「夜明け前」

「夜明け前」第一部
序の章1章2章3章4章5章6章7章8章9章10章11章12章
「夜明け前」第二部
1章2章3章4章5章6章7章8章9章10章11章12章13章14章終の章
 

雑学の世界・補考

「夜明け前」第一部

 

序の章 

木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。
東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一|宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。名高い桟(かけはし)も、蔦(つた)のかずらを頼みにしたような危(あぶな)い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降(くだ)って来た。道の狭いところには、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨(けんそ)な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫(はんらん)が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄(もよ)り最寄りの宿場に逗留(とうりゅう)して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷(けいこく)の最も深いところには木曾福島(きそふくしま)の関所も隠れていた。
東山道(とうさんどう)とも言い、木曾街道六十九|次(つぎ)とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚(つか)を築き、榎(えのき)を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
馬籠(まごめ)は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境(みのざかい)にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿(しゅく)を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣(いしがき)を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札(こうさつ)の立つところを中心に、本陣(ほんじん)、問屋(といや)、年寄(としより)、伝馬役(てんまやく)、定歩行役(じょうほこうやく)、水役(みずやく)、七里役(しちりやく)(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主(おも)な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名(こな)の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町(あらまち)、みつや、横手(よこて)、中のかや、岩田(いわた)、峠(とうげ)などの部落がそれだ。そこの宿はずれでは狸(たぬき)の膏薬(こうやく)を売る。名物|栗(くり)こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処(おやすみどころ)もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山(えなさん)のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通(かよ)って来るようなところだ。
本陣の当主|吉左衛門(きちざえもん)と、年寄役の金兵衛(きんべえ)とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人(ふたり)ともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵(はんぞう)という跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰(さた)があって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。 

山里へは春の来ることもおそい。毎年旧暦の三月に、恵那(えな)山脈の雪も溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。中津川(なかつがわ)の商人は奥筋(おくすじ)(三留野(みどの)、上松(あげまつ)、福島から奈良井(ならい)辺までをさす)への諸|勘定(かんじょう)を兼ねて、ぽつぽつ隣の国から登って来る。伊那(いな)の谷の方からは飯田(いいだ)の在のものが祭礼の衣裳(いしょう)なぞを借りにやって来る。太神楽(だいかぐら)もはいり込む。伊勢(いせ)へ、津島へ、金毘羅(こんぴら)へ、あるいは善光寺への参詣(さんけい)もそのころから始まって、それらの団体をつくって通る旅人の群れの動きがこの街道に活気をそそぎ入れる。
西の領地よりする参覲交代(さんきんこうたい)の大小の諸大名、日光への例幣使(れいへいし)、大坂の奉行(ぶぎょう)や御加番衆(おかばんしゅう)などはここを通行した。吉左衛門なり金兵衛なりは他の宿役人を誘い合わせ、羽織(はおり)に無刀、扇子(せんす)をさして、西の宿境(しゅくざかい)までそれらの一行をうやうやしく出迎える。そして東は陣場(じんば)か、峠の上まで見送る。宿から宿への継立(つぎた)てと言えば、人足(にんそく)や馬の世話から荷物の扱いまで、一通行あるごとに宿役人としての心づかいもかなり多い。多人数の宿泊、もしくはお小休(こやす)みの用意も忘れてはならなかった。水戸(みと)の御茶壺(おちゃつぼ)、公儀の御鷹方(おたかかた)をも、こんなふうにして迎える。しかしそれらは普通の場合である。村方の財政や山林田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配する尾張藩(おわりはん)の材木方を迎えるとかいう日になると、ただの送り迎えや継立てだけではなかなか済まされなかった。
多感な光景が街道にひらけることもある。文政九年の十二月に、黒川村の百姓が牢舎(ろうや)御免ということで、美濃境まで追放を命ぜられたことがある。二十二人の人数が宿籠(しゅくかご)で、朝の五つ時(どき)に馬籠(まごめ)へ着いた。師走(しわす)ももう年の暮れに近い冬の日だ。その時も、吉左衛門は金兵衛と一緒に雪の中を奔走して、村の二軒の旅籠屋(はたごや)で昼じたくをさせるから国境(くにざかい)へ見送るまでの世話をした。もっとも、福島からは四人の足軽(あしがる)が付き添って来たが、二十二人ともに残らず腰繩(こしなわ)手錠であった。
五十余年の生涯(しょうがい)の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸(いがい)がこの街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸で亡(な)くなって、その領地にあたる木曾谷を輿(こし)で運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らは二人(ふたり)の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を尾州(びしゅう)の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那(だんな)様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。
「あれは天保(てんぽう)十年のことでした。全く、あの時の御通行は前代未聞(ぜんだいみもん)でしたわい。」
この金兵衛の話が出るたびに、吉左衛門は日ごろから「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚(にくあつ)な鼻の先へしわをよせる。そして、「また金兵衛さんの前代未聞が出た」と言わないばかりに、年齢(とし)の割合にはつやつやとした色の白い相手の顔をながめる。しかし金兵衛の言うとおり、あの時の大通行は全く文字どおり前代未聞の事と言ってよかった。同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。問屋の九太夫(くだゆう)、年寄役の儀助(ぎすけ)、同役の新七、同じく与次衛門(よじえもん)、これらの宿役人仲間から組頭(くみがしら)のものはおろか、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那の助郷(すけごう)が出たのもあの時だ。諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。吉左衛門の家は村でも一番大きい本陣のことだから言うまでもないが、金兵衛の住居(すまい)にすら二人の御用人(ごようにん)のほかに上下合わせて八十人の人数を泊め、馬も二匹引き受けた。
木曾は谷の中が狭くて、田畑もすくない。限りのある米でこの多人数の通行をどうすることもできない。伊那の谷からの通路にあたる権兵衛(ごんべえ)街道の方には、馬の振る鈴音に調子を合わせるような馬子唄(まごうた)が起こって、米をつけた馬匹(ばひつ)の群れがこの木曾街道に続くのも、そういう時だ。 

山の中の深さを思わせるようなものが、この村の周囲には数知れずあった。林には鹿(しか)も住んでいた。あの用心深い獣は村の東南を流れる細い下坂川(おりさかがわ)について、よくそこへ水を飲みに降りて来た。
古い歴史のある御坂越(みさかごえ)をも、ここから恵那(えな)山脈の方に望むことができる。大宝(たいほう)の昔に初めて開かれた木曾路とは、実はその御坂を越えたものであるという。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている。
この山の中だ。時には荒くれた猪(いのしし)が人家の並ぶ街道にまで飛び出す。塩沢というところから出て来た猪は、宿(しゅく)はずれの陣場から薬師堂(やくしどう)の前を通り、それから村の舞台の方をあばれ回って、馬場へ突進したことがある。それ猪だと言って、皆々鉄砲などを持ち出して騒いだが、日暮れになってその行くえもわからなかった。この勢いのいい獣に比べると、向山(むこうやま)から鹿の飛び出した時は、石屋の坂の方へ行き、七回りの藪(やぶ)へはいった。おおぜいの村の人が集まって、とうとう一矢(ひとや)でその鹿を射とめた。ところが隣村の湯舟沢(ゆぶねざわ)の方から抗議が出て、しまいには口論にまでなったことがある。
「鹿よりも、けんかの方がよっぽどおもしろかった。」
と吉左衛門は金兵衛に言って見せて笑った。何かというと二人(ふたり)は村のことに引っぱり出されるが、そんなけんかは取り合わなかった。
檜木(ひのき)、椹(さわら)、明檜(あすひ)、高野槇(こうやまき)、※[木+鑞のつくり](ねずこ)――これを木曾では五木(ごぼく)という。そういう樹木の生長する森林の方はことに山も深い。この地方には巣山(すやま)、留山(とめやま)、明山(あきやま)の区別があって、巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。これは森林保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重く視(み)ていたのである。取り締まりはやかましい。すこしの怠りでもあると、木曾谷中三十三か村の庄屋(しょうや)は上松(あげまつ)の陣屋へ呼び出される。吉左衛門の家は代々本陣庄屋問屋の三役を兼ねたから、そのたびに庄屋として、背伐(せぎ)りの厳禁を犯した村民のため言い開きをしなければならなかった。どうして檜木(ひのき)一本でもばかにならない。陣屋の役人の目には、どうかすると人間の生命(いのち)よりも重かった。
「昔はこの木曾山の木一本伐ると、首一つなかったものだぞ。」
陣屋の役人の威(おど)し文句だ。
この役人が吟味のために村へはいり込むといううわさでも伝わると、猪(いのしし)や鹿(しか)どころの騒ぎでなかった。あわてて不用の材木を焼き捨てるものがある。囲って置いた檜板(ひのきいた)を他(よそ)へ移すものがある。多分の木を盗んで置いて、板にへいだり、売りさばいたりした村の人などはことに狼狽(ろうばい)する。背伐(せぎ)りの吟味と言えば、村じゅう家探(やさが)しの評判が立つほど厳重をきわめたものだ。
目証(めあかし)の弥平(やへい)はもう長いこと村に滞在して、幕府時代の卑(ひく)い「おかっぴき」の役目をつとめていた。弥平の案内で、福島の役所からの役人を迎えた日のことは、一生忘れられない出来事の一つとして、まだ吉左衛門の記憶には新しくてある。その吟味は本陣の家の門内で行なわれた。のみならず、そんなにたくさんな怪我人(けがにん)を出したことも、村の歴史としてかつて聞かなかったことだ。前庭の上段には、福島から来た役人の年寄、用人、書役(かきやく)などが居並んで、そのわきには足軽が四人も控えた。それから村じゅうのものが呼び出された。その科(とが)によって腰繩(こしなわ)手錠で宿役人の中へ預けられることになった。もっとも、老年で七十歳以上のものは手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは「お叱(しか)り」というだけにとどめて特別な憐憫(れんびん)を加えられた。
この光景をのぞき見ようとして、庭のすみの梨(なし)の木のかげに隠れていたものもある。その中に吉左衛門が忰(せがれ)の半蔵もいる。当時十八歳の半蔵は、目を据えて、役人のすることや、腰繩につながれた村の人たちのさまを見ている。それに吉左衛門は気がついて、
「さあ、行った、行った――ここはお前たちなぞの立ってるところじゃない。」
としかった。
六十一人もの村民が宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。その中の十人は金兵衛が預かった。馬籠(まごめ)の宿役人や組頭(くみがしら)としてこれが見ていられるものでもない。福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り」のものの赦免せられるようにと、不幸な村民のために一同お日待(ひまち)をつとめた。その時のお札は一枚ずつ村じゅうへ配当した。
この出来事があってから二十日(はつか)ばかり過ぎに、「お叱り」のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。
手錠を解かれた小前(こまえ)のものの一人(ひとり)は、役人の前に進み出て、おずおずとした調子で言った。
「畏(おそ)れながら申し上げます。木曾は御承知のとおりな山の中でございます。こんな田畑もすくないような土地でございます。お役人様の前ですが、山の林にでもすがるよりほかに、わたくしどもの立つ瀬はございません。」 

新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍(みちばた)に芭蕉(ばしょう)の句塚(くづか)の建てられたころは、なんと言っても徳川の代(よ)はまだ平和であった。
木曾路の入り口に新しい名所を一つ造る、信濃(しなの)と美濃(みの)の国境(くにざかい)にあたる一里|塚(づか)に近い位置をえらんで街道を往来する旅人の目にもよくつくような緩慢(なだらか)な丘のすそに翁塚(おきなづか)を建てる、山石や躑躅(つつじ)や蘭(らん)などを運んで行って周囲に休息の思いを与える、土を盛りあげた塚の上に翁の句碑を置く――その楽しい考えが、日ごろ俳諧(はいかい)なぞに遊ぶと聞いたこともない金兵衛の胸に浮かんだということは、それだけでも吉左衛門を驚かした。そういう吉左衛門はいくらか風雅の道に嗜(たしな)みもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。
あれほど山里に住む心地(こころもち)を引き出されたことも、吉左衛門らにはめずらしかった。金兵衛はまた石屋に渡した仕事もほぼできたと言って、その都度(つど)句碑の工事を見に吉左衛門を誘った。二人とも山家風(やまがふう)な軽袗(かるさん)(地方により、もんぺいというもの)をはいて出かけたものだ。
「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、口癖のようにそう言っていました。まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。碑の表面には左の文字が読まれた。
送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき)はせを
「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。
あれは天保十四年にあたる。いわゆる天保の改革の頃で、世の中建て直しということがしきりに触れ出される。村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。福島の役所からは公役、普請役(ふしんやく)が上って来る。尾張藩の寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)、または材木方の通行も続く。馬籠の荒町(あらまち)にある村社の鳥居(とりい)のために檜木(ひのき)を背伐(せぎ)りしたと言って、その始末書を取られるような細かい干渉がやって来る。村民の使用する煙草(たばこ)入(い)れ、紙入れから、女のかんざしまで、およそ銀という銀を用いた類(たぐい)のものは、すべて引き上げられ、封印をつけられ、目方まで改められて、庄屋(しょうや)預けということになる。それほど政治はこまかくなって、句碑一つもうっかり建てられないような時世ではあったが、まだまだそれでも社会にゆとりがあった。
翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。あいにくと曇った日で、八(や)つ半時(はんどき)より雨も降り出した。招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、手土産(てみやげ)も田舎(いなか)らしく、扇子に羊羹(ようかん)を添えて来るもの、生椎茸(なまじいたけ)をさげて来るもの、先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、国も二つ、言葉の訛(なま)りもまた二つに入れまじった。その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿|落合(おちあい)の宗匠、崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。この人の世話で、美濃派の俳席らしい支考(しこう)の『三※[兆+頁](さんちょう)の図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中の付合(つけあい)があった。
主人役の金兵衛は、自分で五十韻、ないし百韻の仲間入りはできないまでも、
「これで、さぞ親父(おやじ)もよろこびましょうよ。」
と言って、弁当に酒さかななど重詰(じゅうづめ)にして出し、招いた人たちの間を斡旋(あっせん)した。
その日は新たにできた塚のもとに一同集まって、そこで吟声供養を済ますはずであった。ところが、記念の一巻を巻き終わるのに日暮れ方までかかって、吟声は金兵衛の宅で済ました。供養の式だけを新茶屋の方で行なった。
昔気質(むかしかたぎ)の金兵衛は亡父の形見(かたみ)だと言って、その日の宗匠|崇佐坊(すさぼう)へ茶縞(ちゃじま)の綿入れ羽織なぞを贈るために、わざわざ自分で落合まで出かけて行く人である。
吉左衛門は金兵衛に言った。
「やっぱり君はわたしのよい友だちだ。」 

暑い夏が来た。旧暦五月の日のあたった街道を踏んで、伊那(いな)の方面まで繭買いにと出かける中津川の商人も通る。その草いきれのするあつい空気の中で、上り下りの諸大名の通行もある。月の末には毎年福島の方に立つ毛付(けづ)け(馬市)も近づき、各村の駒改(こまあらた)めということも新たに開始された。当時幕府に勢力のある彦根(ひこね)の藩主(井伊(いい)掃部頭(かもんのかみ))も、久しぶりの帰国と見え、須原宿(すはらじゅく)泊まり、妻籠宿(つまごしゅく)昼食(ちゅうじき)、馬籠はお小休(こやす)みで、木曾路を通った。
六月にはいって見ると、うち続いた快晴で、日に増し照りも強く、村じゅうで雨乞(あまご)いでも始めなければならないほどの激しい暑気になった。荒町の部落ではすでにそれを始めた。
ちょうど、峠の上の方から馬をひいて街道を降りて来る村の小前(こまえ)のものがある。福島の馬市からの戻(もど)りと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一匹の子馬をもそのあとに連れている。気の短い問屋の九太夫(くだゆう)がそれを見つけて、どなった。
「おい、どこへ行っていたんだい。」
「馬買いよなし。」
「この旱(ひで)りを知らんのか。お前の留守に、田圃(たんぼ)は乾(かわ)いてしまう。荒町あたりじゃ梵天山(ぼんでんやま)へ登って、雨乞いを始めている。氏神(うじがみ)さまへ行ってごらん、お千度(せんど)参(まい)りの騒ぎだ。」
「そう言われると、一言(いちごん)もない。」
「さあ、このお天気続きでは、伊勢木(いせぎ)を出さずに済むまいぞ。」
伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための神木(しんぼく)をさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。
六月の六日、村民一同は鎌止(かまど)めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人から組頭(くみがしら)まで残らずそこに参集して、氏神境内の宮林(みやばやし)から樅(もみ)の木一本を元伐(もとぎ)りにする相談をした。
「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」
と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。
「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよい樅(もみ)が一本、吾家(うち)の林にもありますから。」
元伐(もとぎ)りにした二本の樅には注連(しめ)なぞが掛けられて、その前で禰宜(ねぎ)の祈祷(きとう)があった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。
「よいよ。よいよ。」
互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にある高札場(こうさつば)あたりまで響けた。こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。それを取り戻そうとして、三(み)つや表(おもて)から畳石(たたみいし)の辺で双方のもみ合いが始まる。とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番|鶏(どり)が鳴いた。
「どうもことしは年回りがよくない。」
「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それが西南(にしみなみ)の方角へ飛んだといいます。見たものは皆驚いたそうですよ。馬籠(まごめ)ばかりじゃない、妻籠(つまご)でも、山口でも、中津川でも見たものがある。」
吉左衛門と金兵衛とは二人(ふたり)でこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところへ急いだ。山里に住むものは、すこし変わったことでも見たり聞いたりすると、すぐそれを何かの暗示に結びつけた。
三日がかりで村じゅうのものが引き合った伊勢木を落合川の方へ流したあとになっても、まだ御利生(ごりしょう)は見えなかった。峠のものは熊野(くまの)大権現(だいごんげん)に、荒町のものは愛宕山(あたごやま)に、いずれも百八の松明(たいまつ)をとぼして、思い思いの祈願をこめる。宿内では二組に分かれてのお日待(ひまち)も始まる。雨乞いの祈祷(きとう)、それに水の拝借と言って、村からは諏訪(すわ)大社(たいしゃ)へ二人の代参までも送った。神前へのお初穂料(はつほりょう)として金百|疋(ぴき)、道中の路用として一人(ひとり)につき一|分(ぶ)二|朱(しゅ)ずつ、百六十軒の村じゅうのものが十九文ずつ出し合ってそれを分担した。
東海道|浦賀(うらが)の宿(しゅく)、久里(くり)が浜(はま)の沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが伝わって来たのも、村ではこの雨乞いの最中である。
問屋の九太夫がまずそれを彦根(ひこね)の早飛脚(はやびきゃく)から聞きつけて、吉左衛門にも告げ、金兵衛にも告げた。その黒船の現われたため、にわかに彦根の藩主は幕府から現場の詰役(つめやく)を命ぜられたとのこと。
嘉永(かえい)六年六月十日の晩で、ちょうど諏訪大社からの二人の代参が村をさして大急ぎに帰って来たころは、その乾(かわ)ききった夜の空気の中を彦根の使者が西へ急いだ。江戸からの便(たよ)りは中仙道(なかせんどう)を経て、この山の中へ届くまでに、早飛脚でも相応日数はかかる。黒船とか、唐人船(とうじんぶね)とかがおびただしくあの沖合いにあらわれたということ以外に、くわしいことはだれにもわからない。ましてアメリカの水師提督ペリイが四|艘(そう)の軍艦を率いて、初めて日本に到着したなぞとは、知りようもない。
「江戸は大変だということですよ。」
金兵衛はただそれだけを吉左衛門の耳にささやいた。 
第一章

 


七月にはいって、吉左衛門(きちざえもん)は木曾福島(きそふくしま)の用事を済まして出張先から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった仕法立(しほうだ)ての件で、馬籠(まごめ)の宿(しゅく)としては金百両の調達を引き請け、暮れに五十両の無尽(むじん)を取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終わったことを届けて置いてあった。今度、福島からその挨拶(あいさつ)があったのだ。
金兵衛(きんべえ)は待ち兼ね顔に、無事で帰って来たこの吉左衛門を自分の家の店座敷(みせざしき)に迎えた。金兵衛の家は伏見屋(ふしみや)と言って、造り酒屋をしている。街道に添うた軒先に杉(すぎ)の葉の円(まる)く束(たば)にしたのを掛け、それを清酒の看板に代えてあるようなところだ。店座敷も広い。その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものを風呂敷(ふろしき)包(づつ)みの中から取り出して、
「さあ、これだ。」
と金兵衛の前に置いた。村の宿役人仲間へ料紙一束ずつ、無尽の加入者一同への酒肴料(しゅこうりょう)、まだそのほかに、二巾(ふたはば)の縮緬(ちりめん)の風呂敷が二枚あった。それは金兵衛と桝田屋(ますだや)の儀助(ぎすけ)の二人(ふたり)が特に多くの金高を引き受けたというので、その挨拶の意味のものだ。
吉左衛門の報告はそれだけにとどまらなかった。最後に、一通の書付(かきつけ)もそこへ取り出して見せた。
「其方(そのほう)儀、御勝手(おかって)御仕法立てにつき、頼母子講(たのもしこう)御世話|方(かた)格別に存じ入り、小前(こまえ)の諭(さと)し方も行き届き、その上、自身にも別段御奉公申し上げ、奇特の事に候(そうろう)。よって、一代|苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)御免なし下され候。その心得あるべきものなり。」
嘉永(かえい)六年|丑(うし)六月
   三(みつ)逸作(いつさく)
   石(いし)団之丞(だんのじょう)
   荻(おぎ)丈左衛門(じょうざえもん)
   白(しろ)新五左衛門(しんござえもん)
青山吉左衛門殿
「ホ。苗字帯刀御免とありますね。」
「まあ、そんなことが書いてある。」
「吉左衛門さん一代限りともありますね。なんにしても、これは名誉だ。」
と金兵衛が言うと、吉左衛門はすこし苦(にが)い顔をして、
「これが、せめて十年前だとねえ。」
ともかくも吉左衛門は役目を果たしたが、同時に勘定所の役人たちがいやな臭気(におい)をもかいで帰って来た。苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。
「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、庄屋(しょうや)のつとめも辛(つら)いものだと思って来ましたよ。」
吉左衛門の述懐だ。
その時、上(かみ)の伏見屋の仙十郎(せんじゅうろう)が顔を出したので、しばらく二人(ふたり)はこんな話を打ち切った。仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。金兵衛を叔父(おじ)と呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。年も半蔵より三つほど上で、腰にした煙草入(たばこい)れの根付(ねつけ)にまで新しい時の流行(はやり)を見せたような若者だ。
「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。」
と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。
吉左衛門は見送りながら、
「みんなどういう人になって行きますかさ――仙十郎にしても、半蔵にしても。」
若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。殺人、盗賊、駈落(かけおち)、男女の情死、諸役人の腐敗|沙汰(ざた)なぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。
同宿三十年――なんと言っても吉左衛門と金兵衛とは、その同じ駅路の記憶につながっていた。この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。博打(ばくち)はもってのほかだという。しかし毎年の毛付(けづ)け(馬市)を賭博場(とばくじょう)に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。袖(そで)の下はもってのほかだという。しかし御肴代(おさかなだい)もしくは御祝儀(ごしゅうぎ)何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。人殺しはもってのほかだという。しかし八沢(やさわ)の長坂の路傍(みちばた)にあたるところで口論の末から土佐(とさ)の家中(かちゅう)の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で刃傷(にんじょう)の手本を示したのも小池(こいけ)伊勢(いせ)の家中であった。女は手形(てがた)なしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも彦根(ひこね)の殿様であった。
「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家(うち)の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」
東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。
この街道に伝わるうわさの多くは、諺(ことわざ)にもあるようにころがるたびに大きな塊(かたまり)になる雪達磨(ゆきだるま)に似ている。六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六|艘(そう)もの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。寛永(かんえい)十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくのほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。当時幕府が船改めの番所は下田(しもだ)の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの唐人船(とうじんぶね)がやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。
種々な流言が伝わって来た。宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。やがて通行の前触れだ。間もなくこの街道では江戸出府の尾張(おわり)の家中を迎えた。尾張藩主(徳川|慶勝(よしかつ))の名代(みょうだい)、成瀬(なるせ)隼人之正(はやとのしょう)、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。公儀の御茶壺(おちゃつぼ)同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの具足(ぐそく)長持(ながもち)が十棹(とさお)もそのあとから続いた。それらの警護の武士が美濃路(みのじ)から借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。継立(つぎた)ても難渋であった。馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。ある朝|馬籠(まごめ)から送り出した長持は隣宿の妻籠(つまご)で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立ての見分(けんぶん)として奉行(ぶぎょう)まで出張して来るほど街道はごたごたした。
狼狽(ろうばい)そのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず恐悦(きょうえつ)だ。そんな報知(しらせ)が、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。
吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。吉左衛門と金兵衛とは談話(はなし)半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へ大筒(おおづつ)の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。本陣や問屋の前あたりは檜木笠(ひのきがさ)や六尺棒なぞで埋(うず)められた。騎馬から降りて休息する武士もあった。肌(はだ)脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。よくあの重いものをかつぎ上げて、美濃境(みのざかい)の十曲峠(じっきょくとうげ)を越えることができたと、人々はその話で持ちきった。吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまた桝田屋(ますだや)の儀助らと共にその間を奔(はし)り回って、隣宿妻籠までの継立てのことを斡旋(あっせん)した。
村の人たちは皆、街道に出て見た。その中に半蔵もいた。彼は父の吉左衛門に似て背(せい)も高く、青々とした月代(さかやき)も男らしく目につく若者である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者が宮川(みやがわ)寛斎(かんさい)だ。半蔵の旧(ふる)い師匠だ。その時、半蔵は無言。寛斎も無言で、ただ医者らしく頭を円(まる)めた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。
「半蔵さん。」
上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。目方百十五、六貫ばかりの大筒(おおづつ)の鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五|挺(ちょう)、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸の邸(やしき)へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。
間もなく尾張の家中衆は見えなかった。しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。六月以来|頻繁(ひんぱん)な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。
金兵衛は吉左衛門の袖(そで)を引いて言った。
「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立(つぎた)ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」
酒のさかな。胡瓜(きゅうり)もみに青紫蘇(あおじそ)。枝豆。到来物の畳(たた)みいわし。それに茄子(なす)の新漬(しんづ)け。飯の時にとろろ汁(じる)。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。
店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人(ふたり)の席を設けた。山家風(やまがふう)な風呂(ふろ)の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子(はこばしご)を登った。黒光りのするほどよく拭(ふ)き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋(へや)には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜(あくぬ)けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺(なが)めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。
夕飯。お玉は膳(ぜん)を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。
「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「吾家(うち)の鶴松(つるまつ)も出まして、お世話さまでございます。」
「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、苗字(みょうじ)帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」
「それはおめでとうございます。」
「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」
「でも、悪い気持ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、大威張(おおいば)りだ。」
「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、盃(さかずき)でもいただこうじゃありませんか。」
吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め上手(じょうず)なお玉のお酌(しゃく)で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつて翁塚(おきなづか)の供養のあったおりに、落合の宗匠|崇佐坊(すさぼう)まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛の旧(むかし)なじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の蘭渓(らんけい)もその一人(ひとり)だ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに亡(な)くなった。
「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうして御酒(ごしゅ)でもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(※[けものへん+臈のつくり]子鳥)三十羽に、茶漬(ちゃづ)け三杯――」
「それさ。」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。」
アトリ三十羽に茶漬け三杯。あれは嘉永(かえい)二年にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕(と)れた年で、ことに大平村(おおだいらむら)の方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、褒美(ほうび)として別に三十羽もらえる。もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。場処は蓬莱屋(ほうらいや)。時刻は七つ時(どき)。食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。食わせる方のものは組頭(くみがしら)笹屋(ささや)の庄兵衛(しょうべえ)と小笹屋(こざさや)の勝七。それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。さて、食った。約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、鶫(つぐみ)のような小鳥とはわけが違う。それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたころであった。二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。
「あんなおもしろいことはなかった。」
「いや、大笑いにも、なんにも。あんなおもしろいことは前代|未聞(みもん)さ。」
「出ましたね、金兵衛さんの前代未聞が――」
こんな話も酒の上を楽しくした。隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きない夜咄(よばなし)に、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。
馬籠(まごめ)の宿(しゅく)で初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、桝田屋(ますだや)であった。そこの初代と二代目の主人、惣右衛門(そうえもん)親子のものであった。桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、下坂川(おりさかがわ)で四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あったという。その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。
この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにも好(よ)かれ悪(あ)しかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。
馬籠は田畠(たはた)の間にすら大きくあらわれた石塊(いしころ)を見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親の名跡(みょうせき)を継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。本家は代々の年寄役でもあったので、若輩(じゃくはい)ながらにその役をも勤めた。旅人相手の街道に目をつけて、旅籠屋(はたごや)の新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。そのころの馬籠は、一|分(ぶ)か二分の金を借りるにも、隣宿の妻籠(つまご)か美濃の中津川まで出なければならなかった。師走(しわす)も押し詰まったころになると、中津川の備前屋(びぜんや)の親仁(おやじ)が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へ小貸(こが)しなどした。その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地|柄(がら)であった。
四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。百姓の仕事とする朝草(あさくさ)も、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通し石臼(いしうす)をひいた。新宅の旅籠屋(はたごや)もできあがるころは、普請(ふしん)のおりに出た木の片(きれ)を燈(とぼ)して、それを油火(あぶらび)に替え、夜番の行燈(あんどん)を軒先へかかげるにも毎朝夜明け前に下掃除(したそうじ)を済まし、同じ布で戸障子(としょうじ)の敷居などを拭(ふ)いたのも、そのかみさんだ。貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろく安気(あんき)に眠ったこともなかったほど働いた。
そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先の食米(くいまい)三斗ずつ内証で借りうけ、秋米(あきまい)で四斗ずつ返すことにしていた。これは田地を仕付けるにも、旅籠屋(はたごや)片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。
初代惣右衛門はこんなところから出発した。旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、小女(こおんな)まで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。飯米(はんまい)一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。
二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親から仕来(しきた)った百姓は百姓として、惣領(そうりょう)にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は雲助(くもすけ)にでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いか駕籠(かご)かきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。
人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた年貢米(ねんぐまい)の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた分限者(ぶげんしゃ)は木曾谷中にも彼のほかにないと言われるようになった。彼は貧困を征服しようとした親惣右衛門の心を飽くまでも持ちつづけた。誇るべき伝統もなく、そうかと言って煩(わずら)わされやすい過去もなかった。腕一本で、無造作に進んだ。
天明(てんめい)六年は二代目惣右衛門が五十三歳を迎えたころである。そのころの彼は、大きな造り酒屋の店にすわって、自分の子に酒の一番火入れなどをさせながら、初代在世のころからの八十年にわたる過去を思い出すような人であった。彼は親先祖から譲られた家督財産その他一切のものを天からの預かり物と考えよと自分の子に誨(おし)えた。彼は金銭を日本の宝の一つと考えよと誨(おし)えた。それをみだりにわが物と心得て、私用に費やそうものなら、いつか「天道(てんどう)」に泄(も)れ聞こえる時が来るとも誨えた。彼は先代惣右衛門の出発点を忘れそうな子孫の末を心配しながら死んだ。
伏見屋の金兵衛は、この惣右衛門親子の衣鉢(いはつ)を継いだのである。そういう金兵衛もまた持ち前の快活さで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、時には米の売買にもたずさわり、美濃の久々里(くくり)あたりの旗本にまで金を貸した。
二人(ふたり)の隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎(いなか)医者に言わせると、馬籠は国境(くにざかい)だ、おそらく町人|気質(かたぎ)の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が混(まじ)り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に信濃(しなの)の百姓であると。
吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦(そうしゅうみうら)の方から移って来た青山|監物(けんもつ)の第二子であった。ここに一宇を建立(こんりゅう)して、万福寺(まんぷくじ)と名づけたのも、これまた同じ人であった。万福寺殿昌屋常久禅定門(まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん)、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を道斎(どうさい)と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、天正(てんしょう)十二年の昔にあたる。
「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」
と吉左衛門が自分の忰(せがれ)に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。
遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾|義昌(よしまさ)の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方の郷士(ごうし)として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田(いしだ)三成(みつなり)が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道(なかせんどう)を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先立(おさきだち)には、山村|甚兵衛(じんべえ)、馬場(ばば)半左衛門(はんざえもん)、千村(ちむら)平右衛門(へいえもん)などの諸士を数える。馬籠の青山|庄三郎(しょうざぶろう)、またの名|重長(しげなが)(青山二代目)もまた、徳川|方(がた)に味方し、馬籠の砦(とりで)にこもって、犬山勢(いぬやまぜい)を防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へ討手(うって)を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。
青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。由緒(ゆいしょ)のある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本の鎗(やり)だけが残った。その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、享保(きょうほう)九年の検地の時以来、代官屋敷の字(あざ)を石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。
子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関の長押(なげし)の上に掛けてある古い二本の鎗の下へ小忰(こせがれ)を連れて行って、
「御覧、御先祖さまが見ているぞ。いたずらするとこわいぞ。」
と戯れた。
隣家の伏見屋なぞにない古い伝統が年若(としわか)な半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父の炬燵話(こたつばなし)からで。自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。
「代官造りという言葉は、地名で残っている。吾家(うち)の先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというので、それで代官造りさ。今の町田(まちだ)がそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日に吾家(うち)から酒を一斗出した。酔って田圃(たんぼ)の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」
この話もよく出た。
吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。 

「また、黒船ですぞ。」
七月の二十六日には、江戸からの御隠使(ごおんし)が十二代将軍徳川|家慶(いえよし)の薨去(こうきょ)を伝えた。道中奉行(どうちゅうぶぎょう)から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。
「いったい、きょうは幾日です。七月の二十九日じゃありませんか。公儀の御隠使(ごおんし)が見えてから、まだ三日にしかならない。」
と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというその唐人船(とうじんぶね)が、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中では判然(はっきり)しなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。
「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」
と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物(さきにもつ)を運んで来る人たちの話はまちまちであった。奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場では継立(つぎた)てに難渋した。八月の一日には、この街道では栗色(くりいろ)なめしの鎗(やり)を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる水野(みずの)筑後(ちくご)の一行を迎えた。
ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。妻のおまんは刀に脇差(わきざし)なぞをそこへ取り出して来て勧めた。
「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。」
と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。
諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の駕籠(かご)の近く挨拶(あいさつ)に行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。本陣の前に駕籠を停(と)めさせてのほんのお小休みであった。料紙を載せた三宝(さんぽう)なぞがそこへ持ち運ばれた。その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、
「当宿本陣の吉左衛門でございます。お目通りを願います。」
と声をかけた。
「おゝ、馬籠の本陣か。」
奉行の砕けた挨拶だ。
水野|筑後(ちくご)は二千石の知行(ちぎょう)ということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。
街道は暮れて行った。会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。
子供らは街道に集まっていた。夕空に飛びかう蝙蝠(こうもり)の群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。山の中のことで、夜鷹(よたか)もなき出す。往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番の軒行燈(のきあんどん)の燈火(あかり)もついた。
一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。やがておまんが二人の下女(げじょ)を相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。
「半蔵は。」
と吉左衛門はおまんにたずねた。
「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。仙十郎さんはアメリカの船だと言う。オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人で屋外(そと)へ出て行きましたよ。」
「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれた。」
山家らしい風呂(ふろ)と、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。ちょうど、その八月|朔日(ついたち)は吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験を胸に浮かべた。雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、馬方(うまかた)、牛方(うしかた)、人足の世話から、道路の修繕、助郷(すけごう)の掛合(かけあい)まで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。
吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんが温(あたた)めて出した一本の銚子と、到来物の鮎(あゆ)の塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。彼はおまんに言った。
「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野|筑後(ちくご)の守(かみ)――あの人は二千石の知行(ちぎょう)取りだそうだが、きょうの御通行は十万石の格式だぜ。非常に破格な待遇さね。一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。それだけでも、徳川様の代(よ)は変わって来たような気がする。そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。いったん、事ある場合に際会してごらん――」
「なにしろあなた、この唐人船の騒ぎですもの。」
「こういう時世になって来たのかなあ。」
寛(くつろ)ぎの間(ま)と名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広い仲(なか)の間(ま)につづいている。吉左衛門が自分の部屋(へや)として臥起(ねお)きをしているのもその寛ぎの間だ。そこへも行って周囲を見回しながら、
「しかし、御苦労、御苦労。」
と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、
「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」
「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」
おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、
「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字(みょうじ)帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」
そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。
馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。
遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿|妻籠(つまご)の本陣、青山|寿平次(じゅへいじ)の妹、お民(たみ)という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰(せがれ)の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱(ゆううつ)が半蔵を苦しめたことを想(おも)って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代(よ)を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山|監物(けんもつ)を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人(ふたり)の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末(すえ)頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。
この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣を訪(たず)ねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。
「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。」
「十七さ。」
その時、金兵衛は指を折って数えて見て、
「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。」
よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。
「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもう祝言(しゅうげん)だなんて、早いものですね。わたしもこれで、平素(ふだん)はそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。」
「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。」
「半蔵さま――お前さまのところへは、妻籠の御本陣からお嫁さまが来(こ)さっせるそうだなし。お前さまも大きくならっせいたものだ。」
半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき婆(ばあ)さんもある。おふきは乳母(うば)として、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。
おふきはまた、今の本陣の「姉(あね)さま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。
「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのお母(っか)様をよく覚えている。お袖(そで)さま――美しい人だったぞなし。あれほどの容色(きりょう)は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。あのお袖さまが煩(わずら)って亡(な)くなったのは、あれはお前さまを生んでから二十日(はつか)ばかり過ぎだったずら。おれはお前さまを抱いて、お母(っか)さまの枕(まくら)もとへ連れて行ったことがある。あれがお別れだった。三十二の歳(とし)の惜しい盛りよなし。それから、お前さまはまた、間もなく黄疸(おうだん)を病(や)まっせる。あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。大旦那(おおだんな)(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。あのお母(っか)さまが今まで達者(たっしゃ)でいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなだずら――」
半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していた。また、一人(ひとり)で両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、蕎麦粉(そばこ)と里芋(さといも)の子で造る芋焼餅(いもやきもち)なぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。
山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。村にはろくな寺小屋もなかった。人を化かす狐(きつね)や狸(たぬき)、その他|種々(さまざま)な迷信はあたりに暗く跋扈(ばっこ)していた。そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。ちょうど今の隣家の鶴松(つるまつ)が桝田屋(ますだや)の子息(むすこ)などと連れだって通(かよ)って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。峠からも、荒町(あらまち)からも、中のかやからも。時には隣村の湯舟沢、山口からも。年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。
山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。良師のないのが第一の困難であった。信州|上田(うえだ)の人で児玉(こだま)政雄(まさお)という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経(しきょう)』の句読(くとう)を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅(しょうが)の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就(つ)いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚(そうえんおしょう)のような禅僧もあったが、教えて倦(う)まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝(こぶんしんぽう)』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書(ししょ)』の集註(しゅうちゅう)を読み、十五歳には『易書(えきしょ)』や『春秋(しゅんじゅう)』の類(たぐい)にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那(いな)の小野(おの)村の小野|甫邦(ほほう)に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚|釣(つ)りだ碁将棋だと言って時を送る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。蜂谷(はちや)香蔵(こうぞう)と言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。
「自分は独学で、そして固陋(ころう)だ。もとよりこんな山の中にいて見聞も寡(すくな)い。どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。」
と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、賀茂(かもの)真淵(まぶち)、本居(もとおり)宣長(のりなが)、平田(ひらた)篤胤(あつたね)などの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。
黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。 

その年、嘉永(かえい)六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話も妻籠(つまご)の本陣あてに結納(ゆいのう)の品を贈るほど運んだ。
もはや恵那山(えなさん)へは雪が来た。ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。山家のならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。皿(さら)何人前、膳(ぜん)何人前などと箱書きしたものを出したり入れたりするだけでも、主婦の一役(ひとやく)だ。
ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からの差紙(さしがみ)を置いて行った。馬籠(まごめ)の庄屋(しょうや)あてだ。おまんはそれを渡そうとして、夫(おっと)を探(さが)した。
「大旦那(おおだんな)は。」
と下女にきくと、
「蔵の方へおいでだぞなし。」
という返事だ。おまんはその足で、母屋(もや)から勝手口の横手について裏の土蔵の前まで歩いて行った。石段の上には夫の脱いだ下駄(げた)もある。戸前の錠もはずしてある。夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。おまんは土蔵の二階の方にごとごと音のするのを聞きながら梯子(はしご)を登って行って見た。そこに吉左衛門がいた。
「あなた、福島からお差紙(さしがみ)ですよ。」
吉左衛門はわずかの閑(ひま)の時を見つけて、その二階に片づけ物なぞをしていた。壁によせて幾つとなく古い本箱の類(たぐい)も積み重ねてある。日ごろ彼の愛蔵する俳書、和漢の書籍なぞもそこに置いてある。その時、彼はおまんから受け取ったものを窓に近く持って行って読んで見た。
その差紙には、海岸警衛のため公儀の物入りも莫大(ばくだい)だとある。国恩を報ずべき時節であると言って、三都の市中はもちろん、諸国の御料所(ごりょうしょ)、在方(ざいかた)村々まで、めいめい冥加(みょうが)のため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。それにはまた、浦賀表(うらがおもて)へアメリカ船四|艘(そう)、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、海岸|防禦(ぼうぎょ)のためとも書き添えてある。
「これは国恩金の上納を命じてよこしたんだ。」と吉左衛門はおまんに言って見せた。「外は風雨(しけ)だというのに、内では祝言のしたくだ――しかしこのお差紙(さしがみ)の様子では、おれも一肌(ひとはだ)脱がずばなるまいよ。」
その時になって見ると、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごたを避けて、土蔵に近い位置にある隠居所の二階に隠れる。新夫婦の居間にと定められた店座敷へは、畳屋も通(かよ)って来る。長いこと勤めていた下男も暇を取って行って、そのかわり佐吉という男が今度新たに奉公に来た。
おまんが梯子(はしご)を降りて行ったあと、吉左衛門はまた土蔵の明り窓に近く行った。鉄格子(てつごうし)を通してさし入る十一月の光線もあたりを柔らかに見せている。彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。徳川幕府あって以来いまだかつて聞いたこともないような、公儀の御金蔵(おかねぐら)がすでにからっぽになっているという内々(ないない)の取り沙汰(ざた)なぞが、その時、胸に浮かんだ。昔|気質(かたぎ)の彼はそれらの事を思い合わせて、若者の前でもなんでもおかまいなしに何事も大げさに触れ回るような人たちを憎んだ。そこから子に対する心持ちをも引き出されて見ると、年もまだ若く心も柔らかく感じやすい半蔵なぞに、今から社会の奥をのぞかせたくないと考えた。いかなる人間同志の醜い秘密にも、その刺激に耐えられる年ごろに達するまでは、ゆっくりしたくさせたいと考えた。権威はどこまでも権威として、子の前には神聖なものとして置きたいとも考えた。おそらく隣家の金兵衛とても、親としてのその心持ちに変わりはなかろう。そんなことを思い案じながら、吉左衛門はその蔵の二階を降りた。
かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来るようになった。空は晴れても、大雪の来たあとであった。野尻宿(のじりしゅく)の継所(つぎしょ)から落合(おちあい)まで通し人足七百五十人の備えを用意させるほどの公儀衆が、さくさく音のする雪の道を踏んで、長崎へと通り過ぎた。この通行が三日も続いたあとには、妻籠(つまご)の本陣からその同じ街道を通って、新しい夜具のぎっしり詰まった長持(ながもち)なぞが吉左衛門の家へかつぎ込まれて来た。
吉日として選んだ十二月の一日が来た。金兵衛は朝から本陣へ出かけて来て、吉左衛門と一緒に客の取り持ちをした。台所でもあり応接間でもある広い炉ばたには、手伝いとして集まって来ているお玉、お喜佐、おふきなどの笑い声も起こった。
仙十郎(せんじゅうろう)も改まった顔つきでやって来た。寛(くつろ)ぎの間(ま)と店座敷の間を往(い)ったり来たりして、半蔵を退屈させまいとしていたのもこの人だ。この取り込みの中で、金兵衛はちょっと半蔵を見に来て言った。
「半蔵さん、だれかお前さんの呼びたい人がありますかい。」
「お客にですか。宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それに景蔵(けいぞう)さんも呼んであげたい。」
浅見(あさみ)景蔵は中津川本陣の相続者で、同じ町に住む香蔵を通して知るようになった半蔵の学友である。景蔵はもと漢学の畠(はたけ)の人であるが、半蔵らと同じように国学に志すようになったのも、寛斎の感化であった。
「それは半蔵さん、言うまでもなし。中津川の御連中はあすということにして、もう使いが出してありますよ。あの二人(ふたり)は黙って置いたって、向こうから祝いに来てくれる人たちでさ。」
そばにいた仙十郎は、この二人の話を引き取って、
「おれも――そうだなあ――もう一度祝言の仕直しでもやりたくなった。」
と笑わせた。
山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積もった雪が大雨のために溶けて行った。そのあとには、金兵衛のような年配のものが子供の時分から聞き伝えたこともないと言うほどの暖かさが来ていた。寒がりの吉左衛門ですら、その日は炬燵(こたつ)や火鉢(ひばち)でなしに、煙草盆(たばこぼん)の火だけで済ませるくらいだ。この陽気は本陣の慶事を一層楽しく思わせた。
午後に、寿平次|兄妹(きょうだい)がすでに妻籠(つまご)の本陣を出発したろうと思われるころには、吉左衛門は定紋(じょうもん)付きの※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](かみしも)姿で、表玄関前の広い板の間を歩き回った。下男の佐吉もじっとしていられないというふうで、表門を出たりはいったりした。
「佐吉、めずらしい陽気だなあ。この分じゃ妻籠の方も暖かいだろう。」
「そうよなし。今夜は門の前で篝(かがり)でも焚(た)かずと思って、おれは山から木を背負(しよ)って来た。」
「こう暖かじゃ、篝(かがり)にも及ぶまいよ。」
「今夜は高張(たかはり)だけにせずか、なし。」
そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。
「一昨日(おととい)の晩でさ。」と金兵衛は言った。「桝田屋(ますだや)の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。どうもこれは世間一統の陽気でしょう。あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。」
「金兵衛さん――前代|未聞(みもん)の冬ですかね。」
「いや、全く。」
日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋の格子(こうし)先あたりから問屋の石垣(いしがき)の辺へかけて黒山を築いた。土地の風習として、花嫁を載せて来た駕籠(かご)はいきなり門の内へはいらない。峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前で停(と)まった。提灯(ちょうちん)の灯(ひ)に映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」の唄(うた)が起こった。荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄の節(ふし)につれて踊りはじめた。手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が動いた。この鄙(ひな)びた舞踏の輪は九度も花嫁の周囲(まわり)を回った。
その晩、盃(さかずき)をすましたあとの半蔵はお民と共に、冬の夜とも思われないような時を送った。半蔵がお民を見るのは、それが初めての時でもない。彼はすでに父と連れだって、妻籠にお民の家を訪(たず)ねたこともある。この二人の結びつきは当人同志の選択からではなくて、ただ父兄の選択に任せたのであった。親子の間柄でも、当時は主従の関係に近い。それほど二人は従順であったが、しかし決して安閑としてはいなかった。初めて二人が妻籠の方で顔を見合わせた時、すべてをその瞬間に決定してしまった。長くかかって見るべきものではなくて、一目に見るべきものであったのだ。
店座敷は東向きで、戸の外には半蔵の好きな松の樹(き)もあった。新しい青い部屋(へや)の畳は、鶯(うぐいす)でもなき出すかと思われるような温暖(あたたか)い空気に香(かお)って、夜遊び一つしたことのない半蔵の心を逆上(のぼ)せるばかりにした。彼は知らない世界にでもはいって行く思いで、若さとおそろしさのために震えているようなお民を自分のそばに見つけた。
「お父(とっ)さん――わたしのためでしたら、祝いはなるべく質素にしてください。」
「それはお前に言われるまでもない。質素はおれも賛成だねえ。でも、本陣には本陣の慣例(しきたり)というものもある。呼ぶだけのお客はお前、どうしたって呼ばなけりゃならない。まあ、おれに任せて置け。」
半蔵が父とこんな言葉をかわしたのは、客振舞(きゃくぶるまい)の続いた三日目の朝である。
思いがけない尾張藩の徒士目付(かちめつけ)と作事方(さくじかた)とがその日の午前に馬籠の宿(しゅく)に着いた。来たる三月には尾張藩主が木曾路を経て江戸へ出府のことに決定したという。この役人衆の一行は、冬のうちに各本陣を見分(けんぶん)するためということであった。
こういう場合に、なくてならない人は金兵衛と問屋の九太夫とであった。万事扱い慣れた二人は、吉左衛門の当惑顔をみて取った。まず二人で梅屋の方へ役人衆を案内した。金兵衛だけが吉左衛門のところへ引き返して来て言った。
「まずありがたかった。もう少しで、この取り込みの中へ乗り込まれるところでした。オット。皆さま、当宿本陣には慶事がございます、取り込んでおります、恐れ入りますが梅屋の方でしばらくお休みを願いたい、そうわたしが言いましてね。そこはお役人衆も心得たものでさ。お昼のしたくもあちらで差し上げることにして来ましたよ。」
梅屋と本陣とは、呼べば応(こた)えるほどの対(むか)い合った位置にある。午後に、徒士目付(かちめつけ)の一行は梅屋で出した福草履(ふくぞうり)にはきかえて、乾(かわ)いた街道を横ぎって来た。大きな髷(まげ)のにおい、帯刀の威、袴(はかま)の摺(す)れる音、それらが役人らしい挨拶(あいさつ)と一緒になって、本陣の表玄関には時ならぬいかめしさを見せた。やがて、吉左衛門の案内で、部屋(へや)部屋の見分があった。
吉左衛門は徒士目付にたずねた。
「はなはだ恐縮ですが、中納言(ちゅうなごん)様の御通行は来春のようにうけたまわります。当|宿(しゅく)ではどんな心じたくをいたしたものでしょうか。」
「さあ、ことによるとお昼食(ひる)を仰せ付けられるかもしれない。」
婚礼の祝いは四日も続いて、最終の日の客振舞(きゃくぶるまい)にはこの慶事に来て働いてくれた女たちから、出入りの百姓、会所の定使(じょうづかい)などまで招かれて来た。大工も来、畳屋も来た。日ごろ吉左衛門や半蔵のところへ油じみた台箱(だいばこ)をさげて通(かよ)って来る髪結い直次(なおじ)までが、その日は羽織着用でやって来て、膳(ぜん)の前にかしこまった。
町内の小前(こまえ)のものの前に金兵衛、髪結い直次の前に仙十郎、涙を流してその日の来たことを喜んでいるようなおふき婆(ばあ)さんの前には吉左衛門がすわって、それぞれ取り持ちをするころは、酒も始まった。吉左衛門はおふきの前から、出入りの百姓たちの前へ動いて、
「さあ、やっとくれや。」
とそこにある銚子(ちょうし)を持ち添えて勧めた。百姓の一人(ひとり)は膝(ひざ)をかき合わせながら、
「おれにかなし。どうも大旦那(おおだんな)にお酌(しゃく)していただいては申しわけがない。」
隣席にいるほかの百姓が、その時、吉左衛門に話しかけた。
「大旦那(おおだんな)――こないだの上納金のお話よなし。ほかの事とも違いますから、一同申し合わせをして、お受けをすることにしましたわい。」
「あゝ、あの国恩金のことかい。」
「それが大旦那、百姓はもとより、豆腐屋、按摩(あんま)まで上納するような話ですで、おれたちも見ていられすか。十八人で二両二分とか、五十六人で三両二分とか、村でも思い思いに納めるようだが、おれたちは七人で、一人が一朱(いっしゅ)ずつと話をまとめましたわい。」
仙十郎は酒をついで回っていたが、ちょうどその百姓の前まで来た。
「よせ。こんな席で上納金の話なんか。伊勢(いせ)の神風の一つも吹いてごらん、そんな唐人船(とうじんぶね)なぞはどこかへ飛んでしまう。くよくよするな。それよりか、一杯行こう。」
「どうも旦那はえらいことを言わっせる。」と百姓は仙十郎の盃(さかずき)をうけた。
「上の伏見屋の旦那。」と遠くの席から高い声で相槌(あいづち)を打つものもある。「おれもお前さまに賛成だ。徳川さまの御威光で、四艘や五艘ぐらいの唐人船がなんだなし。」
酒が回るにつれて、こんな話は古風な石場搗(いしばづ)きの唄(うた)なぞに変わりかけて行った。この地方のものは、いったいに酒に強い。だれでも飲む。若い者にも飲ませる。おふき婆さんのような年をとった女ですら、なかなか隅(すみ)へは置けないくらいだ。そのうちに仙十郎が半蔵の前へ行ってすわったころは、かなりの上きげんになった。半蔵も方々から来る祝いの盃をことわりかねて、顔を紅(あか)くしていた。
やがて、仙十郎は声高くうたい出した。
   木曾のナ
   なかのりさん、
   木曾の御嶽(おんたけ)さんは
   なんちゃらほい、
   夏でも寒い。
   よい、よい、よい。
半蔵とは対(むか)い合いに、お民の隣には仙十郎の妻で半蔵が異母妹にあたるお喜佐も来て膳(ぜん)に着いていた。お喜佐は目を細くして、若い夫のほれぼれとさせるような声に耳を傾けていた。その声は一座のうちのだれよりも清(すず)しい。
「半蔵さん、君の前でわたしがうたうのは今夜初めてでしょう。」
と仙十郎は軽く笑って、また手拍子(てびょうし)を打ちはじめた。百姓の仲間からおふき婆さんまでが右に左にからだを振り動かしながら手を拍(う)って調子を合わせた。塩辛(しおから)い声を振り揚げる髪結い直次の音頭取(おんどと)りで、鄙(ひな)びた合唱がまたそのあとに続いた。
   袷(あわせ)ナ
   なかのりさん、
   袷やりたや
   なんちゃらほい、
   足袋(たび)添えて。
   よい、よい、よい。
本陣とは言っても、吉左衛門の家の生活は質素で、芋焼餅(いもやきもち)なぞを冬の朝の代用食とした。祝言のあった六日目の朝には、もはや客振舞(きゃくぶるまい)の取り込みも静まり、一日がかりのあと片づけも済み、出入りの百姓たちもそれぞれ引き取って行ったあとなので、おまんは炉ばたにいて家の人たちの好きな芋焼餅を焼いた。
店座敷に休んだ半蔵もお民もまだ起き出さなかった。
「いつも早起きの若旦那が、この二、三日はめずらしい。」
そんな声が二人の下女の働いている勝手口の方から聞こえて来る。しかしおまんは奉公人の言うことなぞに頓着(とんちゃく)しないで、ゆっくり若い者を眠らせようとした。そこへおふき婆さんが新夫婦の様子を見に屋外(そと)からはいって来た。
「姉(あね)さま。」
「あい、おふきか。」
おふきは炉ばたにいるおまんを見て入り口の土間のところに立ったまま声をかけた。
「姉さま。おれはけさ早く起きて、山の芋(いも)を掘りに行って来た。大旦那も半蔵さまもお好きだで、こんなものをさげて来た。店座敷ではまだ起きさっせんかなし。」
おふきは※[くさかんむり/稾]苞(わらづと)につつんだ山の芋にも温(あたた)かい心を見せて、半蔵の乳母(うば)として通(かよ)って来た日と同じように、やがて炉ばたへ上がった。
「おふき、お前はよいところへ来てくれた。」とおまんは言った。「きょうは若夫婦に御幣餅(ごへいもち)を祝うつもりで、胡桃(くるみ)を取りよせて置いた。お前も手伝っておくれ。」
「ええ、手伝うどころじゃない。農家も今は閑(ひま)だで。御幣餅とはお前さまもよいところへ気がつかっせいた。」
「それに、若夫婦のお相伴(しょうばん)に、お隣の子息(むすこ)さんでも呼んであげようかと思ってさ。」
「あれ、そうかなし。それじゃおれが伏見屋へちょっくら行って来る。そのうちには店座敷でも起きさっせるずら。」
気候はめずらしい暖かさを続けていて、炉ばたも楽しい。黒く煤(すす)けた竹筒、魚の形、その自在鍵(じざいかぎ)の天井から吊(つ)るしてある下では、あかあかと炉の火が燃えた。おふきが隣家まで行って帰って見たころには、半蔵とお民とが起きて来ていて、二人で松薪(まつまき)をくべていた。渡し金(がね)の上に載せてある芋焼餅も焼きざましになったころだ。おふきはその里芋(さといも)の子の白くあらわれたやつを温め直して、大根おろしを添えて、新夫婦に食べさせた。
「お民、おいで。髪でも直しましょう。」
おまんは奥の坪庭に向いた小座敷のところへお民を呼んだ。妻籠(つまご)の本陣から来た娘を自分の嫁として、「お民、お民」と名を呼んで見ることもおまんにはめずらしかった。おとなの世界をのぞいて見たばかりのようなお民は、いくらか羞(はじらい)を含みながら、十七の初島田(はつしまだ)の祝いのおりに妻籠の知人から贈られたという櫛箱(くしばこ)なぞをそこへ取り出して来ておまんに見せた。
「どれ。」
おまんは襷掛(たすきが)けになって、お民を古風な鏡台に向かわせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。
「まあ、長い髪の毛だこと。そう言えば、わたしも覚えがあるが、これで眉(まゆ)でも剃(そ)り落とす日が来てごらん――あの里帰りというものは妙に昔の恋しくなるものですよ。もう娘の時分ともお別れですねえ。女はだれでもそうしたものですからねえ。」
おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曾名物のお六櫛(ろくぐし)というやつを執った。額(ひたい)から鬢(びん)の辺へかけて、梳(す)き手(て)の力がはいるたびに、お民は目を細くして、これから長く姑(しゅうとめ)として仕えなければならない人のするままに任せていた。
「熊(くま)や。」
とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛の猫(ねこ)の名を呼んだ。熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫に拳固(げんこ)を見舞うことがある。おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、
「吾家(うち)のおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。」
とも言い添えた。
やがて本陣の若い「御新造(ごしんぞ)」に似合わしい髪のかたちができ上がった。儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとした蒔絵(まきえ)の櫛(くし)なぞがそれに代わった。林檎(りんご)のように紅(あか)くて、そして生(い)き生きとしたお民の頬(ほお)は、まるで別の人のように鏡のなかに映った。
「髪はできました。これから部屋(へや)の案内です。」
というおまんのあとについて、間もなくお民は家の内部(なか)をすみずみまでも見て回った。生家(さと)を見慣れた目で、この街道に生(は)えたような家を見ると、お民にはいろいろな似よりを見いだすことも多かった。奥の間、仲の間、次の間、寛(くつろ)ぎの間というふうに、部屋部屋に名のつけてあることも似ていた。上段の間という部屋が一段高く造りつけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したような高麗縁(こうらいべり)の畳まで、この木曾路を通る諸大名諸公役の客間にあててあるところも似ていた。
熊は鈴の音をさせながら、おまんやお民の行くところへついて来た。二人が西向きの仲の間の障子の方へ行けば、そこへも来た。この黒毛の猫は新来の人をもおそれないで、まだ半分お客さまのようなお民の裾(すそ)にもまといついて戯れた。
「お民、来てごらん。きょうは恵那山(えなさん)がよく見えますよ。妻籠(つまご)の方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ。」
「えゝ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河(かわ)のすぐそばでもありませんけれど。」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」
「それでも、まあよいながめですこと。」
「そりゃ馬籠(まごめ)はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹(いぶき)山まで見えることがありますよ――」
林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。わずかに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛(なま)りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことのできる紅(あか)い「ずいき」の漬物(つけもの)なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。
まだ半蔵夫婦の新規な生活は始まったばかりだ。午後に、おまんは一通り屋敷のなかを案内しようと言って、土蔵の大きな鍵(かぎ)をさげながら、今度は母屋(もや)の外の方へお民を連れ出そうとした。
炉ばたでは山家らしい胡桃(くるみ)を割る音がしていた。おふきは二人の下女を相手に、堅い胡桃の核(たね)を割って、御幣餅(ごへいもち)のしたくに取りかかっていた。その時、上がり端(はな)にある杖(つえ)をさがして、おまんやお民と一緒に裏の隠居所まで歩こうと言い出したのは隠居だ。このおばあさんもひところよりは健康を持ち直して、食事のたびに隠居所から母屋(もや)へ通(かよ)っていた。
馬籠の本陣は二棟(ふたむね)に分かれて、母屋(もや)、新屋(しんや)より成り立つ。新屋は表門の並びに続いて、すぐ街道と対(むか)い合った位置にある。別に入り口のついた会所(宿役人詰め所)と問屋場の建物がそこにある。石垣(いしがき)の上に高く隣家の伏見屋を見上げるのもその位置からで、大小幾つかの部屋がその裏側に建て増してある。多人数の通行でもある時は客間に当てられるのもそこだ。おまんは雨戸のしまった小さな離れ座敷をお民にさして見せて、そこにも本陣らしい古めかしさがあることを話し聞かせた。ずっと昔からこの家の習慣で、女が見るものを見るころは家族のものからも離れ、ひとりで煮焚(にた)きまでして、そこにこもり暮らすという。
「お民、来てごらん。」
と言いながら、おまんは隠居所の階下(した)にあたる味噌納屋(みそなや)の戸をあけて見せた。味噌、たまり、漬物の桶(おけ)なぞがそこにあった。おまんは土蔵の前の方へお民を連れて行って、金網の張ってある重い戸をあけ、薄暗い二階の上までも見せて回った。おまんの古い長持と、お民の新しい長持とが、そこに置き並べてあった。
土蔵の横手について石段を降りて行ったところには、深い掘り井戸を前に、米倉、木小屋なぞが並んでいる。そこは下男の佐吉の世界だ。佐吉も案内顔に、伏見屋寄りの方の裏木戸を押して見せた。街道と並行した静かな村の裏道がそこに続いていた。古い池のある方に近い木戸をあけて見せた。本陣の稲荷(いなり)の祠(ほこら)が樫(かし)や柊(ひいらぎ)の間に隠れていた。
その晩、家のもの一同は炉ばたに集まった。隠居はじめ、吉左衛門から、佐吉まで一緒になった。隣家の伏見家からは少年の鶴松(つるまつ)も招かれて来て、半蔵の隣にすわった。おふきが炉で焼く御幣餅の香気はあたりに満ちあふれた。
「鶴さん、これが吾家(うち)の嫁ですよ。」
とおまんは隣家の子息(むすこ)にお民を引き合わせて、串差(くしざ)しにした御幣餅をその膳(ぜん)に載せてすすめた。こんがりと狐色(きつねいろ)に焼けた胡桃醤油(くるみだまり)のうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。 
第二章

 


十曲峠(じっきょくとうげ)の上にある新茶屋には出迎えのものが集まった。今度いよいよ京都本山の許しを得、僧|智現(ちげん)の名も松雲(しょううん)と改めて、馬籠(まごめ)万福寺の跡を継ごうとする新住職がある。組頭(くみがしら)笹屋(ささや)の庄兵衛(しょうべえ)はじめ、五人組仲間、その他のものが新茶屋に集まったのは、この人の帰国を迎えるためであった。
山里へは旧暦二月末の雨の来るころで、年も安政(あんせい)元年と改まった。一同が待ち受けている和尚(おしょう)は、前の晩のうちに美濃(みの)手賀野(てがの)村の松源寺(しょうげんじ)までは帰って来ているはずで、村からはその朝早く五人組の一人(ひとり)を発(た)たせ、人足も二人(ふたり)つけて松源寺まで迎えに出してある。そろそろあの人たちも帰って来ていいころだった。
「きょうは御苦労さま。」
出迎えの人たちに声をかけて、本陣の半蔵もそこへ一緒になった。半蔵は父吉左衛門の名代(みょうだい)として、小雨の降る中をやって来た。
こうした出迎えにも、古い格式のまだ崩(くず)れずにあった当時には、だれとだれはどこまでというようなことをやかましく言ったものだ。たとえば、村の宿役人仲間は馬籠の石屋の坂あたりまでとか、五人組仲間は宿はずれの新茶屋までとかというふうに。しかし半蔵はそんなことに頓着(とんちゃく)しない男だ。のみならず、彼はこうした場処に来て腰掛けるのが好きで、ここへ来て足を休めて行く旅人、馬をつなぐ馬方、または土足のまま茶屋の囲炉裏(いろり)ばたに踏ん込(ご)んで木曾風(きそふう)な「めんぱ」(木製|割籠(わりご))を取り出す人足なぞの話にまで耳を傾けるのを楽しみにした。
馬籠の百姓総代とも言うべき組頭庄兵衛は茶屋を出たりはいったりして、和尚の一行を待ち受けたが、やがてまた仲間のもののそばへ来て腰掛けた。御休処(おやすみどころ)とした古い看板や、あるものは青くあるものは茶色に諸|講中(こうじゅう)のしるしを染め出した下げ札などの掛かった茶屋の軒下から、往来一つ隔てて向こうに翁塚(おきなづか)が見える。芭蕉(ばしょう)の句碑もその日の雨にぬれて黒い。
間もなく、半蔵のあとを追って、伏見屋の鶴松(つるまつ)が馬籠の宿(しゅく)の方からやって来た。鶴松も父|金兵衛(きんべえ)の名代(みょうだい)という改まった顔つきだ。
「お師匠さま。」
「君も来たのかい。御覧、翁塚のよくなったこと。あれは君のお父(とっ)さんの建てたんだよ。」
「わたしは覚えがない。」
半蔵が少年の鶴松を相手にこんな言葉をかわしていると、庄兵衛も思い出したように、
「そうだずら、鶴さまは覚えがあらっせまい。」
と言い添えた。
小雨は降ったりやんだりしていた。松雲和尚の一行はなかなか見えそうもないので、半蔵は鶴松を誘って、新茶屋の周囲を歩きに出た。路傍(みちばた)に小高く土を盛り上げ、榎(えのき)を植えて、里程を示すたよりとした築山(つきやま)がある。駅路時代の一里塚だ。その辺は信濃(しなの)と美濃(みの)の国境(くにざかい)にあたる。西よりする木曾路の一番最初の入り口ででもある。
しばらく半蔵は峠の上にいて、学友の香蔵や景蔵の住む美濃の盆地の方に思いを馳(は)せた。今さら関東関西の諸大名が一大|合戦(かっせん)に運命を決したような関ヶ原の位置を引き合いに出すまでもなく、古くから東西両勢力の相接触する地点と見なされたのも隣の国である。学問に、宗教に、商業に、工芸に、いろいろなものがそこに発達したのに不思議はなかったかもしれない。すくなくもそこに修業時代を送って、そういう進んだ地方の空気の中に僧侶(そうりょ)としてのたましいを鍛えて来た松雲が、半蔵にはうらやましかった。その隣の国に比べると、この山里の方にあるものはすべておそい。あだかも、西から木曾川を伝わって来る春が、両岸に多い欅(けやき)や雑木の芽を誘いながら、一か月もかかって奥へ奥へと進むように。万事がそのとおりおくれていた。
その時、半蔵は鶴松を顧みて、
「あの山の向こうが中津川(なかつがわ)だよ。美濃はよい国だねえ。」
と言って見せた。何かにつけて彼は美濃|尾張(おわり)の方の空を恋しく思った。
もう一度半蔵が鶴松と一緒に茶屋へ引き返して見ると、ちょうど伏見屋の下男がそこへやって来るのにあった。その男は庄兵衛の方を見て言った。
「吾家(うち)の旦那(だんな)はお寺の方でお待ち受けだげな。和尚さまはまだ見えんかなし。」
「おれはさっきから来て待ってるが、なかなか見えんよ。」
「弁当持ちの人足も二人出かけたはずだが。」
「あの衆は、いずれ途中で待ち受けているずらで。」
半蔵がこの和尚を待ち受ける心は、やがて西から帰って来る人を待ち受ける心であった。彼が家と万福寺との縁故も深い。最初にあの寺を建立(こんりゅう)して万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ。しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、その人の尊信する宗教のことを想像し、人知れずある予感に打たれずにはいられなかった。早い話が、彼は中津川の宮川寛斎に就(つ)いた弟子(でし)である。寛斎はまた平田(ひらた)派の国学者である。この彼が日ごろ先輩から教えらるることは、暗い中世の否定であった。中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学(からまな)び風(ふう)の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということであった。それらのものの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度|心寛(こころゆた)かにこの世を見直せということであった。一代の先駆、荷田春満(かだのあずままろ)をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの諸大人が受け継ぎ受け継ぎして来た一大反抗の精神はそこから生まれて来ているということであった。彼に言わせると、「物学びするともがら」の道は遠い。もしその道を追い求めて行くとしたら、彼が今待ち受けている人に、その人の信仰に、行く行く反対を見いだすかもしれなかった。
こんな本陣の子息(むすこ)が待つとも知らずに、松雲の一行は十曲峠の険しい坂路(さかみち)を登って来て、予定の時刻よりおくれて峠の茶屋に着いた。
松雲は、出迎えの人たちの予想に反して、それほど旅やつれのした様子もなかった。六年の長い月日を行脚(あんぎゃ)の旅に送り、さらに京都本山まで出かけて行って来た人とは見えなかった。一行六、七人のうち、こちらから行った馬籠の人足たちのほかに、中津川からは宗泉寺の老和尚も松雲に付き添って来た。
「これは恐れ入りました。ありがとうございました。」
と言いながら松雲は笠(かさ)の紐(ひも)をといて、半蔵の前にも、庄兵衛たちの前にもお辞儀をした。
「鶴さんですか。見ちがえるように大きくお成りでしたね。」
とまた松雲は言って、そこに立つ伏見屋の子息(むすこ)の前にもお辞儀をした。手賀野村からの雨中の旅で、笠(かさ)も草鞋(わらじ)もぬれて来た松雲の道中姿は、まず半蔵の目をひいた。
「この人が万福寺の新住職か。」
と半蔵は心の中で思わずにはいられなかった。和尚としては年も若い。まだ三十そこそこの年配にしかならない。そういう彼よりは六つか七つも年長(としうえ)にあたるくらいの青年の僧侶(そうりょ)だ。とりあえず峠の茶屋に足を休めるとあって、京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に手賀野村の松源寺に一泊――それを松雲は持ち前の禅僧らしい調子で話し聞かせた。ものの小半時(こはんとき)も半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主を彼は自分のそばに見つけた。
やがて一同は馬籠の本宿をさして新茶屋を離れることになった。途中で松雲は庄兵衛を顧みて、
「ほ。見ちがえるように道路がよくなっていますな。」
「この春、尾州(びしゅう)の殿様が江戸へ御出府だげな。お前さまはまだ何も御存じなしか。」
「その話はわたしも聞いて来ましたよ。」
「新茶屋の境から峠の峰まで道普請(みちぶしん)よなし。尾州からはもう宿割(しゅくわり)の役人まで見えていますぞ。道造りの見分(けんぶん)、見分で、みんないそがしい思いをしましたに。」
うわさのある名古屋の藩主(尾張|慶勝(よしかつ))の江戸出府は三月のはじめに迫っていた。来たる日の通行の混雑を思わせるような街道を踏んで、一同石屋の坂あたりまで帰って行くと、村の宿役人仲間がそこに待ち受けるのにあった。問屋(といや)の九太夫(くだゆう)をはじめ、桝田屋(ますだや)の儀助、蓬莱屋(ほうらいや)の新七、梅屋の与次衛門(よじえもん)、いずれも裃(かみしも)着用に雨傘(あまがさ)をさしかけて松雲の一行を迎えた。
当時の慣例として、新住職が村へ帰り着くところは寺の山門ではなくて、まず本陣の玄関だ。出家の身としてこんな歓迎を受けることはあながち松雲の本意ではなかったけれども、万事は半蔵が父の計らいに任せた。付き添いとして来た中津川の老和尚の注意もあって、松雲が装束(しょうぞく)を着かえたのも本陣の一室であった。乗り物、先箱(さきばこ)、台傘(だいがさ)で、この新住職が吉左衛門(きちざえもん)の家を出ようとすると、それを見ようとする村の子供たちはぞろぞろ寺の道までついて来た。
万福寺は小高い山の上にある。門前の墓地に茂る杉(すぎ)の木立(こだ)ちの間を通して、傾斜を成した地勢に並び続く民家の板屋根を望むことのできるような位置にある。松雲が寺への帰参は、沓(くつ)ばきで久しぶりの山門をくぐり、それから方丈(ほうじょう)へ通って、一礼座了(いちれいざりょう)で式が済んだ。わざとばかりの饂飩振舞(うどんぶるまい)のあとには、隣村の寺方(てらかた)、村の宿役人仲間、それに手伝いの人たちなぞもそれぞれ引き取って帰って行った。
「和尚さま。」
と言って松雲のそばへ寄ったのは、長いことここに身を寄せている寺男だ。その寺男は主人が留守中のことを思い出し顔に、
「よっぽど伏見屋の金兵衛さんには、お礼を言わっせるがいい。お前さまがお留守の間にもよく見舞いにおいでて、本堂の廊下には大きな新しい太鼓が掛かったし、すっかり屋根の葺(ふ)き替えもできました。あの萱(かや)だけでも、お前さま、五百二十|把(ぱ)からかかりましたよ。まあ、おれは何からお話していいか。村へ大風の来た年には鐘つき堂が倒れる。そのたびに、金兵衛さんのお骨折りも一通りじゃあらすか。」
松雲はうなずいた。
諸国を遍歴して来た目でこの境内を見ると、これが松雲には馬籠の万福寺であったかと思われるほど小さい。長い留守中は、ここへ来て世話をしてくれた隣村の隠居和尚任せで、なんとなく寺も荒れて見える。方丈には、あの隠居和尚が六年もながめ暮らしたような古い壁もあって、そこには達磨(だるま)の画像が帰参の新住職を迎え顔に掛かっていた。
「寺に大地小地なく、住持(じゅうじ)に大地小地あり。」
この言葉が松雲を励ました。
松雲は周囲を見回した。彼には心にかかるかずかずのことがあった。当時の戸籍簿とも言うべき宗門帳は寺で預かってある。あの帳面もどうなっているか。位牌堂(いはいどう)の整理もどうなっているか。数えて来ると、何から手を着けていいかもわからないほど種々雑多な事が新住職としての彼を待っていた。毎年の献鉢(けんばち)を例とする開山忌(かいざんき)の近づくことも忘れてはならなかった。彼は考えた。ともかくもあすからだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それには二人(ふたり)の弟子(でし)や寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘を撞(つ)くことだと考えた。
翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たい清水(しみず)に顔を洗った。法鼓(ほうこ)、朝課(ちょうか)はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山(えなさん)を最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つかの山嶽(さんがく)も、その位置からは隠れてよく見えなかったが、遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向こうに聞きつけることはできた。まだ本堂の前の柊(ひいらぎ)も暗い。その時、朝の空気の静かさを破って、澄んだ大鐘の音が起こった。力をこめた松雲の撞(つ)き鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、畠(はたけ)から畠を匍(は)って、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。 

ある朝、半蔵は妻のそばに目をさまして、街道を通る人馬の物音を聞きつけた。妻のお民は、と見ると、まだ娘のような顔をして、寝心地(ねごこち)のよい春の暁を寝惜しんでいた。半蔵は妻の目をさまさせまいとするように、自分ひとり起き出して、新婚後|二人(ふたり)の居間となっている本陣の店座敷の戸を明けて見た。
旧暦三月はじめのめずらしい雪が戸の外へ来た。暮れから例年にない暖かさだと言われたのが、三月を迎えてかえってその雪を見た。表庭の塀(へい)の外は街道に接していて、雪を踏んで行く人馬の足音がする。半蔵は耳を澄ましながらその物音を聞いて、かねてうわさのあった尾張藩主の江戸出府がいよいよ実現されることを知った。
「尾州の御先荷(おさきに)がもうやって来た。」
と言って見た。
宿継ぎ差立(さした)てについて、尾張藩から送られて来た駄賃金(だちんがね)が馬籠の宿だけでも金四十一両に上った。駄賃金は年寄役金兵衛が預かったが、その金高を聞いただけでも今度の通行のかなり大げさなものであることを想像させる。半蔵はうすうす父からその話を聞いて知っていたので、部屋(へや)にじっとしていられなかった。台所に行って顔を洗うとすぐ雪の降る中を屋外(そと)へ出て見ると、会所では朝早くから継立(つぎた)てが始まる。あとからあとからと坂路(さかみち)を上って来る人足たちの後ろには、鈴の音に歩調を合わせるような荷馬の群れが続く。朝のことで、馬の鼻息は白い。時には勇ましいいななきの声さえ起こる。村の宿役人仲間でも一番先に家を出て、雪の中を奔走していたのは問屋の九太夫であった。
前の年の六月に江戸湾を驚かしたアメリカの異国船は、また正月からあの沖合いにかかっているころで、今度は四隻の軍艦を八、九隻に増して来て、武力にも訴えかねまじき勢いで、幕府に開港を迫っているとのうわさすら伝わっている。全国の諸大名が江戸城に集まって、交易を許すか許すまいかの大評定(だいひょうじょう)も始まろうとしているという。半蔵はその年の正月二十五日に、尾州から江戸送りの大筒(おおづつ)の大砲や、軍用の長持が二十二|棹(さお)もこの街道に続いたことを思い出し、一人持ちの荷物だけでも二十一|荷(か)もあったことを思い出して、目の前を通る人足や荷馬の群れをながめていた。
半蔵が家の方へ戻(もど)って行って見ると、吉左衛門はゆっくりしたもので、炉ばたで朝茶をやっていた。その時、半蔵はきいて見た。
「お父(とっ)さん、けさ着いたのはみんな尾州の荷物でしょう。」
「そうさ。」
「この荷物は幾日ぐらい続きましょう。」
「さあ、三日も続くかな。この前に唐人船(とうじんぶね)の来た時は、上のものも下のものも大あわてさ。今度は戦争にはなるまいよ。何にしても尾州の殿様も御苦労さまだ。」
馬籠の本陣親子が尾張(おわり)藩主に特別の好意を寄せていたのは、ただあの殿様が木曾谷(きそだに)や尾張地方の大領主であるというばかりではない。吉左衛門には、時に名古屋まで出張するおりなぞには藩主のお目通りを許されるほどの親しみがあった。半蔵は半蔵で、『神祇(じんぎ)宝典』や『類聚日本紀(るいじゅうにほんぎ)』などをえらんだ源敬公以来の尾張藩主であるということが、彼の心をよろこばせたのであった。彼はあの源敬公の仕事を水戸(みと)の義公(ぎこう)に結びつけて想像し、『大日本史』の大業を成就したのもそういう義公であり、僧の契沖(けいちゅう)をして『万葉|代匠記(だいしょうき)』をえらばしめたのもこれまた同じ人であることを想像し、その想像を儒仏の道がまだこの国に渡って来ない以前のまじりけのない時代にまでよく持って行った。彼が自分の領主を思う心は、当時の水戸の青年がその領主を思う心に似ていた。
その日、半蔵は店座敷にこもって、この深い山の中に住むさみしさの前に頭をたれた。障子の外には、塀(へい)に近い松の枝をすべる雪の音がする。それが恐ろしい響きを立てて庭の上に落ちる。街道から聞こえて来る人馬の足音も、絶えたかと思うとまた続いた。
「こんな山の中にばかり引っ込んでいると、なんだかおれは気でも違いそうだ。みんな、のんきなことを言ってるが、そんな時世じゃない。」
と考えた。
そこへお民が来た。お民はまだ十八の春を迎えたばかり、妻籠(つまご)本陣への里帰りを済ましたころから眉(まゆ)を剃(そ)り落としていて、いくらか顔のかたちはちがったが、動作は一層生き生きとして来た。
「あなたの好きなねぶ茶をいれて来ました。あなたはまた、何をそんなに考えておいでなさるの。」
とお民がきいた。ねぶ茶とは山家で手造りにする飲料である。
「おれか。おれは何も考えていない。ただ、こうしてぼんやりしている。お前とおれと、二人一緒になってから百日の余にもなるが――そうだ、百日どころじゃないや、もう四か月にもなるんだ――その間、おれは何をしていたかと思うようだ。阿爺(おやじ)の好きな煙草(たばこ)の葉を刻んだことと、祖母(おばあ)さんの看病をしたことと、まあそれくらいのものだ。」
半蔵は新婚のよろこびに酔ってばかりもいなかった。学業の怠りを嘆くようにして、それをお民に言って見せた。
「わたしはお節句のことを話そうと思うのに、あなたはそんなに考えてばかりいるんですもの。だって、もう三月は来てるじゃありませんか。この御通行が済むまでは、どうすることもできないじゃありませんか。」
新婚のそもそもは、娘の昔に別れを告げたばかりのお民にとって、むしろ苦痛でさえもあった。それが新しいよろこびに変わって来たころから、とかく店座敷を離れかねている。いつのまにか半蔵の膝(ひざ)はお民の方へ向いた。彼はまるで尻餅(しりもち)でもついたように、後ろ手を畳の上に落として、それで身をささえながら、妻籠から持って来たという記念の雛(ひな)人形の話なぞをするお民の方をながめた。手織り縞(じま)でこそあれ、当時の風俗のように割合に長くひいた裾(すそ)の着物は彼女に似合って見える。剃(そ)り落とした眉(まゆ)のあとも、青々として女らしい。半蔵の心をよろこばせたのは、ことにお民の手だ。この雪に燃えているようなその娘らしい手だ。彼は妻と二人ぎりでいて、その手に見入るのを楽しみに思った。
実に突然に、お民は夫のそばですすり泣きを始めた。
「ほら、あなたはよくそう言うじゃありませんか。わたしに学問の話なぞをしても、ちっともわけがわからんなんて。そりゃ、あのお母(っか)さん(姑(しゅうとめ)、おまん)のまねはわたしにはできない。今まで、妻籠の方で、だれもわたしに教えてくれる人はなかったんですもの。」
「お前は機(はた)でも織っていてくれれば、それでいいよ。」
お民は容易にすすり泣きをやめなかった。半蔵は思いがけない涙を聞きつけたというふうに、そばへ寄って妻をいたわろうとすると、
「教えて。」
と言いながら、しばらくお民は夫の膝(ひざ)に顔をうずめていた。
ちょうど本陣では隠居が病みついているころであった。あの婆(ばあ)さんももう老衰の極度にあった。
「おい、お民、お前は祖母(おばあ)さんをよく看(み)てくれよ。」
と言って、やがて半蔵は隠居の臥(ね)ている部屋(へや)の方へお民を送り、自分でも気を取り直した。
いつでも半蔵が心のさみしいおりには、日ごろ慕っている平田|篤胤(あつたね)の著書を取り出して見るのを癖のようにしていた。『霊(たま)の真柱(まはしら)』、『玉だすき』、それから講本の『古道大意』なぞは読んでも読んでも飽きるということを知らなかった。大判の薄藍色(うすあいいろ)の表紙から、必ず古紫の糸で綴(と)じてある本の装幀(そうてい)までが、彼には好ましく思われた。『静(しず)の岩屋(いわや)』、『西籍概論(さいせきがいろん)』の筆記録から、三百部を限りとして絶版になった『毀誉(きよ)相半ばする書』のような気吹(いぶき)の舎(や)の深い消息までも、不便な山の中で手に入れているほどの熱心さだ。平田篤胤は天保(てんぽう)十四年に没している故人で、この黒船騒ぎなぞをもとより知りようもない。あれほどの強さに自国の学問と言語の独立を主張した人が、嘉永(かえい)安政の代に生きるとしたら――すくなくもあの先輩はどうするだろうとは、半蔵のような青年の思いを潜めなければならないことであった。
新しい機運は動きつつあった。全く気質を相異(あいこと)にし、全く傾向を相異にするようなものが、ほとんど同時に踏み出そうとしていた。長州(ちょうしゅう)萩(はぎ)の人、吉田松陰(よしだしょういん)は当時の厳禁たる異国への密航を企てて失敗し、信州|松代(まつしろ)の人、佐久間象山(さくましょうざん)はその件に連座して獄に下ったとのうわさすらある。美濃の大垣(おおがき)あたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことではなくなった。
「黒船。」
雪で明るい部屋(へや)の障子に近く行って、半蔵はその言葉を繰り返して見た。遠い江戸湾のかなたには、実に八、九|艘(そう)もの黒船が来てあの沖合いに掛かっていることを胸に描いて見た。その心から、彼は尾張藩主の出府も容易でないと思った。
木曾(きそ)寄せの人足七百三十人、伊那(いな)の助郷(すけごう)千七百七十人、この人数合わせて二千五百人を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。宿場に集まった馬の群れだけでも百八十匹、馬方百八十人にも上った。
松雲和尚は万福寺の方にいて、長いこと留守にした方丈にもろくろく落ちつかないうちに、三月四日を迎えた。前の晩に来たはげしい雷鳴もおさまり、夜中ごろから空も晴れて、人馬の継ぎ立てはその日の明け方から始まった。
尾張藩主が出府と聞いて、寺では徒弟僧(とていそう)も寺男もじっとしていない。大領主のさかんな通行を見ようとして裏山越しに近在から入り込んで来る人たちは、門前の石段の下に小径(こみち)の続いている墓地の間を急ぎ足に通る。
「お前たちも行って殿様をお迎えするがいい。」
と松雲は二人の弟子(でし)にも寺男にも言った。
旅にある日の松雲はかなりわびしい思いをして来た。京都の宿で患(わずら)いついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて、余分な路銀の心配までかけたこともある。もし無事に行脚(あんぎゃ)の修業を終わる日が来たら、村のためにも役に立とう、貧しい百姓の子供をも教えよう、そう考えて旅から帰って来た。周囲にある空気のあわただしさ。この動揺の中に僧侶(そうりょ)の身をうけて、どうして彼は村の幼く貧しいものを育てて行こうかとさえ思った。
「和尚さま。」
と声をかけて裏口からはいって来たのは、日ごろ、寺へ出入りの洗濯婆(せんたくばあ)さんだ。腰に鎌(かま)をさし、※[くさかんむり/稾]草履(わらぞうり)をはいて、男のような頑丈(がんじょう)な手をしている山家の女だ。
「お前さまはお留守居かなし。」
「そうさ。」
「おれは今まで畠(はたけ)にいたが、餅草(もちぐさ)どころじゃあらすか。きょうのお通りは正五(しょういつ)つ時(どき)だげな。殿様は下町の笹屋(ささや)の前まで馬に騎(の)っておいでで、それから御本陣までお歩行(ひろい)だげな。お前さまも出て見さっせれや。」
「まあ、わたしはお留守居だ。」
「こんな日にお寺に引っ込んでいるなんて、そんなお前さまのような人があらすか。」
「そう言うものじゃないよ。用事がなければ、親類へも行かない。それが出家の身なんだもの。わたしはお寺の番人だ。それでたくさんだ。」
婆さんは鉄漿(おはぐろ)のはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。
やがて正五つ時も近づくころになると、寺の門前を急ぐ人の足音も絶えた。物音一つしなかった。何もかも鳴りをひそめて、静まりかえったようになった。ちょうど例年より早くめずらしい陽気は谷間に多い花の蕾(つぼみ)をふくらませている。馬に騎(の)りかえて新茶屋あたりから進んで来る尾張藩主が木曾路の山ざくらのかげに旅の身を見つけようというころだ。松雲は戸から外へ出ないまでも、街道の両側に土下座する村民の間を縫ってお先案内をうけたまわる問屋の九太夫をも、まのあたり藩主を見ることを光栄としてありがたい仕合わせだとささやき合っているような宿役人仲間をも、うやうやしく大領主を自宅に迎えようとする本陣親子をも、ありありと想像で見ることができた。
方丈もしんかんとしていた。まるでそこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただ一人(ひとり)黙然(もくねん)として、古い壁にかかる達磨(だるま)の画像の前にすわりつづけた。 

なんとなく雲脚(くもあし)の早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州(としゅう)、雲州(うんしゅう)、讃州(さんしゅう)などの諸大名は西から。長崎奉行|永井岩之丞(ながいいわのじょう)の一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れた肥後(ひご)の家老|長岡監物(ながおかけんもつ)の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。
仙洞御所(せんとうごしょ)の出火のうわさ、その火は西陣(にしじん)までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。
この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、伊那(いな)あたりから入り込んで来る助郷(すけごう)の数もおびただしく、その弊害は覿面(てきめん)に飲酒|賭博(とばく)の流行にあらわれて来た。庄屋(しょうや)としての吉左衛門が宿役人らの賛成を得て、賭博厳禁ということを言い出し、それを村民一同に言い渡したのも、その年の馬市が木曾福島の方で始まろうとするころにあたる。
「あの時分はよかった。」
年寄役の金兵衛が吉左衛門の顔を見るたびに、よくそこへ持ち出すのも、「あの時分」だ。同じ駅路の記憶につながれている二人の隣人は、まだまだ徳川の代が平和であった時分のことを忘れかねている。新茶屋に建てた翁塚(おきなづか)、伏見屋の二階に催した供養の俳諧(はいかい)、蓬莱屋(ほうらいや)の奥座敷でうんと食ったアトリ三十羽に茶漬(ちゃづ)け三杯――「あの時分」を思い出させるようなものは何かにつけ恋しかった。この二人には、山家が山家でなくなった。街道はいとわしいことで満たされて来た。もっとゆっくり隣村の湯舟沢や、山口や、あるいは妻籠(つまご)からの泊まり客を家に迎え、こちらからも美濃の落合の祭礼や中津川あたりの狂言を見に出かけて行って、すくなくも二日や三日は泊まりがけで親戚(しんせき)知人の家の客となって来るようでなくては、どうしても二人には山家のような気がしなかった。
その年の祭礼狂言をさかんにするということが、やがて馬籠の本陣で協議された。組頭庄兵衛もこれには賛成した。ちょうど村では金兵衛の胆煎(きもい)りで、前の年の十月あたりに新築の舞台普請をほぼ終わっていた。付近の山の中に適当な普請木(ふしんぎ)を求めることから、舞台の棟上(むなあ)げ、投げ餅(もち)の世話まで、多くは金兵衛の骨折りでできた。その舞台は万福寺の境内に近い裏山の方に造られて、もはや楽しい秋の祭りの日を待つばかりになっていた。
この地方で祭礼狂言を興行する歴史も古い。それだけ土地の人たちが歌舞伎(かぶき)そのものに寄せている興味も深かった。当時の南信から濃尾(のうび)地方へかけて、演劇の最も発達した中心地は、近くは飯田(いいだ)、遠くは名古屋であって、市川海老蔵(いちかわえびぞう)のような江戸の役者が飯田の舞台を踏んだこともめずらしくない。それを聞くたびに、この山の中に住む好劇家連は女中衆まで引き連れて、大平峠(おおだいらとうげ)を越しても見に行った。あの蘭(あららぎ)、広瀬あたりから伊那の谷の方へ出る深い森林の間も、よい芝居(しばい)を見たいと思う男や女には、それほど遠い道ではなかったのである。金兵衛もその一人だ。彼は秋の祭りの来るのを待ちかねて、その年の閏(うるう)七月にしばらく村を留守にした。伏見屋もどうしたろう、そう言って吉左衛門などがうわさをしているところへ、豊川(とよかわ)、名古屋、小牧(こまき)、御嶽(おんたけ)、大井(おおい)を経て金兵衛親子が無事に帰って来た。そのおりの土産話(みやげばなし)が芝居好きな土地の人たちをうらやましがらせた。名古屋の若宮の芝居では八代目市川団十郎が一興行を終わったところであったけれども、橘町(たちばなちょう)の方には同じ江戸の役者|三桝(みます)大五郎、関三十郎、大谷広右衛門などの一座がちょうど舞台に上るころであったという。
九月も近づいて来るころには、村の若いものは祭礼狂言のけいこに取りかかった。荒町からは十一人も出て舞台へ通う村の道を造った。かねて金兵衛が秘蔵|子息(むすこ)のために用意した狂言用の大小の刀も役に立つ時が来た。彼は鶴松(つるまつ)ばかりでなく、上の伏見屋の仙十郎(せんじゅうろう)をも舞台に立たせ、日ごろの溜飲(りゅういん)を下げようとした。好ましい鬘(かずら)を子にあてがうためには、一|分(ぶ)二|朱(しゅ)ぐらいの金は惜しいとは思わなかった。
狂言番組。式三番叟(しきさんばそう)。碁盤太平記(ごばんたいへいき)。白石噺(しらいしばなし)三の切り。小倉色紙(おぐらしきし)。最後に戻(もど)り籠(かご)。このうち式三番叟と小倉色紙に出る役と、その二役は仙十郎が引きうけ、戻り籠に出る難波治郎作(なにわじろさく)の役は鶴松がすることになった。金兵衛がはじめて稽古場(けいこば)へ見物に出かけるころには、ともかくも村の若いものでこれだけの番組を作るだけの役者がそろった。
その年の祭りの季節には、馬籠以外の村々でもめずらしいにぎわいを呈した。各村はほとんど競争の形で、神輿(みこし)を引き出そうとしていた。馬籠でさかんにやると言えば、山口でも、湯舟沢でも負けてはいないというふうで。中津川での祭礼狂言は馬籠よりも一月ほど早く催されて、そのおりは本陣のおまんも仙十郎と同行し、金兵衛はまた吉左衛門とそろって押しかけて行って来た。目にあまる街道一切の塵埃(ほこり)ッぽいことも、このにぎやかな祭りの気分には埋(うず)められそうになった。
そのうちに、名古屋の方へ頼んで置いた狂言|衣裳(いしょう)の荷物が馬で二|駄(だ)も村に届いた。舞台へ出るけいこ最中の若者らは他村に敗(ひけ)を取るまいとして、振付(ふりつけ)は飯田の梅蔵に、唄(うた)は名古屋の治兵衛(じへえ)に、三味線(しゃみせん)は中村屋|鍵蔵(かぎぞう)に、それぞれ依頼する手はずをさだめた。祭りの楽しさはそれを迎えた当日ばかりでなく、それを迎えるまでの日に深い。浄瑠璃方(じょうるりかた)がすでに村へ入り込んだとか、化粧方が名古屋へ飛んで行ったとか、そういううわさが伝わるだけでも、村の娘たちの胸にはよろこびがわいた。こうなると、金兵衛はじっとしていられない。毎日のように舞台へ詰めて、桟敷(さじき)をかける世話までした。伏見屋の方でも鶴松に初舞台を踏ませるとあって、お玉の心づかいは一通りでなかった。中津川からは親戚(しんせき)の女まで来て衣裳ごしらえを手伝った。
「きょうもよいお天気だ。」
そう言って、金兵衛が伏見屋の店先から街道の空を仰いだころは、旧暦九月の二十四日を迎えた。例年祭礼狂言の初日だ。朝早くから金兵衛は髪結いの直次を呼んで、年齢(とし)相応の髷(まげ)に結わせた。五十八歳まで年寄役を勤続して、村の宿役人仲間での年長者と言われる彼も、白い元結(もとゆい)で堅く髷の根を締めた時は、さすがにさわやかな、祭りの日らしい心持ちに返った。剃(そ)り立てた顋(あご)のあたりも青く生き生きとして、平素の金兵衛よりもかえって若々しくなった。
「鶴、うまくやっておくれよ。」
「大丈夫だよ。お父(とっ)さん、安心しておいでよ。」
伏見屋親子はこんな言葉をかわした。
そこへ仙十郎もちょっと顔を出しに来た。金兵衛はこの義理ある甥(おい)の方を見た時にも言った。
「仙十郎しっかり頼むぜ。式三番と言えば、お前、座頭(ざがしら)の勤める役だぜ。」
仙十郎は美濃の本場から来て、上の伏見屋を継いだだけに、こうした祭りの日なぞには別の人かと見えるほど快活な男を発揮した。彼はこんな山の中に惜しいと言われるほどの美貌(びぼう)で、その享楽的な気質は造り酒屋の手伝いなぞにはあまり向かなかった。
「さあ。きょうは、うんと一つあばれてやるぞ。村の舞台が抜けるほど踊りぬいてやるぞ。」
仙十郎の言い草だ。
まだ狂言の蓋(ふた)もあけないうちから、金兵衛の心は舞台の楽屋の方へも、桟敷(さじき)の方へも行った。だんだら模様の烏帽子(えぼし)をかぶり、三番叟(さんばそう)らしい寛濶(かんかつ)な狂言の衣裳をつけ、鈴を手にした甥(おい)の姿が、彼の目に見えて来た。戻(もど)り籠(かご)に出る籠かき姿の子が杖(つえ)でもついて花道にかかる時に、桟敷の方から起こる喝采(かっさい)は、必ず「伏見屋」と来る。そんな見物の掛け声まで、彼の耳の底に聞こえて来た。
「ほんとに、おれはこんなばかな男だ。」
金兵衛はそれを自分で自分に言って、束にして掛けた杉(すぎ)の葉のしるしも酒屋らしい伏見屋の門口を、出たりはいったりした。
三日続いた狂言はかなりの評判をとった。たとい村芝居でも仮借(かしゃく)はしなかったほど藩の検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届け奉行(ぶぎょう)なぞも、狂言の成功を祝って引き取って行ったくらいであった。
いたるところの囲炉裏(いろり)ばたでは、しばらくこの狂言の話で持ち切った。何しろ一年に一度の楽しい祭りのことで、顔だちから仕草(しぐさ)から衣裳まで三拍子そろった仙十郎が三番叟の美しかったことや、十二歳で初舞台を踏んだ鶴松が難波治郎作のいたいけであったことなぞは、村の人たちの話の種になって、そろそろ大根引きの近づくころになっても、まだそのうわさは絶えなかった。
旧暦十一月の四日は冬至(とうじ)の翌日である。多事な一年も、どうやら滞りなく定例の恵比須講(えびすこう)を過ぎて、村では冬至を祝うまでにこぎつけた。そこへ地震だ。あの家々に簾(すだれ)を掛けて年寄りから子供まで一緒になって遊んだ祭りの日から数えると、わずか四十日ばかりの後に、いつやむとも知れないようなそんな地震が村の人たちを待っていようとは。
吉左衛門の家では一同裏の竹藪(たけやぶ)へ立ち退(の)いた。おまんも、お民も、皆|足袋(たび)跣足(はだし)で、半蔵に助けられながら木小屋の裏に集まった。その時は、隠居はもはやこの世にいなかった。七十三の歳(とし)まで生きたあのおばあさんも、孫のお民が帯祝いの日にあわずじまいに、ましてお民に男の子の生まれたことも、生まれる間もなくその子の亡(な)くなったことも、そんな慶事と不幸とがほとんど同時にやって来たことも知らずじまいに、その年の四月にはすでに万福寺の墓地の方に葬られた人であった。
「あなた、遠くへ行かないでくださいよ。皆と一緒にいてくださいよ。」
とおまんが吉左衛門のことを心配するそばには、産後三十日あまりにしかならないお民が青ざめた顔をしていた。また揺れて来たと言うたびに、下男の佐吉も二人(ふたり)の下女までも、互いに顔を見合わせて目の色を変えた。
太い青竹の根を張った藪(やぶ)の中で、半蔵は帯を締め直した。父と連れだってそこいらへ見回りに出たころは、本陣の界隈(かいわい)に住むもので家の中にいるものはほとんどなかった。隣家のことも気にかかって、吉左衛門親子が見舞いに行くと、伏見屋でもお玉や鶴松なぞは舞台下の日刈小屋(ひがりごや)の方に立ち退(の)いたあとだった。さすがに金兵衛はおちついたもので、その不安の中でも下男の一人を相手に家に残って、京都から来た飛脚に駄賃(だちん)を払ったり、判取り帳をつけたりしていた。
「どうも今年(ことし)は正月の元日から、いやに陽気が暖かで、おかしいおかしいと思っていましたよ。」
それを吉左衛門が言い出すと、金兵衛も想(おも)い当たるように、
「それさ。元日に草履(ぞうり)ばきで年始が勤まったなんて、木曾(きそ)じゃ聞いたこともない。おまけに、寺道の向こうに椿(つばき)が咲き出す、若餅(わかもち)でも搗(つ)こうという時分に蓬(よもぎ)が青々としてる。あれはみんなこの地震の来る知らせでしたわい。なにしろ、吉左衛門さん、吾家(うち)じゃ仙十郎の披露(ひろう)を済ましたばかりで、まあおかげであれも組頭(くみがしら)のお仲間入りができた。わたしも先祖への顔が立った、そう思って祝いの道具を片づけているところへ、この地震でしょう。」
「申年(さるどし)の善光寺の地震が大きかったなんて言ったってとても比べものにはなりますまいよ、ほら、寅年(とらどし)六月の地震の時だって、こんなじゃなかった。」
「いや、こんな地震は前代未聞にも、なんにも。」
とりあえず宿役人としての吉左衛門や金兵衛が相談したことは、老人女子供以外の町内のものを一定の場所に集めて、火災盗難等からこの村を護(まも)ることであった。場所は問屋と伏見屋の前に決定した。そして村民一同お日待(ひまち)をつとめることに申し合わせた。天変地異に驚く山の中の人たちの間には、春以来江戸表や浦賀辺を騒がしたアメリカの船をも、長崎から大坂の方面にたびたび押し寄せたというオロシャの船をも、さては仙洞御所(せんとうごしょ)の出火までも引き合いに出して、この異変を何かの前兆に結びつけるものもある。夜一夜、だれもまんじりとしなかった。半蔵もその仲間に加わって、産後の妻の身を案じたり、竹藪(たけやぶ)や背戸田(せどた)に野宿する人たちのことを思ったりして、太陽の登るのを待ち明かした。
翌日は雪になったが、揺り返しはなかなかやまなかった。問屋、伏見屋の前には二組に分れた若者たちが動いたり集まったりして、美濃の大井や中津川辺は馬籠(まごめ)よりも大地震だとか、隣宿の妻籠(つまご)も同様だとか、どこから聞いて来るともなくいろいろなうわさを持っては帰って来た。恵那山(えなさん)、川上山(かおれやま)、鎌沢山(かまざわやま)のかなたには大崩(おおくず)れができて、それが根の上あたりから望まれることを知らせに来るのも若い連中だ。その時になると、まれに見るにぎわいだったと言われた祭りの日のよろこびも、狂言の評判も、すべて地震の騒ぎの中に浚(さら)われたようになった。
揺り返し、揺り返しで、不安な日がそれから六日も続いた。宿(しゅく)では十八人ずつの夜番が交替に出て、街道から裏道までを警戒した。祈祷(きとう)のためと言って村の代参を名古屋の熱田(あつた)神社へも送った。そのうちに諸方からの通知がぽつぽつ集まって来て、今度の大地震が関西地方にことに劇(はげ)しかったこともわかった。東海道|岡崎宿(おかざきじゅく)あたりへは海嘯(つなみ)がやって来て、新井(あらい)の番所なぞは海嘯(つなみ)のために浚(さら)われたこともわかって来た。
熱田からの代参の飛脚が村をさして帰って来たころには、怪しい空の雲行きもおさまり、そこいらもだいぶ穏やかになった。吉左衛門は会所の定使(じょうづかい)に言いつけて、熱田神社祈祷の札を村じゅう軒別に配らせていると、そこへ金兵衛の訪(たず)ねて来るのにあった。
「吉左衛門さん、もうわたしは大丈夫と見ました。時に、あすは十一月の十日にもなりますし、仏事をしたいと思って、お茶湯(ちゃとう)のしたくに取りかかりましたよ。御都合がよかったら、あなたにも出席していただきたい。」
「お茶湯とは君もよいところへ気がついた。こんな時の仏事は、さぞ身にしみるだろうねえ。」
その時、金兵衛は一通の手紙を取り出して吉左衛門に見せた。舌代(ぜつだい)として、病中の松雲|和尚(おしょう)から金兵衛にあてたものだ。それには、伏見屋の仏事にも弟子(でし)を代理として差し出すという詫(わ)びからはじめて、こんな非常時には自分のようなものでも村の役に立ちたいと思い、行脚(あんぎゃ)の旅にあるころからそのことを心がけて帰って来たが、あいにくと病に臥(ふ)していてそれのできないのが残念だという意味を書いてある。寺でも経堂その他の壁は落ち、土蔵にもエミ(亀裂(きれつ))を生じたが、おかげで一人(ひとり)の怪我(けが)もなくて済んだと書いてある。本陣の主人へもよろしくと書いてある。
「いや、和尚さまもお堅い、お堅い。」
「なにしろ六年も行脚に出ていた人ですから、旅の疲れぐらいは出ましょうよ。」
それが吉左衛門の返事だった。
「お宅では。」
「まだみんな裏の竹藪(たけやぶ)です。ちょっと、おまんにもあってやってください。」
そう言って吉左衛門が金兵衛を誘って行ったところは、おそろしげに壁土の落ちた土蔵のそばだ。木小屋を裏へ通りぬけると、暗いほど茂った竹藪がある。その辺に仮小屋を造りつけ、戸板で囲って、たいせつな品だけは母屋(もや)の方から運んで来てある。そこにおまんや、お民なぞが避難していた。
「わたしはお民さんがお気の毒でならない。」と金兵衛は言った。「妻籠(つまご)からお嫁にいらしって、翌年にはこの大地震なんて全くやり切れませんねえ。」
おまんはその話を引き取って、「お宅でも、皆さんお変わりもありませんか。」
「えゝ、まあおかげで。たった一人おもしろい人物がいまして、これだけは無事とは言えないかもしれません。実は吾家(うち)で使ってる源吉のやつですが、この騒ぎの中で時々どこかへいなくなってしまう。あれはすこし足りないんですよ。あれはアメリカという人相ですよ。」
「アメリカという人相はよかった。金兵衛さんの言いそうなことだ。」
と吉左衛門もかたわらにいて笑った。
こんな話をしているところへ、生家(さと)の親たちを見に来る上の伏見屋のお喜佐、半蔵夫婦を見に来る乳母(うば)のおふき婆(ばあ)さん、いずれも立ち退(の)き先からそこへ一緒になった。主従の関係もひどくやかましかった封建時代に、下男や下女までそこへ膝(ひざ)を突き合わせて、目上目下の区別もなく、互いに食うものを分け、互いに着るものを心配し合う光景は、こんな非常時でなければ見られなかった図だ。
村民一同が各自の家に帰って寝るようになったのは、ようやく十一月の十三日であった。はじめて地震が来た日から数えて実に十日目に当たる。夜番に、見回りに、ごく困窮な村民の救恤(きゅうじゅつ)に、その間、半蔵もよく働いた。彼は伏見屋から大坂地震の絵図なぞを借りて来て、それを父と一緒に見たが、震災の実際はうわさよりも大きかった。大地震の区域は伊勢(いせ)の山田辺から志州(ししゅう)の鳥羽(とば)にまで及んだ。東海道の諸宿でも、出火、潰(つぶ)れ家(や)など数えきれないほどで、宮(みや)の宿(しゅく)から吉原(よしわら)の宿までの間に無難なところはわずかに二宿しかなかった。
やがて、その年初めての寒さも山の上へやって来るようになった。一切を沈黙させるような大雪までが十六日の暮れ方から降り出した。その翌日は風も立ち、すこし天気のよい時もあったが、夜はまた大雪で、およそ二尺五寸も積もった。石を載せた山家の板屋根は皆さびしい雪の中に埋(うず)もれて行った。
「九太夫さん、どうもわたしは年回りがよくないと思う。」
「どうでしょう、馬籠でも年を祭り替えることにしては。」
「そいつはおもしろい考えだ。」
「この街道筋でも祭り替えるようなうわさで、村によってはもう松を立てたところもあるそうです。」
「早速(さっそく)、年寄仲間や組頭の連中を呼んで、相談して見ますか。」
本陣の吉左衛門と問屋の九太夫とがこの言葉をかわしたのは、村へ大地震の来た翌年安政二年の三月である。
流言。流言には相違ないが、その三月は実に不吉な月で、悪病が流行するか、大風が吹くか、大雨が降るかないし大饑饉(だいききん)が来るか、いずれ天地の間に恐ろしい事が起こる。もし年を祭り替えるなら、その災難からのがれることができる。こんなうわさがどこの国からともなくこの街道に伝わって来た。九太夫が言い出したこともこのうわさからで。
やがて宿役人らが相談の結果は村じゅうへ触れ出された。三月節句の日を期して年を祭り替えること。その日およびその前日は、農事その他一切の業務を休むこと。こうなると、流言の影響も大きかった。村では時ならぬ年越しのしたくで、暮れのような餅搗(もちつ)きの音が聞こえて来る。松を立てた家もちらほら見える。「そえご」と組み合わせた門松の大きなのは本陣の前にも立てられて、日ごろ出入りの小前(こまえ)のものは勝手の違った顔つきでやって来る。その中の一人は、百姓らしい手をもみもみ吉左衛門にたずねた。
「大旦那(おおだんな)、ちょっくら物を伺いますが、正月を二度すると言えば、年を二つ取ることだずら。村の衆の中にはそんなことを言って、たまげてるものもあるわなし。おれの家じゃ、お前さま、去年の暮れに女の子が生まれて、まだ数え歳(どし)二つにしかならない。あれも三つと勘定したものかなし。」
「待ってくれ。」
この百姓の言うようにすると、吉左衛門自身は五十七、五十八と一時に年を二つも取ってしまう。伏見屋の金兵衛なぞは、一足飛びに六十歳を迎える勘定になる。
「ばかなことを言うな。正月のやり直しと考えたらいいじゃないか。」
そう吉左衛門は至極(しごく)まじめに答えた。
一年のうちに正月が二度もやって来ることになった。まるでうそのように。気の早い連中は、屠蘇(とそ)を祝え、雑煮(ぞうに)を祝えと言って、節句の前日から正月のような気分になった。当日は村民一同夜のひきあけに氏神|諏訪社(すわしゃ)への参詣(さんけい)を済まして来て、まず吉例として本陣の門口に集まった。その朝も、吉左衛門は麻の※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](かみしも)着用で、にこにこした目、大きな鼻、静かな口に、馬籠の駅長らしい表情を見せながら、一同の年賀を受けた。
「へい、大旦那(おおだんな)、明けましておめでとうございます。」
「あい、めでたいのい。」
これも一時の気休めであった。
その年、安政二年の十月七日には江戸の大地震を伝えた。この山の中のものは彦根(ひこね)の早飛脚からそれを知った。江戸表は七分通りつぶれ、おまけに大火を引き起こして、大部分焼失したという。震災後一年に近い地方の人たちにとって、この報知(しらせ)は全く他事(ひとごと)ではなかった。もっとも、馬籠のような山地でもかなりの強震を感じて、最初にどしんと来た時は皆|屋外(そと)へ飛び出したほどであった。それからの昼夜幾回とない微弱な揺り返しは、八十余里を隔てた江戸方面からの余波とわかった。
江戸大地震の影響は避難者の通行となって、次第にこの街道にもあらわれて来た。村では遠く江戸から焼け出されて来た人たちに物を与えるものもあり、またそれを見物するものもある。月も末になるころには、吉左衛門は家のものを集めて、江戸から届いた震災の絵図をひろげて見た。一鶯斎国周(いちおうさいくにちか)画、あるいは芳綱(よしつな)画として、浮世絵師の筆になった悲惨な光景がこの世ながらの地獄(じごく)のようにそこに描き出されている。下谷広小路(したやひろこうじ)から金龍山(きんりゅうさん)の塔までを遠見にして、町の空には六か所からも火の手が揚がっている。右に左にと逃げ惑う群衆は、京橋|四方蔵(しほうぐら)から竹河岸(たけがし)あたりに続いている。深川(ふかがわ)方面を描いたものは武家、町家いちめんの火で、煙につつまれた火見櫓(ひのみやぐら)も物すごい。目もくらむばかりだ。
半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸の藤田東湖(ふじたとうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。彰考館(しょうこうかん)の修史、弘道館(こうどうかん)の学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家(ごさんけ)の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯(ひたちおび)』を書き『回天詩史(かいてんしし)』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人(ひとり)として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『正気(せいき)の歌』なぞを諳誦(あんしょう)した時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷(じょうい)かの舞台の序幕の中で、倒れて行った。
「東湖先生か。せめてあの人だけは生かして置きたかった。」
と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことを想(おも)って見た。
やがて村へは庚申講(こうしんこう)の季節がやって来る。半蔵はそのめっきり冬らしくなった空をながめながら、自分の二十五という歳(とし)もむなしく暮れて行くことを思い、街道の片すみに立ちつくす時も多かった。 

安政三年は馬籠(まごめ)の万福寺で、松雲|和尚(おしょう)が寺小屋を開いた年である。江戸の大地震後一年目という年を迎え、震災のうわさもやや薄らぎ、この街道を通る避難者も見えないころになると、なんとなくそこいらは嵐(あらし)の通り過ぎたあとのようになった。当時の中心地とも言うべき江戸の震災は、たしかに封建社会の空気を一転させた。嘉永(かえい)六年の黒船騒ぎ以来、続きに続いた一般人心の動揺も、震災の打撃のために一時取り沈められたようになった。もっとも、尾張藩主が江戸出府後の結果も明らかでなく、すでに下田(しもだ)の港は開かれたとのうわさも伝わり、交易を非とする諸藩の抗議には幕府の老中もただただ手をこまねいているとのうわさすらある。しかしこの地方としては、一時の混乱も静まりかけ、街道も次第に整理されて、米の値までも安くなった。
各村倹約の申し渡しとして、木曾福島からの三人の役人が巡回して来たころは、山里も震災のあとらしい。土地の人たちは正月の味噌搗(みそつ)きに取りかかるころから、その年の豊作を待ち構え、あるいは杉苗(すぎなえ)植え付けの相談なぞに余念もなかった。
ある一転機が半蔵の内部(なか)にもきざして来た。その年の三月には彼も父となっていた。お民は彼のそばで、二人(ふたり)の間に生まれた愛らしい女の子を抱くようになった。お粂(くめ)というのがその子の名で、それまで彼の知らなかったちいさなものの動作や、物を求めるような泣き声や、無邪気なあくびや、無心なほほえみなぞが、なんとなく一人前になったという心持ちを父としての彼の胸の中によび起こすようになった。その新しい経験は、今までのような遠いところにあるものばかりでなしに、もっと手近なものに彼の目を向けさせた。
「おれはこうしちゃいられない。」
そう思って、辺鄙(へんぴ)な山の中の寂しさ不自由さに突き当たるたびに、半蔵は自分の周囲を見回した。
「おい、峠の牛方衆(うしかたしゅう)――中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい。」
「当分休みよなし。」
「とぼけるなよ。」
「おれが何を知らすか。当分の間、角十(かどじゅう)の荷物を付け出すなと言って、仲間のものから差し留めが来た。おれは一向知らんが、仲間のことだから、どうもよんどころない。」
「困りものだな。荷物を付け出さなかったら、お前たちはどうして食うんだ。牛行司(うしぎょうじ)にあったらよくそう言ってくれ。」
往来のまん中で、尋ねるものは問屋の九太夫、答えるものは峠の牛方だ。
最初、半蔵にはこの事件の真相がはっきりつかめなかった。今まで入荷(いりに)出荷(でに)とも付送(つけおく)りを取り扱って来た中津川の問屋|角十(かどじゅう)に対抗して、牛方仲間が団結し、荷物の付け出しを拒んだことは彼にもわかった。角十の主人、角屋(かどや)十兵衛が中津川からやって来て、伏見屋の金兵衛にその仲裁を頼んだこともわかった。事件の当事者なる角十と、峠の牛行司|二人(ふたり)の間に立って、六十歳の金兵衛が調停者としてたつこともわかった。双方示談の上、牛馬共に今までどおりの出入りをするように、それにはよく双方の不都合を問いただそうというのが金兵衛の意思らしいこともわかった。西は新茶屋から東は桜沢まで、木曾路の荷物は馬ばかりでなく、牛の背で街道を運搬されていたので。
荷物送り状の書き替え、駄賃(だちん)の上刎(うわは)ね――駅路時代の問屋の弊害はそんなところに潜んでいた。角十ではそれがはなはだしかったのだ。その年の八月、小草山の口明けの日から三日にわたって、金兵衛は毎日のように双方の間に立って調停を試みたが、紛争は解けそうもない。中津川からは角十側の人が来る。峠からは牛行司の利三郎、それに十二兼村(じゅうにかねむら)の牛方までが、呼び寄せられる。峠の組頭、平助は見るに見かねて、この紛争の中へ飛び込んで来たが、それでも埓(らち)は明きそうもない。
半蔵が本陣の門を出て峠の方まで歩き回りに行った時のことだ。崖(がけ)に添うた村の裏道には、村民の使用する清い飲料水が樋(とい)をつたってあふれるように流れて来ている。そこは半蔵の好きな道だ。その辺にはよい樹陰(こかげ)があったからで。途中で彼は峠の方からやって来る牛方の一人に行きあった。
「お前たちもなかなかやるねえ。」
「半蔵さま。お前さまも聞かっせいたかい。」
「どうも牛方衆は苦手(にがて)だなんて、平助さんなぞはそう言ってるぜ。」
「冗談でしょう。」
その時、半蔵は峠の組頭から聞いた言葉を思い出した。いずれ中津川からも人が出張しているから、とくと評議の上、随分|一札(いっさつ)も入れさせ、今後無理非道のないように取り扱いたい、それが平助を通して聞いた金兵衛の言葉であることを思い出した。
「まあ、そこへ腰を掛けろよ。場合によっては、吾家(うち)の阿父(おやじ)に話してやってもいい。」
牛方は杉(すぎ)の根元にあった古い切り株を半蔵に譲り、自分はその辺の樹陰(こかげ)にしゃがんで、路傍(みちばた)の草をむしりむしり語り出した。
「この事件は、お前さま、きのうやきょうに始まったことじゃあらすか。角十のような問屋は断わりたい。もっと他の問屋に頼みたい、そのことはもう四、五年も前から、下海道(しもかいどう)辺の問屋でも今渡(いまど)(水陸荷物の集散地)の問屋仲間でも、荷主まで一緒になって、みんな申し合わせをしたことよなし。ところが今度という今度、角十のやり方がいかにも不実だ、そう言って峠の牛行司が二人(ふたり)とも怒(おこ)ってしまったもんだで、それからこんなことになりましたわい。伏見屋の旦那(だんな)の量見じゃ、『おれが出たら』と思わっせるか知らんが、この事件がお前さま、そうやすやすと片づけられすか。そりゃ峠の牛方仲間は言うまでもないこと、宮(みや)の越(こし)の弥治衛門(やじえもん)に弥吉から、水上村の牛方や、山田村の牛方まで、そのほかアンコ馬まで申し合わせをしたことですで。まあ、見ていさっせれ――牛方もなかなか粘りますぞ。いったい、角十は他の問屋よりも強欲(ごうよく)すぎるわなし。それがそもそも事の起こりですで。」
半蔵はいろいろにしてこの牛方事件を知ることに努めた。彼が手に入れた「牛方より申し出の個条(かじょう)」は次ぎのようなものであった。
一、これまで駄賃(だちん)の儀、すべて送り状は包み隠し、控えの付(つけ)にて駄賃等書き込みにして、別に送り状を認(したた)め荷主方へ付送(つけおく)りのこと多く、右にては一同|掛念(けねん)やみ申さず。今後は有体(ありてい)に、実意になし、送り状も御見せ下さるほど万事親切に御取り計らい下さらば、一同安心|致(いた)すべきこと。
一、牛方どものうち、平生(へいぜい)心安き者は荷物もよく、また駄賃等も御贔屓(ごひいき)あり。しかるに向きに合わぬ牛方、並びに丸亀屋(まるがめや)出入りの牛方どもには格別不取り扱いにて、有り合わせし荷物も早速には御渡しなく、願い奉る上ならでは付送(つけおく)り方(かた)に御回し下さらず、これも御出入り牛方同様に不憫(ふびん)を加え、荷物も早速御出し下さるよう御取り計らいありたきこと。(もっとも、寄せ荷物なき時は拠(よんどころ)なく、その節はいずれなりとも御取り計らいありたし。)
一、大豆売買の場合、これを一駄四百五十文と問屋の利分を定め、その余は駄賃として牛方どもに下されたきこと。
一、送り荷の運賃、運上(うんじょう)は一駄|一分割(いちぶわり)と御定めもあることなれば、その余を駄賃として残らず牛方どもへ下さるよう、今後御取り極(き)めありたきこと。
一、通し送り荷駄賃、名古屋より福島まで半分割(はんぶわり)の運上引き去り、その余は御刎(おは)ねなく下されたきこと。
一、荷物送り出しの節、心安き牛方にても、初めて参り候(そうろう)牛方にても、同様に御扱い下され、すべて今渡(いまど)の問屋同様に、依怙贔屓(えこひいき)なきよう願いたきこと。
一、すべて荷物、問屋に長く留め置き候ては、荷主催促に及び、はなはだ牛方にて迷惑難渋|仕(つかまつ)り候間、早速|付送(つけおく)り方、御取り計らい下され候よう願いたきこと。
一、このたび組定(くみじょう)とりきめ候上は、双方堅く相守り申すべく、万一問屋無理非道の儀を取り計らい候わば、その節は牛方どもにおいて問屋を替え候とも苦しからざるよう、その段御引き合い下されたく候こと。
これは調停者の立場から書かれたもので、牛方仲間がこの個条書をそっくり認めるか、どうかは、峠の牛行司でもなんとも言えないとのことであった。はたして、水上村から強い抗議が出た。八月十日の夜、峠の牛方仲間のものが伏見屋へ見えての話に、右の書付を一同に読み聞かせたところ、少々|腑(ふ)に落ちないところもあるから、いずれ仲間どもで別の案文を認(したた)めた上のことにしたい、それまで右の証文は二人の牛行司の手に預かって置くというようなことで、またまた交渉は行き悩んだらしい。
ちょうど、中津川の医者で、半蔵が旧(ふる)い師匠にあたる宮川寛斎が桝田屋(ますだや)の病人を見に馬籠(まごめ)へ頼まれて来た。この寛斎からも、半蔵は牛方事件の成り行きを聞くことができた。牛方仲間に言わせると、とかく角十の取り扱い方には依怙贔屓(えこひいき)があって、駄賃書き込み等の態度は不都合もはなはだしい、このまま双方|得心(とくしん)ということにはどうしても行きかねる、今一応仲間のもので相談の上、伏見屋まで挨拶(あいさつ)しようという意向であるらしい。牛方仲間は従順ではあったが、決して屈してはいなかった。
とうとう、この紛争は八月の六日から二十五日まで続いた。長引けば長引くほど、事件は牛方の側に有利に展開した。下海道の荷主が六、七人も角十を訪れて、峠の牛方と同じようなことは何も言わないで、今まで世話になった礼を述べ、荷物問屋のことは他の新問屋へ依頼すると言って、お辞儀をしてさっさと帰って行った時は、角屋十兵衛もあっけに取られたという。その翌日には、六人の瀬戸物商人が中津川へ出張して来て、新規の問屋を立てることに談判を運んでしまった。
中津川の和泉屋(いずみや)は、半蔵から言えば親しい学友|蜂谷香蔵(はちやこうぞう)の家である。その和泉屋が角十に替(かわ)って問屋を引き受けるなぞも半蔵にとっては不思議な縁故のように思われた。もみにもんだこの事件が結局牛方の勝利に帰したことは、半蔵にいろいろなことを考えさせた。あらゆる問屋が考えて見なければならないような、こんな新事件は彼の足もとから動いて来ていた。ただ、彼ら、名もない民は、それを意識しなかったまでだ。
生みの母を求める心は、早くから半蔵を憂鬱(ゆううつ)にした。その心は友だちを慕わせ、師とする人を慕わせ、親のない村の子供にまで深い哀憐(あわれみ)を寄せさせた。彼がまだ十八歳のころに、この馬籠の村民が木曾山の厳禁を犯して、多分の木を盗んだり背伐(せぎ)りをしたりしたという科(とが)で、村から六十一人もの罪人を出したことがある。その村民が彼の家の門内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭のすみの梨(なし)の木のかげに隠れて、腰繩(こしなわ)手錠をかけられた不幸な村民を見ていたことがあるが、貧窮な黒鍬(くろくわ)や小前(こまえ)のものを思う彼の心はすでにそのころから養われた。馬籠本陣のような古い歴史のある家柄に生まれながら、彼の目が上に立つ役人や権威の高い武士の方に向かわないで、いつでも名もない百姓の方に向かい、従順で忍耐深いものに向かい向かいしたというのも、一つは継母(ままはは)に仕えて身を慎んで来た少年時代からの心の満たされがたさが彼の内部(なか)に奥深く潜んでいたからで。この街道に荷物を運搬する牛方仲間のような、下層にあるものの動きを見つけるようになったのも、その彼の目だ。 

「御免ください。」
馬籠(まごめ)の本陣の入り口には、伴(とも)を一人(ひとり)連れた訪問の客があった。
「妻籠(つまご)からお客さまが見えたぞなし。」
という下女の声を聞きつけて、お民は奥から囲炉裏(いろり)ばたへ飛んで出て来て見た。兄の寿平次だ。
「まあ、兄さん、よくお出かけでしたねえ。」
とお民は言って、奥にいる姑(しゅうとめ)のおまんにも、店座敷にいる半蔵にもそれと知らせた。広い囲炉裏ばたは、台所でもあり、食堂でもあり、懇意なものの応接間でもある。山家らしい焚火(たきび)で煤(すす)けた高い屋根の下、黒光りのするほど古い太い柱のそばで、やがて主客の挨拶(あいさつ)があった。
「これさ。そんなところに腰掛けていないで、草鞋(わらじ)でもおぬぎよ。」
おまんは本陣の「姉(あね)さま」らしい調子で、寿平次の供をして来た男にまで声をかけた。二里ばかりある隣村からの訪問者でも、供を連れて山路(やまみち)を踏んで来るのが当時の風習であった。ちょうど、木曾路は山の中に多い栗(くり)の落ちるころで、妻籠から馬籠までの道は楽しかったと、供の男はそんなことをおまんにもお民にも語って見せた。
間もなくお民は明るい仲の間を片づけて、秋らしい西の方の空の見えるところに席をつくった。馬籠と妻籠の両本陣の間には、宿場の連絡をとる上から言っても絶えず往来がある。半蔵が父の代理として木曾福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は半蔵もめずらしくゆっくりやって来てくれた寿平次を自分の家に迎えたわけだ。
「まず、わたしの失敗話(しくじりばなし)から。」
と寿平次が言い出した。
お民は仲の間と囲炉裏ばたの間を往(い)ったり来たりして、茶道具なぞをそこへ持ち運んで来た。その時、寿平次は言葉をついで、
「ほら、この前、お訪(たず)ねした日ですねえ。あの帰りに、藤蔵(とうぞう)さんの家の上道を塩野へ出ましたよ。いろいろな細い道があって、自分ながらすこし迷ったかと思いますね。それから林の中の道を回って、下り坂の平蔵さんの家の前へ出ました。狸(たぬき)にでも化かされたように、ぼんやり妻籠へ帰ったのが八つ時(どき)ごろでしたさ。」
半蔵もお民も笑い出した。
寿平次はお民と二人(ふたり)ぎりの兄妹(きょうだい)で、その年の正月にようやく二十五歳|厄除(やくよ)けのお日待(ひまち)を祝ったほどの年ごろである。先代が木曾福島へ出張中に病死してからは、早く妻籠の本陣の若主人となっただけに、年齢(とし)の割合にはふけて見え、口のききようもおとなびていた。彼は背(せい)の低い男で、肩の幅で着ていた。一つ上の半蔵とそこへ対(むか)い合ったところは、どっちが年長(としうえ)かわからないくらいに見えた。年ごろから言っても、二人はよい話し相手であった。
「時に、半蔵さん、きょうはめずらしい話を持って来ました。」と寿平次は目をかがやかして言った。
「どうもこの話は、ただじゃ話せない。」
「兄さんも、勿体(もったい)をつけること。」とお民はそばに聞いていて笑った。
「お民、まあなんでもいいから、お父(とっ)さんやお母(っか)さんを呼んで来ておくれ。」
「兄さん、お喜佐さんも呼んで来ましょうか。あの人も仙十郎(せんじゅうろう)さんと別れて、今じゃ家にいますから。」
「それがいい、この話はみんなに聞かせたい。」
「大笑い。大笑い。」
吉左衛門はちょうど屋外(そと)から帰って来て、まず半蔵の口から寿平次の失敗話(しくじりばなし)というのを聞いた。
「お父(とっ)さん、寿平次さんは塩野から下り坂の方へ出たと言うんですがね、どこの林をそんなに歩いたものでしょう。」
「きっと梅屋林の中だぞ。寿平次さんも狸(たぬき)に化かされたか。そいつは大笑いだ。」
「山の中らしいお話ですねえ。」
とおまんもそこへ来て言い添えた。その時、お喜佐も挨拶(あいさつ)に来て、母のそばにいて、寿平次の話に耳を傾けた。
「兄さん、すこし待って。」
お民は別の部屋(へや)に寝かして置いた乳呑児(ちのみご)を抱きに行って来た。目をさまして母親を探(さが)す子の泣き声を聞きつけたからで。
「へえ、粂(くめ)を見てやってください。こんなに大きくなりました。」
「おゝ、これはよい女の子だ。」
「寿平次さん、御覧なさい。もうよく笑いますよ。女の子は知恵のつくのも早いものですねえ。」
とおまんは言って、お民に抱かれている孫娘の頭をなでて見せた。
その日、寿平次が持って来た話というは、供の男を連れて木曾路を通り過ぎようとしたある旅人が妻籠の本陣に泊まり合わせたことから始まる。偶然にも、その客は妻籠本陣の定紋(じょうもん)を見つけて、それが自分の定紋と同じであることを発見する。※[穴かんむり/果](か)に木瓜(もっこう)がそれである。客は主人を呼びよせて物を尋ねようとする。そこへ寿平次が挨拶に出る。客は定紋の暗合に奇異な思いがすると言って、まだこのほかに替え紋はないかと尋ねる。丸(まる)に三(みっ)つ引(びき)がそれだと答える。客はいよいよ不思議がって、ここの本陣の先祖に相州(そうしゅう)の三浦(みうら)から来たものはないかと尋ねる。答えは、そのとおり。その先祖は青山|監物(けんもつ)とは言わなかったか、とまた客が尋ねる。まさにそのとおり。その時、客は思わず膝(ひざ)を打って、さてさて世には不思議なこともあればあるものだという。そういう自分は相州三浦に住む山上七郎左衛門(やまがみしちろうざえもん)というものである。かねて自分の先祖のうちには、分家して青山監物と名のった人があると聞いている。その人が三浦から分かれて、木曾の方へ移り住んだと聞いている。して見ると、われわれは親類である。その客の言葉は、寿平次にとっても深い驚きであった。とうとう、一夜の旅人と親類の盃(さかずき)までかわして、系図の交換と再会の日とを約束して別れた。この奇遇のもとは、妻籠と馬籠の両青山家に共通な※[穴かんむり/果](か)に木瓜(もっこう)と、丸に三つ引(びき)の二つの定紋からであった。それから系図を交換して見ると、二つに割った竹を合わせたようで、妻籠の本陣なぞに伝わらなかった祖先が青山監物以前にまだまだ遠く続いていることがわかったという。
「これにはわたしも驚かされましたねえ。自分らの先祖が相州の三浦から来たことは聞いていましたがね、そんな古い家がまだ立派に続いているとは思いませんでしたねえ。」と寿平次が言い添えて見せた。
「ハーン。」吉左衛門は大きな声を出してうなった。
「寿平次さん、吾家(うち)のこともそのお客に話してくれましたか。」と半蔵が言った。
「話したとも。青山監物に二人の子があって、兄が妻籠の代官をつとめたし、弟は馬籠の代官をつとめたと話して置いたさ。」
何百年となく続いて来た青山の家には、もっと遠い先祖があり、もっと古い歴史があった。しかも、それがまだまだ立派に生きていた。おまん、お民、お喜佐、そこに集まっている女たちも皆何がなしに不思議な思いに打たれて、寿平次の顔を見まもっていた。
「その山上さんとやらは、どんな人柄のお客さんでしたかい。」とおまんが寿平次にきいた。
「なかなか立派な人でしたよ。なんでも話の様子では、よほど古い家らしい。相州の方へ帰るとすぐ系図と一緒に手紙をくれましてね、ぜひ一度|訪(たず)ねて来てくれと言ってよこしましたよ。」
「お民、店座敷へ行って、わたしの机の上にある筆と紙を持っといで。」半蔵は妻に言いつけて置いて、さらに寿平次の方を見て言った。「もう一度、その山上という人の住所を言って見てくれませんか。忘れないように、書いて置きたいと思うから。」
半蔵は紙をひろげて、まだ若々しくはあるがみごとな筆で、寿平次の言うとおりを写し取った。
相州三浦、横須賀(よこすか)在、公郷(くごう)村
山上七郎左衛門
「寿平次さん。」と半蔵はさらに言葉をつづけた。「それで君は――」
「だからさ。半蔵さんと二人(ふたり)で、一つその相州三浦を訪(たず)ねて見たらと思うのさ。」
「訪ねて行って見るか。えらい話になって来た。」
しばらく沈黙が続いた。
「山上の方の系図も、持って来て見せてくださるとよかった。」
「あとから届けますよ。あれで見ると、青山の家は山上から分かれる。山上は三浦家から出ていますね。つまりわたしたちの遠い祖先は鎌倉(かまくら)時代に活動した三浦一族の直系らしい。」
「相州三浦の意味もそれで読める。」と吉左衛門は言葉をはさんだ。
「寿平次さん、もし相州の方へ出かけるとすれば、君はいつごろのつもりなんですか。」
「十月の末あたりはどうでしょう。」
「そいつはおれも至極(しごく)賛成だねえ。」と吉左衛門も言い出した。「半蔵も思い立って出かけて行って来るがいいぞ。江戸も見て来るがいい――ついでに、日光あたりへも参詣(さんけい)して来るがいい。」
その晩、おまんは妻籠から来た供の男だけを帰らせて、寿平次を引きとめた。半蔵は店座敷の方へ寿平次を誘って、昔風な行燈(あんどん)のかげでおそくまで話した。青山氏系図として馬籠の本陣に伝わったものをもそこへ取り出して来て、二人でひろげて見た。その中にはこの馬籠の村の開拓者であるという祖先青山道斎のことも書いてあり、家中女子ばかりになった時代に妻籠の本陣から後見(こうけん)に来た百助(ももすけ)というような隠居のことも書いてある。道斎から見れば、半蔵は十七代目の子孫にあたった。その晩は半蔵は寿平次と枕(まくら)を並べて寝たが、父から許された旅のことなぞが胸に満ちて、よく眠られなかった。
偶然にも、半蔵が江戸から横須賀の海の方まで出て行って見る思いがけない機会はこんなふうにして恵まれた。翌日、まだ朝のうちに、お民は万福寺の墓地の方へ寿平次と半蔵を誘った。寿平次は久しぶりで墓参りをして行きたいと言い出したからで。お民が夫と共に看病に心を砕いたあの祖母(おばあ)さんももはやそこに長く眠っているからで。
半蔵と寿平次とは一歩(ひとあし)先に出た。二人は本陣の裏木戸から、隣家の伏見屋の酒蔵(さかぐら)について、暗いほど茂った苦竹(まだけ)と淡竹(はちく)の藪(やぶ)の横へ出た。寺の方へ通う静かな裏道がそこにある。途中で二人はお民を待ち合わせたが、煙の立つ線香や菊の花なぞを家から用意して来たお民と、お粂(くめ)を背中にのせた下女とが細い流れを渡って、田圃(たんぼ)の間の寺道を踏んで来るのが見えた。
小山の上に立つ万福寺は村の裏側から浅い谷一つ隔てたところにある。墓地はその小川に添うて山門を見上げるような傾斜の位置にある。そこまで行くと、墓地の境内もよく整理されていて、以前の住職の時代とは大違いになった。村の子供を集めてちいさく寺小屋をはじめている松雲和尚のもとへは、本陣へ通学することを遠慮するような髪結いの娘や、大工の忰(せがれ)なぞが手習い草紙を抱いて、毎日|通(かよ)って来ているはずだ。隠れたところに働く和尚の心は墓地の掃除(そうじ)にまでよく行き届いていた。半蔵はその辺に立てかけてある竹箒(たけぼうき)を執って、古い墓石の並んだ前を掃こうとしたが、わずかに落ち散っている赤ちゃけた杉の古葉を取り捨てるぐらいで用は足りた。和尚の心づかいと見えて、その辺の草までよくむしらせてあった。すべて清い。
やがて寿平次もお民も亡(な)くなった隠居の墓の前に集まった。
「兄さん、おばあさんの名は生きてる時分からおじいさんと並べて刻んであったんですよ。ただそれが赤くしてあったんですよ。」
とお民は言って、下女の背中にいるお粂の方をも顧みて、
「御覧、ののさんだよ。」
と言って見せた。
古く苔蒸(こけむ)した先祖の墓石は中央の位置に高く立っていた。何百年の雨にうたれ風にもまれて来たその石の面(おもて)には、万福寺殿昌屋常久禅定門の文字が読まれる。青山道斎がそこに眠っていた。あだかも、自分で開拓した山村の発展と古い街道の運命とを長い目でそこにながめ暮らして来たかのように。
寿平次は半蔵に言った。
「いかにも昔の人のお墓らしいねえ。」
「この戒名(かいみょう)は万福寺を建立(こんりゅう)した記念でしょう。まだこのほかにも、村の年寄りの集まるところがなくちゃ寂しかろうと言って、薬師堂を建てたのもこの先祖だそうですよ。」
二人の話は尽きなかった。
裏側から見える村の眺望(ちょうぼう)は、その墓場の前の位置から、杉の木立(こだ)ちの間にひらけていた。半蔵は寿平次と一緒に青い杉の葉のにおいをかぎながら、しばらくそこに立ってながめた。そういう彼自身の内部(なか)には、父から許された旅のことを考えて見たばかりでも、もはや別の心持ちが湧(わ)き上がって来た。その心持ちから、彼は住み慣れた山の中をいくらかでも離れて見るようにして、あそこに柿(かき)の梢(こずえ)がある、ここに白い壁があると、寿平次にさして言って見せた。恵那山(えなさん)のふもとに隠れている村の眺望(ちょうぼう)は、妻籠(つまご)から来て見る寿平次をも飽きさせなかった。
「寿平次さん、旅に出る前にもう一度ぐらいあえましょうか。」
「いろいろな打ち合わせは手紙でもできましょう。」
「なんだかわたしは夢のような気がする。」
こんな言葉をかわして置いて、その日の午後に寿平次は妻籠をさして帰って行った。
長いこと見聞の寡(すくな)いことを嘆き、自分の固陋(ころう)を嘆いていた半蔵の若い生命(いのち)も、ようやく一歩(ひとあし)踏み出して見る機会をとらえた。その時になって見ると、江戸は大地震後一年目の復興最中である。そこには国学者としての平田|鉄胤(かねたね)もいる。鉄胤は篤胤大人(あつたねうし)の相続者である。かねて平田篤胤没後の門人に加わることを志していた半蔵には、これは得がたい機会でもある。のみならず、横須賀海岸の公郷村(くごうむら)とは、黒船上陸の地点から遠くないところとも聞く。半蔵の胸はおどった。 
第三章

 


「蜂谷(はちや)君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、妻籠(つまご)本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在の公郷村(くごうむら)に遠い先祖の遺族を訪(たず)ねるためであるが、江戸をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めての旅に上ろうとしている。」
こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。
「君によろこんでもらいたいことがある。自分はこの旅で、かねての平田入門の志を果たそうとしている。最近に自分は佐藤信淵(さとうのぶひろ)の著書を手に入れて、あのすぐれた農学者が平田|大人(うし)と同郷の人であることを知り、また、いかに大人(うし)の深い感化を受けた人であるかをも知った。本居(もとおり)、平田諸大人の国学ほど世に誤解されているものはない。古代の人に見るようなあの直(す)ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。」
という意味をも書き添えた。
馬籠(まごめ)のような狭い片田舎(かたいなか)では半蔵の江戸行きのうわさが村のすみまでもすぐに知れ渡った。半蔵が幼少な時分からのことを知っていて、遠い旅を案じてくれる乳母(うば)のおふきのような婆(ばあ)さんもある。おふきは半蔵を見に来た時に言った。
「半蔵さま、男はそれでもいいぞなし。どこへでも出かけられて。まあ、女の身になって見さっせれ。なかなかそんなわけにいかすか。おれも山の中にいて、江戸の夢でも見ずかい。この辺鄙(へんぴ)な田舎には、お前さま、せめて一生のうちに名古屋でも見て死にたいなんて、そんなことを言う女もあるに。」
江戸をさして出発する前に、半蔵は平田入門のことを一応は父にことわって行こうとした。平田篤胤はすでに故人であったから、半蔵が入門は先師没後の門人に加わることであった。それだけでも彼は一層自分をはっきりさせることであり、また同門の人たちと交際する上にも多くの便宜があろうと考えたからで。
父、吉左衛門(きちざえもん)はもう長いことこの忰(せがれ)を見まもって来て、行く行く馬籠の本陣を継ぐべき半蔵が寝食を忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じないではなかった。しかし吉左衛門は根が好学の人で、自分で学問の足りないのを嘆いているくらいだから、
「お前の学問好きも、そこまで来たか。」
と言わないばかりに半蔵の顔をながめて、結局子の願いを容(い)れた。
当時平田派の熱心な門人は全国を通じて数百人に上ると言われ、南信から東|美濃(みの)の地方へかけてもその流れをくむものは少なくない。篤胤ののこした仕事はおもに八人のすぐれた弟子(でし)に伝えられ、その中でも特に選ばれた養嗣(ようし)として平田家を継いだのが当主|鉄胤(かねたね)であった。半蔵が入門は、中津川の宮川寛斎(みやがわかんさい)の紹介によるもので、いずれ彼が江戸へ出た上は平田家を訪(たず)ねて、鉄胤からその許しを得ることになっていた。
「お父(とっ)さんに賛成していただいて、ほんとにありがたい。長いこと私はこの日の来るのを待っていたようなものですよ。」
と半蔵は先輩を慕う真実を顔にあらわして言った。同じ道を踏もうとしている中津川の浅見景蔵も、蜂谷香蔵も、さぞ彼のためによろこんでくれるだろうと父に話した。
「まあ、何も試みだ。」
と吉左衛門は持ち前の大きな本陣鼻の上へしわを寄せながら言った。父は半蔵からいろいろと入門の手続きなぞを聞いたのみで、そう深入りするなとも言わなかった。
安政の昔は旅も容易でなかった。木曾谷の西のはずれから江戸へ八十三里、この往復だけにも百六十六里の道は踏まねばならない。その間、峠を四つ越して、関所を二つも通らねばならない。吉左衛門は関西方面に明るいほど東の方の事情に通じてもいなかったが、それでも諸街道問屋の一人(ひとり)として江戸の道中奉行所(どうちゅうぶぎょうしょ)へ呼び出されることがあって、そんな用向きで二、三度は江戸の土を踏んだこともある。この父は、いろいろ旅の心得になりそうなことを子に教えた。寿平次のようなよい連れがあるにしても、若い者|二人(ふたり)ぎりではどうあろうかと言った。遠く江戸から横須賀辺までも出かけるには、伴(とも)の男を一人連れて行けと勧めた。当時の旅行者が馬や人足を雇い、一人でも多く連れのあるのをよろこび、なるべく隊伍(たいご)をつくるようにしてこの街道を往(い)ったり来たりするのも、それ相応の理由がなくてはかなわぬことを父は半蔵に指摘して見せた。
「ひとり旅のものは宿屋でも断わられるぜ。」
とも注意した。
かねて妻籠の本陣とも打ち合わせの上、出発の日取りも旧暦の十月上旬に繰りあげてあった。いよいよその日も近づいて、継母のおまんは半蔵のために青地(あおじ)の錦(にしき)の守り袋を縫い、妻のお民は晒木綿(さらし)の胴巻きなぞを縫ったが、それを見る半蔵の胸にはなんとなく前途の思いがおごそかに迫って来た。遠く行くほどのものは、河止(かわど)めなぞの故障の起こらないかぎり、たとい強い風雨を冒しても必ず予定の宿(しゅく)まではたどり着けと言われているころだ。遊山(ゆさん)半分にできる旅ではなかった。
「佐吉さん、お前は半蔵さまのお供だそうなのい。」
「あい、半蔵さまもそう言ってくれるし、大旦那(おおだんな)からもお許しが出たで。」
おふきはだれよりも先に半蔵の門出(かどで)を見送りに来て、もはや本陣の囲炉裏ばたのところで旅じたくをしている下男の佐吉を見つけた。佐吉は雇われて来てからまだ年も浅く、半蔵といくつも違わないくらいの若さであるが、今度江戸への供に選ばれたことをこの上もないよろこびにして、留守中主人の家の炉で焚(た)くだけの松薪(まつまき)なぞはすでに山から木小屋へ運んで来てあった。
いよいよ出発の時が来た。半蔵は青い河内木綿(かわちもめん)の合羽(かっぱ)を着、脚絆(きゃはん)をつけて、すっかり道中姿になった。旅の守り刀は綿更紗(めんざらさ)の袋で鍔元(つばもと)を包んで、それを腰にさした。
「さあ、これだ。これさえあれば、どんな関所でも通られる。」
と吉左衛門は言って、一枚の手形(てがた)を半蔵の前に置いた。関所の通り手形だ。それには安政三年十月として、宿役人の署名があり、馬籠宿の印が押してある。
「このお天気じゃ、あすも霜でしょう。半蔵も御苦労さまだ。」
という継母にも、女の子のお粂(くめ)を抱きながら片手に檜木笠(ひのきがさ)を持って来てすすめる妻にも別れを告げて、やがて半蔵は勇んで家を出た。おふきは、目にいっぱい涙をためながら、本陣の女衆と共に門口に出て見送った。
峠には、組頭(くみがしら)平助の家がある。名物|栗(くり)こわめしの看板をかけた休み茶屋もある。吉左衛門はじめ、組頭|庄兵衛(しょうべえ)、そのほか隣家の鶴松(つるまつ)のような半蔵の教え子たちは、峠の上まで一緒に歩いた。当時の風習として、その茶屋で一同別れの酒をくみかわして、思い思いに旅するものの心得になりそうなことを語った。出発のはじめはだれしも心がはやって思わず荒く踏み立てるものである、とかくはじめは足をたいせつにすることが肝要だ、と言うのは庄兵衛だ。旅は九日路(ここのかじ)のものなら、十日かかって行け、と言って見せるのはそこへ来て一緒になった平助だ。万福寺の松雲和尚さまが禅僧らしい質素な法衣に茶色の袈裟(けさ)がけで、わざわざ見送りに来たのも半蔵の心をひいた。
「夜道は気をつけるがいいぜ。なるべく朝は早く立つようにして、日の暮れるまでには次ぎの宿(しゅく)へ着くようにするがいいぜ。」
この父の言葉を聞いて、間もなく半蔵は佐吉と共に峠の上から離れて行った。この山地には俗に「道知らせ」と呼んで、螢(ほたる)の形したやさしい虫があるが、その青と紅のあざやかな色の背を見せたやつまでが案内顔に、街道を踏んで行く半蔵たちの行く先に飛んだ。
隣宿|妻籠(つまご)の本陣には寿平次がこの二人(ふたり)を待っていた。その日は半蔵も妻籠泊まりときめて、一夜をお民の生家(さと)に送って行くことにした。寿平次を見るたびに半蔵の感ずることは、よくその若さで本陣|庄屋(しょうや)問屋(といや)三役の事務を処理して行くことであった。寿平次の部屋(へや)には、先代からつけて来たという覚え帳がある。諸大名宿泊のおりの人数、旅籠賃(はたごちん)から、入り用の風呂(ふろ)何本、火鉢(ひばち)何個、燭台(しょくだい)何本というようなことまで、事こまかに記(しる)しつけてある。当時の諸大名は、各自に寝具、食器の類(たぐい)を携帯して、本陣へは部屋代を払うというふうであったからで。寿平次の代になってもそんなめんどうくさいことを一々書きとめて、後日の参考とすることを怠っていない。半蔵が心深くながめたのもその覚え帳だ。
「寿平次さん、今度の旅は佐吉に供をさせます。そのつもりで馬籠から連れて来ました。あれも江戸を見たがっていますよ。君の荷物はあれにかつがせてください。」
この半蔵の言葉も寿平次をよろこばせた。
翌朝、佐吉はだれよりも一番早く起きて、半蔵や寿平次が目をさましたころには、二足の草鞋(わらじ)をちゃんとそろえて置いた。自分用の檜木笠(ひのきがさ)、天秤棒(てんびんぼう)まで用意した。それから囲炉裏ばたにかしこまって、主人らのしたくのできるのを待った。寿平次は留守中のことを脇(わき)本陣の扇屋(おうぎや)の主人、得右衛門(とくえもん)に頼んで置いて、柿色(かきいろ)の地(じ)に黒羅紗(くろらしゃ)の襟(えり)のついた合羽(かっぱ)を身につけた。関所の通り手形も半蔵と同じように用意した。
妻籠の隠居はもういい年のおばあさんで、孫にあたる寿平次をそれまでに守り立てた人である。お民の女の子のうわさを半蔵にして、寿平次に迎えた娵(よめ)のお里にはまだ子がないことなどを言って見せる人である。隠居は家の人たちと一緒に門口に出て、寿平次を見送る時に言った。
「お前にはもうすこし背をくれたいなあ。」
この言葉が寿平次を苦笑させた。隠居は背の高い半蔵に寿平次を見比べて、江戸へ行って恥をかいて来てくれるなというふうにそれを言ったからで。
半蔵や寿平次は檜木笠をかぶった。佐吉も荷物をかついでそのあとについた。同行三人のものはいずれも軽い草鞋(わらじ)で踏み出した。 

木曾十一宿はおおよそ三つに分けられて、馬籠(まごめ)、妻籠(つまご)、三留野(みどの)、野尻(のじり)を下(しも)四宿といい、須原(すはら)、上松(あげまつ)、福島(ふくしま)を中(なか)三宿といい、宮(みや)の越(こし)、藪原(やぶはら)、奈良井(ならい)、贄川(にえがわ)を上(かみ)四宿という。半蔵らの進んで行った道はその下四宿から奥筋への方角であるが、こうしてそろって出かけるということがすでにめずらしいことであり、興も三人の興で、心づかいも三人の心づかいであった。あそこの小屋の前に檜木(ひのき)の実が乾(ほ)してあった、ここに山の中らしい耳のとがった茶色な犬がいた、とそんなことを語り合って行く間にも楽しい笑い声が起こった。一人の草鞋(わらじ)の紐(ひも)が解けたと言えば、他の二人(ふたり)はそれを結ぶまで待った。
深い森林の光景がひらけた。妻籠から福島までの間は寿平次のよく知っている道で、福島の役所からの差紙(さしがみ)でもあるおりには半蔵も父吉左衛門の代理としてこれまで幾たびとなく往来したことがある。幼い時分から街道を見る目を養われた半蔵らは、馬方や人足や駕籠(かご)かきなぞの隠れたところに流している汗を行く先に見つけた。九月から残った蠅(はえ)は馬にも人にも取りついて、それだけでも木曾路の旅らしい思いをさせた。
「佐吉、どうだい。」
「おれは足は達者(たっしゃ)だが、お前さまは。」
「おれも歩くことは平気だ。」
寿平次と連れだって行く半蔵は佐吉を顧みて、こんな言葉をかわしては、また進んだ。
秋も過ぎ去りつつあった。色づいた霜葉(しもは)は谷に満ちていた。季節が季節なら、木曾川の水流を利用して山から伐(き)り出した材木を流しているさかんな活動のさまがその街道から望まれる。小谷狩(こたにがり)にはややおそく、大川狩(おおかわがり)にはまだ早かった。河原(かわら)には堰(せき)を造る日傭(ひよう)の群れの影もない。木鼻(きはな)、木尻(きじり)の作業もまだ始まっていない。諸役人が沿岸の警戒に出て、どうかすると、鉄砲まで持ち出して、盗木流材を取り締まろうとするような時でもない。半蔵らの踏んで行く道はもはや幾たびか時雨(しぐれ)の通り過ぎたあとだった。気の置けないものばかりの旅で、三人はときどき路傍(みちばた)の草の上に笠(かさ)を敷いた。小松の影を落としている川の中洲(なかず)を前にして休んだ。対岸には山が迫って、檜木、椹(さわら)の直立した森林がその断層を覆(おお)うている。とがった三角を並べたように重なり合った木と木の梢(こずえ)の感じも深い。奥筋の方から渦巻(うずま)き流れて来る木曾川の水は青緑の色に光って、乾(かわ)いたりぬれたりしている無数の白い花崗石(みかげいし)の間におどっていた。
その年は安政の大地震後初めての豊作と言われ、馬籠の峠の上のような土地ですら一部落で百五十俵からの増収があった。木曾も妻籠から先は、それらの自然の恵みを受くべき田畠(たはた)とてもすくない。中三宿となると、次第に谷の地勢も狭(せば)まって、わずかの河岸(かし)の傾斜、わずかの崖(がけ)の上の土地でも、それを耕地にあててある。山のなかに成長して樹木も半分友だちのような三人には、そこの河岸に莢(さや)をたれた皀莢(さいかち)の樹(き)がある、ここの崖の上に枝の細い棗(なつめ)の樹があると、指(さ)して言うことができた。土地の人たちが路傍に設けた意匠もまたしおらしい。あるところの石垣(いしがき)の上は彼らの花壇であり、あるところの崖の下は二十三夜もしくは馬頭観音(ばとうかんのん)なぞの祭壇である。
この谷の中だ。木曾地方の人たちが山や林を力にしているのに不思議はない。当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩(おわりはん)で、巣山(すやま)、留山(とめやま)、明山(あきやま)の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、檜木(ひのき)、椹(さわら)、明檜(あすひ)、高野槇(こうやまき)、※[木+鑞のつくり](ねずこ)の五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。半蔵らは、名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを知っていた。一石栃(いちこくとち)にある白木(しらき)の番所から、上松(あげまつ)の陣屋の辺へかけて、諸役人の目の光らない日は一日もないことを知っていた。
しかし、巣山、留山とは言っても、絶対に村民の立ち入ることを許されない区域は極少部分に限られていた。自由林は木曾山の大部分を占めていた。村民は五木の厳禁を犯さないかぎり、意のままに明山を跋渉(ばっしょう)して、雑木を伐採したり薪炭(しんたん)の材料を集めたりすることができた。檜木笠、めんぱ(木製|割籠(わりご))、お六櫛(ろくぐし)、諸種の塗り物――村民がこの森林に仰いでいる生活の資本(もとで)もかなり多い。耕地も少なく、農業も難渋で、そうかと言って塗り物渡世の材料も手に入れがたいところでは、「御免(ごめん)の檜物(ひもの)」と称(とな)えて、毎年千数百|駄(だ)ずつの檜木を申し受けている村もある。あるいはまた、そういう木材で受け取らない村々では、慶長(けいちょう)年度の昔から谷中一般人民に許された白木六千駄のかわりに、それを「御切替(おきりか)え」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。どうして、山や林なしに生きられる地方ではないのだ。半蔵らの踏んで行ったのも、この大きな森林地帯を貫いている一筋道だ。
寝覚(ねざめ)まで行くと、上松(あげまつ)の宿の方から荷をつけて来る牛の群れが街道に続いた。
「半蔵さま、どちらへ。」
とその牛方仲間から声をかけるものがある。見ると、馬籠の峠のものだ。この界隈(かいわい)に顔を知られている牛行司(うしぎょうじ)利三郎だ。その牛行司は福島から積んで来た荷物の監督をして、美濃(みの)の今渡(いまど)への通し荷を出そうとしているところであった。
その時、寿平次が尋ね顔に佐吉の方をふりかえると、佐吉は笑って、
「峠の牛よなし。」
と無造作に片づけて見せた。
「寿平次さん、君も聞いたでしょう。あれが牛方事件の張本人でさ。」
と言って、半蔵は寿平次と一緒に、その荒い縞(しま)の回(まわ)し合羽(がっぱ)を着た牛行司の後ろ姿を見送った。
下民百姓の目をさまさせまいとすることは、長いこと上に立つ人たちが封建時代に執って来た方針であった。しかし半蔵はこの街道筋に起こって来た見のがしがたい新しい現象として、あの牛方事件から受け入れた感銘を忘れなかった。不正な問屋を相手に血戦を開き、抗争の意気で起(た)って来たのもあの牛行司であったことを忘れなかった。彼は旅で思いがけなくその人から声をかけられて見ると、たとい自分の位置が問屋側にあるとしても、そのために下層に黙って働いているような牛方仲間を笑えなかった。
木曾福島の関所も次第に近づいた。三人ははらはら舞い落ちる木の葉を踏んで、さらに山深く進んだ。時には岩石が路傍に迫って来ていて、高い杉(すぎ)の枝は両側からおおいかぶさり、昼でも暗いような道を通ることはめずらしくなかった。谷も尽きたかと見えるところまで行くと、またその先に別の谷がひらけて、そこに隠れている休み茶屋の板屋根からは青々とした煙が立ちのぼった。桟(かけはし)、合渡(ごうど)から先は木曾川も上流の勢いに変わって、山坂の多い道はだんだん谷底へと降(くだ)って行くばかりだ。半蔵らはある橋を渡って、御嶽(おんたけ)の方へ通う山道の分かれるところへ出た。そこが福島の城下町であった。
「いよいよ御関所ですかい。」
佐吉は改まった顔つきで、主人らの後ろから声をかけた。
福島の関所は木曾街道中の関門と言われて、大手橋の向こうに正門を構えた山村氏の代官屋敷からは、河(かわ)一つ隔てた町はずれのところにある。「出女(でおんな)、入(い)り鉄砲(でっぽう)」と言った昔は、西よりする鉄砲の輸入と、東よりする女の通行をそこで取り締まった。ことに女の旅は厳重をきわめたもので、髪の長いものはもとより、そうでないものも尼(あま)、比丘尼(びくに)、髪切(かみきり)、少女(おとめ)などと通行者の風俗を区別し、乳まで探って真偽を確かめたほどの時代だ。これは江戸を中心とする参覲(さんきん)交代の制度を語り、一面にはまた婦人の位置のいかなるものであるかを語っていた。通り手形を所持する普通の旅行者にとって、なんのはばかるところはない。それでもいよいよ関所にかかるとなると、その手前から笠(かさ)や頭巾(ずきん)を脱ぎ、思わず襟(えり)を正したものであるという。
福島では、半蔵らは関所に近く住む植松菖助(うえまつしょうすけ)の家を訪(たず)ねた。父吉左衛門からの依頼で、半蔵はその人に手紙を届けるはずであったからで。菖助は名古屋藩の方に聞こえた宮谷家から後妻を迎えている人で、関所を預かる主(おも)な給人(きゅうにん)であり、砲術の指南役であり、福島でも指折りの武士の一人(ひとり)であった。ちょうど非番の日で、菖助は家にいて、半蔵らの立ち寄ったことをひどくよろこんだ。この人は伏見屋あたりへ金の融通(ゆうずう)を頼むために、馬籠の方へ見えることもある。それほど武士も生活には骨の折れる時になって来ていた。
「よい旅をして来てください。時に、お二人(ふたり)とも手形をお持ちですね。ここの関所は堅いというので知られていまして、大名のお女中がたでも手形のないものは通しません。とにかく、私が御案内しましょう。」
と菖助は言って、餞別(せんべつ)のしるしにと先祖伝来の秘法による自家製の丸薬なぞを半蔵にくれた。
平袴(ひらばかま)に紋付の羽織(はおり)で大小を腰にした菖助のあとについて、半蔵らは関所にかかった。そこは西の門から東の門まで一町ほどの広さがある。一方は傾斜の急な山林に倚(よ)り、一方は木曾川の断崖(だんがい)に臨んだ位置にある。山村|甚兵衛(じんべえ)代理格の奉行(ぶぎょう)、加番の給人らが四人も調べ所の正面に控えて、そのそばには足軽が二人ずつ詰めていた。西に一人、東に二人の番人がさらにその要害のよい門のそばを堅めていた。半蔵らは門内に敷いてある米石(こめいし)を踏んで行って、先着の旅行者たちが取り調べの済むまで待った。由緒(ゆいしょ)のある婦人の旅かと見えて、門内に駕籠(かご)を停(と)めさせ、乗り物のまま取り調べを受けているのもあった。
半蔵らはかなりの時を待った。そのうちに、
「髪長(かみなが)、御一人(ごいちにん)。」
と乗り物のそばで起こる声を聞いた。駕籠で来た婦人はいくらかの袖(そで)の下(した)を番人の妻に握らせて、型のように通行を許されたのだ。半蔵らの順番が来た。調べ所の壁に掛かる突棒(つくぼう)、さす叉(また)なぞのいかめしく目につくところで、階段の下に手をついて、かねて用意して来た手形を役人たちの前にささげるだけで済んだ。
菖助にも別れを告げて、半蔵がもう一度関所の方を振り返った時は、いかにすべてが形式的であるかをそこに見た。
鳥居峠(とりいとうげ)はこの関所から宮(みや)の越(こし)、藪原(やぶはら)二宿を越したところにある。風は冷たくても、日はかんかん照りつけた。前途の遠さは曲がりくねった坂道に行き悩んだ時よりも、かえってその高い峠の上に御嶽遙拝所(おんたけようはいじょ)なぞを見つけた時にあった。そこは木曾川の上流とも別れて行くところだ。
「寿平次さん、江戸から横須賀(よこすか)まで何里とか言いましたね。」
「十六里さ。わたしは道中記でそれを調べて置いた。」
「江戸までの里数を入れると、九十九里ですか。」
「まあ、ざっと百里というものでしょう。」
供の佐吉も、この主人らの話を引き取って、
「まだこれから先に木曾二宿もあるら。江戸は遠いなし。」
こんな言葉をかわしながら、三人とも日暮れ前の途(みち)を急いで、やがてその峠を降りた。
「お泊まりなすっておいでなさい。奈良井(ならい)のお宿(やど)はこちらでございます。浪花講(なにわこう)の御定宿(おじょうやど)はこちらでございます。」
しきりに客を招く声がする。街道の両側に軒を並べた家々からは、競うようにその招き声が聞こえる。半蔵らが鳥居峠を降りて、そのふもとにある奈良井に着いた時は、他の旅人らも思い思いに旅籠屋(はたごや)を物色しつつあった。
半蔵はかねて父の懇意にする庄屋(しょうや)仲間の家に泊めてもらうことにして、寿平次や佐吉をそこへ誘った。往来の方へ突き出したようなどこの家の低い二階にもきまりで表廊下が造りつけてあって、馬籠や妻籠に見る街道風の屋造りはその奈良井にもあった。
「半蔵さん、わたしはもう胼胝(まめ)をこしらえてしまった。」
と寿平次は笑いながら言って、草鞋(わらじ)のために水腫(みずば)れのした足を盥(たらい)の中の湯に浸した。半蔵も同じように足を洗って、広い囲炉裏ばたから裏庭の見える座敷へ通された。きのこ、豆、唐辛(とうがらし)、紫蘇(しそ)なぞが障子の外の縁に乾(ほ)してあるようなところだ。気の置けない家だ。
「静かだ。」
寿平次は腰にした道中差(どうちゅうざ)しを部屋(へや)の床の間へ預ける時に言った。その静かさは、河(かわ)の音の耳につく福島あたりにはないものだった。そこの庄屋の主人は、半蔵が父とはよく福島の方で顔を合わせると言い、この同じ部屋に吉左衛門を泊めたこともあると言い、そんな縁故からも江戸行きの若者をよろこんでもてなそうとしてくれた。ちょうど鳥屋(とや)のさかりのころで、木曾名物の小鳥でも焼こうと言ってくれるのもそこの主人だ。鳥居峠の鶫(つぐみ)は名高い。鶫ばかりでなく、裏山には駒鳥(こまどり)、山郭公(やまほととぎす)の声がきかれる。仏法僧(ぶっぽうそう)も来て鳴く。ここに住むものは、表の部屋に向こうの鳥の声をきき、裏の部屋にこちらの鳥の声をきく。そうしたことを語り聞かせるのもまたそこの主人だ。
半蔵らは同じ木曾路でもずっと東寄りの宿場の中に来ていた。鳥居峠一つ越しただけでも、親たちや妻子のいる木曾の西のはずれはにわかに遠くなった。しかしそこはなんとなく気の落ち着く山のすそで、旅の合羽(かっぱ)も脚絆(きゃはん)も脱いで置いて、田舎(いなか)風な風呂(ふろ)に峠道の汗を忘れた時は、いずれも活(い)き返ったような心地(ここち)になった。
「ここの家は庄屋を勤めてるだけなんですね。本陣問屋は別にあるんですね。」
「そうらしい。」
半蔵と寿平次は一風呂浴びたあとのさっぱりした心地で、奈良井の庄屋の裏座敷に互いの旅の思いを比べ合った。朝晩はめっきり寒く、部屋には炬燵(こたつ)ができているくらいだ。寿平次は下女がさげて来てくれた行燈(あんどん)を引きよせて、そのかげに道中の日記や矢立てを取り出した。藪原(やぶはら)で求めた草鞋(わらじ)が何|文(もん)、峠の茶屋での休みが何文というようなことまで細かくつけていた。
「寿平次さん、君はそれでも感心ですね。」
「どうしてさ。」
「妻籠の方でもわたしは君の机の上に載ってる覚え帳を見て来ました。君にはそういう綿密なところがある。」
どうして半蔵がこんなことを言い出したかというに、本陣庄屋問屋の仕事は将来に彼を待ち受けていたからで。二人(ふたり)は十八歳のころから、すでにその見習いを命ぜられていて、福島の役所への出張といい、諸大名の送り迎えといい、二人が少年時代から受けて来た薫陶はすべてその準備のためでないものはなかった。半蔵がまだ親の名跡(みょうせき)を継がないのに比べると、寿平次の方はすでに青年の庄屋であるの違いだ。
半蔵は嘆息して、
「吾家(うち)の阿爺(おやじ)の心持ちはわたしによくわかる。家を放擲(ほうてき)してまで学問に没頭するようなものよりも、よい本陣の跡継ぎを出したいというのが、あの人の本意なんでさ。阿爺(おやじ)ももう年を取っていますからね。」
「半蔵さんはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「でも、君には事務の執れるように具(そな)わってるところがあるからいい。」
「そう君のように、むずかしく考えるからさ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想(おも)って見たまえ。とにかく、働きがいはありますぜ。」
囲炉裏ばたの方で焼く小鳥の香気は、やがて二人のいる座敷の方まで通って来た。夕飯には、下女が来て広い炬燵板(こたついた)の上を取り片づけ、そこを食卓の代わりとしてくれた。一本つけてくれた銚子(ちょうし)、串差(くしざ)しにして皿(さら)の上に盛られた鶫(つぐみ)、すべては客を扱い慣れた家の主人の心づかいからであった。その時、半蔵は次ぎの間に寛(くつろ)いでいる佐吉を呼んで、
「佐吉、お前もここへお膳(ぜん)を持って来ないか。旅だ。今夜は一杯やれ。」
この半蔵の「一杯」が佐吉をほほえませた。佐吉は年若ながらに、半蔵よりも飲める口であったから。
「おれは囲炉裏ばたでいただかず。その方が勝手だで。」
と言って佐吉は引きさがった。
「寿平次さん、わたしはこんな旅に出られたことすら、不思議のような気がする。実に一切から離れますね。」
「もうすこし君は楽な気持ちでもよくはありませんか。まあ、その盃(さかずき)でも乾(ほ)すさ。」
若いもの二人(ふたり)は旅の疲れを忘れる程度に盃を重ねた。主人が馳走振(ちそうぶ)りの鶫も食った。焼きたての小鳥の骨をかむ音も互いの耳には楽しかった。
「しかし、半蔵さんもよく話すようになった。以前には、ほんとに黙っていたようですね。」
「自分でもそう思いますよ。今度の旅じゃ、わたしも平田入門を許されて来ました。吾家(うち)の阿爺(おやじ)もああいう人ですから、快く許してくれましたよ。わたしも、これで弟でもあると、家はその弟に譲って、もっと自分の勝手な方へ出て行って見たいんだけれど。」
「今から隠居でもするようなことを言い出した。半蔵さん――君は結局、宗教にでも行くような人じゃありませんか。わたしはそう思って見ているんだが。」
「そこまではまだ考えていません。」
「どうでしょう、平田先生の学問というものは宗教じゃないでしょうか。」
「そうも言えましょう。しかし、あの先生の説いたものは宗教でも、その精神はいわゆる宗教とはまるきり別のものです。」
「まるきり別のものはよかった。」
炬燵話(こたつばなし)に夜はふけて行った。ひっそりとした裏山に、奈良井川の上流に、そこへはもう東木曾の冬がやって来ていた。山気は二人の身にしみて、翌朝もまた霜かと思わせた。
追分(おいわけ)の宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらかわかった。同行三人のものは、塩尻(しおじり)、下諏訪(しもすわ)から和田峠を越え、千曲川(ちくまがわ)を渡って、木曾街道と善光寺道との交叉点(こうさてん)にあたるその高原地の上へ出た。そこに住む追分の名主(なぬし)で、年寄役を兼ねた文太夫(ぶんだゆう)は、かねて寿平次が先代とは懇意にした間柄で、そんな縁故から江戸行きの若者らの素通りを許さなかった。
名主文太夫は、野半天(のばんてん)、割羽織(わりばおり)に、捕繩(とりなわ)で、御領私領の入れ交(まじ)った十一か村の秣場(まぐさば)を取り締まっているような人であった。その地方にある山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどの見回りをしているような人であった。半蔵らはこの客好きな名主の家に引き留められて、佐久の味噌汁(みそしる)や堅い地大根(じだいこん)の沢庵(たくあん)なぞを味わいながら、赤松、落葉松(からまつ)の山林の多い浅間山腹がいかに郷里の方の谿(たに)と相違するかを聞かされた。曠野(こうや)と、焼け石と、砂と、烈風と、土地の事情に精通した名主の話は尽きるということを知らなかった。
しかし、そればかりではない。半蔵らが追分に送った一夜の無意味でなかったことは、思いがけない江戸の消息までもそこで知ることができたからで。その晩、文太夫が半蔵や寿平次に取り出して見せた書面は、ある松代(まつしろ)の藩士から借りて写し取って置いたというものであった。嘉永(かえい)六年六月十一日付として、江戸屋敷の方にいる人の書き送ったもので、黒船騒ぎ当時の様子を伝えたものであった。
「このたび、異国船渡り来(きた)り候(そうろう)につき、江戸表はことのほかなる儀にて、東海道筋よりの早注進(はやちゅうしん)矢のごとく、よって諸国御大名ところどころの御堅め仰せ付けられ候。しかるところ、異国船|神奈川沖(かながわおき)へ乗り入れ候おもむき、御老中(ごろうじゅう)御屋敷へ注進あり。右につき、夜分急に御登城にて、それぞれ御下知(ごげち)仰せ付けられ、七日夜までに出陣の面々は左の通り。
一、松平越前守(まつだいらえちぜんのかみ)様、(越前福井藩主)品川(しながわ)御殿山(ごてんやま)お堅(かた)め。
一、細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ)様、(肥後熊本藩主)大森村(おおもりむら)お堅め。
一、松平|大膳太夫(だいぜんだゆう)様、(長州藩主)鉄砲洲(てっぽうず)および佃島(つくだじま)。
一、松平|阿波守(あわのかみ)様、(阿州徳島藩主)御浜御殿(おはまごてん)。
一、酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)様、(播州(ばんしゅう)姫路(ひめじ)藩主)深川(ふかがわ)一円。
一、立花左近将監(たちばなさこんしょうげん)様。伊豆大島(いずおおしま)一円。松平|下総守(しもうさのかみ)様、安房(あわ)上総(かずさ)の両国。その他、川越(かわごえ)城主松平|大和守(やまとのかみ)様をはじめ、万石以上にて諸所にお堅めのため出陣の御大名数を知らず。
公儀御目付役、戸川|中務少輔(なかつかさしょうゆう)様、松平|十郎兵衛(じゅうろべえ)様、右御両人は異国船見届けのため、陣場見回り仰せ付けられ、六日夜浦賀表へ御出立にこれあり候。
さて、このたびの異国船、国名相尋ね候ところ、北アメリカと申すところ。大船四|艘(そう)着船。もっとも船の中より、朝夕一両度ずつ大筒(おおづつ)など打ち放し申し候よし。町人並びに近在のものは賦役(ふえき)に遣(つか)わされ、海岸の人家も大方はうちつぶして諸家様のお堅め場所となり、民家の者ども妻子を引き連れて立ち退(の)き候もあり、米石(べいこく)日に高く、目も当てられず。実に戦国の習い、是非もなき次第にこれあり候。八日の早暁にいたり、御触れの文面左の通り。
一、異国船万一にも内海へ乗り入れ、非常の注進これあり候節は、老中より八代洲河岸(やしろすがし)火消し役へ相達し、同所にて平日の出火に紛れざるよう早鐘うち出(いだ)し申すべきこと。
一、右の通り、火消し役にて早鐘うち出し候節は、出火の通り相心得、登城の道筋その他相堅め候よういたすべきこと。
一、右については、江戸場末まで早鐘行き届かざる場合もこれあるべく、万石以上の面々においては早半鐘(はやはんしょう)相鳴らし申すべきこと。
右のおもむき、御用番御老中よりも仰せられ候。とりあえず当地のありさま申し上げ候。
以上。」
実に、一息に、かねて心にかかっていたことが半蔵の胸の中を通り過ぎた。これだけの消息も、木曾の山の中までは届かなかったものだ。すくなくも、半蔵が狭い見聞の世界へは、漠然(ばくぜん)としたうわさとしてしかはいって来なかったものだ。あの彦根(ひこね)の早飛脚が一度江戸のうわさを伝えてからの混雑、狼狽(ろうばい)そのものとも言うべき諸大名がおびただしい通行、それから引き続きこの街道に起こって来た種々な変化の意味も、その時思い合わされた。
「寿平次さん、君はこの手紙をどう思いますね。」
「さあ、わたしもこれほどとは思わなかった。」
半蔵は寿平次と顔を見合わせたが、激しい精神(こころ)の動揺は隠せなかった。 

郷里を出立してから十一日目に三人は板橋の宿を望んだ。戸田川の舟渡しを越して行くと、木曾街道もその終点で尽きている。そこまでたどり着くと江戸も近かった。
十二日目の朝早く三人は板橋を離れた。江戸の中心地まで二里と聞いただけでも、三人が踏みしめて行く草鞋(わらじ)の先は軽かった。道中記のたよりになるのも板橋(いたばし)までで、巣鴨(すがも)の立場(たてば)から先は江戸の絵図にでもよるほかはない。安政の大地震後一年目で、震災当時多く板橋に避難したという武家屋敷の人々もすでに帰って行ったころであるが、仮小屋の屋根、傾いた軒、新たに修繕の加えられた壁なぞは行く先に見られる。三人は右を見、左を見して、本郷(ほんごう)森川宿から神田明神(かんだみょうじん)の横手に添い、筋違見附(すじかいみつけ)へと取って、復興最中の町にはいった。
「これが江戸か。」
半蔵らは八十余里の道をたどって来て、ようやくその筋違(すじかい)の広場に、見附の門に近い高札場(こうさつば)の前に自分らを見つけた。広場の一角に配置されてある大名屋敷、向こうの町の空に高い火見櫓(ひのみやぐら)までがその位置から望まれる。諸役人は騎馬で市中を往来すると見えて、鎗持(やりも)ちの奴(やっこ)、その他の従者を従えた馬上の人が、その広場を横ぎりつつある。にわかに講武所(こうぶしょ)の創設されたとも聞くころで、旗本(はたもと)、御家人(ごけにん)、陪臣(ばいしん)、浪人(ろうにん)に至るまでもけいこの志望者を募るなぞの物々しい空気が満ちあふれていた。
半蔵らがめざして行った十一屋という宿屋は両国(りょうごく)の方にある。小網町(こあみちょう)、馬喰町(ばくろちょう)、日本橋|数寄屋町(すきやちょう)、諸国旅人の泊まる定宿(じょうやど)もいろいろある中で、半蔵らは両国の宿屋を選ぶことにした。同郷の人が経営しているというだけでもその宿屋は心やすく思われたからで。ちょうど、昌平橋(しょうへいばし)から両国までは船で行かれることを教えてくれる人もあって、三人とも柳の樹(き)の続いた土手の下を船で行った。うわさに聞く浅草橋(あさくさばし)まで行くと、筋違(すじかい)で見たような見附(みつけ)の門はそこにもあった。両国の宿屋は船の着いた河岸(かし)からごちゃごちゃとした広小路(ひろこうじ)を通り抜けたところにあって、十一屋とした看板からして堅気風(かたぎふう)な家だ。まだ昼前のことで、大きな風呂敷包(ふろしきづつ)みを背負(しょ)った男、帳面をぶらさげて行く小僧なぞが、その辺の町中を往(い)ったり来たりしていた。
「皆さんは木曾(きそ)の方から。まあ、ようこそ。」
と言って迎えてくれる若いかみさんの声を聞きながら、半蔵も寿平次も草鞋(わらじ)の紐(ひも)を解いた。そこへ荷を卸した佐吉のそばで、二人(ふたり)とも長い道中のあとの棒のようになった足を洗った。
「ようやく、ようやく。」
二階の部屋(へや)へ案内されたあとで、半蔵は寿平次と顔を見合わせて言ったが、まだ二人とも脚絆(きゃはん)をつけたままだった。
「ここまで来ると、さすがに陽気は違いますなあ。宿屋の女中なぞはまだ袷(あわせ)を着ていますね。」
と寿平次も言って、その足で部屋のなかを歩き回った。
半蔵が江戸へ出たころは、木曾の青年でこの都会に学んでいるという人のうわさも聞かなかった。ただ一人(ひとり)、木曾福島の武居拙蔵(たけいせつぞう)、その人は漢学者としての古賀※[にんべん+同]庵(こがどうあん)に就(つ)き、塩谷宕陰(しおのやとういん)、松崎慊堂(まつざきこうどう)にも知られ、安井息軒(やすいそっけん)とも交わりがあって、しばらく御茶(おちゃ)の水(みず)の昌平黌(しょうへいこう)に学んだが、親は老い家は貧しくて、数年前に郷里の方へ帰って行ったといううわさだけが残っていた。
半蔵もまだ若かった。青年として生くべき道を求めていた彼には、そうした方面のうわさにも心をひかれた。それにもまして彼の注意をひいたのは、幕府で設けた蕃書調所(ばんしょしらべしょ)なぞのすでに開かれていると聞くことだった。箕作阮甫(みつくりげんぽ)、杉田成卿(すぎたせいけい)なぞの蘭(らん)学者を中心に、諸人所蔵の蕃書の翻訳がそこで始まっていた。
この江戸へ出て来て見ると、日に日に外国の勢力の延びて来ていることは半蔵なぞの想像以上である。その年の八月には三隻の英艦までが長崎にはいったことの報知(しらせ)も伝わっている。品川沖(しながわおき)には御台場(おだいば)が築かれて、多くの人の心に海防の念をよび起こしたとも聞く。外国|御用掛(ごようがかり)の交代に、江戸城を中心にした交易大評定のうわさに、震災後めぐって来た一周年を迎えた江戸の市民は毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのようでもある。
両国へ着いた翌日、半蔵は寿平次と二人で十一屋の二階にいて、遠く町の空に響いて来る大砲調練の音なぞをききながら、旅に疲れたからだを休めていた。佐吉も階下(した)で別の部屋(へや)に休んでいた。同郷と聞いてはなつかしいと言って、半蔵たちのところへ話し込みに来る宿屋の隠居もある。その話し好きな隠居は、木曾の山の中を出て江戸に運命を開拓するまでの自分の苦心なぞを語った末に、
「あなたがたに江戸の話を聞かせろとおっしゃられても、わたしも困る。」
と断わって、なんと言っても忘れがたいのは嘉永(かえい)六年の六月に十二代将軍の薨去(こうきょ)を伝えたころだと言い出した。
受け売りにしても隠居の話はくわしかった。ちょうどアメリカのペリイが初めて浦賀に渡来した翌日あたりは、将軍は病の床にあった。強い暑さに中(あた)って、多勢の医者が手を尽くしても、将軍の疲労は日に日に増すばかりであった。将軍自身にももはや起(た)てないことを知りながら、押して老中を呼んで、今回の大事は開闢(かいびゃく)以来の珍事である、自分も深く心を痛めているが、不幸にして大病に冒され、いかんともすることができないと語ったという。ついては、水戸(みと)の隠居(烈公)は年来海外のことに苦心して、定めしよい了簡(りょうけん)もあろうから、自分の死後外国処置の件は隠居に相談するようにと言い置いたという。アメリカの軍艦が内海に乗り入れたのは、その夜のことであった。宿直のものから、ただいま伊勢(いせ)(老中|阿部(あべ))登城、ただいま備後(びんご)(老中牧野)登城と上申するのを聞いて、将軍はすぐにこれへ呼べと言い、「肩衣(かたぎぬ)、肩衣」と求めた。その時将軍はすでに疲れ切っていた。極度に困(くる)しんで、精神も次第に恍惚(こうこつ)となるほどだった。それでも人に扶(たす)けられて、いつものように正しくすわり直し、肩衣を着けた。それから老中を呼んで、二人(ふたり)の言うことを聞こうとしたが、アメリカの軍艦がまたにわかに外海へ出たという再度の報知(しらせ)を得たので、二人の老中も拝謁(はいえつ)を請うには及ばないで引き退いた。翌日、将軍は休息の部屋(へや)で薨(こう)じた。
十一屋の隠居はこの話を日ごろ出入りする幕府|奥詰(おくづめ)の医者で喜多村瑞見(きたむらずいけん)という人から聞いたと半蔵らに言い添えて見せた。さらに言葉を継いで、
「わたしはあの公方様(くぼうさま)の話を思い出すと、涙が出て来ます。何にしろ、あなた、初めて異国の船が内海に乗り入れた時の江戸の騒ぎはありませんや。諸大名は火事具足(かじぐそく)で登城するか、持ち場持ち場を堅めるかというんでしょう。火の用心のお触れは出る。鉄砲や具足の値は平常(ふだん)の倍になる。海岸の方に住んでるものは、みんな荷物を背負(しょ)って逃げましたからね。わたしもこんな宿屋商売をして見ていますが、世の中はあれから変わりましたよ。」
半蔵も、寿平次も、この隠居の出て行ったあとで、ともかくも江戸の空気の濃い町中に互いの旅の身を置き得たことを感じた。木曾の山の中にいて想像したと、出て来て見たとでは、実にたいした相違であることをも感じた。
「半蔵さん、きょうは国へ手紙でも書こう。」
「わたしも一つ、馬籠(まごめ)へ出すか。」
「半蔵さん、君はそれじゃ佐吉を連れて、あす平田先生を訪(たず)ねるとしたまえ。」
とりあえずそんな相談をして、その日一日は二人とも休息することにした。旅に限りがあって、そう長い江戸の逗留(とうりゅう)は予定の日取りが許さなかった。まだこれから先に日光(にっこう)行き、横須賀(よこすか)行きも二人を待っていた。
寿平次は手を鳴らして宿のかみさんを呼んだ。もうすこし早く三人が出て来ると、夷講(えびすこう)に間に合って、大伝馬町(おおてんまちょう)の方に立つべったら市のにぎわいも見られたとかみさんはいう。芝居(しばい)は、と尋ねると、市村(いちむら)、中村、森田三座とも狂言|名題(なだい)の看板が出たばかりのころで、茶屋のかざり物、燈籠(とうろう)、提灯(ちょうちん)、つみ物なぞは、あるいは見られても、狂言の見物には月のかわるまで待てという。当時売り出しの作者の新作で、世話に砕けた小団次(こだんじ)の出し物が見られようかともいう。
「朔日(ついたち)の顔見世(かおみせ)は明けの七つ時(どき)でございますよ。太夫(たゆう)の三番叟(さんばそう)でも御覧になるんでしたら、暗いうちからお起きにならないと、間に合いません。」
「江戸の芝居見物も一日がかりですね。」
こんな話の出るのも、旅らしかった。
夕飯後、半蔵はかねて郷里を出る時に用意して来た一通の書面を旅の荷物の中から取り出した。
「どれ、一つ寿平次さんに見せますか。これがあす持って行く誓詞(せいし)です。」
と言って寿平次の前に置いた。
誓詞
「このたび、御門入り願い奉(たてまつ)り候(そうろう)ところ、御許容なし下され、御門人の列に召し加えられ、本懐の至りに存じ奉り候。しかる上は、専(もは)ら皇国の道を尊信いたし、最も敬神の儀怠慢いたすまじく、生涯(しょうがい)師弟の儀忘却|仕(つかまつ)るまじき事。
公(おおやけ)の御制法に相背(あいそむ)き候儀は申すに及ばず。すべて古学を申し立て、世間に異様の行ないをいたし、人の見聞を驚かし候ようの儀これあるまじく、ことさら師伝と偽り奇怪の説など申し立て候儀、一切仕るまじき事。
御流儀においては、秘伝口授など申す儀、かつてこれなき段、堅く相守り、さようの事申し立て候儀これあるまじく、すべて鄙劣(ひれつ)の振舞をいたし古学の名を穢(けが)し申すまじき事。
学の兄弟相かわらず随分|睦(むつ)まじく相交わり、互いに古学興隆の志を相励み申すべく、我執(がしゅう)を立て争論なぞいたし候儀これあるまじき事。
右の条々、謹(つつし)んで相守り申すべく候。もし違乱に及び候わば、八百万(やおよろず)の天津神(あまつかみ)、国津神(くにつかみ)、明らかに知ろしめすべきところなり。よって、誓詞|如件(くだんのごとし)。」
   信州、木曾、馬籠村
   青山半蔵
安政三年十月
平田|鉄胤(かねたね)大人
御許(おんもと)
「これはなかなかやかましいものだ。」
「まだそのほかに、名簿を出すことになっています。行年(こうねん)何歳、父はだれ、職業は何、だれの紹介ということまで書いてあるんです。」
その時、半蔵は翌朝の天気を気づかい顔に戸の方へ立って行った。隅田川(すみだがわ)に近い水辺の夜の空がその戸に見えた。
「半蔵さん。」と寿平次はまたそばへ来てすわり直した相手の顔をながめながら、「君の誓詞には古学ということがしきりに出て来ますね。いったい、国学をやる人はそんなに古代の方に目標を置いてかかるんですか。」
「そりゃ、そうさ。君。」
「過去はそんなに意味がありますかね。」
「君のいう過去は死んだ過去でしょう。ところが、篤胤(あつたね)先生なぞの考えた過去は生きてる過去です。あすは、あすはッて、みんなあすを待ってるけれど、そんなあすはいつまで待っても来やしません。きょうは、君、またたく間(ま)に通り過ぎて行く。過去こそ真(まこと)じゃありませんか。」
「君のいうことはわかります。」
「しかし、国学者だって、そう一概に過去を目標に置こうとはしていません。中世以来は濁って来ていると考えるんです。」
「待ってくれたまえ。わたしはそうくわしいことも知りませんがね、平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない。こんな時世になって来て、そういう古学はどんなものでしょうかね。」
「そこですよ。外国の刺激を受ければ受けるほど、わたしたちは古代の方を振り返って見るようになりました。そりゃ、わたしばかりじゃありません、中津川の景蔵さんや香蔵さんだっても、そうです。」
どうやら定めない空模様だった。さびしくはあるが、そう寒くない時雨(しぐれ)の来る音も戸の外にした。
江戸は、初めて来て見る半蔵らにとって、どれほどの広さに伸びている都会とも、ちょっと見当のつけられなかったような大きなところである。そこに住む老若男女(ろうにゃくなんにょ)の数はかつて正確に計算せられたことがないと言うものもあるし、およそ二百万の人口はあろうと言うものもある。半蔵が連れと一緒に、この都会に足を踏み入れたのは武家屋敷の多い方面で、その辺は割合に人口も稀薄(きはく)なところであった。両国まで来て初めて町の深さにはいって見た。それもわずかに江戸の東北にあたる一つの小さな区域というにとどまる。
数日の滞在の後には、半蔵も佐吉を供に連れて山下町の方に平田家を訪問し、持参した誓詞のほかに、酒魚料、扇子(せんす)壱箱を差し出したところ、先方でも快く祝い納めてくれた。平田家では、彼の名を誓詞帳(平田門人の台帳)に書き入れ、先師没後の門人となったと心得よと言って、束脩(そくしゅう)も篤胤|大人(うし)の霊前に供えた。彼は日ごろ敬慕する鉄胤(かねたね)から、以来懇意にするように、学事にも出精するようにと言われて帰って来たが、その間に寿平次は猿若町(さるわかちょう)の芝居見物などに出かけて行った。そのころになると、二人(ふたり)はあちこちと見て回った町々の知識から、八百八町(はっぴゃくやちょう)から成るというこの大きな都会の広がりをいくらかうかがい知ることができた。町中にある七つの橋を左右に見渡すことのできる一石橋(いちこくばし)の上に立って見た時。国への江戸|土産(みやげ)に、元結(もとゆい)、油、楊枝(ようじ)の類(たぐい)を求めるなら、親父橋(おやじばし)まで行けと十一屋の隠居に教えられて、あの橋の畔(たもと)から鎧(よろい)の渡しの方を望んで見た時。目に入るかぎり無数の町家がたて込んでいて、高い火見櫓(ひのみやぐら)、並んだ軒、深い暖簾(のれん)から、いたるところの河岸(かし)に連なり続く土蔵の壁まで――そこからまとまって来る色彩の黒と白との調和も江戸らしかった。
しかし、世は封建時代だ。江戸大城の関門とも言うべき十五、六の見附(みつけ)をめぐりにめぐる内濠(うちぼり)はこの都会にある橋々の下へ流れ続いて来ている。その外廓(そとがわ)にはさらに十か所の関門を設けた外濠(そとぼり)がめぐらしてある。どれほどの家族を養い、どれほどの土地の面積を占め、どれほどの庭園と樹木とをもつかと思われるような、諸国大小の大名屋敷が要所要所に配置されてある。どこに親藩の屋敷を置き、どこに外様大名(とざまだいみょう)の屋敷を置くかというような意匠の用心深さは、日本国の縮図を見る趣もある。言って見れば、ここは大きな関所だ。町の角(かど)には必ず木戸があり、木戸のそばには番人の小屋がある。あの木曾街道の関所の方では、そこにいる役人が一切の通行者を監視するばかりでなく、役人同志が互いに監視し合っていた。どうかすると、奉行(ぶぎょう)その人ですら下役から監視されることをまぬかれなかった。それを押しひろげたような広大な天地が江戸だ。
半蔵らが予定の日取りもいつのまにか尽きた。いよいよ江戸を去る前の日が来た。半蔵としては、この都会で求めて行きたい書籍の十が一をも手に入れず、思うように同門の人も訪(たず)ねず、賀茂(かも)の大人(うし)が旧居の跡も見ずじまいであっても、ともかくも平田家を訪問して、こころよく入門の許しを得、鉄胤(かねたね)はじめその子息(むすこ)さんの延胤(のぶたね)とも交わりを結ぶ端緒(いとぐち)を得たというだけにも満足して、十一屋の二階でいろいろと荷物を片づけにかかった。
半蔵が部屋(へや)の廊下に出て見たころは夕方に近い。
「半蔵さん、きょうはひとりで町へ買い物に出て、それはよい娘を見て来ましたぜ。」
と言って寿平次は国への江戸土産にするものなぞを手にさげながら帰って来た。
「君にはかなわない。すぐにそういうところへ目がつくんだから。」
半蔵はそれを言いかけて、思わず顔を染めた。二人は宿屋の二階の欄(てすり)に身を倚(よ)せて、目につく風俗なぞを話し合いながら、しばらくそこに旅らしい時を送った。髪を結綿(ゆいわた)というものにして、紅(あか)い鹿(か)の子(こ)の帯なぞをしめた若いさかりの娘の洗練された風俗も、こうした都会でなければ見られないものだ。国の方で素枯(すが)れた葱(ねぎ)なぞを吹いている年ごろの女が、ここでは酸漿(ほおずき)を鳴らしている。渋い柿色(かきいろ)の「けいし」を小脇(こわき)にかかえながら、唄(うた)のけいこにでも通うらしい小娘のあどけなさ。黒繻子(くろじゅす)の襟(えり)のかかった着物を着て水茶屋の暖簾(のれん)のかげに物思わしげな女のなまめかしさ。極度に爛熟(らんじゅく)した江戸趣味は、もはや行くところまで行き尽くしたかとも思わせる。
やがて半蔵は佐吉を呼んだ。翌朝出かけられるばかりに旅の荷物をまとめさせた。町へは鰯(いわし)を売りに来た、蟹(かに)を売りに来たと言って、物売りの声がするたびにきき耳を立てるのも佐吉だ。佐吉は、山下町の方の平田家まで供をしたおりのことを言い出して、主人と二人で帰りの昼じたくにある小料理屋へ立ち寄ろうとしたことを寿平次に話した末に、そこの下足番(げそくばん)の客を呼ぶ声が高い調子であるには驚かされたと笑った。
「へい、いらっしゃい。」
と佐吉は木訥(ぼくとつ)な調子で、その口調をまねて見せた。
「あのへい、いらっしゃいには、おれも弱った。そこへ立ちすくんでしまったに。」
とまた佐吉は笑った。
「佐吉、江戸にもお別れだ。今夜は一緒に飯でもやれ。」
と半蔵は言って、三人して宿屋の台所に集まった。夕飯の膳(ぜん)が出た。佐吉がそこへかしこまったところは、馬籠の本陣の囲炉裏ばたで、どんどん焚火(たきび)をしながら主従一同食事する時と少しも変わらない。十一屋では膳部も質素なものであるが、江戸にもお別れだという客の好みとあって、その晩にかぎり刺身(さしみ)もついた。木曾の山の中のことにして見たら、深い森林に住む野鳥を捕え、熊(くま)、鹿(しか)、猪(いのしし)などの野獣の肉を食い、谷間の土に巣をかける地蜂(じばち)の子を賞美し、肴(さかな)と言えば塩辛いさんまか、鰯(いわし)か、一年に一度の塩鰤(しおぶり)が膳につくのは年取りの祝いの時ぐらいにきまったものである。それに比べると、ここにある鮪(まぐろ)の刺身の新鮮な紅(あか)さはどうだ。その皿(さら)に刺身のツマとして添えてあるのも、繊細をきわめたものばかりだ。細い緑色の海髪(うご)。小さな茎のままの紫蘇(しそ)の実。黄菊。一つまみの大根おろしの上に青く置いたような山葵(わさび)。
「こう三人そろったところは、どうしても山の中から出て来た野蛮人ですね。」
赤い襟(えり)を見せた給仕(きゅうじ)の女中を前に置いて、寿平次はそんなことを言い出した。
「こんな話があるで。」と佐吉も膝(ひざ)をかき合わせて、「木曾福島の山村様が江戸へ出るたびに、山猿(やまざる)、山猿と人にからかわれるのが、くやしくてしかたがない。ある日、口の悪い人たちを屋敷に招(よ)んだと思わっせれ。そこが、お前さま、福島の山村様だ。これが木曾名物の焼き栗(ぐり)だと言って、生(なま)の栗を火鉢(ひばち)の灰の中にくべて、ぽんぽんはねるやつをわざと鏃(やじり)でかき回したげな。」
「野性を発揮したか。」
と寿平次がふき出すと、半蔵はそれを打ち消すように、
「しかし、寿平次さん、こう江戸のように開け過ぎてしまったら、動きが取れますまい。わたしたちは山猿でいい。」
と言って見せた。
食後にも三人は、互いの旅の思いを比べ合った。江戸の水茶屋には感心した、と言うのは寿平次であった。思いがけない屋敷町の方で読書の声を聞いて来た、と言うのは半蔵であった。
その晩、半蔵は寿平次と二人|枕(まくら)を並べて床についたが、夜番の拍子木(ひょうしぎ)の音なぞが耳について、よく眠らなかった。枕もとにあるしょんぼりとした行燈(あんどん)のかげで、敷いて寝た道中用の脇差(わきざし)を探って見て、また安心して蒲団(ふとん)をかぶりながら、平田家を訪(たず)ねた日のことなぞを考えた。あの鉄胤(かねたね)から古学の興隆に励めと言われて来たことを考えた。世は濁り、江戸は行き詰まり、一切のものが実に雑然紛然として互いに叫びをあげている中で、どうして国学者の夢などをこの地上に実現し得られようと考えた。
「自分のような愚かなものが、どうして生きよう。」
そこまで考えつづけた。
翌朝は、なるべく早く出立しようということになった。時が来て、半蔵は例の青い合羽(かっぱ)、寿平次は柿色(かきいろ)の合羽に身をつつんで、すっかりしたくができた。佐吉はすでに草鞋(わらじ)の紐(ひも)を結んだ。三人とも出かけられるばかりになった。
十一屋の隠居はそこへ飛んで出て来て、
「オヤ、これはどうも、お粗末さまでございました。どうかまた、お近いうちに。」
と手をもみながら言う。江戸生まれで、まだ木曾を知らないというかみさんまでが、隠居のそばにいて、
「ほんとに、木曾のかたはおなつかしい。」
と別れぎわに言い添えた。
十一屋のあるところから両国橋まではほんの一歩(ひとあし)だ。江戸のなごりに、隅田川(すみだがわ)を見て行こう、と半蔵が言い出して、やがて三人で河岸の物揚げ場の近くへ出た。早い朝のことで、大江戸はまだ眠りからさめきらないかのようである。ちょうど、渦巻(うずま)き流れて来る隅田川の水に乗って、川上の方角から橋の下へ降(くだ)って来る川船があった。あたりに舫(もや)っている大小の船がまだ半分夢を見ている中で、まず水の上へ活気をそそぎ入れるものは、その船頭たちの掛け声だ。十一屋の隠居の話で、半蔵らはそれが埼玉(さいたま)川越(かわごえ)の方から伊勢町河岸(いせちょうがし)へと急ぐ便船(びんせん)であることを知った。
「日の出だ。」
言い合わせたようなその声が起こった。三人は互いに雀躍(こおどり)して、本所(ほんじょ)方面の初冬らしい空に登る太陽を迎えた。紅(あか)くはあるが、そうまぶしく輝かない。木曾の奥山に住み慣れた人たちは、谷間からだんだん空の明るくなることは知っていても、こんな日の出は知らないのだ。間もなく三人は千住(せんじゅ)の方面をさして、静かにその橋のたもとからも離れて行った。 

千住から日光への往復九十里、横須賀への往復に三十四里、それに江戸と木曾との間の往復の里程を加えると、半蔵らの踏む道はおよそ二百九十里からの旅である。
日光への寄り道を済まして、もう一度三人が千住まで引き返して来たころは、旅の空で旧暦十一月の十日過ぎを迎えた。その時は、千住からすぐに高輪(たかなわ)へと取り、札(ふだ)の辻(つじ)の大木戸(おおきど)、番所を経て、東海道へと続く袖(そで)が浦(うら)の岸へ出た。うわさに聞く御台場(おだいば)、五つの堡塁(ほうるい)から成るその建造物はすでに工事を終わって、沖合いの方に遠く近く姿をあらわしていた。大森(おおもり)の海岸まで行って、半蔵はハッとした。初めて目に映る蒸汽船――徳川幕府がオランダ政府から購(か)い入れたという外輪型(がいりんがた)の観光丸がその海岸から望まれた。
とうとう、半蔵らの旅は深い藍色(あいいろ)の海の見えるところまで行った。神奈川(かながわ)から金沢(かなざわ)へと進んで、横須賀行きの船の出る港まで行った。客や荷物を待つ船頭が波打ちぎわで船のしたくをしているところまで行った。
「なんだか遠く来たような気がする。郷里(くに)の方でも、みんなどうしていましょう。」
「さあ、ねえ。」
「わたしたちが帰って行く時分には、もう雪が村まで来ていましょう。」
「なんだぞなし。きっと、けさはサヨリ飯でもたいて、こっちのうわさでもしているぞなし。」
三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。
海は動いて行く船の底でおどった。もはや、半蔵らはこれから尋ねて行こうとする横須賀在、公郷村(くごうむら)の話で持ち切った。五百年からの歴史のある古い山上(やまがみ)の家族がそこに住むかと語り合った。三浦一族の子孫にあたるという青山家の遠祖が、あの山上の家から分かれて、どの海を渡り、どの街道を通って、遠く木曾谷の西のはずれまではいって行ったものだろうと語り合った。
当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることを想(おも)って見ることはできた。ある岬(みさき)のかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。
公郷村(くごうむら)とは、船の着いた漁師町(りょうしまち)から物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。長閑(のどか)なことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るような仙郷(せんきょう)だ。
妻籠(つまご)本陣青山寿平次殿へ、短刀一本。ただし、古刀。銘なし。馬籠(まごめ)本陣青山半蔵殿へ、蓬莱(ほうらい)の図掛け物一軸。ただし、光琳(こうりん)筆。山上家の当主、七郎左衛門は公郷村の住居(すまい)の方にいて、こんな記念の二品までも用意しながら、二人(ふたり)の珍客を今か今かと待ち受けていた。
「もうお客さまも見えそうなものだぞ。だれかそこいらまで見に行って来い。」
と家に使っている男衆に声をかけた。
半蔵らが百里の道も遠しとしないで尋ねて来るという報知(しらせ)は七郎左衛門をじっとさせて置かなかった。彼は古い大きな住宅の持ち主で、二十畳からある広間を奥の方へ通り抜け、人|一人(ひとり)隠れられるほどの太い大極柱(だいこくばしら)のわきを回って、十五畳、十畳と二|部屋(へや)続いた奥座敷のなかをあちこちと静かに歩いた。そこは彼が客をもてなすために用意して待っていたところだ。心をこめた記念の二品は三宝(さんぽう)に載せて床の間に置いてある。先祖伝来の軸物などは客待ち顔に壁の上に掛かっている。
七郎左衛門の家には、三浦氏から山上氏、山上氏から青山氏と分かれて行ったくわしい系図をはじめ、祖先らの遺物と伝えらるる古い直垂(ひたたれ)から、武具、書画、陶器の類(たぐい)まで、何百年となく保存されて来たものはかなり多い。彼が客に見せたいと思う古文書なぞは、取り出したら際限(きり)のないほど長櫃(ながびつ)の底に埋(うず)まっている。あれもこれもと思う心で、彼は奥座敷から古い庭の見える方へ行った。松林の多い裏山つづきに樹木をあしらった昔の人の意匠がそこにある。硬質な岩の間に躑躅(つつじ)、楓(かえで)なぞを配置した苔蒸(こけむ)した築山(つきやま)がそこにある。どっしりとした古風な石燈籠(いしどうろう)が一つ置いてあって、その辺には円(まる)く厚ぼったい「つわぶき」なぞも集めてある。遠い祖先の昔はまだそんなところに残って、子孫の目の前に息づいているかのようでもある。
「まあ、客が来たら、この庭でも見て行ってもらおう。これは自分が子供の時分からながめて来た庭だ。あの時分からほとんど変わらない庭だ。」
こんなことを思いながら待ち受けているところへ、半蔵と寿平次の二人が佐吉を供に連れて着いた。その時、七郎左衛門は家のものを呼んで袴(はかま)を持って来させ、その上に短い羽織を着て、古い鎗(やり)なぞの正面の壁の上に掛かっている玄関まで出て迎えた。
「これは。これは。」
七郎左衛門は驚きに近いほどのよろこびのこもった調子で言った。
「これ、お供の衆。まあ草鞋(わらじ)でも脱いで、上がってください。」
と彼の家内(かない)までそこへ出て言葉を添える。案内顔な主人のあとについて、寿平次は改まった顔つき、半蔵も眉(まゆ)をあげながら奥の方へ通ったあとで、佐吉は二人の脱いだ草鞋の紐(ひも)など結び合わせた。
やがて、奥座敷では主人と寿平次との一別以来の挨拶(あいさつ)、半蔵との初対面の挨拶なぞがあった。主人の引き合わせで、幾人の家の人が半蔵らのところへ挨拶に来るとも知れなかった。これは忰(せがれ)、これはその弟、これは嫁、と主人の引き合わせが済んだあとには、まだ幼い子供たちが目を円(まる)くしながら、かわるがわるそこへお辞儀をしに出て来た。
「青山さん、わたしどもには三夫婦もそろっていますよ。」
この七郎左衛門の言葉がまず半蔵らを驚かした。
古式を重んずる※[肄のへん+欠]待(もてなし)のありさまが、間もなくそこにひらけた。土器(かわらけ)なぞを三宝の上に載せ、挨拶かたがたはいって来る髪の白いおばあさんの後ろからは、十六、七ばかりの孫娘が瓶子(へいじ)を運んで来た。
「おゝ、おゝ、よい子息(むすこ)さんがただ。」
とおばあさんは半蔵の前にも、寿平次の前にも挨拶に来た。
「とりあえず一つお受けください。」
とまたおばあさんは言いながら、三つ組の土器(かわらけ)を白木の三宝のまま丁寧に客の前に置いて、それから冷酒(れいしゅ)を勧めた。
「改めて親類のお盃(さかずき)とやりますかな。」
そういう七郎左衛門の愉快げな声を聞きながら、まず年若な寿平次が土器を受けた。続いて半蔵も冷酒を飲みほした。
「でも、不思議な御縁じゃありませんか。」と七郎左衛門はおばあさんの方を見て言った。「わたしが妻籠(つまご)の青山さんのお宅へ一晩泊めていただいた時に、同じ定紋(じょうもん)から昔がわかりましたよ。えゝ、丸(まる)に三(み)つ引(びき)と、※[穴かんむり/果](か)に木瓜(もっこう)とでさ。さもなかったら、わたしは知らずに通り過ぎてしまうところでしたし、わざわざお二人で訪(たず)ねて来てくださるなんて、こんなめずらしいことも起こって来やしません。こうしてお盃を取りかわすなんて、なんだか夢のような気もします。」
「そりゃ、お前さん、御先祖さまが引き合わせてくだすったのさ。」
おばあさんは、おばあさんらしいことを言った。
相州三浦の公郷村まで動いたことは、半蔵にとって黒船上陸の地点に近いところまで動いて見たことであった。
その時になると、半蔵は浦賀に近いこの公郷村の旧家に身を置いて、あの追分(おいわけ)の名主(なぬし)文太夫(ぶんだゆう)から見せてもらって来た手紙も、両国十一屋の隠居から聞いた話も、すべてそれを胸にまとめて見ることができた。江戸から踏んで来た松並樹(まつなみき)の続いた砂の多い街道は、三年前|丑年(うしどし)の六月にアメリカのペリイが初めての着船を伝えたころ、早飛脚の織るように往来したところだ。当時|木曾路(きそじ)を通過した尾張(おわり)藩の家中、続いて彦根(ひこね)の家中などがおびただしい同勢で山の上を急いだのも、この海岸一帯の持ち場持ち場を堅めるため、あるいは浦賀の現場へ駆けつけるためであったのだ。
そういう半蔵はここまで旅を一緒にして来た寿平次にたんとお礼を言ってもよかった。もし寿平次の誘ってくれることがなかったら、容易にはこんな機会は得られなかったかもしれない。供の佐吉にも感謝していい。雨の日も風の日も長い道中を一緒にして、影の形に添うように何くれと主人の身をいたわりながら、ここまでやって来たのも佐吉だ。おかげと半蔵は平田入門のこころざしを果たし、江戸の様子をも探り、日光の地方をも見、いくらかでもこれまでの旅に開けて来た耳でもって、七郎左衛門のような人の話をきくこともできた。
半蔵の前にいる七郎左衛門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衛門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。
古風な盃の交換も済んだころ、七郎左衛門の家内の茶菓などをそこへ運んで来て言った。
「あなた、茶室の方へでも御案内したら。」
「そうさなあ。」
「あちらの方が落ち着いてよくはありませんか。」
「いろいろお話を伺いたいこともある。とにかく、吾家(うち)にある古い系図をここでお目にかけよう。それから茶室の方へ御案内するとしよう。」
そう七郎左衛門は答えて、一丈も二丈もあるような巻き物を奥座敷の小襖(こぶすま)から取り出して来た。その長巻の軸を半蔵や寿平次の前にひろげて見せた。
この山上の家がまだ三浦の姓を名乗っていた時代の遠い先祖のことがそこに出て来た。三浦の祖で鎮守府(ちんじゅふ)将軍であった三浦|忠通(ただみち)という人の名が出て来た。衣笠城(きぬがさじょう)を築き、この三浦半島を領していた三浦平太夫という人の名も出て来た。治承(じしょう)四年の八月に、八十九歳で衣笠城に自害した三浦|大介義明(おおすけよしあき)という人の名も出て来た。宝治(ほうじ)元年の六月、前将軍|頼経(よりつね)を立てようとして事|覚(あらわ)れ、討手(うって)のために敗られて、一族共に法華堂(ほっけどう)で自害した三浦|若狭守泰村(わかさのかみやすむら)という人の名なぞも出て来た。
「ホ。半蔵さん、御覧なさい。ここに三浦|兵衛尉義勝(ひょうえのじょうよしかつ)とありますよ。この人は従(じゅ)五位|下(げ)だ。元弘(げんこう)二年|新田義貞(にったよしさだ)を輔(たす)けて、鎌倉(かまくら)を攻め、北条高時(ほうじょうたかとき)の一族を滅ぼす、先世の讐(あだ)を復(かえ)すというべしとしてありますよ。」
「みんな戦場を駆け回った人たちなんですね。」
寿平次も半蔵も互いに好奇心に燃えて、そのくわしい系図に見入った。
「つまり三浦の家は一度北条|早雲(そううん)に滅ぼされて、それからまた再興したんですね。」と七郎左衛門は言った。「五千町の田地をもらって、山上と姓を改めたともありますね。昔はこの辺を公郷(くごう)の浦とも、大田津とも言ったそうです。この半島には油壺(あぶらつぼ)というところがありますが、三浦|道寸(どうすん)父子の墓石なぞもあそこに残っていますよ。」
やがて半蔵らはこの七郎左衛門の案内で、茶室の方へ通う庭の小径(こみち)のところへ出た。裏山つづきの稲荷(いなり)の祠(ほこら)などが横手に見える庭石の間を登って、築山(つきやま)をめぐる位置まで出たころに、寿平次は半蔵を顧みて言った。
「驚きましたねえ。この山上の二代目の先祖は楠家(くすのきけ)から養子に来ていますよ。毎年正月には楠公(なんこう)の肖像を床の間に掛けて、鏡餅(かがみもち)や神酒(みき)を供えるというじゃありませんか。」
「わたしたちの家が古いと思ったら、ここの家はもっと古い。」
松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衛門は浦賀の番所通いの話などを半蔵らの前で始めた。二千人の水兵を載せたアメリカの艦隊が初めて浦賀に入港した当時のことがそれからそれと引き出された。
七郎左衛門の話はくわしい。彼は水師(すいし)提督ペリイの座乗(ざじょう)した三本マストの旗艦ミスシッピイ号をも目撃した人である。浦賀の奉行(ぶぎょう)がそれと知った時は、すぐに要所要所を堅め、ここは異国の人と応接すべき場所でない、アメリカ大統領の書翰(しょかん)を呈したいとあるなら長崎の方へ行けと諭(さと)した。けれども、アメリカが日本の開国を促そうとしたは決して一朝一夕のことではないらしい。先方は断然たる決心をもって迫って来た。もし浦賀で国書を受け取ることができないなら、江戸へ行こう。それでも要領を得ないなら、艦隊は自由行動を執ろう。この脅迫の影響は実に大きかった。のみならずペリイは測量艇隊を放って浦賀付近の港内を測量し、さらに内海に向かわしめ、軍艦がそれを掩護(えんご)して観音崎(かんのんざき)から走水(はしりみず)の付近にまで達した。浦賀奉行とペリイとの久里(くり)が浜(はま)での会見がそれから開始された。海岸に幕を張り、弓矢、鉄砲を用意し、五千人からの護衛の武士が出て万一の場合に具(そな)えた。なにしろ先方は二千人からの水兵が上陸して、列をつくって進退する。軍艦から打ち出す大筒(おおづつ)の礼砲は近海から遠い山々までもとどろき渡る。かねての約束のとおり、奉行は一言をも発しないで国書だけを受け取って、ともかくも会見の式を終わった。その間|半時(はんとき)ばかり。ペリイは大いに軍容を示して、日本人の高い鼻をへし折ろうとでも考えたものか、脅迫がましい態度がそれからも続きに続いた。全艦隊は小柴沖(こしばおき)から羽田(はねだ)沖まで進み、はるかに江戸の市街を望み見るところまでも乗り入れて、それから退帆(たいはん)のおりに、万一国書を受けつけないなら非常手段に訴えるという言葉を残した。そればかりではない。日本で飽くまで開国を肯(がえん)じないなら、武力に訴えてもその態度を改めさせなければならぬ、日本人はよろしく国法によって防戦するがいい、米国は必ず勝って見せる、ついては二本の白旗を贈る、戦(いくさ)に敗(ま)けて講和を求める時にそれを掲げて来るなら、その時は砲撃を中止するであろうとの言葉を残した。
「わたしはアメリカの船を見ました。二度目にやって来た時は九|艘(そう)も見ました。さよう、二度目の時なぞは三か月もあの沖合いに掛かっていましたよ。そりゃ、あなた、日本の国情がどうあろうと、こっちの言い分が通るまでは動かないというふうに――槓杆(てこ)でも動かない巌(いわ)のような権幕(けんまく)で。」
これらの七郎左衛門の話は、半蔵にも、寿平次にも、容易ならぬ時代に際会したことを悟らせた。当時の青年として、この不安はまた当然覚悟すべきものであることを思わせた。同時に、この仙郷(せんきょう)のような三浦半島の漁村へも、そうした世界の新しい暗い潮(うしお)が遠慮なく打ち寄せて来ていることを思わせた。
「時に、お話はお話だ。わたしの茶も怪しいものですが、せっかくおいでくだすったのですから、一服立てて進ぜたい。」
そう言いながら、七郎左衛門はその茶室にある炉の前にすわり直した。そこにある低い天井も、簡素な壁も、静かな窓も、海の方から聞こえて来る濤(なみ)の音も、すべてはこの山上の主人がたましいを落ち着けるためにあるかのように見える。
「なにしろ青山さんたちは、お二人(ふたり)ともまだ若いのがうらやましい。これからの時世はあなたがたを待っていますよ。」
七郎左衛門は手にした袱紗(ふくさ)で夏目の蓋(ふた)を掃き浄(きよ)めながら言った。匂(にお)いこぼれるような青い挽茶(ひきちゃ)の粉は茶碗(ちゃわん)に移された。湯と水とに対する親しみの力、貴賤(きせん)貧富(ひんぷ)の外にあるむなしさ、渋さと甘さと濃さと淡さとを一つの茶碗に盛り入れて、泡(あわ)も汁(しる)も一緒に溶け合ったような高い茶の香気をかいで見た時は、半蔵も寿平次もしばらくそこに旅の身を忘れていた。
母屋(もや)の方からは風呂(ふろ)の沸いたことを知らせに来る男があった。七郎左衛門は起(た)ちがけに、その男と寿平次とを見比べながら、
「妻籠(つまご)の青山さんはもうお忘れになったかもしれない。」
「へい、手前は主人のお供をいたしまして、木曾のお宅へ一晩泊めていただいたものでございますよ。」
その男は手をもみもみ言った。
夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山の崖(がけ)の下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命の脈搏(みゃくはく)のように、間(ま)をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。 

異国――アメリカをもロシヤをも含めた広い意味でのヨーロッパ――シナでもなく朝鮮でもなくインドでもない異国に対するこの国の人の最初の印象は、決して後世から想像するような好ましいものではなかった。
もし当時のいわゆる黒船、あるいは唐人船(とうじんぶね)が、二本の白旗をこの国の海岸に残して置いて行くような人を乗せて来なかったなら。もしその黒船が力に訴えても開国を促そうとするような人でなしに、真に平和修好の使節を乗せて来たなら。古来この国に住むものは、そう異邦から渡って来た人たちを毛ぎらいする民族でもなかった。むしろそれらの人たちをよろこび迎えた早い歴史をさえ持っていた。シナ、インドは知らないこと、この日本の関するかぎり、もし真に相互の国際の義務を教えようとして渡来した人があったなら、よろこんでそれを学ぼうとしたに違いない。また、これほど深刻な国内の動揺と狼狽(ろうばい)と混乱とを経験せずに済んだかもしれない。不幸にも、ヨーロッパ人は世界にわたっての土地征服者として、まずこの島国の人の目に映った。「人間の組織的な意志の壮大な権化(ごんげ)、人間の合理的な利益のためにはいかなる原始的な自然の状態にあるものをも克服し尽くそうというごとき勇猛な目的を決定するもの」――それが黒船であったのだ。
当時この国には、紅毛(こうもう)という言葉があり、毛唐人(けとうじん)という言葉があった。当時のそれは割合に軽い意味での毛色の変わった異国の人というほどにとどまる。一種のおかし味をまじえた言葉でさえある。黒船の載せた外国人があべこべにこの国の住民を想像して来たように、決してそれほど未開な野蛮人をば意味しなかった。
しかし、この国には嘉永年代よりずっと以前に、すでにヨーロッパ人が渡って来て、二百年も交易を続けていたことを忘れてはならない。この先着のヨーロッパ人の中にはポルトガル人もあったが、主としてオランダ人であった。彼らオランダ人は長崎|蘭医(らんい)の大家として尊敬されたシイボルトのような人ばかりではなかったのだ。彼らがこの国に来て交易からおさめた利得は、年額の小判(こばん)十五万両ではきくまいという。諸種の毛織り物、羅紗(らしゃ)、精巧な「びいどろ」、「ぎやまん」の器(うつわ)、その他の天産および人工に係る珍品をヨーロッパからもシャムからも東インド地方からも輸入して来て、この国の人に取り入るためにいかなる機会をも見のがさなかったのが彼らだ。自由な貿易商としてよりも役人の奴隷(どれい)扱いに甘んじたのが彼らだ。港の遊女でも差し向ければ、異人はどうにでもなる、そういう考えを役人に抱(いだ)かせたのも、また、その先例を開かせたのも彼らだ。
このオランダ人がまず日本を世界に吹聴(ふいちょう)した。事実、オランダ人はこの国に向かっても、ヨーロッパの紹介者であり、通訳者であり、ヨーロッパ人同志としての激しい競争者でもあった。アメリカのペリイが持参した国書にすら、一通の蘭訳を添えて来たくらいだ。この国の最初の外交談判もおもに蘭語によってなされた。すべてはこのとおりオランダというものを通してであって、直接にアメリカ人と会話を交えうるものはなかったのである。
この言葉の不通だ。まして東西道徳の標準の相違だ。どうして先方の話すこともよくわからないものが、アメリカ人、ロシヤ人、イギリス人とオランダ人とを区別し得られよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人の執った態度をかなぐり捨てようとは、どうして知ろう。全く対等の位置に立って、一国を代表する使節の威厳を損ずることなしに、重い使命を果たしに来たとは、どうして知ろう。この国のものは、ヨーロッパそのものを静かによく見うるようなまず最初の機会を失った。迫り来るものは、誠意のほども測りがたい全くの未知数であった。求めらるるものは幾世紀もかかって積み重ね積み重ねして来たこの国の文化ではなくて、この島に産する硫黄(いおう)、樟脳(しょうのう)、生糸(きいと)、それから金銀の類(たぐい)なぞが、その最初の主(おも)なる目的物であったのだ。
十一月下旬のはじめには、半蔵らは二日ほど逗留(とうりゅう)した公郷村をも辞し、山上の家族にも別れを告げ、七郎左衛門から記念として贈られた古刀や光琳(こうりん)の軸なぞをそれぞれ旅の荷物に納めて、故郷の山へ向かおうとする人たちであった。おそらく今度の帰り途(みち)には、国を出て二度目に見る陰暦十五夜の月も照らそう。その旅の心は、熱い寂しい前途の思いと一緒になって、若い半蔵の胸にまじり合った。別れぎわに、七郎左衛門は街道から海の見えるところまで送って来て、下田の方の空を半蔵らにさして見せた。もはや異国の人は粗末な板画(はんが)などで見るような、そんな遠いところにいる人たちばかりではなかった。相模灘(さがみなだ)をへだてた下田の港の方には、最初のアメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケンが相携えてすでに海から陸に上り、長泉寺を仮の領事館として、赤と青と白とで彩(いろど)った星条の国旗を高くそこに掲げていたころである。 
第四章

 


中津川の商人、万屋安兵衛(よろずややすべえ)、手代(てだい)嘉吉(かきち)、同じ町の大和屋李助(やまとやりすけ)、これらの人たちが生糸売り込みに目をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃(みの)を出発して来たのはやがて安政六年の十月を迎えたころである。中津川の医者で、半蔵の旧(ふる)い師匠にあたる宮川寛斎(みやがわかんさい)も、この一行に加わって来た。もっとも、寛斎はただの横浜見物ではなく、やはり出稼(でかせ)ぎの一人(ひとり)として――万屋安兵衛の書役(かきやく)という形で。
一行四人は中津川から馬籠峠(まごめとうげ)を越え、木曾(きそ)街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き、あの旅籠屋(はたごや)を足だまりとして、それから横浜へ出ようとした。木曾出身で世話好きな十一屋の隠居は、郷里に縁故の深い美濃衆のためにも何かにつけて旅の便宜を計ろうとするような人だ。この隠居は以前に馬籠本陣の半蔵を泊め、今また寛斎の宿をして、弟子(でし)と師匠とを江戸に迎えるということは、これも何かの御縁であろうなどと話した末に言った。
「皆さまは神奈川(かながわ)泊まりのつもりでお出かけになりませんと、浜にはまだ旅籠屋(はたごや)もございますまいよ。神奈川の牡丹屋(ぼたんや)、あそこは古くからやっております。牡丹屋なら一番安心でございますぞ。」
こんな隠居の話を聞いて、やがて一行四人のものは東海道筋を横浜へ向かった。
横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川より岸深(きしぶか)で、海岸にはすでに波止場(はとば)も築(つ)き出(だ)されていたが、いかに言ってもまだ開けたばかりの港だ。たまたま入港する外国の貿易船があっても、船員はいずれも船へ帰って寝るか、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓(かぐう)と定めた本覚寺その他の寺院から動こうともしない。こんな事情をみて取った寛斎らは、やはり十一屋の隠居から教えられたとおりに、神奈川の牡丹屋に足をとどめることにした。
この出稼(でかせ)ぎは、美濃から来た四人のものにとって、かなりの冒険とも思われた。中津川から神奈川まで、百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということすら容易でない。おまけに、相手は、全く知らない異国の人たちだ。
当時、異国のことについては、実にいろいろな話が残っている。ある異人が以前に日本へ来た時、この国の女を見て懸想(けそう)した。異人はその女をほしいと言ったが、許されなかった。そんなら女の髪の毛を三本だけくれろと言うので、しかたなしに三本与えた。ところが、どうやらその女は異人の魔法にでもかかったかして、とうとう異国へ往(い)ってしまったという。その次ぎに来た異人がまた、女の髪の毛を三本と言い出したから、今度は篩(ふるい)の毛を三本抜いて与えた。驚くべきことには、その篩(ふるい)が天に登って、異国へ飛んで往(い)ったともいう。これを見たものはびっくりして、これは必ず切支丹(キリシタン)に相違ないと言って、皆大いに恐懼(おそれ)を抱(いだ)いたとの話もある。
異国に対する無知が、およそいかなる程度のものであったかは、黒船から流れ着いた空壜(あきびん)の話にも残っている。アメリカのペリイが来航当時のこと、多くの船員を乗せた軍艦からは空壜を海の中へ投げすてた。その投げすてられたものが風のない時は、底の方が重く口ばかり海面に出ていて、水がその中にはいるから、浪(なみ)のまにまに自然と海岸に漂着する。それを拾って黙って家に持ちかえるものは罰せられた。だから、こういうものが流れ着いたと言って、一々届け出なければならない。その時の役人の言葉に、これは先方で毒を入れて置くものに相違ない、もしこの中に毒がはいっていたら大変だ、さもなければこんなものを流す道理もない、きっと毒が盛ってあって日本人を苦しめようという軍略であろう、ついては一か所捨て置く場所を設ける、心得違いのものがあって万一届け出ない場合があったら直ちに召し捕(と)るとのきびしい触れを出したものだ。そこであっちの村から五本、こっちの村から三本、と続々届け出るものがある。役人らは毎日それを取り上げ、一軒の空屋(あきや)を借り受け、そのなかに積んで置いて、厳重な戸締まりをした。それが異人らの日常飲用する酒の空壜であるということすらわからなかったという。
すべてこの調子だ。籐椅子(とういす)が風のために漂着したと言っては不思議がり、寝椅子が一個漂着したと言っては不思議がった。ペリイ出帆の翌日、アメリカ側から幕府への献上物の中には、壜詰(びんづめ)、罐詰(かんづめ)、その他の箱詰があり、浦賀奉行への贈り物があったが、これらの品々は江戸へ伺い済みの上で、浦賀の波止場で焼きすてたくらいだ。後日の祟(たた)りをおそれたのだ。実際、寛斎が中津川の商人について神奈川へ出て来たのは、そういう黒船の恐怖からまだ離れ切ることができなかったころである。
ちょうど、時は安政大獄(あんせいのたいごく)のあとにあたる。彦根(ひこね)の城主、井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)が大老の職に就(つ)いたころは、どれほどの暗闘と反目とがそこにあったかしれない。彦根と水戸。紀州と一橋(ひとつばし)。幕府内の有司と有司。その結果は神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれて来た。しかもそれらは大きな抗争の序幕であったに過ぎぬ。井伊大老の期するところは沸騰した国論の統一にあったろうけれど、彼は世にもまれに見る闘士として政治の舞台にあらわれて来た。いわゆる反対派の張本人なる水戸の御隠居(烈公)を初め、それに荷担した大名有司らが謹慎や蟄居(ちっきょ)を命ぜられたばかりでなく、強い圧迫は京都を中心に渦巻(うずま)き始めた新興勢力の苗床(なえどこ)にまで及んで行った。京都にある鷹司(たかつかさ)、近衛(このえ)、三条の三公は落飾(らくしょく)を迫られ、その他の公卿(くげ)たちの関東反対の嫌疑(けんぎ)のかかったものは皆謹慎を命ぜられた。老女と言われる身で、囚人として江戸に護送されたものもある。民間にある志士、浪人、百姓、町人などの捕縛と厳刑とが続きに続いた。一人(ひとり)は切腹に、一人は獄門に、五人は死罪に、七人は遠島に、十一人は追放に、九人は押込(おしこめ)に、四人は所払(ところばら)いに、三人は手鎖(てじょう)に、七人は無構(かまいなし)に、三人は急度叱(きっとしか)りに。勤王攘夷(きんのうじょうい)の急先鋒(きゅうせんぽう)と目ざされた若狭(わかさ)の梅田雲浜(うめだうんぴん)のように、獄中で病死したものが別に六人もある。水戸の安島帯刀(あじまたてわき)、越前(えちぜん)の橋本|左内(さない)、京都の頼鴨崖(らいおうがい)、長州の吉田松陰(よしだしょういん)なぞは、いずれも恨みをのんで倒れて行った人たちである。
こんな周囲の空気の中で、だれもがまだ容易に信用しようともしない外国人の中へ、中津川の商人らは飛び込んで来た。神奈川条約はすでに立派に調印されて、外国貿易は公然の沙汰(さた)となっている。生糸でも売り込もうとするものにとって、なんの憚(はばか)るところはない。寛永十年以来の厳禁とされた五百石以上の大船を造ることも許されて、海はもはや事実において解放されている。遠い昔の航海者の夢は、二百何十年の長い鎖国の後に、また生き還(かえ)るような新しい機運に向かって来ている。
寛斎がこの出稼ぎに来たころは六十に近かった。田舎(いなか)医者としての彼の漢方で治療の届くかぎりどんな患者でも診(み)ないことはなかったが、中にも眼科を得意にし、中津川の町よりも近在回りを主にして、病家から頼まれれば峠越しに馬籠(まごめ)へも行き、三留野(みどの)へも行き、蘭(あららぎ)、広瀬から清内路(せいないじ)の奥までも行き、余暇さえあれば本を読み、弟子(でし)を教えた。学問のある奇人のように言われて来たこの寛斎が医者の玄関も中津川では張り切れなくなったと言って、信州|飯田(いいだ)の在に隠退しようと考えるようになったのも、つい最近のことである。今度一緒に来た万屋(よろずや)の主人は日ごろ彼が世話になる病院先のことであり、生糸売り込みもよほどの高に上ろうとの見込みから、彼の力にできるだけの手伝いもして、その利得を分けてもらうという約束で来ている。彼ももう年をとって、何かにつけて心細かった。最後の「隠れ家(が)」に余生を送るよりほかの願いもなかった。
さしあたり寛斎の仕事は、安兵衛らを助けて横浜貿易の事情をさぐることであった。新参の西洋人は内地の人を引きつけるために、なんでも買い込む。どうせ初めは金を捨てなければいけないくらいのことは外国商人も承知していて、気に入らないものでも買って見せる。江戸の食い詰め者で、二進(にっち)も三進(さっち)も首の回らぬ連中なぞは、一つ新開地の横浜へでも行って見ようという気分で出かけて来る時だ。そういう連中が持って来るような、二文か三文の資本(もとで)で仕入れられるおもちゃの類(たぐい)でさえ西洋人にはめずらしがられた。徳川大名の置き物とさえ言えば、仏壇の蝋燭立(ろうそくだ)てを造りかえたような、いかがわしい骨董品(こっとうひん)でさえ二両の余に売れたという。まだ内地の生糸商人はいくらも入り込んでいない。万屋(よろずや)安兵衛、大和屋李助(やまとやりすけ)なぞにとって、これは見のがせない機会だった。
だんだん様子がわかって来た。神奈川在留の西洋人は諸国領事から書記まで入れて、およそ四十人は来ていることがわかった。紹介してもらおうとさえ思えば、適当な売り込み商の得られることもわかった。おぼつかないながらも用を達(た)すぐらいの通弁は勤まるというものも出て来た。
やがて寛斎は安兵衛らと連れだって、一人の西洋人を見に行った。二十戸ばかりの異人屋敷、最初の居留地とは名ばかりのように隔離した一区域が神奈川台の上にある。そこに住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居(かりずまい)するという貿易商であった。初めて寛斎の目に映るその西洋人は、羅紗(らしゃ)の丸羽織を着、同じ羅紗の股引(ももひき)をはき、羽織の紐(ひも)のかわりに釦(ぼたん)を用いている。手まわりの小道具一切を衣裳(いしょう)のかくしにいれているのも、異国の風俗だ。たとえば手ぬぐいは羽織のかくしに入れ、金入れは股引(ももひき)のかくしに入れ、時計は胴着のかくしに入れて鎖を釦(ぼたん)の穴に掛けるというふうに。履物(はきもの)も変わっている。獣の皮で造った靴(くつ)が日本で言って見るなら雪駄(せった)の代わりだ。
安兵衛らの持って行って見せた生糸の見本は、ひどくケウスキイを驚かした。これほど立派な品ならどれほどでも買おうと言うらしいが、先方の言うことは燕(つばめ)のように早口で、こまかいことまでは通弁にもよくわからない。ケウスキイはまた、安兵衛らの結い立ての髷(まげ)や、すっかり頭を円(まる)めている寛斎の医者らしい風俗をめずらしそうにながめながら、煙草(たばこ)なぞをそこへ取り出して、客にも勧めれば自分でもうまそうに服(の)んで見せた。寛斎が近く行って見たその西洋人は、髪の毛色こそ違い、眸(ひとみ)の色こそ違っているが、黒船の連想と共に起こって来るような恐ろしいものでもない。幽霊でもなく、化け物でもない。やはり血の気の通(かよ)っている同じ人間の仲間だ。
「糸目百匁あれば、一両で引き取ろうと言っています。」
この売り込み商の言葉に、安兵衛らは力を得た。百匁一両は前代未聞の相場であった。
早い貿易の様子もわかり、糸の値段もわかった。この上は一日も早く神奈川を引き揚げ、来る年の春までにはできるだけ多くの糸の仕入れもして来よう。このことに安兵衛と李助(りすけ)は一致した。二人(ふたり)が見本のつもりで持って来て、牡丹屋(ぼたんや)の亭主(ていしゅ)に預かってもらった糸まで約束ができて、その荷だけでも一個につき百三十両に売れた。
「宮川先生、あなただけは神奈川に残っていてもらいますぜ。」
と安兵衛は言ったが、それはもとより寛斎も承知の上であった。
「先生も一人(ひとり)で、鼠(ねずみ)にでも引かれないようにしてください。」
手代の嘉吉(かきち)は嘉吉らしいことを言って、置いて行くあとの事を堅く寛斎に託した。中津川と神奈川の連絡を取ることは、一切寛斎の手にまかせられた。 

十一月を迎えるころには、寛斎は一人牡丹屋の裏二階に残った。
「なんだかおれは島流しにでもなったような気がする。」
と寛斎は言って、時には孤立のあまり、海の見える神奈川台へ登りに行った。坂になった道を登れば神奈川台の一角に出られる。目にある横浜もさびしかった。あるところは半農半漁の村民を移住させた町であり、あるところは運上所(うんじょうしょ)(税関)を中心に掘立小屋(ほったてごや)の並んだ新開の一区域であり、あるところは埋め立てと繩張(なわば)りの始まったばかりのような畑と田圃(たんぼ)の中である。弁天の杜(もり)の向こうには、ところどころにぽつんぽつん立っている樹木が目につく。全体に湿っぽいところで、まだ新しい港の感じも浮かばない。
長くは海もながめていられなくて、寛斎は逃げ帰るように自分の旅籠屋(はたごや)へ戻(もど)った。二階の窓で聞く鴉(からす)の声も港に近い空を思わせる。その声は郷里にある妻や、子や、やがては旧(ふる)い弟子(でし)たちの方へ彼の心を誘った。
古い桐(きり)の机がある。本が置いてある。そのそばには弟子たちが集まっている。馬籠本陣の子息(むすこ)がいる。中津川|和泉屋(いずみや)の子息がいる。中津川本陣の子息も来ている。それは十余年前に三人の弟子の顔のよくそろった彼の部屋(へや)の光景である。馬籠の青山半蔵、中津川の蜂谷(はちや)香蔵、同じ町の浅見景蔵――あの三人を寛斎が戯れに三蔵と呼んで見るのを楽しみにしたほど、彼のもとへ本を読みに通(かよ)って来たかずかずの若者の中でも、末頼もしく思った弟子たちである。ことに香蔵は彼が妻の弟にあたる親戚(しんせき)の間柄でもある。みんなどういう人になって行くかと見ている中にも、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのが半蔵だ。
考え続けて行くと、寛斎はそばにいない三人の弟子の前へ今の自分を持って行って、何か弁解せずにはいられないような矛盾した心持ちに打たれて来た。
「待てよ、いずれあの連中はおれの出稼(でかせ)ぎを疑問にしているに相違ない。」
「金銀|欲(ほ)しからずといふは、例の漢(から)やうの虚偽(いつわり)にぞありける。」
この大先達(だいせんだつ)の言葉、『玉かつま』の第十二章にある本居宣長(もとおりのりなが)のこの言葉は、今の寛斎にとっては何より有力な味方だった。金もほしいと思いながら、それをほしくないようなことを言うのは、例の漢学者流の虚偽だと教えてあるのだ。
「だれだって金のほしくないものはない。」
そこから寛斎のように中津川の商人について、横浜出稼ぎということも起こって来た。本居|大人(うし)のような人には虚心坦懐(きょしんたんかい)というものがある。その人の前にはなんでも許される。しかし、血気|壮(さか)んで、単純なものは、あの寛大な先達のように貧しい老人を許しそうもない。
そういう寛斎は、本居、平田諸大人の歩いた道をたどって、早くも古代復帰の夢想を抱(いだ)いた一人(ひとり)である。この夢想は、京都を中心に頭を持ち上げて来た勤王家の新しい運動に結びつくべき運命のものであった。彼の教えた弟子の三人が三人とも、勤王家の運動に心を寄せているのも、実は彼が播(ま)いた種だ。今度の大獄に連座(れんざ)した人たちはいずれもその渦中(かちゅう)に立っていないものはない。その中には、六人の婦人さえまじっている。感じやすい半蔵らが郷里の方でどんな刺激を受けているかは、寛斎はそれを予想でありありと見ることができた。
その時になって見ると、旧(ふる)い師匠と弟子との間にはすでによほどの隔たりがある。寛斎から見れば、半蔵らの学問はますます実行的な方向に動いて来ている。彼も自分の弟子を知らないではない。古代の日本人に見るような「雄心(おごころ)」を振るい起こすべき時がやって来た、さもなくて、この国|創(はじ)まって以来の一大危機とも言うべきこんな艱難(かんなん)な時を歩めるものではないという弟子の心持ちもわかる。
新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた。先入主となった黒船の強い印象は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、函館(はこだて)の三港を開いたことは井伊大老の専断であって、朝廷の許しを待ったものではない。京都の方面も騒がしくて、賢い帝(みかど)の心を悩ましていることも一通りでないと言い伝えられている。開港か、攘夷(じょうい)か。これほど矛盾を含んだ言葉もない。また、これほど当時の人たちの悩みを言いあらわした言葉もない。前者を主張するものから見れば攘夷は実に頑執妄排(がんしゅうもうはい)であり、後者を主張するものから見れば開港は屈従そのものである。どうかして自分らの内部(なか)にあるものを護(まも)り育てて行こうとしているような心ある人たちは、いずれもこの矛盾に苦しみ、時代の悩みを悩んでいたのだ。
牡丹屋(ぼたんや)の裏二階からは、廊下の廂(ひさし)に近く枝をさし延べている椎(しい)の樹(き)の梢(こずえ)が見える。寛斎はその静かな廊下に出て、ひとりで手をもんだ。
「おれも、平田門人の一人として、こんな恐ろしい大獄に無関心でいられるはずもない。しかし、おれには、あきらめというものができた。」
「さぞ、御退屈さまでございましょう。」
そう言って、牡丹屋の年とった亭主(ていしゅ)はよく寛斎を見に来る。東海道筋にあるこの神奈川の宿は、古いといえば古い家で、煙草盆(たばこぼん)は古風な手さげのついたのを出し、大きな菓子鉢(かしばち)には扇子形(せんすがた)の箸入(はしい)れを添えて出すような宿だ。でも、わざとらしいところは少しもなく、客扱いも親切だ。
寛斎は日に幾たびとなく裏二階の廊下を往(い)ったり来たりするうちに、目につく椎(しい)の風情(ふぜい)から手習いすることを思いついた。枝に枝のさした冬の木にながめ入っては、しきりと習字を始めた。そこへ宿の亭主が来て見て、
「オヤ、御用事のほかはめったにお出かけにならないと思いましたら、お手習いでございますか。」
「六十の手習いとはよく言ったものさね。」
「手前どもでも初めての孫が生まれまして、昨晩は七夜(しちや)を祝いました。いろいろごだごだいたしました。さだめし、おやかましかろうと存じます。」
こんな言葉も、この亭主の口から聞くと、ありふれた世辞とは響かなかった。横浜の海岸近くに大きな玉楠(たまぐす)の樹(き)がしげっている、世にやかましい神奈川条約はあの樹の下で結ばれたことなぞを語って見せるのも、この亭主だ。あの辺は駒形水神(こまがたすいじん)の杜(もり)と呼ばれるところで、玉楠(たまぐす)の枝には巣をかける白い鴉(からす)があるが、毎年冬の来るころになるとどこともなく飛び去ると言って見せるのも、この亭主だ。生糸の売り込みとはなんと言ってもよいところへ目をつけたものだ、外国貿易ももはや売ろうと買おうと勝手次第だ、それでも御紋付きの品々、雲上の明鑑、武鑑、兵学書、その他|甲冑(かっちゅう)刀剣の類(たぐい)は厳禁であると数えて見せるのも、この亭主だ。
旧暦十二月のさむい日が来た。港の空には雪がちらついた。例のように寛斎は宿の机にむかって、遠く来ている思いを習字にまぎらわそうとしていた。そこへ江戸両国の十一屋から届いたと言って、宿の年とったかみさんが二通の手紙を持って来た。その時、かみさんは年老いた客をいたわり顔に、盆に載せた丼(どんぶり)を階下(した)から女中に運ばせた。見ると、寛斎の好きなうどんだ。
「うどんのごちそうですか。や、そいつはありがたい。」
「これはうでまして、それからダシで煮て見ました。お塩で味がつけてございます。これが一番さっぱりしているかと思いますが、一つ召し上がって見てください。」
「うどんとはよい物を造ってくだすった。わたしはお酒の方ですがね、寒い日にはこれがまた何よりですよ。」
「さあ、お口に合いますか、どうですか。手前どもではよくこれをこしらえまして、年寄りに食べさせます。」
牡丹屋ではすべてこの調子だ。
一通の手紙は木曾(きそ)から江戸を回って来たものだ。馬籠(まごめ)の方にいる伏見屋金兵衛(ふしみやきんべえ)からのめずらしい消息だ。最愛の一人息子(ひとりむすこ)、鶴松(つるまつ)の死がその中に報じてある。鶴松も弱かった子だ。あの少年のからだは、医者としての寛斎も診(み)てよく知っている。馬籠の伏見屋から駕籠(かご)で迎いが来るたびに、寛斎は薬箱をさげて、美濃(みの)と信濃(しなの)の国境(くにざかい)にあたる十曲峠(じっきょくとうげ)をよく急いだものだ。筆まめな金兵衛はあの子が生前に寛斎の世話になった礼から始めて、どうかして助けられるものならの願いから、あらゆる加持祈祷(かじきとう)を試み、わざわざ多賀の大社まで代参のものをやって病気全快を祈らせたことや、あるいは金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)へ祈願のために落合(おちあい)の大橋から神酒(みき)一|樽(たる)を流させたことまで、口説(くど)くように書いてよこした。病気の手当ては言うまでもなく、寛斎留守中は大垣(おおがき)の医者を頼み、おりから木曾路を通行する若州(じゃくしゅう)の典医、水戸姫君の典医にまですがって診察を受けさせたことも書いてよこした。とうとう養生もかなわなかったという金兵衛の残念がる様子が目に見えるように、その手紙の中にあらわれている。
平素懇意にする金兵衛が六十三歳でこの打撃を受けたということは、寛斎にとって他事(ひとごと)とも思われない。今一通の手紙は旧(ふる)いなじみのある老人から来た。それにはまた、筆に力もなく、言葉も短く、ことのほかに老い衰えたことを訴えて、生きているというばかりのような心細いことが書いてある。ただ、昔を思うたびに人恋しい、もはや生前に面会することもあるまいかと書いてある。「貴君には、いまだ御往生(ごおうじょう)もなされず候(そうろう)よし、」ともある。
「いまだ御往生もなされず候よしは、ひどい。」
と考えて、寛斎は哭(な)いていいか笑っていいかわからないようなその手紙の前に頭をたれた。
寛斎の周囲にある旧知も次第に亡(な)くなった。達者で働いているものは数えるほどしかない。今度十七歳の鶴松を先に立てた金兵衛、半蔵の父吉左衛門――指を折って見ると、そういう人たちはもはや幾人も残っていない。追い追いの無常の風に吹き立てられて、早く美濃へ逃げ帰りたいと思うところへ、横浜の方へは浪士来襲のうわさすら伝わって来た。 

とうとう、寛斎は神奈川の旅籠屋(はたごや)で年を越した。彼の日課は開港場の商況を調べて、それを中津川の方へ報告することで、その都度(つど)万屋(よろずや)からの音信にも接したが、かんじんの安兵衛らはまだいつ神奈川へ出向いて来るともわからない。
年も万延(まんえん)元年と改まるころには、日に日に横浜への移住者がふえた。寛斎が海をながめに神奈川台へ登って行って見ると、そのたびに港らしいにぎやかさが増している。弁天寄りの沼地は埋め立てられて、そこに貸し長屋ができ、外国人の借地を願い出るものが二、三十人にも及ぶと聞くようになった。吉田橋|架(か)け替えの工事も始まっていて、神奈川から横浜の方へ通う渡し舟も見える。ある日も寛斎は用達(ようたし)のついでに、神奈川台の上まで歩いたが、なんとなく野毛山(のげやま)も霞(かす)んで見え、沖の向こうに姿をあらわしている上総(かずさ)辺の断崖(だんがい)には遠い日があたって、さびしい新開地に春のめぐって来るのもそんなに遠いことではなかろうかと思われた。
時には遠く海風を帆にうけて、あだかも夢のように、寛斎の視野のうちにはいって来るものがある。日本最初の使節を乗せた咸臨丸(かんりんまる)がアメリカへ向けて神奈川沖を通過した時だ。徳川幕府がオランダ政府から購(か)い入れたというその小さな軍艦は品川沖から出帆して来た。艦長木村|摂津守(せっつのかみ)、指揮官|勝麟太郎(かつりんたろう)をはじめ、運用方、測量方から火夫水夫まで、一切西洋人の手を借りることなしに、オランダ人の伝習を受け初めてからようやく五年にしかならない航海術で、とにもかくにも大洋を乗り切ろうという日本人の大胆さは、寛斎を驚かした。薩摩(さつま)の沖で以前に難船して徳川政府の保護を受けていたアメリカの船員らも、咸臨丸で送りかえされるという。その軍艦は港の出入りに石炭を焚(た)くばかり、航海中はただ風をたよりに運転せねばならないほどの小型のものであったから、煙も揚げずに神奈川沖を通過しただけが、いささか物足りなかった。大変な評判で、神奈川台の上には人の黒山を築いた。不案内な土地の方へ行くために、使節の一行は何千何百足の草鞋(わらじ)を用意して行ったかしれないなぞといううわさがそのあとに残った。当時二十六、七歳の青年|福沢諭吉(ふくざわゆきち)が木村摂津守のお供という格で、その最初の航海に上って行ったといううわさなぞも残った。
二月にはいって、寛斎は江戸両国十一屋の隠居から思いがけない便(たよ)りを受け取った。それには隠居が日ごろ出入りする幕府|奥詰(おくづめ)の医師を案内して、横浜見物に出向いて来るとある。その節は、よろしく頼むとある。
旅の空で寛斎が待ち受けた珍客は、喜多村瑞見(きたむらずいけん)と言って、幕府奥詰の医師仲間でも製薬局の管理をしていた人である。汽船観光丸の試乗者募集のあった時、瑞見もその募りに応じようとしたが、時の御匙法師(おさじほうし)ににらまれて、譴責(けんせき)を受け、蝦夷(えぞ)移住を命ぜられたという閲歴をもった人である。この瑞見は二年ほど前に家を挙(あ)げ蝦夷の方に移って、函館(はこだて)開港地の監督なぞをしている。今度函館から江戸までちょっと出て来たついでに、新開の横浜をも見て行きたいというので、そのことを十一屋の隠居が通知してよこしたのだ。
瑞見は供の男を一人(ひとり)連れ、十一屋の隠居を案内にして、天気のよい日の夕方に牡丹屋(ぼたんや)へ着いた。神奈川には奉行(ぶぎょう)組頭(くみがしら)もある、そういう役人の家よりもわざわざ牡丹屋のような古い旅籠屋(はたごや)を選んで微行で瑞見のやって来たことが寛斎をよろこばせた。あって見ると、思いのほか、年も若い。三十二、三ぐらいにしか見えない。
「きょうのお客さまは名高い人ですが、お目にかかって見ると、まだお若いかたのようですね。」
と牡丹屋の亭主(ていしゅ)が寛斎の袖(そで)を引いて言ったくらいだ。
翌日は寛斎と牡丹屋の亭主とが先に立って、江戸から来た三人をまず神奈川台へ案内し、黒い館門(やかたもん)の木戸を通って、横浜道へ向かった。番所のあるところから野毛山(のげやま)の下へ出るには、内浦に沿うて岸を一回りせねばならぬ。程(ほど)ヶ谷(や)からの道がそこへ続いて来ている。野毛には奉行の屋敷があり、越前(えちぜん)の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り、土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内(かんない)にはいった。
「横浜もさびしいところですね。」
「わたしの来た時分には、これよりもっとさびしいところでした。」
瑞見と寛斎とは歩きながら、こんな言葉をかわして、高札場(こうさつば)の立つあたりから枯れがれな太田新田の間の新道を進んだ。
瑞見は遠く蝦夷(えぞ)の方で採薬、薬園、病院、疏水(そすい)、養蚕等の施設を早く目論(もくろ)んでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。当時の横浜関内は一羽の蝶(ちょう)のかたちにたとえられる。海岸へ築(つ)き出した二か所の波止場(はとば)はその触角であり、中央の運上所付近はそのからだであり、本町通りと商館の許可地は左右の翅(はね)にあたる。一番左の端にある遊園で、樹木のしげった弁天の境内(けいだい)は、蝶の翅に置く唯一の美しい斑紋(はんもん)とも言われよう。しかしその翅の大部分はまだ田圃(たんぼ)と沼地だ。そこには何か開港一番の思いつきででもあるかのように、およそ八千坪からの敷地から成る大規模な遊女屋の一郭もひらけつつある。横浜にはまだ市街の連絡もなかったから、一丁目ごとに名主を置き、名主の上に総年寄を置き、運上所わきの町会所で一切の用事を取り扱っていると語り聞かせるのも牡丹屋の亭主だ。
やがて、その日同行した五人のものは横浜海岸通りの波止場に近いところへ出た。西洋の船にならって造った二本マストもしくは一本マストの帆前船(ほまえせん)から、従来あった五大力(ごだいりき)の大船、種々な型の荷船、便船、漁(いさ)り船(ぶね)、小舟まで、あるいは碇泊(ていはく)したりあるいは動いたりしているごちゃごちゃとした光景が、鴉(からす)の群れ飛ぶ港の空気と煙とを通してそこに望まれた。二か所の波止場、水先案内の職業、運上所で扱う税関と外交の港務などは、全く新しい港のために現われて来たもので、ちょうど入港した一|艘(そう)の外国船も周囲の単調を破っている。
その時、牡丹屋の亭主は波止場の位置から、向こうの山下の方角を瑞見や寛斎にさして見せ、旧横浜村の住民は九十戸ばかりの竈(かまど)を挙(あ)げてそちらの方に退却を余儀なくされたと語った。それほどこの新開地に内外人の借地の請求が頻繁(ひんぱん)となって来た意味を通わせた。大岡川(おおおかがわ)の川尻(かわじり)から増徳院わきへかけて、長さ五百八十間ばかりの堀川(ほりかわ)の開鑿(かいさく)も始まったことを語った。その波止場の位置まで行くと、海から吹いて来る風からして違う。しばらく瑞見は入港した外国船の方を望んだまま動かなかった。やがて、寛斎を顧みて、
「やっぱりよくできていますね。同じ汽船でも外国のはどこか違いますね。」
「喜多村先生のお供はかなわない。」とその時、十一屋の隠居が横槍(よこやり)を入れた。
「どうしてさ。」
「いつまででも船なぞをながめていらっしゃるから。」
「しかし、十一屋さん、早くわれわれの国でもああいうよい船を造りたいじゃありませんか。今じゃ薩州(さっしゅう)でも、土州(としゅう)でも、越前(えちぜん)でも、二、三|艘(そう)ぐらいの汽船を持っていますよ。それがみんな外国から買った船ばかりでさ。十一屋さんは昌平丸(しょうへいまる)という船のことをお聞きでしたろうか。あれは安政二年の夏に、薩州侯が三本マストの大船を一艘造らせて、それを献上したものでさ。幕府に三本マストの大船ができたのは、あれが初めてだと思います。ところが、どうでしょう。昌平丸を作る時分には、まだ螺旋釘(ねじくぎ)を使うことを知らない。まっすぐな釘(くぎ)ばかりで造ったもんですから、大風雨(おおあらし)の来た年に、品川沖でばらばらに解けてこわれてしまいました。」
「先生はなかなかくわしい。」
「函館の方にだって、二本マストの帆前船がまだ二艘しかできていません。一艘は函館丸。もう一艘の船の方は亀田丸(かめだまる)。高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)の呼び寄せた人で、豊治(とよじ)という船大工があれを造りましたがね。」
「先生は函館で船の世話までなさるんですか。」
「まあ、そんなものでさ。でも、こんな藪(やぶ)医者にかかっちゃかなわないなんて、函館の方の人は皆そう言っていましょうよ。」
この「藪医者」には、そばに立って聞いている寛斎もうなった。
入港した外国船を迎え顔な西洋人なぞが、いつのまにか寛斎らの周囲に集まって来た。波止場には九年母(くねんぼ)の店をひろげて売っている婆(ばあ)さんがある。そのかたわらに背中の子供をおろして休んでいる女がある。道中差(どうちゅうざし)を一本腰にぶちこんで、草鞋(わらじ)ばきのまま、何か資本(もとで)のかからない商売でも見つけ顔に歩き回っている男もある。おもしろい丸帽をかぶり、辮髪(べんぱつ)をたれ下げ、金入れらしい袋を背負(しょ)いながら、上陸する船客を今か今かと待ち受けているようなシナ人の両替商(りょうがえしょう)もある。
見ると、定紋(じょうもん)のついた船印(ふなじるし)の旗を立てて、港の役人を乗せた船が外国船から漕(こ)ぎ帰って来た。そのあとから、二、三の艀(はしけ)が波に揺られながら岸の方へ近づいて来た。横浜とはどんなところかと内々想像して来たような目つきのもの、全く生(お)い立ちを異にし気質を異にしたようなもの、本国から来たもの、東洋の植民地の方から来たもの、それらの雑多な冒険家が無遠慮に海から陸(おか)へ上がって来た。いずれも生命(いのち)がけの西洋人ばかりだ。上陸するものの中にはまだ一人(ひとり)の婦人を見ない。中には、初めて日本の土を踏むと言いたそうに、連れの方を振り返るものもある。叔父(おじ)甥(おい)なぞの間柄かと見えて、迎えるものと迎えらるるものとが男同志互いに抱き合うのもある。その二人(ふたり)は、寛斎や瑞見の見ている前で、熱烈な頬(ほお)ずりをかわした。
瑞見はなかなかトボケた人で、この横浜を見に来たよりも、実は牛肉の試食に来たと白状する。こんな注文を出す客のことで、あちこち引っぱり回されるのは迷惑らしい上に、案内者側の寛斎の方でもなるべく日のあるうちに神奈川へ帰りたかった。いつでも日の傾きかけるのを見ると、寛斎は美濃(みの)の方の空を思い出したからで。
横浜も海岸へ寄った方はすでに区画の整理ができ、新道はその間を貫いていて、町々の角(かど)には必ず木戸を見る。帰り路(みち)には、寛斎らは本町一丁目の通りを海岸の方へ取って、渡し場のあるところへ出た。そこから出る舟は神奈川の宮下というところへ着く。わざわざ野毛山の下の方を遠回りして帰って行かないでも済む。牡丹屋の亭主はその日の夕飯にと言って瑞見から注文のあった肉を横浜の町で買い求めて来て、それをさげながら一緒に神奈川行きの舟に移った。
「横浜も鴉(からす)の多いところですね。」
「蝦夷(えぞ)の方ではゴメです。海の鴎(かもめ)の一種です。あの鳴き声を聞くと、いかにも北海らしい気持ちが起こって来ますよ。そう言えば、この横浜にはもう外国の宣教師も来てるというじゃありませんか。」
「一人。」
「なんでも、神奈川の古いお寺を借りて、去年の秋から来ているアメリカ人があります。ブラウンといいましたっけか。横浜へ着いた最初の宣教師です。狭い土地ですからすぐ知れますね。」
「いったい、切支丹(キリシタン)宗は神奈川条約ではどういうことになりましょう。」
「そりゃ無論内地のものには許されない。ただ、宣教師がこっちへ来ている西洋人仲間に布教するのは自由だということになっていましょう。」
「神奈川へはアメリカの医者も一人来ていますよ。」
「ますます世の中は多事だ。」
だれが語るともなく、だれが答えるともなく、こんな話が舟の中で出た。
牡丹屋へ帰り着いてから、しばらく寛斎は独(ひと)り居る休息の時を持った。例の裏二階から表側の廊下へ出ると、神奈川の町の一部が見える。晩年の彼を待ち受けているような信州|伊那(いな)の豊かな谷と、現在の彼の位置との間には、まだよほどの隔たりがある。彼も最後の「隠れ家(が)」にたどり着くには、どんな寂しい路(みち)でも踏まねばならない。それにしても、安政大獄以来の周囲にある空気の重苦しさは寛斎の心を不安にするばかりであった。ますます厳重になって行く町々の取り締まり方と、志士や浪人の気味の悪いこの沈黙とはどうだ。すでに直接行動に訴えたものすらある。前の年の七月の夜には横浜本町で二人(ふたり)のロシヤの海軍士官が殺され、同じ年の十一月の夕には港崎町(こうざきまち)のわきで仏国領事の雇い人が刺され、最近には本町一丁目と五丁目の間で船員と商人との二人のオランダ人が殺された。それほど横浜の夜は暗い。外国人の入り込む開港場へ海から何か這(は)うようにやって来る闇(やみ)の恐ろしさは、それを経験したものでなければわからない。彼は瑞見のような人をめずらしく案内して、足もとの明るいうちに牡丹屋へ帰って来てよかったと考えた。
「お夕飯のおしたくができましてございます。」
という女中に誘われて、寛斎もその晩は例になく庭に向いた階下の座敷へ降りた。瑞見や十一屋の隠居なぞとそこで一緒になった。
「喜多村先生や宮川先生の前ですが、横浜の遊女屋にはわたしもたまげました。」と言い出すのは十一屋だ。
「すこし繁昌(はんじょう)して来ますと、すぐその土地にできるものは飲食店と遊郭です。」と牡丹屋の亭主も夕飯時の挨拶(あいさつ)に来て、相槌(あいづち)を打つ。
牛鍋(ぎゅうなべ)は庭で煮た。女中が七輪(しちりん)を持ち出して、飛び石の上でそれを煮た。その鍋を座敷へ持ち込むことは、牡丹屋のお婆(ばあ)さんがどうしても承知しなかった。
「臭い、臭い。」
奥の方では大騒ぎする声すら聞こえる。
「ここにも西洋ぎらいがあると見えますね。」
と瑞見が笑うと、亭主はしきりに手をもんで、
「いえ、そういうわけでもございませんが、吾家(うち)のお袋なぞはもう驚いております。牛の臭気(におい)がこもるのは困るなんて、しきりにそんなことを申しまして。この神奈川には、あなた、肉屋の前を避(よ)けて通るような、そんな年寄りもございます。」
その時、寛斎は自分でも好きな酒をはじめながら、瑞見の方を見ると、客も首を延ばし、なみなみとついである方へとがらした口唇(くちびる)を持って行く盃(さかずき)の持ち方からしてどうもただではないので、この人は話せると思った。
「こんな話がありますよ。」と瑞見は思い出したように、「あれは一昨年(おととし)の七月のことでしたか、エルジンというイギリスの使節が蒸汽船を一|艘(そう)幕府に献上したいと言って、軍艦で下田から品川まで来ました。まあ品川の人たちとしてはせっかくの使節をもてなすという意味でしたろう。その翌日に、品川の遊女を多勢で軍艦まで押しかけさしたというものです。さすがに向こうでも面くらったと見えて、あとになっての言い草がいい。あれは何者だ、いったい日本人は自分の国の女をどう心得ているんだろうッて、いかにもイギリス人の言いそうなことじゃありませんか。」
「先生。」と十一屋は膝(ひざ)を乗り出した。「わたしはまたこういう話を聞いたことがあります。こっちの女が歯を染めたり、眉(まゆ)を落としたりしているのを見ると、西洋人は非常にいやな気がするそうですね。ほんとうでしょうか。まあ、わたしたちから見ると、優しい風俗だと思いますがなあ。」
「気味悪く思うのはお互いでしょう。事情を知らない連中と来たら、いろいろなことをこじつけて、やれ幕府の上役のものは西洋人と結託しているの、なんのッて、悪口ばかり。鎖攘(さじょう)、鎖攘(鎖港攘夷の略)――あの声はどうです。わたしに言わせると、幕府が鎖攘を知らないどころか、あんまり早く鎖攘し過ぎてしまった。蕃書(ばんしょ)は禁じて読ませない、洋学者は遠ざけて近づけない、その方針をよいとしたばかりじゃありません、国内の人材まで鎖攘してしまった。御覧なさい、前には高橋作左衛門を鎖攘する。土生玄磧(はぶげんせき)を鎖攘する。後には渡辺華山(わたなべかざん)、高野長英(たかのちょうえい)を鎖攘する。その結果はと言うと、日本国じゅうを実に頑固(がんこ)なものにしちまいました。外国のことを言うのも恥だなんて思わせるようにまで――」
「先生、肉が煮えました。」
と十一屋は瑞見の話をさえぎった。
女中が白紙を一枚ずつ客へ配りに来た。肉を突ッついた箸(はし)はその紙に置いてもらいたいとの意味だ。煮えた牛鍋(ぎゅうなべ)は庭から縁側の上へ移された。奥の部屋(へや)に、牡丹屋の家の人たちがいる方では、障子(しょうじ)をあけひろげるやら、こもった空気を追い出すやらの物音が聞こえる。十一屋はそれを聞きつけて、
「女中さん、そう言ってください。今にこちらのお婆さんでも、おかみさんでも、このにおいをかぐと飛んで来るようになりますよッて。」
十一屋の言い草だ。
「どれ、わたしも一つ薬食(くすりぐ)いとやるか。」
と寛斎は言って、うまそうに煮えた肉のにおいをかいだ。好きな酒を前に、しばらく彼も一切を忘れていた。盃の相手には、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと思われるような客がいる。おまけに、初めて味わう肉もある。 

当時、全国に浪(なみ)打つような幕府非難の声からすれば、横浜や函館の港を開いたことは幕府の大失策である。東西人種の相違、道徳の相違、風俗習慣の相違から来るものを一概に未開野蛮として、人を食った態度で臨んで来るような西洋人に、そうやすやすとこの国の土を踏ませる法はない。開港が東照宮の遺志にそむくはおろか、朝廷尊崇の大義にすら悖(もと)ると歯ぎしりをかむものがある。
しかし、瑞見に言わせると、幕府のことほど世に誤り伝えられているものはない。開港の事情を知るには、神奈川条約の実際の起草者なる岩瀬肥後守(いわせひごのかみ)に行くに越したことはない。それにはまず幕府で監察(目付(めつけ))の役を重んじたことを知ってかかる必要がある。
監察とは何か。この役は禄(ろく)もそう多くないし、位もそう高くない。しかし、諸司諸職に関係のないものはないくらいだから、きわめて権威がある。老中はじめ三奉行の重い役でも、監察の同意なしには事を決めることができない。どうかして意見のちがうのを顧みずに断行することがあると、監察は直接に将軍なり老中なりに面会して思うところを述べ立てても、それを止めることもできない。およそ人の昇進に何がうらやましがられるかと言って、監察の右に出るものはない。その人を得ると得ないとで一代の盛衰に関する役目であることも想(おも)い知られよう。嘉永(かえい)年代、アメリカの軍艦が渡って来た日のように、外国関係の一大事変に当たっては、幕府の上のものも下のものも皆強い衝動を受けた。その衝動が非常な任撰(にんせん)を行なわせた。人材を登庸(とうよう)しなければだめだということを教えたのも、またその刺激だ。従来親子共に役に就(つ)いているものがあれば、子は賢くても父に超(こ)えることはできなかったのが旧(ふる)い規則だ。それを改めて、三人のものが監察に抜擢(ばってき)せられた。その中の一人(ひとり)が岩瀬肥後なのだ。
岩瀬肥後は名を忠震(ただなり)といい、字(あざな)を百里という。築地(つきじ)に屋敷があったところから、号を蟾州(せんしゅう)とも言っている。心あるものはいずれもこの人を推して、幕府内での第一の人とした。たとえばオランダから観光船を贈って来た時に矢田堀景蔵(やたぼりけいぞう)、勝麟太郎(かつりんたろう)なぞを小普請役(こぶしんやく)から抜いて、それぞれ航海の技術を学ばせたのも彼だ。下曽根金三郎(しもそねきんざぶろう)、江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)には西洋の砲術を訓練させる。箕作阮甫(みつくりげんぽ)、杉田玄端(すぎたげんたん)には蕃書取調所(ばんしょとりしらべしょ)の教育を任せる。そういう類(たぐい)のことはほとんど数えきれない。松平河内(まつだいらかわち)、川路左衛門(かわじさえもん)、大久保右近(おおくぼうこん)、水野筑後(みずのちくご)、その他の長老でも同輩でも、いやしくも国事に尽くす志のあるものには誠意をもって親しく交わらないものはなかったくらいだ。各藩の有為な人物をも延(ひ)いて、身をもって時代に当たろうとしたのも彼だ。
瑞見に言わせると、幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人(けとうじん)と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとしたものの摧心(さいしん)と労力とは想像も及ばない。岩瀬肥後はそれを成した人だ。最初の米国領事ハリスが来航して、いよいよ和親貿易の交渉を始めようとした時、幕府の有司はみな尻込(しりご)みして、一人として背負(しょ)って立とうとするものがない。皆手をこまねいて、岩瀬肥後を推した。そこで彼は一身を犠牲にする覚悟で、江戸と下田の間を往復して、数か月もかかった後にようやく草稿のできたのが安政の年の条約だ。
草稿はできた。諸大名は江戸城に召集された。その時、井伊大老が出(い)で、和親貿易の避けがたいことを述べて、委細は監察の岩瀬肥後に述べさせるから、とくときいたあとで諸君各自の意見を述べられるようにと言った。そこで大老は退いて、彼が代わって諸大名の前に進み出た。その時の彼の声はよく徹(とお)り、言うこともはっきりしていて、だれ一人異議を唱えるものもない。いずれも時宜に適(かな)った説だとして、よろこんで退出した。ところが数日後に諸大名各自の意見書を出すころになると、ことごとく前の日に言ったことを覆(くつがえ)して、彼の説を破ろうとするものが出て来た。それは多く臣下の手に成ったものだ。君侯といえどもそれを制することができなかったのだ。そこで彼は水戸(みと)の御隠居や、尾州(びしゅう)の徳川|慶勝(よしかつ)や、松平|春嶽(しゅんがく)、鍋島閑叟(なべしまかんそう)、山内|容堂(ようどう)の諸公に説いて、協力して事に当たることを求めた。岩瀬肥後の名が高くなったのもそのころからだ。
しかし、条約交渉の相手方なるヨーロッパ人が次第に態度を改めて来たことをも忘れてはならない。来るものも来るものも、皆ペリイのような態度の人ばかりではなかったのだ。アメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケン、イギリスの使節エルジン、その書記オリファント、これらの人たちはいずれも日本を知り、日本の国情というものをも認めた。中には、日本に来た最初の印象は思いがけない文明国の感じであったとさえ言った人もある。すべてこれらの事情は、岩瀬肥後のようにその局に当たった人以外には多く伝わらない。それにつけても、彼にはいろいろな逸話がある。彼が頭脳(あたま)のよかった証拠には、イギリスの使節らが彼の聰明(そうめい)さに驚いたというくらいだ。彼はイギリス人からきいた言葉を心覚えに自分の扇子(せんす)に書きつけて置いて、その次ぎの会見のおりには、かなり正確にその英語を発音したという。イギリスの方では、また彼のすることを見て、日本の扇子は手帳にもなり、風を送る器(うつわ)にもなり、退屈な時の手慰みにもなると言ったという話もある。
もともと水戸の御隠居はそう頑(かたくな)な人ではない。尊王攘夷(そんのうじょうい)という言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国に対しては、なんでも一つ撃(う)ち懲(こら)せという方にばかり志(こころざし)を向けていたらしいが、だんだん岩瀬肥後の説を聞いて大いに悟られるところがあった。御隠居はもとより英明な生まれつきの人だから、今日(こんにち)の外国は古(いにしえ)の夷狄(いてき)ではないという彼の言葉に耳を傾けて、無謀の戦いはいたずらにこの国を害するに過ぎないことを回顧するようになった。その時、御隠居は彼に一つのたとえ話を告げた。ここに一人の美しい娘がある。その娘にしきりに結婚を求めるものがある。再三拒んで容易に許さない。男の心がますます動いて来た時になって、始めて許したら、その二人(ふたり)の愛情はかえって濃(こま)やかで、多情な人のすみやかに受けいれるものには勝(まさ)ろうというのである。実際、あの御隠居が断乎(だんこ)として和親貿易の変更すべきでないことを彼に許した証拠には、こんな娘のたとえを語ったのを見てもわかる。御隠居がすでにこのとおり、外交のやむを得ないことを認めて、他の親藩にも外様(とざま)の大名にも説き勧めるくらいだ。それまで御隠居を動かして鎖攘(さじょう)の説を唱えた二人の幕僚、藤田東湖(ふじたとうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)なども遠見(とおみ)のきく御隠居の見識に服して、自分らの説を改めるようになった。そこへ安政の大地震が来た。一藩の指導者は二人とも圧死を遂げた。御隠居は一時に両(ふた)つの翼を失ったけれども、その老いた精神はますます明るいところへ出て行った。御隠居の長い生涯(しょうがい)のうちでも岩瀬肥後にあったころは特別の時代で、御隠居自身の内部に起こって来た外国というものの考え直しもその時代に行なわれた。
しかし、岩瀬肥後にとっては、彼が一生のつまずきになるほどの一大珍事が出来(しゅったい)した。十三代将軍(徳川|家定(いえさだ))は生来多病で、物言うことも滞りがちなくらいであった。どうしてもよい世嗣(よつ)ぎを定めねばならぬ。この多事な日に、内は諸藩の人心を鎮(しず)め、外は各国に応じて行かねばならぬ。徳川宗室を見渡したところ、その任に耐えそうなものは、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)のほかにない。ことに一代の声望並ぶもののないような水戸の御隠居が現にその父親であるのだから、諸官一同申し合わせて、慶喜擁立のことを上請することになった。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。ところがこれには反対の説が出て、血統の近い紀州|慶福(よしとみ)を立てるのが世襲伝来の精神から見て正しいと唱え出した。その声は大奥の深い簾(すだれ)の内からも出、水戸の野心と陰謀を疑う大名有司の仲間からも出た。この形勢をみて取った岩瀬肥後は、血統の近いものを立てるという声を排斥して、年長で賢いものを立てるのが今日(こんにち)の急務であると力説し、老中|奉行(ぶぎょう)らもその説に賛成するものが多く、それを漏れ聞いた国内の有志者たちも皆大いに喜んで、太陽はこれから輝こうと言い合いながら、いずれもその時の来るのを待ち望んだ。意外にも、その上請をしないうちに、将軍は脚気(かっけ)にかかって、わずか五年を徳川十三代の一期として、にわかに薨去(こうきょ)した。岩瀬肥後の極力排斥した慶福(よしとみ)擁立説がまた盛り返して来た日を迎えて見ると、そこに将軍の遺旨を奉じて起(た)ち上がったのが井伊大老その人であったのだ。
岩瀬肥後の政治|生涯(しょうがい)はその時を終わりとした。水戸の御隠居を始めとして、尾州、越前、土州の諸大名、およそ平生(へいぜい)彼の説に賛成したものは皆江戸城に集まって大老と激しい議論があったが、大老は一切きき入れなかった。安政大獄の序幕はそこから切って落とされた。彼はもとより首唱の罪で、きびしい譴責(けんせき)を受けた。屏(しりぞ)けられ、すわらせられ、断わりなしに人と往来(ゆきき)することすら禁ぜられた。その時の大老の言葉に、岩瀬輩が軽賤(けいせん)の身でありながら柱石たるわれわれをさし置いて、勝手に将軍の継嗣問題なぞを持ち出した。その罪は憎むべき大逆無道にも相当する。それでも極刑に処せられなかったのは、彼も日本国の平安を謀(はか)って、計画することが図に当たり、その尽力の功労は埋(うず)められるものでもないから、非常な寛典を与えられたのであると。
瑞見に言わせると、今度江戸へ出て来て見ても、水戸の御隠居はじめ大老と意見の合わないものはすべて斥(しりぞ)けられている。諸司諸役ことごとく更替して、大老の家の子郎党ともいうべき人たちで占められている。驚くばかりさかんな大老の権威の前には、幕府内のものは皆|屏息(へいそく)して、足を累(かさ)ねて立つ思いをしているほどだ。岩瀬肥後も今は向島(むこうじま)に蟄居(ちっきょ)して、客にも会わず、号を鴎所(おうしょ)と改めてわずかに好きな書画なぞに日々の憂(う)さを慰めていると聞く。
「幕府のことはもはや語るに足るものがない。」
と瑞見は嘆息して、その意味から言っても、罪せられた岩瀬肥後を憐(あわれ)んだ。そういう瑞見は、彼自身も思いがけない譴責(けんせき)を受けて、蝦夷(えぞ)移住を命ぜられたのがすこし早かったばかりに、大獄事件の巻き添えを食わなかったというまでである。
十一屋の隠居は瑞見よりも一歩(ひとあし)先に江戸の方へ帰って行った。瑞見の方は腹具合を悪くして、寛斎の介抱などを受けていたために、神奈川を立つのが二、三日おくれた。
瑞見は蝦夷(えぞ)から同行して来た供の男を連れて、寛斎にも牡丹屋(ぼたんや)の亭主(ていしゅ)にも別れを告げる時に言った。
「わたしもまた函館(はこだて)の方へ行って、昼寝でもして来ます。」
こんな言葉を残した。
客を送り出して見ると、寛斎は一層さびしい日を暮らすようになった。毎晩のように彗星(すいせい)が空にあらわれて怪しい光を放つのは、あれは何かの前兆を語るものであろうなどと、人のうわさにろくなことはない。水戸藩へはまた秘密な勅旨が下った、その使者が幕府の厳重な探偵(たんてい)を避けるため、行脚僧(あんぎゃそう)に姿を変えてこの東海道を通ったという流言なぞも伝わって来る。それを見て来たことのようにおもしろがって言い立てるものもある。攘夷(じょうい)を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさも絶えなかった。
暖かい雨は幾たびか通り過ぎた。冬じゅうどこかへ飛び去っていた白い鴉(からす)は、また横浜海岸に近い玉楠(たまぐす)の樹(き)へ帰って来る。旧暦三月の季節も近づいて来た。寛斎は中津川の商人らをしきりに待ち遠しく思った。例の売り込み商を訪(たず)ねるたびに、貿易諸相場は上値(うわね)をたどっているとのことで、この調子で行けば生糸六十五匁か七十匁につき金一両の相場もあらわれようとの話が出る。江州(ごうしゅう)、甲州、あるいは信州|飯田(いいだ)あたりの生糸商人も追い追い入り込んで来る模様があるから、なかなか油断はならないとの話もある。神奈川在留の外国商人――中にもイギリス人のケウスキイなどは横浜の将来を見込んで、率先して木造建築の商館なりと打ち建てたいとの意気込みでいるとの話もある。
「万屋(よろずや)さんも、だいぶごゆっくりでございますね。」
と牡丹屋の亭主は寛斎を見に裏二階へ上がって来るたびに言った。
三月三日の朝はめずらしい大雪が来た。寛斎が廊下に出てはながめるのを楽しみにする椎(しい)の枝なぞは、夜から降り積もる雪に圧(お)されて、今にも折れそうなくらいに見える。牡丹屋では亭主の孫にあたるちいさな女の子のために初節句を祝うと言って、その雪の中で、白酒だ豆煎(まめい)りだと女中までが大騒ぎだ。割子(わりご)弁当に重詰め、客|振舞(ぶるまい)の酒肴(さけさかな)は旅に来ている寛斎の膳(ぜん)にまでついた。
その日一日、寛斎は椎の枝から溶け落ちる重い音を聞き暮らした。やがてその葉が雪にぬれて、かえって一層の輝きを見せるころには、江戸方面からの人のうわさが桜田門(さくらだもん)外の変事を伝えた。
刺客およそ十七人、脱藩除籍の願書を藩邸に投げ込んで永(なが)の暇(いとま)を告げたというから、浪人ではあるが、それらの水戸の侍たちが井伊大老の登城を待ち受けて、その首級を挙(あ)げた。この変事は人の口から口へと潜むように伝わって来た。刺客はいずれも斬奸(ざんかん)主意書というを懐(ふところ)にしていたという。それには大老を殺害すべき理由を弁明してあったという。
「あの喜多村先生なぞが蝦夷(えぞ)の方で聞いたら、どんな気がするだろう。」
と言って、思わず寛斎は宿の亭主と顔を見合わせた。
井伊大老の横死(おうし)は絶対の秘密とされただけに、来たるべき時勢の変革を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が周囲を支配した。首級を挙げられた大老をよく言う人は少ない。それほどの憎まれ者も、亡(な)くなったあとになって見ると、やっぱり大きい人物であったと、一方には言い出した人もある。なるほど、生前の大老はとかくの評判のある人ではあったが、ただ、他人にまねのできなかったことが一つある。外国交渉のことにかけては、天朝の威をも畏(おそ)れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として和親通商を許した上で、それから上奏の手続きを執った。この一事は天地も容(い)れない大罪を犯したように評するものが多いけれども、もしこの決断がなかったら、日本国はどうなったろう。軽く見積もって蝦夷はもとより、対州(つしま)も壱岐(いき)も英米仏露の諸外国に割(さ)き取られ、内地諸所の埠頭(ふとう)は随意に占領され、その上に背負(しょ)い切れないほどの重い償金を取られ、シナの道光(どうこう)時代の末のような姿になって、独立の体面はとても保たれなかったかもしれない。大老がこの至険至難をしのぎ切ったのは、この国にとっての大功と言わねばなるまい。こんなふうに言う人もあった。ともあれ、大老は徳川世襲伝来の精神をささえていた大極柱(だいこくばしら)の倒れるように倒れて行った。この報知(しらせ)を聞く彦根(ひこね)藩士の憤激、続いて起こって来そうな彦根と水戸両藩の葛藤(かっとう)は寛斎にも想像された。前途は実に測りがたかった。
神奈川付近から横浜へかけての町々の警備は一層厳重をきわめるようになった。鶴見(つるみ)の橋詰めには杉(すぎ)の角柱(かくばしら)に大貫(おおぬき)を通した関門が新たに建てられた。夜になると、神奈川にある二か所の関門も堅く閉ざされ、三つ所紋の割羽織(わりばおり)に裁付袴(たっつけばかま)もいかめしい番兵が三人の人足を先に立てて、外国諸領事の仮寓(かぐう)する寺々から、神奈川台の異人屋敷の方までも警戒した。町々は夜ふけて出歩く人も少なく、あたりをいましめる太鼓の音のみが聞こえた。 

ようやく、その年の閏(うるう)三月を迎えるころになって、※[□<万](角万(かくまん))とした生糸の荷がぽつぽつ寛斎のもとに届くようになった。寛斎は順に来るやつを預かって、適当にその始末をしたが、木曾街道の宿場宿場を経て江戸回りで届いた荷を見るたびに、中津川商人が出向いて来る日の近いことを思った。毎日のように何かの出来事を待ち受けさせるかのような、こんな不安な周囲の空気の中で、よくそれでも生糸の荷が無事に着いたとも思った。
万屋安兵衛(よろずややすべえ)が手代の嘉吉(かきち)を連れて、美濃(みの)の方を立って来たのは同じ月の下旬である。二人(ふたり)はやはり以前と同じ道筋を取って、江戸両国の十一屋泊まりで、旧暦四月にはいってから神奈川の牡丹屋(ぼたんや)に着いた。
にわかに寛斎のまわりもにぎやかになった。旅の落(おと)し差(ざし)を床の間に預ける安兵衛もいる。部屋(へや)の片すみに脚絆(きゃはん)の紐(ひも)を解く嘉吉もいる。二人は寛斎の聞きたいと思う郷里の方の人たちの消息――彼の妻子の消息、彼の知人の消息、彼の旧(ふる)い弟子(でし)たちの消息ばかりでなく、何かこう一口には言ってしまえないが、あの東美濃の盆地の方の空気までもなんとなく一緒に寛斎のところへ持って来た。
寛斎がたったりすわったりしているそばで、嘉吉は働き盛りの手代らしい調子で、
「宮川先生も、ずいぶんお待ちになったでしょう。なにしろ春蚕(はるご)の済まないうちは、どうすることもできませんでした。糸はでそろいませんし。」
と言うと、安兵衛も寛斎をねぎらい顔に、
「いや、よく御辛抱(ごしんぼう)が続きましたよ。こんなに長くなるんでしたら、一度国の方へお帰りを願って、また出て来ていただいてもとは思いましたがね。」
百里の道を往復して生糸商売でもしようという安兵衛には、さすがに思いやりがある。
「どうしても、だれか一人(ひとり)こっちにいないことには、浜の事情もよくわかりませんし、人任せでは安心もなりませんし――やっぱり先生に残っていていただいてよかったと思いました。」
とも安兵衛は言い添えた。
やがて灯(ひ)ともしごろであった。三人は久しぶりで一緒に食事を済ました。町をいましめに来る太鼓の音が聞こえる。閏(うるう)三月の晦日(みそか)まで隠されていた井伊大老の喪もすでに発表されたが、神奈川付近ではなかなか警戒の手をゆるめない。嘉吉は裏座敷から表側の廊下の方へ見に行った。陣笠(じんがさ)をかぶって両刀を腰にした番兵の先には、弓張提灯(ゆみはりぢょうちん)を手にした二人の人足と、太鼓をたたいて回る一人の人足とが並んで通ったと言って、嘉吉は目を光らせながら寛斎のいるところへ戻(もど)って来た。
「そう言えば、先生はすこし横浜の匂(にお)いがする。」
と嘉吉が戯れて言い出した。
「ばかなことを言っちゃいけない。」
この七か月ばかりの間、親しい人のだれの顔も見ず、だれの言葉も聞かないでいる寛斎が、どうして旅の日を暮らしたか。嘉吉の目がそれを言った。
「そんなら見せようか。」
寛斎は笑って、毎日のように手習いした反古(ほご)を行燈(あんどん)のかげに取り出して来て見せた。過ぐる七か月は寛斎にとって、二年にも三年にも当たった。旅籠屋(はたごや)の裏二階から見える椎(しい)の木よりほかにこの人の友とするものもなかった。その枝ぶりをながめながめするうちに、いつのまにか一変したと言ってもいいほどの彼の書体がそこにあった。
寛斎は安兵衛にも嘉吉にも言った。
「去年の十月ごろから見ると、横浜も見ちがえるようになりましたよ。」
糸目六十四匁につき金一両の割で、生糸の手合わせも順調に行なわれた。この手合わせは神奈川台の異人屋敷にあるケウスキイの仮宅で行なわれた。売り込み商と通弁の男とがそれに立ち合った。売り方では牡丹屋(ぼたんや)に泊まっている安兵衛も嘉吉も共に列席して、書類の調製は寛斎が引き受けた。
ケウスキイはめったに笑わない男だが、その時だけは青い瞳(ひとみ)の目に笑(え)みをたたえて、
「自分は近く横浜の海岸通りに木造の二階屋を建てる。自分の同業者でこの神奈川に来ているものには、英国人バルベルがあり、米国人ホウルがある。しかし、自分はだれよりも先に、あの商館を完成して、そこにイギリス第一番の表札を掲げたい。」
こういう意味のことを通弁に言わせた。
その時、ケウスキイは「わかってくれたか」という顔つきをして、安兵衛にも嘉吉にも握手を求め、寛斎の方へも大きな手をさし出した。このイギリス人は寛斎の手を堅く握った。
「手合わせは済んだ。これから糸の引き渡しだ。」
異人屋敷を出てから安兵衛がホッとしたようにそれを言い出すと、嘉吉も連れだって歩きながら、
「旦那(だんな)、それから、まだありますぜ。請け取った現金を国の方へ運ぶという仕事がありますぜ。」
「その事なら心配しなくてもいい。先生が引き受けていてくださる。」
「こいつがまた一仕事ですぞ。」
寛斎は二人のあとから神奈川台の土を踏んで、一緒に海の見えるところへ行って立った。目に入るかぎり、ちょうど港は発展の最中だ。野毛(のげ)町、戸部(とべ)町なぞの埋め立てもでき、開港当時百一戸ばかりの横浜にどれほどの移住者が増したと言って見ることもできない。この横浜は来たる六月二日を期して、開港一周年を迎えようとしている。その記念には、弁天の祭礼をすら迎えようとしている。牡丹屋の亭主の話によると、神輿(みこし)はもとより、山車(だし)、手古舞(てこまい)、蜘蛛(くも)の拍子舞(ひょうしまい)などいう手踊りの舞台まで張り出して、できるだけ盛んにその祭礼を迎えようとしている。だれがこの横浜開港をどう非難しようと、まるでそんなことは頓着(とんちゃく)しないかのように、いったんヨーロッパの方へ向かって開いた港からは、世界の潮(うしお)が遠慮会釈なくどんどん流れ込むように見えて来た。羅紗(らしゃ)、唐桟(とうざん)、金巾(かなきん)、玻璃(はり)、薬種、酒類なぞがそこからはいって来れば、生糸、漆器、製茶、水油、銅および銅器の類(たぐい)なぞがそこから出て行って、好(よ)かれ悪(あ)しかれ東と西の交換がすでにすでに始まったように見えて来た。
郷里の方に待ち受けている妻子のことも、寛斎の胸に浮かんで来た。彼の心は中津川の香蔵、景蔵、それから馬籠(まごめ)の半蔵なぞの旧(ふる)い三人の弟子(でし)の方へも行った。あの血気|壮(さか)んな人たちが、このむずかしい時をどう乗ッ切るだろうかとも思いやった。
生糸売り上げの利得のうち、小判(こばん)で二千四百両の金を遠く中津川まで送り届けることが寛斎の手に委(ゆだ)ねられた。安兵衛、嘉吉の二人は神奈川に居残って、六月のころまで商売を続ける手はずであったからで。当時、金銀の運搬にはいろいろ難渋した話がある。※[魚+昜](するめ)にくるんで乾物の荷と見せかけ、かろうじて胡麻(ごま)の蠅(はえ)の難をまぬかれた話もある。武州|川越(かわごえ)の商人は駕籠(かご)で夜道を急ごうとして、江戸へ出る途中で駕籠(かご)かきに襲われた話もある。五十両からの金を携帯する客となると、駕籠かきにはその重さでわかるという。こんな不便な時代に、寛斎は二千四百両からの金を預かって行かねばならない。貧しい彼はそれほどの金をかつて見たこともなかったくらいだ。
寛斎は牡丹屋の二階にいた。その前へ来てすわって、手さげのついた煙草盆(たばこぼん)から一服吸いつけたのが安兵衛だ。
「先生に引き受けていただいて、わたしも安心しました。この役を引き受けていただきたいばかりに、わざわざ先生を神奈川へお誘いして来たようなものですよ。」
と安兵衛が白状した。
しかし、これは安兵衛に言われるまでもなかった。もとより寛斎も承知の上で来たことだ。
寛斎は前途百里の思いに胸のふさがる心地(ここち)でたちあがった。迫り来る老年はもはやこの人の半身に上っていた。右の耳にはほとんど聴(き)く力がなく、右の目の視(み)る力も左のほどにはきかなかった。彼はその衰えたからだを起こして、最後の「隠れ家(が)」にたどり着くための冒険に当たろうとした。その時、安兵衛は一人の宰領(さいりょう)を彼のところへ連れて来た。
「先生、この人が一緒に行ってくれます。」
見ると、荷物を護(まも)って行くには屈強な男だ。千両箱の荷造りには嘉吉も来て手伝った。
四月十日ごろには、寛斎は朝早くしたくをはじめ、旅の落(おと)し差(ざし)に身を堅めて、七か月のわびしい旅籠屋住居(はたごやずまい)に別れて行こうとする人であった。牡丹屋の亭主の計らいで、別れの盃(さかずき)なぞがそこへ運ばれた。安兵衛は寛斎の前にすわって、まず自分で一口飲んだ上で、その土器(かわらけ)を寛斎の方へ差した。この水盃は無量の思いでかわされた。
「さあ、退(ど)いた。退(ど)いた。」
という声が起こった。廊下に立つ女中なぞの間を分けて、三つの荷が二階から梯子段(はしごだん)の下へ運ばれた。その荷造りした箱の一つ一つは、嘉吉と宿の男とが二人がかりでようやく持ち上がるほどの重さがあった。
「オヤ、もうお立ちでございますか。江戸はいずれ両国のお泊まりでございましょう。あの十一屋の隠居にも、どうかよろしくおっしゃってください。」
と亭主も寛斎のところへ挨拶(あいさつ)に来た。
馬荷一|駄(だ)。それに寛斎と宰領とが付き添って、牡丹屋の門口を離れた。安兵衛や嘉吉はせめて宿(しゅく)はずれまで見送りたいと言って、一緒に滝の橋を渡り、オランダ領事館の国旗の出ている長延寺の前を通って、神奈川御台場の先までついて来た。
その時になって見ると、郷里の方にいる旧(ふる)い弟子(でし)たちの思惑(おもわく)もしきりに寛斎の心にかかって来た。彼が一歩(ひとあし)踏み出したところは、往来(ゆきき)するものの多い東海道だ。彼は老鶯(ろうおう)の世を忍ぶ風情(ふぜい)で、とぼとぼとした荷馬の※[くさかんむり/稾]沓(わらぐつ)の音を聞きながら、遠く板橋回りで木曾街道に向かって行った。 
第五章

 


宮川寛斎(みやがわかんさい)が万屋(よろずや)の主人と手代とを神奈川(かながわ)に残して置いて帰国の途に上ったことは、早く美濃(みの)の方へ知れた。中津川も狭い土地だから、それがすぐ弟子(でし)仲間の香蔵や景蔵の耳に入り、半蔵はまた三里ほど離れた木曾(きそ)の馬籠(まごめ)の方で、旧(ふる)い師匠が板橋方面から木曾街道を帰って来ることを知った。
横浜開港の影響は諸国の街道筋にまであらわれて来るころだ。半蔵は馬籠の本陣にいて、すでに幾たびか銭相場引き上げの声を聞き、さらにまた小判(こばん)買いの声を聞くようになった。古二朱金、保字金なぞの当時に残存した古い金貨の買い占めは地方でも始まった。きのうは馬籠|桝田屋(ますだや)へ江州(ごうしゅう)辺の買い手が来て貯(たくわ)え置きの保金小判を一両につき一両三分までに買い入れて行ったとか、きょうは中津川|大和屋(やまとや)で百枚の保金小判を出して当時通用の新小判二百二十五両を請け取ったとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。金一両で二両一分ずつの売買だ。それどころか、二両二分にも、三両にも買い求めるものがあらわれて来た。半蔵が家の隣に住んで昔|気質(かたぎ)で聞こえた伏見屋金兵衛(ふしみやきんべえ)なぞは驚いてしまって、まことに心ならぬ浮世ではある、こんな姿で子孫が繁昌(はんじょう)するならそれこそ大慶の至りだと皮肉を言ったり、この上どうなって行く世の中だろうと不安な語気をもらしたりした。
半蔵が横浜貿易から帰って来る旧師を心待ちに待ち受けたのは、この地方の動揺の中だ。
旅人を親切にもてなすことは、古い街道筋の住民が一朝一夕に養い得た気風でもない。椎(しい)の葉に飯(いい)を盛ると言った昔の人の旅情は彼らの忘れ得ぬ歌であり、路傍に立つ古い道祖神(どうそじん)は子供の時分から彼らに旅人愛護の精神をささやいている。いたるところに山嶽(さんがく)は重なり合い、河川はあふれやすい木曾のような土地に住むものは、ことにその心が深い。当時における旅行の困難を最もよく知るものは、そういう彼ら自身なのだ。まして半蔵にして見れば、以前に師匠と頼んだ人、平田入門の紹介までしてくれた人が神奈川から百里の道を踏んで、昼でも暗いような木曾の森林の間を遠く疲れて帰って来ようという旅だ。
半蔵は旧師を待ち受ける心で、毎日のように街道へ出て見た。彼も隣宿|妻籠(つまご)本陣の寿平次(じゅへいじ)と一緒に、江戸から横須賀(よこすか)へかけての旅を終わって帰って来てから、もう足掛け三年になる。過ぐる年の大火のあとをうけて馬籠の宿(しゅく)もちょうど復興の最中であった。幸いに彼の家や隣家の伏見屋は類焼をまぬかれたが、町の向こう側はすっかり焼けて、まっ先に普請(ふしん)のできた問屋(といや)九太夫(くだゆう)の家も目に新しい。
旧師の横浜|出稼(でかせ)ぎについては、これまでとても弟子たちの間に問題とされて来たことだ。どうかして晩節を全うするように、とは年老いた師匠のために半蔵らの願いとするところで、最初横浜行きのうわさを耳にした時に、弟子たちの間には寄り寄りその話が出た。わざわざ断わって行く必要もなかったと師匠に言われれば、それまでで、往(い)きにその沙汰(さた)がなかったにしても、帰りにはなんとか話があろうと語り合っていた。すくなくも半蔵の心には、あの旧師が自分の家には立ち寄ってくれてせめて弟子だけにはいろいろな打ち明け話があるものと思っていた。
四月の二十二日には、寛斎も例の馬荷一|駄(だ)に宰領の付き添いで、片側に新しい家の並んだ馬籠の坂道を峠の方から下って来た。寛斎は伏見屋の門口に馬を停(と)め、懇意な金兵衛方に亡(な)くなった鶴松(つるまつ)の悔やみを言い入れ、今度横浜を引き上げるについては二千四百両からの金を預かって来たこと、万屋安兵衛らの帰国はたぶん六月になろうということ、生糸売り上げも多分の利得のあること、開港場での小判の相場は三両二朱ぐらいには商いのできること、そんな話を金兵衛のところに残して置いて、せっかく待ち受けている半蔵の家へは立ち寄らずに、そこそこに中津川の方へ通り過ぎて行った。
このことは後になって隣家から知れて来た。それを知った時の半蔵の手持ちぶさたもなかった。旧師を信ずる心の深いだけ、彼の失望も深かった。  

「どうも小判買いの入り込んで来るには驚きますね。今もわたしは馬籠へ来る途中で、落合(おちあい)でもそのうわさを聞いて来ましたよ。」
こんな話をもって、中津川の香蔵が馬籠本陣を訪(たず)ねるために、落合から十曲峠(じっきょくとうげ)の山道を登って来た。
香蔵は、まだ家督相続もせずにいる半蔵と違い、すでに中津川の方の新しい問屋の主人である。十何年も前に弟子として、義理ある兄の寛斎に就(つ)いたころから見ると、彼も今は男のさかりだ。三人の友だちの中でも、景蔵は年長(としうえ)で、香蔵はそれに次ぎ、半蔵が一番若かった。その半蔵がもはや三十にもなる。
寛斎も今は成金(なりきん)だと戯れて見せるような友だちを前に置いて、半蔵は自分の居間としている本陣の店座敷で話した。
銭相場引き上げに続いて急激な諸物価騰貴をひき起こした横浜貿易の取りざたほど半蔵らの心をいらいらさせるものもない。当時、国内に流通する小判、一分判(いちぶばん)などの異常に良質なことは、米国領事ハリスですら幕府に注意したくらいで、それらの古い金貨を輸出するものは法外な利を得た。幕府で新小判を鋳造(ちゅうぞう)し、その品質を落としたのは、外国貨幣と釣合(つりあい)を取るための応急手段であったが、それがかえって財界混乱の結果を招いたとも言える。そういう幕府には市場に流通する一切の古い金貨を蒐集(しゅうしゅう)して、それを改鋳するだけの能力も信用もなかったからで。新旧小判は同時に市場に行なわれるような日がやって来た。目先の利に走る内地商人と、この機会をとらえずには置かない外国商人とがしきりにその間に跳梁(ちょうりょう)し始めた。純粋な小判はどしどし海の外へ出て行って、そのかわりに輸入せらるるものは多少の米弗(ベイドル)銀貨はあるとしても、多くは悪質な洋銀であると言われる。
「半蔵さん、君はあの小判買いの声をどう思います。」と香蔵は言った。「今までに君、九十万両ぐらいの小判は外国へ流れ出したと言いますよ。そうです、軽く見積もっても九十万両ですとさ。驚くじゃありませんか。まさか幕府の役人だって、異人の言うなりになってるわけでもありますまいがね、したくも何もなしに、いきなり港を開かせられてしまって、その結果はと言うと非常な物価騰貴です。そりゃ一部の人たちは横浜開港でもうけたかもしれませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむようになって来ましたぜ。」
近づいて来る六月二日、その横浜開港一周年の記念日をむしろ屈辱の記念日として考えるものもあるような、さかんな排外熱は全国に巻き起こって来た。眼(ま)のあたりに多くのものの苦しみを見る半蔵らは、一概にそれを偏狭|頑固(がんこ)なものの声とは考えられなかった。
「宮川先生のことは、もう何も言いますまい。」と半蔵が言い出した。「わたしたちの衷情としては、今までどおりの簡素清貧に甘んじていていただきたかったけれど。」
「国学者には君、国学者の立場もあろうじゃありませんか。それを捨てて、ただもうけさえすればよいというものでもないでしょう。」と言うのは香蔵だ。
「いったい、先生が横浜なぞへ出かけられる前に、相談してくださるとよかった。こんなにわたしたちを避けなくてもよさそうなものです。」
「出稼(でかせ)ぎの問題には触れてくれるなと言うんでしょう。」
にわかな雨で、二人(ふたり)の話は途切れた。半蔵は店座敷の雨戸を繰って、それを一枚ほど閉(し)めずに置き、しばらく友だちと二人で表庭にふりそそぐ強い雨をながめていた。そのうちに雨は座敷へ吹き込んで来る。しまいには雨戸もあけて置かれないようになった。
「お民。」
と半蔵は妻を呼んだ。燈火(あかり)なしには話も見えないほど座敷の内は暗かった。お民ももはや二十四で、二人子持ちの若い母だ。奥から行燈(あんどん)を運んで来る彼女の後ろには、座敷の入り口までついて来て客の方をのぞく幼いものもある。
時ならぬ行燈のかげで、半蔵と香蔵の二人は風雨の音をききながら旧師のことを語り合った。話せば話すほど二人はいろいろな心持ちを引き出されて行った。半蔵にしても香蔵にしても、はじめて古学というものに目をあけてもらった寛斎の温情を忘れずにいる。旧師も老いたとは考えても、その態度を責めるような心は二人とも持たなかった。飯田(いいだ)の在への隠退が旧師の晩年のためとあるなら、その人の幸福を乱したくないと言うのが半蔵だ。親戚(しんせき)としての関係はとにかく、旧師から離れて行こうと言い出すのが香蔵だ。
国学者としての大きな先輩、本居宣長(もとおりのりなが)ののこした仕事はこの半蔵らに一層光って見えるようになって来た。なんと言っても言葉の鍵(かぎ)を握ったことはあの大人(うし)の強味で、それが三十五年にわたる古事記の研究ともなり、健全な国民性を古代に発見する端緒ともなった。儒教という形であらわれて来ている北方シナの道徳、禅宗や道教の形であらわれて来ている南方シナの宗教――それらの異国の借り物をかなぐり捨て、一切の「漢(から)ごころ」をかなぐり捨てて、言挙(ことあ)げということもさらになかった神ながらのいにしえの代に帰れと教えたのが大人(うし)だ。大人から見ると、何の道かの道ということは異国の沙汰(さた)で、いわゆる仁義礼譲孝|悌(てい)忠信などというやかましい名をくさぐさ作り設けて、きびしく人間を縛りつけてしまった人たちのことを、もろこし方では聖人と呼んでいる。それを笑うために出て来た人があの大人だ。大人が古代の探求から見つけて来たものは、「直毘(なおび)の霊(みたま)」の精神で、その言うところを約(つづ)めて見ると、「自然(おのずから)に帰れ」と教えたことになる。より明るい世界への啓示も、古代復帰の夢想も、中世の否定も、人間の解放も、または大人のあの恋愛観も、物のあわれの説も、すべてそこから出発している。伊勢(いせ)の国、飯高郡(いいだかごおり)の民として、天明(てんめい)寛政(かんせい)の年代にこんな人が生きていたということすら、半蔵らの心には一つの驚きである。早く夜明けを告げに生まれて来たような大人は、暗いこの世をあとから歩いて来るものの探るに任せて置いて、新しい世紀のやがてめぐって来る享和(きょうわ)元年の秋ごろにはすでに過去の人であった。半蔵らに言わせると、あの鈴(すず)の屋(や)の翁(おきな)こそ、「近(ちか)つ代(よ)」の人の父とも呼ばるべき人であった。
香蔵は半蔵に言った。
「今になって、想(おも)い当たる。宮川先生も君、あれで中津川あたりじゃ国学者の牛耳(ぎゅうじ)を執ると言われて来た人ですがね、年をとればとるほど漢学の方へ戻(もど)って行かれるような気がする。先生には、まだまだ『漢(から)ごころ』のぬけ切らないところがあるんですね。」
「香蔵さん、そう君に言われると、わたしなぞはなんと言っていいかわからない。四書五経から習い初めたものに、なかなか儒教の殻(から)はとれませんよ。」
強雨はやまないばかりか、しきりに雲が騒いで、夕方まで休みなしに吹き通すような強風も出て来た。名古屋から福島行きの客でやむを得ず半蔵の家に一宿させてくれと言って来た人さえもある。
香蔵もその晩は中津川の方へは帰れなかった。翌朝になって見ると、風は静まったが、天気は容易に回復しなかった。思いのほかの大荒れで、奥筋(おくすじ)の道や橋は損じ、福島の毛付(けづ)け(馬市)も日延べになったとの通知があるくらいだ。
ちょうど半蔵の父、吉左衛門(きちざえもん)は尾張藩(おわりはん)から御勝手(おかって)仕法立ての件を頼まれて、名古屋出張中の留守の時であった。半蔵は家の囲炉裏(いろり)ばたに香蔵を残して置いて、ちょっと会所の見回りに行って来たが、街道には旅人の通行もなかった。そこへ下男の佐吉も蓑(みの)と笠(かさ)とで田圃(たんぼ)の見回りから帰って来て、中津川の大橋が流れ失(う)せたとのうわさを伝えた。
「香蔵さん、大橋が落ちたと言いますぜ。もうすこし見合わせていたらどうです。」
「この雨にどうなりましょう。」と半蔵が継母のおまんも囲炉裏(いろり)ばたへ来て言った。「いずれ中津川からお迎えの人も見えましょうに、それまで見合わせていらっしゃるがいい。まあ、そうなさい。」
雨のために、やむなく逗留(とうりゅう)する友だちを慰めようとして、やがて半蔵は囲炉裏ばたから奥の部屋(へや)の方へ香蔵を誘った。北の坪庭に向いたところまで行って、雨戸をすこし繰って見せると、そこに本陣の上段の間がある。白地に黒く雲形を織り出した高麗縁(こうらいべり)の畳の上には、雨の日の薄暗い光線がさし入っている。木曾路を通る諸大名が客間にあててあるのもそこだ。半蔵が横須賀の旅以来、過ぐる三年間の意味ある通行を数えて見ると、彦根(ひこね)よりする井伊掃部頭(いいかもんのかみ)、江戸より老中|間部下総守(まなべしもうさのかみ)、林大学頭(はやしだいがくのかみ)、監察|岩瀬肥後守(いわせひごのかみ)、等、等――それらのすでに横死したりまたは現存する幕府の人物で、あるいは大老就職のため江戸の任地へ赴(おもむ)こうとし、あるいは神奈川条約上奏のため京都へ急ごうとして、その客間に足をとどめて行ったことが、ありありとそこにたどられる。半蔵はそんな隠れたところにある部屋(へや)を友だちにのぞかせて、目まぐるしい「時」の歩みをちょっと振り返って見る気になった。
その時、半蔵は唐紙(からかみ)のそばに立っていた。わざと友だちが上段の間の床に注意するのを待っていた。相州三浦(そうしゅうみうら)、横須賀在、公郷村(くごうむら)の方に住む山上七郎左衛門(やまがみしちろうざえもん)から旅の記念にと贈られた光琳(こうりん)の軸がその暗い壁のところに隠れていたのだ。
「香蔵さん、これがわたしの横須賀|土産(みやげ)ですよ。」
「そう言えば、君の話にはよく横須賀が出る。これを贈ったかたがその御本家なんですね。」
「妻籠(つまご)の本陣じゃ無銘の刀をもらう、わたしの家へはこの掛け物をもらって来ました。まったく、あの旅は忘れられない。あれから吾家(うち)へ帰って来た日は、わたしはもう別の人でしたよ――まあ、自分のつもりじゃ、全く新規な生活を始めましたよ。」
半日でも多く友だちを引き留めたくている半蔵には、その日の雨はやらずの雨と言ってよかった。彼はその足で、継母や妻の仕事部屋となっている仲の間のわきの廊下を通りぬけて、もう一度店座敷の方に友だちの席をつくり直した。
「どれ、香蔵さんに一つわたしのまずい歌をお目にかけますか。」
と言って半蔵が友だちの前に取り出したのは、時事を詠じた歌の草稿だ。まだ若々しい筆で書いて、人にも見せずにしまって置いてあるものだ。
あめりかのどるを御国(みくに)のしろかねにひとしき品とさだめしや誰(たれ)
しろかねにかけておよばぬどるらるをひとしと思ひし人は誰ぞも
国つ物たかくうるともそのしろのいとやすかるを思ひはからで
百八十(ももやそ)の物のことごとたかくうりてわれを富ますとおもひけるかな
土のごと山と掘りくるどるらるに御国(みくに)のたからかへまく惜しも
どるらるにかふるも悲し神国(かみぐに)の人のいとなみ造れるものを
どるらるの品のさだめは大八島(おおやしま)国中(くぬち)あまねく問ふべかりしを
しろかねにいたくおとれるどるらるを知りてさておく世こそつたなき
国つ物足らずなりなばどるらるは山とつむとも何にかはせむ
これらの歌に「どる」とか、「どるらる」とかあるのは、外国商人の手によりて輸入せらるる悪質なメキシコドル、香港(ホンコン)ドルなどの洋銀をさす。それは民間に流通するよりも多く徳川幕府の手に入って、一分銀に改鋳せらるるというものである。
「わたしがこんな歌をつくったのはめずらしいでしょう。」と半蔵が言い出した。
「しかし、宮川先生の旧(ふる)い弟子(でし)仲間では、半蔵さんは歌の詠(よ)める人だと思っていましたよ。」と香蔵が答える。
「それがです、自分でも物になるかと思い初めたのは、横須賀の旅からです。あの旅が歌を引き出したんですね。詠んで見たら、自分にも詠める。」
「ほら、君が横須賀の旅から贈ってくだすったのがあるじゃありませんか。」
「でも、香蔵さん、吾家(うち)の阿爺(おやじ)が俳諧(はいかい)を楽しむのと、わたしが和歌を詠んで見たいと思うのとでは、だいぶその心持ちに相違があるんです。わたしはやはり、本居先生の歌にもとづいて、いくらかでも古(むかし)の人の素直(すなお)な心に帰って行くために、詩を詠むと考えたいんです。それほど今の時世に生まれたものは、自然なものを失っていると思うんですが、どうでしょう。」
半蔵らはすべてこの調子で踏み出して行こうとした。あの本居宣長ののこした教えを祖述するばかりでなく、それを極端にまで持って行って、実行への道をあけたところに、日ごろ半蔵らが畏敬(いけい)する平田篤胤(ひらたあつたね)の不屈な気魄(きはく)がある。半蔵らに言わせると、鈴の屋の翁にはなんと言っても天明寛政年代の人の寛濶(かんかつ)さがある。そこへ行くと、気吹(いぶき)の舎大人(やのうし)は狭い人かもしれないが、しかしその迫りに迫って行った追求心が彼らの時代の人の心に近い。そこが平田派の学問の世に誤解されやすいところで、篤胤大人の上に及んだ幕府の迫害もはなはだしかった。『大扶桑国考(だいふそうこくこう)』『皇朝無窮暦(こうちょうむきゅうれき)』などの書かれるころになると、絶板を命ぜられるはおろか、著述することまで禁じられ、大人(うし)その人も郷里の秋田へ隠退を余儀なくされたが、しかし大人は六十八歳の生涯(しょうがい)を終わるまで決して屈してはいなかった。同時代を見渡したところ、平田篤胤に比ぶべきほどの必死な学者は半蔵らの目に映って来なかった。
五月も十日過ぎのことで、安政大獄当時に極刑に処せられたもののうち、あるものの忌日がやって来るような日を迎えて見ると、亡(な)き梅田雲浜(うめだうんぴん)、吉田松陰、頼鴨崖(らいおうがい)なぞの記憶がまた眼前の青葉と共に世人の胸に活(い)き返って来る。半蔵や香蔵は平田篤胤没後の門人として、あの先輩から学び得た心を抱いて、互いに革新潮流の渦(うず)の中へ行こうとこころざしていた。
降りつづける五月の雨は友だちの足をとどめさせたばかりでなく、親しみを増させるなかだちともなった。半蔵には新たに一人(ひとり)の弟子ができて、今は住み込みでここ本陣に来ていることも香蔵をよろこばせた。隣宿落合の稲葉屋(いなばや)の子息(むすこ)、林|勝重(かつしげ)というのがその少年の名だ。学問する機運に促されてか、馬籠本陣へ通(かよ)って来る少年も多くある中で、勝重ほど末頼もしいものを見ない、と友だちに言って見せるのも半蔵だ。時には、勝重は勉強部屋の方から通って来て、半蔵と香蔵とが二人(ふたり)で話しつづけているところへ用をききに顔を出す。短い袴(はかま)、浅黄色(あさぎいろ)の襦袢(じゅばん)の襟(えり)、前髪をとった額越(ひたいご)しにこちらを見る少年らしい目つきの若々しさは、半蔵らにもありし日のことを思い出させずには置かなかった。
「そうかなあ。自分らもあんなだったかなあ。わたしが弁当持ちで、宮川先生の家へ通い初めたのは、ちょうど今の勝重さんの年でしたよ。」
と半蔵は友だちに言って見せた。
そろそろ香蔵は中津川の家の方のことを心配し出した。強風強雨が来たあとの様子が追い追いわかって見ると、荒町(あらまち)には風のために吹きつぶされた家もある。峠の村にも半つぶれの家があり、棟(むね)に打たれて即死した馬さえある。そこいらの畠(はたけ)の麦が残らず倒れたなぞは、風あたりの強い馬籠峠の上にしてもめずらしいことだ。
おまんは店座敷へ来て、
「香蔵さん、お宅の方でも御心配なすっていらっしゃるでしょうが、きょうお帰し申したんじゃ、わたしどもが心配です。吾家(うち)の佐吉に風呂(ふろ)でも焚(た)かせますに、もう一日|御逗留(ごとうりゅう)なすってください。年寄りの言うことをきいてください。」
と言って勧めた。この継母がはいって来ると、半蔵は急にすわり直した。おまんの前では、崩(くず)している膝(ひざ)でもすわり直すのが半蔵の癖のようになっていた。
「ごめんください。」
と子供に言って見せる声がして、部屋(へや)の敷居をまたごうとする幼いものを助けながら、そこへはいって来たのは半蔵の妻だ。娘のお粂(くめ)は五つになるが、下に宗太(そうた)という弟ができてから、にわかに姉さんらしい顔つきで、お民に連れられながら、客のところへ茶を運んで来た。一心に客の方をめがけて、茶をこぼすまいとしながら歩いて来るその様子も子供らしい。
「まあ、香蔵さん、見てやってください。」とおまんは言った。「お粂があなたのところへお茶を持ってまいりましたよ。」
「この子が自分で持って行くと言って、きかないんですもの。」とお民も笑った。
半蔵の家では子供まで来て、雨に逗留する客をもてなした。
とうとう香蔵は二晩も馬籠に泊まった。東|美濃(みの)から伊那(いな)の谷へかけての平田門人らとも互いに連絡を取ること、場合によっては京都、名古屋にある同志のものを応援することを半蔵に約して置いて、三日目には香蔵は馬籠の本陣を辞した。
友だちが帰って行ったあとになって見ると、半蔵は一層わびしい雨の日を山の上に送った。四日目になっても雨は降り続き、風もすこし吹いて、橋の損所や舞台の屋根を修繕するために村じゅう一軒に一人(ひとり)ずつは出た。雨間(あまま)というものがすこしもなく、雲行きは悪く、荒れ気味で安心がならなかった。村には長雨のために、壁がいたんだり、土の落ちたりした土蔵もある。五日目も雨、その日になると、崖(がけ)になった塩沢あたりの道がぬける。香蔵が帰って行った中津川の方の大橋付近では三軒の人家が流失するという騒ぎだ。日に日に木曾川の水は増し、橋の通行もない。街道は往来止めだ。
ようやく五月の十七日ごろになって、上り下りの旅人が動き出した。尾張藩の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、普請役|御目付(おめつけ)、錦織(にしこうり)の奉行、いずれも江戸城本丸の建築用材を見分(けんぶん)のためとあって、この森林地帯へ入り込んで来る。美濃地方が風雨のために延引となっていた長崎御目付の通行がそのあとに続く。
「黒船騒ぎも、もうたくさんだ。」
そう思っている半蔵は、また木曾人足百人、伊那の助郷(すけごう)二百人を用意するほどの長崎御目付の通行を見せつけられた。遠く長崎の港の方には、新たにドイツの船がはいって来て、先着のヨーロッパ諸国と同じような通商貿易の許しを求めるために港内に碇泊(ていはく)しているとのうわさもある。 

七月を迎えるころには、寛斎は中津川の家を養子に譲り、住み慣れた美濃の盆地も見捨て、かねて老後の隠棲(いんせい)の地と定めて置いた信州伊那の谷の方へ移って行った。馬籠にはさびしく旧師を見送る半蔵が残った。
「いよいよ先生ともお別れか。」
と半蔵は考えて、本陣の店座敷の戸に倚(よ)りながら、寛斎が引き移って行った谷の方へ思いを馳(は)せた。隣宿|妻籠(つまご)から伊那への通路にあたる清内路(せいないじ)には、平田門人として半蔵から見れば先輩の原|信好(のぶよし)がある。御坂峠(みさかとうげ)、風越峠(かざこしとうげ)なぞの恵那(えな)山脈一帯の地勢を隔てた伊那の谷の方には、飯田(いいだ)にも、大川原にも、山吹(やまぶき)にも、座光寺にも平田同門の熱心な先輩を数えることができる。その中には、篤胤大人|畢生(ひっせい)の大著でまだ世に出なかった『古史伝』三十一巻の上木(じょうぼく)を思い立つ座光寺の北原稲雄(きたはらいなお)のような人がある。古学研究の筵(むしろ)を開いて、先師遺著の輪講を思い立つ山吹の片桐春一(かたぎりしゅんいち)のような人がある。年々|寒露(かんろ)の節に入る日を会日と定め、金二分とか、金半分とかの会費を持ち寄って、地方にいて書籍を購読するための書籍講というものを思い立つものもある。
半蔵の周囲には、驚くばかり急激な勢いで、平田派の学問が伊那地方の人たちの間に伝播(でんぱ)し初めた。飯田の在の伴野(ともの)という村には、五十歳を迎えてから先師没後の門人に加わり、婦人ながらに勤王の運動に身を投じようとする松尾多勢子(まつおたせこ)のような人も出て来た。おまけに、江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田|鉄胤(かねたね)のようなよい相続者があって、地方にある門人らを指導することを忘れていなかった。一切の入門者がみな篤胤没後の門人として取り扱われた。決して鉄胤の門人とは見なされなかった。半蔵にして見ると、彼はこの伊那地方の人たちを東美濃の同志に結びつける中央の位置に自分を見いだしたのである。賀茂真淵(かものまぶち)から本居宣長、本居宣長から平田篤胤と、諸大人の承(う)け継ぎ承け継ぎして来たものを消えない学問の燈火(ともしび)にたとえるなら、彼は木曾のような深い山の中に住みながらも、一方には伊那の谷の方を望み、一方には親しい友だちのいる中津川から、落合、附智(つけち)、久々里(くくり)、大井、岩村、苗木(なえぎ)なぞの美濃の方にまで、あそこにも、ここにもと、その燈火を数えて見ることができた。
当時の民間にある庄屋(しょうや)たちは、次第にその位置を自覚し始めた。さしあたり半蔵としては、父|吉左衛門(きちざえもん)から青山の家を譲られる日のことを考えて見て、その心じたくをする必要があった。吉左衛門と、隣家の金兵衛(きんべえ)とが、二人(ふたり)ともそろって木曾福島の役所あてに退役願いを申し出たのも、その年、万延(まんえん)元年の夏のはじめであったからで。
長いこと地方自治の一単位とも言うべき村方の世話から、交通輸送の要路にあたる街道一切の面倒まで見て、本陣問屋庄屋の三役を兼ねた吉左衛門と、年寄役の金兵衛とが二人ともようやく隠退を思うころは、吉左衛門はすでに六十二歳、金兵衛は六十四歳に達していた。もっとも、父の退役願いがすぐにきき届けられるか、どうかは、半蔵にもわからなかったが。
時には、半蔵は村の見回りに行って、そこいらを出歩く父や金兵衛にあう。吉左衛門ももう杖(つえ)なぞを手にして、新たに養子を迎えたお喜佐(きさ)(半蔵の異母妹)の新宅を見回りに行くような人だ。金兵衛は、と見ると、この隣人は袂(たもと)に珠数(じゅず)を入れ、かつては半蔵の教え子でもあった亡(な)き鶴松(つるまつ)のことを忘れかねるというふうで、位牌所(いはいじょ)を建立(こんりゅう)するとか、木魚(もくぎょ)を寄付するとかに、何かにつけて村の寺道の方へ足を運ぼうとするような人だ。問屋の九太夫にもあう。
「九太夫さんも年を取ったなあ。」
そう想(おも)って見ると、金兵衛の家には美濃の大井から迎えた伊之助(いのすけ)という養子ができ、九太夫の家にはすでに九郎兵衛(くろべえ)という後継(あとつ)ぎがある。
半蔵は家に戻(もど)ってからも、よく周囲(あたり)を見回した。妻をも見て言った。
「お民、ことしか来年のうちには、お前も本陣の姉(あね)さまだぜ。」
「わかっていますよ。」
「お前にこの家がやれるかい。」
「そりゃ、わたしだって、やれないことはないと思いますよ。」
先代の隠居半六から四十二歳で家督を譲られた父吉左衛門に比べると、半蔵の方はまだ十二年も若い。それでももう彼のそばには、お民のふところへ子供らしい手をさし入れて、乳房(ちぶさ)を探ろうとする宗太がいる。朴(ほお)の葉に包んでお民の与えた熱い塩結飯(しおむすび)をうまそうに頬張(ほおば)るような年ごろのお粂(くめ)がいる。
半蔵は思い出したように、
「ごらん、吾家(うち)の阿爺(おやじ)はことしで勤続二十一年だ、見習いとして働いた年を入れると、実際は三十七、八年にもなるだろう。あれで祖父(おじい)さんもなかなか頑張(がんば)っていて、本陣庄屋の仕事を阿爺(おやじ)に任せていいとは容易に言わなかった。それほど大事を取る必要もあるんだね。おれなぞは、お前、十七の歳(とし)から見習いだぜ。しかし、おれはお前の兄さん(寿平次)のように事務の執れる人間じゃない。お大名を泊めた時の人数から、旅籠賃(はたごちん)がいくらで、燭台(しょくだい)が何本と事細かに書き留めて置くような、そういうことに適した人間じゃない――おれは、こんなばかな男だ。」
「どうしてそんなことを言うんでしょう。」
「だからさ。今からそれをお前に断わって置く。お前の兄さんもおもしろいことを言ったよ。庄屋としては民意を代表するし、本陣問屋としては諸街道の交通事業に参加すると想(おも)って見たまえ、とさ。しかし、おれも庄屋の子だ。平田先生の門人の一人(ひとり)だ。まあ、おれはおれで、やれるところまでやって見る。」
「半蔵さま、福島からお差紙(さしがみ)(呼び出し状)よなし。ここはどうしても、お前さまに出ていただかんけりゃならん。」
村方のものがそんなことを言って、半蔵のところへやって来た。
村民同志の草山の争いだ。いたるところに森林を見る山間の地勢で、草刈る場所も少ない土地を争うところから起こって来る境界のごたごただ。草山口論ということを約(つづ)めて、「山論(さんろん)」という言葉で通って来たほど、これまでとてもその紛擾(ふんじょう)は木曾山に絶えなかった。
銭相場引き上げ、小判買い、横浜交易なぞの声につれて、一方には財界変動の機会に乗じ全盛を謳(うた)わるる成金もあると同時に、細民の苦しむこともおびただしい。米も高い。両に四斗五升もした。大豆(だいず)一|駄(だ)二両三分、酒一升二百三十二文、豆腐一丁四十二文もした。諸色(しょしき)がこのとおりだ。世間一統動揺して来ている中で、村民の心がそう静かにしていられるはずもなかった。山論までが露骨になって来た。
しかし半蔵にとって、大(おお)げさに言えば血で血を洗うような、こうした百姓同志の争いほど彼の心に深い悲しみを覚えさせるものもなかった。福島役所への訴訟沙汰(そしょうざた)にまでなった山論――訴えた方は隣村湯舟沢の村民、訴えられた方は馬籠宿内の一部落にあたる峠村の百姓仲間である。山論がけんかになって、峠村のものが鎌(かま)十五|挺(ちょう)ほど奪い取られたのは過ぐる年の夏のことで、いったんは馬籠の宿役人が仲裁に入り、示談になったはずの一年越しの事件だ。この争いは去年の二百二十日から九月の二十日ごろまで、およそ二か月にもわたった。そのおりには隣宿妻籠|脇本陣(わきほんじん)の扇屋得右衛門(おうぎやとくえもん)から、山口村の組頭(くみがしら)まで立ち合いに来て、草山の境界を見分するために一同弁当持参で山登りをしたほどであった。ところが、湯舟沢村のものから不服が出て、その結果は福島の役所にまで持ち出されるほど紛(もつ)れたのである。二人の百姓総代は峠村からも馬籠の下町からも福島に呼び出された。両人のものが役所に出頭して見ると、直ちに入牢(にゅうろう)を仰せ付けられて、八沢(やさわ)送りとなった。福島からは別に差紙(さしがみ)が来て、年寄役付き添いの上、馬籠の庄屋に出頭せよとある。今は、半蔵も躊躇(ちゅうちょ)すべき時でない。
「お民、おれはお父(とっ)さんの名代(みょうだい)に、福島まで行って来る。」
と妻に言って、彼は役所に出頭する時の袴(はかま)の用意なぞをさせた。自分でも着物を改めて、堅く帯をしめにかかった。
「どうも人気(にんき)が穏やかでない。」
父、吉左衛門はそれを半蔵に言って、福島行きのしたくのできるのを待った。
この父は自分の退役も近づいたという顔つきで、本陣の囲炉裏ばたに続いた寛(くつろ)ぎの間(ま)の方へ行って、その部屋(へや)の用箪笥(ようだんす)から馬籠湯舟沢両村の古い絵図なぞを取り出して来た。
「半蔵、これも一つの参考だ。」
と言って子の前に置いた。
「双方入り合いの草刈り場所というものは、むずかしいよ。山論、山論で、そりゃ今までだってもずいぶんごたごたしたが、大抵は示談で済んで来たものだ。」
とまた吉左衛門は軽く言って、早く不幸な入牢者を救えという意味を通わせた。
湯舟沢の方の百姓は、組頭(くみがしら)とも、都合八人のものが福島の役所に呼び出された。馬籠では、年寄役の儀助、同役|与次衛門(よじえもん)、それに峠の組頭平助がすでに福島へ向けて立って行った。なお、年寄役金兵衛の名代(みょうだい)として、隣家の養子伊之助も半蔵のあとから出かけることになっている。草山口論も今は公(おおやけ)の場処に出て争おうとする御用の山論一条だ。
これらの年寄役は互いに代わり合って、半蔵の付き添いとして行くことになったのだ。
「おれも退役願いを出したくらいだから、今度は顔を出すまいよ。」
と父が言葉を添えるころには、峠の組頭平助が福島から引き返して、半蔵を迎えに来た。半蔵は平助の付き添いに力を得て、脚絆(きゃはん)に草鞋(わらじ)ばき尻端折(しりはしょ)りのかいがいしい姿になった。
諸国には当時の厳禁なる百姓|一揆(いっき)も起こりつつあった。しかし半蔵は、村の長老たちが考えるようにそれを単なる農民の謀反(むほん)とは見なせなかった。百姓一揆の処罰と言えば、軽いものは笞(むち)、入墨(いれずみ)、追い払い、重いものは永牢(えいろう)、打ち首のような厳刑はありながら、進んでその苦痛を受けようとするほどの要求から動く百姓の誠実と、その犠牲的な精神とは、他の社会に見られないものである。当時の急務は、下民百姓を教えることではなくて、あべこべに下民百姓から教えられることであった。
「百姓には言挙(ことあ)げということもさらにない。今こそ草山の争いぐらいでこんな内輪げんかをしているが、もっと百姓の目をさます時が来る。」
そう半蔵は考えて、庄屋としての父の名代(みょうだい)を勤めるために、福島の役所をさして出かけて行くことにした。
家を離れてから、彼はそこにいない人たちに呼びかけるように、ひとり言って見た。
「同志打ちはよせ。今は、そんな時世じゃないぞ。」 

十三日の後には、福島へ呼び出されたものも用済みになり、湯舟沢峠両村の百姓の間には和解が成り立った。
八沢の牢舍(ろうや)を出たもの、証人として福島の城下に滞在したもの、いずれも思い思いに帰村を急ぎつつあった。十四日目には、半蔵は隣家の伊之助と連れだって、峠の組頭平助とも一緒に、暑い木曾路を西に帰って来る人であった。
福島から須原(すはら)泊まりで、山論和解の報告をもたらしながら、半蔵が自分の家の入り口まで引き返して来た時は、ちょうど門内の庭|掃除(そうじ)に余念もない父を見た。
「半蔵が帰りましたよ。」
おまんはだれよりも先に半蔵を見つけて、店座敷の前の牡丹(ぼたん)の下あたりを掃いている吉左衛門にそれを告げた。
「お父(とっ)さん、行ってまいりました。」
半蔵は表庭の梨(なし)の木の幹に笠(かさ)を立てかけて置いて、汗をふいた。その時、簡単に、両村のものの和解をさせて来たあらましを父に告げた。双方入り合いの草刈り場所を定めたこと、新たに土塚(つちづか)を築いて境界をはっきりさせること、最寄(もよ)りの百姓ばかりがその辺へは鎌(かま)を入れることにして、一同福島から引き取って来たことを告げた。
「それはまあ、よかった。お前の帰りがおそいから心配していたよ。」
と吉左衛門は庭の箒(ほうき)を手にしたままで言った。
もはや秋も立つ。馬籠あたりに住むものがきびしい暑さを口にするころに、そこいらの石垣(いしがき)のそばでは蟋蟀(こおろぎ)が鳴いた。半蔵はその年の盆も福島の方で送って来て、さらに村民のために奔走しなければならないほどいそがしい思いをした。
やがて両村立ち合いの上で、かねて争いの場処である草山に土塚を築(つ)き立てる日が来た。半蔵は馬籠の惣役人(そうやくにん)と、百姓|小前(こまえ)のものを連れて、草いきれのする夏山の道をたどった。湯舟沢からは、庄屋、組頭四人、百姓全部で、両村のものを合わせるとおよそ二百人あまりの人数が境界の地点と定めた深い沢に集まった。
「そんなとろくさいことじゃ、だちかん。」
「うんと高く土を盛れ。」
半蔵の周囲には、口々に言いののしる百姓の声が起こる。
四つの土塚がその境界に築(つ)き立てられることになった。あるものは洞(ほら)が根(ね)先の大石へ見通し、あるものは向こう根の松の木へ見通しというふうに。そこいらが掘り返されるたびに、生々(なまなま)しい土の臭気が半蔵の鼻をつく。工事が始まったのだ。両村の百姓は、藪蚊(やぶか)の襲い来るのも忘れて、いずれも土塚の周囲に集合していた。
その時、背後(うしろ)から軽く半蔵の肩をたたくものがある。隣村|妻籠(つまご)の庄屋として立ち合いに来た寿平次が笑いながらそこに立っていた。
「寿平次さん、泊まっていったらどうです。」
「いや、きょうは連れがあるから帰ります。二里ぐらいの夜道はわけありません。」
半蔵と寿平次とがこんな言葉をかわすころは、山で日が暮れた。四番目の土塚を見分する時分には、松明(たいまつ)をともして、ようやく見通しをつけたほど暗い。境界の中心と定めた樹木から、ある大石までの間に土手を掘る工事だけは、余儀なく翌日に延ばすことになった。
雨にさまたげられた日を間に置いて、翌々日にはまた両村の百姓が同じ場所に集合した。半蔵は妻籠からやって来る寿平次と一緒になって、境界の土手を掘る工事にまで立ち合った。一年越しにらみ合っていた両村の百姓も、いよいよ双方得心ということになり、長い山論もその時になって解決を告げた。
日暮れに近かった。半蔵は寿平次を誘いながら家路をさして帰って行った。横須賀の旅以来、二人は一層親しく往来する。義理ある兄弟(きょうだい)であるばかりでなく、やがて二人は新進の庄屋仲間でもある。
「半蔵さん、」と寿平次は石ころの多い山道を歩きながら言った。「すべてのものが露骨になって来ましたね。」
「さあねえ。」と半蔵が答えた。
「でも、半蔵さん、この山論はどうです。いや、草山の争いばかりじゃありません、見るもの聞くものが、実に露骨になって来ましたね。こないだも、水戸(みと)の浪人(ろうにん)だなんていう人が吾家(うち)へやって来て、さんざん文句を並べたあげくに、何か書くから紙と筆を貸せと言い出しました。扇子(せんす)を二本書かせたところが、酒を五合に、銭を百文、おまけに草鞋(わらじ)一足ねだられましたよ。早速(さっそく)追い出しました。あの浪人はぐでぐでに酔って、その足で扇屋へもぐずり込んで、とうとう得右衛門(とくえもん)さんの家に寝込んでしまったそうですよ。見たまえ、この街道筋にもえらい事がありますぜ。長崎の御目付(おめつけ)がお下りで通行の日でさ。永井(ながい)様とかいう人の家来が、人足がおそいと言うんで、わたしの村の問屋と口論になって、都合五人で問屋を打ちすえました。あの時は木刀が折れて、問屋の頭には四か所も疵(きず)ができました。やり方がすべて露骨じゃありませんか。君と二人(ふたり)で相州の三浦へ出かけた時分さ――あのころには、まだこんなじゃありませんでしたよ。」
「お師匠さま。」
夕闇(ゆうやみ)の中に呼ぶ少年の声と共に、村の方からやって来る提灯(ちょうちん)が半蔵たちに近づいた。半蔵の家のものは帰りにおそくなるのを心配して、弟子(でし)の勝重(かつしげ)に下男の佐吉をつけ、途中まで迎えによこしたのだ。
山の上の宿場らしい燈火(あかり)が街道の両側にかがやくころに、半蔵らは馬籠の本陣に帰り着いた。家にはお民が風呂(ふろ)を用意して、夫や兄を待ち受けているところだった。その晩は、寿平次も山登りの汗を洗い流して、半蔵の部屋(へや)に来てくつろいだ。
「木曾は蠅(はえ)の多いところだが、蚊帳(かや)を釣(つ)らずに暮らせるのはいい。水の清いのと、涼しいのと、そのせいだろうかねえ。」
と寿平次が兄らしく話しかけることも、お民をよろこばせた。
「お民、お母(っか)さんに内証で、今夜はお酒を一本つけておくれ。」
と半蔵は言った。その年になってもまだ彼は継母の前で酒をやることを遠慮している。どこまでも継母に仕えて身を慎もうとすることは、彼が少年の日からであって、努めに努めることは第二の天性のようになっている。彼は、経験に富む父よりも、賢い継母のおまんを恐れている。
酒のさかなには、冷豆腐(ひややっこ)、薬味、摺(す)り生薑(しょうが)に青紫蘇(あおじそ)。それに胡瓜(きゅうり)もみ、茄子(なす)の新漬(しんづ)けぐらいのところで、半蔵と寿平次とは涼しい風の来る店座敷の軒近いところに、めいめい膳(ぜん)を控えた。
「ここへ来ると思い出すなあ。あの横須賀行きの半蔵さんを誘いに来て、一晩泊めていただいたのもこの部屋(へや)ですよ。」
「あの時分と見ると、江戸も変わったらしい。」
「大変(おおか)わり。こないだも江戸|土産(みやげ)を吾家(うち)へ届けてくれた飛脚がありましてね、その人の話には攘夷論(じょういろん)が大変な勢いだそうですね。浪人は諸方に乱暴する、外国人は殺される、洋学者という洋学者は脅迫される。江戸市中の唐物店(とうぶつや)では店を壊(こわ)される、実に物すごい世の中になりましたなんて、そんな話をして行きましたっけ。」
「表面だけ見れば、そういうこともあるかもしれません。」
「しかし、半蔵さん、こんなに攘夷なんてことを言い出すようになって来て――それこそ、猫(ねこ)も、杓子(しゃくし)もですよ――これで君、いいでしょうかね。」
疲労を忘れる程度に盃(さかずき)を重ねたあとで、半蔵はちょっと座をたって、廂(ひさし)から外の方に夜の街道の空をながめた。田の草取りの季節らしい稲妻のひらめきが彼の目に映った。
「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢(から)ごころ』ですよ。外国を夷狄(いてき)の国と考えてむやみに排斥するのは、やっぱり唐土(もろこし)から教わったことじゃありませんか。」
「寿平次さんはなかなかえらいことを言う。」
「そりゃ君、今日(こんにち)の外国は昔の夷狄(いてき)の国とは違う。貿易も、交通も、世界の大勢で、やむを得ませんさ。わたしたちはもっとよく考えて、国を開いて行きたい。」
その時、半蔵はもとの座にかえって、寿平次の前にすわり直した。
「あゝあゝ、変な流行だなあ。」と寿平次は言葉を継いで、やがて笑い出した。「なんぞというと、すぐに攘夷をかつぎ出す。半蔵さん。君のお仲間は今日流行の攘夷をどう思いますかさ。」
「流行なんて、そんな寿平次さんのように軽くは考えませんよ。君だってもこの社会の変動には悩んでいるんでしょう。良い小判はさらって行かれる、物価は高くなる、みんなの生活は苦しくなる――これが開港の結果だとすると、こんな排外熱の起こって来るのは無理もないじゃありませんか。」
二人(ふたり)が時を忘れて話し込んでいるうちに、いつのまにか夜はふけて行った。酒はとっくにつめたくなり、丼(どんぶり)の中の水に冷やした豆腐も崩(くず)れた。  

平田|篤胤(あつたね)没後の門人らは、しきりに実行を思うころであった。伊那(いな)の谷の方のだれ彼は白河(しらかわ)家を足だまりにして、京都の公卿(くげ)たちの間に遊説(ゆうぜい)を思い立つものがある。すでに出発したものもある。江戸在住の平田|鉄胤(かねたね)その人すら動きはじめたとの消息すらある。
当時は井伊大老横死のあとをうけて、老中|安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)を幕府の中心とする時代である。だれが言い出したとも知れないような流言が伝わって来る。和学講談所(主として有職故実(ゆうそくこじつ)を調査する所)の塙(はなわ)次郎という学者はひそかに安藤対馬の命を奉じて北条(ほうじょう)氏廃帝の旧例を調査しているが、幕府方には尊王攘夷説の根源を断つために京都の主上を幽(ゆう)し奉ろうとする大きな野心がある。こんな信じがたいほどの流言が伝わって来るころだ。当時の外国奉行|堀織部(ほりおりべ)の自殺も多くの人を驚かした。そのうわさもまた一つの流言を生んだ。安藤対馬はひそかに外国人と結託している。英国公使アールコックに自分の愛妾(あいしょう)まで与え許している、堀織部はそれを苦諫(くかん)しても用いられないので、刃(やいば)に伏してその意を致(いた)したというのだ。流言は一編の偽作の諫書にまでなって、漢文で世に行なわれた。堀織部の自殺を憐(あわれ)むものが続々と出て来て、手向(たむ)けの花や線香がその墓に絶えないというほどの時だ。
だれもがこんな流言を疑い、また信じた。幕府の威信はすでに地を掃(はら)い、人心はすでに徳川を離れて、皇室再興の時期が到来したというような声は、血気|壮(さか)んな若者たちの胸を打たずには置かなかった。
その年の八月には、半蔵は名高い水戸(みと)の御隠居(烈公)の薨去(こうきょ)をも知った。吉左衛門親子には間接な主人ながらに縁故の深い尾張藩主(徳川|慶勝(よしかつ))をはじめ、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、山内容堂(やまのうちようどう)、その他安政大獄当時に幽屏(ゆうへい)せられた諸大名も追い追いと謹慎を解かれる日を迎えたが、そういう中にあって、あの水戸の御隠居ばかりは永蟄居(えいちっきょ)を免ぜられたことも知らずじまいに、江戸|駒込(こまごめ)の別邸で波瀾(はらん)の多い生涯(しょうがい)を終わった。享年六十一歳。あだかも生前の政敵井伊大老のあとを追って、時代から沈んで行く夕日のように。
半蔵が年上の友人、中津川本陣の景蔵は、伊那にある平田同門北原稲雄の親戚(しんせき)で、また同門松尾|多勢子(たせこ)とも縁つづきの間柄である。この人もしばらく京都の方に出て、平田門人としての立場から多少なりとも国事に奔走したいと言って、半蔵のところへもその相談があった。日ごろ謙譲な性質で、名聞(みょうもん)を好まない景蔵のような友人ですらそうだ。こうなると半蔵もじっとしていられなかった。
父は老い、街道も日に多事だ。本陣問屋庄屋の仕事は否(いや)でも応(おう)でも半蔵の肩にかかって来た。その年の十月十九日の夜にはまた、馬籠の宿は十六軒ほど焼けて、半蔵の生まれた古い家も一晩のうちに灰になった。隣家の伏見屋、本陣の新宅、皆焼け落ちた。風あたりの強い位置にある馬籠峠とは言いながら、三年のうちに二度の大火は、村としても深い打撃であった。
翌|文久(ぶんきゅう)元年の二月には、半蔵とお民は本陣の裏に焼け残った土蔵のなかに暮らしていた。土蔵の前にさしかけを造り、板がこいをして、急ごしらえの下竈(したへっつい)を置いたところには、下女が炊事をしていた。土蔵に近く残った味噌納屋(みそなや)の二階の方には、吉左衛門夫妻が孫たちを連れて仮住居(かりずまい)していた。二間ほど座敷があって、かつて祖父半六が隠居所にあててあったのもその二階だ。その辺の石段を井戸の方へ降りたところから、木小屋、米倉なぞのあるあたりへかけては、火災をまぬかれた。そこには佐吉が働いていた。
旧暦二月のことで、雪はまだ地にある。半蔵は仮の雪隠(せっちん)を出てから、焼け跡の方を歩いて、周囲を見回した。上段の間、奥の間、仲の間、次の間、寛(くつろ)ぎの間、店座敷、それから玄関先の広い板の間など、古い本陣の母屋(もや)の部屋(へや)部屋は影も形もない。灰寄せの人夫が集まって、釘(くぎ)や金物の類(たぐい)を拾った焼け跡には、わずかに街道へ接した塀(へい)の一部だけが残った。
さしあたりこの宿場になくてかなわないものは、会所(宿役人寄合所)だ。幸い九太夫の家は火災をまぬかれたので、仮に会所はそちらの方へ移してある。問屋場の事務も従来吉左衛門の家と九太夫の家とで半月交替に扱って来たが、これも一時九太夫方へ移してある。すべてが仮(かり)で、わびしく、落ち着かなかった。吉左衛門は半蔵に力を添えて、大工を呼べ、新しい母屋の絵図面を引けなどと言って、普請工事の下相談もすでに始まりかけているところであった。
京都にある帝(みかど)の妹君、和宮内親王(かずのみやないしんのう)が時の将軍(徳川|家茂(いえもち))へ御降嫁とあって、東山道(とうさんどう)御通行の触れ書が到来したのは、村ではこの大火後の取り込みの最中であった。
宿役人一同、組頭(くみがしら)までが福島の役所から来た触れ書を前に置いて、談(はな)し合わねばならないような時がやって来た。この相談には、持病の咳(せき)でこもりがちな金兵衛までが引っぱり出された。
吉左衛門は味噌納屋の二階から、金兵衛は上の伏見屋の仮住居(かりずまい)から、いずれも仮の会所の方に集まった。その時、吉左衛門は旧(ふる)い友だちを見て、
「金兵衛さん、馬籠の宿でも御通行筋の絵図面を差し出せとありますよ。」
と言って、互いに額(ひたい)を集めた。
本陣問屋庄屋としての仕事はこんなふうに、あとからあとからと半蔵の肩に重くかかって来た。彼は何をさし置いても、年取った父を助けて、西よりする和宮様の御一行をこの木曾路に迎えねばならなかった。 
第六章

 


和宮様(かずのみやさま)御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動をよび起こした。従来、皇室と将軍家との間に結婚の沙汰(さた)のあったのは、前例のないことでもないが、種々な事情から成り立たなかった。それの実現されるようになったのは全く和宮様を初めとするという。おそらくこれは盛典としても未曾有(みぞう)、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった。
木曾谷(きそだに)、下(しも)四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされなかった。彼らは一度は恐縮し、一度は当惑した。多年の経験が教えるように、この街道の輸送に役立つ御伝馬(おてんま)には限りがある。木曾谷中の人足を寄せ集めたところで、その数はおおよそ知れたものである。それにはどうしても伊那(いな)地方の村民を動かして、多数な人馬を用意し、この未曾有の大通行に備えなければならない。
木曾街道六十九次の宿場はもはや嘉永(かえい)年度の宿場ではなかった。年老いた吉左衛門や金兵衛がいつまでも忘れかねているような天保(てんぽう)年度のそれではもとよりなかった。いつまで伊那の百姓が道中奉行の言うなりになって、これほど大がかりな人馬の徴集に応ずるかどうかはすこぶる疑問であった。
馬は四分より一|疋(ぴき)出す。人足は五分より一人(ひとり)出す。人馬共に随分丈夫なものを出す。老年、若輩、それから弱馬などは決して出すまい。
これは伊那地方の村民総代と木曾谷にある下四宿の宿役人との間に取りかわされた文化(ぶんか)年度以来の契約である。馬の四分とか、人足の五分とかは、石高(こくだか)に応じての歩合(ぶあい)をさして言うことであって、村々の人馬はその歩合によって割り当てを命じられて来た。もっともこの歩合は天保年度になって多少改められたが、人馬徴集の大体の方針には変わりがなかった。
宿駅のことを知るには、このきびしい制度のあったことを知らねばならない。これは宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、継立(つぎた)てを応援するために設けられたものであった。この制度がいわゆる助郷(すけごう)だ。徳川政府の方針としては、宿駅付近の郷村にある百姓はみなこれに応ずる義務があるとしてあった。助郷は天下の公役(こうえき)で、進んでそのお触れ当てに応ずべきお定めのものとされていた。この課役を命ずるために、奉行は時に伊那地方を見分した。そして、助郷を勤めうる村々の石高を合計一万三百十一石六斗ほどに見積もり、それを各村に割り当てた。たとえば最も大きな村は千六十四石、最も小さな村は二十四石というふうに。天龍川(てんりゅうがわ)のほとりに住む百姓三十一か村、後には六十五か村のものは、こんなふうにして彼らの鍬(くわ)を捨て、彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたる風越山(かざこしやま)の山道を越して、お触れ当てあるごとにこの労役に参加して来た。
旅行も困難な時代であるとは言いながら、参覲交代(さんきんこうたい)の諸大名、公用を帯びた御番衆方(おばんしゅうかた)なぞの当時の通行が、いかに大げさのものであったかを忘れてはならない。徴集の命令のあるごとに、助郷を勤める村民は上下二組に分かれ、上組は木曾の野尻(のじり)と三留野(みどの)の両宿へ、下組は妻籠(つまご)と馬籠(まごめ)の両宿へと出、交代に朝勤め夕勤めの義務に服して来た。もし天龍川の出水なぞで川西の村々にさしつかえの生じた時は、総助郷で出動するという堅い取りきめであった。徳川政府がこの伝馬制度を重くみた証拠には、直接にそれを道中奉行所の管理の下に置いたのでもわかる。奉行は各助郷に証人を兼ねるものを出勤させ、また、人馬の公用を保証するためには権威のある印鑑を造って、それを道中宿々にも助郷加宿にも送り、紛らわしいものもあらば押え置いて早速(さっそく)注進せよというほどに苦心した。いかんせん、百姓としては、御通行の多い季節がちょうど農業のいそがしいころにあたる。彼らは従順で、よく忍耐した。中にはそれでも困窮のあまり、山抜け、谷|崩(くず)れ、出水なぞの口実にかこつけて、助郷不参の手段を執るような村々をさえ生じて来た。
そこへ和宮様の御通行があるという。本来なら、これは東海道経由であるべきところだが、それが模様替えになって、木曾街道の方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人が途(みち)に御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、供奉(ぐぶ)の面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。徳川政府の威信の実際に試(ため)さるるような日が、とうとうやって来た。
寿平次は妻籠の本陣にいた。彼はその自宅の方で、伊那の助郷六十五か村の意向を探りに行った扇屋得右衛門(おうぎやとくえもん)の帰りを待ち受けていた。ちょうど、半蔵が妻のお民も、半年ぶりで実家のおばあさんを見るために、馬籠から着いた時だ。彼女はたまの里帰りという顔つきで、母屋(もや)の台所口から広い裏庭づたいに兄のいるところへもちょっと挨拶(あいさつ)に来た。
「来たね。」
寿平次の挨拶は簡単だ。
そこは裏山につづいた田舎風(いなかふう)な庭の一隅(いちぐう)だ。寿平次は十間ばかりの矢場をそこに設け、粗末ながらに小屋を造りつけて、多忙な中に閑(ひま)を見つけては弓術に余念もない。庄屋(しょうや)らしい袴(はかま)をつけ、片肌(かたはだ)ぬぎになって、右の手に※[革+喋のつくり](ゆがけ)の革(かわ)の紐(ひも)を巻きつけた兄をそんなところに見つけるのも、お民としてはめずらしいことだった。
お民は持ち前の快活さで、
「兄さんも、のんきですね。弓なぞを始めたんですか。」
「いくらいそがしいたって、お前、弓ぐらいひかずにいられるかい。」
寿平次は妹の見ている前で、一本の矢を弦(つる)に当てがった。おりから雨があがったあとの日をうけて、八寸ばかりの的(まと)は安土(あづち)の方に白く光って見える。
「半蔵さんも元気かい。」
と妹に話しかけながら、彼は的に向かってねらいを定めた。その時、弦を離れた矢は的をはずれたので、彼はもう一本の方を試みたが、二本とも安土(あづち)の砂の中へ行ってめり込んだ。
この寿平次は安土の方へ一手の矢を抜きに行って、また妹のいるところまで引き返して来る時に言った。
「お民、馬籠のお父(とっ)さん(吉左衛門)や、伏見屋の金兵衛さんの退役願いはどうなったい。」
「あの話は兄さん、おきき届けになりませんよ。」
「ほう。退役きき届けがたしか。いや、そういうこともあろう。」
多事な街道のことも思い合わされて、寿平次はうなずいた。
「お民、お前も骨休めだ。まあ二、三日、妻籠で寝て行くさ。」
「兄さんの言うこと。」
兄妹(きょうだい)がこんな話をしているところへ、つかつかと庭を回って伊那から帰ったばかりの顔を見せたのは、日ごろ勝手を知った得右衛門である。伊那でも有力な助郷総代を島田村や山村に訪(たず)ねるのに、得右衛門はその適任者であるばかりでなく、妻籠|脇本陣(わきほんじん)の主人として、また、年寄役の一人(ひとり)として、寿平次の父が早く亡(な)くなってからは何かにつけて彼の後見役(こうけんやく)となって来たのもこの得右衛門である。得右衛門の家で造り酒屋をしているのも、馬籠の伏見屋によく似ていた。
寿平次はお民に目くばせして、そこを避けさせ、母屋(もや)の方へ庭を回って行く妹を見送った。小屋の荒い壁には弓をたてかけるところもある。彼は※[革+喋のつくり](ゆがけ)の紐(ひも)を解いて、その隠れた静かな場所に気の置けない得右衛門を迎えた。
得右衛門の報告は、寿平次が心配して待っていたとおりだった。伊那助郷が木曾にある下四宿の宿役人を通し、あるいは直接に奉行所にあてて愁訴を企てたのは、その日に始まったことでもない。三十一か村の助郷を六十五か村で分担するようになったのも、実は愁訴の結果であった。ずっと以前の例によると、助郷を勤める村々は五か年を平均して、人足だけでも一か年の石高(こくだか)百石につき、十七人二分三厘三毛ほどに当たる。しかしこれは天保年度のことで、助郷の負担は次第に重くなって来ている。ことに、黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されて嶮岨(けんそ)な木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、継立(つぎた)てにもさしつかえるような村々が出て来た。いったい、助郷人足が宿場の勤めは一日であっても、山を越して行くには前の日に村方を出て、その晩に宿場に着き、翌日勤め、継ぎ場の遠いところへ継ぎ送って宿場へ帰ると、どうしてもその晩は村方へ帰りがたい。一日の勤めに前後三日、どうかすると四日を費やし、あまつさえ泊まりの食物の入費も多く、折り返し使わるる途中で小遣銭(こづかいせん)もかかり、その日に取った人馬賃銭はいくらも残らない。ことさら遠い村方ではこの労役に堪(た)えがたく、問屋とも相談の上でお触れ当ての人馬を代銭で差し出すとなると、この夫銭(ぶせん)がまたおびただしい高に上る。村々の痛みは一通りではない。なかなか宿駅常備の御伝馬ぐらいではおびただしい入用に不足するところから、助郷村々では人馬を多く差し出し、その勤めも続かなくなって来た。おまけに、諸色(しょしき)は高く、農業にはおくれ、女や老人任せで田畠(たはた)も荒れるばかり。こんなことで、どうして百姓の立つ瀬があろう。なんとかして村民の立ち行くように、宿方の役人たちにもよく考えて見てもらわないことには、助郷総代としても一同の不平をなだめる言葉がない。今度という今度は、容易に請状(うけじょう)も出しかねるというのが助郷側の言い分である。
「いや、大(おお)やかまし。」と得右衛門は言葉をついだ。「そこをわたしがよく説き聞かせて、なんとかして皆の顔を立てる、お前たちばかりに働かしちゃ置かない。奉行所に願って、助郷を勤める村数を増すことにする。それに尾州藩だってこんな場合に黙って見ちゃいまい。その方からお手当ても出よう。こんな御通行は二度とはあるまいから、と言いましたところが、それじゃ村々のものを集めてよく相談して見ようと先方でも折れて出ましてね、そんな約束でわたしも別れて来ましたよ。」
「そいつはお骨折りでした。早速(さっそく)、奉行所あての願書を作ろうじゃありませんか。野尻(のじり)、三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠(まごめ)、これだけの庄屋連名で出すことにしましょう。たぶん、半蔵さんもこれに賛成だろうと思います。」
「そうなさるがいい。今度わたしも伊那へ行って、つくづくそう思いました。徳川様の御威光というだけでは、百姓も言うことをきかなくなって来ましたよ。」
「そりゃ得右衛門さん、おそい。いったい、諸大名の行列はもっと省いてもいいものでしょう。そうすれば、助郷も助かる。参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言う人もありますよ。」
「こういう庄屋が出て来るんですからねえ。」
その時、寿平次は「今一手」と言いたげに、小屋の壁にたてかけた弓を取りあげて、弦(つる)に松脂(まつやに)を塗っていた。それを見ると、得右衛門も思い出したように、
「伊那の方でもこれが大流行(おおはやり)。武士が刀を質に入れて、庄屋の衆が弓をはじめるか。世の中も変わりましたね。」
「得右衛門さんはそう言うけれど、わたしはもっとからだを鍛えることを思いつきましたよ。ごらんなさい、こう乱脈な世の中になって来ては、蛮勇をふるい起こす必要がありますね。」
寿平次は胸を張り、両手を高くさし延べながら、的に向かって深く息を吸い入れた。左手(ゆんで)の弓を押す力と、右手(めて)の弦をひき絞る力とで、見る見る血潮は彼の頬(ほお)に上り、腕の筋肉までが隆起して震えた。背こそ低いが、彼ももはや三十歳のさかりだ。馬籠の半蔵と競い合って、木曾の「山猿(やまざる)」を発揮しようという年ごろだ。そのそばに立っていて、混ぜ返すような声をかけるのは、寿平次から見れば小父(おじ)さんのような得右衛門である。
「ポツン。」
「そうはいかない。」
とりあえず寿平次らは願書の草稿を作りにかかった。第一、伊那方面は当分たりとも増助郷(ましすけごう)にして、この急場を救い、あわせて百姓の負担を軽くしたい。次ぎに、御伝馬宿々については今回の御下向(ごげこう)のため人馬の継立(つぎた)て方(かた)も嵩(かさ)むから、その手当てとして一宿へ金百両ずつを貸し渡されるよう。ただし十か年賦にして返納する。当時米穀も払底で、御伝馬を勤めるものは皆難渋の際であるから、右百両の金子(きんす)で、米、稗(ひえ)、大豆を買い入れ、人馬役のものへ割り渡したい。一か宿、米五十|駄(だ)、稗(ひえ)五十駄ずつの御救助を仰ぎたい。願書の主意はこれらのことに尽きていた。
下書きはできた。やがて、下四宿の宿役人は妻籠本陣に寄り合うことになった。馬籠からは年寄役金兵衛の名代として、養子伊之助が来た。寿平次、得右衛門、得右衛門が養子の実蔵(じつぞう)もそれに列席した。
「当分の増助郷(ましすけごう)は至極(しごく)もっともだとは思いますが、これが前例になったらどんなものでしょう。」
「さあ、こんな御通行はもう二度とはありますまいからね。」
宿役人の間にはいろいろな意見が出た。その時、得右衛門は伊那の助郷総代の意向を伝え、こんな願書を差し出すのもやむを得ないと述べ、前途のことまで心配している場合でないと力説した。
「どうです、願書はこれでいいとしようじゃありませんか。」
と伊之助が言い出して、各庄屋の調印を求めようということになった。 

例のように寿平次は弓を手にして、裏庭の矢場に隠れていた。彼の胸には木曾福島の役所から来た回状のことが繰り返されていた。それは和宮様(かずのみやさま)の御通行に関係はないが、当時諸国にやかましくなった神葬祭(しんそうさい)の一条で、役所からその賛否の問い合わせが来たからで。
しかし、「うん、神葬祭か」では、寿平次も済まされなかった。早い話が、義理ある兄弟(きょうだい)の半蔵は平田門人の一人(ひとり)であり、この神葬祭の一条は平田派の国学者が起こした復古運動の一つであるらしいのだから。
「おれは、てっきり国学者の運動とにらんだ。ほんとに、あのお仲間は何をやり出すかわからん。」
砂を盛り上げ的を置いた安土(あづち)のところと、十|間(けん)ばかりの距離にある小屋との間を往復しながら、寿平次はひとり考えた。
同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった。しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取り戻(もど)して、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう。これは水戸の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱(いだ)いて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった。彼はひとり言って見た。
「まあ、神葬祭なぞは疑問だ。復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある。」
まだ妹のお民が家に逗留(とうりゅう)していたので、寿平次は弓の道具を取りかたづけ、的もはずし、やがてそれをさげながら、自分の妻のお里(さと)や妹のいる方へ行って一緒になろうとした。裏庭から母屋(もや)の方へ引き返して行くと、店座敷のわきの板の間から、機(はた)を織る筬(おさ)の音が聞こえて来ている。
寿平次の家も妻籠の御城山(おしろやま)のように古い。土地の言い伝えにも毎月三八の日には村市(むらいち)が立ったという昔の時代から続いて来ている青山の家だ。この家にふさわしいものの一つは、今のおばあさん(寿平次|兄妹(きょうだい)の祖母)が嫁に来る前からあったというほど古めかしく錆(さ)び黒ずんだ機(はた)の道具だ。深い窓に住むほど女らしいとされていたころのことで、お里やお民はその機(はた)の置いてあるところに集まって、近づいて来る御通行のおうわさをしたり、十四代将軍(徳川|家茂(いえもち))の御台所(みだいどころ)として降嫁せらるるという和宮様はどんな美しいかただろうなぞと語り合ったりしているところだった。
いくらかでも街道の閑(ひま)な時を見て、手仕事を楽しもうとするこの女たちの世界は、寿平次の目にも楽しかった。織り手のお里は機に腰掛けている。お民はそのそばにいて同(おな)い年齢(どし)の嫂(あによめ)がすることを見ている。周囲には、小娘のお粂(くめ)も母親のお民に連れられて馬籠の方から来ていて、手鞠(てまり)の遊びなぞに余念もない。おばあさんはおばあさんで、すこしもじっとしていられないというふうで、あれもこしらえてお民に食わせたい、これも食わせたいと言いながら、何かにつけて孫が里帰りの日を楽しく送らせようとしている。
その時、お民は兄の方を見て言った。
「兄さんは弓にばかり凝ってるッて、おばあさんがコボしていますよ。」
「おばあさんじゃないんだろう。お前たちがそんなことを言っているんだろう。おれもどうかしていると見えて、きょうの矢は一本も当たらない。そう言えば、半蔵さんは弓でも始めないかなあ。」
「吾夫(うち)じゃ暇さえあれば本を読んだり、お弟子(でし)を教えたりしですよ、男のかたもいろいろですねえ。兄さんは私たちの帯の世話までお焼きなさる方でしょう。吾夫(うち)と来たら、わたしが何を着ていたって、知りゃしません。」
「半蔵さんはそういう人らしい。」
割合に無口なお里は織りかけた田舎縞(いなかじま)の糸をしらべながら、この兄妹(きょうだい)の話に耳を傾けていた。お民は思い出したように、
「どれ、姉さん、わたしにもすこし織らせて。この機(はた)を見ると、わたしは娘の時分が恋しくてなりませんよ。」
「でも、お民さんはそんなことをしていいんですか。」
とお里に言われて、お民は思わず顔を紅(あか)らめた。とかく多病で子供のないのをさみしそうにしているお里に比べると、お民の方は肥(ふと)って、若い母親らしい肉づきを見せている。
「兄さんには、おわかりでしょう。」とお民はまた顔を染めながら言った。「わたしもからだの都合で、またしばらく妻籠へは来られないかもしれません。」
「お前たちはいいよ。結婚生活が順調に行ってる証拠だよ。おれのところをごらん、おれが悪いのか、お里が悪いのか、そこはわからないがね、六年にもなってまだ子供がない。おれはお前たちがうらやましい。」
そこへおばあさんが来た。おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜|土産(みやげ)を置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ取り出して来て見せた。
「これだよ。これはお洗濯(せんたく)する時に使うものだそうなが、使い方はこれをくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、飯田(いいだ)の商人が土産に置いて行ったよ。」
石鹸(せっけん)という言葉もまだなかったほどの時だ。くれる飯田の商人も、もらう妻籠のおばあさんも、シャボンという名さえ知らなかった。おばあさんが紙の包みをあけて見せたものは、異国の花の形にできていて、薄桃色と白とある。
「御覧、よい香気(におい)だこと。」
とおばあさんに言われて、お民は目を細くしたが、第一その香気(におい)に驚かされた。
「お粂(くめ)、お前もかいでごらん。」
お民がその白い方を女の子の鼻の先へ持って行くと、お粂はそれを奪い取るようにして、いきなり自分の口のところへ持って行こうとした。
「これは食べるものじゃないよ。」とお民はあわてて、娘の手を放させた。「まあ、この子は、お菓子と間違えてさ。」
新しい異国の香気(におい)は、そこにいるだれよりも寿平次の心を誘った。めずらしい花の形、横に浮き出している精巧なローマ文字――それはよく江戸|土産(みやげ)にもらう錦絵(にしきえ)や雪駄(せった)なぞの純日本のものにない美しさだ。実に偶然なことから、寿平次は西洋ぎらいでもなくなった。古銭を蒐集(しゅうしゅう)することの好きな彼は、異国の銀貨を手に入れて、人知れずそれを愛翫(あいがん)するうちに、そんな古銭にまじる銀貨から西洋というものを想像するようになった。しかし彼はその事をだれにも隠している。
「これはどうして使うものだろうねえ。」とおばあさんはまたお民に言って見せた。「なんでも水に溶かすという話を聞いたから、わたしは一つ煮て見ましたよ。これが、お前、ぐるぐる鍋(なべ)の中で回って、そのうちに溶けてしまったよ。棒でかき回して見たら、すっかり泡(あわ)になってさ。なんだかわたしは気味が悪くなって、鍋ぐるみ土の中へ埋めさせましたよ。ひょっとすると、これはお洗濯(せんたく)するものじゃないかもしれないね。」
「でも、わたしは初めてこんなものを見ました。おばあさんに一つ分けていただいて、馬籠の方へも持って行って見せましょう。」
とお民が言う。
「そいつは、よした方がいい。」
寿平次は兄らしい調子で妹を押しとどめた。
文久元年の六月を迎えるころで、さかんな排外熱は全国の人の心を煽(あお)り立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸|高輪東禅寺(たかなわとうぜんじ)にあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわれたとの報知(しらせ)もある。その時、水戸側で三人は闘死し、一人(ひとり)は縛に就(つ)き、三人は品川で自刃(じじん)したという。東禅寺の衛兵で死傷するものが十四人もあり、一人の書記と長崎領事とは傷ついたともいう。これほど攘夷(じょうい)の声も険しくなって来ている。どうして飯田の商人がくれた横浜土産の一つでも、うっかり家の外へは持ち出せなかった。
お民が馬籠をさして帰って行く日には、寿平次も半蔵の父に用事があると言って、妹を送りながら一緒に行くことになった。彼には伊那(いな)助郷(すけごう)の願書の件で、吉左衛門の調印を求める必要があった。野尻(のじり)、三留野(みどの)はすでに調印を終わり、残るところは馬籠の庄屋のみとなったからで。
ちょうど馬籠の本陣からは、下男の佐吉がお民を迎えに来た。佐吉はお粂(くめ)を背中にのせ、後ろ手に幼いものを守るようにして、足の弱い女の子は自分が引き受けたという顔つきだ。お民もしたくができた。そこで出かけた。
「寿平次さま、横須賀行きを思い出すなし。」
足掛け四年前の旅は、佐吉にも忘れられなかったのだ。
寿平次が村のあるところは、大河の流れに近く、静母(しずも)、蘭(あららぎ)の森林地帯に倚(よ)り、木曾の山中でも最も美しい谷の一つである。馬籠の方へ行くにはこの谷の入り口を後ろに見て、街道に沿いながら二里ばかりの峠を上る。めったに家を離れることのないお民が、兄と共に踏んで行くことを楽しみにするも、この山道だ。街道の両側は夏の日の林で、その奥は山また山だ。木曾山一帯を支配する尾張藩(おわりはん)の役人が森林保護の目的で、禁止林の盗伐を監視する白木(しらき)の番所も、妻籠と馬籠の間に隠れている。
午後の涼しい片影ができるころに、寿平次らは復興最中の馬籠にはいった。どっちを向いても火災後の宿場らしく、新築の工事は行く先に始まりかけている。そこに積み重ねた材木がある。ここに木を挽(ひ)く音が聞こえる。寿平次らは本陣の焼け跡まで行って、そこに働いている吉左衛門と半蔵とを見つけた。小屋掛けをした普請場の木の香の中に。
半蔵は寿平次に伴われて来た妻子をよろこび迎えた。会所の新築ができ上がったことをも寿平次に告げて、本陣の焼け跡の一隅(いちぐう)に、以前と同じ街道に添うた位置に建てられた瓦葺(かわらぶき)の家をさして見せた。会所ととなえる宿役人の詰め所、それに問屋場(といやば)なぞの新しい建物は、何よりもまずこの宿場になくてならないものだった。
寿平次は半蔵の前に立って、あたりを見回しながら言った。
「よくそれでもこれだけに工事のしたくができたと思う。」
「みんな一生懸命になりましたからね。ここまでこぎつけたのも、そのおかげだと思いますね。」
吉左衛門はこの二人(ふたり)の話を引き取って、「三年のうちに二度も大火が来てごらん、たいていの村はまいってしまう。まあ、吾家(うち)でも先月の三日に建前(たてまえ)の手斧始(ちょうなはじ)めをしたが、これで石場搗(いしばづ)きのできるのは二百十日あたりになろう。和宮(かずのみや)さまの御通行までには間に合いそうもない。」
その時、寿平次が助郷願書の件で調印を求めに来たことを告げると、半蔵は「まあ、そこへ腰掛けるさ。」と言って、自分でも普請場の材木に腰掛ける。お民はそのそばを通り過ぎて、裏の立ち退(の)き場所にいる姑(しゅうとめ)(おまん)の方へと急いだ。
「寿平次さん、君はよいことをしてくれた。助郷のことは隣の伊之助さんからも聞きましたよ。阿爺(おやじ)はもとより賛成です。」と半蔵が言う。
「さあ、これから先、助郷もどうなろう。」と吉左衛門も案じ顔に、「これが大問題だぞ。先月の二十二日、大坂のお目付(めつけ)がお下りという時には、伊那の助郷が二百人出た。例幣使(日光への定例の勅使)の時のことを考えてごらん。あれは四月の六日だ。四百人も人足を出せと言われるのに、伊那からはだれも出て来ない。」
「結局、助郷というものは今のままじゃ無理でしょう。」と半蔵は言う。「宿場さえ繁昌(はんじょう)すればいいなんて、そんなはずのものじゃないでしょう。なんとかして街道付近の百姓が成り立つようにも考えてやらなけりゃうそですね。」
「そりゃ馬籠じゃできるだけその方針でやって来たがね。結局、東海道あたりと同じように、定助郷(じょうすけごう)にでもするんだが、こいつがまた容易じゃあるまいて。」と吉左衛門が言って見せる。
「いったい、」と寿平次もその話を引き取って、「二百人の、四百人のッて、そう多勢の人足を通行のたびに出せと言うのが無理ですよ。」
「ですから、諸大名や公役の通行をもっと簡略にするんですね。」と半蔵が言葉をはさんだ。
「だんだんこういう時世になって来た。」と吉左衛門は感じ深そうに言った。「おれの思うには、参覲交代(さんきんこうたい)ということも今にどうかなるだろうよ。こう御通行が頻繁(ひんぱん)にあるようになっちゃ、第一そうは諸藩の財政が許すまい。」
しかし、その結果は。六十三年の年功を積んだ庄屋吉左衛門にも、それから先のことはなんとも言えなかった。その時、吉左衛門は普請場の仕事にすこし疲れが出たというふうで、
「まあ、寿平次さん、調印もしましょうし、お話も聞きましょうに、裏の二階へ来てください。おまんにもあってやってください。」と言って誘った。
隠れたところに働く家族のさまが、この普請場の奥にひらけていた。味噌納屋(みそなや)の前には襷(たすき)がけ手ぬぐいかぶりで、下女たちを相手に、見た目もすずしそうな新茄子(しんなす)を漬(つ)けるおまんがいる。そのそばには二番目の宗太を抱いてやるお民がいる。おまんが漬け物|桶(おけ)の板の上で、茄子の蔕(へた)を切って与えると、孫のお粂は早速(さっそく)それを両足の親指のところにはさんで、茄子の蔕(へた)を馬にして歩き戯れる。裏の木小屋の方からは、梅の実の色づいたのをもいで来て、それをお粂や宗太に分けてくれる佐吉もいる。
「お父(とっ)さん、あなたの退役願いはまだおきき届けにならないそうですね。」
「そうさ。退役きき届けがたしさ。」
寿平次は吉左衛門のことを「お父(とっ)さん」と呼んでいる。その日の夕飯後のことで、一緒に食事した半蔵はちょっと会所の方へ行って来ると言って、父のそばにいなかった時だ。
「寿平次さん、」と吉左衛門は笑いながら言った。「吾家(うち)へはその事でわざわざ公役が見えましてね、金兵衛さんと私を前に置いて、いろいろお話がありました。二人(ふたり)とも、せめてもう二、三年は勤めて、役を精出(せいだ)せ、そう言われて、願書をお下げになりました。金兵衛さんなぞは、ありがたく畏(おそ)れ奉って、引き下がって来たなんて、あとでその話が出ましたっけ。」
そこは味噌納屋の二階だ。大火以来、吉左衛門夫婦が孫を連れて仮住居(かりずまい)しているところだ。寿平次はその遠慮から、夕飯の馳走(ちそう)になった礼を述べ、同じ焼け出された仲間でも上の伏見屋というもののある金兵衛の仮宅の方へ行って泊めてもらおうとした。
「どうもまだわたしも、お年貢(ねんぐ)の納め時(どき)が来ないと見えますよ。」
と言いながら、吉左衛門は梯子段(はしごだん)の下まで寿平次を送りに降りた。夕方の空に光を放つ星のすがたを見つけて、それを何かの暗示に結びつけるように、寿平次にさして見せた。
「箒星(ほうきぼし)ですよ。午年(うまどし)に北の方へ出たのも、あのとおりでしたよ。どうも年回りがよくないと見える。」
この吉左衛門の言葉を聞き捨てて、寿平次は味噌納屋の前から同じ屋敷つづきの暗い石段を上った。月はまだ出なかったが、星があって涼しい。例の新築された会所のそばを通り過ぎようとすると、表には板庇(いたびさし)があって、入り口の障子(しょうじ)も明いている。寿平次は足をとめて、思わずハッとした。
「どうも半蔵さんばかりじゃなく、伊之助さんまでが賛成だとは意外だ。」
「でも結果から見て悪いと知ったことは、改めるのが至当ですよ。」
こんな声が手に取るように聞こえる。宿役人の詰め所には人が集まると見えて、灯(ひ)がもれている。何かがそこで言い争われている。
「そんなことで、先祖以来の祭り事を改めるという理由にはなりませんよ。」
「しかし、人の心を改めるには、どうしてもその源(みなもと)から改めてかからんことにはだめだと思いますね。」
「それは理屈だ。」
「そんなら、六十九人もの破戒僧が珠数(じゅず)つなぎにされて、江戸の吉原(よしわら)や、深川(ふかがわ)や、品川|新宿(しんじゅく)のようなところへ出入(ではい)りするというかどで、あの日本橋で面(かお)を晒(さら)された上に、一か寺の住職は島流しになるし、所化(しょけ)の坊主は寺法によって罰せられたというのは。」
神葬祭の一条に関する賛否の意見がそこに戦わされているのだ。賛成者は半蔵や伊之助のような若手で、不賛成を唱えるのは馬籠の問屋九太夫らしい。
「お寺とさえ言えば、むやみとありがたいところのように思って、昔からたくさんな土地を寄付したり、先祖の位牌(いはい)を任せたり、宗門帳まで預けたりして、その結果はすこしも措(お)いて問わないんです。」とは半蔵の声だ。
「これは聞きものだ。」九太夫の声で。
半蔵の意見にも相応の理由はある。彼に言わせると、あの聖徳太子が仏教をさかんに弘(ひろ)めたもうてからは、代々の帝(みかど)がみな法師を尊信し、大寺(だいじ)大伽藍(だいがらん)を建てさせ、天下の財用を尽くして御信心が篤(あつ)かったが、しかし法師の方でその本分を尽くしてこれほどの国家の厚意に報いたとは見えない。あまつさえ、後には山法師などという手合いが日吉(ひえ)七社の神輿(みこし)をかつぎ出して京都の市中を騒がし、あるいは大寺と大寺とが戦争して人を殺したり火を放ったりしたことは数え切れないほどある。平安期以来の皇族|公卿(くげ)たちは多く仏門に帰依(きえ)せられ、出世間(しゅつせけん)の道を願われ、ただただこの世を悲しまれるばかりであったから、救いのない人の心は次第に皇室を離れて、ことごとく武士の威力の前に屈服するようになった。今はこの国に仏寺も多く、御朱印(ごしゅいん)といい諸大名の寄付といって、寺領となっている土地も広大なものだ。そこに住む出家、比丘尼(びくに)、だいこく、所化(しょけ)、男色の美少年、その他|青侍(あおざむらい)にいたるまで、田畑を耕すこともなくて上白(じょうはく)の飯を食い、糸を採り機(はた)を織ることもなくてよい衣裳(いしょう)を着る。諸国の百姓がどんなに困窮しても、寺納を減らして貧民を救おうと思う和尚(おしょう)はない。凶年なぞには別して多く米銭を集めて寺を富まそうとする。百姓に餓死するものはあっても、餓死した僧のあったと聞いたためしはない。長い習慣はおそろしいもので、全国を通じたら何百万からのそれらの人たちが寺院に遊食していても、あたりまえのことのように思われて来た。これはあまりに多くを許し過ぎた結果である。そこで、祭葬のことを寺院から取り戻(もど)して、古式に復したら、もっとみんなの目もさめようと言うのである。
「今日(こんにち)ほど宗教の濁ってしまった時代もめずらしい。」とまた半蔵の声で、「まあ、諸国の神宮寺(じんぐうじ)なぞをのぞいてごらんなさい。本地垂跡(ほんじすいじゃく)なぞということが唱えられてから、この国の神は大日如来(だいにちにょらい)や阿弥陀如来(あみだにょらい)の化身(けしん)だとされていますよ。神仏はこんなに混淆(こんこう)されてしまった。」
「あなたがたはまだ若いな。」と九太夫の声が言う。「そりゃ権現(ごんげん)さまもあり、妙見(みょうけん)さまもあり、金毘羅(こんぴら)さまもある。神さまだか、仏さまだかわからないようなところは、いくらだってある。あらたかでありさえすれば、それでいいじゃありませんか。」
「ところが、わたしどもはそうは思わないんです。これが末世(まっせ)の証拠だと思うんです。金胎(こんたい)両部なぞの教えになると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒涜(ぼうとく)というものです。どうしてみんなは、こう平気でいられるのか。話はすこし違いますが、嘉永六年に異国の船が初めて押し寄せて来た時は、わたしの二十三の歳(とし)でした。しかしあれを初めての黒船と思ったのは間違いでした。考えて見ると遠い昔から何艘(なんそう)の黒船がこの国に着いたかしれない。まあ、わたしどもに言わせると、伝教(でんぎょう)でも、空海(くうかい)でも――みんな、黒船ですよ。」
「どうも本陣の跡継ぎともあろうものが、こういう議論をする。そんなら、わたしは上の伏見屋へ行って聞いて見る。金兵衛さんはわたしの味方だ。お寺の世話をよくして来たのも、あの人だ。よろしいか、これだけのことは忘れないでくださいよ――馬籠の万福寺は、あなたの家の御先祖の青山道斎が建立したものですよ。」
この九太夫は、平素自分から、「馬籠の九太夫、贄川(にえがわ)の権太夫(ごんだゆう)」と言って、太夫を名のるものは木曾十一宿に二人しかないというほどの太夫自慢だ。それに本来なら、吉左衛門の家が今度の和宮様のお小休み所にあてられるところだが、それが普請中とあって、問屋分担の九太夫の家に振り向けられたというだけでも鼻息が荒い。
思わず寿平次は半蔵の声を聞いて、神葬祭の一条が平田|篤胤(あつたね)没後の諸門人から出た改革意見であることを知った。彼は会所の周囲を往(い)ったり来たりして、そこを立ち去りかねていた。
その晩、お民は裏の土蔵の方で、夫の帰りを待っていた。山家にはめずらしく蒸し暑い晩で、両親が寝泊まりする味噌納屋の二階の方でもまだ雨戸が明いていた。
「あなた、大変おそかったじゃありませんか。」
と言いながら、お民は会所の方からぶらりと戻(もど)って来た夫(おっと)を土蔵の入り口のところに迎えた。火災後の仮住居(かりずまい)で、二人ある子供のうち姉のお粂は納屋の二階の方へ寝に行き、弟の宗太だけがそこによく眠っている。子供の枕(まくら)もとには昔風な行燈(あんどん)なぞも置いてある。お民は用意して待っていた山家風なネブ茶に湯をついだ。それを夫にすすめた。
その時、半蔵は子供の寝顔をちょっとのぞきに行ったあとで、熱いネブ茶に咽喉(のど)をうるおしながら言った。「なに、神葬祭のことで、すこしばかり九太夫さんとやり合った。壁をたたくものは手が痛いぐらいはおれも承知してるが、あんまり九太夫さんがわからないから。あの人は大変な立腹で、福島へ出張して申し開きをするなんて、そう言って、金兵衛さんのところへ出かけて行ったよ。でも、伊之助さんがそばにいて、おれの加勢をしてくれたのは、ありがたかった。あの人は頼もしいぞ。」
一年のうちの最も短い夜はふけやすいころだった。お民の懐妊はまだ目だつほどでもなかったが、それでもからだをだるそうにして、夫より先に宗太のそばへ横になりに行った。妻にも知らせまいとするその晩の半蔵が興奮は容易に去らない。彼は土蔵の入り口に近くいて、石段の前の柿(かき)の木から通って来る夜風を楽しみながらひとり起きていた。そのうちに、お民も眠りがたいかして、寝衣(ねまき)のままでまた夫のそばへ来た。
「お民、お前はもっとからだをだいじにしなくてもいいのかい。」
「妻籠(つまご)でもそんなことを言われて来ましたっけ。」
「そう言えば、妻籠ではどんな話が出たね。」
「馬籠のお父(とっ)さんと半蔵さんとは、よい親子ですって。」
「そうかなあ。」
「兄さんも、わたしも、親には早く別れましたからね。」
「何かい。神葬祭の話は出なかったかい。」
「わたしは何も聞きません。兄さんがこんなことは言っていましたよ――半蔵さんも夢の多い人ですって。」
「へえ、おれは自分じゃ、夢がすくなさ過ぎると思うんだが――夢のない人の生涯(しょうがい)ほど味気(あじき)ないものはない、とおれは思うんだが。」
「ねえ、あなたが中津川の香蔵さんと話すのをそばで聞いていますと、吾家(うち)の兄さんと話すのとは違いますねえ。」
「そりゃ、お前、香蔵さんとおれとは同じだもの。そこへ行くと寿平次さんの方は、おれの内部(なか)にいろいろなものを見つけてくれる。おれはお前の兄さんの顔を見ていると、何か言って見たくなるよ。」
「あなたは兄さんがきらいですか。」
「どうしてお前はそんなことを言うんだい。寿平次さんとおれとは、同じように古い青山の家に生まれて来た人間さ。立場は違うかもしれないが、やっぱり兄弟(きょうだい)は兄弟だよ。」
半蔵はお民のからだを心配して床につかせ、自分でも休もうとして、いったんは妻子のそばに横になって見た。眠りがたいままに、また起き出して入り口の戸をあけて見ると、東南の方角にあたる暗い空は下の方から黄ばんだ色にすこしずつ明るくなって来て、深夜の感じを与える。
遠い先祖代々の位牌(いはい)、青山家の古い墓地、それらのものを預けてある馬籠の寺のことから、そこに黙って働いている松雲和尚(しょううんおしょう)のことがしきりに半蔵には問題の人になって来た。彼はあの万福寺の新住職として松雲を村はずれの新茶屋に迎えた日のことを思い出した。あれは雨のふる日で、六年の長い月日を行脚(あんぎゃ)の旅に送って来た松雲が笠(かさ)も草鞋(わらじ)もぬれながら、西からあの峠に着いた時であったことを思い出した。あのころは彼もまだ若かったが、すでに平田派の国学にこころざしていて、中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学(からまな)び風(ふう)の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということを深く心に銘ずるころであったから、新たに迎える住職のことを想像し、その住職の尊信する宗教のことを想像し、その人にも、その人の信仰にも、行く行くは反対を見いだすかもしれないような、ある予感に打たれずにはいられなかったことを思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。もっとも、廃仏を意味する神葬祭の一条は福島の役所からの諮問案で、各村の意見を求める程度にまでしか進んでいなかったが。
いつのまにか暗い空が夏の夜の感じに澄んで来た。青白い静かな光は土蔵の前の冷たい石段の上にまでさし入って来た。ひとり起きている彼の膝(ひざ)の上まで照らすようになった。次第に、月も上った。
八百千年(やおちとせ)ありこしことも諸人(もろびと)の悪(あ)しとし知らば改めてまし
まがごととみそなはせなば事ごとに直毘(なおび)の御神(みかみ)直したびてな
眼(め)のまへに始むることもよくしあらば惑ふことなくなすべかりけり
正道(まさみち)に入り立つ徒(とも)よおほかたのほまれそしりはものならなくに
半蔵の述懐だ。 

旧暦九月も末になって、馬籠峠へは小鳥の来るころになった。もはや和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方へ向けて、毎日のようにこの街道を通る。そうなると、定例の人足だけでは継立(つぎた)ても行き届かない。道中奉行所の小笠原美濃守(おがさわらみののかみ)は公役としてすでに宿々の見分に来た。
十月にはいってからは、御通行準備のために奔走する人たちが一層半蔵の目につくようになった。尾州方(びしゅうかた)の役人は美濃路から急いで来る。上松(あげまつ)の庄屋は中津川へ行く。早駕籠(はやかご)で、夜中に馬籠へ着くものすらある。尾州の領分からは、千人もの人足が隣宿美濃|落合(おちあい)のお継(つ)ぎ所(しょ)(継立ての場所)へ詰めることになって、ひどい吹き降(ぶ)りの中を人馬共にあの峠の下へ着いたとの報知(しらせ)もある。
「半蔵、どうも人足や馬が足りそうもない。おれはこれから中津川へ打ち合わせに行って、それから京都まで出かけて行って来るよ。」
「お父(とっ)さん、大丈夫ですかね。」
親子はこんな言葉をかわした。道中奉行所から渡された御印書によって、越後(えちご)越中(えっちゅう)の方面からも六十六万石の高に相当する人足がこの御通行筋へ加勢に来ることになったが、よく調べて見ると、それでも足りそうもないと言う父の話は半蔵を驚かした。
「美濃の方じゃ、お前、伊勢路(いせじ)からも人足を許されて、もう触れ当てに出かけたものもあるというよ。美濃の鵜沼宿(うぬましゅく)から信州|本山(もとやま)まで、どうしても人足は通しにするよりほかに方法がない。おれは京都まで御奉行様のあとを追って行って、それをお願いして来る。おれも今度は最後の御奉公のつもりだよ。」
この年老いた父の奮発が、半蔵にはひどく案じられてならなかった。そうかと言って、彼が父に代わられる場合でもない。街道には街道で、彼を待っている仕事も多かった。その時、継母のおまんも父のそばに来て、
「あなたも御苦労さまです。ほんとに、万事大騒動になりましたよ。」
と案じ顔に言っていた。
吉左衛門はなかなかの元気だった。六十三歳の老体とは言いながら、いざと言えばそばにいるものがびっくりするような大きな声で、
「オイ、駕籠(かご)だ。」
と人を呼ぶほどの気力を見せた。
宮様お迎え御同勢の通行で、にぎわしい街道の混雑はもはや九日あまりも続いた。伊那(いな)の百姓は自分らの要求がいれられたという顔つきで、二十五人ほどずつ一組になって、すでに馬籠へも働きに入り込んで来た。やかましい増助郷(ましすけごう)の問題のあとだけに朝勤め夕勤めの人たちを街道に迎えることは半蔵にも感じの深いものがあった。どうして、この多数の応援があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、お荷物の持ち運びその他に働くというほどの騒ぎだ。時には、半蔵はこの混雑の中に立って、怪我人(けがにん)を載せた四|挺(ちょう)の駕籠が三留野(みどの)の方から動いて来るのを目撃した。宮様のお泊まりにあてられるという三留野の普請所では、小屋がつぶれて、けがをした尾張の大工たちが帰国するところであるという。その時になると、神葬祭の一条も、何もかも、この街道の空気の中に埋(うず)め去られたようになった。和宮様|御下向(ごげこう)のうわさがあるのみだった。
宮様は親子(ちかこ)内親王という。京都にある帝とは異腹(はらちがい)の御兄妹(ごきょうだい)である。先帝第八の皇女であらせらるるくらいだから、御姉妹も多かった。それがだんだん亡(な)くなられて、御妹としては宮様ばかりになったから、帝の御いつくしみも深かったわけである。宮様は幼いころから有栖川(ありすがわ)家と御婚約の間柄であったが、それが徳川将軍に降嫁せらるるようになったのも、まったく幕府の懇望にもとづく。
もともと公武合体の意見は、当時の老中|安藤対馬(あんどうつしま)なぞのはじめて唱え出したことでもない。天璋院(てんしょういん)といえば、当時すでに未亡人(みぼうじん)であるが、その人を先の将軍の御台所(みだいどころ)として徳川家に送った薩摩(さつま)の島津氏などもつとに公武合体の意見を抱(いだ)いていて、幕府有司の中にも、諸藩の大名の中にもこの説に共鳴するものが多かった。言わば、国事の多端で艱難(かんなん)な時にあらわれて来た協調の精神である。幕府の老中らは宮様の御降嫁をもって協調の実(じつ)を挙(あ)ぐるに最も適当な方法であるとし、京都所司代の手を経(へ)、関白(かんぱく)を通して、それを叡聞(えいぶん)に達したところ、帝にはすでに有栖川(ありすがわ)家と御婚約のある宮様のことを思い、かつはとかく騒がしい江戸の空へ年若な女子を遣(つか)わすのは気づかわれると仰せられて、お許しがなかった。この御結婚には宮様も御不承知であった。ところが京都方にも、公武合体の意見を抱(いだ)いた岩倉具視(いわくらともみ)、久我建通(くがたてみち)、千種有文(ちぐさありぶみ)、富小路敬直(とみのこうじひろなお)なぞの有力な人たちがあって、この人たちが堀河(ほりかわ)の典侍(てんじ)を動かした。堀河の典侍は帝の寵妃(ちょうひ)であるから、この人の奏聞(そうもん)には帝も御耳を傾けられた。宮様には固く辞して応ずる気色(けしき)もなかったが、だんだん御乳の人|絵島(えしま)の言葉を聞いて、ようやく納得せらるるようになった。年若な宮様は健気(けなげ)にも思い直し、自ら進んで激しい婦人の運命に当たろうとせられたのである。
この宮様は婿君(むこぎみ)(十四代将軍、徳川|家茂(いえもち))への引き出物として、容易ならぬ土産(みやげ)を持参せらるることになった。「蛮夷(ばんい)を防ぐことを堅く約束せよ」との聖旨がそれだ。幕府としては、今日は兵力を動かすべき時機ではないが、今後七、八年ないし十年の後を期し、武備の充実する日を待って、条約を引き戻(もど)すか、征伐するか、いずれかを選んで叡慮(えいりょ)を安んずるであろうという意味のことが、あらかじめ奉答してあった。
しかし、このまれな御結婚には多くの反対者を生じた。それらの人たちによると、幕府に攘夷(じょうい)の意志のあろうとは思われない。その意志がなくて蛮夷の防禦(ぼうぎょ)を誓い、国内人心の一致を説くのは、これ人を欺き自らをも欺くものだというのである。宮様の御降嫁は、公武の結婚というよりも、むしろ幕府が政略のためにする結婚だというのである。幕府が公武合体の態度を示すために、帝に供御(くご)の資を献じ、親王や公卿(くげ)に贈金したことも、かえって反対者の心を刺激した。
「欺瞞(ぎまん)だ。欺瞞だ。」
この声は、どんな形になって、どんなところに飛び出すかもしれなかった。西は大津(おおつ)から東は板橋まで、宮様の前後を警衛するもの十二藩、道中筋の道固めをするもの二十九藩――こんな大げさな警衛の網が張られることになった。美濃の鵜飼(うがい)から信州|本山(もとやま)までの間は尾州藩、本山から下諏訪(しもすわ)までの間は松平丹波守(まつだいらたんばのかみ)、下諏訪から和田までの間は諏訪|因幡守(いなばのかみ)の道固めというふうに。
十月の十日ごろには、尾州の竹腰山城守(たけごしやましろのかみ)が江戸表から出発して来て、本山宿の方面から順に木曾路の道橋を見分し、御旅館やお小休み所にあてらるべき各本陣を見分した。ちょうど馬籠では、吉左衛門も京都の方へ出かけた留守の時で、半蔵が父に代わってこの一行を迎えた。半蔵は年寄役金兵衛の付き添いで、問屋九太夫の家に一行を案内した。峠へはもう十月らしい小雨が来る。私事ながら半蔵は九太夫と言い争った会所の晩のことを思い出し、父が名代の勤めもつらいことを知った。
「伊之助さん、お継立ての御用米が尾州から四十八俵届きました。これは君のお父(とっ)さん(金兵衛)に預かっていただきたい。」
半蔵が隣家の伊之助と共に街道に出て奔走するころには、かねて待ち受けていた御用の送り荷が順に到着するようになった。この送り荷は尾州藩の扱いで、奥筋のお泊まり宿へ送りつけるもの、その他|諸色(しょしき)がたくさんな数に上った。日によっては三留野(みどの)泊まりの人足九百人、ほかに妻籠(つまご)泊まりの人足八百人が、これらの荷物について西からやって来た。
「寿平次さんも、妻籠の方で目を回しているだろうなあ。」
それを思う半蔵は、一方に美濃中津川の方で働いている友人の香蔵を思い、この際京都から帰って来ている景蔵を思い、その話をよく伊之助にした。馬籠では峠村の女馬まで狩り出して、毎日のようにやって来る送り荷の継立てをした。峠村の利三郎は牛行司(うしぎょうじ)ではあるが、こういう時の周旋にはなくてならない人だった。世話好きな金兵衛はもとより、問屋の九太夫、年寄役の儀助、同役の新七、同じく与次衛門(よじえもん)、それらの長老たちから、百姓総代の組頭(くみがしら)庄兵衛(しょうべえ)まで、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。その時になって見ると、金兵衛の養子伊之助といい、九太夫の子息(むすこ)九郎兵衛といい、庄兵衛の子息庄助といい、実際に働けるものはもはや若手の方に多かった。
十月の二十日は宮様が御東下の途に就(つ)かれるという日である。まだ吉左衛門は村へ帰って来ない。半蔵は家のものと一緒に父のことを案じ暮らした。もはや御一行が江州(ごうしゅう)草津(くさつ)まで動いたという二十二日の明け方になって、吉左衛門は夜通し早駕籠(はやかご)を急がせて来た。
京都から名古屋へ回って来たという父が途中の見聞を語るだけでも、半蔵には多くの人の動きを想像するに充分だった。宮様御出発の日には、帝にもお忍びで桂(かつら)の御所を出て、宮様の御旅装を御覧になったという。
「時に、送り荷はどうなった。」
という父の無事な顔をながめて、半蔵は尾州から来る荷物の莫大(ばくだい)なことを告げた。それがすでに十一日もこの街道に続いていることを告げた。木曾の王滝(おうたき)、西野、末川の辺鄙(へんぴ)な村々、向(むか)い郡(ぐん)の附知村(つけちむら)あたりからも人足を繰り上げて、継立ての困難をしのいでいることを告げた。
道路の改築もその翌日から始まった。半蔵が家の表も二尺通り石垣(いしがき)を引っ込め、石垣を取り直せとの見分役(けんぶんやく)からの達しがあった。道路は二間にして、道幅はすべて二間見通しということに改められた。石垣は家ごとに取り崩(くず)された。この混雑のあとには、御通行当日の大釜(おおがま)の用意とか、膳飯(ぜんぱん)の準備とかが続いた。半蔵の家でも普請中で取り込んでいるが、それでも相応なしたくを引き受け、上の伏見屋なぞでは百人前の膳飯を引き受けた。
やがて道中奉行が中津川泊まりで、美濃の方面から下って来た。一切の準備は整ったかと尋ね顔な奉行の視察は、次第に御一行の近づいたことを思わせる。順路の日割によると、二十七日、鵜沼宿(うぬましゅく)御昼食、太田宿お泊まりとある。馬籠へは行列拝見の客が山口村からも飯田(いいだ)方面からも入り込んで来て、いずれも宮様の御一行を待ち受けた。
そこへ先駆だ。二十日に京都を出発して来た先駆の人々は、八日目にはもう落合宿から美濃境の十曲峠(じっきょくとうげ)を越して、馬籠峠の上に着いた。随行する人々の中には、万福寺に足を休めて行くものが百二十人もある。先駆の通行は五つ半時であった。奥筋へ行く千人あまりの尾州の人足がそのあとに続いて、群衆の中を通った。それを見ると、伊那から来ている助郷(すけごう)の中には腕をさすって、ぜひともお輿(こし)をかつぎたいというものが出て来る。大変な御人気だ。半蔵は父と同じように、麻の※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](かみしも)をつけ、袴(はかま)の股立(ももだ)ちを取って、親子してその間を奔走した。
「姫君さまのお輿(こし)なら、おれも一肩(ひとかた)入れさせてもらいたいな。」
これも篤志家の一人(ひとり)の声だった。
翌日は中津川お泊まりの日取りである。その日は雨になって、夜中からひどく降り出した。しかしその大雨の中でも、もはや道固めの尾州の家中が続々馬籠へ繰り込んで来るようになったので、吉左衛門も半蔵も全く一晩じゅう眠らなかった。
いよいよ馬籠御通行という日が来た。本陣の仮住居(かりずまい)の方では、おまんが孫のそばに目をさますと、半蔵も父も徹夜でいそがしがって、ほとんど家へは寄りつかない。嫁のお民は、と見ると、この人は肩で息をして、若い母らしい前垂(まえだ)れなぞにもはや重そうなからだを隠そうとしている。
おまんは佐吉を呼んで、孫のお粂(くめ)をおぶわせ、村はずれに宮様をお迎えさせることにした。そこへ来た新宅のお喜佐(おまんの実の娘、半蔵の異母妹)には宗太をつけて、これも家の下女たちと一緒にやることにした。
「粂さま、おいで。」と佐吉はお粂を背中にのせて、その顔をおまんに見せながら、「これで粂さまも、きょうあったことを――ずっと大きくなるまで――覚えていさっせるずらか。」
「なにしろ、六つじゃねえ。」
「覚えてはいさっせまいか。」
「そうばかりでもないよ。」とお喜佐は二人の話を引き取って言った。「この子もこれで、夢のようには覚えているだろうよ。わたしだって、五つの歳(とし)のことをかすかに覚えているもの。」
「ほんとに、きょうはあいにくな雨だこと。」とおまんは言った。「わたしもお迎えしたいは山々だが、お民がこんなじゃ、どうしようもない。わたしたち二人はお留守居しますよ。」
佐吉はお粂を、お喜佐は宗太をまもりながら、御行列拝見の人々が集まる村はずれの石屋の坂あたりまで行った。なにしろ多勢の御通行で、佐吉らは吉左衛門や半蔵の働いている姿をどこにも見いだすことができなかった。それに、御通行筋は公私の領分の差別なく、旅館の前後里程三日路の旅人の通行を禁止するほどの警戒ぶりだ。
九つ半時に、姫君を乗せたお輿(こし)は軍旅のごときいでたちの面々に前後を護(まも)られながら、雨中の街道を通った。いかめしい鉄砲、纏(まとい)、馬簾(ばれん)の陣立ては、ほとんど戦時に異ならなかった。供奉(ぐぶ)の御同勢はいずれも陣笠(じんがさ)、腰弁当で、供男一人ずつ連れながら、そのあとに随(したが)った。中山|大納言(だいなごん)、菊亭(きくてい)中納言、千種少将(ちぐさのしょうしょう)(有文)、岩倉少将(具視(ともみ))、その他宰相の典侍(てんじ)、命婦能登(みょうぶのと)などが供奉の人々の中にあった。京都の町奉行|関出雲守(せきいずものかみ)がお輿(こし)の先を警護し、お迎えとして江戸から上京した若年寄(わかどしより)加納遠江守(かのうとおとうみのかみ)、それに老女らもお供をした。これらの御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きの絶えることもなかった。
「いや、御苦労、御苦労。」
御通行の翌日、吉左衛門は三留野(みどの)のお継ぎ所の方へ行く尾州の竹腰山城守を見送ったあとで、いろいろあと始末をするため会所のなかにある宿役人の詰め所にいた。吉左衛門はそこにいる人たちをねぎらうばかりでなく、自分で自分に言うように、
「御苦労、御苦労。」を繰り返した。
連日の過労に加えて、その日も朝から雨だ。一同は疲れて、一人として行儀よくしているものもない。そこには金兵衛もいて、長い街道の世話を思い出したように、
「吉左衛門さんは御存じだが、わたしたちが覚えてから大きな御通行というものは、この街道に三度ありましたよ。一度は水戸(みと)の姫君さまのお輿入(こしい)れの時。一度は尾州の先の殿様が江戸でお亡(な)くなりになって、その御遺骸(ごいがい)がこの街道を通った時。今一度は例の黒船騒ぎで、交易を許すか許さないかの大評定(だいひょうじょう)で、尾州の殿様(徳川|慶勝(よしかつ))の御出府の時。あの先の殿様の時は、木曾谷中から寄せた七百三十人の人足でも手が足りなくて、伊那の助郷(すけごう)が千人あまりも出ました。諸方から集めた馬の数が二百二十匹さ。」
「金兵衛さんはなかなか覚えがいい。」と畳の上に頬杖(ほおづえ)つきながら言うものがある。
「まあ、お聞きなさい。今の殿様が江戸へ御出府の時は、木曾寄せの人足が七百三十人、伊那の助郷が千七百七十人、この人数を合わせると二千五百人からの人足が出ましたぜ。あの時、馬籠の宿場に集まった馬の数が百八十匹だったと思う。あれほどの御通行でも和宮さまの場合とはとうてい比べものにならない。今度のような大きな御通行は、わたしは古老の話にも聞いたことがない。」
「どうです。金兵衛さん、これこそ前代未聞でしょう。」
と混ぜ返すものがある。金兵衛は首を振って、
「いや、前代未聞どころか、この世初まって以来の大御通行だ。」
聞いているものは皆笑った。
いつのまにか吉左衛門は高いびきだ。彼はその部屋(へや)の片すみに横になって、まるで死んだようになってしまった。
その時になって見ると、美濃路から木曾へかけてのお継ぎ所でほとんど満足なところはなかった。会所という会所は、あるいは損じ、あるいは破れた。これは道中奉行所の役人も、尾州方の役人も、ひとしく目撃したところである。中津川、三留野の両宿にたくさんな死傷者もできた。街道には、途中で行き倒れになった人足の死体も多く発見された。
御通行後の二日目は、和宮様の御一行も福島、藪原(やぶはら)を過ぎ、鳥居峠(とりいとうげ)を越え、奈良井(ならい)宿お小休み、贄川宿(にえがわじゅく)御昼食の日取りである。半蔵と伊之助の二人は連れだって、その日三留野お継ぎ所の方から馬籠へ引き取って来た。伊之助は伊那助郷の担当役、半蔵も父の名代として、いろいろとあと始末をして来た。ちょうど吉左衛門は上の伏見屋に老友金兵衛を訪(たず)ねに行っていて、二人|茶漬(ちゃづ)けを食いながら、話し込んでいるところだった。そこへ半蔵と伊之助とが帰って来た。
その時だ。伊之助は声を潜めながら、木曾の下四宿から京都方の役人への祝儀として、先方の求めにより二百二十両の金を差し出したことを語った。祝儀金とは名ばかり、これはいかにも無念千万のことであると言って、お継ぎ所に来ていた福島方の役人衆までが口唇(くちびる)をかんだことを語った。伊那助郷の交渉をはじめ、越後(えちご)、越中(えっちゅう)の人足の世話から、御一行を迎えるまでの各宿の人々の心労と尽力とを見る目があったら、いかに強欲(ごうよく)な京都方の役人でもこんな暗い手は出せなかったはずであると語った。
「御通行のどさくさに紛れて、祝儀金を巻き揚げて行くとは――実に、言語(ごんご)に絶したやり方だ。」
と言って、金兵衛は吉左衛門と顔を見合わせた。
若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らなかった。黒船来訪以来はおろか、それ以前からたといいかに封建社会の堕落と不正とを痛感するような時でも、それを若者の目や耳からは隠そう隠そうとして来たのも、この二人の村の長老だ。庄屋|風情(ふぜい)、もしくは年寄役風情として、この親たちが日ごろの願いとして来たことは、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威とし、それを子の前にも神聖なものとして、この世をあるがままに譲って行きたかったのである。伊之助が語って見せたところによると、こうした役人の腐敗|沙汰(ざた)にかけては、京都方も江戸方もすこしも異なるところのないことを示していた。二人の親たちはもはや隠そうとして隠し切れなかった。
六日目になると、宮様御一行は和田宿の近くまで行ったころで、お道固めとして本山までお見送りをした尾州の家中衆も、思い思いに引き返して来るようになった。奥筋までお供をした人足たちの中にも、ぼつぼつ帰路につくものがある。七日目には、もはやこの街道に初雪を見た。
人|一人(ひとり)動いたあとは不思議なもので、御年も若く繊弱(かよわ)い宮様のような女性でありながらも、ことに宮中の奥深く育てられた金枝玉葉(きんしぎょくよう)の御身で、上方(かみがた)とは全く風俗を異にし習慣を異にする関東の武家へ御降嫁されたあとには、多くの人心を動かすものが残った。遠く江戸城の方には、御母として仕うべき天璋院(てんしょういん)も待っていた。十一月十五日には宮様はすでに江戸に到着されたはずである。あの薩摩(さつま)生まれの剛気で男まさりな天璋院にもすでに御対面せられたはずである。これはまれに見る御運命の激しさだとして、憐(あわれ)みまいらせるものがある。その犠牲的な御心の女らしさを感ずるものもある。二十五日の木曾街道の御長旅は、徳川家のために計る老中|安藤対馬(あんどうつしま)らの政略を助けたというよりも、むしろ皇室をあらわす方に役立った。
長いこと武家に圧せられて来た皇室が衰微のうちにも絶えることなく、また回復の機運に向かって来た。この島国の位置が位置で、たとい内には戦乱争闘の憂いの多い時代があったにもせよ、外に向かって事を構える場合の割合に少なかった東洋の端に存在したことは、その日まで皇室の平静を保ち得た原因の一つであろうと言うものもある。過去の皇室の衰え方と言えば、諸国に荒廃した山陵を歴訪して勤王の志を起こしたという蒲生君平(がもうくんぺい)や、京都のさびしい御所を拝して哭(な)いたという高山彦九郎(たかやまひこくろう)のような人物のあらわれて来たのでもわかる。応仁(おうにん)乱後の京都は乱前よりも一層さびれ、公家の生活は苦しくなり、すこし大げさかもしれないが三条の大橋から御所の燈火(あかり)が見えた時代もあったと言わるるほどである。これほどの皇室が、また回復の機運に向かって来たことは、半蔵にとって、実に意味深きことであった。
時代は混沌(こんとん)として来た。彦根(ひこね)と水戸とが互いに傷ついてからは、薩州のような雄藩(ゆうはん)の擡頭(たいとう)となった。関ヶ原の敗戦以来、隠忍に隠忍を続けて来た長州藩がこの形勢を黙ってみているはずもない。しかしそれらの雄藩でも、京都にある帝(みかど)を中心に仰ぎ奉ることなしに、人の心を収めることはできない。天朝の威をも畏(おそ)れず、各藩の意見のためにも動かされず、断然として外国に通商を許したというあの井伊大老ですら、幕府の一存を楯(たて)にして単独な行動に出ることはできなかった。後には上奏の手続きを執った。井伊大老ですらそのとおりだ。薩長二藩の有志らはいずれも争って京都に入り、あるいは藩主の密書を致(いた)したり、あるいは御剣(ぎょけん)を奉献したりした。
一庄屋の子としての半蔵から見ると、これは理由のないことでもない。水戸の『大日本史』に、尾張の『類聚日本紀(るいじゅうにほんぎ)』に、あるいは頼(らい)氏の『日本外史』に、大義名分を正そうとした人たちのまいた種が深くもこの国の人々の心にきざして来たのだ。南朝の回想、芳野(よしの)の懐古、楠(くすのき)氏の崇拝――いずれも人の心の向かうところを語っていないものはなかった。そういう中にあって、本居宣長のような先覚者をはじめ、平田一門の国学者が中世の否定から出発して、だんだん帝を求め奉るようになって行ったのは、臣子の情として強い綜合(そうごう)の結果であったが……
年も文久二年と改まるころには、半蔵はすでに新築のできた本陣の家の方に引き移っていた。吉左衛門やおまんは味噌納屋(みそなや)の二階から、お民はわびしい土蔵の仮住居(かりずまい)から、いずれも新しい木の香のする建物の方に移って来た。馬籠の火災後しばらく落合の家の方に帰っていた半蔵が弟子(でし)の勝重(かつしげ)なぞも、またやって来る。新築の家は、本陣らしい門構えから、部屋(へや)部屋の間取りまで、火災以前の建て方によったもので、会所を家の一部に取り込んだところまで似ている。表庭のすみに焼け残った一株の老松もとうとう枯れてしまったが、その跡に向いて建てられた店座敷が東南の日を受けるところまで似ている。
美濃境にある恵那山(えなさん)を最高の峰として御坂越(みさかごえ)の方に続く幾つかの山嶽(さんがく)は、この新築した家の南側の廊下から望まれる。半蔵が子供の時分から好きなのも、この山々だ。さかんな雪崩(なだれ)の音はその廊下の位置からきかれないまでも、高い山壁から谷まで白く降り埋(うず)める山々の雪を望むことはできる。ある日も、半蔵は恵那山の上の空に、美しい冬の朝の雲を見つけて、夜ごとの没落からまた朝紅の輝きにと変わって行くようなあの太陽に比較すべきものを想像した。ただ御一人の帝、その上を措(お)いて時代を貫く朝日の御勢にたとうべきものは他に見当たらなかった。
正月早々から半蔵は父の名代として福島の役所へ呼ばれ、木曾十一宿にある他の庄屋問屋と同じように金百両の分配を受けて来た。このお下(さ)げ金(きん)は各宿救助の意味のものだ。
ちょうど家では二十日正月(はつかしょうがつ)を兼ねて、暮れに生まれた男の子のために小豆粥(あずきがゆ)なぞを祝っていた。お粂(くめ)、宗太、それから今度生まれた子には正己(まさみ)という名がついて、吉左衛門夫婦ももはや三人の孫のおじいさん、おばあさんである。お民はまだ産後の床についていたが、そこへ半蔵が福島から引き取って来た。和宮様(かずのみやさま)の御通行前に、伊那助郷総代へ約束した手当ての金子(きんす)も、追って尾州藩から下付せらるるはずであることなぞを父に告げた。
「助郷のことは、これからが問題だぞ。今までのような御奉公じゃ百姓が承知しまい。」
と吉左衛門は炬燵(こたつ)の上に手を置きながら、半蔵に言って見せた。
その日半蔵はお下げ金のことで金兵衛の知恵を借りて、御通行の日から残った諸払いをした。やがてそのあと始末もできたころに、人の口から口へと伝わって来る江戸の方のうわさが坂下門の変事を伝えた。
決死の壮士六人、あの江戸城の外のお濠(ほり)ばたの柳の樹(き)のかげに隠れていたのは正月十五日とあるから、山家のことで言えば左義長(さぎちょう)の済むころであるが、それらの壮士が老中安藤対馬の登城を待ち受けて、まず銃で乗り物を狙撃(そげき)した。それが当たらなかったので、一人の壮士が馳(は)せ寄って、刀を抜いて駕籠(かご)を横から突き刺した。安藤対馬は運強く、重傷を被りながらも坂下門内に駆け入って、わずかに身をもって難をまぬかれた。この要撃の光景をまるで見て来たように言い伝えるものがある。
「またか。」
という吉左衛門にも、思わず父と顔を見合わせる半蔵の胸にも、桜田事変当時のことが来た。
刺客はいずれも斬奸(ざんかん)趣意書なるものを懐(ふところ)にしていたという。これは幕府の手で秘密に葬られようとしたが、六人のほかに長州屋敷へ飛び込んで自刃(じじん)した壮士の懐から出て来たもので明らかにされ、それからそれへと伝えられるようになった。それには申年(さるどし)の三月に赤心報国の輩(ともがら)が井伊大老を殺害に及んだことは毛頭(もうとう)も幕府に対し異心をはさんだのではないということから書き初めて、彼らの態度を明らかにしてあったという。彼らから見れば、井伊大老は夷狄(いてき)を恐怖する心から慷慨(こうがい)忠直の義士を憎み、おのれの威力を示そうがために奸謀(かんぼう)をめぐらし、天朝をも侮る神州の罪人である、そういう奸臣を倒したなら自然と幕府においても悔いる心ができて、これからは天朝を尊び夷狄を憎み、国家の安危と人心の向背(こうはい)にも注意せらるるであろうとの一念から、井伊大老を目がけたものはいずれも身命を投げ捨てて殺害に及んだのである、ところがその後になっても幕府には一向に悔心の模様は見えない、ますます暴政のつのるようになって行ったのは、幕府役人一同の罪ではあるが、つまりは老中安藤対馬こそその第一の罪魁(ざいかい)であるという意味のことが書いてあったという。その趣意書には、老中の罪状をもあげて、皇妹和宮様が御結婚のことも、おもてむきは天朝より下し置かれたように取り繕い、公武合体の姿を示しながら、実は奸謀と威力とをもって強奪し奉ったも同様である、これは畢竟(ひっきょう)皇妹を人質にして外国交易の勅諚(ちょくじょう)を強請する手段であり、もしそれもかなわなかったら帝の御譲位をすら謀(はか)ろうとする心底であって、実に徳川将軍を不義に引き入れ、万世の後までも悪逆の名を流させようとする行為である、北条(ほうじょう)足利(あしかが)にもまさる逆謀というのほかはない、これには切歯(せっし)痛憤、言うべき言葉もないという意味のことが書いてあったという。その中にはまた、外夷(がいい)取り扱いのことをあげて、安藤老中は何事も彼らの言うところに従い、日本沿海の測量を許し、この国の形勢を彼らへ教え、江戸第一の要地ともいうべき品川御殿山を残らず彼らに貸し渡し、あまつさえ外夷の応接には骨肉も同様な親切を見せながら、自国にある忠義憂憤の者はかえって仇敵(きゅうてき)のように忌みきらい、国賊というにも余りあるというような意味のことが書いてあったという。
しかし決死の壮士が書きのこしたものは、ただそれだけの意味にとどまらなかった。その中には「明日」への不安が、いろいろと書きこめてあったともいう。もし今日のままで弊政を改革することもなかったら、天下の大小名はおのおの幕府を見放して、自己の国のみを固めるようになって行くであろう、外夷の取り扱いにさえ手に余るおりから、これはどう処置するつもりであろうという意味のことも書いてあり、万一|攘夷(じょうい)を名として旗を挙(あ)げるような大名が出て来たら、それこそ実に危急の時である、幕府では皇国の風俗というものを忘れてはならぬ、君臣上下の大義をわきまえねばならぬ、かりそめにも天朝の叡意(えいい)にそむくようなところが見えたら、忠臣義士の輩(ともがら)は一人も幕府のために身命をなげうつものはあるまいという意味のことも書きのこしてあったという。
これらの刺客の多くが水戸人であることもわかって来た。いずれも三十歳前後の男ざかりで、中には十九歳の青年がこの要撃に加わっていたこともわかって来た。安藤対馬の災難は不思議にもその傷が軽くて済んだが、多くの人の同情は生命拾(いのちびろ)いをした老中よりも、現場に斃(たお)れた青年たちの上に集まる。しかし、その人の傷ついたあとになって見ると、一方には世間の誤解や無根の流言がこの悲劇を生む因(もと)であったと言って、こんなに思い詰めた壮士らの暴挙を惜しむと言い出したものもあった。安藤対馬その人を失ったら、あれほど外交の事に当たりうるものは他に見いだせない、アメリカのハリスにせよ、イギリスのアールコックにせよ、彼らに接して滞ることなく、屈することもなく、外国公使らの専横を挫(くじ)いて、凜然(りんぜん)とした態度を持ち続けたことにかけては、老中の右に出るものはなかったと言い出したものもあった。
幕府はすでに憚(はばか)るべき人と、憚るべき実(じつ)とがない。井伊大老は斃(たお)れ、岩瀬肥後は喀血(かっけつ)して死し、安藤老中までも傷ついた。四方の侮りが競うように起こって来て、儒者は経典の立場から、武士剣客は士道の立場から、その他医者、神職、和学者、僧侶(そうりょ)なぞの思い思いに勝手な説を立てるものがあっても、幕府ではそれを制することもできないようになって来た。この中で、露国(ろこく)の船将が対馬尾崎浦(つしまおざきうら)に上陸し駐屯(ちゅうとん)しているとの報知(しらせ)すら伝わった。港は鎖(とざ)せ、ヨーロッパ人は打ち攘(はら)え、その排外の風がいたるところを吹きまくるばかりであった。 

一人(ひとり)の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いで来た。
この旅人は、近くまで江戸桜田邸にある長州の学塾|有備館(ゆうびかん)の用掛(ようがか)りをしていた男ざかりの侍である。かねて長州と水戸との提携を実現したいと思い立ち、幕府の嫌疑(けんぎ)を避くるため品川沖合いの位置を選び、長州の軍艦|丙辰丸(へいしんまる)の艦長と共に水戸の有志と会見した閲歴を持つ人である。坂下門外の事変にも多少の関係があって、水戸の有志から安藤老中要撃の相談を持ちかけられたこともあったが、後にはその暴挙に対して危惧(きぐ)の念を抱(いだ)き、次第に手を引いたという閲歴をも持つ人である。
中津川の本陣では、半蔵が年上の友人景蔵も留守のころであった。景蔵は平田門人の一人として、京都に出て国事に奔走しているころであったからで。この旅人は恵那山(えなさん)を東に望むことのできるような中津川の町をよろこび、人の注意を避くるにいい位置にある景蔵の留守宅を選んで、江戸|麻布(あざぶ)の長州屋敷から木曾街道経由で上京の途にある藩主(毛利慶親(もうりよしちか))をそこに待ち受けていた。その目的は、京都の屋敷にある長藩|世子(せいし)(定広)の内命を受けて、京都の形勢の激変したことを藩主に報じ、かねての藩論なる公武合体、航海遠略の到底実行せらるべくもないことを進言するためであった。それよりは従来の方針を一変し、大いに破約攘夷を唱うべきことを藩主に説き勧めるためであった。雄藩|擡頭(たいとう)の時機が到ったことは、長いことその機会を待っていた長州人士を雀躍(こおどり)させたからで。
旅にある藩主はそれほど京都の形勢が激変したとは知らない。まして、そんな旅人が世子(せいし)の内命を帯びて、中津川に自分を待つとは知らない。さきに幕府への建白の結果として、公武間周旋の依頼を幕府から受け、いよいよ正式にその周旋を試みようとして江戸を出発して来たのであった。この大名は、日ごろの競争者で薩摩(さつま)に名高い中将|斎彬(なりあきら)の弟にあたる島津久光(しまづひさみつ)がすでにその勢力を京都の方に扶植し始めたことを知り、さらに勅使|左衛門督(さえもんのかみ)大原|重徳(しげのり)を奉じて東下して来たほどの薩摩人の活躍を想像しながら、その年の六月中旬には諏訪(すわ)にはいった。あだかも痳疹(はしか)流行のころである。一行は諏訪に三日|逗留(とうりゅう)し、同勢四百人ほどをあとに残して置いて、三留野(みどの)泊まりで木曾路を上って来た。馬籠本陣の前まで来ると、そこの門前には諸大名通行のおりの定例のように、すでに用意した札の掲げてあるのを見た。
松平大膳太夫(まつだいらだいぜんだゆう)様御休所
松平大膳太夫とあるは、この大名のことで、長門国(ながとのくに)三十六万九千石の領主を意味する。
その時、半蔵は出て、一行の中の用人に挨拶(あいさつ)した。
「わたしは吉左衛門の忰(せがれ)でございます。父はこの四月から中風(ちゅうふう)にかかりまして、今だに床の上に臥(ね)たり起きたりしております。お昼は申し付けてございますが、何か他に御用もありましたら、わたしが承りましょう。」
「御主人は御病気か。それはおだいじに。ここから中津川まで何里ほどありましょう。」
「三里と申しております。ここの峠からは下りでございますから、そうお骨は折れません。」
この半蔵の言葉を聞くと、用人は本陣の門の内外を警衛する人たちに向かって、
「諸君、中津川まではもう三里だそうですよ。ここで昼食をやってください。」
と呼んだ。
馬籠の宿ではその日より十日ほど前に、彦根藩の幼主が江戸出府を送ったばかりの時であった。十六歳の殿様、家老、用人、その時の同勢はおびただしい人数で、行列も立派ではあったが、もはや先代井伊|掃部頭(かもんのかみ)が彦根の城主としてよくこの木曾路を往来したころのような気勢は揚がらない。そこへ行くと、千段巻(せんだんまき)の柄(え)のついた黒鳥毛(くろとりげ)の鎗(やり)から、永楽通宝(えいらくつうほう)の紋じるしまで、はげしい意気込みでやって来た長州人は彦根の人たちといちじるしい対照を見せる。
その日、半蔵は父の名代として、隣家の伊之助や問屋の九郎兵衛と共に、一行を宿はずれの石屋の坂あたりまで見送り、そこから家に引き返して来て、父の部屋(へや)をのぞきに行った。病床から半ば身を起こしかけている吉左衛門は山の中へ来る六月の暑さにも疲れがちであった。半蔵は一度倒れたこの父が回復期に向かいつつあるというだけにもやや胸をなでおろして、なるべく頭を悩まさせるようなことは父の耳に入れまいとした。京都の方にある景蔵からは、容易ならぬ彼地(かのち)の形勢を半蔵のところへ報じて来た。伏見寺田屋の変をも知らせて来た。王政復古と幕府討伐の策を立てた八人の壮士があの伏見の旅館で斃(たお)れたことをも知らせて来た。公武間の周旋をもって任ずる千余人の薩摩の精兵が藩主に引率されて来た時は、京都の町々はあだかも戒厳令の下にあったことをも知らせて来た。しかし半蔵は何事も父の耳に入れなかった。夕方に、彼は雪隠(せっちん)へ用を達(た)しに行って、南側の廊下を通った。長州藩主がその日の泊まりと聞く中津川の町の方は早く暮れて、遠い夕日の反射が西の空から恵那山の大きな傾斜に映るのを見た。
病後の吉左衛門には、まだ裏の二階へ行って静養するほどの力がない。あの先代半六が隠居所となっていた味噌納屋の二階への梯子段(はしごだん)を昇(のぼ)ったり降りたりするには、足もとがおぼつかなかった。
この父は四月の発病以来、ずっと寛(くつろ)ぎの間(ま)に臥(ね)たり起きたりしている。その部屋は風呂場(ふろば)に近い。家のものが入浴を勧めるには都合がよい。一方は本陣の囲炉裏ばたや勝手に続いている。みんなで看護するにも都合がよい。そのかわり朝に晩に用談なぞを持ち込む人たちが出たりはいったりして、半蔵としてはいつまでも父の寝床をその部屋に敷いて置くことを好まなかった。どうかすると頭を冷やせの、足を温(あたた)めろのという父を見るたびに、半蔵は悲しがった。さびしい病後のつれづれから、父は半蔵に向かっていろいろ耳にしたことの説明を求める。六十四歳の晩年になってこんな思いがけない中風にかかったというふうに。まだ退役願いもきき届けられない馬籠の駅長の身で、そうそう半蔵任せにして置かれないというふうにも。半蔵は京都や江戸にある平田同門の人たちからいろいろな報告を受けて、そのたびに山の中に辛抱してはいられぬような心持ちにもなるが、また思い返しては本陣問屋庄屋の父の代わりを勤めた。
中津川の会議が開かれて、長藩の主従が従来の方針を一変し、吉田松陰以来の航海遠略から破約攘夷へと大きく方向の転換を試み始めたのも、それから藩主の上京となって、公卿(くげ)を訪(おとな)い朝廷の御機嫌(ごきげん)を伺い、すでに勅使を関東に遣(つか)わされているから、薩藩と共に叡慮(えいりょ)の貫徹に尽力せよとの御沙汰(ごさた)を賜わったのも、六月の二十日から七月へかけてのことであった。薩藩と共に輦下(れんか)警衛の任に当たることにかけては、京都の屋敷にある世子(せいし)定広がすでにその朝命を拝していた。薩長二藩のこれらの一大飛躍は他藩の注意をひかずには置かない。ようやく危惧(きぐ)の念を抱き始めたものもある。強い刺激を受けたものもある。こういう中にあって、薩長二藩の京都手入れから最も強い刺激を受けたものは、言うまでもなく幕府側にある人たちであらねばならない。従来幕府は事あるごとに京都に向かって干渉するのを常とした。今度勅使の下向(げこう)を江戸に迎えて見ると、かねて和宮様御降嫁のおりに堅く約束した蛮夷防禦(ばんいぼうぎょ)のことが勅旨の第一にあり、あわせて将軍の上洛(じょうらく)、政治の改革にも及んでいて、幕府としては全く転倒した位置に立たせられた。干渉は実に京都から来た。しかも数百名の薩摩隼人(さつまはやと)を引率する島津久光を背景にして迫って来た。この干渉は幕府にある上のものにも下のものにも強い衝動を与えた。その衝動は、多年の情実と弊害とを払いのけることを教えた。もっと政治は明るくしなければだめだということを教えた。
時代はおそろしい勢いで急転しかけて来た。かつて岩瀬肥後が井伊大老と争って、政治|生涯(しょうがい)を賭(と)してまで擁立しようとした一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)は将軍の後見に、越前(えちぜん)藩主|松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は政事総裁の職に就(つ)くようになった。これまで幕府にあってとかくの評判のあった安藤対馬(あんどうつしま)、およびその同伴者なる久世大和(くぜやまと)の二人(ふたり)は退却を余儀なくされた。天朝に対する過去の非礼を陳謝し、協調の誠意を示すという意味で、安藤久世の二人は隠居|急度慎(きっとつつし)みの罰の薄暗いところへ追いやられたばかりでなく、あれほどの大獄を起こして一代を圧倒した井伊大老ですら追罰を免れなかった。およそ安政、万延のころに井伊大老を手本とし、その人の家の子郎党として出世した諸有司の多くは政治の舞台から退却し始めた。あるものは封(ほう)一万石を削られ、あるものは禄(ろく)二千石を削られた。あるものはまた、隠居、蟄居(ちっきょ)、永蟄居(えいちっきょ)、差扣(さしひか)えというふうに。
この周囲の空気の中で、半蔵は諸街道宿駅の上にまであらわれて来るなんらかの改変を待ち受けながら、父が健康の回復を祈っていた。発病後は父も日ごろ好きな酒をぱったりやめ、煙草(たばこ)もへらし、わずかに俳諧(はいかい)や将棋の本なぞをあけて朝夕の心やりとしている。何かこの父を慰めるものはないか、と半蔵は思っているところへ、ちょうど人足四人持ちで、大きな籠(かご)を本陣の門内へかつぎ入れた宰領があった。
宰領は半蔵の前に立って言った。
「旦那(だんな)、これは今度、公儀から越前様へ御拝領になった綿羊(めんよう)というものです。めずらしい獣です。わたしたちはこれを送り届けにまいる途中ですが、しばらくお宅の庭で休ませていただきたい。」
江戸の方からそこへかつがれて来たのは、三|疋(びき)の綿羊だ。こんな木曾山の中へは初めて来たものだ。早速(さっそく)半蔵はお民を呼んで、表玄関の広い板の間に座蒲団(ざぶとん)を敷かせ、そこに父の席をつくった。
「みんな、おいで。」
とおまんも孫たちを呼んだ。
「越前様の御拝領かい。」と言いながら、吉左衛門は奥の方から来てそこへ静かにすわった。「越前様といえば、五月の十一日にこの街道をお通りになったじゃないか。おれは寝ていてお目にもかからなかったが、今度政事総裁職になったのもあのお大名だね。」
ちょっとしたことにも吉左衛門はそれをこの街道に結びつけて、諸大名の動きを読もうとする。
「あなたはそれだから、いけない。」とおまんは言った。「病気する時には病気するがいいなんて自分で言っていながら、そう気をつかうからいけない。まあ、このやさしい羊の目を御覧なさい。」
街道では痲疹(はしか)の神を送ったあとで、あちこちに病人や死亡者を出した流行病の煩(わずら)いから、みんなようやく一息ついたところだ。その年の渋柿(しぶがき)の出来のうわさは出ても、京都と江戸の激しい争いなぞはどこにあるかというほど穏やかな日もさして来ている。宰領の連れて来た三疋の綿羊が籠(かご)の中で顔を寄せ、もぐもぐ鼻の先を動かしているのを見ると、動物の好きなお粂(くめ)や宗太は大騒ぎだ。持病の咳(せき)で引きこもりがちな金兵衛まで上の伏見屋からわざわざ見に出かけて来て、いつのまにか本陣の門前には多勢の人だかりがした。
「金兵衛さん、こういうめずらしい羊が日本に渡って来るようになったかと思うと、世の中も変わるはずですね。わたしは生まれて初めてこんな獣を見ます。」
と吉左衛門は言って、なんとなく秋めいた街道の空を心深げにながめていた。
「半蔵、まあ見てくれよ。おれの足はこういうものだよ。」
と言って、病み衰えた右の足を半蔵の前に出して見せるころは、吉左衛門もめっきり元気づいた。早く食事を済ました夕方のことだ。付近の村々へは秋の祭礼の季節も来ていた。
「お父(とっ)さんが病気してから、もう百四十日の余になりますものね。」
半蔵は試みに、自分の前にさし出された父の足をなでて見た。健脚でこの街道を奔走したころの父の筋肉はどこへ行ったかというようになった。発病の当時、どっと床についたぎり、五十日あまりも安静にしていたあげくの人だ。堅く隆起していたような足の「ふくらっぱぎ」も今は子供のそれのように柔らかい。
「ひどいものじゃないか。」と吉左衛門は自分の足をしまいながら言った。「人が中気(ちゅうき)すると、右か左か、どっちかをやられると聞いてるが、おれは右の方をやられた。そう言えば、おれは耳まで右の方が遠くなったようだぞ。」と笑って、気を変えて、「しかし、きょうはめずらしくよい気持ちだ。おれは金兵衛さんのところへお風呂(ふろ)でももらいに行って来る。」
これほど父の元気づいたことは、ひどく半蔵をよろこばせた。
「お父(とっ)さん、わたしも一緒に行きましょう。」
と彼もたち上がった。
この親子の胸には、江戸の道中奉行所の方から来た達しのことが往来(ゆきき)していた。かねてうわさには上っていたが、いよいよ諸大名が参覲交代(さんきんこうたい)制度の変革も事実となって来た。これには幕府の諸有司の中にも反対するものが多かったというが、聰明(そうめい)で物に執着することの少ない一橋慶喜と、その相談相手なる松平春嶽とが、惜しげもなくこの英断に出た。言うまでもなく、参覲交代の制度は幕府が諸藩を統御するための重大な政策である。これが変革されるということは、深い時代の要求がなくては叶(かな)わない。この一大改革はもう長いこと上にある識者の間に考えられて来たことであろうが、しかし吉左衛門親子のように下から見上げるものにとっても、この改変を余儀なくされるほどの幕府の衰えが目についた。諸大名が実際の通行に役立つ沿道の人民の声にきいて課役を軽くしないかぎり、ただ徳川政府の威光というだけでは、多くの百姓ももはや動かなくなって来た。
本陣の門を出る時、吉左衛門はそのことを半蔵にきいた。
「お前は今度のお達しをよく読んで見たかい。参覲交代が全廃というわけではないんだね。」
「お父(とっ)さん、全廃じゃありません。諸大名は三年目ごとに一度、御三家や溜詰(たまりづめ)は一月(ひとつき)ずつ江戸におれとありますがね、奥方や若様は帰国してもいいと言うんですから、まあほとんど骨抜きに近いようなものでしょう。」
夕方になるととかく疲れが出て引きこもりがちな吉左衛門が、その晩のように上の伏見屋まで歩こうと言い出したことは、病後初めての事と言ってもよかった。この父は久しぶりで家を出て見るというふうで、しばらく門前にたたずんで、まだ暮れ切らない街道の空をながめた。
「半蔵、この街道はどうなろう。」
「参覲交代がなくなったあとにですか。」
「そりゃ、お前、参覲交代はなくなっても、まるきり街道がなくなりもしまいがね。まあ、金兵衛さんにもあって、話して見るわい。」
心配してついて行く半蔵に助けられながら、吉左衛門は坂になった馬籠の町を非常に静かに歩いた。右に問屋、蓬莱屋(ほうらいや)、左に伏見屋、桝田屋(ますだや)なぞの前後して新築のできた家々が両側に続いている。その間の宿場らしい道を登って行くと、親子|二人(ふたり)のものはある石垣(いしがき)のそばで向こうからやって来る小前(こまえ)の百姓にあった。
百姓は吉左衛門の姿を見ると、いきなり自分の頬(ほお)かぶりしている手ぬぐいを取って、走り寄った。
「大旦那(おおだんな)、どちらへ、半蔵さまも御一緒かなし。お前さまがこんなに村を出歩かせるのも、御病気になってから初めてだらずに。」
「あい。おかげで、日に日にいい方へ向いて来たよ。」
「まあ、おれもどのくらい心配したか知れすかなし。御病気が御病気だから、井戸の水で頭を冷やすぐらいは知れたものだと思って、おれはお前さまのために恵那山(えなさん)までよく雪を取りに行って来たこともある。」
吉左衛門から見れば、これらの小前のものはみんな自分の子供だった。
そこまで行くと、上の伏見屋も近い。ちょうど金兵衛は山口村の祭礼狂言を見に二日泊まりで出かけて行って、その日の午後に帰って来たというところだった。
「おゝ、吉左衛門さんか。これはおめずらしい。」
と言って、金兵衛は後添(のちぞ)いのお玉と共によろこび迎えた。
金兵衛も吉左衛門と同じように、もはや退役の日の近いことを知っていた。新築した伏見屋は養子伊之助に譲り、火災後ずっと上の伏見屋の方に残っていて、晩年のしたくに余念もない。六十六歳の声を聞いてから、中新田(なかしんでん)へ杉苗(すぎなえ)四百本、青野へ杉苗百本の植え付けなぞを思い立つ人だ。
「お玉、お風呂(ふろ)を見てあげな。」
という金兵衛の声を聞いて、半蔵は薄暗い湯どのの方へ父を誘った。病後の吉左衛門にとって長湯は大の禁物だった。半蔵は自分でも丸はだかになって、手ばしこく父の背中を流した。その不自由な手を洗い、衰えた足をも洗った。
「お父(とっ)さん、湯ざめがするといけませんよ、またこないだのようなことがあると、大変ですよ。」
病後の父をいたわる半蔵の心づかいも一通りではなかった。
間もなく上の伏見屋の店座敷では、山家風な行燈(あんどん)を置いたところに主客のものが集まって、夜咄(よばなし)にくつろいだ。
「金兵衛さん、わたしも命拾いをしましたよ。」と吉左衛門は言った。「ひところは、これで明日(あした)もあるかと思いましてね、枕(まくら)についたことがよくありましたよ。」
「そう言えば、あの和宮(かずのみや)さまの御通行の時分から弱っていらしった。」と金兵衛も茶なぞを勧めながら答える。「吉左衛門さんはあんなに無理をなすって、あとでお弱りにならなければいいがって、お玉ともよくあの時分におうわさしましたよ。」
「もう大丈夫です。ただ筆を持てないのと、箒(ほうき)を持てないのには――これにはほとんど閉口です。」
「吉左衛門さんの庭|掃除(そうじ)は有名だから。」
金兵衛は笑った。そこへ伊之助も新築した家の方からやって来る。一同の話は宿場の前途に関係の深い今度の参覲交代制度改革のことに落ちて行った。
「助郷(すけごう)にも弱りました。」と言い出すのは金兵衛だ。「宮様御通行の時は特別の場合だ、あれは当分の臨機の処置だなんて言ったって、そうは時勢が許さない。一度|増助郷(ましすけごう)の例を開いたら、もう今までどおりでは助郷が承知しなくなったそうですよ。」
「そういうことが当然起こって来ます。」と吉左衛門が言う。
「現に、」伊之助は二人の話を引き取って、「あの公家衆(くげしゅう)の御通行は四月の八日でしたから、まだこんな改革のお達しの出ない前です。あの時は大湫(おおくて)泊まりで、助郷人足六百人の備えをしろと言うんでしょう。みんな雇い銭でなけりゃ出て来やしません。」
「いくら公家衆でも、六百人の人足を出せはばかばかしい。」と半蔵は言った。
「それもそうだ。」と金兵衛は言葉をつづける。「あの公家衆の御通行には、差し引き、四両二分三朱、村方の損になったというじゃありませんか。」
「とにかく、御通行はもっと簡略にしたい。」とまた半蔵は言った。「いずれこんな改革は道中奉行へ相談のあったことでしょう。街道がどういうことになって行くか、そこまではわたしにも言えませんがね。しかし上から見ても下から見ても、参覲交代のような儀式ばった御通行がそういつまで保存のできるものでもないでしょう。繁文縟礼(はんぶんじょくれい)を省こう、その費用をもっと有益な事に充(あ)てよう、なるべく人民の負担をも軽くしよう――それがこの改革の御趣意じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、君はこの改革をどう思います。今まで江戸の方に人質のようになっていた諸大名の奥方や若様が、お国もとへお帰りになると言いますぜ。」
と吉左衛門が言うと、旧(ふる)い友だちも首をひねって、
「さあ、わたしにはわかりません。――ただ、驚きます。」
その時になって見ると、江戸から報じて来る文久年度の改革には、ある悲壮な意志の歴然と動きはじめたものがあった。参覲交代のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたばかりでなく、大赦は行なわれる、山陵は修復される、京都の方へ返していいような旧(ふる)い慣例はどしどし廃された。幕府から任命していた皇居九門の警衛までも撤去された。およそ幕府の力にできるようなことは、松平春嶽を中心の人物にし山内容堂を相談役とする新内閣の手で行なわれるようになった。
封建時代にあるものの近代化は、後世を待つまでもなく、すでにその時に始まって来た。松平春嶽、山内容堂、この二人(ふたり)はそれぞれの立場にあり、領地の事情をも異にしていたが、時代の趨勢(すうせい)に着眼して早くから幕政改革の意見を抱(いだ)いたことは似ていた。その就職以前から幕府に対して同情と理解とを持つことにかけても似ていた。水戸の御隠居、肥前(ひぜん)の鍋島閑叟(なべしまかんそう)、薩摩(さつま)の島津久光の諸公と共に、生前の岩瀬肥後から啓発せらるるところの多かったということも似ていた。あの四十に手が届くか届かないかの若さで早くこの世を去った岩瀬肥後ののこした開国の思想が、その人の死後になってまた働き初めたということにも不思議はない。蕃書(ばんしょ)調所は洋書調所(開成所、後の帝国大学の前身)と改称される。江戸の講武所(こうぶしょ)における弓術や犬追物(いぬおうもの)なぞのけいこは廃されて、歩兵、騎兵、砲兵の三兵が設けられる。井伊大老在職の当時に退けられた人材はまたそれぞれの閑却された位置から身を起こしつつある。門閥と兵力とにすぐれた会津(あいづ)藩主松平|容保(かたもり)は、京都守護職の重大な任務を帯びて、新たにその任地へと向かいつつある。
時には、オランダ留学生派遣のうわさが夢のように半蔵の耳にはいる。二度も火災をこうむった江戸城建築のころは、まだ井伊大老在職の日で、老中水野越前守が造り残した数百万両の金銀の分銅(ふんどう)はその時に費やされたといわれ、公儀の御金庫(おかねぐら)はあれから全く底を払ったと言われる。それほど苦しい身代のやり繰りの中で、今度の新内閣がオランダまで新知識を求めさせにやるというその思い切った方針が、半蔵を驚かした。
ちょうど、父吉左衛門は家にいて、例の寛(くつろ)ぎの間(ま)にこもって、もはや退役の日のしたくなぞを始めていた。祖父半六は六十六歳まで宿役人を勤め、それから家督を譲って隠居したが、父は六十四歳でそれをするというふうに。半蔵はこの父の様子をちょっとのぞいたあとで、南側の長い廊下を歩いて見た。オランダ留学生のうわさを思いながら、ひとり言って見た。
「黒船はふえるばかりじゃないかしらん。」
とうとう、半蔵は父の前に呼ばれて、青山の家に伝わった古い書類なぞを引き渡されるような日を迎えた。父の退役はもはや時の問題であったからで。
本陣問屋庄屋の三役を勤めるに必要な公用の記録から、田畑家屋敷に関する反別(たんべつ)、年貢(ねんぐ)、掟年貢(おきてねんぐ)なぞを記(しる)しつけた帳面の類(たぐい)までが否応(いやおう)なしに半蔵の前に取り出された。吉左衛門は半蔵に言いつけて、古い箱につけてある革(かわ)の紐(ひも)を解かせた。人馬の公用を保証するために、京都の大舎人寮(おおとねりりょう)、江戸の道中奉行所をはじめ、その他全国諸藩から送ってよこしてある大小種々の印鑑がその中から出て来た。宿駅の合印(あいじるし)だ。吉左衛門はまた半蔵に言いつけて、別の箱の紐(ひも)を解かせた。その中には、遠く慶長(けいちょう)享保(きょうほう)年代からの御年貢|皆済目録(かいさいもくろく)があり、代々持ち伝えても破損と散乱との憂いがあるから、後の子孫のために一巻の軸とすると書き添えた先祖の遺筆も出て来た。
「これはお前の方へ渡す。」
父は半蔵の方で言おうとすることを聞き入れようともしなかった。親の譲るものは、子の受け取るべきもの。そうひとりできめて、いろいろな事務用の帳面や数十通の書付なぞをそこへ取り出した。村方の関係としては、当時の戸籍とも言うべき宗門|人別(にんべつ)から、検地、年貢、送籍、縁組、離縁、訴訟の手続きまでを記しつけたもの。
「これも大切な古帳だ。」
と吉左衛門は言って、左の手でそれを半蔵の方へ押しやった。木曾山中の御免荷物として、木材通用の跡を記しつけたものだった。森林保護の目的から伐採を禁じられている五木の中でも、毎年二百|駄(だ)ずつの檜(ひのき)、椹(さわら)の類(たぐい)の馬籠村にも許されて来たことが、その中に明記してあった。
「なんだかおれも遠く来たような気がする。」と吉左衛門は言った。「おれの長い道づれはあの金兵衛さんだが、どうやらけんかもせずにここまで来た。まあ、何十年の間、おれはほとんどあの人と言い合ったことがない。ただ二度――そうさ、ただ二度あるナ。一度はお喜佐と仙十郎(せんじゅうろう)(上の伏見屋の以前の養子)の間にできた子供のことで。今一度は古い地所のことで。半蔵は覚えがあろう、あの地所のことでは金兵衛さんが大変な立腹で、いったい青山の欲心からこんなことが起こる、末長く御懇意に願いたいと思っているのに今からこんな問題が起こるようでは孫子の代が案じられるなんて、そう言っておれを攻撃したそうだ。おれはあとになって人からその話を聞いた。何にしろあの時は金兵衛さんが顔色を変えて、おれの家へ古い書付なぞを見せに持ち込んで来た。あれはおれの覚えちがいだったかもしれんが、あんなに金兵衛さんも言わなくても済むことさ。いくらよい友だちでも、やっぱりあの人と、おれとは違う。今になって見ると、よく二人はここまで一緒に歩いて来られたものだという気もするね。おれはお前、このとおりな人間だし、金兵衛さんと来たら、あの人はなかなか細かいからね。土蔵の前の梨(なし)の木に紙袋(かんぶくろ)をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きい梨の目方が百三匁、ほかの二つは目方が六十五匁あったと、そう言うような人なんだからね。」
過ぐる年の大火に、馬籠本陣の古い書類も多く焼失した。かろうじて持ち出したもの、土蔵の方へ運んであったものは残った。例の相州三浦にある本家から贈られた光琳(こうりん)の軸、それに火災前から表玄関の壁の上に掛けてあった古い二本の鎗(やり)だけは遠い先祖を記念するものとして残った。その時、吉左衛門は『青山氏系図』としてあるものまで取り出して半蔵の前に置いた。
「半蔵、お前も知ってるように、吾家(うち)には出入りをする十三人の百姓がある。中には美濃(みの)の方から吾家(うち)へ嫁に来た人に随(つ)いて馬籠に移住した関係のものもある。正月と言えば吾家(うち)へ餅(もち)をつきに来たり、松を立てたりしに来るのも、先祖以来の関係からさ。あの百姓たちには目をかけてやれよ。それから、お前に断わって置くが、いよいよおれも隠居する日が来たら、何事もお前の量見一つでやってくれ――おれは一切、口を出すまいから。」
父はこの調子だ。半蔵の方でもう村方のことから街道の一切の世話まで引き受けてしまったような口ぶりだ。
その日、半蔵は父のいる部屋(へや)から店座敷の方へ引きさがって来た。こういう日の来ることは彼も予期していた。長い歴史のある青山の家を引き継ぎ、それを営むということが、もとより彼の心をよろこばせないではない。しかし、実際に彼がこの家を背負(しょ)って立とうとなると、これがはたして自分の行くべき道かと考える。国学者としての多くの同志――ことに友人の景蔵なぞが寝食を忘れて国事に奔走している中で、父は病み、実の兄弟(きょうだい)はなし、ただ一人(ひとり)お喜佐のような異腹(はらちがい)の妹に婿養子の祝次郎はあっても、この人は新宅の方にいて彼とはあまり話も合わなかった。
秋らしい日が来ていた。店座敷の障子には、裏の竹林の方からでも飛んで来たかと思われるようなきりぎりすがいて、細長い肢(あし)を伸ばしながら静かに障子の骨の上をはっている。半蔵の目はそのすずしそうな青い羽をながめるともなくながめて、しばらく虫の動きを追っていた。
お民は店座敷へ来て言った。
「あなた、顔色が青いじゃありませんか。」
「そりゃ、お前、生きてる人間だもの。」
これにはお民も二の句が継げなかった。そこへ継母のおまんが一人の男を連れてはいって来た。
「半蔵、清助さんがこれから吾家(うち)へ手伝いに通(かよ)って来てくれますよ。」
和田屋の清助という人だ。半蔵の家のものとは遠縁にあたる。本陣問屋庄屋の雑務を何くれとなく手伝ってもらうには、持って来いという人だ。清助は吉左衛門が見立てた人物だけあって、青々と剃(そ)り立てた髯(ひげ)の跡の濃い腮(あご)をなでて、また福島の役所の方から代替(だいがわ)り本役の沙汰(さた)もないうちから、新主人半蔵のために祝い振舞(ぶるまい)の時のしたくなぞを始めた。客は宿役人の仲間の衆。それに組頭(くみがしら)一同。当日はわざと粗酒一|献(こん)。そんな相談をおまんにするのも、この清助だ。
青山、小竹両家で待たれる福島の役所からの剪紙(きりがみ)(召喚状)が届いたのは、それから間もなかった。それには青山吉左衛門|忰(せがれ)、年寄役小竹金兵衛忰、両人にて役所へまかりいでよとある。付添役二人、宿方|惣代(そうだい)二人同道の上ともある。かねて願って置いた吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられ、跡役は二人の忰(せがれ)たちに命ずると書いてないまでも、その剪紙(きりがみ)の意味はだれにでも読めた。
半蔵も心を決した。彼は隣家の伊之助を誘って、福島をさして出かけた。木曾路に多い栗(くり)の林にぱらぱら時雨(しぐれ)の音の来るころには、やがて馬籠から行った惣代の一人、桝田屋(ますだや)の相続人小左衛門、それに下男の佐吉なぞと共に、一同連れだって福島からの帰路につく人たちであった。彼が奥筋から妻籠まで引き返して来ると、そこの本陣に寿平次が待ち受けていて、一緒に馬籠まで行こうという。
「寿平次さん、とうとうわたしも君たちのお仲間入りをしちまいましたよ。」
「みんなで寄ってたかって、半蔵さんを庄屋にしないじゃ置かないんです。お父(とっ)さんも、さぞお喜びでしょう。」
寿平次も笑ったり、祝ったりした。
宮様御降嫁の当時、公武一和の説を抱いて供奉(ぐぶ)の列の中にあった岩倉、千種(ちぐさ)、富小路(とみのこうじ)の三人の公卿(くげ)が近く差し控えを命ぜられ、つづいて蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、すでに落飾(らくしょく)の境涯(きょうがい)にあるというほど一変した京都の方の様子も深く心にかかりながら、半蔵は妻籠本陣に一晩泊まったあとで、また連れと一緒に街道を踏んで行った。妻籠からは、彼は自分を待ち受けてくれる人たちにと思って、念のために帰宅を報じて置いた。
寿平次を加えてからの帰路は、一層半蔵に別な心持ちを起こさせた。大橋を渡り、橋場というところを過ぎて、下(くだ)り谷(だに)にかかった。歩けば歩くほど新生活のかどでにあるような、ある意識が彼の内部(なか)にさめて行った。
「寿平次さん、君の方へは何か最近に来た便(たよ)りがありますか――江戸からでも。」
「さあ、最近に驚かされたと言えば、生麦(なまむぎ)事件ぐらいのものです。」
「あの報知(しらせ)はわたしの方へも早く来ました。ほら、横須賀(よこすか)の旅に、あの辺は君と二人で歩いて通ったところなんですがね。」
武州の生麦と言えば、勅使に随行した島津久光の一行、その帰国を急ぐ途中での八月二十一日あたりの出来事は江戸の方から知れて来ていた。あの英人の殺傷事件を想像しながら、木曾の尾垂(おたる)の沢深い山間(やまあい)を歩いて行くのは薄気味悪くもあるほど、まだそのうわさは半蔵らの記憶になまなましい。
「寿平次さん、わたしはそれよりも、あの薩摩(さつま)の同勢の急いで帰ったというのが気になりますよ。あれほどの事件が途中で起こったというのに、それをうっちゃらかして置いて行くくらいですからね。京都の方はどうでしょう。それほど雲行きが変わって来たんじゃありませんかね。」
「さあねえ。」
「寿平次さんは岩倉様の蟄居(ちっきょ)を命ぜられたことはお聞きでしたかい。」
「そいつは初耳です。」
「どうもいろいろなことをまとめて考えて見ると、何か京都の方には起こっている――」
「半蔵さんのお仲間からは何か言って来ますか。今じゃ平田先生の御門人で、京都に集まってる人もずいぶんあるんでしょう。」
「しばらく景蔵さんからも便(たよ)りがありません。」
「なにしろ世の中は多事だ。これからの庄屋の三年は、お父(とっ)さん時代の人たちの二十年に当たるかもしれませんね。」
二人は話し話し歩いた。
一石栃(いちこくとち)まで帰って行くと、そこは妻籠と馬籠の宿境にも近い。歩き遅れた半蔵らは連れの伊之助や小左衛門なぞに追いついて、峠の峰まで帰って行った。
「へえ、旦那(だんな)、おめでとうございます。」
半蔵はその峰の上で、そこに自分を待ち受けている峠村の組頭、その他二、三の村のものの声を聞いた。
清水というところまで帰って行った。馬籠の町内にある五人組の重立ったものが半蔵を出迎えた。陣場まで帰って行った。問屋の九郎兵衛、馬籠の組頭で百姓総代の庄助、本陣新宅の祝次郎、その他半蔵が内弟子(うちでし)の勝重(かつしげ)から手習い子供まで、それに荒町(あらまち)からのものなぞを入れると、十六、七人ばかりの人たちが彼を出迎えた。上町(かみまち)まで帰って行くと、問屋九太夫をはじめ、桝田屋(ますだや)、蓬莱屋(ほうらいや)、梅屋、いずれももう髪の白いそれらの村の長老たちが改まった顔つきで、馬籠の新しい駅長をそこに待ち受けていた。 

「あなたは勤王家ですか。」
「勤王家かとはなんだい。」
「その方のお味方ですかッて、きいているんですよ。」
「お民、どうしてお前はそんなことをおれにきくんだい。」
半蔵は本陣の奥の上段の間にいた。そこは諸大名が宿泊する部屋(へや)にあててあるところで、平素はめったに家のものもはいらない。お民は仲の間の方から、そこに片づけものをしている夫(おっと)を見に来た時だ。
「どうしてということもありませんけれど、」とお民は言った。「お母(っか)さんがそんなことを言ってましたから。」
半蔵は妻の顔をながめながら、「おれは勤王なんてことをめったに口にしたこともない。今日、自分で勤王家だなんて言う人の顔を見ると、おれはふき出したくなる。そういう人は勤王を売る人だよ。ごらんな――ほんとうに勤王に志してるものなら、かるがるしくそんなことの言えるはずもない。」
「わたしはちょっときいて見たんですよ――お母(っか)さんがそんなことを言っていましたからね。」
「だからさ、お前もそんなことを口にするんじゃないよ。」
お民は周囲を見回した。そこは北向きで、広い床の間から白地に雲形を織り出した高麗縁(こうらいべり)の畳の上まで、茶室のような静かさ厳粛さがある。厚い壁を隔てて、街道の方の騒がしい物音もしない。部屋から見える坪庭には、山一つ隔てた妻籠(つまご)より温暖(あたたか)な冬が来ている。
「そう言えば、これは別の話ですけれど、こないだ兄さん(寿平次)が来た時に、わたしにそう言っていましたよ――平田先生の御門人は、幕府方から目をつけられているようだから、気をおつけッて。」
「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」
将軍|上洛(じょうらく)の前触れと共に、京都の方へ先行してその準備をしようとする一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の通行筋はやはりこの木曾街道で、旧暦十月八日に江戸|発駕(はつが)という日取りの通知まで来ているころだった。道橋の見分に、宿割(しゅくわり)に、その方の役人はすでに何回となく馬籠へも入り込んで来た。半蔵はこの山家に一橋公を迎える日のあるかと想(おも)って見て、上段の間を歩き回っていた。
「どれ、お大根でも干して。」
お民は出て行った。山家では沢庵漬(たくあんづ)けの用意なぞにいそがしかった。いずれももう冬じたくだ。野菜を貯(たくわ)えたり、赤蕪(あかかぶ)を漬(つ)けたりすることは、半蔵の家でも年中行事の一つのようになっていた。その時、半蔵は妻を見送ったあとで、彼女のそこに残して置いて行った言葉を考えて見た。深い窓にのみこもり暮らしているような継母のおまんが、しかも「わたしはもうお婆(ばあ)さんだ」を口癖にしている五十四歳の婦人で、いつのまに彼の志を看破(みやぶ)ったろうとも考えて見た。その心持ちから、彼は一層あの賢い継母を畏(おそ)れた。
数日の後、半蔵は江戸の道中奉行所(どうちゅうぶぎょうしょ)から来た通知を受け取って見て、一橋慶喜の上京がにわかに東海道経由となったことを知った。道普請まで命ぜられた木曾路の通行は何かの都合で模様替えになった。その冬の布告によると、将軍上洛の導従が東海道を通行するものが多いから、十二月九日以後は旅人は皆東山道を通行せよとある。
「半蔵さま、来年は街道もごたごたしますぞ。」
「さあ、おれもその覚悟だ。」
清助と半蔵とはこんな言葉をかわした。
年も暮れて行った。明ければ文久三年だ。その時になって見ると、東へ、東へと向かっていた多くの人の足は、全く反対な方角に向かうようになった。時局の中心はもはや江戸を去って、京都に移りつつあるやに見えて来た。それを半蔵は自分が奔走する街道の上に読んだ。彼も責任のあるからだとなってから、一層注意深い目を旅人の動きに向けるようになった。
本馬(ほんま)六十三文、軽尻(からじり)四十文、人足四十二文、これは馬籠から隣宿|美濃(みの)の落合(おちあい)までの駄賃(だちん)として、半蔵が毎日のように問屋場の前で聞く声である。将軍|上洛(じょうらく)の日も近いと聞く新しい年の二月には、彼は京都行きの新撰組(しんせんぐみ)の一隊をこの街道に迎えた。一番隊から七番隊までの列をつくった人たちが雪の道を踏んで馬籠に着いた。いずれも江戸の方で浪士(ろうし)の募集に応じ、尽忠報国をまっこうに振りかざし、京都の市中を騒がす攘夷(じょうい)党の志士浪人に対抗して、幕府のために粉骨砕身しようという剣客ぞろいだ。一道の達人、諸国の脱藩者、それから無頼(ぶらい)な放浪者なぞから成る二百四十人からの群れの腕が馬籠の問屋場の前で鳴った。
二月も末になって、半蔵のところへは一人(ひとり)の訪問者があった。宵(よい)の口を過ぎたころで、道に迷った旅人なぞの泊めてくれという時刻でもなかった。街道もひっそりしていた。
「旦那(だんな)、大草仙蔵(おおぐさせんぞう)というかたが見えています。」
囲炉裏(いろり)ばたで※[くさかんむり/稾]造(わらづく)りをしていた下男の佐吉がそれを半蔵のところへ知らせに来た。
「大草仙蔵?」
「旦那にお目にかかればわかると言って、囲炉裏ばたの入り口の方においでたぞなし。」
不思議に思って半蔵は出て見た。京都方面で奔走していると聞いた平田同門の一人が、着流しに雪駄(せった)ばきで、入り口の土間のところに立っていた。大草仙蔵とは変名で、実は先輩の暮田正香(くれたまさか)であった。
「青山君、君にお願いがあって来ました。」
と客は言ったが、周囲に気を兼ねてすぐに切り出そうともしない。この先輩は歩き疲れたというふうで、上がり端(はな)のところに腰をおろした。ちょうど囲炉裏の方には人もいないのを見すまし、土間の壁の上に高く造りつけてある鶏の鳥屋(とや)まで見上げて、それから切り出した。
「実は、今、中津川から歩いて来たところです。君のお友だちの浅見(景蔵)君はお留守ですが、ゆうべはあそこの家に泊めてもらいました。青山君、こんなにおそく上がって御迷惑かもしれませんが、今夜一晩|御厄介(ごやっかい)になれますまいか。青山君はまだわたしたちのことを何もお聞きになりますまい。」
「しばらく景蔵さんからも便(たよ)りがありませんから。」
「わたしはこれから伊那(いな)の方へ行って身を隠すつもりです。」
客の言葉は短い。事情もよく半蔵にはわからない。しかし変名で夜おそく訪(たず)ねて来るくらいだ。それに様子もただではない。
「この先輩は幕府方の探偵(たんてい)にでもつけられているんだ。」その考えがひらめくように半蔵の頭へ来た。
「暮田(くれた)さん、まあこっちへおいでください。しばらく待っていてください。くわしいことはあとで伺いましょう。」
半蔵は土間にある草履(ぞうり)を突ッかけながら、勝手口から裏の方へ通う木戸をあけた。その戸の外に正香(まさか)を隠した。
とにかく、厄介な人が舞い込んで来た。村には目証(めあかし)も滞在している。狭い土地で人の口もうるさい。どうしたら半蔵はこの夜道に疲れて来た先輩を救って、同志も多く安全な伊那の谷の方へ落としてやることができようと考えた。家には、と見ると、父は正月以来裏の二階へ泊まりに行っている。お民は奥で子供らを寝かしつけている。通いで来る清助はもう自宅の方へ帰って行っている。弟子(でし)の勝重はまだ若し、佐吉や下女たちでは用が足りない。
「これはお母(っか)さんに相談するにかぎる。」
その考えから、半蔵はありのままな事情を打ち明けて、客をかくまってもらうために継母のおまんを探(さが)した。
「平田先生の御門人か。一晩ぐらいのことなら、土蔵の中でもよろしかろう。」
おまんは引き受け顔に答えた。
暮田正香は半蔵と同国の人であるが、かつて江戸に出て水戸藩士|藤田東湖(ふじたとうこ)の塾(じゅく)に学んだことがあり、東湖没後に水戸の学問から離れて平田派の古学に目を見開いたという閲歴を持っている。信州北伊那郡小野村の倉沢義髄(くらさわよしゆき)を平田|鉄胤(かねたね)の講筵(こうえん)に導いたのも、この正香である。後に義髄は北伊那における平田派の先駆をなしたという関係から、南信地方に多い平田門人で正香の名を知らないものはない。
この人を裏の土蔵の方へ導こうとして、おまんは提灯(ちょうちん)を手にしながら先に立って行った。半蔵も蓙(ござ)や座蒲団(ざぶとん)なぞを用意してそのあとについた。
「足もとにお気をつけくださいよ。石段を降りるところなぞがございますよ。」
とおまんは客に言って、やがて土蔵の中に用でもあるように、大きな鍵(かぎ)で錠前をねじあけ、それを静かに抜き取った。金網の張ってある重い戸があくと、そこは半蔵夫婦が火災後しばらく仮住居(かりずまい)にもあてたところだ。蓙(ござ)でも敷けば、客のいるところぐらい設けられないこともなかった。
「お客さんはお腹(なか)がおすきでしたろうね。」
それとなくおまんが半蔵にきくと、正香はやや安心したというふうで、
「いや、したくは途中でして来ました。なにしろ、京都を出る時は、二昼夜歩き通しに歩いて、まるで足が棒のようでした。それから昼は隠れ、夜は歩くというようにして、ようやくここまでたどり着きました。」
おまんは提灯の灯(ひ)を片すみの壁に掛け、その土蔵の中に二人(ふたり)のものを置いて立ち去った。
「半蔵、お客さんの夜具はあとから運ばせますよ。」
との言葉をも残した。
「青山君、やりましたよ。」
二人ぎりになった時、正香はそんなことを言い出した。その調子が半蔵には、実に無造作にも、短気にも、とっぴにも、また思い詰めたようにも聞こえた。
同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人であるが、等持院に安置してある足利尊氏(あしかがたかうじ)以下、二将軍の木像の首を抜き取って、二十三日の夜にそれを三条河原(さんじょうがわら)に晒(さら)しものにしたという。それには、今の世になってこの足利らが罪状の右に出るものがある、もし旧悪を悔いて忠節を抽(ぬき)んでることがないなら、天下の有志はこぞってその罪を糺(ただ)すであろうとの意味を記(しる)し添えたという。ところがこの事を企てた仲間のうちから、会津(あいづ)方(京都守護の任にある)の一人の探偵があらわれて、同志の中には縛に就(つ)いたものもある。正香は二昼夜兼行でその難をのがれて来たことを半蔵の前に白状したのであった。
正香に言わせると、将軍|上洛(じょうらく)の日も近い。三条河原の光景は、それに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である、死んだ武将の木像の首を晒(さら)しものにするようなことは子供らしい戯れとも聞こえるが、しかしその道徳的な効果は大きい、自分らはそれをねらったのであると。
この先輩の大胆さには、半蔵も驚かされた。「物学びするともがら」の実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったかと考えさせられた。同時に、平田|大人(うし)没後の門人と一口には言っても、この先輩に水戸風な学者の影響の多分に残っていることは争えないとも考えさせられた。
「だれか君を呼ぶ声がする。」
正香は戸に近づく人のけはいを聞きとがめるようにして、耳のところへ手をあてがった。半蔵も耳を澄ました。お民だ。彼女は佐吉に手伝わせて客の寝道具をそこへ持ち運んで来た。
「暮田さん、非常にお疲れのようですから、これでわたしも失礼します。お話はあす伺います。お休みください。」
そのまま半蔵は正香のそばを離れて、母屋(もや)の方へ帰って行った。どれほどの人の動き始めたとも知れないような京都の方のことを考え、そこにある友人の景蔵のことなぞを考えて、その晩は彼もよく眠られなかった。
翌日の昼過ぎに、半蔵はこっそり正香を見に行った。御膳(ごぜん)何人前、皿(さら)何人前と箱書きのしてある器物の並んだ土蔵の棚(たな)を背後(うしろ)にして、蓙(ござ)を敷いた座蒲団の上に正香がさびしそうにすわっていた。前の晩に見た先輩の近づきがたい様子とも違って、多感で正直な感じのする一人の国学者をそこに見つけた。
その時、半蔵は腰につけて持って行った瓢箪(ふくべ)を取り出した。木盃(もくはい)を正香の前に置いた。くたぶれて来た旅人をもてなすようにして、酒を勧めた。
「ほ。」と正香は目をまるくして、「君はめずらしいものをごちそうしてくれますね。」
「これは馬籠の酒です。伏見屋と桝田屋(ますだや)と、二軒で今造っています。一つ山家の酒を味わって見てください。」
「どうも瓢箪のように口の小さいものから出る酒は、音からして違いますね。コッ、コッ、コッ、コッ――か。長道中でもして来た時には、これが何よりですよ。」
まるで子供のようなよろこび方だ。この先輩が瓢箪から出る酒の音を口まねまでしてよろこぶところは、前の晩に拳(こぶし)を握り固め、五本の指を屈(かが)め、後ろから髻(たぶさ)でもつかむようにして、木像の首を引き抜く手まねをして見せながら等持院での現場の話を半蔵に聞かせたその同じ豪傑とも見えなかった。
そればかりではない。京都|麩屋町(ふやまち)の染め物屋で伊勢久(いせきゅう)と言えば理解のある義気に富んだ商人として中津川や伊那地方の国学者で知らないもののない人の名が、この正香の口から出る。平田門人、三輪田綱一郎(みわたつないちろう)、師岡正胤(もろおかまさたね)なぞのやかましい連中が集まっていたという二条|衣(ころも)の棚(たな)――それから、同門の野代広助(のしろひろすけ)、梅村真一郎、それに正香その人をも従えながら、秋田藩|物頭役(ものがしらやく)として入京していた平田鉄胤が寓居(ぐうきょ)のあるところだという錦小路(にしきこうじ)――それらの町々の名も、この人の口から出る。伊那から出て、公卿(くげ)と志士の間の連絡を取ったり、宮廷に近づいたり、鉄胤門下としてあらゆる方法で国学者の運動を助けている松尾|多勢子(たせこ)のような婦人とも正香は懇意にして、その人が帯の間にはさんでいる短刀、地味な着物に黒繻子(くろじゅす)の帯、長い笄(こうがい)、櫛巻(くしま)きにした髪の姿までを話のなかに彷彿(ほうふつ)させて見せる。日ごろ半蔵が知りたく思っている師鉄胤や同門の人たちの消息ばかりでなく、京都の方の町の空気まで一緒に持って来たようなのも、この正香だ。
「そう言えば、青山君。」と正香は手にした木盃(もくはい)を下に置いて、膝(ひざ)をかき合わせながら言った。「君は和宮(かずのみや)さまの御降嫁あたりからの京都をどう思いますか。薩摩(さつま)が来る、長州が来る、土佐が来る、今度は会津が来る。諸大名が動いたから、機運が動いて来たと思うのは大違いさ。機運が動いたからこそ、薩州公などは鎮撫(ちんぶ)に向かって来たし、長州公はまた長州公で、藩論を一変して乗り込んで来た。そりゃ、君、和宮さまの御降嫁だっても、この機運の動いてることを関東に教えたのさ。ところが関東じゃ目がさめない。勅使|下向(げこう)となって、慶喜公は将軍の後見に、越前(えちぜん)公は政事総裁にと、手を取るように言って教えられて、ようやくいくらか目がさめましたろうさ。しかし、君、世の中は妙なものじゃありませんか。あの薩州公や、越前公や、それから土州公なぞがいくらやきもきしても、名君と言われる諸大名の力だけでこの機運をどうすることもできませんね。まあ薩州公が勅使を奉じて江戸の方へ行ってる間にですよ、もう京都の形勢は一変していましたよ。この正月の二十一日には、大坂にいる幕府方の名高い医者を殺して、その片耳を中山|大納言(だいなごん)の邸(やしき)に投げ込むものがある。二十八日には千種(ちぐさ)家の臣(けらい)を殺して、その右の腕を千種家の邸に、左の腕を岩倉家の邸に投げ込むものがある。攘夷の血祭りだなんて言って、そりゃ乱脈なものさ。岩倉様なぞが恐れて隠れるはずじゃありませんか。まあ京都へ行って見たまえ、みんな勝手な気焔(きえん)を揚げていますから。中にはもう関東なんか眼中にないものもいますから。こないだもある人が、江戸のようなところから来て見ると、京都はまるで野蛮人の巣だと言って、驚いていましたよ。そのかわり活気はあります。参政|寄人(よりうど)というような新しいお公家(くげ)様の政事団体もできたし、どんな草深いところから出て来た野人でも、学習院へ行きさえすれば時事を建白することができる。見たまえ――今の京都には、なんでもある。公武合体から破約攘夷まである。そんなものが渦(うず)を巻いてる。ところでこの公武合体ですが、こいつがまた眉唾物(まゆつばもの)ですて。そこですよ、わたしたちは尊王の旗を高く揚げたい。ほんとうに機運の向かうところを示したい。足利尊氏のような武将の首を晒(さら)しものにして見せたのも、実を言えばそんなところから来ていますよ。」
「暮田(くれた)さん。」と半蔵は相手の長い話をさえぎった。「鉄胤先生は、いったいどういう意見でしょう。」
「わたしたちの今度やった事件にですか。そりゃ君、鉄胤先生にそんな相談をすれば、笑われるにきまってる。だからわたしたちは黙って実行したんです。三輪田元綱がこの事件の首唱者なんですけれど、あの晩は三輪田は同行しませんでした。」
沈黙が続いた。
半蔵はそう長くこの珍客を土蔵の中に隠して置くわけに行かなかった。暮れないうちに早く馬籠を立たせ、すくなくもその晩のうちに清内路(せいないじ)までは行くことを教えねばならなかった。清内路まで行けば、そこは伊那道にあたり、原|信好(のぶよし)のような同門の先輩が住む家もあったからで。
半蔵は正香にきいた。
「暮田さんは、木曾路(きそじ)は初めてですか。」
「権兵衛(ごんべえ)街道から伊那へはいったことはありますが、こっちの方は初めてです。」
「そんなら、こうなさるといい。これから妻籠(つまご)の方へ向かって行きますと、橋場(はしば)というところがありますよ。あの大橋を渡ると、道が二つに分かれていまして、右が伊那道です。実は母とも相談しまして、橋場まで吾家(うち)の下男に送らせてあげることにしました。」
「そうしていただけば、ありがたい。」
「あれから先はかなり深い山の中ですが、ところどころに村もありますし、馬も通います。中津川から飯田(いいだ)へ行く荷物はあの道を通るんです。蘭川(あららぎがわ)について東南へ東南へと取っておいでなさればいい。」
おまんは着流しでやって来た客のために、脚絆(きゃはん)などを母屋(もや)の方から用意して来た。粗末ではあるが、と言って合羽(かっぱ)まで持って来て客に勧めた。佐吉も心得ていると見えて、土蔵の前には新しい草鞋(わらじ)がそろえてあった。
正香は性急な人で、おまんや半蔵の見ている前で無造作に合羽へ手を通した。礼を述べるとすぐ草鞋をはいて、その足で土蔵の前の柿(かき)の木の下を歩き回った。
「暮田さん、わたしもそこまで御一緒にまいります。」
と言って、半蔵は表門から出ずに、裏の木小屋の方へ客を導いた。木戸を押すと、外に本陣の稲荷(いなり)がある。竹藪(たけやぶ)がある。石垣(いしがき)がある。小径(こみち)がある。その小径について街道を横ぎって行った。樋(とい)をつたう水の奔(はし)り流れて来ているところへ出ると、静かな村の裏道がそこに続いている。
その時、正香はホッと息をついた。半蔵や佐吉に送られて歩きながら、
「青山君、篤胤(あつたね)先生の古史伝を伊那の有志が上木(じょうぼく)しているように聞いていますが、君もあれには御関係ですかね。」
「そうですよ。去年の八月に、ようやく第一|帙(ちつ)を出しましたよ。」
「地方の出版としては、あれは大事業ですね。秋田(篤胤の生地)でさえ企てないようなことを伊那の衆が発起してくれたと言って、鉄胤先生なぞもあれには身を入れておいででしたっけ。なにしろ、伊那の方はさかんですね。先生のお話じゃ、毎年門人がふえるというじゃありませんか。」
「ある村なぞは、全村平田の信奉者だと言ってもいいくらいでしょう。そのくせ、松沢義章(まつざわよしあき)という人が行商して歩いて、小間物(こまもの)類をあきないながら道を伝えた時分には、まだあの谷には古学というものはなかったそうですが。」
「機運やむべからずさ。本居(もとおり)、平田の学説というものは、それを正しいとするか、あるいは排斥するか、すくなくも今の時代に生きるもので無関心ではいられないものですからねえ。」
あわただしい中にも、送られる正香と、送る半蔵との間には、こんな話が尽きなかった。
半蔵は峠の上まで客と一緒に歩いた。別れぎわに、
「暮田さんは、宮川寛斎という医者を御存じでしょうか。」
「美濃(みの)の国学者でしょう。名前はよく聞いていますが、ついあったことはありません。」
「中津川の景蔵さん、香蔵さん、それにわたしなぞは、三人とも旧(ふる)い弟子(でし)ですよ。鉄胤先生に紹介してくだすったのも宮川先生です。あの先生も今じゃ伊那の方ですが、どうしておいででしょうか――」
「そう言えば、青山君は鉄胤先生に一度あったきりだそうですね。一度あったお弟子でも、十年そばにいるお弟子でも、あの鉄胤先生には同じようだ。君の話もよく出ますよ。」
この人の残して置いて行った言葉も、半蔵には忘れられなかった。
もはや、暖かい雨がやって来る。二月の末に京都を発(た)って来たという正香は尾張(おわり)や仙台(せんだい)のような大藩の主人公らまで勅命に応じて上京したことは知るまいが、ちょうどあの正香が夜道を急いで来るころに、この木曾路には二藩主の通行もあった。三千五百人からの尾張の人足が来て馬籠の宿に詰めた。あの時、二百四十匹の継立(つぎた)ての馬を残らず雇い上げなければならなかったほどだ。木曾街道筋の通行は初めてと聞く仙台藩主の場合にも、時節柄同勢やお供は減少という触れ込みでも、千六百人の一大旅行団が京都へ向けてこの宿場を通過した。しかも応接に困難な東北弁で。
「半蔵、お前のところへ来たお客さんも、無事に伊那の小野村まで落ち延びていらしったろうか。」
こんなうわさをおまんがするころは、そこいらは桃の春だった。一橋慶喜の英断に出た参覲交代制度の変革の結果は、驚かれるほどの勢いでこの街道にあらわれて来るようになった。旧暦三月のよい季節を迎えて見ると、あの江戸の方で上巳(じょうみ)の御祝儀を申し上げるとか、御能(おのう)拝見を許されるとか、または両山の御霊屋(おたまや)へ参詣(さんけい)するとかのほかには、人質も同様に、堅固で厳重な武家屋敷のなかにこもり暮らしていたどこの簾中(れんちゅう)とかどこの若殿とかいうような人たちが、まるで手足の鎖を解き放たれたようにして、続々帰国の旅に上って来るようになった。
越前の女中方、尾張の若殿に簾中、紀州の奥方ならびに女中方、それらの婦人や子供の一行が江戸の方から上って来て、いずれも本陣や問屋の前に駕籠(かご)を休めて行った。尾州の家中|成瀬隼人正(なるせはやとのしょう)の女中方、肥前島原の女中方、因州(いんしゅう)の女中方なぞの通行が続きに続いた。これが馬籠峠というところかの顔つきの婦人もある。ようやく山の上の空気を自由に吸うことができたと言いたげな顔つきのものもある。半蔵の家に一泊ときめて、五、六人で比丘尼寺(びくにでら)の蓮池(はすいけ)の方まで遊び回り、谷川に下帯|洗濯(せんたく)なぞをして来る女中方もある。
上の伏見屋の金兵衛は、半蔵の父と同じようにすでに隠居の身であるが、持って生まれた性分(しょうぶん)からじっとしていられなかった。きのうは因州の分家にあたる松平|隠岐守(おきのかみ)の女中方が通り、きょうは岩村の簾中方が子供衆まで連れての通行があると聞くと、そのたびに旧(ふる)い友だちを誘いに来た。
「吉左衛門さん、いくら御静養中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。まあすこし出てごらんなさい。おきれいと言っていいか、おみごとと言っていいか、わたしは拝見しているうちに涙がこぼれて来ますよ。」
毎日のような女中方の通行だ。半蔵や伊之助は見物どころではなかった。この帰国する人たちの通行にかぎり、木曾下四宿へ五百人の新助郷(しんすけごう)が許され、特にお定めより割のよい相対雇(あいたいやと)いの賃銭まで許され、百人ばかりの伊那の百姓は馬籠へも来て詰めていた。町人四分、武家六分と言われる江戸もあとに見捨てて来た屋敷方の人々は、住み慣れた町々の方の財界の混乱を顧みるいとまもないようであった。
「国もとへ、国もとへ。」
その声は――解放された諸大名の家族が揚げるその歓呼は――過去三世紀間の威力を誇る東照宮の覇業(はぎょう)も、内部から崩(くず)れかけて行く時がやって来たかと思わせる。中には、一団の女中方が馬籠の町のなかだけを全部|徒歩(おひろい)で、街道の両側に群がる普通の旅行者や村の人たちの間を通り過ぎるのもある。桃から山桜へと急ぐ木曾の季節のなかで、薩州の御隠居、それから女中の通行のあとには、また薩州の簾中(れんちゅう)の通行も続いた。 
第七章

 


文久(ぶんきゅう)三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねてうわさのあった将軍|家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)は、その声のさわがしいまっ最中に行なわれた。
二月十三日に将軍は江戸を出発した。時節柄、万事質素に、という触れ込みであったが、それでもその通行筋にあたる東海道では一時旅人の通行を禁止するほどの厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護(まも)られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍|家光(いえみつ)の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活したものであり、当時の常識とも言うべき大義名分の声に聴(き)いて幕府方においてもいささか鑑(かんが)みるところのあった証拠であり、王室に対する過去の非礼を陳謝する意味のものでもあって、同時に公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰(ごさた)を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝(みかど)と将軍とはすでに義理ある御兄弟(ごきょうだい)の間柄である。もしこれが一層王室と将軍家とを結びつけるなかだちとなり、政令二途に出るような危機を防ぎ止め、動揺する諸藩の人心をしずめることに役立つなら、上洛に要する莫大(ばくだい)な費用も惜しむところではないと言って、関東方がこの旅に多くの望みをかけて行ったというに不思議はない。遠く寛永(かんえい)時代における徳川将軍の上洛と言えば、さかんな関東の勢いは一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ行幸(ぎょうこう)せられたという。いよいよ将軍家|参内(さんだい)のおりには、多くの公卿(くげ)衆はお供の格で、いずれも装束(しょうぞく)着用で、先に立って案内役を勤めたものであったという。二百十余年の時はこの武将の位置を変えたばかりでなく、その周囲をも変えた。三条河原に残る示威のうわさに、志士浪人の徘徊(はいかい)に、決死の覚悟をもってする種々(さまざま)な建白に、王室回復の志を抱(いだ)く公卿たちの策動に、洛中の風物がそれほど薄暗い空気に包まれていたことは、実際に京都の土を踏んで見た関東方の想像以上であったと言わるる。ちょうど水戸藩主も前後して入洛(じゅらく)したが、将軍家の入洛はそれと比べものにならないほどのひそやかさで、道路に拝観するものもまれであった。そればかりではない。近臣のものは家茂(いえもち)の身を案じて、なんとかして将軍を護(まも)らねばならないと考えるほどの恐怖と疑心とにさえ駆られたという。将軍はまだ二十歳にも達しない、宮中にはいってはいかに思われても武士の随(したが)い行くべきところでない、それには鋭い懐剣を用意して置いて参内の時にひそかに差し上げようというのが近臣のものの計画であったという。さすがに家茂はそんなものを懐(ふところ)にする人ではなかった。それを見るとたちまち顔色を変えて、その剣を座上に投げ捨てた。その時の家茂の言葉に、朝廷を尊崇して参内する身に危害を加えようとするもののあるべき道理がない、もしこんな懐剣を隠し持つとしたら、それこそ朝廷を疑い奉るにもひとしい、はなはだもって無礼ではないかと。それにはかたわらに伺候していた老中|板倉伊賀守(いたくらいがのかみ)も返す言葉がなくて、その懐剣をしりぞけてしまったという。その時、将軍はすでに朝服を着けていた。参内するばかりにしたくができた。麻※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](あさがみしも)を着けた五十人あまりの侍衆(さむらいしゅう)がその先を払って、いずれも恐れ入った態度を取って、ひそやかに二条城を出たのは三月七日の朝のことだ。台徳公の面影(おもかげ)のあると言わるる年若な将軍は、小御所(こごしょ)の方でも粛然と威儀正しく静座(せいざ)せられたというが、すべてこれらのことは当時の容易ならぬ形勢を語っていた。
この将軍の上洛は、最初長州侯の建議にもとづくという。しかし京都にはこれを機会に、うんと関東方の膏(あぶら)を絞ろうという人たちが待っていた。もともと真木和泉(まきいずみ)らを急先鋒(きゅうせんぽう)とする一派の志士が、天下変革の兆(きざし)もあらわれたとし、王室の回復も遠くないとして、攘夷をもってひそかに討幕の手段とする運動を起こしたのは、すでに弘化(こうか)安政のころからである。あの京都寺田屋の事変などはこの運動のあらわれであった。これは次第に王室回復の志を抱(いだ)く公卿たちと結びつき、歴史的にも幕府と相いれない長州藩の支持を得るようになって、一層組織のあるものとなった。尊王攘夷は実にこの討幕運動の旗じるしだ。これは王室の衰微を嘆き幕府の専横を憤る烈(はげ)しい反抗心から生まれたもので、その出発点においてまじりけのあったものではない。その計画としては攘夷と討幕との一致結合を謀(はか)り、攘夷の名によって幕府の破壊に突進しようとするものである。あの水戸藩士、藤田東湖(ふじたとうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)らの率先して唱え初めた尊王攘夷は、幾多の屈折を経て、とうとうこの実行運動にまで来た。
排外の声も高い。もとより開港の方針で進んで来た幕府当局でも、海岸の防備をおろそかにしていいとは考えなかったのである。参覲交代(さんきんこうたい)のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたというのも、その一面は諸大名の江戸出府に要する無益な費用を省いて、兵力を充実し、武備を完全にするためであった。いかんせん、徳川幕府としては諸藩を統一してヨーロッパよりする勢力に対抗しうるだけの信用をも実力をも持たなかった。それでも京都方を安心させるため、宮様御降嫁の当時から外夷(がいい)の防禦(ぼうぎょ)を誓い、諸外国と取り結んだ条約を引き戻(もど)すか、無法な侵入者を征伐するか、いずれかを選んで叡慮(えいりょ)を安んずるであろうとの言質(げんち)が与えてある。この一時の気休めが京都方を満足させるはずもない。周囲の事情はもはやあいまいな態度を許さなかった。将軍の上洛に先だってその準備のために京都に滞在していた一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)ですら、三条実美(さんじょうさねとみ)、阿野公誠(あのきんみ)を正使とし、滋野井実在(しげのいさねあり)、正親町公董(おおぎまちきんただ)、姉小路公知(あねのこうじきんとも)を副使とする公卿たちから、将軍|入洛(じゅらく)以前にすでに攘夷期限を迫られていたほどの時である。今度の京都訪問を機会に、家茂(いえもち)の名によってこの容易ならぬ問題に確答を与えないかぎり、たとい帝御自身の年若な将軍に寄せらるる御同情があり、百方その間を周旋する慶喜の尽力があるにしても、将軍家としてはわずか十日ばかりの滞在の予定で京都を辞し去ることはできない状態にあった。
しかし、その年の二月から、遠く横浜の港の方には、十一隻から成るイギリス艦隊の碇泊(ていはく)していたことを見のがしてはならない。それらの艦隊がややもすれば自由行動をも執りかねまじき態度を示していたことを見のがしてはならない。それにはいわゆる生麦(なまむぎ)事件なるものを知る必要がある。
横浜開港以来、足掛け五年にもなる。排外を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさは幾回となく伝わったばかりでなく、江戸|高輪(たかなわ)東禅寺(とうぜんじ)にある英国公使館は襲われ、外人に対する迫害|沙汰(ざた)も頻々(ひんぴん)として起こった。下田(しもだ)以来の最初の書記として米国公使館に在勤していたヒュウスケンなぞもその犠牲者の一人(ひとり)だ。彼は日米外交のそもそもからハリスと共にその局に当たった人で、日本の国情に対する理解も同情も深かったと言わるるが、江戸|三田(みた)古川橋(ふるかわばし)のほとりで殺害された。これらの外人を保護するため幕府方で外国御用の出役(しゅつやく)を設置し、三百余人の番衆の子弟をしてそれに当たらせるなぞのことがあればあるほど、多くの人の反感はますます高まるばかりであった。そこへ生麦事件だ。
生麦事件とは何か。これは意外に大きな外国関係のつまずきを引き起こした東海道筋での出来事である。時は前年八月二十一日、ところは川崎駅に近い生麦村、香港(ホンコン)在留の英国商人リチャアドソン、同じ香港(ホンコン)より来た商人の妻ボロオデル、横浜在留の英国商人マアシャル、およびクラアク、この四人のものが横浜から川崎方面に馬を駆って、おりから江戸より帰西の途にある薩摩(さつま)の島津久光(しまづひさみつ)が一行に行きあった。勅使|大原左衛門督(おおはらさえもんのかみ)に随行して来た島津氏の供衆も数多くあって帰りの途中も混雑するであろうから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずべき懸念(けねん)もあるから、当日は神奈川(かながわ)辺の街道筋を出歩くなとは、かねて神奈川奉行から各国領事を通じて横浜居留の外国人へ通達してあったというが、その意味がよく徹底しなかったのであろう。馬上の英国人らは行列の中へ乗り入れようとしたのでもなかった。言語の不通よりか、習慣の相違よりか、薩摩のお手先衆から声がかかったのをよく解しなかったらしい。歩行の自由を有する道路を通るにさしつかえはあるまいというふうで、なおも下りの方へ行き過ぎようとしたから、たまらない。五、六百人の同勢に護(まも)られながら久光の駕籠(かご)も次第に近づいて来る時で、二人(ふたり)の武士の抜いた白刃がたちまち英国人らの腰の辺にひらめいた。それに驚いて、上りの方へ走るものがあり、馬を止めてまた走り去るものがあり、残り一人のリチャアドソンは松原というところで落馬して、その馬だけが走り去った。薩摩方の武士は落馬した異人の深手(ふかで)に苦しむのを見て、六人ほどでその異人の手を取り、畑中へ引き込んだという。傷つきのがれた三人のうち、あるものは左の肩を斬(き)られ、あるものは頭部へ斬りつけられ、一番無事な婦人も帽子と髪の毛の一部を斬られながら居留地までたどり着いた。この変報と共に、イギリス、フランスの兵士、その他の外国人は現場に急行して、神奈川奉行支配取締りなどと立ち会いの上、リチャアドソンの死体を担架に載せて引き取った。翌日は横浜在留の外人はすべて業を休んだ。荘厳な行列によって葬儀が営まれた。そればかりでなく、外人は集会して強い態度を執ることを申し合わせた。神奈川奉行を通じて、凶行者の逮捕せられるまでは島津氏の西上を差し止められたいとの抗議を持ち出したが、薩摩の一行はそれを顧みないで西に帰ってしまった。
この事件の起こった前月には仏国公使館付きの二人の士官が横浜|港崎町(こうざきちょう)の辺で重傷を負わせられ、同じ年の十二月の夜には品川(しながわ)御殿山(ごてんやま)の方に幕府で建造中であった外国公使館の一区域も長州人士のために焼かれた。排外の勢いはほとんど停止するところを知らない。当時の英国代理公使ニイルは、この日本人の態度を改めさせなければならないとでも考えたものか、横浜在留外人の意見を代表し、断然たる決心をもって生麦事件の責任を問うために幕府に迫って来た。海軍少将クロパアの率いる十一隻からの艦隊が本国政府の指令のもとに横浜に到着したのは、その結果だ。
このことが将軍家茂滞在中の京都の方に聞こえた。イギリス側の抗議は強硬をきわめたもので、英国臣民が罪なしに殺害せられるような惨酷(ざんこく)な所業に対し、日本政府がその当然の義務を怠るのみか、薩州侯をして下手人(げしゅにん)を出させることもできないのは、英国政府を侮辱するものであるとし、第一明らかにその罪を陳謝すべき事、償金十万ポンドを支払うべき事、もし満足な答えが得られないなら、英国水師提督は艦隊の威力によって目的を達するに必要な行動を執るであろうと言い、のみならず日本政府の力で薩摩の領分に下手人を捕えることもできないなら、英国は直接に薩州侯と交渉するであろう、それには艦隊を薩摩の港に差し向け、下手人を捕え、英国海軍士官の面前において斬首(ざんしゅ)すべき事、被害者の親戚(しんせき)および負傷者の慰藉料(いしゃりょう)として二万五千ポンドを支払うべき事をも付け添えて来た。この通牒(つうちょう)の影響は大きかった。のみならず、諸藩の有志が評定のために参集していた学習院へ達した時は、イギリス側の申し出はいくらかゆがめられた形のものとなって諸有志の間に伝えられた。それは左の三か条について返答を承りたい、とあったという。
一、島津久光をイギリスに相渡し申さるべきや。
二、償銀として十万ポンド差し出さるべきや。
三、薩摩の国を征伐いたすべきや。
「関東の事情切迫につき、英艦|防禦(ぼうぎょ)のため大樹(たいじゅ)(家茂のこと)帰府の儀、もっともの訳(わけ)がらに候えども、京都ならびに近海の守備警衛は大樹において自ら指揮これあるべく候(そうろう)。かつ、攘夷(じょうい)決戦のおりから、君臣一和にこれなく候ては相叶(あいかな)わざるのところ、大樹関東へ帰府せられ、東西相離れ候ては、君臣の情意相通ぜず、自然隔離の姿に相成るべく、天下の形勢救うべからざるの場合にたちいたり申すべく候。当節、大樹帰城の儀、叡慮(えいりょ)においても安んぜられず候間、滞京ありて、守衛の計略厚く相運(あいめぐ)らされ、宸襟(しんきん)を安んじ奉り候よう思(おぼ)し召され候。英艦応接の儀は浪華港(なにわみなと)へ相回し、拒絶談判これあるべく、万一兵端を開き候節は大樹自身出張、万事指揮これあり候わば、皇国の志気|挽回(ばんかい)の機会にこれあるべく思し召され候。関東防禦の儀は、しかるべき人体(にんてい)相選み申し付けられ候よう、御沙汰(ごさた)に候事。」これは小御所(こごしょ)において関白から一橋慶喜に渡されたというものである。学習院に参集する有志はいずれもこれを写し伝えることができた。とりあえず幕府方は海岸の防備を厳重にすべきことを諸藩に通達し、イギリス側に向かっては返答の延期を求めた。打てば響くような京都の空気の中で、人々はいずれも伝奏(てんそう)からの触れ書を読み、所司代がお届けの結果を待った。あるものはイギリスの三か条がすでに拒絶せられたといい、あるものは仏国公使が調停に起(た)ったといい、あるものは必ず先方より兵端を開くであろうと言った。諸説は紛々(ふんぷん)として、前途のほども測りがたかった。
四人の外人の死傷に端緒を発する生麦事件は、これほどの外交の危機に推し移った。多年の排外熱はついにこの結果を招いた。けれどもこのことは攘夷派の顧みるところとはならなかった。討幕へと急ぐ多くの志士は、むしろこの機会を見のがすまいとしたのである。当時、京都にあった松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は、公武合体の成功もおぼつかないと断念してか、事多く志と違(たが)うというふうで、政事総裁の職を辞して帰国したといい、急を聞いて上京した島津久光もかなり苦しい立場にあって、これも国もとの海岸防禦を名目に、わずか数日の滞在で帰ってしまったという。近衛忠熙(このえただひろ)は潜み、中川宮(青蓮院(しょうれんいん))も隠れた。 

香蔵は美濃(みの)中津川の問屋(といや)に、半蔵は木曾(きそ)馬籠(まごめ)の本陣に、二人(ふたり)は同じ木曾街道筋にいて、京都の様子を案じ暮らした。二人の友人で、平田|篤胤(あつたね)没後の門人仲間なる景蔵は、当時京都の方にあって国事のために奔走していたが、その景蔵からは二人あてにした報告がよく届いた。いろいろなことがその中に報じてある。帝(みかど)には御祈願のため、すでに加茂(かも)へ行幸せられ、そのおりは家茂および一橋慶喜以下の諸有司、それに在京の諸藩士が鳳輦(ほうれん)に供奉(ぐぶ)したことが報じてあり、さらに石清水(いわしみず)へも行幸の思(おぼ)し召しがあって、攘夷の首途(かどで)として男山八幡(おとこやまはちまん)の神前で将軍に節刀を賜わるであろうとのおうわさも報じてある。これらのことは、いずれも攘夷派の志士が建白にもとづくという。のみならず、場合によっては帝の御親征をすら望んでいる人たちのあることが報じてある。この京都|便(だよ)りを手にするたびに、香蔵にしても、半蔵にしても、いずれも容易ならぬ時に直面したことを感じた。
四月のはじめには、とうとう香蔵も景蔵のあとを追って、京都の方へ出かけて行った。三人の友だちの中で、半蔵一人だけが馬籠の本陣に残った。
「どうも心が騒いでしかたがない。」
半蔵はひとり言って見た。
その時になると、彼は中津川の問屋の仕事を家のものに任せて置いて京都の方へ出かけて行くことのできる香蔵の境涯(きょうがい)をうらやましく思った。友だちが京都を見うるの日は、師と頼む平田|鉄胤(かねたね)と行動を共にしうる日であろうかと思いやった。あの師の企図し、また企図しつつあるものこそ、まことの古代への復帰であろうと思いやった。おそらく国学者としての師は先師平田篤胤の遺志をついで、紛々としたほまれそしりのためにも惑わされず、諸藩の利害のためにも左右されず、よく大局を見て進まれるであろうとも思いやった。
父吉左衛門は、と見ると、病後の身をいたわりながら裏二階の梯子段(はしごだん)を昇(のぼ)ったり降りたりする姿が半蔵の目に映る。馬籠の本陣庄屋問屋の三役を半蔵に譲ってからは、全く街道のことに口を出さないというのも、その人らしい。父が発病の当時には、口も言うことができない、足も起(た)つことができない、手も動かすことができない。治療に手を尽くして、ようやく半身だけなおるにはなおった。父は日ごろ清潔好きで、自分で本陣の庭や宅地をよく掃除(そうじ)したが、病が起こってからは手が萎(しお)れて箒(ほうき)を執るにも不便であった。父は能筆で、お家流をよく書き、字体も婉麗(えんれい)なものであったが、病後は小さな字を書くこともできなかった。まるで七つか八つの子供の書くような字を書いた。この父の言葉に、おかげで自分も治療の効によって半身の自由を得た、幸いに食事も便事も人手をわずらわさないで済む、しかし箒と筆とこの二つを執ることの不自由なのは実に悲しいと。この嘆息を聞くたびに、半蔵は胸を刺される思いをして、あの友の香蔵のような思い切った行動は執れなかった。
八畳と三畳の二|部屋(へや)から成る味噌納屋(みそなや)の二階が吉左衛門の隠居所にあててある。そこに父は好きな美濃派の俳書や蜷川流(にながわりゅう)の将棋の本なぞをひろげ、それを朝夕の友として、わずかに病後をなぐさめている。中風患者の常として、とかくはかばかしい治療の方法がない。他目(よそめ)にももどかしいほど回復もおそかった。
「お民、おれは王滝(おうたき)まで出かけて行って来るぜ。あとのことは、清助さんにもよく頼んで置いて行く。」
と半蔵は妻に言って、父の病を祷(いの)るために御嶽(おんたけ)神社への参籠(さんろう)を思い立った。王滝村とは御嶽山のすそにあたるところだ。木曾の総社の所在地だ。ちょうど街道も参覲交代制度変革のあとをうけ、江戸よりする諸大名が家族の通行も一段落を告げた。半蔵はそれを機会に、往復数日のわずかな閑(ひま)を見つけて、医薬の神として知られた御嶽の神の前に自分を持って行こうとした。同時に、香蔵の京都行きから深く刺激された心を抱いて、激しい動揺の渦中(かちゅう)へ飛び込んで行ったあの友だちとは反対に、しばらく寂しい奥山の方へ行こうとした。
王滝の方へ持って行って神前にささげるための長歌もできた。半蔵は三十一字の短い形の歌ばかりでなく、時おりは長歌をも作ったので、それを陳情|祈祷(きとう)の歌と題したものに試みたのである。
「いよいよ半蔵もお出かけかい。」
と言ってそばへ来るのは継母のおまんだ。おまんは裏の隠居所と母屋(もや)の間を往復して、吉左衛門の身のまわりのことから家事の世話まで、馬籠の本陣にはなくてならない人になっている。高遠(たかとお)藩の方に聞こえた坂本家から来た人だけに、相応な教養もあって、取って八つになる孫娘のお粂(くめ)に古今集(こきんしゅう)の中の歌なぞを諳誦(あんしょう)させているのも、このおまんだ。
「お母(っか)さん、留守をお願いしますよ。」と半蔵は言った。「わたしもそんなに長くかからないつもりです。三日も参籠(さんろう)すればすぐに引き返して来ます。」
「まあ、思い立った時に出かけて行って来るがいい。お父(とっ)さんも大層よろこんでおいでのようだよ。」
家にはこの継母があり、妻があり、吉左衛門の退役以来手伝いに通(かよ)って来る清助がある。半蔵は往復七日ばかりの留守を家のものに頼んで置いて、王滝の方へ向かおうとした。下男の佐吉は今度も供をしたいと言い出したが、半蔵は佐吉も家に残して置いて、弟子(でし)の勝重(かつしげ)だけを連れて行くことにした。勝重も少年期から青年期に移りかける年ごろになって来て、しきりに同行を求めるからで。
神前への供米(くまい)、『静(しず)の岩屋(いわや)』二冊、それに参籠用の清潔で白い衣裳(いしょう)なぞを用意するくらいにとどめて、半蔵は身軽にしたくした。勝重は、これも半蔵と一緒に行くことを楽しみにして、「さあ、これから山登りだ」という顔つきだ。
本陣の囲炉裏(いろり)ばたでは、半蔵はじめ一同集まってこういう時の習慣のような茶を飲んだ。そこへ思いがけない客があった。
「半蔵さん、君はお出かけになるところですかい。」
と言って、勝手を知った囲炉裏ばたの入り口の方からはいって来た客は、他(ほか)の人でもない、三年前に中津川を引き揚げて伊那(いな)の方へ移って行った旧(ふる)い師匠だ。宮川寛斎(みやがわかんさい)だ。
寛斎はせっかく楽しみにして行った伊那の谷もおもしろくなく、そこにある平田門人仲間とも折り合わず、飯田(いいだ)の在に見つけた最後の「隠れ家(が)」まであとに見捨てて、もう一度中津川をさして帰って行こうとする人である。かつては横浜貿易を共にした中津川の商人|万屋安兵衛(よろずややすべえ)の依頼をうけ、二千四百両からの小判を預かり、馬荷一|駄(だ)に宰領の付き添いで帰国したその同じ街道の一部を、多くの感慨をもって踏んで来た人である。以前の伊那行きには細君も同道であったが、その人の死をも見送り、今度はひとりで馬籠まで帰って来て見ると、旧(ふる)いなじみの伏見屋金兵衛(ふしみやきんべえ)はすでに隠居し、半蔵の父も病後の身でいるありさまだ。そういう寛斎もめっきり年を取って来た。
「先生、そこはあまり端近(はしぢか)です。まあお上がりください。」
と半蔵は言って、上がり端(はな)のところに腰掛けて話そうとする旧師を囲炉裏ばたに迎えた。寛斎は半蔵から王滝行きを思い立ったことを聞いて、あまり邪魔すまいと言ったが、さすがに長い無沙汰(ぶさた)のあとで、いろいろ話が出る。
「いや、伊那の三年は大失敗。」と寛斎は頭をかきかき言った。「今だから白状しますが、横浜貿易のことが祟(たた)ったと見えて、どこへ行っても評判が悪い。これにはわたしも弱りましたよ。あの当時、君らに相談しなかったのは、わたしが悪かった。横浜の話はもう何もしてくださるな。」
「そう先生に言っていただくとありがたい。実は、わたしはこういう日の来るのを待っていました。」
「半蔵さん、君の前ですが、伊那へ行ってわたしは自分の持ってるものまで失っちまいましたよ。おまけに、医者ははやらず、手習い子供は来ずサ。まあ三年間の土産(みやげ)と言えば、古史伝の上木(じょうぼく)を手伝って来たくらいのものです。前島|正弼(まさすけ)、岩崎長世、北原稲雄、片桐(かたぎり)春一、伊那にある平田先生の門人仲間はみんなあの仕事を熱心にやっていますよ。あの出板(しゅっぱん)は大変な評判で、津和野藩(つわのはん)あたりからも手紙が来るなんて、伊那の衆はえらい意気込みさ。そう言えば、暮田正香(くれたまさか)が京都から逃げて来る時に、君の家にもお世話になったそうですね。」
「そうでした。着流しに雪駄(せった)ばきで、吾家(うち)へお見えになった時は、わたしもびっくりしました。」
「あの先生も思い切ったことをやったもんさ。足利(あしかが)将軍の木像の首を引き抜くなんて。あの事件には師岡正胤(もろおかまさたね)なぞも関係していますから、同志を救い出せと言うんで、伊那からもわざわざ運動に京都まで出かけたものもありましたっけ。暮田正香も今じゃ日陰の身でさ。でも、あの先生のことだから、京都の同志と呼応して伊那で一旗あげるなんて、なかなか黙ってはいられない人なんですね。とにかく、わたしが出かけて行った時分と、今とじゃ、伊那も大違い。あの谷も騒がしい。」
寛斎は尻(しり)を持ち上げたかと思うとまた落ちつけ、煙草入(たばこい)れを腰に差したかと思うとまた取り出した。そこへお民も茶を勧めに来て、夫の方を見て、
「あなた、店座敷の方へ先生を御案内したら。お母(っか)さんもお目にかかりたいと言っていますに。」
「いや、そうしちゃいられません。」と寛斎は言った。「半蔵さんもお出かけになるところだ。わたしはこんなにお邪魔するつもりじゃなかった。きょうお寄りしたのはほかでもありませんが、実は無尽(むじん)を思い立ちまして、上の伏見屋へも今寄って来ました。あの金兵衛さんにもお話しして来ました。半蔵さん、君にもぜひお骨折りを願いたい。」
「それはよろこんでいたしますよ。いずれ王滝から帰りました上で。」
「そうどころじゃない。あいにく香蔵も京都の方で、君にでもお骨折りを願うよりほかに相談相手がない。どうも男の年寄りというやつは具合の悪いもので、わたしも養子の厄介(やっかい)にはなりたくないと思うんです。これから中津川に落ちつくか、どうか、自分でも未定です。そうです、今ひと奮発です。ひょっとすると伊勢(いせ)の国の方へ出かけることになるかもしれません。」
無尽加入のことを頼んで置いて、やがて寛斎は馬籠の本陣を辞して行った。あとには半蔵が上がり端(はな)のところに立って、客を見送りに出たお民や彼女が抱いて来た三番目の男の子の顔をながめたまま、しばらくそこに立ち尽くした。「気の毒な先生だ。数奇(すうき)な生涯(しょうがい)だ。」と半蔵は妻に言った。「国学というものに初めておれの目をあけてくれたのも、あの先生だ。あの年になって、奥さんに死に別れたことを考えてごらんな。」
「中津川の香蔵さんの姉さんが、お亡(な)くなりになった奥さんなんですか。よほど年の違う姉弟(きょうだい)と見えますね。」
「先生には娘さんがたった一人(ひとり)ある。この人がまた怜悧(りこう)な人で、中津川でも才女と言われた評判な娘さんさ。そこへ養子に来たのが、今医者をしている宮川さんだ。」
「わたしはちっとも知らなかった。」
「でも、お民、世の中は妙なものじゃないか。あの宮川先生がおれたちを捨てて行ってしまうとは思われなかったよ。いずれは旧(ふる)い弟子(でし)のところへもう一度帰って来てくださる日のあるだろうと思っていたよ。その日が来た。」 

京都の方のことも心にかかりながら、半蔵は勝重(かつしげ)を連れて、王滝(おうたき)をさして出かけた。その日は須原(すはら)泊まりということにして、ちょうどその通り路(みち)にあたる隣宿|妻籠(つまご)本陣の寿平次が家へちょっと顔を出した。お民の兄であるからと言うばかりでなく、同じ街道筋の庄屋仲間として互いに心配を分けあうのも寿平次だ。
「半蔵さん、わたしも一緒にそこまで行こう。」
と言いながら、寿平次は草履(ぞうり)をつッかけたまま半蔵らの歩いて行くあとを追って来た。
旧暦四月はじめの旅するによい季節を迎えて、上り下りの諸|講中(こうじゅう)が通行も多い。伊勢(いせ)へ、金毘羅(こんぴら)へ、または善光寺へとこころざす参詣者(さんけいしゃ)の団体だ。奥筋へと入り込んで来る中津川の商人も見える。荷物をつけて行く馬の新しい腹掛け、赤革(あかがわ)の馬具から、首振るたびに動く麻の蠅(はえ)はらいまでが、なんとなくこの街道に活気を添える時だ。
寿平次は半蔵らと一緒に歩きながら言った。
「御嶽(おんたけ)行きとは、それでも御苦労さまだ。山はまだ雪で、登れますまいに。」
「えゝ、三合目までもむずかしい。王滝まで行って、あそこの里で二、三日|参籠(さんろう)して来ますよ。」
「馬籠のお父(とっ)さんはまだそんなですかい。君も心配ですね。そう言えば、半蔵さん、江戸の方の様子は君もお聞きでしたろう。」
「こんなことになるんじゃないかと思って、わたしは心配していました。」
「それさ。イギリスの軍艦が来て江戸は大騒ぎだそうですね。来月の八日とかが返答の期限だと言うじゃありませんか。これは結局、償金を払わせられることになりましょうね。むやみと攘夷(じょうい)なんてことを煽(あお)り立てるものがあるから、こんな目にあう。そりゃ攘夷党だって、国を憂えるところから動いているには相違ないでしょうが、しかしわたしにはあのお仲間の気が知れない。いったい、外交の問題と国内の政事をこんなに混同してしまってもいいものでしょうかね。」
「さあねえ。」
「半蔵さん、これでわたしが庄屋の家に生まれなかったら、今ごろは京都の方へでも飛んで行って、鎖港攘夷だなんて押し歩いているかもしれませんよ。街道がどうなろうと、みんながどう難儀をしようと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、もともと何も心配することはなかったんです。」
妻籠の宿はずれのところまでついて来た寿平次とも別れて、さらに半蔵らは奥筋へと街道を進んだ。翌日は早く須原をたち、道を急いで、昼ごろには桟(かけはし)まで行った。雪解(ゆきげ)の水をあつめた木曾川は、渦(うず)を巻いて、無数の岩石の間に流れて来ている。休むにいい茶屋もある。鶯(うぐいす)も鳴く。王滝口への山道はその対岸にあった。御嶽登山をこころざすものはその道を取っても、越立(こしだち)、下条(しもじょう)、黒田なぞの山村を経て、常磐(ときわ)の渡しの付近に達することができた。
間もなく半蔵らは街道を離れて、山間(やまあい)に深い林をつくる谷に分け入った。檜(ひのき)、欅(けやき)にまじる雑木も芽吹きの時で、さわやかな緑が行く先によみがえっていた。王滝川はこの谷間を流れる木曾川の支流である。登り一里という沢渡峠(さわどとうげ)まで行くと、遙拝所(ようはいじょ)がその上にあって、麻利支天(まりしてん)から奥の院までの御嶽全山が遠く高く容(かたち)をあらわしていた。
「勝重さん、御嶽だよ。山はまだ雪だね。」
と半蔵は連れの少年に言って見せた。層々相重なる幾つかの三角形から成り立つような山々は、それぞれの角度をもって、剣ヶ峰を絶頂とする一大|巌頭(がんとう)にまで盛り上がっている。隠れたところにあるその孤立。その静寂。人はそこに、常なく定めなき流転(るてん)の力に対抗する偉大な山嶽(さんがく)の相貌(そうぼう)を仰ぎ見ることができる。覚明行者(かくみょうぎょうじゃ)のような早い登山者が自ら骨を埋(うず)めたと言い伝えらるるのもその頂上にある谿谷(けいこく)のほとりだ。
「お師匠さま、早く行きましょう。」
と言い出すのは勝重ばかりでなかった。そう言われる半蔵も、自然のおごそかさに打たれて、長くはそこに立っていられなかった。早く王滝の方へ急ぎたかった。
御嶽山のふもとにあたる傾斜の地勢に倚(よ)り、王滝川に臨み、里宮の神職と行者の宿とを兼ねたような禰宜(ねぎ)の古い家が、この半蔵らを待っていた。川には橋もない。山から伐(き)って来た材木を並べ、筏(いかだ)に組んで、村の人たちや登山者の通行に備えてある。半蔵は三沢(みさわ)というところでその渡しを渡って、日の暮れるころに禰宜(ねぎ)の宮下の家に着いた。
「皆さんは馬籠の方から。それはよくお出かけくださいました。馬籠の御本陣ということはわたしもよく聞いております。」
と言って半蔵を迎えるのは宮下の主人だ。この禰宜(ねぎ)は言葉をついで、
「いかがです。お宅の方じゃもう花もおそいでしょうか。」
「さあ、山桜が三分ぐらいは残っていましたよ。」と半蔵が答える。
「それですもの。同じ木曾でも陽気は違いますね。南の方の花の便(たよ)りを聞きましてから、この王滝辺のものが花を見るまでには、一月(ひとつき)もかかりますよ。」
「ね、お師匠さま。わたしたちの来る途中には、紫色の山つつじがたくさん咲いていましたっけね。」
と勝重も言葉を添えて、若々しい目つきをしながら周囲を見回した。
半蔵らは夕日の満ちた深い谷を望むことのできるような部屋(へや)に来ていた。障子の外へは川鶺鴒(かわせきれい)も来る。部屋の床の間には御嶽山|蔵王大権現(ざおうだいごんげん)と筆太に書いた軸が掛けてあり、壁の上には注連繩(しめなわ)なぞも飾ってある。
「勝重さん、来てごらん、これが両部神道というものだよ。」
と半蔵は言って、二人してその掛け物の前に立った。全く神仏を混淆(こんこう)してしまったような床の間の飾り付けが、まず半蔵をまごつかせた。
しかし、気の置けない宿だ。ここにはくたぶれて来た旅人や参詣者(さんけいしゃ)なぞを親切にもてなす家族が住む。当主の禰宜(ねぎ)で十七、八代にもなるような古い家族の住むところでもある。髯(ひげ)の白いお爺(じい)さん、そのまたお婆(ばあ)さん、幾人(いくたり)の古い人たちがこの屋根の下に生きながらえているとも知れない。主人の宮下はちょいちょい半蔵を見に来て、風呂(ふろ)も山家での馳走(ちそう)の一つと言って勧めてくれる。七月下旬の山開きの日を待たなければ講中も入り込んで来ない、今は谷もさびしい、それでも正月十五日より二月十五日に至る大寒の季節をしのいでの寒詣(かんもう)でに続いて、ぽつぽつ祈願をこめに来る参詣者が絶えない、と言って見せるのも主人だ。行者や中座(なかざ)に引率されて来る諸国の講中が、吹き立てる法螺(ほら)の貝の音と共に、この谷間に活気をそそぎ入れる夏季の光景は見せたいようだ、と言って見せるのもまた主人だ。
夕飯後に、主人はまた半蔵を見に来て言った。
「それじゃ、御参籠(ごさんろう)はあすからとなさいますか。ここに来ている間、塩断(しおだ)ちをなさるかたがあり、五穀をお断ちになるかたがあり、精進潔斎(しょうじんけっさい)もいろいろです。火の気を一切おつかいにならないで、水でといた蕎麦粉(そばこ)に、果実(くだもの)ぐらいで済ませ、木食(もくじき)の行(ぎょう)をなさるかたもあります。まあ、三度の食は一度ぐらいになすって、なるべく六根(ろっこん)を清浄にして、雑念を防ぎさえすれば、それでいいわけですね。」
ようやく。そうだ、ようやく半蔵は騒ぎやすい心をおちつけるにいいような山里の中の山里とも言うべきところに身を置くことができた。王滝はことに夜の感じが深い。暗い谷底の方に燈火(あかり)のもれる民家、川の流れを中心にわき立つ夜の靄(もや)、すべてがひっそりとしていた。旧暦四月のおぼろ月のあるころに、この静かな森林地帯へやって来たことも、半蔵をよろこばせた。
半蔵が連れて来た勝重は、美濃落合の稲葉屋から内弟子(うちでし)として預かってからもはや三年になる。短い袴(はかま)に、前髪をとって、せっせと本を読んでいた勝重も、いつのまにか浅黄色の襦袢(じゅばん)の襟(えり)のよく似合うような若衆姿になって来た。彼は綿密な性質で、服装(なりふり)なぞにあまりかまわない方の勉強家であるが、持って生まれた美しさは宿の人の目をひいた。かわるがわるこの少年をのぞきに来る若い娘たちのけはいはしても、そればかりは半蔵もどうすることもできなかった。
「勝重さん、君は、くたぶれたら横にでもなるさ。」
「お師匠さま、勝手にやりますよ。どうもお師匠さまの足の速いには、わたしも驚きましたよ。須原(すはら)から王滝まで、きょうの山道はかなり歩きでがありました。」
間もなく勝重は高いびきだ。半蔵はひとり行燈(あんどん)の灯(ひ)を見つめて、長いこと机の前にすわっていた。大判の薄藍色(うすあいいろ)の表紙から、古代紫の糸で綴(と)じてある装幀(そうてい)まで、彼が好ましく思う意匠の本がその机の上にひろげてある。それは門人らの筆記になる平田篤胤の講本だ。王滝の宿であけて見たいと思って、馬籠を出る時に風呂敷包(ふろしきづつ)みの中に入れて来た上下二冊の『静の岩屋』だ。
さびしく聞こえて来る夜の河(かわ)の音は、この半蔵の心を日ごろ精神の支柱と頼む先師平田|大人(うし)の方へと誘った。もしあの先師が、この潮流の急な文久三年度に生きるとしたら、どう時代の暗礁(あんしょう)を乗り切って行かれるだろうかと思いやった。
攘夷――戦争をもあえて辞しないようなあの殺気を帯びた声はどうだ。半蔵はこのひっそりとした深山幽谷の間へ来て、敬慕する故人の前にひとりの自分を持って行った時に、馬籠の街道であくせくと奔走する時にもまして、一層はっきりとその声を耳の底に聞いた。景蔵、香蔵の親しい友人を二人までも京都の方に見送った彼は、じっとしてはいられなかった。熱する頭をしずめ、逸(はや)る心を抑(おさ)えて、平田門人としての立場に思いを潜めねばならなかった。その時になると、同じ勤王に志すとは言っても、その中には二つの大きな潮流のあることが彼に見えて来た。水戸の志士藤田東湖らから流れて来たものと、本居平田諸大人に源を発するものと。この二つは元来同じものではない。名高い弘道館の碑文にもあるように、神州の道を敬い同時に儒者の教えをも崇(あが)めるのが水戸の傾向であって、国学者から見れば多分に漢意(からごころ)のまじったものである。その傾向を押し進め、国家無窮の恩に報いることを念とし、楠公(なんこう)父子ですら果たそうとして果たし得なかった武将の夢を実現しようとしているものが、今の攘夷を旗じるしにする討幕運動である。もとより攘夷は非常手段である。そんな非常手段に訴えても、真木和泉(まきいずみ)らの志士が起こした一派の運動は行くところまで行かずに置かないような勢いを示して来た。
この国ははたしてどうなるだろう。明日は。明後日は。そこまで考え続けて行くと、半蔵は本居大人がのこした教えを一層尊いものに思った。同時代に満足しなかったところから、過去に探求の目を向けた先人はもとより多い。その中でも、最も遠い古代に着眼した宣長のような国学者が、最も新しい道を発見して、その方向をあとから歩いて出て行くものにさし示してくれたことをありがたく思った。
「勝重さん、風引くといけないよ。床にはいって、ほんとうにお休み。」
半蔵は行燈(あんどん)のかげにうたた寝している少年を起こして、床につかせ、それからさらに『静の岩屋』を繰って見た。この先師ののこした著述は、だれにでもわかるように、また、ひろく読まれるように、その用意からごく平易な言葉で門人に話しかけた講本の一つである。その中に、半蔵は異国について語る平田大人を見た。先師は天保十四年に没した故人のことで、もとより嘉永六年の夏に相州浦賀に着いたアメリカ船の騒ぎを知らず、まして十一隻からのイギリス艦隊が横浜に入港するまでの社会の動揺を知りようもない。しかし平田大人のような人の目に映るヨーロッパから、その見方、その考え方を教えられることは半蔵にとって実にうれしくめずらしかった。
『静の岩屋』にいわく、
「さて又、近ごろ西の極(はて)なるオランダといふ国よりして、一種の学風おこりて、今の世に蘭学と称するもの、則(すなわ)ちそれでござる。元来その国柄と見えて、物の理(ことわり)を考へ究(きわ)むること甚(はなは)だ賢く、仍(よっ)ては発明の説も少なからず。天文地理の学は言ふに及ばず、器械の巧みなること人の目を驚かし、医薬|製煉(せいれん)の道|殊(こと)にくはしく、その書(ふみ)どももつぎつぎと渡り来(きた)りて世に弘(ひろ)まりそめたるは、即(すなわ)ち神の御心であらうでござる。然(しか)るに、その渡り来る薬品どもの中には効能の勝(すぐ)れたるもあり、又は製煉を尽して至つて猛烈なる類(たぐい)もありて、良医これを用ひて病症に応ずればいちじるき効験(しるし)をあらはすもあれど、もとその薬性を知らず、又はその薬性を知りてもその用ふべきところを知らず、もしその病症に応ぜざれば大害を生じて、忽(たちま)ち人命をうしなふに至る。これは、譬(たと)へば、猿(さる)に利刀を持たせ、馬鹿(ばか)に鉄砲を放たしむるやうなもので、まことに危いことの甚(はなはだ)しいでござる。さて、その究理のくはしきは、悪(あ)しきことにはあらざれども、彼(か)の紅夷(あかえみし)ら、世には真(まこと)の神あるを知らず。人の智(ち)は限りあるを、限りなき万(よろ)づの物の理(ことわり)を考へ究(きわ)めんとするにつけては、強(し)ひたる説多く、元よりさかしらなる国風(くにぶり)なる故(ゆえ)に、現在の小理にかかはつて、かへつて幽神の大義を悟らず。それゆへにその説至つて究屈にして、我が古道の妨げとなることも多いでござる。さりながら、世間(せけん)の有様を考ふるに、今は物ごと新奇を好む風俗なれば、この学風も儒仏の道の栄えたるごとく、だんだんと弘(ひろ)まり行くことであらうと思はれる。しからんには、世のため、人のためとも成るべきことも多からうなれども、又、害となることも少なかるまいと思はれるでござる。是(これ)こそは彼(か)の吉事(よきこと)に是(こ)の凶事(まがごと)のいつぐべき世の中の道なるをもつて、さやうには推し量り知られることでござる。そもそもかく外国々(とつくにぐに)より万づの事物の我が大御国(おおみくに)に参り来ることは、皇神(すめらみかみ)たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故(ゆえ)に、善(よ)き悪(あ)しきの選みなく、森羅万象(しんらばんしょう)ことごとく皇国(すめらみくに)に御引寄せあそばさるる趣きを能(よ)く考へ弁(わきま)へて、外国(とつくに)より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏(かしこ)きことなれども、是(これ)すなはち大神等(おおみかみたち)の御心掟(みこころおきて)と思ひ奉られるでござる。」
半蔵は深いため息をついた。それは、自分の浅学と固陋(ころう)とばか正直とを嘆息する声だ。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎(だかつ)のように憎みきらった人のように普通に思われているが、『静の岩屋』なぞをあけて見ると、近くは朝鮮、シナ、インド、遠くはオランダまで、外国の事物が日本に集まって来るのは、すなわち神の心であるというような、こんな広い見方がしてある。先師は異国の借り物をかなぐり捨てて本然(ほんねん)の日本に帰れと教える人ではあっても、むやみにそれを排斥せよとは教えてない。
この『静の岩屋』の中には、「夷(えびす)」という古言まで引き合いに出して、その言葉の意味が平常目に慣れ耳に触れるとは異なった事物をさしていうに過ぎないことも教えてある。たとえば、ありゃこりゃに人の前にすえた膳(ぜん)は「えびす膳」、四角であるべきところを四角でなく裁ち合わせた紙は「えびす紙」、元来外用の薬種とされた芍薬(しゃくやく)が内服しても病のなおるというところから「えびす薬」(芍薬の和名)というふうに。黒くてあるべき髪の毛が紅(あか)く、黒くてあるべき瞳(ひとみ)が青ければこそ、その人は「えびす」である、とも教えてある。
半蔵はひとり言って見た。
「師匠はやっぱり大きい。」
半蔵の心に描く平田篤胤とは、あの本居宣長を想(おも)い見るたびに想像せらるるような美丈夫という側の人ではなかった。彼はある人の所蔵にかかる先師の画像というものを見たことがある。広い角額(かくびたい)、大きな耳、遠いところを見ているような目、彼がその画像から受けた感じは割合に面長(おもなが)で、やせぎすな、どこか角張(かくば)ったところのある容貌(ようぼう)の人だ。四十台か、せいぜい五十に手の届く年ごろの面影(おもかげ)と見えて、まだ黒々とした髪も男のさかりらしく、それを天保(てんぽう)時代の風俗のような髻(たぶさ)に束ねてあった。それは見台をわきにした座像(ざぞう)で、三蓋菱(さんがいびし)の羽織(はおり)の紋や、簡素な線があらわした着物の襞※[ころもへん+責](ひだ)にも特色があったが、ことに、その左の手を寛(くつろ)いだ形に置き、右の手で白扇をついた膝(ひざ)こそは先師のものだ、と思って、心をとめて見た覚えがある。見台の上に、先師|畢生(ひっせい)の大きな著述とも言うべき『古史伝』稿本の一つが描いてあったことも、半蔵には忘れられなかった。あだかも、先師はあの画像から膝(ひざ)を乗り出して、彼の前にいて、「一切は神の心であろうでござる」とでも言っているように彼には思われて来た。 

いよいよ参籠(さんろう)の朝も近いと思うと、半蔵はよく眠られなかった。夜の明け方には、勝重のそばで目をさました。山の端(は)に月のあるのを幸いに、水垢離(みずごり)を執って来て、からだを浄(きよ)め終わると、温(あたた)かくすがすがしい。着物も白、袴(はかま)も白の行衣(ぎょうい)に着かえただけでも、なんとなく彼は厳粛な心を起こした。
まだあたりは薄暗い。早く山を発(た)つ二、三の人もある。遠い国からでも祈願をこめに来た参詣者(さんけいしゃ)かと見えて、月を踏んで帰途につこうとしている人たちらしい。旅の笠(かさ)、金剛杖(こんごうづえ)、白い着物に白い風呂敷包みが、その薄暗い空気の中で半蔵の目の前に動いた。
「どうも、お粗末さまでございました。」
と言って見送る宿の人の声もする。
その明け方、半蔵は朝勤めする禰宜(ねぎ)について、里宮のあるところまで数町ほどの山道を歩いた。社殿にはすでに数日もこもり暮らしたような二、三の参籠者が夜の明けるのを待っていて、禰宜の打つ大太鼓が付近の山林に響き渡るのをきいていた。その時、半蔵は払暁(ふつぎょう)の参拝だけを済まして置いて、参籠のしたくやら勝重を見ることやらにいったん宿の方へ引き返した。
「お師匠さま。」
そう言って声をかける勝重は、着物も白に改めて、半蔵が山から降りて来るのを待っていた。
「勝重さん、君に相談がある。馬籠(まごめ)を出る時にわたしは清助さんに止められた。君のような若い人を一緒に参籠に連れて行かれますかッて。それでも君は来たいと言うんだから。見たまえ、ここの禰宜(ねぎ)さまだって、すこし無理でしょうッて、そう言っていますぜ。」
「どうしてですか。」
「どうしてッて、君、お宮の方へ行けば祈祷(きとう)だけしかないよ。そのほかは一切沈黙だよ。寒さ饑(ひも)じさに耐える行者の行くところだよ。それでも、君、わたしにはここへ来て果たしたいと思うことがある。君とわたしとは違うサ。」
「そんなら、お師匠さま、あなたはお父(とっ)さんのためにお祷(いの)りなさるがいいし、わたしはお師匠さまのために祷りましょう。」
「弱った。そういうことなら、君の自由に任せる。まあ、眠りたいと思う時はこの禰宜(ねぎ)さまの家へ帰って寝てくれたまえ。ここにはお山の法則があって、なかなか里の方で思ったようなものじゃない。いいかい、君、無理をしないでくれたまえよ。」
勝重はうなずいた。
神前へのお初穂(はつほ)、供米(くまい)、その他、着がえの清潔な行衣(ぎょうい)なぞを持って、半蔵は勝重と一緒に里宮の方へ歩いた。
梅の咲く禰宜(ねぎ)の家から社殿までの間は坂になった細道で、王滝口よりする御嶽参道に続いている。その細道を踏んで行くだけでも、ひとりでに参詣者の心の澄むようなところだ。山中の朝は、空に浮かぶ雲の色までだんだん白く光って来て、すがすがしい。坂道を登るにつれて、霞(かす)み渡った大きな谷間が二人(ふたり)の目の下にあるようになった。
「お師匠さま、雉子(きじ)が鳴いていますよ。」
「あの覚明(かくみょう)行者や普寛(ふかん)行者なぞが登ったころには、どんなだったろうね。わたしはあの行者たちが最初の登山をした人たちかとばかり思っていた。ここの禰宜さまの話で見ると、そうじゃないんだね。講中(こうじゅう)というものを組織して、この山へ導いて来たのがあの人たちなんだね。」
二人は話し話し登った。新しい石の大鳥居で、その前年(文久二年)に尾州公(びしゅうこう)から寄進になったというものの前まで行くと、半蔵らは向こうの山道から降りて来る一人の修行者にもあった。珠数(じゅず)を首にかけ、手に杖(つえ)をつき見るからに荒々しい姿だ。肉体を苦しめられるだけ苦しめているような人の相貌(そうぼう)だ。どこの岩窟(がんくつ)の間から出て来たか、雪のある山腹の方からでも降りて来たかというふうで、山にはこんな人が生きているのかということが、半蔵を驚かした。
間もなく半蔵らは、十六階もしくは二十階ずつから成る二町ほどの長い石段にかかった。見上げるように高い岩壁を背後(うしろ)にして、里宮の社殿がその上に建てられてある。黒々とした残雪の見られる谷間の傾斜と、小暗(おぐら)い杉(すぎ)や檜(ひのき)の木立(こだ)ちとにとりまかれたその一区域こそ、半蔵が父の病を祷(いの)るためにやって来たところだ。先師の遺著の題目そのままともいうべきところだ。文字どおりの「静(しず)の岩屋(いわや)」だ。
とうとう、半蔵は本殿の奥の霊廟(れいびょう)の前にひざまずき、かねて用意して来た自作の陳情|祈祷(きとう)の歌をささげることができた。他の無言な参籠者(さんろうしゃ)の間に身を置いて、社殿の片すみに、そこに置いてある円(まる)く簡素な※[くさかんむり/稾]蒲団(わらぶとん)の上にすわることもできた。
あたりは静かだ。社殿の外にある高い岩の間から落ちる清水(しみず)の音よりほかに耳に入るものもない。ちょうど半蔵がすわったところからよく見える壁の上には、二つの大きな天狗(てんぐ)の面が額にして掛けてある。その周囲には、嘉永(かえい)年代から、あるいはもっとずっと古くからの講社や信徒の名を連ねた種々(さまざま)な額が奉納してあって、中にはこの社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村|蘇門(そもん)の寄進にかかる記念の額なぞの宗教的な気分を濃厚ならしめるのもあるが、ことにその二つの天狗の面が半蔵の注意をひいた。耳のあたりまで裂けて牙歯(きば)のある口は獣のものに近く、隆(たか)い鼻は鳥のものに近く、黄金の色に光った目は神のものに近い。高山の間に住む剛健な獣の野性と、翼を持つ鳥の自由と、深秘(しんぴ)を体得した神人の霊性とを兼ねそなえたようなのがその天狗だ。製作者はまたその面に男女両性を与え、山嶽(さんがく)的な風貌(ふうぼう)をも付け添えてある。たとえば、杉(すぎ)の葉の長くたれ下がったような粗(あら)い髪、延び放題に延びた草のような髯(ひげ)。あだかも暗い中世はそんなところにも残って、半蔵の目の前に光っているかのように見える。
いつのまにか彼の心はその額の方へ行った。ここは全く金胎(こんたい)両部の霊場である。山嶽を道場とする「行(ぎょう)の世界」である。神と仏とのまじり合った深秘な異教の支配するところである。中世以来の人の心をとらえたものは、こんな両部を教えとして発達して来ている。父の病を祷(いの)りに来た彼は、現世に超越した異教の神よりも、もっと人格のある大己貴(おおなむち)、少彦名(すくなびこな)の二神の方へ自分を持って行きたかった。
白膠木(ぬるで)の皮の燃える香気と共に、護摩(ごま)の儀式が、やがてこの霊場を荘厳にした。本殿の奥の厨子(ずし)の中には、大日如来(だいにちにょらい)の仏像でも安置してあると見えて、参籠者はかわるがわる行ってその前にひざまずいたり、珠数をつまぐる音をさせたりした。御簾(みす)のかげでは心経(しんぎょう)も読まれた。
「これが神の住居(すまい)か。」
と半蔵は考えた。
彼が目に触れ耳にきくものの多くは、父のために祷(いの)ることを妨げさせた。彼の心は和宮様御降嫁のころに福島の役所から問い合わせのあった神葬祭の一条の方へ行ったり、国学者仲間にやかましい敬神の問題の方へ行ったりした。もっとも、多くの門弟を引きつれて来て峻嶮(しゅんけん)を平らげ、山道を拓(ひら)き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた覚明、普寛、一心、一山なぞの行者らの気魄(きはく)と努力とには、彼とても頭が下がったが。
終日|静座(せいざ)。
いつのまにか半蔵の心は、しばらく離れるつもりで来た馬籠の宿場の方へも行った。高札場がある。二軒の問屋場がある。伏見屋の伊之助、問屋の九郎兵衛、その他の宿役人の顔も見える。街道の継立(つぎた)ても困難になって来た。現に彼が馬籠を離れて来る前に、仙台侯(せんだいこう)が京都の方面から下って来た通行の場合がそれだ。あの時の仙台の同勢は中津川泊まりで、中通しの人足二百八十人、馬百八十|疋(ぴき)という触れ込みだった。継立ての混雑、請け負いのものの心配なぞは言葉にも尽くせなかった。八つ時過ぎまで四、五十|駄(だ)の継立てもなく、人足や牛でようやくそれを付け送ったことがある。
こんなことを思い浮かべると、街道における輸送の困難も、仙台侯の帰東も、なんとなく切迫して来た関東や京都の事情と関係のないものはない。時ならぬ鐘の音が馬籠の万福寺からあの街道へがんがん聞こえて来ている。この際、人心を善導し、天下の泰平を祷(いの)り、あわせて上洛(じょうらく)中の将軍のためにもその無事を祈れとの意味で、公儀から沙汰(さた)のあった大般若(だいはんにゃ)の荘厳(おごそか)な儀式があの万福寺で催されているのだ。手兼村(てがのむら)の松源寺、妻籠(つまご)の光徳寺、湯舟沢の天徳寺、三留野(みどの)の等覚寺、そのほか山口村や田立村の寺々まで、都合六か寺の住職が大般若に集まって来ているのだ。
物々しいこの空気を思い出しているうちに、半蔵の胸には一つの悲劇が浮かんで来た。峠村の牛行司(うしぎょうじ)で利三郎と言えば、彼には忘れられない男の名だ。かつて牛方事件の張本人として、中津川の旧問屋|角屋(かどや)十兵衛を相手に血戦を開いたことのある男だ。それほど腰骨(こしぼね)の強い、黙って下の方に働いているような男が、街道に横行する雲助(くもすけ)仲間と衝突したのは、彼として決して偶然な出来事とも思われなかった。ちょうど利三郎は、尾州の用材を牛につけて、清水谷下(しみずだにした)というところにかかった時であったという。三人の雲助がそこへ現われて、竹の杖(つえ)で利三郎を打擲(ちょうちゃく)した。二、三か所も打たれた天窓(あたま)の大疵(おおきず)からは血が流れ出て、さすがの牛行司も半死半生の目にあわされた。村のものは急を聞いて現場へ駆けつけた。この事が宿方へも注進のあった時は、二人(ふたり)の宿役人が目証(めあかし)の弥平(やへえ)を連れて見届けに出かけたが、不幸な利三郎はもはや起(た)てない人であろうという。一事が万事だ。すべてこれらのことは、参覲交代(さんきんこうたい)制度の変革以来に起こって来た現象だ。
「憐(あわれ)むべき街道の犠牲。」
と半蔵は考えつづけた。上は浪人から、下は雲助まで、世襲過重の時代が生んだ特殊な風俗と形態とが目につくだけでも、なんとなく彼は社会変革の思いを誘われた。庄屋(しょうや)としての彼は、いろいろな意味から、下層にあるものを護(まも)らねばならなかった……
ふとわれに返ると、静かな読経(どきょう)の声が半蔵の耳にはいった。にわかに明るい日の光は、屋外(そと)にある杉(すぎ)の木立ちを通して、社殿に満ちて来た。彼は、単純な信仰に一切を忘れているような他の参籠者を目の前にながめながら、雑念の多い自己(おのれ)の身を恥じた。その夕方には、禰宜(ねぎ)が彼のそばへ来て、塩握飯(しおむすび)を一つ置いて行った。
四日目には半蔵はどうやら心願を果たし、神前に終わりの祷(いの)りをささげる人であった。たとい自己(おのれ)の寿命を一年縮めてもそれを父の健康に代えたい、一年で足りなくば二年三年たりともいとわないというふうに。
社殿を出るころは、雨が山へ来ていた。勝重は傘(かさ)を持って、禰宜(ねぎ)の家の方から半蔵を迎えに来た。乾燥した草木をうるおす雨は、参籠後の半蔵を活(い)き返るようにさせた。
「勝重さん、君はどうしました。」
社殿の外にある高い岩壁の下で、半蔵がそれを言い出した。彼も三日続いた沈黙をその時に破る思いだ。
「お師匠さま、お疲れですか。わたしは一日だけお籠(こも)りして、あとはちょいちょいお師匠さまを見に来ました。きのうはこのお宮のまわりをひとりで歩き回りました。いろいろなめずらしい草を集めましたよ――じじばば(春蘭(しゅんらん))だの、しょうじょうばかまだの、姫龍胆(ひめりんどう)だの。」
「やっぱり君と一緒に来てよかった。ひとりでいる時でも、君が来ていると思うと、安心してすわっていられた。」
二人が帰って行く道は、その路傍(みちばた)に石燈籠(いしどうろう)や石造の高麗犬(こまいぬ)なぞの見いださるるところだ。三|面(めん)六|臂(ぴ)を有し猪(いのしし)の上に踊る三宝荒神のように、まぎれもなく異国伝来の系統を示す神の祠(ほこら)もある。十二|権現(ごんげん)とか、神山霊神とか、あるいは金剛道神とかの石碑は、不動尊の銅像や三十三度供養塔なぞにまじって、両部の信仰のいかなるものであるかを語っている。あるものは飛騨(ひだ)、あるものは武州、あるものは上州、越後(えちご)の講中の名がそれらの石碑や祠(ほこら)に記(しる)しつけてある。ここは名のみの木曾の総社であって、その実、御嶽大権現である。これが二柱の神の住居(すまい)かと考えながら歩いて行く半蔵は、行く先でまごついた。
禰宜(ねぎ)の家の近くまで山道を降りたところで、半蔵は山家風なかるさん姿の男にあった。傘(からかさ)をさして、そこまで迎えに来た禰宜の子息(むすこ)だ。その辺には蓑笠(みのかさ)で雨をいとわず往来(ゆきき)する村の人たちもある。重い物を背負(しょ)い慣れて、山坂の多いところに平気で働くのは、木曾山中いたるところに見る図だ。
「オヤ、お帰りでございますか。さぞお疲れでございましょう。」
禰宜の細君は半蔵を見て声をかけた。山登りの多くの人を扱い慣れていて、いろいろ彼をいたわってくれるのもこの細君だ。
「御参籠のあとでは、皆さまが食べ物に気をつけますよ。こんな山家で何もございませんけれど、芹粥(せりがゆ)を造って置きました。落とし味噌(みそ)にして焚(た)いて見ました。これが一番さっぱりしてよいかと思いますが、召し上がって見てください。」
こんなことを言って、芹(せり)の香のする粥(かゆ)なぞを勧めてくれるのもこの細君だ。
温暖(あたたか)い雨はしとしと降り続いていた。その一日はせめて王滝に逗留(とうりゅう)せよ、風呂(ふろ)にでもはいってからだを休めて行けという禰宜の言葉も、半蔵にはうれしかった。
「へい。床屋でございます。御用はこちらでございますか。」
宿の人に呼んでもらった村の髪結いが油じみた台箱をさげながら半蔵の部屋(へや)にはいって来た。ぐっすり半日ほど眠ったあとで、半蔵は参籠に乱れた髪を結い直してもらった。元結(もとゆい)に締められた頭には力が出た。気もはっきりして来た。そばにいる勝重を相手に、いろいろ将来の身の上の話なぞまで出るのも、こうした静かな禰宜の家なればこそだ。
「勝重さん、君もそう長くわたしのそばにはいられまいね。来年あたりは落合(おちあい)の方へ帰らにゃなるまいね。きっと家の方では、君の縁談が待っていましょう。」
「わたしはもっと勉強したいと思います。そんな話がありましたけれど、まだ早いからと言って断わりました。」
勝重はそれを言うにも顔を紅(あか)らめる年ごろだ。そこへ禰宜が半蔵を見に来た。禰宜は半蔵のことを「青山さん」と呼ぶほどの親しみを見せるようになった。里宮参籠記念のお札、それに神饌(しんせん)の白米なぞを用意して来て、それを部屋の床の間に置いた。
「これは馬籠へお持ち帰りを願います。」と禰宜は言った。「それから一つお願いがあります。あの御神前へおあげになった歌は、結構に拝見しました。こんな辺鄙(へんぴ)なところで、ろくな短冊(たんざく)もありませんが、何かわたしの家へも記念に残して置いていただきたい。」
禰宜はその時、手をたたいて家のものを呼んだ。自分の子息(むすこ)をその部屋に連れて来させた。
「青山さん、これは八つになります。おそ生まれの八つですが、手習いなぞの好きな子です。ごらんのとおりな山の中で、よいお師匠さまも見当たらないでいます。どうかこれを御縁故に、ちょくちょく王滝へもお出かけを願いたい。この子にも、本でも教えてやっていただきたい。」
禰宜はこの調子だ。さらに言葉をついで、
「福島からここまでは五里と申しておりますが、正味四里半しかありません。青山さんは福島へはよく御出張でしょう。あの行人橋(ぎょうにんばし)から御嶽山道について常磐(ときわ)の渡しまでお歩きになれば、今度お越しになったと同じ道に落ち合います。この次ぎはぜひ、福島の方からお回りください。」
「えゝ。王滝は気に入りました。こんな仙郷(せんきょう)が木曾にあるかと思うようです。またおりを見てお邪魔にあがりますよ。わたしもこれでいそがしいからだですし、御承知の世の中ですから、この次ぎやって来られるのはいつのことですか。まあ、王滝川の音をよく聞いて行くんですね。」
半蔵はそばにいる勝重に墨を磨(す)らせた。禰宜から求めらるるままに、自作の歌の一つを短冊に書きつけた。
梅の花|匂(にお)はざりせば降る雨にぬるる旅路(たびじ)は行きがてましを   半蔵
そろそろ半蔵には馬籠の家の方のことが気にかかって来た。一月(ひとつき)からして陽気の遅れた王滝とも違い、彼が御嶽の話を持って父吉左衛門をよろこばしうる日は、あの木曾路の西の端はもはや若葉の世界であろうかと思いやった。将軍|上洛(じょうらく)中の京都へと飛び込んで行った友人香蔵からの便(たよ)りは、どんな報告をもたらして、そこに自分を待つだろうかとも思いやった。万事不安のうちに、むなしく春の行くことも惜しまれた。
「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」
と彼は思い直した。水垢離(みずごり)と、極度の節食と、時には滝にまで打たれに行った山籠(やまごも)りの新しい経験をもって、もう一度彼は馬籠の駅長としての勤めに当たろうとした。
御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの辺鄙(へんぴ)な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。眼前に潰(つい)えて行く旧(ふる)くからの制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人(かみごいちにん)ですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。中世以来の異国の殻(から)もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心を畏(おそ)れた。  
第八章

 


「もう半蔵も王滝(おうたき)から帰りそうなものだぞ。」
吉左衛門(きちざえもん)は隠居の身ながら、忰(せがれ)半蔵の留守を心配して、いつものように朝茶をすますとすぐ馬籠(まごめ)本陣の裏二階を降りた。彼の習慣として、ちょっとそこいらを見回りに行くにも質素な平袴(ひらばかま)ぐらいは着けた。それに下男の佐吉が手造りにした藁草履(わらぞうり)をはき、病後はとかく半身の回復もおそかったところから杖(つえ)を手放せなかった。
そういう吉左衛門も、代を跡目(あとめ)相続の半蔵に譲り、庄屋(しょうや)本陣|問屋(といや)の三役を退いてから、半年の余になる。前の年、文久(ぶんきゅう)二年の夏から秋へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路(きそじ)を通過した長州侯(ちょうしゅうこう)をこの宿場に迎えることもできなかったころだ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪(すわ)に三日も逗留(とうりゅう)を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹(はしか)が流行して、全快しても種々な病に変わり、諸方に死人のできたこともおびただしい数に上った。世間一統、年を祭り替えるようなことは気休めと言えば、気休めだが、そんなことでもして悪病の神を送るよりほかに災難の除(よ)けようもないと聞いては、年寄役の伏見屋金兵衛(ふしみやきんべえ)なぞが第一黙っているはずもなく、この宿でも八月のさかりに門松を立て、一年のうちに二度も正月を迎えて、世直しということをやった。吉左衛門としては、あれが長い駅長生活の最後の時だった。同じ八月の二十九日には彼は金兵衛と共に退役を仰せ付けられる日を迎えた。それぎり、ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰(せがれ)の留守に問屋場(といやば)の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
当時、将軍|家茂(いえもち)は京都の方へ行ったぎりいまだに還御(かんぎょ)のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々(さまざま)な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋(もや)の方へ向いた。
「やあ、例幣使(れいへいし)さま。」
母屋の囲炉裏(いろり)ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳(ぜん)に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、正己(まさみ)は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして御飯(おまんま)を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも草鞋(わらじ)ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。
「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい。」
と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集まっているものは皆笑った。
吉左衛門の孫たちも大きくなった。お粂(くめ)は八歳、宗太は六歳、三番目の正己が三歳にもなる。どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上るかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。道中で人足(にんそく)をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の大嵐(おおあらし)にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。公卿(くげ)、大僧正(だいそうじょう)をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が金(きん)の御幣を奉じてねり込んで来て、最近にこの馬籠の宿でも二十両からの祝儀金(しゅうぎきん)をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵が王滝の方へ行っている留守の時だった。
吉左衛門は広い炉ばたから寛(くつろ)ぎの間(ま)の方へ行って見た。そこは半蔵が清助を相手に庄屋(しょうや)本陣の事務を見る部屋(へや)にあててある。
「万事は半蔵の量見一つでやるがいい――おれはもう一切、口を出すまいから。」
これは吉左衛門が退役の当時に半蔵に残した言葉で、隠居してからもその心に変わりはなかった。今さら、彼は家のことに口を出すつもりは毛頭(もうとう)なかった。ただ、半蔵の仕事部屋を見回るだけに満足した。
店座敷の方へも行って見た。以前の大火に枯れた老樹の跡へは、枝ぶりのおもしろい松の樹(き)が山から移し植えられ、白い大きな蕾(つぼみ)を持つ牡丹(ぼたん)がまた焼け跡から新しい芽を吹き出している。半蔵の好きなものだ。「松(まつ)が枝(え)」とは、その庭の植樹(うえき)から思いついて、半蔵が自分の歌稿の題としているくらいだ。しかしそれらの庭にあるものよりも、店座敷の床の間に積み重ねてある書物が吉左衛門の目についた。そこには本居(もとおり)派や平田派の古学に関したいろいろな本が置いてある。あの平田|篤胤(あつたね)と同郷で、その影響を受けたとも言われる佐藤信淵(さとうのぶひろ)が勧農に関する著述なぞも置いてある。
吉左衛門はひとり言って見た。
「これだ。相変わらず半蔵はこういう方に凝っていると見えるなあ。」
まだ朝のうちのことで、毎日手伝いに通(かよ)って来る清助も顔を見せない。吉左衛門はその足で母屋(もや)の入り口から表庭を通って、門の外に出て見た。早く馬籠を立つ上り下りの旅人以外には、街道を通る人もまだそれほど多くない。宿場の活動は道路を清潔にすることから始められるような時であった。
将軍の上洛(じょうらく)以来、この街道を通行する諸大名諸公役なぞの警衛もにわかに厳重になった。その年の日光例幣使は高百五十石の公卿(くげ)であるが、八|挺(ちょう)の鉄砲を先に立て、二頭の騎馬に護(まも)られて、おりからの強雨の中を発(た)って行ったといううわさを残した。公儀より一頭、水戸藩(みとはん)より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あとになってそれが尾州藩よりの警衛とわかった。皇室と徳川|霊廟(れいびょう)とを結びつけるはずの使者が、公武合体の役には立たないで、あべこべにそれをぶち壊(こわ)して歩くのもあの一行だった。さすがに憎まれ者の例幣使のことで、八挺の鉄砲と二頭の騎馬とで、その身を護(まも)ることを考えねばならなくなったのだ。
毎月上半期を半蔵の家の方で、下半期を九太夫(くだゆう)方で交替に開く問屋場(といやば)は、ちょうどこちらの順番に当たっていた。吉左衛門の足はその方へ向いた。そこには書役(かきやく)という形で新たにはいった亀屋栄吉(かめやえいきち)が早く出勤していて、小使いの男と二人(ふたり)でそこいらを片づけている。栄吉は吉左衛門が実家を相続しているもので、吉左衛門の甥(おい)にあたり、半蔵とは従兄弟(いとこ)同志の間柄にあたる。問屋としての半蔵の仕事を手伝わせるために、わざわざ吉左衛門が見立てたのもこの栄吉だ。
「叔父(おじ)さん、早いじゃありませんか。」
「あゝ。もう半蔵も帰りそうなものだと思って、ちょっとそこいらを見回りに来たよ。だいぶ荷もたまってるようだね。」
「それですか。それは福島行きの荷です。けさはまだ峠の牛が降りて来ません。」
栄吉は問屋場の御改(おあらた)め所(じょ)になっている小さい高台のところへ来て、その上に手を置き、吉左衛門はまたその前の羽目板(はめいた)に身を寄せ、蹴込(けこ)みのところに立ったままで、敷居の上と下とで言葉をかわしていた。吉左衛門のつもりでは、退職後の問屋の帳面にも一応は目を通し、半蔵の勤めぶりに安心の行くかどうかを確かめて、青山親子が職業に怠りのあるとは言われたくないためであった。でも、彼はすぐにそんなことを言い出しかねて、栄吉の方から言い出すいろいろな問屋場の近況に耳を傾けていた。
「大旦那(おおだんな)、店座敷(ここは宿役人の詰め所をさす)の方でお茶を一つお上がり。まだ役人衆はどなたも見えていませんから。」
と小使いの男が言う。吉左衛門はそれをきッかけに、砂利(じゃり)で堅めた土間を通って、宿役人の詰め所の上がり端(はな)の方へ行って腰掛けた。そこは会所と呼んでいるところで、伏見屋、桝田屋(ますだや)、蓬莱屋(ほうらいや)、梅屋とこの四人の年寄役のほかに、今一軒の問屋|九郎兵衛(くろべえ)なぞが事あるごとに相談に集まる場所だ。吉左衛門はその上がり端のところに杖(つえ)を置いて、腰掛けたままで茶を飲んだ。それから甥(おい)の方へ声をかけた。
「栄吉、問屋場の帳面をここへ見せてくれないか。ちょっとおれは調べたいことがある。」
その時、栄吉は助郷(すけごう)の人馬数を書き上げた|日〆帳(ひじめちょう)なぞをそこへ取り出して来た。吉左衛門も隠居の身で、駅路のことに口を出そうでもない。ただ彼はその大切な帳簿を繰って見て、半蔵の認(したた)め方に目を通すというだけに満足した。
「叔父(おじ)さん、街道の風儀も悪くなって来ましたね。」と栄吉は言って見せる。「なんでもこの節は力ずくで行こうとする。こないだも九太夫さんの家の方へ来て、人足の出し方がおそいと言って、問屋場であばれた侍がありましたぜ。ひどいやつもあるものですね。その侍は土足のままで、問屋場の台の上へ飛びあがりましたぜ。そこに九郎兵衛さんがいました。あの人も見ていられませんから、いきなりその侍を台の上から突き落としたそうです。さあ、怒(おこ)るまいことか、先方(さき)は刀に手を掛けるから、九郎兵衛さんがあの大きなからだでそこへ飛びおりて、斬(き)れるものなら斬って見るがいいと言ったそうですよ。ちょうど表には大名の駕籠(かご)が待っていました。大名は騒ぎを聞きつけて、ようやくその侍を取りしずめたそうですがね。どうして、この節は油断ができません。」
「そう言えば、十万石につき一人(ひとり)ずつとか、諸藩の武士が京都の方へ勤めるようになったと聞くが、真実(ほんとう)だろうか。」
「その話はわたしも聞きました。」
「参覲交代(さんきんこうたい)の御変革以来だよ。あの御変革は、どこまで及んで行くか見当がつかない。」
こんな話をしたあとで、吉左衛門は思わず時を送ったというふうに腰を持ちあげた。問屋場からの出がけにも、彼は出入り口の障子の開いたところから板廂(いたびさし)のかげを通して、心深げに旧暦四月の街道の空をながめた。そして栄吉の方を顧みて言った。
「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。」
吉左衛門の心配は、半蔵が親友の二人(ふたり)までも京都の方へ飛び出して行ったことであった。あの中津川本陣の景蔵や、新問屋|和泉屋(いずみや)の香蔵のあとを追って、もし半蔵が家出をするような日を迎えたら。その懸念(けねん)から、年老いた吉左衛門は思い沈みながら、やがて自分の隠居所の方へ非常に静かに歩いて行った。彼がその裏二階に上るころには、おまんも母屋(もや)の方から夫(おっと)を見に来た。
「いや、朝のうちは問屋場も静かさ。栄吉が出勤しているだけで、まだ役人衆はだれも見えなかった。」
吉左衛門はおまんの見ているところで袴(はかま)の紐(ひも)を解いて、先代の隠居半六の時代からある古い襖(ふすま)の前を歩き回った。先年の馬籠(まごめ)の大火にもその隠居所は焼け残って、筆者不明の大書をはりつけた襖の文字も吉左衛門には慰みの一つとなっている。
「もうそれでも半蔵も帰って来ていいころだぞ。」と彼は妻に言った。「この節は街道がごたごたして来て、栄吉も心配している。町ではいろいろなことを言う人があるようだね。」
「半蔵のことですか。」とおまんも夫の顔をながめる。
「あれは本陣の日記なぞを欠かさずつけているだろうか。」
「さあ。わたしもそれで気がついたことがありますよ。あれの日記が机の上にありましたから、あけるつもりもなくあけて見ました。あなたがよく本陣の日記をつけたように、半蔵も家を引き受けた当座は、だれが福島から来て泊まったとか、お材木方を湯舟沢へ御案内したとか、そういうことが細かくつけてありましたよ。だんだんあとの方になると、お天気のことしか書いてない日があります。晴。曇。晴。曇。そんな日の七日も八日も続いたところがありましたっけ。」
「それだ。無器用に生まれついて来たのは性分(しょうぶん)でしかたがないとしても、もうすこしあれには経済の才をくれたい。」
茶のみ友だちともいうべき夫婦は、古風な煙草盆(たばこぼん)を間に置いて、いろいろと子の前途を心配し出した。その時、おまんは長い羅宇(らお)の煙管(きせる)で一服吸いつけて、
「こないだからわたしも言おう言おうと思っていましたが、半蔵のうわさを聞いて見ると残念でなりません。あの金兵衛さんなぞですら、馬籠の本陣や問屋が半蔵に勤まるかッて、そう思って見ているようですよ。」
「そりゃ、お前、それくらいのことはおれだって考える。だから清助さんというものを入れ、栄吉にも来てもらって、清助さんには庄屋と本陣、栄吉には問屋の仕事を手伝わせるようにしたさ。あの二人がついてるもの、これが普通の時世なら、半蔵にだって勤まらんことはない。」
「えゝ、そりゃそうです――土台ができているんですから。」
「あのお友だちを見てもわかる。中津川の本陣の子息(むすこ)に、新問屋の和泉屋の子息――二人とも本陣や問屋の仕事をおッぽりだして行ってしまった。」
「あれで半蔵も、よっぽど努めてはいるようです。わたしにはそれがよくわかる。なにしろ、あなた、お友だちが二人とも京都の方でしょう。半蔵もたまらなくなったら、いつ家を飛び出して行くかしれません。」
「そこだて。金兵衛さんなぞに言わせると、おれが半蔵に学問を勧めたのが大失策(おおしくじり)だ、学問は実に恐ろしいものだッて、そう言うんさ。でも、おれは自分で自分の学問の足りないことをよく知ってるからね。せめて半蔵には学ばせたい、青山の家から学問のある庄屋を一人出すのは悪くない、その考えでやらせて見た。いつのまにかあれは平田先生に心を寄せてしまった。そりゃ何も試みだ。あれが平田入門を言い出した時にも、おれは止めはしなかった。学問で身代をつぶそうと、その人その人の持って生まれて来るようなもので、こいつばかりはどうすることもできない。おれに言わせると、人間の仕事は一代限りのもので、親の経験を子にくれたいと言ったところで、だれもそれをもらったものがない。おれも街道のことには骨を折って見たが、半蔵は半蔵で、また新規まき直しだ。考えて見ると、あれも気の毒なほどむずかしい時に生まれ合わせて来たものさね。」
「まあ、そう心配してもきりがありません。清助さんでも呼んで、よく相談してごらんなすったら。」
「そうしようか。京都の方へでも飛び出して行くことだけは、半蔵にも思いとどまってもらうんだね。今は家なぞを顧みているような、そんな時じゃないなんて、あれのお友だちは言うかもしれないがね。」
裏二階の下を通る人の足音がした。おまんはそれを聞きつけて障子の外に出て見た。
「佐吉か。隠居所でお茶がはいりますから、清助さんにお話に来てくださるようにッて、そう言っておくれよ。」
清助を待つ間、吉左衛門はすこし横になった。わずかの時を見つけても、からだを横にして休み休みするのが病後の彼の癖のようになっている。
「枕(まくら)。」
とおまんが気をきかして古風な昼寝用の箱枕を夫に勧める間もなく、清助は木曾風な軽袗(かるさん)をはいて梯子段(はしごだん)を上って来た。本陣大事と勤め顔な清助を見ると、吉左衛門はむっくり起き直って、また半蔵のうわさをはじめるほど元気づいた。
「清助さん、今|旦那(だんな)と二人で半蔵のことを話していたところですよ。旦那も心配しておいでですからね。」とおまんが言う。
「その事ですか。大旦那の御用と言えば、将棋のお相手ときまってるのに、それにしては時刻が早過ぎるが、と思ってやって来ましたよ。」
清助は快活に笑って、青々と剃(そ)っている毛深い腮(あご)の辺をなでた。二間続いた隠居所の二階で、おまんが茶の用意なぞをする間に、吉左衛門はこう切り出した。
「まあ、清助さん、その座蒲団(ざぶとん)でもお敷き。」
「いや、はや、どうも理屈屋がそろっていて、どこの宿場も同じことでしょうが苦情が絶えませんよ。大旦那のように黙って見ていてくださるといいけれども、金兵衛さんなぞは世話を焼いてえらい。」
「あれで、半蔵のやり方が間違ってるとでも言うのかな。」
「大旦那の前ですが、お師匠さまの家としてだれも御本陣に指をさすものはありません。そりゃこの村で読み書きのできるものはみんな半蔵さまのおかげですからね。宿場の問題となると、それがやかましい。たとえばですね、問屋場へお出入りの牛でも以前はもっとかわいがってくだすった、初めて参った牛なぞより荷物も早く出してくだすったし、駄賃(だちん)なぞも御贔屓(ごひいき)にあずかった、半蔵さまはもっとお出入りの牛をかわいがってくだすってもいい。そういうことを言うんです。」
「そいつは初耳だ。」
「それから、宿(しゅく)の伝馬役(てんまやく)と在の助郷(すけごう)とはわけが違う、半蔵さまはもっと宿の伝馬役をいばらせてくだすってもいい。そういうことを言うんです。ああいう半蔵さまの気性をよく承知していながら、そのいばりたい連中が何を話しているかと思って聞いて見ると――いったい、伊那(いな)から出て来る人足なぞにあんなに目をかけてやったところで、あの手合いはありがたいともなんとも思っていやしない。そりゃ中には宿場へ働きに来て泊まる晩にも、※[くさかんむり/稾]遣(わらづか)いをするとか、読み書き算術を覚えるとか、そういう心がけのよいものがなくはない。しかし近ごろは助郷の風儀が一般に悪くなって、博打(ばくち)はうつ、問屋で払った駄賃(だちん)も何も飲んでしまって、村へ帰るとお定まりの愁訴だ――やれ人を牛馬のようにこき使うの、駄賃もろくに渡さないの、なんのッて、大げさなことばかり。半蔵さまはすこしもそれを御存じないんだ。そういうことを言うんです。大旦那の時分はよかったなんて、寄るとさわるとそんなうわさばかり……」
「待ってくれ。そう言われると、おれが宿場の世話をした時分には、なんだか依怙贔屓(えこひいき)でもしたように聞こえる。」
「大旦那、まあ、聞いてください。半蔵さまはよく参覲交代なぞはもう時世おくれだなんて言うでしょう。町のものに聞いて見ると、宿場がさびれて来たら、みんなどうして食えるかなんて、そういうことも言うんです。」
「そこだて。半蔵だって心配はしているんさ。この街道の盛衰にかかわることをだれだって、心配しないものがあるかよ。こう御公役の諸大名の往来が頻繁(ひんぱん)になって来ては、継立(つぎた)てに難渋するし、人馬も疲れるばかりだ。よいにも悪いにもこういう時世になって来た。だから、参覲交代のような儀式ばった御通行はそういつまで保存のできるものでもないというあれの意見なんだろう。妻籠(つまご)の寿平次(じゅへいじ)もその説らしい。ちょっと考えると、どの街道も同じことで、往還の交通が頻繁にあれば、それだけ宿場に金が落ちるわけだから、大きな御通行なぞは多いほどよさそうなものだが、そこが東海道あたりとわれわれの地方とすこし違うところさ。木曾のように人馬を多く徴発されるところじゃ、問屋場がやりきれない。事情を知らないものはそうは思うまいが、木曾十一宿の庄屋仲間が相談して、なるべく大きな御通行は東海道を通るようにッて、奉行所へ嘆願した例もあるよ。おれは昔者(むかしもの)だから、参覲交代を保存したい方なんだが、しかし半蔵や寿平次の意見にも一理屈あるとは思うね。」
「そういうこともありましょう。しかし、わたしに言わせると、九太夫(くだゆう)さんたちはどこまでも江戸を主にしていますし、半蔵さまはまた、京都を主にしています。九太夫さんたちと半蔵さまとは、てんで頭が違います。諸大名は京都の方へ朝参するのが本筋だ、そういうことは旧(ふる)い宿場のものは考えないんです。」
「だんだんお前の話を聞いて見ると、おれも思い当たることがある。つまり、おれの家じゃ問屋を商売とは考えていない。親代々の家柄で、町方のものも在の百姓もみんな自分の子のように思ってる。半蔵だって、本陣問屋を名誉職としか思っていまい。おれの家の歴史を考えて見てくれると、それがわかる。こういう山の上に発達した宿場というものは、百姓の気分と町人の気分とが混(まじ)り合っていて、なかなかどうして治めにくいところがあるよ。」
「だいぶお話に身が入るようですね。」
と言いながら、おまんは軽く笑って、次ぎの間から茶道具を運んで来た。隠居所で沸かした湯加減のよい茶を夫にも清助にもすすめ、自分でも飲んで、話の仲間に加わった。
「なんでも、」とおまんは思い出したように、「神葬祭の一条で、半蔵が九太夫さんとやりやったことがあるそうじゃありませんか。あれから九太夫さんの家では、とかく半蔵の評判がよくないとか聞きましたよ。」
「そんなことはありません。」と清助は言った。「九太夫さんはどう思っているか知りませんが、九郎兵衛(くろべえ)さんにかぎって決してそんなことはありません。そりゃだれがなんと言ったって、お父(とっ)さんのためにお山へ参籠(さんろう)までして、御全快を祷(いの)りに行くようなことは、半蔵さまでなけりゃできないことです。」
「いえ、その点はおれも感心してるがね。なんと言うか、こう、まるで子供のようなところが半蔵にはあるよ。あれでもうすこし細かいところにも気がつくようだと、宿場の世話もよく届くかと思うんだが。」
「そりゃ、大旦那、街道へ日があたって来たからと言って、すぐに傘(からかさ)をひろげて出す金兵衛さんのような細かさは、半蔵さまにはありません。」
「金兵衛さんの言い草がいいじゃないか。半蔵に問屋場を預けて置くのは、米の値を知らない番人に米蔵を預けて置くようなものだとさ。あの人の言うことは鋭い。」
「まあ、栄吉さんも来てくれたものですし、そう大旦那のように御心配なすったものでもありません。見ていてください。半蔵さまだってなかなかやりますよ。」
「清助さん、」とその時、吉左衛門は相手の言うことをさえぎった。「この話はこのくらいにして、おれが一つ将棋のたとえを出すよ。お互いに好きな道だからね。一歩(ひとあし)ずつ進む駒(こま)もある。一足飛びに飛ぶ駒もある。ある駒は飛ぶことはできても一歩(ひとあし)ずつ進むことは知らない。ある駒はまた、一歩ずつ進むことはできても飛ぶことは知らない。この街道に生まれて来る人間だって、そのとおりさ。一気に飛ぶこともできれば、一歩ずつ進むこともできるような、そんな駒はめったに生まれて来るもんじゃないね。」
「そうすると、大旦那、あの金兵衛さんなぞは、さしずめどういう駒でしょう。」
「将棋で言えば、成った駒だね。人間もあそこまで行けば、まあ、成(な)り金(きん)と言ってよかろうね。」
「金兵衛さんだから、成り金ですか。大旦那の洒落(しゃれ)が出ましたね。」
聞いているおまんも笑い出した。そして二人の話を引き取って、「今ごろは半蔵も、どこかでくしゃみばかりしていましょうよ。将棋のことはわたしにはわかりませんが、半蔵にしても、お民にしても、あの夫婦はまだ若い。若い者のよいところは、先の見えないということだ、この節わたしはつくづくそう思って来ましたよ。」
「それだけおまんも年を取った証拠だ。」と吉左衛門が笑う。
「そうかもしれませんね。」と言ったあとで、おまんは調子を変えて、「あなた、一番肝心なことをあと回しにして、まだ清助さんに話さないじゃありませんか。ほら、あの半蔵のことだから、お友だちのあとを追って、京都の方へでも行きかねない。もしそんな様子が見えたら、清助さんにもよく気をつけていてもらうようにッて、さっきからそう言って心配しておいでじゃありませんか。」
「それさ。」と吉左衛門も言った。「おれも今、それを言い出そうと思っていたところさ。」
清助はうなずいた。 

半蔵は勝重(かつしげ)を連れて、留守中のことを案じながら王滝(おうたき)から急いで来た。御嶽山麓(おんたけさんろく)の禰宜(ねぎ)の家から彼がもらい受けて来た里宮|参籠(さんろう)記念のお札、それから神饌(しんせん)の白米なぞは父吉左衛門をよろこばせた。
留守中に届いた友人香蔵からの手紙が、寛(くつろ)ぎの間(ま)の机の上に半蔵を待っていた。それこそ彼が心にかかっていたもので、何よりもまず封を切って読もうとした京都|便(だよ)りだ。はたして彼が想像したように、洛中(らくちゅう)の風物の薄暗い空気に包まれていたことは、あの友だちが中津川から思って行ったようなものではないらしい。半蔵はいろいろなことを知った。友だちが世話になったと書いてよこした京都|麩屋町(ふやまち)の染め物屋|伊勢久(いせきゅう)とは、先輩|暮田正香(くれたまさか)の口からも出た平田門人の一人(ひとり)で、義気のある商人のことだということを知った。友だちが京都へはいると間もなく深い関係を結んだという神祇職(じんぎしょく)の白川資訓卿(しらかわすけくにきょう)とは、これまで多くの志士が縉紳(しんしん)への遊説(ゆうぜい)の縁故をなした人で、その関係から長州藩、肥後藩、島原藩なぞの少壮な志士たちとも友だちが往来を始めることを知った。そればかりではない、あの足利(あしかが)将軍らの木像の首を三条河原(さんじょうがわら)に晒(さら)したという示威事件に関係して縛に就(つ)いた先輩|師岡正胤(もろおかまさたね)をはじめ、その他の平田同門の人たちはわずかに厳刑をまぬかれたというにとどまり、いずれも六年の幽囚を申し渡され、正香その人はすでに上田藩の方へお預けの身となっていることを知った。ことにその捕縛の当時正胤の二条|衣(ころも)の棚(たな)の家で、抵抗と格闘のあまりその場に斬殺(ざんさつ)せられた二人の犠牲者を平田門人の中から出したということが、実際に京都の土を踏んで見た友だちの香蔵に強い衝動を与えたことを知った。
本陣の店座敷にはだれも人がいなかった。半蔵はその明るい障子のところへ香蔵からの京都便りを持って行って、そこで繰り返し読んで見た。
「あなた、景蔵さんからお手紙ですよ。」
お民が半蔵に手紙を渡しに来た。京都便りはあっちからもこっちからも半蔵のところへ届いた。
「お民、この手紙はだれが持って来たい。」
「中津川の万屋(よろずや)から届けて来たんですよ。安兵衛(やすべえ)さんが京都の方へ商法(あきない)の用で行った時に、これを預かって来たそうですよ。」
その時お民は、御嶽参籠後の半蔵がそれほど疲れたらしい様子もないのに驚いたというふうで、夫の顔をながめた。「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚(にくあつ)な鼻の先へしわを寄せて笑うところから、静かな口もとまで、だんだん父親の吉左衛門に似て来るような夫の容貌(ようぼう)をながめて置いて、何やらいそがしげにそのそばを離れて行くのも彼女だ。
「お師匠さま、おくたぶれでしょう。」
と言って、勝重もそこへ半蔵の顔を見に来た。
「わたしはそれほどでもない。君は。」
「平気ですよ。往(ゆ)きを思うと、帰りは実に楽でした。わたしもこれから田楽(でんがく)を焼くお手伝いです。お師匠さまに食べさせたいッて、今|囲炉裏(いろり)ばたでみんなが大騒ぎしているところです。」
「もう山椒(さんしょ)の芽が摘めるかねえ。王滝じゃまだ梅だったがねえ。」
勝重もそばを離れて行った。半蔵はお民の持って来た手紙を開いて見た。
もはやしばらく京都の方に滞在して国事に奔走し平田派の宣伝に努めている友人の景蔵は、半蔵から見れば兄のような人だった。割合に年齢(とし)の近い香蔵に比べると、この人から受け取る手紙は文句からして落ち着いている。その便(たよ)りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった石清水行幸(いわしみずぎょうこう)の日のことがその中に報じてある。
景蔵の手紙はなかなかこまかい。それによると、今度の行幸については種々(さまざま)な風説が起こったとある。国事寄人(こくじよりうど)として活動していた侍従中山|忠光(ただみつ)は官位を朝廷に返上し、長州に脱走して毛利真斎(もうりしんさい)と称し、志士を糾合(きゅうごう)して鳳輦(ほうれん)を途中に奪い奉る計画があるというような、そんな風説も伝わったとある。その流言に対して会津(あいづ)方からでも出たものか、八幡(はちまん)の行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に苦々(にがにが)しいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん、町人百姓までこの行幸のために尽力守衛せよというような張り紙を三条大橋の擬宝珠(ぎぼし)に張りつけたものがあって、役所の門前で早速(さっそく)その張り紙は焼き捨てられたという。石清水(いわしみず)は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝(みかど)にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある公卿(くげ)たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため洛外(らくがい)に鳳輦(ほうれん)を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)も忌服(きぶく)とあって、名代(みょうだい)の横山|常徳(つねのり)が当日の供奉(ぐぶ)警衛に当たった。景蔵に言わせると、当時、鱗形屋(うろこがたや)の定飛脚(じょうびきゃく)から出たものとして諸方に伝わった聞書(ききがき)なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、
「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。一橋(ひとつばし)様御名代のところ、攘夷(じょうい)の節刀を賜わる段にてお遁(に)げ。」
とある。この「お遁(に)げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧(えいらん)のなかったのに、初めて淀川(よどがわ)の滔々(とうとう)と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思(おぼ)し召され、外夷(がいい)親征なぞの御艱難(ごかんなん)はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体(りゅうたい)を危うくされ給(たも)うまいと慮(おもんぱか)らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿(ししんでん)の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認(したた)めてある。
聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田(いいだ)の在から京都に出ている松尾|多勢子(たせこ)(平田|鉄胤(かねたね)門人)のような近い親戚(しんせき)の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想(おも)い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の橋詰(はしづ)めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。
徳川家茂
「右は、先ごろ上洛(じょうらく)後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候(そうろう)ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終|虚喝(きょかつ)を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷(がいい)拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞(えいぶん)を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出(い)づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病(けびょう)を構え、一橋中納言(ひとつばしちゅうなごん)においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守(いたくらすおうのかみ)、岡部駿河守(おかべするがのかみ)らをはじめ奸吏(かんり)ども数多くこれありて、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)、安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)らの遺志をつぎ、賄賂(わいろ)をもって種々|奸謀(かんぼう)を行ない、実(じつ)もって言語道断、不届きの至りなり。右は、天下こぞって誅戮(ちゅうりく)を加うべきはずに候えども、大樹(たいじゅ)(家茂)においてはいまだ若年(じゃくねん)の儀にて、諸事奸吏どもの腹中より出(い)で候おもむき相聞こえ、格別寛大の沙汰(さた)をもって、しばらく宥恕(ゆうじょ)いたし候につき、速(すみや)かに姦徒(かんと)の罪状を糺明(きゅうめい)し、厳刑を加うべし。もし遅緩に及び候わば旬日を出(い)でずして、ことごとく天誅(てんちゅう)を加うべきものなり。」
亥(い)四月十七日   天下義士
この驚くべき張り紙――おそらく決死の覚悟をもって書かれたようなこの張り紙の発見されたことは、将軍家をして攘夷期限の公布を決意せしめるほどの力があったということを景蔵は書いてよこした。イギリスとの戦争は避けられないかもしれないとある。自分はもとより対外硬の意見で、時局がここまで切迫して来ては攘夷の実行もやむを得まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と称する人たちの多いにはうんざりする、ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。
日ごろ、へりくだった心の持ち主で、付和雷同なぞをいさぎよしとしない景蔵ですらこれだ。この京都便りを読んだ半蔵にはいろいろなことが想像された。同じ革新潮流の渦(うず)の中にあるとは言っても、そこには幾多の不純なもののあることが想像された。その不純を容(い)れながらも、尊王の旗を高くかかげて進んで行こうとしているらしい友だちの姿が半蔵の目に浮かぶ。
「どうだ、青山君。今の時は、一人(ひとり)でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか。」
この友だちの声を半蔵は耳の底に聞きつける思いをした。
京都から出た定飛脚(じょうびきゃく)の聞書(ききがき)として、来たる五月の十日を期する攘夷の布告がいよいよ家茂の名で公(おおやけ)にされたことが、この街道筋まで伝えられたのは、それから間もなくであった。
こういう中で、いろいろな用事が半蔵の身辺に集まって来た。参覲交代制度の変革に伴い定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願に関する件がその一つであった。これは宿々(しゅくじゅく)二十五人、二十五|疋(ひき)の常備御伝馬以外に、人馬を補充し、継立(つぎた)てを応援する定員の公役を設けることであって、この方法によると常備人馬でも応じきれない時に定助郷の応援を求め、定助郷が出てもまだ足りないような大通行の場合にかぎり加助郷(かすけごう)の応援を求めるのであるが、これまで木曾地方の街道筋にはその組織も充分にそなわっていなかった。それには木曾十一宿のうち、上(かみ)四宿、中(なか)三宿、下(しも)四宿から都合四、五人の総代を立て、御変革以来の地方の事情を江戸にある道中奉行所につぶさに上申し、東海道方面の例にならって、これはどうしても助郷の組織を改良すべき時機であることを陳述し、それには定助郷を勤むるものに限り高掛(たかかか)り物(もの)(金納、米納、その他労役をもってする一種の戸数割)の免除を願い、そして課役に応ずる百姓の立場をはっきりさせ、同時に街道の混乱を防ぎ止めねばならぬ、そのことに十一宿の意見が一致したのであった。もしこの定助郷設置の嘆願が道中奉行に容(い)れられなかったら、お定めの二十五人、二十五|疋(ひき)以外には継立(つぎた)てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたいとの申し合わせもしてあった。馬籠の宿では年寄役|蓬莱屋(ほうらいや)の新七がその総代の一人に選ばれた。吉左衛門、金兵衛はすでに隠居し、九太夫も退き、伏見屋では伊之助、問屋では九郎兵衛、その他の宿役人を数えて見ても年寄役の桝田屋小左衛門(ますだやこざえもん)は父儀助に代わり、同役梅屋五助は父|与次衛門(よじえもん)に代わって、もはや古株(ふるかぶ)で現役に踏みとどまっているものは蓬莱屋新七一人しか残っていなかったのである。新七は江戸表をさして出発するばかりに、そのしたくをととのえて、それから半蔵のところへ庄屋としての調印を求めに来た。
五月の七日を迎えるころには、馬籠の会所に集まる宿役人らはさしあたりこの定助郷の設けのない不自由さを互いに語り合った。なぜかなら、にわかな触(ふ)れ書(しょ)の到来で、江戸守備の任にある尾州藩の当主が京都をさして木曾路を通過することを知ったからで。
「なんのための御上京か。」
と半蔵は考えて、来たる十三日のころにはこの宿場に迎えねばならない大きな通行の意味を切迫した時局に結びつけて見た。その月の八日はかねて幕府が問題の生麦(なまむぎ)事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。
「半蔵さん、村方へはどうしましょう。」
と従兄弟(いとこ)の栄吉が問屋場から半蔵を探(さが)しに来た。
「尾張(おわり)領分の村々からは、人足が二千人も出て、福島詰め野尻(のじり)詰めで殿様を迎えに来ると言いますから、継立(つぎた)てにはそう困りますまいが。」とまた栄吉が言い添える。
「まあ、村じゅう総がかりでやるんだね。」と半蔵は答えた。
「御通行前に、田圃(たんぼ)の仕事を片づけろッて、百姓一同に言い渡しましょうか。」
「そうしてください。」
そこへ清助も来て一緒になった。清助はこの宿場に木曾の大領主を迎える日取りを数えて見て、
「十三日と言えば、もうあと六日しかありませんぞ。」
村では、飼蚕(かいこ)の取り込みの中で菖蒲(しょうぶ)の節句を迎え、一年に一度の粽(ちまき)なぞを祝ったばかりのころであった。やがて組頭(くみがしら)庄助(しょうすけ)をはじめ、五人組の重立ったものがそれぞれ手分けをして、来たる十三日のことを触れるために近い谷の方へも、山間(やまあい)に部落のある方へも飛んで行った。ちょうど田植えも始まっているころだ。大領主の通行と聞いては、男も女も田圃(たんぼ)に出て、いずれも植え付けを急ごうとした。
木曾地方の人民が待ち受けている尾州藩の当主は名を茂徳(もちのり)という。六十一万九千五百石を領するこの大名は御隠居(慶勝(よしかつ))の世嗣(よつぎ)にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の大森林もまたこの人の保護の下にある。
当時、将軍は上洛(じょうらく)中で、後見職|一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)をはじめ、会津藩主松平|容保(かたもり)なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。例の約束の期日までに、もし満足な答えが得られないなら、艦隊の威力によっても目的を達するに必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤(みとよしあつ)と共にその守備に当たっていたのだ。
しかし、尾州藩の位置を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前(えちぜん)も手を引き、薩摩(さつま)も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜(さくそう)していたことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙(あいたいじ)する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿(くげ)たちを異(こと)にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥(なるせまさみつ)のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢(いせ)、熱田(あつた)の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦(ぼうぎょ)に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として知られた田宮如雲(たみやじょうん)以下の人たちが多く賞賜せられたようなことは、藩主たる茂徳(もちのり)のあずかり知らないくらいであった。もともと御隠居は安政大獄の当時、井伊大老に反対して幽閉せられた閲歴を持つ人で、『神祇宝典(じんぎほうてん)』や『類聚日本紀(るいじゅうにほんぎ)』なぞを選んだ源敬公の遺志をつぎ、つとに尊王の志を抱(いだ)いたのであった。徳川御三家の一つではありながら、必ずしも幕府の外交に追随する人ではなかった。この御隠居側に対外硬を主張する人たちがあれば、藩主側には攘夷を非とする人たちがあった。尾州に名高い金鉄組とは、法外なイギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見に絶対に反対した。もし無謀の戦(いくさ)を開くにおいては、徳川家の盛衰浮沈にかかわるばかりでない、万一にもこの国の誇りを傷つけられたら世界万国に対して汚名を流さねばならない、天下万民の永世のことをも考えよと主張したのである。
外人殺傷の代償も大きかった。とうとう、尾州藩主は老中格の小笠原図書頭(おがさわらずしょのかみ)が意見をいれ、同じ留守役の水戸|慶篤(よしあつ)とも謀(はか)って、財政困難な幕府としては血の出るような十万ポンドの償金をイギリス政府に払ってしまった。五月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行が木曾路の東ざかい桜沢に達すると、そこはもう藩主の領地の入り口である。時節がら、厳重な警戒で、護衛の武士、足軽(あしがる)、仲間(ちゅうげん)から小道具なぞの供の衆まで入れると二千人からの同勢がその領地を通って、かねて触れ書の回してある十三日には馬籠の宿はずれに着いた。
おりよく雨のあがった日であった。駅長としての半蔵は、父の時代と同じように、伊之助、九郎兵衛、小左衛門、五助などの宿役人を従え、いずれも定紋(じょうもん)付きの麻※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](あさがみしも)で、この一行を出迎えた。道路の入り口にはすでに盛り砂が用意され、竹籠(たけかご)に厚紙を張った消防用の水桶(みずおけ)は本陣の門前に据(す)え置かれ、玄関のところには二張(ふたはり)の幕も張り回された。坂になった馬籠の町は金の葵(あおい)の紋のついた挾箱(はさみばこ)、長い柄(え)の日傘(ひがさ)、鉄砲、箪笥(たんす)、長持(ながもち)、その他の諸道具で時ならぬ光景を呈した。鉾(ほこ)の先を飾る大鳥毛の黒、三間鎗(さんげんやり)の大刀打(たちうち)に光る金なぞはことに大藩の威厳を見せ、黒の絹羽織(きぬばおり)を着た小人衆(こびとしゅう)はその間を往(い)ったり来たりした。普通御通行のお定めと言えば、二十万石以上の藩主は馬十五|疋(ひき)ないし二十疋、人足百二、三十人、仲間二百五十人ないし三百人とされていたが、尾張領分の村々から藩主を迎えに来た人足だけでも二千人からの人数がこの宿場にあふれた。
東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠(とりいとうげ)あたりをその実際の中央にして、それから十五里あまり西寄りのところに馬籠の宿があるが、大体に十一宿を引きくるめて中央の位置と見ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻(しおじり)、和田、碓氷(うすい)の四つの峠を越えねばならないのに引きかえ、美濃(みの)方面の平野は馬籠の西の宿はずれから目の下にひらけているの相違だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便(たよ)りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることができる。一行の中の用人らがこの峠の上の位置まで来て、しきりに西の方の様子を聞きたがるのに不思議はなかった。
その日の藩主は中津川泊まりで、午後の八つ時ごろにはお小休みだけで馬籠を通過した。
「下に。下に。」
西へと動いて行く杖払(つえはら)いの声だ。その声は、石屋の坂あたりから荒町(あらまち)の方へと高く響けて行った。路傍(みちばた)に群れ集まる物見高い男や女はいずれも大領主を見送ろうとして、土の上にひざまずいていた。
半蔵も目の回るようないそがしい時を送った。西の宿はずれに藩主の一行を見送って置いて、群衆の間を通りぬけながら、また自分の家へと引き返して来た。その時、御跡改(おあとあらた)めの徒士目付(かちめつけ)の口からもれた言葉で、半蔵は尾州藩主が江戸から上って来た今度の旅の意味を知った。
徒士目付は藩主がお小休みの礼を述べ、不時の人馬賃銭を払い、何も不都合の筋はなかったかなぞと尋ねた上で立ち去った。半蔵は跡片づけにごたごたする家のなかのさまをながめながら、しばらくそこに立ち尽くした。藩主|入洛(じゅらく)の報知(しらせ)が京都へ伝わる日のことを想(おも)って見た。藩主が名古屋まで到着する日にすら、強い反対派の議論が一藩の内に沸きあがりそうに思えた。まして熾(さか)んな敵愾心(てきがいしん)で燃えているような京都の空気の中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都へ、はたして藩主が飛び込んで行かれるか、どうかは、それすら実に疑問であった。
やかましい問題の償金はすでにイギリスへ払われたのだ。そのことを告げ知らせるために、半蔵はだれよりも先に父の吉左衛門を探(さが)した。こういう時のきまりで、出入りの百姓は男も女も手伝いとして本陣に集まって来ている。半蔵はその間を分けて、お民を見つけるときき、清助をつかまえるときいた。
「お父(とっ)さんは?」
馬籠の本陣親子が尾州家との縁故も深い。ことに吉左衛門はその庄屋時代に、財政困難な尾州藩の仕法立てに多年尽力したかどで、三回にもわたって、一度は一代|苗字(みょうじ)帯刀、一度は永代苗字帯刀、一度は藩主に謁見(えっけん)の資格を許すとの書付を贈られていたくらいだ。そんな縁故から、吉左衛門は隠居の身ながら麻※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](あさがみしも)を着用し、旅にある藩主を自宅に迎えたのである。半蔵が本陣の奥の部屋(へや)にこの父を見つけた時は、吉左衛門はまだ麻の袴(はかま)を着けたままでいた。
「やれ、やれ、戦争も始まらずに済むか。」
父は半蔵から徒士目付(かちめつけ)の残した話の様子を聞いたあとで言った。
「しかし、お父(とっ)さん、これが京都へ知れたらどういうことになりましょう。なぜ、そんな償金を払ったかなんて、そういう声が必ず起こって来ましょうよ。」 

「あなた、羽織の襟(えり)が折れていませんよ。こんな日には、髪結いでも呼んで、さっぱりとなすったら。」
「まあいい。」
「さっき、三浦屋の使いが来て、江戸のじょうるり語りが家内六人|連(づ)れで泊まっていますから、本陣の旦那(だんな)にもお出かけくださいッて、そう言って行きましたよ。旅の芸人のようじゃない、まあきいてごらんなさればわかる、今夜は太平記(たいへいき)ですなんて、そんなことをしきりと言っていましたよ。」
「まあ、おれはいい。」
「きょうはどうなすったか。」
「どうも心が動いてしかたがない。囲炉裏(いろり)ばたへ来て、今すわって見たところだ。」
半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
尾州藩主を見送ってから九日も降り続いた雨がまだあがらなかった。藩主が通行前に植え付けの済んだ村の青田の方では蛙(かわず)の声を聞くころだ。天保(てんぽう)二年の五月に生まれて、生みの母の覚えもない半蔵には、ことさら五月雨(さみだれ)のふるころの季節の感じが深い。
「お民、おれのお母(っか)さんが亡(な)くなってから、三十三年になるよ。」
と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞(めぐ)りに繞ったような名のつけようのない憂鬱(ゆううつ)がまた彼に帰って来る。
お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。
「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」
お民が奥の部屋(へや)の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。本陣とは何をしなければならないところか。これは屋敷の構造が何よりもよくその本来の成り立ちを語っている。公用兼軍用の旅舎と言ってしまえばそれまでだが、ここには諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関がなければならない。長い鎗(やり)を掛けるところがなければならない。馬をつなぐ厩(うまや)がなければならない。消防用の水桶(みずおけ)、夜間警備の高張(たかはり)の用意がなければならない。いざと言えば裏口へ抜けられる厳重な後方の設備もなければならない。本陣という言葉が示しているように、これは古い陣屋の意匠である。二百何十年の泰平の夢は、多くの武家を変え、その周囲を変えたけれども、しかしそれらの人たちを待つ設備と形式とは昔のままこうした屋敷に残っている。食器から寝道具までを携帯する大名の旅は、おそらく戦時を忘れまいとする往昔(むかし)の武人が行軍の習慣の保存されたもので、それらの一行がこの宿場に到着するごとに、本陣の玄関のところには必ず陣中のような幕が張り回される。大名以外には、公卿(くげ)、公役、それに武士のみがここへ来て宿泊し、休息することを許されているのだ。こんな人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与えるのが本陣としての青山の家業で、それには相応な心づかいがいる。前もって宿割(しゅくわり)の役人を迎え、御宿札(おやどふだ)というもののほかに関所を通過する送り荷の御鑑札を渡され、畳表を新しくするとか障子を張り替えるとか、時には壁を塗り替えるとかして、権威ある人々を待たねばならない。屏風(びょうぶ)何|双(そう)、手燭(てしょく)何|挺(ちょう)、燭台何挺、火鉢(ひばち)何個、煙草盆(たばこぼん)何個、草履(ぞうり)何足、幕何張、それに供の衆何十人前の膳飯(ぜんぱん)の用意をも忘れてはならない。どうして、旅人を親切にもてなす心なしに、これが勤まる家業ではないのだ。
そんなら、問屋は何をしなければならないところか。半蔵の家に付属する問屋場なぞは、明らかに本陣と同じ意匠のもとにあるもので、主として武家に必要な米穀、食糧、武器、その他の輸送のために開始された場処であることがわかる。これはまた時代が変遷して来ても、街道を通過する公用の荷物、諸藩の送り荷などを継ぎ送るだけにも、かなりの注意を払わねばならない。諸大名諸公役が通行のおりの荷物の継立(つぎた)ては言うまでもなく、宿人馬、助郷(すけごう)人馬、何宿の戻(もど)り馬、在馬(ざいうま)の稼(かせ)ぎ馬などの数から、商人荷物の馬の数まで、日々の問屋場帳簿に記入しなければならない。のみならず、毎年あるいは二、三年ごとに、人馬徴発の総高を計算して、それを人馬立辻(じんばたてつじ)ととなえて、道中奉行(どうちゅうぶぎょう)の検閲を経なければならない。諸街道にある他の問屋のことは知らず、同じ馬籠の九太夫の家もさておき、半蔵の家のように父祖伝来の勤めとしてこの仕事に携わるとなると、これがまた公共の心なしに勤まる家業でもないのだ。
見て来ると、地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍(ご)して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。
奥の部屋(へや)の方からは、漢籍でも読むらしい勝重(かつしげ)の声が聞こえて来ていた。ときどき子供らの笑い声も起こった。
「どうもよく降ります。」
会所の小使いが雨傘(あまがさ)をつぼめてはいって来た。
その声に半蔵は沈思を破られて、小使いの用事を聞きに立って行った。近く大坂御番衆の通行があるので、この宿場でも人馬の備えを心がけて置く必要があった。宿役人一同の寄り合いのことで小使いはその打ち合わせに来たのだ。
街道には、毛付(けづ)け(木曾福島に立つ馬市)から帰って来る百姓、木曾駒(きそごま)をひき連れた博労(ばくろう)なぞが笠(かさ)と合羽(かっぱ)で、本陣の門前を通り過ぎつつある。半蔵はこの長雨にぬれて来た仙台(せんだい)の家中を最近に自分の家に泊めて見て、本陣としても問屋としても絶えず心を配っていなければならない京大坂と江戸の関係を考えて見ていた時だ。その月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎(しょうちゅう)を半蔵の家から差し出した旅の親しみよりか、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原図書頭(おがさわらずしょのかみ)は近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦(なまむぎ)償金授与の事情を朝廷に弁疏(べんそ)するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍|還御(かんぎょ)の日ももはやそんなに遠くないことを感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまであらわれて来ることをも想像せずにはいられなかった。
その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然(ばくぜん)とした名古屋からの便(たよ)りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。 

もはや、西の下(しも)の関(せき)の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって来るようになった。
小倉藩(こくらはん)より御届け
口上覚(こうじょうおぼ)え
「当月十日、異国船一|艘(そう)、上筋(かみすじ)より乗り下し、豊前国(ぶぜんのくに)田野浦|部崎(へさき)の方に寄り沖合いへ碇泊(ていはく)いたし候(そうろう)。こなたより船差し出(いだ)し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気|悪(あ)しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつもりに候おもむき申し聞け候間、番船付け置き候。しかるところ、夜に入り四つ時ごろ、長州様軍艦乗り下り、右碇泊いたし候アメリカ船へ向け大砲二、三発、ならびにかなたの陸地よりも四、五発ほど打ち出し候様子のところ、異船よりも二、三発ほど発砲いたし、ほどなく出船、上筋へ向かい飄(ただよ)い行き候。もっとも夜中(やちゅう)の儀につき、しかと様子相わからず候段、在所表(ざいしょおもて)より申し越し候間、この段御届け申し上げ候。以上。」
   小笠原左京大夫内
   関重郎兵衛
これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに送って来たのであった。別に、次ぎのような来状の写しも同封してある。
五月十一日付
下の関より来状の写し
「昨十日異国船一|艘(そう)、ここもと田野浦沖へ碇泊(ていはく)。にわかに大騒動。市中荷物を片づけ、年寄り、子供、遊女ども、在郷(ざいごう)へ逃げ行き、若者は御役申し付けられ、浪人武士数十人異船へ乗り込みいよいよ打ち払いの由に相成り候(そうろう)。同夜、子(ね)の刻(こく)ごろより、石火矢(いしびや)数百|挺(ちょう)打ち放し候ところ、異船よりも数十挺打ち放し候えども地方(じかた)へは届き申さず。もっとも、右異船は下り船に御座候ところ、当瀬戸の通路つかまつり得ず、またまた跡へ戻(もど)り、登り船つかまつり候。当方武士数十人、鎧兜(よろいかぶと)、抜き身の鎗(やり)、陣羽織(じんばおり)を着し、騎馬数百人も出、市中は残らず軒前(のきさき)に燈火(あかり)をともし、まことにまことに大騒動にこれあり候。しかるところ、長州様蒸気船二艘まいり、石火矢(いしびや)打ち掛け、逃げ行く異船を追いかけ二発の玉は当たり候由に御座候。その後、異船いずれへ逃げ行き候や行くえ相わかり申さず。ようやく今朝一同引き取りに相成り鎮(しず)まり申し候。しかし他の異国船五、六艘も登り候うわさもこれあり、今後瀬戸通路つかまつり候えば皆々打ち払いに相成る様子、委細は後便にて申し上ぐべく候。以上。」
とある。
関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する。下の関よりとした来状の写しにもあるように、この異国船の砲撃には浪人も加わっていた。半蔵はこの報知(しらせ)を自分で読み、隣家の伊之助のところへも持って行って読ませた。多くの人にとって、異国は未知数であった。時局は容易ならぬ形勢に推し移って行きそうに見えて来た。
そこへ大坂御番衆の通行だ。五月も末のことであったが、半蔵は朝飯をすますとすぐ庄屋らしい平袴(ひらばかま)を着けて、問屋場の方へ行って見た。前の晩から泊まりがけで働きに来ている百人ばかりの伊那(いな)の助郷(すけごう)が二組に分かれ、一組は問屋九郎兵衛の家の前に、一組は半蔵が家の門の外に詰めかけていた。
「上清内路(かみせいないじ)村。下清内路(しもせいないじ)村。」
と呼ぶ声が起こった。村の名を呼ばれた人足たちは問屋場の前に出て行った。そこには栄吉が助郷村々の人名簿をひろげて、それに照らし合わせては一人一人百姓の名を呼んでいた。
「お前は清内路か。ここには座光寺(ざこうじ)のものはいないかい。」
と半蔵が尋ねると、
「旦那(だんな)、わたしは座光寺です。」
と、そこに集まる百姓の中に答えるものがあった。
清内路とは半蔵が同門の先輩原|信好(のぶよし)の住む地であり、座光寺とは平田|大人(うし)の遺書『古史伝』三十二巻の上木(じょうぼく)に主となって尽力している先輩北原稲雄の住む村である。お触れ当てに応じてこの宿場まで役を勤めに来る百姓のあることを伊那の先輩たちが知らないはずもなかった。それだけでも半蔵はこの助郷人足たちにある親しみを覚えた。
「みんな気の毒だが、きょうは須原(すはら)まで通しで勤めてもらうぜ。」
半蔵の家の問屋場ではこの調子だ。いったいなら半蔵の家は月の下半期の非番に当たっていたが、特にこういう日には問屋場を開いて、九郎兵衛方を応援する必要があったからで。
大坂御番衆の通行は三日も続いた。三日目あたりには、いかな宿場でも人馬の備えが尽きる。やむなく宿内から人別(にんべつ)によって狩り集め、女馬まで残らず狩り集めても、継立(つぎた)てに応じなければならない。各継ぎ場を合わせて助郷六百人を用意せよというような公儀御書院番の一行がそのあとに二日も続いた。助郷は出て来る日があり、来ない日がある。こうなると、人馬を雇い入れるためには夥(おびただ)しい金子(きんす)も要(い)った。そのたびに半蔵は六月近い強雨の来る中でも隣家の伏見屋へ走って行って言った。
「伊之助さん、君の方で二日ばかりの分を立て替えてください。四十五両ばかりの雇い賃を払わなけりゃならない。」
半蔵も、伊之助も熱い汗を流しつづけた。公儀御書院番を送ったあとには、大坂|御番頭(ごばんがしら)の松平|兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)と肥前平戸(ひぜんひらど)の藩主とを同日に迎えた。この宿場では、定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願のために蓬莱屋(ほうらいや)新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を整理する暇(いとま)もなかったくらいである。十|挺(ちょう)の鉄砲を行列の先に立て、四挺の剣付き鉄砲で前後を護(まも)られた大坂御番頭の一行が本陣の前で駕籠(かご)を休めて行くと聞いた時は、半蔵は大急ぎで会所から自分の部屋(へや)に帰った。麻※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](あさがみしも)をお民に出させて着た。そして父の駅長時代と同じような御番頭の駕籠に近く挨拶(あいさつ)に行った。彼は父と同じように軽く袴(はかま)の股立(ももだち)を取り、駕籠のわきにひざまずいて、声をかけた。
「当宿本陣の半蔵でございます。お目通りを願います。」
この挨拶を済ますころには、彼は一方に平戸藩主の一行を待ち受け、馬籠お泊まりという武家衆のために三十余人の客を万福寺にまで割り当てることを心配しなければならなかった。
六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍|家茂(いえもち)はすでに、生麦償金授与の情実を聞き糺(ただ)して攘夷の功を奏すべきよしの御沙汰(ごさた)を拝し、お暇乞(いとまご)いの参内(さんだい)をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方(しゅくがた)では大根蒔(だいこんま)きがおそくなると言って一同目を回しているところへ、十頭ばかりの将軍の御召馬(おめしうま)が役人の付き添いで馬籠に着いた。この御召馬には一頭につき三人ずつの口取り別当が付いて来た。
「半蔵さん。」
と言って伊之助が半蔵の袖(そで)を引いたのは、ばらばら雨の来る暮れ合いのころであった。この宿でも一両二分の金をねだられた上で、御召馬の通行を見送ったあとであった。
「およそやかましいと言っても、こんなやかましい御通行にぶつかったのは初めてです。」
そう半蔵が言って見せると、伊之助は声を潜めて、
「半蔵さん、脇本陣(わきほんじん)の桝田屋(ますだや)へ来て休んで行った別当はなんと言ったと思います。御召馬とはなんだ。そういうことを言うんですよ。桝田屋の小左衛門さんもそれには震えてしまって、公方様(くぼうさま)の御召馬で悪ければ、そんならなんと申し上げればよいのですかと伺いを立てたそうです。その時の別当の言い草がいい――御召御馬(おめしおうま)と言え、それからこの御召御馬は焼酎(しょうちゅう)を一升飲むから、そう心得ろですとさ。」
半蔵と伊之助とは互いに顔を見合わせた。
「半蔵さん、それだけで済むならまだいい。どうしてあの別当は機嫌(きげん)を悪くしていて、小左衛門さんの方で返事をぐずぐずしたら、いきなりその御召御馬を土足のまま桝田屋の床の間に引き揚げたそうですよ。えらい話じゃありませんか。実に、踏んだり蹴(け)ったりです。」
「京都の敵(かたき)をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね。」と言って半蔵は嘆息した。
京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十|棹(さお)も木曾街道を下って来るころは、この宿場では一層荷送りの困難におちいった。六月十日に着いた将軍の御召馬は、言わば西から続々殺到して来る関東方の先触(さきぶ)れに過ぎなかった。半蔵は栄吉と相談し、年寄役とも相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎(かたくらこじゅうろう))が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の長持と五|駄(だ)の馬荷とを宿方に預かった。
隠退後の吉左衛門が沈黙に引き換え、伊之助の養父金兵衛は上の伏見屋の隠宅にばかり引き込んでいなかった。持って生まれた世話好きな性分(しょうぶん)から、金兵衛はこの混雑を見ていられないというふうで、肩をゆすりながら上の伏見屋から出て来た。
「どうも若い者は覚えが悪い。」と金兵衛は会所の前まで杖(つえ)をひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これまでにだっていくらもあることですよ。こういう時のお役所じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、その事なら笹屋(ささや)の庄助さんが出かけましたよ。あの人は作食米(さくじきまい)の拝借の用を兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ。」
半蔵の挨拶(あいさつ)だ。百姓総代ともいうべき組頭(くみがしら)庄助と、年寄役伊之助とは、こういう時に半蔵が力と頼む人たちだったのだ。
やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻(のじり)、三留野(みどの)の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混(こ)み合いで、伊那の助郷もそうそうは応援に出て来ない。継立(つぎた)ての行き届かないことは馬籠ばかりではなかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵としてはよい方法も見当たらなかったくらいだ。ところが、この峠の上の小駅は家ごとに御用宿で、役人を休息させる場処もなかった。その一夜の泊まりは金兵衛の隠宅で引き受けた。
「お師匠さま。」
と言って勝重(かつしげ)が半蔵のところへ飛んで来たのは、将軍家用の長持を送ってから六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留(とうりゅう)していて、在郷の村々へ手分けをしては催促に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留していた時だ。ようやくその中の三分の一だけ継立てができたと知って、半蔵も息をついていた時だ。
「勝重(かつしげ)さんは復習でもしていますか。これじゃ本も読めないね。しばらくわたしも見てあげられなかった。こんな日も君、そう長くは続きますまい。」
「いえ、そこどこじゃありません。なんにもわたしはお手伝いができずにいるんです。そう言えば、お師匠さま――わたしは今、問屋場の前でおもしろいものを見て来ましたよ。いくら荷物を出せと言われても、出せない荷物は出せません、そう言って栄吉さんが旅の御衆に断わったと思ってごらんなさい。その人が袖(そで)を出して、しきりに何か催促するじゃありませんか。栄吉さんもしかたなしに、天保銭(てんぽうせん)を一枚その袂(たもと)の中に入れてやりましたよ。」
勝重はおとなの醜い世界をのぞいて見たというふうに、自分の方ですこし顔をあからめて、それからさらに言葉をついで見せた。
「どうでしょう、その人は栄吉さんだけじゃ済ましませんよ。九郎兵衛さんのところへも押し掛けて行きました。あそこでもしかたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張(おおいば)りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ。」
当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇(じっこん)」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主(ていしゅ)は、必ず御肴代(おさかなだい)の青銅とか御祝儀(ごしゅうぎ)の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠(かご)をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一|分(ぶ)とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿(くげ)衆の質(たち)の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。
この脅迫と強請とがある。一方に賄賂(わいろ)の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬(ほんま)一|駄(だ)二十貫目、軽尻(からじり)五貫目、駄荷(だに)四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差(ぜにさし)、合羽(かっぱ)、提灯(ちょうちん)、笠袋(かさぶくろ)、下駄袋(げたぶくろ)の類(たぐい)は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付(こづけ)とすることを許されていた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分(おいわけ)、洗馬(せば)の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人(ごけにん)の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。
将軍家|御召替(おめしか)えの乗り物、輿(こし)、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大混雑がようやく沈まったのは六月二十九日を迎えるころであった。京都引き揚げの葵(あおい)の紋のついた輿は四十人ずつの人足に護(まも)られて行った。毎日のように美濃(みの)筋から入り込んで来た武家衆の泊まり客、この村の万福寺にまであふれた与力(よりき)、同心衆の同勢なぞもそれぞれ江戸方面へ向けて立って行った。将軍の還御(かんぎょ)を語る通行も終わりを告げた。その時になると、わずか十日ばかりの予定で入洛(じゅらく)した関東方が、いかに京都の空気の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の宿から五十四里の余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに近江(おうみ)の伊吹山(いぶきやま)の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息をついて行ったかがわかる。嫡子(ちゃくし)を連れた仙台の家老はその日まで旅をためらっていて、宿方で荷物を預かった礼を述べ、京都の方の大長噺(おおながばなし)を半蔵や伊之助のところへ置いて行った。
七月にはいっても、まだ半蔵は連日の激しい疲労から抜け切ることができなかった。そろそろ茶摘みの始まる季節に二日ばかりも続いて来た夏らしい雨は、一層人を疲れさせた。彼が自分の家の囲炉裏ばたに行って見た時は、そこに集まる栄吉、清助、勝重から、下男の佐吉までがくたぶれたような顔をしている。近くに住む馬方の家の婆(ばあ)さんも来て話し込んでいる。この宿場で八つ当たりに当たり散らして行った将軍|御召馬(おめしうま)のうわさはその時になってもまだ尽きなかった。
「あの御召馬が焼酎(しょうちゅう)を一升も飲むというにはおれもたまげた。」
「御召馬なぞというと怒(おこ)られるぞ。御召御馬(おめしおうま)だぞ。」
「いずれ口取りの別当が自分に飲ませろということずらに。」
「嫌味(いやみ)な話ばかりよなし。この節、街道にろくなことはない。わけのわからないお武家様と来たら、ほんとにしかたあらすか。すぐ刀に手を掛けて、威(おど)すで。」
「あゝあゝ、今度という今度はおれもつくづくそう思った。いくら名君が上にあっても、御召馬を預かる役人や別当からしてあのやり方じゃ、下のものが服さないよ。お気の毒と言えばお気の毒だが、人民の信用を失うばかりじゃないか。」
「徳川の代も末になりましたね。」
だれが語るともなく、だれが答えるともない話で、囲炉裏ばたには囲炉裏ばたらしい。中には雨に疲れて横になるものがある。足を投げ出すものがある。半蔵が男の子の宗太や正己(まさみ)はおもしろがって、その間を泳いで歩いた。
「半蔵さん、すこしお話がある。一つ片づいて、やれうれしやと思ったら、また一つ宿場の問題が起こって来ました。」
と言って隣家から訪(たず)ねて来る伊之助を寛(くつろ)ぎの間(ま)に迎えて見ると、東山道通行は助郷人足不参のため、当分その整理がつくまで大坂御番頭の方に断わりを出そうということであった。
「なんでも木曾十一宿の総代として、須原(すはら)からだれか行くそうです。大坂まで出張するそうです。」
「それじゃ、伊之助さん、馬籠からも人をやりましょう。」
半蔵は栄吉や清助をそこへ呼んで、四人でその人選に額(ひたい)を鳩(あつ)めた。
参覲交代制度変革以来の助郷の整理は、いよいよこの宿場に働くものにとって急務のように見えて来た。過ぐる六月の十七日から二十八日にわたる荷送りを経験して見て、伊那方面の人足の不参が実際にその困難を証拠立てた。多年の江戸の屋敷住居(やしきずまい)から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の覇業(はぎょう)も内部から崩(くず)れかけて来たかに見えることは、ただそれだけの幕府の衰えというにとどまらなかった。その意味から言っても、半蔵は蓬莱屋(ほうらいや)新七が江戸出府の結果を待ち望んだ。
「そうだ。諸大名が朝参するばかりじゃない、将軍家ですら朝参するような機運に向かって来たのだ。こんな時世に、武家中心の参覲交代のような儀式をいつまで保存できるものか知らないが、しかし街道の整理はそれとは別問題だ。」
と彼は考えた。
旧暦七月半ばの暑いさかりに、半蔵は伊奈助郷のことやら自分の村方の用事やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚(しんせき)および負傷者の慰藉料(いしゃりょう)としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。  

「青山君――その後の当地の様子は鱗形屋(うろこがたや)の聞書(ききがき)その他の飛脚便によっても御承知のことと思う。大和国(やまとのくに)へ行幸を仰せ出されたのは去る八月十三日のことであった。これは攘夷(じょうい)御祈願のため、神武帝(じんむてい)御山陵ならびに春日社(かすがしゃ)へ御参拝のためで、しばらく御逗留(ごとうりゅう)、御親征の軍議もあらせられた上で、さらに伊勢神宮へ行幸のことに承った。この大和行幸の洛中(らくちゅう)へ触れ出されたのを自分が知ったのは、柳馬場丸太(やなぎのばばまるた)町|下(さが)ル所よりの来状を手にした時であった。これは実にわずか七日前のことに当たる。
――一昨日、十七日の夜の丑(うし)の刻(こく)のころ、自分は五、六発の砲声を枕(まくら)の上で聞いた。寄せ太鼓の音をも聞いた。それが東の方から聞こえて来た。あわやと思って自分は起き出し、まず窓から見ると、会津家(あいづけ)参内(さんだい)の様子である。そのうち自分は町の空に出て見て、火事装束(かじしょうぞく)の着込みに蓑笠(みのかさ)まで用意した一隊が自分の眼前を通り過ぐるのを目撃した。
――しばらく、自分には何の事ともわからなかった。もっとも御祭礼の神燈を明けの七つごろから出した町の有志があって、それにつれて総町内のものが皆起き出し、神燈を家ごとにささげなどするうち、夜も明けた。昨日になって見ると、九門はすでに堅く閉ざされ、長州藩は境町御門の警固を止められ、議奏、伝奏、御親征|掛(がか)り、国事掛りの公卿(くげ)の参内もさし止められた。十七日の夜に参内を急いだのは、中川宮(青蓮院(しょうれんいん))、近衛(このえ)殿、二条殿、および京都守護職松平|容保(かたもり)のほかに、会津と薩州の重立った人たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑は筆紙に尽くしがたい。九門の前通りは皆往来止めになったくらいだ。
――京都の町々は今、会津薩州二藩の兵によってほとんど戒厳令の下にある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世(ひがしくぜ)、壬生(みぶ)、四条、錦小路(にしきこうじ)、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余人の長州兵と共に山口方面へ向けて退却するとのうわさがある。」
こういう意味の手紙が京都にある香蔵から半蔵のところに届いた。
支配階級の争奪戦と大ざっぱに言ってしまえばそれまでだが、王室回復の志を抱(いだ)く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木和泉守(まきいずみのかみ)らの討幕運動にも一頓挫(いちとんざ)を来たしたについて、種々(さまざま)な事情がある。多くの公卿たちの中でも聡敏(そうびん)の資性をもって知られた伝奏|姉小路(あねがこうじ)少将(公知(きんとも))が攘夷のにわかに行なわれがたいのを思って密奏したとの疑いから、攘夷派の人たちから変節者として目ざされ、朔平門(さくへいもん)の外で殺害された事変は、ことに幕府方を狼狽(ろうばい)せしめた。石清水(いわしみず)行幸のおりにすでにそのうわさのあった前侍従中山忠光を中心とする一派の志士が、今度の大和行幸を機会に鳳輦(ほうれん)を途中に擁し奉るというような風説さえ伝えられた。しかもこの風説は、大和地方における五条の代官鈴木源内らを攘夷の血祭りとした事実となってあらわれたのである。かねて公武合体の成功を断念し、政事総裁の職まで辞した越前藩主はこの形勢を黙ってみてはいなかった。同じ公武合体の熱心な主唱者の一人(ひとり)で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩(さつま)の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に面目をほどこし、たとい敵の退却が風雨のためであるとしても勝敗はまず五分五分で、薩摩方でも船を沈められ砲台を破壊され海岸の町を焼かれるなどのことはあったにしても、すくなくもこの島国に住むものがそうたやすく征服される民族でないことをヨーロッパ人に感知せしめ、同時に他藩のなし得ないことをなしたという自信を得た矢先で、松平|春嶽(しゅんがく)らと共に再起の時機をとらえた。討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえされて、いまだ攘夷親征の機会でないとの勅諚(ちょくじょう)がそれにかわった。激しい焦躁(しょうそう)はひとまず政事の舞台から退いて、協調と忍耐とが入れかわりに進んだのである。
しかし、この京都の形勢を全く凪(なぎ)と見ることは早計であった。九月にはいって、西からの使者が木曾街道を急いで来た。
「また早飛脚ですぞ。」
清助も、栄吉もしかけた仕事を置いて、何事かと表に出て見た。早飛脚の荒い掛け声は宿場に住むものの耳についてしまった。
とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火(のろし)が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組(てんちゅうぐみ)の一揆(いっき)という形であらわれて来た。紀州(きしゅう)、津(つ)、郡山(こおりやま)、彦根(ひこね)の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇(やみ)の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々(いろいろ)行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻したものではなかったからである。遠く離れた馬籠峠の上あたりへこのうわさが伝わるまでには、美濃苗木藩(みのなえぎはん)の家中が大坂から早追(はやおい)で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛(よろずややすべえ)はまたそれを聞書(ききがき)にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこした。この一揆(いっき)は「禁裏百姓」と号し、前侍従中山忠光を大将に仰ぎ、日輪に雲を配した赤地の旗を押し立て、別に一番から百番までの旗を用意して、初めは千余人の人数であったが、追い追いと同勢を増し、長州、肥後、有馬(ありま)の加勢もあったということである。公儀の陣屋はつぶされ、大和(やまと)河内(かわち)は大騒動で、やがて紀州へ向かうような話もあり、大坂へ向かうやも知れないとまで一時はうわさされたほどである。ともかくも、この討幕運動は失敗に終わった。天(てん)の川(かわ)というところでの大敗、藤本鉄石(ふじもとてっせき)の戦死、それにつづいて天誅組(てんちゅうぐみ)の残党が四方への離散となった。
九月の二十七日には、木曾谷中宿村の役人が福島山村氏の屋敷へ呼び出された。その屋敷の御鎗下(おやりした)で、年寄と用達(ようたし)と用人(ようにん)との三役も立ち合いのところで、山村氏から書付を渡され、それを書記から読み聞かせられたというものを持って、伏見屋伊之助と問屋九郎兵衛の二人(ふたり)が福島から引き取って来た。
宿村へ仰せ渡され候書付
「方今の御時勢、追い追い伝聞いたしおり申すべく候(そうら)えども、上方辺(かみがたへん)の騒動容易ならざる事にこれあり、右残党諸所へ散乱いたし候につき、御関所においてもその取り締まり方、御老中より御話し相成りし次第に候。なおまた、中山大納言殿御嫡子(忠光)の由に申し立て、浪人数十人召し連れ、御陣屋向きに乱暴いたし候ものこれあり、御取り締まり方、国々へ仰せ出されよとのお触れもこれあり候。加うるに、薩州長州においては夷船(えびすぶね)打ち払い等これあり、公辺においてもいよいよ攘夷御決定との趣にも相聞こえ、内乱|外寇(がいこう)何時(なんどき)相発し候儀も計りがたき時節に候。木曾の儀、辺土とは申しながら街道筋にこれあり候えば、もはや片時も油断相成りがたく、宿村役人においてもかかる容易ならざる御時勢をとくと弁別いたされ、申すにも及ばざる儀ながら木曾谷|庄屋(しょうや)問屋(といや)年寄(としより)などは多く旧家筋の者にこれあり候につき、万一の節はひとかどの御奉公相勤め候心得にこれあるべく候。なお、右のほか、帯刀御免の者、ならびに旧家の者などへもよくよく申し諭(さと)し、随分武芸心がけさせ候よういたすべく候……」
半蔵はこの書付を伊之助から受け取って見て、公辺からの宿村の監視がいよいよ厳重になって行くことを知った。同時に、諸所へ散乱したという禁裏百姓の残党の中には、必ず平田門下の人もあるべきことをほとんど直覚的に感知した。
当時、平田|篤胤(あつたね)没後の門人は諸国を通じて千人近くに達するほどの勢いで、その中には古学の研究と宣伝のみに満足せず、自ら進んで討幕運動の渦中(かちゅう)に身を投ずるものも少なくなかった。さきには三条河原示威の事件で、昼夜兼行で京都から難をのがれて来た暮田正香(くれたまさか)のような例もある。今また何かの姿に身をやつして、伊那(いな)の谷のことを聞き伝え、遠く大和(やまと)地方から落ちて来る人のないとは半蔵にも言えなかった。
「待てよ、いずれこの事件には平田門人の中で関係した人がある。やった事が間違っているか、どうか、それはわからないが、生命(いのち)をかけても勤王のお味方に立とうとして、ああして滅びて行ったことを思うと、あわれは深い。」
そこまで考え続けて行くと、彼はこのことをだれにも隠そうとした。彼の周囲にいて本居(もとおり)平田の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那(だんな)様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。
木曾谷支配の山村氏が宿村に与えた注意は、単に時勢を弁別せよというにとどまらなかった。何方(いずかた)に一戦が始まるとしても近ごろは穀留(こくど)めになる憂いがある。中には一か年食い継ぐほどの貯(たくわ)えのある村もあろうが、上松(あげまつ)から上の宿々では飢餓しなければならない。それには各宿各村とも囲い米(まい)の用意をして非常の時に備えよと触れ回った。十六歳から六十歳までの人別(にんべつ)名前を認(したた)め、病人不具者はその旨を記入し、大工、杣(そま)、木挽(こびき)等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒(りょうしづつ)の玉の目方まで届け出よと言われるほど、取り締まりは実に細かく、やかましくなって来た。 

江戸の方の道中奉行所でも木曾十一宿から四、五人の総代まで送った定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願をそう軽くはみなかった。その証拠には、馬籠(まごめ)からもそのために出て行った蓬莱屋(ほうらいや)新七などを江戸にとどめて置いて、各宿人馬|継立(つぎた)ての模様を調査する公役(道中奉行所の役人)が奥筋の方面から木曾路を巡回して来た。
もはや秋雨が幾たびとなく通り過ぎるようになった。妻籠(つまご)の庄屋寿平次、年寄役得右衛門の二人(ふたり)は江戸からの公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中であったので、半蔵と九郎兵衛とがこの一行を迎えて、やがて妻籠の寿平次らと一緒に美濃(みの)の方面にあたる隣宿|落合(おちあい)まで公役を見送った。
「半蔵さん。」
と声をかけながら、寿平次は落合から馬籠への街道を一緒に踏んだ。前には得右衛門と九郎兵衛、後ろには供の佐吉が続いた。公役見送りの帰りとあって、妻籠と馬籠の宿役人はいずれも袴(はかま)に雪駄(せった)ばきの軽い姿になった。半蔵の脱いだ肩衣(かたぎぬ)は風呂敷包(ふろしきづつ)みにして佐吉の背中にあった。
「そう言えば、半蔵さんのお友だちは二人ともまだ京都ですか。」
「そうですよ。」
「よくあれで留守が続くと思う。」
「さあ、わたしもそれは心配しているんですよ。」
「騒がしい世の中になって来た。こんな時世でももうける人はもうける。」
寿平次が半蔵と並んで話し話し歩いて行くうちに、石屋の坂の下あたりで得右衛門たちに追いついた。
「九郎兵衛さん、君はくわしい。」と寿平次は連れの方を見て言った。「飛騨(ひだ)の商人がはいり込んで来て、うんと四文銭を買い占めて行ったというじゃありませんか。」
「その話ですか。今の銭相場は一両で六貫四百文するところを、一両について四貫四百文替えに相談がまとまったとか言いましてね、金兵衛さんのところなぞじゃ四文銭を六|把(ぱ)も売ったと聞きました。」
九太夫は大きなからだをゆすりゆすり答える。その時、得右衛門は妻籠からずっと同行して来た連れの肩をたたいて言った。
「寿平次さん、四文銭を六把で、いくらだと思います。二十七両の余ですよ。」
「いえ、今ね、こんな時世でももうける人はもうけるなんて、半蔵さんと話して来たところでさ。」
「違う。こんな時世だからもうけられるんでさ。」
みんな笑って、馬籠の下町の入り口にあたる石屋の坂を登った。
半蔵には、妻籠の客を二人とも自分の家に誘って、今後の街道や宿場のことについて語り合いたい心があり、馬籠ばかりでなく妻籠の方の人馬継立ての様子をも尋ねたい心があった。寿平次は寿平次で、この公役の見送りを機会に、かねて半蔵まで申し込んであった妹お民が三番目の男の子を妻籠の方へ連れて行って育てたいという腹で来た。いまだに子供を持たない寿平次が妻籠本陣での家庭をさみしがって、その話をかねて今度やって来たとは、半蔵は義理ある兄の顔を一目見たばかりの時にすでにそれと察していた。
「まあ、得右衛門さん、お上がりください。」
お民は本陣の奥から上がり端(はな)のところへ飛んで出て来た。兄を見るばかりでなく、妻籠なじみの得右衛門を家に迎えることは、彼女としてもめずらしかった。
「はてな。阿爺(おやじ)も久しぶりでお目にかかりたいでしょうから、隠居所の方へ来ていただきましょうか。」
そう半蔵は言って、その足で裏二階の方へ妻籠の客を案内した。
間もなく吉左衛門の隠居|部屋(べや)では、「皆さん、袴(はかま)でもお取り。」という老夫婦の声を聞いた。
「お父(とっ)さん、いかがですか、その後御健康は。」と寿平次が尋ねる。
「いや、ありがとう。自分でも不思議なくらいにね、ますます快(よ)い方に向いて来たよ。こうして隠居しているのがもったいないくらいさ。」と吉左衛門は言って見せた。
その時になって見ると、徳川政府が参覲交代のような重大な政策を投げ出したことは、諸藩分裂の勢いを助成するというにとどまらなかった。吉左衛門の言い草ではないが、その制度変革の影響はどこまで及んで行くとも見当がつかなかった。当時交通輸送の一大動脈とも言うべき木曾街道にまで、その影響は日に日に深刻に浸潤して来ていた。
江戸の公役が出張を見た各宿調査の模様は、やがて一同の話題に上った。そこには吉左衛門のようにすでに宿役を退いたもの、得右衛門のようにそろそろ若い者に代を譲る心じたくをしているもの、半蔵や寿平次のようにまだ経験も浅いものとが集まった。
「以前からわたしはそう言ってるんですが、助郷のことは大問題ですて。」と吉左衛門が言い出した。「まあ、わたしのような昔者から見ると、もともと宿場と助郷は金銭ずくの関係じゃありませんでしたよ。人足の請負なぞをするものはもとよりなかった。助郷はみんな役を勤めるつもりで出て来ていました。参覲交代なぞがなくって、諸大名の奥方でも、若様でも、御帰国は御勝手次第ということになりましたろう。こいつは下のものに響いて来ますね。御奉公という心がどうしても薄らいで来ると思いますね。」
退役以来、一切のことに口をつぐんでいるこの吉左衛門にも、陰ながら街道の運命を見まもる心はまだ衰えなかった。得右衛門はその話を引き取って、
「吉左衛門さん、無論それもあります。しかし、御変革の結果で、江戸屋敷の御女中がたが御帰りになる時に、あの御通行にかぎって相対雇(あいたいやと)いのよい賃銭を許されたものですから、あれから人足の鼻息が荒くなって来ましたよ。」
「そこが問題です。」寿平次が言う。
「待っておくれよ。そりゃ助郷が問屋場に来て見て、いろいろ不平もありましょうがね。宿(しゅく)助成ということになると、どうしてもみんなに分担してもらわんけりゃならんよ。こりゃ、まあお互いのことなんだからね。」とまた吉左衛門は言い添える。
「ところが、吉左衛門さん。」と得右衛門は言った。「御通行、御通行で、物価は上がりましょう。伝馬役(てんまやく)は給金を増せと言い出して来る。どうしても問屋場に無理ができるんです。助郷から言いますと、宿の御伝馬が街道筋に暮らしていて、ともかくもああして妻子を養って行くのに、その応援に来る在の百姓ばかり食うや食わずにいる法はないという腹ができて来ます。それに、ある助郷村には疲弊のために休養を許して、ある村には許さないとなると、お触れ当ては不公平だという声も起こって来ます。旧助郷と新助郷だけでも、役を勤めに出て来る気持ちは違いますからね。一概に助郷の不参と言いますけれど掘って見ると村々によっていろいろなものが出て来ますね。そりゃ問屋だって、あなた、地方地方によってどれほど相違があるかしれないようなものですよ。」
その時、半蔵はそこにいる継母のおまんに頼んで母屋(もや)の方から清助を呼び寄せ、町方のものから申し出のあった書付を取り寄せた。それを一同の前に取り出して見せた。当時は諸色(しょしき)も高くなるばかりで、人馬の役を勤めるものも生活が容易でないとある。それには馬役、歩行役、ならびに七里役(飛脚を勤めるもの)の給金を増してほしいとある。伝馬一|疋(ぴき)給金六両、定歩行役(じょうほこうやく)一両二分、夏七里役一両二分、冬七里役一両三分と定めたいとある。
「こういうことになるから困る。」と得右衛門は言った。「宿の伝馬役が給金を増してくれと言い出すと、助郷だっても黙ってみちゃいますまい。」
「半蔵さん、君の意見はどうなんですか。」と寿平次がたずねる。
「そうですね。」と半蔵は受けて、「定助郷はぜひ置いてみたい。現在のありさまより無論いいと思います。しかし、自分一個の希望としては、わたしは別に考えることもあるんです。」
「そいつを話して見てください。」
「夢が多いなんて、また笑われても困る。」
「そんなことはありません。」
「まあ、お話しして見れば、たとえば公儀の御茶壺(おちゃつぼ)だとか、日光例幣使だとかですね、御朱印付きの証書を渡されている特別な御通行に限って、宿の伝馬役が無給でそれを継ぎ立てるような制度は改めたい。ああいう義務を負わせるものですから、伝馬役がわがままを言うようになるんです。継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷へ押しつけるというようなことが起こるんです。つまり、わたしの夢は、宿の伝馬役と助郷の区別をなくしたい。みんな助郷であってほしい。だれでも、同じように助郷には勤めに出るというようにしたい。」
「万民が助郷ですか。なるほど、そいつは遠い先の話だ。」
「でも、寿平次さん、このままにうッちゃらかして置いてごらんなさい。」
「そう言えば、そうですね。古いことは知りませんが、和宮様(かずのみやさま)の御通行の時がまず一期、参覲交代の廃止がまた一期で、助郷も次第に変わって来ましたね。」
ともかくも江戸に出ている十一宿総代が嘆願の結果を待つことにして、得右衛門は寿平次より先に妻籠(つまご)の方へ帰って行った。
「きょうは吉左衛門さんにお目にかかれて、わたしもうれしい。妻籠でも収穫(とりいれ)が済んで、みんな、一息ついてるところですよ。」
との言葉をお民のところへ残して行った。
半蔵は得右衛門を送り出して置いて、母屋(もや)の店座敷に席をつくった。そこに裏二階から降りて来る寿平次を待った。
「寿平次さんも話し込んでいると見えるナ。お父(とっ)さんにつかまったら、なかなか放さないよ。」
と半蔵がお民に言うころは、姉娘のお粂(くめ)が弟の正己(まさみ)を連れて、裏の稲荷(いなり)の方の栗(くり)拾いから戻(もど)って来た。正己はまだごく幼くて、妻籠本陣の方へ養子にもらわれて行くことも知らずにいる。
「やい、やい。妻籠の子になるのかい。」
と宗太もそこへ飛んで来て弟に戯れた。
「宗太、お前は兄さんのくせに、そんなことを言うんじゃないよ。」とお民はたしなめるように言って見せた。「妻籠はお前お母(っか)さんの生まれたお家じゃありませんか。」
半蔵夫婦の見ている前では、兄弟(きょうだい)の子供の取っ組み合いが始まった。兄の前髪を弟がつかんだ。正己はようやく人の言葉を覚える年ごろであるが、なかなかの利(き)かない気で、ちょっとした子供らしい戯れにも兄には負けていなかった。
「今夜は、妻籠の兄さんのお相伴(しょうばん)に、正己にも新蕎麦(しんそば)のごちそうをしてやりましょう。それに、お母(っか)さんの言うには、何かこの子につけてあげなけりゃなりますまいッて。」
「妻籠の方への御祝儀(ごしゅうぎ)にかい。扇子(せんす)に鰹節(かつおぶし)ぐらいでよかないか。」
夫婦はこんな言葉をかわしながら、無心に笑い騒ぐ子供らをながめた。お民は妻籠からの話を拒もうとはしなかったが、さすがに幼いものを手放しかねるという様子をしていた。
「お師匠さま、来てください。」
表玄関の方で、けたたましい呼び声が起こった。勝重(かつしげ)は顔色を変えて、表玄関から店座敷へ飛んでやって来た。よくある街道でのけんかかと思って、半蔵は「袴(はかま)、袴。」と妻に言った。急いでその平袴(ひらばかま)をはいて、紐(ひも)も手ばしこく、堅く結んだ。
「冗談じゃないぞ。」
そう言いながら半蔵は本陣の表まで出て見た。問屋場の前の荷物の積み重ねてあるところは、何様(なにさま)かの家来らしい旅の客が栄吉をつかまえて、何か威(おど)し文句を並べている。半蔵はすぐにその意味を読んだ。彼はその方へ走って行って、木刀を手にした客の前に立った。客の吹く酒の臭気はぷんと彼の鼻をついた。
客は栄吉の方を尻目(しりめ)にかけて、
「やい。人足の出し方がおそいぞ。」
とにらんだ。その時、客はいまいましそうに、なおも手にした木刀で栄吉の方へ打ちかかろうとするので、半蔵は身をもって従兄弟(いとこ)をかばおうとした。
「当宿問屋の主人(あるじ)は自分です。不都合なことがありましたら、わたしが打たれましょう。」
と半蔵はそこへ自分を投げ出すように言った。
この騒ぎを聞きつけた清助は本陣の裏の方から、九郎兵衛は石垣(いしがき)の上にある住居(すまい)の方から坂になった道を走って来た。かつて問屋場の台の上から無法な侍を突き落としたほどの九郎兵衛がそこへ来て割り込むと、その力の人並みすぐれた大きな体格を見ただけでも、客はいつのまにか木刀を引き込ました。
「半蔵さん、御本陣にはお客があるんでしょう。ここはわたしにお任せなさい。そうなさい。」
この九郎兵衛の声を聞いて、半蔵は母屋(もや)の方へ引き返して行ったが、客から吹きかけられた酒の臭気の感じは容易に彼から離れなかった。しばらく彼は門内の庭の一隅(いちぐう)にある椿(つばき)の若木のそばに立ちつくした。
その足で半蔵は店座敷の方へ引き返して行って見た。自分の机の上に置いた本なぞをあけて見ている寿平次をそこに見いだした。
「半蔵さん、何かあったんですか。」
「なに、なんでもないんですよ。」
「だれか問屋場であばれでもしたんですか。」
「いえ、人足の出し方がおそいと言うんでしょう。聞き分けのない武家衆と来たら、問屋泣かせです。」
「この節はなんでも力ずくで行こうとする。力で勝とうとするような世の中になって来た。」
「寿平次さん、吾家(うち)にいる勝重さんが何を言い出すかと思ったら、徳川の代も末になりましたね、ですとさ。それを聞いた時は、わたしもギョッとしましたね。ほんとに――あんな少年がですよ。」
二人(ふたり)の話はそこへはいって行った子供らのために途切れた。
「どうだ、正己。」と寿平次は子供をそばへ呼び寄せて、「叔父(おじ)さんと一緒に、妻籠へ行くかい。」
「行く。」
「行くはよかった。」と半蔵が笑う。
「どれ、叔父さんが一つ抱いて見てやろうか。」
と言って、寿平次が正己を抱き上げると、そばに見ていた宗太も同じように抱かれに行った。
「叔父さん、わたしも。」
お粂までもそれを言って、寿平次が弟の子供たちにしてやったと同じことを姉娘にもしてやるまではそばを離れなかった。
「よ。これは重い。」
寿平次はさも重そうに言って、あとから抱き上げた姉娘の小さなからだを畳の上におろした。
「お粂はよい娘になりそうですね。」と寿平次は末頼もしそうに半蔵に言って見せた。「祖母(おばあ)さんのお仕込みと見えて、どこか違う。君たち夫婦はこんな娘があるからいいさ。わたしは実に家庭には恵まれない。」
その時、半蔵は子供らを見て言った。「みんな、祖母(おばあ)さんの方へ行ってごらん。台所で蕎麦(そば)を打ってるから、見に行ってごらん。」
東南に向いた店座敷の障子には次第に日が影(かげ)って来た。半蔵の家では、おまんの計らいで、吉左衛門が老友の金兵衛をも招いて、妻籠へ行く子を送る前の晩のわざとのしるしばかりに、新蕎麦で一杯振る舞いたいという。夕飯にはまだすこし間があった。その静かさの中で、寿平次は半蔵と二人ぎりさしむかいにすわっていた。裏二階の方であった吉左衛門との話なぞがそこへ持ち出された。
「や、寿平次さんに見せるものがある。」
半蔵は部屋(へや)の押し入れの中から四巻ばかりの本を取り出して来て、
「これがわたしたちの仕事の一つです。」
と寿平次の前に置いた。『古史伝』の第二|帙(ちつ)だ。江戸の方で、彫板、印刷、製本等の工程を終わって、新たにでき上がって来たものだ。
「これはなかなか立派な本ができましたね。」と寿平次は手に取って見て、「この上木(じょうぼく)の趣意書には、お歴々の名前も並んでいますね。前島|正弼(しょうすけ)、片桐春一(かたぎりしゅんいち)、北原|信質(のぶただ)、岩崎|長世(ながよ)、原|信好(のぶよし)か。ホウ、中津川の宮川寛斎(みやがわかんさい)もやはり発起人の一人(ひとり)とありますね。」
「どうです、平田先生の本は木板が鮮明で、読みいいでしょう。」
「たしかに特色が出ていますね。」
「この第一|帙(ちつ)の方は伊那(いな)の門人の出資で、今度できたのは甲州の門人の出資です。いずれ、わたしも阿爺(おやじ)と相談して、この上木の費用を助けるつもりです。」
「半蔵さん、今じゃ平田先生の著述というものはひろく読まれるそうじゃありませんか。こういう君たちの仕事はいい。ただ、わたしの心配することは、半蔵さんがあまり人を信じ過ぎるからです。君はなんでも信じ過ぎる。」
「寿平次さんの言うことはよくわかりますがね、信じてかかるというのが平田門人のよいところじゃありませんか。」
「信を第一とす、ですか。」
「その精神をヌキにしたら、本居(もとおり)や平田の古学というものはわかりませんよ。」
「そういうこともありましょうが、なんというか、こう、君は信じ過ぎるような気がする――師匠でも、友人でも。」
「……」
「そいつは、気をつけないといけませんぜ。」
「……」
「そう言えば、半蔵さん、京都の方へ行ってる景蔵さんや香蔵さんもどうしていましょう。よくあんなに中津川の家を留守にして置かれると思うと、わたしは驚きます。」
「それはわたしも思いますよ。」
「半蔵さんも、京都の方へ行って見る気が起こるんですかね。」
「さあ、この節わたしはよく京都の友だちの夢を見ます。あんな夢を見るところから思うと、わたしの心は半分京都の方へ行ってるのかもしれません。」
「お父(とっ)さんもそれで心配していますぜ。さっき、裏の二階でお父さんと二人(ふたり)ぎりになった時にも、いろいろそのお話が出ました。何もお父さんのようにそう黙っていることはない。半蔵さんとわたしの仲で、これくらいのことの言えないはずはない。そう思って、わたしはあの二階から降りて来ました。」
「いや、あの阿爺(おやじ)がなかったら、とッくにわたしは家を飛び出していましょうよ……」
下女が夕飯のしたくのできたことを知らせるころは、二人はもうこんな話をしなかった。半蔵が寿平次を寛(くつろ)ぎの間(ま)へ案内して行って見ると、吉左衛門は裏二階から、金兵衛は上の伏見屋の方からそこに集まって来ていた。
「どうだ、寿平次、金兵衛さんはことし六十七におなりなさる。おれより二つ上だ。それにしてはずいぶん御達者さね。」
「そう言えば、吉左衛門さん、あなたにお目にかかると、この節は食べる物の話ばかり出るじゃありませんか。」
この人たちのにぎやかな笑い声を聞きながら、半蔵は寿平次の隣にいて膳(ぜん)に就(つ)いた。酒は隣家の伏見屋から取り寄せたもの。山家風な手打ち蕎麦(そば)の薬味には、葱(ねぎ)、唐(とう)がらし。皿(さら)の上に小鳥。それに蝋茸(ろうじ)のおろしあえ。漬(つ)け物。赤大根。おまんが自慢の梅酢漬(うめずづ)けの芋茎(ずいき)。
「半蔵さん、正己が養子縁組のことはどうしたものでしょう。」
と寿平次がたずねた。一晩馬籠に泊まった翌朝のことである。
「そいつはあとでもいいじゃありませんか。」と半蔵は答えた。「まあ、なんということなしに、連れて行ってごらんなさるさ。」
そこへおまんとお民も来て一緒になった。おまんは寿平次を見て、
「正己はあれで、もうなんでも食べますよ。酢茎(すぐき)のようなものまで食べたがって困るくらいですよ。妻籠のおばあさんはよく御承知だろうが、あんまり着せ過ぎてもいけない。なんでも子供は寒く饑(ひも)じく育てるものだって、昔からよくそう言いますよ。」
「兄さん、正己も当分は慣れますまいから、おたけを付けてあげますよ。」とお民も言い添えた。
おたけとは、正己が乳母(うば)のようにしてめんどうを見た女の名である。お粂(くめ)でも、宗太でも、一人ずつ子供の世話をするものを付けて養育するのが、この家族の習慣のようになっていたからで。
すでに妻籠の方からも迎えの男がやって来た。馬籠本陣の囲炉裏ばたには幼いものの門出を祝う日が来た。お民は裏道づたいに峠の上まで見送ると言って、お粂や宗太を連れて行くしたくをした。こういう時に、清助は黙ってみていなかった。
「さあ、正己さま、おいで。」
と言って、妻籠へ行く子を自分の背中に載せた。それほど清助は腰が低かった。
吉左衛門、おまん、栄吉、勝重、それに佐吉から二人の下女までが半蔵と一緒に門の外に集まった。狭い土地のことで、ちいさな子供一人の出発も近所じゅうのうわさに上った。本陣の向こうの梅屋、一軒上の問屋、街道をへだてて問屋と対(むか)い合った伏見屋、それらの家々の前にもだれかしら人が出て妻籠行きのものを見送っていた。
半蔵は父や継母の前に立って言った。
「寿平次さんの家で育ててもらえば、安心です。正己も仕合わせです。」
やがて寿平次らは離れて行った。半蔵はそのまま自分の家にはいろうとしなかった。その足で坂になった町を下の方へと取り、石屋の坂の角(かど)を曲がり、幾層にもなっている傾斜の地勢について、荒町(あらまち)の方まで降りて行った。荒町には村社|諏訪(すわ)分社がある。その氏神への参詣(さんけい)を済ましても、まだ彼は家の方へ引き返す気にならなかった。この宿場で狸(たぬき)の膏薬(こうやく)なぞを売るのも、そこを出はずれたところだ。路傍には大きく黒ずんだ岩石がはい出して来ていて、広い美濃(みの)の盆地の眺望(ちょうぼう)は谷の下の方にひらけている。もはや恵那山(えなさん)の連峰へも一度雪が来て、また溶けて行った。その大きな傾斜の望まれるところまで歩いて行って見ると、彼は胸いっぱいの声を揚げて叫びたい気になった。
寿平次が残して置いて行ったいろいろな言葉は、まだ彼の胸から離れなかった。大概の事をばかにしてひとり弓でもひいていられる寿平次に比べると、彼は日常生活の安逸をむさぼっていられなかったのだ。やがて近づいて来る庚申講(こうしんこう)の夜、これから五か月もの長さにわたって続いて行く山家の寒さ、石を載せた板屋根でも吹きめくる風と雪――人を眠らせにやって来るようなそれらの冬の感じが、破って出たくも容易に出られない一切の現状のやるせなさにまじって、彼の胸におおいかぶさって来ていた。
しかし、歩けば歩くほど、彼は気の晴れる子供のようになって、さらに西の宿はずれの新茶屋の方へと街道の土を踏んで行った。そこには天保十四年のころに、あの金兵衛が亡父の供養にと言って、木曾路を通る旅人のために街道に近い位置を選んで建てた芭蕉(ばしょう)の句碑もある。とうとう、彼は信濃(しなの)と美濃の国境(くにざかい)にあたる一里塚(いちりづか)まで、そこにこんもりとした常磐木(ときわぎ)らしい全景を見せている静かな榎(え)の木の下まで歩いた。 
第九章

 


江戸の町々では元治(げんじ)元年の六月を迎えた。木曾街道(きそかいどう)方面よりの入り口とも言うべき板橋から、巣鴨(すがも)の立場(たてば)、本郷(ほんごう)森川宿なぞを通り過ぎて、両国(りょうごく)の旅籠屋(はたごや)十一屋に旅の草鞋(わらじ)をぬいだ三人の木曾の庄屋(しょうや)がある。
この庄屋たちは江戸の道中奉行(どうちゅうぶぎょう)から呼び出されて、いずれも木曾十一宿の総代として来たのである。その中に半蔵も加わっていた。もっとも、木曾の上四宿からは贄川(にえがわ)の庄屋、中三宿からは福島の庄屋で、馬籠(まごめ)から来た半蔵は下四宿の総代としてであった。
五月下旬に半蔵は郷里の方をたって来たが、こんなふうに再び江戸を見うる日のあろうとは、彼としても思いがけないことであった。両国の十一屋は彼にはすでになじみの旅籠屋である。他の二人(ふたり)の庄屋――福島の幸兵衛(こうべえ)、贄川(にえがわ)の平助、この人たちも半蔵と一緒にひとまずその旅籠屋に落ちつくことを便宜とした。そこには木曾出身で世話好きな十一屋の隠居のような人があるからで。
「早いものでございますな。あれから、もう十年近くもなりますかな。」
十一屋の隠居は半蔵のそばに来て、旅籠屋の亭主(ていしゅ)らしいことを言い出す。この隠居は十年近くも前に来て泊まった木曾の客を忘れずにいた。半蔵が江戸から横須賀(よこすか)在へかけての以前の旅の連れは妻籠(つまご)本陣の寿平次であったことまでよく覚えていた。
「そりゃ、十一屋さん、この前にわたしたちが出て来ました時は、まだ横浜開港以前でしたものね。」
「さよう、さよう、」と隠居も思い出したように、「あれから宮川寛斎先生も手前どもへお泊まりくださいましたよ。えゝ、お連れさまは中津川の万屋(よろずや)さんたちで。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は神奈川(かながわ)の牡丹屋(ぼたんや)へも手前どもから御案内いたしましたっけ。毎度皆さまにはごひいきにしてくださいまして、ありがとうございます。」
そういう隠居も大分(だいぶ)年をとったが、しかし元気は相変わらずだ。この宿屋には隠居に見比べると親子ほど年の違うかみさんもある。親子かと思えば、どうもそうでもないようだし、夫婦にしては年が違いすぎる。そう半蔵も以前の旅には想(おも)って見たが、今度江戸へ出て来た時は、そのかみさんが隠居の子供を抱いていた。
見るもの聞くもの半蔵には過ぐる年の旅の記憶をよび起こした。あれは安政三年で、半蔵が平田入門を思い立って来たころだ。彼が江戸に出て、初めて平田|鉄胤(かねたね)を知り、その子息(むすこ)さんの延胤(のぶたね)をも知ったころだ。当時の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めてのイギリスの船がはいったと聞くも胸をおどらせたくらいのころだ。なんと言ってもあのころの徳川政府の威信はまだまだ全国を圧していた。
十年近い月日はいかに半蔵の周囲を変え、今度踏んで来た街道の光景までも変えたことか。道中奉行からのお呼び出しで、半蔵も自分の宿場を離れて来て見ると、あの木曾街道筋の堅めとして聞こえた福島の関所あたりからして、えらいあわて方であった。諸国に頻発(ひんぱつ)する暴動ざたが幕府を驚かしてか、宿村の取り締まりも実に厳重をきわめるようになった。半蔵が国を出るころは、街道に怪しいものは見つけ次第注進せよと言われていた。ひとり旅の者はもちろん、怪しい浪人体のものは休息させまじき事、俳諧師(はいかいし)生花師(いけばなし)等の無用の遊歴は差し置くまじき事、そればかりでなく、狼藉者(ろうぜきもの)があったら村内打ち寄って取り押え、万一手にあまる場合は切り捨てても鉄砲で打ち殺しても苦しくないというような、そんな御用達所からのお書付が宿々村々へ渡っていた。
江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追分宿(おいわけじゅく)の名主(なぬし)文太夫(ぶんだゆう)の家へも寄って来た。あの地方では取締役なるものができ、村民は七名ずつ交替で御影(みかげ)の陣屋を護(まも)り、強賊や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講ずるというほどの騒ぎだ。その陣屋には新たに百二十間あまりの柵矢来(さくやらい)が造りつけられ、非常時の合図として村々には半鐘、太鼓、板木が用意され、それに鉄砲、竹鎗(たけやり)、袖(そで)がらみ、六尺棒、松明(たいまつ)なぞを備え置くという。村内のものでも長脇差(ながわきざし)を帯びるか、または無宿者(むしゅくもの)を隠し泊めるかするものがあればきびしく取り締まるようになって、毎月五日には各村民が陣屋に参集するという。この申し合わせに加わる村々は、北佐久(きたさく)、南佐久の方面で七十四か村にも及んでいる。いかに生活難に追い詰められた無宿浮浪の群れが浪人のまねをしたり大刀を帯びたりしてあの辺の街道を押し歩いているかがわかる。追分(おいわけ)、軽井沢(かるいざわ)あたりは長脇差の本場に近いところから、ことに騒がしい。それにしても、村民各自に自警団を組織するほどのぎょうぎょうしいことはまだ木曾地方にはない。それをしなければ小前(こまえ)のものが安心して農業家業に従事し得られないというほどのことはない。半蔵が二人の連れのように、これまでたびたび江戸に出たことのある庄屋たちでも、こんな油断のならない道中は初めてだと言っている。どうして些細(ささい)のことにも気を配って、互いに助け合うことなしに踏んで出て来られる八十里の道ではなかったのだ。
さしあたり一行三人のものの仕事は、当時の道中奉行|都筑駿河守(つづきするがのかみ)が役宅を訪(たず)ね、今度総代として来たことを告げ、木曾宿々から取りそろえて来た人馬立辻帳(じんばたてつじちょう)なぞを差し出すことであった。
言うまでもなく、その帳簿には過ぐる一年間の人馬徴発の総高が計算してある。最初に半蔵らが奉行の屋敷に出た日には、徒士目付(かちめつけ)が応接に出て、奉行へは自分から諸事取り次ぐであろうとの話があった末に、今度三人の庄屋を呼び出した奉行の意向を言い聞かせた。それには諸大名が江戸への参覲交代をもう一度復活したい徳川現内閣の方針であることを言い聞かせた。徒士目付の口ぶりによると、いずれ奉行から改めてお呼び出しがあるであろう、そのおりは木曾地方における人馬|継立(つぎた)ての現状を問いただされるであろう、そんなことで半蔵らは引き取って来た。同行の幸兵衛、平助、共に半蔵から見ればずっと年の違った人たちで、宿駅のことにも経験の多い庄屋たちであるが、三人連れだって両国の旅籠屋(はたごや)まで戻(もど)って来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の成り行きに額(ひたい)を鳩(あつ)めた。
参覲交代制度変革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国もとをさして引き揚げて行ったあとの町々は、あだかも大きな潮の引いて行ったあとのようになった。
二度目に来てこの大きな都会の深さにはいって見る半蔵の目には、もはや江戸城もない。過ぐる文久三年十一月十五日の火災で、本丸、西丸、共に炎上した。将軍家ですら田安御殿(たやすごてん)の方に移り住むと聞くころだ。西丸だけは復興の工事中であるが、それすら幕府御勘定所のやり繰りで、諸国の町人百姓から上納した百両二百両のまとまった金はもとより、一朱二朱ずつの細かい金まではいっている御普請上納金より成り立つことは、半蔵のように地方にいていくらかでも上納金の世話を命ぜられたものにわかる。西丸の復興ですらこのとおりだ。本丸の方の再度の造営はもとより困難と見られている。朝日夕日に輝いて八百八町(はっぴゃくやちょう)を支配するようにそびえ立っていたあの建築物も、周囲に松の緑の配置してあった高い白壁も、特色のあった窓々も、幕府大城の壮観はとうとうその美を失ってしまった。言って見れば、ここは広大な城下町である。大小の武家屋敷、すなわち上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷、御用屋敷、小屋敷、百人組その他の組々の住宅など、皆大城を中心にしてあるようなものである、変革はこの封建都市に持ち来たされた。諸大名は国勝手を許され、その家族の多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのようである。
しかし、あの制度の廃止は文久の改革の結果だ。あれは時代の趨勢(すうせい)に着眼して幕政改革の意見を抱(いだ)いた諸国の大名や識者なぞの間に早くから考えられて来たことだ。もっと政治は明るくして新鮮な空気を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居九門の警衛は撤去されるというふうに、多くの繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が改められた時、幕府が大改革の眼目として惜しげもなく投げ出したのも参覲交代の旧(ふる)い慣例だ。もともと徳川氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前(えちぜん)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対するものが多かったというが、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)は越前藩主の意見をいれ、多くの反対説を排して、改革の英断に出た。今さらあの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡(きんり)守衛総督摂海|防禦(ぼうぎょ)指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすにもひとしい。遠くは紀州と一橋との将軍継嗣問題以来、苦しい反目を続けて来た幕府の内部は、ここにもその内訌(ないこう)の消息を語っていた。
それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を復活して、幕府の頽勢(たいせい)を挽回(ばんかい)しうるか、どうかは、半蔵なぞのように下から見上げるものにすら疑問であった。時節がら、無用な費用を省いて、兵力を充実し、海岸を防禦(ぼうぎょ)するために国に就(つ)いた諸大名が、はたして幕府の言うなりになって、もう一度江戸への道を踏むか、どうかも疑問であった。
諸大名の家族が江戸屋敷から解き放たれた日、あれは半蔵が父吉左衛門から家督を譲られて、新しい駅長の職に就いてまだ間もなかったころにあたる。彼はあの馬籠の宿場の方で、越前の女中方や、尾州の若殿に簾中(れんちゅう)や、紀州の奥方ならびに女中方なぞを迎えたり送ったりしたいそがしさをまだ忘れずにいる。昨日は秋田の姫君が峠の上に着いたとか、今日は肥前島原の女中方が着いたとか、こういう婦人や子供の一行が毎日のようにあの街道に続いた。まるで人質も同様にこもり暮らした江戸から手足の鎖を解かれたようにして、歓呼の声を揚げて行った屋敷方の人々だ。それらの御隠居、奥方、若様、女中衆なぞが江戸をにぎわそうとして、もう一度この都会に帰り来る日のあるか、どうかは、なおなお疑問であった。
江戸に出て数日の間、半蔵は連れの庄屋と共に道中奉行から呼び出される日を待った。一行三人のものは思い思いに出歩いた。そして両国の旅籠屋(はたごや)をさして帰って行くたびに、互いに見たり聞いたりして来る町々の話を持ち寄った。江戸にある木曾福島の代官山村氏の屋敷を東片町(ひがしかたまち)に訪(たず)ねたが、あの辺の屋敷町もさみしかったと言うのは幸兵衛だ。木曾の領主にあたる尾州侯の屋敷へも顔出しに行って来て、いたるところの町々に「かしや」の札の出ているのが目についたと言うのは平助だ。両国から親父橋(おやじばし)まで歩いて、当時江戸での最も繁華な場所とされている芳町(よしちょう)のごちゃごちゃとした通りをあの橋の畔(たもと)に出ると、芋(いも)の煮込みで名高い居酒屋には人だかりがして、その反対の町角(まちかど)にある大きな口入宿(くちいれやど)には何百人もの職を求める人が詰めかけていたと言うのは半蔵だ。
十一屋の隠居は半蔵らを宿へ迎え入れるたびに言った。
「皆さんは町へお出かけになりましても、日暮れまでには両国へお帰りください。なるべく夜分はお出ましにならない方がよろしゅうございますぞ。」
ようやく道中奉行からの差紙(さしがみ)で、三人の庄屋の出頭する日が来た。十一屋の二階で、半蔵は連れと同じように旅の合羽(かっぱ)をぬいで、国から用意して来た麻の※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](かみしも)に着かえた。
「さあ、これから御奉行さまの前だ。」と贄川(にえがわ)の平助は用心深い目つきをしながら、半蔵の袖(そで)をひいた。「きょうは、うっかりした口はきけませんよ。半蔵さんはまだ若いから、何か言い出しそうで心配です。」
「わたしですか。わたしは平素(ふだん)から黙っていたい方ですから、そんなよけいなことはしゃべりませんよ。」
その時、福島の幸兵衛も庄屋らしい袴(はかま)の紐(ひも)を結んでいたが、半分|串談(じょうだん)のような調子で、
「半蔵さんは平田の御門人だと言うから、余分に目をつけられますぜ。」
と戯れた。
「いえ。」と半蔵は言った。「わたしは馬籠をたつ時に、家のものからもそんなことを言われて来ましたよ。でも、木曾十一宿の総代で呼び出されるものをつかまえて、まさか入牢(にゅうろう)を申し付けるとも言いますまい。」
幸兵衛も平助も笑った。三人ともしたくができた。そこで出かけた。
道中奉行|都筑駿河(つづきするが)の役宅は神田橋(かんだばし)外にある。そこには例の徒士目付(かちめつけ)が待ち受けていてくれて、やがて三人は二|部屋(へや)続いた広間に通された。旧暦六月のことで、襖(ふすま)障子(しょうじ)なぞも取りはずしてあった。正面に奉行、そのそばに道中|下方掛(したかたがか)りの役人らが控え、徒士目付はいろいろとその間を斡旋(あっせん)した。そこへ新たに道中奉行の一人(ひとり)となった神保佐渡(じんぼうさど)もはいって来て、席に着いた。
   尾張殿領分
   東山道贄川宿、外(ほか)十か宿総代
   組合宿々取締役
   右贄川宿庄屋  遠山平助
   福島宿庄屋  堤幸兵衛
   馬籠宿庄屋本陣問屋  青山半蔵
徒士目付は三人の庄屋を奉行に紹介するようにそれを読み上げる。平助も、幸兵衛も、それから半蔵も扇子を前に置き、各自の名前が読まれるたびに両手を軽く畳の上に置いて、順に挨拶(あいさつ)した。
都筑駿河はかつて勘定奉行であり、神保佐渡は大目付(おおめつけ)であった閲歴を持つ人たちである。下々の役人のようにいばらない。奉行としての威厳を失わない程度で、砕けた物の言いようもすれば、笑いもする。徒士目付からすでに三人の庄屋も聞いたであろうように、文久二年以来廃止同様の姿であった参覲交代を復活したい意志が幕府にある、将軍の上洛(じょうらく)は二度にも及んで沿道の宿々は難渋の聞こえもある、木曾は諸大名通行の難場(なんば)でもあるから地方の事情をきき取った上で奉行所の参考としたい、それには人馬|継立(つぎた)ての現状を腹蔵なく申し立てよというのが奉行の意向であった。
その日の会見はあまり細目にわたらないようにとの徒士目付の注意もあって、平助は異国船渡来以後の諸大名諸公役の頻繁(ひんぱん)な往来が街道筋に及ぼした影響から、和宮様(かずのみやさま)の御通過、諸大名家族の帰国というふうに、次第に人馬徴発の激増して来たことをあるがままに述べ、宿駅の疲弊も、常備人馬補充の困難も、助郷(すけごう)勤め村や手助け村の人馬の不参も、いずれも過度な人馬徴発の結果であることを述べた末に言った。
「恐れながら申し上げます。昨年三月より七月へかけ、公方様(くぼうさま)の還御(かんぎょ)にあたりまして、木曾街道の方にも諸家様のおびただしい御通行がございました。何分にも毎日のことで、お継立ても行き届かず、それを心配いたしまして木曾十一宿のものが定助郷(じょうすけごう)の嘆願に当お役所へ罷(まか)り出ました。問屋四名、年寄役一名、都合五名のものが総代として出たような次第でございます。その節、定助郷はお許しがなく、本年二月から六か月の間、当分助郷を申し付けるとのことで、あの五名のものも帰村いたしました。もはやその期日も残りすくなでございますし、なんとかその辺のことも御配慮に預かりませんと、またまた元通り継立てに難渋することかと心配いたされます。」
「そういう注文も出ようかと思って、実は当方でも協議中であるぞ。」と都筑駿河は言った。
その時、幸兵衛はまた、別の立場から木曾地方の付近にある助郷の組織を改良すべき時機に達したことを申し立てた。彼に言わせると、従来課役として公用藩用に役立って来たもの以外に、民間交通事業の見るべきものが追い追いと発達して来ている。伊那(いな)の中馬(ちゅうま)、木曾の牛、あんこ馬(駄馬(だば))、それから雲助の仕事なぞがそれだ。もっとも、木曾の方にあるものは牛以外に取りたてて言うほどでもないが、伊那の中馬と来ては物資の陸上運搬にさかんな活動を始め、松本から三河(みかわ)、尾張(おわり)の街道、および甲州街道は彼ら中馬が往還するところに当たり、木曾街道にも出稼(でかせ)ぎするものが少なくない。その村数は百六十か村の余を数え、最も多い村は百四十五|疋(ひき)、最も少ない村でも十疋の中馬を出している。もしこの際、定助郷の設備もなく、彼らを優遇する方法もなく、課役に応ずる百姓の位置をもっとはっきりさせることもなかったら、割のよい民間の仕事に圧(お)されて、ますます多くの助郷不参の村々を出すであろう。公辺に参覲交代復活の意向があるなら、その辺の事情も一応考慮の中に入れて置いていただきたいというのが福島の庄屋の意見であった。
「いや、いろいろな注文が出る。」と都筑駿河が言った。「将軍二度目の御上洛には往復共に軍艦にお召しになった。それも人民が多年の疲弊を憐(あわれ)むという御|思(おぼ)し召しによることだぞ。もう一度諸大名を江戸へお呼び寄せになるにしても、そういう参覲交代の古式を回復するにしても、願い出るものには軍艦を貸そうという御内議もある。その方たちの心配は無理もないが、今度はもうそれほど宿場のごたごたするようなこともあるまい。」
「木曾下四宿の総代もこれに控えております。」と徒士目付は奉行の言葉を引き取って言った。「昨年出てまいりました年寄役の新七なるものは、これに控えております半蔵と同宿のように聞き及びます。」
「三人ともいそがしいところをよく出て来てくれた。どうだ、半蔵、その方の意見も聞こう。」
そういう都筑駿河ばかりでなく、新参で控え目がちな神保佐渡の眸(ひとみ)も半蔵の方にそそいだ。それまで二人(ふたり)の庄屋のそばにすわっていた半蔵は何か言い出すべき順に回って来た。
「さようでございます。」と彼は答えた。「近年は諸家様の御権威が強くなりまして、何事にも御威勢をもって人民へ仰せ付けられるようになりました。御承知のとおり、木曾の下四宿はいずれも小駅でございまして、お定めの人馬はわずかに二十五人二十五|疋(ひき)でお継立てをいたしてまいりました。そこへ美濃(みの)の落合宿あたりから、助郷人馬をもちまして、一時に多数の継立てがございますと、そうは宿方(しゅくがた)でも応じきれません。まず多数にお入り込みの場合を申しますと、宿方にあり合わせた人馬を出払いまして、その余は人馬の立ち帰るまで御猶予を願います。また、時刻によりましては宿方にお泊まりをも願います。これが平素の場合でございましたところ、近年は諸家様がそういう宿方の願いをもお聞き入れになりません。なんでも御威勢をもって継立て方をきびしく仰せ付けられるものですから、まあよんどころなく付近の村々から人馬を雇い入れまして、無理にもお継立てをいたします。そんな次第で。雇い金(きん)も年々に積もってまいりました。宿方困窮の基(もと)と申せば、あまりに諸家様の御権威が高くなったためかと存じます。それさえありませんでしたら、街道の仕事はもっと安らかに運べるはずでございます。」
「なるほど、そういうこともあろう。」と都筑駿河は言って、居並ぶ神保佐渡の方へ膝(ひざ)を向け直して、「御同役、いかがでしょう。くわしいことは書面にして差し出してもらいたいと思いますが。」
「御同感です。」と神保佐渡は手にした扇子で胸のあたりをあおぎながら答えた。
道中|下方掛(したかたがか)りの役人らの間にもしきりに扇子が動いた。その時、徒士目付は奉行の意を受けて、庄屋側から差し出した人馬立辻帳(じんばたてつじちょう)の検閲を終わったら、いずれ三人に沙汰(さた)するであろうと言った。なお、過ぐる亥年(いどし)の三月から七月まで、将軍還御のおりのお供と諸役人が通行中に下された人馬賃銭の仕訳書上帳(しわけかきあげちょう)なるものを至急国もとから取り寄せて差し出せと言いつけた。
細目にわたることは書面で、あとから庄屋側より差し出すように。そんな約束で半蔵らは神田橋外の奉行屋敷を出た。江戸城西丸の新築工事ができ上がる日を待つと見えて、剃髪(ていはつ)した茶坊主なぞが用事ありげに町を通り過ぎるのも目につく。城内で給仕役(きゅうじやく)を勤めるそれらの茶坊主までが、大名からもらうのを誇りとしていた縮緬(ちりめん)の羽織(はおり)も捨て、短い脇差(わきざし)も捨て、長い脇差を腰にぶちこみながら歩くというだけにも、武道一偏の世の中になって来たことがわかる。幕府に召し出されて幅(はば)をきかせている剣術師なぞは江戸で大変な人気だ。当時、御家人(ごけにん)旗本(はたもと)の間の大流行は、黄白(きじろ)な色の生平(きびら)の羽織に漆紋(うるしもん)と言われるが、往昔(むかし)家康公(いえやすこう)が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張(ぶば)った風俗がまた江戸に回(かえ)って来た。
両国をさして帰って行く途中、平助は連れを顧みて、
「半蔵さん、君は時々立ち止まって、じっとながめているような人ですね。」
「御覧なさい、小さな宮本武蔵(みやもとむさし)や荒木又右衛門(あらきまたえもん)がいますよ。」
「ほんとに、江戸じゃ子供まで武者修行のまねだ。一般の人気がこうなって来たんでしょうかね。」
そういう平助は実にゆっくりゆっくりと歩いた。
その日は風の多い日で、半蔵らは柳原(やなぎわら)の土手にかかるまでに何度かひどい砂塵(すなぼこり)を浴びた。往(い)きには追い風であったから、まだよかったが、戻(もど)りには向い風になったからたまらない。土手の柳の間に古着(ふるぎ)古足袋(ふるたび)古股引(ふるももひき)の類(たぐい)を並べる露店から、客待ち顔な易者の店までが砂だらけだ。目もあけていられないようなやつが、また向こうからやって来る。そのたびに半蔵らは口をふさぎ、顔をそむけて、深い砂塵(すなぼこり)の通り過ぎるのを待った。乾燥しきった道路に舞い揚がる塵埃(ほこり)で、町の空までが濁った色に黄いろい。
両国の旅籠屋(はたごや)に戻ってから、三人は二階で※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](かみしも)をぬいだり、腰につけた印籠(いんろう)を床の間に預けたりして、互いにその日のことを語り合った。
「とにかく、きょうの模様を国の方へ報告して置くんですね。」
「早速福島の方へそう言ってやりましょう。」
「わたしも一つ馬籠(まごめ)へ手紙を出して、仕訳帳(しわけちょう)を至急取り寄せなけりゃならない。」
多くの江戸の旅人宿と同じように、十一屋にも風呂場(ふろば)は設けてない。半蔵らは町の銭湯へ汗になったからだを洗いに行ったが、手ぬぐいを肩にかけて帰って来るころは、風も静まった。家々の表に打たれる水も都会の町中らしい時が来た。十一屋では夕飯も台所で出た。普通の場合、旅客は皆台所に集まって食った。
食後に、半蔵らが二階にくつろいでいると、とかく同郷の客はなつかしいと言っている話し好きな十一屋の隠居がそこへ話し込みに来る。部屋(へや)の片すみに女中の置いて行った古風な行燈(あんどん)からして、堅気(かたぎ)な旅籠屋らしいところだ。
「なんと言っても、江戸は江戸ですね。」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の方で蚊帳(かや)売りの声を聞いて来ましたよ。」
「えゝ、蚊帳や蚊帳と、よい声で呼んでまいります。一町も先から呼んで来るのがわかります。あれは越後者(えちごもの)だそうですが、江戸名物の一つでございます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から初めて江戸へ出てまいりました時分のことをよく思い出します。」と隠居が言う。
幸兵衛も手さげのついた煙草盆(たばこぼん)を引き寄せて、一服吸い付けながらその話を引き取った。「十一屋さん、江戸もずいぶん不景気のようですね。」
「いや、あなた、不景気にも何にも。」と隠居は受けて、「お屋敷方があのとおりでしょう。きのうもあの建具屋の阿爺(おやじ)が見えまして、どこのお屋敷からも仕事が出ない、吾家(うち)の忰(せがれ)なぞは去年の暮れからまるきり遊びです、そう言いまして、こぼし抜いておりました。そんならお前の家の子息(むすこ)は何をしてるッて、手前が言いましたら、することがないから当時流行の剣術のけいこですとさ。だんだん聞いて見ますと、江戸にはちょいちょい火事があるんで、まあ息がつけます、仕事にありつけますなんて、そんなことを言っていましたっけ。ああいう職人にして見たら、それが正直なところかもしれませんね。」
「火事があるんで、息がつけるか。江戸は広い。」と平助はくすくすやる。
「いえ、串談(じょうだん)でなしに。火事は江戸の花――だれがあんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、江戸の人くらい火事をこわがってるものもありませんがね。この節は夏でも火事があるんで、みんな用心しておりますよ。放火、放火――あのうわさはどうでしょう。苦しくなって来ると、それをやりかねないんです。ひどいやつになりますと、樋(とい)を逆さに伏せて、それを軒から軒へ渡して、わざわざ火を呼ぶと言いますよ。」
「全く、これじゃ公方様のお膝元(ひざもと)はひどい。」と幸兵衛は言った。「今度わたしも出て来て見て、そう思いました。この江戸を毎日見ていたら、参覲交代を元通りにしたいと考えるのも無理はないと思いますね。」
幸兵衛と半蔵とはかなり庄屋気質(しょうやかたぎ)を異にしていた。不思議にも、旅は年齢の相違や立場を忘れさせる。半蔵は宿屋のかみさんが貸してくれた糊(のり)のこわい浴衣(ゆかた)の肌(はだ)ざわりにも旅の心を誘われながら、黙しがちにみんなの話に耳を傾けた。
「どうも、油断のならない世の中になりました。」と隠居は言葉をつづけて、「大店(おおだな)は大店で、仕入れも手控え、手控えのようです。おまけに昼は押し借り、夜は強盗の心配でございましょう。まあ、手前どもにはよくわかりませんが、お屋敷方の御隠居でも若様でも御簾中(ごれんちゅう)でも御帰国御勝手次第というような、そんな御改革はだれがしたなんて、慶喜公を恨んでいるものもございます。あの豚一様(ぶたいちさま)(豚肉を試食したという一橋公の異名)か、何も知らないものは諧謔(ふざけ)半分にそんなことを申しまして、とかく江戸では慶喜公の評判がよくございません……」
江戸の話は尽きなかった。
その晩、半蔵はおそくまでかかって、旅籠屋の行燈(あんどん)のかげで郷里の伏見屋伊之助あてに手紙を書いた。町々では夜燈なしに出歩くことを禁ぜられ、木戸木戸は堅く閉ざされた。警察もきびしくなって、その年の四月以来江戸市中に置かれたという邏卒(らそつ)が組の印(しる)しを腰につけながら屯所(たむろしょ)から回って来た。それすら十一屋の隠居のように町に居住するものから言わせれば、実に歯がゆいほどの巡回の仕方で。 

江戸の旅籠屋(はたごや)は公事宿(くじやど)か商人宿のたぐいで、京坂地方のように銀三匁も四匁も宿泊料を取るようなぜいたくを尽くした家はほとんどない。公用商用のためこの都会に集まるものを泊めるのが旨としてあって、家には風呂場(ふろば)も設けず、膳部(ぜんぶ)も台所で出すくらいで、万事が実に質素だ。しかし半蔵が十年前に来て泊まって見たころとは宿賃からして違う。昼食抜きの二百五十文ぐらいでは泊めてくれない。
道中奉行の意向がわかってから、間もなく半蔵は両国の十一屋を去ることにした。同行の二人(ふたり)の庄屋をそこに残して置いて、自分だけは本所相生町(ほんじょあいおいちょう)の方へ移った。同じ本所に住む平田同門の医者の世話で、その人の懇意にする家の二階に置いてもらうことをしきりに勧められたからで。
半蔵が移って行った相生町の家は、十一屋からもそう遠くない。回向院(えこういん)から東にあたる位置で、一つ目の橋の近くだ。そこには親子三人暮らしの気の置けない家族が住む。亭主(ていしゅ)多吉(たきち)は深川(ふかがわ)の米問屋へ帳付けに通(かよ)っているような人で、付近には名のある相撲(すもう)の関取(せきとり)も住むような町中であった。早速(さっそく)平助は十一屋のあるところから両国橋を渡って、その家に半蔵を訪(たず)ねて来た。
「これはよい家が見つかりましたね。」
平助は半蔵と一緒にその二階に上がってから言った。夏は二階の部屋(へや)も暑いとされているが、ここは思ったより風通しもよい。西に窓もある。しばらく二人はそんなことを語り合った。
「時に、半蔵さん。」と平助が言い出した。「どうもお役所の仕事は長い。去年木曾から総代が出て来た時は、あれは四月の末でした。それが今年(ことし)の正月までかかりました。今度もわたしは長いと見た。」
「まったく、近ごろは道中奉行の交代も頻繁(ひんぱん)ですね。」と半蔵は答える。「せっかく地方の事情に通じた時分には一年か二年で罷(や)めさせられる。あれじゃお役所の仕事も手につかないわけですね。」
「そう言えば、半蔵さん、江戸にはえらい話がありますよ。わたしは山村様のお屋敷にいる人たちから、神奈川奉行の組頭(くみがしら)が捕(つか)まえられた話を聞いて来ましたよ。どうして、君、これは聞き捨てにならない。その人は神奈川奉行の組頭だと言うんですから、ずいぶん身分のある人でしょうね。親類が長州の方にあって、まあ手紙をやったと想(おも)ってごらんなさい。親類へやるくらいですから普通の手紙でしょうが、ふとそれが探偵(たんてい)の手にはいったそうです。まことに穏やかでない御時節がらで、お互いに心配だ、どうか明君賢相が出てなんとか始末をつけてもらいたい、そういうことが書いてあったそうです。それを幕府のお役人が見て、何、天下が騒々しい、これは公方様(くぼうさま)を蔑(ないがし)ろにしたものだ、公方様以外に明君が出てほしいと言うなら、いわゆる謀反人(むほんにん)だということになって、組頭はすぐにお城の中で捕縛されてしまった。どうも、大変な話じゃありませんか。それから組頭が捕(つか)まえられると同時に家捜(やさが)しをされて、当人はそのまま伝馬町(てんまちょう)に入牢(にゅうろう)さ。なんでもたわいない吟味のあったあとで、組頭は牢中で切腹を申し付けられたと言いますよ。東片町(ひがしかたまち)のお屋敷でその話が出て、皆驚いていましたっけ。組頭の検死に行った御小人目付(おこびとめつけ)を知ってる人もあのお屋敷にありましてね、検死には行ったがまことに気の毒だったと、あとで御小人目付がそう言ったそうです。あの話を聞いたら、なんだかわたしは江戸にいるのが恐ろしくなって来ました。こうして宿方の費用で滞在して、旅籠屋の飯を食ってるのも気が気じゃありません。」
この平助の言うように、長い旅食(りょしょく)は半蔵にしても心苦しかった。しかし、道中奉行に差し出す諸帳簿の検閲を受け、問わるるままに地方の事情を上申するというだけでは済まされなかった。この江戸出府を機会に、もう一度|定助郷(じょうすけごう)設置の嘆願を持ち出し、かねての木曾十一宿の申し合わせを貫かないことには、平助にしてもまた半蔵にしても、このまま国へは帰って行かれなかった。
前年、五人の総代が木曾から出て来た時、何ゆえに一行の嘆願が道中奉行の容(い)れるところとならなかったか。それは、よくよく村柄(むらがら)をお糺(ただ)しの上でなければ、容易に定助郷を仰せ付けがたいとの理由による。しかし、五人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるからと言って、道中奉行は元治元年の二月から向こう六か月を限り、定助郷のかわりに当分助郷を許した。そして木曾下四宿への当分助郷としては伊奈(いな)百十九か村、中三宿へは伊奈九十九か村、上四宿へは筑摩郡(ちくまごおり)八十九か村と安曇郡(あずみごおり)百四十四か村を指定した。このうち遠村で正人馬(しょうじんば)を差し出しかね代永勤(だいえいづと)めの示談に及ぶとしても、一か年高百石につき金五両の割合より余分には触れ当てまいとの約束であった。過ぐる半年近くの半蔵らの経験によると、この新規な当分助郷の村数が驚くばかりに拡大されたことは、かえって以前からの勤め村に人馬の不参を多くするという結果を招いた。これはどうしても前年の総代が嘆願したように、やはり東海道の例にならって定助郷を設置するにかぎる。道中奉行に誠意があるなら、適当な村柄を糺(ただ)されたい、もっと助郷の制度を完備して街道の混乱を防がれたい。もしこの木曾十一宿の願いがいれられなかったら、前年の総代が申し合わせたごとく、お定めの人馬二十五人二十五|疋(ひき)以外には継立(つぎた)てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたい。そのことに平助と半蔵とは申し合わせをしたのであった。
時も時だ。西にはすでに大和(やまと)五条の乱があり、続いて生野銀山(いくのぎんざん)の乱があり、それがようやくしずまったかと思うと、今度は東の筑波山(つくばさん)の方に新しい時代の来るのを待ち切れないような第三の烽火(のろし)が揚がった。尊王攘夷(そんのうじょうい)を旗じるしにする一部の水戸の志士はひそかに長州と連絡を執り、四月以来反旗をひるがえしているが、まだその騒動もしずまらない時だ。
両国をさして帰って行く平助を送りながら、半蔵は一緒に相生町(あいおいちょう)の家を出た。不自由な旅の身で、半蔵には郷里の方から届く手紙のことが気にかかっていた。十一屋まで平助と一緒に歩いて、そのことを隠居によく頼みたいつもりで出た。
「平助さん、筑波(つくば)が見えますよ。」
半蔵は長い両国橋の上まで歩いて行った時に言った。
「あれが筑波ですかね。」
と言ったぎり、平助も口をつぐんだ。水戸はどんなに騒いでいるだろうかとも、江戸詰めの諸藩の家中や徳川の家の子郎党なぞはどんな心持ちで筑波の方を望みながらこの橋を渡るだろうかとも、そんな話は出なかった。ただただ平助は昔風の庄屋気質(しょうやかたぎ)から、半蔵と共に旅の心配を分(わか)つのほかはなかった。
その時、半蔵は向こうから橋を渡って帰って来る二人連れの女の子にもあった。その一人は相生町の家の娘だ。清元(きよもと)の師匠のもとからの帰りででもあると見えて、二人とも稽古本(けいこぼん)を小脇(こわき)にかかえながら橋を渡って来る。ちょうど半蔵が郷里の馬籠の家に残して置いて来たお粂(くめ)を思い出させるような年ごろの小娘たちだ。
「半蔵さん、相生町にはあんな子供があるんですか。」
と平助が言っているところへ、一人の方の女の子が近づいて来て、半蔵にお辞儀をして通り過ぎた。後ろ姿もかわいらしい。男の子のように結った髪のかたちから、さっぱりとした浴衣(ゆかた)に幅の狭い更紗(さらさ)の帯をしめ、後ろにたれ下がった浅黄(あさぎ)の付け紐(ひも)を見せたところまで、ちょっと女の子とは見えない。小娘ではありながら男の子の服装だ。その異様な風俗がかえってなまめかしくもある。
「へえ、あれが女の子ですかい。わたしは男の子かとばかり思った。」と平助が笑う。
「でしょう。何かの願掛(がんが)けで、親たちがわざとあんな男の子の服装(なり)をさせてあるんだそうです。」
そう答えながら、半蔵の目はなおも歩いて行く小娘たちの後ろ姿を追った。連れだって肩を並べて行く一人の方の女の子は、髪をお煙草盆(たばこぼん)というやつにして、渦巻(うずま)きの浴衣に紅(あか)い鹿(か)の子(こ)の帯を幅狭くしめたのも、親の好みをあらわしている。巾着(きんちゃく)もかわいらしい。
「都に育つ子供は違いますね。」
それを半蔵が言って、平助と一緒に見送った。
十一屋の隠居は店先にいた。格子戸(こうしど)のなかで、旅籠屋(はたごや)らしい掛け行燈(あんどん)を張り替えていた。頼む用事があって来た半蔵を見ると、それだけでは済まさせない。毎年五月二十八日には浅草川(あさくさがわ)の川開きの例だが、その年の花火には日ごろ出入りする屋敷方の御隠居をも若様をも迎えることができなかったと言って見せるのはこの隠居だ。遠くは水神(すいじん)、近くは首尾(しゅび)の松あたりを納涼の場所とし、両国を遊覧の起点とする江戸で、柳橋につないである多くの屋形船(やかたぶね)は今後どうなるだろうなどと言って見せるのもこの人だ。川一丸、関東丸、十一間丸などと名のある大船を水に浮かべ、舳先(へさき)に鎗(やり)を立てて壮(さか)んな船遊びをしたという武家全盛の時代を引き合いに出さないまでも、船屋形の両辺を障子で囲み、浅草川に暑さを避けに来る大名旗本の多かったころには、水に流れる提灯(ちょうちん)の影がさながら火の都鳥であったと言って見せるのもこの話し好きの人だ。
「半蔵さん、まあ話しておいでなさるさ。」
と平助も二階へ上がらずにいて、半蔵と一緒にその店先でしばらく旅らしい時を送ろうとしていた。その時、隠居は思い出したように、
「青山さん、あれから宮川先生もどうなすったでしょう。浜の貿易にはあの先生もしっかりお儲(もう)けでございましたろうねえ。なんでも一|駄(だ)もあるほどの小判(こばん)を馬につけまして、宰領の衆も御一緒で、中津川へお帰りの時も手前どもから江戸をお立ちになりましたよ。」
これには半蔵も答えられなかった。彼は忘れがたい旧師のことを一時の浮沈(うきしずみ)ぐらいで一口に言ってしまいたくなかった。ただあの旧師が近く中津川を去って、伊勢(いせ)の方に晩年を送ろうとしている人であることをうわさするにとどめていた。
「横浜貿易と言えば、あれにはずいぶん祟(たた)られた人がある。」と言うのは平助だ。「中津川あたりには太田の陣屋へ呼び出されて、尾州藩から閉門を仰せ付けられた商人もあるなんて、そんな話じゃありませんか。お灸(きゅう)だ。もうけ過ぎるからでさ。」
「万屋(よろずや)さんもどうなすったでしょう。」と隠居が言う。
「万屋さんですか。」と半蔵は受けて、「あの人はぐずぐずしてやしません。横浜の商売も生糸(きいと)の相場が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度は京都の方へ目をつけています。今じゃ上方(かみがた)へどんどん生糸の荷を送っているでしょうよ。」
「どうも美濃(みの)の商人にあっちゃ、かなわない。中津川あたりにはなかなか勇敢な人がいますね。」と平助が言って見せる。
「宮川先生で思い出しました。」と隠居は言った。「手前が喜多村瑞見(きたむらずいけん)というかたのお供をして、一度神奈川の牡丹屋(ぼたんや)にお訪(たず)ねしたことがございました。青山さんは御存じないかもしれませんが、この喜多村先生がまた変わり物と来てる。元は幕府の奥詰(おくづめ)のお医者様ですが、開港当時の函館(はこだて)の方へ行って長いこと勤めていらっしゃるうちに、士分に取り立てられて、間もなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校(しょうへいこう)の頭取(とうどり)から御目付(監察)に出世なすった。外交|掛(がか)りを勤めておいでですが、あの調子で行きますと今に外国奉行でしょう。手前もこんな旅籠屋渡世(はたごやとせい)をして見ていますが、あんなに出世をなすったかたもめずらしゅうございます。」
「徳川幕府に人がないでもありませんかね。」
この平助のトボケた調子に、隠居も笑い出した、外国貿易に、開港の結果に、それにつながる多くの人の浮沈(うきしずみ)に、聞いている半蔵には心にかかることばかりであった。
その日から、半蔵は両国橋の往(い)き還(かえ)りに筑波山(つくばさん)を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵(せんじん)におおわれて来たことは、それだけでも役人たちの心を奪い、お役所の事務を滞らせ、したがって自分らの江戸滞在を長引かせることを恐れた。時には九十六|間(けん)からある長い橋の上に立って、木造の欄干に倚(よ)りかかりながら丑寅(うしとら)の方角に青く光る遠い山を望んだ。どんな暑苦しい日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川(すみだがわ)も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯(たくわ)え、どれほどの御家人旗本を養うためにあるかと見えるような御蔵(おくら)の位置はもとより、両岸にある形勝の地のほとんど大部分も武家のお下屋敷で占められている。おそらく百本杭(ひゃっぽんぐい)は河水の氾濫(はんらん)からこの河岸(かし)や橋梁(きょうりょう)を防ぐ工事の一つであろうが、大川橋(今の吾妻橋(あずまばし))の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦(うず)巻き流れて来ていた。
三人の庄屋が今度の江戸出府を機会に嘆願を持ち出したのは、理由のないことでもない。早い話が参覲交代制度の廃止は上から余儀なくされたばかりでなく、下からも余儀なくされたものである。たといその制度の復活が幕府の頽勢(たいせい)を挽回(ばんかい)する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が旧のままであったら、そのために苦しむものは地方の人民であったからで。
しかし、道中奉行の協議中、協議中で、庄屋側からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社(さんのうしゃ)の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院(てんしょういん)や和宮様(かずのみやさま)と共に新たに土木の落成した江戸城西丸へ田安御殿(たやすごてん)の方から移るころまで待った。
七月の二十日ごろまで待つうちに、さらに半蔵らの旅を困難にすることが起こった。
「長州様がいよいよ御謀反(ごむほん)だそうな。」
そのうわさは人の口から口へと伝わって行くようになった。早乗りの駕籠(かご)は毎日|幾立(いくたて)となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒(おおづつ)鉄砲から移った火で洛中(らくちゅう)の町家の大半は焼け失(う)せたとのうわさをすら伝えた。半蔵が十一屋まで行って幸兵衛や平助と一緒になり、さらに三人連れだって殺気のあふれた町々を浅草橋の見附(みつけ)から筋違(すじかい)の見附まで歩いて行って見たのは二十三日のことであったが、そこに人だかりのする高札場(こうさつば)にはすでに長州征伐のお触(ふ)れ書(しょ)が掲げられていた。
七月二十九日はちょうど二百十日の前日にあたる。半蔵は他の二人(ふたり)の庄屋と共に、もっと京都の方の事実を確かめたいつもりで、東片町(ひがしかたまち)の屋敷に木曾福島の山村氏が家中衆を訪(たず)ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なるものを仰せ付けられた人があって、その前夜にわかに屋敷を出立したという騒ぎだ。京都合戦の真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋のお留守居からそこに届いていて、長州方の敗北となったこともわかった。
その時になって見ると、長州征伐の命令が下ったばかりでなく、松平大膳太夫(まつだいらだいぜんのだゆう)ならびに長門守(ながとのかみ)は官位を剥(は)がれ、幕府より与えられた松平姓と将軍家|御諱(おんいみな)の一字をも召し上げられた。長防両国への物貨輸送は諸街道を通じてすでに堅く禁ぜられていた。
ある朝、暁(あけ)の七つ時とも思われるころ。半蔵は本所相生町(ほんじょあいおいちょう)の家の二階に目をさまして、半鐘の音を枕(まくら)の上で聞いた。火事かと思って、彼は起き出した。まず二階の雨戸を繰って見ると、別に煙らしいものも目に映らない。そのうちに寝衣(ねまき)のままで下から梯子段(はしごだん)をのぼって来たのはその家の亭主(ていしゅ)多吉だ。
「火事はどこでございましょう。」
という亭主と一緒に、半蔵はその二階から物干し場に登った。家々の屋根がそこから見渡される。付近に火の見のある家は、高い屋根の上に登って、町の空に火の手の揚がる方角を見さだめようとするものもある。
「青山さん、表が騒がしゅうございますよ。」
と下から呼ぶ多吉がかみさんの声もする。半蔵と亭主はそれを聞きつけて、二階から降りて見た。
多くの人は両国橋の方角をさして走った。半蔵らが橋の畔(たもと)まで急いで行って見た時は、本所方面からの鳶(とび)の者の群れが刺子(さしこ)の半天に猫頭巾(ねこずきん)で、手に手に鳶口(とびぐち)を携えながら甲高(かんだか)い叫び声を揚げて繰り出して来ていた。組の纏(まとい)が動いて行ったあとには、消防用の梯子(はしご)が続いた。革羽織(かわばおり)、兜頭巾(かぶとずきん)の火事|装束(しょうぞく)をした人たちはそれらの火消し人足を引きつれて半蔵らの目の前を通り過ぎた。
長州屋敷の打ち壊(こわ)しが始まったのだ。幕府はおのれにそむくものに対してその手段に出た。江戸じゅうの火消し人足が集められて、まず日比谷(ひびや)にある毛利家(もうりけ)の上屋敷が破壊された。かねて長州方ではこの事のあるのを予期してか、あるいは江戸を見捨てるの意味よりか、先年諸大名の家族が江戸屋敷から解放されて国勝手(くにがって)の命令が出たおりに、日比谷にある長州の上屋敷では表奥(おもておく)の諸殿を取り払ったから、打ち壊されたのは四方の長屋のみであった。麻布龍土町(あざぶりゅうどちょう)の中屋敷、俗に長州の檜屋敷(ひのきやしき)と呼ぶ方にはまだ土蔵が二十か所もあって、広大な建物も残っていた。打ち壊しはそこでも始まった。大きな柱は鋸(のこぎり)や斧(おの)で伐(き)られ、それに大綱を鯱巻(しゃちま)きにして引きつぶされた。諸道具諸書物の類(たぐい)は越中島で焼き捨てられ、毛利家の定紋(じょうもん)のついた品はことごとくふみにじられた。
やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便(たよ)りが、両国|米沢町(よねざわちょう)十一屋あてで、半蔵のもとに届くようになった。あの年上の友人が安否のほども気づかわれていた時だ。彼は十一屋からそれを受け取って来て、相生町の二階でひらいて見た。
とりあえず彼はその手紙に目を通して、あの友人も無事、師|鉄胤(かねたね)も無事、京都にある平田同門の人たちのうち下京(しもぎょう)方面のものは焼け出されたが幸いに皆無事とあるのを確かめた。さらに彼は繰り返し読んで見た。
相変わらず景蔵の手紙はこまかい。過ぐる年の八月十七日の政変に、王室回復の志を抱(いだ)く公卿(くげ)たち、および尊攘派(そんじょうは)の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のあるのは不思議もないとして、七月十九日前後の消息を伝えてある。
池田屋の変は六月五日の早暁のことであった。守護職、所司代(しょしだい)、および新撰組(しんせんぐみ)の兵はそこに集まる諸藩の志士二十余名を捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津(あいづ)と薩摩(さつま)との支持する公武合体派の本拠を覆(くつがえ)し、筑波山(つくばさん)の方に拠(よ)る一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事を挙(あ)げようとしたそれらの種々の計画は、与党の一人(ひとり)なる近江人(おうみじん)の捕縛より発覚せらるるに至った。この出来事があってから、長州方はもはや躊躇(ちゅうちょ)すべきでないとし、かねて準備していた挙兵上京の行動に移り、それを探知した幕府方もようやく伏見、大津の辺を警戒するようになった。守護職松平|容保(かたもり)のにわかな参内(さんだい)と共に、九門の堅くとざされたころは、洛中の物情騒然たるものがあった。七月十八日には三道よりする長州方の進軍がすでに開始されたとの報知(しらせ)が京都へ伝わった。夜が明けて十九日となると、景蔵は西の蛤御門(はまぐりごもん)、中立売御門(なかだちうりごもん)の方面にわくような砲声を聞き、やがて室町(むろまち)付近より洛中に延焼した火災の囲みの中にいたとある。
今度の京都の出来事を注意して見るものには、長州藩に気脈を通じていて、しかも反覆常なき二、三藩のあったことも見のがせない事実であり、堂上にはまた、この計画に荷担して幕府に反対し併(あわ)せて公武合体派を排斥しようとする有栖川宮(ありすがわのみや)をはじめ、正親町(おおぎまち)、日野、石山その他の公卿たちがあったことも見のがせない、と景蔵は言っている。烈風に乗じて火を内裏(だいり)に放ち、中川宮および松平容保の参内を途中に要撃し、その擾乱(じょうらん)にまぎれて鸞輿(らんよ)を叡山(えいざん)に奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れ丸(だま)はしばしば飛んで宮中の内垣(うちがき)に及んだという。板輿(いたこし)をお庭にかつぎ入れて帝(みかど)の御動座を謀(はか)りまいらせるものがあったけれども、一橋慶喜はそれを制(おさ)えて動かなかったという。なんと言っても蛤御門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名(くわな)の護(まも)るところであったからで。皇居の西南には樟(くす)の大樹がある。築地(ついじ)を楯(たて)とし家を砦(とりで)とする戦闘はその樹(き)の周囲でことに激烈をきわめたという。その時になって長州は実にその正反対を会津に見いだしたのである。薩州勢なぞは別の方面にあって幕府方に多大な応援を与えたけれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を迎え撃ち、時には蛤御門を押し開き、筒先も恐れずに刀鎗を用いて接戦するほどの東北的な勇気をあらわしたという。
この市街戦はその日|未(ひつじ)の刻(こく)の終わりにわたった。長州方は中立売(なかだちうり)、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。兵火の起こったのは巳(み)の刻(こく)のころであったが、おりから風はますます強く、火の子は八方に散り、東は高瀬川(たかせがわ)から西は堀川(ほりかわ)に及び、南は九条にまで及んで下京のほとんど全都は火災のうちにあった。年寄りをたすけ幼いものを負(おぶ)った男や女は景蔵の右にも左にもあって、目も当てられないありさまであったと認(したた)めてある。
しかし、景蔵の手紙はそれだけにとどまらない。その中には、真木和泉(まきいずみ)の死も報じてある。弘化(こうか)安政のころから早くも尊王攘夷の運動を起こして一代の風雲児と謳(うた)われた彼、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹者(こすいしゃ)は自ら引き起こした戦闘の悲壮な空気の中に倒れて行った。彼は最後の二十一日まで踏みとどまろうとしたが、その時は山崎に退いた長州兵も散乱し、久坂(くさか)、寺島、入江らの有力な同僚も皆戦死したあとで、天王山に走って、そこで自刃した。
この真木和泉の死について、景蔵の所感もその手紙の中に書き添えてある。尊王と攘夷との一致結合をねらい、それによって世態の変革を促そうとした安政以来の志士の運動は、事実においてその中心の人物を失ったとも言ってある。平田門人としての自分らは――ことに後進な自分らは、彼真木和泉が生涯(しょうがい)を振り返って見て、もっと自分らの進路を見さだむべき時に到達したと言ってある。
半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓(かぐう)を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。
真木和泉の死を聞いたことは、半蔵にもいろいろなことを考えさせた。景蔵の手紙にもあるように、対外関係のことにかけては硬派中の硬派とも言うべき真木和泉らのような人たちも、もはやこの世にいなかった。生前幕府の軟弱な態度を攻撃することに力をそそぎ、横浜|鎖港(さこう)の談判にも海外使節の派遣にもなんら誠意の見るべきものがないとし、将軍の名によって公布された幕府の攘夷もその実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。
これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は豊前(ぶぜん)田(た)の浦(うら)におけるアメリカ商船の砲撃を手始めとして、下(しも)の関(せき)海峡を通過する仏国軍艦や伊国軍艦の砲撃となり、その結果長州では十八隻から成る英米仏蘭四国連合艦隊の来襲を受くるに至った。長州の諸砲台は多く破壊せられ、長藩はことごとく撃退せられ、下の関の市街もまたまさに占領せらるるばかりの苦(にが)い経験をなめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。開港か、攘夷か。それは四|艘(そう)の黒船が浦賀の久里(くり)が浜(はま)の沖合いにあらわれてから以来の問題である。国の上下をあげてどれほど深刻な動揺と狼狽(ろうばい)と混乱とを経験して来たかしれない問題である。一方に攘夷派を頑迷(がんめい)とののしる声があれば、一方に開港派を国賊とののしり返す声があって、そのためにどれほどの犠牲者を出したかもしれない問題である。英米仏蘭四国を相手の苦い経験を下の関になめるまで、攘夷のできるものと信じていた人たちはまだまだこの国に少なくなかった。好(よ)かれ悪(あ)しかれ、実際に行なって見て、初めてその意味を悟ったのは、ひとり長州地方の人たちのみではなかった。その時になって見ると、全国を通じてあれほどやかましかった多年の排外熱も、ようやく行くところまで行き尽くしたかと思わせる。 

とうとう、半蔵は他の庄屋たちと共に、道中奉行からの沙汰(さた)を九月末まで待った。奉行から話のあった仕訳書上帳(しわけかきあげちょう)の郷里から届いたのも差し出してあり、木曾十一宿総代として願書も差し出してあって、半蔵らはかわるがわる神田橋(かんだばし)外の屋敷へ足を運んだが、そのたびに今すこし待て、今すこし待てと言われるばかり。両国十一屋に滞在する平助も、幸兵衛もしびれを切らしてしまった。こんな場合に金を使ったら、尾州あたりの留守居役を通しても、もっとてきぱき運ぶ方法がありはしないかなどと謎(なぞ)をかけるものがある。そんな無責任な人の言うことが一層半蔵をさびしがらせた。
「さぞ、御退屈でしょう。」
と言って相生町(あいおいちょう)の家の亭主(ていしゅ)が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階に置いてもらううちに、半蔵はこの人を多吉さんと呼び、かみさんをお隅(すみ)さんと呼び、清元(きよもと)のけいこに通(かよ)っている小娘のことをお三輪(みわ)さんと呼ぶほどの親しみを持つようになった。
「青山さん、宅じゃこんな勤めをしていますが、たまにお暇(ひま)をもらいまして、運座(うんざ)へ出かけるのが何よりの楽しみなんですよ。ごらんなさい、わたしどもの家には白い団扇(うちわ)が一本も残っていません。一夏もたって見ますと、どの団扇にも宅の発句(ほっく)が書き散らしてあるんですよ。」
お隅がそれを半蔵に言って見せると、多吉は苦笑(にがわら)いして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。
筑波(つくば)の騒動以来、関東の平野の空も戦塵(せんじん)におおわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧(はいかい)の道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越(かわごえ)で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲(かよく)と商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾(のれん)も畳(たた)まねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋(わらじ)ばき尻端折(しりはしょ)りになって「おすみ団子(だんご)」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫(おっと)を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気(けなげ)な婦人だ。
そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のお粂(くめ)を思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行くだろうか。そう思って半蔵がこの宿のかみさんを見ると、お隅は正直ということをその娘に教え、それさえあればこの世にこわいもののないことを言って聞かせ、こうと彼女が思ったことに決して間違った例(ためし)のないのもそれは正直なおかげだと言って、その女の一心にまだ幼いお三輪を導こうとしている。
「青山さん、あなたの前ですが、青表紙(あおびょうし)の二枚や三枚読んで見たところで、何の役にも立ちますまいねえ。」
「どうもおかみさんのような人にあっちゃ、かないませんよ。」
この家へは、亭主が俳友らしい人たちも訪(たず)ねて来れば、近くに住む相撲(すもう)取りも訪ねて来る。かみさんを力にして、酒の席を取り持つ客商売から時々息抜きにやって来るような芸妓(げいぎ)もある。かみさんとは全く正反対な性格で、男から男へと心を移すような女でありながら、しかもかみさんとは一番仲がよくて、気持ちのいいほど江戸の水に洗われたような三味線(しゃみせん)の師匠もよく訪ねて来る。
お隅は言った。
「不景気、不景気でも、芝居(しばい)ばかりは大入りですね。春の狂言なぞはどこもいっぱい。どれ――青山さんに、猿若町(さるわかちょう)の番付(ばんづけ)をお目にかけて。」
相生町ではこの調子だ。
六月の江戸出府以来、四月近くもむなしく奉行の沙汰(さた)を待つうちに、旅費のかさむことも半蔵には気が気でなかった。東片町(ひがしかたまち)にある山村氏の屋敷には、いろいろな家中衆もいるが、木曾福島の田舎侍(いなかざむらい)とは大違いで、いずれも交際|上手(じょうず)な人たちばかり。そういう人たちがよく半蔵を誘いに来て、広小路(ひろこうじ)にかかっている松本松玉(まつもとしょうぎょく)の講釈でもききに行こうと言われると、帰りには酒のある家へ一緒に付き合わないわけにいかない。それらの人たちへの義理で、幸兵衛や平助と共にある屋敷へ招かれ、物数奇(ものずき)な座敷へ通され、薄茶(うすちゃ)を出されたり、酒を出されたり、江戸の留守居とも思われないような美しい女まで出されて取り持たれると、どうしても一人前につき三|分(ぶ)ぐらいの土産(みやげ)を持参しなければならない。半蔵は国から持って来た金子(きんす)も払底(ふってい)になった。もっとも、多吉方ではむだな金を使わせるようなことはすこしもなく、食膳(しょくぜん)も質素ではあるが朔日(ついたち)十五日には必ず赤の御飯をたいて出すほど家族同様な親切を見せ、かみさんのお隅(すみ)がいったん引き受けた上は、どこまでも世話をするという顔つきでいてくれたが。こんなに半蔵も長逗留(ながとうりゅう)で、追い追いと懐(ふところ)の寒くなったところへ、西の方からは尾張(おわり)の御隠居を総督にする三十五藩の征長軍が陸路からも海路からも山口の攻撃に向かうとのうわさすら伝わって来た。
この長逗留の中で、わずかに旅の半蔵を慰めたのは、国の方へ求めて行きたいものもあるかと思って本屋をあさったり、江戸にある平田同門の知人を訪(たず)ねたり、時には平田家を訪ねてそこに留守居する師|鉄胤(かねたね)の家族を見舞ったりすることであった。しかしそれにも増して彼が心を引かれたのは多吉夫婦で、わけてもかみさんのお隅のような目の光った人を見つけたことであった。
江戸はもはや安政年度の江戸ではなかった。文化文政のそれではもとよりなかった。十年前の江戸の旅にはまだそれでも、紙、織り物、象牙(ぞうげ)、玉(ぎょく)、金属の類(たぐい)を応用した諸種の工芸の見るべきものもないではなかったが、今は元治年代を誇るべき意匠とてもない。半蔵はよく町々の絵草紙問屋(えぞうしどんや)の前に立って見るが、そこで売る人情本や、敵打(かたきう)ちの物語や、怪談物なぞを見ると、以前にも増して書物としての形も小さく、紙質も悪(あ)しく、版画も粗末に、一切が実に手薄(てうす)になっている。相変わらずさかんなのは江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ。とがった神経質と世紀末の機知とが淫靡(いんび)で頽廃(たいはい)した色彩に混じ合っている。
この江戸出府のはじめのころには、半蔵はよくそう思った。江戸の見物はこんな流行を舞台の上に見せつけられて、やり切れないような心持ちにはならないものかと。あるいは藍微塵(あいみじん)の袷(あわせ)、格子(こうし)の単衣(ひとえ)、豆絞りの手ぬぐいというこしらえで、贔屓(ひいき)役者が美しいならずものに扮(ふん)しながら舞台に登る時は、いよすごいぞすごいぞと囃(はや)し立てるような見物ばかりがそこにあるのだろうかと。四月も江戸に滞在して、いろいろな人にも交際して見るうちに、彼はこの想像がごく表(うわ)ッ面(つら)なものでしかなかったことを知るようになった。
よく見れば、この頽廃(たいはい)と、精神の無秩序との中にも、ただただその日その日の刺激を求めて明日(あす)のことも考えずに生きているような人たちばかりが決して江戸の人ではなかった。相生町のかみさんのように、婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかった名もない町人の妻ですら、世の移り変わりを舞台の上にながめ、ふとした場面から時の感じを誘われると、人の泣かないようなことに泣けてしかたがないとさえ言っている。うっかり連中の仲間入りをして芝居見物には出かけられないと言っている。
当時の武士でないものは人間でないような封建社会に、従順ではあるが決して屈してはいない町人をそう遠いところに求めるまでもなく、高い権威ぐらいに畏(おそ)れないものは半蔵のすぐそばにもいた。背は高く、色は白く、目の光も強く生まれついたかわりに、白粉(おしろい)一つつけたこともなくて、せっせと台所に働いているような相生町の家のかみさんには、こんな話もある。彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越(かわごえ)の方に暮らしていたころのことだ。当時、お国替(くにが)えの藩主を迎えた川越藩では、きびしいお触れを町家に回して、藩の侍に酒を売ることを禁じた。百姓町人に対しては実にいばったものだという川越藩の新しい侍の中には、長い脇差(わきざし)を腰にぶちこんで、ある日の宵(よい)の口ひそかに多吉が家の店先に立つものがあった。ちょうど多吉は番頭を相手に、その店先で将棋をさしていた。いきなり抜き身の刀を突きつけて酒を売れという侍を見ると、多吉も番頭もびっくりして、奥へ逃げ込んでしまった。そのころのお隅(すみ)は十八の若さであったが、侍の前に出て、すごい権幕(けんまく)をもおそれずにきっぱりと断わった。先方は怒(おこ)るまいことか。そこへ店の小僧が運んで来た行燈(あんどん)をぶち斬(き)って見せ、店先の畳にぐざと刀を突き立て、それを十文字に切り裂いて、これでも酒を売れないかと威(おど)しにかかった。なんと言われても城主の厳禁をまげることはできないとお隅が答えた時に、その侍は彼女の顔をながめながら、「そちは、何者の娘か」と言って、やがて立ち去ったという話もある。
「江戸はどうなるでしょう。」
半蔵は十一屋の二階の方に平助を見に行った時、腹下しの気味で寝ている連れの庄屋にそれを言った。平助は半蔵の顔を見ると、旅の枕(まくら)もとに置いてある児童の読本(よみほん)でも読んでくれと言った。幸兵衛も長い滞在に疲れたかして、そのそばに毛深い足を投げ出していた。
ようやく十月の下旬にはいって、三人の庄屋は道中奉行からの呼び出しを受けた。都筑駿河(つづきするが)の役宅には例の徒士目付(かちめつけ)が三人を待ち受けていて、しばらく一室に控えさせた後、訴え所(じょ)の方へ呼び込んだ。
「ただいま駿河守は登城中であるから、自分が代理としてこれを申し渡す。」
この挨拶(あいさつ)が公用人からあって、十一宿総代のものは一通の書付を読み聞かせられた。それには、定助郷(じょうすけごう)嘆願の趣ももっともには聞こえるが、よくよく村方の原簿をお糺(ただ)しの上でないと、容易には仰せ付けがたいとある。元来定助郷は宿駅の常備人馬を補充するために、最寄(もよ)りの村々へ正人馬勤(しょうじんばづと)めを申し付けるの趣意であるから、宿駅への距離の関係をよくよく調査した上でないと、定助郷の意味もないとある。しかし三人の総代からの嘆願も余儀なき事情に聞こえるから、十一宿救助のお手当てとして一宿につき金三百両ずつを下し置かれるとある。ただし、右はお回(まわ)し金(きん)として、その利息にて年々各宿の不足を補うように心得よともある。別に、三人は請書(うけしょ)を出せと言わるる三通の書付をも公用人から受け取った。それには十一宿あてのお救いお手当て金下付のことが認(したた)めてあって、駿河(するが)佐渡(さど)二奉行の署名もしてある。
木曾地方における街道付近の助郷が組織を完備したいとの願いは、ついにきき入れられなかった。三人の庄屋は定助郷設置のかわりに、そのお手当てを許されただけにも満足しなければならなかった。その時、庄屋方から差し出してあった人馬立辻帳(じんばたてつじちょう)、宿勘定仕訳帳等の返却を受けて、そんなことで屋敷から引き取った。
「どうも、こんな膏薬(こうやく)をはるようなやり方じゃ、これから先のことも心配です。」
両国の十一屋まで三人一緒に戻(もど)って来た時、半蔵はそれを言い出したが、心中の失望は隠せなかった。
「半蔵さんはまだ若い。」と幸兵衛は言った。「まるきりお役人に誠意のないものなら、一|文(もん)だってお手当てなぞの下がるもんじゃありません。」
「まあ、まあ、これくらいのところで、早く国の方へ引き揚げるんですね――長居は無用ですよ。」
平助は平助らしいことを言った。
ともかくも、地方の事情を直接に道中奉行の耳に入れただけでも、十一宿総代として江戸へ呼び出された勤めは果たした。請書(うけしょ)は出した。今度は帰りじたくだ。半蔵らは東片町にある山村氏の屋敷から一時旅費の融通(ゆうずう)をしてもらって、長い逗留(とうりゅう)の間に不足して来た一切の支払いを済ませることにした。ところが、東片町には何かの機会に一|盃(ぱい)やりたい人たちがそろっていて、十一宿の願書が首尾よく納まったと聞くからには、とりあえず祝おう、そんなことを先方から切り出した。江戸詰めの侍たちは、目立たないところに料理屋を見立てることから、酒を置き、芸妓(げいぎ)を呼ぶことまで、その辺は慣れたものだ。半蔵とてもその席に一座して交際|上手(じょうず)な人たちから祝盃(しゅくはい)をさされて見ると、それを受けないわけに行かなかったが、宿方の用事で出て来ている身には酒も咽喉(のど)を通らなかった。その日は酒盛(さかも)り最中に十月ももはや二十日過ぎらしい雨がやって来た。一座六人の中には、よいきげんになっても、まだ飲み足りないという人もいた。二軒も梯子(はしご)で飲み歩いて、無事に屋敷へ帰ったかもわからないような大|酩酊(めいてい)の人もいた。
間もなく相生町(あいおいちょう)の二階で半蔵が送る終(つい)の晩も来た。出発の前日には十一屋の方へ移って他の庄屋とも一緒になる約束であったからで。その晩は江戸出府以来のことが胸に集まって来て、実に不用な雑費のみかさんだことを考え、宿方総代としてのこころざしも思うように届かなかったことを考えると、彼は眠られなかった。階下(した)でも多吉夫婦がおそくまで起きていると見えて、二人(ふたり)の話し声がぼそぼそ聞こえる。彼は枕(まくら)の上で、郷里の方の街道を胸に浮かべた。去る天保四年、同じく七年の再度の凶年で、村民が死亡したり離散したりしたために、馬籠(まごめ)のごとき峠の上の小駅ではお定めの人足二十五人を集めるにさえも、隣郷の山口村や湯舟沢村の加勢に待たねばならないことを思い出した。駅長としての彼が世話する宿駅の地勢を言って見るなら、上りは十曲峠(じっきょくとうげ)、下りは馬籠峠、大雨でも降れば道は河原のようになって、おまけに土は赤土と来ているから、嶮岨(けんそ)な道筋での継立(つぎた)ても人馬共に容易でないことを思い出した。冬春の雪道、あるいは凍り道などのおりはことに荷物の運搬も困難で、宿方役人どもをはじめ、伝馬役(てんまやく)、歩行役、七里役等の辛労は言葉にも尽くされないもののあることを思い出した。病み馬、疲れ馬のできるのも無理のないことを思い出した。郷里の方にいる時こそ、宿方と助郷村々との利害の衝突も感じられるようなものだが、遠く江戸へ離れて来て見ると、街道筋での奉公には皆同じように熱い汗を流していることを思い出した。彼は郷里の街道のことを考え、江戸を見た目でもう一度あの宿場を見うる日のことを考え、そこに働く人たちと共に武家の奉公を忍耐しようとした。
徳川幕府の頽勢(たいせい)を挽回(ばんかい)し、あわせてこの不景気のどん底から江戸を救おうとするような参覲交代(さんきんこうたい)の復活は、半蔵らが出発以前にすでに触れ出された。
一、万石(まんごく)以上の面々ならびに交代寄合(こうたいよりあい)、参覲の年割(ねんわ)り御猶予成し下され候(そうろう)旨(むね)、去々|戌年(いぬどし)仰せ出(いだ)され候ところ、深き思(おぼ)し召しもあらせられ候につき、向後(こうご)は前々(まえまえ)お定めの割合に相心得(あいこころえ)、参覲交代これあるべき旨、仰せ出さる。
一、万石以上の面々ならびに交代寄合、その嫡子在国しかつ妻子国もとへ引き取り候とも勝手たるべき次第の旨、去々戌年仰せ出され、めいめい国もとへ引き取り候面々もこれあり候ところ、このたび御進発も遊ばされ候については、深き思し召しあらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。
このお触れ書の中に「御進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。尾張大納言(おわりだいなごん)を総督にする長州征討軍の進発をさす。
三人の庄屋には、道中奉行から江戸に呼び出され、諸大名通行の難関たる木曾地方の事情を問いただされ、たとい一時的の応急策たりとも宿駅補助のお手当てを下付された意味が、このお触れ書の発表で一層はっきりした。
江戸は、三人の庄屋にとって、もはやぐずぐずしているべきところではなかった。
「長居は無用だ。」
そう考えるのは、ひとり用心深い平助ばかりではなかったのだ。
しかし、郷里の方の空も心にかかって、三人の庄屋がそこそこに江戸を引き揚げようとしたのは、彼らの滞在が六月から十月まで長引いたためばかりでもなかったのである。出発の前日、筑波(つくば)の方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさを東片町の屋敷から聞き込んで来たものもあったからで。
出発の日には、半蔵はすでに十一屋の方に移って、同行の庄屋たちとも一緒になっていたが、そのまま江戸をたって行くに忍びなかった。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで朝早く両国の旅籠屋(はたごや)を出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋(わらじ)の跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行って見た。青い河内木綿(かわちもめん)の合羽(かっぱ)に脚絆(きゃはん)をつけたままで門口から訪れる半蔵の道中姿を見つけると、小娘のお三輪は多吉やお隅(すみ)を呼んだ。
「オヤ、もうお立ちですか。すっかりおしたくもできましたね。」
と言うお隅のあとから、多吉もそこへ挨拶(あいさつ)に来る。その時、多吉はお隅に言いつけて、紺木綿の切れの編みまぜてある二足の草鞋を奥から持って来させた。それを餞別(せんべつ)のしるしにと言って、風呂敷包(ふろしきづつ)みにして半蔵の前に出した。
「これは何よりのものをいただいて、ありがたい。」
「いえ、お邪魔かもしれませんが、道中でおはきください。それでも宅が心がけまして、わざわざ造らせたものですよ。」
「多吉さんは多吉さんらしいものをくださる。」
あわただしい中にも、半蔵は相生町の家の人とこんな言葉をかわした。
多吉は別れを惜しんで、せめて十一屋までは見送ろうと言った。暇乞(いとまご)いして行く半蔵の後ろから、尻端(しりはし)を折りながら追いかけて来た。
「青山さん、あなたの荷物は。」
「荷物ですか。きのうのうちに馬が頼んであります。」
「それにしても、早いお立ちですね。実は吾家(うち)から立っていただきたいと思って、お隅ともその話をしていたんですけれど、連れがありなさるんじゃしかたがない。この次ぎ、江戸へお出かけになるおりもありましたら、ぜひお訪(たず)ねください。お宿はいつでもいたしますよ。」
「さあ、いつまた出かけて来られますかさ。」
「ほんとに、これも何かの御縁かと思いますね。」
両国十一屋の方には、幸兵衛、平助の二人(ふたり)がもう草鞋(わらじ)まではいて、半蔵を待ち受けていた。頼んで置いた馬も来た。その日はお茶壺(ちゃつぼ)の御通行があるとかで、なるべく朝のうちに出発しなければならなかった。半蔵は大小二|荷(か)の旅の荷物を引きまとめ、そのうち一つは琉球(りゅうきゅう)の莚包(こもづつ)みにして、同行の庄屋たちと共に馬荷に付き添いながら板橋経由で木曾街道の方面に向かった。  

四月以来、筑波(つくば)の方に集合していた水戸の尊攘派(そんじょうは)の志士は、九月下旬になって那珂湊(なかみなと)に移り、そこにある味方の軍勢と合体して、幕府方の援助を得た水戸の佐幕党(さばくとう)と戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。力尽きて幕府方に降(くだ)るものが続出した。二十三日まで湊をささえていた筑波勢は、館山(たてやま)に拠(よ)っていた味方の軍勢と合流し、一筋の血路を西に求めるために囲みを突いて出た。この水戸浪士の動きかけた方向は、まさしく上州路(じょうしゅうじ)から信州路に当たっていたのである。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
筑波の空に揚がった高い烽火(のろし)は西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いに振(ふる)ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たびか画策せられたことであって、一部の志士らが互いに往来し始めたのは安藤老中(あんどうろうじゅう)要撃の以前にも当たる。東西相呼応して起こった尊攘派の運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。
湊(みなと)を出て西に向かった水戸浪士は、石神村(いしがみむら)を通過して、久慈郡大子村(くじごおりだいごむら)をさして進んだが、討手(うって)の軍勢もそれをささえることはできなかった。それから月折峠(つきおれとうげ)に一戦し、那須(なす)の雲巌寺(うんがんじ)に宿泊して、上州路に向かった。
この一団はある一派を代表するというよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公(れっこう))が在世の日、領内の各地に郷校を設けて武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島(かごしま)の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない。
寺がある。付近は子供らの遊び場処である。寺には閻魔(えんま)大王の木像が置いてある。その大王の目がぎらぎら光るので、子供心にもそれを水晶であると考え、得がたい宝石を欲(ほ)しさのあまり盗み取るつもりで、昼でも寂しいその古寺の内へ忍び込んだ一人(ひとり)の子供がある。木像に近よると、子供のことで手が届かない。閻魔王の膝(ひざ)に上り、短刀を抜いてその目をえぐり取り、莫大(ばくだい)な分捕(ぶんど)り品でもしたつもりで、よろこんで持ち帰った。あとになってガラスだと知れた時は、いまいましくなってその大王の目を捨ててしまったという。これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。
森がある。神社の鳥居がある。昼でも暗い社頭の境内がある。何げなくその境内を行き過ぎようとして、小僧待て、と声をかけられた一人の少年がある。見ると、神社の祭礼のおりに、服装のみすぼらしい浪人とあなどって、腕白盛(わんぱくざか)りのいたずらから多勢を頼みに悪口を浴びせかけた背の高い男がそこにたたずんでいる。浪人は一人ぽっちの旅烏(たびがらす)なので、祭りのおりには知らぬ顔で通り過ぎたが、その時は少年の素通りを許さなかった。よくも悪口雑言(あっこうぞうごん)を吐いて祭りの日に自分を辱(はずか)しめたと言って、一人と一人で勝負をするから、その覚悟をしろと言いながら、刀の柄(つか)に手をかけた。少年も負けてはいない。かねてから勝負の時には第一撃に敵を斬(き)ってしまわねば勝てるものではない、それには互いに抜き合って身構えてからではおそい。抜き打ちに斬りつけて先手を打つのが肝要だとは、日ごろ親から言われていた少年のことだ。居合(いあい)の心得は充分ある。よし、とばかり刀の下(さ)げ緒(お)をとって襷(たすき)にかけ、袴(はかま)の股立(ももだ)ちを取りながら先方の浪人を見ると、その身構えがまるで素人(しろうと)だ。掛け声勇ましくこちらは飛び込んで行った。抜き打ちに敵の小手(こて)に斬りつけた。あいにくと少年のことで、一尺八寸ばかりの小脇差(こわきざし)しか差していない。その尖端(せんたん)が相手に触れたか触れないくらいのことに先方の浪人は踵(きびす)を反(かえ)して、一目散に逃げ出した。こちらもびっくりして、抜き身の刀を肩にかつぎながら、あとも見ずに逃げ出して帰ったという。これがわずかに十六歳ばかりの当時の水戸の少年だ。
二階がある。座敷がある。酒が置いてある。その酒楼の二階座敷の手摺(てすり)には、鎗(やり)ぶすまを造って下からずらりと突き出した数十本の抜き身の鎗がある。町奉行のために、不逞(ふてい)の徒の集まるものとにらまれて、包囲せられた二人(ふたり)の侍がそこにある。なんらの罪を犯した覚えもないのに、これは何事だ、と一人の侍が捕縛に向かって来たものに尋ねると、それは自分らの知った事ではない。足下(そっか)らを引致(いんち)するのが役目であるとの答えだ。しからば同行しようと言って、数人に護(まも)られながら厠(かわや)にはいった時、一人の侍は懐中の書類をことごとく壺(つぼ)の中に捨て、刀を抜いてそれを深く汚水の中に押し入れ、それから身軽になって連れの侍と共に引き立てられた。罪人を乗せる網の乗り物に乗せられて行った先は、町奉行所だ。厳重な取り調べがあった。証拠となるべきものはなかったが、二人とも小人目付(こびとめつけ)に引き渡された。ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖(りょうしゅう)市川三左衛門(いちかわさんざえもん)が得意の時代で、尊攘派征伐のために筑波(つくば)出陣の日を迎えた。邸内は雑沓(ざっとう)して、侍たちについた番兵もわずかに二人のみであった。夕方が来た。囚(とら)われとなった連れの侍は仲間にささやいて言う。自分はかの反対党に敵視せらるること久しいもので、もしこのままにいたら斬(き)られることは確かである、彼らのために死ぬよりもむしろ番兵を斬りたおして逃げられるだけ逃げて見ようと思うが、どうだと。それを聞いた一人の方の侍はそれほど反対党から憎まれてもいなかったが、同じ囚われの身でありながら、行動を共にしないのは武士のなすべきことでないとの考えから、その夜の月の出ないうちに脱出しようと約束した。待て、番士に何の罪もない、これを斬るはよろしくない、一つ説いて見ようとその侍が言って、番士を一室に呼び入れた。聞くところによると水府は今非常な混乱に陥っている、これは国家危急の秋(とき)で武士の坐視(ざし)すべきでない、よって今からここを退去する、幸いに見のがしてくれるならあえてかまわないが万一職務上見のがすことはならないとあるならやむを得ない、自分らの刀の切れ味を試みることにするが、どうだ。それを言って、刀を引き寄せ、鯉口(こいぐち)を切って見せた。二人の番士はハッと答えて、平伏したまま仰ぎ見もしない。しからば御無礼する、あとの事はよろしく頼む、そう言い捨てて、侍は二人ともそこを立ち去り、庭から墻(かき)を乗り越えて、その夜のうちに身を匿(かく)したという。これが当時の水戸の天狗連(てんぐれん)だ。
水戸人の持つこのたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられた。かつては横浜在留の外国人にも。井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも。これほど敵を攻撃することにかけては身命をも賭(と)してかかるような気性(きしょう)の人たちが、もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。
水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し、新しい世紀もようやくめぐって来て、だれもが右すべきか左すべきかと狼狽(ろうばい)する時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿(おもね)るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館(しょうこうかん)の修史、弘道館(こうどうかん)の学問は、諸藩の学風を指導する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。あの波瀾(はらん)の多い御隠居の生涯(しょうがい)がそれだ。遠く西山公(せいざんこう)以来の遺志を受けつぎ王室尊崇の念の篤(あつ)かった御隠居は、紀州や尾州の藩主と並んで幕府を輔佐する上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。この水戸の苦悶(くもん)は一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に奸党(かんとう)と呼ばるる佐幕派の人たちを生んだ。一つの藩は裂けてたたかった。当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷(ざんこく)をきわめたところはない。誠党が奸党を見るのは極悪(ごくあく)の人間と心の底から信じたのであって、奸党が誠党を見るのもまたお家の大事も思わず御本家大事ということも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあるものだと言った人もある。いわゆる誠党は天狗連(てんぐれん)とも呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠、両派全く分かれて相鬩(あいせめ)ぎ、その中間にあるものをば柳と呼んだ。市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖(りょうしゅう)が国政を左右する時を迎えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、田丸稲右衛門(たまるいなえもん)を主将に推し、亡(な)き御隠居の御霊代(みたましろ)を奉じて、尊攘の志を致(いた)そうとしていた。かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる武田耕雲斎(たけだこううんさい)と筑波に兵を挙(あ)げた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、早速(さっそく)耕雲斎に隠居慎(いんきょつつし)みを命じ、諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒を討(う)たしめるために関東十一藩の諸大名に命令を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中(れんちゅう)母公|貞芳院(ていほういん)ならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた。これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、幽屏(ゆうへい)の身ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主を諫(いさ)めて奸徒(かんと)の排斥を謀(はか)ろうとした。かく一藩が党派を分かち、争闘を事とし、しばらくも鎮静する時のなかったため、松平|大炊頭(おおいのかみ)(宍戸侯(ししどこう))は藩主の目代(もくだい)として、八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫(ちんぶ)の使者に随行して来たものの多くが自己の反対党であるのを見、その中には京都より来た公子|余四麿(よしまろ)の従者や尊攘派の志士なぞのあるのを見、大炊頭が真意を疑って、その入城を拒んだ。朋党(ほうとう)の乱はその結果であった。
混戦が続いた。大炊頭、耕雲斎、稲右衛門、この三人はそれぞれの立場にあったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。湊(みなと)の戦いで、大炊頭が幕府方の田沼玄蕃頭(たぬまげんばのかみ)に降(くだ)るころは、民兵や浮浪兵の離散するものも多かった。天狗連の全軍も分裂して、味方の陣営に火を放ち、田沼侯に降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山(たてやま)に拠(よ)る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったのである。湊における諸生党の勝利は攘夷をきらっていた幕府方の応援を得たためと、形勢を観望していた土民の兵を味方につけたためであった。一方、天狗党では、幹部として相応名の聞こえた田中|源蔵(げんぞう)が軍用金調達を名として付近を掠奪(りゃくだつ)し、民心を失ったことにもよると言わるるが、軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。
西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は京都だろうと言うものがあり、長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。
しかし、これは亡(な)き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言(じゅにいだいなごん)の旗を押し立て、その遺志を奉じて動く意味のものであったことを忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百余名は常陸(ひたち)下野(しもつけ)地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた。二名の医者までいた。その堅い結び付きは、実際の戦闘力を有するものから、兵糧方(ひょうろうかた)、賄方(まかないかた)、雑兵(ぞうひょう)、歩人(ぶにん)等を入れると、千人以上の人を動かした。軍馬百五十頭、それにたくさんな小荷駄(こにだ)を従えた。陣太鼓と旗十三、四本を用意した。これはただの落ち武者の群れではない。その行動は尊攘の意志の表示である。さてこそ幕府方を狼狽(ろうばい)せしめたのである。
この浪士の中には、藤田小四郎(ふじたこしろう)もいた。亡き御隠居を動かして尊攘の説を主唱した藤田|東湖(とうこ)がこの世を去ってから、その子の小四郎が実行運動に参加するまでには十一年の月日がたった。衆に先んじて郷校の子弟を説き、先輩稲右衛門を説き、日光参拝と唱えて最初から下野国大平山(しもつけのくにおおひらやま)にこもったのも小四郎であった。水戸の家老職を父とする彼もまた、四人の統率者より成る最高幹部の一人たることを失わなかった。
高崎での一戦の後、上州|下仁田(しもにた)まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。高崎勢は同所の橋を破壊し、五十人ばかりの警固の組で銃を遠矢に打ち掛けたまでであった。鏑川(かぶらがわ)は豊かな耕地の間を流れる川である。そのほとりから内山峠まで行って、嶮岨(けんそ)な山の地勢にかかる。朝早く下仁田を立って峠の上まで荷を運ぶに慣れた馬でも、茶漬(ちゃづ)けごろでなくては帰れない。そこは上州と信州の国境(くにざかい)にあたる。上り二里、下り一里半の極(ごく)の難場だ。千余人からの同勢がその峠にかかると、道は細く、橋は破壊してある。警固の人数が引き退いたあとと見えて、兵糧雑具等が山間(やまあい)に打ち捨ててある。浪士らは木を伐(き)り倒し、その上に蒲団(ふとん)衣類を敷き重ねて人馬を渡した。大砲、玉箱から、御紋付きの長持、駕籠(かご)までそのけわしい峠を引き上げて、やがて一同|佐久(さく)の高原地に出た。
十一月の十八日には、浪士らは千曲川(ちくまがわ)を渡って望月宿(もちづきじゅく)まで動いた。松本藩の人が姿を変えてひそかに探偵(たんてい)に入り込んで来たとの報知(しらせ)も伝わった。それを聞いた浪士らは警戒を加え、きびしく味方の掠奪(りゃくだつ)をも戒めた。十九日和田泊まりの予定で、尊攘の旗は高く山国の空にひるがえった。 
第十章

 


和田峠の上には諏訪藩(すわはん)の斥候隊が集まった。藩士|菅沼恩右衛門(すがぬまおんえもん)、同じく栗田市兵衛(くりたいちべえ)の二人(ふたり)は御取次御使番(おとりつぎおつかいばん)という格で伝令の任務を果たすため五人ずつの従者を引率して来ている。徒士目付(かちめつけ)三人、書役(かきやく)一人(ひとり)、歩兵斥候三人、おのおの一人ずつの小者を連れて集まって来ている。足軽(あしがる)の小頭(こがしら)と肝煎(きもいり)の率いる十九人の組もいる。その他には、新式の鉄砲を携えた二人の藩士も出張している。和田峠口の一隊はこれらの人数から編成されていて、それぞれ手分けをしながら斥候の任務に就(つ)いていた。
諏訪高島の城主諏訪|因幡守(いなばのかみ)は幕府閣老の一人として江戸表の方にあったが、急使を高島城に送ってよこして部下のものに防禦(ぼうぎょ)の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる木曾街道の一部は戦闘区域と定められた。峠の上にある東餅屋(ひがしもちや)、西餅屋に住む町民らは立ち退(の)きを命ぜられた。
こんなに周囲の事情が切迫する前、高島城の御留守居(おるすい)は江戸屋敷からの早飛脚が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速(さっそく)人数を出張させるようにとしてあった。右の峠の内には松本方面への抜け路(みち)もあるから、時宜によっては松本藩からも応援すべき心得で、万事取り計らうようにと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに出兵の手配りをして置いて、中仙道(なかせんどう)はもとより甲州方面のことは万事手抜かりのないようにと仰せ出されたともしてあった。
このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵(むさし)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、甲斐(かい)、信濃(しなの)の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模(さがみ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の諸大名まで皆そのお書付を受けた。それはかなり厳重な内容のもので、筑波(つくば)辺に屯集(とんしゅう)した賊徒どものうち甲州路または中仙道(なかせんどう)方面へ多人数の脱走者が落ち行くやに相聞こえるから、すみやかに手はずして見かけ次第もらさず討(う)ち取れという意味のことが認(したた)めてあり、万一討ちもらしたら他領までも付け入って討ち取るように、それを等閑(なおざり)にしたらきっと御沙汰(ごさた)があるであろうという意味のことも書き添えてあった。同時に、幕府では三河(みかわ)、尾張(おわり)、伊勢(いせ)、近江(おうみ)、若狭(わかさ)、飛騨(ひだ)、伊賀(いが)、越後(えちご)に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の賊徒どものうちには所々へ散乱するやにも相聞こえるから、めいめいの領分はもとより、付近までも手はずをして置いて、怪しい者は見かけ次第すみやかに討(う)ち取れと言いつけた。あの湊(みなと)での合戦(かっせん)以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)は追討総督として浪士らのあとを追って来た。幕府は一方に長州征伐の事に従いながら、大きな網を諸国に張って、一人残らず水府義士なるものを滅ぼし尽くそうとしていた。その時はまだ八十里も先から信じがたいような種々(さまざま)な風聞が諏訪藩へ伝わって来るころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意(こころ)にかけるものもなかった。初めて浪士らが上州にはいったと聞いた時にも、真偽のほどは不確実(ふたしか)で、なお相去ること数十里の隔たりがあった。諏訪藩ではまだまだ心を許していた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久(さく)へ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに飛んで来る。にわかに城内では評定(ひょうじょう)があった。あるものはまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて来たら敵しうるはずもない、沿道の諸藩が討(う)とうとしないのは無理もない、これはよろしく城を守っていて浪士らの通り過ぎるままに任せるがいい、後方(うしろ)から鉄砲でも撃ちかけて置けば公儀への御義理はそれで済む、そんなことも言った。しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦(ほしいまま)にさせて置けないと言うものがあり、大げさの風評が当てになるものでもないと言うものがあって、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月(もちづき)まで到着したとの知らせがあって見ると、大砲十五門、騎馬武者百五十人、歩兵七百余、旌旗(せいき)から輜重駄馬(しちょうだば)までがそれに称(かな)っているとの風評には一藩のものは皆顔色を失ってしまった。その時、用人の塩原彦七(しおばらひこしち)が進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋(といはし)というところは、谷川を前にし、後方(うしろ)に丘陵を負い、昔時(むかし)の諏訪頼重(すわよりしげ)が古戦場でもある。高島城から三里ほどの距離にある。当方より進んでその嶮岨(けんそ)な地勢に拠(よ)り、要所要所を固めてかかったなら、敵を討(う)ち取ることができようと力説した。幸いなことには、幕府追討総督として大兵を率いる田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)が浪士らのあとを追って来ることが確かめられた。諏訪藩の家老はじめ多くのものはそれを頼みにした。和田峠に水戸浪士を追いつめ、一方は田沼勢、一方は高島勢で双方から敵を挾撃(きょうげき)する公儀の手はずであるということが何よりの力になった。一藩の態度は決した。さてこそ斥候隊の出動となったのである。
元治(げんじ)元年十一月十九日のことで、峠の上へは朝から深い雨が来た。
やがて和田方面へ偵察(ていさつ)に出かけて行ったものは、また雨をついて峠の上に引き返して来る。いよいよ水戸浪士がその日の晩に長窪(ながくぼ)和田両宿へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、諏訪藩の物頭(ものがしら)矢島|伝左衛門(でんざえもん)が九人の従者を引き連れ和田峠|御境目(おさかいめ)の詰方(つめかた)として出張した。手明きの若党、鎗持(やりも)ちの中間(ちゅうげん)、草履取(ぞうりと)り、具足持(ぐそくも)ち、高張持(たかはりも)ちなぞ、なかなかものものしい。それにこの物頭(ものがしら)が馬の口を取る二人の厩(うまや)の者も随行して来た。
「敵はもう近いと思わんけりゃなりません。」
御使番(おつかいばん)は早馬で城へ注進に行くと言って、馬上からその言葉を残した。あとの人数にも早速(さっそく)出張するようにその言伝(ことづ)てを御使番に頼んで置いて、物頭もまた乗馬で種々(さまざま)な打ち合わせに急いだ。遠い山々は隠れて見えないほどの大降りで、人も馬もぬれながら峠の上を往(い)ったり来たりした。
物頭はまず峠の内の注連掛(しめかけ)という場所を選び、一手限(ひとてぎ)りにても防戦しうるようそこに防禦(ぼうぎょ)工事を施すことにした。その考えから、彼は人足の徴発を付近の村々に命じて置いた。小役人を連れて地利の見分にも行って来た。注連掛(しめかけ)へは大木を並べ、士居(どい)を築き、鉄砲を備え、人数を伏せることにした。大平(おおだいら)から馬道下の嶮岨(けんそ)な山の上には大木大石を集め、道路には大木を横たえ、急速には通行のできないようにして置いて、敵を間近に引き寄せてから、鉄砲で撃ち立て、大木大石を落としかけたら、たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、物頭はその用意のために雨中を奔走した。手を分けてそれぞれ下知(げじ)を伝えた。それを済ましたころにはもう昼時刻だ。物頭が樋橋(といはし)まで峠を降りて昼飯を認(したた)めていると、追い追いと人足も集まって来た。
諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張があることを告げた。そのうちに二十八人の番士と十九人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。別に二十九人の銃隊士の出張をも見た。大砲二百目|玉筒(たまづつ)二|挺(ちょう)、百目玉筒二挺、西洋流十一寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋(といはし)上の砥沢口(とざわぐち)というところで防戦のことに城中の評議決定の旨(むね)を物頭に告げた。東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、桟(かけはし)も取り払う、橋々は切り落とす、そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。
ちょうど松本藩主|松平丹波守(まつだいらたんばのかみ)から派遣せられた三百五十人ばかりの兵は長窪(ながくぼ)の陣地を退いて、東餅屋に集まっている時であった。もともと松本藩の出兵は追討総督田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)の厳命を拒みかねたので、沿道警備のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩(まつしろはん)も小諸藩(こもろはん)も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨(むね)、重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。早速、物頭(ものがしら)は歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致(いた)した。両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。
物頭は樋橋(といはし)にいた。五、六百人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。物頭は樋橋下の民家を三軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。松本方の持参した大砲は百目玉筒二|挺(ちょう)、小銃五十挺ほどだ。物頭の計らいで、松本方三百五十人への一度分の弁当、白米三俵、味噌(みそ)二|樽(たる)、漬(つ)け物一樽、それに酒二樽を贈った。
樋橋付近の砦(とりで)の防備、および配置なぞは、多くこの物頭の考案により、策戦のことは諏訪藩銃隊頭を命ぜられた用人塩原彦七の方略に出た。日がな一日降りしきる強雨の中で、蓑笠(みのかさ)を着た数百人の人夫が山から大木を伐(き)り出す音だけでも周囲に響き渡った。そこには砲座を定めて木の幹を畳(たた)むものがある。ここには土居を築き土俵を積んで胸壁を起こすものがある。下諏訪(しもすわ)から運ぶ兵糧(ひょうろう)では間に合わないとあって、樋橋には役所も設けられ、炊(た)き出しもそこで始まった。この工事は夜に入って松明(たいまつ)の光で谷々を照らすまで続いた。垂木岩(たるきいわ)の桟(かけはし)も断絶せられ、落合橋(おちあいばし)も切って落とされた。村上の森のわきにあたる街道筋には篝(かがり)を焚(た)いて、四、五人ずつの番士が交代でそこに見張りをした。
水戸浪士の西下が伝わると、沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こした。樋橋の山の神の砦(とりで)で浪士らをくい止める諏訪藩の思(おぼ)し召しではあるけれども、なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に臨み、場数を踏んでいる浪士らのことである、万一破れたらどうなろう。このことが沿道の住民に恐怖を抱(いだ)かせるようになった。種々(さまざま)な風評は人の口から口へと伝わった。万一和田峠に破れたら、諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、下諏訪へ退いて宿内をも焼き払うだろう、高島の方へは一歩も入れまいとして下諏訪で防戦するだろう、そんなことを言い触らすものがある。その「万一」がもし事実となるとすると、下原村は焼き払われるだろう、宿内の友(とも)の町、久保(くぼ)、武居(たけい)も危(あぶ)ない、事急な時は高木大和町(たかぎやまとちょう)までも焼き払い、浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、だれが言い出したともないような風評がひろがった。
沿道の住民はこれには驚かされた。家財は言うまでもなく、戸障子まで取りはずして土蔵へ入れるものがある。土蔵のないものは最寄(もよ)りの方へ預けると言って背負(しょ)い出すものがあり、近村まで持ち運ぶものがある。
また、また、土蔵も残らず打ち破り家屋敷もことごとく焼き崩(くず)して浪士らの足だまりのないようにされるとの風聞が伝わった。それを聞いたものは皆大いに驚いて、一度土蔵にしまった大切な品物をまた持ち出し、穴を掘って土中に埋めるものもあれば、畑の方へ持ち出すものもある。何はともあれ、この雨天ではしのぎかねると言って、できるだけ衣類を背負(しょ)うことに気のつくものもある。人々は互いにこの混乱の渦(うず)の中に立った。乱世もこんなであろうかとは、互いの目がそれを言った。付近の老若男女はその夜のうちに山の方へ逃げ失(う)せ、そうでないものは畑に立ち退(の)いて、そこに隠れた。
伊賀守(いがのかみ)としての武田耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行(もとまちぶぎょう)田丸稲右衛門を副将に、軍学に精通することにかけては他藩までその名を知られた元小姓頭取(もとこしょうとうどり)の山国兵部(やまぐにひょうぶ)を参謀にする水戸浪士の群れは、未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来た。毎日の行程およそ四、五里。これは雑兵どもが足疲れをおそれての浪士らの動きであったが、その日ばかりは和田峠を越すだけにも上り三里の道を踏まねばならなかった。
天気は晴れだ。朝の空には一点の雲もなかった。やがて浪士らは峠にかかった。八本の紅白の旗を押し立て、三段に別れた人数がまっ黒になってあとからあとからと峠を登った。両|餅屋(もちや)はすでに焼き払われていて、その辺には一人(ひとり)の諏訪兵をも見なかった。先鋒隊(せんぽうたい)が香炉岩(こうろいわ)に近づいたころ、騎馬で進んだものはまず山林の間に四発の銃声を聞いた。飛んで来る玉は一発も味方に当たらずに、木立ちの方へそれたり、大地に打ち入ったりしたが、その音で伏兵のあることが知れた。左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。
山間(やまあい)の道路には行く先に大木が横たえてある。それを乗り越え乗り越えして進もうとするもの、幾多の障害物を除こうとするもの、桟(かけはし)を繕おうとするもの、浪士側にとっては全軍のために道をあけるためにもかなりの時を費やした。間もなく香炉岩の上の山によじ登り、そこに白と紺とを染め交ぜにした一本の吹き流しを高くひるがえした味方のものがある。一方の山の上にも登って行って三本の紅(あか)い旗を押し立てるものが続いた。浪士の一隊は高い山上の位置から諏訪松本両勢の陣地を望み見るところまで達した。
こんなに浪士側が迫って行く間に、一方諏訪勢はその時までも幕府の討伐隊を頼みにした。来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、敵として進んで来る浪士らを迎え撃つのほかはない。間もなく、峠の峰から一面に道を押し降(くだ)った浪士側は干草山(ほしくさやま)の位置まで迫った。そこは谷を隔てて諏訪勢の陣地と相距(あいへだ)たること四、五町ばかりだ。両軍の衝突はまず浪士側から切った火蓋(ひぶた)で開始された。山の上にも、谷口にも、砲声はわくように起こった。
諏訪勢もよく防いだ。次第に浪士側は山の地勢を降り、砥沢口(とざわぐち)から樋橋(といはし)の方へ諏訪勢を圧迫し、鯨波(とき)の声を揚げて進んだが、胸壁に拠(よ)る諏訪勢が砲火のために撃退せられた。諏訪松本両藩の兵は五段の備えを立て、右翼は砲隊を先にし鎗(やり)隊をあとにした尋常の備えであったが、左翼は鎗隊を先にして、浪士側が突撃を試みるたびに吶喊(とっかん)し逆襲して来た。こんなふうにして追い返さるること三度。浪士側も進むことができなかった。
その日の戦闘は未(ひつじ)の刻(こく)から始まって、日没に近いころに及んだが、敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。まぶしい夕日の反射を真面(まとも)に受けて、鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、五、六十人ばかりの一隊を深沢山(ふかざわやま)の峰に回らせた。この一隊は左手の河(かわ)を渡って、松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。その時浪士の一人(ひとり)が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降(くだ)った。
耕雲斎は砥沢口(とざわぐち)まで進出した本陣にいた。それとばかり采配(さいはい)を振り、自ら陣太鼓を打ち鳴らして、最後の突撃に移った。あたりはもう暗い。諏訪方ではすでに浮き腰になるもの、後方の退路を危ぶむものが続出した。その時はまだまだ諏訪勢の陣は堅く、樋橋に踏みとどまって頑強(がんきょう)に抵抗を続けようとする部隊もあったが、崩(くず)れはじめた全軍の足並みをどうすることもできなかった。もはや松本方もさんざんに見えるというふうで、早く退こうとするものが続きに続いた。
とうとう、田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)は来なかった。合戦は諏訪松本両勢の敗退となった。にわかの火の手が天の一方に揚がった。諏訪方の放火だ。浪士らの足だまりをなくする意味で、彼らはその手段に出た。樋橋村の民家三軒に火を放って置いて退却し始めた。白昼のように明るく燃え上がる光の中で、諏訪方にはなおも踏みとどまろうとする勇者もあり、ただ一人元の陣地に引き返して来て二発の大砲を放つものさえあった。追撃の小競合(こぜりあ)いはそこにもここにもあった。そのうちに放火もすこし下火になって、二十日の夜の五つ時の空には地上を照らす月代(つきしろ)とてもない。敵と味方の見定めもつかないような深い闇(やみ)が総崩れに崩れて行く諏訪松本両勢を包んでしまった。
この砥沢口の戦闘には、浪士側では十七人ほど討死(うちじに)した。百人あまりの鉄砲|疵(きず)鎗疵なぞの手負いを出した。主将耕雲斎も戦い疲れたが、また味方のもの一同を樋橋に呼び集めるほど元気づいた。湊(みなと)出発以来、婦人の身でずっと陣中にある大納言(だいなごん)の簾中(れんちゅう)も無事、山国親子も無事、筑波(つくば)組の稲右衛門、小四郎、皆無事だ。一同は手分けをして高島陣地その他を松明(たいまつ)で改めた。そこの砦(とりで)、ここの胸壁の跡には、打ち捨ててある兜(かぶと)や小銃や鎗や脇差(わきざし)や、それから床几(しょうぎ)陣羽織(じんばおり)などの間に、目もあてられないような敵味方の戦死者が横たわっている。生臭(なまぐさ)い血の臭気(におい)はひしひしと迫って来る夜の空気にまじって一同の鼻をついた。
耕雲斎は抜き身の鎗を杖(つえ)にして、稲右衛門や兵部や小四郎と共に、兵士らの間をあちこちと見て回った。戦場のならいで敵の逆襲がないとは言えなかった。一同はまたにわかに勢ぞろいして、本陣の四方を固める。その時、耕雲斎は一手の大将に命じ、味方の死骸(しがい)を改めさせ、その首を打ち落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。深手(ふかで)に苦しむものは十人ばかりある。それも歩人(ぶにん)に下知して戸板に載せ介抱を与えた。こういう時になくてならないのは二人の従軍する医者の手だ。陣中には五十ばかりになる一人の老女も水戸から随(つ)いて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさしながら、医者たちを助けてかいがいしく立ち働いた。
夜もはや四つ半時を過ぎた。浪士らは味方の死骸(しがい)を取り片づけ、名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。その他は死骸のあるところでいささかの火をかけ、土中に埋(うず)めた。仮りの埋葬も済んだ。樋橋には敵の遺棄した兵糧や弁当もあったので、それで一同はわずかに空腹をしのいだ。激しい饑(う)え。激しい渇(かわ)き。それを癒(いや)そうためばかりにも、一同の足は下諏訪の宿へ向いた。やがて二十五人ずつ隊伍(たいご)をつくった人たちは樋橋を離れようとして、夜の空に鳴り渡る行進の法螺(ほら)の貝を聞いた。
樋橋から下諏訪までの間には、村二つほどある。道案内のものを先に立て、松明(たいまつ)も捨て、途中に敵の待ち伏せするものもあろうかと用心する浪士らの長い行列は夜の街道に続いた。落合村まで進み、下の原村まで進んだ。もはやその辺には一人の敵の踏みとどまるものもなかった。
合図の空砲の音と共に、浪士らの先着隊が下諏訪にはいったころは夜も深かった。敗退した諏訪松本両勢は高島城の方角をさして落ちて行ったあとで、そこにも一兵を見ない。町々もからっぽだ。浪士らは思い思いの家を見立てて、鍋釜(なべかま)から洗い米などの笊(ざる)にそのまま置き捨ててあるようなところへはいった。耕雲斎は問屋(といや)の宅に、稲右衛門は来迎寺(らいごうじ)にというふうに。町々の辻(つじ)、秋宮(あきみや)の鳥居前、会所前、湯のわき、その他ところどころに篝(かがり)が焚(た)かれた。四、五人ずつの浪士は交代で敵の夜襲を警戒したり、宿内の火の番に回ったりした。
三百人ばかりの後陣の者は容易に下諏訪へ到着しない。今度の戦闘の遊軍で、負傷者などを介抱するのもそれらの人たちであったから、道に隙(ひま)がとれておくれるものと知れた。その間、本陣に集まる幹部のものの中にはすでに「明日」の評定がある。もともと浪士らは高島城を目がけて来たものでもない。西への進路を切り開くためにのみ、やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。その夜の評定に上ったは、前途にどこをたどるべきかだ。道は二つある。これから塩尻峠(しおじりとうげ)へかかり、桔梗(ききょう)が原(はら)を過ぎ、洗馬(せば)本山(もとやま)から贄川(にえがわ)へと取って、木曾(きそ)街道をまっすぐに進むか。それとも岡谷(おかや)辰野(たつの)から伊那(いな)道へと折れるか。木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。二十二里余にわたる木曾の森林の間は、嶮岨(けんそ)な山坂が多く、人馬の継立(つぎた)ても容易でないと見なされた。彼らはむしろ谷も広く間道も多い伊那の方をえらんで、一筋の血路をそちらの方に求めようと企てたのである。
不眠不休ともいうべき下諏訪での一夜。ようやく後陣のものが町に到着して一息ついたと思うころには、本陣ではすでに夜立ちの行動を開始した。だれ一人、この楽しい湯の香のする町に長く踏みとどまろうとするものもない。一刻も早くこれを引き揚げようとして多くの中にはろくろく湯水を飲まないものさえある。
「夜盗を警戒せよ。」
その声は、幹部のものの間からも、心ある兵士らの間からも起こった。この混雑の中で、十五、六軒ばかりの土蔵が切り破られた。だれの所業(しわざ)ともわからないような盗みが行なわれた。浪士らが引き揚げを急いでいるどさくさまぎれの中で。ほとんど無警察にもひとしい町々の暗黒の中で。
暁(あけ)の六つ時(どき)には浪士は残らず下諏訪を出立した。平出宿(ひらでしゅく)小休み、岡谷(おかや)昼飯の予定で。あわただしく道を急ごうとする多数のものの中には、陣羽織のままで大八車(だいはちぐるま)を押して行くのもある。甲冑(かっちゅう)も着ないで馬に乗って行くのもある。負傷兵を戸板で運ぶのもある。もはや、大霜(おおしも)だ。天もまさに寒かった。 

もとより浪士らは後方へ引き返すべくもない。幕府から回された討手(うって)の田沼勢は絶えず後ろから追って来るとの報知(しらせ)もある。千余人からの長い行列は前後を警戒しながら伊那の谷に続いた。
筑波(つくば)の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真(ま)に受けた地方人民の中には、実際に浪士の一行を迎えて見て旅籠銭(はたごせん)一人前弁当用共にお定めの二百五十文ずつ払って通るのを意外とした。あるものはまた、一行と共に動いて行く金の葵紋(あおいもん)の箱、長柄(ながえ)の傘(かさ)、御紋付きの長持から、長棒の駕籠(かご)の類(たぐい)まであるのを意外として、まるで三、四十万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。
しかし、それも理のないことではない。なぜかなら、その葵紋の箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこにいないまでも、一行が「従二位大納言」の大旗を奉じながら動いて行くところは、生きてる人を護(まも)るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸|駒込(こまごめ)の別邸で永蟄居(えいちっきょ)を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書した旗を押し立てながら動いて行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の臣である彼らは、そこにいない御隠居にでもすがり、その人の志を彼らの志として、一歩でも遠く常陸(ひたち)のふるさとから離れようとしていたからで。
天龍川(てんりゅうがわ)のほとりに出てからも、浪士らは武装を解こうとしなかった。いずれも鎧兜(よろいかぶと)、あるいは黒の竪烏帽子(たてえぼし)、陣羽織のいでたちである。高く掲げた紅白の旗、隊伍を区別する馬印(うまじるし)などは、馬上の騎士が携えた抜き身の鎗(やり)に映り合って、その無数の群立と集合との感じが一行の陣容をさかんにした。各部隊の護って行く二門ずつの大砲には皆御隠居の筆の跡が鋳(い)てある。「発而皆中節(はっしてみなせつにあたる)、源斉昭書(みなもとのなりあきしょ)」の銘は浪士らが誇りとするものだ。行列の中央に高く「尊攘(そんじょう)」の二字を掲げた旗は、陣太鼓と共に、筑波以来の記念でもあった。参謀の兵部は軍中第二班にある。采配を腰にさし、甲冑(かっちゅう)騎馬で、金の三蓋猩々緋(さんがいしょうじょうひ)の一段幡連(いちだんばれん)を馬印に立て、鎗鉄砲を携える百余人の武者を率いた。総勢の隊伍(たいご)を、第一班から第六班までの備えに編み、騎馬の使番に絶えず前後周囲を見回らせ、隊列の整頓(せいとん)と行進の合図には拍子木(ひょうしぎ)を用いることなぞ皆この人の精密な頭脳から出た。水戸家の元|側用人(そばようにん)で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金(そうきん)の馬印を立て、百人ほどの銃隊士に護(まも)られながら中央の部隊を堅めた。五十人ばかりの鎗隊士を従えた稲右衛門は梶(かじ)の葉の馬印で、副将らしい威厳を見せながらそのあとに続いた。主将耕雲斎は「奉勅」の旗を先に立て、三蓋菱(さんがいびし)の馬印を立てた百人ばかりの騎兵隊がその前に進み、二百人ばかりの歩行武者の同勢は抜き身の鎗でそのあとから続いた。山国兵部父子はもとよりその他にも親子で連れだって従軍するものもある。各部隊が護って行く思い思いの旗の文字は、いずれも水府義士をもって任ずる彼らの面目を語っている。その中にまじる「百花の魁(さきがけ)」とは、中世以来の堅い殻(から)を割ってわずかに頭を持ち上げようとするような、彼らの早い先駆感をあらわして見せている。
伊那には高遠藩(たかとおはん)も控えていた。和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老|水野新左衛門(みずのしんざえもん)という人の討死(うちじに)、そのほか多数の死傷に加えて浪士側に分捕(ぶんど)りせられた陣太鼓、鎗、具足、大砲なぞのうわさは高遠藩を沈黙させた。それでも幕府のきびしい命令を拒みかねて、同藩では天龍川の両岸に出兵したが、浪士らの押し寄せて来たと聞いた時は指揮官はにわかに平出(ひらで)の陣地を撤退して天神山(てんじんやま)という方へ引き揚げた。それからの浪士らは一層勇んで一団となった行進を続けることができた。
進み過ぎる部隊もなく、おくれる部隊もなかった。中にはめずらしい放吟の声さえ起こる。馬上で歌を詠ずるものもある。路傍(みちばた)の子供に菓子などを与えながら行くものもある。途中で一行におくれて、また一目散に馬を飛ばす十六、七歳の小冠者(こかんじゃ)もある。
こんなふうにしてさらに谷深く進んだ。二十二日には浪士らは上穂(かみほ)まで動いた。そこまで行くと、一万七千石を領する飯田(いいだ)城主|堀石見守(ほりいわみのかみ)は部下に命じて市田村(いちだむら)の弓矢沢というところに防禦(ぼうぎょ)工事を施し、そこに大砲数門を据(す)え付けたとの報知(しらせ)も伝わって来た。浪士らは一つの難関を通り過ぎて、さらにまた他の難関を望んだ。
「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたがたの立場を思い、飯田藩の立場を思いまして、及ばずながら斡旋(あっせん)の労を執りたい考えで同道してまいりました。わたしたちは三人とも平田|篤胤(あつたね)の門人です。」
浪士らの幹部の前には、そういうめずらしい人たちがあらわれた。そのうちの一人(ひとり)は伊那座光寺(いなざこうじ)にある熱心な国学の鼓吹者(こすいしゃ)仲間で、北原稲雄が弟の今村豊三郎(いまむらとよさぶろう)である。一人は将軍最初の上洛(じょうらく)に先立って足利尊氏(あしかがたかうじ)が木像の首を三条河原(さんじょうがわら)に晒(さら)した示威の関係者、あの事件以来伊那に来て隠れている暮田正香(くれたまさか)である。
入り込んで来る間諜(かんちょう)を警戒する際で、浪士側では容易にこの三人を信じなかった。その時応接に出たのは道中|掛(がか)りの田村宇之助(たむらうのすけ)であったが、字之助は思いついたように尋ねた。
「念のためにうかがいますが、伊那の平田御門人は『古史伝』の発行を企てているように聞いています。あれは何巻まで行ったでしょうか。」
「そのことですか。今じゃ第四|帙(ちつ)まで進行しております。一帙四巻としてありますが、もう第十六の巻(まき)を出しました。お聞き及びかどうか知りませんが、その上木(じょうぼく)を思い立ったのは座光寺の北原稲雄です。これにおります今村豊三郎の兄に当たります。」正香が答えた。
こんなことから浪士らの疑いは解けた。そこへ三人が持ち出して、及ばずながら斡旋の労を執りたいというは、浪士らに間道の通過を勧め、飯田藩との衝突を避けさせたいということだった。正香や豊三郎は一応浪士らの意向を探りにやって来たのだ。もとより浪士側でも戦いを好むものではない。飯田藩を傷つけずに済み、また浪士側も傷つかずに済むようなこの提案に不賛成のあろうはずもない。異議なし。それを聞いた三人は座光寺の方に待っている北原稲雄へもこの情報を伝え、飯田藩ともよく交渉を重ねて来ると言って、大急ぎで帰って行った。
二十三日には浪士らは片桐(かたぎり)まで動いた。その辺から飯田へかけての谷間(たにあい)には、数十の郷村が天龍川の両岸に散布している。岩崎|長世(ながよ)、北原稲雄、片桐|春一(しゅんいち)らの中心の人物をはじめ、平田篤胤没後の門人が堅く根を張っているところだ。飯田に、山吹(やまぶき)に、伴野(ともの)に、阿島(あじま)に、市田に、座光寺に、その他にも熱心な篤胤の使徒を数えることができる。この谷だ。今は黙ってみている場合でないとして、北原|兄弟(きょうだい)のような人たちがたち上がったのに不思議もない。
その片桐まで行くと、飯田の城下も近い。堀石見守(ほりいわみのかみ)の居城はそこに測りがたい沈黙を守って、浪士らの近づいて行くのを待っていた。その沈黙の中には御会所での軍議、にわかな籠城(ろうじょう)の準備、要所要所の警戒、その他、どれほどの混乱を押し隠しているやも知れないかのようであった。万一、同藩で籠城のことに決したら、市内はたちまち焼き払われるであろう。その兵火戦乱の恐怖は老若男女の町の人々を襲いつつあった。
夜、武田(たけだ)本陣にあてられた片桐の問屋へは、飯田方面から、豊三郎が兄の北原稲雄と一緒に早|駕籠(かご)を急がせて来た。その時、浪士側では横田東四郎と藤田(ふじた)小四郎とが応接に出た。飯田藩として間道の通過を公然と許すことは幕府に対し憚(はばか)るところがあるからと言い添えながら、北原兄弟は町役人との交渉の結果を書面にして携えて来た。その書面には左の三つの条件が認(したた)めてあった。
一、飯田藩は弓矢沢の防備を撤退すること。
二、間道に修繕を加うること。
三、飯田町にて軍資金三千両を醵出(きょしゅつ)すること。
「お前はこの辺の百姓か。人足の手が足りないから、鎗(やり)をかついで供をいたせ。」
「いえ、わたくしは旅の者でございます、お供をいたすことは御免こうむりましょう。」
「うんにゃ、そう言わずに、片桐の宿までまいれば許してつかわす。」
上伊那の沢渡村(さわどむら)という方から片桐宿まで、こんな押し問答の末に一人の百姓を無理押しつけに供に連れて来た浪士仲間の後殿(しんがり)のものもあった。
いよいよ北原兄弟が奔走周旋の結果、間道通過のことに決した浪士の一行は片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊(せんぽうたい)のうちにはすでに駒場(こまば)泊まりで出かけるものもある。
後殿(しんがり)の浪士は上伊那から引ッぱって来た百姓をなかなか放そうとしなかった。その百姓は年のころ二十六、七の働き盛りで、荷物を持ち運ばせるには屈強な体格をしている。
「お前はどこの者か。」と浪士がきいた。
「わたくしですか。諏訪飯島村(すわいいじまむら)の生まれ、降蔵(こうぞう)と申します。お約束のとおり片桐までお供をいたしました。これでお暇(いとま)をいただきます。」
「何、諏訪だ?」
いきなり浪士はその降蔵を帯で縛りあげた。それから言葉をつづけた。
「その方は天誅(てんちゅう)に連れて行くから、そう心得るがいい。」
近くにある河(かわ)のところまで浪士は後ろ手にくくった百姓を引き立てた。「天誅」とはどういうわけかと降蔵が尋ねると、天誅とは首を切ることだと浪士が言って見せる。不幸な百姓は震えた。
「お武家様、わたくしは怪しい者でもなんでもございません。伊那(いな)辺まで用事があってまいる途中、御通行ということで差し控えていたものでございます。これからはいかようにもお供をいたしますから、お助けを願います。」
「そうか。しからば、その方は正武隊に預けるから、兵糧方(ひょうろうかた)の供をいたせ。」
人足一人を拾って行くにも、浪士らはこの調子だった。
諸隊はすでに続々間道を通過しつつある。その道は飯田の城下を避けて、上黒田で右に折れ、野底山から上飯田にかかって、今宮という方へと取った。今宮に着いたころは一同休憩して昼食をとる時刻だ。正武隊付きを命ぜられた諏訪の百姓降蔵は片桐から背負(しょ)って来た具足櫃(ぐそくびつ)をそこへおろして休んでいると、いろは付けの番号札を渡され、一本の脇差(わきざし)をも渡された。家の方へ手紙を届けたければ飛脚に頼んでやるなぞと言って、兵糧方の別当はいろいろにこの男をなだめたりすかしたりした。荷物を持ち労(つか)れたら、ほかの人足に申し付けるから、ぜひ京都まで一緒に行けとも言い聞かせた。別当はこの男の逃亡を気づかって、小用に立つにも番人をつけることを忘れなかった。
京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。
「わたくしも国元には両親がございます。御免こうむりとうございます。お暇(いとま)をいただきとうございます。」
「そんなことを言うと天誅(てんちゅう)だぞ。」
別当の威(おど)し文句だ。
切石まで間道を通って、この浪士の諸隊は伊那の本道に出た。参州街道がそこに続いて来ている。大瀬木(おおせぎ)というところまでは、北原稲雄が先に立って浪士らを案内した。伊那にある平田門人の先輩株で、浪士間道通過の交渉には陰ながら尽力した倉沢義髄(くらさわよしゆき)も、その日は稲雄と一緒に歩いた。別れぎわに浪士らは、稲雄の骨折りを感謝し、それに報いる意味で記念の陣羽織を贈ろうとしたが、稲雄の方では幕府の嫌疑(けんぎ)を慮(おもんぱか)って受けなかった。
その日の泊まりと定められた駒場(こまば)へは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠(まつおまこと)(松尾|多勢子(たせこ)の長男)とは伴野(ともの)から。増田平八郎(ますだへいはちろう)と浪合佐源太(なみあいさげんた)とは浪合から。駒場には同門の医者山田|文郁(ぶんいく)もある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある、清内路(せいないじ)の原|信好(のぶよし)、馬籠(まごめ)の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷(はちや)香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。
清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。
「諸君――これから一里北へ引き返してください。山本というところから右に折れて、清内路の方へ向かうようにしてください。」
道中掛りはそのことを諸隊に触れて回った。
伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、大平峠(おおだいらとうげ)を越えるか、梨子野峠(なしのとうげ)を越えるか、いずれにしても奥山の道をたどらねばならない。木曾下四宿への当分|助郷(すけごう)、あるいは大助郷の勤めとして、伊那百十九か村の村民が行き悩むのもその道だ。木から落ちる山蛭(やまびる)、往来(ゆきき)の人に取りつく蚋(ぶよ)、勁(つよ)い風に鳴る熊笹(くまざさ)、そのおりおりの路傍に見つけるものを引き合いに出さないまでも、昼でも暗い森林の谷は四里あまりにわたっている。旅するものはそこに杣(そま)の生活と、わずかな桑畠(くわばたけ)と、米穀も実らないような寒い土地とを見いだす。その深い山間(やまあい)を分けて、浪士らは和田峠合戦以来の負傷者から十数門の大砲までも運ばねばならない。  

半蔵は馬籠本陣の方にいて、この水戸浪士を待ち受けた。彼が贄川(にえがわ)や福島の庄屋(しょうや)と共に急いで江戸を立って来たのは十月下旬で、ようやく浪士らの西上が伝えらるるころであった。時と場合により、街道の混乱から村民を護(まも)らねばならないとの彼の考えは、すでにそのころに起こって来た。諸国の人の注意は尊攘を標榜(ひょうぼう)する水戸人士の行動と、筑波(つくば)挙兵以来の出来事とに集まっている当時のことで、那珂港(なかみなと)の没落と共に榊原新左衛門(さかきばらしんざえもん)以下千二百余人の降参者と武田耕雲斎はじめ九百余人の脱走者とをいかに幕府が取りさばくであろうということも多くの人の注意を引いた。三十日近くの時の間には、幕府方に降(くだ)った宍戸侯(ししどこう)(松平|大炊頭(おおいのかみ))の心事も、その運命も、半蔵はほぼそれを聞き知ることができたのである。幕府の参政田沼玄蕃頭は耕雲斎らが政敵市川三左衛門の意見をいれ、宍戸侯に死を賜わったという。それについで死罪に処せられた従臣二十八人、同じく水戸藩士|二人(ふたり)、宍戸侯の切腹を聞いて悲憤のあまり自殺した家来数人、この難に死んだものは都合四十三人に及んだという。宍戸侯の悲惨な最期――それが水戸浪士に与えた影響は大きかった。賊名を負う彼らの足が西へと向いたのは、それを聞いた時であったとも言わるる。「所詮(しょせん)、水戸家もいつまで幕府のきげんを取ってはいられまい」との意志の下に、潔く首途(かどで)に上ったという彼ら水戸浪士は、もはや幕府に用のない人たちだった。前進あるのみだった。
半蔵に言わせると、この水戸浪士がいたるところで、人の心を揺り動かして来るには驚かれるものがある。高島城をめがけて来たでもないものがどうしてそんなに諏訪藩(すわはん)に恐れられ、戦いを好むでもないものがどうしてそんなに高遠藩(たかとおはん)や飯田藩(いいだはん)に恐れられるだろう。実にそれは命がけだからで。二百何十年の泰平に慣れた諸藩の武士が尚武(しょうぶ)の気性のすでに失われていることを眼前に暴露して見せるのも、万一の節はひとかどの御奉公に立てと日ごろ下の者に教えている人たちの忠誠がおよそいかなるものであるかを眼前に暴露して見せるのも、一方に討死(うちじに)を覚悟してかかっているこんな水戸浪士のあるからで。
それにしても、江戸両国の橋の上から丑寅(うしとら)の方角に遠く望んだ人たちの動きが、わずか一月(ひとつき)近くの間に伊那の谷まで進んで来ようとは半蔵の身にしても思いがけないことであった。水戸の学問と言えば、少年時代からの彼が心をひかれたものであり、あの藤田東湖の『正気(せいき)の歌』なぞを好んで諳誦(あんしょう)したころの心は今だに忘れられずにある。この東湖先生の子息(むすこ)さんにあたる人を近くこの峠の上に、しかも彼の自宅に迎え入れようとは、思いがけないことであった。平田門人としての彼が、水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんなふうにして来ようとは、なおなお思いがけないことであった。
別に、半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、心にかかる一人の旧友もあった。平田同門の亀山嘉治(かめやまよしはる)が八月十四日|那珂港(なかみなと)で小荷駄掛(こにだがか)りとなって以来、十一月の下旬までずっと浪士らの軍中にあったことを半蔵が知ったのは、つい最近のことである。いよいよ浪士らの行路が変更され、参州街道から東海道に向かうと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が陣中からよこした一通の手紙でその事が判然(はっきり)した。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが、寸功なくして今日にいたったとあり、いったん武田藤田らと約した上は死生を共にする覚悟であるということも認(したた)めてある。今回下伊那の飯島というところまで来て、はからず同門の先輩暮田正香に面会することができたとある。馬籠泊まりの節はよろしく頼む、その節は何年ぶりかで旧(むかし)を語りたいともある。
「半蔵さん、この騒ぎは何事でしょう。」
と言って、隣宿|妻籠(つまご)本陣の寿平次はこっそり半蔵を見に来た。
その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、木曾谷の両端へお堅めの兵を出している。東は贄川(にえがわ)の桜沢口へ。西は妻籠の大平口へ。もっとも、妻籠の方へは福島の砲術指南役|植松菖助(うえまつしょうすけ)が大将で五、六十人の一隊を引き連れながら、伊那の通路を堅めるために出張して来た。夜は往還へ綱を張り、その端に鈴をつけ、番士を伏せて、鳴りを沈めながら周囲を警戒している。寿平次はその妻籠の方の報告を持って、馬籠の様子をも探りに来た。
「寿平次さん、君の方へは福島から何か沙汰(さた)がありましたか。」
「浪士のことについてですか。本陣問屋へはなんとも言って来ません。」
「何か考えがあると見えて、わたしの方へもなんとも言って来ない。これが普通の場合なら、浪士なぞは泊めちゃならないなんて、沙汰のあるところですがね。」
「そりゃ、半蔵さん、福島の旦那(だんな)様だってなるべく浪士には避(よ)けて通ってもらいたい腹でいますさ。」
「いずれ浪士は清内路(せいないじ)から蘭(あららぎ)へかかって、橋場へ出て来ましょう。あれからわたしの家をめがけてやって来るだろうと思うんです。もし来たら、わたしは旅人として迎えるつもりです。」
「それを聞いてわたしも安心しました。馬籠から中津川の方へ無事に浪士を落としてやることですね、福島の旦那様も内々(ないない)はそれを望んでいるんですよ。」
「妻籠の方は心配なしですね。そんなら、寿平次さん、お願いがあります。あすはかなりごたごたするだろうと思うんです。もし妻籠の方の都合がついたら来てくれませんか。なにしろ、君、急な話で、したくのしようもない。けさは会所で寄り合いをしましてね、村じゅう総がかりでやることにしました。みんな手分けをして、出かけています。わたしも今、一息入れているところなんです。」
「そう言えば、今度は飯田でもよっぽど平田の御門人にお礼を言っていい。君たちのお仲間もなかなかやる。」
「平田門人もいくらか寿平次さんに認められたわけですかね。」
その時、宿泊人数の割り当てに村方へ出歩いていた宿役人仲間も帰って来て、そこへ顔を見せる。年寄役の伊之助は荒町(あらまち)から。問屋九郎兵衛は峠から。馬籠ではたいがいの家が浪士の宿をすることになって、万福寺あたりでも引き受けられるだけ引き受ける。本陣としての半蔵の家はもとより、隣家の伊之助方でも向こう側の隠宅まで御用宿ということになり同勢二十一人の宿泊の用意を引き受けた。
「半蔵さん、それじゃわたしは失礼します。都合さえついたら、あす出直して来ます。」
寿平次はこっそりやって来て、またこっそり妻籠の方へ帰って行った。
にわかに宿内の光景も変わりつつあった。千余人からの浪士の同勢が梨子野峠(なしのとうげ)を登って来ることが知れると、在方(ざいかた)へ逃げ去るものがある。諸道具を土蔵に入れるものがある。大切な帳面や腰の物を長持に入れ、青野という方まで運ぶものがある。
旧暦十一月の末だ。二十六日には冬らしい雨が朝から降り出した。その日の午後になると、馬籠宿内の女子供で家にとどまるものは少なかった。いずれも握飯(むすび)、鰹節(かつおぶし)なぞを持って、山へ林へと逃げ惑うた。半蔵の家でもお民は子供や下女を連れて裏の隠居所まで立ち退(の)いた。本陣の囲炉裏(いろり)ばたには、栄吉、清助をはじめ、出入りの百姓や下男の佐吉を相手に立ち働くおまんだけが残った。
「姉(あね)さま。」
台所の入り口から、声をかけながら土間のところに来て立つ近所の婆(ばあ)さんもあった。婆さんはあたりを見回しながら言った。
「お前さまはお一人(ひとり)かなし。そんならお前さまはここに残らっせるつもりか。おれも心細いで、お前さまが行くなら一緒に本陣林へでも逃げずかと思って、ちょっくら様子を見に来た。今夜はみんな山で夜明かしだげな。おまけに、この意地の悪い雨はどうだなし。」
独(ひと)り者の婆さんまでが逃げじたくだ。
半蔵は家の外にも内にもいそがしい時を送った。水戸浪士をこの峠の上の宿場に迎えるばかりにしたくのできたころ、彼は広い囲炉裏ばたへ通って、そこへ裏二階から母屋(もや)の様子を見に来る父|吉左衛門(きちざえもん)とも一緒になった。
「何しろ、これはえらい騒ぎになった。」と吉左衛門は案じ顔に言った。「文久元年十月の和宮(かずのみや)さまがお通り以来だぞ。千何百人からの同勢をこんな宿場で引き受けようもあるまい。」
「お父(とっ)さん、そのことなら、落合の宿でも分けて引き受けると言っています。」と半蔵が言う。
「今夜のお客さまの中には、御老人もあるそうだね。」
「その話ですが、山国兵部という人はもう七十以上だそうです。武田耕雲斎、田丸稲右衛門、この二人も六十を越してると言いますよ。」
「おれも聞いた。人が六、七十にもなって、全く後方(うしろ)を振り返ることもできないと考えてごらんな。生命(いのち)がけとは言いながら――えらい話だぞ。」
「今度は東湖先生の御子息さんも御一緒です。この藤田小四郎という人はまだ若い。二十三、四で一方の大将だというから驚くじゃありませんか。」
「おそろしく早熟なかただと見えるな。」
「まあ、お父(とっ)さん。わたしに言わせると、浪士も若いものばかりでしたら、京都まで行こうとしますまい。水戸の城下の方で討死(うちじに)の覚悟をするだろうと思いますね。」
「そりゃ、半蔵。老人ばかりなら、最初から筑波山(つくばさん)には立てこもるまいよ。」
父と子は互いに顔を見合わせた。
幕府への遠慮から、駅長としての半蔵は家の門前に「武田伊賀守様|御宿(おんやど)」の札も公然とは掲げさせなかったが、それでも玄関のところには本陣らしい幕を張り回させた。表向きの出迎えも遠慮して、年寄役伊之助と組頭(くみがしら)庄助(しょうすけ)の二人と共に宿はずれまで水戸の人たちを迎えようとした。
「お母(っか)さん、お願いしますよ。」
と彼が声をかけて行こうとすると、おまんはあたりに気を配って、堅く帯を締め直したり、短刀をその帯の間にはさんだりしていた。
もはや、太鼓の音だ。おのおの抜き身の鎗(やり)を手にした六人の騎馬武者と二十人ばかりの歩行(かち)武者とを先頭にして、各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た。
この一行の中には、浪士らのために人質に取られて、腰繩(こしなわ)で連れられて来た一人の飯田の商人もあった。浪士らは、椀屋文七(わんやぶんしち)と聞こえたこの飯田の商人が横浜貿易で一万両からの金をもうけたことを聞き出し、すくなくも二、三百両の利得を吐き出させるために、二人の番士付きで伊那から護送して来た。きびしく軍の掠奪(りゃくだつ)を戒め、それを犯すものは味方でも許すまいとしている浪士らにも一方にはこのお灸(きゅう)の術があった。ヨーロッパに向かって、この国を開くか開かないかはまだ解決のつかない多年の懸案であって、幕府に許されても朝廷から許されない貿易は売国であるとさえ考えるものは、排外熱の高い水戸浪士中に少なくなかったのである。 
第十一章

 


「青山君――伊那にある平田門人の発起(ほっき)で、近く有志のものが飯田(いいだ)に集まろうとしている。これはよい機会と思われるから、ぜひ君を誘って一緒に伊那の諸君を見に行きたい。われら両人はその心組みで馬籠(まごめ)までまいる。君の都合もどうあろうか。ともかくもお訪(たず)ねする。」
   中津川にて
   景蔵
   香蔵
馬籠にある半蔵あてに、二人(ふたり)の友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
美濃(みの)の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士らが清内路(せいないじ)から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。北原稲雄兄弟をはじめ、浪士らの間道通過に斡旋(あっせん)した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。景蔵や香蔵が訪(たず)ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様(かずのみやさま)御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。
「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう。」
香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居(すまい)の門口から声をかけた。そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、しばらく逗留(とうりゅう)したりして行くような幾多の志士たち――たとえば、内藤頼蔵(ないとうらいぞう)、磯山新助(いそやましんすけ)、長谷川鉄之進(はせがわてつのしん)、伊藤祐介(いとうゆうすけ)、二荒四郎(ふたらしろう)、東田行蔵(ひがしだこうぞう)らの人たちを優にかばいうるほどの奥行きの深い本陣である。そこはまた、過ぐる文久二年の夏、江戸屋敷の方から来た長州侯の一行が木曾街道経由で上洛(じょうらく)の途次、かねての藩論たる公武合体、航海遠略から破約|攘夷(じょうい)へと、大きく方向の転換を試みるための中津川会議を開いた由緒(ゆいしょ)の深い家でもある。
「どうでしょう、香蔵さん、大平峠(おおだいらとうげ)あたりは雪でしょうか。」
「さあ、わたしもそのつもりでしたくして来ました。」
二人の友だちはまずこんな言葉をかわした。景蔵のしたくもできた。とりあえず馬籠まで行こう、二人して半蔵を驚かそうと言うのは香蔵だ。年齢の相違こそあれ、二人は旧(ふる)い友だちであり、平田の門人仲間であり、互いに京都まで出て幾多の政変の渦(うず)の中にも立って見た間柄である。その時の二人は供の男も連れず、途中は笠(かさ)に草鞋(わらじ)があれば足りるような身軽な心持ちで、思い思いの合羽(かっぱ)に身を包みながら、午後から町を離れた。もっとも、飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考えると紋付の羽織に袴(はかま)ぐらい風呂敷包(ふろしきづつ)みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、馬籠本陣への手土産(てみやげ)も忘れてはいなかったが。
中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合(おちあい)の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠(じっきょくとうげ)にかかって、あれから信濃(しなの)の国境(くにざかい)に出られる。各駅の人馬賃銭が六倍半にも高くなったその年の暮れあたりから見ると、二人の青年時代には駅と駅との間を通う本馬(ほんま)五十五文、軽尻(からじり)三十六文、人足二十八文と言ったところだ。
水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った。飯田の方で北原兄弟が間道通過のことに尽力してからこのかた、清内路に、馬籠に、中津川に、浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのはいずれもこの地方に本陣庄屋なぞをつとめる平田門人らのもとであった。一方には幕府への遠慮があり、一方には土地の人たちへの心づかいがあり、平田門人らの苦心も一通りではなかった。木曾にあるものも、東美濃にあるものも、同門の人たちは皆この事件からは強い衝動を受けた。
水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、実にいろいろなものが残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋(いなばや)まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした首級の埋葬方を依頼された時のことも、まだ二人の記憶に生々(なまなま)しい。これは和田峠で戦死したのをこれまで渋紙包みにして持参したのである。二男藤三郎、当年十八歳になるものの首級であると言って、実父の東四郎がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。そういう横田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛(こにだがか)り亀山嘉治(かめやまよしはる)と共に、水戸浪士中にある三人の平田門人でもあったのだ。
浪士らの行動についてはこんな話も残った。和田峠合戦のあとをうけ下諏訪(しもすわ)付近の混乱をきわめた晩のことで、下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。背中には長煩(ながわずら)いで床についていた一人の老母もある。どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、母は背に負われて腹筋の痛みに堪(た)えがたいと言い出す。その時の母の言葉に、自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、その方は若者だ、どんな憂(う)き目を見ないともかぎるまいから、早く身を隠せよ。そう言われた百姓は、どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、古筵(ふるむしろ)なぞを母にきせて介抱していると、ちょうどそこへ来かかった二人の浪士の発見するところとなった。お前は当所のものであろう、寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、百姓は大病の老母を控えていることを答えて、その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。しからば自分の家来を老母に付けて置こう、早く案内せとその浪士に言われて見ると、百姓も断わりかねた。案内した先は三町ほど隔たった来迎寺(らいごうじ)の境内だ。浪士はあちこちと場所を選んだ。扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。敬い拝して言うことには、こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思(おぼ)し召されよう、軍(いくさ)の習い、是非ないことと思し召されよと、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。それから浪士は元のところへ引き返して来て、それまで案内した男に褒美(ほうび)として短刀を与えたが、百姓の方ではそれを受けようとしなかった。元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、銀壱朱をそこに投げやりながら、家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。
こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。
景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角(まちかど)で一人の若者にあった。稲葉屋の子息(むすこ)勝重(かつしげ)だ。長いこと半蔵に就(つ)いて内弟子(うちでし)として馬籠本陣の方にあった勝重も、その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。
「勝重さんもよい子息(むすこ)さんになりましたね。」
驚くばかりの成長の力を言いあらわすべき言葉もないというふうに、二人は勝重の前に立って、まだ前髪のあるその額(ひたい)つきをながめながら、かわるがわるいろいろなことを尋ねて見た。この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。その日は二人とも馬籠泊まりのつもりであり、急ぐ道でもなかったからで。のみならず、落合村の長老として知られた勝重の父儀十郎を見ることも、二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。
稲葉屋へ寄って見ると、そこでも浪士らのうわさが尽きない。横田東四郎からその子の首級を託せられた節は稲葉屋でも驚いたであろうという景蔵らの顔を見ると、勝重の父親はそれだけでは済まさなかった。あの翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人|万屋安兵衛(よろずややすべえ)と大和屋李助(やまとやりすけ)の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、金子(きんす)二百両の無心のあったことを語り出すのも勝重の父親だ。
「その話はわたしも聞きました。」と景蔵が笑う。
「でも、世の中は回り回っていますね。」と香蔵は言った。「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて。」
「そこは安兵衛さんです。」と儀十郎は昔気質(むかしかたぎ)な年寄役らしい調子で、「あの人は即答はできないが、一同でよく相談して来ると言って、いったん中津川の方へ引き取って行きました。それから、あなた、生糸(きいと)取引に関係のあったものが割前で出し合いまして、二百両耳をそろえてそこへ持って来ましたよ。」
「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった。」と香蔵が言う。
しかし、一方に、浪士らが軍律をきびしくすることも想像以上で、幹部の目を盗んで民家を掠奪(りゃくだつ)した一人の土佐(とさ)の浪人のあることが発見され、この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同志で追跡して、とうとうその男を天誅(てんちゅう)に処した、その男の逃げ込んだ百姓家へは手当てとして金子一両を家内のものへ残して行ったと語って見せるのも、またこの儀十郎だ。
「何にいたせ、あの同勢が鋭い抜き身の鎗(やり)や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、恐ろしゅうございました。」
それを儀十郎が言うと、子息は子息で、
「あの藤田小四郎が吾家(うち)へも書いたものを残して行きましたよ。大きな刀をそばに置きましてね、何か書くから、わたしに紙を押えていろと言われた時は、思わずこの手が震えました。」
「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷(はちや)さんにもお目にかけな。」
浪士らは行く先に種々(さまざま)な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅(くろいとおどし)の甲冑片袖(かっちゅうかたそで)を残した。それは玉子色の羽二重(はぶたえ)に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。
「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です。」と儀十郎が言う。
「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう。」
景蔵の答えだ。
その時、勝重は若々しい目つきをしながら、小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという唐土(とうど)の予譲(よじょう)を想(おも)わせるようなはげしい水戸人の気性(きしょう)がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四歳の青年とは思われないような老成な筆蹟(ひっせき)で。
大丈夫当雄飛(だいじょうふまさにゆうひすべし)安雌伏(いずくんぞしふくせんや)
   藤田信
「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう。」
景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。
その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前(えちぜん)の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然(はっきり)しない。中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を出立した浪士らは加納藩(かのうはん)や大垣藩(おおがきはん)との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井(たるい)あたりの要処には彦根藩(ひこねはん)の出兵があると聞いて、あれから道を西北方に転じ、長良川(ながらがわ)を渡ったものらしい。師走(しわす)の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境(くにざかい)にあたる蝿帽子峠(はえぼうしとうげ)の険路を越えて行ったという。
「あの蝿帽子峠の手前に、クラヤミ峠というのがございます。」と儀十郎は言って見せた。「ひどい峠で、三里の間は闇(やみ)を行くようだと申しますんで、それで俗にクラヤミでございますさ。あの辺は深い雪と聞きますから、浪士も難渋いたしましたろうよ。」
「千辛万苦の旅ですね。」
と勝重も言っていた。
間もなく景蔵らはこの稲葉屋を辞して、落合の宿をも離れた。中山薬師から十曲峠にかかって、新茶屋に出ると、そこはもう隣の国だ。雪まじりに土のあらわれた街道は次第に白く変わっていた。鋭い角度を見せた路傍の大石も雪にぬれていて、まず木曾路の入り口の感じを二人に与える。
師走の五日には中津川や落合へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上では、宿場そのものがすでに冬ごもりだ。南側の雪は溶けても、北側は溶けずに、石を載せた板屋根までが山家らしいところで、中津川から行った二人の友だちはそこに待ちわび顔な半蔵とも、その家族の人たちとも一緒になった。
この伊那(いな)行きはひどく半蔵をもよろこばせた。水戸浪士の通過を最後にして、その年の街道の仕事もどうやら一段落を告げたばかりではない。浪士らの残して置いて行った刺激は彼の心を静かにさせて置かなかったからである。浪士らの通過以来、伊那にある平田門人らはしきりに往来し始めたと聞くころだ。半蔵もまた二人の年上の友だちと共に、たとい大平峠の雪を踏んでも、伊那の谷の方にある同門の人たちを見に行かずにはいられなかった。
馬籠本陣の店座敷では、翌朝の出発を楽しみにする三人が久しぶりの炬燵話(こたつばなし)に集まった。そこへ半蔵の父吉左衛門も茶色な袖無(そでな)し羽織などを重ねながらちょっと挨拶(あいさつ)に来て、水戸浪士のうわさを始める。
「中津川の方はいかがでしたか。」
「そりゃ、香蔵さん、馬籠は君たちの方と違って、隣に妻籠(つまご)というものを控えていましょう。福島から出張した人たちは大平口を堅める。えらい騒ぎでしたさ。」と半蔵が言う。
「いや、はや、あの時は福島の家中衆も大あわて。」とまた吉左衛門が言って見せた。「あとになって軍用の荷物をあけて見たら、あなた、桜沢口の方へは鉄砲の玉ばかり行って、大平口の方へはまた焔硝(えんしょう)(火薬)ばかり来ておりましたなんて。まあ、無事に浪士を落としてやってよかったと思うものは、わたしたちばかりじゃありますまい。あれから総督の田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)が浪士の跡を追って来るというので、またこちらじゃ一騒ぎでしたよ。御同勢千人あまり、残らず軍(いくさ)の陣立てで、剣付鉄砲を一|挺(ちょう)ずつ用意しまして、浪士の立った翌日には伊那道の広瀬村泊まりで追って来るなぞといううわさでしょう。御承知のとおり、宅では浪士の宿をしましたから、どういうことになろうかと思って、ひどく心配しました。あの翌々日には、お先荷の長持だけはまいりましたが、とうとう田沼侯の御同勢はまいりませんでした。あの時ばかりはわたしもホッとしましたよ。聞けば飯田藩じゃ、御家老が切腹したといううわさじゃありませんか。おまけに、清内路の御関所番までも……」
吉左衛門は年老いた手を膝(ひざ)の上に置いて、深いため息をついた。
父が席を避けて行った後、半蔵は水戸浪士の幹部の人たちから礼ごころに贈られたものを二人の友だちの前に取り出した。武田、田丸、山国、藤田諸将の書いた詩歌の短冊(たんざく)、小桜縅(こざくらおどし)の甲冑片袖(かっちゅうかたそで)、そのほかに小荷駄掛りの亀山嘉治(かめやまよしはる)が特に半蔵のもとに残して置いて行った歌がある。水戸浪士に加わって来た同門の人が飯田や馬籠での述懐だ。
あられなす矢玉の中は越えくれどすすみかねたる駒(こま)の山麓(やまもと)
ふみわくる深山紅葉(みやまもみじ)を敷島のやまとにしきと見る人もがも
八束穂(やつかほ)のしげる飯田の畔(あぜ)にさへ君に仕ふる道はありけり
みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし
草まくら夜ふす猪(しし)の床(とこ)とはに宿りさだめぬ身にもあるかな
つはものに数ならぬ身も神にます我が大君の御楯(みたて)ともがな
木曾山の八岳(やたけ)ふみこえ君がへに草むす屍(かばね)ゆかむとぞおもふ
   嘉治
「亀山は亀山らしい歌を残して行きましたね。思い入った人の歌ですね。」
と景蔵が言うと、半蔵は炬燵(こたつ)の上に手を置きながら、
「あの騒ぎの中で、亀山とは一晩じゅう話してしまいました。もっとも、番士は交代で篝(かがり)を焚(た)く、村のものは村のもので宿内を警戒する、火の番は回って来る、なかなか寝られるようなものじゃありませんでしたよ。わたしも興奮しましてね、あの翌晩もひとりで起きていて、旧作の長歌を一晩かかって書き改めたりなぞしましたよ。」
ちょうどその時、年寄役の伊之助が村方の用事をもって家の囲炉裏ばたまで見えたので、半蔵は伊那行きのことを伊之助に話しかつ留守中のことをも頼んで置くつもりで、ちょっとその席をはずした。そして、店座敷へ引き返して来て見ると、景蔵、香蔵の二人はお民にすすめられて、かわるがわる風呂場(ふろば)の方へからだを温(あたた)めに行っていた。
「半蔵、なんにもないが、お客さまに一杯あげる。ごらんな、お客さまというと子供が大はしゃぎだよ。にぎやかでありさえすれば子供はうれしいんだね。」
と継母のおまんが言うころは、店座敷の障子も薄暗い。下女は行燈(あんどん)をさげて来た。
やがて、こうした土地での習いで、炬燵板(こたついた)の上を食卓に代用して、半蔵は二人の友だちに山家の酒をすすめた。
「愉快、愉快。」と香蔵はそこへ心づくしの手料理を運んで来るお民を見て言った。「奥さんの前ですが、わたしたちが三人寄ることはこれでめったにないんです。半蔵さんとわたしと二人の時は、景蔵さんは京都の方へ行ってる。景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に出てる。まあ、きょうは久しぶりで、あの寛斎老人の家に三人机を並べた時分の心持ちに帰りましたよ。」
「こうして三人集まって見ると、やっぱり話したい。いや、ことしは実にえらい年でした。いろいろなものが一年のうちに、どしどし片づいて行ってしまいましたよ。」
食後に、景蔵はそんなことを言い出した。その暮れになって見ると、天王山(てんのうざん)における真木和泉(まきいずみ)の自刃も、京都における佐久間象山(さくましょうざん)の横死も、皆その年の出来事だ。名高い攘夷(じょうい)論者も、開港論者も、同じように故人になってしまった。その時、三人の話は水戸の人たちのことに落ちて行った。
尊攘は水戸浪士の掲げて来た旗じるしである。景蔵に言わせると、もともと尊王と攘夷とを結びつけ、その二つのものの堅い結合から新機運をよび起こそうと企てたのは真木和泉らの運動で、これは幕府の専横と外国公使らの不遜(ふそん)とを憤り一方に王室の衰微を嘆く至情からほとばしり出たことは明らかであるが、この尊攘の結合を王室回復の手段とするの可否はだんだん心あるものの間に疑問となって来た。尊王は尊王、攘夷は攘夷――尊王は遠い理想、攘夷は当面の外交問題であるからである。しかし、あの真木和泉にはそれを結びつけるだけの誠意があった。衆にさきがけして諸国の志士を導くに足るだけの熱意があった。もはやその人はない。尊攘の運動は事実においてすでにその中心の人物を失っている。のみならず、筑後水天宮(ちくごすいてんぐう)の祠官(しかん)の家に生まれ、京都学習院の徴士にまで補せられ、堂々たる朝臣の列にあった真木和泉がたとい生きながらえているとしても、大和(やまと)行幸論に一代を揺り動かしたほどの熱意を持ちつづけて、今後もあの尊攘論で十八隻から成る英米仏蘭四国の連合艦隊を向こうに回すようなこの国の難局を押し通せるものかどうか。尊王と攘夷との切り離して考えられるような時がようやくやって来たのではなかろうか。これが景蔵の意見であった。
景蔵は言った。
「どうでしょう、尊攘ということもあの水戸の人たちを最後とするんじゃありますまいか。」
「しかし、景蔵さん。」とその時、香蔵は年上の友だちの話を引き取って言った。「あの亀山嘉治(かめやまよしはる)なぞは、そうは考えていませんぜ。」
「亀山は亀山、われわれはわれわれですさ。」と景蔵は言う。
「そういう景蔵さんの意見は、実際の京都生活から来てる。どうもわたしはそう思う。」
「そんなら見たまえ、長州藩あたりじゃ伊藤俊助(いとうしゅんすけ)だの井上聞多(いのうえもんた)だのという人たちをイギリスへ送っていますぜ。それが君、去年あたりのことですぜ。あの人たちの密航は、あれはなかなか意味が深いといううわさです。攘夷派の筆頭として知られた長州藩の人たちがそれですもの。」
「世の中も変わって来ましたな。」
「まあ、わたしに言わせると、尊攘ということを今だにまっ向(こう)から振りかざしているのは、水戸ばかりじゃないでしょうか。そこがあの人たちの実に正直なところでもありますがね。」
木曾山の栗(くり)の季節はすでに過ぎ去り、青い香のする焼き米にもおそい。それまで半蔵は炬燵(こたつ)の上に手を置いて二人の友だちの話を聞いていたが、雪の来るまで枯れ枝の上に残ったような信濃柿(しなのがき)の小粒で霜に熟したのなぞをそこへ取り出して来て、景蔵や香蔵と一緒に熱い茶をすすりながら、店座敷の行燈(あんどん)のかげに長い冬の夜を送ろうとしていた。彼にして見ると、ヨーロッパを受けいれるか、受けいれないかは、多くの同時代の人の悩みであって、たとい先師|篤胤(あつたね)がその日まで達者(たっしゃ)に在世せられたとしても、これには苦しまれたろうと思われる問題である。もはや、異国と言えば、オランダ一国を相手にしていて済まされたような、先師の時代ではなくなって来たからである。それにしても、あれほど京都方の反対があったにもかかわらず、江戸幕府が開港を固執して来たについては、何か理由がなくてはならない。幕府の役人にそれほどの先見の明があったとは言いがたい。なるほど、安政万延年代には岩瀬肥後(いわせひご)のような人もあった。しかし、それはごくまれな人のことで、大概の幕府の役人は皆京都あたりの攘夷家に輪をかけたような西洋ぎらいであると言わるる。その人たちが開港を固執して来た。これは外国公使らの脅迫がましい態度に余儀なくせられたとのみ言えるだろうか。水戸浪士の尊攘が話題に上ったのを幸いに、半蔵はその不思議さを二人の友だちの前に持ち出した。
「こういう説もあります。」と景蔵は言った。「政府がひとりで外国貿易の利益を私するから、それでこんなに攘夷がやかましくなった。一年なら一年に、得(う)るところを計算してですね、朝廷へ何ほど、公卿(くげ)へ何ほど、大小各藩へ何ほどというふうに、その額をきめて、公明正大な分配をして来たら、上御一人(かみごいちにん)から下は諸藩の臣下にまでよろこばれて、これほど全国に不平の声は起こらなかったかもしれない。今になって君、そういうことを言い出して来たものもありますよ。」
「政府ばかりが外国貿易の利益をひとり占(じ)めにする法はないか。」と香蔵はくすくすやる。
「ところが、そういうことを言い出して、政府のお役人に忠告を試みたのが、英国公使のアールコックだといううわさだからおもしろいじゃありませんか。」とまた景蔵が言って見せた。
「いや、」と半蔵はそれを引き取って、「そう言われると、いろいろ思い当たることはありますよ。」
「横浜には外国人相手の大遊郭(だいゆうかく)も許可してあるしね。」と香蔵が言い添える。
「あの生麦(なまむぎ)償金のことを考えてもわかります。」と景蔵は言った。「見たまえ、この苦しい政府のやり繰りの中で、十万ポンドという大金がどこから吐き出せると思います。幕府のお役人が開港を固執して来たはずじゃありませんか。」
しばらく沈黙が続いた。
「半蔵さん。攘夷論がやかましくなって来たそもそもは、あれはいつごろだったでしょう。ほら、幕府の大官が外国商人と結託してるの、英国公使に愛妾(あいしょう)をくれたのッて、やかましく言われた時がありましたっけね。」
「そりゃ、尊王攘夷の大争いにだって、利害関係はついて回る。横浜開港以来の影響はだれだって考えて来たことですからね。でも、尊攘と言えば、一種の宗教運動に似たもので、成敗利害の外にある心持ちから動いて来たものじゃありますまいか。」
「今日(こんにち)まではそうでしょうがね。しかし、これから先はどうありましょうかサ。」
「まあ、西の方へ行って見たまえ。公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ。」
「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た。」
こんな話も出た。
その夜、半蔵は家のものに言い付けて二人の友だちの寝床を店座敷に敷かせ、自分も同じように枕(まくら)を並べて、また寝ながら語りつづけた。近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢(いせ)地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙(あ)げて京都に移り住みたい意向であるという師平田|鉄胤(かねたね)のうわさ、枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時のたつのも忘れているうちに、やがて一番|鶏(どり)が鳴いた。  

「あなた、佐吉が飯田(いいだ)までお供をすると言っていますよ。」
お民はそれを言って、あがりはなのところに腰を曲(こご)めながら新しい草鞋(わらじ)をつけている半蔵のそばへ来た。景蔵、香蔵の二人もしたくして伊那行きの朝を迎えていた。
「飯田行きの馬は通(かよ)っているんだろう。」と半蔵は草鞋の紐(ひも)を結びながら言う。
「けさはもう荷をつけて通りましたよ。」
「馬さえ通(かよ)っていれば大丈夫さ。」
「なにしろ、道が悪くて御苦労さまです。」
そういうお民から半蔵は笠(かさ)を受け取った。下男の佐吉は主人らの荷物のほかに、その朝の囲炉裏で焼いた芋焼餅(いもやきもち)を背中に背負(しょ)った。一同したくができた。そこで出かけた。
降った雪の溶けずに凍る馬籠峠の上。雪を踏み堅め踏み堅めしてある街道には、猿羽織(さるばおり)を着た村の小娘たちまでが集まって、一年の中の最も楽しい季節を迎え顔に遊び戯れている。愛らしい軽袗(かるさん)ばきの姿に、鳶口(とびぐち)を携え、坂になった往来の道を利用して、朝早くから氷|滑(すべ)りに余念もない男の子の中には、半蔵が家の宗太もいる。
一日は一日より、白さ、寒さ、深さを増す恵那山(えなさん)連峰の谿谷(けいこく)を右手に望みながら、やがて半蔵は連れと一緒に峠の上を離れた。木曾山森林保護の目的で尾州藩から見張りのために置いてある役人の駐在所は一石栃(いちこくとち)(略称、一石)にある。いわゆる白木の番所だ。番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。その辺は馬籠峠の裏山つづきで、やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山(おたるやま)の付近へと続いて行っている。この地勢のやや窮まったところに、雪崩(なだれ)をも押し流す谿流の勢いを見せて、凍った花崗石(みかげいし)の間を落ちて来ているのが蘭川(あららぎがわ)だ。木曾川の支流の一つだ。そこに妻籠(つまご)手前の橋場があり、伊那への通路がある。
蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、伊那|諏訪(すわ)へと進んだ遠い昔の人の足跡をそこに想像することはできる。そこにはまた、幾世紀の長さにわたるかと思われるような沈黙と寂寥(せきりょう)との支配する原生林の大きな沢を行く先に見つけることもできる。蘭(あららぎ)はこの谷に添い、山に倚(よ)っている村だ。全村が生活の主(おも)な資本(もとで)を山林に仰いで、木曾名物の手工業に親代々からの熟練を見せているのもそこだ。そこで造らるる檜木笠(ひのきがさ)の匂(にお)いと、石垣(いしがき)の間を伝って来る温暖(あたたか)な冬の清水(しみず)と、雪の中にも遠く聞こえる犬や鶏の声と。しばらく半蔵らはその山家の中の山家とも言うべきところに足を休めた。
そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路(せいないじ)も近い。清内路の関所と言えば、飯田藩から番士を出張させてある山間(やまあい)の関門である。千余人からの浪士らの同勢が押し寄せて来た当時、飯田藩で間道通過を黙許したものなら、清内路の関所を預かるものがそれをするにさしつかえがあるまいとは、番士でないものが考えても一応言い訳の立つ事柄である。飯田藩の家老と運命を共にしたという関所番が切腹のうわさは、半蔵らにとってまだ実に生々(なまなま)しかった。
蘭(あららぎ)から道は二つに分かれる。右は清内路に続き、左は広瀬、大平(おおだいら)に続いている。半蔵らはその左の方の道を取った。時には樅(もみ)、檜木(ひのき)、杉(すぎ)などの暗い木立ちの間に出、時には栗(くり)、その他の枯れがれな雑木の間の道にも出た。そして越えて来た蘭川の谷から広瀬の村までを後方に振り返って見ることのできるような木曾峠の上の位置に出た。枝と枝を交えた常磐木(ときわぎ)がささえる雪は恐ろしい音を立てて、半蔵らが踏んで行く路傍に崩(くず)れ落ちた。黒い木、白い雪の傾斜――一同の目にあるものは、ところまだらにあらわれている冬の山々の肌(はだ)だった。
昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。まず笠(かさ)を脱いで炉ばたに足を休めようとしたのは景蔵だ。香蔵も半蔵も草鞋(わらじ)ばきのままそのそばにふん込(ご)んで、雪にぬれた足袋(たび)の先をあたためようとした。
「どれ、芋焼餅(いもやきもち)でも出さずか。」
と供の佐吉は言って、馬籠から背負(しょ)って来た風呂敷包みの中のものをそこへ取り出した。
「山で食えば、焼きざましの炙(あぶ)ったのもうまからず。」
とも言い添えた。
炉にくべた枯れ枝はさかんに燃えた。いくつかの芋焼餅は、火に近く寄せた鉄の渡しの上に並んだ。しばらく一同はあかあかと燃え上がる火をながめていたが、そのうちに焼餅もよい色に焦げて来る。それを割ると蕎麦粉(そばこ)の香と共に、ホクホクするような白い里芋(さといも)の子があらわれる。大根おろしはこれを食うになくてならないものだ。佐吉はそれを茶屋の婆(ばあ)さんに頼んで、熱い焼餅におろしだまりを添え、主人や客にも勧めれば自分でも頬(ほお)ばった。
その時、※[くさかんむり/稾]頭巾(わらずきん)をかぶって鉄砲をかついだ一人の猟師が土間のところに来て立った。
「これさ、休んでおいでや。」
と声をかけるのは、勝手口の流しもとに皿小鉢(さらこばち)を洗う音をさせている婆さんだ。半蔵は炉ばたにいて尋ねて見た。
「お前はこの辺の者かい。」
「おれかなし。おれは清内路だ。」
肩にした鉄砲と一緒に一羽の獲物(えもの)の山鳥をそこへおろしての猟師の答えだ。
清内路と聞くと、半蔵は炉ばたから離れて、その男の方へ立って行った。見ると、耳のとがった、尻尾(しっぽ)の上に巻き揚がった猟犬をも連れている。こいつはその鋭い鼻ですぐに炉ばたの方の焼餅の匂(にお)いをかぎつけるやつだ。
「妙なことを尋ねるようだが、お前はお関所の話をよく知らんかい。」と半蔵が言った。
「おれが何を知らすか。」と猟師は※[くさかんむり/稾]頭巾を脱ぎながら答える。
「お前だって、あのお関所番のことは聞いたろうに。」
「うん、あの話か。おれもそうくわしいことは知らんぞなし。なんでも、水戸浪士が来た時に、飯田のお侍様が一人と、二、三十人の足軽の組が出て、お関所に詰めていたげな。そんな小勢でどうしようもあらすか。通るものは通れというふうで、あのお侍様も黙って見てござらっせいたそうな。」と言って、猟師は気をかえて、「おれは毎日鉄砲打ちで、山ばかり歩いていて、お関所番の亡(な)くなったこともあとから聞いた。そりゃ、お前さま、この茶屋の婆さんの方がよっぽどくわしい。おれはこんな犬を相手だが、ここの婆さんはお客さまを相手だで。」
日暮れごろに半蔵らは飯田の城下町にはいった。水戸浪士が間道通過のあとをうけてこの地方に田沼侯の追討軍を迎えることになった飯田では、またまた一時大騒ぎを繰り返したというところへ着いた。
飯田藩の家老が切腹の事情は、中津川や馬籠から来た庄屋問屋のうかがい知るところではなかった。しかし、半蔵らは木曾地方に縁故の深いこの町の旅籠屋(はたごや)に身を置いて見て、ほぼその悲劇を想像することはできた。人が激しい運命に直面した時は身をもってそれに当たらねばならない。何ゆえにこの家老は一藩の重きに任ずる身で、それほどせっぱ詰まった運命に直面しなければならなかったか。半蔵らに言わせると、当時は幕府閣僚の権威が強くなって、何事につけても権威をもって高二万石にも達しない飯田のような外藩にまで臨もうとするからである。その強い権威の目から見たら、飯田藩が弓矢沢の防備を撤退したはもってのほかだと言われよう。間道の修繕を加えたはもってのほかだと言われよう。飯田町が水戸浪士に軍資金三千両の醵出(きょしゅつ)を約したことなぞはなおなおもってのほかだと言われよう。しかし、砥沢口(とざわぐち)合戦の日にも和田峠に近づかず、諏訪(すわ)松本両勢の苦戦をも救おうとせず、必ず二十里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、そういう幕府の追討総督だ。
ともあれ、この飯田藩家老の死は強い力をもって伊那地方に散在する平田門人を押した。もともと飯田藩では初めから戦いを避けようとしたでもない。御会所の軍議は籠城(ろうじょう)のことに一決され、もし浪士らが来たら市内は焼き払われて戦乱の巷(ちまた)ともなるべく予想されたから、飯田の町としては未曾有(みぞう)の混乱状態を現出した際に、それを見かねてたち上がったのが北原稲雄兄弟であるからだ。稲雄がその弟の豊三郎をして地方係りと代官とに提出させた意見書の中には、高崎はじめ諏訪(すわ)高遠(たかとお)の領地をも浪士らが通行の上のことであるから、当飯田の領分ばかりが恥辱にもなるまいとの意味のことが認(したた)めてあった。豊三郎はそれをもって、おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、郡奉行(こおりぶぎょう)はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力すべきことを依託したという。その足で豊三郎は飯田の町役人とも会見した。もし北原兄弟の尽力で、兵火戦乱の災(わざわい)から免れることができるなら、これに過ぎた町の幸福(しあわせ)はない、ついては町役人は合議の上で、十三か町の負担をもって、翌日浪士軍に中食を供し、かつ三千両の軍資金を醵出(きょしゅつ)すべき旨(むね)の申し出があったというのもその時だ。もっとも、この金の調達はおくれ、そのうち千両だけできたのを持って浪士軍を追いかけたものがあるが、はたして無事にその金を武田藤田らの手に渡しうるかどうかは疑問とされていた。
「これを責めるとは、酷だ。」
その声は伊那地方にある同門の人たちを奮いたたせた。上にあって飯田藩の責任を問う人よりもさらによく武士らしい責任を知っていたというべき家老や関所番の死を憐(あわれ)むものが続々と出て来て、手向(たむ)けの花や線香がその新しい墓地に絶えないという時だ。半蔵が景蔵や香蔵と一緒に伊那の谷を訪れたのは、この際である。
水戸浪士の間道通過に尽力しあわせて未曾有の混乱から飯田の町を救おうとした北原兄弟らの骨折りは、しかし決してむなしくはなかった。厳密な意味での平田篤胤没後の門人なるものは、これまで伊那の谷に三十六人を数えたが、その年の暮れには一息に二十三人の入門候補者を得たほど、この地方の信用と同情とを増した。
その時になって見ると、片桐春一(かたぎりしゅんいち)らの山吹(やまぶき)社中を中心にする篤胤研究はにわかに活気を帯びて来る。従来国恩の万分の一にも報いようとの意気込みで北原稲雄らによって計画された先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布(じょうぼくはんぷ)は一層順調に諸門人が合同協力の実をあげる。小野の倉沢義髄(くらさわよしゆき)、清内路の原|信好(のぶよし)のように、中世否定の第一歩を宗教改革に置く意味で、神仏|混淆(こんこう)の排斥と古神道の復活とを唱えるために、相携えて京都へ向かおうとしているものもある。
この機運を迎えた、伊那地方にある同門の人たちは、日ごろ彼らが抱(いだ)いている夢をなんらかの形に実現しようとして、国学者として大きな諸先達のためにある記念事業を計画していた。半蔵らが飯田にはいった翌々日には、三人ともその下相談にあずかるために、町にある同門の有志の家に集まることになった。
ここですこしく平田門人の位置を知る必要がある。篤胤の学説に心を傾けたものは武士階級に少なく、その多くは庄屋(しょうや)、本陣、問屋(といや)、医者、もしくは百姓、町人であった。先師篤胤その人がすでに医者の出であり、師の師なる本居宣長(もとおりのりなが)もまた医者であった。半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。
その中にも、庄屋と本陣問屋とが、東美濃から伊那へかけての平田門人を代表すると見ていい。しかし、当時の庄屋問屋本陣なるものの位置がその籍を置く公私の領地に深き地方的な関係のあったことを忘れてはならない。たとえば、景蔵、香蔵の生まれた地方は尾州領である。その地方は一方は木曾川を隔てて苗木(なえぎ)領に続き、一方は丘陵の起伏する地勢を隔てて岩村領に続いている。尾州の家老|成瀬(なるせ)氏は犬山に、竹腰(たけごし)氏は今尾(いまお)に、石河(いしかわ)氏は駒塚(こまづか)に、その他|八神(やがみ)の毛利(もうり)氏、久々里(くくり)九人衆など、いずれも同じ美濃の国内に居所を置き、食邑(しょくゆう)をわかち与えられている。言って見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、その他の関係においては御三家の随一なる尾州の縄張(なわば)りの内にある。江戸幕府の権力も直接にはその地方に及ばない。東美濃と南信濃とでは、領地関係もおのずから異なっているが、そこに籍を置く本陣問屋庄屋なぞの位置はやや似ている。あるところは尾州旗本領、あるところはいわゆる交代寄り合いの小藩なる山吹領というふうに、公領私領のいくつにも分かれた伊那地方が篤胤研究者の苗床(なえどこ)であったのも、決して偶然ではない。たとえば暮田正香(くれたまさか)のような幕府の注意人物が小野の倉沢家にも、田島の前沢家にも、伴野(ともの)の松尾家にも、座光寺の北原家にも、飯田の桜井家にも、あるいは山吹の片桐家にもというふうに、巡行寄食して隠れていられるのも、伊那の谷なればこそだ。また、たとえば長谷川(はせがわ)鉄之進、権田直助(ごんだなおすけ)、落合|直亮(なおあき)らの志士たちが小野の倉沢家に来たり投じて潜伏していられるということも、この谷なればこそそれができたのである。
町の有志の家に集まる約束の時が来た。半蔵は二人の友だちと同じように飯田の髪結いに髪を結わせ、純白で新しい元結(もとゆい)の引き締まったここちよさを味わいながら一緒に旅籠屋(はたごや)を出た。時こそ元治(げんじ)元年の多事な年の暮れであったが、こんなに友だちと歩調を合わせて、日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは、そうたんと来そうな機会とも思われなかったからで。三人連れだって歩いて行く中にも、一番年上で、一番左右の肩の釣合(つりあ)いの取れているのは景蔵だ。香蔵と来たら、隆(たか)く持ち上げた左の肩に物を言わせ、歩きながらでもそれをすぼめたり、揺(ゆす)ったりする。この二人に比べると、息づかいも若く、骨太(ほねぶと)で、しかも幅の広い肩こそは半蔵のものだ。行き過ぎる町中には、男のさかりも好ましいものだと言いたげに、深い表格子の内からこちらをのぞいているような女の眸(ひとみ)に出あわないではなかったが、三人はそんなことを気にも留めなかった。その日の集まりが集まりだけに、半蔵らはめったに踏まないような厳粛な道を踏んだ。
新しい社(やしろ)を建てる。荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長、平田篤胤、この国学四大人の御霊代(みたましろ)を置く。伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山(じょうざん)(俗に小枝山(こえだやま)とも)の位置をえらび、九|畝歩(せぶ)ばかりの土地を山の持ち主から譲り受け、枝ぶりのおもしろい松の林の中にその新しい神社を創立する。
この楽しい考えが、平田門人片桐春一を中心にする山吹社中に起こったことは、何よりもまず半蔵らをよろこばせた。独立した山の上に建てらるべき木造の建築。四人の翁を祭るための新しい社殿。それは平田の諸門人にとって郷土後進にも伝うべきよき記念事業であり、彼らが心から要求する復古と再生との夢の象徴である。なぜかなら、より明るい世界への啓示を彼らに与え、健全な国民性の古代に発見せらるることを彼らに教えたのも、そういう四人の翁の大きな功績であるからで。
その日、山吹社中の重立ったものが飯田にある有志の家に来て、そこに集まった同門の人たちに賛助を求めた。景蔵はじめ、香蔵、半蔵のように半ば客分のかたちでそこに出席したものまで、この記念の創立事業に異議のあろうはずもない。山吹から来た門人らの説明によると、これは片桐春一が畢生(ひっせい)の事業の一つとしたい考えで、社地の選定、松林の譲り受け、社殿の造営工事の監督等は一切山吹社中で引き受ける。これを条山神社とすべきか、条山霊社とすべきか、あるいは国学霊社とすべきかはまだ決定しない。その社号は師平田|鉄胤(かねたね)の意見によって決定することにしたい。なお、四大人の御霊代(みたましろ)としては、先人の遺物を全部平田家から仰ぐつもりであるとの話で、片桐春一ははたから見ても涙ぐましいほどの熱心さでこの創立事業に着手しているとのことであった。
その日の顔ぶれも半蔵らにはめずらしい。平素から名前はよく聞いていても、互いに見る機会のない飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。駒場(こまば)の医者山田|文郁(ぶんいく)、浪合(なみあい)の増田(ますだ)平八郎に浪合|佐源太(さげんた)なぞの顔も見える。景蔵には親戚(しんせき)にあたる松尾誠(多勢子(たせこ)の長男)もわざわざ伴野(ともの)からやって来た。先師没後の同じ流れをくむとは言え、国学四大人の過去にのこした仕事はこんなにいろいろな弟子(でし)たちを結びつけた。
その時、一室から皆の集まっている方へ来て、半蔵の肩をたたいた人があった。
「青山君。」
声をかけたは暮田正香だ。半蔵はめずらしいところでこの人の無事な顔を見ることもできた。伊那の谷に来て隠れてからこのかた、あちこちと身を寄せて世を忍んでいるような正香も、こうして一同が集まったところで見ると、さすがに先輩だ。小野村の倉沢|義髄(よしゆき)を初めて平田鉄胤の講筵(こうえん)に導いて、北伊那に国学の種をまく機縁をつくったほどの古株だ。
「世の中はおもしろくなって来ましたね。」
だれが言い出すともないその声、だれが言いあらわして見せるともないその新しいよろこびは、一座のものの顔に読まれた。山吹社中のものが持って来た下相談は、言わば内輪(うちわ)の披露(ひろう)で、大体の輪郭に過ぎなかったが、もしこの条山神社創立の企てが諸国同門の人たちの間に知れ渡ったらどんな驚きと同情とをもって迎えられるだろう、第一京都の方にある師鉄胤はどんなに喜ばれるだろう、そんな話でその日の集まりは持ち切った。
「暮田さん、わたしたちの宿屋まで御一緒にいかがですか。」
半蔵は二人の友だちと共に正香を誘った。その晩は飯田の親戚の家に泊まるという松尾誠と別れて、四人一緒に旅籠屋(はたごや)をさして歩いた。
正香は思い出したように、
「青山君、わたしも今じゃあの松尾家に居候(いそうろう)でさ。京都からやって来た時はいろいろお世話さまでした。あの時は二日二晩も歩き通しに歩いて、中津川へたどり着くまでは全く生きた心地(ここち)もありませんでした。浅見君のお留守宅や青山君のところで御厄介(ごやっかい)になったことは忘れませんよ。」
半蔵らの旧師宮川寛斎が横浜引き揚げ後にその老後の「隠れ家(が)」を求めた場所も伴野であり、今またこの先輩が同じ村の松尾家に居候だと聞くことも、半蔵らの耳には奇遇と言えば奇遇であった。伊那の方へ来て聞くと、あの寛斎老人が伴野での二、三年はかなり不遇な月日を送ったらしい。率先した横浜貿易があの旧師に祟(たた)った上に、磊落(らいらく)な酒癖から、松尾の子息(むすこ)ともよくけんかしたなぞという旧(ふる)い話も残っていた。
「伊勢(いせ)の方へ行った宮川先生にも、今度の話を聞かせたいね。」
「あの老人のことですから、山吹に神社ができて平田先生なぞを祭ると知ったら、きっと落涙するでしょう。」
「喜びのあまりにですか。そりゃ、人はいろいろなことを言いますがね、あの宮川先生ぐらい涙の多い人を見たことはありません。」
三人の友だちの間には、何かにつけて旧師のうわさが出た。
旅籠屋に帰ってから、半蔵らは珍客を取り囲(ま)いて一緒にその日の夕方を送った。正香というものが一枚加わると、三人は膝(ひざ)を乗り出して、あとからあとからといろいろな話を引き出される。あつらえたちょうしが来て、盃(さかずき)のやり取りが始まるころになると、正香がまずあぐらにやった。
「どれ、無礼講とやりますか。そう、そう、あの馬籠の本陣の方で、わたしは一晩土蔵の中に御厄介になった。あの時、青山君が瓢箪(ふくべ)に酒を入れて持って来てくだすった。あんなうまい酒は、あとにも先にもわたしは飲んだことがありませんよ。」
「まあ、そう言わずに、飯田の酒も味わって見てください。」と半蔵が言う。
「暮田さんの前ですが、いったい、今の洋学者は何をしているんでしょう。」と言い出したのは香蔵だ。
「また香蔵さんがきまりを始めた。」と景蔵は笑いながら、「君は出し抜けに何か言い出して、ときどきびっくりさせる人だ。しょッちゅう一つ事を考えてるせいじゃありませんかね。」
「でも、わたしは黒船というものを考えないわけにいきません。」とまた香蔵が言った。
なんの事はない。この二人(ふたり)の年上の友だちがそこへ言い出したことは、やがて半蔵自身の内部の光景でもある。彼としても「一つ事を考えている」と言わるる香蔵を笑えなかった。
「そりゃ、君、ことしの夏京都へ行って斬(き)られた佐久間象山だって、一面は洋学者さ。」と正香は言った。「あの人は木曾路を通って京都の方へ行ったんでしょう。青山君の家へも休むか泊まるかして行ったんじゃありませんか。」
「いえ、ちょうどわたしは留守の時でした。」と半蔵は答える。「あれは三月の山桜がようやくほころびる時分でした。わたしは福島の出張先から帰って、そのことを知りました。」
「蜂谷(はちや)君は。」
「わたしは景蔵さんと一緒に京都の方にいた時です。象山も陪臣ではあるが、それが幕府に召されたという評判で、十五、六人の従者をつれて、秘蔵の愛馬に西洋|鞍(ぐら)か何かで松代(まつしろ)から乗り込んで来た時は、京都人は目をそばだてたものでした。」
「でしょう。象山のことですから、おれが出たらと思って、意気込んで行ったものでしょうかね。でも、あの人は吉田松陰(よしだしょういん)の事件で、九年も禁錮(きんこ)の身だったというじゃありませんか。戸を出(い)でずして天下を知るですか。どんな博識多才の名士だって、君、九年も戸を出なかったら、京都の事情にも暗くなりますね。あのとおり、上洛(じょうらく)して三月もたつかたたないうちに、ばっさり殺(や)られてしまいましたよ。いや、はや、京都は恐ろしいところです。わたしが知ってるだけでも、何度形勢が激変したかわかりません。」
「それにはこういう事情もあります。」と景蔵は正香の話を引き取って、「象山が斬られたのは、あれは池田屋事件の前あたりでしたろう。ねえ、香蔵さん、たしかそうでしたね。」
「そう、そう、みんな気が立ってる最中でしたよ。」
「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、叡山(えいざん)に御輿(みこし)を奉ずる計画なぞのあった時だと思います。そこへ象山が松代藩から六百石の格式でやって来て、山階宮(やましなのみや)に伺候したり慶喜公(よしのぶこう)に会ったりして、彦根(ひこね)への御動座を謀(はか)るといううわさが立ったものですからね。これは邪魔になると一派の志士からにらまれたものらしい。」
「まあ、あれほどの名士でしたら、もっと光を包んでいてもらいたかったと思いますね。」とまた正香が言った。「どうも今の洋学者に共通なところは、とかくこのおれを見てくれと言ったようなところがある。あいつは困る。でも、象山のような人になると、『東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)』というくらいの見きわめがありますよ。あの人には、かなり東洋もあったようです。そりゃ、象山のような洋学者ばかりなら頼もしいと思いますがね、洋学一点張りの人たちと来たら、はたから見ても実に心細い。見たまえ、こんな徳川のような圧制政府は倒してしまえなんて、そういうことを平気で口にしているのも今の洋学者ですぜ。そんなら陰で言う言葉がどんな人たちの口から出て来るのかと思うと、外国関係の翻訳なぞに雇われて、食っているものも着ているものも幕府の物ばかりだという御用学者だから心細い。それに衣食していながら、徳川をつぶすというのはどういう理屈かと突ッ込むものがあると、なあに、それはかまわない、自分らが幕府の御用をするというのは何も人物がえらいと言って用いられているのじゃない、これは横文字を知ってるというに過ぎない、たとえば革細工(かわざいく)だから雪駄直(せったなお)しにさせると同じ事だ、洋学者は雪駄直しみたようなものだ、殿様方はきたない事はできない、幸いここに革細工をするやつがいるからそれにさせろと言われるのと少しも変わったことはない、それに遠慮会釈も糸瓜(へちま)も要(い)るものか、さっさと打(ぶ)ちこわしてやれ、ただしおれたちは自分でその先棒になろうとは思わない――どうでしょう、君、これが相当に見識のある洋学者の言い草ですよ。どうしたって幕府は早晩倒さなけりゃならない、ただ、さしあたり倒す人間がないからしかたなしに見ているんだ、そういうことも言うんです。こんな無責任なことを言わせる今の洋学は考えて見たばかりでも心細い。自分さえよければ人はどうでもいい、百姓や町人はどうなってもいい、そんな学問のどこに熱烈|峻厳(しゅんげん)な革新の気魄(きはく)が求められましょうか――」
後進の半蔵らを前に置いて、多感で正直なこの先輩は色のあせた着物の襟(えり)をかき合わせた。あだかも、つくづく身の落魄(らくはく)を感ずるというふうに。
「半蔵さん、ともかくもわたしと一緒に伴野までおいでください。君や香蔵さんをお誘いするようにッて、松尾の子息(むすこ)がくれぐれも言い置いて行きました。あの人は暮田正香と一緒に、けさ一歩(ひとあし)先へ立って行きました。」
「そんなに多勢で押し掛けてもかまいますまいか。」
「なあに、三人や四人押し掛けて行ったって迷惑するような家じゃありませんよ。」
「わたしもせっかく飯田まで来たものですから、ついでに山吹社中の輪講に出席して見たい。あの社中の篤胤研究をききたいと思いますよ。こんなよい機会はちょっとありませんからね。」
「そんなら、こうなさるさ。伴野から山吹へお回りなさるさ。」
翌日の朝、景蔵と半蔵とはこの言葉をかわした。
こんなふうで友だちに誘われて行った伴野村での一日は半蔵にとって忘れがたいほどであった。彼は松尾の家で付近の平田門人を歴訪する手引きを得、日ごろ好む和歌の道をもって男女の未知の友と交遊するいとぐちをも見つけた。当時|洛外(らくがい)に侘住居(わびずまい)する岩倉公(いわくらこう)の知遇を得て朝に晩に岩倉家に出入りするという松尾多勢子から、その子の誠にあてた京都|便(だよ)りも、半蔵にはめずらしかった。
伊那の谷の空にはまた雪のちらつく日に、半蔵は中津川の方へ帰って行く景蔵や香蔵と手を分かった。その日まで供の佐吉を引き留めて置いたのも、二人の友だちを送らせる下心があったからで。伊那には彼ひとり残った。それからの彼は、山吹での篤胤研究会とも言うべき『義雄集』への聴講に心をひかれたのと、あちこちと訪(たず)ねて見たい同門の人たちのあったのと、一晩のうちに四尺も深い雪が来たという大平峠の通行の困難なのとで、とうとう飯田に年を越してしまった。
この小さな旅は、しかし平田門人としての半蔵の目をいくらかでも開けることに役立った。
「あはれあはれ上(かみ)つ代(よ)は人の心ひたぶるに直(なお)くぞありける。」
先人の言うこの上つ代とは何か。その時になって見ると、この上つ代はこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった。世にいわゆる古代ではもとよりなかった。言って見れば、それこそ本居平田諸大人が発見した上つ代である。中世以来の武家時代に生まれ、どの道かの道という異国の沙汰(さた)にほだされ、仁義礼譲孝|悌(てい)忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けてきびしく人間を縛りつけてしまった封建社会の空気の中に立ちながらも、本居平田諸大人のみがこの暗い世界に探り得たものこそ、その上つ代である。国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、古(いにしえ)ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、新しき古を発見したところにある。
そこまでたどって行って見ると、半蔵は新しき古を人智のますます進み行く「近(ちか)つ代(よ)」に結びつけて考えることもできた。この新しき古は、中世のような権力万能の殻(から)を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然(おのずから)に帰ることであり、自然(おのずから)に帰ることはすなわち新しき古(いにしえ)を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡(ほんじすいじゃく)の説や金胎(こんたい)両部の打破を叫び、すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。全く神仏を混淆(こんこう)してしまったような、いかがわしい仏像の焼きすてはそこにもここにも始まりかけていた。 

元治二年の三月になった。恵那山の谷の雪が溶けはじめた季節を迎えて、山麓(さんろく)にある馬籠の宿場も活気づいた。伊勢参りは出発する。中津川商人はやって来る。宿々村々の人たちの往来、無尽の相談、山林売り払いの入札、万福寺中興開祖|乗山和尚(じょうざんおしょう)五十年忌、および桑山(そうざん)和尚十五年忌など、村方でもその季節を待っていないものはなかった。毎年の例で、長い冬ごもりの状態にあった街道の活動は彼岸(ひがん)過ぎのころから始まる。諸国の旅人をこの街道に迎えるのもそのころからである。
その年の春は、ことに参覲交代(さんきんこうたい)制度を復活した幕府方によって待たれた。幕府は老中水野|和泉守(いずみのかみ)の名で正月の二十五日あたりからすでにその催促を万石以上の面々に達し、三百の諸侯を頤使(いし)した旧時のごとくに大いに幕威を一振(いっしん)しようと試みていた。
諸物価騰貴と共に、諸大名が旅も困難になった。道中筋の賃銀も割増し、割増しで、元治元年の三月からその年の二月まで五割増しの令があったが、さらにその年三月から来たる辰年(たつどし)二月まで三か年間五割増しの達しが出た。実に十割の増加だ。諸大名の家族がその困難な旅を冒してまで、幕府の命令を遵奉(じゅんぽう)して、もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。
この街道の空気の中で、半蔵は伊那行き以来懇意にする同門の先輩の一人を馬籠本陣に迎えた。暮田正香の紹介で知るようになった伊那小野村の倉沢|義髄(よしゆき)だ。その年の二月はじめに郷里を出た義髄は京大坂へかけて五十日ばかりの意味のある旅をして帰って来た。
義髄の上洛(じょうらく)はかねてうわさのあったことであり、この先輩の京都|土産(みやげ)にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。
義髄は、伊勢、大和(やまと)の方から泉州(せんしゅう)を経(へ)めぐり、そこに潜伏中の宮和田胤影(みやわだたねかげ)を訪(と)い、大坂にある岩崎|長世(ながよ)、および高山、河口(かわぐち)らの旧友と会見し、それから京都に出て、直ちに白河家(しらかわけ)に参候し神祇伯資訓(じんぎはくすけくに)卿に謁し祗役(しえき)の上申をしてその聴許を得、同家の地方用人を命ぜられた。彼が京都にとどまる間、交わりを結んだのは福羽美静(ふくばよしきよ)、池村邦則(いけむらくにのり)、小川一敏(おがわかずとし)、矢野玄道(やのげんどう)、巣内式部(すのうちしきぶ)らであった。彼はこれらの志士と相往来して国事を語り、共に画策するところがあった、という。彼はまた、ある日偶然に旧友|近藤至邦(こんどうむねくに)に会い、相携えて東山長楽寺(ひがしやまちょうらくじ)に隠れていた品川弥二郎(しながわやじろう)をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義をきくことを得たという。これらの志士との往来が幕府の嫌疑(けんぎ)を受けるもとになって、身辺に危険を感じて来た彼はにわかに京都を去ることになり、夜中|江州(ごうしゅう)の八幡(やわた)にたどり着いて西川善六(にしかわぜんろく)を訪い、足利(あしかが)木像事件後における残存諸士の消息を語り、それより回り路(みち)をして幕府|探偵(たんてい)の目を避けながら、放浪約五十日の後郷里をさして帰って来ることができたということだった。
この先輩が帰省の途次、立ち寄って行った旅の話はいろいろな意味で半蔵の注意をひいた。義髄と前後して上洛した清内路(せいないじ)の先輩原|信好(のぶよし)が神祇伯白河殿に奉仕して当道学士に補せられたことと言い、義髄が同じ白河家から地方用人を命ぜられたことと言い、従来地方から上洛するものが堂上の公卿たちに遊説(ゆうぜい)する縁故をなした白河家と平田門人との結びつきが一層親密を加えたことは、その一つであった。西にあって古学に心を寄せる人々との連絡のついたことは、その一つであった。十二年の飯田を去った後まで平田諸門人が忘れることのできない先輩岩崎長世の大坂にあることがわかったのも、その一つであった。しかしそれにもまして半蔵の注意をひいたのは、なんと言っても討幕の志を抱(いだ)く志士らと相往来して共に画策するところがあったということだった。
そういうこの先輩は最初水戸の学問からはいったが、暮田正香と相知るようになってから吉川流の神道と儒学を捨て、純粋な古学に突進した熱心家であるばかりでなく、篤胤の武学本論を読んで武技の必要をも感じ、一刀流の剣法を習得したという肌合(はだあい)の人である。古学というものもまだ伊那の谷にはなかったころに行商しながら道を伝えたという松沢義章(まつざわよしあき)、和歌や能楽に堪能(かんのう)なところからそれを諸人に教えながら古学をひろめたという甲府生まれの岩崎長世、この二人についで平田派の先駆をなしたのが義髄などだ。当時伊那にある四人の先輩のうち、片桐春一、北原稲雄、原信好の三人が南を代表するとすれば、義髄は北を代表すると言われている人である。
「青山君――こんな油断のならない旅は、わたしも初めてでしたよ。」
これは一度義髄を見たものが忘れることのできないような頬髯(ほおひげ)の印象と共に、半蔵のところに残して行ったこの先輩の言葉だ。
半蔵は周囲を見回した。義髄が旅の話も心にかかった。あの大和(やまと)五条の最初の旗あげに破れ、生野銀山(いくのぎんざん)に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波(つくば)の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発に屈したとは言うものの、所詮(しょせん)このままに屏息(へいそく)すべき討幕運動とは思われなかった。この勢いのおもむくところは何か。
そこまでつき当たると、半蔵は一歩退いて考えたかった。日ごろ百姓は末の考えもないものと見なされ、その人格なぞはてんで話にならないものと見なされ、生かさず殺さずと言われたような方針で、衣食住の末まで干渉されて来た武家の下に立って、すくなくも彼はその百姓らを相手にする田舎者(いなかもの)である。仮りに楠公(なんこう)の意気をもって立つような人がこの徳川の末の代に起こって来て、往時の足利(あしかが)氏を討(う)つように現在の徳川氏に当たるものがあるとしても、その人が自己の力を過信しやすい武家であるかぎり、またまた第二の徳川の代を繰り返すに過ぎないのではないかとは、下から見上げる彼のようなものが考えずにはいられなかったことである。どんな英雄でもその起こる時は、民意の尊重を約束しないものはないが、いったん権力をその掌中に収めたとなると、かつて民意を尊重したためしがない。どうして彼がそんなところへ自分を持って行って考えて見るかと言うに、これまで武家の威力と権勢とに苦しんで来たものは、そういう彼ら自身にほかならないからで。妻籠(つまご)の庄屋寿平次の言葉ではないが、百姓がどうなろうと、人民がどうなろうと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、何も最初から心配することはなかったからで……
考え続けて行くと、半蔵は一時代前の先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧(ふる)い影響の働いていることを想(おも)い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に漢意(からごころ)のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾(さしはさ)んで天下に号令するというを何か丈夫の本懐のように説くものもある。たといそれがやむにやまれぬ慨世(がいせい)のあまりに出た言葉だとしても、天子を挾(さしはさ)むというはすなわち武家の考えで、篤胤の弟子(でし)から見れば多分に漢意(からごころ)のまじったものであることは争えなかった。
武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。先輩義髄が西の志士らと共に画策するところのあったということも、もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、徳川氏に代わるもの出(い)でよというにとどまるなら、日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。
水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪(すわ)の百姓も、ぽつぽつ木曾街道を帰って来るようになった。
諏訪の百姓は馬籠本陣をたよって来て、一通の書付を旅の懐(ふところ)から取り出し、主人への取り次ぎを頼むと言い入れた。その書付は、敦賀(つるが)の町役人から街道筋の問屋にあてたもので、書き出しに信州諏訪|飯島村(いいじまむら)、当時無宿|降蔵(こうぞう)とまず生国と名前が断わってあり、右は水戸浪士について越前(えちぜん)まで罷(まか)り越したものであるが、取り調べの上、子細はないから今度帰国を許すという意味を認(したた)めてあり、ついては追放の節に小遣(こづか)いとして金壱分をあてがってあるが、万一途中で路銀に不足したら、街道筋の問屋でよろしく取り計らってやってくれと認(したた)めてある。
半蔵はすぐにその百姓の尋ねて来た意味を読んだ。武田耕雲斎以下、水戸浪士処刑のことはすでに彼の耳にはいっていた際で、自分のところへその書付を持って来た諏訪の百姓の追放と共に、信じがたいほどの多数の浪士処刑のことが彼の胸に来た。
「旦那(だんな)、わたくしは鎗(やり)をかつぎまして、昨年十一月の二十七日にお宅の前を通りましたものでございます。」
降蔵の挨拶(あいさつ)だ。
旅の百姓は本陣の表玄関のところに立って、広い板の間の前の片すみに腰を曲(こご)めている。ちょうど半蔵は昼の食事を済ましたころであったが、この男がまだ飯前だと聞いて、玄関から手をたたいた。家のものを呼んで旅の百姓のために簡単な食事のしたくを言いつけた。
「この書付のことは承知した。」と半蔵は降蔵の方を見て言った。「まあ、いろいろ聞きたいこともある。こんな玄関先じゃ話もできない。何もないが茶漬(ちゃづ)けを一ぱい出すで、勝手口の方へ回っておくれ。」
降蔵は手をもみながら、玄関先から囲炉裏ばたの方へ回って来た。草鞋(わらじ)ばきのままそこの上がりはなに腰掛けた。
「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」
それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日(ついたち)、二日は敦賀(つるが)の本正寺(ほんしょうじ)で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。五日よりだんだんお呼び出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は六番の土蔵にいたが、その時|白洲(しらす)に引き出されて、五日より十日まで惣勢(そうぜい)かわるがわる訊問(じんもん)を受けた。浪士らのうち、百三十四人は十五日に、百三人は十六日に打ち首になった。そうこうしていると、ちょうど十七日は東照宮の忌日に当たったから、御鬮(みくじ)を引いて、下回りの者を助けるか、助けないかの伺いを立てたという。ところが御鬮のおもてには助けろとあらわれた。そこで降蔵らは本正寺に呼び出され、門前で足枷(あしかせ)を解かれ、一同書付を読み聞かせられた。それからいったん役人の前を下がり、門前で髪を結って、またまた呼び出された上で最後の御免の言葉を受けた。読み聞かせられた書付は爪印(つめいん)を押して引き下がった。その時、降蔵同様に追放になったものは七十六人あったという。
「さようでございます。」と降蔵は同国生まれの仲間の者だけを数えて見せた。「わたくし同様のものは、下諏訪(しもすわ)の宿から一人(ひとり)、佐久郡の無宿の雲助が一人、和田の宿から一人、松本から一人、それに伊那の松島宿から十四、五人でした。さよう、さよう、まだそのほかに高遠(たかとお)の宮城(みやしろ)からも一人ありました。なにしろ、お前さま、昨年の十一月に伊那を出るから、わたくしも難儀な旅をいたしまして、すこしからだを悪くしたものですから、しばらく敦賀(つるが)のお寺に御厄介(ごやっかい)になってまいりました。まあ、命拾いをしたようなものでございます。」
お民は下女に言いつけて、飯櫃(めしびつ)と膳(ぜん)とをその上がりはなへ運ばせた。
「亀山(かめやま)さんもどうなりましたろう。」
それをお民が半蔵に言うと、降蔵は遠慮なく頂戴(ちょうだい)というふうで、そこに腰掛けたまま飯櫃を引きよせ、おりからの山の蕨(わらび)の煮つけなぞを菜にして、手盛りにした冷飯(ひやめし)をやりはじめた。半蔵は鎗(やり)をかついで浪士らの供をしたという百姓の骨太な手をながめながら、
「お前は小荷駄掛(こにだがか)りの亀山|嘉治(よしはる)のことを聞かなかったかい。あの人はわたしの旧(ふる)い友だちだが。」
「へえ、わたくしは正武隊付きで、兵糧方(ひょうろうかた)でございましたから、よくも存じませんが、重立った御仁(ごじん)で助けられたものは一人もございませんようです。ただいま申し上げましたように、わたくしは追放となりましてから患(わずら)いまして、しばらく敦賀に居残りました。先月十七日以後のこともすこしは存じておりますが、十九日にも七十六人、二十三日も十六人が打ち首になりました。」
「とうとう、あの亀山も武田耕雲斎や藤田小四郎なぞと死生を共にしたか。」
半蔵はお民と顔を見合わせた。
おまんをはじめ、清助から下男の佐吉までが水戸浪士のことを聞こうとして、諏訪の百姓の周囲に集まって来た。この本陣に働くものはいずれも前の年十一月の雨の降った日の恐ろしかった思いを噛(か)み返して見るというふうで。
順序もなく降蔵が語り出したところによると、美濃(みの)から越前(えちぜん)へ越えるいくつかの難場のうち、最も浪士一行の困難をきわめたのは国境の蝿帽子峠(はえぼうしとうげ)へかかった時であったという。毎日雪は降り続き、馬もそこで多分に捨て置いた。荷物は浪士ら各自に背負い、降蔵も鉄砲の玉のはいった葛籠(つづら)を負わせられたが、まことに重荷で難渋した。極々(ごくごく)の難所で、木の枝に取りついたり、岩の間をつたったりして、ようやく峠を越えることができた。その辺の五か村は焼き払われていて、人家もない。よんどころなく野陣を張って焼け跡で一夜を明かした。兵糧は不足する、雪中の寒気は堪(た)えがたい。降蔵と同行した人足も多くそこで果てた。それからも雪は毎日降り続き、峠は幾重(いくえ)にもかさなっていて、前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿(いまじょうじゅく)までたどり着いて見ると、町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、人一人も残らず逃げ去っていた。もっとも食糧だけは家の前に出してあって、なにぶん火の用心頼むと張り紙をしてあった。その今庄を出てさらに峠にかかるころは深い雪が浪士一行を埋(うず)めた。家数四十軒ほどある新保村(しんぽむら)まで行って、一同はほとんど立ち往生の姿であった。その時の浪士らはすでに加州|金沢藩(かなざわはん)をはじめ、諸藩の大軍が囲みの中にあった。
降蔵の話によると、彼は水戸浪士中の幹部のものが三、四人の供を連れ、いずれも平服で加州の陣屋へ趣(おもむ)くところを目撃したという。加州からも平服で周旋に来て、浪士らが京都へ嘆願の趣はかなわせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。それから加州方からは毎日のように兵糧の応援があった。米、菜の物、煮豆など余るくらい送ってくれた。降蔵らもにわかに閑暇(ひま)になったから、火|焚(た)きその他の用事を弁じ、米も洗えば醤油(しょうゆ)も各隊へ持ち運んだ。師走(しわす)も十日過ぎのこと、浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということになった時、副将田丸稲右衛門や参謀山国|兵部(ひょうぶ)らは武田耕雲斎を諫(いさ)め、武器を渡すことはいかにも残念であると言って、その翌日の暁(あけ)八つ時(どき)を期し囲みを衝(つ)いて切り抜ける決心をせよと全軍に言い渡し、降蔵らまで九つ時ごろから起きて兵糧を炊(た)いたが、とうとう耕雲斎の意見で浪士軍中の鎗や刀は全部先方へ渡してしまった。二十五、六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀(つるが)に移った。そこにある三つの寺へ惣(そう)人数を割り入れられ、加州方からは朝夕の食事に肴(さかな)を添え、昼は香の物、酒も毎日一本ずつは送って来た。手ぬぐい、足袋(たび)、その他、手厚い取り扱いで、病人には薬を与え、医師まで出張して来て高価な薬品をあてがわれたが、その寺で病死した浪士も多かった。
正月の二十七日は浪士らが加州侯の手を離れて幕府総督田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)に引き渡された日であった。その日は加州から浪士一同へ酒肴(しゅこう)を贈られ、降蔵らまでそのもてなしがあった上で、加州の家老|永原甚七郎(ながはらじんしちろう)が来ての言葉に、これまでだんだん周旋したいつもりで種々尽力したが、なにぶんにも行き届かず、公辺へ引き渡すことになったからその断わりに罷(まか)り出たのであると。それを聞いた時の隊長らの驚きはなかった。ここで切腹すべきかと言い出すものがあり、加州を恨むものがある。いったん身柄を任せた上は是非もないことだ、いかように取り扱われるとも拠(よんどころ)なしと覚悟した浪士の中には辞世の詩を作り歌を読むものがあった。十一人ずつの組で、降蔵らまで駕籠(かご)で送られて行った先は十六番からある暗い土蔵の中だ。所持の巾着(きんちゃく)、また懐中物等はすべてお預けということになった。手枷(てかせ)、足枷(あしかせ)がそこに降蔵らを待っていたのだった……
清助は諏訪の百姓の方を見て言った。
「どうして、お前は伊那から越前の敦賀まで、そんな供をするようになったのかい。」
「そりゃ、お前さま、何度わたくしも国の方へ逃げ帰りたいと思ったか知れません。お暇(いとま)をいただきます、御免こうむりますと言い出せばそのたびに天誅(てんちゅう)、天誅ですで。でも、妙なもので、毎日|鎗(やり)をかついだり、荷物を持ったり、隊長の話を聞いたりするうちに、しまいにはこの人たちの行くところまで供をしようという気になりました。」
「和田峠の話は出なかったかい。浪士の中にいたら、あの合戦の話も聞いたろう。」
「さようでございます。諏訪の合戦はなかなか難儀だったそうで、今一手もあったらなにぶん当惑するところだったと申しておりました。あの山国兵部の謀(はかりごと)で、奇兵に回ったものですから、ようやく打ち破りはしたものの、ずいぶん難戦いたしたような咄(はなし)を承りました。」
四月が来たら、というその月の末まで待って見ても、西の領地にある諸大名で国から出て来るものはほとんどない。越前、尾州、紀州の若殿や奥方をはじめ、肥前、因州なぞの女中方や姫君から薩州(さっしゅう)の簾中(れんちゅう)まで、かつてこの街道経由で帰国を急いだそれらの諸大名の家族がもう一度江戸への道を踏んで、あの不景気のどん底にある都会をにぎわすことなぞは思いもよらない。わずかにこの街道では四月二十七日に美濃|苗木(なえぎ)の女中方が江戸をさしての通行と、その前日に中津川泊まりで東下する弘前(ひろさき)城主|津軽侯(つがるこう)の通行とを迎えたのみだ。
しかし、馬籠の宿場が閑散であったわけではない。二度と参覲交代の道を踏む諸大名こそまれであったが、三月二十二日あたりから四月七日ごろへかけて日光|大法会(だいほうえ)のために東下する勅使や公卿たちの通行の混雑で、半蔵は隣家の年寄役伊之助らと共に熱い汗を流し続けた。幕府では四月十七日を期し東照宮二百五十回忌の大法会を日光山に催し、法親王および諸|僧正(そうじょう)を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行(じしゃぶぎょう)、大目付、勘定奉行から納戸頭(なんどがしら)までも参列させ、天台宗徒(てんだいしゅうと)をあつめて万部の仏経を読ませ、諸人にその盛典をみせ、この際――年号までも慶応(けいおう)元年と改めて、大いに東照宮の二百五十年を記念しようとしたのだ。この街道へは尾州家から千五百両の金を携えた役人が出張して来て、日によっては千人の人足を買い揚げたのを見ても、いかにその通行の大がかりなものであったかがわかる。奈良井宿詰(ならいしゅくづ)めの尾張人足なぞは、毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。伊那|助郷(すけごう)が五百人も出た日の後には、須原(すはら)通しの人足五千人の備えを要するほどの勅使通行の日が続いた。
この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顛末(てんまつ)がいろいろな形で世上に流布(るふ)するようになった。これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。宍戸侯(ししどこう)(松平|大炊頭(おおいのかみ))の悲惨な最期を序幕とする水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。
いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道(なかせんどう)を通過し、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、それを自身に関係ある事だとして直ちに江州路(ごうしゅうじ)へ出張し鎮撫(ちんぶ)に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。朝議もそれを容(い)れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原(おだわら)、会津(あいづ)、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢が今庄(いまじょう)に到着したので、諸藩の探偵(たんてい)は日夜織るがごとくであり、実にまれなる騒擾(そうじょう)であったという。十二月の十日ごろには加州金沢藩の士卒二千余人が一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人、津藩の六百余人、大垣藩(おおがきはん)の千余人、水戸藩の七百人が着港した。このほかに、間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩(ひこねはん)、丸山藩であって、その中でも監軍永原甚七郎に率いられる加州の士卒が先陣を承ったものらしい。水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、野も山もほとんど諸藩の士卒で埋(うず)められたとは、半蔵などの想像以上であった。
武田耕雲斎は新保宿を距(さ)る二十町ほどの村に加州の兵が在陣すると聞き、そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、諸藩の兵に対して敵意のないことを述べ、一同のために道を開かれたいと願った。その時の加州方からの返書は左のようなものであったとある。
お手紙|披見(ひけん)いたし候(そうろう)。されば御嘆願のおもむきこれあり候につき、滞りなく通行の儀、かつ外諸侯へ対し接戦の存じ寄り毛頭これなき旨(むね)、委曲承知いたし候えども、加賀中納言殿人数当宿出張いたし候儀は一橋中納言殿の厳命に候条、是非なく一戦に及ぶべき存じ寄りに御座候。なお、後刻を期し一戦の節は御報に及ぶべく候。貴報かくのごとくに御座候。以上。
子(ね)十二月十一日 
   加賀中納言内
   永原甚七郎
武田伊賀守殿内
安藤彦之進殿
時に雪は一丈余、浪士らは食も竭(つ)き、力も窮まった。金沢藩ではそれを察し、こんな飢えと寒さとに迫られたものと交戦するのは本意でないとして、その日に白米二百俵、漬(つ)け物十|樽(たる)、酒二|石(こく)、※[魚+昜](するめ)二千枚を武田の陣中に送った。同時に来たる十七日の暁天を期して交戦に及ぼうとの戦書をも送った。ところが耕雲斎は藤田小四郎以下三名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣(つか)わし、永原甚七郎に面会を求めさせた。甚七郎は帯刀までそこへ投げ捨てるほどにして誠意を示した小四郎らの態度に感じ、一統へ相談に及ぶべき旨を答えて使者をかえした。すると今度は耕雲斎が単身で金沢藩の陣中へやって来たから、そういうことなら当方から拙者|一人(ひとり)推参すると甚七郎は言って、ひとまず耕雲斎の帰陣を求めた。そこで甚七郎は出かけた。新保宿にある武田の本営では入り口に柵(さく)を結いめぐらし、鎗(やり)大砲を備え、三百人の銃手がおのおの火繩(ひなわ)を消し、一礼してこの甚七郎を迎え入れた。耕雲斎は白羅紗(しろらしゃ)の陣羽織を着け、一刀を帯び、草鞋(わらじ)をはいて甚七郎を迎えたという。甚七郎は自己の率いて行った兵を営外にとどめ、単身耕雲斎の案内で玄関に行って見ると、そこには山国兵部、田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め二十五人の幹部のものがいずれも大小刀を帯びないで出迎えていた。その時だ。甚七郎も浪士らの態度に打たれ、規律正しい陣所の光景にも意外の思いをなし、ようやくさきの戦意をひるがえした。しからば願意をきき届けようと言って、その旨を耕雲斎に確答し、一橋中納言に捧呈(ほうてい)する嘆願書並びに始末書を受け取って退営した。翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、馬を駆って江州梅津の本営にいたり、二通の書面を一橋公に捧呈した。その嘆願書と始末書には、筑波(つくば)挙兵のそもそもから、市川三左衛門らの讒言(ざんげん)によって幕府の嫌疑(けんぎ)をこうむったことに及び、源烈公が積年の本懐も滅びるようであっては臣子の情として遺憾に堪(た)えないことを述べ、亡(な)き宍戸侯(ししどこう)のために冤(えん)をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、なお、一同が西上の心事は尊攘の精神にほかならないことをこまごまと言いあらわしてあったという。
過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、半蔵にはいろいろと思い合わされた。その時になると、浪士軍中に二つのものの流れのあったことも彼には想(おも)い当たる。最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、武田耕雲斎は将士を集めて評議を凝らしたという。ちょうど長州藩からは密使を送って来て、若狭(わかさ)、丹後(たんご)を経て石見(いわみ)の国に出、長州に来ることを勧めてよこした時だ。山国兵部は浪士軍中の最年長者ではあるものの、その意気は壮者をしのぐほどで、しきりに長州行きを主張した。その時の兵部の言葉に、これから間道を通って山陰道に入り、長州に達することを得たなら、尊攘の大義を暢(の)ぶることも難くはあるまい、今さら加州藩に嘆願哀訴するごときことはいかにも残念である、むしろ潔く決戦したいとの意見を述べたとか。しかし耕雲斎にして見ると、一橋公の先鋒(せんぽう)を承る金沢藩を敵として戦うことはその本志でなかった。筑波(つくば)組の田丸、藤田らと、館山(たてやま)から合流した武田との立場の相違はそこにもあらわれている。「所詮(しょせん)、水戸家もいつまで幕府のきげんをとってはいられまい」との反抗心から出発した藤田らと、飽くまで尊攘の名義を重んじ一橋慶喜の裁断に死生を託し宍戸侯の冤罪(えんざい)を晴らさないことには済まないと考える武田とは、最初から必ずしも同じものではなかったのだ。
ともあれ、水戸浪士の最後にたどり着いた運命は、半蔵らにとってただただ山国兵部や横田東四郎や亀山嘉治のような犠牲者を平田同門の中から出したというにとどまらなかった。なぜかなら、幕府の水戸における内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、水戸領内の郷校に学んだ有為な子弟の多くが滅ぼし尽くされたことは実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。水戸は何もかも早かった。諸藩に魁(さきがけ)して大義名分を唱えたことも早かった。激しい党争の結果、時代から沈んで行くことも早かった。
半蔵はこの水戸浪士の事件を通して、いろいろなことを学んだ。これほど関東から中国へかけての諸藩の態度をまざまざと見せつけられた出来事もない。幕府が一橋慶喜に対する反目のはなはだしいには、これにも彼は心を驚かされた。一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、一方は京都守護職から在京の諸藩士にまでつながっているそれらの暗闘の奥には奥のあることが、思いがけなくも水戸浪士の事件を通して、それからそれと彼の胸に浮かんで来るようになった。
もともと一橋慶喜は紀州出の家茂(いえもち)を将軍とする幕府方によろこばれている人ではない。井伊大老在世の日、徳川世子の継嗣問題が起こって来たおりに、今の将軍と競争者の位置に立たせられたのもこの人だ。薩長二藩の京都手入れはやがて江戸への勅使|下向(げこう)となった時、京都方の希望をもいれ、将軍後見職に就(つ)いたのもこの人だ。幕府改革の意見を抱(いだ)いた越前の松平|春嶽(しゅんがく)が説を採用して、まず全国諸大名が参覲交代制度廃止の英断に出たのもこの人だ。禁裡(きんり)守衛総督|摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮の重職にあって、公武一和を念とし、時代の趨勢(すうせい)をも見る目を持ったこの人は、何事にも江戸を主にするほど偏頗(へんぱ)でない。時は慶応元年を迎え、越前の松平春嶽もすでに手を引き、薩摩の島津久光も不平を抱(いだ)き、公武一和の到底行なわれがたいことを思うものの中に立って、とにもかくにも京都の現状を維持しつつあるのは慶喜の熱心と忍耐とで、朝廷とてもその誠意は認められ、加うるに会津のような勢力があって終始その後ろ楯(だて)となっている。どうかすると慶喜の声望は将軍家茂をしのぐものがある。これは江戸幕府から言って煙(けむ)たい存在にはちがいない。慶喜排斥の声は一朝一夕に起こって来たことでもないのだ。はたして、幕府方の反目は水戸浪士の処分にもその隠れた鋒先(ほこさき)をあらわした。
慶喜は厳然たる態度をとって容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。そのために武田耕雲斎は浪士全軍を率いて加州の陣屋に降(くだ)るの余儀なきに至った。しかし水戸烈公を父とする慶喜は、その実、浪士らを救おうとして陰ながら尽力するところがあったとのことである。同じ御隠居の庶子(しょし)にあたる浜田(はまだ)、島原(しまばら)、喜連川(きつれがわ)の三侯も、武田らのために朝廷と幕府とへ嘆願書を差し出し、因州、備前(びぜん)の二侯も、浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼|玄蕃頭(げんばのかみ)だ。田沼侯は筑波以来の顛末(てんまつ)を奏して処置したいとの考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。ところが朝廷では田沼侯の入京お差し止めとある。怒(おこ)るまいことか、田沼侯は朝廷が幕府を辱(はず)かしめるもはなはだしいとして、兵権政権は幕府に存するととなえ、あだかも一橋慶喜なぞは眼中にもないかのように、その足で引き返して敦賀(つるが)に向かった。正月の二十六日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、二十八日には武田以下浪士全員の引き取りを言い渡した。この総督は、市川三左衛門らの進言に耳を傾け、慶喜が武田ら死罪赦免の儀を朝廷より御沙汰(ごさた)あるよう尽力中であると聞いて、にわかに浪士の処刑を急いだという。
加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命(いのち)を助けることができなかったか。それにつき、世間には種々(さまざま)な風評が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞こえて来た。現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。しかし半蔵はそれを穿(うが)ち過ぎた説だとして、伯耆(ほうき)から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺(すわらいがくじ)の和尚(おしょう)なぞの置いて行った話の方を信じたかった。いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、敦賀|本勝寺(ほんしょうじ)の書院に耕雲斎らを見に行って胸がふさがったという永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。
田沼侯に対する世間の非難の声も高い。水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人|塩原彦七(しおばらひこしち)ですらそれを言って、幕府の若年寄(わかどしより)ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たないことも久しいと言って、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。浪士らの勢いのさかんな時は二十里ずつの距離の外に屏息(へいそく)し、徐行|逗留(とうりゅう)してあえて近づこうともせず、いわゆる風声鶴唳(ふうせいかくれい)にも胆(きも)が身に添わなかったほどでありながら、いったん浪士らが金沢藩に降(くだ)ったと見ると、虎の威を借りて刑戮(けいりく)をほしいままにするとはなんという卑怯(ひきょう)さだと。しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采(ふうさい)の人で、天狗連(てんぐれん)追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖(こんぺいとう)を席にまき、そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮(けいりく)をあえてさせたのだと言うものも出て来た。
千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには八百二十三人だけしか生き残らなかった。そのうちの三百五十三名が前後五日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬(き)られた。耕雲斎ら四人の首級は首桶(くびおけ)に納められ、塩詰めとされたが、その他のものは三|間(げん)四方の五つの土穴の中へ投げ込まれた。残る二百五十名は遠島を申し付けられ、百八十名の雑兵歩人らと、数名の婦人と、十五名の少年とが無構(むかまい)追放となった。
ある日、半蔵は本陣の店座敷から西側の廊下を通って、家のものの集まっている仲の間へ行って見た。継母のおまんはお民を相手に糸などを巻きながら、日光大法会のうわさをしたり、水戸浪士のうわさをしたりしている。おまんは糸巻きを手にしている。お民は山梔色(くちなしいろ)の染め糸を両手に掛けている。おまんがすこしずつ繰るたびに、その染め糸の束(たば)はお民の両手を回って、順にほどけて行った。廂(ひさし)の深い障子の間からさし込む日光はその黄な染め糸の色を明るく見せている。
「お母(っか)さんもお聞きでしたか。」と半蔵は言った。「いよいよ耕雲斎たちの首級(くび)も江戸から水戸へ回されたそうですね。あの城下町を引き回されたそうですね。」
おまんはお民の手にからまる染め糸をほぐしほぐし、「どうも、えらい話さ。お父(とっ)さん(吉左衛門)もそう言っていたよ、三百五十人からの死罪なんて、こんな話は今まで聞いたこともないッて。」
その時、半蔵は江戸の方から来た聞書(ききがき)を取り出して、それを継母や妻にひろげて見せた。武田らの遺族で刑せられたものの名がそこに出ていた。武田伊賀の妻で四十八歳になるときの名も出ていた。八歳になる忰(せがれ)の桃丸(ももまる)、三歳になる兼吉(かねよし)の名も出ていた。それから、武田|彦右衛門(ひこえもん)の忰で十二歳になる三郎、十歳になる二男の金四郎、八歳になる三男の熊五郎(くまごろう)の名も出ていた。この六名はみな死罪で、ことに桃丸と三郎の二名は梟首(さらしくび)を命ぜられた。
「市川党もずいぶん惨酷(ざんこく)をきわめましたね。こいつを生かして置いたら、仇(あだ)を復(かえ)される時があるとでも思うんでしょうか。それにしても、こんな罪もない幼いものにまで極刑を加えるなんて、あさましくなる。」
と半蔵が言う。
「まあ、お母(っか)さん、ここに武田伊賀忰、桃丸、八歳とありますよ。吾家(うち)の宗太の年齢(とし)ですよ。」とお民もそれをおまんに言って見せた。
「そう言えば、あの遺族が牢屋(ろうや)に入れられていますと、そこへ牢屋の役人が耕雲斎以下の首を持って来まして、牢屋の外からその首を見せたと言いますよ。今は花見時だ、お前たちはこの花を見ろと、そう役人が言ったそうですよ。」
「どういうつもりで、そんなことを言ったものかいなあ。」とおまんも半蔵夫婦の顔を見比べながら、
「遺族にお別れをさせるつもりだったのか、それとも辱(は)じしめるつもりだったのか。」
「実にけしからん、無情な事をしたものだッて、そう言わないものはありませんよ。」
武田、山国、田丸らが遺族の男の子は死罪に、女の子は永牢を命ぜられた。そのうち、永牢を申し渡されたものの名は次のように出ていた。
武田伊賀娘  よし  十一歳
同妾(めかけ) むめ  十八歳
武田彦右衛門妻 いく  四十三歳
山国兵部妻 なつ  五十歳
同娘 ちい  三十歳
山国|淳一郎(じゅんいちろう)娘  みよ  十一歳
同娘 ゆき 七歳
同娘 くに  五歳
田丸稲右衛門娘  まつ  十九歳
同娘 むめ  十歳
おまんは言った。
「半蔵、あのお父(とっ)さんがこれを見たら、なんと言うだろうね。こないだも裏の隠居所の方で何を言い出すかと思ったら、あゝあゝ、おれも六十七の歳(とし)まで生きて、この世の末を見過ぎたわいとさ。」  

参覲交代制度の復活が幕府の期待を裏切ったことは、諸藩の人心がすでに幕府を去ったことを示した。すこしく当時の形勢を注意して見るものは諸藩が各自に発展の道を講じはじめたことを見いだす。海運業のにわかな発達、船舶の増加、学生の海外留学なぞは皆その結果で、その他あるいは兵制に、あるいは物産に、後日のために計るものはいずれもまず力をその藩に尽くしはじめた。
中国の大藩、御三家の一つなる尾州ですらこの例にもれない。そのことは尾州家の領地なる木曾地方にもあらわれて、一層の注意が森林の保護と良材の運輸とに向けられ、塩の|買〆(かいしめ)も行なわれ、御嶽山麓(おんたけさんろく)に産する薬種の専売は同藩が財源の一つと数えられた。人参(にんじん)の栽培は木曾地方をはじめ、伊那、松本辺から、佐久の岩村田、小県(ちいさがた)の上田、水内(みのち)の飯山(いいやま)あたりまでさかんに奨励され、それを尾州藩で一手(いって)に買い上げた。尾州家の御用という提灯(ちょうちん)をふりかざし、尾州御薬園御用の旗を立てて、いわゆる尾張薬種の荷が木曾の奥筋から馬籠(まごめ)へと運ばれて来る光景は、ちょっと他の街道に見られない図だ。
五月にはいって、半蔵は木曾福島の地方御役所(じかたおやくしょ)から呼ばれた用向きを済まし、同行した宿方のものと一緒に馬籠へ帰って来た。その用向きは、前年十二月に尾州藩から仰せ出された献金の件で、ようやくその年の五月に福島へ行って献納の手続きを済まして来たところであった。献金の用途とはほかでもない。尾州の御隠居を征討総督にする最初の長州征伐についてである。
最初、長州征伐のことが起こった時、あれは半蔵が木曾下四宿の総代として江戸に出ていたころで、尾州藩では木曾谷中三十三か村の庄屋あてに御隠居の直書(じきしょ)になる依頼状を送ってよこした。それには、今般長州征伐の件で格別の台命(たいめい)をこうむり病中を押して上京することになった、その上で西国筋へ出陣にも及ばねばならないということから始めて、この容易ならぬ用途はさらに見当もつかないほど莫大(ばくだい)なことであると書いてあり、従来|不如意(ふにょい)な勝手元でほかに借財の途(みち)もほとんど絶えている、この上は領民において入費を引き受けてくれるよりほかにない、これは木曾地方の領民にのみ負担させるわけでもない、もとよりこれまで追い追いと調達を依頼し実に気の毒な次第ではあるが、尋常ならぬ時勢をとくと会得(えとく)して今般の費用を調(ととの)えるよう、よくよく各村民へ言い聞かせてもらいたいとの意味が書いてあった。
この御隠居の依頼状に添えて、尾州家の年寄衆からも別に一通の回状を送ってよこした。それもやはり領民へ献金依頼のことを書いたもので、御隠居が直書(じきしょ)をもって仰せ出されるほどこの非常時の入費については心配しておらるる次第である、方今(ほうこん)の形勢は上下一致の力に待つのほかはない、領民一同報国の至誠を励むべき時節に差し迫ったと書いてあり、これまでとても追い追いと御為筋(おためすじ)を取り計らってもらった上で、今また右のような用途を引き受けるよう仰せ出されるのは深く気の毒な次第であるが、余儀なき御趣意を恐察して一同御国威のためと心得るようとの意味が書いてあった。
当時、木曾福島の代官山村氏は各庄屋を鎗(やり)の間(ま)に呼び集めた。三役所の役人立ち会いの上で、名古屋からの二通の回状を庄屋たちに示し、なおその趣意を徹底させるため代官自身に認(したた)めたものをも読み聞かせ、正月十五日までに各自めいめいの献納高を書付にして調べて出すように、とのことであったのだ。
半蔵が福島の役所へ持参したのは、その年の五月までかかってどうにかこの献金を取りまとめたものだ。それでも木曾谷全体では、二十二か村の在方で三百十四両の余をつくり、十一宿で三百両をつくり、都合六百十四両の余を献納することができた。そして馬籠の宿方から山口、湯舟沢の近村まで、これで一同ようやく重荷をおろすこともできようと考えながら、彼は宿役人の集まる馬籠の会所まで帰って来て見た。
「また、長州征伐だそうですよ。」
隣家の年寄役伊之助がそのことを半蔵にささやいた。
「半蔵さん、今度は公方様(くぼうさま)の御進発だそうですよ。」
とまた伊之助が言って見せた。
「わたしもそのうわさは聞いて来ました。いよいよ事実でしょうか。まったく、これじゃ地方の人民は息がつけませんね。」
と言って半蔵は嘆息した。
街道も多忙な時であった。なんとなく雲行きの急なことを思わせるような公儀の役人衆の通行が続きに続いた。時には、三|挺(ちょう)の早駕籠(はやかご)が京都方面から急いで来た。そのあとには江戸行きの長持が暮れ合いから夜の五つ時(どき)過ぎまでも続いた。
長防再征の触れ書が馬籠の中央にある高札場に掲げられるようになったのも、それから間もなくであった。江戸から西の沿道諸駅へはすでに一貫目ずつの秣(まぐさ)と、百石ずつの糠(ぬか)と、十二石ずつの大豆を備えよとの布告が出た。普請役、および小人目付(こびとめつけ)は長防征討のために人馬の伝令休泊等の任務を命ぜられ、西の山陽道方面ではそのために助郷(すけごう)の課役を免ぜられた。
この将軍の進発には諸藩でも異論を唱えるものが続出した。越前家(えちぜんけ)でも備前家(びぜんけ)でも黙ってみている場合でないとして、不賛成を意味する建白書(けんぱくしょ)を幕府に提出した。それを約(つづ)めて言えば、旧冬尾州の御隠居を総督として長州兵が京都包囲の責めを問うた時、長州藩でもその罪に伏し、罪魁(ざいかい)の老臣と参謀の家臣らを処刑して謹慎の意を表したことで、この上は大膳(だいぜん)父子をはじめ長防二州の処置を適当に裁決あることと心得ていたところ、またまた将軍の進発と聞いては天下の人心は愕然(がくぜん)たるのほかはないというにある。幸いに最初の長州征伐は戦争にも及ばずに済み、朝野(ちょうや)ともようやく安堵(あんど)の思いをしたところ、またまた大兵を動かすとあっては諸大名の困窮、万民の怨嗟(えんさ)はまことに一方(ひとかた)ならないことで、この上どんな不測な変が生じないとも計りがたいというにある。軽々しく事を挙(あ)げるのは慎まねばならない、天下の乱階(らんかい)となることは畏(おそ)れねばならない、今度仰せ出されたところによると大膳父子に悔悟の様子もなくその上に容易ならぬ企てが台聴(たいちょう)に達したとあるが、もし父子の譴責(けんせき)が厳重に過ぎて一同死守の勢いにもならば実に容易ならぬ事柄だというにある。当今は人心沸騰の時勢、何事も叡慮(えいりょ)を伺った上でないと朝廷の思(おぼ)し召しはもとより長防鎮庄の運命もどうなることであろうか、今般の征伐はしばらく猶予され、大小の侯伯の声に聞いて国是(こくぜ)を立てられたい、長州一藩のゆえをもって皇国|擾乱(じょうらん)の緒を開くようではいったんの盛挙もかえって後日の害となるべきかと深く憂慮されるというにある。
しかし、幕府ではこれらの建白に耳を傾けようとしなかった。細川のような徳川|譜代(ふだい)と同様の感のあった大諸侯までが参覲交代の復旧を非難するとは幕府としては堪(た)えられなかったことで、この際どんな無理をしても幕府の頽勢(たいせい)を盛り返し、自己(おのれ)にそむくものは討伐し、日光山大法会の余勢と水戸浪士三百五十余人を斬(き)った権幕(けんまく)とで、年号まで慶応元年と改めた東照宮二百五十回忌を期とし、大いに回天(かいてん)の翼を張ろうとした。
事実、幕府では回天、回陽(かいよう)と命名せらるべき二隻の軍艦を造る準備最中の時でもあった。この二艦の名ほど当時の幕府の真相をよく語って見せているものもない。もう一度太陽のかがやきを見たいとは、東照宮の覇業(はぎょう)を追想するものの願いであったのだ。再度の長州征伐は徳川全盛の昔を忘れかねる諸有司の強硬な主張から生まれた。これは長防の征討とは言うものの、その実、種々(さまざま)な目的をもって企てられた。四国外交団をあやなすこともその一つであった。ひそかに朝廷に結ぼうとする外藩をくじくこともその一つであった。飽くまでも公武合体の道を進もうとする一橋慶喜と会津との排斥も、あるいはその奥の奥には隠されてあったと言うものもある。
閏(うるう)五月十六日、将軍はついに征長のために進発した。往時東照宮が関ヶ原合戦の日に用いたという金扇の馬印(うまじるし)はまた高くかかげられた。江戸在府の譜代の諸大名、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵頭、剣術と鎗術(そうじゅつ)と砲術との諸師範役、大目付(おおめつけ)、勘定奉行、軍艦奉行なぞは供奉(ぐぶ)の列の中にあった。その盛んな軍装をみたものは幕府の威信がまだ全く地に墜(お)ちないことを感じたという。江戸の町人で三万両から一万両までの御用金を命ぜられたものが二十人もあり、全国の寺社までが国恩のために上納金を願い出ることを説諭された。幕府がこの進発の入用のために立てた一か月分の予算は十七万四千二百両の余であった。当時幕府には二つの宝蔵があって、富士見(ふじみ)にあるを内蔵(うちぐら)ととなえ、蓮池(はすいけ)にあるを外蔵(そとぐら)ととなえたが、そのうち内蔵にあった一千万両の古金をあげてこの進発の入用にあてたというのを見ても、いかに大がかりな計画であったかがわかる。
同じ月の二十二、三日には将軍はすでに京都に着き、二十五日には大坂城にはいった。伝うるところによると、前年尾州の御隠居が総督として芸州(げいしゅう)まで進まれた時は実に長州に向かって開戦する覚悟であった、それにひきかえて今度の進発は初めから戦わない覚悟である。いかに長州が強藩でも天下の敵に当たって戦うことはできまい、去年尾州殿の陣頭にさえ首を下げて服罪したくらいである、まして将軍家の進発と聞いたら驚き恐れて毛利(もうり)父子が大坂に来たり謝罪して御処置を奉ずるのは、あだかも関ヶ原のあとで輝元(てるもと)一家が家康公におけるがごとくであろう。これは幕府方の閣老をはじめ幕軍一同の期待するところであったという。ところが再度の長防征討の企ては、備前家や越前家をはじめこの進発に不服な諸大名の憂慮したような死守の勢いにまで長州方を追いつめてしまった。
幕府方にはすでに砲刃矢石(ほうじんしせき)の間に相見る心が初めからない。金扇のかがやきは高くかかげられても、山陽道まで進もうとはしない。大軍が悠々(ゆうゆう)と閑日月(かんじつげつ)を送る地は豊臣(とよとみ)氏の恩沢を慕うところの大坂である。ある人の言葉に、ほととぎすは啼(な)いて天主台のほとりを過ぎ、五月(さつき)の風は茅渟(ちぬ)の浦端(うらわ)にとどまる征衣を吹いて、兵気も三伏(さんぷく)の暑さに倦(う)みはてた、とある。
過ぐる文久年度の生麦(なまむぎ)事件以上ともいうべき外国関係の大きなつまずきが、この不安な時の空気の中に引き起こって来た。
安政五年の江戸条約が諸外国との間に結ばれてから、すでに足掛け八年になる。この条約によると、神奈川(かながわ)、長崎、函館(はこだて)の三港を開き、新潟(にいがた)の港をも開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫(ひょうご)を開くべき約束であった。文久年度の初めになって見ると、当時の排外熱は非常な高度に達して、なかなか江戸、大坂、兵庫のような肝要な地を開くべくもなかった。時の老中|安藤対馬(あんどうつしま)は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税の減率を報酬として、五か年間の延期を承諾させたのである。
過ぐる四年は、実にこの国が全くの未知数とも言うべきヨーロッパに向かって大切な窓々を開くべきか否かの瀬戸ぎわに立たせられた苦(にが)い試練の期間であった。下の関における長州藩が外国船の砲撃なぞもこの間に行なわれた。その代償として、幕府が三百万両からの背負(しょ)い切れないほどの償金を負わせられたのも、当時に高い排外熱の結果にほかならない。
最初この償金は長州藩より提出すべき四国公使の要求であったという。しかし同藩では朝廷と幕府の命令に基づいて砲撃したのであるから、これを幕府に求めるのが当然だと言い張り、四国公使もまた長州藩から出させることの困難を察して、幕府が大名の取り締まりを怠りその職責を尽くさなかったことの罪に帰した。この償金の無理なことは四国公使も承知していて、例の開港さえ決行したなら償金は要求しないとの意味をその際の取りきめ書に付け添えたくらいである。そういう公使らはとらえられるだけの機会をとらえて、条約の履行を幕府に促そうとした。四年の月日は早くも経過して慶応元年となったが、幕府にはさらに開港の準備をする様子もない。そこで下の関償金三分の二を免除する代わりに兵庫の先期開港を幕府に迫れと主張する英国の新公使パアクスのような人が出て来た。その強い主張によると、幕府は条約にそむくことの恐るべき結果を生ずる旨(むね)を朝廷に申し上げて、よろしく条約の勅許を仰ぐべきである。それでもなお勅許を得られないとあるなら、四国公使はもはや徳川将軍を相手としまい、直接に朝廷に向かって条約の履行を要求しようというにあった。英艦四隻、仏艦三隻、米艦一隻、蘭艦(らんかん)一隻、都合九隻の艦隊が連合して横浜から兵庫に入港したのは、その年の九月十六日のことであった。十七日には、そのうち三隻が大坂の天保山沖(てんぽうざんおき)まで来て、七日を期して決答ありたいという各公使らの書翰(しょかん)を提出した。莫大(ばくだい)な費用をかけて江戸から動いた幕府方は、国内の強藩を相手とする前に、より大きな勢力をもって海の外から迫って来たものを相手としなければならなかったのである。どうしてこれは長州征伐どころの話ではなかった。四国連合の艦隊を向こうに回しては、長州藩ですら敵し得なかったのみか、砲台は破壊され、市街は焼かれ、今すこしで占領の憂(う)き目を見るところであったことは、下の関の戦いが実際にそれを証拠立てていた。
連合艦隊出動のことが江戸に聞こえると、江戸城の留守をあずかる大老や老中は捨て置くべき場合でないとして、昼夜兼行で大坂に赴(おもむ)きその交渉の役目に服すべき二人を任命した。山口|駿河(するが)はその一人(ひとり)であったのだ。
山口駿河は号を泉処(せんしょ)という。当時外国奉行の首席である。函館奉行の組頭(くみがしら)から監察(目付)に進んだ友人の喜多村瑞見(きたむらずいけん)とも親しい。この人が大坂へ出て行って、将軍にも面謁(めんえつ)し、江戸の方にある大老や老中の意向を伝えたころは、当路の諸有司は皆途方に暮れている。将軍は西上して国内がすでに多端の際であるのに、この上、外国から逼(せま)られてはどうしたらいいかと言って、ほとんどなすべきところを知らないに近いようなものばかりだ。その時、駿河は改めて大目付兼外国奉行に任ずるよしの命をうけ、とりあえず外国船に行って一応の尋問をなし、二十三日には老中|阿部豊後(あべぶんご)と共に翔鶴丸(しょうかくまる)という船に乗って、兵庫にある英仏米蘭四国公使に面接した。阿部老中はこれくらいのことが大事件かという顔つきの人で、万事ひとりのみ込みに開港事件を担任して、決答の日限を来たる二十九日まで延期するという約束で帰った。時に大坂へは切迫した形勢を案じ顔な京都守衛の会津藩士が続々と下って来た。駿河らをつかまえて言うには、各国公使は軍艦を率いて来て、開港を要求している、これはいわゆる城下の盟(ちかい)であって、これほど大きな恥辱はない、もし万一ますます乱暴をきわめて上京でもする様子があったら弊藩は一同死力を尽くして拒もう、淀(よど)鳥羽(とば)から上は一歩も踏ませまい、いささかもその辺に掛念(けねん)なく押し切って充分の談判を願いたいと。同時に、薩摩藩(さつまはん)の大久保市蔵(おおくぼいちぞう)からも幕府への建言があって、これは人心の向背(こうはい)にもかかわり、莫大(ばくだい)な後難もこの一挙にある、公使らの意見にのみ動かされぬよう至急諸侯を召してその建言をきかれたい、そのために日数がかかって万一先方から軽はずみな振る舞いに出るようなことがあったら、ただいま弊邸は人少なではあるが、かねがね修理太夫大隅守(しゅりだゆうおおすみのかみ)の申し付けて置いた趣もあるから、その際は先鋒(せんぽう)を承って死力を尽くしたいと申し出た。
十月にはいって、阿部豊後(あべぶんご)、松前伊豆(まつまえいず)両閣老免職の御沙汰(ごさた)が突然京都から伝えられた。京都伝奏からのその来書によると、叡慮(えいりょ)により官位を召し上げられ、かつ国元へ謹慎を命ずるとあって、関白がその御沙汰をうけたと認(したた)めてある。大坂城中のものは皆顔色を失い、びっくり仰天(ぎょうてん)して叡慮のいずれにあるやを知らない。将軍|家茂(いえもち)も大いに驚いて、尾州紀州の両公をはじめ老中、若年寄から、大目付、勘定奉行、目付の諸役を御用部屋(ごようべや)(内閣)に呼び集め、いわゆる御前会議を開いた。にわかな大評定(だいひょうじょう)があった。この外国関係の危機にあたり、その事を担当する二人(ふたり)の閣老の官位を召し上げ、かつ謹慎を命ずるとは何か。朝廷は四国公使との交渉に何の相談もない幕府の専断を強くとがめられたのである。しかも、老中をば朝廷より免職するというは全く前例のないことであった。いろいろな議論が出て、一座は鼎(かなえ)の沸くがごとくである。その時、山口|駿河(するが)は監察(目付)の向山栄五郎(むこうやまえいごろう)(黄村)と共に進み出て、将軍が臣下のことは黜陟(ちゅっちょく)褒貶(ほうへん)共に将軍の手にあるべきものと存ずる、しかるに、今朝廷からこの指令のあるのは将軍の権を奪うにもひとしい、将権がひとたび奪われたら天下の政事(まつりごと)はなしがたい、ただいま内外多端の際に喙(くちばし)を容(い)れてその主任の人を廃するのは将軍をして職掌を尽くさしめないのである、上は帝(みかど)の知遇を辱(はず)かしめ下は万民の希望にそむき祖先へ対しても実に面目ない次第だ、すみやかに大任を解き関東へ帰駿(きしゅん)あって、すこしも未練がましくない衷情を表されるこそしかるべきだと申し上げた。これにはだれも服さない。激しい声は席に満ちて来た。その時の家茂の言葉に、両人ともよく言った、その意見は至極(しごく)自分の意に適(かな)った、自分は弱年の身でこの大任を受け継いだとは言うものの、不幸にして内外多事な時にあたり、禍乱はしずめ得ず、人心は統御し得ず今また半途にして股肱(ここう)の臣までも罷(や)めさせられることになった、畢竟(ひっきょう)これは不才のいたすところで、所詮(しょせん)自分の力で太平を保つことはおぼつかない。いさぎよく位を避けて隠退しよう、一橋慶喜をあげて朝廷の命をきこう、ついては謹(つつし)んで叡旨(えいし)を奉じ豊後伊豆両人の登城は差し止めるがいい、それを言って将軍が奥へはいった時は、すすり泣く諸臣の声がそこにもここにも起こった。
実に、徳川氏の運命は驚かれるほどの勢いをもってこの時に急転した。間もなく将軍の辞職となった。上疏(じょうそ)の草稿は向山栄五郎が作った。年若な将軍はまだようやく二十歳にしかならない。その上疏も栄五郎の書いたのを透き写しにされ、親(みずか)ら署名して、それを尾州公(徳川|茂徳(しげのり)、当時|玄同(げんどう)と改名)に託された。なお、その上疏には諸有司相談の上で、一通の別紙を添え、開港のやみがたいことを述べ、征夷(せいい)大将軍の職を賭(か)けても勅許を争おうとする幕府の目的を明らかにした。
しかし、その時になって見ると、幕府内の心あるものは決して党争のために水戸を笑えなかった。幕府の老中らはその専断で外人の圧迫を免れようとする日にあたり、慶喜は飽くまで公武一和の道を守り、勅命を仰ぐの必要を主張し、断然として幕府を制(おさ)える態度に出たからである。かつて安政大獄を引き起こしたほどの幕府内部の暗闘――神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれたそれらの根深い党争は、長くその時まで続いて来た。慶喜の野心を疑う老中らは、ほとんど水戸の野心を疑う安政当時の紀州|慶福(よしとみ)擁立者たちに異ならなかった。老中らは慶喜の態度をもって、ことさらに幕府をくるしめるものとした。日ごろの慶喜排斥の声がその時ほど深刻な形をとってあらわれて来たこともなかった。幕府は老中|罷免(ひめん)に対する反抗の意志を上疏(じょうそ)の手段に表白したばかりでなく、その鋒先(ほこさき)を「永々(ながなが)在京、事務にも通じた」というところの慶喜に向けた。そして、将軍家茂に勧めて、慶喜に政務を譲りたい旨(むね)、諸事家茂の時のように御委任ありたい旨、その御沙汰(ごさた)を慶喜へ賜わるように朝廷に願い出た。
将軍はすでに伏見(ふしみ)に移った。大坂城を去る日、扈従(こじゅう)の面々が始めて将軍帰東の命をうけた時は皆おどろいて顔色を失い、相顧みて言葉を出すものもない。その時、講武所生徒の銃隊長と同じ刀鎗(とうそう)隊長とが相談の上、各隊の頭取(とうどり)を集めて演説し、銃隊は先発のことに、刀鎗隊は将軍警備のことに心得よと伝えたところ、銃隊は早速(さっそく)その命令に服したが、刀鎗隊はなかなか服従しないで各自の意見を述べるなど、一時は悲壮な混雑の光景を呈した。その中には一言も発しないで、涙をのみながら始終|謹(つつし)んで命をきいていた隊士もあったという。
一橋慶喜はこの事を聞いて尾州公を語らい、会津、桑名の両侯をも同道して、伏見にある奉行の館(やかた)に急いだ。将軍に面謁して、その決意をひるがえさせることを努めた。上疏を奉ったのみで、直ちに帰東せらるるはよろしくない、しかも帝(みかど)と将軍とは義理ある御兄弟(ごきょうだい)の間柄でもある、必ず京都へ上られて親しく事情を奏聞の後でなければ敬意を欠く、ぜひともしばらく思いとどまって進退完全の処置なくてはかなわぬ場合である、慶喜らはそれを言って、固く執ってやまなかった。この辞職譲位は幕府の老中らも心から願っていることではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山栄五郎も、上疏の草稿が彼の手に成ったというかどで深く朝廷から憎まれたと見え、それとなく忌避の御沙汰があった。三日を出ないうちに、これも職を奪われ、家に禁錮(きんこ)を命ぜられた。
これらの報知(しらせ)が江戸城へ伝えられた時の人々の驚きはなかったという。ことに天璋院(てんしょういん)、和宮様(かずのみやさま)をはじめ、大奥にある婦人たちの嘆きは一通りでなかったとか。中には慟哭(どうこく)して、井戸に身を投げようとしたものがあり、自害しようとするものさえあったという。
慶応元年十月五日はこの国の歴史に記念すべき日である。一橋慶喜をはじめ、小笠原壱岐守(おがさわらいきのかみ)、松平越中守(まつだいらえっちゅうのかみ)、松平肥後守が連署して、外国条約の勅許を奏請したのも、その日である。その前夜には、この大きな問題について意見を求めるために、諸藩の藩士が御所に召された。三十六人のものがそのために十五藩から選ばれた。三人は薩摩から、三人は肥後から、三人は備前から、四人は土佐から、二人は久留米(くるめ)から、一人は因州から、一人は福岡(ふくおか)から、一人は金沢から、一人は柳川(やながわ)から、二人は津(つ)から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それに七人は会津から。徳川将軍の進退と外国条約の問題とが諸藩の藩主でなしに、その重立った家来によって議せらるるようになったとは、そこにも時勢の推し移りを語っていた。井伊大老の時代以来、幾たびか幕府で懇請して許されなかった条約も、朝廷としては四国の力を合わせた黒船に直面し、幕府としては将軍の職を賭(か)けるところまで行って、ようやくその許しが出た。長い鎖国の解かれる日も近づいた。
山口|駿河(するが)は大坂にいた。その時は将軍も大坂城を発したあとで、そこにとどまるものはただ老中の松平|伯耆(ほうき)と城代(じょうだい)牧野越中(まきのえっちゅう)とがある。その他は町奉行、および武官の番頭(ばんがしら)ばかりだ。駿河は外国応接の用務のためにそこに残っていたが、相談相手とすべき人もなく、いたずらに大坂と兵庫の間を往復して各公使を言いなだめていた。彼はまだ京都からの決答も聞かず、老中|阿部(あべ)が退職の後はだれが外交の担任であるやも知らなかったくらいだ。
十月六日のこと。駿河は心配のあまり、監察の赤松左京(あかまつさきょう)とも相談の上で、京都へ行って様子をさぐろうとした。
暁に発(た)って淀川(よどがわ)をさかのぼり、淀の駅まで行った。そこいらの茶店ではまだ戸が閉(し)まっている。それをたたき起こして、酒をもとめ、粥(かゆ)を炊(た)かせなぞして、しばらくそこにからだを温(あたた)めていると、騎馬で急いで来る別手組(べつてぐみ)のものにあった。京都からの使者として、松浦という目付役が勅諚(ちょくじょう)を持参したのだ。その時、はじめて駿河は外国条約の勅許が出たことを知り、前の夜に禁中では大評定のあったことをも知った。多くの公卿(くげ)たちの中には今だに鎖港攘夷(さこうじょうい)を主張するものもあったが、ようやくのことで意見の一致を見たとの話も出た。なお、詳細のことは老中松平|伯耆(ほうき)から外国公使へ談判に及べとの話も出た。その勅書には条約は確かにお許しになったから適当の処置をするがいいとはあっても、これまでの条約面には不都合なかどもあるから、新たに取り調べて、諸藩衆議の上でお取りきめに相成るべき事との御沙汰である。「兵庫港の儀は止められ候(そうろう)事」ともある。駿河は驚いて、使者の松浦を見た。この勅書には外国公使は決して満足しまい、必ず推して京都に上り彼らの目的を貫かずには置くまい、もしそんな場合にでも立ちいたったら、談判はさておき、殺気立った会津藩士らが何をしでかさないとも限らない、のみならず応接の主任が松平伯耆ではこの事のまとまる見込みがない、もっと外交の事務に通じた人物がありながらこんな取り計らいはいかにも心得がたい、それを駿河が言い出すと、相手の松浦は迷惑がって、自分はただ使いに来たものである、君の議論を聞きに来たものではないと。これには駿河も笑い出した。早速これから大坂へ引き返そう、時間があらば兵庫まで行って見よう、なお、決答の期日を延ばすことはできないまでもなんとか尽力しよう、なるべくはこの談判主任として小笠原壱岐(おがさわらいき)をわずらわしたい、その約束で松浦に別れた。彼はその足で大坂へ帰るために、別手組の馬をも借りることにした。
その日の午後には、駿河は監察赤松左京を伴い天保山沖に碇泊(ていはく)する順動丸に乗り移った。兵庫行きを急ぐ彼は船長を催促して、さかんに石炭を焚(た)かせた。その時、川口の方面から船印(ふなじるし)の旗を立てて進んで来る一|艘(そう)の川船が彼の目に映った。彼はその船の赤い色で長官を乗せて来たことを知った。近づいて見ると、彼が心待ちにした小笠原壱岐ではなくて、松平伯耆であった。この人は温厚淡泊な君子ではあるが、外国応接の事件を担当すべき人柄でない。これは、と思っている彼の方へその赤い川船はこぎ寄せて来た。間もなく松平伯耆は順動丸に乗り移った。その時の老中の言葉に、京都からの急命で各国公使へ勅諚の趣を達しにやって来た、万事はよろしく君らの方で談判ありたいとのきわめてあっさりとした挨拶(あいさつ)だ。なんら苦慮の様子もないには、駿河も左京と顔を見合わせた。
そこへ大きな外国船だ。やがて一人(ひとり)の西洋人を乗せたボオトが親船からこぎ離れて、波に揺られながらこちらを望んで近づいて来た。英国書記官アレキサンドル・シイボルトが兵庫からの使者として催促にやって来たのだ。シイボルトは約束の期日の来たことを告げ、日本執政の来るのを待ちあぐんだことを告げ、各国の船艦は蒸汽を焚(た)いてここに来る準備をしているところだと告げた。順動丸が兵庫に近づくと、そこにはまた仏国書記官メルメット・カションが日本執政の来港を待ちわびていた。
談判はまず英船内で開始された。初対面のこととて、駿河が姓名職掌を紹介すると、英国公使パアクスは不審を打って松平老中に言った。
「本日は約束の期日であるのに、阿部豊後(あべぶんご)はどうして見えないのか。」
「阿部豊後でござるか。先日職を罷(や)められたによって。」
「小笠原壱岐はどうしたか。」
「これは病気でござるで。」
「松平|周防(すおう)は。」
「はて、松平周防は機務に多忙で、なかなかこの席へはお越しになれない。」
それを聞くと、公使は冷笑して、結局の談判に旧識の人たちは皆来ない、初対面の貴下が来臨あるとははなはだその意を得ないと言い出す。松平伯耆はそんなことに頓着(とんちゃく)なしで、右手に勅書をささげて、公使の前でそれを読み上げた。その時、書記官シイボルトがそばにいて、勅書の字句を駿河に質問し、それを一々公使に通じた。パアクスはたちまち顔色を火のように変え、拳(こぶし)を揚げて卓をたたくやら、椅子(いす)を離れて大股(おおまた)に歩き回るやらしたあとで、口から沫(あわ)を飛ばして言うことには、条約許容とは何事であるか、大英国と日本とは前年すでに結んだのを知らないのか、兵庫開港をやめるとは条約にそむく、勅書と言って貴重にされるからは徳川将軍よりもさらに権の重い者である、しからば直ちにその権の重い者について談判するであろう、もはや貴下らと談判する必要がない、すみやかに日本の国権を有するところへ案内せられよ、かつまた真に日本皇帝の書であるならその印璽(いんじ)が押してなければならない、それさえない一片の紙をどうして外国のものが信ずることができるか、君らは自分を瞞着(まんちゃく)するために来たのであろう、自分はこれから艦長に言い付けてすぐさま京都に行くであろう、貴下らはよろしく同行するがよいと。
何を言われても泰然と構え込んで苦笑(にがわら)いしている松平伯耆と、パアクスとがそれに対(むか)い合っていた。それにこの二人(ふたり)は言葉も通じない。鼻息の荒いパアクスはもはや幕府の外交手段に欺かれないという顔つきで、今にもその勅書を引き裂きそうにするので、駿河はあわてて公使を押し止め、にわかに兵庫の港を開きがたいこの国の事情を述べ、この勅書は元来天皇から将軍に授けられたので君らへそのまま示すべき性質のものでないが、それをありのまま示すのは懇信の意を表するからであると言って、印璽(いんじ)のない場合に旧例のあることをも説明した。もはや日暮れにも近い、仏国公使も待っていることだろうから、同公使の意見をも聞いた上で、また貴艦を訪(たず)ねようと言い添えると、パアクスもやや気色を和らげた。そこで一行は英国公使らにわかれて、フランス船の方へ行った。
仏国公使ロセスと駿河とはすでに江戸の方で幾たびか相往来している間柄である。横須賀(よこすか)造船所の経営に、陸軍の伝習に、フランス語学所の開設に、海外留学生の派遣に、ロセスが幕府に忠告したり種々(さまざま)な助力を与えたりしたことは一度や二度にとどまらない。それに、書記官のメルメット・カションが以前|函館(はこだて)の方にあったころ、函館奉行|津田近江(つだおうみ)の世話により駿河の友人喜多村|瑞見(ずいけん)から邦語を伝えられたという縁故もあって、駿河の方でも応対に心やすい。この公使と書記官とが駿河らから英国側の態度をきき取った時は、さすがに少しも驚かなかった。ただフランス人の癖らしく両手をひろげて、肩をゆすって見せたばかりだ。
のみならず、ロセスはせっかく勅書まで持参した幕府側の苦心を知るだけの思いやりもあって、この際どうすればいいかという方法まで松平老中に教えた。それには、老中連名の書面をすみやかに渡してもらいたい。その文意はカションの通訳で大体駿河からきいたように、国事多端の際であるからこの地では事を尽くせない、兵庫開港の事も将軍においては承諾している、これらはことごとく江戸にある水野|和泉守(いずみのかみ)に任すべきゆえ、すみやかに江戸において談判せられよ、京都の皇帝へは外国事情をよく告げ置くであろうとの趣に認(したた)めてもらいたい。自分はその書面を証拠として、今夜各国公使へ説諭し、明日はすみやかに退帆するように取り計らうことにする。そうすれば目下の急を救うこともできよう。これが仏国公使の意見であった。
「さて、これはどうしたものであろう。拙者|一人(ひとり)ならすぐにもこの書面は認(したた)められる。同僚連署ということであれば、一応その人たちに相談した上でないと渡されない。はて、困ったことになったわい。」
松平伯耆は順動丸に帰ってからそれを言った。
夜はすでに八つ時を過ぎた。それから京都に往復して相談なぞをしていると、翌日の間に合わない。一行にとってこれは見のがせない機会でもあった。もし翌日になって、各国の船艦が大坂まで動き、淀川をさかのぼって京都に行くようなことが起こったら、人心も動揺する憂いがあった。駿河はそのことを松平伯耆に言って、今は一刻もむなしく過せない、仏国公使の厚意をむなしくしたらあとになって臍(ほぞ)をかんでも追いつかない、これは大事の前の小事である、老中連署が不承知とあれば御一存で処置せられたい、付き添いの任はまっぴら御免をこうむると述べた。松平老中もしかたなしに、然らば好(よ)きように取り計らえ、後日同僚に不平があっても自分の罪ではないと言う。駿河は甘んじてその責めを受けた。書面は同行の祐筆(ゆうひつ)が認(したた)めた。老中松平伯耆守、同じく松平周防守、同じく小笠原壱岐守の名が書かれた。みんなが暗記する花押(かおう)までその紙の上に記(しる)された。
この老中連署の書面が仏国公使の手を通して、英船へも、米蘭両船へも持ち運ばれたころは、夜も深かった。駿河がひとり仏国船に出かけて行ってその返事を待っていると、やがてそこにロセスがやって来て、
「トレ、ビヤン――トレ、ビヤン。」
と述べる。意(こころ)は、万事満足な結果に終了したとの意味を通わせたのだ。その時、公使は駿河と共に甲板(かんぱん)の上に立って深夜の海上をながめながら、自分らの船は明日の夕刻を待って兵庫を発し、四国から九州海岸を経て、横浜へ帰るであろうと告げ、なおこのことを将軍に伝え、江戸の水野老中の尽力をも頼むと付け添えた。別れぎわに、ロセスは堅く堅く駿河の手を握った。
老中松平伯耆は帰りのおそい駿河を順動丸の方に待っていた。駿河がこの談判の結果をもたらした時にも、老中はまだ半信半疑でいた。
「駿河、あすは必ず退帆いたすであろうか。」
「それは御心配に及びません。あのロセスが保証しております。もはや御安心でございます。」
「しからば、そちはここに逗留(とうりゅう)いたせ。各国の船が退帆するのを見届けた上で、京都の方へまいることにいたせ。大君さまへも老中一同へもよく申し上げるがいいぞ。」
こんなことで、駿河はその夜のうちに大坂へ向けて帰って行く松平老中を見送った。陸へ上がってからの彼は、監察の左京と二人で兵庫の旅籠屋(はたごや)にいて、不安な時を送りつづけた。翌朝も二人で首を長くして各国船の出帆を待っていると、夜が明けないうちから諸藩の侍が続々と旅籠屋へ押しかけて来た。各国船がゆえなく退帆するのはどういう理由であるかの、前日松平伯耆が談判の模様はいかがであったの、ほとんどこの交渉を信じられないかのような詰問だ。各国船の退帆は約束の時よりおくれた。ようやく九日の朝になって、退去を告げる汽笛の音が各国の船から起こった。その音は兵庫開港の遠くないことを期するかのように、高く港の空に響き渡った。
山口駿河が赤松左京と共に各国船退帆の報告をもって、兵庫から京都の二条城にたどり着いたころはもはや黄昏時(たそがれどき)に近い。例の御用部屋に行って老中に面謁し一切の顛末(てんまつ)を述べようとすると、そこにはまた思いがけないことがこの駿河を待っていた。
「駿河、そちは今少しで切腹を仰せ出されるところであったぞ。」
上座にある慶喜が微笑を見せながらの挨拶(あいさつ)だ。
駿河が驚いてその理由を尋ねようとすると、老中小笠原壱岐は別室へ彼を招き、その前日あたりの京都での風聞によると彼が兵庫で勝手に勅書を変更し専断の応接をしたとのうわさが立ったと語り聞かせ、そのために各公使は異議なく退帆したが、彼の罪は大逆無道にも相当する、直ちに切腹を命ずるがいいと奏上するものがあって、朝廷でも今少しでそれをお許しになるところであったと語り聞かせた。しかし、将軍と一橋公とは、さすがにそんな軽はずみを戒められ、小笠原壱岐もまた親しく本人の言うことを聞き、松平伯耆の言うことも聞かなければ容易に当事者を罪すべきでないと陳述したという話もあった。ちょうど松平伯耆からの来状を得て、ほぼ談判の模様も知れたから、もはや深く憂いるにも及ぶまいとの話もあった。
「しかし、御同列のお名前を拝借いたしまして、連署で書面を送りましたことは、専断と申されても一言もございません。こればかりは恐縮に存じます。」
と言って駿河はそこへ手をついた。臨機の処置を執るまでの談判の模様をも語った。
「いや危急の場合だ。それくらいの事を決断するのは至極もっともな話だ。」
小笠原老中は同情のある語気でそれを言った。さらに声を低くして、駿河が京都に滞在するのははなはだ危(あぶ)ない、早速今晩にも去るがいい、江戸の方へ行って閉門謹慎するがいい、あとの事は自分がこの地においてなんとか取り繕おう、周旋もしようと言い聞かせた。
この小笠原老中の言葉にやや安心して、駿河はそこをすべり出た。監察|向山(むこうやま)栄五郎のことが彼の胸に浮かんだ。せめて栄五郎だけにはあい、今度の事から後日の処置を話して行きたいと思って、そばにいる人に尋ねると、栄五郎は過ぐる日すでに罪を得て旅籠屋(はたごや)に閉居する身であるとの返事であった。
夕闇(ゆうやみ)が迫って来た。城内の廊下も薄暗い。その時、蓬髪(ほうはつ)で急ぎ足に向こうから廊下を踏んで来るものがある。その人こそ軍艦奉行、兼外務取り扱いとして、江戸から駆けつけて来た彼の友人だ。監察の喜多村瑞見だ。駿河は友人を物の陰に招いたが、こまかい話なぞする時がない。ただ、時事はまたいかんともしようがない、友人が自分に代わって努力してくれるように、とのわずかなことだけが言えた。
「あとの事はよろしく頼む。」
その言葉を瑞見に残して置いて、そこそこに駿河は二条城を出た。彼は大坂からその城に移って来ている知人らに別れを告げる暇(いとま)をすら持たなかった。 

京都から大津経由で木曾(きそ)街道を下って来て、馬籠(まごめ)本陣の前で馬を停(と)めた一人(ひとり)の旅人がある。合羽(かっぱ)に身をつつんだ二人(ふたり)の家来と、そこへ来て荷をおろす供の男をも連れている。
この旅人は旧暦九月の半ばに昼夜兼行で江戸を発(た)つから、十月半ばに近くの木曾路の西のはずれにたどり着くまで、ほとんど歩きづめに歩き、働きづめに働いて、休息することを知らなかったような人である。薄暗い空気に包まれていた洛中(らくちゅう)の風物をあとに見て、ようやく危険区域からも脱出し、大津の宿から五十四里も離れた馬籠峠の上までやって来て、心から深いため息のつける場所をその山家に見つけたような人である。この旅人が山口|駿河(するが)だ。
泊まりの客人と聞いて、本陣では清助が表玄関の広い板の間に出て迎えた。客人は皆くたびれてその玄関先に着いた。笠(かさ)を脱ぎ、草鞋(わらじ)を脱ぐ客人の手つきを見たばかりでも、清助にはどういう人たちの微行であるかがすぐに読めた。
「ちょうど、よいお部屋(へや)があいております。ただいま主人は福島の方へ出張しておりますが、もう追ッつけ帰って見えるころです。こんな山の中で、なんにもおかまいはできません。どうぞごゆっくりとなすってください。」
と清助は言って、主(おも)な客人を一番奥の方の上段の間へ案内した。二人の家来には次ぎの奥の間を、供の男には表玄関に近い部屋をあてがった。
木曾では鳥屋(とや)の小鳥も捕(と)れ、茸(きのこ)の種類も多くあるころで、旅人をもてなすには最もよい季節を迎えていた。清助は奥の部屋と囲炉裏(いろり)ばたの間を往(い)ったり来たりして、二人の下女を相手に働いているお民のそばへ来てからも、風呂(ふろ)の用意から夕飯として出す客膳(きゃくぜん)の献立(こんだて)まで相談する。お平(ひら)には新芋(しんいも)に黄な柚子(ゆず)を添え、椀(わん)はしめじ茸(たけ)と豆腐の露(つゆ)にすることから、いくら山家でも花玉子に鮹(たこ)ぐらいは皿(さら)に盛り、それに木曾名物の鶫(つぐみ)の二羽も焼いて出すことまで、その辺は清助も心得たものだ。お民のそばにいる二人の子供はまためずらしい客でもあるごとに着物を着かえさせられるのを楽しみにした。その中でも、姉のお粂(くめ)はすでに十歳にもなる。奥の方で客の呼ぶ声でもすると、耳さとくそれをききつけて、清助や下女に知らせるのもこの娘だ。
「お手が鳴りますよ。」
本陣ではこの調子だ。
その夕方に、半蔵は木曾福島の役所から呼ばれた用を済まし、野尻(のじり)泊まりで村へ帰って来た。家に泊まり客のあることも彼はその時に知った。諸大名や諸公役が通行のたびに休泊の室(へや)にあててある奥の上段の間には、幕府の大目付で外交奉行を兼ねた人が微行の姿でやって来ていて、山家の酒をあつらえるなぞの旅らしい時を送っていることをも知った。
翌朝になって見ると、客人はなかなか起きない。暁から降り出した雨が客人のからだから疲労を引き出したかして、ようやく昼近くなって、上段の間の雨戸を繰らせる音がする。家来の衆までがっかりした顔つきで、雨を冒しても予定の宿へ出発するような様子がない。半蔵が挨拶(あいさつ)に行って見たころは、駿河(するが)は上段の間から薄縁(うすべり)の敷いてある廊下に出て、部屋(へや)の柱に倚(よ)りかかりながら坪庭(つぼにわ)へ来る雨を見ていた。石を載せた板屋根、色づいた葉の残った柿(かき)の梢(こずえ)なぞの木曾路らしいものは、その北側の廊下の位置からは望まれないまでも、たましいを落ち着けるによいような奥まった静かさはその部屋の内にも外にもある。
「だいぶごゆっくりでございますな。今日は御逗留(ごとうりゅう)のおつもりでいらっしゃいますか。」
「そう願いましょう。きょうは一日休ませてもらいましょう。江戸へと思って急いでは来ましたが、ここまで来て見たら、ひどく疲れが出ましたよ。このお天気じゃ出かける気にもなれません。しかし、木曾へはいって雨に降りこめられるのも悪くありませんね。」
「ことしは雨の多い年でして、閏(うるう)の五月あたりから毎日よく降りました。当年のように強雨(ごうう)の来たことは古老も覚えがない、そんなことを申しまして、一時はかなり心配したくらいでした。川留め、川留めで、旅のかたが御逗留になることは、この地方ではめずらしいことでもございません。」
午後にも半蔵はこの客人を見に来た。雨の日の薄暗い光線は、その白地に黒く雲形を織り出した高麗縁(こうらいべり)の畳の上にさして来ている。そこは彦根(ひこね)の城主|井伊掃部頭(いいかもんのかみ)も近江から江戸への往(ゆ)き還(かえ)りに必ずからだを休め、監察の岩瀬肥後も神奈川条約上奏のために寝泊まりして行った部屋である。この半蔵の話が、外交条約のことに縁故の深い駿河の心をひいた。
「御主人はまだお聞きにもなりますまいが、いよいよ条約も朝廷からお許しが出ましたよ。長い間の条約の大争いも一段落を告げる時が来ました。井伊大老や岩瀬肥後なぞの骨折りも、決してむだにはならなかった。そう思って、わたしたちは自分を慰めますよ。やかましい攘夷(じょうい)の問題も今に全くなくなりましょう。この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもありますまい。」
駿河はそれを半蔵に言って見せて、両手を後方に組み合わせながら、あちこちとその部屋の内を静かに歩き回った。あだかもそこの壁や柱にむかって話しかけでもするかのように……
大目付で外国奉行を兼ねた人の口からもれて来たことは、何がなしに半蔵の胸に迫った。彼はまだ将軍辞職の真相も知らず、それを説き勧めた人が自分の目の前にいるとも知らず、ましてその人が閉門謹慎の日を送るために江戸へ行く途中にあるとは夢にも知らなかった。ただ、衰えた徳川の末の代に、どうかしてそれをささえられるだけささえようとしているような、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと想(おも)って見た。
深い秋雨はなかなかやみそうもない。大目付に随(つ)いて来た家来の衆はいずれもひどく疲れが出たというふうで、部屋の片すみに高いびきだ。半蔵は清助を相手に村方の用事なぞを済まして置いて、また客人を上段の間に見に行こうとした。心にかかる京大坂の方の様子も聞きたくて、北側の廊下を回って行って見た。思いがけなくも、彼はその隠れた部屋の内に、激しくすすり泣く客人を見つけた。 
第十二章

 


「お父(とっ)さんは。」
一日の勤めを終わって庄屋(しょうや)らしい袴(はかま)を脱いだ半蔵は、父|吉左衛門(きちざえもん)のことを妻のお民にたずねた。
「お民、ひょっとするとおれは急に思い立って、名古屋まで行って来るかもしれないぜ。もし出かけるようだったら、留守を頼むよ。お父(とっ)さんやお母(っか)さんにもよく頼んで行く――なんだか西の方のことが心配になって来た。」
とまた彼は言って妻の顔を見た。半蔵夫婦の間にはお夏(なつ)という女の子も生まれたが、わずか六十日ばかりでその四番目の子供は亡(な)くなったころだ。お民の顔色もまだ青ざめている。
馬籠の宿場では慶応二年の七月を迎えている。毎年上り下りの大名がおびただしい人数を見る盆前の季節になっても、通行はまれだ。わずかに野尻(のじり)泊まり、落合泊まりで上京する信州|小諸(こもろ)城主牧野|遠江守(とおとうみのかみ)の一行をこの馬籠峠の上に迎えたに過ぎない。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川稲荷(とよかわいなり)から秋葉山へかけての参詣(さんけい)を済まして帰村したものの話に、旅人の往来は東海道筋にも至って寂(さみ)しかったという。人馬共に通行は一向になかったともいう。街道もひっそりとしていた。
「半蔵、長州征伐のことはどうなったい。」
夕方から半蔵が父の隠居する裏二階の方へのぼって行って見ると、吉左衛門はまずそれを半蔵にきいた。物情騒然とも言うべき時局のことは、半蔵ばかりでなく、年老いた吉左衛門の心をも静かにしては置かなかった。
父が住む裏二階には、座敷先のような仮廂(かりびさし)こそ掛けてないが、二間ある部屋(へや)の襖(ふすま)も取りはずして、きびしい残暑も身にしみるというふうに、そこいらは風通しよく片づけてある。一日|母屋(もや)の方に働いていた継母のおまんも、父のそばに戻(もど)って来ている。父は先代の隠居半六が余生を送ったこの同じ部屋にすわって、相手のおまんに肩なぞをもませながら、六十八年の街道生活を思い出しているような人である。
「西の方の様子はどうかね。」とおまんまでが父の背後(うしろ)にいてそれを半蔵にたずねた。
「なんですか、こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり本当のことがわかりません。小倉(こくら)方面に戦争のあったことまではよくわかってますがね、あれから以後は確かな聞書(ききがき)も手に入りません。幕府方の勝利は疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんな雲をつかむようなことばかりです。」と半蔵が答える。
「まあ、しかしおれは隠居の身だ。」と吉左衛門は言った。「きょうは佐吉を連れて、墓|掃除(そうじ)に行って来たよ。もう盆も近いからな。」
吉左衛門とおまんとは、新たに子供を失った半蔵よりもお民の方を案じて、中津川からもらった瓜(うり)も新しい仏のために取って置こうとか、本谷というところへ馬買いに行ったものから土産(みやげ)にと贈られた桃も亡(な)き孫娘(お夏)の霊前に供えようとか、そんな老夫婦らしい心づかいをしている。万福寺での墓掃除からくたびれて帰ったという父を見ると、半蔵も名古屋行きのことをすぐにそこへ切り出しかねた。
「お母(っか)さん――どれ、わたしが一つかわりましょう。」
と彼はおまんに言って、父の背後(うしろ)の方へ立って行こうとした。
「や、半蔵も按摩(あんま)さんをやってくれるか。肩はもうたくさんだぞ。そんなら、足を頼もう。」
吉左衛門はとかく不自由でいる右の足を半蔵の前に投げ出して見せた。中風を煩(わずら)ったあげくの痕跡(こんせき)がまだそこに残っている。馬籠の駅長時代には百里の道を平気で踏んだほどの健脚とも思われないような、変わり果てた父の脹脛(ふくらはぎ)が、その時半蔵の手に触れた。かつて隆起した筋肉の勁(つよ)さなぞは探(さが)したくもない。膝(ひざ)から足の甲へかけての骨もとがって来ている。
「まあ、お父(とっ)さんはこんな冷たい足をしているんですか。」
半蔵は話し話し、温暖(あたた)かい血の気が感じられるまで根気に父の足をなでさすっていた。先年、彼が父の病を祷(いの)るために御嶽山(おんたけさん)の方へ出かけたころから見ると、父も次第に健康を回復したが、しかしめっきり老い衰えて来たことは争えない。父ももはやそんなに長くこの世に生きている人ではなかろう。手から伝わって来るその感覚が彼をかなしませた。
「半蔵、街道の方に声がするぞ。」と吉左衛門はきき耳を立てて言った。「また早飛脚かと思うと、おれのような年寄りにもあの声は耳についてしまったよ。」
その時、半蔵は父のそばを離れて、「またか」というふうにその裏二階の縁先の位置から街道の空をうかがった。以前、京都からのがれて来た時の暮田正香(くれたまさか)を隠したこともある土蔵の壁には淡い月がさして来ていて、庭に植えてある柿(かき)の梢(こずえ)も暗い。峠の上の空を急ぐ早い雲脚(くもあし)までがなんとなく彼の心にかかった。
最初、今度の軍役に使用される人馬は慶安度(けいあんど)軍役の半減という幕府の命令ではあったが、それでも前年の五月に将軍が進発された時の導従(どうじゅう)はおびただしい数に上り、五百石以上の諸士は予備の雇い人馬まで使用することを許されたほどで、沿道人民がこうむる難儀も一通りでなかった。そうでなくてさえ、困窮疲労の声は諸国に満ちて来た。江戸の方を見ると、参覲交代廃止以来の深刻な不景気に加えて、将軍進発当時の米価は金壱両につき一斗四、五升にも上がり、窮民の騒動は実に未曾有(みぞう)の事であったとか。どうして天明(てんめい)七年の飢饉(ききん)のおりに江戸に起こった打ちこわしどころの話ではない。この打ちこわしは前年五月二十八日の夜から品川宿、芝|田町(たまち)、四谷(よつや)をはじめ、下町、本所(ほんじょ)辺を荒らし回り、横浜貿易商の家や米屋やその他富有な家を破壊して、それが七、八日にも及んだ。進発に際する諸士の動員と共に、食糧の徴発と、米穀の買い占めと、急激な物価の騰貴とが、江戸の窮民をそんなところまで追いつめたのだ。
前年五月に起こった暴動は江戸にのみとどまらない。同じ月の十四日には大坂にも打ちこわしが始まって、それらの徒党は難波(なんば)から西横堀上町へ回り、天満(てんま)東から西へ回り、米屋と酒屋と質屋を破壊して、数百人のものが捕縛された。兵庫では八日から暴動して、同じように米屋なぞを破壊した。前年の六月になっても米価はますます騰貴するばかりで、武州の高麗(こま)、入間(いるま)、榛沢(はんざわ)、秩父(ちちぶ)の諸郡に起こった窮民の暴動はわずかに剣鎗(けんそう)の力で鎮圧されたほどである。
これほど窮迫した社会の空気の中で、幕府が江戸から大坂へ大軍を進めてからすでに一年あまりになる。いったん決心した将軍の辞職も、それを喜ぶ臣下の者はすくなかったために、御沙汰(ごさた)に及ばれがたしとの勅諚(ちょくじょう)を拝して、またまた思いとどまるやら、将軍家の威信もさんざんに見えて来た。大坂城まで乗り出した幕府方は進むにも進まれず、退(ひ)くにも退かれず幾度か長州藩のためにもてあそばれて、ついに開戦の火ぶたを切った。長い戦線は山陰、山陽、西海の三道にもわたった。一昨日は井伊、榊原(さかきばら)の軍勢が芸州口から広島へ退(ひ)いたとか、昨日は長州方の奇兵隊が石州(せきしゅう)口の浜田にあらわれたとか、そういうことを伝え聞く空気の中にあって、ただただ半蔵は村の人たちと共に戦時らしい心配を分(わ)かつのほかはなかった。
戦報も次第に漠(ばく)として来ている。半蔵が西から受け取る最近の聞書(ききがき)には、戦地の方の正確な消息も一向に知らせて来ない。それがひどく半蔵を不安にしている。
しばらく彼は裏二階の縁先に出て考えていたが、また親たちのいるところへ戻(もど)って来て言った。
「この節は、早飛脚の置いて行く話も当てにならなくなりました。なんですか、わたしはろくろく仕事も手につきません。一つ名古屋まで行って、西の方の様子を突きとめて来たいと思います。どうでしょう、お父(とっ)さんやお母(っか)さんにしばらくお留守居を願えますまいか。」
「まあ、待てよ、みんな寝ころんで話そうじゃないか。」とその時、吉左衛門が言い出した。「半蔵はそこへ足でも伸ばせよ。おまん、お前も横になったら、どうだい。こういう相談は寝ながらにかぎる。」
旧暦七月の晩のことで、おまんは次ぎの部屋の方へ行燈(あんどん)を持ち運び、燈火(あかり)を遠くして来て、吉左衛門のそばに腰を延ばした。他人をまぜずの親子ぎりだ。三人思い思いに横になって見ると、薄暗いところでも咄(はなし)は見える。それに、余分親しみもある。
「半蔵、」と吉左衛門は寝ながら頬杖(ほおづえ)をついて、言葉を続けた。「お前も知ってるとおり、とかく人の口はうるさいし、本陣親子のものに怠りがあると言われては、御先祖さまに対しても申しわけがない。実はこの二、三年来というもの、お前が家を捨てて出て行きゃしないかと思って、おれはそればかり心配していたよ。そりゃ、今は家なぞを顧みているような、そんな時世じゃない、そういうお前のお友だちの心持ちはおれにもわかる。でも、お前までその気になられると、だれがこの街道の世話するかと思ってさ。まあ、おれはこんな昔者だ。お前の家出ばかりを案じて来た。しかし、今夜という今夜はこんなことが言えるくらいだ。もうおれもそんなに心配ばかりしていない。お前が黙って出て行かずに、そう言って相談してくれると、おれもうれしい。」
「まあ、お父さんもああおっしゃるし、半蔵も思い立ったものなら、出かけて行って来るがいい。留守はどんなにしても、わたしたちが引き受けますよ。」とおまんも力を入れて言った。
吉左衛門がこんなに心配するのは、ただただ自分が年老いて心細いからというばかりでもない。あるいは先年のように水戸浪士を迎えたり、あるいは幕府の注意人物を家にかくして置いたりする半蔵が友だち仲間の行動は、とやかくと人の口に上るからで。この父に言わせると、中津川あたりと馬籠とでは、同じ尾州(びしゅう)領でも土地の事情が違う。木曾谷(きそだに)三十三か村には福島の役人の目が絶えず光っていることを忘れてはならない。山村の旦那(だんな)様は尾州の代官とは言っても、木曾街道要害の地たる福島の関所を幕府から預かっている深い縁故から、必ずしも尾州藩と歩調を同じくする人ではなく、むしろ徳川直属の旗本をもって自ら任じていることを忘れてはならない。往昔(むかし)、関ヶ原の戦いに東山道の先導となって徳川家に忠勤をぬきんでた山村氏の歴史を考えて見ても、それがわかる。平田|篤胤(あつたね)没後の門人が、福島の旦那様によろこばれるかよろこばれないかは言わずと知れたことであって、その地方の関係から言っても、馬籠の庄屋としての半蔵には中津川の景蔵(けいぞう)や香蔵(こうぞう)のような自由がない。どんな姿を変えた探偵(たんてい)が平田門人らの行動を注意していまいものでもない。おまけに、ここは街道だからで。
「壁にも耳のある世の中だぞ。まあ、半蔵にもよほど気をつけてもらわにゃならん。」と吉左衛門が言う。
「そんなら、あなた、こうするといい。」とおまんは思いついたように、「岩村には吾家(うち)の親類もありますからね。半蔵の留守中に、もし人が尋ねましたら、美濃(みの)の親類までまいりました、そう言ってわたしが取りつくろいましょう。名古屋までとは言わずに置きましょうわい。」
「いや、お母(っか)さんにそう言って留守を引き受けていただけば、わたしも安心して出かけられます。」と半蔵は答えた。「わたしは黙って家を出るようなことはしません。庄屋には庄屋の道もあろうと考えますし、黙って家を飛び出して行くくらいなら、もともと何もそんなに心配することはなかったんです。」
半蔵が行こうとしている名古屋の方には、京大坂の事情を探るに好都合な種々の手がかりがあった。木曾は尾州領である関係から、馬籠の本陣問屋を兼ねた彼の家は何かにつけて藩との交渉も多い。父吉左衛門は多年尾州公のお勝手元(かってもと)に尽力した縁故から、永代苗字帯刀(えいたいみょうじたいとう)を許されたり、領主に謁見することをすら許されたりしている。この便宜に加えて、藩の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)、材木奉行、作事奉行なぞは毎年街道を下って来るたびに、必ず彼の家に休息するか宿泊するかの人たちであるばかりでなく、名古屋の家中衆のなかには平田門人らが志を認めている人もすくなくない。藩黌(はんこう)明倫堂(めいりんどう)の学則が改正せられてからは、『靖献遺言(せいけんいげん)』のような勤王を鼓吹する書物が大いに行なわれ、山地の方に住む領民にまで時事を献白する道も開かれているくらいだ。
もともとこんなに西海の方の空が暗くならない前に、二度目の長州征伐を開始するについては最初から尾州家では反対を唱えたのであった。先年御隠居(尾張慶勝(おわりよしかつ))が征討総督として出馬したおりに、長州方でも御隠居の捌(さば)きに服し、京都包囲の巨魁(きょかい)たる益田(ますだ)、国司(こくし)、福原|三太夫(さんだゆう)の首級を差し出し、参謀|宍戸左馬助(ししどさまのすけ)以下を萩(はぎ)城に斬(き)り、毛利大膳(もうりだいぜん)父子も萩の菩提寺(ぼだいじ)天樹院に入って謹慎を表したのであるから、これ以上の追究はかえって長州人士を激せしめ、どんな禍乱の端緒となるまいものでもないと言い立てて、しきりに幕府の反省を促したのも尾州藩である。しかし幕府当局者はこの処置を寛大に過ぐるとし、御隠居の諫争(かんそう)にも耳を傾けず、長州の伏罪には疑惑の廉(かど)があるとして、毛利大膳父子、および三条実美(さんじょうさねとみ)以下の五卿を江戸に護送することを主張してやまなかった。死を決して幕府に当たろうとする長州主戦派の蜂起(ほうき)はその結果だ。
半蔵が狭い見聞の範囲から言っても、当時における尾州藩の位置は実に重い。再度の長防征討先手総督を任ずるよしの幕府の内諭が尾州公に下ったのを見ても、それがわかる。しかし尾州公は名も以前の茂徳(もちのり)を玄同(げんどう)と改め、家督を御隠居の実子|犬千代(いぬちよ)に譲って、すでに自分でも隠居の身分である。それは朝幕に関する根本の意見で全く御隠居と合わないことを知り、二人(ふたり)の主人が双(なら)び立つようでは一藩のためにも幸福でないと悟り、のみならず生麦(なまむぎ)償金事件で失敗してからこのかた、時勢の自己(おのれ)に非なることをみて取ったにもよる。この尾州公はなかなか長防征討を引き受けない。再征反対の御隠居に対してもそれの引き受けられるはずもなかったのだ。そこでお鉢(はち)は紀州公(徳川|茂承(もちつぐ))の方に回った。先手総督は尾州公と紀州公との譲り合いとなった。その時の尾州公が紀伊中納言への挨拶(あいさつ)に、自分は隠居の身分で、国務には携わらず、内輪にはやむを得ざる事情もあって、とても一方の主将の任はお請けができない、今般自分が上京する主意は将軍の進発もあらせらるる時勢を傍観するに忍びないからであって、全く一己(いっこ)の微忠を尽くしたい存慮にほかならない、この上、しいて総督を命ぜられてもお請けは申し上げがたいと決心した次第である、事実自分には行き届かない、気の毒ではあるが悪(あ)しからず、ということであったのだ。この先手総督の引き受けには紀州でもよほど躊躇(ちゅうちょ)の色が見えた。先年来の大坂守備で国力もすでに尽きたと言って、十万両の軍用金を幕府に仰いだ上、ようやく出陣の将士を軍艦で和歌の浦から送り出したのは、前の年の十二月のことに当たる。
幕府の親藩でもこのとおりだ。水戸はまず疑われ、一橋は排斥せられ、尾州まで手を引いた。あだかも、十四代から続いた大身代(おおしんだい)が傾きかけて見ると、主家を思う親戚(しんせき)がかえって邪魔扱いにされて、一人(ひとり)去り、二人(ふたり)去りして行く趣に似ている。この際、どんな無理をしても一番の先鋒隊(せんぽうたい)から十六番隊までの諸隊を芸州表(げいしゅうおもて)に繰り出させ、長州はじめ幕府に離反するものを圧倒しようとするこの軍役の前途には、全く測りがたいものがあった。ただ、幕府方の勝利が疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんなむなしい声が木曾街道にまで響けて来ているのみだった。
名古屋へ向けて半蔵がたつ日の朝には、お民をはじめ下男の佐吉まで暗いうちから起きて、母屋(もや)の囲炉裏(いろり)ばたや勝手口で働いた。隣近所でまだ戸をしめて寝ているうちに早く主人をたたせたいという家のものの心づかいからで。
「大旦那(おおだんな)、お早いなし。」
と言って、佐吉の掛ける声までが早立ちの朝らしい。吉左衛門夫婦が裏の隠居所の方から半蔵を見送りに来たころは、まだそこいらは薄暗かった。
「時に、半蔵はどうする。」と吉左衛門があたりを見回した。「中津川までは佐吉に送らせるか。」
「ええ、おれがお供するわいなし。」と佐吉は心得顔に、「おれはもうそのつもりで、自分の草鞋(わらじ)までそろえて置いたで。」
「たぶん、香蔵さんと一緒に名古屋へ行くことになりましょう。中津川まで行って見た様子です。今度は美濃(みの)方面の人たちにもあえるだろうと思います。」と半蔵は言った。
「さあ、西の方の模様もどうあろうか。」とまた吉左衛門が言葉を添える。「戦争の騒ぎだけでもたくさんなところへ、こないだのような大風雨(おおあらし)じゃ、まったくやり切れない。とかく騒がしいことばかりだ。半蔵も気をつけて行って来るがいいぞ。」
ちょうど隣家の年寄役伊之助も東海道の医者のもとまで養生の旅に出て帰って来ている。半蔵はこの人だけに事情を打ち明けて、留守中の宿場の世話をよく頼んで置いてある。本陣や問屋の方の手伝いには清助もあれば、栄吉というものもある。
「お母(っか)さん、お願いしますよ。」
その声を残して置いて、半蔵は佐吉と共に裏口の木戸から出た。いつも早起きの子供らですら寝床の中で、半蔵が裏の竹藪(たけやぶ)の細道のところから家を離れて行ったことも知らなかった。 

月の末になると、半蔵は名古屋から土岐(とき)、大井を経て、二十二里ばかりの道を家の方へ引き返した。帰りには中津川で日が暮れて、あれから馬籠の村の入り口まで三里の夜道を歩いて来た。
街道も更(ふ)けて人通りもない時だ。荒町(あらまち)から馬籠の本宿につづく石屋の坂も暗い。宿場の両側に並ぶ家々の戸も閉(し)まって、それぞれの屋号をしるした門口の小障子からはわずかに燈火(あかり)がもれている。ともかくも無事に半蔵が自分の家の本陣へ帰り着いたころは、そんなにおそかった。
「子供は。」
半蔵はまずそれをお民にきいた。往(い)きと違って、彼も留守宅のことばかり心配しながら帰って来たような人だ。
「あなた、あれからお父(とっ)さんもお母(っか)さんもずっとお母屋(もや)の方にお留守居でしたよ。さっきまでお父さんも起きていらしった。あなたが帰ったら起こしてくれと言って、奥へ行って休んでおいでですよ。」
とお民は言って見せた。
寛(くつろ)ぎの間(ま)に脚絆(きゃはん)を解いた半蔵は、やっぱり名古屋まで行って来てよかったことを妻に語り始めた。そこへ継母のおまんも半蔵の話を聞きに来る。この旅には名古屋まで友人の香蔵と同行したこと、美濃尾張方面の知己にもあうことができて得(う)るところの多かったこと、そんな話の出ているところへ、吉左衛門は煙草盆(たばこぼん)をさげながら奥の部屋(へや)の方から起きて来た。
「半蔵、どうだったい。いくらか京大坂の様子がわかったかい。」
半蔵が父のところへもたらした報告によると、将軍親征の計画は幕府の大失敗であるらしい。こんな無理な軍役を起こし、戦意のない将卒を遠地に送り、莫大(ばくだい)な軍資を費やして、徳川家の前途はどうなろう。名古屋城のお留守居役で、それを言わないものはない。もはや幕府方もさんざんに見える。一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)は万般後見のことでもあるから、長州征伐のことなぞはことごとく慶喜へ一任して、すみやかに将軍は関東へ引き揚げるがいい、そしてしばらく天下の変動をみるがいい、それには小倉表(こくらおもて)に碇泊(ていはく)する幕府の軍艦をもって江戸へ還御(かんぎょ)のことに決するがいい、当節天下の人心は薄い氷を踏むようなおりからである、もし陸路を還御になってはいかような混乱を促すやも測りがたい。これは主君を思う幕臣らの意向であるばかりでなく、イギリスに対抗して幕府を助けようとするフランス公使ロセスなぞも同じ意味の忠告をしたとやらで、名古屋ではもっぱらその評判が行なわれていたことを父に語り聞かせたのであった。
「して見ると、この戦いはどうなったのかい。」
「それがです。各藩共に、みんな初めから戦う気なぞはなくて出かけて行ったようです。長州を相手に決戦の覚悟で行ったような藩は、まあないと言ってもいいようです。ただ幕府への御義理で兵を出したというのが実際のところじゃありますまいか。」
「でも、半蔵、この戦いが始まってから、もう三月近くもなるよ。六度や七度の合戦はあったと、おれは聞いてるよ。」
「そりゃ、お父(とっ)さん、芸州口にもありましたし、大島方面にもありましたし、下(しも)の関(せき)の方面にもありました。それがみんな長州兵を防ぐ一方です。それから、退却、退却です。どうもおかしい、おかしいとわたしは思っていました。ほんとうに戦う気のあるものなら、一部の人数を失ったぐらいで、あんなに退却ばかりしているはずはないと思っていました。幕府方に言わせましたら、榊原小平太(さかきばらこへいた)の後裔(こうえい)だなんていばっていてもあの榊原の軍勢もだめだ、彦根(ひこね)もだめだ、赤鬼の名をとどろかした御先祖の井伊|直政(なおまさ)に恥じるがいいなんて、今じゃ味方のものを悪く言うようなありさまですからね。でも、尾州藩あたりの人たちは、そうは言いませんよ。これは内外の大勢をわきまえないんだ、ただ徳川家の過去の御威勢ばかりをみてからの言い草なんだ、そう言っていますよ。早い話が、江戸幕府のために身命をなげうとうというものがなくなって来たんですね。各藩共に、一人でも兵を損じまいというやり方で、徳川政府というよりも自分らの藩のことを考えるようになって来たんですね。」
「そう言われて見ると、助郷(すけごう)村々の百姓だっても、徳川様の御威光というだけではもう動かなくなって来てるからな。」
「まあ、名古屋の御留守居あたりじゃ、この成り行きがどうなるかと思って見ているありさまです。最初から尾州ではこんな長州征伐には反対だ、御隠居の諫(いさ)めを用いさえすれば幕府もこんな羽目(はめ)にはおちいらなかった、そう言って憤慨しないものはありません。なんでも、石州口の方じゃ、浜田の城も落ちたといううわさです。おまけに公方様(くぼうさま)は御病気のようなうわさも聞いて来ましたよ。」
吉左衛門は深いため息をついた。
ともあれ、この名古屋行きは半蔵にとって、いくらかでも彼の目をあけることに役立った。たとい、京都までは行かず、そこに全国の門人らを励ましつつある師|鉄胤(かねたね)をも見ずじまいではあっても、すくなくも西の空気の通う名古屋まで行って、尾州藩に頭を持ち上げて来ている田中|寅三郎(とらさぶろう)、丹羽淳太郎(にわじゅんたろう)の人たちを知るようになり、来たるべき時代のためにそれらの少壮有為な藩士らがせっせとしたくを始めていることを知っただけでも、彼にはこの小さな旅の意味があった。
「今夜はもうおそい。お父(とっ)さんもお母(っか)さんも休んでください。」
そう言って店座敷の方へ行ってからも、彼は名古屋で探って来たことが心にかかって、そのまま眠りにはつけなかった。
父にこそ告げなかったが、日に日に切迫して行く関西の形勢が彼を眠らせなかった。彼はそれを田宮如雲(たみやじょうん)のような勤王家に接近する尾州藩の人たちの口ぶりから知って来たばかりでなく、従来|会津(あいづ)と共に幕府を助けて来た薩摩(さつま)が公武一和から討幕へと大きく方向を転換し、薩長の提携はもはや公然の秘密であるばかりでなく、イギリスのような外国の勢力までがこれを助けているといううわさからも知って来た。王政復古を求める声は後年を待つまでもなく、前の年、慶応元年の後半期あたり、将軍辞職の真相の知れ渡る前後あたりから、すでに、すでに諸国に起こって来て、徳川家には縁故の深い尾州藩の人たちですらそれを考えるような時になって来ている。
「まあ、あなたはまだ起きてるんですか。」
お民が夜中に目をさまして、夫のそばで寝返りを打つころになっても、まだ彼は寝床の上にすわっていた――枕(まくら)もとに置いてある行燈(あんどん)が店座敷の壁に投げかけて見せる暗い影法師と二人ぎりで。
八月にはいって、馬籠峠の上へは強い雨が来た。六日から降り出した雨は夜中から雷雨に変わり、強い風も来て、荒れ模様は二日も続いた。さて、二日目の夜の五つ時ごろからは雨はさらに強く降りつづき、次第に風の方向も変わって来たところ、思いのほかな辰巳(たつみ)の大風となって、一晩じゅう吹きやまなかった。ようやく三日目の夜明けがた、およそ六つ半時ごろになって風雨共に穏やかになったころは、半蔵もお民も天井板の崩(くず)れ落ちた店座敷のなかにいた。本陣の表通りから下方(したかた)裏通りまでの高塀(たかべい)はことごとく破損した。
「まあ。」
あっけに取られたお民の声だ。
とりあえず半蔵は身軽な軽袗(かるさん)をはいて家の外へ見回りに出た。自分方では仮葺(かりぶ)きの屋根瓦(やねがわら)を百枚ほども吹き落とされたと言って、それを告げに彼のところへ走り寄るのは隣家伏見屋の年寄役伊之助だ。田畑のことは確かにもわからないが、この大荒れでは稲穂もよほど痛んだのではないかと言って、彼のそばに来てその心配を始めるのは問屋の九郎兵衛(くろべえ)だ。周囲には、大風の吹き去ったあとの街道に立って茫然(ぼうぜん)とながめたたずむものがある。互いに見舞いを言い合うものがある。そのうちにはあちこちの見回りから引き返して来て、最も破損のはなはだしかったところは村の万福寺だと言い、観音堂(かんのんどう)の屋根はころびかかり、檜木(ひのき)六本、杉(すぎ)六本、都合十二本の大木が墓地への通路で根扱(ねこ)ぎになったと言って見せるものがある。伏見屋の控え林では比丘尼寺(びくにでら)で十二本ほどの大木が吹き折られ、青野原向こうの新田(しんでん)で二十本余の松が吹き折られ、新茶屋や大屋なぞにある付近の山林の損害はちょっと見当もつかないと告げに来るものもある。
その日の夕方までには村方被害のあらましの報告が荒町方面からも峠方面からも半蔵のところに集まって来た。馬籠以東の宿では、妻籠(つまご)、三留野(みどの)両宿ともに格別の障(さわ)りはないとのうわさもあり、中津川辺も同様で、一向にそのうわさもない。ただ、隣宿|落合(おちあい)の被害は馬籠よりも大きかったということで、潰(つぶ)れ家およそ十四、五軒、それに死傷者まで出した。こんな暴風雨に襲われたことはこの地方でもめったにない。しかし強雨のしきりにやって来ることはその年ばかりでなく、前年から天候は不順つづきで、あんな雨の多い年はまれだと言ったくらいだ。半蔵の家で幕府の大目付(おおめつけ)山口|駿河(するが)を泊めた前あたりのころに、すでにその年の米穀は熟するだろうかと心配したくらいだった。
その前年の不作は町方一同の貯(たくわ)えに響いて来ている。田にある稲穂も奥手(おくて)の分はおおかた実らない。凶作の評判は早くも村民の間に立ち始めた。
「天明七年以来の飢饉(ききん)でも襲って来るんじゃないか。」
だれが言い出すともないようなその声は半蔵の胸を打った。社会は戦時の空気の中に包まれていて、内憂外患のうわさがこもごもいたるという時に、おまけにこの天災だ。
宿役人の集まる会所も荒れて、屋根|葺(ふ)き替えのために七百枚ほどの栗板(くりいた)が問屋場(といやば)のあたりに運ばれるころは、妻籠(つまご)本陣の寿平次もちょっと日帰りで半蔵親子のところへ大風の見舞いに来た。
そろそろ半蔵は村民のために飯米の不足を心配しなければならなかったのである。そこで、寿平次をつかまえて尋ねた。
「寿平次さん、君の村にはどうでしょう、米の余裕はありますまいか。」
この注文の無理なことは半蔵も承知していた。樅(もみ)、栂(つが)、椹(さわら)、欅(けやき)、栗(くり)、それから檜木(ひのき)なぞの森林の内懐(うちぶところ)に抱かれているような妻籠の方に、米の供給は望めない。妻籠から東となると、耕地はなおさら少ない。西南の日あたりを受けた傾斜の多い馬籠の地勢には竹林を見るが、木曾谷(きそだに)の奥にはその竹すら生長しないところさえもある。
その時は半蔵以外の宿役人も、いずれもじっとしていなかった。問屋九郎兵衛をはじめ、年寄役の桝田屋小左衛門(ますだやこざえもん)、同役|蓬莱屋(ほうらいや)新七の忰(せがれ)新助、同じく梅屋五助なぞは、組頭(くみがしら)の笹屋庄助(ささやしょうすけ)と共に思い思いに奔走していた。ちょうど半蔵が寿平次と二人で会所の前にいると、そこへ隣家の伊之助も隠居|金兵衛(きんべえ)と一緒に山林の見分(けんぶん)からぽつぽつ戻って来た。
「半蔵さん、きょうはわたしも初めて家を出まして、伊之助を連れながら大荒れの跡を見てまいりましたよ。」
相変わらず金兵衛の話はこまかい。この達者(たっしゃ)な隠居に言わせると、新茶屋の林の方で調べて来た倒れ木は、落合堺(おちあいざかい)の峰から風道通(かざみちどお)りへかけて、松だけでも五百七十本の余に上る。杉、三十五、六本。大小の樅(もみ)、四十五本。栗、およそ六百本。これに大屋下の松十五本と、比丘尼寺(びくにでら)の松十五本と、青野原土手の十三本を加えると、都合総計およそ七百三十本ほどの大小の木が倒れたとのことだ。どんなすさまじい力で暴風が通り過ぎて行ったかは、この話を聞いただけでもわかる。
「まあ、ことしはわたしも七十になりますが、こんな大風は覚えもありません。そりゃ半蔵さんのお父(とっ)さんにお聞きになってもわかることです。まったく、前代未聞(ぜんだいみもん)です。」と言って、金兵衛は手にした杖(つえ)を持ち直して、「そう言えば、昨晩、万福寺の和尚(おしょう)さま(松雲のこと)も隠宅の方へお見舞いくださいました。そのおりに、墓地での倒れ木のお話も出ましてね、かねて、村方でも相談のあった位牌堂(いはいどう)の普請(ふしん)にあの材木を使いたいがどうかと言って、内々(ないない)わたしまでその御相談でした。それは至極(しごく)よろしい御量見です、そうわたしがお答えして置きましたよ。あの和尚さまは和尚さまらしいことを言われると思いましたっけ。」
「時に、半蔵さん、飯米のことはどうしたものでしょう。」と伊之助が言い出す。
「それです、妻籠の方で融通(ゆうずう)がつくかと思いましてね、今、今、そのことを寿平次さんにも頼んで見たところです。妻籠にも米がないとすると、山口はどうでしょう。」と半蔵は答える。
「山口もだめ。」と言うのは伊之助だ。「実はきのうのことですが、人をやって見ましたよ。あの村にも馬籠へ分けるほどの米はないらしい。やっぱりお断わりですさ。使いの者はむなしく帰って来ました。」
「悪い時には悪いなあ。」
それを言って、寿平次はあたりを見回した。
間もなく、寿平次は去り、金兵衛も上の伏見屋の方へ戻(もど)って行った。その時になって見ると、村方一同が米の買い入れ方を頼もうにも、宿々は凶作も同様で、他所への米の出入りは少しも叶(かな)わないとなった。馬籠の宿内でもみなみなそう持ち合わせはない。日ごろ米の売買にたずさわる金兵衛方ですら、その月かぎりの家族の飯米が三俵も不足すると言ってあわて出したくらいだ。普請好きな金兵衛は本家や隠宅に工事を始めていて、諸職人の出入りも多かったからで。
こうなると、西に盆地の広くひらけた美濃方面より米を買い入れるよりほかに馬籠の宿場としてはさしあたり適当な道がない。中津川の商人、ことに万屋安兵衛(よろずややすべえ)方なぞへはそれを依頼する使者が毎日のように飛んだ。岩村に米があると聞いては、たとい高い値段を払っても、一時の急をしのがねばならない。そういう岩村米も売り上げて、十両につき三俵替えという値段だ。米一升、実に六百二十四文もした。
毎日のように半蔵は背戸田(せとだ)へ見回りに出た。時には宿役人一同と出入りの百姓を引き連れて、暴風雨(あらし)のために荒らされた田方(たかた)の内見分(ないけんぶん)に出かけた。半蔵が父の吉左衛門とも違い、金兵衛の方は上の伏見屋の隠宅にじっとしていない。長く精力の続くこの隠居は七十歳になっても若い者の中に混じって、半蔵や養子伊之助らが歩いて行く方へ一緒に歩いた。そして朝早くから日暮れに近いころまでかかって、東寄りの峠村中の田、塩沢、岩田、それから大戸あたりの稲作を調べに回った。翌々日も半蔵らは背戸田からはじめて、野戸の下へ出、湫(くて)の尻中道(しりなかみち)から青の原へ回り、中新田、比丘尼寺(びくにでら)、杁(いり)、それから町田を見分した。その時も金兵衛は皆と一緒に歩き回った。どうかして稲を見直したいとは、一同のもののつないでいる望みであった。その年の収穫期を凶作に終わらせたくないと願わないものはなかったのである。
また、また、西よりの谷間(たにあい)にある稲作はどうかと心にかかって、半蔵らは馬籠の町内から橋詰(はしづめ)、荒町の裏通りまで残らず見分に出かけた。中のかやから美濃境の新茶屋までも総見分を行なった。八月の半ば過ぎになると、稲穂もよほど見直したと言って、半蔵のところへ飛んで来るものもある。いかんせん、とかく村方の金子は払底で、美濃方面から輸入する当座の米は高い。難渋な小前(こまえ)の者はそのことを言いたて、宿役人へ願いの筋があるととなえて、村じゅうでの惣(そう)寄り合いを開始する。果ては、大工左官までが業を休み、町内じゅうの小前のものは阿弥陀堂(あみだどう)に詰めて、上納|御年貢米(おねんぐまい)軽減の嘆願を相談するなど、人気は日に日に穏やかでなくなって行った。
金兵衛は半蔵を見るたびに言った。
「どうも、恐ろしい世の中になって来ました。掟年貢(おきてねんぐ)の斗(はか)り立てを勘弁してもらいましょう、そんなことを言って、わたしどもへ出入りの百姓が三人もそろって談判に見えましたよ。」
そういう隠居は木曾谷での屈指な分限者(ぶげんしゃ)と言われることのために、あの桝田屋(ますだや)と自分の家とが特に小前の者から目をつけられるのは迷惑至極だという顔つきである。米不足から普請工事も見合わせ、福島の大工にも帰ってもらい、左官その他の職人に休んでもらったからと言って、そんなことまでとやかくと言い立てられるのは、なおなお迷惑至極だという顔つきである。
「金兵衛さん、」と半蔵は言った。「あなたのようにあり余るほど築き上げたかたが、こんな時に一肌(ひとはだ)脱がないのはうそです。」
「いえ、ですからね、あの兼吉(かねきち)に二俵、道之助に七斗、半四郎に五俵二斗――都合、三口合わせて三石七斗は容赦すると言っているんですよ。」
金兵衛の挨拶(あいさつ)だ。
半蔵はこの人の言うことばかりを聞いていられなかった。庄屋としての彼は、どんな骨折りでもして、小前の者を救わねばならないと考えた。この際、木曾福島からの見分奉行(けんぶんぶぎょう)の出張を求め、場合によっては尾州代官山村|甚兵衛(じんべえ)氏をわずらわし、木曾谷中の不作を名古屋へ訴え、すくなくも御年貢上納の半減をきき入れてもらいたいと考えた。
あいにくな雨の日がまたやって来た。もうたくさんだと思う大雨が朝から降り出して、風の方角も北から西に変わった。本陣の奥座敷では床上(ゆかうえ)がもり、袋戸棚(ふくろとだな)へも雨が落ちた。半蔵は自分の家のことよりも村方を心配して、また町内を見回るために急いでしたくした。腰に結ぶ軽袗(かるさん)の紐(ひも)もそこそこに、寛(くつろ)ぎの間(ま)から囲炉裏ばたに出て下男の佐吉を呼んだ。
「オイ、蓑(みの)と笠(かさ)だ。」
その足で半蔵は町田の向こうまで行って見た。雨にぬれた穂先は五、六分には見える。稲草(いなくさ)によっては八分通りの出来にすら見える。最初よりはよほど見直したという村の百姓たちの評判もまんざらうそでないと知った時は、思わず彼もホッとした。
十四代将軍|家茂(いえもち)の薨去(こうきょ)が大坂表の方から伝えられたのは、村ではこの凶作で騒いでいる最中である。  

馬籠の宿場の中央にある高札場(こうさつば)のところには物見高い村の人たちが集まった。何事かと足を停(と)める奥筋行きの商人もある。馬から降りて見る旅の客もある。人々は尾州藩の方から伝達された左の掲示の前に立った。
「公方様(くぼうさま)、御不例御座遊ばされ候(そうろう)ところ、御養生かなわせられず、去る二十日|卯(う)の上刻、大坂表において薨御(こうぎょ)遊ばされ候。かねて仰せ出(い)だされ候通り、一橋中納言殿(ひとつばしちゅうなごんどの)御相続遊ばされ、去る二十日より上様(うえさま)と称し奉るべき旨(むね)、大坂表において仰せ出だされ候。」
日ごろこもりがちに暮らしている吉左衛門まで本陣の裏二階を出て、そこへ上の伏見屋から降りて来た老友金兵衛と共に、この掲示を読んだ。そして、二人(ふたり)ともしばらく高札場の付近を立ち去りかねていた。あだかも、享年わずかに二十一歳の若さで薨去(こうきょ)せられたという将軍を街道から遠く見送るかのように。その時はすでに鳴り物一切停止のことも触れ出された。前将軍が穏便(おんびん)の伝えられた時と同じように、この宿場では普請工事の類(たぐい)まで中止して謹慎の意を表することになった。
九月を迎えて、かねて村民の待ち受けていた木曾福島からの秋作(あきさく)見分奉行の出張を見、木曾谷中御年貢上納の難渋を訴えるためにいずれは代官山村氏が尾州表への出府もあるべきよしの沙汰(さた)も伝えられ、小前(こまえ)のもの一同もやや穏やかになったころは、将軍薨去前後の事情が名古屋方面からも福島方面からも次第に馬籠の会所へ知れて来た。八月の二十日として喪を発表せられたのは、御跡目(おんあとめ)相続および御葬送儀式のために必要とせられたのであって、実際には七月の十九日に脚気衝心(かっけしょうしん)の病で薨去せられたという。それまでまだ将軍家は大坂に在城で征長の指揮に当たっていたことのように、喪は秘してあったともいう。小笠原(おがさわら)老中なぞがそこそこに戦地を去ったのも、そのためであることがわかって来た。して見ると半蔵が名古屋出府のはじめのころには、将軍はすでに重い病床にあった人だ。名古屋城のなんとなく取り込んでいたことも、その時になって彼にはいろいろと想(おも)い当たる。
将軍家の薨去と聞いて、諸藩の兵は続々戦地を去りつつあった。兵事をとどむべきよしの勅諚(ちょくじょう)も下り、「何がな休戦の機会もあれかし」と待っていた幕府でも紀州公が総督辞任および長防|討手(うって)諸藩兵全部引き揚げの建言を喜び迎えたとの報知(しらせ)すら伝わって来た。大坂城にあった将軍の遺骸(いがい)は老中|稲葉美濃守(いなばみののかみ)らに守護され、順動丸で江戸へ送られたとも言わるる。それらの報知(しらせ)を胸にまとめて見て、半蔵はいずれこの木曾街道に帰東の諸団体が通行を迎える日のあるべきことを感知した。同時に、敗戦を経験して来るそれらの関東方がこの宿場に置いて行く混雑をも想像した。
種々(さまざま)な流言が伝わって来た。家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮(たいりょ)に反対したのがその病因であるのだから、慶喜はすなわち公が薨去を促した人であると言い、はなはだしいのになると慶喜に望みを寄せる者があって家茂公の病中に看護を怠り、その他界を早めたのだなぞと言うものがある。もっとはなはだしいのになると、家茂公は筆の中に仕込んだ毒でお隠れになったのだと言って、そんな臆測(おくそく)をさも本当の事のように言い触らすものもある。いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲になったのだと言って、およそ困難という困難に際会せられた公の生涯(しょうがい)と、その忍耐温良の徳と、長防親征中の心痛とを数えて見せるものもある。
「暗い、暗い。」
半蔵はひとりそれを言って、到底大きな変革なしに越えられないような封建社会の空気の薄暗さを思い、もはや諸国の空に遠く近く聞きつける鶏の鳴き声のような王政復古の叫びにまで、その薄暗さを持って行って見た。
「武家の奉公もこれまでかと思います。」
半蔵は会所の方で伊之助と一緒になった時、頼みに思う相手の顔をつくづくと見て、その述壊をした。庄屋風情(しょうやふぜい)の彼ですら、江戸幕府の命脈がいくばくもないことを感じて来た。彼はそれを尾州家の態度からも感じて来た。しかし、どんな崩壊が先の方に待っているにもせよ、彼は一日たりとも街道の世話を怠ることはできない。同時に、この困窮疲弊からも宿場を護(まも)らねばならない。
その時になって見ると、馬籠の宿場そのものの維持も容易ではなくなって来た。彼は伊之助その他の宿役人とも相談の上、この際、一切をぶちまけて、領主たる尾州家に宿相続救助の願書を差し出そうと決心した。
「まあ、お辞儀をしてかかるよりほかにしかたがありません。では、宿相続のお救い願いはわたしが書きましょう。宿勘定の仕訳帳(しわけちょう)は伊之助さんに頼みますよ。先ごろ名古屋の方へ行った時に、わたしはこの話を持ち出して見ました。尾州藩の人が言うには、奉行所あてに願書を出すがいい、どうせ藩でも足りない、しかし足りないついでになんとかしようじゃないか――そう言ってくれましたよ。」
いったいなら、こんな願書は江戸の道中奉行へ差し出すべきであった。それを尾州藩の方で引き取って、届くだけは世話しようと言うところにも、時の推し移りがあらわれていた。たといこれを江戸へ持ち出して見たところで、家茂公|薨去(こうきょ)後の混雑の際では採用されそうもない。やがて大坂から公儀衆が帰東の通行も追い追いと迫って来る。急げとばかり、半蔵は宿相続お救い願いの草稿を作りにかかった。
草稿はできた。彼はそれを隣家の伏見屋へ持って行った。本陣の家から見れば一段と高い石垣(いしがき)の位置にある明るい静かな二階で、彼はそれを伊之助と二人(ふたり)で読んで見た。
宿相続お救い願い
恐れながら書付をもって嘆願奉り候(そうろう)御事
「宿方(しゅくがた)の儀は、当街道筋まれなる小宿にて、お定めの人足二十五人役の儀も隣郷山口湯舟沢両村より相勤め候ほどの宿柄(しゅくがら)、外宿同様お継立(つぎた)てそのほか往還御役相勤め候儀につき、自然困窮に罷(まか)りなり、就中(なかんずく)去る天保(てんぽう)四|巳年(みどし)、同七|申年(さるどし)再度の凶年にて死亡離散等の数多くこれあり、宿役相勤めがたきありさまに罷(まか)りなり候えども、従来浅からざる御縁故をもって種々御尽力を仰ぎ、おかげにていかようにも宿相続|仕(つかまつ)り来たり候ところ、元来|嶮岨(けんそ)の瘠(や)せ地(ち)、山間わずかの田畑にて、宿内食料は近隣より買い入れ、塩、綿、油等は申すに及ばず、薪炭(まきすみ)等に至るまで残らず他村より買い入れ取り用い候儀につき、至って助成薄く、毎年借財相かさみ、難渋罷りあり候。
――往還御役の儀、役人どもはじめ、御伝馬役、歩行役、七里役相勤め、嶮岨の丁場(ちょうば)日々折り返し艱難(かんなん)辛勤仕り、冬春の雪道、凍り道等の節は、荷物|仕分(しわけ)に候わでは持ち堪(こた)えがたく、病み馬痩せ馬等も多くでき、余儀なく仕替馬(しかえうま)つかまつり候わでは相勤めがたく、右につき年々お救い米(まい)ならびに増しお救い金等下しおかれ、おかげをもって引き続き相勤め来たり候えども、近年馬買い入れ値段格外に引き揚げ、仕替馬買い入れの儀も少金にては行き届かず、かつまた、嶮岨の往還|沓草鞋(くつわらじ)等も多く踏み破り候ことゆえ、お定め賃銭のみにてはなにぶん引き足り申さず、隣宿より帰り荷物等にて雇い銭取り候儀も、下地馬(したじうま)の飼い立て不行き届きにつき、重荷は持ち堪(こた)えがたく、眼前の利益に離れ候次第、難渋言語に絶し候儀に御座候。
――農作の儀、扣(ひか)え地内(ちない)狭少につき、近隣村々へ年々運上金差し出し、草場借り受け、あるいは一里二里にも及ぶ遠方馬足も相立たざる嶮岨へ罷り越し、笹(ささ)刈り、背負い、持ち運び等仕り、ようやく田地を養い候ほどの為体(ていたらく)、お百姓どもも近村に引き比べては一層の艱苦(かんく)仕り候儀に御座候……」
読みかけて半蔵は深いため息をついた。
「伊之助さん、わたしは吾家(うち)の阿爺(おやじ)から本陣問屋庄屋の三役を譲られた時、そう思いました。よくあの阿爺たちはこんなめんどうな仕事をやって来たものだと。わたしの代になって、かえって宿方の借財をふやしてしまったようなものです。これがあの阿爺でしたら、もっとよくやれたかもしれません。わたしは実にこんな経済の下手(へた)な男です。」
その願書の中には、安政五年異国交易御免以来の諸物価が格外に騰貴したことから、同年の冬十一月、および万延元年十月の両度に村の火災のあったことも言ってある。文久元年の和宮様の御下向、同三年の尾州藩主|上洛(じょうらく)に引き続いて、諸藩の家族方が帰国、犬千代公ならびに家中衆の入国、十四代将軍が京都より還御のおりの諸役人らの通行、のみならず尾張大納言が参府と帰国等、前代未聞の大通行が数え切れない上に、昨年日光御神忌に際しては公家衆と警衛諸役人らの通行が数日にわたって、ついには助郷(すけごう)村々も疲弊を申し立て、一人一匹の人馬も差し出さないことがあり、そのたびごとに宿役人どもはじめ御伝馬役、小前のものの末に至るまで一方(ひとかた)ならぬ辛(つら)き勤めは筆紙に尽くしがたいことも言ってある。それらの事情から人馬の雇い金はおびただしく、ゆくゆく宿相続もおぼつかないところから、木曾十一宿では定助郷設置の嘆願を申し合わせ、幾たびか宿役人らの江戸出府となったが、今だにその御理解もなく、もはや十六、七年も右の一条でかわるがわるの嘆願に出府せしため雑費はかさむばかりであったことも言ってある。ついては、去る安政三年に金三百両の頼母子講(たのもしこう)を取り立て、その以前にも百両講を取り立て、それらの方法で宿方借財返済の途(みち)を立てて来たが、近年は人馬雇い金、並びに借入金利払い、その他、宿入用が莫大(ばくだい)にかかって、しかも入金の分は先年より格別増したわけでもないから、ますます困窮に迫って必至難渋の状態にあることにも言い及んである。
半蔵はさらに読み続けた。
「――前条難渋の宿柄、実(じつ)もって嘆かわしき次第にこれあり候(そうろう)。右につき、高割(たかわり)取り集め候儀も、先年よりは多く相増し候えども、お救い拝借等年延べ願い上げ奉り候ほどのことゆえ、この上相増し候儀は行き届かず、もはや頼母子講取り立て候儀も相成りがたく、組合宿々の儀も人馬雇い立てその他多端の費用にて借財相かさみ、助力は相頼みがたき場合、いかにして宿相続|仕(つかまつ)るべきかと一同当惑悲嘆いたし候。
――この上は、前条のおもむき深く御憐察(ごれんさつ)下し置かれ、御時節柄恐れ多きお願いには候えども、御金二千両拝借仰せ付けられたく、御返上の儀も当|寅年(とらどし)より向こう二十か年賦済みにお救い拝借仰せ付けられ候わば、一同ありがたき仕合わせに存じ奉り候。以上。」
慶応二年|寅(とら)九月
   馬籠宿
   庄屋問屋
御奉行所
半蔵と伊之助の二人(ふたり)はこの願書について互いの意見をとりかわした。伊之助には養父金兵衛の鋭さはないが、そのかわり綿密で慎み深く、半蔵にとってのよい相談相手である。その時、伊之助は宿勘定仕訳帳を取り出して、それを半蔵の前にひろげて見せた。包み隠しない宿方やり繰りの全景がそこにある。宿方の入金としては、年内人馬賃銭の内より宿助成としての刎銭(はねせん)何ほどということから、お年貢(ねんぐ)の高割(たかわり)として取り集めの分何ほど、ずっと以前に木曾谷中に許された刎銭積み金の利息より手助け村および御伝馬その他への割り渡しを差し引きたる残り何ほど、木曾谷には古い歴史のある御切り替え手形|頂戴金(ちょうだいきん)のうち御伝馬その他の諸役への割り渡しを差し引きたる残り何ほどとそこに記(しる)してある。支払いの分としては、御用御通行そのほか込み合いの節の人馬雇い銭、御用の諸家休泊年内|旅籠(はたご)の不足銭、問屋場の帳付けと馬指(うまさし)および人足指(にんそくざし)と定使(じょうづか)いらへの給料、宿駕籠(しゅくかご)の買い入れ代、助郷人馬への配当、高札場ならびに道路の修繕費、それに問屋場の維持に要する諸雑費というふうに。七か年を平均した帳尻(ちょうじり)を見ると、入金二百三十六両三分、銭六貫三百八十一文。支払い金四百十一両三分、銭九貫六百三十三文。この差し引き、金百七十五両銭三貫二百四十二文が不足になっている。この不足が年々積もって行く上に、それを補って来た万延安政年代以来からの宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両一分二朱ほど払わねばならない。これはお役所からも神明講永代講の積み金からも、中津川の商人からも、あるいは岩村の御用達(ごようたし)からも借り入れたもので、その中には馬籠の桝田屋(ますだや)の主人や上の伏見屋の金兵衛が立て替えたものもある。このまま仕法立(しほうだ)てをせずに置いたら宿方は滅亡に及ぶかもしれない。なんとか奉行所の評議をもって宿相続をなしうるよう救ってもらいたいというのが、その帳面の内容であった。
馬籠は小駅ながらともかくも木曾街道筋のことで金が動く。この宿場の困難な時を切り抜けるも、切り抜けないも、宿役人らの肩にかかっていた。おそらく父吉左衛門でも容易でない。まして半蔵だ。彼は伊之助と顔を見合わせて、つくづく自分の無能を羞(は)じた。
大風の被害、木曾谷中の不作、前代未聞の米高(こめだか)、宿相続の困難、それらの心配を持ち越して、やがて馬籠の宿では十月を迎えるようになった。
そろそろ峠の上へは冷たい雨もやって来る。その秋深い空気の中で、大坂を出立する幕府方の諸団体が木曾街道筋を下って帰途につくとの前触れも伝わって来る。その日取りは、十月の十三日から二十五日まで、およそ十三日間の大通行ということもほぼ明らかになった。
半蔵の手伝いとして本陣へ通(かよ)って来る清助は彼のそばへ寄って言った。
「半蔵さま、宿割は。」
「今度の御通行かい。たぶん、三留野(みどの)のお泊まりで、馬籠はお昼休みになるでしょう。」
「また街道はごたごたしますね。」
この清助ばかりでなく、十三日間の通行と聞いては問屋場に働く栄吉まで目を円(まる)くした。
間もなく、木曾福島からの役人衆も出張して来て、諸団体休泊の割当ても始まった。本陣としての半蔵の家は言うまでもなく、隣家の伊之助方も休泊所に当てられ、金兵衛の隠宅までが福島役人衆の宿を命ぜられた。こういう中で、助郷、その他のことを案じながら、よく半蔵を見に来るのは伊之助だ。
伊之助は思い出したように言った。
「でも、どんなものでしょうなあ、戦(いくさ)に敗(ま)けて帰って来るというやつは。」
こんなふうで半蔵らは大坂から出立して来る公儀衆をこの街道に待ち受けた。
はたしてさびしい幕府方の総退却だ。その月の十五日には、予定の日取りよりややおくれて、西から下向(げこう)の団体が続々と宿場に繰り込んで来た。十七日となると、人馬の継立(つぎた)てが取り込んで、宿役人仲間の心づかいも一通りでない。日によっては隣村山口、湯舟沢からの人足も不参で、馬籠の宿場では草刈りの女馬まで狩り出し、それを荷送りの役に当てた。木曾福島から出張している役人衆の中には、宿の方の混雑を心配して、夜中に馬籠から発(た)つものもある。
この大通行は二十三日までも続いた。まだそれでもあとからあとからと繰り込んで来る隊伍(たいご)がある。この馬籠峠の上まで来て昼食の時を送って行く武家衆はほとんど戦争の話をしない。戦地の方のことも語らない。ただ、もう一度江戸を見うる日のことばかりを語り合って行った。
ある朝、半蔵は会所の前にいた。そこへ宿方の用談をもって妻籠(つまご)の寿平次が彼を訪(たず)ねて来た。
「寿平次さん、まあおはいりなさるさ。こんなところに立っていては話もできない。役人衆もくたぶれたと見えて、きょうはまだだれも出て来ません。」
そう言って半蔵は会所の店座敷へ寿平次を誘い入れた。二人(ふたり)の話は互いの激しい疲労をねぎらうことから、毎日のように目の前を通り過ぎた諸団体のことに落ちて行った。
半蔵は言った。
「あの水戸浪士が通った時から見ると、隔世の感がありますね。もうあんな鎧兜(よろいかぶと)や黒い竪烏帽子(たてえぼし)は見られませんね。」
「一切の変わる時がやって来たんでしょう。」と寿平次もそれを受けて、「――武器でも武人の服装でも。」
「まあ、長州征伐がそれを早めたとも言えましょうね。」
「しかし、半蔵さん、征討軍の鉄砲や大筒(おおづつ)は古風で役に立たなかったそうですね。なんでも、長防の連中は農兵までが残らず西洋の新式な兵器で、寄せ手のものはポンポン撃たれてしまったと言うじゃありませんか。あのミニエール銃というやつは、あれはイギリスが長州に供給したんだそうですね。国情に疑惑があらばいくらでも尋問してもらおう、直接に外国から兵器を供給された覚えはないなんて、そんなに長防の連中が大きく出たところで、後方(うしろ)に薩摩(さつま)やイギリスがついていて、どんどんそれを送ったら、同じ事でさ。そこですよ。君。諸藩に率先して異国を排斥したのはだれだくらいは半蔵さんだっても覚えがありましょう。あれほど大きな声で攘夷(じょうい)を唱えた人たちが、手の裏をかえすように説を変えてもいいものでしょうかね。そんなら今までの攘夷は何のためです。」
「へえ、きょうは君はいろいろなことを考えて、妻籠からやって来たんですね。」
「まあ見たまえ。破約攘夷の声が盛んに起こって来たかと思うと、たちまち航海遠略の説を捨てる。条約の勅許が出たかと思うと、たちまち外国に結びつく。まったく、西の方の人たちが機会をとらえるのの早いには驚く。あれも一時(いっとき)、これも一時(いっとき)と言ってしまえば、まあそれまでだが、正直なものはまごついてしまいますよ。そりゃ、幕府だってもフランスの力を借りようとしてるなんて、もっぱらそんな風評がありますさ。イギリスはこの国の四分五裂するのを待ってるが、フランスにかぎって決してそんなことはないなんて、フランスはまたフランスでなかなかうまい言(こと)を幕府の役人に持ち込んでるといううわさもありますさ。しかし、幕府が外国の力によって外藩を圧迫しようとするなぞ実にけしからんと言う人はあっても、薩長が外国の力によって幕府を破ったのは、だれも不思議だと言うものもない。」
「そんな、君のような――わたしにくってかかってもしようがない。」
これには寿平次も笑い出した。その時、半蔵は言葉を継いで、
「いくら防長の連中だって、この国の分裂を賭(と)してまでイギリスに頼ろうとは言いますまい。高杉晋作(たかすぎしんさく)なんて評判な人物が舞台に上って来たじゃありませんか。下手(へた)なことをすれば、外国に乗ぜられるぐらいは、知りぬいていましょう。」
「それもそうですね。まあ、長州の人たちの身になったら、こんな非常時に非常な手段を要するとでも言うんでしょうか。イギリスからの武器の供給は大事の前の小事ぐらいに考えるんでしょうか。わたしたちはお互いに庄屋ですからね。下から見上げればこそ、こんな議論が出るんですよ。」
「とにかく、寿平次さん――西洋ははいり込んで来ましたね。考うべき時勢ですね。」
寿平次が宿方の用談を済ましてそこそこに妻籠の方へ帰って行った後、半蔵は会所から本陣の表玄関へ回って、広い板の間をあちこちと歩いて見た。当宿お昼休みで十三日間もかかった大通行の混雑が静まって見ると、総引き揚げに引き揚げて行った幕府方のあわただしさがその後に残った。
そこへお民がちょっと顔を見せて、
「あなた、妻籠の兄さんと何を話していらしったんですか。子供は会所の方へのぞきに行って、あなたがたがけんかでもしてるのかと思って、目を円(まる)くして帰って来ましたよ。」
「なあに、そんな話じゃあるものか。きょうは寿平次さんにしてはめずらしい話が出た。あの人でもあんなに興奮することがあるかと思ったさ。」
「そんなに。」
「なあに、お前、けんかでもなんでもないさ。寿平次さんの話は、だれをとがめたのでもないのさ。あんまり世の中の変わり方が激しいもんだから、あの人はそれを疑っているのさ。」
「なんでも疑って見なけりゃ兄さんは承知しませんからね。」
「ごらんな、こう乱脈な時になって来ると、いろいろな人が飛び出すよ。世をはかなむ人もあるし、発狂する人もある。上州高崎在の風雅人で、木曾路の秋を見納めにして、この宿場まで来て首をくくった人もあるよ。」
「そんなことを言われると心細い。」
「まあ、賢明で迷っているよりかも、愚直でまっすぐに進むんだね。」
半蔵の寝言(ねごと)だ。
東照宮二百五十年忌を機会として大いに回天の翼を張ろうとした武家の夢もむなしい。金扇の馬印(うまじるし)を高くかかげて出発して来た江戸の方には、家茂公(いえもちこう)を失った後の上下のものが袖(そで)に絞る涙と、ことに江戸城奥向きでの尽きない悲嘆とが、帰東の公儀衆を待っていた。のみならず、あの大きな都会には将軍進発の当時にもまさる窮民の動揺があって、飢えに迫った老幼男女が群れをなし、その町々の名を記(しる)した紙の幟(のぼり)を押し立て、富有な町人などの店先に来て大道にひざまずき、米価はもちろん諸品|高直(たかね)で露命をつなぎがたいと言って、助力を求めるその形容は目も当てられないものがあるとさえ言わるる。富めるものは米一斗、あるいは五升、ないし一俵二俵と施し、その他雑穀、芋(いも)、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)を与えると、それらの窮民らは得るに従って雑炊(ぞうすい)となし、所々の鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)の空地(あきち)などに屯集(とんしゅう)して野宿するさまは物すごいとさえ言わるる。紀州はじめ諸藩士の家禄(かろく)は削減せられ、国札(こくさつ)の流用はくふうせられ、当百銭(天保銭)の鋳造許可を請う藩が続出して、贋造(がんぞう)の貨幣までがあらわれるほどの衰えた世となった。
革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった。幕府は無力を暴露し、諸藩が勢力の割拠はさながら戦国を見るような時代を顕出した。この際微力な庄屋としてなしうることは、建白に、進言に、最も手近なところにある藩論の勤王化に尽力するよりほかになかった。一方に会津、一方に長州薩摩というような東西両勢力の相対抗する中にあって、中国の大藩としての尾州の向背(こうはい)は半蔵らが凝視の的(まと)となっている。そこには玄同様付きの藩士と、犬千代様付きの藩士とある。藩論は佐幕と勤王の両途にさまよっている。たとい京都までは行かないまでも、最も手近な尾州藩に地方有志の声を進めるだけの狭い扉(とびら)は半蔵らの前に開かれていた。彼は景蔵や香蔵と力をあわせ、南信東濃地方にある人たちとも連絡をとって、そちらの方に手を尽くそうとした。  

慶応三年の三月は平田|篤胤(あつたね)没後の門人らにとって記念すべき季節であった。かねて伊那(いな)の谷の方に計画のあった新しい神社も、いよいよ創立の時期を迎えたからで。その月の二十一日には社殿が完成し、一切の工事を終わったからで。荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤、それらの国学四大人の御霊代(みたましろ)を安置する空前の勧請遷宮式(かんじょうせんぐうしき)が山吹村の条山(じょうざん)で行なわれることになって、すでにその日取りまで定まったからで。
このめずらしい条山神社の実際の発起者たる平田門人|山吹春一(やまぶきしゅんいち)は、不幸にも社殿の完成を見ないで前の年の九月に亡(な)くなった。それらの事情はこの事業に一頓挫(いちとんざ)を来たしたが、春一の嗣子左太郎と別家|片桐衛門(かたぎりえもん)とが同門の人たちの援助を得て、これを継続完成した。山吹社中が奔走尽力の結果、四大人の遺族から贈られたという御霊代は得がたい遺品ばかりである。松坂の本居家からは銅製の鈴。浜松の賀茂家からは四寸九分無銘|白鞘(しらさや)の短刀。荷田家からは黄銅製の円鏡。それに平田家からは水晶の玉、紫の糸で輪につないだ古い瑠璃玉(るりだま)。まだこのほかに、山吹社中の懇望によって鉄胤から特に贈られたという先師篤胤が遺愛の陽石。
この報告が馬籠へ届くたびに、半蔵はそれを親たちにも話し妻にも話し聞かせて、月の二十四日と定まった遷宮式には何をおいても参列したいと願っていた。よい事には魔が多い。その二日ほど前あたりから彼は腹具合を悪くして、わざわざ中津川の景蔵と香蔵とが誘いに寄ってくれた日には、寝床の中にいた。
「半蔵さんは出かけられませんかね。」
「そいつは残念だなあ。この正月あたりから一緒に行くお約束で、わたしたちも楽しみにして待っていましたのに。」
この二人の友人が伊那の山吹村をさして発(た)って行く姿をも、半蔵は寝衣(ねまき)の上に平常着(ふだんぎ)を引き掛けたままで見送った。
ちょうど、その年の三月は諒闇(りょうあん)の春をも迎えた。友人らの発(た)って行った後、半蔵は店座敷に戻(もど)って東南向きの障子をあけて見た。山家も花のさかりではあるが、年が年だけにあたりは寂しい。彼は庭先にふくらんで来ている牡丹(ぼたん)の蕾(つぼみ)に目をやりながら、この街道に穏便(おんびん)のお触れの回ったのは正月十日のことであったが、実は主上の崩御(ほうぎょ)は前の年の十二月二十九日であったということを胸に浮かべた。十二月の初めから御不予の御沙汰(ごさた)があり、中旬になって御疱瘡(ごほうそう)と定まって、万民が平和の父と仰ぎ奉った帝(みかど)その人は実に艱難(かんなん)の多い三十七歳の御生涯(ごしょうがい)を終わった。
一方には王政復古を急いで国家の革新を改行しようとする岩倉公以下の人たちがあり、一方には天皇の密勅を奏請して大事を挙(あ)げようとする会津藩主以下の人たちがある。飽くまで公武一和を念とする帝はそのために御病勢を募らせられたとさえ伝えるものがある。雲の上のことは半蔵なぞの想像も及ばない。もちろん、この片田舎(かたいなか)の草叢(くさむら)の中にまで風の便(たよ)りに伝わって来るような流言にろくなことはない。しかし彼はそういう社会の空気を悲しんだ。おそらくこの世をはかなむものは、上御一人(かみごいちにん)ですら意のごとくならない時代の難(かた)さを考えて、聞くまじきおうわさを聞いたように思ったら、一層|厭離(おんり)の心を深くするであろう、と彼には思われた。
枕(まくら)もとには本居宣長の遺著『直毘(なおび)の霊(みたま)』が置いてある。彼はそれを開いた。以前には彼はよくそう考えた、勤王の味方に立とうと思うほどのものは、武家の修養からはいった人たちでも、先師らのあとを追うものでも、互いに執る道こそ異なれ、同じ復古を志していると。種々(さまざま)な流言の伝わって来る主上の崩御(ほうぎょ)に際会して見ると、もはやそんな生(なま)やさしいことで救われる時とは見えなかった。その心から、彼は本居大人の遺著を繰り返して見て、日ごろたましいの支柱と頼む翁の前に自分を持って行った。
宣長の言葉にいわく、
「古(いにしえ)の大御世(おおみよ)には、道といふ言挙(ことあ)げもさらになかりき。」
また、いわく、
「物のことわりあるべきすべ、万(よろず)の教(おしえ)ごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国(あだしくに)の沙汰(さた)なり。異国は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御国にあらざるが故(ゆえ)に、定まれる主(きみ)なくして、狭蝿(さばえ)なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心(ひとごころ)あしく、ならはしみだりがはしくして、国をし取りつれば、賤(いや)しき奴(やっこ)も忽(たちま)ちに君ともなれば、上(かみ)とある人は下(しも)なる人に奪はれまじと構へ、下なるは上のひまを窺(うかが)ひて奪はむと謀(はか)りて、かたみに仇(あだ)みつゝ、古(いにしえ)より国治まりがたくなも有りける。そが中に、威力(いきおい)あり智(さと)り深くて、人をなつけ、人の国を奪ひ取りて、又人に奪はるまじき事量(ことはかり)をよくして、しばし国をよく治めて、後の法(のり)ともなしたる人を唐土(もろこし)には聖人とぞ言ふなる。そも/\人の国を奪ひ取らむと謀るには、よろづに心を砕き、身を苦しめつゝ、善(よ)きことの限りをして、諸人(もろびと)をなつけたる故に、聖人はまことに善き人めきて聞(きこ)え、又そのつくり置きたる道のさまもうるはしくよろずに足(た)らひて、めでたくは見ゆれども、まづ己(おのれ)からその道に背(そむ)きて、君をほろぼし、国を奪へるものにしあれば、みな虚偽(いつわり)にて、まことはよき人にあらず、いとも/\悪(あ)しき人なりけり。もとよりしか穢悪(きたな)き心もて作りて、人を欺く道なるけにや、後の人の表(うわ)べこそ尊み従ひがほにもてなすめれど、まことには一人も守りつとむる人なければ、国の助けとなることもなく、その名のみひろごりて、遂(つい)に世に行(おこな)はるることなくて、聖人の道はたゞいたづらに、人をそしる世々の儒者(ずさ)どもの、さへづりぐさとぞなれりける。」
多くの覇業(はぎょう)の虚偽、国家の争奪、権謀と術数と巧知、制度と道徳の仮面なぞが、この『直毘(なおび)の霊(みたま)』に笑ってある。北条(ほうじょう)、足利(あしかが)をはじめ、織田(おだ)、豊臣(とよとみ)、徳川なぞの武門のことはあからさまに書かれてないまでも、すこし注意してこれを読むほどの人で、この国の過去に想(おも)いいたらないものはなかろう。『直毘の霊』の中にはまた、中世以来の政治、天(あめ)の下(した)の御制度が漢意(からごころ)の移ったもので、この国の青人草(あおひとぐさ)の心までもその意(こころ)に移ったと嘆き悲しんである。「天皇尊(すめらみこと)の大御心(おおみこころ)を心とせずして、己々(おのおの)がさかしらごゝろを心とする」のは、すなわち、異国(あだしくに)から学んだものだと言ってある。武家時代以前へ――もっとくわしく言えば、楠(くすのき)氏と足利氏との対立さえなかった武家以前への暗示がここに与えてある。御世(みよ)御世の天皇の御政(おんまつりごと)はやがて神の御政であった、そこにはおのずからな神の道があったと教えてある。神の道とは、道という言挙(ことあ)げさえもさらになかった自然(おのずから)だ、とも教えてある。
この自然に帰れ、というふうに、あとから歩いて行くものに全く新しい方向をさし示したのが本居大人の『直毘の霊』だ。このよろこびを知れ、というふうに言葉の探求からはいった古代の発見をくわしく報告したものが、翁の三十余年を費やした『古事記伝』だ。直毘(なおび)(直び)とはおのずからな働きを示した古い言葉で、その力はよく直くし、よく健やかにし、よく破り、よく改めるをいう。国学者の身震いはそこから生まれて来ている。翁の言う復古は更生であり、革新である。天明寛政の年代に、早く夜明けを告げに生まれて来たような翁のさし示して見せたものこそ、まことの革命への道である。
その考えに力を得て、半蔵は寝床の上にすわったまま、膝(ひざ)の上に手を置きながら自分で自分に言って見た。
「寿平次さんの言い草ではないが、われわれは下から見上げればこそ、こんなことを考えるのだ。」
遷宮式のあるという当日には、半蔵は午後から店座敷に敷いてあった寝床を畳んだ。下痢も止まったばかりで、彼はまだ青ざめた顔をしていたが、それでもお民に手伝わせて部屋(へや)の内を掃き、袋戸棚(ふくろとだな)に続いている床の間を片づけた。
遙拝(ようはい)のしるしばかりに国学四大人の霊号を書きつけたものが、やがてその床の間に飾られた。荷田宿禰羽倉大人(かだのすくねはくらのうし)。賀茂県主岡部大人(かものあがたぬしおかべのうし)。秋津彦瑞桜根大人(あきつひこみずさくらねのうし)。神霊能真柱大人(たまのみはしらのうし)。あだかもそれらの四人の大先輩はうちそろってこの辺鄙(へんぴ)な山家へ訪れて来たかのように。そして、半蔵夫婦が供える神酒(みき)や洗米(せんまい)なぞを喜び受けるかのように。
こういう時になくてならないのは清助の手だ。手先のきく清助は半蔵よりずっと器用に、冬菜(ふゆな)、鶯菜(うぐいすな)、牛蒡(ごぼう)、人参(にんじん)などの野菜を色どりよく取り合わせ、干し柿(がき)の類をも添え、台の上に載せて、その床の間を楽しくした。
半蔵夫婦が子供も大きくなった。姉のお粂(くめ)は十二歳、弟の宗太は十歳にもなる。この姉弟(きょうだい)の子供はまた、おまんに連れられて、隣家の伏見屋から贈られた大きな九年母(くねんぼ)と林檎(りんご)の花をそこへ持って来た。伊之助も遷宮式のあることを聞いて、霊前に供えるようにと言って、わざわざみごとな九年母などを本陣へ寄せたのだ。
思いがけない祭りの日でも来たように子供らは大騒ぎした。おまんはかわいいさかりの年ごろになって来た孫娘が部屋から走り出て行く姿を見送りながら、
「でも、お民、早いものじゃないか。宗太の方はまだそれほどでもないが、お粂はもうおとなの話なぞに気をつけきっているよ。耳を澄まして、じっとみんなの言うことを聞いてるよ。」
「ほんとに、あの娘(こ)のいるところじゃ、うっかりしたことは話せなくなりました。」
とお民も笑った。
その日の式は山吹村の方で夜の丑(うし)の刻(こく)に行なわれるという。伊那の谷から中津川辺へかけてのおもな平田門人のほとんど全部、それにまだ入門しないまでも篤胤の信仰者として聞こえた熱心な人たちが古式の祭典に参列するという。半蔵は自分一人その仲間にもれたことを思い、袴(はかま)をつけたままの改まった心持ちで、山吹村|追分(おいわけ)の御仮屋(おかりや)から条山神社の本殿に遷(うつ)さるるという四大人の御霊代(みたましろ)を想像し、それらをささげて行く人のだれとだれとであるべきかを想像した。
その年は前年凶作のあとをうけ、かつは諒闇(りょうあん)のことでもあり、宿内倹約を申し合わせて、正月定例の家祈祷(いえきとう)にすら本陣では家内限りで蕎麦(そば)切りを祝ったくらいである。そんな中で遷宮式の日を迎えた半蔵は、清助と栄吉を店座敷に集めて、焼※[魚+昜](やきするめ)ぐらいを肴(さかな)に、しるしばかりの神酒(みき)を振る舞った。床の間に燈明のつくころには、伊之助も顔を見せたので、半蔵はこの隣人を相手に、互いに霊前で歌なぞをよみかわした。いつのまにか伊之助は半蔵の歌の友だちになって、年寄役としての街道の世話、家業の造酒なぞの余暇に、半蔵を感心させるほど素直な歌を作るような人である。
夜はふけた。伊之助も帰って行った。そろそろ山吹村の方では行列が動きはじめたかとうわさの出るころには、なんとなくおごそかな思いが半蔵の胸に満ちて来た。彼はその深夜に動いて行く松明(たいまつ)の輝きを想像し、榊(さかき)、籏(はた)なぞを想像し、幣帛(ぬさ)、弓、鉾(ほこ)なぞを想像し、その想像を同門の人たちのささげて行く四大人の御霊代にまで持って行った。彼はまた、その行列の中に加わっている先輩の暮田正香(くれたまさか)や、友人の景蔵や香蔵の姿を想像でありありと見ることができた。お民もその夜は眠らない。彼女は夫と共に起きていて、かわるがわる店座敷の戸をあけては東南の方の空を望みに行った。旧暦三月末のことで、暗い戸の外には花も匂(にお)った。
同門、および準同門の人たちを合わせると、百六十人の篤胤の弟子(でし)たちが式に参列したという話を持って、景蔵や香蔵が大平峠(おおだいらとうげ)を越して馬籠まで帰って来たのは、それから二日ほど過ぎてのことである。
「青山君、いよいよわたしも青天白日の身となりましたよ。」
と言って、伊那から景蔵らと同行して来た暮田正香もある。そういう正香は諒闇の年を迎えると共に大赦(たいしゃ)にあって、多年世を忍んでいた流浪(るろう)の境涯(きょうがい)を脱し、もう一度京都へとこころざす旅立ちの途中にある。
二人の友人ばかりでなく、この先輩までも家に迎え入れて、半蔵は西向きに眺望(ちょうぼう)のある仲の間の障子を明けひろげた。その部屋に客の席をつくった。何よりもまず彼は条山神社での祭典当日のことを聞きたかった。
「いや、万事首尾よく済みました。」と景蔵が言った。「式のあとでは、剣(つるぎ)の舞(まい)もあり、鎮魂(たましずめ)の雅楽もありました。何にしろ君、伊那の谷としてはめずらしい祭典でしょう。行って見ると、京都の五条家からは奉納の翠簾(すいれん)が来てる、平田家からは蔵版書物の板木(はんぎ)を馬に幾|駄(だ)というほど寄贈して来てるというにぎやかさサ。どうして半蔵さんは見えないかッて、伊那の衆はみんな残念がっていましたよ。」
「せめて、あの晩の行列だけは半蔵さんに見せたかった。」と香蔵も言って見せる。「松尾さんのお母(っか)さん(多勢子(たせこ))も京都からわざわざ出かけて来ていましたし、まだそのほかに参列した婦人が三、四人はありました。あの婦人たちがいずれも短刀を帯の間にはさんで、御霊代のお供をしたのは人目をひきましたよ。」
その時、正香は条山神社の方からさげて来た神酒(みき)の小樽(こだる)と干菓子(ひがし)一折りとをそこへ取り出した。
「さあ、これだ。」
と言って、祭典のおりに供えた記念の品を半蔵にも分けた。
「や、これはよいものをくださる。吾家(うち)の阿爺(おやじ)もさぞ喜びましょう。」
半蔵は手を鳴らしてお民を呼んだ。そこへ来て客をもてなすお民を見ると、正香はすこし改まった顔つきで、
「奥さんには御挨拶(ごあいさつ)をしたぎりで、まだお礼も申しませんでした。いつぞやは、お宅の土蔵の中へ隠していただいた暮田です。」
聞いているものは皆笑い出した。
平田家から条山神社へ寄進のあったという篤胤遺愛の陽石の話になると、一座の中には笑い声が絶えない。陽石――男性の象徴――あれを自分の御霊代(みたましろ)として残し伝えたいとは、先師の生前に考えて置いたことであると言わるるが、平田家ではみだりに他へもらすべき事でないとして、ごく秘密にしていた。いつのまにかそれが世間へ伝聞して、好事(こうず)の者はわけもなしにおもしろがり、高い風評の種となっているところへ、今度条山神社を建てるについてはぜひにとの山吹社中の懇望だったのである。平田家では非常に迷惑がったともいう。天朝かまたは堂上方の内より御所望のあるために山吹の方へ譲らないなぞとは、とんでもない人の言い草で、決してそんなことのあるべきはずがなく、たとい右のようなお召状があっても差し出すべき品ではないと言って断わったという。ところが、山吹社中の方では、印度蔵志(いんどぞうし)の記事まで考証してある先師の遺品だと聞き込んで、懇望してやまない。それほどのお望みとあれば、ということになって、平田家から送られて来たのが御霊代の大陽石だ。それにはいろいろな条件が付いていた。風紀上いかがわしい品であるから、衆人の容易にうかがい見ないようなところにしたい、これを置く場所はいかように小さく粗末でも苦しくない、板宮(いたみや)かまたは厨子(ずし)のような物でもいい、とにかく御同殿の物のない一座ぎりのところで、本殿の後ろの社外に空地(あきち)もあろうから、そんな玉垣(たまがき)の内にでも安置してもらいたい。好事(こうず)の者が盗み取ることもないとは限るまいから堅く鎖を設けてもらいたい、とあったという。
「しかし、平田先生も思い切った物をのこしたものさね。」とだれかがくすくすやる。
「そこがあの本居先生と違うところさ。本居先生の方には男女(おとこおんな)の恋とかさ、物のあわれとかいうことが深く説いてある。そこへ行くと、平田先生はもっと露骨だ。考えることが丸裸(まるはだか)だ――いきなり、生め、ふやせだ。」
こんな話も出た。
その日、正香はあまり長くも半蔵の家に時を送らなかった。祭典の模様を伝えるだけに止めて、景蔵と香蔵の二人も一緒に座を立ちかけた。半蔵の家族が一晩ぐらいゆっくり泊めたいと言って引き留めているうちに、三人の客は庭へおりて草鞋(わらじ)の紐(ひも)を結んだ。
「暮田さんは京都へお出かけになるんだよ。ゆっくりしていられないんだよ。」
と半蔵は妻に言って見せて、庭先にある草履(ぞうり)を突ッ掛けながら、急いで客と一緒になった。彼は表門から街道へ出ないで、裏口の方へと客を誘った。
「暮田さん、そこまでわたしが御案内します。こちらの方に静かな細い道があります。」
先に立って彼が案内して行ったは、吉左衛門が隠居所と土蔵の間を通りぬけ、掘り井戸について石段を降りたところだ。木小屋、米倉なぞの前から、裏の木戸をくぐると、本陣の竹藪(たけやぶ)に添うて街道と並行した村の裏道がそこに続いている。
「そう言えば、師岡正胤(もろおかまさたね)もどうしていますかさ。ひょっとすると、わたしより先に京都へ出ているかもしれません。あの師岡も、今度の大赦にあって、生命拾(いのちびろ)いをしたように思っていましょう。」
青い竹の根のあらわれた土を踏みながら、正香は歩き歩き旧友のことを言い出した。例の三条河原事件で、足利将軍らが木像の首を晒(さら)しものにした志士仲間にも、ようやく解放の日が来た。正香は上田藩の方に幽囚の身となっていた師岡正胤のうわさをして、今日あるよろこびを半蔵に言って見せた。
向こうには馬籠の万福寺の杜(もり)が見える。その畠(はたけ)の間まで行って、しばらく正香と半蔵とはあとから話し話し歩いて来る景蔵らを待った。そこいらには堅い地を割って出て来て、花をつけている春の草もある。それが二人の足もとにもある。正香はどんな京都の春が自分を待ち受けていてくれるかというふうで、その畠の間にある柿(かき)の木のそばへ一歩退きながら、半蔵の方を見て言った。
「さあ、時局もどうなりますか。尊王佐幕の大争いも、私闘に終わってはつまりません。一、二の藩が関ヶ原の旧怨(きゅうえん)を報いるようなものであってはなりませんね。どうしてもこれは、国をあげての建て直しでなくちゃなりませんね。」
「いずれ京都では鉄胤(かねたね)先生もお待ちかねでしょう。」
「まあ、今度はあの先生にしかられに行くようなものです。しかし、青山君、見ていてくれたまえよ。長い放浪で、わたしもいくらか修業ができましたよ。」
にわかに同門の人たちも動いて来た。正香の話にもあるように、師岡正胤をはじめ、八、九人の三条河原事件に連坐(れんざ)した平田門人らは今度の大赦に逢(あ)って、また京都にある師鉄胤の周囲に集まろうとしている。そういう正香自身も沢家に身を寄せることを志して上京の途中にあり、同じ先輩格で白河家(しらかわけ)の地方用人なる倉沢義髄(くらさわよしゆき)、それに原|信好(のぶよし)なぞは上京の機会をうかがっている。岩倉家の周旋老媼(しゅうせんばば)とまで言われて多くの志士学者などの間に重きをなしている松尾|多勢子(たせこ)のような活動的な婦人が帰郷後の月日をむなしく送っているはずもない。多勢子とは親戚(しんせき)の間柄にある景蔵ですら再度の上京を思い立って、近く中津川の家を出ようとしている。
その日、半蔵は正香や景蔵らを馬籠の宿はずれまで見送って、同じ道を自分の家へ引き返した。三人の客がわざわざ山吹村からさげて来てくれた祭典記念の神酒(みき)と菓子の折(おり)とがそのあとに残った。彼はそれを家の神棚(かみだな)に供えて置いて、そばへ来る妻に言った。
「お民、このお神酒(みき)は家じゅうでいただこうぜ。お菓子もみんなに分けようぜ。」
「きっと、お父(とっ)さんが喜びますよ。」
「おれもこれをいただいて、今夜はよく眠りたい。いろいろなことを考えるとおれは眠られなくなって来るよ。このおれの耳には、どれほどの騒がしい音が聞こえて来るかしれない。」
「あなたには眠られないということが、よくあるんですね。」
「ごらんな、景蔵さんもまた近いうちに京都へ出かけるそうだ。あの人もぐずぐずしちゃいられなくなったと見える。」
「あなた――あなたは家のものと一緒にいてくださいよ。お父さんのそばにいてくださいよ。あのお父さんも、いつどんなことがあるかしれませんよ。」
「そりゃお前に言われるまでもないサ。まあ、条山神社のお神酒(みき)でもいただいて、今夜はよく眠ることだ。こういう時世になって来ると、地方なぞはてんで顧みられない。おれのような縁の下の力持ち――そうだ、おれは自分のことを縁の下の力持ちだと思うが、どうだい。宿場の骨折りなぞはお前、説いても詮(せん)のないことだ。」
夫婦はこんな言葉をかわした。
旅するものによい季節を迎えて、やがてこの街道では例年のとおりな日光例幣使の一行を待ち受けた。四月の声を聞くころには、その先触れも到来するようになった。
二百十日の大嵐(おおあらし)にたとえて百姓らの恐怖する「例幣使さま」の通行ほど、当時の社会における一面の真相を語るものはない。それは脅迫と強請のほかの何物でもない。毎年のきまりで馬籠の宿方(しゅくがた)が一行に搾(しぼ)られる三、四十両の金があれば、たとい十両につき三俵替えの値段でも、九俵から十二俵の飯米を美濃(みの)地方より輸入することができる。
事実、この地方には、三月四月は食いじまいと百姓のよく言うころがやって来ていた。しかも、前年凶作のあとを受けてのその食いじまいだ。引き続いた世間一統の米高で、盗難はしきりに起こる、宿内での大きな造り酒屋、桝田屋(ますだや)と伏見屋との二軒の門口には、白米一升につき六百文で売り渡せとの文句を張り札にして、夜中にそれをはりつけて行くものさえあらわれる。上の伏見屋の金兵衛が古稀(こき)の祝いを名目に、村じゅうへの霑(うるお)いのためとして、四俵の飯米を奮発したぐらいでは、なかなか追いつかない。余儀なく、馬籠の町内をはじめ、荒町、峠村では、ごく難渋なものへ施し米(まい)でも始めねばなるまいと言って騒いでいるほどの時だ。
そこへ「例幣使さま」だ。行く先の道中で旅館に金をねだったり、人足までもゆすったりするようなその一行は、公卿(くげ)、大僧正(だいそうじょう)をはじめ約五百人からの大集団で、例の金の御幣(ごへい)を中心に文字通りの大嵐のような勢いで、四月六日には落合泊まりで馬籠の宿場へ繰り込んで来た。どうして京都と江戸の間を一往復して少なくとも一年間は寝食いができるというような乱暴な人たちの耳に、宿駅の難渋を訴える声がはいろうはずもない。服従に服従を重ねて来た地方の人民も、こんな恐ろしい「例幣使さま」の掠奪(りゃくだつ)に対してはこれ以上の忍耐はできなかった。
「逃げろ、逃げろ。」
その声は継立(つぎた)てをしいられる会所の宿役人仲間からも、問屋場の前に集まる人足、馬力の仲間からも起こった。ちょうど会所に詰めていた伊之助は驚きあわてて、半蔵のところへ飛んで来た。
「半蔵さん、会所のものはもうみんな逃げました。それあっちへ行った、それこっちへ行ったと言って、刀に手をかけた人たちが人足を追い回しています。あなたもわたしと一緒に逃げてください。」
これには半蔵も言葉が出なかった。彼は伊之助と手を引き合わないばかりにして、家の裏口からこっそり本陣林の方へ落ちのびた。
「いや笑止(しょうし)、笑止。」
それを言って金兵衛は上の伏見屋を飛び出す。吉左衛門は本陣の裏二階から出て見る。二人の隠居が言い合わせたように街道へ飛び出し、互いに驚いたような顔を合わせて、あちこちと見回したころは、例幣使の一行が妻籠(つまご)をさして通り過ぎたあとだった。
「はッ、はッ、はッ、は。」
吉左衛門は吉左衛門で、泣いているのか笑っているのかわからなかった。
その時になると、半蔵ももはや三十七歳である。ずっと年若な時分とちがい、彼もそれほど人を毛ぎらいしないで済んだから、木曾福島の役人衆でもだれでもつかまえて自分が世話する村方の事情を訴えることもできたし、なんのこれしきの凶年ぐらいに、という勇気も出た。木曾路には藤(ふじ)の花が咲き出すころに、彼は馬籠と福島の間を往復して、代官山村氏が名古屋表への出馬を促しにも行って来た。この領民の難渋と宿駅の疲弊とを尾州藩で黙ってみていたわけではもとよりない。同藩でもよく木曾地方のために尽くした。前年の冬には宿駅救助として宮(みや)の越(こし)、上松(あげまつ)、馬籠の三宿へ六百両ずつを二か年度の割に貸し渡し、その年の正月には木曾谷中へ五千両をお下げ金として分配した。のみならず、かねて馬籠の村民一同が嘆願した上納|御年貢(おねんぐ)の半減も容赦され、そのほかにこの際は特別の場合であるとして、三月には米にして六十石、この金高百九十両余がほどを三回に分け、一度分金十七両と米十俵ずつとを窮民の救助に当てることになった。
いかんせん、この尾州藩の救いは右から左へとすぐ受け取れるものでなかったし、村民は救いの手を目の前に見ながら飢えねばならなかった。半蔵が伊之助その他の宿役人を会所に集め、向こう十五日間を期して馬籠宿としての施し米を始めたのはこの際である。配当は馬籠の町内、荒町、峠村。白米、一人一合|宛(あて)。老人子供は五勺ずつ。
こんな日がやがて十日も続いた。村内には松の樹(き)の皮を米にまぜ、自然薯(じねんじょ)なぞを掘って来て飢えをしのぐものもできた。それを聞くと、半蔵は捨て置くべき場合でないとして、町内有志への相応な救施を勧誘したいと思い立ったが、それには率先して自分の家の倉を開こうと決意した。
本陣の勝手口の木戸をあけたところに築(つ)いてある土竈(どがま)からはさかんに枯れ松葉の煙のいぶるような朝が来た。餅搗(もちつ)きの時に使う古い大釜(おおがま)がそこにかかった。日ごろ出入りの百姓たちは集まって来て竈(かまど)の前で働くものがある。倉から勝手口へ米を運ぶものもある。おまんやお民までが手ぬぐいをかぶり襷(たすき)がけで、ごく難渋なもののために白粥(しらがゆ)をたいた。
半蔵は佐吉を呼んで言った。
「お前は一つ村方へ回ってもらおう。朝の粥(かゆ)をお振る舞い申すから、お望みのかたはどなたでも小手桶(こておけ)をさげて来るようにッて、そう言っておくれ。」
そのわきには清助も立っていて、
「半蔵さま、これは家内何人という札にして渡しましょう。白米一升に水八升の割にして、一人に三合ずつ振る舞いましょう。」
この話が村方へ知れ渡るころには、小手桶をさげた貧窮な黒鍬(くろくわ)なぞが互いに誘い合わせて、本陣の門の内へ集まって来るようになった。その朝は吉左衛門も心配顔に、裏二階から母屋(もや)の方へ杖(つえ)をついて来た。「どうして天明三年の大飢饉(だいききん)はこんなものじゃなかったと言うよ。おれの吾家(うち)の古い帳面には、あの年のことが残ってる。桝田屋(ますだや)でも、伏見屋でも、梅屋でも、焚(た)き出しをして、毎朝百人から百二十人ほどの人数に粥(かゆ)を振る舞ったそうだよ。」
吉左衛門の思い出話だ。
五月を迎えるころには、馬籠の村民もこんな苦しいところを切り抜けた。尾州藩からの救助金は配当され、大井米もはいって来るようになった。百姓らはいずれも刈り取った麦に力を得て、柴落(しばおと)し、早苗取(さなえと)りと続いたいそがしい農事に元気づいた。そこにもここにも田植えのしたくが始まる。大風に、強雨に、天災のしきりにやって来た前年とも違い、陽気は極々上々(ごくごくじょうじょう)と聞いて、七十一歳の最後の思い出に、美濃の浅井の医師のもとへ養生の旅を思い立つ上の伏見屋の金兵衛のような人もある。
暮田正香と前後して京都にはいった景蔵からの便(たよ)りも次第に半蔵のもとへ届くようになった。彼はその友人の京都便りを読んで、文久|元治(げんじ)の間に朝譴(ちょうけん)をこうむった有栖川宮親王(ありすがわのみやしんのう)以下四十余人の幽閉をとかれたことを知り、長いこと機会を待っていた岩倉|具視(ともみ)の入洛(じゅらく)までが許されたことを知った。先帝の左右に侍して朝廷の全権を掌握していた堂上の人たちは次第にその地位を退き、朝廷における中心の勢力も移り動きつつある。先帝|崩御(ほうぎょ)の影響がどこまで及んで行くかはほとんど測りがたい、と景蔵の便りには言ってある。新帝はまだようやく少年期を終わらせらるるほどのお年ごろにしか達せられない、一方にはいよいよ幕府反対の旗色を鮮(あざや)かにして岩倉公らに結ぶ薩摩(さつま)があり、一方には気味の悪い沈黙を守って新将軍の背後(うしろ)に控えている会津と桑名がある、その間には微妙な関係に立つ尾州があり土佐(とさ)があり越前(えちぜん)があり芸州がある、こんな中でやかましい兵庫開港と長州処分とが問題に上ろうとしている、とある。今や人心はほとんど向かうところを知らない、諸藩の内部は分裂と党争とを事としている、上御一人よりほかに万民を統一するものはなくなった、とある。おそらく闘争は神代よりあった、上御一人をして万(よろ)ずの族(やから)を統(す)べさせたもうことは神の大御心の測りがたいところではあるまいか、ともある。 

土蔵付き売屋。
これは、傾きかけた徳川幕府の大身代をどうかしてささえられるだけささえようとしているような、その大番頭の一人(ひとり)とも言うべき小栗上野(おぐりこうずけ)の口から出た言葉である。土蔵付き売屋とは何か。それは幕府が外国政府より購(あがな)い入れた軍艦や汽船の修繕に苦しみ、小栗上野とその知友|喜多村瑞見(きたむらずいけん)との協力の下に、元治元年あたりからその計画があって、いよいよ慶応元年のはじめより経営の端緒についた横須賀(よこすか)の方の新しい造船所をさす。どうして造船所が売屋であるのか。どうしてまた、それがいよいよ出来(しゅったい)の上は旗じるしとして熨斗(のし)を染め出しても、なお土蔵付きの栄誉を残すであろうと言われるのか。これは小栗上野が一時の諧謔(かいぎゃく)でもない。その内心には、もはや時事はいかんともすることができないと知りながらも、幕府の存在するかぎり、一日も任務を尽くさねばならないとする人の口から出た言葉である。実際、幕府内にはこういう人もいた。こういう諧謔の意味は知る人ぞ知ると言って、その志を憐(あわれ)む喜多村瑞見のような人もまた幕府内にいた。言って見れば、山上一族が住む相州|三浦(みうら)の公郷村(くごうむら)からほど遠からぬ横須賀の漁港に、そこに新しいドック修船所が幕府の手によって開き始められていたのだ。地中海にある仏国ツウロン港の例にならい、ややその規模を縮小し、製鉄所、ドック、造船場、倉庫等の従来東洋になかった計画がそこに起こり始めていたのだ。そして、江戸幕府が没落の運命をたどりつつあったことは、幕府内部のものですらそれを痛感していた間にも、来たるべき時代のためにせっせとしたくを怠るまいとするような、こんな近代的な設備がその一隅(いちぐう)には隠れていた。
十五代将軍|慶喜(よしのぶ)は、あだかもこの土蔵付き売屋の札をながめに徳川の末の代にあらわれて来たような人である。その人を好むと好まないとにかかわらず、当時この国の上下のものが将軍職として仰ぎ見ねばならなかったのも、一橋からはいって徳川家を相続した慶喜である。しかし、この新将軍が貴冑(きちゅう)の族(やから)ながらも多年内外の政局に当たり、見聞も広く、経験も積んでいて、決して尋常の貴公子でないことを忘れてはならない。
慶喜の新生涯は幾多の改革に着手することから始められた。これは文久改革以来の慶喜の素志にもより、一つは長州征伐の大失敗が幕府の覚醒(かくせい)を促したにもよる。そういう幕府は無謀な大軍を西へ進める当時に、尾州の御隠居や越前藩主なぞの諫争(かんそう)をきき入れないでおいて、今となって目をさましてもおそかった。しかしおそくも目をさましたのは、さまさないには勝(まさ)っている。この戦争によって幕府をはじめ諸藩の軍制および諸制度はにわかに改革を促された。従来、数十人ないし百人以上の家臣従僕が列をなして従った大名|旗下(はたもと)の供数も、万石以上ですら従者五人、布衣(ほい)以下は侍一人に草履取り一人とまで減少された。二百年間の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が驚くべき勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風(ふう)に移り、重い役人でも単騎独歩で苦しくないとされるようになったのは、皆この慶喜の時代に始まる。フランス伝習の陸軍所が建設せられ、御軍艦操練所は海軍所と改められ、英仏学伝習所が横浜に開かれたのも、その結果だ。小普請組支配の廃止、火付け盗賊改めの廃止、中奥御小姓(なかおくおこしょう)同御番の廃止、御持筒頭(おもちづつがしら)の廃止、御先手(おさきて)御留守番と西丸御裏御門番と頭火消役四組との廃止なぞも、またその結果だ。すべて古式古風な散官遊職は続々廃止されて、西洋陸軍の制度に旗本の士を改造する方針が立てられた。もはや旗本の士は殿様の威儀を捨てて単騎独歩する元亀(げんき)天正(てんしょう)の昔に帰った。とにもかくにもいわゆる旗下(はたもと)八万騎を挙(あ)げて洋式の陸軍隊を編成し、応募の新兵はフランス人の教官に託し、従来|羽織袴(はおりはかま)に刀を帯びて席上にすわっていたものに筒袖(つつそで)だん袋を着せ舶来の銃を携えさせて江戸城の内外を巡邏(じゅんら)せしめるようになったというだけでも、いかに新将軍親政の手始めが旧制の一大改革にあったかがわかる。
この方針は地方にまで及んで行った。旧(ふる)い伝馬制度の改革もしきりに企てられ、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、助郷(すけごう)の苦痛とする刎銭(はねせん)の割合も少なくなって、街道宿泊の方法までも簡易に改められた。手形なしには関所をも通れなかったほどの婦人が旅行の自由になったことは、この改革に忘れてならないことの一つだ。日ごろ深窓にのみこもり暮らした封建時代の婦人もその時すでに解放の第一歩を踏み出した。
もともと慶喜は自ら進んで将軍職を拝した人でもない。家茂(いえもち)薨去(こうきょ)の後は、尾州公か紀州公こそしかるべしと言って、前将軍の後継者たることを肯(がえん)じなかった人である。周囲の懇望によりよんどころなく徳川の家督を相続しても、それは血統の事であるとして、容易に将軍職を受けようとは言わなかったのもこの人だ。所詮(しょせん)、徳川家も滅亡か、との松平春嶽(まつだいらしゅんがく)らの異見を待つまでもなく、天下公論の向かうところによっては少しの未練なく将軍職をなげ出そうとは、就職当時からの慶喜が公武一和の本領ででもあったのだ。
この十五代ほど四方八方からの誤解の中に立った人もめずらしい。前将軍の早世も畢竟(ひっきょう)この人あるがためだとして、慶喜を目するに家茂の敵(かたき)であると思う輩(やから)は幕府内に少なくないばかりでなく、幕府反対の側にある京都の公卿(くげ)たちおよび薩長の人士もまたこの人の新将軍として政治の舞台に上って来たことを恐れた。慶喜が徳川家を相続するとは言っても、将軍職を受けることは固く辞したいと言い出した時に、それを聞いて油断のならない人物としたのは岩倉公だ。慶喜の人物を評して、「譎詐(けっさ)百端(ひゃくたん)の心術」の人であるとなし、賢い薩州侯の公論を至極(しごく)公平に受けいれることなぞおぼつかないと考え、ことに慶喜が懐刀(ふところがたな)とも言うべき水戸出身の原|市之進(いちのしん)とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の大久保一蔵(おおくぼいちぞう)だ。慶喜を家康の再来だとして、その武備を修める形跡のあるのは警戒しなければならないとしたのは長州の木戸準一郎(きどじゅんいちろう)だ。
しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館(こうどうかん)の碑に尊王の志をのこした烈公の血はこの人の内にも流れていた。朝廷と幕府とが相対立しすべての方針が二途に分かれるような現状を破って、天皇の大御代(おおみよ)を出現しないかぎり、海外諸国の圧迫に対抗してこの国の独立を維持しがたいとの民間志士の信念を受けいれたものも慶喜であった。自ら進んで諸侯の列に下り、この国を郡県の制度の下に置くか、あるいはドイツあたりの連邦の制度に改めるかの一大改革を行ないたいとの念が早くもその胸のうちにきざしはじめていたのもこの新将軍であった。その意味から言って、飽くまで公武一和を念とせられ、王政復古を急ぐ岩倉公らを戒められたという先帝の崩御(ほうぎょ)ほど、この慶喜にとっての深い打撃はなかった。およそ先帝を惜しみ奉らないものはない中で、ことにその悲しみを深くしたものは、言うことなすこと周囲に誤解された慶喜であろう。大政奉還の悲壮な意志は後日を待つまでもなく、おそらく将軍職を拝してから間もなかった霜夜の御野辺送(おんのべおく)りを済ました時に、すでにこの人の内に動いたであろう。
慶応三年といえば西暦千八百六十七年、実に十九世紀の後半期に当たる。フランスではナポレオン第三世の時代に当たり、イギリスではヴィクトリア女皇の時代に当たる。新知識を吸集するに鋭意な徳川新将軍の代となってから、仏国公使ロセスの建言を用い、新内閣の組織を改め、大いに人材登庸の道を開き、商工業に関する諸税を課することから鉱山を開き運輸を盛んにすることまで、種々(さまざま)な計画は皆「土蔵付き売屋」の意味を帯びていた。将軍家の弟なる松平|民部太夫(みんぶだゆう)、外国奉行喜多村|瑞見(ずいけん)などの人たちが前後して仏国に使いする日をすら迎えた。こんなに幕府側がフランスに結ぶことの深ければ深いほど、薩摩藩および長州藩ではイギリスに結んで、ヨーロッパにおける二大強国はいつのまにかこの国の背景としても相対抗するようになった。いよいよ兵庫開港の議も決せられ、長州藩主父子も許された。最も古くて、しかも最も新しい太陽を迎えようとする思いは、日一日と急な時勢の潮流と相まって、各人の胸に入り乱れた。
その年の九月には、王政復古を待ち切れないような諸勢力が相呼応して慶喜の目の前にあらわれかけて来た。その意は土佐を中心に頭を持ち上げて来た公儀政体組織の下に温和に王政復古の実をあげたいという説を手ぬるいとなし、長州芸州と連合して一切の解決を兵力に訴え、慶喜および会津桑名の勢力を京都より一掃して、岩倉公らと連絡を取りながら王室回復の実をあげようとするにある。往昔関ヶ原の合戦に屈してからこのかた、西の国のすみに忍耐し続けて来た松平修理太夫領内の健児らが、三世紀にわたる徳川氏の抑圧を脱しようとして、勇敢に動き始めたというは不思議でもない。おまけに相手は防長征討軍の苦(にが)い経験をなめ、いったん討死(うちじに)の覚悟までした討幕の急先鋒(きゅうせんぽう)だ。この尻(しり)押しには、英国公使パアクスのようなロセスの激しい競争者もある。薩摩は挙兵上京と決して海路から三田尻(みたじり)に着こうというのであり、長州でもそれを待って相共に兵を上国に送ろうとして、出発の準備にいそがしかった。いわゆる薩長芸三藩が攻守同盟の成立だ。この形勢をみて取った松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、一新更始の道を慶喜に建白した。過去の是非曲直を弁難するとも何の益がない、この際は大きく目を開いて万国に対しても恥じないような大根底を打ち建てねばならない、それには天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の国体を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。
かねての意志を実現すべき大政奉還の機会はこんなふうにして慶喜のところへやって来た。徳川の代もこれまでだと覚悟する将軍は、討幕の密議がそれほどまで熟しているとは知らなかったが、禍機はすでにその極度に達していることを悟り、敵としての自分の前に進んで来るものよりも、もっと大きなものの前に頭を下げようとした。十月の十二日は慶喜が政権奉還のことを告げるために、大小|目付(めつけ)以下の諸有司を二条城に召した日である。一同の驚きはなかった。今日となってはもはやこのほかに見込みがない、神祖(東照宮のこと)以来の鴻業(こうぎょう)を一朝に廃滅するは先霊に対しても恐れ入る次第であるが、畢竟(ひっきょう)天下を治め宸襟(しんきん)を安んじ奉るこそ神祖の盛業を継述するものである、と、慶喜に言われても、多数の有司は異議をいだいてなかなか容易に納まらない。この際、断然政権を朝廷に返上し、政令を一途にして、徳川家のあらんかぎり力の及ぶべきだけは天下の諸侯と共に朝廷を輔佐(ほさ)し奉り、日本全国の力をあわせて外国の侮りをふせぐことともならば、皇国今後の目的も定まるであろう。それまで慶喜に言われても、諸有司の間にはまだかれこれとのつぶやきが絶えない。その時の慶喜の言葉に、各(おのおの)においても本来自分が京都にあるのは何のためかと思って見るがいい。こう穏やかでない時勢であるから輦下(れんか)の騒擾(そうじょう)をしずめ叡慮(えいりょ)を安んじ奉らんがためであることはいずれも承知するところであろう。しかるに非徳の自分が京都にあるためその禍根を醸(かも)したとは思わずに、かえって干戈(かんか)を動かし、自分を敵視するものを討(う)つとあっては、ただただそれは宸衷(しんちゅう)を驚かし奉り万民を困苦せしむる罪を重ぬるのみであって、一つとして義理に当たるものはなく、忠貞の素志もそのためにむなしくなろう。この上は、ただ自身に反省して、己(おのれ)を責め、私を去り、従前の非政を改め、至忠至公の誠心をもって天下と共に朝廷を輔翼し奉るのほかはない。その事は神祖の神慮にも適(かな)うであろう。神祖は天下の安からんがために政権を執ったもので、天下の政権を私せられたのではない。自分もまた、天下の安からんがために徳川氏の政権を朝廷に還(かえ)し奉るものであるから、取捨は異なるとも、朝廷に報ゆるの意はすなわち一つである。あるいは、政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないか。幕府の威令は行なわれない。諸侯を召しても事を左右に託して来たらない。これは幕府に対してばかりでなく、朝命ですら同様の状態にある。この際、朝威を輔(たす)け、諸侯と共に王命を奉戴(ほうたい)して、外国の防侮に力を尽くさなかったら、この日本のことはいかんともすることができないかもしれないと。
慶喜の意は決した。十月十三日には政権返上のことを列藩に通じ、十四日にはその事を御奏聞に達した。そしてこの大政奉還と、引き続く将軍職の拝辞とによって、まことの公武一和の精神がいかなるものであるかを明らかにした。あだかも高く飛ぶことを知る鳥は、風を迎え翼を収めることを知っていて、自然と自分を持って行ってくれる風の力に身を任せようとするかのように。 

   ええじゃないか、ええじゃないか
   挽(ひ)いておくれよ一番挽きを
   二番挽きにはわしが挽く
   ええじゃないか、ええじゃないか
   ええじゃないか、ええじゃないか
   臼(うす)の軽さよ相手のよさよ
   相手かわるなあすの夜も
   ええじゃないか、ええじゃないか
馬籠(まごめ)の宿場では、毎日のように謡(うた)の囃子(はやし)に調子を合わせて、おもしろおかしく往来を踊り歩く村の人たちの声が起こった。
十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るとともに、種々(さまざま)な流言のしきりに伝わって来るころだ。その中で不思議なお札が諸方に降り始めたとの評判が立った。同時に、どこから起こったとも言えないような「ええじゃないか」の句に、いろいろな唄(うた)の文句や滑稽(こっけい)な言葉などをはさんで囃(はや)し立てることが流行(はや)って来た。
   ええじゃないか、ええじゃないか
   こよい摺(す)る臼(す)はもう知れたもの
   婆々(ばば)さ夜食の鍋(なべ)かけろ
   ええじゃないか、ええじゃないか
だれもがこんな謡(うた)の囃子(はやし)を小ばかにし、またよろこび迎えた。その調子は卑猥(ひわい)ですらあるけれども、陽気で滑稽なところに親しみを覚えさせる。何かしら行儀正しいものを打ち壊(こわ)すような野蛮に響く力がある。
この「ええじゃないか」が村の年寄りや女子供までを浮き浮きとさせた。そこへお札だ。荒町(あらまち)にある氏神(うじがみ)の境内へ下った諏訪(すわ)本社のお札を降り始めとして、問屋の裏小屋の屋根へも伊勢(いせ)太神宮のお札がお下(さが)りになったとか、桝田屋(ますだや)の坪庭へも同様であると言われると、それ祝えということになって、村の若い衆なぞの中には襦袢(じゅばん)一枚で踊り狂いながら祝いに行くという騒ぎだ。お札の降った家では幸福があるとして、餅(もち)をつくやら、四斗樽(しとだる)をあけるやら、それを一同に振る舞って非常な縁起(えんぎ)を祝った。
だれもがまた、こんな不思議を疑い、かつ信じた。実際、明るい青空からお札がちらちら降って来たのを目撃したと言うものがあり、何かこれは伊勢太神宮のお告げだと言うものがあり、豊年の瑞兆(ずいちょう)だと言って見るものもある。このにぎやかな「えいじゃないか」の騒動は木曾地方にのみ限らなかった。京大坂の方面から街道を下って来る旅人の話も戸(こ)ごとに神棚(かみだな)をこしらえ、拾ったお札を祭り、中には笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なく花やかな衣裳(いしょう)を着けながら市中を踊り回るという賑々(にぎにぎ)しさで持ち切った。
不思議なお札と、熱狂する「ええじゃないか」と。まるで町内は時ならぬ祭礼の光景を出現するようになった。こんな意外なものが、つい三、四月あたりまで食うや食わずの凶年に騒いでいた馬籠あたりの村民を待ち受けていようとは。それは一切の過去の哀傷を葬り去ろうとするような大きな騒動にまで各地に広がった。そして、多くの人の心を酔うばかりにさせた。
熱田(あつた)太神宮のお札は蓬莱屋(ほうらいや)の庭の椿(つばき)の枝へも降り、伏見屋の表格子(おもてごうし)の内へも降り、梅屋の裏座敷の庭先にある高塀(たかべい)の上へも降った。まだそのほかに、八幡宮のお札の降ったところが二か所もある。いずれも奇異の思いに打たれて、ありがたく頂戴(ちょうだい)したという。こうなると、人一倍精力のあるとともにまた迷信も深い上の伏見屋の隠居はじっとしていない。どんな金満家でもこんな祝いの時の酒や投げ餅を出し惜しむものは流行節(はやりぶし)に合わせて「貧乏せ、貧乏せ」と囃(はや)し立てられると聞いては、なおなお黙って引っ込んでいない。桝田屋で四斗の餅を投げたものなら、こちらは本家と隠宅とで八斗の餅を投げると言って、親類の女衆から出入りのものまで呼び集め、村じゅうのものへ拾わせるつもりで祝いの餅をついた。投げた。投げた。八斗の餅は空を飛んで、伏見屋の表に群がり集まる村民らの袂(たもと)へはいれば懐(ふところ)へもはいった。その時は、四斗樽の鏡をも抜いて、清酒のほかに甘酒まで用意し、辛(から)い方でも甘い方でも、御勝手(ごかって)飲み放題という振る舞いであった。
「ホウ、ただ飲み、ただ取りだ。」
と言うものさえある。
村のものは、氏神諏訪小社の改築も工事落成の近いのに事寄せて、にわかに狂言の催しまでも思い立った。気の早いものはそのけいこにすら取りかかった。この空気は――たといそれが一時的であるにしても――今まで主従の重い関係にあった将軍家没落の驚きを忘れさせ、代替(だいがわ)り家督相続から隠居養子|嫁娶(よめとり)の事まで届け出たような権威の高いものが眼前に崩(くず)れて行ったことを忘れさせ、葵(あおい)の紋のついた提灯(ちょうちん)さえあればいかなる山野を深夜独行するとも狐狼(ころう)盗難に出あうことはないとまで信ぜられていたほどの三百年来の主人を失ったことをも忘れさせた。
「ええじゃないか」の騒動はいつやむとも知れなかった。村の大根引きのころから、氏神遷宮の祭礼狂言が始まるころまで続いても、まだ謡(うた)の囃子(はやし)が絶えなかった。そこへ隣宿の妻籠(つまご)からはお札降りの祝いという触れ込みで、過ぐる四年前水戸浪士通行の際の姿にこしらえ、鎧(よろい)、兜(かぶと)、弓、鎗(やり)、すべて軍中のいでたちで、子供はいずれも引き馬に乗り、同勢およそ百余人の仮装行列が練り込んで来た。
本陣では皆門の外に出て見た。手習い子供のさかりの年ごろになる宗太はもとより、日ごろこもりがちに晩年を送っている吉左衛門までが出て見た。
「お粂(くめ)もおいで。早くおいで。」
とお民に呼ばれて、軽くて済んだ病気あげくのお粂もやせてかえって娘らしさを増したような姿を祖母や母のそばにあらわした。こうした全家族のものが門前に集まることは本陣ではめったになかった。多年村方の世話をして来た年老いた吉左衛門がともかくもまだ無事でいることは、それだけでも村の百姓らをよろこばせた。右も、左も、街道のわきは行列の見物でいっぱいだ。妻籠の大野屋の娘というが二人(ふたり)とも烏帽子(えぼし)陣羽織(じんばおり)のこしらえで、引き馬に乗りながら静かにその門前を通った。
「へえ、お土産(みやげ)。」
と言って、大野屋の娘に付き添いの男が祝いの供え餅(もち)一重(ひとかさ)ねをお粂や宗太への土産にくれた。
「ええじゃないか、ええじゃないか。」
宗太までが子供らしい声で、その口まねをして戯れる。
「宗太さま、それ、それ。」
大野屋の男は手を打ってよろこんだ。その時、行列のわきを走りぬけて、お粂の病気見舞いかたがた半蔵を見に来たのは妻籠の寿平次だ。寿平次はそこに家のものと一緒に門前に立つ半蔵を見つけて言った。
「半蔵さん、この騒ぎは何事です。」
「それは君、わたしの方から言うことでしょう。」
「きのう福島から見えた客がありましてね。あの辺は今、お札の降る最中だと言っていましたっけ。」
「降る最中はよかった。」
「世の中が大きく変わる時には、このくらいの瑞兆(ずいちょう)があってもいいなんて、そんなことをさももっともらしく言い触らすものもありますぜ。なんだかわたしは狐(きつね)にでもツマまれたような気がする。」
「しかし、寿平次さん、馬籠あたりの百姓はこの十年来祝うということを知りませんでしたよ。まあ、みんな祝いたければ祝え、そう言ってわたしは見ているところです。」
この表面(うわべ)のにぎやかさにかかわらず、強い嵐(あらし)を待ち受けるような気味の悪い静かさが次第に底の方で街道を支配し始めた。名古屋の方面から半蔵のところへ伝わって来る消息によると、なかなか「えいじゃないか」どころの話ではない。薩長の真意が慶喜を誅(ちゅう)し、同時に会津の松平|容保(かたもり)と桑名の松平|定敬(さだのり)とを誅戮(ちゅうりく)するにあることが早く名古屋城に知れ、尾州の御隠居はこの形勢を案じて会桑(かいそう)二藩の引退を勧告するために、十月の末にはすでに病を力(つと)めて名古屋から上京したとある。御隠居は実に会桑二侯の舎兄(しゃけい)に当たるからで。
万石以上の諸大名はいずれも勅命を奉じて続々京都に集合しつつあると聞くころだ。天下の公議によりこの国の前途を定めようとするものが京都を中心に渦巻(うずま)き始めた。その年の十一月も末になると、薩摩の島津家、長州の毛利家、芸州藩の総督、それに徳山藩の世子、吉川家の家老などが、いずれも三、四百人から二、三千人の手兵を率いて、あるものはすでに入京し、あるものは摂津(せっつ)の海岸や西の宮に到着して上国の報を待つという物々しさに満たされて来た。名古屋と京都との往来も頻繁(ひんぱん)になって、薩長土肥等の諸藩と事を京畿(けいき)に共にしようとする金鉄組の諸士らは進み、佐幕派として有力な御小納戸(おこなんど)、年寄、用人らは退きつつあった。成瀬正肥(なるせまさみつ)、田宮如雲(たみやじょうん)、荒川甚作(あらかわじんさく)らの尾州藩でも重立った勤王の士が御隠居を動かして百方この間に尽力していることは、手に取るように半蔵のところへも知れて来る。王政復古の実現ももはや時の問題となった。
こういう空気の中で、半蔵の耳には思いがけない新しい声が聞こえて来た。彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田(いいだ)方面の心あるものからも聞きつけた。
「王政の古(いにしえ)に復することは、建武中興(けんむちゅうこう)の昔に帰ることであってはならない。神武(じんむ)の創業にまで帰って行くことであらねばならない。」
その声こそ彼が聞こうとして待ちわびていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんなふうにして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居翁が書きのこしたものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒(きゅうせんぽう)をもって任ずる長州の志士たちですら意外とするところであろうと彼には思われた。
中津川の友人香蔵から半蔵が借り受けた写本の中にも、このことが説いてある。それを見ると世には名も知らない隠れた人があって、みんなが言おうとしてまだ言い得ないでいることをよく言いあらわして見せてくれるような篤志家のあることがわかる。その写本の中には、こういうことが説いてある。建武の中興は上(かみ)の思(おぼ)し召しから出たことで、下々(しもじも)にある万民の心から起こったことではない。だから上の思し召しがすこし動けばたちまち武家の世となってしまった。ところが今度多くのものが期待する復古は建武中興の時代とは違って、草叢(くさむら)の中から起こって来た。そう説いてある。草叢の中が発起なのだ。それが浪士から藩士、藩士から大夫、大夫から君侯というふうに、だんだん盛大になって、自然とこんな復古の機運をよび起こしたのであるから、万一にも上の思し召しが変わることがあっても、万民の心が変わりさえしなければ、また武家の世の中に帰って行くようなことはない。そう説いてある。世には王政復古を名目にしてその実は諸侯が天下の政権を奪おうとするのであろうと言うものもあるが、これこそとんでもない見込み違いだ。というのは、根が草叢の中から起こったことだから、たとい諸侯がなんと思おうと、決してそんな自由になるものではない。いったい、草叢の下賤なところから事が起こったは、どういうわけかと考えて見るがいい。つまり大義名分ということは下から見上げる方がはっきりする。だから桜田事件も起これば、大和(やまと)五条の事件も起これば、筑波山(つくばさん)の事件も起こる。それから長防二州ともなれば、今度は薩長両藩ともなる。いくら幕府が厳重な処置をしても、最初に水戸の数十人を殺せば桜田前後には数百人になり、筑波の数百人を殺せば数千人になり、しまいには長防西国の数万人になって、徳川の威力では制し切れない。西の方の国の力で復古ができなければ、東からも南からも北からも起こって来る。そこだ、たとい第二の幕府があらわれて、威勢を張ったにしても、また数年のうちには復古することは疑いない。そうも説いてある。
半蔵はこれを読んで復古の機運が熟したのは決して偶然でないことを思った。彼の耳に聞きつける新しい声は、実にこの写本の筆者のいわゆる「草叢(くさむら)の中」から来たことをも思った。
もはや恵那山(えなさん)へは幾たびとなく雪が来た。半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる連峰の傾斜までが白く光るようになった。一か月以上も続いた「ええじゃないか」のにぎやかな声も沈まって行って見ると、この国|未曾有(みぞう)の一大変革を思わせるような六百年来の武家政治もようやくその終局を告げる時に近い。街道には旅人の往来もすくない、山家はすでに冬ごもりだ。夜となればことにひっそりとして、火の番の拍子木(ひょうしぎ)の音のみが宿場の空にひびけて聞こえた。
ある朝、半蔵は村の万福寺の方から伝わって来る鐘の音で目をさました。店座敷の枕(まくら)の上できくと、その音は毎朝早い勤めを怠らない松雲和尚(しょううんおしょう)の方へ半蔵の心を連れて行く。それは万福寺の新住職として諸国遍歴の修行からこの村に帰り着いたその日から、当時の習慣としてまず本陣としての半蔵の家の玄関に旅の草鞋(わらじ)を脱いだその日から、そして本陣の一室で法衣|装束(しょうぞく)に着かえて久しぶりの寺の山門をくぐったその日から、十三年も達磨(だるま)の画像の前にすわりつづけて来たような人の自ら鐘楼に登って撞(つ)き鳴らす大鐘だ。
まだ朝の眠りをむさぼっている妻のそばで、半蔵はその音に耳を澄ました。谷から谷を伝い、畠(はたけ)から畠をはうそのひびきは、和尚が僧|智現(ちげん)の名も松雲と改めて万福寺の住職となった安政元年の昔も、今も、同じ静かさと、同じ沈着(おちつき)とで、清く澄んだ響きを伝えて来ている。
一音。また一音。半蔵の耳はその音の意味を追った。あのにぎやかな「ええじゃないか」の卑俗と滑稽(こっけい)とに比べたら、まったくこれは行ないすました閑寂(かんじゃく)の別天地から来る、遠い世界の音だ。それにしても、この驚くべき社会の変革の日にあたって、日々の雲でも変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにしか、心を動かされない人の修行から、その鐘は響き出して来ている。その異教の沈着(おちつき)はいっそ半蔵を驚かした。多くの憂国の士が生命(いのち)をかけても幕政に抵抗したり国事に奔走したりするというこの難(かた)い時代に、こういう和尚のような人も生きていたかということは、なおなお彼を驚かした。
「お民。」
半蔵は妻を揺り起こした。彼は自分でもはね起きて、中津川にある友人香蔵のもとまで京都の様子を探りに行こうと思い立った。
「こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり様子がわからん。王政復古の日はもう来ているんじゃないか。」
その考えから、彼はお民に言い付けて下女を起こさせ、囲炉裏(いろり)の火をたかせ、中津川の方へ出かける前の朝飯のしたくをさせた。
慶応三年十二月のことで、街道は雪で白くおおわれていた。朝飯を済ますと間もなく半蔵は庄屋(しょうや)らしい袴(はかま)に草鞋(わらじ)ばきで、荒町にある村社までさくさく音のする雪の道を踏んで行った。氏神への参拝を済まして鳥居(とりい)の外へ出るころ、冬にしては温暖(あたたか)な日の光も街道にあたって来た。彼はその道を国境(くにざかい)へと取って、さらに宿はずれの新茶屋まで歩いた。例の路傍(みちばた)にある芭蕉(ばしょう)の句塚(くづか)も雪にぬれている。見知り越しな亭主(ていしゅ)のいる休み茶屋もある。しばらく彼はそこに足を休めていると、ちょうど国境の一里塚の方から馬籠(まごめ)をさして十曲峠(じっきょくとうげ)を上って来る中津川の香蔵にあった。香蔵は落合(おちあい)の勝重(かつしげ)をも連れてやって来た。
「お師匠さま。」
その勝重の昔に変わらぬ人なつこい声をも半蔵は久しぶりで聞いた。
「半蔵さん、君は中津川まで行かずに済むし、わたしたちも馬籠まで行かずに済む。この茶屋で話そうじゃありませんか。」
香蔵の提議だ。
その時、半蔵は初めて王政復古の成り立ったことを知り、岩倉公を中心にする小御所の会議には薩州土州芸州越前四藩のほかに尾張も参加したことを知った。その時になると、長州藩主父子は官位を復して入洛(じゅらく)を許さるることとなり、太宰府(だざいふ)にある三条|実美(さねとみ)らの五卿もまた入洛復位を許されて、その時までの舞台は全く一変した。慶喜と会津と桑名とは除外せられ、会桑二藩が宮門警衛をも罷(や)められた。摂政、関白の大官も廃され、幕府はその時に全く終わりを告げた。この消息は京都にある景蔵からの書面に伝えてある。半蔵との連名にあてて書いてよこしたと言って、香蔵の持参したものにこの消息が伝えてある。
香蔵は言った。
「この前、京都から来た手紙には、こんなことが書いてありました。慶喜公が大政奉還の上表を出したとほとんど同じ日に、薩長二藩へ討幕の密勅が下ったということを確かな筋から聞き込んだが、君らはあれをどう思うか、その密勅がまた間もなくお取りやめとなったというが、あれをもどう思うかとありました。わたしも変だと思って、だれにも見せずにしまって置くうちに、この復古の報知(しらせ)が来ました。」
「見たまえ。」と半蔵はそれを受けて言った。「この手紙には、当日尾州でも禁門を守衛したとありますね。檐下詰(のきしたづ)めには小瀬新太郎を首(かしら)にする近侍の士、堂上裏門の警備には供方(ともかた)をそれに当てたとありますね。」
「まあ、早い話が、先年の八月十八日の政変を逆に行ったんでしょうね。あの時はわたしは京都にいて、あの政変にあいましたから、今度のこともほぼ想像がつきます。いずれここまで出て来るには、何か動いたに相違ありません。何か、最後の力が動いたに相違ありません。」
香蔵と半蔵とは顔を見合わせて、それから京都にある師|鉄胤(かねたね)なぞのうわさに移った。勝重は松薪(まつまき)を加えたり、ボヤを折りくべたりして、炉の火をさかんにする。茶屋の亭主は客のために何かあたたかいものをと言って、串魚(くしうお)なぞを煮るしたくを始めていた。
「とにかく、半蔵さん、」と香蔵は語気を改めて言い出した。「建武中興でなしに、神武創業にまでこの復古を持って行かれたことは、意外でしたね。そりゃ機運は動いていましたさ。しかし、ここまで出て来るには十年は待たなけりゃなるまいかと思っていましたよ。」
「結局、今の時世が求めるものは何か、ということなんですね。」
「まあ、だれがこんな意見を岩倉公あたりの耳にささやいたかなんて、そんな詮索(せんさく)はしないがいい。ほら、半蔵さんに貸してあげた写本さ。あれを書いた人の言い草じゃないが、草叢(くさむら)の中が発起です――それでたくさんです。」
「そう言えば、香蔵さん、あの鉄胤(かねたね)先生もほんとうに黙っていらっしゃる、そうわたしは思い思いしました。今になって見ると、やっぱりあの先生は働いていたんですね。暮田正香なぞも、まあ見ていてくれたまえなんて、そんなことを言って京都へ立って行きましたっけ。こういう日が来るまでには、どのくらいの人が陰で働いたか知れますまい。」
「そりゃ、二人や三人の力でこの復古ができたと思うものがあったら、それこそとんでもない見当違いでしょう。」
「して見るとあの本居先生なぞが『古事記伝』を書いた本志は、こうまで道をあけるためであったかと思いますね。」
やがて、亭主が炉にかけた鍋(なべ)からは、うまそうに煮える串魚のにおいもして来た。半蔵らが温(あたた)めてもらった酒もそこへ来た。時刻にはまだすこし早いころから、新茶屋の炉ばたではなめ味噌(みそ)ぐらいを酒のさかなに、盃(さかずき)のやり取りが始まった。
「旦那(だんな)、」と亭主はそこへ顔を出して、「この辺をよく通る旅の商人(あきうど)が塩烏賊(しおいか)をかついで来て、吾家(うち)へもすこし置いて行った。あれはどうだなし。」
「や、そいつはありがたいぞ。」と半蔵は好物の名を聞きつけたように。
「塩烏賊のおろしあえと来ては、こたえられない。酒の肴(さかな)に何よりだ。」と香蔵も調子を合わせる。
「今に豆腐の汁(つゆ)もできます。ゆっくり召し上がってください。」とまた亭主が言う。
「勝重さん、一|盃(ぱい)行こう。」香蔵がそれを言い出した。
「わたしは元服を済ますまで盃を手にするなって、吾家(うち)の阿爺(おやじ)に堅く禁じられていますよ。」と勝重はすこし顔を紅(あか)らめる。
「まあ、そう言わなくてもいい。きょうは特別だ。時に、勝重さん、どうです。君なぞは幕府が倒れると思っていましたかい。」
「まさか幕府が倒れようとは思いませんでした。徳川の世も末になったとは思いましたがね。」
「そうだろうね。だれだってあの慶喜公が将軍職を投げ出そうとは夢にも思わなかったからね。勝重さんは雪に折れる竹の音を聞いたことがあろう。あの音だよ。慶喜公が投げ出したと聞いた時、わたしはあの竹の折れる音の鋭さを思い出したよ。考えて見ると、ひどい血も流さずによくこの復古が迎えられた。なんと言っても、慶喜公は慶喜公だけのことはあるね。」
香蔵と勝重とはこんなふうに語り合った。その時、半蔵は二人(ふたり)の話を引き取って、
「しかし、香蔵さん、今の君の話さ。ひどい血を流さずに復古を迎えられたという話さ。そこがわれわれの国柄をあらわしていやしませんか。なかなか外国じゃ、こうは行くまいと思う。」
「それもあるナ。」と香蔵が言う。
「まあ、わたしは一晩寝て、目がさめて見たら、もうこんな王政復古が来ていましたよ。」
勝重はそんなふうに、香蔵にも半蔵にも言って見せた。
「ようやく。ようやく。」
半蔵もそれを言って、串魚(くしうお)に豆腐の汁(つゆ)、塩烏賊(しおいか)のおろしあえ、それに亭主の自慢な蕪(かぶ)と大根の切り漬けぐらいで、友人と共に山家の酒をくみかわした。
冬の日は茶屋の内にも外にも満ちて来た。食後に半蔵らは茶屋の前にある翁塚(おきなづか)のあたりを歩き回った。踏みしめる草鞋(わらじ)の先は雪|溶(ど)けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しいよろこびがわいた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武(じんむ)の創造へ――遠い古代の出発点へ――その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの目の前には、なんとなく雄大な気象が浮かんだ。
日ごろ忘れがたい先師の言葉として、篤胤(あつたね)の遺著『静(しず)の岩屋(いわや)』の中に見つけて置いたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
「一切は神の心であらうでござる。」 
 
「夜明け前」第二部

 

第一章 

円山応挙(まるやまおうきょ)が長崎の港を描いたころの南蛮船、もしくはオランダ船なるものは、風の力によって遠洋を渡って来る三本マストの帆船であったらしい。それは港の出入りに曳(ひ)き船を使うような旧式な貿易船であった。それでも一度それらの南蛮船が長崎の沖合いに姿を現わした場合には、急を報ずる合図の烽火(のろし)が岬(みさき)の空に立ち登り、海岸にある番所番所はにわかにどよめき立ち、あるいは奉行所(ぶぎょうしょ)へ、あるいは代官所へと、各方面に向かう急使の役人は矢のように飛ぶほどの大騒ぎをしたものであったという。
試みに、十八片からの帆の数を持つ貿易船を想像して見るがいい。その船の長さ二十七、八|間(けん)、その幅八、九間、その探さ六、七間、それに海賊その他に備えるための鉄砲二十|挺(ちょう)ほどと想像して見るがいい。これが弘化(こうか)年度あたりに渡来した南蛮船だ。応挙は、紅白の旗を翻した出島(でじま)の蘭館(らんかん)を前景に、港の空にあらわれた入道雲を遠景にして、それらのオランダ船を描いている。それには、ちょうど入港する異国船が舳先(へさき)に二本の綱をつけ、十|艘(そう)ばかりの和船にそれをひかせているばかりでなく、本船、曳(ひ)き船、共にいっぱいに帆を張った光景が、画家の筆によってとらえられている。嘉永(かえい)年代以後に渡来した黒船は、もはやこんな旧式なものではなかった。当時のそれには汽船としてもいわゆる外輪型なるものがあり、航海中は風をたよりに運転せねばならないものが多く、新旧の時代はまだそれほど入れまじっていたが、でも港の出入りに曳き船を用うるような黒船はもはやその跡を絶った。
極東への道をあけるために進んで来たこの黒船の力は、すでに長崎、横浜、函館(はこだて)の三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫(ひょうご)の港と、全国商業の中心地とも言うべき大坂の都市をも開かせることになった。実に兵庫の開港はアメリカ使節ペリイがこの国に渡来した当時からの懸案であり、徳川幕府が将軍の辞職を賭(か)けてまで朝廷と争って来た問題である。こんな黒船が海の外から乗せて来たのは、いったいどんな人たちか。ここですこしそれらの人たちのことを振り返って見る必要がある。 

紅毛(こうもう)とも言われ、毛唐人(けとうじん)とも言われた彼らは、この日本の島国に対してそう無知なものばかりではなかった。ケンペルの旅行記をあけて見たほどのものは、すでに十七世紀の末の昔にこの国に渡って来て、医学と自然科学との知識をもっていて、当時における日本の自然と社会とを観察したオランダ人のあることを知る。この蘭医(らんい)は二か年ほど日本に滞在し、オランダ使節フウテンハイムの一行に随(したが)って長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉(こくら)、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られていなかった内地の事情をあとから来るもののために書き残した。このオランダ人が兵庫の港というものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津(せっつ)の国にあって、明石(あかし)から五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨(すま)の山から東方に当たって海上に突き出している、これは自然のものではなくて平家(へいけ)一門の首領が良港を作ろうとして造ったものだと言ってある。おそらくこの工事に費やされたる労力および費用は莫大(ばくだい)なものであろう、工事中海波のため二回までも破壊され、日本の一勇士が身を海中に投じて海神の怒りをしずめたために、かろうじてこれを竣工(しゅんこう)することができたとの伝説も残っていると言ってある。この兵庫は下(しも)の関(せき)から大坂に至る間の最後の良港であって、使節フウテンハイムの一行が到着した時は三百|艘(そう)以上の船が碇泊(ていはく)しているのを見た、兵庫市には城はない、その大きさは長崎ぐらいはあろう、海浜の人家は茅屋(あばらや)のみであるが、奥の方に当たってやや大きなのがあるとも言ってある。
こんな先着の案内者がある。しかし、それらの初期の渡来者がいかに身を屈して、この国の政治、宗教、風俗、人情、物産なぞを知るに努めたかは、ケンペルのようなオランダ人のありのままな旅行記が何よりの証拠だ。彼の目に映った日本人は義烈で勇猛な性質がある。多くの人に知られないような神仏のごときをもなおかつ軽(かろ)んずることをしない。しかも一度それを信奉した上は、頑(がん)としてその誓いを変えないほどの高慢さだ。もしそれこの高慢と闘争を好むの性癖を除いたら、すなわち温和|怜悧(れいり)で、好奇心に富んでいることもその比を見ない。日本人は衷心においては外国との通商交易を望み、中にもヨーロッパの学術工芸を習得したいと欲しているが、ただ自分らを商賈(しょうこ)に過ぎないとし、最下等の人民として軽んじているのである。おそらくこれは嫉妬(しっと)と不信とに基づくことであろうから、この際|友誼(ゆうぎ)を結んで百事を聞き知ろうとするには、まずその心を収攬(しゅうらん)するがいい。貨幣の類(たぐい)などは惜しまず握らせ、この国のものを欺(だま)し、この国のものを尊重し、それと親通するのが第一である。ケンペルはそう考えて、自分に接近する人たちに薬剤の事や星学なぞを教授し、かつ洋酒を与え、ようやくのことで日本人の心を籠絡(ろうらく)して、それからはすこぶる自由に自分の望むところを尋ね、かつて世界の秘密とされたこの島国に隠された事をも遺憾なく知ることができたと言ってある。
遠く極東へとこころざして来た初期のオランダ人の旅について、ケンペルはまた種々(さまざま)な話を書き残した。使節フウテンハイムの一行が最初に江戸へ到着した時のことだ。彼らは時の五代将軍|綱吉(つなよし)が住むという大城に導かれた。百人番というところがあって、そこが将軍居城の護衛兵の大屯所(だいとんしょ)になっていた。一行は命令によってその番所で待った。城内の大官会議が終わり次第、一行の将軍|謁見(えっけん)が行なわれるはずであった。二人(ふたり)の侍が彼ら異国の珍客に煙草(たばこ)や茶をすすめて慇懃(いんぎん)に接待し、やがて他の諸役人も来て一行に挨拶(あいさつ)した。そこに待つこと三十分ばかり。その間に、老中(ろうじゅう)初め諸大官が、あるいは徒歩、あるいは乗り物の輿(こし)で、次第に城内へと集まって来た。彼らはそこから二つの門と一つの方形な広場を通って奥へと導かれる。第一の門からそこまでは数個の階段がある。門と大玄関との間ははなはだ狭くてほんのわずかの間隔に過ぎなかったが、護衛の侍を初め多くの諸役人が群れ集まって来ていた。それから一行は進んで二つの階段をのぼり、まずはいったのは広い一間で、それから右側の一室にはいった。そこは将軍に向かっても、また老中に向かってもすべて対面を求めるものの許可を得るまで待ち合わす所である。そこはなかなか大きな室(へや)であるが、周囲の襖(ふすま)をしめきるとすこぶる薄暗い。わずかに隣室の上部の欄間(らんま)から光線がもれ入るに過ぎない。しかし国風(くにぶり)によって施された装飾の美は目もさめるばかりで、壁と言わず、襖と言わず、構造は実に念の入ったものであったという。待つこと一時間以上、その間に将軍は謁見室に出御(しゅつぎょ)がある。一行のうちの使節のみが導かれて御前に出る時、一同大声で、
「オランダ、カピタン。」
と呼んだ。これは将軍に近づいて使節に礼をさせるための合図である。将軍が国内の他の最も強大な諸侯に対する場合でも、その態度はすこぶる尊大である。すべて諸侯の謁見に際しても、その名が一度呼び上げられると、諸侯は無言ですわったまま手と膝(ひざ)とで将軍の前ににじりより、前額を床にすりつけて拝礼した上で、また同一の態度で後ろへ這(は)いさがるのである。そこでオランダの使節も同じように、将軍へ献上する進物を前に置き、将軍に対して坐(ざ)し、額(ひたい)を床につけ、一言を発することもなく、あたかも蟹(かに)のようにそのまま後ろへ引きさがった。
オランダ人がこの強大な君主に対する謁見はこんな卑下したものであった。これほど身を屈して、礼儀を失うまいとしたのは言うまでもなく、この国との通商を求めるためであったからで。随行のケンペルも許されて室を参観することができた時に、彼はすばやく床に敷かれている畳の数を百と数え、その畳がすべて皆同一の大きさであることをみて取り、襖(ふすま)、窓なぞも細かにそれを視察した。室の一面は小さな庭で、それと反対な側は他の二室に連なり、二室共に同一の庭に向かって開くようになっているが、その二室の小さな方に将軍の御座がある。彼はその目で、将軍の風貌(ふうぼう)をも熟視しようとしたが、それははなはだ難(かた)いことであった。というのは、光線が充分に将軍の御座の所まで達しないのと、謁見の時間が短くて、かつ謁見者があまりに礼を低くするため、頭を上げて将軍を見る機会がないからであった。のみならず老中はじめ諸大官が威儀正しくそこに居並ぶから、客も周囲の厳(おごそ)かさに自然と気をのまれるからで。
しかし、当時のオランダ使節が一行の自卑はこの程度にのみとどまらなかった。ずっと以前には使節が将軍のために行なうことは謁見だけで終わりを告げたものであるが、いつのまにか妙な習慣ができて、使節謁見ずみの後、一行はそのまま退出することを許されない。さらに導かれて、大奥の貴婦人たちに異人のさまを見参(げんざん)に入れるという習わしになっていた。そこでケンペルも蘭医として、他の二人(ふたり)の随行員と共に呼び出され、使節のあとについて、さらに御殿の奥深く導かれて行った。そこには数室からなる大広間がある。ある室は十五畳を敷き、ある室は十八量敷きである。その畳にもまたそこへすわる人によって高下の格のさだまりがある。中央の部分には畳がなく、漆をはいた廊下になっていて、そこにオランダ人らがすわれと命ぜられた。将軍と貴婦人たちとは彼らの右手にある簾(す)の後ろにいた。一通りの挨拶(あいさつ)が終わった後、荘厳な御殿はたちまち滑稽(こっけい)の場所と変わった。一行は無数のばからしくくだらない質問の矢面(やおもて)に立たせられた。たとえばヨーロッパにおける最新の長命術は何かの類(たぐい)だ。その時将軍は彼らオランダ人からはるかに隔たって貴婦人らの間にいたが、次第に彼らに近づいて来、できるだけ彼らに接近して、簾(す)の後方に坐(ざ)しながら、侍臣のものに命じて彼らの礼服なるカッパを取り去らせ、起立して全身を見うるようにさせろとあったから、彼らは言われるままにした。さらに歩め、止まれ、お辞儀をして見よ、舞踏せよ、酔漢(えいどれ)の態(さま)をせよ、日本語で話せ、オランダ語で話せ、それから歌えなどの命令だ。彼らはそれに従ったが、舞踏の時にケンペルは舞いにつれて高地ドイツ語で恋歌を歌った。
実際、オランダ使節の随行員はこれほどの道化役(どうけやく)をつとめたものであった。しかし彼ケンペルはそこに舞踏を演じつつある間にも、江戸城大奥の内部を細かに視察することを忘れなかった。彼は簾の隙間(すきま)を通して二度も将軍の御台所(みだいどころ)を見ることができた。彼女は美しい黒い目をもち、顔の色が鳶色(とびいろ)に見える美人で、その髪の形はひどく大きかったという。彼女はさだめし背の高い人で、年の頃三十五、六であろうと思われたという。簾は葦(よし)で織られた掛け物で、その背面には美しい透明の絹布を掛けたものである。その一方は装飾のため、一方にはまた後方の人物をかくすために、簾には彩色でいろいろなものが描いてある。将軍自らは薄暗いところにその位置を占めたから、思わずもらす低い声がなかったら、ケンペルなぞはそこに人があるとは知らなかったろうという。ちょうど彼らの前面に当たって他の簾の後ろには位の高い人たちや諸貴女が集まっていた。葦(よし)の簾の間にはところどころに紙の片(きれ)を結びつけて隙間を大きくしたのがケンペルの目についた。彼はひそかにその紙の片を勘定して見たところ、三十ばかりあったから、簾の後ろには同数の人物がいたろうとも想像したという。
オランダ人らの演戯は約二時間も続いた。彼らは将軍はじめ満廷の慰みのために種々(さまざま)な芸を演じたが、さすがに使節ばかりはその仲間には加わらなかった。フウテンハイムは犯しがたい威風をそなえた重々しい容貌(ようぼう)の人だった。日本人の目にもこの一国の代表者にまでそんな滑稽(こっけい)なまねを演じさせるのは非礼であると見えたものであろう、とケンペルは書き残している。
その翌年、西暦千六百九十二年(元禄(げんろく)五年)に、今一度オランダ使節は江戸へ参府することになった。そこでケンペルもまたその一行に加わって内地を旅する再度の機会をとらえた。一行は三月はじめに長崎の出島を出発し、船で兵庫に着いて、大坂奉行をも京都所司代をも訪(たず)ねた。この再度の内地の旅は日本の自然や社会を観察する上に一層の便宜をケンペルに与えたのである。大坂奉行の屋敷では、ケンペルはその奉行から十年来の宿痾(しゅくあ)に悩まされていまだに全快しないでいる家人のあることを告げられ、どうしたらそれを治療することができようかと尋ねられた。ともかくも彼は診断することを望んだところ、奉行がそれをさえぎって、病は身体の中の秘密な場所に属するからと言って、くわしくその症状を告げ、それによってよろしく判断し、施薬せられたいとのことであった。そこで彼は求められるとおりにしてやったこともある。その大坂奉行は彼らが異国の風俗をめずらしがり、帽子を手に取って打ちかえしながめるやら、上衣を脱がせて見るやらして、横文字を書け、絵を描(か)け、歌を歌えと所望した上に、なお進んでは舞踏することやヨーロッパ風な風俗習慣のいろいろを実演することまで求めたが、一行のものは、それを拒んだ。彼らが京都所司代を訪ねた時はまた、一つの晴雨計を取り出して来る日本人があって、その性質、使用法なぞを尋ねられたこともある。その晴雨計は、彼らがそこに到着したころから数えると、実に約三十年も前に、オランダ人の贈ったものであった。
四月下旬のはじめには、一行は遠く旅して行った江戸表にもう一度彼ら自身を見いだした。おり悪(あ)しく雨の多いころで、外出も困難ではあったが、彼らは行装を整えて町を出、江戸城の関門を通り過ぎて第三の城郭に入り、そこで将軍|謁見(えっけん)の時の来るのを待ち合わせた。その間、彼らは雨に湿った靴(くつ)や靴|足袋(たび)を捨てて新しいものに換え、それから謁見室へと導かれた。やせて背は高く、面長(おもなが)で、容貌(ようぼう)の凛々(りり)しいことはドイツ人に似、起居振舞(たちいふるまい)はゆっくりではあるが、またきわめて文雅な感じのある年老いた人がそこに彼らを待ち受けていたという。その人が当時肩を比べるもののない威権の高い老中だった。彼らオランダ人にはすでに前年のなじみのある正直謹厳な牧野備後(まきのびんご)だ。
オランダ人からの進物を将軍に取り次ぐことも、あるいは将軍の言葉を彼らに取り次ぐことも、それらはみなこの牧野老中がした。例の謁見の儀式が済んだ後、一行はしばらく休息の時を与えられ、長崎奉行の厚意により今一度よく室を参観することをも許された。異人どもにながめを自由にさせよとの心づかいからか、庭園に向かった障子(しょうじ)もあけ放してある。彼らは膝(ひざ)を折り曲げてすわることの窮屈さから免れるため、そこの廊下をあちこち歩いていると、近づいて来て彼らに挨拶(あいさつ)し、異国のことをいろいろと質問する幾人かの貴人もあった。
やがてまた大奥の広間へと呼び出される時が来た。深い簾(す)のかげには殿中の人たちが集まって来ていた。将軍と二人(ふたり)の貴婦人も一行のものの右手にあたる簾の後ろにいた。その時、彼らの正面に来てすわったのも牧野備後だった。一同の拝礼が型のように終わった後、備後は将軍の名で彼らに挨拶し、さていろいろなことを演ずるようにとの注文を出した。年老いた大通詞(だいつうじ)をしてその意味を彼らに告げさせた。まっすぐにすわって見よ。上衣を脱いで見よ。姓名、年齢を語れ。立て。歩め。ころげ回れ。踊れ。歌え。互いにお辞儀をして見せよ。怒(おこ)って見せよ。食事に客を招くまねをせよ。互いに言葉のやりとりをせよ。父と子の親しい態(さま)をせよ。二人の親友または夫婦が相礼し、または別るる態をせよ。小児と遊び戯れよ。小児を腕の上にのせ、またはそれに似寄ったことをして見せよの類(たぐい)だ。のみならず、彼らは例によって滑稽(こっけい)な、しかもまじめな質問の矢面に立たせられた。たとえば、彼らの住居(すまい)はどんな家であるか。彼らの習慣はどう日本人のと異なるか。彼らの死者を葬る場所はどこで、その時はいつであるか。彼らもホルトガル人同様の祈りをし、偶像をも持っているか。オランダその他の異国にも日本のように地震があり、雷があり、火事があるか。または落雷のために触れて死ぬものがあるかの類(たぐい)である。
いつのまにかケンペルは道化役者としての彼自身をこの荘厳な殿中に見つけた。彼は同行のオランダ人と共に、帽子をかぶること、話しながら室内を歩くこと、また彼らが十七世紀風の鬘(かつら)を脱いで見せることなぞを命ぜられた。彼はその間、しばしば将軍の御台所を見る機会をも得たという。将軍も日本語で、オランダ人は自分のいる室をことに鋭く見つつある旨(むね)言われたもののようで、彼らは将軍がそのもとの座をすてて彼らの正面にあった貴婦人の所に移ったのを見てそれを推測した。彼らは次ぎに、今一度|鬘(かつら)を脱ぐことを命ぜられ、続いて一同は飛び上がること、踊ること、泥酔漢(よっぱらい)の態(さま)をすること、連れだって歩行するさまなどを実演させられた。日本人はまた、使節とケンペルとに備後(びんご)の年齢は幾歳ぐらいに見えるかと尋ねるから、使節は五十と答え、ケンペルは四十五と答えた。聞くところによると、この老中筆頭の大官はすでに七十歳の高齢であるが、彼らがあまり若く言ったので、衆は皆笑った。次ぎに日本人は彼らをして夫婦のように接吻(せっぷん)させ、貴婦人たちは笑いながらそれを見て、すこぶる満足したもののようであったともいう。さらに日本人はヨーロッパの方で一般に行なわるる敬礼――目下に対し、目上に対し、貴婦人に対し、諸侯に対し、また王に対するそれらの作法の類(たぐい)をやって見せよと言い、続いてケンペルはことに歌を歌うよう所望されてそのもとめに応じた。やがて道化は終わった。彼らは上衣を着、一人(ひとり)ずつ簾(す)の前へ行って、彼らの王公に対すると同様の礼でもって別れを告げた。その日、彼らが殿中で喜劇を行なったのは二時間の余であったという。
江戸を去る前、フウテンハイムの一行は暇乞(いとまご)いとして将軍の居城を訪(たず)ねた。その時、百人番で三十分も待たせられたあとで、使節は老中の前に呼び出され、老中は属僚に言い付けて例によって一場の訓示を朗読させた。訓示は主として彼らがシナ人や琉球人(りゅうきゅうじん)の船に妨害を加えてはならないこと、オランダ船にはホルトガル人および切支丹(キリシタン)宗|僧侶(そうりょ)は一人たりとも載せて来てはならないこと、これらの条件を奉じて間違いない限りは商法自由たるべしというのであった。朗読が終わると、使節の前には二つの三宝(さんぽう)が置かれ、その三宝の一つ一つには十重(とかさ)ねずつの素袍(すおう)が載せてあった。将軍から使節への贈り物だ。使節はうやうやしくそれを受け、五つ所紋のついた藍色(あいいろ)な礼服の一つを頭の上に高くあげて深く謝意を表した。それから一同別室へ導かれ、将軍の命で昼飯を下し置かれるとの挨拶(あいさつ)があって、日本風の小さな膳(ぜん)が各人の前に持ち運ばれた。その食事は彼らオランダ人に、この強大な君主の荘厳と驕奢(きょうしゃ)とにふさわしからぬほどの粗食とも思われたという。
暇乞いはそれだけでは済まされなかった。大奥でもまたもや彼らを見たいと言い出される。年のころ三十ばかりになる白と緑の絹の衣裳(いしょう)をつけた接待役の坊主が来て、鄭重(ていちょう)に彼らの姓名年齢を尋ね、やがてその人の案内で一同導かれて行ったところは例の奥まった簾(す)の前だ。まず日本風に敬礼したところ、簾に近づいてヨーロッパ風にせよとの御意である。それに従うと、今度は歌を歌えとの命である。ケンペルは彼がかつてことに尊重した一貴女のためにものした一つをえらんで歌った。それは彼女の美とその徳とをたたえて、この世のいかなる財宝も、その貴(とうと)さには到底比べられないとの意を詠じたものであった。将軍がその意を訳して聞かせよと彼に命ぜらるるから、そこで彼はその歌をえらんだはほかでもないと言って、この国の君主、皇族、および全日本朝廷の健康と幸福と繁栄とを保全せらるることを祈る外臣が誠実の心をいたすにほかならないと申し上げた。以前の謁見(えっけん)の時と同じように、彼らは上衣を取って室内を歩めと命ぜられ、使節も今度はそれを行なった。続いて彼らの友人、両親、または妻にめぐりあい、または別れを告げる態(さま)、互いにののしり合う態、友人と論争し、やがてまた和解する態なぞを御覧に入れた。それが終わると、ケンペルのそばに近づいて来て健康の診断を求め、試みに彼の意見を聞きたいという一人(ひとり)の剃髪(ていはつ)の人があった。脈を取って検(しら)べて見ると、疑いもない健康者だ。しかし彼はその人の顔のようすや鼻の赤いところから推して、好酒家と知ったから、あまり飲み過ぎないようにと忠告した。将軍はじめ一同がそれを聞き知った時は、あたりにさかんな笑い声が起こった。
これらは皆、ケンペルがその旅行記にくわしく書き残したことである。時はあだかも徳川将軍家の勢いが実に一代を圧したころに当たる。当時のオランダ使節の一行が商業の自由を許さるるの恵みを感謝したのは、日本国の皇帝の面前においてであるとのみ思っていたとか。彼らはその江戸城の大奥に導かれて、皇帝の居住する宮殿の中に身を置き得たと信じ、彼らのそばに来て一々その姓名、年齢、その他のことを尋ねた数人の頭を円(まる)めた坊主を皇帝の侍医または接待役と信じ、彼らを歓迎する旨(むね)を述べてくれた老中牧野備後こそかつては皇帝の師傅(しふ)であり現に最も皇帝の信任を受けつつある人と信じたという。 

百六十年ほど後に黒船の載せて来たアメリカ使節ペリイはこのオランダ人の態度を捨てた。これまで許されなかった通商の自由を求めるためには、いかなる役割をも忍ぼうとする道化役者ではもとよりなかった。彼はオランダ人のような仮面を脱いで、全く対等の位置に立ち、一国を代表する使節としての重い使命を果たしに来た。
しかし先着のオランダ人が極東に探り求めたものは、あとから来る人たちのためにすくなからぬ手引きとなったことを忘れてはならない。寛永(かんえい)十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられてからこのかた、この国のものが海外の事情に暗かったように、異国のものもまた極東の事情に暗いものばかりだと思ったら、それこそ早計と言わねばならない。ペリイの取った航路は合衆国の東海岸からマデイラ、喜望峰を迂回(うかい)して、モオリシアス、セイロン、シンガポオルを経、それからシナの海を進んで来たものと言われるが、遠くアナポリスから極東への船旅に上る前に、彼にはすでに長いしたくがあったという。彼は日本に関するあらゆる書籍をあさり、名高いシイボルトが大きな著述を読み、その他必要な書籍の購求をアメリカ政府に請い、オランダ人の造った海図を手に入れるためには政府をして三万ドルの大金をなげうたせたというくらいだ。日本はアメリカを去ることも遠く、しかも文学上には未知の国であったにもかかわらず、東方アジアの国民の中で、日本のようにその関係書類の欧州書庫中に蔵せられたものはなかったとも言わるる。ただ、彼が知ろうとして知り得なかったのは、日本最近の政治上の位置と、天皇と大君(将軍のこと)との真の関係であったとか。
このペリイが前発の二|艘(そう)の石炭船を喜望峰とモオリシアスとに送らせるほどの用意をしたあとで、四隻の軍艦を率いて遠航の途に上ったのだ。当時、アメリカの科学者およびその他の学者の間にはこの遠洋航隊に代表者を出したいと言って、ペリイに逼(せま)ったというだけでも、いかに空前の企てであったかがわかる。ペリイはこの国へ来て堅い鎖国の扉(とびら)をたたく前にすでに琉球近海や日本海岸のおおよその知識をもっていた。さてこそ、この国の厳禁を無視しまっしぐらに江戸湾を望んで直進して来たわけだ。ペリイが日本の本土に到着する前、琉球島を訪(たず)ねてその王と幕僚とに会見し、さらに小笠原(おがさわら)群島を訪ねて、牛、羊、種子、その他の日用品、およびアメリカの国旗をそこに定住する白人の移民のもとに残して置いたというのを見ても、彼の抱負の小さくなかったことがわかる。彼が浦賀(うらが)の久里(くり)が浜(はま)に到着したころは、ちょうどヨーロッパ勢力の東方に進出する十九世紀のなかばに当たる。早く棉花(めんか)をシナの市場に売り込んで東洋貿易の重んずべきことを知ったアメリカは、イギリスのあとを追ってシナとの通商条約を結び、さらにその方針を一層拡張して、日本にも朝鮮半島にも及ぼそうとしていたころである。ペリイはこの使命を果たすために堅き決心をかため、弘化(こうか)年度に江戸湾に来て開港の要求を拒絶されたビッドル提督の二の舞いを演ずまいとした。人としての彼は「エスイタ教徒の愛嬌(あいきょう)と、ストイック派の樸直(ぼくちょく)と、直進的な気性(きしょう)」とを持っていたと言わるるが、当時の日本人が恐れるところを利用することにかけては全く無遠慮なアメリカ人であった。ともかくも彼は強い力で、その目的を果たした。電信機、機関車、救命船、掛け時計、農作機械、度量衡、地図、海図、その他当時の日本には珍奇な贈り物を残して置いて、この国を去った。しかし彼とても先着のオランダ人と同様に、日本皇帝へささげるための国書が幕府の手に納められ、それが京都までは取り次がれなかった深い事情を知るよしもなかったのである。
それからの黒船が載せて来た人たちは、いずれもこの国の主権の所在を判断するに苦しんだ。アメリカ最初の領事ハリスでも。イギリス使節エルジンでも。このイギリスの使節が献上した一艘の蒸汽船も、日本皇帝への贈り物であったというが、江戸の役人は幕府へ献上したものだとして、京都まではそれも取り次ごうとしなかった。京都はあっても、ないも同様だ。主権|簒奪(さんだつ)の武将が兵馬を統(す)べ、政事上の力は一切その手にゆだねられていた。
このことは、しかし在留する外人の次第に感知するところとなって行った。幕府の役人が外人を詐(いつわ)って、将軍は大君で皇帝権を有するものだと信ぜしめたとする英国公使パアクスのような人も出て来た。彼らは兵庫の開港を迫って見、大坂の開市を迫って見て、その時初めて通商条約の勅許の出たのに驚き、まことの主権の所在を突きとめるようになった。種々(さまざま)な行きがかりから言っても、従来開港の方針で進んで来た江戸幕府に同情してひそかにそれを助けようとしているフランス公使ロセスと、この国に革命の起こって来たことを知って西国の雄藩を励まそうとしているイギリス公使パアクスとが、皇帝と大君との真の関係について互いに激論をかわしたということは不思議でもない。 

今日申し上げ候(そうろう)は大切の儀、わが合衆国の大統領においても重大の儀と存じおり候。申し上げ候儀はいずれも懇切の心より出(い)づる事に候につき、右御心得をもっておきき取り下さるべく候。」
最初の米国領事ハリスの口上書をここにすこし引き合いに出したい。極東に市場を開かせに来たアメリカの代表者をして彼ら自らを語らせたい。これは過ぐる安政(あんせい)四年、江戸の将軍|謁見(えっけん)を許された後のハリスが堀田備中守(ほったびっちゅうのかみ)の役宅で述べた口上の趣である。
「――過日大君殿下(将軍)へ大統領より差し上げたる書翰(しょかん)の趣をただいまさらにくわしく申し上げ候儀につき、大統領じきじきに申し上げ候御心得にておきき取り下さるべく候。わが大統領は、日本政府のために大切と心得候ことを包み置き候儀、なにぶん相成りがたく、右は懇切より出(い)で候次第につき、何事も腹蔵なく申し上げ候。合衆国と条約なされ候は、御国において外国と条約なされ候初めての儀ゆえ、大統領においても御国の儀は他国と異なり、親友と相心得申しおり候。合衆国の処置は他の外国と異なり、東方に所領の国これなく候間、新たに東方に領地を得候儀は願い申さず候。合衆国の政府においては他の地方に所領を得候儀は禁じ申し候。国々より合衆国の部に入り候儀を願い候事もこれまでたびたびに御座候えども、遠方かけはなれおり候ところはすべて断わりに及び候。三か年以前、サントウイス島も合衆国の部に加わりたく申し聞け候えども、これもって断わり申し候。これまで合衆国他邦と会盟いたし候儀もこれあり候えども、右は干戈(かんか)を用い候儀はこれなく、条約をもって相結び候事に御座候。ただいま申し上げ候儀、合衆国一体の風儀を御心得までに申し上げ候儀に御座候。
――五十年以前より、西洋は種々変化つかまつり候。蒸汽船発明以来、遠方かけはなれたる御国もごく手近のよう相成り申し候。電信機発明以来、別(べっ)して遠方の事もすみやかに相わかり、右器械を用い候えばワシントンまで一時(いっとき)の間に応答|出来(しゅったい)いたし候。カルホルニヤより日本へ十八日にて参り候儀、出来いたし候も、蒸汽船発明以来ゆえのことに御座候。右蒸汽船発明以来、諸方の交易もいよいよさかんに相成り申し候。右様相成り候ゆえ、西洋諸州いずれも富み候よう相成り申し候。西洋各国にては、世界じゅう一族に相成り候ようつかまつりたき心得にこれあり候は、蒸汽船相用い候ゆえに御座候。右をさえぎりて、外と交易を結ばざる国は世界一統に差しさわり候間、取り除(の)け候心得に御座候。いずれの政府にても一統いたし候儀を拒むべき権はこれあるまじく候。
――右一統いたし候につき、二つの願い御座候。一つは使節同様の事務を取り扱うエジェントを都下に駐在いたさせたき儀にこれあり候。今一つは国々との商売勝手次第に相成り候よういたしたく候。右二か条の儀はアメリカのみにこれなく、国々の懇望に御座候。
――日本の危難は落ちかかりおり申し候。それはイギリス、その他ヨーロッパ各国の事に御座候。イギリスは日本と戦争いたし候儀を好んで心がけおり候。その次第を申し上げん。イギリスは東インド所領をロシアのためにことのほか気づかいおり候儀に御座候。イギリス、フランス一致いたし、ロシアと戦争に及び候は、ロシアの所々蚕食いたし候を憎みての儀に御座候。ロシアはサガレンを領し、かの筋より満州およびシナを横領いたすべくとイギリス存じおり候。満州ならびにシナをロシアにて領し候よう相成り候わば、その兵をもってイギリス所領の東インドを横領いたし候よう申すべく、さ候えば露英の戦争、またぞろ相起こり候事と存じられ候。右様相成り候わば、英国にては右を防ぎ候儀、ことのほかむずかしくこれあるべく、その手段としてサガレン、ならびに蝦夷(えぞ)、函館(はこだて)を領し候よう英国にては心がけおり申し候。さ候えば露国を防ぎ候に格別の便(たよ)りと相成り申すべく候。英国は地続き満州よりも、蝦夷(えぞ)の方を格別に望みおり申し候。」
異国はまだ多くのものにとっては未知数であった。長い鎖国の結果、世界のことはおろか、東洋最近の事情にすら疎(うと)かったこの国のものは、最初の米国領事から種々の先入主となるべきことを教えられた。ハリスは、何が五十年以前からの西洋を変えたかを言っている。それが蒸汽船や電信機なぞの交通機関の出現によることだと言っている。そして「交易による世界一統」の意志が生まれて来たのも、蒸汽船の発明以来だと言っている。
彼はさらに、日本およびシナが西洋諸国のような交際を開かないからやはり一本立ちの姿であると述べ、シナは十八年前に英国と戦争を起こしたが、エジェントが首府に駐在していたら、あんな戦争にも及ばなかったであろうと述べている。彼はシナ政府の態度に言い及び、広東(カントン)奉行の取り扱いをもって済ませるつもりであったのがそもそもの誤算であったと言い、政府で取り扱うまいとしたところから破裂に及んだと言い、広東奉行が全くのこしらえ事(ごと)をして、ほどよく政府へ申し立て、しかのみならず右の奉行が英国に対し権高(けんだか)であったために、戦争が起こったのだと述べている。この戦争に、シナで人命を失うもの百万人、シナの港々は言うに及ばず、南京(ナンキン)の都まで英国に乗っ取られ、和睦(わぼく)を求めるためにシナより英国へ渡した償金は小判(こばん)にして五百万枚にも及んだ。彼はそれを言って、元来シナは富んでいたが、こんな事でいよいよ衰えた。先年|韃靼(だったん)との戦争でさらに力を失った。この上、イギリスとフランスとが一致してシナへ戦争をしかけたら、行く末はどうなることやら実に測りがたい。今の姿ではシナも英仏両国の望みをいれるのほかはあるまい、さもなくばシナ全国は皆英仏の所領となるであろう。思うに、フランスは朝鮮、イギリスは台湾を領したい望みを抱(いだ)いている。これはよくよく御勘考、御用心あるがいい。天に誓って申し上げるが、シナにもエジェントが北京(ペキン)に駐在したなら、戦争は必ず起こらなかったであろう。英仏両国の政府よりシナとの戦争に荷担(かたん)するよう依頼を受けた時に、アメリカ大統領はそれを断わった。全体、シナ側の取り扱い方についてはアメリカ政府でも不快に感ずることがないでもない。シナの砦(とりで)からアメリカの軍艦へ向けていわれもなく鉄砲を打ちかけたことが二度もある。合衆国の水師提督アームストロングは憤って、広東の港口にある四か所の砲台を破壊した。それも広東奉行の詫(わ)びで戦争にはならずに済んだ。アメリカ政府は英人らと力を合わせてシナと戦争したことはない。シナ争乱の基と言えば、その一つはアヘンである。アヘンは英領東インドの産するところ。そのアヘンがシナの害にはなっても、英国では利益のためにすこしもそれを禁じようとしない。右のアヘンを積み載せた船には、鉄砲などを堅固にそなえ付けて置いて、ひそかに売買する。合衆国大統領が日本のために考えるに、アヘンは戦争より危ない。アヘン交易には日本でも格別注意するようにと大統領も申している。万一、アメリカ人がアヘンを持参したら、日本の役人が焼きすてようと、どうなりと取り計らわれたい。そんなアヘンは焼きすてた上で、過料を取られても決して苦しくない。そうハリスは述べている。
ハリスが口上書の続きにいわく、
「――大統領誓って申し上げ候。日本も外国同様に、港を開き、売買を始め、エジェント御迎え置き相成り候わば、御安全の事に存じ奉り候。
――日本数百年、戦争これなきは天幸と存じ奉り候。あまり久しく治平うち続き候えば、かえってその国のために相成らざる事も御座候。武事相怠り、調練行き届かざるがゆえに御座候。大統領考えには、日本世界中の英雄と存じ候。もっとも、英雄は戦(いくさ)に臨みては格別尊きものに候えども、勇は術のために制せられ候ものゆえ、勇のみにて術なければ、実は尊しとは参りがたきものに御座候。今日の備えに大切なるは、蒸汽船その他、軍器よろしきものにほかならず。たとい、英人と合戦なされ候とも、英国はさまでの事にはあるまじくとも、御国の御損失はおびただしき事と存じ奉り候。
――日本はまことに天幸にて、戦争の辛苦は書史にて御覧なされ候のみ、いまだ実地を御覧なき段、重畳(ちょうじょう)の御事に御座候。これは全くかけ離れたる東方の位置にありしため、ただいままでその沙汰(さた)なかりし儀にて、もし英仏両国に近くあらばもちろん、たとい一国にても御国と格別かけ離れおり申さず候わば、疾(と)くに戦争起こり候事にこれあるべく候。戦争の終わりは、いずれ条約取り結ばず候ては相成りがたき御事に候。わが大統領の願いを申さば、戦争いたさずして直ちに敬礼を尽くし条約相成り候よういたしたくとの儀に御座候。西洋近来名高き提督の語にも、『格別の勝利を得候|戦(いくさ)より、つまらぬ無事の方よろし』と御座候。
――今般、大統領より私差し越し候は、御国に対し懇切の心より起こり候儀にて、隔意ある事にはこれなく、他の外国より使節等差し越し候とはわけ違いと申し候。右等の儀よろしく御推察下さるべく候。ことに、このたび御開港等、御差し許しに相成り候とも、一時に御開きと申す儀にはこれなく、追い追い時にしたがい御開き相成り候よういたし候わば、御都合よろしかるべくと存じ奉り候。英国と条約御結びの場合には、必ず右様には相成るまじくと、大統領も申しおり候。国々より条約のため使節差し越し候とも、世界第一の合衆国の使節よりかくのごとく御取りきめ相成り候|旨(むね)、仰せ聞けられ候わば、かれこれは申すまじく候。合衆国大統領は別段飛び離れたる願いは仕(つかまつ)らず、合衆国人民へ過不及なき平等の儀、御許しのほど願いおり候ことに御座候。
――二百年前、御国において、ホルトガル人、イスパニヤ人御追放なされ候ころは、ただいまとは外国の風習大いに異なり申し候。そのころは宗門の事を皆願いおり申し候。アメリカにては宗門などは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧め候ようのことさらにこれなく候。何を信仰いたし候とも人々の心次第に御座候。当時ヨーロッパにては信仰の基本を見出し申し候。右は銘々の心より信じ候ゆえ、その心に任せ候よりほかにいたし方これなくと決着つかまつり候。宗門種々これあり候えども、畢竟(ひっきょう)人を善(よ)くいたし候趣意にほかならず。アメリカには仏の堂も耶蘇(ヤソ)の堂も一様に並びおり、一目に見渡し候よういたしあり、宗門につき一人も邪心を抱(いだ)き候ものこれなく、銘々安らかに今日を送り申し候。ホルトガル人、イスパニヤ人など日本へ参り候は自己の儀にて、政府の申し付けにはこれなく候。そのころは罷(まか)り越し候もの売買をいたし、宗門をひろめ、その上、干戈(かんか)をもって日本を横領する内々の所存にて参りし儀と存じ候。右参り候ものは廉直(れんちょく)のものにこれなく、反逆いたす見込みのものゆえ、その人物も推し量られ申し候。幸いに当時は右様のものこれなく候。
――当時の風習は世界一統の睦(むつ)まじきことを心がけ、一方の潤沢を一方に移し、何地(いずち)も平均に相成り候よういたし候ことに御座候。たとえば、英国にて凶作打ち続き食物に困り候えば、豊かなる国より商売を休(や)めその食物を運びつかわし候ようの風儀に御座候。交易と申し候えば品物に限り候よう相聞こえ候えども、新規発明の儀など互いに通じ合い、国益いたし候もまた交易の一端に御座候。諸州勝手に交易いたし候わばその国のもの世界中の儀をことごとく心得候よう相成り申すべく候。もとより農作は国中第一の業に候えども、国内のものことごとく農作いたし候ようには相成り申さず、その中には職人も産業いたし候ものもこれあり、互いに助け合う儀にこれあり候。国々によりては、他国の方に細工奇麗にて価も安き品|数多(あまた)これあり候。国用より多く出来(しゅったい)いたし候品は外国へ相渡し、その国になき産物は他邦より運び入れ候儀に御座候。それゆえ、諸国の交易いたし候えば、造り出し候品も多く相成り、かつは外国の品物も自由にいたし候儀もでき申し候。自己の製し申さざる品々も容易に得られ候は、容易にこれあり候。交易は直ちに便利なるため、懇切の心よりいたし候えば、戦争を避け候よう自然相成り申し候。もっとも、他邦より産物運び入れ候節は、その租税は必ず差し出し申し候。アメリカにては右租税をもって国内の費用を繕い、なお余りは年々宝蔵へ納め置き候事に御座候。租税の法種々これあり候えども、まず他邦より輸入いたし候ものの税より充分なるはこれなく候。
――ただいま、東インド一円はイギリスの所領と相成り候えども、元来は数か国に分かれおり候ところ、いずれも西洋と条約取り結ばざりしため、ついに英国に一統いたされ候。一本立ちの国の損は諸方において右より心づき申し候。シナ日本においても東インドの振り合いをもって、とくと御勘考これあり候ようしかるべくと存じ奉り候。日本も交易御開きに相成り候わば、御国の船印(ふなじるし)諸州の港にて見知り候よう相成り申すべく候。高山へ格別|眼力(がんりき)よろしき人登り見候わば、アメリカ製の鯨船数百艘、日本国の周囲に寄り合い、鯨漁いたし候儀、相見え申すべし。自国にて、いたしがたき業にてもこれなきを、他国のものに得られ候段、笑止の事に御座候。
――格別|上智(じょうち)のものの申し候には、今般英仏とシナとの戦争長続きはあるまじき由、左(さ)候えばイギリス使節はほどなく御当地へ参り申すべく候。憚(はばか)りながら御手前様、御同列様、御相談の上、その節の御取り扱い等を今より定め置かれ候よう大切に存じ奉り候。私考え候ところにては、交易条約御取り結びのほか、御扱い方もこれあるまじくと存じ奉り候。私名前にて東方にあるイギリス、フランスの高官へ書状差しつかわし、日本政府において交易条約御取り結び相成り、なお、他の外国へも御免許相成るべきはずの趣、申し達し候わば、五十艘の蒸汽船も一艘または二、三艘にて事済み申すべく候。今日は大統領の意向、ならびにかねて申し上げ置き候英国政府の思惑(おもわく)、内々(ないない)に申し上げ候儀に御座候。
――今日は私一生の中の幸福なる日に御座候。今日申し上げ候儀、御取り用いに相成り、日本国安全のなかだちとも相成り候わば、この上なき幸いの儀に御座候。ただいま申し上げ候は、世界中の儀にて、一切取り飾りなどは御座なく候。」
右の通り申し上げ候事
これがハリスの長口上だ。
この先着のアメリカ人が教えたことは、よい意味にも悪い意味にもこの国民の上に働きかけた。ハリスは米国提督のペリイとも違い、力に訴えてもこの国を開かせようとした人ではなかった。相応に日本を知り、日本の国情というものをも認め、異国人ながらに信頼すべき人物と思われたのもハリスであった。国を開くか開かないかの早いころに来てこのハリスの教えて置いたことは、先入主となって日本人の胸の底に潜むようになったのである。あだかも、心の柔らかく感じやすい年ごろに受け入れた感化の人の一生に深い影響を及ぼすように。 
第二章

 


商船十数|艘(そう)、軍艦数隻、それらの外国船舶が兵庫(ひょうご)の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館(はこだて)からも、または上海(シャンハイ)方面からも。数隻の外国軍艦のうちには、英艦がその半ばを占め、仏艦がそれに次ぎ、米艦は割合にすくなかった。港にある船はもとより何百艘で、一本マスト、二本マストの帆前船、または五大力(ごだいりき)の大船から、達磨船(だるまぶね)、土船(つちぶね)、猪牙船(ちょきぶね)なぞの小さなものに至るまで、あるいは動き、あるいは碇泊(ていはく)していた。その活気を帯びた港の空をゆるがすばかりにして、遠く海上へも響き渡れとばかり、沖合いの外国軍艦からは二十一発の祝砲を放った。
慶応三年十二月七日のことで、陸上にはまだ兵庫開港の準備も充分には整わない。英米仏などの諸外国は兵庫開港が条約期日に違(たご)うのではないかと疑い、兵力を示してもその履行を促そうと協議し、開港準備の様子をうかがっていた際である。外人居留地はまだでき上がらないうちに、開港の期日が来てしまったのだ。しかし、神戸(こうべ)村の東の寂しく荒れはてた海浜に新しい運上所(うんじょうしょ)が建てられ、それが和洋折衷の建築であり、ガラス板でもって張った窓々が日をうけて反射するたびに輝きを放つ「びいどろの家」であるというだけでも、土地の人々をよろこばせた。三か所の波止場(はとば)も設けられ、三棟(みむね)ばかりの倉庫も落成した。内外の商人はまだ来て取り引きを始めるまでには至らなかったが、なんとなく人気は引き立った。各国領事がその仮住居(かりずまい)に掲げた国旗までが新しい港の前途を祝福するかに見えたのである。
翌慶応四年の正月が来て見ると、長い鎖国から解かれる日のようやくやって来たころは、やがて新旧の激しい争いがさまざまな形をとって、洪水(こうずい)のようにこの国にあふれて来たころであった。江戸方面には薩摩方(さつまがた)に呼応する相良惣三(さがらそうぞう)一派の浪士隊が入り込んで、放火に、掠奪(りゃくだつ)に、あらゆる手段を用いて市街の攪乱(こうらん)を企てたとのうわさも伝わり、その挑戦的(ちょうせんてき)な態度が徳川方を激昂(げきこう)させて東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川(よどがわ)付近の地点に起こったとのうわさも伝わった。四日にわたる激戦の結果は会津(あいづ)方の敗退に終わったともいう。このことは早くも兵庫神戸に在留する外人の知るところとなった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館(はこだて)へも長崎へも向かった。
海から見た陸はこんな時だ。伏見(ふしみ)、鳥羽(とば)の戦いはすでに戦われた。うわさは実にとりどりであった。あるものは日本の御門(みかど)と大君との間に戦争が起こったのであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、南軍と北軍とに分かれた強大な諸侯らの戦争であるとした。その時になると、一時さかんに始まりかけた内外商品の取り引きも絶えて、鉄砲弾薬等の売買のみが行なわれる。日本と外国との交際もこの先いかに成り行くやは測りがたかった。
フランス公使館付きの書記官メルメット・カションはこの容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家を借りて仮住居(かりずまい)する同国の領事もいる。カションはその同国人のところへ、江戸方面に在留する外人のほとんど全部がすでに横浜へ引き揚げたという報告を持って来た。英仏米等の外国軍艦からは連合の護衛兵を出して構浜居留地の保護に当たっている、おそらく長崎方面でも同様であろうとの報告をも持って来た。
新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に来たものがある。この地方にできた取締役なるものの一人(ひとり)だ。神戸村の庄屋(しょうや)生島四郎大夫(いくしましろだゆう)と名のる人だ。上京する諸藩の兵士も数多くあって混雑する時であるから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずる懸念(けねん)もあるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かないように。神戸村の庄屋はそのことを仏国領事に伝えに来た。
「兵庫|奉行(ぶぎょう)はどうしたろう。」
そういう領事の言葉をカションは庄屋に取り次いだ。通詞を呼ぶまでもなく、カションは自由に日本語をあやつることができたからで。
「お奉行さまですか。」と庄屋は言った。「お奉行さまはもう兵庫にはいません。」
その時、領事はカションを通して、いろいろなことを訴えた。これではまるで無統治、無警察も同じである。在留する外人に出歩くなと言われても、自分らには兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の前途に改善の希望を置いて、この新しい港を開いたのではないかと。さすがのカションにもそう細かいことまでは伝えられなかったが、領事の言おうとする意味はほぼ相手に通じた。
神戸村の庄屋は言った。
「とにかく、あなたがたの遠く出歩くことは危険ですぞ。」
兵庫奉行はすでにのがれ、開港地警衛の兵士もまた去ってしまった。わずかに町々を回って歩くのは、町内のものが各自に組織した自警団と、外国軍艦から上陸させた居留民保護の一隊とがあるだけだった。西国諸藩の兵士で勤王のために上京するもの、京坂諸藩邸の使臣で情報を本国にもたらすもの、そんな人たちの通行が日夜に兵庫神戸辺の街道筋に続いていた。 

新時代の幕はこんなふうに切って落とされた。兵庫神戸の新しい港を中心にして、開国の光景がそこにひらけて来た。それにはまず当時の容易ならぬ外国関係を知らねばならない。
アールコックはパアクスよりも前に英国公使として渡来した人であるが、このアールコックに言わせると、外国は戦争を好むものではない。土地をむさぼるものでもない、ただ戦端を開くように誘う場合が三つある。いやしくも条約を取り結びながらその信義を守らない場合、ゆえなく外人を殺傷する場合、みだりに外人を疑って交易を妨害する場合がそれであると。
不幸にも、先年東海道川崎駅に近い生麦(なまむぎ)村に起こったと同じような事件が、王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸|三宮(さんのみや)に突発した。しかも、京都新政府においては徳川|慶喜(よしのぶ)征討令を発し、征討府を建て、熾仁親王(たるひとしんのう)をその大総督に任じ、勤王の諸侯に兵を率いて上京することを命ずるような社会の不安と混乱との中で。
慶応四年正月十一日のことだ。兵庫に在留する英国人の一人(ひとり)は神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある備前(びぜん)藩の家中のものに殺され、なお一人は傷つけられ、その場をのがれた一人が海岸に走って碇泊(ていはく)中の軍艦に事の急を告げた。時に英仏米諸国の軍艦は前年十二月七日の開港以来ずっと湾内にある。この出来事を聞いた英国司令官は兵庫神戸付近が全くの無統治、無警察の状態におちいっているものと見なし、居留地保護の必要があるとして、にわかに仏米と交渉の上、陸戦隊を上陸させた。そのうちの英国兵の一隊は進んで生田(いくた)に屯(たむろ)している備前藩の兵士に戦いをいどんだ。三小隊ばかりの英国兵が市中に木柵(もくさく)を構えて戦闘準備を整えたのは、その時であった。神戸から大坂に続いて行っている街道両口の柵門(さくもん)には、監視の英国兵が立ち、武士および佩刀者(はいとうしゃ)の通行は止められ、町々は厳重に警戒された。のみならず、港内に碇泊する諸藩が西洋形の運送船およそ十七艘はことごとく抑留され、神戸の埠頭(ふとう)は英国のために一時占領せられたかたちとなった。
英国陸戦隊の上陸とともに、兵庫神戸の住民の間には非常な混乱を引き起こした。英国兵が実戦準備の快速なことにもひどく驚かされた。土地の人たちは生田方面に起こる時ならぬ小銃の砲撃を聞いた。わずかの人数で英国兵の一隊に応戦すべくもない備前方があわてて摩耶(まや)山道に退却したとのうわさも伝わった。この不時の変時に、沿道住民の多くはその度を失ってしまった。
その日の夕方になると、殺害された英国人の死体は担架に載せられてすでに現場から引き取られたとの風評も伝わった。事の起こりは、備前藩の家中|日置帯刀(へきたてわき)の従兵が上京の途(みち)すがらにあって、兵庫昼食で神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人がその行列を横ぎろうとしたのによる。こんな事件の起こらない前に、時節がら混雑する際であるから、なるべく街道筋を出歩かないようにとは、かねて神戸村の臨時取締役たる庄屋生島四郎太夫から外国領事を通じて居留の外国人へ注意を与えてあったのにその意味がよく徹底しなかったのであろう。英人らはこの横断がそれほど違法であるという東洋流の習慣を知らない。おまけに言語は通じないと来ている。前衛の備前兵がそれを制するつもりで、鎗(やり)をあげて威嚇(いかく)を試みたところ、一人の英人はかくしの中に入れていたナイフを執ってそれに抵抗する態度を示したというからたまらない。備前兵は怒(おこ)って一人を斃(たお)し、一人を傷つけたのだ。外国陸戦隊の上陸は、こんな殺傷の結果であった。何にせよ相手は生麦事件以来、強硬な態度で聞こえたイギリスであり、それに兵庫にはこんな際の談判に当たるべき肝心な奉行もいない。兵庫奉行|柴田剛中(しばたごうちゅう)は幕府の役人であるところから、社会に変革が起こると同時に危難のその身に及ぶことを痛く恐怖して、疾(と)くに姿を隠してしまった。この人がのがれる時には、宿駕籠(しゅくかご)に身を投げ、その外部を筵(むしろ)でおおい、あたかも商家の船荷のように擬装して、人をして海岸にかつぎ出させ、それから船に乗って去ったというくらいだ。こんな空気の中で、夕やみが迫って来た。多くの住民の中には家財諸道具を片づけるものがある。ひそかにそれを近村へ運ぶものがある。年寄りや子供を遠くの農家へ避難させるものもある。
たまたま、三百余人の長州藩(ちょうしゅうはん)の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着いた。おそらく京坂地方もすでに鎮定したので、関税その他を新政府の手に収めることを先務として、兵庫開港場警衛の命を受けて来た人たちであったろう。英国兵はそれとは知らないから、備前藩の兵が大挙してやって来たのだと誤り認めて、まさに発砲するばかりになった。長州兵がそうでないと告げても、外人は信じない。長州兵の中には怒って外人の無礼を懲らそうと主張するものが出て来た。こうなると、町々は焼き払われるだろうと言って、兵火の禍(わざわ)いに罹(かか)ることを恐れる声が一層住民を狼狽(ろうばい)させた。長州兵の隊長は本陣|高崎弥五平(たかさきやごへい)方に陣取ったが、同藩の定紋を印(しる)した高張提灯(たかはりぢょうちん)一対を門前にさげさせて、長州藩の兵士たることを証し、なおその弥五平宅で英国士官と談判した。その時になって外人も備前藩の兵でないだけは諒解(りょうかい)したが、しかしこの地の占領を解くことを断じて肯(がえん)じない。長州兵はやむを得ないで奥平野(おくひらの)村の禅昌寺(ぜんしょうじ)に退いた。そこを宿衛の本拠として、その夜のうちに兵庫その他の警衛に従事した。そして非常を戒めた。
過ぐる半月あまり安い思いも知らなかった兵庫神戸の住民が全く枕(まくら)を高くして眠ることのできるようになったのは、この長州兵を迎えてからであった。住民はかわるがわる来て、市中の取り締まりについた長州兵に、過ぐる日夜の恐ろしかったことを告げた。幕府廃止以来、世態の急激な変化は兵庫奉行の逃亡となり、代官手代、奉行付き別隊組兵士なぞは位置の不安と給料の不渡りから多く無頼(ぶらい)の徒と化したことを告げた。それらの手合いは自称浪士の輩(ともがら)と共に市中を横行し、あだかも押し借り強盗にもひとしい所行に及び、ひどいのになると白昼人家の門を破って住民を脅迫するやら、掠奪(りゃくだつ)をほしいままにするやら、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を顕出したことを告げた。外国陸戦隊の上陸はこんな際で、住民各自に自衛の方法を講じつつ、いずれも新しい統治者を待ちわびているところであると告げた。
今や長州兵を迎えて、町々村々の人たちはようやくわずかに互いの笑顔(えがお)を見ることができた。幕府の役人を忌むことが深いだけ、長州兵に信頼することも厚い。あるものは幕府の命によって居留地工事を負担した一役人が巨額の工事金を古井戸の中に埋(うず)めていると告げに来る。あるものは大坂奉行所から新設道路工事を請け負った一役人がその土木工事金を隠匿していると告げに来る。ある事、ない事が掘り出された。在来幕府時代からの諸役人に対して土地のものが抱(いだ)いていた快くない感情までが一緒になって、一時にそこへ発して来た。だれが思いついて、だれがそれに調子を合わせるとも言えないような「えいじゃないか」のめずらしい声が、町々にはわくように起こって来た。
はやし立てる「ええじゃないか」の騒ぎは正月十四日になってもまだやまない。その群集の声は神戸の海浜にある新しい運上所(税関)にまで響き伝わっていた。
そこはいわゆる「びいどろの家」である。ガラス板でもって張った窓のある家もまだ神戸|界隈(かいわい)に見られないころに、開港の記念としてできた最初の和洋折衷の建築である。大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、それぞれ通訳に巧みな書記官をしたがえ、いずれも礼服着用で、その二階の広間に集まりつつあった。英国特派全権公使兼総領事パアクス、仏国全権公使ロセス、伊国特派全権公使トゥール、普国代理公使ブランド、オランダ公務代理総領事ブロック、それに米国弁理公使ファルケンボルグの人たちだ。その日、十四日は公使らが神戸運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという日であった。
幾つかの窓を通して、外人居留地と定められた区域の光景もその二階から望まれる。日本側の使臣を待つ間、公使らは思い思いにそれらの窓に近く行った。神戸は岸深(きしぶか)で、将来の繁華を予想させる位置にはあったが、いかに言っても開いたばかりの海浜だ。あるところは半農半漁の漁村に続くオランダ領事館の敷地であり、あるところは率先して工事に取りかかったばかりのようなイギリス領事館の敷地である。南の方に当たっては海も青く光っていて、港に碇泊(ていはく)する五隻の英艦と、三隻の仏艦と、一隻の米艦とを望むこともできた。だれの目にもまだ新しい港の感じが浮かばない。
そこへおもしろおかしい謡(うた)の囃子(はやし)が聞こえる。三宮(さんのみや)の方角に起こる群集の声は次第に近づいて来る。前年の冬、徳川十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るころから、一か月半以上も京坂各地に続いた「えいじゃないか」の騒ぎが、またこの土地に盛り返したのだ。その時、群集は三宮神社の前あたりから運上所を中心にする新開地の一区域にまであふれるように入り込んで来た。
踊り狂う行列のにぎやかさ。数日前までほとんど生きた色もなかったような地方の住民とも思われないほどの祭礼気分だ。公使らはいずれも声のする窓の方へ行って、熱狂する群集をながめた。手ぬぐいを首に巻きつけて行くもののあとには、火の用心の腰巾着(こしぎんちゃく)をぶらさげたものが続く。あるいは鬱金(うこん)や浅黄(あさぎ)の襦袢(じゅばん)一枚になり、あるいはちょん髷(まげ)に向こう鉢巻(はちまき)という姿である。陽気なもの、勇みなもの、滑稽(こっけい)なものの行列だ。外国人同志の間にはうわさもとりどりで、あの「えいじゃないか」は何を謳歌(おうか)する声だろうと言い出すものがあったが、だれもそれに答えうるものがない。中には二階からガラス窓の一つをあけて、
「ブラボオ、ブラボオ。」
と群集の方へ向けて日本びいきらしい声を送るフランス書記官メルメット・カションのような人もある。この年若なフランス人は自国の方のカアナバルの祭りのころの仮装行列でも思い出したように、老幼の差別なくもみ合いながら通り過ぎる人々の声を潮(うしお)のように聞いていた。
そのうちに、新政府の参与兼外国事務|取調掛(とりしらべがか)りなる東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)をはじめ、随行員|寺島陶蔵(てらじまとうぞう)、伊藤俊介(いとうしゅんすけ)、同じく中島作太郎なぞの面々がその応接室にはいって来た。当日は、ちょうど新帝が御元服で、大赦の詔(みことのり)も下るという日を迎えていたので、新政府の使臣、およびその随行員として来た人たちは、いずれも改まった顔つきをしていた。初対面のこととて、まず各自の姓名職掌の紹介がある。六か国の代表者の目は一様にその日の正使にそそいだ。通禧(みちとみ)は烏帽子(えぼし)に狩衣(かりぎぬ)を着け、剣を帯び、紫の組掛緒(くみかけお)という公卿(くげ)の扮装(いでたち)であったが、そのそばには伊藤俊介が羽織袴(はおりはかま)でついていて、いろいろと公使らの間を周旋した。俊介は先年|井上聞多(いのうえもんた)と共に英国へ渡ったこともあるからで。武士らしい髷(まげ)を捨てて早くもヨーロッパ風を採り入れているような散髪のものは、正使随行員の中でもこの人|一人(ひとり)だけであった。そこにあるものは何もかもまだ新世帯の感じだ。建築物(たてもの)からして和洋折衷だ。万事手回りかねる際とて、椅子(いす)も粗末なものを並べて間に合わせてある。
やがて通禧は右手に国書をささげて、各国公使の前でそれを読み上げた。
「日本国天皇(にっぽんこくのてんのう)、|告[二]諸外国帝王及其臣人[一](しょがいこくのていおうおよびそのしんじんにつぐ)。嚮者将軍徳川慶喜(さきにしょうぐんとくがわよしのぶ)、|請[レ]帰[二]政権[一]也(せいけんをきさんとこいたるや)、|制[二]允之[一](これをせいいんして)、|内外政事親裁[レ]之(ないがいのせいじはしたしくこれをさいせり)。乃曰(すなわちいわく)、従前条約(じゅうぜんのじょうやくには)、|雖[レ]用[二]大君名称[一](たいくんのめいしょうをもちいたりといえども)、|自[レ]今而後(いまよりのちは)、|当[三]換以[二]天皇称[一](まさにかうるにてんのうのしょうをもってすべし)、而諸国交際之儀(しこうしてしょこくとのこうさいのぎは)、|専命[二]有司等[一](もっぱらゆうしらにめいぜん)。|各国公使諒[二]知斯旨[一](かっこくこうしこのむねをりょうちせよ)。」
慶応四年正月十日
   御諱(おんいみな)
ともかくも、その日は日本の天皇が外国に対する御親政の始めであった。
午後に、英国公使パアクスは東久世通禧と三宮英人殺傷事件の交渉談判を開いた。パアクスも当時の国情の殺気に満ちた情景は知りつくしていたから、あえてそう難題を持ち出そうとしなかった。即日にも穏やかに神戸の占領を解こうと言って、早速(さっそく)陸戦隊を引き揚げることを承諾した。それにはこの事件の本犯者を厳罰に処して将来の戒めとする事、日本政府はよろしく陳謝の意を表する事とを条件とした。
やかましい三宮事件もこんなふうで、一気に解決を告げることになった。パアクスは双方の豊かな頬(ほお)に縮れ髯(ひげ)をたくわえている男だが、その時いささか得意げにその頬髯をなでて、
「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい。」
こういう意味のことを彼は通訳の書記官ミットフォードに言わせた。そして自分の言うことをわかってくれたかという顔つきで、堅い握手を求めるために、イギリス人らしい大きな手を東久世通禧の方に差し出した。
パアクスは高い心の調子でいる時であった。この英国公使は前公使アールコックの方針を受け継いだ人で、かつては敵として戦った薩長(さっちょう)両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類(たぐい)まで援助を惜しまないについては、その意見にも相応な理由はあった。この人に言わせると、今日世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難(だいかんなん)を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆|旧(ふる)くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我(われ)は開くことを希望するし、彼は鎖(とざ)すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌(しんしゃく)する必要がそこから起こって来る。それには「真知」をもってせねばならない。そもそも外国人は何のために日本へ来るのであるか。ほかでもない、政府と親しくし、日本人とも親しく交わりたいがためである。交易以来、そのために貧しくなった国はまだない。万一、一方の損になるばかりなら、その交易は必ずすたれる。双方に利があれば必ず行なわれもするし、必ず富みもする。交易をすれは物価が高くなる。物価が高くなれば輸出の減るということも起こって来る。輸入品が多くなれば交易のできなくなることもある。だから節制しないうちに自然と節制があるようなもので、交易は常に氾濫(はんらん)に至らない。国内の人民も物を欠くに至らない。約(つづ)めて言えば、人類の交際は明白な直道で、いじけたものでもなく、曲がりくねったものでもないのに、何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視(しっし)するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵(かたき)のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである。これがアールコック以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけたパアクスの言い分であった。今では彼は各国公使仲間の先頭に立って、いまだに江戸旧幕府に執着するフランスを冷笑するほどの鼻息の荒さである。
このパアクスだ。後は東久世通禧に約したように、兵庫神戸の警衛を全く長州兵の手に任せて、早速街道両口の木柵(もくさく)を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれ軍艦に引き揚げさせ、なお、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。のみならず、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、地方一般の無政治無規則から日に日に新しい設備のできて行く状態をながめていた。十五日には兵庫事務局が諸問屋会所に仮に設けられ、十九日にはそれが旧幕府大坂奉行所の所属であった勤番所に移されるという時だ。この国の建て直しの日がやって来て見ると、百般の事務はことごとく新規まき直しで、ほとんど手の着けようがないかにも見えていた。
しかし、同じ公使仲間でも、新政府に対するアメリカ公使ファルケンボルグの態度はすこし違う。早い話が、アメリカはこの国への先着者である。合衆国と条約を結んだのは、日本が外国と条約を結んだ初めての場合である。その先着者を出し抜いて、事ごとに先鞭(せんべん)を着けようとする英国公使の態度は、ハリス以来日本の親友をもって任ずるファルケンボルグにこころよいはずもない。
当時、討幕の官軍はいよいよ三道より出発するとのうわさが兵庫神戸まで伝わって来た。大総督|有栖川宮(ありすがわのみや)は錦旗(きんき)節刀を拝受して大坂に出(い)で、軍国の形状もここに至って成ったとの風評はもっぱら行なわれるようになった。月の二十一日には、六か国の公使らは通禧(みちとみ)からの書面を受けて、東征の師の興(おこ)ったという報告に接した。武器を輸入して徳川慶喜およびその臣属を助くべからずとの意味を読んだ。その翌二十二日には兵庫に裁判所を兼ねた鎮台もできて、通禧がその総督に任ぜられたことも知った。
この空気の中ではあるが、徳川慶喜はすでに前年十二月三日に外国公使らを大坂に集め、どんな変革がこの国に来ようとも、外交の事は依然責任を負うであろうと告げてある。公使らは、にわかに幕府を逆賊とは見なさない。この形勢をみて取ったファルケンボルグは率先して局外中立を唱え出した。そして、ひそかに新政府に武器を販売するイギリスと、旧幕府の手合いに軍用品を供給するフランスとに対して、アメリカの立場を明らかにした。
ファルケンボルグの出した布告は、だれも正面から争えないほど厳正なものであった。彼は日本の御門(みかど)と大君との間に戦争の起こったことを布告し、かつ合衆国人民の局外中立を厳守すべきことを言い渡した。軍船あるいは運送船を売ることも貸すことも厳禁たるべきもの。兵士はもとより、武器、弾薬、兵粮(ひょうろう)、その他すべて軍事にかかわる品々をあるいは売りあるいは貸し渡すこともまた厳禁たるべきもの。もしこの規則にそむくなら、それは国際法から見て局外中立の法度(はっと)を破るものであるから、敵視せらるるに至ることはもちろんである、万一、これを破るものは軍法によって捕虜とせられ、その積み荷は没収せられ、局外荷主の品たりとも連累(れんるい)の禍(わざわ)いを免るることはできないと心得よ。日本国と合衆国との条約面の権によって、たとい自分の国籍のものたりとも右の規則を破ったものはあえてこれを保護することはできないものである。この布告が合衆国公使ファルケンボルグの名で、日本兵庫神戸にある居留館において、として発表された。
アメリカ以外の条約国の公使らも、おもてむきこれには異議を唱えるものがなかった。彼らは皆、この局外中立の布告にならった。各国いずれも同じ文句で、ただ公使の名が異なるのみで。でも、生命(いのち)がけの冒険家が集まって来る開港場のようなところには、そう明るい昼間ばかりはない。ユウゼニイと名づくる砲船は十万ドルで肥前(ひぜん)へ売れたといい、ヒンダと名づくる船は十一万ドルで長州へ売れたともいう。その他、買い主と値段のよくわからないまでも、ひそかに内地へ売れたという外国船は幾|艘(そう)かあった。アテリネと名づくる汽船は、これも売り物で、暗夜にまぎれてこっそり兵庫に来たことはすぐその道のものに知れた。 

旧暦の二月にはいって、兵庫にある外国公使らは大坂の会合に赴(おもむ)くため、それぞれしたくをはじめることになった。これは島津修理太夫(しまづしゅりだゆう)をはじめ、毛利長門守(もうりながとのかみ)、細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ)、浅野安芸守(あさのあきのかみ)、松平大蔵大輔(まつだいらおおくらたいふ)(春嶽(しゅんがく))、それに山内容堂(やまのうちようどう)などの朝廷守護の藩主らが連署しての建議にもとづき、当時の急務は外国との交際を講明しないでは協(かな)わないとの趣意に出たものであった。各国がいよいよ新政府を承認するなら、前例のない京都参府を各国使臣に許されるであろうとの内々の達しまであった。
それにしても新政府の信用はまだ諸外国の間に薄い。多年、排外の中心地として知られた京都にできた新政府である。この一大改革の機運を迎えて、開国の方向を確定するのが第一だとする新政府の熱心は聞こえても、各国公使らはまだまちまちの説を執って疑念の晴れるところまで至っていない。三宮(さんのみや)事件はこの新政府にとって誠意と実力とを示す一つの試金石とも見られた。二月の九日になると、各国公使あての詫書(わびしょ)が京都から届いた。それは陸奥陽之助(むつようのすけ)が使者として持参したというもので、パアクスらはその書面を寺島陶蔵から受け取った。見ると、朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申しわけがない。今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動(もうどう)の所為のないようきっと申し渡して置く。今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。このたびの儀は、備前家来|日置帯刀(へきたてわき)に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に割腹(かっぷく)を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった、と認(したた)めてある。宇和島(うわじま)少将(伊達宗城(だてむねなり))の花押(かおう)まである。
その日、兵庫の永福寺の方では本犯者の処刑があると聞いて、パアクスは二人(ふたり)の書記官を立ち会わせることにした。日本側からは、伊藤俊介(いとうしゅんすけ)、他一名のものが立ち会うという日であった。その時の公使の言葉に、
「自分は切腹が日本武士の名誉であると聞く。これは名誉の死であってはならない。今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない。」
パアクスも大きく出た。
その時になると、外人殺害者の処刑について世間にはいろいろな取りざたがあった。世が世なら、善三郎は無礼な外夷(がいい)を打ち懲らしたものとして、むしろお褒(ほ)めにも預かるべき武士だと言うものがある。彼は風采(ふうさい)も卑しくなく、死に臨んでもいささか悪びれた態度もなく、一首の辞世を残して行ったと言うものがある。一方にはまた、末期(まつご)に及んでもなお助命の沙汰(さた)を期した彼であった、同僚の備前藩士から何事かを耳のほとりにささやかれた時はにわかにその顔色を変えて震えた。彼も死に切れない死を死んで行ったと言うものもある。
四日過ぎには、各国公使は書記官を伴って大坂へ向け出発するばかりになった。居留地の保護は長州兵の隊長に、諸般の事務を兵庫在留の領事らに、それぞれ依頼すべきことは依頼した。兵庫、西宮(にしのみや)から大坂間の街道筋は、山陰、山陽、西海、東海諸道からの要路に当たって、宿駅人馬の継立(つぎた)ても繁雑をきわめると言われたころだ。街道付近の村々からは人足差配方の肝煎(きもい)りが日々両三名ずつ問屋場(といやば)へ詰め、お定めの人馬二十五人二十五匹以外の不足は全部雇い上げとし、賃銭はその月の十四日から六割増と聞こえているくらいだ。各国公使はこの陸よりする途中の混雑を避けて、大坂|天保山(てんぽうざん)の沖までは軍艦で行くことにしてあった。英国公使パアクスの提議で、護衛兵の一隊をも引率して行くことにした。この大坂行きは今までともちがい、各国公使がそれぞれの政府を代表しての晴れの舞台に臨むという時であった。
どうやら二月半ばの海も凪(なぎ)だ。いよいよ朝早く兵庫の地を離れて行くとなると、なんとなく油断のならない気がして来たと言い出すのはオランダ代理公使ブロックであった。先年、条約許容の勅書を携えて、幕府外国奉行|山口駿河(やまぐちするが)が老中|松平伯耆(まつだいらほうき)を伴い、大坂から汽船を急がせて来たのもこの道だと言い出すのは仏国公使ロセスであった。たとい、前例のない京都参府が自分らに許されるとしても、大坂から先の旅はどうであろうかと気づかうのは米国公使ファルケンボルグであった。
大坂西本願寺には各国公使を待ち受ける人たちが集まった。醍醐大納言(だいごだいなごん)(忠順(ただおさ))は大坂の知事、ないしは裁判所総督として。宇和島少将(伊達宗城(だてむねなり))はその副総督として。
次第に外国事務掛りの顔もそろった。兵庫裁判所総督としての東久世通禧も伊藤俊介らを伴って来た。これらの人たちが諸藩からの列席者を持ち合わす間に、順に一人(ひとり)ずつ寺僧に案内されて、清げな白足袋(しろたび)で広間の畳を踏んで来る家老たちもある。
その日、十四日は薩州藩から護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川口(あじがわぐち)に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。その日の主人役はなんと言っても東久世通禧であったが、この人とても外交のことに明るいわけではない。いったい、兵庫から大坂へかけての最初の外国談判は、朝廷の新政治を外国公使に報告し、諸外国の承認を求めねばならない。それにはなるべくは公卿(くげ)の中でその役を勤めるがよいということであった。ところが、公卿の中に、だれも外国公使に接したものがない。第一、西洋人というものにあったものもない。皆|尻込(しりご)みして、通禧を推した。通禧だけが西洋人の顔を見ているというわけで。彼なら西洋人の意気込みも知っているだろうからというわけで。この通禧は過ぐる慶応三年の冬、筑前(ちくぜん)の方にいて、一つ開港場の様子を見て置いたらよかろうと人にも勧められ、自分からも思い立ったことがある。同時に、三条公にも長崎行きを勧めるものがあったが、同公は一方の大将であり、それに密行も気がかりであるからと言って、同行はされなかった。通禧だけが行った。大山格之助の周旋で、薩州人になって長崎へ行った。さらに五代(ごだい)才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて、変名でオランダやイギリスの商人にもあい、米人フルベッキなどにも交わった。その時、外国の軍艦も見、西洋の話も聞いたことがある。
人も知るごとく、通禧は文久三年の過去に、攘夷御親征大和行幸(じょういごしんせいやまとぎょうこう)の事件で長州へ脱走した七卿の一人である。攘夷主唱の張本人とも言うべき人たちの中での錚々(そうそう)である。不思議な運命は、この閲歴を持った人を外国人歓迎の主人役の位置に立たせた。ヨーロッパは日本を去ることも遠く、蘭書以外の洋書のこの国の書庫中に載せらるるものとても少ない。通禧はじめ国際に関する知識もまだ浅かった。しかし、徳川慶喜ですら先年各国公使をこの大坂に集めて将軍自ら会見する先例を開いている。新政府を護(も)り立てようとするものは、この際、何を忍んでも、外国事務局の設置を各国公使に認めさせ、いつまで排外を固執するものでないことを明らかにせねばならない。当時漢訳から来た言葉ではあるが、新熟語として士人の間に流行して来た標語に「万国公法」というがある。旧を捨て新に就(つ)こうとする人たちはそれを何よりの水先案内として、その万国公法の意気で異国人を迎えようとしていた。
そのうちに、公使らの安治川(あじがわ)着を知らせる使者が走って来た。軍旗をたてた薩州兵の一隊を先頭に、護衛の外国兵はいずれも剣付き鉄砲を肩にして、すでに外人居留地を出発したとの注進がある。駕籠(かご)に乗った異人の行列を見ようとする男や女の出たことも驚くばかり、大坂運上所の前あたりから、居留地、新大橋の辺へかけては人の黒山を築いているとの注進もある。
各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行十二人の外交団だ。しばらく休息の時を与えるため、接待役の僧が一室に案内し、黒い裙子(くんし)を着けた子坊主(こぼうず)は高坏(たかつき)で茶菓なぞを運んで行って一行をもてなした。
寺の大広間は内外の使臣が会見室として、すでにその準備がととのえてある。やがて外人側は導かれて畳の上に並べた椅子(いす)に着いた。列藩の家老たちも来てそれぞれ着席する。まず東久世通禧の発話で各公使への挨拶(あいさつ)があった。それは日本の政体の復古した事、帝(みかど)自ら政権を執りたもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨(むね)を告げ、今回外国事務局を建てて交易通商一切の諸事件をことごとく取り扱うから、今日改めて朝廷守護の列藩と共に、各国公使に会同してこの盟約を定める旨を告げた。これには公使らも異議がない。帝はじめ列藩の諸侯が日本人民のために広く信睦(しんぼく)を求め、互いに誠実をもって交わろうということは、各国においてもかねがね渇望したところである、今後は帝の朝廷を日本の主府と仰いで、万事その政令を奉ずるであろう。公使らはその意味のことを答えた。
通禧はまた、言葉を改めて言った。このたび万国と条約を改めた上は、帝自ら各国公使に対面して、盟(ちか)いを立てようとの思(おぼ)し召しである。不日(ふじつ)上京あるべき旨、各国公使に申し入れるよう、帝の命を奉じたのであると。公使らは恐れ入ったと言って、いずれ談合の上、明後日その御返事を申し上げると挨拶した。その時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁(はいえつ)することがかなわないならすみやかに浪華(なにわ)の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、米国公使はそばにいる伊国公使や普国公使を顧みて、自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。
ファルケンボルグはしきりに手をもんだ。横浜居留地の方のことも心にかかるから、としきりに弁解した。通禧はその様子をみて取って言った。
「では、こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい。」
滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟(ちか)いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇(ちゅうちょ)するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内(さんだい)は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。
これには通禧も驚かされた。早速(さっそく)京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦(しんぼく)の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思(おぼ)し召すがいいと申し上げた。
もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人(けとうじん)と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後(いわせひご)なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。
東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州(びしゅう)の御隠居や越前の松平|春嶽(しゅんがく)を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸|東叡山(とうえいざん)の寛永寺(かんえいじ)にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主(おも)な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。
やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事|醍醐忠順(だいごただおさ)、宇和島|伊予守(いよのかみ)、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。
その晩、通禧らは何よりの土産(みやげ)を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思(おぼ)し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。
中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、
「さあ、これです。」
と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。
「ボン。」
ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷(まか)り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。
晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖(そで)を引いて、
「東久世さん、わたしはこういうところで馳走(ちそう)になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ。」
「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしいのでしょう。」
通禧の挨拶(あいさつ)だ。
配膳(はいぜん)の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子(いす)には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴(くちばし)のように動かせる箸(はし)のかわりに、獣の爪(つめ)のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙(さじ)と、きれいに磨(みが)いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口|拭(ふ)きを折り畳(たた)んで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿(さら)を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯(むすび)の代わりだ。
カションはもてなし顔に言った。
「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか。」
給仕人(きゅうじにん)が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走(ちそう)ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒(ぶどうしゅ)ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。
しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人(ひとり)立ち、二人(ふたり)立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。
泉州(せんしゅう)、堺港(さかいみなと)の旭茶屋(あさひぢゃや)に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐(とさ)の家中のものに襲われたとの報知(しらせ)である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃(そげき)されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。
翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪(たず)ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。
すると、フランス側からは早速(さっそく)抗議を提出して来た。それは御門(みかど)政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。
「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候(そうろう)事にて、禽獣(きんじゅう)の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御|詫(わ)び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違(たが)い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言。」
千八百六十八年二月、大坂において
   日本在留
   仏国全権レオン・ロセス
ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもらうことにした。行くえ不明の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑した。どこにいるやもわからないようなものを必ず見つけて返すと言ってのけたからで。
その日の昼過ぎには、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺(さかい)の旭(あさひ)茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐の藩士らは知らん顔をして見ている。ぜひともその晩のうちに七人の死体を捜し出さねば、米国公使に取りなしを依頼した通禧らの立場もなくなるわけだ。一人|探(さが)し出したものには金三十両ずつやると触れ出したところ、港の漁夫らが集まって来て、松明(たいまつ)をつけるやら、綱をおろすやらして探した。七人の異人の死体が順に一人ずつその暗い海から陸へ上がって来た。いずれも着物なしだ。通禧らは人を呼んで、それぞれ毛布に包ませなぞして、七つの土左衛門(どざえもん)のために間に合わせの新規な服を取り寄せる心配までした。中井|弘蔵(こうぞう)がその棺を持って大坂に帰り着いたころは、やがて一番|鶏(どり)が鳴いた。
風雨の日がやって来た。ウエスト号という軍艦まで死骸(しがい)を持って行くにも、通禧らにはかなりの時を要した。その日は小松帯刀(こまつたてわき)も同行した。このあいにくな雨はどうだ、だれもそれを言わないものはない。しかしその雨を冒してまで届けに行くほどの心持ちを示さなかったら、フランス側でも穏やかに死骸(しがい)を引き取るとは言わなかったであろう。時刻も約束にはおくれた。通禧らは時計の針を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。
浪(なみ)も高かった。フランス側ではこの風に危ないと言って、小蒸汽船を卸して通禧らを送りかえしてくれた。ともかくも、死骸はフランス側の手に渡った。しかし、この容易ならぬ事件のあと始末は。それが心配になって、通禧らは帰りの船からもう一度ウエスト号の方を振り返って見た。例の黒船は気味の悪い沈黙を守りながら、雨の川口にかかっていた。
しきりに起こる排外の沙汰(さた)。しかも今度の旭(あさひ)茶屋での件は諸外国との親睦(しんぼく)を約した大坂西本願寺会見の日から見て、実に二日目の出来事だ。危うくもまた測りがたいのは当時の空をおおう雲行きであった。そこで新政府では外国交際の布告を急いだ。太政官(だじょうかん)代三職の名で発表したその布告には、幕府において定め置いた条約が日本政府としての誓約であることからはじめて、時の得失により条目は改められても、その大体に至ってはみだりに動かすべきものでないの意味を告げてある。今さら朝廷においてこれを変えられたら、かえって信義を海外万国に失い、実に容易ならぬ大事であると心得よ、皇国固有の国体と万国公法とを斟酌(しんしゃく)して御採用になったのも、これまたやむを得ない御事であると心得よと告げてある。ついては、越前宰相以下|建白(けんぱく)の趣旨に基づき、広く百官諸藩の公議により、古今の得失と万国交際のありさまとを折衷せられ、今般外国公使の入京参朝を仰せ付けられた次第である、と告げてある。もとより膺懲(ようちょう)のことを忘れてはならない、たとい和親を講じても曲直は明らかにせねばならない、攻守の覚悟はもちろんの事であるが、先朝においてすでに開港を差し許され、皇国と各国との和親はその時に始まっている、このたび王政一新、万機朝廷より仰せいだされるについては、各国との交際も直ちに朝廷においてお取り扱いになるは元よりの御事である、今や御親政の初めにあたり、非常多難の時に際会し、深く恐懼(きょうく)と思慮とを加え、天下の公論をもつて奏聞(そうもん)に及び、今般の事件を御決定になった次第である、かつ、国内もまだ定まらない上に、海外万国交際の大事である、上下協力して共に王事に勤労せよ、現時の急務は活眼を開いて従前の弊習を脱するにあると心得よ、とも告げてある。
これは開国の宣言とも見るべきものであるが、大いに伸びようとするものは大いに屈しなければならないとの意志はこの英断にこもっていた。よろしく世界に進みいでよ、理のあるところには異国人にも頭を下げよ、彼の長を採り我の短を補い万世の大基礎を打ち建てよ、上下一致して縦横に踏み出せ、と言われたのはこの際である。
二月の十九日に、仏国公使からは五か条の申し出があった。三日間にその決答を求めて来た。その時になると、旭茶屋事件の真相もはっきりして来た。仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員は艦長の指揮により、士官両人の付き添いで、堺港内の深浅を測量していたところ、土州兵のためにその挙動を疑われ、にわかに岸からの狙撃(そげき)を受けたものであった。乗組員のうち、わずかに一人(ひとり)だけが水を泳ぎきって無事にその場をのがれたこともわかって来た。フランス側に言わせると、軍港でもないところの海底の深浅を測量したからとて、そのために外国人を斃(たお)すとは何事であるか、もしその行為が不当であるなら乗組員を諭(さと)して去らしめるがいい、それでも言うことをきかなかったら抑留して仏国領事に引き渡すがいい、日本に在留したヨーロッパ人、ないしアメリカ人の身に罪なくして命を失ったものはすでに三十人に及んでいるとの言い分である。
「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、フランス側の被害者は、即死四人、手負い七人、行くえ知れず七人でありましたから、土佐のものも二十人ぐらいでよろしかろうということで、関係者二十人に切腹を言い付けるそうでございます。」
「気の毒なことだが、いたし方ない。暴動人の処刑は先方のきびしい請求だから。」
東久世家の執事と通禧とは、こんな言葉をかわした。
「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください。」
と通禧は言い添えた。
妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた通禧のところへ来て言った。
「今日は土佐家から、客分の家老職に当たります深尾康臣(ふかおやすおみ)も検使として立ち会ったと申してまいりました。鬮引(くじび)きで、切腹に当たる者を呼び出したということですが、なかなか立派であったそうで――辞世なぞも詠(よ)みましたそうで。ところが、切腹を実行して十一人目になりますと、そこに出張していたフランスの士官から助命の申し出がありました。あまり気の毒だから、切腹はもうおやめなさいと申したそうでございます。いや、はや、慷慨家(こうがいか)の寄り集まりで、仏人からそう申しても、ぜひ切ると言った調子で、聞き入れません。これには五代氏も止めるがいいと言い出しまして、切腹、罷(まか)りならぬ、そう厳命で止めさせたと承りました。」
この「切腹、罷りならぬ」には通禧も笑っていいか、どうしていいか、わからなかった。
もはや、旧暦二月末の暖かい雨もやって来るようになった。それからの旭茶屋事件には、仏人からの命|乞(ご)いがあり、九人の土州兵を流罪(るざい)ということにして肥後と芸州とに預けるような相談も出た。山階(やましな)の宮(みや)も英国の軍艦までおいでになって、仏国全権ロセスに面会せられ、五か条の中の一か条で御挨拶(ごあいさつ)があった。この事を心配した土佐の山内容堂が病気を押して国もとから大坂に着いた日の後には、償金十五万両を三度に切って、フランス国に陳謝の意を表するほか、十一人の遺族、七人の負傷者のために土佐藩から贈るような日が続いた。 

「先達(せんだっ)て布告に相成り候(そうろう)各国の中(うち)、仏英蘭公使、いよいよ来たる二十七日大坂表出発、水陸通行、同夜|伏見表(ふしみおもて)に止宿、二十八日上京仰せいだされ候。右については、かねて御沙汰(ごさた)のとおり、すべて万国公法をもって御交際遊ばされ候儀につき、一同心得違いこれなきよう、藩々においても厳重取り締まりいたすべく仰せいだされ候事。」
この布告が出るころには、米国、伊国、普国の公使らはもはや大坂にいなかった。亡(な)きフランス軍人のために神戸外人墓地での葬儀が営まれるのを機会に、関東方面の形勢も案じられると言って、横浜居留地をさして大坂から退いて行った。後には、上京のしたくにいそがしい英国、仏国、オランダの三公使だけが残った。
外人禁制の都、京都へ。このことが英公使パアクスをよろこばせた上に、彼にはこの上京につけて心ひそかな誇りがあった。今や日本の中世的な封建制度はヨーロッパ人の東漸(とうぜん)とともに消滅せざるを得ない時となって来ている、それを見抜いたのが前公使のアールコックであり、また、新社会構成のために西方諸藩の人たちを助けてこの革命を成就(じょうじゅ)せしめようとしているものも、そういう自分であるとの強い自負心は絶えず彼の念頭を去らない。このパアクスは、年若な日本の政事家の多い新政府の人たちを自分の生徒とも見るような心構えでもって、例の赤備兵(あかぞなえへい)の一隊を引き連れ、書記官ミットフォードと共に二十七日にはすでに上京の途についた。
仏国公使ロセスと、オランダ代理公使ブロックとの出発は、それより一日おくれた。これは途中の危険を慮(おもんぱか)り、かつその混雑を防ごうとする日本委員の心づかいによる。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、御一新早々|苦(にが)い経験をなめさせられたのも、そういう新政府の人たちだからであった。太政官(だじょうかん)では従来の秘密主義を捨てて、三国の使節が大坂出発の日取りまで発表し、かく上京参内を仰せ付けられたのも深き思(おぼ)し召しのあることだから、いささかも不作法な所業のないように、町役を勤めるものはもちろん、一家一家においても召使いの者までとくと申し聞けよ、もし心得違いのことがあって国難を引き出したら相済まない次第であるぞ、と触れ出した。
時はあだかも江戸開板の新聞紙が初めて印行されるというころに当たる。東征|先鋒(せんぽう)兼|鎮撫(ちんぶ)総督らの進出する模様は、先年横浜に発行されたタイムス、またはヘラルドの英字新聞を通しても外人の間には報道されていた。大政官日誌以外に、京大坂にはまだ新聞紙の発行を見ない。それでも会津(あいづ)、松山、高松、大多喜(おおたき)等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、その屋敷をも領地をも召し上げらるべきよしの報道なぞはしきりに伝わって来た。新政府が東征軍進発のために立てた予算は当局者以外にだれも知るよしもなかったが、大坂の町人で御用金の命に応じたり、あるいは奮って国恩のために上納金を願い出たりしたもののうわさは、金銭のことにくわしい市民の口に上らずにはいなかったころである。
公使ロセスは書記官カションを同伴して、安治川(あじがわ)の川岸から艀(はしけ)に乗るところへ出た。仏国船将ピレックス、およびトワアルの両人もフランス兵をしたがえて京都まで同行するはずであった。そこへオランダ代理公使ブロックと同国書記官クラインケエスも落ち合って見ると、公使一行の主(おも)なものは都合六人となった。岸からすこし離れたところには二|艘(そう)の小蒸汽船が待っていて、一艘には公使一行と、護衛のために同伴する日本人の官吏およびフランス兵を乗せ、他の一艘には薩州の護衛兵を乗せた。その日は伏見泊まりの予定で、水陸両道から淀川(よどがわ)をさかのぼる手はずになっていた。陸を行く護衛の一隊なぞはすでに伏見街道をさして出発したという騒ぎだ。異国人の参内と聞いて、一行の旅装を見ようとする男や女はその川岸にも群がり集まって来ている。京都の方へは中井|弘蔵(こうぞう)が数日前に先発し、小松|帯刀(たてわき)、伊藤|俊介(しゅんすけ)らは英国公使と同道で大坂を立って行った。ロセスらの一行が途中の無事を祈り顔な東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の名代もその艀(はしけ)まで見送りに来た。
小蒸汽船が動き出してからも、不慮の出来事を警戒するような監視者の目は一刻も毛色の変わった人たちから離れない。いたるところに青みがかった岸の柳も旅するものの目をよろこばすころで、一大三角州をなした淀川の川口にはもはや春がめぐって来ていた。でも、うっかりロセスなぞは肩に掛けていた双眼鏡を取り出せなかったくらいだ。
「こんなにしてくれなくてもいい。どうして外国人はこんな監視を受けなければならないのか。」
オランダの代理公使はひどくうるさがって、それを通訳の書記官に言わせると、付き添いの日本の官吏は首を振った。
「諸君を保護するのであります。」
との答えだ。
旅の掟(おきて)もやかましい。一行が京都へ着いた際の心得まで個条書になって細かく規定されている。その規定によると、滞在中は洛(らく)の中外を随意に徘徊(はいかい)することは許される、諸商い物を買い求めたり小屋物等を見物したりすることも許される、しかし茶屋酒楼等へひそかに越すことは許されない。夜分の外出は差し留められる事、宮方(みやかた)へ行き合う節は路傍に控えおるべき事、堂上あるいは諸侯へ行き合う節は双方道の半ばを譲って通行すべき事の類(たぐい)だ。それには但(ただ)し書(が)きまで付いていて、宮方へ行き合う節は御供頭(おともがしら)へその旨(むね)を通じ、公使から相当の礼式があれば御会釈(ごえしゃく)もあるはずだというようなことまで規定されている。
この個条書を正確に読みうるものは、一行のうちでカションのほかにない。カションはそれを公使ロセスにもオランダ代理公使ブロックにも訳して聞かせた。その船の船室には赤い毛氈(もうせん)を敷き、粗末な椅子(いす)を並べて、茶なぞのもてなしもあったが、カションはひとりながめを自由にするために、大坂を離れるころから船室を出て、舷(ふなばた)に近い廊下の方へ行った。そこここには護衛顔なフランス兵も陣取っている。カションはその狭い廊下の一隅(いちぐう)にいて煙草(たばこ)を取り出そうとすると、近づいて来て彼に挨拶(あいさつ)し、いろいろと異国のことを質問する日本の官吏もあった。
そういうカションはフランス人ながらに、俗にいう袂落(たもとおと)しの煙草入れを洋服の内側のかくしに潜ませているほどの日本通だった。そばへ来た官吏は目さとくそれを見つけて、
「ホ。君は日本の煙草をおやりですか。」
と不思議そうに尋ねる。
カションはフランス人らしく肩をゆすった。さらに別のかくしから燧袋(ひうちぶくろ)まで取り出した。彼はその船中で眼前に展開する河内(かわち)平野の景色でもながめながら一服やることを楽しむばかりでなく、愛用する平たい鹿皮(しかがわ)の煙草入れのにおいをかいで見たり、刀豆形(なたまめがた)の延べ銀の煙管(きせる)を退屈な時の手なぐさみにしたりするだけにも、ある異国趣味の満足を覚えるというふうの男だ。やがて彼は煙管を口にくわえて、さもうまそうに刻みの葉をふかしていた。燧石(ひうちいし)を打つ手つきから、燃えついた火口(ほくち)を煙草に移すまで、その辺は彼も慣れたものだ。それを見ると官吏は目を円(まる)くして、こんな人も西洋人の中にあるかという顔つきで、
「へえ、君はなかなかよく話す。」
「どういたしまして。」
「へたな日本人は、かないませんよ。」
「それこそ御冗談でしょう。」
「だれから君はそんな日本語をお習いでしたか。」
「わたしですか。蝦夷(えぞ)の方にいた時分でした。函館奉行(はこだてぶぎょう)の組頭(くみがしら)に、喜多村瑞見(きたむらずいけん)という人がありまして、あの人につきました。その時分、わたしは函館領事館に勤めていましたから。そうです、あの喜多村さんがわたしの教師です。なかなか話のおもしろい人でした。漢籍にもくわしいし、それに元は医者ですから、医学と薬草学の知識のある人でした。わたしはあの人にフランス語を教える、あの人はわたしに日本語を教えてくれました。あの時分は、喜多村さんも若かったし、わたしもまだ……」
「喜多村瑞見と言えば、聞いたことがある。幕府の使節でフランスの方へ行ってるあの喜多村じゃありませんか。」
「そうです。その喜多村さんです。」
それを聞くと、相手の官吏は急にきげんを悪くして、口をつぐんでしまった。その時、カションは局外中立である自分ら外国人が旧(ふる)い教師のうわさをするのは一向差しつかえはあるまいというふうで、半分ひとりごとのように言った。
「あの人も驚いていましょう。日本の国内に起こったことを聞いたら、驚いてパリから帰って来ましょう。」
よく耕された平野の光景は行く先にひらけた。そのよろこびが公使の一行をじっとさして置かなかった。いずれも平素はその時ほどの旅行の自由を持たなかったからで。そして、これを機会に、先着のヨーロッパ人が足跡をつけて行って見ようとしていたからで。
極東をめがけて来たヨーロッパ人の中には、まれに許されて内地に深く進んだものもないではない。その中にはまた、日本の社会を観察して、かなり手きびしい意見を発表したものもないではない。ヨーロッパ文明と東洋文明とを比較して、その間の主(おも)なる区別は一つであるとなし、前者は虚偽を一般に排斥するも、後者は公然一般にこれを承認する。日本人やシナ人にあっては最も著しい虚言が発覚しても恥辱とせられない、かくまで信用の行なわるることの少ないこの社会に、いかにして人生における種々の関係が保たるるかは、解しがたいきわみであると言うものがある。日本人の道徳、および国民生活の基礎に関する思想は全くヨーロッパ人のそれと異なっている、その婦人身売りの汚辱から一朝にして純潔な結婚生活に帰るようなことは、日本には徳と不徳との間になんらの区画もないかと疑わせると言うものがある。自分らが旅行の初めには、土地の非常に豊かなのにも似ず、住民の貧乏な状態のはなはだしいのが目についた、村はもとより、大家屋の多く見える町でさえ活気や繁栄の見るべきものがない、かく人民の貧窮の状態にあるのはただ外形のみであってその実そうでないのか、あるいは実際耕作より得る収入も少ないのか、自分らはそれを満足に説明することができない、日本では政治上にも、統計上にも、また学問上にも、すべてに関してその知識を得ることが容易でない、これは各人がおのれ自身の生活とその職業とに関しない事項を全く承知しないためによると言うものもある。しかし、日本に高い運命の潜んでいることを言わないヨーロッパ人はない。もし彼ら日本人にして応用科学の知識に欠くることなく、機械工業に進歩することもあらば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるものである、日本は文学上にも哲学上にも未知の国であるが、ここにある家屋は清潔に、衣服も実用に耐え、武器の精鋭は驚くばかりである、独創の美に富んだ美術工芸の類(たぐい)については人によって見方も分かれているが、とにもかくにも過ぐる三百年の間、ほとんど外国と交通することもなしに、これほど独自の文化を築き上げた民族は他にその比を見ない。そう言わないものもない。
「今こそ日本内地の深さにはいって見る時が来た。」
こうカションが公使のそばへ行って語って見せるたびに、ロセスはそれをたしなめるような語気で、
「カション、いくら君が日本の言葉からはいろうとしても、その言葉の奥にあるものには手が届くまい。やはり、われわれヨーロッパのものは、なかなか東洋人の魂にははいれないのだ。」
それがロセスの言い草だった。
公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内(きない)中部地方の高地へと向かったところにあるが、あいにくと曇った日で、遠い山地の方を望むことはかなわなかった。二|艘(そう)の小蒸汽船は対岸に神社の杜(もり)や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々に隠れ潜んで容(かたち)をあらわさない。天気が天気なら、初めて接するそれらの山嶽(さんがく)から、一行のものは激しい好奇心を癒(いや)し得たかもしれない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城(やましろ)から丹波(たんば)にまたがるいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い目で極東の視察に来るヨーロッパ人でも、この淀川に浮かんで来る春をながめたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。
次第に淀の駅の船着場も近いと聞くころには、煙(けぶ)るような雨が川の上へ来た。公使一行の中には慣れない不自由な旅に疲れて、早く伏見へと願っているものがある。何が伏見や京都の方に自分ら外国人を待っているだろうと言って、そろそろ上陸後の心づかいを始めるものがある。舷(ふなばた)の側の狭い廊下にもたれて、暖かではあるが寂しい雨を旅らしくながめているものもある。
日本好きなカションにして見れば、この煙るような雨にしてからが、この国に来て初めて見られるようなものなのだ。なんでも彼は目をとめて見た。しばらく彼は書記官としての自分の勤めも忘れて、大坂|道頓堀(どうとんぼり)と淀の間を往復する川舟、その屋根をおおう画趣の深い苫(とま)、雨にぬれながら櫓(ろ)を押す船頭の蓑(みの)と笠(かさ)なぞに見とれていた。そのうちに、反対な岸の方をも見ようとして、狭い汽船の廊下を一回りして行くと、公使ロセスとオランダ代理公使ブロックとが舷(ふなばた)に近く立って話しているそばへ出た。しとしと降り続けている雨をその廊下からながめながら、聞くつもりもなく彼は公使らの話に耳を傾けた。
「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう。」とロセスの声で。
「無論危ない。救いはどこからもあの港に来ない。おそらく、その日が来たら、居留民を保護する暇なぞは日本新政府の力にもなくなろう。」とブロックの声で。
遠からず来たるべき江戸総攻撃のうわさが、そこにかわされている。公使らを監視しようとして一刻も油断しない戒心のために、同伴の官吏もひどく疲れた時であったから、公使らはその弱点に乗ずるともなく、互いに遠慮のないところを語り合っているのだ。
「徳川慶喜はただただ謹慎の意を表しているというではないか。戦いを好まないというではないか。」
と今度はブロックの声で。
「そこだ。そのことはだれも認めている。あの英国公使ですら、それは認めている。それほど恭順の意を表しているものに対して、攻撃を加えるようなことは、正義と人道とが許すだろうか。」とロセスの声で。
「まったく、君の言うとおりだ。」
「なんとかして江戸攻撃をやめさせることはできないものか。自分はもう、こんなみじめな内乱を傍観してはいられない。」
オランダ公務代理総領事としてのブロックが関東の形勢の案じられると言うにも、相応の理由はあった。この人に言わせると、当時のこの国の急務は内乱をおさめるにある。日本国がいつまでも日本人の手にありたいと願うなら、早くこんな内乱をおさめるがいい。そして国内衰弊の風を諸外国に示さないがいい。これまで強大な諸大名が外国から購(あがな)い入れた軍船、運送船、鉄砲、弾薬の類はおびただしい額に上り、その代金は全部直ちに支払われるはずもなく、現に諸外国の政府もしくは臣民はその債権者の位置にある。もし国内の戦争が日につぎやむ時なく、ここに終わってかしこに始まるというふうに、強大な諸大名が互いに争闘を事としたら、国勢は窮蹙(きゅうしゅく)し、四民は困弊するばかりであろう。これがブロックの懸念(けねん)であった。
「どうしてもこれは英国公使に協議する必要がある。」とまたロセスの声で、「もちろんわれわれは日本の内政に干渉する意志はない。しかしなんらかの形で、南軍の参謀に反省を求める必要がある。あの慶喜をも救わねばならない。一国の政治を執って来たものを、われわれはにわかに逆賊とは見なしたくない。まして慶喜はこれまで政権を執ったばかりでなく、過去三世紀にもわたってこの国の平和を維持した徳川の旧(ふる)い事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見(えっけん)した外国人もあるが、いずれも彼の温雅であって貴人の体を失わないことをほめないものはない。今こそ徳川は不幸にして浮き雲におおわれているが、全く滅亡する事は惜しい、そう多くのものは言っている。しかし、彼慶喜がこの国にあっては、もとより凡庸の人でないことは自分も知っている。彼が自分ら外国人に対してもつねに親友の情を失わないのは不思議もない。」
フランス公使ロセスが徳川に寄せる同情は、言葉のはしにも隠せないものがあった。そこには随行員以外に、だれも公使のつかうフランス語を解するものはいなかった。それでもカションは周囲を見回してその狭い廊下を行きつ戻(もど)りつしながら、公使のそばを立ち去りかねていた。 

三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃(げんば)の官を置き、鴻臚館(こうろかん)を建てて、遠い人を迎えたためしもある。今度の使節の上京はそれとは全く別の場合で、異国人のために建春門を開き、万国公法をもって御交際があろうというのだから、日本紀元二千五百余年来、未曾有(みぞう)の珍事であるには相違なかった。
しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まされない。正直一徹で聞こえた大原三位重徳(おおはらさんみしげとみ)なぞは、一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東|下向(げこう)は勅諚(ちょくじょう)もあるにはあったが、もっぱら鎖攘(さじょう)(鎖港攘夷の略)の国是(こくぜ)であったからで。王政一新の前日までは、鎖攘を唱えるものは忠誠とせられ、開港を唱えるものは奸悪(かんあく)とせられた。しかるに手の裏をかえすように、その方向を一変したとなると、改革以前までの鎖攘を唱えたのは畢竟(ひっきょう)外国人を憎むのではなくして、徳川氏を顛覆(てんぷく)するためであったとしか解されない。もとより朝廷において、そんな卑劣な叡慮(えいりょ)はあらせられるはずもないが、世間からながめた時は徳川氏をつぶす手段と思うであろう。御一新となってまだ間もない。かくもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。
当時、京都は兵乱のあとを承(う)けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸|堺(さかい)の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂(げきこう)もはなはだしい。この際、公使謁見の接待を命ぜられた新政府の人たち、小松|帯刀(たてわき)、木戸準一郎、後藤象次郎(ごとうしょうじろう)、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井|弘蔵(こうぞう)なぞは、どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。三藩の兵隊はまた、それぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛(まも)ることになった。尾州兵は智恩院(ちおんいん)。薩州兵は相国寺(しょうこくじ)。加州兵は南禅寺(なんぜんじ)。
外国使臣一行の異様な行装(こうそう)を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋(うず)めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも騎馬、あるいは駕籠(かご)を用い、中井、伊藤らの官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島(なべしま)、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら、大変な評判になっているころだ。
いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御(しゅつぎょ)して各国代表者の御挨拶(ごあいさつ)を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱(いだ)くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕(きんけつ)の下(もと)に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨(こうがい)するものもある。官吏ともあろうものが夷狄(いてき)の輩(ともがら)を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮(ちゅうりく)すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている群集の中を分けて、西に東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける人で、さながら立錐(りっすい)の地を余さない。
この人出の中に、平田門人|暮田正香(くれたまさか)もまじっていた。彼も今では沢家(さわけ)に身を寄せ、橘東蔵(たちばなとうぞう)の変名で、執事として内外の事に働いている人であるが、丸太町と堺町との交叉(こうさ)する町角(まちかど)あたりに立って、多勢の男や女と一緒に使節一行を待ち受けた。もっとも、その時は正香|一人(ひとり)でもなかった。信州|伊那(いな)の南条村から用事があって上京している同門の人、館松縫助(たてまつぬいすけ)という連れがあった。
彼岸(ひがん)のころの雨降りあげくにかわきかけた町中の道が正香らの目にある。周囲には今か今かと首を延ばして南の方角を望むものがある。そこは相国寺を出る仏国公使の通路でないまでも、智恩院を出る英国公使と、南禅寺を出るオランダ代理公使との通路に当たる。正香も縫助もまだ西洋人というものを見たこともない。昨日の紅夷(あかえみし)は、実に今日の国賓である。そのことが新政府をささえようとする熱い思いと一緒になって、二人(ふたり)の胸に入れまじった。
やがて、加州の紋じるしらしい梅鉢(うめばち)の旗を先に立てて、剣付き鉄砲を肩にした兵隊の一組が三条の方角から堺町通りを動いて来た。公使一行を護衛して来た人たちだ。そのうちにオランダ代理公使ブロックと、その書記官クラインケエスとを乗せた駕籠(かご)は、正香や縫助の待ち受けている前へさしかかった。
遠い世界の人のようにのみ思われていたものは、今二人の平田門人のすぐ目の前にある。正香らはつとめて西洋人の風貌(ふうぼう)を熟視しようとしたが、それは容易なことではなかった。というのは、先方が駕籠の中の人であり、時は短かく、かつ動いているため、思うように公使らを見る余裕もないからであった。のみならず、筒袖(つつそで)、だんぶくろ、それに帯刀の扮装(いでたち)で、周囲を警(いまし)め顔(がお)な官吏が駕籠のそばに付き添うているからで。
しかし、公使らを乗せた駕籠の窓には簾(すだれ)が巻き揚げてある。時には捧の前後に取りつく四人の駕籠かきが肩がわりをするので、正香らは黒羅紗(くろらしゃ)の日覆(ひおお)いの下にくっきりと浮き出しているような公使らの顔をその窓のところに見ることはできた。駕籠の造りは蓙打(ござう)ちの腰黒(こしぐろ)で、そんな乗り物を異国の使臣のために提供したところにも、旧(ふる)い格式などを破って出ようとする新政府の意気込みがあらわれている。初めて正香らの目に映る西洋人は、なかなかに侮りがたい人たちで、ことに代理公使の方は、犯しがたい威風をさえそなえた容貌(ようぼう)の人であった。髪の毛色を異にし、眸(ひとみ)の色を異にし、皮膚の色を異にし、その他風俗から言葉までを異にするような、このめずらしい異国の人たちは、これがうわさに聞いて来た京都かという顔つきで、正香らの見ているところを通り過ぎて行った。
その時、オランダ人の参内を見送った群集はさらに英国公使の一行を待ち受けた。これは随行の赤備兵(あかぞなえへい)を引率していて、一層|華々(はなばな)しい見ものであろうという。ところが智恩院を出たはずの公使らの一行が、待っても、待ってもやって来ない。しまいには正香らはあきらめて、なおも辛抱強くそこに立ち尽くしている多勢の男や女の群れから離れた。
「暮田さん、なんだかわたしは夢のような気がする。」
正香と一緒に歩き出した時の縫助の述懐だ。
京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変に、あるいは破格な外国使臣の参内に、一切が激しく移り変わろうとするまっ最中にある。
「縫助さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ。」
口にこそ出さなかったが、正香はそれを目に言わせて、その足で堺町通りの角(かど)から丸太町を連れと一緒に歩いて行った。そこは平田門人仲間に知らないもののない染め物屋|伊勢久(いせきゅう)の店のある麩屋町(ふやまち)に近い。正香自身が仮寓(かぐう)する衣(ころも)の棚(たな)へもそう遠くない。
正香が連れの縫助は、号を千足(ちたり)ともいう。伊那時代からの正香のなじみである。この人の上京は自身の用事のためばかりではなかった。旧冬十一月の二十二日に徳川慶喜が将軍職を辞したころから、国政は再び復古の日を迎えたとはいうものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田|篤胤(あつたね)の稿本類がいつ兵火の災に罹(かか)るやも知れないと心配し出したのは、伊那の方にある先師没後の門人仲間である。座光寺村の北原稲雄が発起(ほっき)で、伊那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師|鉄胤(かねたね)のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。
正香としては、このよろこばしい音信(おとずれ)を伊勢久の亭主(ていしゅ)にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋|久兵衛(きゅうべえ)の名は縫助もよく聞いて知っている。
「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ。」
と言って、正香は連れを誘った。
御染物所。伊勢屋とした紺暖簾(こんのれん)の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子(ちょうばごうし)のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。
「これは。これは。」
正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。
「さあ、どうぞ。」
とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団(ざぶとん)などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。
久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱(いだ)き、和歌をも能(よ)くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋(あっせん)紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那|伴野(ともの)村の松尾多勢子(まつおたせこ)、つづいて上京した美濃中津川(みのなかつがわ)の浅見景蔵(あさみけいぞう)、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋(わらじ)をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛(じゅらく)を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。
「この正月になりましてから、伊那からもだいぶお見えでございますな。」
と久兵衛は縫助に言って見せて、王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの、何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢|義髄(よしゆき)と原|信好(のぶよし)、榊下枝(さかきしずえ)の変名で岩倉家に身を寄せる原|遊斎(ゆうさい)、伊那での長い潜伏時代から活(い)き返って来たような権田直助(ごんだなおすけ)、その弟子(でし)井上頼圀(いのうえよりくに)、それから再度上京して来て施薬院(せやくいん)の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。
「どれ、お茶でも差し上げて、それからお話を伺うとしましょう。あいにく、家のものを皆出してしまいました。」
そう言いながら久兵衛は奥の方へ立って行って、こまかい大坂格子のかげで茶道具などを取り出す音をさせた。
その時、正香はそこの店先にすわり直して、縫助と二人で話した。
「久兵衛さんもおもしろい人ですね。この店では篤胤先生の本を売りますよ。気吹(いぶき)の舎(や)の著述なら、なんでもそろえてありますよ。染め物のほかに、官服の注文にも応じるしサ。まあ商売(あきない)をしながら、道をひろめているんですね。」
「へえ、これはよいお店だ。」
その店先は、亭主が帳場格子のところにいて染め物の仕事場を監督する場所である。正香は仕事場の方を縫助にさして見せた。入り口から裏の物干し場へ通りぬけられるような土間をへだててその仕事場がある。そこはなかなか広い仕事場であるが、周囲の格子をしめきるとすこぶる薄暗い。しかし三尺もの下壁と言わず、こまかく厚手なぶッつけ格子と言わず、がっしりとした構造は念の入ったものである。正香はまた、四つずつ一組としてある藍瓶(あいがめ)を縫助にさして見せた。わざと暗くしてあるような仕事場の格子を通して、かすかな光線がそこにさし入っている。幾組か並んだ瓶(かめ)の中の染料には熱が加えてあると見えて、静かに沸く藍の香がその店先までにおって来ている。
久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗(ちゃわん)の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶(せんちゃ)を客にもすすめ、自分でも飲みながら、
「館松(たてまつ)さんは、もう錦小路(にしきこうじ)(鉄胤の寓居(ぐうきょ)をさす)をお訪(たず)ねでございましたか。」
こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻(もど)って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。
隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。
「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう。」
「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから。」と正香が言って見せる。
「そいつは、なかなか。」と久兵衛も言う。
「いや、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速(さっそく)、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出ましたところ、大変によろこんでくださいました。道中が心配になりましたから、護(まも)りの御符(ごふ)は白河家(しらかわけ)(京都|神祇伯(じんぎはく))からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をするやらして、たくさんな稿本や書類を馬で運搬したわけなんです。昨年、十二月の十八日に座光寺へ着きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、今村|豊三郎(とよさぶろう)、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です。」
こんな話が尽きなかった。
旅にある縫助はその日と翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市(ひないち)を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸(ひた)って見る時を持たないまでも、ともかくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧(ふる)い交わりを温(あたた)め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。
この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、
「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした。」
その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇(りょうあん)の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道|先鋒(せんぽう)兼|鎮撫(ちんぶ)総督の一行が美濃(みの)を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓(かぐう)を畳(たた)み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。
「暮田さん、あなたからもお願いしてください。」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど。」
「なあに、そこは万国公法の世の中だもの。」と正香が戯れて見せた。
「それ、それ、」と久兵衛も軽く笑って、「近ごろはそれが大流行(おおはやり)。」
「縫助さん、君もその意気で預かって行くさ。」とまた正香が言い添える。
「暮田さんらしいトボけたことを言い出したぞ。」と縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きましたね。では、こうします。立つ前に、もう一度暮田さんを訪(たず)ねます。その時に伊勢屋さんへもお寄りします。」
英国公使パアクスの上京には新政府でもことに意を用いた。大坂を立つ時は小松|帯刀(たてわき)と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見|稲荷(いなり)の辺に出迎え、無事に智恩院の旅館に到着した。この公使の一行が赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を引率し、あるいは騎馬、あるいは駕籠(かご)で、参内のために智恩院新門前通りから繩手通(なわてどお)りにかかった時だ。そこへ二人の攘夷家が群集の中から飛び出したのであった。かねて新政府ではこんなことのあるのを憂い、各藩からは二十人以上の兵隊を出させ、通行の道筋を厳重に取り締まらせ、旅館の近傍へは屯兵所(とんぺいじょ)を設けて昼夜怠りなき回り番の手配りまでしたほどであったのに、新政府が万国交際の趣意もよく攘夷家に徹しなかったのであろう。それ乱暴者だと言って、一行護衛の先頭にあった兵隊が発砲する、群集は驚いて散乱する、その間に壮漢らの撃ち合いが行なわれた。中井弘蔵と後藤象次郎とは公使の接待役として、その時も行列の中にあったが、後藤は赤備兵の中へしゃにむに斬(き)り込んで来たもののあるのを見て、刀を抜いて一名を斃(たお)した。二度目に後藤の刀の目釘(めくぎ)が抜けて、その刀が飛んだ。そこで中井が受けた。中井は受けそこねて、頭部を斬られながらその場に倒れた。一名が兵隊のため生捕(いけど)りにされて、この騒ぎはようやくしずまったが、赤備兵の中には八、九人の手負いを出した。騎馬で行列の中にあったパアクスその人は運強くも傷つけられなかったとはいえ、参内はこの変事のために見合わせになった。さてこそ英国公使の通行を見なかったのである。一方には、紫宸殿(ししんでん)での御対面の式がパアクス以外の二国公使に対して行なわれた。新帝は御袴(おんはかま)に白の御衣(ぎょい)で、仏国のロセスとオランダのブロックとに拝謁を許された。式後の公使には鶴(つる)の間(ま)で、菓子カステラなどを饗(きょう)せられたという。従来、徳川将軍の時代にもまれに外国使節の謁見を許したが、しかし将軍の態度はすこぶる尊大であったのに、その跪坐低頭(きざていとう)の礼をすら免じ、帝みずから親しく異邦人を引見せられるばかりか、彼らをして直立して帝の尊顔を拝することを得せしめたもうたとある。この一事だけでも、彼らフランス人やオランダ人の間には信じがたいほどの大改革の感を与えたという。しかし、繩手通りでの変事がロセスらに知られずにはいなかった。式の終わったあとで、接待役と通詞とを兼ねた伊藤俊介が二公使を接待席に伴ない、その時までロセスに示さずにあったパアクスからの書面を取り出して見せた。それは英国の一騎兵がパアクスの使いとして仏国公使あてに持参したものだ。ロセスはそれを読むと、たちまち顔色を変え、「暴動がある。」と叫びながらそこそこに暇(いとま)を告げて、単騎で智恩院へ駆けつけた。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクスは頭を左右に振って、仏国公使の勧めに応じなかったとか。
これらの話をもって、翌日の午後にまた正香は久兵衛を見に寄った。衣(ころも)の棚(たな)の方へ暇乞(いとまご)いに来た縫助とも同道で、二人して伊勢久の店先に腰掛けた。
「どうも驚きましたね。」
久兵衛は奥からそこへ飛んで出て来て言った。店先に腰掛けるものも、火鉢(ひばち)なぞを引き寄せて客を迎えるものも、互いに顔を見合わせた。
「昨日は、岩倉様が見舞いに行く、越前の殿様(春嶽)が見舞いに行く、智恩院も大変だったそうです。」とまた久兵衛が言い出した。「昨晩はみんな心配したようですよ。」
「でも、パアクスもおもしろい男じゃありませんか。」と正香は言った。「引き連れて来た兵士に傷を負ったものは多いんだけれど、自分も、士官らも、中井、後藤二氏の奮闘のおかげで助かった、今ここで謁見の式も済まさずに帰ってしまったら、皇帝陛下に対しても不敬に当たるだろう――そう言ったそうだ。」
「さあ、この処置はどう収まるものですかサ。すくなくも六、七万両ぐらいの償金は取られるだろうなんて、そんなうわさでございますよ。」
その時になると、二日を置いて改めて英国公使の参内があると触れ出されたが、町々の取り締まりは一層厳重をきわめるようになった。久兵衛は帳場格子のところへ立って行って、町役人から回って来たばかりの触れ書を取り出して来た。それを正香にも縫助にも見せた。来たる英国公使参内の当日には、繩手通り、三条通りから、堺町の往来筋へかけて、巳(み)の刻(こく)より諸人通行留めの事とある。左右横道の木戸は締め切りの事とある。往来筋に住居(すまい)する町家その他の家族と召使いのほかは、他人一切の滞留を差し留めるともある。
「ホ、」と縫助は目を円(まる)くして、「公用はもちろん、私用でも、町役人の免許を得ないものは通行を許さないとありますね。ぐずぐずしてると、わたしは国の方へ立てなくなる。」
「今は京都も騒がしゅうございますよ。諸藩の人が入り込んでおります。こんな新政府は今にひっくりかえるなんて、内々そんな腹でいるものもございます――なかなか油断はなりません。」
久兵衛は言葉に力を入れてそれを縫助に言って見せた。
そこへ久兵衛の養子が奥から顔を出した。店には平田|篤胤(あつたね)の遺著でも取りそろえて置こうというような町人|気質(かたぎ)の久兵衛とも違って、その養子はまた染め物屋一方という顔つきの人だ。手も濃い藍(あい)の色に染まっている。久兵衛はその人に言い付けて、帳箪笥(ちょうだんす)の横手にある戸棚(とだな)から紙包みを取り出させた。その上に、「御誂(おあつらえ)、伊勢久」としてあるのを縫助の前に置いた。
「では、恐れ入りますが、これを中津川の浅見景蔵さんへ届けていただきたい。道中のお荷物になって、お邪魔でしょうけれど。」と言って、久兵衛は養子の方を顧みて、「ちょっとお客様にお目にかけるか。」
「よい色に上がりましたよ。」と養子も紙包みを解きながら言った。
「これはよい黒だ。」と正香が言う。
「京の水でなければこの色は出ません。江戸紫と申して、江戸の水は紫に合いますし、京の水はまた紅(べに)によく合います。京紅と申すくらいです。この羽織地(はおりじ)の黒も下染めには紅が使ってございます。」
久兵衛は久兵衛らしいことを言った。
「確かに。」
その言葉を残して置いて、縫助は久兵衛に別れを告げた。預かった染め物の風呂敷包(ふろしきづつ)みをも小脇(こわき)にかかえながら、やがて彼は紺地に白く伊勢屋と染めぬいてある暖簾(のれん)をくぐって出た。
「縫助さん、わたしもそこまで一緒に行こう。」
と言いながら正香は縫助のあとを追って行った。
外国人滞在中は、乗輿(じょうよ)、および乗馬のまま九門の通行を許すというだけでも、今までには聞かなかったことである。一事が実に万事であった。一切の破格なことがかもし出す空気は、この山の上の古い都に活(い)き返るような生気をそそぎ入れつつあった。
「とにかく、世界の人を相手にするような時世にはなって来ましたね。」
伊那南条村の片田舎(かたいなか)から出て来て見た縫助にこの述懐があるばかりでなく、王政復古を迎えた日は、やがて万国交際の始まった日であったとは、正香にとっても決しておろそかには考えられないことであった。
縫助は三条の方角をさして、正香と一緒に麩屋町(ふやまち)から寺町の通りに出ながら、
「暮田さん、今度わたしは京都に出て来て見て、そう思います。なんと言っても今のところじゃ藩が中心です。藩というものをそれぞれ背負(しょ)って立ってる人たちは、思うことがやれる。ところが、われわれ平田門人はいずれも医者か、庄屋(しょうや)か、本陣|問屋(といや)か、でなければ百姓町人でしょう。」
「そう言えば、そうさ。平田門人の大部分は。」
「でしょう。みんな縁の下の力持ちです。それでも、どうかして新政府を護(も)り立てようとしています。それを思うと、いたいたしい。」
「しかし、縫助さん、君は平田門人が下積みになってるものばかりのように言うが、士分のものだってなくはない。」
「そうでしょうか。」
「見たまえ、こないだわたしは鉄胤(かねたね)先生のところで、天保(てんぽう)時代の古い門人帳を見せてもらったが、あの時分の篤胤|直門(じきもん)は五百四十九人ぐらいで、その中で七十三人が士分のものさ。全国で十七藩ぐらいから、そういう人たちを出してるよ。最も多い藩が十四人、最も少ない藩が一人(ひとり)というふうにね。鹿児島(かごしま)、津和野(つわの)、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台(せんだい)――数えて来ると、同門の藩士もふえて来たね。山吹(やまぶき)、苗木(なえぎ)なぞは言うまでもなしさ。あの時分の十七藩が、今じゃ三十五藩ぐらいになってやしないか。そこだよ、君――各藩は今、大きな問題につき当たって、だれもが右往左往してる。勤王か、佐幕かだ。こういう時に、平田篤胤没後の門人が諸藩の中にもあると考えて見たまえ。あの越前藩の中根雪江が、春嶽公と同藩の人たちとの間に立って、勤王を鼓吹してるなぞは、そのよい例じゃないかと思うね。それから、越前には君、橘曙覧(たちばなあけみ)のような同門の歌人もあるよ――もっとも、この人は士分かどうか、その辺はよく知らないがね。」
「とにかく、暮田さん。同門の人たちが急にふえて来たことは、驚くようですね。他の土地は知りませんが、あなたが伊那に来て隠れていた時分、一年の入門者は二十人くらいのものでしたろう。それでもあの谷じゃ、七人か九人から急に二十人の入門者ができたと言って、みんな肩身が広くなったように思ったものです。どうでしょう、昨年の冬からこの春へかけて、一息に百人という勢いですぜ。」
「この調子で行ったら、全国の御同門は今に三千人を越えるだろうね。そりゃ君、士分のものばかりじゃない。堂上の公卿(くげ)衆にだって、三十人近い御同門のかたができて来たからね。こんなに故人の平田篤胤を師と頼んで来る人のあるのは、どういう理由(わけ)かと尋ねて見るがいい。あの篤胤先生には『霊(たま)の真柱(まはしら)』という言葉がある……そうさ、魂の柱さ。そいつを皆が失っているからじゃないかね……今の時代が求めるものは、君、再び生きるということじゃなかろうか……」
しばらく二人(ふたり)は黙って寺町の通りを歩いて行った。そのうちに、縫助は何か言い出そうとして、すこし躊躇(ちゅうちょ)して、また始めた。
「暮田さん、ここまで送って来ていただけばたくさんです。あすの朝はわたしも早く立ちます。大津経由で、木曾(きそ)街道の方に向かいます。ここでお別れとしましょう。」
「まあもうすこし一緒に行こう。」
「どうでしょう、暮田さん、沢家のお邸(やしき)の方へは何か報告が来るんでしょうか。東山道回りの鎮撫(ちんぶ)総督も行き悩んでいるようですね。」
「どうも、そうらしい。」
「あれで美濃にはいろいろな藩がありますからね。中には、佐幕でがんばってるところもありますからね。」
「これから君の足で木曾街道を下って行ったら、大垣(おおがき)あたりで総督の一行に追いつきゃしないか。」
「さあ」
「中津川の浅見君にはよろしく言ってくれたまえ。それから、君が馬籠峠(まごめとうげ)を通ったら、あそこの青山半蔵の家へも声をかけて行ってもらいたい。」
とうとう、正香は縫助について、寺町の通りを三条まで歩いた。さらに三条大橋のたもとまで送って行った。その河原(かわら)は正香にとって、通るたびに冷や汗の出るところだ。過ぐる文久三年の二月、同門の師岡正胤(もろおかまさたね)ら八人のものと共に、彼が等持院にある足利尊氏(あしかがたかうじ)以下、二将軍の木像の首を抜き取って、幕府への見せしめのため晒(さら)し物としたのも、その河原だ。そこには今、徳川慶喜征討令を掲げた高札がいかめしく建てられてあるのを見る。川上の橋の方から奔(はし)り流れて来る加茂川(かもがわ)の水に変わりはないまでも、京都はもはや昨日の京都ではない。人心を鼓舞するために新しく作られた「宮さま、宮さま」の軍歌は、言葉のやさしいのと流行唄(はやりうた)の調子に近いのとで、手ぬぐいに髪を包んでそこいらの橋のたもとに遊んでいるような町の子守(こも)り娘の口にまで上っていた。 
第三章

 


東海、東山、北陸の三道よりする東征軍進発のことは早く東濃南信の地方にも知れ渡った。もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころは、同じ東山道方面の庄屋(しょうや)本陣|問屋(といや)仲間で徳川|慶喜(よしのぶ)征討令が下るまでの事情に通じたものもまだ少なかった。
今度の東山道|先鋒(せんぽう)は関東をめがけて進発するばかりでなく、同時に沿道諸国|鎮撫(ちんぶ)の重大な使命を兼ねている。本来なら、この方面には岩倉公の出馬を見るべきところであるが、なにしろ公は新政府の元締めとも言うべき位置にあって、自身に京都を離れかねる事情にあるところから、岩倉少将(具定(ともさだ))、同|八千丸(やちまる)(具経(ともつね))の兄弟(きょうだい)の公達(きんだち)が父の名代(みょうだい)という格で、正副の総督として東山道方面に向かうこととなったのである。それには香川敬三、伊地知正治(いじちまさはる)、板垣退助(いたがきたいすけ)、赤松護之助(あかまつもりのすけ)らが、あるいは参謀として、あるいは監察として随行する。なお、この方面に総督を護(まも)って行く役目は薩州(さっしゅう)、長州、土州、因州の兵がうけたまわる。それらの藩から二名ずつを出して軍議にも立ち合うはずである。景蔵はその辺の事情を友人の蜂谷香蔵(はちやこうぞう)にも、青山半蔵にも伝え、互いに庄屋なり本陣なり問屋なりとして、東山道軍の一行をあの街道筋に迎えようとしていた。
幕府廃止以来、急激な世態の変化とともに、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を現出した地方もある中で、景蔵らの住む東濃方面は尾州藩の行き届いた保護の下にあった。それでも人心の不安はまぬかれない。景蔵が帰国を急いだはこの地方の動揺の際だ。
青山半蔵は馬籠(まごめ)本陣の方にいて、中津川にある二人(ふたり)の友人と同じように、西から進んで来る東山道軍を待ち受けた。だれもが王政一新の声を聞き、復興した御代(みよ)の光を仰ごうとして、競って地方から上京するものの多い中で、あの景蔵がわざわざ京都の方にあった仮寓(かぐう)を畳(たた)み、師の平田|鉄胤(かねたね)にも別れを告げ、そこそこに美濃(みの)の郷里をさして帰って来たについては、深い理由がなくてはかなわない。半蔵は日ごろ敬愛するあの年上の友人の帰国から、いろいろなことを知った。伝え聞くところによると、東山道総督として初陣(ういじん)の途に上った岩倉少将はようやく青年期に達したばかりのような年ごろの公子である。兄の公子がその若さであるとすると、弟の公子の年ごろは推して知るべしである。いかに父の岩倉公が新政府の柱石とも言うべき公卿(くげ)であり、現に新帝の信任を受けつつある人とは言いながら、その子息らはまだおさなかった。沿道諸藩の思惑(おもわく)もどうあろう。それに正副の総督を護(まも)って来る人たちがいずれ一騎当千の豪傑ぞろいであるとしても、おそらく中部地方の事情に暗い。これは捨て置くべき場合でないと考えたあの友人のあわただしい帰国が、その辺の消息を語っている。半蔵は割合に年齢(とし)の近い中津川の香蔵を通して、あの年上の友人の国をさして急いで来た心持ちを確かめた。
そればかりでない、帰国後の景蔵は香蔵と力をあわせ、東濃地方にある平田諸門人を語らい、来たるべき東山道軍のためによき嚮導者(きょうどうしゃ)たることを期している。それを知った時は半蔵の胸もおどった。できることなら彼も二人の友人と行動を共にしたかった。でも、木曾福島(きそふくしま)の代官山村氏の支配の下にある馬籠の庄屋に、それほどの自由が許されるかどうかは、すこぶる疑問であった。
東山道総督執事の名で、この進軍のため沿道地方に働く人民を励まし、またその応援を求める意味の布告が発せられたのは、すでに正月のころからである。半蔵は幾たびか木曾福島の方から回って来るお触れ状を読んだ。それは木曾谷中を支配する地方(じかた)御役所よりの通知で、尾張藩(おわりはん)からの厳命に余儀なくこんな通知を送るとの苦(にが)い心持ちが言外に含まれていないでもない。名古屋方と木曾福島の山村氏が配下との反目はそんなお触れ状のはじにも隠れた鋒先(ほこさき)をあらわしていた。ともあれ、半蔵はそれを読んで、多人数入り込みの場合を予想し、人夫の用意から道橋の修繕までを心がける必要があった。各宿とも旅客用の夜具|蒲団(ふとん)、膳椀(ぜんわん)の類(たぐい)を取り調べ、至急その数を書き上ぐべきよしの回状をも手にした。皇軍通行のためには、多数の松明(たいまつ)の用意もなくてはならない。木曾谷は特に森林地帯とあって、各村ともその割り付けに応ずべきよしの通知もやって来た。
半蔵は会所の方へ隣家の伊之助(いのすけ)その他の宿役人を集めて相談する前に、まず自分の家へ通(かよ)って来る清助と二人でその通知を読んで見た。各村とも三千|把(ぱ)から三千五百把ずつの松明を用意せよとある。これは馬籠(まごめ)宿の囲いうちにのみかぎらない。上松(あげまつ)、須原(すはら)、野尻(のじり)、三留野(みどの)、妻籠(つまご)の五宿も同様であって、中には三留野宿の囲いうちにある柿其村(かきそれむら)のように山深いところでは、一村で松明七千把の仕出し方を申し付けられたところもある。
清助は言った。
「半蔵さま、御覧なさい。檜木(ひのき)類の枝を伐採する場所と、元木(もとぎ)の数をとりしらべて、至急書面で届け出ろとありますよ。つまり、木曾山は尾州の領分だから、松明(たいまつ)の材料は藩から出るという意味なんですね。へえ、なかなかこまかいことまで言ってよこしましたぞ。元木の痛みにならないように、役人どもにおいてはせいぜい伐採を注意せよとありますよ。いずれ御材木方も出張して、お取り締まりもある、御陣屋|最寄(もよ)りの場所はそこへ松明を取り集めて置いて、入り用の節に渡すはずであるから、その辺のことを心得て不締まりのないようにいたせ、ともありますよ。」
どうして、これらの労苦の負担は木曾地方の人民にとって決して軽くない。その通知によれば、馬籠村三千把、山口村三千五百把、湯舟沢村三千五百把とあって、半蔵が世話すべき宿内に割り当てられた分だけでも、松明(たいまつ)一万把の仕出し方を申し付けられたことになる。しかし彼はどんなにでもして、村民を励まし、奮ってこの割り付けに応じさせようとしていた。
それほど半蔵は王師を迎える希望に燃えていた。どれほどの忍耐を重ねたあとで、彼も馬籠の宿場に働く人たちと共に、この新しい春にめぐりあうことができたろう。その心から、たとい中津川の友人らと行動を共にし得ないまでも、一庄屋としての彼は自分の力にできるだけのことをして、来たるべき東山道軍を助けようとしていた。かねて新時代の来るのを待ち切れないように、あの大和(やまと)五条にも、生野(いくの)にも、筑波山(つくばさん)にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起(ほうき)しつつあった討幕運動は――実に、こんな熾仁親王(たるひとしんのう)を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。
地方の人民にあてて東山道総督執事が発した布告は、ひとりその応援を求める意味のものにとどまらない。どんな社会の変革でも人民の支持なしに成し就(と)げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならない。万事草創の際で、新政府の信用もまだ一般に薄かった。東山道総督の執事はそのために、幾たびか布告を発して、民意の尊重を約束した。このたび勅命をこうむり進発する次第は先ごろ朝廷よりのお触れのとおりであるが、地方にあるものは安堵(あんど)して各自の世渡りせよ。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政(かせい)に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨(むね)を本陣に届けいでよ。総督の進発については、沿道にある八十歳以上の老年、および鰥寡(かんか)、孤独、貧困の民どもは広く賑恤(しんじゅつ)する。忠臣、孝子、義夫、および節婦らの聞こえあるものへは、それぞれ褒美(ほうび)をやる思(おぼ)し召しであるから、諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べ、書面をもって本陣へ申し出よ。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨(えいし)であるぞ、と触れ出されたのもこの際である。
こんなふうに、新政府が地方人民を頼むことの深かったのも、一つは新政府に対する沿道諸藩が向背(こうはい)のほども測りがたかったからで。最初、伏見鳥羽(ふしみとば)の戦いが会津(あいづ)方の敗退に終わった時、東山道方面の諸藩ではその出来事を先年八月十八日の政変に結びつけて、あの政変が逆に行なわれたぐらいに考えるものが多かった。もとより沿道の諸藩にもいろいろある。それぞれ領地の事情を異にし、旧将軍家との関係をも異にしている。中には、大垣藩(おおがきはん)のように直接に伏見鳥羽の戦いに参加して、会津や桑名を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な波動が各自の城下にまで及んで来ると思うものもなかった。その慶喜が軍艦で江戸の方へ去ったと聞いた時にすら、各藩の家中衆はまだまだ心を許していた。日本の国運循環して、昨日の将軍は実に今日の逆賊であると聞くようになって、それらの家中衆はいずれもにわかに強い衝動を受けた。その衝動は非常な藩論の分裂をよび起こした。これまで賊徒に従う譜代臣下の者たりとも、悔悟|憤発(ふんぱつ)して国家に尽くす志あるの輩(ともがら)は寛大の思し召しをもって御採用あらせらるべく、もしまた、この時節になっても大義をわきまえずに、賊徒と謀(はかりごと)を通ずるような者は、朝敵同様の厳刑に処せられるであろう。この布告が東山道総督執事の名で発表せらるると同時に、それを読んだ藩士らは皆、到底現状の維持せられるべくもないことを知った。さすがに、ありし日の武家時代を忘れかねるものは多い。あるいは因循姑息(いんじゅんこそく)のそしりをまぬかれないまでも、君侯のために一時の安さをぬすもうと謀(はか)るものがあり、あるいは両端を抱(いだ)こうとするものがある。勤王か、佐幕か――今や東山道方面の諸藩は進んでその態度を明らかにすべき時に迫られて来ていた。
慶喜と言えば、彼が過ぐる冬十月の十二日に大小|目付(めつけ)以下の諸有司を京都二条城の奥にあつめ、大政奉還の最後の決意を群臣に告げた時、あるいは政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないかと言って、退位後の諸藩の末を案じながら将軍職を辞して行ったのもあの慶喜だ。いかにせば幕府の旧勢力を根からくつがえし、慶喜の問題を処分し、新国家建設の大業を成し就(と)ぐべきやとは、当時京都においても勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た問題である。よろしく衆議を尽くし、天下の公論によるべしとは、後年を待つまでもなく、早くすでに当時に萌(きざ)して来た有力な意見であった。この説は主として土佐藩の人たちによって唱えられたが、これには反対するものがあって、衆議は容易に決しなかった。剣あるのみ、とは薩摩(さつま)の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)のような人の口から言い出されたことだという。もはや、論議の時は過ぎて、行動の時がそれに代わっていた。
この形勢をみて取った有志の間には、進んで東征軍のために道をあけようとする気の速い連中もある。東山道|先鋒(せんぽう)兼|鎮撫(ちんぶ)総督の先駆ととなえる百二十余人の同勢は本営に先立って、二門の大砲に、租税半減の旗を押し立て、旧暦の二月のはじめにはすでに京都方面から木曾街道を下って来た。 

京坂地方では例の外国使臣らの上京参内を許すという未曾有(みぞう)の珍事で騒いでいる間に、西から進んで来た百二十余人の同勢は、堂上の滋野井(しげのい)、綾小路(あやのこうじ)二卿の家来という資格で、美濃の中津川、落合(おちあい)の両宿から信濃境(しなのざかい)の十曲峠(じっきょくとうげ)にかかり、あれから木曾路にはいって、馬籠峠の上をも通り過ぎて行った。あるところでは、藩の用人や奉行(ぶぎょう)などの出迎いを受け、あるところでは、本陣や問屋などの出迎いを受けて。
「もう、先駆がやって来るようになった。」
この街道筋に総督を待ち受けるほどのもので、それを思わないものはない。一行の大砲や武装したいでたちを見るものは来たるべき東山道軍のさかんな軍容を想像し、その租税半減の旗を望むものは信じがたいほどの一大改革であるとさえ考えた。やがて一行は木曾福島の関所を通り過ぎて下諏訪(しもすわ)に到着し、そのうちの一部隊は和田峠を越え、千曲川(ちくまがわ)を渡って、追分(おいわけ)の宿にまで達した。
なんらの抵抗を受けることもなしに、この一行が近江(おうみ)と美濃と信濃の間の要所要所を通り過ぎたことは、それだけでも東山道軍のためによい瀬踏みであったと言わねばならぬ。なぜかなら、西は大津から東は追分までの街道筋に当たる諸藩の領地を見渡しただけでも、どこに譜代大名のだれを置き、どこに代官のだれを置くというような、その要所要所の手配りは実に旧幕府の用心深さを語っていたからで。彦根(ひこね)の井伊氏(いいし)、大垣(おおがき)の戸田氏、岩村の松平(まつだいら)氏、苗木(なえぎ)の遠山氏、木曾福島の山村氏、それに高島の諏訪(すわ)氏――数えて来ると、それらの大名や代官が黙ってみていなかったら、なかなか二門の大砲と、百二十余人の同勢で、素通りのできる道ではなかったからで。
この一行はおもに相良惣三(さがらそうぞう)に率いられ、追分に達したその部下のものは同志金原忠蔵に率いられていた。過ぐる慶応三年に、西郷吉之助が関東方面に勤王の士を募った時、同志を率いてその募りに応じたのも、この相良惣三であったのだ。あの関西方がまだ討幕の口実を持たなかったおりに、進んで挑戦的(ちょうせんてき)の態度に出、あらゆる手段を用いて江戸市街の攪乱(こうらん)を試み、当時江戸警衛の任にあった庄内藩(しょうないはん)との衝突となったのも、三田(みた)にある薩摩屋敷の焼き打ちとなったのも皆その結果であって、西の方に起こって来た伏見鳥羽の戦いも実はそれを導火線とすると言われるほどの討幕の火ぶたを切ったのも、またこの相良惣三および同志のものであったのだ。
意外にも、この一行の行動を非難する回状が、東山道総督執事から沿道諸藩の重職にあてて送られた。それには、ちかごろ堂上の滋野井(しげのい)殿や綾小路(あやのこうじ)殿が人数を召し連れ、東国|御下向(ごげこう)のために京都を脱走せられたとのもっぱらな風評であるが、右は勅命をもってお差し向けになったものではない、全く無頼(ぶらい)の徒が幼稚の公達(きんだち)を欺いて誘い出した所業と察せられると言ってある。綾小路殿らはすでに途中から御帰京になった、その家来などと唱え、追い追い東下するものがあるように聞こえるが、右は決して東山道軍の先駆でないと言ってある。中には、通行の途次金穀をむさぼり、人馬賃銭不払いのものも少なからぬ趣であるが、右は名を官軍にかりるものの所業であって、いかようの狼藉(ろうぜき)があるやも測りがたいから、諸藩いずれもこの旨(むね)をとくと心得て、右等の徒に欺かれないようにと言ってある。今後、岩倉殿の家来などと偽り、右ようの所業に及ぶものがあるなら、いささかも用捨なくとらえ置いて、総督御下向の上で、その処置を伺うがいいと言ってある。万一、手向かいするなら、討(う)ち取ってもくるしくないとまで言ってある。
こういう回状は、写し伝えられるたびに、いくらかゆがめられた形のものとなることを免れない。しかし大体に、東山道軍の本営でこの自称先駆の一行を認めないことは明らかになった。
「偽(にせ)官軍だ。偽官軍だ。」
さてこそ、その声は追分からそう遠くない小諸藩(こもろはん)の方に起こった。その影響は意外なところへ及んで、多少なりとも彼らのために便宜を計ったものは、すべて偽官軍の徒党と言われるほどのばからしい流言の渦中(かちゅう)に巻き込まれた。追分の宿はもとより、軽井沢(かるいざわ)、沓掛(くつかけ)から岩村田へかけて、軍用金を献じた地方の有志は皆、付近の藩からのきびしい詰問を受けるようになった。そればかりではない、惣三らの通り過ぎた木曾路から美濃地方にまでその意外な影響が及んで行った。馬籠本陣の半蔵が木曾福島へ呼び出されたのも、その際である。
そこは木曾福島の地方(じかた)御役所だ。名高い関所のある街道筋から言えば、深い谷を流れる木曾川の上流に臨み、憂鬱(ゆううつ)なくらいに密集した原生林と迫った山とにとりかこまれた対岸の傾斜をなした位置に、その役所がある。そこは三棟(みむね)の高い鱗葺(こけらぶ)きの屋根の見える山村氏の代官屋敷を中心にして、大小三、四十の武家屋敷より成る一区域のうちである。
役所のなかも広い。木曾谷一切の支配をつかさどるその役所には、すべて用事があって出頭するものの待ち合わすべき部屋(へや)がある。馬籠から呼び出されて行った半蔵はそこでかなり長く待たされた。これまで彼も木曾十一宿の本陣問屋の一人(ひとり)として、または木曾谷三十三か村の庄屋の一人として、何度福島の地を踏み、大手門をくぐり、大手橋を渡り、その役所へ出頭したかしれない。しかし、それは普通の場合である。意味ありげな差紙(さしがみ)なぞを受けないで済む場合である。今度はそうはいかなかった。
やがて、足軽(あしがる)らしい人の物慣れた調子で、
「馬籠の本陣も見えております。」
という声もする。間もなく半蔵は役人衆や下役などの前に呼び出された。その中に控えているのが、当時佐幕論で福島の家中を動かしている用人の一人だ。おもなる取り調べ役だ。
その日の要事は、とかくのうわさを諸藩の間に生みつつある偽(にせ)官軍のことに連関して、一層街道の取り締まりを厳重にせねばならないというにあったが、取り調べ役はただそれだけでは済まさなかった。右の手に持つ扇子(せんす)を膝(ひざ)の上に突き、半蔵の方を見て、相良惣三ら一行のことをいろいろに詰問した。
「聞くところによると、小諸(こもろ)の牧野遠江守(まきのとおとうみのかみ)の御人数が追分(おいわけ)の方であの仲間を召し捕(と)りの節に、馬士(まご)が三百両からの包み金(がね)を拾ったと申すことであるぞ。早速(さっそく)宿役人に届け出たから、一同立ち会いの上でそれを改めて見たところ、右の金子(きんす)は賊徒が逃げ去る時に取り落としたものとわかって、総督府の方へ訴え出たとも申すことであるぞ。相良惣三の部下のものが、どうして三百両という大金を所持していたろう。半蔵、その方はどう考えるか。」
そんな問いも出た。
その席には、立ち会いの用人も控えていて、取り調べ役に相槌(あいづち)を打った。その時、半蔵は両手を畳の上について、惣三らの一行が馬籠宿通行のおりの状況をありのままに述べた。尾張領通行のみぎりはあの一行のすこぶる神妙であったこと、ただ彼としては惣三の同志|伊達徹之助(だててつのすけ)の求めにより金二十両を用立てたことをありのままに申し立てた。
「偽役(にせやく)のかたとはさらに存ぜず、献金なぞいたしましたことは恐れ入ります。」
そう半蔵は答えた。
「待て、」と取り調べ役が言った。「その方もよく承れ。近ごろはいろいろな異説を立てるものがあらわれて来て、実に心外な御時世ではある。なんでも悪い事は皆徳川の方へ持って行く。そういう時になって来た。まあ、あの相良惣三(さがらそうぞう)一味のものが江戸の方でしたことを考えて見るがいい。天道にも目はあるぞ。おまけに、この街道筋まで来て、追分辺で働いた狼藉(ろうぜき)はどうだ。官軍をとなえさえすれば、何をしてもいいというものではあるまい。」
「さようだ。」と言い出すのは火鉢(ひばち)に手をかざしている立ち会いの用人だ。「貴殿はよく言った。実は、拙者もそれを言おうと思っていたところでござる。」
「いや、」とまた取り調べ役は言葉をつづけた。「御同役の前でござるが、あの御征討の制札にしてからが、自分には腑(ふ)に落ちない。今になって、拙者はつくづくそう思う。もし先帝が御在世であらせられたら、慶喜公に対しても、会津や桑名に対しても、こんな御処置はあらせられまいに……」
今一度改めて出頭せよ、翌朝を待ってなにぶんの沙汰(さた)があるであろう、その役人の声を聞いたあとで、半蔵は役所の門を出た。馬籠から供をして来た峠村の組頭(くみがしら)、先代平助の跡継ぎにあたる平兵衛(へいべえ)がそこに彼を待ち受けていた。
「半蔵さま。」
「おゝ、お前はそこに待っていてくれたかい。」
「そうよなし。おれも気が気でないで、さっきからこの御門の外に立ち尽くした。」
二人(ふたり)はこんな言葉をかわし、雪の道を踏んで、大手橋から旅籠屋(はたごや)のある町の方へ歩いた。
木曾福島も、もはや天保文久年度の木曾福島ではない。創立のはじめに渡辺方壺(わたなべほうこ)を賓師に、後には武居用拙(たけいようせつ)を学頭に、菁莪館(せいがかん)の学問を誇ったころの平和な町ではない。剣術師範役|遠藤(えんどう)五平太の武技を見ようとして、毎年馬市を機会に諸流の剣客の集まって来たころの町でもない。まして、木曾から出た国家老(くにがろう)として、名君の聞こえの高い山村|蘇門(そもん)(良由)が十数年も尾張藩の政事にあずかったころの長閑(のどか)な城下町ではもとよりない。
町々の警戒もにわかに厳重になった。怪しい者の宿泊は一夜たりとも許されなかった。旅籠屋をさして帰って行く半蔵らのそばには、昼夜の差別もないように街道を急いで来て、また雪を蹴(け)って出て行く早駕籠(はやかご)もある。
流言の取り締まりもやかましい。そのお達しは奉行所よりとして、この宿場らしい町中の旅籠屋にまで回って来ている。当今の時勢について、かれこれの品評を言い触らす輩(やから)があっては、諸藩の人気にもかかわるから、右ようのことのないようにとくと心得よ、酒興の上の議論はもちろん、たとい女子供に至るまで茶呑(ちゃの)み噺(ばなし)にてもかれこれのうわさは一切いたすまいぞ、とのお触れだ。半蔵が泊まりつけの宿の門口をはいって、土地柄らしく掛けてある諸|講中(こうじゅう)の下げ札なぞの目につくところから、土間づたいに広い囲炉裏(いろり)ばたへ上がって見た時は、さかんに松薪(まつまき)の燃える香気(におい)が彼の鼻の先へ来た。二人ばかりの泊まり客がそこに話し込んでいる。しばらく彼は炉の火にからだをあたため、宿のかみさんがくんで出してくれる熱いネブ茶を飲んで見ている間に、なかなか人の口に戸はたてられないことを知った。
「おれは葵(あおい)の紋を見ても、涙がこぼれて来るよ。」
「今はそんな時世じゃねえぞ。」
二人の客の言い争う声だ。まっかになるほど炉の火に顔をあぶった男と、手製の竹の灰ならしで囲炉裏の灰をかきならしている男とが、やかましいお触れもおかまいなしにそんなことを言い合っている。
「なあに、こんな新政府はいつひっくりかえるか知れたもんじゃないさ。」
「そんなら君は、どっちの人間だい。」
「うん――おれは勤王で、佐幕だ。」
時代の悩みを語る声は、そんな一夜の客の多く集まる囲炉裏ばたの片すみにも隠れていた。
地方(じかた)御役所での役人たちが言葉のはじも気にかかって、翌朝の沙汰(さた)を聞くまでは半蔵も安心しなかった。その晩、半蔵は旅籠屋らしい行燈(あんどん)のかげに時を送っていた。供に連れて来た平兵衛は、どこに置いても邪魔にならないような男だ。馬籠あたりに比べると、ここは陽気もおくれている。昼間は騒がしくても、夜になるとさびしい河(かわ)から来るらしい音が、半蔵の耳にはいった。彼はそれを木曾川の方から来るものと思い、石を越して流れる水瀬の音とばかり思ったが、よく聞いて見ると、町へ来る夜の雨の音のようでもある。その音は、まさに測りがたい運命に直面しているような木曾谷の支配者の方へ彼の心を誘った。
もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江(おうみ)の湖水のほとりの位置に、三十五万石を領する井伊氏の居城のそびえ立つと同じ意味のもので、幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていたのだ。この関所を預かる山村氏は最初徳川直属の代官であった。それは山村氏の祖先が徳川台徳院を関ヶ原の戦場に導いて戦功を立てた慶長年代以来の古い歴史にもとづく。後に木曾地方は名古屋の管轄に移って、山村氏はさらに尾州の代官を承るようになったが、ここに住む福島の家中衆が徳川直属時代の誇りと長い間に養い来たった山嶽的(さんがくてき)な気風とは、事ごとに大領主の権威をもって臨んで来る尾州藩の役人たちと相いれないものがあった。この暗闘反目は決して一朝一夕に生まれて来たものではない。
そこへ東山道軍の進発だ。各藩ともに、否(いや)でも応でもその態度を明らかにせねばならない。尾張藩は、と見ると、これは一切の従来の行きがかりを捨て、勤王の士を重く用い、大義名分を明らかにすることによって、時代の暗礁(あんしょう)を乗り切ろうとしている。名古屋の方にある有力な御小納戸(おこなんど)、年寄(としより)、用人らの佐幕派として知られた人たちは皆退けられてしまった。その時になっても、山村氏の家中衆だけは長い武家時代の歴史を誇りとし、頑(がん)として昔を忘れないほどの高慢さである。ここには尾張藩の態度に対する非難の声が高まるばかりでなく、徳川氏の直属として独立を思う声さえ起こって来ている。徳川氏と存亡を共にする以外に、この際、情誼(じょうぎ)のあるべきはずがないと主張し、神祖の鴻恩(こうおん)も忘れるような不忠不義の輩(やから)はよろしく幽閉せしむべしとまで極言するものもある。
「福島もどうなろう。」
半蔵はそのことばかり考えつづけた。その晩は彼は平兵衛の蒲団(ふとん)を自分のそばに敷かせ、道中用の脇差(わきぎし)を蒲団の下に敷いて、互いに枕(まくら)を並べて寝た。
翌朝になると、やがて役所へ出頭する時が来た。半蔵は供の平兵衛を門内に待たせて置いて、しばらく待合所に控えていた後、さらに別室の方へ呼び込まれた。上段に居並ぶ年寄、用人などの前で、きびしいおしかりを受けた。その意味は、官軍|先鋒(せんぽう)の嚮導隊(きょうどうたい)などととなえ当国へ罷(まか)り越した相良惣三(さがらそうぞう)らのために周旋し、あまつさえその一味のもの伊達(だて)徹之助に金子二十両を用だてたのは不埓(ふらち)である。本来なら、もっと重い御詮議(ごせんぎ)もあるべきところだが、特に手錠を免じ、きっと叱(しか)り置く。これは半蔵父子とも多年御奉公申し上げ、頼母子講(たのもしこう)お世話方も行き届き、その尽力の功績も没すべきものでないから、特別の憐憫(れんびん)を加えられたのであるとの申し渡しだ。
「はッ。」
半蔵はそこに平伏した。武家の奉公もこれまでと思う彼は、甘んじてそのおしかりを受けた。そして、屋敷から引き取った。
「青山さん。」
うしろから追いかけて来て、半蔵に声をかけるものがある。ちょうど半蔵は供の平兵衛と連れだって、木曾福島を辞し、帰村の道につこうとしたばかりの時だ。街道に添うて旅人に道を教える御嶽(おんたけ)登山口、路傍に建てられてある高札場なぞを右に見て、福島の西の町はずれにあたる八沢というところまで歩いて行った時だ。
「青山さん、馬籠の方へ今お帰り。」
ときく人は、木曾風俗の軽袗(かるさん)ばきで、猟師筒を肩にかけている。屋敷町でない方に住む福島の町家の人で、大脇自笑(おおわきじしょう)について学んだこともある野口秀作というものだ。半蔵は別にその人と深い交際はないが、彼の知る名古屋藩士で田中|寅三郎(とらさぶろう)、丹羽淳太郎(にわじゅんたろう)なぞの少壮有為な人たちの名はその人の口から出ることもある。あうたびに先方から慣れ慣れしく声をかけるのもその人だ。
「どれ、わたしも御一緒にそこまで行こう。」とまた秀作は歩き歩き半蔵に言った。「青山さん、あなたがお見えになったことも、お役所へ出頭したことも、きのうのうちに町じゅうへ知れています。えゝえゝ、そりゃもう早いものです。狭い谷ですからね。ここはあなた、うっかり咳(せき)ばらいもできないようなところですよ。福島はそういうところですよ。ほんとに――この谷も、こんなことじゃしかたがない。あなたの前ですが、この谷には、てんで平田の国学なぞははいらない。皆、漢籍一方で堅めきっていますからね。伊那から美濃地方のようなわけにはいかない。どうしても、世におくれる。でも青山さん、見ていてください。福島にも有志の者がなくはありませんよ。」
口にこそ出さなかったが、秀作は肩にする鉄砲に物を言わせ、雉(きじ)でも打ちに行くらしいその猟師筒に春待つ心を語らせて、来たるべき時代のために勤王の味方に立とうとするものはここにも一人(ひとり)いるという意味を通わせた。
思いがけなく声をかけられた人にも別れて、やがて半蔵らはさくさく音のする雪の道を踏みながら、塩淵(しおぶち)というところまで歩いた。そこは山の尾をめぐる一つの谷の入り口で、西から来るものはその崖(がけ)になった坂の道から、初めて木曾福島の町をかなたに望むことのできるような位置にある。半蔵は帰って行く人だが、その眺望(ちょうぼう)のある位置に出た時は、思わず後方(うしろ)を振り返って見て、ホッと深いため息をついた。 

木曾の寝覚(ねざめ)で昼、とはよく言われる。半蔵らのように福島から立って来たものでも、あるいは西の方面からやって来るものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曾路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦(そば)がある。
春とは言いながら石を載せた坂屋根に残った雪、街道のそばにつないである駄馬(だば)、壁をもれる煙――寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬ごもりの状態から完全に抜けきらないように見えていた。半蔵らは福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めようと思うころには、そろそろ食事を終わって出発するような伊勢参宮の講中もある。黒の半合羽(はんがっぱ)を着たまま奥の方に腰掛け、膳(ぜん)を前にして、供の男を相手にしきりに箸(はし)を動かしている客もある。その人が中津川の景蔵だった。
偶然にも、半蔵はそんな帰村の途中に、しかも寝覚(ねざめ)の床(とこ)の入り口にある蕎麦屋の奥で、反対の方角からやって来た友人と一緒になることができた。景蔵は、これから木曾福島をさして出掛けるところだという。聞いて見ると、地方(じかた)御役所からの差紙(さしがみ)で。中津川本陣としてのこの友人も、やはり半蔵と同じような呼び出され方で。
「半蔵さん、これはなんという事です。」
景蔵はまずそれを言った。
その時、二人は顔を見合わせて、互いに木曾福島の役人衆が意図を読んだ。
「見たまえ。」とまた景蔵が言い出した。「東山道軍の執事からあの通知が行くまでは、だれだって偽(にせ)官軍だなんて言うものはなかった。福島の関所だって黙って通したじゃありませんか。奉行から用人まで迎えに出て置いて、今になってわれわれをとがめるとは何の事でしょう。」
「ですから、驚きますよ。」と半蔵はそれを承(う)けて、「これにはかなり複雑な心持ちが働いていましょう。」
「わたしもそれは思う。なにしろ、あの相良惣三の仲間は江戸の方でかなりあばれていますからね。あいつが諏訪(すわ)にも、小諸(こもろ)にも、木曾福島にも響いて来てると思うんです。そこへ東山道軍の執事からあの通知でしょう、こりゃ江戸の敵(かたき)を、飛んだところで打つようなことが起こって来た。」
「世の中はまだ暗い。」
半蔵はそれを友人に言って見せて、嘆息した。その意味から言っても、彼は早く東山道軍をこの街道に迎えたかった。
「まあ、景蔵さん、蕎麦(そば)でもやりながら話そうじゃありませんか。」と半蔵は友人とさしむかいに腰掛けていて、さらに話しつづけた。「君はわたしたちにかまわないで、先に食べてください。そんなに話に身が入っては、せっかくの蕎麦も延びてしまう。でも、きょうは、よいところでお目にかかった。」
「いや、わたしも君にあえてよかった。」と景蔵の方でも言った。「おかげで、福島の方の様子もわかりました。」
やがて景蔵が湯桶(ゆとう)の湯を猪口(ちょく)に移し、それを飲んで、口をふくころに、小女(こおんな)は店の入り口に近い台所の方から土間づたいに長い腰掛けの間を回って来て、
「へえ、お待ちどおさまでございます。」
と言いながら、半蔵の注文したものをそこへ持ち運んで来た。本家なにがし屋とか、名物寿命そばありとかを看板にことわらなければ、客の方で承知しないような古い街道筋のことで、薬味箱、だし汁(じる)のいれもの、猪口、それに白木の割箸(わりばし)まで、見た目も山家のものらしい。竹簀(たけす)の上に盛った手打ち蕎麦は、大きな朱ぬりの器(うつわ)にいれたものを膳(ぜん)に積みかさねて出す。半蔵はそれを供の平兵衛に分け、自分でも箸を取りあげた。その時、彼は友人の方を見て、思い出したように、
「景蔵さん、東山道軍の執事から尾州藩の重職にあてた回状の写しさ、あれは君の方へも回って行きましたろう。」
「来ました。」
「あれを君はどう読みましたかい。」
「さあ、ねえ。」
「えらいことが書いてあったじゃありませんか。あれで見ると、本営の方じゃ、まるきり相良惣三の仲間を先駆とは認めないようですね。」
「全くの無頼の徒扱いさ。」
「いったい、あんな通知を出すくらいなら、最初から先駆なぞを許さなければよかった。」
「そこですよ。あの相良惣三の仲間は、許されて出て来たものでもないらしい。わたしはあの回状を読んで、初めてそのことを知りました。綾小路(あやのこうじ)らの公達(きんだち)を奉じて出かけたものもあるが、勅命によってお差し向けになったものではないとまで断わってある。見たまえ、相良惣三の同志というものは、もともと西郷吉之助の募りに応じて集まったという勤王の人たちですから、薩摩藩(さつまはん)に付属して進退するようにッて、総督府からもその注意があり、東山道軍の本営からもその注意はしたらしい。ところがです、先駆ととなえる連中が自由な行動を執って、ずんずん東下するもんですから、本営の方じゃこんなことで軍の規律は保てないと見たんでしょう。」
「あの仲間が旗じるしにして来た租税半減というのは。」
「さあ、東山道軍から言えば、あれも問題でしょうね。実際新政府では租税半減を人民に約束するかと、沿道の諸藩から突っ込まれた場合に、軍の執事はなんと答えられますかさ。とにかく、綾小路らの公達(きんだち)が途中から分かれて引き返してしまうのはよくよくです。これにはわれわれの知らない事情もありましょうよ。おそらく、それや、これやで、東山道軍からはあの仲間も経済的な援助は仰げなくなったのでしょう。」
「だいぶ、話が実際的になって来ましたね。」
「まあ、百二十人あまりからの同勢で、おまけに皆、血気|壮(さか)んな人たちと来ています。ずいぶん無理もあろうじゃありませんか。」
「われわれの宿場を通ったころは、あの仲間もかなり神妙にしていましたがなあ。」
「水戸(みと)浪士の時のことを考えて見たまえ。幹部の目を盗んで民家を掠奪(りゃくだつ)した土佐の浪人があると言うんで、三五沢で天誅(てんちゅう)さ。軍規のやかましい水戸浪士ですら、それですよ。」
「それに、あの相良惣三の仲間が追分(おいわけ)の方で十一軒も民家を焼いたのは、まずかった。」
「なにしろ、止めて止められるような人たちじゃありませんからね。風は蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、ですか。あの仲間はあの仲間で、行くところまで行かなけりゃ承知はできないんでしょう。さかんではあるが、鋭過(するどす)ぎますさ。」
「景蔵さん、君は何か考えることがあるんですか。」
「どうして。」
「どうしてということもありませんが、なんだかきょうはしかられてるような気がする。」
この半蔵の言葉に、景蔵も笑い出した。
「そう言えば半蔵さん、こないだもわたしは香蔵さんをつかまえて、どうもわれわれは目の前の事にばかり屈託して困る、これがわれわれの欠点だッて話しましたら、あの香蔵さんの言い草がいい。屈託するところが人間ですとさ。でも、周囲を見ると心細い。王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃありませんか。見たまえ、そよそよとした風はもう先の方から吹いて来ている。この一大変革の時に際会して、大局を見て進まないのはうそですね。」
「景蔵さん、君も気をつけて行って来たまえ。相良惣三に同情があると見た地方の有志は、全部呼び出して取り調べる――それがお役所の方針らしいから。」
そう言いながら、半蔵は寝覚(ねざめ)を立って行く友人と手を分かった。
「どれ、福島の方へ行ってしかられて来るか。」
景蔵はその言葉を残した。その時、半蔵は供の男をかえりみて、
「さあ、平兵衛さん、わたしたちもぽつぽつ出かけようぜ。」
そんなふうに、また半蔵らは馬籠をさして出かけた。
木曾谷は福島から須原(すはら)までを中三宿(なかさんしゅく)とする。その日は野尻(のじり)泊まりで、半蔵らは翌朝から下四宿(しもししゅく)にかかった。そこここの道の狭いところには、雪をかきのけ、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、それで道幅を補ったところがあり、すでに橋の修繕まで終わったところもある。深い森林の方から伐り出した松明(たいまつ)を路傍に山と積んだようなところもある。上松(あげまつ)御陣屋の監督はもとより、近く尾州の御材木方も出張して来ると聞く。すべて東山道軍を迎える日の近づきつつあったことを語らないものはない。
時には、伊勢参宮の講中にまじる旅の婦人の風俗が、あだかも前後して行き過ぎる影のように、半蔵らの目に映る。きのうまで手形なしには関所も通られなかった女たちが、男の近親者と連れだち、長途の旅を試みようとして、深い窓から出て来たのだ。そんな人たちの旅姿にも、王政第一の春の感じが深い。そのいずれもが日焼けをいとうらしい白の手甲(てっこう)をはめ、男と同じような参拝者の風俗で、解き放たれて歓呼をあげて行くかにも見えていた。
次第に半蔵らは淡い雪の溶け流れている街道を踏んで行くようになった。歩けば歩くほど、なんとなく谷の空も明るかった。西から木曾川を伝って来る早い春も、まだまだ霜に延びられないような浅い麦の間に躊躇(ちゅうちょ)しているほどの時だ。それでも三留野(みどの)の宿まで行くと、福島あたりで堅かった梅の蕾(つぼみ)がすでにほころびかけていた。
午後に、半蔵らは大火のあとを承(う)けてまだ間もない妻籠の宿にはいった。妻籠本陣の寿平次(じゅへいじ)をはじめ、その妻のお里、めっきり年とったおばあさん、半蔵のところから養子にもらわれて来ている幼い正己(まさみ)――皆、無事。でも寿平次方ではわずかに類焼をまぬかれたばかりで、火は本陣の会所まで迫ったという。脇(わき)本陣の得右衛門(とくえもん)方は、と見ると、これは大火のために会所の門を失った。半蔵が福島の方から引き返して、地方(じかた)御役所でしかられて来たありのままを寿平次に告げに寄ったのは、この混雑の中であった。
もっとも、半蔵は往(い)きにもこの妻籠を通って寿平次の家族を見に寄ったが、わずかの日数を間に置いただけでも、板囲いのなかったところにそれができ、足場のなかったところにそれがかかっていた。そこにもここにも仮小屋の工事が始まって、総督の到着するまでにはどうにか宿場らしくしたいというそのさかんな復興の気象は周囲に満ちあふれていた。
寿平次は言った。
「半蔵さん、今度という今度はわたしも弱った。東山道軍が見えるにしたところで、君の方はまだいい。昼休みの通行で済むからいい。妻籠を見たまえ、この大火のあとで、しかも総督のお泊まりと来てましょう。」
「ですから、当日の泊まり客は馬籠でも分けて引き受けますよ。いずれ御先触(おさきぶ)れが来ましょう。そうしたら、おおよそ見当がつきましょう。得右衛門さんでも馬籠の方へ打ち合わせによこしてくださるさ。」
「おまけに、妻籠へ割り当てられた松明(たいまつ)も三千|把(ば)だ。いや、村のものは、こぼす、こぼす。」
「どうせ馬籠じゃ、そうも要(い)りますまい。松明も分けますよ。」
こんなことであまり長くも半蔵は邪魔すまいと思った。寿平次のような養父を得て無事に成長するらしい正己にも声をかけて置いて、そこそこに彼は帰村を急ごうとした。
「もうお帰りですか。」と言いながら、仕事着らしい軽袗(かるさん)ばきで、寿平次は半蔵のあとを追いかけて来た。
「あの大火のあとで、よくそれでもこれまでに工事が始められましたよ。」と半蔵が言う。
「みんな一生懸命になりましたからね。なにしろ、高札下(こうさつした)から火が出て、西側は西田まで焼ける。東側は山本屋で消し止めた。こんな大火はわたしが覚えてから初めてだ。でも、村の人たちの意気込みというものは、実にすさまじいものさ。」
しばらく寿平次は黙って、半蔵と一緒に肩をならべながら、木を削るかんなの音の中を歩いた。やがて、別れぎわに、
「半蔵さん、世の中もひどい変わり方ですね。何が見えて来るのか、さっぱり見当もつかない。」
「まあ統一ができてからあとのことでしょうね。」
と半蔵の方で言って見せると、寿平次もうなずいた。そして別れた。
半蔵が供の平兵衛と共に馬籠の宿はずれまで帰って行ったころは、日暮れに近かった。そこまで行くと、下男の佐吉が宗太(半蔵の長男)を連れて、主人の帰りのおそいのを案じ顔に、陣場というところに彼を待ち受けていた。その辺には「せいた」というものを用いて、重い物を背負い慣れた勁(つよ)い肩と、山の中で働き慣れた勇健な腰骨とで、奥山の方から伐(き)り出して来た松明を定められた場所へと運ぶ村の人たちもある。半蔵と見ると、いずれも頬(ほお)かぶりした手ぬぐいをとって、挨拶(あいさつ)して行く。
「みんな、御苦労だのい。」
そう言って村の人たちに声をかける時の半蔵の調子は、父|吉左衛門(きちざえもん)にそっくりであった。
半蔵は福島出張中のことを父に告げるため、馬籠本陣の裏二階にある梯子段(はしごだん)を上った。彼も妻子のところへ帰って来て、母屋(もや)の囲炉裏ばたの方で家のものと一緒に夕飯を済まし、食後に父をその隠居所に見に行った。
「ただいま。」
この半蔵の「ただいま」が、炬燵(こたつ)によりかかりながら彼を待ち受けていた吉左衛門をも、茶道具なぞをそこへ取り出す継母のおまんをもまずよろこばせた。
「半蔵、福島の方はどうだったい。」
と吉左衛門が言いかけると、おまんも付け添えるように、
「おとといはお前、中津川の景蔵さんまでお呼び出しで、ちょっと吾家(うち)へも寄って行ってくれたよ。」
「そうでしたか。景蔵さんには寝覚(ねざめ)で行きあいましたっけ。まあ、お役所の方も、お叱(しか)りということで済みました。つまらない疑いをかけられたようなものですけれど、今度のお呼び出しのことは、お父(とっ)さんにもおわかりでしょう。」
「いや、わかるどころか、あんまりわかり過ぎて、おれは心配してやったよ。お前の帰りもおそいものだからね。」
こんな話がはじまっているところへ、母屋(もや)の方にいた清助も裏二階の梯子段(はしごだん)を上って来た。無事に帰宅した半蔵を見て、清助も「まあ、よかった」という顔つきだ。
「半蔵、お前の留守に、追分(おいわけ)の名主(なぬし)のことが評判になって、これがまた心配の種さ。」と吉左衛門が言って見せた。
「それがです。」と清助もその話を引き取って、「あの名主は親子とも入牢(にゅうろう)を仰せ付けられたとか、いずれ追放か島流しになるとか、いろいろなことを言いましょう。まさか、そんなばかばかしいことが。どうせ街道へ伝わって来るうわさだぐらいに、わたしどもは聞き流していましたけれど、村のうわさ好きな人たちと来たら、得ていろいろなことを言いたがる。今度は本陣の旦那(だんな)も無事にお帰りになれまいなんて。」
吉左衛門は笑い出した。そして、追分の名主のことについて、何がそんな評判を立てさせたか、名主ともあろうものが腰縄(こしなわ)手錠で松代藩(まつしろはん)の方へ送られたとはどうしたことか、そのいぶかしさを半蔵にたずねた。そういう吉左衛門はいまだに宿駅への関心を失わずにいる。
「お父(とっ)さん、そのことでしたら。」と半蔵は言う。「なんでも、小諸藩(こもろはん)から捕手(とりて)が回った時に、相良惣三の部下のものは戦さでもする気になって、追分の民家を十一軒も焼いたとか聞きました。そのあとです、小諸藩から焼失人へ米を六十俵送ったところが、その米が追分の名主の手で行き渡らないと言うんです。偽(にせ)官軍の落として行った三百両の金も、焼失人へは割り渡らないと言うんです。あの名主は貧民を救えと言われて、偽官軍から米を十六俵も受け取りながら、その米も貧民へは割り渡らないと言うんです。あの名主はそれで松代藩の方へ送られたというのが、まあ実際のところでしょう。しかしわたしの聞いたところでは、あの名主と不和なものがあって中傷したことらしい――飛んだ疑いをかけられたものですよ。」
「そういうことが起こって来るわい。」と吉左衛門は考えて、「そんなごたごたの中で、米や金が公平に割り渡せるもんじゃない。追分の名主も気の毒だが、米や金を渡そうとした方にも無理がある。」
「そうです、わたしも大旦那(おおだんな)に賛成です。」と清助も言葉を添える。「いきなり貧民救助なぞに手をつけたのが、相良惣三の失敗のもとです。そういうことは、もっと大切に扱うべきで、なかなか通りすがりの嚮導隊(きょうどうたい)なぞにうまくやれるもんじゃありません。」
「とにかく。」と半蔵は答えた。「あの仲間は、東山道軍と行動を共にしませんでした。そこから偽官軍というような評判も立ったのですね。そこへつけ込む者も起こって来たんですね。でも、相良惣三らのこころざしはくんでやっていい。やはりその精神は先駆というところにあったと思います。ですから、地方の有志は進んで献金もしたわけです。そうはわたしも福島のお役所じゃ言えませんでした。まあ、お父(とっ)さんやお母(っか)さんの前ですから話しますが、あのお役人たちもかなり強いことを言いましたよ。二度目に呼び出されて行った時にですね、お前たち親子は多年御奉公も申し上げたものだし、頼母子講(たのもしこう)のお世話方も行き届いて、その骨折りも認めないわけにいかないから、特別の憐憫(れんびん)をもってきっと叱(しか)り置く、特に手錠を免ずるなんて――それを言い渡された時は、御奉公もこれまでだと思って、わたしも我慢して来ました。」
その時、にぎやかな子供らの声がして、半蔵が妻のお民の後ろから、お粂(くめ)、宗太(そうた)も梯子段(はしごだん)を上って来たので、半蔵はもうそんな話をしなかった。その裏二階に集まったものは、やがて馬籠の宿場に迎えようとする岩倉の二公子、さては東山道軍のうわさなどで持ち切った。
「粂さま、お前さまは和宮様(かずのみやさま)の御通行の時のことを覚えておいでか。」と清助がきいた。
「わたしはよく覚えていない。」とお粂が羞(はじ)を含みがちに言う。
「ゆめのようにですか。」
「えゝ。」
「そうでしょうね。あの時分のことは、はっきり覚えていなさるまい。」
「清助さん、水戸浪士(みとろうし)のことをきいてごらん。」と横鎗(よこやり)を入れるのは宗太だ。
「だれに。」
「おれにさ。このおれにきいてごらん。」
「おゝ、お前さまにか。」
「清助さん、水戸浪士のことなら、おれだって知ってるよ。」
「さあ、今度の御通行はどうありますかさ。」とおまんは言って、やがて孫たちの方を見て、「今度はもうそんなに、こわい御通行じゃない。なんにも恐ろしいことはないよ。今に――錦(にしき)の御旗(みはた)が来るんだよ。」
半蔵の子供らも大きくなった。その年、慶応四年の春を迎えて見ると、姉のお粂はもはや十三歳、弟の宗太は十一歳にもなる。お民は夫が往(い)きにも還(かえ)りにも大火後の妻籠(つまご)の実家に寄って来たと聞いて、
「あなた、正己(まさみ)も大きくなりましたろうね。あれもことしは八つになりますよ。」
「いや、大きくなったにも、なんにも。もうすっかり妻籠の子になりすましたような顔つきさ。おれが呼んだら、男の子らしい軽袗(かるさん)などをはいて、お辞儀に出て来たよ。でも、きまりが悪いような顔つきをして、広い屋敷のなかをまごまごしていたっけ。」
もらわれて行った孫のうわさに、吉左衛門もおまんも聞きほれていた。やがて、吉左衛門は思いついたように、
「時に、半蔵、御通行はあと十二、三日ぐらいしかあるまい。人足は足りるかい。」
「今度は旧天領のものが奮って助郷(すけごう)を勤めることになりました。これは天領にかぎらないからと言って、総督の執事は、村々の小前(こまえ)のものにまで人足の勤め方を奨励しています。おそらく、今度の御通行を一期(いちご)にして、助郷のことも以前とは変わりましょう。」
「あなたは、それだからいけない。」とおまんは吉左衛門の方を見て、その話をさえぎった。「人足のことなぞは半蔵に任せてお置きなさるがいい。おれはもう隠居だなんて言いながら、そうあなたのように気をもむからいけない。」
「どうも、この節はおまんのやつにしかられてばかりいる。」
そう言って吉左衛門は笑った。
長話は老い衰えた父を疲らせる。その心から、半蔵は妻子や清助を誘って、間もなく裏二階を降りた。母屋(もや)の方へ引き返して行って見ると、上がり端(はな)に畳(たた)んだ提灯(ちょうちん)なぞを置き、風呂(ふろ)をもらいながら彼を見に来ている馬籠村の組頭(くみがしら)庄助(しょうすけ)もいる。庄助も福島からの彼の帰りのおそいのを案じていた一人(ひとり)なのだ。その晩、彼は下男の佐吉が焚(た)きつけてくれた風呂桶(ふろおけ)の湯にからだを温(あたた)め、客の応接はお民に任せて置いて、店座敷の方へ行った。白木(しらき)の桐(きり)の机から、その上に掛けてある赤い毛氈(もうせん)、古い硯(すずり)までが待っているような、その自分の居間の畳の上に、彼は長々と足腰を延ばした。
子供らがのぞきに来た。いつも早寝の宗太も、その晩は眠らないで、姉と一緒にそこへ顔を出した。背丈(せたけ)は伸びても顔はまだ子供子供した宗太にくらべると、いつのまにかお粂の方は姉娘らしくなっている。素朴(そぼく)で、やや紅味(あかみ)を帯びた枝の素生(すば)えに堅くつけた梅の花のつぼみこそはこの少女のものだ。
「あゝあゝ、きょうはお父(とっ)さんもくたぶれたぞ。宗太、ここへ来て、足でも踏んでくれ。」
半蔵がそれを言って、畳の上へ腹ばいになって見せると、宗太はよろこんだ。子供ながらに、宗太がからだの重みには、半蔵の足の裏から数日のはげしい疲労を追い出す力がある。それに、血を分けたものの親しみまでが、なんとなく温(あたた)かに伝わって来る。
「どれ、わたしにも踏ませて。」
とお粂も言って、姉と弟とはかわるがわる半蔵の大きな足の裏を踏んだ。 

「あなた。」
「おれを呼んだのは、お前かい。」
「あなたはどうなさるだろうッて、お母(っか)さんが心配していますよ。」
「どうしてさ。」
「だって、あなたのお友だちは岩倉様のお供をするそうじゃありませんか。」
半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
暖かい雨はすでに幾たびか馬籠峠(まごめとうげ)の上へもやって来た。どうかすると夜中に大雨が来て、谷々の雪はあらかた溶けて行った。わずかに美濃境(みのざかい)の恵那山(えなさん)の方に、その高い山間(やまあい)の谿谷(けいこく)に残った雪が矢の根の形に白く望まれるころである。そのころになると東山道軍の本営は美濃まで動いて来て、大垣(おおがき)を御本陣にあて、沿道諸藩との交渉を進めているやに聞こえて来た。兵馬の充実、資金の調達などのためから言っても、軍の本営ではいくらかの日数をそこに費やす必要があったのだ。勤王の味方に立とうとする地方の有志の中には、進んで従軍を願い出るものも少なくない。
「おれもこうしちゃいられないような気がする。」
半蔵がそれを言って見せると、お民は夫の顔をながめながら、
「ですから、お母(っか)さんが心配してるんですよ。」
「お民、おれは出られそうもないぞ。そのことはお母(っか)さんに話してくれてもいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのようなものを許すと思われない。」
「……」
「ごらんな、景蔵さんや香蔵さんは、ただ岩倉様のお供をするんじゃないよ。軍の嚮導(きょうどう)という役目を命ぜられて行くんだよ。その下には十四、五人もついて御案内するという話だが、それがお前、みんな平田の御門人さ。何にしてもうらやましい。」
夫婦の間にはこんな話も出た。
その時になって初めて本陣も重要なものになった。東山道総督執事からの布告にもあるように、徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政(かせい)に苦しめられて来たものは遠慮なくその事情を届けいでよと指定された場所は、本陣である。諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べよと命ぜられた貧民に関する報告や願書の集まって来るのも、本陣である。のみならず、従来本陣と言えば、公用兼軍用の旅舎のごときもので、諸大名、公卿(くげ)、公役、または武士のみが宿泊し、休息する場所として役立つぐらいに過ぎなかった。今度の布告で見ると、諸藩の藩主または重職らが勤王を盟(ちか)い帰順の意を総督にいたすべき場所として指定された場所も、また本陣である。
半蔵の手もとには、東山道軍本営の執事よりとして、大垣より下諏訪(しもすわ)までの、宿々問屋役人中へあてた布達がすでに届いていた。それによると、薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が先鋒(せんぽう)として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、彦根(ひこね)勢七百五十人余、高須(たかす)勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬|継立(つぎた)て等、不都合のないように取り計らえとある。しかし、この兵数の報告はかなり不正確なもので、実際に大垣から進んで来る東山道軍はこれほどあるまいということが、半蔵を不安にした。当時の諸藩、および旗本の向背(こうはい)は、なかなか楽観を許さなかった。
そのうちに、美濃から飛騨(ひだ)へかけての大小諸藩で帰順の意を表するものが続々あらわれて来るようになった。昨日(きのう)は苗木(なえぎ)藩主の遠山友禄が大垣に行って総督にお目にかかり勤王を盟(ちか)ったとか、きょうは岩村藩の重臣|羽瀬市左衛門(はせいちざえもん)が藩主に代わって書面を総督府にたてまつり慶喜に組した罪を陳謝したとか、加納藩(かのうはん)、郡上藩(ぐじょうはん)、高富藩(たかとみはん)、また同様であるとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。あの旧幕府の大老井伊|直弼(なおすけ)の遺風を慕う彦根藩士までがこの東征軍に参加し、伏見鳥羽の戦いに会津(あいづ)方を助けた大垣藩ですら薩州方と一緒になって、先鋒としてこの街道を下って来るといううわさだ。
しかし、これには尾張(おわり)のような中国の大藩の向背が非常に大きな影響をあたえたことを記憶しなければならない。いわゆる御三家の随一とも言われたほど勢力のある尾張藩が、率先してその領地を治め、近傍の諸藩を勧誘し、東征の進路を開かせようとしたことは、復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となったことを記憶しなければならない。
尾州とても、藩論の分裂をまぬかれたわけでは決してない。過ぐる年の冬あたりから、尾張藩の勤王家で有力なものは大抵御隠居(徳川|慶勝(よしかつ))に従って上洛(じょうらく)していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙(すき)を見て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれた。もはや躊躇(ちゅうちょ)すべき時でないと見た御隠居は、成瀬正肥(なるせまさみつ)、田宮如雲(たみやじょうん)らと協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄|渡辺(わたなべ)新左衛門、城代格|榊原勘解由(さかきばらかげゆ)、大番頭(おおばんがしら)石川|内蔵允(くらのすけ)の三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。なお、佐幕派として知られた安井長十郎以下十一人のものを斬罪(ざんざい)に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明らかにするために上洛したのは、その年の正月もまだ早いころのことである。
尾州にはすでにこの藩論の一定がある。美濃から飛騨(ひだ)地方へかけての諸藩の向背も、幕府に心を寄せるものにはようやく有利でない。これらの周囲の形勢に迫られてか、大垣あたりの様子をさぐるために、奥筋の方から早駕籠(はやかご)を急がせて来る木曾福島の役人衆もあった。それらの人たちが往(い)き還(かえ)りに馬籠の宿を通り過ぎるだけでも、次第に総督の一行の近づいたことを思わせる。旧暦二月の二十二日を迎えるころには、岩倉公子のお迎えととなえ、一匹の献上の馬まで引きつれて、奥筋の方から馬籠に着いた一行がある。それが山村氏の御隠居だった。半蔵父子がこれまでのならわしによれば、あの名古屋城の藩主は「尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島の旦那様(だんなさま)」と呼び来たった主人公である。
半蔵は急いで父吉左衛門をさがした。山村氏の御隠居が彼の家の上段の間で昼食の時を送っていること、行く先は中津川で総督お迎えのために見えたこと、彼の家の門内には献上の馬まで引き入れてあることなどを告げて置いて、また彼は父のそばから離れて行った。
例の裏二階で、吉左衛門はおまんを呼んだ。衣服なぞを取り出させ、そこそこに母屋(もや)の方へ行くしたくをはじめた。
「肩衣(かたぎぬ)、肩衣。」
とも呼んだ。
そういう吉左衛門はもはやめったに母屋の方へも行かず、村の衆にもあわず、先代の隠居半六が忌日のほかには墓参りの道も踏まない人である。めずらしくもこの吉左衛門が代を跡目相続の半蔵に譲る前の庄屋に帰って、青山家の定紋のついた麻※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](あさがみしも)に着かえた。
「おまん、おれは隠居の身だから、わざわざ旦那様の前へ御挨拶(ごあいさつ)には出まい。何事も半蔵に任せたい。お馬を拝見させていただけば、それだけでたくさん。」
こう言いながら、彼はおまんと一緒に裏二階を降りた。下男の佐吉が手造りにした草履(ぞうり)をはき、右の手に杖(つえ)をついて、おまんに助けられながら本陣の裏庭づたいに母屋への小道を踏んだ。実に彼はゆっくりゆっくりと歩いた。わずかの石段を登っても、その上で休んで、また歩いた。
吉左衛門がお馬を見ようとして出たところは、本陣の玄関の前に広い板敷きとなっている式台の片すみであった。表庭の早い椿(つばき)の蕾(つぼみ)もほころびかけているころで、そのあたりにつながれている立派な青毛の馬が見える。総督へ献上の駒(こま)とあって、伝吉、彦助と名乗る両名の厩仲間(うまやちゅうげん)のものがお口取りに選ばれ、福島からお供を仰せつけられて来たとのこと。試みに吉左衛門はその駒の年齢を尋ねたら、伝吉らは六歳と答えていた。
「お父(とっ)さん。」
と声をかけて、奥の方へ挨拶(あいさつ)に出ることを勧めに来たのは半蔵だ。
「いや、おれはここで失礼するよ。」
と吉左衛門は言って、その駒の雄々(おお)しい鬣(たてがみ)も、大きな目も、取りつく蝿(はえ)をうるさそうにする尻尾(しっぽ)までも、すべてこの世の見納めかとばかり、なおもよく見ようとしていた。
だれもがそのお馬をほめた。だれもがまた、中津川の方に山村氏の御隠居を待ち受けるものの何であるかを見定めることもできなかった。やがて奥から玄関先へ来て、供の衆を呼ぶ清助の大きな声もする。それは乗り物を玄関先につけよとの掛け声である。早、お立ちの合図である。その時、吉左衛門は式台の片すみのところに、その板敷きの上にかしこまっていて、父子代々奉仕して来た旧(ふる)い主人公のつつがない顔を見ることができた。
「旦那様。吉左衛門でございます。お馬拝見に出ましてございます。」
「おゝ、その方も達者(たっしゃ)か。」
御隠居が彼の方を顧みての挨拶だ。
吉左衛門は目にいっぱい涙をためながら、長いことそこに立ち尽くした。御隠居を乗せた駕籠を見送り、門の外へ引き出されて行くお馬を見送り、中津川行きの供の衆を見送った。半蔵がその一行を家の外まで送りに出て、やがて引き返して来たころになっても、まだ父は式台の上がり段のところに腰掛けながら、街道の空をながめていた。
「お父(とっ)さん、本陣のつとめもつくづくつらいと思って来ましたよ。」
「それを言うな。福島の御家中がどうあろうと、あの御隠居さまには御隠居さまのお考えがあって、わざわざお出かけになったと見えるわい。」
東山道軍御本陣の執事から出た順路の日取りによると、二月二十三日は美濃の鵜沼(うぬま)宿お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒(せんぽう)はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の御隠居が先鋒の重立った隊長らと会見せらるるのもその夜のことである。総督御本陣は、薩州兵と大垣兵とより成る先鋒隊からは三日ずつおくれて木曾街道を進んで来るはずであった。馬籠宿はすでに万般の手はずもととのった。というのは、全軍の通行に昼食の用意をすればそれでよかったからであった。よし隣宿妻籠の方に泊まりきれない兵士があるとしても、せいぜい一晩ぐらいの宿を引き受ければ、それで済みそうだった。半蔵はひとり一室に退いて、総督一行のために祈願をこめた。長歌などを作り試みて、それを年若な岩倉の公子にささげたいとも願った。
夕方が来た。半蔵は本陣の西側の廊下のところへ宗太を呼んで、美濃の国の空の方を子供にさして見せた。暮色につつまれて行く恵那山(えなさん)の大きな傾斜がその廊下の位置から望まれる。中津川の町は小山のかげになって見えないまでも、遠く薄暗い空に反射するほのかな町の明りは宗太の目にも映った。
「御覧、中津川の方の空が明るく見えるよ。篝(かがり)でもたいているんだろうね。」
と半蔵が言って見せた。
その晩、半蔵は店座敷にいておそくまで自分の机にむかった。古風な行燈(あんどん)の前で、その日に作った長歌の清書などをした。中津川の友人景蔵の家がその晩の先鋒隊の本陣であることを考え、先年江戸屋敷の方から上って来た長州侯がいわゆる中津川会議を開いて討幕の第一歩を踏み出したのもまたあの友人の家であるような縁故の不思議さを考えると、お民のそはで枕(まくら)についてからも彼はよく眠られなかった。あたかも春先の雪が来てかえって草木の反発力を増させるように、木曾街道を騒がしたあの相良惣三(さがらそうぞう)の事件までが、彼にとっては一層東山道軍を待ち受ける心を深くさせたのである。あの山村氏の家中衆あたりがやかましく言う徳川慶喜征討の御制札の文面がどうあろうと――慶喜が大政を返上して置いて、大坂城へ引き取ったのは詐謀(さぼう)であると言われるようなことが、そもそも京都方の誤解であろうと、なかろうと――あまつさえ帰国を仰せ付けられた会津を先鋒にして、闕下(けっか)を犯し奉ったのもその慶喜であると言われるのは、事実の曲解であろうと、なかろうと――伏見、鳥羽の戦さに、現に彼より兵端を開いたのは慶喜の反状が明白な証拠だと言われるのに、この街道を通って帰国した会津藩の負傷兵が自ら合戦の模様を語るところによれば、兵端を開いたのは薩摩(さつま)方であったと言うような、そんな言葉の争いがどうあろうと――そんなことはもう彼にはどうでもよかった。先年七月の十七日、長州の大兵が京都を包囲した時、あの時の流れ丸(だま)はしばしば飛んで宮中の内垣(うちがき)にまで達したという。当時、長州兵を敵として迎え撃ったものは、陛下の忠僕をもって任ずる会津武士であった。あの時の責めを一身に引き受けた長州侯ですら寛大な御処置をこうむりながら、慶喜公や会津桑名のみが大逆無道の汚名を負わせられるのは何の事かと言って、木曾福島の武士なぞはそれをくやしがっている。しかし、多くの庄屋、本陣、問屋、医者なぞと同じように、彼のごとく下から見上げるものにとっては、もっと大切なことがあった。
「王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃないか。」
寝覚(ねざめ)の蕎麦屋(そばや)であった時の友人の口から聞いて来た言葉が、枕(まくら)の上で彼の胸に浮かんだ。彼は乱れ放題乱れた社会にまた統一の曙光(しょこう)の見えて来たのも、一つは日本の国柄であることを想像し、この古めかしく疲れ果てた街道にも生気のそそぎ入れられる日の来ることを想像した。彼はその想像を古代の方へも馳(は)せ、遠く神武(じんむ)の帝(みかど)の東征にまで持って行って見た。
まだ夜の明けきらないうちから半蔵は本陣の母屋(もや)を出て、薄暗い庭づたいに裏の井戸の方へ行った。水垢離(みずごり)を執り、からだを浄(きよ)め終わって、また母屋へ引き返そうとするころに、あちこちに起こる鶏の声を聞いた。
いよいよ東征軍を迎える最初の日が来た。青く暗い朝の空は次第に底明るく光って来たが、まだ街道の活動ははじまらない。そのうちに、一番早く来て本陣の門をたたいたのは組頭の庄助だ。
「半蔵さま、お早いなし。」
と庄助は言って、その日から向こう三日間、切畑(きりばた)、野火、鉄砲の禁止のお触れの出ていることを近在の百姓たちに告げるため、青の原から杁(いり)の方まで回りに行くところだという。この庄助がその日の村方の準備についていろいろと打ち合わせをした後、半蔵のそばから離れて行ったころには、日ごろ本陣へ出入りの百姓や手伝いの婆(ばあ)さんたちなどが集まって来た。そこの土竈(どがま)の前には古い大釜(おおがま)を取り出すものがある。ここの勝手口の外には枯れ松葉を運ぶものがある。玄関の左右には陣中のような二張りの幕も張り回された。
半蔵はそこへ顔を出した清助をも見て、
「清助さん、総督は八十歳以上の高齢者をお召しになるという話だが、この庭へ砂でも盛って、みんなをすわらせることにするか。」
「そうなさるがいい。」
「今から清助さんに頼んで置くが、わたしも中津川まで岩倉様のお迎えに行くつもりだ。その時は留守を願いますぜ。」
そんな話も出た。
日は次第に高くなった。使いの者が美濃境の新茶屋の方から走って来て、先鋒(せんぽう)の到着はもはや間もないことであろうという。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助、同役|桝田屋(ますだや)小左衛門、同じく梅屋五助などの宿役人を従え、先鋒の一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた。石屋の坂から町田の辺へかけて、道の両側には人の黒山を築いた。
   宮さま、宮さま、お馬の前に
   ひらひらするのはなんじゃいな。
   とことんやれ、とんやれな。
   ありや、朝敵、征伐せよとの
   錦(にしき)の御旗(みはた)じゃ、知らなんか。
   とことんやれ、とんやれな。
島津轡(しまづぐつわ)の旗を先頭にして、太鼓の音に歩調を合わせながら、西から街道を進んで来る人たちの声だ。こころみに、この新作の軍歌が薩摩隼人(さつまはやと)の群れによって歌われることを想像して見るがいい。慨然として敵に向かうかのような馬のいななきにまじって、この人たちの揚げる蛮音が山国の空に響き渡ることを想像して見るがいい。先年の水戸浪士がおのおの抜き身の鎗(やり)を手にしながら、水を打ったように声まで潜め、ほとんど死に直面するような足取りで同じ街道を踏んで来たのに比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行との中心とも言うべき大都会の空をめがけて、いずれも遠い西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑ぞろいかと見える。江戸ももはや中世的な封建制度の残骸(ざんがい)以外になんらの希望をつなぐべきものを見いだされないために、この人たちをして過去から反(そむ)き去るほどの堅き決意を抱(いだ)かせたのであるか、復古の機運はこの人たちの燃えるような冒険心を刺激して新国家建設の大業に向かわせたのであるか、いずれとも半蔵には言って見ることができなかった。この勇ましく活気に満ちた人たちが肩にして来た銃は、舶来の新式で、当時の武器としては光ったものである。そのいでたちも実際の経験から来た身軽なものばかり。官軍の印(しるし)として袖(そで)に着けた錦の小帛(こぎれ)。肩から横に掛けた青や赤の粗(あら)い毛布(けっと)。それに筒袖(つつそで)。だんぶくろ。 
第四章

 


四日にわたって東山道軍は馬籠峠(まごめとうげ)の上を通り過ぎて行った。過ぐる文久元年の和宮様(かずのみやさま)御降嫁以来、道幅はすべて二|間(けん)見通しということに改められ、街道に添う家の位置によっては二尺通りも石垣(いしがき)を引き込めたところもあるが、今度のような御通行があって見ると、まだそれでも充分だとは言えなかった。馬籠の宿場ではあと片づけに混雑していた時だ。そこここには人馬のために踏み崩(くず)された石垣を繕うものがある。焼け残りの松明(たいまつ)を始末するものがある。道路にのこしすてられた草鞋(わらじ)、馬の藁沓(わらぐつ)、それから馬糞(まぐそ)の類(たぐい)なぞをかき集めるものがある。
「大きい御通行のあとには、きっと大雨がやって来るぞ。」
そんなことを言って、そろそろ怪しくなった峠の上の空模様をながめながら、家の表の掃除(そうじ)を急ぐものもある。多人数のために用意した膳(ぜん)、椀(わん)から、夜具|蒲団(ふとん)、枕(まくら)の類までのあと片づけが、どの家でもはじまっていた。
過去の大通行の場合と同じように、総督一行の通り過ぎたあとにはいろいろなものが残った。全軍の諸勘定を引き受けた高遠藩(たかとおはん)では藩主に代わる用人らが一切のあと始末をするため一晩馬籠に泊まったが、人足買い上げの賃銭が不足して、容易にこの宿場を立てなかった。どうやらそれらの用人らも引き揚げて行った。駅長としての半蔵はその最後の一行を送り出した後、宿内見回りのためにあちこちと出歩いた。彼は蔦屋(つたや)という人足宿の門口にも立って見た。そこには美濃(みの)の大井宿から総督一行のお供をして来た請負人足、その他の諸人足が詰めていて、賃銭分配のいきさつからけんか口論をはじめていた。旅籠屋(はたごや)渡世をしている大野屋勘兵衛方の門口にも立って見た。そこでは軍の第二班にあたる因州藩の御連中の宿をしたところ、酒を出せの、肴(さかな)を出せのと言われ、中にはひどく乱暴を働いた侍衆もあったというような話が残っていた。ある伝馬役(てんまやく)の門口にも立って見た。街道に添う石垣の片すみによせて、大きな盥(たらい)が持ち出してある。馬の行水(ぎょうずい)もはじまっている。馬の片足ずつを持ち上げさせるたびに、「どうよ、どうよ。」と言う馬方の声も起こる。湯水に浸された荒藁(あらわら)の束で洗われるたびに、馬の背中からにじみ出る汗は半蔵の見ている前で白い泡(あわ)のように流れ落ちた。そこにはまた、妻籠(つまご)、三留野(みどの)の両宿の間の街道に、途中で行き倒れになった人足の死体も発見されたというような、そんなうわさも伝わっていた。
半蔵が中津川まで迎えに行って謁見(えっけん)を許された東山道総督岩倉少将は、ようやく十六、七歳ばかりのうらわかさである。御通行の際は、白地の錦(にしき)の装束(しょうぞく)に烏帽子(えぼし)の姿で、軍旅のいでたちをした面々に前後を護(まも)られながら、父岩倉公の名代を辱(はず)かしめまいとするかのように、勇ましく馬上で通り過ぎて行った。副総督の八千丸(やちまる)も兄の公子に負けてはいないというふうで、赤地の錦の装束に太刀(たち)を帯び、馬にまたがって行ったが、これは初陣(ういじん)というところを通り越して、いじらしいくらいであった。この総督御本陣直属の人数は二百六人、それに用物人足五十四人、家来向き諸荷物人足五十二人、赤陣羽織(あかじんばおり)を着た十六人のものが赤地に菊の御紋のついた錦の御旗と、同じ白旗とをささげて来た。空色に笹龍胆(ささりんどう)の紋じるしをあらわした総督家の旗もそのあとに続いた。そればかりではない、井桁(いげた)の紋じるしを黒くあらわしたは彦根(ひこね)勢、白と黒とを半分ずつ染め分けにしたは青山勢、その他、あの同勢が押し立てて来た馬印から、「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」と大書した吹き流しまで――数えて来ると、それらの旗や吹き流しのはたはたと風に鳴る音が馬のいななきにまじって、どれほど軍容をさかんにしたかしれない。東山道軍の一行が活気に満ちていたことは、あの重い大砲を車に載せ、兵士の乗った馬に前を引かせ、二人(ふたり)ずつの押し手にそのあとを押させ、美濃と信濃(しなの)の国境(くにざかい)にあたる十曲峠(じっきょくとうげ)の険しい坂道を引き上げて来たのでもわかる。その勢いで木曾の奥筋へと通り過ぎて行ったのだ。轍(わだち)の跡を馬籠峠の上にも印(しる)して。
一行には、半蔵が親しい友人の景蔵、香蔵、それから十四、五人の平田門人が軍の嚮導(きょうどう)として随行して来た。あの同門の人たちの輝かしい顔つきこそ、半蔵が村の百姓らにもよく見てもらいたかったものだ。今度総督を迎える前に、彼はそう思った。もし岩倉公子の一行をこの辺鄙(へんぴ)な山の中にも迎えることができたなら、おそらく村の百姓らは山家の酒を瓢箪(ふくべ)にでも入れ、手造りにした物を皿(さら)にでも盛って、一行の労苦をねぎらいたいと思うほどのよろこびにあふれることだろうかと。彼はまた、そう思った。長いこと百姓らが待ちに待ったのも、今日(きょう)という今日ではなかったか。昨日(きのう)、一昨日(おととい)のことを思いめぐらすと、実に言葉にも尽くされないほどの辛労と艱難(かんなん)とを忍び、共に共に武家の奉公を耐(こら)え続けたということも、この日の来るのを待ち受けるためではなかったかと。さて、総督一行が来た。諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨(えいし)をもたらして来た。地方にあるものは安堵(あんど)して各自に世渡りせよ、年来|苛政(かせい)に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨(むね)を本陣に届けいでよと言われても、だれ一人(ひとり)百姓の中から進んで来て下層に働く仲間のために強い訴えをするものがあるでもない。鰥寡(かんか)、孤独、貧困の者は広く賑恤(しんじゅつ)するぞ、八十歳以上の高齢者へはそれぞれ褒美(ほうび)をつかわすぞと言われても、あの先年の「ええじゃないか」の騒動のおりに笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なくこの街道を踊り回ったほどの熱狂が見られるでもない。宿内のものはもちろん、近在から集まって来てこの街道に群れをなした村民は、結局、祭礼を見物する人たちでしかない。庄屋|風情(ふぜい)ながらに新政府を護(も)り立てようと思う心にかけては同門の人たちにも劣るまいとする半蔵は、こうした村民の無関心につき当たった。 

御通行後の混雑も、一つ片づき、二つ片づきして、馬籠宿としての会所の残務もどうにか片づいたころには、やがて一切のがやがやした声を取り沈めるような、夕方から来る雨になって行った。慶応四年二月の二十八日のことで、ちょうど会所の事務は問屋九郎兵衛方で取り扱っているころにあたる。これは半蔵の家に付属する問屋場(といやば)と、半月交替で開く従来のならわしによるのである。半蔵はその会所の見回りを済まし、そこに残って話し込んでいる隣家の伊之助その他の宿役人にも別れて、日暮れ方にはもう扉(とびら)を閉じ閂(かんぬき)を掛ける本陣の表門の潜(くぐ)り戸(ど)をくぐった。
「岩倉様の御兄弟(ごきょうだい)も、どの辺まで行かっせいたか。」
例の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って、御通行後のうわさをしている。毎日通いで来る清助もまだ話し込んでいる。その日のお泊まりは、三留野(みどの)か、野尻(のじり)かなぞと、そんなうわさに余念もない。半蔵が継母のおまんから、妻のお民まで、いずれもくたびれたらしい顔つきである。子供まで集まって来ている。そこへ半蔵が帰って行った。
「宗太さま、お前さまはどこで岩倉様を拝まっせいたなし。」と佐吉が子供にたずねる。
「おれか。おれは石屋の坂で。」と宗太は少年らしい目をかがやかしながら、「山口(隣村)から見物に来たおじさんがおもしろいことを言ったで――まるで錦絵(にしきえ)から抜け出した人のようだったなんて――なんでも、東下(あずまくだ)りの業平朝臣(なりひらあそん)だと思えば、間違いないなんて。」
「業平朝臣はよかった。」と清助も笑い出した。
「そう言えば、清助さんは福島の御隠居さまのことをお聞きか。」とおまんが言う。
「えゝ、聞いた。」
「あの御隠居さまもお気の毒さ。わざわざ中津川までお出ましでも、岩倉様の方でおあいにならなかったそうじゃないか。」
「そういう話です。」
「まあ、御隠居さまはああいうかたでも、木曾福島の御家来衆に不審のかどがあると言うんだろうね。献上したお馬だけは、それでも首尾よく納めていただいたと言うから。」
「何にしても、福島での御通行は見ものです。」
「しかし、清助さん、大垣(おおがき)のことを考えてごらんな。あの大きな藩でも、城を明け渡して、五百七十人からの人数が今度のお供でしょう。福島の御家中でも、そうはがんばれまい。」
「ですから、見ものだと言うんですよ。そこへ行くと、村の衆なぞは実にノンキなものですね。江戸幕府が倒れようと、御一新の世の中になろうと――そんなことは、どっちでもいいような顔をしている。」
「この時節がらにかい。そりゃ、清助さん、みんな心配はしているのさ。」
とまたおまんが言うと、清助は首を振って、
「なあに、まるで赤の他人です。」
と無造作に片づけて見せた。
半蔵はこんな話に耳を傾けながら、囲炉裏ばたにつづいている広い台所で、家のものよりおそく夕飯の膳(ぜん)についた。その日一日のあと片づけに下女らまでが大掃除のあとのような顔つきでいる。間もなく半蔵は家のものの集まっているところから表玄関の板の間を通りぬけて、店座敷の戸に近く行った。全国にわたって影響を及ぼすとも言うべき、この画期的な御通行のことが自然とまとまって彼の胸に浮かんで来る。何ゆえに総督府執事があれほど布告を出して、民意の尊重を約束したかと思うにつけても、彼は自分の世話する百姓らがどんな気でいるかを考えて、深いため息をつかずにはいられなかった。
「もっと皆が喜ぶかと思った。」
彼の述懐だ。
その翌日は、朝から大降りで、半蔵の周囲にあるものはいずれも疲労を引き出された。家(うち)じゅうのものがごろごろした。降り込む雨をふせぐために、東南に向いた店座敷の戸も半分ほど閉(し)めてある。半蔵はその居間に毛氈(もうせん)を敷いた。あだかも宿入りの日を楽しむ人のように、いくらかでも彼が街道の勤めから離れることのできるのは、そうした毛氈の上にでも横になって見る時である。宿内総休みだ。だれも訪(たず)ねて来るものもない。彼は長々と延ばした足を折り重ねて、わびしくはあるが暖かい雨の音をきいていたが、いつのまにかこの街道を通り過ぎて行った薩州(さっしゅう)、長州、土州、因州、それから彦根、大垣なぞの東山道軍の同勢の方へ心を誘われた。
多数な人馬の足音はまだ半蔵の耳の底にある。多い日には千百五十余人、すくない日でも四百三十余人からの武装した人たちから成る一大集団の動きだ。一行が大垣進発の当時、諸軍の役々は御本営に召され、軍議のあとで御酒頂戴(ごしゅちょうだい)ということがあったとか。土佐の片岡(かたおか)健吉という人は、参謀板垣退助の下で、迅衝隊(じんしょうたい)半大隊の司令として、やはり御酒頂戴の一人(ひとり)であるが、大勢(おおきお)いのあまり本営を出るとすぐ堀溝(どぶ)に落ちたと言って、そのことが一行の一つ話になっていた。こんな些細(ささい)なあやまちにも、薩州や長州は土佐を笑おうとした。薩州の三中隊、長州の二中隊、因州の八小隊、彦根の七小隊に比べると、土佐は東山道軍に一番多く兵を出している。十二小隊から成る八百八十六人の同勢である。それがまたまるで見かけ倒しだなぞと、上州縮(じょうしゅうちぢみ)の唄(うた)にまでなぞらえて愚弄(ぐろう)するものがあるかと思えば、一方ではそれでも友軍の態度かとやりかえす。今にめざましい戦功をたてて、そんなことを言う手合いに舌を巻かせて見せると憤激する高知藩(こうちはん)の小監察なぞもある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分けて甲州より進むか進まないかの方針にすら、薩長は土佐に反対するというありさまだ。そのくせ薩軍では甲州の形勢を探らせに人をやると、土佐側でも別に人をやって、たとい途中で薩長と別れても甲州行きを決するがいいと言い出したものもあったくらいだ。半蔵の耳の底にあるのは、そういう人たちの足音だ。それは押しのけ、押しのけるものの合体して動いて行った足音だ。互いのかみ合いだ。躍進する生命のすさまじい真剣さだ。中には、押せ、押せでやって行くものもある。彦根や大垣の寝返りを恐れて、後方を振り向くものは撃つぞと言わないばかりのものもある。まったく、足音ほど隠せないものはない。あるものはためらいがちに、あるものは荒々しく、あるものはまた、多数の力に引きずられるようにしてこの街道を踏んで行った。いかに王師を歓迎する半蔵でも、その競い合う足音の中には、心にかかることを聞きつけないでもない。
「彼を殺せ。」
その声は、昨日の将軍も実に今日の逆賊であるとする人たちの中から聞こえる。半蔵が多数の足音の中に聞きつけたのもその声だ。いや、これが決して私闘であってはならない、蒼生万民(そうせいばんみん)のために戦うことであらねばならない。その考えから、彼はいろいろ気にかかることを自分の小さな胸一つに納めて置こうとした。どうして、新政府の趣意はまだ地方の村民の間によく徹しなかったし、性急な破壊をよろこばないものは彼の周囲にも多かったからで。
相変わらず休みなしで、騒ぎ回っているのは子供ばかり。桃の節句も近いころのことで、姉娘のお粂(くめ)は隣家の伏見屋から祝ってもらった新しい雛(ひな)をあちこちとうれしそうに持ち回った。それを半蔵のところにまで持って来て見せた。
どうやら雨もあがり、あと片づけも済んだ三日目になって見ると、馬籠の宿場では大水の引いて行ったあとのようになった。陣笠(じんがさ)をかぶった因州の家中の付き添いで、野尻宿の方から来た一つの首桶(くびおけ)がそこへ着いた。木曾路行軍の途中、東山道軍の軍規を犯した同藩の侍が野尻宿で打ち首になり、さらに馬籠の宿はずれで三日間|梟首(さらしくび)の刑に処せらるるというものの首級なのだ。半蔵は急いで本陣を出、この扱いを相談するために他の宿役人とも会所で一緒になった。
因州の家中はなかなか枯れた人で、全軍通過のあとにこうしたものを残して行くのは本意でないと半蔵らに語り、自分らの藩からこんなけが人を出したのはかえすがえすも遺憾であると語った。木曾少女(きそおとめ)は色白で、そこいらの谷川に洗濯(せんたく)するような鄙(ひな)びた姿のものまでが旅人の目につくところから、この侍もつい誘惑に勝てなかった。女ゆえに陣中の厳禁を破った。辱(はず)かしめられた相手は、山の中の番太(ばんた)のむすめである。そんな話も出た。
因州の家中はまた、半蔵の方を見て言った。
「時に、本陣の御主人、拙者は途次(みちみち)仕置場(しおきば)のことを考えて来たが、この辺では竹は手に入るまいか。」
「竹でございますか。それなら、わたしどもの裏にいくらもございます。」
「これで奥筋の方へまいりますと、竹もそだちませんが、同じ木曾でも当宿は西のはずれでございますから。」と半蔵のそばにいて言葉を添えるものもある。
「それは何よりだ。そういうことであったら、獄門は青竹で済ませたい。そのそばに御制札を立てたい。早速(さっそく)、村の大工をここへ呼んでもらいたい。」
一切の準備は簡単に運んだ。宿役人仲間の桝田屋(ますだや)小左衛門は急いで大工をさがしに出、伏見屋伊之助は青竹を見立てるために本陣の裏の竹藪(たけやぶ)へと走った。狭い宿内のことで、このことを伝え聞いたものは目を円(まる)くして飛んで来る。問屋場の前あたりは大変な人だかりだ。
その中に宗太もいた。本陣の小忰(こせがれ)というところから、宗太は特に問屋の九郎兵衛に許されて、さも重そうにその首桶(くびおけ)をさげて見た。
「どうして、宗太さまの力に持ちあがらすか。首はからだの半分の重さがあるげなで。」
そんなことを言って混ぜかえすものがある。それに半蔵は気がついて、
「さあ、よした、よした――これはお前たちなぞのおもちゃにするものじゃない。」
としかった。
獄門の場処は、町はずれの石屋の坂の下と定められた。そこは木曾十一宿の西の入り口とも言うべきところに当たる。本陣の竹藪からは一本の青竹が切り出され、その鋭くとがった先に侍の首級が懸(か)けられた。そのそばには規律の正しさ、厳(おごそ)かさを示すために、東山道軍として制札も立てられた。そこには見物するものが集まって来て、うわさはとりどりだ。これは尾州藩から掛け合いになったために、因州軍でも捨てて置かれなかったのだと言うものがある。当月二十六日の夜に、宿内の大野屋勘兵衛方に止宿して、酒宴の上であばれて行ったのも、おおかたこの侍であろうと言って見るものもある。やがて因州の家中も引き揚げて行き、街道の空には夜鷹(よたか)も飛び出すころになると、石屋の坂のあたりは人通りも絶えた。
「どうも、番太のむすめに戯れたぐらいで、打ち首とは、おれもたまげたよ。」
「山の中へでも無理に女を連れ込んだものかなあ。」
「このことは尾州藩からやかましく言い出したげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩からの寄り合いだもの。このくらいのことをやらなけりゃ、軍規が保てんと見えるわい。」
だれが問い、だれが答えるともなく、半蔵の周囲にはそんな声も起こる。
こうした光景を早く村民から隠したいと考えるのも半蔵である。彼は周囲を見回した。村には万福寺もある。そこの境内には無縁の者を葬るべき墓地もある。早くもとの首桶に納めたい、寺の住持|松雲和尚(しょううんおしょう)に立ち会ってもらってあの侍の首級を埋(うず)めてしまいたい、その考えから彼は獄門三日目の晩の来るのを待ちかねた。彼はまた、こうした極刑が新政府の意気込みをあらわすということに役立つよりも、むしろ目に見えない恐怖をまき散らすのを恐れた。庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々(さまざま)な流言からも村民を護(まも)らねばならなかった。 

三月にはいって、めずらしい春の大雪は街道を埋(うず)めた。それがすっかり溶けて行ったころ、かねて上京中であった同門の人、伊那(いな)南条村の館松縫助(たてまつぬいすけ)が美濃路(みのじ)を経て西の旅から帰って来た。
縫助は、先師|篤胤(あつたね)の稿本全部を江戸から伊那の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まして来て、やっと一安心という帰りの旅の途中にある。いよいよ江戸の総攻撃も開始されるであろうと聞いては、兵火の災に罹(かか)らないうちに早くあの稿本類を救い出して置いてよかったという顔つきの人だ。半蔵はこの人を馬籠本陣に迎えて、日ごろ忘れない師|鉄胤(かねたね)や先輩|暮田正香(くれたまさか)からのうれしい言伝(ことづて)を聞くことができた。
「半蔵さん、わたしは中津川の本陣へも寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の伊勢久(いせきゅう)――あの亭主(ていしゅ)から、景蔵さんのところへ染め物を届けてくれと言われて、厄介(やっかい)なものを引き受けて来ましたが、あいにくと、また景蔵さんは留守の時さ。あの人も今度は総督のお供だそうですね。わたしは中津川まで帰って来てそのことを知りましたよ。」
縫助はその調子だ。
美濃の大垣から、大井、中津川、落合(おちあい)と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は、幕府の探索方なぞに目をつけられる心配のなかっただけでも、王政第一春の旅の感じを深くしたと言う人である。なんと言っても平田篤胤没後の門人らは、同じ先師の愛につながれ、同じ復古の志に燃えていた。半蔵はまた日ごろ気の置けない宿役人仲間にすら言えないようなことまで、この人の前には言えた。彼が東山道軍を迎える前には、西よりする諸藩の武士のみが総督を護(まも)って来るものとばかり思ったが、実際にこの宿場に総督一行を迎えて見て、はじめて彼は東山道軍なるものの性質を知った。その中堅をもって任ずる土佐兵にしてからが、多分に有志の者で、郷士(ごうし)、徒士、従軍する庄屋、それに浪人なぞの混合して組み立てた軍隊であった。そんなことまで彼は縫助の前に持ち出したのであった。
「いや、君の言うとおりでしょう。王事に尽くそうとするものは、かえって下のものの方に多いかもしれませんね。」
と縫助も言って見せた。
旧暦三月上旬のことで、山家でも炬燵(こたつ)なしに暮らせる季節を迎えている。相手は旅の土産話(みやげばなし)をさげて来た縫助である。おまけに、腰は低く、話は直(ちょく)な人と来ている。半蔵は心にかかる京都の様子を知りたくて、暮田正香もどんな日を送っているかと自分の方から縫助にたずねた。
風の便(たよ)りに聞くとも違って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都|衣(ころも)の棚(たな)のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾(のれん)のかかった町のあたりを彷彿(ほうふつ)させるものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、この国の歴史あって以来の未曾有(みぞう)の珍事とも言うべき外国公使の参内(さんだい)を正香と共に丸太町通りの町角(まちかど)で目撃したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺(しょうこくじ)から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗(くろらしゃ)の日覆(ひおお)いのかかった駕籠(かご)に乗って、群集の中を通り過ぎて行くのを見ることができたという。まだ西洋人というものを見たことのない彼が、初めて自己の狭い見聞を破られた時は、夢のような気がしたとか。
縫助はなお、言葉を継いで、彼と正香とが周囲に群がる人たちと共に、智恩院(ちおんいん)を出る英国公使パアクスを待ったことを語った。これは参内の途中、二人(ふたり)の攘夷家(じょういか)のあらわれた出来事のために沙汰止(さたや)みとなった。彼が暇乞(いとまご)いのために師鉄胤の住む錦小路(にしきこうじ)に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ちきっていた。沿道の警戒は一層厳重をきわめ、薩州、長州、芸州、紀州の諸藩からは三十人ずつほどの人数を出してその事に当たり、当日の往来筋は諸人通行留めで、左右横道の木戸も締め切るという評判であった。もはや、周囲の事情はこの国の孤立を許さない。上御一人(かみごいちにん)ですら進んで外国交際の道を開き、万事条約をもって世界の人を相手としなければならない、今後みだりに外国人を殺害したり、あるいは不心得の所業に及んだりするものは、朝命に悖(もと)り、国難を醸(かも)すのみならず、この国の威信にもかかわる不届き至極(しごく)の儀と言われるようになった。その罪を犯すものは士分の者たりとも至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実に隔世の感があったともいう。
「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫(ねこ)も杓子(しゃくし)も万国公法を振り回すにはたまげました。外国交際の話が出ると、すぐ万国公法だ。あれにはわたしも当てられて来ましたよ。あれだけは味噌(みそ)ですね。」
これは、縫助が半蔵のところに残して行った言葉だ。
伊那の谷をさして、広瀬村泊まりで立って行った客を送り出した後、半蔵はひとり言って見た。
「百姓にだって、ああいう頼もしい人もある。」 

一行十三人、そのいずれもが美濃の平田門人であるが、信州|下諏訪(しもすわ)まで東山道総督を案内して、そこから引き返して来たのは、三日ほど後のことである。一行は馬籠宿昼食の予定で、いずれも半蔵の家へ来て草鞋(わらじ)の紐(ひも)を解いた。
本陣の玄関先にある式台のところは、これらの割羽織に帯刀というものものしい服装(いでたち)の人たちで混雑した。陣笠(じんがさ)を脱ぎ、立附(たっつけ)の紐をほどいて、道中のほこりをはたくものがある。足を洗って奥へ通るものがある。
「さあ、どうぞ。」
まッ先に玄関先へ飛んで出て、客を案内するのは清助だ。奥の間と中の間をへだてる襖(ふすま)を取りはずし、二|部屋(へや)通しの広々としたところに客の席をつくるなぞ、清助もぬかりはない。無事に嚮導(きょうどう)の役目を果たして来た十三人の美濃衆は、同じ門人仲間の半蔵の家に集まることをよろこびながら、しばらく休息の時を送ろうとしている。その中に、中津川の景蔵もいる。そこへ半蔵は挨拶(あいさつ)に出て、自宅にこれらの人たちを迎えることをめずらしく思ったが、ただ香蔵の顔が見えない。
「香蔵さんは、諏訪から伊那の方へ回りました。二、三日帰りがおくれましょう。」
そう言って見せる友人景蔵までが、その日はなんとなく改まった顔つきである。一行の中には、美濃の苗木(なえぎ)へ帰ろうとする人なぞもある。
「今度は景蔵さんも大骨折りさ。われわれは諏訪まで総督を御案内しましたが、あそこで軍議が二派に別れて、薩長はどこまでも中山道(なかせんどう)を押して行こうとする、土佐は甲州方面の鎮撫(ちんぶ)を主張する――いや、はや、大(おお)やかまし。」
「結局、双方へ分かれて行く軍を見送って置いて、あそこからわれわれは引き返して来ましたよ。」
こんな声がそこにもここにも起こる。
清助は座敷に出て半蔵を助けるばかりでなく、勝手口の方へも回って行って、昼じたくにいそがしいお民を助けた。囲炉裏ばたに続いた広い台所では、十三人前からの膳(ぜん)の用意がはじまっていた。にわかな客とあって、有り合わせのものでしか、もてなせない。切(き)り烏賊(いか)、椎茸(しいたけ)、牛蒡(ごぼう)、凍り豆腐ぐらいを|煮〆(にしめ)にしてお平(ひら)に盛るぐらいのもの。別に山独活(やまうど)のぬた。それに山家らしい干瓢(かんぴょう)の味噌汁(みそしる)。冬季から貯(たくわ)えた畠(はたけ)の物もすでに尽き、そうかと言って新しい野菜はまだ膳に上らない時だ。
「きょうのお客さまは、みんな平田先生の御門人ばかり。」
とお粂(くめ)までが肩をすぼめて、それを母親のところへささやきに来る。この娘ももはや、皿小鉢(さらこばち)をふいたり、割箸(わりばし)をそろえたりして、家事の手伝いするほどに成人した。そこにはおまんも裏の隠居所の方から手伝いに来ていた。おまんは、場合が場合だから、たとい客の頼みがないまでも、わざとしるしばかりに一献(いっこん)の粗酒ぐらいを出すがよかろうと言い出した。それには古式にしてもてなしたら、本陣らしくもあり、半蔵もよろこぶであろうともつけたした。彼女は家にある土器(かわらけ)なぞを三宝(さんぽう)に載せ、孫娘のお粂には瓶子(へいじ)を運ばせて、挨拶(あいさつ)かたがた奥座敷の方へ行った。
「皆さんがお骨折りで、御苦労さまでした。」
と言いながら、おまんは美濃衆の前へ挨拶に行き、中津川の有志者の一人(ひとり)として知られた小野三郎兵衛の前へも行った。その隣に並んで、景蔵が席の末に着いている。その人の前にも彼女は土器(かわらけ)を白木の三宝のまま置いて、それから冷酒を勧めた。
「あなたも一つお受けください。」
「お母(っか)さん、これは恐れ入りましたねえ。」
景蔵はこころよくその冷酒を飲みほした。そこへ半蔵も進み寄って、
「でも、景蔵さん、福島での御通行があんなにすらすら行くとは思いませんでしたよ。」
「とにかく、けが人も出さずにね。」
「あの相良惣三(さがらそうぞう)の事件で、われわれを呼びつけた時なぞは、えらい権幕(けんまく)でしたなあ。」
「これも大勢(たいせい)でしょう。福島の本陣へは山村家の人が来ましてね、恭順を誓うという意味の請書(うけしょ)を差し出しました。」
「吾家(うち)の阿爺(おやじ)なぞも非常に心配していましたよ。この話を聞いたら、さぞあの阿爺も安心しましょう。旧(ふる)い、旧い木曾福島の旦那(だんな)さまですからね。」
「そう言えば、景蔵さん、あの相良惣三のことを半蔵さんに話してあげたら。」と隣席にいる三郎兵衛が言葉を添える。
「壮士ひとたび去ってまた帰らずサ。これもよんどころない。三月の二日に、相良惣三の総人数が下諏訪の御本陣に呼び出されて、その翌日には八人の重立ったものが下諏訪の入り口で、断頭の上、梟首(さらしくび)ということになりました。そのほかには、片鬚(かたひげ)、片眉(かたまゆ)を剃(そ)り落とされた上で、放逐になったものが十三人ありました。われわれは君、一同連名で、相良惣三のために命|乞(ご)いをして見ましたがね、官軍の先駆なぞととなえて勝手に進退するものを捨て置くわけには行かないと言うんですからね――とうとう、われわれの嘆願もいれられませんでしたよ。」
やがて客膳の並んだ光景がその奥座敷にひらけた。景蔵は隣席の三郎兵衛と共にすわり直して、馬籠本陣での昼じたくも一同が記念の一つと言いたげな顔つきである。
時は、あだかも江戸の総攻撃が月の十五日と定められたというころに当たる。東海道回りの大総督の宮もすでに駿府(すんぷ)に到着しているはずだと言わるる。あの闘志に満ちた土佐兵が江戸進撃に参加する日を急いで、甲州方面に入り込んだといううわさのある幕府方の新徴組を相手に、東山道軍最初の一戦を交えているだろうかとは、これまた諏訪帰りの美濃衆一同から話題に上っているころだ。
その日の景蔵はあまり多くを語らなかった。半蔵の方でも、友だちと二人きりの心持ちを語り合えるようなおりが見いだせない。ただ景蔵は言葉のはじに、総督|嚮導(きょうどう)の志も果たし、いったん帰国した思いも届いたものだから、この上は今一度京都へ向かいたいとの意味のことをもらした。
「今の時は、一人でも多く王事に尽くすものを求めている。自分は今一度京都に出て、新政府の創業にあずかっている師鉄胤を助けたい。」
このことを景蔵は自己の動作や表情で語って見せていた。皆と一緒に膳にむかって、箸(はし)を取りあげる手つきにも。お民が心づくしの手料理を味わう口つきにも。
美濃衆の多くは帰りを急いでいた。昼食を終わると間もなく立ちかけるものもある。あわただしい人の動きの中で、半蔵は友人のそばへ寄って言った。
「景蔵さん、まあ中津川まで帰って行って見たまえ。よいものが君を待っていますから。あれは伊那の縫助さんの届けものです。あの人はわたしの家へも寄ってくれて、いろいろな京都の土産話(みやげばなし)を置いて行きました。」
二日過ぎに、香蔵は伊那回りで馬籠まで引き返して来た。諏訪帰り十三人の美濃衆と同じように、陣笠(じんがさ)割羽織に立附(たっつけ)を着用し、帯刀までして、まだ総督を案内したままの服装(いでたち)も解かずにいる親しい友人を家に迎え入れることは、なんとはなしに半蔵をほほえませた。
「ようやく。ようやく。」
その香蔵の声を聞いただけで、半蔵には美濃の大垣から信州下諏訪までの間の奔走を続けて来た友人の骨折りを察するに充分だった。
何よりもまず半蔵は友人を店座敷の方へ通して、ものものしい立附(たっつけ)の紐(ひも)を解かせ、腰のものをとらせた。彼はお民と相談して、香蔵を家に引きとめることにした。くたびれて来た人のために、風呂(ふろ)の用意なぞもさせることにした。場合が場合でも、香蔵には気が置けない。そこで、お民までが夫の顔をながめながら、
「香蔵さんもあの服装(なり)じゃ窮屈でしょう。お風呂からお上がりになったら、あなたの着物でも出してあげましょうか。」
こんな女らしい心づかいも半蔵をよろこばせた。
香蔵は黒く日に焼けて来て、顔の色までめっきり丈夫そうに見える人だ。夕方から、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、お民にすすめられた着物の袖(そで)に手を通し、拝借という顔つきで半蔵の部屋に来てくつろいだ。
「相良惣三もえらいことになりましたよ。」
と香蔵の方から言い出す。半蔵はそれを受けて、
「その話は景蔵さんからも聞きました。」
「われわれ一同で命乞いはして見たが、だめでしたね。あの伏見鳥羽(ふしみとば)の戦争が起こる前にさ、相良惣三の仲間が江戸の方であばれて来たことは、半蔵さんもそうくわしくは知りますまい。今度わたしは総督の執事なぞと一緒になって見て、はじめていろいろなことがわかりました。あの仲間には三つの内規があったと言います。幕府を佐(たす)けるもの。浪士を妨害するもの。唐物(とうぶつ)(洋品)の商法(あきない)をするもの。この三つの者は勤王攘夷の敵と認めて誅戮(ちゅうりく)を加える。ただし、私欲でもって人民の財産を強奪することは許さない。そういう内規があって、浪士数名が江戸|金吹町(かなぶきちょう)の唐物店へ押しかけたと考えて見たまえ。前後の町木戸(まちきど)を閉(し)めて置いて、その唐物店で六連発の短銃を奪ったそうだ。それから君、幕府の用途方(ようどかた)で播磨屋(はりまや)という家へ押しかけた。そこの番頭を呼びつけて、新式な短銃を突きつけながら、貴様たちの頭には幕府しかあるまい、勤王の何物たるかを知るまい、もし貴様たちが前非を悔いるなら勤王の陣営へ軍資を献上しろ、そういうことを言ったそうだ。その時、子僧(こぞう)が二人(ふたり)で穴蔵の方へ案内して、浪士に渡した金が一万両の余ということさ。そういうやり方だ。」
「えらい話ですねえ。」
「なんでも、江戸|三田(みた)の薩摩屋敷があの仲間の根拠地さ。あの屋敷じゃ、みんな追い追いと国の方へ引き揚げて行って、屋敷のものは二十人ぐらいしか残っていなかったそうです。浪士隊は三方に手を分けて、例の三つの内規を江戸付近にまで実行した上、その方に幕府方の目を奪って置いて、何か事をあげる計画があったとか。それはですね、江戸城に火を放つ、その隙(すき)に乗じて和宮(かずのみや)さまを救い出す、それが真意であったとか聞きました。あの仲間のことだ、それくらいのことはやりかねないね。そういうさかんな連中がわれわれの地方へ回って来たわけさ。川育ちは川で果てるとも言うじゃありませんか。今度はあの仲間が自分に復讐(ふくしゅう)を受けるようなことになりましたね。そりゃ不純なものもまじっていましたろう。しかし、ただ地方を攪乱(こうらん)するために、乱暴|狼藉(ろうぜき)を働いたと見られては、あの仲間も浮かばれますまい。」
こんな話が始まっているところへ、お民は夫の友人をねぎらい顔に、一本|銚子(ちょうし)なぞをつけてそこへ持ち運んで来た。
「香蔵さん、なんにもありませんよ。」
「まあ、君、膝(ひざ)でもくずすさ。」
夫婦してのもてなしに、香蔵も無礼講とやる。酒のさかなには山家の蕗(ふき)、それに到来物の蛤(はまぐり)の時雨煮(しぐれに)ぐらいであるが、そんなものでも簡素で清潔なのしめ膳(ぜん)の上を楽しくした。
「お民、香蔵さんは中津川へお帰りになるばかりじゃないよ。これからまた京都の方へお出かけになる人だよ。」
「それはおたいていじゃありません。」
この夫婦のかわす言葉を香蔵は引き取って言った。
「ええ、たぶん景蔵さんと一緒に。わたしもまた京都の方へ行って、しばらく老先生(鉄胤のこと)のそばで暮らして来ます。」
「お民、香蔵さんともしばらくお別れだ。お酒をもう一本頼む。お母(っか)さんには内証だよ。」
半蔵は自分で自分の耳たぶを無意識に引ッぱりながら、それを言った。その年になっても、まだ彼は継母の手前を憚(はばか)っていた。
「今夜は御幣餅(ごへいもち)でも焼いてあげたいなんて、台所で今したくしています。」とお民は言った。「まあ、香蔵さんもゆっくり召し上がってください。」
「そいつはありがたい。御幣餅とは、よいものをごちそうしてくださる。木曾の胡桃(くるみ)の香(かおり)は特別ですからね。」と香蔵もよろこぶ。
半蔵は友人の方を見て、同門の人たちのうわさに移った。南条村の縫助が自分のところに置いて行った京都の話なぞをそこへ持ち出した。
「香蔵さん、君は京都のことはくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で暮らして見る一か月は、以前の三か月にも半年にも当たりましょう。何にしても、君や景蔵さんはうらやましい。」
「さあ、もう一度京都へ行って見たら、どんなふうに変わっていましょうかさ。」
「なんでも縫助さんの話じゃ、京都は今、復興の最中だというじゃありませんか。」
「伊那でもそれが大評判。一方には君、東征軍があの勢いでしょう。世の中の舞台も大きく回りかけて来ましたね。しかし、半蔵さん、われわれはお互いに平田先生の門人だ。ここは考うべき時ですね。」
「わたしもそれは思う。」
「見たまえ、舞台の役者というものは、芝居(しばい)全体のことよりも、それぞれの持ち役に一生懸命になり過ぎるようなところがあるね。熱心な役者ほど、そういうところがあるね。今度わたしは総督のお供をして見て、そのことを感じました。狂言作者が、君、諸侯の割拠を破るという筋を書いても、そうは役者の方で深く読んでくれない。」
「多勢の仕事となると、そういうものかねえ。」
「まあ、半蔵さん、わたしは京都の方へ出かけて行って、あの復興の都の中に身を置いて見ますよ。いろいろまた君のところへも書いてよこしますよ。関東の形勢がどんなに切迫したと言って見たところで、肝心の慶喜公がお辞儀をしてかかっているんですからね。佐幕派の運命も見えてますね。それよりも、わたしは兵庫(ひょうご)や大坂の開港開市ということの方が気にかかる。外国公使の参内も無事に済んだからって、それでよいわと言えるようなものじゃありますまい。こんな草創の際に、したくらしいしたくのできようもなしさ。先方は兵力を示しても条約の履行を迫って来るのに、それすらこの国のものは忍ばねばならない。辛抱、辛抱――われわれは子孫のためにも考えて、この際は大いに忍ばねばならない。ほんとうに国を開くも、開かないも、実にこれからです……」
「お客さま――へえ、御幣餅(ごへいもち)。」
という子供の声がして、お粂(くめ)や宗太が母親と一緒に、皿(さら)に盛った山家の料理を囲炉裏ばたの方からそこへ運んで来た。
「さあ、どうぞ、冷(さ)めないうちに召し上がってください。」とお民は言って、やがて子供の方をかえり見ながら、「さっきから囲炉裏ばたじゃ大騒ぎなんですよ。吾家(うち)のお父(とっ)さんの着物をお客さまが着てるなんて、そんなことを言って――ほんとに、子供の時はおかしなものですね。」
この「お父(とっ)さんの着物」が客をも主人をも笑わせた。その時、香蔵は手をもみながら、
「どれ、一つ頂戴(ちょうだい)して見ますか。」
と言って、焼きたての御幣餅の一つをうまそうに頬(ほお)ばった。その名の御幣餅にふさわしく、こころもち平たく銭形(ぜにがた)に造って串(くし)ざしにしたのを、一ずつ横にくわえて串を抜くのも、土地のものの食い方である。こんがりとよい色に焼けた焼き餅に、胡桃(くるみ)の香に、客も主人もしばらく一切のことを忘れて食った。
翌朝早く、香蔵は半蔵夫婦に礼を述べて、そこそこに帰りじたくをした。この友人の心は半分京都の方へ行っているようでもあった。別れぎわに、
「でも、半蔵さん。今は生きがいのある時ですね。」
その言葉を残した。
友人を送り出した後、半蔵は本陣の店座敷から奥の間へ通う廊下のところに出た。香蔵の帰って行く美濃の方の空はその位置から西に望まれる。彼は、同門の人たちの多くが師鉄胤の周囲に集まりつつあることを思い、一切のものが徳川旧幕府に対する新政府の大争いへと吸い取られて行く時代の大きな動きを思い、三道よりする東征軍の中には全く封建時代を葬ろうとするような激しい意気込みで従軍する同門の有志も多かるべきことを思いやって、ひとりでその静かな廊下をあちこち、あちこちと歩いた。
古代復帰の夢はまた彼の胸に帰って来た。遠く山県大弐(やまがただいに)、竹内式部(たけのうちしきぶ)らの勤王論を先駆にして、真木和泉(まきいずみ)以来の実行に移った討幕の一大運動はもはやここまで発展して来た。一地方に起った下諏訪の悲劇なぞは、この大きな波の中にさらわれて行くような時だ。よりよき社会を求めるためには一切の中世的なものをも否定して、古代日本の民族性に見るような直(なお)さ、健やかさに今一度立ち帰りたいと願う全国幾千の平田門人らの夢は、当然この運動に結びつくべき運命のものであった、と彼には思われるのである。
彼は周囲を見回した。過ぐる年の秋、幕府の外交奉行で大目付を兼ねた山口|駿河(するが)(泉処)をこの馬籠本陣に泊めた時のことが、ふと彼の胸に浮かんだ。あの大目付が、京都から江戸への帰りに微行でやって来て、ひとりで彼の家の上段の間に隠れながら、あだかも徳川幕府もこれまでだと言ったように、暗い涙をのんで行った姿は、まだ彼には忘れられずにある。彼はあの幕臣が「条約の大争いも一段落を告げる時が来た」と言ったことを思い出した。「この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもあるまい」と言ったことをも思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。しかも、御親政の初めにあたり、この多難な時に際会して。
明日(あす)――最も古くて、しかも最も新しい太陽は、その明日にどんな新しい古(いにしえ)を用意して、この国のものを待っていてくれるだろうとは、到底彼などが想像も及ばないことであった。そういう彼とても、平田門人の末に列(つら)なり、物学びするともがらの一人(ひとり)として、もっともっと学びたいと思う心はありながら、日ごろ思うことの万が一を果たしうるような静かな心の持てる時代でもなかった。信を第一とす、との心から、ただただ彼は人間を頼みにして、同門のものと手を引き合い、どうかして新政府を護(も)り立て、後進のためにここまで道をあけてくれた本居宣長(もとおりのりなが)らの足跡をその明日にもたどりたいと願った。 

三月下旬には、東山道軍が木曾街道の終点ともいうべき板橋に達したとの報知(しらせ)の伝わるばかりでなく、江戸総攻撃の中止せられたことまで馬籠の宿場に伝わって来るようになった。すでに大政を奉還し、将軍職を辞し、広大な領地までそこへ投げ出してかかった徳川慶喜が江戸城に未練のあろうはずもない。いかに徳川家を疑い憎む反対者でも、当時局外中立の位置にある外国公使らまで認めないもののないこの江戸の主人の恭順に対して、それを攻めるという手はなかった。慶喜は捨てうるかぎりのものを捨てることによって、江戸の市民を救った。
このことは、いろいろに取りざたせられた。もとより、その直接交渉の任に当たり、あるいは主なき江戸城内にとどまって諸官の進退と諸般の処置とを総裁し順々として条理を錯乱せしめなかったは、大久保一翁、勝安房(かつあわ)、山岡(やまおか)鉄太郎の諸氏である。しかし、幕府内でも最も強硬な主戦派の頭目として聞こえた小栗上野(おぐりこうずけ)の職を褫(は)いで謹慎を命じたほどの堅い決意が慶喜になかったとしたら。当時、「彼を殺せ」とは官軍の中に起こる声であったばかりでなく、江戸城内の味方のものからも起こった。慶喜の心事を知らない兵士らの多くは、その恭順をもってもっぱら京都に降(くだ)るの意であるとなし、怒気|髪(はつ)を衝(つ)き、双眼には血涙をそそぎ、すすり泣いて、「慶喜|斬(き)るべし、社稷(しゃしょく)立つべし」とまでいきまいた。もしその殺気に満ちた空気の中で、幾多の誤解と反対と悲憤との声を押し切ってまでも断乎(だんこ)として公武一和の素志を示すことが慶喜になかったとしたら、おそらく、慶喜がもっと内外の事情に暗い貴公子で、開港条約の履行を外国公使らから迫られた経験もなく、多額の金を注(つ)ぎ込んだ債権者としての位置からも日本の内乱を好まない諸外国の存在を意にも留めずに、後患がどうであろうが将来がなんとなろうがさらに頓着(とんちゃく)するところもなく、ひたすら徳川家として幕府を失うのが残念であるとの一点に心を奪われるような人であったなら、たとい勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった。かつては参覲交代(さんきんこうたい)制度のような幕府にとって重要な政策を惜しげもなく投げ出した当時からの、あの弱いようで強い、時代の要求に敏感で、そして執着を持たない慶喜の性格を知るものにとっては――また、文久年度と慶応年度との二回にまでわたって幾多の改革に着手したその性格のあらわれを知るものにとっては、これは不思議でもなかったのである。不幸にも、徳川の家の子郎党の中にすら、この主人をよろこばないものがある。その不平は、多年慶喜を排斥しようとする旧(ふる)い幕臣の中からも起こり、かくのごとき未曾有(みぞう)の大変革はけだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩(さつま)と長州との決議から出た事であろうと推測する輩(やから)の中からも起こり、逆賊の名を負わせられながらなんらの抵抗をも示すことなしに過去三百年の都会の誇りをむざむざ西の野蛮人らにふみにじられるとはいかにも残念千万であるとする諸陪臣の中からも起こった。
「神祖(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだたった馬籠あたりの街道筋にまでおおいかぶさって来た。
諸大名の家中衆で江戸表にあったものの中には、早くも屋敷を引き揚げはじめたとの報もある。江戸城明け渡しの大詰めも近づきつつあったのだ。開城準備の交渉も進められているという時だ。それらの家中衆の前には、およそ四つの道があったと言わるる。脱走の道、帰農商の道、移住の道、それから王臣となるの道がそれだ。周囲の事情は今までどおりのような江戸の屋敷住居(やしきずまい)を許さなくなったのだ。
将軍家直属の家の子、郎党となると、さらにはなはだしい。それらの旗本方は、いずれも家政を改革し、費用を省略して、生活の道を立てる必要に迫られて来た。連年海陸軍の兵備を充実するために莫大(ばくだい)な入り用をかけて来た旧幕府では、彼らが知行(ちぎょう)の半高を前年中借り上げるほどの苦境にあったからで。彼ら旗本方はほとんどその俸禄(ほうろく)にも離れてしまった。慶喜が彼らに示した書面の中には、実に今日に至ったというのも皆自分一身の過(あやま)ちより起こったことである。自分は深く恥じ深く悲しむ、ついては生計のために暇(いとま)を乞いたい者は自分においてそれをするには忍びないけれども、その志すところに任せるであろう、との意味のことが諭(さと)してあったともいう。
もはや、江戸屋敷方の避難者は在国をさして、追い追いと東海道方面にも入り込むとのうわさがある。この薄暗い街道の空気の中で、どんなにか昔気質(むかしかたぎ)の父も心を傷(いた)めているだろう。そのことが半蔵をハラハラさせた。幾たびか彼に家出を思いとまらせ、庄屋のつとめを耐(こら)えさせ、友人の景蔵や香蔵のあとを追わせないで、百姓相手に地方(じかた)を守る心に立ち帰らせるのも、一つはこの年老いた父である。
昼過ぎから、ちょっと裏の隠居所をのぞきに行こうとする前に、半蔵は本陣の母屋(もや)から表門の外に走り出て見た。
「村のものは。」
だれに言うともなく、彼はそれを言って見た。旧幕府時代の高札でこれまでの分は一切取り除(の)けられ、新しい時代の来たことを辺鄙(へんぴ)な地方にまで告げるような太政官(だじょうかん)の定三札(じょうさんさつ)は、宿場の中央に改めて掲示されてある。彼は自分の家の門前の位置から、その高札場のあるあたりを坂になった町の上の方に望むこともでき、住み慣れた街道の両側に並ぶ石を載せた板屋根を下の方に見おろすこともできる。
こんな山里にまで及んで来る時局の影響も争われなかった。毎年桃から山桜へと急ぐよい季節を迎えるころには、にわかに人の往来も多く、木曾福島からの役人衆もきまりで街道を上って来るが、その年の春にかぎってまだ宿場|継立(つぎた)てのことなぞの世話を焼きに来る役人衆の影もない。東山道軍通過以来の山村氏の代官所は測りがたい沈黙を守って、木曾谷に声を潜めた原生林そのままの沈まり方である。わずかに尾張藩(おわりはん)の山奉行が村民らの背伐(せぎ)りを監視するため、奥筋から順に村々を回って来たに過ぎなかった。
この宿場では、つい二日ほど前に、中津川泊まりで西から進んで来る二百人ばかりの尾州兵の太鼓の音を聞いた。およそ三組から成る同勢の高旗をも望んだ。それらの一隊が、越後(えちご)方面を警戒する必要ありとして、まず松本辺をさして通り過ぎて行った後には、なんとなくゆききの人の足音も落ち着かない。飛脚荷物を持って来るものの名古屋|便(だよ)りまでが気にかかって、半蔵はしばらくその門前に立ってながめた。午後の日の光は街道に満ちている時で、諸勘定を兼ねて隣の国から登って来る中津の客、呉服物の大きな風呂敷(ふろしき)を背負った旅商人(たびあきんど)、その他、宿から宿への本馬(ほんま)何ほど、軽尻(からじり)何ほど、人足何ほどと言った当時の道中記を懐(ふところ)にした諸国の旅行者が、彼の前を往(い)ったり来たりしていた。
まず街道にも異状がない。そのことに、半蔵はやや心を安んじて、やがて自分の屋敷内にある母屋(もや)と新屋の間の細道づたいに、裏の隠居所の方へ行った。階下を味噌(みそ)や漬(つ)け物の納屋(なや)に当ててあるのは祖父半六が隠居時代からで、別に二階の方へ通う入り口もそこに造りつけてある。雪隠(せっちん)通(がよ)いに梯子段(はしごだん)を登ったり降りたりしないでも、用をたせるだけの設けもある。そこは筆者不明の大書を張りつけた古風な押入れの唐紙(からかみ)から、西南に明るい障子をめぐらした部屋(へや)の間取りまで、父が祖父の意匠をそっくり崩(くず)さずに置いてあるところだ。代を跡目相続の半蔵に譲り、庄屋本陣問屋の三役を退いてからの父が連れ添うおまんを相手に、晩年を暮らしているところだ。
そういう吉左衛門は、もはや一日の半ばを床の上に送る人である。その床の上に七十年の生涯(しょうがい)を思い出して、自己(おのれ)の黄昏時(たそがれどき)をながめているような人である。ちょうど半蔵が二階に上がって来て見た時は、父は眠っていた。
「お休みですか。」
と言いながら、半蔵は父の寝顔をのぞきに行った。その時、継母のおまんが次ぎの部屋から声をかけた。
「これ、お父(とっ)さんを起こさないでおくれ。」
大きな鼻、静かな口、長く延びた眉毛(まゆげ)、見慣れた半蔵の目には父の顔の形がそれほど変わったとも映らなかった。両手の置き場所から、足の重ね方まで考えるようになったと、よくその話の出る父は右を下にして昼寝の枕(まくら)についている。かすかないびきの声も聞こえる。半蔵はその鼻息を聞きすまして置いて、おまんのいる次ぎの部屋へ退いた。
「半蔵、江戸も大変だそうだねえ。」とおまんは言った。「さっきも、わたしがお父(とっ)さんに、そうあなたのように心配するからいけない、世の中のことは半蔵に任せてお置きなさるがいい、そう言ってあげても、お父さんは黙っておいでさ。そこへ、お前、上の伏見屋の金兵衛(きんべえ)さんだろう。あの人の話はまた、こまかいと来てる。わたしはそばできいていても、気が気じゃない。いくら旧(ふる)いお友だちでも、いいかげんに切り揚げて行ってくれればいい。そう思うとひとりでハラハラして、またこないだのようにお父さんが疲れなけりゃいいが、そればかり心配さ。金兵衛さんが帰って行ったあとで、お父さんが何を言い出すかと思ったら、おれはもうこんな時が早く通り過ぎて行ってくれればいい、早く通り過ぎて行ってくれればいいと、そればかり願っているとさ……」
隣室の吉左衛門は容易に目をさまさない。めずらしくその裏二階に迎えたという老友金兵衛との長話に疲れたかして、静かな眠りを眠りつづけている。
その時、母屋の方から用事ありげに半蔵をさがしに来たものもある。いろいろな村方の雑用はあとからあとからと半蔵の身辺に集まって来ていた時だ。彼はまた父を見に来ることにして、懐(ふところ)にした書付を継母の前に取り出した。それは彼が父に読みきかせたいと思って持って来たもので、京都方面の飛脚|便(だよ)りの中でも、わりかた信用の置ける聞書(ききがき)だった。当時ほど流言のおびただしくこの街道に伝わって来る時もなかった。たとえば、今度いよいよ御親征を仰せ出され、大坂まで行幸のあるということを誤り伝えて、その月の上旬に上方(かみがた)には騒動が起こったとか、新帝が比叡山(ひえいざん)へ行幸の途中|鳳輦(ほうれん)を奪い奉ったものがあらわれたとかの類(たぐい)だ。種々の妄説(もうせつ)はほとんど世間の人を迷わすものばかりであったからで。
「お母(っか)さん、これもあとでお父(とっ)さんに見せてください。」
と半蔵が言って、おまんの前に置いて見せたは、東征軍が江戸城に達する前日を期して、全国の人民に告げた新帝の言葉で、今日の急務、永世の基礎、この他にあるべからずと記(しる)し添えてあるものの写しだ。それは新帝が人民に誓われた五つの言葉より成る。万機公論に決せよ、上下心を一にせよ、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよ、旧来の陋習(ろうしゅう)を破って天地の公道に基づけ、知識を世界に求め大いに皇基を振起せよ、とある。それこそ、万民のために書かれたものだ。 

四月の中旬まで待つうちに、半蔵は江戸表からの飛脚|便(だよ)りを受け取って、いよいよ江戸城の明け渡しが事実となったことを知った。
さらに彼は月の末まで待った。昨日は将軍家が江戸|東叡山(とうえいざん)の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸(みと)の方へ落ちて行かれたとか、今日は四千人からの江戸屋敷の脱走者が武器食糧を携えて両総方面にも野州(やしゅう)方面にも集合しつつあるとか、そんな飛報が伝わって来るたびに、彼の周囲にある宿役人から小前(こまえ)のものまで仕事もろくろく手につかない。箒星(ほうきぼし)一つ空にあらわれても、すぐそれを何かの前兆に結びつけるような村民を相手に、ただただ彼は心配をわかつのほかなかった。
でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂(とうどう)、備前(びぜん)、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。尾州の御隠居父子を木曾の大領主と仰ぐ半蔵らにとっては、同藩の動きはことに凝視の的(まと)であった。偶然にも、彼は尾州藩の磅※[石+(くさかんむり/溥)]隊(ほうはくたい)その他と共に江戸まで行ったという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者の手になった見聞録ともいうべきものだ。
とりあえず、彼はその覚え書きにざっと目を通し、筆者の付属する一行が大総督の宮の御守衛として名古屋をたったのは二月の二十六日であったことから、先発の藩隊長|富永孫太夫(とみながまごだゆう)をはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府(すんぷ)で一緒になったことなぞを知った。さらに、彼はむさぼるように繰り返し読んで見た。
その中に、徳川玄同(とくがわげんどう)の名が出て来た。玄同が慶喜を救おうとして駿府へと急いだ記事が出て来た。「玄同さま」と言えば、半蔵父子にも親しみのある以前の尾州公の名である。御隠居と意見の合わないところから、越前(えちぜん)公の肝煎(きもい)りで、当時|一橋家(ひとつばしけ)を嗣(つ)いでいる人である。ずっと以前にこの旧藩主が生麦(なまむぎ)償金事件の報告を携えて、江戸から木曾路を通行されたおりのことは、まだ半蔵の記憶に新しい。あのおりに、二千人からの人足が尾張領分の村々から旧藩主を迎えに来て、馬籠の宿場にあふれた往時のことも忘れられずにある。尾州藩ではこの人を起こし、二名の藩の重職まで同行させ、慶喜の心事が誤り伝えられていることを訴えて、大総督の宮を深く動かすところがあったと書いてある。
その中にはまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原(おだわら)から神奈川(かながわ)の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するために各国連合で組織した警備兵があらわれたとある。外人はいろいろな難題を申し出た。これまで徳川氏とは和親を結んだ国の事ゆえ、罪あって征討するなら、まず各国へその理由を告げてしかるべきに、さらに何の沙汰(さた)もない。かつ、交易場の辺を兵隊が通行して戦争にも及ぶことがあるなら、前もって各国へ布告もあるべきに、その沙汰もない。そういうことを申し立てて一本突ッ込んで来た外人らの多くは江戸開市を前に控えて、早く秩序の回復を希望するものばかりだ。神戸三宮(こうべさんのみや)事件に、堺旭茶屋(さかいあさひぢゃや)事件に、潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。各国公使のうちには京都の遭難から危うく逃げ帰ったばかりのものもある。外人らは江戸攻撃の余波が、横浜居留地に及ぶことを恐れて、容易に東海道軍の神奈川通過を肯(がえん)じない。ついには、外国軍艦の陸戦隊が上陸を見るまでになった。これには総督府も御心配、薩州らも当惑したとある。その筆者に言わせるとすでに、万国交際の道を開いた新政府側としては、東征軍の行動に関しても、外人らの意見を全く無視するわけには行かなかった。江戸攻撃を開始して、あたりを兵乱の巷(ちまた)と化し、無辜(むこ)の民を死傷させ、城地を灰燼(かいじん)に帰するには忍びないのみか、その災禍が外人に及んだら、どんな国難をかもさないものでもないとは、大総督府の参謀においても深く考慮されたことであろうと書いてある。
こんな外国交渉に手間取れて、東海道軍は容易に品川(しながわ)へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿(よつやしんじゅく)へと進み、さらに市(いち)ヶ谷(や)の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩(くず)し、あるいは堤を築き、八、九門の大砲を備えて、事が起こらば直ちに邸内から江戸城を砲撃する手はずを定めていた。意外にも、東海道軍の遅着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾いた東海道軍の態度は万事因循で、かつ手ぬるく実に切歯(せっし)に堪(た)えないとされた。東海道軍はまた東海道軍で、この友軍の態度を好戦的であるとなし、甲州での戦さのことなぞを悪(あ)しざまに言うものも出て来た。ここに両道総督の間に自然と軋(へだた)りを生ずるようにもなったとある。
「フーン。」
半蔵はそれを読みかけて、思わずうなった。
これは父にも読み聞かせたいものだ。その考えから半蔵は尾州の従軍医が書き留めたものの写しをふところに入れて午後からまた裏二階の方へ父を見に行った。
「もう藤(ふじ)の花も咲くようになったか。」
吉左衛門はそれをおまんにも半蔵にも言って見せて、例の床の上にすわり直していた。将軍家の没落もいよいよ事実となってあらわれて来たころは、この山家ではもはや小草山の口明けの季節を迎えていた。
「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい。」とまた吉左衛門が言った。
「そうですよ。」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと言いますよ。屋敷屋敷へは兵隊が入り込む、落ちた花の上へは大砲をひき込む――殺風景なものでしたろうね。」
「まあ、おれのような昔者にはなんとも言って見ようもない。」
その時、半蔵はふところにして行った覚え書きを取り出した。江戸開城に関する部分なぞを父の枕(まくら)もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩(さつま)や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、父の耳をそばだてさせた。
その中には、開城の前夜に芝(しば)増上寺(ぞうじょうじ)山内の大総督府参謀西郷氏の宿陣で種々(さまざま)な軍議のあったことも出て来た。城を請け取る刻限も、翌日の早朝五ツ時と定められた。万一朝廷の命令に抵抗するものがあるなら討(う)ち取るはずで、諸藩の兵隊はその時刻前に西丸の城下に整列することになった。いよいよその朝が来た。錦旗(きんき)を奉じた尾州兵が大手外へ進んだ時は、徳川家の旧|旗下(はたもと)の臣は各礼服着用で、門外まで出迎えたとある。域内にある野戦砲の多くはすでに取り出されたあとで、攻城砲、軽砲の類(たぐい)のみがそこここに据(す)え置かれてあったが、それでも百余の大砲を数えたという。旧旗下の臣も退城し、諸藩の兵隊も帰陣して、尾州兵が城内へ繰り込んだ。そして、それぞれ警備の役目についた。実に慶応四年四月十一日の朝だ。江戸|八百八町(はっぴゃくやちょう)を支配するようにそびえ立っていた幕府大城はその時に最後の幕を閉じたともある。
「お父(とっ)さん、ここに神谷(かみや)八郎右衛門とありますよ。ホ、この人は外桜田門の警衛だ。」
「名古屋の神谷八郎右衛門さまと言えば、おれもお目にかかったことがある。」
「西丸の大手から、神田橋(かんだばし)、馬場先(ばばさき)、和田倉門(わだくらもん)、それから坂下二重門内の百人番所まで、要所要所は尾州の兵隊で堅めたとありますね。」
「つまり、江戸城は尾州藩のお預かりということになったのだね。」
「待ってください。ここに静寛院(せいかんいん)さまと、天璋院(てんしょういん)さまのことも出ています。この静寛院さまとは、和宮(かずのみや)さまのことです。お二人(ふたり)とも最後まで江戸城にお残りになったとありますよ。」
「へえ、そうあるかい。」とおまんがそれを引き取って、「お二人とも苦しい立場さね。そりゃ、お前、和宮さまは京都から御輿入(おこしい)れになったし、天璋院さまは薩摩からいらしったかただから。」
「まあ、待ってください。天璋院さまには、こんな話もありますね。以前、十四代将軍のところへ、和宮さまをお迎えになって、言わばお姑(しゅうと)さまとして、初めて京都方と御対面の時だったと覚えています。そこは天璋院さまです、すぐに自分の席には着かない。まず多数の侍女の中にまじっていて、京都方の様子をとくと見定めたと言いますね。それから、たち上がって、いきなり自分の方が上座に着いたとも言いますね。こうすっくと侍女の中からたち上がったところは、いかにもその人らしい。あの話は今だに忘れられません。ごらんなさい、天璋院さまはそういう人でしょう。今度、城を明け渡すについては、和宮さまは田安(たやす)の方へお移りになるから、あなたは一橋家の方へお移りなさいと言われても、容易に天璋院さまは動かなかったとありますね。それを無理にお連れ申したようなことが、この覚え書きの中にも出ていますよ。」
「あわれな話だねえ。」と吉左衛門はそれを聞いたあとで言った。
「まあ、お話に気を取られて、わたしはまだお茶も入れてあげなかった。」
おまんは次ぎの部屋(へや)の方へ立って行って、小屏風(こびょうぶ)のわきに茶道具なぞ取り出す音をさせた。
「半蔵、」と吉左衛門は床の上に静坐(せいざ)しながら話しつづけた。「この先、江戸もどうなろう。」
「さあ、それがです。京都の方ではもう遷都論が起こってるという話ですよ。香蔵さんからはそんな手紙でした。あの人も今じゃ京都の方ですからね。」
「どうも、えらいことを聞かされるぞ。この御一新はどこまで及んで行くのか、見当もつかない。」
「そりゃ、お父(とっ)さん――どうせやるなら、そこまで思い切ってやれという論のようです。」
こんな言葉をかわしているところへ、おまんは隣家の伏見屋からもらい受けたという新茶を入れて来た。時節がらの新茶は香(かおり)は高くとも、年老いた人のためには灰汁(あく)が強すぎる。彼女はそれに古茶をすこし混ぜ入れて来たと言って見せるほど、注意深くもあった。
「あなた、横におなりなすったら。」とおまんは夫の方を見て言った。「そうすわってばかりじゃ、お疲れでしょうに。」
「そうさな。それじゃ、寝て話すか。」
吉左衛門とおまんとはもはやよい茶のみ友だちである。この父はおまんが勧めて出した湯のみを枕(まくら)もとに引きよせ、日ごろ愛用する厚手な陶器の手ざわりを楽しみながら、年をとってますます好きになったという茶のにおいをさもうまそうにかいだ。半蔵をそばに置いて、青山家の昔話までそこへ持ち出すのもこの父である。自分ごときですら、将軍家の没落を聞いては目もくらむばかりであるのに、実際に大きなものが眼前に倒れて行くのを見る人はどんなであろう、そんな述懐が老い衰えた父の口からもれて来た。武家全盛の往時しか知らないで、代々本陣、問屋、庄屋の三役を勤めて来た祖父たちの方がむしろ幸福であったのか、かくも驚くべき激変の時代にめぐりあって、一世に二世を経験し、一身に二身を経験するような自分ごときが幸福であるのか。そんな話が出た。
「そう言えば、半蔵、こないだ金兵衛さんが見舞いに来てくれた時に、おれはあの老友と二人で新政府のお勝手向きのことを話し合ったよ。これだけの兵隊を動かすだけでも、莫大(ばくだい)な費用だろう。金兵衛さんは、お前、あのとおり町人|気質(かたぎ)の人だから、いったい今度の戦費はどこから出るなんて、言い出した。そりゃ各藩から出るにきまってます、そうおれが答えたら、あの金兵衛さんは声を低くして、各藩からは無論だが、そのほかに京大坂の町人たちが御用達(ごようだて)のことを聞いたかと言うのさ。百何十万両の調達を引き受けた大きな町家もあるという話だぜ。そんな大金の調達を申し付けるかわりには、新政府でそれ相応な待遇を与えなけりゃなるまい。こりゃおれたちの時代に藩から苗字(みょうじ)帯刀を許したぐらいのことじゃ済むまいぞ。王政御一新はありがたいが、飛んだところに禍(わざわ)いの根が残らねばいいが。金兵衛さんが帰って行ったあとで、おれはひとりでそのうわささ。」
そんな話も出た。
「金兵衛さんで思い出した。」と吉左衛門は枕もとの煙草盆(たばこぼん)を引きよせて、一服やりながら、「おれなぞはもう日暮れ道遠しだ。そこへ行くと、あの伏見屋の隠居はよくそれでもあんなにからだが続くと思うよ。年はおれより二つも上だが、あの人にはまだかんかん日があたってる。」
「かんかん日があたってるはようござんした。」とおまんも軽く笑って、「あれで金兵衛さんも、大事な子息(むすこ)さん(鶴松(つるまつ))は見送るし、この正月にはお玉さん(後妻)のお葬式まで出して、よっぽどがっかりなさるかと思いましたが――」
「どうして、あの年になって、馬の七夜の祝いにでも招(よ)ばれて行こうという人だ。おれはあの金兵衛さんが、古屋敷の洞(ほら)へ百二十本も杉苗(すぎなえ)を植えたことを知ってる――世の中建て直しのこの大騒ぎの中でだぜ。あれほどのさかんな物欲は、おれにはないナ。おれなぞはお前、できるだけ静かにこの世の旅を歩きつづけて来たようなものさ。おれは、あの徳川様の代に仕上がったものがだんだんに消えて行くのを見た。おれも、もう長いことはあるまい……よくそれでも本陣、問屋、庄屋を勤めあげた。そうあの半六|親爺(おやじ)が草葉の陰で言って、このおれを待っていてくれるような気がする……」
「そんな、お父(とっ)さんのような心細いことを言うからいけない。」
「いや、半蔵には御嶽(おんたけ)の参籠(さんろう)までしてもらったがね、おれの寿命が今年(ことし)の七十歳で尽きるということは、ある人相見から言われたことがあるよ。」
「ごらんな、半蔵。お父さんはすぐあれだもの。」
裏二階では、こんな話が尽きなかった。
何から何まで動いて来た。過ぐる年の幕府が参覲交代制度を廃した当時には動かなかったほどの諸大名の家族ですら、住み慣れた江戸の方の屋敷をあとに見捨てて、今はあわただしく帰国の旅に上って来るようになった。
「お屋敷方のお通りですよ。」
と呼ぶお粂(くめ)や宗太の声でも聞きつけると、半蔵は裏二階なぞに話し込んでいられない。会所に集まる年寄役の伊之助や問屋九郎兵衛なぞを助けて、人足や馬の世話から休泊の世話まで、それらのめんどうを見ねばならない。
東海道回りの混雑を恐れるかして、この木曾街道方面を選んで帰国する屋敷方には、どこの女中方とか、あるいは御隠居とかの人たちの通行を毎日のように見かける。
「国もとへ。国もとへ。」
その声は、過ぐる年に外様(とざま)諸大名の家族が揚げて行ったような解放の歓呼ではない。現にこの街道を踏んで来る屋敷方は、むしろその正反対で、なるべくは江戸に踏みとどまり、宗家の成り行きをも知りたく、今日の急に臨んでその先途も見届けたく、かつは疾病死亡を相訪(あいと)い相救いたい意味からも親近の間柄にある支族なぞとは離れがたく思って、躊躇(ちゅうちょ)に躊躇したあげく、太政官(だじょうかん)からの御達(おたっ)しや総督府参謀からの催促にやむなく屋敷を引き払って来たという人たちばかりである。
将軍家の居城を中心に、大きな市街の六分通りを武家で占領していたような江戸は、もはや終わりを告げつつあった。この際、徳川の親藩なぞで至急に江戸を引き払わないものは、違勅の罪に問われるであろう。兵威をも示されるであろう。その御沙汰(ごさた)があるほど、総督府参謀の威厳は犯しがたくもあったという。西の在国をさして馬籠の宿場を通り過ぎる屋敷方の中には、紀州屋敷のうわさなどを残して行くものもある。そのうわさによると、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷から、小屋敷その他まで、江戸の市中に散在する紀州屋敷だけでも大小およそ六百戸の余もある。奥向きの女中を加えると、上下の男女四千余人を数える。この大人数が、三百年来住み慣れた墳墓の地を捨て、百五十里もある南の国へ引き揚げよと命ぜられても、わずか四、五日の間でそんな大移住が行ないうるものか、どうかと。半蔵らの目にあるものは、徳川氏と運命を共にする屋敷方の離散して行く光景を語らないものはない。茶摘みだ烙炉(ほいろ)だ筵(むしろ)だと騒いでいる木曾の季節の中で、男女の移住者の通行が続きに続いた。 
第五章

 


五月中旬から六月上旬へかけて、半蔵は峠村の組頭(くみがしら)平兵衛(へいべえ)を供に連れ、名古屋より伊勢(いせ)、京都への旅に出た。かねて旧師|宮川寛斎(みやがわかんさい)が伊勢|宇治(うじ)の館太夫方(かんだゆうかた)の長屋で客死したとの通知を受けていたので、その墓参を兼ねての思い立ちであった。どうやら彼はこの旅を果たし、供の平兵衛と共に馬籠(まごめ)の宿をさして、西から木曾街道(きそかいどう)を帰って来る途中にある。
留守中のことも案じられて、二人(ふたり)とも帰りを急いでいた。大津、草津を経て、京から下って来て見ると、思いがけない郷里の方のうわさがその途中で半蔵らの耳にはいった。京からの下りも加納の宿あたりまでは登り坂の多いところで、半蔵らがそんな話を耳にしたのは美濃路(みのじ)にはいってからであるが、その道を帰って来るころは、うわさのある中津川辺へはまだかなりの距離があり、真偽のほどすら判然とはしなかった。
鵜沼(うぬま)まで帰って来て見た。新政府の趣意もまだよく民間に徹しないかして、だれが言い触らすとも知れないような種々(さまざま)な流言は街道に伝わって来る時である。どうして、あの例幣使なぞが横行したり武家衆がいばったりして人民を苦しめぬいた旧時代にすら、ついぞ百姓|一揆(いっき)のあったといううわさを聞いたこともない尾州領内で、しかも世の中建て直しのまっ最中に、日ごろ半蔵の頼みにする百姓らが中津川辺を騒がしたとは、彼には信じられもしなかった。まして、彼の世話する馬籠あたりのものまでが、その一揆の中へ巻き込まれて行ったなぞとは、なおなお信じられもしなかった。
しかし、郷里の方へ近づいて行けば行くほど、いろいろと半蔵には心にかかって来た。道中して見てもわかるように、地方の動揺もはなはだしい時だ。たとえば、馬の背や人足の力をかりて旅の助けとするとしても、従来の習慣(ならわし)によれば本馬(ほんま)三十六貫目、乗掛下(のりかけした)十貫目より十八貫目、軽尻(からじり)あふ付三貫目より八貫目、人足荷五貫目である。これは当時道中するもののだれもが心得ねばならない荷物貫目の掟(おきて)である。本|駄賃(だちん)とはこの本馬(駄荷)に支払うべき賃銭のことで、それを二つ合わせて三つに割ればすなわち軽尻駄賃となる。言って見れば、本駄賃百文の時、二つ合わせれば二百文で、それを三つに割ったものが軽尻駄賃の六十四文となる。人足はまた、この本駄賃の半分にあたる。これらの駄賃が支払われる場合に、今までどおりの貨幣でなくてそれにかわる金札で渡されたとしても、もし一両の札が実際は二分にしか通用しないとしたら。
その年、慶応四年は、閏(うるう)四月あたりから不順な時候が続き、五月にはいってからもしきりに雨が来た。この旅の間、半蔵は名古屋から伊勢路(いせじ)へかけてほとんど毎日のように降られ続け、わずかに旧師寛斎の墓前にぬかずいた日のみよい天気を迎えたぐらいのものであった。別号を春秋花園とも言い、国学というものに初めて半蔵の目をあけてくれたあの旧師も、今は宇治の今北山(いまきたやま)に眠る故人だ。伊勢での寛斎老人は林崎文庫(はやしざきぶんこ)の学頭として和漢の学を講義し、かたわら医業を勤め、さみしい晩年の日を送ったという。半蔵は旅先ながらに土地の人たちの依頼を断わりかね、旧師のために略歴をしるした碑文までもえらんで置いて、「慶応|戊辰(ぼしん)の初夏、来たりてその墓を拝す」と書き残して来た。そんな話を持って、先輩|暮田正香(くれたまさか)から、友人の香蔵や景蔵まで集まっている京都の方へ訪(たず)ねて行って見ると、そこでもまた雨だ。定めない日和(ひより)が続いた。かねて京都を見うる日もあらばと、夢にも忘れなかったあの古い都の地を踏み、中津川から出ている友人らの仮寓(かぐう)にたどり着いて、そこに草鞋(わらじ)の紐(ひも)をといた時。うわさのあった復興最中の都会の空気の中に身を置いて見て、案内顔な香蔵や景蔵と共に連れだちながら、平田家のある錦小路(にしきこうじ)まで歩いた時。平田|鉄胤(かねたね)老先生、その子息(むすこ)さんの延胤(のぶたね)、いずれも無事で彼をよろこび迎えてくれたばかりでなく、宿へ戻(もど)って気の置けないものばかりになると、先師|篤胤(あつたね)没後以来の話に花の咲いた時。そこへ暮田正香でも顔を見せると、先輩は伊那(いな)の長い流浪(るろう)時代よりもずっと若返って見えるほどの元気さで、この王政の復古は同時に一切の中世的なものを否定することであらねばならない、それには過去数百年にわたる武家と僧侶(そうりょ)との二つの大きな勢力をくつがえすことであらねばならないと言って、宗教改革の必要にまで話を持って行かなければあの正香が承知しなかった時。そういう再会のよろこびの中でも、彼が旅の耳に聞きつけるものは、降り続く長雨の音であった。
京都を立って帰路につくころから、ようやく彼は六月らしい日のめを見たが、今度は諸方に出水(でみず)のうわさだ。淀川(よどがわ)筋では難場(なんば)が多く、水損(みずそん)じの個処さえ少なくないと言い、東海道辺では天龍川(てんりゅうがわ)の堤が切れて、浜松あたりの町家は七十軒も押し流されたとのうわさもある。彼が江州(ごうしゅう)の草津辺を帰るころは、そこにも満水の湖を見て来た。
郷里の方もどうあろう。その懸念(けねん)が先に立って、過ぐる慶応三年は白粥(しらかゆ)までたいて村民に振る舞ったほどの凶年であったことなぞが、旅の行く先に思い出された。
時はあだかも徳川将軍の処分について諸侯|貢士(こうし)の意見を徴せられたという後のころにあたる。薩長(さっちょう)人士の中には慶喜を殺せとの意見を抱(いだ)くものも少なくないので、このことはいろいろな意味で当時の人の心に深い刺激をあたえた。遠く猪苗代(いなわしろ)の湖を渡り、何百里の道を往復し、多年慶喜の背後(うしろ)にあって京都の守護をもって自ら任じた会津(あいづ)武士が、その正反対を西の諸藩に見いだしたのも決して偶然ではなかった。伏見鳥羽(ふしみとば)の戦さに敗れた彼らは仙台藩(せんだいはん)等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷を毀(こぼ)たれるのいわれなきことを弁疏(べんそ)し、退いてその郷土を死守するような道をたどり始めていた。強大な東北諸侯の同盟が形造られて行ったのもこの際である。
こんな東北の形勢は尾州藩の活動を促して、旧江戸城の保護、関東方面への出兵などばかりでなく、越後口(えちごぐち)への進発ともなった。半蔵は名古屋まで行ってそれらの事情を胸にまとめることができた。武装解除を肯(がえん)じない江戸屋敷方の脱走者の群れが上野東叡山にたてこもって官軍と戦ったことを聞いたのも、百八十余人の彰義隊(しょうぎたい)の戦士、輪王寺(りんのうじ)の宮(みや)が会津方面への脱走なぞを聞いたのも、やはり名古屋まで行った時であった。さらに京都まで行って見ると、そこではもはや奥羽(おうう)征討のうわさで持ち切っていた。
新政府が財政困難の声も高い。こんな東征軍を動かすほどの莫大(ばくだい)な戦費を支弁するためからも、新政府の金札(新紙幣)が十円から一朱までの五種として発行されたのは、半蔵がこの旅に出てからのことであった。ところが今日の急に応じてひそかに武器を売り込んでいる外国政府の代理人、もしくは外国商人などの受け取ろうとするものは、日本の正金である。内地の人民、ことに商人は太政官の準備を危ぶんで新しい金札をよろこばない。これは幕府時代からの正銀の使用に慣らされて来たためでもある。それかあらぬか、新紙幣の適用が仰せ出されると間もなく、半蔵は行く先の商人から諸物価のにわかな騰貴を知らされた。昨日は一|駄(だ)の代金二両二分の米が今日の値段は三両二分の高値にも引き上げたという。小売り一升の米の代が急に四百二十四文もする。会津の方の戦争に、こんな物価の暴騰に、おまけに天候の不順だ。いろいろと起こって来た事情は旅をも困難にした。 

京都から大湫(おおくて)まで、半蔵らはすでに四十五里ほどの道を歩いた。大湫は伊勢参宮または名古屋への別れ道に当たる鄙(ひな)びた宿場で、その小駅から東は美濃(みの)らしい盆地へと降りて行くばかりだ。三里半の十三峠を越せば大井の宿へ出られる。大井から中津川までは二里半しかない。
百三十日あまり前に東山道軍の先鋒隊(せんぽうたい)や総督御本陣なぞが錦(にしき)の御旗(みはた)を奉じて動いて行ったのも、その道だ。畠(はたけ)の麦は熟し、田植えもすでに終わりかけるころで、行く先の立場(たてば)は青葉に包まれ、草も木も共に六月の生気を呼吸していた。長雨あげくの道中となれば、めっきり強い日があたって来て、半蔵も平兵衛も路傍の桃の葉や柿(かき)の葉のかげで汗をふくほど暑い。
「でも、半蔵さま、歩きましたなあ。なんだかおれはもうよっぽど長いこと家を留守にしたような気がする。」
「馬籠(まごめ)の方でも、みんなどうしているかさ。」
「なんだぞなし。きっと、今ごろは田植えを済まして、こちらのうわさでもしていませず。」
こんな話をしながら、二人(ふたり)は道を進んだ。
時には、また街道へ雨が来る。青葉という青葉にはもうたくさんだと思われるような音がある。せっかくかわいた道路はまた見る間にぬれて行った。笠(かさ)を傾(かたぶ)けるもの、道づれを呼ぶもの、付近の休み茶屋へとかけ込むもの、途中で行きあう旅人の群れもいろいろだ。それは半蔵らが伊勢路や京都の方で悩んだような雨ではなくて、もはや街道へ来る夏らしい雨である。予定の日数より長くなった今度の旅といい、心にかかる郷里の方のうわさといい、二人ともに帰路を急いでいて、途中に休む気はなかった。たとい風雨の中たりともその日の午後のうちに三里半の峠を越して、泊まりと定めた大井の宿まではと願っていた。
日暮れ方に、半蔵らは大井の旅籠屋(はたごや)にたどり着いた。そこまで帰って来れば、尾張(おわり)の大領主が管轄の区域には属しながら、年貢米(ねんぐまい)だけを木曾福島の代官山村氏に納めているような、そういう特別な土地の関係は、中津川辺と同じ縄張(なわば)りの内にある。挨拶(あいさつ)に来る亭主(ていしゅ)までが半蔵にはなじみの顔である。
「いや、はや、今度の旅は雨が多くて閉口しましたよ。こちらの方はどうでしたろう。」と半蔵がそれをきいて見る。
「さようでございます。先月の二十三日あたりは大荒れでございまして、中津川じゃ大橋も流れました。一時は往還橋止めの騒ぎで、坂下辺も船留めになりますし、木曾(きそ)の方でもだいぶ痛んだように承ります。もうお天気も定まったようで、この暑さじゃ大丈夫でございますが、一時は心配いたしました。」
との亭主の答えだ。
この亭主の口から、半蔵は半信半疑で途中に耳にして来たうわさの打ち消せないことを聞き知った。それは先月の二十九日に起こった百姓|一揆(いっき)で、翌日の夜になってようやくしずまったということを知った。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の出来事だ。そのために、中津川地方にはその人ありと知られた小野三郎兵衛が名古屋表へ昼夜兼行で早駕籠(はやかご)を急がせたということをも知った。
「して見ると、やっぱり事実だったのかなあ。」
と言って、半蔵は平兵衛と顔を見合わせたが、騒ぐ胸は容易に沈まらなかった。
こんな時の平兵衛は半蔵の相談相手にはならない。平兵衛はからだのよく動く男で、村方の無尽(むじん)をまとめることなぞにかけてはなくてならないほど奔走周旋をいとわない人物だが、こんな話の出る時にはたったりすわったりして、ただただ聞き手に回ろうとしている。
「すこし目を離すと、すぐこれです。」
平兵衛は峠村の組頭(くみがしら)らしく、ただそれだけのことを言った。彼は旅籠屋(はたごや)の廊下に出て旅の荷物を始末したり、台所の方へ行って半蔵のためにぬれた合羽(かっぱ)を乾(ほ)したりして、そういう方にまめまめと立ち働くことを得意とした。
「まあ、中津川まで帰って行って見るんだ。」
と半蔵は考えた。こんな出来事は何を意味するのか、時局の不安はこんなところへまで迷いやすい百姓を追い詰めるのか、窮迫した彼らの生活はそれほど訴える道もないのか、いずれとも半蔵には言うことができない。それにしても、あの東山道総督の一行が見えた時、とらえようとさえすればとらえる機会は百姓にもあった。彼らの訴える道は開かれてあった。年来|苛政(かせい)に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨(むね)を本陣に届けいでよと触れ出されたくらいだ。総督一行は万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨(えいし)をもたらして来たからである。だれ一人(ひとり)、そのおりに百姓の中から進んで来るものもなくて、今になってこんな手段に訴えるとは。
にわかな物価の騰貴も彼の胸に浮かぶ。横浜開港当時の経験が教えるように、この際、利に走る商人なぞが旧正銀|買〆(かいしめ)のことも懸念されないではなかった。しかし、たとい新紙幣の信用が薄いにしても、それはまだ発行まぎわのことであって、幕府積年の弊政を一掃しようとする新政府の意向が百姓に知られないはずもない。これが半蔵の残念におもう点であった。その晩は、彼は山中の宿場らしい静かなところに来ていて、いろいろなことを思い出すために、よく眠らなかった。
中津川まで半蔵らは帰って来た。百姓の騒いだ様子は大井で聞いたよりも一層はっきりした。百姓仲間千百五十余人、その主(おも)なものは東濃|界隈(かいわい)の村民であるが、木曾地方から加勢に来たものも多く、まさかと半蔵の思った郷里の百姓をはじめ、宿方としては馬籠のほかに、妻籠(つまご)、三留野(みどの)、野尻(のじり)、在方(ざいかた)としては蘭村(あららぎむら)、柿其(かきそれ)、与川(よがわ)その他の木曾谷の村民がこの一揆の中に巻き込まれて行ったことがわかった。それらの百姓仲間は中津川の宿はずれや駒場村(こまばむら)の入り口に屯集(とんしゅう)し、中津川大橋の辺から落合(おちあい)の宿へかけては大変な事になって、そのために宿々村々の惣役人(そうやくにん)中がとりあえず鎮撫(ちんぶ)につとめたという。一揆の起こった翌日には代官所の役人も出張して来たが、村民らはみなみな中津川に逗留(とうりゅう)していて、容易に退散する気色(けしき)もなかったとか。
半蔵が平兵衛を連れて歩いた町は、中津川の商家が軒を並べているところだ。壁は厚く、二階は低く、窓は深く、格子(こうし)はがっしりと造られていて、彼が京都の方で見て来た上方風(かみがたふう)な家屋の意匠が採り入れてある。木曾地方への物資の販路を求めて西は馬籠から東は奈良井(ならい)辺の奥筋まで入り込むことはおろか、生糸(きいと)売り込みなぞのためには百里の道をも遠しとしない商人がそこに住む。万屋安兵衛(よろずややすべえ)、大和屋李助(やまとやりすけ)、その他、一時は下海道辺の問屋から今渡(いまど)の問屋仲間を相手にこの界隈(かいわい)の入り荷|出荷(でに)とも一手に引き受けて牛方事件の紛争まで引き起こした旧問屋|角屋(かどや)十兵衛の店などは、皆そこに集まっている。今度の百姓一揆はその町の空を大橋の辺から望むところに起こった。うそか、真実(まこと)か、竹槍(たけやり)の先につるした蓆(むしろ)の旗がいつ打ちこわしにかつぎ込まれるやも知れなかったようなうわさが残っていて、横浜貿易でもうけた商家などは今だに目に見えないものを警戒しているかのようである。
中津川では、半蔵は友人景蔵の留守宅へも顔を出し、香蔵の留守宅へも立ち寄った。一方は中津川の本陣、一方は中津川の問屋、しっかりした留守居役があるにしても、いずれも主人らは王事のために家を顧みる暇(いとま)のないような人たちである。こんな事件が突発するにつけても、日ごろのなおざりが思い出されて、地方(じかた)の世話も届きかねるのは面目ないとは家の人たちのかき口説(くど)く言葉だ。ことに香蔵が国に残して置く妻なぞは、京都の様子も聞きたがって、半蔵をつかまえて放さない。
「半蔵さん、あなたの前ですが、宅じゃ帰ることを忘れましたようですよ。」
そんなことを言って、京には美しい人も多いと聞くなぞと遠回しににおわせ、夫恋(つまこ)う思いを隠しかねている友人の妻が顔をながめると、半蔵はわずかの見舞いの言葉をそこに残して置いて来るだけでは済まされなかった。供の平兵衛が催促でもしなかったら、彼は笠(かさ)を手にし草鞋(わらじ)をはいたまま、その門口をそこそこに辞し去るにも忍びなかった。 

さらに落合の宿まで帰って来ると、そこには半蔵が弟子(でし)の勝重(かつしげ)の家がある。過ぐる年月の間、この落合から湯舟沢、山口なぞの村里へかけて、彼が学問の手引きをしたものも少なくなかったが、その中でも彼は勝重ほどの末頼もしいものを他に見いださなかった。その親しみに加えて、勝重の父親、儀十郎はまだ達者(たっしゃ)でいるし、あの昔気質(むかしかたぎ)な年寄役らしい人は地方の事情にも明るいので、先月二十九日の出来事を確かめたいと思う半蔵には、その家を訪(たず)ねたらいろいろなことがもっとよくわかろうと考えられた。
「おゝお師匠さまだ。」
という声がして、勝重がまず稲葉屋(いなばや)の裏口から飛んで来る。奥深い入り口の土間のところで、半蔵も平兵衛も旅の草鞋(わらじ)の紐(ひも)をとき、休息の時を送らせてもらうことにした。
しばらくぶりで半蔵の目に映る勝重は、その年の春から新婚の生活にはいり、青々とした月代(さかやき)もよく似合って見える青年のさかりである。半蔵は今度の旅で、落合にも縁故の深い宮川寛斎の墓を伊勢の今北山に訪(たず)ねたことを勝重に語り、全国三千余人の門人を率いる平田|鉄胤(かねたね)をも京都の方で見て来たことを語った。それらの先輩のうわさは勝重をもよろこばせたからで。
稲葉屋では、囲炉裏ばたに続いて畳の敷いてあるところも広い。そこは応接間のかわりでもあり、奥座敷へ通るものが待ち合わすべき場処でもある。しばらく待つうちに、勝重の母親が半蔵らのところへ挨拶(あいさつ)に来た。めっきり鬢髪(びんぱつ)も白くなり、起居振舞(たちいふるまい)は名古屋人に似て、しかも容貌(ようぼう)はどこか山国の人にも近い感じのする主人公が、続いて半蔵らを迎えてくれる。その人が勝重の父親だ。落合宿の年寄役として、半蔵よりもむしろ彼の父吉左衛門に交わりのある儀十郎だ。
「あなたがたは今、京都からお帰り。それは、それは。」と儀十郎が言った。「勝重のやつもあなたのおうわさばかり。あれが御祝言の前に、わざわざあなたにお越しを願って、元服の式をしていただいたことは、どれほどあれにはうれしかったかしれません。これはお師匠さまに揚げていただいた髪だなんて、今だによろこんでいまして。」
儀十郎はその時、裏口の方から顔を出した下男を呼んで、勝重が若い妻に客のあることを知らせるようにと言い付けた。
「よめも今、裏の方へ行って茄子(なす)を漬(つ)けています――よめにもあってやっていただきたい。」
こんな話の出ているところへ、勝重の母親が言葉を添えて、
「あなた、奥へ御案内したら。」
「じゃ、そうしようか。半蔵さんもお急ぎだろうが、茶を一つ差し上げたい。」
とまた儀十郎が言った。
やがて半蔵が平兵衛と共に案内されて行ったところは、二間(ふたま)続きの奥まった座敷だ。次ぎの部屋(へや)の方の片すみによせて故人|蘭渓(らんけい)の筆になった絵屏風(えびょうぶ)なぞが立て回してある。半蔵らもこの落合の宿まで帰って来ると、峠一つ越せば木曾の西のはずれへ出られる。美濃派の俳諧(はいかい)は古くからこの落合からも中津川からも彼の郷里の方へ流れ込んでいるし、馬籠出身の画家蘭渓の筆はまたこうした儀十郎の家なぞの屏風を飾っている。おまけに、勝重の迎えた妻はまだようやく十七、八のういういしさで、母親のうしろに添いながら、挨拶かたがた茶道具なぞをそこへ運んで来る。隣の国の内とは言いながら、半蔵にとってはもはや半分、自分の家に帰った思いだ。
しかし、このもてなしを受けている間にも、半蔵はあれやこれやと儀十郎に尋ねたいと思うことを忘れなかった。彼は中津川大橋の辺から落合へかけての間を騒がしたという群れの中に何人の馬籠の百姓があったろうと想像し、庄屋としての彼が留守中に自分の世話する村からもそういう不幸なものを出したことを恥じた。
「もう時刻ですから、ほんの茶漬(ちゃづ)けを一ぱい差し上げる。何もありませんが、勝重の家で昼じたくをしていらしってください。」と儀十郎が言い出した。「半蔵さん、あなたが旅に行っていらっしゃる間に、いろいろな事が起こりました。会津の方じゃ戦争が大きくなるし、この辺じゃ百姓仲間が騒ぐし――いや、この辺もだいぶにぎやかでしたわい。」
儀十郎は笑う声でもなんでも取りつくろったところがない。その無造作で何十年かの街道生活を送り、落合宿の年寄役を勤め、徳川の代に仕上がったものが消えて行くのをながめて来たような人だ。百姓|一揆(いっき)のうわさなぞをするにしても、そう物事を苦にしていない。容易ならぬ時代を思い顔な子息(むすこ)の勝重をかたわらにすわらせて、客と一緒に大きな一閑張(いっかんば)りの卓をかこんだところは、それでも同じ血を分けた親子かと思われるほどだ。
「でも、お父(とっ)さん、千人以上からの百姓が鯨波(とき)の声を揚げて、あの多勢の声が遠く聞こえた時は物すごかったじゃありませんか。わたしはどうなるかと思いましたよ。」
勝重はそれを半蔵にも聞かせるように言った。
その時、勝重の母親が昼食の膳(ぜん)をそこへ運んで来た。莢豌豆(さやえんどう)、蕗(ふき)、里芋(さといも)なぞの田舎風(いなかふう)な手料理が旧家のものらしい器(うつわ)に盛られて、半蔵らの前に並んだ。勝重の妻はまた、まだ娘のような手つきで、茄子(なす)の芥子(からし)あえなぞをそのあとから運んで来る。胡瓜(きゅうり)の新漬けも出る。
「せっかく、お師匠さまに寄っていただいても、なんにもございませんよ。」と勝重の母親は半蔵に言って、供の男の方をも見て、
「平兵衛さ、お前もここで御相伴(ごしょうばん)しよや。」
「いえ、おれは台所の方へ行って頂(いただ)く。」
と言いながら、平兵衛は自分の前に置かれた膳を持って、台所の方へと引きさがった。
勝重は若々しい目つきをして、半蔵と父親の顔を見比べ、箸(はし)を取りあげながらも、話した。「この尾州領に一揆が起こったなんて今までわたしは聞いたこともない。」
「それがさ。半蔵さんも御承知のとおりに、尾州藩じゃよく尽くしましたからね。」と儀十郎が言って見せる。
「お父(とっ)さん――問屋や名主を目の敵(かたき)にして、一揆の起こるということがあるんでしょうか。」と勝重が言った。
「そりゃ、あるさ。他の土地へ行ってごらん、ずいぶんいろいろな問屋がある。百姓は草履(ぞうり)を脱がなければそこの家の前を通れなかったような問屋もある。草履も脱がないようなやつは、お目ざわりだ、そういうことを言ったものだ。いばったものさね。ところが、お前、この御一新だろう。世の中が変わるとすぐ打ちこわしに出かけて行った百姓仲間があると言うぜ。なんでも平常(ふだん)出入りの百姓が一番先に立って、闇(やみ)の晩に風呂敷(ふろしき)で顔を包んで行って、問屋の家の戸障子と言わず、押入れと言わず、手当たり次第に破り散らして、庭の植木まで根こぎにしたとかいう話を聞いたこともあるよ。この地方にはそれほど百姓仲間から目の敵(かたき)にされるようなものはない。現在宿役人を勤めてるものは、大概この地方に人望のある旧家ばかりだからね。」
儀十郎は無造作に笑って、半蔵の方を見ながらさらに言葉をつづけた。
「しかし、今度の一揆じゃ、中津川辺の大店(おおだな)の中には多少用心した家もあるようです。そりゃ、こんな騒ぎをおっぱじめた百姓仲間ばかりとがめられません。大きい町人の中には、内々(ないない)米の買い占めをやってるものがあるなんて、そんな評判も立ちましたからね。まあ、この一揆を掘って見たら、いろいろなものが出て来ましょう。何から何まで新規まき直しで、こんな財政上の御改革が過激なためかと言えば、そうばかりも言えない。世の中の変わり目には、人の心も動揺しましょうからね。なにしろ、あなた、千人以上からの百姓の集まりでしょう。みんな気が立っています。そこへ小野三郎兵衛さんでも出て行って口をきかなかったら、勝重の言い草じゃありませんが、どういうことになったかわかりません。あの人も黙ってみてる場合じゃないと考えたんでしょうね。平田先生の御門人ならうそはつくまいということで、百姓仲間もあの人に一切を任せるということになりました。三郎兵衛さんが尾州表へ急行したと聞いて、それから百姓仲間も追い追いと引き取って行きました。まあ、大事に立ち至らないで、何よりでございましたよ。」
これを儀十郎は話し話し食った。そのいい年齢(とし)に似合わないほど早くも食った。
儀十郎はかなりトボけた人で、もしこれが厳罰主義をもって下に臨む旧政府の時代であったら、庄屋としての半蔵もおとがめはまぬかれまいなどと戯れて見せる。連帯の責任者として、縄(なわ)付きのまま引き立てられるところであったとも笑わせる。
こんな勝重の父親のこだわりのない調子が、やや半蔵を安心させた。やがて一同昼食をすましたころ、儀十郎はついと座を立って、別の部屋の方から一通の覚え書きを取り出して来た。小野三郎兵衛が百姓仲間に示したというものの写しである。尾州藩の方へ差し出す嘆願趣意書の下書きとも言うべきものである。それには新紙幣の下落、諸物価の暴騰などについて、半蔵が旅の道々|懸念(けねん)して来たようなことはすべてその中に尽くしてあり、この際、応急のお救い手当て、人馬雇い銭の割増し、米穀買い占めの取り締まり等の嘆願の趣が個条書にして認(したた)めてある。三郎兵衛はまた、百姓仲間が難渋する理由の一つとして、尾州藩が募集した農兵のことを書き添えることを忘れなかった。その覚え書きを見ると、付近の宿々村々から中津川に集合した宿役人、および村役人らが三郎兵衛の提議に同意して一同署名したことがわかり、儀十郎もやはり落合宿年寄役として署名人の中に加わったこともわかり、一方にはまた、あの三郎兵衛が同門の景蔵や香蔵の留守をひどく心配していることもわかった。
「馬籠からは、伏見屋の伊之助さんがすぐさまかけつけて来てくれました。他に一人(ひとり)、年寄役も同道で。」と儀十郎が言う。
「そうでしたか。それを聞いて、わたしも安心しました。自分の留守中にこんな事件が突発して、面目ない。このあと始末はどうなりましょう。」
半蔵がそれをたずねると、儀十郎は事もなげに、
「それがです。尾州藩のことですから、いずれ京都政府へ届け出るでしょう。政務の不行き届きからこんな騒擾(さわぎ)に及んだのは恐れ入り奉るぐらいのことは届け出るでしょう、届け出はするが、千百五十余人の百姓一揆はざっと四、五百人、実際はそれ以下の二、三百人ぐらいのことに書き出しましょう。徒党の頭取(とうどり)になったものも、どう扱いますかさ。ひょっとすると、この事件は尾州藩で秘密に葬ってしまうかもしれません。あるいは徒党の頭取になったものだけを木曾福島へ呼び出して、あの代官所で調べるぐらいのことはありましょうか。ナニ、それも以前のように、重いお仕置(しおき)にはしますまいよ。これが以前ですと、重々不届き至極(しごく)だなんて言って、引き回したり、梟首(さらしくび)にしたりしたものですけれど。」
「でも、お父(とっ)さん。」と勝重がそれを引き取って、「番太の娘に戯れたぐらいで打ち首になった因州の武士は東山道軍が通過の時にもありますよ。今度の新政府は徒党を組むことをやかましく言うじゃありませんか。宿々の御高札場にまでそれを掲げるくらいにして、浮浪者と徒党を厳禁していますよ。」
「ついでに、六十一万九千五百石(幕府時代に封ぜられた尾州家の禄高(ろくだか)をさす)を半分にでも削るか。」
と儀十郎は戯れた。
半蔵がこの奥座敷を離れたのは、それから間もなくであった。彼が表の入り口の土間に降りるところで平兵衛と一緒になった時は、家の人の心づかいかして、草鞋(わらじ)まで新規に取り替えたのがそこに置いてある。そればかりでなく、勝重の母親はよめと共に稲葉屋の門口に出て、礼を述べて行く半蔵らを見送った。
「お師匠さま。」
と言いながら、半蔵の後ろから手を振って追いかけて来るのは勝重だ。京都の方で半蔵が見たり聞いたりして来たこと、大坂行幸の新帝には天保山(てんぽうざん)の沖合いの方で初めて海軍の演習を御覧になったとのうわさの残っていたこと、あの復興最中の都にあるものは宗教改革の手始めから地方を府藩県に分ける新制度の施設まで、何一つ試みでないもののないことなど、歩きながらの彼の旅の話が勝重の心をひいた。勝重は落合の宿はずれまで半蔵について来て、別れぎわに言った。
「そうでしょうなあ。何から手をつけていいかわからないような時でしょうなあ。どうでしょう、お師匠さま、今度の百姓一揆のあと始末なぞも、吾家(うち)の阿爺(おやじ)の言うように行きましょうかしら。」
「さあ、ねえ。」
「小野三郎兵衛さんも骨は折りましょうし、尾州藩でもこんな時ですから、百姓仲間の言うことを聞いてはくれましょう。ただ心配なのは、徒党の罪に問われそうな手合いです。それとも、会津戦争も始まってるような際だからと言って、こんな事件は秘密にしてしまいましょうか。」
「まあ、けが人は出したくないものだね。」 

野外はすでに田植えを済まし、あらかた麦も刈り終わった時であった。半蔵が平兵衛を連れて帰って行く道のそばには、まだ麦をなぐる最中のところもある。日向(ひなた)に麦をかわかしたところもある。手回しよく大根なぞを蒔(ま)きつけるところもある。
大空には、淡い水蒸気の群れが浮かび流れて、遠く丘でも望むような夏の雲も起こっている。光と熱はあたりに満ちていた。過ぐる長雨から起き直った畠(はたけ)のものは、半蔵らの行く先に待っていて、美濃の盆地の豊饒(ほうじょう)を語らないものはない。今をさかりの芋(いも)の葉だ。茄子(なす)の花だ。胡瓜(きゅうり)の蔓(つる)だ。
ある板葺(いたぶ)きの小屋のそばを通り過ぎるころ、平兵衛は路傍(みちばた)の桃の小枝を折り取って、その葉を笠(かさ)の下に入れてかぶった。それからまた半蔵と一緒に歩いた。
「半蔵さまのお供もいいが、ときどきおれは閉口する。」
「どうしてさ。」
「でも、馬のあくびをするところなぞを、そうお前さまのようにながめておいでなさるから。おもしろくもない。」
「しかし、この平穏はどうだ。つい十日ばかり前に、百姓|一揆(いっき)のあったあととは思われないじゃないか。」
そこいらには、草の上にあおのけさまに昼寝して大の字なりに投げ出している村の男の足がある。山と積んだ麦束のそばに懐(ふところ)をあけて、幼い嬰児(あかご)に乳を飲ませている女もある。
半蔵らは途中で汗をふくによい中山薬師の辺まで進んだ。耳の病を祈るしるしとして幾本かの鋭い錐(きり)を編み合わせたもの、女の乳|搾(しぼ)るさまを小額の絵馬(えま)に描いたもの、あるいは長い女の髪を切って麻の緒(お)に結びささげてあるもの、その境内の小さな祠(ほこら)の前に見いださるる幾多の奉納物は、百姓らの信仰のいかに素朴(そぼく)であるかを語っている。その辺まで帰って来ると、恵那山麓(えなさんろく)の峠に続いた道が半蔵らの目の前にあった。草いきれのするその夏山を分け登らなければ、青い木曾川が遠く見えるところまで出られない。秋深く木の実の熟するころにでもなると、幾百幾千の鶫(つぐみ)、※[けものへん+臈のつくり]子鳥(あとり)、深山鳥(みやま)、その他の小鳥の群れが美濃方面から木曾の森林地帯をさして、夜明け方の空を急ぐのもその十曲峠だ。
ようやく半蔵らは郷里の西の入り口まで帰り着いた。峠の上の国境に立つ一里塚(いちりづか)の榎(えのき)を左右に見て、新茶屋から荒町(あらまち)へ出た。旅するものはそこにこんもりと茂った鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)と、涼しい樹陰(こかげ)に荷をおろして往来(ゆきき)のものを待つ枇杷葉湯(びわようとう)売りなぞを見いだす。
「どれ、氏神さまへもちょっと参詣(さんけい)して。」
村社|諏訪社(すわしゃ)の神前に無事帰村したことを告げて置いて、やがて半蔵は社頭の鳥居に近い杉(すぎ)切り株の上に息をついた。暑い峠道を踏んで来た平兵衛も、そこいらに腰をおろす。日ごとに行きかう人馬のため踏み堅められたような街道が目の前にあることも楽しくて、二人(ふたり)はしばらくその位置を選んで休んだ。
落合の勝重の家でも話の出た農兵の召集が、六十日ほど前に行なわれたのも、この氏神の境内であった。それは尾州藩の活動によって起こって来たことで、越後口(えちごぐち)に出兵する必要から、同藩では代官山村氏に命じ、木曾谷中へも二百名の農兵役を仰せ付けたのである。馬籠(まごめ)の百姓たちはほとんどしたくする暇も持たなかった。過ぐる閏(うるう)四月の五日には木曾福島からの役人が出張して来て、この村社へ村中一統を呼び出しての申し渡しがあり、九日にはすでに鬮引(くじび)きで七人の歩役の農兵と一人(ひとり)の付き添いの宰領とを村から木曾福島の方へ送った。
半蔵はまだあの時のことを忘れ得ない。召集されて行く若者の中には、まだ鉄砲の打ち方も知らないというものもあり、嫁をもらって幾日にしかならないというものもある。長州や水戸(みと)の方の先例は知らないこと、小草山の口開(くちあ)けや養蚕時のいそがしさを前に控え、農家から取られる若者は「おやげない」(方言、かあいそうに当たる)と言って、目を泣きはらしながら見送る婆(ばあ)さんたちも多かった。もっとも、これは馬籠の場合ばかりでなく、越後表の歩役が長引くようであっては各村とも難渋するからと言って、木曾谷中一同が申し合わせ、農兵呼び戻(もど)しのことを木曾福島のお役所へ訴えたのは、同じ月の二十日のことであったが。
しばらく郷里を留守にした半蔵には、こんなことも心にかかった。中津川の小野三郎兵衛が尾州藩への嘆願書のうちには、百姓仲間が難渋する理由の一つとして、この農兵の歩役があげてあったことを思い出した。何よりもまず伏見屋の伊之助にあって、村全体の留守を預かっていてくれたような隣家の主人から、その後の様子を聞きたい。その考えから彼は腰を持ち上げた。平兵衛と共に社頭の鳥居のそばを離れた。
荒町は馬籠の宿内の小名(こな)で、路傍(みちばた)にあらわれた岩石の多い橋詰(はしづめ)の辺を間に置いて、馬籠の本宿にかかる。なだらかな谷間を走って来る水は街道を横切って、さらに深い谿(たに)へと落ちて行っている。半蔵らが帰って来た道は、石屋の坂のあたりで馬籠の町内の入り口にかかる。そのあたりの農家で旅籠屋(はたごや)を兼ねない家はなかったくらいのところだ。
「平兵衛さ、今お帰りか。」
「そうよなし。」
「お前は何をしていたい。」
石屋の坂を登りきったところで、平兵衛は上町の方から降りて来る笹屋(ささや)の庄助(しょうすけ)にあった。庄助は正直一徹な馬籠村の組頭(くみがしら)だ。
坂になった宿内を貫く街道は道幅とてもそう広くない。旅人はみなそこを行き過ぎる。一里も二里もある山林の方から杉の皮を背負(しょ)って村へ帰って来る男もある。庄助は往来(ゆきき)の人の邪魔にならない街道の片すみへ平兵衛を呼んだ。その時は、一緒にそこまで帰って来た半蔵の方が平兵衛よりすこしおくれた。
「平兵衛さ、おれはもうお留守居は懲り懲りしたよ。」庄助が言い出す。「かんじんの半蔵さまがいないところへ持って来て、お前まで、のんきな旅だ。」
その時、平兵衛は笠(かさ)の紐(ひも)をといて、相手の顔をながめた。同じ組頭仲間でも、相手は馬籠の百姓総代という格で、伏見屋その他の年寄役と共に会所に詰め、宿内一切の相談にあずかっている。平兵衛も日ごろから、この庄助には一目置いている。
「いや、はや、」とまた庄助が言った。「先月の二十六日には農兵呼び戻しの件で、福島のお役所からはお役人が御出張になる。二十九日にはお前、井伊|掃部頭(かもんのかみ)の若殿様から彦根(ひこね)の御藩中まで、御同勢五百人が武士人足共に馬籠のお泊まりさ。伏見屋あたりじゃ十四人もお宿を引き受けるという騒ぎだ。お前も聞いて来たろうが、百姓一揆はその混雑(ごたごた)の中だぜ。」
「そう言われるとおれも面目ない。」
「お前だって峠村の組頭だ。もっと気をきかせそうなもんじゃないか。半蔵さまに勧めるぐらいにして、早く帰って来てくれそうなもんじゃないか。」
「そうがみがみ言いなさんな。なにしろ、お前、往復に日数は食うし、それにあの雨だ。伊勢路から京都まで、毎日毎日降って、降って、降りからかいて……」
「こっちも雨じゃ弱ったぞ。」
「おまけに、庄助さ、帰り道はまた雨降りあげくの暑い日ばかりと来てる。いくらも歩けすか。それにしても、なんという暑さだずら。」
こんな平兵衛の立ち話に、いくらか庄助も顔色をやわらげているところへ、半蔵が坂の下の方から追いついた。
「やあ、やあ。今そこで上の伏見屋の隠居につかまって、さんざんしかられて来た。あの金兵衛さんは氏神さまへお詣(まい)りに出かけるところさ。どこへもかしこへもお辞儀ばかりだ。庄助さん、いずれあとでゆっくり聞こう。」
その言葉を残して置いて、半蔵は家の方へ急いだ。
妻子はまず無事。
半蔵は旅じたくを解くのもそこそこに本陣の裏二階を見に行った。臥(ね)たり起きたりしてはいるが、それほど病勢が進んだでもない父吉左衛門と、相変わらず看護に余念のない継母のおまんとが、そこに半蔵を待っていた。
「お父(とっ)さん、京都の方を見て来た目で自分の家を見ると、こんな山家だったかと思うようですよ。」
とは半蔵が旅から日に焼けて親たちのそばへ帰って来た時の言葉だ。
彼もいそがしがっていた。つもる話をあと回しにしてその裏二階を降りた。とりあえず彼が見たいと思う人は伏見屋の伊之助であった。夕方から、彼は潜(くぐ)り戸(ど)をくぐって表門の外に出た。宿場でもここは夜鷹(よたか)がなく。もはや往来の旅人も見えない。静かだ。その静かさは隣宿落合あたりにもない山の中の静かさだ。旅から帰って来た彼が隣家の入り口まで行くと、古風な杉(すぎ)の葉の束の丸く大きく造ったのが薄暗い軒先につるしてあるのも目につく。清酒ありのしるしである。
隠居金兵衛のかわりに伊之助。その年の正月に隠居が見送ったお玉のかわりに伊之助の妻のお富(とみ)。伏見屋ではこの人たちが両養子で、夫婦とも隣の国の方から来て、養父金兵衛から譲られた家をやっている。夫婦の間に子供は二人(ふたり)生まれている。血縁はないまでも、本陣とは親類づきあいの間柄である。この隣家の主人が、新しい簾(すだれ)をかけた店座敷の格子先の近くに席を造って、半蔵をよろこび迎えてくれた。
「半蔵さん、旅はいかがでした。こちらはろくなお留守居もできませんでしたよ。」
そういう伊之助は男のさかりになればなるほど、ますますつつしみ深くなって行くような人である。物腰なぞは多分に美濃の人であるが、もうすっかり木曾じみていて、半蔵にとっては何かにつけての相談相手であった。
「いや、こんなにわたしも長くなるつもりじゃなかった。」と半蔵は言った。「伊勢路までにして引き返せばよかったんです。途中で、よっぽどそうは思ったけれど、京都の様子も気にかかるものですから、つい旅が長くなりました。」
「たぶん、半蔵さんのことだから、京都の方へお回りになるだろうッて、お富のやつともおうわさしていましたよ。」
「そう言ってくれるのは君ばかりだ。」
その時、半蔵がしるしばかりの旅の土産(みやげ)をそこへ取り出すと、伊之助はその京の扇子なぞを彼の前で開いて見て、これはよい物をくれたというふうに、男持ちとしてはわりかた骨細にできた京風の扇の形をながめ、胡麻竹(ごまだけ)の骨の上にあしらってある紙の色の薄紫と灰色の調和をも好ましそうにながめて、
「半蔵さんの留守に一番困ったことは――例の農兵呼び戻(もど)しの一件で、百姓の騒ぎ出したことです。どうしてそんなにやかましく言い出したかと言うに、村から出て行った七人のものの行く先がはっきりしない、そういうことがしきりにこの街道筋へ伝わって来たからです。」
「そんなはずはないが。」
「ところがです、東方(ひがしがた)へ付くのか、西方(にしがた)へ付くのか、だれも知らない、そんなことを言って、二百人の農兵もどうなるかわからない、そういうことを言い触らされるものですから、さあ村の百姓の中には迷い出したものがある。」
「でも、行く先は越後(えちご)方面で、尾州藩付属の歩役でしょう。尾州の勤王は知らないものはありますまい。」
「待ってくださいよ。そりゃ木曾福島の御家中衆が尾州藩と歩調を合わせるなら、論はありません。谷中の農兵は福島の武士に連れられて行きましたが、どうも行く先が案じられると言うんです。そんなところにも動揺が起こって来る、流言は飛ぶ――」
「や、わたしはまた、田圃(たんぼ)や畠(はたけ)が荒れて、その方で百姓が難渋するだろうとばかり思っていました。」
「無論、それもありましょう。しまいには毎日毎日、村中の百姓と宿役人仲間との寄り合いです。あの庄助さんなぞも中にはさまって弱ってました。先月の二十六日――あれは麦の片づく時分でしたが、とうとう福島のお役所からお役人に出張してもらいまして、その時も大評定(だいひょうじょう)。どうしても農兵は戻してもらいたい、そのことはお役人も承知して帰りました。それからわずか三日目があの百姓|一揆(いっき)の騒ぎです。」
「どうも、えらいことをやってくれましたよ。わたしも落合の稲葉屋(いなばや)へ寄って、あそこで大体の様子を聞いて来ました。伊之助さんも中津川までかけつけてくれたそうですね。」
「えゝ。それがまた、大まごつき。こちらは彦根様お泊まりの日でしょう。武士から人足まで御同勢五百人からのしたくで、宿内は上を下への混雑と来てましょう。新政府の官札は不渡りでないまでも半額にしか通用しないし、今までどおりの雇い銭の極(き)めじゃ人足は出て来ないし……でも、捨て置くべき場合じゃないと思いましたから、宿内のことは九郎兵衛(問屋)さんなぞによく頼んで置いて、早速(さっそく)福島のお役所へ飛脚を走らせる、それから半分夢中で落合までかけて行きました。その翌日の晩は、中津川に集まった年寄役仲間で寄り合いをつけて、騒動のしずまったところを見届けて置いて、家へ帰って来た時分にはもう夜が明けました。」
思わず半蔵は旅の疲れも忘れて、その店座敷に時を送った。格子先の簾(すだれ)をつたうかすかな風も次第に冷え冷えとして来る。
「どうも、なんとも申し訳がない。」と言って、半蔵は留守中の礼を述べながらたち上がった。「こんな一揆の起こるまで、あの庄助さんも気がつかずにいたものでしょうか。」
「そりゃ、半蔵さん、笹屋(ささや)だって知りますまい。あれで笹屋は自分で作る方の農ですから。」
「わたしは兼吉や桑作でも呼んで聞いて見ます。わたしの家には先祖の代から出入りする百姓が十三人もある。吾家(うち)へ嫁に来た人について美濃から移住したような、そんな関係のものもある。正月と言えば餅(もち)をつきに来たり、松を立てたりするのも、あの仲間です。一つあの仲間を呼んで、様子を聞いて見ます。」
「まあ、京都の方の話もいろいろ伺いたいけれど。夜も短かし。」 

「お霜婆(しもばあ)」
「あい。」
「お前のとこの兼さに本陣の旦那(だんな)が用があるげなで。」
「あい。」
「そう言ってお前も言伝(ことづ)けておくれや。ついでに、桑さにも一緒に来るようにッて。頼むぞい。」
「あい。あい。」
馬籠本陣の勝手口ではこんな言葉がかわされた。耳の遠いお霜婆さんは、下女から言われたことを引き受けて、もう何十年となく出入りする勝手口のところを出て行った。
越後路の方へ行った七人の農兵も宰領付き添いで帰って来た朝だ。六十日の歩役を勤めた後、今度御用済みということで、残らず帰村を許された若者らは半蔵のところへも挨拶(あいさつ)に来た。ちょうどそこへ、兼吉、桑作の二人(ふたり)も顔を見せたので、入り口の土間は一時ごたごたした。
半蔵も西から帰ったばかりだ。しかし彼は旅の疲れを休めているいとまもなかった。日ごろ出入りの二人の百姓を呼んで村方の様子を聞くまでは安心しなかった。
「兼吉も、桑作も、囲炉裏ばたの方へ上がってくれ。」
と半蔵がいつもと同じ調子で言った。
そこは火の気のない囲炉裏ばただ。平素なら兼吉、桑作共に土足で来て踏ン込(ご)むところであるが、その朝は手ぐいで足をはたいて、二人とも半蔵の前にかしこまった。もとより旧(ふる)い主従のような関係の間柄である。半蔵も物をきいて見るのに遠慮はいらない。留守中の村に不幸なものを出したのは彼の不行き届きからであって、その点は深く恥じ深く悲しむということから始めて、せめておおよその人数だけでも知って置きたい、言えるものなら言って見てもらいたい、そのことを彼は二人の前に切り出した。
「旦那、それはおれの口から言えん。」と兼吉が百姓らしい大きな手を額(ひたい)に当てた。「桑さも、おれも、この事件には同類じゃないが、もう火の消えたあとのようなものだで、これについては一切口外しないようにッて、村中の百姓一同でその申し合わせをしましたわい。」
「いや、そういうことなら、それでいい。おれも村からけが人は出したくない。」と半蔵が言った。「おれが心配するのは、これから先のことだ。こういう新しい時世に向かって来たら、お前たちだってうれしかろうに。あのお武家さまがこの街道へ来てむやみといばった時分のことを考えてごらん、百姓は末の考えもないものだなんて言われてさ、まるで腮(あご)で使う器械のように思われたことも考えてごらんな。お前たちは、刀に手をかけたお武家さまから、毎日追い回されてばかりいたじゃないか。御一新ということになって来た。ようやくこんなところへこぎつけた。それを考えたら、お前たちだってもうれしかろう。」
「そりゃ、うれしいどころじゃない。」
「そうか。お前たちもよろこんでいてくれるのか。」
その時、半蔵には兼吉の答えることが自分の気持ちを迎えるように聞こえて、その「うれしいどころじゃない」もすこし物足りなかった。兼吉のそばに膝(ひざ)をかき合わせている桑作はまた、言葉もすくない。しかしこの二人は彼の家へ出入りする十三人の中でも指折りの百姓であった。そこで彼はこんな場合に話して置くつもりで、さらに言葉をつづけた。
「そんなら言うが、今は地方(じかた)のものが騒ぎ立てるような、そんな時世じゃないぞ、百姓も、町人も、ほんとに一致してかからなかったら、世の中はどうなろう。もっと皆が京都の政府を信じてくれたら、こんな一揆も起こるまいとおれは思うんだ。お前たちからも仲間のものによく話してくれ。」
「そのことはおれたちもよく話すわいなし。」と桑作が答える。
「だれだって、お前、饑(う)え死(じ)にはしたくない。」とまた半蔵が言い出した。「そんなら、そのように、いくらも訴える道はある。今度の政府はそれを聞こうと言ってるんじゃないか。尾州藩でも決して黙ってみちゃいない。ごらんな、馬籠の村のものが一同で嘆願して、去年なぞも上納の御年貢(おねんぐ)を半分にしてもらった。あんな凶年もめったにあるまいが、藩でも心配してくれて、御年貢をまけた上に、米で六十石を三回に分けてさげてよこした。あの時だって、お前、一度分の金が十七両に、米が十俵――それだけは村中の困ってるものに行き渡ったじゃないか。」
「それがです。」と兼吉は半蔵の言葉をさえぎった。「笹屋(ささや)の庄助さのように自分で作ってる農なら、まだいい。どんな時でもゆとりがあるで。水呑百姓(みずのみびゃくしょう)なんつものは、お前さま、そんなゆとりがあらすか。そりゃ、これからの世の中は商人(あきんど)はよからず。ほんとに百姓はツマらんぞなし。食っては、抜け。食っては抜け。それも食って抜けられるうちはまだいい。三月四月の食いじまいとなって見さっせれ。今日どんな稼(かせ)ぎでもして、高い米でもなんでも買わなけりゃならん。」
「そんなにみんな困るのか。困ると言えば、こんな際にはお互いじゃないか。そんなら聞くが、いったい、岩倉様の御通行は何月だったと思う。あの時に出たお救いのお手当てだって、みんなのところへ行き渡ったはずだ。」
「お前さまの前ですが、あんなお手当てがいつまであらすか。みんな――とっくに飲んでしまったわなし。」
粗野で魯鈍(ろどん)ではあるが、しかし朴直(ぼくちょく)な兼吉の目からは、百姓らしい涙がほろりとその膝(ひざ)の上に落ちた。
桑作は声もなく、ただただ頭をたれて、朋輩(ほうばい)の答えることに耳を傾けていた。やがてお辞儀をして、兼吉と共にその囲炉裏ばたを離れる時、桑作は桑作らしいわずかの言葉を半蔵のところへ残した。
「だれもお前さまに本当のことを言うものがあらすか。」
「そんなにおれは百姓を知らないかなあ。」
この考えが半蔵を嘆息させた。過ぐる二月下旬に岩倉総督一行が通行のおりには、まるで祭礼を見物する人たちでしかなかったような村民の無関心――今また、千百五十余人からの百姓の騒擾(そうじょう)――王政第一の年を迎えて見て、一度ならず二度までも、彼は日ごろの熱い期待を裏切られるようなことにつき当たった。
「新政府の信用も、まだそんなに民間に薄いのか。」
と考えて、また彼は嘆息した。
彼に言わせると、これは長い年月、共に共に武家の奉公を忍耐して来た百姓にも似合わないことであった。今は時も艱(かた)い上に、軽いものは笞(むち)、入墨(いれずみ)、追い払い、重いものは永牢(えいろう)、打ち首、獄門、あるいは家族非人入りの厳刑をさえ覚悟してかかった旧時代の百姓|一揆(いっき)のように、それほどの苦痛を受けなければ訴えるに道のない武家専横の世の中ではなくなって来たはずだからである。たとい最下層に働くものたりとも、復興した御代(みよ)の光を待つべき最も大切な時と彼には思われるからである。
しかし、その時の彼はこんな沈思にのみふけっていられなかった。二人の出入りの百姓を送り出して見ると、留守中に彼を待っている手紙や用件の書類だけでも机の上に堆高(うずだか)いほどである。種々(さまざま)な村方の用事は、どれから手をつけていいかわからなかったくらいだ。彼は留守中のことを頼んで置いた清助を家に迎えて見た。犬山の城主|成瀬正肥(なるせまさみつ)、尾州の重臣田宮如雲なぞの動きを語る清助の話は、会津戦争に包まれて来た地方の空気を語っていないものはなかった。彼は自分の家に付属する問屋場の世話を頼んで置いた従兄(いとこ)の栄吉にもあって見た。地方を府県藩にわかつという新制度の実施はすでに開始されて、馬籠の駅長としての半蔵あてに各地から送ってよこした駅路用の印鑑はすべて栄吉の手に預かってくれてあった。栄吉は彼の前にいろいろな改正の印鑑を取り出して見せた。あるものは京都府の駅逓(えきてい)印鑑、あるものは柏崎(かしわざき)県の駅逓印鑑、あるものは民政裁判所の判鑑というふうに。
彼はまた、宿役人一同の集まる会所へも行って顔を出して見た。そこには、尾州藩の募集に応じ越後口補充の義勇兵として、この馬籠からも出発するという荒町の禰宜(ねぎ)、松下千里のうわさが出ていて、いずれその出発の日には一同峠の上まで見送ろうとの相談なぞが始まっていた。 

木曾谷の奥へは福島の夏祭りもやって来るようになった。馬籠荒町の禰宜(ねぎ)、松下千里は有志の者としてであるが、越後方面への出発の日には朝早く来て半蔵の家の門をたたいた。
「禰宜さま、お早いなし。」
と言いながら下男の佐吉が本陣表門の繰り戸の扉(とびら)をあけて、千里を迎え入れた。明けやすい街道の空には人ッ子|一人(ひとり)通るものがない。宿場の活動もまだ始まっていない。そんな早いころに千里はすっかりしたくのできたいでたちで、家伝来の長い刀を袋のまま背中に負い、巻き畳(たた)んだ粗(あら)い毛布(けっと)を肩に掛け、風呂敷包(ふろしきづつ)みまで腰に結び着けて、朝じめりのした坂道を荒町から登って来た。
この禰宜は半蔵のところへ別れを告げに来たばかりでなく、関所の通り手形をもらい受けに来た。これから戦地の方へ赴(おもむ)く諏訪(すわ)分社の禰宜が通行を自由にするためには、宿役人の署名と馬籠宿の焼印(やきいん)の押してある一枚の木札が必要であった。半蔵はすでにその署名までして置いてあったので、それを千里に渡し、妻のお民を呼んで自分でも見送りのしたくした。庄屋らしい短い袴(はかま)に、草履(ぞうり)ばきで、千里と共に本陣を出た。
どこの家でもまだ戸を閉(し)めて寝ている。半蔵は向かい側の年寄役梅屋五助方をたたき起こし、石垣(いしがき)一つ置いて向こうの上隣りに住む問屋九郎兵衛の家へも声をかけた。そのうちに年寄役伏見屋の伊之助も戸をあけてそこへ顔を出す。組頭(くみがしら)笹屋(ささや)庄助も下町の方から登って来る。脇本陣(わきほんじん)で年寄役を兼ねた桝田屋小左衛門(ますだやこざえもん)と、同役|蓬莱屋(ほうらいや)新助とは、伏見屋より一軒置いて上隣りの位置に対(むか)い合って住む。それらの人たちをも誘い合わせ、峠の上をさして、一同|朝靄(あさもや)の中を出かけた。
「戦争もどうありましょう。江戸から白河口(しらかわぐち)の方へ向かった東山道軍なぞは、どうしてなかなかの苦戦だそうですね。」
「越後口だって油断はならない。東方(ひがしがた)は飯山(いいやま)あたりまで勧誘に入り込んでるそうですぞ。」
「なにしろ大総督府で、東山道軍の総督を取り替えたところを見ると、この戦争は容易じゃない。」
だれが言い出すともなく、だれが答えるともない声は、見送りの人たちの間に起こった。
奥筋からの風の便(たよ)りが木曾福島の変事を伝えたのも、その祭りのころであった。尾州代官山村氏の家中衆数名、そのいずれもが剣客|遠藤(えんどう)五平次の教えを受けた手利(てき)きの人たちであるが、福島の祭りの晩にまぎれて重職|植松菖助(うえまつしょうすけ)を水無(みなし)神社分社からの帰り路(みち)を要撃し、その首級を挙(あ)げた。菖助は関所を預かる主(おも)な給人(きゅうにん)である。砲術の指南役でもある。その後妻は尾州藩でも学問の指南役として聞こえた宮谷家から来ているので、名古屋に款(よし)みを通じるとの疑いが菖助の上にかかっていたということである。
この祭りの晩の悲劇は、尾州藩に対しても絶対の秘密とされた。なぜかなら、この要撃の裏には山村家でも主要な人物が隠れていたとうわさせらるるからである。しかしそれが絶対の秘密とされただけに、名古屋の殿様と福島の旦那(だんな)様との早晩まぬかれがたい衝突を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が木曾谷の西のはずれまでを支配し始めた。強大な諸侯らの勢力は会津(あいづ)戦争を背景として今や東と西とに分かれ、この国の全き統一もまだおぼつかないような時代の薄暗さは、木曾の山の中をも静かにしては置かなかった。
こんな空気の中で、半蔵は伊之助らと共に馬籠本宿の東のはずれ近くまで禰宜(ねぎ)を送って行った。恵那山(えなさん)を最高の峰とする幾つかの山嶽(さんがく)は屏風(びょうぶ)を立て回したように、その高い街道の位置から東の方に望まれる。古代の人の東征とは切り離して考えられないような古い歴史のある御坂越(みさかごえ)のあたりまでが、六月の朝の空にかたちをあらわして、戦地行きの村の子を送るかに見えていた。
峠の上には、別に宿内の控えとなっている一小部落がある。西のはずれで狸(たぬき)の膏薬(こうやく)なぞを売るように、そこには、名物|栗(くり)こわめしの看板を軒にかけて、木曾路を通る旅人を待つ御休処(おやすみどころ)もある。峠村組頭の平兵衛が家はその部落の中央にあたる一里塚の榎(えのき)の近くにある。その朝、半蔵らは禰宜と共に平兵衛方の囲炉裏ばたに集まって、馬の顔を出した馬小屋なぞの見えるところで、互いに別れの酒をくみかわした。
「越後から逃げて帰って来る農兵もあるし、禰宜さまのように自分から志願して、勇んで出て行く人もある。全く世の中はよくできていますな。」
問屋九郎兵衛の言い草だ。
「伊之助さん――どうやらこの分じゃ、村からけが人も出さずに済みそうですね。」
「例の百姓一揆のですか。そう言えば、与川(よがわ)じゃ七人だけ、福島のお役所へ呼び出されることになったそうです。ところが七人が七人とも、途中で欠落(かけおち)してしまったという話でさ。」
半蔵と伊之助とは峠でこんな言葉をかわして笑った。
とりあえず松本辺まで行ってそれから越後口へ向かうという松下千里が郷里を離れて行く後ろ姿を見送った後、半蔵は伊之助と連れだってもと来た道を帰るばかりになった。峠のふもとをめぐる坂になった道、浅い谷、その辺は半蔵が歩くことを楽しみにするところだ。そこいらではもう暑さを呼ぶような山の蝉(せみ)も鳴き出した。
非常時の夏はこんな辺鄙(へんぴ)な宿はずれにも争われない。会津戦争の空気はなんとなく各自の生活に浸って来た。それを半蔵らは街道で行きあう村の子供の姿にも、畠(はたけ)の方へ通う百姓の姿にも、牛をひいて本宿の方へ荷をつけに行く峠村の牛方仲間の姿にも読むことができた。時には「尾州藩御用」とした戦地行きの荷物が駄馬(だば)の背に積まれて、深い山間(やまあい)の谿(たに)に響き渡るような鈴音と共に、それが幾頭となく半蔵らの帰って行く道に続いた。
岩田というところを通り過ぎて、半蔵らは本宿の東の入り口に近い街道の位置に出た。
半蔵は思い出したように、
「どうでしょう、伊之助さん、こんなところで言い出すのも変なものだが君にきいて見たいことがある。」
「半蔵さんがまた何か言い出す。君はときどき、出し抜けに物を言うような人ですね。」
「まあ、聞いてください。こんな一大変革の時にも頓着(とんちゃく)しないで、きょう食えるか食えないかを考えるのが本当か――それとも、御政治第一に考えて、どんな難儀をこらえても上のものと力をあわせて行くのが本当か――どっちが君は本当だと思いますかね。」
「そりゃ、どっちも本当でしょう。」
「でも、伊之助さん、これで百姓にもうすこし統制があってくれるとねえ。」
と半蔵は嘆息して、また歩き出した。そういう彼は一度ならず二度までも自分の期待を裏切られるような場合につき当たっても、日ごろから頼みに思う百姓の目ざめを信ずる心は失わなかった。およそ中庸の道を踏もうとする伊之助の考え方とも違って、筋道のないところに筋道のあるとするが彼の思う百姓の道であった。彼は自分の位置が本陣、問屋、庄屋の側にありながら、ずっと以前にもあの抗争の意気をもって起こった峠の牛方仲間を笑えなかったように、今また千百五十余人からのものが世の中建て直しもわきまえないようなむちゃをやり出しても、そのために彼ら名もない民の動きを笑えなかった。 
第六章

 


新帝東幸のおうわさがいよいよ事実となってあらわれて来たころは、その御通行筋に当たる東海道方面は言うまでもなく、木曾街道(きそかいどう)の宿々村々にいてそれを伝え聞く人民の間にまで和宮様(かずのみやさま)御降嫁の当時にもまさる深い感動をよび起こすようになった。
慶応四年もすでに明治元年と改められた。その年の九月が来て見ると、奥羽(おうう)の戦局もようやく終わりを告げつつある。またそれでも徳川方軍艦脱走の変報を伝え、人の心はびくびくしていて、毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのような時であった。
もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。今度の行幸(ぎょうこう)はその東京をさしての京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに動かれる場合でもない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡(しずおか)以東の御通行さえも懸念(けねん)せられる。途中に鳳輦(ほうれん)を押しとどめるものもあるやの流言もしきりに伝えられる。東山道方面にいて宿駅のことに従事するものはそれを聞いて、いずれも手に汗を握った。というは、あの和宮様御降嫁当時の彼らが忘れがたい経験はこの御通行の容易でないことを語るからであった。
東海道方面からあふれて来る旅人の混雑は、馬籠(まごめ)のような遠く離れた宿場をも静かにして置かない。年寄役で、問屋後見を兼ねている伏見屋の伊之助は例のように、宿役人一同を会所に集め、その混雑から街道を整理したり、木曾|下(しも)四か宿の相談にあずかったりしていた。七里役(飛脚)の置いて行く行幸のうわさなぞを持ち寄って、和宮様御降嫁当時のこの街道での大混雑に思い比べるのは桝田屋(ますだや)の小左衛門だ。助郷(すけごう)徴集の困難が思いやられると言い出すのは梅屋の五助だ。時を気づかう尾州の御隠居(慶勝(よしかつ))が護衛の兵を引き連れ熱田(あつた)まで新帝をお出迎えしたとの話を持って来るのは、一番年の若い蓬莱屋(ほうらいや)の新助だ。そこへ問屋の九郎兵衛でも来て、肥(ふと)った大きなからだで、皆の間に割り込もうものなら、伊之助の周囲(まわり)は男のにおいでぷんぷんする。彼はそれらの人たちを相手に、東海道の方に動いて行く鳳輦を想像し、菊の御紋のついた深紅色の錦(にしき)の御旗(みはた)の続くさかんな行列を想像し、惣萌黄(そうもえぎ)の股引(ももひき)を着けた諸士に取り巻かれながらそれらの御旗を静かに翻し行く力士らの光景を想像した。彼はまた、外国の旋条銃(せんじょうじゅう)と日本の刀剣とで固めた護衛の武士の風俗ばかりでなく、軍帽、烏帽子(えぼし)、陣笠(じんがさ)、あるいは鉄兜(てつかぶと)なぞ、かぶり物だけでも新旧時代の入れまじったところは、さながら虹(にじ)のごとき色さまざまな光景をも想像し、この未曾有(みぞう)の行幸を拝する沿道人民の熱狂にまで、その想像を持って行った。
十月のはじめには、新帝はすでに東海道の新井(あらい)駅に御着(おんちゃく)、途中|潮見坂(しおみざか)というところでしばらく鳳輦を駐(と)めさせられ、初めて大洋を御覧になったという報告が来るようになった。そこにひらけたものは、遠く涯(はて)も知らない鎖国時代の海ではなくて、もはや彼岸(ひがん)に渡ることのできる大洋である。木曾あたりにいて、想像する伊之助にとっても、これは多感な光景であった。
「や、これはよいお話だ。半蔵さんにも聞かせたい。」
と伊之助は言って見たが、あいにくと半蔵が会所に顔を見せない。この街道筋の混雑の中で、半蔵の父吉左衛門の病は重くなった。中津川から駕籠(かご)で医者を呼ぶの、組頭(くみがしら)の庄助(しょうすけ)を山口村へも走らせるのと、本陣の家では取り込んでいた。 

一日として街道に事のない日もない。ともかくも一日の勤めを終わった。それが会所を片づけて立ち上がろうとするごとに伊之助の胸に浮かんで来ることであった。その二、三日、半蔵が病める父の枕(まくら)もとに付きッきりだと聞くことも、伊之助の心を重くした。彼はその様子を知るために、砂利(じゃり)で堅めた土間を通って、問屋場(といやば)の方をしまいかけている栄吉を見に行った。そこには|日〆帳(ひじめちょう)を閉じ、小高い台のところへ来て、その上に手をつき、叔父(おじ)(吉左衛門のこと)の病気を案じ顔な栄吉を見いだす。栄吉は羽目板(はめいた)の上の位置から、台の前の蹴込(けこ)みのところに立つ伊之助の顔をながめながら、長年中風を煩(わずら)っているあの叔父がここまで持ちこたえたことさえ不思議であると語っていた。
その足で、伊之助は本陣の母屋(もや)までちょっと見舞いを言い入れに行った。半蔵夫婦をはじめ、お粂(くめ)や宗太まで、いずれも裏二階の方と見えて、広い囲炉裏ばたもひっそりとしている。そこにはまた、あかあかと燃え上がる松薪(まつまき)の火を前にして、母屋を預かり顔に腕組みしている清助を見いだす。
清助は言った。
「伊之助さま、ここの旦那(だんな)はもう三晩も四晩も眠りません。おれには神霊(みたま)さまがついてる、神霊さまがこのおれを護(まも)っていてくださるから心配するな、ナニ、三晩や四晩ぐらい起きていたっておれはちっともねむくない――そういうことを言われるんですよ。大旦那の病気もですが、あれじゃ看護するものがたまりません。わたしは半蔵さまの方を心配してるところです。」
それを聞くと、伊之助は病人を疲れさせることを恐れて、裏の隠居所までは見に行かなかった。極度に老衰した吉左衛門の容体、中風患者のこととて冷水で頭部を冷やしたり温石で足部を温(あたた)めたりするほかに思わしい薬もないという清助の話を聞くだけにとどめて、やがて彼は本陣の表門を出た。
伊之助ももはや三十五歳の男ざかりになる。半蔵より三つ年下である。そんなに年齢(とし)の近いことが半蔵に対して特別の親しみを覚えさせるばかりでなく、きげんの取りにくい養父金兵衛に仕えて来た彼は半蔵が継母のおまんに仕えて来たことにもひそかな思いやりを寄せていた。二人(ふたり)はかつて吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられた日に、同じく木曾福島の代官所からの剪紙(きりがみ)(召喚状)を受け、一方は本陣問屋庄屋三役青山吉左衛門|忰(せがれ)、一方は年寄兼問屋後見役小竹金兵衛忰として、付き添い二人、宿方|惣代(そうだい)二人同道の上で、跡役(あとやく)を命ぜられて来たあれ以来の間柄である。
しかし、伊之助もいつまで旧(もと)の伊之助ではない。次第に彼は隣人と自分との相違を感ずるような人である。いかに父親思いの半蔵のこととは言え、あの吉左衛門発病の当時、たとい自己の寿命を一年縮めても父の健康に代えたいと言ってそれを祷(いの)るために御嶽参籠(おんたけさんろう)を思い立って行ったことから、今また不眠不休の看護、もう三晩も四晩も眠らないという話まで――彼伊之助には、心に驚かれることばかりであった。
「どうして半蔵さんはああだろう。」
本陣から上隣りの石垣(いしがき)の上に立つ造り酒屋の堅牢(けんろう)な住居(すまい)が、この伊之助の帰って行くのを待っていた。西は厚い白壁である。東南は街道に面したがっしりした格子である。暗い時代の嵐(あらし)から彼が逃げ込むようにするところも、その自分の家であった。
伏見屋では表格子の内を仕切って、一方を店座敷に、一方の入り口に近いところを板敷きにしてある。裏の酒蔵の方から番頭の運んで来る酒はその板敷きのところにたくわえてある。買いに来るものがあれば、桝(ます)ではかって売る。新酒揚げの日はすでに過ぎて、今は伏見屋でも書き入れの時を迎えていた。売り出した新酒の香気(かおり)は、伊之助が宿役人の袴(はかま)をぬいで前掛けにしめかえるところまで通って来ていた。
「お父(とっ)さんは。」
伊之助はそれを妻のお富にたずねた。隠居金兵衛も九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病の痰(たん)が出て、そのまま隠宅へも戻(もど)らずに本家の二階に寝込んでいるからであった。伊之助にしても、お富にしても、二人は両養子である。隣家に病む吉左衛門よりも年長の七十二歳にもなる養父がいかに精力家だからとはいいながら、もうそう長いこともあるまいと言い合って、なんでもしたいことはさせるがいいとも言い合って、夫婦共に腫物(はれもの)にさわるようにしている。
ちょうどお富は夕飯のしたくにかかっていたが、台所の流しもとの方からまた用事ありげに夫のそばへ来た。見ると、夫は何か独語(ひとりごと)を言いながら、黒光りのする大黒柱(だいこくばしら)の前を往(い)ったり来たりしていた。
「もうすこし、あたりまえということが大切に思われてもいいがナ。」
「まあ、あなたは何を言っていらっしゃるんですかね。」
「いや、おれはお父(とっ)さんに対して言ってるんじゃない。今の世の中に対してそう言ってるんさ。」
この伊之助の言うことがお富を笑わせもし、あきれさせもした。何が「あたりまえ」で、何がそんな独語(ひとりごと)を言わせるのやら、彼女にはちんぷん、かんぷんであったからで。
その時、お富は峠の組頭が来て夫の留守中に置いて行った一幅の軸をそこへ取り出した。それは木曾福島の代官山村氏が御勝手仕法立(おかってしほうだて)の件で、お払い物として伊之助にも買い取ってもらいたいという旦那様愛蔵の掛け物の一つであった。あの平兵衛が福島の用人からの依頼を受けて、それを断わりきれずに、あちこちと周旋奔走しているという意味のものでもあった。
「へえ、平兵衛さんがこんなものを置いて行ったかい。」
「あの人もお払い物を頼まれて、中津川の方へ行って来るから、帰るまでこれを預かってくれ、旦那がお留守でも話のわかるようにしといてくれ、そう言って置いて行きましたよ。」
「平兵衛さんも世話好きさね。それにしても、あの山村様からこういう物が出るようになったか。まあ、お父(とっ)さんともあとで相談して見る。」
もともと養父金兵衛は木曾谷での分限者(ぶげんしゃ)に数えられた馬籠の桝田屋惣右衛門(ますだやそうえもん)父子の衣鉢(いはつ)を継いで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、山林には木の苗を植え、時には米の売買にもたずさわって来た人である。その年の福島の夏祭りの夜に非命の最期をとげた植松菖助(うえまつしょうすけ)なぞは御関所番(おせきしょばん)の重職ながらに膝(ひざ)をまげて、生前にはよく養父のところへ金子(きんす)の調達を頼みに来たものだ。その実力においては次第に福島の家中衆からもおそれられたが、しかし養父とても一町人である。結局、多くのひくい身分のものと同じように、長いものには巻かれることを子孫繁栄の道とあきらめて来た。天明(てんめい)六年度における山村家が六千六百余両の無尽の発起をはじめ、文久二年度に旦那様の七千両の無尽の発起、同じ四年度に岩村藩の殿様の三万両の無尽の発起など、それらの大口ものの調達を依頼されるごとに、伏見屋でも二百両、二百三十両と年賦で約束して来た御上金(おあげきん)のことを取り出すまでもなく、やれお勝手の不如意(ふにょい)だ、お家の大事だと言われるたびに、養父が尾州代官の山村氏に上納した金高だけでもよほどの額に上ろう。
伊之助はこの養父の妥協と屈伏とを見て来た。変革、変革の声で満たされている日が来たことは、町人としての彼を一層用心深くした。この大きな混乱の中に巻き込まれるというは、彼には恐ろしいことであった。いつでもそこから逃げ込むようにするところは、養父より譲られた屋根の下よりほかになかった。頼むは、忠、孝、正直、倹約、忍耐、それから足ることを知り分に安んぜよとの町人の教えよりほかになかった。
そういう彼は少年期から青年期のはじめへかけてを、学問、宗教、工芸、商業なぞの早く発達した隣国の美濃(みの)に送った人で、文字の嗜(たしな)みのない男でもない。日ごろ半蔵を感心させるほどの素直な歌を詠(よ)む。彼が開いて見る本の中には京大坂の町人の手に成った古版物や新版物の類もある。そういうものから彼が見つけて来たのは、平常な心をもつものの住む世界であった。彼は見るもの聞くものから揺られ通しに揺られていて、ほとほと彼の求めるような安らかさも、やさしさも、柔らかさも得られないとしている。彼は都会の町人が狭い路地なぞを選んで、そこに隠れ住むあのわびを愛する。また、あの細(ほそ)みを愛する。彼は養子らしいつつしみ深さから、自分の周囲にある人たちのことばかりでなく、みずから志士と許してこの街道を往来する同時代の人たちのあの度はずれた興奮を考えて見ることもある。驚かずにはいられなかった。伊那(いな)の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦に堪(た)えることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々(さまざま)な難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除(そうじ)、母三拝、その他|飴菓子(あめがし)を買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。
しかし、彼は養父の金兵衛とも違い、隣家の半蔵と共になんとかしてこのむつかしい時を歩もうとするだけの若さを持っていた。豊太閤(ほうたいこう)の遺徳を慕うあの京大坂の大町人らが徳川幕府打倒の運動に賛意を表し、莫大(ばくだい)な戦費を支出して、新政府を助けていると聞いては、それを理解するだけの若さをも持っていた。いかに言っても、彼は受け身に慣れて来た町人で、街道を吹き回す冷たい風から立ちすくんでしまう。その心から、絶えず言いあらわしがたい恐怖と不安とを誘われていた。
夕飯と入浴とをすました後、伊之助は峠の組頭が置いて行った例の軸物を抱いて、広い囲炉裏ばたの片すみから二階への箱梯子(はこばしご)を登った。
「お父(とっ)さん。」
と声をかけて置いて、彼は二階の西向きの窓に近く行った。提灯(ちょうちん)でもつけて水をくむらしい物音が隣家の深い井戸の方から、その窓のところに響けて来ていた。
「お父さん、」とまた彼は窓に近い位置から、次ぎの部屋(へや)に寝ていた金兵衛に声をかけた。「今ごろ、本陣じゃ水をくみ上げています。釣瓶繩(つるべなわ)を繰る音がします。」
金兵衛は東南を枕(まくら)にして、行燈(あんどん)を引きよせ、三十年来欠かしたことのないような日記をつけているところだった。伊之助の言うことはすぐ金兵衛にも読めた。
「吉左衛門さんもおわるいと見えるわい。」
と金兵衛は身につまされるように言って、そばへ来た伊之助と同じようにしばらく耳を澄ましていた。この隠居は痰(たん)が出て歩行も自由でないの、心やすい人のほかはあまり物も言いたくないの、それもざっと挨拶(あいさつ)ぐらいにとどめてめんどうな話は御免こうむるのと言っているが、持って生まれた性分(しょうぶん)から枕(まくら)の上でもじっとしていない人だ。
「さっき、わたしは本陣へお寄り申して来ました。半蔵さんは病人に付きッきりで、もう三晩も四晩も眠らないそうです。今夜もあの人は徹夜でしょう。」
伊之助はそれを養父に言って見せ、やがて山村家のお払い物を金兵衛の枕もとに置いて、平兵衛の話をそこへ持ち出した。これはどうしたものか、とその相談をも持ちかけた。
「伊之助、そんなことまでこのおれに相談しなくてもいいぞ。」
と言いながらも、金兵衛は蒲団(ふとん)から畳の上へすこし乗り出した。平常から土蔵の前の梨(なし)の木に紙袋をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きな梨の目方が百三匁、ほかの二つは六十五匁ずつあったというような人がそこへ頭を持ち上げた。
「お父さん、ちょっとこの行燈(あんどん)を借りますよ。よく見えるところへ掛けて見ましょう。」
伊之助は代官の生活を連想させるような幅をその部屋の床の間に掛けて見せた。竹に蘭(らん)をあしらって、その間に遊んでいる五羽の鶏を描き出したものが壁の上にかかった。それは権威の高い人の末路を語るかのような一幅の花鳥の絵である。過去二百何十年にもわたってこの木曾谷を支配し、要害無双の関門と言われた木曾福島の関所を預かって来たあの旦那様にも、もはや大勢(たいせい)のいかんともしがたいことを知る時が来て、太政官(だじょうかん)からの御達(おたっ)しや総督府からの催促にやむなく江戸屋敷を引き揚げた紀州方なぞと同じように、いよいよ徳川氏と運命を共にするであろうかと思わせるようなお払い物である。
「どれ、一つ拝見するか。」
金兵衛は寝ながらながめていられない。彼は寝床を離れて、寝衣(ねまき)の上に袷羽織(あわせばおり)を重ね、床の間の方へはって行った。老いてはいるが、しかしはっきりした目で、行燈のあかりに映るその掛け物を伊之助と一緒に拝見に行った。彼は福島の旦那様の前へでも出たように、まず平身低頭の態度をとった。それからながめた。濃い、淡い、さまざまな彩色の中には、夜のことで隠れる色もあり、時代がついて変色した部分もある。
「長くお世話になった旦那様に、金でお別れを告げるようで、なんだか水臭いな。水臭いが、これも時世だ。伊之助――品はよく改めて見ろよ。」
「お父さん、ここに落款(らっかん)が宗紫山(そうしざん)としてありますね。」
「これはシナ人の筆だろうか、どうも宗紫山とは聞いたことがない。」
「さあ、わたしにもよくわかりません。」
「何にしろ、これは古い物だ。それに絹地だ。まあ、気に入っても入らなくても、頂(いただ)いて置け。これも御恩返しの一つだ。」
「時に、お父さん、これはいくらに頂戴(ちょうだい)したものでしょう。」
「そうさな。これくらいは、はずまなけりゃなるまいね。」
その時、金兵衛は皺(しわ)だらけな手をぐっと養子の前に突き出して、五本の指をひろげて見せた。
「五両。」
とまた金兵衛は言って、町人|風情(ふぜい)の床の間には過ぎた物のようなその掛け軸の前にうやうやしくお辞儀一つして、それから寝床の方へ引きさがった。 

   雨のふるよな
   てっぽの玉のくる中に、
   とことんやれ、とんやれな。
   命も惜しまず先駆(さきがけ)するのも
   みんなおぬしのためゆえじゃ。
   とことんやれ、とんやれな。
   国をとるのも、人を殺すも、
   だれも本意じゃないけれど、
   とことんやれ、とんやれな。
   わしらがところの
   お国へ手向かいするゆえに。
   とことんやれ、とんやれな。
馬籠(まごめ)の宿場の中央にある高札場の前あたりでは、諸国流行の唄(うた)のふしにつれて、調練のまねをする子供らの声が毎日のように起こった。
その名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮(かりみや)西丸に着御(ちゃくぎょ)したもうたとの報知(しらせ)の届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの御通行には、徳川家が進んで駿河(するが)警備の事に当たったとの報知も来る。多くの東京市民は御酒頂戴(ごしゅちょうだい)ということに活気づき、山車(だし)まで引き出して新しい都の前途を祝福したと言い、おりもおりとて三、四千人からの諸藩の混成隊が会津戦争からそこへ引き揚げて来たとの報知もある。馬籠の宿場では、毎日のようにこれらの報知を受け取るばかりでなく、一度は生命の危篤を伝えられた本陣吉左衛門の病状が意外にもまた見直すようになったことまでが、なんとなく宿内の人気を引き立てた。
ある日も、伊之助は伏見屋の店座敷にいて、周囲の事情にやや胸をなでおろしながら会所へ出るしたくをするところであった。彼は隣家の主人がまだ宿内を見回るまでには至るまいと考え、自分の力にできるだけのことをして、なるべくあの半蔵を休ませたいと考えた。その時、店座敷の格子の外へは、街道に戯れている子供らの声が近づいて来る。彼は聞くともなしにその無心な流行唄(はやりうた)を聞きながら、宿役人らしい袴(はかま)をつけていた。
そこへお富が来た。お富は自分の家の子供らまでが戦(いくさ)ごっこに夢中になっていることを伊之助に話したあとで言った。
「でも、妙なものですね。ちょうどおとなのやるようなことを子供がやりますよ。梅屋の子供が長州、桝田屋(ますだや)の子供が薩摩(さつま)、それから出店(でみせ)(桝田屋分家)の子供が土佐とかで、みんな戦ごっこです。わたしが吾家(うち)の次郎に、お前は何になるんだいと聞いて見ましたら、あの子の言うことがいい。おれは尾州ですとさ。」
「へえ、次郎のやつは尾州かい。」
「えゝ、その尾州――ほんとに、子供はおかしなものですね。ところが、あなた、だれも会津になり手がない。」
この「会津になり手がない」が伊之助を笑わせた。お富は言葉をついで、
「そこは子供じゃありませんか。次郎が蓬莱屋(ほうらいや)の子に、桃さ、お前は会津におなりと言っても、あの蓬莱屋の子は黙っていて、どうしても会津になろうとは言い出さない。桃さ、お前がなるなら、よい物を貸す、吾家(うち)のお父(とっ)さんに買ってもらった大事な木の太刀(たち)を貸す、きょうも――あしたも――ずっと明後日(あさって)もあれを貸す、そう次郎が言いましたら、蓬莱屋の子はよっぽど借りたかったと見えて、うん、そんならおれは会津だ、としまいに言い出したそうです。会津になるものは討(う)たれるんだそうですからね。」
「よせ、そんな話は。おれは大げさなことはきらいだ。」
ごくわずかの時の間に、伊之助はお富からこんな子供の話を聞かされた。彼は会所へ出かける前、ちょっと裏の酒蔵の方を見回りに行ったが、無心な幼いものの世界にまで激しい波の浸って来ていることを考えて見ただけでもハラハラした。でも、お富の言って見せたことが妙に気になって、天井の高い造酒場の内を一回りして来たあとで、今度は彼の方からたずねて見た。
「お富、子供の戦さごっこはどんなことをするんだえ。」
「そりゃ、あなた、だれも教えもしないのに、石垣(いしがき)の下なぞでわいわい騒いで、会津になるものを追い詰めて行くんですよ。いよいよ石垣のすみに動けなくなると、そこで戦さに負けたものの方が、参った――と言い出すんです。まあ、どこから会津戦争のことなぞを覚えて来るんでしょう。あんなちいさな子供がですよ。」
十月も末に近くなって、毎年定例の恵比寿講(えびすこう)を祝うころになると、全く東北方面も平定し、従軍士卒の帰還を迎える日が来た。過ぐる閏(うるう)四月に、尾州の御隠居(徳川|慶勝(よしかつ))が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老|千賀与八郎(ちがよはちろう)は先鋒(せんぽう)総括として北越に進軍した日から数えると、七か月にもなる。近国の諸侯で尾州藩に属し応援を命ぜられたのは、三河(みかわ)の八藩、遠江(とおとうみ)の四藩、駿河(するが)の三藩、美濃の八藩、信濃(しなの)の十一藩を数える。当時北越方面の形勢がいかに重大で、かつ危急を告げていたかは、これらの中国諸藩の動きを見てもおおよそ想像せられよう。
もはや、東山道軍と共に率先して戦地に赴(おもむ)いた山吹藩(やまぶきはん)の諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠(たかとお)、飯田(いいだ)二藩の諸隊も続々と帰国を急ぎつつあった。越後口から奥州路(おうしゅうじ)に進出し、六十里|越(ごえ)、八十里越のけわしい峠を越えて会津口にまで達したという従軍の諸隊は、九月二十二日の会津落城と共に解散命令が下ったとの話を残し、この戦争の激しかったことをも伝えて置いて、すでに幾組となく馬籠峠の上を西へと通り過ぎて行った。
この凱旋兵(がいせんへい)の通行は十一月の十日ごろまで続いた。時には五百人からの一組が三留野(みどの)方面から着いて、どっと一時に昼時分の馬籠の宿場にあふれた。ようやくそれらの混雑も沈まって行ったころには、かねて馬籠から戦地の方へ送り出した荒町の禰宜(ねぎ)松下千里も、遠く奥州路から無事に帰って来るとの知らせがある。その日には馬籠組頭としての笹屋(ささや)庄助も峠の上まで出迎えに行った。
「お富、早いものじゃないか。荒町の禰宜さまがもう帰って来るそうだよ。」
その言葉を残して置いて、伊之助は伏見屋の門口を出た。彼は従軍の禰宜を待ち受ける心からも、また会所勤めに通って行った。
連日の奔走にくたぶれて、会所に集まるものはいずれも膝(ひざ)をくずしながら、凱旋兵士のうわさや会津戦争の話で持ちきった。その日の昼過ぎになっても松下千里は見えそうもないので、家事にかこつけて疲れを休めに帰って行く宿役人もある。例の会所の店座敷にはひとりで気をもむ伊之助だけが残った。本陣付属の問屋場もにわかに閑散になって、到着荷物の順を争うがやがやとした声も沈まって行った時だ。隣宿|妻籠(つまご)からの二人の客がそこへ見えた。妻籠本陣の寿平次と、脇(わき)本陣の得右衛門(とくえもん)とだ。
「やれ、やれ、これでわたしたちも安心した。吉左衛門さんの病気もあの調子で行けば、まず峠を越したようなものです。」
そういう妻籠の連中の声を聞くと、伊之助はその店座敷の一隅(いちぐう)に客の席をつくるほど元気づいた。同じ宿駅の勤めに従いながら、寿平次らがすこしも疲れたらしい様子のないには、これにも彼は感心した。連日の疲労を休める暇もなく、本陣への病気見舞いに来て、今その帰りがけであるということも、彼をよろこばせた。
「まあ、座蒲団(ざぶとん)でも敷いてください。ここは会所で何もおかまいはできませんが、お茶でも一つ飲んで行ってください。」と言いながら、伊之助は手をたたいて、会所の小使いを呼んだ。熱い茶の用意を命じて置いて、吉左衛門のうわさに移った。
「なんと言っても、馬籠のお父(とっ)さん(吉左衛門のこと)にはねばり強いところがありますね。」と言い出すのは寿平次だ。
「そりゃ、寿平次さん、何十年となくこの街道の世話をして来た人で、からだの鍛えからして違いますさ。」と言うのは得右衛門だ。「どうもあの病人は、寝ていても宿場のことを心配する。ああ気をもんじゃえらい。自分の病気から、半蔵の勤めぶりにまで響くようじゃ申しわけがない、青山親子に怠りがあると言われてはまことに済まないなんて、吉左衛門さんはどこまでも吉左衛門さんらしい。」
「へえ、そんなお話が出ましたか。」と伊之助は二人の話を引き取った。「なにしろ、看護も届いたんです。あれで半蔵さんは七日か八日もろくに寝なかったでしょう。よくからだが続きましたよ。わたしはあの人を疲れさせないようにと思って、会所の事務なぞはなるべく自分で引き受けるようにしていましたが、そこへあの凱旋(がいせん)、凱旋でしょう。助郷(すけごう)の人馬は滞る。御剪紙(おきりがみ)は来る。まったく一時は目を回してしまいました。」
「いや、はや、今度の御通行には妻籠でも心配しましたよ。」と得右衛門は声を潜めながら、「何にしろ、戦(いくさ)に勝って来た勢いで、鼻息が荒いや。あれは先月の二十八日でした。妻籠へは鍬野(くわの)様からお知らせがあって、あすお着きになるおおぜいの御家中方へは、宿々でもごちそうする趣だから、妻籠でもその用意をするがいいなんて、そんなことを言って来ましたっけ。こちらはおおぜいの御通行だけでも難渋するところへもって来て、ごちそうの用意さ。大まごつきにも何にも。あのお知らせは馬籠へもありましたろう。」
「ありました。」と伊之助はそれを承(う)けて、「なんでも最初のお知らせのあった時は、お取り持ちのしかたが足りないとでも言われるのかぐらいに思っていました。奥筋の方でもあの御家中方には追い追い難儀をしたとありましたが、その意味がはっきりしませんでした。そこへ、また二度目の知らせがある。今度は飛脚で、しかも夜中にたたき起こされる。あの時ばかりは、わたしもびっくりしましたよ。上(かみ)四か宿の内で、宿役人が一人(ひとり)に女中が一人手打ちにされて、首を二つ受け取ったと言うんでしょう。」
「その話さ。三留野(みどの)あたりの旅籠屋(はたごや)じゃ、残らず震えながらお宿をしたとか聞きましたっけ。」と得右衛門が言う。
「待ってくださいよ。」と伊之助は思い出したように、「実は、あとでわたしも考えて見ました。これには何か子細があります。凱旋の酒の上ぐらいで、まさかそんな乱暴は働きますまい。福島辺は今、よほどごたごたしていて、官軍の迎え方が下(しも)四か宿とは違うんじゃありますまいか。その話をわたしは吾家(うち)の隠居にしましたところ、隠居はしばらく黙っていました。そのうちに、あの隠居が何を言い出すかと思いましたら、しかし街道の世話をする宿役人を手打ちにするなんて、はなはだもってわがままなしかただ、いくら官軍の天下になったからって、そんなわがままは許せない、ですとさ。」
「いや、その説にはわたしも賛成だ。」と寿平次は言った。「君のところの老人は金をもうけることにも抜け目がないが、あれでなかなか奇骨がある。」
奥州から越後の新発田(しばた)、村松、長岡(ながおか)、小千谷(おぢや)を経、さらに飯山(いいやま)、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人がある。とがった三角がたの軍帽をかぶり、背嚢(はいのう)を襷掛(たすきが)けに負い、筒袖(つつそで)を身につけ、脚絆草鞋(きゃはんわらじ)ばきで、左の肩の上の錦(にしき)の小片(こぎれ)に官軍のしるしを見せたところは、実地を踏んで来た人の身軽ないでたちである。この人が荒町(あらまち)の禰宜(ねぎ)だ。腰にした長い刀のさしかたまで、めっきり身について来た松下千里だ。
千里は組頭庄助その他の出迎えのものに伴われて、まず本陣へ無事帰村の挨拶(あいさつ)に寄り、はじめて吉左衛門の病気を知ったと言いながら会所へも挨拶に立ち寄ったのであった。
「ヨウ、禰宜さま。」
その声は、問屋場の方にいる栄吉らからも、会所を出たりはいったりする小使いらの間からも起こった。軍帽もぬぎ、草鞋の紐(ひも)もといて、しばらく会所に休息の時を送って行く千里の周囲には、会津戦争の話を聞こうとする人々が集まった。その時まで店座敷に話し込んでいた寿平次や得右衛門までがまたそこへすわり直したくらいだ。
さすがに千里の話はくわしい。この禰宜が越後口より進んだ一隊に付属する兵粮方(ひょうろうかた)の一人として、はじめて若松城外の地を踏んだのは九月十四日とのことである。十九日未明には、もはや会津方の三人の使者が先に官軍に降(くだ)った米沢藩(よねざわはん)を通して開城降伏の意を伝えに来たとの風聞があった。それらの使者がいずれも深い笠(かさ)をかぶり、帯刀も捨て、自縛して官軍本営の簷下(のきした)に立たせられた姿は実にかわいそうであったとか。その時になると、白河口(しらかわぐち)よりするもの、米沢口よりするもの、保成口(ぼなりぐち)、越後口よりするもの、官軍参謀の集まって来たものも多く、評議もまちまちで、会津方が降伏の真偽も測りかねるとのうわさであった。翌二十日にはさらに会津藩の鈴木|為輔(ためすけ)、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために、通路も絶えたような城中から進んで来た。彼千里はその二人の使者が兵卒の姿に身を変え、背中には大根を担(にな)って、官軍の本営に近づいて来たのを目撃したという。味方も敵も最前線にあるものはまだその事を知らない。その日は諸手(しょて)の持ち場持ち場からしきりに城中を砲撃し、城中からも平日よりははげしく応戦した。二十二日が来た。いよいよ諸口の官兵に砲撃中止の命令の伝えられる時が来た。朝の八時ごろには約束のように追手門の外へ「降参」としるした大旗の建つのを望んだともいう。
「いや、戦地の方へ行って見て、自分の想像と違うことはいろいろありました。同じ官軍仲間でも競争のはげしいには、これにもたまげましたね。どこの兵隊は手ぬるいの、どこの兵隊はまるで戦争を見物してるのッて、なかなか大やかまし。一緒に戦争するのはいやだなんて、しまいまで仲の悪かった味方同志のものもありましたよ。あれは九月の十九日でした、米沢藩の兵が着いたことがありました。ところがこの米沢兵と来たら、七連銃の隊もあるし、火繩仕掛(ひなわじか)けの三十目銃の隊もあるし、ミンベール銃とかの隊もある。大牡丹(おおぼたん)、小牡丹、いれまざりだ。おまけに木綿(もめん)の筒袖(つつそで)で、背中には犬の皮を背負(しょ)ってる。さあ、みんな笑っちまって、そんな軍装の異様なことまでが一つ話にされるという始末でしょう。ちょっとした例がそれですよ。」
気の置けない郷里の人たちを前にしての千里の土産話(みやげばなし)には、取りつくろったところがない。この禰宜はただありのままを語るのだと言って、さらにうちとけた調子で、
「これはまあ、大きな声じゃ言われないが、戦地の方でわたしも聞き込んで来たことがあります。土佐あたりの人に言わせると、今度の戦争は諸国を統一する御主旨でも、勝ち誇って帰る各藩有力者の頭をだれが抑(おさ)えるか。そういうことを言っていました。七百年来も武事に関しないお公家(くげ)さまが朝廷に勢力を占めたところで、所詮(しょせん)永続(ながつづ)きはおぼつかない。きっと薩摩(さつま)と長州が戦功を争って、不和を生ずる時が来る。そうなると、元弘(げんこう)、建武(けんむ)の昔の蒸し返しで、遠からずまた戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、われわれは高知の方へ帰ったら、一層兵力を養って置いて、他日真の勤王をするつもりですとさ。ごらんなさい――土佐あたりの人はそんな気で、会津戦争に働いていましたよ。そりゃ一方に戦功を立てる藩があれば、とかく一方にはそれを嫉(ねた)んで、窮(こま)るように窮るようにと仕向ける藩が出て来る。こいつばかりは訴えようがない。そういうことをよく聞かされました。土佐もあれで今度の戦争じゃ、だいぶ鼻を高くしていますからね。」
こんな話をも残した。
千里が荒町の方へ帰って行った後、得右衛門と寿平次とは互いに顔を見合わせていて、容易に腰を持ち上げようとしない。禰宜の置いて行った話は妙に伊之助をも沈黙させた。
「さすがに、会津は最後までやった。」と得右衛門は半分ひとりごとのように言って、やがて言葉の調子を変えて、
「そう言えば、今の禰宜さまの話さ。どうでしょう、伊之助さん、あの禰宜さまが土佐の人から聞いて来たという話は。」
伊之助は即座に答えかねていた。
「さあ、ねえ。」とまた得右衛門は伊之助の返事を催促するように、「半蔵さんならなんと言いますかさ。この世の中が遠からずまた大いに乱れるかもしれないなんて、そんなことを言われたんじゃ、実際わたしたちはやりきれない。武家の奉公はもうまッぴら。」
「得右衛門さん、」と伊之助は力を入れて言った。「半蔵さんの言うことなら、わたしにはちゃんとわかってます。あの人なら、そう薩摩(さつま)や長州の自由になるもんじゃないと言いましょう。今度の復古は下からの発起ですから、人民の心に変わりさえなければ、また武家の世の中になるようなことは決してないと言いましょう。」
「どうです、寿平次さん、君の意見は。よっぽど考うべき時世ですね。」と得右衛門が言う。
「わたしですか。わたしはまあ高見の見物だ。」
寿平次はその調子だ。 

東北戦争――多年の討幕運動の大詰(おおづめ)ともいうべき戊辰(ぼしん)の遠征――その源にさかのぼるなら、開国の是非をめぐって起こって来た安政大獄あたりから遠く流れて来ている全国的の大争いが、この戦争に運命を決したばかりでなく、おそらく新しい時代の舞台はまさにこの戦争から一転するだろうとさえ見えて来た。
当時、この日の来るのを待ち受けていた人たちのことについては、実にいろいろな話がある。阿島の旗本の家来で国事に心を寄せ、王室の衰えを慨(なげ)くあまりに脱籍して浪人となり、元治(げんじ)年代の長州志士らと共に京坂の間を活動した人がある。たまたま元治|甲子(きのえね)の戦さが起こった。この人は漁夫に変装して日々|桂川(かつらがわ)に釣(つ)りを垂(た)れ、幕府方や会津桑名の動静を探っては天龍寺にある長州軍の屯営(とんえい)に通知する役を勤めた。その戦さが長州方の敗退に終わった時、巣内式部(すのうちしきぶ)ら数十人の勤王家と共に幕吏のために捕えられて、京都六角の獄に投ぜられた。後に、この人は許されたが、王政復古を聞くと同時によろこびのあまりにか、精神に異状を来たしてしまったという。おそらくこの不幸な勤王家はこんな全国統一の日の来たことすら知るまいとの話もある。
時代の空気の薄暗さがおよそいかなる程度のものであったかは、五年の天井裏からはい出してようやくこんな日のめを見ることのできた水戸(みと)の天狗連(てんぐれん)の話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた大津地方の門閥家で、藤田(ふじた)小四郎らの筑波組(つくばぐみ)と一致の行動は執らなかったが、天狗残党の首領として反対党からしきりに捜索せられた人だ。辻々(つじつじ)には彼の首が百両で買い上げられるという高札まで建てられた人だ。水戸における天狗党と諸生党との激しい党派争いを想像するものは、直ちにその侍の位置を思い知るであろう。筑波組も西に走ったあとでは彼の同志はほとんど援(たす)けのない孤立のありさまであった。襲撃があるというので、一家こぞって逃げなければならない騒ぎだ。長男には家に召使いの爺(じい)をつけて逃がした。これはある農家に隠し、馬小屋の藁(わら)の中に馬と共に置いたが、人目については困るというので秣(まぐさ)の飼桶(かいおけ)をかぶせて置いた。夫人には二人(ふたり)の幼児と下女を一人(ひとり)連れさせて、かねて彼が後援もし危急を救ったこともある平潟(ひらがた)の知人のもとをたよって行けと教えた。これはお尋ね者が来ても決して匿(かく)してはならないとのきびしいお達しだからと言って断わられ、日暮れごろにとぼとぼと帰路についた。おりよくある村の農家のものが気の毒がって、そこに三、四日も置いてくれたので、襲撃も終わり危険もないと聞いてから夫人らは家に帰った。当時は市川三左衛門(いちかわさんざえもん)をはじめ諸生党の領袖(りょうしゅう)が水戸の国政を左右する際で、それらの反対党は幕府の後援により中山藩と連合して天狗残党を討(う)とうとしていたので、それを知った彼は場合によっては天王山(てんのうざん)に立てこもるつもりで、武器をしらべると銃が七|挺(ちょう)あるに過ぎない。土民らはまた蜂起(ほうき)して反対党の先鋒となり、竹槍(たけやり)や蓆旗(むしろばた)を立てて襲って来たので、彼の同志数十人はそのために斃(たお)れ、あるものは松平周防守(まつだいらすおうのかみ)の兵に捕えられ、彼は身をもって免かれるというありさまであった。その時の彼は、日中は山に隠れ、夜になってから歩いた。各村とも藩命によって出入り口に関所の設けがある。天狗党の残徒にとっては到底のがれる路(みち)もない。大胆にも彼はその途中から引き返し、潜行して自宅に戻(もど)って見ると、家はすでに侵掠(しんりゃく)を被って、ついに身の置きどころとてもなかったが、一策を案じてかくれたのがその天井裏だ。その時はまだ捜索隊がいて、毎日昼は家の内外をあらために来る。天井板をずばりずばり鎗で突き上げる。彼は梁(うつばり)の上にいながら、足下に白く光るとがった鎗先を見ては隠れていた。三峰山(みつみねさん)というは後方にそびえる山である。昼は人目につくのを恐れて天井裏にいても、夜は焼き打ちでもされてはとの懸念(けねん)から、その山に登って藪(やぶ)の中に様子をうかがい、夜の明けない先に天井裏に帰っているというのが彼の身を隠す毎日の方法であった。何を食ってこんな人が生きていられたろう。それには家のものが握飯(むすび)を二日分ずつ笊(ざる)に入れ、湯は土瓶(どびん)に入れて、押入れに置いてくれる。彼は押入れの天井板を取り除き、そこから天降(あまくだ)りで飲み食いするものにありつき、客でも来るごとにその押入れに潜んでいてそれとなく客の話に耳を澄ましたり世間の様子をうかがったりした。時には、次男が近所の子供を相手に隠れんぼをはじめ、押入れに隠れようとして、家にはいないはずの父をそこに見つける。まっ黒な顔。延びた髪と髯(ひげ)。光った目。その父が押入れの中ににらんで立っているのを見ると、次男はすぐに戸をぴしゃんとしめて他のところへ行って隠れた。子供心にもそれを口外しては悪いと考えたのであろう。時にはまた、用を達(た)すための彼が天井裏から床下に降りて行って、下男に見つけられることもある。驚くまいことか、下男はまっ黒な貉(むじな)のようなやつが縁の下にいると言って、それを告げに夫人のところへ走って行く。まさかそれが旦那(だんな)だとは夫人も言いかねて、貉か犬でもあろうから捧で突ッついて見よなぞと言い付けると、早速(さっそく)下男が竹竿(たけざお)を取り出して来て突こうとするから、たまらない。幸いその床下には大きな炉が切ってあって、彼はそのかげに隠れたこともある。五年の月日を彼はそんな暗いところに送った。いよいよ王政復古となったころは、彼は長い天井裏からはい出し、大手を振って自由に濶歩(かっぽ)しうる身となった。のみならず、水戸藩では朝命を奉じて佐幕派たる諸生党を討伐するというほどの一変した形勢の中にいた。彼としては真(まこと)に時節到来の感があったであろう。間もなく彼は藩命により、多年|怨(うら)みの敵なる市川三左衛門らの徒を捕縛すべく従者数名を伴い奥州に赴(おもむ)いたという。官軍が大挙して奥羽同盟の軍を撃破するため東北方面に向かった時は、水戸藩でも会津に兵を出した。その中に、同藩銃隊長として奮戦する彼を見かけたものがあったとの話もある。
すべてがこの調子だとも言えない。水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もなく、また維新直後にそれほど恐怖時代を顕出した地方もめずらしいと言われる。しかし、信州|伊那(いな)の谷あたりだけでも、過ぐる年の密勅事件に関係して自ら毒薬を仰いだもの、元治年代の長州志士らと運命を共にしたもの、京都六角通りの牢屋(ろうや)に囚(とら)われの身となっていたものなぞは数え切れないほどある。いよいよ東北戦争の結果も明らかになったころは、それらの恨みをのんで倒れて行ったものの記憶や、あるいは闇黒(あんこく)からはい出したものの思い出のさまざまが、眼前の霜葉(しもは)枯れ葉と共にまた多くの人の胸に帰って来た。
今さら、過ぐる長州征伐の結果をここに引き合いに出すまでもないが、あの征伐の一大失敗が徳川方を覚醒(かくせい)させ、封建諸制度の革新を促したことは争われなかった。いわゆる慶応の改革がそれで、二百年間の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が非常な勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風(ふう)に移ったのも皆その結果であった。旧(ふる)い伝馬制度の改革が企てられたのもあの時からで、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、問屋場|刎銭(はねせん)の割合も少なくなって、街道宿泊の方法まで簡易に改められるようになって行きかけていた。今度の東北戦争の結果は一層この勢いを助けもし広げもして、軍制武器兵服の改革は言うまでもなく、身分の打破、世襲の打破、主従関係の打破、その他根深く澱(よど)み果てた一切の封建的なものの打破から、もはや廃藩ということを考えるものもあるほどの驚くべき新陳代謝を促すようになった。
何事も土台から。旧時代からの藩の存在や寺院の権利が問題とされる前に、現実社会の動脈ともいうべき交通組織はまず変わりかけて行きつつあった。
江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都|駅逓司(えきていし)の設置、定助郷(じょうすけごう)その他|種々(さまざま)な助郷名目の廃止なぞは皆この消息を語っていた。従来、諸公役の通行と普通旅人の通行には荷物の貫目にまで非常な差別のあったものであるが、それらの弊習も改められ、勅使以下の通行に特別の扱いすることも一切廃止され、公領私領の差別なくすべて助郷に編成されることになった。諸藩の旅行者たりとも皆|相対(あいたい)賃銭を払って人馬を使用すべきこと、助郷村民の苦痛とする刎銭(はねせん)なるものも廃されて、賃銭はすべて一様に割り渡すべきこと、それには宿駅常備の御伝馬とそれを補助する助郷人馬との間になんらの差別を設けないこと――これらの駅逓司の方針は、いずれも沿道付近に住む百姓と宿場の町人ないし伝馬役との課役を平等にするためでないものはなかった。多年の問題なる助郷農民の解放は、すくなくもその時に第一歩を踏み出したのである。
しかし、この宿場の改革には馬籠あたりでもぶつぶつ言い出すものがあった。その声は桝田屋(ますだや)および出店(でみせ)をはじめ、蓬莱屋(ほうらいや)、梅屋、その他の分家に当たる馬籠町内の旦那衆の中から出、二十五軒ある旧(ふる)い御伝馬役の中からも出た。もともと町内の旦那衆とても根は百姓の出であって、最初は梅屋の人足宿、桝田屋の旅籠屋(はたごや)というふうに、追い追いと転業するものができ、身分としては卑(ひく)い町人に甘んじたものであるが、いつのまにかこれらの人たちが百姓の上になった。かつて西の領地よりする参覲交代(さんきんこうたい)の諸大名がまださかんにこの街道を往来したころ、木曾(きそ)寄せの人足だけでは手が足りないと言われるごとに、伊那(いな)の谷に住む百姓三十一か村、後には百十九か村のものが木曾への通路にあたる風越山(かざこしやま)の山道を越しては助郷の勤めに通(かよ)って来たが、彼ら百姓のこの労役に苦しみつつあった時は、むしろ宿内の町人が手に唾(つば)をして各自の身代を築き上げた時であった。中には江戸に時めくお役人に取り入り、そのお声がかりから尾州侯の御用達(ごようたし)を勤めるほどのものも出て来た。どうして、これらの人たちが最下等の人民として農以下に賤(いや)しめられるほどの身分に満足するはずもない。頭を押えられれば押えられるほど、奢(おご)りも増長して、下着に郡内縞(ぐんないじま)、または時花(はやり)小紋、上には縮緬(ちりめん)の羽織をかさね、袴(はかま)、帯、腰の物までそれに順じ、知行取(ちぎょうと)りか乗り物にでも乗りそうな人柄に見えるのをよいとした時代もあったのである。
さすがに二代目の桝田屋惣右衛門(ますだやそうえもん)はこれらの人たちの中ですこし毛色を異にしていた。幕府時代における町人圧迫の方針から、彼らの商業も、彼らの道徳も、所詮(しょせん)ゆがめられずには発達しなかったが、そういう空気の中に生(お)い立ちながらも、この人ばかりは百姓の元を忘れなかった。すくなくも人々の得生ということを考え、この生はみな天から得たものとして、親先祖から譲られた家督諸道具その他一切のものは天よりの預かり物と心得、随分大切に預かれば間違いないとその子に教え、今の日本の宝の一つなる金銀もそれをわが物と心得て私用に費やそうものなら、いつか天道へもれ聞こえる時が来ると教えたのもこの人だ。八十年来の浮世の思い出として、大きな造り酒屋の見世先(みせさき)にすわりながら酒の一番火入れなどするわが子のために覚え書きを綴(つづ)り、桝田屋一代目存生中の咄(はなし)のあらましから、分家以前の先祖代々より困窮な百姓であったこと、当時何不足なく暮らすことのできるようになったというのも全く先祖と両親のおかげであることを語り、人は得生の元に帰りたいものだと書き残したのもこの人だ。亭主(ていしゅ)たる名称を継いだものでも、常は綿布、夏は布羽織、特別のおりには糸縞(いとじま)か上は紬(つむぎ)までに定めて置いて、右より上の衣類等は用意に及ばない、町人は内輪に勤めるのが何事につけても安気(あんき)であると思うと書き残したのもまたこの人だ。この桝田屋の二代目惣右衛門は、わが子が得生のすくないくせに、口利口(くちりこう)で、人に出過ぎ、ことに宿役人なぞの末に列(つら)なるところから、自然と人の敬うにつけてもとかく人目にあまると言って、百姓時代の出発点を忘れそうな子孫のことを案じながら死んだ。しかし、三代目、四代目となるうちには、それほど惣右衛門父子が馬籠のような村にあって激しい生活苦とたたかった歴史を知らない。初代の家内が内職に豆腐屋までして、夜通し石臼(いしうす)をひき、夜一夜安気に眠らなかったというようなことは、だんだん遠い夢物語のようになって行った。それに、宿内の年寄役、組頭、皆それは村民の入札で定めたのが役替(やくが)えの時の古い慣例で、役替え札開きの日というがあり、礼高で当選したものが宿役人を勤めたのである。そのおりの当選者が木曾福島にある代官地へのお目見えには、両旦那様をはじめ、家老、用人、勘定方から、下は徒士(かち)、足軽、勘定下組の衆にまでそれぞれ扇子なぞを配ったのを見ても、安永(あんえい)年代のころにはまだこの選挙が行なわれ、したがって競争も激しかったことがわかる。いつのまにか、これとてもすたれた。年寄役も、組頭も、皆世襲に変わった。いかに不向きでもその家に生まれ、またはその家から分かれたものは自然に人から敬われ、旦那衆と立てられるようになって来た。あだかも江戸あたりの町人仲間に、株というものが固定してしまったように。
この旦那衆だ。中にはいろいろな人がある。駅逓司(えきていし)の趣意はまだ皆の間に徹しないかして、一概にこれを過激な改革であるとなし、自分らの利害のみを考えるものも出て来た。古い宿場の御伝馬役として今までどおりのわがままも言えなくなるとみて取った人たちの助太刀(すけだち)は、一層その不平の声を深めた。
「これは宿場の盛衰にもかかわることだ。伏見屋の旦那あたりが先に立って、もっと骨を折ってくだすってもいい。」
旧御伝馬役の中には、こんなことを言い出したものもある。
民意の開発に重きを置いた尾州藩中の具眼者がまず京都駅逓司の方針に賛成したことは不思議でもない。このことが尾州領内の木曾地方に向かって働きかけるようになって行ったというのも、これまた不思議でもない。京都駅逓司の新方針によると、たとい諸藩の印鑑で保証する送り荷たりとも、これまでのように問屋場を素通りすることは許されない。公用藩用の名にかこつけて貫目を盗むことも許されない。袖(そで)の下もきかない。荷物という荷物の貫目は公私共に各問屋場で公平に改められることになった。
東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣食した馬籠の御伝馬役の人たちはこの改革に神経をとがらせずにはいられなかったのである。彼らの多くは、継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷村民へ押しつけるような従来の弊習に慣れている。諸大名諸公役の大げさな御通行のあったごとに、すくなくも五、六百人以上の助郷村民は木曾四か宿に徴集されて来て朝勤め夕勤めの役に服したが、その都度(つど)割りのよい仕事にありつき、なおそのほかに宿方の補助を得ていたのも彼らである。街道で身代を築き上げた旦那衆と同じように、彼らもまた宿場全盛のころのはなやかな昔を忘れかねている。宿駅と助郷村々との課役を平等にせよというような駅逓司の方針は彼らにとってこの特権から離れることにも等しかった。
旧御伝馬役の一人に小笹屋(こざさや)の勝七がある。この人なぞは伊之助の意見を聞こうとして、ある夜ひそかに伏見屋の門口をたたいたくらいだ。
「まあ、本陣へ行って聞いてくれ。」
それが伊之助の答えだった。
「オッと、伏見屋の旦那、それはいけません。宿の御伝馬役と在の助郷とはわけが違いますぞ。桝田屋の旦那でも、蓬莱屋(ほうらいや)の旦那でも、皆おれたちの肩を持ってくださる。お前さまのような人は、もっと宿内のものをかわいがってくだすってもいい。」
そう勝七が言い立てても、伊之助は隣の国から来た養子の身ということを楯(たて)にして、はっきりした返事をしなかった。同じ旦那衆の一人でも、伊之助だけは中庸の道を踏もうとしている。この「本陣へ行って聞いてくれ」が、いつでも彼の奥の手だ。
十二月の下旬には、この宿場ではすでに幾度か雪を見た。時ならない尾州藩の一隊が七、八十人の同勢で、西から馬籠昼食の予定で街道を進んで来た。木曾福島行きの御連中である。ちょうど余日もすくない年の暮れにあたり、宿内にあり合わせた人馬もあちこちと出払った時で、特に荷物の継立(つぎた)てを頼むと言われても手が足りなかった。にわかなことで、助郷も間に合わない。宿駅改革の主旨にもとづく課役の平等は旦那衆の家へも回って行く。ともかくも交通機関の整理が完成されるまで、街道に居住するものはもとより、沿道付近の村民は皆各人が助郷たるの意気込みをもって、一軒につき一人ずつは出てこの非常時に当たれとある。こうなると、町人と言わず、百姓と言わず、宿内で人足を割り当てられたものは継立て方を助けねばならなかった。
ある旦那衆などは、もうたまらなくってどなった。
「何。われわれの家からそんな人足なぞに出られるか。本陣へ行って聞いて来い。」
父吉左衛門もめっきり健康を回復して来たので、それに力を得て、人足のさしずをするために本陣を出ようとしていたのは半蔵である。彼はすでに隣家の伊之助を通して、町内の旦那衆や旧御伝馬役の意向を聞いていた。
「もちろん。」
半蔵の態度がそれを語った。あとは自分でも人足の姿に身を変え、下男の佐吉に言い付けて裏の木小屋から「せいた」(木曾風な背負子(しょいこ))を持って来させた。細引(ほそびき)まで用意した。彼は町内の旦那衆なぞから出る苦情を取り合わなかった。自分でもその日の人足の中にまじり、継立て方を助けるようにして、それを一切の答えに代えようとしていた。
「旦那、お前さまも出(で)させるつもりか。」
と佐吉はそこへ飛んで来て言った。
「おれが行かず。お前さまの代わりにおれが行かず。一軒のうちでだれか一人出ればそれでよからずに。」
とまた佐吉が言った。
しかし、半蔵はもう背中に半蓑(はんみの)をつけて、敷居の外へ一歩(ひとあし)踏み出していた。尾州藩の一隊は幾組かに分かれて、本陣に昼食の時を送っている家中衆もある。幾本かの鎗(やり)は玄関の式台のところに持ち込んである。あの客の接待には清助というものがあって、半蔵もその方には事を欠かなかった。
「お民、頼んだぜ。」
その言葉を妻に残して置いて、彼は客よりも先に自分の家の表門を出た。
半月交代の問屋場は向こう上隣りの九郎兵衛方で開かれるころであった。問屋の前あたりには、思い思いに馬を引いて来る宿内の馬方もある。順番に当たった人足たちが上町からも下町からも集まって来ている。
「本陣の旦那、よい馬は今みんな出払ってしまった。いくら狩り集めようとしても、女馬か、あんこ馬しかない。」
そんなことを言って、人馬の間を分けながらあちこちと走り回る馬指(うまざし)もある。
「きょうはおれもみんなの仲間入りだぞ。おれにも一つ荷物を分けてくれ。」
この半蔵の言葉は人足指(にんそくざし)ばかりでなく、そこに働いている問屋の主人九郎兵衛をも驚かした。人足一人につき荷物七貫目である。半蔵はそれを「せいた」に堅く結びつけ、半蓑の上から背中に担(にな)って、日ごろ自分の家に出入りする百姓の兼吉らと共に、チラチラ雪の来る中を出かけた。
「ホウ、本陣の旦那だ。」
とわけもなしにおもしろがる人足仲間もある。半蔵の方を盗むように見て、笠(かさ)をかぶった首を縮め、くすくす笑いながら荷物を背負(しょ)って行く百姓もある。
「これからお前さま、妻籠(つまご)まで――二里の山道はえらいぞなし。」
兼吉の言い草だ。
峠の上から一石栃(いちこくとち)(俗に一石)を経て妻籠までの間は、大きな谷の入り口に当たり、木曾路でも深い森林の中の街道筋である。過ぐる年月の間、諸大名諸公役らの大きな通行があるごとに、伊那方面から徴集される村民が彼らの鍬(くわ)を捨て、彼らの田園を離れ、木曾下四か宿への当分助郷、あるいは大助郷と言って、山蛭(やまびる)や蚋(ぶよ)なぞの多い四里あまりのけわしい嶺(みね)の向こうから通って来たのもその山道である。
背中にしたは、なんと言っても慣れない荷だ。次第に半蔵は連れの人足たちからおくれるようになった。荷馬の歩みに調子を合わせるような鈴音からも遠くなった。時には兼吉その他の百姓が途中に彼を待ち合わせていてくれることもある。平素から重い物を背負い慣れた肩と、山の中で働き慣れた腰骨とを持つ百姓たちとも違い、彼は手も脚(あし)も震えて来た。待ち受けていた百姓たちはそれを見ると、さかんに快活に笑って、またさっさと先へ歩き出すというふうだ。
その日ほど彼も額からにじみ出る膏(あぶら)のような冷たい汗を流したことはない。どうかすると、降って来る小雪が彼の口の中へも舞い込んだ。年の暮れのことで、凍り道にも行き悩む。熊笹(くまざさ)を鳴らす勁(つよ)い風はつれなくとも、しかし彼は宿内の小前(こまえ)のものと共に、同じ仕事を分けることをむしろ楽しみに思った。また彼は勇気をふるい起こし、道を縦横に踏んで、峠の上で見つけて来た金剛杖(こんごうづえ)を力に谷深く進んで行った。ようやく妻籠手前の橋場というところまでたどり着いて、あの大橋を渡るころには、後方からやって来た尾州藩の一隊もやがて彼に追いついた。 

明治二年の二月を迎えるころは、半蔵らはもはや革新潮流の渦(うず)の中にいた。その勢いは、一方に版籍奉還奏請の声となり、一方には神仏|混淆(こんこう)禁止の叫びにまで広がった。しかし、それがまだ実現の運びにも至らないうちに、交通の要路に当たるこの街道筋には早くもいろいろなことがあらわれて来た。
木曾福島の関所もすでに崩(くず)れて行った。暮れに、七、八十人の尾州藩の一隊が木曾福島をさしてこの馬籠峠の上を急いだは、実は同藩の槍士隊(そうしたい)で、尾州公が朝命を受け関所の引き渡しを山村氏に迫る意味のものであったことも、後になってわかった。山村家であの関所を護(まも)るために備えて置いてあった大砲二門、車台二|輛(りょう)、小銃二十|挺(ちょう)、弓|十張(とはり)、槍(やり)十二筋、三つ道具二通り、その他の諸道具がすべて尾州藩に引き渡されたのは、暮れの二十六日であった。その時の福島方の立ち合いは、白洲(しらす)新五左衛門と原佐平太とで、騎馬組一列、小頭(こがしら)足軽一統、持ち運びの中間小者(ちゅうげんこもの)など数十人で関所を引き払った。もっとも、尾州方の依頼で騎馬組七人だけは残ったが、二月六日にはすでに廃関が仰せ出された。
福島代官所の廃止もそのあとに続いた。山村氏が木曾谷中の支配も当分立ち合いの名儀にとどまって、実際の指揮はすでに福島興禅寺を仮の本営とする尾州|御側用人(おそばようにん)吉田猿松(よしださるまつ)の手に移った。多年山村氏の配下にあった家中衆も、すべてお暇(いとま)を告げることになり、追って禄高(ろくだか)等の御沙汰(ごさた)のある日を待てと言われるような時がやって来た。
木曾谷の人民はこんなふうにして新しい主人公を迎えた。福島の代官所もやがて総管所と改められるころには、御一新の方針にもとづく各宿駅の問屋の廃止、および年寄役の廃止を告げる総管所からのお触れが半蔵のもとにも届いた。それには人馬|継立(つぎた)ての場所を今後は伝馬所と唱えるはずである。ついては二名の宿方総代を至急福島へ出頭させるようにとも認(したた)めてある。もはや、革新につぐ革新、破壊につぐ破壊だ。
「お母(っか)さん、いよいよ問屋も御廃止ということになりました。」
「そうだそうな。わたしはお民からも聞いたよ。」
「会所もいよいよ解散です。年寄役というものも御廃止です。」
半蔵と継母のおまんとはこんな言葉をかわしながら、互いの顔を見合わせた。
「さっき、わたしはお民とも相談したよ。こんな話を聞いたらあのお父(とっ)さんはきっとびっくりなさる。まあ、お前にも言って置くが、このことはお父さんの耳へは入れないことにせまいか。」
とおまんが言い出した。
さすがに賢い継母も一切を父吉左衛門には隠そうと言うほど狼狽(ろうばい)していた。その年の正月にはおくればせながら父も古稀(こき)の祝いを兼ねて、病中世話になった親戚(しんせき)知人のもとへしるしばかりの蕎麦(そば)を配ったほど健康を回復した人である。でも、吉左衛門の老衰は争われなかった。からだの弱って来たせいかして、すこしのことにもすぐに心を傷(いた)めた。そして一晩じゅう眠られないという話はよくあった。どうして、半蔵の方からそこへ持ち出して見たように、ありのままを父にも告げたらとは、この継母には考えられもしなかった。
「ごらんな。」とまたおまんは言った。「お父(とっ)さんがこの前の大病だって、気をおつかいなさるからだよ、お父さんはお前、そういう人だよ。」
「でも、こんなことは隠し切れるものでもありませんし、わたしは話した方がいいと思いますが。」
「なあに、お前、あのとおりお父さんは裏の二階に引っ込みきりさ。わたしが出入りのものによく言って聞かせて、口留めをして置いたら、お父さんの耳に入りッこはないよ。」
「さあ、どういうものでしょうか。」
「いえ、それはわたしが請け合う。あのお父さんのからだにさわりでもしたら、それこそ取り返しはつかないからね。」
父のからだにさわると言われては、半蔵も継母の意見に任せるのほかはなかった。
本陣の母屋(もや)から裏の隠居所の方へ通って行く継母を見送った後、半蔵は周囲を見回した。おまんがあれほど心配するように、何事も父の耳へは入れまいとすればするほど、よけいに隠し切れそうもないようなこの改革の評判が早くも人の口から口へと伝わって行った。これは馬籠一宿の事にとどまらない。同じような事は中津川にも起こり、落合にも起こり、妻籠(つまご)にも起こっている。現に、この改革に不服を唱え出した木曾福島をはじめ、奈良井(ならい)、宮(みや)の越(こし)、上松(あげまつ)、三留野(みどの)、都合五か宿の木曾谷の庄屋問屋はいずれも白洲(しらす)へ呼び出され、吟味のかどがあるということで退役を申し付けられ、親類身内のもの以外には面会も許さないほどの謹慎を命ぜられた。在方(ざいかた)としては、黒川村の庄屋が同じように退役を申し付けられたほどのきびしさだ。
こういう時の彼の相談相手は、なんと言っても隣家の主人であった。「半蔵さん、それはこうしたらいいでしょう」とか、「ああしたらいいでしょう」とか心からの温情をもって助言をしてくれるのも、宿内の旦那衆仲間からはいくらか継子(ままこ)扱いにされるあの伊之助のほかになかった。彼は裏の隠居所の方に気を配りながらも、これまでの長い奉公が武家のためにあったことを宿内の旦那衆に説き、復古の大事業の始まったことをも説いて、多くの不平の声を取りしずめねばならなかった。同時に、この改革の趣意がもっと世の中を明るくするためにあることをも説いて、簡易軽便の風に移ることを、旧御伝馬役の人々に勧めねばならなかった。理想にしたがえば、この改革は当然である。この改革にしたがえば、父祖伝来の名誉職のように考えて来た旧(ふる)い家業を捨てなければならない。彼の胸も騒ぎつづけた。
福島総管所の方へ呼び出された二人(ふたり)の総代は旧暦二月の雪どけの道を踏んで帰って来た。この人たちが携え帰った総管所の「心得書付(こころえかきつけ)」はおおよそ左のようなものであった。
一、東山道何宿伝馬所と申す印鑑をつくり、これまでの問屋と申す印鑑は取り捨て申すべきこと。
一、問屋付けの諸帳面、今後新規に相改め、御印鑑継立て、御証文継立て、御定めの賃銭払い継立てのものなど帳分けにいたし、付け込みかた混雑いたさざるよう取り計らうべきこと。
一、筆、墨、紙、蝋燭(ろうそく)、炭の入用など、別帳にいたし、怠らずくわしく記入のこと。
一、宿駕籠(しゅくかご)、桐油(とうゆ)、提灯(ちょうちん)等、これまでのもの相改め、これまたしかるべく記入のこと。
一、新規の伝馬所には、元締役(もとじめやく)、勘定役、書記役、帳付け、人足指(にんそくざし)、馬指(うまざし)など――一役につき二人ほどずつ。そのうち、勘定役の儀は三人にてもしかるべし。その方どものうち申し合わせ、または鬮引(くじび)き等にて元締、勘定、書記の三役を取りきめ、帳付け以下の儀は右三役にて相選み、人名一両日中に申し出(い)づべきこと。もっとも、それぞれ月給の儀は追って相談あるべきこと。
一、宿駅助郷一致の御趣意につき、助郷村々に対し干渉がましき儀これなきよう、温和丁寧に仕向け候(そうろう)よういたすべきこと。
一、御一新|成就(じょうじゅ)いたし候までは、二十五人二十五匹の宿人馬もまずまずこれまでのとおり立て置かれ候につき、御印鑑ならびに御証文にて継立ての分は宿人馬にて相勤め、付近の助郷村々より出人足(でにんそく)の儀は御定め賃銭払いの継立てにつかわし、右の刎銭(はねせん)を取り立つることは相成らず候。助郷人馬への賃銭は残らず相渡し、帳面記入厳重に取り調べ置き申すべきこと。
一、相対(あいたい)賃銭継立ての分は、宿人馬と助郷人足とを打ち込みにいたし、順番にてよろしく取り計らうべきこと。
なお、右のほか、追い追い相談に及ぶべきこと。
とある。
これは新たに生まれて来る伝馬所のために書かれたもので、言葉もやさしく、平易に、「御一新成就いたし候まで」の当分臨機の処置であることが文面のうちにあらわれている。こんな調子は、旧時代の地方(じかた)御役所にはなかったことだ。ことに尾州藩から来た木曾谷の新しい支配者が宿駅助郷の一致に力瘤(ちからこぶ)を入れていることは、何よりもまず半蔵をうなずかせる。
しかしその細目(さいもく)の詮議(せんぎ)になると、木曾谷十一宿の宿役人仲間にも種々(さまざま)な議論がわいた。総管所からの「心得書付」にもあるように、当時宿場の継立てにはおよそ四つの場合がある。御印鑑の継立て、御証文の継立て、御定め賃銭払いの継立て、そして相対賃銭払いの継立てがそれだ。この書付の文面で見ると、印鑑および証文で継立ての分は宿人馬で勤め、助郷村々の出人足は御定め賃銭払いの継立てに使用せよとあるが、これは宿方と助郷との差別なく、すべて打ち込みにしたいとの説が出る。十一宿も追い追いと疲弊に陥って、初めての人馬を雇い入れるなぞには困難であるから、当分のうち一宿につき正金二百両ずつの拝借を総管所に仰ぎたいとの説も出る。金札(新紙幣)通用の励行は新政府のきびしい命令であるが、こいつがなかなかの問題で、当時他領の米商人をはじめ諸商人どもは金札を受け取ろうともしない。風のたよりに聞けば、松本領なぞでは金札相場を二割引きに触れ出したとのこと。これはどうしたものか。当節は他領の商人どもが何割引きでも新紙幣を受け取らないから、したがって切り替えをするものもなく、実に世上まちまちのありさまで、当惑難渋をきわめる。ついては、金札相場の通用高を一定してほしい――そういう説も出る。これらはすべて十一宿打ち合わせの上、総代連名の伺い書として総管所あてに提出することになった。
「半蔵さま。」
と言いながら、組頭の庄助がよくこっそりと彼を見に来る。この人は、百姓総代として町人|気質(かたぎ)の旦那衆に対抗して来た意地(いじ)ずくからも、伝馬所の元締役その他の人選については、ひどく頭を悩ましていた。
「どうだろう、庄助さん、今までのような大げさな御通行はもうあるまいか。」
「まずありますまいな。」
「ないとすれば、わたしには考えがある。」
そう半蔵は言って、これまでのように二軒の継立て所を置く必要もあるまいから、これを機会に本陣付属の問屋場を閉じ、新しい伝馬所は問屋九郎兵衛方へ譲りたいとの意向をもらした。半蔵はすでにその決意を伊之助だけには伝えて置いてあった。
庄助は言った。
「しかし、半蔵さま。そうお前さまのように投げ出してしまわないで、もっと強く出(で)さっせるがいいぞなし。この馬籠の村を開いたのも、みんなお前さまの家の御先祖さまの力だ。いくらでも、お前さまは強く出(で)さっせるがいい。」
とうとう、半蔵は自分の注文どおりに、新設の伝馬所を九郎兵衛方に譲り、全く新規なもののしたくをそこに始めさせることにした。新しい宿役人は入札の方法で、新規入れかわりに七人の当選を見た。世襲の長い習慣も破れて、家柄よりも人物本位の時に移り、本陣付属の問屋場でその勤めぶりを認められた半蔵の従兄(いとこ)、亀屋(かめや)の栄吉のような人が宿役人仲間の位置に進んだ。
こうなると、会所も片づけなければならない。諸帳簿も引き渡さなければならない。半蔵は下男の佐吉に言い付け、会所の小使いに手伝わせて、旧問屋場にあった諸道具一切を伝馬所の方へ運ばせることにした。彼は自分の部屋(へや)にこもり、例の店座敷のわきで、本陣、問屋、庄屋の三役を勤めて来た公用の記録の中から、伝馬所へ引き渡すべきものを選みにかかった。父吉左衛門の問屋役時代から持ち伝えた古い箱の紐(ひも)を解いて見ると、京都道中通し駕籠(かご)、または通し人足の請負として、六組飛脚屋仲間や年行事の署名のある証文なぞがその中から出て来る。彼はまた別の箱の紐を解いた。あるものは駅逓司(えきていし)、あるものは甲府県、あるものは度会府(わたらいふ)として、駅逓用を保証する大小|種々(さまざま)の印鑑がその中から出て来る。それらは最近の府藩県の動きを知るに足るもので、伝馬所に必要な宿駅の合印(あいじるし)である。尾州藩関係の書類、木曾下四宿に連帯責任のある書付なぞになると、この仕分けがまた容易でなかった。いかに言っても、会所や問屋場は半分引っ越しの騒ぎだ。いろいろなことが胸に満ちて来て、諸帳簿の整理もとかく彼の手につかなかった。
お民が吉左衛門のことを告げにそこへはいって来たころは、店座敷の障子も薄暗い。
「まあ、あなたは燈火(あかり)もつけないで、そんなところにすわってるんですか。」
お民はあきれた。しょんぼりとはしているが、膝(ひざ)もくずさないような夫を彼女はその薄暗い部屋(へや)に見たのだ。
「お父(とっ)さんがどうした。」と半蔵の方からきいた。
「それがですよ。何か家の内にあるんじゃないかッて、しきりにお母(っか)さんにきくんだそうですよ。これにはお母さんも返事に困ったそうですよ。」
とお民は言い捨てて、奥の方へ燈火を取りに行った。彼女は自分でさげて来た行燈(あんどん)に灯(ひ)を入れて、その部屋の内を明るくした。
「どうも心が騒いでしかたがない。」と半蔵は周囲を見回しながら言った。「さっきから、おれはひとりですわって見てるところさ。」
「妻籠(つまご)でもどうしていましょう。」とお民は兄の家の方のことを思い出したように。
「そりゃ、お前、寿平次さんのとこだって、おれの家と同じことさ。今ごろはきっと同じような話で持ちきっているだろうよ。」
「そうでしょうかねえ。」
「おれがお前に話してるようなことを、寿平次さんはお里さんに話してるにちがいないよ。そうさな、ずっと古いことはおれにもまあよくわからないが、吾家(うち)のお祖父(じい)さんにしても、お父(とっ)さんにしても、ほとんどこの街道や宿場のために一生を費やしたようなものさね。その長い骨折りがここのところへ来て、みんな水の泡(あわ)のように消えてしまうなんて、そんなものじゃないとおれは思うよ。すくなくも本陣問屋として、諸国の交通事業に参加して来たのも青山家代々のものだからね。福島の総管所から来る書付にもそのことは書いてある。これまで本陣問屋で庄屋を兼ねるくらいのところは、荒蕪(こうぶ)を切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違ないが、しかしこの際はそういう古い事に拘泥(こうでい)するなと教えてあるんだよ。あの笹屋(ささや)の庄助さんなぞはおれのところへやって来て、いくらでもお前さまは強く出さっせるがいいなんて、そんなことを言って行ったが、このおれたちが自分らをあと回しにしなかったら、どうして宿場の改革も望めないのさ。」
「まあ、わたしにはよくわかりません。なんですか、あんなにお母(っか)さんが心配していらっしゃるものですから、自分まで目がくらむような気がしますよ。」
お民は子供に食わせることを忘れていなかった。彼女はこんな話を打ち切って、また囲炉裏ばたの方へまめまめしく働きに行った。
山家はようやく長い冬ごもりの状態から抜け切ろうとするころである。恵那山(えなさん)の谿谷(けいこく)の方に起こるさかんな雪崩(なだれ)は半蔵が家あたりの位置から望まれないまでも、雪どけの水の音は軒をつたって、毎日のようにわびしく単調に聞こえている。いろいろなことを半蔵に思い出させるのも、石を載せた板屋根から流れ落ちるそのしずくの音だ。眠りがたい一夜をお民のそばに送った後、彼はその翌朝に会所の方を見回りに行った。何事も耳には入れずにある父のことも心にかかりながら、会所の入り口の戸をあけかけていると、ちょうどそこへやって来る伊之助と一緒になった。
「いよいよ会所もおなごりですね。」
そう語り合う二人は、明け渡した城あとでも歩き回るように、がらんとした問屋場の方をのぞきに行った。会所の方の店座敷の戸をも繰って見た。そこの黄色な壁、ここの煤(すす)けた襖(ふすま)、何一つその空虚な部屋で目につくものは、高い権威をもって絶対の屈従をしいられた宿場の過去と、一緒にこの街道に働いた人たちの言葉にも尽くされない辛労とを語らないものはない。
思わず半蔵は伊之助と共に、しばらく会所での最終の時を送った。その時、彼は伊之助の顔をながめながら、静かな声で、感ずるままを語った。彼に言わせると、先年お救い願いを尾州藩に差し出した当時、すでに宿相続をいかにすべきかが一同の問題になったくらいだ。あの時の帳尻(ちょうじり)を見てもわかるように、七か年を平均して毎年百七十両余が宿方の不足になっていた。あの不足が積もって行く上に、それを補って来た宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両余を払わねばならなかった。たとい尾州藩のお救いお手当てがあるとしても、この状態を推し進めて行くとしたら、結局滅亡に及ぶかもしれない。宿場にわだかまる多年の弊習がこの行き詰まりを招いた。さてこそ新規まき直しの声も起こって来たのである。これまで自分は一緒にこの街道に働いてくれる人たちと共に武家の奉公を耐(こら)えようとのみ考え、なんでも一つ辛抱せという方にばかり心を向けて来たが、問屋も会所もまた封建時代の遺物であると思いついて、いささか悟るところがあった。上御一人(かみごいちにん)ですら激しい動きに直面したもうほどの今の時に、下のものがそう静かにしていられるはずもないと。
伊之助は、爪(つめ)をかみながら、黙って半蔵の言うことを聞いていた。半蔵の耳はまた、やや紅(あか)かった。
「しかし、伊之助さんも御苦労さまでした。お互いに長い御奉公でした。」
とまた半蔵は言い添えた。
もはや諸道具一切は伝馬所の方へ運び去られている。半蔵は下男の佐吉を呼んで、戸をしめ、鍵(かぎ)をかけることを言いつけて置いて、やがて伊之助と共に会所の前を立ち去った。 

平田延胤(ひらたのぶたね)の木曾街道を通過したのは、馬籠ではこの宿場改革の最中であった。延胤は東京からの帰り路(みち)を下諏訪(しもすわ)へと取り、熱心な平田|篤胤(あつたね)没後の門人の多い伊那の谷を訪(おとな)い、清内路(せいないじ)に住む門人原|信好(のぶよし)の家から橋場を経て、小昼(こびる)(午後三時)のころに半蔵の家に着いた。しばらく木曾路の西のはずれに休息の時を送って行こうとしていたのである。もっとも、この旅は延胤|一人(ひとり)でもない。門下の随行者もある。伊那からそのあとを追い慕って、せめて馬籠まではと言いながら見送って来た南条村の館松縫助(たてまつぬいすけ)のような人もある。
延胤は半蔵が師|鉄胤(かねたね)の子息で、故翁篤胤の孫に当たる。平田同門のものは日ごろ鉄胤のことを老先生と呼び、延胤を若先生と呼んでいる。思いがけなくもその人を見るよろこびに加えて、一行を家に迎へ入れ、自分の田舎(いなか)を見て行ってもらうことのできるというは、半蔵にとって夢のようであった。木曾は深い谿(たに)とばかり聞いていたのにこんな眺望(ちょうぼう)のひらけた峠の上もあるかという延胤を案内しながら、半蔵は西側の廊下へ出て、美濃(みの)から近江(おうみ)の方の空のかすんだ山々を客にさして見せた。その廊下の位置からは恵那山につづく幾つかの連峰全部を一目に見ることはできなかったが、そこには万葉の古い歌にある御坂(みさか)も隠れているという半蔵の話が客をよろこばせた。彼は上段の間へ人々を案内して、その奥まった座敷で、延胤が今京都をさして帰る途中にあることから、かねて門人|片桐春一(かたぎりしゅんいち)を中心に山吹社中の発起になった条山(じょうざん)神社を伊那の山吹村に訪い、そこに安置せられた国学四大人の御霊代(みたましろ)を拝し、なお、故翁の遺著『古史伝』の上木頒布(じょうぼくはんぷ)と稿本全部の保管とに尽力してくれた伊那の諸門人の骨折りをねぎらいながら、行く先で父鉄胤に代わって新しい入門者に接して来たことなぞを聞いた。
おまんやお民も茶道具を運びながらそこへ挨拶(あいさつ)に出た。半蔵はそのそばにいて、これは母、これは妻と延胤に引き合わせた。彼は先師の孫にも当たる人に自分の継母や妻を引き合わせることを深いよろこびとした。めずらしい客と聞いてよろこぶお粂(くめ)と宗太も姉弟(きょうだい)らしく手を引き合いながら、着物を着かえたあとの改まった顔つきで、これも母親のうしろからお辞儀に出た。半蔵の娘もすでに十四歳、長男の方は十二歳にもなる。
延胤も旅を急いでいた。これから、中津川泊まりで行こうという延胤のあとについて、一緒に中津川まで行くことを半蔵に勧めるのも縫助だ。そういう縫助も馬籠まで来たついでに、同門の景蔵の家まで見送りたいと言い出す。これには半蔵も心をそそられずにはいられなかった。早速(さっそく)彼は隣家の伏見屋へ下男の佐吉を走らせ、伊之助にも同行のよろこびを分けようとした。伊之助は上の伏見屋の方にいて、そのために手間取れたと言いわけをしながら、羽織袴(はおりはかま)でやって来た。
「若先生です。」
その引き合わせの言葉を聞くと、日ごろ半蔵のうわさによく出る平田先生の相続者とはこの人かという顔つきで、伊之助も客に会釈(えしゃく)した。
一同中津川行きのしたくができた。そこで、出かけた。師鉄胤のうわさがいろいろと出ることは、半蔵の歩いて行く道を楽しくした。こんな際に、中央の動きを知ることは、彼にとっての何よりの励ましというものだった。彼は延胤一行の口から出ることを聞きもらすまいとした。過ぐる年の十月十三日に旧江戸城にお着きになった新帝にもいったん京都の方へ還御(かんぎょ)あらせられたと聞く。それは旧冬十二月八日のことであったが、さらに再度の東幸が来たる三月のはじめに迫っている。それを機会に、師鉄胤もお供を申し上げながら、一家をあげて東京の方へ移り住む計画であるという。延胤が旅を急いでいるのもそのためであった。飽くまで先師の祖述者をもって任ずる鉄胤の方は参与の一人として、その年の正月からは新帝の侍講に進み、神祗官(じんぎかん)の中心勢力をかたちづくる平田派の学者を率いて、直接に新政府の要路に当たっているとか。今は師も文教の上にあるいは神社行政の上に、この御一新の時代を導く年老いた水先案内である。全国の代表を集めて大いに国是(こくぜ)を定め新制度新組織の建設に向かおうとするための公議所が近く東京の方に開かれるはずで、その会議も師のような人の体験と精力とを待っていた。
延胤は関東への行幸のことについてもいろいろと京都方の深い消息を伝えた。かくも諸国の人民が新帝を愛し奉り、競ってその御一行を迎えるというは理由のないことでもない。従来、主上と申し奉るは深い玉簾(ぎょくれん)の内にこもらせられ、人間にかわらせたもうようにわずかに限りある公卿(くげ)たちのほかには拝し奉ることもできないありさまであった。それでは民の御父たる天賦の御職掌にも戻(もと)るであろう。これまでのように、主上の在(いま)すところは雲上と言い、公卿たちは雲上人ととなえて、龍顔は拝しがたいもの、玉体は寸地も踏みたまわないものと、あまりに高く言いなされて来たところから、ついに上下隔絶して数百年来の弊習を形造るようになった。今や更始一新、王政復古の日に当たり、眼前の急務は何よりまずこの弊習を打ち破るにある。よろしく本朝の聖時に則(のっ)とらせ、外国の美政をも圧するの大英断をもって、帝自ら玉簾の内より進みいでられ、国々を巡(めぐ)らせたまい、簡易軽便を本として万民を撫育(ぶいく)せられるようにと申上げたものがある。さてこそ、この未曾有(みぞう)の行幸ともなったのである。
そればかりではない。もっと大きな事が、この行幸のあとに待っていた。皇居を京都から東京に還(うつ)し、そこに新しい都を打ち建てよとの声が、それだ。もし朝廷において一時の利得を計り、永久治安の策をなさない時には、すなわち北条(ほうじょう)の後に足利(あしかが)を生じ、前姦(ぜんかん)去って後奸(こうかん)来たるの覆轍(ふくてつ)を踏むことも避けがたいであろう。今や、内には崩(くず)れ行く中世的の封建制度があり、外には東漸するヨーロッパの勢力がある。かくのごとき社会の大変態は、開闢(かいびゃく)以来、いまだかつてないことであろうとは、もはや、だれもがそれを疑うものもない。この際、深くこの国を注目し、世界の大勢をも洞察(どうさつ)し、国内のものが同心合体して、太陽はこれからかがやこうとの新しい希望を万民に抱(いだ)かせるほどの御実行をあげさせられるようにしたい。それには、非常な決心を要する。眼前にある些少(さしょう)の故障を懸念(けねん)して、この遷都の機会をうしなったら、この国の大事もついに去るであろう――実際、こんなふうに言わるるほどの高い潮(うしお)がやって来ていた。
一緒に街道を踏んで峠を降りて行く延胤に言わせると、遷都の説はすでに一、二の国学者先輩の書きのこしたものにも見える。それがここまで来て、言わば東幸の形で遷都の実をあげる機運を迎えたのだ。これには伊之助も耳を傾けていた。
一同の行く先は言うまでもなく中津川の本陣である。ちょうど半蔵の友人景蔵も、香蔵も、共に京都の方から帰って来ているころで、景蔵の家には、めずらしく親しい人たちの顔がそろった。そこには落合から行った半蔵の弟子(でし)勝重(かつしげ)のような若い顔さえ見いだされた。そしてその東美濃の町に延胤を迎えようとする打ちくつろいだ酒盛(さかも)りがあった。その晩は伊之助もめずらしく酔って、半蔵と共に馬籠をさして帰って来たころは夜も深かった。
三か月ほど後に、中津川の香蔵が美濃を出発し、東京へとこころざして十曲峠(じっきょくとうげ)を登って来たころは、旅するものの足が多く東へ東へと向かっていた。今は主上も東京の方で、そこに皇居を定めたまい、平田家の人々も京都にあった住居(すまい)を畳(たた)んで、すでに新しい都へ移った。
旅を急ぐ香蔵に門口から声をかけられて見ると、半蔵の方でもそう友人を引き留めるわけに行かない。香蔵は草鞋(わらじ)ばきのまま、本陣の玄関の前から表庭の植木の間を回って、葉ばかりになった牡丹(ぼたん)の見える店座敷の軒先に来て腰掛けた。そこに笠(かさ)を置いて、半蔵が勧める別れの茶を飲んだ。
文字どおり席の暖まるに暇(いとま)のないような香蔵は、師のあとを追うのに急で、地方の問屋廃止なぞを問題としていない。半蔵はひどく別れを惜しんだ。野尻(のじり)泊まりで友人が立って行った後、彼は大急ぎで自分でもしたくして、木曾福島の旅籠屋(はたごや)までそのあとを追いかけた。
とうとう、藪原(やぶはら)の先まで追って行った。五日過ぎには彼は友人の後ろ姿を見送って置いて、藪原からひとり街道を帰って来る人であった。旧暦五月の日の光は彼の目にある。平田同門の人たちの動きがしきりに彼の胸に浮かんだ。その時になって見ると、師岡正胤(もろおかまさたね)、三輪田元綱(みわたもとつな)、権田直助(ごんだなおすけ)なぞはいずれも今は東京の方で師の周囲に集まりつつある。彼が親しい先輩|暮田正香(くれたまさか)は京都皇学所の監察に進んだ。
「そうだ、同門の人たちはいずれも十年の後を期した。奥羽の戦争を一期として、こんなに早く皆の出て行かれる時が来ようとは思わなかった。」
と彼は考えた。
多くの人が統一のために協力した戦前と戦後とでは、こうも違うものかとさえ彼は思った。彼はまた、遠からず香蔵と同じように東京へ向かおうとする中津川の景蔵のことを考え、どんな要職をもって迎えられても仕える意のないあの年上の友人のことを考えて、謙譲で名聞(みょうもん)を好まない景蔵のような人を草叢(くさむら)の中に置いて考えることも楽しみに思った。
木曾福島の関所も廃されてからは、上り下りの旅行者を監視する番人の影もない。上松(あげまつ)を過ぎ、三留野(みどの)まで帰って来た。行く先に謹慎を命ぜられていた庄屋問屋のあることは、今度の改革の容易でないことを語っている。この日になってもまだ旧(ふる)い夢のさめないような庄屋問屋は、一切外出を許さない、謹慎中は月代(さかやき)を剃(そ)ることも相成らない、病気たりとも医師の宅へ療養に罷(まか)り越すことも相成らない、もっとも自宅へ医師を呼び寄せたい時はその旨(むね)を伺い出よ、居宅は人見(ひとみ)をおろし大戸をしめ潜(くぐ)り戸(ど)から出入りせよ、職業ならびに商法とも相成らない、右のほかわかりかねることもあらば宿役人を通して伺い出よとの総管所からのきびしいお達しの出たころだ。
さらに妻籠(つまご)まで帰って来た。半蔵が妻籠本陣へ見舞いを言い入れると、ちょうど寿平次は留守の時であったが、そこでも会所は廃され、問屋は変わる最中で、いったん始まった改革は行くところまで行かなければやまないような勢いを示していた。
妻籠の宿場を離れると、木曾川の青い川筋も見えない。深い谷の尽きたところから林の中の山道になって、登れば登るほど木曾の西のはずれへ出て行かれる。五月の節句もまためぐって来て山家の軒にかけた菖蒲(しょうぶ)の葉も残っているころに、半蔵は馬籠の新しい伝馬所の前あたりまで戻(もど)って来た。旧会所の建物は本陣表門のならびに続いて、石垣(いしがき)の多い坂道の位置から伏見屋のすぐ下隣りに見える。さびしく戸のしまったその建物の前を立ち去りがたいようにして、杖(つえ)をつきながら往(い)ったり来たりしている人がある。その人が彼の父だ。大病以来めったに隠居所を離れたこともない吉左衛門だ。半蔵は自分の家の方へ降りかけたところまで行って、思わずハッとした。
「お父(とっ)さん、どちらへ。」
声をかけて見て、半蔵は父がめずらしく旧友金兵衛を訪(たず)ねに行って来たことを知った。その父が家の門前までひとりでぽつぽつ帰って来たところだということをも知った。
「お父さん、大丈夫ですか。そんなにひとりで出歩いて。」
と彼は言って、裏の隠居所まで父を送らせるために自分の子供をさがしたが、そこいらには宗太も遊んでいなかった。彼は自身に父を助けるようにして、ゆっくりゆっくり足を運んで行く吉左衛門に付き添いながら、裏二階の前まで一緒に歩いた。
今は半蔵も問屋役から離れてしまったことを父に隠せなかった。新しい伝馬所は父の目にも触れた。継母や妻の心配して来たことを、いつまで父に告げないのはうそだ。その考えから、彼は母屋(もや)の方へ引き返して行った。
「お民、帰ったよ。」
その半蔵の声をきくと、お民は前の晩に菖蒲(しょうぶ)の湯をつくらせておそくまで夫を待ったことなぞを語った。そういう彼女は、やがてまた夫との間に生まれて来るものを待ち受けているような時である。彼女はすでに五人の子の母であった。もっとも、五人のうち、男の子の方は長男の宗太に、妻籠の里方へ養子にやった次男の正己(まさみ)。残る三人は女の子で、姉娘のお粂のほかには、さきに次女のお夏をうしない、三女に生まれたお毬(まり)という子もあったが、これも早世した。どうかして今度生まれて来るものは無事に育てたい。そんな話が夫と二人ぎりの時には彼女の口からもれて来る。彼女の内部(なか)に起こって来た変化はすでに包み切れないほどで、いろいろと女らしく心をつかっていた。
夕方から、半蔵は父を見に行った。例の裏二階に、吉左衛門はおまんを相手の時を送っていた。部屋(へや)の片すみには父がからだを休めるための床も延べてある。これまで父の耳にも入れずにあったことは、半蔵がそれを切り出すまでもなく、吉左衛門は上の伏見屋の金兵衛からいろいろと聞いて来て、青山一家にまで襲って来たこんな強い嵐(あらし)が早く通り過ぎてくれればいいという顔つきでいる。
「きょうはくたぶれたぞ。」と吉左衛門が言い出した。「まあ、おれもめずらしく気分のいい日が続くし、古稀(こき)の祝いのお礼にもまだ行かなかったし、そう思って、旧(ふる)い友だちの顔を見に行って来たよ。おれもへぼくなった。上の伏見屋まで坂を登るぐらいに、息が切れる。それにあの金兵衛さんがおれをつかまえて放さないと来てる。いろいろの宿場のうわさも出たよ――いや、大長咄(おおながばなし)さ。」
老年らしい沈着(おちつき)をもった父の様子に、半蔵もやや心を安んじて、この宿場の改革が避けがたいというのも一朝一夕に起こって来たものではないことや、もはや木曾谷中から寄せた人足が何百人とか伊那の助郷から出た人足が千人にも及ぶとかいうようなそんな大通行の許される時代でないことや、したがって従来二十五人二十五匹のお定めの宿伝馬もその必要なく、今に十三人十三匹の人馬を各宿場に用意すればそれでも交通輸送に事を欠くまいというのが、福島総管所の方針であるらしいことなぞを父に告げた。
「まあ、おれのような昔者には、今の世の中のことがわからなくなって来た。」と吉左衛門は言った。「金兵衛さんの言い草がいい。とても自分には見ちゃいられないと言うんさ。あの隠居としたら、そうだろうテ。」
「そう言えば、お父さんは夢をごらんなすったというじゃありませんか。」と半蔵は父の顔をみまもる。
「その夢さ。」
「言って見れば、どんな夢です。」
「まあ梁(はり)が落ちて来たんだね。あんまり不思議な夢だから、易者にでも占ってもらおうかと思ったさ。何か家の内がごたごたしてる。さもなければ、あんな夢を見るはずがない。おれはそう思って、気になってしかたがなかった。」
「実は、お父さん、わたしはありのままをお話しした方がいいと思っていたんです。お母(っか)さんやお民が心配するものですからね――お父さんのからだにでもさわるといけないなんて、しきりにわたしを止めるものですからね――つい今までお父さんには隠してありました。」
おまんは部屋を出たりはいったりしていた。彼女は半蔵父子の話の方に気を取られていたというふうで、次ぎの部屋から茶道具なぞをそこへ運んで来た。きのうの粽(ちまき)は半蔵にも食わせたかったが、それも残っていない――そんな話が継母の口から出る。時節がら、その年の節句祝いも簡単にして、栄吉、清助の内輪のものを招くだけにとどめて置いたとの話も出る。
吉左衛門は思い出したように、
「いや、こういうことになって来るわい。今までおれも黙って見てたが、あの参覲交代が御廃止になったと聞いた時に、おれはもうあることに打(ぶ)つかったよ。」
「……」
「半蔵、本陣や庄屋はどうなろう。」
「それがです、本陣、庄屋、それに組頭(くみがしら)だけは、当分これまでどおりという御沙汰(ごさた)がありました。それも当分と言うんですから、改革はそこまで及んで行くかもしれません。」
その返事を聞くと、吉左衛門は半蔵の顔をながめたまましばらく言葉もなかった。
「しかし、きょうはお父さんもお疲れでしょう。すこし横にでもおなりなすったら。」と半蔵が言葉をつづけた。
「それがいい。そう話に身が入っちゃ、えらい。」とおまんも言う。
「じゃ、そうするか。この節は宵(よい)から寝てばかりさ。おまんもおれにかぶれたと見えて、おれが横になれば、あれも横になる。」
吉左衛門はそんなことを半蔵に言って見せて、笑って、おまんの勧めるままに新しい袷(あわせ)の寝衣(ねまき)の袖(そで)に手を通した。半蔵の見ている前で、細い紐(ひも)を結んで、そこに敷いてある床の上にすわった。七十一歳を迎えた吉左衛門は、かねてある易者に言われたよりも一年多く生き延びた彼自身をその裏二階に見つけるような人であった。
「半蔵、見ておくれよ。」とおまんが言った。「ことしはお父さんに、こういうものを造りましたよ。わたしの丹精(たんせい)した袷だよ。お父さんはお前、この年になるまでずっと木綿(もめん)の寝衣で通しておいでなすった。やわらかな寝衣なぞは庄屋に過ぎたものだ、おれは木綿でたくさんだ――そうおっしゃるのさ。そりゃ、お前、氏神さまへ参詣(さんけい)する時の紙入れだって、お父さんは更紗(さらさ)の裏のついたのしかお使いなさらないような人だからね。でも、わたしは言うのさ。七十の歳(とし)にもおなりになるなら、寝衣にやわらか物ぐらいはお召しなさるがいいッて――ね。どうしてもお父さんはこういうものを着ようとおっしゃらない。それをわたしが勧めて、ことしから着ていただくことにしましたよ。」
こんなおまんの心づかいも、吉左衛門の悲哀(かなしみ)を柔らげた。吉左衛門は床の上にすわったまま、枕(まくら)を引きよせて、それを膝(ひざ)の上に載せながら、
「まあ、金兵衛さんのところへも顔を出したし、これでおれも気が済んだ。明日か明後日のうちにはお粂(くめ)や宗太を連れて、墓|掃除(そうじ)だけには行って来たい。」
そう言って、先代隠居半六の命日が近いばかりでなく、村の万福寺の墓地の方には、早世した二人の孫娘が、亡(な)きお夏とお毬(まり)とが、そこに新しい墓を並べて眠っていることまでを、あわれ深く思いやるというふうであった。
「あれもこれもと思うばかりで、なかなか届かないものさね。」
とも吉左衛門は言い添えた。
その晩、母屋(もや)の方へ戻(もど)って行く半蔵を送り出した後、吉左衛門はまだ床の上にすわりながら、自分の長い街道生活を思い出していた。半蔵の置いて行った話が心にかかって、枕についてからもいろいろなことを思いつづけた。明日もあらば、と父は思い疲れて寝た。 

六月にはいって、半蔵は尾州家の早い版籍奉還を聞きつけた。彼は福島総管所から来たその通知を父のところへ持って行って読み聞かせた。
徳川三位中将
今般版籍奉還の儀につき、深く時勢を察せられ、広く公議を採らせられ、政令帰一の思(おぼ)し召しをもって、言上(ごんじょう)の通り聞こし召され候(そうろう)事。
とある。
これは新政府行政官から出たもので、主上においても嘉納(かのう)あらせられたとの意味の通知である。総管所からはこの趣を村じゅうへもれなく申し聞けよとも書付を添えて、庄屋としての半蔵のもとへ送り届けて来たものである。
すでに起こって来た木曾福島の関所の廃止、代官所廃止、種々(さまざま)な助郷名目の廃止、刎銭(はねせん)の廃止、問屋の廃止、会所の廃止――この大きな改革は、とうとうここまで来た。さきに版籍奉還を奏請した西南の諸侯はあっても、まだそれが実顕の運びにも至らないうちに、尾州家が率先してこのことを行ない、名を譲って実をあげようとするは、いわれのないことでもない。徳川御三家の随一として、水戸に対し、紀州に対し、その他の多くの諸侯に対し、大義名分を正そうとする尾州家にこのことのあるのは不思議でもない。あの徳川慶喜が大政を奉還し将軍職を辞退した当時、広大な領土までをそこへ投げ出すことを勧め、江戸城の明け渡しに際しても進んで官軍の先頭に立った尾州家に、このことのあるのもまた不思議でもない。
「お父(とっ)さん、ここに別の通知がありますよ。徳川三位中将、名古屋藩知事を仰せ付けられるともありますよ。」
「して見ると、藩知事公かい。もう名古屋のお殿様でもないのかい。」
「まずそうです。人民の問屋も、会所も廃させて置いて、御自分ばかり旧(むかし)に安んずるような、そんなつもりはないのでしょう。」
吉左衛門は半蔵と言葉をかわして見て、忰(せがれ)の言うことにうなずいたが、目にはいっぱい涙をためていた。
七月の来るころには、吉左衛門はもはやたてなかった。中風の再発である。どっと彼は床についていて、その月の半ばにはお民の安産を聞き、今度生まれた孫は丈夫そうな男の子であると聞いたが、彼自身の食は次第に細るばかりであった。そういう日が八月のはじめまで続いた。ついに、おまんや半蔵の看護もかいなく、養生もかなわずであった。彼は先代半六のあとを追って、妻子や孫たちにとりまかれながら七十一歳の生涯(しょうがい)をその病床に終わった。それは八月四日、暮れ六つ時(どき)のことであった。
その夜のうちに、吉左衛門の遺骸(いがい)は裏二階から母屋(もや)の奥の間に移された。栄吉、庄助、つづいて伊之助なぞはこの変事を聞いて、早速(さっそく)本陣へかけつけて来た。中でも、伊之助は福島総管所からのお触状(ふれじょう)により、新政府が産業奨励の趣意から設けられた御国産会所というものへ呼ばれ、その会合から今々帰ったばかりだと言って、息をはずませていた。あわただしくもかけつけて来てくれたこの隣家の主人を見ることは、半蔵にとって一層時を感じさせ、夕日のように沈んで行った父の死を思わせた。
翌朝は早くから、生前吉左衛門の恩顧を受けた出入りの衆が本陣に集まって来て、広い囲炉裏ばたや勝手口で働いた。よろこびにつけ、かなしみにつけ、事あるごとに手伝いに来て、互いに話したり飲み食いしたりするのは、出入りの衆の古くからの慣例(ならわし)である。今は半蔵も栄吉や清助を相手に、継母の意見も聞いて、本陣相応に父を葬らねばならない。彼は平田門人の一人(ひとり)として、この際、神葬を断行したい下心であったが、従来青山家と万福寺との縁故も深く、かつ継母のおまんが希望もあって、しばらく皆の意見に従うことにした。ともかくも、この葬式は父の長い街道生活を記念する意味のものでありたいと彼は願った。なるべく手厚く父を葬りたい。そのことを彼は伊之助の前でも言い、継母にも話した。やがて納棺の用意もできるころには、東西の隣宿から泊まりがけで弔いに来る親戚(しんせき)旧知の人々もある。寿平次、得右衛門は妻籠(つまご)から。かつて半蔵の内弟子(うちでし)として少年時代を馬籠本陣に送ったことのある勝重(かつしげ)は落合から。奥の間の机の上では日中の蝋燭(ろうそく)が静かにとぼった。木材には事を欠かない木曾山中のことで、棺も厚い白木で造られ、その中には仏葬のならわしによるありふれたものが納められた。おまんらが集まって吉左衛門のために縫った経帷子(きょうかたびら)、珠数(じゅず)、頭陀袋(ずだぶくろ)、編笠(あみがさ)、藁草履(わらぞうり)、それにお粂(くめ)が入れてやりたいと言ってそこへ持って来た吉左衛門常用の杖(つえ)。いずれも、あの世への旅人姿のしるしである。おまんはそのそばへ寄って、吉左衛門の掌(てのひら)を堅く胸の上に組み合わせてやった。その時、半蔵はお粂や宗太を呼び寄せ、一緒によく父を見て置こうとした。長い眉(まゆ)、静かな口、大きな本陣鼻、生前よりも安らかな顔をした父がそこに眠っていた。多勢のものが別れを告げに棺の周囲に集まる混雑の中で、半蔵は自分の子供に注意することを忘れなかった。ようやく物心づく年ごろに達して、部屋(へや)のすみに腕を組みながら、じっと祖父の死を考え込むような顔つきをしているのは宗太だ。お粂は、と見ると、これは祖父にかわいがられた娘だけに、姉らしく目のふちを紅(あか)く泣きはらして、奥の坪庭の見える廊下の方へ行って隠れた。
寿平次の妻、お里も九歳になる養子の正己(まさみ)(半蔵の次男)を連れて、妻籠からその夕方に着いた。日が暮れてから、半蔵は村の万福寺住持が代理として来た徒弟僧を奥の間に迎え、人々と共に棺の前に集まって、一しきり読経(どきょう)の声をきいた。吉左衛門が生前の思い出話もいろいろ出る中に、半蔵は父が小前(こまえ)のものに優しかったこと、亡(な)くなる前の三日ほどはほとんど食事も取らなかったこと、にわかに気分のよいという朝が来て、なんでも食って見ると言い出し、木苺(きいちご)の実の黄色なのはもう口へははいるまいかなぞと尋ね、孫たちをそばへ呼び寄せて放さなかったが、それが最後の日であったことを語った。父はお家流をよく書き、書体の婉麗(えんれい)なことは無器用な彼なぞの及ぶところでなかったが、おそらくその父の手筋は読み書きの好きなお粂の方に伝わったであろうとも語った。父はまた、美濃派の俳諧(はいかい)の嗜(たしな)みもあったから、臨終に近い枕(まくら)もとで、父から求めらるるままに、『風俗文選(ふうぞくもんぜん)』の一節を読み聞かせたが、さもあわれ深く父はそれを聞いていて、やがて、「半蔵、おれはもう行くよ」との言葉を残したとも語った。
伊之助は言った。
「そう言えば、吾家(うち)の隠居(金兵衛)もこんなことを言っていましたっけ――いつぞや吉左衛門さんが上の伏見屋へお訪(たず)ねくだすって、大変に長いお話があった。あの時自分は気もつかなかったが、今になって考えて見ると、あれはこの世のお暇乞(いとまご)いにおいでくだすったのだわいッて。」
吉左衛門の遺骸が本陣の門口まで運び出されたのは、翌日の午後であった。寺まで行かないものはその門口で見送るように、と呼ぶ清助の声が起こる。そこには近所のかみさんや婆(ばあ)さんなぞの女達がおもに集まっている。
「お霜|婆(ばあ)。」
「あい。」
「お前も早くおいでや。」
「あい。」
出入りの百姓兼吉のおふくろは人に呼ばれて、あたふたとそこへ走り出た。耳の遠いこの婆さんまでが、ありし日のことを思い出して、今はと見送ろうとするのであろう。その中には、珠数を手にした伊之助の妻のお富もまじっていた。
その時、百姓の桑作は人を分けて、半蔵をさがした。桑作はそこに門火(かどび)を焚(た)いていた一人の若者を半蔵の前へ連れて行った。
「旦那、これはおふき婆(半蔵の乳母(うば))の孫よなし。長いこと山口の方へ行っていたで、お前さまも見覚えはあらっせまいが、あのおふき婆の孫がこんなに大(でか)くなった。きょうはこれにもお見送りをさしてやっていただきたい。そう思って、おれが連れて来たに。」
と桑作は言った。
間もなく野辺送(のべおく)りの一行は順に列をつくって、寺道の方へ動き出した。高く掲げた一対の白張提灯(しらはりぢょうちん)を案内にして、旧庄屋の遺骸がそのあとに続いた。施主の半蔵をはじめ、亀屋(かめや)栄吉、伏見屋伊之助、梅屋五助、桝田屋(ますだや)小左衛門、蓬莱屋(ほうらいや)新助、旧問屋九郎兵衛、組頭庄助、同じく平兵衛、妻籠本陣の寿平次、脇(わき)本陣の得右衛門なぞは、いずれも青い編笠(あみがさ)に草履ばきで供をした。産後のお民だけは嬰児(あかご)の森夫(もりお)(半蔵の三男)を抱いて引きこもっていたが、おまん、お喜佐、お里、それにお粂も年上の人たちと同じように彼女のみずみずしい髪を飾りのない毛巻きにして、その列の中に加わった。
やがてこの行列が街道を右に折れ、田圃(たんぼ)の間の寺道を進んで、万福寺の立つ小山に近づいたころ、そこまでついて行った勝重は清助と共に、急いで列を離れた。これは寺の方に先回りして一行を待ち受けるためである。万福寺にはすでに近村から到着した会葬者もある。今か今かと待ち受け顔な松雲和尚(しょううんおしょう)が勝重らを迎え入れ、本堂と庫裏(くり)の間の入り口のところに二人(ふたり)の席をつくってくれた。
「それじゃ、勝重さん、帳面方は君に頼みますよ。」
と清助に言われるまでもなく、勝重はそこに古い机を控え、その日の書役(かきやく)を引き受けた。そこは細長い板敷きの廊下であるが、一方は徒弟僧なぞの出たりはいったりする寺の囲炉裏ばたに続き、一方は錆(さ)び黒ずんだ板戸を境にして本堂の方へ続いている。薄暗い部屋(へや)をへだてて、奥まった方の客間も見える。勝重は、その位置にいて、会葬者の上がって来るごとにその名を記(しる)しつけ、吉左衛門が交遊のひろがりを想像した。しばらく待つうちに遺骸も本堂の前に着いて、勝重の周囲には廊下を歩きながらの人たちの扇がそこにもここにも動いた。
時には清助が机の上をのぞきに来る。山口、湯舟沢、落合、それから中津川辺からの会葬者はだれとだれとであろうかというふうに。勝重は帳面を繰って、なんと言っても美濃衆の多いことをさして見せ、わざわざ弔いに見えた美濃の俳友なぞもあることを話したあとで、さらに言葉をついで、
「まあ、清助さん、そう働いてばかりいないで、すこしお休み。わたしは今度馬籠へ来て見て、お師匠さまの子供衆が大きくなったのに驚きましたよ。ほんとに、皆さんが大きくおなりなすった。わたしには一番それが目につきます。お師匠さまの家にお世話になった時分、あのお粂さんなぞはまだわたしの膝(ひざ)にのせて抱いたくらいでしたがねえ。」
こんな話が出た。
そこへうわさをしたばかりの姉弟(きょうだい)が三人づれで寺の廊下を回って来た。中でも、妻籠から来た正己はじっとしていない。これが馬籠のお寺かという顔つきで、久しぶりに一緒になったお粂や宗太を案内に、太鼓のぶらさがった本堂の方へ行き、位牌堂(いはいどう)の方へ行き、故人|蘭渓(らんけい)の描いた本堂のそばの画襖(えぶすま)の方へも行った。松雲和尚の丹精(たんせい)からできた築山風(つきやまふう)の庭の見える回廊の方へも行った。この活発な弟を連れて何度も同じ板の間を踏んで来る姉娘の白足袋(しろたび)も清げに愛らしかった。
儀式の始まる時も近づいた。年老いた金兵衛は寺の方で棺の到着を待ち受けていた一人であるが、その時、伊之助と一緒に方丈を出て、勝重の前を会釈して通った。この隠居は平素よりも一層若々しく見えるくらいの結い立ての髪、剃(そ)り立ての顔で、伊之助に助けられながら本堂への廊下を通り過ぎた。一歩一歩ずつ小刻みに刻んで行くその足もとには無量の思いを託して。
「喝(かつ)。」
式場での弔語の終わりにのぞんで、松雲和尚はからだのどこから出したかと思われるような、だれもがびっくりするような鋭い声を出した。この世を辞し去る旅人の遺骸を前にして、和尚がおくる餞別(せんべつ)は、長い修業とくふうとから来たような禅僧らしいその一語に尽きていた。
式も済み、一同の焼香も済んで、半蔵はその日の会葬者へ礼を述べ、墓地まで行こうという人たちと一緒に本堂を出た。寺の境内にある銀杏(いちょう)の樹(き)のそばの鐘つき堂のあたりで彼は近在帰りの会葬者に別れ、経王石書塔(きょうおうせきしょとう)の文字の刻してある石碑の前では金兵衛にも別れた。山門の外の石段の降り口は小高い石垣(いしがき)の斜面に添うて数体の観音(かんのん)の石像の並んでいるところである。その辺でも彼は荒町や峠をさして帰って行く村の人々に別れた。
小山の傾斜に添うた墓地の方では、すでに埋葬のしたくもできていた。半蔵らはその入り口のところで、迎えに来る下男の佐吉にもあった。用意した場所の深さは何尺、横幅何尺、それだけの深さと横幅とがあれば大旦那(おおだんな)の寝棺を納めるに充分であろうなぞと佐吉は語る。やがて生々(なまなま)しい土のにおいが半蔵らの鼻をついた。そこは青山の先祖をはじめ、十七代も連なり続いた古い家族の眠っているところだ、掘り起こした土は山のように盛りあげられて、周囲にある墓の台石もそのために埋(うず)められて見える。
しばらく半蔵は人の集まるのを待った。おまんらは細道づたいに、閼伽桶(あかおけ)をさげ、花を手にし、あるいは煙の立つ線香をささげなどして、次第に墓地へ集まりつつあった。そこここには杉(すぎ)の木立(こだ)ちの間を通して、恵那山麓(えなさんろく)の位置にある村の眺望(ちょうぼう)を賞するものがある。苔蒸(こけむ)した墓と墓の間を歩き回るものがある。
「いつ来て見ても、この御先祖のお墓はいい。」
と寿平次は半蔵に言って見せる。それは万福寺を建立した青山|道斎(どうさい)の形見だ。万福寺殿昌屋常久禅定門(まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん)の文字が深く刻まれてある古い墓石だ。いつ来て見ても先祖は同じように、長いと言っても長い目で、自分の開拓した山村の運命をそこにながめ暮らしているかのようでもある。
「いかにもこれは古人のお墓らしい。」
とまた寿平次は言っていた。いつのまにか松雲も来て半蔵のうしろに立ったが、静かな声で経文を口ずさむことがなかったら、半蔵はそこに和尚があるとも気づかなかったくらいだ。やがて、あちこちと気を配る清助のさしずで、新しい墓標も運ばれて来て、今は遺骸を葬るばかりになった。
鍬(くわ)をさげて埋葬の手伝いに来ている出入りの者の間には、一しきり寝棺をそばに置いて、どっちの方角を頭にしたものかとの百姓らしい言葉の争いもあった。北枕とも言い伝えられて来たところから、これは北でなければならないと言うものがある。仏葬から割り出して、西、西と言うものがある。墓地は浅い谷をへだてて村の裏側を望むような傾斜の地勢にあったから、結局、その自然な位置に従うのほかはなかった。
「さあ、細引(ほそびき)の用意はいいか。」
「皆しっかり手をかけろ。」
こんな声が人々の間に起こる。
寝棺は静かに土中に置かれた。鍬を手にした佐吉らのかける土は崩(なだ)れ落ちるように棺のふたを打った。おまんから孫の正己までが投げ入れる一塊(ひとくれ)ずつの土と共に、親しいものは寄り集まって深く深く吉左衛門を埋めた。
その葬式のあった晩は、吉左衛門に縁故の深かった人たちが半蔵の家の方に招かれた。青山の家例として、その晩の蕎麦振舞(そばぶるまい)には、近所の旦那衆が招かれるばかりでなく、生前吉左衛門の目をかけてやったような小前のものまでが招かれた。
時間を正確に守るということは、当時の人の習慣にない。本陣から下男の佐吉を使いに走らせても、なかなか時間どおりには客が集まらなかった。泊まりがけで来ている寿平次夫婦、得右衛門、それに勝重なぞは今一夜を半蔵のもとに送って行こうとしている。夕方から客を待つ間、半蔵は寿平次と二人(ふたり)で奥の間の外の廊下にいて、そろそろ薄暗い坪庭を一緒にながめながら話した。
その時になって見ると、葬られて行くものは、ひとり半蔵の父ばかりではなかった。あだかも過ぐる安政の大地震が一度や二度の揺り返しで済まなかったように、あの参覲交代制度の廃止を序幕として、一度大きく深い地滑(じすべ)りが将軍家の上に起こって来ると、何度も何度も激しい社会の震動が繰り返され、その揺り返しが来るたびに、あれほどの用心深さで徳川の代に仕上げられたものが相継いで半蔵らの目の前に葬られて行きつつある。
時には、半蔵は家のものに呼ばれて、寿平次のそばを離れることもある。街道を走って来る七里役(飛脚)はいろいろな通知を彼のもとに置いて行く。金札不渡りのため、福島総管所が百方周旋の結果、木曾谷へ輸入されるはずの大井米が隣宿落合まで到着したなぞの件だ。西からはまた百姓暴動のうわさも伝わり、宿場の改革に反対な人たちの不平はどんな形をとってどこに飛び出すやも知れないような際に、正金を融通(ゆうずう)したり米穀を輸入したりして時局を救おうとする当局者の奮闘は悲壮ですらある。
「問屋役廃止以来、おれもしょんぼり日を暮らして来た。」と半蔵は自分で自分に言った。「明るい世の中を前に見ながら、しおれているなんて――おれはこんなばかな男だ。」
半蔵はまた寿平次のいるところへ戻(もど)って行った。寿平次と彼とは互いに本陣同志、また庄屋同志で、彼の心にかかることはやがて寿平次の心にかかることでもある。
「半蔵さん、飛脚ですか。」
「えゝ、宿場の用です。いよいよ大井米もわれわれの地方へはいって来ます。」
「近いうちに君、名古屋藩も名古屋県となるんだそうじゃありませんか。そうなれば、福島総管所も福島出張所と改まるという話ですね。今度来る土屋総蔵(つちやそうぞう)という人は、尾州の御勘定奉行だそうですが、そういう人が来て民政をやってくれたら、この地方も見直しましょう。」
「そりゃ、君、尾州家で版籍を奉還する思いをしたら、われわれの家で問屋や会所を返上するぐらいは実に小さな事でさ。」
「さあ、ねえ。」
「どうでしょう。どうせ壊(こわ)れるものなら、思い切って壊して見たら。」
「半蔵さんは平田門人だから、そういう意見も出る。」
「でも、そこまで行かなかったら、御一新の成就(じょうじゅ)も望めなかありませんか。」
「君の言うように、思い切って壊して見る日にゃ、自分でも本陣や問屋と一緒に倒れて行くつもりでなくちゃ……こういう時になると、宗教のある人は違う。まあ、新政府のやり口をもっとよく見た上でないとね。一切はまだわたしには疑問です。」
その時、松雲和尚をはじめ、旧年寄役の人たちなぞが来て席に着き始めるので、二人はもうそんな話をしなかった。そこには奥の間、仲の間、次の間の唐紙(からかみ)をはずし、三室を通して客の席をつくってある。二里も三里もあるところから峠越しでその日の葬式に列(つら)なりに来て、万福寺や伏見屋に泊まっている隣の国の客もあったが、そういう人たちも提灯(ちょうちん)持参で招かれて来た。日ごろ出入りの大工も来、畳屋も来た。髪結いの直次も年をとったが、最後まで吉左衛門の髭(ひげ)を剃(そ)りに油じみた台箱をさげて通(かよ)ったのも直次で、これも羽織着用の改まった顔つきでやって来た。
松雲和尚の前に栄吉、得右衛門の前に清助、美濃から来た客の前には勝重までが取り持ちに出て、まず酒を勧めた。
「そうだ、今夜は皆の盃(さかずき)を受けて回ろう。おれも飲もう。」
半蔵はその気になって、伊之助と寿平次とが隣り合っている膳(ぜん)の前に行ってすわった。
「よくこんなにおしたくができましたね。」
と言って、伊之助も盃を重ねている。こうした一座の客として来ていても、静かに膳の上をながめ、膳に映る小盃の影を見つけて、それをよく見ているような人は伊之助だ。その時、半蔵が酒を勧めながら言った。
「まあ、時節がら、質素にとも思いましたがね、今夜だけは阿爺(おやじ)の生きてる日と同じようにしたい。わたしもそのつもりで、蕎麦(そば)で一杯あげることにしましたよ。」
半蔵は伊之助から受けた盃を寿平次の方へもさした。
「寿平次さん、この酒は伏見屋の酒ですよ。今夜は君もゆっくり飲んでください。」
そこここの百目蝋燭(ひゃくめろうそく)の灯(ほ)かげには、記念の食事に招かれて来た村の人たちが並んで膳についている。寿平次はそれを見渡しながら、箸(はし)休めの茄子(なす)の芥子(からし)あえも精進料理らしいのをセカセカと食った。猪口(ちょく)の白(しら)あえ、椀(わん)の豆腐のあんかけ、皿(さら)の玉子焼き、いずれも吉左衛門の時代から家に残った器(うつわ)に盛られたのが、勝手の方から順にそこへ運ばれて来た。小芋(こいも)、椎茸(しいたけ)、蓮(はす)の根などのうま煮の付け合わせも客の膳に上った。
あちこちと半蔵が盃を受けて回るうちに、ふと屋外にふりそそぐ雨の音が耳についた。秋の立つというころの通り雨が庭へ来る音だ。やがてその音の降りやむころには、彼は大工の前へも盃を受けに行き、髪結いの直次の前へも受けに行った。
「おれにも盃をくれるかなし。」
と子息(むすこ)の代理に来たお虎(とら)婆さんがそこへすわり直して言った。先祖の代から本陣に出入りする百姓の家のものだ。
「半蔵さま、お前さまの前ですが、大旦那はこういうお客をするのが好きな人で、村のものを集めてはよくお酒盛りよなし。ほんとに、大旦那は気の大きな人だった。」
とお虎が言う。そこには兼吉も桑作も膝(ひざ)をかき合わせている。半蔵は婆さんから受けた盃を飲みほして、それを兼吉にさし、さらに桑作にもさした。
「そりゃ、お前、一度でも吾家(うち)の敷居をまたいだものへは、何か一品ずつ形見が残して置いてあったよ。そういうものがちゃんと用意してあったよ。」と半蔵が言って見せる。
「大旦那はそういう人よなし。」
とお虎婆さんも上きげんで、わざわざその日のために黒々と染めて来たらしい鉄漿(かね)をつけた歯を見せて笑った。この酒好きな婆さんは膳の上に盃を置いた手で、自分の顔をなで回しながら、大旦那の時分の忘れられないことを繰り返した。
次第に半蔵が重ねた盃の酒は顔にも手にも発して来た。その晩は彼もめずらしく酔った。客一同へ蕎麦が出て、ぽつぽつ席を立ちかけるものもあるころには、物を見る彼の目も朦朧(もうろう)としていた。しまいには奥の間の廊下の外にすべり出し、そこに酔いつぶれていて、勝重の介抱に来てくれたのをわずかに覚えているほど酔った。 
第七章

 


例の万国公法の意気で、新時代を迎えるに急な新政府がこれまでの旧(ふる)い暦をも廃し、万国共通の太陽暦に改めたころは、やがて明治六年の四月を迎えた。その時になると、馬籠(まごめ)本陣の吉左衛門なぞがもはやこの世にいないばかりでなく、同時代の旧友であれほどの頑健(がんけん)を誇っていた金兵衛まで七十四歳で亡(な)き人の数に入ったが、あの人たちに見せたらおそらく驚くであろうほどの木曾路(きそじ)の変わり方である。今は四民が平等と見なされ、権威の高いものに対して土下座(どげざ)する旧習も破られ、平民たりとも乗馬、苗字(みょうじ)までを差し許される世の中になって来た。みんな鼻息は荒い。中馬稼(ちゅうまかせ)ぎのものなぞはことにそれが荒く、牛馬の口にばかりついていない。どうかすると荷をつけて街道に続く牛馬の群れは通行をさまたげ、諸人の迷惑にすらなる。なんと言っても当時の街道筋はまだやかましい昔の気風を存していたから、馬士(まご)や牛追いの中には啣(くわ)え煙管(ぎせる)なぞで宿村内を歩行する手合いもあると言って、心得違いのものは取りただすよしの触れ書が回って来たほどだ。下から持ち上げる力の制(おさ)えがたさは、こんな些細(ささい)なことにもよくあらわれていた。これまで、実に非人として扱われていたものまで、大手を振って歩かれる時節が到来した。新たに平民と呼ばれて雀躍(こおどり)するものもある。その仲間入りがまことに許されるなら、貸した金ぐらいは棒引きにすると言って、涙を流してよろこぶものがある。洪水(こうずい)のようにあふれて来たこの勢いを今は何者もはばみ止めることができない。武家の時が過ぎて、一切の封建的なものが総崩(そうくず)れに崩れて行くような時がそれにかわって来た。
本陣、脇(わき)本陣、今は共にない。大前(おおまえ)、小前(こまえ)なぞの家筋による区別も、もうない。役筋(やくすじ)ととなえて村役人を勤める習慣も廃された。庄屋(しょうや)、名主(なぬし)、年寄(としより)、組頭(くみがしら)、すべて廃止となった。享保(きょうほう)以来、宿村の庄屋一人につき玄米五石をあてがわれたが、それも前年度(明治五年)までで打ち切りとした。庄屋名主らは戸長、副戸長と改称され、土地人民に関することはすべてその取り扱いに変わり、輸送に関することは陸運会社の取り扱いに変わった。人馬の継立(つぎた)て、継立てで、多年|助郷(すけごう)村民を苦しめた労役の問題も、その解決にたどり着いたのである。
大きな破壊が動いたあとだ。いよいよ廃藩が断行され、旧諸藩はいずれも士族の救済に心を砕き、これまで蝦夷地(えぞち)ととなえられて来た北海道への開拓方諸有志の大移住が開始されたのも、これまた過ぐる三年の間のことである。武家の地盤は全く覆(くつがえ)され、前年の十二月には全国募兵の法さえ設けられて、いわゆる壮兵のみが兵馬の事にたずさわるのを誇れなくなった。
瓦解(がかい)の勢いもはなはだしい。従来一芸をもって門戸を張り、あるいはお抱(かか)え、あるいはお出入りなどととなえて、多くの保護を諸大名旗本に仰いでいた人たちまでが、それらの主人公と運命を共にするようになって行った。その影響は次第に木曾路にもあらわれて来る。一流の家元と言われた能役者で、旅の芸人なぞの群れにまじり、いそいそとこの街道に上って来るのも、今はめずらしくない。
この混沌(こんとん)とした社会の空気の中で、とにもかくにも新しい政治の方向を地方の人民に知らしめ、廃関以来不平も多かるべき木曾福島をも動揺せしめなかったのは、尾州の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)から木曾谷の民政|権判事(ごんはんじ)に転任して来た土屋総蔵の力による。ずっと後の時代まで善政を謳(うた)われた総蔵のような人の存在もめずらしい。この人の時代は、木曾谷の支配が名古屋県総管所(吉田|猿松(さるまつ)の時代)のあとをうけ、同県出張所から筑摩県(ちくまけん)の管轄に移るまでの間で、明治三年の秋から明治五年二月まで正味二年足らずの短い月日に過ぎなかったが、しかしその短い月日の間が木曾地方の人民にとっては最も幸福な時代であった。目安箱(めやすばこ)の設置、出板(しゅっぱん)条例の頒布(はんぷ)、戸籍法の改正、郵便制の開始なぞは皆その時代に行なわれた。総蔵はまた、凶年つづきの木曾地方のために、いかなる山野、悪田、空地(あきち)にてもよくできるというジャガタラ芋(いも)(馬鈴薯(ばれいしょ))の試植を勧め、養蚕を奨励し、繰糸器械を輸入した。牛馬売買渡世のものには無鑑札を許さず、下々(しもじも)が難渋する押込みと盗賊の横行をいましめ、復飾もしない怪しげな修験者(しゅげんじゃ)には帰農を申し付けるなど、これらのことはあげて数えがたい。この民政権判事が村々の庄屋|一人(ひとり)ずつに出頭を命じ、筑摩県への郷村の引き渡しを済ましたのは、前年二月十七日のことであった。総蔵は各村の庄屋が新しい戸長と呼ばれるのを見、そろそろ児童の就学ということが地方有志者の間に考えられるころに、それらの新しい教育事業までは手を着けないで木曾の人民に別れを告げて行った。
すべてが試みでないものはないような時だ。太陽暦の採用以来、時の分(わか)ちも今は明けの何時(なんどき)、暮れの何時とは言わない。その年から昼夜二十四時に改められた。月日の繰り方もこれまでの暦にくらべると一か月ほど早い。これは前年十二月上旬をもって太陰暦の終わりとし、新暦による正月元日が前年の冬のうちに来たからであった。
人心の一新はこんな暦からも。しかし、これまで小草山の口開(くちあ)けから種まきの用意まで一切はこの国固有の暦を心あてにして来た農家なぞにとっては、朔日(ついたち)だ十五日だということも月の満ち欠けに関係のないものはない。どうしても旧暦で年を取り直さなけれは新しい年を迎えた気もしないという村民のところへは、正月が一年に二度来る始末だ。多くの人々は新旧二通りの暦を煤(すす)けた壁に貼(は)りつけて置いて、新暦の四月一日が旧の三月幾日に当たると知らなければ、春分の感じが浮かぶはおろか、まだ季節の見当さえもつかなかった。
その年から新たに祝日と定められた四月三日は、木曾路で初めて迎える神武天皇祭である。その日は一般に休業し、神酒(みき)を供え、戸々奉祝せよ。旧(ふる)い習慣を脱しないで五節句休業のものもあるが、はなはだ不心得の事である。今後祝日のほかは家業を怠るまいぞ。こんなお触れが、筑摩県|権令(ごんれい)の名で駅々村々へ回って来る。あざやかな国旗が石を載せた板屋根の軒に高く掲げられるのも、これまでの山の中には見られなかった図だ。
半蔵の妻お民も、今は庄屋の家内でなくて、学事掛(がくじがか)りを兼ねた戸長の家内であるが、その祝日の休業を機会に、兄寿平次の家族を訪(たず)ねようとして馬籠の家を出た。もっとも、この訪問は彼女|一人(ひとり)でもない。彼女と半蔵との間には前年の二月に四男の和助(わすけ)が生まれて、その幼いものと下女のお徳とを連れていた。馬籠から奥筋へと続く木曾街道はお民らの目にある。ところどころの垣根(かきね)には梅も咲く。彼女らは行く先に日の丸の旗の出ている祝日らしい山家のさまをながめながめ、女の足で二里ばかりの道を歩いて、午後に妻籠(つまご)の生家(さと)に着いた。 

お民はある相談をもって妻籠のおばあさんや兄寿平次を見に来た。その相談は、娘お粂(くめ)の縁談に関する件で、かねて伊那の南殿村、稲葉(いなば)という家は半蔵が継母おまんの生家(さと)に当たるところから、おまんの世話で、その方にお粂の縁談がととのい、前年の冬には南殿村から結納(ゆいのう)の品々を送って来て、その年の二月の声を聞くころはすでに結婚の日取りを申し合わせるまでに運んだのであった。今度のお民の妻籠訪問はその報告というばかりでなく、兄夫婦の耳にも入れて相談したいと思って来たことがあるからで。
お民ももう五人の子の母である。兄の家にもらわれて来ている次男の正己(まさみ)と、三男の森夫との間には、二人(ふたり)まで女の子を失ったが、それらの早世した幼いものまで合わせると七人もの子をなした年ごろに達している。今さら、里ごころでもあるまいに。しかし、その年になっても妻籠に帰って来て見ると、やはりおばあさんのそばは彼女にとって自分の家らしかった。ちょうど寿平次は正己を連れ、近くに住む得右衛門を誘い合わせ、祝日の休暇を見つけて山遊びに出かけた留守のおりであったが、年老いてまだ元気なおばあさんは孫のよめに当たるお里を相手に、妻籠旧本陣の表庭にいて手造りの染め糸を乾(ほ)すところであった。男の下着の黄八丈(きはちじょう)にでも織るものと見えて、おばあさんたちが風通しのいいところへ乾している糸の好ましい金茶であるのもお民の目についた。古くから山地の農民の間に実用されて来たように、おばあさんはその黄色な染料を山の小梨(こなし)に取ることから、木槌(きづち)で皮を砕き、日に乾し、煎(せん)じて糸を染めるまで、そういうことをよく知っていた。縫うこと、織ること、染めること、すべてこのおばあさんに仕込まれて、それをまた娘のお粂に伝えているお民としては、たまの里帰りが彼女自身の娘の昔を思い出させないものはない。
やがて天井の高い、広い囲炉裏ばたでは、おばあさんはじめお里やお民が黒光りのする大黒柱の近くに集まって、一しきり子供の話で持ちきった。お里と寿平次の間には長いこと子供がなく、そのために正己を馬籠から迎えて養っていたほどであるが、結婚後何年ぶりかでめずらしい女の子が生まれた。琴柱(ことじ)がその子の名だ。足掛け三つになる琴柱はもうなんでも言える。それに比べると、お民の連れて来た和助は誕生後二か月にもなるが、まだ口がきけない。立って歩くこともできない。殻(から)から出たばかりの青い蝉(せみ)のように、そこいらの畳の上をはい回っている。
「はい、今日(こんち)は。」
琴柱が女の子らしいませた口のききかたをすると、和助はその方へお辞儀にはって行った。何をどう覚えたものか、この子供はむやみやたらとお辞儀だ。おばあさんの方へお辞儀に行けば、お里の方へもお辞儀に行く。まだ無心な目つきをした幼いもののすることに、そこに集まっているものは皆笑った。
「もうたくさん。」
とお民が言って見せると、和助はまたお辞儀をした。
「お民、この子はまだお乳かい。お誕生が済んだら、お前、もう御飯でもいいぜ。なんにしても今があぶないさかりだねえ。ほんとに、すこしも目は放せませんよ。」
とおばあさんも言ってみた。
母であることはお民を変えたばかりでなく、お里をも変えた。あれほど病気がちで子供のないのをさみしそうにしていたお里が、母親らしい肉づきをさえ見せて来た。めっきり世帯(しょたい)じみても来た。お里はもはや以前のように、いつお民があって見ても変わらないような、娘々しい人でもない。そういうお民も子供のことに心を奪われて、ほとんど他をかえりみる暇がない。木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわるような山林事件のために奔走している夫半蔵のことよりも、自分の子供に風でも引かせまいとすることの方がお民には先であった。
寿平次も正己を連れて屋外(そと)から戻(もど)って来た。二人とも山遊びらしい軽袗(かるさん)ばきだ。兄はお民を見ると、自分の腰につけている軽袗の紐(ひも)をときながら、
「来たね。」
と相変わらずの調子だ。
寿平次も半蔵と同じように、今は新しい戸長の一人である。遠からず筑摩県地方は村々の併合が行なわれ、大区、小区の区制が設けられるはずで、そのあかつきには彼は八大区の区長としての候補者に定められているが、そんなことでも気をよくしている矢先であった。おまけに、お里には琴柱というかわいいものができて、行く行くは正己にめあわせられるという楽しみがあった。正己もめっきり成長した。すでに十三歳にもなる。来たる年には木曾福島の方へ送って、大脇自笑(おおわきじしょう)の塾(じゅく)にでも入門させ、自分のよい跡目相続としたい。そんな話が寿平次の口から出て来た。
妻籠にはまだ散切頭(ざんぎりあたま)も流行(はや)って来ない。多くのものの目にはその新しい風俗も異様に映る。その中で、今度お民が来て見た時は兄はすでにさっぱりとした散髪(さんぱつ)になっていた。
「どうだ、お民。おれに似合うか。」
と寿平次の言い草だ。
「半蔵さんもどうしているかい。」とまた寿平次がきく。
「兄さん、うちのいそがしさと来たら、見せたいよう。髭(ひげ)もろくに剃(そ)らずに飛び歩いていますよ。わたしが何をきいても、山林事件のためだとばかりで、くわしいことも話しません。」
「今度という今度は半蔵さんも全力をあげているらしい。おれも相談にはあずかってるし、大賛成じゃあるが、せめてこれが土屋総蔵の時代だとねえ。」
「そのことは、兄さん、うちでも言ってるようですよ。」
「そりゃ、名古屋県がこの木曾に出張所を置いて直接民政をやったころは、なんでも親切に、人民をよく教え導くという調子さ。あの土屋総蔵なぞは赴任して来ると、すぐ六人の官吏を連れて開墾その他の見分(けんぶん)にやって来たからね。あの時の見分は、贄川(にえがわ)から妻籠、馬籠まで。おれはあの権判事を地境(じざかい)へ案内した時のことを忘れない。木曾はこんな産馬地(うまどこ)だから、各村とも当歳の駒(こま)を取り調べて、親馬から、毛色、持ち主の名前まで書き出せというやり方だ。それからあの見分を済ましたあとで、村々へ回状を送ってよこしたが、その回状がまた振るってる。あれほど休泊の手当てに及ばないししたくも有り合わせでいいと言ってあるのに、うんとごちそうしてくれた村々がある。とかく官吏が旅行の際には不正な事も行なわれがちだから、今後ごちそうは無用だと書いてよこした。あれは明治三年の九月だ。そうだ、政府からは駅逓司(えきていし)の菊池大令史がこの地方へ出張して来たころだ。なんと言っても、土屋総蔵の時代はよかったよ。そのあとへ筑摩県の権判事として来た人が、今度は大いに暴威を振るおうとするんだから、まるで善悪の対照を見せつけられるようなものさね。こんな乱暴なやり口じゃ、今に地租の改正が始まっても、思いやられるナ。そりゃ、お民、あれほど半蔵さんが山林事件に身を入れて、いくらこの地方のために奔走しても、今の筑摩県の権判事がかわりでもしないうちはまずだめだとおれは見てる……」 

馬籠本陣を見た目で妻籠本陣を見るものは、同じような破壊の動いた跡をここにも見いだす。夕飯にはまだすこし間のあるころに、お民は兄について、部屋(へや)部屋を見て回った。御一新の大改革が来るまで、本陣にのみあるもので他の民家になかったものは、玄関と上段の間とであった。本陣廃止以来、新政府では普通の旅籠屋(はたごや)に玄関を造ることを許し、上段の間を造ることをも許した。これまで公用兼軍用の客舎のごときもので、主として武家のためにあったような本陣は、あだかもその武装を解かれて休息している建物か何かのようである。
お民は寿平次と一緒に玄関の方へ行って見た。彼女が娘時代の記憶のある式台のあたりはもはや陣屋風の面影をとどめない。その前へ来て黒羅紗(くろらしゃ)の日覆(ひおお)いなぞのかかった駕籠を停(と)めさせる諸大名もなければ、そのたびに定紋(じょうもん)付きの幕を張り回す必要もない。広い板敷きのところは、今は子供の遊び場所だ。そして青山家の先祖から伝わったような古い鎗(やり)のかかったところは、今はお里が織る機(はた)の置き場所だ。
上段の間へも行って見た。あの黒船が東海道の浦賀に押し寄せてからこのかたの街道の混雑から言っても、あるいは任地に赴(おもむ)こうとし、あるいは帰国を急ごうとして、どれほどの時代の人がその客間に寝泊まりしたり、休息したりして行ったかしれない。今はそこもからッぽだ。白地に黒く雲形を織り出した高麗縁(こうらいべり)の畳の上までが湿(し)けて見える。
「お民、お前のところじゃ、上段の間を何に使ってるかい。」
「うちですか。うちじゃ神殿にして、産土神(うぶすな)さまを祭っていますよ。毎朝わたしは子供をつれて拝ませに行きますよ。」
「そういうところは、半蔵さんの家らしい。」
兄妹(きょうだい)はこんな言葉をかわした。
「まあ、来てごらん。」
という寿平次のあとについて、お民はさらに勝手口の木戸から庭の方へ出て見た。思い切った破壊がそこには行なわれている。妻籠本陣に付属する問屋場、会所から、多数(たくさん)な通行の客のために用意してあったような建物までがことごとく取り崩(くず)してある。母屋(もや)と土蔵と小屋とを除いた以外の建物はほとんど礎(いしずえ)ばかり残っていると言っていい。土蔵に続くあたりは桑畠(くわばたけ)になって、ところどころに植えてある桐(きり)の若木も目につく。
お民は思い出したように、
「あれはいつでしたか、うちで炬燵(こたつ)の上に手を置いて、『お民、今に本陣も、脇(わき)本陣もなくなるよ』ッて、そんな話を家のものにして聞かせたことがありましたっけ。あの時はわたしはうそのような気がしていましたよ。お父(とっ)さん(吉左衛門)の百か日が来た時にも、まさかうちで本気にそんなことを言ってるとは思いませんでした。ところが、兄さん、ちょうどあのお父さんが亡(な)くなって一年目に、うちでも母屋だけ残して、新屋の方は取り払いでしょう。主(おも)な柱なぞは綱をつけて、鯱巻(しゃちま)きにして引き倒しましたよ。恐ろしい音がして倒れて行きましたっけ。あの大きな鋸(のこぎり)や斧(おの)で柱を伐(き)る音は、今だにわたしの耳についています。」
その晩、お民は和助を早く寝かしつけて置いて、寿平次のいる寛(くつろ)ぎの間(ま)におばあさんやお里とも集まった。娘お粂の縁談について、折り入ってその相談に来たことを兄夫婦らの前に持ち出した。
妻籠でもうすうす聞いてくれたことであろうがと前置きをして、その時お民が語り出したことは、こうだ。もともとお粂には幼い時分から親の取りきめて置いた許嫁(いいなずけ)があった。本陣はじめ、問屋、庄屋、年寄の諸役がしきりに廃止される時勢は年若な娘の身の上をも変えてしまった。というのは、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかない時勢になって来ては、早い許嫁の約束もひとまずあきらめたいと言って、先方の親から破談を申し込んで来たからであった。あのお粂が自分はもうどこへも嫁(かたづ)きたくないと言い出したのは、その時からである。けれども、女は嫁(とつ)ぐべきもの、とは半蔵が継母おまんの強い意見で、年ごろの娘がいつまで父に仕えられるものでもないし、好きな読み書きの道なぞにいそしみ通せるものではなおさらないと言って、いろいろに娘を言いすかし、伊那(いな)の南殿村への縁談を取りまとめたのであった。
この縁談には、おまんも間にはいってすくなからず骨を折った。お民に言わせると、稲葉の家はおまんが生家方(さとかた)のことでもあり、最初からおまんは乗り気で、この話がまとまった時にも生家へあてて長い手紙を送り、まずまず縁談もととのって、自分としてもこんなうれしいことはないと言ってやったほどだ。半蔵はまた半蔵で、「うちの祖母(おばあ)さんの言うことも聞かないようなものは、自分の娘じゃない」と言っているくらいの人だから、かつておまんに逆らおうとしたためしもない。その祖母に対しても、お粂はこの縁談を拒み得なかった。伊那からはすでに二度も仲人(なこうど)が見えて、この二月には結婚の日取りまでも申し合わせた。先方としては、五、六、七、八の四か月を除けば、それ以外の何月に定めてもいいとある。そこで、こちらは娘のために来たる九月を選んだ。そのころにでもなれば、半蔵のからだもいくらかひまになろうと見越したからで。意外にも、お粂は悲しみに沈んでいるようで、母としてのお民にはそれが感じられるというのであった。
「なにしろ、うちじゃあのとおり夢中でしょう。木曾山のことを考え出すと、夜もろくろく眠られないようですよ。わたしはそばで見ていて、気の毒にもなってさ。まずまず縁談もまとまったものだから、こまかいことはお前たちによろしく頼むとばかり。お粂のことでそうそう心配もさせられないじゃありませんか。」とお民は言って見せる。
「いったい、この話がまとまったのは去年の春ごろじゃなかったか。あれから一年にもなる。もっと早く諸事進行しなかったものか。」と言い出したのは寿平次だ。
「そんな、兄さんのような。」とお民は承(う)けて、「そりゃ、話がまとまるとすぐ伊那の方へ手紙を出して、結納(ゆいのう)の小袖(こそで)も、織り次第、京都の方へ染めにやると言ってやったくらいですよ。ごらんなさいな、織って、染めて、それから先方へ送り届けるんじゃありませんか。」
「いや、なかなか男の言うような、そんな無造作なわけにいかすか。まず織ることからして始めにゃならんで。」とおばあさんも言葉をはさんだ。
「おれに言わせると、」とまた寿平次が言い出した。「この話は、すこし時がかかり過ぎたわい。もっとずんずん運んでしまうとよかった。娘が泣いてもなんでも、皆で寄ってたかって、祝っちまう――まずそれが普通さ。そのうちにはかわいい子供もできるというものだね。」
「お粂はことし幾つになるえ。」とおばあさんはお民にきく。
「あの子も十八になりますよ。」
「あれ、もうそんなになるかい。」と言って、おばあさんはお民の顔をつくづくと見て、「そうだろうね、吉左衛門さんの三年がとっくに来たからね。」
「して見ると、わたしたちが年を取るのも不思議はありませんかねえ。」とお里もそばにいて言葉を添える。
「何かなあ。あれでお粂も娘の一心に何か思いつめたことでもあるのかなあ。」と寿平次が言った。
「それがですよ。」とお民は答える。「許嫁(いいなずけ)の人のことでも忘れられないのかというに、どうもそうじゃないらしい。」
「それで、何かえ。お粂はどんなようすだえ。」とまたおばあさんがきく。
「わたしが何をたずねても、うつむいて、沈んでばかりいますよ。」
「そりゃ言えないんだ。」と寿平次は考えて、「ああいう早熟な子にかぎって、そういうことはあることだよ。」
「ほんとに、妙な娘ができてしまいました。あの年で、神霊(みたま)さまなぞに凝って――まあ、お父(とっ)さん(半蔵)にそっくりなような娘ができてしまいました。」
「でも、お民、おれはいい娘だと思う。」
と寿平次は言って、その晩の話はお粂のようすを聞いて見るだけにとどめようとした。お民の方でも、それを生家(さと)の人たちの耳に入れるだけにとどめて、おばあさんや兄の知恵を借りに来たとはまだ言い出せなかった。
馬籠峠の上ともちがい、木曾も西のはずれから妻籠まではいると、大きな谷底を流れる木曾川の音が日によって近く聞こえる。お民は久しぶりでその音を耳にしながら、その晩は子供と一緒におばあさんのそばに寝た。 

翌朝になると、寿平次の家では街道に接した表門のところへ新しい掛け札を出す。
信濃国、妻籠駅、郵便御用取扱所
青山寿平次
こんな掛け札もお民としては初めて見るものだ。近く配達夫になったばかりのような村の男も改まった顔つきをしてやって来る。店座敷はさしあたり郵便事務を取り扱うところにあてられていて、そこの壁の上には新たに八角型の柱時計がかかり、かちかちという音がし出した。
まだわずかしか集まらない郵便物を袋に入れて、隣駅へ送ること、配達夫に渡すべきものへ正確な時間を記入すること、妻籠駅の判を押すこと、すべてこれらのことを寿平次は問屋時代と同じ調子でやった。それから戸長らしい袴(はかま)をつけて、戸長役場の方へ出勤するしたくだ。
「なあに、郵便の仕事の方はまだ閑散なものさ。切手を貼(は)って出せば、手紙の届くということが、みんなにわからないんだね。それよりは飛脚屋に頼んで手紙を持って行ってもらった方が確かだなんて、そういう人たちだ。郵便はただ行くと思ってる。困りものだぞ。」
と言って、寿平次は出がけにお民に笑って見せた。同じ戸長でも、お民の夫が学事掛りを兼ねているのにひきかえ、兄の方はこんな郵便事務の取り扱いを引き受け、各自の気質に適した道を選んで、思い思いに出て行こうとしつつある。なんと言っても郵便制は木曾路に開始せられたばかりのころで、まだお民には兄が新しい仕事の感じも浮かばない。
この里帰りには、お民は娘お粂のことばかりでなく、いくらか夫半蔵をも離れて見る時を持った。妻籠に着いた翌日は午後から雨になって、草木の蕾(つぼみ)を誘うような四月らしい雨のしとしと降る音が、よけいにその心持ちを引き出した。彼女の目に映る夫は、父吉左衛門の亡(な)くなったころを一区画(ひとくぎり)として、なんとなく別の人である。どういう変化が夫自身の内部(なか)に起こって来たとも彼女には言えないし、どういうものの考え直しが行なわれたとも言って見ることはできないが、すくなくも父の死にあったころは夫が半生のうちでも特別の時代であった。連れ添って見てそのことはわかった。幼少な時分から継母に仕えて身を慎んで来た夫に、おそかれ早かれ起こるべきこの変化が来たことは不思議でないかもしれない。その考えから、それとない人のうわさにも彼女はよく耳を傾ける。妻籠の人たちの言うことを聞いて見たいと思うのもそのためであった。
「お民さんか。これはおめずらしい。」
門口から、声をかけながら雨の中を訪(たず)ねて来る人がある。昔なじみの得右衛門だ。お民にと言って、自分の家から鯉(こい)を届けさせるような人だ。
得右衛門も脇(わき)本陣の廃止を機会に、長い街道生活から身を退いている。妻籠の副戸長として寿平次を助けながらもっと村のために働いてもらいたいとは、村民一同の希望であったが、それも辞し、辛抱人の養子実蔵に副戸長をも譲って、今は全くの扇屋の隠居である。
「どうです、お民さん、妻籠も変わりましたろう。」
と言って、得右衛門は応接間と茶の間とを兼ねたような寿平次が家の囲炉裏ばたにすわり込んだ。温暖(あたたか)い雨は来ても、まだ火のそばがいいと言っている得右衛門は、お民から見ればおじさんのような人だ。どこか故吉左衛門らと共通なところがあって、だんだんこういう人が木曾にも少なくなると思わせるのもこの隠居だ。
「いや、変わるはずですね。」とまた得右衛門が言った。「御本陣の主人が先に立って惜しげもなく髪を短くする世の中ですからね。戸長さんがあのとおりの散髪なのに、副戸長が髷(まげ)ではうつりが悪い。実蔵のやつもそんなことを言い出しましてね、あれもこないだ切りました。その前の晩に、髪結いを呼ぶやら、髪を結わせるやら――大騒ぎ。これが髷のお別れだ、そんなことを言って、それから切りましたよ。そう言えば、半蔵さんはまだ総髪(そうがみ)ですかい。」
「ええ、うちじゃ総髪にして、紫の紐(ひも)でうしろの方を結んでいますよ。」とお民が答える。
「半蔵さんで思い出した。そう、そう、あの暦の方の建白は朝廷の御採用にならなかったそうですね。さぞ、半蔵さんも残念がっておいででしょう。わたしは寿平次さんからその話を聞きましたが。」
この半蔵の改暦に関する建白とは、かなり彼の心をこめたもので、新政府が太陽暦を採用する際に、暦のような国民の生活に関係の深いものまで必ずしもそう西洋流儀に移る必要はなく、この国にはこの国の風土に適した暦もあっていいとの趣意から、当局者の参考にと提出したのであった。それは立春の日をもって正月元日とする暦の建て方である。彼は仮に「皇国暦」とその名を呼んで見た。不幸にも、この建白は万国共通なものを持とうとする改暦の趣意に添いがたいとのかどで、当局者の耳を傾けるところとはならなかった。
お民は言った。
「なんですか、わたしにゃよくわかりませんがね、うちでもかなり残念がってはいるようですよ。」
当時、民間有志の建白はそうめずらしいことでもない。しかし新政府で採用した太陽暦もまだ試みのような時のことで、それにつながる半蔵の建白はとかく郷里の人の口に上っていた。狭い山の中ではそうした意見の内容よりも建白そのものを話の種にして、さも普通でない行為か何かのようにうわさもとりどりである。中には、彼が落胆のあまり精神に異状を来たしたそうだなどと取りざたするものさえある。
寿平次が戸長役場の方から戻(もど)って来るころには、得右衛門もまだ話し込んでいた。ふとお民は幼いものの泣き声を聞きつけ、付けて置いた下女のお徳の手から和助を受け取り、子供を仮寝させるによい仲の間の方へ抱いて行った。そこは兄が寛ぎの間に続いていて、部屋の唐紙(からかみ)のあいたところから隣室での話し声が手に取るように聞こえる。
「あれからですよ、どうも馬籠の青山は変わり者だという風評が立ったのは。」というのは兄の声だ。
「とかく、建白の一件は崇(たた)りますナ。」と得右衛門の声で。
「そんな変わり者だなんて言われたら、だれだって気持ちはよかない。あれで半蔵さんも『自分は奇人とは言われたくない、』と言っていますさ。」とまた兄の声で。
夫のうわさだ。お民は片肘(かたひじ)を枕(まくら)に、和助に乳房(ちぶさ)をくわえさせ、子供がさし入れる懐(ふところ)の中の小さな手をいじりながら、隣室からもれて来る話し声に耳を澄ました。頑固(がんこ)なように見えて、その実、新しいものを受けいれ、時と共に推し移ろうとする兄と、めまぐるしく変わり行く世に迎合するでもなく、さりとて軽蔑(けいべつ)するでもなく、ただただながめ暮らしているような昔|気質(かたぎ)の得右衛門との間には、いろいろな話が出る。以前に比べると、なんとなくあの半蔵が磊落(らいらく)になったというものもあるが、半蔵は決して磊落な人ではないという話が出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀(よこすか)在の公郷村(くごうむら)に遠い先祖の遺族を訪(たず)ねた青年の日から、今はすでに四十二歳の厄年(やくどし)を迎えるまでの半蔵を見て来た寿平次には、すこしもあの人が変わっていないという話も出る。なるほど、水戸(みと)の学問が興ったころから、その運動もまたはなやかであったころから、それと並んで復古の事業にたずさわり、ここまで道を開(あ)けるために百方尽力したは全国四千人にも達する平田|篤胤(あつたね)没後の諸門人であり、その隠れた骨折りは見のがすべきではないけれども、中津川の景蔵、香蔵、馬籠の半蔵なぞの同門の友だち仲間が諸先輩から承(う)け継いだ国学で、どうこの世界の波の押し寄せて来た時代を乗ッ切るかは見ものだという話なぞも出る。
「痛(いた)」
思わずお民は添い寝をしている子供の鼻をつまんだ。子供が乳房をかんだのだ。お民は半ば身を起こすようにした。彼女はそっと子供のそばを離れ、おばあさんやお里のいる方へ一緒になりに行こうとしたが、そのたびに和助が無心な口唇(くちびる)を動かして、容易に母親から離れようとしなかった。 

「まあ、お前のように、そう心配したものでもないよ。」
こういうおばあさんの声を聞いたのは、やがてお民が妻籠を辞し去ろうとする四日目の朝である。たとい今度の里帰りには、娘お粂のことについてわざわざ来たほどのよい知恵も得られず、相談らしい相談もまとまらずじまいではあっても、無事でいるおばあさんたちの顔を見て慰められたり励まされたりしたというだけにも彼女は満足しようとした。
そこへお里も来て、
「お民さん、まだお粂の御祝言(ごしゅうげん)までには間もあることですから、気に入った着物でも造ってくれて、様子をごらんなさるさ。」
「そうだとも。」とおばあさんも言う。
「そのうちにはお粂の気も変わりますよ。」とまたお里がなんとなく夫寿平次に似て来たような冷静なところを見せて言った。「いくら読み書きの好きな娘だって、十八やそこいらで、そうはっきりした考えのあるもんじゃありませんよ。」
「お里の言うとおりさ。好きな小袖(こそで)でも造ってくれてごらん。それが何よりだよ。わたしたちの娘の時分には、お前、自分の箪笥(たんす)ができるのを何よりの楽しみにして、みんな他(よそ)へ嫁(かたづ)いたくらいだからねえ。」
とおばあさんも言葉を添えた。子から孫の代を見て、曾孫(ひいまご)まであるこのおばあさんは、深窓に人となった自分の娘時分のことをそこへ持ち出して見せた。ことに、その「箪笥」には力を入れて。
こんなことで、お民はそこそこに戻(もど)りのしたくした。馬籠の方に彼女を待つ夫ばかりでなく、娘のことも心にかかって、そう長くは生家(さと)に逗留(とうりゅう)しなかった。うこぎの芽にはやや早く、竹の子にもまだ早くて、今は山家も餅草(もちぐさ)の季節であるが、おばあさんはたまの里帰りの孫娘のために、あれも食わせてやりたい、これも食わせてやりたいと言う。その言葉だけでお民にはたくさんだった。来た時と同じように、彼女は鈴の鳴る巾着(きんちゃく)を和助の腰にさげさせ、それから下女のお徳の背におぶわせた。
「あれ、お民、もうお帰りかい。それでも、あっけない。和助もまたおいでや。この次ぎに来る時は大きくなっておいでや。まだまだおばあさんも達者(たっしゃ)で待っていますよ。」
このおばあさんにも、お民は別れを告げて出た。
街道には、伊勢参宮(いせさんぐう)の講中(こうじゅう)なぞが群がり集まるころである。木曾路ももはや全く以前のような木曾路ではない。お民の亡(な)き舅(しゅうと)、吉左衛門なぞが他の宿役人を誘い合わせ、いずれも定紋付きの麻の※[ころもへん+上]※[ころもへん+下](かみしも)を着用して、一通行あるごとに宿境(しゅくざかい)まで目上の人たちを迎えたり送ったりしたころの木曾路ではもとよりない。古い駅路の光景も変わった。あの諸大名が多数の従者を引きつれ、お抱(かか)えの医者までしたがえて、挾箱(はさみばこ)、日傘(ひがさ)、鉄砲、箪笥(たんす)、長持(ながもち)、その他の諸道具の行列で宿場宿場を埋(うず)めたような時は、もはや後方(うしろ)になった。まだそれでも明治二年のころあたりまでは、ぽつぽつ上京する大名や公卿(くげ)の通行を見、二十人から八十人までの縮小した供数でこの街道を通り過ぎて行ったが、それすら跡を絶つようになった。
「さあ。早くおいで。」
とお民はあとから山の中の街道を踏んで来るお徳を促した。そして、彼女が兄の口ぶりを借りて言えば、「土屋総蔵時代とは、まるで善悪の対照を見せつけられる」筑摩県の官吏を相手にして、尾州藩の手を離れてからこのかた、今や木曾山を失おうとする地方(じかた)の人民のために争えるだけ争おうとしているような夫半蔵の方へ帰って行った。
諸方の城郭も、今は無用の長物として崩(くず)されるまっ最中だ。上松(あげまつ)宿の原畑役所なぞが取り払われたのは、早くも明治元年のことである。それは尾州藩で建てた上松の陣屋とも、または木曾御材木役所とも呼び来たったところである。お民が人のうわさによく聞いた木曾福島の関所の建物、彼女の夫がよく足を運んだ山村氏の代官屋敷――すべてないものだ。二百何十年来この木曾地方を支配するようにそびえ立っていたあの三|棟(むね)の高い鱗茸(こけらぶ)きの代官屋敷から、広間、書院、錠口(じょうぐち)より奥向き、三階の楼、同心園という表居間(おもていま)、その他、木曾川に臨む大小三、四十の武家屋敷はことごとく跡形もなく取り払われた。
どれほどの深さに達するとも知れないような、この大きな破壊のあとには何が来るか。世にはいろいろと言う人がある。徳川十五代将軍が大政奉還を聞いた時に、よりよい古代の復帰を信じて疑わなかったような平田門人としても、彼女の夫たちはなんらかの形でこれに答えねばならなかった。 
第八章

 


母(はは)刀自(とじ)の枕屏風(まくらびょうぶ)に
いやしきもたかきもなべて夢の世をうら安くこそ過ぐべかりけれ
花紅葉(はなもみじ)あはれと見つつはるあきを心のどけくたちかさねませ
おやのよもわがよも老(おい)をさそへども待たるるものは春にぞありける
新しく造った小屏風がある。娘お粂(くめ)がいる。長男の宗太(そうた)がいる。継母おまんは屏風の出来をほめながら、半蔵の書いたものにながめ入っている。そこいらには、いたずらざかりな三男の森夫(もりお)までが物めずらしそうにのぞきに来ている。
そこは馬籠(まごめ)の半蔵の家だ。ただの住宅としてはもはや彼の家も広過ぎて、いたずらに修繕にのみ手がかかるところから、旧(ふる)い屋敷の一部は妻籠(つまご)本陣同様取り崩(くず)して桑畠(くわばたけ)にしたが、その際にも亡(な)き父|吉左衛門(きちざえもん)の隠居所だけはそっくり残して置いてある。おまんはその裏二階から桑畠のわきの細道を歩いて、食事のたびごとに母屋(もや)の方へと通(かよ)って来ている。その年、明治六年の春はおまんもすでに六十五歳の老婦人であるが、吉左衛門を見送ってからは髪も切って、さびしい日を隠居所に送っているので、この継母を慰めるために半蔵は自作の歌を紙に書きつけ、それを自意匠(じいしょう)の屏風に造らせたのであった。高さ二尺あまりほどのものである。杉柾(すぎまさ)の緑と白い紙の色との調和も、簡素を愛する彼の好みをあらわしていた。これを裏二階のすみにでも置いて戸障子のすきまから来る風のふせぎとしてもよし、風邪(かぜ)にでも冒された日の枕もとに置いて訪(おとな)う人もない時の友としてもよし、こんな彼の言葉も継母をよろこばせるのであった。
ちょうど、お民も妻籠(つまご)の生家(さと)の方へ出かけてまだ帰って来ない時である。半蔵のそばへ来て祖母たちと一緒に屏風の出来をいろいろに言って見るお粂も、もはや物に感じやすい娘ざかりの年ごろに達している。彼女は、母よりも父を多くうけついだ方で、その風俗(なり)なぞも嫁入り前の若さとしてはひどく地味づくりであるが、襟(えり)のところには娘らしい紅梅の色をのぞかせ、それがまた彼女によく似合って見えた。彼女はまた、こうした父の意匠したものなぞにことのほかのおもしろみを見つける娘で、これを父が書く時にも、そのそばに来て墨をすろうと言い、紙にむかって筆を持った父の手から彼女の目を放さなかったくらいだ。もともとこの娘の幼い時分から親の取りきめて置いた許嫁(いいなずけ)を破約に導いたのも、一切のものを根から覆(くつがえ)すような時節の到来したためであり、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかないからというのであって、旧(ふる)い約束事なぞは大小となく皆押し流された。小さな彼女の生命(いのち)が言いあらわしがたい打撃をこうむったのも、その時であった。でも、彼女はそうしおれてばかりいるわけでもない。祖母のためにと父の造った屏風なぞができて見ると、彼女はその深傷(ふかで)の底からたち直ろうとして努めるもののごとく平素の調子に帰って、娘らしい笑い声で父の心までも軽くさせる。
実に久しぶりで、半蔵は家のものと一緒にこんな時を送った。かねて長いこと心がけたあげくにできた隠居所向きの小屏風のそばなぞにわずかの休息の時を見つけるすら、彼にはめずらしいことであった。二月のはじめ以来、彼がその懐(ふところ)に筑摩(ちくま)県庁あての嘆願書の草稿を入れた時から、あちこちの奔走をつづけていて、ほとんど家をかえりみる暇(いとま)もなかったような人である。この奔走が半蔵にとって容易でなかったというは、戸長(旧|庄屋(しょうや)の改称)としての彼が遠からずやって来る地租改正を眼前に見て、助役相手にとかくはかの行かない地券調べのようなめんどうな仕事を控えているからであった。一方にはまた、学事掛りとしても、村の万福寺の横手に仮校舎の普請の落成するまで、さしあたり寺内を仮教場にあて、従来寺小屋を開いていた松雲和尚(しょううんおしょう)を相手にして、できるだけ村の子供の世話もしなければならないからであった。子弟の教育は年来の彼のこころざしであったが、まだ設備万端整わなかった。そういう彼は事を好んでこんな奔走をはじめたわけではない。これまで庄屋で本陣問屋を兼ねるくらいのところは荒蕪(こうぶ)を切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違なく、三百年の宿村(しゅくそん)の世話と街道の維持とに任じて来たのも、そういう彼らである。いよいよ従来の旧習を葬り去るような大きな革新の波が上にも下にも押し寄せて来た時、彼らもまた父祖伝来の家業から離れねばならなかったが、その際、報いらるることの少ない彼らの中には、もっと強く出てもいいと言い出したものがあり、この改革に不平を抱(いだ)いて、謹慎閉門の厳罰に処せられた庄屋問屋も少なくなかったくらいであるが、しかし半蔵なぞはそういう古い事に拘泥(こうでい)すべき場合でないとして、いさぎよく自分らをあと回しにしたというのも、決して他(ほか)ではない。あの東征軍が江戸城に達する前日を期して、陛下が全国人民に五つのお言葉を誓われたことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。あのお言葉こそすべてであった。ところが、地方の官吏にその人を得ないため、せっかくの御誓文(ごせいもん)の趣旨にも添いがたいようなことが、こんな山の中に住むものの目の前にまで起こって来た。それは木曾川(きそがわ)上流の沿岸から奥筋へかけての多数の住民の死活にもかかわり、ただ一地方の問題としてのみ片づけてしまえないことであった。それが山林事件だ。 

「海辺の住民は今日漁業と採塩とによって衣食すると同じように、山間居住の小民にもまた樹木鳥獣の利をもって渡世を営ませたい。いずこの海辺にも漁業と採塩とに御停止と申すことはない。もっとも、海辺に殺生禁断の場処があるように、山中にも留山(とめやま)というものは立て置かれてある。しかし、それ以外の明山(あきやま)にも、この山中には御停止木(おとめぎ)ととなえて、伐採を禁じられて来た無数の樹木のあるのは、恐れながら庶民を子とする御政道にもあるまじき儀と察したてまつる。」
これは木曾谷三十三か村の総代十五名のものが連署して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件とは、この海辺との比較にも言って見せてあるように、最初は割合に単純な性質のものであった。従来|尾州(びしゅう)領であったこの地方では、すべてにわたり同藩保護の下に発達して来たようなもので、各村とも榑木御切替(くれきおきりか)えととなえて、年々の補助金を同藩より受け、なお、補助の目的で隣国|美濃(みの)の大井村その他の尾州藩管下の村々から輸入されて来る米の代価も、金壱両につき年貢金納(ねんぐきんのう)値段よりも五升安の割合で、それも翌年の十二月中に代金を返済すればいいほどの格別な取り扱いを受けて来た。いよいよ廃藩置県が実現され、一藩かぎりで立てて置いた制度もすべて改革される日が来て見ると、明治四年を最後としてこれらの補助を廃止する旨の名古屋県からの通知があり、おまけに簡易省略の西洋流儀に移った交通事情の深い影響をうけて、木曾路を往来する旅人からも以前のようには土地を潤してもらえなくなった。この事情を当局者にくんでもらって、今度の改革を機会に享保(きょうほう)以前の古(いにしえ)に復し、木曾谷中の御停止木(おとめぎ)を解き、山林なしには生きられないこの地方の人民を救い出してほしい。これが最初の嘆願書の趣意であった。その起草にも半蔵が当たった。彼らがこれを持ち出したのは、木曾地方もまさに名古屋県の手を離れようとしたころで、当時は民政|権判事(ごんはんじ)としての土屋総蔵もまだ在職したが、ちょうど名古屋へ出かけた留守の時であった。そこでこの願書は磯部弥五六(いそべやごろく)が取り次ぎ、岩田市右衛門(いわたいちえもん)お預かりということになった。いずれ土屋|権大属(ごんだいぞく)帰庁の上で評議にも及ぶであろう、それまではまずまず預かり置く、そんな話で、王滝(おうたき)、贄川(にえがわ)、藪原(やぶはら)の三か村から出た総代と共に、半蔵は福島出張所から引き取って来た。もし土屋総蔵のような理解のある人に今すこしその職にとどまる時を与えたらと、谷中の戸長仲間でそれを言わないものはなかった。不幸にも、総蔵は筑摩県の官吏らに一切を引き渡し、前途百年の計をあとから来るものに託して置いて、多くの村民に惜しまれながらこの谷を去った。
木曾地方が筑摩県の管轄に移されたのは、それから間もなくであった。明治五年の二月には松本を所在地とする新しい県庁からの申し渡し、ならびに布令書(ふれがき)なるものが、早くもこの谷中へ伝達されるようになった。とりあえず半蔵らはその請書(うけしょ)を認(したた)め、ついでにこの地方の人民が松本辺の豊饒(ほうじょう)な地とも異なり深山幽谷の間に居住するもののみであることを断わり、宿場(しゅくば)全盛の時代を過ぎた今日となっては、茶屋、旅籠屋(はたごや)をはじめ、小商人(こあきんど)、近在の炭(すみ)薪(まき)等を賄(まかな)うものまでが必至の困窮に陥るから、この上は山林の利をもって渡世を営む助けとしたいものであると、その請書を出す時には御停止木のことに触れ置いてあった。当時の信濃(しなの)の国は長野県と筑摩県との二つに分かれ、筑摩県の管轄区域は伊那(いな)の谷から飛騨(ひだ)地方にまで及んでいた。本庁所在地松本以外の支庁も飯田(いいだ)と高山(たかやま)とにしか取り設けてなかったほどの草創の時で、てんで木曾福島あたりにはまだ支庁も置かれなかった。遠い村々から松本までは二十里、三十里である。何事を本庁に届けるにもその道を踏まねばならぬ。それだけでも人民疾苦の種である。半蔵らの請書はその事にも言い及んであった。東北戦争以来、すでにそのころは四年の月日を過ぎ、一藩かぎりの制度も改革されて、徳川旧幕府の人たちですら心あるものは皆待ち受けていた新たな郡県の時代が来た。これは山間居住の民にとっても見のがせない機会であったのだ。
もともとこの山林事件は明治初年にはじまった問題でもなく、実は旧領主と人民との間に続いた長い紛争の種で、御停止木のことは木曾谷第一の苦痛であるとされていた。こんなに明治になってまた活(い)き返って来たというのも決して偶然ではない。それは宿村の行き詰まりによることはもちろんであるが、一つには明治もまだその早いころで、あらゆるものに復古の機運が動いていたからであった。当時、深い草叢(くさむら)の中にあるものまでが時節の到来を感じ、よりよい世の中を約束するような新しい政治を待ち受けた。従来の陋習(ろうしゅう)を破って天地の公道に基づくべしと仰せ出された御誓文の深さは、どれほどの希望を多くの民に抱(いだ)かせたことか。半蔵らが山林に目をつけ、今さらのように豊富な檜木(ひのき)、椹(さわら)、明檜(あすひ)、高野槇(こうやまき)、それから※[木+鑞のつくり](ねずこ)などの繁茂する森林地帯の深さに驚き、それらのみずみずしい五木がみな享保年代からの御停止木であるにも驚き、そこに疲弊した宿村の救いを見いだそうとしたことは無理だったろうか。彼らが復古のできると思った証拠には、最初の嘆願書にも御誓文の中の言葉を引いて、厚い慈悲を請う意味のことを書き出したのでもわかる。やがて、筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、権中属(ごんちゅうぞく)の本山盛徳が主任の官吏として木曾の村々へ派出される日を迎えて見ると、この人はまた以前の土屋総蔵なぞとは打って変わった態度をとった。もしも人民の請いをいれ、木曾山を解き放ち、制度を享保以前の古に復し、これまで明山(あきやま)ととなえて来た分は諸木何品に限らず百姓どもの必要に応じて伐(き)り採ることを許したなら、せっかく尾州藩で保護して来た鬱蒼(うっそう)とした森林はたちまち禿山(はげやま)に変わるであろうとの先入主となった疑念にでも囚(とら)われたものか、本山盛徳は御停止木の解禁なぞはもってのほかであるとなし、木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をもあわせすべて官有地と心得よとの旨(むね)を口達した。この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところはことごとく官有地なりとされ、従来の慣例いかんにかかわらず、官有林に編入せられることになる。これには人民一同|狼狽(ろうばい)してしまった。
過ぐる月日の間、半蔵はあちこちの村々から腰縄付(こしなわつ)きで引き立てられて行く不幸な百姓どもを見て暮らした。人民入るべからずの官有林にはいって、盗伐の厳禁を犯すものが続出した。これをその筋の人に言わせたら、規則の何たるをわきまえない無知と魯鈍(ろどん)とから、村民自ら犯したことであって、さらに寛恕(かんじょ)すべきでないとされたであろう。
それにつけても、まだ半蔵には忘れることのできないずっと年若な時分の一つの記憶がある。馬籠村じゅうのものが吟味のかどで、かつて福島から来た役人に調べられたことがある。それは彼の本陣の家の門内で行なわれた。広い玄関の上段には、役人の年寄(としより)、用人(ようにん)、書役(かきやく)などが居並び、式台のそばには足軽(あしがる)が四人も控えた。村じゅうのものがそこへ呼び出された。六十一人もの村民が腰縄手錠で宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。七十歳以上の老年は手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは遺族の「お叱(しか)り」ということにとどめられたが、それも特別の憐憫(れんびん)をもってと言われたのも、またその時だ。そのころの半蔵はまだ十八歳の若さで、庭のすみの梨(なし)の木のかげに隠れながらのぞき見をしていたために、父吉左衛門からしかられたことがある。そんなにたくさんなけが人を出したことも、村の歴史としてはかつて聞かなかったことだと父も言っていた。彼はあの役人たちが吟味のために村に入り込むといううわさでも伝わると、あわてて不用の材木を焼き捨てた村の人のあったことを想(おも)い起こすことができる。「昔はこの木曾山の木一本|伐(き)ると、首一つなかったものだぞ」なぞと言って、陣屋の役人から威(おど)されたのもあの時代だ。それほど暗いと言わるる過去ですら、明山(あきやま)は五木の伐採を禁じられていたにとどまる。その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を跋渉(ばっしょう)して、雑木を伐採したり薪炭(しんたん)の材料を集めたりすることができた。今になって見ると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もある。寒い地方に必要な薪炭ややせた土を培(つちか)うための芝草を得たいにも、近傍付近は皆官有地であるような場所もある。木曾谷の人民は最初からの嘆願を中止したわけでは、もとよりない。いかに本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則のお請けはできかねるというのが人民一同の言い分であった。耕地も少なく、農業も難渋で、生活の資本(もとで)を森林に仰ぎ、檜木笠(ひのきがさ)、めんぱ(割籠(わりご))、お六櫛(ろくぐし)の類(たぐい)を造って渡世とするよりほかに今日暮らしようのない山村なぞでは、ほとんど毎戸かわるがわる腰縄付きで引き立てられて行くけが人を出すようなありさまになって来た。半蔵らが今一度嘆願書の提出を思い立ち、三十三か村の総代として直接に本県へとこころざすようになったのも、この郷里のありさまを見かねたからである。
この再度の奔走をはじめる前、半蔵のしたくはいろいろなことに費やされた。明治五年の二月に、彼は早くも筑摩県庁あて嘆願書の下書きを用意したが、いかに言っても郡県の政治は始まったばかりの時で、種々(さまざま)な事情から差し出すことを果たさなかった。それからちょうど一年待った。明治六年の二月まで、彼は古来の沿革をたずねることや、古書類をさがすことに自分のしたくを向けた。ある村の惣百姓(そうひゃくしょう)中から他村の衆にあてた証文とか、ある村の庄屋|組頭(くみがしら)から御奉行所に出した一札とか、あるいは四か村の五人組総代から隣村の百姓衆に与えた取り替え証文とかいうふうに。さがせばさがすほど、彼の手に入る材料は、この古い木曾山が自由林であったことを裏書きしないものはなかった。言って見れば、この地方の遠い古(いにしえ)は山にたよって樵務(きこり)を業とする杣人(そまびと)、切り畑焼き畑を開いて稗(ひえ)蕎麦(そば)等の雑穀を植える山賤(やまがつ)、あるいは馬を山林に放牧する人たちなぞが、あちこちの谷間(たにあい)に煙を立てて住む世界であったろう。追い追いと人口も繁殖する中古のころになって、犬山の石川備前守(いしかわびぜんのかみ)がこの地方の管領であった時に、谷中|村方(むらかた)の宅地と開墾地とには定見取米(じょうみとりまい)、山地には木租(ぼくそ)というものを課せられた。もとより米麦に乏しい土地だから、その定見取米も大豆や蕎麦や稗(ひえ)などで納めさせられたが、年々おびただしい木租を運搬したり、川出ししたりする費用として、貢納の雑穀も春秋二度に人民へ給与せられたものである。さて、徳川治世のはじめになって、この谷では幕府直轄の代官を新しい主人公に迎えて見ると、それが山村氏の祖先であったが、諸事石川備前守の旧例によることには変わりはなかった。慶長(けいちょう)年代のころには定見取米を御物成(おものなり)といい、木租を御役榑(おやくくれ)という。名はどうあろうとも、その実は同じだ。この貢納の旧例こそは、何よりも雄弁に木曾谷山地の歴史を語り、一般人民が伐木と開墾とに制限のなかったことを証拠立てるものであった。もっとも、幕府では木租の中を割(さ)いて、白木(しらき)六千|駄(だ)を木曾の人民に与え、白木五千駄を山村氏に与え、別に山村氏には東美濃地方に領地をも与えて、幕府に代わって東山道中要害の地たる木曾谷と福島の関所とを護(まも)らせた。それより後、この谷はさらに尾州の大領主の手に移り、山村氏が幕府直轄を離れて名古屋の代官を承るようになって、尾州藩では山中の区域を定める方針を立てた。巣山(すやま)、留山(とめやま)、明山(あきやま)の区別は初めてその時にできた。巣山と留山とは絶対に人民のはいることを許さない。しかし明山は慶長年間より享保八年まで連綿として人民が木租を納め来たった場所であるからと言って、自由に入山(いりやま)伐木を許し、なお、木租の上納を免ずる代償として、許可なしに五木を伐採することを禁じたのである。
こんな動かせない歴史がある。半蔵はそれらの事実から、さらにこの地方の真相を探り求めて、いわゆる木曾谷中の御免檜物荷物(ごめんひのきものにもつ)なるものに突き当たった。父吉左衛門が彼に残して行った青山家の古帳にも、そのことは出ている。それは尾州藩でも幕府直轄時代からの意志を重んじ、年々山から伐り出す檜類のうち白木六千駄を谷中の百姓どもに与えるのをさす。それを御免荷物という。そのうちの三千駄は檜物御手形(ひのきものおてがた)ととなえて人民の用材に与え、残る三千駄は御切替(おきりか)えととなえて、この分は追い追いと金に替えて与えた。彼が先祖の一人(ひとり)の筆で、材木通用の跡を記(しる)しつけた御免荷物の明細書によると、毎年二百駄ずつの檜、椹(さわら)の類は馬籠村民にも許されて来たことが、その古帳の中に明記してある。尾州藩ですらこのとおり、山間居住の容易でないことを察し、人民にわかち与えることを忘れなかった。郡県とも言わるる時代の上に立つものが改革の実をあげようとするなら、深くこの谷を注目し、もっと地方の事情にも通じて、生民の期待に添わねばなるまいと彼には思われた。
嘆願書はできた。二月はじめから四月まで、半蔵はあちこちの村を訪(たず)ね回って、戸長らの意見をまとめることに砕心した。草稿の修正を求める。清書する。手を分けて十五人の総代の署名と調印とを求めに回る。いよいよ来たる五月十二日を期して、贄川(にえがわ)、藪原(やぶはら)、王滝(おうたき)、馬籠(まごめ)の四か村から出るものが一同に代わって本庁の方へ出頭するまでの大体の手はずをきめる。彼も心から汗が出た。この上は、御嶽山麓(おんたけさんろく)の奥にある王滝村を訪ねさえすれば、それで一切の打ち合わせを終わるまでにこぎつけた。彼はそれを早く済まして来るつもりで、自分の村方の用事を取りかたづけ、学校の子供の世話は松雲和尚に頼み、今は妻の帰りを待って王滝の方へ出かけられるばかりになった。
こういう中で、彼は自分のそばへ来る娘の口から、ちょっと思いがけないことを聞きつけないでもなかった。
「お父(とっ)さん、おねがいですから、わたしもお供させて。」
そのこころは、父の行く寂しい奥山の方へ娘の足でもついて行かれないことはあるまいというにあるらしい。
これには半蔵も返事にこまった。いろいろにお粂(くめ)を言いなだめた。娘も妙なことを言うと彼は思ったが、あれもこれもと昼夜心を砕いた山林の問題が胸に繰り返されていて、お粂の方で言い出したことはあまり気にも留めなかった。 

お民は妻籠(つまご)の生家(さと)の話を持って、和助やお徳を連れながらそこへ帰って来た。
「お民、寿平次さんはなんと言っていたい。」
「木曾山のことですか。兄さんはなんですとさ、支庁のお役人がかわりでもしないうちはまずだめですとさ。」
「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」
半蔵夫婦はこんな言葉をかわしたぎり、ゆっくり話し合う時も持たない。妻籠|土産(みやげ)の風呂敷包(ふろしきづつ)みが解かれ、これは宗太に、これは森夫にと、留守居していた子供たちをよろこばせるような物が取り出されると、一時家じゅうのものは妻籠の方のうわさで持ち切る。妻籠のおばあさんからお粂にと言って、お民は紙に包んだ美しい染め糸なぞを娘の前にも取り出す。お徳の背中からおろされた四男の和助はその皆の間をはい回った。
半蔵はすでに村の髪結い直次を呼び寄せ、伸びた髭(ひげ)まで剃(そ)らせて妻を待ち受けているところであった。鈴(すず)の屋(や)の翁(おきな)以来、ゆかりの色の古代紫は平田派の国学者の間にもてはやされ、先師の著書もすべてその色の糸で綴(と)じられてあるくらいだが、彼半蔵もまたその色を愛して、直次の梳(す)いてくれたのを総髪(そうがみ)にゆわせ、好きな色の紐(ひも)を後ろの方に結びさげていた。吉左衛門の時代から出入りする直次は下女のお徳の父親に当たる。
「お民、おれは王滝の方へ出かけるんだぜ。」
それをみんなまで言わせないうちに、お民は夫の様子をみて取った。妻籠の兄を見て来た目で、まったく気質のちがった夫の顔をながめるのも彼女だ。その時、半蔵は店座敷の方へ行きかけて、
「おれは、いつでも出かけられるばかりにして、お前の帰りを待っていたところさ。お前の留守に、お母(っか)さんの枕屏風(まくらびょうぶ)もできた。」
そういう彼とても、娘の縁談のことでわざわざ妻籠まで相談に行って来たお民と同じ心配を分けないではない。年ごろの娘を持つ母親の苦労はだれだって同じだと言いたげなお民の顔色を読まないでもない。まだお粂にあわない人は、うわさにだけ聞いて、どんなやせぎすな、きゃしゃな子かと想像するが、あって見て色白な肥(ふと)ったからだつきの娘であるには、思いのほかだとよく人に言われる。そのからだにも似合わないような傷(いた)みやすい小さなたましいが彼女の内部(なか)には宿っていた。お粂はそういう子だ。父祖伝来の問屋役廃止以来、本陣役廃止、庄屋役廃止と、あの三役の廃止がしきりに青山の家へ襲って来る時を迎えて見ると、女一生の大事ともいうべき親のさだめた許嫁(いいなずけ)までが消えてゆくのを見た彼女は、年取った祖母たちのように平気でこの破壊の中にすわってはいられなかった子だ。伊那の南殿村、稲葉の家との今度の縁談がおまんの世話であるだけに、その祖母に対しても、お粂は一言(ひとこと)口出ししたこともない。半蔵らの目に映るお粂はただただひとり物思いに沈んでいる娘である。
ふと、半蔵は歩きながら思い出したように、店座敷の方へ通う廊下の板を蹴(け)った。机の上にも、床の間にも、古書類が積み重ねてある自分の部屋(へや)へ行ってから、また彼は山林の問題を考えた。
「あれはああと、これはこうと。」
半蔵のひとり言だ。
隣家からは陰ながら今度の嘆願書提出のことを心配して訪(たず)ねて来る伏見屋の伊之助があり、妻籠までお民が相談に行った話の様子も聞きたくて、その日の午後のうちには半蔵も馬籠を立てそうもなかった。伊之助は福島支庁の主任のやり口がどうも腑(ふ)に落ちないと言って、いろいろな質問を半蔵に出して見せた。たとえば、この村々に檜(ひのき)類のあるところは人民の私有地たりともことごとく官有地に編み入れるとは。また、たとえば、しいてそれを人民が言い立てるなら山林から税を取るが、官有地にして置けばその税も出さずに済むとはの類(たぐい)だ。
廃藩置県以来、一村一人ずつの山守(やまもり)、および留山(とめやま)見回りも廃されてから、伊之助もその役から離れて帯刀と雑用金とを返上し、今では自家の商業に隠れている。この人は支庁主任の処置を苦々(にがにが)しく思うと言い、木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわることを黙って見ていられるはずもないが、自分一個としてはまずまず忍耐していたいと言って帰って行く。やがて、夕飯にはまだすこし間のあるころに、半蔵は妻と二人(ふたり)ぎりで店座敷に話すことのできる時を見つけた。
「いや、お粂のやつが妙なことを言い出した。」
とその時、半蔵は娘のことをお民の前に持ち出した。彼はその言葉をついで、
「何さ。おれが王滝へ行くなら、あれも一緒に供をさせてくれと言うんさ。」
「まあ。」
「御嶽里宮(おんたけさとみや)のことはあれも聞いて知ってるからね、何かお参りでもしたいようなあれの口ぶりさ。」
「そんな話はわたしにはしませんよ。」
「あれも思い直したんだろう。なんと言ってもお粂もまだ若いなあ。おれがあのお父(とっ)さんの病気を祷(いの)りに行った時にも、勝重(かつしげ)さんが一緒について行くと言って困った。あの時もおれは清助さんに止められて、あんな若い人を一緒に参籠(さんろう)に連れて行かれますかッて言われた。それでも勝重さんは行きたいと言うもんだから、しかたなしに連れて行った。懲りた。今度はおれ一人だ。それに娘なぞを連れて行く場合じゃない。ごらんな、十八やそこいらで、しかも女の足で、あんなお宮の方へ行かれるものかね。ばかなッて、おれはしかって置いたが。」
「まあ、嫁入り前のからだで、どうしてそんな気になるんでしょう。」
夫婦の間にはこんな話が出る。お民はわざわざ妻籠まで行って来た娘の縁談のことをそこへ言い出そうとして、幾度となく口ごもった。相談らしい相談もまとまらずじまいに帰って来たからであった。半蔵の方で聞きたいと思っていたことも、それについての妻籠の人たちの意見であるが、お民はまず生家(さと)に着いた時のことから、あの妻籠旧本陣の表庭に手造りの染め糸を乾(ほ)していたおばあさんやお里を久しぶりに見た時のことからその話を始める。着いた日の晩に、和助を早く寝かしつけて置いて、それからおばあさんや兄や嫂(あによめ)と集まったが、お粂のようすを生家(さと)の人たちの耳に入れただけで、その晩はまだ何も言い出せなかったという話になる。「フム、フム。」と言って聞いていた半蔵は話の途中でお民の言葉をさえぎった。
「つまり、おばあさんたちはどう言うのかい。」
「まあ、兄さんの意見じゃ、この縁談はすこし時がかかり過ぎたと言うんですよ。もっとずんずん運んでしまうとよかったと言うんですよ。」
「いや、おれは今、そんなことを聞いてるんじゃない。つまり、どうすればいいかッて聞いてるんさ。」
「ですから、お里さんの言うには、まだ御祝言(ごしゅうげん)には間もあることだし、そのうちにはお粂の気も変わるだろうから、もうすこし様子を見るがいいと言うんですよ。そうはっきりした考えがお粂の年ごろにあるもんじゃない。お里さんはその意見です。気に入った小袖(こそで)でも造ってくれてごらん、それが娘には何よりだッて、おばあさんも言っていました。」
そんな話から、お民は娘のためにどんな着物を選ぼうかの相談に移って行った。幸い京都|麩屋町(ふやまち)の伊勢久(いせきゅう)は年来懇意にする染め物屋であり、あそこの養子も注文取りに美濃路(みのじ)を上って来るころであるから、それまでにあつらえる品をそろえて置きたいと言った。どんな染め模様を選んだら、娘にも似合って、すでに結納(ゆいのう)の品々まで送って来ている南殿村の人たちによろこんでもらえるだろうかなぞの相談も出た。
「そういうこまかいことは、お母(っか)さんやお前によろしく頼む。」
「あなたはそれだもの。なんにもあなたは相談してくださらない。」
「そんなお前のようなことを言ったって、おれだって、今――」
「そりゃ、あなたのいそがしいぐらい、知ってますよ。あなたのように一つ事に夢中になる人を責めたってしかたない。まあ、する事をしてください。お粂のしたくはお母さんと二人でよく相談します。あなたはいったい、わたしの話すことを聞いているんですか……」
それぎりお民は口をつぐんでしまって、半蔵のそばに畳を見つめたぎり、身動きもしなかった。長いこと夫婦は沈黙のままで相対していた。奥の部屋(へや)の方に森夫らのけんかする声を聞きつけて、やっとお民はその座を立ち、自分の子供を見に行った。いつものように夕飯の時が来ると、家のもの一同広い囲炉裏ばたに集まったが、旧本陣時代からの習慣としてその囲炉裏ばたには家長から下男までの定められた席がある。子供らの食事する席にも年齢(とし)の順がある。やがて隠居所から通(かよ)って来るおまんをはじめ、一日の小屋仕事を終わった下男の佐吉までがめいめいの箱膳(はこぜん)を前に控えると、あちらからもこちらからも味噌汁(みそしる)の椀(わん)なぞを給仕するお徳の方へ差し出す。お民は和助をそばに置いて、黙って食った。半蔵は継母の顔をながめ、姉娘のお粂が弟たちと並んでいる顔をながめ、それからお民の顔をながめて、これも黙って食った。その晩、彼は店座敷の方にいて、翌朝王滝へ出かけるしたくなぞしたが、ろくろく口もきかないでいるお民をどうすることもできなかった。実に些細(ささい)なことが人を傷(いた)ませる。彼に言わせると、享保以前までの彼の先祖はみな無給で庄屋を勤めて来たくらいで、村の肝煎(きもいり)とも百姓の親方とも呼ばれたものである。その家に生まれた甲斐(かい)には、せめてこういう時の役に立ちたいものだとは、日ごろの彼の願いであって、あえておろそかにするつもりで妻子を顧みないではないのにと、彼はこれまで用意した嘆願書を筑摩県本庁の方へ持ち出しうる日のことを考えて、わずかに心を慰めようとした。木曾谷中に留山と明山との区別もなかった時分の木租のことを万一本庁の官吏から尋ねられた場合にはと、自分で自分に問うて見る。それに答えることは、そう困難でもなかった。ずっと以前の山地に檜榑(ひのきくれ)二十六万八千余|挺(ちょう)、土居(どい)四千三百余|駄(だ)の木租を課せられた昔もあるが、しかもその木租のおびただしい運搬川出し等の費用として、人民の宅地その他の課税は差し引かれたも同様に給与せられたと答えることができた。その晩は、彼は香蔵からもらった手紙をも枕(まくら)もとに取り出し、あの同門の友人が書いてよこした東京の便(たよ)りを繰り返し読んで見たりなぞして、きげんの悪い妻のそばに寝た。
王滝行きの日は半蔵は早く起きて、活(い)きかえるような四月の朝の空気を吸った。お民もまたきげんを直しながら夫が出発のしたくを手伝うので、半蔵はそれに力を得た。彼は好きで読む歌書なぞを自分の懐中(ふところ)へねじ込んだ。というは、戸長の勤めの身にもわずかの閑(ひま)を盗み、風雅に事寄せ、歌の友だちを訪(たず)ねながら、この総代仲間の打ち合わせを果たそうとしたからであった。
「どうだ、お民。だれかに途中であって、どちらへなんて聞かれたら、おれはこの懐中(ふところ)をたたいて見せる。」
と彼は妻に言って見せた。そういう彼は袴(はかま)を着け、筆を携え、腰に笛もさしていた。
「まあ、おもしろい格好だこと。」とお民は言って、そこへ飛んで来た娘にも軽々とした夫のみなりをさして見せて、「お粂、御覧な、お父(とっ)さんは笛を腰にさしてお出かけだよ。」
「はッ、はッ、はッ、はッ。」
半蔵は妻の手から笠(かさ)を受け取りながら笑った。
「お粂、王滝のお宮の方へ行ったら、お前の分もお参りして来てやるよ。」
との言葉を彼は娘にも残した。
したくはできた。そこで半蔵は飄然(ひょうぜん)と出かけた。戸長の旅費、一日十三銭の定めとは、ちょっと後世から見当もつかない諸物価のかけ離れていた時代だ。それも戸敷割でなしに、今度は彼が自分|賄(まかな)いの小さな旅だった。馬籠から妻籠まで行って、彼はお民の生家(さと)へ顔を出し、王滝行きの用件を寿平次にも含んで置いてもらって、さらに踏み慣れた街道を奥筋へと取った。妻籠あたりで見る木曾谷は山から伐り出す材木を筏(いかだ)に組んで流す冬期の作業のための大切な場所の一つにも当たる。その辺まで行くと、薄濁りのした日も緑色にうつくしい木曾川の水が白い花崗(みかげ)の岩に激したり、石を越えたりして、大森林の多い川上の方から瀬の音を立てながら渦巻(うずま)き流れて来ている。 

「老先生へも久しくお便(たよ)りしない。」
野尻(のじり)泊まりでまた街道を進んで行くうちに、半蔵はそんなことを胸に浮かべた。馬籠を立ってから二日目の午後のこと、街道を通る旅人もすくなくない。猿(さる)を背中にのせた旅の芸人なぞは彼のそばを行き過ぎつつある。あくせくとしたその奔走の途中にふと彼は同門の人たちの方へ思いを馳(は)せ、師平田|鉄胤(かねたね)の周囲にある先輩らをも振り返って見た。木と木と重なり合う対岸の森の深さが、こちらの街道から見られるようなところだ。
「及ばずながら、自分も復古のために働いている。」
その考えが彼を励ました。彼も、師を忘れてはいなかった。
家に置いて来た娘お粂のことも心にかかりながら、半蔵はその足で木曾の桟(かけはし)近くまで行った。そこは妻籠あたりのような河原(かわら)の広い地勢から見ると、ずっと谷の狭(せば)まったところである。木曾路での水に近いところである。西よりする旅人は道路に迫った崖(がけ)に添い、湿っぽい坂を降りて行って、めずらしい草や苔(こけ)などのはえている岩壁の下の位置に一軒の休み茶屋を見いだす。半蔵もそこまで行って汗をふいた。偶然にも、通弁の男を連れ、荷物をつけた馬を茶屋の前に停(と)めて、半蔵のそばへ来て足を休める一人の旅の西洋人があった。それ異人が来たと言って、そこいらに腰掛けながら休んでいた旅人までが目を円(まる)くする。前からも後ろからものぞきに行くものがある。もはや、以前のような外人殺傷ざたもあまり聞こえなくなったが、まだそれでも西洋人を扱いつけないものはどんな間違いを引き起こさまいものでもないと言われ、外人が旅行する際の内地人の心得書なるものが土屋総蔵時代に馬籠の村へも回って来ている。それを半蔵も読んで見たことはある。しかし彼の覚えているところでは、この木曾路にまだ外人の通行者のあったためしを聞かない。試みに彼は通弁の方へ行って、自分がこの地方の戸長の一人であることを告げ、初めて見る西洋人の国籍、出発地、それから行く先などを尋ねた。生まれはイギリスの人で、香港(ホンコン)から横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれるはずの愛知県英語学校の準備をするため、教師として雇われて行く途中にあるという。東海道回りで赴任しないのは、日本内地の旅が試みたいためであるともいう。そのイギリス人は何を思ったか、いきなり上衣のかくしにいれている日本政府の旅行免状を出して示そうとするから、彼はその必要のないことを告げた。そのイギリス人はまた、彼の職業を通弁から聞いて、この先の村は馬を停(と)めるステーションのあるところかと尋ねる。彼は言葉も通じないから、先方で言おうとすることをどう解していいかわからなかったが、人馬|継立(つぎた)ての駅ならこの山間に十一か所あると答え、かつては彼もその駅長の一人であったことを告げた。
通弁を勤める男も慣れたものだ。異人の言葉を取り次ぐことも、旅の案内をすることも、すべて通弁がした。その男は外国人を連れて内地を旅することのまだまだ困難な時であることを半蔵に話し、人家の並んだ宿場風の町を通るごとに多勢ぞろぞろついて来るそのわずらわしさを訴えた。
「へえ、名物あんころ餅(もち)でございます。」
と言って休み茶屋の婆(ばあ)さんが手造りにしたやつを客の間へ配りに来た。唖(おし)の旅行者のような異人は通弁からその説明を聞いたぎり、試食しようともしなかった。
間もなく半蔵はこの御休処(おやすみどころ)とした看板のかかったところを出た。その日の泊まりと定めた福島にはいって懇意な旅籠屋(はたごや)に草鞋(わらじ)をぬいでからも、桟(かけはし)の方で初めて近く行って見た思いがけない旅の西洋人の印象は容易に彼から離れなかった。過ぐる嘉永(かえい)六年の夏に、東海道浦賀の宿、久里(くり)が浜(はま)の沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、下田(しもだ)へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい力でもって、今は早瀬を上る鮎(あゆ)のようにこんな深い山間までも入り込んで来た。昨日の黒船は、今日の愛知県の教師だ。これには彼も驚かされた。
福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、行人橋(ぎょうにんばし)から御嶽山道について常磐(ときわ)の渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてある筏(いかだ)を待ち、その渡しをも渡って、以前にも泊めてもらった王滝の禰宜(ねぎ)の家の人たちの声を久しぶりで聞いた。
「お客さまだぞい。馬籠の本陣からおいでたげな。」
「おゝ、青山さんか。これはおめずらしい。」
王滝の戸長遠山五平は禰宜の家からそう遠くない住居(すまい)の方で、この半蔵が自分の村に到着するのを今日か明日かと心待ちに待ちうけているところであった。山林事件の嘆願書提出については、五平は最初から半蔵の協力者で、谷中総代十五名の中でも贄川(にえがわ)、藪原(やぶはら)二か村の戸長を語らい合わせ、半蔵と共に名古屋県時代の福島出張所へも訴え出た仲間である。今度二度目の嘆願がこれまでにしたくの整ったというのも、上松(あげまつ)から奥筋の方を受け持った五平の奔走の力によることが多かった。それもいわれのないことではない。この人は先祖代々御嶽の山麓(さんろく)に住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけての地方(じかた)の世話を一手に引き受けて、木曾山の大部分を失いかけた人民の苦痛を最も直接に感ずるものの一人もこの旧(ふる)い庄屋だからであった。王滝は馬籠あたりのように木曾街道に添う位置にないから、五平の家も本陣問屋は兼ねず、したがって諸街道の交通輸送の事業には参加しなかったが、人民と土地とのことを扱う庄屋としては尾州代官の山村氏から絶えず気兼ねをされて来たほどの旧い家柄でもある。
半蔵が禰宜(ねぎ)の家に笠(かさ)や草鞋(わらじ)をぬいで置いて、それから訪(たず)ねて行った時、五平の言葉には、
「青山さん、わたしのように毎日山に対(むか)い合ってるものは、見ちゃいられませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです。」
というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼う鯉(こい)か、王滝川まで上って来る河魚(かわうお)ぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い青串魚(さんま)なぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を諳記(そらん)じていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。
いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、山守(やまもり)があり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただしい数に上り、同藩の財源としてもこの森林地帯を重くみていたように世間から思われがちであるが、その実、河水を利用する檜材の輸送には莫大(ばくだい)な人手と費用とを要し、小谷狩(こたにがり)、大谷狩から美濃の綱場を経て遠い市場に送り出されるまで、これが十露盤(そろばん)ずくでできる仕事ではないという。それでもなおかつ尾州藩が多くの努力を惜しまなかったというは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曾川下流の氾濫(はんらん)に備えるためで、同藩が治水事業に苦しんで来た長い歴史は何よりもその辺の消息を語っているとも言わるる。もっとも、これは川下の事情にくわしい人の側から言えることで、遠く川上の方の山の中に住み慣れた地方(じかた)の人民の多くはそこまでは気づかなかった。ただ、この深い木曾谷が昼でも暗いような森林におおわれた天然の嶮岨(けんそ)な難場(なんば)であり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者の監視を必要としたほどの封建組織のためにも、徳川直属の代官によって護(まも)られ、尾州大藩によっても護られて来た東山道中の特別な要害地域であったろうとは、半蔵らにも考えられることであった。
五平は半蔵の方を見て、
「さあ、これが尾州の方へ聞こえたら、旧藩の人たちもどう言いますかさ。支庁のやり口が本当で、木曾の人民の方が無理だと言いますかさ。なんでもわたしの聞いたところじゃ、版籍奉還ということはだいぶ話が違う。版地民籍の奉還と言いましたら、土地も人民も朝廷へ返上することだと、わたしは承知してます。万民を王化に浴させたい。あの尾州あたりが他藩に率先して朝廷へ返上したのも、その趣意から出たことじゃありませんか。こんなにけが人を出してもかまわないつもりで、旧領の山地を返上したわけじゃありますまいに。」
こんな話の出た後、五平は半蔵の方から預かって置いた山林事件用の書類をそこへ取り出した。半蔵の起草した筑摩県庁あての嘆願書は十五人の総代の手を回って、五平の手もとまで返って来ている。藪原村の戸長を筆頭にして、一同の署名と調印とを済ましたものがそこにある。嘆願書とした文字の上には、うやうやしく「上」と記し「恐れながら書付をもって願い上げ奉り候(そうろう)御事」の書き出しが読まれる。従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、今般の御改革で郡県の政治を行なわれるについては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたいと述べてある。別に年来の情実を本庁の官吏によく知ってもらうため、谷中の人民から旧領主に訴えたことのある古い三通の願書の写しをも添えることにしてある。
「この古い願書の写しを添えて出すことが大切です。」
「さようだ。今日にはじまった問題でもないことがわかりますで。」
二人(ふたり)はこんな言葉をかわした。いよいよ来たる五月の十二日を期して再度の嘆願書を差し出すことから、その前日までに贄川(にえがわ)に集まって、四人の総代だけが一同に代わり松本へ出頭するまでの手はずも定(き)まった。もし本庁の官吏から今日人民の難渋する事情を問いただされたら、四人のもの各自に口頭をもって答えよう、支庁主任のさしずによる山林規則には谷中の苦情が百出して、総代においても今もってお請けのできかねる事情を述べようと申し合わせた。
五平は言った。
「この嘆願書の趣意は、官有林を立て置かれることに異存はない。御用材|伐(き)り出し等の備え場も置かねばなるまいから、それらの官有林にはきびしくお取り締まりの制度を立てて、申し渡されるなら、きっと相守る。そのかわり明山(あきやま)は人民に任せてくれ。新規則以来、人民私有の山地まで官有に併(あわ)せられた場処も多くあるが、これも元々どおりに解かれたい。大体にこういうことになりましょう。つまり――一般公平の御処置を仰ぎたい。今のうちに官民協力して、前途百年の方針を打ち建てて置きたい。享保以前の古(いにしえ)に復したいということですな。」
ここへ来るまで、半蔵は野尻(のじり)の旅籠屋(はたごや)でよく眠らず、福島でもよく眠らずで、遠山五平方から引き返して禰宜(ねぎ)の家に一晩泊まった翌朝になって、ひどく疲れが出た。禰宜宮下の主人が里宮の社殿のあるところまで朝勤めに通(かよ)って行って、大太鼓を打ち鳴らしてからまた数町ほどの山道を帰るころでも、彼はゆっくり休んでいた。家の人の雨戸を繰りに来る音を聞くようになって、ようやく彼は寝床からはい出した。
「だいぶごゆっくりでございますな。」
と言って、宮下の細君が熱い茶に塩漬(しおづ)けの小梅を添えて置いて行ってくれるころが、彼には朝だった。
里宮の神職と講中(こうじゅう)の宿とを兼ねたこの禰宜の古い家は、木曾福島から四里半も奥へはいった山麓(さんろく)の位置にある。木曾山のことを相談する必要が生じてから、過ぐる年も半蔵は王滝へ足を運び、遠山の家を訪(と)うおりには必ずこの禰宜のところへ来て泊まったが、来て見るたびに変わって行く行者(ぎょうじゃ)宿の光景が目につく。ここはもはや両部神道の支配するところでもない。部屋(へや)の壁の上に昔ながらの注連縄(しめなわ)なぞは飾ってあるが、御嶽山(おんたけさん)座王大権現(ざおうだいごんげん)とした床の間の軸は取り除かれて、御嶽三社を祀(まつ)ったものがそれに掛けかわっている。
「青山さん、まあきょうは一日ゆっくりなすってください。お宮の方へ御案内すると言って、忰(せがれ)のやつもしたくしています。」
と禰宜も彼を見に来て言った。過ぐる文久(ぶんきゅう)三年、旧暦四月に、彼が父の病を祷(いの)るためここへ参籠(さんろう)にやって来た日のことは、山里の梅が香と共にまた彼の胸に帰って来た。あの時同伴した落合の勝重なぞはまだ前髪をとって、浅黄色(あさぎいろ)の襦袢(じゅばん)の襟(えり)のよく似合うほどの少年だった。
「あれからもう十一年にもなりますか。そうでしょうな、あの時青山さんにお清書なぞを見ていただいた忰がことし十八になりますもの。」
こんな話も出た。
やがて半蔵は身を浄(きよ)め、笠(かさ)草鞋(わらじ)などを宿に預けて置いて、禰宜の子息(むすこ)と連れだちながら里宮|参詣(さんけい)の山道を踏んだ。
「これで春先の雉子(きじ)の飛び出す時分、あの時分はこのお山もわるくありませんよ。」
十年の月日を置いて来て見ると、ほんの子供のように思われていた禰宜の子息が、もはやこんなことを半蔵に言って見せる若者だ。
宗教改革の機運が動いた跡はここにも深いものがある。半蔵らが登って行く細道は石の大鳥居の前へ続いているが、路傍に両部時代の遺物で、全く神仏を混淆(こんこう)してしまったような、いかがわしい仏体銅像なぞのすでに打ち倒されてあるのを見る。その辺の石碑や祠(ほこら)の多くは、あるものは嘉永、あるものは弘化(こうか)、あるものは文久年代の諸国講社の名の彫り刻まれてあるものだ。さすがに多くの門弟を引き連れて来て峻嶮(しゅんけん)を平らげ、山道を開き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた普寛、神山、一徳の行者らの石碑銅像には手も触れてない。そこに立つ両部時代の遺物の中にはまた、十二権現とか、不動尊とか、三面六|臂(ぴ)を有し猪(いのしし)の上に踊る三宝荒神とかのわずかに破壊を免れたもののあるのも目につく。
さらに二人は石の大鳥居から、十六階、二十階より成る二町ほどの石段を登った。左右に杉(すぎ)や橡(とち)の林のもれ日(び)を見て、その長い石段を登って行くだけでも、なんとなく訪(おとな)うものの心を澄ませる。何十丈からの大岩石をめぐって、高山の植物の間から清水(しみず)のしたたり落ちるあたりは、古い社殿のあるところだ。大己貴(おおなむち)、少彦名(すくなびこな)の二柱(ふたはしら)の神の住居(すまい)がそこにあった。
里宮の内部に行なわれた革新は一層半蔵を驚かす。この社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村|蘇門(そもん)の寄進にかかる記念の額でも、例の二つの天狗(てんぐ)の面でも、ことに口は耳まで裂け延びた鼻は獣のそれのようで、金胎(こんたい)両部の信仰のいかに神秘であるかを語って見せているようなその天狗の女性の方の白粉(しろいもの)をほどこした面でも、そこに残存するものはもはや過去の形見だ。一切の殻(から)が今はかなぐり捨てられた。護摩(ごま)の儀式も廃されて、白膠木(ぬるで)の皮の燃える香気もしない。本殿の奥の厨子(ずし)の中に長いこと光った大日如来(だいにちにょらい)の仏像もない。神前の御簾(みす)のかげに置いてあった経机もない。高山をその中心にし、難行苦行をその修業地にして、あらゆる寒さ饑(ひも)じさに耐えるための中世的な道場であったようなところも、全く面目を一新した。過去何百年の山王を誇った御嶽大権現の山座は覆(くつがえ)されて、二柱の神の古(いにしえ)に帰って行った。杉と檜の枝葉を通して望まれる周囲の森と山の空気、岩づたいに落ちる細い清水の音なぞは、社殿の奥を物静かにする。しばらく半蔵はそこに時を送って、自分の娘のためにも祷(いの)った。
禰宜のもとに戻(もど)ってから、半蔵は山でもながめながらその日一日王滝の宿に寝ころんで行くことにきめた。宮下の主人は馳走(ちそう)ぶりに、風呂(ふろ)でも沸かそうから、寒詣(かんもう)でや山開きの季節の客のために昔から用意してある行者宿の湯槽(ゆぶね)にも身を浸して、疲れを忘れて行けと言ってくれた。
午後には五平の方から半蔵を訪(たず)ねて来て、短冊(たんざく)を取り寄せたり、互いに歌をよみかわしたりするような、ささやかな席が開けた。そこへ紅(あか)い毛氈(もうせん)を持ち込み、半折(はんせつ)の画箋紙(がせんし)なぞをひろげ、たまにしか見えない半蔵に何か山へ来た形見を残して置いて行けと言い出すのは禰宜だ。子息も来て、そのそばで墨を磨(す)った。そこいらには半蔵が馬籠から持って来た歌書なども取り散らしてある。簀巻(すま)きにして携えて来た筆も置いてある。求めらるるままに、彼は自作の旧(ふる)い歌の一つをその紙の上に書きつけた。
おもふどちあそぶ春日(はるひ)は青柳(あおやぎ)の千条(ちすじ)の糸の長くとぞおもふ   半蔵
五平はそのそばにいて、
「これはおもしろく書けた。」
「でも、この下の句がわたしはすこし気に入らん。」と半蔵は自分で自分の書いたものをながめながら、「思うという言葉が二つ重なって、どうも落ちつかない。」
「そんなことはない。」
と五平は言っていた。
時には、半蔵は席を離れて、ながめを自由にするためにその座敷の廊下のところへ出た。山里の中の山里ともいうべき御嶽のすその谷がその位置から望まれる。そこへも五平が立って来て、谷の下の方に遠く光る王滝川を半蔵と一緒にながめた。木と木の梢(こずえ)の重なり合った原生林の感じも深く目につくところで、今はほとんど自由に入山(いりやま)伐木の許さるる場処もない。しかし、半蔵は、他に客のあるけはいもするこの禰宜の家で五平と一緒になってからは、総代仲間の話なぞを一切口にしなかった。五平はまた五平で、そこの山、ここの谷を半蔵にさして見せ、ただ風景としてのみ、生まれ故郷を語るだけであった。
もはや、温暖(あたたか)い雨は幾たびとなく木曾の奥地をも通り過ぎて行ったころである。山鶯(やまうぐいす)もしきりになく。五平が贄川(にえがわ)での再会を約して別れて行った後、半蔵はひとり歌書などを読みちらした。夕方からはことに春先のような陽気で、川の流れを中心にわき立つ靄(もや)が谷をこめた。そろそろ燈火(あかり)のつく遠い農家をながめながら、馬籠を出しなに腰にさして来た笛なぞを取り出した時は、しばらく彼もさみしく楽しい徒然(つれづれ)に身をまかせていた。
翌朝は早く山をたつ人もある。遠い国からの参詣者(さんけいしゃ)の中には、薄暗いうちから起きて帰りじたくをはじめる講中仲間もある。着物も白、帯も白、鉢巻(はちまき)も白、すべて白ずくめな山の巡礼者と前後して、やがて半蔵も禰宜の家の人たちに別れを告げて出た。彼が帰って行く山道の行く先には、手にする金剛杖(こんごうづえ)もめずらしそうな人々の腰に着けた鈴の音が起こった。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい名古屋本町通りの文明社から出る木版彫刻半紙六枚の名古屋新聞が週報ながらに到着するころである。時事の報道を主とする伝聞雑誌のごとき体裁しかそなえていないものではあるが、それらの週報は欧米教育事業の視察の途に上った旧名古屋藩士、田中|不二麿(ふじまろ)が消息を伝えるころである。過ぐる四年の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな土産(みやげ)をもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多く人の注意の的(まと)となっていた時だ。その一行、随員従者留学生等総員百七名の中に、佐賀県人の久米邦武(くめくにたけ)がある。この人は、ただ文書のことを受け持つために大使の随行を命ぜられたばかりでなく、特に政府の神祇省(じんぎしょう)から選抜されて一行に加わった一人の国学者としても、よろしくその立場から欧米の文明を観察せよとの内意を受け、新興日本の基礎を作る上に国学をもってする意気込みであるとのうわさは、ことに平田一門の人たちに強い衝動を与えずにはおかなかった。地方一戸長としての半蔵なぞが隠れた草叢(くさむら)の間に奔走をつづけていて、西をさして木曾路を帰って行くころは、あの本居(もとおり)平田諸大人の流れをくむもののおそかれ早かれ直面しなければならないようなある時が彼のような後輩をも待っていたのである。 

五月十二日も近づいたころ、福島支庁からの召喚状が馬籠にある戸長役場の方に届いた。戸長青山半蔵あてで。
半蔵は役場で一通り読んで見た。それには、五月十二日の午前十時までに当支庁に出頭せよとある。ただし代人を許さない。言い渡すべき件があるから、この召喚状持参の上、自身出頭のこととある。彼は自宅の方に持ち帰って、さらによく読んで見た。この呼び出しに応ずると、遠山五平らに約束して置いたことが果たせない。その日を期し、総代四人のものが勢ぞろいして本庁の方へ同行することもおぼつかない。のみならず、彼はこの召喚状を手にして、ある予感に打たれずにはいられなかった。
とりあえず、彼は福島へ呼び出されて行くことを隣家の伊之助に告げ、王滝の方へも使いを出して置いて、戸長らしい袴(はかま)を着けるのもそこそこに、また西のはずれから木曾路をたどった。この福島行きには、彼は心も進まなかった。
筑摩県支庁。そこは名古屋県時代の出張所にあててあった本営のまま、まだ福島興禅寺に置いてある。街道について福島の町にはいると、大手橋から向かって右に当たる。指定の刻限までに半蔵はその仮の役所に着いた。待つこと三十分ばかりで、彼は支庁の官吏や下役などの前に呼び出された。やがて、掛りの役人が一通の書付を取り出し、左の意味のものを半蔵に読み聞かせた。
「今日限り、戸長免職と心得よ。」
とある。
はたして、半蔵の呼び出されたのは他の用事でもなかった。もっとも、免職は戸長にとどまり、学事掛りは従前のとおりとあったが、彼は支庁の人たちを相手にするのは到底むだだと知っていた。実に瞬間に、彼も物を見定めねばならなかった。一礼して、そのまま引き下がった。
興禅寺の門を出て、支庁から引き取って行こうとした時、半蔵はその辺の屋敷町に住む旧士族に行きあい、わずかの挨拶(あいさつ)の言葉をかわした。その人は、福島にある彼の歌の友だちで、香川景樹(かがわかげき)の流れをくむものの一人(ひとり)で、何か用達(ようた)しに町を出歩いているところであったが、彼の顔色の青ざめていることが先方を驚かした。歩けば歩くほど彼は支庁の役人から戸長免職を言い渡された時のぐっと徹(こた)えたこころもちを引き出された。言うまでもなく、村方(むらかた)総代仲間が山林規則を過酷であるとして、まさに筑摩県庁あての嘆願書を提出するばかりにしたくをととのえたことが、支庁の人たちの探るところとなったのだ。彼はその主唱者とにらまれたのだ。たとえようのないこころもちで、彼は山村氏が代官屋敷の跡に出た。瓦解(がかい)の跡にはもう新しい草が見られる。ここが三|棟(むね)の高い鱗葺(こけらぶ)きの建物の跡か、そこが広間や書院の跡かと歩き回った。その足で彼は大手橋を渡った。橋の上から見うる木曾川の早い流れ、光る瀬、その河底(かわぞこ)の石までが妙に彼の目に映った。
笠(かさ)草鞋(わらじ)のしたくもそこそこに帰路につこうとしたころの彼は、福島での知人の家などを訪(たず)ねる心も持たなかった人である。街道へは、ぽつぽつ五月の雨が来る。行く先に残った花やさわやかな若葉に来る雨は彼の頬(ほお)にも耳にも来たが、彼はそれを意にも留めずに、季節がら吹き降りの中をすたすた上松(あげまつ)まで歩いた。さらに野尻(のじり)まで歩いた。その晩の野尻泊まりの旅籠屋(はたごや)でも、彼はよく眠らなかった。
翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、ようやく彼も心の憤りを沈めることができた。いろいろ思い出すことがまとまって彼の胸に帰って来た。
「御一新がこんなことでいいのか。」
とひとり言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔らかな棗(なつめ)の木の陰から木曾川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。
消えうせべくもない感銘の忘れがたさから、彼はあの新時代の先駆のような東山道軍が岩倉公子を総督にして西からこの木曾街道を進んで来た時の方に思いを馳(は)せた。当時は新政府の信用もまだ一般に薄かった。沿道諸藩の向背(こうはい)のほども測りがたかった。何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、あの東山道総督執事が地方人民に応援を求める意味の布告を発したことは一度や二度にとどまらなかった。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨(えいし)であるぞと触れ出されたのもあの時であった。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政(かせい)に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨(むね)を本陣に届けいでよと言われ、彼も本陣役の一人として直接その衝に当たったことはまだ彼には昨日のことのようでもある。彼半蔵のような愚直なものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込みであった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行なってもらいたいからであった。
小松の影を落とした川の中淵(なかぶち)を右手に望みながら、また彼は歩き出した。彼の心は、日ごろから嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の権判事(ごんはんじ)がかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿平次の方へ行った。
彼は言って見た。
「相変わらず、寿平次さんは高見の見物だろうか。」
彼の心は隣家伏見屋の伊之助の方へも行った。
「伊之助さんか。あの人は目をつぶっておれと言う。このおれにも――見るなと言う。」
彼の心はまた、村の万福寺の松雲和尚の方へも行った。
「和尚さまと来たら、用はないと言うそうな。」
しかし、彼はあの松雲たりとも禅僧らしく戦おうとはしていることを知っていた。
五月の森の光景は行く先にひらけた。檜(ひのき)欅(けやき)にまじる雑木のさわやかな緑がまたよみがえって、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野をあわせてわずかにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧尾州領の山地を没取するのに不思議はないというような理屈からこれは来ているのか、郡県政治の当局者が人民を信じないことにかけては封建時代からまだ一歩も踏み出していない証拠であるのか、いずれとも言えないことであった。ともあれ、いかに支庁の役人が督促しようとも、このまま山林規則のお請けをして、泣き寝入りにすべきこととは彼には思われなかった。父にできなければ子に伝えても、旧領主時代から紛争の絶えないようなこの長い山林事件をなんらかの良い解決に導かないのはうそだとも思われた。須原(すはら)から三留野(みどの)、三留野から妻籠へと近づくにつれて、山にもたよることのできないこの地方の前途のことがいろいろに考えられて来た。家をさして帰って行くころの彼はもはや戸長ででもなかった。 
第九章

 


八月の来るころには、娘お粂(くめ)が結婚の日取りも近づきつつあった。例の木曾谷(きそだに)の山林事件もそのころになれば一段落を告げるであろうし、半蔵のからだもいくらかひまになろうとは、春以来おまんやお民の言い合わせていたことである。かねてこの縁談の仲にはいってくれた人が伊那(いな)の谷から見えて、吉辰良日(きっしんりょうじつ)のことにつき前もって相談のあったおりに、青山の家としては来たる九月のうちを選んだのもそのためであった。さて、その日取りも次第に近づいて見ると、三十三か村の人民総代として半蔵らが寝食も忘れるばかりに周旋奔走した山林事件は意外にもつれた形のものとなって行った。
もとより、福島支庁から言い渡された半蔵の戸長免職はきびしい督責を意味する。彼が旧|庄屋(しょうや)(戸長はその改称)としての生涯(しょうがい)もその時を終わりとする。彼も御一新の成就(じょうじゅ)ということを心がけて、せめてこういう時の役に立ちたいと願ったばっかりに、その職を失わねばならなかった。親代々から一村の長として、百姓どもへ伝達の事件をはじめ、平生|種々(さまざま)な村方の世話|駈引(かけひき)等を励んで来たその役目もすでに過去のものとなった。今は学事掛りとしての仕事だけが彼の手に残った。彼の継母や妻にとっても、これは思いがけない山林事件の結果である。娘お粂が結婚の日取りの近づいて来たのは、この青山一家に旧(ふる)い背景の消えて行く際だ。
仲人(なこうど)参上の節は供|一人(ひとり)、右へ御料理がましいことは御無用に願いたし。もっとも、神酒(みき)、二汁(にじゅう)、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに結納(ゆいのう)のしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、白無垢(しろむく)一反、それに酒の差樽(さしだる)一|荷(か)を祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬ姑(しゅうとめ)おまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の宗太(そうた)なぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主(なぬし)見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の俤(おもかげ)の伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見るたびに、ほんとに父親にそっくりなような娘ができたと思わずにいられない。半蔵は熱心な子女の教育者だから、いつのまにかお粂も父の深い感化を受け、日ごろ父の尊信する本居(もとおり)、平田(ひらた)諸大人をありがたい人たちに思うような心を養われて来ている。お粂は性来の感じやすさから、父が戸長の職を褫(は)がれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸を傷(いた)めたことは一通りでなかった。彼女は、かずかずの数奇(すき)な運命に娘心を打たれたというふうで、
「わたしはこうしちゃいられないような気がする。」
と言って、母のそばによく眠らなかったほどの娘だ。
しかし、お民はお民なりに、この娘を励まし、一方には強い個性をもった姑との間にも立って、戸長免職後の半蔵を助けながら精いっぱい働こうと思い立っていた。以前にお民が妻籠(つまご)旧本陣を訪(たず)ねたおり、おばあさんや兄夫婦のいるあの生家(さと)の方で見て来たことは、自給自足の生活がそこにも始まっていることであった。お民はそれを夫の家にも応用しようとした。彼女は周囲を見回した。もっと養蚕を励もうとさえ思えば、広い玄関の次の間から、仲の間、奥の間まで、そこには蚕の棚(たな)を置くこともできるような旧本陣の部屋(へや)部屋が彼女を待っていた。髪につける油を自分で絞ろうとさえ思えば、毎年表庭の片すみに実を結ぶ古い椿(つばき)を役に立てることもできた。四人の子を控えた母親として、ことにまだ幼い二人(ふたり)のものを無事に育てたいとの心願から、お民もその決心に至ったのである。彼女はまた持って生まれた快活さで、からだもよく動く。頬(ほお)の色なぞはつやつやと熟した林檎(りんご)のように紅(あか)い。
ある日、お民は娘が嫁入りじたくのために注文して置いた染め物の中にまだ間に合わないもののあるのをもどかしく思いながら、取り出す器物の用があって裏の土蔵の方へ行った。入り口の石段の上には夫の履物(はきもの)が脱いである。赤く錆(さ)びた金網張りの重い戸にも大きな錠がはずしてある。ごとごと二階の方で音がするので、何げなくお民は梯子段(はしごだん)を登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に蒐集(しゅうしゅう)して置いたような古い茶器の類なぞを取り出して思案顔でいる半蔵をそこに見つけた。そこは板敷きになった階上で、おまんの古い長持(ながもち)や、お民が妻籠から持って来た長持なぞの中央に置き並べてあるところだ。何十年もかかって半蔵の集めた和漢の蔵書も壁によせて積み重ねてあるところだ。その時、お民は諸方の旧家に始まっている売り立てのうわさに結びつけて、そんな隠れたところに夫が弱味をのぞいて見た時は、胸が迫った。 

土蔵の建物と裏二階の隠居所とは井戸の方へ通う細道一つへだてて、目と鼻の間にある。お民はその足で裏二階の方に姑を見に行った。娘を伊那へ送り出すまで、何かにつけてお民が相談相手と頼んでいるのは、おまんのほかになかったからで。
「お母(っか)さん。」
と声をかけると、ちょうどおまんは小用でも達(た)しに立って行った時と見えて、日ごろ姑がかわいがっている毛並みの白い猫(ねこ)だけが麻の座蒲団(ざぶとん)の上に背を円(まる)くして、うずくまっていた。二間を仕切る二階の部屋(へや)の襖(ふすま)も取りはずしてあるころで、すべて吉左衛門が隠居時代の形見らしく、そっくり形も崩(くず)さずに住みなしてある。そこいらには、針仕事の好きな姑が孫娘のために縫いかけた長襦袢(ながじゅばん)のきれなぞも取りちらしてあって、そこにもお粂が結婚の日取りの近づいたことを語っている。古い針箱のそばによせて、小さな味醂(みりん)の瓶(かめ)の片づけずに置いてあるのもお民をほほえませた。姑のような年取った女の飲む甘いお酒が押入れの中に隠してあることをお民も知っているからであった。
そのうちに、おまんはお民のいるところへ戻(もど)って来て、
「お民か。お前はちょうどよいところへ来てくれた。稲葉のおそのさん(おまんが里方の夫人)へはわたしから返事を出して置いたよ。あのおそのさんもお前、いろいろ心配していてくれると見えてね、馬籠(まごめ)から上伊那の南殿村まで女の足では三日路というくらいのところだから、わざわざ諸道具なぞ持ち運ぶには及ばん、お粂の箪笥(たんす)、長持、針箱の類はこちらで取りそろえて置くと言ってよこしたさ。手洗い桶(おけ)、足洗い桶なぞもね。ごらんな、なんとかこちらからも言ってやらなけりゃ悪いから、御承知のとおりな遠路(とおみち)なことじゃあるし、お民も不調法者で、したくも行き届かないが、まあ万事よろしく頼む――そうわたしは返事を書いてやったよ。」
「どうでしょう、お母(っか)さん、今度の山林事件が稲葉へは響きますまいか。うちじゃ、もう庄屋でも、戸長でもありませんよ。」とお民が言って見る。
「そんな稲葉の家じゃあらすかい。いったん結納の品まで取りかわして、改めて親類の盃(さかずき)でもかわそうと約束したものが、家の事情でそれを反古(ほご)にするような水臭い人たちなら、最初からわたしはお粂の世話なんぞしないよ。あのおそのさんはじめ、それは義理堅い、正しい人だからね。」
おまんはその調子だ。
ここですこしこの半蔵が継母のことを語って置くのも、山国の婦人というものを知る上にむだなわざではないだろう。おまんも年は取って、切りさげた髪はもはや半ば白かったが、あの水戸(みと)浪士の同勢がおのおの手にして来た鋭い抜き身の鎗(やり)や抜刀をも恐れずにひとりで本陣の玄関のところへ応接に出たような、その気象はまだ失わずにある。そういうおまんの教養は、まったく彼女の母から来ている。母は、高遠(たかとお)の内藤大和守(ないとうやまとのかみ)の藩中で、坂本流砲術の創始者として知られた坂本孫四郎の娘にあたる。ゆえあって母は初婚の夫の家を去り、その母と共に南殿村の稲葉の家に養われたのがおまんだ。婦人ながらに漢籍にも通じ、読み書きの道をお粂に教え、時には『古今集』の序を諳誦(あんしょう)させたり、『源氏物語』を読ませたりして、筬(おさ)を持つことや庖丁(ほうちょう)を持つことを教えるお民とは別の意味で孫娘を導いて来たのもまたおまんだ。年をとればとるほど、彼女は祖父孫四郎の武士|気質(かたぎ)をなつかしむような人である。
このおまんは継母として、もう長いこと義理ある半蔵をみまもって来た。半蔵があの中津川の景蔵や同じ町の香蔵などの学友と共に、若い時分から勤王家の運動に心を寄せていることを家中のだれよりも先に看破(みやぶ)ったくらいのおまんだから、今さら半蔵がなすべきことをなして、そのために福島支庁からきびしい督責をこうむったと聞かされても、そんなことには驚かない。ただただおまんは、吉左衛門や金兵衛が生前によく語り合ったことを思い出して、半蔵にこの青山の家がやりおおせるか、どうかと危ぶんでいる。
お民を前に置いて、おまんは縫いかけた長襦袢(ながじゅばん)のきれを取り上げながら、また話しつづけた。目のさめるような京染めの紅絹(もみ)の色は、これから嫁(とつ)いで行こうとする子に着せるものにふさわしい。
「そう言えば、お民、半蔵が吾家(うち)の地所や竹藪(たけやぶ)を伏見屋へ譲ったげなが、お前もお聞きかい。」
おまんの言う地所の譲り渡しとは、旧本陣屋敷裏の地続きにあたる竹藪の一部と、青山家所有のある屋敷地二|畝(せ)六|歩(ぶ)とを隣家の伊之助に売却したのをさす。藪五両、地所二十五両である。その時の親戚請人(しんせきうけにん)には栄吉、保証人は峠の旧|組頭(くみがしら)平兵衛である。相変わらず半蔵のもとへ手伝いに通(かよ)って来る清助からおまんはくわしいことを聞き知った。それがお粂の嫁入りじたくの料に当てられるであろうことは、おまんにもお民にも想像がつく。
「たぶん、こんなことになるだろうとは、わたしも思っていたよ。」とまたおまんは言葉をついで、「そりゃ、本陣から娘を送り出すのに、七通りの晴衣(はれぎ)もそろえてやれないようなことじゃ、お粂だって肩身が狭かろうからね。七通りと言えば、地白、地赤、地黒、総模様、腰模様、裾(すそ)模様、それに紋付ときまったものさ。古式の御祝言(ごしゅうげん)では、そのたびにお吸物も変わるからね。しかし、今度のような場合は特別さ。今度だけはお前、しかたがないとしても、旦那(だんな)(吉左衛門)が半蔵にのこして置いて行った先祖代々からの山や田地はまだ相応にあるはずだ。あれが舵(かじ)の取りよう一つで、この家がやれないことはないとわたしは思うよ。無器用に生まれついて来たのは性分(しょうぶん)でしかたがないとしても、もうすこし半蔵には経済の才をくれたいッて、旦那が達者(たっしゃ)でいる時分にはよくそのお話さ。」
そういうおまんは何かにつけて自分の旦那の時代を恋しく思い出している。この宿場の全盛なころには街道を通る大名という大名、公役という公役、その他、世に時めく人たちで、青山の家の上段の間に寝泊まりしたり休息したりして行かないものはなかった。過ぐる年月の間の意味ある通行を数えて見ても、彦根(ひこね)よりする井伊|掃部頭(かもんのかみ)、名古屋よりする成瀬隼人之正(なるせはやとのしょう)、江戸よりする長崎奉行水野|筑後守(ちくごのかみ)、老中|間部下総守(まなべしもうさのかみ)、林|大学頭(だいがくのかみ)、監察岩瀬|肥後守(ひごのかみ)から、水戸の武田耕雲斎(たけだこううんさい)、旧幕府の大目付(おおめつけ)で外国奉行を兼ねた山口|駿河守(するがのかみ)なぞまで――御一新以前だけでも、それらの歴史の上の人物はいずれもこの旧本陣に時を送って行った。それを記念する意味からも、おまんは自分の忘れがたい旦那と生涯(しょうがい)を共にしたこの青山の家をそう粗末には考えられないとしていた。たとい、城を枕(まくら)に討(う)ち死(じ)にするような日がやって来ても、旧本陣の格式は崩(くず)したくないというのがおまんであった。
お民は母屋(もや)の方へ戻(もど)りかける時に言った。
「お母(っか)さん、あなたのようにそう心配したらきりがない。見ていてくださいよ。わたしもこれから精いっぱい働きますからね。そう言えば、稲葉の家の方からは、来月の二十二日か、二十三日が、日が良いと言って来てありますよ。まあ、わたしもぐずぐずしちゃいられない。」 

その月の末、平田同門の先輩の中でもことに半蔵には親しみの深い暮田正香(くれたまさか)の東京方面から木曾路(きそじ)を下って来るという通知が彼のもとへ届いた。
半蔵は久しぶりであの先輩を見うるよろこびを妻に分け、お民と共にその日を待ち受けた。今は半蔵も村方一同の希望をいれ、自ら進んで教師の職につき、万福寺を仮教場にあてた学校の名も自ら「敬義学校」というのを選んで、毎日子供たちを教えに行く村夫子(そんふうし)の身に甘んじている。彼も教えて倦(う)むことを知らないような人だ。正香の着くという日の午後、彼は寺の方から引き返して来て、早速(さっそく)家の店座敷に珍客を待つ用意をはじめた。お民が来て見るたびに、彼は部屋(へや)を片づけていた。
旧宿場三役の廃止以来、青山の家ももはや以前のような本陣ではなかったが、それでも新たに布(し)かれた徴兵令の初めての検査を受けに福島まで行くという村の若者なぞは改まった顔つきで、一人(ひとり)の村方惣代(むらかたそうだい)に付き添われながらわざわざ門口まで挨拶(あいさつ)に来る。街道には八月の日のあたったころである。その草いきれのする道を踏んで遠くやって来る旅人を親切にもてなそうとすることは、半蔵夫婦のような古い街道筋に住むものが長い間に養い得た気風だ。
お民は待ち受ける客人のために乾(ほ)して置いた唐草(からくさ)模様の蒲団(ふとん)を取り込みに、西側の廊下の方へ行った。その廊下は母屋(もや)の西北にめぐらしてあって、客でも泊める時のほかは使わない奥の間、今は神殿にして産土神(うぶすな)さまを祭ってある上段の間の方まで続いて行っている。北の坪庭も静かな時だ。何げなくお民はその庭の見える廊下のところへ出てながめると人気(ひとけ)のないのをよいことにして近所の猫(ねこ)がそこに入り込んで来ている。ひところは姑(しゅうとめ)おまんの手飼いの白でも慕って来るかして、人の赤児(あかご)のように啼(な)く近所の三毛や黒のなき声がうるさいほどお民の耳についたが、今はそんな声もしないかわりに、庭の梨(なし)の葉の深い陰を落としているあたりは小さな獣の集まる場所に変わっている。思わずお民は時を送った。生まれて半歳(はんとし)ばかりにしかならないような若い猫の愛らしさに気を取られて、しばらく彼女も客人のことなぞを忘れていた。彼女の目に映るは、一息に延びて行くものの若々しさであった。その動作にはなんのこだわりもなく、その毛並みにはすこしの汚れもない。生長あるのみ。しかも、小さな獣としてはまれに見る美しさだ。目にある幾匹かの若い猫はまた食うことも忘れているかのように、そこに軽やかな空気をつくる。走る。ころげ回る。その一つ一つが示すしなやかな姿態は、まるで、草と花のことだけしか思わない娘たちか何かを見るように。
その辺は龍(りゅう)の髯(ひげ)なぞの深い草叢(くさむら)をなして、青い中に点々とした濃い緑が一層あたりを憂鬱(ゆううつ)なくらいに見せているところである。あちこちに集まる猫はこの苔蒸(こけむ)してひっそりとした坪庭の内を彼らが戯れの場所と化した。一方の草の茂みに隠れて、寄り添う二匹の見慣れない猫もあった。ふと、お民が気がついた時は、下女のお徳まで台所の方から来た。その庭にばかり近所の猫が入り込むのを見ると、お徳は縁先にある手洗鉢(ちょうずばち)の水でもぶッかけてやりたいほど、「うるさい、うるさい。」と言っていながら、やっぱり猫のような動物の世界にも好いた同志というものはあると知った時は、廊下の柱のそばに立って動かなかった。ちょうど、お粂(くめ)も表玄関に近い板敷きの方で織りかけていた機(はた)を早じまいにして、その廊下つづきの方へ通って来た。そこはお民やお粂が髪をとかす時に使う小さな座敷である。その時、お民は廊下の離れた位置から娘の様子をよく見ようとしたが、それはかなわなかった。というのは、お粂は見るまじきものをその納戸(なんど)の窓の下に見たというふうで、また急いで西側の廊下の方へ行って隠れたからで。
「あなた、ようやくわたしにはお粂の見通しがつきましたよ。」
と言って、お民が店座敷へ顔を出した時は、半蔵は客の待ちどおしさに部屋(へや)のなかを静かに歩き回っていた。お民に言わせると、女の男にあう路(みち)は教えられるまでもないのに、あれほど家のおばあさんから女は嫁(とつ)ぐべきものと言い聞かせられながら、とかくお粂が心の進まないらしいのは、全くその方の知恵があの子に遅れているのであろうというのであった。もっとも、その他の事にかけては、お粂は年寄りのようによく気のつく娘で、母親の彼女よりも弟たちの世話を焼くくらいであるが、とも付け添えた。
「何を言い出すやら。」
半蔵は笑って取り合わなかった。
どうして半蔵がこんなに先輩の正香を待ったかというに、過ぐる版籍奉還のころを一期とし、また廃藩置県のころを一期とする地方の空気のあわただしさに妨げられて、心ならずも同門の人たちとの往来から遠ざかっていたからで。そればかりではない。復古の道、平田一門の前途――彼にはかずかずの心にかかることがあるからであった。
正香は一人の供を連れて、その日の夕方に馬で着いた。明荷葛籠(あきにつづら)の蒲団(ふとん)の上なぞよりも、馬の尻(しり)の軽い方を選び、小付(こづけ)荷物と共に馬からおりて、檜笠(ひのきがさ)の紐(ひも)を解いたところは、いかにもこの人の旅姿にふさわしい。
「やあ。」
正香と半蔵とが久々の顔を合わせた時は、どっちが先とも言えないようなその「やあ」が二人(ふたり)の口をついて出た。客を迎えるお民のうしろについて、いそいそと茶道具なぞ店座敷の方へ持ち運ぶ娘までが、日ごろ沈みがちなお粂とは別人のようである。子供本位のお民はうれしさのあまり、勝手のいそがしさの中にもなおよく注意して見ると、娘はすぐ下の十六歳になる弟に、
「宗太、きょうのお客さまは平田先生の御門人だよ。」
と言って見せるばかりでなく、五歳になる弟まで呼んで、
「森夫(もりお)もおいで。さあ、おベベを着かえましょうね。」
と、よろこぶ様子である。まるで、父の先輩が彼女のところへでも訪れて来てくれたかのように。これにはお民も驚いて、さっぱりとした涼しそうなものに着かえている自分の娘を見直したくらいだ。そこへ下男の佐吉も、山家らしい風呂(ふろ)の用意がすでにできていることを店座敷の方へ告げに行く。
半蔵は正香に言った。
「暮田さん、お風呂(ふろ)が沸いてます。まず汗でもお流しになったら。」
「じゃ、一ぱいごちそうになるかな。木曾まで来ると、なんとなく旅の気分がちがいますね。ここは山郭公(やまほととぎす)の声でも聞かれそうなところですね」 

やがて半蔵の前に来てくつろいだ先輩は、明治二年に皇学所監察に進み、同じく三年には学制取調御用掛り、同じく四年にはさらに大学出仕を仰せ付けられたほどの閲歴をもつ人であるが、あまりに昇進の早いのを嫉(ねた)む同輩のために讒(ざん)せられて、山口藩和歌山藩等にお預けの身となったような境涯(きょうがい)をも踏んで来ている。今度、賀茂(かも)神社の少宮司(しょうぐうじ)に任ぜられて、これから西の方へ下る旅の途中にあるという。
半蔵は日ごろの無沙汰(ぶさた)のわびから始めて、多事な街道と村方の世話に今日まであくせくとした月日を送って来たことを正香に語った。木曾福島の廃関に。本陣、脇(わき)本陣、問屋、庄屋、組頭の廃止に。一切の宿場の改変に。引きつづく木曾谷の山林事件に。彼は一日も忘れることのない師|鉄胤(かねたね)のもとにすら久しいこと便(たよ)りもしないくらいであったと語った。彼はまた、師のあとを追って東京に出た中津川の友人香蔵のことを正香の前に言い出し、師が参与と神祇官(じんぎかん)判事とを兼ねて後には内国局判事と侍講との重い位置にあったころは、(ちなみに、鉄胤は大学大博士ででもあった)、あの友人も神祇|権少史(ごんしょうし)にまで進んだが、今は客舎に病むと聞くと語った。彼らは互いに執る道こそ異なれ、同じ御一新の成就を期待して来たとも語った。香蔵からは、いつぞやも便りがあって、「同門の人たちは皆祭葬の事にまで復古を実行しているのに、君の家ではまだ神葬祭にもしないのか」と言ってよこしたが、木曾山のために当時奔走最中の彼が暗い行燈(あんどん)のかげにその手紙を読んだ時は、思わず涙をそそった。そんな話も出た。
「暮田さん、あなたにお目にかけるものがある。」
と言って、半蔵は一幅の軸を袋戸棚(ふくろとだな)から取り出した。それを部屋(へや)の壁に掛けて正香に見せた。
鈴(すず)の屋翁(やのおきな)画詠、柿本大人(かきのもとのうし)像、師岡正胤主(もろおかまさたねぬし)恵贈としたものがそこにあった。それはやはり同門の人たちの動静を語るもので、今は松尾|大宮司(だいぐうじ)として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え、その人を中心に東濃地方同門の四、五人の旧知のものが小集を催した時の記念である。その時の正胤から半蔵に贈られたものである。本居宣長(もとおりのりなが)の筆になった人麿(ひとまろ)の画像もなつかしいものではあったが、それにもまして正香をよろこばせたのは、画像の上に書きつけてある柿本大人の賛(さん)だ。宣長と署名した書体にも特色があった。あだかも、三十五年にわたる古事記の研究をのこした大先輩がその部屋に語り合う正香と半蔵との前にいて、古代の万葉人をさし示し、和魂(にぎみたま)荒魂(あらみたま)兼ねそなわる健全な人の姿を今の正眼(まさめ)に視(み)よとも言い、あの歌に耳を傾けよとも言って、そこにいる弟子(でし)の弟子たちを励ますかのようにも見えた。
半蔵の継母が孫たちを連れてそこへ挨拶(あいさつ)に来たので、しばらく二人の話は途切れた。これは半蔵の長男、これは三男とおまんに言われて、宗太や森夫も改まった顔つきをしながら客の前へお辞儀に出る。
「暮田さんは信州岩村田の御出身でいらっしゃるそうですね。そういえば、どっか山国のおかたらしい。」とおまんは客に言って、勝手の方から膳(ぜん)を運ぶお粂を顧みながら、「こんな山家で何もおかまいはできませんが、まあ、ごゆっくりなすってください。」
お粂が持って来て客と父との前に置いた膳の上には、季節がらの胡瓜(きゅうり)もみ、青紫蘇(あおじそ)、枝豆、それにきざみずるめなぞを酒のさかなに、猪口(ちょく)、割箸(わりばし)もそろった。おまんがそれを見て部屋から退くころには、正香はもうあぐらにやる。
「どれ、あの記念の扇子を暮田さんにお目にかけるか。」
と半蔵は言って、師岡正胤らと共に中津川の方で書いたものを正香の前にひろげて見せた。平田|篤胤(あつたね)没後の門人らの思い思いに記(しる)しつけた述懐の歌がその扇子の両面にある。辛(から)い、甘い、限り知られない味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものもある。こうして互いにつつがなくめぐりあって見ると、八年は夢のような気がするとした意味のものもある。おくれまいと思ったことは昔であって、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いを寄せてあるのは師岡正胤だ。
「へえ、師岡がこんな歌を置いて行きましたかい。」
と言いながら、正香はその扇面に見入った。過ぐる文久三年、例の等持院にある足利(あしかが)将軍らの木像の首を抜き取って京都三条|河原(がわら)に晒(さら)し物にした血気さかんなころの正香の相手は、この正胤だ。その後、正香が伊那(いな)の谷へ来て隠れていた時代は、正胤は上田藩の方に六年お預けの身で、最初の一年間は紋付を着ることも許されず、ただ白無垢(しろむく)のみを許され、日のめも見ることのできない北向きの一室にすわらせられ、わずかに食事ごとの箸先を食い削ってそれを筆に代えながら、襦袢(じゅばん)の袖口(そでぐち)から絞る藍(あい)のしずくで鼻紙に記(しる)しつける歌日記を幽閉中唯一の慰めとしていたという。先帝|崩御(ほうぎょ)のおりの大赦がなかったら、正胤もどうなっていたかわからなかった。この人のことは正香もくわしい。
その時、半蔵は先輩に酒をすすめながら、旧庄屋の職を失うまでの自分の苦(にが)い経験を、山林事件のあらましを語り出した。彼に言わせると、もしこの木曾谷が今しばらく尾州藩の手を離れずにあって、年来の情実にも明るい人が名古屋県出張所の官吏として在職していてくれたら、もっと良い解決も望めたであろう。今のうちに官民一致して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという村民総代一同の訴えもきかれたであろう。この谷が山間の一|僻地(へきち)で、舟楫(しゅうしゅう)運輸の便があるでもなく、田野耕作の得があるでもなく、村々の大部分が高い米や塩を他の地方に仰ぎながらも、今日までに人口の繁殖するに至ったというのは山林あるがためであったのに、この山地を官有にして人民一切入るべからずとしたら、どうして多くのものが生きられる地方でないぐらいのことは、あの尾州藩の人たちには認められたであろう。いかんせん、筑摩(ちくま)県の派出官は土地の事情に暗い。廃藩置県以来、諸国の多額な藩債も政府においてそれを肩がわりする以上、旧藩諸財産の没取は当然であるとの考えにでも支配されたものか、木曾谷山地従来の慣例いかんなぞは、てんで福島支庁官吏が問うところでない。言うところは、官有林規則のお請けをせよとの一点張りである。その過酷を嘆いて、ひたすら寛大な処分を嘆願しようとすれば、半蔵ごときは戸長を免職せられ、それにも屈しないで進み出る他の総代のものがあっても、さらに御採用がない。しいて懇願すれば官吏の怒りに触れ、鞭(むち)で打たるるに至ったものがあり、それでも服従しないようなものは本県聴訟課へ引き渡しきっと吟味に及ぶであろうとの厳重な口達をうけて引き下がって来る。その権威に恐怖するあまり、人民一同前後を熟考するいとまもなく、いったんは心ならずも官有林のお請けをしたのであった。
「一の山林事件は、百の山林事件さ。」
と正香は半蔵の語ることを聞いたあとで、嘆息するように言った。
「暮田さん、せっかくおいでくだすっても、ほんとに、何もございませんよ。」
と言いながら、お民も客のいるところへ酒をすすめに来た。彼女は客や主人の膳(ぜん)の上にある箸(はし)休めの皿(さら)をさげて、娘お粂が順に勝手の方から運んで来るものをそのかわりに載せた。遠来の客にもめずらしく思ってもらえそうなものといえば、木曾川の方でとれた「たなびら」ぐらいのもの。それを彼女は魚田(ぎょでん)にして出した。でも、こんな山家料理がかえって正香をよろこばせる。
「奥さんの前ですが、」と正香は一口飲みかけた盃を膳の上に置いて、「いつぞや、お宅の土蔵のなかに隠していただいた時、青山君が瓢箪(ふくべ)に酒を入れて持って来て、わたしに飲ませてくれました。あの時の酒の味はよほど身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の味を忘れますまい。」
「あれから、十年にもなりますものね。」と半蔵も言った。
お粂がその時、吸い物の向こう付(づ)けになるようなものを盆にのせて持って来た。お民はそれを客にすすめながら、
「蕨(わらび)でございますよ。」
「今時分、蕨とはめずらしい。」正香が言う。
「これは春先の若い蕨を塩漬(しおづ)けにして置いたものですが、塩をもどして、薄味で煮て見ました。御酒の好きな方には、お口に合うかもしれません。一つ召し上がって見てください。」
「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度お訪(たず)ねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみお目にかかるのは、今度初めてです。よいお嬢さんもおありなさる。」
正香の口から聞けば、木曾のような水の清いところに生(お)い育つものは違うというようなことも、そうわざとらしくない。お民は自分の娘のことを客の方から言い出されたうれしさに、
「おかげさまで、あれも近いうちに伊那の方へ縁づくことになりました。」
と言って見せた。
正香も伊那の放浪時代と違い、もはや御一新の大きな波にもまれぬいて来たような人である。お民が店座敷から出て行くのを見送った後、半蔵は日ごろ心にかかる平田一門の前途のことなぞをこの先輩の前に持ち出した。
「青山君、あれで老先生(平田|鉄胤(かねたね)のこと)も、もう十年若くして置きたかったね。」と正香は盃を重ねながら言った。「明治御一新の声を聞いた時に、先生は六十七歳の老年だからね。先生を中心にした時代は――まあ、実際の話が、明治の三年までだね。」
「あの年の六月には、先生も大学の方をお辞(や)めになったように聞いていますが。」と半蔵も言って見る。
「見たまえ。」という正香の目はかがやいて来た。「われわれはお互いに十年の後を期した。こんなに早く国学者の認められる時が来ようとも思わなかった。そりゃ、この大政の復古が建武中興の昔に帰るようなことであっちゃならない、神武(じんむ)の創業にまで帰って行くことでなくちゃならない――ああいうことを唱え出したのも、あの玉松あたりさ。復古はお互いの信条だからね。しかし君、復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあるのさ。そう無造作にできるものが、復古じゃない。ところが世間の人はそうは思いませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言い出した。それこそ、猫(ねこ)も、杓子(しゃくし)もですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行なわれましたね。ところが君、その結果は、というと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい。」
「暮田さん、」と半蔵はほんのりいい色になって来た正香の顔をながめながら、さらに話しつづけた。「わたしなぞは、これからだと思っていますよ。」
「それさ。」
「われわれはまだ、踏み出したばかりじゃありませんかね。」
「君の言うとおりさ。今になってよく考えて見ると、何十年かかったらこの御一新がほんとうに成就されるものか、ちょいと見当がつかない。あれで鉄胤先生なぞの意志も、政治を高めるというところにあったろうし、同門には越前(えちぜん)の中根雪江(なかねゆきえ)のような人もあって、ずいぶん先生を助けもしたろうがね、いかな先生も年には勝てない。この御一新の序幕の中で、先生も老いて行かれたようなものさね。まだそれでも、明治四年あたりまではよかった。版籍を奉還した諸侯が知事でいて、その下に立つ旧藩の人たちが民政をやった時分には、すくなくも御一新の成就するまではと言ったものだし、また実際それを心がけた藩もあった。いよいよ廃藩の実行となると、こいつがやかましい。江戸大城の明け渡しには異議なしでも、自分らの城まで明け渡せとなると、中には考えてしまった藩もあるからね。一方には郡県の政治が始まる。官吏の就職運動が激しくなる。成り上がり者の官吏の中にはむやみといばりたがるような乱暴なやつが出て来る。さっきも君の話のように、なかなか地方の官吏にはその人も得られないのさ。国家の事業は窮屈な官業に混同されてしまって、この調子で行ったらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんなはずじゃなかったと思うでしょう。見たまえ、この際、力をかつぎ出そうとする連中なぞが士族仲間から頭を持ち上げて来ましたぜ。征韓(せいかん)、征韓――あの声はどうです。もとより膺懲(ようちょう)のことは忘れてはならない。たとい外国と和親を結んでも、曲直は明らかにせねばならない。国内の不正もまたたださねばならない。それはもう当然なことです。しかし全国人民の後ろ楯(だて)なしに、そんな力がかつぎ出せるものか、どうか。なるほど、不平のやりどころのない士族はそれで納まるかもしれないが、百姓や町人はどうなろう。御一新の成就もまだおぼつかないところへ持って来て、また中世を造るようなことがあっちゃならない。早く中世をのがれよというのが、あの本居先生なぞの教えたことじゃなかったですか……」
酒の酔いが回るにつれて、正香は日ごろ愛誦(あいしょう)する杜詩(とし)でも読んで見たいと言い出し、半蔵がそこへ取り出して来た幾冊かの和本の集注を手に取って見た。正香はそれを半蔵に聞かせようとして、何か自身に気に入ったものをというふうに、浣花渓(かんかけい)の草堂の詩を読もうか、秋興八首を読もうかと言いながら、しきりにあれかこれかと繰りひろげていた。
「ある。ある。」
その時、正香は行燈(あんどん)の方へすこし身を寄せ、一語一句にもゆっくりと心をこめて、杜詩の一つを静かに声を出して読んだ。
   ※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)袴不餓死、儒冠多誤
   丈人試静聴、賤子請具陳
   甫昔少年日、早充観国賓
   読書破万巻、 下筆如
   賦料楊雄敵、詩看子建親
   李※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)面、王翰願
   自謂頗挺出、立登要路津
   致君堯舜上、再使風俗淳
   此意竟蕭条、……………
そこまで読みかけると、正香はその先を読めなかった。「この意(こころ)、竟(つい)に蕭条(しょうじょう)」というくだりを繰り返し半蔵に読み聞かせるうちに、熱い涙がその男らしい頬(ほお)を伝って止め度もなく流れ落ちた。 

正香は一晩しか半蔵の家に逗留(とうりゅう)しなかった。
「青山君、わたしも賀茂の方へ行って、深いため息でもついて来ますよ。」
との言葉を残して、翌朝早く正香は馬籠(まごめ)を立とうとしていた。頼んで置いた軽尻馬(からじりうま)も来た。馬の口をとる村の男はそれを半蔵の家の門内まで引き入れ、表玄関の式台の前で小付け荷物なぞを鞍(くら)に結びつけた。
「お母(っか)さん、暮田さんのお立ちですよ。」
と娘に呼ばれて、お民も和助(半蔵の四男)を抱きながらそこへ飛んで出て来る。
「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください。」
とお民は言った。
半蔵はじめ、お民、お粂から下男の佐吉まで門の外に出て馬上の正香を見送った。動いて行く檜笠(ひのきがさ)が坂になった馬籠の町の下の方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったのである。その時、半蔵は正香の仕えに行く賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が伊勢(いせ)神宮に次ぐ高い格式のものと聞くことなぞを語り聞かせた。平安朝と言った昔は、歴代の内親王(ないしんのう)が一人(ひとり)は伊勢の斎(いつき)の宮(みや)となられ、一人は賀茂の斎の宮となられる風習となっていたと聞くことなぞをも語り聞かせた。
正香も行ってしまった。例のように半蔵はその日も万福寺内の敬義学校の方へ村の子供たちを教えに出かけて、相手と頼む松雲和尚(しょううんおしょう)にも前夜の客のことを話したが、午後にそこから引き返して見ると、正香の立って行ったあとには名状しがたい空虚が残った。半蔵はそこにいない先輩の前へ復古の道を持って行って考えて見た。彼の旧(ふる)い学友、中津川の景蔵や香蔵などが寝食も忘れるばかりに競い合って、互いに突き入ったのもその道だ。そこには四つの像がある。彼は自分の心も柔らかく物にも感じやすい年ごろに受けた影響がこんなにも深く自分の半生を支配するかと思って見て、心ひそかに驚くことさえある。彼はまた平田一門の前途についても考えて見た。
その時になって見ると、先師没後の門人が全国で四千人にも達した明治元年あたりを平田派全盛時代の頂上とする。伊那の谷あたりの最も篤胤研究のさかんであった地方では、あの年の平田入門者なるものは一年間百二十人の多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には倉沢義髄(くらさわよしゆき)を出し、南には片桐春一(かたぎりしゅんいち)、北原稲雄、原|信好(のぶよし)を出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布(じょうぼくはんぷ)に、山吹社中発起の条山(じょうざん)神社の創設に、ほとんど平田研発者の苗床ともいうべき谷間(たにあい)であった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官(だじょうかん)中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、帝(みかど)には国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸したもうたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった。 

王政第六の秋立つころを迎えながら、山里へは新時代の来ることもおそい。いよいよ享保(きょうほう)以前への復古もむなしく、木曾川上流の沿岸から奥地へかけての多数の住民は山にもたよれなかった。山林規則の何たるをわきまえないものが窮迫のあまり、官有林にはいって、盗伐の罪を犯し処刑をこうむるものは増すばかり。そのたびに徴せらるる贖罪(しょくざい)の金だけでも谷中ではすくなからぬ高に上ろうとのうわささえある。
世は革新の声で満たされている中で、半蔵が踏み出して見た世界の実際すらこのとおり薄暗い。まして娘お粂なぞの住んでいるところは、長いこと彼女らのこもり暮らして来た深い窓の下だ。そこにある空気はまだ重かった。
こころみに、十五代将軍としての徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が置き土産(みやげ)とも言うべき改革の結果がこの街道にもあらわれて来る前までは、女は手形なしに関所も通れなかった時代のあったことを想像して見るがいい。従来、「出女(でおんな)、入り鉄砲」などと言われ、女の旅は関所関所で食い留められ、髪長(かみなが)、尼、比丘尼(びくに)、髪切(かみきり)、少女(おとめ)などと一々その風俗を区別され、乳まで探られなければ通行することも許されなかったほどの封建時代が過去に長く続いたことを想像して見るがいい。高山霊場の女人禁制は言うまでもなく、普通民家の造り酒屋にある酒蔵のようなところにまで女は遠ざけられていたことを想像して見るがいい。幾時代かの伝習はその抗しがたい手枷(てかせ)足枷(あしかせ)で女をとらえた。そして、この国の女を変えた。遠い日本古代の婦人に見るような、あの幸福で自己を恃(たの)むことが厚い、種々(さまざま)な美しい性質の多くは隠れてしまった。こころみにまた、それらの不自由さの中にも生きなければならない当時の娘たちが、全く家に閉じこめられ、すべての外界から絶縁されていたことを想像して見るがいい。しかもこの外界との無交渉ということは、彼女らが一生涯の定めとされ、歯を染め眉(まゆ)を落としてかしずく彼女らが配偶者となる人の以外にはほとんど何の交渉をも持てなかったことを想像して見るがいい。こんなに深くこもり暮らして来た窓の下にいて、長い鎖国にもたとえて見たいようなその境涯から当時の若い娘たちが養い得た気風とは、いったい、どんなものか。言って見れば、早熟だ。
馬籠旧本陣の娘とてもこの例にはもれない。祖母おまんのような厳格な監督者からお粂のやかましく言われて来たことは、夜の枕(まくら)にまで及んでいた。それは砧(きぬた)ともいい御守殿(ごしゅでん)ともいう木造りの形のものに限られ、その上でも守らねばならない教訓があった。固い小枕の紙の上で髪をこわさないように眠ることはもとより、目をつぶったまま寝返りは打つまいぞとさえ戒められて来たほどである。この娘が早く知恵のついた証拠には、「おゝ、耳がかゆい」と母親のそばに寄って、何かよい事を母親にきかせてくれと言ったのは、まだ彼女が十四、五の年ごろのことであった。この早熟は、ひとりお粂のような娘のみにかぎらない。彼女の周囲にある娘たちは十六ぐらいでも皆おとなだった。
しかし、こんな娘たちの深い窓のところへも、この国全体としての覚醒(かくせい)を促すような御一新がいつのまにかこっそり戸をたたきに来た。あだかも燃ゆるがごとき熱望にみち、温(あたた)かい情感にあふれ、あの昂然(こうぜん)とした独立独歩の足どりで、早くこの戸を明け放てと告げに来る人のように。過ぐる明治四年の十一月、岩倉大使一行に随(したが)って洋学修業のためはるばる米国へ旅立った五名の女子があるなぞはその一つだ。それは北海道開拓使から送られた日本最初の女子留学生であると言われ、十五歳の吉益亮子(よしますあきこ)嬢、十二歳の山川捨松(やまかわすてまつ)嬢なぞのいたいけな年ごろの娘たちで、中にはようやく八歳になる津田梅子(つだうめこ)嬢のような娘もまじっていたとか。大変な評判で、いずれも前もって渡された洋行心得書を懐中(ふところ)にし、成業帰朝の上は婦女の模範ともなれとの声に励まされ、稚児髷(ちごまげ)に紋付|振袖(ふりそで)の風俗で踏み出したとのことであるが、横浜港の方にある第一の美麗な飛脚船、太平洋汽船会社のアメリカ号、四千五百トンからの大船がこの娘たちを乗せて動いて行ったという夢のような光景は、街道筋にいて伝え聞くものにすら、新世界の舞台に向かってかけ出そうとするこの国のあがきを感じさせずには置かなかった。追い追いと女学もお取り建ての時勢に向かって、欧米教育事業の視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中|不二麿(ふじまろ)が中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化の波が押し寄せ、一方には朝鮮征伐の声が激し、旧(ふる)い物と新しい物とが入れまじって、何がこの先見えて来るやかもわからないような暗い動揺の空気の中で、どうして娘たちの心ばかりそう静かにしていられたろう。
九月にはいると、お粂が結婚のしたくのことについて、南殿村の稲葉の方からはすでにいろいろと打ち合わせがある。嫁女(よめじょ)道中も三日がかりとして、飯田(いいだ)泊まりの日は伝馬町屋(てんまちょうや)。二日目には飯島(いいじま)扇屋(おうぎや)泊まり。三日目に南殿村着。もっとも、馬籠から飯田まで宿継ぎの送り人足を出してくれるなら、そこへ迎えの人足を差し出そうというようなことまで、先方からは打ち合わせが来ている。
「お粂、よい晴れ着ができましたよ。どれ、お父(とっ)さんにもお目にかけて。」
お民は娘のために新調した結婚の衣裳(いしょう)を家の女衆に見せて、よろこんでもらおうとしたばかりでなく、それを店座敷にまで抱きかかえて行って、夫のいる部屋(へや)の襖(ふすま)に掛けて見せた。
男の目にも好ましい純白な晴れ着がその襖にかかった。二尺あまりの振袖からは、紅梅のような裏地の色がこぼれて、白と紅とのうつりも悪くなかったが、それにもまして半蔵の心を引いたのは衣裳全体の長さから受ける娘らしい感じであった。卍(まんじ)くずしの紗綾形(さやがた)模様のついた白綾子(しろりんず)なぞに比べると、彼の目にあるものはそれほど特色がきわだたないかわりに、いかにも旧庄屋|風情(ふぜい)の娘にふさわしい。色は清楚(せいそ)に、情は青春をしのばせる。
不幸にも、これほどお民の母親らしい心づかいからできた新調の晴れ着も、さほど娘を楽しませなかった。余すところはもはや二十日ばかり、結婚の日取りが近づけば近づくほど、ほとほとお粂は「笑い」を失った。 

青山の家の表玄関に近いところでは筬(おさ)の音もしない。弟宗太のためにお粂が織りかけていた帯は仕上げに近かったが、機(はた)の道具だけが板敷きのところに休ませてある。お粂も織ることに倦(う)んだかして、そこに姿を見せない時だ。
お民は囲炉裏(いろり)ばたからこの機のそばを通って、廊下つづきの店座敷の方に夫を見に来た。ちょうど半蔵は部屋(へや)にいないで、前庭の牡丹(ぼたん)の下あたりを余念もなく掃いているところであった。
「お民、お粂の吾家(うち)にいるのも、もうわずかになったね。」
と半蔵が竹箒(たけぼうき)を手にしながら言った。
なんと言っても、人|一人(ひとり)の動きだ。娘を無事に送り出すまでの親たちの心づかいも、容易ではなかった。ことに半蔵としては眼前の事にばかり心を奪われている場合でもなく、同門の先輩正香ですらややもすれば押し流されそうに見えるほど、進むに難(かた)い時勢に際会している。この半蔵は庭|下駄(げた)のまま店座敷の縁先に来て腰掛けながら、
「おれもまあ、考えてばかりいたところでしかたがない。あの暮田さんを見送ってからというもの、毎日毎日学校から帰ると腕ばかり組んでいたぞ。」
と妻に言って見せる。
お民の方でもそれはみて取った。彼女は山林事件当時の夫に懲りている。娘の嫁入りじたくもここまで来た上は、男に相談してもしかたのないようなことまでそう話しかけようとはしていない。それよりも、どんな着物を造ってくれても楽しそうな顔も見せないお粂の様子を話しに来ている。
「でも、あの稲葉の家も、行き届いたものじゃありませんか。」とお民が言い出した。「ごらんなさい、お粂が嫁(かたづ)いて行く当日に、鉄漿親(かねおや)へ出す土産(みやげ)の事まで先方から気をつけてよこして、反物(たんもの)で一円くらいのことにしたいと言って来ましたよ。お粂に付き添いの女中もなるべくは省いてもらいたいが、もし付けてよこすなら、その人だけ四日前によこしてもらいたい、そんなことまで言って来ましたよ。」
「四日前とはどういうつもりだい。」
「そりゃ、あなた、式の当日となってまごつかないように、部屋に慣れて置くことでしょうに。よほどの親切がなけりゃ、そんなことまで先方から気をつけてよこすもんじゃありません。ありがたいと思っていい。あなたからもそのことをお粂によく言ってください。」
「待ってくれ。そりゃおれからも言って置こうがね、いったい、この縁談はお粂だっていやじゃないんだろう。ただ娘ごころに決心がつきかねているだけのことなんだろう。おれの家じゃお前、お母(っか)さん(おまんのこと)は神聖な人さ。その人があれならばと言って、見立ててくだすったお婿さんだもの、悪かろうはずもなかろうじゃないか。」
「何にしても、ああ、お粂のように黙ってしまったんじゃ、どうしようもありませんよ。何を造ってくれても、よろこびもしない。わたしも一つあの子に言って聞かせるつもりで、このお嫁入りのしたくが少しぐらいのお金でできると思ったら、それこそ大違いだよ。こんなに皆が心配してあげる。お前だってよっぽど本気になってもらわにゃならないッて、ね。その時のあれの返事に、そうお母(っか)さんのように心配してくださるな、わたしもお父(とっ)さんの娘です、そう言うんです。」
「……」
「そうかと思うと、神霊(みたま)さまと一緒にいれば寂しくない、どうぞ神霊さま、わたしをお守りくださいなんて、そんなことを言い出すんです。」
「……」
「まあ、あれでお粂も、お父さん思いだ。あなたの言うことならよく聞きますね。あなたからもよく言って聞かせてください。」
「そうお民のように、心配したものでもなかろうとおれは思うよ。いざとなってごらん、お粂だって決心がつこうじゃないか。」
半蔵は下駄(げた)を脱ぎ捨てて、その時、店座敷の畳の上を歩き回った。庭の牡丹(ぼたん)へ来る風の音までがなんとなく秋めいて、娘が家のものと一緒に暮らす日の残りすくなになったことを思わせる。とかく物言いのたどたどしいあのお粂とても、彼女をこの世に育ててくれた周囲の人々に対する感謝を忘れるような娘でないことは、半蔵にもそれが感じられていた。それらの人々に対する彼女の愛情は平素のことがよくそれを語っていた。十八歳のその日まで、ただただ慈(いつく)しみをもって繞(めぐ)ってくれる周囲の人々の心を落胆させてこころよしとするような、そんな娘でないことは半蔵もよく知って、その点にかけては彼も娘に心を許していたのである。
今さら、朝鮮あたりの娘のことをここに引き合いに出すのもすこし突然ではあるが、両班(ヤンパン)という階級の娘の嫁に行く夜を見たという人の話にはこんなことがある。赤、青、黄の原色美しい綾衣(あやぎぬ)に、人形のように飾り立てられた彼女は、そこに生けるものとは思われなかったとか。飽くまで厚く塗り込められた白粉(おしろい)は、夜の光にむしろ青く、その目は固く眠って、その睫毛(まつげ)がいたずらに長いように思われたとか。彼女は全く歩行する能力をも失ったかのようにして人々の肩にかつがれ、輿(こし)に乗せられて生贄(いけにえ)を送るというふうに、親たちに泣かれて嫁(とつ)いだのであった。きけば、彼女はその夜から三日の間は昼夜をわかたず、その目を開くことができないのであるという。それは開こうとしても開き得ないのであった。彼女の目は、上下の睫毛(まつげ)を全く糊(のり)に塗り固められ(またある地方ではきわめて濃い、固い鬢(びん)つけ油を用う)、閉じられているのであったという。これは何を意味するかなら、要するに「見るな」だ。風俗も異なり習慣も異なる朝鮮の両班(ヤンパン)と、木曾の旧(ふる)い本陣とは一緒にはならないが、しかし青山の家でもやはりその「見るな」で、娘お粂に白無垢(しろむく)をまとわせ、白の綿帽子をかぶらせることにして、その一生に一度の晴れの儀式に臨ませる日を待った。すでに隣家伏見屋の伊之助夫婦からは、お粂のために心をこめた贈り物がある。桝田屋(ますだや)からは何を祝ってくれ、蓬莱屋(ほうらいや)からも何を祝ってくれたというたびに、めずらしいもの好きの弟たちまで大はしゃぎだ。しかし、かんじんのお粂はどうかすると寝たりなぞする。彼女は、北の上段の間(ま)に人を避け、産土神(うぶすな)さまの祭ってある神殿に隠れて、うす暗くなるまでひとりでそこにすわっていることもある。行くものはさっさと行け。それを半蔵はいろいろなことで娘に教えて見せていたし、お民はまたお民で、土蔵のなかにしまってある古い雛(ひな)まで娘に持たせてやりたいと言って、早くお粂の身を堅めさせ、自分も安心したいというよりほかの念慮も持たないのであった。
こういう時の半蔵夫婦の相談相手は、栄吉(半蔵の従兄(いとこ))と清助とであった。例の囲炉裏ばたに続いた寛(くつろ)ぎの間(ま)にはそれらの人たちが集まって、嫁女の同伴人はだれとだれ、供の男はだれにするかなぞとの前もっての相談があった。妻籠の寿平次の言い草ではないが、娘が泣いてもなんでも皆で寄って祝ってしまえ、したく万端手落ちのないように取りはからえというのが、栄吉らの意見だった。
「半蔵さま、お粂さまの荷物はどうなさるなし。」
そんなことを言って、峠村の平兵衛も半蔵を見にやって来る。周旋奔走を得意にするこの平兵衛は、旧組頭の廃止になった今でも、峠のお頭(かしら)で通る。
「荷物か。荷物は式のある四、五日前に送り届ければいい。当日は混雑しないようにッて、先方から言って来た。荷回し人はおぼしめし次第だ、そんなことも言って来たが、中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社に頼んで、飯田まで継立(つぎた)てにするのが便利かもしれないな。」
半蔵の挨拶(あいさつ)だ。
九月四日は西が吹いて、風当たりの強いこの峠の上を通り過ぎた。払暁(あけがた)はことに強く当てた。青山の家の裏にある稲荷(いなり)のそばの栗(くり)もだいぶ落ちた。お粂は一日|機(はた)に取りついて、ただただ表情のない器械のような筬(おさ)の音を響かせていたが、弟宗太のためにと丹精(たんせい)した帯地をその夕方までに織り終わった。そこへお民が見に来た。お粂も織ることは好きで、こういうことはかなり巧者にやってのける娘だ。まだ藍(あい)の香のするようなその帯地の出来をお民もほめて、やがて勝手の方へ行ったあとでも、お粂はそこを動かずにいた。仕上げた機のそばに立つ彼女の娘らしい額(ひたい)つきは父半蔵そのままである。黒目がちな大きな目は何をみるでもない。じっとそこに立ったまましばらく動かずにいるこの娘の容貌(ようぼう)には、一日織った疲れに抵抗しようとする表情のほかに浮かぶものもない。涙一滴流れるでもない。しかもその自分で自分の袂(たもと)をつかむ手は堅く握りしめて、震えるほど力を入れていた。無言の悲しみを制(おさ)えるかのように。
その晩はもはや宵(よい)から月のあるころではなかった。店座敷の障子にあの松の影の映って見えたころは、毎晩のようにお粂もよく裏庭の方へ歩きに出て、月の光のさし入った木の下なぞをあちこちあちこちとさまよった。それは四、五日前のことでお民も別に気にもとめずにいた。その晩のように月の上るのもおそいころになって、また娘が勝手口の木戸から屋外(そと)へ歩きに出るのを見ると、お民は嫁入り前のからだに風でも引かせてはとの心配から、土間にある庭下駄もそこそこに娘を呼び戻(もど)しに出た。底青く光る夜の空よりほかにお民の目に映るものもない。勝手の流しもとの外あたりでは、しきりに虫がなく。
「お粂。」
その母親の呼び声を聞きつけて、娘は暗い土蔵の前の柿(かき)の木の下あたりから引き返して来た。
その翌日も青山の家のものは事のない一日を送った。夕飯後のことであった。下男の佐吉は裏の木小屋に忘れ物をしたと言って、それを取りに囲炉裏ばたを離れたぎり容易に帰って来ない。そのうちに引き返して来て、彼が閉(し)めて置いたはずの土蔵の戸が閉まっていないことを半蔵にもお民にも告げた。その時は裏の隠居所から食事に通うおまんもまだ囲炉裏ばたに話し込んでいた。見ると、お粂がいない。それから家のものが騒ぎ出して、半蔵と佐吉とは提灯(ちょうちん)つけながら土蔵の方へ急いだ。おまんも、お民もそのあとに続いた。暗い土蔵の二階、二つ並べた古い長持のそばに倒れていたのは他のものでもなかった。自害を企てた娘お粂がそこに見いだされた。 
第十章

 


青山の家に起こった悲劇は狭い馬籠(まごめ)の町内へ知れ渡らずにはいなかった。馬籠は飲用水に乏しい土地柄であるが、そのかわり、奥山の方にはこうした山地でなければ得られないような、たまやかな水がわく。樋(とい)を通して呼んである水は共同の水槽(すいそう)のところでくめる。そこにあふれる山の泉のすずしさ。深い掘り井戸でも家に持たないかぎりのものは、女でも天秤棒(てんびんぼう)を肩にかけ、手桶(ておけ)をかついで、そこから水を運ばねばならぬ。南側の町裏に当たる崖下(がけした)の位置に、静かな細道に添い、杉(すぎ)や榎(えのき)の木の影を落としているあたりは、水くみの女どもが集まる場所で、町内の出来事はその隠れた位置で手に取るようにわかった。
うわさは実にとりどりであった。あるものは旧本陣の娘のことをその夜のうちに知ったと言い、あるものは翌朝になって知ったと言う。寄るとさわると、そこへ水くみに集まるもののうわさはお粂のことで持ち切った。あの娘が絶命するまでに至らなかったのは、全く家のものが早く見つけて手当てのよかったためであるが、何しろ重態で、助かる生命(いのち)であるかどうかはだれも知らない。変事を聞いて夜中に駕籠(かご)でかけつけて来た山口村の医者|杏庵(きょうあん)老人ですら、それは知らないとのこと。この山里に住むものの中には、青山の家の昔を知っていて、先代吉左衛門の祖父に当たる七郎兵衛のことを引き合いに出し、その人は二、三の同僚と共に木曾川へ魚を捕(と)りに行って、隣村山口の八重島(やえじま)、字龍(あざたつ)というところで、ついに河(かわ)の水におぼれたことを言って、今度の悲劇もそれを何かの祟(たた)りに結びつけるものもあった。
門外のもののうわさがこんなに娘お粂の身に集まったのも不思議はない。青山の家のものにすら、お粂が企てた自害の謎(なぞ)は解けなかった。ともあれ、この出来事があってからの四、五日というものは、家のものにはそれが四十日にも五十日にも当たった。その間、お粂が生死の境をさまよっていて、飲食するものも喉(のど)に下りかねるからであった。
にわかに半蔵も年取った。一晩の心配は彼を十年も老(ふ)けさした。父としての彼がいろいろな人の見舞いを受けるたびに答えうることは、このとおり自分はまだ取り乱していると言うのほかはなかったのである。その彼が言うことには、この際、自分はまだ何もよく考えられない。しかし、治療のかいあって、追い追いと娘も快い方に向かって来ているから、どうやら一命を取りとめそうに見える。娘のことから皆にこんな心配をかけて済まなかった。これを機会に、自分としても過去を清算し、もっと新しい生涯(しょうがい)にはいりたいと思い立つようになった。そんなふうに彼は見舞いの人々に言って見せた。時には彼は村の子供たちを教えることから帰って来て、袴(はかま)も着けたままお粂の様子を見に行くことがある。母屋(もや)の奥座敷には屏風(びょうぶ)をかこい、土蔵の方から移された娘のからだがそこに安静にさせてある。娘はまだ顔も腫(は)れ、短刀で刺した喉の傷口に巻いてある白い布も目について、見るからに胸もふさがるばかり。変わり果てたこの娘の相貌(そうぼう)には、お民が驚きも一通りではない。彼女は悲しがって、娘を助けたさの母の一心から、裏の稲荷(いなり)へお百度なぞを踏みはじめている。
木曾谷でも最も古い家族の一つと言わるる青山のような家に生まれながら、しかもはなやかな結婚の日を前に控えて、どうしてお粂がそんな了簡(りょうけん)違いをしたろうということは、彼女の周囲にある親しい人たちの間にもいろいろと問題になった。寿平次の妻お里は妻籠(つまご)から、半蔵が旧(ふる)い弟子(でし)の勝重(かつしげ)は落合(おちあい)から、いずれも驚き顔に半蔵のところへ見舞いに来て、隣家の主人伊之助と落ち合った時にも、その話が出る。娘心に、この世をはかなんだものだろうか、と言って見るのは勝重だ。もっと学問の道にでも進みたかったものか、と言って見るのはお里だ。十八やそこいらのうら若さで、そうはっきりした考えから動いたことでもないのであろう、おそらく当人もそこまで行くつもりはなかったのであろう、それにしてもだれかあの利発な娘を導く良い案内者をほしかった、と言って見るのは伊之助だ。いや、たまたまこれはお粂の生娘(きむすめ)であった証拠で、おとこおんなの契りを一大事のように思い込み、その一生に一度の晴れの儀式の前に目がくらんだものであろう、と言って見るものもある。お粂の平常を考えても、あの生先(おいさき)籠(こも)る望み多いからだで、そんな悪い鬼にさいなまれていようとは思いがけなかったと言って、感じやすいもののみが知るようなさみしいこころのありさまにまでお粂の行為(おこない)を持って行って見るものもある。
その時になると、半蔵は伊那南殿村の稲葉家へあててありのままにこの出来事を書き送り、結婚の約束を解いてもらうよりほかに娘を救う方法も見当たらなかった。しかし、すでに結納(ゆいのう)の品を取りかわし、箪笥(たんす)、長持から、針箱の類(たぐい)まで取りそろえてお粂を待っていてくれるという先方の厚意に対しても、いったん親として約諾したことを破るという手紙は容易に書けなかった。せめて仲人(なこうど)のもとまでと思いながら、かねて吉辰(きっしん)良日として申し合わせのあった日に当たる九月二十二日が来ても、彼にはその手紙が書けない。月の末にも書けない。とうとう十月の半ばまで延引して、彼は書くべき断わり手紙の下書きまで用意しながら、いざとなると筆が進まなかった。
「拝啓。冷気相増し候(そうろう)ところ、皆々様おそろいますます御清適に渡らせられ、敬寿たてまつり候。陳(のぶ)れば、昨冬以来だんだん御懇情なし下されし娘粂儀、南殿村稲葉氏へ縁談御約諾申し上げ置き候ところ、図らずも心得違いにて去月五日土蔵二階にて自刃に及び、母妻ら早速(さっそく)見つけて押しとどめ、親類うち寄り種々申し諭(さと)し、医療を加え候ところ、四、五日は飲食も喉(のど)に下りかねよほどの難治に相見え申し候。幸い療養の効(かい)ありて、追い追いと快方におもむき、この節は食事も障(さわ)りなく、疵(きず)は日に増し癒(い)え候方に向かいたれども、気分いまだ平静に相成らざる容体にて、心配の至りに御座候。実もって、家内一同へすこしもその様子は見せ申さず、皆々心付け申さず、かかる挙動に及び候儀、言語に絶し、女心とは申しながら遺憾すくなからず、定めし稲葉氏には御用意等も追い追い遊ばされ候儀と推察たてまつり、南殿村へ対しなんとも申し上げようも御座なく候。右につき、御契約の儀は縁なきこととおあきらめ下され、お解き下され候よう、尊公様より厚く御詫(おんわ)びを願いたく候。気随の娘、首切って御渡し申すべきか、いかようとも謝罪の儀は貴命に従い申すべく候。かねて御引き取りの御約束にこれあり候ことゆえ、定めて諸事御|支度(したく)あらせられ候ことと推察たてまつり、早速にもこの儀、人をもって申し上ぐべきはずに候えども、種々取り込みまかりあり、不本意ながらも今日まで延引相成り申し候。縁談の儀は旧好を続(つ)ぎ、親(しん)を厚うし候ことにて、双方よかれと存じ候事に候えども、当人種々娘ごころを案じめぐらせし上にもこれあり候か、了簡(りょうけん)違いつかまつり、いかんとも両親の心底にも任せがたく候間、この段厚く御海恕(ごかいじょ)なし下され候よう願い上げたてまつり候。遠からず人をもって御詫び申し上ぐべく候えども、まずまず尊公様までこの段申し上げ候。何卒(なにとぞ)、南殿村へはくれぐれも厚く御詫び下さるよう、小生よりは申し上ぐべき言葉も御座なく候。まずは右、御願いまで、かくのごとくに御座候。
よかれとて契りしことも今ははたうらみらるべきはしとなりにき
尚々(なおなお)、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」
ようやく十月の二十三日に、半蔵は仲人あてのこの書きにくい手紙を書いた。書いて見ると、最初からこの縁談を取りまとめるためにすくなからず骨折ってくれた継母おまんのことがそこへ浮かんで来る。目上のものの言うことは実に絶対で、親子たりとも主従の関係に近く、ほとほと個人の自由の認めらるべくもない封建道徳の世の中に鍛えられて来たおまんのような婦人が、はたしてほんとうに不幸な孫娘を許すか、どうかも彼には気づかわれる。
「お民。」
半蔵は妻を呼んで、当時にはまだ目新しい一銭の郵便切手を二枚|貼(は)って出す前に、この手紙を彼女にも読み聞かせた。
「あなたが、もっと自分の娘のことを考えてくれたら、こんなことにはならなかった。」
お民はそれを言い出しながら、夫のそばにいてすすり泣いた。
これには半蔵も返す言葉がない。山林事件の当時、彼は木曾山を失おうとする地方人民のために日夜の奔走を続けていて、その方に心を奪われ、ほとんど家をも妻子をも顧みるいとまがなかった。彼は義理堅い継母からも、すすり泣く妻からも、傷ついた娘からも、自分で自分のしたことのつらい復讐(ふくしゅう)を受けねばならなかった。
ある日、彼は奥座敷に娘を見に行った。お粂が顔の腫(は)れも次第に引いて来たころだ。彼はうれしさのあまり、そこに眠っている娘の額や頬(ほお)に自分の掌(てのひら)を当てたりなぞして、めっきり回復したそのようすを見直した。その時、お粂は例の大きな黒目がちな目を見開きながら、
「お父(とっ)さん、申しわけがありません。わたしが悪うございました。もう一度――もう一度わたしも生まれかわったつもりになってやりますから、今度のことは堪忍(かんにん)してください。」
「おゝ、お粂もそこへ気がついたか。」
と彼は言って見せた。
十一月にはいって、峠のお頭(かしら)平兵衛は伊那南殿村への訪問先から引き返して来た。その用向きは、半蔵の意をうけて稲葉家の人々にあい、ありのままにお粂の様子を伝え、縁談解約のことを申し入れるためであった。平兵衛が先方の返事を持ち帰って見ると、稲葉の主人をはじめ先方では非常に残念がり、そういう娘こそ見どころがあると言って、改めてこの縁談をまとめたいと言って来た。
この稲葉家の厚意は一層事をめんどうにした。そこには、どこまでも生家(さと)と青山の家との旧好を続けたいという継母おまんが強い意志も働き、それほどの先方の厚意を押し切るということは、半蔵としても容易でなかったからである。
武士としてもすぐれた坂本孫四郎(号天山)のような人を祖父に持つおまんの心底をたたくなら、半蔵なぞはほとんど彼女の眼中にない。彼女に言わせると、これというのも実は半蔵が行き届かないからだ。彼半蔵が平常も人並みではなくて、おかしい事ばかり。そのために彼女まで人でなしにされて、全く生家(さと)の人たちには合わせる顔がない。彼女はその調子だ。このおまんは傷口の直ったばかりのような孫娘を自分の前に置いて、まだ顔色も青ざめているお粂に、いろいろとありがたい稲葉家の厚意を言い聞かせた。なお、あまりに義理が重なるからとおまんは言って、栄吉その他のものまで頼み、それらの親戚(しんせき)の口からも、さまざまに理解するよう娘に言いさとした。お粂はそこへ手をついて、ただただ恥ずかしいまま、お許しくだされたいとばかり。別に委細を語らない。これにはおまんも嘆息してしまった。
半蔵は、血と血の苦しい抗争が沈黙の形であらわれているのをそこに見た。いろいろと生家(さと)に掛けた費用のことを思い、世間の評議をも懸念(けねん)して、これがもし実の孫子(まごこ)であったら、いかようにも分別があると言いたげな飽くまで義理堅い継母の様子は、ありありとその顔色にあらわれていた。お粂は、と見ると、これはわずかに活(い)き返ったばかりの娘だ。せっかく立て直ろうとしている小さな胸に同じ事を苦しませるとしたら、またまた何をしでかすやも測りがたかった。この際、彼の取るべき方法は、妻のお民と共に継母をなだめて、目に見えない手枷(てかせ)足枷(あしかせ)から娘を救い出すのほかはなかった。
「ますます単純に。」
その声を彼は耳の底にききつけた。そして、あとからあとから彼の身辺にまといついて来る幾多の情実を払いのけて、新たな路(みち)を開きたいとの心を深くした。今は躊躇(ちゅうちょ)すべき時でもなかった。彼としては、事を単純にするの一手だ。
そこで彼は稲葉氏あてに、さらに手紙を書いた。それを南殿村への最後の断わりの言葉にかえようとした。
「尊翰(そんかん)拝見|仕(つかまつ)り候。小春の節に御座候ところ、御渾家(ごこんか)御|揃(そろ)い遊ばされ、ますます御機嫌(ごきげん)よく渡らせられ、恭賀たてまつり候。降(くだ)って弊宅異儀なく罷(まか)りあり候間、憚(はばか)りながら御放念下されたく候。陳(のぶ)れば、愚娘儀につき、先ごろ峠村の平兵衛参上いたさせ候ところ、重々ありがたき御厚情のほど、同人よりうけたまわり、まことにもって申すべき謝辞も御座なき次第、小生ら夫妻は申すに及ばず、老母ならびに近親のものまでも御懇情のほど数度説諭に及び候ところ、当人においても段々御慈悲をもって万端御配慮なし下され候儀、浅からず存じ入り、参上を否み候儀は毛頭これなく候えども、不了簡(ふりょうけん)の挙動、自業自悔(じごうじかい)、親類のほかは町内にても他人への面会は憚り多く、今もって隣家へ浴湯にも至り申さざるほどに御座候。右の次第、そのもとへ参り候儀、おおかた恥ずかしく、御家族様方を初め御親類衆様方へ対し奉り、女心の慚愧(ざんき)耐えがたき儀につき、なにぶんにも参上つかまつりかね候よし申しいで候。小生らにおいても御厚意を奉体つかまつらざる場合に落ち行き、苦慮|一方(ひとかた)ならず、この段|御宥恕(ごゆうじょ)なし下されたく、尊君様より皆々様へ厚く御詫び申し上げ候よう幾重(いくえ)にも願いたてまつり候。右貴答早速申し上ぐべきところ、愚娘説諭方数度に及び、存外の遅延、かさねがさねの多罪、ひたすら御海恕下されたく候。尚々(なおなお)、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」 

とうとう、半蔵もこんな風雨をしのいで一生の旅の峠にさしかかった。人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。平田門人としての彼は、復古の夢の成りがたさにも、同門の人たちの蹉跌(つまずき)にも、つくづくそれを知って来た。ただほんとうに心配する人たちのみがこの世に残して行くような誠実の感じられるものがあって、それを何ものにも換えがたく思う心から、彼のような人間でも行き倒れずにどうやらその年まで諸先輩の足跡をたどりつづけて来た。過去を振り返ると、彼が父吉左衛門の許しを得て、最初の江戸の旅に平田|鉄胤(かねたね)の門をたたき、誓詞、酒魚料、それに扇子(せんす)壱箱を持参し、平田門人の台帳に彼の名をも書き入れてもらったのは安政三年の昔であって、浅い師弟の契りとも彼には思われなかった。その師にすら、「ここまではお前たちを案内して来たが、ここから先の旅はお前たち各自に思い思いの道をたどれ」と言わるるような時節が到来した。これは全く自然の暇乞(いとまご)いで、その年、明治六年には師ももはや七十二歳の老齢を迎えられたからである。この心ぼそさに加えて、前年の正月には彼は平田|延胤(のぶたね)若先生の死をも見送った。平田派中心の人物として一門の人たちから前途に多くの望みをかけられたあの延胤が四十五歳で没したことは、なんと言っても国学者仲間にとっての大きな損失である。追い追いの冷たい風は半蔵の身にもしみて来た。そこへ彼の娘まで深傷(ふかで)を負った。感じられはしても、説き明かせないこの世の深さ。あの稲妻(いなずま)のひらめきさえもが、時としては人に徹する。生きることのはかなさ、苦しさ、あるいは恐ろしさが人に徹するのは、こういう時かと疑われるほど、彼も取り乱した日を送って来た。この彼が過去を清算し、もっと彼自身を新しくしたいとの願いから、ようやく起こし得た心というは、ほかでもない。それは平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとする心であった。
半蔵も動いて来た。時にはこのまま村夫子(そんふうし)の身に甘んじて無学な百姓の子供たちを教えたいと思い、時にはこんな山の中に引き込んでいて旧(ふる)い宿場の運命をのみ見まもるべき世の中ではないと思い、是非胸中にたたかって、精神の動揺はやまない。多くの悲哀(かなしみ)が神に仕える人を起こすように、この世にはまだ古(いにしえ)をあらわす道が残っていると感づくのも、その彼であった。復古につまずいた平田篤胤没後の門人らがいずれも言い合わせたように古い神社へとこころざし、そこに進路を開拓しようとしていることも、いわれのあることのように彼には考えられて来た。松尾の大宮司となった師岡正胤(もろおかまさたね)、賀茂の少宮司となった暮田正香(くれたまさか)なぞを引き合いに出すまでもなく、伊那の谷にある同門の人たちの中にもその方向を取ろうとする有志のものはすくなくない。
山窓(やままど)にねざめの夜はの明けやらで風に吹かるる雨の音かな
祖(おや)の祖(おや)のそのいにしへは神なれば人は神にぞ斎(いつ)くべらなる
この述懐の歌は、半蔵が斎(いつき)の道を踏みたいと思い立つ心から生まれた。すくなくも、その心を起こすことは、先師の思(おぼ)し召しにもかなうことであろうと考えられたからで。
新しい路(みち)をひらく手始めに、まず半蔵は自家の祭葬のことから改めてかかろうと思い立った。元来神葬祭のことは中世否定の気運と共に生まれた復古運動のあらわれの一つで、最も早くその根本問題に目を着け、またその許しを公(おおやけ)に得たものは、士籍にあっては豊後岡藩(ぶんごおかはん)の小川|弥右衛門(やえもん)、地下人(じげにん)(平民)にあっては伊那小野村の庄屋倉沢|義髄(よしゆき)をはじめとする。ことに、義髄は一日も人身の大礼を仏門に委(ゆだ)ねるの不可なるを唱え、中世以来宗門仏葬等のことを菩提寺(ぼだいじ)任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国|曹洞宗(そうとうしゅう)四百三か寺に対抗して宗門|人別帳(にんべつちょう)離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するために前後四年を費やして、その資産を蕩尽(とうじん)してもなお屈しないほどの熱心さであった。徳川幕府より僧侶(そうりょ)に与えた宗門権の破棄と、神葬復礼との奥には、こんな人の動きがある。しかし世の中は変わった。その年、明治六年の十一月には、筑摩(ちくま)県|権令(ごんれい)永山盛輝(ながやまもりてる)の名で、神葬仏葬共に人民の信仰に任せて聞き届ける旨(むね)はかねて触れ置いたとおりであるが、今後はその願い出にも及ばない、各自の望み次第、葬儀改典勝手たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達するほどの世の中になって来た。これは半蔵にとっても見のがせない機会である。彼は改典の事を共にするため、何かにつけての日ごろの相談相手なる隣家の主人、伊之助を誘った。
菩提寺任せにしてあった父祖の位牌(いはい)を持ち帰る。その塵埃(ほこり)を払って家に迎え入れる。墓地の掃除も寺任せにしないで家のものの手でそれをする。今の寺院の境内はもと青山家の寄付にかかる土地であるから、神葬の儀式でも行なう必要のあるおりは当分寺の広庭を借り用いる。まったく神仏を混淆(こんこう)してしまったような、いかがわしい仏像なぞの家にあるものはこの際焼き捨てる――この半蔵の考えが伊之助を驚かした。しかし、伊之助は平素の慎み深さにも似ず、これは自分らの子供たちを教育する上からもゆるがせにすべき問題でないと言い、これまで親しいものの死後をあまり人任せにし過ぎたと言い、旧宿役人時代から彼は彼なりに在家(ざいけ)と寺方との関係を考えて来たとも言って、もし旧本陣でこの事を断行するなら、伏見屋でもこれを機会に祭葬の礼を改めて、古式に復したいと同意した。
半蔵は言って見た。
「やっぱり伊之助さんは、わたしのよい友だちだ。」
今は彼も意を決した。この上は、伊之助と連れだって、今度の布告の趣意を万福寺住職に告げ断わるため、馬籠の北側の位置にある田圃(たんぼ)の間の寺道を踏むばかりになった。
万福寺の松雲|和尚(おしょう)はもとの名を智現(ちげん)という。行脚(あんぎゃ)六年の修業の旅を終わり、京都本山の許しを得て名も松雲と改め、新住職として馬籠の寺に落ちついたのは、もはや足掛け二十年の前に当たる。
あれは安政元年のことで、半蔵が父吉左衛門も、伊之助が養父金兵衛も、共にまだ現役の宿役人としてこの駅路一切の世話に任じていたころだ。旧暦二月末の雨の来る日、美濃路(みのじ)よりする松雲の一行が中津川宗泉寺老和尚の付き添いで、国境(くにざかい)の十曲峠(じっきょくとうげ)を上って来た時、父の名代として百姓総代らと共に峠の上の新茶屋まで新住職の一行を出迎えたのもまだ若いころの半蔵だった。旅姿の松雲はそのまま山門をくぐらずに、まず本陣の玄関に着き、半蔵が家の一室で法衣|装束(しょうぞく)に着かえ、それから乗り物、先箱(さきばこ)、台傘(だいがさ)で万福寺にはいったのであった。
二十年の月日は半蔵を変えたばかりでなく、松雲をも変え、その周囲をも変えた。和尚もすでに五十の坂を越した。過ぐる月日の間、どんなさかんな行列が木曾街道に続こうと、どんな血眼(ちまなこ)になった人たちが馬籠峠の上を往復しようと、日々の雲が変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにながめ暮らして、ただただ古い方丈の壁にかかる達磨(だるま)の画像を友として来たような人が松雲だ。毎朝早くの洗面さえもが、この人には道を修めることで、法鼓(ほうこ)、諷経(ふうぎん)等の朝課の勤めも、払暁(ふつぎょう)に自ら鐘楼に上って大鐘をつき鳴らすことも、その日その日をみたして行こうとする修道の心からであった。一日成さなければ一日食うまい、とは百丈禅師のような古大徳がこの人に教えた言葉だ。仏餉(ぶっしょう)、献鉢(けんばち)、献燈、献花、位牌堂(いはいどう)の回向(えこう)、大般若(だいはんにゃ)の修行、徒弟僧の養成、墓|掃除(そうじ)、皆そのとおり、長い経験から、ずいぶんこまかいところまでこの人も気を配って来た。たとえば、毎年正月の八日には馬籠仲町にある檀家(だんか)の姉様(あねさま)たちが仏参を兼ねての年玉に来る、その時寺では十人あまりへ胡桃餅(くるみもち)を出す、早朝から風呂(ふろ)を焚(た)く、あとで出す茶漬(ちゃづ)けの菜(さい)には煮豆に冬菜のひたしぐらいでよろしの類(たぐい)だ。寺は精舎(しょうじゃ)とも、清浄地とも言わるるところから思いついて、明治二年のころよりぽつぽつ万福寺の裏山を庭に取り入れ、そこに石を運んだり、躑躅(つつじ)を植えたりして、本堂や客殿からのながめをよくしたのもまた和尚だ。奥山の方から導いた清水(しみず)がこの庭に落ちる音は、一層寺の境内を街道筋の混雑から遠くした。
こんな静かな禅僧の生活も、よく見れば動いていないではない。大は将軍家、諸侯から、小は本陣、問屋(といや)、庄屋、組頭(くみがしら)の末に至るまでことごとく廃された中で、僧侶(そうりょ)のみ従前どおりであるのは、むしろ不思議なくらいの時である。御一新以前からやかましい廃仏の声と共に、神道葬祭が復興することとなると、寺院は徳川幕府の初期以来保証されて来た戸籍公証の権利を侵さるるのみならず、宗門人別離脱者の増加は寺院の死活問題にも関する。これには各宗の僧籍に身を置くものはもとより、全国何百万からの寺院に寄宿するものまで、いずれも皆強い衝動を受けた。この趨勢(すうせい)に鑑(かんが)み、中年から皇国古典の道を聞いて、大いに松雲も省みるところがあった。和尚がことに心をひかれたのは、人皇三十一代用明天皇第二の皇子、すなわち厩戸皇子(うまやどのおうじ)ののこした言葉と言い伝えられるものであった。この国|未曾有(みぞう)の仏法を興隆した聖徳太子とは、厩戸皇子の諡号(しごう)にほかならない。その言葉に、神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である、根本|昌(さかん)なる時は枝葉も従って繁茂する、故に根本をゆるかせにしてはならないぞよとある。これだ。この根本に帰入するのが、いくらかでも仏法の守られる秘訣(ひけつ)だと松雲は考えた。ところがこれには反対があって、仏徒が神道を基とするのは狭い偏した説だとの意見が出た。その声は隣村同宗の僧侶仲間からも聞こえ、隣国美濃にある寺々からも聞こえて来た。そしてしきりにその片手落ちを攻撃する手紙が松雲のもとへ舞い込んで来たのは十通や十三、四通にとどまらない。そのたびに松雲は自己の立ち場を弁解する意見書を作って置いて、それを同宗の人々に示した。かく根本に帰入するのは、すなわち枝葉を繁茂せしめる一つではなかろうか。その根本が堅固であっても、霜雪時に従って葉の枯れ落ちることはある。枝の朽ちることもある。また、新芽を生ずるがある。新しい枝を延ばすもある。皆、天然自然のしからしめるところであって、その根本たりとも衰えることはないと言えない。大根(おおね)の枯れさえなければ、また蔓延(まんえん)の時もあろう。この大根を切断する時は、枝葉もまた従って朽ちることは言葉を待たない。根本を根本とし、枝葉を枝葉とするに、どうしてこれが片手落ちであろう。そもそも仏法がこの国土に弘まったのは欽明帝(きんめいてい)十三年仏僧入朝の時であって、以来、大寺の諸国に充満し、王公貴人の信仰したことは言葉に尽くせない。過去数百年間、仏徒の横肆(おうし)もまた言葉には尽くせない。その徒も一様ではない。よいものもあれば、害のあったものもある。一得あれば一失を生ずる。ほまれそしりはそこから起こって来るが、仏徒たりとも神国の神民である以上、神孫の義務を尽くして根本を保全しなければならぬ。その義務を尽くすために神道教導職の一端に加わるのは、だれがこれを片手落ちと言えよう。今や御一新と言い、社会の大変革と言って、自分らごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得ない。ただ仏祖の旧恩を守って、道を道とするに、どうして片手落ちの異見を受くべきであろうぞ。朝旨に戻(もと)らず、三条の教憲を確(しか)と踏まえて、正を行ない、邪をしりぞけ、権衡(けんこう)の狂わないところに心底を落着せしめるなら、しいて天理に戻るということもあるまい。自分らごときは他人の異見を待たずに、不羈(ふき)独立して大和魂(やまとだましい)を堅め、善悪邪正と是非得失とをおのが狭い胸中に弁別し、根本の衰えないのを護念して、なお枝葉の隆盛に懸念(けねん)する。もとより神仏を敬する法は、みな報恩と謝徳とをもってする。これを信心と言う。自分の身に利得を求めようとするのは、皆欲情である。報恩謝徳の厚志があらば、神明の加護もあろう。仏といえども、道理に違(たご)うことのあるべきはずがない。自分らには現世(げんせ)を安穏にする欲情もなければ、後生(ごせ)に善処する欲情もない。天賦の身は天に任せ、正を行ない邪に組せず、現世後生は敵なく、神理を常として真心を尽くすを楽しみとするのみだから、すこしも片手落ちなどの欲念邪意があることはない。これが松雲和尚の包み隠しのないところであった。
禅僧としての松雲は動かないように見えて、その実、こんなに静かに動いていた。この人にして見ると、時が移り世態が革(あらた)まるのは春夏秋冬のごとくであって、雲起こる時は日月も蔵(かく)れ、その収まる時は輝くように、聖賢たりとも世の乱れる時には隠れ、世の治まる時には道を行なうというふうに考えた。というのは、遠い昔にあの葦(あし)を折る江上の客となって遠く西より東方に渡って来た祖師の遺訓というものがあるからであった。大意(理想)は人おのおのにある、しかもむなしくこれ徒労の心でないものはないと教えてあるのだ。さてこそ、明治の御一新も、この人には必ずしも驚くべきことではなかった。たといその態度をあまりに高踏であるとし、他から歯がゆいように言われても、松雲としては日常刻々の修道に思いを潜め、遠く長い目で世界の変革に対するの一手があるのみであった。
半蔵と伊之助の二人(ふたり)が連れだって万福寺を訪(たず)ねた時は、ちょうど村の髪結い直次が和尚の頭を剃(そ)りに来ていて、間もなく剃り終わるであろうというところへ行き合わせた。髪長くして僧貌(そうぼう)醜しと日ごろ言っている松雲のことだから、剃髪(ていはつ)も怠らない。そこで半蔵らは勝手を知った寺の囲炉裏ばたに回って、直次が剃刀(かみそり)をしまうまで待った。
十二、三年も寺に暮らして和尚の身のまわりの世話をしていた人が亡(な)くなってからは、なんとなく広い囲炉裏ばたもさびしかった。生まれは三留野(みどの)で、お島というのがその女の名だった。宿役人一同承知の上で寺にいれたくらいだから、その人とて肩身の狭かろうはずもなかったが、それでも周囲との不調和を思うかして、生前は本堂へも出なかった。世をいといながら三時の勤行(ごんぎょう)を怠らない和尚を助けて、お島は檀家(だんか)のものの受けもよく、台所から襷(たすき)をはずして来てはその囲炉裏で茶をもてなしてくれたことを半蔵らも覚えている。亡(な)い人の数に入ったその女のために、和尚が形見の品を旧本陣や伏見屋にまで配ったことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。
髪結い直次のような老練な職人の腕にも、和尚の頭は剃りにくいかして、半蔵らはかなり待たされた。それを待つ間、彼は伊之助と共にその囲炉裏ばたを離れて、和尚の造った庭を歩き回りに出た。やがて十三、四ばかりになる歯の黄色い徒弟僧の案内で、半蔵は和尚の方丈に導かれた。
「これは。これは。」
相変わらずの調子で半蔵らを迎えるのは松雲だ。客に親疎を問わず、好悪(こうお)を選ばずとはこの人のことだ。ことに頭は剃りたてで、僧貌も一層柔和に見える。本堂の一部を仮の教場にあててから、半蔵を助けて村の子供たちを教えているのもこの和尚だが、そういう仕事の上でかつていやな顔を彼に見せたこともない。しばらく半蔵はその日の来意を告げることを躊躇(ちゅうちょ)した。というのは、対坐(たいざ)する和尚の沈着な様子が容易にそれを切り出させないからであった。それに、彼はこの人が仏弟子(ぶつでし)ながら氏神をも粗末にしないで毎月|朔日(ついたち)十五日には荒町(あらまち)にある村社への参詣(さんけい)を怠らないことを知っていたし、とても憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主であることをも知っていたからで。
しかし、半蔵の思い立って来たことは種々(さまざま)な情実やこれまでの行きがかりにのみ拘泥(こうでい)すべきことではなかった。彼は伊之助と共に、筑摩(ちくま)県からの布告の趣意を和尚に告げ、青山小竹両家の改典のことを断わった。なお、これまで青山の家では忌日供物の料として年々|斎米(ときまい)二斗ずつを寺に納め来たったもので、それもこの際、廃止すべきところであるが、旧義を存して明年からは米一斗ずつを贈るとも付け添えた。この改典は廃仏を意味する。これはさすがの松雲をも驚かした。なぜかなら、この万福寺を建立(こんりゅう)したそもそもの人は、そういう半蔵が祖先の青山|道斎(どうさい)だからである。また、かつて松雲がまだ僧|智現(ちげん)と言ったころから一方ならぬ世話になり、六年|行脚(あんぎゃ)の旅の途中で京都に煩(わずら)った時にも着物や路銀を送ってもらったことがあり、本堂の屋根の葺(ふ)き替えから大太鼓の寄付まで何くれとめんどうを見てくれたことのあるのも、伊之助の養父金兵衛だからである。
「いや、御趣意のほどはわかりました。よくわかりました。わたしは他の僧家とも違いまして、神道を基とするのが自分の本意ですから、すこしもこれに異存はありません。これと申すも皆、前世の悪報です。やむを得ないことです。まあ、お話はお話として、お茶を一つ差し上げたい。」
そう言いながら、松雲は座を立った。ぐらぐら煮立った鉄瓶(てつびん)のふたを取って水をさすことも、煎茶茶碗(せんちゃぢゃわん)なぞをそこへ取り出すことも、寺で製した古茶を入れて慇懃(いんぎん)に客をもてなすことも、和尚はそれを細心な注意でやった。娑婆(しゃば)に生涯(しょうがい)を寄せる和尚はその方丈を幻の住居(すまい)ともしているので、必ずしもひとりをのみ楽しもうとばかりしている人ではない。でも、冷たく無関心になったこの世の人の心をどうかして揺り起こしたいと考えるような平田門人なぞの気分とはあまりにも掛け離れていた。
「どれ、位牌堂(いはいどう)の方へ御案内しましょう。おそかれ早かれ、こういう日の来ることはわたしも思っておりました。神葬祭のことは、あれは和宮(かずのみや)さまが御通行のころからの問題ですからな。」
という和尚は珠数(じゅず)を手にしながら、先に立って、廊下づたいに本堂の裏手へと半蔵らを導いた。霊膳(れいぜん)、茶、香花(こうげ)、それに燭台(しょくだい)のそなえにも和尚の注意の行き届いた薄暗い部屋(へや)がそこにあった。
青山家代々の位牌は皆そこに集まっている。恵那山(えなさん)のふもとに馬籠の村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の先祖は、その生涯にふさわしい万福寺殿昌屋常久禅定門(まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん)の戒名で、位牌堂の中央に高く光っているのも目につく。黒くうるしを塗った大小の古い位牌には、丸に三つ引きの定紋を配したのがあり、あるいはそれの省いたのもある。その面(おもて)に刻した戒名にも、皆それぞれの性格がある。これは僧侶の賦与したものであるが、一面には故人らが人となりをも語っている。鉄巌宗寿庵主(てつがんそうじゅあんしゅ)のいかめしいのもあれば、黙翁宗樹居士(もくおうそうじゅこじ)のやさしげなのもある。その中にまじって、明真慈徳居士(みょうしんじとくこじ)、行年七十二歳とあるは半蔵の父だ。清心妙浄大姉(せいしんみょうじょうだいし)、行年三十二歳とは、それが彼の実母だ。彼は伊之助と共に、それらの位牌の並んでいる前を往(い)ったり来たりした。
松雲は言った。
「時に、青山さん、わたしは折り入ってあなたにお願いがあります。御先祖の万福寺殿、それに徳翁了寿居士(とくおうりょうじゅこじ)御夫婦――お一人(ひとり)は万福寺の開基、お一人は中興の開基でもありますから、この二本の位牌だけはぜひとも寺にお残しを願いたい。」
これには半蔵もうなずいた。 

明治七年は半蔵が松本から東京へかけての旅を思い立った年である。いよいよ継母おまんも例の生家(さと)へ世話しようとしたお粂(くめ)の縁談を断念し、残念ながら結納品(ゆいのうひん)をお返し申すとの手紙を添え、染め物も人に持たせてやって、稲葉家との交渉を打ち切った。お粂はもとより、文字どおりの復活を期待さるる身だ。彼が暮田正香の言葉なぞを娘の前に持ち出して見せ、多くの国学諸先輩が求めようとしたのも「再び生きる」ということだと語り聞かせた時、お粂は目にいっぱい涙をためながら父の励ましに耳を傾けるほどで、一日は一日よりその気力を回復して来ている。妻のお民は、と見ると、泣いたあとでもすぐ心の空の晴れるようなのがこの人の持ち前だ。あれほど不幸な娘の出来事からも、母としてのお民は父としての彼が受けたほどの深い打撃を受けていない。それに長男の宗太も十七歳の春を迎えていて、もはやこれも子供ではない。今は留守中のことを家のものに頼んで置いて、自己の進路を開拓するために、しばらく郷里を離れてもいい時が来たように彼には思われた。
半蔵が旅に出る前のこと。ある易者が来て馬籠(まごめ)の旅籠屋(はたごや)に逗留(とうりゅう)していた。めずらしく半蔵は隣家の伊之助にそそのかされて、その旅やつれのした易者を見に行った。古い袋から筮竹(ぜいちく)を取り出して押し頂(いただ)くこと、法のごとくにそれを数えること、残った数から陰陽を割り出して算木(さんぎ)をならべること、すべて型どおりに行なったあとで、易者はまず伊之助のためにその年の運勢を占ったが、卦(け)にあらわれたところは至極(しごく)良い。砕いて言えば、願う事の成就(じょうじゅ)するかたちである。商売をすれば当たるし、尋ね物は出るし、待ち人は来るし、縁談はまとまるという。ところが、半蔵の順番になって、易者はまた彼のためにも占ったが、好運な隣人のような卦は出なかった。
その時の半蔵を前に置いて、首をひねりながらの易者の挨拶(あいさつ)に、
「どうも、あなたが顔色の艶(つや)から言っても、こんなはずはないと思われるのですが。易のおもてで言いますると、この卦に当たった人は運勢いまだ開けずとあきらめて、年回りを畏(おそ)れ、随分身をつつしみ、時節の到来を待てとありますな。これはよいと申し上げたいが、どうもそう行きません。まあ、本年いっぱいはお動きにならない方がよろしい。」
とある。
半蔵はこの易者を笑えなかった。家に戻(もど)って旅のしたくを心がける間にも、彼は易者に言われたことから名状しがたい不安を引き出された。そういう彼が踏んで行くところは、歩けば歩くほど路(みち)も狭く細かったが、なお、先師没後の門人に残されたものは古い神社の方角にあると考えて、一歩たりともその方に近づく手がかりの与えらるることを念じた。神社に至るの道はまず階段を踏まねばならないと同じ道理で、彼とてもその手段を尽くさねばならなかった。これは万福寺の住職なぞが言うところの出家の道に似て、非なるものである。彼の願いは神から守られることばかりでなく、神を守りに行くことであった。しかし、この事はまだ家のものにも話さずにある。彼は見ず知らずの易者なぞに自分の運勢を占ってもらったことを悔いた。
五月中旬のはじめに彼は郷里を出発したが、親しい人たちの見送りも断わり、供も連れずであった。過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは元治(げんじ)元年六月のことであったが、今度はあの時のような庄屋仲間の連れもない。新しい郡県の政治もまだようやく端緒についたばかりのような時で、木曾谷は三大区にわかたれ、大小の区長のほかに学区取り締まりなるものもでき、谷中村々の併合もそこここに行なわれていた。その後の山林事件の成り行きも心にかかって、鳥居峠まで行った時、彼はあの御嶽遙拝所(おんたけようはいじょ)の立つ峠の上の高い位置から木曾谷の方を振り返って見た。松本まで彼が動いた時は、ちょうどこの時勢に応ずる教育者のための講習会が筑摩(ちくま)県主催のもとに開かれているおりからであった。松本宮村町|瑞昌寺(ずいしょうじ)、それが師範学科の講習所にあてられたところで、いずれも相応な年配の人たちが県庁の募集に応じて集まって来ていた。半蔵が自分の村の敬義学校のために一人の訓導を見つけたのも、その松本であった。早速(さっそく)彼はその人を推薦することにした。今こそ馬籠でも万福寺を仮教場にあてているが、寺の付近に普請中の仮校舎も近く落成の運びであることなぞをもその人に告げた。小倉啓助がその人の名で、もと禰宜(ねぎ)の出身であるという。至極|直(ちょく)な人物である。このよさそうな教師を村に得ただけでも、彼は安心して東京の方に向かうことができるわけだ。もともと彼は年若な時分から独学の苦心を積み、山里に生まれて良師のないのを悲しみ、未熟な自分を育てようとしたばかりでなく、同時に無知な村の子供を教えることから出発したような男で、子弟教育のことにかけては人一倍の関心を抱(いだ)いているのである。
新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心|得(う)べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙(けいもう)ということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよの類(たぐい)だ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校に併(あわ)せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻(しおじり)、下諏訪(しもすわ)から追分(おいわけ)、軽井沢(かるいざわ)へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠(うすいとうげ)を下った。
半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰(ぼしん)以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。場合によっては武力に訴えても朝鮮問題を解決しようとする西郷隆盛(さいごうたかもり)ら、欧米の大に屈して朝鮮の小を討(う)とうとするのは何事ぞとする岩倉大使および大久保利通(おおくぼとしみち)らの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる慶喜(よしのぶ)を倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい征韓論(せいかんろん)をめぐって、互いにその正反対をかつての朋友(ほうゆう)に見いだしたのであった。
明治御一新の理想と現実――この二つのものの複雑微妙な展(ひら)きは決してそう順調に成し就(と)げられて行ったものではなかった。その理想のみを見て現実を見ないものの多くはつまずいた。その現実のみを見て理想を見ないものの多くもまたつまずいた。ともあれ、千八百六十六年以来諸外国政府の代表者と日本国委員との間に取り結ばれた条約の改正も、朝鮮問題も、共にこの国発展の途上に横たわる難関であったことは争われない。岩倉大使が欧米歴訪の目的は、朝廷御新政以来の最初の使節として諸外国との修好にあったらしく、条約改正のことはその期するところでなかったとも言わるる。むしろ大使はその問題に触れないことを約して国を出発せられたともいう。その方針が遠い旅の途中で変更せられなかったら、この国のものはもっと早く大使一行の帰朝を迎え得たであろう。明治五年の五月には、大使らは条約改正の日本全権ででもあって、ついに前後三年にまたがる月日を海の外に費やされた。外国交渉の不結果、随員の不和、言語の困難――これを一行総員百七名からの従者留学生を挙(あ)げて国を離れたことに思い比べ、品川の沖には花火まで揚げて見送るもののあった出発当時の花やかさに思い比べると、おそらく旅の末はさびしく、しかも苦(にが)い経験であったろう。たとい大使らの欧米訪問が、近代国家の形態を視察することに役立ち、諸外国に対する新政府の位置を強固にすることに役立ち、率先奮励して開明の域に突進する海外留学の気象を誘導することにも役立ったとしても、その長い月日の間、岩倉、大久保、木戸らのごとき柱石たる人々が廃藩置県直後のこの国を留守にしたことは、容易ならぬ結果を招いた。郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、敦賀(つるが)、大分(おおいた)、名東(みょうとう)、北条(ほうじょう)、その他|福岡(ふくおか)、鳥取(とっとり)、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起(ほうき)して、斬罪(ざんざい)、絞首、懲役等の刑に処せられた不幸なものが万をもって数うるほどの驚くべき多数に上ったのも、それらは皆大使一行が留守中にあらわれて来た現象であった。のみならず、時局の不安に刺激され、大使らの留守中を好機として、武力による改革を企つるものが生まれた。
いったい、薩長土(さっちょうと)三藩が朝廷に献じた兵は皆、東北戦争当時の輝かしい戦功の兵である。彼らが位置よりすれば、それらの兵をもって朝廷の基礎を固め、廃藩を断行し、長く徳川氏の旗本八万騎のごときものとなって、すこぶる優待さるるもののように考えた者が多かったとのことである。高知藩の谷干城(たにたてき)のような正直な人はそのことを言って、飛鳥尽きて良弓収まるのたとえを引き、彼ら戦功の兵も少々|厄介視(やっかいし)せらるる姿になって行ったと評した。当時軍隊統御の困難は後世から想像も及ばないほどで、時事を慨し、種々(さまざま)な議論を起こし、陸軍省に迫り、山県近衛都督(やまがたこのえととく)ですらそのためにしばしば辞職を申しいで、後には山県もその職を辞して西郷隆盛が都督になったほどであったとか。近衛兵の年限も定まって一般徴兵の制による事と決してからは、長州以外の二藩の兵は非常に不快の念を抱(いだ)いた。ことに徴兵主義に最も不満なものは桐野利秋(きりのとしあき)であったという。西の勝利者、ないし征服者の不平不満は、朝鮮問題を待つまでもなく、早くも東北戦争以後の社会に胚胎(はいたい)していた。
そこへ外国交渉のたどたどしさと、当時の朝鮮方面よりする東洋の不安だ。いわゆる壮兵主義を抱く豪傑連の中には、あわただしい世態風俗の移り変わりを見て、追い追いの文明開化の風の吹き回しから人心うたた浮薄に流れて来たとの慨(なげ)きを抱き、はなはだしきは楠公(なんこう)を権助(ごんすけ)に比するほどの偶像破壊者があらわれるに至ったと考え、かかる天下柔弱|軽佻(けいちょう)の気風を一変して、国勢の衰えを回復し諸外国の覬覦(きゆ)を絶たねばならないとの意見を持つものがあるようになった。古今内外の歴史を見渡して、外は外国に侮られ、内は敵愾(てきがい)の気を失い、人心は惰弱に風俗は日々|頽廃(たいはい)しつつあるような危殆(きたい)きわまる国家は、これを救うに武の道をもってするのほか、決して他の術がないとは、それらの人たちが抱いて来た社会改革の意見であった。それには文武共に今日改造の途上にあることを一応考慮しないではないが、ひとまず文教をあと回しにする、この際は断然武政を布(し)いて国家の独立を全(まっと)うするためには外国と一戦するの覚悟を取る、それが国を興すの早道だというのである。そして事は早いがいい、今のうちにこの大計を定め国家の進路を改めるがいい、これを決行する時機は大使帰朝前にあるというのである。なぜかなら、大使帰朝の後はおのずから大使一行の意見があって、必ずこの反対に出(い)づるであろうと予測せられたからであった。その武政を立つる方案によると、全国の租税を三分して、その二分を陸海軍に費やす事、すでに士族の常職を解いた者は従前に引き戻(もど)す事、全国の士族を配してことごとく六管鎮台の直轄とする事、丁年以上四十五歳までの男子は残らず常備予備の両軍に編成する事、平民たりとも武事を好む者はその才芸器量に応じすべて士族となす事、全国男子の風教はいわゆる武士道をもって陶冶(とうや)する事、左右大臣中の一人(ひとり)は必ず大将をもってこれに任じ親しく陛下の命を受けて海陸の大権を収める事、これを約(つづ)めて言えば武政をもって全国を統一する事である。この意見を懐(ふところ)にして西郷に迫るものがあったが、隆盛は容易に動かなかった。彼は大使出発の際に大臣参議のおのおのが誓った言葉をそこへ持ち出して見せ、大使帰朝に至るまではやむを得ない事件のほかは決して改革しないとの誓言のあることを言い、今この誓言にそむいて、かかる大事を決行するの不可なるを説き、大使帰朝の後を待てと言いさとした。隆盛は寡言(かげん)の人である。彼は利秋のように言い争わなかった。しかしもともと彼の武人|気質(かたぎ)は戊辰(ぼしん)当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た時にも、剣あるのみの英断に出、徳川氏に対する最後の解決をそこに求めて行った人である。その彼は容易ならぬ周囲の形勢を見、部下の要求の制(おさ)えがたいことを知り、後には自ら進んで遣韓大使ともなり朝鮮問題の解決者たることを志すようになった。岩倉大使一行の帰朝、征韓論の破裂、政府の分裂、西郷以下多くの薩人の帰国、参議|副島(そえじま)、後藤(ごとう)、板垣(いたがき)、江藤(えとう)らの辞表奉呈はその結果であった。上書してすこぶる政府を威嚇(いかく)するの意を含めたものもある。旗勢をさかんにし風靡(ふうび)するの徒が辞表を奉呈するものは続きに続いた。近衛兵(このえへい)はほとんど瓦解(がかい)し、三藩の兵のうちで動かないものは長州兵のみであった。明治七年一月には、ついに征韓派たる高知県士族|武市熊吉(たけちくまきち)以下八人のものの手によって東京|赤坂(あかさか)の途上に右大臣岩倉|具視(ともみ)を要撃し、その身を傷つくるまでに及んで行った。そればかりではない。この勢いの激するところは翌二月における佐賀県愛国党の暴動と化し、公然と反旗をひるがえす第一の烽火(のろし)が同地方に揚がった。やがてそれは元参議江藤新平らの位階|褫奪(ちだつ)となり、百三十六人の処刑ともなって、闇(やみ)の空を貫く光のように消えて行ったが、この内争の影響がどこまで及んで行くとも測り知られなかった。
時には馬、時には徒歩の旅人姿で、半蔵が東京への道をたどった木曾街道の五月は、この騒ぎのうわさがややしずまって、さながら中央の舞台は大荒れに荒れた風雨のあとのようだと言わるるころである。 

「塩、まいて、おくれ。塩、まいて、おくれ。」
木曾街道の終点とも言うべき板橋から、半蔵が巣鴨(すがも)、本郷(ほんごう)通りへと取って、やがて神田明神(かんだみょうじん)の横手にさしかかった時、まず彼の聞きつけたのもその子供らの声であった。町々へは祭りの季節が来ているころに、彼も東京にはいったのだ。
時節がら、人気を引き立てようとする市民が意気込みのあらわれか、町の空に響く太鼓、軒並みに連なり続く祭礼の提灯(ちょうちん)なぞは思いのほかのにぎわいであった。時には肩に掛けた襷(たすき)の鈴を鳴らし、黄色い団扇(うちわ)を額のところに差して、後ろ鉢巻(はちまき)姿で俵天王(たわらてんのう)を押して行く子供の群れが彼の行く手をさえぎった。時には鼻の先の金色に光る獅子(しし)の後ろへ同じそろいの衣裳(いしょう)を着けた人たちが幾十人となくしたがって、手に手に扇を動かしながら町を通り過ぎる列が彼の行く手を埋(うず)めた。彼は右を見、左を見して、新規にかかった石造りの目鏡橋(めがねばし)を渡った。筋違見附(すじかいみつけ)ももうない。その辺は広小路(ひろこうじ)に変わって、柳原(やなぎわら)の土手につづく青々とした柳の色が往時を語り顔に彼の目に映った。この彼が落ち着く先は例の両国の十一屋でもなかった。両国広小路は変わらずにあっても、十一屋はなかった。そこでは彼の懇意にした隠居も亡(な)くなったあとで、年のちがったかみさんは旅人宿を畳(たた)み、浅草(あさくさ)の方に甲子飯(きのえねめし)の小料理屋を出しているとのことである。足のついでに、かねて世話になった多吉夫婦の住む本所相生町(ほんじょあいおいちょう)の家まで訪(たず)ねて行って見た。そこの家族はまた、浅草|左衛門町(さえもんちょう)の方へ引き移っている。そうこうするうちに日暮れに近かったので、浪花講(なにわこう)の看板を出した旅人宿を両国に見つけ、ひとまず彼はそこに草鞋(わらじ)の紐(ひも)を解いた。
東京はまず無事。その考えに半蔵はやや心を安んじて、翌日はとりあえず、京都以来の平田|鉄胤(かねたね)老先生をその隠棲(いんせい)に訪(たず)ねた。彼が亡(な)き延胤(のぶたね)若先生の弔(くや)みを言い入れると、師もひどく力を落としていた。その日は尾州藩出身の田中|不二麿(ふじまろ)を文部省に訪ねることなぞの用事を済まし、上京三日目の午後にようやく彼は多吉夫婦が新しい住居(すまい)を左衛門橋の近くに見つけることができた。
多吉、かみさんのお隅(すみ)、共に半蔵には久しぶりにあう人たちである。よくそれでも昔を忘れずに訪ねて来てくれたと夫婦は言って、早速荷物と共に両国の宿屋を引き揚げて来るよう勧めてくれたことは、何よりも彼をよろこばせた。
「お隅、青山さんは十年ぶりで出ていらしったとよ。」
そういう多吉も変われば、お隅も変わった。以前半蔵が木曾下四宿(きそしもししゅく)総代の庄屋として江戸の道中奉行から呼び出されたおり、五か月も共に暮らして見たのもこの夫婦だ。その江戸を去る時、紺木綿(こんもめん)の切れの編みまぜてある二足の草鞋(わらじ)をわざわざ餞別(せんべつ)として彼に贈ってくれたのもこの夫婦だ。
もとより今度の半蔵が上京はただの東京見物ではない。彼が田中不二麿を訪ねた用事というもほかではない。不二麿は尾州藩士の田中|寅三郎(とらさぶろう)と言ったころからの知り合いの間がらで、この人に彼は自己の志望を打ちあけ、その力添えを依頼した。旧領主|慶勝(よしかつ)公時代から半蔵父子とは縁故の深い尾州家と、名古屋藩の人々とは、なんと言っても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の藩黌(はんこう)明倫堂(めいりんどう)に学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の方面に心を砕く人物を出したことも、彼には偶然とは思われない。今は文部教部両省合併で、不二麿も文部|大丞(だいじょう)の位置にあるから、この省務一切を管理する人に引き受けてもらったことは、半蔵としても心強い。もっとも、不二麿は民知の開発ということに重きを置き、欧米の教育事業を視察して帰ってからはアメリカ風の自由な教育法をこの国に採り入れようとしていて、すべてがまだ端緒についたばかりの試みの時代だとする考え方の人であったが。
多吉はまた半蔵を見に来て言った。
「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変わりましたろう。去年の春から、敵打(かたきう)ちの厳禁――そうです、敵打ちの厳禁でさ。政府も大きな仕事をやったもんさね。親|兄弟(きょうだい)の讐(あだ)を勝手に復(かえ)すようなことは、講釈師の昔話になってしまいました。それだけでも世の中は変わって来ましたね。でも、江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さまの御恩を忘れちゃならない、皆それを言ってます。お隅のやつなぞもね、葵(あおい)の御紋を見ると涙がこぼれるなんて、そう言ってますよ。」
東京まで半蔵が動いて見ると、昔|気質(かたぎ)の多吉の家ではまだ行燈(あんどん)だが、近所ではすでにランプを使っているところがある。夕方になると、その明るい光が町へもれる。あそこでも、ここでもというふうに。燈火(ともしび)すらこんなに変わりつつあった。
今さら、極東への道をあけるために進んで来た黒船の力が神戸(こうべ)大坂の開港開市を促した慶応三、四年度のことを引き合いに出すまでもなく、また、日本紀元二千五百余年来、未曾有(みぞう)の珍事であるとされたあの外国公使らが京都参内当時のことを引き合いに出すまでもなく、世界に向かってこの国を開いた影響はいよいよ日本人各自の生活にまであらわれて来るようになった。ことに、東京のようなところがそうだ。半蔵はそれを都会の人たちの風俗の好みにも、衣裳(いしょう)の色の移り変わりにもみて取ることができた。うす暗い行燈や蝋燭(ろうそく)をつけて夜を送る世界には、それによく映る衣裳の色もあるのに、その行燈や蝋燭にかわる明るいランプの時が来て見ると、今までうす暗いところで美しく見えたものも、もはや見られない。多吉の女房お隅はそういうことによく気のつく女で、近ごろの婦人が夜の席に着る衣裳の色の変わって来たことなぞを半蔵に言って見せ、世の中の流行が変わる前に、すでに燈火が変わって来ていると言って見せる。
多吉夫婦は久しぶりで上京した半蔵をつかまえて、いろいろと東京の話をして聞かせるが、寄席(よせ)の芸人が口に上る都々逸(どどいつ)の類(たぐい)まで、英語まじりのものが流行して来たと言って半蔵を笑わせた。お隅は、一鵬斎芳藤(いちほうさいよしふじ)画(えが)くとした浮世絵なぞをそこへ取り出して来る。舶来と和物との道具くらべがそれぞれの人物になぞらえて、時代の相(すがた)を描き出してある。その時になって見ると、遠い昔に漢土の文物を採り入れようとした初めのころのこの国の社会もこんなであったろうかと疑わるるばかり。海を渡って来るものは皆文明開化と言われて、散切(ざんぎ)り頭をたたいて見ただけでも開化した音がすると唄(うた)われるほどの世の中に変わって来た。夏は素裸、褌(ふんどし)一つ、冬はどてら一枚で、客があると、どんな寒中でも丸裸になって、ホイ籠(かご)ホイ籠とかけ出す駕籠屋(かごや)なぞはもはや顔色がない。年じゅう素股(すまた)の魚屋から、裸商売の佃(つくだ)から来るあさり売りまで、異国の人に対しては、おのれらの風俗を赤面するかに見える。
旅の身の半蔵は、用達(ようた)しのついで、あるいは同門の旧知なぞを訪(たず)ねるためあちこちと出歩くおりごとに、町々の深さにはいって見る機会を持った。東京は、どれほどの広さに伸びている大きな都会とも、ちょっと見当のつけられないことは、以前の彼が江戸出府のおりに得た最初の印象とそう変わりがないくらいであった。ここに住む老若男女の数も、彼にはおよそどれほどと言って見ることもできない。あるいは江戸時代よりはずっと減少していると言うものもあるし、あるいはこの新しい都の人口の増加は将来測り知りがたいものがあろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々の角(かど)に自身番もなく、番太郎小屋もない。わずかに封建時代の形見のような木戸のみの残ったところもある。旧城郭の関門とも言うべき十五、六の見附(みつけ)、その外郭にめぐらしてあった十か所の関門も多く破壊された。彼は多吉夫婦と共に以前の本所相生町の方にいて、日比谷(ひびや)にある長州屋敷の打ち壊(こわ)しに出あったことを覚えているが、今度上京して見ると、その辺は一面の原だ。大小の武家屋敷の跡は桑園茶園に変わったところもある。彼が行く先に見つけるものは、かつて武家六分町人四分と言われたこの都会に大きな破壊の動いた跡を語って見せていないものはなかった。
でも、東京は発展の最中だ。旧本陣問屋時代に宿場と街道の世話をした経験のある半蔵は、評判な銀座の方まで歩いて行って見て、そこに広げられた道路をおよそ何間(なんげん)と数え、めずらしい煉瓦(れんが)建築の並んだ二階建ての家々の窓と丸柱とがいずれも同じ意匠から成るのをながめた。そこは明治五年の大火以来、木造の建物を建てることを禁じられてからできた新市街で、最初はだれ一人(ひとり)その煉瓦の家屋にはいる市民もなく、もし住めば必ず青ぶくれにふくれて、死ぬと言いはやされたという話も残っている。言って見れば、そのころの銀座は香具師(やし)の巣である。二丁目の熊(くま)の相撲(すもう)、竹川町の犬の踊り、四丁目の角の貝細工、その他、砂書き、阿呆陀羅(あほだら)、活惚(かっぽれ)、軽業(かるわざ)なぞのいろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわいに近い。目ざましい繁昌(はんじょう)を約束するようなその界隈(かいわい)は新しいものと旧(ふる)いものとの入れまじりで雑然紛然としていた。
今は旅そのものが半蔵の身にしみて、見るもの聞くものの感じが深い。もはや駕籠(かご)もすたれかけて、一人乗り、二人乗りの人力車(じんりきしゃ)、ないし乗合馬車がそれにかわりつつある。行き過ぎる人の中には洋服姿のものを見かけるが、多くはまだ身についていない。中には洋服の上に羽織(はおり)を着るものがあり、切り下げ髪に洋服で下駄(げた)をはくものもある。長髪に月代(さかやき)をのばして仕合い道具を携えるもの、和服に白い兵児帯(へこおび)を巻きつけて靴(くつ)をはくもの、散髪で書生羽織を着るもの、思い思いだ。うわさに聞く婦人の断髪こそやや下火になったが、深い窓から出て来たような少女の袴(はかま)を着け、洋書と洋傘(ようがさ)とを携えるのも目につく。まったく、十人十色の風俗をした人たちが彼の右をも左をも往(い)ったり来たりしていた。
不思議な縁故から、上京後の半蔵は、教部省御雇いとして一時奉職する身となった。ちょうど教部省は、文部省と一緒に、馬場先(ばばさき)の地から常磐橋(ときわばし)内へ引き移ったばかりで、いろいろな役所の仕事に、国学の畑の人を求めている時であった。この思いがけない奉職は、田中不二麿の勧めによる。彼半蔵の本意はそういうところにあるではなく、どこか古い神社へ行って仕えたい、そこに新生涯を開きたいとの願いから、その手がかりを得たいばかりに、わざわざ今度の上京となったのであるが、しばらく教部省に奉職して時機を待てとの不二麿の言葉もあり、それにむなしい旅食(りょしょく)も心苦しいからであった。教部省は神祇局(じんぎきょく)の後身である。平田一派の仕事は、そこに残っている。そんな関係からも、半蔵の心は動いて、師鉄胤をはじめ、同門諸先輩が残した仕事のあとをも見たいと考え、彼も不二麿の勧めに従った。
とりあえず、彼はこのことを国もとの妻子に知らせ、多吉方を仮の寓居(ぐうきょ)とするよしを書き送り、旅の心もやや定まったことを告げてやった。そういう彼はまだ斎(いつき)の道の途上にはあったが、しかしあの碓氷峠(うすいとうげ)を越して来て、両国(りょうごく)の旅人宿に草鞋(わらじ)を脱いだ晩から、さらに神田川(かんだがわ)に近い町中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦のような気の置けない人たちのそばに自分を見つけた日から、ほとんど別の人のような心を起こした。彼はうす暗い中に起きて、台所の裏手にある井戸のそばで、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い、まず自分の身を浄(きよ)めることを始めた。そして毎朝|水垢離(みずごり)を取る習慣をつけはじめた。
今は親しいもののだれからも遠い。一、六と定められた役所の休日に、半蔵は多吉方の二階の部屋(へや)にいて、そろそろ梅雨の季節に近づいて行く六月の町の空をながめながら、家を思い、妻を思い、子を思った。その時になると、外には台湾生蕃(たいわんせいばん)征討の事が起こり、内には西南地方の結社組織のうわさなぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそうたやすく言えるわけのものでもなかったが、しかしなんとなく彼の胸にまとまって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建て直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。
いったん時代から沈んで行った水戸(みと)のことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい党派争いがほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあったことを思い出した。あの水戸人の持つたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられ、井伊大老もしくは安藤老中(あんどうろうじゅう)のような要路の大官にまで向けられたことを思い出した。彼はそれを眼前に生起する幾多の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが筑波(つくば)の旗上げとなり、尊攘(そんじょう)の意志の表示ともなって、活(い)きた歴史を流れたように、今またそれの形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、薩摩(さつま)にも活き返りつつあるのかと疑った。
彼は自分で自分に尋ねて見た。
「これでも復古と言えるのか。」
その彼の眼前にひらけつつあったものは、帰り来る古代でもなくて、実に思いがけない近(ちか)つ代(よ)であった。 
第十一章

 


東京の町々はやがてその年の十月末を迎えた。常磐橋(ときわばし)内にある教部省では役所のひける時刻である。短い羽織に袴(はかま)をつけ、それに白足袋(しろたび)、雪駄(せった)ばきで、懐中にはいっぱいに書物をねじ込みながら橋を渡って行く人は、一日の勤めを終わった役所帰りの半蔵である。
その日かぎり、半蔵は再び役所の門を潜(くぐ)るまい、そこに集まる同僚の人たちをも見まいと思うほどのいらいらした心持ちで、鎌倉河岸(かまくらがし)のところに黄ばみ落ちている柳の葉を踏みながら、大股(おおまた)に歩いて行った。もともと今度の上京を思い立って国を出た時から、都会での流浪(るろう)生活を覚悟して来た彼である。半年の奉職はまことに短かったとは言え、とにもかくにも彼は神祇局の後身ともいうべき教部省に身を置いて見て、平田一派の諸先輩がそこに残した仕事のあとを見ただけにも満足しようとした。例の浅草|左衛門町(さえもんちょう)にある多吉の家をさして帰って行くと、上京以来のことが彼の胸に浮かんで来た。ふと、ある町の角(かど)で、彼は足をとめて、ホッと深いため息をついた。その路(みち)は半年ばかり彼が役所へ往復した路である。柄(がら)にもない教部省御雇いとしての位置なぞについたのは、そもそも自分のあやまりであったか、そんな考えがしきりに彼の胸を往(い)ったり来たりした。
「これはおれの来(く)べき路ではなかったのかしらん。」
そう考えて、また彼は歩き出した。
仮の寓居(ぐうきょ)と定めている多吉の家に近づけば近づくほど、名のつけようのない寂しさが彼の胸にわいた。彼は泣いていいか笑っていいかわからないような心持ちで、教部省の門を出て来たのである。
左衛門橋に近い多吉夫婦が家に戻(もど)って二階の部屋(へや)に袴をぬいでからも、まだ半蔵はあの常磐橋内の方に身を置くような気がしている。役所がひける前の室内の光景はまだ彼の目にある。そこには担当する課事を終わって、机の上を片づけるものがある。風呂敷包(ふろしきづつ)みを小脇(こわき)にかかえながら雑談にふけるものもある。そのそばには手で頤(おとがい)をささえて同僚の話に耳を傾けるのもある。さかんな笑い声も起こっている。日ごろ半蔵が尊信する本居宣長(もとおりのりなが)翁のことについて、又聴(またぎ)きにした話を語り出した一人(ひとり)の同僚がそこにある。それは本居翁の弟子(でし)斎藤彦麿(さいとうひこまろ)の日記の中に見いだされたことだというのである。ある日、彦麿はじめ二、三の内弟子が翁の家に集まって、「先生は実に活神様(いきがみさま)だ」と話しながら食事していると、給仕の下女がにわかに泣き出したというのである。子細をたずねると、その女の答えるには、実はその活神様が毎晩のように自分の寝部屋へ見える、うるささのあまり、昨夜は足で蹴(け)ってやったが、そんな立派な活神様では罰が当たって、この足が曲がりはしないかと、それで泣いたのだと言われて、彦麿もあいた口がふさがらなかったというのである。それを聞くと、そこにいたものは皆笑った。その話をはじめた同僚はますます得意になって、「いったい、下女の寝部屋へはいり込むようなものにかぎって、人格者だ」とやり出す。この「人格者」がまた一同を笑わせた。半蔵は顔色も青ざめて、その同僚の口から出たような話がどこまで本当であるやもわからなかったし、また、斎藤彦麿の日記なるものがどこまで信用のできるものかもわからなかったから、それをくどく言い争う気にはならなかったが、しかしそこに集まる人たちが鬼の首でも取ったようにそんな話をして楽しむということに愛想(あいそ)をつかした。前に本居宣長がなかったら、平田|篤胤(あつたね)でも古人の糟粕(そうはく)をなめて終わったかもしれない。平田篤胤がなければ、平田|鉄胤(かねたね)もない。平田鉄胤がなければ、結局今の教部省というものもなかったかもしれない。そのことがとっさの間に彼の胸へ来た。思わず彼はその同僚の背中を目のさめるほど一つどやしつけて置いて、それぎり役所を出て来てしまった。それほど彼もいらいらとしていた。
十月末のことで、一日は一日より深くなって行く秋が旅にある半蔵の身にひしひしと感じられた。神田川はその二階の位置から隠れて見えないまでも、ごちゃごちゃとした建物の屋根の向こうに沈んだ町の空が障子の開いたところから彼の目に映る。長いこと彼はひとりですわっていて、あたりの町のすべてが湿った空気に包まれて行くのをながめながら、自分で自分のしたことを考えた。
「いくら人の欠点を知ったところで、そんなことが何になろう。」
と考えて、彼はそれを役所の同僚の話に結びつけて見た。
彼はある人の所蔵にかかる本居翁の肖像というものを見たことがある。それは翁が名古屋の吉川義信という画工にえがかせ、その上に和歌など自書して門人に与えたものの一つである。その清い眉(まゆ)にも涼しい目もとにも老いの迫ったという痕跡(こんせき)がなく、まだみずみずしい髪の髻(もとどり)を古代紫の緒(ひも)で茶筅風(ちゃせんふう)に結び、その先を前額の方になでつけたところは、これが六十一歳の翁かと思われるほどの人がその画像の中にいた。翁は自意匠よりなる服を造り、紗綾形(さやがた)の地紋のある黒縮緬(くろちりめん)でそれを製し、鈴屋衣(すずのやごろも)ととなえて歌会あるいは講書の席上などの式服に着用した人であるが、その袖口(そでぐち)には紫縮緬の裏を付けて、それがまたおかしくなかったと言わるるほどの若々しさだ。早く老(ふ)けやすいこの国の人たちの中にあって、どうしてそれほどの若さを持ち続け得たろうかと疑われるばかり。こんな人が誤解されやすいとしたら、それこそ翁の短所からでなくて、むしろ晩年に至るまでも衰えず若葉してやまなかったような、その長い春にこもる翁の長所からであったろうと彼には思われる。彼の心に描く本居宣長とは、あの先師平田篤胤に想像するような凜々(りり)しい容貌(ようぼう)の人ともちがって、多分に女性的なところを持っていた心深い感じのする大先輩であった。そして、いかにもゆったりとその生涯(しょうがい)を発展させ、天明(てんめい)の昔を歩いて行った近(ちか)つ代(よ)の人の中でも、最も高く見、最も遠く見たものの一人(ひとり)であった。そのかわり、先師篤胤は万事明け放しで、丸裸になって物を言った。そこが多くの平田門人らにとって親しみやすくもあったところだ。本居翁にはそれはない。寛(ひろ)いふところに、ありあまるほどの情意を包みながら、言説以外にはそれも打ち出さずに、終生つつましく暮らして行かれたようなその人柄は、内弟子にすら近づきがたく思われたふしもあったであろう。ともあれ、日ごろ彼なぞが力と頼む本居翁も口さがない人たちにかかっては、滑稽(こっけい)な戯画の中の人物と化した。先輩を活神様にして祭り上げる人たちは、また道化役者(どうけやくしゃ)にして笑いたがる人たちである。そんな態度が頼みがいなく思われる上に、又聞(またぎ)きにしたくらいの人の秘密をおもしろ半分に振り回し、下世話(げせわ)にいう肘鉄(ひじてつ)を食わせたはしたない女の話なぞに興がって、さも活神様の裏面に隠れた陰性な放蕩(ほうとう)をそこへさらけ出したという顔つきでいるそういう同僚を彼は片腹痛く思った。きく人もまたすこぶる満足したもののごとく、それを笑い楽しむような空気の中で、国学の権威もあったものではない。そのことがすでに彼には堪(た)え忍べなかった。 

「なんだか、ぼんやりした。あのお粂(くめ)のことがあってから、おれもどうかしてしまった。はて、おれも路(みち)に迷ったかしらん……」
新生涯を開拓するために郷里の家を離れ、どうかして斎(いつき)の道を踏みたいと思い立って来た半蔵は、またその途上にあって、早くもこんな考えを起こすようになった。
すこしく感ずるところがあって、常磐橋の役所も退(ひ)くつもりだ。そのことを彼は多吉夫婦に話し、わびしい旅の日を左衛門町に送っていた。彼は神田明神の境内へ出かけて行って、そこの社殿の片すみにすわり、静粛な時を送って来ることを何よりの心やりとする。時に亭主(ていしゅ)多吉に誘われれば、名高い講釈師のかかるという両国の席亭の方へ一緒に足を向けることもある。そこへ新乗物町に住む医師の金丸恭順(かなまるきょうじゅん)が訪(たず)ねて来た。恭順はやはり平田門人の一人である。同門の好(よし)みから、この人はなにくれとなく彼の相談相手になってくれる。その時、彼は過ぐる日のいきさつを恭順の前に持ち出し、実はこれこれでおもしろくなくて、役所へも出ずに引きこもっているが、本居翁の門人で斎藤彦麿のことを聞いたことがあるかと尋ねた。恭順はその話を聞くと腹をかかえて笑い出した。江戸の人、斎藤彦麿は本居|大平(おおひら)翁の教え子である、藤垣内(ふじのかきつ)社中の一人である、宣長翁とは時代が違うというのである。
「して見ると、人違いですかい。」
「まずそんなところだろうね。」
「これは、どうも。」
「そりゃ君、本居と言ったって、宣長翁ばかりじゃない、大平翁も本居だし、春庭(はるにわ)先生だっても本居だ。」
二人(ふたり)はこんな言葉をかわしながら、互いに顔を見合わせた。
恭順に言わせると、宣長の高弟で後に本居姓を継いだ大平翁は早く細君を失われた人であったと聞く。そこからあの篤学な大平翁も他(ひと)の知らないさびしい思いを経験されたかもしれない。それにしても、内弟子として朝夕その人に親しんで見た彦麿がそんな調子で日記をつけるかどうかも疑わしい上に、もしあの弟子の驚きが今さらのように好色の心を自分の師翁に見つけたということであったら、それこそ彦麿もにぶい人のそしりをまぬかれまい。まこと国学に心を寄せるほどのものは恋をとがめないはずである。よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめるとは、あの宣長翁の書きのこしたものにも見える。
こんな話をしたあとで、
「いやはや、宣長翁も飛んだ濡衣(ぬれぎぬ)を着たものさね。」
恭順は大笑いして帰って行った。そのあとにはいくらか心の軽くなった半蔵が残った。「よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめる」とは恭順もよい言葉を彼のところに残して置いて行った。彼はそう思った。もし先輩が道化役者なら、それをおもしろがって見物する後輩の同僚は一層の道化役者ではなかろうかと。まったく、男の女にあう路は思いのほかの路で、へたな理屈にあてはまらない。この路ばかりは、どんな先輩にも過(あやま)ちのないとは言えないことであった。あながちに深く思いかえしても、なおしずめがたく、みずからの心にもしたがわない力に誘われて、よくない事とは知りながらなお忍ぶに忍ばれない場合は世に多い。あの彦麿が日記の中にあるというように、大平翁ほどの人がそんな情熱に身を任せたろうとは、彼には信じられもしなかったが、仮にそんな時代があって、蒸し暑く光の多い夏の夜なぞは眠られずに、幾度か寝所を替えられたようなことがあったとしても、あれほど他(ひと)におもねることをしなかった宣長翁の後継者としては、おのれにおもねることをもされなかったであろう。おそらく、自分はこのとおり愚かしいと言われたであろうと彼には思われた。それにしても、本居父子の本領は別にある。宣長翁にあっては、深い精神にみちたものから単なる動物的なものに至るまで――さては、源氏物語の中にあるあの薄雲女院(うすぐもにょういん)に見るような不義に至るまでも、あらゆる相(すがた)において好色はあわれ深いものであった。いわゆる善悪の観念でそれを律することはできないと力説したのが宣長翁だ。彼なぞの最も知りたく思うことは、いかにしてあの大先輩がそれほどの彼岸(ひがん)に達することができたろうかというところにある。その心から彼はあの『玉(たま)の小櫛(おぐし)』を書いた翁を想像し、歴代の歌集に多い恋歌、または好色のことを書いた伊勢(いせ)、源氏などの物語に対する翁が読みの深さを想像し、その古代探求の深さをも想像して、あれほど儒者の教えのやかましく男女は七歳で席を同じくするなと厳重に戒めたような封建社会の空気の中に立ちながら、実に大胆に恋というものを肯定した本居宣長その人の生涯に隠れている婦人にまでその想像を持って行って見た。
しかし、半蔵が教部省を去ろうとしたのは、こんな同僚とのいきさつによるばかりではない。なんと言っても、以前の神祇局は師平田鉄胤をはじめ、樹下茂国(じゅげしげくに)、六人部雅楽(むとべうた)、福羽美静(ふくばよしきよ)らの平田派の諸先輩が御一新の文教あるいは神社行政の上に重要な役割をつとめた中心の舞台である。師の周囲には平田|延胤(のぶたね)、師岡正胤(もろおかまさたね)、権田直助(ごんだなおすけ)、丸山|作楽(さらく)、矢野|玄道(げんどう)、それから半蔵にはことに親しみの深い暮田正香(くれたまさか)らの人たちが集まって、直接に間接に復古のために働いた。半蔵の学友、蜂谷香蔵(はちやこうぞう)、今こそあの同門の道づれも郷里中津川の旧廬(きゅうろ)に帰臥(きが)しているが、これも神祇局時代には権少史(ごんしょうし)として師の仕事を助けたものである。田中|不二麿(ふじまろ)の世話で、半蔵がこんな縁故の深いところに来て見たころは、追い追いと役所も改まり、人もかわりしていたが、それでも鉄胤老先生が神祇官判事として在職した当時の記録は、いろいろと役所に残っていた。ちょうど草の香でいっぱいな故園を訪(おとな)う心は、半蔵が教部省内の一隅(いちぐう)に身を置いた時の心であった。彼はそれらの諸記録をくりひろげるたびに、あそこにだれの名があった、ここにだれの名があったと言って見て、平田一門の諸先輩によって代表された中世否定の運動をそこに見渡すことができるように思った。別当社僧の復飾に、仏像を神体とするものの取り除きに、大菩薩(たいぼさつ)の称号の廃止に、神職にして仏葬を執り行なうものの禁止に――それらはすべて神仏分離の運動にまであふれて行った国学者の情熱を語らないものはない。ある人も言ったように、従来|僧侶(そうりょ)でさえあれば善男善女に随喜|渇仰(かつごう)されて、一生食うに困らず、葬礼、法事、会式(えしき)に専念して、作善(さぜん)の道を講ずるでもなく、転迷開悟を勧めるでもなく、真宗以外におおぴらで肉食妻帯する者はなかったが、だいこく、般若湯(はんにゃとう)、天がい等の何をさす名か、知らない者はなかったのが一般のありさまであった。「されば由緒(ゆいしよ)もなき無格の小寺も、本山への献金によつて寺格を進めらるることのあれば、昨日にび色の法衣着たる身の今日は緋色(ひいろ)を飾るも、また黄金の力たり。堂塔の新築改造には、勧進(かんじん)、奉化(ほうげ)、奉加(ほうが)とて、浄財の寄進を俗界に求むれども、実は強請に異ならず。その堂内に通夜する輩(やから)も風俗壊乱の媒(なかだち)たり。」とはすでに元禄の昔からである。全国寺院の過多なること、寺院の富用無益のこと、僧侶の驕奢(きょうしゃ)淫逸(いんいつ)乱行|懶惰(らんだ)なること、罪人の多く出ること、田地境界訴訟の多きこと等は、第三者の声を待つまでもなく、仏徒自身ですら心あるものはそれを認めるほどの過去の世相であったのだ。
大きな破壊の動いた跡はそこにも驚かれるほどのものがある。利にさとい寺方が宮公卿(みやくげ)の名目で民間に金を貸し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉(やりだま)にあげられた。仁和寺(にんなじ)、大覚寺をはじめ、諸|門跡(もんぜき)、比丘尼御所(びくにごしょ)、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御撫物(おさすりもの)、祈祷巻数(きとうかんじゅ)ならびに諸献上物もことごとく廃されて、自今僧尼となるものは地方官庁の免許を受けなければならないこととなった。虚無僧(こむそう)の廃止、天社神道の廃止、修験宗(しゅげんしゅう)の廃止に続いて、神社仏閣の地における女人結界の場処も廃止された。この勢いのおもむくところは社寺領上地の命令となり、表面ばかりの禁欲生活から僧侶は解放され、比丘尼の蓄髪と縁付きと肉食と還俗(げんぞく)もまた勝手たるべしということになった。従来、祇園(ぎおん)の社も牛頭(ごず)天王と呼ばれ、八幡宮(はちまんぐう)も大菩薩と称され、大社|小祠(しょうし)は事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、天海僧正(てんかいそうじょう)以来の僧侶の勢力も神仏|混淆(こんこう)禁止令によって根から覆(くつがえ)されたのである。
半蔵が教部省に出て仕えたのは、こんな一大変革のあとをうけて神社寺院の整理もやや端緒についたばかりのころであった。かねて神祇官時代には最も重要な地位に置かれてあった祭祀(さいし)の式典すら、彼の来て見たころにはすでに式部寮の所管に移されて、その一事だけでも役所の仕事が平田派諸先輩によって創(はじ)められた出発当時の意気込みを失ったことを語っていた。すべてが試みの時であったとは言え、各自に信仰を異にし意見を異にし気質を異にする神官僧侶を合同し、これを教導職に補任して、広く国民の教化を行なおうと企てたことは、言わば教部省第一の使命ではあったが、この企ての失敗に終わるべきことは教部省内の役人たちですら次第にそれを感づいていた。初めから一致しがたいものに一致を求め、協和しがたいものに協和を求めたことも、おそらく新政府当局者の弱点の一つであったろう。ともかくもその国民的教化組織の輪郭だけは大きい。中央に神仏合同の大教院があり、地方にはその分院とも見るべき中教院、小教院、あるいは教導職を中心にする無数の教会と講社とがあった。いわゆる三条の教則なるものを定めて国民教導の規準を示したのも教部省である。けれども全国の神官と共に各宗の僧侶をして布教に従事せしめるようなことは長く続かなかった。専断|偏頗(へんぱ)の訴えはそこから起こって来て、教義の紛乱も絶えることがない。外には布教の功もあがらないし、内には協和の実も立たない。真宗五派のごときは早くも合同大教院から分離して、独立して布教に従事したいと申し出るような状態にある。半蔵はこんな内部の動揺しているところへ飛び込んで行ったのであった。役所での彼の仕事は主として考証の方面で、大教院から回して来るたくさんな書類を整理したり、そこで編集された教書に目を通したり、地方の教会や講社から来るさまざまな質疑に答えたりなぞすることであった。彼も幾度か躊躇(ちゅうちょ)したあとで、全く無経験な事に当たった。いかんせん、役所の空気はもはや事を企つるという時代でなく、ただただ不平の多い各派の教導職を相手にして妥協に妥協を重ねるというふうであった。同僚との交際にしても底に触れるものがない。今の教部省が神祇省と言った一つの時代を中間に置いて、以前の神祇局に集まった諸先輩の意気込みを想像するたびに、彼は自分の机を並べる同僚が互いの生(お)い立ちや趣味を超(こ)えて、何一つ与えようともせず、また与えられようともしないと気がついた時に失望した。のみならず、地方の教会や講社から集まって来る書類は机の上に堆高(うずだか)いほどあって、そこにも彼は無数のばからしくくだらない質疑の矢面(やおもて)に立たせられた。たとえば、僧侶たりとも従前の服を脱いで文明開化の新服をまといたいが、仏事のほかは洋服を着用しても苦しくないか。神社仏寺とも古来所伝の什物(じゅうもつ)、衆庶寄付の諸器物、並びに祠堂金(しどうきん)等はこれまで自儘(じまま)に処分し来たったが、これも一々教部省へ具状すべき筋のものであるか。従来あった梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、祈祷(きとう)、狐下(きつねさ)げなぞの玉占(たまうら)、口よせ等は一切禁止せらるるか。寺住職の家族はその寺院に居住のまま商業を営んでも苦しくないか。もし鬘(かつら)を着けるなら、寺住職者の伊勢参宮も許されるかの類(たぐい)だ。国学の権威、一代の先駆者、あの本居翁が滑稽(こっけい)な戯画中の人物と化したのも、この調子の低い空気から出たことだ。
「教部省のことはもはや言うに足りない。」
とは半蔵の嘆息だ。
今は彼も再び役所の同僚の方へ帰って行く気はないし、また帰れもしない。いよいよ役所の仕事からも離れて、辞職の手続きをする心に至って見ると、彼なぞのそう長く身を置くべき場所でないこともはっきりした。 

半蔵が教部省御雇いとしての日はこんなふうに終わりを告げた。半年の奉職は短かったが、しかし彼はいろいろなことを学んで来た。平田派諸先輩の学者たちが祭政一致の企てに手を焼いたことをも、それに代わって組織された神仏合同大教院のような政府の教化事業が結局失敗に終わるべき運命のものであることを知って来たのも、その短い月日の間であった。ここまで御一新に路(みち)を開(あ)けたあの本居翁のような人さえもが多くの俗吏によってどんなふうに取り扱われているかを知って来たのも、またその間であった。
この彼も、行き疲れ、思い疲れた日なぞには、さすがに昨日のことを心細く思い出す。十一月にはいってからは旅寝の朝夕もめっきりと肌(はだ)寒い。どうかすると彼は多吉夫婦が家の二階の仮住居(かりずまい)らしいところに長い夜を思い明かし、行燈(あんどん)も暗い枕(まくら)もとで、不思議な心地(ここち)をたどることもある……いつのまにか彼はこの世の旅の半ばに正路を失った人である。そして行っても行っても思うところへ出られないようないらいらした心地で町を歩いている……ふと、途中で、文部|大輔(たいふ)に昇進したという田中不二麿に行きあう。そうかと思うと、同門の医者、金丸恭順も歩いている。彼は自分で自分の歩いているところすらわからないような気がして来る。途方に暮れているうちに、ある町の角(かど)なぞで、彼は平素それほど気にも留めないような見知らぬ人の目を見つける。その目は鋭く彼の方を見つつあるもののようで、
「あそこへ行くのは、あれはなんだ――うん、総髪(そうがみ)か」とでも言うように彼には感じられる。彼はまだ散切(ざんぎ)りにもしないで、総髪を後方(うしろ)にたれ、紫の紐(ひも)でそれを堅く結び束ねているからであった。そういう彼はまた、しいてそんな風俗を固守しているでもないが、日ごろの願いとする古い神社の方へ行かれる日でも来たら、総髪こそその神に仕える身にはふさわしいと思われるからでもあった。不思議にも、鋭く光った目は彼の行く先にある。どう見てもそれは恐ろしい目だ。こちらの肩をすくめたくなるような目だ。彼はそんな物言う目を洋服姿の諸官員なぞが通行の多い新市街の中に見つけるばかりでなく、半分まだ江戸の町を見るような唐物(とうぶつ)店、荒物店、下駄(げた)店、針店、その他紺の暖簾(のれん)を掛けた大きな問屋が黒光りのする土蔵の軒を並べた商家の空気の濃いところにすら見つける。どうかすると、そんな恐ろしい目はある橋の上を通う人力車の中にまで隠れている。こういうのが夢かしらん。そう思いながら、なおその心地をたどりつづけるうちに、大きな河(かわ)の流れているところへ出た。そこは郷里の木曾川(きそがわ)のようでもあれば、東京の隅田川(すみだがわ)のようでもある。水に棹(さお)さして流れを下って来る人がある。だんだんこちらの岸に近づいたのを見ると、その小舟をあやつるのは他の人でもない。それが彼の父吉左衛門だ。父はしきりに彼をさし招く。舟の中には手ぬぐいで髪をつつんだ一人(ひとり)のうしろ向きの婦人もある。彼は岸から父に声をかけて見ると、その婦人こそ彼を生んだ実の母お袖(そで)と聞かされて驚く。その時は彼も一生懸命に母を呼ぼうとしたが、あいにく声が咽喉(のど)のところへ干(ひ)からびついたようになって、どうしてもその「お母(っか)さん」が出て来ない。はるかに川上から橋の下の方へ渦巻(うずま)き流れて来る薄濁りのした水の勢いは矢のような早さで、見るまに舟も遠ざかって行く。思わず彼は自分で自分の揚げたうなり声にびっくりして、目をさました。
こんなに父母が夢にはいったのは、半蔵としてはめずらしいことだった。半年の旅の末にはこんな夢を見ることもあるものか。そう彼は考えて、まだ寝床からはい出すべき時でもない早暁の枕の上で残った夢のこころもちに浸っていた。いつでも寝返りの一つも打つと、からだを動かすたびにそんなこころもちの消えて行くのは彼の癖であったが、その明けがたにかぎって、何がなしに恐ろしかった夢の筋から、父母の面影までが、はっきりと彼の胸に残った。これまで彼が亡(な)き父を夢に見た覚えは、ただの一度しかない。青山の家に伝わる馬籠(まごめ)本陣、問屋(といや)、庄屋(しょうや)の三役がしきりに廃止になった後、父吉左衛門の百か日を迎えたころに見たのがその夢の記憶だ。その時にできた歌もまだ彼には忘れられずにある。
亡(な)き人に言問(ことと)ひもしつ幽界(かくりよ)に通ふ夢路(ゆめじ)はうれしくもあるか
こんな自作の歌までも思い出しているうちに、耳に入る冷たい秋雨の音、それにまじってどこからともなく聞こえて来る蟋蟀(こおろぎ)の次第に弱って行くような鳴き声が、いつのまにか木曾の郷里の方へ彼の心を誘った。彼は枕の上で、恋しい親たちの葬ってある馬籠万福寺の墓地を思い出した。妻のお民や四人の子の留守居する家の囲炉裏ばたを思い出した。平田同門の先輩も多くある中で、彼にはことに親しみの深い暮田正香をめずらしく迎え入れたことのある家の店座敷を思い出した。木曾路通過の正香は賀茂の方へ赴任して行く旅の途中で、古い神社へとこころざす手本を彼に示したのもあの先輩だが、彼と共にくみかわした酒の上で平田一門の前途を語り、御一新の成就のおぼつかないことを語り、復古が復古であるというのはそれの達成せられないところにあると語り、しまいには熱い暗い涙があの先輩の男らしい顔を流れたことを思い出した。彼はまた、松尾|大宮司(だいぐうじ)として京都と東京の間をよく往復するという先輩|師岡正胤(もろおかまさたね)を美濃(みの)の中津川の方に迎えた時のことを思い出し、その小集の席上で同門の人たちが思い思いに歌を記(しる)しつけた扇を思い出し、あるものはこうして互いにつつがなくめぐりあって見ると八年は夢のような気がするとした意味の歌を書いたことを思い出し、あるものは辛(から)いとも甘いとも言って見ようのない無限の味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものであったことを思い出した。その時の師岡正胤が扇面に書いて彼に与えたものは、この人にしてこの歌があるかと思われるほどの述懐で、おくれまいと思ったことは昔であるが、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いの寄せてあったことをも思い出した。
やがて彼は床を離れて、自分で二階の雨戸をくった。二つある西と北との小さな窓の戸をもあけて見たが、まだそこいらは薄暗いくらいだった。階下の台所に近い井戸のそばで水垢離(みずごり)を取り身を浄(きよ)めることは、上京以来ずっと欠かさずに続けている彼が日課の一つである。その時が来ても、おそろしく路(みち)に迷った夢の中のこころもちが容易に彼から離れなかった。そのくせ気分ははっきりとして来て、何を見ても次第に目がさめるような早い朝であった。雨も通り過ぎて行った。
「ゆうべは多吉さんもおそかったようですね。」
「青山さん、さぞおやかましゅうございましたろう。吾夫(うち)じゃあんなにおそく帰って来て、戸をたたきましたよ。」
問う人は半蔵、答える人は彼に二階の部屋(へや)を貸している多吉の妻だ。その時のお隅(すみ)の挨拶(あいさつ)に、
「まあ聞いてください。吾夫(うち)でも好きな道と見えましてね、運座でもありますとよくその方の選者に頼まれてまいりますよ。昨晩の催しは吉原(よしわら)の方でございました。御連中が御連中で、御弁当に酒さかななぞは重詰(じゅうづ)めにして出しましたそうですが、なんでも百韻とかの付合(つけあい)があって、たいへんくたぶれたなんて、そんなことを言っておそく帰ってまいりました。でも、あなた、男の人のようでもない。吉原まで行って、泊まりもしないで帰って来る――意気地(いくじ)がないねえ、なんて、そう言って、わたしは笑っちまいましたよ。」
「どうも、おかみさんのような人にあっちゃかないません。」
「ところが、青山さん、吾夫(うち)の言い草がいいじゃありませんか。おそく夜道を帰って来るところが、おれの俳諧(はいかい)ですとさ。」
多吉夫婦はそういう人たちだ。
十年一日のように、多吉は深川米問屋の帳付けとか、あるいは茶を海外に輸出する貿易商の書役(かきやく)とかに甘んじていて、町人の家に生まれながら全く物欲に執着を持たない。どこへ行くにも矢立てを腰にさして胸に浮かぶ発句(ほっく)を書き留めることを忘れないようなところは、風狂を生命とする奇人伝中の人である。その寡欲(かよく)と、正直と、おまけに客を愛するかみさんの侠気(きょうき)とから、半蔵のような旅の者でもこの家を離れる気にならない。
この亭主(ていしゅ)に教えられて半蔵がおりおりあさりに行く古本屋が両国|薬研堀(やげんぼり)の花屋敷という界隈(かいわい)の方にある。そこにも変わり者の隠居がいて、江戸の時代から残った俳書、浮世草紙(うきよぞうし)から古いあずま錦絵(にしきえ)の類を店にそろえて置いている。半蔵は亭主多吉が蔵書の大部分もその隠居の店で求めたことを聞いて知っていた。そういう彼も旅で集めた書物はいろいろあって、その中の不用なものを売り払いたいと思い立ち、午後から薬研堀を訪(おとな)うつもりで多吉の家を出た。
偶然にも半蔵の足は古本屋まで行かないうちに懇意な医者の金丸恭順がもとに向いた。例の新乗物町という方へ訪(たず)ねて行って見ると、ちょうど恭順も病家の見回りから帰っている時で、よろこんで彼を迎えたばかりでなく、思いがけないことまでも彼の前に持ち出した。その時の恭順の話で、彼はあの田中不二麿が陰ながら自分のために心配していてくれたことを知った。飛騨(ひだ)水無(みなし)神社の宮司に半蔵を推薦する話の出ているということをも知った。これはすべて不二麿が斡旋(あっせん)によるという。
恭順は言った。
「どうです、青山君、君も役不足かもしれないが、一つ飛騨の山の中へ出かけて行くことにしては。」
どうして役不足どころではない。それこそ半蔵にとっては、願ったりかなったりの話のように聞こえた。この飛騨行きについては、恭順はただ不二麿の話を取り次ぐだけの人だと言っているが、それでも半蔵のために心配して、飛騨の水無神社は思ったより寂しく不便なところにあるが、これは決して左遷の意味ではないから、その辺も誤解のないように半蔵によく伝えくれとの不二麿の話であったと語ったりした。
「いや、いろいろありがとうございました。」と半蔵は恭順の前に手をついて言った。「わたしもよく考えて見ます。その上で田中さんの方へ御返事します。」
「そう君に言ってもらうと、わたしもうれしい。時に、青山君、君におめにかけるものがある。」
と恭順は言いながら、黒く塗った艶消(つやけ)しの色も好ましい大きな文箱(ふばこ)を奥座敷の小襖(こぶすま)から取り出して来た。その中にある半紙四つ折りの二冊の手帳を半蔵の前に置いて見せた。
「さあ、これだ。」
恭順がそこへ取り出したのは、半蔵の旧友|蜂谷(はちや)香蔵がこの同門の医者のもとに残して置いて行ったものである。恭順は久しいことそれをしまい込んで置いて、どうしても見当たらなかったが、最近に本箱の抽斗(ひきだし)の中から出て来たと半蔵に語り、あの香蔵が老師鉄胤のあとを追って上京したのは明治二年の五月であったが、惜しいことに東京の客舎で煩(わずら)いついたと語った末に言った。
「でも、青山君、世の中は広いようで狭い。君の友だちのからだをわたしが診(み)てあげたなんて、まったく回り回っているもんですわい。」
こんな話も出た。
飛騨行きのことを勧めてくれたこの医者にも、恭順を通じてその話を伝えさせた不二麿にも、また、半蔵が平田篤胤没後の門人であり多年勤王のこころざしも深かった人と聞いてぜひ水無神社の宮司にと懇望するという飛騨地方の有志者にも、これらの人たちの厚意に対しては、よほど半蔵は感謝していいと思った。やがて彼は旧友の日記を借り受けて、恭順が家の門を出たが、古い神社の方へ行って仕えられる日の来たことは、それを考えたばかりでも彼には夢のような気さえした。
飛騨の山とは、遠い。しかし日ごろの願いとする斎(いつき)の道が踏める。それに心を動かされて半蔵は多吉の家に引き返した。動揺して定まりのなかった彼も大いに心を安んずる時がありそうにも思われて来た。とりあえず、その話を簡単に多吉の耳に入れて置いて、やがてその足で彼は二階の梯子段(はしごだん)を上って行って見た。夕日は部屋(へや)に満ちていた。何はともあれ、というふうに、彼は恭順から借りて来た友人の日記を机の上にひろげて、一通りざっと目を通した。「東行日記、巳(み)五月、蜂谷香蔵」とある。鉄胤先生もまだ元気いっぱいであった明治二年のことがその中に出て来た。同門の故人|野城広助(のしろひろすけ)のために霊祭をすると言って、若菜基助(わかなもとすけ)の主催で、二十余人のものが集まった記事なぞも出て来た。その席に参列した先輩師岡正胤は当時|弾正大巡察(だんじょうだいじゅんさつ)であり、権田直助は大学|中博士(ちゅうはかせ)であり、三輪田元綱(みわたもとつな)は大学|少丞(しょうじょう)であった。婦人ながらに国学者の運動に加わって文久年代から王事に奔走した伊那伴野(いなともの)村出身の松尾多勢子(まつおたせこ)の名もその参列者の中に見いだされた。香蔵の筆はそうこまかくはないが、きのうはだれにあった、きょうはだれを訪ねたという記事なぞが、平田派全盛の往時を語らないものはない。
医者の文箱(ふばこ)に入れてあったせいかして、なんとなく香蔵の日記に移った薬のにおいまでが半蔵にはなつかしまれた。彼は友人と対坐(たいざ)でもするように、香蔵の日記を繰り返してそこにいない友人の前へ自分を持って行って見た。今は伊勢宇治(いせうじ)の今北山に眠る旧師から、生前よく戯れに三蔵と呼ばれた三人の学友のうち、その日記を書いた香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙をまもる景蔵のようなものもある。これからさらに踏み出そうとして、人生|覊旅(きりょ)の別れ路(みち)に立つ彼半蔵のようなものもある。 

飛騨(ひだ)国大野郡、国幣小社、水無(みなし)神社、俗に一の宮はこの半蔵を待ち受けているところだ。東京から中仙道(なかせんどう)を通り、木曾路(きそじ)を経て、美濃(みの)の中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社に達することができない。旅行はまだまだ不便な当時にあって、それだけも容易でない上に、美濃の加子母村(かしもむら)あたりからはいる高山路(たかやまみち)と来ては、これがまた一通りの険しさではない。あの木曾谷から伊那の方へぬける山道ですら、昼でも暗い森に、木から落ちる山蛭(やまびる)に、往来(ゆきき)の人に取りつく蚋(ぶよ)に、勁(つよ)い風に鳴る熊笹(くまざさ)に、旅するものの行き悩むのもあの山間(やまあい)であるが、音に聞こえた高山路はそれ以上の険しさと知られている。
この飛騨行きは、これを伝えてくれた恭順を通して田中不二麿からも注意のあったように、左遷なぞとは半蔵の思いもよらないことであった。たとい教部省あたりの同僚から邪魔にされて、よろしくあんな男は敬して遠ざけろぐらいのことは言われるにしても、それを意(こころ)にかける彼ではもとよりない。ただ、そんな山間に行って身を埋(うず)めるか、埋めないかが彼には先決の問題で、容易に決心がつきかねていた。
その時になると、多くの国学者はみな進むに難い時勢に際会した。半蔵が同門の諸先輩ですら、ややもすれば激しい潮流のために押し流されそうに見えて来た。いったい、幕末から御一新のころにかけて、あれほどの新機運をよび起こしたというのも、その一つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に根ざしたことであった。そういう中で、最も古いところに着眼して、しかも最も新しい路をあとから来るものに教えたのは国学者仲間の先達(せんだつ)であった。あの賀茂真淵(かものまぶち)あたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き貌(すがた)を明るみへ持ち出すことができた。そこから、一つの精神が生まれた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平田篤胤、および平田派諸門人が次第に実行を思う心はまずそこに胚胎(はいたい)した。なんと言っても「言葉」から歴史にはいったことは彼らの強味で、そこから彼らは懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼らは健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それにはまずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をも撓(た)めず欲をもいとわない生の肯定はこの先達があとから歩いて来るものにのこして置いて行った宿題である。その意味から言っても、国学は近(ちか)つ代(よ)の学問の一つで、何もそうにわかに時世おくれとされるいわれはないのであった。
もともと平田篤胤が後継者としての鉄胤は決して思いあがった人ではない。故篤胤翁の祖述者をもって任ずる鉄胤は、一切の門人をみな平田篤胤没後の門人として取り扱い、決しておのれの門人とは見なさなかったのが、何よりの証拠だ。多くの門人らもまたこの師の気風を受け継がないではない。ただ復古の夢を実顕するためには、まっしぐらに駆けり出そうとするような物を企つる心から、時には師の引いた線を超(こ)えて埓(らち)の外へ飛び出したものもあった。けれども、その単純さから、門人同志の親しみも生まれ、団結も生まれることを知ったのであった。あの王政復古の日が来ると同時に、同門の人たちの中には武器を執って東征軍に従うものがあり、軍の嚮導者(きょうどうしゃ)たることを志すものがあり、あるいは徳川幕府より僧侶(そうりょ)に与えた宗門権の破棄と神葬復礼との方向に突き進むものがあって、過去数百年にわたる武家と僧侶との二つの大きな勢力を覆(くつがえ)すことに力を尽くしたというのも、みなその単純な、しかし偽りも飾りもない心から出たことであった。ことに神仏分離の運動を起こして、この国の根本と枝葉との関係を明らかにしたのは、国学者の力によることが多いのであり、宗教|廓清(かくせい)の一新時代はそこから開けて来た。暗い寺院に肉食妻帯の厳禁を廃し、多くの僧尼の生活から人間を解き放ったというのも、虚偽を捨てて自然(おのずから)に帰れとの教えから出たことである。すくなくもこの国学者の運動はまことの仏教徒を刺激し、その覚醒(かくせい)と奮起とを促すようになった。いかんせん、多勢寄ってたかってすることは勢いを生む。しまいには、地方官の中にすら廃仏の急先鋒(きゅうせんぽう)となったものがあり、従来の社人、復飾の僧侶から、一般の人民まで、それこそ猫(ねこ)も杓子(しゃくし)もというふうにこの勢いを押し進めてしまった。廃寺は毀(こぼ)たれ、垣(かき)は破られ、墳墓は移され、残った礎(いしずえ)や欠けた塊(つちくれ)が人をしてさながら古戦場を過ぐるの思いを抱(いだ)かしめた時は、やがて国学者諸先輩の真意も見失われて行った時であった。言って見れば、国学全盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであった。しかも、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えた。
いかに平田門人としての半蔵なぞがやきもきしても、この頽勢(たいせい)をどうすることもできない。大きな自然(おのずから)の懐(ふところ)の中にあるもので、盛りがあって衰えのないものはないように、一代の学問もまたこの例にはもれないのか。その考えが彼を悲しませた。彼には心にかかるかずかずのことがあって、このまま都を立ち去るには忍びなかった。
まだ半蔵の飛騨行きは確定したわけではない。彼は東京にある知人の誰彼(たれかれ)が意見をもそれとなく聞いて見るために町を出歩いた。何も飛騨の山まで行かなくとも他に働く道はあろうと言って彼を引き止めようとしてくれる人もない。今はそんな時ではないぞと言ってくれるような人はなおさらない。久しく訪(たず)ねない鉄胤老先生の隠栖(いんせい)へも、御無沙汰(ごぶさた)のおわびをかねてその相談に訪ねて行って見ると、師には引き止められるかと思いのほか、一生に一度はそういう旅をして来るのもよかろうとの老先生らしい挨拶(あいさつ)であった。
その時になっても、まだ半蔵は右すべきか左すべきかの別れ路に迷っていた。彼は自分で自分に尋ねて見た。一筋の新しい進路は開けかかって来た、神の住居(すまい)も見えて来た、今は迷うところなくまッすぐにたどりさえすればいい、この期(ご)に臨んで何を自分は躊躇(ちゅうちょ)するのか、と。それに答えることはたやすそうで、たやすくない。彼が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながらに東西交通の要路に立っていた。この世の動きは、否でも応でも馬籠駅長としての彼の目の前を通り過ぎた。どうして、新旧の激しい争いがさまざまの形をとってあふれて来ている今の時に、そんなことは一切おかまいなしで、ただ神を守りにさえ行けばそれでいいというものではなかった上に、いったん飛騨の山のような奥地に引ッ込んでしまえば容易に出て来られる境涯(きょうがい)とも思われなかったからで。
こういう時に馬籠隣家の伊之助でもそばにいたら、とそう半蔵は思わないではなかった。いかんせん、親しくあの隣人の意見をたたいて見ることもかなわない。この飛騨行きについては、多吉夫婦も実際どう思っていてくれるかと彼は考えた。男まさりな宿のかみさんは婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかったような名もない町人の妻ではあるが、だんだん彼も付き合って見て、盤根錯節(ばんこんさくせつ)を物ともしないそのまれな気質を彼も知っていた。人は物を見定めることが大切で、捨つべきことは思い切りよく捨てねばならない、それのできないようなものは一生ウダツが揚がらないと、日ごろ口癖のように言っているのもお隅(すみ)だ。遠い親類より近い他人の言うこともよく聞いて見ようとして、やがて彼は町から引き返した。
多吉の家では、ちょうど亭主も今の勤め先にあたる茅場町(かやばちょう)の店から戻(もど)って来ている時であった。そこへ半蔵が帰って行くと、多吉は彼を下座敷に迎え入れて言った。
「青山さん、いよいよ高山行きと定(きま)りましたかい。」
「いえ。」と半蔵は答えた。「わたしはまだお請けしたわけじゃありませんがね、まあ、行って働いて来るなら、今のうちでしょう。ずっと年を取ってから、行かれるような山の中じゃありませんからね。なかなか。」
その時、多吉はお隅の方を見て言った。「お隅、青山さんが今度いらっしゃるところは、東京からだと、お前、百何里というから驚くね。お国からまだ二十里あまりもある。そうさ、二十里あまりさ。それがまた大変な山道で、馬も通わないところだそうだ。青山さんも、えらい奮発さね。」
そういう多吉はもう半蔵が行くことに定(き)めてしまっている。お隅は、と見ると、このかみさんもまたしいて彼を止めようとはしなかった。ちょうど師の鉄胤が彼に言ったと同じようなことを言って、これから神職を奉じに行く彼のために、遠く不自由な旅のしたくのことなぞを心配してくれる。
「多吉さん夫婦だけはおれを止めるかと思った。」
間もなく二階に上がって行ってからの半蔵のひとり言(ごと)だ。
実のところ、彼はだれかに引き止めてもらいたかった。そして一人(ひとり)でも引き止めるものがあったら、自分でも思い直して見ようと考えていたくらいだ。いかに言っても、これから彼が踏もうとする路(みち)は遠く寂しく険しい上に、そこいらはもはや見るもの聞くもの文明開化の風の吹き回しだ。何よりもまず中世の殻(から)を脱ぎ捨てよと教えたあの本居翁あたりが開こうとしたものこそ、まことの近(ちか)つ代(よ)であると信ずる彼なぞにとっては、このいわゆる文明開化がまことの文明開化であるかどうかも疑問であった。物学びする業(わざ)に心を寄せ、神にも仕え、人をも導こうとするほどのものが、おのれを知らないではかなわないことであった。それにはヨーロッパからはいって来るものをも見定めねばならない。辺鄙(へんぴ)な飛騨の山の方へ行って、それのできるかどうか、これまたすこぶる疑問であった。 

長い鎖国の歴史をたどると、寛永年代以来世界交通の道も絶え果てていたことは二百二十年もの間にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは徳川幕府の方針であって、諸外国に対する一切の門戸は全く鎖(とざ)されたようであるが、それでも一つの窓だけは開かれていた。
はじめて唐船(からふね)があの長崎の港に来たのは永禄(えいろく)年代のことであり、南蛮船の来たのは元亀(げんき)元年の昔にあたる。それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十|艘(そう)を数え、ある年は蘭船(らんせん)四、五艘を数えたが、ついに貞享(じょうきょう)元禄(げんろく)年代の盛時に達した。元禄元年には、実に唐船百十七艘、高麗(こうらい)船三十三艘、蘭船三艘である。過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。正保(しょうほう)元年、明朝(みんちょう)が亡(ほろ)びて清朝(しんちょう)となったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠れるものもすくなくはなく、その後のシナより長崎に渡来する僧侶(そうりょ)で本国の方に名を知られたほどのものも年々絶えないくらいであった。寛延(かんえん)年代には幕府は長崎入港の唐船を十五艘に制限し、さらに寛政三年よりは一か年十艘以上の入港を許さなかった。これらは何を意味するかなら、海の外にあるものがさまざまな形でこの国に流れ込んで来たことを語るものであり、荷田春満(かだのあずままろ)あたりを先駆とする国学たりとも、言わば外来の刺激を受けて発展したにほかならない。あの本居宣長が儒仏や老荘の道までもその荒い砥石(といし)として、あれほど日本的なものを磨(みが)きあげたのを見ても、思い半ばに過ぐるものがあろう。日本の国運循環して、昨日まで読むことを禁じられてあった蕃書(ばんしょ)も訳され、昨日まで遠ざけられた洋学者も世に出られることとなると、かつて儒仏の道の栄えたように、にわかに洋学のひろまって行くようになったことも不思議はない。この国にはすでに蘭学というものを通し、あるいは漢訳の外国書を通して、長いしたくがあったのだ。天文、地理の学にも、数学、医学、農学、化学にも、また兵学にもというふうに。外国の歴史や語学のことは言うまでもない。まったく、新奇を好むこの国の人たちは、ヨーロッパ人が物の理を考え究(きわ)めることのはなはだ賢いのに驚き、発明の新説を出すのに驚き、器械の巧みなのに驚き、医薬|製煉(せいれん)の道のことにくわしいのにも驚いてしまった。
当時、外国の事情もまだ充分には究められなかったような社会に、西洋は実にすばらしいものだという人をそう遠いところに求めるまでもなく、率先して新しい風俗に移るくらいのものは半蔵が宿の亭主多吉のすぐそばにもいた。その人は多吉の主人筋に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、椎茸(しいたけ)、それから生糸等を輸出する賢易商であった。そのくせ、多吉は西洋のことなぞに一向|無頓着(むとんちゃく)で、主人が西洋人から手に入れて珍重するという寒暖計の性質も知らず、その気候温度の昇(のぼ)り降りを毎日の日記につけ込むほどの主人が燃えるような好奇心をもよそに、暇さえあれば好きな俳諧(はいかい)の道に思いを潜めるような人ではあったが。実際、気の早い手合いの中には、今に日本の言葉もなくなって、皆英語の世の中になると考えるものもある。皮膚の色も白く鼻筋もよくとおった西洋人と結婚してこそ、より優秀な人種を生み出すことができると考えるものもある。こうなると、芝居(しばい)の役者まで舞台の上から見物に呼びかけて、
「文明開化を知らないものは、愚かでござる。」
と言う。五代目|音羽屋(おとわや)のごときは英語の勉強を始めたと言って、俳優ながら気の鋭いものだと当時の新聞紙上に書き立てられるほどの世の中になって来ていた。
かくも大きな洪水(こうずい)が来たように、慶応四年開国以来のこの国のものは学問のしかたから風俗の末に至るまでも新規まき直しの必要に迫られた。日本の中世的な封建制度が内からも外からも崩(くず)れて行って、新社会の構成を急ぐ混沌(こんとん)とした空気の中に立つものは、眼前に生まれ起こる数多くの現象を目撃しつつも、そうはっきりした説を立てうるものはなかった。というのは、いずれもその空気の中に動いていて、一切があまりに身に近いからであった。半蔵にしてからが、そうだ。ただ馬籠駅長として実際その道に当たって見た経験から、彼の争えないと想(おも)っていることは、一つある。交通の持ち来たす変革は水のように、あらゆる変革の中の最も弱く柔らかなもので、しかも最も根深く強いものと感ぜらるることだ。その力は貴賤(きせん)貧富を貫く。人間社会の盛衰を左右する。歴史を織り、地図をも変える。そこには勢い一切のものの交換ということが起こる。あの横浜開港の当時、彼は馬籠本陣の方にいて、幾多の小判(こばん)買いが木曾街道にまで入り込んだことを記憶する。国内に流通する小判、一|分(ぶ)判なぞがどんどん海の外へ流れ出して行き、そのかわりとして輸入せらるるものの多くは悪質な洋銀であった。古二朱金、保字(ほうじ)小判なぞの当時に残存した良質の古い金貨はあの時に地を払ってしまったことを覚えている。もしそれと同じようなことが東西文物の上に起こって来て、自分らの持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりにはいって来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た。
月の中旬が来るころには、いよいよ半蔵が水無神社宮司の拝命もおもてむきの沙汰(さた)となった。もはや彼の東京にとどまるのも数日を余すのみとなった。
朝が来た。例のように半蔵が薄暗い空気の中で水垢離(みずごり)を執り、からだを浄(きよ)め終わるころは、まだ多吉方の下女も起き出さないで、井戸ばたに近い勝手口の戸障子も閉(し)まっていた。そこいらには、町中ながらに鶏の鳴き声が朝霧の中に聞こえていた。
その日、半蔵は帝(みかど)の行幸のあることを聞き、神田橋(かんだばし)まで行けばその御道筋に出られることを知り、せめて都を去る前に御通輦(ごつうれん)を拝して行こうとしていた。彼はそのことを多吉夫婦に告げ、朝の食事をすますとすぐ羽織袴(はおりはかま)に改めて、茅場町(かやばちょう)の店へ勤めに通う亭主より一歩(ひとあし)早く宿を出た。神田川について、朝じめりのした道路の土を踏んで行くと、次第に町々の空も晴れて、なんとなく改まった心持ちが彼の胸にわいた。今は彼も水無神社の宮司であるばかりでなく、中講義を兼ねていた。
神田橋見附跡の外には、ぽつぽつ奉拝の人々が集まりつつあった。待つこと二時間ばかり。そのうちに半蔵の周囲は、欄干の支柱にからかねの擬宝珠(ぎぼし)のついた古ぼけた橋の畔(たもと)から、当時「青い戸袋」と呼びなされた屋敷長屋のペンキ塗りの窓の下の方へかけて、いっぱいの人で、どうかすると先着の彼なぞはうしろにいるものから前の方へ押し出されるほどになった。そのたびに、棒を携えた巡査が前列にあるものを制しに来た。
明治七年十一月十七日のことで、過ぐる年の征韓論(せいかんろん)破裂の大争いの記憶が眼前に落ち尽くした霜葉と共にまた多くの人の胸に帰って来るころだ。半蔵はそう思った。かくも多勢のものが行幸を拝しようとして、御道筋に群がり集まるというのも、内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩|艱難(かんなん)の時に当たって、万民を統(す)べさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろうと。彼は自分の今お待ち受けする帝が日本紀元二千五百余年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢(くさむら)の中にある名もない民の一人(ひとり)でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫(はんらん)を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、
蟹(かに)の穴ふせぎとめずは高堤(たかづつみ)やがてくゆべき時なからめや   半蔵
この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。
さらに三十分ほど待った。もはや町々を警(かた)めに来る近衛(このえ)騎兵の一隊が勇ましい馬蹄(ばてい)の音も聞こえようかというころになった。その鎗先(やりさき)にかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い情(こころ)が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額(ひたい)を大地につけ、袴(はかま)のままそこにひざまずいた。
「訴人(そにん)だ、訴人だ。」
その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。 
第十二章

 


五日も半蔵は多吉の家へ帰らない。飛騨(ひだ)の水無(みなし)神社|宮司(ぐうじ)を拝命すると間もなく、十一月十七日の行幸の朝に神田橋外まで御通輦(ごつうれん)を拝しに行くと言って、浅草|左衛門町(さえもんちょう)を出たぎりだ。
左衛門町の家のものは音沙汰(おとさた)のない半蔵の身の上を案じ暮らした。彼が献扇事件は早くも町々の人の口に上って、多吉夫婦の耳にもはいらないではない。それにつけてもうわさとりどりである。主人持ちの多吉は茅場町(かやばちょう)の店からもいろいろなことを聞いて来て、ただただ妻のお隅(すみ)と共に心配する。第一、あの半蔵がそんな行為に出たということすら、夫婦のものはまだ半信半疑でいた。
そこへ巡査だ。ちょうど多吉は不在の時であったので、お隅が出て挨拶(あいさつ)すると、その巡査は区内の屯所(とんしょ)のものであるが、東京裁判所からの通知を伝えに来たことを告げ、青山半蔵がここの家の寄留人であるかどうかをまず確かめるような口ぶりである。さてはとばかり、お隅はそれを聞いただけでも人のうわさに思い当たった。巡査は格子戸口(こうしどぐち)に立ったまま、言葉をついで、入檻(にゅうかん)中の半蔵が帰宅を許されるからと言って、身柄を引き取りに来るようとの通知のあったことを告げた。
お隅はすこし息をはずませながら、
「まあ、どういうおとがめの筋かぞんじませんが、青山さんにかぎって悪い事をするような人じゃ決してございません。宅で本所(ほんじょ)の相生町(あいおいちょう)の方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお呼び出しで国から出てまいりまして、しばらく宅に置いてくれと申されたこともございました。そんな縁故で、今度もたよってまいりまして、つい先ごろまでは教部省の考証課という方に宅から通(かよ)っておりました。まあ、手前どもじゃ、あの人の平素(ふだん)の行ないもよくぞんじておりますが、それは正しい人でございます。」
突然巡査の訪(たず)ねて来たことすら気になるというふうで、お隅は二階の客のためにこんな言いわけをした。それを聞くと、巡査はかみさんの言葉をさえぎって、ただ職掌がらこの通知を伝えるために来ただけのことを断わり、多吉なりその代理人なりが認印持参の上で早く本人を引き取れと告げて置いて、立ち去った。
ともかくも半蔵が帰宅のかなうことを知って、さらに心配一つふえたように思うのはお隅である。というは、亭主多吉が町人の家に生まれた人のようでなく、世間に無頓着(むとんちゃく)で、巡査の言い置いて行ったような実際の事を運ぶには全く不向きにできているからであった。多吉の俳諧三昧(はいかいざんまい)と、その放心さと来たら、かつて注文して置いた道具の催促に日ごろ自分の家へ出入りする道具屋|源兵衛(げんべえ)を訪ねるため向島(むこうじま)まで出向いた時、ふと途中の今戸(いまど)の渡しでその源兵衛と同じ舟に乗り合わせながら、「旦那(だんな)、どちらへ」と聞かれてもまだ目の前にその人がいるとは気づかなかったというほどだ。「旦那、その源兵衛はおれのことじゃありませんか」と言われて、はじめて気がついたというほどの人だ。お隅はこの亭主の気質をのみ込んでいる。場合によっては、彼女自身に夫の代理として、半蔵が身柄を引き取りに行こうと決心し、帯なぞ締め直して亭主の帰りを待っていた。はたして、多吉が屋外(そと)から戻(もど)って来た時は、お隅以上のあわてかたであった。
「お前さん、いずれこれにはわけのあることですよ。あの青山さんのことですもの、何か考えがあってしたことですよ。」
お隅はそれを多吉に言って見せて、慣れない夫をそういう場所へ出してやるのを案じられると言う。背も高く体格も立派な多吉は首を振って、自身出頭すると言う。幸い半蔵の懇意にする医者、金丸恭順がちょうどそこへ訪ねて来た。この同門の医者も半蔵が身の上を案じながらやって来たところであったので、早速(さっそく)多吉と同行することになった。
「待ってくださいよ。」
と言いながら、お隅は半蔵が着がえのためと、自分の亭主の着物をそこへ取り出した。町人多吉の好んで着る唐桟(とうざん)の羽織は箪笥(たんす)の中にしまってあっても、そんなものは半蔵には向きそうもなかった。
そこでお隅は無地の羽織を選び、藍微塵(あいみじん)の綿入れ、襦袢(じゅばん)、それに晒(さらし)の肌着(はだぎ)までもそろえて手ばしこく風呂敷(ふろしき)に包んだ。彼女は新しい紺足袋(こんたび)をも添えてやることを忘れていなかった。
「いずれ先方には待合所がありましょうからね、そっくりこれを着かえさせてくださいよ。青山さんの身につけたものは残らずこの風呂敷包みにして帰って来てくださいよ。」
そういうお隅に送られて、多吉は恭順と一緒に左衛門町の門(かど)を出た。お隅はまた、パッチ尻端折(しりはしょ)りの亭主の後ろ姿を見送りながら、飛騨行きの話の矢先にこんな事件の突発した半蔵が無事の帰宅を見るまでは安心しなかった。
多吉と恭順とは半蔵に付き添いながら、午後の四時ごろには左衛門町へ引き取って来た。お隅はこの三人を格子戸口に待たせて置き、下女に言いつけてひうち石とひうち鉄(がね)とを台所から取り寄せ、切り火を打ちかけるまでは半蔵らを家に入れなかった。
時ならぬ浄(きよ)めの火花を浴びた後、ようやくの思いでこの屋根の下に帰り着いたのは半蔵である。青ざめもしよごれもしているその容貌(ようぼう)、すこし延びた髭(ひげ)、五日も櫛(くし)を入れない髪までが、いかにも暗いところから出て来た人で、多吉の着物を拝借という顔つきでいる彼がしょんぼりとした様子はお隅らの目にいたいたしく映る。彼は礼を言っても言い足りないというふうに、こんなに赤の他人のことを心配してくれるお隅の前にも手をついたまま、しばらく頭をあげ得なかったが、やがて入檻中肌身に着けていたよごれ物を風呂敷包みのままそこへ差し出した。この中は虱(しらみ)だらけだからよろしく頼むとの意味を通わせた。
「まずまあ、これで安心した。」と言って下座敷の内を歩き回るのは多吉だ。「お隅、おれは青山さんを連れて風呂(ふろ)に行って来る。金丸先生には、ここにいて待っていただく。」
「それがいい。青山君も行って、さっぱりとしていらっしゃい。わたしは一服やっていますからね。」と恭順も言葉を添える。
半蔵はまだ借り着のままだ。彼は着物を改めに自分の柳行李(やなぎごうり)の置いてある二階の方へ行こうとしたが、お隅がそれをおしとどめて、そのままからだを洗いきよめて来てもらいたいと言うので、彼も言われるままにした。
「どれ、御一緒に行って、一ぱいはいって来ようか――お話はあとで伺うとして。」
そういう多吉は先に立って、お隅から受け取った手ぬぐいを肩にかけ、格子戸口を出ようとした。
「お隅、番傘(ばんがさ)を出してくんな。ぽつぽつ降って来たぞ。」
多吉夫婦はその調子だ。半蔵も亭主と同じように傘をひろげ、二人(ふたり)そろって、見るもの聞くもの彼には身にしみるような町の銭湯への道を踏んだ。
多吉が住む町のあたりは古くからある数軒の石屋で知られている。家の前は石切河岸(いしきりがし)と呼び来たったところで、左衛門橋の通り一つへだてて鞍地河岸(くらちがし)につづき、柳原の土手と向かい合った位置にある。砂利(じゃり)、土砂、海土などを扱う店の側について細い路地(ろじ)をぬければ、神田川のすぐそばへも出られる。こんな倉庫と物揚げ場との多いごちゃごちゃした界隈(かいわい)ではあるが、旧両国|広小路(ひろこうじ)辺へもそう遠くなく、割合に閑静で、しかも町の響きも聞こえて来るような土地柄は、多吉の性に適すると言っているところだ。
江戸の名ごりのような石榴口(ざくろぐち)の残った湯屋はこの町からほど遠くないところにある。朱塗りの漆戸(うるしど)、箔絵(はくえ)を描いた欄間(らんま)なぞの目につくその石榴口(ざくろぐち)をくぐり、狭い足がかりの板を踏んで、暗くはあるが、しかし暖かい湯気のこもった浴槽(よくそう)の中に身を浸した時は、ようやく半蔵も活(い)き返ったようになった。やがて、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、彼が多吉と共にまた同じ道を帰りかけるころは、そこいらはもう薄暗い。町ではチラチラ燈火(あかり)がつく。宿に戻(もど)って見ると、下座敷の行燈(あんどん)のかげに恭順が二人を待ちうけていた。
「金丸先生、今夜はお隅のやつが手打ち蕎麦(そば)をあげたいなんて、そんなことを申しています。青山さんの御相伴(ごしょうばん)に、先生もごゆっくりなすってください。」
「手打ち蕎麦、結構。」
亭主と客とがこんな言葉をかわしているところへ、お隅も勝手の方から襷(たすき)をはずして来て、下女に膳(ぜん)をはこばせ、半蔵が身祝いにと銚子(ちょうし)をつけて出した。
「まったく、こういう時はお酒にかぎりますな。どうもほかの物じゃ納まりがつかない。」と恭順が言う。
半蔵も着物を改めて来て簡素なのしめ膳(ぜん)の前にかしこまった。焼き海苔(のり)、柚味噌(ゆずみそ)、それに牡蠣(かき)の三杯酢(さんばいず)ぐらいの箸(はし)休めで、盃(さかずき)のやりとりもはじまった。さびしい時雨(しぐれ)の音を聞きながら、酒にありついて、今度の事件のあらましを多吉の前に語り出したのもその半蔵だ。彼の献扇は、まったく第一のお車を御先乗(おさきのり)と心得たことであって、御輦(ぎょれん)に触れ奉ろうとは思いもかけなかったという。あとになってそれを知った時は実に彼も恐縮した。彼の述懐はそこから始まる。何しろ民間有志のものの建白は当時そうめずらしいことでもなかったが、行幸の途中にお車をめがけて扇子を投進するようなことは例のない話で、そのために彼は供奉(ぐぶ)警衛の人々の手から巡査をもって四大区十二小区の屯所(とんしょ)へ送られ、さらに屯所から警視庁送りとなって、警視庁で一応の訊問(じんもん)を受けた。入檻(にゅうかん)を命ぜられたのはその夜のことであった。翌十八日は、彼はある医者の前に引き出された。その医者はまず彼の姓名、年齢、職業なぞを尋ねたが、その間には彼の精神状態を鑑定するというふうで、幾度か小首をかしげ、彼の挙動に注意することを怠らなかった。それから一応彼を診察したあとで、さて種々(さまざま)なことを問い試みた。神田橋前まで行幸を拝しに家を出たのは朝の何時で、その日の朝飯には何を食ったかの類(たぐい)だ。医者の診断がつくと彼は東京裁判所へ送られることとなって、同夜も入檻、十九日には裁判所において警視庁より差し送った書面を読み聞かせられ、逐一事実のお尋ねがあったから、彼はそれに相違ない旨(むね)を答えた。入檻は二十二日の朝まで続いた。ようやくその時になって、寄留先の戸主をお呼び出しになり宿預けの身となったことを知ったという。
「でも、わたしもばかな男じゃありませんか。裁判所の方で事実を問い詰められた時、いくらも方法があろうのに、どうしてその方はそんな行為(おこない)に出たかと言われても、わたしには自分の思うことの十が一も答えられませんでした。」
半蔵の嘆息だ。それを聞くと多吉は半蔵が無事な帰宅を何よりのよろこびにして、自分らはそんな野暮(やぼ)は言わないという顔つきでいる。
多吉は言った。
「青山さん、あなただって今度の事件は、御国のためと思ってしたことなんでしょう。まあ、その盃(さかずき)をお乾(ほ)しなさるさ。」
今一度裁判所へ呼び出される日を待てということで、ともかくも半蔵は帰宅を許されて来た人である。彼にはすでに旧|庄屋(しょうや)としても、また、旧本陣問屋としても、あの郷里の街道に働いた人たちと共に長い武家の奉公を忍耐して来た過去の背景があった。実際、あるものをめがけて、まっしぐらに駆けり出そうとするような熱い思いはありながら、家を捨て妻子を顧みるいとまもなしにかつて東奔西走した同門の友人らがすることをもじっとながめたまま、交通要路の激しい務めに一切を我慢して来た彼である。その彼の耐(こら)えに耐えた激情が一時に堰(せき)を切って、日ごろ慕い奉る帝(みかど)が行幸の御道筋にあふれてしまった。こうすればこうなるぞと考えてしたことではなく、また、考えてできるような行ないではもとよりない。ほとばしり出る自分がそこにあるのみだった。 

身祝いにと多吉夫婦が勧めてくれた酒に入檻中の疲労を引き出されて、翌朝半蔵はおそくまで二階に休んでいた。上京以来早朝の水垢離(みずごり)を執ることを怠らなかった彼も、その朝ばかりはぐっすり寝てしまって、宿の亭主が茅場町(かやばちょう)の店へ勤めに通う時の来たことも知らなかった。ゆうべの雨は揚がって、町のほこりも洗われ、向かい側にある家々の戸袋もかわきかけるころに、下女が二階の雨戸を繰ろうとして階下(した)から登って来て見る時になっても、まだ彼は大いびきだ。この彼がようやく寝床からはい出して、五日ばかりも留守にした部屋(へや)のなかを見回した時は、もはや日が畳の上までさして来ていた。
「お前の内部(なか)には、いったい、何事が起こったのか。」
ある人はそう言って半蔵に尋ねるかもしれない。入檻に、裁判所送りに、宿預けに、その日からの謹慎に――これらはみな彼の献扇から生じて来た思いがけない光景である。あの行幸の当日、彼のささげた扇子があやまって御輦(ぎょれん)に触れたとは、なんとしても恐縮するほかはない。慕い奉る帝の御道筋をさまたげたことに対しても、彼は甘んじてその罰を受けねばならない。
「まったく、粗忽(そこつ)な挙動ではあった。」
彼の言いうることは、それだけだ。その時になって見ると、彼は郷里の家の方に留守居する自分の娘お粂(くめ)を笑えなかった。過ぐる年の九月五日の夜、馬籠本陣の土蔵二階であの娘の自害を企てたことは、いまだに村のものの謎(なぞ)として残っている。父としての彼が今度のような事件を引き起こして見ると、おのれの内部(なか)にあふれて来た感動すら彼はそれを説き明かすことができない。
午後から、半蔵は宿のかみさんに自分の出先を断わって置いて、柳原の方にある床屋をさして髭剃(ひげそ)りに出かけた。そこは多吉がひいきにする床屋で、老練な職人のいることを半蔵にも教えてくれたところである。多吉が親しくする俳諧(はいかい)友だちのいずれもは皆その床屋の定連(じょうれん)である。柳床(やなぎどこ)と言って、わざわざ芝の増上寺(ぞうじょうじ)あたりから頭を剃らせに来る和尚(おしょう)もあるというほど、剃刀(かみそり)を持たせてはまず名人だと日ごろ多吉が半蔵にほめて聞かせるのも、そこに働いている亭主のことである。
「これは、いらっしゃい。」
その柳床の亭主が声を聞いて、半蔵は二、三の先着の客のそばに腰掛けた。髷(まげ)のあるもの、散髪のもの、彼のように総髪(そうがみ)にしているもの、そこに集まる客の頭も思い思いだ。一方にはそこに置いてある新版物を見つけて当時評判な作者|仮名垣魯文(かながきろぶん)の著わしたものなぞに読みふける客もあれば、一方には将棋をさしかけて置いて床屋の弟子(でし)に顔をやらせる客もある。なんと言っても、まだまだ世の中には悠長(ゆうちょう)なところがあった。やがて半蔵の順番に回って来ると、床屋の亭主が砥石(といし)の方へ行ってぴったり剃刀をあてる音にも、力を入れてそれを磨(と)ぐ音にも、彼は言いあらわしがたい快感を覚えた。むさくるしく延びた髭(ひげ)が水にしめされながら剃られるたびに、それが亭主の手の甲の上にもあり、彼の方で受けている小さな板の上にも落ちた。
いつのまにか彼の心は、あとからはいって来た客の話し声の方へ行った。過ぐる日、帝の行幸のあったおり、神田橋外で御通輦を待ち受けた話をはじめた客がそこにある。客は当日の御道筋に人の出たことから、一人(ひとり)の直訴(じきそ)をしたもののあったことを言い出し、自身でその現場を目撃したわけではないが、往来(ゆきき)の人のうわさにそれを聞いて気狂いと思って逃げ帰ったという。思わず半蔵はハッとした。でも、彼は自分ながら不思議なくらいおちついたこころもちに帰って、まるで他人のことのように自分のうわさ話を聞きながら、床屋の亭主がするままに身を任せていた。親譲りの大きく肉厚(にくあつ)な本陣鼻から、耳の掃除(そうじ)までしてもらった。
何げなく半蔵は床屋を出た。上手(じょうず)な亭主が丁寧に逆剃(さかぞ)りまでしてくれてほとんどその剃刀を感じなかったほどの仕事を味わったあとで、いささか頬(ほお)は冷たいというふうに。
その足で半蔵は左衛門町の二階へ引き返して行った。静かな西向きの下窓がそこに彼を待っている。そこは彼が一夏の間、慣れない東京の暑さに苦しんで、よく涼しい風を入れに行ったところだ。部屋(へや)は南に開けて、その外が町の見える縁側になっているが、きれい好きな宿のかみさんは彼の入檻中に障子を張り替えて置いてある。上京以来すでに半年あまりも寝起きをして見れば、亭主多吉の好みで壁の上に掛けて置く小額までが彼には親しみのあるものとなっている。
過ぐる五日の暗さ。彼は部屋に戻(もど)っていろいろと片づけ物なぞしながら、檻房(かんぼう)の方に孤坐(こざ)した時の自分のこころもちを思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたのは、かねて耶蘇教(ヤソきょう)の蔓延(まんえん)を憂い、そのための献言も仕(つかまつ)りたい所存であったところ、たまたま御通輦を拝して憂国の情が一時に胸に差し迫ったということであった。ちょうど所持の扇子に自作の和歌一首しるしつけて罷(まか)り在(あ)ったから、御先乗(おさきのり)とのみ心得た第一のお車をめがけて直ちにその扇子をささげたなら、自然と帝のお目にもとまり、国民教化の規準を打ち建てる上に一層の御英断も相立つべきかと心得たということであった。
すくなくもこの国の前途をおのが狭い胸中に心配するところから、彼もこんな行為に出た。ただただそれが頑(かたくな)な心のあらわれのように見られることはいかにも残念であるとするのが、彼の包み隠しのないところである。開国以前のものは皆、一面に西洋を受けいれながら、一面には西洋と戦った。不幸にも、この国のものがヨーロッパそのものを静かによく見うるような機会を失ったことは、二度や三度にとどまらない。かく内に動揺して、外を顧みるいとまもないような時に、歴史も異なり風土も異なり言葉も異なる西洋文明の皮相を模倣するのみで、それと戦うことをしなかったら、末ははたしてどうなろう。そのことがすでに彼には耐えられなかった。そういう彼とても、ただ漫然と異宗教の蔓延(まんえん)を憂いているというではない。もともと切支丹宗(キリシタンしゅう)取り扱いの困難は織田信長(おだのぶなが)時代からのこの国のものの悩みであって、元和(げんな)年代における宗門|人別帳(にんべつちょう)の作製も実はその結果にほかならない。長い鎖国が何のためかは、宗門のことをヌキにしては考えられないことであった。いよいよこの国を開くに当たって、新時代が到来した時、あの厩戸皇子(うまやどのおうじ)が遠い昔にのこした言葉と言い伝えらるるものは、また新時代に役立つことともなった。すなわち、神道をわが国の根本とし、儒仏をその枝葉とすることは、神祇局(じんぎきょく)以来の一大方針で、耶蘇(ヤソ)教徒たりともこの根本を保全するが道であるというふうに半蔵らは考えた。ところが外国宣教師は種々(さまざま)な異議を申し立て、容易にこの方針に従わない。それに力を得た真宗の僧侶(そうりょ)までが勝手を主張しはじめ、独立で布教に従事するものを生じて来た。半蔵は教部省に出仕して見てこのことを痛感した。外国宣教師の抗議に対して今日のような妥協に妥協をのみ重ねるとしたら、各派教導職の不平も制(おさ)えがたくなって、この国の教化事業はただただ荒れるに任せ、一切を建て直そうとする御一新の大きな気象もついには失われて行くであろう。神祇局は神祇省となり、神祇省は教部省となった。結局、教部省というものも今に廃されるであろう。このことが彼を悲しませる。
二百余年前、この国において、ホルトガル人、イスパニア人を追放したころの昔と、明治七年の今とでは、もとより外国の風習も大いに異なっているかもしれない。今の西洋は昔ほど宗門のことを皆願っているというふうではないかもしれない。それはすでに最初の米国領事ハリスがこの国のものに教えたことである。あのハリスが言うように、今のアメリカあたりでは宗門なぞは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧めるようなことはさらにないかもしれない。何を信仰しようとも人々の心次第であるかもしれない。今のヨーロッパで見いだした信仰の基本とは、人々銘々の心に任せるよりほかにいたし方もないと決着したとある。半蔵とても一応そのことを考慮しないではなかったが、しかし自分らの子孫のためにもこれはゆるがせにすべきでないと思って来た。宗教の事ほどその源の清く、その末の濁りやすいものもすくない。わが国神仏|混淆(こんこう)の歴史は何よりも雄弁にそれを語っている。この先、神耶(しんヤ)混淆のような事が起こって来ないとは決して言えなかった。どんな耶蘇の宣教師が渡来して、根気もあり智(さと)りも深くて、人をなつけ、新奇を好むこの国のものに根本と枝葉との区別をすら忘れさせるようなことが起こって来ないとは、これまた決して言えなかった。御一新もまだ成就しない今のうちに、国民教化の基準をしっかりと打ち建てて置きたい。それが半蔵らの願いであった。
静かなところで想(おも)い起こして見ると、あだかも目に見えない細い糸筋のように、いろいろな思いがそれからそれと引き出される。郷里の方に留守居する継母や妻子のこともしきりに彼の胸に浮かんで来た。彼は今度の事件がどんなふうに村の人たちのうわさに上るだろうかと思い、これがまた彼の飛騨行きにどう響くかということも心にかかった。 

十一月二十九日に、半蔵は東京裁判所の大白洲(おおしらす)へ呼び出された。その時、彼は掛りの役人から口書(くちがき)を読み聞かせられたので、それに相違ない旨(むね)を答えると、さらに判事庁において先刻の陳述は筆記書面のとおりに相違ないかと再応の訊問(じんもん)があった。彼が相違ない旨を答えると、それなら調印いたせとの言葉に、即刻調印を差し上げた。追って裁断に及ぶべき旨を言い聞かせられて、彼はその場を退いて来た。
とりあえず半蔵はこのことを多吉夫婦の耳に入れ、郷里の留守宅あてにもありのままを書いて、自分の粗忽(そこつ)から継母にまで心配をかけることはまことに申し訳がないと言い送った。のみならず、このために帰国の日もおくれ、飛騨行きまで延び、いろいろ心にかかることばかりであるがこれもやむを得ない、このまま帰国は許されないから裁断申し渡しの日が来るまでよろしく留守居を頼むとも言い送った。なお、彼は裁判所での模様を新乗物町の方へ手紙で知らせてやると、月を越してからわざわざ彼を見に来てくれたのも金丸恭順であった。
「青山君、いくら御謹慎中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。せめて両国辺まで出てごらんなさい。台湾の征蕃兵(せいばんへい)がぽつぽつ帰って来るようになりましたぜ。」
恭順はこんな話を持って左衛門町の二階へ上がって来た。征蕃兵が凱旋(がいせん)を迎えようとする市内のにぎわいも、半蔵はそれを想像するにとどめて、わびしくこもり暮らしている時である。恭順の顔を見ると、半蔵は裁断申し渡しの日の待ちどおしいことを言い、その結果いかんではせっかく彼を懇望する飛騨地方の人たちが思惑(おもわく)もどうあろうかと言い出す。その時、恭順は首を振って、これが他の動機から出た行為なら格別、一点の私心もない憂国の過慮からであって見れば、飛騨の方は心配するほどのことはあるまい、なお、田中不二麿からも飛騨有志あてに一筆書き送ってもらうことにしようと語った末に、言った。
「どうです、青山君、君も新乗物町の方へ越して来ては。」
それを勧めるための恭順が来訪であったのだ。この医者はなおも言葉をついで、
「そうすれば、わたしも話し相手ができていい。まあ、君|一人(ひとり)ぐらい居候(いそうろう)に置いたって、食わせるに困るようなことはしませんぜ。部屋(へや)も貸しますぜ。」
恭順は真実を顔にあらわして言った。その言葉のはしにまじる冗談もなかなかに温(あたた)かい。同門のよしみとは言え、よっぽど半蔵もこの人に感謝してよかった。しかし、謹慎中の身として寄留先を変えることもどうかと思うと言って、彼は恭順のこころざしだけを受け、やはりこのままの仮寓(かぐう)を続けることにしたいと断わった。むなしい旅食は彼とても心苦しかったが、この滞在が長引くようならばと郷里の伏見屋伊之助のもとへ頼んでやったこともあり、それに今になって左衛門町の宿を去るには忍びなかった。
十二月中旬まで半蔵は裁判所からの沙汰(さた)を待った。そのころにでもなったら裁断も言い渡されるだろうと心待ちに待っていたが、裁判所も繁務のためか、十二月下旬が来るころになってもまだ何の沙汰もない。
東京の町々はすでに初雪を見る。もっとも、浅々と白く降り積もった上へ、夜の雨でも来ると、それが一晩のうちに溶けて行く。木曾路(きそじ)あたりとは比較にもならないこの都会の雪空は、遠く山の方へと半蔵の心を誘う。彼も飛騨行きのおくれるのを案じている矢先で、それが延びれば延びるほど、あの険阻(けんそ)で聞こえた山間の高山路が深い降雪のために埋(うず)められるのを恐れた。
独居(ひとりい)のねぶり覚ますと松が枝(え)にあまりて落つる雪の音かな
さよしぐれ今は外山(とやま)やこえつらむ軒端(のきば)に残る音もまばらに
山里は日にけに雪のつもるかな踏みわけて訪(と)ふ人もこなくに
しら雪のうづみ残せる煙こそ遠山里のしるしなりけれ
これらの冬の歌は、半蔵が郷里の方に残して来た旧作である。彼は左衛門町の二階にいてこれらの旧作を思い出し、もはや雪道かと思われる木曾の方の旧(ふる)い街道を想像し、そこを往来する旅人を想像し、革(かわ)のむなび、麻の蝿(はえ)はらい、紋のついた腹掛けから、鬣(たてがみ)、尻尾(しっぽ)まで雪にぬれて行く荷馬の姿を想像した。彼はまた、わずかに栂(つが)の実なぞの紅(あか)い珠(たま)のように枝に残った郷里の家の庭を想像し、木小屋の裏につづく竹藪(たけやぶ)を想像し、その想像を毎年の雪に隠れひそむ恵那山(えなさん)連峰の谿谷(けいこく)にまで持って行って見た。
とうとう、半蔵は東京で年を越した。一年に一度の餅(もち)つき、やれ福茶だ、小梅だ、ちょろげだと、除夜からして町家は町家らしく、明けては屠蘇(とそ)を祝え、雑煮(ぞうに)を祝え、かち栗(ぐり)、ごまめ、数の子を祝えと言う多吉夫婦と共に、明治八年の新しい正月を迎えた。
暮れのうちに出したらしい郷里の家のものからの便(たよ)りがこの半蔵のもとに届いた。それは継母おまんと、娘お粂(くめ)とからで。娘の方の手紙は父の身を案じ暮らしていることから、留守宅一同の変わりのないこと、母お民から末の弟和助まで毎日のように父の帰国を待ちわびていることなぞが、まだ若々しい女文字で認(したた)めてある。継母から来た便りはそう生(なま)やさしいものでもない。それには半蔵の引き起こした今度の事件がいつのまにか国もとへも聞こえて来て、種々(さまざま)なうわさを生んでいるとある。その中にはお粂のようすも伝えてあって、その後はめっきり元気を回復し、例の疵口(きずぐち)も日に増し目立たないほどに癒(い)え、最近に木曾福島の植松家から懇望のある新しい縁談に耳を傾けるほどになったとある。継母の手紙は半蔵の酒癖のことにまで言い及んであって、近ごろは彼もことのほか大酒をするようになったと聞き伝えるが、朝夕継母の身として案じてやるとある。その手紙のつづきには、男の大厄(たいやく)と言わるる前後の年ごろに達した時は、とりわけその勘弁がなくては危(あぶ)ないとは、あの吉左衛門が生前の話にもよく出た。大事の吉左衛門を立てるなら、酒を飲むたびに亡(な)き父親のことを思い出して、かたくかたくつつしめとも言ってよこしてある。
「青山さん、まだ裁判所からはなんとも申してまいりませんか。」
新しい正月もよそに、謹慎中の日を送っている半蔵のところへ、お隅(すみ)は下座敷から茶を入れて来て勧めた。到来物の茶ではあるがと言って、多吉の好きな物を客にも分けに階下(した)から持って来るところなぞ、このかみさんも届いたものだ。
旅の空で、半蔵もこんな情けのある人を知った。彼の境涯(きょうがい)としては、とりわけ人の心の奥も知らるるというものであった。お隅は凜(りん)とした犯しがたいようなところのある人で、うっかりすると一切女房任せな多吉の方がかえって女房であり、むしろお隅はこの家の亭主である。
「お国から、お便(たよ)りがございましたか。」
「ええ、皆無事で暮らしてるようです。こちらへも御厄介(ごやっかい)になったろうッて、吾家(うち)のものからよろしくと言って来ました。」
「さぞ、奥さんも御心配なすって――」
「お隅さん、あなたの前ですが、国からの便りと言うといつでも娘が代筆です。あれも手はよく書きますからね。わたしの家内はまた、自分で手紙を書いたことがありませんよ。」
こんな話も旅らしい。お隅の調子がいかにもさっぱりとしているので、半蔵は男とでも対(むか)い合ったように、継母から来た手紙のことをそこへ言い出して、彼の酒をとがめてよこしたと言って見せる。彼が賢い継母を憚(はばか)って来たことは幼年時代からで、「お母(っか)さんほどこわいものはない」と思う心を人にも話したことがあるほどだが、成人して家督を継ぎ、旧宿場や街道の世話をするようになってからは、その継母にすら隠れて飲むことはやめられなかったと白状する。
「でも、青山さん。お酒ぐらい飲まなくて、やりきれるものですかね。」
お隅はお隅らしいことを言った。
松の内のことで、このかみさんも改まった顔つきではいるが、さすがに気のゆるみを見せながら、平素めったに半蔵にはしない自分の女友だちのうわさなぞをも語り聞かせる。お寅(とら)と言って清元(きよもと)お葉(よう)の高弟にあたり、たぐいまれな美音の持ち主で、柳橋(やなぎばし)辺の芸者衆に歌沢(うたざわ)を教えているという。放縦ではあるが、おもしろい女で、かみさんとは正反対な性格でいながら、しかも一番仲よしだともいう。その人の芸人|肌(はだ)と来たら、米櫃(こめびつ)に米がなくなっても、やわらか物は着通し、かりん胴の大切な三味線(しゃみせん)を質に入れて置いて、貸本屋の持って来る草双紙(くさぞうし)を読みながら畳の上に寝ころんでいるという底の抜け方とか。お隅は女の書く手紙というものをその女友だちのうわさに結びつけて、お寅もやはり手紙はむつかしいものと思い込んでいた女の一人であると半蔵に話した。何も、型のように、「一筆しめしあげ参らせ候(そろ)」から書きはじめなくとも、談話(はなし)をするように書けば、それで手紙になると知った時のお寅の驚きと喜びとはなかったとか。早速(さっそく)お寅は左衛門町へあてて書いてよこした。今だにそれはお隅の家のものの一つ話になっているという。その手紙、
「はい、お隅さん、今晩は。暑いねえ。その後、亭主あるやら、ないじゃやら――ですとさ。」
お隅はこんな話をも半蔵のところに置いて行った。
騒がしく、楽しい町の空の物音は注連(しめ)を引きわたした竹のそよぎにまじって、二階の障子に伝わって来ていた。その中には、多吉夫婦の娘お三輪(みわ)が下女を相手にしての追羽子(おいばね)の音も起こる。お三輪は半蔵が郷里に残して置いて来たお粂を思い出させる年ごろで、以前の本所相生町の小娘時代に比べると、今は裏千家(うらせんけ)として名高い茶の師匠|松雨庵(しょううあん)の内弟子(うちでし)に住み込んでいるという変わり方だ。平素は左衛門町に姿を見せない娘が両親のもとへ帰って来ているだけでも、家の内の空気は違う。多吉夫婦は三人の子の親たちで、お三輪の兄量一郎は横浜貿易商の店へ、弟利助は日本橋辺の穀問屋(こくどんや)へ、共に年期奉公の身であるが、いずれこの二人(ふたり)の若者も喜び勇んで藪入(やぶいり)の日を送りに帰って来るだろうとのうわさで持ち切る騒ぎだ。
町へ来るにぎやかな三河万歳(みかわまんざい)までが、めでたい正月の気分を置いて行く中で、半蔵は謹慎の意を表しながらひとり部屋にすわりつづけた。お三輪は結いたてのうつくしい島田で彼のところへも挨拶(あいさつ)に来て、紅白の紙に載せた野村の村雨(むらさめ)を置いて行った。
七草過ぎになっても裁判所からは何の沙汰もない。毎日のように半蔵はそれを待ち暮らした。亭主多吉は風雅の嗜(たしな)みのある人だけに、所蔵の書画なぞを取り出して来ては、彼にも見よと言って置いて行ってくれる。腰張りのしてある黄ばんだ部屋の壁も半蔵には慰みの一つであった。
ふと、半蔵は町を呼んで来る物売りの声を聞きつけた。新版物の唄(うた)を売りに、深山の小鳥のような鋭くさびた声を出して、左衛門町の通りを読み読み歩いて来る。びっくりするほどよくとおるその読売りの声は町の空気に響き渡る。半蔵は聞くともなしにそれを聞いて、新しいものと旧(ふる)いものとが入れまじるまッ最中を行ったようなその新作の唄の文句に心を誘われた。
洋服すがたに
ズボンとほれて、
袖(そで)ないおかたで苦労する。
激しい移り変わりの時を告げ顔なものは、ひとりこんな俗謡にのみかぎらない。過ぐる七年の月日はすべてのものを変えつつあった。燃えるような冒険心を抱(いだ)いて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連ですら、追い追いの粋(いき)な風に吹かれては、都の女の俘虜(とりこ)となるものも多かった。一方には当時|諷刺(ふうし)と諧謔(かいぎゃく)とで聞こえた仮名垣魯文(かながきろぶん)のような作者があって、すこぶるトボケた調子で、この世相をたくみな戯文に描き出して見せていた。多吉が半蔵にも読んで見よと言って、下座敷から持って来て貸してくれた『阿愚楽鍋(あぐらなべ)』、一名牛店雑談にはこんな一節もある。
「方今の形勢では、洋学でなけりゃア、夜は明けねえヨ。」
これは開化の魁(さきがけ)たる牛店を背景に、作者が作中人物の一人(ひとり)をして言わせた会話の中の文句である。どんな人物の口からこんな文句が出るかというに、にわか散切(ざんぎ)りの西洋ごしらえ、フランスじこみのマンテルにイギリスのチョッキを着け、しかもそれは柳原あたりの朝市で買い集めた洋服であり、時計はくさりばかりぶらさげて、外見をつくろおうとする男とある。おのれ一人が文明人という顔つきで、『世界|国尽(くにづくし)』などをちょっと口元ばかりのぞいて見た知識を振り回し、西洋のことならなんでも来いと言い触らすこまりものだともある。おもて華(はな)やかに、うらの貧しいこんな文明人はついそこいらの牛店にもすわり込んで、肉鍋と冷酒(ひやざけ)とを前に、気焔(きえん)をあげているという時だ。寄席(よせ)の高座で、芸人の口をついて出る流行唄(はやりうた)までが変わって、それがまた英語まじりでなければ納まらない世の中になって来た。「待つ夜の長き」では、もはや因循で旧弊な都々逸(どどいつ)の文句と言われる。どうしてもそれは「待つ夜のロング」と言わねばならない。「猫撫(ねこな)で声」というような文句ももはや眠たいとされるようになった。どうしてもそれは「キャット撫で声」と言わねば人を驚かさない。すべてこのたぐいだ。
半蔵は腕を組んでしまって、渦巻(うずま)く世相を夢のようにながめながら、照りのつよい日のあたった南向きの障子のわきにすわりつづけた。まだ春も浅く心も柔らかな少女たちが、今にこの日本の国も英語でなければ通じなくなる時が来ると信じて、洋書と洋傘(ようがさ)とを携え、いそいそと語学の教師のもとへ通うものもあるというような、そんな人のうわさを左衛門町の家のものから聞くだけでも、彼は胸がいっぱいになった。
終日読書。
青年時代から半蔵が見まもって来たまぼろしは、また彼の胸に浮かぶ。そのまぼろしの正体を彼は容易に突きとめることができなかった。彼の心に描く「黒船」とは、およそ三つのものを載せて来る。耶蘇教(ヤソきょう)はその一つ、格物究理の洋学はその一つ、交易による世界一統もまたその一つである。彼なぞの考えるところによると、西洋の学問するものも一様ではない、すくなくも開国以前と以後とでは、洋学者の態度にもかなりな相違がある。今さら、「東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)」と言ったあの佐久間象山(さくましょうざん)を引き合いに出すまでもなく、開港以前の洋学者はいずれもこの国に高い運命の潜むことを信じて行ったようである。前の高橋作左衛門、土生玄磧(はぶげんせき)、後の渡辺崋山(わたなべかざん)、高野長英、皆そういう人たちである。農園と経済学との知識をもつ洋学者で、同時に本居平田の学説を深く体得した秋田の佐藤信淵(さとうのぶひろ)のごとき人すらある。六十歳の声を聞いて家督を弟に譲り、隠居して、それから洋学にこころざしたような人は決してめずらしくない。その学問は藩の公(おおやけ)に許すところであらねばならぬ。洋学者としての重い責めをも果たさねばならぬ。彼らが境涯(きょうがい)の困難であればあるだけ、そのこころざしも堅く、学問も確かに、著述も残し、天文、地理、歴史、語学、数学、医学、農学、化学、または兵学のいずれにも後の時代のためにしたくをなし得たわけである。そこへ行くと開国以後の洋学者というものはその境涯からして変わって来た。今は洋学することも割合に困難でなくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師のあることを知るという世の中になって来た。彼の目の前にひらけているのは、実に浅く普及して来た洋学の洪水(こうずい)だ。
もとよりその中には、開国以前からの洋学者ののこしたこころざしを承(う)け継ぐ少数の人たちもないではない。しかし、ここに本も読めば筆も立つ旧幕の人の一群というものがある。それらの人たちが西洋を求める態度はすこし違う。彼らは早く西洋の事情に通じる境涯にも置かれてあって、幕府の洋書取調所(蕃書(ばんしょ)取調所の後身)に関係のあったものもあり、横浜開港場の空気に触れる機会の多かったものもある。それらの人たちはまた、閲歴も同じくはないし、旧幕時代の役の位もちがい、禄(ろく)も多かったものと寡(すく)なかったものとあるが、大きな瓦解(がかい)の悲惨に直面したことは似ていた。江戸をなつかしむ心も似ていた。幕末の遺臣として知られた山口|泉処(せんしょ)、向山黄村(むこうやまこうそん)、あの人たちもどうなったろうと思われる中で、瓦解以前に徳川政府の使命を帯びフランスに赴(おもむ)いた喜多村瑞見なぞはその広い見聞の知識を携え帰って来て、本所北二葉町の旧廬(きゅうろ)から身を起こし、民間に有力なある新聞の創立者として言論と報道との舞台に上って来た。もっとも、瑞見はその出発が幕府|奥詰(おくづめ)の医師であり、本草(ほんぞう)学者であって、かならずしも西洋をのみ鼓吹(こすい)する人ではなかったが、後進で筆も立つ人たちが皆瑞見のような立場にあるのではない。中には、自国に失望するあまりに、その心を見ぬヨーロッパの思慕へとかえるものがある。戯文に隠れて、一般の異国趣味をあおぎ立てるものもある。「なるほど、世の中は変わりもしよう。しかし、よりよい世の中は――決して。」――とは、不平不満のやりどころのないようなそれらの人たちより陰に陽に聞こえて来る強い非難の声だ。半蔵なぞにして見ると、今の時はちょうど遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたその同じ大切な時にあたる。中世の殻(から)もまだ脱ぎ切らないうちに、かつてこの国のものが漢土に傾けたその同じ心で、今また西洋にのみあこがれるとしたら。かつては漢意をもってし、今は洋意をもってする。模倣の点にかけては同じことだ。どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦わねばならぬ。その意味から言っても、平田篤胤没後の門人としてはこうした世の風潮からも自分らの内にあるものを護(まも)らねばならなかった。すくなくも、荷田大人(かだうし)以来国学諸先輩の過去に開いた道が外来の学問に圧倒せられて、無用なものとなって行こうとは、彼には考えられもしなかった。 

裁断申し渡し番付の写し
   信濃国(しなののくに)筑摩(ちくま)郡|神坂(みさか)村平民
   当時|水無(みなし)神社宮司兼中講義
   青山半蔵
その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録し置きたる扇面を行幸の途上において叡覧(えいらん)に備わらんことを欲し、みだりに供奉(ぐぶ)の乗車と誤認し、投進せしに、御(ぎょ)の車駕(しゃが)に触る。右は衝突|儀仗(ぎじょう)の条をもって論じ、情を酌量(しゃくりょう)して五等を減じ、懲役五十日のところ、過誤につき贖罪金(しょくざいきん)三円七十五銭申し付くる。
明治八年一月十三日
   東京裁判所
ここに半蔵の本籍地を神坂村とあるは、彼の郷里馬籠と隣村湯舟沢とを合わせて一か村とした新しい名称をさす。言いかえれば、筑摩県管下、筑摩郡、神坂村、字馬籠である。最も古い交通路として知られた木曾の御坂(みさか)は今では恵那山につづく深い山間(やまあい)の方に埋(うず)もれているが、それに因(ちな)んでこの神坂村の名がある。郡県政治のあらわれの一つとして、宿村の併合が彼の郷里にも行なわれていたのである。
待ちに待った日はようやく半蔵のところへ来た。この申し渡しの書付にあるように、いよいよ裁判も決定した。夕方から、彼は多吉夫婦と共に左衛門町の下座敷に集まった。思わず出るため息と共に、自由な身となったことを語り合おうとするためであった。そこへ多吉を訪(たず)ねて門口からはいって来た客がある。多吉には川越(かわごえ)時代からの旧(ふる)いなじみにあたる青物問屋の大将だ。多吉が俳諧(はいかい)友だちだ。こちらは一段落ついた半蔵の事件で、宿のものまで一同重荷をおろしたような心持ちでいるところであったから、偶然にもその客がはいって来た時、玄関まで出迎える亭主を見るといきなり向こうから声をかけたが、まるでその声がわざわざ見舞いにでも来てくれたように多吉の耳には響いた。
「まずまあ、多吉さん。」
これは半蔵にも、時にとってのよい見舞いの言葉であった。ところが、この「まずまあ」は、実は客の口癖で、お隅は日ごろの心やすだてからそれをその人のあだ名にして、下女までそう呼び慣れていたほどだから、ちょうど客がその声をかけてはいって来たのは、自身であだ名を呼びながら来たようなものであった。お隅はそれを聞くと座にもいたたまれない。下女なぞは裏口まで逃げ出して隠れた。
ともあれ、半蔵の引き起こした献扇事件は、暗い入檻(にゅうかん)中の五日と、五十日近い謹慎の日とを送ったあとで、こんなふうにその結末を告げた。五十日の懲役には行かずに済んだものの、贖罪(しょくざい)の金は科せられた。どうして、半蔵としては笑い事どころではない。押し寄せて来る時代の大波を突き切ろうとして、かえって彼は身に深い打撃を受けた。前途には、幾度か躊躇(ちゅうちょ)した飛騨(ひだ)の山への一筋の道と、神の住居(すまい)とが見えているのみであった。
夜が来た。左衛門町の二階の暗い行燈(あんどん)のかげで、めずらしくも先輩|暮田正香(くれたまさか)がこの半蔵の夢に入った。多くの篤胤没後の門人中で彼にはことに親しみの深く忘れがたいあの正香も、賀茂(かも)の少宮司から熱田(あつた)の少宮司に転じ、今は熱田の大宮司として働いている人である。その夜の旅寝の夢の中に、彼は正式の装束(しょうぞく)を着けた正香が来て、手にする白木(しらき)の笏(しゃく)で自分を打つと見て、涙をそそぎ、すすり泣いて目をさました。
正月の末まで半蔵は東京に滞在して、飛騨行きのしたくをととのえた。斎(いつき)の道は遠く寂しく険しくとも、それの踏めるということに彼は心を励まされて一日も早く東京を立ち、木曾街道経由の順路としてもいったんは国に帰り、それから美濃(みの)の中津川を経て飛騨へ向かいたいと願っていたが、種々(さまざま)な事情のためにこの出発はおくれた。みずから引き起こした献扇事件には彼もひどく恐縮して、その責めを負おうとする心から、教部省内の当局者あてに奏進始末を届け出て、進退を伺うということも起こって来た。彼の任地なる飛騨高山地方は当時筑摩県の管下にあったが、水無神社は県社ともちがい、国幣小社の社格のある関係からも、一切は本省の指令を待たねばならなかった。一方にはまた、かく東京滞在の日も長引き、費用もかさむばかりで、金子(きんす)調達のことを郷里の伏見屋伊之助あてに依頼してあったから、その返事を待たねばならないということも起こって来た。幸い本省からはその儀に及ばないとの沙汰(さた)があり、郷里の方からは伊之助のさしずで、峠村の平兵衛に金子を持たせ、東京まで半蔵を迎えによこすとの通知もあった。今は彼も心ぜわしい。再び東京を見うるの日は、どんなにこの都も変わっているだろう。そんなことを思いうかべながら、あちこちの暇乞(いとまご)いにも出歩いた。旧|組頭(くみがしら)廃止後も峠のお頭(かしら)で通る平兵衛は二月にはいって、寒い乾(かわ)き切った日の夕方に左衛門町の宿へ着いた。
半蔵と平兵衛とは旧宿場時代以来、ほとんど主従にもひとしい関係にあった。どんなに時と場所とを変えても、この男が半蔵を「本陣の旦那(だんな)」と考えることには変わりはなかった。慶応四年の五月から六月へかけて、伊勢路(いせじ)より京都への長道中を半蔵と共にしたその同じ思い出につながれているのも、この男である。平兵衛は伊之助から預かって来た金子ばかりでなく、半蔵が留守宅からの言伝(ことづて)、その後の山林事件の成り行き、半蔵の推薦にかかる訓導小倉啓助の評判など、いろいろな村の話を彼のところへ持って来た。東京から伝わる半蔵のうわさ――ことに例の神田橋外での出来事から入檻を申し付けられたとのうわさの村に伝わった時は、意外な思いに打たれないものはなかった。中にも半蔵のために最も心を痛めたものは伏見屋の主人であったという話をも持って来た。
平兵衛は言った。
「そりゃ、お前さま、何もわけを知らないものが聞いたら、たまげるわなし。」
「……」
「ほんとに、人のうわさにろくなことはあらすか。半蔵さまが気が違ったという評判よなし。お民さまなぞはそれを聞いた時は泣き出さっせる。皆のものが言うには、本陣の旦那はあんまり学問に凝らっせるで、まんざら世間の評判もうそではなからず、なんて――村じゃ、そのうわささ。そんなばかなことがあるもんかッて、お前さまの肩を持つものは、伏見屋の旦那ぐらいのものだった。まあ、おれも、今度出て来て見て、これで安心した。」
「……」
飛騨を知らない半蔵が音に聞く嶮岨(けんそ)な加子母峠(かしもとうげ)の雪を想像し、美濃と飛騨との国境(くにざかい)の方にある深い山間の寂寞(せきばく)を想像して、冬期には行く人もないかと思ったほど途中の激寒を恐れたことは、平兵衛の上京でやや薄らぎもした。というのは、飛騨高山地方から美濃の中津川まで用|達(た)しに出て来た人があったとかで、伊之助は中津川でその人から聞き得たことをくわしい書付にして、それを平兵衛に託してよこしくれたからであった。その書付によると、水無神社は高山にあるのではなくて、高山から一里半ほどへだてた位置にある。水無川は神社の前を流れる川である。神通川(じんずうがわ)の上流である。神社を中心に発達したところを宮村と言って、四方から集まって来る飛騨の参詣者(さんけいしゃ)は常に絶えないという。大祭、九月二十五日。ことにめずらしいのは十二月三十一日の年越え詣(もう)でで、盛装した男女の群れが神前に新しい春を迎えようとする古い風俗はちょっと他の地方に見られないものであるとか。美濃方面から冬期にこの神社の位置に達するためには、藁沓(わらぐつ)を用意し、その上に「かんじき」をあてて、難場中の難場と聞こえた国境の加子母峠(かしもとうげ)を越えねばならない。それでも旅人の姿が全く絶えるほどの日はなく、雪もさほど深くはない。中津川より下呂(げろ)まで十二里である。その間の道が困難で、峠にかかれば馬も通わないし、牛の背によるのほかはないが、下呂まで行けばよい温泉がわく。旅するものはそこにからだを温(あたた)めることができる。下呂から先は歩行も困難でなく、萩原(はぎわら)、小坂(おさか)を経て、宮峠にかかると、その山麓(さんろく)に水無神社を望むこともできる。なお、高山地方は本居宣長の高弟として聞こえた田中|大秀(おおひで)のごとき早く目のさめた国学者を出したところだから、半蔵が任地に赴(おもむ)いたら、その道の話相手や歌の友だちなぞを見つけることもあろうと書き添えてある。
出発の前日には、平兵衛が荷ごしらえなどするそばで、半蔵は多吉と共に互いに記念の短冊(たんざく)を書きかわした。多吉はそれを好める道の発句(ほっく)で書き、半蔵は和歌で書いた。左衛門町の夫婦は別れを惜しんで、餞別(せんべつ)のしるしにと半蔵の前にさし出したのは、いずれも旅の荷物にならないような、しかも心をこめたものばかりであった。多吉からは黄色な紙に包んである唐墨(からすみ)。お隅からは半蔵の妻へと言って、木曾の山家では手に入りそうもない名物さくら香(か)の油。それに、元結(もとゆい)。
「まったく、不思議な御縁です。」
翌朝早く半蔵はその多吉夫婦の声を聞いて、別れを告げた。頼んで置いた馬も来た。以前彼が江戸を去る時と同じように、引きまとめた旅の荷物は琉球(りゅうきゅう)の菰包(こもづつみ)にして、平兵衛と共に馬荷に付き添いながら左衛門町の門(かど)を離れた。
「どれ、そこまでわたしも御一緒に。」
という多吉はあわただしく履物(はきもの)を突ッかけながら、左衛門橋の上まで半蔵らを追って来た。上京以来、半蔵が教部省への勤め通いに、町への用達しに、よく往復したその橋のほとりも、左衛門町の二階と引き離しては彼には考えられないようなものであった。その朝の河岸(かし)に近く舫(もや)ってある船、黒ずんで流れない神田川の水、さては石垣(いしがき)の上の倉庫の裏手に乾(ほ)してある小さな鳥かごまでが妙に彼の目に映った。
王政復古以来、すでに足掛け八年にもなる。下から見上げる諸般の制度は追い追いとそなわりつつあったようであるが、一度大きく深い地滑(じすべ)りが社会の底に起こって見ると、何度も何度も余りの震動が繰り返され、その影響は各自の生活に浸って来ていた。こんな際に、西洋文物の輸入を機会として、種々雑多の外国人はその本国からも東洋植民地からも入り込みつつあった。それらのヨーロッパ人の中には先着の客の意見を受け継ぎ、日本人をして西洋文明を採用せしめるの途(みち)は、強力によって圧倒するか、さなくば説諭し勧奨するか、そのいずれかを出(い)でないとの尊大な考えを抱(いだ)いて来るものがある。衰余の国民が文明国の干渉によって勃興(ぼっこう)した例は少ないが、今は商業も著しく発達し、利益と人道とが手を取って行く世の中となって来たから、よろしく日本を良導して東洋諸衰残国の師たる位置に達せしめるがいいというような、比較的同情と親愛とをもって進んで来るものもある。ヨーロッパの文明はひとり日本の政治制度に限らず、国民性それ自身をも滅亡せしめる危険なくして、はたして日本の国内にひろめうるか、どうか。この問いに答えなければならなかったものが日本人のすべてであった。当時はすでに民選議院建白の声を聞き、一方には旧士族回復の主張も流れていた。目に見えない瓦解(がかい)はまだ続いて、失業した士族から、店の戸をおろした町人までが互いに必死の叫びを揚げていた。だれもが何かに取りすがらずにはいられなかったような時だ。半蔵は多くの思いをこの東京に残して、やがて板橋経由で木曾街道の空に向かった。 

「お師匠さま。」
その呼び声は、雪道を凍らせてすべる子供らの間に起こっている。坂になった町の片側をたくみにすべって行くものがある。ころんで起き上がるものがある。子供らしい笑い声も起こっている。
山家(やまが)育ちの子供らは手に手に鳶口(とびぐち)を携え、その手のかじかむのも忘れ、降り積もった雪道の遊戯に余念がない。いずれも元の敬義学校の生徒だ。名も神坂村(みさかむら)小学校と改められた新校舎の方へ通(かよ)っている馬籠(まごめ)の子供らだ。二月上旬の末に半蔵は平兵衛と連れだちながら郷里に着いて、伏見屋の前あたりまで帰って行くと、自分を呼ぶその教え子らの声を聞いた。
「お父(とっ)さん。」
と呼びながら、氷すべりの仲間から離れて半蔵の方へ走って来るのは、腕白(わんぱく)ざかりな年ごろになった三男の森夫であった。そこには四男の和助までが、近所の年長(としうえ)の子供らの仲間にはいりながら、ほっペたを紅(あか)くし、軽袗(かるさん)の裾(すそ)のぬれるのも忘れて、雪の中を歩き回るほど大きくなっていた。
新しい春とは言っても山里はまだ冬ごもりのまっ最中である。半蔵の留守宅には、継母のおまんをはじめ、妻のお民、娘お粂(くめ)、長男宗太から下男佐吉らまで、いずれも雪の間に石のあらわれた板屋根の下で主人の帰りを待ち受けていた。東京を立ってからの半蔵はすでに八十余里の道を踏んで来て、凍えもし、くたぶれもしていたが、そう長く自分の家にとどまることもできない人であった。三日ばかりの後にはまた馬籠を立って、任地の方へ向かわねばならなかった。あまりに飛騨行きの遅れることは彼の事情が許さなかったからで。馬につけて来た荷もおろされ、集まって来る子供の前に旅の土産(みやげ)も取り出され、長い留守中の話や東京の方のうわさがそこへ始まると、早くも予定の日取りを聞きつけた村の衆が無事で帰って来た半蔵を見にあとからあとからと詰めかけて来る。松本以来の訓導小倉啓助は神坂村小学校の報告を持って、馬籠町内の旧組頭|笹屋庄助(ささやしょうすけ)はその後の山林事件の成り行きと村方養蚕奨励の話なぞを持って、荒町(あらまち)の禰宜(ねぎ)松下千里は村社|諏訪社(すわしゃ)の祭礼復興の話を持ってというふうに。
わずか三日ばかりの半蔵が帰宅は家のものにとっても実にあわただしかった。炉の火を大きな十能(じゅうのう)に取って寛(くつろ)ぎの間(ま)へ運び、山家らしい炬燵(こたつ)に夫のからだをあたためさせながら、木曾福島の植松家からあった娘お粂の縁談を語り出すのはお民だ。そこへ手のついた古風な煙草盆(たばこぼん)をさげて来て、ふるさとにあるものがこのままの留守居を続けることはいかにも心もとないと言い出すのはおまんだ。宗太もまだ十八歳の若者ではあるが、村では評判の親孝行者であり、半蔵の従兄(いとこ)に当たる栄吉にその後見をさせ、旧本陣時代からの番頭格清助にも手伝わせたら、青山の家がやれないことはあるまい、半蔵の水無神社宮司として赴任するのを機会にこの際よろしく家督を跡目相続の宗太に譲り、それから自分の思うところをなせ――そう言うおまんは髪こそ白さを加えたが、そこへ手をついて頭を上げ得ないでいる半蔵を前に置いて、この英断に出た。たとい城を枕(まくら)に討死(うちじ)にするような日が来ても旧本陣の格はくずしたくないと言いたげな継母の口から、日ごろの経済のうとさを一々指摘された時は、まったく半蔵も返す言葉がなかった。
今度の帰国の日は、半蔵が自分の生涯(しょうがい)の中でもおそらく忘れることのできなかろうと思った日である。彼が四十四歳で隠居の身となることを決心したのもその間であった。これは先代の吉左衛門が六十四歳まで馬籠の宿役人を勤め、それから家督を譲って、隠居したのに比べると二十年早い。また、先々代半六が六十六歳のおりの引退に比べると二十二年も早い。
このさみしさ、あわただしさの中で、半蔵はすこしの暇でも見つけるごとに隣家の伏見屋へ走って行った。無事な伊之助の顔を見て、いろいろ世話になった礼を述べ、東京浅草左衛門町までの旅先で届けてもらった金子のことも言い、継母にはまたしかられるかもしれないが亡(な)き吉左衛門が彼にのこして行った本陣林のうちを割(さ)いてその返済方にあてたいと頼んだ。彼の長男があの年齢(とし)のうら若さで、はたしてやり切れるかどうかもおぼつかなくはあるが、お民も付いているし、それに自分はもはや古い青山の家に用のないような人間であるから、継母の言葉に従ったとも告げた。そして彼が伊之助にその話をして家に引き返して来て見ると、長いこと独身で働いていた下男の佐吉があかぎれだらけの大きな手をもみもみ彼の前へ来た。この男も、今度いよいよ長い暇(いとま)を告げ、隣村山口に帰り、嬶(かか)をもらって竈(かまど)を持ちたいと言う。
「旦那(だんな)、お前さまに折り入ってお願いがある。」
「なんだい、佐吉。言って見ろ。」
「お前さまも知ってるとおり、おれには苗字(みょうじ)がない。」
「おゝ、佐吉にはまだ苗字がなかったか。」
「見さっせれ。皆と同じように、おれもその苗字がほしいわなし。お前さまのような人にそれをつけてもらえたら、おれもこうして長く御奉公したかいがあるで。」
この男の言うようにすると、自分の姓はどんなものでもいい。半蔵の方で思ったようにつけてくれれば、それでいい。多くの無筆なものと同じように、この男の親も手の荒れる畠(はたけ)仕事に追われ通して、何一つ書いたものがあとに残っていない。小使い帳一冊残っていない。家に伝わるはっきりした系図というようなものもない。黙って働いて、黙って死んで行った仲間だ。ついては、格別やかましい姓を名乗りたいではないが、自分の代から始めることであるから、何か自分に縁故のあるものをほしい。日ごろ本陣の北に当たる松林で働いて来た縁故から、北林の苗字はどうあろうかと言い出したので、半蔵は求めらるるままに北林佐吉としてやった。山口へ帰ったら早速(さっそく)その旨(むね)を村役場へ届けいでよとも勧めた。この男には半蔵は家に伝わる田地を分け、下男奉公のかたわら耕させ、それを給金の代わりに当ててあった。女ぎらいかと言われたほどの変わり者で、夜遊びなぞには目もくれず、昼は木小屋、夜は母屋(もや)の囲炉裏ばたをおのれの働く場所として、主人らの食膳(しょくぜん)に上る野菜という野菜は皆この男の手造りにして来たものであった。
青山氏系図、木曾谷中御免荷物材木通用帳、御年貢(おねんぐ)皆済目録、馬籠宿駅印鑑、田畑家屋敷|反別帳(たんべつちょう)、その他、青山の家に伝わる古い書類から、遠い先祖の記念として残った二本の鎗(やり)、相州三浦にある山上家から贈られた家宝の軸――一切それらのものの引き渡しの時も迫った。ほとほと半蔵には席の暖まるいとまもない。彼は店座敷の障子のわきにある自分の旧(ふる)い桐(きり)の机の前にすわって見る間もなく、またその座を立って、宗太へ譲るべき帳面の類(たぐい)なぞ取りまとめにかかった。何げなくお粂はその部屋(へや)をのぞきに来て、本陣、問屋、庄屋の三役がしきりに廃された当時のことを思い出し顔であった。家の女衆の中で最も深く瓦解(がかい)の淵(ふち)をのぞいて見たものも、この早熟な娘だ。
「おゝ、お粂か。」
と半蔵は声をかけながら、いっぱいに古い書類のちらかった部屋の内を歩き回っていた。お粂ももはや二十歳の春を迎えている。死をもって自分の運命を争おうとしたほどの娘のところへも、新規な結婚話が、しかも思いがけない木曾福島の植松家の方から進められて来て、不思議な縁の、偶然の力に結ばれて行こうとしている。
「お父(とっ)さん。やっとわたしも決心がつきました。」
お粂はそれを言って見せたぎり、堅く緋(ひ)ぢりめんの半襟(はんえり)をかき合わせ、あだかも一昨年(おととし)の古疵(ふるきず)の痕(あと)をおおうかのようにして、店座敷から西の廊下へ通う薄暗い板敷きの方へ行って隠れた。
三日過ぎには半蔵は中津川まで動いた。この飛騨行きに彼は妻を同伴したいと思わないではなく、今すぐにと言わないまでも、先へ行って落ち着いたら妻を呼び迎えたいと思わないではなかったが、どうしてお民というものが宗太の背後(うしろ)にいなかったら、馬籠の家は立ち行きそうもなかった。下男佐吉も今度は別れを惜しんで、せめて飛騨の宮村までは彼の供をしたいと言い出したが、それも連れずであった。旅の荷物は馬につけ、出入りの百姓兼吉に引かせ、新茶屋の村はずれから馬籠の地にも別れて、信濃(しなの)と美濃(みの)の国境(くにざかい)にあたる十曲峠(じっきょくとうげ)の雪道を下って来た。
中津川では、半蔵は東京の平田|鉄胤(かねたね)老先生や同門の医者金丸恭順などの話を持って、その町に住む二人(ふたり)の旧友を訪(たず)ねた。長く病床にある香蔵は惜しいことにもはや再び起(た)てそうもない。景蔵はずっと沈黙をまもる人であるが、しかしあって見ると、相変わらずの景蔵であった。
険しい前途の思いは半蔵の胸に満ちて来た。彼は宮村まで供をするという兼吉を見て、ともかくも馬で行かれるところまで行き、それから先は牛の背に荷物をつけ替えようと語り合った。というのは、岩石のそそり立つ山坂を平地と同じように踏めるのは、牛のような短く勁(つよ)い脚(あし)をもったものに限ると聞くからであった。雪をついて飛騨の山の方へ落ちて行く前に、半蔵は中津川旧本陣にあたる景蔵の家の部屋を借り、馬籠の伏見屋あてに次ぎのような意味の手紙を残した。
「小竹伊之助君――しばらくのお別れにこれを書く。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えて、高地の方に住む人々に、満足するような道を伝えたいため、馬籠をあとにして中津川まで来た。飛騨の人々が首を長くして自分の往(い)くのを待ちわびているような気がしてならない。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない。あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいと思う。東京の旅以来、格別お世話になったことは、心から感謝する。ただお粂のことは、今後も何卒(なにとぞ)お力添えあるようお願いする。いよいよ娘の縁づいて行くまでに話が進んだら、そのおりは自分も一度帰村する心組みであるが、これが自分の残して行く唯一のお願いである。自分は今、すこぶる元気でいる。心も平素よりおちついているような気がする。君も御無事に。」 
第十三章

 


四年あまり過ぎた。東京から東山道経由で木曾を西へ下って来て、馬籠(まごめ)の旅籠屋(はたごや)三浦屋の前で馬を停(と)めた英国人がある。夫人同伴で、食料から簡単な寝具食器の類(たぐい)まで携えて来ている。一人(ひとり)の通弁と、そこへ来て大きなトランクの荷をおろす供の料理人をも連れている。
この英国人は明治六年に渡来したグレゴリイ・ホルサムというもので、鉄道建築師として日本政府に雇われ、前の建築師長エングランドのあとを承(う)けて当時新橋横浜間の鉄道を主管する人である。明治の七年から十年あたりへかけてはこの国も多事で、佐賀の変に、征台の役に、西南戦争に、政府の支出もおびただしく、鉄道建築のごときはなかなか最初の意気込みどおりに進行しなかった。東京と京都の間をつなぐ幹線の計画すら、東海道を採るべきか、または東山道をえらぶべきかについても、政府の方針はまだ定まらなかった時である。種々(さまざま)な事情に余儀なくされて、各地の測量も休止したままになっているところすらある。当時の鉄道と言えば、支線として早く完成せられた東京横浜間を除いては、神戸(こうべ)京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都|大津(おおつ)間を数えるに過ぎなかった。ホルサムはこの閑散な時を利用し、しばらくの休暇を請い、横浜方面の鉄道管理を分担する副役に自分の代理を頼んで置いて、西の神戸京都間を主管する同国人の建築師長を訪(たず)ねるために、内地を旅する機会をとらえたのであった。
木曾路(きそじ)は明治十二年の初夏を迎えたころで、ホルサムのような内地の旅に慣れないものにとっても快い季節であった。ただこの旧(ふる)い街道筋を通過した西洋人もこれまでごくまれであったために、異国の風俗はとかく山家の人たちの目をひきやすくて、その点にかけては旅の煩(わずら)いとなることも多かった。これほど万国交際の時勢になっても、木曾あたりにはまだ婦人同伴の西洋人というものを初めて見るという人もある。それ異人の夫婦が来たと言って、ぞろぞろついて来る村の子供らはホルサムが行く先にあった。この彼が馬籠の旅籠屋の前で馬からおりて、ここは木曾路の西のはずれに当たると聞き、信濃と美濃の国境にも近いと聞き、眺(なが)めをほしいままにするために双眼鏡なぞを取り出して、恵那山(えなさん)の裾野(すその)の方にひらけた高原を望もうとした時は、顔をのぞきに来るもの、うわさし合うもの、異国の風俗をめずらしがるもの、周囲は目を円(まる)くしたおとなや子供でとりまかれてしまった。あまりのうるささに、彼は街道風な出格子(でごうし)の二階の見える旅籠屋の入り口をさして逃げ込んだくらいだ。
ホルサムが思い立って来た内地の旅は、ただの観光のためばかりではなかった。彼が日本に渡来した時は、すでに先着の同国人ヴィカアス・ボイルがあって、建築師首長として日本政府の依頼をうけ、この国鉄道の基礎計画を立てたことを知った。そのボイルが二回にもわたって東山道を踏査したのは、明治も七年五月と八年九月との早いころであった。ホルサムが今度の思い立ちはその先着の英国人が測量した跡を視察して、他日の参考にそなえたいためであった。さてこそ、三留野(みどの)泊まり、妻籠(つまご)昼食、それからこの馬籠泊まりのゆっくりした旅となったのである。
もともとこの国の鉄道敷設を勧誘したのは極東をめがけて来たヨーロッパ人仲間で、彼らがそこに目をつけたのも早く開国以前に当たる。江戸横浜間の鉄道建築を請願し来たるもの、鉄道敷設の免許権を得ようとするもの、測量方や建築方の採用を求めたり材料器具の売り込みに応じようとしたりするもの、いったん幕府時代に免許した敷設の権利を新政府において取り消すとは何事ぞと抗議し来たるもの、これらの外国人の続出はいかに彼ら自身が互いに激しい競争者であったかを語っている。そのうちに英国公使パアクスのような人があって、明治二年の東北および九州地方の飢饉(ききん)の例を引き、これを救うためにも鉄道敷設の急務であることをのべたところから、政府もその勧告に力を得て鉄道起業の議を決したのであった。たまたまわが政府のため鉄道に要する資金を提供しようという英国の有力者なぞがそこへあらわれて来て、いよいよこの機運を押し進めた。英国の鉄道建築師らが相前後してこの国に渡来するようになったのも不思議ではない。
当時、この国では初めて二隻の新艦を製し、清輝(せいき)、筑波(つくば)と名づけ、明治十二年の春にその処女航海を試みて大変な評判を取ったころである。なにしろ、大洋の航海術を伝習してからまだ二十年も出ないのに、自国人の手をもって船を造り、自国の航海者をもってこれを運用し、日本人のいまだかつて知らなかった地方を訪れ、これまで日本人を見たこともない者の目にこれを示し得たと言って、この国のものはいずれも大いに意を強くしたほどの時である。海の方面すらこのとおりだ。まだ創業の際にある鉄道の計画なぞは一切の技術をヨーロッパから習得しなければならなかった。幸いこの国に傭聘(ようへい)せられて来た最初の鉄道技術者にはエドモンド・モレルのような英国人があって、この人は組織の才をもつばかりでなく、言うことも時務に適し、日本は将来ヨーロッパ人の手を仮りないで事を執る準備がなければならない、それには教導局を置き俊秀な少年を養い百般の建築製造に要する技術者を造るに努めねばならないと言うような、遠い先のことまでも考える意見の持ち主であったという。
その後に来たのがボイルだ。この建築師首長はまたモレルの仕事を幾倍にかひろげた。そして日本国内部を通過すべき鉄道線路を計画するのは経国の主眼であって、おもしろい一大事業には相違ないが、また容易でないと言って、その見地から国内に有利な鉄道を敷こうとするについては必ずまずその基本線の道筋を定むべきである、その後の支線は皆これを基として連合せしめることの肝要なのは万国一般の実況で、日本においてもそのとおりであるとの上申書を政府に差し出した。それには鉄道幹線は東山道を適当とするの意見を立てたのも、またこのボイルである。その理由とするところは、東海道は全国最良の地であって、海浜に接近し、水運の便がある、これに反して東山道は道路も嶮悪(けんあく)に、運輸も不便であるから、ここに鉄道を敷設するなら産物運送と山国開拓の一端となるばかりでなく、東西両京および南北両海の交通を容易ならしめるであろうということであった。ボイルが測量隊を率いて二回にもわたり東山道を踏査し、早くも東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線の基礎計画を立て、その測量に関する結果を政府に報告し、東山道線および尾張線(おわりせん)の径路、建築方法、建築用材および人夫、運輸、地質検査、運賃計算等を明細にあげ示したのも、この趣意にもとづく。
今度のホルサムが内地の旅は、大体においてこの先着の英国人が測量標|杭(ぐい)を残したところであった。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので、松本加納間を百二十五マイルと算してある。それには松本から、洗馬(せば)、奈良井(ならい)を経て、鳥居峠の南方に隧道(トンネル)を穿(うが)つの方針で、藪原(やぶはら)の裏側にあたる山麓(さんろく)のところで鉄道線は隧道より現われることになる。それから追い追いと木曾川の畔(ほとり)に近づき、藪原と宮(みや)の越(こし)駅の間でその岸に移り、徳音寺村に出、さらに岸に沿うて木曾福島、上松(あげまつ)、須原(すはら)、野尻(のじり)、および三留野(みどの)駅を通り、また田立村(ただちむら)を過ぎて界(さかい)の川で美濃の国の方にはいる方針である。
木曾路にはいって見たホルサムはいたるところの谷の美しさに驚き、また、あのボイルがいかに冷静な意志と組織的な頭脳とをもってこの大きな森林地帯をよく観察したかをも知った。ボイルの書き残したものによると、奈良井と藪原の間に存在する鳥居峠一帯の山脈は日本の西北ならびに東南の両海浜に流出する流水を分界するものだと言ってある。またこの近傍において地質の急に変革したところもある、すなわちその北方|犀川(さいがわ)筋の地方はおもに破砕した翠増(すいぞう)岩石から成り立っていて、そしてその南方木曾川の谷は数マイルの間おもに大口火性石の谷側に連なるのを見るし、また、河底は一面に大きな塊(かたまり)の丸石でおおわれていると言ってある。木曾川は藪原辺ではただの小さな流れであるが、木曾福島の近くに至って御嶽山(おんたけさん)から流れ出るいちじるしい水流とその他の支流とを合併して、急に水量を増し、東山道太田駅からおよそ九マイルを隔てた上流にある錦織村(にしこうりむら)に至って、はじめて海浜往復の舟絡を開くと言ってある。御嶽山より流れ出る川(王滝川(おうたきがわ))においては、冬の季節に当たって数多(あまた)の材木を伐(き)り出す作業というものがある、それはおもに檜(ひのき)、杉(すぎ)、栂(つが)、および松の種類であるが、それらの材木を河中に投げ入れ、それから木曾川の岩石のとがり立った河底を洪水(こうずい)の勢力によって押し下し、これを錦織村において集合する、そこで筏(いかだ)に組んで、それから尾州湾に送り出すとも言ってある。ボイルの観察はそれだけにとどまらない。この川の上流においては槻材(つきざい)もまたたくさんに産出するが、それが重量であって水運の便もきかず、また陸送するにはその費用の莫大(ばくだい)なために、かつてこれを輸出することがないと言って、もし東山道幹線の計画が実現されるなら、この山国開発の将来に驚くべきものがあろうことをも暗示してある。
馬籠まで来て、ホルサムはこれらのことを胸にまとめて見た。隣村の妻籠からこの馬籠峠あたりはボイルが設計の内にははいっていない。それは山丘の多い地勢であるために、三留野駅から木曾川の対岸に鉄道線を移すがいいとのボイルの意見によるものであった。それにしてもこの計画は大きい。内部地方の開発をめがけ、都会と海浜との往復を便宜ならしめるの主意で、ことさら国内一般の利益を図ろうとするところから来ている。いずれは鉄道線通過のはじめにありがちな、頑固(がんこ)な反対説と、自然その築造を妨げようとする手合いの輩出することをも覚悟せねばならなかった。山家の旅籠屋らしい三浦屋の一室で、ホルサムはそんなことを考えて、来たるべき交通の一大変革がどんな盛衰をこの美しい谷々に持ち来たすであろうかと想像した。 

翌朝ホルサムの一行は三浦屋を立って、西の美濃路をさして視察に向かって行った。この旧(ふる)い街道筋と運命を共にする土地の人たちはまだ何も知らない。将来の交通計画について政府がどんな意向であるやも知らない。まして、開国の結果がここまで来たとは知りようもない。あの宿駕籠(しゅくかご)二十五|挺(ちょう)、山駕籠五挺、駕籠|桐油(とうゆ)二十五枚、馬桐油二十五枚、駕籠|蒲団(ぶとん)小五十枚、中二十枚、提灯(ちょうちん)十|張(はり)と言ったはもはや宿場全盛の昔のことで、伝馬所にかわる中牛馬会社の事業も過渡期の現象たるにとどまり、将来この東山道を変えるものが各自の生活にまで浸って来ようとはなおなお知りようもない。
伏見屋の伊之助は自宅の方に病んでいた。彼は、馬籠泊まりで通り過ぎて行った英国人のうわさを聞きながら、二十余年の街道生活を床の上に思い出すような人であった。馬籠の年寄役、兼問屋後見として、彼が街道の世話をしたのも一昔以前のことになった。彼の知っている狭い範囲から言っても、嘉永(かえい)年代以来、黒船の到着は海岸防備の必要となり、海岸防備の必要は徳川幕府および諸藩の経費節約となり、その経費節約は参覲交代(さんきんこうたい)制度の廃止となり、参覲交代制度の廃止はまたこれまですでに東山道を変えてしまった。
もはや明治のはじめをも御一新とは呼ばないで、多くのものがそれを明治維新と呼ぶようになった。ひとり馬籠峠の上にかぎらず、この街道筋に働いた人たちのことに想(おも)いいたると、彼伊之助には心に驚かれることばかりであった。事実、町人と百姓とを兼ねたような街道人の心理は他から想像さるるほど単純なものではない。長い武家の奉公を忍び、腮(あご)で使われる器械のような生活に屈伏して来たほどのものは、一人(ひとり)として新時代の楽しかれと願わぬはなかろう。宿場の廃止、本陣の廃止、問屋の廃止、御伝馬の廃止、宿人足の廃止、それから七里飛脚の廃止のあとにおいて、実際彼らが経験するものははたして何であったろうか。激しい神経衰弱にかかるものがある。強度に精神の沮喪(そそう)するものがある。種々(さまざま)な病を煩(わずら)うものがある。突然の死に襲われるものがある、驚かれることばかりであった。これはそもそも、長い街道生活の結果か。内には崩(くず)れ行く封建制度があり、外には東漸するヨーロッパ人の勢力があり、かくのごとき社会の大変態は、開闢(かいびゃく)以来いまだかつてないことだと言わるるほどの急激な渦(うず)の中にあった証拠なのか。張り詰めた神経と、肉身との過労によるのか。いずれとも、彼には言って見ることができない。過去を振り返ると、まるで夢のような気がするとは、同じ馬籠の宿役人仲間の一人が彼に話したことだ。彼は、その茫然(ぼうぜん)自失したような人の言葉の意味を聞き流せなかったことを覚えている。
これらのことを伊之助がしみじみ語り合いたいと思う人は、なんと言っても青年時代から同じ駅路の記憶につながれている半蔵のほかになかった。あの半蔵のような動揺した精神とも違い、伊之助はなんとかして平常の心でこのむずかしい時を歩みたいと考えつづけて来たもので、それほど二人(ふたり)は正反対な気質でいながら、しかも一番仲がよい。病苦はもとより説くも詮(せん)なきことで、そんなことのために彼も半蔵を見たいとは願わなかったが、もしあの隣人が飛騨(ひだ)から帰っていたなら、気分のよいおりにでも訪(たず)ねて来てもらって、先々代から伏見屋に残った美濃派の俳人らが寄せ書きの軸なりと壁にかけ、八人のものが集まって馬籠風景の八つのながめを思い思いの句と画の中に取り入れてある意匠を一緒にながめながら、この街道のうつりかわりを語り合いたいと思った。そうしたら彼は亡(な)き養父金兵衛のことをもそこへ持ち出すであろう、七十四歳まで生きて三十一番の日記を残した金兵衛の筆は「明治三年九月四日、雨降り、本陣にて吉左衛門どの一周忌、御仏事御興行」のところで止めてあることをも持ち出すであろう、そして「このおれの目の黒いうちは」という顔つきで死ぬまで伊之助の世話を焼いて行ったほどのやかまし屋ではあるが、亡くなったあとになって、何かにつけてあの隠居のことを思い出すところを見ると、やはり人と異なったところがあったと見えると、言って見るであろうと思った。その半蔵は飛騨の水無(みなし)神社宮司として赴任して行ってから、二度ほど馬籠へ顔を見せたぎりだ。一度は娘お粂が木曾福島の植松家へ嫁(とつ)いで行った時。一度は跡目相続の宗太のために飯田(いいだ)から娵女(よめじょ)のお槇(まき)を迎えた時。任期四年あまりにもなるが、半蔵が帰国のほどもまだ判然しない。
伊之助が長煩いの床の敷いてあるところは、先代金兵衛の晩年に持病の痰(たん)で寝たり起きたりしたその同じ二階の部屋(へや)である。山家は柴刈(しばか)りだ田植えだと聞く新緑のころで、たださえ季節に敏感な伊之助にはしきりに友恋しかった。彼は半蔵からもらったおりおりの便(たよ)りまで大切にしていて、病床で読んで見てくれと言って飛騨から送ってよこした旧作新作とりまぜの半蔵が歌稿なぞをも枕(まくら)もとに取り出した。その認(したた)めてある生紙(きがみ)二つ折り横|綴(と)じの帳面からしていかにもその人らしく、紙の色のすこし黄ばんだ中に、どこか楮(かぞ)の青みを見つけるさえ彼にはうれしかった。
ふるさとの世にある人もなき人も夜な夜な夢に見ゆる頃(ころ)かな
秋きぬと虫ぞなくなるふるさとの庭の真萩(まはぎ)も今や咲くらむ
おもひやれ旅のやどりの独(ひと)り寝の朝けの袖(そで)の露のふかさを
あはれとや月もとふらむ草枕(くさまくら)さびしき秋の袖の上の露
独りある旅寝の床になくむしのねさへあはれをそへてけるかな
長き夜をひとりあらむと草枕かけてぞわぶる秋はきにけり
ありし世をかけて思へば夢なれや四十(よそじ)の秋も長くしもあらず
秋の歌。これは飛騨高山中教地にて詠(よ)めるとして、半蔵から寄せた歌稿の中にある。伊之助はこれを読みさして、水無川(みなしがわ)ともいい水無瀬川(みなせがわ)ともいう河原の方に思いをはせ、宮峠のふもとから位山(くらいやま)を望む位置にあるという山里の深さにも思いをはせた。半蔵は水無神社から一町ほど隔てたところにある民家の別宅を借りうけ、食事や洗濯(せんたく)の世話などしてくれる家族の隣りに住み、池を前に、違い棚(だな)、床の間のついた部屋から、毎日宮司のつとめに通(かよ)っているらしい。
「それにしても、この歌のさびしさはどうだ。」
と伊之助はひとり言って見た。
春、夏、秋、冬、恋、雑というふうに分けてある半蔵の歌稿を読んで行くうちに、ことに伊之助が心をひかれたのはその恋歌であった。もっとも、それは飛騨でできたものではないらしいが。
もろともに夢もむすばぬうき世にはふるもくるしき世にこそありけれ
おろかにもおもふ君かなもろともにむすべる夢の世とはしらずて
月をだにもらさぬ雲のおほほしく独りかもあらむ長きこの夜を
今ぞ知る世はうきものとおもひつつあひみぬなかの長き月日を
相おもふこころのかよふ道もがなかたみにふかきほどもしるべく
年月をあひ見ぬはしに中たえておもひながらに遠ざかりぬる
霞(かすみ)たつ春の日数をしのぶれば花さへ色にいでにけるかな
もろともにかざしてましを梅の花うつろふまでにあはぬ君かも
年月の塵(ちり)もつもりぬもろともに夢むすばむとまけし枕(まくら)に
うたたねの夢のあふせをあらたまの年月ながくこひわたるかな
年月のたえて久しき恋路(こいじ)にはわすれ草のみしげりあふめり
この頃(ごろ)は夏野の草のうらぶれて風の音だにきかずもあるかな
たまさかの言の葉草もつまなくにたまるは袖(そで)の露にぞありける
しげりあふ夏山のまにゆく水のかくれてのみやこひわたりなむ
「あなた、そんなにつめていいんですか。」
階下(した)から箱梯子(はこばしご)を登って、二間つづきの二階に寝ている伊之助を見に来たのは、妻のお富(とみ)だ。
「おれか、」と伊之助は答えた。「さっきからおれは半蔵さんの歌に凝ってしまった。こういうもので見ると、実にやさしい人がよく出ているね。」
「あの中津川のお友だちと、半蔵さんとでは、どっちが歌はうまいんでしょう。」
「お前たちはすぐそういうことを言いたがるから困る。すぐに、どっちがうまいかなんて。」
「こりゃ、うっかり口もきけない。」
「だって、まるで行き方の違ったものだよ。別の物だよ。」
「そういうものですかねえ。」
「おれも好きな道だから言うが、半蔵さんの歌は出来不出来がある。そのかわり、どれを見ても真情は打ち出してあるナ。言葉なぞは飾ろうとしない。あの拙(つたな)いところが作者のよいところだね。こう一口にかじりついた梨(なし)のような味が、半蔵さんのものだわい。」
伊之助に言わせると、それが半蔵だ。これらの歌にあらわれたものは、実は深い片思いの一語に尽きる。そしてこれまで長く付き合って見た半蔵のしたこと、言ったこと、考えたことは、すべてその深い片思いでないものはない。あの献扇事件の場合にしても、半蔵の方で思うことはただただ多くの人に誤解された。土地のものなぞはそれを伝え聞いた時は気狂(きちが)いの沙汰(さた)としてしまった。
「まあ、こちらでいくら思っても、人からそれほど思われないのが半蔵さんだね。ごらんな、あれほどの百姓思いでも、百姓からはそう思われない。」
「半蔵さんは、そういう人ですかねえ。」
「ここに便(たよ)りを待つ恋という歌があるよ。隠れてのみやこひわたりなむ、としてあるよ。」
「まあ。」
「あの人はすべてこの調子なんだね。」
伊之助夫婦はこんなふうに語り合った後、半蔵が馬籠に残して置いて行った家族のうわさに移った。石垣(いしがき)一つ界(さかい)にして隣家に留守居する人たちのことは絶えず伊之助の心にかかっていたからで。半蔵の妻お民が峠のお頭(かしら)を供に連れて一度飛騨まで訪(たず)ねて行ったのは、あれは前年の秋九月の下旬あたりに当たる。しばらく飛騨からの便りも絶え、きっと半蔵は病気でもしているに相違ないと言われたころのことだ。馬も通わないという嶮岨(けんそ)な加子母峠(かしもとうげ)を越して、か弱い足で二十余里の深い山道を踏んで行ったことは、夫を思う女の一心なればこそそれができた。よくよくあの旅は骨が折れたと見えて、あとになってお民が風呂(ふろ)でももらいに伏見屋へ通(かよ)って来るおりにはよくその話が出る。久津八幡(くづはちまん)は飛騨の宮村から八里ほど手前にあるところだという。その辺までお民がたどり着いた時、向こうから益田(ましだ)街道をやって来る一人の若者にあった。その若者が近づいて、ちょっとお尋ねしますが、もしやあなたさまは水無神社の宮司さまのところへ行かれる奥さまではありませんか、と声をかけたという。いかにも、そうです、と答えた時のお民は、自分を待ち受けていてくれる夫の仮寓(かぐう)の遠くないことを知り、わざわざ彼女を迎えに来てくれた土地の若者であることをも知った。それはそれは御苦労さま、というお民の言葉をうけて、わしは宮司さまから頼まれて迎えにまいった近所のものでございます、空身(からみ)ですから荷物を持って行きましょう、とその若者が言ってくれる、お民の方ではそれを断わって、主人も待って心配していようから、これからすぐ引き返して、「無事に来よるが」と伝えてください、と答えたとのことである。それからお民は八里ほど進んで、いかにも山深い宮峠のふもとの位置に、東北には木曾の御嶽山の頂(いただき)も遠く望まれるようなところに、うわさにのみ聞く水無川の河原を見つけたという。お民はそう長くも夫のそばにいなかったが、ちょうど飛騨の宮祭りのころであったことが一層彼女の旅を忘れがたいものにしているとか。
「なあ、お富。」とまた伊之助が枕の上で言い出した。「四年は長過ぎたなあ。」
「半蔵さんの飛騨がですか。」
「そうさ。」
「わたしに言わせると、はじめからあのお民さんを連れて行かなかったのは、うそでしたよ。」
「うん、それもあるナ。まあいい加減に切り揚げて、早く馬籠へお帰りなさるがいい。あの半蔵さんが四十代で隠居して、青山の家を子に譲って、それから水無神社の宮司をこころざして行ったと思ってごらん。忘れもしない――あの人がおれのところへ暇乞(いとまご)いに来て、自分はもう古い青山の家に用のないような人間だから、お袋(おまん)の言葉に従ったッて、そう言ったよ。あの時は、お粂さんもまだ植松のお嫁さんに行かない前で、あれほど物を思い詰めるくらいの娘だから、こう顔を伏せて、目の縁(ふち)の紅(あか)く腫(は)れるほど泣きながら、飛騨行きのお父(とっ)さんを見送ったッけが、お粂さんにはその同情があったのだね。あれから半蔵さんが途中の中津川からおれのところへ手紙をよこした。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えるなんて。ああいうところが半蔵さんらしい。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない、あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいなんて書いてよこしたことを覚えている。えらい意気込みさね。なんでも飛騨の方から出て来た人の話には、今度の水無神社の宮司さまのなさるものは、それは弘大な御説教で、この国の歴史のことや神さまのことを村の者に説いて聞かせるうちに、いつでもしまいには自分で泣いておしまいなさる。社殿の方で祝詞(のりと)なぞをあげる時にも、泣いておいでなさることがある。村の若い衆なぞはまた、そんな宮司さまの顔を見ると、子供のようにふき出したくなるそうだ。でも、あの半蔵さんのことを敬神の念につよい人だとは皆思うらしいね。そういう熱心で四年も神主(かんぬし)を勤めたと考えてごらんな、とてもからだが続くもんじゃない。もうお帰りなさるがいい、お帰りなさるがいい――そりゃ平田門人というものはこれまですでになすべきことはなしたのさ、この維新が来るまでにあの人たちが心配したり奔走したりしたことだけでもたくさんだ、だれがなんと言ってもあの骨折りが埋(うず)められるはずもないからナ。」
こんなうわさが尽きなかった。
山里も朴(ほお)、栃(とち)、すいかずらの花のころはすでに過ぎ去り、山百合(やまゆり)にはやや早く、今は藪陰(やぶかげ)などに顔を見せる※[くさかんむり/(楫のつくり+戈)]草(どくだみ)や谷いっぱいに香気をただよわす空木(うつぎ)などの季節になって来ている。木の実で熟するものには青梅、杏(あんず)などある中に、ことに伊之助に時を感じさせるのは、もはや畦塗(あぜぬ)りのできたと聞く田圃(たんぼ)道から幼い子供らの見つけて来る木いちごであった。
お富や子供らのこと考えるたびに、伊之助の腋(わき)の下には冷たいねばりけのある汗がわく。その汗は病と戦おうとする彼の精神(こころ)から出る。隣村山口から薬箱をさげて通(かよ)って来る医者|杏庵(きょうあん)老も多くを語らないから、病勢の進みについては彼は何も知らない。ただ、はっきりとした意識にすこしの変わりもなく、足ることを知り分に安んぜよとの教えを町人の信条とすることにも変わりなく、親しい半蔵と相見うるの日を心頼みにした。もはや日に日に日も長く、それだけまた夜は短い。どうして彼はその夏を越そうと考えて、枕(まくら)もとに置く扇なぞを見るにつけても、明けやすい六月の夜を惜しんだ。 

十月下旬になって、半蔵は飛騨(ひだ)から帰国の旅を急いで来た。彼は四年あまりの一の宮(水無神社)を辞し、神社でつかっていた小使いの忰(せがれ)に当たる六三郎を供に連れ、位山(くらいやま)をもあとに見て飛騨と美濃(みの)の国境(くにざかい)を越して来た。供の男は二十三、四歳の屈強な若者で、飛騨風な背板(せいた)(背子(せいご)ともいう)を背中に負い、その上に行李(こうり)と大風呂敷(おおぶろしき)とを載せていたが、何しろ半蔵の荷物はほとんど書物ばかりで重かったから、けわしい山坂にかかるたびに力を足に入れ、腰を曲(かが)め気味に道を踏んでは彼について来た。木曾(きそ)あたりと同じように、加子母峠(かしもとうげ)は小鳥で名高い。おりから、鶫(つぐみ)のとれる季節で、半蔵は途中の加子母というところでたくさんに鶫を買い、六三郎と共にそれを旅の中食に焼いてもらって食ったが、余りの小鳥まで荷物になって、六三郎の足はよけいに重かった。
美濃と信濃(しなの)の国境に当たる十曲峠へかかるまでに、半蔵らは三晩泊まりもかかった。そこまで帰って来れば、松の並み木の続いた木曾街道を踏んで行くことができる。東美濃の盆地を流れる青い木曾川の川筋を遠く見渡すこともできる。光る木の葉、その葉の色づいて重なり合った影は、半蔵らが行く先にあった。路傍に古い黒ずんだ山石の押し出して来ているのを見つけると、供の六三郎は荷物を背負ったままそこへ腰掛け、額(ひたい)の汗をふいて、しばらく足を休めてはまた半蔵と一緒に歩いた。
「おゝ、半蔵さまが帰って来た。」
その久しぶりの平兵衛の声を半蔵は峠の新茶屋まで行った時に聞きつけた。このお頭(かしら)は、諸講中の下げ札や御休処(おやすみどころ)とした古い看板のかかった茶屋の軒下を出たりはいったりして、そこに彼を出迎えていてくれたのだ。伏見屋金兵衛の記念として残った芭蕉(ばしょう)の句塚(くづか)までが、その木曾路の西の入り口に、旅人の目につく路傍の位置に彼を迎えるように見えている。
伏見屋と言えば、伊之助はその時もはやこの世にいない人であった。半蔵が飛騨の山の方で伊之助の亡(な)くなったのを聞いて来たのはその年の暑いさかりのころに当たる。彼は伏見屋からの通知を受け取って見て、かねて病床にあった伊之助が養生もかなわず、にわかに病勢の募ったための惜しい最期であったことを知った。享年四十五歳。遺骸(いがい)は故人の遺志により神葬にして万福寺境内の墓地に葬る。なお、長男一郎は二代目伊之助を襲名するともその通知にあった。とうとう、半蔵は伊之助の死に目にもあわずじまいだ。馬籠荒町の村社|諏訪(すわ)分社の前まで帰って来た時、彼は無事な帰村を告げに参詣(さんけい)したり、禰宜(ねぎ)松下千里の家へも言葉をかけに立ち寄ったりすることを忘れなかったが、かつて駅路一切の奔走を共にしたあの伊之助が草葉の陰にあるとは、どうしても彼にはまことのように思われもしなかった。
馬籠の仲町近くまで帰ると、彼はもう幾人かの成人した旧(ふる)い教え子にあった。
「お師匠さま。」
と呼んでいち早く彼の姿を見つけながら走り寄る梅屋の三男|益穂(ますほ)があり、伏見屋の三男三郎がある。その辺は仮の戸長役場にも近く、筑摩(ちくま)県と長野県とに分かれた信濃の国の管轄区域を合併して郡県の名までが彼の留守中に改まった。これは馬籠というところかの顔つきで、背中に荷物をつけながら坂になった町を登って来る供の六三郎は、どうかすると彼におくれた。彼は途中で六三郎の追いつくのを待ちうけて、戸長役場の前を往還側に建てられてある標柱のところへ行って一緒に立った。
その高さ九尺ばかり。表面には改正になった郡県の名が筆太に記されてあり、側面にやや小さな文字で東西への里程を旅人に教えているのも、その柱だ。
長野県西筑摩郡|神坂(みさか)村
馬籠の旧(ふる)い宿場も建て直ろうとする最中の時である。二十五人、二十五匹の宿人足と御伝馬とは必ず用意して置くはずの宿場にも、その必要がなくなってからは、一匹の御伝馬につき買い入れ金十八両ほどずつ、一人(ひとり)の宿人足につき手当て七両二分ほどずつ受けて来た人たちも、勢い生活の方法を替えないわけには行かない。伊勢(いせ)へ、津島へ、金毘羅(こんぴら)へ、御嶽(おんたけ)へ、あるいは善光寺への参詣者(さんけいしゃ)の群れは一新講とか真誠講とかの講中を組んで相変わらずこの街道にやって来る。ここを通商路とする中津川方面の商人、飯田(いいだ)行きの塩荷その他を積んだ馬、それらの通行にも変わりはない。しかし旧宿場に衣食して来た御伝馬役や宿人足、ないし馬差(うまざし)、人足差(にんそくざし)の人たちはもはやそれのみにたよれない。目証(めあかし)もとくに土地を去り、雲助もいつのまにか離散して見ると、中牛馬会社の輸送に従事する以外のものは開墾、殖林、耕作、養蚕、その他の道についた。切り畑焼き畑を開いて稗(ひえ)蕎麦(そば)等の雑穀を植えるもの、新田を開いて柴草(しばくさ)を運ぶもの、皆元気いっぱいだ。馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、傾斜の多い地勢で水利の便もすくなく、荒い笹刈(ささが)りには蚋(ぶよ)や藪蚊(やぶか)を防ぐための火繩(ひなわ)を要し、それも恵那山のすその谷間の方へ一里も二里もの山道を踏まねばならないほど骨の折れる土地柄であるが、多くのものはそれすらいとわなかった。宿場の行き詰まりは、かえってこの回生の活気を生んだ。そこへ行くと、新規まき直しの困難はむしろ従来宿役人として上に立った人たち、その分家、その出店(でみせ)なぞの家柄を誇るものの方に多い。というのは、今までの生活ぶりも一様ではなく、心がけもまちまちで、それになんと言っても長い間の旦那衆|気質(かたぎ)から抜け切ることも容易でないからであった。そういう中で、梅屋のように思い切って染め物屋を開業したところもある。旧のごとく街道に沿うた軒先に杉(すぎ)の葉の円(まる)く束にしたものを掛け、それを清酒の看板に代えているのは、二代目伊之助の相続する伏見屋のみである。
半蔵が帰り着いたのはこうしたふるさとだ。彼が飛騨からの若者と共に、変わらずにある青山の家の屋根の下に草鞋(わらじ)の紐(ひも)を解いたのは午後の三時ごろであった。もとより新しい進路を開きたいとの思い立ちからとは言いながら、国を出てからの長い流浪(るろう)、東京での教部省奉職の日から数えると、足掛け六年ぶりで彼も妻子のところへ帰って来ることができた。当主としての長男宗太はようやく二十二歳の若さで、よめのお槇(まき)とてもまだ半分娘のような初々(ういうい)しい年ごろであり、これまでに雛(ひな)の夫婦を助けて長い留守を預かったお民がいくらか老いはしても相変わらずの元気を持ちつづけ、うどんなど打って彼を待ち受けていてくれたと聞いた時は、まず彼も胸が迫った。そのうちに、おまんも杖(つえ)をついて裏二階の方から通(かよ)って来た。いよいよ輝きを加えたこの継母の髪の白さにも彼の頭はさがる。そばへ集まって来た三男の森夫はすでに十一歳、末の和助は八歳にもなる。これにも彼は驚かされた。
帰国後の半蔵はいろいろ応接にいとまがないくらいであった。以前彼の飛騨行きを機会に長の暇乞(いとまご)いを告げて行った下男の佐吉は、かみさんとも別れたと言って、また山口村から帰って来て身を寄せている。旧本陣問屋庄屋時代から長いこと彼の家に通った清助は、と聞くと、今は隣家伏見屋の手伝いにかわって、造り酒屋の番頭格として働くかたわら、事あるごとにお民や宗太の相談相手となりに来てくれるという。村の髪結い直次の娘で、幼い和助が子守時代からずっと奉公に来ているお徳は、これも水仕事にぬれた手を拭(ふ)きふき、台所の流しもとから彼のところへお辞儀に来る。その時は飛騨から供の六三郎も重い荷物を背中からおろし、足を洗って上がった。この飛騨の若者はまた、ひどくくたぶれたらしい足を引きずりながらも家のものに案内されて、青山の昔を語る広い玄関先から、古い鎗(やり)のかかった長押(なげし)、次の間、仲の間、奥の間、諸大名諸公役らが宿場時代に休息したり寝泊まりしたりして行った上段の間までも、めずらしそうに見て回るほど元気づいた。
六三郎はお民に言った。
「奥さま、もうお忘れになったかもしれませんが、あなたさまが飛騨の方へお越しの節に宮司さまに頼まれまして、久津八幡までお迎えに出ました六三郎でございます。」
日の暮れるころから、旧知|親戚(しんせき)のものは半蔵を見に集まって来た。赤々とした炉の火はさかんに燃えた。串差(くしざ)しにして炙(あぶ)る小鳥のにおいは広い囲炉裏ばたにみちあふれたが、その中には半蔵が土産(みやげ)の一つの加子母峠(かしもとうげ)の鶫(つぐみ)もまじっていると知られた。その晩、うどん振舞(ぶるまい)に招かれて来た人たちは半蔵のことを語り合うにも、これまでのように「本陣の旦那(だんな)」と呼ぶものはない。いずれも「お師匠さま」と呼ぶようになった。
「あい、お師匠さまがお帰りだげなで、お好きな山の芋(いも)を掘ってさげて来た。」
尋ねて来る近所の婆(ばあ)さんまでが、その調子だ。やがて客人らは寛(くつろ)ぎの間(ま)に集まって、いろいろなことを半蔵に問い試みた。飛騨の国幣小社水無神社はどのくらいの古さか。神門と拝殿とは諏訪(すわ)の大社ぐらいあるか。御神馬の彫刻はだれの作か。そこには舞殿(まいどの)があり絵馬殿(えまでん)があり回廊があるか。御神木の拗(ねじ)の木とは何百年ぐらいたっているか。一の宮に特殊な神事という鶏毛打(とりげうち)の古楽にはどのくらいの氏子が出て、どんな衣裳(いしょう)をつけて、どんな鉦(かね)と太鼓を打ち鳴らすかの類(たぐい)だ。六三郎はおのが郷里の方のうわさをもれききながら、御相伴(ごしょうばん)のうどんを味わった後、玄関の次の間の炬燵(こたつ)に寝た。
翌朝、飛騨の若者も別れを告げて行った。家に帰って来た半蔵はもはや青山の主人ではない。でも、彼は母屋(もや)の周囲を見て回ることを久しぶりの楽しみにして、思い出の多い旧会所跡の桑畠(くわばたけ)から土蔵の前につづく裏庭の柿(かき)の下へ出た。そこに手ぬぐいをかぶった妻がいた。
「お民、吾家(うち)の周囲(まわり)も変わったなあ。新宅(下隣にある青山の分家、半蔵が異母妹お喜佐の旧居)も貸すことにしたね。変わった人が下隣にできたぞ。あの洒落(しゃれ)ものの婆さんは村の旦那衆を相手に、小料理屋なぞをはじめてるそうじゃないか。」
「お雪婆さんですか。あの人は中津川から越して来ましたよ。」
「だれがああいう人を引ッぱって来たものかなあ。それに、この土地に不似合いな小女(こおんな)なぞも置いてるような話だ。そりゃ目立たないように遊びに行く旦那衆は勝手だが、宗太だっても誘われれば、否(いや)とは言えない。まあ、おれももう隠居の身だ。一切口を出すまいがね、ああいう隣の女が出入りしても、お前は気にならないかい。」
「そんなことを言うだけ、あなたも年を取りましたね。」
お民は快活に笑って、夫の留守中に苦心して築き上げたことの方にその時の立ち話をかえた。過ぐる年月の間、彼女の絶え間なき心づかいは、いかにして夫から預かったこの旧家を安らかに持ちこたえて行こうかということであった。それには一切を手造りにして、茶も自分の家で造り、蚕も自分で飼い、糸も自分で染め、髪につける油まで庭の椿(つばき)の実から自分で絞って、塩と砂糖と藍(あい)よりほかになるべく物を買わない方針を取って来たという。森夫や和助のはく草履(ぞうり)すら、今は下男の夜なべ仕事に家で手造りにしているともいう。これはすでに妻籠(つまご)の旧本陣でも始めている自給自足のやり方で、彼女はその生家(さと)で見て来たことを馬籠の家に応用したのであった。
間もなくお民は古い味噌納屋(みそなや)の方へ夫を連れて行って見せた。その納屋はおまんが住む隠居所のすぐ下に当たる。半蔵から言えば、先々代半六をはじめ、先代吉左衛門が余生を送った裏二階の下でもある。冬季のために野菜を貯(たくわ)えようとする山家らしい営みの光景がそこに開けた。若いよめのお槇(まき)は母屋(もや)から、下女のお徳は井戸ばたから、下男佐吉は木小屋の方から集まって来て、洗いたての芋殻(いもがら)(ずいき)が半蔵の眼前に山と積まれた。梅酢(うめず)と唐辛子(とうがらし)とを入れて漬ける四斗樽(しとだる)もそこへ持ち運ばれた。色も紅(あか)く新鮮な芋殻を樽のなかに並べて塩を振る手つきなぞは、お民も慣れたものだ。
母屋の周囲を一回りして来て、おのれの書斎とも寝部屋ともする店座敷の方へ引き返して行こうとした時、半蔵は妻に言った。
「お民、お前ばかりそう働かしちゃ置かない。」
そう言う彼は、子弟の教育に余生を送ろうとして、この古里に帰って来たことを妻に告げた。彼もいささか感ずるところがあってその決心に至ったのであった。 

飛騨(ひだ)の四年あまりは、半蔵にとって生涯(しょうがい)の旅の中の最も高い峠というべき時であった。在職二年にして彼は飛騨の人たちと共に西南戦争に際会した。遠く戦地から離れた山の上にありながらも、迫り来る戦時の空気と地方の動揺とをも経験した。王政復古以来、「この維新の成就するまでは」とは、心あるものが皆言い合って来たことで、彼のような旧庄屋|風情(ふぜい)でもそのために一切を忍びつづけたようなものである。多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てた時。報いらるるのすくない戸長の職にも甘んじた時。あの郡県政治が始まって木曾谷山林事件のために彼なぞは戸長の職を剥(は)がれる時になっても、まだまだ多くの深い草叢(くさむら)の中にあるものと共に時節の到来を信じ、新しい太陽の輝く時を待ち受けた。やかましい朝鮮問題をめぐって全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰(ぼしん)以来の政府内部に分裂の行なわれたと聞く時になっても、まだそれでも彼なぞは心を許していた。内争の影響するところは、岩倉右大臣の要撃となり、佐賀、熊本(くまもと)の暴動となり、かつては維新の大業をめがけて進んだ桐野利秋(きりのとしあき)らのごとき人物が自ら参加した維新に反して、さらに新政の旗をあげ、強い武力をもってするよりほかに今日を救う道がないとすると聞くようになって、つくづく彼はこの維新の成就さるる日の遠いことを感じた。
西南戦争を引き起こした実際の中心人物の一人(ひとり)とも目すべき桐野利秋とはどんな人であったろう。伝うるところによれば、利秋は陸軍少将として明治六年五月ごろまで熊本鎮台の司令長官であった。熊本鎮台は九州各藩の兵より成り、当時やや一定の法規の下にはあったが、多くは各藩混交のわがまま兵であるところから、その統御もすこぶる困難とされていた。古英雄の風(ふう)ある利秋はまた、区々たる規則をもって兵隊を拘束することを好まない人で、多くは放任し、陸軍省の法規なぞには従わなかった。もとより本省の命令が鎮台兵の間に行なわるべくもない。この桐野流をよろこばない本省では、谷干城(たにたてき)に司令長官を命じ、利秋は干城と位置を換え陸軍裁判長となったことがある。その時の利秋の不平は絶頂に達して、干城に対し山県大輔(やまがたたいふ)をののしった。その言葉に、彼山県は土百姓らを集めて人形を造る、はたして何の益があろうかと。大輔をののしるのはすなわち干城をののしるのであった。元来利秋は農兵を忌みきらって、兵は士族に限るものと考えた人であった。これが干城と利秋との永(なが)の別れであったともいう。全国徴兵の新制度を是認し大阪鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする干城と、その正反対に立った利秋とは、ついに明治十年には互いに兵火の間に相見(あいまみ)ゆる人たちであった。
この戦争は東北戦争よりもっと不幸であった。なぜかなら、これはそのそもそもの起こりにおいて味方同志の戦争であるのだから。体内の血が逆に流れ、総身の毛筋が逆立(さかだ)つような内部の苦しい抗争であるのだから。そして、かつての官武一途も上下一和も徳川幕府を向こうに回しての一途一和であって、いったん共同の敵たる慶喜(よしのぶ)の倒れた上は味方同志の排斥と暗闘もまたやむを得ないとする国内の不一致を世界万国に向かって示したようなものであるから。よもや起(た)つまいと言われた西郷隆盛(さいごうたかもり)のような人までがたって、一万五千人からの血気にはやる子弟と運命を共にするようになった。長州の木戸孝允(きどたかよし)のごとき人はそれを言って、西郷ありてこそ自分らも薩摩(さつま)と合力(ごうりき)し、いささか維新の盛時にも遭遇したものであるのに、と地団駄(じだんだ)を踏んだ。この隆盛の進退はよくよく孝允にも惜しまれたと見えて、人は短所よりむしろ長所で身を誤る、西郷老人もまた長ずるところをもって一朝の憤りに迷い末路を誤るのは実に残念千万であると言ったという。開戦は十年二月|晦日(みそか)であった。薩摩方も予想外に強く、官軍は始終大苦戦で、開戦後四十日の間にわずかに三、四里の進軍と聞いて、孝允なぞはこれを明治の帝(みかど)が中興に大関係ある白骨勝負と見た。そして、今度の隆盛らの動きは無名の暴発であるから、天下の方向も幸いに迷うことはあるまいが、もともと明治維新と言われるものがまるで手品か何かのようにうまくととのったところから、行政の官吏らがすこしも人世の艱苦(かんく)をなめないのにただただその手品のようなところのみをまねて、容易に一本の筆頭で数百年にもわたる人民の生活や慣習を破り去り、功名の一方にのみ注目する時弊は言葉にも尽くせない、天下の人心はまだまだ決して楽しんではいない、このありさまを目撃しては血涙のほかはないと言って、時代を憂い憂い戦時の空気の中に病み倒れて行ったのも孝允であった。
これくらいの艱難がこの国維新の途上に沸いて来るのは当然であったかもしれない。飛騨の辺鄙(へんぴ)な山の中でこの戦争を聞いていた半蔵ごときものでも、西からの戦報を手にするたびに安い心はなかった。戦争が長引けば長引くほど山の中にはいろいろなことを言う者が出て来て、土州因州あたりは旧士族ばかりでなく一般の人々の気受けも薩摩の捷報(しょうほう)をよろこぶ色がある、あだかも長州征伐の時のようだなど言い触らすものさえある。きのうは宵(よい)の空に西郷星が出たとか、きょうは熊本との連絡も絶えて官軍の籠城(ろうじょう)もおぼつかないとか聞くたびに、ただただ彼は地方の人たちと共に心配をわかつのほかはなかった。
試みに、この戦争に参加した陸軍軍人およそ五万二百余人、屯田兵(とんでんへい)六百余、巡査隊一万千余人、軍艦十四隻、海軍兵員およそ二千百余人と想像して見るがいい。もしこれが徳川氏の末のような時代の出来事で、一切が国内かぎりの世の中であるなら、おそらくこの戦争の影響は長州征伐のたぐいではなかったであろう。これほどの出来事も過ぎ去った後になって見れば、維新途上の一小|波瀾(はらん)であったと考えるものもあるほど、押し寄せる世界の波は大きかった。戦争も終わりを告げるころには、西郷隆盛らは皆戦死し、その余波は当時政府の大立者(おおだてもの)たる大久保利通(おおくぼとしみち)の身にまで及んで行った。
この西南戦争が全国統一の機運を導いたことは、せめて不幸中の幸いであった。人民の疾苦、下のものの難渋迷惑はもとより言うまでもない。明治の歴史にもこれほどばかばかしく外聞の悪い事はあるまいと言い、惜しげもなく将軍職を辞し江戸城を投げ出した慶喜に対しても恥ずかしいと言って、昨日の国家の元勲が今日の賊臣とは何の事かと嘆息しながら死んで行った人もある。多くの薩摩|隼人(はやと)らが政府の要路に立つものに詰問の筋があると唱えて、ついに挙兵東上の非常手段に訴えたために、谷干城のごときは決死の敵を熊本城にくいとめ、身をもって先輩西郷氏の軍に当たった。この人にして見たら、敵将らの素志がこの社会の皮相なヨーロッパ化を堰(せ)きとめ、武士道を再興して人心を一新したいと願うところにあったとしても、四民平等の徴兵制度を無視して今さら封建的な旧士族制を回復するとは何事ぞとなし、たとい武力をもって国家の進路を改めようとする百の豪傑が生まれて来るとも、自分らは迷うところなく進もうと言ったであろう。ともあれ、この戦争はいろいろなことを教えた。政府が士族の救済も多く失敗に帰し、戊辰(ぼしん)当時の戦功兵もまた報いらるるところの少なかったために、ついに悲惨な結果を生むに至ったことを教えたのもこの戦争であった。西郷隆盛らは古武士の最後のもののように時代から沈んで行ったが、しかし武の道のゆるがせにすべきでないことを教えたのもこの戦争であった。もし政府が人民の政府であることを反省しないで威と名の一方にのみ注目するなら、その結果は測りがたいものがあろうことを教えたのもまたこの戦争であった。まったく、一時はどんな形勢に陥らないとも知りがたかった。どうやら時勢はあと戻(もど)りし、物情は恟々(きょうきょう)として、半蔵なぞはその間、宮司の職も手につかなかった。
しかし、半蔵が飛騨での経験はこんな西南戦争の空気の中に行き悩んだというばかりではない。
飛騨の位山(くらいやま)は、平安朝の婦人が書き残したものにも「山は位山」とあるように、昔から歌枕(うたまくら)としても知られたところである。大野郡、久具野(くぐの)の郷(さと)が位山のあるところで、この郷は南は美濃の国境へおよそ十六里、北は越中(えっちゅう)の国境へ十八里、東は信濃の国境へ十一里、西は美濃の国境へ十里あまり。まずこの山が飛騨の国の中央の位置にある。古来帝都に奉り、御笏(おんしゃく)の料とした一位(いちい)の木(あららぎ)を産するのでも名高い。この山のふもとに置いて考えるのにふさわしいような人を半蔵は四年あまりの飛騨生活の間に見つけた。もっとも、それは現存の人ではなく、深い足跡をのこして行った故人で、しかもかなりの老年まで生きた一人の翁(おきな)ではあったが。
まだ半蔵は狩野永岳(かのうえいがく)の筆になったというこの翁の画像の前に身を置くような気がしている。この人の建立(こんりゅう)した神社の内部に安置してあった木像のそばにも身を置くような気がしている。彼の胸に描く飛騨の翁とは、いかにも山人(やまびと)らしい風貌(ふうぼう)をそなえ、杉(すぎ)の葉の長くたれ下がったような白い粗(あら)い髯(ひげ)をたくわえ、その広い額や円味(まるみ)のある肉厚(にくあつ)な鼻から光った目まで、言って見れば顔の道具の大きい異相の人物であるが、それでいて口もとはやさしい。臼(うす)のようにどっしりしたところもある。この人が田中|大秀(おおひで)だ。
田中大秀は千種園(ちぐさえん)のあるじといい、晩年の号を荏野(じんや)翁、または荏野老人ともいう。本居宣長の高弟で、宣長の嗣子本居|大平(おおひら)の親しい学友であり、橘曙覧(たちばなあけみ)の師に当たる。その青年時代には尾張熱田の社司|粟田知周(あわたともちか)について歌道を修め、京都に上って冷泉(れいぜい)殿の歌会に列したこともあり、その後しばらく伴蒿蹊(ばんこうけい)に師事したこともあるという閲歴を持つ人である。半蔵がこの人に心をひかれるようになったのは、自分の先師平田篤胤と同時代にこんなに早く古道の真髄に目のさめた人が飛騨あたりの奥山に隠れていたのかと思ったばかりでなく、幾多の古書の校訂をはじめ物語類解釈の模範とも言うべき『竹取翁物語解』のごときよい著述をのこしたと知ったばかりでもなく、あの篤胤大人に見るような熱烈必死な態度で実行に迫って行った生き方とも違って、実にこの人がめずらしい「笑い」の国学者であったからで。
荏野の翁が事蹟(じせき)も多い。飛騨の国内にある古社の頽廃(たいはい)したのを再興したり、自らも荏野神社というものを建ててその神主となり郷民に敬神の念をよび起こすことに努めたりした。あるいは美濃の養老の瀑(たき)の由緒(ゆいしょ)を明らかにした碑を建て、あるいは美濃|垂井清水(たるいしみず)に倭建命(やまとたけるのみこと)の旧蹟を考証して、そこに居寤清水(いさめのしみず)の碑を建て、あるいはまた、継体天皇の御旧居の地を明らかにして、その碑文をえらみ、越前(えちぜん)足羽(あすは)神社の境内に碑を建てたのも、この翁だ。そうした敬神家の大秀はもとより仏法の崇拝とは相いれないのを知りながらも、金胎(こんたい)両部、あるいは神仏同体がこの国人の長い信仰で、人心を導くにはそれもよい方法とされたものか、翁が菩提寺(ぼだいじ)はもちろん、郷里にある寺々の由緒をことごとく調査して仏を大切に取り扱い、頽廃したものは興し、衰微したものは助け、各|檀家(だんか)のものをして祖先の霊を祭る誠意をいたすべきことを覚(さと)らしめた。思いがけないような滑稽(こっけい)がこの老翁の優しい口もとから飛び出す。郷里に盆踊りでもある晩は、にわか芸づくし拝見と出かける。四番盆、結構、随分おもしろく派手にやれやれと言った調子であったらしい。翁のトボケた口ぶりは、ある村の人にあてた手紙の中の文句にもよく残っている。
オドレヤオドレヤ。オドルガ盆ジャ。マケナヨマケナヨ、アスノ夜ハナイゾ。オドレヤオドレヤ。
半蔵が聞きつけたのも、この声だ。かなしみの奥のほほえみ、涙の奥の笑いだ。おそらく新時代に先立つほど早くこの世を歩いて行った人で、その周囲と戦わなかったものはあるまい。そう想(おも)って見ると、翁がかずかずの著書は、いずれも明日のしたくを怠らなかったもので、まだ肩揚げのとれないような郷里の子弟のために縫い残した裄丈(ゆきたけ)の長い着物でないものはない。
田中大秀のごとき先輩の国学者の笑った生涯にすら、よく探れば涙の隠れたものがある。まして後輩の半蔵|風情(ふぜい)だ。水無神社宮司としての彼は、神仏分離の行なわれた直後の時に行き合わせた。人も知るごとく飛騨の高山地方は京都風に寺院の多いところで、神仏|混淆(こんこう)の長い旧習は容易に脱けがたく、神社はまだまだ事実において仏教の一付属たるがごとき観を有し、五、六十年前までは神官と婚姻を結ぶなら地獄(じごく)に堕(お)ちるなど言われて、相応身分の者は神官と婚姻を結ぶことさえ忌み避けるほどの土地柄であった。国幣小社なる水無神社ですら、往時は一の宮八幡とも一の宮大明神とも言い、法師別当らの水無|大菩薩(だいぼさつ)など申して斎(いつ)き奉った両部の跡であった。彼が赴任して行って見たころの神社の内部は、そこの簾(すだれ)のかげにも、ここの祓(はら)い戸(ど)にも、仏教経巻などの置かれた跡でないものはなかった。なんという不思議な教えが長いことこの国人の信仰の的となっていたろう。そこにあったものは、肉体を苦しめる難行苦行と、肉体的なよろこびの崇拝と、その両極端の不思議に結びついたもので、これは明らかに仏教の変遷の歴史を語り、奈良朝以後に唐土(とうど)から伝えられた密教そのものがインド教に影響された証拠だと言った人もある。多くの偶像と、神秘と、そして末の世になればなるほど多い迷信と。一方に易(やす)く行ける浄土の道を説く僧侶(そうりょ)もまた多かったが、それはまた深く入って浅く出る宗祖の熱情を失い、いたずらに弥陀(みだ)の名をとなえ、念仏に夢中になることを教えるようなものばかりで、古代仏教徒の純粋で厳粛な男性的の鍛錬(たんれん)からはすこぶる遠かった。そういうものの支配する世界へ飛び込んで行って、一の宮宮司としての半蔵がどれほどの耳を傾ける里人を集め、どれほどの神性を明らかにし得たろう。愚かに生まれついた彼のようなものでも、神に召され、高地に住む人々に満足するような道を伝えたいと考え、この世にはまだ古(いにしえ)をあらわす道が残っていると考え、それを天の命とも考えて行った彼ではあるが、どうして彼は自ら思うことの十が一をも果たせなかった。維新以来、一切のものの建て直しとはまだまだ名ばかり、朝に晩に彼のたたずみながめた神社の回廊の前には石燈籠(いしどうろう)の立つ斎庭(ゆにわ)がひらけ、よく行った神門のそばには冬青(そよぎ)の赤い実をたれたのが目についたが、薄暗い過去はまだそんなところにも残って、彼の目の前に息づいているように見えた。
四年あまりの旅の末には教部省の方針も移り変わって行った。おそらく祭政一致の行なわれがたいことを知った政府は、諸外国の例なぞに鑑(かんが)みて、政教分離の方針を執るに至ったのであろう。この現状に平らかでない神官は任意辞職を申しいでよとあって、全国大半の諸神官が一大交代も行なわれた。元来高山中教地は筑摩(ちくま)県の管轄区域であったが、たまたまそれが岐阜(ぎふ)県の管轄に改められる時を迎えて見ると、多くの神官は世襲で土着する僧侶とも違い、その境涯(きょうがい)に安穏な日も送れなかった。高山町にある神道事務支局から支給せらるる水無神社神官らが月給の割り当ても心細いものになって行った。半蔵としては、本教を振るい興したいにも資力が足らず、宮司の重任をこうむりながらも事があがらない。しまいには、名のつけようのない寂寞(せきばく)が彼の腰や肩に上るばかりでなく、彼の全身に上って来た。
きのふけふしぐれの雨ともみぢ葉とあらそひふれる山もとの里
こんな歌が宮村の仮寓(かぐう)でできたのも前年の冬のことであり、同じ年の夏には次ぎのようなものもできた。
おのがうたに憂(う)さやなぐさむさみだれの雨の日ぐらし早苗(さなえ)とるなり
梅雨期の農夫を憐(あわれ)む心は、やがて彼自ら憐む心であった。平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとの願いから、彼も細い一筋道をたどって、日ごろの願いとする神の住居(すまい)にまで到(いた)り着いたが、あの木曾の名所図絵にもある園原の里の「帚木(ははきぎ)」のように、彼の求めるものは追っても追っても遠くなるばかり。半生の間、たまりにたまっていたような涙が飛騨の山奥の旅に行って彼のかたくなな胸の底からほとばしり出るように流れて来た。この涙は人を打ち砕く涙である。どうかすると、彼は六三郎親子のものの住居(すまい)の隣にあった仮寓に隠れ、そこの部屋(へや)の畳の上に額を押しつけ、平田門人としての誇りをも打ち砕かれたようになって、いくら泣いても足りないほどの涙をそそいだこともあった。
まだ半蔵は半分旅にあるような気もしていたが、ふと、恵那山の方で鳴る風の音を聞きつけてわれに帰った。十月下旬のことで、恵那山へはすでに雪が来、里にも霜が来ていた。母屋(もや)の西側の廊下の方へ行って望むと、ふるさとの山はまた彼の目にある。過ぐる四年あまり、彼が飛騨の方でながめ暮らして来た位山(くらいやま)は、あの田中|大秀(おおひで)がほめてもほめてもほめ足りないような調子で書いた物の中にも形容してあるように、大きやかではあってもはなはだしく高くなく、嶺(みね)のさまは穏やかでけわしくなく、木立ちもしげり栄えてはあるが、しかも物すごくなかった。実に威あって猛(たけ)からずと言うべき山の容儀(かたち)であるとした飛騨の翁の形容も決してほめ過ぎではなかった。あの位山を見た目で恵那山を見ると、ここにはまた別の山嶽(さんがく)の趣がある。遠く美濃の平野の方へ落ちている大きな傾斜、北側に山の懐(ふところ)をひろげて見せているような高く深い谷、山腹にあたって俗に「鍋(なべ)づる」の名称のある半円状を描いた地形、蕨平(わらびだいら)、霧ヶ原の高原などから、裾野(すその)つづきに重なり合った幾つかの丘の層まで、遠過ぎもせず近過ぎもしない位置からこんなにおもしろくながめられる山麓(さんろく)は、ちょっと他の里にないものであった。木立ちのしげり栄えて、しかも物すごくないという形容は、そのままこの山にもあてはまる。山が曇れば里は晴れ、山が晴れれば里は降るような変化の多い夏のころともちがって、物象の明らかな季節もやって来ている。
「お父(とっ)さん。」
と声をかけて森夫と和助がそこへ飛んで来た。まだ二人(ふたり)とも父のそばへ寄るのは飛騨臭いという顔つきだ。半蔵は子供らの頭をなでながら、
「御覧、恵那山はよい山だねえ。」
と言って見せた。どうしてこの子供らは久しぶりに旅から帰って来た父の心なぞを知りようもない。学校通いの余暇には、兄は山歩きに、木登りに。弟はまた弟で、榎(えのき)の実の落ちた裏の竹藪(たけやぶ)のそばの細道を遊び回るやら、橿鳥(かしどり)の落としてよこす青い斑(ふ)の入った小さな羽なぞを探(さが)し回るやら。ちょうど村の子供の間には桶(おけ)の箍(たが)を回して遊び戯れることが流行(はや)って来たが、森夫も和助もその箍回しに余念のないような頑是(がんぜ)ない年ごろである。
斎(いつき)の道を踏もうとするものとして行き、牙城(ねじろ)と頼むものも破壊されたような人として帰って来た。それが半蔵の幼い子供らのそばに見いだした悄然(しょうぜん)とした自分だ。
「復古の道は絶えて、平田一門すでに破滅した。」
それを考えると、深い悲しみが彼の胸にわき上がる。古代の人に見るようなあの素直な心はもう一度この世に求められないものか、どうかして自分らはあの出発点に帰りたい、もう一度この世を見直したいとは、篤胤没後の門人一同が願いであって、そこから国学者らの一切の運動ともなったのであるが、過ぐる年月の間の種々(さまざま)な苦(にが)い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の付き物であるのか、そのためにかえって維新は成就しがたいのであるか、いずれとも彼には言って見ることはできなかったが、これまで国家のために功労も少なくなかった主要な人物の多くでさえ西南戦争を一期とする長い大争いの舞台の上で、あるいは傷つき、あるいは病み、あるいは自刃し、あるいは無慙(むざん)な非命の最期を遂げた。思わず出るため息と共に、彼は身に徹(こた)えるような冷たい山の空気を胸いっぱいに呼吸した。
亡(な)き伊之助の百か日に当たる日も来た。今さら、人の亡くなった跡ばかり悲しいものはなく、月日の早く過ぐるのも似る物がないと言った昔の人の言葉を取り出すまでもなく、三十日過ぎた四十日過ぎたと半蔵が飛騨の山の方で数えた日もすでに過ぎ去って、いつのまにかその百か日を迎えた。
「お民、人に惜しまれるくらいのものは、早く亡くなるね。おれのようなばかな人間はかえってあとにのこる。」
「あのお富さんもお気の毒ですよ。早くおよめに来て、早く世の中を済ましてしまったなんて、そう言っていましたよ。あの人も、もう後家(ごけ)さんですからねえ――あの女ざかりで。」
こんな言葉を妻とかわした後、半蔵は神祭の古式で行なわれるという上隣への坂になった往還を夢のように踏んだ。
伏見屋へはその日の通知を受けた人たちが、美濃の落合からも中津川からも集まりつつあった。板敷きになった酒店の方から酒の香気(かおり)の通って来る広い囲炉裏ばたのところで、しばらく半蔵は遺族の人たちと共に時を送った。喪(も)にいるお富は半蔵の顔を見るにつけても亡き夫のことを思い出すというふうで、襦袢(じゅばん)の袖口(そでぐち)なぞでしきりに涙をふいていたが、どうして酒も強いと聞くこの人が包み切れないほどの残りの色香を喪服に包んでいる風情(ふぜい)もなかなかにあわれであった。その時、半蔵は二代目伊之助のところへ嫁(とつ)いで来ているお須賀(すが)という若いおよめさんにもあった。伊之助は四人の子をのこしたが、それらの忘れ形見がいずれも父親似である中にも、ことに二代目が色白で面長(おもなが)な俤(おもかげ)をよく伝えていて、起居動作にまであの寛厚な長者の風のあった人をしのばせる。故人が生前に、自分の子供を枕(まくら)もとに呼び集め、次郎は目を煩(わずら)っているからいたし方もないが、三郎とお末とは半蔵を師と頼み、何かと教えを受けて勉強せよ、これからの時世は学問なしにはかなわないと、くれぐれも言いのこしたという話も出た。臨終の日も近かったおりに、あの世へ旅立って帰って来たもののあったためしのないことを思えば、自分とてもこの命が惜しまれると言ったという話も出た。
「あれで、先の旦那(だんな)も、『半蔵さんが帰ればいい、半蔵さんが帰ればいい』と言わっせいて、どのくらいお前さまにあいたがっていたか知れすかなし。」
手伝いに来ている近所の婆さんまでが、それを半蔵に言って見せた。
そのうちに村の旦那衆の顔もそろい、その日の祭りを司(つかさど)る村社|諏訪(すわ)分社の禰宜(ねぎ)松下千里も荒町からやって来た。妻籠(つまご)の寿平次、実蔵(得右衛門の養子)、落合の勝重(かつしげ)、山口の杏庵(きょうあん)老、いずれも半蔵には久しぶりに合わせる顔である。伏見屋の二階はこれらの人々の集まるために用意してあった二間つづきの広い部屋で、中央の唐紙(からかみ)なぞも取りはずしてあり、一方の壁の上には故人が遺愛の軸なぞも掛けてあった。集まって来た客の中に万福寺の松雲和尚(しょううんおしょう)の顔も見える。当日は和尚には宗旨違いでも、伏見屋の先祖たちから受けた恩顧は忘れられないと言って、和尚は和尚だけの回向(えこう)をささげに禅家風な茶色の袈裟(けさ)がけなどで来ているところは、いかにもその人らしい。当日の主人側には、長いこと隣家旧本陣に働いた清助が今は造り酒屋の番頭として、羽織袴(はおりはかま)の改まった顔つきで、二代目を助けながらあちこちの客を取り持っているのも人々の目をひいた。やがて質素な式がはじまり、神酒(みき)、白米、野菜などが型のように故人の霊前に供えられると、禰宜の鳴らす柏手(かしわで)の音は何がなしに半蔵の心をそそった。そこに読まれる千里の祭詞に耳を傾けるうちに、半生を通じてのよい道づれを失った思いが先に立って、その衆人の集まっている中で彼は周囲(あたり)かまわず男泣きに泣いた。 

休息。休息。帰国後の半蔵が願いは何よりもまずその休息よりほかになかった。飛騨生活の形見として残った烏帽子(えぼし)を片づけたり無紋で袖の括(くく)ってある直衣(のうし)なぞを手に取って打ちかえしながめたりするお民と一緒になって見ると、長く別れていたあとの尽きない寝物語はよけいに彼のからだから疲れを引き出すようなものであった。彼は久しぶりに訪(たず)ねたいと思う人も多く、無沙汰(ぶさた)になった家々をもおとずれたく、日ごろ彼の家に出入りする百姓らの住居(すまい)をも見て回りたく、自ら創(はじ)めて立てた敬義学校の後身なる神坂(みさか)村小学校のことも心にかかって、現訓導の職にある小倉啓助の仕事をも助けたいとは思っていたが、一切をあと回しにしてまず休むことにした。万福寺境内に眠っている先祖道斎をはじめ先代吉左衛門の墓、それから伏見屋の金兵衛と伊之助とが新旧の墓なぞの並ぶ墓地の方で感慨の多い時でも送って帰って来ると、彼は自分の部屋の畳の上に倒れて死んだようになっていることもあった。
店座敷の障子のそばに置いてある彼の桐(きり)の机もふるくなった。その部屋は表庭つづきの前栽(せんざい)を前に、押入れ、床の間のついた六畳ほどの広さで、障子の外に見える古い松の枝が塀越(へいご)しに高く街道の方へ延びているのは、それも旧本陣としての特色の一つである。寛(くつろ)ぎの間(ま)を宗太若夫婦に譲ってからは、彼はその部屋に退くともなく退いた形で、客でもあればそこへ通し、夜は末の和助だけをお民と自分とのそばに寝かした。
この半蔵はすでに妻に話したように、子弟の教育に余生を送ろうと決心した人で、それにはまず自分の子供から始めようとしていた。彼が普通の父親以上に森夫や和助の教育に熱心であるのは、いささか飛騨の山の方で感じて来たこともあるからであった。ひどく肩でも凝る晩に、彼は森夫や和助を部屋へ呼びよせてたたかせることを楽しみにするが、それもただはたたかせない。歴代の年号なぞを諳誦(あんしょう)させながらたたかせた。
「その調子、その調子。」
と彼が言うと、二人(ふたり)の子供はかわるがわる父親のうしろに回って、その肩に取りつきながら、
「貞享(じょうきょう)、元禄(げんろく)、宝永(ほうえい)、正徳(しょうとく)……」
お経でもあげるように、子供らはそれをやった。
こうした休息の日を送りながらも、半蔵はその後の木曾地方の人民が山に離れた生活に注意することを忘れなかった。もはや山林にもたよれなくなった人民の中には木曾谷に見切りをつけ、旧(ふる)い宿場をあきらめ、追い追いと離村するものがある。長く住み慣れた墳墓の地も捨て、都会をめがけて運命の開拓をこころざす木曾人もなかなかに多い。そうでないまでも、竹も成長しない奥地の方に住むもので、耕地も少なく、農業も難渋に、山の林にでもすがるよりほかに立つ瀬のないものは勢い盗伐に流れる。中には全村こぞって厳重な山林規則に触れ、毎戸かわるがわる一人ずつの犠牲者を長野裁判所の方へ送り出すことにしているような不幸な村もある。こんなに土地の事情に暗く、生民の期待に添おうとしないで、地租改正のおりにも大いに暴威を振るった筑摩県時代の権中属(ごんちゅうぞく)本山盛徳とはどんな人かなら、その後に下伊那(しもいな)郡の方で涜職(とくしょく)の行為があって終身懲役に処せられ、佐賀の事変後にわずかに特赦の恩典に浴したとのうわさがあるくらいだ。政府は人民の政府ではないかと言いながらも、こんな行政の官吏が下にある間は、いかんともしがたかった。地方の人民がいかによい政治を慕い、良吏を得た時代の幸福な日を忘れないでいるかは、この木曾谷の支配が尾州藩の手から筑摩県の管轄に移るまでの間に民政|権判事(ごんはんじ)として在任した土屋総蔵の名がいまだに人民の口に上るのでもわかる。
この郷里のありさまを見かねて、今一度山林事件のために奔走しようとする木曾谷十六か村(三十三か村の併合による)の総代のものが半蔵の前にあらわれて来た。これは新任の長野県令あてに、木曾谷山地官民有の区別の再調査を請願する趣意で、その請願書を作るための参考に、明治四年十二月と同五年二月との二度にわたって半蔵らの作成した嘆願書、および彼の集めた材料の古書類を借り受けたいとの話が今度の発起者側からあった。もとより彼は王滝の旧戸長遠山五平と前に力をあわせ、互いに寝食を忘れるほどの奔走をつづけ、あちこちの村を訪(たず)ね回って旧戸長らの意見をまとめることに心を砕き、そのために主唱者とにらまれて戸長を免職させられたくらいだから、今度の発起者側からの頼みに異存のあろうはずもなかった。
請願書の草稿はできた。翌明治十三年の二月にはいるころには、各村戸長の意見もまとまって、その草稿の写しが半蔵のもとにも回って来るほどに運んだ。それは十六、七枚からの長い請願書で、木曾谷山地古来の歴史から、維新以来の沿革、今回請願に及ぶまでのことが述べてあるが、筋もよく通り、古来人民の自由になし来たった場所はさらに民有に引き直して明治維新の徳沢に浴するよう寛大の御沙汰(ごさた)をたまわりたいとしたものであった。旧筑摩県の本山盛徳が権中属時代に調査済みの実際を見ると、全山三十八万町歩あまりのうち、その大部分は官有地となり、余すところの民有地はわずかにその十分の一に過ぎなくなった。そのため、困窮のあまり、官林にはいって罪を犯し処刑をこうむるものは明治六、七年以来数えがたく、そのたびに徴せらるる贖罪金(しょくざいきん)もまた驚くべき額に上った。これではどうしても山地の人民が立ち行きかねるから、各村に存在する旧記古書類をもっと精密に再調査ありたいとの意味も認(したた)めてある。この請願書の趣意はいかにも時宜に適したものだとして、半蔵なぞもひどくよろこんだ。
ところが、これには異論が出て、いよいよ県庁へ差し出すまでにはところどころに草稿の訂正が加えられた。半蔵はそれを聞いてその訂正されたものを見たいと思い、宗太を通してさらに発起者側から写しの書類を送ってもらった。
「お父(とっ)さん、この請願書にはだいぶ貼(は)り紙(がみ)がしてありますよ。」
そういう宗太ももはや一人前の若者で、木曾山の前途には関心を持つらしい。半蔵は宗太と一緒にその書類に見入った。享保(きょうほう)検地以来のことを記(しる)したあたりはことに省いてあって、そのかわり原案の草稿にない文句が半蔵の目についた。
彼は宗太に言った。
「ホ、ここにも民有の権を継続してとあるナ。この書類はしばらくおれが借りて置く。よく読んで見る。」
ひとりになってからの半蔵は繰り返しその請願書に目を通した。木曾のような辺鄙(へんぴ)な山の中に住んで、万事がおくれがちな人たちの中にも、いつのまにか世の新しい風潮を受け入れて、こんな山林事件にまで不十分ながらも民有の権利を持ち出すようになったことを想(おも)って見た。これが官尊民卑の旧習に気づいた上のことであるなら、とにもかくにも進歩と言わねばならなかった。最初彼が王滝の遠山五平らを語らい合わせて出発した当時の山林事件は、今のうちに官民協力して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという趣意にもとづいた。というのは、従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、郡県政治の時代となっては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたい、それには享保以前の古(いにしえ)に復したいと願ったからであった。言って見れば、木曾谷の沿革には、およそ三期ある。第一期は享保以前で、山地には御役榑(おやくくれ)すなわち木租を納めさえすればその余は自由に伐木売買を許された時代、人民が山木と共にあった時代である。第二期は享保以後から明治維新に至るまで。この時代に巣山(すやま)、留山(とめやま)、明山(あきやま)の区別ができ、入山(いりやま)伐木を人民の自由に許した明山たりとも五種の禁止木の制を立て、そのかわりに木租の上納は廃された。旧領主と人民との間に紛争の絶えなかった時代、人民がおもな山木に離れた時代である。それでもなお、五木以外の雑木と下草とは人民の自由で、切り畑焼き畑等の開墾もまた自由になし得た証拠は、諸村|山論済口(さんろんすみくち)の古証文、旧尾州領主よりの公認を証すべき山地の古文書、一村また数村の公約と見るべき書類等に残っている。のみならず幕府恩賜の白木六千|駄(だ)は追い追い切り換えの方法をもって代金二百三十一両三分銀十匁五分ずつ毎年谷中へ下げ渡されたことは、維新の際まで続いた。第三期は明治以来、木曾山の大部分は官有地と定められた時代、人民は明山の雑木と下草にも離れた時代である。半蔵らが享保以前の古に復したいとの最初の嘆願は、一部の禁止林を立て置かるるには異存がないから、その他の明山の開放を乞(こ)い、山地住民の義務を堅く約束して今一度山木と共にありたいとの趣意にほかならなかった。もっとも、多年人民の苦痛とする五木の禁止が何のためにあったのか。それほどまでにして尾州藩が木曾山を監視したのはどういう趣意にもとづいたのか。それが当時は十露盤(そろばん)ずくで引き合う山でもなく、結局尾州家の財源にもならなかったとすれば、万一の用材に応ずる森林の保護のためにあったのか。それとも東山道中の特別な要害地域を守る封建組織のためにあったのか。あるいはまた、木曾川下流の大きな氾濫(はんらん)に備えるためにあったのか。そこまでは半蔵らも知るよしがなかった。
明治の御世(みよ)も、西南戦争あたりまでの十年間というものは半蔵には実に混沌(こんとん)として暗かった。あれから社会の空気も一転し、これまで諸方に蜂起(ほうき)しつつあった種々(さまざま)な性質の暴動もしずまり、だれが言うともない標語は彼の耳にも聞こえて来るようになった。この国のものはもっと強くならねばならない、もっと富まねばならないというのがそれだ。言いかえれば、富国と強兵とだ。しかしよく見れば、地方の人心はまだまだ決して楽しんではいない。日ごろ半蔵らの慕い奉る帝(みかど)が新時代の前途を祝福して万民と共に出発したもうたころのことが、また彼の胸に浮かぶ。あの時に帝の誓われた五つのお言葉と、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよと宣せられたその庶民との間には、いつのまにか天(あめ)の磐戸(いわと)にたとえたいものができた。その磐戸は目にも見えず、説き明かすこともできないが、しかし深い草叢(くさむら)の中にあるものはそれを感ずることはできた。それあるがために日の光もあらわれず、大地もほほえまず、君と民とも交わることができなかった。どうして彼がそんな想像を胸に描いて見るかというに、あの東山道軍が江戸をさして街道を進んで来た維新のはじめの際、どんな社会の変革でも人民の支持なしに成(な)し就(と)げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、東山道総督の執事がそのために幾度も布告を発し、堅く民意の尊重を約束したころは、そんな磐戸はまだ存在しなかったからであった。たまたまここに磐戸を開こうとしてあらわれて来た手力男(たぢからお)の命(みこと)にたとえたいような人もあった。その人の徳望と威力とは天下衆人に卓絶するものとも言われた。けれども、磐屋の前の暗さに変わりはない。力だけでは磐戸も開かれなかったのだ。
こんな想像は、飛騨の旅の思い出と共に帰って来る半蔵の夢でしかないが、それほど彼の心はまだ暗かった。幾多の欠陥の社会に伏在すればこそ、天賦人権の新説も頭を持ち上げ、ヨーロッパ人の中に生まれた自由の理も喧伝(けんでん)せられ、民約論のたぐいまで紹介せられて、福沢諭吉(ふくざわゆきち)、板垣退助(いたがきたいすけ)、植木|枝盛(えもり)、馬場|辰猪(たつい)、中江|篤介(とくすけ)らの人たちが思い思いに、あるいは文明の急務を説き、あるいは民権の思想を鼓吹(こすい)し、あるいは国会開設の必要を唱うるに至った。真知なしには権利の説の是非も定めがたく、海の東西にある諸理想の区別をも見きわめがたい。ただただわけもなしに付和雷同する人たちの声は啓蒙(けいもう)の時にはまぬがれがたいことかもしれないが、それが郷里の山林事件にまで響いて来るので、半蔵なぞはハラハラした。物を教える人がめっきり多くなって、しかも学ぶに難い世の中になって来た。良心あるものはその声にきいて道をたどるのほかはなかったのである。
この空気の中だ。今度木曾山を争おうとする人たちに言わせると、
「平田門人は復古を約束しながら、そんな古(いにしえ)はどこにも帰って来ないではないか。」
というにあるらしい。
これには半蔵は返す言葉もない。復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあると言ったあの暮田正香(くれたまさか)の言葉なぞを思い出して彼は暗然とした。ともあれ、県庁あての請願書はすでに差し出されたが、その結果もおぼつかなかった。たとい木曾谷の山林事件そのものがどう推し移ろうとも、旧領主時代からの長い紛争の種がこのままにして置けるはずもないから、自分らの代にできなければ子の代に伝えても、なんらかの良い解決を見いだしたいと彼は切に願った。
その年は木曾地方の人民にとって記念すべき年であった。帝には東山道の御巡幸を仰せ出され、木曾路の御通過は来たる六月下旬の若葉のころと定められたからであった。
この御巡幸は、帝としては地方を巡(めぐ)らせたもう最初の時でもなかったが、これまで信濃(しなの)の国の山々も親しくは叡覧(えいらん)のなかったのに、初めて木曾川の流るるのを御覧になったら、西南戦争当時なぞの御心労は言うまでもなく、時の難さにさまざまのことを思(おぼ)し召されるであろうと、まずそれが半蔵の胸に来る。あの山城(やましろ)の皇居を海に近い武蔵(むさし)の東京に遷(うつ)し、新しい都を建てられた当初の御志(おんこころざし)に変わりなく、従来深い玉簾(ぎょくれん)の内にのみこもらせられた旧習をも打ち破られ、帝自らかく国々に御幸(みゆき)したまい、簡易軽便を本として万民を撫育(ぶいく)せられることは、彼にはありがたかった。封建君主のごときものと聞くヨーロッパの帝王が行なうところとは違って、この国の君道の床(ゆか)しさも彼には想(おも)い当たった。今度の御巡幸について地方官に諭(さと)された趣意も、親しく地方の民情を知(しろ)し召されたいのであって、百般の事務が形容虚飾にわたっては聖旨に戻(もと)るから、厚く人民の迷惑にならないよう取り計らうことが肝要であると仰せられ、道路|橋梁(きょうりょう)等のやむを得ない部分はあるいは補修を加うることがあろうとも、もとより官費に属すべきことで決して人民に難儀をかけまいぞと仰せられ、大臣以下|供奉(ぐぶ)の官員が旅宿はことさらに補修を加うるに及ばず、需要の物品もなるべく有り合わせを用いよと仰せ出されたほどであった。
五月の来るころには、長野県の御用掛りが道路見分に奥筋から出張して来るようになった。馬籠の戸長役場のものはその人を村境まで案内し、絵図の仕立て方なぞを用意することになった。いよいよ御巡幸の御道筋も定まって見ると、馬籠駅御昼食とのことである。西|筑摩(ちくま)の郡長、郡書記も出張して来て、行在所(あんざいしょ)となるべき家は馬籠では旧本陣青山方と指定された。これには半蔵はひどく恐縮し、御駐蹕(ごちゅうひつ)を願いたいのは山々であるが、こんな山家にお迎えするのは恐れ多いとして、当主宗太を通して一応は御辞退する旨(むね)申し上げた。それには脇(わき)本陣|桝田屋(ますだや)方こそ、二代目|惣右衛門(そうえもん)のような名古屋地方にまで知られた町人の残した家のあとであるから、今の住居(すまい)は先年の馬籠の大火に焼けかわったものであるにしても、まだしも屋造りに見どころがあるとも申し上げたが、やはり青山の家の方が古い歴史もあり、西にひらけた眺望(ちょうぼう)のある位置としても木曾にはめずらしく、座敷の外に見える遠近の山々も、ごちそうの一つということになった。半蔵としては、日ごろ慕い奉る帝が木曾路の御巡幸と聞くさえあるに、彼ら親子のものの住居(すまい)にお迎えすることができようなぞとは、まったく夢のようであった。
「お民、妻籠(つまご)の方でも皆目を回しているだろうね。寿平次さんの家じゃどうするか。」
「それがですよ。妻籠のお小休みは実蔵さん(得右衛門養子)の家ときまったそうですよ。」
「やっぱり、そうか。寿平次さんも御遠慮申し上げたと見える。」
半蔵夫婦の言葉だ。
そのうちに、御先発としての山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の一行も到着する。道路の修繕もはじまって、この地方では最初の電信線路建設の工事も施された。御膳水(ごぜんすい)は伏見屋二代目伊之助方の井戸を用うることに決定したなどと聞くにつけても、半蔵はあの亡(な)き旧友を思い出し、もし自分が駅長なり里長なりとして在職していて先代伊之助もまだ達者(たっしゃ)でいてくれたら、共に手を携えて率先奔走するであろうにと残念がった。亡き吉左衛門や金兵衛らと共にあの和宮様(かずのみやさま)御降嫁のおりの御通行を経験した彼は、あれほど街道の混雑を見ようとはもとより思わなかったが、それでも多数にお入り込みの場合を予想し、こんなことで人足や馬が足りようかと案じつづけた。
六月二十四日はすでに上諏訪(かみすわ)御発輿(ごはつよ)の電報の来るころである。その時になると、木曾谷山地の請願事件も、何もかも、この街道の空気の中に埋(うず)め去られたようになった。帝行幸のおうわさがあるのみだった。
この御巡幸の諸準備には、本県より出張した書記官や御用掛りの見分がある上に、御厩(おうまや)課、内匠(たくみ)課の人々も追い追い到着して、御道筋警衛の任に当たる警部や巡査の往来も日に日に多くなった。馬籠でも戸長をはじめとして、それぞれの御用取扱人というものを定めた。だれとだれは調度掛り、だれは御宿掛り、だれは人馬|継立(つぎた)て掛り、だれは御厩掛り、だれは土木掛りというふうに。半蔵は宗太を通して、その役割をしるした帳面を見せてもらうと、旧宿役人の名はほとんどその中に出ている。戊辰(ぼしん)の際に宿役人に進んだ亀屋(かめや)栄吉をはじめ、旧問屋九郎兵衛、旧年寄役|桝田屋小左衛門(ますだやこざえもん)、同役|蓬莱屋(ほうらいや)新助、同じく梅屋五助、旧|組頭(くみがしら)笹屋(ささや)庄助、旧五人組の重立った人々、それに年若ではあるが旧(ふる)い家柄として伏見屋の二代目伊之助からその補助役清助の名まである。しかし、半蔵には何の沙汰(さた)もない。彼も今は隠居の身で、何かにつけてそう口出しもならなかった。ただ宗太が旧本陣の相続者として今度御奉公申し上げるのは、彼にはせめてものなぐさめであった。
御巡幸に先立って、臣民はだれでも詩歌の類を献上することは差し許された。その詠進者は県下だけでもかなりの多数で、中には八十余歳の老人もあり、十一歳ぐらいの少年少女もあると聞こえた。半蔵もまたその中に加わって、心からなる奉祝のまことをわずかに左の一編の長歌に寄せた。
八隅(やすみ)ししわが大君、かむながらおもほし召して、大八洲国(おおやしまくに)の八十国(やそくに)、よりによりに観(み)て巡(めぐ)らし、いちじろき神の社(やしろ)に、幣(ぬさ)まつりをろがみまし、御世御世のみおやの御陵(みはか)、きよまはりをろがみまして、西の海東の山路、かなたこなた巡りましつつ、明(あきら)けく治(おさま)る御世の、今年はも十あまり三とせ、瑞枝(みずえ)さす若葉の夏に、ももしきの大宮人の、人さはに御供(みとも)つかへて、東(ひんがし)の京(みやこ)をたたし、なまよみの甲斐(かい)の国、山梨(やまなし)の県(あがた)を過ぎて、信濃路(しなのじ)に巡りいでまし、諏訪(すわ)のうみを見渡したまひ、松本の深志(ふかし)の里に、大御輿(おおみこし)めぐらしたまひ、真木(まき)立つ木曾のみ山路、岩が根のこごしき道を、かしこくも越えいでますは、古(いにしえ)にたぐひもあらじ。
谷川の川辺の巌(いわお)、かむさぶる木々の叢立(むらだち)、めづらしと見したまはむ、奇(くす)しともめでたまはむ。
我里は木曾の谷の外(と)、名に負ふ神坂(みさか)の村の、嶮(さか)しき里にはあれど、見霽(みはら)しの宜(よろ)しき里、美濃の山|近江(おうみ)の山、はろばろに見えくる里、恵那(えな)の山近く聳(そび)えて、胆吹山(いぶきやま)髣髴(ほのか)にも見ゆ。
ももしきの美濃に往(い)かさば、山をおり国|低(ひ)きかれば、かくばかり遠くは見えじ。しかあらばここの御憩(みいこ)ひ、恒(つね)よりも長くいまさな。
春ならば花さかましを、秋ならば紅葉(もみじ)してむを、花紅葉今は見がてに、常葉木(とこわぎ)も冬木もなべて、緑なる時にしあれば、遠近(おちこち)の畳(たた)なづく山、茂り合ふ八十樹(やそき)の嫩葉(わかば)、あはれとも看(み)したまはな。
かしこくもわが大君、山深き岐岨(きそ)にはあれど、ふたたびもいでましあらな。
あなたふと、わが大君、しまらくも長閑(のど)にいまして、見霽(みは)るかしませ。
反歌
大君の御世とこしへによろづよも南の山と立ち重ねませ
夏山の若葉立ちくぐ霍公鳥(ほととぎす)なれもなのらな君が御幸(みゆき)に
山のまの家居る民の族(やから)まで御幸をろがむことのかしこさ
御順路の日割によると、六月二十六日鳥居峠お野立(のだ)て、藪原(やぶはら)および宮(みや)の越(こし)お小休み、木曾福島御一泊。二十七日|桟(かけはし)お野立て、寝覚(ねざめ)お小休み、三留野(みどの)御一泊。二十八日妻籠お小休み、峠お野立て、それから馬籠御昼食とある。帝が群臣を従えてこの辺鄙(へんぴ)な山里をも歴訪せらるるすずしい光景は、街道を通して手に取るように伝わって来た。輦路(れんろ)も嶮難(けんなん)なるところから木曾路は多く御板輿(おんいたごし)で、近衛(このえ)騎兵に前後を護(まも)られ、供奉(ぐぶ)の同勢の中には伏見|二品宮(にほんのみや)、徳大寺宮内卿(とくだいじくないきょう)、三条|太政(だじょう)大臣、寺島山田らの参議、三浦陸軍中将、その他伊東岩佐らの侍医、池原文学御用掛りなぞの人々があると言わるる。福島の行在所(あんざいしょ)において木曾の産馬を御覧になったことなぞ聞き伝えて、その話を半蔵のところへ持って来るのは伏見屋の三郎と梅屋の益穂(ますほ)とであった。この二人の少年は帰国後の半蔵について漢籍を学びはじめ「お師匠さま、お師匠さま」と言っては慕って来て、物心づく年ごろにも達しているので、何か奥筋の方から聞きつけたうわさでもあると、早速(さっそく)半蔵を見にやって来る。亡(な)き伏見屋の金兵衛にでも言わせたら、それこそ前代未聞の今度の御巡幸には、以前に領主や奉行が通行の際にも人民の土下座した旧(ふる)い慣例は廃せられ、すべて直礼の容(かたち)に改めさせたというようなことまでが二少年の心を動かすに充分であった。
いよいよ馬籠御通行という日が来ると、四、五百人からの人足が朝から詰めて御通輦(ごつうれん)を待ち受けた。半蔵は裏の井戸ばたで水垢離(みずごり)を執り、からだを浄(きよ)め終わって、神前にその日のことを告げた後、家の周囲を見て回ると、高さ一丈ばかりの木札に行在所と記(しる)したのが門前に建ててあり、青竹の垣(かき)も清げにめぐらしてある。
家内一同朝の食事を済ますころには、もう御用掛りの人たちが家へ入り込んで来た。お民は森夫や和助を呼んで羽織袴(はおりはかま)に着かえさせ、内膳(ないぜん)課の料理方へ渡す前にわざわざ西から取り寄せたという鮮魚の皿(さら)に載せたのを子供らにも取り出して見せた。季節がら食膳に上るものと言えば、石斑魚(うぐい)か、たなびらか、それに木ささげ、竹の子、菊豆腐の類(たぐい)であるが、山家にいてはめずらしくもない河魚や新鮮な野菜よりもやはり遠くから来る海のものを差し上げたら、あるいは都の料理方にもよろこばれようかと彼女は考えたのである。
「御覧、これはサヨリというおさかなだよ。禁庭さまに差し上げるんだよ。」
幼い和助なぞは半分夢のように母の言葉を聞いて、その心は国旗や提灯(ちょうちん)を掲げつらねた旧い宿場のにぎやかさや、神坂(みさか)村小学校生徒一同でお出迎えする村はずれの方へ行っていた。
やがて青山の家のものは母屋(もや)の全部を御用掛りに明け渡すべき時が来た。往時、諸大名が通行のおりには、本陣ではそれらの人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与え、供の衆何十人前の膳部の用意をも忘れてはならないばかりでなく、家のものが直接に客人をもてなすことに多くの心づかいをしたもので、それでも供の衆には苦情は多く、弊害百出のありさまであったが、今度は人民に迷惑をかけまいとの御趣意から、ただ部屋部屋をお貸し申すだけで事は足りた。御膳水、御膳米の用意にも、それぞれ御用取扱人があった。半蔵は羽織袴で、準備のできた古い屋根の下をあちこちと見て回った。上段の間は、と見ると、そこは御便殿(ごびんでん)に当てるところで、純白な紙で四方を張り改め、床の間には相州三浦の山上家から贈られた光琳(こうりん)筆の記念の軸がかかった。御次ぎの奥の間は侍従室、仲の間は大臣参議の室というふうで、すべて靴(くつ)でも歩まれるように畳の上には敷き物を敷きつめ、玉座、および見晴らしのある西向きの廊下、玄関などは宮内省よりお持ち越しの調度で鋪設(ほせつ)することにしてあった。どこを内廷課の人たちの部屋に、どこを供進所に、またどこを内膳課の調理場にと思うと、ただただ半蔵は恐縮するばかり。そのうちにお民も改まった顔つきで来て、彼の袖(そで)を引きながら一緒に裏二階の方にこもるべき時の迫ったことを告げた。
継母おまんをはじめ、よめのお槇(まき)、下男佐吉、下女お徳らはいずれも着物を改めて、すでに裏の土蔵の前あたりに集まっていた。そこは井戸の方へ通う細道をへだてて、斜めに裏二階と向かい合った位置にある。土蔵の前に茂る柿(かき)の若葉は今をさかりの生気を呼吸している。その時は、馬籠の村でも各戸供奉の客人を引き受ける茶のしたくにいそがしいころであったが、そういう中でも麗(うるわ)しい龍顔を拝しに東の村はずれをさして出かけるものは多く、山口村からも飯田(いいだ)方面からも入り込んで来るものは街道の両側に群れ集まるころであった。しかし、青山の家のものとしては、とどこおりなく御昼食も済んだと聞くまでは、いつ何時(なんどき)どういう御用がないともかぎらなかったから、いずれも皆その裏二階に近い位置を離れられなかった。その辺から旧本陣の二つの裏木戸の方へかけては巡査も来て立って、静粛に屋後の警備についていた。
過ぐる年、東京|神田橋(かんだばし)外での献扇(けんせん)事件は思いがけないところで半蔵の身に響いて来た。千載一遇とも言うべきこの機会に、村のものはまたまた彼が強い衝動にでも駆られることを恐れるからであった。かつては憂国の過慮から献扇事件までひき起こし、一時は村でもとかくの評判が立った彼のことであるから、どんな粗忽(そこつ)な挙動を繰り返さないものでもあるまいと、ただただわけもなしに気づかうものばかり。先代伊之助が亡(な)くなったあとの馬籠では、その点にかけて彼の真意をくむものもない。村で読み書きのできるものはほとんど彼の弟子(でし)でないものはなく、これまで無知な子供を教え導こうとした彼の熱心を認めないものもなかったから、その人を軽く扱うではないが、しかしこの際の彼は静かに家族と共にいて、陰ながら奉迎の意を表してほしいというのが村のものの希望らしい。古い歴史のあるこの地方のことを供奉の人々にも説き明かすような役割は何一つ彼には振り当てられなかった。その相談もなければ、沙汰(さた)もない。彼は土蔵の前の石垣(いしがき)のそばに柿の花の落ちている方へ行って、ひとりですすり泣きの声をのむこともあった。
恵那山のふもとのことで、もはやお着きを知らせるようなめずらしいラッパの音が遠くから谷の空気に響けて来た。当日一千人分の名物|栗強飯(くりこわめし)をお買い上げになり、随輦(ずいれん)の臣下のものに賜わるしたくのできていたという峠でのお野立ての時もすでに済まされたらしい。半蔵はあの路傍の杉(すぎ)の木立ちの多い街道を進んで来る御先導を想像し、山坂に響く近衛(このえ)騎兵の馬蹄(ばてい)の音を想像し、美しい天皇旗を想像して、長途の旅の御無事を念じながらしばらくそこに立ち尽くした。 

明治十四年の来るころには半蔵も五十一歳の声を聞いた。その年の四月には、青山の家では森夫と和助を東京の方へ送り出したので、にわかに家の内もさみしくなった。
二人(ふたり)の子供は東京に遊学させる、木曾谷でも最も古い家族の一つに数えらるるところから「本陣の子供」と言って自然と村の人の敬うにつけてもとかく人目にあまることが多い、二人とも親の膝下(ひざもと)に置いては将来ろくなことがない、今のうちに先代吉左衛門が残した田畑や本陣林のうちを割(さ)いて二人の教育費にあてる、幸い東京の方には今子供たちの姉の家がある、お粂(くめ)はその夫植松|弓夫(ゆみお)と共に木曾福島を出て東京京橋区|鎗屋町(やりやちょう)というところに家を持っているからその方に二人の幼いものを託する、あのお粂ならきっと弟たちのめんどうを見てくれる、この半蔵の考えが宗太をよろこばせた。子供本位のお民もこれには異存がなく、彼女から離れて行く森夫や和助のために東京の方へ持たせてやる羽織を織り、帯を織った。継母のおまんはおまんで、孫たちが東京へ立つ前日の朝は裏二階から母屋(もや)の囲炉裏ばたへ通って来て、自分の膳(ぜん)の前に二人(ふたり)を並べて置きながら、子供心にわかってもわからなくても青山の家の昔を懇々と語り聞かせた。ひょっとするとこれが孫たちの見納めにでもなるかのように、七十三歳の春を迎えたおまんはしきりに襦袢(じゅばん)の袖(そで)で老いの瞼(まぶた)をおしぬぐっていたが、いよいよ兄弟(きょうだい)の子供が東京への初旅に踏み出すという朝は涙も見せなかった。
当時は旅もまだ容易でなかった。木曾の山の中から東京へ出るには、どうしても峠四つは越さねばならない。宗太も大奮発で、二人の弟の遊学には自ら進んで東京まで連れて行くと言い出したばかりでなく、隣家伏見屋二代目のすぐ下の弟に当たる二郎が目の治療のために同行したいというのをも一緒に引き受けて行った。
子供ながらも二人の兄弟の動きは、そのあとにいろいろなものを残した。兄の森夫は、十三歳にもなってそんな頭をして行ったら東京へ出て笑われると言われ、宗太に手鋏(てばさみ)でジョキジョキ髪を短くしてもらい、そのあとがすこしぐらい虎斑(とらふ)になっても頓着(とんちゃく)なしに出かけるという子供だし、弟の和助も兄たちについて東京の方へ勉強に行かれることを何よりのよろこびにして、お河童頭(かっぱあたま)を振りながら勇んで踏み出すという子供だ。この弟の方はことに幼くて、街道を通る旅の商人からお民が買ってあてがったおもちゃの鞄(かばん)に金米糖(こんぺいとう)を入れ、それをさげるのを楽しみにして行ったほどの年ごろであった。小さな紐(ひも)のついた足袋(たび)。小さな草鞋(わらじ)。その幼いものの旅姿がまだ半蔵夫婦の目にある。下隣のお雪婆さんの家には、兄弟の子供が預けて置いて行ったショクノ(地方によりネッキともいう)が残っているというような話も聞こえて来る。
初代伊之助を見送ったあとのお富ももはや若夫婦を相手の後家であるが、この人は東京行きの二郎を宗太に託してやった関係からも、風呂(ふろ)なぞもらいながら隣家から通(かよ)って来て、よく青山の家に顔を見せる。お富が言うことには、
「そりゃ、まあ、かわいい子には旅をさせろということもありますがね、よくそれでもお民さんがあんなちいさなものを手離す気におなりなすった。なんですか、わたしはオヤゲナイ(いたいたしい)ような気がする。」
囲炉裏ばたにはこんな話が尽きない。やれ竹馬だなんだかだと言って森夫や和助が家の周囲(まわり)を遊び戯れたのも、きのうのことになった。
「でも、妙なものですね。まだわたしは子供がそこいらに遊んでるような気がしますよ。塩の握飯(むすび)をくれとでも言って、今にも屋外(そと)から帰って来るような気がしますよ――わたしはあの塩の握飯の熱いやつを朴葉(ほおば)に包んで、よく子供にくれましたからね。」
寄ると触るとお民はそのうわさだ。
「まだお前はそんなことを言ってるのかい。」
口にこそ半蔵はそう答えたが、その実、この妻を笑えなかった。手離してやった子供はどこにでもいた。夕方にでもなると街道から遠く望まれる恵那山の裾野(すその)の方によく火が燃えて、それが狐火(きつねび)だと村のものは言ったものだが、そんな街道に蝙蝠(こうもり)なぞの飛び回る空の下にも子供がいた。家の裏の木小屋の前から稲荷(いなり)の祠(ほこら)のある方へ通うところには古い池があって、石垣(いしがき)の間には雪の下が毎年のように可憐(かれん)な花をつけるところだが、そんなおとなでもちょっと背の立たないほど深いよどんだ水をたたえた池のほとりにも子供がいた。そればかりではない、子供は彼の部屋(へや)の座蒲団(ざぶとん)の上にもいたし、彼の懐(ふところ)の中にもいた。彼の袂(たもと)の中にもいた。
「この野郎、この野郎。」
と彼が言いかけて、いくら教えても本のきらいな森夫の耳のあたりへ、握りこぶしの一つもくらわせようとすると、いつのまにか本をかかえて逃げ出すような子供は彼の目の前にいた。
「オイ、蝋燭(ろうそく)、蝋燭。」
と彼が注意でもしてやらなければ、たまに夜おそくまで紙をひろげ、燭台(しょくだい)を和助に持たせ、その灯(ほ)かげに和歌の一つも大きく書いて見ようとすると、蝋燭もろともそこへころげかかるほど眠がっているような子供は彼のすぐそばにもいた。
山のものとも海のものともまだわからないような兄弟の子供の前途にも半蔵は多くの望みをかけた。彼は読み書きの好きな和助のために座右の銘ともなるべき格言を選び、心をこめた数|葉(よう)の短冊(たんざく)を書き、それを紙に包んで初旅の餞(はなむけ)ともした。
やよ和助読み書き数へいそしみて心静かに物学びせよ
飛騨にいるころから半蔵はすでにこんな歌を作って子を思うこころを寄せていた。
宗太は弟たちの旅の話を持って無事に東京から帰って来た。一行四人のものが、みさやま峠にかかった時は、さすが山歩きに慣れた子供の足も進みかねたと見え、峠で日が暮れかかったこともあったという。余儀なく彼は和助の帯に手ぬぐいを結びつけ、それで歩けない弟を引きあげたとか。追分(おいわけ)まで行くと、そこにはもう東京行きの乗合馬車があった。彼も初めてその馬車に乗って見た。同乗の客の中にはやはり東京行きの四十格好の婦人もあったが、弟たちを引率した彼に同情して、和助を引き取り、菓子なぞを与えたりしたが、昼夜の旅に疲れた子供はその見知らぬ婦人の膝(ひざ)の上に眠ることもあった。馬車に揺られながら鶏の鳴き声を聞いて行って松井田まで出たころに消防夫|梯子(はしご)乗りの試演にあった時は子供の夢を驚かした。上州(じょうしゅう)を過ぎ、烏川(からすがわ)をも渡った。四月の日の光はいたるところの平野にみちあふれていた。馬車は東京|万世橋(まんせいばし)の広小路(ひろこうじ)まで行って、馬丁が柳並み木のかげのところに馬を停(と)めたが、それがあの大都会の幼いものの目に映る最初の時であった。この道中に、彼は郷里から追分まで子供の足に歩かせ、それからはずっと木曾街道を通しの馬車であったが、それでも東京へはいるまでに七日かかった。植松夫婦は、名古屋生まれの鼻の隆(たか)いお婆さんや都育ちの男の子と共に、京橋|鎗屋町(やりやちょう)の住居(すまい)の方で宗太らを待ち受けていてくれたという。
おまんをはじめ、半蔵夫婦、よめのお槇(まき)らは宗太のまわりを取りまいて、帰り路(みち)にもまた追分までは乗合馬車で来たとめずらしそうに言う顔をながめながら、この子供らの旅の話を聞いた。下隣に住むお雪婆さんまでそれを聞きにやって来た。下男の佐吉と下女のお徳とが二人(ふたり)ともそれを聞きのがすはずもない。お徳は和助のちいさい時分からあの子供を抱いたり背中にのせて子守唄(こもりうた)をきかせたりした長いなじみで、勝手の水仕事をするあかぎれの切れた手を出しては家のものの飯を盛ると、そればかりはあの子供にいやがられた仲だ。毎晩の囲炉裏ばたを夜業(よなべ)の仕事場とする佐吉はまた、百姓らしい大きな手に唾(つば)をつけてゴシゴシと藁(わら)を綯(な)いながら、狸(たぬき)の人を化かした話、畠(はたけ)に出る狢(むじな)の話、おそろしい山犬の話、その他無邪気でおもしろい山の中のお伽噺(とぎばなし)から、畠の中に赤い舌をぶらさげているものは何なぞの謎々(なぞなぞ)を語り聞かせることを楽しみにした子供の友だちだ。
「そう言えば、今度わたしは東京へ行って見て、姉さん(お粂(くめ))の肥(ふと)ったには驚きましたよ。あの姉さんも、いい細君になりましたぜ。」
宗太が思い出したように、そんな話を家のものにして聞かせると、
「ねえ、お母(っか)さん、色の白い人が肥ったのも、わるかありませんね。」
飯田(いいだ)育ちのお槇(まき)もお民のそばにいて言葉を添える。
その晩、半蔵は子供らが上京の模様にやや心を安んじて、お民と共に例の店座敷でおそくまで話した。過ぐる一年ばかりは和助もその部屋(へや)には寝ないで、年老いた祖母と共に提灯(ちょうちん)つけて裏二階の方へ泊まりに行ったことを彼は思い出し、とにもかくにもその末の子までが都会へ遊学する時を迎えたことを思い出し、先代吉左衛門も彼の年になってはよく枕(まくら)もとへ古風な手さげのついた煙草盆(たばこぼん)を引きよせたことなぞを思い出して、お民と二人の寝物語にまで東京の方のうわさで持ち切った。
「お民、お粂が結婚してから、もう何年になろう。植松のお婆さんでおれは思い出した。あの人の連れ合い(植松|菖助(しょうすけ)、木曾福島旧関所番)は、お前、維新間ぎわのごたごたの中でさ、他(よそ)の家中衆から名古屋臭いとにらまれて、あの福島の祭りの晩に斬(き)られた武士さ。世の中も暗かったね。さすがにあのお婆さんは尾州藩でも学問の指南役をする宮谷家から後妻に来たくらいの人だから、自分の旦那(だんな)の首を夜中に拾いに行って、木曾川の水でそれを洗って、風呂敷包(ふろしきづつ)みにして持って帰ったという話がある。植松のお婆さんはそういう人だ。琴もひけば、歌の話もする。あの人を姑(しゅうとめ)に持つんだから、お粂もなかなか気骨(きぼね)が折れようぜ。」
半蔵夫婦のうわさが総領娘のことに落ちて行くころは、やがて夜も深かった。
「ホ、隣の人は返事しなくなった。きょうはお民もくたぶれたと見える。」
と半蔵はひとり言って見て、枕もとの角行燈(かくあんどん)のかげにちょっと妻の寝顔をのぞいた。四十四歳まで彼と生涯をともにして来たこの気さくで働くことの好きな人は、夜の眠りまでなるがままに任せている。いつのまにか安らかな高いびきも聞こえて来る。その声が耳について、よけいに彼は目がさえた。
「酒。」
そんなことを夜中に彼が言い出したところで、答える人もない。眠りがたいあまりに、彼は寝床からはい出して、手燭(てしょく)をとぼしながら囲炉裏ばたの勝手の方へ忍んだ。
二合ばかりの酒、冷たくなった焼き味噌(みそ)、そんなものが勝手口の戸棚(とだな)に残ったのを半蔵は探(さが)し出して、それを店座敷に持ち帰った。彼が火鉢(ひばち)だ炭取りだ鉄瓶(てつびん)だと妻の枕もとを歩き回るたびに、深夜の壁に映るひとりぼっちの影法師は一緒になって動いた。
物を学ばせに子供を上京させたことから、半蔵はいろいろな心持ちを引き出されていた。お民が何も知らずにいる間に、彼は火鉢の火をおこしたり、鉄瓶をかけたりなぞしながら、そのことを考えた。つまり、それは彼自身に物を学びたいと思う心が熱いからであった。あの『勧学篇(かんがくへん)』などを子供に書いてくれて、和助が七つ八つのころから諳誦(あんしょう)させたのも、その半蔵だ。学芸の思慕は彼の天性に近かった。それはまた親譲りと言ってもよかった。彼が平田入門を志した青年の日、父吉左衛門にその望みを打ち明けたところ、父は馬籠の本陣を継ぐべき彼が寝食も忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じながらも、
「お前の学問好きは、そこまで来たか。」
と言って、結局彼の願いをいれてくれたというのも、やはり吉左衛門自身にその心が篤(あつ)かったからであった。かくも学ぶに難い時になって来て、何から何まで西洋の影響を受け、今日の形勢では西洋でなければ夜が明けないとまで言う人間が飛び出す世の中に立っては、彼とても何を自分の子供に学ばせ、自らもまた何を学ぼうと考えずにはいられなかった。どうして国学に心を寄せるほどのものが枕を高くして眠られる時ではないのだ。
先師平田篤胤の遺著『静(しず)の岩屋(いわや)』をあの王滝の宿で読んだ日のことは、また彼の心に帰って来た。あれは文久三年四月のことで、彼が父の病を祷(いの)るための御嶽(おんたけ)参籠(さんろう)を思い立ち、弟子(でし)の勝重(かつしげ)をも伴い、あの山里の中の山里ともいうべきところに身を置いて、さびしくきこえて来る王滝川の夜の河音(かわおと)を耳にした時だった。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎(だかつ)のように憎みきらった人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々(とつくにぐに)より万(よろ)づの事物(ものごと)の我が大御国(おおみくに)に参り来ることは、皇神(すめらみかみ)たちの大御心(おおみこころ)にて、その御神徳の広大なる故(ゆえ)に、善(よ)き悪(あ)しきの選みなく、森羅万象(しんらばんしょう)のことごとく皇国(すめらみくに)に御引寄せあそばさるる趣を能(よ)く考へ弁(わきま)へて、外国(とつくに)より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏(かしこ)きことなれども、是(これ)すなはち大神等(おおみかみたち)の御心掟(みこころおきて)と思い奉られるでござる、」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保(てんぽう)年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物がはいって来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。
言葉もまた重要な交通の機関である。かく万国交際の世の中になって、一切の学術、工芸、政治、教育から軍隊の組織まで西洋に学ばねばならないものの多いこの過渡時代に、まず外国の言葉を習得して、自由に彼と我との事情を通じうるものは、その知識があるだけでも今日の役者として立てられる。今や維新と言い、日進月歩の時と言って、国学にとどまる平田門人ごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得なかった。ただ半蔵としては、たといこの過渡時代がどれほど長く続くとも、これまで大和言葉(やまとことば)のために戦って来た国学諸先輩の骨折りがこのまま水泡(すいほう)に帰するとは彼には考えられもしなかった。いつか先の方には再び国学の役に立つ時が来ると信じないかぎり、彼なぞの立つ瀬はなかったのであった。
先師の書いたものによく引き合いに出る本居宣長の言葉にもいわく、
「吾(われ)にしたがひて物学ばむともがらも、わが後に、又(また)よき考への出(い)で来(きた)らむには、かならずわが説にななづみそ。わがあしき故(ゆえ)を言ひて、よき考へを弘(ひろ)めよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせむとなれば、とにもかくにも道を明らかにせむぞ、吾を用ふるにはありける。道を思はで、いたづらに吾を尊(とうと)まんは、わが心にあらざるぞかし。」
ここにいくらでも国学を新しくすることのできる後進の者の路(みち)がある。物学びするほどのともがらは、そう師の説にのみ拘泥(こうでい)するなと教えてある。道を明らかにすることがすなわち師を用うることだとも教えてある。日に日に新しい道をさらに明らかにせねばならない。そして国学諸先輩の発見した新しい古(いにしえ)をさらに発見して行かねばならない。古を新しくすることは、半蔵らにとっては歴史を新しくすることであった。
そこまで考えて行くうちに、鉄瓶(てつびん)の湯もちんちん音がして来た。その中に徳利(とくり)を差し入れて酒を暖めることもできるほどに沸き立って来た。冷たくなった焼き味噌も炙(あぶ)り直せば、それでも夜の酒のさかなになった。やがて半蔵は好きなものにありついて、だれに遠慮もなく手酌(てじゃく)で盃(はい)を重ねながら、また平田門人の生くべき道を思いつづけた。仮に、もしあの本居宣長のような人がこの明治の御代(みよ)を歩まれるとしたら、かつてシナインドの思想をその砥石(といし)とせられたように、今また新しい「知識」としてこの国にはいって来た西洋思想をもその砥石として、さらに日本的なものを磨(みが)きあげられるであろう。深くも、柔らかくも、新しくもはいって行かれるあの宣長翁が学者としての素質としたら、洋学にはいって行くこともさほどの困難を感ぜられないであろう。おおよそ今の洋学者が説くところは、理に合うということである。あの宣長翁であったら、おそらく理を知り、理を忘れるところまで行って、言挙(ことあ)げということもさらにない自然(おのずから)ながらの古の道を一層明らかにされるであろう。
思いつづけて行くと、半蔵は大きな巌(いわお)のような堅い扉(とびら)に突き当たる。先師篤胤たりとも、西洋の方から起こって来た学風が物の理を考え究(きわ)めるのに賢いことは充分に認めていた。その先師があれほどの博学でも、ついに西洋の学風を受けいれることはできなかった。彼はそう深く学問にもはいれない。これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成しうることで、先師ですらそこへ行くとはたして学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た。まして後輩の彼のようなものだ。彼は五十年の生涯と、努力と、不断の思慕とをもってしても、力にも及ばないこの堅い扉をどうすることもできない。
彼が子弟の教育に余生を送ろうとしているのも、一つはこの生涯の無才無能を感づくからであった。彼は自分の生涯に成し就(と)げ得ないものをあげて、あとから歩いて来るものにその熱いさびしい思いを寄せたいと願った。それにしても、全国四千人を数えた平田篤胤没後の門人の中に、この時代の大波を乗り越えるものはあらわれないのか、と彼は嘆息した。所詮(しょせん)、復古は含蓄で、事物に働きかける実際の力にはならないと聞くのもつらく、ひとりで酒を飲めば飲むほど、かえって彼は寝られなかった。 
第十四章

 


馬籠(まごめ)にある青山のような旧家の屋台骨が揺るぎかけて来たことは、いつのまにか美濃(みの)の落合(おちあい)の方まで知れて行った。その古さから言えば永禄(えいろく)、天正(てんしょう)年代からの長い伝統と正しい系図とが残っていて、馬籠旧本陣と言えば美濃路にまで聞こえた家に、もはやささえきれないほどの強い嵐(あらし)の襲って来たことが、同じ街道筋につながる峠の下へ知られずにいるはずもなかった。馬籠を木曾路の西のはずれとするなら、落合は美濃路の東の入り口に当たる。落合から馬籠までは、朝荷物をつけて国境(くにざかい)の十曲峠(じっきょくとうげ)を越して行く馬が茶漬(ちゃづ)けまでには戻(もど)って来るほどの距離にしかない。
落合に住む稲葉屋(いなばや)の勝重(かつしげ)はすでに明治十七年の三月あたりからその事のあるのを知り、あの半蔵が跡目相続の宗太夫婦とも別居して、一小隠宅の方に移り住むようになった事情をもうすうす知っていた。勝重はかつて半蔵の内弟子(うちでし)として馬籠旧本陣に三年の月日を送ったことを忘れない。明治十九年の春が来るころには、彼も四十歳に近い分別盛りの年ごろの人である。いよいよあの古い歴史のある青山の家も傾いて来て、没落の運命は避けがたいかもしれないということは、彼にとって他事(ひとごと)とも思われなかった。実は彼は他の落合在住者とも語り合い、半蔵の世話になったものだけが集まって、なんらかの方法で師匠を慰めたいと、おりおりその相談もしていた時であった。これまで半蔵の教えを受けた人たちの中で一番末頼もしく思われていたものも勝重である。今は彼も父祖の家業を継いで醤油(しょうゆ)醸造に従事する美濃衆の一人であり、先代儀十郎まで落合の宿役人を勤めた関係からも何かにつけて村方の相談に引き出される多忙な身ではあるが、久しく見ない師匠のこともしきりに心にかかって、他に用事を兼ねながら、にわかに馬籠訪問を思い立った。家を出る時の彼は手にさげられるだけの酒を入れた細長い樽(たる)をもさげていた。かねて大酒のうわさのある師匠のために、陰ながら健康を案じ続けていた彼ではあるが、いざ訪(たず)ねて行こうとして、何か手土産(てみやげ)をと探(さが)す時になると、やっぱり良い酒を持って行って勧めたかった。これは落合の酒だが、馬籠の伏見屋あたりで造る酒と飲みくらべて見てもらいたいとでも言って、それを嗜(たしな)む半蔵のよろこぶ顔が見たいと思いながら彼は出かけた。勝重から見ると、元来本陣といい問屋(といや)といい庄屋(しょうや)といった人たちは祖先以来の習慣によって諸街道交通の要路に当たり、村民の上に立って地方自治の主脳の位置にもあり、もっぱら公共の事業に従って来たために、一家の経済を処理する上には欠点の多かったことは争われない。旧藩士族の人たちのためにはとにもかくにも救済の方法が立てられ、禄券(ろくけん)の恩典というものも定められたが、庄屋本陣問屋は何のうるところもない。明治維新の彼らを遇することは薄かった。今や庄屋の仕事は戸長役場に移り、問屋の仕事は中牛馬会社に変わって、ことに本陣をも兼ねた青山のような家があの往時の武家と公役とのためにあったような大きな屋敷の修繕にすら苦しむようになって来たことは当然の話であった。この際、半蔵の弟子(でし)としては、傾いて行く青山の家運をどうすることもできないが、せめて師匠だけは、そのあわれな境涯(きょうがい)の中にも静かな晩年の日を送ってもらいたいと願うのであった。というのは、飛騨(ひだ)の寂しい旅以来の半蔵の内部(なか)には精神にも肉体にも何かが起こっているに相違ないとは、もっぱら狭い土地での取りざたで、それが勝重の耳にもはいるからであった。
四月上旬の美濃路ともちがい、馬籠峠の上へはまだ春の来ることもおそいような日の午後に、勝重は霜の溶けた道を踏んで行ったのであるが、半蔵の隠宅を訪ねることは彼にとってそれが初めての時でもない。そこは静(しず)の屋(や)と名づけてある二階建ての小楼で、青山の本家からもすこし離れた馬籠の裏側の位置にある。落合方面から馬籠の町にはいるものは、旧本陣の門前まで出ないうちに街道を右に折れ曲がって行くと、共同の水槽(すいそう)の方から奔(はし)って来る細い流れの近くに、その静の屋を見いだすことができる。ちょうど半蔵も隠宅にある時で心ゆくばかり師匠の読書する声が二階から屋外(そと)まで聞こえて来ているところへ勝重は訪ねて行った。入り口の壁の外には張り物板も立てかけてあるが、お民のすがたは見えなかった。しばらく勝重は上(あが)り框(がまち)のところに腰掛けて、読書の声のやむまで待った。その間に彼は師匠が余生を送ろうとする栖家(すみか)の壁、柱なぞにも目をとめて見る時を持った。階下は一部屋と台所としかないような小楼であるが、木材には事を欠かない木曾の山の中のことで木口もがっしりしている上に、すでにほどのいい古びと落ちつきとができて、すべて簡素に住みなしてある。入り口の壁の内側には半蓑(はんみの)のかかっているのも山家らしいようなところだ。やがて半蔵は驚いたように二階から降りて来て勝重を下座敷へ迎え入れた。半蔵ももはや以前のような総髪(そうがみ)を捨てて髪も短かめに、さっぱりと刈っている人である。いつでも勝重が訪ねて来るたびに、同じ顔色と同じ表情とでいたためしのないのも半蔵である。ひどく青ざめた顔をしていることもあれば、また、逆上(のぼ)せたように紅(あか)い顔をしていることもある。その骨格のたくましいところは先代吉左衛門に似て、膝(ひざ)の上に置いた手なぞの大きいことは、対坐(たいざ)するたびに勝重の心を打つ。その日、半蔵はあいにく妻が本家の方へ手伝いに行っている留守の時であると言って見せ、手ずから茶などをいれて旧(ふる)い弟子をもてなそうとした。そこへ勝重が落合からさげて来たものを取り出すと、半蔵は目を円(まる)くして、
「ホウ、勝重さんは酒を下さるか。」
まるで子供のようなよろこび方だ。そう言う半蔵の周囲には、継母はじめ、宗太夫妻から親戚(しんせき)一同まで、隠居は隠居らしく飲みたい酒もつつしめと言うものばかり。わざわざそれをさげて来て、日ごろの愁(うれ)いを忘れよとでも言うような人は、昔を忘れない弟子のほかになかった。
「勝重さん、君の前ですが、この節|吾家(うち)のものは皆で寄ってたかって、わたしに年を取らせるくふうばかりしていますよ。」
「そりゃ、お家の方がお師匠さまのためを思うからでしょうに。」
「しかし、勝重さん、こうしてわたしのように、日がな一日山にむかって黙っていますとね、半生の間のことがだんだん姿を見せて来ましてね、そう静かにばかりしてはいられませんよ。」
半蔵は勝重から何よりのものを贈られたというふうに座を離れて、台所の方へその土産を置きに行ったが、やがてまたニヤニヤ笑いながら勝重のいるところへ戻(もど)って来た。
その静の屋に半蔵が二度目の春を迎えるころは、東京の平田|鉄胤(かねたね)老先生ももはやとっくに故人であった。そればかりではない、彼は中津川の友人香蔵の死をも見送った。追い追いと旧知の亡(な)くなって行くさびしさにつけても、彼は久しぶりの勝重をつかまえて、容易に放そうともしない。他に用事を兼ねて日ごろ無沙汰(ぶさた)のわびばかりに来たという勝重が師匠の顔を見るだけに満足し、落合の酒を置いて行くだけにも満足して、やがて気軽な調子で辞し去ろうとした時、半蔵はその人を屋外(そと)まで追いかけた。それほど彼は人なつかしくばかりあった。
半蔵は勝重に言った。
「そう言えば、勝重さん、文久三年に君と二人(ふたり)で御嶽参籠(おんたけさんろう)に出かけた時さ。あれは、ちょうど今時分じゃありませんか。でも、いい陽気になって来ましたね。この谷へも、鶯(うぐいす)が来るようになりましたよ。」
こんな声を聞いて勝重は師匠のそばから離れて行った。そして、ひとりになってから言った。
「どうして、お師匠さまはまだまだ年寄りの仲間じゃない。」 

静の屋は別に観山楼とも名づけてある。晴れにもよく雨にもよい恵那山(えなさん)に連なり続く山々、古代の旅人が越えて行ったという御坂(みさか)の峠などは東南にそびえて、山の静かさを愛するほどのものは楼にいながらでもそのながめに親しむことができる。緩慢(なだらか)ではあるが、しかし深い谷が楼のすぐ前にひらけていて、半蔵はそこいらを歩き回るには事を欠かなかった。清い水草の目を楽しませるものは行く先にある。日あたりのよい田圃(たんぼ)わきの土手は谷間のいたるところに彼を待っている。その谷底まで下って行けば、土地の人にしか知られていない下坂川(おりさかがわ)のような谿流(けいりゅう)が馬籠の男垂山(おたるやま)方面から音を立てて流れて来ている。さらにすこし遠く行こうとさえ思えば、谷の向こうにある林の中の深さにはいって見ることもでき、あるいは山かげを耕して住む懇意な百姓の一軒家まで歩いてそこに時を送って来ることもできる。もういい加減に、枯れてもいい年ごろだと言われる半蔵が生涯(しょうがい)の奥に見つけたのは、こんな位置にあるところだ。一方は馬籠裏側の細い流れに接して、そこへは鍋(なべ)を洗いに来る村の女もある。鶏の声も遠く近く聞こえて来ている。
もし半蔵があの落合の勝重の言うように余生の送れる人であったら、いかに彼はこの閑居を楽しんだであろう。本家の方のことはもはや彼には言うにも忍びなかった。しかし隠居の身として口出しもならない。世にいう漁(ぎょ)、樵(しょう)、耕(こう)、牧(ぼく)の四隠のうち、彼のはそのいずれでもない。老い衰えて安楽に隠れ栖(す)むつもりのない彼は、寂しく、悲しく、血のわく思いで、ただただ黙然とおのれら一族の運命に対していた。これがついの栖家(すみか)か、と考えて、あたりを見回すたびに、彼は無量の感慨に打たれずにはいられなかった――たとい、お民のような多年連れ添う妻がそばにいて、共に余生を送るとしても。なんと言っても旧(ふる)い馬籠の宿場の跡には彼の少年時代からの記憶が残っている。夕方にでもなると、彼は街道に出て往来(ゆきき)の人にまじりたいと思うような時を迎えることが多かった。
ある日の午後、彼は突然な狂気にとらえられた。まっしぐらに馬籠の裏道を東の村はずれの岩田というところまで走って行って、そこに水車小屋を営む遠縁のものの家へ寄った。硯(すずり)を出させ、墨を磨(す)らせた。紙をひろげて自作の和歌一首を大きく書いて見た。そしてよろこんだ。その彼の姿は、自分ながらも笑止と言うべきであった。そこからまた同じ裏道づたいに、共同の水槽(すいそう)のところに集まる水くみの女どもには、目もくれずに、急いで隠宅へ引き返して来た。
「まあ、きょうはどうなすったか。」
とお民はあきれた。
半蔵に言わせると、彼も不具ではない。不具でない以上、時にはこうした狂気も許さるべきであると。
「これがお前、生きているしるしなのさ。」
半蔵の言い草だ。
梅から山ざくら、山ざくらから紫つつじと、春を急ぐ木曾路(きそじ)の季節もあわただしい。静の屋の周囲にある雑木なぞが遠い谷々の草木と呼吸を合わせるように芽を吹きはじめると、日の色からしてなんとなく違って来るさわやかな明るさが一層半蔵の目には悩ましく映った。彼は二部屋ある二階の六畳の方に古い桐(きり)の机を置いて、青年時代から書きためた自作の『松(まつ)が枝(え)』、それに飛騨(ひだ)時代以来の『常葉集(とこわしゅう)』なぞの整理を思い立った時であるが、それらの歌稿を書き改めているうちに、自分の生涯に成し就(と)げ得ないもののいかに多いかにつくづく想(おも)いいたった。傾きかけた青山の家の運命を見まもるにつけても、いつのまにか彼の心は五人の子の方へ行った。それぞれの道をたどりはじめている五人の姉弟(きょうだい)のことは絶えず彼の心にかかっていたからで。
姉娘のお粂(くめ)がその旦那(だんな)と連れだって馬籠へ訪(たず)ねて来たのは、あれは半蔵らのまだ本家の方に暮らしていた明治十六年の夏に当たる。ちょうどお粂夫婦は東京の京橋区|鎗屋町(やりやちょう)の方にあった世帯(しょたい)を畳(たた)み、半蔵から預かった二人(ふたり)の弟たちをも東京に残して置いて、一家をあげて郷里の方へ引き揚げて来たころのことであったが、夫婦の間に生まれた二番目の女の子を供の男に背負(おぶ)わせながら妻籠(つまご)の方から着いた。お粂は旦那と同年で、年齢の相違したものが知らないような心づかいからか、二十八の年ごろの細君にしては彼女はいくらか若造りに見えた。でも、お粂はお粂らしく、瀟洒(こざっぱり)とした感じを失ってはいなかった。たまの里帰りらしい手土産(てみやげ)をそこへ取り出すにも、祖母のおまんをはじめ宗太夫婦に話しかけるにも、彼女は都会生活の間に慣れて来た言葉づかいと郷里の訛(なま)りとをほどよくまぜてそれをした。背は高く、面長(おもなが)で、風采(ふうさい)の立派なことは先代|菖助(しょうすけ)に似、起居振舞(たちいふるまい)も寛(ゆるや)かな感じのする働き盛りの人が半蔵らの前に来て寛(くつろ)いだ。その人がお粂の旦那だ。その青年時代には同郷の学友から木曾谷第一の才子として許された植松弓夫だ。
弓夫は半蔵のことを呼ぶにも、「お父(とっ)さん」と言い、義理ある弟へ話しかけるにも「宗太君、宗太君」と言って、地方のことが話頭(はなし)に上れば長崎まで英語を修めに行ったずっと年少(としわか)なころの話もするし、名古屋で創立当時の師範学校に学んだころの話もする。弓夫は早く志を立てて郷里の家を飛び出し、都会に運命を開拓しようとしたものの一人(ひとり)であった。これは先代菖助が横死の刺激によることも、その家出の原因の一つであったであろう。弓夫は何もかも早かった。郷党に先んじて文明開化の空気を呼吸することも早かった。年若な訓導として東京の小学校に教えたこともあり、大蔵省の収税吏として官員生活を送ったこともあり、政治に興味を持って改進党に加盟したこともあり、民間に下ってからは植松家伝の処方によって謹製する薬を郷里より取り寄せ、その取次販売の路(みち)をひろげることを思い立ち、一時は東京|池(いけ)の端(はた)の守田宝丹(もりたほうたん)にも対抗するほどの意気込みで、みごとな薬の看板まで造らせたが、結局それも士族の商法に終わり、郷里をさして引き揚げて来ることもまた早かった。かつては木曾福島山村氏の家中の武士として関所を預かる主(おも)な給人であり砲術の指南役ででもあった先代菖助がのこして置いて行った大きな屋敷と、家伝製薬の業とは、郷里の方にその彼を待っていた。しかし、そこに長い留守居を預かって来た士族出の大番頭たちは彼がいきなりの帰参を肯(がえん)じない。毎年福島に立つ毛付け(馬市)のために用意する製薬の心づかいは言うまでもなく、西は美濃(みの)尾張(おわり)から北は越後(えちご)辺まで行商に出て、数十里の路を往復することもいとわずに、植松の薬というものを護(まも)って来たのもその大番頭たちであった。文明開化の今日、武家の内職として先祖の始めた時勢おくれの製薬なぞが明日の役に立とうかと言い、もっと気のきいたことをやって見せると言って家を飛び出して行った弓夫にも、とうとう辛抱強い薬方(くすりかた)の前に兜(かぶと)を脱ぐ時がやって来た。その帰参のかなうまで、当時妻籠の方に家を借りて、そこから吾妻村(あずまむら)小学校へ教えに通(かよ)っているというのも弓夫だ。
「やっぱり先祖の仕事は根深い。」
とは、弓夫が高い声を出して笑いながらの述懐だ。
旧本陣奥の間の風通しのよいところに横になって連れて来た女の子に乳房(ちぶさ)をふくませることも、先年東山道御巡幸のおりには馬籠|行在所(あんざいしょ)の御便殿(ごびんでん)にまで当てられた記念の上段の間の方まで母のお民と共に見て回ることも、お粂には久しぶりで味わう生家(さと)の気安さでないものはなかったようである。東京の方にお粂夫婦が残して置いて来たという二人の弟たちのことは半蔵もお民も聞きたくていた。弓夫らの話によると、半蔵の預けた子供は二人ともあの京橋鎗屋町の家から数寄屋橋(すきやばし)わきの小学校へ通わせて見たが、兄の森夫の方は学問もそう好きでないらしいところから、いっそ商業で身を立てろと勧めて見たところ、当人もその気になり、日本橋本町の紙問屋に奉公する道が開けて来たのも、かえってあの子の将来のためであろうという。弟の和助の方は、と言うと、これは引き続き学校へ通わせるかたわら、弓夫みずから『詩経』の素読(そどく)をも授けて来た。幸い美濃岩村の旧藩士で、鎗屋町の跡に碁会所を開きたいという多芸多才な日向照之進(ひゅうがてるのしん)は弓夫が遠縁のものに当たるから、和助はその日向の家族の手に託して置いて来たともいう。
「和助は学問の好きなやつだで。あれはおれの子だで。」
と半蔵が弓夫らに言ったのもその時だった。
弓夫は一晩しか馬籠に泊まらなかった。家内と乳呑児(ちのみご)とを置いて一足(ひとあし)先に妻籠の方へ帰って行った。そのあとには一層半蔵やお民のそばへ近く来るお粂が残った。お粂は義理ある妹のお槇(まき)にも古疵(ふるきず)の痕(あと)を見られるのを気にしてか、すずしそうな単衣(ひとえ)の下に重ねている半襟(はんえり)をかき合わせることを忘れないような女だ。でも娘時分とは大違いに、からだからしてしまって来た。さばけた快活な声を出して笑うようにもなった。彼女は物に興じる質(たち)で、たまの里帰りの間にもお槇のために髪を直してやったり、お民が家のものを呼び集めて季節がらの真桑瓜(まくわうり)でも切ろうと言えば皆まで母親には切らせずに自分でも庖丁(ほうちょう)を執って見たりして、東京の方で一年ばかりも弟和助の世話をした時のことなぞをそこへ語り出す。あの山家(やまが)育ちの小学生も生まれて初めて東京|魚河岸(うおがし)の鮮魚を味わい、これがオサシミだとお粂に言われた時は目を円(まる)くして、やっぱり馬籠の家の囲炉裏ばたで食い慣れた塩辛いさんまや鰯(いわし)の方が口に合うような顔つきでいたが、その和助がいつのまにか都の空気に慣れ、「君、僕」などという言葉を使うようになったという。遠く修業に出した子供のうわさとなると、半蔵もお民も飽きなかった。もっともっと聞きたかった。よく見ればお粂はそういう調子で母親のそばに笑いころげてばかりいるでもない。自分の女の子を抱いて庭でも見せに奥の廊下を歩いている時の彼女はまるで別人のようであった。彼女は若い日のことを思い出したように、そんなところにいつまでも隠れて、娘時代の記憶のある草木の深い坪庭をながめていたから、思わずもらす低い声がなかったら、半蔵なぞはそこに人があるとも気づかなかったくらいだった。その晩、彼女は両親のそばに寝て話したいと言うから、店座敷の狭いところに三人|枕(まくら)を並べたが、おそくまで母親に話しかける彼女の声は尽きることを知らないかのよう。半蔵が一眠りして、目をさますと、ぼそ/\ぼそ/\語り合う女の声がまだ隣から聞こえていた。
お粂のいう「寝てからでなければ話せない話」を通して、半蔵が自分の娘の身の上を知るようになったのも、そんな明けやすい夏の一夜からであった。もしお粂が旦那の酒の相手でもして唄(うた)の一つも歌うような女であったらとは、彼女自身の小さな胸の中によく思い浮かべることであるとか。旦那は植松のような家に生まれながら、どうしてそんなひそかな戯れ事の秘密を知ったろうと思われるほどの人で、そのお粂の驚きは彼女がささげようとする身を無慙(むざん)にも踏みにじるようなものであり、ただ旦那が情にもろいとかなんとかの言葉で片づけてしまえないものであったという。しかし彼女はそのために旦那|一人(ひとり)を責められなかった。旦那の友だちは皆、当時流行の猟虎(らっこ)の帽子をかぶり、羽(は)ぶりのよい官員や実業家と肩をならべて、権妻(ごんさい)でも蓄(たくわ)えることを男の見栄(みえ)のように競い合う人たちだからであった。東京の方に暮らした間、旦那はよく名高い作者の手に成った政治小説や柳橋新誌(りゅうきょうしんし)などを懐中(ふところ)にして、恋しい風の吹く柳橋(やなぎばし)の方へと足を向けた。しまいにはお粂はそれを旦那の病気とさえ考えるようになった。あだかも夏の夜の灯(ひ)をめがけて飛ぶ虫のように、たのしみを追うことに打ちこむ旦那のたましいの前には、なにものもそれをさえぎる力はなかった。旦那も金につまった時は、お粂の着物を質屋に預けさせてまでそれをやめなかった。彼女はやかましい姑(しゅうとめ)には内証で、旦那があるなじみの芸者に生ませた子の始末をしたこともある。その時になってもまだ彼女は男というものを信じ、その誠実を信じ、やさしい言葉の一つも旦那からかけられれば昨日までのことは忘れて、また永(なが)い遠い夫を心あてに尽くす気になった。ひとりの閨(ねや)に夜ふけて目をさますおりおりなぞは、彼女は枕の上で旦那の物に誘われやすい気質を考えて、それを旦那の情のもろさというよりも、むしろ少年時代に早く生みの母親に死に別れたというその気の毒な生(お)い立ちにまで持って行って見ることもある。今の姑は武家育ちの教養に欠けたところのないような婦人で、琴もひけば、謡(うたい)もうたい、歌の話もするが、なにしろ尾州藩の宮谷家から先代菖助の後妻に来た鼻の隆(たか)い人で、その厳格さがかえって旦那を放縦(ほしいまま)な世界へと追いやったかと想(おも)って見ることもある。あるいはまた、妻としての彼女にもないものは、その旦那が生みの母親のふところかとも想(おも)って見ることもある。この世に一人しかない生みの母親のうつくしい俤(おもかげ)に立つものが、媚(こ)びを売る水商売の人たちの中なぞに見いだされようか。そんなことは、考えて見ただけでもばからしいことであった。けれども旦那の前で煙草(たばこ)をふかして見せる手つきのよかったというだけでも、旦那はもうそれらの女の方へ心を誘われて行くようである。一家をあげて東京から郷里へ引き揚げて来てからも、茶屋酒の味の忘れられないその旦那に変わりはない。ふつつかな彼女のようなものでも旦那の妻に選ばれ、植松の家のやれるものは彼女のほかにないとまで言ってくれた薬方(くすりかた)の大番頭が意気にも感じ、これまで祖母や両親にさんざん心配をかけたことをも考えて、せめて父半蔵の娘として生きがいある結婚生活をと心がけながら嫁(とつ)いで行ったお粂ではあるが、その彼女が踏み出して見た知らない世界は娘時代に深い窓で思ったようなものではなかった。なぜかなら、彼女の新生涯というものは、旦那と彼女とだけの二人きりの世界に限られたものではなくて、実に幾千万の人の生きもし死にもする広い世の中につながっているからであった。彼女は来(こ)し方行く末を考えて、ひとりでさんざん哭(な)いたこともある。そのたびに彼女の心は幼いものの方へ帰って行った。今の彼女には、旦那との間に生まれた二人の愛児をよく守り育てて、せめて自分の子供らには旦那の弱いところに似ない生涯を開かせたいと願うより他の念慮も持たないという。旦那もよい人には相違なく、彼女にもやさしく、どこへ出してもはずかしくない器量に生まれ、木曾ぶしの一つも歌わせたらそれはすずしい声の持ち主で、あの病気さえなかったらと、ただただそれを旦那のために気の毒に思うともいう。
「お民、お粂はまだ二十八じゃないか。今からそんなことで、どうなろう。」
妻籠をさして帰って行く娘のうしろ姿を見送った後、半蔵はそれをお民に言って見た。お民も同じ思いで、その時、彼に言った。
「ほんとに、お父(とっ)さん(半蔵)にそっくりなような娘ができてしまいました。あれのすることは、あなたに似てますよ。」
長男の宗太がいよいよ青山の家を整理しなければいけないと言い出したのも、その翌年(明治十七年)三月のことである。例の飛騨(ひだ)行き以来、半蔵は家政一切を宗太に任せ、平素くわしいことも知らない隠居の身であったが、それから十年の後になって見ると、青山の家にできた大借は元利(がんり)およそ三千六百円ばかりの惣高(そうだか)に上った。ついては、所有の耕地、宅地、山林、家財の大部分を売り払ってそれぞれ弁償すると言い出したのも宗太であった。
実に急激に青山のような旧家の傾きかけて行ったのもその時からである。いろいろなことが起こって来た。旧本陣の母屋(もや)、土蔵を添えて、小島|拙斎(せっさい)という医者に月二円半の屋賃で貸し渡すという相談も起こって来た。家族のものは継母おまんをはじめ、宗太夫婦は裏二階に住み込み、野菜畑作りのために下男の佐吉一人を残して、下女お徳に暇を出すという相談も起こって来た。半蔵夫婦は隠宅の方に別居させるということもまたその時に起こって来た。青山所有の田畑屋敷地なぞを手放す相談も引き続きはじまった。井の平畠は桝田屋(ますだや)へ、寺の上畠は伏見屋へ、陣場掲示場跡は戸長役場へというふうに。従来吉左衛門時代からの慣習として本陣所有の土地は、他の金利を見るような地主とは比較にもならないほど寛(ゆるや)かな年貢(ねんぐ)を米で受け取ることになっていたが、どこの裏畠とか、どこの割畠とか、あるいはどこの屋敷地とかも、借財|仕法立(しほうだ)てのためにそれぞれ安く百姓たちに買ってもらうという話も始まった。そればかりでなく、馬籠旧本陣をこんな状態に導いたものは年来国事その他公共の事業にのみ奔走して家を顧みない半蔵であるとの非難さえ、家の内にも外にも起こって来た。これには半蔵は驚いてしまった。
宗太は、妻籠の正己(まさみ)(寿平次養子、半蔵の次男)および親戚(しんせき)旧知のものを保証人に立てて、父子別居についての一通の誓約書の草稿なるものを半蔵の前に持ち出した時のことであった。宗太が相談役と頼む栄吉、清助とも合議の上の立案である。それには今後家政上の重大な事について父に異見のある時は親戚からそれを承ろう、父子各自の身上(しんしょう)についてはすべてかれこれと互いに異議をいれずに適宜に処置するであろう、神葬墓地の修繕を怠るまじきことはもとより庭園にある記念の古松等はみだりに伐採しないであろう、衣食住の三は寒暑に応じ適当の調進を欠くまいしかつ雑費として毎月一円ずつ必ず差し上げるであろうともしてある。これは必ずしも宗太の意志から出たことではなく、むしろその周囲にいていろいろと助言をしたがる親戚のために動かされた結果であるとしても、しかし半蔵はこんな誓約書の草稿を持ち出されたことすら水臭く思って、母屋(もや)の寛(くつろ)ぎの間(ま)の方へ行って見た。宗太もお槇(まき)もいた。見ると、その部屋(へや)の古い床の間には青光りのする美しい孔雀(くじゃく)の羽なぞが飾ってある。それは家政を改革して維持の方法でも立てようとする宗太にはふさわしからぬほどのむなしい飾りと半蔵には思われた。塩と砂糖と藍(あい)よりほかになるべく物を買わない方針を執って来た自給自足の生活の中で、三千六百円もの大借がどうしてできたろうと思い、先代吉左衛門から譲られた記念の屋敷もどうなって行こうと思って、もしこの家政維持の方法が一歩をあやまるならせっかく東京まで修業に出した子供にも苦学させねばなるまいと思うと、かずかずの残念なことが一緒になって半蔵の胸にさし迫った。もともと青山の家督を跡目相続の宗太に早く譲らせたのも継母おまんの英断に出たことであるが、こんな結果を招いて見ると、義理ある子の半蔵よりも孫の宗太のかわいいおまんまでが、これには一言もない。
「先祖に対しても何の面目がある。」
言おうとして、それを言い得ない半蔵は、顔色も青ざめながら、前後を顧みるいとまもなく腰にした扇子を執って、父の前に手をついた宗太を打ち励まそうとした。あわてて囲炉裏ばたからそこへ飛んで来たのはお民だ。先祖の鞭(むち)を意味するその半蔵が扇子は宗太に当たらないで、身をもって子をかばおうとするお民の眉間(みけん)を打った。
「お前たちは、なんでもおれがむやみと金をつかいからかすようなことを言う。ない、ないと言ったって、おれが宗太にこの家を譲る時には、七十俵の米ははいったはずだ。みんな失(な)くしてしまうのはだれだ。たわけめ。」
かつて宗太を責めたことのない半蔵も、その時ばかりは癇癪(かんしゃく)を破裂させてしまった。ひらめき発する金色な物の象(かたち)はとらえがたい火花のように、その彼の目の前に入り乱れた。
どうしたはずみからか、と言って見ることもできなかったが、留め役にはいったお民のさしている細い銀のかんざしが飛んで、彼女が左の眉(まゆ)の下を傷つけたのもその際である。彼女の顔からは血が流れた。何かの消えないしるしのように、小さな痣(あざ)のような黒い斑点(はんてん)が彼女の顔に残ったのも、またその際である。やがて宗太の部屋を出てからも、半蔵が興奮は容易にやまなかった。彼は自分ながら、自分とも思われないような声の出たのにもあきれた。そういう一時の憤りや悲しみの沈まって行く時を迎えて見ると、彼は子ばかりをそう責められない。十八歳の若者でしかなかった宗太に跡目相続させたほどの、古い青山の家には用のないような人間であったその彼自身のつたなさ、愚かさを責めねばならない。彼は妻の前に手をついて、あやまって彼女を傷つけたことのわびを言い、自分で自分の性質を羞(は)じなければならないようなことも起こって来た。
父子別居の話が追い追いと具体化して来ると、一層隠居のわびしさが半蔵の身にしみた。親戚旧知一同の協議の上、彼の方から宗太あてに差し出すべき誓約書とは、次のような文面のものである。それもまた栄吉や清助の立案によるものである。
誓約書
一、今回大借につき家政改革、永遠維持の方法を設くるについては、左の件々を確守すべき事。
一、家法改革につき隠宅に居住いたすべき事。
一、衣食住のほか、毎月金一円ずつ小使金として相渡さるべき事。
一、隠宅居住の上は、本家家務上につき万事決して助言等申すまじき事。その許(もと)の存念より出(い)づる儀につき、かれこれ異議なきはもちろんの事。
一、隠宅居住の上は、他より金銭借り入れ本家に迷惑相かけ候(そうろう)ようの儀、決していたすまじき事。
一、家のために親戚の諫(いさ)めを用い我意を主張すべからざる事。
一、飲酒五勺に限る事。
右親族決議によって我ら隠宅へ居住の上は前記の件々を確守し、後日に至り異議あるまじく候|也(なり)。
   本人
明治十七年三月三日
   半蔵
保証人
   正己
   省三
   栄吉
   又三郎
   清助
   小左衛門
   伊之助
   新助
   庄助
宗太殿
「お民、これじゃ手も足も出ないじゃないか。酒は五勺以上飲むな、本家への助言もするな、入り用な金も決して他(よそ)から借りるなということになって来た。おれも、どうして年を取ろう。」
半蔵が妻に言って見せたのも、その時である。
次男正己は妻籠の養家先から訪(たず)ねて来て、木曾谷山林事件の大長咄(おおながばなし)を半蔵のもとに置いて行ったことがある。正己の政治熱はお粂の夫(おっと)弓夫とおッつ、かッつで、弓夫が改進党びいきならこれは自由党びいきであり、二十四歳の身空(みそら)で正己が日義村(ひよしむら)の河合定義(かわいさだよし)と語らい合わせ山林事件なぞを買って出たのも、その志士もどきの熱情にもとづく。もとよりこの事件は半蔵が生涯の中のある一時期を画したほどであるから、その素志を継続してくれる子があるなら、彼とても心からよろこばないはずはなかった。ただ正己らが地方人民を代表する戸長の位置にあるでもないのに、木曾谷十六か村(旧三十三か村)の総代として起(た)ったことには、まずすくなからぬ懸念(けねん)を誘われた。
長男の宗太も次男の正己も共に若い男ざかりで、気を負うところは似ていた、公共の事業に尽力しようとするところも似ていた。宗太の方は、もしその性格の弱さを除いたら、すなわち温和勤勉であるが、それに比べると正己は何事にも手強く手強くと出る方で、争い戦う心にみち、てきぱきしたことをよろこび、長兄のやり方なぞはとかく手ぬるいとした。この正己が山林事件に関係し始めたのは、第二回目の人民の請願も「書面の趣、聞き届けがたく候事」として、山林局木曾出張所から却下されたと聞いた明治十四年七月のころからである。そこで正己は日義村の河合定義と共に、当時の農商務卿|西郷従道(さいごうつぐみち)あてに今一度この事件を提出することを思い立ち、「木曾谷山地官民有区別の儀につき嘆願書」なるものを懐(ふところ)にして、最初に上京したのは明治十五年の九月であった。
正己らが用意して行ったその第三回目の嘆願書も、趣意は以前と大同小異で、要するに木曾谷山地の大部分を官有地と改められては人民の生活も立ち行きかねるから従来|明山(あきやま)の分は人民に下げ渡されたいとの意味にほかならない。もっとも第二回目に十六か村の戸長らが連署してこの事件を持ち出した時は、あだかも全国に沸騰する自由民権の議論の最高潮に達したころであるから、したがって木曾谷人民の総代らも「民有の権」ということを強調したものであったが、今度はそれを言い立てずに、わざわざ「権利のいかんにかかわらず」と書き添えた言葉も目立った。なお、いったん官有地として処分済みの山林も古来の証跡に鑑(かんが)み、人民の声にもきいて、さらに民有地に引き直された場合は他地方にも聞き及ぶ旨(むね)を申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城(よしき)、益田(ましだ)の三郡共有地、および美濃国は恵那(えな)郡、付知(つけち)、川上、加子母(かしも)の三か村が山地の方のことをも引き合いに出したものであった。農商務省まで持ち出して見た今度の嘆願も、結局は聞き届けられなかった。正己らは当局者の説諭を受けてむなしく引き下がって来た。その理由とするところは、以前の筑摩(ちくま)県時代に権中属(ごんちゅうぞく)としての本山盛徳が行なった失政は政府当局者もそれを認めないではないが、なにぶんにも旧尾州領時代からの長い紛争の続いた木曾山であり、全山三十八万町歩にもわたる名高い大森林地帯をいかに処分すべきかについては、実は政府においてもその方針を定めかねているところであるという。
正己は言葉を改めて心機の一転を半蔵の前に語り出したのもその時であった。彼はこれまで人民が執り来たった請願の方法のむだであることを知って来たという。木曾山林支局を主管する官吏は衷心においてはあの本山盛徳が定めたような山林規則の過酷なのを知り、人民の盗伐にも苦しみ、前途百年の計を立てたいと欲しているが、ただ自分らを一平民に過ぎないとし、不平の徒として軽んじているのである。これは不信にもとづくことであろうから、よろしく適当な縁故を求めて彼らと友誼(ゆうぎ)を結び、それと親通するのが第一である。彼はそう考えて来たが、当時朝鮮方面に大いに風雲の動きつつあることを聞いて、有志のものと共にかの地に渡ることを約束し、遠からず郷里を辞するはずであるという。この朝鮮行きには彼はどれほどの年月を費やすとも言いがたいが、いずれ帰国の上はまた山林事件を取りあげて、新規な方針で素志を貫きたいとの願いであるとか。
半蔵には正己の言うことが一層気にかかって来た。
「まあ、こういう事はとかく横道へそれたがりがちだ。これから先、どういう方針になって行こうと、山林事件の出発を忘れないようにしてくれ。おれがお前に言って置くことは、ただそれだけだ。」
それぎり半蔵は山林事件について口をつぐんでしまった。彼が王滝の戸長遠山五平らと共に出発した最初の単純な心から言えば、水と魚との深い関係にある木曾谷の山林と住民の生活は決して引き放しては考えられないものであった。郡県政治の始まった際に、新しい木曾谷の統治者として来た本山盛徳は深くこの山地に注目することもなく、地方発達のあとを尋ねることもなく、容易に一本の筆先で数百年にもわたる慣習を破り去り、ただただ旧尾州領の山地を官有にする功名の一方にのみ心を向けて、山林と住民の生活とを切り離してしまった。まことの林政と申すものは、この二つを結びつけて行くところにあろうとの半蔵の意見からも、よりよい世の中を約束する明治維新の改革の趣意が徹底したものとは言いがたく、谷の前途はまだまだ暗かった。
三男の森夫と四男の和助が東京で撮(と)った写真は、時をおいて、二枚ばかり半蔵の手にはいったこともある。遠く都会へ修業に出してやった子供たちのこととて、それを見た時は家じゅう大騒ぎした。一枚は正己が例の山林事件で上京のおりに、弟たちと一緒に撮って携え帰ったもの。ちょうど正己の養父寿平次も入れ歯の治療に同行したという時で、その写真には長いまばらな髯(ひげ)をはやした寿平次が妻籠の郵便局長らしく中央に腰掛けて写っている。寿平次も年を取った。その後方(うしろ)に当時流行の襟巻(えりま)きを首に巻きつけ目を光らせながら立つ正己、髪を五|分(ぶ)刈りにして前垂(まえだれ)掛けの森夫、すこし首をかしげ物に驚いたような目つきをして寿平次の隣に腰掛ける和助――皆、よくとれている。伏見屋|未亡人(みぼうじん)のお富から、下隣の新宅(青山所有の分家)を借りて住むお雪婆さんまでがその写真を見に来て、森夫はもうすっかり東京日本橋本町辺のお店(たな)ものになりすましていることの、和助の方にはまだ幼顔(おさながお)が残っていることのと、兄弟の子供のうわさが出た。今一枚の写真は、妻籠の扇屋得右衛門(おうぎやとくえもん)の孫がその父実蔵について上京したおりの土産(みやげ)である。浅草(あさくさ)公園での早取り写真で、それには実蔵の一人子息(ひとりむすこ)と和助とだけ、いたいけな二少年の姿が箱入りのガラス板の中に映っている。
「アレ、これが和助さまかなし。まあこんなに大きくならっせいたか。」
またしても伏見屋未亡人なぞはそのうわさだ。
半蔵は飛騨の旅から帰って幼いものの頭をなでて見た時のこころもちを忘れない。こんな二枚の写真を見るにつけても、彼は都会の方にいる子供らの成長を何よりの楽しみに思った。お粂夫婦の話によると、あの和助のことは旧岩村藩士で碁会所でも開こうという日向照之進方によく頼んで置いて来たと言うが、正己が東京に日向家を訪(たず)ねて見た時の様子では長く弟を託して置くべき家庭とも思われなかったという。その力量は立派に二、三段級の棋客の相手になれるが、長く独身でいて、三度三度の食事のしたくするにも物の煮えるのを待てないほど気がせわしく、早く煮て、早く食って、早く片づけて、さらにまた食い直したいと考えるような、せかせかした婦人が弟の世話をしていた。この人が日向の「姉さん」だ。見ると和助は青くなっている。この日向家から弟に暇(いとま)を告げさせ、銀座四丁目の裏通りに住む木曾福島出身の旧士族野口寛の家族のもとに少年の身を寄せさせることにしたのも、正己の計らいからであった。半蔵の耳に入る子供の話はしきりに東京の方の空恋しく思わせるようなことばかり。下隣のお雪婆さんも一度上京のついでに、和助を見た土産話をさげて帰って来た。山家(やまが)育ちの和助も今は野口家の玄関番で、訪ねて行ったお雪婆さんが帰りがけに見た時は、彼女の下駄(げた)まで他の訪問客のと同じように庭の敷石の上に直してあったと言って、あのいたずらの好きな子がと思うと、婆さんも涙が出たとか。
明治十七年の四月には半蔵は子供を見にちょっと上京を思い立った。万事倹約の際ではあったが、父兄に代わって子供の世話をしてくれる野口家の人たちが厚意に対しても、それを頼み放しにして置くことは彼の心が許さないからであった。この東京行きには、彼は中仙道(なかせんどう)の方を回らないで美濃路から東海道筋へと取り、名古屋まで出て行った時にあの城下町の床屋で髪を切った。多年古代紫の色の紐(ひも)でうしろに結びさげていた総髪の風俗を捨てたのもその時であった。彼は当時の旅人と同じように、黒い天鵞絨(びろうど)で造った頭陀袋(ずだぶくろ)なぞを頸(くび)にかけ、青毛布(あおげっと)を身にまとい、それを合羽(かっぱ)の代わりとしたようなおもしろい姿であったが、短い散髪になっただけでもなんとなく心は改まって、足も軽かった。当時は西の京都|神戸(こうべ)方面よりする鉄道工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線も政府の方針は東山道に置いてあったから、東海道筋にはまだその支線の起工も見ない。時には徒歩、時には人力車や乗合馬車などで旅して行って、もう一度彼は以前の東京の新市街とは思われないほど繁華になった町中に彼自身を見いだした。天金(てんきん)の横町と聞いて行って銀座四丁目の裏通りもすぐにわかった。周囲には時計の修繕をする店、大小の箒(ほうき)の類(たぐい)を売る店、あるいは鼈甲屋(べっこうや)の看板を掛けた店なぞの軒を並べた横町に、土蔵造りではあるが見付きの窓や格子戸(こうしど)も「しもたや」らしい家の前には、一人の少年がせっせと手桶(ておけ)の水をかわいた往来にまいていた。それが和助だった。
この上京には半蔵も多くの望みをかけて行った。野口の人たちにあって、そこに修業時代を始めたような和助の様子を聞き、今後の世話をもよく依頼したいと思うことはその一つであった。国を出てもはや足掛け四年にもなる子を見たいと思うことはその一つであった。明治八年以来見る機会のなかった東京を再び見たいと思うこともまたその一つであった。野口の家の奥の部屋(へや)で、書生を愛する心の深い主人の寛、その養母のお婆さん、お婆さんの実の娘にあたる細君なぞの気心の置けない人たちが半蔵を迎えてくれた。主人の寛は植松弓夫と同郷で、代言人(今の弁護士)として立とうとする旧士族の一人であり、細君やお婆さんはこの人を助けて都会に運命を開拓しようとする健気(けなげ)な婦人たちであった。その時この家族の人たちはかわるがわる心やすい調子で、和助を引き取ってからこのかたのことを半蔵に話した。なにしろ木曾の山の中の木登りや山歩きに慣れた子供を狭苦しい都会の町中に置いて見ると、いたずらもはげしくて、最初のうちは近所の家々から尻(しり)の来るのにも困ったという。和助の世話をし始めたばかりのころは、お婆さん霜焼けが痛いと言って泣き出すほどの子供で、そのたびにそばに寝ているお婆さんが夜中でも起きて、蒲団(ふとん)の上から寒さに腫(は)れた足をたたいてやったこともあるとか。でも、日に日に延びて行く子供の生長は驚くばかり、主人はじめ末頼もしく思っているから、そんなに心配してくれるなという話も出た。そこは普通の住宅としても間取りの具合なぞは割合に奥行き深く造られてある。中央に廊下がある。高い明り窓は土蔵造りの屋内へ光線を導くようになっている。飼われている一匹の狆(ちん)もあって、田舎(いなか)からの珍客をさもめずらしがるかのように、ちいさなからだと滑稽(こっけい)な面貌(かおつき)とで廊下のところをあちこちと走り回っている。それも和助の友だちかとみて取りながら、半蔵は導かれて奥の二階の部屋に上がり、数日の間、野口方に滞在する旅の身ともなった。半蔵のそばへ来る和助は父が顔の形の変わったことにも驚かされたというふうで、どこでそんなに髪を短くしたかと尋ね、お父さんも開けて来たと言わないばかりの生意気(なまいき)ざかりな年ごろになっていた。子供はおかしなもので、半蔵が外出でもしようとする前に旅行用の小さな鏡の桐(きり)の箱にはいったのを取り出すと、すぐそれに目をつけ、お父さん、男が鏡を見るんですかと尋ねるから、そりゃ男だって見る、ことに旅に来ては鏡を見て容儀を正しくしなければならないと彼が答えたこともある。彼は和助の通う学校も見たく、その学校友だちをも見たい。子弟の教育に熱心な彼は邪魔にならない程度にその学窓の周囲をも見て行きたい。そこで、ある日、彼は和助に案内させてうわさにのみ聞く数寄屋橋(すきやばし)わきの小学校へと足を向けた。ちょうど休日で、当時どの校舎でも高く掲げた校旗も見られず、先生方にもあえず、余念もなく庭に遊び戯るる男女の生徒らが声をも聞かれなかったが、卒業に近い課程を和助が学び修めているという教場の窓を赤煉瓦(あかれんが)の建物の二階の一角に望むことはできた。思い出の深い常磐橋(ときわばし)の下の方まで続いて行っている堀(ほり)の水は彼の目にある。彼はその河岸(かし)を往復する生徒らがつまずきそうな石のあるのに気づき、それを堀のなかに捨てなどしながら、しばらく校舎の付近を立ち去りかねた。和助に聞くと、親しい学校友だちの一人が通って来る三十間堀(さんじっけんぼり)もそこからそう遠くない。その足で彼はそちらの方へも和助に案内させて行って見た。春先の日のあたった三十間堀に面して、こぢんまりとした家がある。亡(な)き夫の忘れ形見に当たる少年を相手に、寂しい日を送るという一人の未亡人がそこに住む。おりから和助の学校友だちは家に見えなかったが、半蔵親子のものが訪(たず)ね寄った時はその未亡人をよろこばせた。彼は和助の見ている前で、手土産がわりに町で買い求めた九年母(くねんぼ)を取り出し、未亡人から盆を借りうけて、いきなりツカツカと座をたちながら、そこに見える仏壇の前へ訪問のしるしを供えたというものだ。その時の彼の振る舞いほど和助の顔を紅(あか)らめさせたこともなかった。父のすることはこの子には、率直というよりも奇異に、飄逸(ひょういつ)というよりもとっぴに、いかにも変わった人だという感じを抱(いだ)かせたらしい。彼にして見ればかつて飛騨(ひだ)の宮司(ぐうじ)をもつとめたことのある身で、このくらいの敬意を不幸な家族に表するのは当然で、それに顔を紅らめる和助の子供らしさがむしろ不思議なくらいだった。彼は都会に遊学する和助の身のたよりなさを思って、東京在住の彼が知人の家々をも子に教えて置きたいと考える。そこで、ある日また、両国方面へと和助を誘い出した。本所横網(ほんじょよこあみ)には隅田川(すみだがわ)を前にして別荘風な西洋造りの建物がある。そこには吉左衛門時代から特別に縁故の深い尾州家の老公(徳川|慶勝(よしかつ))が晩年の日を送っている。老公と半蔵との関係は、旧(ふる)い木曾谷の大領主と馬籠の本陣問屋庄屋との関係である。半蔵は日ごろ無沙汰(ぶさた)のわびをかねて老公を訪ね、その人の前へ和助を連れて出た。彼は戊辰(ぼしん)前後の国事に尽力したことにかけては薩長(さっちょう)諸侯に劣らない老公のような人をも自分の子に見て置けというつもりで、当時和助が東京の小学校に在学するよしを老公に告げた。老公が和助の年齢を尋ねるから、半蔵は十三歳と答えながら、和助の鉛筆で写生した築地(つきじ)辺の図なぞを老公の笑い草にそなえた。その時も和助は父のそばにいて、ただただありがた迷惑なような顔ばかり。本所横網の屋敷を辞してから、半蔵が和助を案内して行ったのは旧両国広小路を通りぬけて左衛門橋(さえもんばし)を渡ったところだ。旧(ふる)いなじみの多吉夫婦が住む左衛門町の家だ。和助はどうして父がそんな下町風(したまちふう)の家の人たちと親しくするのか何も知らないから、一別以来の話が出たり、飛騨の山の話が出たり、郷里の方の話まで出たりするのをさも不思議そうにしていた。久しぶりの半蔵が子まで連れて訪ねて行ったことは、亭主(ていしゅ)の多吉やかみさんのお隅(すみ)をよろこばせたばかりでなく、ちょうどそこへ来合わせている多吉夫婦の娘お三輪(みわ)をも驚かした。お三輪ももううつくしい丸髷姿(まるまげすがた)のよく似合うような人だ。
「へえ。青山さんには、こんなお子さんがおありなさるの。」
と言いながら、お三輪は膝(ひざ)を突き合わせないばかり和助の前にすわって、何かこの子をよろこばせるようなものはないかと母親に尋ね、そこへお隅が紙に載せた微塵棒(みじんぼう)を持って来ると、お三輪はそれを和助のそばに置いて、これは駄菓子(だがし)のたぐいとは言いながら、いい味の品で、両親の好物であるからと言って見せたりした。
父と共にある時の和助が窮屈にのみ思うらしい様子は、これらの訪問で半蔵にも感じられて来るようになった。この上京には、どんなにか和助もよろこぶであろうと思いながら出て来た半蔵ではあるが、さて、足掛け四年ばかりもそばに置かない子と一緒になって見ると、和助はあまり話しもしない。父子の間にはほとほと言葉もない。ただただ父は尊敬すべきもの、畏(おそ)るべきもの、そして頑固(がんこ)なものとしか子の目には映らないかのよう。この少年には、父のような人を都会に置いて考えることすら何か耐えがたい不調和ででもあるかのようで、やはり父は木曾の山の中の方に置いて考えたいもの――あのふるさとの家の囲炉裏ばたに、祖母や、母や、あるいは下男の佐吉なぞを相手にして静かな日を送っていてほしいとは、それがこの子の注文らしい。どうやら和助は、半蔵が求めるような子でもなく、彼の首ッ玉にかじりついて来るような子でもなく、追っても追っても遠くなるばかりのような子であった。これには彼は嘆息してしまった。どれほどの頼みをかけて、彼もこの子を見に都の空まではるばると尋ねて来たことか。
再び見る東京の雑然紛然(ごたごた)とした過渡期の空気に包まれていたことも、半蔵の想像以上であった。彼も二、三日野口の家から離れてひとりであちこちの旧知を尋ねたり、森夫の奉公する日本橋本町の紙問屋へ礼に寄ったりしたから、その都度(つど)、大きな都会の深さにはいって見る時をも持った。漆絵(うるしえ)の画(えが)いてある一人乗りないし二人乗りの人力車がどれほど町にふえて来たと言って見ることもできないくらいで、四、五人ずつ隊を組んだ千金丹売(せんきんたんう)りの白い洋傘(こうもり)が動いて行くのも彼の目についた。新旧の移動が各自の生活にまで浸って来たこともはなはだしい。彼は故人となった師鉄胤の弔(くや)みを言い入れに平田家を訪ねようとして、柳原の長い土手を通ったこともある。そこには糊口(ここう)の途(みち)を失った琴の師匠が恥も外聞も思っていられないように、大道に出て琴をひくものすらあった。同門の医師金丸恭順のもとに一夜を語り明かして、その翌日今一度|旧(ふる)いなじみの多吉夫婦を見に左衛門町の家の格子戸(こうしど)をくぐったこともある。そこには樋口十郎左衛門(ひぐちじゅうろうざえもん)のような真庭流(まにわりゅう)の剣客ですらしばらく居候(いそうろう)として来て、世が世ならと嘆き顔に身を寄せていたという話も出た。剣道はすたれ、刀剣も用うるところなく、良心ある刀鍛冶(かたなかじ)は偽作以外に身の立てられないのを恥じて百姓の鍬(くわ)や鎌(かま)を打つという変わり方だ。一流の家元と言われた能役者が都落ちをして、旅の芸人の中にまじるということも不思議はなかった。これらが何を意味するかは、知る人は知る。幾世紀をかけて積み上げ積み上げした自国にある物はすべて価値なき物とされ、かえってこの国にもすぐれた物のあることを外国人より教えられるような世の中になって来た。しかし、これには拍車をかける力の追い追いと加わって来たのを半蔵も見のがすことはできなかった。外来の強い刺激がそれだ。当時この国の辱(はじ)とする治外法権を撤廃して東洋に独立する近代国家の形態をそなえたいにも、諸外国公使はわが法律と法廷組織の不備を疑い、容易に条約改正の希望に同意しないと聞くころである。まったく条約改正のことは、欧米諸国のことはおろか、東洋最近の事情にすら疎(うと)かった過去の失策のあとを承(う)けて、この国の前途に横たわる最大の難関であるとは、上下をあげてそれを感じないものもない。岩倉、大久保、木戸らの柱石たる人々が廃藩置県直後の国を留守にし三年の月日を海の外に送っても成し遂げることのできなかったこの難関を突き破るために、時の政治家はあらゆる手段を取りはじめたとも言わるる。法律と法廷組織の改正、法律専攻の人士の養成、調査委員の設置、法律専門の外国人の雇聘(こへい)、法律研究生の海外留学、外国法律書の翻訳なぞは、皆この気運を語らないものはない。もとより条約改正の成否は内閣の死活にもかかわるところから、勢力のある政治家はいかなる代償を払ってもこの国家の大事業に当たろうとし、従前司法省にあった法律|編纂局(へんさんきょく)を外務省に移し、外人を特に優遇し、外人に無礼不法の挙があってもなるべくそれを問わないような時が、多くのものの目の前にやって来ていた。その修正案の主要な項目なるものも、外人に対して実に譲りに譲ったものであった。第一、日本法廷の裁判官中に三十人ないし四十人の外国人判事を入れ、また十一人の外国人検事を入るる事。第二、法律を改正し、法廷用語は日英両国の国語となす事。第三、外国人に選挙権を与うる事。これほどの譲歩をしてまでも諸外国公使の同意を得ようとした当局者の焦躁(しょうそう)から、欧風に模した舞踏会を開き、男女交際法の東西大差ないのを粧(よそお)おうとすることも起こって来た。仮装も国家のため、舞踏も国家のため、夜会も国家のため、その他あらゆる文明開化の模倣もまた国家のためであると言われた。交易による世界一統が彼の勇猛な目的を決定するものであるとすれば、我もまた勢いそれを迎えざるを得ない。かつては金銭を卑しみ、今は金銭を崇拝する、それは同じことであった。この気運に促されて、多くの気の鋭いものは駆け足してもヨーロッパに追いつかねばならなかった。あわれな世ではある、と半蔵は考えた。過ぐる十五、六年の間この国ははたして何を生むことができたろう。遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたころには、人はこれほど無力ではなかったとも考えた。まことの近(ちか)つ代(よ)を開くために生まれて来たような本居宣長の生涯なぞがこんな時に顧みられようはずもなかった。橋本|雅邦(がほう)は海軍省の製図に通うといい、狩野芳崖(かのうほうがい)も荒物屋の店に隠れた。
おそらくもう一度来て見る機会はあるまいと思いながら、やがて悄然(しょうぜん)とした半蔵が東京を去ったのもこの旅である。とにもかくにも彼は二人の子にあい、その世話になる人々に礼を述べ、知人の家々を訪(たず)ねて旧交を温(あたた)めただけにも満足しようとした。帰路には彼はやはり歩き慣れた木曾街道をえらんで、板橋経由で郷里の方に向かった。旅するものには、いずこの宿場の変遷も時の歩みを思わせるころである。道すがらの彼の心はよく四人の男の子の方へ行った。庄屋風情(しょうやふぜい)ながらに物を学ぶ心の篤(あつ)かった先代吉左衛門が彼に呼びかけた心は、やがて彼が宗太にも正己にも森夫にも和助にも呼びかける心で、後の代を待つ熱いさびしい思いをその四人に伝えたいと願うからであった。ことに彼が未熟な和助を頼みにするというのも、それは彼とお民との間に生まれた末の子というばかりでなく、「和助は学問の好きなやつだで、あれはおれの子だで」とお粂(くめ)夫婦の前でも言って見せたくらいだからであった。せめて末の子だけには学ばせたい、とは彼が心からの願いであったのだ。どうだろう、その子もまた父の心を知らないとしたら。子は母親本位のもので、父としての彼はただ子の内部(なか)を通る赤の他人のような旅人に過ぎないとしたら。
「もうもう東京へ子供を見に行くことは懲りた。」
とは彼が郷里に帰り着いてから家のものに言って見せた言葉だ。
その年の夏は、いよいよ宗太夫婦との別居の履行された時であった。半蔵が和助を見に行って深く落胆して帰って来たというのも、子を思う心が深ければこそだ。隠宅の方へお民と共に引き移る日を迎えてからも、彼は郷里の消息を遠く離れている子にあてて書き送ることを忘れなかった。彼はその小楼を和助にも見せたいと書き、二階から見える山々の容(かたち)の雲に霧に変化して朝夕のながめの尽きないことを書き、伏見屋の三郎と梅屋の益穂(ますほ)とが本を読みに彼のもとへ通(かよ)って来るたびによく和助のうわさが出ることを書き、以前に伊那南殿村の稲葉家(おまんの生家(さと))からもらい受けて来た杏(あんず)の樹(き)がその年も本家の庭に花をつけたが、あの樹はまだ和助の記憶にあるだろうかと書いた。時にはまた、本家の宗太も西|筑摩(ちくま)の郡書記を拝命して木曾福島の方へ行くようになったが交際交際で十円の月給ではなかなか足りそうもないと書き、しかし家の整理も追い追いと目鼻がついて来たことを書き、この家計の骨の折れる中でも和助には修業させたい一同の希望であるからそのつもりで身を立ててくれよと書き、どうかすると娵女(よめじょ)のお槇(まき)が懐妊したから和助もよろこべというようなことまで書いてそばにいるお民に笑われた。
「そんな、あなたのような、お槇の懐妊したことまで東京へ知らせてやるやつがあるもんですかね。」
これには彼も一本参った。しかし古い家族の血統を重く考える彼としては、青山の血を伝えにこれから生まれて来るもののあるその新しいよろこびを和助にまで分けずにはいられなかった。そんなおとなの世界をのぞいて見るようなことが、どう少年の心を誘うであろうなぞと想(おも)って見る暇もないのであった。和助もあれで手紙を書くことはきらいでないと見えて、追い追いと父のもとへ便(たよ)りをしてよこす。それが学校の作文でも書くように半紙に書いてあるのを彼は何度も繰り返し読み、お民にもまた読み聞かせるのを何よりの心やりとする。彼は遠く離れていながらも、いろいろと和助を教えることを怠らなかった。手紙はどういうふうに書くものだとか、本はどういうものを読むがいいとかいうふうに。
やがて成長(ひとなり)ざかりの子が東京の方で小学の課程を終わるころのことであった。半蔵は和助からの長い手紙を受け取った。それには少年らしい志望が認(したた)めてあり、築地(つきじ)に住む教師について英学をはじめたいにより父の許しを得たいということが認(したた)めてある。かねてそんな日の来ることを憂い、もし来たらどう自分の子を導いたものかと思いわずらってもいた矢先だ。とうとう、和助もそこへ出て来た。これまで国学に志して来た彼としては、これは容易ならぬ話で、彼自身にはいれなかった洋学を子にやらせて見たいは山々ではあったが、いかに言っても子は憐(あわれ)むべき未熟なもので、まだ学問の何たるを解しない。彼が東京の旅で驚いて来た過渡期の空気、維新以来ほとほと絶頂に達したかと思われるほど上下の人の心を酔わせるような西洋|流行(ばやり)を考えると、心も柔らかく感じやすい年ごろの和助に洋学させることは、彼にとっては大きな冒険であった。この子もまた時代の激しい浪(なみ)に押し流されて行くであろうか。それを思うと、彼は幾晩も腕組みして考えてしまった。もっとも、結局和助の願いをいれたが。
本家土蔵の二階の上、あの静かな光線が鉄格子を通して西の窓からさし入るところは、中央に置き並べた継母と妻との二つの古い長持を除いたら、名実共に青山文庫であった。先代吉左衛門と半蔵と父子二代かかって集めた和漢の書籍は皆そこに置いてある。吉左衛門の残した俳書、岐岨古道記(きそこどうき)をはじめこの駅路に関する記録も多い。半蔵の代になって苦心して書物を集めることは、何十年来の彼の仕事の一つと言ってもよかったが、ことに万葉は彼の愛する古い歌集で、それに関する文献は彼の手の届くかぎり集められるだけ集めてある。階上の壁面によせて積み重ねてあるそれらの本箱の前をあちこちと歩き回る時ばかり、彼のたましいの落ちつくこともない。また、古人のいう夏の炉か冬の扇のような、今は顧みるものもなく、用うるところもなく、子にすら読まれないそれらの書物に対する時ばかり、後の代を待つ心を深くすることもない。家法改革のため、土蔵の階下(した)までも明け渡さねばならない時がやって来てからは、それに気がさして、彼はめったにあの梯子段(はしごだん)を登って行って見ることもない。 

「おいで。」
呼ぶものは半蔵。呼ばれるものは馬籠(まごめ)の村の子供。もはや旧(ふる)い街道へも六月下旬の午後の日のあたって来ているころである。
「さあ、いいものあげるから、おいで。」
とまた半蔵が呼んでも、子供は輪回しの遊びに夢中な年ごろで、容易に彼の方へ飛んで来ようともしない。おもちゃというおもちゃは多く手造りにしたもので間に合わせる馬籠の子供のあいだには、桶(おけ)の箍(たが)を回して遊び戯れることがまた流行(はや)って来た。この子供も手に竹の輪をさげている。
「こんなに呼んでも、来ないところを見ると、あれは賢いものじゃないと見える。」
この「賢いものじゃないと見える」が子供を釣(つ)った。子供は彼のそばへ走り寄った。その時、彼は自分の袂(たもと)に入れていた巴旦杏(はたんきょう)を取り出して、青い光沢のある色も甘そうに熟したやつを子供の手に握らせた。そして彼の隠宅の方へとその子供を連れて行った。
こんな調子で、半蔵は『童蒙入学門(どうもうにゅうがくもん)』や『論語』なぞを読ませに村の子供らを誘い誘いした。その時になっても彼は無知な百姓の子供を相手にして、教えて倦(う)むことを知らなかった。普通教育の義務年限も定められずにあるころで、村には読み書きすることのきらいな少年も多く、彼の周囲はまだまだ多くの迷信にみたされていた。どうかするとにわかに顔色も青ざめ、口から泡(あわ)を出す子供なぞがあると、それが幼いものの病気とは見られずに、狐(きつね)のついた証拠だと村の人から騒がれるくらいの時だ。
静(しず)の屋(や)へ通(かよ)って来る半蔵が教え子はひとり馬籠生まれのものに限らなかった。一里も二里もある山道を草鞋(わらじ)ばきでやって来るような近村の少年もめずらしくない。湯舟沢からも、山口からも、あるいは妻籠(つまご)からも、馬籠には彼を師と頼んで何かと教えを受けに来る二、三の女の子もある。そういう中に置いて見ると、さすがは伏見屋の三郎と梅屋の益穂との進み方は目立った。この二人(ふたり)はすでに漢籍も『通鑑(つがん)』を読む。いつのまにか少年期から青年期に移る年ごろにも達している。三郎らに次いでは、村社|諏訪(すわ)分社の禰宜(ねぎ)松下千里の子息にあたる千春が荒町から通って来る。和助と同年の千春もすでに十五歳だ。「お師匠さま、お師匠さま」と言って慕って来るこれらの教え子の書体までが自分のに似通うのを見るたびに、半蔵は東京の方にある和助のことをよく思い出すのであった。
彼はお民に言った。
「妙なものだなあ。おれなぞはおまえ、明日を待つような量見じゃだめだというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたく間(ま)に通り過ぎる。過去こそ真(まこと)だ――それがおまえ、篤胤(あつたね)先生のおれに教えてくだすったことさ。だんだんこの世の旅をして、いろいろな目にあううちに、いつのまにかおれも遠く来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞをよく思い出すところを見ると、やっぱりおれというばかな人間は明日を待ってると見える。」
こんな寝言もちんぷん、かんぷんとしか聞こえないお民の耳には、めずらしくも禁酒を思い立ったという夫の言葉の方が彼女にはうれしかった。
「なあ、お民。どうも酒はよくない。飲み過ぎるとおれは眠られない。こないだは、宗太や親類には内証で堅い誓約を破ってしまった。おれも我慢がしきれなかったからさ。さあ、それから眠られない。五晩も六晩もそんな眠られないことが続くうちに、しまいにはおれも書き置きを書こうかとまで思ったくらい苦しかった。ほんとに、冗談じゃない。いろはにほへとと同じことを枕(まくら)の上で繰り返して見たり、一二三四と何べんとなく数えて見たりして、どうかしておれは眠りたいと思った。そのうちに眠られた。もうあんなことは懲り懲りした。ここまで来ないと、酒はやめられないものかもしれないナ。」
「そりゃ、あなた、できればここでふッつりお断ちなさるがいい。そう思って、わたしはもうお酒の道具を片づけてしまいましたよ。」
「まあ、晩酌(ばんしゃく)に五勺ばかりやって見たところでまるで、雀(すずめ)が水を浴びるようなものさ。なかなか節酒ということが行なわれるもんじゃない。飲むなら飲む、飲まないなら全く飲まない――この二つだ。」
九月の来るころまで、とにもかくにも半蔵の禁酒が続いた。その一夏の間、静の屋の二階からは澄んだ笛の音が屋外(そと)までもれてよく聞こえた。ひとりいる時の半蔵が吹き鳴らした音だ。木曾特有な深い緑の憂鬱(ゆううつ)が谷や林の間を暗くしたころに、思い屈した彼の胸からは次ぎのような言葉もほとばしり流れて来た。
国、思君、思家、思郷、思親、思朋友妻子親族。百思千慮胸中鬱結不憂嘆。起望西南諸峯。山蒼々。壑悠々。皆各有自得之趣。頼斯観以得慰。彼百憂者、真天公之錫也哉。
思ひ草しげき夏野に置く露の千々(ちぢ)にこころをくだくころかな
半蔵ももはや五十六歳だ。人がその年ごろにもなれば、顔の形からして変わらないものもまれである。一人(ひとり)の人の中に二人ぐらいの人の住んでいない場合もまれである。半蔵とてもそのとおり、彼の中に住む二人の人は入れかわり立ちかわり動いて出て来るようになった。あの森夫がまだ上京しない前、お民はいたずらのはげしい森夫にあきれて本家の表玄関のところに子をねじ伏せ、懲らしめのために灸(きゅう)をすえると言い出し、その加勢にお槇(まき)を呼んで、お槇お前も手伝っておくれ、この子の足を押えていておくれと言った時、じたばたもがき苦しむ子のすがたを見ていられなくて、灸をすえることを許してやってくれとお民に頼んだ人も彼であるし、かつて宗太を責めたことのない彼が扇子を取り出して子の面(かお)を打ち励まそうとまでした人も彼である。ある時は静の屋に隠れていて、静かに見れば物皆自得すと言った古人の言葉を味わおうと思い、ある時は平田篤胤没後の門人がこんなことでいいのかと考え、まだ革新が足りないのだ、破壊も足りないのだと考えるのも、その同じ彼だ。
やがて残った暑さの中にも秋気が通って来て、朝夕はそこいらの石垣(いしがき)や草土手で鳴く蟋蟀(こおろぎ)の声を聞くようになった。ある夜の明けがた、半蔵は隠宅の下座敷にお民と枕(まくら)をならべていて不思議な心地(ここち)をたどった。その時の彼は妻にも見られないように家を抜けて、こっそり町へ酒を買いに出た人である。大戸がある。潜(くぐ)り戸(ど)がある。杉(すぎ)の葉の円(まる)く束にしたのが街道に添うた軒先にかかっている。戸をたたくと内には人が起きていて、彼のために潜り戸をあけてくれる。そこは伏見屋の店先で、二代目伊之助がみずから樽(たる)の前に立ち、飲み口の栓(せん)を抜いて、流れ出る酒を桝(ます)に受け、彼の方から差し出した徳利にそれを移して売ってくれる。それまではよかったが、彼は隠し持つ酒を携え帰る途中でさまざまな恐ろしい思いをした。そして、家まで帰り着かないうちに、目がさめた。
しばらく盃(さかずき)を手にしない結果が、こんな夢だ。彼の内部(なか)にはいろいろなことも起こって来るようになった。妙に気の沈む時は、部屋(へや)にある襖(ふすま)の唐草(からくさ)模様なぞの情(こころ)のないものまでが生き動く物の形に見えて来た。男女両性のあろうはずもない器物までが、どうかすると陰と陽との姿になって彼の目に映って来た。小半日暮らした。その彼が周囲を見回したころは夕方に近い。お民は本家の手伝いから帰って来て、隠宅の台所で夕飯のしたくを始める。とにもかくにも一夏の間、自ら思い立って守りつづけて来た飲酒の戒も、妙な夢を見たために捨てたくなったことを彼はお民に話し、これでは無理だと思って来たのもその夢からであったと彼女の前に白状した。その時、お民は襷(たすき)がけのまま、実はしばらく見えなかった落合の勝重(かつしげ)が最近にまた訪(たず)ねて来てくれた時に置いて行った酒のあることを夫に告げた。彼女はそれを夫に隠して置いたことをも告げた。
「ホ、落合の酒をくれたか。勝重さんはこの四月にもおれのところへさげて来てくれたッけが。」
「なんでも、あの人はあなたの禁酒したことを知らなかったんですとさ。どうも失礼した、お師匠さまには内証にしてくれなんて、そう言って、これは煮ものにでも使うようにッて置いて行きましたよ。」
こんな言葉をかわした後、間もなくお民はしたくのできた膳(ぜん)を台所から運んで来た。憔悴(しょうすい)した夫のためにつけた一本の銚子(ちょうし)をその膳の上に置いた。
「こりゃ、めずらしい。お民はほんとうにおれに飲ましてくれるのかい。」
半蔵はまるでうそのように好きな物にありついて、盃にあふれるその香気(かおり)をかいだ。そして元気づいた。お民はその夫の顔をながめながら、
「そう言えば、こないだというこないだは、わたしもびッくりしましたよ。」
「うん、あの話か。あんなことは、めったにないやね。なにしろ、お前、変なやつが来てこの庭のすみに隠れているんだろう。あいつは恐ろしいやつさ。このおれをねらっているようなやつさ。おれもたまらんから、古い杉ッ葉に火をつけて、投(ほう)りつけてくれた。もうあんなものはいないから安心するがいい。」
「ほんとに、あなたも気をつけてくださらなけりゃ……」
実際、半蔵にはそんなことも起こって来ていた。
つましくはあるが、しかし楽しい山家風な食事のうちに日は暮れて行った。街道筋に近く住むころともちがい、本家の方ではまだ宵(よい)の口の時刻に、隠宅の周囲(まわり)はまことにひっそりとしたものだ。谷の深さを思わせるようなものが、ここには数知れずある。どうかすると里に近く来て啼(な)く狐(きつね)の声もする。食後に、半蔵は二階へも登らずに、燈火(あかり)のかげで夜業(よなべ)を始めたお民を相手に書見なぞしていたが、ふと夜の空気を通して伝わって来る遠い人声を聞きつけて、両方の耳に手をあてがった。
「あ――だれかおれを呼ぶような声がする。」
と彼はお民に言ったが、妻には聞こえないというものも彼には聞こえる。彼はまた耳を澄ましながら、じっとその夜の声に聞き入った。
十五夜には、半蔵も村の万福寺の松雲和尚(しょううんおしょう)から月見の客の一人(ひとり)に招かれた。今さらここにことわるまでもなく、青山の家と万福寺との関係は開山のそもそもからで、それほど縁故の深い寺ではあるが、例の神葬改典以来は父祖の位牌(いはい)も多く持ち帰り、わずかに万福寺の開基と中興の開基との二本の位牌を残したのみで、あの先祖道斎が建立(こんりゅう)した菩提寺(ぼだいじ)も青山の家からは遠くなった。こんな事情があるにもかかわらず住持の松雲はわざわざ半蔵の隠宅まで案内の徒弟僧をよこすほどの旧(むかし)を忘れない人である。
招かれて行く時刻が来た。半蔵は隠宅を出た。まだ日も暮れきらないうちであったが、空には一点の雲もなく、その夜の月はさぞと、小集の楽しさも思われないではない。しかし、彼の足は進まなかった。妙に心も寒かった。ためらいがちに、彼はその寺道を踏んで行った。そして、しばらくぶりで山門の外の石段を登った。数体の観音(かんのん)の石像の並ぶ小高い石垣(いしがき)の斜面に沿うて、万福寺の境内へ出た。そこにひらける本堂の前の表庭は、かつて彼の発起で、この寺に仮の教場を開いたころの記憶の残る場所である。経王石書塔の文字の刻してある石碑が立つあたり、古い銀杏(いちょう)の樹(き)のそばにある鐘つき堂の辺、いずれも最初の敬義学校の児童が遊び戯れた当時を語らないものはない。
「おゝ、お師匠さまが見えた。」
という寺男の声を聞いて、勝手を知った半蔵は庫裡(くり)の囲炉裏ばたの方から上がった。彼は松雲が禅僧らしい服装(みなり)でわざわざその囲炉裏ばたまで出て迎えてくれるのにもあった。やがて導かれて行ったところは住持の居間である。古い壁に達磨(だるま)の画像なぞのかかった方丈である。そこにはすでに招かれて来ている二、三の先着の客もある。旧|組頭(くみがしら)笹屋庄助(ささやしょうすけ)、それから小笹屋(こざさや)勝七の跡を相続した勝之助の手合いだ。馬籠町内でもことに半蔵には気に入りの人たちだ。こんな顔ぶれを集めての催しである上に、主人の松雲は相変わらずの温顔で、客に親疎を問わず、好悪(こうお)を選ばずと言ったふうの人だ。
まず寺にも異状はない。そのことに、半蔵はやや心を安んじた。柿(かき)、栗(くり)、葡萄(ぶどう)、枝豆(えだまめ)、里芋(さといも)なぞと共に、大いさ三寸ぐらいの大団子(おおだんご)を三方(さんぼう)に盛り、尾花(おばな)や女郎花(おみなえし)の類(たぐい)を生けて、そして一夕を共に送ろうとするこんな風雅な席に招かれながら、どうして彼は滑稽(こっけい)な、しかもまじめな心配に息をはずませ、危害でも加えに来るものを用心するかのようなばからしくくだらないことを考えて、この寺道を踏んで来たろうと、自分ながらも笑止に思った。松雲は茶菓なぞを徒弟僧に運ばせ、慇懃(いんぎん)に彼をももてなした。ふと彼が気づいて見ると、この寺で出す菓子の類にも陰と陽とがある。彼もほほえまずにいられなかった。まだ客の顔はすっかりそろわなかったから、そこに集まったものの中には、庭の見える縁側にすべり出、和尚の意匠になる築山(つきやま)泉水の趣をながめるものがある。夕やみにほのかな庭のすみの秋萩(あきはぎ)に目をとめるものもある。その間、半蔵は座を離れて、寺男から手燭(てしょく)を借りうけ、それに火をとぼし、廊下づたいに暗い本堂の方へ行って見た。位牌堂に残してある遠い先祖が二本の位牌を拝するためであった。
間もなく方丈では主客うちくつろいでの四方山(よもやま)の話がはじまった。点火(あかり)もわざと暗くした風情(ふぜい)の中に、おのおの膳(ぜん)についた。いずれも草庵(そうあん)相応な黒漆(くろうるし)を塗った折敷(おしき)である。夕顔(ゆうがお)、豆腐の寺料理も山家は山家らしく、それに香味を添えるものがあれば、それでもよい酒のさかなになった。同じ大根おろしでも甘酢(あまず)にして、すり柚(ゆず)の入れ加減まで、和尚の注意も行き届いたものであった。塩ゆでの枝豆、串刺(くしざ)しにした里芋の味噌焼(みそや)きなぞは半蔵が膳の上にもついた。庄助は半蔵の隣の席にいて、
「へえ、お師匠さまは酒はおやめになったように聞いていましたが、またおはじめになりましたかい。」
これには半蔵もちょっと挨拶(あいさつ)に困った。正直者で聞こえた庄助は、飲めばすこししつこくなる方で、半蔵が様子を黙って見てはいなかった。
一同の待ち受ける秋の夜の光が寺の庭に満ちて来たころ、半蔵はまだ盃を重ねていた。いったん、やめて見た酒も、口あたりのよいやつを鼻の先へ持って来ると、まんざらでもない。それに和尚の款待(もてなし)ぶりもうれしくて、思わず彼はいい心持ちになるほど酔った。でも、彼のはそう顔へは発しなかった。やがて彼は人々と共に席を離れて縁側へ出て見たが、もはやすこし肌寒(はださむ)いくらいの冷えびえとした空気がかえって彼に快感を覚えさせた。そこここの柱のそばには、あるいはうずくまり、あるいは立ちして、水のように澄み渡った空をながめるものもある。そこは方丈から客殿へ続く回り縁になっていて、さらに本堂の裏手、位牌堂までも続いて行っている。客殿と位牌堂との間には渡れる橋もある。彼はそんな方までも歩いて行って、昼間のように明るい夜の光の照らしている橋の上にも立って見た。ふと、庭の暗いすみにうずくまる黒いものの動きが彼の目に映った。そんなところに隠れながら彼を待ち伏せしているようなやつだ。彼はその怪しい人の影をありありと見た。にわかに酒の酔いのさめたのもその時であった。顔色も青ざめながら方丈へ引き返した。
「わたしは失礼する。」
と松雲に断わりを言って置いて、他の客より一足先に寺を辞し去ろうとしたのも、その半蔵だ。
庄助は半蔵が飲み過ぎからとでも思ったかして、囲炉裏(いろり)ばたまでついて来て、土間に下駄(げた)をさがす時の彼に言った。
「お師匠さま、お前さまはもうお帰りか。お一人(ひとり)で大丈夫かなし。門前の石段は暗いで、お寺で提灯(ちょうちん)でも借りてあげずか。」
「なあに、こんな月夜に提灯なぞはいらん。」
「もうお師匠さまも帰りそうなものだ。」
隠宅では、半蔵の留守に伏見屋の三郎と梅屋の益穂とが遊びに来て、お民と共に主人の帰りを待っている。お民は古い将棋盤なぞを出して来て三郎らにあてがったので、二人の弟子(でし)は駒(こま)の勝負に余念もない。その古い将棋盤は故吉左衛門の形見として静の屋に残ッているものだ。
「さあ、早くさしたり。」
「待った。」
「いつまでそんなに考え込むんだ。」
「手には。」
「角(かく)桂(けい)に、歩(ふ)が六枚。」
下座敷の縁側に近く盤を置いて、二人の弟子はそんなことを言い合っている。しばらく縁側に出て月を見ていたお民が二人のいる方へ来て見ると、三郎は相手の長い「待った」に気を腐らして、半分ひとり言のようにお民に言った。
「お師匠さまも、あれで将棋でもなさると、いいがなあ。」
「いいがなあのようなことだ。」とお民は笑って、思わず三郎の言葉に釣(つ)り込まれながら、「ほんとに、うちは道楽というもののすくない人ですね。弓をやるじゃなし、鳥屋(とや)に凝るじゃなし、暇さえあれば机に向かって本を読んでばかり。この節は気がふさいでしかたがないと言いますから、どんなふうに気分が悪いんですかッて、わたしは聞いて見ました。なんでも、こうすわっていますと、そこいらが暗くなって来るらしい――暗い、暗いッて、よくそんなことを言いましてね。」
お民は夫の健康が気にかかるというふうに、それを三郎に言って見せた。じっと盤をにらんだ益穂の長考はまだ続いていた。そこへ月を踏んで来る人の足音がした。お民はその足音で、すぐそれが夫であることを聞き知った。師匠の帰りと聞いて、益穂も今はこれまでと、手に持つ駒(こま)を盤の上に投げてしまった。
何げなく半蔵は隠宅に帰って来て二人の弟子にも挨拶(あいさつ)したが、心の興奮は隠せなかった。お民は夫に近く寄ってまず酒くさい息を感じた。
「お民、二階へ燈火(あかり)をつけてくれ。それから、毛氈(もうせん)を敷いてくれ。まだそんなにおそくもないんだろう。こんな晩には何か書いて遊びたい。」
半蔵はその足で二階の梯子段(はしごだん)を登った。三郎や益穂をも呼んで、硯(すずり)筆(ふで)の類を取り出し、紙をひろげることなぞ手伝わせた。墨も二人の弟子に磨(す)らせた。
「どれ、一つ三郎さんたちにお目にかけるか。」
と言いながら、半蔵がそこへ取り出したのは、平素めったに人にも見せたことのない壮年時代の自筆の所感だ。それは、水戸浪士(みとろうし)がこの木曾街道を通り過ぎて行ったあとあたり、彼が東|美濃(みの)や伊那(いな)の谷の平田同門の人たちとよく相往来したころにできたものだ。さすがに筆の跡も若々しく、書いてあることもまた若々しい。それを彼は二人の弟子に読み聞かせた。
天地生万物、人為最霊也。人之能為霊、以其有一レ心也。凡物多類。野有千艸、山有万木。一視則均是艸木也。然艸有蘭菊之芳、而木有松柏之操焉。人亦猶如此也。人之能超群者、其霊之能勝衆霊也。尋常之物、雖千百、同此一様、而猶艸木之無芳操者也。卓出之物、有一則一、十則十、皆有益於国家也、猶艸木之於松菊也。惟菊也、松也、一視則直知其為秀英也。人之賢愚以心、不形、故不遽見也。蓋心之霊在思。其霊最覚者、思弥遠矣。而愚也非敢也。然人心不思。而吾性所思最多常鬱陶于心胸也。陳之、列之、以熟思其所思、其有得乎。吾素微躯、惟守其業、仰以事親、俯以養妻子、則能事畢焉。何其媚世求之為也。雖然、如此而生、如此而死、焉在其為万物之霊也。竊観昔人之所一レ為。有文鳴者。有武知者。有直諫而死者。有忠亮而終始一如者。有信義以自守者。有私淑而自修者。有危致命者。有良図建功者。有英断果決見過則能改者。有苟喪其人則失千載之伝。有常思四方之遠民之細故。有善察百世之後国家之憂。有暴戡乱能畏服四方。有記百世之事以伝将来。凡事如此。則非一身之所能為也。然則従吾所好者乎。
読みかけて、「しからばすなわち、わが好むところのものに従わんか」の最後のくだりになると、五十余年の数奇な生涯(しょうがい)が半蔵の胸に浮かんで来た。見るもの聞くもの涙の種でないものはなかったようなところすら通り越して、今は涙も流れなかった。
その晩、半蔵は弟子を相手にして、しきりに物を書いた。静の屋ではまだ行燈(あんどん)しか用いなかったが、その燈火(あかり)では暗かったから、彼は三郎らに手燭(てしょく)を持たせ、蝋燭(ろうそく)の灯(ひ)に映る紙の上に和歌なぞを大きく、しかもいろいろに書いて遊んだ。あるものは仮名(かな)文字、あるものは真名(まな)文字というふうに。それを三郎にも益穂にも分けると、二人は大よろこびで持ち帰ったころは夜もおそかった。そのあとにはむさぼるようにまだ何か書きたい半蔵が残った。その興奮には止め度がなかったので、しまいには彼は二階の燈火を吹き消して階下へ休みに降りたくらいだ。
「あなた、また眠られないといけませんよ。すこし召し上がり過ぎたんじゃありませんか。あなたのお酒は顔色に出ないんだから、はたのものにはわからない。」
と言って、そばへ寄ったのはお民だ。半蔵は下座敷の内を静かに歩き回ったり、また妻のいるところへ近く行ったりして、
「お民、もう何時(なんじ)だろう。お前にはまだ話さなかったが、さっきお寺から帰って来る時のおれの心持ちはなかった。後方(うしろ)から何かに襲われるような気がして、実に気持ちが悪かった。さっさとおれは逃げて帰った。」
「そりゃ、あなたの気のせいです。あなたはよくそこいらが暗い、暗いなんておっしゃるが、みんな気のせいですよ……平田先生は、こういう時の力にはなりませんかねえ。」
このお民の「平田先生」が半蔵をほほえませた。彼は思いがけないことを妻の口から聞いたように思っていると、お民は言葉をついで、
「でも、あの先生はありがたい人だって、そのお話がよく出るじゃありませんか。」
「それさ。おれもこれで、どうかすると篤胤先生を見失うことがある。篤胤先生ばかりじゃないや、あの本居宣長翁でも、おれの目には見えなくなってしまうこともある。そのたびに、おれは精神(こころ)の力を奮い起こして、ようやくここまでたどりついたようなものさ。そうだ、お粂(くめ)の言い草じゃないが、神霊(みたま)さまと一緒にいれば寂しくない。こりゃ、おれも路(みち)に迷ったかしらん。もう一度おれは勇気を出して神を守りに行かにゃならん。しかし、今夜は――お前もよいことを言ってくれた。」
その時、お民は思いついたように、下座敷の小襖(こぶすま)から薬箱を取り出して来た。その中には医師の小島|拙斎(せっさい)が調合して置いて行ってくれた薬がある。本家の母屋(もや)を借りて住む拙斎もちょうど名古屋へ出張中のころであったが、あの拙斎が馬籠を留守にする前に、もしお師匠さまに眠られないようなことがあったらあげてくれと言って、お民のもとに残して置いて行ったのがそれだ。彼女は台所の流しもとへくみ置きの清水や湯のみなぞをも取りに行って来て、その薬を夫に勧めた。
翌日からの半蔵は一層不思議な心持ちをたどるようになった。彼は床の上に目をさまして見て、およそ何時間ぐらい眠ったということも知らなかった。夢に夢見る心地(ここち)で彼があたりを見回した時は、本家の裏二階の方に日を暮らしている継母やお槇(まき)はもとより、朝夕連れ添う妻のお民までがなんとなく遠くの方にいる人のような気がして来た。
秋の日のあたった部屋(へや)の障子には、木曾らしい蝿(はえ)の残ったのが彼の目についた。彼はその光をめがけながら飛びかう虫の群れをつくづくとながめているうちに、久しく音信(たより)もしない同門の先輩|暮田正香(くれたまさか)のことを胸に浮かべた。彼はあの正香がそう無造作にできるものが復古ではないと言った言葉なぞを思い出した。ところが世間の人はそうは思わないから、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ、いくら昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい、とあの正香の言ったことをも思い出した。本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言われた昨日の勢いは間違いであったのか、一切の国学者の考えたこともあやまった熱心からだとされる今日の時が本当であるのか、このはなはだしい変わり方に面とむかっては、ただただ彼なぞは目もくらむばかり。かつての神仏分離の運動が過ぎて行ったあとになって見ると、昨日まで宗教|廓清(かくせい)の急先鋒(きゅうせんぽう)と目された平田門人らも今日は頑執(がんしゅう)盲排のともがら扱いである。ことに、愚かな彼のようなものは、する事、なす事、周囲のものに誤解されるばかりでなく、ややもすると「あんな狂人(きちがい)はやッつけろ」ぐらいのことは言いかねないような、そんなあざけりの声さえ耳の底に聞きつけることがある。この周囲のものの誤解から来る敵意ほど、彼の心を悲しませるものもなかった。
「おれには敵がある。」
彼はその考えに落ちて行った。さてこそ、妻の耳に聞こえないものも彼の耳に聞こえ、妻の目に見えないものも彼の目に見えるのはそのためであった。
過ぐる年の献扇(けんせん)事件の日、大衆は実に圧倒するような勢いで彼の方へ押し寄せて来た。彼はあの東京|神田橋(かんだばし)見附跡(みつけあと)の外での多勢の混雑を今だに忘れることができない。「訴人だ、訴人だ」と言って互いに呼びかわした人たちの声はまだ彼の耳にある。何か不敬漢でもあらわれたかのように、争って彼の方へ押し寄せて来た人たちの目つきはまだ彼の記憶に新しい。けれどもそういう大衆も彼の敵ではなかった。暗い中世の墓場から飛び出して大衆の中に隠れている幽霊こそ彼の敵だ。明治維新の大きな破壊の中からあらわれて来た仮装者の多くは、彼にとっては百鬼夜行の行列を見るごときものであった。皆、化け物だ、と彼は考えた。
この世の戦いに疲れた半蔵にも、まだひるまないだけの老いた骨はある。彼はわき上がる深い悲しみをしのごうとして、たち上がった。ひらめき発する金色な眼花の光彩は、あだかも空際(くうさい)を縫って通る火花のように、また彼の前に入り乱れた。彼は何ものかを待ち受けるような態度をとって震えた。
「さあ、攻めるなら攻めて来い。」
もはや、二百十日もすでに過ぎ去り、彼岸(ひがん)を前にして、急にはげしい夕立があるかと思うと、それの谷々を通り過ぎたあとには一層|恵那山(えなさん)も近くあざやかに見えるような日が来た。農家では草刈りや田圃(たんぼ)の稗取(ひえと)りなぞにいそがしいころである。午後に一人の百姓が改まった顔つきで半蔵を見に来た。旧本陣時代には青山の家に出入りした十三人の百姓の中の一人だ。
「お師匠さまや先の大旦那(おおだんな)には、格別ひいきにしていただいたで。」
とその百姓は前置きをして、ある別れの心を告げに来た。聞いて見ると、その男は年貢米(ねんぐまい)三斗七升に当たる宅地を二年前に宗太から買い取る約束をしたもので、代金二十五円九十銭も一時には支払えないところから、内金としてまず五円九十銭だけを納め、残り二十円も追い追いと支払って、その年の九月で宅地も完全にその男の所有に帰し、売券をも請け取ったとのこと。隠居の半蔵にそれをことわるのも異なものだが、一言の挨拶(あいさつ)なしに旧主人と手をわかつには忍びかねるという。
「何か用があったら、いつでもそう言ってよこしておくれなんしょや。兼吉や桑作同様に、おれも手伝いに来てあげる。はい、長々お世話さまになりました。」
との言葉をも残した。その男のいう兼吉や桑作も、薬師道の上の畑とか、あるいは裏畑とかを宗太から買い取った百姓仲間だ。その時になって見ると、青山家親類会議の結果として永遠維持の方法を設けた家法改革とは名ばかり、挨拶に来る出入りの百姓が置いて行く言葉まで、半蔵の身に迫らないものはない。
夕方に、半蔵は静の屋の周囲を一回りして帰って来た。夕飯後、二階に上がって行って見ると、空には星がある。月の出もややおそくなったころであったが、青く底光りのするような涼しい光が宵(よい)の空を流れている。その時の彼は秋らしく澄み渡って来た物象の威厳に打たれて、長い時の流れの方に心を誘われた。先師篤胤ののこした忘れがたい言葉も、また彼の胸に浮かんで来た。
「一切は神の心であろうでござる。」
彼はおのれら一族の運命をもそこへ持って行って見た。空の奥の空、天の奥の天、そこにはあらわれたり隠れたりする星の姿があだかも人間歴史の運行を語るかのように高くかかっている。あそこに梅田雲浜(うめだうんぴん)があり、橋本|左内(さない)があり、頼鴨崖(らいおうがい)があり、藤田東湖(ふじたとうこ)があり、真木和泉(まきいずみ)があり、ここに岩瀬肥後(いわせひご)があり、吉田松陰があり、高橋|作左衛門(さくざえもん)があり、土生玄磧(はぶげんせき)があり、渡辺崋山(わたなべかざん)があり、高野長英があると指(さ)して数えることができた。攘夷(じょうい)と言い開港と言って時代の悩みを悩んで行ったそれらの諸天にかかる星も、いずれもこの国に高い運命の潜むことを信じないものはなく、一方には西洋を受けいれながら一方には西洋と戦わなかったものもない。この国維新の途上に倒れて行った幾多の惜しい犠牲者のことに想(おも)いくらべたら、彼半蔵なぞの前に横たわる困難は物の数でもなかった。彼はよく若い時分に、お民の兄の寿平次から、夢の多い人だと言ってからかわれたものだが、どうしてこんなことで夢が多いどころか、まだまだそれが足りないのだ、と彼には思われて来た。
月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万(よろ)ずの物がしみとおるような力で彼の内部(なか)までもはいって来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当につかむこともできないそのおのれの愚かさ拙(つた)なさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。 

「お師匠さま、どちらへ。」
そこは馬籠(まごめ)の町内から万福寺の方へ通う田圃(たんぼ)の間の寺道だ。笹屋(ささや)の庄助(しょうすけ)と小笹屋の勝之助の二人が半蔵を見かけて、声をかけた。
「おれか。おれはこれからお寺へ行くところさ。」
「お寺へなし。」
「お前さまもまた、おもしろい格好をして行かっせるなし。」
こんな言葉も半蔵と庄助らの間にかわされた。半蔵は以前の敬義学校へ児童(こども)を教えに通った時と同じような袴(はかま)を着け、村夫子(そんふうし)らしい草履(ぞうり)ばきで、それに青い蕗(ふき)の葉を頭にかぶっている。
「今、ここへ来る途中で、おれは村の子供たちにあった。その子供たちが蕗(ふき)の葉をかぶって遊んでいたんで、おれも一つもらって、頭へ載せて来たさ。」
と半蔵は至極(しごく)大まじめだ。さびしさに浮かれる風狂の士か。蓮(はす)の葉をかぶって吟じ歩いたという渡辺|方壺(ほうこ)(木曾福島の故代官山村良由が師事した人)のたぐいか。半蔵のは、そうでもなかった。そんなトボけた格好でもしなければ、寺なぞへ行かれるものではないという調子だった。庄助と勝之助とはふき出さないばかりにおかしさをこらえて、何のための万福寺訪問かと尋ねる。
「ええ、うるさく物をききたがる人たちだ。そんなら言って聞かせるが、おれはこれから行って寺を焼き捨てる。あんな寺なぞは無用の物だ。」
との半蔵の答えだ。これには庄助も勝之助も、半蔵が戯れているとしか思えなかった。九月も下旬になったころのことで、ちょうど馬籠は秋の祭りの前日にあたる。荒町にある村社|諏訪(すわ)分社の禰宜(ねぎ)松下千里はもとより、この祭りを盛んにすることにかけては神坂(みさか)村小学校の訓導小倉啓助が大いに力瘤(ちからこぶ)を入れている。というのは、この訓導はもともと禰宜の出身だからであった。子供にはそろいの半被(はっぴ)を着せよ、囃子(はやし)仲間は町を練り歩け、村芝居(むらしばい)結構、随分おもしろくやれやれと言い出したのも啓助だ。こんな熱心家がある上に、一年に一度の祭りの日を迎えようとする氏子(うじこ)連中の意気込みと来たら、その楽しさは祭礼当日よりも、むしろそれを待ち受ける日にあるかのよう。笛だ三味線(しゃみせん)だと町内の若者は囃子のけいこに夢中になっている時で、騒がしくにぎやかな太鼓の音が寺道までも聞こえて来ている。
庄助や勝之助はこんな祭りのしたくを世話するからだではあったが、しかし半蔵の言葉が気にかかって、まさか彼が先祖青山道斎のこの村のために建立した由緒(ゆいしょ)の深い万福寺を焼き捨てに行くとは真(ま)に受けもしなかったが、なお二人(ふたり)してそのあとをつけた。馬籠言葉でいう小山の「そんで」(背後)まで行くと、寺道はそこで折れ曲がって、傾斜の地勢を登るようになる。蕗(ふき)の葉をかぶった半蔵の後ろ姿は、いつのまにか古い杉(すぎ)の木立ちのかげに隠れた。
山門の前の石段を踏んで寺の境内へ出て見た時の庄助らの驚きはなかった。本堂の正面にある障子の前に立って袂(たもと)からマッチを取り出す半蔵をそこに見つけた。
「気狂(きちが)い。」
思わず見合わせた庄助らの目がそれを言った。その時、半蔵の放った火が障子に燃え上がったので、驚きあわてた勝之助はそれを消し止めようとして急いで羽織(はおり)を脱いだ。人を呼ぶ声、手桶(ておけ)の水を運ぶ音、走り回る寺男や徒弟僧などのにわかな騒ぎの中で、半蔵はいちはやくかけ寄る庄助の手に後方(うしろ)から抱き止められていた。放火も大事には至らなかったが、半焼けになった障子は見るかげもなく破られ、本堂の前あたりは水だらけになった。この混雑が静まった時になっても、まだ庄助は半蔵の腕を堅くつかんだまま、その手をゆるめようとはしなかった。 
終の章

 


とりあえず、笹屋庄助(ささやしょうすけ)と小笹屋勝之助(こざさやかつのすけ)の二人(ふたり)は青山の本家まで半蔵を連れ戻(もど)った。ちょうど旧本陣の母屋(もや)を借りて住む医師小島|拙斎(せっさい)は名古屋へ出張中の時であり、青山の当主宗太も木曾(きそ)福島の勤め先の方で馬籠(まごめ)には留守居の家族ばかり残る時であったが、これは捨て置くべき場合ではないとして、親戚(しんせき)旧知のものがにわかな評定(ひょうじょう)のために旧本陣に集まった。とにもかくにも宗太に来てもらおうと言って、木曾福島へ向け夜通しの飛脚に立つものがある。一同は相談の上、半蔵その人をば旧本陣の店座敷に押しとどめ、小用に立つ時でも見張りのものをつけることにした。
西|筑摩(ちくま)の郡書記として勤め先にあった宗太はこの通知に接し、取るものも取りあえず木曾路を急いで来て、祭りの日の午後に馬籠に着いた。彼は栄吉や清助らの意見に聞き、一方には興奮する半蔵をなだめ、一方にはこれ以上の迷惑を村のものにかけまいとした。一村の父というべき半蔵にも万福寺の本堂へ火を放とうとするような行ないがあって見ると、周囲にあるものは皆驚いてしまって、早速(さっそく)山口村の医師|杏庵(きょうあん)老人を呼び迎えその意見を求めることに一致した。一同のおそれは、献扇(けんせん)事件以来とかくの評判のある半蔵が平常(ふだん)の様子から推して、いよいよお師匠さまもホンモノかということであった。
こんな取り込みの中で、秋の祭礼は進行した。青山の家に縁故の深い清助などは半蔵のことを心配して、祭りの前夜は旧本陣に詰めきり、自宅に帰って寝るころに一番|鶏(どり)の声をきいたと言っていたが、その清助も祭りの世話人の一人(ひとり)であるところから、町の子供たちが村社の鳥居前から動き出すころには自分で拍子木(ひょうしぎ)をさげて行って行列の音頭(おんど)をとった。羽織袴(はおりはかま)の役人衆の後ろには大太鼓が続き、禰宜(ねぎ)の松下千里も烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の礼装で馬にまたがりながらその行列の中にあった。
馬籠での祭礼復興と聞いて、泊まりがけで近村から入り込んで来る農家の男女もすくなくない。一里二里の山路を通って来る娘たちなぞは、いずれも一年に一度の祭礼狂言を見ることを楽しみにしないものはない。あのいたいけな馬籠の子供たちがそろいの黒い半被(はっぴ)に、白くあらわした大きな定紋(じょうもん)を背中に着け、黄色な火の用心の巾着(きんちゃく)を腰にぶらさげながら町を練り歩くなぞは、近年にはないことだと言われた。旧(ふる)い街道の空には笛や三味線の音も起こり、伏見屋の前あたりでは木曾ぶしにつれて踊りの輪を描く若者の群れの「なかのりさん」もはじまるというにぎやかさだ。これで旧本陣のお師匠さまが引き起こしたような思いがけない出来事もなくて、一緒にこの祭りの日を楽しむことができたならと、それを言わないものもなかった。
どうして半蔵のような人が青山の家に縁故の深い万福寺を焼き捨てようと思い立ったろう。多くの村民にはどこにもその理由が見いだせなかった。なぜかなら、遠い昔に禅宗に帰依(きえ)した青山の先祖道斎が村民のために建立(こんりゅう)したのも万福寺であり、今日の住持|松雲和尚(しょううんおしょう)はまたこんな山村に過ぎたほどの人で、その性質の善良なことや、人を待つのに厚いことなぞは半蔵自身ですら日ごろ感謝していいと言っていたくらいだからである。たとえば、彼岸の来るころには中日までに村じゅうを托鉢(たくはつ)して回り、仏前には団子(だんご)菓子を供えて厚く各戸の霊をまつり、払暁(ふつぎょう)十八声の大鐘、朝課の読経(どきょう)、同じく法鼓なぞを欠かしたことのないのもあの和尚である。またたとえば、観音堂(かんのんどう)へ念仏に見える町内の婆(ばば)たちのためには茶や菓子を出し、稲荷大明神(いなりだいみょうじん)を祭りたいという若い衆のためには寺の地所を貸し与え、檀家(だんか)の重立ったところへは礼ごころまでの般若札(はんにゃふだ)、納豆(なっとう)、あるいは竹の子なぞを配ることを忘れないで、およそ村民との親しみを深くすることは何事にかぎらずそれを寺の年中行事のようにして来たのもあの和尚である。こんなに勤行(ごんぎょう)をおこたらない松雲のよく護(まも)っている寺を無用な物として、それを焼き捨てねばならないというは、ほとほとだれにも考えられないことであった。
山口村の杏庵老人は祭りの最中にも旧本陣へ駕籠(かご)を急がせて来た。半蔵のことを心配して前日以来かわるがわる店座敷に付ききりでいる親類仲間のまちまちな意見も、老人の診断一つで決するはずであった。万事のみ込み顔な杏庵は早速半蔵の居間へ通り、脈を取ってしらべて見たが、一度や二度の診察ぐらいでそうはっきりしたことも医師には言えないものだとの挨拶(あいさつ)である。ただ杏庵は日ごろ好酒家の半蔵が飲み過ぎの癖をよく承知していたし、それにその人の不眠の症状や顔のようすなぞから推して、すくなくも精神に異状のあるものと認め、病人の手当てを怠らないようにとの注意を与えた。眠り薬を調合して届けるから、それを茶の中へ入れて本人には気づかれないように勧めて見てくれよとの言葉をも残した。ところが、かんじんの本人は一向病気だとも思っていない様子で、まるで狐(きつね)にでもつままれるような顔をしながら医師の診察を受けたということが知れわたると、村のものが騒ぎ出した。もしお師匠さまが看護のものの目を盗んで部屋(へや)から逃げ出しでもしようものなら、この先どんなむちゃをやり出すかしれたものではないと言うものがある。あの万福寺での放火の時、もしだれもお師匠さまを抱きとめるものがいなかったとしたら、火はたちまち本堂の障子に燃え上がったであろう、万一その火が五百二十|把(ぱ)からの萱(かや)をのせた屋根へでも燃え抜けたが最後、仏壇や位牌堂(いはいどう)はもとより、故伏見屋金兵衛が記念として本堂の廊下に残った大太鼓も、故|蘭渓(らんけい)の苦心をとどめた絵襖(えぶすま)も、ことごとく火となったであろう、そうなれば客殿、方丈、庫裏(くり)の台所も危ない、ひょっとすると寺の土蔵まで焼け落ちたかもしれない、こんな事が公然と真昼間に行なわれて、しかもキ印(じるし)のする事でないとしたら、自分なぞは首をくくって死んでしまいたいと言うものがある。幸いこの放火は大事に至らなかったようなものの、警察の分署へ聞こえたら必ずやかましかろう、もし青山の親戚(しんせき)一同にこの事を内済にする意向があるなら、なぜ早くお師匠さまを安全な場所に移し、厳重な見張りをつけ、村のもの一同もまた安心して眠られるような適当な方法を取らないのかと息まくものもある。
半蔵の従兄(いとこ)、栄吉は親類仲間でも決断のある人である。事ここに至っては栄吉も余儀ない場合であるとして、翌朝は早くから下男の佐吉に命じ裏の木小屋の一部を片づけさせ、そこを半蔵が座敷牢(ざしきろう)の位置と定めた。早速村の大工をも呼びよせて、急ごしらえの高い窓、湿気を防ぐための床張(ゆかば)りから、その部屋に続いて看護するものが寝泊まりする別室の設備まで、万端手落ちのないように工事を急がせた。栄吉はまた、町の重立った人々にも検分に来てもらって、木小屋のなかの西のはずれを座敷牢とし、用心よくすべきところには鍵(かぎ)をかけるようにしたことなぞを説き明かした。なにしろ背は高く、足袋(たび)は図(ず)なしと言われるほど大きなものをはき、腕の力とても相応にある半蔵のような人をいれる場処とあって、障子を立てる部分には特にその外側に堅牢な荒い格子(こうし)を造りつけることにした。 

座敷牢(ざしきろう)はできた。そこで栄吉は親戚(しんせき)旧知のものを旧本陣の一室に呼び集めてそのことを告げ、造り改めた裏の木小屋の一部にはすでに畳を入れるまでの準備もととのったことを語り、さてそちらの方へ半蔵を導くには、どう彼を説得したものかの難題を一同の前に持ち出した。この説得役には笹屋庄助(ささやしょうすけ)が選ばれた。庄助なら半蔵の気に入りで、万福寺境内からも彼を連れ戻(もど)って来たように、この場合とても彼を言いなだめることができようということで。
いかな旧|組頭(くみがしら)の庄助もこの役回りには当惑した。庄助が店座敷の方へ行って見ると、ちょうど半蔵はひとりいる時で、円形(まるがた)の鏡なぞを取り出し、それに息を吹きかけ、しきりに鏡の面をふいているところであった。それはずっと以前に彼の手に入れた古鏡で、裏面には雲形の彫刻などがしてあり、携帯用の紐(ひも)の付いたものである。この旧(ふる)い屋敷の母屋(もや)を医師小島拙斎に貸し渡すようになってからも、上段の間だけは神殿として手をつけずにあって、その床柱の上に掛けてあったものである。長いこと磨師(とぎし)の手にもかけないで、うっちゃらかしてあったのもその鏡である。
「庄助さ、お互いに年を取ると顔の形も変わるものさね。なんだかこの節は自分の顔が自分じゃないような気がする。」
半蔵はあまり周囲のものが自分を病人扱いにするので、古い鏡なぞを取り出して見る気になったというふうに、それを庄助に言って見せた。彼はよくも映らない自分の姿を見ようとして、しきりにその曇った鏡に見入っていた。そして、言葉をついで、
「そう言えば、この二、三日はおれも弱ったぞ。恐ろしいやつに襲われるような気がして、夜もろくろく休めなかった。」
「お師匠さま、お前さまはよく敵が来るなんて言わっせるが、そんなものがどこにおらすか。」と庄助は言う。
「そりゃ、お前たちに見えなくても、おれの目には見える。あいつはいろいろな仮面(めん)をかぶって来るやつだ。化けて来るやつだ。どうして、油断もすきもあったもんじゃないぞ。恐ろしい、恐ろしい――庄助さ、大きな声じゃ言えないが、この古い家の縁の下にだってあの化け物は隠れているよ。」
そう言って、半蔵はなおも鏡の面を根気にふきながら、相手の庄助に身をすくめて見せた。
その時まで庄助は栄吉らから頼まれて来たことをそこへ切り出そうとして、しかもそれを言い得ないでいた。庄助は正直一徹で聞こえた男で、こんな場合に一策を案じるというふうの人ではなかったから、うまいことを言って半蔵を連れ出すつもりはもとよりなかったが、しかし裏の木小屋の方に彼を待ち受けるものが座敷牢とは言いじょう、一面にはそれは病室に相違ないから、その病室での養生(ようじょう)を言いたてて、それによって半蔵を動かそうとした。この庄助としては、ただただ半蔵の健康状態について村のもの一同心配していることを告げ、すでに病室の用意のできていることを語り、皆の行けというところへ半蔵にもおとなしく行ってもらったら、薬には事を欠かさせまいし、日ごろお師匠さまの世話になったものがかわるがわる看護に当たろうからと、頼むようにするほかの手はなかった。庄助は幾度か躊躇(ちゅうちょ)したあとで、そのことを半蔵の前に言い出した。
「ふうん。庄助さ、お前までこのおれを病人扱いにするのかい。そんな話をきくとおれは可笑(おか)しくなる。」とは半蔵の返事だ。
「でも、お師匠さまは御自分だって、気分が悪いぐらいのことは思わっせるずら。」
「いや、おれはそんな病気じゃないぞ。」
と答えて、半蔵は聞き入れなかった。
実に急激に、半蔵の運命は窮まって行った。栄吉らは別室で庄助の返事を待っていたが、その庄助が店座敷からむなしく引き返して行って、容易には親類仲間の意見に服しそうもない半蔵の様子を伝えると、いずれも顔を見合わせて、ほとほと彼|一人(ひとり)の処置にこまってしまった。旧|問屋(といや)の九郎兵衛をはじめ、町内の重立った旦那衆にも集まってもらって、広い囲炉裏ばたに続いた寛(くつろ)ぎの間(ま)ではまたまた一同の評定があった。何しろ旧い漢法の医術はすたれ、新しい治療の方法もまだ進まなかった当時で、ことに馬籠のような土地柄では良医の助言も求められないままに、この際半蔵のからだに縄(なわ)をかけるほどの非常手段に訴えてまでも座敷牢に引き立て、一方には彼の脱出を防ぎ、一方には狼狽(ろうばい)する村の人たちを取りしずめねばならないということになった。これは勢いであって、その座に集まる人々にはもはや避けがたく思われたことである。ところが、だれもお師匠さまを縛るものがない。その時、旧宿役人仲間でも一番年下に当たる蓬莱屋(ほうらいや)の新助が進み出て、これは宗太を出すにかぎる、宗太なら現に青山の当主であるからその人にさせるがいい、お師匠さまも自分の相続者までが病気と認めると聞いたら我を折るようになるだろうと言い出した。以前から旧本陣に出入りの百姓らにも手伝わせること、日ごろ二十何貫の大兵(だいひょう)肥満を誇り腕力のたくましいことにかけては町内に並ぶもののない問屋九郎兵衛のごとき人にはことに見張りに働いてもらうこと、それらはすべて馬籠での知恵者と聞こえた新助が考案に出た。
いよいよ一同の評議は一決した。そのうちに秋の日も暮れかかった。栄吉らの勧めとあって、青山の家族の人々も仲の間に立ち会えという。このことを聞いたお民などは腰を抜かさないばかりに驚いて、よめのお槇(まき)に助けられながらかろうじて足を運んだ。そこへ半蔵が店座敷から清助に連れられて来た。
「お父(とっ)さん、子が親を縛るというはないはずですが、御病気ですから堪忍(かんにん)してください。」
と半蔵の前にひざまずいて言ったのは宗太だ。
今や半蔵を縛りに来たものは現在のわが子、血につながる親戚、かつて彼が学問の手引きした同郷の人々、さもなければ半生を通じて彼の望みをかけた百姓たちである。彼はハッとした。
「お前たちは、おれを狂人(きちがい)と思ってくれるか。」
彼は皆の前にそれを言って、思わずハラハラと涙を落とした。その時、栄吉の手から縄を受け取った宗太が自分の前に来てうやうやしく一礼するのを見ると、彼はなんらの抵抗なしに、自分の手を後方(うしろ)に回した。そして子の縄を受けた。
九月末の夕やみが迫って来ている中を母屋(もや)から木小屋へと引き立てられて行ったのも、この半蔵である。裏の土蔵の前あたりには彼を待ち受ける下男の佐吉もいた。佐吉は暗い柿(かき)の木の下にしゃがみ、土の上に片膝(かたひざ)をついて、変わり果てた旧主人が通り過ぎるまではそこに頭をあげ得なかった。 

植松の家に嫁(かたづ)いて行っているお粂(くめ)がこの報知(しらせ)に接して、父の見舞いに急いで来たのは、やがて十月の十日過ぎであった。彼女が夫の弓夫もすでに木曾福島への帰参のかなったころで、長い留守居を預かって来た大番頭をはじめ小僧たちにまで迎え入れられ、先代|菖助(しょうすけ)がのこした屋敷の大黒柱の下にすわり、大いに心を入れ替えて家伝製薬の業に従事するという時であった。この馬籠訪問には、彼女はめったに離れたことのない木曾福島の家を離れ、子供も連れずであった。ただ商用で美濃路(みのじ)まで行くという薬方(くすりかた)の手代に途中を見送ってもらうことにした。
「あゝ、お父(とっ)さんもとうとう狂っておしまいなすったか。」
その考えは、駒(こま)ヶ嶽(たけ)も後方(うしろ)に見て木曾路を西へ急いで来る時の彼女の胸を往(い)ったり来たりした。彼女はお槇(まき)が代筆した母お民からの手紙でも読み、弟宗太も西|筑摩(ちくま)郡書記の身でそう馬籠での長逗留(ながとうりゅう)は許されないとあって、木曾福島の勤め先へ引き返した時のじきじきの話にも聞いて、ほぼ父のようすを知っていた。五人ある姉弟(きょうだい)の中でも、彼女は父のそばに一番長く暮らして見たし、父の感化を受けることも一番多かったから、父のさびしさも彼女にはよくわかった。彼女は父のことを考えるたびに、歩きながらでもときどき涙ぐましくなることがあった。
三留野(みどの)泊まりで、お粂は妻籠(つまご)に近づいた。ちょうどその村の入り口に当たる木曾川のほとりに一軒の休み茶屋が見えるところまで行くと、賤母(しずも)の森林地帯に沿うて河(かわ)づたいに新しい県道を開鑿(かいさく)しようとする工事も始まっているころであった。遠くの方で岩壁を爆破させる火薬の音は山々谷々に響き渡った。旧(ふる)い街道筋をも変えずには置かないようなその岩石の裂ける音は恐ろしげにお粂の耳を打つ。その時、木曾風俗の軽袗(かるさん)ばきでお粂らの方へ河岸を走って来る二人(ふたり)づれの旦那衆がある。見ると二人とも跣足(はだし)で土を踏んでいる。両手を振りながら歓呼をもあげている。その一人が伯父(おじ)の寿平次だった。長い痔疾(じしつ)の全治した喜びのあまりに、同病|相憐(あいあわれ)んで来た伯父たちは夢中になって河岸をかけ回り、互いに祝意を表し合っているというところだった。
お粂と供の手代が着いたのを見ると、寿平次は長い病苦も忘れたように両手をひろげて見せ、大事な入れ歯も吹き出さないばかりに笑って、付近の休み茶屋の方へお粂らを誘った。
「お粂はこれから馬籠へ行く人か。お前も御苦労さまだ。まあ、おれの家へ寄って休んで行くさ。」
「伯父さん、宗太も福島の方へ戻(もど)ってまいりましてね、馬籠のお父(とっ)さんのことはいろいろ彼(あれ)から聞きましたよ。」
「そうかい。宗太は吾家(うち)へも寄って行った。正己(まさみ)もね、あれからずっと朝鮮の方だが、おれの出した手紙を見たら彼(あれ)も驚くだろう。二、三日前に、おれも半蔵さんの見舞いに行って来た。」
「なんですか、伯父さんの御覧なすったところじゃ、お父さんのようすはどんなでしょうか。」
「それがね、もうすこし模様を見ないと、おれにはなんとも言えん。ホイ、おれはこんなおもしろい格好で話ばかりしていて、まだ足も洗わなかった。お粂、お前はそこに腰掛けていておくれ。」
寿平次は勝手を知った休み茶屋の奥の方へ足を洗いに行った。やがて下駄(げた)ばきになって、お粂らのいるところへ戻(もど)って来て、
「やれやれ、おれもこれで活(い)き返ったというものだ。きょうは久しぶりで木曾の山猿(やまざる)に帰った。お前のお母(っか)さん(お民)もあれで痔持ちだが、このおれの清々(せいせい)したこころもちを分けてやりたいようだ。どうも痔持ちというやつは、自分ながらむつかしい顔ばかりしていて、養子(正己のこと)にはきらわれどおしさ。」
こんなことを言って戯れる寿平次も、お粂らと連れだって休み茶屋を離れるころはしんみりとした調子になる。その位置から寿平次の家族が住む妻籠の町まではまだ数町ほどの距離にある。大河の勢いで奥筋の方角から流れて来ている木曾川にも別れて、山や丘の多い地勢を次第に登るようになるのも、妻籠からである。
寿平次は言った。
「まったく、半蔵さんがあんなことになろうとはだれも思わなかった。一寸先のことはわからんね。あれで医者から見ると、気の違った人というものはいくらこちらから呼びかけても反応のないようなものだそうだね。世離れたもの――医者にはそういう感じがするそうだね。そうだろうなあ、全く世の中とは交渉がなくなってしまうからなあ。医者がああいう患者を置いて来るのは、墓場に置いて来るような気がするという話だが、それが本当のところだろうね。」
父のことが心にかかって、お粂はそう長いこと妻籠の伯父の家にも時を送らなかった。三、四年ぶりで彼女は妻籠から馬籠への峠道を踏んだ。そこは同じ旧(ふる)い街道筋ではあるが、白木(しらき)の番所の跡があるような深い森林の間で、場処によっては追剥(おいはぎ)の出たといううわさの残った寂しいところをも通り過ぎなければ、馬籠峠の上に出られない。けれども木曾山らしいのもまたその峠道で、行く先に栗(くり)の多い林なぞがお粂にいろいろなことを思い出させた。旦那(だんな)が木曾福島への帰参のかなったころ、彼女は旦那と共に植松の旧い家の方で一度父半蔵を迎えたこともある。彼女はその時の父がいっぱいにねじ込んだ書物でその懐(ふところ)をふくらませながら訪(たず)ねて来たことを覚えている。あれからの彼女は旦那を助けて家を整理するかたわら、日夜|兄妹(きょうだい)二人(ふたり)の子供の養育に心を砕いたが、その兄の方の子がもはや数え歳(どし)の十二にもなった。朝に晩に彼女の言い暮らしたのは、これまで丹精(たんせい)して来た植松の家にゆっくり父を迎えたいことであった。今となっては残念ながらそれもかなわない。五十余年の涙の多い生涯(しょうがい)を送った父が最後に行きついたところは、そんな座敷牢(ざしきろう)であるかと思うと、彼女は何かこう自分の内にもある親譲りのさわりたくないものに否(いや)でも応でもさわるような気がして、その心から言いあらわしがたい恐怖を誘われた。
馬籠にある彼女の生家(さと)も変わった。彼女は旧(ふる)い屋敷の内の裏二階まで行って、久しぶりで祖母のおまんや嫂(あによめ)のお槇(まき)と一緒になることができた。父の看護に余念のないという母お民も、彼女の着いたことを聞いて、木小屋の方から飛んでやって来た。ちょうど父はよく眠っているところだと言って、木小屋に働いている下男佐吉に気をつけてもらうよう言い置いて来たと語り聞かせるのもお民だ。父の病室が造られる前後の騒ぎの夢のようであったことから、村の人がそれぞれ手分けをして看護に来てくれるというのは、これもお師匠さまと言われた徳であろうかと語り聞かせるのもまたお民だ。お粂の見舞いに来たことは、だれよりもこの母を力づけた。というのは、おまんもすでに七十八歳の老婦人ではあるが、日ごろから思ったことを口にするような人ではないから、半蔵の乱心についてはどうあさましく考えているやも測りがたく、お槇はまた前掛けをかけたぐらいでは隠し切れないほどの身重になっていて、肩で息をしているような人にそう働かせることもならないからであった。そういう中で、半蔵を看護するお民の苦心も一通りではなかった。
お民は娘に言った。
「でも、お粂、あれでお父(とっ)さんもそうあばれるようなことはなさらない。最初のうちは村の衆も心配して、二人ぐらいずつ交代で夜も昼も詰め切りに詰めていましたよ。この節だって、お前、毎日のようにだれかしら来てはくれますがね、最初のうちのようなことはなくなりました。お父(とっ)さんは本を入れてくれろというから、入れてあげると、半日すわって読んでいて、口もおききなさらないことがある。」
「まあ、半蔵さんがあんなことになろうとはだれも思わなかったッて、妻籠の伯父(おじ)さんもそう言っておいででした。お酒がすこしいき過ぎましたねえ。」
とお粂も答えて、母と共に嘆息した。
隣家伏見屋の酒店に番頭格として働いている清助がそこへ顔を見せた。新酒売り出しのころにもかかわらず、昔を忘れない清助はそのいそがしいなかにわずかの間を見つけ、裏づたいに酒蔵を回っては青山方の木小屋へ見回りに来る。お粂の着いたことも清助は佐吉から聞いて来たという。
「いやはや、今度という今度はわたしも弱りました。粂さまは何も御存じないでしょうが、亀屋(かめや)(栄吉のこと)と二人で憎まれ役でさ。お師匠さまにはあの隠宅もありますし、これがただの気鬱症(きうつしょう)か何かなら、だれもあんな暗いところへお師匠さまを入れたかありません。お寺へ火をつけるようなことがあったものですから、それから大(おお)やかまし。おまけに、ちょうど馬籠の祭礼の最中で、皆あわててしまいましたわい。」
清助は清助らしいことをかき口説(くど)いた。薬の力で父がぐっすり眠っているという間、お粂は裏二階に足を休めたが、やがて母や清助に伴われながら木小屋の方への降り口にある深い井戸について、土蔵のそばの石段を降りた。
北と西は木戸だ。三棟(みむね)ある建物のうしろには竹の大藪(おおやぶ)がめぐらしてあって、東南の方角にあたる石垣(いしがき)の上には母屋(もや)の屋根が見上げるほど高い位置にある。これが馬籠旧本陣の裏側にあたるところで、石垣のすぐ下に掘ってある池も深い。武家と公役との宿泊や休息の場処に当てられた昔は、いざと言えば裏口へ抜けられる後方の設備の用心深さを語るかのような、古い陣屋風の意匠がそこに残っている。
三棟ある建物のうち、その二棟は米倉として使用し来たったところであり、それに連なる一棟が木小屋である。小屋とは言いながら、そこは二階建ての古い建物で、間口も広く造ってある。中央の土間もかなり広く取ってある。下男の佐吉が長いこと自分の世界として働いて来たのもそこで、山から背負って来る薪(まき)、松葉の類は皆その小屋に積まれ、藁(わら)もそこにたくわえられた。父半蔵の座敷牢はそんな竹の大藪を背後(うしろ)にしたところに隠れていた。
お粂は母と共に、清助が隣家の方へ裏づたいに帰って行くのにも別れ、小屋の入り口に鎌(かま)を研(と)いでいた佐吉にも声をかけて置いて、まず付き添いのもののいる別室の方に父が目をさますまで待った。持って生まれた濃情が半蔵のからだからこんな気の鬱(うっ)する病を引き出したのか、あるいは病ゆえにこんなに人恋しく思うのであるか、いずれともお民には言えないとのことであったが、彼女は夫が遠く離れている子にもしきりにあいたがって、東京の和助のうわさの出ない日もないことなぞを娘に語り聞かせる。お民はまた、この木小屋に移ってからの半蔵に部屋のなかを人知れず歩き回る癖のついたことを言って、あちこち、あちこちと往(い)ったり来たりする夫の姿を見かけるのは実に気の毒だと語るから、それは父の運動不足からであろうとお粂が母に答えて見せた。そのうちに裏の竹藪へ来る風の音にでも目をさましたかして、半蔵の呼ぶ声がする。お粂は母について父の臥(ね)たり起きたりする部屋にはいった。親子のものが久しぶりでの対面はその座敷牢の内であった。
その時、お粂は考えて、言葉にも挙動にもなるべく父を病人扱いにしないようにした。それが半蔵の心をよろこばせた。彼は物憂(ものう)い幽閉の身を忘れたかのように、お民やお粂に向かって何か物を書いて見たいと言い、筆紙の類(たぐい)を入れてくれと頼んだ。
「それがいい。」とお粂も言った。「何か書いてごらんなさるがいい。紙や筆ぐらいは入れてあげますよ。お父(とっ)さんの気が晴れるようになさるのが何よりですからね。」
お粂は人手を借りるまでもなく、自分自身に父の頼むものを整えようとして木小屋を出た。彼女は祖母たちのいる裏二階へ行ってそのことを話して見ると、そういうたぐいのものは皆隠宅(静(しず)の屋(や))の方にしまい込んであった。その足で彼女は隣家の伏見屋まで頼みに行って、父の気に入りそうな紙の類を分けてもらうことにした。伏見屋には未亡人(みぼうじん)のお富(とみ)がある。この人は先代伊之助が生前に愛用したという形見の筆なぞをも探(さが)し出して貸してくれたので、お粂はそれらの筆紙を小脇(こわき)にかかえながら木小屋へ引き返して来た。硯(すずり)や墨は裏二階にあるもので間に合わせた。彼女は父のためにその墨を磨(す)って、次第に濃くなって行く墨のにおいをかぎながら、多くの楽しい日を父と共に送った娘の昔をお民のそばに思い出していた。
半蔵がそのさびしい境涯(きょうがい)の中で、古歌なぞを紙の上に書きつけ、忍ぶにあまる昔の人の述懐を忍んでわずかに幽閉中の慰めとするようになったのも、その時からであった。お粂が伏見屋から分けてもらって来た紙の中には、めずらしいものもある。越前(えちぜん)産の大高檀紙(おおたかだんし)と呼ぶものである。先代伊之助あたりののこして置いて行ったものと見えて、ちょっとこの山家で手に入りそうもない品であるが、ほどのよい古びと共に、しぼの手ざわりとてもなかなかにゆかしい料紙である。半蔵は思うところをその紙の上に書きつけたのであった。
憂国之情慷慨之涙之士
発狂之人。豈其不悲乎。無識人之
眼亦已甚矣。
   観斎
観斎とは、静の屋あるいは観山楼にちなんだ彼が晩年の号である。お粂の目には、父が筆のはこびにすこしの狂いも見いだされなかった。墨痕淋漓(ぼっこんりんり)としたその真剣さはかえって彼女の胸に迫った。
お粂も実はそう長く馬籠にとどまれないで、二、三日の予定で父を見舞いに来た人であった。めったにひとりで家を離れたためしのない彼女はその方のことも心にかかり、それに馬籠と木曾福島との間は途中一晩は泊まらねばならなかったから、この往復だけでも女の足には四日かかった。そこで生家(さと)に着いた三日目の午後には彼女は父にも暇乞(いとまご)いして、せめて妻籠泊まりで帰りの路(みち)につこうとしたが、この暇乞いする機会をとらえることがまた容易でなかった。というのは、父の見舞いに来る人も、来る人も、しまいには皆隠れるように消えて行くというふうで、その父のさびしがりようがお粂にも暇を告げさせないからであった。
結局、お粂もまた隠れるようにして父から隠れて行くのほかはなかったのである。彼女はそれとなく暇乞いのつもりで、しばらく座敷牢の外に時を送った。秋はもはや木小屋の周囲にも深い。父の回復を祷(いの)ろうとして裏の稲荷(いなり)へ願掛けした母お民は露にぬれたお百度の道を踏むに余念もなく、畠(はたけ)へ通う下男の佐吉も病める旧主人を思い顔である。その辺はお粂が弟たちにとっても幼い時分のよい隠れ場処であったところで、木小屋の前の空地(あきち)、池をおおう葡萄棚(ぶどうだな)、玉すだれや雪の下なぞの葉をたれる苔蒸(こけむ)した石垣(いしがき)から、熟した栗(くり)の落ちる西の木戸の外の稲荷の祠(ほこら)のあたりへかけて、かつて森夫や和助の遊び戯れた少年の日の姿をお粂の胸によび起こさないものはないくらいのところである。まったく外界との交渉を絶たれた父が閉じこもった座敷牢からつくづくときき入るのは、この古い池へ来る村雨(むらさめ)の音であろうかなぞと彼女は思いやった。彼女は木小屋の内にある中央の土間を通り抜けて裏口の方へも出て見た。そこに薄日のもれた竹藪(たけやぶ)は父の心をしずめるところを通り越して、北側の窓へおおいかぶさったような陰気なところだ。どうかするとはげしい風雨にねて木小屋の屋根板ぐらいははね飛ばすほどの力を持った青々とした竹の幹が近くにすくすくと群がり茂っているところだ。彼女はそこいらに落ち重なる竹の枯れ葉にも目をやって、父のいる座敷牢の南側の前まで引き返した。その時だ。半蔵は大きく紙に書いた一文字を出して、荒い格子越しにそれをお粂に示した。
「熊(くま)。」
現在の境涯をたとえて見せたその滑稽(こっけい)に、半蔵は自分ながらもおかしく言い当てたというふうで、やがておのれを笑おうとするのか、それとも世をあざけろうとするのか、ほとんどその区別もつけられないような声で笑い出した。笑った。笑った。彼は娘の見ている前で、さんざん腹をかかえて笑った。驚くべきことには、その笑いがいつのまにか深い悲しみに変わって行った。
きりぎりす啼(な)くや霜夜のさむしろにころも片敷き独(ひと)りかも寝む
この古歌を口ずさむ時の彼が青ざめた頬(ほお)からは留め度のない涙が流れて来た。彼は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。お粂はただただその周囲をめぐりにめぐって、そこを立ち去るに忍びなかったのである。 

十一月にはいって、美濃落合(みのおちあい)の勝重(かつしげ)は旧(ふる)い師匠を見舞うため西から十曲峠(じっきょくとうげ)を登って来た。駅路時代のなごりともいうべき石を敷きつめた坂道を踏んで、美濃と信濃(しなの)の国境(くにざかい)にあたる木曾路(きそじ)の西の入り口に出た。路傍の両側に立つ一里|塚(づか)の榎(えのき)も、それを見返らずには通り過ぎられないほど彼には親しみの深いものになっていた。
半蔵乱心のうわさが美濃路の方へも知れて行った時、だれよりも先に馬籠へかけつけたのは勝重であったが、その後の半蔵が容体も心にかかって、また彼はこの道を踏んで来たのであった。その彼が峠の上の新茶屋で足を休めて行こうとするころはかれこれもう昼時分に近い。彼は茶屋の軒をくぐって、何か有り合わせのもので茶漬(ちゃづ)けを出してもらおうとすると、亭主(ていしゅ)が季節がらの老茸(ろうじ)でも焼こうと言っているところへ、ちょうど馬籠の方からやって来る中津川の浅見老人(半蔵の旧友、景蔵のこと)にあった。この人も半蔵の病んでいると聞くのに心を痛めて、久しぶりで馬籠旧本陣を訪(たず)ね来たその帰りがけであるとのこと。
勝重は景蔵を茶屋に誘い入れて、さしむかいに腰掛けた。景蔵ももはや杖(つえ)をそこに置いて馬籠の方のことを語り出すほどの年配である。さすがに景蔵はあの木小屋のわびしいところに旧友を見る気にはなれなかったと言って、裏二階に住む青山の家の人たちに見舞いを言い入れ、病人の容体を尋ねるだけにとどめて来たという。そういう景蔵は中津川をさして帰って行く人、勝重は落合からやって来た人であるが、この二人(ふたり)は美濃の方で顔を合わせる機会もすくなくはなく、そのたびに半蔵のうわさの出ないこともなかったくらいの間がらだ。発狂の人として片づけてしまえばそれまでだが、どうしてあの半蔵が馬籠にも由緒のある万福寺のようなところを焼き捨てる心になったろうとは、これまでとても二人の間に語られ来た謎(なぞ)であった。
勝重は今さらのように心の驚きを繰り返すというふうで、やがて茶屋の亭主がそこへ持ち運んで来た焼きたての老茸(ろうじ)を景蔵にすすめ、自分でも昼じたくをしながら話した。勝重にして見ると、あの「馬籠のお師匠さまが」と思うと、そんなところへ落ちて行った半蔵が運命の激しさを考えるたびに、まるでうそのような気もすると思うのであった。まったく思いがけないことが彼の目の前に起こって来たのだ。彼は少年期から青年期へかけての三年をあの馬籠旧本陣に送った日のことを思い出し、そこの旧主人を暗い座敷牢にすわらせるまでの家人の驚きを思いやって、おそらくその中でも一番驚いたのはお師匠さまの奥さんであったろうと想像するのであった。彼も、日ごろの多忙にかまけて、たまにしかあの静(しず)の屋(や)を訪(たず)ねることもしなかった。でも、半蔵の顔を見るたびに、旧師も年を取れば取るほどよいところへ出て行ったように想(おも)い見ていた。こんな乱心が青山半蔵の最期とは彼には考えられもしなかった。
勝重は言った。
「浅見さん、あなたの前ですが、あなたがたがあの平田先生のあとを追いかけたようには、あたしどもはお師匠さまのあとを追いかけることもしませんでしたね。その熱心がわたしどもには欠けていたんです。もっとわたしどもがお師匠さまと一緒に歩いたら、こんな過(あやま)ちはさせずに済んだかもしれません。」
そういう彼はさも残念なというこころもちを顔に表わしていたが、しかも衷心の狼狽(ろうばい)は隠そうとして隠せなかった。岩崎長世、あるいは宮川寛斎なぞの先輩について、はじめて国学というものに目をあけた半蔵が旧(ふる)い学友のうち、中津川の香蔵もすでに故人となって、今は半蔵より十年ほども早く生まれた景蔵だけが残った。この平田門人は代々中津川の本陣で、もっぱら人馬郵伝の事を管掌し、東山道中十七駅の元締(もとじめ)に任じて来た人で、維新間ぎわまでは同郷の香蔵と相携えて国事に奔走し、あるいは京都まで出て幾多の政変の渦(うず)の中にも立ち、あるいは長州人士を引いていわゆる中津川会議を自宅に開かせ、あるいはまた幕府の注意人物であった多くの志士を自宅にかばい置くなど、百方周旋していたらないところのないくらいであったが、いよいよ王政復古の日を迎えると共に全く草叢(くさむら)の中に身を隠してしまったのもこの景蔵である。当年の手記、奏議、書翰(しょかん)等の類に至るまで深くしまい込んでしまって、かつてそれを人に示したこともない。明治元年に権令(ごんれい)林左門が笠松(かさまつ)県出仕を命じたが、景蔵は病ととなえて固く辞退した。それでも許されなかったので、三日事をみたぎり、ぶらりと京都の方へ出かけて行って、また仕えなかった。同じく二年に太政官(だじょうかん)は彼を弾正台内監察(だんじょうだいないかんさつ)に任じた。それもおのれの志ではないとして、拝命後数か月で辞し去ってしまった。明治九年から十二年まで、彼は特に選ばれて岐阜(ぎふ)県|権(ごん)区長の職にあったが、その時ばかりは郷党子弟のためであるとして大いに努めることをいとわなかった。すべてこのたぐいだ。この人から見ると、故寛斎老人が生前によく半蔵のことを言って、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのがあの半蔵だと評した言葉も想(おも)い当たる。景蔵、半蔵、この二人は維新後互いに取る途(みち)も異なっていた、あれほど祖先を大切にする半蔵がその祖先の形見とも言うべき万福寺本堂に火を放とうとしたというは、その実、何を焼こうとしたのか、平田同門の旧(ふる)い友人にすらこの謎(なぞ)ばかりは解けなかった。
しかし、座敷牢へ落ちて行くまでの半蔵が心持ちをたどって見ようとするものも、この旧い友人のほかにない。景蔵は勝重のような後進の者を前に置いて、何もおおい隠そうとする人ではなかった。彼に言わせると、古代復帰の夢想を抱いて明治維新の成就(じょうじゅ)を期した国学者仲間の動き――平田|鉄胤(かねたね)翁をはじめ、篤胤(あつたね)没後の門人と言わるる多くの同門の人たちがなしたこと考えたことも、結局大きな失敗に終わったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもするはずではなかろうかと。
平素まことに言葉もすくなく、口に往時を語ろうともせず、ただただあわれ深くこの世を見まもって来たような景蔵からこんなに胸をひろげて見せられたことは、ちょっと勝重には意外なくらいだった。年老いたとは言いながらもまだ記憶の確かなのも景蔵だ。勝重はこの老人をつかまえて種々(さまざま)なことを問い試みようとした。たとえば、民間にいて維新に直面した景蔵のような人は実際この大きな変革をどう思っているかの類(たぐい)だ。その時の景蔵の答えに、維新の見方も人々の立場立場によっていろいろに分かれるが、多くの同時代の人たちが手本となったものはなんと言っても大化(たいか)の古(いにしえ)であった。王政復古の日を迎えると共に太政官を置き、その上に神祇官(じんぎかん)を置いたのも、大化の古制に帰ろうとしたものである。人も知るごとく、この国のものが維新早々まッ先に聞きつけたのは武家の領土返上という声であったが、そればかりでなく、僧侶(そうりょ)の勢力もまた覆(くつがえ)さなければならないと言われた。この二つの声はほとんど同時に起こった。というのは、彼ら僧侶が遠く藤原(ふじわら)氏時代以来の朝野の保護に慣れて、不相応な寺領を所有するに至ったためである。廃藩といい、廃仏ということも、その真相は土地と人民との問題であった。この景蔵の見地よりすれば、維新の成就をめがけ新国家建設の大業に向かおうとした人たちが互いに呼吸を合わせながら出発した当時の人の心はすくなくも純粋であった。彼景蔵のような草叢(くさむら)の中にあるものでも平田一門の有志と合力し、いささかこの盛時に遭遇したものであるが、しかし維新の純粋性はそう長く続かなかった。きびしい意味から言えば、それが三年とは続かなかった。武家と僧侶との二つの大きな勢力が覆(くつがえ)されて行くころは、やがて出発当時の新鮮な気象もまた失われて行く時であった。そこには勝利があるだけだった。
それぎり景蔵は口をつぐんで、同門の人たちのことについてもあまり多くを語ろうとはしなかった。勝重は思い出したように、
「そう言えば、浅見さん、わたしどもが明治維新の成り立ったことを知ったのは、馬籠のお師匠さまより一日ほど早かったんです。今になってわたしもいろいろなことを考えますが、あの時分はまだ子供でした。一晩寝て、目がさめて見たら、もう王政復古が来ていた――そんなことを言って、あの蜂谷(はちや)さん(故香蔵のこと)には笑われるくらいの子供でした。蜂谷さんはあんたからの手紙を受け取って、まだ馬籠じゃこんな復古の来たことも知らずにいるんじゃないか、この手紙は早く半蔵さんにも読ませたいと言って、その途中にわたしをも誘ってくだすったんです。忘れもしません、あれは慶応二年の十二月でした。街道は雪でまッ白でした。わたしは蜂谷さんと二人でさくさく音のする雪を踏んで、この峠を登って来たものでした。」
「そうでしたよ。ちょうど、わたしは京都の方でしたよ。あの手紙は伊勢久(いせきゅう)の店のものに頼んで、飛脚で出したように覚えています。」と景蔵が言う。
「まあ、聞いてください。馬籠のお師匠さまも虫が知らせたと見えて、荒町の方からやっておいでなさる。行きあって尋ねて見ますと、これから中津川へ京都の方の様子をききに行くつもりで家を出て来たところだとおっしゃる。そんならちょうどいい、お師匠さまも中津川まで行かずに済むし、わたしどもも馬籠まで行かずに済む、峠の上で話そうじゃないかということになりまして、それから三人で大いに話したのも、この茶屋でした。」
「あれから足掛け二十年の月日がたちますものね。」
御休処(おやすみどころ)とした古い看板、あるものは青くあるものは茶色に諸|講中(こうじゅう)のしるしを染め出した下げ札、それらのものの軒にかかった新茶屋で、美濃から来たもの同志こんなことを語り合った。気まぐれな秋風は来て旧い街道を吹きぬけて行った。
中津川をさして帰って行く景蔵にもその十曲峠の上で別れて、やがて勝重は新茶屋を出た。路傍の右側に立つ芭蕉(ばしょう)の句碑の前あたりには、石に腰掛け、猿(さる)を背中からおろして休んで行く旅の渡り者なぞもある。もはや木曾路経由で東京と京都の間を往復する普通の旅客も至ってすくなかったが、中央の交通路としてはこの深い森林地帯を貫く一筋道のほかにない。勝重は中のかやから、荒町の出はずれまで歩いて行って、飯田(いいだ)通いの塩の俵をつけた荷馬の群れに追いついた。
その辺まで行くと、かなたの山腹に倚(よ)るこんもりとした杉(すぎ)の木立ちの光景が勝重の目の前にひらけて来る。万福寺はそこに隠れているのだ。本堂の屋根も杜(もり)のかげになって見ることはかなわなかったが、しかし彼は馬籠の村社|諏訪(すわ)分社のみすぼらしさに思い比べて、山腹に墳墓の地を抱(いだ)くあの古い寺が長い間の村の中心の一つであったことを容易に想像することはできた。あだかも、遠い中世の昔はまだそんなところにも残って、朝晩の鐘に響きを伝えているかのように。
馬籠峠の上は幾層かの丘より成る順登りの地勢で、美濃よりする勝重には一つの坂を越したかと思うと、また一つの坂を登らねばならないようなところだ。浅い谷がある。土橋がある。谷川も走り流れて来ている。その水を渡って、岩石の多い耕地が道の左右に見られるところへ出ると、彼は新茶屋での景蔵の話を思い出して深いため息をついた。さらに石を敷きつめた坂を登って馬籠の町はずれへ出ると、彼はこれから見舞おうとする旧い師匠が前途のことを想(おも)い見て、これにもまた深いため息をついた。
その日、勝重はかねて懇意にする伏見屋に一晩泊めてもらうつもりであったから、旧本陣をあと回しにして、まず二代目伊之助の家族を訪(たず)ねた。そこには先代の遺志をついでなにくれとなくお民らの力になる二代目夫婦があり、これまで半蔵の教えを受けて来た三郎やお末のような師匠思いの兄妹(きょうだい)があり、今となって見れば先代伊之助を先立ててよかったと言って、もしあの先代がいまだに達者(たっしゃ)でいたら、どんなに今ごろは心を傷(いた)めたろうと言って見る未亡人のお富があり、日に一度は必ず隣家の木小屋を見回ることを怠らない番頭格の清助もある。季節がら、木曾の焼き米でも造ったおりは、まずお師匠さまへと言って、日ごろその青い香のするやつを好物にする半蔵がもとへ重詰めにして届けることを忘れないのもこの家族だ。
その足で勝重は旧本陣の方に見舞いを言い入れに行った。裏の木小屋まで行かないうちに、彼はお民にあって、師匠のことをたずねると、お民の答えには、この二、三日ひどく疳(かん)の起こっているようすであるとのこと。彼女は病人の看護も容易でないと言って、村の人たちへは気の毒でならないとの意味を通わせる。
「奥さん、」と勝重は言った。「酒はお師匠さまには禁物(きんもつ)でしょうが、ああして置いたら自然とおからだが弱りはしまいますまいか。いくら御謹慎中でも、すこしはお勧めした方がいい。そう思いましてね、今日はほんのすこしばかり落合の酒を持参して見ました。これは人には話さずに置いてください。あとで奥さんにお預けしてまいりますから、すこしずつ内証であげて見ていただきたい。」
そういう勝重が羽織のかげに隠し腰に着けている一つの瓢箪(ふくべ)をお民に出して見せ、それから勝手を知った木小屋の方へ行こうとしたので、お民はちょっと勝重の袖(そで)を引きとめて言った。
「勝重さん、うっかりうちのそばへは行かれません。ほんとに病人というものは油断がならないとわたしも思いましたよ。こないだも、うちがしきりに呼ぶものですから、何の気なしにわたしは格子の前へ行って立ったことがありました。お民、ちょっとおいで、ちょっとおいで、そんなことを言って、あの格子の内から手招きするじゃありませんか。どうでしょう、そのわたしの手をつかまえて力任せになかへ引きずり込もうとしました。あの時は、もうすこしでこの腕がちぎれるかと思いました。勝重さん、あなたも気をつけてくださいよ。」
座敷牢での朝夕はこんなに半蔵をさびしがらせるのだ。勝重は、さもあろうというふうにお民の話をきいた後、やがて木小屋の周囲(まわり)に人のないのを見すまして、例の荒い格子の前まで近づいた。
「敵が来る。」
師匠の声だ。それは全く外界との交渉も絶え果てたような人の声だ。その声がまず勝重の胸を騒がせる。
「お師匠さま、わたしでございます。勝重でございます。」
思いがけない弟子(でし)の訪れに、格子の内の半蔵もややわれに帰ったというふうではあった。苦髪楽爪(くがみらくづめ)とやら、先の日に勝重が見に来た時よりも師匠が髭(ひげ)の延び、髪は鶉(うずら)のようになって、めっきり顔色も青ざめていることは驚かれるばかり。でも、師匠は全く本性を失ってはいない。ややしばらく沈黙のつづいた後、
「勝重さん、わたしもこんなところへ来てしまった。わたしは、おてんとうさまも見ずに死ぬ。」
半蔵は荒い格子につかまりながらそれを言って、愛する弟子の顔をつくづくとながめた。
「そんなお師匠さまのようなことを言わないで……御気分が治まりさえすれば、いつでもあの静の屋の方へお帰りになれますぞ。その時は勝重がまたお迎えにあがります。みんな首を長くしてその日の来るのをお待ち申しています。時に、お師匠さま、ちょうど昔で言えば菊の酒を祝う季節もまいっておりますから、実は瓢箪(ふくべ)にお好きな落合の酒を入れまして、腰にさげてまいりました。しばらくお師匠さまも盃(さかずき)を手にはなさいますまい。」
勝重が半蔵の見ている前で、腰につけて来た瓢箪の栓(せん)を抜いて、小さな木盃に酒をつごうとした時、半蔵はじっと耳を澄ましながら細い口から流れ出る酒の音をきいていた。そして、コッ、コッ、コッ、コッというその音を聞いただけでも口中に唾(つば)を感ずるかのような喜び方だ。弟子の勧めるまま、半蔵は格子越しにそれをうけて、ほんの一、二|献(こん)しか盃を重ねなかったが、しかし彼はさもうまそうにそのわずかな冷酒を飲みほした。甘露(かんろ)、甘露というふうに。かつてこんなうまい酒を味わったことはないというふうにも。
看護するものが詰める別室の方には人の来るけはいもしたので、それぎり勝重は半蔵のそばを離れた。師匠と二人(ふたり)ぎりの時でもなければ、こんな話も勝重にはかわされなかったのである。しばらく別室に時を送った後、また勝重は半蔵を見に行こうとして、思わず師匠がひとり言を聞いた。
「勝重さんはどうした。勝重さんはいないか。いや、もういない……こんなところにおれを置き去りにして、落合の方へ帰って行った……師匠の気も知らないで、体裁のよいことばかり言って、あの男も化け物かもしれんぞ。」
その声を聞きつけると、勝重は木小屋の土間にもいたたまれなかった。彼は裏の竹藪(たけやぶ)の方に出て、ひとりで激しく泣いた。 

恵那山(えなさん)へは雪の来ることも早い。十月下旬のはじめには山にはすでに初雪を見る。十一月にはいってからは山家の子供の中には早くも猿羽織(さるばおり)を着るものがある。百姓が手につかむ霜にも、水仕事するものが皮膚に切れる皸(ひび)あかぎれにも、やがて来る長い冬を思わせないものはない。
落合の勝重が帰って行ったあとの木小屋には、一層の寂しさが残った。朝晩もまさに寒かった。木小屋の位置は裏山を背にする方が北に当たったから、水の底にでも見るような薄日しか深い竹藪(たけやぶ)をもれて来ない。夜なぞ、ことにそちらの方面は暗く、物すごかった。こんな日の続いて行く中で、座敷牢にいる人が火いじりの危(あぶな)さを考えると、炬燵(こたつ)一つ入れてやって凍えたからだを温(あたた)めさせる術(すべ)もないとしたら。そう思って震えるものは、ひとり夫の看護に余念のないお民ばかりではなかった。
しかし、もうそろそろ半蔵にその部屋(へや)から出て来てもらってもよかろうと言い出すものは一人(ひとり)もない。お師匠さまには、できるだけ長くその部屋にいてもらいたいと言うものばかり。木小屋の戸締まりは一層厳重になり、見張りのものは交代で別室に詰め、夜番は火の用心の拍子木(ひょうしぎ)を鳴らして、伏見屋寄りの木戸の方から裏の稲荷(いなり)の辺までも回って歩いた。
ある日の午後、馬籠峠の上へはまれにしか来ないような猛烈な雹(ひょう)が来た。にわかにかき曇った晩秋の空からは重い灰色の雲がたれさがって、雷雨の時などに降る霰(あられ)よりも大粒なやつを木小屋の板屋根の上へも落とした。やがて氷雨(ひさめ)の通り過ぎて空も明るくなったころ、笹屋庄助(ささやしょうすけ)と小笹屋勝之助の両名が連れだってそこいらの見回りに出たが、二人の足は何かにつけて気にかかる半蔵の座敷牢の方へ向いた。途中で二人の行きあう百姓仲間のものに驚き顔でないものはない。あるものは牛蒡(ごぼう)を掘りに行ってこの雹にあったといい、あるものは桑畠(くわばたけ)を掘る最中であったといい、あるものは引きかけた大根の始末をするいとまもなく馬だけ連れて逃げ帰ったという。すこしの天変地異でもすぐそれを何かの暗示に結びつけて言いたがるのは昔からの村の人たちの癖だ。
こんな空気の中で、庄助らが半蔵を見に行くと、どうもお師匠さまのようすがよくないという清助と落ち合った。半蔵の方でもだえればもだえるほど、今ここでそんな人に木小屋から飛び出されては困るという腹は庄助らにだってある。近年まれなものが降って陽気もまた非常に寒くなったが、お師匠さまもどうしているか、その見舞いを言い入れに来た庄助らは何よりもまず半蔵が格子の内から呼ぶ荒々しい声に驚かされた。
「さあ、攻めるなら攻めて来い。矢でも鉄砲でも持って来い。」
血相を変えている半蔵がようすの尋常でないことは、雹(ひょう)どころの騒ぎではなかった。もはや半蔵は敵と敵でないものとの区別をすら見定めかぬるかのよう。そして、この世の戦いに力は尽き矢は折れてもなおも屈せずに最後の抵抗を試みようとするかのように、自分で自分の屎(くそ)をつかんでいて、それを格子の内から投げてよこした。庄助の方へも、勝之助の方へも、清助の方へも。
「お師匠さま、何をなさる。」
庄助はあさましく思うというよりも、仰天してしまった。その時、声を励まして、半蔵を制するように言ったのも庄助だ。
「や、また敵が襲って来るそうな。おれは楠正成(くすのきまさしげ)の故知を学んでいるんだ。屎合戦(くそがっせん)だ。」
旧組頭なぞの制することも半蔵の耳に入らばこそだ。これまで幽閉の苦しみを忍びに忍んで来た彼は手をすり足をすりして泣いても足りなかったというふうで、なおも残りの屎を投げてよこそうとする。木小屋の土間にいてあちこちと避け惑うものの中には、どうかするとそこへすべってころびそうになった。ぷんとした臭気は激しく庄助らの鼻をついた。
「これはたまらん。」
と言い出した清助をはじめ、庄助も、勝之助も、その土間の片すみに壁によせて置いてある蓆(むしろ)の類を見つけ、あり合うものを引きかぶって逃げた。 

万事終わった。半蔵がわびしい木小屋に病み倒れて行ったのはそれから数日の後であったが、月の末にはついに再びたてなかった。旧本陣の母屋(もや)を借りうけている医師小島拙斎も名古屋の出張先から帰って来ていて、最後まで半蔵の病床に付き添い、脚気衝心(かっけしょうしん)の診断を下した。夜のひき明けに半蔵が息を引き取る前、一度大きく目を見開いたが、その時はもはや物を見る力もなかった。もとよりお民らに呼ばれても答える人ではなかった。享年五十六。五人もある子の中で彼の枕(まくら)もとにいたものは長男の宗太ばかり。お粂(くめ)ですら父の臨終には間に合わなかった。
その暁から降り出した雨はやみそうもない。裏藪(うらやぶ)の竹の葉にそそぐ音だけでも、一雨ごとにこの山里へ冬のやって来ることを思わせる。お民らが半蔵の枕もとに付いていてほのかな鶏の声をきいたころに、彼はすでにこの世の人ではなかったのであるが、時を置いて彼の顔をのぞきに行くたびに、雨に暗い空も明けて行き、青白い光線は東南の間にあたる高い窓からその部屋(へや)へさし入って来た。やがて皆のものがうち寄って半蔵のからだをぬぐい浄(きよ)めるころは、そこいらはもう朝だ。遺骸(いがい)は青い蓙(ござ)の上に横たわり、枕の位置も変わって見ると、病床もすでに死の床ではあったが、しかしお民らの目にはまだ半蔵がそこに眠っているかのようであった。
栄吉、清助、庄助、勝之助らは前後して木小屋に集まりつつあった。隣家からは二代目伊之助の顔も見えた。半蔵が二人の若い弟子、伏見屋の三郎と梅屋の益穂(ますほ)とがこんな時の役に立とうとして皆の間に立ちまじっているさまも可憐(かれん)であった。一刻も早く遺骸は他(よそ)へ移したい、こんな忌まわしい座敷牢(ざしきろう)の中には置きたくない、とは一同のものの願いであったが、さて母屋(もや)の方へ移すべきか、隠宅の静の屋の方へ移すべきかの話になると、各自意見もまちまちで相談は容易にまとまらなかった。母屋をえらびたいのは山々だが、現在医師の開業しているところを明け渡させるのはたとい二、三日でも故人の本意ではなかろうと言うものがある。そうかと言って、あの静の屋のような狭い小楼からお師匠さまの葬式が出せるかと言うものがある。この事は、拙斎自身の申し出で母屋と一決した。馬籠の庄屋と本陣問屋とを兼ねた最後の人を見送る意味からも、古い歴史のある記念の家をこころよく使用してもらいたいとは、拙斎が申し出であった。
雨は降ったりやんだりしているような日であったが、すこし小降りになった時を見て、半蔵の遺骸(いがい)には蓑(みの)をかけ、やがて木小屋から運び出されることになった。多感な光景がそこにひらけた。生前古い青山の家にはもはや用のないような人間だとよく言い言いしたその半蔵も変わり果てた姿となって、もう一度旧本陣の屋根の下へと帰って行ったのである。その旧主人の死体を蒲団(ふとん)ぐるみ抱きかかえながら木小屋から母屋(もや)へと持ち運んだのは、おもに下男佐吉の力であった。それには以前に出入りした百姓仲間の兼吉や桑作の手伝いもあった。宗太はじめ、三郎、益穂らはいずれも雨傘(あまがさ)をさしかけて、その前後を護(まも)って行った。
半蔵の死が馬籠以外の土地へも通知されて行くころには、近在から弔(くや)みを言い入れに集まる旧(ふる)い弟子たちもすくなくなかったが、その中でだれよりも先に急いで来たものは落合の勝重であった。
勝重が思い出の深い本陣屋敷に来て見た時は、師匠の遺骸はすでに奥の上段の間の隣り座敷に安置してあった。彼はまず青山の家族にあって、長い看護に疲れ顔なお民にも、七十八歳の高齢で義理ある子を先立てたおまんにも、それから宗太夫婦にも厚く弔みを述べた。奥座敷の方へも進んで行って、神葬の古式による清げな白木の壇の前にひざまずき、畳の上に額(ひたい)をすりつけて、もはやこの世の一切の悲しいや苦しいも越えているように厳粛(おごそか)な師匠の死顔を拝した。まだ棺もできては来ず、荒町の禰宜(ねぎ)の顔も見えなかったが、そこいらには馬籠町内の重立った人たちも集まっていた。埋葬の場処は、と勝重が宗太に尋ねると、家政改革後は倹約第一の場合ででもあるから、万福寺山腹に古くからある墓地の片すみをえらむことにして、そのことはすでに寺へも通じてあるという。これには勝重はひどく残念がって、なんとかしてもっと適当な場処を求めなるべく手厚く師匠を葬りたいと言い、墓地続きの寺の畠(はたけ)でも譲り受けられるなら、及ばずながらその費用等は自分ら弟子仲間で心配するとの意見をそこへ持ち出した。というのは、青山家の墓地も先祖代々のたくさんな墓石で埋(うず)められ、ほとほと割り込むすきもないことを勝重もよく知っていたからであった。
「どうも、お弟子が来て厄介(やっかい)なことを言い出したぞ。」
宗太の目がそれを言った。でも、こんなに父の死を惜しんでくれる人たちもあるというその熱い情(こころ)に動かされて、宗太も倹約一方の説を覆(くつがえ)し、結局勝重の意見をいれた。栄吉や清助は宗太の意を受けて、改めて埋葬の地を相するため雨の中を出かけた。
悲しい夜が来た。霊前には親戚(しんせき)旧知のものが集まったが、一同待ち受ける妻籠(つまご)からの寿平次、実蔵、それに木曾福島からのお粂(くめ)夫婦はまだ見えなかった。なんと言っても旧本陣のことで、以前から縁故の深かった十三人の百姓の家のもの、大工、畳屋から髪結いまでがそこへ来て、半蔵生前の話が尽きない。あるものは子供の時分、本陣の裏庭へ巴旦杏(はたんきょう)を盗みに忍び入って、うしろからうんと一つどやしつけられたが、その人がお師匠さまであったことは今だに忘れられないとの話をはじめる。その話をはじめたものはまた、半蔵が袂(たもと)の中にいっぱい蜜柑(みかん)を入れていてよく村の児童(こども)に分け与えるような幼いものの友だちであったと言い、自分もまたその蜜柑に誘われてお師匠さまの家に通いはじめ、その時から読み書きの道を覚えたことも忘れられないなぞと語り出す。
明治十九年十一月二十九日の夜のことで、戸の外へはまた深い山の雨が来た。勝重はその初冬らしい雨の音をききながら、互いに膝(ひざ)をまじえている村の人たちの思い出に耳を傾けて、そんな些細(ささい)な巴旦杏や蜜柑の話に残る師匠が人柄のゆかしさを思った。
翌日の午後、勝重は伏見屋の主人(二代目伊之助)と連れだって万福寺の門前に出た。寺より譲り受ける墓地の交渉もまとまったので、勝重らはその挨拶(あいさつ)を兼ね、ついでに師匠を葬るべき場所を見回りたいためであった。なお、師匠の葬儀は十二月|朔日(ついたち)と定(き)まったので、寺の境内を式場に借りうけるため、宗太から頼まれて来た打ち合わせの用事もあった。この事は青山小竹両家が神葬改典の当時に、半蔵や初代伊之助と松雲和尚との間にかわされた口約束による。勝重もほとんど不眠の一夜を師匠の霊前に送ったあとなので、懇意な伏見屋方で二時間ばかり寝かしてもらったが、またその日には妻籠の連中やお粂夫婦を迎えて今一夜師匠の棺の前に語り明かすはずである。おまけに、次ぎの日の葬儀を控えている。でも、男ざかりの彼は、どんな無理してもこの激しい疲労に打ち勝ち、生前格別の世話になった師匠の温情にむくいようとした。
ちょうど松雲和尚は、万福寺建立以来の青山家代々が恩誼(おんぎ)を思い、ことに半蔵とは敬義学校時代のよしみもあるので、和尚は和尚だけのこころざしを受けてもらいに、旧本陣まで今々行って来たというところであった。松雲は勝重らを方丈に迎え入れ、寺の境内を今度の式場にあてるための準備もすでにほぼ整えてあること、墓地の譲り渡し等にも寺としてはできるだけの便宜を払ったことを勝重らに告げ、茶菓なぞ取り出していんぎんに二人の客をもてなした。そして、例の禅僧らしい沈着な調子で、勝重らに聞いてもらいたいことがあると言い出した。半蔵があんな放火を企てたのは全くの狂気(きちがい)ざたと考えるかと二人に尋ね、和尚にはそうばかりとも思われないと言うのであった。どうして松雲がそんな疑いを抱(いだ)くかというに、平田門人としての半蔵が寺院ももはや無用な物であるとの口吻(こうふん)をもらしたのは晩年にはじまったことでもなく、上は諸大名から下は本陣、問屋、庄屋、組頭、それから五人組の廃された当時、すでにすでに半蔵はその考えを起こしていて、僧侶(そうりょ)もまた同じように廃さるべきものとしたろうと松雲には想(おも)い当たるからであった。松雲は半蔵の創立した敬義学校に事を共にして見て、この寺の本堂を児童教育の仮教場にあてた際に、早くも半蔵の意のあるところを感知したのであったという。これは全く廃仏を意味する。また、全くの白紙に帰って行くことを意味する。信教自由の認められて来た今日、こんな山の上の寺を焼き払うような挙動は、子供らしいと言えばそれまでだが、しかしその道徳上の効果はちいさいとは言いがたい。半蔵のはそれをねらったものではなかろうか。もともと心ある仏徒が今日目をさますようになったというのも、平田諸門人が復古運動の刺激によることであって、もしあの強い衝動を受けることがなかったなら、おそらく多くの仏徒は徳川時代の末と同じような頽廃(たいはい)と堕落とのどん底に沈んでいたであろう。半蔵は例の持ち前の凝り性と感情とに駆られて、教部省のやり口に安んじられず、信教自由をも不徹底なりとして、ついにこんな結果を招いたものとしか思われない。これが松雲一流のにらみ方であった。そういう和尚は半蔵のために、もうすこしでこの寺の本堂を焼かれようとした当面の人であるだけに、半蔵の不思議な行為を謎(なぞ)としてのみ看過(みす)ごすことはできなかったと訴えるのであった。もっとも、松雲は今までだれにもこんなことを口外する人ではなかった。半蔵の死にあって見て、勝重らにこれを告げるのであるという。その時、勝重は眉(まゆ)の白い和尚の顔をしげしげと見つめて、
「和尚さま、そういうあなたのお考えでしたら、なぜもっと早くそれを言い出して、お師匠さまを救ってはくださらなかったんです。」
と言った。松雲にして見ると、一切は勢いであって、和尚の力にもどうすることもできなかった。もし半蔵が勢いに逆らおうとしなかったなら、あんなに衆のために圧倒されるようなことはなかったであろう。松雲はそれを勝重らに言って、見殺しにするつもりもなく半蔵を見殺しにしたと嘆息した。
「しかし、お二人の前ですが、今度という今度はつくづくわたしも世の無常を思い知りました。」
とまた松雲は静かに言い添えて、小さな葛籠(つづら)の風呂敷包(ふろしきづつ)みにしてあるのを取り出して来た。あだかも、和尚の本心はその中にこめてあるというふうに。驚くべきことには、遠からず和尚にやって来る七十の齢(よわい)を期して、長途の旅に上る心じたくがそこにしてあった。
松雲には日ごろからたたかうまいとしていたことが四つある。命とたたかわず、法とたたかわず、理とたたかわず、勢とたたかわずというのがそれだ。その時、和尚は半蔵が焼こうとした寺にも決してなんらの執着を持たないおのれの立場を明らかにして、それをもって故人への回向(えこう)に替えようとしていた。ただ法務と寺用とをこのままに放棄するのは師恩に報ゆべき道でないとなし、それには安心して住持の職を譲って行けるまでにもっと跡目相続の弟子を養い、雨漏りのする本堂の屋根の修繕をも成し遂げ、一切心残りのないようにして置いて、七十の声を聞いたならばその時こそは全国|行脚(あんぎゃ)をこころざし、一本の錫杖(しゃくじょう)を力に、風雲に身を任せ、古聖も何人(なんぴと)ぞと発憤して、戦場に向かうがごとくに住み慣れた馬籠の地を離れて行きたいことなぞを勝重らの前に打ち明けた。和尚はあとの住持のために万福寺年中行事なるものの草稿を作り、弟子の心得となるべき禅門の教訓をもいろいろと認(したた)めて、仏世の値(あ)いがたく、正法の聞きがたく、善心の起こしがたく、人身の得がたく、諸根のそなえがたいことを教えて置いて行こうとしてあった。手回しのいいこの和尚はすでに旅の守り袋を用意したと言って、青地の錦(にしき)の切地(きれじ)で造ったものをそこへ取り出して見せた。梵文(ぼんぶん)の経の一節を刻んであるインド渡来の貝陀羅樹葉(ばいだらじゅよう)、それを二つ折りにして水天宮(すいてんぐう)の守り札と合わせたものがその袋の中から出て来た。古人も多く旅に死せるありとやら。いずこに露命は果てるとも測りがたいおもんぱかりから、この寺に残し置くべき辞世までも和尚は用意してある。それには紙の上に一つの円が力をこめて書きあらわしてあり、その奥には禅家らしい偈(げ)も書き添えてある。前途幾百里、もしその老年の出発の日が来て、西は長崎の果てまでも道をたどりうるようであったら、遠く故郷の空を振り返って見る一人の雲水僧(うんすいそう)のあることを記憶して置いてくれよとの話も出た。
やがて勝重は伏見屋主人と共に和尚のもとを辞した。万福寺の山門を出てから、彼は連れを顧みて言った。
「まあ、お師匠さまもあんな最後をなすったんじゃ、だれだって寝ざめがよかありません。厚く葬ってあげるんですね。」
二代目もうなずいた。
幸い雨もあがって、どうかと天候の気づかわれた次ぎの日の葬儀もまずこの調子では無事に済まされそうであった。勝重らは半蔵埋葬の場所を見回るため万福寺の山腹について古い墓石の並び立つ墓地の間の細道を進んで行った。そこは杉の木立ちの間である。半蔵の祖父半六、父吉左衛門、それから今の伏見屋主人には祖父に当たる金兵衛、先代伊之助、それらの故人となった人たちが永(なが)く眠っているところである。ゆうべの雨にぬれて、ある墓石はまだ湿り、ある墓石はかわきかけていたが、そのそばを通り過ぎて杉の木立ちも尽きたところまで行くと、新開の墓地から立ちのぼる焚火(たきび)の烟(けむり)が目につく。旧本陣の下男佐吉は百姓の兼吉や桑作を墓掘りの相手にして、そこに働いていた。
ちょうど勝重らがその位置に行って立って見た時は、一歩(ひとあし)先に見回りに来ている清助とも一緒になった。寺から譲られたその畠の地所もすでにあらかた地ならしを済まし、周囲の藪(やぶ)も切り開いてあって、なだらかな傾斜の地勢から谷の向こうに恵那山麓(えなさんろく)の馬籠の村を望むこともできる。この眺望(ちょうぼう)のある位置はいかにも師匠にふさわしいと言って、よい場所が手に入ったとよろこぶものは、ひとり勝重ばかりではなかった。兼吉や桑作までときどき鍬(くわ)を休めに焚火のそばへ来て、お師匠さまの墓|掃除(そうじ)にはまた皆で来てあげるなぞと語り合うのであった。饅頭(まんじゅう)のかたちに土を盛り上げた新しい塚(つか)、「青山半蔵之|奥津城(おくつき)」とでもした平田門人らしい白木の墓標なぞが、もはやそこに集まるものの胸に浮かんだ。時が来れば、その塚の上をおおう青い芝草の想像までも。
「清助さ、遠方の通知はもうすっかり出したろうか。」
「さあ、もれたところはないつもりですがね。」
「東京の平田家へは。」
「それを落とすようなことはしません。熱田(あつた)の暮田正香(くれたまさか)先生のところへも。」
「そう言えば、森夫さまや和助さまはどうなさるだろう。お父(とっ)さんのお葬式に、お二人ともお帰りにはなるまいか。」
「それがです。中津川から父上死去の電報は打ちましたがね、お帰りになるがいいともなんとも言ってあげたわけじゃない。宗太さまからもその話はありません。たぶん、和助さまたちは、お見えにはなりますまい。」
清助と伏見屋主人や勝重との間には、しばらくこんな立ち話がはずんだ。そこへ三郎と益穂の二人も勝重らを探(さが)しに杉の枯れ葉の落ちた細道を踏んで、お粂夫婦が妻籠の連中と共に旧本陣の方へ着いたことを告げ知らせに来た。
こうして一同が集まって見ると、いずれもようやく重荷をおろしたような顔ばかり。その人の晩年にはとかくの評判のあった青山半蔵ではあるが、しかし亡(な)くなった後になって見ると、やっぱりお師匠さまはお師匠さまであったという話が出る。星移り、街道は変わって、今後お師匠さまのような人はこの山の中には生まれて来まいとの話も出る。お粂らの到着と聞いても、一同はすぐ墓地を離れようとしなかった。その中でも清助は深いため息をついて、
「あのお師匠さまも、しまいにはずいぶん人をてこずらせた。楠正成の屎合戦(くそがっせん)だなんて言い出して――からだを洗ってあげたいにも、手のつけようもない。あんな困ったこともなかった。よくあれでなんともなかったものだと思う……今になっておれも考えて見ると、あのお師匠さまの疳(かん)の起こってる時には、何をなすってもからだに障(さわ)らなかった。すこし気分も静まって来たかと思うと、今度はからだの方が弱っていらしった……」
と清助は清助らしいことを言い出す。年若な三郎はその話を引き取って、
「でも、お師匠さまも惜しいことをした。もうすこしからだが続いたら、あんな木小屋から出してあげられたんだ。そりゃだれがなんと言ったって、お師匠さまのような清い人はめったにない――あんな人をおれは見たことがない。」
「そうだ、三郎さんの言うとおりだ。せめてもう十年お師匠さまを生かして置きたかったよ。」
勝重の嘆息だ。
その日には奥筋の方から着いたお粂らを迎えて半蔵の霊前に今一夜語り明かそうという手はずも定(き)めてある。やがて墓地には一人去り、二人去りして、伏見屋主人や清助から若い弟子たちまでもと来た細道を引き返して行ったが、勝重のみはまだそこに残って、佐吉らが墓穴を掘るさまをながめたたずんだ。
その時になって見ると、旧庄屋として、また旧本陣問屋としての半蔵が生涯もすべて後方(うしろ)になった。すべて、すべて後方になった。ひとり彼の生涯が終わりを告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく回りかけていた。人々は進歩をはらんだ昨日の保守に疲れ、保守をはらんだ昨日の進歩にも疲れた。新しい日本を求める心はようやく多くの若者の胸にきざして来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むこともできないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた。その間にあって、東山道工事中の鉄道幹線建設に対する政府の方針はにわかに東海道に改められ、私設鉄道の計画も各地に興り、時間と距離とを短縮する交通の変革は、あだかも押し寄せて来る世紀の洪水(こうずい)のように、各自の生活に浸ろうとしていた。勝重は師匠の口からわずかにもれて来た忘れがたい言葉、「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」というあの言葉を思い出して悲しく思った。
「さあ、もう一息だ。」
その声が墓掘りの男たちの間に起こる。続いて「フム、ヨウ」の掛け声も起こる。半蔵を葬るためには、寝棺を横たえるだけのかなりの広さ深さもいるとあって、掘り起こされる土はそのあたりに山と積まれる。強いにおいを放つ土中をめがけて佐吉らが鍬(くわ)を打ち込むたびに、その鍬の響きが重く勝重のはらわたに徹(こた)えた。一つの音のあとには、また他の音が続いた。 
 

 

 

 

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