界が残る。中江兆民は幻想の消滅した清潔な世界に住んでいた。同じ人間としてこの地上に生れて来て、王があったり部落民がいたりする滑稽さ。
自身の作り出した約束制度に縛られてフロックコートに威儀を正して登院する高官達の馬鹿さ加減。中江兆民は、「民主」の主とは王の頭に釘を打つことだという痛烈なドド逸を作り、第一回国会議員選挙には大阪地区の部落民の支持を受けて当選し、議会に登院する時にはドテラを着て出かけた。
実際、兆民の生涯は純理的な志向で一貫していた。
彼は汽車や船に乗るときは、三等の赤切符で通したし、持参する弁当は梅干し入りの握り飯を竹の皮に包んだものと決まっていた。無妻主義を通して家督を弟に譲ってしまった彼が、40歳になって結婚した相手は旅館の女中をしている「私生児」だった。しかも彼女は、離婚歴のある「出戻り女」だったのである。
晩年、三菱財閥から兆民に生活費援助の申し出があったとき、「涎を流しつつ、残念ながら痩せ我慢を張りて御辞退申し候」と謝絶の手紙を書いているし、死に際して、兆民は遺体を解剖用に提供し、無葬儀で葬るように言いのこしている。
国も個人も上昇欲求に支配されていた明治の時代に、無位無冠の「平民」として生きる覚悟に徹した兆民とは、どんな人間だったのだろうか。その素性を探ってみよう。
彼は土佐藩の下士の家に生まれている。父は江戸詰だったから、郷里で母と暮らしていた兆民は父の影響をほとんど受けることなく成長した。生前、落ち度があったため、何度か謹慎減俸の処分を受けたという父が死去した後、兆民は15歳の若さで家督を継いでいる。
意外なことに、子供の頃の兆民は女の子のように物静かな勉強家だったという。しかし近所の褒め者だった中江少年には、奇癖があった。瀬戸物を石にたたきつけて割ったり、夏の暑さをさけるために井戸の中にこもったりする癖だった。
親戚の者が中江宅を訪ねるときには、おもちゃの代わりに兆民に与える皿・小鉢などの瀬戸物を土産にしたと言われる。これらの挿話から、彼が幼児期から家長並に大事に扱われていたこと、彼に掣肘を加える大人が家内にいなかったことで、子供の頃から思うままに振る舞っていたことが分かる。
当時の土佐藩は政争が盛んで、公武合体派や尊王攘夷派が争い、血で血を洗うような刃傷沙汰が起きていたけれど、「女児のように温和」な兆民は局外中立を守っている。彼は荒々しい暴力を嫌悪し、暇があれば自宅で本を読んでいたのである。難解な文字にぶつかっても他に教えを乞うことなく、字引を使って独力で読み解いていた。
こうした兆民だったから、藩校の「文武館」での成績は優秀で、19歳で藩の留学生に選ばれて長崎に学び、21歳で、江戸に移ってフランス語の勉強に取り組んでいる。
江戸に赴いた頃から奔放な行動が目に付くようになる。彼は当時学んでいたフランス語の私塾を放蕩のため破門されている。伝手をたどってフランス公使の通訳になると、ラシャメン(外人の妾)やコック・馬丁などに混じって花札を引くというような日々を送った。
明治維新後は、政府留学生としてフランスに渡り、3年間滞在している。
フランス滞在中も江戸時代以来の奔放な生活は変わらなかった。彼は自ら「余の天性不作法なり、仏国に居り、重に下等職人連と交わり、且酒を飲むや・・・・性行益々極点に達したり」と書いている。
その一方で、フランス語の会話をマスターするために小学校に入学するというような行動に出ており、この徹底性でもって彼は西欧の思想・文物の吸収に努めたのだった。
安酒を飲んで娼婦を買い、下等な職人連と交わるというような奔放な生活は、勉強好きの温和な少年という子供の頃の彼のイメージに反し、渡仏後のフランス学の研究に打ち込んだ学究という彼のイメージとも一致しない。しかし、「下等民」たちとの交友が彼の思想形成を背後から支えていたことは疑いなかった。
人の意識の表皮を覆うのは、子供の頃から馴染んできたその国の慣習であり文化であって、その背後にある人類普遍の合理的な感覚(兆民が少年期に学んだ朱子学の用語で言えば「理」、パリに来て学んだルソーの用語で言えば「一般意志」)にたどり着くにはボーリングの錐が必要である。
兆民の場合、下等職人たちとの交友がボーリングの錐の役割を果たしたのだった。彼は下等職人や娼婦の中にも、「理」や「一般意志」が生きていることを実感したのである。
自由・平等はフランス革命が生んだ美しい観念で、政治的な後発国が目指す目標になっている。けれども、自由・平等の観念だけが独走すれば、暴発して無用の流血沙汰を起こすことになる。自由平等に「博愛」がプラスされて、はじめて歴史を動かすイデオロギーたりうるのである。
中江兆民が、理を持って生涯を生き抜く「純理の人」となることができたのは、彼が底辺に生きる庶民との交わりを深め、そこから一種の人道感覚を育てたからだった。留学を終えて帰国するとき、トルコやインドで白人が現地人を虐待する現場を見て、強い憤りを感じたのも、帰国して日本人が部落民やアイヌ人を差別するのを見て激しい怒りを覚えたのもこのためだった。
兆民が生きていた頃の日本は、朝野をあげて富国強兵を目指し、大陸に進出して列強の一員になることを夢見ていた。この時期に兆民は、富国と強兵は矛盾するという至極当たり前な議論を展開している。日本の将来を大国主義ではなく、島国日本に留まって国内を充実させる「小国主義」の方向に向けるべきだと説いているのである。
彼は時の日本人が範としていた先進強国を「英仏虎狼の国」として否定し、スイス・ベルギー・オランダなどの非強兵国を模範としてあげている。その先見性は、実際目を見張るほどなのである。
こういう透徹した見識を支えたのも、彼の人道感覚だった。彼が富国強兵策に反対したのは、徴税強化によって苦しむ民衆に目を向けていたからであり、列強進出の犠牲になる植民地大衆に熱い同情を寄せていたからだ。つまり、「博愛精神」がバックにあったからなのである。
中江兆民は、日本の政治家・思想家として希有に近いほど一貫した生き方をしている。たが、その彼の生涯にも、屈折や停滞、偏向や逸脱が数多く見られる。日本という国は、啓蒙思想家が生きにくい社会なのである。少し事例を挙げてみる。
周囲から直言の人と評価されていた中江は、自身でも迂路を取らず、直線的に行動すべきことを説いてやまなかった。
「思想を秘して発洩せざる(は)東洋人種の通弊なり」として「偽深沈詐淵穆」を排した東洋自由新聞所載の論文を読むと、中江の西欧合理主義と論理への信頼の念の深きが想像出来るのである。
しかし、中江自身の主張や中江の友人達の証言にもかかわらず、現実の中江の行動は明快率直とは称し難い。青年に向って「公等は折角政治文芸の定跡を研究して初段より二段と漸々進み、九段名人の地位に昇り」、そこで専制権力と「勝負を決めよ」と勧め、老人の素人碁打式の詭手を打つて人を驚してはならぬと力説した中江自身、逆説と飛躍を好み、ことごとに人の意表に出る奇行によって世人を驚した明治期の代表的な奇人の一人となったのである。
事実、中江は広く一般に信じられている程、明朗快活な正義派ではない。
思想を論理的、体系的に展開せよと説いた中江は、分散的にしか彼自身の思想を表明しなかった。彼の言論活動の特色は、計画性・持続性・綜合性に欠けるということである。地味で平明な文章を尊重し確実で粘り強い文体を使用することを説いた中江は、晦渋で屈折に富み、独断的で奇矯な文章を多く残している。
中江は平常福沢諭吉の文章を高く評価していたといわれるが、同じ啓蒙家であっても、この二人の文章・文体は全く対照的である。東洋豪傑的・志士的な生活態度を否定し近代的な生活意識の普及に努めた中江は、実はかなり陰惨な暗い生活を送つている。彼の私生活のニヒリスチツクな側面については、後に二、三紹介してみる。
それから、近代政党活動の公開性組織性を百も承知していろ筈の中江の政治行動は、頗る策謀に富み、一部の同志からその「陰謀癖」を排斥された程である。
理によって生涯を一貫させた兆民をもってしても避けることが出来なかった人生行路の屈折、これはいかにして生まれて来たのか。 
 1
中江兆民が約三年にわたるフランス留学を終えて帰朝したのは明治七年のことである。
この明治七年という年は自由民権史上甚だ重要な年で、征韓論に敗れて下野した板垣退助・江藤新平等が民選護員設立の建白書を提出している。これは旧幕臣の不平分子が維新政府への反感に駆られて嫉妬まじりに放つた中傷ではなく、政権の座から去ったとはいえ当時における気鋭の実力者連がずらっと名を連ねて民権論を主張した堂々たる建議書であった点で、広く世人の注目を集めたのだった。
続いて、建白書署名者を中心に愛国公党が発足するに及んで民権運動は俄然活気づき、同党への入党者が続出する形勢となった。結びつくべき中核体を持たないまま、それ迄分散し浮遊していた反政府的勢力が、愛国公党というザルツプルグの小枝を得て、急速に結晶し始めたのである。
しかし愛国公党の社会的基盤は極めて不安定なものだった。同党に集って来た諸勢力は維新政府に対する反対派という点に共通点を見出しただけで、将来に対する意図や目論見において同床異夢の状態にあった。
彼等は士族に非ずんぱ公卿であった。彼等の運動を背後から支える社会的な階層はなく、愛国公党もまた積極的に大衆層へ接近する努力を払わなかった。
民権運動家達は維新政府に対して自己を「国民」と規定しその運動を「国民運動」と位置づけていたが、彼等は国民のどの階層からも遊離していたのである。
だから台湾遠征以後、国民の眼が外に向けられて民権運動への関心が薄らぎ、さらに土佐の壮士連による岩倉具視謀殺事件が起きて民権運動家に対する一般の猜疑の念が深くなると、党は早くも動揺しはじめ、江藤新平が不平士族を
糾合して佐賀に乱を起すや、江藤との通謀の疑いを受けた愛国公党は忽ち崩壊し、運動の指導者だった板垣退助は東京を去って土佐に帰郷してしまうのである。
それから明治十年の西郷一派の反乱に至るまでの数年間、民権運動は痛ましい混乱と錯誤の途を辿ることになる。国民的な基盤を持たない民権運動は、各地の政社の統合と分裂、提携と反発を繰り返し、貴重なエネルギーを浪費してゆくのだ。
各政社間の統合と分裂は、デタラメで無原則だった。
例えぱ、福岡の政治グループを率いていた後年の右翼の巨頭・頭山満は、板垣との連携を企て、土佐の立志社を訪問している。
頭山から提携を申込まれた立志社は、薩南の逆コース的保守派・西郷隆盛グループとの連携を模索し、後にこのことが発覚して板垣の盟友・片岡健吉は逮捕されている。
こうした矛盾と錯誤は、立志社だけに留まらなかった。士族出身の民権運動家達はサムライ式のヒロイズムに酔って武力蜂起を企て、或は本来敵対すべき反動的な保守主義者と通謀し、あるいはアジァの幼弱諸国への侵略政策に魅力を感じたりしていたのである。
近代的な政党組織が玄洋社風の地縁的な朋党組織から分化しなかつたと同じように、この頃の民権運動家には、国士的な済天下思想と開明的な政治イデオロギーが未分化のまま同居していた。
彼等の行動には、地道な啓蒙によつて民衆を組織化し、民衆の意志を物理的な力に転化しようとする近代政党活動の萌芽が僅ながら見られると同時に、激情が直ちに東洋的な権謀術数と結びつき、それが更に鋭角的な行動と最短距離で結ぴつく志士風の性急さが見られる。この弱点からは聰明な中江兆民と難も免れることは出来なかった。
帰朝後、元老院権小書記官、外国語学校長を歴任した中江は、やがて官途を辞して在野の人となり、番町に私塾を開いてフランス語の速成教授に当ることになった。当時の彼が「独り革命思想の鼓吹者たるのみならず、更に革命の策士断行者たらん」(幸徳秋水「兆民先生」)と決意したのは、藩閥政府の横暴が目に余るからだった。
薩摩・長州の政治家たちは政権を自派で固めるだけでなく、税金で官営模範工場を建て、それを薩長出身の政商たちに安く払い下げるというようなこともしていた。中江兆民は、この特権集団を打破しないことには日本の将来はないと考えたのである。
その為に、彼は国粋的傾向の強い九州の「志士」達と交りを結ぴ、「支那に為すあらん」として東洋学館を起したりした。
そして、中江は勝海舟を介して島津久光に会い、「策論」一篇を呈して島津に反乱を勧めている。この計画は、島津久光をして西郷隆盛を薩摩から上京せしめ、近衛の軍を奪つて太政官を囲むといつた風の短兵急なものであつた。
彼が交りを結んだ九州の「志士」達は、行動力には富んでいたが理論的な純度に欠けていた。また、勝海舟・島津久光・西郷隆盛等は当代一流の名士で、時代を動かすだけの実力の所有者だったが、所詮彼等は保守的なイデオローグに過ぎなかった。
しかし、中江は彼等のもつ保寄性には眼をつぶつて、その政治的な名声だけを利用しようとしたのだった。彼は専ら現実の力関係だけに関心を持ち、壮士・大物に働きかけて既存の勢力を再編成し、時の政治的なバランスを崩
すことに腐心したのである。中江の行動は、既に啓蒙家のそれではなく逆徒のそれであった。
その結果、彼の企図はことごとく失敗に終わり、絶望した彼は「放縦度なきに至れり」ということになる。 
 2
明治十年、西郷一派は遂に維新政府に対して武力蜂起を企てた。そして勇戦奮斗も空しく反乱軍は壊滅し、事破れた西郷は城山で自刃して果てた。西郷のこの悲劇的な最後は全国の民権運動家達に警鐘を高く打ち鳴らすことになった。
日本の自由主義運動は西南戦争を境に武力蜂起の途から絶縁し、一大転換を試みる。
彼らに残きれた途は、最早、言論しかないのであった。讒謗律・新聞条例を武器にした政府の弾圧に屈しないで、執拗に斗つたこれ以後の自由民権論者の活動は賞賛されてもいい。
方針転換後の自由主義運動が運動の基盤としたのは、地方のマニユファクチユア資本家であった。民権運動家達はそこに自己の運動を支える同盟者を発見したのである。
地方のマニユフアクチユァ資本家は、政府と結びついた特権的金融資本・巨大産業資本と敵対する社会的勢力にまで成長していた。政府は近代的な機械工業を育成する為に三井・三菱など少数の大資本を保護していたが、その工業育成資金は地方の中小マニユフアクチユア資本家から徴収した税金から出ていたのである。
政府はこれらの税金を「営業税」という形で中小資本家から徴収していた。これに対抗して中小資本は「営業の自由」を強調し、政府の政商擁護をはげしく攻撃した。民権論者は中小資本の政府及ぴ大資本への不満を代弁することによって、地方に勢力を拡大していったのである。
酒税の引上げに反対する全国の酒造業者(酒造業は地方に発達した代表的な工場制手工業である)に働きかけて、立志社の植木枝盛が「酒屋会礒」を開催したことなどは、この時期の民権運動家の運動方式を典型的に示す事例だった。
これ迄、反政府的な士族達を中心にしていた自由民権運動は、各地のマニユフアクチユァ資本家から運動資金の提供を受けて、目覚ましい発展を示すようになった。各地の政社を連合した愛国社は再興きれ、愛国社の大会は四回にわたつて開かれた。明治十三年三月、大阪に開催された第四回大会には二府二十二県の代表百十四名が一堂に会している。
愛国社は国会期成同盟へと発展し、期成同盟はやがて自由党の母胎となる。こういう民間の活発な動きは、政府をして明治十一年に府県会を設置せしめ、明治十四年には国会開設を公約せざるを得ないところまで追い込んだ。
明治十年から「東洋自由新聞」創刊(明治14年)にかけての数年間、中江兆民は番町のフランス語私塾で学生たちの教育に専念していた。
中江の「仏学塾」は、最盛期には学生数2000名を数えるほど繁盛したが、彼は学生を規制しようとはしなかったし、学校経営にも無頓着だったから、塾は学校というより「進歩的青年」たちの集会所という観を呈した。
役人時代に袂に炒り豆を入れて、ぽりぽり囓りながら仕事をしていた兆民は、仏学塾で講義をするときには、傍らに酒瓶を置いていた。こうした兆民だったから、師弟間にオレ・お前のつきあいが成立したのである。
彼は全国を捲き込んだ華々しい自由主義運動をよそに、実際的な政治運動にタッチすることを控えていた。この時期の彼は、深く沈潜していたのである。
河野広中が明治十二年頃、自由主義のメッカ土佐に遊んだ時の日記中に、板垣退助から「中居徳助」という男の名前を聞かされたことが書いてある。これは明らかに「中江篤介(兆民め本名)」の誤記であるが、河野から名前を誤記される程度にしか、中江の存在は知られていなかったのである。
ここに西南戦争から彼が受けた打繋の大きさを知ることが出来る。後年の彼の活動は、すべてこの時の深刻な反省から来ている。
兆民の思想に独特のニユァンスを与えている東洋的な虚無思想も、この沈潜期に養われたものと思われる。西南戦争前の政治行動の失敗によって傷ついた彼が「放縦度なきに至」ったことは後年彼自身告白しているところだが、これは同時に彼をして禅による精神の安定を求めさせることになり、彼の東洋思想への親炙を一層深めることになった。
中江兆民は、ルソー・モンテスキユーを私塾の学生に教授すろ傍ら、私室に戻ると坐禅に没頭し、「碧巌録」を読み、「荘子」「史記」を愛読していた。東洋的なニヒリズムに裏打ちされたフランス合理主義、これがその後の兆民の思想を彩る特徴となるのである。
中江兆民が「正史」の上に登場するのは信州松本の人松沢求策の尽力によって甚だ短命だった「東洋自由新聞」が創刊きれ、その主筆に招かれてからだった。この新聞の名誉社長に推挙された西園寺公望は、フランス留学時代の中江の学友である。
久しい間の沈黙を破り、新聞人として活躍の場を与えられた中江は、自由主義思想を論理的・体系的に展開することに努めた。
オーソドツクスな方法と学識で裏打ちされた「精密な論」によって、真っ正面から読者に訴えてゆこうと考えたのだ。岩波文庫「兆民選集」に集録された「東洋自由新聞」第二号の社説を読むと、中江はこの点について読者にあらかじめ注意をうながしている。
「吾輩の事を論ずる辞気諄々として老人の談話に類する」ものがあるから「世の矯激の徒」は或は自分のことを「大寛」に過ぎると非難するかもしれない。だが、昔から人民が大業を創建したのは、過激な論を騰げたからではなく、精密の論を立てたからである・・・・・。
中江には「学者」としての自負はあったが、「ジヤーナリスト」としての自信はなく、同じ洋行帰りの福沢諭吉や成島柳北がジヤーナリズムの世界で博したような人気を全く期待していなかつた。それに彼は既に福沢や成島の時代は過ぎたと考えでいた。
中江は、将来の社会を指導することになる知識人を読者に想定して、質の高い新聞を作ろうとしたのだった。彼は進歩的な若手官僚にも期待していた。
明治初期における福沢の成功は、平明な口語的表現をかりて、普通の庶民に向かって個人対個人の平等を主張したからだった。福沢が終始一貫力説してやまなかったのは人間的価値の平等という、素朴だが力強い原理だった。
彼の書葉は常に生活者としての現実から発し、その理論を具体的な自己の生活体験の集積の上に構築している。粉飾をこらした晦渋な漢学的文体に抵抗を感じ、封建的な身分制度に苦しんでいた士分以下の実務的な庶民にとって、福沢のこの新しい文体と思考がいかに強烈な魅力をもつて迫ったかは、彼の「西洋事情」が二十万部から二十五万部売れたという驚くべき数字からも想像出来る。およそ文字の読めるほどの人間は、皆この本を買って読んだのである。
福沢に続いて活躍した成島は、軽妙酒脱な才筆で藩閥政府を揶揄した。彼は理論やモラルを盾に政府に迫ることはなかった。彼は、政府高官の成り上がり的、田舎っぺ的な言動を洗練された都会人的な覚で侮蔑嘲笑したのである。従つて彼の読者は教養ある東京人士に限られていた。
福沢と成島に共通するのは、二人が敵本主義的な反対派だったということである。元来、啓蒙家の役割は当面する歴史的現実に対して打撃を加えることにあって、批判する根拠が正確であるかどうかではない。問題は批判の鋭さと激しさであり、その正確さや深さではない。啓蒙家の能力はその破壊力によつて測られ、建設力は問われないのである。
これは啓蒙家の置かれた歴史的境位が封建制杜会と資本制社会の中間にあり、社会の表面を蔽う規範は封建的な身分制的階層秩序であっても、既にその内部には資本主義的な社会関係が存在しているという事実に照応している。
つまり、啓蒙家は新しい社会関係を理念的に創出すろ必要はないのだ。彼は自然的秩序として既に存在する資本主義的ないし前資本主義的な社会関係を提出し、これに対して封建的社会関係がいかにに不自然であるか対置して見せさえすればいいのである。要はこの対照を鮮明ならしめることであり、対置された結果に対する断罪が峻厳なことにある。
福沢は人間平等の見地に立つて「反自然的」な士分意識を苛惜なく批判した。批判される事例の選択は恣意的であり、反対派的な立場からこれに対置した民主社会の図式も前者と正確な対応関係を示していなかったが、福沢の敵本主義的な態度はそれでも十二分の効果をあげたのだった。
成島に至つては薩長高官の不粋.野暮・独善を嘲笑し、彼等の持つ権力の大きさと彼等の見せる地方人的な蒙昧を対照して見せたに過ぎなかった。しかし、この対照によって拡大きれたグロテスクな滑稽さが、専制政治の反自然的な性格を見事に浮彫りにしたのである。
明治十年代に入ると、福沢や成島に代って植木枝盛や大井憲太郎が出現し、福沢等の基礎的な啓蒙の上に立って具体的な政治形態の問題を取り上げ始めた。明治十年以後の自由主義運動の昂揚は、単純な人間平等論から進んで人民主権の問題、憲法の問題、国会開設の問題を中心的な課題にするところまで成長したのである。
中江兆民の執筆活動も、この課題に応えようとするものであった。彼が対象とした読者は一般庶民ではなく、まして東京居住の都会人士でもなく、日本の自由主義的民権運動を推進する中堅分子、即ち、進歩的士族・若手官僚及び中小マニユフアクチユア資本家であった。
そして、これらの階層は、欧米文化への希求を内に燃やしながら、その教養は昔ながらの漢学を基本にしていた。中江の文章が漢文読み下し式の硬い文体を使用していたのは、彼自身の嗜好ということを別にして、当時の知識人達の好尚に合わせるためだった。「常山紀談」十巻の漢訳を試みるほど漢学に通じていた中江は、読者の要求する形式美を備えた漢文崩しの美文を書くだけの修練をすでに積んでいたのである。
しかし、一方で智識人の要求に応えようとすれぱ、他方では自から読者の範囲を限定すろ結果になる。中江の読者は福沢はもとより、成島の読者と比較してすら多くはなかった。
執筆活動を開始した当座の中江は読者に妥協することを拒否していた。彼は窮極における理論の勝利を信じていたのである。初期の論文には「意匠業作」(「意匠」は理論、「業作」は実践で、理論と実践の一致を説いたもの)を始めとして、論理・法則の重要牲を説いたものが多い。
中江は純度の高い理論のみが読者を獲得し、自由民権運動の発展に寄与しうると考えたのだ。難解な漢訳「民約訳解」(ルソーの「民約論」を翻訳したもの)を出版したのも、政治理論誌「政理叢談」を刊行したのも、こうした信念からであった。
中江は歴史の発展段階を四時期に区分している。歴史の流れに普遍的な法則性を認めていたのである。それによると、人類の歴史は、原初期には無秩序混沌たる無政府状態があり、継いで「君相専檀の制」となり、続いて「立憲の制」となり、最後に「民主の制」となるとされている。
中江は当時の日本を「君相専檀の制」から「立憲の制」へ移行する過渡期にあると規定していた。天皇制について討論した仏学塾の学生たちの大半は「廃帝論」に賛成していたが、中江は専制政治から一足飛びに民主政治へ飛躍するのは「進化神」に背く反法則的行為だから、さしあたり「立憲の制」を目標とすべきだと説いている。そして中江説によると、専制政治から立憲政治へ移行する段階においてこそ、「学者」の役割が大きくなるのであった。
立憲政治が実現するためには、それに先行して立憲政治の原型像が国民の脳中に定着していなければならない。つまり、立憲制という「新事業を建立せんと欲するとき」には、その立憲制についての「思想」を国民の「脳髄中に入れて過去の思想とする」(「東洋自由新聞」)必要がある。しかし、専制政治下においては「リベルテー・ポリチツク(即ち行為の自由)」のみならず「リベルテー・モラル(即ち心身の自由)」すら国民に与えられていないから、立憲制に関する新しい観念は自生的に創造され得ない。
ところが、ここに「学者」なるものがある。学者は自由なき専制政治下にあって、自由についてイメージすることが出来るエリートであり、無から有を創造し、自由なき世界から自由についての観念を産み出す能力に恵まれている。
学者は、自由の観念を人々の「脳髄中に入れて過去の思想」とする歴史的世界のプロンプターなのである。中江兆民は無論自からをこの「学者」と考えていた。
彼が読者との妥協を排し、高踏的な態度で論文を書いていった理由は、学者をジヤーナリストの上に置き、彼らを歴史の創造者と考えていたからだった。そして、このことは、彼が日本の社会を西欧と同質の知的な社会と見なし、日本は西欧と同様の発展段階を歩むものと想定していたことを意味する。間もなく、中江はこのオプテイミズムに対する報復を受けることになる。 
 3
政治講談によって自由民権思想の普及を志した自由党の闘士伊藤仁太郎(痴遊)は、中江兆民に関する陰惨な挿話をいくつか伝えている。
中江が「東洋自由新聞」の主筆として、又、自由党の機関紙「自由新聞」の社説班員として売り出していた頃の話である。当時、中江はさかんに遊里に出没して痛飲していたが、その席に侍る芸妓の中に中江に順倒している女がいた。
ある夜、中江はこの芸妓に向って「俺は金盃を一つ持つている。これから、この金盃でお前に酒を飲ませてやるが、どうか?」と訊ねた。女は平常尊敬している中江が盃を呉れるというので、喜んで承知した。すろと、中江は着物の前をまくって男根を引き出し、その皺をのばして窪みに酒をつぎ「きあ、これが金盃だ、飲め」と言ったというのである。
女は決心して酒を飲んだ。飲んだあとで女は「自由民権運動の指導者である先生が、こんなことをなさっては、体面にかかわりませんか」と諌め、これにはさすがの中江も一言もなかつたというのだ。
この挿話は、民権運動の理論家達に共通する暗い半面を示している。中江と並ぴ称きれた自由党左派の理論家大井憲太郎は、女性解放運動の先駆者景山英子と関係し、彼女が妊娠するとこれを弊履のごとく捨てている。
植木枝盛も女性関係が乱脈だった。彼等が女に向って溺れてゆくのは、運動が坐折した時に多く、彼等は運動の挫折から受けた傷を、女性に嗜虐的な態度を取ることによつて癒していたのである。
妻子を有しながら大井が景山英子と交渉を持つたのは、自由党解党後、彼が運動の主流からはずれて孤立していた時期だった。中江が芸者に金盃を飲ませたときにも、日本の民権運動は重大な危機にさしかかっていた。
明治十年以後の自由民権運動を支えた支柱が地方の中小マニユフアクチユア資本家だったことに触れたが、彼らの多くは実は同時に地主だった。農村における地主は米穀仲買業、小売業、高利貸業等に従事し、あるいは酒造業、製糸業、絹織物業などを兼業していた。
つまり、日本の地主は二重の性格を持ち、小作に対する時には半封建的・保守的態度をもって臨みながら、他力、政府に対する時には自由主義運動の支柱として進歩的な態度を取っていたのである。
この二重性は明治十五年迄は後者に比重をかけ保守的な性格を背後に隠すようにしていたが、明治十五年以後になると階級分化の進展を反映して比重が逆転し、寄生地主的な反動性が前面に出て来たのである。
小生産者や家内工業が急速に没落し、一般農民の貧農化が進むと、地主は反射的に保守化して寄主地主・高利貸としての性格をあらわにし、急進化した農民と敵対するに至る。
こうした情勢は自由党の分裂をもたらすことになった。地主・豪農.地方資本家の利害を代表する板垣・後藤等の自由党幹部は保守化し、他方、小商品生産者・貧農と結ぴついた自由党の下部党員は急進化したのである。こうした自由党内の対立は政府の乗ずるところとなった。藩閥側のリーダー伊藤博文は、術策をめぐらせて自由民権運動のリーダー板垣を洋行させることに成功するのである。
板垣の洋行を不満とした馬場辰猪・大石正己・末広重恭は自由党を脱党してしまう。馬場らは、兆民と共に「自由新聞」の社説係をしていた同僚で、これら有能な理論家を失った自由新聞は急速に精彩を失っていく。中江も社員の職を辞して第一線を退いてしまう。
これより先、「東洋自由新聞」は廃刊になっていた。「御内勅」を振りかざした政府の弾圧によって潰れてしまったのである。社長の西園寺は実兄の泣訴に会つて社長のポストを退き、御内勅問題の真相を紙上で発表した松沢求策は逮捕され、曲折の後に獄中で悶死している。
そして、今度は「自由新聞」を失ってしまったのである。中江にとっては、政見発表の場を失ったことよりも、民権運動に対する自身のオプティミズムを崩されたことの方が大きかった。彼は、民権運動の中堅分子に失望したのである。
党の幹部に対しては無論のこと、これに敵対して実力行動に走り、福島事件、高田事件、加波山事件、名古屋事件等を起した自由党の青年党員に、彼は信頼を繋ぎ得なくなったのだ。
彼等は、あるいは中江の先輩・同僚であり、あるいは弟子たちだった。郷里の先輩のなかで最後には中江を苦笑させるに至った厚顔なオポチユニスト後藤象二郎は、その昔、二十一才の中江が長崎から江戸へ出府すろ際の旅費を出してくれた恩人であった。
政府の術策に乗つて外遊する板垣や後藤が中江の恩義ある先輩なら、「進化神」に背き歴史的発展段階を飛び越えた革命行動に走る青年党員は、中江を「東洋のルソー」と仰いだ弟子達であった。
保守化した幹部と革命化した青年党員のいずれにも組し得ないで孤立した中江は、彼等が以前自分の知己であっただけに裏切られた思いがひときわ深かったのである。
自由党の壮士等に対する中江の感惰がどのように変化して行ったかを示す書簡が一通残っている。この中で彼は以前の同志達を「一山四文の連中」と呼んでいるのである(保安条例によつて東京在住の民権連動家と共に帝都から退去を命ぜられた時、中江は未広鉄腸(重恭)に宛てた書簡で「余は実に恥入りたり、一山四文の連中に入れられたり」と書いている)
明治十七年十月、自由党は遂に解党した。解党の趣意書には、政府の弾圧が激しくなったことと、下部党員が「駿馬ノ覇ナクシテ奔逸スル」ような暴走をはじめ党の統制が取れなくなったことを原因に挙げている。解散に先立って諮問を受けた中江兆民は、異議なく解党に賛成している。
「自由新聞」を離れ、自由党幹部・青年グループのいずれとも手を切った中江は、明治二十年の大同団結までの数年間、陋巷に隠れて翻訳・著述によって生計を立てている。中江にとっては、二度目の沈潜期であった。
そして、彼はこの沈潜期を通じて再び力向転換を試みるのである。中江が奇行家として、そして、毒舌家として出現するのは、明治二十年以後のことである。
保安条例によって東京を追われた中江兆民は、家族と共に大阪に移り、明治二十一年の春から再ぴ活動を開始する。中江の「東雲新聞」時代が姶まるのだ。
この新聞は大阪の中小実業家数十名の出資によって生まれたもので、特権的大資本に対抗する中小産業資本の立場を代弁する日刊紙であった。「東雲新聞」に発表した中江の文章には、それ迄になかった特殊な調子が現われている。高踏的な態度を捨てて、庶民的・通俗的なスタイルに移ろうとする志向である。
最早、中江は、理論的な精密さや文章の格調にこだわることを止めてしまった。「東雲新聞」時代に書いた中江の原稿は、ほとんど「放言」だの「月旦」と題された短評ぱかりで、このスタイルで中江は生来の諧謔と毒舌を武器に、時の政府(黒田・三条内閣)に向かって即戦即決式の攻撃を浴せたのだ。
その文体は式亭三馬風の戯文で説明と描写を行い、結論の部分を響きの強い漢文崩し調の章句で締めくくるといった風なものだった。会話体と論説体、口語と文語、草双調と悲憤慷慨調等が硬軟自在に入り混った彼の文体はコラム式の「放言」を書くには最適だった。
この時期に相前後して彼が発表した単行本やパンフレットに見られる文章も「東洋自由新聞」「民約訳解」「政理叢談」時代のような晦渋な調子は見られない。「三酔人経綸問答」(明治20年)、「平民の目ざまし(一名、国会のこころえ)」(明治20年)、「選挙民の目ざまし」(明治23年)、「憂世慨言」(明治23年)などの文章はことごとく口語・文語の入り混り体である。
これらの啓蒙書から、いくつかの文例あげてみよう。
「今や公等(註国民)の雇人たる彼ら内閣政府の為す所は果して如何。外交は通りに隣児に虐められつつある虫持の小児なり。教育は子々(ボウフラ)の生じたろ溜り水なり。交通機関は芋虫の横這なり」
「今の所謂輿論は一派政党員の勝手に吐き出したる唾の泡也」
「昔日の百姓町人は肉体的に切棄てにされしも、今の百姓町人は財布的切棄てにされつつある也」
といつた調子である。このような文体の変化は、明治十五年以後における中江の坐折によってのみ説明される。
中江は、日本の政治形態が社会進化の法則から逸脱しないものと楽観し、ほどなく西欧的な立憲制確立の時期が到来すると信じた。だから、彼は福沢・成島型の敵本主義的な啓蒙活動から一歩を進めて、立憲制に関する理念的な原型像の描出に努め、理論的・学問的な方法で士族的教養を身につけた自由党員に訴え続けたのである。
しかし、立憲制確立の日が近いと考えたのは中江の幻想に過ぎなかった。彼は日本の社会構造造の合法則性に関して深刻な疑惑を抱くようになり、自由党の志士をも含めた日本人の心性に暗い不信の念を持つに至ったのだった。
そのことは、明治二十二年憲法が発布された時の中江の態度によく表われている。彼は、全国の民衆が明治憲法発布の予報を聞いて大歓迎するのを眺め、苦笑を禁じ得なかった。
「吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だその実を見るに及ぱすして先す其名に酔ふ」
と嘆じたあとで、彼は「我国民の愚にして狂なる何ぞ如此くなるや」と噛んで吐き出すように呟いている。
そして、いざ全文が発表されると、中江は一読して苦い笑いを浮かべただけだった(幸徳秋水「兆民先生」)。
わが国民の愚にして狂なることに絶望したのは中江ぱかりではなかった。パリ在学中、中江と共に学び「東洋自由新聞」の社長に就任した西園寺も、日本に絶望した一人だった。
彼は冷たいシニシズムに陥り、政界から遠ざかって風流の世界に遊んでいる。中江は後年「一年有半」に西園寺の人物論を書いている。
それによると、西園寺はあまり聰明過ぎて始めから結論が判つてしまうために好寄心の発生すろ余地がなく「天下如何なることも侯に於ては奇なる莫し」とうことになってしまう。
だから「其冷々然として些の内熱」をも感じさせない西園寺に接すると、こちらまで「亦皆其内熱を冷却し」てしまう。
中江と西園寺の共通の友人だったパリ留学生光明寺三郎も、一時期「東洋自由新聞」に参画して民権運動に関わったが、やがて日本に愛想をつかし、女色に耽けるようになる。
だが中江は、「愚にして狂なる」日本の民衆を啓蒙してみたところで結局徒労に終わることを体験していながら、シニシズムに逃げてしまうことは出来なかった。
中江は心構えを新たにして、平俗な文章で実業家と庶民を対象とする啓蒙活動を開始し、論理ではなく毒舌と諧謔を武器にして敵本主義的な発言を展開することになるのだ。以前、兆民と共に論陣を張った民権運動の理論家たちは、運動への逆風が強くなると、沈黙を守るようになった。この反動期に孤軍奮闘の言論活動を展開したのは、兆民だけだった。
中江が風刺と毒舌を最大の武器とするようになったのは、革命の段階規定において福沢・成島の線まで後退したことで彼の筆致に余裕が生まれたからでもある。一方、この時期に彼は戯文や嘲罵文だけでなく、「理学鉤玄」(内容は一種の哲学概論)というような本も書いている。 
 4 
圧倒的に巨大な歴史的現実に対し、故意に正格を崩した倒立式文章を対置するとき、毒舌が生まれる。そして歴史的現実に自己の人間全体を倒立した形で対置するときに「奇行」が生れる。
日本は昔から動乱時に多くの奇行家を生み、「狂」を自称する志士たちを輩出して来た。凶暴な権力と戦うためには、権力と正面から敵対しないで「奇」や「狂」を偽装しなければならなかったからだ。
強力な国家権力を向こうに回して、単身で戦うこと自体が既に「奇」「狂」であるけれど、更に自から「狂」を自称し好んで奇行を演じるのも被害を最小限に食い止める苦肉の策なのである。
鉱毒事件の田中正造は、「狂態」を最大限に利用した「奇人」だった。彼はその奇行によって世人の注意を鉱毒間題に集めたのみならず、その狂態によって官憲の注意をそらし、支配層を安堵させたのだった。
中江の奇行にも官憲の圧迫に対すろ保護色といった気味がないではない。
しかし、彼の場合、奇行は飽くまで人間全体を以てする体当り的な現実否定だった。
「東雲新聞」時代の中江は、長髪を蓄えてその上に真赤なトルコ帽を冠り、紺の股引をはき、新聞社名を染め抜いた印半纏を羽織って出社した。演説会に招かれて演壇に立つ時も同じ恰好をしていた。彼の煙草入れには「火の用心」と筆太に書いてあった。
第一回の国会選挙に立候補して一銭の費用を費すことなく当選した中江は、青い綴糸のついた温抱(どてら)を着込んで登院して人々を驚かせた。
「温抱は日本のオーバーコートさ」それが彼の釈明の弁であった。
昼になると、中江は竹の皮に包んだ弁当を出したが、中味は梅干の入った握り飯だった。
このような奇行は、ほとんど売名行為に近い。しかし、中江に売名の必要は全くなかった。時代に対する批判をこういう没常識な形で表現することを許したのは、彼のニヒリズムだったに違いない。中江は、自己を奇型化し、自虐的な変形を施した上で、日本の政界と交渉したのである。
第一回議会の中途で、中江は辞表を提出する。第一回議会は、藩閥政府に対する国民のプロテストを表現するための議会になる筈であった。だが、議会は政府に懐柔されて、政府提出の予算案を651万円の削減を加えただけで通過
させてしまう。中江はこの経過を見て、議会を「無血虫の陳列場」と痛罵し中島信行議長に辞表を提出する。
「アルコール中毒のため、評決の数に加はり兼ね候につき辞職仕候」
この辞表は中江兆民について触れる時に必ず引用される有名な文章である。しかし、これは痛烈な批判でもなければ爽快な弾劾文でもない。彼の憤懣は、直接議会に向けられないで、一旦、内へ折れこんで自虐的な表現となって表出されている。
そこに感じられるのは中江の毒々しく屈折した暗いマソヒズムである。
自分を崇拝している芸者に「金盃」をつきつけた中江の行動はサドのようにも見える。だが、お高く止まった器量自慢の芸妓にではなく、内心彼の方でも好意を持っている女に衆人環視の中で「金盃」を突きつけたところにマゾイズムの気配が感じられるのである。
中江は早世した実弟虎馬の娘を引き取って、これに猿吉という名前をつけている(猿年生まれだったから)。丑年生まれの自分の息子には、丑吉と名づけた。名前は符丁に過ぎないという彼一流の合理主義と、明治期の元勲達が、功成り名逐げた後に下士時代の卑俗な名前を改名し、田中顕助が光顕となり、佐々木三四郎が佐々木高行になることに対する抵抗だったと思われる。
それにしても、姪に「猿吉」とは冗談の度が過ぎる。ここにも一見サデイズムの形を借りたマゾヒズムの臭いが感じられる(彼女の名前は、後に「艶子」と改名された)。
「奇行」によって社会の慣行や道徳を無視し、共同体的規制の枠外に飛び出して辛辣な批判を試みるのは、変則的な奇手として一時的には効果的である。しかし、一種アウト・ロウ的な立場からの発言は、華々しくはあるが地道な生活者を動かすにはいたらない。
彼等はアウトローの派手な言辞を面白がりはするけれど、これを尊重することはないのだ。彼等を動かす為には、彼等と同じ生活者の立場に立ち、彼等と同じ責任を分担しなければならない。中江の嘆きは、このアウトローの恨みに繋っている。
彼は田中正造の言葉として「私が演説すると真面目でも、人が滑稽と思うので困る」と書き、その後に続けて次のように書いている。
「思うに世間此くの如き事誠に多し。荘厳にして酒脱と思われ、謹慎にして奇矯と思われ、無意の言行にして有意の言行と思われ、皮相もて胸中を料られ年中新聞雑報の種子にせられ、影と身と全く別個の両人にて此世を送ろ者幾何人なるを知らず。独り此人のみに非ず」(「兆民文集」議員批評)
この文の趣旨が「独り此人のみに非ず」という最後の一節にあることは明らかだろう。彼も自分に貼りつけられた「奇行家」というレツテルのために、内部で血を流していたのである。
理論的に厳密であろうとすれば、その論説の影響力は小範囲に留まり、戯文と奇行によって世の視聴を集めれば、その影響力は表面的なものに終る。
いずれにしても、啓蒙の効果には限界がある。これは天皇制絶対主義下の啓蒙家に負わされた宿命的な悲劇であった。 
 5
議員の職を辞し、堕落した自由党と完全に手を切った中江は北海道小樽の「北海新報」に招かれて主筆となり、更に身を実業界に投じて札幌で紙商を経営したが失敗している。議員を辞職したときの中江は45歳で、喉頭ガンのため死去したとき55歳だった。だから、中江の「実業家時代」は、10年間に及んだことになる。
この間、彼が関係した事業は北海道山林組、毛武・河越・常野鉄道会社、東都パノラマ会社、中央清潔社などで、時には群馬県に娼楼を開こうとしたことさえあった。注目すべき点は、実業家時代の中江には奇行に類する話が皆無だったことである。彼は好きな酒を断ち、別人のように身を慎んで仕事に精励した。
だが、事業は失敗続きだった。彼は冗談交じりに次のような述懐をしている。
「余の事業におけるや、利益はすなわち他人これを取り、損失はすなわち余これに任じ、その末や裁判・弁護士・執達吏・公売等ぞくぞく生起し来たりてやむ」
彼は自らの貧乏についても、「大飢饉なるかな、朝暮ただ豆腐の滓と野菜のみ」とユーモラスに語っている。
しかし、いかに窮したと言っても、遊郭設置の事業に加わったのは行き過ぎだった。彼もかなり気が咎めたらしく、しきりに弁明に努めている。金持ちや役人には、芸妓を相手に性を楽しむ自由があるのに、庶民には、それだけの経済力がない。公娼制度は、そういう彼らのために制定されたものだから、遊郭を作るのは決して不道徳ではない。金持ち相手の芸妓は廃止すべきだが、公娼はむしろ保護すべきだ、というのである。
公娼制度擁護の苦しい弁明と同じような弁解を、彼は「国民同盟会」についても行っている。
晩年になって中江兆民は、近衛篤麿の主唱する「国民同盟会」に入会している。同会はロシアとの開戦を主張する好戦的な右翼団体であった。中江が国民同盟会に加入した経緯を「良心を持つが故に孤立し、その孤立を脱け出ようとすれば逸脱する」と説明した史家がある(遠山茂樹)。この「逸脱」を責めた門下生幸徳秋水に対する中江兆民の答は次のようなものであった。
「(我は)露国と戦んと欲す、勝てば即ち大陸に雄飛して以て東洋の平和を支持すべし、敗るれば即ち朝野困迫して国民初めて其迷夢より醒む可し。能く此機に乗ぜば、以て藩閥を勦滅し内政を革新することを得ん」
「三酔人経綸問答」時代の中江から見れば、これはとんでもない暴言なのである。「三酔人経綸問答」には、洋学紳士君・豪傑君・南海先生の三名が登場し、中江の説を代弁するのは南海先生だと言うことになっている。だが、南海先生の発言は、国際情勢についてのものが主で、分量としても僅かでしかない。兆民の思想を代弁しているのは洋学紳士君なのである。
洋学紳士君は、「思想という部屋で生活し、道義という空気を呼吸し、論理の直線のままに前進して、現実のうねうねコースをとることを潔しとしない哲学者」ということになっていて、これこそ彼の自画像なのだ。
中江は、洋学紳士君があまり理想に走りすぎて現実を無視しているから、自分としては同調できないと断っておいて、この本の中で延々と洋学紳士君に自説を展開させている。これが中江のよくやる手なのである。彼は本来原理主義者であり、純理主義者だから、本質は過激な「危険思想家」なのだ。だが、聡明な彼は自分の本質をさらけ出すことの危険を常に意識して、自説を述べるに当たって複眼的な見地を披露するのである。急進論と穏健論を併置しておいて、自身を穏健論の側に置くのだ。しかし彼の真意は急進論の側にあるのである。
ところで、洋学紳士君=中江兆民が「三酔人経綸問答」のなかで展開する非武装平和論は、「国民同盟会」の方針と真っ向から対立するものだった。彼は、民主国家が増えてくれば世界国家が生まれ、人民に犠牲を負わせるだけで百害あって一利もない戦争は消滅すると説いていたのである。
中江は今日のリベラル派の主張を先取りするような理論を展開していたのであった。人も社会も永久に進歩し続けるという強い信念を持っていた彼は、世界国家が成立すれば戦争がなくなるだけでなく、刑法も変わり、死刑制度は消滅すると予言している。
洋学紳士君の論敵豪傑君は、「三酔人経綸問答」のなかで、ほぼ「国民同盟会」の主張に近いような発言をしているから、今や中江は洋学紳士君の立場を捨てて、豪傑君のそれにスライドしたような印象を受ける。
豪傑君は、失業武士たちに活躍の場を与えるために朝鮮に出兵すべきだと強調した西郷隆盛の征韓論のようなことを言っている。国内には「新しずき」もいれば、「昔なつかし」派もいる。「昔なつかし」派を動員して中国大陸に攻め込んでここに首都を移せば、日本には「新しずき」の民権派だけが残ることになって、お互いに都合がいいじゃないか、というのである。
自由民権運動の輝かしい理論家中江兆民は、事業に手を染めるようになってから業界と歩調を合わせて反動化し、左翼から右翼に転向したように見える。だが、事情はそれほど簡単ではない。彼が「国民同盟会」に加入したのは、同会が反政友会の旗幟を明らかにしたためなのだ。
中江は、自由党がかっての敵伊藤博文に身売りして政友会になったことに怒りを感じていたから、政友会に反旗を翻す団体にはすべて好意を感じていたのである。
しかしながら中江が「国民同盟会」に加入したことで「反動陣営」に走ったことは否定できない。だが、彼は死期を悟ってから、再度転向して本来の姿に戻るのである。 
 6
明治34年、中江兆民は55歳になっていた。
この年の3月に商用で大阪に旅した中江は、仕事を終えて休養のため和歌浦に遊び、ここでノドに激痛を覚え呼吸困難に陥るのだ。すぐに大阪に戻って医師の診察を受けた彼は、ノドの癌と診断され、余命一年半と宣告されるのである。
5月末になると、窒息を避けるために気管を切開する手術を受け、気管に銀管を挿入されている。この結果、彼は言葉を話すことが出来なくなり、筆談で意志を通じることになる。食物も固形物を受け付けなくなったので、豆腐などを常食とするようになった。
襲いかかってくる痛みを忘れるためには、ペンを取って原稿を書いているのがよかった。それで彼は、死後に発表することを予定して「生前の遺稿」と題する本の執筆に取りかかる。内容はその時どきに思いつくことを題材にした随想録で、好きだった義太夫や芝居について論じるかと思えば、政治・経済の時事問題や人物論に触れ、新時代に生きる日本人の心得について書くというふうだった。
このかなりの分量がある原稿を、彼は8月のはじめには完成しているから、相当乗り気になって筆を進めたことが分かる。兆民がこの原稿を見舞いに来た弟子の幸徳秋水に示したところ、幸徳はこれを博文館に持ち込み、翌月の初めには「一年有半」という題で出版されることになった。すると、これがベストセラーになるのである。
病床で痛みと戦いながら書いた本だから、平生の持論を書き綴っただけのものである。だからこそ、この本には中江兆民という人間の実像が過不足なく現れている。例えば、彼は自分の病気についてこう書くのである。
自分は今業病にかかっている。東京の自宅には、借金取りが来たり執達吏が来たりしている。このように内憂外患が降りかかるのは、自分が明治の社会に不満で、筆や口で攻撃してきた罰が当たったのだろう。だが、自分は、これからもへこたれることなく罵詈病を続けるつもりだ。罵詈病こそ、自分の宿業なのだから・・・・
確かに彼は内憂外患が降りかかる中で、へこたれてはいない。と言って、怒りにまかせて罵詈病を発揮しているわけでもない。淡々と、日本人の弱点や明治社会の問題点を指摘し続けるのだ。
彼が繰り返し指摘するのは、日本人が常識に富み、小利口ではあるけれど、それ以上には決して出ないことなのである。言い換えれば、日本人は哲学を持たず、一貫した原理で動くことがないことを論じている。
兆民はいう、欧米と違って日本には宗教上の争いは少ないし、大政奉還と言うことになれば三百の諸侯が先を争って政権を新政府に返上している、血を流さずに時代を先へ進めるのは日本人が賢明であるためだ、が、これは裏を返せば哲学の不在を示している、と。
西欧では、封建時代に封建社会を転覆させるような思想や運動が生まれている。しかし日本には、長い封建時代を通して封建制を否定するような思想も運動もついに生まれてこなかった。国民が哲学を持たず、ひたすら小利口に生きてきたからだ。
哲学を持たない日本人の軽薄さを指摘してきた兆民は、政党政治の混迷もこうした弱点の現れだと断じる。藩閥政治と闘ってきたはずの自由党や改進党が簡単に政府に懐柔され、果ては伊藤博文に政党ごと身売りするような無惨なことになるのも、政党政治家が目先の利益に目がくらんで大局を見通す哲学を持たないためである・・・・
そして藩閥政府の横暴に触れる段になると、兆民はもう、それまでの平静な調子を保ち得なくなる。藩閥に対する兆民の怒りは尋常ではないのだ。彼は「山県は小黠、松方は至愚、西郷は怯懦、余の元老は筆を汗すに足る者莫し。伊藤以下皆死し去ること一日早ければ、一日国家の益と成る可し」とまで言っている。
自由民権運動家の大半が牙を抜かれて政府にすり寄っているときに、兆民だけがなお権力に対して毅然たる姿勢を保持し続けているのである。
「一年有半」を読んでいて、調子が変わってきているなと思うところもある。例えば、兆民が礼節を守ってまじめに生きることを説いている点で、第一議会にドテラを着て出席した兆民が、今や婚礼・葬式に着流し姿で出席する者が増えてきた現状を嘆いているのだ。彼は一般庶民に礼節を守らせるのも為政者の心がけるべき点だといっている。
真面目に生きよというテーゼは、この本の各所で語られている。欧米の人士ではニュートンやラボアジエ、日本人では井上毅・白根専一を真面目人間の典型にあげて敬意を払い、繁栄する国の国民はみな真面目だと教訓をたれる。
こうしたくだりを読んでいると、中江兆民という男の本質が静かな合理主義者だったことに思い当たるのである。21歳で上京するまでの兆民は人と争うことの嫌いな「君子」で、女児のように温和だった。実業に従事するようになった45歳以後は、酒を断ち身を慎んで良識に富んだ模範的紳士として行動している。
奇人の名をほしいままにした壮年期にも、彼はしばしば旅に出て孤独になることを求めたものだった。その理由を彼は、自分には昔から仙人志願の夢があるからだと語っている。「虚無海上の一虚舟」とは自らを規定した彼の言葉である(松本清張が中江兆民の評伝を書いたのも、「虚無海上の一虚舟」という言葉に惹かれたからだった)。
彼がマイホーム人間だった理由も、「虚無海上の一虚舟」という孤絶感から来ている。時代に同化できず孤絶感を抱いて生きる人間は、マイホーム主義者になる傾きがある。森鴎外もそうだったし、中江兆民もそうだった。
フランス留学中、兆民は月に二回ずつ、欠かさず故郷の母に手紙を書き送ってその安否を気遣い、自身の無事を知らせているし、帰国後も「余の生涯の楽しみといふは、一人の老母に安楽をさせ一人の老母をして随意に此の世を送らしむるより外なし」と語っている。
子供も可愛がった。兆民の避暑法は子供を盥の舟に乗せて、池の中を押し回ることだった。少年時代の彼は独りで井戸の中に入って暑さをしのいだけれども、父親になってからは父子相楽の方法を案出したのである。
「一年有半」の出版後、兆民の病状は悪化した。そんななかで彼は次の著作に取りかかるのだ。このときの様子を幸徳秋水は「続一年有半」の序文に次のように書いている。「日本の名著・中江兆民」(中央公論社)には、その口語訳が載っているので、そこから引用してみよう。
「切開した気管の呼吸はたえだえであり、身体は鶴のように痩せているが、ひとたび筆を取れば一潟千里の勢いである。奥さんをはじめみんなが、そんなにお書きになると、とりわけ病気にさわりましょう、お苦しいでしょうと言っても、書かなくても苦しさは同じだ、病気の治療は、身体から割り出したのでなく、著述から割り出すのだ、書かなければこの世に用はない、すぐに死んでもよいのだと答えて、セッセと書く。
疲れれば休む、眠る、目がさめれば書くというふうであった。病室は廊下つづきの離れで、二部屋の奥のほうに、夜も一人で寝ておられる。半夜夢醒めて四顧寂蓼として人影なく、喞々たる四壁のこおろぎの声を聞くと、すでに墓場にでも行っているようで、心が澄みわたって哲理の思考にはもっともふさわしいから、たいていは夜中に書くとのことであった。
そして日に一時間か二時間かで、病気の悪い時には二、三日もつづけて休まれたが、九月十三日からはじめて、わずかに十日ばかりで、二十二、三日には、はや完結を告げていた。いまさらながらその健筆、じつに驚くべきである。」
こうした無理がたたって病勢は急速に進み、兆民はもう仰向けになることも、横を向くことも出来なくなった。喉頭部が腫れ上がったため、俯せになり両手を枕に置いて頭を支えているしかなくなったのである。彼は「続一年有半」完成後、三ヶ月と持たずに永眠している。
「続一年有半」には、「一名無神無霊魂」という副題がついている。
副題が示す通り、これは彼の信条とする唯物論哲学を述べたものである。彼の唯物論はフランス留学中、フランス唯物論の影響を受けて以来のものだと思われるが、僅か十日で書き流したものだから、中学生にも分かるような平易な内容になっている。
われわれが生きている宇宙は、最初からこうした形であったのであり、誰が創造したものでもない。宇宙を形成する元素は、転々と形を変えて存在し続けるから、この宇宙に終わりというものはない。物質は不増不減、宇宙は無始無終、永遠に存在するのがあるとしたら、元素によって組成された「モノ」だけである。
人間も元素で組成されている。人間の本体は物質で、精神はその作用に過ぎない。だから、人間が死んでも霊魂は残るというような考え方は、唐辛子がなくなっても辛みは残る、あるいは太鼓がなくなっても音だけは永遠に残ると言うに等しい妄言なのだ。
人が死ねば、その意識は無に帰して痕跡をとどめない。シャカ・イエスの霊魂は死ねば忽ち無に帰するが、「路上の馬糞は世界と共に悠久で有る」。生きているうちは自己社会の改善につとめ、死んだら綺麗さっぱり無に帰する。これ以外に入間の生き方はあるか。
「続一年有半」は、こうした単純明快な原理を比喩を用いながら多方面に押し広げるのである。
この世界は、見た通りのもの、これだけのものでしかない。人間社会を規制する永遠の道や規範のようなものはない。神や仏もいないとしたら、社会は誰によってでもなく人間自身の努力によって良くして行くしかないではないか。彼は癌にかかって余命三ヶ月足らずという段階で、泰然としてわが国最初の唯物論哲学入門書を書き、ありもしない絶対者などに頼ることなく、自力で世界を変えていくことを世に訴えるのだ。
死が目前に迫っているにもかかわらず、彼は個人的な安心立命の必要やら、「死後の自分の都合」を考慮に入れて思考しなかった。人類のために甘い夢物語を語ることもなかった。彼は所与の単純平明な事実を基盤とし、万人の納得する公理に従って考えただけである。その思考の赴くところがどうなろうと、その結論から逃げなかったし、その帰結をごまかしたりしなかった。
人間の問題は人間自らの手で処理し、「自己社会の不始末」は自分の手で処理して行くしか方法はない。すべては自分の手で播いたタネである。責任を他へ転稼する訳にはいかないのだ。
唯物論は、合理主義・純理主義の行き着く先にある哲学である。兆民はためらうことなくこの哲学を受け入れたが、唯物論を受容するには、精神や魂の問題についてある種の見切りが必要だし、人生観上のいさぎよさも求められる。いさぎよさという点で、兆民ほど徹底していた人間はほかになかった。
唯物論を受け入れ、自己と世界に対してキッパリ見切りをつけたときに、内面の静謐が訪れる。物もクリアに見えてくる。兆民が明治という時代をリアルに眺め続けることが出来たのも、唯物論者の静謐な目があったからだった。
元々、中江兆民は孤独を好む物静かな人間だったから、啓蒙家・民権運動家として活動を続けるためには、本来の自分を踏み出したところで別の人間になる必要があった。シャイで小心な人間は、追いつめられると大胆な行動に出る。それと似た心理で、彼にとって異界と感じられる政界にあって、兆民は本来の性行とは反対の奇人の役を演じ続けたのである。時代に対する怒りが激しくなるにつれて、彼の奇行も激しくなっていった。
彼の奇行がしばしば行き過ぎてマゾヒズムを感じさせるほど陰惨な色彩を帯びる。不自然な自己劇化を繰り返したためである。
学生時代の私は、啓蒙家・民権運動家としての兆民に目を奪われて、彼が二重底の人間だとは思い至らなかった。中江兆民には、マスコミをにぎわす奇行家という面と物静かなマイホーム主義者という面があり、前者は後者によって支えられていたのである。21歳で上京するまでの兆民と、政界から退いて実業に従事した45歳以後の兆民は謹厳実直なマイホーム主義者だった。彼の生涯は始めと終わりで繋がっている円環型の構造をしており、奇人中江兆民はその上に咲いたあだ花だったのである。 
 
維新雑話

 

幕末雄藩の改革
薩摩藩 / 調所広郷
幕末における薩摩藩の藩財政は、いちじるしく窮乏を極めていた。文政年間には、負債500万両、年間利子は60万両という途方もない借金地獄であった。この借金の重荷に対して、薩摩藩の年間経常収入は、14万両前後であったのだから、絶対に返せる金額幅ではない。
この事実上、絶望的な返済に対して、薩摩藩は藩政改革を推進するにあたって、切り捨てた。薩摩藩の藩政改革の中心事物となった調所広郷(ずしょひろさと)は、この負債を踏み倒す形となる、「250年の年賦返済、および無利子とする」などと勝手に決めて、商人に一方的に通達した。これには、薩摩藩に融資していた大坂の商人たちを混乱させた。倒産する商人まで出したが、薩摩藩には何の沙汰もなかった。調所は幕府への介入をなくすために前もって、10万両を献金しており、薩摩藩への心証をよくしていたのだ。
借金返済への出費を抑える一方で、税収向上のため、調所は物産の確保に力を入れた。まず、薩摩藩の名産・黒砂糖の専売強化を図るため、奄美三島(大島・喜界島・徳之島)への管理を徹底し、ついで、琉球を通した中国の清国との貿易を盛んにした。さらには、密貿易にまで手を出し、莫大な利益を藩にもたらすことに成功。薩摩藩は西南雄藩への仲間入りを果たしたのである。
島津斉彬の雄藩強化
幕末期の諸藩の中で名君として名高い、島津斉彬は、藩主として采配を振るったのはごく短い期間だけであった。それもこれも、斉彬の父・島津斉興がいつまでも藩主の座に居座っていたからだった。その上、父・斉興は、優柔不断にも愛妾・お由良が生んだ久光に家督を継がせたいと言い出してきたから、薩摩藩内が二派に分かれて、継嗣問題が激化した。
なぜ、藩主・斉興が長男・斉彬を廃嫡にして、久光に家督を継がせたいと所望したのにそれを反対する藩士が出たのか?それは、斉彬が英明闊達な人物であったからだ。海防の危機や雄藩への推進を成すには、英断を下せる斉彬の方が藩主として、ふさわしいと考える見識の明るい藩士たちが推したのだ。いわゆる改革派の藩士たちが中心である。一方、時代の見識に暗い保守派の藩士たちは、主従第一主義を通して、藩主が推す久光を藩主に迎えようと運動した。
この継嗣問題の激化は、単なる藩内の利害問題ではなく、藩興亡の危機として、激しい抗争劇となった。藩主・斉興は、嫡子・斉彬を擁立しようとした藩士たちを強硬に弾圧した。切腹13名を出し、その他遠島など処罰が多数に上った。大久保利通の父もこの弾圧事件で弾圧を喰らい遠島の処分を受けている。
この薩摩藩の不穏な騒動に幕府が介入してきた。時の老中・阿部正弘が仲裁に乗り出し、藩主・斉興を隠居させ、斉彬を藩主に任命したのである。阿部は、諸外国の事情に通じ、英明の誉れが高い斉彬を藩主につけることで、対外政策に苦しむ幕府の支えと成ってくれるよう斉彬に恩を売ったのであった。
42歳で藩主となった斉彬は、矢継ぎ早に雄藩強化の方策を打ち出していった。反射炉・溶鉱炉の建設をはじめ、鉄鋼・各種ガラスの鋳造などを盛んにし、軍需・民需の両物資を生産する力をつけた。多数の近代製造工場を設け、洋式技術も積極的に導入していった。これら一大工場群は、集成館(しゅうせいかん)と呼ばれ、薩摩藩が西南雄藩の筆頭と掲げられる由縁となった。
この斉彬の雄藩強化による成果は、戊辰戦争など激動の時代が到来した時に、いかんなく発揮されてゆく。まさに島津斉彬あっての薩摩藩と成るのである。
長州藩 / 村田清風
幕末期における、長州藩の財政事情も他藩と同じく、窮乏を極めていた。負債額は銀8万貫を超え、いっこうに返済のめどは立っていなかった。税収力を強化すべく、長州藩は専売制の強化を断行したが、すでに長年の疲弊生活を強いられていた民衆は、この藩の圧迫に憤慨し、六万人に及ぶ大一揆が勃発した。
この一揆は3ヶ月以上にわたって藩内に混乱を招き、事態の収集にあたった藩でも、この民衆の反乱を重く受け止めた。その後の藩政改革を推し進めるにあたって、天保の大一揆に対する失敗を踏まえて、対民衆政策を考慮した政策が実施されていく。
”そうせい侯”で知られる長州藩主・毛利敬親は、藩政改革の切り札として、村田清風を投入した。村田は、民衆への理解と藩士たちの結束によって、藩政の改革を成就しようと考え、藩の財政状態を藩士たちなどに公開し、改革に対する意見を広く求める方策を打ち出した。
事は急を要するだけに藩の役局などで意見を提出しない者がいれば、役儀を罷免するという強制的な処置を取る一方、有能な人材は身分によらず重く登用する処遇を成した。こうした実力主義の人事改革を藩内に提示したことで、藩政改革への活発な議論が成されるようになり、藩内の風潮も一新された。
藩の流れを改進へと転換することに成功した村田は、負債の整理を進めるとともに緊縮財政を実行し、新たな藩による事業も展開した。下関に越荷方(こしにかた)を設置し、ここを通る藩外の船を対象に金融兼倉庫業を営み、莫大な利益を藩にもたらした。その一方で、民衆への圧迫を緩める対民衆政策を打ち出し、専売制の圧力を弱める政策を実現させた。
この一連の藩政改革は、長州藩全体で改革を成し遂げるという独特の風潮を生み出し、荒削りながら、すぐれた実利を生み出す実力主義の活発な人材を生み出す源泉となった。また、民衆の気概が強く藩政に反映される土台も強化され、積極的な政治意識を持った民衆を生み出すことへとつながり、幕末期に活躍する奇兵隊を誕生させる要因となった。
以後の長州藩の改革は、富国強兵という軍政両面へと拡大強化されていった。藩領沿岸の海防体制の改善と近代兵器による軍備強化、洋式兵制の採用、さらには洋式造船を興し、大砲・西洋銃の鋳造などを成した。
積極的な富国強兵策により、長州藩は大いに自信をつけ、西南雄藩の中心的な存在として、幕末動乱に覇を唱える存在となった。尊攘思想が全国に広がった時、その旋風の中心となり、攘夷の先駆けを成す勢いを現したのも、長年の富国強兵策によって、改革成功を成した自信満々の境地から発せられたことは言うまでもないことである。長州藩の強い気概が日本改革の推進剤となっていったことから見ると、長州藩が取った藩政改革は、素晴らしい成果をもたらしたことを意味し、同時に全国随一の政策を取っていたことを証明しているのである。
佐賀藩 / 鍋島閑叟
実質石高60万石とも70万石とも言われる佐賀藩でさえ、幕末期の藩財政は窮乏していた。藩の財政も藩士たちの生活もともに窮乏し、商人たちへの支払いも日々事欠くほどであった。
そんな状況の中、1830年(天保元年)に藩主となった鍋島閑叟(なべしまかんそう※直正)は、藩主が主導となって、藩政改革を断行していった。閑叟は側近にして、自身の学問の師と仰ぐ古賀穀堂(こがこくどう)から方策案を受け、それを藩政で実施していった。古賀は、藩政改革の要として農民を縛りつけている小作料の支払いをなくすことを主張し、地主制度の悪循環をなくさせ、均田制による理想的な統制を図ることを勧めた。閑叟はその古賀の方策案を採用し、藩内の反対を抑えるべく、自らが指揮を執り、実施に踏み切っていった。
小農の保護を推し進めていく一方で、藩庁の人員整理を行い、藩の大きな出費となっていた俸禄米を減らした。小農統治の改正を成し、均一な年貢徴収を確保したものの負債整理は、はかどらなかった。
そこで、閑叟は新たな資源による出荷品の増強を図ることにした。すでに一部の諸藩では、石炭を使い、工業稼動の原料としていたことから、佐賀藩で採掘される石炭を他藩に出荷することで莫大な利益を求めた。まず、松浦郷や高島・福母で採れる石炭の採掘量を増産させ、出荷量の安定を図ると共にその他の名産も他藩へ売り込み、多重による利益拡大を図った。白蝋(はくろう)や小麦、陶器など佐賀の地、特有の名産も売れ行きを伸ばし、藩財政は瞬く間に黒字へと好転した。
莫大な利益を得た閑叟は、自ら好む西洋技術を積極的に藩内に取り込み、多くの人材を育成させ、西南雄藩の仲間入りを成した。蘭方医学や洋式兵学、砲術の研修を藩士に奨励し、技術者の育成を目指す一方で、藩内に反射炉を築造して、大砲鋳造の量産化に国内ではじめて成功した。
ペリー来航後、海防力強化を急務とした幕府が、国内最先端を行く佐賀藩の大砲鋳造技術に目をつけ、大砲購入の発注を出すなど国内海防に大きな影響力を持った。また、幕府が独自に反射炉を築造するにあたって、佐賀藩から技術者を招いて、技術指導を仰ぐといったことも行われ、佐賀藩は国内で西洋技能における第一人者といった存在となった。長崎伝習所が設置されると佐賀藩でも研修生を出し、西洋技術を学ばせていたが、それを教授する外国人技術者が「佐賀藩の伝習生が最もすぐれ、最も進歩している」と高評するなど閑叟の西洋技術の研修奨励の方策が大きな成果を挙げている。
熱心な技術修練を藩政改革の主軸として推進した閑叟であったが、技能の流出を防ぐため、”二重鎖国”という他藩にはない一風変わった規制を藩内に布いている。この禁令の下に、優秀な人材が幕末動乱の間、ほとんど活発な運動を展開できなかったことは、まことに残念ではあるが、この藩士たちの運動を抑えることで、水戸藩や土佐藩に見る逸材の損失をなくせたことは、一定の評価を与えられる方策であったといえる。
水戸藩では、武田耕雲斎、藤田小四郎ら天狗党の逸材を失い、土佐藩では吉田東洋、武市半平太ら逸材を失っている。これら逸材の損失を抑えた佐賀藩からは、維新後に大隈重信、江藤新平、副島種臣など優秀な人材が日本近代化に大きな功績を残している。
土佐藩 / 吉田東洋
土佐藩での藩政改革は、門閥派による抵抗と勤王派による抵抗という二重の抵抗因子がいたため、その推進には困難を極めた。
まず、土佐藩の藩政改革を志したのは、山内豊煕(やまのうちとよてる)であった。1831年(天保2年)に豊煕は、若手の馬淵嘉平(まぶちかへい)を登用して、藩の財政健全化を推進させたが、反対派からは「おこぜ組」として手ごわい反発を喰らい、ついには改革派の解散・処罰という憂き目を見ている。
一度目の藩政改革が失敗に終って、まもなくして名君として名高い山内豊信(やまのうちとよしげ※容堂(ようどう))が藩主となり、二度目の藩政改革が開始された。容堂が藩主となったのは、1850年(嘉永3年)であったが、すぐには藩政改革を起こすことはできなかった。それは、土佐藩内で権勢を振るう保守派門閥層の力が強く、いかに藩主とはいえ、改革推進を断行することは難しい状況であったからだ。
やがて、藩主としての権勢を取り戻した容堂は、抜群の政務力を持つ吉田東洋を起用して、門閥派の反発を抑えながら、改革を推進していった。藩内の反対者による改革反対を抑圧して、改革する独自の方策を成した土佐藩は、徐々に改革の成果を挙げ、西南雄藩への仲間入りを果たすのであった。こうした改革の支持者は中間身分の藩士層であり、土佐藩独特の階級制度が背景にはあった。そもそも土佐藩の成り立ちは、関ヶ原の戦いにて、東軍についた山内一豊が西軍についた長宗我部氏の改易にともなって、土佐統治に入ったのが、始まりで、土佐一国支配を命じた徳川家への恩義は多大なものがあり、幕末期に入っても佐幕派としての思想が藩上層部を支配した。
しかし、もともと土佐国は長宗我部氏が支配していた土地で、長宗我部氏が改易となっても、その家臣団はそのまま土佐に残った。長宗我部氏の後釜として他方から乗り込んできた山内氏は、直臣たちを土佐藩の上級藩士として、起用し、土着の旧長宗我部氏の家臣たちには、その風下に置く中級以下の藩士と定めた。そのため、藩政の権力は常に山内派藩士たちに握られ、旧長宗我部氏家臣団の藩士たちには、いっこうに有利な条件での政権にならなかった。この水と油の状況が傲慢で保守派の門閥が藩の上層部を支配し、改革がなかなか進まなかったのである。
土佐藩では、上層部の藩士たちは佐幕派で、中間層以下の藩士たちの間では勤王派が主流を占めた。上層部の藩士たちが佐幕派なのは、徳川幕府によって、土佐統治を得られたという古い恩義から由来するもので、逆に中間層以下の藩士たちは、徳川幕府によって、長宗我部氏は改易となり、山内氏家臣たちの風下として生きていかなくてはならなくなった由縁から幕府を憎む勤王派となっていったのである。
坂本龍馬も中岡慎太郎もともに中間層以下の藩士で郷士と呼ばれる階級であった。彼ら中間層以下の藩士たちが中心となって結成されたのが、土佐勤王党である。武市半平太(※瑞山)が盟主となり、土佐藩による勤王派運動を京都で展開していくのだが、佐幕派の吉田東洋の弾圧に遭遇すると戸惑うことなく、藩の権勢を誇った吉田東洋を暗殺するという暴挙を成した。この事件は土佐藩では藩の内部で、上層部と下層部とのいがみ合いが尋常ではないということを示しており、旧来からの積年の恨みを晴らした形でもあった。その意味で、土佐藩の藩政改革はまずまずの成果を挙げながら、藩全体の理解を得ることができず、命がけで行わなくては成らなかったところに特色がある。
水戸藩 / 藤田東湖
水戸藩の藩政改革は、天保の改革に際して、いち早く着手しており、幕府や諸藩の改革の手本として大きな影響を与えた。国内に改革旋風を巻き起こした水戸藩の改革は、藩政だけに留まらず、思想的改革も同時に成した所に大きな特徴を見る。
後期水戸学の改革論は、尊王攘夷思想の根幹を成し、幕末に活躍する志士たちのバックボーンとなっている。
水戸藩の藩政改革の始まりは継嗣問題が解決した後からである。すなわち、幕末藩士たちの活眼の師・徳川斉昭が継嗣抗争に打ち勝ち、九代藩主となった1829年(文政12年)から改革推進が成ったのである。
天保の改革をスタートさせた斉昭は、まず逸材の人事登用から始めた。藤田東湖・会沢正志斉ら改革派の藩士たちを起用して、多方面にわたる藩政改革を推し進めたのである。まず、農村復興という地域繁栄が藩全体を活性化させると考え、郡奉行の人事を刷新して、政務の回転速度を上げ、藩政の改革が藩内隅々にまで行き渡るようにした。欧米諸国の動向も察知して、海防の危機を予見して、軍備増強にも積極的に着手した。高島流洋式兵学のもとで鉄砲鋳造や銃隊を強化する編成を成し、近代軍制の導入を進めた。ついで、斉昭は大船建造の解禁を幕府に要請し、解禁が成ると洋式軍艦の建造を行い、海防強化を図るため、藩領沿岸に藩士たちを配備する人事移動も遂行した。
今までになかった新しい藩政改革を他藩に先駆けて行ったことで、幕藩体制の崩壊を危惧した幕府は、改革の行き過ぎをとがめ、1844年(天保15年)に斉昭を藩主権の座から失脚に追い込む。以後は改革推進派と門閥保守派との抗争が激化し、その収集が次第に困難と成っていく。藩士一人一人を統制することができなくなったのは、尊王攘夷思想を藩士に徹底的に浸透させたことで、藩士個人の独自性が強調され、藩論の統括を困難とさせたことに起因する。特に1855年(安政2年)に起きた安政の大地震によって、藤田東湖と戸田忠敞(とだただたか)が圧死してからは、藩内の重石が取れたように空中分解の危機を招いた。
そして、徳川斉昭が没してからは、完全に藩政の中心を失い、藩の統制は空中分解をきたした。改革派と門閥派の抗争に幕府の支援を受けた保守派が加わり、三つ巴の覇権争いとなり、ついには、改革派からさらなる過激な尊攘を謳う天狗党が結成され、武田耕雲斎と東湖の孤児・藤田小四郎を盟主として、幕府や諸藩を巻き込む兵乱を起こす暴挙を成した。
尊攘派の総本山として、幕末志士たちの思想の根源となった水戸藩ではあったが、総本山の抗争は、藩士たちが互いに自分の思想を正当と見なしたことから始まる、意地の張り合いとなり、藩の全エネルギーを内部抗争に費やしてしまったところに不運があった。”幕府のご意見番”としての立場から、佐幕派の思想を最後まで捨てきれなかったところに尊攘派としての活動がいつまでも煮え切らない事態を招いたのである。その意味で日々抗争に明け暮れた水戸藩は、国事への憂いがもたらした悲劇の藩であり、藩士一人一人が真剣に日本の行く末を考えあぐねた憂国の士の巣窟であった。
維新後に活躍する人材を事欠くほど、水戸藩内の抗争は激しさを極めたが、命がけで国政を憂いだ姿勢は、西南雄藩らに大きな勇気を与えたことは確かである。国政第一主義の思想が西南雄藩に大いなる勇気を与え、幕府でも朝廷でもとにかく、動かして国難の危機を脱する改革心を燃えたぎらせたことから、水戸藩の命がけの抗争も無駄ではなかったといえるだろう。 
和宮降嫁と坂下門外の変
1860年(万延元年)は、幕府にとって権勢が揺らいだ危機的な年となった。桜田門外の変で大老・井伊直弼が浪士たちに斬殺されたことで、幕政の権威は大いに失墜した。幕政に反感を持つ尊攘派志士たちは、幕府転覆を成せる力量を天下に見せつけた事件だっただけに幕府も失墜した威厳を取り戻す必要に迫られた。
そこで幕府は、前々から議論に上がっていた皇女・和宮(かずのみや)降嫁を実行に移すべきと判断し、朝廷に対して、和宮降嫁を願い出た。尊攘派の一派の反感を回避し、公武両極による共同政策にて、国難を乗り切ろうと考えたのだ。幕府側の一方的な方策ではあったが、朝廷内からも積極的に朝廷が国政参加を成せるとして、公武合体に意欲を見せる公卿も多少いた。
幕政の実権を握っていたのは、老中・久世広周と老中・安藤信正であった。皇女降嫁を推進し、公武合体にて幕政の統制を図ろうとしたのである。一方、皇女・和宮の兄・孝明天皇は、幾度となく降嫁を要請する幕府に対し、断固として断り続けていた。理由は、和宮がすでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約済みであり、関東の地が夷人の徘徊する野蛮な土地と聞いて、恐れていたからだった。また、和宮とは生母が違ったため、その遠慮もあり、佐幕の考えはあっても、公武合体の象徴として、和宮降嫁は有り得ないとしていた。皇女・和宮自身も固く降嫁を辞退していた。
しかし、和宮降嫁を天皇に進言する公卿がいた。公卿随一の策士家として名を内外に馳せていた岩倉具視である。公武合体が成せば、国政へ積極的に朝廷が関わっていける上、天皇の意向も幕政に反映できるというのが岩倉の主張であった。和宮降嫁を許可する代わりに今後の外交・内政の施行前に、必ず朝廷へ奏聞(そうもん)あるべきことを幕府に約束させるという条件をつけるところにみそがあった。幕府に国政を任せることには変わりなかったが、幕府に国政を委ねているという形を内外に再認識させることができ、幕府は国政を代理で預かるという実状を明確化させる効果が期待できた。
この岩倉の進言を聞き入れた孝明天皇は、幕府に和宮降嫁を認可するにあたって、その条件を提示し、1860年(万延元年)7月、幕府は和宮降嫁が実現すれば、7年〜8年ないし10年以内に諸外国と結んだ条約を破棄するか、攘夷を実行することを朝廷に約束した。幕府が条件を飲む意を受けて、孝明天皇は和宮降嫁を決意した。和宮当人は「天下泰平のため、誠にいやいやの事、余儀なく御受け申し上げます」と述べ、不本意なれど公武合体にて天下の平穏が成就できるならばと降嫁を承諾した。
こうして、公武合体の象徴は、内外の不安をあおりながらも、新たな国政状態を生み出すための絆として、歴史的転機となるできごととなった。和宮と有栖川宮の婚約は解消され、有栖川宮の面目はなくなってしまったが、その後、戊辰戦争の時、有栖川宮は官軍総督となり、江戸へ東下していったことで、一応の面目回復を成している。
空前絶後の降嫁大行列
1861年(文久元年)10月、皇女・和宮の行列は、京都を出発し、一路江戸へと向かった。この時の行列は一大行列を成し、護衛も物々しいほど厳重なものと成った。それは、過激な尊攘派志士たちによって、幕府へ人質同然で降嫁される和宮を奪還すべく、行列を襲撃する計画が成されていると風評が飛んだからだった。
この噂のため、幕府は幕府の威信にかけて、行列の安全を守るため、御輿の警護に12藩をつけ、沿道の警護には29藩を動員して、絶対安全の確保を成した。このようないきさつにて、空前絶後の大行列が成り、大行列の長さは延々と50Kmにも達したという。一つの宿を行列が通り過ぎるのに4日もかかったというのだから、どれだけの人数が警護として動員されたかわからないほどだ。一行は11月に江戸へと到着し、婚儀は翌年の1862年(文久2年)にとり行われた。皇女・和宮と将軍・家茂はともに17歳であった。皆が心配した夫婦の仲は、意外にも仲むつまじく相思相愛であったようだ。和宮は公武合体という平和の使命感もあり、若くして将軍と成り、さまざまな難局に苦慮する夫・家茂をよく支えたという。将軍・家茂も健気に幕府と朝廷の仲を取り持つことに努力し、自分を支えてくれる和宮を愛し、細やかな気配りを成し、和宮の労苦をいたわったという。
坂下門外の変
公武合体の象徴となる皇女・和宮と将軍・家茂の婚儀が無事終ったことで、幕臣たちもようやく一時の平穏を取り戻した。しかし、この婚儀が成される一ヶ月ほど前、和宮降嫁を推進した老中・安藤信正が坂下門外で浪士たちに襲撃されるという事件が起きていた。この坂下門外の変は、過激攘夷派の志士である水戸藩浪士4名と宇都宮藩士・大橋訥庵(おおはしとつあん)の門下生2名の合計6名で襲撃した。
襲撃計画は桜田門外の変と同じく、直訴を装って近づく手口で襲撃していたが、わずか6名という小勢であったため、壮絶な斬り合いの末、浪士たちは全員討死し、襲撃は失敗に終った。それでも安藤は、襲撃者たちから幾度となく斬りつけられ、背中に三ヶ所の傷を負いながら、素足のまま坂下門へと逃げ込んだのである。襲撃者たちは、老中・安藤信正ら幕臣が強引な和宮降嫁を実現させた上、朝廷内を操作して、孝明天皇を廃帝にしようと企て、国学者・塙次郎(はなわじろう※塙保己一の子)に帝の先例を調べさせていたと決め付け、暴挙に及んだ次第という。この一件で安藤信正は、幕府の威光を失墜させたことなどの失策にて、後に老中を罷免されている。
尊攘派思想が全国に浸透し、尊攘の過激な志士たちによって、もてはやされるようになった朝廷の存在を幕府も無視できなくなった形で和宮降嫁が実行されたことは、幕政の権勢が次第に弱まりつつあることを暗示させていた。公武合体という手段でしか、幕府の体面を保つことができなかったことは、幕府の権勢を下げる一方で、朝廷の権勢を復権させる始動が成され、やがては尊攘派の志士たちが倒幕へと向かわせるきっかけともなった。その意味で、和宮降嫁の歴史的転機の意義は大きなものであり、幕府権勢の歴史の中で、一大転機と見るべきであろう。公武合体を成した幕府の政策は常に朝廷によって、振り回されることとなる。統一国家が成されなければ、中国の清国の二の舞を喰らうことが必至との判断が志士たちの間でついてきた時点で、公武合体による朝廷と幕府の二局政権の運命は崩壊という終焉に決まったのである。
公武合体による朝廷と幕府による二局政権のうち、どちらを統一国家の正当な政権として存続させ、どちらを切り捨てるべきか、志士たちが判別に入った時、なんら迷うことはなかったであろう。尊王攘夷の思想を受け継ぐ志士たちは、国家統制の元帥はただ一つの機関にて古来から執り行われてきたことを知っていた。尊王の心は、外夷にさらされた国家存亡の危機に際して、揺ぎ無い正当な思想であり、政権代理の幕府が存続できる正当な理由は見当たらなかったのである。英明闊達な最後の将軍・徳川慶喜もそのことをよくよく認知していた。だからこそ、大政奉還を成して、国家統一を素早く成し、近代国家を歩むことを祈って止まなかったのである。その意味で、公武合体は国家統一が近代国家の原則としてある以上、時代が経過する上で自然崩壊する運命にあったのである。ある意味で、尊攘志士たちにとって、明瞭に倒幕を決意させることができたのも、公武合体によって、二局政治が愚策であると判断させることを促し、幕府がもはや余分な機関でしかないことを再認識させる効果をもたらしてくれた意義深い政局状態であったといえるだろう。 
久光、幕末を旋風す!
名君・島津斉彬を亡くし、西郷隆盛までをも欠いた薩摩藩でぼんやりとした時間だけが流れていた。雄藩筆頭としての幕末活動を成せないでいる久光に一つの光が差した。知恵者・大久保一蔵(利通)を側近に迎えた久光に一大決起が成る。藩軍を率いて上洛し、政局の表舞台に立とうという壮大な計画であった。大久保抜きに成り立たぬこの軍事行動は、久光に一躍、脚光を浴びせる好転を見せた。
壮絶!寺田屋事変
”貧乏浪士が政局に口出してなんとする!”久光のでかい罵声とともに尊攘派志士たちをどやしつけ、封建秩序を乱すならず者の横行を許さない厳しい姿勢を現す。この久光の姿勢が寺田屋事件を生んだ。過激尊攘派の薩摩藩士たちが突出するとこれを断固弾圧に出た久光は、斬り捨ててでも秩序を乱すやからを許さず。秩序を持って、公武合体を成し、攘夷実行を成そうとする久光の姿勢は好評を博す。朝廷からも信任を取り付け、ついには幕政改革を促す勅命を幕府に受け入れさせる武力強請に打って出た。久光が目指す具体的な姿勢は、諸藩の大名たちの共感を得て、新たな公武合体政権樹立へ向けて、日本全土が動き出す。
寺田屋事変で得た久光の成功と失敗
政局の表舞台で一躍、脚光を浴びた久光は、幕政改革を推し進め、公武合体政権を樹立させ、国内の秩序を乱さずに攘夷を成す新攘夷論者として世間でもてはやされた。寺田屋事変で見せた強硬姿勢がもたらした成功であり、そのまま、幕府までをも武力で威圧し、幕政改革の要求を受け入れさせた。順風満帆の久光は、帰京に際して、生麦事件を起こし、またもや過激派尊攘の志士たちを熱狂させた。しかし、この事件が元で、後に薩英戦争が起こり、攘夷運動は急速に衰えていった。一方で久光が掲げる公武合体政権も久光が得意とする独裁英断の姿勢が他藩の大名と確執を生み、歩調体勢を取れないまま、解散する憂き目を見る。終始一貫して強硬姿勢で何事も突っ走って行った久光であったが、それによる成果は上がりもし、下がりもしたのである。久光の政局での成功と失敗、光と影は強硬姿勢によって、生み出されたものだったのだ。 
生麦事件
1862年(文久2年)8月21日に勃発した生麦事件は、起こるべくして起こった事件であった。生麦事件が起こる前から、夷人斬りが国内で盛んになっていたからだ。生麦事件が起きる前年には、水戸浪士たちによる東禅寺のイギリス公使館襲撃事件が起こっていた。また、生麦事件が起こった年には、松本藩士によるイギリス公使館水兵殺害事件が起き、ついで、フランス士官傷害事件などが連続して起こっていた。さしずめ生麦事件が起きた当時の日本国内の状況は、夷人斬りが横行した時期の真っ只中であり、攘夷運動を幕府に強請するだけあって、薩摩藩が堂々と夷人斬りを成しても不思議はなかった。生麦事件でイギリス人を斬った薩摩藩士の一人は、みな夷人が斬りたくてしびれを切らしていたと回想しており、他の藩士が夷人を切ったと知り、自らもごちそうを得た心持ちがしたと述べている。当時の尊攘派志士たちの心持ちをよく表しており、尊攘の勢いが最盛期に達していた時期を物語っている。
勃発!生麦事件
1862年(文久2年)8月21日午後2時ごろ、生麦事件は勃発した。事件現場は、江戸から帰京の途についた薩摩藩島津久光の一行400名が神奈川に近い生麦村にさしかかった地点で起こった。久光は孝明天皇の勅諚をたずさえた勅使の大原重徳を江戸まで護衛し、幕府に幕府改革を成すよう強請する役目を務めた。幕府は久光が率いる薩摩藩軍の武力に脅された形で、しぶしぶ攘夷実行や久光が希望する人材の登用を承諾した。久光は幕府を屈服させた心持ちを持って、意気揚々と”凱旋将軍”ごとく帰京の途についていた。攘夷実行を強硬に主張する久光の行列一行である。幕府は外国人居留地がある横浜を通る久光一行が心配で、わざわざ帰路につく久光に対して、くれぐれも外国人などを斬らないようにと忠告していた。しかし、幕府の心情も知らぬ顔で、生麦事件を起こしてしまった。
生麦事件で斬られた外国人は、上海在住のイギリス人商人・リチャードソン、香港在住商人の妻・ボロデール婦人、横浜在住の商人・クラークとマーシャルの四人であった。四人は横浜方面から川崎方面へ向けて、馬にて進み行き、川崎大師を見物する目的だった。実は彼らは、その日のうちに上海に発つはずだったが中止となったため、その日が太陽暦で日曜日であったことも手伝って、日本国内の観光を楽しむことにしたのだった。夷人斬りが横行しており、幕府は外国公使に対して、薩摩藩の行列が通るからあまり出歩かないようにと通達していた。彼ら四人が外出すると聞いて、リチャードソンの友人は、危険だから外出を控えるように忠告したが、リチャードソンは上海で東洋人の扱いには、自信を持っていたため、これを聞き入れなかったという。
生麦事件の経過
事件の詳細については諸説があるが、当時イギリス公使館の通訳官として働いていたアーネスト・サトウの記録によると、次のような事件経過をたどったようだ。
リチャードソンら外国人4人は、薩摩藩の大名行列の先頭に遭遇し、薩摩藩士に「脇へ寄れ」と注意されたという。そこで彼らは道路の脇へ寄って、目的地へ向かって、進んでいったという。すると彼らとは逆の方角へ進んでいく大名行列とずっとすれ違いながら通ることとなり、ついには久光の駕籠が見えてきた。それを見ながら駕籠の脇を通っていこうとした四人一行に対して、今度は藩士の一人が「引き返せ」と注意してきた。言われたとおり四人は、馬首を返そうとした時、行列中にいた数名の藩士たちが突然、抜刀して斬りつけてきたという。
また別の資料によれば、外国人四人は、行列とすれ違いながら進んでいくと、行列の本隊が道路の幅、全部を使って進んできたので、左側に寄って、立ち止まり、行列の本隊が通り過ぎるのを待っていた。その時、前にいたリチャードソンとボロデール婦人が馬首を並べて、行列が通り過ぎるのを待っていると道の外側に位置していた婦人の馬が道を踏み外して、道路の脇にあるくぼみに落ちかけた。そのため、婦人は馬を道路に戻すために前へ出た。その様子を見ていた藩士の一人が彼らへ向かって、何か手まねをしている。後方にいたクラークとマーシャルはこれを見て、「引き返せ」「並行するな」と前にいた二人に注意した。すると前にいたリチャードソンが馬首を返したところ、藩士たち数名が抜刀してリチャードソンに斬りつけてきたという。
他の資料では、外国人四人が薩摩藩の行列とすれ違いながら進んでいくと、ちょうど道幅が狭い所に出くわし、外国人たちはギリギリまで道路の脇に寄って、行列が通り過ぎるまで避けようとしていた。しかし、なかなか行き過ぎず、藩士たちの殺気を感じ取り、危険と判断して一行は馬首を返して、もと来た道を引き返そうとした。狭い道で馬首を返したため、一行は行列の中に割り込む結果となり、ついには藩士たちに斬られる始末となったというのである。
いずれの説も外国人たちは、馬上で大名行列が通過するのを待っていたことになるが、その行為事体が薩摩藩士たちを過剰に反応させてしまう結果を生んでいる。外国人四人が斬られる前に薩摩藩の一行は、ユージン・バン・リードというアメリカ人とすれ違っている。リードはこの時、自分を見る藩士たちの気配が物々しく、殺気立っているように感じ、危険を回避すべく、自分の周囲にいた日本人民衆が土下座して行列が通り過ぎるのを見て、これに習い下馬して、日本人民衆の間に入って、脱帽した状態で行列が通り過ぎるのを待ったという。こうして、異様な殺気が漂う大名行列を避けたというのだ。
さすがに土下座をして大名行列をやり過ごすということは外国人にはできないが、下馬していれば、非礼として扱われなかった可能性が高い。これをしなかったリチャードソンら四人は、藩士たちの殺気をモロに受けてしまうのであった。最初に一太刀、夷人に浴びせたのは、奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)であった。四人の先頭に位置していた馬上のリチャードソンに斬りつけ、左肩鎖骨(さこつ)から肋骨数本を切断した。斬られたリチャードソンは驚き、慌ててもと来た道を戻って、馬を走らせてその場から逃げたが、それを待ち受けていた久来村利休(くきむらりきゅう)に左わき腹を斬られた。一方、クラークとマーシャルも背中や肩を斬られ、重傷を負いながら死地を脱しようと逃げ惑った。唯一ボロデール婦人だけが帽子と頭髪の一部を斬られるだけで済み、そのまま横浜にある外国人居留地へと逃げ帰った。リチャードソンは、1キロほど馬を走らせ、行列から逃げたが、腹部を斬られていたため、内臓がはみ出し、激痛のあまり落馬した。まだ息はあったが、追ってきた数名の薩摩藩士たちによって、止めを刺され絶命した。
事件後の処理
生麦事件が勃発して数時間もたたない内に事のてん末は、すぐに横浜にある外国人居留地に知れ渡った。生麦事件で薩摩藩士たちに襲撃された四人の外国人の一人、ボロデール婦人が軽傷で済んだことから、現場から逃走してそのまま、居留地へ逃れてきたからだった。居留地にいた外国人たちは皆、騒然となった。今まで外国人殺傷事件は頻発していたが、被害者はみな軍人や外交官であり、一般の商人が斬られたのはこれが初めてだったため、大きな衝撃を受けたのだった。すぐさま武装して報復措置を取るべきだと主張する者も現れ、各国公使館からは騎馬兵や歩兵を繰り出して、舞台を編成し事件現場へと向かわせた。外国人の中には、横浜に入港している外国船の兵力を結集して、保土ヶ谷に宿泊している薩摩藩を包囲し、その頭目である島津久光を罪人として捕縛しようと提示する者まで現れた。条約上、当時の諸外国には治外法権と領事裁判権を認められていた。いわば、諸外国は一つ一つが藩のような立場と同等の存在であった。
イギリス人商人が殺傷されたということで、イギリス公使館はにわかに慌しくなった。イギリス公使・オールコックは休暇で帰国中であったため、代理公使であるニールがこの殺傷問題に対処することとなった。ニールは過激に軍事行動を日本国内で起こして、幕府や諸藩を刺激することは得策ではないと考え、慎重な態度を示し、とりあえず戦争回避を選択して、外交手段によって、問題の解決を図った。
一方で、薩摩藩でもこの事件を軽視しては、いなかった。襲撃した藩士たちが報復されることを予想して、先手必勝とばかりに外国人居留地を先に焼き討ちにして、緒戦を勝利で飾るべしと豪語する藩士が出たが、大久保一蔵(利通)はこの案を斥け、神奈川宿泊を予定していたのを、急きょ変更して、その先の保土ヶ谷まで進み、外国人居留地との距離をなるべく離すことにした。幕府からは事件解決が成るまで、駐留するようにとの要請を受けたが、これを無視して、翌朝早くに京都を目指して、旅路についた。幕府への事件に関する届出は早々に行われ、外国人を襲撃した下手人は「足軽・岡野新助」という架空の人物をねつ造し、事件後に行方知れずであるとした。
事件後の外交交渉は、イギリス公使代理のニールが担当し、幕府に強硬な抗議が幾度となく行われた。事件勃発から翌年の1863年(文久3年)2月にイギリス本国から訓令を受け取ったニールは、幕府に対して、白昼堂々と通行を許可された地域内にて無抵抗なイギリス市民が斬殺された事件を統治責任のある幕府の責任と吹っかけ、その上、犯人逮捕をいまだ成さざる怠慢無礼は許すまじき行為と受け止められるので、10万ポンド(40万ドル)の賠償金を要求するとした。この40万ドルという金額は幕府が今まで支払った賠償金額をはるかに超える途方もない金額であった。1860年(万延元年)にアメリカ公使館の通訳官・ヒュースケンが斬殺された事件では、賠償金は1万ドルであった。薩摩藩がヨーロッパから購入した最新鋭の蒸気船が一隻、約10万ドルであったから4隻も買える莫大な金額であった。アメリカ公使・プリューインは、イギリスの強引な莫大な賠償金要求を見て、日本に同情するほどであった。
幕府もあまりにも高額すぎるため、返事を渋ったが、イギリス側は砲門35を装備した軍艦・ユーリアラス号以下数隻を横浜に集結させ、回答が不満足なものであれば、それに見合う報復処置を取ると豪語し、幕府を脅迫した。イギリスの物々しい態度に驚いた横浜の日本人住民は幕府とイギリスが戦争すると思い、早々に非難する者が続出した。横浜の外国人居留地に住む外国人商人たちも身の安全や財産の確保のために幾度となく会議が開かれ、非常事態に備えた準備を整えていた。
幕府側は戦争にはやるイギリス側にのせられては、インドや中国の二の舞になりかねないとして、賠償金を支払うことにした。幕府は朝廷の勅命を受けて、攘夷を実行すると約束してしまった手前、この支払いを老中格である小笠原長行の独断で行ったことにした。
1863年(文久3年)5月9日、前年に起きた東禅寺事件の犠牲者2名の賠償金1万ポンドも合わせた11万ポンドがイギリス側に支払われた。2千ドル入りの箱でイギリス公使館へ運ばれたため、箱数は220箱という数に上った。
イギリス公使館では、中国人の貨幣検定人を方々から借り集め、貨幣の検定と勘定を進め、全部やり終えるのに3日間かかったという。皮肉なことにイギリス側に賠償金を支払った日の翌日、5月10日は幕府が攘夷実行期限として、朝廷に約束した日付であった。
幕府への報復を成したイギリス人は、懐を暖めて、意気揚々と今度は、襲撃者の薩摩藩とのカタをつけることにした。薩摩藩はイギリス側が要求する謝罪書と2万5000ポンドを提出することを拒み、イギリスと一触即発の危機的状況となる。薩英戦争へと向かった両者は、多大な被害をともに出しながら、痛み分けに終る。薩摩藩にとっては、攘夷実行がまさに不可能であることを悟らせるきっかけを作り、イギリス側でも日本国内の領土を割譲させることが困難であることを悟らせるきっかけを作った。こうして両者は、互いの思惑を違わせながらも、日本国内統一のためにやがて、協力体制を築いていくのであった。 
荒れ狂う天誅、横行す!
幕府は、対外政策での独断で全国から批判を浴びるとこの苦境を打開すべく、朝廷の抱き込みを図った。和宮降嫁を実現させることで、幕府と朝廷の結びつきを強めることで、国内統制を維持しようとしたのである。諸藩に対しては、武力でこれを治め、朝廷には血脈をもってこれを治めよというのが徳川家康の遺言であった。この幕府伝統の統治技法を幕末に至っても、まだ執り行おうと勤めたのは、律儀な幕臣のサガというべきであろうか。
幕府が引き出した公武合体策は、薩摩藩の島津久光の登場で幕府は、大きなしっぺ返しを喰らうことになる。公武合体策を一歩進めて、幕政改革と雄藩大名による合議制を設置、朝廷をも含めた多極集合政権を樹立しようとしたのである。幕府は薩摩藩の武力による強請に従わざるを得なくなり、国政の中心は江戸から京都へと移っていくこととなる。諸藩は今まで江戸に藩の支店を置いてきたが、今度は京都が政局の中心になると見るや、京都へ続々と支店を出してきた。こうして、京都はさびれた都から一挙に賑わいを取り戻し、諸藩の藩士たちが入り乱れる雑多な世界を作り上げていった。
混雑する京都でにわかに政局の華となったのが急進的な尊攘派志士たちの人斬りであった。彼らは「天誅」と称して、過激なテロ行為を成し、京都の町を我が物顔で闊歩した。尊攘派の志士たちの恨みをかったのは、安政の大獄にかかわった幕府関係者やその協力者、そして和宮降嫁に関与した者たちであった。特に和宮降嫁を成して、幕府を擁護するような行為を行ったとして、岩倉具視、千種有文(ちぐさありふみ)、富小路敬直(とみのこうじひろなお)、久我建通(くがたけみち)、そして女官の今城重子(いまきしげこ)、堀川紀子(ほりかわもとこ)の計六名で、彼らは「四奸二嬪(よんかんにひん)」と呼ばれて、真っ先に槍玉に挙げられた。これら佐幕派公卿が尊攘派志士たちから批判を受けていることを察した三条実美(さんじょうさねとみ)や姉小路公知(あねがこうじきんとも)らが、彼らを弾劾して、役職罷免・廷外退去の処分とした。
この朝廷内の動きを見た尊攘派志士たちは、「四奸二嬪」を親戚ともども皆殺しにすると脅迫し、佐幕派の弾圧を開始した。中山忠光などは土佐勤王党の武市半平太に佐幕派公卿の斬殺をけしかけるほどだった。これら一連の弾圧を受けた「四奸二嬪」の六名は、人目を忍んで洛外へと逃げ出していった。
安政の大獄への報復テロ
”天誅(てんちゅう)”と呼ばれた尊攘派志士たちのテロ行為は、「四奸二嬪」への排斥運動が盛んに成っていた時期に起きた。1862年(文久2年)7月20日、九条家の家臣・島田左近が斬殺された。島田は安政の大獄の際に井伊直弼の腹心だった長野主膳に協力した人物で、尊攘派志士たちの間で前々から憎まれていた人物の一人だった。島田の死体は首がない状態で高瀬川に浮かんでいたという。島田の首は四条河原にさらされた。この天誅実行犯は、薩摩藩士・田中新兵衛らであった。この天誅事件を公卿の近衛忠房は「希代希代の珍事、祝すべし祝すべし」と手放しして喜んでいる。多くの尊攘派志士たちも田中らの過激な行動に拍手喝采して、支持した。
そのため、天誅事件はその後も頻発するようになった。8月に入るとやはり九条家の家臣・宇郷重国(うごうしげくに)が斬殺され、首を松原河原にさらされた。ついで、目明かしの文吉が三条河原でさらし首となり、天誅が横行化した。文吉は長野主膳の手先となって、安政の大獄に暗躍した人物の一人であった。下手人は土佐勤王党の岡田以蔵(おかだいぞう)であった。岡田はケチな下っ端役人を刀で斬っては大事な刀が汚れるといい、文吉を綱で扼殺(やくさつ)して天誅を成した。
天誅の横行は次から次へと飛び火し、志士たち同士の意見の食い違いによる斬殺まで発展した。清河八郎や真木和泉と親交のあった志士・本間精一郎(ほんませいいちろう)が斬殺され、その首が四条河原にさらされた。土佐藩の岡田以蔵の犯行で、薩摩・長州・土佐を批判する者への見せしめとした。こうして、天誅行為は単なる佐幕派への弾圧だけにとどまることなく、志士同士の対立抗争による末路として、利用されるようになった。言わば、内ゲバ行為が天誅行為の名のもとに堂々と行われたのである。
9月に入ると京都町奉行所の与力・同心四名が岡田以蔵、田中新兵衛、長州藩士・久坂玄瑞らによって、斬殺された。薩長土の三藩出身の志士たちが結託して行った天誅行為であり、三藩は互いに競うように天誅行為に熱中した。10月には、万里小路家の家臣・小西直記が斬殺され、11月には、長野主膳の妾で大獄の際に弾圧対象者の身辺を探索した村山可寿江(むらやまかずえ)が三条大橋に縛り付けられ、生きさらしとなった。村山は元々、井伊直弼の妾で、それを長野がお下がりで妾としていた。女性ということで、罪一等を免れたのであったが、彼女の息子・多田帯刀は長野の部下であったことから、斬殺された。この天誅行為は、京都所司代による取り締まりを受けることはほとんどなかった。これは、下手人を逮捕すれば、過激な尊攘派志士たちを刺激して、より大規模な兵乱を引き起こしてしまう可能性があったため、手出しできなかったのが実状であった。
そのため、幕府はこれら天誅行為を私怨による犯行と見なし、政治闘争における犠牲者とは見なさなかった。幕府による取り締まりがない京都では、天誅実行犯が、大きな顔をしてまかり通り、無法地帯と化していた。
洛中を狂乱させた天誅
1862年(文久2年)10月〜11月にかけて、諸藩の大名や将軍後見職の一橋慶喜が続々と京都に入洛してきた。これは将軍・家茂の上洛準備のためで、天誅騒動が最盛期を迎えていたのと重なって、洛中は大いにごった返した。将軍が上洛するとあって、幕府に関与した人物の天誅はますます盛んになっていった。12月には、老中安藤信正の指示で「廃帝」の先例調査を行ったと噂がたった和学者の塙次郎(はんわじろう※塙保己一の子)が江戸で斬殺され、1863年(文久3年)1月には、安政の大獄に関与した儒学者の池内大学が斬殺された。また千種家の家臣・賀川肇(かがわはじめ)が斬殺され、賀川の両腕が千種・岩倉両家の屋敷に投げ込まれ、公卿を脅迫した。ついで、出入りの百姓・惣助の首が土佐藩邸の塀にかかげられ、尊攘派に同調しない佐幕派の土佐藩主・山内容堂への脅迫とした。
政治に関与した人物たちだけでなく、商人などへも脅迫は行われた。諸外国との貿易で莫大な利益を上げていた貿易商人・三井八郎右衛門や京都の近江屋忠五郎などが脅迫された。商人たちへの脅迫が相次ぐとこれを恐れた商人の中からは、被害にあう前に天誅志士たちへ謝罪しようとする者も現れた。生糸貿易商を営む布屋市次郎、彦太郎などは、三条大橋に謝罪の張り紙を出して、天誅を逃れようとした。
幕府は京都の取り締まりを強化することなく、天誅行為を見逃してきた。下手人の捜索も積極的にはせずに、過激派尊攘志士たちを刺激しないように極力勤めてきたが、2月になって、幕府も我慢がならない事件が起きた。洛西等持院に安置されていた足利三代の木像の首と位牌(いはい)が何者かに持ち出され、賀茂河原にさらされた。三条大橋には、「今世にいたりこの奸賊になお超過する者あり」と徳川幕府を暗示させる捨て札が掲げられた。幕府を脅迫するこの天誅行為には、幕吏も敏感に反応した。何しろ、将軍後見職の一橋慶喜が憤激し、京都守護職に就任していた会津藩主・松平容保に下手人捜索を徹底させる厳命を下したのである。幕府の威信にかけて、足利三代の木像事件を犯した下手人の捜索がなされ、ついに平田篤胤の門下生9名を捕縛した。
だが、これら下手人への処罰は朝廷や尊攘派志士たちへを刺激することを恐れて、軽い処分で済まされた。他藩への御預けというなまやさしい寛大な処分に終るとますます、尊攘派志士たちは幕府をないがしろにするようになり、意気揚々と京都中を闊歩した。幕府の尊攘派への反撃は、会津藩が組織した新選組の登場を待たなくてはならず、その間は、ただただ、指をくわえて、尊攘派志士たちが成す天誅行為を見逃さざるを得なかった。 
奇兵隊
攘夷派の急先鋒であった長州藩は、攘夷実行が解禁すると関門海峡にて6回に及ぶ、攘夷戦を展開した。長州藩の攘夷戦期間は、1863年(文久3年)5月〜1864年(元治元年)8月まで行われ、欧米列強の報復攻撃にて大敗し、攘夷思想は完全に打ち砕かれた。その後は、攘夷思想から倒幕思想へと思想の転換が成されていき、戊辰戦争へと突入していくのであった。
6回行われた長州藩の攘夷戦は、最初のうち商船であったり、不用意な軍艦であったりと諸外国船の不意を突く攻撃で外国船を追い払うことに成功している。しかし、1863年(文久3年)6月5日の第五次攘夷戦では、フランス軍艦二隻が下関砲台を攻撃し、陸戦隊が上陸。砲台を線占拠し、付近の村々を焼き払った。長州藩側は領土の一部を外国人に占拠されたことに驚き、藩兵1000名ほどをかき集め、打ち払おうとした。だが、海上で待機していたフランス軍艦の艦砲射撃を受け、戦いにならず散々な敗北を喫した。むろん、兵団の装備や戦法に大きな差があったことが、藩兵の敗北原因であったが、敵側に一矢も報いることができずに弱者を演じてしまったことで、大いに民衆の不評をかった。
結成!民兵組織・奇兵隊!
民兵組織の主軸はゲリラ戦!?
西欧軍隊に長州藩兵が大敗したという報せは、山口にいた藩主・毛利敬親のもとに届いた。この報に驚き憤慨した、敬親は知恵者・高杉晋作を召し出し、善後策を問うた。すると晋作は、武士団の士気に問題ありと述べ、民兵組織にて別働隊を編成するのがよろしかろうと進言した。今回の藩兵敗北は、民衆たちから大いに不評をかっているのだから、藩兵組織に不満を抱く血気盛んな民衆の中から募兵し、民衆の反発をやわらげることが賢明との考えに敬親は賛同し、高杉に民兵組織の編成を許可した。ここに高杉晋作は歴史に燦然(さんぜん)と輝く画期的な民兵組織部隊・奇兵隊を結成するのであった。
民兵結成の任務を受けた高杉は、早速下関へと足を運び、勤王派商人として知られる豪商・白石正一郎の協力を取り付けて、白石邸を本拠地に民兵編成に着手した。すでに長州藩内には農民を中心とする部隊組織の構想があったが、士農工商の差別をつけずに同一集団として、実力本位の組織は初めてであった。高杉は「殉国の志ある者は参加せよ!」と呼びかけ、藩内に広く布告した。この布告に続々と応じる者が出て、最終的には、入隊者数は600名を数えた。入隊者の打ち分けは、大部分が下級武士と農民が半々で、わずかに町人・神官・僧侶などが含まれた。下級武士とはいっても直参は少数で、ほとんどは又者(またもの)であった。(※又者とは、家来の家来。又家来。陪臣(ばいしん)。雑卒(ざっそつ)のこと。※雑卒とは、下っ端の兵隊。雑兵(ぞうひよう)のこと。)
奇兵隊の名は、藩の正規兵と対称的な部隊の意味と規定の戦術に捕らわれない奇策を駆使するゲリラ部隊の意味を兼ねて、名付けられた。最初の本営は、白石邸であったが、入隊者が増えるとすぐに手狭となり、壇ノ浦に近い阿弥陀寺(あみだじ※現在の赤間神宮)に転居した。移転した際の奇兵隊の隊員数は300名を数え、宿舎の面や組織運営なども考慮するとこれ以上は一応の限界と見て、奇兵隊のほかに諸隊を設けることで入隊者数の増加問題に対処した。
諸隊は続々と結成され、義勇隊(ぎゆうたい)・御楯隊(みたてたい)・集義隊(しゅうぎたい)・荻野隊(おぎのたい)・報国隊(ほうこくたい)・八幡隊(はちまんたい)・力士隊(りきしたい)・第二奇兵隊・遊撃隊(ゆうげきたい)・鴻城隊(こうじょうたい)・鋭武隊(えいぶたい)・整武隊(せいぶたい)・振武隊(しんぶたい)・精兵隊(せいへいたい)・南園隊(なんえんたい)など限りなく諸隊数は増えていった。諸隊の兵員数は、日ごとに増えていき、1864年(元治元年)ごろには4000人余りに達するという大盛況振りであった。
民兵組織で結成された奇兵隊であったが、藩主の君命を受けて、結成された精鋭部隊だという気概が強く、藩兵の正規部隊である先鋒隊とは、激しくいがみ合うようになった。先鋒隊は自分たちが藩兵の正規兵であるという気位の高さから「百姓や町人が集まって、何ができるか」と奇兵隊を蔑視していた。奇兵隊が結成されて二ヶ月ほどたった頃から、気勢の強い両者は、対立を深め、刃傷沙汰になる騒動を起こした。これによって、奇兵隊総督の高杉晋作が更迭され、一応の抗争沙汰は解消された。その後の奇兵隊総督には、河上弥市(かわかみやいち※生野の乱で七卿の一人・沢宣嘉に従って戦死)、赤根武人(あかねたけと)、滝弥太郎(たきやたろう※明治時代に判事となる)、山県有朋と順々に交替が行われた。
下関戦争後の思想転換
奇兵隊を結成した目的は、外国軍艦の来襲に備えるためであり、その初陣は、結成1年2ヶ月後の1864年(元治元年)8月であった。この時、欧米列強は、四国連合を組み、艦隊を派兵してきた。この迎撃に奇兵隊は出動し、壇ノ浦を守備した。上陸してきた連合艦隊の陸戦隊と激しい戦闘となったが、結果は散々な敗北であった。敵軍は兵力2600に西洋兵器を装備して、近代的な戦術を駆使するのだから、結成まもない奇兵隊では、兵たちの錬度や装備に差がありすぎた。民兵組織の気勢の強さだけでは、欧米列強の軍隊に太刀打ちできないことを改めて、思い知らされた一戦だった。
この激戦の時に民兵組織創始者の高杉は京都へ脱藩を図った罪で野山獄(のやまのごく)に入れられていた。長州藩はこの戦いで反撃する余力を失い、攘夷の思想が間違っていたという挫折感から、欧米列強との講和をすることとなった。この重要な講和の使者に高杉が起用された。藩内の中で強硬な外国人と対当に渡り合える度胸のある人物は、高杉晋作をおいてほかにいなかったのである。
高杉は、宍戸刑馬(ししどぎょうば)と名乗って、家老と偽り、欧米連合艦隊の旗艦・ユーリアラス号に乗り込んだ。高杉のいでたちは、黄色地に大紋を入れた礼服に黒の烏帽子姿という目の覚めるような颯爽としたいでたちだった。講和の使者とはいえ、状況は降伏の使者であったが、高杉の振る舞いは威風堂々としていて、講和の場に居合わせた通訳のアーネスト・サトウは「まるで魔王のように傲然(ごうぜん)と構えていた」と記している。
この時、結ばれた条約は、
○ 海峡を通過する外国船を親切に扱うこと。
○ 石炭・食糧・薪水(しんすい)その他の必需品を好意をもって、提供すること。
○ 天候が悪化して、船舶の航行が危険な場合は、乗組員の上陸を許可すること。
○ 海峡には一切、砲台を築かないこと。
といった内容だった。
ついで、外国側は長州藩の藩領の一部を租借(そしゃく)したいと申し出た。外国人居留地を築いて、何かと便利に活用しようと考えてのことである。しかし、高杉はこの申し出を頑として、承諾しなかった。外国側が不快になって、強硬に租借要請をしようとすると、高杉は「そもそも高天原の頃から〜云々」と声高に述べ出し、その場にいた者がみなあっけに取られる事態となった。高杉の長々しい講釈がはじまって、外国側はこれに煙巻かれて、租借要求はうやむやに終った。もし、高杉の租借阻止が無かったならば、日本は中国の上海のような事態を招いていたかもしれなかった。上海は外国人の租借地としてはじまり、やがては、強引に外国側の植民地のようになってしまった経緯がある。高杉は上海へ渡海して、上海の実状を知っており、外国人が我が物顔で街中を闊歩し、中国人はまるで、外国人の家来のような扱いを受けていたことに大いに危機感を抱いていた。それゆえ、外国側が長州藩領内に租借地を設けたいと申し入れてきた時、すばやくこれを拒絶したのであった。上海の二の舞を踏むまいと度量の座った対当の立場での講和を成し遂げた高杉の功績は賞賛に値する。
長州、思想転換を成す!
講和後の長州藩の思想転換は、必至の成り行きだった。攘夷派の中心的存在だった長州藩が他藩に先んじて欧米列強と戦ったが、気力だけで成立する戦況ではなかった。近代戦は、人間の力量だけに頼る古来の合戦とは格段に違いがあった。兵器を充分に活かした近代戦術にも目を見張るものがあり、単に飛び道具と言えども、有効な戦果を挙げるには、計算された部隊配置と機動性を駆使しなくてはならない戦術であり、その事を高杉たちは欧米列強と戦って、初めて知ったのだった。
敗戦後の長州藩の行動は素晴らしかった。敗北したことで、全てを投げ出す事無く、何が悪かったのか?と敗北の原因をトコトン突き止めようと考え抜いた。そして、見出した一つの答えが、欧米列強から徹底的に学び直すことだとわかった。欧米列強の強さの秘訣を学び、再度、軍備編成をし直すことが、立ち遅れた日本には必要だと悟ったのだ。欧米諸国に立ち遅れた分を取り戻し、国際社会で生き残っていくには、欧米列強と肩を並べる国力をつける以外に日本存続の道はないと確信した。欧米列強から学ぶ姿勢が必要となった時、自然と攘夷思想はなくなっていった。それは、長州藩が戦った欧米連合艦隊の姿から知った国際情勢の仕組みに起因する。欧米列強は、それぞれ国力を向上させようと互いに張り合いながら、時には戦争を繰り広げたり、時には共同体勢を取るなど柔軟でかつ、他国に支配されずに国は栄えていた。このことは、日本にとって最も望ましい存在であり、アジア諸国が欧米列強に飲み込まれ、次々と植民地となった二の舞を日本が踏まずに済む唯一の国営モデルであった。まずは国力を欧米列強に並ばせ、ついで欧米列強と同じ兵団を組織すれば、欧米列強からの脅迫に屈することなく、国を富ますことができると長州藩は知ったのである。これが国際情勢の真の姿だとするならば、日本国内でいつまでもいがみ合っている場合ではないのだ。欧米列強のように国家統一を成し、富国強兵の国営政策をもって、はじめて欧米列強の仲間入りを果たせ、屈辱的な立場を味わう事無く済むのである。欧米列強と戦争した長州藩と薩摩藩だけが、このことに気付いた。このことに気付かない幕府は、富国強兵を国営政策と成すための第一歩である国家統一を成し遂げるためには、不要な機関とわかり、長州藩は他藩に先駆けて、尊王倒幕の思想を掲げたのであった。”尊王倒幕”の思想は、国家統一戦という大義名分を得るのだが、その考えに至り、広く信奉されるようになるには、長い時間がかかった。
とにもかくにも、長州藩は徐々に尊王攘夷の思想から離れ、尊王倒幕へと向かっていくのだが、その間に長州藩は欧米列強と仲良くした。近代兵器を大量に購入し、編成やものの考え方も多く取り入れ、身分やしきたりに捕らわれない合理主義の考えを取っていった。すなわち、幕府に命令に背き、刃向かうことも、大義名分にて超過できる行動だと意識を改めたのだった。そのことが、第二次征長を引き起こすのだが、その時期が到来するまで、長州藩では藩内の意識改革と軍備増強が刻々と成されていった。
高杉晋作、クーデターを起こす!
欧米連合軍との戦いに大敗し、屈辱的な講和条約を結ばされた長州藩は、尊攘派の勢いが弱まり、代わって保守派の俗論党が藩政の主力を占めた。尊攘派は、攘夷の思想が間違っていたということが信じられず、気勢も下がって、しょぼくれ返っていた。藩政の主導権を保守派に取られたということよりも、信条を失ったという事の方が彼らにとって、苦しく生命線を脅かす出来事であった。
講和条約を立派にやり遂げた高杉晋作も信条が浮つき、明日の見えない闇夜を生きている心持ちであった。尊攘派たちは藩政から斥けられ、目的も失いかけていた。保守派はこの機を逃さず、藩政から尊攘派の藩士たちを次々と締め出し、高杉も政局から遠ざけられ、命の危険にさらされた。高杉は危険を察知して、萩を脱し、福岡に逃亡。有志たちを支援する野村望東尼(のむらもとに)の家に居候して、未来の方策を練った。一時の空白の時が尊攘派志士たちを包んでいたが、高杉の奮起がその後の日本を代える思想の転換を成した。高杉は、保守派で佐幕の俗論党を藩政から追い出さなくては、長州藩の改革はおぼつかないと考えた。諸外国と結んで国家統一を成さなければ、下関講和会議で受けた租借地問題が再び日本を襲うであろう。そうなれば、日本は中国・清国の二の舞になることは必至だ。漠然とではあるが、高杉は欧米と一時期の間でもいいから仲良くして、欧米の技術を全て学び取り、国家統一を最優先にすべきだという構想に至っていた。それしか日本の窮地を脱する道はないということに行き着いた高杉の行動は素早かった。取るべき行動は、長州藩が国家統一へ向けて、先導者となるべきこと。それには、藩内に革命をもたらし、自分がその総帥として、藩政を牛耳ることにある。高杉のこの強い信念は、明日の見えない暗闇を漂う長州藩を動かすには充分すぎる力を持っていた。高杉の藩内革命の意志は、当初は奇兵隊の間でさえ、受け入れてもらえなかった。しかし、高杉は、80名にも満たない少数だけで革命を実行に移した。高杉の国家統一へ向けて、長州を変えるという意志は鉄壁の堅固さと山をも動かす怪力を現した。革命戦の緒戦を勝利で飾った高杉の下には、続々と兵団が詰め掛け、奇兵隊とその諸隊の参加にて総勢3000名を超えた。革命戦の勢いは強く、萩からは高杉らの革命軍を鎮圧しろという藩命を受けた先鋒隊が南下して来て、革命軍と激突した。さしずめ、封建体制側の軍団と民衆革命側の軍団の戦いとなった。秋吉台付近にある太田・絵堂にて会戦した両軍は、10日間の死闘を繰り広げ、国家興亡の危機を救うという大義名分を掲げる革命軍の勝利に終った。
この高杉による藩内クーデターは、成功を収め、俗論党は藩政から斥けられ、高杉が目指す、富国強兵の理念と国家統一という勤王思想が藩政にて実行されていった。
奇兵隊、官軍の主力を成す!
戊辰戦争は、国家統一戦である。かつて、高杉晋作が革命軍を起こした時、欧米列強に対抗するための日本が取るべき最初の方策を国家統一と定め、その大義名分をもって、長州藩内に革命をもたらしたように、国家統一戦を想定した部隊が奇兵隊であった。当初は攘夷実現のための兵団だった奇兵隊が、高杉の藩内改革後、国家統一を実現する為の兵団へと目的を転換させたことは、重要である。
欧米列強と熾烈な攘夷戦を成した長州藩は、西洋兵器を奇兵隊ら諸隊に増強し、兵団の鍛錬は、西洋戦術に一本化した。銃撃戦を効率よく展開する戦術に長ける西洋戦術は、国家統一戦となる戊辰戦争にて、いかんなく効力を発揮する。戊辰戦争で長州藩軍が所持した西洋式小銃は、2万4000挺にも達した。これは国内諸藩最大数であったが、この銃隊を中心とした長州藩軍は、西洋戦術を駆使して、最大の戦果を挙げ、官軍各藩軍の中で、最強を謳われた。
戊辰戦争に参軍した長州藩軍の諸隊総兵数は、5000人余りで、戦死者は300人以上、負傷者は600人を数えた。戊辰戦争終結によって、亡き高杉の国家統一への意志は達成され、長州藩軍は胸を張って、続々と帰藩し、凱旋を飾った。しかし、戦争が終れば、用兵部隊は用済みが必須である。いかに官軍の中枢を担った長州藩の兵団といえども、富国強兵策のため、人件費がかさむ兵団の大規模確保は難しくなる。藩兵として意識をなくし、国家指揮下のもとに近代軍制を布く事が必要であり、郷里中心の考えが根強い藩軍制は廃止されるべき旧制度であった。そのため、新政府の兵部大輔となった大村益次郎は、国家の軍制改革を進めるため、藩軍制の撤去を行い、徴募によって、国家奉仕に直結する兵団作りに取り組んだ。この藩軍制廃止により、兵団から締め出された者たちは、不満を募らせ、兵乱という形で不満を爆発させた。1869年(明治2年)11月、長州藩の遊撃隊中堅大将3名が、上官の弾劾書を提出し、それが取り上げられないとわかると、185名の隊員が武器を持って、脱退した。さらに常備軍編成からもれた奇兵隊員258名、整武隊員275名、振武隊員202名、鋭武隊員171名などが一斉蜂起し、この兵乱に諸々の不平士族も加わって、武装蜂起者数は2000名を超えた。この兵乱に驚いた木戸孝允は、長州へ自ら赴き、強硬鎮圧を断行し、首謀者・扇動者と見なせる人物を大量投獄し、そのうちの133名が処刑された。
奇兵隊が果たした役割は、大きかった。明治新政府が近代兵団を作り上げるためのモデルとなったことはいうまでもない。民兵組織が実戦において、武士団の部隊を上回るほどの戦果を挙げたことは、民衆から徴募して、近代兵団を組織することを新政府に踏み切らせた。国家統一を実現するために戊辰戦争では、大活躍を見せた奇兵隊ら諸隊は、国家統一が成ると、その思想から国家忠誠を本位とする兵団が求められたために、消え行く運命となった。藩軍制内に収まる奇兵隊ら諸隊が、藩本位の立場で存在することは、国家統一思想と逆行するのである。画期的な民兵組織を成した奇兵隊隊員でさえ、この軍制変動を認知できない者たちが大勢いた。運営が上手くいく以上、現状維持を守ろうとするのは、賢明な人間のサガである。しかし、近代国家を築くには、進歩的な考えを持って、取り組まなくてはいけない時が多々あった。藩本位の軍制から国家本位の軍制へ変貌し、新たな兵制の出発を成さなければ、日本沈没もあり得るほど危機的時期だった。その意味で、維新後の軍制改革による摩擦熱が奇兵隊ら諸隊の隊員蜂起となって現れた。この改革のひずみで生じた部分を斬り捨ててでも、富国強兵、国家本位を成すことで、高杉晋作ら維新の有志たちが目指した日本繁栄の実現がなったのである。 
薩英戦争
攘夷実行を幕府に強硬に迫り、それを約束させた薩摩藩は、長州藩とともに攘夷派の中心的存在であった。生麦事件によって、薩摩藩の攘夷の気概は天下に知れ渡り、薩摩隼人たちの奮起で、攘夷は成就すると思われた。しかし、事態はそう甘くはなかった。幕府から賠償金10万ポンドという破格の支払いを得たイギリスは、今度は犯行当人である薩摩藩に賠償金2万5000ポンドと下手人をイギリス官吏の前で裁判と処刑を行うことを要求した。幕府は、一応国政を預かる身として、薩摩藩への賠償交渉は幕府が仲介するとイギリス側に述べ、イギリス側が直接、薩摩藩に賠償交渉をしないことを求めた。しかし、幕府に薩摩藩を屈服させ、賠償させることは不可能に近く、イギリス側でもそれは薄々わかっていた。そこで、イギリス側は幕府に任せず、直接交渉をするため、キューパー提督率いるイギリス艦隊7隻を鹿児島湾へ向かわせた。1863年(文久3年)6月27日、鹿児島湾に入ったイギリス艦隊は、代理公使・ニール以下、公使館職員全員が艦隊に同行して、是が非でも交渉成立を目指した。薩摩藩は小舟でイギリス艦隊にこぎ寄せ、藩の役人が何度か折衝を行ったが、交渉は決裂した。薩摩藩内では、公使・ニールとキューパー提督を上陸要請でおびき出し、捕虜しようという計画を立てたり、剣術の腕が立つ藩士40人ほどが商人などに扮して、船でイギリス艦隊にこぎ寄せ、物売りを装って乗船し、イギリス人を皆殺しにしようという計画を立てた。だが、いずれもイギリス側の用心深い警備によって、計画遂行は中止された。
薩摩藩のイギリス側への回答は、殺害者の捕縛がいまだ成されていないことを伝え、殺害者の捕縛、処刑が成された後に賠償問題は解決されるべきだと主張し、完全にイギリス側の要求をはぐらかした。これに怒ったイギリス側は、薩摩藩の譲歩を引き出すため、薩摩藩が外国から購入した汽船三隻(約8万ポンド相当)を拿捕(だほ)し、これを質として薩摩藩を脅迫しようとした。この時、船内に残っていた五代友厚、寺島宗則がイギリス側の捕虜となった。領内で勝手なことをするイギリス艦隊の動きを見た薩摩藩は、ついにしびれを切らして、全砲台が火を噴いた。突然の薩摩藩の砲撃にイギリス艦隊は慌てふためいた。それはまだ、錨(いかり)を下ろしたままだったため、砲撃の集中砲火を浴びたためだ。砲台の近くに停泊していたバーシュース号などは錨を引き上げる間もなく、錨をその場で切り捨てて逃げる始末だった。イギリス艦隊は薩摩藩からの砲撃に逃げるのに必死で、応戦するのに手間取ったが、拿捕した薩摩藩の汽船を焼き払い、順次戦闘態勢に入った。
薩摩藩の砲台は10ヶ所有り、総計83門を備え、球形弾を用い、射程距離は約1Kmであった。それに引き換え、イギリス艦隊の艦砲は総計101門を数え、その中には当時、世界最強の大砲・アームストロング砲があり、射程距離は4Kmもあった。イギリス艦隊は、艦隊戦術を駆使して、一列縦隊で航行し、陸にある薩摩藩の諸砲台に次々と砲撃した。しかし、激しい砲撃戦のためか、イギリス艦隊は知らず知らずのうちに薩摩藩の砲台に近づきすぎ、全艦ともに薩摩藩の砲撃を浴びた。旗艦・ユーリアラス号は薩摩藩の砲撃で、館長と士官が戦死し、主甲板には破裂弾を喰らい多数の死傷者出していたため、戦線離脱を余儀なくされた。ついで、パール号も砲撃を浴び、戦線離脱をするなどイギリス艦隊は大きな被害を受けた。それ以上の被害を受けた薩摩藩は、この戦争で近代工場設備を整えた集成館工場群を焼失し、鹿児島の町は一割が火の海と化した。両者痛み分けで勝敗は定まらなかったが、被害の度合いから薩摩藩の敗色は濃かった。三時間半の交戦の後、イギリス艦隊は湾口に引き上げた。60数名の死傷者を出したイギリス側は、薩摩藩の激しい反撃にみな驚いた面持ちだったが、薩摩藩に多大な被害を与えてやったことは、わかっていたので、再度湾内に入り、上陸して町を占拠すべきだとする意見が出た。しかし、キューパー提督はこの案を斥け、撤退を決断した。これ以上の死傷者を出すことは賢明ではなかったし、上陸戦ではもっと激しい抵抗にあうと予想できたからだ。
この戦争で、攘夷実行を声高に主張してきた薩摩藩の信条は、木っ端微塵に打ち砕かれた。いくら砲台を築いても、兵器の火力に差がありすぎた。一度の戦いでこれほどの被害を受けては、国力・軍備の再生は、おぼつかない。攘夷実行がいかに愚策であるかを薩摩藩士全員が悟れるほど、被害は深刻だった。攘夷実行が不可能になるなど、薩摩藩内の中で誰一人として想定していなかった。攘夷の信条が崩れ去り、ポッカリと信条心に穴が空いた状態となった薩摩藩では、攘夷論から別の論へと転換して、信条心の穴埋めをしなくては成らなくなった。その新たな信条は、欧米列強に肩を並べられるよう富国強兵策を徹底し、国力武力の向上を図ることであった。それには、欧米列強と仲良くして、欧米の強さの秘訣を探り、よく学び取ることが最善の近道だった。薩摩藩の近代化は、諸藩を凌駕する勢いで伸ばしていたが、それでも攘夷実行は不可能なくらい欧米列強との格差がありすぎた。この差を縮めることを最優先事項に掲げた時、薩摩藩の信条は、国内挙げて富国強兵の国内滋養を行うべきことへと発展した。薩摩藩一藩だけで尽力しても、所詮たかが知れた成果しか挙がらない。欧米列強の強さの秘訣は、国家総出で富国強兵策を実施していることにあるとわかれば、薩摩藩の方針も自然と国家統一を成す事が大事となる。そこに国家統一の障壁は何かと考えれば、幕藩体制そのものではないかと気付く。各藩ごとに国内を統治していては、国家総出で富国強兵はおぼつかない。ましてや幕府は根っこから腐っている。このような状況を打開し、国家統一を成し遂げるには、外交問題で悩んだ古来の日本が取ってきた方法に戻るしかない。渡来人や朝鮮半島問題など外交問題で苦慮した大和朝廷は、国内統一を果たし、国力増強を成したではないか。朝廷を政権の中心に掲げ、余分な政治機関である幕府を排除し、国家統一を成し、国内総出で富国強兵を実施しなくては、欧米列強の外圧に対抗できない。欧米列強の強さは本国が国家統一を成して、海外進出を集中して行って、いまの栄華を誇っているのだから、日本もこれに習うべきなのだ。この境地に至って、薩摩藩は尊王倒幕の思想を確立した。倒幕という思想に踏み切るには、かなりの時間と度胸を擁したが、それによって、日本は明日の知れない暗闇から抜け出し、明確に日本の将来を展望することができるようになったのである。その意味で、この薩英戦争は、当時の日本に漂っていた混迷な霧を晴らし、日本の将来のあるべき姿を志士たちに悟らせてくれた重要な歴史的要点となる事件であった。 
8・18の政変
1863年(文久3年)6月、真木和泉が入京すると攘夷思想がにわかに広がっていった。真木は尊攘派のアジテーターのような役割を自分に科し、京都を中心として、思想の浸透を目指した。真木は攘夷親征と倒幕決行を説き、朝廷内へも大きな影響を与えた。尊攘論の一大旋風で公卿たちにの中からも、攘夷親征に同調する者が現れ、朝廷内でも積極政策として、議論が成された。ついで、長州藩からも桂小五郎や久坂玄瑞らが入洛し、公卿たちに尊攘論を熱く説いた。反対に佐幕派や開国派の公卿たちは、天誅行為で脅迫され次第に攘夷派に押されていった。
時の関白・鷹司は、攘夷親征を成すべきかどうか、在京中の因幡・備前・阿波・米沢ら藩主に問い、意見を求めたが、いずれも攘夷親征に反対した。しかし、三条実美(さんじょうさねとみ)ら尊攘派公卿の運動で、朝廷内の主論となし、無理押しが通るようになった。ついに伊勢神宮へ行幸する詔(みことのり)が8月13日に出され、強硬な尊攘派にあまり賛同しない孝明天皇を政局の表舞台に引っ張り出してきた。孝明天皇は熱烈な攘夷論者ではあったが、武威を用いる攘夷には、幕府を中心で行うべきだと考えていた。言わば、規定の幕藩体制による秩序立った攘夷実行を望んでいた。しかし、この公武合体による攘夷とは別に強硬派攘夷論者たちが掲げる攘夷は、あくまでも天皇・朝廷が中心と成り、浪士たちによる徒党を組んだ群衆によって、攘夷実行を成そうとしていた。また、強硬派攘夷論者たちは、攘夷と倒幕を同時に行おうという無理な考えを持っていた。無計画な上、既存の力量は乏しく、貧乏根性による気勢だけで夷人を打ち払えると考えていた。
この無謀な計画は、諸外国の力量を知る知識人たちから見れば、愚策でしかなかった。長州藩の強硬派攘夷の志士たちだけは、藩の武力によって、打ち払うことを考えていたが、やはり諸外国の力量をあまりにも軽視していた。
孝明天皇は、一橋慶喜や松平容保から幕府の軍備が整うまで、攘夷実行は延期すべきことを説かれて、一応の納得を見ていた。秩序を重んじる朝廷の方策としては、既存の政権での攘夷決行が望ましいと考え、既存の政権を討ち、それと同時に攘夷も決行するなど虫が良すぎる話であった。
朝廷内の強硬派攘夷の公卿たちが無理押しにて、天皇の意向も無視して、攘夷親征を勝手に決めたことに孝明天皇は、内心憤慨しており、意の如くならない不満を中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)に打ち明けた。中川宮は伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)の四男で、僧門に入り、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)となった。水戸藩の攘夷思想に影響され、朝廷内外で攘夷主張を成したが、安政の大獄で蟄居処分を受けた。その後、罪を許されてからは還俗を果たし、中川宮を称した。再び尊攘論が洛中で加熱すると中川宮は、現実的な攘夷論を唱え、公武合体論者の立場を取った。孝明天皇から深い信頼を得ていた中川宮の挙動には、周囲の者たちが注視するところであった。
8月16日の午前四時ごろ、諸事の奏上と称して、天皇の寝間まで行き、強硬派尊攘の者たちを廷内外から追放する計画を伝えたが、十分な説明を成す前に長州派公卿たちが次々と参内してきたため、いったん退出した。
長州派の公卿や尊攘派の志士たちが廷内外で目を光らせて、自分のことを探っていることを察知した、中川宮は、密かに強硬派尊攘論者たちを追放する計画を進めた。前関白・近衛忠煕父子や右大臣・二条斉敬(にじょうなりゆき)ら公武合体派公卿と計画を練り、京都守護職の任に就いている堅実な佐幕派の会津藩主・松平容保と寺田屋事件で急進派尊攘の志士たちを討滅した薩摩藩に武力協力を仰いだ。
過激尊攘派を出し抜く、電撃クーデター!
8・18の政変ほど、鮮やかで手際のよい革命は、特異すぎるほどに歴史上、類を見ないものだった。8月18日の午前1時ごろ、革命計画者・中川宮が急に宮廷内に入るや、それに続いて近衛忠煕父子や右大臣・二条斉敬ら公武合体派公卿が参内し、ついで京都守護職の松平容保、京都所司代の稲葉正邦(いなばまさくに※淀藩主)も続いて参内した。
宮廷内が慌しい様相を態すと会津藩・薩摩藩・淀藩の三藩に急使がたてられ、皇居をすぐさま守衛すべしと命令が下された。三藩の軍勢は、完全武装を成して、参内すると唐門以下九つの門を閉ざして、厳重に守備した。召し出しを許可されていない者はたとえ関白であっても通してはならないとの厳命が下り、宮廷内は完全に外部との往来を遮断された。宮廷の守備が成ると続いて、在京する土佐・因幡・備前・阿波・米沢の各藩主に藩兵を率いて参内するよう命令が下った。こうして、宮廷を取り巻く完全警備体制が布かれ、午前4時に合図の大砲が一発放たれた。
朝議で議論され決まったことは、
○ 大和行幸の延期
○ 尊攘派公卿の参内・外出・面会の禁止
○ 長州藩の堺町門の警衛の任を免除する
(※代わりに薩摩藩が警衛の任にあたった)
などで、強硬派尊攘論者を完全に出し抜き、彼らを洛外追放する処置となった。また、天皇の同意なしに勝手に行幸を決定した不忠の公卿や志士たちを取り締まることが厳命され、強硬派尊攘の中心人物である真木和泉・久坂玄瑞・桂小五郎・宮部鼎蔵・轟武兵衛などの名が挙げられた。
宮廷の内外で異様な騒動に気付いた強硬派尊攘の公卿たちは、急いで参内しようとしたが、九門はすべて閉ざされ、門の前には武装兵団が固まって行く手を遮っている。参内できないで右往左往する中、関白・鷹司政通が参内して、三条実美ら強硬派尊攘の公卿たちの弁護を試みたが、取り上げられず、三条らは頭を抱えてこの状況に当惑した。そうこうしているうちに鷹司邸の周囲には、会津・薩摩両藩の軍兵が取り巻き、鷹司邸の出入りができなくなってしまった。
宮廷内の物々しい警備を知り、急いで警衛を受け持っている堺町門まで来て見たが、薩摩藩軍が凄い形相でにらみ返して来て、とても抗議できる雰囲気ではない。しばらく薩摩藩軍と長州藩士たちは遠巻きに互いににらみ合っていたが、長州藩はその場から立ち退くようにとの勅命が出され、朝廷内で佐幕派が決起したことがわかった。それでも抗議しようとする長州藩士たちがその場にいると薩摩藩軍は大砲を並べて、近寄る者を八つ裂きにしてやるといわんばかりに殺気立ったため、これに気圧された長州藩士たちは渋々、その場を立ち去るほかなかった。
洛中を追われた長州藩士たちと公卿たちは、洛北の大仏妙法院に集まって協議した。攘夷派の諸藩士たちも含めて、総勢2600名がその場にいた。それはいい!と思える善後策も思い浮かばず、彼らはいったん長州藩へ退いて、再挙の時期を待つことにした。こうして”七卿落ち”が成された。
一行が長州藩に到着すると彼らは状況分析を成して、政情議論を紛糾させた。その結果、出た結論は、この政変の首謀者は、中川宮とそれに組する公武合体派公卿たちによって成され、それに佐幕派の会津藩が協力し、天皇の意向を受けた薩摩藩が借り出されたのが全体像と解釈した。そのため、武力を持って、宮廷を奪還すれば、再び尊攘派主導で政局を進めることができると判断した。この誤った政局判断が、禁門の変での長州藩の失態へとつながっていく。強硬派尊攘のよりどころは、京都以外にはなく、京都の奪還だけが彼らの頭を支配した。
一方、電撃作戦で強硬派尊攘論者を洛中から追い出すことに成功した公武合体派は、過激な方針を一変させ、佐幕よりの政局の流れを作り出した。孝明天皇は、この度の迅速かつ適切な守衛を成し革命を成功させた功労者として、松平容保を召して「容易ならざる世の中に、武士の忠誠の心を喜びて詠める」と賞して、武士と心あはしていはほをもつらぬきてまし世々の思い出という自筆の歌を容保に与え、信任の情を表した。
公武合体派の中心的存在となった中川宮は、8・18の政変でマキャベリストを演じ、宮廷内に一時の平穏と秩序をもたらした。
しかし、中川宮が期待した公武合体政権は、諸大名たちの合議制が上手くいかず、何ら成果を挙げることなく解散してしまう。こうして中川宮が成した8・18の政変によって、生み出された公武合体政権は、実りなく崩壊し、その政局の空白には、薩長連合が武力倒幕という凄みの利いた理念を掲げて、入洛して来るのであった。
中川宮は朝廷内での居場所を無くし、1867年(慶応3年)に発せられた王政復古の大号令で、かつての強硬派尊攘の公卿たちから仕返しを喰わされるという憂き目を見る。その後、大政奉還の翌日に辞職し、政局を去ると1868年(明治元年)には、新政府から親王などの位階を停止され、広島へと流される悲運を受けるのであった。 
天誅組
天誅組が決起した当時の情勢は、まさに過激尊攘派の絶頂期にあった。1863年(文久3年)夏、三条実美ら強硬派尊攘の公卿たちは、洛中を跋扈(ばっこ)する過激尊攘派の志士たちと結託して、天皇親征を画策した。親征実行の契機付けとばかりに天皇の大和行幸、神武天皇陵、春日大社参拝を実現し、その後に親征の軍議を開くという計画を立て、天皇の意向を無視して無理押しの形で行うことを決定した。
この大和行幸の計画を知った過激尊攘派の志士たちは、大いに気勢を挙げ、さらなる攘夷実行に加熱した。この熱気に乗じて、尊攘実行の先駆けとなろうとした者たちがいた。土佐の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石、三河の松本奎堂ら過激尊攘派の志士たちである。彼らは東山の方広寺に集まり、根が腐っている幕府を倒し、自分たち主導の世の中にしようと考え、倒幕の火付け役になろうと計画した。彼らの掲げた尊攘倒幕の考えは、その後に起きる下関戦争や薩英戦争で欧米列強に敗北した長州藩、薩摩藩が反省の上でたどり着いた倒幕思想とは、意を異にする。吉村たちが考えた尊攘倒幕思想は、傲慢無礼甚だしい悪代官の親玉である幕府を倒し、同時に攘夷も実行して、国体を保とうとした。さしずめ、建武の新政のような革命を起こし、吉村たち革命の先駆けを成した功績で自ら政権の中枢になろうという出世野望が剥き出しの行動であった。尊王攘夷の先駆け決起なのだから、尊王として朝廷の誰かを総大将として祭り上げる必要がある。そこで彼らが目をつけたのが、大納言・中山忠能の七男・中山忠光であった。忠光は弱冠19歳の青年公卿であったが、血気盛んな若者で強硬な尊攘派の立場を取っていた。土佐勤王党の盟主・武市瑞山でさえ、忠光の血の気の多さに、もてあましたという。そこで、吉村らは、忠光を総大将に据え、総裁には吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂が就き、天誅組の武装蜂起が成された。
方広寺に集まった吉村ら同士38名は、8月14日夜に伏見から淀川を下って、大坂を出て、海路堺にたどり着いた。そこから河内へ入り、同士を募ることにした。河内で水郡善之祐(みずごおりぜんのすけ)ほか十数名を同士に加え、さらなる活動を盛んにした。まず、朝廷に提出する奏聞書を作成した。内容は挙兵の趣旨を説明し、討幕の勅諚を請い、速やかに天皇新征を実行することを願った文章であった。
ついで吉村ら一行は、千早峠を越えて、大和へ入り、17日夕方、五条の町へ到着した。この地では、大和諸郡10ヶ村7万1000石の土地を支配する代官所があった。吉村たちは倒幕の先駆けを成す!と豪語して、そこの代官の鈴木源内ほか四名を捕らえ、斬首した。天誅組の武装蜂起の契機付けとして、幕吏らを血祭りに挙げ、気勢を挙げた。中山忠光が桜井寺に到着し、そこで吉村たちは五条新政府の協議を行った。それぞれの役職を決め、計画を練った。五条の代官支配を解き、天皇直轄地と定め、農民たちには「祝儀として本年は年貢半減」と告げて、天誅組支持を取り付けようとした。吉村たちが五条新政府樹立と称して、祝い舞っているころ、京都ではとんでもない革命が起きていた。
1863年(文久3年)8月18日、中川宮ら公武合体派公卿たちが結託して、会津藩・薩摩藩ら京都在中の諸藩の協力を取り付け、宮廷内を占拠したのだ。佐幕派諸藩の軍兵が宮廷内外を警備し、強硬派尊攘の長州藩や公卿たちは手出しができなかった。こうして、強硬派尊攘の志士たちは洛中を追われ、たった一日にして、革命は成就し、政局は尊攘派主導から公武合体派・佐幕派主導へと移った。
この政局の変革の報せを五条で受け取った天誅組は、大いに慌てた。まったくもって、朝廷や長州藩の後ろ盾を失ってしまったのであるから、孤立無援は必至の状況と成った。天誅組を討伐する動きに入ると考えた吉村たちは兵力増強を図るべく、政変の事実を隠したまま、朝命と称して、吉村寅太郎の名で檄文がその地一帯にまかれた。名字帯刀(みょうじたいとう)を許し、5石2人扶持の給与を与えるとして、15歳〜50歳までの男児に召集をかけた。十津川郷では、これに応ずべきか議論が成されたが結局、天誅組に組することに決定し、1000名余りが参加した。
兵力増強を成した天誅組の行動は、慌しさを増した。五条の地は水郡たち河内勢に任せ、忠光ら天誅組本隊は、8月20日に十津川の天辻(てんつじ)に本営を移した。天辻の地は切り立った絶壁に囲まれ、天然の要害を誇り、天誅組討伐隊に備えるにはもってこいの地形であった。しかし、水の便が悪く、周囲に村々がなかったため、食糧供給など物資調達に困難な点が欠点であった。
佐幕派の諸藩が天誅組を討伐する部隊を投入しようとしていることは明らかだった。この情勢に忠光は武器弾薬の確保が必要と判断し、十津川郷士たち1000名を率いて、高取城を攻めた。城兵は260名の小勢であったが、高取城は標高600m近い小山に建てられ、堅固な城として有名であった。高取城からは旧式の大砲が天誅組目掛けて飛んできたが、あたることは無かった。同じく天誅組が即席で作り上げた木製の大砲もさっぱり遠くに飛ばず、戦力にはならなかった。攻め方がわからず、城の周りをウロウロする程度で何ら打開策が見出せなかった天誅組は、仕方なく撤退した。烏合の衆でしかない十津川郷士たちの戦果のなさに憤慨した吉村は、精鋭の者数十人で高取城へ夜襲をかけてみたが、ろくな訓練もしていない部隊のため、作戦はバラバラとなり、ついには吉村自身が味方の誤射した銃弾にわき腹を撃たれ、重傷を負い、撤退を余儀なくされた。
天誅組の心意気は、純粋に国難の危機を救うための義戦蜂起であったが、ろくな準備もないまま、周囲の協力を得て、成就するという都合のいい計画を立てていたため、誰からもその真義の姿勢を認められなかった。朝廷側も世の中に不平不満を持つ、貧乏浪士たちが無秩序蜂起をして、世の中の秩序を乱し、戦乱を広げようとしていると見ていた。そのため、朝廷は天誅組の追討を諸藩に命じ、紀州・津・彦根・郡山の畿内諸藩らに白羽の矢がたった。追討軍は総勢1万という大軍となり、天誅組討滅戦を展開した。この動きを見た天誅組は、一時、吉野山麓の下市(しもいち)を焼き打ちして気勢を挙げ、有志たちに同調決起を促したが、誰も応じる者はなく、孤立無援の状況を脱することができなかった。ついには糧道を絶たれ、食糧不足に陥ると十津川郷士たちの大半が離散し、天誅組の残兵数は30名に満たなくなった。吉村らは、もはや死地を捜し求めて山中をさまようほかなく、吉村自身は先に受けた弾傷が悪化し、同士たちから置き去りにされるという悲運をたどる。そうこうしているうちに、丹生川上神社から高見川沿いに下って、鷲家口(わしがぐち)近くまでたどりついたところを津藩兵に見つかり、一斉射撃を浴びて、壮絶死した。
藤本鉄石も鷲家口東方で紀州藩兵に包囲され、自ら刀を振るって奮闘したが、ついに力尽き、討死にした。松本奎堂は独眼の猛者であったが、戦闘中に残り片方の目も見えなくなり、盲目のまま輿に乗って、指揮を取った。多勢に無勢の言葉よろしく戦況は悪化の一途をたどり、奎堂自身も弾丸を二発を胸に受け、どっと倒れて、討死にした。
一方、五条の地に残った河内勢を率いる水郡は、新宮目指して、移動し、9月22日に南紀の龍神温泉まで進軍したが、戦う気力もなくなり、紀州藩軍に自首し、土蔵に幽閉された後、京都に送られて、兵乱起こしの罪を負わされて、処刑された。
次々と武装蜂起した仲間たちが悲壮の討死にする中、天誅組総大将の中山忠光は、再起を目指して逃避行を続けた。十津川郷士・深瀬繁理(ふかせしげさと)や伴林光平(ともばやしみつひら)らに道案内をさせ、一路、大坂にある長州藩邸に向かった。9月下旬にようやく大坂の長州藩邸に入った忠光は、さらに海路、下関に向かい、長州藩の市藩・長府藩にかくまわれた。その地で忠光は、再挙を目指したが、1864年(元治元年)11月5日深夜、朝廷や幕府からいらぬ嫌疑をかけられる前に忠光を誅殺すべきと図った藩内の俗論派たちが忠光を襲撃した。5人の刺客は忠光を斬殺後、遺体を綾羅木(あやらぎ)の浜に埋めて、引き揚げた。忠光死後に忠光の後を追って、天誅組の生き残りが長府藩にやってくると、忠光死すの報せを受け、死体を掘り出そうとした。墓を作ろうとしたのであったが、俗論派の藩士たちがこれを阻止し、朝敵のように扱われている忠光の墓を作ることをさせなかった。長府藩は、幕府に対して、忠光は酒好き、女好きにてまもなく衰弱して、病没したと報告した。
こうして、天誅組は悲壮な運命をたどった。彼らの武装蜂起は、時代の波を先取りし、波に乗る一歩手前まで成功していた。しかし、中川宮ら公武合体派公卿の巻き返しにあい、政局のどんでん返しをされ、天誅組は孤立無援の浮いた存在となってしまった。天誅組は素晴らしい国粋主義者であったが、実利を伴わない無秩序をもたらす危険をはらんだ兵乱は、誰からも支持をされなかったのである。これは、後に京都を追われた強硬派尊攘の長州藩士たちが引き起こした禁門の変にて同じ現象が起きた。やはり、時期尚早な攘夷実行は無理であり、倒幕という国内を争乱に追い込むやり方は、天皇に受け入れられなかったのである。この二度に渡る強硬派尊攘思想が打ち砕かれたことは、その後の志士たちの思想に大きな影響を与えた。下関戦争と薩英戦争によって、攘夷実行が不可能とわかった時、尊攘思想は新たな転機を迎えるのだが、その下準備として思想転換の先駆けを成した事件が天誅組蜂起とその失敗であった。
天誅組が目指した倒幕思想は、薩長同盟によって、改新した形で復活する。それは、国家統一という欧米列強に日本が肩を並べる為に必要な近代化の第一歩となる政策に掲げ、倒幕が大義名分を完全に得たことで、成就されていったのである。 
生野の乱
生野の乱は、まさに強硬派尊攘の志士たちが最盛期を迎えた直後に起きた、8・18の政変にて、公武合体派公卿の巻き返しにあい、政局を追われたことへのやりきれない思いをぶつけた兵乱であった。
8・18の政変前日まで、強硬派尊攘の公卿や志士たちは、政局の主導権を握り、天皇をも動かして大和行幸を実現させ、天皇新征をもって、幕府を出し抜いて、攘夷を実行しようとした。そして、貧乏浪士などと毛嫌いされていた強硬派尊攘の志士たちは、天皇新征の中枢を成し、権力の座に就こうとする野心的な側面もはらんでいた。強硬派尊攘の思想を広めた扇動者・真木和泉や朝廷内の強硬派尊攘の政策を主論に持っていった公卿・三条実美たちの思惑は、まさに順風満帆であった。
しかし、攘夷実行がまだ早すぎる、幕府を中心に諸藩の武威を持って、秩序だった組織によって、攘夷は成されるべきだと考えていた孝明天皇は、公武合体派の中川宮に勝手なふるまいをする強硬派尊攘の者たちへの不満を漏らした。中川宮は天皇の意向を察し、密かに強硬派尊攘の者たちを出し抜く計画を立て、会津藩・薩摩藩の武威をもって、8・18の政変を成功させた。たった一日の革命劇で、あの強硬派尊攘の志士たちを出し抜き、政局の表舞台から追放したその手際のよさは、策謀家の鑑のようであった。公武合体派と佐幕派は、この政変で大いに満足した。政局の主導権を奪還し、再び幕府を中心とする幕藩体制の秩序統制の下、攘夷実行が行われることになったのだ。
これに不満を残したのが強硬派尊攘の人々であった。かつては京都を我が物顔で歩いていたのに今では、公武合体派と佐幕派に政局の主導権を取られてしまったのだから。京都を追われた長州藩と三条実美らは、長州へと落ち延び、再起する機会をうかがった。彼らには同士たちの訃報が届いた。吉村寅太郎らが首謀者となって、天誅組が結成され、尊攘の先駆けを成そうとしたのである。しかし、彼らは政変にて孤立無援となり、悲運な最後を遂げた。天誅組の暴発を食い止めようと五条に走った平野国臣(ひらのくにおみ)は、一歩遅く、彼らの挙兵を止められなかった。
天誅組の無念を打ち晴らし、再び尊攘の志を天下に再燃させる必要があると考えた者たちは、生野の乱へと突き進んでいった。七卿落ちの一人・沢宣嘉(さわのぶよし)を主将として、長州藩士・野村和作(のむらわさく)、鳥取藩士・松田正人(まつだまさんど)、薩摩藩脱藩士・美玉三平(みたまさんぺい)、但馬の志士・北垣晋太郎(きたがきしんたろう)、中島太郎兵衛(なかじまたろべえ)らが中心となって、計画を練り、挙兵する準備を始めた。挙兵の計画は、まず海防の任にあたっていた但馬の農兵の力を利用して、挙兵するというものだった。挙兵後は、周囲の村々から賛同者を集め、兵力を増強し、畿内の賛同者たちに挙兵を促し、各地で幕藩軍と戦い、ついには京都を奪還するというものであった。
この強引な武力決起によって、京都奪還を目指す計画は、血気盛んな尊攘派志士たちの賛同を得て、長州藩の奇兵隊の一部も参加した。彼らは1863年(文久3年)10月8日に海路、播磨に上陸し、北上して但馬に入った。この時、すでに彼らには天誅組の壊滅という訃報が届いており、一行の中には、中止論も出たが、大半の者たちは、むしろ今こそ、天誅組の弔い合戦を行うべきとの意見で一致した。
但馬まで来た彼らと遭遇した平野国臣は、天誅組の散々な敗北劇を見聞きしてきたことを伝え、無謀な行動は今は慎むべきと進言した。しかし、今さら但馬まで出張ってきて、引き下がっては、尊攘派の志士たちは世間からあざけり笑われるとして、公武合体派、佐幕派に一矢報いる意味は大義であるとして、彼らは計画の遂行に決した。
悲壮感漂うまま彼らは、10月11日未明、代官不在となっていた生野代官所(※幕府直轄地である生野銀山の代官所)を襲撃した。この襲撃時の挙兵数は、わずか三十名ほどであった。こうして生野の乱が幕を開けると、彼らは襲撃成功後、代官所を本営として、近隣の農民20歳〜40歳までの者に帯刀して参加するよう呼びかけた。すると近隣の庄屋に連れられて、続々と農兵が参加した。その数、4000余名にも達した。平野らは、集まった農兵に三ヵ年の間は年貢を半減にすることを約束し、参加した労をねぎらった。実際のところは、庄屋たちに借り出されて、義理的に参加した者がほとんどだった。
ようやく兵団らしい兵数が整った者の連帯訓練など一度も行っていない農兵中心の部隊である。大した戦力はなかったが、但馬周辺の諸藩はこの尊攘派志士たちの挙兵に驚き、藩兵が鎮圧に出動してきた。姫路藩・出石藩・豊岡藩らの藩軍が但馬に向かっているとの報告を受けた平野らは、軍議を開き善後策を議論した。軍議の内容は、次第に戦況不利を悟って、解散する意見が濃厚となり、13日夜になると、兵団の主将・沢宣嘉がまず、但馬を脱し四国へと逃れ、そのまま安全地帯である長州藩へと戻った。平野国臣は鳥取へと向かったが途中で捕縛され、京都六角獄に送還され、その翌年に起きた禁門の変の際に混乱に乗じて、脱走させないために斬首された。
美玉三平は、逃亡の途中で農兵に見つかり、斬殺された。沢宣嘉の護衛兵となっていた奇兵隊士・南八郎ら13名は、妙見山(みょうけんざん)に立てこもり、討伐部隊と一戦交える覚悟を決めていたが、味方の農兵らの裏切りにあい、死地を悟って、全員自刃して果てた。
こうして、生野の乱は幕を閉じたが、強硬派尊攘の志士たちには、恥の上塗りのような失敗劇であった。一矢報いることもできず、国内の秩序をむやみに乱した厄介者扱いを朝廷や幕藩たちから受けた。この失敗を教訓として活かして、別の思案をしていれば、この後に起きる禁門の変の悲劇もなかったことだろう。強硬派尊攘の志士たちは、京都に居場所を求めた。京都を中心に尊攘思想を国政の主軸とすることだけが念頭にあった。それは、天皇を頂き、大義名分の名の下に、権勢を思う存分振るえた栄光の時を忘れることができなかったからだ。天皇を頂いた彼らは、無敵だったのだ。逆らう者はなく、全ては自分の意の如く、成って行ったことへの甘美さを忘れられなかったことが京都奪還の夢に固執したのであった。
その夢見心地の気分を再度求めた強硬派尊攘の志士たちを高杉晋作は、冷淡に見ていた。幕府も会津藩も薩摩藩もみな、甘美な夢見心地を抱くことはなかった。大義名分という名の銘酒に酔いしれたことが強硬派尊攘たちの国粋思想を腐らせてしまった。国内の秩序をもって、攘夷を成すということに強硬派尊攘の人々は、どうしても納得できなかった。それは、下剋上という思想を抱き、出世の野望に意思を向かせてしまったことにある。国粋のためという偽名を借りた繁栄の仕方が、結局は身の破滅をもたらすことを歴史は教えている。その意味で、天誅組、生野の乱の失敗は、実利のある行動でなければ、誰もついていかないということを示している。彼らの失敗は、秩序だった組織統制によって、成されるべき行動を気勢だけに頼って、行おうとしたことに敗因がある。この教訓は、その後に起こる戊辰戦争の時にしっかりと活かされるのであった。組織統制をしっかりとし、身分の低い出身であっても、規律をしっかりと重んじた行動をすることで、新政府は正規の政権へと発展できたのである。天誅組が五条の地で五条政権を樹立し、気勢を挙げて、周囲の人々の賛同を求めても、結局は無計画で無秩序なならず者集団としか見てもらえなかったこととから見ても、いかに秩序だった組織作りが大事かをその後の歴史に影響を残しているのである。 
池田屋事件
池田屋事件が勃発した時期の京都の情勢は、強硬派尊攘の志士たちと公武合体派、佐幕派の志士たちとがにらみ合う緊迫した空気が漂う中で起こった。池田屋事件が起こる前年の1863年(文政3年)8月18日に起きた政変で、それまで京都を我が物 顏で闊歩していた強硬派尊攘の志士たちが、公武合体派の巻き返しにあい、わずか一日で情勢をひっくり返されてしまった。勅命により、洛中を追われることとなった強硬派尊攘の者たちは、長州藩へと落ち延びていった。その後の京都を支配したのは、公武合体派、佐幕派の人たちで、天誅事件など物騒な出来事が、ようやくなくなり、一時の秩序と平穏を取り戻していた。しかし、強硬派尊攘たちの京都奪還の夢は、捨て切れず、京都の裏舞台では、強硬派尊攘の志士たちが、身を潜めて、何事か謀略事を議論していた。この強硬派尊攘の志士たちの不穏な動きを察知した幕府は、見廻組や新選組を設置して、京都の警備に当たらせていた。その警戒をしていた最中に池田屋事件が起きたのである。強硬派尊攘の志士たちが計画していた京都を火の海にする暴挙を食い止めた新選組の名は瞬く間に有名を馳せ、新選組の親玉である京都守護職の松平容保は、朝廷より功労を賞賛され、一躍、人気を集めた。
事件の発端は、1864年(元治元年)6月1日に、強硬派尊攘の宮部鼎蔵(みやべていぞう)の従者が新選組に捕縛されたことに始まる。肥後藩士・宮部鼎蔵は、長州の吉田松陰の親友で、兵法術を収めた尊攘の志士であった。強硬派尊攘の人々が政局を握っていた1863年(文久3年)に出された勅諚で設置された新兵の総督に兵法に明るい宮部が就くなど、強硬派尊攘の中心人物の一人だった。
8・18の政変で、京都を追われた宮部は、三条実美ら七卿落ちとともに長州へと下ったが、その後、長州藩の立場を説明して、理解と協力を仰ごうと北陸の加賀藩へ出向いた。その帰りに京都に寄って、尊攘派同志との連絡を取っている時に従者が新選組に捕縛されたのだった。宮部の従者は、宮部ら強硬派尊攘の志士たちが不穏な動きをしていることを聞き出したが、小者だったため、詳細な情報は得られなかった。ただ、宮部が京都商人である枡屋喜右衛門(ますやきうえもん)の屋敷に出入りしているということはつかんだ。枡屋喜右衛門の身辺を調査するようになった新選組は、ますます怪しい行動を取る枡屋に疑惑の念を深め、ついに6月5日早朝、新選組は四条木屋町で武具・古道具・薪炭などを商う枡屋の屋敷に踏み込んだ。枡屋喜右衛門は捕らえられ、壬生の屯所に連行され、”鬼の歳三”と世間から恐れられた土方歳三による激しい拷問を受けた。さすがに耐え切れなくなった喜右衛門は、その日のうちに知っていることを全て白状した。それによると、喜右衛門は偽名で、実名は古高俊太郎(こだかしゅんたろう)という近江の郷士だという。古高の話では、同志たちが祇園祭りの夜に市中に火を放ち、混乱に乗じて、この時、宮中に参内するであろう京都守護職の松平容保と中川宮朝彦親王を襲撃し、討ち取り、そのまま宮中に押し入って、天皇を長州に移すという計画を立てているという。
事態が容易ならざるものと察した新選組は、事のてん末を京都守護職と京都所司代に報告し、一方で新選組は隊士総出で市中に潜む強硬派尊攘の志士たちを探査することにした。
古高が捕縛されたことで、挙兵を計画していた同志たちは、その善後策を話し合うため、三条小橋の西にある小さな旅籠(はたご)である池田屋に集合した。集まった同志は、計画実行の主格・宮部鼎蔵、肥後藩士・松田重助(まつだじゅうすけ)、長州藩士・吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐藩士・望月亀弥太(もちづきかめやた)らニ十数名を数えた。長州藩士・桂小五郎もこの時、一度は池田屋に顔を出したが、同志たちがまだ集まっていないのを見て、暇つぶしのためにブラリと外に出かけ、討ち入りの難を逃れている。
新選組は、この宮部らの会合を事前に把握し、会合場所を探索することに全力を挙げることにした。だが、この時の新選組の隊員数は80名に満たない少数で、しかも折からの流行カゼで半分の隊士は寝込んでいた。そのため、探索にあたった隊員数は、わずか34名であり、これでは、効率よく探索できないとして、会津藩・桑名藩に探索の協力要請を出していた。だが、いつまでたっても両藩の藩士たちが来ないので、仕方なく新選組34名だけで探索を開始した。
探索開始時刻を午後8時と予定していたが、会津藩・桑名藩がこなかったため、午後10時を過ぎて、探索開始となった。新選組は探索部隊を近藤隊と土方隊の二手に分けて、京都中の旅籠や料亭を片っ端から探索した。
探索を開始してまもなくして、どうも池田屋が怪しいということがわかった近藤隊は、土方隊の到着を待たずにわずか5名で斬り込むことにした。池田屋の中は間取りが手狭にできており、間口が三間半、奥行きが15間、建坪80坪で、客室の畳数は60畳であった。天井は低く、頭がつかえそうなほどで、思いっきり刀を振り回せる広さはなかった。会合は二階で行われており、二階へ上る階段も狭く急にできていて、上部には欄間があって、刀で斬り合うには、不向きな造りとなっていた。
それでも討ち入りによる激しい斬り合いは壮絶を極め、新選組隊士・永倉新八の刀は折れ、沖田総師の刀は帽子折れ、藤堂平助の刀の刃はささらのようになり、近藤の養子・周平は槍を斬り折られたという。武器が疲弊して使い物にならなくなるほど、激しく斬り結んだ修羅場に、土方歳三が率いる隊が駆けつけてきたのは午後11時半ごろだったという。午前0時を過ぎる頃には、数千の会津・桑名両藩の兵団が現場に到着し、一帯を包囲し、逃亡者の確保に全力を挙げた。近藤たちが討ち入りを終え、ようやく壬生の屯所に引き揚げたのは、日がすっかり昇った正午ごろであったという。
池田屋事件で強硬派尊攘の志士たちの被害は、使者十六名、捕縛者ニ十数名、脱出10名であった。池田屋内で死んだのは、挙兵を計画した主格の宮部鼎蔵、土佐の北添佶摩(きたぞえきつま)、大高又次郎、伊藤弘長、福岡祐次郎の四人だけであった。長州の吉田稔麿や土佐の望月亀弥太などは、斬り合いでは新選組には、適わないと見るや二階から飛び降り、池田屋を包囲していた会津・桑名の両藩兵の追撃を交わし、池田屋から約400mほど離れた場所にある長州藩邸に逃げ込もうとした。しかし、藩邸の門はすでに閉まっており、逃げ場に窮した彼らは、藩邸脇で自刃して果てた。
桂小五郎はこの騒ぎを聞いて、池田屋に向かったが会津・桑名の両藩兵が池田屋を包囲しているのを見ると近くの対馬藩邸に逃げ込んで危機を脱している。それを知らない長州藩士・杉山松助は、長州藩邸から飛び出し、小五郎の身を案じて池田屋に向かったところを斬られた。松田重助は小刀だけを帯びて、裏座敷で涼んでいたところを捕縛されたが、明け方になってスキを見て脱出し、逃亡を図ったが会津藩兵に見つかり、その場で斬られた。
池田屋にいた者たちの大半は、討ち入って来た新選組の腕前を恐れ、闘わずに逃げ出し、多くの者が長州藩邸に逃れて、危機を脱していた。事件後、新選組が討ち入った戦果は、打留め七人、負傷者四人、召捕り二人であった。残りの尊攘派志士たちを討ったのは、池田屋の外にいた会津・桑名両藩兵であった。新選組の被害は、死者三名で、奥沢栄助は即死、安藤早太郎、新田革左衛門は重傷を負い、後日死亡している。藤堂平助は額を斬られ重傷し、永倉新八は親指を斬られた。
この新選組の活躍で、公武合体派と佐幕派は絶頂期に入る。池田屋事件の翌年7月に起きた禁門の変は、池田屋事件で長州藩士を斬られたことへの復讐の意味も含まれていた。その意味で強硬派尊攘で京都奪還の夢を諦め切れない最後の志士たちが禁門の変へと向かわせる誘発剤となった事件であったことは確かである。新選組によって、公武合体政権は促進され、佐幕派は幕末最後の脚光を浴びることとなった。 
禁門の変
大和行幸を決定させ、強硬派尊攘の志士たちが栄華を誇ったのは、1863年(文久3年)8月17日までであった。その翌日には、8・18の政変が勃発し、公武合体派、佐幕派が政権を奪取し、強硬派尊攘の人々は、京都の地を強制退去させられた。政権失脚を成した七卿とともに長州藩強硬派尊攘の藩士たちは、郷里を目指して落ちて行った。強硬派尊攘の公卿や長州藩士が京都を去り、長州へ向かった後の畿内は、彼らの仲間である強硬派尊攘の志士たちの武装蜂起でにぎわった。天誅組や生野の乱では、強硬派尊攘の志士たちの悲壮感漂う無謀な兵乱を起こし、結局は、幕府・諸藩によって、叩き潰されてしまった。この同志たちの悲運の死を見ながら、耐え忍んでいたのが長州藩強硬派尊攘の藩士たちだった。彼らは、京都奪還を未だ諦めず、公武合体派と佐幕派の者たちを討ち滅ぼそうと執念を燃やしていた。折りしも、関東で水戸藩の強硬派尊攘の天狗党が挙兵し、筑波山で幕府・諸藩の軍勢と戦っている時期、京都奪還のゲリラ作戦を計画していた長州藩士・吉田稔麿らが、池田屋にて新選組・会津藩らに討たれた報せが長州藩に届いた。
長州藩は、もはやゲリラ作戦で京都奪還は不可能と判断し、藩兵を率い、武威をもって失地回復を図った。いわば、水戸藩の天狗党のように強硬に武装 蜂起を成し、正々堂々と幕府・佐幕派諸藩と戦おうとしたのである。武威にて京都奪還を主張したのは、七卿落ちで長州にいた三条実美ら七卿と強硬派尊攘の扇動者・真木和泉、長州藩士では遊撃隊総督の来島又兵衛(きじままたべえ)、久坂玄瑞らであった。これに対して、高杉晋作や桂小五郎は、京都奪還に固執する狭い尊攘実行を非難し、もっと現実的な富国強兵策を藩内に実施して、攘夷を単独で実行することを主張した。
だが、高杉らの意見を聞き入れない来島らは、池田屋事件で傷付けられた藩の威厳を回復させるべく、京都へ向けて藩兵を率いて出陣した。来島らは攘夷実行のために結成された集義隊や八幡隊など諸隊を率いて、上洛の途についた。そして、京都に近い伏見・嵯峨・山崎方面に布陣し、幕府・佐幕派諸藩軍の出方を見た。
一方、幕府は朝廷から禁裏守衛の任を受けてい た一橋慶喜を中心に幕府軍や会津藩ら佐幕派諸藩の軍勢とともに京都市内に集結し、防衛態勢を整えた。緊迫した空気が京都中を支配していたが、そんな折、慶喜に招かれて上洛していた佐久間象山が強硬派尊攘の志士に暗殺された。しかもその時に書かれた斬奸状(ざんかんじょう)には、会津・彦根両藩を非難し、天皇を彦根へ遷都する謀略を企てている逆臣であると記していたため、幕府側は憤り、長州藩側も幕府が朝廷を遷都させて、操ろうとしていると憤慨した。両者は一触即発の気勢を表し、もはや洛中での戦争は避けられない状況となった。
1864年(元治元年)7月19日未明、伏見に布陣していた長州軍がにわかに伏見街道を進軍して、大垣・彦根両藩の軍勢と遭遇し、ここに禁門の変の戦端が開かれた。伏見方面から進軍してきた長州軍を率いていたのは、長州藩家老・福原越後(ふくはらえちご)であったが、戦いは大垣藩軍の優勢で展開され、ついには部隊総督の福原が負傷したため、長州軍は撤退を余儀なくされた。敗走する福原の部隊は、伏見街道と並行する西方の竹田街道を進もうとしたが、彦根・会津両藩兵に行く手を阻まれ、仕方なく山崎方面へと敗走した。
伏見方面の福原部隊が突入を開始したことを知った嵯峨方面の天竜寺に布陣する長州軍部隊は、部隊を二手に分けて、蛤御門を目指した。嵯峨方面の二部隊は、長州藩家老・国司信濃(くにししなの)と来島又兵衛が率いた。彼らが率いる部隊は、蛤御門を守る会津藩軍と白兵戦を展開し、一時は、会津藩軍の防衛線を突破し、御所内にまで進軍したが、新手の薩摩・桑名両藩兵から反撃され、撃滅した。この蛤御門の戦闘が最も激しく、禁門の変というこの戦乱の名称も別名を蛤御門の変としているくらいである。
ついで、山崎方面に布陣していた長州軍は、堺町 門に進軍し、前関白・鷹司政通の屋敷を占拠した。この山崎方面の長州軍を率いていたのは、真木和泉と久坂玄瑞であった。真木和泉と久坂玄瑞があえて前関白・鷹司政通の屋敷を占拠したかというと、前年まで強硬派尊攘が政局の主導権を握っていた時に真木、久坂の両者が鷹司政通と親交があったからだった。そして、真木、久坂の思惑は、鷹司政通の協力を仰いで、孝明天皇への弁明をしてもらおうというものだった。しかし、鷹司政通とて、もはや公武合体派・佐幕派の公卿が政局を奪取し、孝明天皇自身が強硬派尊攘の思想を受け入れないということを指摘して、真木、久坂の訴えを断った。鷹司邸を二重三重に取り囲んだ幕府・諸藩軍が砲撃を開始してきたため、久坂はもはや死地を悟り、屋敷内にて自刃して果て、再起を願う真木はかろうじて、屋敷を脱出し、天王山へと向かった。その後、真木は天王山にて善後策を思案していたが会津・桑名藩兵、新選組らに包囲され、悲壮な嘆きを吐いて、自刃して果てた。
天王山方面から宮廷を目指した長州軍は、各方面の長州軍が次々と敗北した報せを受け、戦わずに敗走した。天王山方面の長州軍を率いたのは、長州藩家老・益田彈正であった。
来島又兵衛、入江九一らも敗死し、長州藩強硬派尊攘の志士たちはほとんど全てが討ち果たされた。かろうじて長州藩に生還できた三家老も、後に責任を取らされ、切腹して果てた。
こうして、禁門の変はわずか一日足らずで終結し、国内の動揺を最小限に止めることに成功した。しかし、洛中は三日三晩、燃え続け、2万8千戸が焼失したと伝えられている。焼け出された民衆が河原や街道にあふれ返り、悲惨極まりない情景を作り出したと記録に残っている。
この乱戦の最中に六角獄につながれていた国事犯30人以上が、混乱に乗じて逃亡させないために斬首された。
さしずめ宮廷争奪戦となった禁門の変は、天皇・朝廷の機関が国政を左右する重要な機関としての位置付けを決定させた歴史の転換点となった。孝明天皇は、長州藩の暴挙を非難し、会津藩ら宮中を守った佐幕派を大いに賞賛し、改めて孝明天皇が佐幕派であることを天下に証明させた。
その後、孝明天皇は長州藩追討の勅命を発し、幕府は第一次征長を実施するのであった。この第一次征長が成る前に長州藩は、四国連合艦隊の報復攻撃を受ける下関戦争を起こす。この下関戦争でも大敗を喫した長州藩は、第一次征長に対する防衛力はなく、戦わずして幕府に平伏し、恭順するという屈辱を味わうことと成る。この畳み掛けるような国内外からの圧力に屈したかに見えた長州藩は、不死鳥のように復活するのだが、復活した長州藩の強さは、尋常ではない強さを誇った。これは何度も叩かれて、鋼(はがね)のように強さを増したかのようで、思想と軍制の転換が成され、国内で一番の洗練された思想と軍制を整えることになったのである。その意味で、長州藩のもがき苦しんだ時期に起こした兵乱は、超人の境地に達するための一種の修業のような過程となったのである。長州藩が禁門の兵乱で失ったものは余りにも多いが、それによって得た教訓は、誰にも負けない一番洗練された思想と意志の強さをもたらしてくれたのである。 
下関戦争
長州藩は、強硬派尊攘の中心的存在となり、京都で尊攘の思想を流布し、公卿へも盛んに交渉し、長州の尊攘に同調した公卿の三条実美らとともに朝廷内の主導権を奪取した。刃向かう者は天誅によって、脅迫し、反対者を押さえ込み、ついには大和行幸を決定させ、天皇新征が実行へと移されることと成った。1863年(文久3年)5月10日をもって、攘夷の期日とすることを幕府に認めさせた長州藩は、その期日当日に下関海峡を通るアメリカ商船・ペムブローグ号を砲撃した。こうして、長州藩は強硬派尊攘の先駆けを成し、長州藩領での攘夷実行にあわせて、朝廷をも巻き込んで、全面攘夷戦を国内に展開しようとした。
攘夷戦の緒戦を勝利で飾った長州藩は、次々と下関海峡を通過しようとする外国船に向けて、砲弾をぶっ放した。アメリカ商船砲撃後、フランス軍艦・キンシャン号、オランダ軍艦メジュサ号へ不意打ち同然の砲撃を成し、藩兵は気勢を挙げた。
これに対し、不意打ちの砲撃を受けた欧米列強とてこのまま黙ってはいない。翌月には早速アメリカ軍艦・ワイオミング号が長州藩へ報復攻撃を開始し、亀山砲台を猛撃して破壊した。ついで、長州藩軍艦・庚申丸(こうしんまる)・壬戌丸(じんじゅつまる)を撃沈し、さらに癸亥丸(きがいまる)も撃破し、多大な被害を長州藩に与えて、意気揚々と引き揚げていった。その四日後には、爪あとさめぬ長州藩にフランス軍艦二隻が報復攻撃を開始し、猛烈な砲撃後に陸戦隊を上陸させ、諸砲台を占拠・破壊し、近隣の村落も焼き払って、長州藩領を我が物顏で闊歩して引き揚げていった。長州藩も必死の反撃を行ったが、長州藩が誇る正規軍は成す術もなく、敗退した。このだらしなさに民衆から非難を受けた長州藩は、打開策を知恵者・高杉晋作に求め、晋作の考案した民兵組織の結成を許可した。高杉は民兵組織の奇兵隊ら諸隊を次々と作り上げ、西洋戦術による訓練を行った。考えてみれば武士の割合は全人口の一割にも満たないのだから、人口の大半を占める民衆から精鋭の者を募った方が、より頑強な精鋭部隊を作れるのは確かであった。
この高杉晋作による実力本位の軍隊が結成され、新たな戦力が長州藩に加わったが、それでも、欧米列強が保持する兵器などの差は歴然としており、1864年(元治元年)、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が連合して、長州藩に攻撃を仕掛けてきた。この時、奇兵隊は結成されて1年半ほど経過していたが、まだまだ未熟さが残り、まともな応戦はできなかった。欧米四カ国は、幕府との間に定めた条約にて、既存の航路を使用できなくした長州藩は、既存財産の保証を侵略しているとして、報復攻撃することにしたのである。徹底的に長州藩を痛めつけて、攘夷の思想を打ち砕いてやろうというのも目的の一つであった。
この長州藩の危機を知った伊藤博文と井上馨は、イギリスの留学先から急きょ帰国し、6月には藩庁への説得工作を試みたが、聞き入れられなかった。しかし、7月に入ると禁門の変で強硬派尊攘の長州藩士が壊滅すると藩内では、国内での攘夷支持者を取り付けなかったことで、孤立無援の状況となり、大混乱をきたした。このまま、欧米列強と単独で戦うことは不可能と判断した長州藩は、急きょ戦争回避を画策して、伊藤・井上を交渉の使者に立てたが、時すでに遅く、四国連合艦隊が長州藩を猛撃してきた。四国連合艦隊の主力はイギリスで、軍艦17隻、総計288砲門を数え、兵員は5000名の精鋭部隊であった。これとは別にイギリスは、横浜居留地の防衛のために軍艦3隻を配備し、陸兵部隊1400名を駐屯させていた。
四国連合艦隊の攻撃は、8月5日午後4時10分に始まり、わずか10分間程度で数百発が発射されたという。この連射砲撃で、砲撃開始後1時間ほどで長州側の主要な砲台はほぼ壊滅状態と化した。この戦果を見て、列国は陸戦隊を上陸させ、砲台の徹底破壊や砲弾・弾薬を爆破処分し、近くの町をも攻撃して、大いに気勢を挙げた。戦闘三日目以降になると長州藩の抵抗はほとんどなくなり、四日目の8月8日には、講和を申し立てる正使に抜擢された高杉晋作が家老・宍戸刑馬と偽称して、四国連合との交渉にあたった。
威風堂々と構えた高杉は、少しも敗北したという態度を見せず、終始対当な立ち居振舞いをして、欧米列強の提示した講和条件のうち、長州藩に損益となる項目は拒否して通した。欧米列強は、賠償金300万ドルという巨額を長州藩に提示したが、高杉は攘夷を命じたのは幕府であるから賠償請求は幕府に述べよと責任回避をした。この一連の戦争で、イギリスは長州の誇らしい態度に共感を覚え、幕府よりも付き合いやすいとして、以後は長州藩へ肩入れするようになった。長州藩も無理な攘夷は、机上の空論と判断し、戦後は、イギリスから徹底的に技能の修得を推し進め、富国強兵策を取り、目的を国家統一することへと転換させた。天皇を中心とする国家統一が、欧米列強の国体と同じくすることにつながることを認知したことから、長州藩は、余分な政権機関となった幕府を倒すことへと思想を発展させたのである。 
第一次長州征伐
第一次長州征伐は、幕府権勢の回復を目指す幕府にとって、願ってもない機会となった。禁門の変で長州藩は禁裏に銃弾を撃ち込み、洛中を大混乱に陥れた。このことに激怒する孝明天皇は、長州藩追討の勅命を発した。朝敵となった長州藩を討つのはもちろん、幕府であったが、この機会を逃さずに幕府権勢を回復しようと幕臣は考えた。幕府はすぐさま21藩に対して出兵準備を命じ、幕府も翌8月に将軍・家茂自らが軍勢を率いて、進発することを布告した。幕府権勢の盛り返し政策は、さらに進められ、9月には1862年(文久2年)から緩和されていた参勤交代・妻子の江戸在住制度を復旧させるとして、諸藩への圧力を強めた。
しかし、すでに政局の中心は京都に移っており、江戸にいる幕臣たちの考えは時局を逸していた。時代錯誤はなはだしい幕政に対して、諸藩はだれもまともには受け止めない。将軍自らの進発と聞いても、だれも恐れ入る者も奮い立つ者もいなかった。諸藩の藩財政は極端に悪化しており、戦争だの参勤だのと出費のことを考えない政策に諸藩は腹を立てていた。幕政への反発心を増やす結果を招き、参勤も妻子差出もいろいろな理由にかこつけて、諸藩は幕府の命令に応じなかった。諸藩は出兵だけは応じたものの、莫大な費用がかかり、幕府への不満を一層募らせた。また、いざ出陣をしても、戦争で血を流すのは御免こうむるとみな、そればかりを考えていた。
また、諸藩はせっかく権勢が衰えてきた幕府が長州征伐を契機にまた復権を果たして、諸藩の弾圧に乗り出すことを恐れた。そのため、長州藩を取り潰すことはせず、降伏させてそのままの現状維持をすべきと考える諸藩も多かった。
長州藩に同情する藩も多く、芸州(げいしゅう※広島)や因州(いんしゅう※鳥取)の藩などは、攘夷討ちを一藩だけで成した長州を助けもせずに攻め滅ぼそうとすることは、仁後に落ちる行為だと主張し、諸藩の意見は統一を見なかった。
幕府が征長軍総督を尾張藩主・徳川慶勝に任命したものの、当の本人は、混迷極まりない時勢を見定めて、再三固辞した。それでも幕府は強引に総督に就けようとしたものだから、慶勝も仕方なく、総督となるからには、全権委任を条件とし、幕府上層部の指図は受けない方針を打った。こうして、幕府は復権目的に諸藩に大号令を発したものの不評をかった上に、諸藩はいちいち幕命に反発したため、幕府の権勢は改めて失墜していることを人々に露呈する結果となった。
諸藩たちの不平不満を抱えたまま、ようやく11月に入って、征長軍は一応の組織を成し、長州藩を包囲する態勢を整えた。征長軍総督には、徳川慶勝が就き、副総督には越前藩主・松平茂昭(まつだいらもちあき)が就き、参加藩数は35藩、総勢15万の大所帯であった。
一方、薩摩藩では征長軍出撃の年のはじめに島流しの刑を許され、帰藩していた。そして、今回の征長軍への参加となり、総督参謀という高位の任を受けた。西郷は、はじめ宿敵長州を討滅できるとあって、大いに喜び、即座に決戦に及び、長州藩を改易、もしくは東国の偏狭の地にでも転封させるべきと考えていた。だが、はじめの気勢とは裏腹に、政局をつぶさに見聞きすると幕府権勢の盛り返しにつながることがわかると幕権強化を成すことに戸惑いを感じ、長州藩への明確な処遇を決めかねてしまった。
そんな西郷に未来の展望を開けさせた大人物が現れる。大坂城で幕府の軍艦奉行を務めていた勝海舟である。西郷はこの時、初めて勝海舟と対面し、日本の未来像を教えられた。幕臣である勝は、「幕府はもうだめです」と言い切り、幕政批判と共和政治(列侯会盟)を説き、すっかり西郷を啓発させた。特に勝が説く海外情勢を踏まえた広い視野で日本国政を見る考え方には、薩摩一藩にこだわる西郷の心を大いに刷新させた。当時の誰もが自分の藩のことだけを考え、日本の行く末を明確に展望できずにいた。しかし、藩の枠組みを超えた国家理念で国政を考えていかなくては、欧米列強にますます遅れを取る事になり、ついには収拾のつかない植民地支配を受けてしまうのは必至であった。欧米列強が国家統一を完全に成し、その上で、海外進出を果たしていることから見ても、国内統治の主導権を争ってばかりいる国が、欧米列強に勝るはずはなかったのである。勝の大海のような広い視野から政局の行く末を見定めることが西郷のような革命家には必要なのだとはっきりと啓発させたことで、事態は倒幕へと向かっていった。西郷は長州藩への処罰を軽くし、戦わずに征伐戦を終らせることを考えるようになった。このまま国内で同士討ちをすることはなによりも愚策だと西郷は感じた。それよりもどうやって、この地方統治を認めている幕藩体制を終らせ、国家統一を成し得るのか?とそればかりを考えるようになって いた。
西郷は征長軍の方針として「戦わずして勝つ」ことを提言し、血を流す戦いを嫌がる諸藩は、これにいちもにもなく同調した。征長軍に異論なく、長州藩へこのことが伝わると、長州藩もこれに応じ、藩論統一を進めた。長州藩の藩論は二派に分かれた。徹底的に幕府と戦うと主張する正義派と幕府に徹底恭順すると主張する俗論派である。藩論はこの二派の間で激化し、俗論派の椋梨藤太(むくなしとうた)など萩を拠点とする門閥出身たちは「純一恭順」を主張し、正義派では表向きは恭順を装い、裏では戦闘態勢を堅持するという「武備恭順」を主張した。この二派の激論は、正義派の井上聞多が俗論派に襲撃され、重傷を負うなど俗論派の攻勢勝ちとなり、藩論は俗論派の徹底恭順に決した。長州藩は征長軍に降伏し、謝罪の姿勢を見せるため、禁門の変で長州藩軍を率いて宮廷を攻撃した三家老を切腹とし、四参謀は斬首された。この長州藩の恭順姿勢を見届けた征長軍は、全軍撤退を決定し、これにて第一次長州征伐は終わりを告げた。だが、この攻め滅ぼさずに終戦したことには、幕府首脳部が大いに不満し、憤慨した。京都にて幕政を取り仕切っていた、一橋慶喜でさえ、この甘い処置に西郷にたぶらかされた慶勝を非難している。
この第一次征長で長州藩は、幕府に頭を下げて平謝りするという屈辱的な結果とはなったが、維新達成に必要となる長州藩が存続できたことは、日本近代化にとっては、まさに幸運であった。そして、西郷が啓発し、国家統一ということを成す重要性を認知し、その後の行動は、みな統一国家の誕生を最短でために向けられていったことは、歴史的意義が深い。 
長州藩の内部抗争
長州藩の強硬派尊攘の藩士たちは、京都に大勢赴き、尊攘論を主張し、朝廷内にも流布し、多くの公卿たちを尊攘派にした。京都での尊攘派藩士たちの活躍により、長州藩は一躍、政局の表舞台に踊り出た。大和行幸などを計画し、その予定が決まると天皇新征の名の下に攘夷実行がにわかに実現するかに思われた。この長州藩の強硬派尊攘の藩士たちの活躍で、長州藩の藩政主導は、強硬派尊攘の正義派が取り仕切った。
順風満帆に思われた尊攘派たちに思わぬ落とし穴がまっていた。8・18の政変で京都から尊攘派志士たちは追い出され、公武合体派・佐幕派が政局の主導権を握った。幕府が勢いを取り戻し、長州藩は政局の中枢から斥けられた。天誅組の兵乱や生野の兵乱など尊攘派同志たちのわずかな抵抗はあったが、全て佐幕派諸藩に鎮圧され、尊攘派の勢いはさらなる失墜を見たのである。
長州藩内でも、尊攘派藩士たちの勢いに陰りが見え始め、その機を逃さず、藩領保守を第一に考える門閥の俗論派が藩政の主導権を握った。尊攘派である正義派一派に藩政を取り仕切っていては、長州藩の行く末が危ないとの声が強まったため、藩政権が一時交替をした形であった。
その後、再び尊攘派である正義派が長州藩の主導権を奪い返し、再び強硬な尊攘思想で、難局打開を目指した。しかし、打開策を見出せない正義派たちは、藩兵を京都に派兵して、武威に訴えてでも、政局奪還を成そうという無謀なかけに出た。しかし、結果は禁門の変を引き起こし、宮中を中心に京都中を混乱に陥れ、長州藩は有能な人材を失い敗走した。京都内に兵乱をもたらした長州藩に激怒した孝明天皇は、長州藩追討の勅命を発し、第一次征長へと事態は進んでいく。久坂玄瑞や入江九一ら強硬派尊攘の藩士たちを失った長州藩正義派は、再び行き詰まりを見せ、長州藩の危機打開を成す力がなくなると再び、藩政の主導権は俗論派に移った。俗論派は門閥出身の椋梨藤太(むくなしとうた)が中心となって長州藩の危機打開のため、「純一恭順」を説き、藩論をまとめ上げようとした。しかし、これに反発する尊攘の正義派は「武備恭順」を主張し、幕府に対する藩の方針をめぐって激しくぶつかった。尊攘活動でさまざまな失態や多くの尊攘派藩士を失ったことで、勢いが鈍っている正義派に対し、俗論派は長州藩の危機を招いた仇敵として、正義派の駆逐をはじめた。俗論派は「撰鋒隊(せんぽうたい)」を組織し、正義派への攻撃を開始し、正義派の井上馨を襲撃。井上は瀕死の重傷を負い、正義派の勢いは鈍化した。さらに正義派支持を成した家老・周布政之助(すふまさのすけ)も俗論派の圧力がかかり、進退窮まった周布は自刃して果てた。強硬派尊攘の兵乱を成した天誅組の主将・中山忠光も長州に庇護されていたが、やがて佐幕派藩士たちの手にかかり、暗殺された。
次々と正義派の同志が攻撃され、正義派は孤立無援のまま、自分たちの身の安全を図らなければならなかった。こうして、正義派の勢いを鈍化させた俗論派は、藩政の主導権を握り、第一次征長の際に、完全降伏を成し、禁門の変に出陣した三家老を切腹、四参謀を斬首に処し、幕府へ徹底恭順の姿勢を表した。ついで、奇兵隊以下の諸隊に解散を命じ、武器・弾薬などを没収し、民兵組織による鍛錬を禁じた。
この年の12月、それまで身の危険を感じて、長州を離れて、博多に潜伏していた高杉晋作が意を決して、下関に戻ると、奇兵隊など諸隊に一斉挙兵を促した。高杉は自ら兵団を率いて、長州藩の藩政主権を奪取しようというのだ。しかし、奇兵隊ら諸隊は、自分たちが信奉する尊攘理論がさまざまな形で弾圧を加えられたことで自信を失っていた。そのため、高杉の挙兵要請にもなかなか応じなかった。そこで、高杉は伊藤俊輔(博文)が率いる力士隊とともに長州藩下関新地会所を襲撃し、これを瞬く間に占拠し、尊攘派志士たちの決起を再度、促した。この高杉の気概を知った奇兵隊ら諸隊は、ついにこれに同調し、長州藩内で革命戦が繰り広げられた。品川弥二郎らは小郡(おごおり)の代官詰所を襲撃し、占拠に成功。着々と正義派の革命戦は成功をおさめていった。
1865年(慶応元年)2月、ついに正義派は藩政の主導権奪回に成功し、藩外には恭順の姿勢を見せて、だます一方、藩内のおいては富国強兵・武備充実に勤めた。特に久坂らが強硬した攘夷実行はせずに、欧米列強と友好関係を築き、欧米の最新技術を導入して、長州藩の兵団強化を目指した。その後は、第二次征長を経て、国家統一戦を目指し、余分な機関と映った幕府の討滅へと思想転換が成されていった。
これら長州藩の改革は、高杉晋作を中心に桂小五郎、伊藤俊輔、井上馨、広沢真臣、前原一誠などによって、推し進められていった。 
水戸藩 天狗党の乱
水戸藩改革を推進した会沢正志斉、藤田東湖らは、天狗と呼ばれた。保守門閥派から学問を鼻にかけて、成り上がった者たちへの蔑視の意味が込められている。一方で天狗と呼ばれた改革派は、天狗のように快活に物事を成し遂げる力量ある人物という好意的な意味を持って、その呼称を歓迎した。
水戸藩は徳川斉昭が提唱する尊王攘夷の志を受け継ぎ、将軍継嗣問題で一橋慶喜を就ける運動を推進し、朝廷工作を盛んに行った。だが、その結果、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」が発生すると藩は幕府への対応に苦慮する。安政の大獄で水戸藩は弾圧を受けると尊攘派藩士たちは追い詰められ、その威圧を打ち払うべく、桜田門外の変を起こし、幕府に反逆した。「幕府のご意見番」と称して、天下政策の監視役を自負してきた水戸藩にとっては、立つ瀬がない事件であった。追い討ちをかけるようにして、徳川斉昭が没し、水戸藩は重石を失い統制が取れなくなる。派閥争いが激化する中、同志である長州藩尊攘の志士たちが8・18の政変で京都を追われ、窮地に立たされると、水戸藩内では、もはや少しの猶予もないとばかりに強硬派尊攘の藩士たちが、決起した。彼らは筑波山にこもって、亡き斉昭公の意志を継ぐと称して、「尊王攘夷」の旗を掲げた。1864年(元治元年)3月のことであった。
この天狗党挙兵の首謀者は、水戸藩改革派の中心人物だった藤田東湖の四男・藤田小四郎であった。小四郎は血気盛んな若者で、一気呵成の勢いを表し、水戸藩強硬派尊攘の扇動者となった。天狗党は、町奉行・田丸稲之衛門(たまるいなのえもん)を首領に担ぎ出し、山の知足院大御堂に本陣を構えた。天狗党挙兵当初の総勢は170名ほどで、天勇・竜勇・虎勇・地勇の諸隊を編成した。攘夷祈願を込めようと4月はじめに日光東照宮に進軍し、いったん太平山によって、天狗党への参加を促す、檄文を四方に飛ばした。5月末に再び筑波山に戻ってきた時には、天狗党に同調する同志が方々から集まり、総勢1000名を越す大部隊となった。
この大盛況振りに天狗党首脳部は、大いに喜び、「真の尊攘ここに結す!」と豪語して、ますます意気盛んとなった。この熱狂振りで天狗党に参加する者の中からは、相当無茶な行動に出ることがしばしばきた。天狗党の指図に従わず、ぐずぐずと反抗する者は、問答無用で一刀両断に処す剛胆さを見せた。天狗党たちは気骨ある正義の志士と自負していたが、民衆は天狗のように恐ろしい暴徒と見なしていた。
天狗党の挙行に期待をかけた庄内藩士・清河八郎は、水戸藩にやってきて、天狗党の傲慢な態度に失望し、その無謀さを批判して帰ってしまった。清河が憤った天狗党の狂乱は、軍資金と称して、豪商や豪農を襲撃して、財貨や食糧を強奪するまでに発展し、この狂乱に対抗するために自衛組織も作られたほどだった。また、偽天狗党も続出し、水戸藩とその近隣は穏やかならない事態を引き起こした。こうして、天狗党は民衆から少なからず、支持を失う結果を招き、諸藩からも好評を得なかった。
藤田小四郎を中心に決起した天狗党に対して、改革派の重鎮・武田耕雲斎ははじめ、この挙兵を批判し、自重論(じちょうろん)を説いて、天狗党の暴挙を諌めた。しかし、水戸藩内では、天狗党の挙兵を機に、尊攘派の批判を一層強め、諸生党(しょせいとう)の市川三左衛門らが藩の執政を勤める武田を非難し、ついには武田を藩政内から追放してしまった。職を追われた武田は、仕方なく藤田らに合流し、天狗党の総大将となって、藩内の保守派と対立することにした。天狗党は水戸藩内へ向かい、さらに那珂湊(なかみなと)に出て、水戸藩軍と激戦となった。水戸藩軍は幕府からの援軍も得ており、多勢に無勢の状況となった。天狗党は水戸藩軍を打ち破ることを諦め、西に血路を開き、包囲を抜け出た。その後、久慈郡大子に赴き、善後策を練って、11月1日に久慈を発して西上の途についた。天狗党は、徳川斉昭の七男で英明の誉れが高い一橋慶喜を頼ったのである。慶喜は当時、京都にいて、禁裏守衛総督の任に就いていた。天狗党はその慶喜に尊攘派の趣意を伝え、慶喜を通して天皇・朝廷にも理解してもらおうと考えたのだ。天狗党は上州路から信州路をたどり、一路京都を目指したが、「中仙道・東海道・北国筋にある諸藩は速やかに天狗党を討伐し、全員捕らえよ!」との幕命が発せられ、沿道筋にはずらりと諸藩の藩兵が天狗党の行く手をさえぎり、待ち構えていた。
天狗党はこれら諸藩と激戦を経て、京都へたどり着かなくては、ならなかったが、沿道に布陣する諸藩はみな、本気で天狗党を討伐しようとは考えていなかった。間道や裏道を天狗党が通ってくれさえすれば、藩の面目も立ち、戦闘による被害もなくて済むので、ほとんどの諸藩は、そのことを願っていた。中には、間道や裏道をわざわざ天狗党に教えて、藩軍と天狗党が正面衝突しないように機転を利かせる藩もあったという。こうして、最小限の戦闘だけで進軍しつづけた天狗党だったが、それでも幕命への絶対忠誠と、藩の面目にかけて、天狗党討伐に本気を出した藩もあった。高崎藩などは、内山峠を越えて、信濃路に入ろうとした天狗党をわざわざ追いかけてきて、天狗党と合戦に及んでいる。
11月20日の昼頃、諏訪の和田峠で高島・松本両藩の軍勢に迎撃を受けた天狗党は、夕暮れ時まで激戦を続け、15名ほどの戦死者を出した。この戦闘は、和田嶺合戦と呼ばれている。
天狗党は、幾度となく戦闘を経験し、かなりの戦上手となっていた。それだけに幕府軍や諸藩軍は天狗党にてこずった。戦闘馴れした軍勢とそうでない軍勢では、大きな違いがあったのだ。泰平の世になれた武士たちは、戦闘意欲さえわかない弱腰が多く、死ぬ気で進軍する天狗党の気迫に押されていた。
その後、天狗党は清内路(せいないじ)から馬籠(まごめ)、中津川を経て、美濃路を西へ進み、谷汲街道(たにぐみかいどう)から越前へ進軍した。京都へ続く道には、大垣・彦根藩の軍勢が待ち構えており、これらと激戦するのは、愚策と判断したことから、北国街道へと進路を替えたのだ。しかし、この選択は思わぬ強敵に行く手を阻まれた。それは、北国の吹雪であった。北国街道にある大野藩は天狗党に宿舎や食糧を与えないように民家を全て焼き払い、一種の兵糧攻めのような戦術をとった。このため、天狗党は雪の中で露営せざるを得なくなり、苦しい行軍を余儀なくされた。62歳になる天狗党総大将・武田耕雲斎は、雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪と歌い、冬将軍に苦しめられている心情を詠んだ。
疲労困ぱいしながら、天狗党はようやく越前新保村まで着いたが、前方には加賀藩の軍勢が行く手をさえぎっている。天狗党は、西上の趣旨を加賀藩軍に伝え、進路を開けてくれるよう頼んだが、加賀藩は「我々は、一橋公の命令によって、陣を張っている。無理に通るというのならば、一戦もやむなし」と天狗党に伝えてきた。この時点ではじめて天狗党は、頼みの綱としていた一橋慶喜が天狗党討伐の指揮官となり、諸藩に討伐命令を下していたことを知った。ついに進退窮まった天狗党は、やむなく、加賀藩に降伏し、ようやく天狗党の兵乱は幕を閉じた。天狗党は最後の願いとして、加賀藩の軍監・永原甚七郎に一橋慶喜公へ天狗党一同の陳情書を渡してくれるように頼み、永原はこれを承知した。天狗党総勢833名は、三つの寺に分けられ、幕府の処分が下るまで据え置かれた。加賀藩は天狗党の主義主張に同調はしなかったが、命を落して武士道を貫こうとした姿勢は、評価して、武士の情けとして彼らを丁重に扱ったという。
年が明けて、天狗党討伐から処分まで幕府から一任されていた若年寄の田沼玄蕃頭が天狗党の身柄を引き受けると扱いは一変した。蝦夷から運ばれてくる肥料用のにしんなど魚を入れておく蔵に彼らは閉じ込められ、取り調べや刑罰が終るまで、入れられた。刑罰の結果は、斬首350名、遠島137名、追放187名という厳しい内容であった。15歳以下の少年11名に関しては、寺の住職が命乞いをして、寺預けとい う処置で済んだ。
津軽海岸で斬首された武田・田丸・藤田・山国兵部(天狗党の軍師)ら四名の首は塩漬けにされ、故郷の水戸へと送られ、さらし首にされた。
天狗党の乱は、純粋な尊攘への想いを社会にぶつけた結果、派生した兵乱であり、彼らの主張もそれなりに時代の急務に則した決起であった。しかし、秩序なく国内を乱す挙兵という形で主張を通そうとしたことが多くの人々から不評をかうことと成った。孝明天皇をはじめ朝廷内でも、秩序を乱すことなく、既存の権勢である幕府や諸藩が中心となって、攘夷実行を推し進めるべきとの考えが正論となっていたことから、中央と地方との政局に対する考え方は、大いに違っていたことになる。この違いの差が、強硬派尊攘の志士たちを暴挙に走らせ、その暴挙を支援したり、同調したりする者をなくしたのである。彼らは悲壮さをもって、憂国の思いを表さなくてはならなかったが、この失敗による教訓が後に倒幕を目指した薩長に秩序を守りながら、国内統一を進めていく方法へと向かわせたのである。その意味で、国内を無秩序にかき乱しながら、主義主張を通すことは、愚策と判断され、計画性を立てて、規律正しい統制の取れた組織をもって、倒幕や改革を推し進めていくことが大事とその後の志士たちに悟らせた点で、天狗党の乱は大きな貢献をもたらしてくれたのである。 
海軍操練所
1863年(文久3年)4月、大阪湾北岸の防備状況巡視のため、将軍・家茂を案内した軍艦奉行・勝海舟は、かねてから幕府に上申していた海軍操練所の設置を現地で説明し、これに感嘆した将軍は、直々に操練所開設の許可を出した。こうして、勝は幕府の潤沢な資金を引き出し、海軍操練所設置に成功すると自身はその頭取となって、生徒を指導した。塾頭には、坂本龍馬が成った。龍馬は前年に勝海舟とはじめて面談し、勝のすぐれた考えに感服し、以後は、勝を師匠と仰いで、この神戸海軍操練所設立に奔走していた。操練所の建物は、1864年(元治元年)2月に完成し、練習船として観光丸・黒竜丸の二隻が配備され、同年5月をもって、正式に開所となった。
操練所の運営費は、幕府より年3000両を出してもらい、それで生徒たちの宿舎を設けたり、生徒たちに夏冬用の衣服まで支給した。操練所には、諸藩の委託生を中心に方々から集まり、生徒数は200余名を数えた。勝はこの操練所で、航海術を中心に西洋技術を教え、海洋への知識修得を推し進めた。勝は、軍艦は金を出せば、いつでも買えるが、その軍艦を操縦する人材は、すぐには手に入らないと嘆き、これからの日本の海運を担う人材育成に力を注いだのである。
操練所で学んだ生徒の中からは、明治維新後、歴史に名を残した逸材が多く出た。紀州藩の陸奥宗光や薩摩藩の伊藤祐亨(いとうすけゆき※後に海軍大将)などがいた。日本の未来を背負って立つという気概が強かった生徒たちは、夜遅くまで放歌高吟をして町を練り歩くといった気勢を上げる騒ぎを起こしたりもした。
そんな自由奔放に学習生活を送っていた生徒たちの中には、風評に影響されて、過激な尊攘行動に突き進む者も出た。池田屋事件で新選組に斬られた土佐藩脱藩士の望月亀弥太や禁門の変に参加した、土佐藩脱藩士の安岡金馬などいずれも操練所の門下生であったため、幕吏らの探索の手が操練所にも及んだ。操練所が過激な尊攘派の巣窟となっていると疑った幕吏らは、探索の結果、外国商人から大量に購入した防寒用毛布を密かに長州藩へ送っているとして京都守護職に報告した。これは、幕吏らの勘違いではあったが、この報告を契機に神戸海軍操練所は閉鎖の憂き目を見る。勝も遅かれ早かれ、操練所は短い期間で閉鎖されると予感していたらしい。江戸に呼び戻され、日本の将来を担う航海術師の育成の夢は露と消えた。しかし、操練所を潰されて、やることがなくなった坂本龍馬たち門下生は、その後、薩摩藩へと赴き、薩摩藩の支援を得て、長崎に亀山社中を設立し、国内最初の総合商社を開いた。
この神戸海軍操練所から出た門下生たちが中心となって、結成した亀山社中やその後の海援隊の活躍は、日本歴史を大きく変える力を持った。その意味で、勝が目指した日本の未来を担う人物育成は、一応の成果を見たのである。 
亀山社中
亀山社中は、軍需品運送から薩長同盟の斡旋、第二次征長で長州藩を援護するなど幅広く活躍した。この活躍はひとえに坂本龍馬の天才的な活動の結果である。
坂本龍馬は、勝海舟が塾頭を勤める幕府運営の海軍操練所が閉鎖されると、行き場を失い、途方に暮れた。そんな中、勝の周旋で、薩摩藩士・西郷隆盛の世話になることとなった。西郷は龍馬と海軍操練所門下生たちを大坂の薩摩藩邸にかくまい、彼らが身につけた航海術を活用しようと考えた。その後、龍馬は西郷と薩摩藩家老・小松帯刀に連れられて、鹿児島へ行き、西郷の実家に厄介になった。
1865年(慶応元年)5月、小松帯刀が長崎出張をすることになり、龍馬はこれに同行して、長崎へ行き龍馬の提案で長崎亀山の地に海運業を営む会社を起こすことになった。資金の出資者は薩摩藩が請け負い、龍馬を中心に海軍操練所の門下生たちを社員として、国内最初の総合商社が誕生した。
社員には、土佐藩士・新宮馬之助、近藤長次郎、千屋虎之助、沢村惣之助、高松太郎、紀州藩士・陸奥宗光、越後出身の白峰駿馬(しらみねしゅんめ)らであった。
亀山社中は、当時、長州藩で内部革命を起こし、藩の主導権を握っていた高杉晋作たちの要求する西洋武器購入を請け負った。当時の長州藩では、下関戦争で四国連合艦隊と戦ったいきさつから、欧米諸国から武器を購入できなかった。外国商人が四カ国覚書と幕府の圧力によって、武器を長州藩へは売らなかった。第二次征長がまじかに迫り、長州藩は何が何でも最新の西洋兵器を装備しなくてはならなかった。そこで、龍馬は薩摩藩名義で社中が武器を買い付けて、それを長州藩に運送して渡す方法を考えつき、これを見事成功させて、長州藩の危機を救った。一方、薩摩藩では米が不足して、困っていたが、ちょうど長州藩では米が余っているということで、龍馬の仲介で薩摩藩は長州藩から米を購入することができた。こうして、龍馬を仲介として薩長両藩は、禁門の変以来、犬猿の仲といわれていたわだかまりを解消し、次第に接近していった。
また、長州藩が汽船をほしがると、社中は、イギリス商人・グラバーから汽船ユニオン号を購入し、代金3万7700両を長州藩が出し、名義は薩摩藩として幕吏らの目をごまかした。こうした、薩長両藩の協調が取れだしたことで、龍馬は薩長同盟を斡旋した。互いに西南雄藩が手を取り合って、国内統一を成すために邪魔な幕府を倒し、天皇を頂点とする統一国家を実現しようと、双方に持ちかけたのだ。この龍馬の理論に納豆した両藩は、薩摩藩からは西郷隆盛、長州藩からは桂小五郎が出席して、1866年(慶応2年)1月に薩長同盟は締結された。この同盟によって、長州藩が幕府に攻められた時には、薩摩藩があらゆる手を使って、長州藩を助けることが約束され、また、倒幕して天皇を頂点とする新しい統一国家を作るために協力し合うことが決まった。
この薩長同盟が締結されてから、まもなくして龍馬は伏見の寺田屋にいるところを幕吏に襲われ、親指を斬られながら、何とか危機を脱している。
イギリス商人から購入したユニオン号を龍馬は、薩摩藩から長州藩へ持っていくことになるが、下関に到着したちょうどその時、幕府軍による第二次長州征伐が開始された。早速、薩長同盟の密約どおり武装を整えた亀山社中の社員たちは、長州の軍艦・庚申丸(こうしんまる)を操縦して、幕府軍が布陣する門司を砲撃した。この砲撃の中、高杉晋作は奇兵隊・報国隊ら諸隊を率いて、海峡を越え、幕府軍の陣所に火を放ち、幕府軍艦隊も焼き打ちにして大勝利をおさめた。
この亀山社中たちの援護射撃によって、勝利を飾った長州藩は、その後も幕府軍をサンザンに苦しめ無敵の強さを誇った。幕府軍敗北の報せを受けた勝海舟は、「軍艦5隻ほどを自分に貸してもらえば、下関を簡単に乗っ取って見せましょう」と一橋慶喜に訴えたが、慶喜は「また勝の大言がはじまったか」と笑って、取り合わなかったという。しかし、龍馬が一番恐れていたのは、勝が幕府軍を指揮することであった。勝の軍才で長州藩の生命線ともいえる下関を落されれば、もはや長州藩は滅亡しかないと考えていたからだった。
第二次征長戦後、亀山社中は大いに活躍したものの、戦争中に亀山社中が使用していた乙丑丸は長州藩に返してしまい、その他の船も失っていたため、操業する船を欠き、社中の活動は停滞した。龍馬は、社中の今後の身の振り方を懸命に探し、なんとか薩摩藩の五代友厚の斡旋で伊予大洲藩が購入した汽船・いろは丸の運航を社中が行うなどの代理航海士程度の仕事しか得られなかった。
その後、龍馬は蝦夷(※北海道)開拓を夢見て、蝦夷進出を目指したが、代金の支払いで売主であるプロシア商人・チョルシーとの間に争いを起こし、北方開発の夢は断念してしまう。
亀山社中の活躍は、薩摩藩と長州藩を結び付け、新たな勢力形体を作り出した。薩長両藩が目指す目標が、一緒と判断した龍馬は、持ち前の機転さを活かして、同盟締結の斡旋という離れ業を成し遂げた。同盟締結後は、薩長両藩の手足となって、時には首脳となって働き、歴史を大きく変える功績を幾つも成し遂げていった。龍馬自身だけでなく、社中の社員たちにもさまざまな役目を課し、まさに縦横無尽に海上を駆け巡り、社中全体が歴史転換の立役者としたのは、素晴らしい采配振りであったと言えるだろう。 
海援隊
幕末期も大詰めを迎え、薩長両藩の活動は激しさを増したが、土佐藩とて黙ってはいなかった。土佐藩主・山内容堂は、藩政改革を実施し、富国強兵・殖産振興を推進し、その出城として開成館(かいせいかん)を設立した。この開成館の中に設置されていた、長崎出張所である「土佐商会」は、樟脳(しょうのう)・鯨油(げいゆ)など土佐の産物を国内外に輸出し、一方で艦船や武器などの購入を行った。しかし、業務はあまりはかどらず、運営増進を図るため、土佐藩から容堂の信任厚い後藤象二郎と中浜万次郎が出張してきた。中浜は、土佐の漁師で遭難した後、アメリカ人に助けられ、そのまま渡米し、その地で英語や学識を修得した。その後、帰国を果たし、英語力と西洋学識をかわれて、幕臣となっていた。この時、故郷の土佐藩で設置された開成館の事業に携わることを許され、土佐藩の業務増進を図るため、長崎に出向いたのであった。
後藤は事業拡張のためには、商人たちと仲良くする必要があると称して、毎晩商人たちを招いて宴会を開いた。この後藤の悪評を知った土佐藩では、小観察の谷干城(たにたてき)を長崎に派遣し、素行を正そうとしたが、逆に後藤に谷は説き伏せられてしまいいっこうに宴会を開くのをやめなかった。だが、藩主・容堂はそんな後藤を非難することなく、後藤には考えがあってやっているのだからと一切とがめなかった。
一方、後藤が長崎に出向いているとの報せを受けた亀山社中では、一部の社員が後藤を誅殺すると息巻く者が出た。後藤は土佐勤王党の盟主・武市瑞山を罰した逆臣だから、討つべきだとの主張であった。しかし、龍馬は彼らの暴挙を抑えた。また、後藤も自分が命を狙われていることを察知して、警戒を怠らなかった。その後、龍馬と後藤は清風亭で会合を設け、土佐藩や国内情勢の行く末などについて語り合った。会合が終って、社中に帰ってきた龍馬は、社員たちに向かって、「後藤は偉い奴だ。あれを利用すれば、うまく仕事ができる」と後藤を誉めて、後藤と手を組むことにしたことを伝えた。この龍馬の後藤賞賛には、反対する者が出たが、龍馬は「俺一人がたかだか500人ほどを率いて、天下のためにしようとするよりも、24万石の土佐藩を率いて天下国家のために行動する方が甚だよろしい」と述べ、土佐藩を利用することで、事業を成し易くなる利点を説いて、反対者を抑えた。
後藤の方でも土佐藩を脱藩していた龍馬の活躍を見聞きしており、薩長両藩に出遅れた感のある土佐藩を政局の中枢に踊り出るためのよい起爆剤と考え、龍馬を活用しようと目論んだ。双方の利益が一致して、龍馬は土佐藩に社中が吸収合併される準備をはじめ、後藤は福岡孝悌(ふくおかたかちか)と謀って、龍馬が脱藩した罪を許す手続を進めた。龍馬と同じく土佐藩を脱藩していた中岡慎太郎の罪も許された。
後藤・福岡・龍馬・中岡の四名は、長崎にある亀山社中と土佐商会を吸収合併することで合意し、改めて海援隊が結成された。1867年(慶応3年)4月のことであった。海援隊が結成されてから3ヶ月後には、後藤、福岡の起案によって、陸援隊が組織され、その隊長には中岡慎太郎が就任した。陸援隊は京都の白河藩邸を拠点として、海援隊と連携を取りながら、土佐藩の手足となって活動した。
海援隊の初仕事は、艦船がないため、大洲藩からいろは丸を15日間の期間と一度の航海で500両支払う条件で借り、それを使って長崎から大坂まで武器や食糧を運ぶ運送業を行った。
1867年(慶応3年)4月19日に長崎を出港したいろは丸は、同月23日午後11時ごろ瀬戸内海を航行中に、濃霧の中から突如現れ出た大型船に追突され、あっさりと沈没した。いろは丸は45馬力、160トンであったが、いろは丸に衝突した大型船は150馬力、877トンを誇る紀州藩所有の汽船・明光丸であった。
龍馬は事件後の翌日から近くの鞆港(ともこう)で賠償交渉をはじめたが、らちがあかず、改めて長崎にて正式な交渉を行うことと成った。徳川御三家の紀州藩は、幕権を傘に来て、まともな賠償をしようとしない姿勢を取り、これに憤慨した隊員2名が脱隊を申し込んだ。その理由は、明光丸に斬り込んで、わからずやを誅殺するという過激なものであったが、龍馬はその軽挙を抑え、交渉成立を成せる妙案があると自信を見せた。龍馬は、長崎での交渉前に長州の桂小五郎と謀って、長州藩と土佐藩が連合して紀州藩を攻め込もうとしていると風評を流し、賠償金が得られなければ、代わりに国を取ると強気の姿勢を紀州藩に報せた。
結局、薩摩藩の五代友厚が調停に乗り出し、賠償金8万3000両を紀州藩が支払うことで決着した。その後、紀州藩側から反対する意見が出たため、1万3000両を減らし、賠償金7万両で話がついた。また、船の所有者・大洲藩には、土佐藩から船の代金と借用料を合わせた4万2500両が支払われた。
いろは丸の衝突事故があった同じ年の6月、大政奉還建白を山内容堂にうながすため、龍馬は後藤象二郎とともに土佐藩の船で京都へと向かった。その船中で龍馬が提示した案が有名な「船中八策」である。船の中から眺め見た景色に8つの島が見えたことから名づけられたという。この「船中八策」の中で龍馬は、今後の日本運営をどのようにすべきかを述べ、国家のあるべき姿の見本を書き連ねた。人材登用や外交交渉、憲法の制定、陸海軍の整備、通貨の安定など国家の屋台骨が明記されていた。
その後、京都に入った龍馬と後藤は、武力倒幕を主張する薩摩藩と交渉に入り、6月22日京都の料亭で薩摩藩と土佐藩の首脳会議が開かれた。土佐藩の出席者は、後藤象二郎、福岡孝悌、寺村左膳、真辺栄三郎で、薩摩藩からは小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通であった。龍馬と中岡慎太郎は浪士代表という形で会合に出席した。会合では、王政復古を成して、将軍が政治を執る制度を廃止すること。武力倒幕にせよ、大政奉還にせよ、時局をよく判断して、両藩は互いに協力し合いながら、難局にあたるべしとのことが約定された。
後藤は、この大政奉還建白と薩摩藩と土佐藩の同盟の内容を山内容堂に報告し、容堂は「よくそこへ気が付いた」と膝を叩いて喜び、穏便に政権交代が成されることに賛成した。
大政奉還と薩土同盟を成した龍馬は、その後、刺客の手にかかり、非業の死を遂げたが、海援隊の隊員の多くは、新政府の役職に就き、国家発展に貢献した。その後、結束が緩んだ海援隊は、山内容堂の指示によって、土佐商会の整理とともに解散の通告が出され、その役目を終えた。1868年(慶応4年)4月のことである。
海援隊の結成で、龍馬は亀山社中ほどの自由はなくなったものの、土佐藩という強い支援者を得ることができ、自らの立場も定まって、さらなる活動をしやすくした点で、海援隊の結成は大きな歴史的意義を持つ。 
第二次長州征伐
第二次長州征伐は、1866年(慶応2年)6月になってようやく戦端を開いた。前年5月に江戸城を出立した将軍・家茂は、一年以上過ぎて、ようやく征伐戦を展開したのであった。今回の征長戦は、第一次征長とは打って変わって、諸藩の反対論が強く、戦端を開いてからも、征長軍の意見は統一を見なかった。諸藩は不平不満を抱えながら、やる気のない戦闘へ突入し、いざ長州藩軍と戦ってみると、その強さに驚き、敗走するので精一杯であった。
征長軍の装備は、旧式の火縄銃に槍、刀を持ち、動きを極端に鈍くする重い甲冑を着ていた。それに対して、長州藩軍は、みな軽装で、手には最新式のゲーベル銃を持ち、西洋戦術で訓練された効率のよい戦闘を展開した。
この兵団の力量さは歴然で、もはや征長軍には、万に一つも勝因が見込めなかった。この戦闘突入前から幕府内でも強硬に戦争することを避け、長州藩の石高を減封処分とするなどの処置が提案されていたが、長州藩はこの幕府の妥協案に応じず、一石たりとも長州藩の領土を幕府に取らせない構えを取り続けた。この頑強な長州藩の姿勢に幕府側が困惑した。征伐に諸藩は強く反対し、幕府側でもあまり乗り気がしなくなっていたが、一度長州征伐を全国に布告した以上、引っ込みがつかなくなっていた。幕府の威信を揺るがすわけにはいかず、一橋慶喜は、騎虎の勢いにてどうしようもない状況だと述べている。
幕府は宣戦布告を長州藩に叩きつけておきながら、いざ戦闘が始まろうとするとイヤイヤ仕方なしに面目の手前、やらざるを得ない状況で戦端を開いた。一応、戦略を立て、征長軍15万の大軍勢を利用して、長州藩を四方向から一斉に攻める方法が取られた。進攻ルートは、上関口(かみのせきくち※四国方面)、芸州口(げいしゅうくち※山陽道方面)、石州口(せきしゅうくち※山陰道方面)、小倉口(こくらくち※九州方面)の四方向に決まった。
戦いはまず、上関口方面にある大島争奪戦から始まった。6月7日、征長軍は軍艦で上関一帯や大島の沿岸に砲撃を加え、翌日未明以降から伊予松山藩軍と幕府軍陸兵部隊が大島に上陸し、手薄な長州藩軍と戦い長州藩軍を大島から簡単に追い払い勝利した。長州藩でははじめから大島にはそれほど重視していなかったため、島の守備は島民による兵団に任せていた。そのため、手薄であったことから幕府軍の勝利となったのである。
しかし、これで黙ってはいない長州藩軍は、12日から高杉晋作が率いる丙寅丸(へいいんまる)を用い、夜陰にまぎれて幕府艦隊に近づき、激しく砲撃して反撃の火蓋を切った。15日未明からは、長州藩の第二奇兵隊・浩武隊の二隊を大島占領のために投入し、松山藩軍と激しい戦闘を展開した。沖に停泊していた幕府艦隊が長州藩軍の動きに応戦し、砲撃を打ち込み、戦闘は一進一退の攻防が続いた。激戦の末、島内の各所で幕府軍を打ち破った長州藩軍の勝利となり、大島奪還に成功した。この時の激しい戦闘で松山藩兵が島民の民家に対して、放火、略奪、殺戮など暴挙に出てしまい、多くの不評をかい、後に松山藩主が陳謝している。
この上関口方面での大島争奪戦は、第二次征長の緒戦であったが、戦局にとっての重要度は低く、この戦闘を傍観していたフランス公使・ロッシュは、「陣取り遊びである」と評している。
芸州口の戦いでは、近代装備と洋式訓練を受けた幕府陸兵が配備され、その他にも彦根・高田・紀州・大垣・宮津の軍勢が配置され、征長軍の中では主力部隊である5万人が動員された。まず幕府は、先鋒隊に彦根・高田藩軍を芸州口に投入した。岩国を両藩軍勢は、目指して進軍し、14日未明、藩境の小瀬川において戦端が開かれた。征長軍主力精鋭部隊を迎撃する長州側は、岩国藩軍のほかに遊撃隊、御楯隊などの諸隊、総勢1000名で防御線を張り、幕府軍の進撃を阻止しようとした。
ところがいざ、戦闘がはじまると長州藩軍の諸隊の強いこと強いこと。幕府軍先鋒部隊は、次々と押されていき、海岸まで後退して逃げ場がなくなると船で危機を脱するという敗走劇を披露した。この先鋒部隊の敗走を知った幕府軍は、征長総督直属の幕府正規軍を戦線に投入し、広島領内に布陣する長州藩軍を攻撃したが、逆に激しい猛撃にさらされ、幕府軍はたまらず敗走した。
22日になると長州藩軍は、陣容を立て直し、さらに大野へと進撃を開始し、幕府側は守勢にまわって、長州藩軍に応戦した。海上からは幕府艦隊の援護射撃をもらって、徹底防戦の構えを見せた。長州藩軍のあまりにも強い兵団振りに慌てた老中・本庄宗秀(ほんじょうむねひで)は、拘留していた宍戸備後助ら長州藩士2名を独断で釈放して、長州 藩との和議をはかろうとした。この老中の勝手な行動に怒った総督の徳川茂承(とくがわもちつぐ)は辞表を幕府に提出するなど征長軍本営は歩調が合わない混乱をきたした。
幕府軍の歩調が乱れ、動揺している中で、長州藩は長州藩に同情的な姿勢を見せていた広島藩と休戦協定を結び、防衛線の地固めを成し、幕府軍を長州藩領内には一歩も近づけず、藩外で幕府軍の進撃を食い止める作戦を取った。
石州口の戦いでは、幕府軍は3万の兵員を投入し、その先鋒部隊は津和野藩・浜田藩とした。その他に紀州・福山・松江・鳥取の諸藩軍で構成されていた。これに対して、長州側は、清末藩主・毛利元純(もうりもとずみ)を大将とし、参謀には高杉晋作と並び称された軍略の天才・村田蔵六(むらたぞうろく※大村益次郎)が就き、石州口防衛の指揮はもっぱら参謀の村田が執った。長州側の兵員は1000名であった。幕府軍先鋒部隊を任されていた津和野藩は、長州藩に同情的で、今回の征長戦では、長州藩に内応しており、長州藩と戦うことを避けた。このことを知っていた長州藩は、津和野藩方面への守備を考慮することなく、浜田藩との戦線に総力を結集した。16日未明、長州藩軍は陸海両路から一気に浜田藩領内へとなだれ込み、益田の地へ進撃した。これに応戦した浜田藩軍を撃破し、翌日には同地を占領した。これに慌てた幕府軍は、急きょ紀州・福山両藩の軍勢を出撃させたが敗退し、戦局挽回は成らなかった。特に紀州藩は、敗走する味方の姿を突撃してくる長州藩軍と見間違えて、戦わずに敗走する始末で、まったく戦闘意欲がなく、弱腰部隊であった。
こうして石州口の幕府軍は戦線を下げ、本営のある浜田まで撤退し、防戦の構えを取った。浜田藩は劣勢を挽回すべく、鳥取・松江両藩の軍勢に援軍要請を出した。防衛線を布く幕府軍に対して、長州藩軍は、しばらく動かず、両軍は緊迫した対峙の状況となった。7月に入ると、態勢を整えた長州藩軍が進撃を再開し、浜田藩の城下町まで迫った。浜田藩は幕府軍本営に救援を要請し、これを受けた幕府軍は岡山・鳥取両藩の軍勢に出兵を命じた。しかし、岡山・鳥取両藩は幕府に講和するよう提唱して、出兵を拒否した。援軍の見込みがないことを知ると浜田藩はやむなく長州藩と講和を提議し、無用な戦闘を避けることは望ましいとして長州藩もこれに応じたため、講和会議が設けられる話まで進んだ。だが、この会合談判の最中に浜田藩側ははやとちりをして、城に火を放って、藩主以下藩士たちはうちそろって松江藩へと逃亡した。
浜田藩の大敗する姿を見た幕府軍は、戦意を完全になくして撤退し、石州口方面の戦闘は長州藩の圧倒的勝利に終った。
九州小倉口方面での戦いでは、長州藩側は、今回の征長戦で最大の要衝と見て、高杉晋作が率いる最強部隊・奇兵隊を投入し、参謀に三好軍太郎、軍監に山県狂介(有朋)ら軍略の才に長ける人材を配置した。その他に長府藩主・毛利元周も自ら長府藩軍を率いて、戦線に出陣するなど長州藩側は小倉口を藩の生命線と考えていた。
これに対する幕府軍は、老中・小笠原長行を総督にして、小倉に本陣を置き、小倉藩軍を先鋒部隊として、肥後・柳河・久留米など九州諸藩の軍勢を小倉に布陣させた。
17日未明、長州藩軍は幕府軍の軍事行動を事前に察知し、機先を制すべく、先制攻撃に踏み切った。この戦闘では、亀山社中の社員を率いた坂本龍馬が艦隊を率いて、長州藩軍を援護した。長州藩艦隊は、田野浦・門司浦に進攻して、砲撃を加え、奇兵隊ら長州藩軍諸隊の上陸作戦を援護した。ついで、壇ノ浦砲台から海峡越しに砲撃を加え、この勢いをもって、長州藩軍は砲台を占拠した。小倉藩内に進撃してきた長州藩軍の勢いに浮き足立つ小倉藩軍は、藩領を敵軍に占領されたことに発奮して、態勢を整えて激しい反撃に出た。敵地での激しい戦闘に戦況不利を悟った高杉は、優勢に戦闘を進めていた長州藩軍に撤退命令を下した。隊士たちは不平をこぼしたが、幕府軍が長州藩軍を包囲する前に下関へ引き揚げたことは、正しい戦況判断であったといえよう。この戦闘の間、幕府千人隊や肥後・久留米の藩軍は、戦況を静観するだけで苦戦を強いられていた小倉藩軍を援護しようとはしなかった。
7月3日未明、密かに門司へと上陸した長州藩軍は、大里に布陣する幕府軍を強襲し、これを敗走させた。再び藩領を侵害されたことを知った小倉藩軍は、すぐさま戦線に駆けつけ、諸藩の援軍もないまま、独力で長州藩軍と戦った。27日には、新たに攻撃をしかけ、長州藩軍は陸と海から砲撃を加え、上陸作戦を敢行し、大里から赤坂まで進撃した。この動きを見た幕府軍は同じく陸と海から激しく応戦し、一時は攻勢に転じるほどの盛り返しを見せた。だが、長州側は増援部隊を投入し、戦況はこう着状態を迎えた。
両陣営は総力戦へと突入し、29日に小倉藩は全軍を挙げて防衛態勢を取ったが、肥後藩が勝手に戦線離脱を成し、これを見た久留米藩や柳河藩は同じく撤退する姿勢を見せた。さらに幕府軍には訃報が届く。将軍・家茂が急死した報せが小倉口総督の小笠原長行の元へ届く。敗退も時間の問題という戦況の中での報せであったため、小笠原は勝機のないことを悟って、本営から脱出して逃げるように戦場を跡にし、大坂へと向かった。幕府軍は、総督を失ったため、完全に統率が取れなくなり、諸藩は次々と帰藩していった。しかし、藩領を長州藩に一部占拠されていた小倉藩軍だけが頑強に長州藩と対峙した。8月1日、もはや戦闘継続不可能と悟った小倉藩は、自ら小倉城に火を放ち、藩府を香春(かわら)に移して、長州藩との戦闘を終えた。年少だった小倉藩主は身の安全をはかって、肥後藩へと落ち延びていった。
こうして「四境戦争」とも呼ばれた第二次征長戦は終わりを告げた。幕府軍は長州藩の領内に一歩も踏み入ることができず、長州藩外の地で戦い、そして敗退していった。征長戦は完全な幕府軍の敗北であり、幕府の権勢はここに最後の失墜を見て、もはや二度と幕府の権勢はよみがえることがなかった。幕府軍の敗因は、幕府軍を構成していた諸藩の戦闘意欲があまりにも低かったことが挙げられる。諸藩は戦闘が始まっても、講和の道を主張して、戦闘意欲を持たなかった。戦う兵団の士気が著しく違っていたのである。また、諸藩同士で協力し合う連携態勢がまったく整っていなかったことも敗因の一つであった。浜田藩や小倉藩のように徹底的に戦闘意欲を見せた藩も少なからずあったが、結局それら意欲ある藩に同調して援護する藩がでなかったため、孤立無援の戦いを余儀なくされた。ついで、長州藩側は同調する諸藩を徹底的に取り込み無駄な争いを極力少なくした点が挙げられる。諸藩の同調を誘った長州藩の外交力は大したものであった。
これらさまざまな要因によって、幕府は15万という大軍を率いながら、わずか1万足らずの長州藩軍に大敗を喫するという信じられないような失態劇を演じてしまったのである。 
薩長同盟
薩長同盟は、まさに歴史を変えた幕末期最大の同盟といってよいだろう。1864年(元治元年)に起きた第一次長州征伐で、長州藩は戦わずして、降伏し幕府に恭順の意を表した。尊攘派藩士たちは、藩政から追放され、高杉晋作は、身の危険を感じて、九州へと逃亡せざるを得なくなった。
長州藩の主導権は、俗論派が握り、純一恭順を表して、幕府にとにかく逆らわない方針を打ち出していた。そして、藩内の尊攘派である正義派たちを迫害した。このまま長州藩は、骨抜きになるのかと思われたその時、高杉晋作は意を決して、下関に舞い戻り、奇兵隊ら諸隊を扇動して、藩内革命戦を断行した。この乱戦で、高杉らが率いた正義派が各地で勝利を収め、藩政から俗論派は追放された。高杉ら正義派が藩政を牛耳ると、かねてから主張してきた武備恭順の方針を打ち出した。藩外では表向き幕府などに恭順しておとなしく装い藩内では、西洋の最新武器を導入したり、兵団の西洋式戦術の訓練を成したりと軍備の近代化を推し進めた。高杉たちは、あえて敵対してきたイギリスなどの欧米列強と仲良くし、軍備増強を成して、欧米に習って国内統一を果たし、その上で、近代国家を歩む方針を定めたのだった。
だが、高杉たちの思惑は、途中で大きな障害にぶち当たった。公の場では、欧米列強から武器を購入できないので密貿易という形で、闇商人から購入していた。下関はその密貿易で賑わいを見せたが、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ四カ国は、日本国内への干渉をしない方針を打ち出し、同時に長州藩に武器を売らないことを決定した。このために長州藩は、闇商人から武器を購入することができなくなり、武備増強を図るという方針は初手から大きな挫折となった。
一方、薩摩藩では佐幕よりの姿勢を取らざるを得ないことを苦慮していた。第一次征長では、薩摩の西郷隆盛が参謀に抜擢され、幕府派として活躍を見せた。だが、幕府の傲慢で、幕府権勢の回復ばかりを目指す姿に大きな疑問を持っていた。国難を打開するための方針を打ち出せないでいる幕府にあきれていた西郷たち薩摩藩は、そんな頼りない幕府の番犬のような役割を担わされていることが嫌であった。だが、これといって、妙案も浮かばず、薩摩藩はどのように行動すればよいか模索する日々を送っていた。そんな中、神戸海軍操練所の頭取を勤める勝海舟という幕臣にあった西郷は、大きな感銘を受ける。勝は幕臣でありながら、幕府はもうダメですと豪語する人物で、有能な大名同士が合議して国政を取り仕切る共和制の政権を立てるべきという新しい政権構想を語った。西郷は、幕府にいつまでも捕らわれていては、欧米列強にいつまでも出し抜かれる存在でしか日本は有り得ないという新説を得て、本気で幕府を倒すべきかも知れないと考えるようになった。
薩長の思惑が段々と倒幕思想へと傾いていた折に、幕府は再び長州征伐を起こそうとしていた。長州藩が再び、暴挙を起こそうと密かに軍備増強を成していることを非難し、第二次征長を起こすことにしたのであった。だが、第一次征長と違って、長州藩はすでに幕府に表向きにせよ降伏恭順の姿勢を取っており、ここで、むやみに戦争を引き起こす幕府に対して大きな不満が寄せられた。諸藩は戦費がかさむ戦争への反対を強めたが幕府はそれを許さず。再び国内を乱す無益な争いに着手した。
こんな緊迫した情勢の中、薩長両藩が倒幕の思想を抱いていることがわかり、何とかこの両藩を結び付けられないかという話が持ち上がっていた。龍馬と同じく土佐藩を脱藩していた中岡慎太郎や土方久元らが、薩長の和解を画策して奔走しているとその運動を聞きつけた龍馬も早速その運動に参加した。薩長両藩の説得工作をはかり、長州藩に名が知れていた龍馬と中岡が長州藩の木戸孝允を説得し、とにかく薩摩藩の西郷隆盛に会うというところまでこぎつけた。ついで中岡が西郷へ交渉して、ようやく薩長両藩の指導者が会合を約した。会合場所は下関ということに決まり、先に木戸と龍馬が下関で西郷と中岡が来るのを待った。しかし、半月近く待ったが、結局、西郷は現れず、中岡一人が下関に現れた。聞くと西郷は、急用で下関に行けず、京都へ向かったというのである。これを聞いた木戸は憤慨して、薩摩藩を非難し見くびる始末。怒る木戸を何とかなだめた龍馬は、西郷や小松帯刀に会いに行き、前回の違約を責め、その詫びとして長州藩のために薩摩藩名義で外国から武器を購入し、その武器を長州藩に送ることを提案する。小松帯刀は佐幕の立場を取る薩摩藩がいきなり長州藩の援助をすることに反対したが、西郷はこれを快諾し、あっさりとこの約束を果たした。この薩摩藩の好意で成した武器購入によって、長州藩は少しずつ薩摩藩へのわだかまりを解いていった。この時、長州藩は薩摩藩名義で、グラバーからミニエー銃、ゲベール銃を購入し、総数7300挺をそろえた。この買い物だけで長州藩は実に10万両もの大金をはたいて購入している。
その年の11月に薩摩藩の黒田了介(清隆)が下関に訪れ、長州藩との会合を設けたいので木戸に上洛を求めた。だが、まだ薩摩藩への疑惑が解けな長州藩士たちはこぞって、木戸の上洛に反対し、木戸自身も西郷の人物像がつかめず、行くのをためらった。しかし、龍馬と高杉が熱心に木戸を説得したため、木戸はしぶしぶ上洛した。木戸は京都二本松にある薩摩藩邸に入り、西郷との会合に臨んだ。1866年(慶応2年)1月のことであった。
西郷はじめ小松や大久保利通などが連日のように木戸を歓待したが、同盟の話はいっこうに進展しなかった。両者とも藩の面目もあって、意地を張って、同盟の話を切り出せないでいた。こんなにらみ合いのような状態が10日以上も続き、いよいよ、木戸が長州へ帰ろうとした前日になって、ヒョッコリと会合の様子を見に龍馬が顔を出した。すると西郷は、実はまだ同盟の話は何もしていないのだと照れ笑いし、龍馬は驚いて、木戸に聞いてみると木戸は相手が何も話さないから士方がないと述べた。このだらしなさに怒った龍馬は、西郷と木戸を並べて、国難打開を達成するために結成する同盟に藩の面目だの前のいきさつだのにこだわるとは、小心者もいいところだ!と激論を打った。この龍馬の気迫に恐れ入った西郷と木戸は、ようやく腹を割って、同盟締結の会合を持った。こうして、斡旋と叱咤激励によって、薩長同盟はやっとこさっと締結の日の目を見たのである。この同盟で、薩長は何があっても国難打開のためにともに力を合わせて、尽力し、互いに助け合いをする協調姿勢を盟約した。
この同盟によって、倒幕方針は確実なものとなり、天皇を頂点とする新しい近代国家を樹立するために薩長はともに歩調を合わせて、推し進めていくのであった。龍馬の気さくな人柄をもって、初めて成功した同盟であった。幕府や藩といった枠組みを超えた、国家統一という近代国家創設にどうしても必要な同盟であり、この旧来の枠組みを超えた考え方が、新政府樹立の意識へと受け継がれていった。その意味で、薩長同盟は、その後の志士たちの意識改革を成す大きな契機となったとても意義深い同盟であったのだ。 
大政奉還と討幕の密勅
1865年(慶応元年)、幕府は孝明天皇から条約の勅許を得たとき、欧米列強が開港要請をしていた兵庫については、認められないと言い渡された。京都に近い兵庫の港を開港すれば、夷人たちが、京都になだれ込んでくることを天皇・朝廷は恐れたのだ。天皇・朝廷では、夷人をまるで悪魔の使者のように思っていた。不吉極まりないというのである。
天皇・朝廷から兵庫開港するべからずとクギを刺されていた幕府だったが、幕末動乱も最終段階を迎えた1867年(慶応3年)3月末、突如将軍・徳川慶喜は、大坂城にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの公使を招き、同年12月に兵庫を開港すると確約してしまった。この慶喜の横暴に驚いた西郷隆盛ら志士たちは、薩摩藩主・島津久光、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城、越前藩主・松平慶永の四侯会議を樹立して、慶喜の暴挙を止めるよう差し向けた。四侯は将軍・慶喜に対して勅許なしで兵庫開港を確約した責任を追及し、しまいには将軍職を辞めるよう詰め寄ったが、四侯の歩調は乱れ、慶喜の説得に失敗し、逆に英明な慶喜から兵庫開港は必要不可欠という論説に四侯は説得され、無理無理開港賛成を強要されてしまった。四侯会議は事態打開を成せずに解散の憂き目を見て、西郷たち志士たちからは見限られてしまった。
四侯を黙らせ、説得まで成した慶喜は、政権主導の自信をつけ、5月23日に老中を引き連れて、参内し、一昼夜をかけて、朝議した末、とうとう兵庫開港を天皇・朝廷は認めてしまい、慶喜に勅許を出した。
四侯会議による政権主導は失敗し、英明な慶喜は朝廷をも丸め込んでしまう力量を発揮し、西郷たちが当初目指した共和制政権は、不可能となった。この独裁的な敏腕政治家を黙らせるには、列藩会議など平和的な手段では不可能と判断した西郷たちは、武力倒幕を目指すことにした。
一方、土佐藩では、坂本龍馬と後藤象二郎が大政奉還を画策し、龍馬は「船中八策」を起草し、これを元にして、大政奉還はいよいよ現実味を帯び出してきた。土佐藩主・山内容堂はこの大政奉還を歓迎し、天皇を頂点として将軍や大名たちが集い、国政を執っていけばよいと考えた。容堂は早速、10月3日に幕府老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、将軍に大政奉還を促した。
一方、倒幕を決意した薩長両藩士たちが、挙兵盟約に芸州藩を加え、京都・大坂に続々と藩兵を終結させた。10月8日に薩摩・長州・芸州の三藩は、反幕府派公卿・中山忠能(なかやまただやす)・中御門経之(なかみかどつねゆき)に討幕の密勅を下すよう奏請した。14日には薩摩藩・島津茂久父子および長州藩毛利敬親父子に対して、討幕の密勅が授けられた。その密勅にそえて、京都守護職の松平容保と京都所司代の松平定敬を討伐せよとの勅命も下った。
この討幕の密勅は、岩倉具視の近臣・玉松操(たままつみさお)の起草といわれ、天皇の直筆もなく、中山・中御門・正親町三条の連署があるのみで花押もないという異常なもので、本物の勅許かどうか不可解な部分を残している。
この討幕の密勅が下されていた時期、幕府側では着々と大政奉還への準備が執り行われていた。慶喜は容堂の建白を受け入れ、10月13日、京都二条城に幕府役人と諸藩重臣を集め、その前で慶喜は天皇に政権返上をする意向を告げた。翌日の14日に大政奉還を朝廷に上奏した。この日はちょうど西郷たちに討幕の密勅が下った日と同日であった。翌日の15日には、大政奉還の上奏が朝廷で受理され、この日をもって徳川幕府はおよそ260年の永きに渡る国政の座から退いたのであった。名目上は幕府はなくなったものの、旧幕府という形で未だに国内最大の勢力組織を保持していた。そのため、大政奉還が成された後も、旧幕府の勢力を完全に排除し、新政府の支配下に置かなくては、国家統一は実現を見ないのであった。その意味で、大政奉還後の戊辰戦争は必然的な要素を含んだ兵乱であったといわなくてはなら ない。 
王政復古の大号令
王政復古の大号令は、一種の政権革命宣言であった。武士たちが中心となって、国政を取り仕切ってきた旧体制と見切りをつけて、天皇を頂点とする日本史最初の統一国家に立ち戻った組織作りをすることを内外に示したのである。
国家統一は欧米列強がこぞって成していた国家形体であった。日本も遅ればせながら、幕藩体制から天皇を中心とする完全な統一国家を成したのであった。
この革命宣言前夜から京都は非常に慌しくなり、朝廷内は騒然となった。このクーデター前夜から翌朝までの動向を記すと
○ 1 長州藩主・毛利敬親父子に対して、これまでの罪を許し、官位も元に復す処置が成され、長州藩軍は西宮に上陸した後、すぐに京都入り口まで迫り、長州藩は京都に返り咲いたのである。
○ 2 1863年(文久3年)8月18日の政変以来、京都を追われていた七卿らがその罪を許され、元の官職に復された。
○ 3 1862年(文久2年)秋から洛中から追われ、五年間に渡って蟄居処分となっていた公卿の岩倉具視が許され、朝廷に返り咲いた。
これらの処置は、1867年(慶応3年)12月8日に摂政・二条斉敬(にじょうなりゆき)以下の公卿や在京の有力諸侯らによって、夜通しで開かれた会議で決まった。いろいろと議論紛糾したが、上記の処置でまとまった。
こうして、昨夜から続いていた会議は午前8時過ぎに終了し、摂政・議奏・伝奏らが退出すると、それと入れ違いに今さっき蟄居処分を赦免されたばかりの岩倉が衣冠束帯(いかんそくたい)に身をかため、かねてから用意していた文書を持って、参内してきた。岩倉は近臣で知恵袋の玉松操(たままつみさお)が練り上げた「王政復古の大号令」の文案を天皇に奏上した。岩倉は中山忠能(※明治天皇外祖父で、あの天誅組主将を勤めた中山忠光の父である)とともに天皇に拝謁し、王政復古の大号令を発するために小御所会議が開かれることを奏上した。
この岩倉の計画は、西郷・大久保・長州の品川弥二郎らと協議し、さらに大久保が蟄居中だった岩倉と密議を重ねて立てたもので、それを土佐藩の後藤象二郎にも事前に伝え、同意を取り付けていた。まさに練りに練り上げた用意周到な計画であった。午前九時過ぎごろから西郷が率いる薩摩藩兵が宮門護衛に入り、続いて尾張・越前・安芸の各藩兵も繰り出して、同様に宮門を警護した。公家門(※宜秋門(ぎしゅうもん))は桑名藩兵が守っていたが、早々に接収に応じて、他藩と交替した。ついで、唐門・蛤門を守備していた会津藩兵も薩摩藩兵と交替した。会津・桑名藩兵は二条城に引き揚げて、情勢を見守るしかなかった。
宮門警護が厳重にされている中、遅れて山内容堂が参内し、岩倉たちはただちに持参した「大号令文案」を決定し、居並ぶ一同は学問所で天皇(※当時15歳)に引見のうえ、大号令が下された。文案は神武創業への復帰を謳い、国政統治を天皇を頂点として執り治めていく方針が公布された。そして、従来の官職をすべて廃止し、新しい三職が設けられた。廃止された官職は、関白・議奏・伝奏・守護職・所司代などで、新しく設けられた三職は、総裁・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)であった。
この新しく設けられた三職には、
○ 総裁 有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)
○ 議定 仁和寺宮(にんなじのみや※親王) 山階宮(やましのみや※親王) 中山忠能 正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる※公卿) 中御門経之(※公卿) 徳川慶勝(※前尾張藩主) 松平慶永(※前越前藩主) 浅野茂勲(※前安芸藩主) 山内容堂(※前土佐藩主) 島津忠義(※前薩摩藩主)
○ 参与 大原重徳 万里小路博房(までのこうじひろふさ) 長谷信篤(ながたにのぶあつ) 岩倉具視 橋本実梁(はしもとさねやな)
 ※いずれも公卿
王政復古の大号令が成され、三職の人事も決まるとその夜のうちに小御所にて、三職による初めての会議がもたれ、天皇も臨席して開かれた。三職のほかに尾張藩士・田宮如雲(たみやじょうん)ら三名、越前藩士・中根雪江(なかねゆきえ)らニ名、安芸藩士・辻将曹(つじしょうそう)らニ名、土佐藩士・岩下佐次右衛門(いわしたさじえもん)、福岡孝悌、薩摩藩士・大久保利通らが陪席を許された。西郷は中座して、御所の護衛と諸隊指揮にあたった。
議題の中心は、必然と大政奉還を成した徳川慶喜の処遇に集中した。新たな政権の会議に慶喜が呼ばれていないのは片手落ちではないかと山内容堂が難癖をつけ、岩倉との激論が始まった。
容堂は「幼沖(ようちゅう※幼い)天子を擁して、権力を私物化するものだ」と岩倉たちの行動を非難した。これには岩倉も激怒し、「幼い天子とは無礼千万!本日の決定はすべて天皇のご英断によってなされたものぞ!」と息巻いた。徳川家康が泰平の世を築いた功績は認めるが、その子孫たちが皇室をないがしろにし、多くの失政を行いながら、この期に及んで、反省しないのは言語道断であると慶喜を徹底的に非難した。「官位を辞して、納地を朝廷へ返納するのが筋であろう」と慶喜の天皇に対する不忠を責め、「名ばかりの大政奉還を成して、今なお土地と領民を手放さないのは、叛意あるは明白である」と決め付けた。
岩倉と容堂の対立は激しくなるばかりで、いっこうに議論の進展を見なかった。この成り行きを不安に思った岩下が席を外して、外で諸隊の指揮を執っていた西郷に報告するとそれを聞いた西郷は、平然として「短刀一本でカタがつくではないか」と述べ、この自分の意見を岩倉と大久保に伝えるようにいった。会議は一時、休廷して再度、取り直しとなっていたが、この西郷の意見を聞いた岩倉は決意を固め、一方で同じくこの西郷の意見を聞いた後藤象二郎は慌てて、主君・容堂の説得にあたった。そこに居合わせていた越前藩主・松平慶永は、容堂寄りの意見を持っていたが、同じく後藤に説得されて、容堂と慶永は結局、岩倉たちの主張を聞き入れることにした。
再度、開かれた会議の席で岩倉は、同じく慶喜への処置は厳罰をもって臨むと主張し、容堂と慶永はこの意見を承諾せざるを得なかった。こうして、会議は深夜二時過ぎになってようやく決議し、新政府最初の会議は無事終了したのであった。
この会議の結果は、すぐさま二条城にいた徳川慶喜の下に知らされた。徳川慶勝と松平慶永が慶喜に会い、会議の模様を伝え、旧幕府の領地400万石とそこに住む領民を天皇に返上することが決定された旨を述べた。慶喜はこれを受け、旧幕府側が挙兵に及ぶことも想定されるので、宮廷工作を成して、何とか巻き返しを謀った。が、薩摩藩の西郷隆盛が江戸にいた相良総三たちに暴動を起こさせ、江戸を騒然とさせると江戸の警備を任されていた庄内藩が耐え切れなくなって、江戸にある薩摩藩邸に押しかけ、焼き打ちにしてしまった。この報告を受けた西郷は「しめた!」と歓喜し、討幕の口実を得たことを喜んだ。旧幕府側は、これでついに朝敵の汚名をきることとなった。こうなってはしょうがないと慶喜も意を決して、1868年(慶応4年)1月1日に「討薩の表」をつくり、新政 府に対して宣戦布告をした。旧幕府軍や会津・桑名の藩兵たちは、新政府との決戦を強く望み、慶喜にはこれら血気盛んな者たちを止める手立てがなかったため、ひと暴れさせて、不満を発散させた後に恭順することを考えた。
慶喜として見れば、自分が政局にいつまでもこだわっていては、旧幕府側の野心を燃え上がらせるだけで、国内に兵乱がいつまでもはびこると考えていた。そうなっては、欧米列強に日本国内への干渉を呼び起こし、日本は植民地となってしまう可能性もあった。そのため、慶喜は国家統一が素早く成される必要性を誰よりも強く感じていた。そこで、戦争をしたがる旧幕府軍に暴れる機会を与え、結局は敗れて気勢がそがれたところで、自分は天皇に対して徹底恭順する。そうすれば、国内の兵乱は勢いをなくし、新政府の新しい統一国家が実現し、近代国家へと邁進できると予測した。ここに慶喜の智略が活きていた。単に恭順謹慎を自分が勤めても、旧幕府軍はそれを許さない。だからこそ、一度でも新政府軍と戦い、手痛い敗北をすれば、納得しておとなしくなると考えたのである。 
赤報隊
赤報隊を組織した相楽総三(さがらそうぞう)は、江戸の裕福な郷士・小島家に生まれた。若年の時から遊学を盛んにし、弱冠20歳にして、国学・兵学を教える私塾を開き、門下生200人を集めた。
時代の流行、尊攘思想に傾倒した相楽は、活躍すべき藩もなく、薩長両藩の志士たちと親交を深め、独自の活動を展開する。西郷隆盛・大久保利通・板垣退助らと連絡をとりつつ、関東中心に活動した。鳥羽・伏見の戦いを誘発させた江戸薩摩藩焼き打ち事件を引き起こしのも相楽たちの活躍の成果であった。相楽たちは、大政奉還後の旧幕府側が新政府へ反乱を起こすよう仕向ける挑発行動を西郷より委託され、江戸・関東の地でかく乱作戦を敢行したのである。
まず、相楽はかく乱作戦に必要な人材集めをすることにし、旧知の同志たちに檄文を送り、相楽の作戦に参加するよう求めた。ついで、江戸市中を毎夜歩き回り、浪人や無頼漢たちに喧嘩を売っては、骨のある人物を作戦の同志に入れた。こうして、相楽の集めた同志は数百人にもなり、それら同志たちに強盗・傷害事件を江戸市中や関東各地で起こさせ、江戸や関東の治安にあたっている旧幕府や関東諸藩を困らせた。こうして、旧幕府側を怒らせ、江戸薩摩藩邸を幕吏らに焼き打ちにさせ、自らは大坂へと逃亡し、この旧幕府の挙兵を西郷たちに報告した。
これによって、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争へとなだれ込んでいく。相楽は1868年(慶応4年)1月に新政府の太政官に建白書と嘆願書を上申して、自ら東征軍の先鋒となって関東に進軍したい旨を表した。この相楽の願いは早速、聞き入れられ、先鋒隊を組織するよう命令が下った。
相楽は日頃から好んで用いていた言葉「赤心報国(せきしんほうこく)」から文字を取って、「赤報隊(せきほうたい)」と名づけ、近江の愛知郡松尾にて三隊を編成し、東へ向かって行軍した。この時、相楽は旧幕府の領土は、みな天皇の所領となるため、当分の間は年貢半減とする旨を行く先々で布告し、領民たちの支持を得る作戦を取った。
相楽の赤報隊には軍裁として、かつて新選組御陵衛士(ごりょうえじ)であった鈴木三樹三郎が参加していた。鈴木は相楽の東進案件を西郷・大久保たちに伝えたところ、大いに賛成され、今のところ東方面には新政府側が手薄であることから、近江より東進する相楽の部隊は大いに助かると言い、進発するにあたって、兵器弾薬、軍資金100両が新政府側から支給された。
こうして、新政府の東征軍先鋒部隊としての大任に就いた相楽は、意気盛んにして東へと進軍していった。だが、相楽の絶頂期はこの時までであった。以後の彼には、不運続きとなる。相楽が進発してから、10日もたたないうちに、赤報隊が行く先々で強盗など無頼行為を働いていると噂が立った。心配になった新政府は、1月25日に京都へいったん引き返すよう、赤報隊に伝令が飛んだ。赤報隊は一番隊、二番隊、三番隊のほかに別働隊があり、どうやら別働隊がうまく統制が取れていなかったらしく、進軍先で無頼を働いていたらしい。新政府から直々の伝令とあって、赤報隊の二番隊、三番隊は支持通り引き返したが、相楽の率いる一番隊だけは引き返さず、そのまま東進した。相楽は「戦陣においては君命を待たずという言葉がある。進軍中においては引き返すべきではない」と述べ、独断で進軍した。この相楽の独断行動に新政府は驚いた。赤報隊は東海道総督府付属でありながら、東山道を進軍するなど軍令違反も甚だしかった。関東出身の相楽には、東国攻略の要衝地点は、碓氷峠にあると見て、一刻も早くこの地点を制圧することが、今後の新政府軍の進攻を有利にすると考え、猛進撃していたのだ。相楽自身は、たとえ軍令に背いても、戦果さえ挙げれば、許されるだろうという甘い考えを持っていた。
だが、相楽たち赤報隊に引き返し命令を下した新政府にとっては、許すまじき行為と映った。赤報隊の無頼行為よりも赤報隊が行く先々で年貢半減を布告していることの方が問題だった。新政府は当初、旧幕府よりを諸藩が見せるだろうと考え、幕藩体制の領民たちを味方に引き入れるために年貢半減を布告する手段を取っていた。しかし、朝敵の汚名を恐れる諸藩は、次々と新政府に抵抗する事無く、新政府側に味方するようになった。近畿以西の諸藩は、おおかた新政府側についたため、新政府は年貢半減の政策を必要としなくなっていた。それどころか、新政府の組織運営には莫大な資金が必要であり、年貢半減の政策を新政府の方針と定まってしまうことは何よりも恐ろしいことだった。
特に新政府が領土安定を見るまでの間、運営資金を三井などの大商人から融通を受けることになったのだが、三井ら商人側は莫大な資金提供の担保として、新政府による国内統一が成った時に、その所領から取れる年貢米を有利な利潤で請け負えるように条件を出した。このため、新政府側は、なんとしても年貢半減の政策を撤回しなくてはならなくなった。こうなると本営の言うことを聞かない相楽の赤報隊は、問題を広げる元凶のような存在となってくる。ついには相楽たち赤報隊に偽官軍の汚名を着せて、窮地を脱するしか手立てがなくなり、苦渋の決断で赤報隊の存在を切り捨てた。
2月10日には、新政府側から信州諸藩に対して、「赤報隊は偽官軍である」との旨が布告された。この布告が成されていた時、相楽は大垣に滞陣中の総督府に出頭していて信州の地を留守にしていたが、信州に戻ってきてみるとこの布告に愕然とした。赤報隊隊士たちは大半が捕縛されていた。相楽は必死で同志たちの釈放を嘆願したが、聞き入れられなかった。仕舞いには3月1日夜、軍議のため出頭せよと下諏訪の本営から命令を受けた相楽が本営に出向く途中、突如として伏兵に襲われ、捕縛されてしまった。捕縛の罪状は「勝手に進軍し、諸藩と密談を交わした」との軍令違反であった。相楽は弁明する機会も与えられずに同志とともに雨の中、生きさらしにされ、何の取調べもされずに3月3日、他の同志7名とともに処刑された。
新政府運営のため、江戸かく乱や年貢半減などさまざまな不評行為を犯した相楽をやむを得ず切り捨てざるを得なかった。また、軍令を無視する行為は、新政府が秩序だって国内統一戦を展開していくためには必要不可欠な要素であった。徒党を組んだ暴徒の兵乱として、国内を戦火の海にすることは断じてできなかったのである。新時代を作り上げるには、規律を厳しくして臨まなくては、苦労が水泡に帰す場合もある。新政府のこうした軍令違反に対する厳しい姿勢は、その後の戊辰戦争において、軍律を正す指針となった。相楽の切り捨ては、非情をもって国内統一を成し遂げようとする新政府の姿勢を証明する出来事であった。 
明治の御一新
福島県に住む友人と話した事がある。彼は、「福島は明治維新の際に政府に対して抵抗したが為にその発展が遅れた。会津は何故あのような馬鹿な戦争を行ってしまったのか?」と言う。そういった考え方は当然ある。明治以降、発展に取り残されてしまった恨みがそういった言葉となってしまうのだろう。逆にある人は、会津を誇りに思い、「義によって闘ったその精神を尊ぶべきだ」と言う。福島県人には、いまでも明治の御一新の影響を引きずってゆかざるを得ない過去があるようだ。
そのどちらが正しく、どちらが誤っているかは一概に判断できないのではないか。明治以降の福島県の発展が遅れたのは事実だし、その影響がいまも残っている。だから、早々と新政府に歩み寄る事が必要だったのではないかという理論に誤りは無い。ただ、それで本当に良かったのかどうかが問題なのだ。
明治政府が徳川幕府を倒して政権を取った事を、革命と呼ぶべきなのだろう。しかし、革命というのは一種のクーデターだ。今でもそうだが、革命はクーデターが基になっている。日本における明治の御一新もまさにクーデターであり、誕生した国家自体が一種うさん臭い政権だった。幕末の時期について詳細に見てゆくとその当時の様子、どれほどの陰謀が政治の裏側で行われてきたかが理解できよう。
そのなかの最大の出来事は慶応二年(1866年)12月25日の孝明天皇崩御である。当時、孝明天皇のまわりに疱瘡にかかっている人は居なかった。空気感染である疱瘡になぜこの時孝明天皇が感染したのか?さらに、症状が治まりだしてきた時期に突然の急死。しかもその症状は急性砒素中毒に酷似していたという。砒素の毒としては当時砒素系の殺鼠剤「石見銀山」が存在しており、この毒を何者かによって盛られた可能性が最も高い。元皇族であった竹田恒泰氏はこのいきさつについて「旧皇族が語る天皇の日本史」という本で書かれている(ちなみに竹田宮家は1906年に創立されたが、1946年には皇籍を離脱している)。これはあくまで推測であり、状況証拠でしか無い。実際にその決着をつける為には孝明天皇陵の調査が必要だ。天皇は崩御されても火葬されることなく陵に安置される為調査の結果は明確に現れるはずである。しかし、これは多分実現される事は無いだろう。なぜなら、その事実が明らかにされたとしたら、明治政府の存在自体が否定されてしまう。天皇を万世一系の存在、神、大元帥として崇めていたその政府自体成立の為に天皇の父を弑虐しているとしたら彼らは日本をクーデターで乗っ取った大悪人とされてしまうだろう。
状況から鑑みて孝明天皇が崩御しなければその後の日本の姿は大きく違ったものとなったであろう事は想像に難くない。この事実が幼い祐宮(さちのみや−後の明治天皇)を権力の頂点に押し上げる。さらに祐宮が事態をよく理解しないうちに中山忠能・中御門経之・正親町三条実愛が偽りの「倒幕の密勅」を作成(天皇の名を騙って勅令を出した)。あるはずの無い「錦の御旗」を偽造。これらの陰謀が徳川慶喜を賊臣にしたてあげ戊辰の乱をひきおこし日本を大混乱に引きずり込んだのである。
孝明天皇の不興を買って謹慎蟄居処分とされていた有栖川宮熾仁(たかひと)親王は、孝明天皇崩御・明治天皇の践祚にともない謹慎をとかれ新政府軍の大総督に就任する。熾仁親王の婚約者であった和宮は14代将軍家茂に嫁いでおり、その事が熾仁親王をして強硬な手段を採らせたのである。下世話な言い方をすれば婚約者を奪われた怒りが徳川家や会津松平家を徹底的に攻撃させたのではないか?吉村昭氏の「彰義隊」を読むと上野寛永寺の輪王寺宮公現親王(後の北白川宮能久親王)が、上野での戦争を思いとどまらせようとして駿府まで出向いて対話した時の屈辱的な扱いを読むとその時の二人の立場と考え方が明確に理解できうる。熾仁親王もまた、孝明天皇が亡くなったことの恩恵を受けた一人であったし、その結果を最大限に利用した人物だった。
幕府がその役目を終え、解体してしまった事は時代の流れからいって避けられない出来事だったろう。しかし、その後に出来上がった政府はとてつもない化け物のような政府だった。あるいは、敵対する勢力を力でねじ伏せ、抵抗勢力を追い落とし、さらに自由民権運動が各地で巻き起こった時には、抵抗する民衆を容赦なく軍隊で踏み潰した。明治政府はこの後も力と陰謀で全てを解決する方法を採り続けた。日本が、あの悲惨な太平洋戦争を戦い、そして敗れた元凶はまさにこの明治の御一新にこそ求めるべきであろう。 
諸隊反乱の理由
「絵堂」という地名に初めて接したのは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にその名が出て来たからだ。司馬氏はその中で、絵堂での奇兵隊と藩の軍(いわゆる俗論党軍)の戦闘シーンを生き生きと描いてみせている。彼は、「戦争としての規模からいえば取るに足らぬ事件だが、この戦争の結果が幕末の日本史を大きく回転させることになったことをおもえば、絵堂の戦争の意義は大きい。」と書かれている。奇兵隊という「士農工商」で定められた身分制度によらない戦闘集団が作られた事が、幕末の特記すべき事項であるのは言うまでもないことだしさらにこの時の経験を参考にして明治政府が施行した徴兵制がその後の日本の運命を決定づけたことを鑑みると、絵堂の持つ意義が見えてくるように当時は感じたものだ。
司馬氏は奇兵隊を「百姓、商人、職人の師弟で、その隊長は足軽なのだ。」と書いているが、現在は研究が進み奇兵隊の校正中士分格の者は全体の44%で、農民が38%といったふうに武士と農民の比率は拮抗していたことが判明している。さらに、設立当初から月俸をいただき、武器を提供してもらっていたことから藩との繋がりが比較的濃厚だったようである。もっとも、武士とは言いながらその身分はそれほど高いわけではなく、その次男・三男等が主だったことなどから、正規の軍隊でなかった事は間違いない。それだからこそ藩の正規な軍との絵堂での戦いのような内戦が発生した。設立当初から奇兵隊は微妙な存在だったと言えよう。
組織の面から言えば、設立当初は数人の隊員に対して伍長が存在し、隊の方針はこの伍長らが集まって決定していた。隊が大きくなり、藩の方針が倒幕に決まってからは、伍長の纏める人員が増え伍長の上部組織として隊長−長官が、さらに諸隊会議所という藩の意向と隊の方針を定める機関が作成されるに到る。田中彰氏の言葉を借りて言えば「倒幕派藩権力の軍事的基礎に完全に組み入れられた。」ということになるだろう。隊員−伍長という本来の奇兵隊組織を管理する組織が作られた形となったのだが、これは重大な組織的変更でありこの事が後の諸隊反乱の原因となったのである。
奇兵隊の戊辰戦争における活躍については、様々な資料があるのでここでは割愛するが、戦争において奇兵隊をはじめとする諸隊の死傷者数902名という多大な犠牲数から、いかに彼らが第一線で戦ったかがうかがえよう。
函館戦争に参加した整武隊が明治2年7月に山口に戻ったことによって、諸隊の戊辰戦争における活動は終了する。戦争は終結したが、政府にとって直轄の軍隊を持つことは急務であった。戊辰戦争に参加したのはあくまで各藩の武士であって、政府の戦力ではないからだ。その一環として、長州藩では奇兵隊・振武隊共に東京常備兵とすることになる。但し、人数の関係から二二五〇名を「精選」することとなった。この事は諸隊長官の会議で決定されたが、この決定によって諸隊の隊員に動揺が起きた。戊辰戦争によって、上の者達は潤い出世することになるが、論功行賞は納得のゆくものではなかった。上の者には厚く、下の者に薄いのはいつの時代でもあることだが、それがあまりに激しいことが明治政府の特徴であった。上の者はまるで大名なみの生活を送っていながら、下の者−例えば遊撃隊においては戦争で出張中の下等兵士の月給は二歩であったとの記録が残っている。これでは、隊を出されたらその日から生活が出来なくなってしまうことは明白で貯えも殆ど無いとすれば死活問題である。「生死をかけてまで働いた結果がこれではあまりに酷い。」と考えるのが当然であろう。まして、総督や長官などが豪遊しているのを聞いていれば、なおさらだ。勝手に自分達の上に幹部としてやって来て、良い思いをして。平和になったら、ゴミのように自分達を切り捨ててしまおうとするやり方に対する反発が起こったとしても無理は無い。不正の一端として先の「高杉晋作と奇兵隊」では以下のような例をあげているので引用してみよう。
「・・・三浦五郎(悟楼)は、奇兵隊の小隊司令を勤めたが、後年、『観樹将軍回顧録』(一九二五年)で語るところによると、隊長と兵士の俸給は、表向きは苦楽を共にするということで同じであったが、裏面では大違いだったとして、つぎのように述べている。『隊長の我輩も、兵卒も、一ヶ月の手当てが国札三十匁であった。即ち五十銭に当るのである。然るに我輩が或時、公用を以て山口へ出張すると、会計係より旅費だと云うて、五百匁を渡して呉れた。即ち八両とイクラである。月手当三十匁のものに、五百匁の旅費とは、過分も、過分も、非常の過分である。『これはドウしたことか』と問えば、『本陣の衆はチョッと山口へ来れば、皆旅費として五百匁ずつ渡すことになって居る。請求があれば、又渡す』との答えである。ドウもこれはヒドイ話である。必ず何か私があるに相違ないと、此時始めて気が付いたのである。』そのカラクリは、本来六十匁だった兵士の月手当の半分がピンハネされ、それが幹部の旅費などに化けていたのである。・・・」
余談であるが、この同じ話は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」にも引用されている。「翔ぶが如く」のこの項は前原一誠による萩の乱の部分でさらりと述べられている程度であるし、小説という性格上、「本来六十匁だった兵士の月手当の半分がピンハネされ」ていたことは記載されていない。こういう細かい部分についてはよく調べないとわからないものなので、注意したいものだ。
木戸孝允は森清蔵宛の書簡で「長官と兵士の分離」と書いていた。しかし、実際には奇兵隊の初期機構であった兵士−伍長と、藩の軍事勢力に組み込まれた時期以降に上から任命されて管理する立場に着いた隊長等の総督以下の幹部連中との対立であった。あくまで、一般の兵士による反乱であるかのように取り繕ろうとした木戸の意図が垣間見える。戊辰戦争が終結し、戦闘集団の必要性が薄くなってきた事による隊員の「精選」は、やむをえない事柄だったのだろう。しかし、彼らが怒っていたのは、幹部連中の堕落した行動であり不正を行う姿だった。上に立つものだけが得をする新しい社会構造であった。こういった社会構造に対する批判、反対運動はこれ以降も様々な形で発生してゆく。 
隠岐島における維新
日本海に浮かぶ隠岐島、この場所で維新の際に、民衆による自治が行われたことを知る人はそれほど多くないようにおもっている。私もほんの数年前まではまったくその存在を知らないでいた。偶然に読んだ井上清氏の「日本の歴史20」に、簡単に書かれていた文章を読んで初めて知った次第である。詳しくは、本を読んでもらうのが一番いいのだが、簡単にその概略をまとめると、以下のようになろう。
時期・年度 / 内容
幕府支配の時期 / 松江藩の管理下
慶応4年2月 / 隠岐島、天皇御料となる。
慶応4年3月18日 / 民衆蜂起し、松江藩郡代を退去させる。山陰道鎮撫総督府の許可を得て、会議所を設け自治制をしく。
同4月25日 / 再び松江藩の支配下に置かれ、自治は政府によって弾圧される。
同5月16日 / 薩・長・鳥取藩により松江藩勢力は撤去させられ、再び自治権が復活する。
明治元年11月 / 鳥取藩管理となって、自治はほとんど奪われる。
明治2年2月 / 政府直轄地となり、村民の民兵が禁止される。
明治4年2月 / 慶応4年時の罪を問われ、幹部は処分される。同時に松江藩の当時の責任者も罰せられる。
ほんの1年間の間(慶応4年から明治2年2月迄)に、なんと5回もの支配体系が変わっている。この時期、政府の方針はめまぐるしく変化しているのでこのような支配系統の混乱も仕方なったのであろう。ただ、井上氏が指摘し問題としているのは「・・・隠岐島の民衆自治も、松江藩の新政府にたいする態度が疑われていた間は新政府から支持されたが、政府が藩の『勤王』を信頼すると、・・・自治の村民は政府の命令により大弾圧された。・・・」(井上清氏「日本の歴史20」P100からP101)という点だ。隠岐島自治の幹部達は政府の指示に従い行うべき事は行っている。そのうえ「山陰道鎮撫総督府」の許可までもらっているのに、手のひらを返すように処罰されている。これは一体どういう事なのであろうか?
以前より何度も書かしてもらっているが再度述べると、「政府」ははじめ民衆を味方につける方針をとっていながらひとたび反乱する部隊の存在が見えなくると急にその方針を切り替えてしまう。しかもこれは松江藩や隠岐島に限ったことではないのである。
コミューンとは、「人民の権力に基ずく直接統治組織・・・」である。と書かれていた。確かに、海で外部からは隔てられているとはいっても松江藩の支配下だった過去を持つこの島でコミューンとよばれた自治制度が作ら れ、運用されるためには武力が必要であった 。彼らは、いつどのようにして武力を持つにいたったのであろう?幕府による支配の時代にそれが可能だったのであろうか?
こういった疑問に対して、松本健一氏の書かれた「隠岐島コミューン伝説」では、『幕末に時期に農兵制度が設けられていた』と、説明している。すなわち、「外国からの開国の圧力によって海防の必要性が高まってきたが、それぞれの藩に海防の任務を負わせるのにも限界はあった。この時、『土着の農民を組織して軍隊のようなものを作成する』ことが、伊豆代官の江川太郎左衛門によって提案されたのをきっかけとして幕府の直轄地はもちろん諸藩でもこのような組織を作った。」ということなのである。
ところで、幕末となって「通商条約」が定められると外国との戦争・戦闘が行われる可能性が殆ど無くなってしまった。そのため、農民を巻き込んで作成した「農兵制度」が不要になってしまった。幕府や藩の支配者にとっては、必死で集めた農兵が急に不要になったのである。彼らが、その時考えたのは「早く彼らを解放しないとまずい」という事だったろう。その結果、武器を捨てて再び農業へ戻ることが要求されることになる。しかし、一度手にした武器を簡単に捨てさせることが出来るのだろうか?
「・・・こうして、慶応三年五月、松江藩の陣屋は民間における『武芸差留』の布告を出した。・・・だが、長いあいだ封建制下で『家業第一』に耐えてきたものが、いちどそこから自己解放して、文武の修行に自己発現の機会を見出してしまったとき、その勢いをとどめることは、きわめて難しい。・・・」
彼らは、「文武館」という学習施設を設立することを要求した。若者の教育と、武芸奨励の気持ちが「文武館」設立の要求となって現われてきたのだ。島民達は、この「文武館」設立の要求を通じて「自らの力で島を守る意識を持つ」に至る。しかし、彼らはあくまで自分達の資質向上の意欲と島を守る意識からしか考えていなかったようである。この時点では、松江藩の藩士を追い出し自治政権を作成しようとする意識は無かったらしい。
彼らが怒ったのは、山陰道鎮撫使から届けられた公文書を松江藩の役人が開封してしまった事が原因である。彼らは、この事実を知り、全島民を巻き込んで「松江藩藩士の島からの退去を命令する」という騒動に発展、結果として隠岐島にコミューンが形成された。彼らは、はじめから自治政権を目指したものではなかったが、「自分達の国は自分達で守る」という意識が、前例のないコミューンという形で幕末・明治期の歴史に残ったのである。外的な要因によって、全く予想もしていなかった自治政権が作られた時、彼らは会議所という新しい組織をつくり(元、松江藩の陣屋)出した。 
維新政府の方針
『此日本ト云ウ御国ニハ、天照皇太神宮様カラ御継ギ遊バサレタ所ノ天子サマト云ウガゴザッテ、是ガ昔カラチットモ 変タコトノ無イ此日本国ノ御主人様ジャ。丁度天ニ御日サマガ二ツ無イト同ジ事ジャ。所ガ七八百年モ昔カラ乱世ガツヅイテ・・・北条ジャ、足利ジャノト云人ガ出テ来テ、此日本中ヲヤクタイニシタガ、終ニハ天子サマノ御支配遊バサレタ所ヲ皆奪イテ己ガ物ニシタデアルナレドモ、天子サマト云モノハ、色々御難渋遊バサレナガラ、今日マデ御血統ガ絶ズ、ドコマデモ違イ無キ御事ジャ。何ト恐レ入タ事ジャナイカ』
上の文章は、慶応四年(明治元年、一八六八)三月の九州鎮撫総督の論書に書かれていた文章である。日本というこの国は、神の子孫である天皇のものである事を簡素な言葉で描いたものである。司馬遼太郎氏がその著書「竜馬がゆく」のなかで書いているように明治以前の幕府支配の時代、日本には国という存在が無かった。ひとつひとつの藩は存在していたし、その藩を束ねる幕府という存在はあったが、日本という国家は存在していなかった。
国家という存在を考える場合には、それ自体がひとつの有機的な結合体であることがどうしても必要であり経済的につながりがある事、そして相互交流が自由に出来ることも大切であった。明治政府は、その早い段階で日本を統一国家とする必要を感じていた。そして、藩府県の体制から版籍奉還、廃藩置県を行う事により全ての地方を中央政府の統括する府県に作り変え、本当の意味での日本を作った。まさに、偉業と呼ぶにふさわしい。
確かに、明治維新の時点で雄藩連合による政府というものを作成することは出来たろう。だが、政府はその方針はとらなかった。この点について井上氏は以下のように書かれている。「・・・なぜなら、幕府制を打破するという段階を通らないでは、歴史のこれ以上の進歩、すなわち封建制の廃止と日本国民の民族的結集、ならびに欧米の半植民地的地位からの独立、これをかちとる方向への日本の前進はありえなかったから。・・・」
そうなのかもしれない。古い体制派の人々をどれ程集めたとしても何も変わらなかったのかもしれない。私には政府の取ったその方針と考え方に対する反論は出来ない。それは仮定にしか過ぎないであろうから。彼らの戦術は今となってみれば正しかったのだろう。
だからといって、彼ら明治政府の行ったことが全て正しいわけではない。かれらはあくまで、幕府を否定することは行ったのだが、だからといってその姿勢のなかに人民と共に新しい社会を作り上げてゆこうという考えはまったくといって良いほど無かった。民衆はあくまで支配されるもの、愚鈍で無知蒙昧な者という考えから抜け出せはしなかった。それが、しだいに自由民権という政府の全く意図しない流れとなって現われてくるのである。先ほどの文章の続きを見てみよう。
「・・・だだし、西郷らの倒幕コースが歴史の進歩にそうているからといって、それが革命的であったわけではない。かれらはこの段階では、人民を利用する進歩的改革派ではあったが、以前も以降も、人民を代表する革命党ではなかった。かれらは、現存権力の打倒を合理化する人民革命権の理想をもってはいない。かれらの行動を権威づけ、合理化できるものは、かれらの当面の敵と共通にもっている封建的な大義名分論により、大義名分上の最高権威である天皇の権威をふりかざすことだけであった。人民革命権の思想でいくならば、人民に依存し、これを組織することが倒幕の基本戦略となるが、天皇の権威で幕府を倒そうとするなら、まず第一に宮中クーデターに勝つことを目標とせざるをえない。・・・」
明治維新は、確かに西郷や大久保・木戸らによって行われたもので、権力を握る為にはどうしても戦闘が必要であった。その際に彼らは、戦略上の観点から民衆を味方につけていたが国内が平定され民衆の力が必要でなくなるとあっさりと民衆を切り捨てた。彼らの革命の思想の中には、民衆というものの存在などはじめから無かった。あったのは、支配されるべき愚民の存在だけだ。そして、この思想は明治政府の基本的な考え方として受け継がれていった。 
梅村知事の失脚
前回、江馬修氏著の「山の民」について書いた。でも、一度で書ききれるような内容ではなく又書く事にした。「山の民」は、当時の(明治初年の)民衆がどのような生活を送っていたのか、そして明治維新はどのように民衆に捉えられていたのかを非常に簡潔でいながらしかも詳しく描かれているすばらしい本である。私達は明治というその時代にどのような事があって、誰がどのような活動をしたかを知っている。そしてどのような結果が起きたかも知っている。でも、当時の人々が何を考え、何を思っていたかはよく分からないのだ。篠田鉱造氏の明治百話にもある程度は書かれているのだが、それは東京などの都市での事だ。明治というその時代の移り変わりをすぐそこに見てきた人々の話しだ。私は、もっともっと別な名も無い人々の声をも聞きたいのだ。
江馬氏は言う。民衆にとっての梅村知事は、それまで飛騨を支配してきた代官と同じく「支配する」人としてしか見られてはいないのだと。支配する側、支配される側といった考え方、心の持ちようは簡単には変わらない。いかに、梅村 知事が「進歩的で、開明的で、人々の衆知を集めた」政治を行なおうとしても支配される側の人々はその「支配される・命令される」という経験から抜け出せなかった。「こんなものだ。」としか考えられないでいた。単純に梅村 知事のみを批判は出来ないであろう。しかし、同じ飛騨というこの地を前任の竹沢寛三郎は非常にうまく支配してみせた。確かに、彼は「年貢の軽減をはじめ民衆に受け入れられる施策のみを」行っていた。だから・・・。という考えも成り立つであろう。しかし、それだけでは無いのではないか?必要なのは明治という時代となってよの中が変わった事をまず人々に知らせる事、つまりいままでの代官を頂点とする支配関係がくずれ、まったく新しい時代が(実際には維新によって真の民主的な社会が出来たわけではないのだが)訪れた事を教えることだったのではなかったか?江馬氏は、以下のように書いている。「・・・初めのうち、梅村はねっしんに民の声をきこうとつとめた。そして、何かにつけて『衆議をつくす』ということを強調した。いわば、彼はできるかぎり民主的な政治をおこなおうと意図しておった。しかし、いくら彼の意図がそうであっても、彼の周囲には衆議をつくすべき機関もなかったし、また素直に自己の意見や批判を申立てるものも無かった。梅村と役人どもとのあいだは依然として封建的な主従関係であったし、 まして人民とのあいだには古い厳然とした身分制度によるこえがたい溝がよこたわっていた。このような事情は、梅村のよき意識にもかかわらず、彼の存在を民衆から孤立させてしまった。・・・」
だからといって、梅村知事は全てを自分の独断で行っていたわけではない。彼の基本的な姿勢は明治政府の意に沿うように全て進めていたし、重要なことがらについては必ず政府の意向を伺っていたのだ。つまり梅村 知事は明治政府の行おうとしていたことを忠実に着実に進めていただけなのだ。彼の行なった事を順にあげてみれば政府がどのようなことを行おうとしていたか、どのような方針で一般の民衆に向かおうとしていたかがわかる。以下にその内容を記載してみたい。
梅村知事の施行 / 内容
養老使の制 / 不幸な老人を慰問し、救恤する。天朝の名において幾分の白米を与える。
憐窮使の制 / 困窮するゆえんを熟察し、尽力しても困窮するものを救恤する。
施薬院 / 貧民のための施療病院。どんな医者の処方箋でも、いつでも無料で薬を与えるようにする。
救恤係 / 数名の町医者が、貧しい小前のために無料で診察する。
商法局の設置 / 商品の販売、購入を役所で一括して行い、物価の安定を図る。奸商の相場の操作を防ぐ。
勧農方の設置 / 新田開発の用地を探し、田を増やす為の働きかけを行う。
常平倉(郷倉)の設置 / 米倉を新たに設置。飢饉の備え、米を備蓄する。
富くじの運営 / 富くじによる金の他国への流出を防ぎ、なおかつこの利益を救恤に利用する。
芝居の復興 / 金銭の流通を良くし、物価の下落を防止する。
郷兵の取立て / 諸国情勢の不安の為、常設の戦力を保持する。
堤防の築造 / 水害に備える。(当時七日町・古川町の堤防が決壊したままだったので、この復旧)。
孝子烈婦の表彰と男女の密通の取締り / 人倫の大道をただす。許可制の遊女家の設置による風俗の浄化。
諫筒の設置 / 人民の自由な投書を求める。人民の意見を聞くため。
学校の建設 / 人民や子供達の教育施設の作成。
御救米の配布 / 貧困な村や人民の救済が目的。この他、70歳以上の老人達へ百両以上の金を施与。
刑法の改善、牢屋の移転 / 封建的な刑罰を一掃し、教科的な刑罰に切り替える。牢屋の移転によって、衛生的な場所にすると共に、罪状によって刑罰を決める。
集議館の設置 / 後の県会の前身というべきもので、「衆議を尽くす」目的で作成された。(但しこれは、政府による「議事制取調についての布告がきっかけであった)
梅村知事は、この他さまざまな政策を推し進めたし、この内容をみれば非常に精力的に活動していた事がみてとれよう。しかも、これら梅村知事自信が考えた施行の他に明治政府により指示があって行った(例えば、神仏分離等)施策もあったので、その変化はかなり急激なものだった。ざっと見てみてこれといった問題もなさそうに見えるが、実際はそうではなかった。
例えば、商法局について川上屋善右衛門は、刑法局に対する文書で、以下のように書いている。
「・・・年貢を軽くし、賦役を減じ、賑恤を厚うし、誠心誠意のあまりを万民に施してこそ、旧弊も除かれ、富救の道も起こるべきに、今は然らず、運上を増して小民を苦しめ、商法局を立てて民利を掠め、山方米人別米はくださずして民を飢饉にせまらしむ。・・・」
このように、梅村知事が「良かれ」と思って行った施行はその殆どが民衆に否定されてゆく。堤防の築造ですら、本来は水害に備える為に是非とも必要なものであるにも係わらず、労働力の強制的な搾取と思われ働きに出られない人については「日雇いを二朱払って働いてもらった。」とも書かれている。どうして、このような事になってしまったのだろうか?
梅村知事は結果として引き起こされた一揆によって傷を受ける。その後京都の刑法所から東京の刑部省へひき渡され、最後は獄屋でその生命を終える。京都では或る程度の取調べがあったようであるが、東京では殆ど取り調べが無かった。彼は何度も口上書を書いたのだが、それでも効果は得られなかったようである。政府はどうして彼を放置したままにしたのであろうか?江馬氏は、この点について以下のような明快な回答を用意していた。すなわち、
「・・・それでも時折こんな疑惑が稲妻のように彼の脳髄に閃くのであった。『もしかすると、政府は自分の一件を正義の立場かれでなく、もっと外の政治上の考慮から放任しているのではあるまいか。少なくとも自分なぞを、罪状未決のまま、いつまでも放置しておく方が有利だと考えているのではあるまいか。だとすると…』だとすると、彼にとっては、それはまことに恐ろしいことであった。彼は維新政府の地方行政間官として真剣にはたらいたのだ。そして思わぬ人民の反抗にあって、政府の信が問われる段になると、政府は一切の責任を梅村個人とその一党に帰しようとするのだ。しかも彼らをはっきり有罪と宣言することもできないので、未決のまま放っておいて、民心の動静を眺めているのだ。いわば梅村は政府に裏切られたのだ。そしてもはや用のない犠牲として闇から闇へ葬り去られようとしているのだ!・・・」
江馬修氏は、梅村知事の側近の一人、商法局頭取であった江馬弥平氏の息子にあたる。彼にしてみれば、この最後の一文が真に言いたかった事のひとつであることは間違いない。明治政府の基本的な方針はこういったところにあった。そして、それが以降も延々と繰り返されていったのだ。使える時は徹底的に利用し、問題があったり失敗した時にはボロ雑巾を投げ捨てるように切り捨ててしまう。恥ずべき方針である。 
明治という過去を想う
奥久慈といっても、その存在を知らない方もいらっしゃるでしょうが、茨城県の水戸と福島県の郡山をつなぐ水郡線という線路があります。阿武隈山地の山間を久慈川に沿って走っているこの水郡線は風光明媚な点で有名です。春の新緑・秋の紅葉と素晴らしい眺めを満喫できるでしょう。
さて、今回訪れたのは福島との県境に近い常陸大子の駅から車で30分程のところにある「おやき学校」というところです。名前は学校ですが、この場所は数年前に廃校になった小学校がその基になっています。ここを改装し、ちょっとした売店と食堂・おやき作成体験を行う場所として開放しているわけです。「おやき」というのは、米の粉(多分)で団子を作り、中に色々な具を入れて食べる大きさが8CM位のパンのようなものです。具の種類も豊富ですし、食べてみると以外と美味しい。素朴な味わいのある食べ物なのですが、すぐにおなかが一杯になってしまうので沢山は食べれないのが難点です。
廃校になった小学校といっても数年前に話題となった『学校の怪談シリーズ』の舞台となったような場所ではなく、明るくて開放的な建物です。(尤も、大分綺麗に直したのでしょう。今でも子供達が通っていてもおかしくない位です。)
「何故、廃校になったか?」というと「その立地によるもの」と言えるでしょう。一番近い大きな町の常陸大子駅迄車で30分。水戸駅という事になれば3時間弱。白河や郡山も3時間位か。逆に黒磯駅(群馬)の方なら2時間一寸で行けるでしょう。八溝山の山腹に広がるこの部落はとても静かな場所です。それが災いしたのでしょう。今では過疎の町となって子供が極端に減り、ついに学校を閉めざるを得なくなったのです。校舎もそれ程大きくはないし、校庭もあまり広くはありません。多分、多い時でも生徒数は100名生だったと思います。
「どうして子供達がいなくなってしまったのか?」この事はもう皆さんいままでの説明で十分理解できたと考えますが、あえて言わせてもらえらば都会に若者が出て行ったからです。この町を出て、都会に行って生活するようになり子供達は都会の小学校へ行くようになった。これも時代の流れというものなのでしょう。この場所で延々と農業をして生活してい得られる収入、都会でそれなりの職場で働いて得られる収入。このような山奥でも同じようにTVがはいり新聞が届けられ、同じ情報が得られるようになった時、若者が都会に流れていってしまった。同じく苦労するならば、より多くのお金が得られる町へ出て行ってしまった。それが時代の流れ。誰にも止めることなんて出来ない。
明治12年(1979年)、教育令が出され貧しい生活を続けながらもお金を出して作られたこのような小学校。家の仕事が大変で学校にも行けない子供達が多かったであろう。それでも政府は何とか教育を受けさせる為に努力してきた。それが、ほんの百年ほどで廃校となってしまった。政府がどれほど教育に力を入れても就学率は遅々として上がらなかったのに今はそういった努力とはかけ離れた現実のなかで皮肉にも子供がいない為に廃校にせざるを得なくなった。
政府は教育を通じて「愛国精神」を養う目的で教育制度の改革を行っていた。子供のうちから勉強をさせて国家の役に立つ若者を育てる目的があったにせよ国民の基礎的な能力の向上といった点からみれば、必要な措置であった事は間違い無い。方向性云々の話よりはむしろ功績を誉めるべきであろう。明治以前は一部の裕福な人のみが受けられた教育を万民が享受できる方向性を示したのである。教育の制度自体にどんなに問題が多かったとしてもこの点だけは正しい方向性であったと思うのである。 
文明開化の本質
明治の時代になり、それまでの庶民の暮らしが大きく変わったのは『文明開化』によるものであろう。一口に『文明開化』と言ってもその内容は複雑であるが、簡単に言えば「外国の文物を取り込んだ」といったことなのであろう。確かに、明治になって良くなった事が多いと思う。例えば「水道の施設」などもこのひとつになるであろう。今、私の手元に10日の新聞が置いてある。それにはこう書かれていた。「・・・安全な水を飲めない人が世界で二十五億人に上る。その水が原因の感染症で毎年二百万人もの子どもの命が奪われる。」(福島民友の「編集日記」−2002年4月10日より)
明治以前は日本でも水道の設備がなくすべての水は川や井戸から取り込んでいた。何年か前に福島県会津にある大内宿に行った事がある。この町は江戸時代の宿場町のその姿を現在に残す観光地となっている。道の両側に大きな藁葺き屋根の建物が並びその前にきれいな用水路があって、その場所で飲料やスイカ等を冷やして販売している。確かに、明治以前においてはまだ水もきれいであったし建物わきの水路の水を使っていたとしてもおかしくはないだろう。ただ、水という基本的な部分では当然それを使う事によって疫病等もはやった事が多かったのは事実である。その上、明治に時代となって外国との関係がより緊密なものになりそれまで日本には存在しなかった多くの病気が流行りだしたのは自然の成り行きである。例えば以前私のホームページでも話したように「コレラ」・「赤痢」・「腸チフス」・「天然痘」により明治10年代に20万人もの人が無くなっている。「コレラ」が水によって感染するのは明治10年代には知られてきていた。これを受けて政府は上水道の整備を進める事になった。これは当然の事であろう。これほどたくさんの人間が伝染病によってなくなっているのだ。さすがに見てみぬふりはできなかったであろう。近代水道が東京に施設されたのは明治31年になってからである。「・・・近代水道工事着手から六年後、明治三十一年十二月一日、日本橋区、神田区の一部に全国で六番目の近代水道の給水が開始された。上水は水の自然流下で配水し、木樋を使用したが、近代水道は浄水場で一度濾過し、送水ポンプによって水圧をかけ、鉄管で配水した。・・・」この時にやっと、現代で言うところの水道が施設されたのである。日本もこの時から安全な水をえられる国のひとつとなった。
確かに、このように明治は多くのものを外国から学んだ。それは日本が近代国家と呼ばれる為に必須であった事は否定できないし、この例のように水道を施設するといった重要な事を行ったのは賞賛に値するであろう。しかし、そのことが全て良かったことなのであろうか?これを調べるために日本が行った西欧化政策を外国はどのように見ていたかを少し見てみよう。それほど素晴らしい政策政であれば日本をはじめとする東洋の各国はみなそろって日本と同じように外国を見習ったのではないだろうか?確かに、国によってはそれが出来ない事情というものがあったであろう。そんな中で、東洋一の大国である中国の李鴻章の文章を記載してみてみよう。
「日本では近年旧い幕藩制度を改変したとのことである。・・・ただその時に衣冠を変え、正朔(暦)を変えたことについては、常々我が国の識者のそしる所である。ただし、西洋の兵法への改習、鉄道の敷設、電報の設置、石炭・鉄鋼の採掘、西洋にならった貨幣鋳造の開始などは、国計・民生にとっていずれも利益あることである。・・・」。つまり、外国の有用な文物を取り入れることが誤りだとは言っていないのだ。ただ、「・・・あるいはむしろ文化の根幹に触れるゆえに改変してはならない部分、つまり風俗・習慣までを加工しつくし、社会生活を根底から『欧化』せしめたことは、中国側から見れば明らかに過剰であり暴走であった。・・・」このように日本としてあるべき根幹となりうる部分までを変革すべきでは無いと言っているだけである。「文明開化」それは良い。ただ、開化することによって日本というその心までをも失ってしまってはいけなかったのではなかろうか?このような開化がかえって日本をして復古への反動をひきおこしてしまったのではなかろうか? 
「にせ官軍」事件 / 「赤報隊」の悲劇
戊辰戦争は、1868年の鳥羽・伏見の戦いからはじまり、しだいに関東・東北へと広がっていく。明治政府は、民衆が幕府に加担することを恐れ、その行動中に租税を減らすことを宣言して人心の掌握につとめた。
この時の状況は、以下のように政府が決定したことである。
明治政府は内乱を有利にするために、幕府反対のいっさいの勢力を自己のがわにひきつける必要がありました。西郷隆盛は人心をひきつける策として、当年の租税を半減し、徳川の苛政をゆるめることが必要だと建議していましたが、一月十二日付で「幕府領では当年租税半減」の命令が出されました。
このように、政府はいったん租税半減を宣言し、関東へとその行動をすすめていった。
「・・・東征軍は、さきにもふれたように、『王民となれば、ことしの年貢は半減する』と民衆に呼びかけ、実際に、飛騨(岐阜県)高山の幕領などで、半減がおこなわれたところもあります。しかし、この方針は、まもなく撤廃され、農民の期待はむなしくなります。飛騨高山の農民たちは、裏切られて、大一揆をおこしました。また、民衆とむすびつこうとした東征軍の一部隊を、味方の政府軍がだまし討ちにあわすこともありました。相楽総三(本名小島四郎)は、下総北相馬(茨城県)の郷士の家に生まれ、幕未の尊王攘夷運動に参加しました。西郷隆盛と連絡して、江戸の薩摩藩邸を根じろにし、多くの浪士をひきいて、江戸市中や関東各地をさわがしていました。薩摩邸が焼きうちにされたときに、海路江戸を脱出し、のち、京都にはいりました。相楽は、烏羽伏見のたたかいのすぐあと、青年公卿の綾小路俊実(のちの大原俊実)・滋野井公寿をもりたてて、『赤報隊』を結成しました。赤報隊は、江戸いらいの相楽の同志であった浪士たちと、京都付近の有志からなりたっていました。隊員の出身階級はさまざまですが、指導部はいずれも長年にわたり尊攘運動に活躍した“草もうの志士”たちでした。一般隊士は、圧倒的に農民・商人出身者からなっていました。新政府は、赤報隊を官軍の一部(東海道鎮撫総督監指揮下の部隊)であることをみとめ、また東征がはじまったとき、赤報隊が『嚮導先鋒』の任につき、旧幕領に年貢半減をはっきり宣言すべしとの命令を出しました。一八六八(慶応四)年一月十五日、赤報隊は『年貢半減』を宣伝しながら前進をはじめ、沿道諸藩に勤王を誓わせ、軍資金や人馬を供出させました。やがて名古屋駐屯ちゅうに、政府から東海道鎮撫総督府に合流せよとの命令がきました。一月下旬、ニ人の公卿はそれにしたがいましたが、相楽は他の赤報隊をひきいて、『官軍嚮導先鋒隊』と名のって、本隊をはるかにひきはなし、信州にはいりました。急進撃をつづけて、ニ月には、要衝碓井峠をおさえました。だが、赤報隊にたいする悪評が、一月下旬から流れはじめました。『ニセ官軍』『官軍先鋒といつわる、強盗』といったものです。これらは、新政府すじから意識的に流されたもので、みなデッチあげでした。相楽隊への弾圧は、ニ月十日からはじまります。相楽は、『軍議があるから出頭せよ』との命令で下諏訪の東山道総督府(総督岩倉具定・参謀伊地正知、乾退助)へ出頭したところ、うむもいわさず逮捕されてしまいました。隊の幹部八人もおびき出されて逮捕されました。三月三日、相楽以下の赤報隊の幹部は、なんの取詞べもないまま、下諏訪効外で死刑にされました。これが、幕未いらい身を拾てて討幕戦争のさきがけとなった志士たちにたいする新政府の回答でした。なぜ政府・総督府は、このような形で相楽らを葬らなければならなかったのでしょうか。相楽らが宣伝してあるいた年貢半減令は、総督府が、命令して民衆に流させていたのです。そのうちに、関東一円を吹きあれる一揆・うちこわしの波にぶつかりました。あわてた政府は軍資金を確保するために、軍事費を援助してもらった三井組などのすすめに応じて、「年貢半減」の旗じるしをひっこめ、一揆を弾圧することにしました。しかし、年貢半減令の取消しを公然と発表することはせず、相楽らを『ニセ官軍』として処方して、とりつくろったのでした。・・・」
この「赤報隊」は、板垣退助らに率いられ近藤勇らに新撰組と良く戦い、これを退ける原動力となっていた。このような働きをしている相楽らを政府は邪魔者として扱い殺してしまった。自分達がはじめ言い出した「租税半減」を彼らの勝手な行動として位置付け、その上「偽者」という烙印をまで押したのである。彼らは目先のことのみに囚われて幕府を倒すことに協力した。それは、上下分け隔てのない(天皇を中心とした)国家を目指したということであり、藩による搾取を無くす目的があったのである。ところが、政府は「都合が悪くなったので」勝手にこの制約を破毀してしまった。 
吉田松陰
「船井総合研究所」の船井幸雄さんは吉田松陰についてこんな風に語っていた。
「・・・吉田松陰はほんの1年あまりの時間で、人を人材に変えてしまった。云々・・・」
確かに、吉田松陰−松下村塾という風な関係で捉えている方が多いと思う。私もそれを否定するものではない。松陰はアメリカの船で密出国しようとして失敗し萩で蟄居させられていたが、その僅かの期間で多くの明治以降に活躍した人物を教育した人として有名である。またその教育の場であった「松下村塾」は、今でもその「ご利益」にあやかろうとする人々にとって究極の教育の場としてその名前を使用される事がある。確かに、その教育方法や理念について学ぶことは現在のように混沌とした時代を生きる私たちにとってひとつの光明に思えてならない。
松陰は、その蟄居という立場上大々的に人を集めていたわけではなくむしろ自ら集まってきた若者達を教える立場をとっていたのだ。そのように教育することが出来た・他の若者達に影響を与えることができた理由を人は数多く指摘する。たとえば、森田惣七著/吉田松陰の人間観を見てみると、以下のように記載されている。
「・・・これらの文によると、松陰は常に友人の姿勢で門人に接し、言葉づかいが丁寧慇懃であり、進んで傍らに来て説明し、自分の経験を話し、弁当のない者には食事を供し、畑の草取りをしながら読書や歴史の話をし、『門人愉快に勝へず』という状態であった・・・その上松陰はほめるのが極めて上手だった。しかも松陰のほめ方は、作為的にほめるのではなく、善行を見ると、心底から感激し、それを相手にぶつけるのだ。・・・」
おおよそ、吉田松陰の教育−松下村塾での教育方法はこのような方法論に落ち着く。確かに、現代の我々にとってみれば「早く人を人材にしたい。その為に吉田松陰はどのような教育を行ったのかを知りたい。」という欲求はあると思う。それは素直な反応だし、過去を参考にしようとする考え方は間違ってはいないと思う。ただ、このような技術論ではとうてい松陰は語り尽くせない。それが、現在もなお、松陰についての書籍が刊行される所以であろう。それでは、何故松陰はこれほどまでに人を引き付けたのか?それにはこちらの文章が参考になりそうである。
「・・・この松陰の誠に関連することであるが、来原が、松陰のことを常に『人を強いるの病あり』(正月二六日付、小田村伊之助宛)といったという。松陰は、来原だけでなく、同士諸友からも「義卿人に強ふ、義卿人に強ふ」といわれている。(安政六年二月『諸友に与ふ』「詩文捨遣』)。人に自己の見解を押しつけるという、この友人らの松陰についての評価は、誠に生きる松陰の態度の一面を明らかにするものといえよう。・・・」
この文章が示すように、松陰は他人に自分の考えを押しつけることが多かったのであろう。例えば、それが『伏見要駕策』のような行動をおしつけるのではなくその物事に対する考え方(思想と言っても良いかもしれない)を押し付けられるのであればそれほどの抵抗があるわけでも無い。そしてこのような『考え方』の部分が情熱を持って語られたとしたら、人はそれに感化されてしまうであろう。まさに、松陰の目指した教育は『自分の考えを相手に伝え、そして相手を変えてしまう事』ではなかろうか?
松陰の持つ、「人をして人材にしてしまう」という特質(才能)についての研究には多くの資料がある。ところで、今回の文章の主目的は、松陰の持つその才能についてでは無い。今まで示してきたように、松陰は多くの門人達に教育をほどこしていた。それら門人のうちの何人かが明治以降も生き続け明治政府を動かしていくようになる。例えば伊藤博文や山形有朋らの存在である。明治を語るに際し「吉田松陰の存在を抜きにする事はほとんど不可能だ」と言われる所以である。それでは、いったい「松陰という人は何を考え、どんな思想を持っていたのか?」それを考えるのが今回の主眼である。私は、先日別な文章で書いていたとおり「伊藤や山形がどうしてこれほどまでに海外進出に意欲的であったか」という問題を常々考えていた。その結果、井上清著/日本の歴史の中にある文章を見つけたのです。
「・・・政府はこうして早くも欧米の圧力からの民族独立という課題を、隣邦朝鮮・中国への侵略とむすびつけた。欧米には『信義』をたてるという名で従属しながら、朝鮮・中国の侵略をめざすというのは、幕末に長州藩士の指導者吉田松陰が説いたことである。アメリカおよびロシアとの和親条約が結ばれた後の一八五五年、松陰が獄中から、『同士一致の意見』として兄に送った『獄是帳』に曰く、『魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし』と。木戸らは先師の教えに何と忠実であったことだろう。・・・」
始めに、「松陰の思想の基本がどこにあったか?」を見てみましょう。これは、比較的簡単にみつかりました。すなわち、
「・・・松陰は幼少時、当時の武士の教育としての四書五経の学習をしたが、父は特に日本人としての自覚を深めるために、『文政十年の詔』と玉田永教の『神国令』(神国由来)とを教えた。・・・『神国由来』は、『恭しくおもんみれば大日本国は神の国なり。神の国と申すは、天地開闢の時神顕れまします。是を国常立尊と申し奉る。祭る所伊勢の外宮是なり。此神より七代を過ぎて、伊弉諾(イサナギ)・伊弉冉(イザナミ)尊淡路の国磤馭廬嶋にて、天照大神を御誕生あれまし給うふ。・・・誠に萬世無窮の神の国なり。士農工商是れ神の血脈にあらざるはなし。・・・』とて、日本の歴史の概要を述べ、神国思想を鼓吹した本である。このようにして、松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父からたたきこまれていた・・・」
にあるように、幼くして日本を神の国であると教え込まれていた。いわるる皇国史観の原型である。その上この思考は水戸を来訪して会沢正志斎に会ったり、日本史関係の本を読んだりしてより一層この考えが確立していったことであろう。
このことは、松陰を考える際重要である。一般の多くの有識者にとって、神国思想は一般的であった。それが松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されてほとんどその思考によって「がんじがらめに」なっていたのである。その彼が、外国を知り、その脅威を肌で感じたその刹那に皇国の危機を感じたのである。その危機意識が松陰に『対外的膨張主義』を考え出させるに至る。
「注意したいことは、天皇統治に国家の独自性の焦点をおく、松陰における皇国日本が対外的膨張の性格をもつことである。彼において、日本国家は、海外諸外国を支配するべく膨張することで光輝を増す存在である。
『今急武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり礟(ほう)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムサッカ)・隩都加(オコック)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(きん)会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養い、慎みて辺圉(ぎょ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし(『幽囚録』)』
松陰が理想とする皇国は、天皇統治のもと対外膨張をすることで光輝を得る。ここには、軍事力による侵略主義の性格がある。この露骨な軍事力による海外雄飛は、ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。これは、読めばわかるように明治以降の政府の方針そのものではないか?松陰の父親から受けた教育のせいもあるがその思考は上に述べたようにアメリカやイギリスなどの欧米諸国と同様植民地政策を取りながら欧米の干渉を排除するのが、その方針だったのは明らかである。これが、明治政府の基本方針となった。明治政府のその方向性が誤っていたとしたらそれは松陰の思考のゆがみによるものであろう。
次に、松陰の平等思想について述べてみよう。よく、松陰は「平等の思想を持っていた」という点で有名である。しかし、その平等な思想の中身を考えてみよう。よく言われているのは「登波」事件である。この事件は、夫を殺された「登波」が敵討ちを申し込むが、その身分階級が穢多であった為に許可されなかった。しかし登波は、つかまって梟首にされた犯人にむかって匕口を持って迫った。この事件を聞いた松陰は、「・・・ところが松陰は、その穢多である登波を、『士大夫にも愧ぢざる節操なり』と賞め、その伝記を書き、肖像画を描かせたのである。その上自宅に招待し、御馳走をして話しを聞いたのである。・・・」といった行動を取った。多くの人はこの点を捉えて松陰は平等感を持っているというのである。しかし、この点および松下村塾において門弟の身分の上下を問わなかった点において確かに松陰は他の多くの武士とは違っていたであろう。しかし、その発想・武士としての考え方は他の武士達と変わらない。彼もまた幕府を廃し世の中を天皇を中心とした国に作り変えようとする場合に頼んだのはやはり武士であった。平等であろうとしながらも武士階級とその他の『農工商』の違いを念頭においており決して彼らと手を繋ごうという気持ちは無かった。(但し、これは松陰のみでなく他の多くの武士もそうであったが。)武士である自分達の特権階級にしがみついてしまい、そこから抜けられなかった。以下の文章を見てみよう。
「・・・だが、現実から遊離した自己の絶対化は、閉塞した状況を打開できない絶望と表裏する。松陰の次の言葉にはそうした様相が現れている。『只今の勢にては諸侯は勿論捌けず、公卿も捌け難し、草莽に止まるべし。併し草莽も亦力なし。天下を跋渉して百姓一揆にても起こりたる所へ付け込み奇策あるべきか。・・・・』」
この文章に示されたように松陰は民衆を利用できるなら利用しても良いと考えているようである。しかし、民衆と手を取って戦おうとするような気持ちは見られない。あくまで民衆とは違う自分達の武士としての立場から抜け出られないでいる。ここら辺が松陰の限界と言えるかもしれない。そして、この師に教えられた伊藤博文や山形有朋らがこの限界を感じる事も知ることもできずただ弾圧するしかなかったのも当然だったろう。  
 
日本鉄鋼技術の形成と展開

 

序論
洋の東西を問わず、そして国の先進たると後進たるとを問わず、人間の生活のあるところには必ず技術があり、鉄が存在し、人間の知恵がはたらいている。鉄の使用とともに人間は文明の門にはいり、技術をおし進め、知力を発達させてきたと考えてよい。
そして、鉄が民衆と、つまり人間の生活とともにあるかぎり、鉄の技術と経済の流れは、どの国の大をもうるおし、やがてはひろく世界の文化という大きな海へと合流し、また時には逆潮(さかしお)となって、いろいろの国に注がれていくにちがいない。
私はこのような認識のうえに立って、世界の鉄の歴史のなかでの日本の鉄鋼技術史を明らかにしたいと考える。 
1 人間と技術と鉄 

 

紀元前400年ころに成立したといわれる『旧約聖書』のイザヤ書とミカ書には、「なんじの剣を打ち変えて鋤とし、鎗を打ち変えて鎌とせよ」ということばがある。これは、鉄がいろいろと人間の役に立つ形に自由に加工できるすぐれた性質をもっていることを語るとともに、その技術を行使するのはかかって人間の思想であり、それらを戦争のためではなく、平和のために使うべきことがさとされている。
キリスト教と同じくセム民族の宗教の聖典である『聖クラーン』(コーラン)にも「鉄の章」(第57章)があり、アルラーが鉄を人びとに下したが、それは偉大な力があり、人間のために種々の便益を供するからだということが記されている。鉄は、謙譲、誠意、慈愛などの美徳が由来する、力と確実さの象微なのである。
日本にも鉄と民衆生活とのかかわり合いを語ることばは、古くから多く存在する。
たとえば古代の万葉人は、
ひらたまの くるに釘さし 固めとし 妹が心は あよくなめかも
と、壮大な建築物の木材の接合材料としての鉄釘に寄せて、妻への恋ごころと操を『万葉集』(795)の歌に託している。
鉄の生活のなかではたす役割を、最も的確にとらえているのは、日本の18世紀が生んだ科学思想家・三浦梅園(1723−89)の経済論の著作『価原』(1773)に表われる、つぎのことばである。
金とは五金の総名なり。分っていえば金・銀・銅・鉛・鉄。合わせていえば皆金なり。五金の内にては鉄を至宝とす。銅これにつぐ。鉛これにつぐ。
如何となれば、鉄その価、廉(れん)にして、その用広し。民生1日も無くんば有るべからず。
梅園は、鉄は多くの人びとに広く使われ、日常生活に1日も欠かすことのできないゆえに、いちばん大切な宝物だと、みごとに言ってのけたのである。
梅園の思想的流れをくむ福沢諭吉(1835−1901)が「鉄は文明開化の塊なり」(『民情一新』1879)とも強調するころとなると、すでにヨーロッパにおける鉄の量産システムを日本に受容する基盤が整い始めていることを示していると、言ってよいであろう。 
2 鉄鋼技術史の時代区分 

 

古代から現代にいたるまでの鉄鋼技術の歩みは、欧米も日本も、基本的にはまったく変らない過程をたどっている。一言でいえば、それは鉱業技術から工業技術、さらに科学的技術としての鉄鋼技術への発展史であったということができる。
世界と日本の鉄鋼技術の発展段階を図式化して対比的に示すと、第1、2表のとおりである。
欧米では18〜19世紀、日本では20世紀初頭のまえ・あとのころに遂行された「産業革命」が転機となって、製鉄用燃料(還元剤)が、木炭からコークス(石炭)へと転換し、また動力源が水力(水車)から熱力(蒸気機関)へと変革されたこと――この二つが大きな原動力となって、1コークス高炉による銑鉄の量産と、2転炉・平炉・電気炉による溶鋼の工業的生産が可能となり、やがて3銑鋼一貫の製鉄システムが確立される。そして、これからあと、かつては経験的な技術にとどまった鉄冶金術は科学的な技術へと脱皮し、現代工業の基礎材料としての多品質・多形状にわたる鋼材を大量につくる生産体系が、新鋭銑鋼一貫製鉄所を中心に、大型化・連続化・自動化をともなって実現されてゆく。
大づかみにとらえると、以上が近代鉄鋼技術史の大きな流れである。
第1表 世界史における鉄鋼技術の歩み
第2表 日本鉄鋼技術史の時代区分 
3 日本の鉄鋼技術 

 

周知のように近代日本の鉄鋼技術は、欧米技術の移植を基軸として形成されてきたものである。さきの第2表でいうと、第T期の「たたら製鉄法の時代」(古代―1857)を除くと、第U期以降は欧米からの技術導入史が、日本鉄鋼技術史の大きな部分を占めることになる。
しかし、それにしても、今日世界第3位の製鉄国、第1位の鉄鋼輸出国にまで発展した日本の鉄鋼技術の力量とその蓄積は、ほかならぬ日本人自身によってなしとげられてきたものである。日本の科学と技術とにおける力量は、かって三枝博音博士も指摘したように、ひとつは日本人の創造的知力、もうひとつは日本人の組織的生産力、これらによってできたものである。
私はまず欧米からの技術を受けいれるにあたって、1850年代までの日本は、長年にわたる手づくりの経験を通じて、科学の体系をもつことなしに、すぐれた技術的知恵を、いいかえれば豊かな土着技術の土壌を用意していたことを指摘しておきたい。
現代アメリカの金属学者C・S・スミス博士は、その著書『金属組織学の歴史』(1960年)のなかで、日本刀に具現されている技術に関連させて、近代以前の日本の鉄鋼技術の特質を、たくみにヨーロッパと対比させて、つぎのようにのべている。
日本の刀の仕上げは、類のない卓越した金属組織学者の技術である。日本人は視覚的にとらえられる金属の構造を正しく評価し、これを鍛造と熱処理の制御に役立てたのであるが、しかし、金属の本性または凝固と変態の科学的理解にはまったく貢献しなかった。顕微鏡と知的好奇心の2つが17世紀から前進していったヨーロッパでは、研究に使用できた表面といえば、破面または完全に構造をかくしてしまう研磨とつや出しのほどこされた表面だけであった。もし日本人が科学に心を傾け、逆にヨーロッパ人がよりすぐれた金属の技術者であったならば、金属学の歴史はひじょうにちがったものになったであろう。
スミス博士がいみじくものべたように、顕微鏡という科学的な観察・測定のための器械が金属の研究に利用されたとき、ヨーロッパではアジアに先がけて金属の科学が成立した。しかし日本では、このような科学上の理論、物理や化学の法則を知らなくて、ヨーロッパに先がけて鋼の熱処理の技術を確立させていた。ここに江戸時代までの日本の鉄鋼技術の無類の特質がある。いわば知恵としての技術である。
そして、このような特質が幕末以来のヨーロッパ技術学との接触によって変貌し、およそ100年にわたる欧米風の工業的量産技術確立の過程で、今日の科学性、計測性に富む鉄鋼技術の段階へと発展ないし止揚された、ということができる。
知恵としての技術の時代を、第T期たたら製鉄法の時代(古代―1857)とすれば、安政4年12月(新暦では1858年1月)、南部藩(いまの岩手県)釜石の大橋鉄山で洋式高炉の操業が始まり、従来の手工業的な「たたら製鉄法」に代って、量産を基本とする近代製鉄技術への第一歩が記されたときから、第V期たたら製鉄法から洋式製鉄法への移行の時代(1858−1900)が始まる。この期の最大の特徴は、釜石でコークス高炉法=銑鉄の量産技術が確立され、それまで日本の鉄産地の中心であった中国地方の鉄を駆逐したことである。
つぎに、1901年(明治34)の官営八幡製鉄所(正式には農商務省所管「製鉄所」)の創業をもって、日本鉄鋼技術史の第V期がはじまる。
山へ山へと 八幡はのぼる はがねつむように 家が立つ
この句は、詩人北原白秋が1930年につくった歌の一節で、いま北九州市八幡東区の高炉台公園という市民いこいの小高い丘のうえに碑文が立っている。近代資本主義社会への歩みとともに、臨海製鉄所を中心に、せまい国土をたくみに利用して形成されてきた日本鉄鋼業の立地条件の一つの典型を、よく表現しているといえよう。
さて、八幡の創業によって初めて製銑・製鋼・圧延という一貫生産のシステムが確立され、近代溶鋼法(平炉・転炉・電気炉)による各種の鋼と、産業用鋼材の製造ができるようになる。金属鉱業でなく金属工業の技術としての鉄冶金技術が形成され、副産物回収式コークス炉が導入され、鉄鋼・製造化学両技術の密接な結びつきによるコンビナート指向が定まるのも、この第V期の特徴である。
つぎに、1915年(大正4)の日本鉄鋼協会(最初の鉄鋼専門工学会)創立、あるいは1919年東北帝国大学鉄鋼研究所(いまの金属材料研究所)創立をむかえる1910年代のころから、日本の鉄鋼技術はその科学との結びつきの拠点をもち得るようになり、鉄鋼科学ないし金属工学上の研究成果に基づく新しい鉄鋼技術の創造がしだいにみられ、工業技術から科学的技術への移行が始まる。
これが第W期である。
しかし、たとえば本多光太郎博士のKS磁石鋼、増本量博士の超不変鋼など、世界にほこる合金鋼の発明がなされたものの、戦時経済への突入は、めばえた科学・技術のいっそうの発展をこばみ、ほんとうの科学的技術としての開花は、第2次大戦後にもちこされる。これが第X期である。
この時代は、戦前までの技術的蓄積の土壌のうえに、あらゆる導入技術が摂取・吸収され、臨海鉄鋼一貫製鉄所を基軸に、原料事前処理→大型高炉→純酸素上吹き転炉(LD転炉)→連続鋳造法→圧延の連続化・高速化といった生産システムが、規模の経済性の追求という路線に沿って展開されるのが特徴である。しかし同時に、いわゆる環境汚染、公害問題が顕在化し、NOx、SOx対策をはじめ、省資源・省エネルギーなど、化学技術・装置工学上の多くの課題に直面し、新しい環境創造への挑戦が試みられる。また鉄鋼エンジニアリング部門の拡充と海外への鉄鋼技術輸出が積極的に意図され、日本鉄鋼業の国際化が進展するようになる。
さて、以上のように世界と日本の鉄鋼技術の歩みを概観したうえで、つぎの3つの章に分けて、わが国における近代鉄鋼技術の形成と展開を叙述することとしたい。
(1) 知恵としての技術の時代
(2) 伝統技術から洋式技術へ
(3) 科学的技術の時代
とくに、(1)においては“近代日本鉄鋼技術の土壌となった土着技術の再評価”、(2)においては“ヨーロッパの大量生産システムとの出会いにおける土着技術と導入技術とのかんけい”、(3)においては“日本鉄鋼技術の自主的発展と第三世界への寄与”が、それぞれ扱われることになろう。 
U 知恵としての技術の時代 / 近代鉄鋼技術形成の基盤  

 

1 「わざ」と「たくみ」 / 農業労働力との結びつき 
ドイツの技術史家A.ノイブルガー(Neuburger)が「古代の技術」(Die Technikdes Altertums、1921)という書物のなかで、「鉱業がなくてはどんな技術もない」といったことは、古代ギリシャ・ローマのころに「農業がなくてはどんな技術もない」ということが真実であったように、中世の終わりのころにはもう十分にあてはまる、ひとつの技術観であったと考えられる。16世紀ドイツの医師であり鉱山学者でもあったG.アグリコラ(Georgius Agricola、1494−1555)は、近世技術の集大成ともいうべき『デ・レ・メタリカ(De Re Metallica)』(公刊は1556年)を著わし、まさしく鉱業がなくてはどんな技術もないという技術思想を全ヨーロッパに向って打ち出したのである。
それは、いっさいの産業技術が鉱山の現場のなかに相寄り、相集まって、ひとつの鉱業が開営されるのみでなく、そこで行われる鉱物資源の開発や金属の生産が、じつにあらゆる産業の近代的発展のための基礎になっているという考えを意味している。
ドイツの文豪ゲーテ(Goethe)も、絶賛を惜しまなかった「デ・レ・メタリカ』(鉱山冶金論)は、技術の世界が科学の法則の世界へと近づいてゆく第一歩をしるした実証的精神にみちた技術書として知られているが、ここで私がとくに注目したく思うのは、鉱業(金属)と農業との関係を、この書は技術史的にはじめて的確にとらえた技術古典として、他に類をみないと考えるからである。
アグリコラは1550年12月付の序文のなかに、つぎのように記している。
鉱山業は産業経済のすべての部門のうちで決して農業より古くはないかのように見えるでもありましょう。けれども鉱山業は事実農業よりは古く、少なくとも同じくらい古いのでございます。なぜかと申しますに、道具がありませんでしたら農耕はできなかったのでありますし、そうした道具は、その他の諸技術も同様でありますが、金属からつくられますか、それともまた金属の助けをかりないではつくられなかったのでございますから。かようにして、鉱業は人間たちにとってこの上なく必要なものでございます。道具なしになにものもつくられはいたしません。
周知のようにわが国の農耕文化の起源は、鉄器文明の定着・普及とともに始まっている。なぜ鉄が農業を支えたかは、上記のアグリコラの指摘によっても推察がつく。3〜4世紀ころの水田遺構とされる有名な静岡県登呂遺跡に出土をみたおびただしい数の木製農具・生活用具が、すべて鋭利な金属器(鉄製工具)によって加工されたものであることは、考古学者の報告をまたずとも、現物をみれば一目瞭然である。
近年私は「常陸風土記」(ひたちふどき)で名高い茨城県の鹿島地方をはじめ、岩井・結城(ゆうき)・水海道(みつかいどう)などの下総(しもうさ)各地に数多く存在する製鉄遺跡の総合調査に参画し、出土する鉄滓(かなくそslag)や羽口(はぐち)片など、路上にも発見できる関連遺物を精力的に収集して、これを自然科学・工学・人文科学の専門領域を異にする人びとと学際的に共同研究することを進めつつあるが、興味深いことに、これらの製鉄遺跡は同時に貝塚や縄文土器を近くに伴出する場合もあり、人間にとって暮しやすい生活の場が同時にもの(金属)をつくるに適した場でもあったと考えられる複合文化遺跡が多い。
常陸国・下総国(いまの茨城県)を中心とする関東平野一帯の農業生産を鉄が支えたことは、これらの調査からも明らかである。
ところで逆に、農業と製鉄との密接な結びつきを考えるにつけ、製鉄加工技術のために農業労働力が寄与することまた多大のものがあったとみるべきではあるまいか。もともと製鉄技術はその生成期以来、原料(砂鉄・鉄鉱石)、燃料(木炭)、炉材(粘土)、送風用ふいごの動力(風力、水力)など、自然環境条件に左右される要素が多く、この意味で農業と同じく土着性を濃厚にそなえている。このことは現代の鉄鋼技術においても基本的に変らない。たとえば、マレーシアのマラヤワタ製鉄(Malayawata Steel Co.,Ltd.)がゴムの廃木による木炭を、中東カタールのカタール製鉄所(Qatar Steel Co.,Ltd.)が天然ガスを製鉄用還元剤に使用しているごとき、その好例であろう。
いったい人間による技術は自然環境条件の良さを得て初めて成立しうることについて東洋(中国)は、はやくすばらしい技術の古典をもっている。紀元前30年ころの書とされる『考工式』がそれで、同書にはつぎのような見解が示されている。
「天に時あり、地に気あり、材に美あり、工に巧あり。この四者を合わせて、しかるのち良となすを得べし」。
天に時ありとは季節の移り変り、すなわち自然条件の重要さを表わしており、地に気ありとは、海・山・川など環境条件に対する配慮を示している。つぎに材とはいうまでもなく素材・材料のことで、美ありとは、すぐれた美しい材料を選ばねばならぬことをいっている。そして最後に、つくる人(工人)の巧みが指摘され、本当の技術とは自然環境・素材など、ひろい意味での自然全体の協力をえて初めて完全なものとなる、という識見がここに打ち出されている。ここには天・地・材・工といった四っのモメントの組合せ、つまり生産をひとつのシステムとして総合的にとらえようとする思想が流れている。いわば「土着技術の知恵」である。
ここで私は「わざ」と「たくみ」ということばを考えてみたい。渡辺茂教授ののべるところによると、技術の「技」は「わざ」と読むが、「わざ」は「わさ」のにごったものであるから、両者はほとんど同義であり、その「わさ」とは古語辞典が明らかにするように「わせ」の古形であり、「早稲」を意味している。さらに一般には、「わせ」とは稲にかぎらず植物などの早く熟するさまをあらわしている。
これらのことばのかかわり合いから、「わさ」「わせ」は、促成栽培植物をさし、「わざ」「わぜ」は本来促成栽培技術をあらわしたものであることは十分に首肯しうる。渡辺教授は、さらにこうもいっている。
「わざ」は、産業技術として生産の基礎を支えるものである。人間の行うすべての仕事には、固有の「わざ」が付随しており、これが高度に発達すると、個々の産業技術となる。つまり個々のよい「わざ」は、よい産業の母胎となり、未熟な「わざ」は、産業の衰退につながる。
つぎに「わざ」と同じく農業用語に由来すると考えられることばに「たくみ」がある。古代人が生活の場で口から口へと伝えあった古語の一つとして、それは「田組」すなわち「田を組みあわせる」という意味を物語っている。渡辺教授の表現によれば、「わざ」が促成栽培技術であるのに対し、「たくみ」は田畑をどう組合わせて何を植えるかというシステム技術を意味している。たとえば「早稲の技術は、当然、稲と麦との二毛作システムへと発展」してゆく。また「主食と野菜とを、どう組合わせて育てるかというノウ・ハウにもつながる」技術思想をもっている。「組合わせる」ことが重要な点であるから、「たくみ」は「多組」と解釈してもよいほどである。
以上の叙述から、土着技術としての農業技術の経験的な知恵のなかに、生産性向上の思考とシステム的思考とが、本来用意されており、たとえ論理的に自然の法則を認識するという能力を欠くとしても、自然環境条件をたくみにとらえて、総合的に生産力を組織化する資質が、日本の農業労働力に蓄積されていたことを、私たちは理解してよいであろう。1850年代から第2次大戦後の高度経済成長期にいたるまで、わが国の産業労働力、したがって鉄鋼業の生産労働力の実際は、農業労働人口からの転出によって、その大きな部分が維持されてきたが、それは単に量的な変化にとどまるのでなく、江戸300年を通じて形成されてきた質的に高度の技術思考をもつ労働力の製鉄分野への転化であったと考えられるのである。
すぐれた水稲耕作を基本とする農業技術をもちえたことが、やがて近代製鉄技術をこの国におこす原動力ともなったこと、しかし製鉄原料として、東北地方を除くと、一般に砂鉄をながく基本としたため、水田農業のための灌漑用としてはやく水車をもちながら、ヨーロッパのようにこれを製鉄炉と結びつけて炉の大型化、つまり大量生産のシステムを生み出すにいたらなかったこと、これらの点を明治前における日本鉄鋼技術史のひとつの特質として、とらえておく必要があると考える。 
2 土着製鉄技術の成立と発展 

 

(1) 個人と民衆との創造的活動
中世もなかばすぎ、完全に古い貴族の勢力が滅ぼされ、足利氏のもとに天下が統一されて、いちおう社会に平和が取戻されると、中国との貿易がひらけ、15世紀のころからは、そのための重要輸出品として刀剣や金銀銅に対する需要が次第に盛んになった。すでに鎌倉時代(13世紀)に起っていた商工業者の座の結成も著しく増加し、商業・工業は急速な発達ぶりを示した。
革新は製鉄の分野でも顕著で、『戦国の光と影』(1975年)を著わした技術文明史家の井塚政義教授は、とくに砂鉄の採取・選鉱作業における「かんな流し」、製錬(冶金)段階での「高殿たたら」(工場の形態をもつ「たたら炉」)と「吹差しふいご」による設備革新とその普及などをあげ、「室町技術革命」という概念を提唱される。
井塚教授によれば、この革命は、「農業と製鉄という生活と生産の基幹物質ともいうべき2大生産の技術革新の相乗循環作用を推進軸として展開」された。したがって、この製鉄革新は「技術主権」を回復した「個人と民衆との創造的活動」の結果である。
事実、鉱業技術の全般にわたって、日本の16世紀なかば(天文年間前後)のころにその近世的発展の基礎が急速に形成されたのである。
当時創始された日本の銅の酸化製錬法の一つに山下吹きというのがある。興味深いことに、この山下吹きは『鋼の時代』(1964年)の著者中沢護人氏も指摘されるように一種のベッセマーライジング(bessemerizing、空気吹き込み製錬法)であって、江戸時代を通じて世界有数の産銅国としてヨーロッパにも知られていた日本のこの技術は、あの転炉(Converter)製鋼法の発明者として世界的に有名なイギリス人H. ベッセマー(Henry Bessemer,1813−99)の革新的な着想にも影響を与えている。大著『鉄の歴史』(Die Geschi−chte des Eisens in Technischer und Kulturgeschichtlicher Beziehung,5 Bande,1884−1903)の著者L. ベック(Ludwig Beck)は、その第1巻(1884年)に、日本の伝統的な冶金技術をとりあげ、J. A. メンデルス(Mendels)の『航海と旅行』(Voyage and Travels,1669年)という本に日本の鋳掛屋の吹精技法が紹介されているところから、つぎのような叙述を行なっている。
薄い滓釜の鋳造について、日本人は中国人と同じくらい上手である。鍋や釜を修理する鋳掛屋(Kessel−flicker)は、溶けた鉄を流動状態に保つために注目すべき方法を使用している。フイゴで活発に上から風を吹きつけるのである。炭素の一部が酸化し、鉄もまた酸化することによって十分な熱が発生し、鉄が湯の状態を保持できるのである。この方法は、近代製鉄法の最大の改革であるベッセマー法の先行者であるとみなしうるということで興味がある。
今日の日本の鉄鋼生産を支えている純酸素上吹き転炉(Oxygen top−blownconverter、LD転炉)のなかに土着技術の知恵が生きていることを、私たちは見出すのである。  
(2) たたら吹き―砂鉄の系譜
さて、16世紀日本の鉄の先人たちは、水という自然資源(天恵)を一種の道具に使って、独得の採鉱・選鉱法を生み出した。これが鉄穴(かんな)流しとよばれる新技術で、山の険阻なところを選んで水を頂上から流しかけ、砂鉄をふくむ風化した花崗岩(山砂鉄)を崩壊流出させ、下方に設けた池に重い砂鉄を沈澱させる仕組みである。一種の比重選鉱法である。これによって従来砂鉄の淘汰ないし選鉱に多大の時間と労力をついやしていたものが、いちじるしく能率的になったことはいうまでもない。
ところで、このような砂鉄によるたたら製鉄技術の近世的発展を考える場合、私たちは種子島の砂鉄冶金史上に占める歴史的意義をとらえねばならない。
近世ヨーロッパ技術の日本における受容の発端となったものは、いうまでもなく16世紀なかばにおけるポルトガル船による鉄砲の伝来である。すなわち、1543年(天文12)わが国最南端の地、種子島にポルトガル船が漂着し、はからずもこれをきっかけに日本と西欧との交易がひらけ、これまでとはまったく異質の民族・文化との接触が始まったのである。
ヨーロッパとの直接の交流は、鎖国(1639年)までの、わずか100年たらずの短い期間であった。しかし、わけても日本の製鉄と鉄加工技術とは、種子島銃と南蛮鉄の普及とによって、多くの刺激と影響とをうけた。そして、種子島銃の製法は、やがて泉州(いまの大阪府)堺や近江(いまの滋賀県)国友の鉄砲鍛冶につたわり、諸国の刀鍛冶を通じて各地に伝播し、日本独特の原料鉄(和鋼=玉鋼、たまはがね)を用いて、数多くの鉄砲が鍛造されるようになったのである。
さて、種子島、ことにその南部は、南シナ海の海流と地理的環境のために、現在にいたるまで、漂着船が多い地点として知られている。こうして中国大陸をはじめ大洋州その他海外諸国との文化接触を通じて、かえって種子島はすぐれた文化的能力、いいかえれば新しい技術を受容しうる特質をもちえたことを、私たちはあらためて認識しておく必要がある。
少くとも種子島ではすでに鎌倉時代の初(13世紀)には製鉄・加工技術が発達しており、同島ならびに近接する屋久島の随所に豊富な浜砂鉄と製鉄遺跡がみられるという事実は、たまたま16世紀にポルトガル船によって伝えられたヨーロッパの鉄加工技術とその作品も、それを受容する側にすでに高度の技術能力があってこそ、はじめて自主的に摂取、吸収され、新しい日本の技術として定着しうるのだという歴史的真理をともなっている。(種子島銃の伝来とその製作技術の伝播のありさまは、1607年(慶長2)に著わされた「鉄炮記」が如実に知らせてくれる)。
要するに、種子島に伝えられたただ2挺の鉄砲から、日本の鍛冶たちはその製作法を学びとり、諸国の刀鍛冶を通じて、種子島銃製作の技術は堺・国友の2大産地をはじめ各地に伝播していったのである。
従来の鉄の鍛造技術は、これによって著しく多様さを増した。だがそれにもまして、新鋭武器としての鉄砲の大量な登場が、従来の刀と槍による戦術を一変させ、やがて16世紀の武将たち(信長、秀吉、家康)による天下統一の一大原動力となったのである。近江国の国友鉄砲鍛冶が、当時の権力者たちの手厚い保護をうけ、やがて江戸幕府の砲兵工廠(軍事工場)的な役割をはたしたことは知られている。
さて、近世初期にはわが国の製鉄技術は、さきにのべた採鉱の技術における「鉄穴(かんな)流し」と並んで、製錬の技術において「たたら炉」(鑪とも高殿とも書く。高殿たたらとよぶ研究者もある)へと発展をとげた。いわば今日の工場の形態をともなう製鉄炉である。一般に「野だたら」とよんでいる古い、きわめて素朴な炉型から「たたら炉」へと砂鉄製錬のための炉が移行するのは、だいたい18世紀後半とみられている。
このような発展にともなって革新をとげたのは、送風装置としての「ふいご」である。かつての「てびきふいご」は「ふみふいご」に変り、さらに改良されて「てんびんふいご」にいたり、江戸時代の製鉄炉=たたら炉は、その最も完成されたかたちを獲得する。
てんびんふいご(天秤鞴)の発明は1691年(元禄4)と伝えられているが、この送風装置の導入によって、ふみふいごでは約10人も要した番子(ばんご、送風労働者)は半減し、逆に炉容は大となり、作業能率は著しい進歩をとげた。また露天工場から屋内工場に変ったことは、年中作業を可能とし、1回の操業にかかる3昼夜を一代(ひとよ)として、1ヵ年に60代の製錬を行うことができた。
第1図 てびきふいご
第2図 ふみふいご
第3図 てんびんふいご
出雲(いまの島根県)産の砂鉄は、純良さにおいて、まずいい鋼をつくるための第1の条件をみたしている。火山国である日本では、これよりも良い鉱石は探し出せない。
第2には製錬するときの燃料に、不純物のないものを使わねばならない。硫黄分の多いコークスでやっては、絶対に優秀鋼の製造は不可能である。良質の鋼(玉鋼)は、木炭から製錬される。第3の条件は、製錬温度が低いことである。高温になると、炉の壁などからも悪い成分がはいってくる。幼稚な方法であっても優秀鋼ができるのは、これらの点に起因している。
以上のような三つの条件にかなっているために、「たたら吹き」は、世界的に今日優秀鋼の生産で知られるスウェーデンでも製造することのできないような、すぐれた鋼をつくりえたのである。ある意味で日本のたたら吹きは今日のウィーベルグ(Wiberg)法など直接還元法の先駆だといえる。しかも、村下(むらげ)とよばれるその主任技術者は、今日の科学の科の字も知らない60、70歳の老人であった。
玉鋼をつくる仕事は、この村下(いまのことばでいえば工場長)の指揮のもとに、3日3晩72時間、継続して行われ、従業員はこの間家へ帰らず、工場(高殿、たたら)のなかで暮す。作業の間に休息時間があるから、そのときゴロリと横になって眠るが、仕事があると真夜中でも起き上って炭を投入したり、砂鉄をいれたりする。工場は厳重な女人禁制で、弁当をもってくる妻や娘は、入口で渡すことになる。
72時間の作業が終ると、高さ約90センチ、長さ約1.8メートルほどの炉をとりこわす。中にタタミ1枚くらいで厚さ30センチ余の「けら」(ヒ)すなわち一種の鋼塊ができる。今日ではふつう、鋼をつくるには鉱石から銑鉄をつくり、それから鋼をつくる2段作業(これを間接法という)であるのに対し、玉鋼は砂鉄から、直接につくる1段作業(これを直接法という)である。こうした作業が純粋無比の鋼を生み出す原因の一つともなっている。いわば土着技術の知恵である。
1969年秋、島根県飯石郡吉田村菅谷で、日本鉄鋼協会などが中心となって、たたら製鉄法の復元実験が行われ、その成果が『和鋼風土記』(1970年、岩波映画製作所)というフィルムに記録され、また『たたら製鉄の復元とそのヒについて』(1971年、日本鉄鋼協会)という報告書にまとめられた。これは、たたら製鉄には「現代冶金学を更に発展させる可き珠玉のごときヒントがあり、アイディアがある」からにほかならない。
しかし、砂鉄を主原料とするたたら製鉄は、ついにヨーロッパ流の大量生産システムになりえなかった。一般に江戸時代までのわが国では科学がなくて技術が成立し、ヨーロッパの近世のように物理学や化学に関する自然科学上の成果の相互交渉のうちに生産技術が発達するということがなかった。生産現場のなかに、計測という作業が容易に生れ育たず、日本人は科学的な法則をつかむことは、あまり得意ではなかった。しかし、長い間の技術の経験をへて、そこに多くの知恵、いわば技術的真理を日本人は体得していたのである。
ヨーロッパの『デ・レ・メタリカ』(1556年)にも比肩されるべき冶金技術の古典『鉄山必用記事』(下原重仲著、1784年)には、このような技術的真理がいたるところに盛りこまれている。
よい鋼をつくるには、何としても良い砂鉄を選ぶことが大切である。砂鉄を火にくべてその音や色で見分ける方法も重仲はのべているが、これは今日のの火花による金属分析と相通ずるものがある。
「砂鉄は性の甚だ重き物の粒、至てこまかなる物也。適々(たまたま)大粒に見ゆるは、砂にまぎれ付たる故也。粒に大小はなし、重きと軽きとの違い計(ばか)り也。」―これはかんな流しによって洗いとられた砂鉄の性状を示している。いったい砂鉄の種類は、大別すると鋼(玉鋼)にする真砂(まさ)砂鉄、銑(づく)(銑鉄)にしやすい赤目(あこめ)砂鉄との2つに分れるが、いずれの場合にもその良し悪しの選別は、もっぱら重いか軽いかにあり、比重選鉱の原理がつらぬかれている、重い砂鉄が上質なのである。
しかし、それとともに個々の砂鉄粒に大小がなく、いわば粒度調整をおえた製鉄原料としての砂鉄が、水流という自然の力の協力をまって得られること、これがたたら吹きの大きな長所である。今日の巨大な製鉄所の高炉の操業にさいしても、装入される鉄鉱石の粒度調整をまって、はじめて高性能が発揮されていることを考えると、たたら製鉄の原理的な優秀性は、たやすくうなずくことができる。
たたら炉の構造にとって見落してはならないことは、その精緻をきわめる炉床構造である。たくみに炉熱をたくわえ、その放散を防ぐための大きな努力がつみ重ねられているのである。しかし、上部構造の炉壁は、1回のたたら操業(一代=ひとよ、3昼夜)ごとにこわされる。たたら吹きでは、炉壁は同時に造滓材料であるからである。じっはここにもすぐれた日本の鋼を生み出した大きな知恵がかくされている。造鉄の工程になんら人為的なさからいがない。送風に人力による「ふみふいご」あるいは「てんびんふいご」が必要とされるわけは、この造鉄の工程に応じた加減が自在にできるからで、欧米流の機械ではもともと適用が困難なのである。ここでは、いわば自然のわざと人間のたくみとが一体となって、鉄づくりの操作が遂行されるのである。
和鋼がすぐれているのは、一にかかって手づくりの故である。とてもヨーロッパ近代流の量産には向かない。だがそれ故に、日本刀のような世界的にも有名な金属の芸術品が生まれるのである(芸術品としての日本刀の材料を生産するために1977年島根県横田町に「たたら炉」が復活し、新しい地域文化の発展が芽ばえつつある)。
合わせ鍛えの原型については、私たちはたとえば建立時(607年)以来の法隆寺金堂の鉄釘の冶金学的な調査からも、それを発見することができる。そして、このような伝統を経験的にうけつぎ、さきのスミス博士の文にもあるように、江戸時代の日本の鍛冶屋は、合わせ鍛え、着け鋼、焼き入れ等々の面で、ヨーロッパに対比して決してまさるとも劣らないわざを持ちあわせていたのである。
ところが、自然そのものへの対処の仕方においても、私たちの先人は、今日かえりみて注目すべき配慮を行なっていた。吉田光邦教授は「伝統技術はいつも自然を生かすものである。自然に抵抗して自然と戦うものではない」とのべているが、公害環境のなかで生きる現代の私たちにとって、江戸時代の職人たちの知恵は、あらためて見直し、発掘し、現代的に生かすべきものを多くもっている。
伝統的な土着の技術が科学をもたなかったということは、決して非科学でも反科学でもあったのではない。いかなる科学的技術といえどもそれがある一定の環境条件においてこそ生れ育つことができた以上、かならず当該国の土着文化と調和しないことにはほんとうの技術としてなじまないことを私たちは理解すべきであろう。 
(3) 東北地方の土着技術―鉄鉱石(もちてつ)の系譜
江戸時代に定着し普及したわが国独特の土着製鉄技術史のうえで、中国地方(山陰・山陽地方)を中心とする砂鉄製錬法=たたら吹きと、この方法から生れた質のよい鋼とが、大きな役割をはたしていたことは、今日だれしも否定しない。
すると、明治維新前における日本の製鉄法の歩みには、砂鉄製錬によるたたら吹き以外のものは存在しなかったのであろうか。この問いは、否と答えられねばならない。
これまで諸文献のうえで「餅鉄(もちてつ)、すなわち餅のごとき岩鉄」と記されているにとどまった天然産の鉄鉱石「もち鉄」の実証的解明が、ここ10年間にたいそう進み、岩手県釜石地方を中心とする東北に、かなり広範にわたって鉄鉱石の製錬を基本とする土着製鉄技術の伝統が、連綿として続いていたことが確められたのである。
「もち鉄」は鉄分平均60%以上を含むかなり高純度の磁鉄鉱で、成分は世界的にも有名なスウェーデン鉱に類似し、すぐれた還元鉄ができる。原鉱にだいたい1%以下の砂鉄しか含まない中国地方の「鉄穴流し」による採鉱と製錬より、量・質ともにはるかにまさる特質をもっている。
その分布は、北は宮古のあたりから南は大東(大原)のあたり、すなわち平泉や一関近くを流れる北上川の支流・砂鉄川の上流に及んでいる。
大きさは、にぎりこぶし大のものから粉状のものまであって、磁性に富むから今日でも沢山採集することができる。釜石市甲子(かっし)町の山中で採集作業を精力的に行なった郷土史家の新沼鉄夫氏によると「餅鉄のある場所の土までいっしょに採集し、これを洗面器に入れて水洗いをすると、洗面器には粉状のものが多量に残り、土砂は軽いので水とともに流れ出す。大・中の餅鉄はハンマーを用いず普通の石でたたいても簡単に破砕できる。粒状の餅鉄は木炭による簡単な製錬実験で低温還元が可能である。粉状にいたっては砂鉄製錬と同様低温還元が容易にできた」。
もち鉄には、純粋の天然産のものと、脈石を含み水流で丸味をおびたものと2種があるが、ことに前者は硫黄や燐など有害成分が少なく、鉄分含有量の高い優秀な磁鉄鉱であることが確かめられた。
岩手県の釜石市に隣接する町に、上閉伊郡大槌町があり、同町の小槌(こつち)というところに在住の小林家に古い鉄の製錬・加工の絵巻が伝わっている。絵巻の最初に「大道=酉歳=月十六日」とある。大道を大同とするなら、807年にあたり、わが国の製鉄絵巻としては最古の部類に属する(ただし大同2年は、亥年である)。巻末に「大冶」とも書きこみがあり、年代はさだかではないが、農具・漁具を加工している絵巻中の道具類から推して、中世期までさかのぼり得ることはまちがいない。
炉を中心に、絵の左側には烏帽子をかぶり、大きな匙のようなスコップをもって立っている吹(ふき)棟梁(親方)がおり、右側には小匙をかかげて原料を投げ入れている作業長のような人がいる。炉の両側に番子(ばんご、送風労働者)の6人がおり、革と板とでつくったふいごで、炉に風を送っている。
第4図 岩手県大槌町につたわる製鉄図(絵巻)
さて、問題はここで装入している原料は何かである。前記新沼氏は、小林家の周辺に所在する小槌製鉄遺跡に残存する鉄鉱石と鉄滓を分析した結果、操業年代は不明だが、鉄鉱石は高純度の磁鉄鉱であり、鉄滓はその磁鉄鉱を製錬したさいのものであることを確かめた。この絵巻にみられる原料は鉄鉱石、つまり粒状のもち鉄と考えられるのである。
新沼氏やその協力者の多田・斉藤両氏は古代の製鉄炉を想定した試験炉で採集もち鉄の低温還元を実際に行ない、その結果を1975年10月の日本金属学会大会で発表された。砂鉄製錬のたたら吹きよりも簡単な作業で、しかも「砂鉄製錬でいういわゆるヒ(けら)状の卸し金(おろしがね、はがね)を餅鉄によって得る」ことが、実験的にも確かめられたのである。
この成果のうえに立って、東北地方の製鉄をあらためて調査すると、久慈方面に代表される砂鉄製錬とならんで、「もち鉄」の製錬が、岩手県中部および南部一帯にひじょうに普及し、東北文化の一翼を支えていたことが明らかになった。
私たちは東北地域における土着技術の先進性の故にこそ、やがて容易に洋式高炉法という新しい技術を受入れることができたものであることを、あらためて確認するのである。 
3 鉄の思想 

 

東北地方で先進的に切りひらかれ、あるていどの普及をみていた鉄鉱石=もち鉄製錬の場合を除くと、わが国の江戸時代の製鉄技術は、砂鉄製錬の技術、いわゆる「たたら吹き」を主流として形成されてきた。広島県安芸郡地方でのたたら吹きをえがいた『芸州加計隅屋鉄山絵巻』や山口県北部の日本海寄り一帯における砂鉄の採取と製錬・加工の有様をえがいた『先大津阿川村山砂鉄洗取図』(さきおおずあがわむらやまさてつあらいとりのず)などは、それぞれ復刻されて、幕末1850年代ころの砂鉄製錬技術のひとつの到達点を如実に私たちに示してくれている。
しかし、わが国における近代製鉄技術は、砂鉄とたたら吹きのなかから生れたのではなく、洋式高炉の移植とともに始まったのであった。それは「もち鉄」という名の鉄鉱石製錬という東北地方の土着技術の系譜と、ヨーロッパではぐくまれた近代鉄冶金の理論とが結びついて、新しく日本の土着技術として成立したものであった。
大量生産システムとしての近代製鉄技術と、たたら製鉄法との間には明らかに「断絶」(discontinuity)がある。しかし、私たちは近代製鉄法の開始をみる場合に、たたら製鉄やもち鉄の製錬という在来の技術とそれが連綿と生み出してきた鉄の利用技術、いわば「知恵としての技術」が経験的につくり上げてきた鉄に関する日本人の産業技術思想、これらの土壌のうえにこそ、新しい技術はもたらされ、定着・普及・進化の歩みをたどることができたことを、見のがしてはならないのである。
大分の国東半島に生れ育った江戸時代の最もすぐれた科学思想家の一人、三浦梅園が「鉄は多くの人びとに広く使われ、日常生活に1日も欠かすことができない故に、いちばん大切な宝物だ」と言ってのけたことは、すでに序論で指摘した。
このような鉄の理解をもつ人びとは、江戸時代につぎつぎにあらわれた。さきにあげた『鉄山必用記事』の著者、下原重仲(1738−1821)は、「鉄は諸民百姓(人民大衆)の徳に預る事大なり」といい、「凡そ農は政養の本、鉄は農の柱礎(いしずえ)なれば、おろそかにすべき物にあらず」とのべている。幕末の経済思想家であり、採鉱冶金学者でもあった佐藤信淵(のぶひろ)(1769〜1850)が『経済要録』(1827年)のなかで「鉄は人世に功徳あること七金中第一たり」ということばをのこしていることは、知られている。
このほか注目すべき技術思想をあげれば、佐賀藩についで反射炉を成功させ、全国に先がけて「洋式熔鉱炉」(高炉)を鹿児島に築造した薩摩藩主、島津斉彬(1809〜58)が「勧農ノ第一」を農具製造にありとし、「農ハ国ノ本ナルハ和漢洋何レノ国モ同ジ。農ノ本ハ鉄ナリ」とその産業技術政策を展開していることである。
さて、このように鉄の思想が日本の土着文化のなかに根づいていたころ、一方では長崎を通じて日本人はヨーロッパの科学・技術書に接し、すすんでオランダ技術学を摂取・吸収しはじめていた。わが国最初の近代冶金学書ともいえる『泰西七金訳説』が成立したのも、そのころである。
この書のもつ意義と、ヨーロッパ(ことにオランダ)の技術学摂取の状況については、つぎの章でふれることにするが、要するに洋式製鉄法を受容するための技術思想の土壌は、すでに19世紀前期の日本では十分にととのえられていた。そして、そのゆえにこそアジアのなかで日本はいちはやく近代への「離陸」をなしとげることができた、といえるのである。 
V 伝統技術から洋式技術へ / ヨーロッパの大量生産システムとの出会い 

 

1 洋学、ことにオランダ技術学の組織的な摂取
(1) 日本最初の西欧冶金学書―『泰西七金訳説』
近代ヨーロッパ冶金学のわが国最初の理解を示す文献である『泰西七金訳説』は、もと長崎のオランダ語通詞で、のちに幕府の天文方(蕃書和解(ばんしょわげ)御用掛)における翻訳(蘭・露・英など)の仕事に大きな貢献をはたした幕末の洋学者、馬場貞由(さだよし)(1787〜1822)の訳述書である。貞由の没後33年目に当る1854年(嘉永7)に、200部の限定版として刊行されたものである。木製活字本で、近代印刷史のうえからみても、貴重なものとされている。
題名の示すように、「七金」について訳述し、巻頭に「泰西七金製錬法図」と題する冶金術の7図を付している。巻1、2、3、4、5の5冊から成り、巻1には金、巻2には銀・銅・鉄、巻3には錫・鉛、巻4および巻5には水銀が収められ、それぞれの産地・産出状態・種類・製法・性質・用途などについて述べられている。
貞由自身の医学上の素養と関心によるものか、あるいは当時著名な本草(ほんぞう)学者であり、幕府の医師であった渋江長伯(しぶえちょうはく)の監修に成る故か、とくに製薬材料としての金属の効能(用途)にくわしく、冶金術に関する訳述書というよりは、むしろ化学・薬学の書としての内容をそなえている。私は、西欧の金属についての知識の近代日本における最初のまとまった紹介書ともいうべき本書において、なによりもまず民衆生活の基本のところで七金のもつ意義が把えられ、わけても鉄の役割が正当に位置づけられていることに着目するのである。
貞由は『遁花秘訣』(とんかひけつ)という医学書の訳者としても知られている。『遁花秘訣』(1820年完稿、1850年刊)は、イギリスのジェンナー(Edward Jenner)が1798年に天然痘予防の良法として発表した「牛痘接種法」(An Inquiry into the Causes and Effects of the Valiolae Vaccina Known by the Name of the Cow−pox)を、わが国に紹介した最初の本である。
しかも、小川鼎三博士の研究によれば、この牛痘接種法はジェンナーの発見後、じつに半世紀をへてはじめて日本で成功し、だれの目にも明らかな天然痘予防の効果をあげ、『解体新書』とならんで西洋医術の優秀さを、実地の面で証明したものである。
貞由は医者ではないが、「牛痘接種により天然痘を予防する新法に多大の興味をもち、その重要性を信じて『遁花秘訣』を書き、医学の発展に大きな功績を残した」のである。
人間生活の基礎物質としての金属、わけても鉄に関する西欧の知識が、このような洋学者によって開かれてきたことを、私たちは近代日本の夜あけがもちえた誇りの一つと考えてよいであろう。
貞由の幅広い西洋学術に関する知識が、このように一方ではロシア語文献に接することによって、さらに広まり、他方ではショメール(Chomel)の百科事典に接して一層深まり、その活動が最も精力的に展開された1810年代のころ『泰西七金訳説』は著述され、1854年(安政元)にいたってようやく上木されたのである。
さて、馬場貞由は『泰西七金訳説』の巻1「金」(Gold)の総論において「諸金(metals)の中、別て鉄の如きは人間に尤も有益の物にして、暫くも闕くべからず。最も貴重すべき物なり」といい、「家用になすところを以て論ずれば、鉄は尚諸金の長と謂つべき物なり」と断言する。この発想は、土着技術思想の土壌からおこったさきの梅園・重仲・信淵らのそれと、まったく同じ路線にあると考えてよいであろう。
貞由はまた巻2「銀・銅・鉄」の項で、鉄を結ぶにあたり、「鉄は人間の日用に暫くも闕くべからず」とくり返し、「即ち器具となし、且つ薬用となして、其の功、最も貴重すべき物なり」とその「主冶」をも説いている。
要するに、人間の生活の原点に立ちもどって思索するとき、土着の思想も先進ヨーロッパの思想も、まったく同一の基盤に立ちうることが示されているのである。
なお、日本の江戸時代の先人たちの「鉄の思想」のなかに、軍事的なものへの指向が一片だにないことを注意しておこう。それは民衆の生活に根ざした上記のような土着技術思想の延長としての開明思想であって、明治政府確立以後に醸成された軍事優先(偏重)の鉄の思想とは、まったく異なるものであることを、私は指摘しておきたい。  
(2) 蘭書・鉄冶金学の摂取 / リエージュ(ロイク)国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法
つぎにここで、わが国1850年代に先駆的な洋学者、技術者たちが、オランダの技術書に直接にふれて、製鉄技術そのものの理論と実際を精力的に理解し、摂取したことを私は紹介しようと思う。
その技術書を『ロイク(いまのリエージュ)国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』(Het Gietwezen in s'Rijks Iizer−Geschutgieterij、te Luik.1826)という。当時いまのリエージュにあったオランダの国立大砲鋳造所における鉄の弾丸や大砲のつくり方を詳述した軍事技術・造兵工学の本で、著者はその所長オランダ陸軍少将ヒュゲエニン(Ulrich Huguenin、1755−1834)であった。しかし、この書は同時に当時のオランダにおいて近代製鉄技術を解説した最初の労作でもあって、鉄の製造や性質についてもくわしく、冶金学書の役割をかねていた。
幕末にあって諸外国から軍事的圧力をうけつつあった日本の知識人たちの知的要求に、この書はまさしく適応していた。いろいろの訳名のもとに各地でこの翻訳がなされ、やがてこの技術書が手びきとなって1850年代の日本の各地(佐賀、鹿児島、萩、韮山、水戸など)に反射炉が築造され、大砲の鋳造が始まった。そして、この本はさらに洋式高炉を日本の西南地方の鹿児島と、東北地方の釜石と、北海道の函館とに導く原動力の一つともなった。
この書の「鋸鉱炉」の部には、ドイツの鉄冶金学者カールステン(K. J. B. Karsten、1782−1853)の説がしばしば引用されており、歴史的理解も示されている。カールステンは製鉄技術の基礎理論とその実際とを、一つの指導書『採鉱冶金学集成』(Archiv fur Bergbau und Huttenwesen)に著わし、鉄冶金学を初めて近代科学としての工学に高め得た技術者である。つまり、ヨーロッパのなかでも英・仏勢力に圧せられて、製鉄技術の後進国であったオランダ(ネーデルランド王国)において、その後進性からの脱却を意図してまとめられた技術学書が、たまたま長崎を門戸にして展開された日本の洋学の土壌と結びついた。そして、これがわが国における高炉の築造と、それに基づく銑鉄製造のための一つの源泉となった。
次節でのべるように、長崎で蘭学を学んだ南部藩(いまの岩手県)の洋学者大島高任(たかとう1826−1901)はヒュゲエニンの原著を学友の手塚律蔵と訳出し、ヨーロッパの製鉄原理を学ぶことから、近代技術の道の開拓へと向ったのである。
江川坦庵(たんあん 1801−55)の主宰した伊豆韮山の場合は、ヨーロッパの科学技術を総合的かつ組織的に摂取、吸収するために、一種の翻訳情報センターを設け、藩をこえて共同研究を推進したことは、注目に値しよう。 
2 反射炉から高炉へ 

 

1850年前後のころとなると、欧米諸国からの開国の要請や軍事的圧迫をうけ、製鉄法の根本的な変革、つまり量産システムに向っての近代化は、わが国の必須の課題となっていた。そして、砲鋳造のための反射炉用原料として大量の銑鉄を得る必要から、大島高任ら先駆的な技術者を中心に、洋式高炉技術の移植がなしとげられることとなった。
高任は南部藩医を父として盛岡に生れ、1846年(弘化3)から長崎に留学、手塚律蔵らとともに蘭学を学び、オランダ語の文献を通して「西洋の兵法、砲術、鉱山、製錬の方法」を修め、また「西洋流砲術の元祖」といわれた高島秋帆(しゅうはん)の子の浅五郎について、砲術の免許皆伝をうけた。この長崎時代に、前述のようにヒュゲエニンの『リエージュ国立鋳砲所における鋳造法』(1826年)の訳述にも当った。
こうして、ヨーロッパの近代製鉄の理論に接することのできた東北(岩手県)生れの蘭学者、大島高任によって、日本における洋式高炉の工業化・つまり銑鉄の大量生産が始まった。
南部(盛岡)藩士であった蘭学者の高任は、じつは水戸藩における反射炉作業に参画したことから、そのための原料銑鉄を得るために、郷里、東北の釜石鉄山の開発へと向ったのである。
わが国最初の反射炉が築かれたのは、1850年(嘉永3)佐賀の築地(ついじ)、多布施(たぶせ)においてである。
『佐賀藩銃砲沿革史』(1934年)などの資料が示すように「蘭学者の知識と、算数家の計算と、鋳工ならびに刀工の技術とが、相協同することによって」まず佐賀藩における反射炉による砲鋳造が成功したのである。佐賀藩の反射炉創業の状況は、その主任技術者であり、技師長格であった杉谷雍介(すぎたにようすけ)が『反射炉の由来』(1852年)として克明な記録をのこしている。彼は後に伊豆韮山の反射炉築造を指導した肥前(佐賀)の技術者であるが、蘭医伊東玄朴(げんぼく)に学び、玄朴に協力して前記ヒュゲエニンの原著に基づき『鉄熕(てつこう)全書』(全12冊および付図)を訳述しているから、幕末の先駆的な冶金技術者たちに及ぼした影響は大きい。
佐賀藩鋳砲事業の発展は、全国驚嘆の的となり、幕府をはじめ各地から鋳造術の伝授を願うものや、鋳砲を依頼するものが続出した。佐賀藩に次いでは、薩摩藩の反射炉作業がみごとな成功をおさめた。これには「西洋人モ人ナリ、佐賀人モ人ナリ、薩摩人モ同ジク人ナリ」といって、たえず技術者たちに適切な指示をあたえた藩主島津斉彬(なりあきら)の産業技術政策、わけても科学技術上の識見が大きく影響していたことを見落としてはならない。なお、佐賀・薩摩ともに、こうした洋式軍事工業創始の過程で「精煉方」という名のもとに理化学研究が生れ、一時化学工業や造船工業が勃興の機運に向ったこと、また幕府による長崎海軍伝習所、長崎溶鉄所(いまの三菱、長崎造船所)の創設と、立地的に密接な関係のあったことも付記しておこう。
佐賀藩の技術協力をうけ、洋学者江川坦庵を中心に、1853年(嘉永6)から築造の準備にかかったのが伊豆の反射炉である。すなわち、同年、八田兵助(はったひょうすけ)という「洋式炉製砲技士」とよばれた技術者が、坦庵の命をうけ、その準備のため佐賀藩におもむき、操業中の佐賀の反射炉の見学と技術の研究など、新知識を得て韮山に帰り、やがて1857年(安政4)2月には佐賀藩から杉谷雍介・田代孫三郎らすぐれた技術者と職人たちが、韮山反射炉の再築(破損修理)のため派遣され、両者の技術交流のもとに、反射炉作業と鋳砲事業の大成がはかられた。この場合、これら第一線の技術者たちの、いわばバックアップ・チームとして、「韮山蘭書翻訳方」という共同研究組織がつくられ、洋学者たちを動員して鋳砲の事業にあたらせたのである。
このように相ついで反射炉が登場するうちに、1854年(安政元)まず薩摩藩が鋳砲事業の必然的な成りゆきとして、洋式高炉の建設に先鞭をつけた。
しかし、原料や需要の条件などに阻まれて、ついに本格的な工業生産をつづけることはできず、創業者としての栄誉をになうにとどまった。ついで炉は、函館奉行の管理下にあった北海道の古武井(こぶい)というところにも築かれた。武田斐三郎(あやさぶろう)というオランダ式築城(五稜郭)の設計でも名高いすぐれた洋学者が、1855年(安政2)に着手したものであるが、砂鉄を主原料としたこの高炉作業は失敗であった。
さて、1855年に、反射炉は水戸藩においても、徳川斉昭、藤田東湖らの画策のもとに、南部藩士大島高任、薩摩藩士竹下清右衛門、三春藩士熊田嘉門らを技術者として築かれた。水戸反射炉は、翌56年には雲州銑(いまの島根県地方でつくられた銑鉄)を使ってのモルチール砲の鋳造に進んだ。ところが、この反射炉作業は大量に鋳砲用に適した銑鉄を得るために、大島高任の主唱によって洋式高炉の移植による南部藩釜石鉄山の開発へと発展し、やがてわが国近代製鉄技術の源流となったのである。
すると、鹿児島でも函館でもなく、釜石のみがなぜ高炉による銑鉄生産の工業化に成功したのであろうか。
蘭学者の高任がそれまでに獲得していたヨーロッパの製鉄法の知識、あるいは彼が学友の手塚律蔵とともに訳述した技術指導書『西洋鉄熕鋳造篇』の内容からいって、反射炉から高炉への発展の線は、当然の成りゆきだったといえないこともない。しかし、ここで私たちは、前節でものべたように、釜石を含む東北地方の各地が、すでに古代から鉄や金や銅などの鉱産物と、その加工とにおいて、むしろ先進地域であったことを思いおこしておこう。そして、大島高任は、いわば東北の風土の精神とでもいったものに貫かれていたと考えられるのである。
高任は、1854年(安政元)7月、つまりまだ水戸反射炉の築造に着手していないときに、もう「南部釜石の鉄」の獲得と、洋式高炉の建設とを構想し、水戸藩の役人(反射炉掛元取)佐久間貞介(ていすけ)にのべている。それは佐久間の『反射炉製造秘記』という手記に手紙のかたちでのこっている。―「大島内存(ないぞん、心づもり)は件の鉄をヅク(銑鉄)に吹立て候にも、
一と通りのタタラなどにては参り申さず、やはり西洋流炉を新造いたし申さず候ては相なるまじく候間、反射の方成就いたし候はば、直ちに南部(釜石)へ下り、右の炉をつくり、それよりヅク鉄にいたし、御取寄せの方(ほう)然るべしなどと申す口気も御座候……」と。(カッコ内は引用者)
じつに「洋法第一、鉄の性を吟味仕り候事にて、反射炉を造り候ても柔鉄(鉄鉱石による銑鉄)これなく候てはその詮これなく、柔鉄あり、炉ありて後鉄ありと申すものにて、一を欠き候てはその用を成さず候間、外の鉄にて銃製の儀は一円御受け仕らず」というのが、高任の技術家としての信念であった。かれはまた柔鉄とそれ以外の銑鉄(砂鉄による銑鉄)との性質の差異を、たくみな比喩を使って、表現している。―「外の鉄の性は、たとえば並米(なみごめ)のごとし。何ほど精にいたし候ても粘合(ねりあ)はざるが如し。柔鉄は糯米(もちごめ)のごとく、如何なる品にてもねれ合い候て、糯(もち)に成るがごとし」と。
高任は、たたら炉そのものを否定しているのではない。水戸藩における反射炉の目的が砲鋳造のための銑鉄の溶解であれば、その材料にふさわしい鉄、つまり流動性にとむ均質で大量の銑鉄は、決してたたら炉からはつくるべきでないということを彼は理解していた。彼は東北の鉄鉱石製錬の土着技術をしっかりとつかみ、あわせてヨーロッパの製鉄法にも詳しかった。水戸反射炉の事業に参画した初めから、このような科学的な認識に達していたのである。
こうして、まだ機械設備の海外先進国からの輸入が不可能な江戸時代に、ただその技術の指針のみをオランダの技術書や工学辞書にとり、地元の産業資本家の資金的協力を得、みずからの力量と、日本の資材と労力とのみによって、洋式高炉を築き、かつ成功にみちびくという大きな仕事は、大島高任を技術のリーダーとする南部藩(岩手県)の釜石においてのみ実現することができたのである。図にみられるように、自然の条件をたくみに生かし、水車動力を適用したところにも、釜石の最初の洋式高炉(燃料は木炭のため、木炭溶鉱炉ともいう)の特徴がよくあらわれている。
第5図 釜石鉄山大橋高炉の見取図
砂鉄でなく鉄鉱石の工業的製錬に着目し、洋式高炉を創始したことは、古来の小規模・非能率な「たたら吹き」製鉄法から脱皮する最初のくわを打ちこんだ、画期的なできごとであり、まさしく日本の近代製鉄技術の夜あけを告げるものであった。なぜなら、高炉による銑鉄製造(製銑)技術の開始こそ、ヨーロッパからの300〜400年ちかい製鉄技術のおくれをとりもどす最初のきっかけとなったのみでなく、やがて新しい製鋼の技術と結びついて、近代産業としての鉄鋼業を生み出す底力をもっていたからである。
大島高任は、みずから創始した高炉のことを、「日本式高炉」とは唱えても、決して「洋式高炉」とはいわなかった。水戸藩の反射炉作業を動機とする釜石での洋式高炉移植のみが、ひとりわが国近代製鉄技術発展の原点となり得たのは、それが洋式である故ではなく、ヨーロッパにおける製鉄法の原理が日本の土着文化のなかに、高任という人物を得て科学的に生かされたからにほかならない。
現代中国では、土着の文化、いわゆる「土法」の精神を、一口でいうと「就地取材」ということばであらわしている。これは、身近な作業、使いなれた在来の伝統的な手段に出発しながら、その土地や自然環境・資源の条件に適するかぎり、洋法を積極的にとりいれ、洋法自体をも改良してゆくという、新しい技術創造の方法を意味している。とすれば、高任のとった方法は、今日の中国が工業の躍進をはかるにあたって基本とする方法とも軌を一つにしている。 
3 コークス高炉法の確立 / 釜石製鉄所の失敗と成功 

 

1858年、藩主徳川斉昭をめぐる諸事情や藤田東湖の急死などによって、水戸藩の鋳砲事業は挫折した。しかし、ひとたび釜石鉄山におこった洋式高炉による製鉄業は、鋳銭事業を中心に、農具や生活用具の製造などに加工目的を見出して、釜石地方一帯に急速た普及し、マニュファクチュア的規模の新しい地場産業へと発展していった。すなわち、洋式高炉は釜石鉄山の大橋から始まり、やがて今日遺跡の現存している橋野地区でも盛んになったが、このほか遠野に近い佐比内(さひない)、砂子渡(すなこわたり)、栗林(くりばやし)など、釜石の鉱山地帯の各所に設けられ、明治維新直前のころまでに、総計約10基、総生産高は年産70〜80万貫(およそ3,000トン)にも達した。
このような背景のもとに、1874年(明治7)明治政府はまず釜石の大橋鉄山の官業化を決定し、いわゆる殖産興業のスローガンのもとに、翌年から近代的規模の製鉄所の建設計画に着手することとなった。
このころ、さきにのべた大島高任はすでに40代もなかばをこえていたが、旧南部藩時代における釜石鉄山での豊富な技術的識見は、薩長閥を主力とする明治新政府も高く評価せざるをえず、これよりさき岩倉具視を特命全権大使とする米欧視察団の随員に加わって帰国した高任を、工部省は技術行政官に据え、釜石に出向かせた。
1874年6月、高任はお雇いドイツ人技師L. ビャンヒー(Bianchie)とともに新しい製鉄所の建設構想に着手した。ところが、釜石鉄山で採掘した鉄鉱石を、どこへ運び、どこで製錬し、加工するか、つまり新製鉄所の建設地点をめぐって、ビャンヒーとの間に意見の対立がおこった。高任にはみずからが生れ育ったふるさと、陸中の土地勘と、技術の開発経験のびさいに基づく信念があった。一方、ビャンヒーには先進ヨーロッパ人として自負があった。
釜石より盛岡街道の出口北側の「大唯越(おおただごえ)」という地点を高任はえらんだ。ビャンヒーはその出口から八町ほど西にはいった、街道の南側にあたる「鈴子(すずこ)」という地点を主張した。製鉄作業にとって大切な用水、海港の利便、将来の拡張にそなえての地積等々、立地のための目のつけどころには両者の間に大きなちがいはない。ただ高任の主張する大唯越(大只越)の地形のほうが、「西北東三方に山を引廻し、南一方に面して相開けたるを以て、四季暴風雨なく、厳冬にも寒気緩くして、昼夜の作業にも妨げこれ無く候」とされ、より働く人びとの環境条件に重きを置いていることが注目される。
しかし、創業計画全体との関連において、どのようにして生産技術をこの風土に定着させてゆくかという立場からみると、同じ盛岡街道沿いの釜石の海岸線でも、両地点の間には、互にゆずることのできぬ大きなちがいがあった。すでに産業革命期をへていたドイツから来日した技術者ビャンヒーは、比較的大規模で高能率の高炉2基と、これに鉄鉱石を運搬するための蒸気機関車による近代鉄道、銑鉄を錬鉄にし、さらにそれを圧延する工場などを予定し、一気に大工場を出現させることを意図した。これに対し、高任は従来の経験から、まず昼夜の作業にもっとも安全な地形をえらび、高炉は比較的小規模のものを5基とし、その運鉱手段は経済的にできる軌道馬車を採用するというように、当時の技術水準に即した創業計画をたてた。漸進的に、より抵抗の少ない道をとおってまず技術を軌道にのせようという、いわば「小さく生んで大きく育てる」という方法をとったのである。彼の選んだ地形はこの方法を前提としたものであった。
今日、いわゆる発展途上国が、自分の国で高炉を建て、銑鋼一貫製鉄所という総合的な製鉄工場をおこすには、年間1人あたり鋼の消費量が20〜30キログラムの需要段階に達していることが、国民経済的に最も適しているといわれている。そこで、官業(工部省所管)釜石製鉄所の計画がなされた当時の日本の鋼消費量を試算してみると、まだ1キログラムにも達していない。一つの国で新しい技術が育つには、需要の状況をも考慮にいれた、その土着文化に対する認識と、そこに生産力を定着させてゆくための技術学的な方法、総じて広い視野のもとに立った技術思想の有無がものをいう。
不幸にして、外人技師尊重の立場から、工部省の幹部は高任の意見をいれず、ビャンヒーの意見を採用した。高任はやがて秋田県小坂鉱山へと転勤となり、釜石の現場を去ることになった。官営釜石製鉄所は、大規模のイギリス式高炉2基(もちろん耐火煉瓦などの資材もいっさい含めて)のほか、鉄道など関係設備すべてをイギリスから輸入することとなった。そして、新たに招いた同国の外人技師の指導を仰ぎ、1880年(明治13)9月工事は完成して、いよいよ製銑作業を開始したのである。
その結果は失敗につぐ失敗で、1882年(明治15)12月に工部省は釜石製鉄所の廃止を決定する始末となった。工学士桑原政(まさ)は、『工学叢誌』という当時の雑誌(同年8月号)に「釜石鉱山景況報告」を寄せ、はやくも官業釜石の最大の欠陥をつき、つぎのように当局者への忠告を行なっている。「古人曰ク、其ノ本(もと)ミダレテ、而シテ末(すえ)修マルモノハ非ズト、夫レ採砿、運砿ノ如キハ砿業中ノ大本ナリ……」。
たとえ一部に巨大な資本を投下し、最新・大型の高炉や機械や鉄道を据えても、これに関連する周辺領域の整備がおくれ、作業がまったく人力による原始的技術の段階にとどまったのでは、労働災害を激発する恐れこそあっても、とても技術の全体が円滑に進展してゆくことは不可能である。桑原はそれを批判しているのであるが、高任が製鉄立地論争のさいに、もっとも懸念し、警戒したのもこのことであった。
明治の文明開化期にすぐれた啓蒙思想家として活躍した福沢諭吉は、1875年(明治8)の『覚書』のなかで「今の日本の役人共は、一時国の改革に骨は折りて手柄もありし者なれども、固(もと)より知識聞見は少なし」と指摘し、それゆえに「外国人を雇てこれを懐中宝剣と為し、この宝剣に依頼してみずから衛らんとするの勢いあり」と、明治官僚の自主性の無さ、いわば植民地的根性を痛切に批判している。明治維新のさい反薩長、つまり反官軍の側にあった南部藩の出身である高任の明治期における技術活動は、思えばこうした主体的な思想のない官僚たちとの戦いでもあった。もし、工部省の権限ある高級官僚に、欧米一辺倒でなく、真に日本の経済と技術の風土に立脚した思想の持主がおり、高任たち科学的精神と技術的思慮に富む人物の識見を採用する勇気があったならば、日本の近代製鉄技術の歴史は、大きく書き変えられていたにちがいない。
コークスが鉄鉱石と「調和十分ノ適当ヲ得ザル」ことが、溶銑の流れ出てくる湯口をふさいでしまったことが命とりとなったのであるが、より根本的な失敗の原因は、採鉱・運鉱といった製鉄業にとっての基本作業に欠陥があったことである。
こうして、1890年代以降における釜石製鉄所、いな日本の鉄鋼技術の進路は、官営釜石製鉄所の技術的失敗の徹底的な究明と、その克服のもとに切りひらかれることになる。
官業釜石廃止のあとをひきうけて、ふたたび釜石に製鉄業をおこすことを企図したのは民間の一商人、田中長兵衛一族である。「鉄屋」を屋号とした長兵衛は、薩摩藩出入りの金物商から身をおこした糧食関係の陸海軍御用商であるが、大蔵卿(大蔵大臣)松方正義のすすめもあって、釜石製鉄所の機械部品などの払下げに着手したことから、製鉄業経営の分野に足をふみいれることになり、苦心の末、1887年(明治20)7月に「釜石鉱山田中製鉄所」を設立するにいたったのである。
ずぶの素人の集まりといってもよい田中製鉄所の人びとにとって、当時「大高炉」とよばれていた工部省時代のイギリス式25トン高炉(25トンとは1日の出銑量を表す)を操業することは、技術的にとても手におえなかった。この巨大な炉を動かすことは、燃料木炭の調達ひとつを考えても、釜石の自然条件にはばまれて、困難なことであった。そこでかれらは、まず「薪炭ノ便利ヲ得ル」地域を選んで、ここにかつて大島高任が築いたような日産5〜6トンていどの小型高炉を建設して、熟練の度合に応じて徐々に事業の拡張をはかるという方法をとった。
こうするうち、たまたま当時新しい製鋼技術の分野で開拓的な役割をはたしつつあった陸軍大阪砲兵工廠で、釜石鉱山田中製鉄所産出の銑鉄を鋼に精錬し、その鋼で軍事用の武器や機械をつくる試みが始められた。1890年(明治23)8月、釜石銑で試製された弾丸とイタリアのグレゴリーニ銑による弾丸との比較試験が行われ、日本の釜石銑が世界的にも有名なグレゴリーニ銑にくらべ、まさるとも劣らないことが立証された。この結果、田中製鉄所は大阪砲兵工廠に自己の釜石銑鉄の強力な需要先を見出すことができ、資本蓄積もようやく進んで、いよいよ旧工部省時代の高炉の復活と、コークス製銑技術の確立が企図されることとなった。すなわち、1893年(明治26)、当時帝国大学工科大学(いまの東京大学工学部)教授で鉄冶金学の権威者であった、工学博士野呂景義(のろかげよし、1854−1923)を顧問に迎え、同時にその門下の香村小録(こうむらころく、当時農商務技師試補、のちに工学博士)を技師長に招き、「大高炉」の再操業に直進することとなったのである。
わが国最初のコークス高炉創業の模様を、野呂はつぎのように書きとめている。
釜石鉄ニ於テハ、旧工部省ニ於テ建設シタル大高炉ヲ改造シ、一昨年〔1894年〕ノ1月ヨリ木炭ヲ以テ銑鉄ヲ鎔製シ来リシニ、昨年八月木炭ヲ廃止シ、北海道夕張ノ粉炭ノミヲ以テ製シタル骸炭〔コークス〕ヲ以テ吹立テタルニ、骸炭ノ質甚ダ脆弱ナルニモ拘ハラズ、極メテ良成績ヲ得タリ。比実例ニ由テ、本邦製ノ骸炭能ク製銑業ニ適スル事ヲ証スルニ足ル。
これによると、はじめは木炭吹きとし、1895年(明治28)8月から北海道夕張炭によるコークスを用い、みごとにコークス高炉法を成功にみちびいたのである。この高炉の復活にさいして、野呂景義はその技術学的な識見に基づいて、内部の形状を改良し、熱効率の悪い、熱風炉とボイラーとの共用煙突の設計を改めてボイラー専用の低い煙突を建て、なお鉄鉱石の焙焼が不十分と推測されたので、新たに焙焼炉を設置するというように、その対策に万全を期した。
1880年代ともなれば、洋式技術を批判的に摂取し、科学的に日本の原料条件に適用させうる力量をもつ技術指導者が、生れ育ったのである。ちなみに野呂は、1882年(明治15)東京大学理学部の採鉱冶金学科を卒業後、イギリスのロンドン大学で機械工学と電気工学を学び、さらにドイツのフライベルヒ鉱山大学(Bergakadmie zu Freiberg)で、当時の鉄冶金学の第一人者アドルフ・レーデブーア(Adolf Ledebur)について、製鉄の理論とじっさいを修めた人物である。
釜石鉱山田中製鉄所の銑鉄生産高は、1893年には約8,000トンであったが、翌年には約1万3,000トンを記録し、中国地方のたたら炉による全鉄類生産高を追いこし、対全国比65%という過半を占めるにいたった。1894年(明治27)は、この意味で、わが国近代製鉄業の基礎がはじめて確立された年といってもよいであろう。 
4 官営八幡製鉄所の成立と発展 

 

1890年代までに達成された釜石鉱山田中製鉄所における製銑技術と、陸海軍工廠を中心とした洋式製鋼技術の成果とは、野呂景義ら先駆的な技術者の科学的な識見と、榎本武揚ら産業の開発に重点をおく開明的政治家の活動、さらには明治期の日本民族の旺盛な鉄鋼に対する需要と、相互にかみ合い、結び合わさって、1901年(明治34)における官営八幡製鉄所(農商務省「製鉄所」)の製鉄鋼作業開始へと結実する。そしてさらに、日露戦争(1904−05)を契機とする鉄鋼需要の伸びと、科学性に富む技術者たちの創造的な活動とに支えられ、官営八幡製鉄所において初めて銑鋼一貫作業の生産システムが、技術的に確立される。
(1) 創業期の技術的失敗
周知のように銑鋼一貫技術とは、まず高炉において、鉄鉱石(Fe3O4、Fe2O3)中の鉄分(Fe)が還元溶解による銑鉄となり、こうして高炉からとり出された溶銑が、平炉・転炉・電気炉などの製鋼炉において酸化精錬されて溶鋼となり、鋼塊として固化されて大部分は圧延工場に運ばれ、使用目的に応じた各種の形状の鋼材に圧延加工される。最終工程の圧延作業は、機械(ロール)を労働手段の中心とする物理的・機械的技術であるが、これに先立つ製銑・製鋼作業は、装置(炉)を主体とする化学的・冶金的技術であって、つくられる鋼材の質はいうまでもなくここで決定づけられる。
1901年(明治34)2月に火入れされた官営八幡製鉄所の第1高炉は、ドイツの著名な高炉技術者F. W. リュールマン(Luhrmann)の設計になり、内容積495立方メートル日産公称能力160トンであった。しかし、操業の結果はきわめて不良で、銑質は悪く、製鋼用として不適当であったのみでなく、1日の生産高は平均わずか80トンにすぎず、しかもコークス比(銑鉄1トン当りの使用コークス量)は1.7トンという効率の悪さを示し、支障続出し、ついに1902年7月には休止のやむなきにいたった。技術的失敗の状況は官営釜石の場合と酷似している。
この高炉の起死回生を依頼され、1904年(明治37)その技術的確立をもたらす原動力となったのは、当時故あって帝国大学教授の地位を辞し、民間鉄鋼業の技術指導に当っていた前記野呂景義であった。すなわち、製鉄所長官中村雄次郎(陸軍中将、のちの南満州鉄道株式会社総裁)に乞われて嘱託顧問となった景義は、不良結果の原因について徹底的な科学的調査を行ない、1高炉の購造欠陥、2装入物の調合不良、3炉内装入物の溶結、4数度におよぶ停風、などの問題点を明らかにした。そして要するに失敗は、「本邦産の原料に経験なき外国人に依頼したること、羽口の径ならびにその炉内への突出が共に過大なりしこと、不良なるコークスを使用したること、装入物の調合その宣しきをえずして鉱滓が塩基(basic)にすぎたること」などにあると結論づけ、ただちに原設計に対し可能な範囲の改造を加え、あわせてコークスの改良その他の準備をすすめ、高炉の再操業を軌道にのせることができたのである。
このとき、野呂の門下の服部漸(はっとりすすむ、のちに工学博士)が八幡製鉄所銑鉄部長として、現場の指揮に当ったが、服部は『鉄と鋼』誌に「製鉄所の熔鉱炉作業に就きて」という論文を寄せ、「此の最初不良なりしものが今日の盛況に達したるは、単に暴風雨襲来後の快晴を見るが如く、自然的天候恢復の結果にあらずして、事毎に其原因を考究し、各般に渉りて改良努力を為したる結果に外ならず」と記した。
もとより八幡製鉄所の創業期に外人指導者たちがわが国の製鉄技術を啓発した業績を否定することはできないが、しかしそこから外人技師の指導、海外技術の導入によってのみ日本鉄鋼技術は発展したと結論するなら、日本人の技術を過信することと同様誤りである(ちなみに製鉄所創業にさいして雇入れられた約20名のドイツ人技師・職工長たちは、1902年以後1904年3月末までに、転炉職工長1名をのぞき、すべて解約されていた)。
私たちは日本の近代鉄鋼技術史・鉱山技術史のうえで、ヨーロッパ技術の移植を考察する場合、野呂景義のつぎのことばを十分に銘記しておいてよいと思うのである。
抑々(そもそも)工場全部の計画及操業を外国人に委するの可否については、大いに考慮すべきことなり。我鉱業に関しては、佐渡・生野・院内・阿仁・小坂等に於ける外国技術の成績を見るに、何れも不良にして、殊に製鉄業、即ち釜石及八幡製鉄所の製鉄業の如きは皆失敗に終わり、我技術者に依りて初めて成功したる例を見れば、思い半ばに過ぎむ。
(2) 海外技術の批判的摂取
官営八幡製鉄所における技術的成功は、野呂景義とその教え子の服部漸らが、日本の技術者として、わが国原料の特殊性を無視した形式主義的な導入高炉の設計と、原料コークスのずさんな使い方あるいは処理の仕方とを積極的に批判検討し、これら製銑技術のための諸要素を、その技術学的な確信に基づいて再組織することを試みて、はじめてもたらされたのである。
1904年(明治37)以後、八幡製鉄所の高炉は、炉型の改造、容積の増大、ならびに操業技術の進歩となって、その生産能率は著しく増進した。すなわち、かつて釜石・田中製鉄所で1894年に25トン高炉をコークス高炉として復活させたさいは、製出銑鉄トン当り炉容積は4〜5立方メートルであったが、1910年代の八幡では2〜3立方メートルとなり、1930年(昭和5)には大型高炉の端緒というべき500トン炉(八幡・洞岡第1高炉)の完成・創業によって、ついに1.2立方メートルを記録し、ほぼ第1次世界大戦前におけるドイツの銑鉄トン当り炉容積の水準に到達することができた。
製鋼作業、ことに平炉部門においても官営八幡の初期には、高炉と同じような欠陥があり、その克服が必要であった。野呂景義の愛弟子(服部と同期)で、同所の初代製鋼部長であった今泉嘉一郎は、これについて「製鋼部に属する平炉はダーレン(R.M.Daelen)氏の設計に基づくものなりしが、これまた欠点少なからず、しかしてその方式が未だいずれの処にも実験せられたることなかりしいわゆる机上の成案なりしこと、1903年予がドイツにおいて親しくダーレン氏より確かめ得たるところなりし。最も重大なる欠点の内、噴出口の配置は実験の後これを改正することを得しも、噴出口の短かきに過ぐるを改むること、および鎔滓室を設くること等は、場所の関係上遂にこれを実行することを得ずして止みたり」とのべている。
要するに「銑鉄部、製鋼部共にその重要機関にこのごとき設計上の欠点ありしため、幼稚なる当時の作業は一層その困難を加え、数年にわたりて十分なる活動をなし得ざりし」という状態で、これにコークスの不良が拍車をかけた。今泉はつづいて言う。
製鉄所において当初使用せしごとき不良なる骸炭(コークス)を用ゆる製鉄所は、世中多くその例なきところなり。野呂博士の報告のごとく、これがため鎔鉱炉の作業に故障を生ぜしこと多かりしのみならず、製鋼工場において希望する塩基製鋼法用の銑鉄としては、余りに硅素含有量の大なるものか、然らざれば余りに硫黄分の多き劣等銑鉄の産出に傾き、しかも産額においても十分なるを得ず、鎔鉱炉設計の欠点と相まって、製銑及製鋼の作業に甚大なる障害を与えたり。これ実に製鉄所初期における銑鉄および鋼鉄製造費のすこぶる多大なりし一大原因なりとす。
1910年(明治43)、官営八幡製鉄所は創業以来はじめて黒字を出すが、この原因は製銑・製鋼設備の欠陥の克服とならんで、ソルベー(Solvay)式コークス炉の導入にともなうコークス技術の確立に負うところが大きい。すなわち、銑鋼一貫作業の発展は製鉄用燃料の面からみると、ますます製鋼・圧延工場の分野にコークス炉ガス、高炉ガスの利用を完全にし、可能なかぎりガス発生炉における石炭の消費量を軽減し、すすんで全作業に要する熱量をことごとくコークス炉に装入する石炭のみによって供給し、不足なしというかたちで実現することができたのである。
かくて製鉄鋼作業の総合化・一貫化と、燃料経済の合理化とは、石炭使途のコークス集中化を指向し、おりから1910年代に急速に進展した動力の汽力から電力への転換とも相まって、八幡製鉄所における鋼材生産トン当り石炭使用量は、1920年ころまだ4トンを要したものが1933年には1.58トンへと激減した。 
5 民間製鋼業の発展 / 経済的合理性の追求 

 

第1次大戦の時代まで、日本の鋼材生産の80〜90%は、官営八幡製鉄所に負うものであった。しかし、この大戦を契機に、わが国の重工業、化学工業は急速な発展をとげ、これにともなって、わが国にも急速に民間製鋼企業が勃興し、これら諸産業からの鉄鋼材料に対する要請にこたえることができるようになった。ここに1917年に施行された「製鉄業奨励法」が、民間製鋼業の成立を促進した。
しかし、これら民間製鋼業がすすんで採用した生産体系は、高炉をもつ銑鋼一貫技術の体系ではなく、安価なインド銑鉄とアメリカ鉄くずの輸入を基軸としての平炉製鋼法、すなわち鉄くず製鋼法であった。技術と経済とのバランスのとれた発展の仕方を重んずる民間企業としては、この方法は当然の進路でもあった。すなわち、第1表にみるように、インド銑(ことにタタ銑)は、日本製のいずれのものよりも安く、国際的にも最も低価格であったから、官営八幡に対し、また釜石のような高炉会社に対し、一般民間製鋼企業はここに一つの活路を見出したのである。京浜工業地帯における「日本鋼管」(1912年創立)はその先頭に立ち、銑鉄自給問題を解決していった代表的な民間企業の一つである。
安価なアメリカ鉄くずと、インド銑の安定的な大量輸入は、民間製鋼業における経済的合理性の追究によくマッチした。いま1931年における銑鋼一貫製鉄所(八幡・釜石)と鉄くず製鋼法による単独平炉会社との鋼塊生産費を比較してみると、前者はトン当り48円04銭(25%鉄くず混入)であったのに対し、後者は40円32銭(配合比は銑鉄0.35、鉄くず0.65)にとどまった。前者の溶銑がトン当り32円72銭を要したのに対し、後者の冷銑は27円60銭ですんだのが、主な理由である。
こうして、1933年度上期における主要鉄鋼会社の経営状況をみると、第2表のとおり日本鋼管などの平炉メーカーが、大財閥の三菱・三井系高炉メーカーより、経営的には、はるかに有利であったことがわかる。1930年代はじめには、日本の粗鋼生産は、すでに官業よりも民業のほうが大きな比重を占めるにいたったことは、特筆するに値する。
だが、ちょうどこのころ、世界的にアウタルキー時代の暗雲が濃くなりつつあった。平炉製鋼法一辺倒の状況は、第1に、ひとたび安価なインド銑とアメリカ鉄くずという有利な経済的条件がなくなれば、その存立基盤を失うという矛盾を、つねにはらむものであった。第2に、すでに自動車産業を中心に高度の機械文明が発達して、鉄くずが豊富に発生するアメリカであればともかく、ヨーロッパの製鉄事情にみるときは、鉄くずを必要としない転炉をまったくもたず、本来優良鋼の生産に適する平炉で普通鋼の量産を行なうことは、技術的に決して正則的なものとはいえなかった。
こうした矛盾の解決は、いずれ第2次大戦後へと持ちこされねばならなかった。
第1表 銑鉄生産費の国際比較
第2表 1933年度上期主要鉄鋼会社経営状況 
W 科学的技術の時代 / 日本鉄鋼技術の自立 

 

官営八幡製鉄所ならびに民間製鋼業における技術的発展、つまり銑鋼一貫技術と平電炉技術の併進のなかで、わが国鉄鋼業は完全に鉱業型から工業型へと移行した。そして、その成果のうえに、鉄鋼に関する理論と実践との相互交流の場が生れ、鉄鋼ないし金属全般にわたる基礎的研究が積極的に開始されはじめた。この意味でわが国鉄鋼史は1910年代から科学的技術の時代へと進むといえるのである。 
1 日本鉄鋼協会の創立とその後―研究開発の進展 
1915年(大正4年)2月、「鉄及鋼に関スル学術、経済、其他一切の問題ヲ研究調査シ、本邦ニ於ケル該事業ノ改良発達ヲ期スル」ことを目的として、野呂景義、今泉嘉一郎、俵国一らの主唱によって、鉄鋼研究の専門学会として日本鉄鋼協会(The Iron and Steel Institute of Japan)が創立され、やがて野呂が初代会長に選ばれる。この鉄冶金学会はかれらの留学先でもあったドイツの鉄鋼協会(Verein deutscher Eisenhiittenlente)に範をとり、「学理と実業との合同」を標榜した。日本鉄鋼協会の創立は、わが国の鉄鋼の技術と産業とが、はじめてながい模倣・移植の時代を去って、真に合理的・科学的精神を日本の土壌に定着させることができた一つの画期を示すものと、私は考えるのであるが、このような理論と実践との歩み寄りは、鉄鋼の場合、理学博士本多光太郎(1870−1954)の登場をえて、いっそう確固たるものとなった。
本多は、強磁性体の物理学的研究と、合金の物理冶金学的研究という基礎研究から進んで、1917年強力磁石鋼(いわゆるKS鋼)を発明し、さらに工学博士俵国一(1872−1958)を開拓者とする金属組織学的研究の応援をえて、独自の鉄鋼科学の体系を生み出し、1919年東北帝国大学に鉄鋼研究所(1922年、金属材料研究所と改称)を発足させたのである。彼はのちに『鉄と鋼』誌(1935年)に「本邦鉄鋼科学の進歩」という論文を寄せ、「本邦鉄鋼科学最近の進歩は実に目覚ましく、研究論文の数に於てのみならず、質に於ても、毫も欧米先進に劣る所なく、局部的には却って凌駕していると思われる方面もある位である」とのべ、それまでの過程をつぎのように回顧している。
顧みるに鉄鋼学の研究が本邦に於て創められたのは、漸く明治末期から大正初期(1900−10年代)にかけての頃であったと思う。それ以前に、製鉄事業は起され、鉄冶金学は各大学に於て研究されたのであるが、主に製鉄及び製鋼に関する方面に限られ、鉄鋼の材質的方面、すなわち金相学の研究はきわめて寥々たるものであった。当時、鉄鋼学に関し、欧米先進はすでに確乎たる存在を示し、着々研究の実績を挙げていた。斯かる時機に際し、遅れ馳せながら起った本邦鉄鋼学の研究は、当初は先進諸外国に追従して行くに汲々たる状態であったが、大戦前後から急激に抬頭し始め、其後日進月歩、遂に今日の地位を占めるに至ったのである。其間僅かに20年余、実に驚くべき発達振りと云うべく、邦家のため誠に同慶の至である。研究機関は官公立各大学の冶金学教室、金属材料研究所、理化学研究所、陸海軍工廠の研究部の外、八幡製鉄所、’其他民間各会社の研究室等で、年々数多の研究論文が“鉄と鋼”、“金属の研究”、“水曜会誌”、其他民間各会社の研究報告に発表されている。
これらの研究機関のうち、つねに鉄鋼研究の中心的存在として、真に開拓的役割をはたしたのが、本多のひきいる東北大学鉄鋼研究所で、1922年(大正11)に金属材料研究所へと組織拡大され、今日にいたっている。
この研究所における諸成果を、本多光太郎は『鉄及び鋼の研究』(全4巻、1919〜26)などのかたちで広く公刊するとともに、進んで海外専門学会誌に発表し、科学の国際交流につとめた。鉄鋼の本質的究明のために、1化学分析、2磁気分析、3顕微鏡的研究、4X線分析などの方法を駆使し、金属材料研究所を母胎にわが国が誇る新合金の発見を続々と世に問うたことは、日本の科学技術史上、きわめて高く評価されるものである。本多・高木弘のKS磁石鋼(1929年)、加藤与五郎・武井武の酸化金属磁石=OP磁石(1930年)、本多・増本・白川勇記らによる新KS磁石鋼(1932年)などが知られている。
これらのうち、新KS鋼は、1931年(昭和6)、工学博士三島徳七(1893−1975)が東京で鉄・ニッケル・アルミニウム合金のMK磁石を発明したのに対応して、ただちに東北の本多らが生み出した析出硬化型磁石(鉄・コバルト・ニッケル・アルミニウム・チタン合金)で、さきのKS鋼に対し2倍の磁性性能をもつものであった。 
2 両大戦間における技術的蓄積 

 

本多と、彼を指導者とする金属材料研究所の科学的業績によって、わが国鉄鋼技術史は、まさしく工業技術の段階から科学的技術の段階へと突き進むことができた、と言ってよいであろう。
もっとも、その科学的技術が産業面に適用されて実を結ぶようになる、つまり科学的技術がほんとうに開花するには、わが国は第2次大戦後までまたねばならなかった。それにしても、本多らの業績とならんで、両大戦間の時代にさまざまの独自技術開発の試みがなされたことが、戦後日本鉄鋼技術発展の土台ともなったのである。その数例をつぎにあげてみよう。
第1は、梅根常三郎(1884−1956)を中心とする貧鉄鉱磁化焙焼法の発明である。これは1920年(大正9)南満州鉄道(株)、いわゆる満鉄の鞍山製鉄所において着手され、22年に完成・特許をえたもので、鉄鉱石の事前処理技術に先鞭をつけ、第2次大戦後、とくに最初の銑鋼一貫製鉄所として川崎製鉄(株)千葉製鉄所が計画・建設されたさい、その成果は鞍山製鉄所(のちに昭和製鋼所となる)の徹底した熱管理・運搬管理技術などとともに生かされた。
第2は、黒田泰造(1883−1961)による黒田式コークス炉(再生燃焼装置をもつ独創的な副産物回収式コークス炉)の発明で、「最小限の石炭をもって最大限の鋼を生産する」ことを目標に、複雑な熱工学上のあらゆる問題を克服して熱の生産および移動に対する基本的型式を創出したものと評価され、1918年に発明されて以来、ながく八幡製鉄所のみならず各一貫製鉄所、ガス・コークス産業工場などにおける副産物回収式コークス炉の原型となった。
第3は、大型高炉の建設である。はじめ1930年(昭和5)に、八幡製鉄所の技師山岡武を中心に同所洞岡(くきおか)工場に日産500トンの高炉として計画・築造されたものが発端で、これは製鉄設備国産化のうえで歴史的に大きな意義をもつのみでなく、1937年以後における1,000トン(1,000立方メートル)高炉の基礎となったのである。1,000立方メートル高炉は当時の世界の最高水準でもある。
第4は、1938年(昭和13)日本鋼管(株)川崎製鉄所において創始された日本的トーマス(Thomas)製鋼法である。今泉嘉一郎の考案にかかるこの生産体系の導入とその実績によって、今日の高炉→転炉→圧延という銑鋼一貫方法の基本は、一応戦前に準備されていたと考えてよいであろう。
第5は、国内資源の有効活用の展開である。わけても輪西(わにし)(室蘭)製鉄所で国内炭のみによる高炉用コークス製造法として、いわゆるコーライト(coalite)技術が研究開発され、また道内鉱石使用の焼結鉱のみによる高炉操業が遂行されたことは、戦後における原料事前処理・省資源技術の先がけをなすものとして評価されてよい。
第6は、総合的な臨海銑鋼一貫製鉄所の建設である。1939年(昭和14)に高炉の火入れをみた日本製鉄(株)広畑製鉄所がそれで、鋼材年産目標40万トン規模であるが、計画策定から第1高炉(1,000立方メートル)の作業開始までを、わずか2年半でなしとげた。戦後、占領下に、当時世界鉄鋼技術の最先端に立っていたアメリカの専門家が、日本の数ある製鉄工場のなかでこの広畑製鉄所のみをexcellentと評したことは、よく知られている。
第7は、わが国最初のストリップミル(stripmill)の導入である。1940年まず八幡製鉄所の戸畑でコールド・ストリップ、翌41年ホット・ストリップミルが稼動し、42年には広畑製鉄所で連続厚板ミルが作業を開始した。もちろん、アメリカからの導入設備であるが、ヨーロッパに先がけてこの新技術に挑戦した意欲が評価される。
さて、以上のような技術開発上の諸成果のほか、日本学術振興会(The Japan Society for Promation of Science)のなかの一つの共同研究組織として、製鋼ならびに製銑に関する研究委員会が、それぞれ1934年および1943年に設置され、俵国一博士(当時東大名誉教授)を委員長として活動を開始した。これは、従来日本の学問的風土ではなかなか育ちにくかった金属工学者たちと、基礎物理・化学者たちとの相互交流による共同調査研究の場をもたらしたものとして、特筆に値する。技術と科学との総合研究、わけても鉄鋼製造のプロセスに科学的計測の技術を適用させ、製銑・製鋼設備の自動制御をはかる今日の方向は、じつに学振共同研究委員会の活動のなかから芽ばえたのである。 
3 臨海銑鋼一貫製鉄所の展開

 

第2次大戦後における日本鉄鋼技術の発展は、周知のように1951年(昭和26)以来の3次にわたる設備合理化政策の路線に沿って、海外技術の導入をテコとしてなしとげられたものである。その結果、日本鉄鋼業は今日、粗鋼年産(戦後最高1973年、約1億2,000万トン)世界第3位、鋼材輸出世界第1位の段階まで達したのである。
しかし、太平洋戦争によって壊滅的な打撃をうけた日本鉄鋼業が、このような位置を獲得することができたのは、第1にわが国が幕末以来すでに1世紀をこえる近代製鉄技術の経験と蓄積をもち、さきにあげたような諸成果のうえに、共同してみずからの方途を見定めて行く実力をそなえていたこと、第2に戦後における国際経済環境に対応しつつ、積極的に内外の技術交流を深め、導入技術の選定を見誤らなかったこと、第3に敗戦による軍需の解消によって、戦後日本鉄鋼業は国民生活の向上に結びついた平和産業の基礎資材を供給するという本来の姿に立ちかえることができたこと、第4にこうして産業構造の重化学工業化が進む過程で、戦前にはついに自立することのできなかった産業機械工業の基礎が確立したのをはじめ、鉄鋼関連部門における技術の全般にわたる進歩がめざましく、いわば「鉄が鉄をよぶ」、「革新が革新をよぶ」という産業技術環境が醸成されたこと、少なくともこれらの諸点はまず理解されなくてはならないであろう。
(1) 鉄鋼対策技術委員会――自主的共同研究開発と技術交流の進展
戦後の日本鉄鋼業が復興への第一歩を記すに当って、今日一般に最も効果的な政策であったとされるのは、1946年(昭和21)12月から経済安定本部のテコ入れによって実施された、いわゆる傾斜生産方式(Priority production system)である。鉄鋼と石炭とをまず重点的に生産の軌道にのせ、雪だるま式に日本の産業復興をはかってゆこうという方式である。
だが、鉄鋼技術の分野では、戦前に学術振興会共同研究委員会を中心に進展をみせたような研究組織が、はやくも敗戦直後に日本鉄鋼協会を母胎にして生れ、工学博士三島徳七を会長、湯川正夫(のち八幡製鉄副社長)を委員長として官民・産学共同による学際的活動を開始した事実を、私は高く評価するものである。鉄鋼対策技術委員会(Steelmaking Technology Committee)がそれで、同会は1946年10月、はやくも「鉄鋼生産方式としては銑鋼一貫法が、資源の最有効利用が可能で最も合理的且効果的の製鉄方式である」と、戦後鉄鋼技術の基本方向を提唱した。
そして、この基本に立って、あわせて、1高炉装入原料サイジングの徹底、焼結鉱の使用強化、原料炭の合理的配合、弱粘結炭による優良コークスの製造研究などを含む鉄鋼技術の向上方策、2作業の科学的合理化、技術の交流、発明考案等の奨励強化、3鋼材の消費を節約するための高級鋼材の活用、鋼質・鋼材形状の研究改善と溶接や熱処理の活用実施、4作業の機械化、作業管理および熱管理の徹底、機械修理保持(メンテナンス)の強化、ならびに、2鉄鋼研究機関の相互連けい、整備強化などを打ち出したのである。
鉄鋼対策技術委員会の提唱は、やがて通商産業省、学界(日本鉄鋼協会(Iron and Steel Institute of Japan)・日本金属学会(Japan Institute of Metals)、業界の三者共同による「鉄鋼技術共同研究会」を生み、酸素製鋼法に関する共同実験研究あるいは純酸素上吹き転炉(LD転炉)Oxygentop−blown converter=LD Converter特許の共同購入方向など、好ましい技術発展の土壌を急速に整えた。そして1950年(昭和25)における日本鉄鋼協会米国鉄鋼技術調査団のアメリカ派遣を発端としての海外との技術交流とも相まって、戦後日本の鉄鋼技術が臨海銑鋼一貫製鉄所を基軸に躍進してゆく諸条件が形成されたのである。
(2) 経済環境への技術的対応
戦後日本鉄鋼業における技術革新を一口で表わせば、高炉の大型化→LD転炉の全面的採用→連続鋳造法の積極的採用→圧延作業の自動化・連続化・高速化、という一貫生産システムを、科学的合理的な原材料輸送・製品流通システムと巧みに結びつけつつ、これを新鋭臨海製鉄所のかたちで確立させたことである。このうち、鉄鋼技術革新の主導的役割をはたしたものは、いうまでもなくLD転炉として知られる純酸素上吹き転炉の導入である。
わが国LD転炉の起点は1957年(昭和32)9月、八幡製鉄所の洞岡(くきおか)工場、また大型高炉の戦後起点は1959年、同じく八幡の戸畑製造所(Tobata Area Works)においてであるが、当時わが国の鉄くず価格は国際的にみて最も高く、絶対量においても不足し、もはや戦前のような安いアメリカ鉄くずとインド銑の大量輸入に基づく平炉製鋼法(鉄くず製鋼法)のメリットは皆無に近かった。そこで、当然、安価で豊富な鉄源を安定的に得るために、高炉法を基軸とする生産システムに向うことが、経済的にも必須の課題となったのである。
おりから、日本と同じく鉄くずにとぼしいオーストリアで、生産効率の高いLD転炉が工業化の軌道にのりはじめていたことは、日本鉄鋼業にとって大変幸せであった。LD転炉はちょうど大型高炉の経済性にマッチしたのである。
戦後鉄鋼生産技術の発展は、このように国際経済環境に対応しつつ、恵まれない資源条件のなかから、いわゆる規模の経済性を追求し、生産単位当りコストを低下させ、もって国際競争力を強化させる、というかたちで実現されたのが特徴である。
1951年(昭和26)、日本鉄鋼業は一連の鉄鋼近代化計画を進発させたが、おりからの朝鮮動乱を契機に、日本経済のうえには建設用資材、造船、電気製品、自動車などの全般にわたる旺盛な鉄鋼需要がおこり、それまでに蓄積した自主的な技術開発の経験のうえに立ち、導入技術を基軸に徹底的にスケール・メリットの追求に向うことができた。
第1次合理化計画(1951−55年)では、主として圧延設備の近代化、ことに熱間(Hot)・冷間ストリップミル(Cold Strip Mill)の新設に重点がおかれた。しかし、はやく戦前から銑鋼一貫企業への進出を目ざしていた技術経営者の西山弥太郎(1893−1966)を筆頭とする川崎製鉄(1950年川崎重工業から分離独立)は、この時代にストリップ・ミルまでの一貫製鉄所を計画し、これを千葉市に実現し、1953年戦後最初の銑鋼一貫製鉄所を出発させた。
第2次計画(1956−60年)では、いよいよ大型高炉とLD転炉の建設が中心となり、さらに全般的に設備の近代化がはかられた。この期間に八幡・戸畑製造所、住友金属・和歌山製鉄所などが新発足した。海外資源の開発への協力参加のほか、ますます遠隔化してゆく資源供給地から効率的に原燃料を運ぶため、大型鉱石専用船の採用や港湾設備の改善など、わが国自然条件ならびに土木技術・造船技術の成果を巧みに活用して、積極的に輸送合理化が推進された。
なお、八幡製鉄所の戸畑製造所に、この時代に大型高炉製銑→転炉製鋼→少品種鋼材の大量圧延というマスプロ方式が完成したことは、1901年以来、多種多様の鋼材をつくり出してきた八幡製鉄所(八幡製造所、Yawata Area Works)のごとき戦前の代表的製鉄所が、歴史的役割を終えたことを同時に示すものであり、「海に築く製鉄所」とよばれた戸畑製造所(Tobata Area Works)は、その後における臨海銑鋼一貫製鉄所の代表的パターンともなった。
第3次計画(1961−65年)では、既存の各工場の設備強化と併行して、大規模な新立地一貫製鉄所の建設が行われた。現在の新日本製鉄(株)の名古屋・堺・君津・大分各製鉄所、日本鋼管(株)の福山製鉄所、川崎製鉄所の水島製鉄所、住友金属(株)の鹿島製鉄所、(株)神戸製鋼所の加古川製鉄所などが、いずれもこの時代に着工ないし企画されたもので、これら新鋭製鉄所は、それぞれ新しく造成された臨海工業地帯の中核となり、地域開発、コンビナートをともなったのが特徴である。
なお、この時代にわが国産業機械工業がその技術的基礎を確立し、製鉄機械のなかでも最も製造が困難とされたすトリップ・ミルなどの高級圧延機分野において、国際的に劣らない設備を鉄鋼業に対して供給しうるようになったことは、その後鉄鋼メーカーとプラントメーカーとが提携して、製鉄事業そのものの海外技術協力をはかる基礎が、完全に整ったことを物語る。
1960年代後半においても、鉄鋼業の拡大投資はつづけられ、大型化・連続化・コンピューター化が進み、粗鋼年産1,000万トン規模の臨海製鉄所が出現した。わけても、分塊圧延機をもたぬ全連続鋳造方式による世界最初の一貫製鉄所(新日鉄・大分)が発足したことは、省エネルギーその他あらゆる観点からみて技術史的意義をもつものである。戦後日本経済の重化学工業化の過程において、一つには産業機械工業、化学工業、土木・建設工業が発達し、いま一つには自然科学、・工学理論が発展し、この二つの方向と鉄鋼技術とがはじめて密接に結びついたこと、そうした総合性のなかに鉄鋼技術の進歩がもたらされたこのが、戦後技術の大きな特質である。 
4 技術導入から自主開発へ / LD転炉とOG法 

 

日本鉄鋼技術の自主的発展のために多くのすぐれた論考をのこした工学博士雀部(ささべ)高雄は、その遺稿集『鉄鋼技術論』(1968年)のなかで、今日の日本のはなばなしい技術革新は、もともと第1次合理化計画以後のきわめて短期間のうちに海外から急速に導入したものであることを指摘し、じつは導入技術への依存が、ややもすれば自主的な技術の発展を阻害する大きな要因ともなっていると、警告を発したことがある。彼は言う。
製銑部門の技術は、その主要部分をアメリカおよび西ドイツから導入し、純酸素上吹転炉はオーストリアから導入し、重油を使用する製鋼方式はアメリカから導入した。圧延部門のストリップ・ミルの導入は、アメリカから全圧延機設備を購入したほかに、ストリップ・ミルで圧延する粗材の製鋼技術の指導から、図面および操業法の提供、外人技師による指導、日本人技術者の教育等々まで、いっさいを含む技術導入であった。大企業各社は、だいたいこれと類似の方法で繰り返し、個々にそれぞれストリップ・ミルを導入した。
じっさい、この通りで、戦時下の立ちおくれを日本鉄鋼業がいっきにとりもどそうとするには、導入技術をテコにすることは、最も有効な方法であった。だが……と雀部はつづける。
純酸素上吹転炉法の現在の発展は、長い目でみれば、酸素発見の化学者、転炉の発明者、冶金学者ドゥラー(Robert Durrer)、物理学者カピツァ(P. L. Kapitsa)等々の優れた個人的の貴重な創意活動が積み重なって得られた賜である。ここに見失ってならないことは、そのどの一つ一つの業績も多くの人びとの協業を条件として始めて完成しえたものであり、さらにそのどの一つをみても、世代から世代へと多くの人びとが積み重ねてきた科学・技術に関する蓄積のうえに積み上げられた成果なのである。自主的な技術発展にはこの面が重要である。ドゥラーは1932年から研究を始め、1953年に初めて工業的生産に入った。わが国はこれを買って現在盛んに操業を行なっている。わが国の技術者、労働者の高技術水準を土台にすれば、金さえ出せばそのうえにすぐ海外の新技術を導入できる。いかにはなばなしく見えても、このような技術発展の本質は、金で新しいものを買う商取引的であり、商業的な技術発展の面が強く、そのために自主的な技術の展開がはばまれている。
研究開発されたもの、導入されたもの、それはたとえ同じ設備であっても、みずからが営々とつくり上げてきた場合と、その成果のみを金で買った場合とでは本質的にちがう。創造的精神は自主的に協力してつかみとるものであって、決して金では買えない。雀部はその点を指摘するのである。
したがって、かれが「科学・技術の研究に直接に力を入れることはもちろん必要ではあるが、特殊性の強いわが国においては、それ以上にまず社会科学的の立場からの研究に力を入れなければ、行くべき正しい方向がきまらない」と主張し、自主的技術発展のために、社会科学者・自然科学者・技術者・労働者による強力な経済研究体制の確立が必要であることを提言していることは、卓見だといってよい。じつはこのような社会的経済的条件にとぼしく、また好ましい学際的な研究環境の創造を怠ってきたことは、戦前からの日本の一つの大きな欠陥であったのである。
しかし、自主的技術発展を阻害する要因とたたかいながら、とにかく戦後日本鉄鋼技術の第一線の人びとは、たくみに経済環境の変化に対応しつつ、導入技術をテコに、すすんで新しい技術を創造し、国際競争力を蓄積してきたこともまた事実であったことを、私は「LD転炉からOG法開発へ」という具体例に即して、少しく明かにしてみたい。
その技術指導者の名を湯川正夫(1903−69)という。湯川はみずからが委員長として提唱した前記鉄鋼対策技術委員会の報告書の路線を忠実に実施するかのように、八幡製鉄所の戸畑地区を先頭に、
鉄鉱石の事前処理→大型高炉→純酸素上吹転炉→連続鋳造→電子計算機制御を具備する高速精密な圧延機→必要に応じての熱処理、表面処理という大量生産方式をもつ「海に築く銑鋼一貫製鉄所」を実現し、一方、旧八幡地区を高級品質鋼材生産工場に特化させ、さらにわが国の海外への技術協力の原点といえるブラジル・ウジミナス製鉄所(Usinas Siderurgicas de Minas Gerais(USIMINAS)in Brazil)を完成させ、なおわが国最初の鉄鋼科学技術国際会議を準備して、その技術者・経営者としての生涯をおえたのである。
湯川の友人でもあった現代世界の鉄冶金学の権威、前ドイツ鉄鋼協会会長H・シェンク(Hermann Schenck)博士は、彼を「近代製鉄技術史上に光彩を放つ偉大な人」とたたえ、その業績はすべての国の鉄鋼業界の専門家にあまねく知られているとのべている。
湯川は第2次大戦後、積極的に欧米からの技術導入を推進した1人である。しかし、同時にその過程で日本人みずからによる創造的な技術開発力を確信し、若手技術者たちをたくみに組織づけ、育成し、ひろい視野のもとに、日本鉄鋼技術が逆に国際的にひろく世界諸国に寄与しうる地盤をつくり上げた。
ここで、戦後日本における臨海銑鋼一貫製鉄所の原点といえる戸畑製造所(Tohata Area Works)について、みることにしよう。
第2次合理化計画がまとめられた1956年8月のころ、八幡製鉄所はすでに半世紀をこえる歴史をもち、相つぐ工場の増設によってレイアウトも悪く、生産系統は複雑で、作業能率、品質管理上の隘路となり、「風通しをよくする」ことが痛感されていた。いわば工場群の体質改善が必要であった。
八幡製鉄所技師長兼管理局長として、湯川は、この旧八幡地区から逐次高炉部門をはずして、厚板工場、珪素鋼板工場、軌条工場などの設備増強と改造をはかり、収益性の高い高級品質鋼材の生産に重点を移してゆくとともに、新しく「鉄源からの増強計画」として、高炉以下の一貫体制による効率のよい少品種大量生産を地積のある戸畑地区に集中するというマスタープランを立てた。前者の高級鋼化に対しては、1950年代はじめから、米国アームコ社との間に1帯鋼の亜鉛メッキ技術、2熱延珪素鋼板製造技術、3ストリップ・ミルによる平板製造技術、4ボンデ処理鋼板など長期技術契約を結んだのをはじめ、西ドイツ・ハインツマン社と5可縮坑枠鋼、アメリカン・カン社と6製造協定=電気ブリキ製造技術というように、導入技術を基軸としての製品の質的向上を推進していった。
そして後者、量の拡大と新技術の具体化をめざす戸畑地区における新規立地としては、
1 可能なかぎり大量生産の形態として高能率作業を目標とする。
2 原料および成品の輸送、流れを能率化する。
3 成品の種類を極力単純化する。
という3本の柱を目標とし、既設の戦前からのストリップ工場との関連も考慮して、今日のレイアウトが決定された。こうして、11,500トン高炉2基、260トン純酸素転炉3基、3分塊圧延設備、480インチ半連続式熱間圧延設備、80インチ送転式冷間帯鋼圧延設備、6亜鉛メッキ設備・錫メッキ設備・ボンデ鋼板設備などを基本設備とする、最終粗鋼年産250万トン規模の計画工事が進発したのである。
ここでまず1,500トン高炉が戦前の水準を大きく打破る大英断であり、つぎに将来の自動車生産の伸びを見通して、連続式冷間圧延設備(前記5)を導入し、それまでアメリカから輪入されていた乗用車用の広幅冷延薄板の自給自足態勢を整えたことが注目されるのであるが、これらにも増して特筆に値するのが、大型高炉に対応して計画された60トン純酸素転炉(LD転炉)の採用である。
オーストリアで戦後はじめて工業化に成功したこのLD転炉については、わが国ではトーマス転炉(Thomas converter)の技術的伝統をもつ日本鋼管がまず着目し、1950年末に西ドイツの“Stahl und Eisen”誌に載った紹介記事に刺激されて調査を進め、ヨーロッパに転炉技術視察に赴き、52年には秘密実験にのり出していた。これより一歩おくれ、八幡の若手技術者たちも、イギリス鉄鋼協会誌(The Journal of Iron and Steel Institute)が1952年に発行した新転炉特集号をもとに、その採用に情熱を燃やしはじめていた。この声をいちはやく吸い上げたのが、1930年代前後のヨーロッパ留学のころからすでにイギリス製鋼協会の終身会員として、海外技術情報への着目を怠らなかった技術部長湯川正夫であった。1953年春には、湯川の指示によってそれまでの1トン程度の実験炉に代って、直ちに横吹きおよび上吹き可能の5トン試験転炉が設置された。酸素発生器などの研究では進んでいた八幡が、このため転炉開発プロジェクトでは日本鋼管より先行することとなった。試験に先立って、技師長湯川は吹精製鋼法の発展に不可欠なドロマイト系転炉用煉瓦の研究開発を指示することを忘れなかった。実験結果と各種の調査から、LD転炉法の将来性について見通しがえられると、製鋼部長武田喜三(きぞう)がヨーロッパに派遣され、1955年5月、同法の特殊管理会社(BOT)との間に、技術導入のための交渉が開始された。
しかし、時を同じくして日本鋼管でも先方と接触をはじめたことが判明し、八幡当局は国家的な見地から窓口を日本鋼管一本にしぼることを提唱し、日本BOTグループLD委員会を組織した。こうしてその後に新規参入する各社にもLD転炉に関しては公平に権利を再供与する紳士協定が結ばれ、大手会社技術陣の相互交流の場が開かれた。これは、戦後技術革新の大きな起爆剤となったLD転炉が、まず受容のための周到な準備の積み重ねのうちに、「自主的に」導入されたものと評価してよいであろう。
設備の主要部分はヨーロッパ(Demag社など)に発注され、その交渉や転炉操業の実習のため製鋼関係技術者が相ついで派遣され、並行して炉の建設が進められた。折あしく1956年10月のハンガリー動乱につぐスエズ動乱があり、炉体の納期遅延は決定的となった。このとき湯川技師長は、国産技術によって工期を遅延させないよう決断し、ただちに代替炉体を石川島重工業に発注し、デマグ社からの導入炉体は結局第2号炉に転用された。
こうして1957年1月、わが国最初の純酸素転炉は計画どおり稼動のはこびとなった。しかし、国産技術に基づく炉体に切かえるとき、ヨーロッパでは可動装置に通常のベアリングを採用していたのに対し、八幡では試験転炉で好成果をみた軸受鋼によるローラーベアリングを採用し、小さい動力で操業させるという手ぎわのよさをも示している。
さて、革新は革新をよび、この導入技術を土台に世界に知られる技術開発がめばえる。酸素転炉による製鋼精錬のさい発生する排ガスを回収し、処理して、資源エネルギーの再生をはかり、あわせて公害を完全に防ぐ技術である。酸素転炉排ガス回収システム(OG法=Basic Oxygen Furnace Waste Gas Cooling and Clearing System)とよばれるこの新方式のアイディアを出したのは動力設備の建設を担当する電気技術者の秋田武夫であった。ところが、基本特許はボイラー・メーカーの横山工業(のち川崎重工業と合併)がすでに取得していた。そこで湯川らは、1955年夏、横山工業との協力路線をとり、OG法の共同開発委員会を組織し、製鋼技術者の相原河州美らに専念させることとなった。「技術の履歴書、OG法」という論考は、OG法開発の近況をつぎのように伝えている。
委員会は2トン試験炉を使ってOG法の概念設計、安全性、経済性を徹底して詰めた。一酸化炭素は防爆、防毒に、ことに気を配らなければならない。この費用を計算すると何と本体と同程度かかる。建設費を見積ると20数億円になった。だから湯川らが即座にOKを出した時は委員長の相原自身、半信半疑だった。
実施化に当っては最終的な技術の詰めは転炉掛長の前原繁(まえばらしげる)を主査とするOG実施小委員会に引き渡される。メンバーは、八幡、横山のほか、富士電機製造から現場の係長、作業長クラスの働き盛りが約60人、昼は工場内で各種試験、夜は夜で近くの旅館でコップ酒をあおりながら、議論を繰り返した。ばらばらに集められたそれぞれの道のエキスパートたちは、こうして一体となって協調し、実力をフルに発揮する。
ガスの自動分析計、計量器、各種安全装置などのほか、現在のミニコン制御と同様の発想を駆使した自動化システムなどを立て続けに開発。さらに今日でも転炉操業の聖書といわれる電話帳3冊ほどの「試運転方案」も作成した。危険な一酸化炭素を扱うだけに、ささいなミスも許されないから、キメ細かいマニュアルが必要だったのだ。
この間、研究実績の見通しから、湯川は1960年12月にOG法を国内最大の戸畑第2転炉工場(130トン転炉)に適用することを常務会に提案して決定し、まだ前途多難を思わせるものがあって苦労を重ねていた関係技術者たちを驚かせた。同工場は62年3月に操業を開始し、その後きわめて順調に新鋭戸畑第3高炉(1947立方メートル)と歩調をあわせて生産量を飛躍的に伸ばすこととなり、戸畑製造所における量産システムの完成に有終の美をかざったのであった。
OG法は、エレクトロニクスの分野におけるエサキダイオード(1957年)やソニー・マグネット・ダイオード(1968年)などとならぶ、戦後日本技術史における画期的な発明となった。設備費が少なく、廃ガスをうまく回収でき、公害防止の役割をはたすために、戸畑での導入以来、住友金属工業、大阪製鋼など国内各社で次々に実績を上げ、やがてアメリカのアームコスチール社、U.S.スチール社、イギリスのスチールカンパニー・オブ・ウェルズ社などから続々と引合いが舞いこみ、技術輸出商品の花形となった。今日の鉄鋼技術貿易バランスのなかでOG法のはたす役割は大きい。 
5 これからの技術のために / 小さくともその国土と地域に見合った鉄鋼技術を 

 

日本鋼管輸出組合(Japan Iron&Steel Exporters'Association)の委嘱をうけて、アメリカのミドル・テネシー州立大学(Middle Tennessee State Univ.)の2人の経済学者、Hans MuellerおよびKiyoshi Kawahitoがまとめた近年の労作に“Steel Industry Economics”1978がある。これは事実上1977年5月に日本のダンピング輸出などを問題にした米鉄鋼協会白書に対する反論といわれるが、私にとって興味深いのは、ここ20年間における米・日・ECの鉄鋼生産設備能力を比較した第3表に示すようなデータがあることである。表中の1956年という時点は、日本鉄鋼業が臨海銑鋼一貫製鉄所を中心に第2次合理化計画を進発させた年に当る。この20年間に、日本の生産能力は1億3,700万トン(net ton)増加した。しかし、アメリカはこの間わが国よりはるかに多くの設備投資を行いながら、わずか4,000万トンの増加にとどまった。このちがいは日本の生産能力拡大がおもにグリーン・フィールド(新規立地)のかたちでなされたのに対し、アメリカは既存製鉄所の改造、再建によって行われたことに由来する。
第3表 米国・日本・ECの鉄鋼設備投資額と生産能力の比較
EC(6ヵ国)では、この間1億800万トンの能力増加がなされたが、新規立地は比較的に少なく、日本と似かよった額の設備投資をしながら、その効果は大分落ちる。つまり日本鉄鋼業はスケール・メリットの実現という点で、アメリカよりもECよりも、はるかにまさる成果をあげたのである。
アメリカで史上最大の鉄鋼トラストUSスチール社が、資本金14億ドル、鋼材1,060万トン(metric ton)の規模をもって1901年に成立したとき、東洋最初の鉄鋼一貫製鉄所として年産9万トンを目標に瓜々の声をあげたのが官営八幡製鉄所であった。この八幡は、戸畑製造所を含めて、今日では粗鋼年産約800万トンの大製鉄所に発展した。しかし、新鋭製鉄所として70年代のチャンピオンになった君津製鉄所にくらべると、効率はいかんともしがたく、第4表にみるように1人当り生産性はおよそ1/4〜2/5といったところである。大量生産体制をめざすかぎり、既存製鉄所をベースとすることが、いかに割に合わないかは、この一例でもわかる。
日本鉄鋼業はスケール・メリットをあざして驀進し、粗鋼生産は1964年には西ドイツを抜き、73年には1億1,932万トンと最高を記録し、同年1人当り見掛消費量もまた802キログラムという驚異的なデータを示した。
第4表 新設および在来製鉄所の生産性比較
ところが、1973年秋、第4次中東戦争を契機として起ったオイル・ショックは、それまで高度経済成長の波にのって革新につぐ革新に明け暮れ、一方、公害問題を各地で激発してきた日本技術のあり方に、このうえない反省の機会をもたらした。私はそれをつぎのように整理してみた。
1 このかけがえのない地球の、有限の資源をもっと大切にしよう。それに は、これからの技術は省資源・省エネルギー・省力化、さらにリサイクリングの追究を徹底しなければならない。
2 資源ナショナリズムのよってきたるところを理解し、資源をもつ開発途上国と資源をもたぬ先進工業国との真の国際交流の道を考えよう。これからの世界のなかでの日本技術の方向は、相互の「自力更生」の精神を基底として、南北問題の解決に資するところがあるものでなくてはならない。
3 総じて、もの(自然)と人間との対話をとりもどそう。自然とともに生きる技術思想の探求のうえにこそ、人間が人間としての存在をおかされることのない真の技術創造が形成されるにちがいない。
石油危機後、世界経済の態様は変り、円高不況のもと日本鉄鋼業は年産能力約1億5,000万トンという巨大な生産設備をかかえ、需要(ことに土木建設・造船部門)の落ちこみによって生産は伸びなやみ、アメリカ、EC諸国の例にもれず70%台の操業を余儀なくされている。
U.S.スチール社を抜いて世界最大の鉄鋼企業の座にある新日本製鉄(Nippon Steel Corp.)は、1978年10月、「低成長時代」に対処しての全社的な合理化計画を発表した。要点は、釜石・八幡などの古い設備を休止して、君津・大分を主力とする新鋭設備に生産を集中し、効率を向上させるとともに、エンジニアリング事業部門を強化し、世界のなかでの地歩を固めようというにある。地域経済への影響には目をつむっても、なおスケール・メリットを生かしつつ企業としての競争力を強化しようというわけである。日本鉄鋼技術は一つの大きな転回点に立っているといってよいであろう。
現代製鉄法の主流は、いうまでもなく高炉―酸素転炉法である。経済性の点から、ひきつづき大型高炉からの一貫方式は動かないであろう。しかし、先見性のある前記湯川氏がはやく指摘したように、鉄鋼資源としての鉄鉱石は、世界各地に高品位の大鉱床が発見されて長期にわたる供給力が見込めても、還元剤源としての石炭、すなわち従来の製鉄用原料炭については、その埋蔵量について楽観は許されない。そこで、これまでの一応のアイディアとして取扱われてきた「石炭以外の還元剤による鉄鋼の生産方式、すなわち、天然ガス、重油等による鉄鋼生産方式」が、地域的に条件のそろったところでは経済性も生れ、直接還元製鉄法として工業化への道が開かれ出すのは、自然の勢いである。
西ドイツの冶金学者L・Von Bogdandyは、年産500万トン以上の規模の製鉄所では「高炉―LD転炉法」が有利であり、年産40〜50万トン規模では「還元鉄―電気炉法」が有利、なお中間規模の製鉄所では、電気炉、LD転炉法の共用も考えられると論じている。もちろん、その地域におけるエネルギー・資源条件、わけても溶銑コストと鉄くずおよび還元鉄コストの相対比較、さらに公害技術の動向によって大きく左右されるが、一般に年産粗鋼200万トン規模を、高炉―酸素転炉法と、直接還元―電気炉法の分岐点と受けとめてよい(年産100万トン規模で両者の設備費を比較すると、直接還元―電気炉法が30〜40%安い)。
後者には、前者とちがって還元と酸化という二つのプロセスを通る原理的なムダがない。そのうえ還元に強粘結炭を必要としない利点がある。したがって、近年大型高炉の建設がむずかしい地域でも、経済的に有利な一貫製鉄所が建設されており、日本鉄鋼連盟は「1985年には直接還元製鉄法による生産が6,000万トンに達する予想」と報じている。
直接還元製鉄法のなかで、今日もっとも普及しつつあるものの一つに、シャフト炉法に基づくMidrex法がある。神戸製鋼所では、この方法を基本に1974年10月、中東のカタール政府と合弁会社Qatar Steel Co.を設立し、直接還元―電気製鋼―連続鋳造―圧延という一貫生産システムをもつ粗鋼年産40万トン(棒鋼25万トン、ピレット約6万トン)の製鉄所を建設し、78年3月に操業を開始した(次図参照)。
国庫収入の約97%を石油が占める典型的な産油国カタールでは、排出される天然ガスのおよそ8割が未利用のままであった。しかるに、その主部分を占めるCH4が還元剤(H2+CO)源としてみごとに生かされたのである。ここでは原燃料の制約条件がほとんどないうえに、このプロセスの特徴として公害要素が(Closed systemのため)少なく、大きな投資も不必要で、高炉―LD法以上の自動化、省力化も可能であった。
かつてマレーシアのMalayawata Steel Co. Ltdではゴムの廃木が還元剤源(木炭)として活用され、当初170トン木炭高炉をもつ鋼材年産12万トン程度の規模から出発したが(1967年)、近年産業連関理論の立場からも、この行き方が効果的であったことが立証されている(鳥居泰彦「マラヤワタ・プロジェクトの経済効果」『鉄鋼界』1978年10月)。
カタール製鉄所で採用したMidrex法の原理図
マレーシアでもカタールでも、「就地取材」をたてまえとする地域に適した新しい土着の技術が、日本の鉄鋼技術陣の協力のもとに、科学の原理と経済的合理性をともなって創造されたのである。
銑鋼一貫製鉄所といえば、かつて世界第1の製鉄国であったスウェーデンでは、いま日本でいうといちばん小さい釜石製鉄所程度の100万トン台が最大で、国全体の粗鋼年産は約500万トン、つまり日本の20分の1ほどとなっている。しかし、はやくすぐれた鉄鉱資源と電力資源とを結びつけ、高級鋼・合金鋼分野に先鞭をつけ、世界に直接還元法(Wiberg法)をはじめ、電気シャフト炉、自溶性焼結鉱などの発明をもたらすとともに、鉄鋼貿易でも量では入超だが金額では出超という理想的な状況をつくり上げ、1人当り粗鋼見掛消費量ではつねに世界の最高水準を示している。
小さくともその国土と地域に見合った、公害のない美しく新しい技術の道を、北(スウェーデン)も南(カタール)も、私たちに語りかけ、これからの鉄鋼技術のあるべき姿の一つを示唆しているように思われる。 
 
明治から昭和初期の生活と文化

 

装いの文明開化 / 官僚から庶民まで 
文明開化の雰囲気
「文明開化」と言えば、何がイメージされるでしょうか。洋服、シルクハット、こうもり傘、靴、背広、煉瓦街、洋式建築、洋食、人力車、馬車、鉄道・・・。まさに、このような西洋の文物を取り入れようとした明治初期の時代の風潮のことを文明開化と言います。文明開化は、東京と横浜や神戸などの開港地から始まりました。なかでも東京銀座には、ロンドンとパリをまねた煉瓦造りの洋館やガス灯が設置され、西欧風の町並みを背景に、洋装やザンギリ頭をした紳士が人力車や馬車に乗る姿が評判になりました。このような銀座通りの様子は、当時流行した錦絵に残されています (1)。
官僚の制服の洋装化
今では老若男女を問わず、ほとんどの人が洋服を着ます。むしろ和服を着ることの方が珍しく、七五三や成人式、結婚式のような晴れの日にしか、袖を通す機会もなくなってきたのではないでしょうか。では日本人は、いつ頃から和服を脱ぎ捨て、洋服を着るようになったのでしょうか。それは明治初期のことでしたが、まだ限られた人々のみが洋服を着はじめた、という状況に過ぎませんでした。
この装いの文明開化がどのように進んだか、資料で見てみましょう。
男性用の洋服は、すでに幕末には軍隊などで用いられていましたが、明治初期に官僚の制服が洋装になったことで、その後、民間にも徐々に普及していきます。最初に文官(官僚のうち軍事以外の行政事務を取り扱う者、文民の官僚の総称)の礼装である大礼服の体裁を定めたのが、明治5年制定、太政官布告第339号の「大礼服汎則」です。 (2) はこの中の一部で、勅任官・奏任官・判任官(文官の位)の大礼服について、帽子・上衣・下衣の服地や寸法、飾章の入れ方、ボタンの付け方まで詳細に示した表です。(3) は、勅任官の帽子などを図示したものです。他にも、上着やズボン、襟の模様など、その形式の規則が図によってかなり詳しく示されています。
この大礼服は、新年の拝謁や宴会、紀元節、外国公使参朝の節など、非常に格式の高い場で着用されました。このため、大礼服着用時の敬礼の作法も定められていました。 (4)、(5)、(6)、(7) は、文官が大礼服を着た時の敬礼の仕方を図示したものです。
官僚の服制は、幾度も改正されながら、第二次世界大戦後に廃止されるまで引き継がれました。
鹿鳴館の女性の装い
一方、女性が初めて洋服を着たのは、男性に少し遅れて鹿鳴館の時代です。鹿鳴館は、明治16年、お雇い外国人のジョサイア・コンドルの設計により、東京日比谷の一角に建てられた洋風建築です。明治政府は、幕末から残っていた外国人の特権をなくそうとして、不平等条約の改正にとりかかりましたが、それにはまず日本が文明国であることを諸外国に納得させなければなりませんでした。そこで、日本にも社交界やダンスパーティーがあるということを見せようとして夜会や祝宴、貴婦人慈善会などが開かれました。きらびやかな西洋風のパーティー会場に着物姿は不自然なので、女性達はウエストをコルセットでしめつけ、フレアースカートをまとう西欧風のファッションを取り入れました。 (8) は鹿鳴館の貴婦人慈善会の様子を示す錦絵です。しかし、この鹿鳴館の服装は、数年間しか続きませんでした。実は女性達は慣れないコルセットに苦しんでいたようです。
このように、官僚や華族のような特別な人達を中心に、日本人も近代的な洋服を着始めた、というのが文明開化の時代のできごとです。
庶民の装い
洋服は当時はとても高価なぜいたく品だったので、これに手の届かない庶民はそれまで通りに和服を着ていました。ちなみに、「和服」という言葉は、「洋服」が日本に入ってきた時に、これに対する言葉として作られたものです。裕福な町人は、高価な絹織物や毛織物などを服地にした和服を着ましたが、農民は主に綿織物を服地とした簡素な和服を着ていました。しかし、この庶民の和服も、その服地となる織物は幕末維新期にダイナミックに変化していました。開港後、西欧製品の参入によって、モスリンや金巾のような輸入織物が和装ファッションに浸透して、庶民にも多様な用途において用いられるようになっていました。 (9)、(10)、(11) は、明治2年度(旧暦)に日本の各港で輸入された物品を示した表です。ここからは、いろいろな織物が輸入されていたことがわかります。(9)は綿織物類、(10)は麻織物類、(11)は毛織物の輸入数量をそれぞれ示しています。
「裸体」の取り締まり
当時の人々は、このような和服をどのように着ていたのでしょうか。現代人にとって、和服はとても窮屈なイメージがありますが、実は昔の人達も同じだったようです。日本人は、和服を軽くひっかけるようにして着ていました。すると、当然、着物がはだけてしまいます。このような姿について、ペリーに随行した宣教師のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムは、「婦人達は胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き・・・」というように半ば蔑むように語っています。このような「裸体」の風俗は、日本人にとっては極めて普通のことでしたが、初めてこれを目にした西洋人達はとても驚きました。このような「文明」の視線に対し、日本を野蛮と思われるのを嫌った明治政府は、「裸体」の風俗を取り締まるようになります。明治元年、横浜を皮切りに、続いて明治4年に東京でも裸体禁止令が出され、その後、全国に普及していきました。その流れの中で、裸体や混浴を禁止する「違式詿違条例」が明治5年に東京で出され、その後、各地で風俗の取締りが行われるようになりました。 (12)、(13) は、明治5年に東京府で出された違式詿違条例です。 (12) は混浴の禁止、(13)は裸体を禁止する条例を示しています。このように、庶民にとっての文明開化は、風俗の取り締りへの対応という経験でもありました。 
海水浴の誕生 / 余暇は湘南の海で

 

海水浴はいつから?
現在の湘南地域は、海水浴場やサーフポイントが散在するレジャースポットとして人気を集めています。特に海水浴は夏のレジャーとして広く楽しまれています。しかし、四方を海に囲まれた島国・日本において、海水浴が一般化したのは実はそれほど古い昔ではないということをご存じでしょうか。
海水浴の始まり
かつて、人々にとって海は生活の場でした。漁師や海女(あま)などは、生活のために海に入ります。また、これと同時に、海はとても神聖な場でもありました。神仏に祈りを捧げるため、海でけがれを払う行為(みそぎ、垢離〔こり〕)を特に潮垢離(しおごり)と言います。現在でもお祭りの際に海に入ることがあります。このような時代には、夏になると人々が海水浴を楽しむ、という光景は一般的なものではありませんでした。
では、いつ頃から海水浴が始まったのでしょう。通説では、幕末の頃に西洋医学を学んだ医師達によって広められたのが最初であると言われています。しかし、この海水浴というのは遊泳を楽しむのではなく、支柱を立ててそれにつかまり、海水に身体を浸すことで病気を治療しようとする医療行為でした。オランダの医師、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)に学んだ長与専斎や松本順(良順)らによって、明治初期以降、海水浴場が次々に開設されました。 (1) は松本が著した海水浴のすすめです。明治政府において、長与専斎は内務省衛生局の初代局長、松本順は初代陸軍軍医総監となっています。
一方、安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結以降に来日した欧米人を中心とする外国人達は、蒸し暑い日本の夏を快適に過ごすため休暇には海浜地域を訪れ、ごく早い時期から海水浴を行っていたと言われています。関東に設置された外国人居留地(横浜、築地)で暮らしていた外国人達が好んだ海水浴場としては、現在の横浜市金沢区、富岡の地が知られています。富岡で海水浴を楽しんだ外国人の中には、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン(James Curtis Hepburn)も含まれています。
鉄道の開通
当時外国人達は、居留地から一定距離の範囲内でしか自由に旅行できないという規定(外国人遊歩規定)にしばられていました。日本に居住していた欧米各国の公使らは自由に旅行ができないことを不便に思い、なんとか遊歩規定の範囲を広げてほしいと外務卿寺島宗則に歎願を行っています。 (2) はこの歎願を翻訳したものです。富岡は遊歩規定範囲に入っており、交通の便からも休暇を過ごすのには好都合でした。なぜなら明治5年(1872年)には新橋−横浜間で東海道鉄道が開通していたためです。横浜居留地の外国人だけではなく、築地居留地に住む外国人も鉄道を利用することで比較的容易に海浜部まで移動できたのです。横浜からは人力車や小舟をチャーターして富岡へ向かいました。横浜から先への移動手段が限られていたこともあり、富岡以外の海水浴場としても横浜周辺の東京湾沿岸部が賑わいをみせました。次第に政財界人や華族などの上流階層に属す日本人も避暑に訪れるようになり、長期滞在のための別荘がたくさん建設されました。
明治20年(1887年)、大きな変化が起こります。東海道鉄道が横浜からさらに先、国府津まで営業距離を延長して開通しました。 (3) は、「鉄道の父」と称される鉄道局長の井上勝が、線路の落成と営業開始を内閣総理大臣の伊藤博文に報告した文書です。翌年には横須賀鉄道が大船−横須賀間で開業しました。こうした交通環境の変化は、海水浴客にも影響します。
大磯海水浴場の発展
かつて居留地の外国人や上流階層の日本人の人気を集めた富岡海水浴場に代わり、由比ヶ浜、鵠沼や大磯といった東海道鉄道沿線、つまり相模湾沿岸の海水浴場(いずれも明治17年〔1884年〕以降に開設)の人気が高まり、特に大磯は大勢の人でにぎわうようになります。なぜなら、大磯海水浴場は大磯停車場から歩いていける距離にあり、富岡海水浴場のように鉄道の駅から人力車や小舟で移動する必要がなかったからです。鉄道の開通によって海水浴場へのアクセスが容易になると、一部の上流階級の人々だけではなく、さまざまな社会階層の人々が海浜部での余暇を楽しむようになりました。また、海水に浸かって病気を癒すという目的から、遊泳を楽しむという目的へと「海水浴」の性格も次第に変化していきました。
なお、大磯海水浴場を開いたのは松本順です。松本はこの地が医療行為としての海水浴に適しているとの考えから海水浴場を開きました。松本自身も病気(リュウマチ)療養のため、しばしば海水浴に行きたいとの希望を軍部に提出しています。 (4)、(5) はその届出で、同様の内容の届出が何通も確認できます。
起源としては富岡海水浴場の方が古いのですが、鉄道開通を契機に富岡の人気が相対的に低くなっていきます。替わって大磯が注目を集めるようになり、「海水浴場発祥の地」として人々に認識されるようになりました。明治時代の編集者・石井研堂が明治41年(1908年)に著した『明治事物起原』「海水浴場の始」にも大磯の地名とともにしっかり松本の名が記されています (6)。東海道線沿線の風物を描いた鉄道唱歌でも「海水浴に名を得たる大磯みえて波すずし」とあります。
レジャースポット・湘南へ
明治35年(1902年)には、江ノ島電気鉄道が藤沢-片瀬間の営業を開始します。明治43年(1910年)には小町までの全線が開通し、海水浴客に加えて江ノ島参詣を目的とする人々にとっても移動が楽になりました。鉄道によって江ノ島、藤沢、鎌倉とが連結され、周遊ルートが完成すると、東京から日帰り、または一泊二日程度でじゅうぶんに楽しむことができる手軽な行楽地として人気を博していくことになります。
明治時代に東海道鉄道の延長によって結ばれた相模湾沿岸の地域、いわゆる「湘南エリア」は、現在では夏場の海水浴に限らず、戦後に広まった新しいスポーツであるサーフィンを楽しむ人々でもにぎわっています。 
日本の学校制度 / 小学校を卒業したら 

 

教育の義務と権利
小学校を卒業すると、次に進学する学校はどこでしょうか。中学校ですね。現在の日本では、日本国憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」とある通り、国民には教育を受けさせる義務があると同時に教育を受ける権利を持っています。義務教育課程に相当する学校が、小学校(または特別支援学校の小学部)と中学校(または中等教育学校の前期課程または特別支援学校の中学部)です。小学校に6年間通い、引き続き中学校に3年通うことが法令で定められています。それぞれの学校での各修業年限から、義務教育課程の学校制度は「六・三制」と呼ばれています。義務教育以外の高等学校3年・大学4年を合わせた現在の学校制度を「六・三・三・四制」と呼ぶこともあります。
このような学校制度は、昭和22年(1947年)に教育基本法と共に制定された学校教育法で定められたもので、明治期以来の戦前の学校制度が大きく変更されるかたちで成立しました。 (1) は学校教育法案を審議した際の会議録です。冒頭部分に、変更の理由として、
(1) 教育の機会均等
(2) 普通教育の普及と男女差別の撤廃
(3) 学校制度の単純化
が挙げられています。これらの点に注目しながら、資料で戦前の学校制度の移り変わりを見てみましょう。
小学校の義務教育化
日本最初の近代学校制度は明治6年(1873年)に、フランスを模範とする中央集権的な「学制」として定められます。「学制」では学校制度が大学・中学・小学の三段階と定められ、国民に教育の機会が開かれました。(2) は「学制」の序文です。ここには「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆゑんのものは他なし。身を脩め智を開き才藝を長するによるなり。而て其身を脩め智を開き才藝を長するは學にあらされは能はす。是れ學校の設あるゆゑん(道徳を身につけ、能力を引き出し伸ばすことを学び、立身出世を可能にするのが学校である)」と明示されています。また、小学校は「人民一般必す学はすんはあるへからさるものとす(国民は必ず学ばなければならないこととする)」と就学義務のある8年制の学校(下等小学校4年、上等小学校4年)として規定されました。しかしながら、授業料や学校の建設・維持費などは教育を受ける主体、つまり国民が負担することとされており、負担に耐えかねた人々の中からは学制反対一揆が起こることもありました。
明治12年(1879年)には学制が廃止され、アメリカを模範にして学校の設置や就学義務を地方に任せる教育令が定められました。しかし、官僚らから批判の声が上がり、翌明治13年(1880年)には学校や教育に対する政府の統制を強める改正が行われました。
教育の義務という言葉が初めて登場するのは明治19年(1886年)、勅令として出された「小学校令」 (3) においてです。この後戦前期を通して修業年限は異なるものの、3〜6年制の小学校(尋常小学校)が義務教育課程となりました。
小学校卒業後の進路はどうでしょうか。戦前の日本では、小学校を卒業した後、必ずしも卒業生全員が中学校に進学するわけではありませんでした。自らの希望する進路に合わせて、中学校以外の各種上級学校に進学したり、あるいは進学せずに家業を手伝ったり、職に就いたりしました。また、男女によっても進学ルートは異なっていました。
複線型の進学システム
上級学校に進学しようとする場合にも、最終的な目標学校に合わせて進路を選択する必要があります。進学できる学校の種類は時期によって異なりますが、総じて「複線型」と呼ばれる複雑な学校制度となっています。
たとえば、高等教育機関まで含めて教育制度整備のほぼ完了した大正8年(1919年)の学校制度を見てみましょう(1940年代以降には戦争という時局変化に対応するため、この教育体制からさらに学校名称や制度が一部変更されます)。(4) は当時の学校の系統図です。この時期は、尋常小学校6年間が義務教育課程です。
尋常小学校卒業後の進路としては、男子の場合には(a)中学校を経て、(a-1)高等学校−大学へと進むルート、(a-2)専門学校へと進むルート、(a-3)高等師範学校へと進むルート、(b)高等小学校を経て、(b-1)師範学校、(b-2)実業学校へと進むルート、さらに(c)として、(c-1)実業学校・(c-2)実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合も、高等女学校を経て女子高等師範学校へ進むルートと、高等小学校を経て師範学校、実業学校へと進むルート、実業学校・実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合には、ごく一部の学校を除いて、高等学校にも大学にも進学することは認められていませんでした。
進路選択と将来の職業
ここで1890年代生まれの江戸川乱歩(94年生)、宮沢賢治(96年生)、川端康成(99年生)の3人の小説家について、その学校歴を見てみましょう。江戸川乱歩は愛知県立第五中学校を経て、早稲田大学(乱歩入学当時、名称は大学ですが、正しくは専門学校令に基づく専門学校でした。のち大学令に基づく大学に昇格します)に進学します。つまり(a-2)のルートをたどっていることがわかります。乱歩は早稲田大学卒業、さまざまな職を経験し、小説家としてデビューしました。宮沢賢治は盛岡中学校を経て、盛岡高等農林学校に進学します。高等農林学校も専門学校ですので(a-2)のルートになります。宮沢賢治は学校卒業後、稗貫郡立稗貫農学校(のち花巻農学校となる)で教鞭をとったり、農業指導にあたったりしながら創作活動に勤しみました。川端康成は茨城中学を経て、第一高等学校、東京帝国大学文学部へ進学するという(a-1)のルートをたどっています。第一高等学校生時代に伊豆へ旅行した経験を、のちに『伊豆の踊子』で描きました。
ここで見た例は小説家の場合ですので、進路は比較的自由でしたが、官僚や教員になるには資格が必要です。資格を得るには指定の学校を卒業したり、試験に合格したりする必要があるため、進路選択がとても重要でした。試験において特定の学校を卒業すると部分的な試験免除などの優遇措置もあったからです。
たとえば、現在の国家公務員上級職や法曹に相当する行政官僚や司法官僚になろうとするなら、(a-1)(a-2)を選択するのが一般的なルートです。また、中学校の教員になろうとする場合は、(a-3)を選択するのが一般的です。小学校の教員になろうとするならば(b-1)を選びます。
文部省が管轄する学校以外にも陸軍士官学校や海軍兵学校など士官を養成するための学校がありますので、進路選択の幅はさらに広がります。
このように戦前の学校制度が複雑であった理由は、先に見た「小学校令」のように、学校ごとに個別の勅令(天皇大権によって制定された法令)によって規定され、統一的な制度に基づいていなかったためです。戦後の学校制度ではこの複雑な学校制度を単純化する、つまり法令に基づく一元的な体系に整備しようとしたのです。 (5)、(6)、(7) はそれぞれ、中学校令、高等女学校令、高等学校令を公布した御署名原本の冒頭部分です。
上級学校に進学したのは…
複雑ながらも多様な学校の存在した戦前の学校制度ですが、当時、ほとんどの人々は義務教育課程の尋常小学校か、高等小学校が最終学歴(中途退学者も多く含みます)でした。中学や高等女学校など中等教育機関を卒業した人々はおよそ10人にひとりかふたり程度に過ぎません。そのわずかな卒業生のうち、さらに高等学校を卒業した人となると、ほんの一握りです。
時代の推移とともに高等学校の数も増加しますが、戦前を通して高等学校に進学・在籍した人の割合は同世代人口の1パーセントを越えることはありませんでした。また、基本的に上級学校への進学機会が閉ざされていたため、高等学校や大学で学んだ女性は極めて希なケースとして存在するのみです。
このように複雑でなおかつ男女差別構造を含んだ「複線型」教育制度は、戦後の新しい学校制度により、全員が同じルートをたどることを原則とする「単線型」教育制度へと変更され、義務教育の範囲も中等教育機関にまで広げられました。そして現在では、高校をはじめとする高等教育機関への進学率は97.8パーセント(2008年現在)となっています。 
勲章ものがたり / 戦前の勲章さまざま 

 

勲章の意味
国家や公共に対する功績や業績をたたえるために、国が個人や団体に対して与えるもののことを「栄典」と言います。その代表的なものが勲章です。毎年春と秋の2回、勲章を受けることになった人々が新聞などで発表されているのを見たことがあるのではないでしょうか。
現在の勲章の制度は、昭和22年(1947年)に日本国憲法によって定められましたが、それ以前の制度は内容が異なっていました。特に、日本国憲法第14条3項に「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない」と記され、金品の支給や勲章の世襲―親から子へと引き継ぐこと―を一切行わないことが決められているのに対して、戦前の制度では、勲章を受けた人は終身年金―生涯支給され続ける年金―を受け取ることができるようになっていました。つまり、勲章を受けることは単に名誉であっただけでなく、経済的な意味での利点もあったわけです。
このように、今とは位置付けの異なる戦前の勲章について、特に視覚的にわかりやすいものを中心に、資料でたどってみましょう。
「勲章ものがたり」
『写真週報』―昭和13年(1938年)2月16日(創刊号)から昭和20年(1945年)7月11日(374・375合併号)まで内閣情報部(のち内閣情報局)により刊行されていた週刊のグラフ雑誌です―の16号(昭和13年6月1日号)には、「勲章ものがたり」と題された特集が掲載されています。
その最初の見開き (1) の上段では、外国の勲章についての紹介があり、続いて下段の中ごろから、日本の勲章の解説が始まります。これによれば、明治8年(1875年)に旭日章(きょくじつしょう)が、同9年には菊花大綬章(きっかだいじゅしょう)が制定され、明治21年には、これに大勲位菊花章頸飾(だいくんいきっかしょうけいしょく)、勲一等旭日桐花大綬章(くんいっとうきょくじつとうかだいじゅしょう)、瑞宝章(ずいほうしょう)、宝冠章(ほうかんしょう)が、翌22年(1889年)に金鵄勲章(きんしくんしょう)が加えられ、日本の勲章制度は確立したということです。また、昭和12年(1937年)にはさらに文化勲章(ぶんかくんしょう)が創設されています。こうした紹介のあと、「一つ一つ丹念につくり上げられたわが国の勲章は、単に、手工業的美術品としても、その精巧と崇厳さに於いて世界に誇るべきもので…」という一文があります。そして、この続きの (2) では、職人さん達が勲章をひとつひとつ手で製作している様子が詳しく紹介されています。
勲章さまざま
(3) は特集の最後の見開きで、当時の日本の様々な勲章の写真が並んでいます。中央に、大勲位菊花章頚飾、文化勲章が縦に並び、これを挟んで左右に勲一等旭日桐花大綬章、大勲位菊花大綬章が配置されています。これらを中心に、見開きの右上には金鵄勲章の功一級から功七級、右下には瑞宝章の勲一等から勲八等、左上には宝冠章の勲一等から勲八等、左下には勲一等旭日大綬章(くんいっとう・きょくじつだいじゅしょう)、勲二等旭日重光章(くんにとう・きょくじつじゅうこうしょう)、勲三等旭日中綬章(くんさんとう・きょくじつちゅうじゅしょう)、勲四等旭日小綬章(くんよんとう・きょくじつしょうじゅしょう)、勲五等双光旭日章(くんごとう・そうこうきょくじつしょう)、勲六等単光旭日章(くんろくとう・たんこうきょくじつしょう)、勲七等青色桐葉章(くんななとう・せいしょくとうようしょう)、勲八等白色桐葉章(くんはっとう・はくしょくとうようしょう)が並んでいます。
戦前の勲章制度
さて、「勲章ものがたり」の記事に書かれていたように、すべての勲章は、明治期に制度として取り組まれたものです。当時の勲章の種類・等級については、国家や公共に対して優れた働きをした人々に対しては、
旭日章(8等級) / 勲一等旭日大綬章〜勲八等白色桐葉章と、特に公務に長い間従事し成績を上げてきた人々に対しては、
瑞宝章(8等級) / 勲一等〜勲八等が授与されました。そして、この2つの勲章の最高等級(勲一等)を受けるのにふさわしい功績よりも、さらに優れた功績を上げた人々に対して授与されたのが、
桐花章(1種類) / 桐花大綬章であり、さらにその上に、現在でも日本の最高勲章である、
大勲位菊花章(2種類) / 大勲位菊花章頚飾 / 大勲位菊花大綬章 / がありました。また、これ以外にも、女性に限って授与されるものとして、
宝冠章(8等級) / 勲一等〜勲八等がありました。科学技術や芸術といった文化の分野でめざましい功績を上げた人々に対しては、
文化勲章(1等級) / が授与されました。戦争などで優れた功績を上げた、陸海軍の軍人または軍属(軍に属していても軍人ではない人)に対しては、
金鵄勲章(7等級) / 功一級〜功七級がありました。なお、これらの制度については、等級の数や名称などが、こんにちでは異なったかたちになっている部分もあります。また、軍事的なものである金鵄勲章は戦後になって廃止されています。
勲章のデザイン
(4)は、「明治十年十二月第九十七号達制定 大勲位菊花大綬章大勲位菊花章図式」という文書の一部で、『写真週報』の記事にも写真があげられていた大勲位菊花大綬章と大勲位菊花章の形式についての規定が書かれています。この表にある「章」とは、勲章の主となる金属部分のこと、「鈕」とは、「章」と「綬」との間にある飾りのボタンのこと、「環」とは、「綬」と「章」とをつなぐ輪のこと、「綬」とは、「章」を下げる紐(リボン)のことです。
大勲位菊花大綬章については、「章」は「金日章二寸五分」。つまり、日章(日の丸)をかたどったもので直径が約7.6センチメートル。下に細かく書かれている内容を見ると、日の丸部分が赤色、ここから放射状に広がる光線が白色、菊の花が黄色、菊の葉が緑色となっています。「鈕」は「金菊花」。つまり菊をかたどったもの。これは色が黄色となっています。「環」が「金円形」つまり円をかたどったもの、「綬」が「幅三寸八分 紅紫織」つまり幅が約11.5センチメートルの紅色と紫色の2色(紫・紅・紫という配色)の織物となっています。以上のような言葉による説明に続いて、この文書には図説が加えられています。(5) は表面、(6) は裏面です。こうした図によって、言葉で示されていたものが実際にどのようなデザインになるのかがよくわかります。
この他にも、金鵄勲章の功一級から功七級までのデザインについては、(7)、(8)、(9)、(10)、(11) の「御署名原本・明治二十三年・勅令第十一号・金鵄勲章ノ等級製式及佩用式」の一部で、文化勲章のデザインについては、(12)、(13) の「御署名原本・昭和十二年・勅令第九号・文化勲章令」の一部で、それぞれ見ることができます。 
先住民族の近現代史 / 日露の狭間で翻弄された人々 

 

千島樺太交換条約
アイヌは、主に北海道から東北地域、そして千島列島や樺太(サハリン)にかけての地域の先住民族です。彼らの近現代史とはいかなるものであったのか、資料でたどってみましょう。
明治政府は、明治8年(1875年)にロシアとサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)を結びました。この条約によって、ウルップ島以北の18の島を日本が領土とし、雑居地とされていた樺太をロシアが領有することが決まりました。これにともなって、ロシアと日本との間の条約によって引かれた国境線を境界として、樺太南部と千島列島に住むアイヌの帰属と移住が、彼ら自身のあずかり知らぬところで一方的に決定されました。(1) は、この条約の附録の一部です。この第4条では、次のように規定されています。「樺太島及クリル【千島】島に在る土人は現に住する所の地に永住し且其儘現領主の臣民たるの権なし故に若し其自己の政府の臣民足らんことを欲すれば其居住の地を去り其領主に属する土地に赴くべし。又其儘在来し地に永住を願はば其の籍を改むべし。各政府は土人去就決心の為め此条約附録を右土人に達する日より三カ年の猶予を与へ置くべし。…」
すなわち、樺太・千島の先住民族は、3年の間にロシアまたは日本のいずれかの国籍を選び、現住地と選んだ国籍が異なる場合には、その地を立ち去ることが求められたのです。しかし、たとえば、ロシアとの結び付きが強かった北千島に住んでいたアイヌが、ロシア国籍を選ぶとすると、現在住んでいる土地を離れなければならないことになります。逆に日本国籍を選ぶとすると、故郷を捨てずに済むものの、これまでの生活を根本的に変えなければならないことになります。つまり、いずれの選択肢も大きな犠牲をともなうものであったのです。
北海道旧土人保護法
アイヌは明治4年(1871年)に和人式の姓名を付けることを強要され、耳輪、入れ墨などの独自の習俗も禁止されるようになります。そして、広大な北海道の土地が明治新政府によって、次々と奪われていきます。もともとアイヌのものであったこの土地は、政府による「保護」の名の下で、再度アイヌに「下付」(上の者から下の者に与えること)されます。そのことを決めたのが、明治32年(1899年)に制定された「北海道旧土人保護法」です。
ただし、この分配にはさまざまな条件が付けられていました。すなわち、
(1)農業に従事すること
(2)15年以内に未開墾の場合は没収
(3)相続以外の譲渡や諸物件の設定の禁止
という条件です。さらに、和人に対して既に10年以上も前に、大規模な耕作適地の払い下げが行われていたので、アイヌに分配された土地は、その残りの部分でしかなく、湿地や山間の傾斜地なども含まれた条件の悪い土地ばかりでした。旭川では、このような土地の分配さえも長い間実施されませんでした。同地のアイヌの粘り強い闘いの結果として、「北海道旧土人保護法」の制定から35年が経過した昭和9年(1934年)に、「旭川市旧土人保護地処分法」という新たな法律が制定されて (2)、ようやく旭川のアイヌは土地を手にすることができたのです。
また、この法律ではアイヌに対する教育に関しても規定されていて、アイヌ学校が北海道のあちこちで開校していきました。それに伴いアイヌの就学率や識字率は上昇していきましたが、そこでの教育内容は、アイヌ語を禁止し、生活文化を否定し、もっぱら日本語と修身教育をするというものでした。すなわち、それはアイヌの「劣等性」を克服するという名目で、アイヌを和人に同化していこうとする皇民化教育であったと言えます。
差別と同化
一方で、アイヌに対して過酷な差別が行われていた時期に、一部のアイヌが差別を克服するために、自らを和人と並ぶ皇国の臣民と位置付けようとする動きもありました。国家に対する兵役という義務を積極的に担おうとしたことも、その一つの表れです。日露戦争を間近に控えた明治35年(1902年)に、医師を通じて陸軍大臣にアイヌ隊編成を求める陳情書を提出したアイヌもいました。(3)はその冒頭部分ですが、ここでは、「野蛮の心身を顧みず、大臣閣下に対し甚だ恐惶の至り候得共、聊か報国のためと存じの儘陳情仕候」と書かれており、自らを卑下しつつ、国家のために奉仕することを願い出て、国家への忠誠心を表明することを通じて国民の一員として自らを位置付けようとする姿勢がうかがえます。日露戦争時には、63人のアイヌが出征しました。ただし、前述のように、この出征も差別撤廃のための手段として選択されたという背景があったことに注意をする必要があります。
「アイヌ文化振興法」
「北海道旧土人保護法」と「旭川市旧土人保護地処分法」は、5回にわたって改正されて存続しました。 (4) は、その最初の改正の時の法律の条文です。平成9年(1997年)になってようやく、政府が「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(通称「アイヌ文化振興法」)を施行したことにより、この2つの法律は廃止されることとなりました。しかし、この新しい法律もまた、アイヌの文化の振興や普及をうたっているだけで、北海道ウタリ協会が求めてきた、先住権を基礎とした「アイヌ新法」の内容とは大きくかけ離れたもので、この法律の評価については、アイヌ民族を含めた日本国民の間で今日でも意見の相違が見られます。 
東京オリンピック、1940年 / 幻のオリンピックへ 

 

2つの「東京オリンピック」―1964年と1940年
昭和39年(1964年)10月10日、東京で第18回夏季オリンピックが開幕しました。このオリンピックは、東京を中心に新幹線や高速道路などの急速な開発を呼び、戦後日本のめざましい復興・発展を世界にアピールする絶好の機会となりました。また、日本はもちろんのこと、アジアで初めてのオリンピック開催という意味も持っていました。
しかし、実はこれをさかのぼること24年、昭和15年(1940年)の9月にも東京―当時は東京都ではなく東京市です―でのオリンピックの開催計画があったことをご存知でしょうか。これは結果的に実現しなかったため「幻の東京オリンピック」と呼ばれますが、しかし、招致活動、開催地決定、そして会場建設といった準備は実際に進められたので、当時の人々にとって、これは間違いなく現実のものでした。
資料を見ながら、この1940年の東京オリンピックが現実のものから幻へと変わってしまうまでの経緯をたどってみましょう。
オリンピック招致活動
東京でのオリンピック開催を目指す動きが始まったのは、昭和4年(1929年)の国際陸上競技連盟会長エドストレームの来日がきっかけでした。昭和6年(1931年)には、東京市議会でオリンピック招致活動の開始が正式に決定されます。開催予定年は昭和15年(1940年)、この年は日本では紀元2600年―『日本書紀』に書かれた神武天皇の即位から2600年目という意味です―にもあたり、これを記念する一大行事としてオリンピックが位置付けられたのです。
昭和7年(1932年)に、東京市長は外務大臣に対して、この年の夏に行われるロサンゼルス・オリンピックに際して、各国の有力者が集まる機会を利用して、大使や領事から東京へのオリンピック招致を国際的に働きかけてほしいと要請しました。 (1) は、この時の文書の一部です。ここでは、東京オリンピック開催の狙いとして、1940年が紀元2600年にあたり、その記念として絶好の機会であること、「国民体育」の上で大きく役立つこと、世界の人々に日本に対する理解と関心を深めてもらうことが挙げられています。
昭和7年のロサンゼルスでのIOC(国際オリンピック委員会)総会において、日本は正式に開催地への立候補を表明しました。昭和10年(1935年)のIOC総会では、1940年のオリンピック開催地候補は、東京、イタリアのローマ、フィンランドのヘルシンキの3つにしぼられましたが、その後、日本による働きかけによりローマが辞退し、結局、昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックの際のIOC総会で、1940年の第12回オリンピックの開催地が東京に決定されました。
開催準備
東京でのオリンピック開催が決まると、本格的な準備が開始されます。(2)は、昭和12年(1937年)4月15日に発行された、「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の『会報』第1号の1ページ目です。この冒頭に「第十二回オリンピック東京大会組織委員会ハ昭和十五年東京市ニ於テ開催セラルル第十二回オリンピック東京大会ニ関スル一切ノ計画ヲ決定ス」と記されているように、開催準備は、昭和11年(1936年)12月に東京市長や大日本体育会長、各省庁次官などを中心に組織されたこの委員会のもとで進められました。東京市内ではさまざまな整備工事が行われ、宿泊施設も次々と建設され、もちろん、会場の建設も開始されました。
(3) (4) は、昭和13年(1938年)4月6日付の『写真週報』の「準備は進む 東京オリンピック」と題された記事です。記事の本文や掲げられた写真に添えられた文章には会場計画などの準備状況について書かれています。既に記念品が多数販売されていることも紹介されています。主競技場には、明治神宮外苑競技場を作り変えて使用する案や、駒沢に新たに建設する案などがあり、この時点では検討中だったようです。他にも、駒沢にプールを建設する計画、芝浦の埋め立て地に自転車競技場を建設する計画など、さまざまなものがあったことがわかります。
しかし、この『写真週報』が発行された頃には、実は、オリンピックの実現に向けた道のりには大きな影が差していました。国内外で、開催に反対する動きが起こっていたのです。
反対運動
東京オリンピック開催に対する反対の動きが起こることとなった大きなきっかけは、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件―日本軍と中国軍との間で起きた衝突事件―が勃発したことと、この翌年には日本と中国との間の戦争(日中戦争)が長期化する見通しが強まっていたことでした。
国内では、国際的な緊張が高まっている状況で、オリンピックなどを開催するべきかどうか、という疑問が出ていました。その一方で、国外からは、日本と中国との軍事的な衝突が問題視され、日本がオリンピックの開催地として適当かどうかが問われていました。特に、国際社会における日本批判は勢いを増し、IOC会長ラトゥール伯爵のもとには、東京オリンピック開催に反対する声が多数寄せられました。こうした事態を受け、日本に辞退を求めることを決めたラトゥール伯爵は、昭和13年(1938年)4月2日、自ら駐ブリュッセル大使の来栖三郎のもとを訪れました。 (5) は、来栖大使が本国の外務大臣に対してラトゥール伯爵の来訪を報告した電報の一部です。これによれば、ラトゥール伯爵は、東京オリンピックの招待状が発送される翌年1月までに日本が戦争をやめていなければ、イギリス、アメリカ、スウェーデンはもちろんのこと、他の国々からも参加拒否の動きが出てくるだろうと述べ、そのような事態を迎えるよりは、自ら辞退を申し出る方が日本にとっても良いだろう、と勧めてきたということです。
開催中止―「幻のオリンピック」へ
結局、日本の国内でも国外でも、東京オリンピックを開催するべきではない、という考え方がさらに広まっていき、日本政府は、昭和13年(1938年)7月15日の閣議で、辞退を正式に決定しました。 (6) は、外務大臣からこの日のうちに出された、この閣議決定についての電報の起草文です。ここには、東京オリンピックの「開催取止ヲ適当ト認メ」(開催取り止めが良いと考え)たことを大会組織委員会に通達することにした、と書かれています。そして (7) は、この翌日の日付が入った「東京市オリンピック委員会」による「声明書」の起草文と思われる文書の1枚目、 (8) はその2枚目です。この冒頭には、前日に政府から東京市に対して、東京オリンピックの「開催ヲ取止ムルヲ適当ナリト認ムル旨ノ」(開催を取り止めるのが良いと考えた)通達があったと書かれていますが、この書き方を見ても、通達とは先に見た外務大臣の電報で言われていたものであると考えられます。この通達を受け、委員会としても国の考え方に従うことにした、という結論が示されるとともに、アジアに平和が訪れることを信じて次のオリンピックを東京に招致したい、という希望や、今回の計画に対して大きな支援があったことに対する感謝の言葉が述べられ、この「声明書」は締めくくられています。
こうして、昭和15年(1940年)の第12回オリンピック東京大会は、「幻の東京オリンピック」となりました。これにかわってヘルシンキでの第12回オリンピックの開催が決定されましたが、こちらも第二次世界大戦の勃発によって実現しませんでした。
なお、会場として計画されていたもののうち、芝浦の自転車競技場と埼玉県戸田橋村の漕艇場(ボートコース)は完成しました。また駒沢に主競技場を建設する計画は、24年後の1964年の東京オリンピックの際に実現されることとなりました。 
台湾原住民族 / 日本の調査にみるその文化 

 

台湾原住民族について
現在、台湾に住んでいる人々は、ホーロー(福佬)・客家・原住民族・外省人(戦後中国国民党とともに台湾に渡ってきた人々)の4つに分類されると言われています。これらのうち、原住民族は、ホーロー・客家が台湾に移住してくる以前から台湾に住んでいる、オーストロネシア語族(南島語族)に属する諸民族の総称です。総人口の約2%を占めています。なお、漢語の「先」という言葉に「既になくなってしまった」という意味が含まれるため、台湾では「先住民」と呼ばれることはありません。
さて、上で述べたように、現在の台湾では、ごく普通に原住民族という言葉が使用されていますが、そこにいたるまでには長い道のりが必要でした。戦前は台湾を統治していた日本、戦後は台湾政府が、いずれも原住民族に対して同化政策を行いましたが、1980年代、台湾で民主化運動が高まりをみせる中、1983年、原住民族の権利獲得を求める運動が始まりました。そして、紆余曲折を経て、1997年、憲法に「国家は多元文化を肯定し、積極的に原住民族の言語文化を護り発展させる」という文言が盛り込まれました。さらに同年には「姓名条例」も改訂され、「台湾原住民の姓名の登記は、その文化・慣習に依って行なう。すでに漢族名を登記している者は、その伝統姓名の回復を申請することができる」と明記されました。
また、1996年12月には、行政院(日本の内閣に相当)に原住民族に関する政策を専門的に扱う行政院原住民族委員会が設置されました。このような経緯を経て、原住民族の権利は徐々に回復されていきました。
そして、現在の台湾では原住民族の言語・文化などの復興が盛んに行なわれるようになり、社会でも原住民が堂々とそう名乗れるような状況になってきています。
日本の調査に残る原住民族の習慣・風俗
日本は、その植民地統治を行なっていた時代、原住民族の習慣・風俗の調査を丁寧に行なっていました。それらの報告書の一部を資料でも見ることができます。もちろん、明治28年(1895年)に領有した台湾に関しても様々な調査を行いました。それらは、もとよりその統治を円滑に行なうためになされたものもありますが、高度な学術的成果も含まれています。そして、その中にある台湾原住民族に関する調査報告書は、現在の文化復興の動きの中でも、古い習慣を記録した資料として重宝されていますので、その一部をご紹介します。
台湾原住民族を構成する民族
原住民族は、言語や文化の異なる複数の民族から構成されており、現在、行政院原住民族委員会によって、次の14民族が認定されています。
アミ・アミス Amis(阿美族)
パイワン Paiwan(排湾族)
タイヤル Atyal(泰雅族)
ブヌン Bunun(布農族)
ピヌユマヤン Pinuyumayan(卑南族)
ルカイ Rukai (魯凱族)
ツォウ Tsou(倦ー)
サイシャット Saisiyat(賽夏族)
ヤミ Yami(雅美族)
クバラン Kavalan(噶瑪蘭族)
タロコ Turuku(太魯閣族)
サオ Thao(邵族)
サキザヤ Sakizaya(撒奇萊雅族)
セデック Seediq(賽コ克族)
しかし、これは当初から明確になっていたものではありませんでした。時とともに、分類は揺れ動き、民族によってはその呼称すら変化するような状態にありました。これら民族の分類がそのあり方に従って明確になってくるのは近年のことで、以前は、日本統治時代に行われた調査に基づいて呼称や分類が規定されていました。上記14民族のうち、アミスからヤミまでが、日本統治時代に原住民族として分類されていた9民族です。他の5民族は、他の民族の亜族とされていたものや、漢民族と同化の度合いの高い平埔族の一民族とされていたものが、近年、原住民族の一民族として認定されたものです。
こういった分類の基礎を形作った、日本統治時代における原住民族に関する代表的な調査報告書は、以下のようなものがあります。
(1) 伊能嘉矩・粟野伝之丞『台湾蕃人事情』 (台湾総督府民政部文書課、1900年)
(2) 佐山融吉『番族調査報告書』 (全8冊、臨時台湾旧慣調査会第一部、台湾総督府蕃族調査会、1913-1921年)
(3) 『番族慣習調査報告書』 (全6冊、臨時台湾旧慣調査会第一部、台湾総督府蕃族調査会、1915-1922年)
(4) 台北帝国大学土俗人種学研究室『台湾高砂族系統所属の研究』 (刀江書院、1935年)
(5) 台北帝国大学言語学研究室『原語による台湾高砂族伝説集』 (刀江書院、1935年)
ピヌユマヤン(Pinuyumayan)とは
上の報告書のうち、閲覧できるのは、(1)の『台湾蕃人事情』の7冊目にあたる『大么族後篇』(レファレンスコード:A06032548600)、(4)の『台湾高砂族系統所属の研究』(レファレンスコード:A06032549000)、(5)の『原語による台湾高砂族伝説集』(レファレンスコード:A06032548800)の3冊です。それぞれ大変興味深い報告書ですが、今回は特に、(4)(5)のうちピヌユマヤン(Pinuyumayan)に関する記述をご紹介します。
このピヌユマヤンという呼称は、台湾原住民族のことをご存じの方でもあまり見かけたことがないかも知れません。この民族は、一般的にはプユマ(Puyuma)と呼ばれることが多いのです。これは、日本時代の調査に起源を発すると言われます。
その一端を(4)の記述の中から読み取ることができます。ここには、この民族は「通常八社蕃、卑南蕃或はプユマ族の名によって知られる」、「『八社蕃』とは・・・単に蕃社の数に基づく名称に過ぎず『卑南蕃』または『プユマ族』はその一蕃社なる卑南社(Puyuma)の名のみを想起せしめる。卑南社は彼等の間で最も勢力ある蕃社であるが、特に代表的なものではなく・・・これも好ましい名称ではない。・・・彼等共通の発祥地とせらるるPanapanayanの名に因んで「パナパナヤン族と呼ぶのが適当と思ふ」とあります (2)。
この記述からは、プユマという呼称がある一社の名称から採られた可能性を見ることができます。なお、(1)には、「プユマ族」と明確に書かれています。
ピヌユマヤンの出生伝説
さて、ピヌユマヤンは石から生まれたか、竹から生まれたかというその出生伝説に基づいて、石生地(Ruvahan)- Tipol(知本社)、竹生地(Panapanayan)- Puyuma(卑南社)という2つの亜族に分かれます。
(4)には、これら2種類の出生伝説も記されています。
「知本社口碑によれば『太古Ruvohanの海岸に潮の泡があり、それから塵芥の如きものを生じ、更にこれが石となり、石が割れて人間の形をしたものが出てきた』」 (3)。
「卑南社の由来については次の口碑が伝えられてゐる。『太古Nunurと云ふ女神が海から出てきて、arunoと云ふ茅草を折つて枝とし、それをPanapanayan(Ruvoa-an)の海岸にさした。arunoを逆にさしたので上の方に根が生え、竹が自然に割れて上の節からPakmalaiと云ふ男、下の節からPagumuserと云ふ女生る」 (4)。
これら2つの伝説に出てくるRuvohanとPanapanayanは、実は現在の台湾台東美和村にある同じ土地のことなのです。TipolとPuyumaでそれぞれ、Ruvohan、Panapanayanと呼んでいるのです。そして、他の社はこれら2つの社から分かれたとされています。
(5)には、出生伝説のうち、竹から生まれたという竹生伝説が紹介されています。
「4.卑南社 昔我等の此の土地には、阿眉が先に出来た。あるとき彼等は[竹の]杖を[土地に]突刺したが、この竹は段々大きくなつて、我等卑南人が出来たさうだ」 (5)。
以下、伝承の内容は続きますが、出生にかわわる部分は以上です。しかし、この資料の興味深い点は、「原語による」と銘打たれているとおり、各民族の言語によってそれぞれの神話・伝承が記されているところです。台湾原住民族は文字を持たない人々ですので、発音記号を用いて記述されています。単語が一ずつ「/」で区切られ、一語一語に日本語訳があてられています。既に70年以上昔の調査ですので、今はもう使われていない単語などもあるかも知れませんが、原住民族達が話す言語の一端に触れることができるとても貴重な資料です。
ピヌユマヤンPinuyumayanに関すること以外に、(4)は他の民族についても各社毎に詳細な記述がなされていますし、(5)で各民族の言語にふれることもできますので、是非、ご覧下さい。 
リンドバーグ来日 / その足どりを追って 

 

リンドバーグ夫妻の北太平洋横断飛行
チャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)(1902年〜1974年)はアメリカの飛行家です (1)。1927年に「スピリットオブセントルイス号 Spirit of St. Louis」と名付けたプロペラ機に乗り、ニューヨーク―パリ間の単独無着陸飛行に初めて成功したことで、今日もなお世界的に知られています。
昭和6年(1931年)、リンドバーグは妻アン(Anne)とともに水上飛行機シリウス号に乗って北太平洋横断飛行の途上で日本に立ち寄りました。ニューヨークを出発した後、アラスカ、アリューシャン群島、千島列島を経て、8月24日に根室に (2)、同26日に霞ヶ浦に到着しました (3)。国内ではほかに大阪、福岡に立ち寄り、9月19日、中華民国へと旅立っていきました。夫妻は日本各地で盛大に歓迎されましたが、ちょうどその滞日中の9月18日に満州事変が起こるなど、その後の日米両国政府の関係は険悪化の一途をたどってゆくこととなります。
リンドバーグ夫妻の来日記録
まずは、リンドバーグ夫妻の日本滞在をめぐる記録をたどってみましょう。
夫妻の来日に先立つ昭和6年(1931年)6月11日、日本では、逓信省において海軍省や陸軍省の関係者との会合がもたれ、飛行経路、着陸地点、歓迎行事などに関する申し合わせがなされました (4)。これと同じ日、海軍省でも駐米大使館付の下村武官が堀軍務局長に、「リンドバーグ大佐夫妻の取扱に関する件」と題して、米国内で人気があり最高の社会的地位(ホワイトハウスサークル)にある夫妻に対して、最大限の便宜を供与するよう願い出ています (5)、(6)、(7)。
リンドバーグ夫妻来日の際には、横断飛行を報道するために彼らの動きを追っていた多くの外国人記者も同時に日本にやってきました。彼らは夫妻の行程にあわせて中華民国にも足を伸ばし、勃発したばかりの満州事変に関する情報収集を活発に行いました。ニューヨークタイムス紙のアーベント記者もその一人です。南京の上村領事から幣原外務大臣に宛てられた電報には、アーベントに関して「日本軍行動ニハ充分釈然タラサルモノアル様見受ケラレタリ」との報告が見られます (8)。
その後のリンドバーグ
太平洋横断飛行を終えたのち、リンドバーグはどのような人生を送ったのでしょうか。彼は当時、日米友好の架け橋としても期待されていましたが、この点についてはどうだったのでしょうか。 資料ではアメリカ帰国後のリンドバーグの活動の一端をうかがうことのできる資料をいくつか見ることができます。 (9)、(10) は、その中のひとつです。
来日からちょうど10年が過ぎた1941年5月、日本外交協会の『ルーズヴェルト政策の動向とわが対策』には「リンドバーグの口吻」という項目が見られます。この資料には親独派のリンドバーグが「ドイツは決して米国を侵略しない、そんな心配をして居るのは間違ひだ。それが為に戦備を整へるのも間違ひだ」と述べた後、「この際英独は米国の斡旋に頼って速かに妥協し、兄弟墻に鬩ぐ愚をやめて、その代りに相携へて有色人種等の顔の白くない人達の世界をもっと幸福にしてやる方が白人の使命ではないか」という趣旨の発言をしたとされています。
これに対して協会は、リンドバーグが「ドイツに行っていろいろ吹き込まれて来てああ言って居るところを見ると、リンドバーグのこの思想が果して米国に於て発生したものか、それとも彼のドイツ滞在中にインスパイヤされて彼の胸中に宿ったものか…」と推測します。さらに、「最悪の場合、即ち白人が提携して有色人種の世界を頼みもせぬのに幸福にしてやらうと乗出して来さうになった場合、その最悪の事態に處してやはり最も睨みの利く発言権を日本に持たせるものは、海軍力を措いて他に無いと申しませんが、海軍力を以て最大とする、とういふ気持でございます」とコメントを締め括っています。 
明治の旅 / 新たな旅のはじまり

 

開国の2つの意味
アメリカの東インド艦隊司令長官ペリー率いる黒船が来航したのは嘉永6年(1853年)です。その翌年、徳川幕府はアメリカと「日米和親条約」を結び、日本は開国しました。開国した、ということは、2つの意味を持つと言えます。1つは、外国の人やモノが日本に入ってくるということです。これによって、鉄道の開通などに象徴される、明治の文明開化が始まりました。そしてもう1つは、逆に、日本国内の人やモノが国外に出て行くということです。それまでは禁じられていた海外渡航が、開国によって認められるようになっていきました。とは言っても、当時はまだ、今日の私たちのように自由に海外旅行に行けるようになったというわけではありません。国家によって派遣された役人や、海外の新しい知識を得ることを目的とした学者のほか、日本製品の海外での市場を切り拓くための調査をする人々など、ごくごく限られたかたちでしか、海外渡航をすることはできませんでした。
しかし、明治の初期という時代には、開国のもたらしたこの2つの意味によって、人々の移動や旅のかたちは大きく変化することとなりました。こうしたことについて、資料からは何が見えてくるのでしょうか。
明治期の海外旅行
明治期も、今と同じように、外国との関係をめぐるさまざまな事柄を管理しているのは外務省でした。日本から海外に渡る人についても、外務省は記録を残しています。 (1) は、明治8年度(明治8年7月〜明治9年6月)の外務省の報告書に書かれている表で、「海外行ノ免許ヲ得タル我官民ノ総数」と題されています。この表では、「國名(国名)」(渡航先)ごとに海外旅行の免状の「現数」(発行済みの有効な免状の総数)が示されています。この免状というのは、海外への渡航を国が許可したことを示す免許証、つまり現在で言うところの旅券(パスポート)のことで、要は、当時はこれがなければ海外に渡航することができなかったということです。表によれば、明治8年(1875年)6月時点でのイギリス行きの免状の「現数」は131、アメリカ行きの免状は304となっています。
アジア諸国への渡航
しかし、ここで注目したいのは、表の左下の「清」です。免状の「現数」はなんと473となっています。この時期の日本人の渡航先としてもっとも多かったのが、清、つまり中国だったのです。
また、その左隣の朝鮮については、明治8年(1875年)6月時点での「現数」は記入されていませんが、これは、この時点では日本と朝鮮との間に正式な国交が結ばれていなかったからです。明治8年度には「付与」(明治8年7月〜明治9年6月の期間に公布された免状の数)が13と記されていますが、これは、明治9年(1876年)2月26日に「日朝修好条規」が締結された後に発行されたものと考えられます。
(2) は、同じく外務省の報告書の明治19年度版です。これを見ると、明治8年度には13であった朝鮮行きの免状の「付与」の数が、この年度には5,036にも上っています。これは、明治19年度に発行された海外渡航免状全体の数の実に37%に当たる数です。
開国、そして最初期の海外渡航、と聞くと、私たちはついアメリカやヨーロッパの国々のことを想像しがちです。しかし、このような資料を見てみると、当時の日本は、アジアの国々に対してこそ開かれていたとも言えるのではないでしょうか。
「海外行免状」から「海外旅券」へ
さて、ここまで見てきた免状ですが、これが今と同じく「旅券」という名称に変わったのはいつなのでしょうか。 (3) は、明治期のさまざまな布令(命令・法令)をまとめた文書(布令便覧)の一部ですが、これによれば、「海外行免状」と呼ばれていたものが、明治11年(1878年)2月20日に「海外旅券」に改称されたことがわかります。また、この時にはこれとあわせて「海外旅券規則」が定められ、旅券申請の手数料は金50銭とすること、帰国後30日以内に旅券を返納することなどが取り決められました。
明治期の鉄道時刻表
日本で最初の鉄道は、明治5年9月12日(1872年10月14日)、新橋駅(後の汐留駅、現在は廃止)と横浜駅(今の桜木町駅)との間で開通しました (4)。
(5) は、この12年後、明治17年(1884年)11月1日付改正の際の、新橋−横浜間の時刻表と運賃表です。これによれば、当時のこの区間は、新橋、品川、大森、川崎、鶴見、神奈川、横浜の7駅で、上り列車・下り列車ともに1日に13本が運行されていたことがわかります。また、時刻表から計算すると、新橋から横浜までの所要時間は、すべての駅に停車するもので55分、途中で品川と神奈川のみに停車する急行(明治15年に運行開始)で45分だったようです。ちなみに、現在のこの区間の所要時間は、東海道本線で20分弱、京浜東北線で35分ほどですから、当時の汽車でもなかなか早かったのですね。
運賃を見てみると、新橋−横浜間では、片道だと、上等車1円、中等車60銭、下等車30銭。これが往復になると、上等車1円50銭、中等車90銭となっており、25パーセントの割引になっています。この当時、お米10キログラムが80銭、卵100匁(375グラム)が10銭でしたから、鉄道というのはとても高価な移動手段だったことがわかります。限られた人々にしかできない贅沢であったと言えるかもしれません。
(6) は、同じく明治17年の神戸−大津間の時刻表と運賃表です(1月16日改正)。この区間は、1日に、上りが9本、下りは8本が走っており、その所要時間は上り3時間44分、下り3時間50分となっています。運賃は、神戸から大津までの上等車が片道で2円85銭ですが、逆に大津から神戸までは2円35銭となっており、上りと下りで料金が異なっていたことがわかります。
鉄道網の拡大
最後に、この頃にどれほど鉄道が広がっていたのかを見てみましょう。 (7) は明治21年(1888年)の、 (8) は明治22年(1889年)の、 (9) は明治26年(1893年)の、全国鉄道路線図です。これらを比較してみると、年を追うごとに、日本の鉄道網がどんどん拡大していったことがわかります。たとえば、明治21年の時点では、新橋からの路線は国府津止まりでしたが、翌年にはこれが静岡まで延長し、さらに4年後の明治26年には神戸にまで到達しているのがわかります。
このように急速に発達していった鉄道は、まさにこの時代の日本の発展の象徴だったと言えるのではないでしょうか。 
昭和初期の国民生活 / さまざまな生活風景

 

『写真週報』と国民生活
『写真週報』とは、内閣情報部(のち内閣情報局)によって刊行されていた、週刊のグラフ雑誌です (1) (2)。昭和13年(1938年)2月16日付の創刊号から、終刊となる昭和20年(1945年)7月11日付の374・375合併号まで全部で370冊が発行されました。 資料では、創刊号から昭和19年(1944年)12月20日付の352号までの351冊を見ることができます。
『写真週報』では、大きな見やすい写真とともに、簡潔な記事が掲載され、広い年齢層にわかりやすいかたちで政治や社会の様子が解説されていました。戦争が始まると、戦況をくわしく紹介する記事も目立つようになりました。しかし、中でも特に私たちの興味を引くのは、やはり当時の人々の生活をめぐるさまざまな特集やコラムではないでしょうか。
「守れ公徳 やさしい義務だ」
(3) と (4) は、「守れ公徳 やさしい義務だ」と題された特集記事です。これは、現代風に言ってみれば「公共マナーを守ろう」という内容です。バスや汽車の座席に靴で上がらない、汽車の中ではちゃんと弁当の後始末をする、食堂車のテーブルには長く居座らない、といった呼びかけがされています。こうしたところは現代と少しも変わりません。
「ス・フの洗濯」
(5) は、洗濯についての記事です。「ス・フの洗濯」というタイトルが付いています。「ス・フ」というのは、ステープル・ファイバー、つまり化学繊維の一種です。当時は日中戦争の最中で天然繊維の原料が不足していたため、この「ス・フ」の使用が国によって奨励されていました。記事は、この素材でできた衣料をどのように洗濯したら良いか、という主婦向けのガイドになっていますが、その意図は、「国策繊維」とされる「ス・フ」が非常にすぐれたものであることをアピールすることにありました。こういったところには、当時の独特の空気が感じられます。
「不用品交換即売会」
(6) は、「不用品交換即売会」についての記事です。この即売会では、主婦達が自分の家で不要になったものを互いに持ち寄って売り買いしました。言ってみれば、今のフリーマーケットのようなものです。これは大変な盛況だったようで、記事によれば、入場者の数は10,926人、朝の4時から人々が押し寄せ、警官が出動するほどだったということです。いかに無駄なく上手に生活用品を手に入れるか、という主婦の闘いはいつの時代も変わりません。
しゃっくりの止め方
(7) は、「家庭救急箱」という連続コーナーの第15回で、しゃっくりの止め方についての説明です。記事はずいぶんと深刻な医学的解説から始まっていますが、止め方として紹介されているのは、息を止める、冷水を飲む、というものから、重いときには、羽毛や紙縒り(こより)を鼻に入れてくしゃみを誘う、首筋に冷水を注ぐなど、身近なものを使った方法です。まさに「生活の知恵」というものでしょうか。
「国策料理」のレシピ
(8) は、料理についての話題です。「国策料理 鯨 鰯 兎」と題されています。これは「国策料理」、つまり国として主婦にすすめている料理の特集ですから、一見すると当時ならではのものにも見えます。しかし、記事の冒頭に「廉価で栄養価に富み、しかも簡単にできて美味しいことが国策料理の生命です」と書かれているところを見ると、安く簡単に美味しい料理を作りたい、という現代と変わらない主婦の気持ちに働きかけるものであったとも言えるでしょう。
兵隊さんのレシピ
上で最後に見たのは、一般の主婦に向けてレシピを紹介する『写真週報』の記事でした。ここで、レシピについての資料をもうひとつ見てみましょう。しかし、これはレシピ本と言っても、家庭の台所で活躍するものではありません。軍隊で兵士達が使うレシピ本なのです。
この冊子のタイトルは、まさに『軍隊料理法』です。明治43年(1910年)に陸軍内で配布されました。 (9) (10) は、魚のさばき方、 (11) は鶏のさばき方、(12) は魚やエビの焼き方です。このように、さまざまな料理法が紹介されていますが、そもそも、なぜ兵士にとってこれほどのレシピ本が必要だったのでしょうか。
それについては、この冊子に添えられた「緒言」と題された文章を見るとよくわかります。ここでは、軍隊では料理をする際に贅沢さを求めて外見にこだわるようなことがあってはならないとしながらも、「もし、まったく料理法を研究することなく、毎日毎日単調で美味しくもない献立が続くことでもあれば、たとえ新鮮な良い食材を用いても、兵士の心身を育て保つことに支障が出るだろう」と書かれています。言ってみれば、軍隊が立派に成り立つには、美味しい料理を作らなければいけない、という発想があったわけです。(レファレンスコード:C06084993000 軍隊料理法頒布の件(1) 8画像目〜10画像目)
今よりも手に入る食材が少なかったであろう当時の台所で、そして食べ物にも困る戦場で、主婦も兵士も、美味しい料理を作るために、いろいろな努力と工夫をしていたのです。 
人々の夢とロマン / 飛行船から南極探検まで 

 

世界最大の飛行船来たる
昭和4年(1929年)8月19日、当時世界最大の飛行船であった「ツェッペリン伯号」が、世界一周(北半球周遊)の途中で日本に立ち寄りました。(1)(2) は、全長235メートルというこの巨大な飛行船の威容です。
なお、一般に「ツェッペリン飛行船」と呼ばれるのは、20世紀初頭にドイツのフェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵によって開発された飛行船全体の通称で、実際にはそれぞれが名前を持っています。このうち、日本にやって来たのは、まさにこの伯爵の名前を持った「ツェッペリン伯号」(グラーフ・ツェッペリン号)でした。「ツェッペリン伯号」は、東京上空をゆっくりと通過した後、茨城県阿見町の霞ヶ浦沿岸に着陸しました。この時、歓迎会場には30万人もの人々が詰め掛けたと言われています。
この時の様子を、資料で見てみましょう。
当局の対応
「ツェッペリン伯号」が着陸したのは海軍航空船隊の飛行場でした。そして、これを迎える準備や着陸前後の行動については、基本的に海軍省が取り仕切っていました。しかし、外国から飛行船がやってきて、日本の上空、しかも首都東京の空を飛び国内に降り立つということは、日本としても大変なことでした。
したがって、事前に、海軍省に加えて、ドイツ本国から飛行許可の申請を受けた外務省、民間航空機の運行を管轄する逓信省、「防空」という軍事的な観点から空を管理する陸軍省、という4つの官庁の間で、規則や、着陸場所、航路、日程などについて綿密なやり取りが行われました。
また、「ツェッペリン伯号」に対する技術的な関心も高かったと思われ、海軍技術研究所は詳しい調査を行っています。その報告書には、 (3)(4)(5)(6) のような見取り図や、 (7)(8) のような発動機の写真が含まれています。
ラジオ中継放送
さて、「ツェッペリン伯号」が着陸地点に近づいてくると、海軍大臣の許可のもとで、日本放送協会によるラジオの中継放送が始まりました。 (9) は、中継放送の許可を申請した文書です。これによれば、中継は、着陸前から、「ツェッペリン伯号」より飛行場に送られてくる通信の内容をニュースとして放送することから始まっています。そして、着陸の様子と、歓迎セレモニーでの乗組員や日本側の人々の挨拶が中継されたようです。このような現場からの中継の臨場感は、多くの人々を引き付けたことでしょう。また、そもそも、このような綿密な中継が実施されたこと自体が、「ツェッペリン伯号」来日という出来事に対する注目の度合いを表しているとも言えるのではないでしょうか。
大空を旅することへの憧れは、誰もが抱くものですが、「ツェッペリン伯号」は、そんな人々のロマンにこたえ、熱狂を巻き起こしたのです。
白瀬中尉の南極探検
次に、もうひとつのロマンについて見てみましょう。 (10) は、南極探検で有名な白瀬矗(しらせ のぶ)中尉です。南極観測船「しらせ」も彼の名前からとっています。白瀬中尉が「開南丸」で芝浦を出港したのは明治43年(1910年)11月28日、南極上陸が明治45年(1912年)1月16日、彼自身が「大和雪原」(やまとせつげん、やまとゆきはら)と名付けた地点に到達したのは同月28日でした (11)。この1年以上におよぶ南極探検について、資料から何がわかるのでしょうか。
困難続きの出発準備
(12) は、南極探検の許可を陸軍大臣に願い出た文書です。行き先となる「一、国名」は、「英領新西蘭ヲ経由シ南極洲」、つまりイギリス領ニュージーランドを経由して南極に行くとしています。また、「二、旅行ノ目的」は、「学術的探検」、「三、旅行ノ期間」は「明治四十三年十一月ヨリ明治四十五年七月ニ至ル一年九ヶ月間」となっています。この文書の日付は11月2日ですから、出発の3週間ほど前ということになります。
さて、実は、この白瀬中尉の南極探検は決して順調に始まったわけではありませんでした。(13) は、明治43年(1910年)4月13日に、南極探検のための船を貸して貰えるよう白瀬自ら海軍大臣に願い出た文書です。この文中では、政府から補助金を貰えることになりそうだが、それは衣類や食糧などの実費分で終わってしまい、船を買うお金もない。そこで、海軍省から船を貸してもらえないか、と述べられています。
国家にとっての白瀬
しかし、白瀬のこの希望がかなわなかったことが、第27回帝国議会の際の衆議院の議事記録からわかります。明治44年(1911年)3月18日の議事では、「南極探検事業国庫補助ニ関スル建議案」と題され、白瀬の南極探検に国として資金援助をするかどうか、という議論が行われています。ところが、この中で言われていることは次のようなものです。
白瀬は海軍省から船を借りることができず、希望したものよりも小さな船で出発したが、それでは南極にたどり着けないのではないかとの懸念があった、と。要は、決して十分な準備が整っていない、特に資金不足については深刻な状況で出発したというのです。そこで、この議会で資金援助が提案されているわけですが、その意図は、白瀬の南極探検を応援しよう、というのとは少々異なりました。それは、日本人が寒い土地でもすぐれた働きをすることを証明したい、ということであったり、国が援助を怠ったために日本の船が沈没してイギリスに助けられでもしたら面目が立たない、ということであったりと、結局のところ、外国に向けた日本という国家のアピールが目的だったのです。最後には、イギリスやドイツも南極探検に多額の資金を出しているのだから、これを日本でも国家的事業と考えて援助をするのは当然、という主張がなされています。(レファレンスコード:A07050011900 第27回帝国議会・衆議院議事録・明治43.12.23〜明治44.3.22 304画像目)
栄光の裏に
ここで忘れてはならないのは、この議論が行われているのが、既に白瀬が南極に向けて出発した後だったということです。しかも、最後まで彼の南極探検隊は政府の援助を得ることはなく、義捐(援)金に頼るのみであったと言われています。 (14) は、明治43年(1910年)12月2日付、つまり白瀬が日本を出発した直後の文書で、「極地探検万国会議」についてのやりとりですが、この最後には、個人で南極探検を計画している者がいるが政府は一切これに関係していない、という一文が添えられています。これは恐らく白瀬のことでしょう。このような状況で南極探検に挑んだのですから、白瀬中尉の苦労が相当なものであったことは想像に難くありません。
未知の世界の探検というロマンの裏には、このような現実があったのです。 
明治・大正の日本の地震学 / 「ローカル・サイエンス」を超えて 

 

近代的な科学研究は、明治時代に西洋から日本に入ってきた。明治の日本はまず、西洋の科学を学び、そのレベルに追いつくことから始めなくてはならなかった――というのが、日本の近代科学史の基本的な語り方である。ところが、少なくとも一つだけ、このような図式に当てはまらない科学分野があった。それが本書の主題とする地震学である。
この本は、著者の博士論文を書籍したもので、本文は146ページとそれほど長いものではない。序章と終章(導入と結論)を除いた本論は四つの章から成っており、表題の通り、明治から大正にかけての日本の地震学の展開がほぼ次代順に扱われている。著者の目的は、地震学という例を通じて冒頭で書いたような日本の科学史の一般的理解に反省を迫ろうとするところにあるけれども、まずは本論の内容をまとめておこう。
日本の地震学の始まりと展開
第1章は、明治初期に日本にやって来た外国人たちの地震研究を扱う。世界最初の地震学会は日本で、1880(明治13)年に設立されたが、その中心はイギリス人を中心とした在日外国人だった。彼らは、日本の独特な自然現象である地震に興味を持ち、地震の観測や理論的考察を始めた。ここで重要な役割を果たしたのは、お雇い外国人のユーイングやグレーが開発・改良を進めた地震計である。地震の波形を記録できる装置はそれまでの西洋にはなく、したがって地震計を使った地震学研究もなかった。「自動記録のできる地震計の開発によって、『新しい』という自己認識を持つ一つの科学分野が東京と横浜を中心に形成されていった」。
地震学の黎明期に活躍した最大の人物は、イギリスから来た地質学者のミルンである。彼は地震計その他の装置を使い、地震の実体を総合的に捉えようとした。とりわけ、地震動の時間的・空間的分布を調べるために、日本の政府関係機関や地震学会などの協力も得て、各地でとられたデータを集めたネットワークを作ろうとした。この個人的関心に端を発した研究ネットワークがやがて、「日本の」地震研究の基盤となっていく。
第2章では、地震研究が外国人の科学から「日本の科学」になっていく経過が取り上げられる。地震学会の動きとは別に、日本では地震観測が気象台によって業務化されていった。気象官署では、初期にはイタリアのパルミエリ式地震計が使われたが、1882年以降、ユーイング式やミルン・グレー式のものが使われるようになった。「……気象台での地震観測は、日本地震学会のハードウェアとソフトウェアを吸収し、それが気象台の日常的な観測業務と結合させられることによって、日本独自の地震観測システムへと発展していった」のである。
一方、1886(明治19)年には帝国大学(後の東大)に地震学教室が置かれ、初代教授として関谷清景が着任した。この頃から、地震学の研究はむしろ「耐震建築」と「予知」に向かうようになっていく。これがはっきりするのが、1891(明治24)年の濃尾地震を受けて設立された震災予防調査会である。この研究組織は、「地球に関する知識よりもむしろ地震から国家を守るための諸手段を講究し、そのために日本人研究者の力量を網羅的に動員しようとした組織であった」と著者は書いている(63-64頁)。そして震災予防調査会が本格的に活動を進めた1890年代には、「日本が世界の地震学における中心である」といった言説も少しづつ見られるようになった。
1900年前後、国内のみならず海外でも地震学の権威とされたのが大森房吉であった。第3章は、東京帝国大学の地震学教授にして震災予防調査会の幹事でもあったこの人物の地震学研究についての検討に充てられる。著者によれば、大森の地震学は気象学をモデルにした統計的性格のものであった。彼は実際、全国の地震・気象データや過去の記録を表やグラフにまとめる中で、気象と地震との関係を「発見」している。現代から見ればおかしな議論だが、この種の研究プログラムは当時、盛んに研究されたという。
ここで著者は、いわゆる「大森式地震計」に着目する。これは1898(明治31)年に設置された新型の地震計で、それまでよりも振り子の周期を長くとってあり、遠方で発生した地震波の観測に適していた。これにより、大森は東京の実験室にいながらにして、世界各地の地震を観測・分析できるようになった。著者はこの点に、大森が地震学の世界的権威となることができた主因を認めている。実際、大森は1905(明治38)年にはインドに、1906(明治39)年にはアメリカのサンフランシスコに、1908(明治41)年にはイタリアに、地震の専門家として派遣され、内外から高い評価を得たのであった。
ところが、大森地震学に対する評価は1920年代以降、はっきりと低くなっていく。これは1900年代に始まる、地震学へのより物理学的な観点からのアプローチがやがて優勢になったためであり、この過程が第4章のテーマとなっている。著者はまず、1900年代初頭に行われた、長岡半太郎と日下部四郎太の研究を取り上げる。二人は岩石の弾性を実験室で測定し、そこから地震波の性質を明らかにすることを目標に掲げて、大森の研究方法に批判を加えた。とはいえ、この批判が直ちに成就することはなく、同じ物理学者であっても寺田寅彦などはむしろ大森の方法を支持していた。状況が変わるのは、欧米科学からの独立が叫ばれるようになる1910年代半ば以降のことで、京都大学の志田順なども大森の批判に加わるようになった。
したがって、1923(大正12)年の関東大震災以前に、大森体制への挑戦はある程度進んでいたと著者は見る。大森の後任である今村明恒は震災後、有名な地震学者となったが、長岡はそれ以上に、世界的な科学者としての地位を固めつつあった。長岡らは地震研究の刷新を呼びかけ、1925(大正14)年に設立された地震研究所では、地震の波動や地殻変動に関する実験と数理が主な研究課題となった。大森の統計的・気象学的地震学は、地震学研究の表舞台から消えただけでなく、地震学者たちが語る「日本の地震学」の中でも、せいぜい批判的に触れられるだけになった。
地震学からの日本近代科学史再考
本書で描かれた明治・大正期の地震学の姿は、これまでに語られている地震学の歴史とは少し異なっている。地震学は「日本の科学」であると言われることがあるが、その発端は在日外国人たちの活動にあった。また、大森に代表される地震学研究は「前近代的」と見られることが多いが、それは地震計のネットワークに基づいた独自の研究システムを構築し、事実世界的な業績を上げていた。著者による次の文章が、この事情を最も的確にまとめていると私は思う。
……日本人の大森が欧米人に対して知識を提唱する立場たりえたのは、もともとはミルンによって作られ始めた、東京にその中心を置く地震研究システムの空間的な外延が、長周期の地震計という装置の登場によって日本国内から世界へと拡大されることによってであった。大森は、世界から届けられる地震データについて自ら解析を行うことによって、知識生産の最終段階を担当する中心の科学者として自分自身を位置づけることができたのである。
著者はこのように、日本での地震学の始まりを、外国人が築いた知的・制度的基盤が日本人によって吸収・発展させられていった経過として捉えている。これがよくある近代日本科学史の記述と異なっているのは、そもそも西洋に近代的な地震学研究というものがなかったということ以上に、それが“日本化”される過程で研究の方向性や目的にも独特な変化が生じたという観点を示しているからである。もっとも、最終的にこの路線は再び“西洋化”され、物理学の方法論に基づく地震学が関東大震災以後には中心となっていくわけだが、著者が主張しているように、「『地球物理学の下位分野としての地震学』という関係は先験的に与えられたものではなく、歴史的な過程の中で形成されたものであった」と見るべきだろう。
問題は、このような理解の仕方が地震学以外の場合にも可能かどうかである。著者は序章で、明治・大正の地震学には日本の科学史についての一般的見方――いわゆる「追いつき史観」――と相容れない部分があり、この異質性ゆえに、地震学の歴史を通じて日本の科学史の枠組みを問い直すことができると述べている。しかしながら、地震学という特殊な事例の分析がどのようにすれば日本科学史一般の理解を変えることにつながるのか、その道筋は示されていないように思う。これが特殊な事例だということを最初から認めてしまうのではなく、これは特殊ではないという議論をしていかなくては意味がないのではないだろうか。
私の考えでは、本書は日本の科学史の歴史叙述に再考を加えるということよりもむしろ、中心−周辺の動的関係を示すことのほうに成功していると思う。「日本地震学の歴史は、先に中心性を獲得し、その後にその中心性を喪失していく過程であった」(143頁)と著者は述べているが、このような事例は単に日本の科学史に限らず、およそ科学の歴史一般を考える上で一つのモデルケースとなりうるだろう。
これは希望的推測に過ぎないが、外国人のもたらした基盤の“日本化”と、中心−周辺の動的関係という視点をうまく組み合わせると、日本の科学史・技術史を描くための何らかのガイドラインが得られるかもしれない。地震学が特殊例ではなく典型例となるような枠組みが本当に構築できるのかどうかは何とも言えないが、そういう方向性を考えてみることは、価値ある試みに違いないだろうと思う。 
 

 

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