忠臣蔵

忠臣蔵の芝居事件の発端再三の侮辱殿中の刃傷吉良上野介の傷不公平なる幕府の処置芝居の加古川本蔵田村邸の浅野内匠頭鰻骨の多門伝八郎片岡源五右衛門の目送江戸藩邸の混乱内匠頭の切腹赤穂の驚樗大石と大野の意見対立藩論一決、殉死嘆願使命を辱めた陳情使遺憾ながら開城大野九郎兵衛父子の逃亡最初の誓紙血判者堀部安兵衛ら来着大石熱誠の嘆願大石、僧良雪に聴く大石の山科隠栖大石第一回の東下り山科連盟の面々高田郡兵衛脱盟萱野三平の自刃上野介の隠居と大石の復讐決意堀部らまた催促原と大高の帰京吉田忠左衛門、寺坂を伴うて会す山科会議吉田と近松東下武林唯七ら西上猜介なる不破数右衛門大石の妻子離別と遊蕩間一髪の急進派分離計画円山会議堀部の帰府と大学の芸州行連判者再吟味隅田川納涼会議大石引止運動脱盟の酊々寺井玄渓の加盟切願大石無人の激励義士追々東下大高源五の母に贈った暇乞状大石いよいよ出発同志五十余名の宿所と変名吉良邸の偵察討入の心得大石と荷田春満討入日の決定大石の金銭請払報告それぞれ遺書を認む三カ所に集合討入の装束討入の部署両門から突入吉良邸内の混戦乱闘上野介の最期吉良側記録による当夜の実況四十七人引揚、泉岳寺ヘ寺坂吉右衛門密使に立つ内匠頭の墓前に報告泉岳寺内の義士仙石邸の吉田と富森幕府当局の同情上杉家の態度一同泉岳寺から仙石邸へ四家へ御預け申渡仙石邸非公式の問答四十六士引渡細川家の十七士優遇堀内伝右衛門の篤実細川家御預け十七士の生活「不届者」の寺坂輿論の同情官吏代表者の意見林大学頭と荻生祖裸の対立意見「親類書」を徴す公弁法親王の御慈悲処断一決、切腹申渡切腹前の十七士四十六士ついに切腹民心の激昂小山田一閑と岡林杢之助の自刃刃剣四十六士追加された二碑その後の寺坂吉右衛門遺子の処分吉良義周の処分浅野大学の取立て勅書追賜の光栄余録
忠臣蔵諸話 / 年譜1年譜2刃傷事件の原因処刑論争赤穂浪士切腹の判断辞世の句荻生徂徠徂徠豆腐諸話1諸話2諸話3萱野三平浪士切腹と遺子の処罰仮名手本忠臣蔵真実史実登場人物大石良雄1大石良雄2或日の大石内蔵助
吉良義央諸話 / 吉良1吉良2吉良3義央と義周義周吉良上野介の妻吉良上野の立場
仮名手本忠臣蔵 
無宿人国記 
 

雑学の世界・補考   

はしがき

福島四郎
一、本書は、『仮名手本忠臣蔵』または講談・浪花節等によって、一般人の頭に植えつけられた赤穂義士伝を、正しい史実によって訂正せんがために執筆し、昭和十一年十一月から十三年春まで週刊『婦女新聞』に連載したものを、今回大修補して世に問うに至ったのである。
一、どこまでも正しい史実に立脚するが、あまりに堅苦しい記述になっては、読むのに肩が凝るから、史実を失わない程度に於て、興味的に筆を進めた。もし本書によって、赤穂義士の最も正しくかつ最も新しい常識を、一般人が有つようになれば、国民精神総動員の上にも幾らか貢献し得ようかと思う。
一、内容は、『義人纂書』中史的価値の多い数十種と、『義士史料』とを中心とし、他に『義臣伝』外十数種の義士関係書を参考として執筆したが、古書に重きを措きながらも、新しい史料による新しい研究は、必ずこれを漏らすまいと努めた。この点に於て渡辺世祐博士の中央義士会に於ける数十回の講演筆記には、最も多く教えられた。
一、新史料による新研究は、著老の眼にふるる限り全部取り容れたが、著者自身の研究による新説というものは殆んどない。ただいささか得意で吹聴しうるのは、殿中刃傷の際、勅使がすでに登城して別室に休息していられたものに相違ないという事を考証して、従来一般に信ぜられている刃傷の直接原因、勅使出迎の作法についての問答を否定ノした一点(余録「殿中刃傷は勅使登城の前か後か」参照)と、吉田忠左衛門と寺坂吉右衛門の人物に対する認識を深めたことである。
一、書翰を意訳する場合、または古書の記載を現代語に改める場合に於ても、その時代の常用語はなるべくそのまま使用することに努めた。例えば「上方(かみがた)」「下向(げこう)」「公儀(こうぎ)」「存寄(ぞんじより)」「神文(しんもん)」「上使(じようし)」「出足(しゆつそく)」「出府(しゆつぷ)」「貴様(きさま)」「拙者(せつしゃ)」等々々、これらの語は当時の気分を現わす上に必要と思われるからである。
一、時刻の「七ッ」「八ツ半」あるいは「巳(み)の上刻」「未(ひつじ)の下刻」という類は、一々今の時間を括弧内に註したので、二重になってあるいは煩わしい感がするかも知れないが、これを今の時間のみで書いては、やはり当時の気分を失わせるからである。
一、討入の際、多くの義士に携えられた長刀(ながだち)は、薙刀(なざなた)と間違われる恐れがあるので、別名の野太刀と書き、花岳寺の文字は華嶽寺が正字であることを承知しているが、今日はお寺自身ですら花岳寺と書くほど一般化しているから、通俗に従った。この種の事は他にまだ幾つもある。
一、赤穂町の義士研究家にして『寺坂雪冤録』の著者たる伊藤武雄氏は、本書の前稿執筆の際よりしばしば面倒な調査研究を依頼したのに対して、その都度親切に回答を寄せられ、今回修補に際しても、数十個所に渉って不備の点を指摘せられた。このために、本書が多くの過誤から免れることのできたのは大なる感謝である。しかるにその伊藤氏が、本書の印刷中に他界して、.ついに製本を見るに及ばなんだのは痛恨に堪えない。
一、本書の挿画は、かつて『婦女新聞』.に使用したものの中から選んだのであるが、画家は、赤穂出身にして義士研究に最も熱心なる長安雅山君である。討入の装束や各義士携帯の武器等に付、今日雅山君以上に研究している画家は他にあるまい(本文庫版では削除)。
一、本文第二二四・二二五頁掲載の吉良邸絵図は、中央義士会主事井筒調策氏所蔵の図を模写したもので、従来流布されている帝大所蔵のものに比し、物置の位置が中央に近くなっている。人名は原図筆書であるが、縮写の都合上活字に改めた(本文庫版では全て活字に改めた)。
一、著者がやや専門的に赤穂義士伝を研究するに至ったのは、後掲の小記に記述する通り、徳富蘇峰翁の寺坂吉右衛門逃亡説を反駁せんがためであったから、翁に対しては従来しばしば無礼の言辞を弄したにかかわらず、今は翁もまた本書完成の一恩人といわねばなるまい。
一、渡辺博士が、毎月の義士会講演を通じて著老を益せられた事の多大なるは前に記したが、博士はなお直接に幾多の質問に答えられ、本書の口絵についても、帝大史料編纂所秘蔵の史料撮影その他種々便宜を与えられ、なお御多忙の中から長文の序を賜わった。本書が博士に負うところは頗る大きい。ここに謹んで謝意を表する。  
小記

 

一、著者の郷里は旧播州小野藩(兵庫県加東郡)で、赤穂とは二十余里も隔っているが、郡内には赤穂の支藩家原浅野家(三千五百石)があり、その他に十四カ村四千七百石が、赤穂浅野家の領地としてなお散在し、かつ赤穂藩の加東郡代(ぐんだい)が一挙の副首領格たる吉田忠左衛門で、元禄十四年の兇変後、吉田以下六名の義士が、大石の召集に接するまで郡内に待機していた関係があり、また小野と川一つを隔てた赤穂領黍田(さびた)(来住(きし)村の内)の小倉家(おぐらけ)は、元禄時代から明治維新の際まで庄屋(しようや)を勤め来った旧家で、昭和十二年に他界された小倉亀太郎翁は、著者小学校時代の恩師であるが、その小倉家には、赤穂浅野家第二代の長直公が巡視の際宿泊せられたことがあるのみならず、吉田忠左衛門が寺坂吉右衛門を従えてある期間滞在していた縁故もあり、かたがた赤穂義士とくに吉田と寺坂に対する著者の関心は、幼時より極めて深かった。
一、しかるに、大正八年頃(P)徳富蘇峰翁が『国民新聞』(今は『東京日日』に移る)に連載せられていた『近世日本国民史』中の赤穂義士に関する記述中、寺坂吉右衛門は討入当夜急に臆病風に襲われて、吉良の門前から逃亡したものだとあったので、著者はさながら日頃尊敬している郷党人の名誉を殿損せられたように憤慨し、直に一書を裁して蘇峰翁に呈した。文意は、寺坂の人物を弁護して、いっそう細密の御研究を乞うというにあった。
一、ところが、昭和に入ってから、単行本として発行された『近世日本国民史』1元禄時代中巻、『義士篇』を繕くと、驚くべし、巻頭の序文代りに、寺坂逃亡断定の史論を載せ、手厳しい筆訣を加えていられる。その冒頭の一節は左の通りである。
四十七士か、四十六士か、是の問題に就ては、公正正確なる根本資料に拠りて既に論定してゐる。今更ら薙に是を繰返す必要はない。されど世間には、尚異論を挿み、寺坂吉右衛門に就て同情者多く、彼の逃亡者たるを肯定せざるもの少くない。此れは決して異しむに足らぬ。寺坂は可憐生だ。彼は憐む可きも決して憎むべき漢(をのこ)ではなかつた。(中略)併し如何に人情は人情でも、事実を曲ぐる訳には参らない。吾人は事実を事実として正視せねばならぬ。而して事実は則ち吉良邸門前よりして吉右衛門は逃亡したのだ。故に彼を義士中に加ふベきでない。若し彼を義士中に加へなば、敵情偵察の殊勲者たる毛利小平太の如きも、亦義士中に加へねばなるまい。果して然らば四十七士といふよりも、寧ろ四十八士といふが適当かもしれたい。
こういう名調子で、何故に寺坂を逃亡者と断定しなければならないかを、証拠によって堂々と論じていられるのであるから、史学の知識のないものは、抗議を申立てるわけに行かない。
一、ここに於て私は、史学の専門家が果してこの蘇峰翁の寺坂逃亡説を肯定せらるるや否やを確めるため、三上、渡辺両博士を訪問したが、両氏とも問題にはしていられなかったから、やや安心すると同時に、専門家の立場から、寺坂問題の真相を研究して発表してもらいたいと希望して去ったが、著者の希望は容易に実現しそうもないので、「これは、寺坂に特別の関心を有つ自分が自ら研究する外ない」と感ずるにいたり、義士に関する根本史料を読み始めたところ、意外にも、寺坂逃亡説は蘇峰翁の新説ではなくて、事件の当時からすでに存在していたことが分った。それはそのはず、大石らは彼を密使に出したなどとはいえないため、表面は逃亡として取繕い、それで押通してしまったのであるから、曖昧な点のあるのは当然である。とくに大蔵謙斎という学者は、二つの証拠をあげて寺坂を逃亡と断じた。そのため明治時代に至るまで、まだ問題として残っていたのを、当時の史学の元老重野成斎博士が、明治二十二年発行の『赤穂義士実話』の中で、謙斎の寺坂逃亡説の証拠を一々明快に論破し、更に彼が討入に参加したものに相違ない事を証する史料を提示されたので、寺坂逃亡説はそれ以来、口にするものがなくなったのである。
一、しかるに蘇峰翁は、その重野博士の著を御覧にならなんだと見えて、大蔵謙斎の寺坂逃亡説を、そのまま持ち出して、『義士篇』の巻頭に掲載されたのである。翁の名文によって新説らしく見えるが、内容は数十年前重野博士によって完全に論破され、史学界では無効に帰している古証文なのである。蘇峰翁は実にはなはだしい過失をなされたものである。ここに於て著者は、翁の所論を反駁する一文を草して、昭和五年十二月二十八日発行の週刊『婦女新聞』に掲載し、またその一部分を省略したものを、昭和六年二月一日発行の『日本及日本人』に掲載し、以て翁の再研究を促した。
一、ところが、それから間もなく、吉田忠左衛門の女婿伊藤十郎太夫の末畜の家から、多数の古文書や遺物が発見され、この新史料によって、赤穂町の義士研究家伊藤武雄氏が『寺坂雪冤録』を執筆した。寺坂逃亡説は、明治時代の重野博士の考証によってでも、すでに史学的価値を失っているのに、多数の新史料出現によって、もはや疑う余地のないものとなった。伊藤氏は、その『寺坂雪冤録』を東京に於て発表したいと申越されたので、私はこれを雑誌『日本及日本人』に紹介した。昭和九年二月十一日発行の同誌およびその次の号に掲載されているのがそれである。私はこの新史料による『寺坂雪冤録』に対しては、いかに自信力の強い蘇峰翁も兜(かぶと)をぬがれなければなるまいと確信していた。けれども翁は、私の駁論に対しても、伊藤氏の『寺坂雪冤録』に対しても、一言も弁じられない。
一、伊藤氏は、雑誌掲載の論文に対する反響がないので、これを更に増補して単行本として発行したい希望を申越されたから、私は考えた。「蘇峰翁も、今日に於てはもはや寺坂筆訣の軽率だったことを覚っていられるに相違ない。そして取消しの機会と方法とを待っていられるのだろう。果してそうならこの伊藤氏の『寺坂雪冤録』の序文を翁に依頼し、その文中に於て翁は前説を取消され、かつその書を翁の支配下にある民友社に於て発行せらるる事にすれば、寺坂の名誉恢復と同時に翁の学者としての襟度を示す事にもなって、一挙両得であろう」と。私はこれを自分ながら妙案だと信じて、早速三上博士を訪問して相談した。すると博士は、過褒の言辞を以て私の案に賛成せられたが、「しからば先生から翁に御交渉願いたい」と乞うと、辞を設けて逃げてしまわれた。私はこの時、三上博士が蘇峰翁に対して、私の想像していた程に親切な友人でなかった事を知って、失望を禁じ得なんだ。
一、私は余儀なく、直接翁に書を贈って回答を求めた。その要領は、「第一寺坂逃亡説を今もなお確信せらるるや否や。そのお説が変らなければ、以下の私の言は無用である。幸にその後の新史料出現によって前説を訂正せらるる御意志があるなら、一度御目にかかって陳述するが、要件は伊藤氏の『寺坂雪冤録』の序文中に於てそれを公表せられ、かつ同書を民友社に於て発行し、若干部を赤穂花岳寺に寄贈せられたい希望である」というのであった。これに対する翁の回答は、全く顧みて他を言うものであった。それで私は再書を呈したが、依然として要領を得ない。そこで私は三回目に書留郵便を以て「寺坂逃亡説を今もなお支持せらるるや否や、それだけ明答を乞う」と申入れた。すると折返し「変説する要を認めず」と、代筆で申越された。この前後の事情から推して、私は翁が、実際自説の誤を覚りながら、私が何か難題でも持ちかけるもののごとく疑倶して、ついに私の好意を一蹴せられたものでないかと考える。
一、それ以来私は、『婦女新聞』や『教育評論』などに於て、随分無礼な言辞を翁に呈した。けれども翁は、一回の弁明もなさらなければ、反駁もなさらない。一昨年中央義士会で講演せられた時も、寺坂問題については一言もふれずにしまわれた。翁はまるで、寺坂の事を忘れてしまわれたようである。
一、こういうわけで、私が赤穂義士を研究するようになったのは、全く蘇峰翁の寺坂筆訣に対する公憤に原因し、深入するに従ってだんだん興味が加わり、結局小説や講談によって誤られている義士伝を訂正したいと考えて、ついに本篇を執筆するに至ったのであるから、結果から見れば、蘇峰翁もまた、渡辺博士や伊藤武雄氏と共に、本書のためには恩人というべきである。
一、本書の印刷中、十月十三旦局輪泉岳寺に開かれた中央義士会例会に於て、渡辺世祐博士の寺坂吉右衛門に関する講演あり、彼が立派に討入に参加したものであること、逃亡では決してない事を、新史料伊藤家古文書によって論断せられた。蘇峰翁の寺坂逃亡論は、ここに完全に止めを刺されたもめといってよかろう。渡辺博士はその講演の初めと終りに、伊藤武雄とその著『寺坂雪冤録』とを紹介して、氏の研究の功を推奨されたが、不思議にも伊藤武雄氏は、博士講演の翌十四日、病勢急変してついに他界した。
一、私は名声赫々たる大先輩徳富蘇峰翁に対して、かかる交渉を暴露することの無礼を思わないではないが、事は史学上の問題で、しかも翁はなおその著『義士篇』巻頭の寺坂筆訣論を取消さずに、そのまま発売させていられるから、私もまたこの小記を本書の巻頭に掲載して、郷国の義士寺坂のために弁ずるのである。
 
一 忠臣蔵の芝居

 

忠臣蔵の芝居は、その数何十種というほど沢山あるが、最も広く行われたのは『仮名手本忠臣蔵』で、今日に於ても、なおその興行価値を失わない。芝居の入りが悪くなれば忠臣蔵を出すのが、古今同じであるほど、この忠臣蔵は狂言中の権威となっている。『仮名手本忠臣蔵』は、二代目竹田出雲、'三好松洛、並木千柳三人の合作(三好と並木は連名に過ぎず、実際は竹田出雲一人の執筆だとの説がある)で、寛延元年八月(義士切腹後四十六年)大坂の竹本座で初演せられたのであるが、その時は四ヵ月間一狂言を打ち通したというほどの人気であった。
この『仮名手本忠臣蔵』は、元禄時代を足利時代の初期に繰上げ、江戸を鎌倉とし、吉良上野介を高師直(こうのもろなお)、浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)を塩冶(えんや)判官高貞、大石内蔵助(くらのすけ)を大星由良之助、長子主税(ちから)を力弥としているが、この時代と変名は、竹田出雲らの創作ではなくて、これより四十余年前、すなわち事件後まもなく近松門左衛門の作った『兼好法師物見車』及びその追狂言『碁盤太平記』を踏襲したのである。つまり忠臣蔵という大絵巻は、近松が先ず構図し、二代目竹田出雲らが絵筆を進めて大成したものだといってよかろう。
近松の『物見車』では、『つれづれ草』の作者兼好法師が、高師直の頼みを受けて塩冶判官高貞の奥方を取り持ち、それが元で判官は切腹、塩冶家は滅亡、塩冶の家老八幡六郎が復讐を企てる事になっており、『碁盤太平記』はその追狂言で、八幡六郎が大星由良之助と変名して子の力弥と共に世を忍び、同志四十余人と共に敵(かたき)高師直を討取るのであるが、大石の妻や母が自害したり、寺岡平右衛門が力弥のために手討になったりして、後の忠臣蔵とはよほどちがっているから、ここにその荒筋だけを説明しておこう。
塩冶家(えんやけ)の浪人八幡六郎父子は、大星由良之助同力弥と変名して、京の片田舎に借宅している。そこに住込んでいる仲間(ちゆうげん)岡平は、実は寺岡平右衛門で、彼の父は塩冶の足軽であったが、領内塩浜の検地の際、落度があって扶持に離れ、流浪の身となりながら、二君には仕えず、今一度塩冶家ヘ御奉公をと、機会を待っているうち、殿様は師直のために御最期、主家は滅亡となったので、俸に遺言して切腹、それに感憤した平右衛門は、単身主君の仇を報ぜんとて、鎌倉の師直邸に馬方となって入り込んだ。しかし用心堅固で独力では目的の達せられたい事を知り、師直が各方面に間諜を発する計画を聞いて、進んでその隠密(おんみつ)たらんことを志願し、血判すえて安心させ、「無筆の岡平」と変名して、つてを求(ささ)めて大星邸の仲間(ちゆうげん)になったのである。その真意は、酒色に溺れているらしい大星父子を諌めて、復讐の手引をするにあったのであるが、本心を打明ける機会のまだ到らないうち、師直邸からの密使に手紙を渡しているところを力弥に見つけられて、即座に手討にされ、虫の息の下から真意を語り、由良之助の懇望によって、師直邸内の様子を説明する。が、呼吸が迫って言葉が出なくなったので、由良之助は気転を利かせ、傍なる碁盤を引よせて、白石は塀、黒石は館(やかた)と見立て、門はこの位置、玄関はこの辺かと、盤上の石の略図について平右衛門に確め、その肯いたり首を振ったりするので石を置きかえ、大体の邸内の様子を知ることを得、妻や母に覚られないよう、力弥と二人で平右衛門の遺骸を床下へ隠す。間もなく妻と母とは奥から立ち出で、由良之助父子の真意を察し得ず、日頃酒色に耽ってお主のための復讐を忘れている挙動を諌め、母はさんざん由良之助を罵って、有合う碁笥(ごけ)の石をつかんで投げつける、力弥は堪えかねて、二人が奥へ入った後、父に対して、打明けた方がよいというが、由良之助は、ここが大事のところ、かつ母上や女房も一味とあっては、後日累が及ぶ事になるかも知れぬからと制する。そこへ鎌倉方面から首尾はよいから、速に下向せよとの同志の密書が届いたので、早速出発の準備を整えていると、奥では母と妻とが、そうとは知らず自害して果てている。それにいっそう激励されて、直に出発、同志四十五人(寺岡父子の霊を加えて四十七人)が師直邸に切込んで首尾よく本望を遂げる。
以上が『碁盤太平記』の荒筋であるが、『仮名手本忠臣蔵』が現われてからは、この狂言はだんだん忘れられるに至った。しかし、元禄の時代を足利に持って行き、吉良上野介を高師直に、浅野内匠頭を塩冶判官とし、その他、大星由良之助、力弥、原郷右衛門、千崎弥五郎、寺岡平右衛門等々、主要人物の名をそのまま後の忠臣蔵に踏襲させたのは、『物見車』と『碁盤太平記』の作者たる近松の功績といわねばならぬ。
この、近松が書き始めて二代目竹田出雲らが完成させたと言ってもよい『仮名手本忠臣蔵』の浄瑠璃が、あんまり巧妙にできているので、二百余年来津々浦々に興行せられ、世道人心を支配し来った結果、今では史実と創作との境が分らなくなり、浅野内匠頭の切腹が実際あの忠臣蔵四段目のようたものだったごとく想像されたり、義士萱野三平に、実際お軽のような女房があったもののごとく思い込んでいる連中もないとはいえない。それで私は、忠臣蔵の正史、正しい史実に基づいた赤穂義士を記そうとするのである。
 
二 事件の発端

 

芝居(『仮名手本忠臣蔵』のこと、以下同じ)では、足利の初期に、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御造営が成り、京都から将軍尊氏の代参として舎弟直義が下向(げこう)するので、その御馳走役を桃井若狭助安近と塩冶(えんや)判官高貞とが仰付かっているのを、鎌倉の執事高(こうの)武蔵守師直が、権柄を笠にさんざん侮辱する事から端を発し、とくに兜改めの条の後、師直が判官夫人顔世(かおよ)御前に対する恋の叶わぬ意趣から、判官に悪口雑言を極めるので、判官ついに堪えかねて斬りつけるのであるが、正史の事実は次の通り。
徳川将軍家では、毎年正月京都におわします主上に年始の御祝儀を申上げるため、使者を上洛させ、それに対して、朝廷から答礼として勅使を遣わされる。元禄十四年には、吉良上野介が将軍家のお使として正月十一日に江戸を出発し、それに対して、
  東山天皇の勅使  柳原権大納言資廉卿 高野権中納言保春卿
  霊元上皇の院使  清閑寺権大納言熈定卿
が下向される事になったので、二月四日、勅使の御馳走役を播州赤穂の城主(五万石)の浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩、院使の御馳走役を伊予吉田の城主(三万石)伊達左京亮(さきようのすけ)村豊に任命された。御馳走役というのは、勅使 ・院使のおもてなしをする役で、御旅館の床の間の軸から、茶器、食器、寝具類まで運び込んで、一行滞在中の料理その他を一切引受けて賄うのであるが、これを首尾よく勤めることは、朝廷並に幕府に対しての忠勤であり、かつ大名の一代に一度かせいぜい二度仰付かるに過ぎない役目であるから、名誉の任命ではあるが、内匠頭は礼法に慣れないからとて、一応辞退した。すると老中土屋相模守は、「法式の事は万事吉良上野介が心得ているから、それに御相談になって首尾よく勤められるよう。なお年々御馳走の儀が重くなり過ぎて来たから、万端軽く調うる事に心得るよう」との注意があった。あまり度を過ぎて奢移にならないようにという意味である。
内匠頭(たくみのかみ)が勅使の御馳走役を命ぜられたのは、今度で二回である。第一回はまだ十六歳の時であったが、首尾よく役目を果した。しかるに今度は三十五歳の男盛りなのに、殿中刃傷という大事件をひき起して、家名断絶、城地没収となってしまった。
これは、第一回の時には何もかも江戸家老まかせで、人形のごとく行動したに、今度は物の道理や筋道がわかるから、脇に落ちないことはどこまでも問い糺(ただ)して行動しようとするに、儀式指導の任にある吉良上野介義央(よしひさ)が、それを教えないで、恥をかかせるような事ばかり仕向けたからである。なぜ上野介がそんな不親切を敢てしたかといえば、芝居にある通り賄賂を持って来ないからで、それに二人の人物が相反した性格であったため、普通なら多少気まずい思いをする位ですんだはずのものが、とうとう爆発するに至ったのである。
内匠頭は清廉無私、ただ役目大事に真直に事を行う方で、しかも世間の事情に通ぜず、人の言葉の裏を考えるようた事はできない。かつ性質は、大名にありがちの短気である。上野介は高家(こうけ)の筆頭-高家というのは朝廷と武家との間に立って儀式典礼を司る家柄、今日なら式部官、その筆頭であるから式部長官というところであろう。で、儀礼の事では常に諸大名に指南する地位にあるのを利用し、賄賂を役得のごとく考えている強欲鄙吝(ひりん)の老爺である。
内匠頭は家の面目として、どうか不行届のないようにと緊張している。しかし、内匠頭に限らず武家育ちの者は、勅使に対する礼儀式典などには通じないから、その指南役として高家の吉良上野介が任命されているのである。一切の費用は内匠頭が負担し、上野介はそれをして落度のないように指導する役目なのである。双方共役目の上から事に当るのであるから、贈物をドッサリ持って来たら親切に教える、それでなければ教えないなどいう事は常識で考えられないことであるが、強欲で好俵の上野介は、それを悪いとは思わないのみか、貰い物の多いのを自分の勢力の裏書のごとく考え、むしろ名誉として誇りたい位の気持だった。だから、賄賂を持参したいものは、自分の勢力を認めない無礼者のごとく思えて績にさわった。この両者の性格の相違、思想の相違が、事件を発生させた根本原因であることを、赤穂義士伝を読むものは先ず頭に入れておかなければならぬ。 
 
三 再三の侮辱

 

内匠頭が勅使御馳走役の命を受けるや江戸御留守居役の建部喜六、近藤政右衛門は、主君の大切なお役目に不行届の事のないようにと、前にこの役目を勤めた事のある二、三の大名へ、贈物の格式など問合せた。その中には、備後三次(みよし)の浅野家(赤穂の同族)もあったが、同家では元禄九年にこの役を勤めた時の内証帳まで持ち出して、いろいろ親切に教えてくれた。それらの向々の話を綜合すると、上野介は強欲の老爺で、進物が少ないと指導方が不親切だという事なので、その通り内匠頭に申上げ、普通格式以外に、十分の附届をしようとしたが、内匠頭は前に記した通り清廉潔白、かつ一本気の真直な人物なので、「役目が首尾よく終った後に、御礼として持参するのならばよいが、まだ済まないうちに、あまり重い贈物をするのは、どういうものだろうか」と言って、格式だけの土産物に止めさせた。つまり内匠頭は、後で御礼をするのならよいが、事前に過当の贈物をして先方の歓心を買おうとするのは、自分を卑屈にするのみならず先方に対しても失礼だと、真面目に考えたのである。
それで第二回の訪問をした時は、上野介の態度極めて冷淡であったが、内匠頭は別に気に留めず、辞を卑うして勅使御着後の待遇方について尋ねた。すると上野介「すべて礼を厚うするには音物(いんもつ)を以てその志を表わさなければならぬ。されば毎日献上物をなさることが何より大切でござろう」と答えた。これは上野介が、今まで賄賂持参の謎をかけたけれども、内匠頭がその謎を解こうとしないので、献上に名を籍りて横領しようというような下心でもあったのか、あるいは他に何か考えがあったのかも知れないが、そんな事は内匠頭に察せられない。かつ一切の接待を引受けている者が毎日献上物をするという事は変に思われるので、試に院使御馳走役の伊達左京亮に尋ねて見ると、伊達の方へは、上野介からそんな指図は無いという。そこで老中の土屋相模守に伺いを立てた。すると相模守、「上野介の指図としてもそれは心得がたい。二、三回までの献上物は結構であるが、毎日という事は無用である」と、ハッキリ答えたので、その通り準備を運んだ。これを知った上野介は、さながら自分を譲言されたもののごとく怒り、「今に見ろ、何かで恥をかかせてやるぞ」と、ますます意地悪く当るようになった。
上野介の不親切だった一つの例は増上寺畳替(たたみがえ)の件である。勅使・院使は、三月十五日に芝増上寺参詣と決っており、そのさい宿坊に於て馳走役から饗応するのが慣例なので、あらかじめその用意をしておくべきであるが、畳の表替をどうしようかという事が問題になり、上野介に指図を乞うたところ、「汚(よご)れてさえいなければ替えるに及ばない」と答えたので、そのままにしておいたところ、伊達家の方では、吉良から指図があったというので、全部新規の物と取替えた。院使の方の畳が新しくなったに、勅使の方のが古い畳ではいかにも不体裁なので、急に下知して、宿坊二百枚の畳を一昼夜の間に新しくさせた。そして吉良に対しては「畳は替えないでもよいとのお指図であったが、意外に古くなっていたので皆取替えました」と言ったところ、上野介野卑な笑い方をして「それは結構でござった、なんでも金銭さえ多く費せばそれが誠意を証明するものでござる」と答えた。
この前後の事であろう、伊予大洲の藩主加藤遠江守恭常(やすつね)が内匠頭に対して、「拙者去年日光に於て、上野介と度々御用の相談を致したが、慮外千万の仕方多く、実に堪えかね申した。貴殿にもこの度は定めし御同様の御事もござろうが、何分御用大切でござれば、御見のがししかるべくと存ずる。それに相手とするに足るような上野介ではござらぬ。お心安き仲ゆえ、御心得までに申入れ置く」と忠告した。これに対して内匠頭「親切の御忠言恭く存ずる、しかし場合によっては堪忍のなり難い事、あるものでござる」と答えたそうである。
三月十日(元禄十四年)明日は伝奏(てんそう)(勅使・院使)が江戸ヘお着きになるというので、未明から富森助右衛門と高田郡兵衛とが品川駅まで出迎えた。明日着かれるというのに前日の未明から出迎えたというので、交通機関の不備だった当時の時間空費が思われる。同日夕方から内匠頭も伝奏屋敷へ詰めた。
十一日未明に、伝奏三人が江戸へ着かれた。内匠頭は当日持病の溶気(ひき)(胸のつかえ)が出て、侍医寺井玄渓から薬を差上げたと同家記録に書かれているが、多分過日来の上野介の態度に対する憤愚から神経を昂奮させた結果だろう。 
 
四 殿中の刃傷

 

浅野内匠頭(たくみのかみ)が勅使御馳走役の命を受けたのは、元禄十四年二月四日で、その時は吉良上野介が将軍家の御年賀使として上洛し、まだ帰っていなかった。上野介が江戸に帰ったのは、その月の二十九日である。
そして勅使・院使の江戸着は三月十一日で、翌十二日に勅旨・院旨を伝えるため登城、十三日は殿中で将軍の饗応(午前十時頃から午後四時頃まで旅情を慰めるために能楽の催がある)、十四日は将軍綱吉が勅使・院使に奉答することになっていた。その十四日に事件が起きたのである。
内匠頭は以前から上野介と相知っていたわけではなく、今度の御馳走役に関係して初めて親しく訪問して言葉を交わしたのであるから、上野介帰府の翌日に、第一回の訪問をしたものとしても、半月にも足らぬ知合である。そのわずかな日数の間に殿中刃傷、切腹申付、祖先以来の城地召上げ、そして後に四十七士の復讐を伴うような大事件が展開したのである。寸善尺魔の世の中とは全くこの事だろう。
刃傷事件のあったのは、元禄十四年三月十四日巳の上刻とあるから、今の時間でいえば午前十時前である。これより少し前、勅使・院使もすでに登城(一般歴史にはこの時伝奏が未だ登城していられず、それをお迎えする時に玄関の敷台に下るべきか否かを内匠頭が上野介に尋ね、その答の嘲笑が原因で刃傷に及んだごとく記述されているが、著者は本書余録に掲載のごとき理由により、勅使・院使がこの時すでに着到、休憩室にいられたものであることを確信する)、一先ず休所へ入って、追付け将軍奉答の行われる御白書院(おしろしよいん)へ行かれる事になっていたので、内匠頭や左京亮は大広間の外に立っていた。上野介は、老中がお呼びになっていると坊主が知らせて来たので、その方へ出向いた。それと引きちがえに、将軍夫人の留守居役梶川与惣兵衛頼照(将軍夫人及び将軍母桂昌院附を勤めている)が、大広間の後通(うしろどお)りから出て来て、上野介を探したが、いなかったので内匠頭に、院使から将軍夫人と桂昌院に下され物のあった御礼言上の都合に付質問した。内匠頭は、それらの事は上野介に尋ねられたいと鄭重に挨拶した。
それで梶川は、上野介の行っている御白書院(おしろしよいん)の方へ行こうと思って、松の廊下へかかった。御白書院というのは、檜の白木造りの広間で、黒漆塗の御黒書院と共に、大礼に用いる室である。松の廊下というのは松の間(十万石以上の大名の詰所なる大広間で、その室の衝立に松の絵がある)から御白書院に通ずる大廊下で、鉤(かぎ)の手に折れ、手前は幅二間、長さ十間半、先は幅二間半、長さ十八間ある。梶川はその大廊下を折れ曲ると、向うから上野介がやって来たので、用件を言っていると、そこへ内匠頭ッカッカと駆けつけて「この間の遺恨おぼえたか」というより早く、小さ刀を抜き放って斬りつけた。小さ刀というのは、脇差より長く、大刀より短い、中古には鞘巻(さやまさ)と称したもので、`狩衣(かりざぬ)、素襖(すおう)、大紋(だいもん)などの礼服の場合は、普通の大小刀を侃びないで、この小さ刀一本を差すのである。内匠頭は当日大紋を着て、小さ刀を差していたのである。この着服についても、上野介の意地悪によってまごつかされたと書いているものもある。
内匠頭の打ち下した一の太刀は上野介の眉間(みけん)に当ったが、それは烏帽子(えぽし)の縁につかえて微傷を負わせたに過ぎなんだ。上野介が驚いて逃げ出すのを、内匠頭背後から二の太刀をあびせた。その時早くも梶川が内匠頭を抱き止めたので、刃先が十分とどかず、結局二個所共致命傷にはならなんだ。が、上野介は大声あげてうつ向に倒れ、そのまま気を失ってしまった。
その場には、梶川が唯一人居合せただけで、高家衆は、松の廊下の北端十余間も先の方にいたが、騒ぎを聞きつけてバタバタと駆けつけ、伊達左京亮や坊主共も集って、梶川に力を合せて内匠頭を取押えた。内匠頭は「卑怯もの討果せ討果せ」と叫びつづけて、刀を容易に放さなんだ。そして大勢の人々に取囲まれて、大広間の後の柳の間附近につれて行かれた時やや落ちついて、「上野介にこの間から意趣があったが、殿中といい大切の御時であるからと、今までは堪えに堪えて来たのであった。かくなっては恐れ入った事であるが、是非に及ばない」という意味を、繰返し繰返しいったそうである。次いで内匠頭は、警衛係の目付に引渡され、中の口廊下の坊主部屋に留置された。
他方上野介は、抱き起されたけれども、老人の驚樗と手負のため一向正気づかず、抱えられて、反対の御白書院の縁から医師溜の間へ運ばれた。 
 
五 吉良上野介の傷

 

上野介の受けた傷、眉間と背(せな)との二個所のどちらが先かということについて、多少の問題がある。梶川与惣兵衛の筆記によると、内匠頭が「この間の遺恨お.ほえたか」と叫んで、後から背へ斬り下げたが、小さ刀で十分届きかねた。その時の内匠頭の怒気に満ちた声に驚いて上野介がふり返った時、二の太刀を頭上めがけてふり下したが、今度は烏帽子に当ってはねあがったというのである。
渡辺世祐博士はこれについて「当時の武士として、とくに大名として、やみ討に、声をかけただけで背中に一の太刀をつけるという事は、あり得ぬ事ではないかと思う」といい、当時現場にあった与惣兵衛の筆記が、史料の上からは一番確実というべきではあるが、その傷の手当をした外科医栗崎道有(どうゆう)の日記に、次の通りあるのを引いて、「この日記にも、かなりよい所(ちちち)がありますから、強(あなが)ちに捨つべきものでもないと思います」と、二個所の疵の先後を問題として提供されている。
大ロウカ、千鳥ノ間ノ先ノ方へ吉良相詰メ罷在、内匠頭ハ千鳥ノ間ノ方ヨリ来ル。其席ヲヲイテ、カンニンナラザルコトニヤ、惣ジテ内匠頭ハ気短ナル兼テ人ノ由、吉良ヲ見ツケテ、チイサ刀ヲヌキ打ニミケンヲ切ル。ヱボシニアタリ、ヱボシノフチマデニテ切止ル。時二吉良ウツ向ニナル所ヲ、二ノタチニテ背ヲ切ル、是モ刀ノ寸ハ短ク、其身ハ気セキ、太刀先サガリ、漸々皮肉ノ間マデ、長サハ六寸余モ切レル。疵アサシ。ヒタイノ疵ハ骨ニアタリ、少々疵深シ。時二御留守居役梶川与三兵衛ト云人云々。
梶川以外に現場を見たものは無いのであるから、彼の筆記、一の太刀背後説(はいごせつ)を事実としなければならぬといえばそれまでであるが、彼も恐らくその際は夢中であったろうから、その記述必ずしも正しいとはいわれず、また梶川は内匠頭のいた方から進み、上野介は向うからやって来て立話となったのであるから、上野介は内匠頭の方を向いていたものとするのが合理的である。だから著者は、治療医道有の日記、一の太刀眉間説の方が事実だろうと推測する。
なお道有の日記から、疵の治療についての一節を紹介する。
ヒタイスヂカイ、マミヤイノ上ノ骨切レル、疵ノ長サ三寸五六分、熱湯ニテアタタメ洗ヒ、小針小糸ニテ六針縫ヒ、直ニウスメチヤヲ付ケ、フタニモ黄ーヲ付ケル。背疵浅シ。然レドモ三針縫ヒ、仕掛ヶ薬右同断ナリ。巻木綿ハ、幸ヒ下着ノ白帷子ヲ引サキ、随分手ギワヨク巻キ、包ミ置キテ、扱部屋中血ニナリタル衣類ヲ、吉良挟箱二入レサセ、畳ニモ方々血流レケガラハシク見ユル程ノ物ヲ、吉良家来二申付テソウジ致サセ云々。
( 附記 この治療医栗崎道有の末畜は栗崎道隆といい、現に熊本市本山町にやはり医を業としていられる。道隆氏の令姉トキ氏は東京女高師の出身で森山辰之助氏(前青森県師範学校長)夫人となり、『婦女新聞』の長い愛読者だったが、昭和十二年春他界された。) 
 
六 不公平なる幕府の処置

 

降って湧いた大事件に、殿中百に余る大名小名(だいみようしようみよう)は、上を下への大混乱、一時は鼎の沸くような騒ぎであったが、勅使・院使は先刻すでに来着されているので、心きいた人のさしずで、血の流れたあとを大急ぎに掃除させ、老中は即刻将軍綱吉に事変を言上しに行ったが、そのさい綱吉は、奉答を前にして身を潔めるため入浴していた。それでお湯からあがるのを待ちかねて、執政柳沢出羽守吉保が取次いだ。将軍の激怒は想像するに難くない。直に事件の取調を厳命すると同時に、流血の場所に近いからとて、勅使対面の室を御白書院から御黒書院に変更すべき旨申付けた。なお内匠頭の代りの御馳走役は、下総佐倉の城主戸田能登守忠真(ただざね)(五万五千石)に任命され、そして儀式は滞りなく済んだ。
一方、老中、若年寄、大目付等の各大官は、時計の間に列坐して、内匠頭を抱き止めた梶川与惣兵衛を呼び出し、その場の様子を逐一述べさせた。
聴き終って老中土屋相模守は、義央(よしひさ)の疵の程度を訊ねた。梶川答えて「二、三個所と存じまするが、深手とは見えませぬ」といい、次に阿部豊後守から、「上野介はそのさい刀に手をかけるか、または抜合いはしなかったか」と問うと、「帯刀に手をかけませんでした」と答えた。実は抜合うどころではなく、驚いて気絶したのである。
次に、内匠頭と上野介とは、目付役の大久保権左衛門忠鎮(ただしず)と多門(おかど)伝八郎重共(しげとも)の二人に命じて取調べさせた。
二人は先ず内匠頭を取糺したところ、内匠頭は「上(かみ)将軍家に対してはいささかお恨み申すような筋はありませぬ。ただ上野介に対する私の遺恨があり、堪えがたくなって前後を忘却し、場所柄をも揮らずして刃傷(にんじよう)に及んだ段、何とも恐縮に存じます。いかようの御管め申付られましてもいささかお恨みは申しませぬ」と、いかにも神妙に覚悟して、遺恨の内容については、弁解がましく説明はせなんだ。ただ訊問に対して、武士の面目上堪え得られない侮辱をしばしば与えられたためとはいえ、自分の不調法から殿中を騒がし、大樹公(たいじゆこう)(将軍)以下の御心を悩まし奉ったことは申訳ありませぬと繰返すのみであった。
一方上野介は、両目付からの「内匠頭に遺恨を挟まれる覚えはないか」との尋ねに対し、「別になんら恨まれる覚えはござらぬ。全く内匠頭の乱心に相違ありませぬ」と、答え、「刀を抜き合わせなんだか」と問われると、「いやしくも儀(モ)式典礼に任ずる某(それがし)、殿中に於て左様の不心得をどうして致しましょうや」と、疵にも屈せず昂然として答えた。
取調べの結果は、直に両目付から老中へ、老中から将軍へと取次がれた。そして、内匠頭の身柄は奥州一ノ関城主田村右京大夫建顕(たけあき)に一時御預けになる旨達せられ、上野介に対しては仙石伯者守を経て、
上野介儀公儀を重んじ、急難に臨みながら、時節をわきまえ、場所を慎みたる段、神妙に思召さる。これに由て何の御構いもなし、手疵療養致すべき上意也。
と達せられ、その上執政の柳沢が自分でやってきて、親切に慰問した。
この最初の処置が不公平であったところに、禍根の後にまでのこる原因があるのである。元来喧嘩両成敗ということが、鎌倉以来武家制度の原則で、一方に多少情状の酌量すべきものがあってもすでに喧嘩となった以上、そのままにおいては他方の恨みが消えないから、必ず両方共せいばいするに決っていたのである。上野介は、喧嘩ではない内匠頭の乱心だといっているけれども、内匠頭は遺恨があるといい、その取調に対する態度から見ても、乱心狂気でないことは明らかなのであるから、少くとも上野介の役を免ずる位の事はしなければならないはずであった。それに、むしろ賞辞を与えてそのままに差置き、内匠頭は続いて切腹、城地召上げという事になったのであるから、浅野の家臣たるもの黙って服することのできないのは当然であろう。 
 
七 芝居の加古川本蔵

 

内匠頭(たくみのかみ)の殿中刃傷(にんじよう)の際、居合せた梶川与惣兵衛が抱き止めたことを前章に書いたから、ここで芝居の加古川本蔵について少しく語りたい。
芝居の本蔵は桃井若狭助(わかさのすけ)の家老であるが、若狭助は判官と共に、上使足利直義公の御馳走役であるから、内匠頭の相役(あいやく)伊達左京亮に当る。ところで芝居によると、若狭助も判官同様、高師直の侮辱に堪えかねて、明日はいよいよ殿中に於て斬り捨てんと決心し、家老本蔵を呼んで「どんな事でも御言葉を返しませぬ」と誓わせた上、師直を討ち果さん決心であることを打明け、その上は家名の断絶も必定(ひつじよう)であるから、後の事を然るべく取計らえと遺言する。本蔵一旦は驚くが、御言葉は返さぬという誓言を立てた上の事であり、かつ一度こうと思いこんだ上は、諌めたとて聴入れる若狭助でない事も分っているから、その場は委細承知仕ると答え、刀を抜いて庭先の松の枝を切り捨て、この通りスッパリやッつけておしまい遊ばせと焚きつけておいて、さて御前を退下するや否や、大急ぎで師直への進物目録を作り、巻物三十本黄金三十枚若狭助奥方、黄金二十枚家老加古川本蔵、同四十枚番頭(ぱんがしら)、同十枚侍中(さむらいちゅう)として、自身で持参、師直出仕の途中で差出す。そのため師直の若狭助に対する態度がガラリと変り、若狭助もついに拍子ぬけして、斬りつけずに終る事になっているが、これは内匠頭より二、三年前に御馳走役を命ぜられた亀井隠岐守の事実を作りかえたのである。
御馳走役の石州津和野藩主(四万三千石)亀井隠岐守薙親(これちか)は、指南役の吉良上野介が意地のわるい事のみ仕向けて指導してくれないのみか、堪えがたい侮辱を加えるので、武士の面目を維持するためいよいよ一刀に斬り捨てる決心を固めて、家老多胡主水(たこもんど)に心中を打明け、後事を依嘱すると、主水はこのさい諌言しても無益と察し、表面は余儀なく承服するように見せかけて、早速台所元から金三百両を支出し、即夜上野介を訪問して、今日まで主人隠岐守が無事お役を勤め来ったのは全く御蔭様に外ならぬ。あと二、三日の事であるから何卒この上ながらよろしく御願い申上げるといって、進物を差出した。すると翌日は上野介の態度が掌を返すように変って、隠岐守もついに刀を抜く機会がなかった。この亀井を桃井、隠岐守を若狭助、多胡を加古川(多胡を単に加古としないで川の字を附けたのは、播州の地名にとり、かつ梶川にもかけたものだろう)、主水を本蔵として、忠臣蔵二段目は作りあげられたのである。
なお芝居では、本蔵の娘小浪が大星力弥と許婚関係にあり、本蔵がわざと力弥の槍に突き刺される九段目が見物人の袖をしぼらせる見どころであるが、これらはもとより全く作者の架空的産物である。実際の梶川与惣兵衛は、内匠頭を抱き留めた功によって禄五百石を千石に加増された。
 
八 田村邸の浅野内匠頭

 

殿中で、浅野内匠頭の御預けを仰付かった田村右京大夫は、直に芝愛宕下の自邸に帰り、大急ぎで引受人数を整えて差出したのは八ッ半時とあるから、今の時間で午後三時である。
内匠頭を乗せた駕籠は、錠を下して縄(なわ)の網(あみ)をかけ、厳重な警護の下に、平河口の小門(今の外国語学校前の平河門)から出た。この平河門横に付属する出入口が逆に建てられている門は不浄門といって、何か不吉に関係する場合、ここから出入する例だったのである。そして一つ橋側から濠端(ほりぱた)を伝って、今の憲兵隊司令部の処から電車通に出て、桜田本郷を経て、田村邸に入ったのであるが、田村邸は今の田村町、昭和生命保険会杜の建物から南へひろがり、有名な府ばけ銀杏のある所がその庭先だったという事である。
田村邸では、この御預けが、数日に止まるか、それとも、一ヵ月二ヵ月に及ぶかも知れないので、奥庭に面した二室をそれに充て、襖を釘付にして、外部から更に板を張り、外廻りの障子も釘付、欄間には外からヌキを打付け、洗面所、便所も囲いの中につくり、極めて厳重な座敷牢とした。
座敷牢の中に備付けられた品々は次の通り。
  夜着(表黒羽二重、裏浅黄)一枚 蒲団(浅黄羽二重)二枚
  枕(浅黄羽二重)   一個  行水桶手洗    三個
  手桶          二個  ひしゃく       二本
  掛手拭        一通  此外櫛道具等一切、屏風
内匠頭は囲いの中にはいると直ぐ、朝から着用していた礼服の大紋を脱ぎ、白小袖だけになって、田村家の警護人に語った。
「自分は元来不肖の生れである上、持病の溶気(ひき)があって、心を取鎮める事ができない。それで今日も、場所柄をわきまえず無調法をして、一同に厄介をかけることになった」
そう言って出された食膳に向った。料理は一汁五菜であった。酒を乞うたが、御大法だからとて許されず、煙草を所望したが、これも御遠慮願いたいと断られ、茶で我慢する外なかった。
しばらくしてから内匠頭は、「大学(弟長広のこと、相続人に選定している)に対していかような御沙汰があったか、分るまいか」と警護人に尋ねたが、自分共には一向分らぬ由を答えると、やがてまた「自分の家来へ申遣わしたい事があるから、筆と墨を借りたいが」と言った。これも、コ応公儀に伺った上でなければ御取計申しかねるから、御遠慮ねがいたい」と答えると、「それなら口上で伝えてもらいたい」というので、田村家では「御口上ならば差支ござるまいからお取次申上ましょうが、それにしても一応御目付の御覧に入れる必要がござる故、そのお含みで御口上を」と答えた。そして、田村家の者が紙と筆を手にして、内匠頭の口上を書き留めた。それが今日まで残っている内匠頭の遺言で、全文左の通り。
此段予て知らせ申すべく候得共今日止を得ざる事に候故知らせ不申候。不審に存ずべく候。
これを、家来片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門の二人に伝えてもらいたいという事であった。江戸常詰(じようづめ)の家老には安井彦右衛門があり、今回お供して出府している家老には、藤井又左衛門があり、その他、下級の者まで入れると、現在江戸だけで百人内外の家来があるのに、とくに片岡と礒貝の二人を指名したのは、近習として日夕側近く仕え、とくに忠勤の士だったからで、二人から藩士全体に伝えよとの意味だろつ。この二人が共に、後日四十七士中に列するに至ったことは浮しむに足りない。
前記の遺言、人々によって多少解釈を異にするが、著者は次のごとく判断する。
この度のこと(上野介を斬ること)かねて知らせるべきはずであったが(知らせたらその方達がキヅト止めるであろう、止められたとて思い止まることのできるような程度のものでない。という意味をここで省略)今日(こういう事に立ち至ったのは)真にやむを得ない事なのだから、(わざと)知らせなかったのである。定めて不審に思うことだろう。
これによって考えると、内匠頭は、この日発作的に上野介を斬ったのではなく、前または数日前からすでに決心していたのであろう。 
 
九 鰻骨の多門伝八郎

 

将軍綱吉は、浅野内匠頭長矩が、勅使の接待に任ずる大役を忘れ、殿中を血で微したというので、激怒の結果、即日切腹申付ける旨、老中を呼んで申渡した。大名が切腹申付けられたら、家名は断絶、城地及び屋敷は召上げられるのである。 そして相手方の吉良上野介義央(よしひさ)は、御構いなしという事になった。この厳命は綱吉の専断で、天降りに老中に達せられたのであるが、将軍の背後から柳沢出羽守吉保が助言したことは、想像するに十分である。
老中稲葉丹後守、秋元但馬守らは、この厳命に対して「内匠頭の身柄はすでに一まず田村家に御預けとなったのであるから、せめて両三日はこのままにして、ゆっくり御考えの上御処分仰出される方しかるべく存ずる」旨申出たが、綱吉は耳をかさない。「再考の余地など無い、すぐさま取運べ」と、この辺内匠頭以上に気が短い。
そこで、月番老中土屋相模守から、大目付庄田下総守(正使)と目付多門(おかど)伝八郎、大久保権左衛門両人(副使)に切腹の検使として田村家へ即時赴くよう命ぜられた。多門と大久保は、つい先刻殿中で内匠頭を取調べた人物であるが、二人共内匠頭に同情すべき点のあることを認め、この片手落の処分にはなはだ不満である。
そこで、多門は大久保と相談の上、若年寄の稲垣対馬守、加藤越中守に対して、
「内匠頭は五万三千石の城主である。その城主が、祖先伝来の家も身も忘れてかかる大事を惹起したについては、よくよくの事情がなければなりませぬ。先刻は当座の調べで、両人の申立のままを御報告申上げたに過ぎないから、それを重視されて、今直ちに内匠頭のみに切腹申付けられるのは、御政道の上に於ていかがでありましょうか。今しばらくこのままに置かれ、御再審の上御処分しかるべきよう存じ奉る」
と申出た。越中守らもなるほどと同意して、それを執政の柳沢出羽守に取次いだが、柳沢は、すでに一旦申渡された事であるから、そのまま運ぶようにと答えて、将軍へは取次がない。
すると越中守は、自分が柳沢の拒絶で引さがったのを面目なく思って、直接多門に挨拶することを避け、同役井上大和守をして、目的の達せられなかった事を通告した。ところが多門は「内匠頭は外様で、ことに御本家浅野は大藩であるから、後日御手軽の御処置が問題にでも相成っては、御政道にも関係すること、御沙汰の如何は別として、是非共将軍の御耳にだけは達していただきたい」と、非常な決意を色に示して熱心に再願した。この時の多門は、自分の職を賭しても正道を貫く覚悟だったのである。
若年寄の井上大和守それに動かされて、柳沢に再考を促した。すると柳沢非常な不機嫌で、二度将軍から厳命の下ったものを、目付の分際でお考え直しを乞うなどとは、身分を越えた不届である。左様の者は部屋に差控えを命ずるがよい」と言い渡した。このため多門伝八郎は、殿中の目付部屋で差控えていなければならぬことになった。そして内匠頭の即日切腹はもう直ちに取運ぶ外なくなった。
そこで、多門の検使役はどうするかという事が問題になったが、当時老中や若年寄の中にも、柳沢の専横に反感を抱いているものが相当あり、「伝八郎は将軍家のためを思って直言したのであるから、出羽守一己の考えで差控えを命ずるのはこの方がよくない。かつ伝八郎にはさきに正式の任命があったのであるから、遠慮させるには及ぶまい」という事になって、秋元但馬守が親しく伝八郎に面会し、是非検使に参るようにと指図した。それで多門もお受して、庄田下総守、大久保権左衛門と共に、田村邸へ出向いた。それは今の時間で午後六時頃であった。内匠頭の殿中刃傷は午前十時少し前であるが、その日の午後六時には、すでに切腹の検使が田村邸に着いたのである。驚くべきスピードといわねばならぬ。
田村邸では、内匠頭が今夜切腹申付けられる事になったというので、すぐ家老をお城へ出頭させて、検分役の大目付庄田下総守に指図を乞わしめた。第一は、切腹の場所を室内にするか、庭先にするかという問題である。大名の身分を考えれば室内を当然とするのであるが、下総守は柳沢出羽守の意を迎えて厳重に処分する考えで、面によって、小書院の庭先に切腹の場所をつくるよう指図した。 
 
一〇 片岡源五右衛門の目送

 

内匠頭切腹の検使役は正使が大目付庄田下総守、副使が多門伝八郎、大久保権左衛門の両人であることは前に書いた。三人は十人の従者をつれて田村邸に赴いた。そして主人右京大夫に正式御用の筋を伝えたが、右京大夫はすでに万端の用意整っている旨答えた。
そこで多門と大久保は、切腹の場所を下検分しようというと、下総守は、先刻絵図面によって指図したのであるから、わざわざ下検分するには及ばない。しかし貴殿らが御覧になりたければ御勝手にと挨拶したので、伝八郎と権左衛門とは早速行って見た。すると、小書院の庭先に莚を敷き、その上に白い縁(へり)の畳を三枚並べて、上に毛藍が敷いてあり、周囲には幕打廻し、上には雨障子がかけてあった。
伝八郎と権左衛門とは急いで大書院に引返し、右京大夫に対して厳しく詰問した。
「内匠頭罪人とはいえ、五万石以上の大名で今なお五位の大夫である。しかも一城の主として武士の面目ある切腹を仰付けられたのである。しかるになんら身分もない一介の武士と同様に扱い、庭先での切腹とは何事である。当然座敷でなければならぬはず」
右京大夫は下総守の指図によったのであるから、当惑して、返事に窮していると、伝八郎は更に下総守に対して、
「浅野公は内匠頭という官名のまま切腹を命ぜられ、未だ官位のお取上があったことを聞かない。しからば当然の礼として、切腹場所は室内に選ぶべきであろう。同意なくば拙者共幕府に言上(ごんじよう)して指図を仰ぎたい」
と決然たる意気を示してつめ寄った。下総守は激怒し、
「言上は御勝手であるが、今日は拙者が正使なれば、拙者の意見に任されたい」
とて譲らない。
両者の議論いよいよ激しくなろうとする時、田村家の家来が右京大夫の所へ来て、唯今内匠頭の用人役片岡源五右衛門という者が推参して、内匠頭切腹前に、一目でもよいから主従の暇乞をさせて戴きたいと願っておりますと取次いだので、右京大夫は、当家は幕府の命によって内匠頭を預っているに過ぎないから、勝手に会わせる事はできないと断らせた。ところが間もなくその男が引返して来て、源五右衛門は、御言葉は御もっともであるが、自分一期の願であるから、武士の情けを以て検使の方に宜しくお願い下されたいと、涙をたたえて再願しておりますと取次いだ。
そこで右京大夫は、先刻来下総守と伝八郎の両検使が激論して座が白けているところであるが、片岡源五右衛門といえば、先刻内匠頭が遺言を伝えてくれと頼んだ家来であり、かつ切腹も目前に迫り延ばしておく事もできないので、ありのまま申出ると、下総守は黙っていたが、伝八郎は、武士の情けとしてそれは許してやるがよかろう、拙者は承知仕る、とキッパリ言った。これは伝八郎が、前には柳沢出羽守に反抗し、今また上席の下総守と争論したので、明日から蟄居を命ぜられるかも知れない、と腹をすえているところから、いっそう大胆に、何物にも揮ることなく所信を直言することができたのであろう。忠臣蔵四段目判官切腹の場の検使石堂右馬之丞は、この多門伝八郎をモデルとし、赤面(あかづら)の薬師寺次郎左衛門は庄田下総守に寓したものである。
下総守も、切腹の場所については非を押し通した感があるので、今度は伝八郎に一歩を譲り、異議ない旨を答えたので、片岡源五右衛門は、小書院の次の間で田村家の家来に取巻かれ、無刀で差控え、内匠頭が大書院で切腹を申渡され御請して、小書院の庭先の切腹場所へ下り立って行くところまでを、他所ながら見送ることができた。源五右衛門は内匠頭の用人・小姓頭で、禄は三百五十石、今度の出府に国元赤穂から御供して来たものである。 
 
一一 江戸藩邸の混乱

 

今朝(元禄十四年三月十四日)内匠頭が登城する際、御供していったものは建部喜六、礒貝十郎左衛門、中村清右衛門ら数人だったが、午前十時過御城玄関前がなんとたく騒がしいので、我が主君に事なかれかしと案じていたところ、間もなく目付衆から、「浅野、吉良の喧嘩によって内匠頭は田村家へお預けと決った、御供の家来衆は早々屋敷へ引取るように」と達せられた。さてこそ一大事と、一同憂倶しながら、道具を伏せて、大急ぎに築地鉄砲洲の藩邸へ帰った。
他方伝奏屋敷(勅使の旅館)には、江戸家老安井彦右衛門、今回御供して出府した家老藤井又左衛門以下、用人奥村忠右衛門、糟谷勘左衛門らが詰めていたが、そこへ美濃大垣城主戸田采女正(うねめのしよう)、目付鈴木源五右衛門が老中の命で駆けつけ、「内匠頭不慮の仕合に付、御馳走役は後刻交代仰出さるべく、ついてはこのさい騒動するものなきよう、後任者到着次第引渡して物静かに退出せよ」と申渡した。采女正は内匠頭の母方の従弟に当るので、幕府はとくに浅野家来の鎮撫を申付けたのであった。
やがて、御馳走役は戸田能登守忠真(ただざね)が命ぜられ、その家来がやって来たので、直ちに引ついで、床の間の掛物から膳椀の食器に至るまで、浅野家の物を撤して戸田家の品と取替えた。この時の足軽頭原惣右衛門の機敏な働きは、後々まで語り草になった程で、小舟数艘を道三橋(どうさんぱし)の下につないで、主家の道具類を順序よくそれへ積みこみ、午後二時頃にはすでに引渡しを終ったということである。
兎も角この大変事を国元赤穂へ急報せねばならぬ。その第一回特使として、早水(はやみ)藤左衛門、萱野(かやの)三平の二人が、午後二時頃鉄砲洲の屋敷を出発した(この特使が百七十五里の道を早駕籠で飛ばして、赤穂へ着いたのは六日目の十九日払暁であった)。
第一回特使が出発して間もなしに、主君が切腹申付られたとの報があり、続いて赤穂の城地、江戸の屋敷全部取上げられるとの報が伝わり、水野監物(けんもつ)(岡崎城主)その他が来て、騒ぎの起らぬようにと厳重に注意する。夜に入ると田村邸から、内匠頭の遺骸引取りに来いとの通知がある。そこで第二回特使として原惣右衛門、大石瀬左衛門が国元へ出発する。まるで目の廻るような変転と混乱で、何がどうなるのやら誰にも分らない。
築地鉄砲洲の藩邸へも、戸田采女正が公の書付を持参して、一同に幕府の厳命を伝え、騒動せぬよう慰撫し、なおまた水野監物も正午頃から夕方まで来て、おとなしく退散するよう伝えた。
翌十五日には大学長広が閉門を命ぜられた。大学は内匠頭長矩の実弟で、当年三十二歳、長矩に子がないので、相続人たらしめる事にかねて内定していたのである。大学はそれまで、鉄砲洲屋敷に来て諸般の世話をやいていたが、早速木挽町の自邸に帰り、門を閉じて謹慎した。
鉄砲洲の藩邸(上屋敷)にいた家臣らは、十五日から十六日の夕方までに全部引払って、屋敷は十七日にもう幕府の役人に引渡され、赤坂の下屋敷は十八日に、本所の屋敷は二十二日に、これまた引渡して、赤穂浅野家の江戸の屋敷はここに全く無くなった。 
 
一二 内匠頭の切腹

 

田村右京大夫は内匠頭に上使来邸の趣を告げ、大書院に案内した。時間は今の午後六時過、大目付庄田下総守は厳然として申渡した。
「其方儀今日殿中に於て御場所柄をも弁えず自分の宿意を以て吉良上野介へ刃傷に及び候段不届に思召され候これに伽て切腹仰付らるる者也」
内匠頭は神妙に頭をさげて、
「今日不調法なる仕方、如何ようにも仰付らるべきところ、切腹仰付られ有難奉存候」
と御請した。そして続いて「相手方上野介はいかが相成り申したやら」と質問したので、下総守は、「傷の手当仰付られて退出せられた」と正直に答えた。
内匠頭は不満らしい様子で、重ねて尋ねた。
「自分の斬付けた疵は確に二個所と覚えまするが、御目付には如何御検分あらせられしや、お聞かせ下さらば恭う存じまする」
そこで伝八郎と権左衛門は内匠頭の心中に同情して、
「疵は二個所で共に浅手ではあるが、老人の事であり急所でもあるから、生命は覚束ないということである」との意味を、二人口うらを合せて告げた。これを聞いた内匠頭さも満足したらしくニッコリ笑うて切腹の場所に案内せられた。
やがて設けの席に着くと、内匠頭「最後に一っ御願がある」とて介錯は自分が今朝来帯びていた脇差を使用していただきたい、そして後ではそれを介錯人に差上げたい旨を申出た。検使の方でも、それは差支ないという事で、にわかに田村家に預っている脇差を取寄せた。この事は諸書に記載されているが、中央義士会員太田能寿氏は、田村家記録によって、実際は介錯人磯田武太夫が自分の楓刀を使用したものであることを考証していられる。
その間に、内匠頭は筆を乞うて辞世の歌を認めた。
  風さそふ花よりも尚我はまた春の名残をいかにとかせん
風のさそう花よりも先に我はちるのである。春の名残り惜しさをどうしようという意味であるが、余韻の尽きざるものがある。
やがて三方にのせて差出された小脇差、先の方二寸ばかりを出して奉書紙にて巻き、水引で結んだのを取りあげ、神の上をはねのけ、腹部を押し開いて当てた瞬間、電光一閃、首は前に落ちた。介錯人は田村家の御徒目付磯田武太夫であった(この時磯田は介錯を仕損じたらしく、首の右の耳の後に疵痕があったとの記載がある)。
以上は、多門伝八郎の筆記を根拠として書いたものであるが、芝居では判官の自邸で、国家老大星由良之助の駆けつけるのを待ち合せたり、介錯人がなくて、刀を腹に突き立てたまま、由良之助と以心伝心に後事を依嘱する仕草をやるが、元禄時代の自殺の作法は、小刀を腹部に当てる瞬間、介錯人が首を斬るのであった。
こうして内匠頭は、今朝登城したまま、殿中刃傷、田村家御預け、即日切腹となったので、家族家臣の誰にも面会することはできなんだ。ただ片岡源五右衛門一人だけは、検使多門伝八郎の武士の情けによって、主君内匠頭の最後の姿を垣間見して、よそながらの名残りを惜むことができたのであった。
切腹が終ると、かねて調えられていた蒲団を遺骸の上へかけ、白い屏風を引廻して、侍が張番し、検使らは直に引き上げた。
続いて右京大夫から、内匠頭の弟に当る浅野大学長広に向け、内匠頭の遺骸を引取らるるようにと通じたので、早速左の六人が受取に来た。幕府へ遠慮して、人数をかく僅かにしたのである。
  糟谷勘左衛門 片岡源五右衛門 建部喜六 田中貞四郎
  礒貝十郎左衛門 中村清右衛門
遺骸はその時うつ伏しになり、首が左側に置いてあったそうである。それを直に棺に納め、中へは今朝着用していた礼服の大紋、小さ刀、鼻紙、足袋、扇子を納めたが、小さ刀は吉良上野介に斬りつけたそれである。そして直に高輪泉岳寺へ運んで、近臣だけで葬ったが、戒名は泉岳寺九世の酬山潮音和尚のつけたもので、
  冷光院殿前朝散大夫吹毛玄利大居士
享年三十五であった。田村家へ遺骸受取に赴いた六人のうち、片岡、田中、礒貝、中村の四人は、あまりの悲しさにこの日泉岳寺で落髪し、主君の遺志をつぐべき事を心に誓った。うち片岡、礒貝は後に四十七人の列に加わった。
長矩夫人(後に揺泉院)は備後三次(みよし)の浅野家長治の女で、非常に気丈の婦人だった。大学長広が、内匠頭切腹、屋敷召上の事を伝え、かつこのさい騒がぬようにと厳命のあった事を、ひどく気にして話すと、夫人凛然として「それで相手の吉良上野介はどうなりましたか、死んだのですか、生きているのですか」と問うた。「さあ、それは私も聞きませんでした」と大学が答えると、夫人ハラハラと涙を流して「内匠様はあなたの御兄様ではありませんか、兄が切腹申付られたのに、その弟が相手の生死も知らないで、皆の者が騒がないようにと、御上(おかみ)のお達しにばかりビクビクしているとは何事です」とひどく悔しがり、爾来大学には口を利かず、義絶してしまった。そしてその夜髪を前刀って、里方の三次浅野家へ引取られて行った。 
 
一三 赤穂の驚愕

 

三月十四日未(ひつじ)の下刻(午後二時l三時)に早駕籠で江戸を出発した早水(はやみ)藤左衛門と萱野(かやの)三平とは、四昼夜半を揺られ揺られて、半死のようになり、十九日寅の下刻(午前四時i五時)に赤穂城内大石内蔵助の邸に着いた。早駕籠というのは、かけ声勇ましく飛ばすだけでなく、駅へ着くとすぐ次の駕籠で、夜半でもかまわずまた飛ばすので、つまり人間のリレi式急送である。だから乗っている人間はたまらない。白木綿で鉢巻し、腹も布でシッカリ巻き、駕籠の中にさがっている白布にすがりついているのである。それが四昼夜半の連続だかち、半死状態になるのも当然だろう。しかもこの途中伏見の宿では、京都の御留守居小野寺十内に、加古川宿からは加東郡代吉田忠左衛門にそれぞれ急報しているのである(小野寺も吉田も、即時出発赤穂に向った)。赤穂町の北方、橋本町から田町への曲り角に「義士息つぎの井戸」というのが今でも残っているが、これは早水と萱野が、この井戸水で一息ついて大石邸に入ったという史蹟である。
江戸から赤穂まで、『元禄武鑑』には百五十五里とあるが、明治時代の実測では、百七十五里であり、古書にも百七十里または百六十五里と書いたのもある。これについて赤穂町の研究家伊藤武雄氏に調査を依頼したところ、
「武鑑には嘉永時代のものもたお百五十五里とあるが、自分の先代が享保十一年に手記した記録には、武府百六十四里八町(東海道)赤穂よりとあるから後に延びたのかもしれない」
との回答があった。なんにしてもこの道程を四昼夜半で達したのは、非常な速力であるが、これは後に原惣右衛門の話によると、浅野家で平生宿場の本陣に十分の手当をしていたから、いずれも敏速に処理してくれた結果だという。
家老職大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)は、容易に物に動ぜぬ沈着の人物であるが、江戸からの早追(早道ともいう)と聞いて、午前五時前まだ寝床にいたであろうに、あわただしく起きて引見した。そして先ず早水 ・萱野の持参した片岡源五右衛門の手紙を披見する。
口上書を以て申上候
御勅使柳原大納言様、高野中納言様、静閑寺中納言様、御道中御機嫌よく、当月十一日御到着、十二日御登城遊ばされ、十三日御饗応御能(おんのう)相すみ、翌十四日御白書院に於て、御勅答の式これあり候。御執事、役人、諸侯残らず御登城相成候処、松の御廊下に於て、上野介殿理不尽の過言を以て恥辱を与へられ、之に依りて君刃傷に及ばれ候。然る処同席梶川殿押えすませられ、多勢を以て白刃を奪取り、吉良殿を打とめ申さず、双方共御存命にて、上野介殿は大友近江守殿へ御預けになり、伝奏饗応司は戸田能登守殿へ仰付られ候。あらまし右の通りに候条、何れにも御家御大切の時節に候故、御注進として早水藤左衛門、萱野三平、両人馳せ登らせ申候。此日取急ぎ、書中一々する能わず、両人委曲言上仕るべく候。尚追々御注進仕るべく候。恐憧謹言
三月十四日巳の下刻   片岡源五右衛門 花押
   大石内蔵助殿
すなわち内匠頭の切腹や、城地召上げや、大学閉門の事などは、この第一回の急使ではまだ分らないのである。大石は更に早水・萱野の口から委細を聴取り、何にしても一大事であるから、藩士の総登城を命じて報告し、取敢えず萩原文左衛門、荒井安右衛門の両人を、早駕籠で正午出発江戸へ立たせた。
すると同日酉の中刻(午後六時前後)やはり早駕籠で足軽飛脚二人が着いた。第一急使より約十二時間後れているが、これは途中手間どったもので、江戸出発は早水と萱野が立ってから二、三時間の後だったらしい。というのは、この第二急使も、まだ内匠頭切腹の事は知らず、単に前便が到着したかどうかの確めと、浅野大学署名の手紙を持参したに過ぎなんだからである。大学の手紙の全文は次の通り。
態と一筆申達し候。今十四日勅答に付登城なされ、殿上に於て吉良上野介殿を内匠頭一太刀御切付の処、御目付衆取分け申され、内匠様別条これなき由、右の段言語に絶する事に候。之に依て水野監物(けんもつ)殿、御目付近藤平八郎殿、天野伝四郎殿、家中火の元急度(きつと)申付、騒動仕らず候様にと御老中仰付られ候由にて、此許屋敷へ参られ候。夫に付其元家中の者共、城下の町、騒動仕らず候様に、急度(さつと)申付らるべく候。且又組頭共へも、我等申候由右の段申聞らるべく候。其外物頭(ものがしら)諸役人へも申渡さるべく候。各仲(なか)ケ間(ま)少く候間、両人の内罷下り候儀必ず無用に仕らるべく候。其為如此に候。恐々
三月十四日   浅野大学 花押
   大石内蔵助殿
   大野九郎兵衛殿
猶々早水藤左衛門、萱野三平差上候節委細申達し候趣の第一札座の儀、宜しく可被申付候。已上
右宛名の一人大野九郎兵衛は、大石よりも家格は低いが、共に家老を勤めている人物で、芝居の斧(おの)九太夫である。
書状の追書「第一札座の儀云々」とあるのは、藩発行の紙幣の整理に関する事で、浅野家滅亡とでももし伝わったら、町民の藩札引替要求にどんな騒ぎを引き起すかも知れないからである。この注意を聞くまでもなく、大石は札奉行(ふだぶざよう)の岡島八十右衛門をして、藩札の発行高、現金の在高等を調査せしめた。
足軽飛脚が着いてから約三時間の後、戌の下刻(午後九時前)第三回目の早駕籠で原惣右衛門と大石瀬左衛門とが着いた。これによって内匠頭の切腹、城地召上の事が判明し、なお御親類の戸田采女正(うねめのしよう)その他から、騒がぬようくれぐれ注意せよとの書状が、大石・大野らへ宛てて寄せられた。ここに於て大石は再び藩士の非常召集をなし、対策を協議した。
一同いずれも、主君突然の死別を悲しみ、その御無念さを思いやり、中には声を放って働盟人するものあり、「赤穂城は我が藩祖の築造せられたものであるから、これを人手に渡すことは断じてならぬ。城を枕に戦死すべきだ」と痛憤するものあり、「主君の斬付けられた吉良上野介が、疵のために死んだか、生きておればどんな御各を受けたか、それによって我々の態度も変らなければならぬ」と主張するものがある。甲論乙駁、喧々鴛々として帰着するところを知らない。
一方、藩の財政を調査した結果出札高は八百貫目余(すなわち一万二千両余)、これに対して在金高は七千両内外、すなわち、約六割の準備金である。そこで、大石は、翌二十日から、額面の六割に藩札引替を実行させた。たいていの藩では、お家滅亡、藩士離散という際には、有金を藩士だけに分配して、到底藩札の引替などやらず、また実際二割三割の引替ができる余裕さえないのが普通であるが赤穂藩は平素財政が豊かだったので、六割の引替ができたのである。大石はこの藩札引替を余程重視したらしく、即夜(十九日夜)外村源左衛門を広島へ立たせて、頼した(ただしこれは不調に終った)。 
 
一四 大石と大野の意見対立

 

江戸からは毎日のごとく飛脚が来る。大学が閉門仰付けられた。江戸の屋敷を引渡した。赤穂城受取として脇坂淡路守、木下肥後守、その目付として、荒木十左衛門、榊原采女(うねめ)が任命された等々、一報至る毎に藩士領民の愁眉は更にひそみ、大石の面上には沈痛の色が加わる。
けれども、大石が最も知りたいと望んでいる吉良上野介の生死については、数日を経ても通知がない。死んだのならば聞えないはずはないから、通知して来るはずだ。それの来ないのは生きているからだろう。もし上野介が生きていて、主君だけが切腹、城地召上げというのでは、このままおとなしく城を明け渡すことはできない。これが大石の真意である。そして気骨ある藩士は皆これと同心である。
三月二十三日、三次(みよし)浅野家から徳永又右衛門が使に来たのを初として、本家の広島浅野家からも、戸田采女正(うねめのしよう)からも、再三使者が来た。いずれも、「騒動を起さぬよう、内匠頭は日頃公儀を重んじて勤仕していたのであるから、その遺志を体して公命に従順なるよう」と、繰返し繰返し人心鎮撫方を大石、大野両家老宛に申入れたのである。これは事件発生と同時に、幕府からとくに三家に諭達して、もし鎮撫の力がなく赤穂に騒動でも起った暁は、親類縁族も同罪に心得よと、厳重に申渡したので、三家とも気が気でなく、どうかおとなしく開城させようと、最善の努力を払っているのである。
三月十九日払暁第一報が入ってから一週間目の二十五日になっても、上野介の生死についてまだ通報が来ない。江戸の家老達はなぜこの重要事に気がつかないのだろう。これが判明しなければ、我々の態度も決定することができないと、頻りにあせっている大石内蔵助と相対して、大野九郎兵衛の意見は「このさい騒動しては、公儀に対して申訳ないのみならず、御一門にもお気の毒な事となる。上野介の生死如何にかかわらず、兎も角おとなしく開城すべきである」というので、親類一門には受けがよい。  
 
一五 藩論一決、殉死嘆願

 

二十七日頃になって、上野介義央(よしひさ)が生きているとの確報がようやく伝わった。しかも疵は意外に浅いらしい。受城使らも遠からず出発するという。そこで最後の城中会議が開かれた。
このさいのいろいろの意見を総合すると次の四種である。
籠城説-当赤穂城は先々代長直公の築城である。しかも主家は断絶、喧嘩の相手はお構いなしという不公平の扱い。このさい城をオメオメ人手に渡して、天下に向ける顔があろうか。よろしく城を枕に一人のこらず戦死して、武士の面目を発揮しよう。これがせめてもの亡君への報恩であると。これは少壮派の意見である。
開城説-籠城は公儀に対して弓を引くもので、亡君の御志ではない。しかもそのために一門の御親類に累を及ぼす。これ亡君に対して不忠ではないか。このさいは兎も角おとなしく開城して、後に御家再興の策を講ずべきであると。これは大野九郎兵衛一派の主張である。
復讐説-亡君今わの御恨みは吉良上野介である。我君を死に至らしめたのは彼であるから、彼を生かしておいては我々が討死しても、武士の一分が立たぬ。君の仇上野介を討つ以外に、臣子としてとるべき道はないと。これは主として在江戸の少壮派の主張であるが、赤穂に於ても同意見の者があったことはいうまでもない。
殉死嘆願説-主家は滅亡、上野介には何のお答めもないのでは、この城を立去ること義としてできない。しかし籠城討死は主家再興の希望と一致せず、復讐説は幕府に上野介を処罰せしむるの正々堂々たるに及ばないから、官使の来城を機会に、一同城の大手門に於て切腹し、その際存念(主家の再興と、上野介の処罰希望)を嘆願しよう。もし大手門での切腹が、公儀に対して輝らねばならぬという事なら、御菩提所花岳寺に於てしよう。いずれにしても開城した上で嘆願運動をやるような生ぬるい方法では、目的を達し得る見込は立たぬ。
以上四説のうち、最後の殉死嘆願説は、大石を中心とする人々の意見で、藩論はついにこれに一決した。この会議の時であろう、大野九郎兵衛らが執拗に開城説を主張し、しかもそれは生命が惜しいためである事見えすいているので、原惣右衛門が席を進めて大喝した。
「かように毎日相談しても議論が一決しないのは遺憾である。我々に不同意の方々は早早この座を立ちたまえ」
と。この時の原は血相すさまじく、罷りちがえば、一刀に斬り捨てん権幕だったので、後々まで語り草になった。それに恐れて、大野以下十人ばかりは、コソコソと座を外してしまった。  
 
一六 使命を辱めた陳情使

 

藩論すでに殉死嘆願と決した上は、開城の目付荒木十左衛門、榊原采女の江戸出発以前に通じておかないと、折角殉死しても無益に終るかも知れないというので、多川九左衛門、月岡治右衛門の両人に、嘆願書を持たせて二十九日に出発させた。嘆願書の文言次の通り。
今度内匠頭儀不慮の不調法の儀に付て切腹仰付られ候。之に依て城地召上られ候段家中の者共奉畏候。
当日の次第、江戸に罷在候年寄共へ、鈴木源五右衛門様仰渡され候趣、其以後土屋相模守様にて、戸田采女正殿、浅野美濃守へ仰渡され候次第、承知し奉り候迄に御座候故、相手吉良上野介様御卒去の上にて内匠切腹仰付られ候儀と存じ奉り罷在候処、追ての御沙汰承り候処、上野介様御卒去は無之段承知仕り候。家中の侍どもは武骨の者共、一筋に主人一人を存じ、御法式の儀は弁ぜず、相手方慈(つつが)なき段之を承り、城地離散仕り候儀を嘆き申候。年寄ども頭立候者ども末々を教訓仕り候ても、武骨者ども安心不仕候。此上年寄共了簡を以て申しなだめ難く候間、揮りを顧みず申上候儀、上野介様へ御仕置願ひ奉ると申上る儀にては無御座候。御両所御働きを以て、家中納得仕るべき筋御立て下され候は!有難く可奉存候。当表へ御上着のうへ言上仕り候ては、城御受取なされ候御滞りにも罷成候事いか父と奉存候故、只今言上仕候。以上
「上野介は生きていて、内匠頭だけが切腹、その上城地召上げというのでは、おとなしく城明け渡すことはできません。家中の者共が納得するように(主家再興、藩の面目)、御両所で御尽力願いたい」というのである。「武骨の者ども一筋に主人一人を存じ、御法式の儀は弁ぜず」とか、「年寄どもや頭立つ者がいくら教訓しても聴入れません」といっているが、その武骨者の大将が実は大石なのである。
ところがこの陳情使たる多川、月岡が江戸へ着いたのは四月四日で目付の荒木十左衛門と榊原采女はその前日の三日、すでに出発していた。そこで二人は、江戸家老の安井・藤井に相談して、手紙の写しを戸田氏定(采女正(うねめのしよう))に呈した。最初両使が赤穂を出発する際、この陳情書は先ず目付に呈し、そのあとで写しを、御参考のためにと御親類筋の戸田氏定に見せる予定であったのだから、目付に呈することができなければ、氏定にも見せるべきではなかったのである。しかるに気の利かない両使は、同様気の利かない安井・藤井両家老に相談して氏定に見せたので、大餌飴を生ずるに至ったのはいかにも残念だった。
氏定は一見非常に驚いた。驚くも道理、幕府の命令で、おとなしく城を明け渡させるよう説得すべき役目にあり、それが都合よく運ばなければ連帯で責任を取らなければならないのに、上野介の御処分がない限り城はおめおめ渡されませぬと、大石内蔵助以下の頑張っている実情が判明したからである。そこで大急ぎに、赤穂藩士一同にあて厳重な戒告状を認めた。
家中の面々武骨の至りに候。内匠へ家中奉公の筋は、速に其地引払ひ、城滞りなく相渡し候段、公儀を重んじ奉る内匠日ごろの存念に相叶ふべく(中略)早速穏便に退かれ候段肝要の事に候。
これより先戸田家からは、家老その他を説得のため赤穂へ遣していたが、ここに於て更に数名を増発し、ひたすらおとなしく離散させることに努力した。広島の浅野本家、三次の浅野家からも、共に重要の人物をやって、反抗がましい行為のないようにと、懸命に骨折った。
御親類筋の各家々がそうするのは、自藩安全のためであるから無理もないが、不届なのは安井・藤井の両家老である。氏定の言をなるほど御もっともと承服、多川、月岡の両使を説得して、自分達もまた「もしこのような陳情書を目付に呈せば、目付は上聞に達し、結局大学殿(内匠頭の弟)の御為かえってよくないから」との旨を認めて、翌日直に両使を帰らせた。こうして多川、月岡両使は、まるで猫の所へ鼠が使に行ったようなものだった。 
 
一七 遺憾ながら開城

 

大石が、多川、月岡の両陳情使を出発させる時の考えは、あの嘆願書を目付が見たならば、藩士一同の決心を知って、あらかじめ老中との内議を遂げて出発するだろう。そうなれば一同の殉死も無益にはならず、必ず嘆願の目的を達し得るに相違ない、というにあった。ところが両陳情使は一日ちがいで、目付荒木十左衛門らのすでに出発した翌日に着いた。それなら、せめて途中ででも差出してくればよかったに、それもせず、持って帰ったものは戸田采女正氏定(長矩母方の従弟)の厳重な戒告書だった。
これより先、広島の浅野本家からは用人井上団右衛門以下十数名を、戸田氏定からは家老戸田権左衛門以下これまた十余名、三次浅野家からは数名を、共に赤穂へ出張させて、おとなしく開城するように諭告し、かついずれも引つづき滞在して監視しているが、受城使一行は十五、六日頃到着するはずなのに、十日になっても藩士は引払わないので、頭株の井上団右衛門と戸田権左衛門は気が気でなく、「城受渡しに必要な役目の者だけを残して、他は早く退散させるように」と、大石に迫るけれども、大石は、「多川、月岡が江戸から帰って来るまで御猶予ねがいたい」とて、ハッキリ城を渡すとは言いきらなんだ。
しかるに、十一日に多川、月岡が使命を辱めて帰って来たので、大石は即日最後の城中会議を開き、悲痛な面持で決心を披渥した。
「すでに御一同の同意を得ている通り、受城使一行の来著を待って一同切腹嘆願の予定であったが、事志と違い、戸田氏定殿から重ねて厳重な御戒告に預った。このさいもし予定通りの計画を運べば、主家再興の目的が達せられないのみか、却って累を大学殿に及ぼす恐れがある。それでは犬死となるばかりか、むしろ不忠の死ともなろう。ついてはいかにも残念であるが、この際は恥を忍んでおとなしく開城し、主家再興の目的に向ってこの上ながら努力する外ない。万一それも成らないと見きわめがついた暁は、更にまた所存がある。御一同の生命はしばらく拙者に預らせていただきたい」
大石の言には絶対に信頼する士らも、このまま城を明け渡して退散するというに至っては、おとなしく服従しない。若い元気な連中はもとより、小野寺十内、原惣右衛門のごときも、口角泡を飛ばして、開城が汚名を千載にのこす所以を論じた。けれども大石は、大功は細瑛を顧みざる理を説いて、主家再興の望みが全く絶えるまでは、忍び難きも忍び、堪えがたきも堪えねばならぬ。汚名をのこすのがいやさに、まだ絶望ともいわれない主家再興を断念するは臣子の本分でないと、至誠を披渥して一同をなだめ、「所存があるからしばらく拙者に委されたい」と繰返し繰返し懇諭した。「それでは」というので、一同がようやく承服したのは、かなりの時間の後であった。この前後に於て内々大石に誓書を入れ、「何時でも生命を差出す」からと約束したものが数十人に及んだ。
そこで大石は「それ見た事か」といい顔の大野と遺憾ながら連名して、家中の者どもいよいよ引払う事にするから御安心下されたいとの意味を、親類からの監視役戸田、井上両人に通じ、他方開城の準備を進めた。
なお一方に於ては、公金の分配をもこの日に行った。藩札の引替を百分の六十の割で行ったことは前に書いたが、江戸藩邸の残金千両が昨日届いたので、それを合せて、全藩士に分与した。分配率は、禄高百石に付金十八両とし、高禄になるほど率を減じて、すなわち百石は十八両、三百石は四十八両、六百石は七十八両、八百石は八十八両、九百石以上は九十両であった。だから、千五百石の家老大石内蔵助は九十両、六百五十石の家老大野九郎兵衛は八十一両一歩のはずで、両人所得の差は十両に足らない少額だったと思われる。しかし、討入後神崎与五郎が水野監物方へお預けになっている時の談話筆記に、
去春落去の節配分仕候金子をも、内蔵助は申請けず、何れもへ分けてくれ申候。諸道具等売払ひ候て、其金子百三、四十両を以て、私共を始め同志の者共を養ひ申候。
とあるから、大石はその際の九十両すらも取らなんだと考えられる。 
 
一八 大野九郎兵衛父子の逃亡

 

義士の一人神崎与五郎(芝居では千崎弥五郎)は、同じく義士前原伊助の執筆した『赤城盟伝』の『憤註』に大野九郎兵衛(芝居では斧九太夫)の人物評をして、「其気濁つて深姦邪欲なり。人の忠を蔽ひ、士の義を掩ふ。此時に当つて自己の財を聚め、偏に隠通をなさんと謀る」と書いているが、実際その通りの狸爺だったに相違ない。
この大野が十一日城中に於て、札座(ふだざ)の役人中藩札引替の金員を持逃げしたものがあるとの話を聞き、札奉行(ふだぶぎよう)の岡島八十右衛門(四十七士の一人)が不取締だからだとてそしり、それだけでおけばよかったに「岡島も一つ穴の酪だろう」と附加えた。
岡島は原惣右衛門の弟であるだけに、平生大野の卑怯貧慾を憤慨していたのに、今その大野が自分を不正漢の仲間だと悪口したと伝え聞いて、烈火のごとく怒り、その夜直に大野の邸に行って、「岡島八十右衛門亡君の御用で御目にかかりたい」と申入れた。大野昼間の悪口を思い当ってこわくなり、「不在」と答えしめたが、「是非共今晩お目にかからねばならない用だから、後刻また来る」と言い残していったん立去り、深夜になってまたやって来た。大野取次の男をして、「まだ帰らない」と告げしめると、「出先はどこか」と詰問し、なお奥ヘ聞えよがしに大声で怒鳴った。「今日某(それがし)を泥坊呼ばわりしたそうだが、何を証拠の雑言か。この主家の危急の際、生命をもささげんことを盟(ちか)っている武士が、金銀に目をくれると考えるか。さあ、奥に隠れているのだろう、出て来て今一度言って見ろ」と眺も裂けんばかりの血相で玄関先に突っ立った。大野も家人も恐れをなして、鳴りをしずめて答えないので、岡島カラカラと笑い、その足で大野の弟伊藤五右衛門の宅に行き、これこれの事で只今令兄九郎兵衛殿の邸へ談判に行ったが、出合われないから貴殿お含み置きを乞うと申入れて立去った。
ところがその翌晩に、大野は息子の郡右衛門(芝居では斧定九郎)と共に夜逃げをして行方をくらました。神崎与五郎の『憤註』によると、大野父子は夜逃げする際、あわてて幼い孫娘を置き忘れたとある。なお神崎は、大野父子の後日讃まで詳記している。
それによると、父子は舟で網干(あぽし)村まで行ったが、村民が大野父子だと聞いて入れてくれないので、余儀なく大坂まで行くと、今度は船頭共が上陸させてくれず、二十何日かを海上で漂泊させられた揚句、最後に引返して亀山で上陸したが、本徳寺の若い僧侶達が、彼のような不義の老をこの地に留めてはならぬと逐い立てたので、またどこへか立去り、爾来しばらく消息を絶った。
大野父子が赤穂に残した家財家具、父の分は七十余個、郡右衛門の分は九十余個あったが、父子の不忠を憎んだ人々、大石の下知を受けて、それらの荷物にスヅカリ封印をつけ、これを大津屋十右衛門、木屋庄兵衛という二人の商人に保管させて、彼らが受取に来たら懲らしてやろうと待構えていた。
すると、その年八月二十六日になって、父子突然赤穂に現われ、近藤源八、渡辺嘉兵衛両人の手引で、荷物を受取ろうとしたが、大津屋、木屋共に一存では計らいかねるとて承知しないので、父子は困惑したらしかったが、隙を見て、大津屋保管の荷物の刀箱から金三百両を盗み出し、コソコソと逃げ出したのを、間もなく気づいて、近隣の老らが追かけ、ついに捕えて打ち殺そうとした。父子は顔色蒼ざめ、手足ふるい、先刻の三百両を返済するから生命だけは助けてくれと乞うたので、金を受取って町を追放した。神崎は漢文でこう記述した後、「天不仁を蔽わず、地不義を載せざること斯の如し。後人敬(つつし)んで之を忘るる勿れ」と結んでいる。
以上どれだけ確な事実かわからないけれども、義士の神崎と前原との合著というべき『赤城盟伝』及び『憤註』に記入しているのであるから、余話としてここに挿入したのである(神崎は、八十右衛門が大野の屋内、茶の間の入口まで侵入したように書いているが、その点は玄関で立去ったとの他書の記載によった)。
郡右衛門の妻は脇坂淡路守家の番頭(ぱんがしら)池田郷右衛門の妹であるが、兄は大野父子の不義を憎んで使をやって無理に離縁させ、妹をつれて帰った。その後九郎兵衛父子と、郡右衛門の子三四郎の三人は、諸所を漂泊し、京都禁裡御普請に人足として働いたりしたが、最後に御室(おむろ)の寺門の前に窮迫していたのを、門主がその老衰を不欄がられて捨扶持を与えられ、お蔭で父子共餓死を免れたが、三四郎はついに乞食の仲間に落ち、北野神社の境内で物乞うているところを、赤穂の顔見知りの者に見られたという。
また九郎兵衛の娘は梶浦某に嫁していたが、帰すべき家もないからとて、離れ座敷に別居せしめられた。けれども某は「妻はその身に罪あるに非ず、義によりて遠ざけたのであるから」とて、自分も生涯別の女を近づけなかったと、伴嵩蹟の『閑田次筆』にある。 
 
一九 最初の誓紙血判者

 

一度は殉死嘆願と決定していたのが、多川、月岡両陳情使の不首尾から頓挫し、大石の懇諭によって、一時生命を大石に預け、無念ながら城を明け渡す事となった際、同意を口約した者が百余名あり、そのうち自発的に誓紙を認めて血判を押し、大石に差出したものが五十七名あった。これが後日四十七義土を結成する基礎となったもので、氏名は次の通りである。この内△印を附した二十四名を除く外のものは、種々の口実の下に脱盟したことを思ヲと、生命を投げ出す約束を最後まで守り通すことのいかに困難なるかが思われる。
最初の誓紙血判者
  奥野将監 (千石)
  進藤源四郎 (四百石)
  △原惣右衛門 (三百石)
  佐々小左衛門 (二外餌料六甜)
  稲川十郎右衛門 (二百石)
  田中権右衛門 (百五十石)
  △小野寺十内 (百伍に掛七茄)
  河村伝兵衛 (三百石)
  佐藤伊右衛門 (三百石)
  小山源五右衛門 (三百石)
  △吉田忠左衛門 (二百石)
  △間瀬久太夫 (二外糠鯉薦)
  多芸太郎左衛門 (二百石)
  △小野寺幸右衛門 (部屋住)
  ・・・中略・・・
  △勝田新左衛門 (十五石三人扶持)
  矢頭長助 (二十五石五人扶持)
  △三村次郎左衛門 (七石二人扶持)
  各務八右衛門 (十石二人扶持)
  陰山惣兵衛 (十五両三人扶持)
  豊田八太夫 (二十石三人扶持)
  △神崎与五郎 (五両僅似蹴硝)
  吉田定右衛門
  猪子源兵衛 (九両三人扶持)
以上は四月十日頃までに赤穂にいた者の内、自発的に誓紙を大石に差出した者で、在江戸の者は一名も加わっていない。
この人名は諸書異同あり、中には七十名以上を記したものもあるが、右は『介石記』によった。なお禄高は『浅野内匠頭分限牒』によって修補した。 
 
二○ 堀部安兵衛ら来着

 

大石以下が悲壮の覚悟を胸に蔵しながら、無念の涙を呑んで城明け渡しの準備を運んでいるところへ、江戸から堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人がやって来た。四月十四日の事である。
三人は揃いも揃った熱血男子で、堀部は高田の馬場で恩人筋の知人の果し合いに数人を撫で斬りして有名な人物、その頃天下第一と呼ばれた剣客堀内源左衛門正春の一番の門弟で、堀部弥兵衛金丸の養子である。奥田は堀部と共に、堀内門下の双壁と呼ばれ、安兵衛に次ぐ剣道の達人、高田郡兵衛は槍術の達人である。この三人意気投合するところから兄弟の義を結び、内匠頭切腹以来、亡君最後の御心残りなる吉良上野介に一太刀恨まなければ臣子の分が立たぬというので、しきりに運動して同志を勧説したが、ある者は尻込みし、ある者は国元に於てどんな計画があるかも知れぬからと、なかなか仲間に入らない。
仕方がないから三人だけで斬込もうかと、実行方法を考えた事もあるが、吉良家はあれ以来、親戚上杉家(義央(よしひさ)の妻は上杉家から来り、その仲に生れた綱憲(つなのり)は上杉家を嗣ぎ、綱憲の二男義周(よしかね)すなわち孫が義央の養子となっている)から警護の士を多数附けているので、いかに武芸の達人たる堀部や奥田でも、僅に三人では目的を達し得る見込が立たぬ。そこで、赤穂の同志と事を共にする外ないという事になって、四月五日に江戸を立って来たのである。
三人は旅姿のまま大石に面会して、自分共の志のあるところを告げ、大石の意見を問うと、大石は、その忠志を嘆賞した後「こちらでは一同殉死して主家の再興を嘆願する事に一度は決定していたが、陳情使の行違いから、大学殿の御耳にも入ったらしいので、もしこれを決行すれば、御各めが大学殿に下らないとも限らぬ。それでは我々の切腹もかえって仇となるから、ここは恥を忍んでおとなしく開城し、主家再興、大学殿の御面目の立つよう、最善の努力をする事にした」と、ありのままを説明し、「この希望が実現しない暁には所存がある」と附け加えた。
三人は代る代る言葉を補って、
「亡君は御家の滅亡を犠牲にして上野介を討果そうと遊ばされたのであるから、上野介を生かしておいては、たとい主家再興が実現しても亡君の御霊はお喜びになるまい。それができなければ、籠城討死して申訳する外ない。籠城か、復讐か、今の場合この外に臣子としての道はないはず」
と、熱心に述べ立てたが、大石は大石(たいせき)のどッしりと据っているがごとく微動だもしない。
そこで三人は、大石は責任者として、衆議のすでに決定した事を勝手に変更することはできないのだろうから、かねて望みを嘱している奥野将監(しようげん).に相談しようと、打つれて奥野を訪うた。ところが、これも大石と同意見なので、な、お誰彼と数人を勧誘したが、いずれも大石に信頼して、堀部らの同志になろうとはいわないのみか「我々は今死ぬ生命をしばらく大石殿に預けているのだから、貴殿らもその仲間に入るがよい」と、あべこべに勧誘された。
そこで三人も、段々自分達の軽率に気づいて、再び大石を訪問し、今後は御指図によって行動するから、どうかしかるべくと申入れた。この時の事を、堀部が自身で次の通り書いている。
三人内蔵助前へ罷出で、段々申談じ候処、内蔵助申候は、各儀此度内蔵助に随ひ候はんと思召し候てはる人〜御登り候由仰聞られ候上は、先づ此度は内蔵助に委せ候へ、是きりには限るべからず、以後の含みも有之由直に申すに付、左候は!承届け候旨請け候て、三人旅宿に帰る。
右は十六日の事で、その日に目付の荒木十左衛門、榊原采女(うねめ)が着いたので、大石は出迎えに行き、途中堀部ら三人と行合った。そのさい大石は、堀部の目付が尋常でないのを見て取り、彼あるいは、一度あのようにお委せするといっておきながら、目前に城の明け渡されるのを見て堪えがたくなり、目付の役人に直訴でもする計画を立てているのでないかと疑って、もしそうなら所存があると、小山源五右衛門をその晩堀部らの宿へやって詰問させたところ、堀部は案外おとなしくコ度お委せ申しますとお約束した以上、決して単独の行動はとらないから御安心下されたい」と答えた。この一条でも、大石がいかにこまかく目を配りその統制を保つ事に苦心しているかが窺われよう。 
 
二一 大石熱誠の嘆願

 

四月十八日、いよいよ城引渡しというので、目付荒木十左衛門、榊原采女( うねめ)、代官石原新左衛門、岡田庄太夫が、午前十時から検分を行うことになった(受城使脇坂淡路守、木下肥後守は大兵を率いて明日入城するはず)。
本丸、二ノ丸は、大石内蔵助と奥野将監(しようげん)とが案内した。屋形内の金之間(きんのま)に入った時、少憩して茶を出した。その際大石は、四使の前に平伏して嘆願した。
「今度内匠頭不調法に付お仕置仰付られ、城地召上られまする段恐入り奉ります。それに付諸事滞りなく御引渡申すべき儀と存じ、家中一同に委細申含め、その上親類一門よりも度々注意がありましたので、なお以てこの際騒動など引起しませぬようにとくれぐれも申聞けまして、ようやく今日に立至りまして御座ります。しかるところ、当浅野は初代長重が、権現様(家康)のまだ天下御一統以前から台徳院様(秀忠)に御奉公申上げ、代々御厚恩を蒙っておりましたに、今回断絶いたしますること、一しお残念に存じ奉ります。弟大学は唯今閉門仰付られておりまするが、その安否の程も見届けませんで家中の離散いたしますることを、一同心残りに存じ、不安の状態に罷在りまする段、私共に於ても不欄至極に存じます。家中一同の心情揮ながら御賢察たまわり、大学が再び御奉公相勤まりまするよう御高配の程偏えに願い奉りまする」
三一一三句に至誠をこめて嘆願したが、四使いずれも返答せずそのまま立った。
大書院に入った時、大石は重ねて嘆願した。が四使とも依然として一言の挨拶もしない。
それから次々見廻って全部を終り、もう帰る事になって玄関側の一室で御茶を出した。そのさい大石は三たび嘆願した。この時の大石は、もし有効に役立つならば即座の切腹をも辞さない覚悟だったであろう。
「再三恐入りまするが、先刻申上げましたごとく、内匠頭の不調法に付御法式の御仕置については家中の者どもただ畏(かしこま)り奉るのみでありまするが、大学の行末を見届けずに離散いたしますることを、私共へ兎や角申出でて、実は鎮撫に苦労いたしている次第で御座ります。彼らの心底余儀なき点も御座りますれば、何卒御賢察御同情の程を幾重にも願上げまする」
大石の眼底には涙が光っていたに相違ない。その熱誠はかなり強く四使を動かしたらしい。代官石原が先ず目付の荒木に向って、
「内蔵助の申分余儀なき事と存ずる。これは帰府の上御沙汰を賜って苦しかるまじく存ずるが如何でござる」
と言った。荒木も同意して、
「なるほどもっともと存ぜられるから、御老中方へ申上げる事に致そうかと存ずるが、榊原殿御意見は」
榊原采女も同意の旨を答えた。
それで荒木は、改めて大石に承知の旨を挨拶して宿に帰った。
その夜荒木は大石を宿へ呼び、
「今日は城内掃除等入念、諸事しかた無類の儀感じ入った。城内に於て願の趣も、直に飛脚を以て言上した。家中の者が退散するについては、望み次第証文(身元証明の)を取らせ、江戸へ越すなら関所手形も与えるから」と極めて懇切に申渡した。 
 
二二 大石、僧良雪に聴く

 

正福寺の良雪和尚は、藩内新浜村の出身で、以前京都松尾寺の盤珪禅師に随伴し、赤穂では花岳寺の先代良扶和尚の弟子である。性豪壮闊達、傑僧の多かった当時の赤穂に於ても、良雪は出色の評があり、花岳寺の次代住持を以て擬せられていた。
江戸の凶変が赤穂に伝わるや、浅野藩の滅亡というので、農工商から僧侶まで、銘々知合の武士の家を弔問した。御菩提所花岳寺の恵光和尚も取敢えず大石邸へ出かけたが、途中で良雪と一緒になった。良雪は、大石の門長屋に住んでいる若党瀬尾孫左衛門と特別の関係があったからである。
さて良雪が孫左衛門方から出ると、ちょうどそこへ大石が下城して来て玄関へ入ろうとするところだった。良雪はこれまで、大石と親交の機会はなく、僅に顔を記憶されている程度に過ぎないが、ちょうどよい折だからと、大石の後から続いて玄関へ上がった。
大石は中の間まで入ったが、良雪が跡に続いているのを見て、そこに坐った。良雪は愚葱に礼をして、「ごの度殿様には誠になんとも中上げようのない御凶変で、御家老殿御痛心の程拝察いたします」と悔みを述べたに対し、大石「イヤ全く大変な事に相成って、拙者もつくづく当惑している」と答えた。すると、良雪、平生の無遠慮な直言癖を制することができず、「御当惑と仰せられまするのは、死なずに済ませたいとの思召でござりまするか」と反問した。
あまりにも意外な反問を投げつけられて、流右の大石も二の句がつげず、ジ1ッと良雪の顔を見つめているだけだった。「イヤこれは失礼申上ました。何卒折角御自愛あそばされますよう」と、良雪は再び愚勲に礼をして立ち上ると、大石は黙って礼を返して奥へ入った。
次の日良雪の庵室(後にはこの庵が正福寺と合併する)へ、花岳寺の恵光から使があったので、行って見ると、「大石殿が今晩、貴僧に今一度会いたいから取次いでくれとの仰せである」と伝えられたので、夜に入ってから再び訪ねた。
大石の面上には、昨日ほどの沈痛の色がなく、幾分晴れやかに見られた。良雪先ず「花岳寺より御懇命を伝えられ、恐縮に存じまする。いかなる御用の筋でござりましょうか」と切り出すと、大石は非常にうち解けた態度で語り出した。「昨日拙者が当惑していると申したに対して、貴僧は死なずに済ませたい考えかと反問されたが、あの一語不思議に強くひびいて、昨夜一晩考えさせられた。不肖ながら内蔵助、今度の大変を知ると同時に、一命はすでに無いものと覚悟している。がしかし、亡君家来多しといえども、真に物の用に立つは幾人もない。ナマナカの事を仕出かしてはかえって亡君に御恥をかかせるような事になるかも知れぬ。これに当惑しているのである」
良雪は膝を乗り出した。
「無遠慮は愚僧の癖でござれば、何卒お宥し下されたい。失礼ながら唯今のお言葉、あまりに形に囚われた小乗の御考かと存じます。たとい全家中の方々が腰抜であろうとも、貴方お一人ふみ止まって、おれはこの城を断じて渡さないぞと、腹かき切って果てられましたなら、貴方はすなわち城を渡されなんだのであります。貴方ほどのお方が、人をかれこれ頼りにあそばす必要はないはず。そうして貴方が御自分の心の城を守り通されますなら、家中の方々も必ずそれにおつづきになりましょう。目に見えるあの形の城をいつまでも守ろうとすれば、人数が足りない、食糧が続かない、結局は敗北と、悲観する外ありませんが、大死一番、さあおれの心の城を取って見ろと、必勝の地に立った時、何万の軍勢が押し寄せようとも、ビクともするに足りませぬ。あの目に見えるお城は、堅固のようでも、いつ火事に焼け、地震や台風に崩れないとも限りますまい。そのような頼りない城を、明け渡そうが渡すまいが、悟りの眼から見れば、まるで蟻の塔をどうしようという程の小さな問題であります。大切なのは心の問題、目に見える現象の世界を突破して、その本体の心の世界に進入する時は、百事如意、当惑する事など断じてありませぬ」
この良雪の説教は、『赤城義臣伝追加』その他諸書を総合して、著者が敷術したものである。『義臣伝追加』は、良雪に近しかった人の綴った書らしいが、大乗仏教の精神を儒教的に解釈した傾きがあり、かつここでは二人の会話の内容は書かず、
何事かありけん、是より至極内蔵助と懇意に申合され、度々参られける。内蔵助も此良雪には、心を打あけて相談など遂げられけるとぞ。
と書いているだけで、また同書の他の処には、
内蔵助良雪坊に語り申されけるは、貴僧と斯様に御出合申候て御物語候へば、心がたしかに罷成候。内証に入りて妻子が顔を見候へば、心がぢみくと罷成候。古の勇士戦場の戒め尤に候。日頃の存じ様とは相違致すものにて候。
とも書いている。
後日討入の前々日、大石が花岳寺の恵光と、この良雪、及び神護寺の三坊にあてて送った遺書の最後に、次男吉之進が出家させられたそうであるが、一度は武士の家を興させたい趣を書いて次に、
少しは心底にか、り候。此儀は存ずまじき事に候へども、人情凡夫の拙者に候へばお恥かしき事に候。さりながら一事の邪魔に相成候やうなる所存にては毛頭無御座候。御気遣ひ被下まじく候。良雪様去年以来の御物語失念仕らず、具に存じ出し、此度当然の覚悟に罷成り、恭き次第に御座候。死人に口なし、死後いろノ〜の批判とりぐに可有之と察し存じ候。
と書いている。大石は、もとより良雪に教えられて復讐を決心したわけではないが、この和尚によって啓発せられ、欣然として死に就く境地に達したとは、言っても差支ないようである。 
 
二三 大石の山科隠栖

 

大部分の藩士は、それぞれ縁故の地を求めて赤穂を去り、大石外三十名許だけは、残務の処理に任じていたが、それも五月下旬には一段落ついたので、いずれも赤穂の地を離れた。
ところで大石は、生憎五月中旬から左の腕に庁(ちよう)の腫物を生じ、痛みがひどいので一時床に就き、六月下旬にようやく癒(なお)ったので、二十五日出発、京都の郊外なる山科の閑居に移った。山科には大石の親類筋なる進藤源四郎が、祖先に縁故のある関係から前に来て住んでおり、江戸及び関西に散在している同志との連絡をとる上からも好都合なので、ここを根拠地と選定したものらしい。なお大石は赤穂在留中、浅野家の菩提寺たる三寺へ、永代供養料として左の通り寄進した。
  花岳寺へ 田地三町五段余
  高光寺へ 田地五段余
  大蓮寺へ 田地四段余
また紀州高野山に、人知れず内匠頭の石塔を建て、後また京都紫野の瑞光院へ、内匠頭の永代回向料として金百両を納め、その他主家再興祈願のため、金五両十両と寄進したもの数個寺に及んでいる。
山科に移った大石は、土地家屋を買い求め、永住するように見せかけて、名も池田久右衛門と改めた。池田というのは良雄(よしたか)の母の生家の姓である。
この山科に移ってからとも、あるいはまだ赤穂にいた間の事だと書いた本もあるが、開城当時の目付荒木十左衛門から手紙が来た。大意は、
帰府の後、彼の願の一件(家名再興のこと)、を心がけていたが、会合の席へ持ち出しては互に譲り合われて取りあげられまいかと考え、御老中の邸を歴訪、一人一人に申上げたところ、快く挨拶を賜わった方もあったから、先ず御安心あるよう。
と極めて真情のこもった文面であった。大石感謝の涙にくれ、近々亡君の墓参、大学(長矩の弟長広)の機嫌伺を兼ねて江戸に下向し、荒木に親しく面会して礼を述べることにきめて、先ず挨拶状だけを出した。
これより先大石は、赤穂遠林寺の住職祐海和尚(ゆうかいおしよう)が、お寺関係から江戸の護持院大僧正隆光によい伝手があるというので、とくに和尚を江戸へ出して隆光に面謁せしめ、裏面から主家再興に援助あるよう乞わしめた。護持院というのは護国寺の前身で、将軍綱吉の生母桂昌院の本願により建立された真言宗の寺である(今の神田如水会館辺から濠端一帯)。その住持隆光大僧正は、桂昌院にも将軍にも絶対に信頼されていた。綱吉が犬の殺傷を禁じたのは、桂昌院が将軍に男子のないのを遺憾とし、なんとかして男子を挙げさせたい希望から、隆光に教を乞い、将軍が戌年の生れなので犬を大切になさるようにと教えられて、ついにあの禁令を出さしめるに至ったのである。大石はその隆光の力を利用して、柳沢出羽守を動かそうと計ったのである。
こうして大石は、主家再興のために表裏両方面からいろいろ手を尽しているが、なかなか急速には運ばない。ところが江戸では、例の急進派堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の三士が、頻々として大石以下の出府を促して来る。
「グスグスしていると、老人の上野介が病死するかもしれぬ」
「我々は敵を眼前に見ているから績にさわって我慢がならぬ」
「大学様の御将来について御配慮は結構であるが、たとい日本に天竺を添えて大学様に下さっても、上野介が生きている限り亡君の御霊は安まるまい」
「上野介は今度屋敷替仰付けられて、呉服橋内から本所方面へ近々移るとの事、これによって江戸町内では、赤穂浪人の敵討の時節が来たのだと専ら樽している」
「全体いつ頃出府されるのか、見込の時日を聞かしてほしい」
これに対して大石は、その都度懇々と理義を説き、「兎も角大学殿の安否が決定するまで待つよう」と諭していたが、堀部らのはやり方は益々烈しく、罷りちがえば在江戸の数人だけで吉良邸へ斬り込まないとも限らない様子が見えてきたので、その鎮撫のため、大坂にいる原惣右衛門を呼びよせ、潮田又之丞、中村勘助の二人と共に、九月下旬出府せしめた。続いて十月七日には、進藤源四郎も大高源五と共に出府した。
ところが、原も進藤も、堀部らが江戸町内の取沙汰をまぜて熱心に討入を説くのに引入れられて、なるほどもっともだ、グズグズしていて時機を失えば、主家のためにもならず、臣子の本分にも背いて世間の物笑いになるかも知れない。この上は大石を早く呼び迎えて、実行準備にかかるがよかろうと、九日に至急便の町飛脚を発した。大石は驚いた。今はどうしても自ら出馬して鎮撫しなければならなくなり、十月下旬出発する事にした。これが第一回の大石東下りである。 
 
二四 大石第一回の東下り

 

表面泉岳寺墓参と、開城当時目付だった荒木十左衛門、榊原采女(うねめ)裏面には、江戸急進派の鎮撫を兼ねて、十月下旬山科出発、十一月三日江戸に着いた。随行者は奥野将監(しようげん)、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門の諸士である。喜んだのは急進派の高田郡兵衛、堀部安兵衛、奥田孫太夫の三人で、早速一樽を送って祝意を表し、会談の日時を打合せて、十日正午からと約束した。
これより先十月二十九日に、高田、堀部、奥田の三人相会し、内蔵助の出府もいよいよ近々の事であるから、それまでに先ず連判状を作り、在江戸の志堅固の者だけ誓いを立てようというので、次の通り認めた。
一、御亡君御父祖代々の御家、天下にも代へさせられがたき御命まで捨てられ、御欝憤散ぜられ候処、御本望遂げさせられず候段、御残念の至り、臣として打捨てがたく奉存候。然る上は、たとへ同志のうち、外に了簡(りようけん)これあり、延引いたされ候とも、来三月御一周忌の前後、同志の輩義の為に彼宅に於て討死仕るべき事、忠道たるべくと存じきめ候。右の月日過ぎざる様に、心に及び候ほど志を尽し、欝憤を散ずべきもの也。斯の如く申かはし候上は、相違あるべからず候。もし違変これあるに於ては、御亡君の御罰遁るべからざる者也。依て一紙件の如し。
十月廿九日
   奥田兵左衛門 堀部安兵衛 高田郡兵衛
右の奥田兵左衛門というのは奥田孫太夫の事で、元禄十五年三月までは兵左衛門と称していたのである。つまり三人は、大石がこの上なお主家再興を口実に、時期をいつまでと限らず引きのばす事を恐れ、明年三月亡君の一周忌を最後の期限として決行に同意させよう、との計画なのである。
そしてこれを先ず、潮田又之丞、中村勘助、大高源五、武林唯七の四人に示し、連署捺印を求めたところが、四人共、趣旨に於ては毛頭異議はないが、大石が数人を同道して、近々着府する事だから、兎も角それまで待ち、もし大石以下がどうしても同意しなければ、そのさい連判する事にしてもおそくはたい、というので、その日はそのままになった。
さていよいよ約束の十一月十日になったので、三人は同道して正午前から大石の旅宿(芝、三田松本町、元浅野家出入の日傭頭(ひようがしら)前川忠太夫宅)へ出向いた。
上の間には大石を中心に、奥野将監、河村伝兵衛、進藤源四郎、原惣右衛門、岡本次郎左衛門が居並び、次の間には潮田又之丞、中村勘助、大高源五、武林唯七、勝田新左衛門、中村清右衛門が控えている。
その列座の前で、三人代る代る意見を述べた。
「かねての一件、来年三月の御一周忌を最終期限として是非共決行し得られるよう、只今より御準備の御相談を願いたい。大学様の御安否を見届けた上でなどと、この上なおのびのびに相成ましては、揮ながら大学様を口実にして君臣の義を失うものと存じます。たとい大学様の御首尾がよく、主家再興になっても、我々は断じて上野介を見のがすことはできない。亡君の御遺志をついでその御恨みを晴らさなければ、武士としての面目が立ちませぬ。かつ只今大学様御閉門中に決行すれば、閉門御免の後御人前もお宜しい道理と存じまする」
大石「そう参れば結構であるが、それが却って大学様御取立の妨げにならないとも限るまい。また期限は必ずしも三月と決めておかないでも、その以前に於ても時節さえ来れば決行してよいわけである。なんにしても主家再興の見通しがつくまでは待つべきであろう」
三人「我々の主君は大学様ではなく内匠頭様である。主君の仇を生かしておいて大学様の御為を計っても、それは決して忠義とは申されますまい。そのうち上野介が病死でもすれば、世間はなんと我々を批判するでしょうか。赤穂の浪人共は腰抜ばかりだったと物笑いになれば、亡君に御恥の上塗りをさせることに、なりはしませぬか」
大石「なるほど大学様は御連枝である。その御連枝に本幹をお嗣がせ申して、亡君の御後の立ち行くようにと思えばこそ、忍び難きを忍んで苦慮しているのである。世間の物笑いを気にするのは一己の私、私を捨てて大本を見れば、世間の批判などさして頓着すべきでないと信ずる。今のところ先ず望みは無さそうに見えるが、幸にして大学様の御首尾がよく、人前の御交りもおできになるよう相手を適当に処置せられたなら、我々は出家沙門の身となっても苦しくないとまで考える。大学様の御身も立たず、相手は病死するというような事にもしたれば、よくよく武運の尽きたものと嘆かねばならぬが、それは人力の及ばない事である。三君の御忠誠はよく分っているが、何卒今しばらく拙者に生命を預らせてもらいたい」
三人「我々はなんとしても左様気長にかまえてはいられませぬ。御一周忌までには是非共亡君の御欝憤をはらしたい考えで、すでに申合せているのであるが、内蔵助殿の御苦慮も御もっともと存ずる点があるから、しからばこう願いたい。来年三月の御一周忌までは兎も角決行を延期し、三月になってもたお首尾よい御沙汰がないようなら、もう見込はないものと断定して、直に討入の手筈を運ぶという事に。そう致せば、一年間は公儀を重んじて御沙汰を待っていたという趣旨も立ち申そう。元来この種の事は、あらかじめ大体の期限を予定しておかなければ、いつとなく精神に緩みを生じ、また相手方の様子を探るにしても本気にはなり難い。また二月になったところで、そのさい適当の機会がなければ、更に一両月は延ばさねばならぬかもしれませぬ。ついては御一周忌まではお言葉に従うて待ちまするから、それまでに大学様の御面目が立たなければ、直に討入準備を運ばれるよう願いたい」
堀部ら三人は、何が何でも明年三月を最後の期限にと主張し、それが用いられなければ別行動にも出で兼ねない様子が察せられるので、大石もついに譲歩した。
「しからば三月を期限として準備を進める事に同意致そう」三人は感謝して喜んだ。
「それでは来春早々上京して、よろず御指図を仰ぐことに致します」
その時進藤源四郎が言を挿んだ。
「それがよかろう、江戸で多勢の者が寄合って相談することは、世間の取沙汰になりやすいから、京都の円山(まるやまり)か霊山(ようぜん)あたりで万事の打合せをする事に致しては」
大石はこれにも賛成した。
やがて次の間から、潮田、中村、大高の三人が顔を出して、相談の結果を確め、一同大満足した。
大石はその後、墓参御礼廻り等各方面の用をすませ、同月二十三日になって江戸出発、山科へ帰った。原惣右衛門と大高源五は、所用のため当分江戸に残る事にした。
(附記 本文中の大石と堀部ら三人の会話は、堀部安兵衛の手記を根拠とし、この会見以前に大石と手紙で論争した一節をも会話の中に織り込んだ。) 
 
二五 山科連盟の面々

 

大石は十二月五日(元禄十四年)に山科に帰ったが、江戸で得て来たところは、主家再興の望みがはなはだ頼りないという事と、堀部ら急進派を明年三月以後なお抑えることは困難らしいという事であった。
元来堀部らは復讐の一本槍であるが、大石は先ず主家再興、すなわち大学長広の御取立を願って浅野の家名を存続させる事と、長広が面目の立つよう、すなわち吉良上野介に公儀からの仕置を乞うことの、二つを目標としているのである。赤穂開城の際、一度は殉死嘆願を決心したのもそのためであり、開城使の前に熱誠を披渥したのもそのためであった。たとい一方の主家再興の目的を達しても、吉良に処罰がないようでは、復讐決行もやむを得ぬとしているのであるが、いずれにしても、この二つの目的を達するためには、旧家臣必死の結合を以て当らなけれぼならぬので、機会ある毎に同志を談(かた)らっているのである。
さて赤穂開城の際には、大石に生命を預けた老が百十四名、そのうち自発的に誓紙を入れて死を約した者が五十七名に及んだが、それら全部が今もなお変心していないとは断ぜられず、また他に多数の新しい同志も得られたので、改めて神文(しんもん)の連判状を作って署名させた。神文というのは、この時代の誓約形式で、「万一違約の際は天地の神々の御罰が当るよう」との意味を誓約文の末に附記するのである。
元禄十五年の初頃までに、山科に於てこの神文連判に署名したものは左の五十二名である。
吉田忠左衛門 近松貞八 杉浦順左衛門 千馬三郎兵衛 横川勘平 中村勘助 河村太郎右衛門 小野寺幸右衛門 貝賀弥左衛門 里村伴左衛門 幸田与惣左衛門 長沢六郎右衛門 間喜兵衛 平野半平 進藤源四郎 梶半左衛門 高谷儀左衛門 田中広左衛門 糟谷勘左衛門 井口忠兵衛 早水藤左衛門 萱野三平 渡辺角兵衛 間瀬久太夫 大高源五 榎戸新助 灰方藤兵衛 河村伝兵衛 大石瀬左衛門 渡辺佐野右衛門 三村次郎左衛門 岡島八十右衛門 岡本次郎左衛門 矢頭右衛門七 間十次郎 高久長左衛門 間瀬孫九郎 山上安左衛門 多芸太郎左衛門 近松勘六 菅谷半之丞 小野寺十内 神崎与五郎 岡野九十郎 潮田又之丞 岡本喜八郎 小山源五右衛門 糟谷五郎左衛門 茅野和助 近藤新吾 大石孫四郎 中村清右衛門
右の外、当時江戸に下っていたため連判の後れたもの左の十一人に及ぶ。
原惣右衛門 富森助右衛門 村松三太夫 倉橋伝助 田中四郎左衛門 小山田庄左衛門 矢田五郎右衛門 松本新五左衛門 礒貝十郎左衛門 村松喜兵衛 酒寄作左衛門
なお在江戸のため、一枚ずつの誓紙を間もなく入れたもの九人。
不破数右衛門 木村伝左衛門 前原伊助 小川仁兵衛 堀部弥兵衛 堀部安兵衛 奥田孫太夫 奥田貞右衛門 高田郡兵衛
以上五十二名と、十一名と、九名と通計七十二名、この外に大石良雄(よしたか)、同主税(ちから)、片岡源五右衛門、武林唯七、勝田新左衛門、吉田沢右衛門、岡野金右衛門、杉野十平次、赤(あか)埴源蔵、間新六、木村岡右衛門、寺坂吉右衛門ら十二名の討入義士が前記には漏れているから、これをも合せると八十四名に達する。それがいよいよ討入の際には五割五分の四十七人になってしまったのである。 
 
二六 高田郡兵衛脱盟

 

高田郡兵衛は知行二百石を食んでいた江戸詰藩士で、堀部安兵衛、奥由孫太夫と意気相投ずる熱血男子であり、事変後真先に赤穂へ駆けつけて、復讐のほかに道はないはずと激論した人物である。大石が江戸下向の際は、亡君一周忌までに是非共吉良邸へ討入りたいと、堀部、奥田と共に迫った男である。その高田郡兵衛が、大石の江戸退去後まだ一ヵ月も立たないのに、早くも脱盟するに至ったのは、実に人心の頼むに足らざる事を立証したものといわねばならぬ。
脱盟の理由というのは、郡兵衛自身の弁解によるとこうである。郡兵衛の伯父内田三郎右衛門というのが、旗本村越伊予守に仕えている。それに子が無いので、郡兵衛を養子にして家を継がせようと申込んだ。郡兵衛は兄の弥五兵衛(これも浪人して同居している)に頼んで「少々仔細があるから」という口実で断ってもらった。ところが伯父は「仔細とは何じゃ」と詰問し、ひどく不機嫌なので、正直者の兄の弥五兵衛、実はこれこれでと、郡兵衛が堀部ら多数の盟友と共に復讐計画を進めている秘密をうち明けてしまった。
すると三郎右衛門驚いて「それは以ての外じゃ」と大喝、公儀の御処置に不満を抱くさえあるに、御法度を犯して五人以上徒党を組み、御膝元を騒がせるような計画を、自分の親類の者がやっているとあっては聞捨にたらぬ。早速思いとまらせて、養子を承知するよう説諭せよという意を伝え、もし承知せねば表沙汰にもしかねない権幕を示した。それで郡兵衛も仕方なしに、自分一人のために一同の計画を挫折せしめないようにと、伯父の意に従うて養子になる事とし、ついに脱盟するに至ったのである。
堀部安兵衛の手記によると、郡兵衛はこの事情を堀部と奥田に打明けて諒解を求めるさい「各々方が本望を遂げられた後で、自分は生き残っている覚悟は無いのだから」と暗に自殺する決心であることをほのめかしたので、堀部はふかく同情し、今君が自殺したとてなんの役にも立たないのみか、あるいはそれが元でかえって世間の注目をひくかも知れないから、ここのところおとなしく伯父の言に従い、後日我々が本意を遂げた暁、自決するがよかろう。そうすれば味方の害にもならず、君の面目も立つわけと、なだめたのであった。が彼はついに自決などせなんだ。
後に四十七士が本望をとげて泉岳寺ヘ引上げるさい、三田八幡の近所で郡兵衛に出逢った。一同は物も言わず、顔をそむけて通り過ぎたが、老人の堀部弥兵衛(安兵衛養父)は声をかけて「郡兵衛殿、一同この通り本望をとげて上野介を討取り、今首(しるし)を泉岳寺へ持参するところじゃ」というと、郡兵衛はいかにも喜ばしそうに「おめでとう存じます、皆様御満足でしょう。私も実は唯今三田八幡へお参りして、各々方が首尾よく御本意を遂げられるよう祈願して来たところで御座います」と言って別れた。
それから何時間かの後郡兵衛は、泉岳寺の門前へ酒など持って来て、祝意を表したいから入門させて貰いたいと申入れた。義士中の若武老らは「憎い奴、ちょうど幸いだから呼び入れて踏み殺してしまえ、刀をよごす程のことはない」と意気ごんだが、大石はそれを制して門番に「郡兵衛という男は無用の者だから、入門させるな、持って来た酒は受取る筋がないから、返してくれ」と命じた。
脱盟者は多数にあるが、この高田郡兵衛が、最初の急進派でしかも最後の泉岳寺にまで現われたので、最も有名である。 
 
二七 萱野三平の自刃

 

高田郡兵衛の脱盟と比較して同情に堪えないのは、萱野(かやの)三平の自刃である。
三平は、忠臣蔵六段目の主人公早野勘平のモデルである。芝居の勘平はおかるという妻の実家で、とんだ間違いから舅与一兵衛を我手にかけたものと思い込み、申し訳のため切腹するのであるが、実際の三平は、まだ妻のない二十八歳の青年で、摂津伊丹の近く萱野邑(かやのむら)の父の家で果てるのである。
三平の父萱野七郎左衛門重利は郷士で、大島出羽守義近の知遇を受け、後には出仕して家老格になった。その関係から、三平は十三歳の時、主君出羽守の推挙で浅野内匠頭に仕え、児小姓(こごしよう)として愛せられ、十二両二分と三人扶持を賜わっていた。元禄十四年には、主君の御供して江戸に出で、三月十四日殿中刃傷事件の起った際、赤穂への第一回急使として、早水(はやみ)藤左衛門と共に江戸を出発したのである。
彼は白木綿の鉢巻をして駕籠の中にぶら下り、昼夜兼行で東海道を飛ばしたが、江戸を立ってからちょうど四日目、十八日の午後、生れ故郷の萱野邑(かやのむら)を通過した。半死半生、口も容易(たやす)くは利けないほど疲れ果てていたが、それでも生れ故郷の風物なつかしく、駕籠の簾を捲きあげて眺めていると、向うから葬列がやって来た。死者は誰かと尋ねると、意外にも、自分の母だった。三平驚骸、悲泣の情に堪えないが、身は今主君一大事の急使で、分秒の時間も私事のためにおくらせるべきではないと考え直し、駕籠の中から合掌しただけで通り過ぎた。
十九日払暁、赤穂に着いてからの事は、すでに書いた通りである。三平も大石に誓紙を入れ、一同と共に赤穂を退散、萱野邑の我家に帰って母の喪に服し、折々大石を、路程十里許の山科の隠栖に訪うて、時の到るを痔っていた。
この間に、元禄十四年九月一日付で神崎与五郎に送った手紙が今遺っている。その要領を摘むと、
かねて咄(はなし)のごとく那波村に安坐なされているか。拙者初秋から美濃の内河辺という所へ用事があって、前後三、四十日旅行した。京都では大高子葉(源五)の借宅を訪問したが、よい生活方法もないらしい。江戸表では大学様同じ御状態だそうな。内蔵助殿へも訪問して御目にかかったが、先ず先ず江戸への下向も無用とお咄だった。しかるに最近伝聞すると御下向なさるらしいがどういうお考えとも承らない。内蔵助様御住居は山科西の山という所だ。京都近くにいても、大学様御為にはぬかりなく随分手を尽しているとの咄だった。大徳寺内瑞光院に御石塔御位牌が建ったので、私も参詣拝見して来た。この頃は風雅の道で苦労も忘れている、貴辺には斯道のお仲間があるか、風雅の友人がつくづくなつかしい。
元禄十四年もまさに暮れようとする師走のある日、三平決然として父の前に申出た。
「私もこうしていつまでもグズグズしていられませぬから、江戸へ出て仕官したいと存じます。お許し下されい」
七郎右衛門は、かねて三平が山科へ大石を訪ねる事などから、秘密の計画があるに相違ないと察し、容易に承諾を与えない。それを三平があまりに強く乞うので、ついに直言した。
「お前は仕官の道を求めたいというが、そうではあるまい。亡君のために復讐する計画に参加するのだろう」
図星を指されて三平はひどく驚いたが、大石に神文(しんもん)の誓紙を出しているので、親兄弟といえども打明ける事はできない。
「唯今は左様の企てを聞及びませぬが、いったん君として仕えた御方のためには、場合によっては命を差出す事、臣として本分かと存じまする」
「そうじゃ、確にその通りじゃ。しかし、もしもお前が復讐の計画に参加すると、お前の父である俺も責任は免れない。我が萱野の家だけの事なら、それも大した問題でないが、もしも我が主君出羽守に累が及ぶ事にでもなれば、それは大変じゃ。お前が主君を思うのと同じに、俺も主君の御上を思わねばならんからな」
いかにもその通りである。三平はどうしたらよいのか分らなくなった。
「お願いです父上、勘当なすって下さい、親子の縁をお切り下されい」
「馬鹿な、禍を避けようがために表面だけ親子が義絶するなど、それは薄俗(はくぞく)というものじゃ。そんな真似はしたくない。俺は世間の親と同様お前を可愛いとは思うが、そのために、お前が不義の仲間に入っても生きているようにとは願わない。義のためには進んで死ぬ事をも勧めたい位に考えるが、ただ我が主君に累を及ぼす心配のある事だけは断じて同意するわけには行かぬ」
三平は決心した。
「御志は分りました父上、江戸行は思い止まります」
彼はそれについて再びいい出さなんだ。翌兀禄十五年正月十四日、月はちがうが内匠頭の命日に、三平は一通の書面を認め、下男を使にして山科の大石方へ届けた。それは自殺の遺言書で、文言は左の通り(返り書きの個所、仮名交りに改む)。
年始の御祝意の為め、先達て愚札を奉り候。然れば旧冬已来、吉田忠左衛門、近松勘六申合せ、当春江戸へ罷下るべく存じ奉り候処、愚父七郎左衛門儀、其主意を承知して強ひて之を制止候。尤も本意を申聞かせ候は父却つて喜悦仕るべくとは存じ候へども、御手前様へ差上置候御神文の手前御座候へば、たとひ父子の間にても此儀口外仕りがたく、忠孝の間に於て柳当惑仕候。之に依つて自殺仕候。吉田、近松へは別紙を以て申さず候間、御手前様然るべきやう奉願候。恐憧謹言
使を出した後、三平は入浴して身を浄め、、父や捜(あによめ)と常の如く談笑して自分の寝所へ入ったが、翌朝八時頃になっても起きて来ないので、不思議に思って家人が室に入って見ると、東に向って端坐し、切腹して果てていた。家人驚いて父のところへ走っていって告げると、七郎左衛門かねて察してでもいたごとく、直に家人に注意して、自殺の事を秘密にさせ、うっかりしゃべると多くの方々に御迷惑が及ぶかも知れぬぞと戒告した。それで、しかるべく世間体を取繕うて葬式をすませた。享年二十八。
山科へ行った使は、夜明前に大石の宅に着いた。大石が遺言状を手にした時は、三平の骸にはまだ温味が残っている頃であった。大石は直ちに附近にいる同志を呼びよせ、三平の同情すべき境地を語り合ってその決意を嘆賞した。
この三平の項は、当代の学者伊藤東涯撰の三平伝によったものであるが、同伝は東涯が、七郎左衛門の嗣子長好に頼まれて、世間では七郎左衛門が、君臣の義を弁ぜず、ただ三平に対する親馬鹿の溺愛から江戸下向を阻止したごとく誤伝しているから、それを訂正して真実を伝えたいという嗣子の希望によって執筆したものである。従って、どこまで史実が重んぜられたかは疑問の節がないでもないが、東涯の執筆という点に敬意を表して、すべて同伝によった。あるいは次の、養子説または仕官説が真事実かも知れない。
後に大石らが首尾よく上野介を討取り、細川家に御預けとなった時、接待役堀内伝右衛門が三平の事を大石に尋ねて、次の通り書いている。
或時内蔵助へ我等申候は、此頃町人共の咄(はなし)を承り候へば、京都に於て萱野三平と申す人、書置など仕られ自害致され候様に承り申候へば、内蔵助申され候は、それは皆ども京都に居候時分の儀にて御座候。存生(ぞんしよう)にて居候は父、成程一列に加はり申候志の者にて候、と申され候。其後いづれもの咄に、三平父は浪人にて京都に居申候、三平を何方へぞ養子に遣し候の、奉公を致させ候のと談合有之、三平志に叶ひ申さず、右の通り書置いたし、内匠頭一周忌に自殺し候と、若き衆咄し申され候事。
三平は神崎の外、大高源五、富森助右衛門などと、俳句の仲間で、俳号を滑泉(けんせん)という。「萱野集」と題して、滑泉の句を集めた一巻がある。
  秋かぜや隠元豆の杖のあと
  萱の穂を気の剣なり野路のつゆ
  何はさて裏からござれかきつばた
など秀逸であろう。大高子葉(源五)が、三平の家を訪うた時の句に「壁を這ふ木綿の虫のもみぢ哉」というのがある。
大石が堀内伝右衛門に対して「三平が生きていたら一列に加わるべき者であった」といったので、明和四年薩州人僧岱潤(たいじゆん)が、泉岳寺内の義士碑の中へ混じて、三平のために一碑を建てた。碑面には刃道喜剣信士と刻してある。けれども俗名がこの碑だけ書いてないので、三平の碑だという事が後には分らなくなり、いろいろな臆測が加わって、ついに講談師が村上喜剣という架空の人物を作り出し、その喜剣の墓だと称するに至ったのはむしろ滑稽である。
萱野家の後畜は現に神戸川崎造船所に勤務していられる萱野重道氏だそうで、摂津の萱野村には、三平の遺跡遺物がいろいろ保存されている。 
 
二八 上野介の隠居と大石の復讐決意

 

吉良上野介義央(よしひさ)の邸は、呉服橋内(ぱしうち)にあったが、殿中刃傷事件後数ヵ月の後、八月十九日に本所松坂町、近藤登之助の上屋敷だった跡へ屋敷替仰付けられた。
呉服橋内の吉良邸の隣は、蜂須賀飛騨守の邸だったが、その頃世間では、赤穂の浪士らが何時吉良邸へ押かけるかも知れないと噂が高かったので、飛騨守は、もしもそんな騒ぎの起った際、隣家としてどういう態度に出ずべきかを、内々老中へ伺ったところ、その返答に、たとい吉良邸に騒動があっても、一切構うべきでない。ただ自分の邸を堅固に守っておればよいと指図したそうである。それで蜂須賀邸では、昼夜厳重に警護する外、いざという場合長屋の家来共がすぐ参集するよう準備を整えたが、それが何時までという期限もないので、家来共弱ってしまい、茶話などの折には、お隣の吉良邸が引越してくれなければ、我々はゆっくり晩酌もできないと、大きな声で不平を訴えるものさえ生ずるに至った。一方ではまた、呉服橋内は丸ノ内だから、万一討入でもあっては恐れ多い、というような理由もあったのであろう、吉良邸は今度本所へ屋敷替を命ぜられた。
古来、隅田川が武蔵と下総の境で、そこにかかった橋を両国橋といい、江戸は江戸でも川向うの本所は下総国である。従って浪士が討入るとしても、呉服橋内では御城内を騒がすことになるが、川向うの本所なら、その辺の遠慮が遥かに軽減される。それで世間では、この吉良家の屋敷替を、赤穂浪士に討入の便を供したようなものだと取沙汰した。
吉良は九月二日に本所へ引越したが、赤穂浪士襲撃の噂が高いので、警戒は厳重を極め、下男下女まで領地参州の吉良から呼びよせ、出入商人も特別の者以外は門内に立入ることを禁じ、とくに親戚上杉家からは、附人(つけぴと)を多数に派遣して、油断なく警戒した。他方にはまた、上方へ隠密(密偵)を派して、一味の頭領と目さるる大石内蔵助の動静を探らせもした。
しかし、世間の噂はとかく吉良家のために香ばしくないので、上野介の自発でか、それとも上杉家から勧告した結果か、上野介は隠居を願い出た。それが十二月十二日(元禄十四年)聴届けられ、養子左兵衛義周(さひようえよしかね)に家督相続仰付けられた。所領四千二百石は元通りである。
これによって、幕府がもはや吉良上野介に対してなんら仕置をする意のない事がハッキリ分ったので、大石腹中の復讐企図はここに決定的となった。
無論これまでとても、大石に復讐の決心がなかったとはいえない。第一主家の再興、第二主家の体面、この二つが大石の目的で、第二の浅野家の体面を保つためには、吉良上野介になんらかの制裁を加えることが必要なのであるから、幕府が吉良に対して手を下さないなら、我々の手で亡君の遺恨をお晴らし申すとの決意は、赤穂開城のさいから大石は持っていたのである。けれども、なるべく幕府の手で吉良に仕置をさせる方が穏かだとしていた。それは到底望みのないもののごとく見られてはいたが、大石としては、兎も角その方面に一応の手を尽したのである。
それが今度、上野介の隠居御聴届、養子左兵衛の家督相続となった以上、今後たとい大学長広が御取立に預っても、人前の体面は保たれないから、自分共の手でこれを処置しなければならぬ。大石の腹はシッカリ復讐ということに決った。サれども今一つの、主家再興の件が成否いずれかハッキリ決らない以上、復讐の方を先に実行することはできない。そこで、大石は、今まで江戸の堀部らが主張している吉良邸討入計画を内々進める一方、主家再興の成否が決する日の速かに来たらんことを待った。 
 
二九 堀部らまた催促

 

話変って、江戸の堀部安兵衛らは、明年三月の亡君御一周忌を期限として、討入の実行計画に入るよう大石から言質を取り、月日のたつのをじれッたい位に思っているところへ、上野介隠居の報が伝わったので、もうこの上は大石も、延期しようとはいうまい、そうと決れば、一日も早い方がよい。相手は今本所の邸に起居しているが、明年少し暖かくなれば、上杉の本領米沢へ移住するなどの噂が伝わっている。そんな事になればこれまでの苦心もムダになる、というので、またまた激励督促の状をしきりに送ってくる。
大石は、堀部らをようやく鎮撫して、御一周忌までと当座のがれの言明をして江戸を引上げて来たのに、僅に二、三週間にしてまた催促なので、全く閉口した。無論大石も、復讐の決意はもはやシッカリ固めているが、主家再興の成否が見定めのつくまでは、決行するわけにゆかぬ。それで堀部らに、次の意味の手紙を十二月二十五日附(元禄十四年)で送って、懇々と急がぬように諭している。
かねてお話合の通り、いよいよ一儀(復讐のこと)取立てる事に致そう。しかし本年はもはや押つまったから、春永(はるなが)にゆっくり御相談して、損得の点をよく考えて取立てたい。下手な大工衆はむやみに事を急がれるので、ぞんざいな建築になりはせぬかと心配している。この上は、とくと、地形下地(ちぎようしたじ)から随分念を入れ、幾重にも相談をねり、木柱も集めて取組むようにしたい。昨今御不勝手の事だから、大袈裟に普請(討入)をする噂が世間に立っては、旦那衆(幕府のこと)の手前以ての外よくないから、普請という事は一切秘密に御注意ありたい。こちらの大工衆へもその事よく申含めている。兎角事をいらち急いでは、材木等も麓相(そそう)になり、出来上りの程覚束ない。この段くれぐれも御注意ありたい。
御隠居(上野介のこと)に御目にかかりたい事は御同様であるけれども、それがむつかしければ、若旦那(左兵衛)に面談することに致したい。そう腹をきめておけば、そう普請を急ぐに及ばないはず。御老人弥兵衛殿は普請御巧者だから、よく御相談願いたい。いずれ春には御目にかかって、色々御相談するが、くれぐれも普請のこと他へ洩れないよう御注意第一と存ずる。(原、候文)
この書は正月十七日江戸へ届いたが、堀部と奥田(高田郡兵衛はもう脱盟)は大石の悠長さに呆れた。そして多少大石の本心を疑わしい位に思ったと見え、返書の中に次のごとき文句がある。
兎や角申すうち御一周忌にもなってしまう。念の上に念を入れるようとばかり申され、実際の支度にかかられないのでは、御心底を疑わないでいられません。家督(左兵衛)へ欝憤を晴らすのならば急ぐに及ばないのは分っている。隠居(上野介)が第一だからいらつのです。
この度の事は貴殿御」人のお考えで決定し、他の者は御さしずを待つばかりである。貴殿の一令によって家中の半分位は参加すること大方知れているに、御一人で多勢の志を空しくなさる段心外に存じます。たとい志がなくても、貴殿の激励によっては勇気も出すはずなのに、あまりに十事をとり過ぎていつまでもグズグズしていられること残念に堪えません。我々は名聞(みようもん)利欲の念毛頭なく、ただ亡君の欝憤を吉良父子に散ずる念願骨髄に徹するばかりである。だから多少の構いな/\早く決行する同志が他にあったらその方へ参加する覚悟であります。(原、候文)
この過激急進の堀部らを、これからなお一年近くも抑えて、統制を破らせなかったところに、大石の首領としての手腕があるのであるが、その苦心は恐らく想像の外だろう。 
 
三〇 原と大高の帰京

 

吉良上野介義央(よしひさ)が隠居して養子左兵衛義周(よしかね)が家督相続を仰付けられるや、堀部安兵衛らがまたもや大石を急き立てるに至ったことは既記の通りであるが、堀部の外に、原惣右衛門がまた、堀部に譲らぬ急進派になっていることを記憶せねばならぬ。
元来原は、江戸の急進派堀部らを鎮撫するために上方から派遣されたのであったが、それがアベコベに堀部らと共鳴するに至り、ついに大石自ら東下して、堀部らと共に原をも鎮撫せねばならなくなったのであった。
上野介隠居の報伝わるや、原は堀部らと相談の上、急いで京都に帰り大石を急き立てようとしたが、同行の大高源五が発病したので、心ならずも延引し、ようやく十二月二十五口(元禄十四年)にたって江戸を出発した。
原と大高は、途中伊勢神宮に参拝し、正月九日(十五年)伏見に着いて、早速山科の大石に江戸の情勢を報告し、幕府に吉良を処罰する意志のない事が分明した以上、一日を緩(ゆる)うせばそれだけ臣子の本分を空しゅうするわけであるから、至急実行に着手されるよう。しからざれば堀部らは別行動に出るかも知れず、統一が破れないとも限らないというのである。
そこで大石は、附近に居住している小山源五右衛門、進藤源四郎、岡本次郎左衛門、小野寺十内らの同志を十一日に会し、原、大高も同席して相談し、なお十四日は亡君の御命日なので、京都紫野の瑞光院(大徳寺の末寺で、大石はここに内匠頭の衣冠を埋めて石塔を建て、後には永代回向料も納めた)に参詣し、帰途内匠頭の侍医であった寺井玄渓方(京都柳馬場)に立寄って意見をきいた。この玄渓は、大石と肝胆相照らす友人で、大石は彼の勤務方面がちがうからとて、一味に加える事を承知しないが、連判者同様何もかも打明けて相談しているのである。
大石は、原、大高らの急進説には弱ったが、しかし原は当年五十五歳の分別盛りだから、そう軽はずみに別行動をとる恐れはあるまい。それよりも大石に心配なのは、江戸の堀部らである。三月の御一周忌までは兎も角約束によって待合せるだろうが、その先も統制に服せしむることは困難である。そこで大石の思いついたのは、かねて老巧の点に於て推服している同志吉田忠左衛門を播州加東郡の潜伏地から呼びよせて、堀部らの監督かたがた江戸へ先発させる事であった。 
 
三一 吉田忠左衛門、寺坂を伴うて会す

 

吉田忠左衛門は四十七士中の副首領ともいうベき老巧練達の士で、当年六十二歳、討入のさいは裏門の大将大石主税(ちから)の後見役であった。家禄は二百石、郡代として加東郡穂積村に常に詰めていた。元来浅野家の領地は、播州赤穂郡で三万五千二百石、同国加東郡で四千七百石、加西郡で八千九百石、佐用郡で千二百石と、四郡に分れていたが、吉田はその内加東郡の郡代だった関係から、縁故者も多いので、この地に潜伏し、大石から召集状の来るのを待っていたのである。著者の郷里は加東郡小野で、小野は一柳藩であるが、川向うの来住(きし)村字黍田(きぴた)は赤穂領で、そこの名主小倉七右衛門方に、吉田は次男伝内及び寺坂吉右衛門と共にある期間滞在していたこと、小倉家に現存する古文書によって知ることができる。小倉家の先代亀太郎翁は著者が小学校時代の恩師で、同家の古風な庭園は、吉田が滞在中指図して築造したものだと言い伝えられている。
忠臣蔵七段目の寺岡平右衛門のモデルたる寺坂吉右衛門は、吉田忠左衛門組下の足軽で、足軽に取立てられる前は吉田の家僕だったのである。芝居の平右衛門は、『碁盤太平記』では大星力弥に手打にされ、『仮名手本忠臣蔵』では舐園の茶屋で大星由良之助に討入参加の許しを与えられるが、実際の寺坂吉右衛門は、他の単独の浪人とは趣を異にし、終始吉田忠左衛門の家来を以て任じ、忠左衛門のある処、吉右衛門は影のごとく必ず附添うていた。従って彼の連判加入は、浅野内匠頭に対する恩義のためというよりは、むしろ自分の直接の主人たる吉田忠左衛門とその息沢右衛門、忠左衛門の弟貝賀弥左衛門の最期を見届けたいためであったこと、彼の行実や筆記から見て想像するに難くない。
この寺坂吉右衛門、身分の低い足軽ではあるが、人となり朴実格勤、後日討入に参加した後、大石の命によって芸州浅野長広(大学)の所へ報告の密使となって行き、使命を終えた後は、再び吉田の遺族に仕えて忠勤を励むこと二十余年、六十二歳になってから、土佐の支藩山内主膳の懇望によって同公に仕え、八十三歳で天寿を終えた(この寺坂を徳富蘇峰翁は、『近世日本国民史』中に吉良の門前から臆病風に吹かれて逃亡したと書いて、手厳しく筆訣を加えていられるが、表面的記録に誤られたものである)。
寺坂は相当に文字もあり、またなかなか筆まめの人物で、今日残っている書翰などを見ても、実に行届いた書き方である。寺坂のちに、吉田忠左衛門妻おりんの弟柘植(つげ)六郎左衛門らに頼まれて、忠左衛門が大石の呼出しによって京都へ出た時のことから、討入当夜の働きに至るまでの事をくわしく書き綴って送った。それは『寺坂信行筆記』と称して、義士資料中重要なものとなっている。吉田が元禄十五年正月二十五日未明に三木町を出発し、二十六日大坂に着いて原惣右衛門に面会したこと、二十八日山科で大石と対談した事など、すべてこの『寺坂信行筆記』で知られたのである。
その『寺坂筆記』によると、吉田は、正月二十八日「山科にて内蔵助殿ヘ参られ、ゆるゆる対談に及び候て晩刻帰られ」その後もしばしば大石、小野寺(十内)その他と会談、今度大石の指図で総名代として江戸へ下り、堀部らに別行動を取らしめないよう指導するについては、先ず上方居住の同志が誓紙神文(しんもん)の通り相違なく、時期さえ来れば必死決行の覚悟であることを確めたい。それを確めた上で江戸に下らないと、堀部らを抑えることは覚束ないと、吉田は自分が困難なる使命を果す上の必要から拘々として大石に進言した。「内蔵助御尤もの由御挨拶にて、即ち国々住居の衆中へ廻状にて御呼び」と寺坂が書いている通り、大石も吉田の進言に賛成して、直に廻状で、関西各所の同志を召集した。それが有名な山科会議である。 
 
三二 山科会議

 

二月中旬(元禄十五年)山科の大石宅に於て、同志の大会議が開かれた。来会者数は正確には分らないが、吉田忠左衛門が東下に際し、一党不動の方針を確立せんがため、その意見によって関西の主だった同志を召集したのであるから、赤穂開城の際の会議につぐ重要会議だったこというまでもない。
大石は先ず口を開いた。
「拙老旧冬江戸に下った際、主家のために尽すべき忠と義について繰返し申し談じ、大学殿の御浮沈が決定するまでは軽挙せざるようとの決心を以て、今日に及んだのでござるが、年末に及び上野介隠居、嗣子左兵衛に家督仰付られしため、江戸及び上方の同志中、もはや大学殿御運命も見え透いているから、このさい直ちに復讐計画に着手せよと迫る方々がある。そこで同志一同一体となり、確乎不動の方針の下に行動するよう、今日お集りを願ったのでござる。遠慮なく御意見を述べられたい」
原惣右衛門は急進派を代表して意見を述べる。
「毎々申す事ながら、亡君今わの御恨みは吉良上野でござる。その仇を生かして置きながら、主家の御跡目を大学殿に仰付られたとて、我々臣子の義として安んずる事はでき申さぬ。しかし大石殿の御懇諭もあったので、兎も角三月十四日の御一周忌までは軽挙しないことを、江戸の堀部氏らと共に承諾したのでござったが、今や御一周忌まで、あと僅に一ヵ月に過ぎない。而して仇上野介はすでに隠居、家督相続を左兵衛に仰付られた上は、吉良家に対してもはやお沓めのないこと確定的でござる。吉良家にお各めのない事は、同時に主家御取立の望みが絶えた証拠でござる。かつ大石殿は、御一周忌になれば大学殿への御沙汰如何にかかわらず復讐決行の準備に取りかかると、江戸でお約束なされたのではござらぬか。今に及んでなお決然たる態度を示されないのは、失礼ながら心外千万に存ずる」
大石「御尤もの仰せ、さりながら旧冬江戸に於ては、御一周忌を期限にと拙者が明言致さざるに於ては、堀部氏らは単独行動に出でかねまじき気勢を示されたので、それでは開城以来の多数同志の苦心も水泡に帰する故、余儀なく当座のがれにあのような事を申したわけ、この点拙者の苦衷を何卒御諒察願いたい。拙者は主家の御跡を立てる事を第一に考うること、赤穂開城の際より一貫して変り申さぬ。今日に於てはその望みはなはだうすく、もはや絶望と申してもよい程には存ぜられるが、それにしても、兎も角公命がハッキリ下らないうちは、復讐決行には同意いたしかねる。この上いかに長びいても、明年の御三周忌までもかかることは万あるまいと存ずるから、原氏もどうか、それまでお待ち願いたい」
原「お言葉のごとく、主家の御取立はもはや絶望と存ずるが、もしか万々一、大学殿に僅の石高でも仰出だされたならば、大石殿は復讐の方をいかがなさる御所存でござるか」
大石「大切の場合でござるから腹蔵なく所存を打明け申す。大学殿に、亡君の跡目相続としてたとい千石でも仰出されたならば、亡君の御面目もいささか立つ道理でござれば、旧臣一同で復讐の挙に出ることは、幕府に対して揮らねばなり申すまい。そのさいは、拙者一人御一同に代り、最初からの主意を立てて吉良家へ欝憤を散ずる覚悟。またたとい五万石を賜わるとも、亡君の御跡目でなく新知の意味ならば、いよいよ亡君の御恥辱でござれば、そのさいは御一同と共に無二無三吉良邸に討入る事に致したい。この二つが実行不可能となれば、よくよく武運に尽きたものとして出家沙門の身とでもなる外ござるまい」
原は憤然として抗論した。
「大石殿仰せのごとく、万一亡君御跡目が立てられる事になれば、一党して復讐の挙に出る事はなんとしても遠慮いたさねば相成らぬ。しかしながら、去年三月以来盟約して変らない者はいうに及ばず、その後参加した人々も、ただいちずに亡君今わのきわの御無念を散じ奉って臣子の本分を尽したいために、親を忘れ妻子を捨てても復讐を決行しようと期しているのでござる。たとい主家の御跡目は立っても、この主意を滅すことは断じてでき申さぬ。大石殿はその暁、御一人総名代として本意を貫く覚悟との仰せであるが、それでは我々一同腰抜武士となる外なく、残念千万でござる。そういう結果になろうも知れぬとかねて察するところから、時期を早めん事を我々は主張するのでござる。御一同はどうか存ぜぬが、この惣右衛門は赤穂城中に於て死に損ったものでござる。今更生きながらえて出家沙門になる所存など毛頭.こざらぬ。各々方は如何でござる」
と血走った眼で一座を見廻すと、大高源五、潮出又之丞、中村勘助らを初め、少壮気鋭の士は口々に、
「原氏の御説の通り」
「我々も赤穂での死損い」
「この上腰抜武士として終りたくはござらぬ」
「大石殿がどうしても御同心なくば、御相談を別にする外ござるまい」
会議は今にも分裂しそうな形勢になって来た。書宿株の吉田忠左衛門と小野寺十内は、初めのうち頼もしげにニコニコして傍観していたが、今は捨ててはおけずと割って入り、吉田が先ず口を開いた。
「いずれも方(がた)の忠魂義胆、感激に堪え申さぬ、亡君の御霊も御照覧、いかばかり御満足の御事であろうと存ずる。ただこの際少々御注意申したいのは、大石殿の言葉の末を捕えて、その御本心を思い違えないようにという事でござる。大石殿は決して御自分一人が忠義者になり、各々方を腰抜者にしてしまうような御考えでない事は、拙者共がよく承知しておる。ただ主家の御跡目が立った上は、多人数で吉良家へ討入ることを遠慮せねばなるまいし、それでは亡君の御無念をお晴らし申そうという各々方の志が空しくなるから、その方は別に方法を講じようとの御所存と察する。大石殿が全然復讐を断念なさろうというのであったら、もとより強いて大将に推し立てる必要もござらぬが、その御志がある以上は、御互に譲歩して力を一つに合せること、これまた亡君への忠義と存ずる。ここは御互に言葉の末や感情に囚われず、冷静に大局から判断し、大石殿にもなお御再考を願いたい」
弁舌さわやかに、しかも固き決心を内に蔵して熱心に吉田が述べ了ると、小野寺がすぐその後につづけた。
「拙者も吉田氏も、共に六十の坂を越えた老骨、いかに力んで見たところで今後の余生は知れたもの。どうせ行きがけの駄賃でござれば、死出の山の一番槍をと心がけてござる。この点でお若い方々よりは、我々共こそ気も急ぐ道理でござるが、この上二年も三年も延ばされるのでなければ、なるべく大石殿を御待ち申したい」
大石は先程より、人々の言説に耳を傾け、その顔色に気をつけていたが、一同の志の堅いことを確めて、安心すると同時に感服し、これらの人々の志を空しくせざる責任が全く自分にある事を痛感して、涙と共に決心を披渥した。
「吉田氏の申されたごとく、各々方の忠誠は亡君の御霊が照覧あらせられよう、拙者も感激に堪え申さぬ。ついては是非各々方と事を共に致したいが、ただ大学殿に対する幕府の公命が下るまでは、なんとしても決行いたしかねる。この上いかに長びいても、更に一年を超えるような事は万あるまいから、今しばらく御生命を拙者にお預け願いたい。亡君御霊の御前に誓って、各々方の忠志を空しくさせるような事は断じて致さぬ。切に切に懇請申す」
大石の眼には涙が光っている。その熱誠には流石の急進派も感激に打たれて、この上抗争しようとはせなんだ。ついに大石の意見に服従して会を閉じ、この一致結合を携えて、吉田忠左衛門は江戸へ下る事になった。この山科会議は、義士の一挙に重要な一時期を画したものであるが、これを開くに至ったのは全く吉田忠左衛門の進言に由る。この吉田の助けなくしては、大石の統率力も、原、堀部らの急進派を、この後たお抑えていることはできなんだであろう。 
 
三三 吉田と近松東下

 

山科会議の結果、原惣右衛門以下の急進派も、大石の熱誠に動かされて、復讐決行をなお当分延期することに決定したので、吉田忠左衛門(兼亮(かねすけ))、近松勘六(行重(ゆきしげ))の両人は、大石の命を受け、江戸の急進派堀部らをそれに合流せしむるため、二月二十一日京都を出発した。このさい寺坂吉右衛門(信行(のぷゆき))も、吉田の供をして同行した。吉田、近松はこの前後から変名して、吉田は篠崎(しのざき)太郎兵衛、近松は森清助と称した。しかし本篇では分り易いように本名を用いる。
『寺坂筆記』によると、一行は二月二十四日伊勢神宮に参拝、三月五日江戸に着いて、元浅野家出入だった芝松本町前川忠太夫方に宿った。吉田は到る処で歌をよんだが後に焼捨てたので詠草は残っていない。ただ自分の記憶に残っているものだけを書いておくとて、寺坂が八首ばかり記している。その一部。
逢坂にて
  九重の霞をわけていづる日もくもらぬ御代に逢坂の関
さやの中山にて
  夜をこめて越え行く旅の空なれや東雲(しのトめ)ちかし佐夜の中山
清見が関にて
  天の原霞もはれて清見がた月をとどめよ浪の関もり
吉田は立派な歌よみである。これらの歌を八首まで暗諦していた寺坂も、風流を解する足軽だったと言ってよかろう。
吉田、近松は、着府そうそう、堀部親子(弥兵衛と養子安兵衛)、奥田父子(孫太夫と養子貞右衛門)と会して、大石からの手紙を渡し、京都同志の状勢及び山科会議の様子を委しく語って、「原、大高、潮田、中村らの急進派も、すべて大石の誠意に信頼して、大学殿(長広)の公けの御処分が決定するまでには、断じて別行動に出ないという事に申合せたから、江戸の諸士も是非我々と行動を共にしてもらいたい」旨を、至誠を披渥して謹々と説いた。
安兵衛、孫太夫らは急進派の同志たる一人武林唯七を、吉田らの京都出発と行ちがいに江戸を立たせ、大石の手を離れて急速に実行すべく計画を進めているので、心中大に不満ではあるが、すでに上方の同志一同がその通り申合せたとある以上、致し方もないので「是非に及ばぬ、時節を待つ外ござるまい」と承服した。
吉田、近松は大よろこび、大安心、「大石殿の最大の心配は、各々方に延期の同意を得る事であったが、今御納得下されたのは、計画が成功する瑞兆と申すべきである。早速大石殿へ通知するから、各々方も一筆返書をお認め願いたい」と迫ったので、安兵衛、孫太夫も已むを得ず一書を草した。これは全く吉田の老巧と信念の力によったものと言ってもよいであろう。
この時の手紙に、大石は池田久右衛門の仮名を用いていたので、堀部弥兵衛は馬淵市郎右衛門、安兵衛は長江長左衛門と、返書に変名を用い、爾来他の場合にもこの変名を用いた。安兵衛の長江長左衛門は「長ゲエ長ゲエ」という意味から附けたのだろうと、福本日南は言っている。が別に、安兵衛は越後新発田藩の生れで、十七、八歳の時に姉婿の長井家に世話になっていたが、その長井家は、蒲原郡庄瀬村字牛崎にあり、信濃川の沿岸だから、それに因んだ仮名だろうとの説があると、中央義士会員太田能寿氏は言っている。
 
三四 武林唯七ら西上

 

武林唯七(隆重(たかしげ))は、僅に十両三人扶持の小禄を食む中小姓(ちゆうこしよう)であったが、去年の夏から江戸へ出て、堀部、奥田らの急進派と共鳴し、大石との約束で、この三月御一周忌までは待つことにしたが、それまでもう間もないのに、大石はまだグズグズして、いつ取かかろうともしないから、じれてきて、場合によっては大石と分離して事をあぐべく、堀部らと相談の上、不破数右(ふわかずえ)衛門(もん)と同道して、三月一日に京都に着いた。吉田、近松一行の東下とは途中で行きちがいになったのである。この武林の祖先は、中国漸江(せきこう)省武林(ぶりん)生れの中国人で、孟二寛(もうじかん)という医師だった。孟二寛は孟子の後喬で、徳川家康時代に漂流して我が国に渡来し、そのまま定着して後に帰化、故郷の名を訓読にして姓とし、武林次庵(たけぱやしじあん)と称し、日本人を妻として医を業とした。これが武林唯七の祖父である。唯七は孔子の道を伝えた孟輌の後喬ということを誇りとして、忠勇義烈の志とくに厚く、堀部安兵衛とは肝胆相照らす仲となった。
彼は不破数右衛門と共に、先ず上方同志中の急進原惣右衛門を大坂に訪問し、三月の御一周忌もいよいよ近づいたから、大石がもしまだ立ち上らないようなら分離して決行したい、と相談を持ちかけた。けれども原は、十数日前に山科会議で大石の延期説に一決したばかりなので賛成せず、と言って延期説に引入れようと逆説するでもなく、何か考えがありそうではあるが、ハッキリ言明しないので、両人の失望一方でないのみならず、何故にあれ程熱心の同志だった原が、かくも腰抜になったのかとわけが分らぬ。三月十二日付で武林が江戸の堀部に送った手紙の中に、
此表(おもて)の様子、合点(がてん)参らざる事多く御座候。(中略)篠崎、森(吉田、近松)へ御参会成され候や、様子御聞届なされ、御出会(おであい)御無用と存候。
と書いているのを見ても、いかに失望し、また憤慨したかが知られる。
武林はそれから赤穂へ帰って両親を見舞い、それとなく決心を示して最後の暇乞いをしたが、両親も気丈忠志の男女で、涙のうちに我子を激励して送り出した。俗書の中には、武林の母が自刃して我子を励ましたと書き、その遺書をれいれいしく載せたのもあるが、すべて作り事である。武林が切腹の前日公命によって認めた親類書(しんるいがき)に、
  父何々母何々播州赤穂に罷在候。
と書き、また、辞世の漢詩の中に「家郷病に臥して双親在り」の一句があるのを見ても、彼の両親が健在だったことが知れる。ついでに附記しておくが、原惣右衛門の母も、惣右衛門を激励するため自殺したとて、遺書もあるが、これも作り事であること、惣右衛門が切腹の時の自筆の親類書に、「母、去年八月病死」とあるので明らかである。義士の妻母に箔をつけるのは悪い事でないが、芝居や小説なら兎も角、正史実伝らしく書いたものに、この種昔の作り事を無批判に採用したものの多いのはニガニガしい。
武林唯七には半左衛門という兄があった。この兄初め義盟に加わろうとしたところ、唯七が、兄さんは老い給える両親を扶養なさい、私が亡君への御恩報じを一家総代でするからというと、半左衛門承知せず、「それは逆だ、兄が当然家の総代たるべきだ」と、互いに義を争うて決しない。結局籔引にして弟の唯七が義盟に加わったのだという。
武林は赤穂から京都へ出て大高源五を訪問し、大石の手を離れて復讐即行を熱説したが、大高も原と同様山科会議の実況を説いて、即行説に賛成しないのみか、これはまた逆に、大石は確に信頼し得らるる人物であるから、君は当分こちらに滞在して、大石の意中を確めることに努め、是非共我々と共にせよと勧めて、そのまま自分の所に同居させた。 
 
三五 猜介なる不破数右衛門

 

不破数右(ふわかずえ)衛門正種(もんまさたね)は禄百石の不破家に早くから養子に入っていたものであるが、事情あって長(なが)の暇(いとま)を賜わり、浪人となっているうち、事件突発を聞いて真先に赤穂に駆けつけ、ついに義盟に加わったのである。
ある時彼は、三カ条の理由によって閉門申付られたことがある。三カ条の第一は、埋葬されている罪人の死体を発掘して試し斬りをした。第二は、平生役儀を粗略にしかつ同役と仲が悪い。第三平生くらし向が不自由だと申立ながら、多人数の客をして馳走したり、その席で賑やかな唯子(はやし)などして興を添えた、というのであった。百日ほどして閉門御免となり出仕すると、「兇暴にして勇気を好み、粗豪の人なり」と古書に書かれている不破は「揮り多く候えども申上度事御座候」と前置して、閉門処分の抗議を申立てた。多分これは家老の大野九郎兵衛に対してであったろうと想像されている。抗議というのは次の通り。
「第一、死体を掘出して試し斬りをしたのは、新調した一刀の切れ味を確めたいためだったとはいえ重(じゆうじゆ)々誤(う)り、申訳ありませぬ。第二に多人数の客をしたとの事、これは親類の者や懇意の友人と、日常の惣菜で一緒に食事をいたしたまでの事、料理とか馳走とか申すようなものではありませぬ。その節唯子(はやし)をやらせたとの事、これは埣に能太鼓の稽古を致させているので、未熟な芸ながら笑い草に供したのが、遊芸人でも招いてやらせたごとく、御耳に入ったものと存じまする。次に平生御役儀を粗略に致すとのお答め、これは迷惑千万の事で、御役儀を粗略に致した覚え毛頭ござりませぬ。同役と仲が悪いとの仰せは、これも合点が参りませぬ。元来私は潔癖で、不義に類する事はかつて致しませぬと同時に、同輩に対しても用捨いたしませぬ。それらの事が原因で私を陰ロする者があるのかも知れませぬが、それならばその当人と対決させていただき度存じます。その上私の方が悪いと認められますたら、いかほど重い科(とが)に処せられましても、お恨みは申上ませぬ。何卒御再調下さるよう」
つまり当局の処置に対して事後に喰ってかかったのである。けれども一向取合ってくれないので、「それでは長の御暇いただきたい」と願い出で、内匠頭から御内意があって留められたにも拘わらず、当局に対する意地からとうとう浪人になってしまったのである。
不破は藩士中でも武芸の達人で、ある夏内匠頭が熊見川で舟遊びした時、命によって船側を飛び交う燕の片羽を抜討に斬り落した事があったという。
不破はその後江戸へ出て、浪人生活をつづけているうち、殿中刃傷事件から浅野家滅亡と決った由を聞き、かねて懇意にしていた礒貝十郎左衛門や片岡源五右衛門と共に、内々復讐の相談を進めていた。そのうち、大石の手で大規模の計画があり礒貝らはその方へ合流することになったので、不破も一しょに義盟の中に加えてほしいと乞うたが、大石は、「浪人まで駆り催したと言われることは我々の本意に背くから」と答えて許さなんだ。しかし不破は再三押して乞い、その赤誠は疑うべくもなく、また礒貝十郎左衛門も熱心に助言したので、大石は第一回東下の際、一日不破を伴うて泉岳寺に詣で、内匠頭の墓前に額ずいて、生きたる主君にいうごとく数右衛門勘気の御赦免を願い、そこで初めて連判の中に加わることを許したのだという事である。
それ以来彼は、堀部らの急進派と共鳴し、今回武林唯七と共に江戸を立って、吉良邸討入を促進すべく、先ず原惣右衛門を訪問したのであるが、前章記載のごとく、原は山科会議以来大石の統制に服する事になっていたので、不破を自宅に泊めて談合し、武林は赤穂へ帰省したのである。この不破のごとき猜介不罵(けんかいふき)の人物をも包容しているのであるから、大石が統制に苦心したのは察するに余りあろう。 
 
三六 大石の妻子離別と遊蕩

 

時日はハッキリしないが、三月中旬と考えられる、大石は、長男主税(ちから)のみを山科に留め、夫人(名はリク)を離縁し、十三歳の長女クゥ、十二歳の次男吉之進と共に、但馬豊岡の実家石束(いしづか)家へ帰らせた(次女ルリは進藤源四郎の養女にやってある)。一挙の後、罪が妻及びその縁族に及ばないようにとの用意からである。この時大石夫人は妊娠中で、但馬へ帰ってから男児が生れ、大三郎と名づけられた。お産を実家でさせるために離縁の時日を急いだのかも知れない。
原惣右衛門が五月二十日付で堀部・奥田両土に送った書状中、大石の家庭の事を次の通り書いている。
勿論上方衆、存念堅固には承り届け候。取分け久右殿(池田久右衛門すなわち大石)こと、妻室(さいしつ)息女、共に去る頃但州(たんしゆう)へ差遣し、嫡男主税(ちから)と両人山科の宅に蟄居(ちつきよ)候。主税当年十五歳にて候ヘども、齢よりはひね申候、今春前髪とられ候て器量よく、いつも同道にて合点下され、□身も成程に志すくやかに見え候て珍重に存候。身がろくしまひ候て、今日にも駆下り相違なき体、此段感心頼もしく存ずることに候。
主税は今春前髪を取ったとあるけれども、これは原の思いちがいで、実際は前年(元禄十四年)十二月十五日に元服して名乗を良金(よしかね)と称するに至ったものであること、他の文書で証明し得られる。すなわち主税は十四歳で元服、一人前となったのである。主税が年齢以上に体格も精神も発達していたことは、幾らも証明し得られるが、小野寺十内が討入の前日すなわち元禄十五年十二月十三日に、愛妻お丹(たん)に贈った手紙の次の一節もその一つである。
大石ちから十五にて、せい五尺七寸よろづ之に相応の働き、さてく珍しき事ゆゑ、短冊か、せ送り申候。手跡もたつしやに御座候。添付の大石主税短冊
あふ時は語り尽すと思へども別れとなれば残る言の葉  良金
妻を離別する少し前から、大石は遊蕩を始め⊂、京都の祇園島原、伏見の撞木町(しゆもくまち)たどへ足しげく通い、艶名各廓内に高くなった。いうまでもなく、これは、仇の吉良側をして安心させ、米沢への移住など無用と考えしめ、なお本所の邸の警戒をも怠らしめようとの苦肉の計略からである。目的がそうであるから、とくに大びらに、ハデに遊んだに相違ない。吉良方から偵察に来ていた隠密(密偵)なども、実情を見てあきれて引上げたという。一部の義士研究家は、吉良側が密偵を山科までよこしたという史実がない事、大石が度外れの馬鹿遊びをした証拠などをあげて、大石の一面には遊蕩的素質があったけれども、そのために大義を放棄するに至らなんだところがえらいのだなどと評している。しかし大石のこの遊蕩を、昭和の今日の思想で非難することはできない。元禄時代の遊廓は、詩歌管絃の遊びと同じく、風流の一っ位にしか一般に考えられていなかったのである。
忠臣蔵七段目茶屋場に出る遊女お軽は、全くの架空人物ではなく、一部にモデルがあるのである。片島深淵の『義臣伝』に、小山源五右衛門と進藤源四郎は、大石が昼夜の境もなく酔倒するを以て、夫人離別後の寂蓼に堪えないからだとし、瑞光院の和尚と相談して、京都二条通り寺町辺の二文字屋二郎右衛門という者の娘お軽という美人を大石の妾に世話したとある。忠臣蔵はこのお軽を、勘平(萱野三平)の女房、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)の妹として、面白く潤色したのである。
『義臣伝追加』には、進藤源四郎が良雪和尚の遊びに来たのを幸い、大石に遊蕩をやめるよう忠告を頼んだが、良雪は大石に面会して、かえって油をそそぐような話をした事が載っている。
なお大石夫人(リク)が離縁となって実家へ帰ったのは、舅の石束源五兵衛が、大石の遊蕩に耽り主君の仇を報ずる志の見えないのに愛想をつかして引取ったのだ、と説いた人もあるが、離縁後夫人と取交わした手紙を見れば、そんな事の全然ない事が証明される。左は、夫人が大三郎の安産を知らせたのに対する大石の返書の一節である。
十九日の御文届き、披見申候。まだ殊の外の暑さに候て、そもじどの打続き血心もなく、無事肥立申され候由、何よりく悦入存じ候。や二(赤ん坊)事もそもじどの名づけ申され、大三郎と申候由、殊に生れ付も宜しく可愛らしき子にて候由、一入の事、くれぐ見申たき事と存じ候。(下略)
この手紙によって、離別後も夫婦の愛情極めてこまやかであった事が想像せられる。 
 
三七 間一髪の急進派分離計画

 

山科会議に於て、原惣右衛門らの急進説は抑えられ、一同大石の指令に服する事に一決、吉田忠左衛門はこの決議を齎らして江戸に下-り、堀部らを承服させたのであった。
その後大石は、三月に神崎与五郎を、四月に千馬(ちぱ)三郎兵衛を江戸に下らせ、実行計画を進めてはいるが、他方に於ては主家再興の希望をなお捨てず五月に赤穂の遠林寺の祐海和尚を再び江戸に出して、護持院方面から最後の運動をさせた。こうして裏面的にはいろいろ計画を運んでいながら、表面は、祇園島原に流連して、主家の事など忘れ果てたように見せているので、吉良側の密偵はいうまでもなく、連盟者の中にも、その本心を疑う者が生ずるに至った。
さて話は元へ戻り、原惣右衛門は、山科会議(りさい最後には大石の意見に同意はしたけれども、帰宅して静かに考えると、やはり自分の説が正しいように思われ、この上なお一年も延ばしてはついに時機を失するに至る恐れが多分にあるような気がするので、四月二日付を以て江戸の堀部、奥田に密書を送った。その要旨は「いろいろ考えて見るに、大学様閉門御免になってから上野介に手をかけては、いっそう御首尾がわるい事明らかである。その時には頭立つ者が自決するより外ないが、たとい自決しても、大学様の御障りにならないとは限らぬ。そこで、このさい大石初め上方の連中を除いて復讐を決行したらと思うがどうだろう。そうすれば大学様にお答めのあるはずなく、気もらくだ。まだ誰にも語らないが、十四、五人の同志はあるだろうと信ずる。先達て武林のやって来た時話そうかと思ったが、年若い連中は秘密が漏れやすいから、言葉をニゴしておいた。兎に角これは秘中の秘だから、一味のうちでもよほど吟味した上でないと言い出せない。貴見如何」というのである。
この原の密書が堀部の手に届いたのは四月二十八日である。堀部の喜びはいうまでもなく、五月三日付を以て「尤も至極なる思召寄(おぽしめしより)、誠に以て本望の至りこれに過ぎず、その意を得申候」と賛意を表し、「七月中に必ず下ってくるよう」「必死の者が十四、五人揃えば、十分本望が達せられる」と書き添えている。
六月十一日、堀部の手元ヘ大石からの書状が届いた。「来年三月の御三回忌には、拙者共必ず下向するから、長引いて各々方御退屈だろうとは察するが、拙者の下る迄は卒爾(そつじ)の思召をなさらぬよう呉々も希望する。軽率な事をなさるとかえって亡君への不忠となる。兎角物事には時節があるから、来三月まで必ず御差控えが大切である。拙者がウソをついて引のばしているように、そちらで噂もあるそうだが、是非に及ばない。赤穂離散以来拙者の覚悟は変らない。三月と申しても今数月の事だから、是非それまで軽挙をなさらぬよう」との主意で、これは大石が原や堀部らの分離計画の噂を聞込んで、五月二十一日付で江戸の堀部父子、奥田父子宛になだめた書状である。
大石のこの書を受取った翌日(六月十二日)、堀部安兵衛は、上方の原、潮田、中村、大高、武林五人に宛てて「その後どうしていられるか、七月一ばいに変った事もないようなら、是非実行にかかりたい、かねては二十人位必要だろうと思っていたが、固い覚悟を持った真実の士が十人もあれば沢山だ。なまじいに人数を多く集めようとすると色色故障が生じて来るから、兎も角コッソリ大石の手を離れて、七月中に下り給え」と申送り、大石に対しては六月十五日付で、
仰越の趣承知した、よもや卒爾の致し方をする者はあるまいと存ずるが、もしもそういう相談を持ちかけられた際は、一応御案内は申上ぐる覚悟である。
と回答したこれら往復の書翰は、堀部安兵衛が丹念に全部書き留めているので、後人も正確な事実を知ることができるのである。高田馬場の仇討に雷名を馳せた安兵衛は、文筆に於ても長じていたのである。
堀部は右の通り、原らへは分離計画の催促状を送り、大石に対してはさりげない返事を出したが、そのまま落ちついて原らの来るのを待っていられない。「上方ではやっばり大石のニラミがきいているので、原らも分離ができないのだろう。よし俺が出京して、今度こそは何が何でも実現して見せるぞ」と、翌十六日米沢町の借宅を出で、芝にいる吉田忠左衛門を訪問してしばしの別れを告げ、十八日に新橋を立って、六月二十九日京都に着いた。
堀部安兵衛は、着京そうそうまず大高源五を訪うた。大高は大に喜び、同道して大坂の原惣右衛門の宅に行き、潮田、中村、武林ら急進派の同志を会して密議をこらし、いよいよ大石と分離して、吉良邸討入断行の事を申合せ、極秘のうちに今数名同志を勧誘して、七月二十六、七日頃堀部は先発して江戸ヘ引上げる事に予定し、着々準備を進めていた。
著者はここまで書いてきて、標然として肌の寒くなったように感じた。この時もし、原や堀部らのこの計画-大石の手を離れて復讐を断行するーが遂行されていたら、結果はどうなっていたろうか。果して首尾よく上野介を討取ることができたろうか。たといできても、赤穂義士の名が今日のごとく燦然として史上に輝き、芝居に、講談に、浪花節に、人心を振作して天下後世を益するまでになっていたであろうか。
しかるに、幸なるかな、感謝なるかな、七月十八日浅野大学長広の処分が決定し、閉門御免、在所広島へ左遷、本家浅野家に差置かるる旨申渡されて、その報道が江戸の吉田から大石の許へ二十四日に届いた。大石が、なんとかしてと苦心惨惚、悲憤の涙を抑え、血気にはやる勇士を制し、一年三ヵ月間しびれをきらして待っていた主家再興の望みは、ここに全く絶えて、内匠頭の養子(実は弟)大学は広島へ左遷せらるることに決定したのである。大石の落胆は察するに余りあるが、しかし一面に於ては、なまじい家名を再興させられて、痛し痒しの思いをするよりも、徹底的に復讐の一路に猛進し得ることになって、サバサバした思いをしたかも知れない。
原、堀部ら急進派の面々が、躍りあがって喜んだ様子が目に見えるようだ。それにしても幕府当局者は、実に際どいところで大学の処分を決定したものである。まるで大石の苦心の力も及ばないところを、当局者が手伝ラて、四十七士の一致団結を大成させたようなものである。 
 
三八 円山会議

 

浅野大学の左遷が決定して主家再興の望の糸が切れたので、大石はもうなんの心残りもなく復讐の一路に遭進することができるようになった。そこで堀部安兵衛の建策を容れて、七月二十八日辰の刻(午前八時)から京都円山、重阿弥(じゆうあみ)の端寮(はりよう)に同志を会し、いよいよ実行準備の相談をする事にした。重阿弥というのは円山安養寺の六坊の一で、観光客に庵を貸切り、酒宴などさせたものである。江戸では浅野大学が、ちょうどこの日に出発、広島へ向った。
当日円山に会合したものは次の十九名であった。
大石内蔵助 小野寺幸右衛門 潮田又之丞 貝賀弥左衛門 大石主税 間瀬久太夫 大高源五 大石孫四郎 原惣右衛門 間瀬孫九郎 武林唯七 不破数右衛門 小野寺十内 堀部安兵衛 中村勘介 矢頭右衛門七 岡本次郎左衛門 大石瀬左衛門 三村次郎左衛門
赤穂以来常に大石の支持者として忠義顔していた進藤源四郎や小山源五右衛門初め、その他多数の連盟者も、とうとう顔を見せなんだ。それは、今まで大石が主家再興のため努力していたので、大石にさえ附いておれば、新主家に出仕するさい有利であると思っていたに、主家再興の望が絶えた今日、相談は復讐の一本槍だから、まあまあ御免蒙っておこうという気になってきたのである。当年十七歳の矢頭右(やこうべよ)衛門七(もしち)が、病父長助の代理格で大坂から来会したのは注意すべきである。
座定ったところで、大石が先ず口を開いた。
「昨年三月以来、さまざま心を砕いて努力したかいもなく、大学様はついに芸州左遷と決定、主家再興の望みが絶えた今日、例の一件早速取りかかるべきかと存ずるが、なおこの上何か考慮いたすべき事ありや否や、御腹蔵なく御意見を承りたい」
これは進藤と小山が、なおしばらく自重して、強大なる仇に対して必ず勝利を得る万全の確信を得たる上出発するようにと、この程大石に進言したので、列席者のうちにも何か意見があるかも知れぬと、例の慎重さから問うたのである。
急進派の面々、今に及んでなんの考慮すべき事があろうかとは思ったが、大石の本心を測りかねて誰も口を開かない、座が少々白け気味になったので、老人株の間瀬久太夫が席を進めて言った。
「若い方々が逸りに逸らるるのを、抑え抑えて今日に及ばれたのは、全く大学様の御身が決らなかったためでござる。今となってはもはや一日も早く一件に取かかる外ござるまい。この程江戸の堀部弥兵衛殿から手紙を受取ったが、その中に、自分は齢八十に垂(なんな)んとしているので、上方の長分別には余命の程も覚束ない。老後の思い出に一人でも吉良の邸に斬込んで、臣たる道を果したい位に思うとあったので、その返事に、拙者もモウ六十二、到底若い衆と立並んでかいがいしい働きはできないから、近日御地ヘ下向して、貴殿と共に吉良の門内で腹かき切って相果てたいと申送った次第である。どうか一日も早く御供いたしたい」
小野寺十内(六十歳)が続けた。
「間瀬殿の言わるる通りである。拙者も間瀬、堀部老とは多年の朋友、受けたる君恩も軽重ござらねば、是非とも同道にて下向し、死出の山まで離れますまい。御都合つき次第出足(しゆつそく)いたさるるようお願い申す」
急進派の堀部安兵衛、喜色満面、
「実は拙者、申訳ない事でござるが、大石殿のお指図を待兼ね、十人ばかり分離して事をあげんと内々計画していたところでござった。その十人が二手に分れ、五人は吉良左兵衛の下城を待受けて討取り、その場に割腹、他の五人は吉良の邸に斬込み、幸にして上野介殿の首を得れば何より、不幸失敗に終っても、彼の邸で斬死すれば年来の宿意は達するわけ、との考えでござったが、今は安心して御一同と事を共にすることができるようになり、大慶この上ござらぬ。もはや一日も延引すべきでござらぬ。至急連判者中の志堅固なるもの一同下向し、吉良の邸に討入申そう」
安兵衛は腕をさすって、今にも飛び出しそうな勢いである。
大石は莞爾(かんじ)として席を進めた。
「各々方の忠誠全く感激に堪え申さぬ。去年このかたしばしば諸君の勇ましい行動を抑えて、兎角のびのびにさせたのも、尽すべきだけの道を尽したいためであった。定めし腰抜にも見えたでござろう。今はもはや躊躇すべきでないから、九月下旬迄には上方の用向を果し、おそくも十月には必ず出府するから、それまでは敵の様子を探るに止め、いか程よい機会があろうとも、決して抜駆(ぬけがけ)の功名などなさらぬよう希望致す。数十人が神文して約束しながら、その統一が保てないでマチマチの行動をとり、折角敵の邸に討入りながら目的を達せずして犬死するようでは、たんに残念というのみに止まらず、赤.穂藩の名折れとなって、亡君に対し奉ってもかえって不忠でござろう」
と原、堀部らの急進派に一本釘をさし、更に語をつづけた。
「兵法に、算多きものは勝ち、算少きものは勝たずとある。いわんや算無くして勝利の得らるる道理はない。拙者いささか用兵の術には心得あり、かつ公儀に対する申開き等についてもいろいろ考慮すべき事がござれば、くれぐれも軽率なる単独行動を慎み、拙者の指令に服せらるるよう希望する」
確乎たる決心は眉宇に濃り、厳然たる態度は辺りを圧した。原や堀部は恐縮したが、すぐ子供のように元気になって、一同いずれも勇気凛々、祝盃を重ねてよい心持に酔ってきた。小野寺十内手鼓(てつづみ)を打って、
「つわものの交り、頼みある中の酒宴かな」
と謡曲『羅生門』の一節を朗々と謡えば、原惣右衛門も続いて立上り、持った扇をサッと開いて、
「富士の御狩の折を得て、年来の敵本望を達せん」
と『小袖曾我』の仕舞いを舞い納めた。一同歓呼喝采、もう上野介の首を取ったような喜び方である。
この日の費用が、大石の『金銭請払帳』(復讐関係の全費用を記入した帳面)に「金壱両」として下に「京、丸山にて打寄会談の入用十九人分、三村次郎左衛門支払、手形有」と記入されてある。当時の金壱両は、他の文書によって米六斗位に相当すると考えられるから、その割合で今日の価格に換算すると、二十円前後になる。十九人の酒食料が二十円、一人前一円に過ぎない。こんな事が知られるのも、大石の『金銭請払帳』が現存しているからである(この『金銭請払帳』の事は後に細説する)。 
 
三九 堀部の帰府と大学の芸州行

 

堀部安兵衛は円山(まるやま)会議でスッカリ安心、大石初め上方の同志がこう一決した以上、一日も早く江戸へ帰って準備を進めねばならぬと、その翌日(元禄十五年七月二十九日)潮田(うしおだ)又之丞と共に京都を出発した。潮田は大石の使として吉田忠左衛門との打合せ、また江戸の実況を視て来るためである。
例の『大石金銭請払帳』を見ると、一金参歩二朱、銀五匁五分五厘として、下に「堀部安兵衛、潮田又之丞江戸へ指下し、江戸者会談の節入用、両人手形あり」と記入がある。手形というのは領収証のこと。なおその前に、一金四両二分として「堀部安兵衛江戸より内談のため罷り上る、往来路銀京都滞留雑用、手形あり」の一項がある。高田の馬場の仇討で、雷名を天下に馳せた武芸の達人も、今は全く無収入の浪人なので、一方では大石の緩慢な態度に腹を立てながら、他方では京都往復の旅費や小遣を大石に出して貰わねばならなんだのである。大石にこの軍用金の用意がなかったら、その徳望手腕を以てしても、最後の目的を達し得なかったであろうことを思わねばならぬ。
堀部、潮田の両人が遠州浜松の駅を過ぐる時、浅野大学(長広)一行の駕籠と行きちがった。大学は広島の本家へ引取られるのであるが、左遷とはいうものの本人が罪を犯した場合とは違うから、夫人及び召使の男女数十人を従えて、ちょうど京都で円山会議の開かれた日に江戸を出発したのである。堀部と潮田は、拝顔して最後のお暇乞いをしたい気もするが、もし今面会すれば後日迷惑をかけるような事にならないとも測られないので、両人駅馬に跨りながら、知らぬ顔に行き過ぎた。
大学の一行は八月十三日に伏見に着き、それから船で大坂へ下ったが、そのさい京都附近に在住の赤穂の旧臣らは、大低出迎えて懐旧の涙を拭うた。けれども大石は、病気だと申立てて行かず、原、間瀬、小野寺以下連盟中の志堅い者は、一人も顔を見せなんだ。この大石以下の不参を、大学に対する不満からのごとく伝えた書もあるが、全く誤解である。
大学一行が広島へ着いたのは八月二十一日、壮戸を立ってから二十三日目であった。 
 
四〇 連判者再吟味

 

大学の左遷は、石心鉄腸の士をしていよいよ討入を決心せしむるに至ったが、他方には、当座の忠義顔で加盟していた者に恐慌を来さしめた。
大石は円山会議で、おそくも九月中に上方の用を終り、十月にはそうそう出府すると言明したが、その上方の用の一つは、百名内外の連判者を再吟味して、必死の同志のみを選び出すことである。この選択、学校の選抜試験のごとく簡単にはゆかぬ。
大石は数日間考えに考えた。薄志変心のものを先ず選ばねばならず、それを的確に選んで除外するにしても、何かもっともらしい理由がなければならぬ。理由があっても、本人に恥をかかせないような形式で脱盟させなければならぬ。もし恥をかかせると、逆恨(さかちつ ら)みから秘密を暴露するような事にならないとも限らない。また多人数を一々呼びつけて試験することもできないから、試験委員に各地を巡廻させなければならぬが、その委員の人選がまた大切である。
大石は熟考の末、連判者の試験委員を貝賀(かいが)弥左衛門、大高源五の両人に任命した。弥左衛門は吉田忠左衛門の実弟で、母の実家貝賀家を相続し、今年五十三の分別盛り。十両三人扶持(外に米二石)の小身ではあるが、内匠頭の御側近く仕えて信任が厚かった。彼は最初から兄忠左衛門と共に義のために奮起し、大石にも信ぜられていたが、今回重要な試験委員の役目を申付かったのである。
源五は、これも禄二十石五人扶持の小身で、この時三十一、小野寺幸右衛門(義士の一人、十内の養子)の実兄で、小野寺十内と叔甥(おじおい)関係である。彼は武芸に秀でているのみならず、文雅の道にも嗜みあり、俳人宝井其角(たからいきかく)の友人で、俳句をよくし、俳名は子葉と号した。また茶道の心得もあり、その関係から後日吉良上野介在宅の日を探知し、討入を決行せしめたのである。
この貝賀弥左衛門と大高源五が、連判者の試験委員となって、八月下旬(『真説録』は八月上旬、『快挙録』は八月五日と明記しているが共に根拠不明である。著者の研究によると八月二十三日以後と思われるから、あるいは翌閏八月上旬かも知れぬ)出発、近くは山科伏見、京都、大坂、奈良、遠くは加東郡、赤穂郡に仮寓している同志を歴訪し、「大石内蔵助の内命でお訪ね申した」と前置して、次の意味を述べた。
「これまで主家再興を第一の目的としていろいろ心を砕き申したが、この程大学様芸州へ御引取となって、一年半の努力も水泡に帰し申した。かねては他に存じ寄もござったが、都合によりそれも取止めに致し、今後は専ら妻子の養育方法を講ずる事にしたい。ついてはかねてお預り申した神文(しんもん)誓紙の御血判〜切抜いてそれぞれ御返上申す。お受納下されい」
すると、一度連判はしたものの、今では生命の惜しくなっている輩は、反問もせず、
「それはそれは残念な事でござるが、なんとも致し方がござらぬ。判形(はんぎよう)たしかに受取申す」
と素直に納める。無論これは零点(ゼロ)で第一の落第生だ。
「ごれは意外の事を承る。して大石殿は全く復讐を断念せられたのでござるか」
「いかにも、この両三月の大石殿は、昨日は祇園、今日は島原と、流連荒淫、全く腰抜になりはてられて、復讐のことなど念頭にはない様子。けれどもお預りの神文誓紙が手元に残っていては、気の答める事もあると見え、きれいに返上したいとの申付」
「さてさて慨嘆に堪えざる次第、しかし大石殿がそういう体たらくでは、致し方もござらぬ。印形たしかに受取申す」
これも惜しいところで落第。
「これはけしからぬ事を承る」と、眉を釣り、声を荒らげ、
「それで貴殿ら御両人も復讐中止に御同心か。主家は滅亡して仇敵吉良上野介は生存しているに、このまま泣寝入りして武士の面目が立つとお考えめさるか」
と、果し合でもしかねまじき権幕で迫るか、あるいは「腰抜の大石などに頼らずに、共共新計画を立てようでござらぬか」と持ちかける連中は、優等点の合格。
「堅固の御覚悟、失礼ながらあっばれ御見上げ申した。大石殿は九月中に江戸出府の予定でござるから、貴殿もそれまでに出府せらるるよう」
と、合格を証明してなおこまごまと打合せる。
こうして貝賀と大高は、二十日ばかりかかって使命を完全に果した。この時、両人が何名を歴訪し、その内何名を残したのか、確かな数字は分らないが、新潟県保坂潤治氏所蔵の大高・貝賀宛の大石書簡によると、奥野将監外十余人に宛てた書状を同封する事と、なおその書中に、次のごとき意味が一筆書きにしてある。
一、一昨日申した通り、拙者が腰抜になることは合点である、が余り腰抜とばかり申されるとかえって信じない者があるかも知れぬから、その辺の了見が大切だ。
一、判を返す理由を強く尋ねられたら、第一世間の風説が高いので、連判で多勢催しては罪科になるためらしい。しかし自分もよく存じない。兎も角銘々勝手に江戸へ出るなら出て、時節を待つなり、今後の計を立てるなり、了見次第と答えるがよかろう。
灰方藤兵衛から今朝脱退を申出て来たが、同人の分だけ今から書き直して切抜くのは面倒だから、そのままにおく。等々々。 
 
四一 隅田川納涼会議

 

円山会議の翌日京都を立った堀部安兵衛と潮田又之丞は、八月十日江戸に着き、直ちに江戸隊長吉田忠左衛門を訪問して、円山会議の状況と上方同志の決心を告げ、大石主将が遅くも九月中に用を片付けて出府するはずだから、こちらでもその手筈を整え、いよいよ本格的に討入準備を進めねばならぬことを説いた。
吉田は、さきに大学が左遷されると、早飛脚でそれを弟の貝賀弥左衛門に通知し、貝賀から大石へ報告させたが、その時、いよいよ決行の期も迫ってきた事を感じて、これまでの宿(芝、松本町前川忠太夫方)へは京都へ帰ると吹聴して、近松勘六と二人、新麹町六丁目大黒屋喜右衛門の家作を一戸借受け、それまでの変名篠崎太郎兵衛を再び変名して、作州浪人田口一真と名のり、勘六は甥田口三介と称した。吉田は文武両道に達し、とくに小幡流の兵学に造詣深く、かつ弁舌が流暢なので、兵学師範の看板を掲げ、出入する同志を門人らしく見せかけたが、これは世を欺く戦術としても妙を極めたものである。
堀部、潮田から円山会議の話を聞いた吉田の田口一真は、このさい在江戸同志の大会を開いて、決心を新にすると同時に、諸般の準備打合会を開く必要を感じ、陸上では兎角人目につき易いから、折柄の暑中を幸い、納涼と見せかけて、八月十二日の夕方から、隅田川に二艘の屋形船を漕ぎ出した。
この時何名の同志が会したか、正確の数は分らないが、寺坂吉右衛門の『私記』には「此節心底(しんてい)心元なく相見え申す者選び捨て、相談に入れ申さず候」とあるから、脱盟の恐れあるものは除外し、後日討入に参加した四十七士中当時江戸にいた左の面々が、大部分集ったものと察せられる。
吉田忠左衛門 富森助右衛門 片岡源五右衛門 赤埴源蔵 矢田五郎右衛門 杉野十平次 礒貝十郎左衛門 潮田又之丞 堀部弥兵衛 堀部安兵衛 奥田孫太夫 奥田貞右衛門 倉橋伝助 前原伊助 勝田新左衛門 中村勘助 村松喜兵衛 村松三太夫 神崎与五郎 横川勘平 近松勘六 寺坂吉右衛門
河面を蔽うほどに沢山出ている涼み船の中に、吉良邸討入の密談をしているのが二艘まじっていようなどとは、時の水上警察(?)も気がつかなんだ。『寺坂私記』に「船頭は供船(ともぶね)に乗せて、殊に内談候節は茶屋支度に上らせ申候」とあるから、用意周到、船頭でさえ普通の遊山客と思い込んでいたに相違ない。
密談の内容を記載した書籍中、根拠確実と思われるものは見当らないが、いずれ大石が出府するまでに、吉良邸の様子を詳細偵察する方法が主題だったに相違ない。なお大石以下多人数が追々出府するから、その宿割を人目に立たないようにする事などについても、吉田が中心になって相談した事だろう。
会議が終った後は、普通の遊山客同様、酒酌みかわして歓を尽した。当夜は月が冴えていたと見えて神崎与五郎の詠草の中に次の通りある。
おなじ心なる人々いざなひ八月十二日隅田川の迫遥にまかりし頃
鳥の名の都の空もわすれけり隅田川原にすむ月を見て
月前友
てる月のまどかなる夜に円居(まとい)する人の心の奥も曇らじ
潮田又之丞はこの舟中会議を終った後、なお数日間滞在して諸般の情勢を確めた上、十七日近松勘六と同道して上方に向い、委しく大石に報告した。 
 
四二 大石引止運動

 

大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)は、円山会議以後着々準備を進めているが、山科から直に江戸に向っては、吉良側に警戒される恐れもあるので、近所へはこの度外戚池田玄蕃(従弟)に招かれて備前へ赴くと称して、山科の住宅は親戚に当る男山八幡の僧証讃に引渡し、閏八月一日(元禄十五年)京都に出て、四条通金蓮寺の梅林庵を、当座の仮宿として引越した。梅林庵は今日もう跡方もないが、新京極を東へと入って、いま花遊軒という料理屋になっている所がその跡だという事である。
これより先、大石がこうして復讐実行の準備を進めているのを、よそながら眺めて困ったのは進藤源四郎と小山源五右衛門とである。進藤は大石の従弟に当り四百石の家柄、小山は大石の伯父で三百石、共に大石と意気投合して、赤穂開城以来行動を一つにして来たのである。大石が山科に居を構えるに至ったのも、進藤が先に来ていて呼んだからである。なおまた大石の二女ルリは進藤家の養女になっている位であるから、両人共、今にたって生命が惜しくなったともいえず、なんとか大石の江戸出府を引止めようとして、「今はまだ時期でない、ことに公儀でも警戒厳重で、赤穂浪人と分れば関所を通さないそうだから、今少し先にすべきだ。江戸でも昨今公儀の目が光ってきたそうな」と、いろいろに説いたが、大石の決心は巌のごとく動かない。けれども多少不安に感じたと見えて、江戸の吉田忠左衛門へ問合せたところ、忠左衛門から、「別段公儀の目が光ってきたなどという事はないから、御懸念なく御出府ありたい」との返事がきた。
奥野将監もまた、引留組の一人である。彼は干石の家柄で、大石の第一回東下の時同行したものである。彼はいう、
「大学様の芸州お引取りで、主家再興の望みが絶えたと決めるのは早計である。今一度他の方法によって再興運動を再開したい。復讐はそれから後の事である。かつ復讐を決行するからには、必ず相手の首を取るだけの自信がなければならぬ。もし失敗すれば、却って亡君を辱しめることになろう。しかるに今日は、上杉という大家を後楯にしている強敵吉良に対し、味方には随分決心の疑わしいものが多い。貴殿は今事をあげて必ず上野介の首を取るとの確信があるのか」
大石はこれに対して答えた。
「敵の首を取れるか取れないかは、時の運に委せる外ない。拙者は主家再興についてもはや尽すべきだけは尽したから、この上は吉良の門内へ踏み込んで相果てるを最後の忠義と存ずる」
こうして進藤も、小山も、奥野も皆脱盟したのである。 
 
四三 脱盟の面々

 

一度加盟して置きながら、今度大石がいよいよ復讐実行のため東下する際までに、脱盟したもの左の通り七十余名に達した。この中には、貝賀・大高に不合格を宣告されたもの、自発的に申出たものもある。
奥野将監 河村伝兵衛 進藤源四郎 長沢六郎右衛門 小山源五右衛門 大石孫四郎 佐藤兵右衛門 糟谷勘左衛門 井口忠兵衛 稲川十郎右衛門 山上定七 奥野弥五郎 河村太郎右衛門 多川九左衛門 長沢幾右衛門 小山弥六 佐藤伊右衛門 月岡治右衛門 糟谷五郎左衛門 井口庄太夫 山上安左衛門 佐々小左衛門 佐々五百右衛門 平野半平 岡本次郎左衛門 井口半蔵 高久長右衛門 灰方藤兵衛 里村伴左衛門 塩谷武右衛門 酒寄作右衛門 渡辺佐野右衛門 仁平郷右衛門 川田八兵衛 田中代右衛門 近松貞八 松本新五右衛門 田中序右衛門 久下弥五右衛門 多芸太郎左衛門 幸田与惣右衛門 岡本喜八郎 高田郡兵衛 木村孫右衛門 上島弥助 田中権右衛門 前野新蔵 渡辺角兵衛 高谷儀左衛門 榎戸新助 嶺善左衛門 杉浦順左衛門 小幡弥右衛門 山羽利左衛門 近藤新吾 田中四郎左衛門 豊田八太夫 大塚藤兵衛 各務八右衛門 陰山惣兵衛 猪子源兵衛 土田三郎右衛門 三輪弥九郎 吉田定右衛門 生瀬十左衛門 木村伝左衛門 各務伝三郎 陰山惣八 渡辺半右衛門 三輪喜兵衛 梶半左衛門 甲斐仁左衛門
以上七十二名が、元禄十五年九月前後までの脱盟者である。こうして残ったものが五十五名、その内また一人へり二人へって、最後の討入には四十七人にたってしまったのである。
 
四四 寺井玄渓の加盟切願

 

寺井玄渓は故内匠頭の侍医として、禄高三百石十五人扶持を受けていたが、赤穂開城後は京都に出で、町医者を業としている。彼は大石以下多くの義士に親交があったから、江戸の同志から山科の大石へ送る手紙は、寺井を中継とした事もあり、また京都附近在住の同志は、しばしば寺井の家に会して相談するのを常とした。
彼は、赤穂に抱えられるまではズット京都に住んでいたので、道具類の目利(めきさ)に長じていた。それで義士らが家財調度類を金に代える場合、しばしば寺井の手を煩わした。大石が山科の家を処分して京都に引移る際も、金に代える物は寺井が親切に世話したのである。
さて、大石が万端の準備を運び、東下する日も追々近づいてくるのを見るにつけ、寺井はジッとしてはいられなくなり、義盟の中に自分も加えてもらいたいと申込んだ。大石、応えていう、
「代々恩顧を蒙っている武士中にも腰抜の者が多いのに、御忠志には感じ入る。しかし、これには承諾しがたい二つの理由がござる。第一、貴公は医を以て仕えられたもので、我々武辺の者とは道が違い申す。第二、その上に貴公は新参で、君の禄を受けられたこと何程でもござらぬ。その人を加えては、世間あるいは赤穂藩に武士乏しく、新参の医師まで駆り催して主君の仇を打ったと評しない限りでない。それでは亡君の御恥になり申す。どうかこの儀は思い止って、我々が亡き後、いかなる非難が世間に起るかも知れ申さぬ故、そのような場合、亡君の御ため、我々のため、弁護の役をお頼み申したい」
寺井は承服しないで、言葉はげしく抗弁する。
「君が一日の恩のために妾が百年の命を捧ぐというのが貞婦である。拙者もとより武道の職ではござらぬが、正(まさ)しく君の禄を食みたるに紛れはない。君恩を謝するに新参古参を区別する理由があろうや。また戦場にては疵の手当をする必要がある。貴殿以下の御健康のためにも、拙者の医術が役立つはず。武器を以て君の仇を刺すが臣子の本分ならば、薬匙を以てそれら義士の病賊を退治するもまた君への忠義であるはず。是非是非同道ねがいたい」
と、なかなか引き下らない。大石もまた毅然として譲らない。
「応御もっともではあるが、しかし今度の一挙は戦争でない。傷ついた者を手当して再び武器をとらせる必要は全くござらぬ。傷つかざる者もやがては死ぬのである。かつ寺井殿の医名は京中に高い。その人の参加は、秘密を要する一行の進退に妨げあること多大でござれば、なんと申されてもこの儀は貴意に副いがたい」
と巨巌のごとき不動の態度を示した。
寺井はひどく落胆したが、この上いくら言葉を重ねても無益なこと明らかであるから、推しては乞わない。
「イヤ、もうこの上はお頼み申しますまい。しかし、拙者武家ではござらぬが、かかる事をいったん言い出して、このまま思い止まるは不面目千万、お察し下されい」
と、心中何か決するところがあるらしいので、大石も寺井の志に同情し、「しからば令息玄達殿を、道中の衛生係として同道いたそう」と折れた。
すでに連判に加わっていた累代恩顧の重臣すら、口実を設けては脱盟する中に、寺井のごときは真に頼もしい人物である。一同切腹の後、寺井は大石の依嘱のごとく、その義名を閲明するに力を尽した。三宅観瀾の『烈士報讐録』は、この寺井玄渓の談話を根拠として書かれたもので、義士史料中重要なものとなっている。  
 
四五 大石無人の激励

 

ここに大石無人(ぶじん)という八十に近い老人があった。大石内蔵助の数代前の祖から別れた家柄で元赤穂に仕えていたが、隠居してから江戸に出で、今は柳島に住んでいる。二子あり、長男郷右衛門は津軽藩に仕え、次男三平は浪人していた。この父子三人、いずれも義を好み勇を愛し、とくに無人翁は昔赤穂藩に仕えていた縁故もあるので、事件以来憤慨おかず、かねてから別懇の間柄なる堀部弥兵衛に対して、義挙に加わりたいから斡旋してくれと頼んだが、弥兵衛は「貴殿今は津軽藩士たる郷右衛門殿にかかっている身、かつ浅野家に縁のあったのは昔の事、一味に加えることは内蔵助が承諾しないこと明らかである。それよりも、外部から援助せられたい」と忠告し、それ以来無人は、吉良家の動静を探っては堀部弥兵衛に内報していた。
ところが、上方の連中案外に気が長く、いつ東下するのかわからないので、無人じれッたくなり、一日片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門を招いて、言葉を極めて激励した。
「仇の居所が知れないなら致し方もないが、現在眼の前にいるのじゃないか。我々の眼には、一同腰抜としか見えない。これで武士たる面目が立つと思われるか。生きてこんな恥さらしをするよりも、腹かき切って死ぬべきじゃ。拙者がこう申していたと、一味の人達に伝えてもらいたい」
二人は、言われるまでもたく、自分達もそう思っている位なので、冷汗を拭い拭い辞去、堀部安兵衛と奥田孫太夫にこれを告げた。堀部、奥田も「イヤ全くその通りだ、それに敵情も相当明らかになった。至急内蔵助の出府を催促しよう。円山会議の時は、おそくも九月中に支度を終ってそうそう出府すると確約したが、この辺で一度催促しておかん日にゃ、また引き延ばされないとも限らんからのウ」
話かわって、京都梅林庵に仮寓して、忙しく諸般の準備を運ばせている大石は、江戸からの催促状を手にして、眉をひそめながら嫡男主税(ちから)に話しかけた。
「江戸の連中は、身軽の自分達と同じように考えて、わしがただボンヤリ日を過ごしているように思っているらしいが……」
主税は当年十五歳だが、身長五尺七寸、脅力も頭脳も常人の比でない、深く父に同情して、
「御父上この頃の御苦心、私にはよくよく分っておりまする。しかし百三十里を隔てた江戸では、いろいろの蔭口や疑いの生ずるのへ無理はござりませぬ。つきましてはこのさい私が、誰か老人にお附添を願い、一足お先へ出発いたしましては如何でござりましょう。私が参れば、父上の御出府が少々後れ庄しても、安心してお待ち申す事と存じます」
言語態度、老成人の風があるのを、大石いかにも頼もしげに眺めていたが、やがて大きく肯いて、「イヤ実は、父の方からそれを言いたかったのじゃ」と、非常に喜び、早速小野寺、大高、潮田らにこの事を告げると、皆ひどく感心した。
それから、父子打連れて男山八幡へ参詣して武運を祈り、親類の大西坊証讃方に立寄って一泊し、吉日を選んで、九月十九日出発した。一行は大石主税、間瀬九太夫、大石瀬左衛門、小野寺幸右衛門、茅野和助、矢野伊助、これに若党加瀬村幸七が供した。
主税の一行は十月四日江戸に着き、日本橋区石町三丁目小山屋弥兵衛の借宅ヘ、主税は垣見(かけい)左内、他も皆変名して一先ず落ちついた。堀部以下在江戸の面々もこれで大安心、勇躍してその日を待った。  
 
四六 義士追々東下

 

大石主税(ちから)一行の出発後まもなく(九月末または十月初)、小野寺十内、原惣右衛門、大高源五、岡島八十右衛門、貝賀弥左衛門、間(はざま)喜兵衛らが同道東下した。
小野寺十内は当年六十歳、京都御留守居番、禄高百五十石、役料七十石で、一党中吉田忠左衛門に次ぐべき老巧練達の士である。彼は忠義の念に強いのみならず、風流の嗜み深く、とくに和歌は専門歌人の域に達していた。
彼の妻お丹(たん)は理想的良妻で、これまた和歌に造詣深く、十内と優劣を決しがたいほどのよみ手である。従って琴琶相和し、文字通り夫唱婦和、花農月夕には、他の義士に見られない家庭的清興があった。なおまた彼の養子幸右衛門、甥岡野金右衛門、同大高源五、従弟間瀬久太夫、その子孫九郎など、一門六人までが義盟に加わっているのから見ても、彼が四十七士中重要な地位を占めている事を否定することはできない。
原、大高、岡島、貝賀らの事は、すでに略説した。今一人の同行者間喜兵衛は、当年六十八歳、禄百石で、勝手方吟味役を勤めていた老人、彼は寡言沈黙、内に毅然たる志を蔵しながら、外に機鋒を現わさず、堀部弥兵衛らと共に、老成を以て同志間に推されていた。
喜兵衛の二子、十次郎、新六、共に義盟に加わっ」て最後まで変らなんだ。四十七士中、大石、吉田ら、父子のものが八組あるが、そのうち父子三人なのは間家だけである。しかも長男十次郎は二十五歳で、討入の夜仇敵吉良上野介に一番槍をつけた功労老である。
間十次郎は、父より一ヵ月許り早く出発、千馬(ちぱ)三郎兵衛、矢頭右(やこうべよ)衛門七(もしち)らと共に出府した。千馬は江戸に在勤していたが、江戸家老安井と衝笑し、長の暇を乞うて離藩すべく、家財の一部をすでに取りまとめたところへ、事件突発主家滅亡となったのである。だから普通なら、ちょうどよい機会と、思い切りよく立去るはずなのを、「義を見てせざるは勇なきなり」と、踏み止ってついに義盟に加わったのである。
矢頭右衛門七1これはヤトゥエモンチと訓む人もあるがヤコウベヨモシチとよむのが正しいのだそうである。四十七士中大石主税に次ぐ年少で、当年十七歳、彼は父長助と共に早くから義盟に加わっていたが、長助は、大坂堂島の借宅で重病にかかり、円山会議後まもなく、万斜の恨みを呑んで客死した。大坂天王寺の覚心院(今は宗旨も改まって浄祐寺となっている)の長助の墓碑銘によると、長助は死に臨んで、右衛門七を枕頭に呼びよせ、父に代って大石殿と共に亡君の讐を討ってくれと、涙ながらに遺言してそのまま息が絶えた。後に残った右衛門七は、葬式を営む費用がないので、やむを得ず父が記念の腹巻(鎧)を質に入れ、ようやく形ばかりの野べ送りをした。間もなく武林唯七から、いよいよ江戸へ出る事になったとの通知が来たが、家宝の腹巻を受出すだけの金が得られない。やむを得ず「大功は細瑛を顧みず」の古語により、偽って質物を借り出してそのまま立ったという。
この話は種々の古書にも書かれているが、江戸行の旅費は大石から給せられ、また生計扶助も折々大石がしてやっている事、例の『金銭請払帳』に明記されているから、多分右衛門七の年少と貧乏を種に、話を面白く作ったものだろうと、渡辺博士は説いていられる。
大坂を立った矢頭右衛門七は、江戸の松平大和守の藩邸にいる叔父に母の今後を頼もうと思って、足弱の母をいたわりいたわり遠州荒井の関所まで来たが、旅なれぬ少年の悲しさ、女の関所通行証を用意して来なかったので、通してもらえない。よしやここだけ通されても、先には箱根の関所がある。到底江戸まで行けない事は明らかなので、泣く泣く後戻りして赤穂まで行き、そこの身寄りに母を頼んだ上、自分はまたすぐ京都へ引返し、千馬三郎兵衛や間十次郎と共に、九月初旬江戸へ出た。
こうして、義盟者の大部分はすでに江戸に集り、残るは大石及びその親近者数輩のみとなった。  
 
四七 大高源五の母に贈った暇乞状

 

大高源五の母は、貞立尼といって、仏門に入り、浮世をよそに、悟りを開いている賢婦であった。彼女は源五を戒めて、母のことなど念頭において、忠義の心を鈍(にぶ)らせぬようにせよと、常に励ましていた。その母に対して源五が、元禄十五年九月五日付で贈った手紙、すなわちいよいよ討入決行のため、大石の東下りに一足先だって京都を出発するに際し、最後の別れを告げた一書は、理義明自、真情流露、小野寺十内が討入後良妻丹女に贈った手紙と共に、対女性の二大名文老して喧伝せられるところであるから、長文であるが、全文をここに掲載する(相手が女なので原文は仮名が多いのを漢字に改めた。また原書は、殿様の文字をいつでも行の頭に書き、天下の字はとくに一段高くあげて書かれているが、紙面節約のためすべて書き下しに改めた)。
一、私事今度江戸へ下り申候存念、兼て御物語申上候通り、一筋に殿様御憤りを散じ奉り、御家の御恥辱をす、ぎ申したき一すぢにて御座候。且は士(さむらい)の道をも立て、忠のため命を捨て、先祖の名をも顕はし申すにて御座候。勿論多勢の御家来にて御座候へば、いか程かく御厚恩の士も御座候処、さしての御懇意にも遊ばし下されず、人なみの私義にて御座候へば、此節たいていに忠をも存じ、長らへ候て、そもじ様御存命の間は御養育罷在候ても、世の誹(そし)りあるまじき吾等にて御座候へども、なまじひに御側(おんそば)近く御奉公相勤め、御尊顔拝し奉りし明暮の義、今以て片時忘れ奉らず候。誠に大切なる御身を捨てさせられ、忘れがたき御家をも思召し放たれ候て、御欝憤(ごうつぶん)とげられ候はんと思召しつめられ候相手を御打ち損じ、剰(あまつさ)へ浅ましき御生害(ごしやうがい)とげられ候段、御運のつきられ候とは申ながら、無念至極、恐れながら其時の御心底推し量(はか)り奉り候へば、骨髄(こつずい)に通り候て、一日片時も安き心御座なく候。されども御短慮にて、時節と申し、所と申し、一方ならぬ御無調法(おんぶちようほう)ゆゑ、天下(将軍のこと)の御憤(いきどお)り深く、御仕置(おんしおき)に仰付られ候事に御座候へば、力及び申さぬこと、全く天下へ御恨み申上べき様ござなき義にて候ゆゑ、御城は仔細なく差上げ申たる事に御座候。これ天下へ対し奉り候て異議を存じ奉り申さぬ故にて御座候。然し殿様御乱心にもござなく、上野介御意趣ござ候由にて御斬つけなされたる事に候へば、其人はまさしく仇にて候。主人の命を捨てられ候程の御憤りござ候仇を、安穏(あんおん)に差置き申すべき様、昔より唐土我朝(もろこしわがちよう)共に、武士の道にあらぬ事にて候。それ故、早速仇の方へ取りかけ可申ところ、大学様御閉門にて候へば、御免なされ候時分、もしや殿様御あと少しにても仰付られ、上野介殿方へも何卒品(しな)もつき候て、大学様外聞よく世間も遊ばし候やうにも罷成候はズ、殿様こそ右の通りに候とも、御家は残り申す事にて候。然れば我々は出家沙門となり、又は自害仕候ても憤りは休め候はんと、此節まで口惜しき月日をも送り候処、其かひなく、安芸国へ御座なされ候。閉門御免しと申す名ばかりにて御座候。尤も年月過ぎ候は父、何卒御世に出させられ候事も御座あるべく候はんが、よし左様にござ候とても、此節にて殿様御あとは絶え申したる事に御座候へば、此上前後を見合せ申すは臆病の仕る所、武士の本意ならぬ事にて御座候。此上にも天下へ御訴訟申上げ、何卒相手方へ御手当も下り、大学様にも世間ひろく御取立遊ばされ下され候やうに、一命にかけて御嘆き申上げ、是非御取上げなく候は父、其時相手方へ取かけ申すべき由、頻に相談の衆も御座候。尤も一理御座候様には候へども、中々左様の徒党がましき事仕るべき道理と存じ申さず、其上御願ひ申上げ御取上げござなきに付相手方へ取りか、り申候段、ひとへに天下に御恨み申上候に等しく御座候。然れば以ての外の義、大学様初め御一門の方々様までも御為め宜しからぬ事にて候故、た父一筋に殿様御憤りを晴らし奉り候より外の心ござなく候。
一、だんく右申残し候如く、武士の道を立て候て御主の仇を報い申すまでにて、全く天下へ対し奉り御恨み申上るにては御座なく候。然れども、いかなる思召ござ候て、天下へ御恨み申上たるも同然とて、我々共の親妻子に御た二り御座候とても力及び不申候。万一左様のことになり候は父、兼て仰せられ候通り、何分にも上よりの御げちの通り、尋常に御覚悟なさるべく候。御はやまり候て、御身を我と御あやまちなされ候事などくれ人\あるまじき御事にて候ま、、必ずく左様に御心得なさるべく候。世の常の女の如くに、彼是と御嘆きの色も見えさせられ、愚におはしまし候は父、いかばかり気の毒にて、心もひかされ候はんを、さすが常々の御覚悟ほど御座なされ候て思召し切り、反(かえ)りてけなげなる御奨めにも預り候御事、さてく今生(こんじよう)の仕合、未来の喜び、何事か之に過ぎ申候はんや。あつばれ我々兄弟は、士の冥利にかなひ申たる義と、浅からぬ本望に存じ奉り候。
先にての首尾の程、御心にかけさせられまじく候。私三十一、幸右衛門(小野寺、源五の弟)二十七、九十郎(岡野、源五の従弟)二十三、いづれも屈寛の者にて候。容易(たやす)大高源五の母に贈った暇乞状く本望を遂げ亡君の御心を安め奉り、未来閻魔(えんま)の金札の土産(みやげ)にそなへ可申候ま二、御心安く思召し、た父た父御息災にて、何事も時節を御まちなさるべく候。御齢(よわい)もいたう御傾き、幾ほどあるまじき御身に、さぞ御心細く、便もあらぬ御かたに乏しく月日を御しのぎ遊ばし候はんと存じ奉り候へば、いかばかり心うく候へども、其段力および不申、時に臨み候ては主命に背き父母を肩にかけて、いかなる山の奥、野の末にも隠れ、又主君の為に、父母の命をも失ひ申す事、義と申すもの、やみ難きためしにて候。是等の道理くらからぬそもじ様にておはしまし候へども.筆にまかせて申残し候。
九十郎母上、お千代へも、よりよりは仰せ聞かされ候て、必ずくおろそかに悲み申さぬやうに、互にお力を添へさせられ候べく候、幸ひかな、御法体の御身にてござ候へば、此後いよく以て仏の御務のみにて、うさもつらきも御紛れましく、未来のこと明暮に御わすれなく、世も穏かに御座候は父、寺へも節々御参り遊ばし候べく候。一つは御歩行御養生にもなり申べく候。
うばにもあきらめ候やうに、よく仰せられ下さるべく候。かしこ
元禄十五壬午年九月五日   大高源五
   母御人様 しん上
この手紙は、室鳩巣(むろきゆうそう)が『義人録』の中に漢訳して
「予に左丘明、大史公の筆力なく、以て之を発するなきを恨むのみ」と附記している位、能文家の鳩巣をして感嘆せしめたものである。ただ文中の「主君の為に父母の命をも失ひ申す云々」の一句に対しては、鳩巣強く異議を挿んでいる。
本書は母への暇乞という以外に、一挙の大義名分を宣明し、また幕府に対して恨むものでないことを弁じ、天下後世に誤った批判を下されないようにとの用意を以て綴ったものと察せられる。そしてこの文の趣意は、大高一己の意見でなく、大石以下幹部の合議で、一党の主張となっていたものであること、討入口上書その他で知る事ができる。 
 
四八 大石いよいよ出発

 

江戸の少壮組があせりにあせり、大石の出府のおそいのに不満を抱いて、ややもすれば、その本心を疑わんとするのを、なだめたり、すかしたりして、ようやく大学長広の処分決定まで待たせ、いよいよ近く出発せんとするまでになり、最後の準備を今運んでいる大石の、第一の苦心は金策である。
赤穂退城の際、あらかじめ準備しておいた数百両の金は、主家再興の運動費や、一党江戸往復の費用や、生活窮迫の者への補助で残り少になっている。その上、瑞光院へは亡君の永代回向料として金百両を納める。家財道具を始末した金は意外に少い。江戸へ出ても、首尾よく目的を達するまで、幾十日を要するかも知れぬ。その間の一味の生活費も補助してやらねばならぬ。この金策の苦労が、恐らくは吉良邸討入の作戦計画よりも、大石に取ってはつらかったであろう。
しかし、この間の大石の苦心について、記録したものは殆んど無い。ただ備前藩の家老池田出羽(由成(よしなり))から金千両を借用したという事と、近衛家の大夫進藤筑後守に百両を無心に行って断られたという断片的記事が残りているだけである。備前の池田出羽は大石が母の生家であり、近衛家の進藤も古い姻戚である。進藤家では大石の頼みを普通の無心と思って断ったが、大石が江戸へ出発の前、長持一樟を預ってくれと持込んだのを、後日遺書によって開いて見ると、形見分(かたみわけ)の品に一々名宛の札がついていたので、先に断った事をひどく残念がったと、橋本経亮が『橘窓自語』に書いている。何にしても、大石が金策に苦労した事は察せられる。
さて、京都に於けるすべての始末もついたので、大石はいよいよ十月七日(元禄十五年)を以て出発、江戸へ下向することとなった。.同伴者は潮田又之丞、近松勘六、菅谷半之丞、早水(はやみ)藤左衛門、三村次郎左衛門、及び若党室井左六、瀬尾孫左衛門、この外に寺井玄渓の息玄達が、人目を避けて先発、大津から同行した。片島深淵の『赤城義臣伝』には、玄達が大石主税の一行と同道したと書き、福本日南の『元禄快挙録』にはその反証をあげて、玄達はあとから単独で出府したものだろうと書いているが、『赤穂義士史料』中の義士関係書状中に、出発の三日前に送った大石の手紙によって、玄達が大津で大石と落合った事が証明される。一行は中間(ちゆうげん)まで合せて十人である。
この東下りの際、大石は「日野家用人垣見(かけい)五郎兵衛」と称して、関所関所を欺いて通ったとの説が、明治時代の漢学者信夫恕軒(しのぷじよけん)翁によって宣伝せられ、『快挙録』もそれを採用しているが、『真説録』の内海定治郎氏は、「後世の好事家が捏造した説にちがいない、やはり本名でこっそり下向したのである」と書いている。
「日野家用人」説は、内匠頭に妾腹の姫君があり、大石がそれを主家多年の好(よし)みある京都の日野家に頼みこんで養女にしてもらい、藩用金の中から御養育料・御化粧料として多額の金員を添えた。この縁故から、日野家用人の名義を使用する内許を得て、大胆にも関所関所を欺き通ったのであるというのである。なおこの説は、その姫君が後に松平兵部大輔の奥方となり、しばしば泉岳寺に内匠頭の墓参をされたという終末まで筋が通っているのであるが、肝腎の内匠頭に妾腹の姫君があったという事や、それが日野家の養女になられたというについての史料は何一つない。かつ大石の出府は、吉良家でこそ恐怖であるが、幕府の役人や関所の番人にはなんら注意される氏名ではないのであるから、わざわざ偽名を用いて公儀を欺くような変道を行くはずはないと思われる。従って著者も、日野家用人説は否定する。
「伊勢路をあとに尾張路や、三河を越えて遥けくも、末は何処と遠江、駿河の国もはや過ぎて」十月二十一日、一行は鎌倉雪ノ下に着いた。江戸では、前からの通知によってすでに知れていたので、吉田忠左衛門は、大石が直に江戸に入る事を危険とし、ちょうど川崎在の平間(ひらま)村に、富森助右衛門の持家があるのを幸い、当分そこに足を留めさせる事にして、大石が鎌倉に着くはずの二十一日に、富森と中村勘助、瀬尾孫左衛門(瀬尾は京都を大石と一緒に立ったが、二日前に先着したのである)を伴うて、平間村の家を検分に行った。そして瀬尾を借主とし、大石以下を客人とする事にして準備させ、吉田はその夜川崎に泊り、翌二十二日鎌倉まで出迎えて、九ヵ月ぶりに大石と面会した。この時吉田は、寺坂吉右衛門を供につれていたものと考えられる。それは、『寺坂私記』のこの前後の記述が、親しく傍にいた者の筆に相違ないと察せられるからである。
大石は、吉田とともに鎌倉で三日間逗留、二十五日に同地出発、翌二十六日平間村の仮寓に着いた。
平間村は、今、南武線電車、平間駅のすぐ側に、義士の遺跡として銚子塚(ちようしづか)というのが残っている。これは富森が討入前、家を建てた大工の渡辺善右衛門という正直男に、かねて内匠頭から拝領した銚子をハ形見にと与えたのを、善右衛門は、かかる由緒ある貴い品を賎しい我々の家に置くのは勿体ない、また盗難の恐れもあるからと言って、土中に埋めたものと言い伝えられている。大石の仮寓した家は、同線鹿島田駅に近い称名寺の近くで、今は原野になり、一部は桃林になっている。 
 
四九 同志五十余名の宿所と変名

 

大石の江戸入を、どこで誰が見張っているかも知れないという用心から、大事を取るため、吉田忠左衛門らの計らいで、いったん平間村の富森の家に落ちつかせたが、ここは、江戸から数里もあり、不便なので、十日ばかり滞在の後、いよいよ大丈夫と見極めて、江戸の中心日本橋の宿に入った。
この前後の同志は、五十五名であった。それらは、二人三人または五、六人ずつ、変名して諸方に潜居し、それぞれの立場から、吉良家の動静を探っていたが、その変名及び住所次の通りである(△印の六名は、この後討入までに逃亡した最後の腰抜である)。
日本橋石町三丁目 小山屋弥兵衛裏屋敷
  本名 変名
  大石主税 (垣見左内、借主)
  小野寺十内 (仙北中庵、医師)
  潮田又之丞 (原田斧右衛門)
  大石内蔵助 (鱒離量)
  大石瀬左衛門 (小田権六)
  近松勘六 (森清助、また田口三助)
  早水藤左衛門 (曾我金助)    
  菅谷半之丞 (変名なし)
  三村次郎左衛門 (変名なし)
大石主税(ちから)の垣見(かけい)左内が訴訟用で近江から出府し、その左内が若年なので伯父の五郎兵衛が後見として附添、という触出しなのである。浪花節では左内を内蔵助の変名のごとく語るそうだが、間違いである。内蔵助は前に、母方の姓をとって池田久右衛門と称していたが、主税はその池田家の長臣垣見(かけい)丹下の姓に因んで垣見左内と称した。で、内蔵助はその伯父垣見五郎兵衛と再び変名したのである(垣見はカキミでなく、カケイとよむのだとする福本日南の説に従う)。
小野寺は、祖先が出羽の仙北郡を領した名族なので、仙北中庵という医師に化けた。
大石瀬左衛門は内蔵助の同族で、当年二十六歳の青年、大石孫四郎の弟である。孫四郎は円山会議にも出席した連盟者だったが、いよいよ江戸へ下る段になり、母を残して二人共去るに忍びず、ついに脱盟して瀬左衛門だけが内蔵助に同行したのである。瀬左衛門は昨年事変突発の際、原惣右衛門とともに第二回特使として、内匠頭切腹の報告を赤穂へもたらしたこと、既記の通りである。
潮田(うしおだ)又之丞は当年三十四の男盛り、彼は江戸九段側の千鳥が淵で河童を生檎(いけどり)した、と講釈師が語るのでも察せられる通り武勇に秀で、また加東郡穂積村に在勤中、医師田中道的に乞われて、家伝の秘薬三味保童円の製法を伝授したが、この前後の彼の行為には君子の風があるとて、漢学者梁田蜆巌(ぜいがん)が『潮田氏手簡記』中に激賞している。
近松勘六は二百五十石の家柄で、当年三十三、奥田貞右衛門(奥田孫太夫の養子)の腹ちがいの兄で、兄弟共に金鉄の義士である。彼は吉田忠左衛門と共に江戸に下って、敵情の偵察に従事していたが、最近潮田と共に上京して江戸の近情を報告し、今度大石に従ってまた下向し、そのまま本営に起居しているのである。
早水藤左衛門は、事変勃発のさい萱野三平と共に第一回の特使として早駕籠を飛ばした人物で、当年三十九、食禄百五十石の家柄で、終始大石の司令を遵守した忠実の義士である。
菅谷(すがのや)半之丞は四十三、禄は百石であった。俗書に、彼は若い時美少年だったので、父の後妻が道ならぬ恋をしかけた。彼は呆れて家を飛び出し、二十年も流浪しているうち、事変を聞いて馳せ帰り、義挙に加わったなどと書いているが、全くの出鱈目で、事変当時代官を勤めていたのである。
三村次郎左衛門は禄わずかに七石二人扶持の小身で、台所役人を勤めていた。彼は大石に親愛され、その知己の恩に感じていた。小身の彼が最後まで義を全うしたのは、大石の知遇に酬ゆる意味が半分は手伝っていたろうと想像される。この点寺坂吉右衛門の吉田忠左衛門に対する関係によく似ている。年は三十六。
作戦本部ともいうべき大石父子の宿には、右の外に大石の若党加瀬村幸七と室井左六、及び近松勘六の僕甚三郎が同居していたから、計十二人の大家族である。しかし宿の小山屋は、江戸一といわれる程の大旅館で、客の人数も多く出入も頻繁なので、別に目立ちはせなんだらしい。
新麹町六丁目 大黒屋喜右衛門裏店
  本名 変名
  吉田忠左衛門 (即講汰饗趨難)
  原惣右衛門 (和田元真、医師)
  吉田沢右衛門 (田口左平太)
  不破数右衛門 (松井仁太夫)
  寺坂吉右衛門 (変名なし)
吉田の兵学老は、本物の兵学者たる実力があるのだから、誰の眼にもなるほどと思われたろうが、原の医師は、どこかピッタリしないところがあったに相違ない。
吉田沢右衛門は忠左衛門の嫡子で当年二十八歳、彼は義士たるのみならず、父の名を辱めぬ孝子でもある。
不破と寺坂は、すでに記した通り。
注意-何某裏店または何某店とある店の字はタナとよみ、何某は家主の名、店はその貸家、裏店は裏通りの場末の家の事である。当時は家主に住人の責任を持たせたので、一々家主の名を示したのである。
麹町四丁目 和泉屋五郎兵衛店
  本名 変名
  中村勘助 (山彦嘉兵衛、借主)
  間瀬久太夫 (三橋浄貞、医師)
  間瀬孫九郎 (三橋小一郎)
  岡島八十右衛門 (郡武八郎)
  岡野金右衛門 (岡野九十郎)
  小野寺幸右衛門 (仙北又助)
中村勘助は、原や潮田と共に上方の急進派だった。間瀬久太夫は中村の叔父で、小野寺十内と従兄弟である。彼は小野寺と申合せて共に医師に化けたのであろう。彼の嫡子孫九郎は当年二十二歳で、大石主税、矢頭右衛門七につぐ三番目の若侍である。
岡島八十右衛門は原惣右衛門の実弟で、赤穂退散の際、家老大野九郎兵衛を罵倒し、ついに大野をして夜逃げせしむるに至った事は、すでに記した通りである。
岡野金右衛門は、九十郎と変名しているが、実は九十郎が以前の本名で、今は父の名を襲いでいるのである。父金右衛門は前年(元禄十四年すなわち事変のあった年)十一月、万餅の恨みを呑んで病死したので、彼は父と二人前の働きをする覚悟で、偽名に以前の本名を用いたものらしい。彼当年二十三。講談や浪花節に、彼が吉良家の女中の恋を利用して邸内の情勢を探り、ついに吉良家の絵図面を手に入れるという面白い一節があるけれども、もとより好事家の作り事に過ぎたい。
小野寺幸右衛門は大高源五の実弟で、小野寺十内の養子になっている二十七歳の青年である。養父十内が、お前は別に君恩を受けたわけでないからと制したけれども、自ら進んで義に就いたのである。
新麹町四丁目 大黒屋七郎右衛門店
  本名 変名
  千馬三郎兵衛 (原三助、借家主)
  間(はざま)喜兵衛(杣荘(そまそう)喜斎、医師)
  間十次郎 (杣荘伴七)
  間新六 (杣荘新六)
  中田理平次 (中田藤内)
千馬(ちば)の事は前に書いた。間(はざま)もすでに書いた通り、父子三人がともに義についたのである。喜兵衛は六十八で、四十七士中、堀部弥兵衛に次ぐ二番目の高齢者、十次郎は二十五、新六は二十三である。中田理平次は討入(元禄十五年十二月十四日)の前月下旬になってから逃亡した。
新麹町五丁目 秋田屋権右衛門店
  本名 変名
  富森(とみのもり)助右衛門 (山本長左衛門)
ここは富森一人の借宅である。彼は初め川崎在の平間村に住んでいたが、吉田忠左衛門と相談の上、そこを大石の仮寓にあて、妻了をつれてここに移ったのである。助右衛門の後喬富森長太郎氏は、現に帝国ホテルの副支配人で、助右衛門の遺物をいろいろ所持している。
芝通町三丁目浜松町 檜物屋惣兵衛店
  本名 変名
  赤埴源蔵 (高畠源五右衛門) 
  矢田五郎右衛門 (塙武助)
浪花節「赤垣源蔵徳利の別れ」で、誰知らぬ者ない赤垣(あかがさ)は、赤埴(あかぱね)の草書が誤写されたもの。苗字の誤伝はマアよいとして、討入当夜酔態で兄の家へ訣別に行き、兄は不在、捜には謝絶され、徳利相手に別れを告げるあの馬鹿馬鹿しい語り物の内容は、義士を侮辱するもはなはだしい。門出の祝いに盃をあげたが、酔の廻るほどは決して飲まなんだはずである(なお余録に詳記する)。
矢田五郎右衛門は禄高百五十石の家柄で、当年二十八。その祖先は徳川家康摩下の暁将、金鯉の兜を以て有各な矢田作十郎であるが、五郎右衛門また祖先を辱めぬ勇士である。
築地小田原二丁目 大野四郎兵衛店 (初、京橋八丁堀)
  本名 変名
  村松喜兵衛 (荻野隆円、医師)
ここにも一人偽医師がいる。村松は二十石五人扶持の小身で、江戸詰であったが、当年六十一。昨年事変突発の際、まだ部屋住の嫡子三太夫(当時二十五歳)に母を頼むと言い残して赤穂へ立った。三太夫同行を乞うたが許されぬので、その場は承服、父の出立後数時間を経てからその跡を追い、途中で追付いて、父子共に義盟に加わったのである。
息子の三太夫は、芝源助町に礒貝十郎左衛門と共にいた。
深川黒江町 春米屋某店
  本名 変名
  奥田貞右衛門 (西村丹下、医師) 
  奥田孫太夫 (西村清右衛門)
奥田貞右衛門は孫太夫の養子で、近松勘六の腹ちがいの弟である。養父孫太夫は堀部安兵衛と共に終始江戸急進派の中心で、家を顧るに邊あらず、常に外部に奔走していたから、家族の生活は貞右衛門が引受けていた。彼は世間体をゴマカスためばかりでなく、生活の方法として医業を利用していたらしかったから、相当の心得があったと察せられる。年は僅に二十五歳で、孫太夫の娘との間に、当年初めて一子が生れているから、結婚後まだ幾年にもなるまいに、決然家庭愛を振切って、四十七士の中に加わっているのは、他の老人連、または大石主税(ちから)や矢頭右(やこうべよ)衛門七(もしち)ら少年組とも異った涙を催させる。
芝源助町(家主不明)
  本名 変名
  礒貝十郎左衛門 (内藤十郎左衛門)  
  茅野和助 (富田藤吾)
  村松三太夫 (変名なし)
礒貝は下人一人を召使っていたから、同宿四人である。彼は十四歳の時、堀部弥兵衛の推挙で内匠頭に児小姓(こごしよう)として仕え、事変の時は二十三歳だった。片岡源五右衛門と共に、名ざされて内匠頭の遺言を受け、爾来復讐を決心して、いったん赤穂藩へ帰ったが、籠城も、殉死も、開城も皆気に入らず、なんとか復讐の方法をと心を砕いているうち、吉田忠左衛門の東下りから、一挙の計画が判明して来たので、吉田に素志を打明けて、大石へ執成しを頼んだのである。
茅野和助は神崎与五郎と同時に、僅かに五両三人扶持で抱えられ、奉公後十一年にして主家の大変に遭い、奮然として義盟に加わったのである。先祖代々高禄を食んでいたものも大部分途中から逃げてしまったに、僅かに五両三人扶持十一年間の恩義で一命を捧げたこの二人の心理は、利己排他を当然とする現代人には理解し得られないだろう。村松三太夫は前記の通り、事変の際父喜兵衛を途中に追いかけて、共に赤穂に帰った孝子にして忠臣である。
南八丁堀湊町 平野屋十左衛門裏店 (後、本所三ツ目に移る)
  本名 変名
  片岡源五右衛門 (麟麟備艶主、)
  貝賀弥左衛門 (変名芒)
  大高源五 (脇屋新兵衛)
  矢頭右衛門七 (清水右衛門七)
  田中貞四郎 (田中玄馬、医師)
片岡は、内匠頭が田村邸で切腹の際、とくに乞うて、余所ながらの訣別をした人物、貝賀と大高は、円山会議の直後、大石の密命を帯びて各連判者の印形返還に廻った人物。矢頭は十七歳の少年。今一人の田中は、討入の一ヵ月程前に脱盟した不義士である。
本所林町五丁目 紀伊国屋店
  本名 変名
  堀部安兵衛 (長江長左衛門、借主)
  木村岡右衛門 (石田左膳)
  毛利小平太 (木原武右衛門)
  中村清右衛門 (変名なし)
  横川勘平 (変名なし)
  倉橋伝助 (倉橋十左衛門)
  小山田庄左衛門 (変名なし)
  鈴田重八 (同)
本所三ツ目横町 紀伊国屋店
  本名 変名
  杉野十平次 (杉野九郎右衛門)
  武林唯七 (渡辺七郎右衛門)
杉野は八両三人扶持の小身ではあったが、赤穂藩第一の富豪荻原兵助の縁者で、家は富裕であったため、事変以来家宝を金に代えて千両という大金を用意し、同志の生活を補助したとの説がある。大石の『金銭請払帳』に記載されてない諸般の費用は、杉野が負担したのであると、『快挙録』には書かれているが、著者はそうまで確言し得ない。彼の家は堀部安兵衛の宅のすぐ近くで、やはり討入当夜の集合所(三個所)の一つに指定された。
本所二つ目相生町二丁目
  本名 変名
  前原伊助 (米屋五兵衛)
  神崎与五郎 (小豆屋善兵衛)
相生町二丁目、今は東両国二丁目に変っているが、ちょうど吉良の裏門筋向い(今は国技館東部の一区画)に当る。そこに一戸を借りて、前原が主人とたって米屋を開業し、傍ら雑穀及び蜜柑などの果実を商った。後には倉橋伝介も、番頭と見せかけて住み込んだ。討入の夜この家が集合所の一つになった。
両国矢之倉米沢町
  本名 変名
  堀部弥兵衛 (馬淵市郎右衛門)
四十七士中の最高齢たる七十六翁堀部弥兵衛は、妻及び娘(安兵衛の妻)と共に、川を隔てて本所と相対する矢之倉に一戸を構えている。
右の外、瀬尾孫左衛門と矢野伊助とが、平間村の富森旧宅にいたが、共に討入前々日(十二日)に脱盟した。
以上五十余名(討入の数日前に四十七士となったのである)が、前記の通り各所に散居して敵情を偵察し、討入の機会を狙っているのに、吉良側では数力月前大石の遊蕩を確めて以来、スッカリ安心して、警戒も怠りがちであった。 
 
五〇 吉良邸の偵察

 

吉良邸の偵察は一党が最も苦心したところである。位置は本所松坂町二丁目で今は本所区東両国三丁目と町名が変っている。北は高塀を以て土屋主税(ちから)(旗本)及び本多孫太郎(松平家の家老)の両邸と境し、東に表門、西に裏門、裏門の前は道路を隔てて一列の町屋があり、町屋の直ぐ背後が回向院境内で今はその町屋と回向院の一部が国技館になっている。表門の前通りは道路を隔てて牧野一学と鳥居久太夫の邸が並んでいる。この牧野、鳥居の両邸跡が、今は江東尋常小学校になっている。南側は全部長屋である。すなわち吉良邸は、北が高塀で隣邸と境している外、東、西、南の三方は、表と裏の門を除く外、家来達の住居している長屋を以て囲まれているのである。面積は二千五百余坪で東西に長く、南北に短い。邸の中央に当主左兵衛義周(さひようえよしかね)の居間があり、隠居上野介の部屋は裏門に近い位置である。
この吉良邸の跡、今は人家が密集して昔の面影を想像することもできなくなっているのを、地元町会の有志が残念に思い、昭和九年三月、遺蹟を後世に伝えるため、旧吉良邸の一小部分を買収し、史蹟公園として東京市へ寄附した、それが今の松坂町公園である。
公園には巽(たつみ)の井戸というのが、上野介の首を洗った記念のものだとして保存され、園の周囲は吉良邸当年の外廓に模した塀で囲まれ、塀の内側には吉良邸の絵図面や、義士の花押や、討入の錦絵などが嵌(は)められてある。この公園僅かに方五間、面積三十坪に足らず、全国第一の小さな公園だという。
話は本筋へ戻って、復讐討入本部では、十一月の初頃から、討入の前夜まで、若い連中の四組に、夜半交代で二組ずつ夜廻りさせた。一組は吉良邸附近、一組は芝白金台の上杉弾正邸(当主は上野介の子)附近を、町人風になって見廻るのである。これを町人風にして帯刀を許さなんだのは、どんな辱めを受けても手向いしないようにとの用心からであった。この夜廻りは、上杉家から吉良邸警護の武士を夜中派遣するような事がないかを確めるためである。
他方に於てはまた、吉良の面体をなんとかして見届けたいものと一同注意しているが、なかなか機会がない。その目的をようやく達したのは岡島八十右衛門である。十一月初旬のある日、岡島が日比谷附近を通行していると、向うから吉良の定紋のついた駕籠がやって来た。彼は早速、駕籠傍に近づき、土下座して敬意を表した。武士が土下座したら、相手も相当の挨拶するのが当時の礼儀だったから「誰方(どなた)の御家中P」と駕籠の中から上野介が声をかけた。八十右衛門出鱈目に「松平肥前守家来」と、吉良とは縁のあるはずの大名の名をいうと、「痛み入る。御名前はP」と駕籠の簾を捲き上げて顔を見せた。「軽き者、名を申上ぐる程のものでは御座りませぬ」と逃げて、仇の面体をハッキリと見極めた。この時八十右衛門、討たば討てない事もなかったが、単独では手出しをせぬ堅い申合せがあるので、そのままにしたのだという事である。
これより先、吉良邸の裏門前に一軒の空家ができた報告を聞いて、大石は直ぐ前原伊助にそれを借受けさせ、神崎与五郎と両人で米屋を開業させ、傍ら雑穀や蜜柑などの果実を商わせた。前原はそれまで綿布の行商をしていたが、ここで開業してから米屋五兵衛と変名。神崎はこれまで美作屋善兵衛(美作は彼の郷国である)と変名して扇子を売っていたが、前原と一緒に開店するようになってからは、これも小豆屋(あずきや)善兵衛と再び変名、二人は共に吉良邸裏門を出入する人物に注意すると同時に、吉良の門長屋に住んでいる人々の歓心を求めるため、とくに安売して、いろいろの話を聞き出す事につとめ、また洗濯物を物干台ヘ持って上っては吉良の邸内を望み、火事のある晩など、火事とは反対の方角の吉良邸ばかりを注意するという風だった。吉良邸から上野介の乗っているらしい駕籠が出ると、見え隠れにその跡をつけて行先を確めもした。
『赤城士話』に神崎の事を「此与五郎、人相物静にて目のうち光あり、根気の剛なる所あり、内蔵助見立て、間者に用ひけるも理(ことわ)りなり」と書いてあるが、彼はまた文筆の才もあり、とくに和歌俳句に長じていた。彼と前原との合著『赤城盟伝』は討入の前月(十一月)に書いたもので、脱盟者の氏名をあげて手厳しい筆諌を加えた神崎の『憤註』は、痛快淋璃とでも評したい書きぶりである。『寺坂私記』によると、この年の春吉良邸内に蔵を立てたが、その蔵の中に抜穴をこしらえて、隣屋敷へ出られるように仕かけているとの評判があった。また奉公人は全部三河の知行所から呼寄せているのだともいい、なおまた屋敷長屋の内廻りは全部大竹で垣を結い廻らし、討入ってもなかなか容易くは破れないよう厳重に用心しているとの噂もあった。
それで、一度門内へ入って実際を見たいというので、いろいろな行商人になって入ろうと試みた者もあったが、すぐ怒鳴りつけられた、そこで大石の計らいで、ある筋の人から吉良の家老に宛てた手紙をもらい、それを下男に仕立てた毛利小平太に持たせてやった。家老への使だから、門番も安心して入れた.、毛利は返事のできる間、あちこち見廻して、有のまま大石に報告したが、それによって、噂の大竹の垣というものは跡方もないウソだと分り、なお門内の模様も大体見当がついて、大に便宜を得たという事である。
ところが、この偵察の功労者毛利小平太が、討入の三日前、十二月十一日付で、大石宛に脱党届を出して逃げ、最後の不義士という汚名を残したのは、いかにも惜まれる。
作戦本部で何よりも希望しているのは、吉良邸の絵図面である。大戦でも小戦でも、昔でも今でも、敵を攻撃する場合には第一に地埋を知らねばならぬ。それで一党は、なんとかしてそれを得たいと苦心したが、堀部安兵衛の才覚で、吉良の前住者松平登之助時代の屋敷の図面をようやく手に入れた。しかし、吉良が昨年松平の邸を譲り受けて引越して来る際、随分改造したから、この旧絵図がどの位今日の現形と一致するかは問題である。それで大石は、これを吉良裏門前の前原、神崎に交付し、実際との相違を調査せしめた。二人が物干しへあがって邸内を望んだり、門長屋のお客に取入ってそれとなく邸内の模様を尋ねたりするのも、この絵図を土台にして実際に近い絵図を作成せんがためである。
なおまた大高源五は、吉良家に出入している茶道の宗匠山田宗偏に弟子入しているが、これも折々それとなく吉良邸内の模様を聴き取って、絵図面作成の参考に資した。
これらの調査や情報によって、吉良邸内の様子はほぽ確めることができた。今は、上野介が確に在邸する日を探知して、その日を討入日と決定するまでである、というのは、上野介は、その頃実子上杉綱憲(米沢藩主、吉良家から養子に行き、その子左兵衛義周(さひようえよしかね)がまた吉良家の養子になっている)が病気なので、芝白金の上杉邸へしばしば泊り込み、本所松坂町の自邸にいる日がハッキリしないからである。これを探知するために非常な苦心をして、ついに羽倉斎(はぐらいつき)(後の国学者荷田春満(かだあずままろ))らの厚意によって目的を達するのである。
(附記 大石が、ある筋の人から吉良の家老に宛てた手紙を貰って、毛利小平太に持たせてやったという「ある筋の人」は、誰という事は分らないが、これも羽倉斎すなわち荷田春満であったらしく想像される。) 
 
五一 討入の心得

 

味方の準備はすべて成って、今はただ上野介が在邸の日を確めるだけになっているが、それがなかなか分らない。時日はズンズン経過して、ついに十二月(元禄十五年)になった。士気ようやく倦怠して、脱盟者がまた一「三人生じた。中には気を焦(あせ)って、それらしい駕籠が入った日に、運を天に委せて斬込もうという者さえ生じてきた。大石はそれらを制して士気を鼓舞するため、十二月二日に深川八幡宮の茶屋へ全同志を召集した。宿へは頼母子講の発会だという触れ出しで。
大石は、討入期日がもう極めて近い見込であることを告げ、今になって脱盟するものの不信卑怯を責め、この上はもう一人の脱盟者も生じないようにと、あらかじめ用意しておいた起請文(きしようもん)を読み聞かせて、新に神文(しんもん)に血を濃がせた。神文誓約は赤穂城退散の際からこれで三回目である。
起請文の前書(まえがき)第一条には「冷光院様(内匠頭)御為め怨敵(おんてき)吉良上野介殿討取るべき志これ有る侍共(さむらい)申合せ候処、此節に及び大臆病の者ども変心退散仕候やから差捨て、唯今申合せ必死相きめ候面々は、御霊魂御照覧あそばさるべく候事」と書き、第二条には、討入の際は、敵の首をあげた者も、たんに警護の任に当る者も、功は同然であるから、働きの役については不平をいうべきでないとの意味。第三条には、平生不快の心持を以て交際している者でも、働きの際一心同体となって助け合わねばならぬという意味。第四条には、首尾よく上野介を討取っても、銘々一命をのがるべきでないから、ちりぢりにならぬよう集る事と書き、最後は、もしこれに背いたら立所に神罰を蒙らんと、お決りの神文(しんもん)である。いうまでもなく一同は血判した。
同時に、討入に関する次の覚書を読み聞かせた(原文は候体である)。
人々心得の覚書
一、討入の日が決ったら、前日の夜半から物静に、内々定めておいた三カ所に集合すること(註-三カ所というのは吉良邸に近い堀部安兵衛、杉野十平次、前原伊助の宅である)。
一、かねて定めた刻限に必ず出発すること。
一、敵の首をあげた時は、その屍体の上着で包み、引揚げの場所へ携帯する事。ただし上使が駆付けられたら、その指図に従い、幸に許されたら、泉岳寺へ持参して御墓前へ供える事。
一、息左兵衛の首は取っても、持参に及ばず打捨てておく。
一、味方の負傷者はなるだけ共に引退くが、重傷で肩にも担がれないときは、首を切って引取ること。
一、敵の父子を討取った者は合図の笛を吹き、順々に吹きついで知らせること。
一、全員引揚げの際は鉦(どら)をならす。
一、引揚場所は無縁寺(回向院)とし、もし同寺が入る事を拒んだら、両国橋東詰の広場に集る。
一、引取る途中、近所の屋敷から人数を出して押留めた時は、事実を有のままに告げ、我々は逃げ隠れはせぬ、心元なく思われるなら寺まで御附なさるように、と挨拶する。
一、敵の屋敷から追手が来たら、全員踏止って勝負し、上野介の首を奪い返されない覚悟が専一である。
一、敵の屋敷で勝負の最中に検使があれば、大門をあけずにくぐり戸から一人外へ出て適当に挨拶すること。そして唯今当人を討取りましたから、早速生残った者共を集めて御下知を受けます、一人も逃げ隠れは致しません、しばらくお待ち下されと乞い、強いて門内へ入って検分しようといわれたら、一同今屋敷中へ散っていて命令が徹底しませんから、卒爾(そつじ)の事が生じないとも限りません、追付け当方より御案内申上げますからと申して、決して大門を開かぬようにすること。
一、引揚げ口は裏門のこと。
一、いうまでもない事であるが、討入る以上全員必死の覚悟でなければならぬ。右引揚げ時の注意はたんなる心得のためであるから、専心粉骨の働きが肝要である。
右の覚書は、吉田忠左衛門が下書を作って大石に見せたところ、「至極結構、申分なくできている」と挨拶して、そのまま採用したものであると、寺坂吉右衛門が『私記』に書いている。吉田がこの種の事で大石を稗補(ひほ)した功はよほど大きいものがある。 
 
五二 大石と荷田春満

 

四十七義士が吉良邸に討入って首尾よく敵吉良上野介の首をあげたのは、元禄十五年十二月十四日夜の事であるが、この日に上野介が確かに在邸することを大石が知ったのは、国学五大人(荷田春満(かだあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、大国隆正)の筆頭荷田春満の厚意によったもので、春満(あずままろ)の名は元禄の義挙と切放すことができないから、大石とこの学者との関係をここに略述しよう。
荷田春満は京都伏見稲荷の神職で、初の名を羽倉斎(はぐらいつき)といい、元禄時代はまだ羽倉であった。だから羽倉斎と記すことにする。すなわち後の荷田春満である。
元禄十三年四月、江戸と日光に於て三代将軍家光の五十年忌法要が行われた時、勅使として大炊御門(おおいみかど)大納言(経光)が下向したが、その時随員の中に羽倉斎が加わっていた。そして大炊御門が京都へ帰る際、羽倉は希望して江戸に止りたいというので、大炊御門は、かねて懇意にしている江戸の富豪中島五郎作に、万事世話してやってくれと頼んで帰った。五郎作は委細承知して、早速京橋三十間堀の自分の家作へ羽倉を迎え、家賃も取らずに親切に世話した。ところで、この中島五郎作は大石の旧知なので、大石は五郎作の家で羽倉と知合いになったのである。
大石は胸に一物、中島と羽倉をしばしば訪問して懇親を重ねた。というのは、中島が山田宗偏という茶道の宗匠の関係から、しばしぽ吉良邸の茶会に招かれ、羽倉もまた吉良の屋敷へ国学の講義に行ったことがあり、かつ吉良の家老松原多仲(討入当夜負傷者の一人)が羽倉の門人である等の関係から、何かを聞き出そうと考えているのである。
しかし、万一にも、大石に復讐の深計があることを覚られたら、この二人との交際がかえって事を破る基因にならないとも限らないので、とくに注意して、こちらから上野介の話を持ち出すような事はせなんだが、羽倉はそれを察していたと見え、イヤ察した上に同情してその志を遂げしめようとしたものらしく、しかし露骨にはそんな様子を示さないで、大石の聞かんと欲するところを聞かせた。
この大石と羽倉及び五郎作の事を、堀部弥兵衛老人が大石から聞いた通り細々と書き留めたものが、今日残っているが、その中に、「大石が言った、上野介は度々茶湯の会を開いて、五郎作はその都度招かれるらしいが、それはあの屋敷にと、外部の人に思わせるための謀なのじゃあるまいか。もし真実茶湯が好きで、五郎作にそれ程打とけるのなら、五郎作の宅へ一度夜話に招かせたらと思う。上野介あるいは忍んで出かけないとも限るまい。もしもそんな風に運んだら日本一の好都合だが」と、大石の語った事を、弥兵衛老人が細かに書き留めている。 
 
五三 討入日の決定

 

中島五郎作が、茶道の師匠山田宗偏と共に吉良邸の茶会にしばしば招かれる事は前に書いたが、大石は、その宗偏こそ敵情を聞き出すに究寛(くつきよう)と、一党中茶道の心得があってかつ万事に如才ない大高源五に命じ、宗偏に弟子入させたのは、もう大分前の事である。
大高は、京都の呉服商新兵衛と称し、江戸滞府も長い事でないから、なるべく再々伺って少しも早く巧者になりたいと言い持え、三日にあげず出かけては音物(いんもつ)をシッカリ贈った。不審庵宗偏よい弟子を得たと喜んで、打とけて隔意なく語った。
「この節御身分のある方で茶道の御巧者(ごこうしや)は誰方でござりましょうなア」
「左様、吉良上野介殿はなかなかお好きで、拙者度々お招きを受けますわい」
というような会話から、
「一生の思い出に、一度お次の間まで御供させ⊂戴きたいものでござりますなア」
と切出した事もあったが、
「いずれ折もござろう」
といったきり、その折はついに来なんだ。
十二月の初、大高が宗偏の室に入ると、壁に掲げた日程表に「五日、吉良左兵衛殿」と記入されてある。「しめたッ」と思う心を色「も見せず、「手前事、近日いったん当地を引上げなければなりませぬので、来春までのお名残りのため、来る五日に粗茶を差上げたいと存じますか、御都合如何でしょうか」と切出すと、宗編日程表を指して、「あの通り、五日は吉良殿の茶会だから」と、気の毒そうに断った。大高、「それではまた改めて御都合のよい日に」と、早速大石にこの事を通じて、一度は五日討入と内定したのであったが、生憎五日には、将軍が松平美濃守邸へ御成(おなり)と公布されたので、ついに延期した、これは、将軍外出の日に血を流すのは不敬であるとの非難を避けるために、大事を取ったのであるが、一党中の若武者には、「今になって将軍家になんの遠慮がいるものか、大将おじ気づいたのではないか」と、かなり立腹した者もあった。
ところが、偶然にも、宗偏の主人小笠原佐渡守の嫡子が当日死亡したので、宗偏を主賓とする吉良家の茶会も、十四日に延期されることになった。この十四日の茶会を、第一に大石へ通じたのは大高源五である。
話変って、本所林町五丁目の堀部安兵衛方に同宿している横川勘平は、近傍の某出家が、茶道の心得あり常に吉良家に出入している事を知って、いつとはなしに近づきになり、近来はとくに懇意にしている。この出家無筆なので、横川はしばしば頼まれて代読代筆したが、十二月八日に訪ねると、吉良の家来からの手紙を出して、この返事を書いてくれという。開いて見ると、
「当主人近々、上杉家の新宅へ引越すはずなので、本所の名残りとして十四日に茶会を催す。其許も出席せられたい」
という意味であった。横川心に喜んで、いわれた通り返事を認めたが、折悪しく、イヤ横川には最も折よく、使にやる老がいないので、横川は出家の辞退するのを強いて引受け、僕の風をして吉良家の門を入り、路に迷ったもののごとく見せてウロゥロ歩き廻り、邸内の様子を探知して、大石に報告したという。これは果して正確な事実かどうか分らないが、各義士が吉良家の偵察に当っていたという例話として附記したのである。
これらの情報によって、十四日に茶会のある事はほぼ確実と見込はついたが、しかし万々一これが間違って、上野介不在の日に討入ったなら、一党の苦心が水泡に帰するのみか、かえって天下後世の物笑いになる恐れがあるので、大石は念には念を入れて、他の方面からこれを確めている。
前にもちょっと書いたが、内蔵助の同族で、瀬左衛門(義士の一人)の大伯父に当る人に大石無人(ぶじん)というのがあった。元は浅野家に仕えていたが、故あって去り、忠臣二君に仕えずの義を守って浪人している。無人二子あり、長は郷右衛門といって津軽越中守に仕え、弟三平は浪人して、父子三人本所の津軽邸に同棲している。この無人翁が、さきに在江戸の一党の意気地なさを罵倒したことはすでに記したが、内蔵助出府以来は、しばしば謀議にも参画して、まるで一味の徒の観がある。
大石三平は、内蔵助の紹介によってか、あるいは他の縁故からかはハッキリ分らないが、羽倉斎(はぐらいつき)と懇意にして、しばしば訪問している。それで内蔵助は、十二月七日付で三平宛書状を送り、「十日過に吉良家で茶会があると聞込んだけれども、燧であろうか、お調べ願いたい」と依頼した。羽倉に確めて貰いたいとの意味である。
それで三平は、早速羽倉を訪問して尋ねたところ、なるほど十四日に客があると聞いているけれども、まだ不確実であるから、更に確めて、改めてお知らせしようと約束した。そして十三日に羽倉から届けられた書状の追書には「尚々彼方(かなた)の儀は十四日の様にちらと承り候。以上」と書き添えてあった。
三平はこの羽倉の書状を携えて、討入本部に内蔵助を訪問した。一言をも軽々しくしない羽倉の一筆、しかも一度確めた上で知らせてくれたこの十四日は、もう上野介在邸たること間違いない。さあいよいよ時節到来、明十四日は白髪首を取って亡君の御怨みを晴らすことができるのだと、直ちにその旨全員に急報した。
去年三月十四日主君浅野内匠頭切腹以来一年九ヵ月間、待ちに待った討入の日はついに来て、元禄十五年十二月十四日の朝となった。この日の吉良邸茶会を第一に本部へ知らせた大高源五は、昨日も一昨日も、何とか彼とか用を持えては宗偏を訪ね、異状はたいかと探ったが、今日もまた何げない様子で顔を出した。
「手前もいよいよ出立の日が迫りますので、なるだけいろいろ伺っておき度、またお邪魔いたしました。今日はやはり吉良様の方へお出ましでございますか」
「ハア今日は少し早目に参るようとの事なのでナ」
もうこれで大高の用はすんだのだが、「ではさよなら」ともいわれず、出鱈目に二、三の質問などして、そのまま大石の許へかけつけ、「今晩の茶会いよいよ間違なし」と報告して、さらに吉良邸を見張ることにした。
十二月十四日夜吉良邸に茶会のある事を、大高が知ったことに付、それは宗偏がそれとなく知らせたのだとの説がある。その根拠は、宗偏ほどの人物が、町人に化けている大高を看破しないはずはなく、また音物の多少で心を動かすような宗偏でもないというのであるが、宗偏を立派な人物とすればする程、平素懇意に交際せる吉良を、赤穂浪人に討たせるような手引をしようとは思われないから、著者はやはり、宗偏無関係、無関心説をとる。
定刻になって、宗偏を初め相客の面々が、前後して吉良の門に入った。そして、夜も相当ふけてから、凍った雪の上を客が辞去した、.この辞去する客に交って、上野介がもしや門を出るような事がありはせぬかと、見張の面々目を皿にして気をつけたが、そんな事はなかった。あとからコッソリ抜け出すような事はないかと、注意に注意していたが、門扉は閉じられ、門番も寝に就いたらしく、天地は寂寛としてただ残雪の凍ったのが月光にきらめくばかりである。 
 
五四 大石の金銭請払報告

 

いよいよ討入日も近々のうちと決定した十一月.一十九日、大石は、去年赤穂退去の際、主家再興の準備資金として預っておいた金員の支払決算報告書を、揺泉院(内匠頭後室)附の家老落合与左衛門宛送った。
今も昔も同じこと、何か一つの仕事をするには、費用がかかる。その資金の準備がないと、いくら精神ばかり熱烈であっても成功するものでない。しからば、元禄の一挙にどの位の金が用いられたかというに、『大石良雄金銭請払帳』という一冊の帳面によって知ることができる。この帳面に添えた与左衛門への手紙の一節に「これは芸州の大学様(内匠頭弟)に差上げるべき筋かとも思うが、御迷惑がかかっては相済まぬからわざと差控え、貴殿お手元へ差出す。折を見て揺泉院様御耳に入れていただきたい」との意を書き、なお「毛頭自分用事に仕候儀御座なく候。委細帳面御引合せ、とくと御披見下さるべく候」として、一々支払のさいの領収証を添えている。この帳面の初めの部分は矢頭長助(右衛門七の父)が記入し、あとは原惣右衛門が清書したのである。この帳面は、どういう筋道を経たものか、現在芦ノ湖畔箱根神社に納まり、宝物となっている。
その帳面の受入総額は金六百九十両二朱、銀四十六匁九分五厘で、この大部分は、内匠頭の夫人揺泉院の化粧料として、藩の公金とは別のものが藩内に貸出されてあったのを回収したのと、藩士に分配した金の残りとである。これを浅野家再興の運動資金として大石が預っておいたのを、その望みが絶えたので、一挙の資金に振替えたのである。
支払の部に於て、第一筆に一金百両と記し、「紫野瑞光院に建つる御墓寄附として山相調へ候代金也、即ち証文有之候」と説明がついている。京都紫野の瑞光院に内匠頭の衣冠など埋葬して墓を建て、永代回向料として山林を寄進したのである。山林にしておけば無くなるまいとの用意からであったが、この住職不将千万にも、大石が山科を出発すると間もなく転売しようと計画したらしい。それを憤慨して今後の注意を、落合への手紙の中に書いている。
支払の第二筆は、コ金拾雨、八幡山滝本坊方にての御祈薦料に遣す。手形(領収書のこと)あり」とある。石清水(いわしみず)八幡宮で、主家再興の御祈薦をしたのである。こんな風に、神杜やお寺へ祈願や追善の意味で納めた額も少くないが、しかしなんといっても支払の額の一番多いのは旅費である。旅費の合計は二百六十余両になっている。
「金三両、大高源五江戸へ指下す、路銀渡す、手形あり」という風に、一人の江戸下向旅費は大抵三両ずつ渡されているが、武林唯七には路銀三両の外に「勝手不如意、願に付遣す」として金弐両が別に記入してある。なお原惣右衛門、間瀬久太夫、小野寺幸右衛門、その他「勝手不如意に付」というので、五両、十両と貰っているものが沢山ある。主取りをするわけにもゆかず、医師だの商人たのに化けてはいても、収入というものは皆無なのだから、余財のあったものが扶助していた事はいうまでもないが、大石の所へ一番多く補助を願い出たのも当然である。そして大石にこの準備があったからこそ、首尾よく目的を達することもできたのである。当時の金一両は大体米六斗の価であったから、昭和今日の金にすれば一両は二十円前後に当ると見てよいだろう。
さて記入されている支払の総額は、全部金に換算して六百九十七両一歩二朱となり、受入に対して七両一歩不足しているのを「自分より払う」として決算を終り、巻尾に左の通り書いている。
  右預置候御金払の勘定帳一冊御披見に入れ候。以上。
  元禄十五年午十一月   大石内蔵助
     落合与左衛門殿
京都に於ける遊蕩の費用、江戸へ出てからの自分や主税の諸雑費など一文も計上していない。なお右の帳面に記入せずして、敵情を偵知するためなどに支出した費用が相当額に達することは、想像するに難くないから、一挙の全費用がこれに止まると考えることはできない。無論大石に限らず吉田でも、堀部や小野寺でも、その他義士の誰でも、父子兄弟一族が生命を投げ出してかかっているのであるから、財産のある者が財産を差出すのは当然であり、そういう中に公金も私金も差別する必要はないようにも思われるが、それを公金として一歩一朱の端金までも明細に記入して、一々領収証まで添えて報告しているところ、しかもその使途を詮議する事によって、主家再興に対する熱心、同志中の貧者に対する同情、公明正大の心事等をハッキリ知ることのできるのは、なんとも嬉しい事である。 
 
五五 それぞれ遺書を認む

 

討入の日が決定すると、いずれも必死の覚悟であるから、親や妻子や知人に対して遺言状を認めた。その中の二、三通をここで開封しよう(原書、仮名文字多し)。
第一 潮田又之丞の母に贈ったもの
(上略) こゝ元の首尾かわる儀なく候。かねて御物語りいたし候存念にて候。先かたへ忍び入候首尾もよく候ま\近き内に相手のやしきへ忍び入候はんと、いづれも申合せ候。いま一度御めにか、り申さす先だち候事、さてく御名残り多く存じ候へども、かねて申上候如くやみがたき次第、武士の本意をかき候ては先祖のめうじに疵をつけ、殊にノ\主従のわけ立ちがたく存じおり候。おぽしめし切り御歎きあるまじく候。御年よりをふり捨て、先たち申候段、御心底のほど察しやり、御いたはしく候へども、武士の憤り是非もなき事と思召し、御あきらめ下さるべく候。私事は御気づかひ遊ばしまじく候。随分々々見苦しくなきやうに討死いたし申すべく候。(中略)、中村清右衛門、鈴田重八、同道いたし下り候が、先方へ打こみ候日時ちかより候故に、書きおき内蔵助殿へ残し、かけおち致し候。さてく畜生同然の者、侍のつらよごしにて候。此度の者共、内蔵助殿父fを初め五十人御座候。定めてく末々は、御聞き遊ばし候はんと存じ候。申上度事山々候へども、筆にはつくしがたく候ま、申止め参らせ候。かしく(追書)返すくまことにく御名残をしき御事、武士の道珍しからずと存候へども、御心底を察し候へば落涙かぎりござなく候。しかし命は限りあるものにて候ま、、時節到来と思召し切り下さるべく、何事もく定まりたる事と存じ切り、いさぎよく討死いたし候まゝ、御気遣ひ下されまじく候。(下略)
  十二月五日   うしほ田またの丞
    しんせう院様 人々申給へ
その二 大高源五の母に贈ったもの 
京都出発の際の暇乞状は前に掲げたが、これはいよいよ討入日が決定したので認めたものである。
(上略) 一、内々の大事もいよく首尾よく御座候て、もはや二三日中にうち申す事に御座候。是までは八幡大ぼさつ、観世音ぽさつの御守りにて、存じの外たやすく将(らち)あき申候。うちこみ候ての本望とげ申す段、あはれく思ふま、にあれかしと願ひ申候。今更何事を申上ぐべき事も無御座、是かぎりの文にて御座候。何事も皆々前世の約束と思召し、いたく御なげき遊ばされまじく候。何ぞ此節まで手なれ候もの、かたみに送りあげ度候へども、衣類等は遺しがたく、あまりに垢づき候ま\こ\もとにて兎にも角にもいたし申すべく候。肌につけ候物に候ま、守袋進じ参らせ候。まことにく先だち参らせ候不孝の罪、後の世も恐ろしく存候へども、全く私事にすて候命ならず候ま\、其罪を御ゆるし下され、た父くとにも角にも深く御嘆き遊ばされず、御念仏ねがひ奉り候。
一、私最後のいでたち、下に着込(きごみ)綿入にて、黒き股引、脚絆(きやはん)いづれもノ\鎖脛当(くさりすねあて)いれ申し、黒き鍛頭巾(しころずきん)、鉢金(はちがね)入にて、上着は黒きとひざや綿入、紅裏(もみうら)の小袖着申候。帯黒き五重まわり鎖入(くさりいり)、刀はおやぢの御さし成され候刀にて御座候。刃のわたり二尺三寸程御座候。大長刀もち申候。此度の事と存じ、心のま、に出たち申候。人にすぐれし働き可仕候と、あつばれ勇み申候まま、此段少しもく御気遣ひ遊ばし被下まじく候。幸右衛門、金右衛門、いづれもく思ひくの事にて候。
さて、私事、金の短冊に名苗字かきしるし、片表(かたおもて)には辞世(じせい)かきつけ申候。
  山をさく力も折れて松の雪
右の通り致し下げ申候。いはれぬ事ながら、せめての事にと書つけ進じ申候。此場の文にて候まま、わざと外の事不申上候、何も可申上事も無御座候。ただただ御名残をしく奉存候。
十二月七日   大高源五
    母御人様
返すく、折角御身の御養生大事に被瀞下さるべく候。かく恨めしき世の中と思召し、御身も御捨てはて成され候事、ゆめゆめ御座あるまじく候。金右衛門かか様へ、くれ人\此事可被仰候。乳母へも頼みまゐらせ候。かしく大高が討入装束の事を書いているのは、非常に参考になる。討入日は最初十二月五日と決定していたが、その日は将軍お成りの日なので遠慮して見合せ、十四日になったこと、すでに記した通りであるから、大高その他の面々も、三日か四日に当夜の装束を内内着て見たのであろう。その時愉快に感じたので、その勇ましい様子を母に知らせたものと察せられる。母が自殺して果てるような事がありはせぬかと、よほど心配したらしく、繰返し諌めている。
源五の母貞立尼は、小野寺十内の姉、源五の弟幸右衛門は、十内の養子となって小野寺家を嗣ぎ、また貞立尼の妹は岡野家に嫁し、その子金右衛門も義士の一人に加わっているから、貞立尼は、弟一人、子二人、甥一人、計四人の肉親を義士中に有っているのである。最大の犠牲者と言ってよかろう。
その三 木村岡右衛門の妻に贈ったもの 
木村は一党中に於てもあまり名を知られないが、この一通の遺書で、その人柄をほぽ察することができる。原書全部片仮名で書かれている点、他に殆んど例を見ない。
(上略) 内々モチラト申候通、殿様カタキ吉良上野介ドノヲ打チ申スベクトテ、大  石内蔵助ハジメ何レモカノホフヨリトリ申サレ候。此噂ヲ聞イテ我等モ内々申合候 故人衆(にんず)ニナリ申候。今晩吉良殿へ夜討ヲシコミ申候。大名ノ屋敷へ五十人許ハイリ 申候故、皆々死ヌ覚悟ニテ参リ申候。何卒キラ殿親子共打取申度存候。我ラ果テ申段御聞キ候ハバ、ソモジ嘆キ候ハント存ジ、コレノミ心ニカカリ申候。御侍(おさむらい)ノ家ニ生レ申モノハ、女ニテモ斯様ナル事二合ヒ中ス筈ニテ候間、必ズく嘆キ申サレマジク候。我ラモ若キト申ス年ニテモナク候。ワヅラヒニテ果テ申トテモ是非ナク候。御主様ノ用ニテ果テ候ヘバ本望ニテ候。只々オサケ、オ、・・ノ(二女児)に御困リ候ハント存ジ候。(中略)、此度打コミ申候五十人ハ、皆々果テ申ニテ可有之候。此内二大高源五ナドハ、年ヨリ申サレ候母一人残シ置キ、兄弟小野寺卜内甥金右衛門マデ果テ申シ、又間喜兵衛殿ハ親子三人果テ申シ、間瀬久太夫モ親子、外ニモ親子果テ申候。我等ハ一人ニテ、ヨソノ嘆キヨリハウスク候。其上皆々卜八九、三十ニ足ラヌ若キ衆果テ申サレ候。ソモジノ嘆キハ軽ク候マ、、ナゲキ申サレマジク候。源右衛門少シモヂヨサイ致スマジキ由申候マ、、心強ク思ヒ、随分トリ乱シ申サヌ様ニ致サルベク候。岡右衛門主ノタメ命ヲステ候ヘバ、其女房マデ七カヒ人\シク、トリ乱シ申サヌト人ノ申ス様二致サルベク候。
その四 堀部弥兵衛の贈ったもの
われら安兵衛事、主のかたき吉良上野介どのを討とるべきと、久々心をつくし、同じ志の朋輩四十人あまり申合せ、此度上野介どの屋敷へしのび入り、打はたし申す筈に候。打すまし候ても公儀の御仕置にあひ、とかく命は終る筈に御座候。今生にて今一度御めにか二らず、是のみ御のこり多く存じ申候。わたくし事、畳の上にてわずらひはて候は!、何の花香もなく候はんに、長いき致し候とりえには、武士の心底をあらはし相果て候こと、侍の望む所、先祖の名をもあげ候はんと、本望之にすぎず存じ候。女ども娘も、さすが侍すぢ、少しもとり乱し不申、われらへの心入、奇特千万に存じ候。末々までも心安く存じ候。申すに及ばず候へども、少しも御嘆き遊ばされまじく候。(下略)
   ほりべやひやうへ
めうほ様参る人々申給へ 
 
五六 三カ所に集合

 

浅野内匠頭長矩が、殿中刃傷、即日切腹申付けられてから一年九ヵ月、大石以下が臥薪嘗胆の苦に堪えて待ちに待った日がついに来た。死を盟った四十七士が本望を遂ぐる今日、元禄十五年十二月十四日である。亡君の御命日にあたるのも、偶然とは思われない。
この年は降雪多く、十三日には早朝より大雪で、十四日にも降り続いた。その雪の中を、今はただ夜半に三カ所の集合所へ集ればよいのである。いずれも、家主には「明日にわかに上方へ発つことにしたから」と挨拶して、家賃その他掛買の代を支払い、荷物を取片付け、遺書を認めたり、知合を廻って、それとなく暇乞したりなどした。
堀部弥兵衛の宅は両国矢之倉米沢町で、本所回向院と両国橋を挟んで相対する位置にあり、本所住居の者を除く外は通り道に当るので、「出陣の礼に倣って一献差上げたいから立寄って貰いたい」と、かねて内々案内していた。総帥大石内蔵助は小野寺十内と共に、夕方から駕籠で宿を出て、弥兵衛老人の宅へ赴いた。
義士らは、数人または単独で、入り代りに立寄った。弥兵衛の妻と娘(安兵衛の妻)とは、かいがいしく立ち働き、吉例による勝栗と昆布、それに忠臣の名をとる縁起を祝って、菜鳥(なとり)の吸物(寒鴨)を作り、一同を饗応した。
弥兵衛老人は、この前夜夢に一句を得たとて、立寄る義士達に吹聴する。
  雪はれて思ひを遂ぐる朝(あした)かな
日頃から句というものを作ったことのないこの老人が、夢に得たといい、折柄ちょうど雪もはれて来たので、吉兆吉兆、勝利疑いなしと、一同勇み立った。これは若い連中を激励せんがための弥兵衛の智略であったろうといわれている。弥兵衛老また数日前に歌もよんだ。
  忠孝に命を絶つは武士の道やたけ心の名を残してん
  共々に生き過ぎたりと思ひしに今かち得たり老の楽み
七十六翁の武者ぶるいする様子が見られるようだ。
吉田忠左衛門、同沢右衛門、原惣右衛門ら七、八人は、弥兵衛の宅を出てから、回向院附近の亀田屋という茶屋に立寄り、蕎麦切など申付けてゆっくり休息、八ツ時(午前二時)頃林町の集合所堀部安兵衛方ヘ行った。
この時、うどんや久兵衛方で一同が勢揃いしたとか、そのさい大高源五が「何の其の」という冠句(かむりく)に「岩をも通す桑の弓」と附けたという話は、その当時から伝えられて、種々の書物にも書かれているが、これは寺坂が生前、吉田の女婿伊藤十郎太夫に語ったことによって、その虚説たる事が証明される。三カ所に別れて秘密に支度したものが、敵の屋敷のすぐ近くで勢ぞろいをして、酒を飲んだり、句を作ったりの悠長な真似をするはずは断じてない。
総帥大石も、主税(ちから)その他を伴うて九ツ時(午前零時)頃まで弥兵衛宅におり、それから安兵衛方へ行って身支度を整えた。
その他の面々も、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、相生町吉良裏門前の前原伊助方ヘそれぞれ集合して討入の装束をした。三カ所のうち、どこへ誰々が集ったかは不明であるが、前原伊助の宅は吉良裏門の筋向いで、目立ち易いから、見張りその他の任務を有する少数者だったらしい。 
 
五七 討入の装束

 

四十七士当夜の装束は、先ず頭には、火事頭巾(ずさん)の内面へ兜(かぶと)の鉢金くさりを縫(ち ち)付けたのを被(かぶ)り、肌にはくさりの入(ちち )った着込(きごみ)、上着は宗紋付(じよつもんつき)の黒小袖、その両袖口を白布で縁取(ふちと)り、これを合印(あいじるし)にした。すなわち袖口の白布で、遠方または暗中で見ても、一見味方であることが、わかるようにしたのである。着い者は緋縮緬の下帯、老人は白さや、上帯(うわおぴ)にはくさりを入れ、結び目は右の脇、裡(たすき)には大真田(おおさなだ)、緋縮緬または白縮緬、股引にもくさりを入れ、染色は思い思いだがいずれも絹。小手さしをつけた者少々あり、鯨のひれで細工したすね当をつけた者もある。足袋.わらじはもちいざる者なく、また名札を金色の革で作り、それに銘々の名を書きつけ、裏面に辞世の句など書いたものもあった。
呼子笛は糸をつけて前襟に取付け、また金壱歩ずつ襟につけ、鳥目(ちようもく)百文ずつ懐中した。これは働きが万一長時間に及んだとき、食物を得るための用意で、見苦しい場合には捨てるはずである。また当座の食物に、餅と焼飯とを少々懐中した。なおまた息合(いきあい)薬なども糸で襟につけ、働きの節含む事にした。髪はいずれもさばき、茶第( ちちちやせん)髪であった。
合言葉は山と川で、山と呼べば川と答え、川と言えば山と応じ、暗中でも味方をすぐ識別し得るようにした。
吉田忠左衛門とその子沢右衛門との装束は、寺坂吉右衛門が、『私記』の中に非常に精細に書き、携帯した刀の銘から寸法まで記入している。それが今日義士の討入装束を知る上に極めて重要な史料となっている。しかし寺坂自身はどんな扮装(いでたち)をしたのか、一言半句もそれについては書いていない。
忠左衛門は次の辞世を短冊に書いて、兜頭巾の裏に付けた。
  君が為思ひぞ積る白雪をちらすは今朝の峰の松風
村松喜兵衛も同じく、
  都鳥いざ言問はん武士(もののふ)の恥ある世とは知るや知らずや
小野寺十内も「我等小身に候ヘども百年当家の御恩の者」とかねて言った通り、
  忘れめや百(もト)に余れる年を経て仕へし世々の君が情(なさけ)を
の一首を、袖印(そでじるし)の白布に書きつけた。
神崎与五郎も一首、
  梓弓(あづさゆみ)春近ければ小手の上の雪をも花の吹雪とや見ん
このほかにも辞世の詩歌はなお多い。両刀以外の道具類は、あらかじめ前原伊助、堀部安兵衛両人の宅へ運んで置いたが、その品目は次の通りだと、『寺坂私記』に数えあげてある。
  槍十二本、まさかり二挺、竹梯子大小四挺、鉄てこ二丁、鉄槌二本、鑓六(かすがい)十本、長刀二振、弓四張、内半弓二、げんのう二挺、木てこ二挺、大鋸二挺、かな鋤二丁。
右のうちの鑓(かすがい)は、もし屋敷内で喧ましかったら、戸口を外から打つけるための用意。長刀(ちようとう)とあるのは薙刀でなく束(つか)の長い大刀(おおがたな)。
この外、取鉤(とりかざ)に長い細引(紐)の附いたのを十六、七本、これは屋根を乗り越えるための用意。
それから玉火松明(たまぴたいまつ)、ちゃるめるの呼子笛、がんどう提灯、これは吉良の首を打取った時検視するための用意である。
以上が当日吉良邸へ運ばれた道具類である。これらの事が知れるのも寺坂の『筆記』のお蔭で、吉右衛門の生存はかかる点からも無意味でない。 
 
五八 討入の部署

 

三カ所で支度した四十七人は、寅の上刻(午前一二時1四時)に出発した。この時刻は書物によって丑刻(午前二時)とか、八ツ時(同上)とか書いたのもあるが、原、小野寺、寺坂らの記載は寅の上刻または七ツ頃と一致している。
前原伊助の家は裏門のすぐ前だし、三ツ目の杉野十平次、林町の堀部安兵衛の宅からでも、吉良の門前まで数分間で達し得る程の距離だから、途中の時間など計算に入れる必要はない。小野寺十内が細川家御預け中愛妻丹女ヘ送った手紙に、安兵衛の宅より吉良邸まで十二、三町と書いているが、林町五丁目から松坂町二丁目まで、そんなにあろうとは思われない。
前日の雪は凍って、物すごい有明の月光に輝いている中を、一行は歩武粛(ほぶしゆくしゆ)々と進(く)み、吉良邸の辻番附近で、かねて決めておいた通り東西二組に分れ、東組は大石自ら采配を揮って表門に取かかり、西組は大石主税を名義上の主将として、実際は吉田忠左衛門が小野寺、間(はざま)の両老を左右にして指揮し、裏門に取りかかった。
東西両組の人名、組合せ、及び特別の武器等左の通りである。三人ずつを一組として互に助け合う申合である。数字は討入の際の年齢である。
東組(表門方面)
司令部(表門内に位置する)
  大石内蔵助良雄 (よしたか)(ヤリ)  四四  
  原惣右衛門元辰 (もととき)(ヤリ)  五五
  間瀬久太夫正明 (まさあき)(半弓)  六二
屋内組(家屋内へ討入る者)
  片岡源五右衛門高房 (たかふさ)(ヤリ)  三六  
  富森助右衛門正因 (とみのもりまさより)(ヤリ)  三三
  武林唯七隆重 (たかしげ)(野太刀)  三一
  奥田孫太夫重盛 (しげもり)(野太刀)  五六 
  欠田五郎右衛門助武 (すけたけ)(野太刀)
  勝田新左衛門武尭 (たけたか)(ヤリ)  ≡二
  吉田沢右衛門兼貞 (かねさだ)(斧)  二八  
  岡島八十右衛門常樹 (つねき)(斧)
  小野寺幸右衛門秀富 (ひでとみ)(ヤリ)  二七
屋外組(邸内屋外にあり、本邸や長屋から出で来る敵に当る)
  早水藤左衛門満尭 (みつたか)(弓)  三九  
  神崎与五郎則休 (のりやす)(弓)
  矢頭右衛門七教兼 (やこうべよもしちのりかね)(ヤリ)  一七
  大高源五忠雄 (ただたか)(野太刀)  三一 
  近松勘六行重 (ゆきしげ)(ヤリ)
  間十次郎光興 (はざまみつおき)(ヤリ)  二五
逮捕組(表門、新門より邸外へ逃げようとする者を捕える)
  堀部弥兵衛金丸 (あきざね)(ヤリ)  七六
  村松喜兵衛秀直 (ひでなお)(ヤリ)
  岡野金右衛門包秀 (かねひで)(ヤリ)  二三  
  横川勘平宗利 (むねとし)(ヤリ)
  貝賀弥左衛門友信 (とものぶ)(ヤリ)  五三
西組(裏門方面)
司令部(裏門うち)
  吉田忠左衛門兼亮 (かねすけ)(ヤリ)  六二 
  小野寺十内秀和 (ひでかず)(ヤリ)
  間喜兵衛光延(みつのぷ)(ヤリ)  六八
屋内討入組
  礒貝十郎左衛門正久 (まさひさ)(ヤリ)  二四
  倉橋伝助武幸 (たけゆき)(野太刀)  三三
  杉野十平次次房 (つぎふさ)(ヤリ)  二七
  菅谷半之丞政利 (まさとし)(ヤリ)  四三
  大石瀬左衛門信清 (のぶきよ)(ヤリ)  二六
  三村次郎左衛門包常 (大槌)  三六
屋外組
  大石主税良金 (よしかね)(ヤリ)  二八
  中村勘助正辰 (まさとき)(ヤリ)  三七
  間瀬孫九郎正辰 (まさとき)(ヤリ)  三七
  千馬三郎兵衛光忠 (みつただ)(弓)  三三
  間新六光風 (みつかぜ)(弓)  六一
  木村岡右衛門貞行 (さだゆき)(ヤリ)  三六
  前原伊助宗房 (むねふさ)(ヤリ)  六〇
  寺坂吉右衛門信行 (がんどう提灯持)  一五
  堀部安兵衛武庸 (たけつね)(野太刀)  四七
  赤埴源蔵重賢 (あかばねしげかた)(ヤリ)  二二
  村松三太夫高直 (たかなお)(ヤリ)  三八
  潮田又之丞高教 (たかのり)(ヤリ)  五〇
  奥田貞右衛門行高 (ゆきたか)(鉦)  二三
  茅野(かやの)和助常成 (つねなり)(弓)  四五
  不破数右衛門正種 (まさたね)(野太刀)  三九
右の通りの組別で、武器は諸書異同がある。親子兄弟は東西に別れた。
ここには『寺坂筆記』を主とし、それに記入のない分を『易水連挟録』で補ったが、いずれにしてもヤリが最も多い。これは暗中の戦闘に有利だからであろう。野太刀は原書に長刀(ながだち)とあるが、薙刀(なぎなた)と間違われる恐れがあるから、別名に改めたのである。吉田沢右衛門と岡島八十右衛門二人に斧とあるのは、多分門を破る時に用いたもので、最後まで斧を振廻したわけでもあるまいし、その他の人達も、場合の必要に応じては、鑓(やり)や弓を捨てて刀を揮った事いうまでもない。鑓は何れも柄を短くしで.、室内の使用に便にしていた。寺坂はがんどう提灯持とあるが、これは唯一個のがんどうの責任者が寺坂であることを表識したもので、同人も屋内へ斬込んだのである。 
 
五九 両門から突入

 

総帥大石の自ら指揮する表門組は、火事だ三叫んで門をあけさせようとしたが、門番が承知しないので、梯子をかけて屋根へ上り、鑓(やり)を杖に突いて飛び下り、大高源五と間(はざま)十次郎が殆んど同時に一番乗、二番乗は吉田沢右衛門、三番乗は岡島八十右衛門で、その他の面々皆それに続いた。堀部弥兵衛は老体なので、大高源五が抱きおろした(抱き下した人物を横川勘平と書いた本もあるが、大高が正しい)。原惣右衛門は、飛び下りたさい足を挫き、神崎与五郎は誤って屋根からすべり落ち、右の腕を傷めた。しかしいずれも屈せずに働いた。
吉良の門番三人は驚きあわてているのを、直様引捕えて縛りつけ、屋内組はそれらに構わず、早くも玄関の戸を打破って室内へ乱入した。
その間に、玄関前にはかねて用意の口上書を新しい文箱に入れ、一丈余もある青竹に結びつけたのが立てられた。この口上書は、大石以下が今宵吉良邸を襲撃するに至った理由を明記し、幕府の当路者及び天下後世に自分らの心事を表明したもので、義士文書中最も重要なものである。全文左の通り。なおこの文書は、大石、吉田、その他頭だった連中六、七人が、一通ずつ懐中していた。
浅野内匠頭家来(たくみのかみけらい)口上
去年三月、内匠(たくみ)儀伝奏(てんそう)御馳走の儀に付吉良上野介殿へ意趣(いしゅ)を含み罷在候処、御殿中に於て当座遁れ難き儀有之候か刃傷(にんじよう)に及び候。時節場所を弁(わきま)へざる働き無調法(ぶちようほう)至極に付切腹仰付られ、領地赤穂城召上げさせられ候儀、家来共まで畏れ入り存じ奉り、上使の御下知(おんげじ)を請け、城地差上げ、家中早速離散仕り候。右喧嘩の節御同席御抑留の御方有之、上野介殿討留め申さず、内匠末期(まつご)残念の心底、家来共忍び難き仕合に御座候。高家(こうけ)御歴々に対し、家来共欝憤を挿み候段揮に存じ奉り候へども、君父の讐は共に天を戴かざるの儀黙止(もだ)し難く、今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に亡主の意趣を継ぐ志までに御座候。私共死後若し御見分(ごけんぶん)の御方御座候は父御披見願ひ奉り度、此くの如くに御座候。以上。
    元禄十五年十二月   浅野内匠頭長矩家来
   大石内蔵助   以下寺坂吉右衛門まで四十七人連名
表門組は梯子で屋根を乗り越えたが、裏門組は、杉野十平次と三村次郎左衛門が、大槌を揮って門の戸を打割り、一度にドッと押入った。絵冊子などには大高源五が大槌を持って門を打破るところを描いているが、大高は表門組で、大槌は用いなかったはずである。
物音に驚いて、棒を持って立向った番卒二、一一.人は、かわいそうにすぐ討たれてしまった。 
 
六〇 吉良邸内の混戦乱闘

 

両門から攻め入った一党のうち、屋内組は、「浅野内匠頭の家来共主君の恨みを返しに推参した、出会え出会え」と高らかに呼ばわりつつ、表と裏の両玄関を打ち破って、殆んど同時に乱入した。表門部隊の屋内組小野寺幸右衛門は、立ち向って来た寝衣姿の一人と渡り合ってすぐに突き伏せ、床の間に立て並べてある弓の弦を全部切り払った。これはかねて大石から注意を与えておいた事であるが、気転の利いた仕方であると後に感心された。
裏門組の礒貝十郎左衛門は、屋内に突入するはしたが、真暗で間取の様子も分らない。折柄一人逃げ出したのを、襟首つかんで引据え、生命が惜しけりゃ蝋燭を出せと、沢山の蝋燭を出させて火を点じたので、家中急に明るくなり、表玄関から入った者も大に便宜をえた。これは後に仙石伯書守の邸へ一同が召された時「さてさて落着いた仕方」と賞められた。
矢田五郎右衛門らの三人組が、広間から書院を指して広い廊下を通っている時、隅に隠れていた一人の敵が不意に後から矢田に切りつけた。が矢田は鎖(くさり)の入った着込を着ているので、擦り傷も負わず、振返って初太刀で切り伏せたが、二の太刀を打ちおろした際、下にあった鉄の火鉢に当って切先五、六寸の所から折れてしまった。それで相手の刀を拾って書院へ進んだ。
不破数右衛門は屋外組で、中から逃げ出して来たものを二人仕止めたが、そのあとは相手にすべき敵がないので腕が鳴ってたまらず、ついに屋内へ跳り込んだ。そして運よく、左兵衛義周と一人の老人とに出合った。左兵衛は薙刀(なぎなた)、老人は刀を以て向って来たが、左兵衛先ず手を負うて逃げ出した。残る老人を、不破は上野介だと思い込んで、左兵衛は逃げるに委せ、老人と渡り合った。老人相当の手ききと見えて、三回不破に斬りつけたが、こちらは着込なので疵も負わず、ようやくにして相手を討止めて見ると、上野介とは異っていたので、更にまた尋ね入った。従来左兵衛と闘ったのは武林唯七とされていたが、近年不破が父新助に書き送った書簡が発見されて、武林説の誤伝が明らかになった。
屋外組は、絶えず敵を威圧するように努め、大きな声で「五十人組は東ヘ」とか「百人組は裏門へ」などと叫ぶので、長屋に住んでいる家士らは脅えて出ても来ず、家老の斎藤宮内(くない)、左右田(そうだ)孫兵衛、岩瀬舎人(とねり)なども、長屋の自宅で震えていたらしい。
近松勘六は、庭先で一人の敵と渡り合ったが、敵はかなわぬと見て逃げ出したので、近松は追って行くうち、足ふみ外して泉水の池ヘザブンと落ちた。この時相手が引返して来たら危ないところだったが、敵は水の音を追撃と思いちがえたらしく、いよいよ逃足を早めた。
岡野金右衛門は新門(邸の東南隅に新造された小門)を守っていたが、一人の敵が命令に応じないで逃げ出そうとするので突き伏せた。
当夜の働きは、上野介の首をあげた者も、門の戸を押えている程の者も、功の大小はないという申合せになっていたので、後日大石、原、小野寺の連名で寺井玄渓へ送った実況報告書も、個人の働きは、上野介の首をあげた武林と間(はざま)の二人の外は、一切名を記していない。前記の数士の働きは、お預け中に、堀内伝右衛門その他の質問に応じて当人が語ったもので、この外にももっと目ざましい働きをしたものがあったに相違ない。中にも前記不破数右衛門の働きはよほど花々しいものだったらしく、幹部の報告書中に、追啓として、次のごとく不破だけの事が特記されている。
「最も働いたのは不破数右衛門である。勝負した相手は形のごとく手ききで、数右衛門へも数個所切付けたが、着込の上からなので疵はない。しかし小手着物はスッカリ切りさかれ、刀もささらとなって、刃は全く無くなっていた。四、五人も斬り止めたらしい」
不破は飛ぶ燕の翼を斬り落したといわれる程の剣道家である。その不破が武装しているのに対し寝衣姿で立ち向いながら、これほどまでに健闘した相手は、余程の腕利だったにちがいない。多分上杉家から上野介の護衛として遣わされていた小林平八郎だったろうと言われている。 
 
六一 上野介の最期

 

もはや手向う敵もあんまり出て来ないので、屋内組の勇士らはズンズン進んで、上野介の居間に入った。刀だけがあって、寝床の中はもぬけの殻である。手を当てて見るに、まだ暖い。今脱け出したばかりにちがいない。左兵衛(ヨ ひようえ)の寝室にも、刀、脇差、鼻紙袋まであって、主は見当らない。一同歯がみをなして必死に尋ね廻った。
天井は槍で突き廻り、戸障子の蔭から、床下、雪隠まで、隠れ場所らしい所は次から次へと尋ね廻ったが、どうしても見当らない。外へ出て屋外組にその趣を話すと、屋外へは上野介らしいもの断じて出ない。家の内に相違ないから今一度さがせ、という。
「三遍まで捜したのだが」というと、「ではもう三遍さがせ」「では」と、また屋内を片っ端から槍で突き廻ったが、依然として見当らない。「あるいは長屋へ逃げ込んだのかも知れない。長屋をさがそう」という者がある。長屋の各戸の入口に、屋外組が絶えず目を配って、内から飛び出さないよう、外から逃げ入る者のないよう警戒している。長屋には少くとも十数戸の家族が住んでいるのだから、これを捜索するとなっては大変である。
大石は泰然として命令を下した。「長屋の捜索は最後の事だ、夜の明けるまでまだ相当時間があるから、急ぐに及ばぬ。落着いて今一、二回屋内を捜索せよ」裏門の指揮吉田忠左衛門はつくづく考えた、一体隠居というものは家の奥の方に住むもので、上野介はまた平生裏門から出入することが多かった。従って屋内でも屋外でも、彼の隠れ場所は表門よりも裏門に近い場所と推定されると。そこで小野寺十内を誘って、間喜兵衛に裏門の守りを頼んで置いて、鑓(やり)を杖につきながら北の裏口の方ヘ廻った。
折柄二人の男が勝手口から逃げ出した。十内鑓(やり)を取直して前の男を突き伏せたが、そこへ通りかかった片岡源五右衛門、「十内殿あそばしたり」と賞めた。更に二個所で二人を突き伏せたのを大石瀬左衛門が見ていて、その一人が倒れる時に念仏をとなえたのを聞いたという。十内この事を愛妻ヘ申送って「三人ながら証拠のあるにて候。老人の罪つくりとや申すべき、やり身の事なれば刀に手もかけ不申候」と書いている。よほど得意だったと見える。
この時分には、近隣の諸邸みな起き出でてはいるらしいが、気づかぬ体に装って、提灯なども出さない。吉田や小野寺の今廻っている北側の高塀の外は、旗本土屋主税(ちから)の邸であるが、ここだけは高張提灯を掲げ、主人主税自ら塀近くへ出張して、厳重に警戒した。その様子を察して、原惣右衛門、小野寺十内、片岡源五右衛門の三人は塀越しに名乗って、浅野内匠頭の家来なることを告げ、「亡君の恨みを晴らすために推参仕ったもの、貴邸へ御迷惑の及ぶことは誓って致さねば、武士の情けを以て御手出しなきよう願い奉る」と申入れた。
この土屋邸の警戒は、もし吉良邸の者が塀を越えて逃げ込めば搦め捕る所存であったなどと、義士に同情した意味に解釈する者もあるが、隣邸の騒擾に手出しせなんだのは、隣住居の徳義を弁えざるものだと非難したものもある。新井白石は「傍観したのは答むべきでないが、事後に於て義士の二、三人を抑留しておけばよかったに」と評した。 土屋以外の隣邸は、皆主人在国の留守であった。
再三再四尋ね廻ったが、上野介はどうしても見当らない。寝床はまだ温いのだから、先刻までいたには相違ないのだが、なんとしても見当らぬ。中には落胆して、「武運も尽きた、一同この邸内に腹かッ捌(さぱ)いて果てる外ない」などいう短気者もあった。吉田忠左衛門聞き答めて「夜が明けるまでまだ間がござる。たとい明けても敵をさがし出さないでやむべきでない。サア今一度も二度も三、四度もお探しなされい」と激励した。
忠左衛門鑓(やり)を杖ついて、足音を忍ばせつつ准んでいると、台所の物置小屋と思われる中で、なんだかヒソヒソ話が聞えるような気がした。吉田の第六感は、「この小屋が怪しいぞ」と直感、通りかかった若い連中に促すと、一人が早速大斧を揮って戸を叩き破った。
この物置小屋には外から鍵がかかっていたと、『元禄快挙録』に福本日南氏は書いている。これまで諸方を隈なく探し廻りながら、この物置小屋だけ見残していたことから考えると、鍵のかかっていたというのは事実らしく思われる。しかし、『江赤見聞記』その他筆者の目を通した古書中に、この小屋に鍵のかかっていた事を書いたものは全く無い。大石、原、小野寺の連名で、寺井玄渓に書き送った実況記にもなく、『堀内覚書』の中の吉田の談話にもない。日南氏はいかなる根拠によって、鍵がかかっていたと書いたのか、知る事をえない。従っていかにもそうありそうな事ではあるが、鍵の事はしばらく疑いを存しておく。
さて戸を破って調べたところ、果して二、三人潜んでいて、皿茶碗の欠片(かけ)や炭などを、手当ヶ次第に投げつけて近よせまいとするので、こちらの数人は警戒しつつ迫って行くと、一人が飛び出して斬ってかかり、続いてまた一人が飛び出した。この二人腕も相当の者で、随分よく働いたが、何しろ寝衣姿だから、着込装束の義士達には敵わない、間もなく討取られた。討った者は、『江赤見聞記』には堀部安兵衛と矢田五郎右衛門になっているが、三村次郎左衛門が母へ送った手紙によると、その内の一人は三村が討ったものらしい。
まだ一人炭俵の陰にひそんでいるのを間(はざま)十次郎が一鑓(ひとやり)に突き立てた。すると、アッと叫んで脇差抜き合せたのを、武林唯七が跳りかかって肩先から斬り下げた。そのあとは虫の息でうめくのみである。外へ引き出してよく見ると、老人で下着は白小袖である。吉田つくづく見て、「普通の身分の者が白無垢(しろむく)の小袖を下着にするはずはない。年輩といい、風体といい、上野介殿に相違ござるまい。果してそうなら額(ひたい)に亡君御恨みの疵(きず)があるはず、お調べなされい」と令すると、間(はざま)、武林ら、早速手負の顔にあかりを差向けて調べたが、それらしい痕(あと)は見えない。吉田語を継いで、「額の疵は浅手のはずだから、痕を止めずに癒(なお)ったのかも知れない。背(せな)の疵をお調べなされい」という。一同急いで手負の背を検すると、あるある、縦斜(たてななめ)に一線の刀痕(とつこん)あざやかで、見紛うべくもない。「これだ、これだ、亡君の御斬付け遊ばされた跡だ」「有難い、有難い」「恭(かたじけな)い、恭い」天を拝し、地を拝し、感極まって泣く者もあっ方。
上野介を討取った時は、呼子を吹き継いで隼合すること、というかねての申合せによって、小笛は次から次へと吹き継がれた。そして大石以下一同が程なく集まった。
大石は、改めて上野介の面体(めんてい)を灯火に照らし、背の疵をも検して、いよいよ間違いなーいと確めるや、奮然脇差を抜き、柄も通れとばかり、止めの一刀を刺し貫いた。『堀内伝右衛門覚書』の中に、
内蔵助大小、共に相州物と相見え候。大乱れ焼にて、刀の切先一尺ばかり血付き居申候。定めて上野介と!めを刺されたろと存候。松葉先一寸ほど刃こぼれ中候。
と書かれてある。松葉先一寸ほど刃のこぼれていたのは、上野介の喉を貫いて、大地に突き入ったためと考えられる。稗史(はいし)小説の中には、この時内蔵助大地に手を突いて自害を勧めたが、卑怯の上野介隙を見て逃げようとするので、余儀なく打取ったなどもっともらしく書いたのもあるが、表門内に位置していた大石が、裏門に近いこの場所へ来た時は、深手負の上野介はもう息が絶えていたであろうし、もし生きていても虫の息だったに相違なく、隙を見て逃げ出すような元気のあったはずがない。
上野介の止めを刺した大石は、間(はざま)十次郎を顧みて「この首(しるし)は一番槍の十次郎殿あげられい」と命じた。面目身に余った十次郎、畏って即座に吉良の首を討ち落し、これを捧げて大石の実検に供すると、大石采配(さいはい)を三たび揮って、古式に則る戦勝の式をあげ、並みいる同勢一斉に関の声をつくった。
さて上野介の首は、白小袖を引きちぎって包み、胴体は、高家(こうけ)歴々の身分に敬意を表して、夜着蒲団を取出して打かぶせ、火鉢には水をかけ、蝋燭の火は一っ残らず消し、その他何くれと残る方なく注意して、それから引揚げにかかった。この沈着にして行届いた処置は、後に取調べの役人を深く感服させた。 
 
六二 吉良側記録による当夜の実況

 

討入当夜の状況を書いた吉良側のものに『米沢塩井家覚書』というのがある。上杉家の者が、事件直後に駆けつけて取調べた記録である。その中から数個所を抜いて、現代語に書き改めて見よう。
一、十四日夜、八ツ過頃(午前二時過)表御門ヘ来て、火事があるから門をあけて通せと申すので、御門番が、どこが火事かと申したところ、此方(こちら)の書院が火事だ、早くあけろと申すので、門番御書院の方を見たけれども、別に火の手は見えない。それで御門はあけられないと答えたところ、多勢集って来て、グズクズいうなら踏破れと申し、梯子をかけて屋根へ上り、段々お屋敷へ入って、表裏両御門で合図の太鼓をうち、裏御門は金(かね)てこ、木てこを以てこねあけ、扉を斧でうち破り、一時にどっと乱入。お屋敷へ入ってからも、火事だ火事だとさわがせ、御屋敷中の長屋の各入口を鑓(やり)・長刀(ながだち)で固め、火事という声に驚いて飛び出すところを、水もたまらず首をホクリホクリと打落すので、おひれを引いて出る者なく、辛うじて命ながらえた老が戸の透間から覗いて見ると、一軒の入□目に四、五人ずつ鑓 ・長刀を持って立ち、なお長屋の屋根にも、弓を持った者がいて間断なく矢を射かけ、ちょっとも遁さぬ手配りである。表の御玄関、御台所口、御妻戸口、御隠居の御玄関、御台所口、鑓・斧を以て打破り、御殿中(ごてんじゆう)野原のごとく打ち散らし、ここ彼所に死人が什れていた。山吉新八、須藤与一右衛門、左右円孫八らは皆よく働いたけれども、何分敵は着込しているので、突いても討ってもまるで斬れない。従って敵には手負少なく、本所方には死老十五人、手負二十三人に及んだ。いずれも思いがけぬ事故、遁げがちであった。御座敷中、所々に小座敷が沢山ある御家に、よくも乱入して一々打破り見届け、御納戸(おなんど)などへも入込み、長持などもうちわり、怪しい処はえんの下まで踏破り、夜中の事とて蟻燭を持って来て、火を立てて戦った様子である。
上州様、左兵衛様、共に御立合いお戦いになったが、もとより上州様を目がけ申した事とて、前後左右より取込めてためし討にいたした。御疵が二十八個所にも及んでいる。実に御たまりなさらぬのも御尤もと存ぜられる。御首は大石主税が打取り、唐人笛を以て勝関(かちどき)を作り引き去った。(中略)
一、左兵衛様かしこき御働きであった。御後疵(うしろさず)も、お逃げになる時の疵ではたく、前後左右より取囲まれ、四方八面より切立てられ給うたので、自然御うしろにも疵をうけられたのである。
一、女子供並に一つ指し(刀一本)の者には手をかけないようにと触れ廻っていたそうである。本所家老斎藤宮内、ふるいふるい長屋の宅を出たところ、それ首討てと敵が取囲んだので、斎藤、いやいや某(それがし)は下(げ)ろう故、命ばかりはお助けをと乞うと、「なるほど下(げ)ろうらしい風体だ」とて突放した。すると斎藤、私の宅へお寄りになって煙草でも召上れと敵方へ申したそうな。
以上は『塩井家覚書』の記載であるが、家老の斎藤宮内というのは余程の腰抜であったらしく、他の書にも、彼は長屋の自宅にいたが、壁を破って逃げ出し、向側の傘屋に隠れていて、騒ぎが鎮まって後、その壁穴から這い入り、取調べの役人に対して出たらめの陳述をした。このことが傘屋の主人の口から漏れて、たちまち評判となり、誰がいたずらかその壁穴の下へ「このところ家老の外、出入すべからず」と貼紙したそうである。 
 
六三 四十七人引揚、泉岳寺へ

 

いよいよ本望を遂げた大石らは、敵吉良上野介の首を着衣の白小袖に包み、懐中の守袋二つも証拠にと添え、表門の方に当初から召捕っておいた門番の足軽を連れて来て、なお念のために見せたところ、疑いもなく上野介の首であると証言したので、もうあとに用はない。左兵衛を討ち漏らしたのは多少残念な思いがないでもないが、当の敵上野介を討取った上は、目的はすでに達したのであるからと、大石の指図によって、若手の連中が長屋の前で高声に「浅野内匠頭の家来共、吉良上野介殿を討取って今引揚げる。無念と思わば出合い給え。お相手いたそう」レー、呼ばわったが、戸を引立てたまま一人も出て来ないので、さらばいよいよ引揚げと、銅鍵(ソら)を鳴らして惣人数を裏門のうちへ集合させた。
堀部安兵衛が名簿取出し、氏名点呼を行ったところ、一人の欠員もなく、四十七人が全部揃っている。負傷者は原惣右衛門、神崎与五郎、近松勘六、横川勘平の四人で、うち原は足を挫き、神崎は門を乗り超える時すべり落ちて腕をいため、近松は泉水に落ちてこれも打撲傷を負うたもので、刀創(かたなきず)を受けたのは横川一人である。しかもいずれも、歩けない程の怪我ではない。これは全く着込の装束をしていたためで、大石の用意周到な準備の効果に外ならぬ。
さて一同は、更に邸内を検して、火鉢や炉には水をそそぎ、隣邸(土屋主税)に対しては、片岡、小野寺、原の三士が塀越しに挨拶し、大石の指揮によって、裏門から粛々と引揚げた。
外へ出ると、昨夜から門外で待ち構えていた一党の同情者、大石三平、佐藤条右衛門、堀部九十郎など「おめでとう、おめでとう」と祝詞をあびせる。近松勘六の忠僕甚三郎は、餅や蜜柑を挟や懐一ばいに入れて「さぞお咽が乾きましたでござりましょう」と配ったのは「気の利いた用意」としてひどく感心された。それから、附近の酒屋へ立寄って、祝酒一献を立ちながら飲み、間もなく六ツ時(午前六時)過ぎになって、夜も全く明け離れたから、回向院へと引揚げた。
回向院を引揚場所とすることは前々から予定していたところである。それは場所が近く、境内が広いので(今の国技館敷地もその一部だった)、そこで一休みして、もし上杉から追手でも差向けたら、両国橋附近で一戦に及ぽうというのであった。この時分の両国橋は、今の橋よりは約一町川下にかかっていた。
ところが、寺はまだ門を開けていないので、事実をありのまま申入れて、暫時休ませてもらいたいと頼んだところ、小胆の俗僧驚いてふるえあがり、うっかり入門させたらどんな後難がかかるかも知れぬと恐れて、門番に断らせ、再度頼んだが、どうしても承諾しないので、若い連中は立腹し、「承諾もへったくれも要るものか、押し入って休息いたそう」と、逸(はや)る老もあったが、老人組に制せられて、一同はしばらく門前でぐずぐずしていたが、別に追撃の敵が来そうもないので、さらばと泉岳寺へ向うことにした。
このさい吉田忠左衛門は、今まで影のように、自分に附き随うていた寺坂吉右衛門を片隅へ呼び寄せて、「この通り首尾よく敵の首を取った上は、かねて申含めおいた通り、その方(ほう)は直様この場より立去って、芸州の大学様(浅野内匠頭弟)へ報告の使を勤めねばならぬ。途中亀山(播州、吉田の妻子居住地)へ立寄って、武士の面目この上もなく、喜んでいると伝えてくれ。今になってその方.人引別れる事は残念であろうが、これも忠義のためだから」と懇々命令を下した。
「畏りました。かねがねの仰せ違背(いはい)は仕りませぬが、どうせ道筋、せめて泉岳寺まで御供させて下さりませ」こう言って伴いて行った。一同徹夜して働き疲れてもいるので、泉岳寺へは船で行こうとしたが、船を貸す者がないので、陸路を徒歩する事にした。もっとも老人と、怪我人の近松勘六と横川勘平だけは、船蔵(ふなぐら)(両国橋東詰から川下への河岸)の先で駕籠を雇って乗せた。この日は十五日で恒例の御礼日であるから、大名の行列に出会う恐れがある。かたがた大通りはなるべく避けて、裏通りを選んだのである。
行列は、先頭に三村次郎左衛門、神崎与五郎、茅野和助の三人が、鑓をかついで並んで進み、次に潮田又之丞が、白小袖の片袖に包んだ上野介の首を鑓に結びつけて担ぎ、その後に間十次郎、村松喜兵衛、岡島八十右衛門、奥田貞右衛門の四人が並び、その次は大石主税という風に、一人または数人ずつ列を組み、総帥大石は中央に位置した。この泉岳寺行の際、上野介の首を途中で奪い返されるような事があってはならぬとて、武林唯七、堀部安兵衛ら、屈寛の者六人が護衛して、一行とは別に船で送って行ったと、まことしやかに書いている古書が随分あるけれども、ウソである。
道順は次の通り。
回向院前II川に沿うて一ッ目河岸-御船蔵の後通りー永代橋を渡って霊岸島-稲荷橋を渡って鉄砲洲の旧藩邸前通り  汐留橋-日比谷三丁旦裏(今の芝、愛宕町)1松平陸奥守邸II金杉橋-芝口I泉岳寺。
鉄砲洲の旧藩邸前を通る時には感慨無量、一同涙を拭うた。南八丁堀を経て湊町へ出で、多年浅野家へ出入していた豆腐屋の菱屋三十郎の店先を通ると、三十郎我家の名誉のように喜んで、湯茶を進め、湯漬をふるまった。
汐留橋の辺から、吉田忠左衛門と富森(とみのもり)助右衛門両人は、大石の命によって一行と別れ、芝愛宕下西久保(にしのくぽ)の大目付(おおめつけ)(今なら警視総監)仙石伯蓄守久尚の邸へ自首に行った。 
 
六四 寺坂吉右衛門密使に立つ

 

足軽の寺坂吉右衛門は、自分の直接の主人なる吉田忠左衛門に、回向院前で、早速芸州へ出発するように命ぜられたが、兎も角も泉岳寺まではと伴いて来た。そして一同の後から入門しようとすると、大石、原、片岡、間瀬(久)、小野寺(十)、堀部(安)らが1吉田忠左衛門は途中から仙石邸へ届出に行った1遮(さえぎ)って、コ度寺内に入れば、正規の手続を経なければなるまいから、あるいは再び出る事ができなくなるかも知れない。万一そんな事にでもなれば、かねがね忠左衛門から申し含めてある趣旨に背き、残念この上もない。去るも留まるも忠義に変りはない。サアこれから直ぐ出発するように」と、あるいは命令し、あるいは慰諭する。とくに吉田沢右衛門(忠左衛門長男)、貝賀(かいが)弥左衛門(忠左衛門弟)は、いっそう言葉を尽して出発を促す。
寺坂はもうこの時、討入の服装を脱いで通常服に変えていたものらしい。一書に、寺坂が吉良の門前で、討入直前に他の義士の脱ぎ捨てた羽織を盗んで逃亡したと書いているが、多分変装用にしたものだろう。
寺坂は、かねがね承知はしていたというものの、一年九ヵ月間苦楽を共にして来た同志が、本望を遂げて武士の面目を施し、いさぎよく仕置を待とうとしているのに、そして主人吉田父子もその中にあるのに、自分一人が逃亡者らしく装われて使者に出るのは、なんというつらい事だろう。この事情をよく知らない世間の人達が、あるいは生命が惜しくて逃げたなどと噂するかも知れない。それはあまりにも情けないと、なおぐずぐずしているので、大石は声を励まし、「この場になって、平生忠左衛門から申含めてある事を変改しようとするのはけしからぬ。もう猶予はならぬ、さあすぐ立て、しかし、その方が卑怯で逃げたものでないという後々の証拠に、かねて忠左衛門らと共に相談して認めておいたこの連判状の一通を与える」と言って渡した。
こうなってはもうかれこれいう事もできないから、寺坂は涙を揮って一同と門の内外に別れた。時は十二月十五日(元禄十五年)朝四ツ時分とあるから、今の時間で午前十時頃である。それでも寺坂は、まだ一同の安否が気になるので、門外に押しよせている群集の中に交って身を隠し、夕刻一同が仙石伯者守へ呼ばれ、四家(け)の大名へ御預けになるまでの様子を確かに聞届けて、その夜すぐ江戸を出発、同月二十九日に、吉田忠左衛門の妻子のいる播州亀山へ着いた。
右は、吉田忠左衛門の女婿伊藤十郎太夫治行が、親しく寺坂の話を聞いて、書き留めた『聞書覚(ききがきおぽえ)』(原書、赤穂花岳寺蔵)によったのであるが、この新史料その他の論拠から『寺坂雪冤録』を著わした伊藤武雄氏は、同書中に次のごとく書いている。
此覚書を見るに、寺坂吉右衛門としては、素より帰国の使命を帯びてゐるのですから、もつと潔(いさざよ)く引別れたらよからうと思はれますが、そこが人情です。猶知らずくこL迄附いて来たのを、大石内蔵助外幹部の人々が押留めて居り、其上若主(わかしゆ)人(じん)の吉田沢右衛門、同人叔父(おじ)貝賀弥左衛門など、のッ引ならぬ人の抑留(よくりゆう)では、最早否む事は出来ません。すごくと引き別れました。其の心情を思へば実にふびんでなりません。他の四十六士は何れも晴々しく泉岳寺に引揚げ、やがて四家へお預けの上、兼ての覚悟通り武士としての本望をとげたに反し、これは又なんと悲惨な立場ではありませんか。人々と所期(しよき)の行動を共にする事も出来ず、すごくと帰国せねばならぬ切なさを堪へ忍んでゐた苦衷は、寧ろ他の四十六士に優りても劣りはせぬと思ひます。
前記、寺坂が大石から貰った連判状というのは、討入の際玄関前に立てておいた口上書の写しで、花岳寺や寺井玄渓へ贈ったものふ同じである。彼は晩年までそれを大切に所持していたそうである。 
 
六五 内匠頭の墓前に報告

 

泉岳寺は江戸の浅野家菩提寺(ぽだいでら)で、初代長直、二代長友、三代長矩の墓地である。赤穂の花岳寺と共に曹洞宗に属し、今日は境内も狭くなっているが、元禄時代には駒込の吉祥寺などと並称せられた大寺格で、雲水らも多く、非常に広大なものであった。
大石は、今にも上杉家から追手を寄越すかも知れぬと、墓前の奉告を急ぎ、上野介の首を洗って、長矩の石塔の前に供え、四十余人その前に平伏した。大石やがて身を起し、懐中より小脇差を取出し、柄を石塔の上段に寄せかけ、一拝してそのヒ首(ひしゆ)を上野介の首の上に当てて退いた。亡君の御霊、これにて御恨みを晴らし給えとの意である。さて一同順次焼香するのであるが、この焼香順について、大石が総代として第一番に拝し、第二番に間(はざま)十次郎が大石に指名されて焼香したと記した書と、間(はざま)に第一番の拝をさせて、次に大石が一同を代表して拝をしたと書いたのと、二種ある。『快挙録』は前説をとり、渡辺世祐博士は後説をとっていられるが、この墓前奉告祭の状況は、義士の直話(じきわ)筆記中に見当らないので、どちらが確実といいきれたい。
なおこの奉告祭の時、大石が祭文を読みあげたというので、その文章が『義臣伝』その他の古書に載っているが、これは好事者(こうずしや)の偽作であること、今日に於てはもうハッキリしている。常識から考えても、首尾よく敵を討取ることができるかどうかが問題であり、幸に本望を達しても、無事泉岳寺まで首を持参し得るかどうか、途中で幕府の役人に制せられなんだのがむしろ不思議た位で、もし制せられたらおとなしく渡す覚悟だったのであるから、首を供えての祭文などを前から準備しておくような事が、あろうはずもない。
なお『義臣伝』などには、この奉告祭の時、揺泉院(よさえせんいん)(長矩寡夫人)から女房を使に差越されて、大石と問答したこと、その他俗書中には、大石が亡君の意を体して、間(はざま)や武林(たけぱやし)ら殊勲者に俸禄の加増を申渡すなど、馬鹿馬鹿しい滑稽を記載したものもある。
後の永平東福寺六世月海和尚、この時白明という名で泉岳寺にいたが、七十二歳の時、五十余年前の思い出を綴って『白明話録』と題したのが、今日遺っている。その冒頭の一節は、当時の実況を目撃したものの唯一の記事であるから、ここに引用する。
我等十九歳の時、江戸泉岳寺に居れり。元禄十五壬午の年なり、十二月十五日、朝飯畢り礼茶の為に、衆寮より出で、寺「集まりゐたり。泉岳寺などは常法堂にて、いつでも夏冬の結制あるなり。今日も冬のうちの礼日(れいぴ)ゆゑ、礼茶の賀儀があるなり。所へ門の番人参りて副司を呼出し、是にて申上ぐべし、唯今故(もと)の浅野内匠頭殿の御家来凡そ五六十人ばかりにて、色々異様なる装束、鎗・長刀(ながだち)など持ち、御門ヘ入られ候。通すべくや否の事御伺ひ申上ぐると、副司其趣を和尚へ申せしに、先づ役頭を遣はし検別すべしとてやられしに、はやずらりと墓地へ通りたる後なり。数々あとよりも見物の人集まり来る。それ故すぐに門をうたせ、門の外へ番をおき、事を通じ、通すべきは通し、左なければ返すやうに、段々に言ひつけたるなり。さて墓前にての礼拝のうち、皆々寺から往きて伺ひたるなり。さしてひまの入りたる拝にてはなし。もはや四つ時過でもある事なり、拝相(あい)すみていづれも寺へ参らる。兵具は玄関の入ロヘおき、玄関にて申さる、には、拙者共今暁故主の敵吉良上野介を討ち候て、唯今故主墓前へ手向け候。右に依つて参りたる由演(の)べらる。副司すなはち案内し、方丈と対面、当寺は浅野殿檀那寺(だんなでら)なれば、爾来これも存知(ぞんじ)の人なり。大石内蔵助申さる、には、吉良殿を討ち取つて後、回向院へ行き自殺すべき哉と存じ、門をあけくれ候やうに申たれども、異様なる人数を見てや、門をあけず。つらく思ふに、徒らに自害しても事は分れず、兎角上裁(じようさい)を得べしと存じ、二人を仙石伯書守殿へ遣はせしなどの物語あり。 
 
六六 泉岳寺内の義士

 

墓前奉告祭が終ると、副司の案内があったので、一同本堂の方へ引揚げてきた。そして大石父子以下幹部老人組は客殿へ、その他は衆寮へ通された。通る時に、武器の長いものは皆玄関入口に立てかけた。
住職長恩(ちようおん)和尚は、何よりも先ず寺社奉行へ届けなければならんとて、人数を尋ねさせると、総数四十七人だが、内二人は大目付邸ヘ届出に赴いたから、ここには四十五人いるはずであるとの答なので、数えてみると四十四人しかいたい。それで名簿に照らして一人ずつ答えさせると、寺坂吉右衛門が一人いない。大石以下白ばくれて「ここまで来る途中駆落(かけおち)したものらしい」と空うそぶく。事情を知らぬ若い連中は「変だなア、討入の時は確に一緒に入門したし、引揚の時にも確いたのだが、どうしたのだろう」と怪しみ、中には心から憂慮しているものもあった。しかし結局いない者をどうする事もできず、さりとて名簿を書き改めている時間もないので、吉右衛門の名の上に「この者居申さず」と記入して、長恩和尚が自ら寺社奉行へ持参した。
ここで一言Lておく。大石以下が、寺坂を泉岳寺門前から逃亡したごとく装って密使に出しておきながら、寺僧が一人一人点検するのをなぜ知らん顔して眺めていたかというに、ム.し逃亡前後の事情を訊(ただ)されたりしては、作り事のばれろ恐れがあるからである。従って仙石邸へ届出に行った吉田忠左衛門も、四十七人連名の口上書を出して、寺坂の身上にはふれず、つまり大石も吉田その他も、「寺坂がいつ逃亡したのか知らないが、事実泉岳寺にいないところを見ると、逃亡と断定する外ない」という事にしてしまったのである。
それで幕府では、吉田、富森の届出によって、討入人数を四十七人と信じ、内高禄者十七人を細川家に、他の三十名を三家に十名ずつ御預け、と決定したのであるが、後になって、水野家に割当てられていた寺坂がいないと分ったものであるから、同家だけ九名という半端の数になったのである。吉田らの届出が四十六人となっていたら、お預け人数の割当も、細川家十六名、他の三家十名ずつとなっていたに相違ないこと、『義人'録』著者鳩巣をまたずして推察されよう。
以下『白明話録』の数節を現代文に訳して、泉岳寺内に於ける義士の行動を紹介しよう。
大石父子その他老人衆は客殿、若い連中は衆寮で、火にあたって休まれるようにしたが、大低は衆寮の方へ見えた。先ず粥を出し、愚僧も衆寮へ出て給仕を致した。いずれもよほど空腹であったと見えて、粥を沢山たべられた。粥がすみ、茶受を出し、茶を出し、それから、風呂が沸いたからお入りなされと勧めたところが、いや、上杉家からの討手が、今に押寄せてくるかも知れぬ、風呂どころではないと申された。間もなく、皆よく眠ってしまわれた(世間では、この時武林唯七が一同を励まして眠らせなんだとの噂があるけれども、愚僧は左様な事を見なんだ)。近松勘六が左の股に大きな傷を受けている。それで医師を呼んだが、どうせ長くない生命だから療治を受けるに及ばぬと断った。けれども折角医師が来たのだからとて、療治させた。この傷は相手と闘うて追いまくり、その者が池へ飛び込んだのを切付けた時、相手が池の中から刀を突出しているのに気がつかなんだため、刺さったのだという事である。
白明の実見談はなおつづく。
朝飯が出た。一同快く食われた(著者註、この朝飯は正午過になったらしい)。愚僧も給仕に出ていたが、木村岡右衛門が、そなたは幾つと問うから十九歳、国はどこというから土州と答えた。四十余人いずれも右の肩に、氏名を書いた金紙を附けていたが、木村だけは別に左の肩にも、法名英岳宗俊信士の六字を書いていたから、その法名は、誰に附けてお貰いですかと問うと、播州の盤珪禅師との返事なので、さてはこの人禅門に入っているに相違ない、それならきっと辞世の偶(げ)か、今朝の即吟などがあるだろうと思って、所望したところが、懐紙を取出して、
   本意を遂げ侍る頃仙岳禅寺に至りて
思ひきやわが武士(もののふ)の道ならでかかる御法(エのり)の縁(えん)にあふとは木村貞行、行年四十五、英岳宗俊信士と署名された。ところが右手の指の疵から血が滴って紙が汚れたので、書きかえようとなさるから、吾らは、その一滴の血がいっそう有難い、是非それを下されと乞うて貰い受けた。
白明は次いで、隣りに坐っていた茅野和助に、あなたも何ぞと乞うたところが、天地(あめつち)の外はあらじな千草だに元(もと)さく野べに枯ると思へば世や命咲(いのちさ)く野に枯るゝ世や命と書いて与えられ、次に岡野金右衛門と大高源五に乞うと、岡野は辞退して容易に応じない。それを強いて迫って得た句、
  上野介殿の首(しるし)を故主の墓前に手向るとて
  其匂ひ雪のあちらの野梅哉
大高源五の書いた句は、
  山をさく刀も折れて松の雪
である。この句は最も有名である。これらの筆蹟は、白明が後に住持になった土佐の東福寺に今も残っている。なお白明に与えたのではないが、大石の、あら楽し思ひは晴る、身は捨つる浮世の月にかゝる雲なしの一首は、この時泉岳寺に於ての詠で、真の実感であろうと察せられる。
なお白明は次の通り語っている。
この時寺内(じない)で大騒動したように書いた本もあるが、五十人や六十人の食事の支度は常にする事なり、大石以下いずれも心やすい人々だから、騒ぐはずはない。また上杉の討手が来たら、大石らに加勢して一戦しようとて、泉岳寺の衆徒が鉢巻姿で棒などを持ち出したなどいうのも全くウソである。左様な浄瑠璃めいた事する事態でない。義士達がねた刃を附けた、というも事実無根、それから女が義士の中に交って来たなどいうのもウソである。矢頭右(やこうべよ)衛門七(もしち)が美少年だったから、それを取違えたのだろう。
以上『白明話録』の摘訳である。講談や浪花節なら仕方もないが、いかにも正史らしく装った義士伝が、前記白明の二百年近く前に打消しているウソを、今日でもれいれいしく書いているのは困ったものである。
義士引揚の途中、三田八幡附近で、高田郡兵衛(堀部安兵衛、奥田孫太夫と共に、江戸急進派の中心だったが、ついに脱盟した)に出会い、その高田が御祝にといって、酒樽を泉岳寺へ持参して取次を乞うたが、突返された事は、前に同人脱盟の事を書いた時に附記した通りである。 
 
六七 仙石邸の吉田・富森

 

吉田忠左衛門と富森(とみのもり)助右衛門は、泉岳寺へ引揚げる途中から一行と別れて、芝愛宕下の大目付(今なら警視総監)仙石伯者守久尚の役宅に赴いた。一行の代表として、禁を犯した罪を自首するためであるが、大石がとくにこの二人を選定したのは、いずれも共に弁舌に長じ、とくに吉田は思慮周密にして何事も老練であり、富森ば年の若いに似ず沈着であるから、吉田の補佐役たらしめたのであろうといわれている。
両人は、討入のままの異様な装束であり、かつ罪人として自首して来たのであるから、持参の鑓(やり)は門の外に立てかけ、かつ正門は遠慮して通用門から入り、門番に案内を乞うた。
「私共播州赤穂の浪人四十七人、昨夜吉良上野介殿御屋敷へ推参して上野介殿の御首をあげ、一同主家の菩提寺高輪泉岳寺へ引揚げましたが、この事大目付へお届け致すため、私共両人これまで参上致しました。御取次下さるよう」
門番驚いて玄関の方へ走ったが、やがて駆け戻って、伯者守様御直(おじき)に御聴取になるから通るようにとの事で、導かれて内玄関に立った。
時刻は朝の八時前後だから、朝食もまだ済んでいなかったであろうが、伯者守は即時内玄関へ現われた。
ここで吉田・富森は、改めて氏名を名のり、吉田から事情を陳述した。
「昨年三月主人浅野内匠頭(たくみのかみ)、伝奏御馳走の儀に付吉良上野介殿に深く意趣を含みおりましたるところ、御殿中に於て何か堪えがたい事でもありましたためか、大切の御時御場所をわきまえず刃傷に及び、その各にて切腹仰付られ城地召上げられました段、私共家来の者何共恐縮の外ござりませぬ。これによって御指図通り城地差上げ、家中離散致したのでござります。しかるところ、右内匠頭喧嘩の節、抑留せられた方がありまして、相手の上野介殿を討ち漏らしましたのは、主人今わの無念さこそと察せられまして、家来共忍び得られませぬため、高家(こうけ)御歴々に対して憧り至極には存じまするけれども、君父(くんぷ)の仇は共に天を戴かざる大義から、同志四十七人、今暁吉良殿御宅ヘ推参御首(おんしるし)をあげて、唯今泉岳寺へ引揚の途中でござります。一同決して逃げ隠れは致しませぬ。何卒御指図願い上げ奉る。なおこの趣意は口上書(こうじようがき)を認めまして、同志の氏名も連記いたし、上野介殿御屋敷に立てて置きましたが、その控を唯今懐中いたしておりまするから、御覧下さりまするなら差上げまする」
条理を正して言語明晰に述べ、しかも凛乎として奪うべからざる気魂が、二人の面上に溢れていた。深く感服の体で聴いていた伯者守、
「その口上書とやらの控をこれへ」と取寄せ、繰返し黙読した上、
「人数は四十七名に相違ないか」
「同泉岳寺にいると申すか」
「主君の恨みを晴らしたのじゃナ」
「口上書に私共死後御見分(ごけんぶん)の御方とある上は、一同死ぬ覚悟なのじゃナ」
などと念を押して尋ねた上、なお討入のさいの実況や、引揚のさい火の元をとくに用心した事などを聴いていよいよ感服し、
「万事遺漏なく行届いた仕方、神妙である。間もなく登城して、老中方に御披露申した上何分の沙汰をするから、それまで上(あが)って待受けるよう。なお食事の支度も申付けるから、くつろいで休息するがよい」
伯者守は、いかにも同情の籠った声で、こういい残して奥へ入った。
吉田・富森は、導かれた部屋で休息していると、伯者守の家臣井上万右衛門が、書記を従えて出て、前夜吉良邸へ押寄せた前後の実情から、邸内働きの様子、吉良側の応戦、引揚に至るまでの次第を物語るようにとの事なので、二人が交る交る語り、書記は忙しく筆記した。
その話の途中に、伯蓄守が現われ、書記の筆記のできているだけを受取って、あわただしく登城した。そのあとへ、御徒(おかち)目付が出て、同じような事を尋ねるから、また委しく答えた。
伯者守は、先ず月番老中稲葉丹後守の邸へ行って概略を耳に入れ、続いてすぐ登城し、関係の向々へ正式に報告した。 
 
六八 幕府当局の同情

 

そこで、幕府では緊急閣議を開いた。列席者は老中と若年寄(わかどしより)。大目付仙石伯蓄守が、説明役である。
伯書守は、大石内蔵助ら四十七人が、いちずに亡主の志をついで怨を吉良上野介に報じたものであって、忠義の一念の外、些(すこし)の私心も野心もないと認めらるること、一同逃げ隠れをせず謹んで処分を待っていること、計画は極めて周密に行われ、退去の際は火の元をとくに注意する等、万事極めて行届いたハーーカであること、その他今朝面会した吉田、富森の態度の立派なことなどを、十分の同情と熱意とを以て説明し、なお吉田の差出した口上書の写しを提出した。
その口上書は次から次へと廻覧されたが、いすれも感嘆の声を漏らし、中には涙を拭う老中さえあった。
吉良上野介が鼻つまみの老爺である事は、老中も若年寄もうすうす知っていた。そして昨年三月殿中刃傷の際、将軍の厳命によって内匠頭のみ厳刑に処せられ、上野介になんのお答めもなかったので、口にこそ出さね、内心では皆内匠頭に同情していたのである。その内匠頭の家来共が、亡君の仇を報じたというのであるから、もっともの事だ、当然の事だと思うと同時に、その武士として当然の忠義という事が、近年はだんだん忘れられて、風俗は儒弱(だじやく)になり、道義は地に墜つるごとき情勢にある際、四十七人が生命を投げ出して旧主の志をついだのは、実に感心である。この事件は、一面お膝元で血を流した不祥事ではあるが、他面また喜ぶべき節義の発揚であるというので、老中若年寄の大部分は、期せずして大石らの同情者になった。この原因の幾分は、仙台伯者守の説明にあったと言ってもよかろう。そこで将軍(綱吉)に対しては、「四十七人を一時どこかへお預けになって、処分は追って御決定然るべくと存じ奉る」と具申した。
将軍綱吉は、湯島の聖堂に於て自ら論語の講義をする程の学問好きで、忠孝節義の奨励者であるから、大石以下のこの挙を嬉しく思ったに相違ない。かつ昨年三月内匠頭の際は、一時の激怒に駆られて即日切腹申付けたものの、後にはやや軽率であったと気がついたはずであるから、あの時の処分に関連して起った今度の事件には、多少自責の念もあるだろう。それで老中具申の意見-一時御預けーに対しては「その通り取計うよう」とおとなしく承認した。
そこで、大石内蔵助(くらのすけ)以下十七名は細川越中守へ、大石主税(ちから)以下十名は松平隠岐守へ、吉田沢右衛門以下十名は毛利甲斐守ヘ、間瀬孫九郎以下十名(内一名寺坂が逃亡となったので実際は九名)、水野監物(けんもつ)へお預けという事に決し、いずれも泉岳寺へ受取人を差向けるよう発令した。
ところが、この発令後まもなく、コ度も役所の門をくぐらせずに、泉岳寺でそのまま四家に引渡すのは、事件をあまりに軽扱いするようであるから、一同を伯者守役宅に召寄せ、ここで四家に引渡すがよかろう」という事に評議が変更、改めてそれを通達したが、この変更は、「もし泉岳寺で引渡すと、上杉家が武門の意地から、復讐の目的で打ちかかるかも知れない。それを伯者守の役宅に於てすれば手が出せまい」という意味が含まれているのだと解されている。その引渡場所変更の奉書が届いた時、松平家と水野家はすでに泉岳寺へ受取部隊を出発させていたので、早速また仙石邸へ廻らせた。 
 
六九 上杉家の態度

 

前にも書いた事のある通り、吉良上野介の夫人は上杉家から来た人で、その間に生れた綱憲(つなのり)が母の生家上杉家を相続し、綱憲の子義周(よしかね)が、今度は父の生家吉良家の相続人となり、吉良、上杉両家は互いに重縁の親戚である川、すなわち上杉家の当主綱憲から見れば、今度赤穂の浪人に首を取られた上野介は実の父親で、傷つけられた左兵衛義周(さひようえよしかね)は実子である。父の首を取られ、子を傷つけられて、安閑として傍観していては武士の面目が立たぬ。いわんや上杉家は、武門中の武門として聞えている雄藩であるから、必ず討手を差向けるにちがいないとは、大石らが初から予期していたところである。だから引揚の途中に於ても警戒を解かず、もし上杉家の追手が来たなら、尋常に勝負して、一人残らず討死しようという決心だったのである。泉岳寺に着いてからも、まだそれを気づかっていた。だからこのさい上杉家の態度如何ということは、誰の頭にも第一番に来る問題だった。
上杉家の上(かみ)屋敷は芝桜田、下屋敷は麻布飯倉にあった。その桜田の邸に事変の知れたのは同日の早暁七ツ半時(午前五時)で、義士達がまだ吉良邸に残っている時刻だった。吉良邸の近くに住んで常に出入している豆腐屋の主人が、わけは分らないが大変な騒ぎだから、第一の御親類に当る上杉様にお知らせしてあげようと、真先に駆けつけたのであった。豆腐屋は上杉家の門番に騒ぎの事を報告してすぐ引返した。続いて裏門番の丸山清右衛門が来る、やや後れて柳原五郎右衛門というのが来たので、敵は赤穂の浪人で数十名だということがほぽ判明した。
そこで、早速救援隊を繰出さなければならんが、何よりも気づかわしいのは、上野介義央(よしひさ)及び左兵衛義周(よしかね)の安否であるから、取敢えず数人の家臣に医師を伴わせて出発させ、救援隊は、桜田の上屋敷から一隊、麻布の下屋敷から一隊、それが別々に向っては力が弱いから、途中で一つになって押寄せる事にしたが、何しろ電話もなく、自動車、自転車もなかった時代の事とて、打合せの使を往復している間に時間がずんずん経過して、敵はもう引揚げた、上野介は討たれ、左兵衛(さひようえ)は傷ついた、ということも追々判ってきた。
そこで「しからば敵の引揚場所を探し求めて討取ろう」と、上杉家の少壮武士は軒昂たる意気を示す。老人組の中にも、「主君の肉親の父を殺され、肉親の子を傷つけられ、このまま安閑としていては当家の武が立たぬ。いざ出兵の用意!」と息まく者がある。当主綱憲(つなのり)も、自ら陣頭に立たんとする程の勢い、ただここに江戸家老色部又四郎、やや沈思の後決然として不同意を表明した。
「我君の御心情を拝察仕れば、御親子(ごしんし)の御仇(おんあだ)なる赤穂の浪人共を、討伐せんと思召さるるは当然の御事ながら、元来、この事変は吉良家のみにかかる事で、我が上杉家に関する事ではござらぬ。吉良家にしかけた喧嘩を上杉家が買って出て、江戸城下に血を流すことは、将軍家に対して恐れ多くはござらぬか、、切取強盗に類する赤穂浪人共の所行は、上杉家が手を下すまでもなく幕府に於て処置せらるるに相違ござるまい」
なるほど、聴いて見れば道理はそうである。しかし現在の親を殺され子を傷つけられて、指を咬(くわ)えて見ていられようかと、綱憲や少壮武士の意気には制しがたいものがあるので、家老色部も持て余していた。
そこへ、上杉、吉良両家の親戚に当る畠山下総守(義寧(よしやす))が騎馬で駆けつけた。下総守は、当日(十五日)御例日なので、定例の通り礼装して登城したところが、閣老がすぐ呼び付けて、吉良邸今暁の騒動を告げ、
「このさい心配なのは、上杉家から家臣を繰出す事である。もし上杉が出せば、浅野の本家でも傍観してはいまい。そうなると、事件は益々拡大して、いかなる大騒動にならないとも限らぬ。赤穂浪人共はすでに大目付仙石伯者守に届出ており、幕府に於て処置することになっているからこのさいもし上杉が手出しすれば、幕府に手向うのも同様の理となる。この事を即時上杉家に通じて心得違いなきよう説諭せよ」
というので、それを聞くと畠山は、すぐその場から馬を跳ばして来ためである。こういう際の鎮撫の責任を親類中で有力な大名に負わしめるのは、幕府の常套手段である。
上杉家では、家老色部が主君を諌め、一同を制していたところへ、下総守がこの幕命を伝えて来たので、もう問題なく納まった。しかしこういう事情は外部に知れないから、世間では、一途に上杉の臆病と決め、これを嘲った落首などができた。
  上杉の車がかりも今は早内蔵(くら)に納めて出でぬ弾正
  父親を吉良る\までも内弾正(ないだんじよう)子の上すぎし恥もやはある
  上杉の火消はあがる名は下る竹に雀の尾をすぽめけり
  根は枯れて葉ばかり残る上杉の武士をば止めて酒店にせよ
 
七〇 一同泉岳寺から仙石邸へ

 

泉岳寺の義士一同は、今にも上杉家から討手が来るかも知れない。もしやって来たら、寺を騒がすこと本意でないから、門外に於て尋常に勝負しようなどいっていたが、一向そんな様子もないので、昨夜来の疲れと本望を遂げた安心とで、いずれも武装こそ解かないが、昼寝した。ぐっすり寝て覚めても、まだ幕府から何の沙汰もない。所在なさに、寄って来る雲水を相手にして、他愛もない事を語り合っていた。
夕刻になってから、御徒(おかち)目付石川弥一右衛門、市野新八郎外一名が麻神(あさがみしも)でようやくやってきた。そして大石以下四十六人を残らず坪び出して、「仰渡さるる儀があるから、早速仙石伯善守へ参るよう」と申渡した。大石はその請書(うけしよ)を差出した後、住職の取次で、「上野介殿の首(しるし)を持参しておりまするが、これはいかが致しましょうか」と尋ねた。役人は、
「その段は指図いたしかねる。しかし仙石邸へ持参するには及ばぬ。寺へ預けて処置を住職に委せてはどうか」
との挨拶なので、しからばと、首と守袋とを住職に渡した。これは吉良家の菩提寺万昌院(ぱんしよういん)和尚から仙石伯書守へ、なんとか首の返るよう御高配願いたいと頼み、仙石から泉岳寺住職に、住職から大石に話があったので、もう用のない首ではあるが、念のため役人の意見を尋ねたのであった。
それで泉岳寺から、使僧に持たせて首と守袋とを吉良邸へ届けたが、その時の首の請取状が、今でも泉岳寺に残っている。『米沢塩井家覚書』には次の通り書いている。
上州様御首これなく、左兵衛様始御一類様方、此上の御残念と思召され候へ共、取返すべきやうも之なく候処、上野介様御牌所万昌院、御目付仙石殿へ此旨願ひの上、仙石殿御才覚にて敵方より早速御首返し申候。御首白無垢(しろむく)の小袖に包み、大石内蔵助印封(いんふう)之あり、井に鼻紙袋、守袋まで相そへ返し申候。之も同人印封にて相返し候。さてさて末細(まつさい)なる所まで気をつけ、御鼻紙袋、御守袋まで持参候。うろつかぬ働どもに御座候。右十七日相返り、十八日万昌院にて葬礼相済候。御法名霊性院殿前上州別当従四位上羽林実山成公大居士、奥様法体梅嶺院様と申し奉り候。
さて戌の上刻すなわち午後七時頃に一同泉岳寺を出て仙石邸に向った。老人と手負とは、辻駕籠十挺を雇うて乗せ、いずれも討入の装束のまま、武器も携帯した。大石は、長い道具類は捨てておいたらよかろうと言ったが、若い連中は、もしも上杉勢が途中でかかって来てはというので、すべて持参した。
道筋は、高輪から三田を経て、愛宕下西久保の仙石邸へと進んだが、その途中の町々の警護厳重で、屋敷は門前に高張提灯を出し、番卒も立っていた。
仙石邸玄関では御徒目付(おかちめつけ)が出て、大小や懐中の品などを改めて請取った。鑓(やり)や長刀(ながだち)は門前に差置いたが、かかる物を持参した理由をことわると、「もっともである」と諒解された。 
 
七一 四家へ御預け申渡

 

義士一同導かるるままに、大目付仙石邸玄関から上にあがると、役人が一々氏名、年齢、御直参(ごじきさん)に親類のある者はその続柄(つづきがら)、旧浅野家にての勤役(つとめやく)、今暁吉良邸で負傷した者はその程度などをも尋ねて、書き留めた。
それから大目付仙石伯蓄守、目付鈴木源五右衛門、水野小左衛門三人列席の前へ、大石以下十七人を先ず召出して、細川越中守ヘ御預けの旨申渡し、その他ヘも次々申渡したが、ここに各家へ御預けの面々を、以前の役柄、知行、年齢と共に列記する。
細川越中守綱利(肥後熊本城主、五十四万有)へ御預け
  大石内蔵助(家老、千五百石 四十四歳)
  吉田忠左衛門(郡代、二百石、役料五十わ 六十二歳)
  原惣右衛門(物頭、三百石 五十五歳)
  間瀬久太夫(大目付、二百石、役料十b 六十二歳)
  片岡源五右衛門(用人、小姓頭、三百五十有 三十六歳)
  小野寺十内 (京都留守居、百五十石、役料七十石 六十歳)
  堀部弥兵衛 (元江戸留守居、隠居料二十石 七十六歳)
  礒貝十郎左衛門 (近習物頭、百五十石 二十四歳)
  潮田又之丞 (絵図奉行、二百石 三十四歳)
  富森助右衛門 (江戸留守居、二百石 一一、十三歳)
  近松勘六 (馬廻、二百五十石 三十三歳)
  矢田五郎右衛門(馬廻、百五十石 二十八歳)
  奥田孫太夫(馬廻、百五十石五十六歳)
  早水藤左衛門(馬廻、百五十石 三十九歳)
  赤埴(あかぱね)源蔵(馬廻、二百石三十四歳)
  大石瀬左衛門(馬廻、百五十石 二十六歳)
  間(はざま)喜兵衛(勝手方吟味役、百石、別米四斗三升六十八歳)
以上十七人。
松平隠岐守定直(伊予松山城主、十五万石)へ御預け
  大石主税 (内蔵助嫡男、部屋住 十五歳)
  堀部安兵衛 (弥兵衛養子、馬廻、二百石三十三歳)
  中村勘助 (祐筆、百石 四十七歳)
  木村岡右衛門 (絵図奉行、百五十石 四十五歳)
  不破数右衛門 (元普請奉行、元百石 三十三歳)
  菅谷半之丞 (代官、百石 四十三歳)
  千馬三郎兵衛 (宗門改役、百石 五十歳)
  岡野金右衛門 (小野寺十内甥、部屋住 二十三歳)
  貝賀弥左衛門(吉田忠左衛門弟、蔵奉行、十両三人扶持、外二石 五十三歳)
  大高源五 (膳番、二十石五人扶持 三十一歳)
以上十人。
毛利甲斐守綱元(長門長府城主、五万石)へ御預げ
  吉田沢右衛門 (忠左衛門嫡男、部屋住 一十八歳)
  岡島八十右衛門 (原惣右衛門弟、勘定役、一十石五人扶持 三十七歳)
  武林唯七 (十両三人扶持三十一歳)
  倉橋伝助 (二十石五人扶持三十三歳)
  村松喜兵衛 (江戸蔵奉行、二十石五人扶持 六十一歳)
  杉野十平次 (八両三人扶持二十七歳)
  勝田新左衛門 (中小姓、十五石三人扶持 二十三歳)
  前原伊助 (金奉行、十五石三人扶持三十九歳)
  間新六 (間喜兵衛次男、部屋住 二十三歳)
  小野寺幸右衛門 (十内養子、大高源五弟、都屋住 二十七歳)
以上十人。
水野監物忠之(三河岡崎城主、五万石)へ御預け
  間瀬孫九郎 (久太夫嫡男、部屋住 二十二歳)
  間十次郎 (喜兵衛嫡男、部屋住 二十五歳)
  奥田貞右衛門 (孫太夫養子、近松勘六弟、部屋住 二十五歳)
  矢頭右(やこうべよ)衛門七 (亡父長助二十五石五人扶持、部屋住十七歳)
  村松三太夫 (喜兵衛嫡男、部屋住 二十六歳)
  茅野和助 (歩行横目、五両三人扶持、役料五石三十六歳)
  横川勘平 (歩行、五両三人扶持 三十六歳)
  神崎与五郎 (歩行横目、五両三人扶持、役料五石 三十七歳)
  三村次郎左衛門 (酒奉行、七石二人扶持 三十六歳)
以上九人。
この水野家預人の最終に、初は寺坂吉右衛門の名があったに、それは大石以下誰もの知らぬ間に姿が見えなくなったというので、逃亡と見なされた。 
 
七二 仙石邸非公式の問答

 

大石以下十七名を前において細川越中守への御預けを申渡した後、仙石伯書守は大石を傍近く呼び寄せ、
「これは職務外の事であるが、この度本意を遂ぐるについては、万事誠に遺漏なき致し方、深く感じ入ったぞ」
と、いかにも打とけて称美する。大石大に面目を施して、
「有難い御言葉、恐縮至極に存じ奉りまする」と挨拶した。伯蓄守は、事件の大体はすでに吉田忠左衛門と富森助右衛門から聴いてはいるが、なお大石の口から物語を聴きたいとて、討入の状況、邸内での駆引などに付質問し、また吉田らが途中で別れてから泉岳寺までの道筋を問い、大石一々明快に答えた。邸内の働きの様子などで、大石がその場に居合せなかった部分のことは、吉田その他が代って答えた。
「泉岳寺へ参るに、手負(ておい)怪我人は駕籠に乗せたそうであるが、手負は誰か、怪我は大した事もないか」
と問われて、大石感激、金瘡(きんそう)の横川勘平、打撲傷の近松勘六、足を挫いた原惣右衛門、腕を傷めた神崎与五郎について、さしたる事でない旨を答える。
「邸内に於て召捕った者に蝋燭を出させ、火を点じて捜索したという礒貝とやらは」
「あれに控えておりまする」と大石は十郎左衛門を指さす。
「見受けるところまだ若そうであるが、さてさて落着いた仕方」
と賞める。なおこの時伯誉守が、大石主税はどこにいるかと尋ね、年は十五と聞いて、その大男なのに驚き、しかし声を聞けば、どこか幼いところがあるとて、役人一同感心したことが、『江赤見聞記』その他諸書に見えていて、大石が父として面目を施す場面、劇などに仕組んだらさぞ面白かろうと思われるが、大石、原、小野寺連名で寺井玄渓に贈った実況記(原惣右衛門執筆)によると、伯書守ら三人が大石に様子を話させたのは、細川家へお預けの十七人だけを前においての時で、主税はその席にいなかったはずであるから、前後辻褄が合わぬ。多分これは、松平隠岐守へお預けの主税以下十名に対して申渡のあった後の事で、内蔵助同席ではなかったのであろう。
なおこのさい仙石伯者守と大石との問答二十余条が、『江赤見聞記』その他に記載され、これを「内蔵助申開」など称して一般に知られているが、原惣右衛門執筆の実況によれば、大石に物語を聞かれたまでの事で、申開きなどいう性質のものでなかったことは確実である。
いよいよ仙石邸から送り出されようとする間際に、大石は主税を片隅へ呼んで小声でいった。
「かねがね申聞けておいた事を忘れはしまいな」
最期の場合に未練がましい体を見せるなよの意味である。
「御心配下されますな、決して忘れは致しませぬ」
凛然たる一語に、大きくうなずいた父は、千万無量の思いを眼に含めたまま別れた。 
 
七三 四十六士引渡

 

細川越中守は、殿中において大石内蔵助以下十七士御預けの命を受けるや、この忠義の武士を預るのは武門の面目であると喜んで、目ら部下を指揮して受取に出ようと意気ごんだが、他家の振合もあるから、太守(たいしゆ)自身の出馬は見合されたがよかろうと、老中の注意もあったので、家老三宅藤兵衛を隊長とし、側用人(そぱようにん)鎌田軍之助以下総勢八百名以上の多勢が、十七挺の駕籠の外に予備としてなお五挺を用意し、隊伍堂々と仙石邸に向った。
十七人の受取に八百人からの大部隊を繰出したのは、奇異のようであるが、こういうさいには藩の威武を示す必要もあるのと、他方には、上杉家が親の仇たる四十六士を奪うために途中襲撃するかも知れないとの噂が立ったので、四家とも最大限に家臣を繰出したのである。すなわち左の通り。
細川家 松平家 毛利家 水野家
伯蓄守は、以上の請取人を呼出して心得を申聞かせた。
「今度の御預人は普通の罪人とは事情が違うから、その含みにて万事いたわって遣すよう。中には手負の者もあるから途中を注意し、もし乗物の戸を開きたいと望む者があれば、望みに委せても苦しゅうない」
前年浅野内匠頭が城内から田村邸へ送られる時には、駕籠に錠をおろして上から網をかけられた。罪人を駕籠で送る時にはそれが定法(じようほう)である。だのに大石らはこの優遇である。もって当局者がいかにこの義挙に感嘆し、いかに彼らに好意を表したかが察せられよう。
義士を預った四家の屋敷の位置は、細川家は高輪(たかなわ)の中屋敷(なかやしさ)で、今日高松宮御殿になっている所である。松平家は愛宕下の上屋敷(かみやしき)へ当夜取敢えず収容したが、翌日芝三田の中屋敷へ移送した。現在イタリア大使館になっている所である。毛利家は麻布北日ケ窪の屋敷で、今は増島六一郎博士の邸になっている。水野家は芝切通の上屋敷へいったん収容したが、数日の後芝三田の下屋敷へ移した。今の三田四国町十四番地である。各預人が仙石邸を発したのは午後十一時頃で、到着したのは四家共十二時前後であった。 
 
七四 細川家の十七士優遇

 

大石以下十七名が高輪の細川越中守邸(今は洋館の高松宮御殿になり、門だけが記念に残されてある)に着いたのは夜半の十二時頃であった。越中守綱利は床にも入らずに待ち受け、早速対面して次の通り言ったと、細川家の『綱利譜』に記録してある。
いづれも忠義の至り感心す。誠に天命に応ひたると存ず。当家に預ること武門の本望なり。心やすくくつろぎ、数月の辛苦、昨夜の労をも休め申すべし。何事によらず存ずる旨あらば、隔意なく申すべし。為(にめ)よき筋随分精を尽すべし。大法たる故、公義に対し家来少々出し置くといへども、誉人といふには非ず、一つは用事を達する為なり、遠慮なく申すべし。(原文、候文)
越中守は続いて家来に「夜もふけたから早々料理を出すように」と命じて奥へ入った。
居室は櫛形(くしがた)の間(ま)とかいい、四間に十五間の大広間で、中を仕切って二間とし、左の通り、配置した。
上の間
大石内蔵助、吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五右衛門、間瀬久太夫、小野寺十内、堀部弥兵衛、間喜兵衛、早水藤左衛門。
次の間
礒貝十郎左衛門、近松勘六、富森助右衛門、潮田又之丞、赤埴源蔵、大石瀬左衛門、奥田孫太夫、矢田五郎右衛門。
大体に於て、家格の高い者と老人を上の間としたらしいが、特別懇意な者は同室に組合せたと考えられる。『堀内覚書』に、礒貝は上の間のはずだが、早水と申合せて入り代ったとある。
それから料理を出し、濃茶菓子も済んだので、所々に風呂を立てて入浴させ(一人毎に湯を新しくした)、小袖一重(ひとかさね)ずつを与え、居室には炭火をどんどん起して暖を取らしめ、なお翌日からの料理も、越中守自ら指図して二汁五菜を供した。
御預けになってから、第四日目の十八日、接伴人がやって来て「今日は当家主人少々心願がござって精進をいたしまするから、御一同にも精進料理を差上げることに致した。何卒御承知おき下されい」と伝えた。これは越中守が、一党の助命を神仏に祈願して、そのため自ら精進潔斎し、家臣一同にも同様実行させたが、なお誠意の貫徹するようにと、義士らにも一日だけ肉食を避けさせたのである。
御預四家のうちで、即日太守が義士を引見したのは細川一家だけだった。水野監物は七日目の十二月二十一日に、毛利甲斐守は二十九日、松平隠岐守は翌正月五日に、初めて対面して慰安の辞を与えた。もっとも隠岐守だけは実際病気だったのであるが:…・。
料理は、松平、毛利両家とも細川家を標準としたものらしく、初から二汁五菜だったが、水野家だけは最初一汁四菜で、後にこれも、一汁五菜に改めた。ただし水野家にしても他の二家にしても、義士に対して冷淡だったのではない、身を捨てて亡君の仇を報じた忠魂義胆には感激し、武士の亀鑑として心私かに敬意は表しているのであるが、兎も角天下の大法を犯した罪人として預けられたのだからと、幕府に遠慮して、義士との対面もすぐには決行せなんだのである。しかるに細川家は、大藩の威力と越中守の識見を以て堂々と優遇し、ついには他の三家をしてこれに倣わしむるに至った。 
 
七五 堀内伝右衛門の篤実

 

細川家では、大石以下御預りの十七士の接待役(せつたいマく)を、家臣の堀内伝右衛門外四人に命じて、二人ずつ交代に昼夜詰めさせていた。堀内の役柄は御使番(おつかいぱん)で、知行は二百五十石、年は五十八歳で、人物は忠誠篤実、藩内に於ても屈指の武士であった。
この堀内、義士らの一挙に深く感激、越中守の意をも体して一同の慰安に全力を尽しているが、気に食わないのは家老、三宅藤兵衛の形式的官僚主義である。三宅は関係の役人一同に対して、「預人に向っては、今度の一件に関する話を一切しない事、もし先方から話しかけられても、ただ返答だけしてこちらから問いかけなければ、話も自然に止むだろう。その心得で勤めるように」と申渡した。うっかり同情して、幕府を誹るような意味に解釈されては大変だ、という考えからである。こういう小胆な形式主義者は、いつの時代にも多い。
そこで堀内は、御小姓頭(おこしようがしら)の平野九郎右衛門、御留守居(役名)の堀内平八、両人の人物を見込んで相談した。
「家老はああ言われるけれども、この古今にたぐい稀な忠義の武士達を預りながら、今度の一件を当人の口から何も聴かずに終られること、いかにも惜しいと思う。貴殿ら御両人だけでもお聴きになっておいてはいかがでござる。御賛成ならば、適当の機会を拙者お知らせいたそう」
「いかにも、拙者自身のためにも、若い者共のためにも、聴いて置きたいと存ずる。しかるべき機会をお作り下されい」
「承知仕った」というようなわけで、伝右衛門は、昼間は人の立居が多いので避け、夜食(夜八、九時頃軽い食事が出る)も済んだ頃、九郎右衛門と平八にそッと知らせた。両人早速やって来たので、吉田忠左衛門と原惣右衛門を片隅へ呼んで、今度の一件を大体語ってもらった。
こんな風に、心ある人にはなるべく聴かせるように努めた位だから、自分が熱心に聴いたことはいケまでもない。そして彼は、聴いたままを、極めて忠実に、極めて克明に、一々帳面に書き留めた。今日『堀内伝右衛門覚書』または『堀内覚書』として、義士史料の随一になっているのがそれであるρこの覚書五巻が現存せるために、今日、大石や吉田、原、その他細川家御預けの十七士の人物性行を、どれ位明確に知る事ができるかしれない。
松平家に於ても、歩行目付(かちめつけ)の波賀清太夫という傑出した人物が、大石主税以下十人の話を書き留め、隠岐守に上(たてまつ)った。その『波賀朝栄聞書』も、『堀内覚書』と共に重要た義士史料であるが、堀内の方はとくに精細を極めている。
なお堀内は、義士達のために内々で伝言を取次ぎ、切腹前二、三日からは書信の取次もした。自分で遠方まで義士の親類を訪問して.その様子を双方へ伝えた彼は、これを以て大石らに対する武士としての義務だと信じ.またこの史上にも稀な忠臣に永く自分の子孫をあやからせるためには、なるべく委しく彼らの言動を書き留めておく事だと思って、誠心(まごころ)こめて、真に一生懸命に書いたのである。
しかし、一件の話を聴くことは、家老から止められているし、とくに書信を取次ぐに至っては、幕府の禁を破るもので、もし発覚すれば責任が越中守に及ぶかも知れない。それで彼は、万一発覚した場合累が君家に及ばないよう、また義士らもお答めを受けないようにと、すべて自分一人の責任であることを、血涙の文字で綴った一書をいつでも懐中し、いざという場合それを差出して割腹する覚悟であったことを、覚書の巻末に書いている。
彼はまた、十七人が切腹申渡された際、一人一人の遺言伝達を引受けると同時に、その遺髪を乞い受けて、後日それを熊本の菩提寺たる肥後国山鹿郡杉村(今は鹿本郡八幡村字杉)の日輪寺に埋葬し、墓石を建てて、その後生を弔うた。
なおまた彼は、正徳五年二月大石らの十三回忌に、泉岳寺内の墓域、.大石主税の碑の側に一碑を建て、表面には熊本の藩儒熊谷直平(竹堂または藍田(らんでん)と号す)撰の碑銘を録し、裏面には、
  こゝろざし石にた、へん武士(もののふ)の名こそくちせね苔の下まで  旦夕
と自詠の一首を刻している。旦夕(たんせき)というのは彼の別号である。かれ堀内伝右衛門のごときは、実に四十七人に譲らざる義士というべきである。 
 
七六 細川家御預け十七士の生活

 

『堀内伝右衛門覚書』の説明をしたから、ここに同書によって、細川家御預け中の十七士の生活を、若干紹介する。
大石の述懐
大石ある時堀内に対して、当家の優遇と堀内の深い志を謝した後、つくづく述懐した。
「今度の一挙に加わった者共が、殆んど小禄の者ばかりなのはなんともお恥しい次第で、最初は相当大身の者も加わりい申したが、皆変心いたしたのでござる。先ず奥野将監(しようげん)と申す者、千石を頂戴して番頭(ばんがしら)を勤め、拙者と連名で上(かみ)への書付を差上げた事もあり、御老中方にも名を御存じの者。また佐々小左衛門と申す者は、二百石遣し城代(じようだい)申付けて、郡代(ぐんだい)の吉田忠左衛門よりは高い身分の者。そのほか足軽頭(あしがるがしら)の進藤源四郎、同小山源五右衛門、同河村伝兵衛たど、ここにいる原惣右衛門よりは上座、その中には拙者親類の者もござって、全く面目次第もござらぬ」
富森の合葬希望
富森(とみのもり)助右衛門がある時堀内に、二つお頼みかござる」とてシ、・・ジ、・・言った。「余の儀でもござらぬが、拙者共今度の仕儀に付、打自になるものと最初から覚悟いたし、せめてその刑場だけでも良い場所であるようにと願いおり申したところ、各方(おのおのがた)の話で、意外に世間から同情をいただいている事を伺い、それならあるいは、光栄ある切腹などに仰付けられるかも知れないなどと、欲が出て参りました。そうすると今度は、なるべくならばこの有難い御屋敷で切腹させていただきたいなアなどとまた欲が出て参り申した。万一かような望みが叶いましたならば、十七人みな宗旨もちがいますので、あるいは寺の坊主や親類の者共が、死骸引取を願出るかも知れませぬが、どうかそれは御取上げなく、是非是非泉岳寺の然るべき空地に、十七人を一つの穴に埋葬していただきたく存ずる。これは一同の願いでござるから、宜しく御尽力願いたい」
吉田の特別希望
吉田忠左衛門が言った。「富森からお願い申した十七人同穴の件、快く御引受下され御尽力たまわる趣、誠に恭く存ずる。それに関連して、拙老には今一つお願いがござる。妙な事を申すようでござるが、拙者は金子少々所持いたし、捨てもならぬのでそのままに致している次第。この金を以て白い布をお求め下され、二重の大風呂敷を作って、四方につがりを付けさせ、死骸の見えざるようくくり寄せて運ぶように、御取計いねがいたい。御覧の通り拙者老体で大柄ゆえ人一倍見苦しかろうと存ずる。何卒御同情下されい」
原の大野罵倒
堀内が富森(とみのもり)と話しているところへ、原惣右衛門が顔を出して「何か面白い話でもござるか」というと、富森は「堀内殿、原氏が赤穂で大野九郎兵衛を逐出した時の話をお聴きなされ、それは愉快でござったぞ」との事なので、堀内「それは是非是非伺いたい」と所望すると、原「富森氏はよけいな事を申される」と笑ってばかりいる。それを堀内が強いて語らせる。「それは赤穂の城中会議の時でござる。大石、大野両人の意見がどうしても一致いたさぬので、拙者大野の前に進み出で、この席にいる者残らず大石殿の御意見に賛成でござる、それに同意をなさらぬ貴殿がこの席に御留りになるのは無用と存ずる、サア御立ちめされと、迫って追立てた次第、あの時もし素直に立たなければ、拙者大野を打果していたに相違なく、万一4、んな事をしていようものなら、今度の一同の志も空しくなっていた事と、その後思い出してはぞっと致すことでござる」というと、富森側から「あの時の原氏の権幕は、なかなか今のお話のような生やさしいものではござらなんだ」と笑った。
可憐の礒貝
堀部弥兵衛老人が堀内に語った。「礒貝十郎左衛門に親切にしておやり下さること、拙者とくに有難い。と申すのは、ここにいる者いずれも二代三代の重恩に与っている者ばかりで、拙者などは三代前に浪人から呼出され、段々御取立に預った者。御覧の通りの老齢ゆえ、志ばかりは人並でござるが一向働きはならず、裏門の番をしてい申した。若い人達は随分よく働かれましたわい。その若い人達の中でも不欄なのは礒貝(二十四歳)で、十四歳の時拙老口添で児小姓(こごしよう)に召出さ力てから、僅に十年の御恩に過ぎ申さぬ。それに二代三代の相恩老(そうおんしや)同様今度の一列に加わり、あの朝本望を遂げて泉岳寺へ引揚げる途中、金杉橋から将監橋(しようげんぱし)にかかった際、近くに礒貝の母がいるはずなので、立寄って暇乞をしてくるようにと、大石殿初めいずれも勧め申したが、どういう理由かとうとう立寄りませなんだ。一同の手前を遠慮したものと思われますが、ふびんがいっそう加わりますわい」と語った。堀内伝右衛門感服して、早速次の間に入って礒貝に「堀部老人から承り申したが、さてさて感心なる御事でござる」とほめると、礒貝きまり悪そうに、「それは堀部のおじいさんが晶屓目(ひいきめ)にお話下さったのでしょう。私は幼少の時から特別殿様の御寵愛に与り、江戸の住居も身分以上に広くいただき、年とった母も緩(ゆつ)くりとくらさせて戴いたので、その重い御恩は古い方々に決して譲りませぬ。引揚のさい、母に会ってくるようにと、大石殿外皆様お勧め下されたれど、第一装束があまりに人目に立ち、また母は今兄の処にいますが、兄は小身(しようしん)とは申せ他の主君に仕えておりますので、御屋敷へ対しても失礼と存じ、なおまたたとい僅かの時間でも、列を離れている間にどんな異変が起らないとも限らぬと思い、立寄らずにしまいましたが、今となっては惜しい事をしたと後悔いたされます」と笑った。堀内はこの項の終りに「誠に十郎左衛門は別して感じ入りたる事多く候事」と附記している。そして後にその母と兄を訪問して、双方を慰めてやった。
近松の僕甚三郎
ある時近松勘六が堀内に「僕(しもべ)の甚三郎と申す男の事を思い出すとふびんでなりま(ちちち)せぬ」というので、その理由を尋ねると、近松は委しく語った。「甚三郎の親は近江の田舎で庄屋を致している。今度召連れて当地へ参ったが、いよいよ一挙の日も近づいたので、それとなく暇をやって国元へ帰らせようと致したところが、様子で察したと見えてなかなか承知致さず、無理に立たせようとすれば腹をも切りかねないので、そのままにして討入の夜も共に召連れ、吉良の門外に留らせました。さて本望を遂げて一同屋敷から出ると、咽喉がお乾きでしょうと申して、蜜柑や餅を挟や懐から出して皆に食べさせ、我事のように成功を歓び申した。拙者共が仙石様御邸から当家へ送られまする際など、多分あと先になって、辻番あたりにうろうろ致していた事と察せられ、ふびんでなり申さぬ」堀内深く感じて、その後近松の弟に当る谷中(やなか)長福寺の文良という僧を訪問して、甚三郎の様子をきくと、一挙後十日ばかり滞在していたが、国へ帰ったという話だったので、この事を近松に伝えると、非常に喜んで.いかにも安心した体に見受けられた。
富森母と子を思う
富森助右衛門、堀内に語る。「拙老の衣類の中に、女小袖の白く袖口なども狭いのがござる。妙な物を持っていると思召すでしょうが、実は老母の着物でござる。討入の日、今晩遠方へ旅に出るに、殊の外寒いからと申して、母の着衣を借りて下着にいたしたものでござる」と。堀内聞いて「さてさて感心なる御心がけ、昔から母の衣と書いてほろと訓(よ)み申すが、全くその通りでござる」と嘆賞した。その後寒さがだんだん強くなって来たので、堀内は広い部屋に枕を並べる各士に、銘々枕屏風を立てさせることにした。その小屏風の一つに、鶴が子に餌を食べさせている絵の描かれたのがあった。富森それを見て、堀内に語った。「さてさて残念な事でござる。我々はもうとッくに死んでいるべきはずなのに、思いもかけず今まで存命して、この御屏風の絵を見たため、家に残っている子供の事を思い出しましたわい」
この富森の子供を、堀内わざわざ訪ねて面会し、様子を報告したので、富森非常に喜んで感謝した。名は長太郎といい、二歳で、富森と非常によく似ていたとの事。富森も大石同様、妻とこの幼児とに累の及ばぬよう離縁したものと見えて、親類書(しんるいがさ)に記載はない。
堀内はまた別の日に、富森の母と知人の宅で会見した。助右衛門の無事なことを伝えると、非常にシッカリした婦人で、いろいろ礼を述べた後、「私共のような女でさえ、内匠頭様(たくみのかみさま)は切腹、相手の上野介殿はそのままという片手打の御仕置では、納得いたしかねますもの、男に生れた助右衛門が今度の致し方、もっともの事と存じます。それにしても段々結構なる御もてなしに与ります由、有難い事でござります」と堂々と挨拶したので、堀内ひどく感心して「初めての対面、女の口上に、片手打の御仕置など申され候儀、珍しき女性、さすが助右衛門の母儀(ぼざ)と感心いたし申候」と附記している。
礼儀正しい大石
初めて細川家へ着いた晩、一同へ小袖二枚ずつ与えられ、歳暮に、また一枚と帯なども賜わったが、その品を持って入った坊主に大石は「この屋敷で太守様の御居間はどちらの方角にあたるかな」と問い、その方に向直って品物を捧げ、鄭重に拝礼した。
寒がリの大石
富森が堀内に「大石殿は非常に寒がりで」と詰したので、羽織か何か出したらと、いろいろ上役に相談したけれども、大石一人だけちがった取扱いはできないといわーれたので、それでは大身(たいしん)の方々が、自分自分の心付のようにして、老人の方々へ頭巾(ずさん)でも贈られてはどうかと進言したが、これも物にならたんだ。大石は夜ふせる時、茶縮緬のくくり頭巾をスッポリ被り、時には炬燵(こたつ)ぶとんを引っかついでもいた。
堀部の矢声
堀内が寝ずの番に当っていた夜のこと、丑の刻(午前二時頃)にええッと矢声(やごえ)をかけたものがあるので、眠っていた人も目をさまし、起きていた者は、胆をつぶした。堀内は、「今のは多分堀部老人だろう、見て参れ」と坊主をやったところが、やがて立返って、そうだった事を報告した。義士の事といえば、なんでも感心する堀内、「弥兵衛老人は若い衆に負けないようにと、絶えず心がけていられる故、寝言にまで勇ましい矢声をかけられる」と評した。弥兵衛は食後にいつでも、「御免下され、老人は足がすくんでなり申さぬ」といって、縁側をあちらこちらと、歩き廻るのが常だった。
馳走攻に閉口
三度三度、イヤその外にお八つと夜食がある。二汁五菜の料理も一品毎に材料を吟味し、手のかかった御馳走である。十七士いずれも閉口して、大石その他から食膳毎に申し出た。「御存じのごとく我々は久しく浪人して、軽い物ばかり食べており申したに、当家へ参ってからは毎日毎食結構な御料理ゆえ、残念ながら腹にもたれて、唯今は麦飯に塩鯉がこいしくなり申した。何卒御料理を簡単に、思い切って軽いものにお願い申したい」堀内承知して「なるほど左様でござろう。拙者も当番の日は御相伴(おしようばん)いたして、少々つかえ気味でござる。よく料理場へ申付けましょうが、ただ二汁五菜の品数は、主人からの命令ゆえ、減らすわけに参り申さぬ。その点は御諒承を」「ではなるべく、唯今ここに附いているちさ汁、なまこ鰭(なます)、糠味噌漬(ぬかみそづけ)、こういう種類の物ばかりをどうぞ」それで堀内はいろいろと料理人へ注意したが、「それじゃ手前共に用は無いと仰しゃるのですか」と、ついに一同の希望は実現されなんだらしい。
大石髪を結わす
大石は細川家に来た翌朝から髪を結わせた。他の者は前夜の髪のままで二、三日いたので、堀内が「慣れない者に結わせるのは心持のわるいものではござるが、そのままでいられるよりはましでござろう。下手でもお結わせなされい」と勧めたところが、追々結わせるようになって来た。
万事遠慮
入浴は据風呂で、一人毎に湯を取かえさせていたが、富森から「御厚遇は有難く存ずるが、かえって迷惑仕ることでござる。浴湯(よくとう)のごときも、多人数入りたる後の方が肌に柔かく感ずるものでござれば、一人一人の新湯は御廃(や)めに願いたい」と申出たので、あまり窮屈がらせても、よくないと、後には二、三人毎に取替えさせる事にした。下帯なども垢じみぬようにと頻繁に出したが、遠慮がちでなかなかかえなんだ。
火災の心配
義士らは非常に火災を恐れ、風でも吹く夜は、どうか近所に火事が無ければよいがとよく言い合った。それは番人や接伴人などに、この上苦労をかけては気の毒だという意味からである。堀内伝右衛門、ある時それを聞いて、「そう御心配には及び申さぬ。ここは屋敷も広くござる故、万一火事の起った際は、泉水の流れもあり、芝原の広々とした庭の方へ御案内申す事に、予定されており杢すから」と言った。すると誰だったか、「それなら一度火事にあいたいものでござるな7一といったので、一同大笑いした。
堀部の飲酒観
堀部弥兵衛が堀内に、「肥後の高田といえば、有名な刀鍛冶の本場でござるが、熊本から道程(みちのり)何程離れおり申すか」と尋ねるので「三十二、三里ござる」と答えると、「左様でござるか、拙者も高田の行長、重行の作(さく)を所持致しておる。なお同地に拙者と同姓の甚之允(じんのじよう)と申す酒好(さけずき)の男がござるが、御下国の際御会いになる機会でもござったら御伝言願いたい、拙者は兄弟九人あり、その内酒好の二人は幸運でござるが、拙者を初め酒を飲まぬ者は不運でござる。甚之允に大に飲めとお伝え下され」と大笑した。
少年の涙
十七士中酒の好きな者が多いので、夜まで薬酒(くすりざけ)という名儀で出される。その薬酒のお酌をしていた十五歳の少年(坊主と呼ぶ)に大石が「長い間お前達にも厄介をかけているが、もう近いうちに片付くのだからナ、その時はお念仏を頼むよ」と言って笑うと、少年は顔を伏せて涙を落したので、傍にいた富森がその純情に感じてまた落涙した。『堀内覚書』には、右のような十七士の言行がなお数々記されている。 
 
七七 「不届者」の寺坂

 

附 徳富蘇峰翁の寺坂逃亡説
細川家御預け十七士中、堀内伝右衛門と最もよく語り合ったのは吉田忠左衛門である。これは吉田が話上手だったのと、その練達から、堀内が赤心を人の腹中に置く底(てい)の意気を看取して、こちらも同様に赤心を披渥したためであろう。
その吉田忠左衛門が、ある時堀内の側近く寄りて「拙者の女婿伊藤十郎太夫と申す老、本多中務(なかつかさ)様(姫路城主)の御家中にあり、昨今ちょうど江戸に詰めておりまする。本多家譜代の家柄で、父八郎左衛門は相当の武功もあったのでござるが、片口(かたくち)もので自分の申したい事ばかり申す故、いつまでも小身(しようしん)ξ、二百五十石いただいているに過ぎませぬ」とて、その八郎左衛門の逸事などを語った。堀内それに答えて、「左様の例は、随分多い事で、心のままに言いたい事をいうような人物は、古今、大抵小身と決っているようでござる。しかしそういう人物はまた、そんな事を苦にはせず、何か一つの楽みに心を傾けるものでござる」と挨拶した。
つづいて吉田が、「唯今申した伊藤十郎太夫に、折もあらば御交際下さると、いろいろお話申すことでござろう」と言った。禁を破って自分の近状を伝えてくれとはいわぬ。婿や孫達の様子を聴いてくれとは頼まぬ。しかし堀内が、自分の生命を犠牲にして、それらの用を足してやろうとしてくれる義心と李誠とに、全然応えないのも、あまりに、人情味のない仕方なので、こちらから頼むのではないが、という意味で前記の通り女婿の居所を告げたものと考えられる。こうしておけば堀内は頼まれて預人の使いをした事にならず、形式的には自分の都合で伊藤十郎太夫に交際を求めた事になるからであろう。吉田の老練さは万事この通りである。
堀内も直ちにその意を諒した。「承知仕った。是非御愛婿(ごあいせい)に御近しく願いたく存ずる」と答え、早速御成橋内(おなりぱしうち)の本多家屋敷へ伊藤を訪問した。
十郎太夫は多分、吉田の婿という廉(かど)で遠慮しているのだろう、少々所労(しよろう)と申立てて引籠り、月代(さかやき)も剃らずにいたが、直ちに面会した。堀内、自分の身分や役目を説明した後「忠左衛門殿御無事で御座るから、御安心あるよう」と近状を委しく話すと、十郎太夫深く感謝して、
「なんとも有難い仕合せ、それをまたわざわざ御知らせ下さった御厚志御礼の言葉もござらぬ。ちょうど昨日国元からたよりがござって、俸( ちさ)両人(忠左衛門には孫)庖瘡(ほうそう)も軽くしまい、もう入浴も致させた趣、また忠左衛門の家族共も無事におり、寺坂吉右衛門も無事に下って、拙者の留守宅にも参った由申越しました。これらの事、何卒忠左衛門にお伝え下さるよう願いまする」
と何もかも打明けて話した。堀内わざわざ訪ねて来たかいがあったと喜んで、立ち帰って、委細吉田に語り伝えた。
江戸にいる婿の近況を知った上、国元の家族や孫達の様子までも聞くことをえた吉田の喜びはいうまでもない。繰返し繰返し堀内の厚意を感謝した。
しかし、その喜びと同時に吉田を驚かせたのは、寺坂吉右衛門の消息であった。彼は回向院に引揚の直後、広島の浅野大学(内匠頭の弟)の許へ報告の密使に立たせ、幹部一同協議して公儀に対しては「逃亡」の取扱いにしてしまったのである。だから、彼が広島へ行く途中、姫路で伊藤の留守宅、亀山で吉田の妻子などを訪ねたとの噂がもし弘まろうものなら、逃亡でない事実がばれて、大石ら幹部は、公儀を欺いた罪を重ねなければならなくなる。これは大変な事になって来たと、さすがに老巧の吉田も狼狽せんばかりに驚いたに相違ない。
そして、誰よりも先ず、この話を聞いて来た堀内伝右衛門をして、寺坂をその実逃亡と信ぜしめなければならぬと考え、厳然として「吉右衛門は不届者でござるによりて、以後再び彼の名を仰せられぬように願いたい」と、半ば命令的に言い放った。その語調があまりにはげしかったので、堀内もあッけにとられたらしい。それで彼も半信半疑、『堀内覚書』に次の通り書いている。
(上略)帰り候て忠左衛門に段々咄し候へば、さてく浅からざる御志、とかく申尽し難しとて歓び申され候。吉右衛門の事申出で候へば、此者不届ものにて候。重ねては名をも仰せ下されまじくと申され候。吉右衛門事も其夜一列一同に参り候て、欠落(かけおち)(逃亡のこと)いたし候由兼て何れも申され候。然れども志(つつが)なく仇を打ち申されたる儀、しらせの使など申付られ候など色々申候へども、右の通り申され候事、不審に存候。まことの欠落かとも存じ候事。
吉田は、堀内をして疑いを挿ましめぬように.と、厳然と明白に、寺坂の逃亡を断言したのであったが、堀内はそれでもなお全く疑いを解かず、「不審(りり)に存候。まことの欠落(かけおち)かとも存じ候事」と書いている。
しかるに、この『堀内覚書』の一節と、大石、原、小野寺三人の連名で寺井玄渓へ贈った書状の追書の中に「将又寺坂吉右衛門儀、十四日晩まで有之候処、彼屋敷へは見来らず候。軽き者の儀是非に及ばず候。以上」とある二つを証拠として、大蔵謙斎(妙海尼のバヶの皮を剥いだ人物)が寺坂逃亡説を主張し、それ以来、寺坂は本当に討入に参加したのかどうかが問題となっていたが、明治年間に重野安繹博士が『赤穂義士実話』で、寺坂が確かに討入に加わったに相違ない事を、証拠をあげて論断され、これによって寺坂は、立派に義士の仲間入りができるようになった。ところが、大正に入ってから徳富蘇峰翁が、どうした軽率からか、その著『近世日本国民史』中の『義士篇』に於て、すでに明治年間に重野博士が論破し尽している大蔵謙斎の寺坂逃亡説をそのまま論拠として、新たに寺坂筆訣の一論文を草し、『義士篇』の巻頭に掲載された。そして多くの人々の忠告や駁論に対しては、沈黙して一言も答えず、しかも書籍はそのまま発売させていられる。
しかるに数年前、前記伊藤十郎太夫(吉田忠左衛門女婿)の末喬の家から、多数の新史料(全部赤穂花岳寺に寄贈されている)が発見され、寺坂の討入参加は、いよいよ動かすことができなくなった。その新史料によって、赤穂町の伊藤武雄氏が『寺坂雪冤録』を著されたが、それら新史料中最も有力なのは、吉田忠左衛門が自殺の前日、すなわち元禄十六年二月三日付で、伊藤十郎太夫へ贈った暇乞状の中の一節である。すなわち次の通り。
吉右衛門事、先日伝右衛門殿口上にて承り申候。此段を唯今は是非申し難く候。一旦公儀へ指し遣し候書付有之候に付、仲間にて是非申されず候。御供にて近日御のぽり候以来を御了簡(ごりようけん)にて、如何様とも然るべき様頼み申候。上より少しも御障りは此者猶更これ無き儀に候。伯者守様にて旧臆(きゆうろう)十五日に右書き付け候内、私組の者一人欠落(かけおち)いたし申候と申上候。其通りと御挨拶に候。とかく御のぽり以来御了簡これあり、宜しく頼み存じ候。其内も御了簡にて、うかつ事は申さず候様に成され下さるべく候。
これを今日の言葉に訳すると次の通りになる。
吉右衛門の事は、先日堀内伝右衛門殿への御伝言で承知した。この一件は今日善悪を申されない。いったん公儀へ対して差出した書付がある以上、我々の仲間で批評はできない。そこ許も殿様の御供で遠からず姫路へのぼられるだろうが、その後はとくに慎重に考えて、吉右衛門の今後〃然るべきよう頼む。もはやお上(かみ)よりは、この者少しも障りのないはずである。仙石伯者守様に書付を差出した際、私組の者一人逃亡しましたと申上げ、その通りだと御挨拶があった。とにかく姫路へおのぼり以後は、とくに御考慮の上彼の身上を宜しく頼む。それまでにても、うっかりした事は口外せぬようになされ。
これによって、吉田が堀内に対して寺坂を不届者と罵ったのは真意でなかった事を証しうる。このほかにもなお数々の証拠史料があるので、今日に於ては徳富蘇峰翁も、『義士篇』巻頭の寺坂筆訣の一文を後悔していられるだろう。筆者は伊藤氏が『寺坂雪冤録』を出版せらるる際、多少関係したので、同書の序文を蘇峰翁に乞い、その序文中に於て、翁があの一文を取消さるるように取計らい、以て翁に罪滅ぼしをおさせ申したいと思って、その旨申入れたのであったが、翁は何か誤解されたらしく、「自説を変更する要を認めず」として応ぜられなんだ。爾来著者は、翁が実際そう信じていられるのかと思って、幾度か駁論を公けにしたが、翁は一度も駁論に答えられない。その後中央義士会で講演せられたから、その時こそ何か寺坂に言及されるだろうと期待していたところ、これまた一言もお触れにならない。蘇峰翁は、現になお発売中の『近世日本国民史』中の元禄時代『義士篇』巻頭の寺坂筆謙の一文を、今も訂正する必要なしと信じていられるのか、それとも今更取消すのは体面にかかわるとでも思っていられるのか、前者ならばその史眼どころか、常識をさえ疑わざるを得ず、後者ならばその人格のために惜まれる。 
 
七八 輿論の同情 附 室鳩巣の『義人録』

 

大石以下が細川家ほか三家にお預けとなるや、江戸八百八町のみか、天下到るところこの噂で持ち切った。いうまでもなく一党への讃嘆と同情とである。そしてこの忠義の人達が、いかなる処分を受けるだろうかということが、天下の政道と個人に対する同情の上から、興味百パーセントの問題となった。
「いくら亡君へ忠義のためとはいえ、御法度(ごはつと)の徒党を組み、陪臣の身で高家(こうけ)歴々の邸へ夜討を仕かけ、首を取って行った大胆な所行(しよハさよう)を、罰しないというわけには行くまい」
という者があると、「家を忘れ妻子を捨て、自分の生命さえ投げ出して忠義を尽した武士を、罰するという法があるか。それでは以後忠義を廃めよという事になろう」と周囲から反駁する。「近々二、三名ずつ諸大名に分けて、お預け替えになるという噂じゃ」という者があると、「そうして永預けということで、一生涯そのまま差置かれるのだろう」と推測する者もあり、「イヤ現在お預けの四家から、助命の嘆願書が出ているそうで、幸いに聞届けられたら、四家がそのまま四十余人を召抱えることになるはずじゃ」と、知った顔に説く者もある。「イヤ、いったんは流罪(るざい)にして、数年の内に特赦せられる事になるだろう」と、いかにも消息通らしくいうものもあった。
そして、二人よれば必ずこの噂が持ちあがるという状態になったので、江戸町奉行から「以後赤穂浪人の事に付噂話一切成らぬ」と厳達したが、「せけば溢るる谷川の水」で、反擾的に実際の噂はかえって高まる位であった。
  流すなよ沖(隠岐守)にかひ(毛利甲斐守〕ある大石を細川水の(水野)せきとめよかし
という落首(らくしゆ)ができたのもこの時分のことである。
吉良邸の塀には、
  斬ら(吉良)れての後の心に比ぶれば昔の疵は痛まざりけり
その他いろいろの皮肉をならべた落首が、毎日諸方に貼出された。要するに、大石ら四十余人に対する讃美の声と、吉良、上杉に対する嘲笑悪罵で、当時の天下は満ちていたといってもよい。
これらは庶民階級の事であるが、武士階級、とくに忠孝の精神を作興することを任務としている儒者仲間では、自分らが平素説いているところの君臣の義を、生命に代えて実行してぐれたという点で、讃美嘆賞の念もいっそう強く、当代の鴻儒室鳩巣(むろきゆうそう)のごときは、この人と事件とを後世に伝えるのは我々の責任だとして、早速『赤穂義人録』の著述に着手した。
『赤穂義人録』は上下二巻に分ち、上巻には事件の経過、下巻には四十七人銘々の伝記を、赤誠のこもった名文(漢文)にて綴り、この種の著書としてはもっとも早くかつ最も広く流布されたものである。lI-出版はやや後れているがー赤穂義士の称は、この鳩巣の名著『赤穂義人(りり)録』から出たもので、幕府が天下の大法を破った廉(かど)を以て切腹申付けたものに、堂々「義人」の美称を冠したのは、鳩巣の大見識として今日まで敬服せられているところである。
なお鳩巣の『義人録』は、表面逃亡者として不問に附せられている寺坂吉右衛門を、討入に参加したものと断定して四十七人の中に数え、その証拠を数点あげているところにも、見識のほどが窺われる。その証拠の一つに、御預けの人数割当の項がある。すなわち、討入人数が四十七人であったから、細川家十七人、松平、毛利、水野各十人と予定せられていたに、水野家に預けられるはずの寺坂が、いつの間にか姿を消していたので、同家だけが九人という端数にたったのであろ)。もし寺坂が実際吉良の門に入らずに逃亡したのであったら、かかる手違いの生ずるはずなく、お預け人数は細川家十六人、他の三家十人ずつになっていたに相違ないというのである。幕府が大石ら幹部の苦衷を汲んで、寺坂を逃亡者として片付けてしまってから僅に一年の後(元禄十六年)に公刊した『義人録』の中へ、唯一人生存している寺坂を義人として加えた鳩巣は、よほどの確信を有っていたに相違ない。 
 
七九 官吏代表老の意見

 

大石以下四十七士に対する世間の讃美と同情は熱狂的である。お預けの四家からは助命の嘆願書が出ている。細川越中守のごときは、一方当局者に内々の助命運動をなし、他方精進潔斎して神仏に祈願する熱心ぶりである。独善果断を以て知られている将軍綱吉も、この事件ばかりは裁断が下されない。そこで高格(こうかく)の諸侯、儒官、官吏などの意見を参考のために徴した。
この諮問に対して、評定所詰の高官、寺社奉行の永井伊賀守、阿部飛騨守、本多弾正少弼(だんじようのしようひつ)。大目付の仙石伯書守、安藤筑後守、折井淡路守。町奉行の松前伊豆守、保田越前守、丹羽遠江守。勘定奉行の萩原近江守、久貝(くがい)因幡守、戸川備前守、中山出雲守の十三人が、連名で差出した意見書がある。これは、時の官吏全体の意見を代表したものと認むべきであるから、とこにその要旨を略述する。
題目に「御尋に付存寄(ぞんじより)申上候覚」とあるから、現代語に訳すると、「御下問に対する意見書」である。意見書は、初めに吉良、上杉両家に対する処分法を述べ、後に大石以下の事を書いているが、吉良左兵衛(きらさひようえ)に対しては、当主でありながら隠居を討たれて首を持って行かれるなど、全く面目の立たない仕儀であるから、せめてその場で自刃すべきであるに、それもなし得なんだ。この卑怯の振舞いはそのまに差置かれるべきでないから、切腹申付られるべきであろうと、随分思い切った峻厳さである。
上野介の家来共で、敵に手合いもせず、生命を助かっているような輩は、士分の者なら斬罪に処せらるべきであろう、とこれも手厳しい。
上杉弾正大弼(だんじようのたいひつ)は、実父上野介を討たれ、実子左兵衛を傷つけられ、相手が泉岳寺へ引揚げている事分明しているに、そのまま手を撲いて傍観していたのは、武門の面目を弁えざる仕方であるから、領地没収せらるべきであろうと。しかし上杉家が手を出さなんだのは、既述の通り実際は老中が極力制止したためなのであるから、この一項の意見上杉家には少々気の毒である。
内匠頭家来共は、亡主君の志を継ぎ、一命を捨てて上野介宅へ押込みこれを討った段、真実の忠義と申すべきである。御条巨(ごじようもく)に「文武忠孝を励み礼儀を正すべし」とある御趣旨によく適っていると考えられる。多人数申合せ武装して討入った点「徒党を結びて誓約をなすべからず」という御禁止を破ったように思われるけれども、あれだけの準備をしなければ目的を遂げることができなんだのであるから、これを御禁止の徒党と見なすのはいかがであろうか。もし彼らに徒党の志があったなら、前年赤穂城召上の際、素直(すなお)に明渡しはせなんだはずである。
今後このような事件がふたたび起ろうとも、それはその人々の精神次第であるから、それに応じていかようにも処置しえられよう。ついては今回の彼らは、このさい断罪(だんざい)なく、先ず御預けのまま差置かれ、若干年月の後、御宥免になるのが至当ではないかと存ずる。
これが高官十三人連名の意見書の大要である。これは「元禄十五年壬午十二月廿三日、御老中御列坐にて御請取なされ候」と附記されているから、お預けになってから九日目に、公式に手交されたに相違ない。それにしても、随分思い切った義士への同情であるが、すでに民間に於ける同情が熱狂的なので、それに逆行するような裁断は行政上面白くないと考え、こういう民意代言といってもよい意見を差出したのであろう。 
 
八○ 林大学頭と荻生祖棟の対立意見

 

既記の通り、民間に於ては大石ら四十七士に対する同情と讃嘆が白熱的であり、官吏代表者の意見もまた同様である。諸大名間に於ても吉良、上杉に直接関係のあるもの、及び吉良贔屓の松平美濃守(柳沢吉保)の威勢に恐れて阿誤するものでない限り、大部分は大石らの同情者である。それはそのはず、どの大名でも皆自分の家臣が大石らに見習わんことを希望しているのだから。
ところで、ここに学者間に、二つの意見が生じた。一つは林大学頭信篤(だいがくのかみのぶあつ)(鳳岡(ほうこう)と号す)の同情宥免論、一つは荻生祖棟(おぎゆうそらい)(字は茂卿(もきよう))の有罪厳罰論である。
林鳳岡(ほうこう)は林羅山の孫で、祖父以来儒官の筆頭たり、将軍綱吉の信任厚く、自邸内に建てていた孔子の廟には、綱吉自ら拝礼に出かけたことがあり、後にはそれが湯島に移されて、所謂湯島聖堂になったのである。それ程の間柄であるから、何か重大な問題があれば、いつでも諮問に応じて意見を呈し、綱吉の政道に献替(けんたい)しているのである。彼は朱子学派の泰斗で、学問系統は室鳩巣も同じであるから、行為そのものよりは動機に重きをおき、大石らの復讐に対する見解も、鳩巣と同じである。彼が綱吉将軍の諮問に対して答えた要旨は次のようなものであった。
天下の政道は忠孝の精神を盛ならしむるを第一とする。国に忠臣あり、家に孝子あれば、百善それから起って、善政おのずから行われる。大石以下五十人にも近い多数の忠義者を今日出したのは、名教の盛たる証として、政道上まことに慶すべきである。忠孝の大精神が一貫している以上、枝葉の点に多少の非難があっても、論語にもある通り、「大徳閑(かん)を瞼(こ)えざれば小徳出入すとも可なり」で、深く答むるに足らぬ。彼らは幕府に対しては毫末も不満らしい体を示さず、城地召上のさいも素直に引渡した。彼らはただ、亡君が恨みの一刀を吉良上野介に加えんとして果さなかったのを、臣子としてそのまま生かして置くに忍びないとし、亡主の志を継いで襲撃したのである。親のための復讐、君のための復讐は、今日公許されているところで、その点なんら各むべきでたいが、多人数が物々しく武装して吉良邸に討入った点、御禁止の徒党を結んだとしてあるいは非難されるかも知れないが、公儀に反抗せんがために徒党したのでなく、君の仇を復せんがために申合せたのであるから、外形に拘泥することなくその精神を察しなければならぬ。もしかかる忠義の精神を一貫して亡主のために尽した士を処罰する時は、忠孝御奨励の御趣旨を滅却することになり、御政道の根本が覆ってしまう。もし今直ちに無罪を宣告せられることが差障りを来すという事なら、当分お預けのままとして、後日何かの機会に宥免せらるべきであろう。
これが林大学頭の意見である。結局の処分法は、前回の高官連の意見と同じであるが、これは高官連が林の意見に追随したものと見るのが至当であろう。
ところで、この林鳳岡の意見に対して、荻生但棟(おざゆうそらい)が松平美濃守の手を経て提出した意見は、堂々たる法理論で、これがついに将軍綱吉を動かすに至ったのである。
祖裸は美濃守に最も信任せられ、また綱吉にも知遇を得ている。その意見を、建白書と他の文章とによって要約すると次の意味となる。これは将軍を動かしてついに「切腹申付」を決心せしむるに至ったものであるから、やや詳記する。
大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、内匠頭が先ず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋ちがいだ。内匠頭はどんな恨みがあったか知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果さなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得ちがいを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができようか。しかし士たる老、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於ブ、は同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥(ゆる)すべきでない。
元来、義は己れを潔(いさぎよ)くする道で、法は天下の規矩(きく)である。彼らがその主のために仇を報じたのは、これ臣たる者の恥を知る所以であるから、己れを潔くする道で、その事は義ということができる。しかしこれはその仲間だけに限る事であるから、つまり私的の小義である。天下の大義というべきものでない。
内匠頭は殿中を揮らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格にいえば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らけ吉良氏を仇として狸りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を揮らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せらるべきであるが、しかし一途に主君のためと思リて、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申付けらるるが至当であろう。しからば上杉家の面目も立ち、彼らの忠義をも軽んぜざる道理が明らかになって、最も公論であろう。もし私論を以て公論を害し、情のために法を二、三にすれば、天下の大法は権威を失う。法が権威を失えば、民は拠るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。
鳳岡(ほうこう)は忠孝の精神に重きをおき、祖棟(そらい)は純然たる法理論を真向からふりかざしたのである。前者は徳治主義の王道政治を理想としているから、彼らが亡主のために身命を捧げて悔いない態度に満腔の同情を寄せ、後者は法治主義の強権政治を、当時に於ては必要なる政治方式と考えていたので、冷厳なる検事の論告のごとく、法理の前には何物も顧みない。
この対立意見は、出発点がちがい、目標とするところがちがうから、妥協点が得られない。将軍綱吉はこのどちらかを選ばねばたらぬ。彼は湯島聖堂を起して、自らそこに経書を講じ、忠孝精神の鼓吹においては人後に落ちない熱心家である。従って内匠頭の殿中刃傷の際は、老中の諌止にも耳を傾けずして即日切腹を命じたほどの気短でありながら、今度の事件については裁断に躊躇し、十二月十五日四家へお預けにしてから、新年を迎え、一月も終るのに、なお決裁を与えなんだ。彼は独善主義の人物ではあるが、一面理義に明らかで、自分が忠孝主義者であるために、その好むところに偏して、天下の大法の権威を失墜せしむるような事をしてはならぬと、常に自ら戒めていたようである。そして彼は、その衷心に於ては助命してやりたいと希望しながら、法の権威を維持するのは自分の何よりも大なる責任だと考えて、涙を揮ってついに「切腹申付けよ」と裁決するに至った。 
 
八一 「親類書」を徴す

 

いよいよ切腹と決ったのは、元禄十六年一月1十日以後の事である。吉良邸討入の十二月十四日から約四十日に近い日数を、将軍は裁断に悩み続けたのであった。
刑が決定すれば、罪人から親類書(しんるいがき)を徴するのが例である。それで正月二十二日、老中稲葉丹後守は四家の御留守居役を召出し、御預人の親類書を取まとめて差出すよう命令した。
四家の失望は一通りでなかった。しかし細川家の十七士を初め他の三家の二十九士も、親類書差出の命令で死期の近い事を知ったけれども、かねて覚悟のこととて、別に驚きもせず、早速執筆した。
親類書には、父母、祖父母、妻子の氏名(女は名を書かぬ)、住所、死亡者は死んだ年月日を記入し、その他の親類は忌(いみ)がかりまでの生存老、縁者は婿、舅、小舅までを書出すのであるが、この親類書があったので、四十余士の正確な戸籍が今日に於てもわかるのである。例えば、子供が何人あったか、何歳と何歳で名は何といったかなどいう事、小野寺幸右衛門は十内の養子で大高源五の弟だというような、義士相互間の続柄など、親類書が一番正確に示している。
大石内蔵助が山科に於て妻を離別したことなども、その親類書に妻の名がない事によって、確実な事実であることが証拠だてられる。原惣右衛門の母が、惣右衛門を励ますために自殺したという伝説は、かなり真実らしく伝えられ、その遺書というものさえあるが、惣右衛門自筆の親類書には「母、和田帯刀娘、去年八月病死」とあるので、自殺でないことが証せられる。なお武林唯七、神崎与五郎、富森助右衛門、間(はざま)十次郎、杉野十平次、近松勘六も、母の自殺激励によって一党に加わったもののごとく書いた本もあるが、親類書を見ればいずれもウソだという事がわかる。第一、母や妻の自殺に刺戟されて、初めて義のために奮起したなどいうのは、義士を侮辱するものというべきである。
この外、講談や浪花節または実録と題する書籍に記載されている事で、親類書に対照すれば、ウソの皮のすぐ剥がれることがいくらもある。親類書は、義士史料中第一に位する根本史料で、専門研究家の虎の巻である。 
 
八二 公弁法親王の御慈悲

 

将軍綱吉は、心の奥では大石らを助命してやりたいのであるが、そのために天下の大法の権威を失わせてはならぬというので、涙を揮って、切腹を命ずることに決心したことは、前記の通りである。そして役人はその準備として、先ず四十六人の親類書を徴し、検使の人選等も取運んでいたが、その間にも、将軍綱吉の胸の奥には、非常手段として助命の挙に出ずべく、なお、一縷の望を残していたのである。それは、日光の御門主公弁法親王から、御慈悲のお言葉をいただいて、それを口実に、助けてやろうという秘策であった。
公弁法親王は後西天皇の皇子で、日光御門主兼輪王寺門跡となられ、世に日光の宮と称し奉っている。また天台座主でもあらせら君る。聡明の御生れ付で御年はまだ三十五の御壮齢ながら、御仁徳極めて高く、世に渇仰(かつご つ)されておわします。宮は毎年、一月の末か二月の初め頃、年始の御挨拶として御登城になる。この年も、もう近々お見えになると分っていたので、その時にこそと、綱吉は心待ちにしていた。
ちょっと考えると、裁決権を握っている将軍が、衷心から助けたいと思っているなら、何も宮様からお言葉をいただく必要もなさそうであるが、そこが責任の地位にいる者の苦しいところで、将軍としては、たとい親兄弟に関する事であっても、私情を以て天下の大法を曲げることはできない。しかし、仏門に帰依していられる宮様が、法衣の御袖の下にかくまってやりたいとの御慈悲から命乞いをして下さるなら、それは法を超越した阿弥陀様、文武の上に位せらるる宮様の御名に於て許されるから、何人も異議を挿まない。そうなれば将軍の大法執行権とは何の打格(かんかく)もなしに、堂々と生命を助けてやることができるというわけである。
さて二月一日、法親王は御予定通り御登城になった。将軍綱吉は四方山(よもやま)の話を申上ながら、いつとなしに話頭(わとう)を目的点へ持って行った。
「お聞及びもあらせられましょうが、旧臆(きゆうろう)吉良の邸へ討入って、上野介の首を取り、亡主内匠頭の墓へ手向けた浅野の家来共、その忠義の志は誠に感心の至りで、武士の亀鑑とも申すべきでござれば、なんとか助命いたしたくは存じまするが、禁令を破って徒党を致した事にござれば、法を司る者の責任として、正面から宥することは成りがたく、やむを得ず近々切腹申付くることに運んでおりまする。政務を執り行うものは、折々かような事に当面いたし、惜しい人間も殺さねばならない事がござって、イヤモゥつらい事でござりまする」
綱吉は述懐らしく嘆息した。法親王は瞑目あそばされて御言葉がない。
綱吉は更に語をつづけた。
「一人二人なら兎も角、四十六人という多数の忠臣を、心にもなく法に死なせまする事は、惜しくもあり、不欄でもござれば、なんとか助命の道はないものかと、今になってなお苦慮いたしておりまする」
そこまで申上げても、法親王は依然瞑目あそばされたままお言葉を発せられない。
座が白けて来たので、綱吉は余儀なく話題を転じてしまった。そして御退出の時刻が追々迫って来た。綱吉は、宮様の御意中を測りかねたが、この機会を逸しては、もう四十六人の惜しい生命を取り留める道はたいと思うと、堪らない気持になって来た。遠廻しに謎をかけて解いて戴こうとしたのが誤りだった。今は何もかも打明けて、墨染の御袖にお縄り申す外ないと決心して、宮様の御前に手をつかえた。
「実は先刻申上げた赤穂の浪人共の事でござりまするが、平素忠孝仁義を口に致しまする私、彼らに腹切らせる事は忍びませぬが、大法の手前、このままに宥し遣わすことは表面上相成りませぬ。ついては法体に渡らせられるあなた様の御言葉をいただき、それを口実に、生命を助け遣わしたく存じまする。されば、あなた様の御慈悲は四十六人の上に及び、私は法を曲げたとの誹りを免れる事を得まする。何卒御賢察下されまするよう」
法親王は先刻来またも御瞑目あそばされていたが、綱吉の言葉が終ると、静に御眼を開かれた。
「打明けらるるまでもなく、御胸中はすでにお察し申している。しかし仏の慈悲は、目前の生命を助けるよりもモット大きいものがござるにより、御希望通り彼らの命乞いを致すのが、真実御仏の思召にかなうかどうか、軽率に判定は致しかねる。承れば、彼らの中には血気盛のものが多いとか。さすれば、今ここで生命を助けられ、数十年を生き延びた時、いかなる悪魔が魅入(みい)って、身を誤るものがないとは申されぬ。もし四十六人中一人でも、左様な者が生じたら、一揃いの名器がそれだけ欠けて、なんぼう惜しい事ではないか。古今に類いない忠臣の鑑、武士の華と、今世上にたたえられている彼らの誉れを、その一生涯ばかりか、未来永劫に保たせてやるのが仏の大慈悲でござる。将軍が今彼らを殺すのがつらいと仰せられたように、自分は今彼らの命乞いをしてやれないのがいっそうつろうござる」
法親王の慈愛に満ちた御眼の底から、露の光が輝いている。
綱吉は数十日間の迷夢初めて覚めた思いがした。
「御垂示(ごすいじ)恭く存じまする。このさい彼らに切腹申付ける事が、助命するよりもいっそう大きな慈悲であることを、綱吉初めて覚りました」
彼の顔は明朗に輝いた。宮はやがて御退出になった。この一節、古書には、宮が綱吉の謎をとかずにお帰りになり、あとで近侍の者にお話しになった事になっているが、それは表面の事で、綱吉は極秘に意中を言上したに相違あるまいと察せられるから、学者の非難を覚悟して、あえて会話を綴ったのである。 
 
八三 処断一決、切腹申渡

 

公弁法親王の御言葉を伺って、将軍綱吉はなるほどと感じ入り、いよいよ四十六人を切腹させる事に決意して、その準備を運ばせた。
当日午後二時前後に、各検使が四家に着いた。四十六人はそれぞれ拝領の麻神(あさがみしも)を着用して、元の身分の順に居並び、謹んで上意を承る。検使の読みあげた宣告文は左の通り。
浅野内匠頭儀、勅使御馳走の御用仰付け置かれ候処、時節柄殿中をも揮らず不届の仕方に付御仕置仰付られ、吉良上野介儀御構ひなく差置かれ候処、主人の讐を報じ候と申立て」、内匠家来四十六人徒党を致し、上野介宅へ押込み、飛道具など持参、上野介を討ち候始末、公儀を恐れざるの段重々不届に候。之に依て切腹申付る者也。   未二月四日
四家共上使が右の通り読み上げた。細川家では大石内蔵助が一同を代表して進み出で、
「いかなる御仕置に仰付けらるるやも計り難くと存じおりましたるところ、すべよく切腹仰付けられました段恭く存じ奉る」
と礼を述べて御請した。吉田忠左衛門も、大石につづいて有難く御請し、外一同も謹んで拝伏した。切腹は打首とちがって自裁するのであるから、武士の面目として、処刑中名誉の部類に属するものである。
細川家の上使荒木十左衛門は、一昨年赤穂城明渡しの際にも上使に立ち、大石の嘆願(主家再興の件)に同情して、江戸に帰ってからも彼是尽力した人物である。従って今日また上使に立ったのは、定めて感慨深いものがあったであろう。
荒木は大石の切腹御請の言葉を聴いた後、顔色を和らげて言った。
「これは役目以外の事であるが、一同の参考までに申伝えておく。今日吉良左兵衛に対して、この度の仕方不届に思召され、領地召上げの上諏訪安芸守へ御預けになる旨仰せ渡されたぞ」
この吉良左兵衛の処分によって、大石らの喧嘩両成敗の主張が貫徹したのであるから、
「一同もさぞ満足であろう」との意を含めて伝えると、大石は莞爾(かんじ)として鄭重に頭をさげた。吉田以下互に顔を見合せてほほ笑んだ。
松平家では、上使の宣告に対して、大石主税(ちから)と堀部安兵衛から「結構なる仰出、私共侍の本意相達し、上意誠に有難く、本望至極に存じ奉ります」と御請したが、他の二家でもそれぞれ上席の者が代表して御請した。
当日松平家へは、切腹説と遠島説と二つの情報が入って、どちらが本当なのか判断がつかないため、どちらであってもまごつかないよう両方の準備をしていたことが、波賀(はが)清太夫の覚書に書かれている。遺族中の十五歳以上の男子が遠島に処せられたことを思い合せると、遠島説の情報はこの誤聞だった事が察せられる。なお『波賀聞書』によると、当日流説のために、どれほど迷わされたかが察せられる。検使は「少しも急ぐには及ばないから、ゆるゆる支度させよ」というので落ちついていた。そこヘ大鷹佐介という儒者、当時隠居して平田黄軒といっている者が駆けつけて、今稲葉家の御屋敷で内々聞込んだ事であるが、いったんは首の座へ直した上、急に上使が立って赦免になるのだそうなと告げた。そこで、そんな流説を信ずるわけではなくても、少しでも後らせる方が安全だという考えから、ぐずぐず引きのばしてついに夕方になったものらしい。 
 
八四 切腹前の十七士

 

細川家では、上使が申渡を終って別室に去ると、同家の御側用人(おそぱようにん)宮村団之進が入って来て、越中守の内意を伝えた。「なんとか御赦免になるようにと祈ったかいもなく、残念至極である。この上は心静に用意されるように」との趣意で、宮村は主君の落胆が並並でない事を附加えた。
大石は、旧臆来の破格の恩遇を衷心から感謝して、落涙せんばかりの体だった。そして直ちに一同を側近く集めてお言葉を伝えた。
間もなく酒と土器(かわらけ)が持ち出されて、最後の別れを汲みあった。堀内伝右衛門その他、知合になっている連中は、皆近よって盃を所望した。
その際十七士の誰彼が、冗談半分に堀内にいう、
「堀内殿、今日は御世話に与る最終の日でござれば、別して御馳走下さるはずと存じ申すに、茶も煙草も下さらないのはどういうわけでござるかな」
堀内は不思議に思ってあたりを見廻すと、なるほど茶も煙草も出ていない。つまり接待役人も小坊主連も、.「切腹」と聞いて落胆のあまりボンヤリしてしまい、日々定まっている品を運ぶことさえ忘れていたのだった。
「これは恐縮千万」と早速運び出させ、なお堀内は料紙と硯箱を坊主に持たせて、十七士の一人一人に付、「折一言ってお届けするから、遺言状をお書きになるよう、もし書く事を揮られるなら伝言を承ろう。この細首がちぎれても、弓矢八幡、他へは断じて漏らさぬから」と説き廻った。一同は、すでに堀内の厚意で、必要な遺言状などはそれぞれ托しているから、改めて頼むほどの事もない。
大石は「別に認むるほどの事もござらぬが、後日殿様御供で御帰国の際、京都で御都合がつかれたら、男山八幡の縁者大西坊にお立寄下され、今日の仰渡し、天気もよく、心も晴れやかに相果てたとお伝え願いたい。自然但馬にいる次男の方へも通ずるでござろうから」と頼んだ。
吉田忠左衛門はかねてから堀内に、自分は大柄で屍体が見苦しかろうから、風呂敷ようの布を袋にして包んでほしいと依頼しているので、この期に及んでは、伊藤十郎太夫にお心安く願いたいとのみ一言。
富森(とみのもり)助右衛門はこの日(二月四日)が亡き姉の命日に当るので、先だちし人もありけりけふの日を終(つい)の旅路の思出にしてとの書いて示し、潮田又之丞は、
  武士(もののふ)の道とばかりを一筋に思ひたちぬる死出の旅路に
早水(はやみ)藤左衛門は、
  地水火風空(じすいかふうくう)の中より出でし身の辿(たど)りて帰る元の住処(すみか)に
と、いずれも辞世の歌を認めて、それぞれの縁者へ送附を頼んだ。
間瀬久太夫は、「近頃尾籠(びろう)のお話たがら、このごろ腹工合が悪く、今朝からは幸いほぽ回復致してはござれど、万一粗忽がないとも測られ申さぬ故、何卒貴殿に於て御含み置き願いたい」
堀部弥兵衛は、「いつぞやも申した通り、お国の親戚の者堀部甚之允に、酒を飲めとお伝え願いたい」とて呵々大笑。
矢田五郎右衛門は、「過日もお話申した通り、拙者は吉良邸で自分の刀を折ってしまったので、相手の刀を取ってさしており申した。死後自分の刀でない物を所持いたしていた事を、何卒御弁明願いたい」
奥田孫太夫は「今も朋輩と話し合った事でござるが、拙者切腹の仕方を全く存じ申さず、弱っております。何卒御伝授下されい」と頼んだ。堀内は「拙者もこの年になるまでまだ切腹を見た事はござらねど、三方に小脇差を載せて出されまする故、それを引寄せ肩衣をぬぎ」と実地の真似をしかけると、富森、礒貝らが周囲から「さてさて無用の稽古、どんな風にしたとて差支えはないのじゃcただ介錯人の討ち易いように、首を浮かしておればよいのじゃよ」などと言ったので.切腹の話はそのま喜止んだが、一同茶、煙草などを平生通り喫して、神色自若、時刻の来るのを待ち受けた。
他の三家の面々も、かねての覚悟とて、一、二時間の後に死を控えながら、何の変った様子もなかった。 
 
八五 四十六士ついに切腹

 

切腹の申渡があると同時に、四家に対して、家来の中から、介錯人を出すよう命ぜられた。それで四家共時を移さず任命したが、細川家は大藩であるだけに、十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。一人一人介錯人がちがうのである。水野家も九人の切腹に、九人の介錯人を出したが、その他の二家は、人の介錯人に二人ずつの首を切らせた。
主なる数人の介錯人氏名左の通り。
  切腹人        介錯人
  大石内蔵助  徒士頭 安場一平
  吉田忠左衛門 小姓組 雨森清太夫
  原惣右衛門  同   増田貞右衛門
  大石主税   徒目付 波賀清太夫
  堀部安兵衛  同   荒川十太夫
切腹人も介錯人も共に麻神である。
後世の切腹は、本人が腹かき切って、弱った時分に介錯人が首を打ち、芝居の判官など、介錯なしに自分で喉笛を断つのであるが、それらは違式または切腹方法の堕落で、元禄時代の切腹の正式作法は、本人が切腹の座に着くと、先ず小脇差を三方に載せて前に出し、介錯人は跣足(はだし)で袴の股立(ももだち)をとり、刀を抜いて左方に一歩退いて立つ。この時切腹人は、検使の役人に謹んで礼をして、肌押しぬぎ、介錯人にも辞儀する。そのさい介錯人の名を問うたり、静に頼むなどいう事もある。そして脇差を取りあげるのであるが、その脇差を腹に当てるか当てないかの瞬間に、介錯人が首を打ち落す。介錯人が首を打つと、すぐ刀を地に置き、首を両手に持ちあげ、片膝を立てて首を検使の方へ見せる。首実検の作法は流儀により、刀を背後に廻し、片手でたぶさを掴んで首を持ち上げる事もある。大石主税を介錯した波賀清太夫はその流儀を用いた。この時代の切腹の作法がそうだったから、切腹とはいうものの、実際に腹は切らないのである。従って脇差には血が附かないので、脇差の代りに扇子を三方に載せて出すことも珍しくは無かった。現に吉田沢右衛門や武林唯七などの預けられていた毛利家では、脇差代りに扇子を十本、紙に包んで用意していたのであるが、目付の注意によって脇差に取代えたのであった。
細川家の、大石以下十七士切腹の場所は、大書院舞台側(わき)、大書院の上の間の前庭で、背後に池を負うた位置である。現在芝高輪の高松宮御邸の裏塀外、宮内省御用地に、その遺跡が保存されてあるが、大書院や舞台の建物などはもとより跡方もないけれども、背後の古池の跡が深い谷になっているのに、幾分か当時を偲ぶことができる。
切腹の座には畳三枚を敷き並へ1細川家以外は畳二枚1その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の慢幕を張り廻らし、正面大書院の本間(ほんま)、縁に近い位置に、検使の荒木十左衛門と久永内記とが厳然として臨監し、細川家の諸役人はそれぞれ定めの位置に就く。越中守は公然立合わず、大書院と小書院との間の襖障子を建てさせて、小書院の裏から内覧した。時刻は七ツ時分とあるから、午後四時である。
「大石内蔵助殿御出でなされえ」と役者の間の入口で、小姓(こしよう)八木市太夫(吉弘嘉左衛門と交互に)が呼び出した。大石静に立ち上り、一同に目礼して歩を運ぶと、潮田又之丞後から声をかけて、「我々もすぐお後から参りまする」という。大石にっこりして肯(うな)ずく。
平野九郎右衛門を先達(せんだつ)とし、数人の小姓組に護られて、大石が進む後には、介錯人安場一平が附添うている。検使以下下賎の役人の顔にまで、緊張の色と愛惜の念の動くのが感ぜられた。陰から内覧している越中守は、定めてあふれ落ちる涙を止め得なかったであろう。
大石は、やがて型のごとく検使に敬礼し、介錯人にも辞儀して肌おしぬぎ、前なる三方引よせて小脇差とりあげ、腹にあてたと見る瞬間、紫電一閃、英魂はたちまち天に飛んだ。安場一平直ちに首を取りあげて検使の実検に供すること作法の通り。かくて介錯人は引き退き、死骸は首を継いで、敷いていた大風呂敷にくるみ、場外に運び出して、新しい畳と風呂敷とが、次の吉田忠左衛門のために手早く準備される。
呼出役の吉弘嘉左衛門が、十七士の控所たる役者の間の入口から、「大石内蔵助殿首尾よく御仕舞なされました。次は吉田忠左衛門殿御出でなされえ」と呼び、吉田が終ると、「吉田忠左衛門殿首尾よく御仕舞なされました。次は原惣右衛門殿御出でなされえ」と、一々「首尾よく御仕舞なされた」と前者の報告をした。
切腹の場へは出ずに、終始義士に附添うて控所にいた例の堀内伝右衛門、この忠義無類の人々が一人一人切腹するのに、気がイライラして、見るもの聞くものに怒鳴りつけたいような思いがしているところへ、呼出役が「何某殿首尾よく御仕舞なされました。次は何某殿」と呼ぶので、たまらなくなり、「前の人の首尾よく云々は余計の報告でござろう。ただ次のお人をお呼びになればよいと存ずる」と一本きめ込んだ。呼出役の二人も「なるほど」と同意して、それからは次の順番の者を呼び出すだけにしたが、後に小姓組の氏家平吉がこの話をきいて、「あの人達の中に、首尾よく切腹のできないような人物は、一人だってありはせぬ」と大笑した。
大石を介錯した安場一平は、今日の安場(やすぱ)男爵家の祖先で、一平はこの介錯を、一身の面目家門の誉れとして、当日その場の光景を画に描き、介錯に用いた刀と共に長く子孫に伝えた。今日安場家に、それがなお秘蔵されて、義士の遺物展覧会などには出品される。
かぐて細川家十七士の切腹が全く終ったのは、七ッ半過ぎとあるから午後五時過ぎである。四時頃から五時過ぎまでわずか一時間余に、十七人の切腹を終ったのであるから、一人の所要時間五分をも超えぬスピードである。
松平家では十六歳(討入の時は十五歳)の大石主税が第一番に呼び出されたが、着座するや検使に向って型の通り敬礼、次に介錯人波賀清太夫に辞儀して小脇差取上げたところをえいッと一声、首を打った。このさい主税が介錯人を顧みて「御役儀は」と問い、清太夫が「御安心なされ槍一筋の主(あるじ)でござる」と答えたので、主税歓喜の体に見えたと記載している古書もあるが、波賀は主税ら十人を仙石邸から受取って護送して来た主役であり、その後も主税らの接伴役として日夕親しんでいた間柄であるから、切腹の場合に役儀を尋ねる事などあるはずがない。
大高源五は、主税が呼び出されて行く前から、ひどく心配げに見えたが、悪びれた態度もなく立派に打たれたと聞いて、それ以来急に晴々した様子になった。いくら剛勇といっても、ようやく十六になったばかりの主税が、もしや見苦しい最期を遂げはせぬかと、それを憂えていたのである事が後に分った、、
その大高源五の順番は、十人中の最終だったが、切腹の座に着いてから、ちょっと御筆を拝借したい、と乞うて、「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」と一句を認め、従容として俳人大高子葉らしい終りを告げた。
毛利家では、六十二歳の村松喜兵衛が、介錯人に対して、「貴殿の御名を承りたい」と問い、「御手をよごして恐れ入る。御見かけ通りの老人でござれば、自然無調法もござろう。何卒よろしくお頼み申す」と挨拶して肌をぬいだので、検使の鈴木次郎左衛門、斎藤治左衛門、共に「見事である」と誉めた。
間新六は、肌をぬぐ前に三方を戴き、脇差を取るより早く腹に突き立てたので、介錯人は狼狽してようやく首を打ち落したが、検使の鈴木、斎藤も、彼は確に実際腹を切ったらしいから調べて見よと命じ、すでに場外へ運び出して桶に入れていたのを、再び取出して検査させたところ、果して六、七寸程引廻していたので、人々その壮烈に舌を巻いたそうである。二十四歳元気溢るる間新六は、おとなしく首をのべて打たれるだけでは満足できないため、作法を破って文字通り実際に腹を切ったのであった。
武林唯七の介錯人は、太刀ふり下す手元が狂って、討ち損じたのを、唯七深傷に屈せず姿勢を正し、「お静にお願い申す」と声かけ、介錯人も太刀取直して今度は立派に打ち、両人共感嘆を博したと記した俗書もあるが、これは例の製造武勇談であろう。
四十六人の死体は、幕府から別に命令せず、勝手にせよと達せられたので、生前の希望によって一列泉岳寺へ送り、一つ穴に埋葬したが、ただ壮烈の切腹をした間新六の死体だけは、秋元但馬守の家来中堂又助(ちゆうどうまたすけ)という親類(姉婿)の者が是非引取りたいと切望したので、それへ渡した。従って泉岳寺には、新六の死体だけ不足しているが、石塔だけは他の義士と同列に建てられた。
切腹の済んだ後、どこの邸でも場所清めのため、僧侶や神官にそれぞれの式法を行わせたが、細川家だけは越中守が、「あの場所はそのままに置け、十七人の勇士はこの屋敷の守神であるから」と言ったので、全く清めを行わなかった。なおその後越中守は、切腹の場所を「この邸の名所じゃ」とて、来客にも指示したそうである。熊本藩に赤穂義士の遺風が最もよく伝わったのは、この越中守の志からであろう。  
 
八六 民心の激昂

 

大石内蔵助以下四十六人が切腹を命ぜられたとの報は、飛電のごとく一人から二人、二人から四人八人十六人と、鼠算的に拡がり伝わって、新聞紙のまだ無かった当時ではあるが、たちまち江戸市中に知れ渡った。
「親を忘れ妻子を捨てて、主君のために忠義を尽したものに腹を切らせるという法があるか」
「将軍様も将軍様だが、老中も老中だ。そのまた下の役人達も役人達だ。こんな分り切った物の道理がなんだって分らないのかなア」
「これからは聖人君子の道を逆に行けというのだろう」
単純で物の表面だけしか見ないものには、将軍の苦心や日光の宮の大慈悲など解ろうはずなく、いちずに、柳沢美濃守の吉良晶屓から、こんな処刑になったものだろうと信じて、陰で憤慨するもの、嘆息するもの市に満も、人心は極度に激昂した。
現代なら、国民的大運動が起って政談演説会が諸方に開かれるところであるが、生殺与奪の権力を握られている幕府に対して、公けに不満の声をあげるわけに行かぬから、一種の悪戯といってもよい形式で、江戸市民の不平が表現された。その一つは、諸方に立てられている制札の汚損であるが、その最承著しいのは日本橋の挟に立っている高札であった。
日本橋は古来江戸の中心として、東海道五十三次もここから始まり、全国里程標の元標もここに立ち、従って江戸市民に掲示する制札も、この橋畔に立っているのが最も重視されていた。その制札の書出しに、
  捉
一、忠孝を励まし、夫婦兄弟諸親類むつましく、召使の者に至るまで憐慾を加ふべし、若し不忠不孝の者あらば重罪たるべき事。
とあり、この一条は幕府の政治の根本目標として最も重きを措き、全国の大小各藩に於ても大抵これに倣った制札を立てて、忠孝の奨励に力を用いていた。
ところが、大石以下が切腹の刑に処せられたと分った夜、何者の所為か、日本橋の挟に立っている制札の忠孝奨励の第一条に、墨くろぐろと塗って、文字の読めないようにしてしまった。町奉行所では大に驚き、公儀を恐れざる不敵の罪人、厳重に詮議せよと命じて、種々手を尽したが、手がかりが得られぬ。それにしても、汚れた制札をそのままに置けないので、新しく立て代えると、その夜のうちに、今度は忠孝の文字に泥をなすりつけた。「いよいよ公儀を愚にした仕方、幕府の権威にも関わるから」といっそう厳重に穿撃(せんさく)したが、依然としてつかまらぬ。しかし、汚れた制札をそのままに置けないのでまた新しく立て代えた。
すると今度は、それをとりはずして♪橋下の川へ投げ込んでしまった。こんなことは、四谷見付、その他品川、新宿、千住などの制札にも行われ、取締の仕方がないので、町奉行は老中に伺いを立て、ついに第一条の文句を次の通り書き改めた。
一、親子兄弟夫婦を始め諸親類にしたしく、下人(げにん)等に至るまで、之をあはれむべし。主人ある輩は各奉公に精を出すべき事。
すると悪戯(いたずら)をするものがなくなった。
いろいろ皮肉に調刺した落首(らくしゆ)が、諸方に貼付されたのも、民心激昂の一表現である。そのうち秀逸と思われるのは、
  忠孝の二字をば虫が喰ひにけり世を逆さまに裁く老中
  細首を預り隠岐て甲斐もなく水もたまらず打落しけり
大石らの無罪論を主張して、将軍にも進言し、老中らにも意見を述べ来った大学頭(だいがくのかみ)林信篤(鳳岡(ほうこう))は失望と不満の意を次の一詩に寓した。
曾て聞く壮士還り去る無しと、易水(えきすい)風寒し挟を列ねて行く。
炭唖(たんあ)形を変じて予譲(よじよう)を追ひ、莚歌(かいか)涙を滴(したたら)して田横(でんおう)を挽(ぱん)す。
精誠石を砕く死も何ぞ悔いん、義気氷と清く生太(せいはなは)だ軽し。
四十七人斉(ひと)しく刃に伏す。上天猶未だ忠情を察せず。
口に炭を含み唖者の真似をして君の仇を附け狙うた晋(しん)の予譲、二君に仕えずと言って海島民五百人と共に餓死した斉(せい)の田横(でんおう)、それらに比較して大石らの精誠義気を讃賞し、「上天猶未だ忠情を察せず」と結んだのは、明らかに幕府の処置の不仁不当を誹ったものなので、鳳岡は最初自分の作たることを明らかにせなんだが、後にはそれが分ったので、荻生但棟(おぎゆうそらい)一.派の学者らはこれを非難した。もし鳳岡が市井の一学者だったら、「公儀を恐れざる」廉によって、厳罰に処せられたであろうが、相手が累代官学の本家たる林家の大先生とあっては、どうする事もならず、ついにそのままになってしまった。 
 
八七 小山田一閑と岡林杢之助の自刃

 

時日は少しく湖り、討入後まもなくの事であるが、四十七人の義挙に関連して自刃した二人の事をここに記す。
その一人は小山田一閑という八十一歳の老人である。彼は子庄左衛門が赤穂開城の当時から義盟に加わっている事を承知していたので、吉良邸討入、一同首尾よく泉岳寺へ引揚げたとの噂が伝わるや、江戸の町屋の娘の家に身を寄せていた一閑は、我事のように喜び勇み、無論そのなかに息子の庄左衛門が加わっている事と信じこんで、だんだん伝手(つて)を求めて正確な人名を調べると、総人数四十七人の中に、小山田という苗字の者は一人もない。そんなはずはないがと、繰返し調べても、無い者はやっぱり無い。縁を辿ってなお調べて行くと、なんという浅間しい事だ、庄左衛門は同僚片岡源五右衛門の小袖と金三両を窃取して逃亡した事が分った。忠義の結塊ともいうべき頑固老人一閑の憤慨たとうるに物もなく、八十を超えてからこのような恥かしい目にあおうとは思わなんだとて、歯がみをなして拳を握り、ついに己が隠居部屋で、壁に寄りかかり、脇差引き抜いて胸元から背後の壁まで突き通し、壮烈なる死を遂げた。一閑のごときは、四十七人と共に義士と称するに足りよう。
今一人は岡林杢之助(もくのすけ)である。彼は幕府直参で、禄千石を食む松平孫左衛門の弟で、赤穂岡林家へ早くから養子に行き、千石を給せられて番頭(ぱんがしら)の筆頭に位していたから、家格も身分も家老に次ぐ大身であったが、ただ温厚一方の性質で、理否を判断するだけの職見なく、下席の番頭四人を指導し得ずして、却って彼らのために引廻され、大野一味の自重説に加担したのであった。
さて、全藩士退散となったので、彼は江戸の実兄の家へ帰って寄食していた。彼は大野のごとく欲に目の無い男でなく、また全く良心の無い忘恩者でもないが、同僚に引ずられて義盟の列に加わっていないのであるから、一度勧誘してみてはどうかという者もあったが、大石は許さなんだ。多分彼が、幕府直参の士の弟で、その家に寄食している点から、事前にも事後にも、困る事の多いのを恐れたのだろうといわれている。
さて一味の四十七人は首尾よく目的を達して、嘆賞の評判江戸市中を震憾させるに及び、岡林は痛烈に良心の呵責を感じた。とくにその氏名表を見れば、大石一人を除く外いずれも、家禄は自分よりズット少かった者ばかり、中には五両三人扶持、七石二人扶持などいう微賎の老も混じているに、千石を戴いていた自分がこの義挙から漏れたことは、なんとも恥しい次第と、ひどく自責しているところへ、兄の孫左衛門及び他の兄弟らは、このままでは我々兄弟まで武士が立たぬと痛憤するので、杢之助ついに決意し、十二月二十八日(討入は十二月十四日)、自刃して果てた。出たが、乱心者としてそのまま不問に附された。 
 
八八 刃剣四十六士

 

細川家では、十七士の死骸を桶に入れて乗物にのせ、乗物一挺に高張提灯二、歩小姓(かちこしよう)一人、足軽四人ずつを附け、前後を騎馬で固めて、泉岳寺へ送った。続いて水野家、松平家、毛利家からも送ってきたので、寺では浅野内匠頭墓地の隣地の藪を切開いて、四十五人(間新六を欠く)を合葬した。住職酬山長恩和尚、引導を渡す時に『碧巌録』第四十一則古徳剣刃上の公案を挙看(こかん)した。それで四十六人(間新六も共に)全部の戒名に刃剣の二字を附けた。今ここに、四十六人の法名と行年(討入の時の年齢は行年より一年少い)を列記して、読者諸君と共に合掌したい。
・・・中略・・・
右のうち、間新六だけは死体を姉婿の中堂又助が引取ったので、既記の通りであるが、同人の亡骸は築地の本願寺別院に葬られ、こには立派な墓石が建った。ところが中央義士会に於て、新六一人の亡骸だけが別になっているのを遺憾だとして、各方面の人々と協議を遂げた上、昭和四年に、本願寺から泉岳寺へ改葬した。 
 
八九 追加された二碑

 

泉岳寺に葬られた四十六士の墓石は、図の通りの位置、すなわち内匠頭の墓に最も近い所に、大石内蔵助以下細川家御預けの十七士を並ベ、その他三家に御預けの士も、それぞれ一団に纏めて並び建てられている(文字の方向は碑面を示したのである)。この碑面に、いずれも中央には法名を、右傍に俗名、左傍に行年が書かれている。
ところで現在の泉岳寺の墓石を数えると、四十八基ある。切腹を命ぜられたのは四十六士で、当時四十六基であったに、いつの間にか、一基追加されたのである。その一基は、間十次郎の隣の点線で示した寺坂の碑で、碑面には遂道退身信士、寺坂吉右衛門信行と明記されてある。他の石碑は全部刃剣の二字を入れた法名が刻まれているに、寺坂の一基だけは刃の字も剣の字もない。これはいつ誰が建てたのか分明しないが、彼が大石・吉田の厳命によって、討入後立ち退いたに拘らず、墓が曹渓寺内に孤在して参詣者もないのに同情した人が、彼の行実をそのまま戒名とし(曹渓寺のは節巌了貞信士)住職の同意を得て、同型の碑を追加したものに相違たい。それが水野家御預の士の列に入っているのは、彼が水野家に預けらるべく予定されていたからである。ただその位置が、右端神崎与五郎の次たるべきに、一党の殊勲者として第二番に焼香させられた間十次郎よりも、上席と見らるる場所になっているのは、はなはだしい失態である。
さて今一基の追加は、大高源五の隣に位置する点線の碑で、碑面の文字は次の通りである。
  薩州産宇都宮成高寺現住岱潤建焉
  刃道喜剣信士 明和四丁亥年九月十六日
これには刃剣の二字があり、建設した年月と、薩州生れの宇都宮成高寺住職岱潤が建てたものだという事だけは分るが、俗名が書いてないから、刃道喜剣信士とは誰の事だか分明しないのである。
この碑の建てられた明和四年は、義士らの切腹から六十余年の後であるが、俗名が分らないため種々の臆測が行われた。そして俗間には、講談でよく読まれる村上喜剣、すなわち大石が敵に油断させる計略から遊蕩に耽り、大道に酔いつぶれているのを、恩知らずの犬ざむらいだと罵倒し、その面に唾して辱しめた人物の墓だと信ぜられている。その村上喜剣が、後に泉岳寺の大石の墓前で謝罪のために割腹して果てた。それでその志を憐んだ僧岱潤(たいじゆん)が、一党と同型の石碑を建ててやったものだろうというのである。
これに対して福本日南は、この村上喜剣の事は、林鶴梁の名文『烈士喜剣伝』から有名になったのであるが、喜剣の本名も不明なばかりか、他の信愚すべき書冊にも見えない。多分好事者が、碑面薩州産の文字と、喜剣という法名によって、薩州の剣客喜剣という架空の人物を作りあげ、講談の一席ものにしたのを、文章家の鶴梁が事実の精査もせずに、うっかり信用してあの伝を作ったものだろうと言っている。
そしてー、明和時代の神沢貞幹がその著『参考義士篇』中に寺坂の事を記し、一説として「吉右衛門は日本を遍歴したる後参河の某寺に留り、明和四丁亥九月十六日残す行年八十七歳、法名刃道喜剣信士」と書いている。寺坂は、延享四年に死んで、麻布の曹渓寺に葬られ、法名は節巌了貞信士であるから、前記刃道喜剣信士は別人に相違ないが、三河の国には兎に角そういう偽寺坂がいたものらしい。岱潤和尚(たいじゆんおしよう)そんな事とは露しらず、三河にある偽寺坂の碑を実際の寺坂の碑と思いこみ、その法名と死亡の年月とを他の義士と同型の石に刻してここに建てたのであろう。そして俗名を記さないのは、公儀では逃亡者として取扱われた関係上、明記を揮ったのであろう。しかるに俗名の記してないところから、これが寺坂の碑であることを知らずに、後人が今度は曹渓寺内の寺坂の碑によって、間十次郎の隣の一基を建てたのである。だから追加の二基は共に寺坂の石碑であると、これは福本日南の所説である。
しかし今日に於ては、これが萱野三平(芝居では早野勘平)のために建てられたものだということがハッキリ分った。井上通泰博士所蔵の泉岳寺蔵版義士墓地古図には、この一基に「俗名萱野(かやの)三平」と明記されている。多分これは『堀内覚書』の中に伝右衛門が三平の噂をきいて大石に確めたところ、「もし生きていれば必ず一党に加わるべき人物であった」と答えられたとある記事などにより、宇都宮成高寺の岱潤和尚が、泉岳寺住職の同意を得て、萱野三平のために建てたのだろう。 
 
九〇 その後の寺坂吉右衛門

 

寺坂吉右衛門が、泉岳寺門前で一同と別れ、その後一同が、四家へ御預けになった事を確めて発足、姫路で伊藤十郎太夫(吉田忠左衛門の女婿)の留守宅、亀山で吉田の家族を訪い、忠左衛門、沢右衛門父子及び貝賀弥左衛門(忠左衛門弟)の首尾よく目的を達したことを報告し、直ちに大学長広(内匠頭弟)の現居所なる芸州浅野家に向ったことは前に書いたが、浅野家では、寺坂が一挙の報告に来たことをもし公けにしては、関係者として累の及ぶことが無いとも限らず、また彼が表面逃亡者として取扱われている点からも、いっそう秘密を要するので、藩内においてすら、万事を極秘にした。従って寺坂に関する事は、浅野藩の古文書中にも史料の徴すべきものなく、この前後の寺坂の動静に明確を欠くのは残念であるが、室鳩巣(むろきゆうそう)の『義人録』、杉本義鄭の『鍾秀記』その他には、元禄十六年四月初旬(大石以下の切腹は同年二月四日)寺坂が大目付仙石伯書守邸へ自首して出た記事がある。以下諸書一致する点の要領を記す。
四月初旬寺坂吉右衛門が仙石伯者守邸へ自首した。その口上、
「私は旧冬吉良上野介殿屋敷へ夜討をしかけた赤穂浪人の一人で、吉田忠左衛門の弓足軽(ゆみあしがる)でござりまする。忠左衛門は特別目をかけてくれ、また大石内蔵助子息主税には頼まれて弓を指南しておりましたが、身分の軽いために心やすく稽古ができるからでござりましょうか、内蔵助も弓の事は私に任せて置かれました。私が微賎(ぴせん)の身で一味に加わりましたのは、第一忠左衛門、第二主税、この両人の前途を見届けたい一念からでござりました。さて彼の屋敷へ推参して、.首尾よく本望を遂げまして後、内蔵助、忠左衛門の厳命で不本意ながら一同と別れ、播州方面へ飛脚に出ましたが、先方に於て無理に引留められ、ようやく脱出して今日帰府いたしました。四十六人と同罪の私でござりますれば、何卒御仕置仰付けられまするよう」
仙石伯者守直接面会していう、
「申出の趣神妙(しんみよう)である。しかし彼の一件はもはやあれで事が済んだのであるから、今更その方の訴えを取上げるわけには参らぬ。その方公儀にはお構いたいから、勝手に何方へでも立去るがよい」
吉右衛門それでもなお押して仕置を願ったが、「御上(おかみ)へ余計な手数をかけようというのか、不届者め」と一喝して引下らせ、しかも内々で、「旅費のたしにせよ」と金若干を紙に拮(ひね)って強いて受取らせたという。
右寺坂自首の一条は、今日専門家の間には「先ず信じ難い」ということになっているが、さりとて「事実に非ず」と断定するだけの反証もない。かつ本人の寺坂や仙石伯蓄守の在世中に、鳩巣や義鄭のごとき学者の著した書中に記されているのであるから、若干の疑義を挿みたがらも、ここに記述したのである。
寺坂はその後、吉田忠左衛門妻おりんと共に、伊藤治行(十郎太夫)の家に引取られ、伊藤を二代目の主人として仕え、伊藤が藩主本多侯の所替で、姫路から越後の村上へ、村上から三河の刈谷へ転々したのに附添うて、享保十一年三月、山内主膳侯に、一介の武士として召抱えられるまで、二十三年間を伊藤家で働いた。
伊藤治行の『自記』によると、寺坂は播州赤穂郡若狭野の生れで、八歳の時から吉田忠左衛門に召使われたとあるから、元禄十六年まで約三十年間を吉田家に仕え(その間に浅野家の足軽に取立てられて吉田の組に入ったが、実際はなお吉田の僕も同様に仕えたらしい)、その後伊藤家で二十三年働いたのであるから、主家の二代に五十余年を忠実に仕えたわけである。
『治行自記』に「手前に居住の年数二十三年養育せしめ候事……我等兄弟十一人出生の節浅からず介抱、段々生長に及び候まで骨髄(こつずい)を振ひ、数年のうちに介抱大かたならず、深切の次第共申し難き事に候。尽未来(じんみらい)までも吉右衛門夫妻の儀失却(しつきやく)これあるべからず候。後々に至り候て猶以て覚え置候。後証の為め此の如くに候事」として自署花押している。これは治行(十郎太夫)が自分の子供のために書遺しておいたものである。
こうして主人の伊藤も、仕えている寺坂も、肉親の家族のごとき関係になっていたが、ふとした機会から、麻布曹渓寺住職梁州和尚のu目添によって、土佐山内侯の分家山内主膳に、七両三人扶持を以て召抱えられることになった。時に寺坂、すでに六十二歳の老骨になっていたが、主膳公の懇望によって仕えることになったのである。碑文には五十一歳となっており、『元禄快挙録』その他も大抵それに拠っているが、死残の年から湖って勘定すると、享保十一年は寺坂六十二歳で.それなら『伊藤治行自記』中に「手前に居住の年数二十三年」とあるのとも一致する、六十二の老骨を主膳公が召抱えたのは、幕府に対する遠慮もこの時分にはなくなっていたので、忠義の足軽を家臣に加え、一つにはその末路を飾らせてやろうとの侠気もあったのであろう。
彼は山内家に仕えてからも、伊藤家との音信を絶たず、伊藤家では、寺坂の妻が死んだ時、入念の香貧を送った外、お寺でよそながらの法事をしてやり、寺坂は亡妻の形見分けの品を「むさく着古したる品誠に失礼ながら」と、恐縮の手紙を添えて送っている。
もし寺坂が実際討入前に、吉田父子を捨てて逃亡したものであったら、伊藤(吉田の女婿)の一家が二十三年間も扶養し、山内侯に仕えてからも、親類同様に交際を継続するはずがない。幕府に対する表面の逃亡扱いによって、彼を四十七士から除外せんとするがごときは、史学上誤謬たることが明らかであるのみならず、人情の上からも忍びない。
著者数年前、麻布区本村町の曹渓寺に寺坂の墓を弔うたが、墓石は傾いたまま落葉に埋れて、いつ詣でた人がありとも見えず、いかにも荒れ果てていた。その後同寺内に、著者の郷里旧小野藩出身の勤皇儒者藤森天山の墓碑のあることが判明し、その銅板像の除幕式等でしばしば同寺に詣で、最近には住職森義孝師とも特別懇意になって、ついに自分の墓地をも同寺に選定するに至った関係から、寺坂の墓に参る機会も自然頻繁にあるが、近頃は奇特の弁護士角岡知良氏の尽力で墓石もやや修理を加えられ、道しるべの石柱も立ち、前年ほどの荒廃はない。しかしそれでも、お参りする人がありそうもなく、四十七士の一人でありながら、泉岳寺の四時いかなる日にも香煙の絶えないのと比較して、うたた同情を禁じ得ない。
寺坂の墓石の傍には、伊藤竹里(仁斎の第四子、長胤)撰の寺坂信行碑が建っているが、碑面風雨のために欠損して、文字の一部分が失われている。なおやや離れた崖上に、内田叔明撰の寺坂信行逸事碑が建っている。前者は寺坂の残後二年に養子信保が建て、後者はそれから四十三年の後寛政四年に孫の信成が建てたものである。
寺坂の法名は節巌了貞信士、延享四年十月六日に死んだ。行年八十三。彼は八歳の時吉田の下僕となり、後に吉田の取成しで足軽に進められた下賎の身であったが、その人物は朴実誠懇、そしてその筆蹟や文章も、四十七士中屈指の数に入る価値があったこと、今日遺っている多数の書翰や覚書等で知ることができる。筆者は、この寺坂の人物が、吉田忠左衛門の教育感化によってでき上ったものであろうと察し、彼自身もまたよくそれを自覚していた結果、普通の主従とはちがう特別の奉仕を、遺族の伊藤家にまで敢てするに至ったものと考える。 
 
九一 遺子の処分

 

今日なら、どんな大罪人でも処罰は当人きりであるが、元禄時代には子にまで及び、罪状によっては親類縁者にまで累の及ぶことがあった。
しかし、今度の場合は子だけで、それも女のfはお構いなく、男の子のみが、一同切腹の日に遠島(えんとう)申付けられた。
ただし十五歳未満の老は、十五歳に達するまで近い親類に預けておいて、その年になった時配流(はいる)し、また男子でも、出家(しゆつけ)したものは処刑を免ぜられるのであった。
そこで大石内蔵助二男吉之進以下合計二十名の遺男子中、十五歳以上の左記四名のみが、伊豆大島へ流された。
  吉田忠左衛門 次男 伝内 (二十五歳)
  間瀬久太夫 次男 定八 (二十歳)
  中村勘助 長男 忠三郎 (十五歳)
  村松喜兵衛 次男 政右衛門 (二十三歳)
右四名は大島で淋しい生活を続けていたが、二年の後間瀬定八は、二十二歳を一期として調所(たくしよ)の露と消え、残りの三人は島に在ること三年半、宝永三年八月僧になることを条件に、赦免されて帰って来た。この赦免の時、寺坂は伊藤の一家に従うて越後の村上(本多家が姫路から移封になっていた)にいたが、吉田伝内(でんない)を迎えに江戸へ出て、伴れて帰った。伝内はそれから出家して僧名恵学(えがく)と改め、永昌寺に住し、宝永六年将軍綱吉亮去、新将軍家宣立つに及び、大赦が行われ、伝内の恵学も「自今如何様の渡世仕候ても苦しからず」と申渡されたので、早速還俗して名も吉田九郎太夫兼直と改めたが、都合のよい仕官の途もなく、元文四年江戸で病死した。行年六十一。子がなかったので、吉田忠左衛門の直系はここに絶えた。
吉田伝内と共に大島に流されていた中村忠三郎、村松政右衛門両人も、共に一度出家して、後に還俗したが、晩年の消息は伝わらない。
大石内蔵助の遺子は、次男吉之進(十三歳)と離別後に生れた大三郎(二歳)であるが、吉之進は僧となり、十九歳の若さで他界、大三郎は成人の後、広島の浅野本家松平安芸守に新知千五百石を以て召抱えられ、明和七年六十九歳で世を終った。その末喬は今日まで栄え、当主を大石良興という。大石夫人リク女は内蔵助切腹の時は三十五歳であったが、爾来香林院と称し、朝夕読経を怠らず、元文元年六十八歳で天寿を終った。
原惣右衛門の一子十次郎(五歳)は、これも後に浅野本家に二百五十石を以て召抱えられた。そのほかでは、富森(とみのもり)助右衛門の一子長太郎が後に加藤越中守に召抱えられ、矢田五郎右衛門の長男作十郎(九歳)が後に水野出羽守に仕え、奥田貞右衛門の長男清十郎(二歳)が後に松平淡路守の家中(かちゆう)仁尾氏の養子となり、木村岡右衛門の二男次郎四郎が同藩大岡氏の養子となっているのと、千馬(ちば)三郎兵衛の長男藤之丞(二歳)が、岡山の池田侯に仕えたのをのぞけば、全部出家(しゆつけ)又は天死(よろし)である。 
 
九二 吉良義周の処分

 

吉良上野介が隠居後家督を相続した左兵衛義周(よしかね)(実は上野介の息子上杉綱憲(つなのり)の二男、すなわち上野介の孫に当る)は、討入当夜不破数右衛門に斬付けられ、薙刀投げ出して逃げ、負傷しただけで生命は助かったが、血縁の祖父たる先代の首を持って行かれながら追撃もせず、加めおめ生き残ったのは見苦しいとあって、三河の領地を没収され、諏訪安芸守へ長の御預けとなった。
安芸守はその居城なる信州高島(今の上諏訪町)に義周を護送し、城の南丸を修理してそこに置いた。吉良家の家老左右田(そうだ)孫兵衛と山吉新八が随伴したが、何一つ勝手の行動は許されなんだので、随分みじめだった。今諏訪家の記録によって御預け中の義周の生活状態の一断片を記す。
義周の居室の様子や生活状態は、関係者以外には一切知らせぬよう厳秘にしたと同時に、世間の取沙汰などを義周や、二人の随伴者の耳に入れぬようにしたので、三人は遠島同様の境遇だった。たお義周には夜も寝ずの番が附切り警戒極めて厳であった。
二月十六日に高島ヘ着いたのであるが、三月十一日に附人両人から、義周(よしかね)の額髪(ひたいがみ)や髭(ひげ)がだんだん伸びてきたので、なんとか致したいと願い出たところが、同月二十六日になって、剃ることは罷りならぬ、長く伸びたら鋏刀(はさみ)で刈るがよい、と指令した。
五月十八日に、養生のため灸をすえたいと願い出たところ、三十日になって、医師に診察させた上必要とあればすえてもよい、と指令した。
こんな調子で、義士らが細川外三家へ預けられて優遇せられたのと反対に、これは監禁同様のみじめさであった。元来があまり丈夫でなかった義周、宝永二年十二月一日発病し、翌三年正月二十日ついに講所(たくしよ)で淋しく死んだ。年二十一歳。
そこで諏訪家では、大切な預人勝手に埋葬することもできないので、死体を塩詰にして、幕府の検使が来るのをまったが、二月四日に検使石谷七之助がようやく着いたので、即日死体の検分を受け、附近の法華寺に葬った。この埋葬の日が、三年前に義士らの切腹した祥月命日に当るのも、何かの因縁であろう。 
 
九三 浅野大学の取立て

 

浅野大学長広に、内匠頭の祭祀を継がしめたいとて、大石らが隠忍自重して、表裏両面から運動したかいもなく、事ついに成らず、大学は広島の浅野本家へ長の御預けとなったので、大石らはついに、敵上野介の首を取って、一死亡君に報じたのであったが、四十六人が切腹申付られてから六年の後、宝永六年将軍綱吉が莞じ、子が無かったので、三代家光の孫に当る家宣が六代将軍となり、諸般の旧制が改められたのを機会に、浅野大学も江戸に出府、新将軍に御目見得(おめみえ)したが同年房州の平郡朝夷(あさひな)村に於て新地五百石を賜わり、御寄合を仰付られて、内匠頭の祭祀ここに長く続く事をえた。現に東京市本郷区弥生町二に居住せらるる浅野長和氏はその末喬である。こうして、大石内蔵助が最初に希望した主家存続の願は、切腹後六年にして達せられたのである。 
 
九四 勅書追賜の光栄

 

明治天皇御即位の元年十月都を東京に移され、文武百官を従えて、京都から行幸あらせられたが、間もなく権弁事(ごんべんじ)藤原献を勅使として、泉岳寺大石内蔵助以下の墓に遣わされ、左の勅書を賜わった(原書は泉岳寺に蔵せられ、漢文であるが、読み易からしむるため仮名交りに改めた)。
汝良雄等固ク主従之義ヲ執リ仇ヲ復シテ法二死ス百世ノ下人ヲシテ感奮興起セシム朕深ク焉ヲ嘉賞ス今東京ニ幸ス因テ権弁事藤原献ヲ遣使シテ汝等ノ墓ヲ弔シ且金幣ヲ賜フ宣
  明治元年戊辰十一月五日
実に死して余栄ありというべきである。
一党の切腹してよりここに二百三十六年、泉岳寺の墓前はいかなる日でも参詣人の絶えた事なく、その参詣人のために、土産物売る店が軒を並べている。
高輪泉岳寺の義士の墓にお詣りする人が、年々歳々多くなって行くのは国家のためにも心強く嬉しい事であるが、あの線香はなんとか方法を講じなければなるまい。詣る人が全部供えるわけf、もないのに、各義士の石塔の前には、どんな時でも数十本の線香が縦横に横たえられて煙を立て、ことに大石の墓前は、春や秋のお詣りの多い日には、一日中炎々と燃えつづけている。まるで護摩を焚いているようだ。時には墓地内で眼をあけていられないほど、煙幕に包まれているようなことさえある。附近の老樹があの煙で枯れやしないかと心配する。
 
余録

 

赤穂義士に関する本筋は一先ず終結したから、その余録として、今までに書き漏らしたもの、または参考になりそうな事を、系統だてずに、少しく書き続けることにする。
芝居の鷺坂伴内
『仮名手本忠臣蔵』に現われる人物が、大部分歴史に典拠を有することは、すでに本篇中の随処に説いた通りであるが、重ねてここに、両方の名を並記する。
・・・中略・・・
以上は、それぞれの人物の所で、すでに説明したが、一つ漏らしたのは、芝居に出て来る道化男鷺坂伴内である。彼は、舞台に於ては三段目に、師直の従者として現われ、加古川本蔵の賄賂を取次ぎ、早野勘平と鞘当(さやあて)をして、滑稽な動作に見物を笑わせ、七段目の茶屋場にまたちょっと出て、斧九太夫と連絡をとるに過ぎないが、浄瑠璃の本文では、最後の討入の場に三たび現われて討死するのである。すなわち大星由良之助以下が敵師直を打取って、亡君判官の御菩提所光明寺へ引揚げんとする瞬間、
いづこに忍びゐたりけん、薬師寺次郎左衛門、鷺坂伴内、おのれ大星のがさじと、右往左往に打つてか二る。力弥すかさず受け流しく、暫しがうちは討ち合ひしが、はづみを食つて討つ太刀に、袈裟にかけられ薬師寺最期、返す二の太刀に足を切られて、尾にもつがれず鷺坂伴内、其ま、息は絶にける。オ、お手柄ノ\と称美の詞、末世末代伝ふる義臣、是も偏に君が代の、久しき例(ためし)竹の葉の、栄を薙に書き残寿(のこす)。
と、これが『仮名手本忠臣蔵』浄瑠璃の最終の文句である。
この伴内は、単に舞台を陽気にせんがために、作者竹田出雲がこしらえあげた架空の人物だろうと考えていたところ、今度本篇を執筆するに際して、三田村玄竜氏の『元禄快挙別録』の中に、鷺坂伴内は吉良家の中小姓(ちゆうこしよう)清水一学に当てたものだとある考証記事を読み、興深く感じたので、余録の筆初にそれを紹介する。
清水一学は、物置小屋で最後まで上野介を守った吉良側の忠臣であること、本篇に書いた通りである。その『学の菩提寺は、吉良の旧領地三河国幡豆郡の円融寺で、寺から十町許隔たった横須賀村字宮迫(みやはざま)という所には、彼の旧宅が今も残っているという。
その宮迫へ行って、伴内の墓はどこかと尋ねると、「伴内さんのお墓は」と、貴人の墓地を指すような敬語を用いて教えてくれるとの事、では鷺坂伴内というのは本名かと思うと、石碑には、「実相宗禅、元禄十五年壬午十二月十五日、清水藤兵衛弟、江戸ニテ死去、吉良上野介家臣、吉良家落居之瑚主従同死」とあって、清水一学の墓たることは明かだが、鷺坂とも伴内ともない。つまりこれは、『忠臣蔵』の鷺坂伴内が清水一学の事であると信じられて、本名よりも全国的に広く知られた伴内を、本名のごとく呼ぶようになり、舞台では道化た不真面目な人物らしく現われるにかかわらず、主人と死を共にした忠義に敬意を表して、伴内さんのお墓とていねいに呼ぶようになったものらしい。
一学が討死した時は四十歳と古書にあるが、三田村氏が三河の旧宅を往訪した時、当主藤左衛門は「伴内は二十五の時に殺されたのだといいます」と語ったそうで、「二十五歳とすると好個の話柄が一つできる」とて、一二田村氏は伴内の身上につき面白い問題を提供している。それは次の通り。
吉良上野介には二男三女があった。長男は上杉家を相続した綱憲で、それは生れた翌年上杉家の養子にしたが、その後は女の児ばかり三人つづいて、もう男は無いのかと悲観していたところへ、長男が生れてから十五年目に次男三郎が生れた。これは当然吉良の相続人であり、かつ末ッ児でもあるから、上野介の愛撫尋常でなかった。
ところが、花に嵐、月にむら雲、三郎は八歳の時夫折した。上野介の悲傷落胆は察せられよう。それ以来上野介は、日頃の強情にも似合わず、仏心を出して寺を改築したり、土地を喜捨したり、巨鐘を鋳たり、領民のために堤防(黄金堤)を築いて水利に便じたり、新田を拓いたりして、ひたすら亡児の冥福を祈っていた。
たまたま領内宮迫(みやはざま)村の百姓藤兵衛の弟藤作(伴内)が、吉良家の侍を師匠として剣術を学び、才気もあるというので、殿様の御所望で江戸の御邸へあげた。この藤作の清水一学は、延宝六年の出生で、夫折した吉良三郎と同年であるから(一学の享年を二十五歳とすると)、上野介は、角前髪(すみまえがみ)の可憐なる藤作の姿を、忘れがたい愛児の悌と見たであろう。長ずるに及んで君臣の情誼は世間並のものでなかった。百姓の弟が一躍士人の班に入れられ、君側近く侍するさえあるに、特別の殊遇を恭うしたのであるから、伴内の清水一学が感激の大たるや知るべしである。最後の物置小屋まで離れず、ついに冥途の旅にまで供するに至ったのは、深くあやしむに足らない。『浮世風呂』の著者式亭三馬は、『忠臣蔵偏痴気論』と題する小冊子の中に、次の通り書いている。
伴内は、忠臣蔵中第一の忠臣也。旦夕師直に近侍して一も心に違はず、窃(ひそか)に妙計を以て九太夫を手なづけ、深く敵中に入つて大星が淵底を探る。加之(のみならず)師直最後の時節には粉骨砕身して忠戦をなし、所をもかへず其場にて討死したるはあつばれ忠臣、敬して違はず、労して怨みず、能く主方知るといふべき也。
伴内心あらば、三馬が知己の言に感激するであろう。ところで清水一学が、伴内のような滑稽男だったかどうかは、研究すべき何の材料もない。
清水一学に鷺坂伴内と名を附けたのは、どういう典拠からか、作者の竹田出雲にきいて見ないと確かな事は分らないが、三田村氏の解釈では、宮迫村からあまり遠くない八幡村(三河国宝飯郡)の入口に鷺坂と呼ぶ坂があり、また『義残後覚』という書に、伴内という話上手の男が、秀次公の前でよく人か笑わせて御機嫌をとっていた話が出ているから、竹田出雲が、「三河の伴内、すなわち三河の滑稽家」という意味で、鷺坂伴内という名を持えたのだろうというのである。
何にしても、伴内のモデル話は、三田村鳶魚氏独特の研究として興趣はなはだ深い。
天川屋義平
忠臣蔵十段目の主人公天川屋義平は、泉州堺の商人で、大星由良之助に人物を見込まれ、討入に必要な鑓(やり)、小手(こて)、脛当(すねあて)など、武具装束の調製を頼まれたので、多年恩顧に与った塩冶(えんや)殿への御恩返しと、一つは男を見込まれた知己の感とで、一命を賭しても附託を全くしようと決心し、女房は親元に帰らせ、召使の男女にも暇を出し、白痴の男と四歳のi供と自分だけとなり、できて来た武具は荷造りまでも自分でして、長持に七樟、今晩船で出すまでとたっている。
しかし、普通には用のない変った武具の調製、たとい義平が秘密を守っていても、どこから官に知れないものでもなく、また官の一喝にあえば根が町人の義平、どこまで口を開かずにいよう。そんな事から同志の計画が事前に暴露するかも知れないと、一党の面々が、捕吏に仮装して義平を試しに来る。そしてその操守の意外に固いのに感服し、安心していよいよ出発することになるのであるが、その一幕中に、里に帰されている女房の父親が、斧九太夫に縁故のある者なので、義平を通じて由良之助らの秘謀を嗅ぎ出そうとしたり、それに関連して娘を離縁させ、他へ再嫁させようとするのを、由良之助が奇抜な計略を以て、女房の髪を切らせて阻止する等の挿話的場面を織込み、十段目天川屋義平の段は、浄瑠璃を聴いても、芝居を見ても、なかなか面白い一餉である。
ところで、この天川屋義平のモデルは誰か。これに類する義人が果して実在したのかというと、それがどうもはっきりと分らない。世間には、天川屋義平は天野屋利兵衛であると信ぜられ、高輪泉岳寺には、誰が建てたのか、「天野屋利兵衛浮図」と刻した巨大な碑もあるが、この天野屋利兵衛または利平も、著者の研究したところでは、『鍾秀記』以外の著書には見当らず、事件の数十年後に生れた頼春水(山陽の父)の筆に成る『天野屋利兵衛伝』の一篇によって、一般にその実在を信ぜらるるに至ったものらしい。それで、兎も角春水の綴った天野屋利兵衛をここに紹介する。
利兵衛は大坂の生れで、家は庄屋だった。代々赤穂浅野家に出入して、特別に厚い信用を受けていた。元禄の変事の際、早速赤穂へ駆けつけて、復讐の秘謀があることを察知し、大石に乞うて、武器装束の調進方を引受けた。
それから利兵衛は、妻子や傭人にも知られないよう、極秘のうちに、鑓(やり)や長刀(ながだち)を注文して作らせ、でき上った物は目立たないように荷造りして、江戸へ送り出していた。
ところが、刀鍛冶の一人が、内々役所へ申告した。「長物二、三種の製作を頼まれましたが、その注文が普通でありませんから、念のために申上げておきます」と。
そこで与力の役所へ、早速天野屋利兵衛を喚び出して詰問すると、利兵衛答えて「懇意な人から泥坊の用心に備えて置くのだと頼まれたもの、作りの普通でないのは、その人がある物好(ものずき)の武士の持っているのを真似たい希望からで、なんでもありませぬ」と軽く受け流した。ところがこれを聞き伝えた他の刀鍛冶らが、「実は手前にもこんな注文がありました」「手前共にも」と、利兵衛から注文を受けたものが皆申告した。
そこで、利兵衛を水責め火責めの拷問にかげて、注文主の名を明かさせようとしたが、皮膚がただれ、幾度か絶息したけれども言わない。そして自分は命がけでこの注文を引受けたのであるから、殺されても言わないが、明年の春あたりになれば、お尋ねがなくともこちらから申上げることができましょうと、繰返すのみである。妻子を収容して厳しく詮議したけれども、これは実際知らないので、どうにも仕方なく、そのままに日を過ぎた。
その内に年が変って元禄十六年の正月になり、世間では旧年師走(しわす)の十四日に、赤穂浅野の浪人四十余名が吉良上野介の邸へ夜討をしかけて、主君の仇を復したとの報道が一般に伝わり、それが牢番の噂話から利兵衛の耳にも入った。
そこで利兵衛は「もう白状いたしますから」と申出て、係官一同の前に、注文主が大石内蔵助であった事を明かし、「御手数をかけて相済みませんでした。今は思い残す事もありませんから、いかようにもお仕置願います。妻子は全く何も存じないのですからお宥し下さい」と、言いおわって涙を雨のごとく流した。係官その義心に感じて、死刑を減じて所払いとし、家産はその子に相続させた。子の名は利右衛門、親の跡をついで庄屋を勤めた。利兵衛は京都へ行って、浅野家と縁の深い紫野の瑞光院に住み込み、名を松永士斎と改めて天寿を終った。
以上が頼春水の書いている伝記の大要である。そしてその附記に、右一篇、大坂の商人塩屋伊兵衛という男が、春水の友人平賀晋民の紹介で、春水に依頼して作ってもらったものだとある。これによって見ると、春水は頼まれて文章に作っただけで、材料は全部塩屋伊兵衛から供給され、事実の真否について春水は全く調査しなかったものらしい。したがってこの春水の書いた伝を以て、天野屋利兵衛という人物の実在を証することはできない。そしてこの伝以外に、この人物の記録が正しい歴史に見当らないとすると、『忠臣蔵』の天川屋義平は、どこまでモデルに準拠したものか疑問になって来る。鷺坂伴内は、ただ最後に上野介に殉じたという一事で、清水一学の事だなど推定せらるるに至ったのであるが、天川屋義平と天野屋利兵衛も、あるいはその程度の、ホンの一部分に似たような事実があったに過ぎないのを、竹田出雲が潤色したものではなかろうか。
謎の妙海尼
泉岳寺に詣でた人は、義士墓道の傍(宝物館横)にある梅の老樹を見落すことはあるまい。立札には次の通り書いてある。
  揺池梅
浅野長矩公ノ後室揺泉院殿ヨリ堀部妙海尼二賜ハリシ鉢植ノ梅、揺池梅ト称シ妙海尼ノ手ヅカラ此地二植シ者ナリ
苔むした老幹の、内部が空洞になっている様子など、いかにも二百年前後の年数を経過しているらしく想像される。
なおまた、義士達の墓域の入口、右側の低地には妙海尼の石塔がある。上部には地蔵を刻し、台石に「清浄庵宝山妙海法尼」と勒(ろく)してある。「堀部弥兵衛金丸娘、行年九十三、安永七年二月二十五日」の文字もあると、古書には書かれているが、磨損して今はハッキリ弛眈めない。
この堀部妙海尼、弥兵衛の娘で安兵衛の妻であるお順(お幸ともいう)は、本人の語るところによると、討入のあった時は十七歳で、その翌々年十九歳で剃髪し、名を妙海と改めて諸国を巡礼し、のち亀井戸に住んでいたが、泉岳寺に遠いので、住職が同情して、寺内に一庵を作ってくれたとの事。前記の揺池梅の立札や、尼の石塔が義士らの墓側にある事から押して、妙海尼が泉岳寺内清浄庵に住んでいたという事は疑う余地もない。しかし、この妙海尼が真に堀部弥兵衛の娘で安兵衛の妻たるお順に相違ないかどうかは、問題である。
妙海尼の事は、佐治為綱が何回となく尼を訪うて、見た事聴いた事を書き留めた『妙海物語』が唯一の資料になっているが、同書の記事は、今日の講談や浪花節と同様、全く史実を無視したもので、常識からも信ずるに足らない。ところで、編者為綱は、その筆記したものを一度尼に読んで聴かせた程であり、また文章の上に漂うている真実味から推しても、同書の記事は全部妙海尼の直話たるに相違ないと認められるから、同書の記事にもし虚誕(きよたん)があるとすれば、それは筆記者の責任ではなくて、談話者たる妙海尼の虚誕と断じなければならぬ。その意味から著者は、妙海尼が真に堀部弥兵衛の娘お順であるかどうかを疑うのである。
不審の一。妙海尼はまったく無筆で、その縁者高木正斎が為綱に語ったところによると、去年八十八の祝いだったので、諸侯から角々の拝領物をなし、館林侯や相良侯の御殿へも召されたが、米の字を書いてたてまつるにも、お手本によって習ったという事である。また尼自身も為綱にむかって、
「我ら国にては、女子の読み書きすること多くは嫌いにて、手習をせざりし故、読み書くことならず、不自由に候」
と言っているが、赤穂は決して女子の文教が不振だったとは思われず、大石、吉田、小野寺らの妻はいうまでもなく、義士の妻母は大低、手紙の文も筆跡も立派なものである。堀部弥兵衛はもとよりその妻わかも、また立派な手紙を書いている。その娘のお順が全く無筆で、読むことも書くこともできなんだとは、随分変ではないか。
不審の二。為綱、妙海にむかって、義士の事を書いた本の中に、御父弥兵衛殿は討入に出る夜、別れの酒宴の御酒が過ぎたか熟睡されて、時刻になっても眼がさめなんだので、夫人と娘御とで揺り起したとあるが、娘御といえば御許のことである。実際そのような事がござったかと問うと、尼涙ぐんで、なるほどそのような事がありました、その時父は、やりを取って出ようとしましたから、私が、門から内は刀、門から外は鑓(やり)と聞いておりますが、御老人にはその鑓(やり)の柄が少々長すぎは致しませんかと申すと、誰にそのような事を聞いたかとて喜び、すぐに柄を畳尺に五寸長くして切り縮め、それを持って出かけましたとて咽び泣いたとある。討入りについては日夜苦慮し、万遺漏(ぱんいろう)のないようにと、私案を大石に提出したほどの堀部弥兵衛が、出発の直前に、十六歳のしかも無筆の小娘に注意されて大切の武器を切縮めたなど、常識からも受取れないではないか。もっとも鑓の柄は皆切り縮めてあったこと、史実の上で確であるが、それは弥兵衛一人だけではなく、鑓を武器とした義士すべて同一の寸法だった。
不審の三。為綱また問う、ある書物に、山岡覚兵衛の寡婦と大高源五の妹とが、かねて吉良邸へ間諜となって入込み、当夜は裡(たすき)がけで働いていたので、義士達は、女の助太刀を受けたと評判されるのは心外だから、早くこの場を立退きなされと言って、強いて去らせたとあるが、実際そんな事があったのでしょうかと。妙海尼答えていう、これは大切の事ですから、無闇な人には言われませんが、貴方には何もかも申しましょう。吉良家へ忍び入って奉公していた間諜の女は七人でした。いずれも他の屋敷へ奉公に出て、わざと過失をして暇を貰い、赤穂の者たる身元を気付かれぬようにして奉公しました。七人の中には吉良の妾になっていたものもあります。大石殿七人への申付は、いずれも邸内の様子内通のため、また案内手引のため入れ置くのであるから、油断なく働かねばならぬ、しかし七人共吉良家の米を一粒でも食う以上、上野介は主人であるから手をかけてはならぬ、我々が討入らば吉良側になって働き防がねばならぬ、というのであった。それで一同が討入られた時は、七人の女は義士達に一礼した後薙刀で働き、皆打たれて死にました。この七人の女の首は泉岳寺へ持参し、殿様御墓前の敷石の下へ埋め、遺骸も後から運ばれて埋葬されました云々。
今日ならば浪花節でも、こんな馬鹿馬鹿しい事は言わない。元来七人もの女の間諜を吉良家へ入り込ませるなどいう事が行い得られるなら、大高源五が山田宗偏に弟子入りしたり、羽倉斎(はぐらいつき)に茶会の期日を確めてもらったりする手数は無用である。ことに大石が七人の女に、一粒でも吉良の米を食べた以卜、上野介のために命を捨てよと命じながら、その女達に討入の案内手引をさせたという矛盾に気づかぬなど、いかにも無筆の尼らしい愚かさでないか。
堀部弥兵衛は、上野介が女装して逃げ出す恐れがあるから、女でも斬ってしまおうと提案したのを、大石は無益の殺生として採用せず、事後の吉良側検視書によっても、女で殺されている者は一人もなかったのである。
不審の四。尼の物語は片端より荒唐無稽、史実を無視した事ばかりと言ってもよい程であるから、今一つだけその例をあげて、他はもういうまい。
尼の話に、自分は十五歳の時赤穂を落去し、祖母と大石夫人と同居していたが、その際大石殿が申されました。吉良の屋敷へ討入ってもし本望を遂げ得なかったら、皆一同に切腹する。その方は女であるが後に残り、上野介が日本の地におらば、地を潜ってなりとも邸内に忍び入り本望を達しくれよと。それで六十余州を廻国して神々に祈誓(きせい)しました云々とある。大石がいよいよ復讐を決意して江戸へ出る前には、大高源五と貝賀弥左衛門を使として、かねて預っていた誓紙をいったんそれぞれ返還させ、決心の堅くない者はそのさい皆振い落したほど、警戒に警戒して策を進めた。それほど慎重を期した大石が、十五や六の小娘に、自分らが失敗した後のことを頼むなどいうことがあろうか。『義人纂書』の編者鍋田晶山は堀部安兵衛の真の末喬が熊本藩中にあり、泉岳寺の妙海尼は弥兵衛の娘ではなくて、そのころ召使っていた下碑だという噂のある事を巻頭に書添えているが、けだしそれが真実だろう。泉岳寺では、本人が弥兵衛の娘だというので疑いもせず寺内に一庵を作ってやり、訪問者も討入後数十年も経過してからのこととて、その身元を看破するまでに至らず、また金員詐取というごとき犯罪があるわけではないので、役人の詮議も行われず、本人もいつの間にか本当に弥兵衛の娘のような気になり切っていたのではなかろうか。こういう心理状態の女が、今日でも折々あると某刑事から聞かされた。なおまた妙海を堀部弥兵衛の娘だとすると、高田馬場敵討の中山安兵衛が堀部の養子になったのは妙海のお順がまだ九歳の時だったことになる。幼時からの婚約なら兎も角、雷名を天下に馳せた安兵衛を九歳の小娘の養子に迎える等、この一点だけからでも、妙海が弥兵衛の娘だという事の虚誕は明瞭である。
高田馬場仇討と堀部安兵衛
堀部弥兵衛の養子安兵衛が、最初から一党中の最強硬論者で、さすがの大石も、この男を制御するためには随分苦心したものであると、すでに本篇に於て説いた通りである。
この安兵衛は、四十七士中に加わらずとも、二十五歳の時の高田の馬場の仇討に於てすでに雷名を天下に馳せていたのである。しかるに、中山姓のままで堀部の養子となり、二十八歳にして堀部と改姓して浅野内匠頭の家臣となり、三十二歳の時主家の不幸に際会して復讐を決心し、ついに義挙に加わったのであるから、安兵衛という男は、まるで仇討するために生れて来たような観がある。
高田の馬場の仇討の事及び安兵衛が堀部の養了になる経緯は、古書の記載まちまちで、どれが真実なのか容易に判定しえられなかったが、近年安兵衛自筆の記録が発見され、それによって義士学老渡辺世祐博士が中央義土会で講演されてから、真相は確定的になった。
堀部安兵衛は本姓中山で、父は越後新発田(しぱた)藩溝口家の家臣(二百石)であったが、ある気の毒な事情から長の暇を乞うて浪人になった。時に安兵衛は十四歳だった。爾来三、四年は叔父上田三郎兵衛の世話になり、その後姉婿に当る越後中蒲原の庄屋長井孫右衛門(この家は今日なお続いている)方へ引取られて、学問や剣道を修業し、二十歳になった時、主取りして元の武士になりたいと思い、江戸へ出て来た。
江戸では、牛込の元天竜寺竹町に長屋を借りて、手習師匠と剣道指南で生計を立てる事にしたが、昔は間借するにも身元引受の寄親(よりおや)(仮親)がなければならなんだ。その寄親に頼んだ人の名は分らないが、その人の兄弟に菅野六郎左衛門というのがあった。これが講談や浪花節では伯父になっているが、実際は安兵衛となんら血縁はないのである。この菅野六郎左衛門は元久世大和守に仕えていたが、代替りのさい人減らしがあって浪人となり、後松平左京太夫に馬廻(うままわり)として召抱えられたのである。
元禄七年二月七日の晩、六郎左衛門は同僚村上庄左衛門と共に、支配頭(しはいがしら)の家ヘ招かれて酒を飲んだ。その席で庄左衛門が、酔の廻るにつれて新参の六郎左衛門に暴言を放つので、六郎左衛門堪えかねて、今にも果し合いになろうとしたが、同席の者が取成してその場はようやく治まった。ところで、その話が後に家中(かちゆう)に伝わり、庄左衛門に対する非難の声が高いのを耳にした本人の庄左衛門、こんな非難を受けるのも新参者六郎左衛門のためだとして恨みを含み、ついに来る十一日高田馬場に於て果し合いをしようと、正式に申込んだ。武士が果し状をつけられると、それに応じて立つのが原則のようになっていた時代の事とて、六郎左衛門は「諾(よし)ッ」とばかり、時刻を定めて高田馬場ヘ出向いた。
この時六郎左衛門について行ったのは、若党(わかとう)の角田佐次兵衛と草履取の七助だけで、庄左衛門の方は弟の村上三郎右衛門と、浪人で剣道の師範をしていた中津川祐見という有名な剣客、その他にまだ四人の助太刀を頼み、都合七人だった。これを安兵衛が六郎左衛門の友達から聞いて、自分の寄親の兄弟が、生命の取りやりをするのに知らん顔していられない、後見として随いて行こうといって、牛込の宿から高田馬場へ出かけたのである。
そこで果し合いが始まり、当人同士の六郎左衛門と庄左衛門とが先ず斬り合い、若党の左次兵衛と草履取の七助は中津川祐見に向い、三郎右衛門と他の助太刀とは安兵衛が一人で引受け、こちらは四人、向うは七人で闘っているうち、安兵衛が先ず三郎右衛門を倒し、他の助太刀四人を追払って、中津川祐見に迫った。そしてこれをも斬殺し(ある本には追払ったとあって、確実な事は分らぬ)て、向うを見ると、六郎左衛門と庄左衛門とは、双方かなりの傷手(いたで)を負ってなお闘っている。これを安兵衛がまた手伝って庄左衛門を倒し、ようやく六郎左衛門を助けて、知合の家へ運んで介抱したが、傷手のためその夜ついに死んでしまった。
これが有名な高田馬場事件の真相で、仇討ではない、知人の果し合いの後見に安兵衛が出たのである。これを面白く聞かせるために、講談や浪花節では、堀部弥兵衛の妻と娘を配し、安兵衛の宿も遠方の本所とし、駆けつける途中に居酒屋をこしらえたのである。この事件が元で、中山安兵衛が堀部弥兵衛の養子に望まれることになるのである。
堀部弥兵衛金丸(あきざね)は赤穂藩の江戸留守居で、他藩との交渉に当る場合が多いため、交際が広く、久世大和守家中の中根長太夫とも親しかった。この長太夫は、菅野六郎左衛門がまだ同藩にいたさい格別親密にしていたので、高田馬場事件以来中山安兵衛と懇意になった。この中根長太夫が仲に立って、堀部弥兵衛と安兵衛との交渉が始まるのであるが、その顛末を、筆まめの安兵衛が自分で詳細書き留めているので、間違いはない。
高田馬場事件は元禄七年二月十一日安兵衛二十五歳の時であったが、その年の四月に中根長太夫から手紙で、赤穂浅野家の留守居堀部弥兵衛が会いたいといっている。それについては浅野家の長屋で手料理を振舞いたいという事だから、行って高田馬場の話をするようにと言ってきた。それで安兵衛は、四月二十七日に弥兵衛方ヘ行くと、弥兵衛は高田馬場の模様を尋ねながら、頻に書き留め、最後に、もしあなたを養子に望む者があったら、相談に乗るかと問うたので、安兵衛は、自分は中山家として一人だから、養子に行ってこの苗字を断絶させることは祖先に対して相すまぬ、思召は有難いが養子の御世話ならお断りすると、ハッキリ答えた。それから五月七日に、安兵衛は先日の御馳走の挨拶に、堀部の家へ再び行ったところ、弥兵衛老人歓び迎え、「高田馬場聞書」ができたから、一応目を通して、誤りの点を正してくれと、一巻の筆記を見せた。
安兵衛はそれを読みながら、事実相違の点を一々指摘したが、その後弥兵衛は、安兵衛の人物にスッカリ惚れ込み、もしあの男を一人娘の婿に迎えることができたなら、堀部家の誇りであるのみならず、主君に対してもよい御家来を加えることになると思い込んで、中根長太夫と、堀内源左衛門(安兵衛の剣道の師で、安兵衛今は同家にいる)その他から、再三勧誘してもらったが、安兵衛は好意を感謝しながら、中山家を断絶させることはなんとしても忍びないからと言って、頑として応じない。
すると今度は弥兵衛が「姓は中山のままでムよいから」と譲歩して申込んだ。「中山姓のまま浅野家に仕えて、堀部の家禄を譲ることにしたいと思うが、もしそれが主君から許可されなんだら、外に居住せしめて自分の方から扶持(ふち)を送る。そして安兵衛はどこへなりと、勝手の所へ奉公してもよい」というのである。
安兵衛今は断る口実もない。厚意を感謝して結局養子になる事を承知した。そこで、六月一日に、堀部の宅で仮祝言の盃を取り交わ上、安兵衛は中山姓のまま堀部弥兵衛の養子になった。そして安兵衛は、宿にしている師堀内源左衛門の宅へ帰ると、源左衛門は弥兵衛の心意気を賞し、「すでに中山姓のままで父子の契約をした以上、先方がこちらの意地を通してくれたのである。武士は御万の心を思いやらねばならぬから、こういう場合こちらも譲歩して、中山でも堀部でも羊支ありませぬと申出るのが、武士としての道義だろう」と説いた。人生意気に感ず。安兵衛もついに武士としての義理に負け、最初からの頑強な主張を捨てることに決意し方。
六月四日に堀部から、安兵衛の親代りの堀内へ手紙で「赤穂へ飛脚の出る便があるから、縁組の願書を持たせてやりたい。それに安兵衛の親類書が必要だから、当人をよこして貰いたい」と言って来た。そこで安兵衛は出かけて親類書を認めた後、厚意を感謝して、「もう中山姓を固執しないから、思召次第でいかようにも御取計らい下さるように」と、折れた。弥兵衛の満悦察せられよう。しかし、「それではそうして貰おう」というのも、あまりに虫がよすぎる思いがするので、「兎も角一応は中山姓のまま願い出ることにしよう」と言って、その願書を認め、飛脚に持たせて出したところ、六月二十九日に聞届けられた。それから三年目に弥兵衛は隠居し、安兵衛は改姓して弥兵衛の家督を相続し、知行もそのまま二百石を頂戴したのである。だから安兵衛が浅野内匠頭に仕えたのはわずかに数年間に過ぎないのに(殿中刃傷事件は安兵衛三十二歳の時だった)、彼が一党中最も熱心なる一人となったのは、つまり養父弥兵衛の知己の恩と、内匠頭の士を愛する志とに感激したために外ならぬ。
堀部弥兵衛の討入計画私案
堀部弥兵衛は討入当時七十六歳で、四十七士中の最高齢者だった。彼は年齢に於て長じていたのみならず、その復讐の堅い志に於ても、急進派の隊長だった養子安兵衛に劣らず、大石の出府が、あまり延びのびになるのを待ちかねて、「自分のような老骨は、先が短いから、そう気長に構えてはいられぬ。自分一人だけでも吉良邸へ押しかけて、彼の門内で切腹したい位に思う」と、京都の同志間瀬久太夫に申送った位である。彼が妻や娘に書き遺した書状には「我等こと文盲(もんもう)至極、殊に歌道の心がけなど曾て無之に付、句柄をかしく候へども」と詞書(ことばがき)して、
  忠孝に生命をたつは武士の道やたけ心の名をのこしてん
  常にしもいひし言葉を違へじといま此時に思ひ合せん
  共々に生き過ぎたりと思ひしにいまかち得たり老の楽み
と詠じた三首の和歌を見ても、その堅固な武士的精神が窺われる。
この弥兵衛、大石の出府もいよいよ間近に迫った時、かねて認めて置いた討入計画私案を、大石の参考にもと書き送ったらしく、その拍が『堀部弥兵衛金丸私記』に載っている。この案は、大石に余程参考となったに相違なく、採用された項目も少くない。仔細に読んでゆくと、弥兵衛の用意周到なこと承、知られ、また大石が衆智を集めてあの討入計画を大成したことも判明するから、ここに紹介する(原文は候文体)。
追々お下しになる諸士へ、道中または当江戸逗留中、いよいよ討入までは他人からいかようの不義無道なる言いがけをされても、大事を抱えている身が我慢するのは卑怯にならないから、一言もはね返さぬは勿論、喧嘩口論や狼な遊興などせざるよう、堅く御注意ありたい。
大石殿が当地に於ける御本拠は、江戸市外の御予定と承るが、市内各所へ連絡がよくとれ、また彼の邸へあまり遠くない場所へ御出張になり、幹部連中が昼夜たえず密談をなさらなくては、不都合の儀が必ず生ずると存ずる。また若い連中の行儀など別して心許ない。遠方から打つ釘はこたえませぬ。
一、貴殿の御本拠が目立ってはならぬとの御深慮からとは察しまするが、私は左様に存じませぬ。一年も二年も先で討入ろうというのなら、遠方でも宜しかろうが、一、二ヵ月にという急場に、あまりの深慮は却って失敗の元と存ずる。目立たぬようにするのは容易の事。遠慮が多いと意外に日数も延びて、変なものになりはせぬかと第一案ぜられまする。
大石は最初、川崎在の平間村なる富森助右衛門の宅を本拠とし、大丈夫との見通しがついてから江戸市内へ移ったのであるが、弥兵衛老人は最初から江戸入市の主張だったと見える。
一、討入の刻限は古来の方式通り寅の刻の一天(午前四時)が然るべくと存ずる。諸方からその刻限に後れざるよう参集することでござれば、自宅は夜半に打立たねば相成るまじく、またそのため彼の邸の附近に五人十人立って待合せる事になると、辻番に怪しまれて、失敗を招かぬ限りでもござるまい。
一、そこで愚拙の一案、屋形船を三艘も借入れて、前日の昼過あるいは夕方より一同打揃って乗り出し、舟遊山(ふなゆさん)と見せかけて、ほどよい時刻に上陸、猶予なく押かけては如何でござろう。
一、武器類は渋紙包みにでもして荒縄で結び、船頭共の気付かぬように舟に入れたい。
一、梯子の類、舟へ持ち込み難い道具は、あの附近の借宅へ一両日前より入れて置きたい。武器も舟へ持ち込むこと目立つようたら、これも同様にしてよろしかろう。
一、右の通り実行する事が困難ならば、近所の者共が不審に思って色めいても、頓着せずに刻限を堅く守って討入るべきでごぎろうか。これら討入の際の注意を読みながら、大石は定めし微笑を禁じえなかったであろう。
一、屋根を乗越える事が第一でござれば、表門、裏門、両方から討入りたい。しかし門を打破ると霧しい物音で、奥への注進が早いから不得策と存ずる。兎に角両門から、上野介父子を逃げさせない工夫が専一でござれば、両門から外へ出る者は、男女上下の差別なしに、一人残らず斬捨てる外あるまいと存ずる。なおまた、逃げ口の間道(かんどう)を持えているかも計られない故、諸方へ心くばりが必要でござる。
吉良の父子が女装して逃げ出すかも知れないから、出門する老は男女共一人残らず斬捨てようというに至っては、勇気凛々たる老武者の面目が躍っている。
一、屋根を乗越える者、両門を固める者、その他の部署は籔引(くじぴき)にでもして決定せられるのでござろうか。これは愚拙などがかれこれ申す必要のない事と存ずる。
一、多人数のことでござれば、勝利必定と仰せ出され、一同が勇奮猛進するよう御工夫願いたい。
一、いずれも打死の覚悟でござれども、本望を遂げて存命の衆ももとより多数これあるべくと予定して、引揚の場所、公儀へ届出の筋道なども、お考えになって置かれるべしと存ずる。
本望を遂げた上は、彼の父子の首を亡君の御石塔へお供え申したい。ついては、各自の家来共の中から惜なる者十人ばかりに申付け、船頭共が舟から逃げざるよう番をさせるか、あるいは漁村で育った家来が四、五人もあれば、船頭は逐い上げてもよろしかろう。もし家来共が左様に都合よく参らねば、一同が上陸するさい船頭共を搦(から)めて船の梁木(はりき)に縛りつけ置き、引揚の節その舟へ乗って泉岳寺近くへ附けさせ、父子の首を御石塔に供えて拝をした上、泉岳寺附近の細川越中守中屋敷(今の高松宮御邸)へ申入れ、公儀への届出を依頼してお仕置(しおさ)を待つ事に致しては如何でござろう。
泉岳寺は遠方で、陸路は歩行困難であり、舟も都合よく運ばぬ場合は、取敢えず回向院へ引揚げ、一息入れた上、藤堂和泉守殿の下谷のお屋敷へ一同参り、大石殿に一人差添え、使者と号して、玄関から広間へ上り、取次に依頼して趣意を申し達せらるべきでござろうか。しかし討入のままの異様な風体では、中の門の通過を妨げられるでござろうから、取敢えず両人共に回向院近辺で麻祥(あさがみしも)に着かえ、介添(かいぞえ)は留守居役の者と見せかけて大石殿の先に立ち、入門なさるがよろしかろうと存ずる。もし神着用の時間がなくば、討入装束のまま門外から申入るる外ござるまい。その際は、若手の強力なる連中四、五人を内方予定しておき、潜り戸を閉めさせないよう矢庭に押入って戸を抑え、総人数を玄関前へ入れることが肝要でござる。その内には申入れた趣意が知れ渡るでござろうから、藤堂家の衆も落着かれるでござろう。
一、もし深傷(ふかで)を負うた者があって、手間どっていると、追手がかけつけるかも知れ申さぬ。そうたるとせり合(ちち)う迄の話で、上(かみ)へ趣意を徹底いたさせ難い。そのさいは少々遠方ではござれど、上野の青竜院へ各参り、御門主へお願いして公儀へ達していただくのが最上策でござろう。
一、お役人方、お目付衆に申上度は存ずるが、それは家中の者ことに浪人の身で直訴(じさそ)することになり、この上ない不調法(ぶちようほう)と存ずる。
以上が堀部弥兵衛の討入計画案である。この覚書(おはえがき)が原案になって、大石を始め吉田、原、小野寺ら幹部連が修正を加え、ついにあの立派な討入計画が大成されたのであろう。
泉岳寺の宝物館には、刷毛屋(はけや)の看板がある。中央上部には丸の中に「京」の一文字を筆太に書き、下には刷毛の木彫をさげて「屋」の字を添え、右方には小さく「上々はけ」左方には「色々おろし」その下に弥兵衛と署名がある。これは堀部弥兵衛の筆蹟だということであるが、見事な書である。
小野寺十内夫妻の忠貞
四十七士、忠義の志に於てはいずれに優り劣りはないが、同時に親孝行で、夫婦の愛情が、濃(こまや)かで、文芸の嗜みも深かったのは小野寺十内秀和(ひでかず)である。
十内は祖父の代に赤穂藩士となり、父を経て十内まで三代相恩(そうおん)、禄は百五十石(外に役料七十石)で、京都の御留守居役を勤めていた。
十内が親孝行だったことは、その母が九十の賀の時、漢学の師伊藤仁斎とその子東涯の贈った詩に拠って知ることができる。仁斎は、人のために寿詩を殆んど作らなんだ学者であるが、小野寺に贈った詩の句には「老莱(ろうらい)の孝恩誰か能く識(し)らん、膝下(しつか)尚呼んで小郎と為す」とあり、昔の有名な孝子、白髪親爺(しらがおやじ)になっていながら母の前では小児の真似をし、喜ばせたという老莱子(ろうらいし)に比して、十内の孝行を称えている。
元禄十四年三月内匠頭切腹の報伝わるや、十内は即日京都出発赤穂ヘかけつけて、万事大石と打合せ、最初は籠城討死、次は城の大手門にて切腹嘆願、三度目にはおとなしく退散して後図(こうと)を策する事に決するまで、終始大石に信頼して楡(かわ)ることなかった。
その城中会議で議論鴛々まとまりのつかなんだ際、大石の泰然不動、難局を取捌いてゆくのに感心して、京都の同姓十兵衛ヘ次の通り申送っている。
内蔵助儀、家中一統に感心せしめ候て、進退をまかせ申候と相見え申候。年若に小野寺十内和歌候へども少しもあぐみ申す色も見え申さず、毎日終日城にて万事を引受けたじろぎ申さず、滞りなく捌き申候。
さすがに人を見る明があった。さて城中会議は、大石の意見通り殉死嘆願と一決していた四月十日、十内は京都の愛妻お丹(たん)へ、近況の通知に兼ねて遺言状を送ハた。その一節、われ等は存じの通り、御当家の初めより、小身ながら今まで百年、御恩にて各を養ひ、身も暖かに暮し申候。今の内匠頭殿には格別の御情けには与らず候へども、代々の御主人くるめて百年の報恩、又身は不肖にても一族日本国に多く候。斯様の時にうろつきては家の疵(きず)、一門のつらよごし、面目なく候故、節(せつ)に至らば勇ましく死ぬべしと確に思ひ極め候。老母を忘れ妻子を思はぬにてはなけれども、武士の義理に生命を捨つる道は、是非に及び申さ父る所を合点(がてん)して、深く嘆き給ふべからず。
母御人様いくほどの間もあるまじく候ま、、いか様にもして御臨終を見届け給はるべく候。とし月の心入にて如才(じよさい)あるべしとは露ちり思はず、申すに及ばず候へども頼み参らせ候。僅の金銀家財、之をありきりに養育し参らせ、御いのち存外長く、財(たから)つきたらば、共に餓死申さるべく候。これも是非に及ばず候。
現代とはちがい、商家ででもなければ、女が働いて収入を得る道の絶対になかった当時、貯蓄の金銀家財が続く限り養育して、それが尽きたら母上と共に餓死せよとは、なんという悲しい言葉だろう。人一倍孝子で愛妻家でもあった十内をして、この語を発せしむるに至ったのは、よくよくの決心といわねばならぬ。ところでこの母は、幸にそれほとの悲運にあわず、翌年九月-十内が復讐決行のため江戸ヘ出る直前  老病で他界した。これで十内も最後には幾分気がらくだったであろう。
十内が江戸へ出てからお丹に贈った長文の手紙は、大高源五の母に贈った暇乞状と共に、真情流露の二大名文であるが、その二、三節をここに紹介する。
お丹から贈り越した手紙を見たと書いた後につづけて、十六日までの様子委しく知れ、珍しく巻返し見申候。そもじ事以前の如く左の胸下痛みて、左を敷きては寝ることならず、脈もつかれたるとて、慶安どの薬たべ申され候由尤もに候。気の疲れ候事さぞく其筈にて候。何事を思ひても身弱りてはならぬ事にて候。たより少き身になり候へば、健やかにて如何様にも世を渡る事肝要にて候ま、、病を押す事なく、よくノ\.薬をのみ可被申候。心からいかう衰へ申さるべくと推もじ致し、一入(ひとしお)痛はしく思う計にて候。妻の病気に対する同情横溢(おういっ)して、筆端(ひつたん)涙が滴ったろうと想像せられるほどである。
かねての覚悟とはちがひ、身も力なく、昼は紛れ、夜のめもいねゐて思ひ廻らし申され候由、さこそと思ひやり、此方とても同じ事にて候。御申しの如く、月日のたつに従ひ憂(びつ)きは増し候はんこと見る様にて候。常々申す如く、人間の栄え衰へ常なきこと、道理をよくく悟り候は父、憂きも却つて真(まこと)の道に入る種になり可申候。斯様の事はあらまし合点の前にて候。尚又心ある人に出合ひ、話もき、、勧めも聞きて、悟り給ふより外の心得も慰みもあるまじく候。(中略)互に身の様をも、心の中をも、かくこそとせめて思ふを忘れぬ種、命(いのち)あるうちの心ゆかしと思ふより外はすべき方なく候。唯傷ましく思ふ計にて候。何とかして妻を安心させ、その苦労を軽減してやりたいと念ずる至情が滲(にじ)み出ている。
此方(こなた)の歌、取分き逢坂の歌あはれの由、よくきゝ給ふと存候。其許(そこもと)の歌さてく感じ入参らせ候。涙せきあへず、人の見る目も思ひつ、度々吟じ申候。おくの歌まさり可申候。之に就ても必ず歌をば捨てず、たえずよみ申さるべく候。歌ども、すき間に書きて送り可申候。道中にてはくたびれても外に紛る、事なくて歌をも案じ候へども、こ、元にては五十人に余る同志の人々入り代りく毎日出会ひ、心のひま一寸もなく、ひとり静にしてゐる事なくて、歌もとりしめて案じもたらず候。
文中の逢坂の歌とは、十内が妻を残して京都を立ち、逢坂山を越えた時の作で、立ち返り又逢ふ坂と頼まねばたぐへやせまし死出の山越の一首である。道中の歌の中でこの歌が取分けあわれだったと、お丹が言い越したので、よく目が利いたと満足したのである。
其許の歌さてく感じ入とあるのは、お丹の作、
  筆の跡見るに涙のしぐれきていひ返すべき言の葉もなし
の一首であろう。十内が人目も揮らずこの歌を吟詠して評判だったことは、細川家お預け中の『堀内覚書』によっても知られる。
十内夫妻は金勝(かねかち)慶安という医師の歌人を師として和歌を学んだが、十内は師から二子たりと難も師の下知に非る者には見せ申まじく」という神文誓書を入れて、百人一首口訣抄一巻の伝授を受けた。だから彼は、専門の歌よみと称して差支えない資格を具えていたのである。なおまたお丹も師の慶安から「御歌紫式部が歌の勢にて、もしも式部が再来やと存ずるばかりに候」と誉められたほどの才女であった。この歌人夫婦の花農月夕に於ける唱和の楽しさ、察するに余りある。
お丹は、同藩士灰方(はいかた)藤兵衛の妹であるが、藤兵衛は最初小野寺一族の老と共に大義に殉ずる盟約に加わっていたが、中途変節して脱盟したので、十内怒って絶交した。お丹もまた不義の兄をもつことを恥として義絶し、夫の志を遂げて切腹してから約四ヵ月間は、読経に日を消していたが、
  夫(つま)や子の待つらむものを急がまし何か此世に思ひおくべき
の辞世を残して、絶食して死んだ。元禄十六年六月十八日の事で、墓は京都本国寺の塔中了覚院にある。法名は梅心院妙薫日性信女。
「徳利の別れ」の赤埴源蔵
講談や浪花節では赤垣(ム)源蔵で通っているが、実際は赤埴(リ)源蔵である。赤埴は、文字通り正しく読めばアカハニであるが、これをアカバネと呼んでいたらしい。「赤埴」に「赤羽に作る」と、当時編述された諸書に書かれている。今でも埴岡という苗字をハネオカと呼ぶ所がある。
赤埴(はに)がどうして赤垣(がき)と誤り伝えらるるに至ったかというと、印刷術の未だ極めて幼稚だった当時、書籍の大部分は】々筆写して、次から次へと伝わっていたところ、赤埴の埴の字は、行書や草書で書くと垣の字のごとく見えるので、その誤写が一般に流布した結果である。
彼は禄二百石を食み、事件発生当時は堀部安兵衛らと共に江戸詰だった。復讐計画が成るや、彼は芝、浜松町檜物屋惣兵衛の店(たな)を借り、高畠源五右衛門と変称して、時期を待受けていたが、大石が二度目に出府して、いよいよ決行の日も迫るや、彼は矢田五郎右衛門と共に、本所林町五丁目の堀部安兵衛の借家へ同居し、倉橋伝助や横川勘平らと共に、吉良家の様子を探っていた。
討入の時は裏門から、杉野十平次、菅谷半之丞と共に、三人一組となって屋内へ切込み、目的を達してからは、大石内蔵助以下と共に、細川家へ預けられた。細川家にお預けの十七士の言動は、堀内伝右衛門がその『覚書』に詳密に記載していること、すでに本篇中に記述した通りであるが、その『堀内覚書』には、大石、吉田、堀部、富森(とみのもり)等の話が多く、その他原、間(はざま)、小野寺、片岡、礒貝等の記事も随分あるが、赤埴源蔵のことは、いよいよ切腹の申渡があったので堀内が各自の遺言を尋ね廻った時、頼まれた言葉が記載されてあるだけである。これで見ると赤埴は、筆無精であったばかりでなく、口も重く、必要の用件以外は言葉に発せなんだものらしい。
『堀内覚書』の赤埴遺言の一節を、今日の文章に直すと次の通りである。
「御存じのごとくこの間から腫物ができて難儀いたしたが、御親切にお医者をお附け下され、お蔭で昨日から快くなり申した。今日上意によって切腹仕る段本望に存じまする。この旨を、土屋相模守様に仕えている実弟本間安兵衛と申す者に伝えて戴きたい」と申されたので、「御承知仕った、相模守様には、今枝弥左衛門と申す拙老親類の者が御取次を勤めております故、早速申し伝えまする。御安心下され」と申したところ、大層喜ばれた。それで早速今枝へその旨申遣した。
以上によって赤埴が、口も重く筆も重く、寡言沈黙、奇行のあるような人物でないことが推定せらるるに拘わらず、世間一般には「赤垣源蔵徳利の別れ」によって、よしや本心は失っていないにせよ、討入の前夜に泥酔して、徳利または兄の紋服の前に叩頭するような碕人と誤解せられているのは、彼に対して気の毒であるのみならず、義士を侮辱するものとして、著者は講談師や浪花節語りに抗議を申込みたい思いがする。
そもそもあの「赤垣源蔵徳利の別れ」は、『波賀朝栄聞書』の中の、朝栄の師小幡孫次右衛門の話として書かれている左の記事に基づいて、好事者(こうずしや)が作り替えたものなのである(原文候体)。
赤垣源蔵は十二月十二日(討入の前々日)に、阿部対馬守様に仕えている妹婿(田村縫右衛門)の処へ、最後の暇乞のつもりで訪問した。いつもより立派な衣服を着け、機嫌のよい顔色をしていた。折柄縫右衛門は不在だったらしいが(原文では在否が判明せぬ)、妹やその舅が対面した。舅なる人は、よほど義理堅い一徹の人物だったと見え、無遠慮に源蔵に直言した。「源蔵殿は浪人の身でありながら、そのような立派な衣類をなんの必要があって着ていられるのか。誠に内匠頭様のあの事件以来、御家中の方々が平気で離散せられたのを見て、世間では世の廃(すた)りものと後指さして笑い、誰一人召抱えようとするものも、この日本には無い状態ではござらぬか。腰抜け者と笑われるお身だから、せめて商売でも始めて渡世なされたらと思うに、そのような覚悟もなく、立派な衣類を着飾っていられるのは、どういうものだろう。それを資本にして商売でもなさるのが本当ではござるまいか。もとより其許(そこもと)御一人が腰抜なのではない、朋輩連中が皆そうなのだから致し方もないが、よくよく勘考なさらねばなりますまい。無遠慮にかようなことを申すのは、不本意千万じゃが、今は拙者以外に御意見申す者もないから申すのじゃ。悪く思って下さるな」源蔵これに答えて「近頃御親切な御意見、身にあまり恭なく存じまする。仰せの通り今では、親切に意見して下さる方は他にありませぬ。しかし今日は、身なりを飾って参らねばならない筋の家へ訪問いたし、その帰途、久しく御目にもかかりませず、妹にも絶えて面会いたしませんので、出来心でお訪ね申した次第、何卒悪しからず思召し下さい。その上私も、ここ一両日中には引越して本所方面へ参る事にいたしておりまするので、そうなるとまたいつ伺えるか分らないと存じまして」と、ひたすら詫びるので、舅も気の毒になり、「左様でござったか。それなら今日はゆっくりして、寒い時だから、酒でも飲んでお帰りなされい」というと、源蔵は「それでは今日は一杯いただきましょうか」という。「其許(そこもと)はいつも酒を飲まれないのに、今日はいけるのか、それじゃ早速支度いたさせよう」源蔵「今日は少し御酒を飲みたいように存じます」こんな会話の後、酒が運ばれたので源蔵は銘々へ盃をさし、妹へもしみじみと別れの盃をして「本所方面で落ちついたらまたやって来るが、当分は会える機会もあるまいと思うから、随分からだに気をつけよ」と、いつもよりも睦じく語って帰って行った。それから三日目の夜に、四十七士が本望を遂げ、その中に源蔵も加わっていたとの報が伝わったので、妹も舅も、「そのようたことを露ばかりでも心附いたら、何か御馳走でもして、力の附けようもあったものを」と嘆き、とくに舅は、「余計な意見たど加えて恥をかかせたのは、誠にはや面目次第もない。全く不欄なことをしたわい」と、昼夜の別なく後悔したと伝えられている。
『波賀朝栄聞書』には右の通り書かれている。これが「赤垣源蔵徳利の別れ」の出典で、浪花節などでは、阿部対馬守に仕えている妹婿田村縫右衛門が、丹波篠山藩の青山家に仕えている実兄塩山与左衛門と変り1源蔵に兄は無いはず1妹が兄嫁となり、酒を嗜まない寡言小心の源蔵が大酒呑の放胆な饒舌家となり、まるで似ても似附かない一義士に作りあげられた。源蔵の霊もし地下に知るたら、定めて迷惑に感じておろう。
浅野の五家 附義士と加東郡
浅野氏は戦国時代の浅野長政の後で、長政の夫人(長生院)の姉は、豊臣秀吉の夫人北政所(きたのまんどころ)(高台院)であるから、秀吉と長政とは義兄弟であり、従って浅野氏は、豊臣時代すでに特殊の勢威を具えていた。秀吉が長政を五奉行の筆頭として、とくに内政及び朝廷に関する政務を管掌せしめたのは、このためであった。
ところが秀吉の嘉去後、五奉行中の石田三成が、小智を弄して自分の勢力を張ろうとするので、長政これを嫌い、長子の幸長(よしなが)と共に、大老の徳川家康に信頼して万事の相談をかけていた。そして関ヶ原の役にはいうまでもなく東軍に属し、大功をたてたので、幸長は紀州和歌山三十六万余石に封ぜられ、長政は常陸の真壁(まかべ)五万石を隠居料として頂戴した。
幸長は三十八歳で他界したが子が無かったので、次弟長晟(ながあきら)が後を継いだ。長晟また大坂の役に戦功があったので、元和五年福島正則改易の後を賜い、安芸備後に於て四十二万六千石の国主となった。これが広島浅野家、すなわち今日の浅野侯爵家の始祖で、浅野の総本家である。
寛永九年、浅野長晟(ながあさら)の庶子長治に五万石を分封して、備後の三次(みょし)に一家を創立させた。これが三次の浅野家ですなわち内匠頭長矩の夫人(揺泉院)の生家である。
それから赤穂浅野家の初代は浅野長政の三男長重(長男幸長に子が無かったので、次男長晟が宗家を相続するに至ったこと前記の通り目で、初めは下野国真岡に於て二万石を賜わっていたが、慶長十六年父長政が卒した時、父が隠居料として戴いていた常陸国真壁(まかべ)の五万石を受け継いで真壁の城主となった。この長重は、二代将軍秀忠のお気に入りで、かつ大坂夏の陣に戦功があったため、元和八年改めて常陸の笠間(かさま)五万三千石に封ぜられた。
寛永九年長重の子長直が、父の後を継いで笠間の城主になったが、この第二代長直の時、正保二年、池田輝興が乱心して領地を没収せられた播州赤穂(五万三千五百石)ヘ転封を命ぜられて、ここに赤穂浅野家となったのである。すなわち初代浅野長重がド野の真岡城主たること十年、常陸の真壁に移ってから十一年、次に笠間に移ってから二十三年、この間に長重は卒し、長直が立ち、四十四年間に三回封を移されて、四回目に赤穂の城主となったのである。
長直に三子あり、長男長友は父の後をついで赤穂城主となり(すなわち内匠頭長矩の父)、次男長賢は、父の所領中から加東郡家原一二千五百石を分封して家原浅野家を創立し、三男長恒は、同じく父の所領から赤穂郡若狭野三千石を分封して、若狭野浅野家を創立した。そこで浅野五家の系統は次の通りである。
浅野長政 自H羅聴爵家
一 長賢(家原) 長恒(若狭野)
右の通り、赤穂浅野家の始祖は長政の子長重であるが、実際赤穂に入国したのは、孫の長直になってからである。この人当時稀に見る名君で、山鹿素行を聴して一藩の教育に任ぜしめた外、赤穂の築城、新田の開拓、塩田の拡張、学問奨励、武備具足、産業開発等の功績著しいものがあった。赤穂の製塩業は長直以前にもあるにはあったが、長直の奨励によって、昭和の今日なお余沢を残すまでに発達したのである。
長直の子長友は、城主たること僅かに四年で延宝三年に卒し、その子長矩が八歳で家督を相続したが、これがすなわち内匠頭で、吉良上野介に対する殿中刃傷から、ついに城地没収、家名断絶になったのである。祖父長直が常陸の笠間から転封して以来五十七年、長矩の在任期間は二十七年であった。
赤穂の城主なので、世人の多くはこの浅野家の所領を、播磨国赤穂町を中心とする赤穂郡内にのみ限っているもののごとく考えているが、実際の赤穂の領地は、同郡の外加東、加西、佐用の三郡に左のごとく分散していたのである。
・・・赤穂郡 加東郡 加西郡 佐用郡・・・ 
著者の郷里は加東郡であるが、赤穂までは二十余里離れ、中間に姫路の大藩が挿まっている。この加東郡内の八千余石の内、三千五百石で家原浅野家が創立されたこと前記の通りであるが、残余の赤穂の直領四千七百石を管理していたのが、郡代吉田忠左衛門で、穂積村(今は加茂村に編入されている)に役所を置き、租税の取立や訴訟事務を処理していた。この穂積村から一里許の距離に家原浅野家の陣屋があったのである。今は社(やしろ)町へ編入されているが、その町外れにある字赤岸の観音寺には、四十七士の墓碑が建っている。赤岸は赤穂義士を縮約した名称だともいわれる。
すなわち家原浅野家所領三千五百石を外にしても、加東郡内に赤穂浅野家の所領が四千七百余石もあり、しかも郡代が一挙の副首領吉田であったから、加東郡は義士らとの関係とくに深く、一時は誓約に加わって加東郡内に潜伏していたものが左の通り十四名もあった。
吉田忠左衛門、同沢右衛門、寺坂吉右衛門、間瀬久太夫、同孫九郎、木村岡右衛門、渡辺角兵衛、同佐野右衛門、高谷儀左衛門、河村太郎右衛門、多芸太郎左衛門、高久長右衛門、上島弥助、山城金兵衛。
右の内渡辺角兵衛以下の八名は中途脱盟して、不義士の汚名を残した。なお義士の一人近松勘六は京都にいたが、加東郡小野にいた妹へ遺書を送ったとあるから、やはり加東郡には縁故があったのであろう。
従来歴史家は、赤穂義士といえば、赤穂と江戸と、山科に近い京都や伏見を直に連想するが、加東郡がそれらに譲らぬ潜伏地であったことを、注意する人は少ない。加東郡内の赤穂領黍田村には、当時の名主だった小倉家が今日なお現存し、吉田や寺坂の手紙の外当時の日記なども残っているから、他の村内にも捜査すれば、あるいは貴重な史料の発見があるかも知れない。
大石内蔵助の家柄
大石の家は元近江国大石ノ庄(今の栗太郡大石村)から出たもので、内蔵助良雄の曾祖父良勝が、十八歳の時浅野長重に仕えたのが、浅野家と縁のできた初めである。
良勝は初め小姓(こしよう)役だったが、漸次重用され、元和元年の大坂役に敵の首二級を獲て、益々信頼を高め、ついには家老になって食禄千五百石を給せらるるに至った。
良勝には五男三女があり、その中の嫡子内蔵助良欽(よしたか)(内蔵助良雄(よしたか)の祖父)と二男の頼母良重とがとくに有名である。1良欽、良雄共にヨシタカと訓むのが正しいIl良欽は父良勝の後を襲いで家老となり、食禄も千τ百石をそのまま受けて、長直、長友、長矩と三代に歴任し、延宝五年赤穂で卒した。年は六十だった。良欽の妻は「伏見城を守りて一身万軍に当る」と正気之歌に歌われた鳥居元忠の孫娘で、すなわち内蔵助良雄の祖母である。
良欽(よしたか)の嫡子良昭(よしあき)は、備前池田侯の家老池田出羽由成の女を取女り三子をあげた。長子はすなわち内蔵助良雄で、万治二年に赤穂で生れた。ところが父の良昭は、祖父良欽の在世中に若死したので、良雄十九歳の青年ながら、祖父の後を襲いで家老となり、千五百石の家禄もそのまま受けついだ。
良雄の直の弟は専貞と称し、石清水八幡の大西坊覚任の弟子であったが、元禄十一年すなわち事件発生の三年前に三十九歳で残し、末弟良房はそれよりなお数年前に早世した。だから良雄は、父にも兄弟にも早く別れて、肉親には縁がうすかったのである。
良雄は、但馬豊岡藩(京極甲斐守高任).家来石束(いしづか)源五兵衛の女リク女を嬰って、三男二女をあげた。長男は十五歳にして義挙に加わり、忠孝の名を留めた主税良金(ちからよしかね)。長女はクウといったが十五歳で早世。次男吉之進は、山科から母に伴われて豊岡へ行き、事件後僧になって祖練(それん)と称していたが、これも十九歳で早世。次女ルリは、親類の進藤源四郎(中途の脱盟者)の養女になり、後に広島藩士浅野監物の妻となって、五十三歳で世を去った。末男大三郎は、母リクが山科を去る時胎内にあり、豊岡で生れたので、父子の対面はなかったが、成長の後広島浅野侯に仕え、良恭と名乗って、六十九歳まで生きた。
右の外良雄は、伯父小山源五右衛門の子覚運を養子として、弟の石清水八幡大西坊専貞の後を嗣がしめた。
それから良雄(よしたか)の祖父良欽(よしたか)の弟、すなわち良雄の大叔父に当る人に、大石頼母助良重(たのものすけよししげ)というのがあった。山鹿素行が配流されて赤穂に来た時、この頼母助の隣に家を賜わったので、彼は毎日欠かさず見舞い、足かけ十年間食事毎に副菜を贈り続けたという。この頼母助は長直公(長矩の祖父)の厚い信任を得て息女鶴姫を妻に賜わり、二子をあげた。長子は長恒といった。藩主長直はこの外孫を養子分にして、赤穂郡若狭野に三千石を分知して新に一家を創立させた。前章に記した浅野五家中の若狭野浅野はこれである。前回の系譜では長直の実子らしくなっているが、実は外孫を養子にしたのである。
次に頼母助の次子すなわち長恒の弟長武は、加東郡家原の浅野長賢の養子になって、家原三千五百石を領した。家原浅野第二代の左兵衛がすなわちそれである。
こういう風に、大石一家は主家と親類関係にもなっているので、家老たる良雄の威望はいっそう高かったのである。
山鹿素行の感化
赤穂城が没収せられた際、藩士の数はすべて=.百数十人であった。この内籠城または殉死を申合せた者が百余人であったに、二十一ヵ月の後、仇家に討入って亡君の恨みを晴らした者は四十七人だったので、世人はその中途に逃げ出した臆病老や、背信漢の多いのを憤慨するが、しかし、あの人心儒弱、風俗淫靡を以て有名な元禄時代に、三百余人の藩士中四十七人が、生命を投げ出してあの義挙を遂行したということは、むしろその人数の多いのに驚くべきではないか。
なおまた世人は、四十七人中にはいろいろの性格、いろいろの事情があるに、それを統一して一致の行動をとらしめた大石良雄(よしたか)の威望と手腕とを嘆称するが、しかし大石いかに威望と手腕とを具えていても、藩士の多くが大野九郎兵衛父子のごとき人物であったら、到底あのような義挙を見ることはできない。四十七人が死を覚悟して亡君の仇を報ずることに終始したのは、忠義の精神が一藩に行き渡り、大野父子のごとき人間は武士の風上に置くべきでないとする気風が、藩中を支配していたので、大石はその気風を巧に指導し、その精神を中心に人々を統率して、ついにあの武士道の花を咲かせたのである。
だから、義挙は大石を中心として決行され、大石なくしてはあのような見事な成果を得ることは不可能だったと断言し得られるが、しかし大石以下をしてこの義挙に出でしめた力は、別に存在していたことを知らねばならぬ。それは山鹿素行(やまがそこう)の感化である。素行が内匠頭の祖父長直に聰せられて、前には八年間江戸藩邸で在府藩士のために文武の学を講じ、後には幕府の忌誰(きい)に触れて、赤穂の地に調(たく)せられ、更に九年間また在国の藩士に書を講じ、忠孝節義の重んずべき事を説いたのが、一藩の人心に強い感化を与え、世はいわゆる元禄時代の華奢柔弱の時代だったに拘わらず、赤穂藩には質実剛健の気風が満ち、忠孝の精神が人々の頭を支配していたので、素行が去ってから二十六年後に、四十七士の義挙となったのである。大石内蔵助その人すら、素行の感化によって人格の根本を築いたものであること、殆んど疑う余地もない。だから、赤穂義士を知るには山鹿素行を知らねばならぬ。教育の力の偉大さは、山鹿素行と赤穂義士との関係に於て最も明白に証拠だてられる。では、山鹿素行とはどんな人物か。
素行の本名は甚五右衛門といい、素行は号である。先祖は肥後の山鹿(やまが)にいたので、地名を氏にしたのである。父の玄庵は江戸で医者をしていた。素行は幼時から頭脳明敏、六歳にして経史を学び、九歳の時林羅山の門に入り、十一歳の時すでに、小学 ・論語・貞観政要などを人のために講義したが、その弁論が堂々老大家のようだったので、驚かない者はなかったという。十八の時、武田流の兵学者北条安房守氏長に入門して兵法を学んだが、五年の間に数多い弟子の中で首席となり、二十二で秘伝奥義をスッカリ伝授された。そして後に山鹿流の兵法を創始した。
当時幕府は儒学を奨励していたが、それは林道春(羅山)の系統を引いた朱子学であった。朱子学というのは、儒教を哲学的に解する朱烹(しゆき)の学派で、深遠とはいえようが、元々儒教は実生活の実行に重きをおいたものなのに、朱子学は兎角空理空論に走る嫌いがあった。それで素行は朱子学を排斥し、官学の林家と相対時し、門人が三千人を超えるに至った。そのため、幕府の誤解を招いた。
また当時の漢学者は、中国を孔孟の本国として、日本よりも一段上に位する国柄のごとく心酔する傾きにあったが、素行は、日本こそ貴い神の国で、日本の国体こそ万国無比のものである。我国の学問はこの国体を擁護するものでなければならぬという意味を説いた。それらが、幕府には気味わるく聞かれたに相違ない。
これよりさき赤穂藩主浅野長直(内匠頭長矩の祖父)とくに素行の人物と学問に傾倒し、初めは門人となって教えを受けたが、後には礼を厚うしてこれを招聴し、禄千石を給した。
『浅野内匠頭分限牒』によると、家老の大石内蔵助千五百石を筆頭として、次は岡林杢之助、奥野将監、近藤源八の各千石、その次は八百石が五人、六百五十石が二人という割になっている。祖父長直の時代に於ても、藩の所領が同じである以上、家士の禄高も大差なかったに相違ない。しかるに、山鹿素行を聴して千石を給したのは、随分思い切った優遇である。しかも素行はその時まだ三十一歳であった。三十一の青年、いかに名声が高くとも、これを招聰して、藩中第二位の高禄を給することは、恐らく藩士の大部分が反対したであろうから、長直は非常な決意を以て家臣の反対を押切り、素行招聴の希望を実現したのだろうと察せられる。従って素行も、この君公の知己の恩に感激し、藩士教育のために心力を尽すこと、一般の賓儒とは異なっていたこというまでもない。
素行が浅野藩の人となったのは、承応元年十二月で、その翌年赤穂城縄張のため】度赤穂へ行って、数ヵ月滞在したことはあるが、その他はズット江戸の藩邸で、藩士のために士道を講ずること満八年、万治三年九月に致仕(ちし)した。
ところが、それから六年の後、寛文六年十一月、素行の著『聖教要録』が幕府の忌誰(きい)に触れて、素行は赤穂の地へ調(たく)せられ、浅野侯にお預けとなった。幕府が素行を、他所へやらずに赤穂に講したのは、前に長直が高禄を以て抱えていたのみならず、今なお尊信しているので、双方のために好都合であろうとの、当局者の同情ある計らいだったのだろう。というのは『聖教要録』が、林大学頭を中心として多くの人に信奉せられている朱子学を攻撃したために罪を獲たのであるが、本来学問上の議論で、しかも、素行の主張にかなり共鳴老もあるので、罪にはしても普通の罪人扱いにはせず、とくに便宜を計ったものと考えられる。
この素行の赤穂調居を、藩主長直がどれほど喜んだか知れぬ。早速二の丸の大石頼母助(内蔵助の祖父良欽の弟で家老)の隣邸に迎え、旧師として尊敬した。爾来満九年間素行は赤穂に止って、表面謹慎中の罪人であるが、実際は賓儒のごとき待遇を受け、藩士の教育に力を注いだ。大石頼母助のごときは,毎日訪問を欠かさず、一日二回副菜物を贈って九年間絶たなんだ。
藩主長直は寛文十二年に卒去し、子長友が嗣いで太守になったが、在任僅かに四年で延宝三年他界。そのあとへ八歳の長子長矩が立った。この年、前将軍家光の二十五回忌に相当したので、素行は赦免せられ、赤穂を立って江戸へ帰った。
素行の赤穂調居は四十五歳から五十四歳までで、一生中最も膏の乗り切っていた時代であり、その名著『中朝事実』1この書は明治時代に、乃木大将によって翻刻せられ、天皇陛下に献上せられたーもこの間に書かれたのであるから、藩士に与えた感化の偉大であった事も想像されよう。
素行の赤穂を去った時、大石内蔵助は十七歳、吉田忠左衛門は三十五歳、間喜兵衛は四十一歳、堀部弥兵衛は四十九歳だった。その他小野寺十内、原惣右衛門、村松喜兵衛、貝賀弥左衛門らは、いずれも二十五から三十前後だったから、皆相当の感化を受けたに相違ない。
四十七義士の出現は、山鹿素行と、素行を尊信した藩主長直の力であること疑うベき余地もない。素行の墓は、東京牛込区弁天町の宗参寺にあり、毎年素行会(会長井上哲次郎博士)で祭典を行う。
殿中刃傷は勅使登城の前か後か(史論)
本篇は中央義士会の機関紙「義士精神」昭和十二年二月号に掲載した拙論である。
浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた時、勅使院使はすでに登城していられたのか、それとも登城前であったのかという事は問題である。福本日南翁の『元禄快挙録』には、当日御接伴掛の両侯と高家衆は、何れも松の御廊下に、勅使院使の御登城を、今か今かとお待受けされる。と書き、徳富蘇峰翁の『近世日本国民史』中の『義士篇』にも、この文句をそのまま借用し、その他私の見た新刊の群書は、ただ内海定治郎氏の『真説赤穂義士録』を除く外、全部刃傷事件を勅使登城の前としている。
そこで私は、古書に湖って研究することとし、先ず浅野家々秘抄の別名ある『江赤見聞記』を緒くと、次の通り記されてある。
十四日公家衆御登城、御馳走方にも御登城、追つけ御白書院へ出御遊ばさるべく□殿中大廊下吉良上野介殿へ御台様附御留守居役梶川与三兵衛殿御用の儀有レ之被二仰談一御通り候所を、後より内匠頭様御越、上野介覚え候かと御言葉を被レ掛、肩先へ御切付被レ遊候。
『易水連挟録』は著者不明であるが、元禄十六年三月(義士切腹の翌月)の自序があり、義士に関する著書中最も古いもので、また信ずべき書でもあるが、それには次の通りある。
同十四日、辛丑、陰天、今日将軍家勅答仰出サル、ニ付テ公家衆登城アリ、浅野内匠頭、伊達左京、相共二登城アリ、吉良上野介、大友近江守等、何レモ柳ノ間二相詰ラル時、公家衆御白書院二伺候アリシガ、追付勅答トテヒシメク所二、内匠頭イカナル意趣ノ有ケルニヤ、殿中ヲモ揮カラズ、彼ノ柳ノ間ニテ上野介ト何ヤラ言葉荒々シク聞エシガ、頓テ上野介柳ノ間ヲ立、同二十四五問アル廊下ツ、キ小走リニ逃行。(下略)
この外、『忠誠後鑑録』も刃傷事件のさい勅使院使がすでに登城していられたことを明記し、『赤城士話』はそうハッキリとは書いてないが、文章によって同意味なることを思わしめる。そして『赤穂義人録』と『赤穂鍾秀記』の二書は登城前たることを明記し、『介石記』はこの問題に触れてない。
すなわち、古書に於ては、勅使(院使を含む、以下同じ)がすでに登城していられたと記したものの方が多いに関わらず、後世には登城前だったとする説の方が有力になったのであるが、私には受取れない。
第一、もしあの刃傷事件が、勅使登城前だったとすると、あれほどの騒ぎの直後に勅使が着かれた時の狼狽さ加減が、どこかに書かれていそうなものだのに、それが全くない。
第二、殿中において血の薇れがあった理由で、当日奉答の式を延期すベきや否やが問題となり、勅使の意見を聴いて、やはり予定のとおり行われる事にはなったが、御白書院の式場は流血の場所に近いからとて、にわかに御黒書院に変更された。それらの事から考えて、もし事件が勅使登城の前だったのなら、何をおいても先ず御旅館へ使を馳せて、御登城の見合せまたは時刻の引延ばしを乞いそうなものだのに、それらの事が全くない。
これらの点から推して、私は勅使がすでに着いていられたものだろうと察し、それを確めるに足りる根本史料の発見に努力した。そして二つを得た。その一は梶川与惣兵衛の筆記である。すなわち次の通り。
(上略)主計殿御申には、先刻吉良殿より、今日の御使の刻限早く相成候旨申参り候旨被申候故、委細承り候と申して、夫より中の間へ参り候処多門伝八被居候故、高家衆を尋ね候へども居られ不申候。然らば殿上の間に被居候はんやと申候処、最早公家衆には御休息の間へ被参候由に付、左候は父大廊下には高家衆被居可申哉と申候へば、如何可有之哉と被申候間、然らば大廊下へ参り見可申と申捨て、大広間の後通りを参り候処、坊主両人参り候。争略)其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼びに遣し其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ参られ候間、拙者大広間の方御休息の間の障子明きて有之、夫より大広間の方へ出候て、角柱より六、七間も可有之処にて双方より出合ひ、(中略)吉良殿の後より、此間の遺恨覚えたるかと声をかけ切付申候。
当時内匠頭を抱き止めた梶川が、右の通り、高家衆を尋ねたけれどもいないので、殿上の間にいるだろうかと、目付の多門伝八郎に尋ねたところ、もはや公家衆が御休息の間に参られているというので、そうすると高家衆は大廊下あたりにいられるでしょうかと問うと、多門はさあどうでしょうかと答えた。それで大廊下の方へ行って見たと書いている以上、勅使はすでに登城して休息の間にいられたのに相違ない。かつ後段に「大広間の方御休息の間」という一句があるのによって、勅使休息の間は大広間だったことも察せられる。
更に一つそれを確める史料は当の勅使柳原権大納言の日記である。それには次の通りある。
一、十四日、今日御暇、三人登城、秋ノ野間ニ砥候、外様馳走人浅野内匠頭乱気歎、次(のり)ノ廊下(りりり)ニテ吉(り)良上野介ヲキル、大二騒動絶(りりりりり)二言語(りり)一也(り)。事了(りり)、畳(りり)ナド清(りりり)メラル(りり)、次二畠山民部、戸田中務御使ニテ、今日の儀故、勅答苦カル間敷哉ノ由被二仰下一及レ穣事ニテモ無之、勅答被二仰出一少モ不レ苦義候、兎角御機嫌次第可レ被二仰出一旨申上候也、次二御黒書院ニテ御対面。(後略)今日御暇とあるのは、勅使がこの日限り暇乞する意味、三人は勅使二人と院使一人とである。三人が登城して、衝立に秋の野の描かれた間に砥候していると、浅野内匠頭が狂気したのか、次の廊下で吉良上野介を斬ったとある。次の廊下とは、自分の居室につづいた廊下の意味で、事件当時、近くの部屋にいたのでなければ、こんな文句は使えないはずである。かつ、その次の文句、「大(りり)に騒動(りり)、言語(りりり)に絶(り)す」も、現在殿中に居合わせて騒ぎを親しく見たればこそ言い得られる形容ではないか。なおその先の「事おはり畳など清めらる」も、その時殿中にいたかった者の書ける文句ではない。
以上、梶川筆記と柳原大納言の日記によって、殿中刃傷のさい勅使がすでに登城していられた事を十分立証し得ると思うが、しからば、かかる明瞭なる事実が何故二様に伝えられ、しかも誤った方が真実らしく後世に伝えられたかというに、多分これは、幕府当事者が血の械れを忌み嫌った結果、すぐ近くの室に勅使がいられたことをいっそう恐縮して、曖昧に、もしくは御着以前であったらしく発表したのと、他方ではまた、義央の長矩に対する侮辱が、勅使奉迎のさいの問答に関連しているので、御着前とする方がなるほどとうなずかれ、かつそれが室鳩巣の『義人録』の名文によって宣伝されたため、真事実の方がついに誤伝のごとく取り扱わるるに至ったものであろう。  終 
 
忠臣蔵諸話

 

 
忠臣蔵1 年譜

 

年譜
 西暦   和暦 日付   
1683 天和3年 2月6日 浅野内匠頭長矩(以下、「内匠頭」)、勅使饗応役を拝命。
   5月 内匠頭・阿久里の婚儀が行われる。
1701 元禄14年 2月4日 内匠頭、二回目の勅使饗応役を拝命。
   3月14日 内匠頭、江戸城松の廊下で吉良上野介(以下「上野介」)に刃傷に及ぶ。
      田村右京大夫邸にお預けとなり、切腹。
      内匠頭刃傷事件を伝える使者が、江戸から赤穂へ出発する。
   3月19日 江戸から急行した使者が到着。赤穂城下は大騒ぎとなるが、
      家老・大石内蔵助良雄(以下、内蔵助)らが事態の収拾にあたる。
   3月26日 上野介、御役御免を願い出て辞職。
   4月19日 赤穂城、明け渡される。
   6月28日 内蔵助、京都山科に居を移す。
   8月19日 上野介、呉服橋邸から本所松坂町へ屋敷替え。
   11月10日 内蔵助、江戸で急進派浪士らと会合し、
      討ち入り決行を翌年3月頃と決める。
   12月12日 上野介が隠居。孫の義周が家督を継承。
      この頃、高田郡兵衛、脱盟。
1702 元禄15年 1月14日 萱野三平、摂津の自宅にて自害。
   2月15日 山科会議が開かれる。
   4月 内蔵助、妻・りくを離別。
   7月18日 浅野大学長廣に安芸浅野家お預けの処分が下される。
   7月28日 円山会議が開かれる。
   9月19日 大石主税らが江戸へ下向。
   10月7日 内蔵助らが江戸へ下向。
   10月26日 内蔵助らが川崎平間村へ到着。
   12月10日 大高源吾、吉良邸で茶会が催されるという情報を入手。
   12月14日 深夜、47名の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り。
      [元禄15年12月14日は西暦1703年1月30日 - 仇討ちは翌日未明。]
   12月15日 赤穂浪士、泉岳寺にて仇討ちの成功を報告し、幕府に自訴。
      赤穂浪士の処分を巡って議論が分かれる
1703 元禄16年 1月22日 幕府、浪士らに「親類書」の提出を命じる。(26日に提出。)
   1月下旬 浪士処分を決める投票が行われる。
   2月1日 綱吉が公弁法親王と会談
   2月4日 内蔵助ら46士、切腹。
      吉良義周、知行地を没収され信濃高島城へ配流。  
浅野内匠頭 勅使饗応役を拝命
赤穂浅野藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、勅使饗応役を命じられたのは実は2回ある。1回目がこの時、2回目が刃傷事件に及んだ時である。1回目の勅使饗応役を命じられたとき、内匠頭は17歳の青年大名であった。先代藩主であった父の長友は、延宝3年(1675年)に没したため、9歳で家督を継いで藩主となっている。なお、1回目の勅使饗応役の指導にあたったのは、吉良上野介義央(当時43歳)であった。また、浅野内匠頭が前年に朝鮮通信使饗応役を命じられた時も、指導役は吉良上野介であった。2年連続して、饗応役と指南役という関係があったのである。浅野内匠頭と吉良上野介の関係は、実はこの時から始まっていた。しかし、この時はさほどの問題も生じなかったようで、無難にこなしたようである。18年後、二人の関係に亀裂が生じて、歴史に残る一大事件に発展するとは、おそらく誰も想像できなかっただろう。
阿久里姫の婚儀
勅使饗応の役目を果たした浅野内匠頭は、本家の分家筋にあたる三次浅野家の阿久里姫(10歳)との婚儀を交わした。二人の縁組が幕府に認められたのは延宝3年(1675年)で、当時、阿久里姫はわずか2歳。二年後に結納が行われ、延宝6年、5歳の時に内匠頭の屋敷に引き取られていた。
二回目の饗応役
この日、内匠頭は老中らから勅使饗応役を命じられた。同じく接待にあたる院使饗応役は伊予宇和島の伊達村豊(当初は「宗春」と名乗っていたが、後に改名)で、饗応指南役は吉良上野介であった。
内匠頭にとって2度目の饗応役になるが、前回はかなり前のことである。5年前の元禄9年に、三次浅野家が饗応役を務めていたのでその時の記録を借用して準備にあたったらしい。
そもそも、この勅使の江戸下向は、毎年行われている恒例行事のようなものだった。毎年正月に幕府から高家が使者として朝廷に派遣され、年賀を申し上げる(この年の幕府の年賀の使者は吉良上野介)。その答礼の使者として勅使が派遣されるのである。勅使饗応役は、この答礼の使者の接待が役割で、幕府は4〜5万石級の大名を選んで、饗応役を命じていた。赤穂浅野家の石高は5万3000石であり、勅使饗応役に選ばれるクラスの大名である。浅野内匠頭は2回命じられたが、3回以上命じられた大名も多い。最も多く命じられたのは、石見津和野藩(4万3000石)の亀井茲親かめいしげちかで、5回も命じられている。
刃傷事件
3月11日、勅使らが伝奏屋敷に到着。
 12日、勅使一行は将軍・綱吉と対面。
 13日、勅使饗応の能が披露される。
勅使の江戸下向の儀式は、ここまでは特に問題もなく、順調に進んだようである。刃傷事件が起きたこの14日は、一連の儀式の最終日であった。
刃傷事件のあらましを伝える資料はいくつかあるようだが、ここでは最も信頼できると思われる『梶川氏筆記』の記述を基にした。その理由は、筆者の梶川与惣兵衛頼照かじかわよそべえよりてる(当時55歳)は、この刃傷事件を目の前で目撃し、吉良上野介に斬りかかろうとする浅野内匠頭を抱きとめた人物、ということである。
これによると、梶川と吉良が、刻限が早くなったということを一言二言話しているところ、吉良の後ろから誰かが「この間の遺恨、覚えたるか」と叫んで斬りつけた。この時の太刀の音は大きく聞こえたが、実際には浅手だったらしい。驚いて見てみると、斬りつけたのは饗応役の浅野内匠頭であった。吉良は「是れは」といって、後ろを振り返ったところで二太刀を受け、さらに浅野から逃げようとしてたところ、背後から二太刀斬りつけられ、そのままうつ伏せに倒れた。この時になって、梶川が浅野にとびかかった。梶川の片手が浅野の小刀に当たったので、そのまま押しつけすくめた。その間に、近くにいた高家衆、院使饗応役の伊達左京亮、坊主衆など、近くに居合わせたものが次々とやってきて浅野を取り押さえた。・・・とのことである。(刃傷松の廊下 / 仮名手本忠臣蔵三段目に描かれた刃傷松の廊下。仮名手本忠臣蔵は江戸時代に歌舞伎の演目として作られた物語で、赤穂事件をモデルとしている。一般に、「忠臣蔵」と呼ばれるこの物語の名前の由来はここから来ている。)
吉良は何時の間にやら姿が見えなくなっていたが、浅野は大勢に取り囲まれながら「吉良の事は、この間、『中意趣』のことがあったからである。殿中であり、今日の事はまったく恐れ入ることではあるが、是非に及ばず、打果した(注:吉良は軽傷であり、もちろん死んでいない。)。」と、繰り返し何度も大声で言った。「もう事は済んだのだから、だまりなさい。」と言ったところ、それ以後は何も言わなかった、という。
その後、浅野、吉良共に取調べを受けているが、結局刃傷の原因については何もわからなかったようだ。
結果、浅野内匠頭は切腹。赤穂浅野藩は領地没収・お家取り潰しとなった。一方、吉良上野介には一切お咎めなしとなり、騒ぎを止めた梶川与惣兵衛には手柄として500石を加増された。浅野内匠頭は罪人同様の扱いを受けて、田村右京大夫邸に運ばれ、幕府目付けの立会いのもと、切腹して果てた。浅野は家来に手紙を書きたいと言ったが、それは認められず、代わりに伝言が許可された。浅野の言葉を、田村家の者が筆記した「覚書」を浅野の家来に渡すのである。覚書の内容は
「此の段、兼ねて知らせ申すべく候へども、今日止む事を得ず候ゆえ、知らせ申さず候、不審に存ずべく候」
というものであった。結局何があったのかはわからない。こうして、浅野内匠頭は刃傷に及んだ具体的な原因については一切不明のまま、切腹して果てた。切腹に立ち会った幕臣・多門伝八郎おかどでんぱちろうの『多門伝八郎筆記』は、浅野の辞世の歌をこう記している。
風さそう 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
浅野内匠頭の遺骸は片岡源吾右衛門らによって、江戸の泉岳寺に葬られた。立ち会ったのは数名であり、大名の埋葬にしてはたいへん寂しいものであったという。この時、片岡源吾右衛門は亡君の墓前で復讐を誓って髻を斬ったという。こののちに、彼は同じ江戸勤めで親友の礒貝十郎左衛門と共に、あだ討ちのために独自に行動を始めた。
早駕籠
3月14日17時頃、主君刃傷事件という凶報を伝えるべく、江戸から赤穂へ早駕籠はやかごが飛んだ。刃傷事件を知らせる第一の使者となったのは萱野かやの三平と、早水藤左衛門の2名。江戸から赤穂までは約155里(約620km)の距離であったが、3月19日の早朝(4時頃)、赤穂に到着。家老の大石内蔵助に事件を伝えたのである。この凶報は、一瞬にして赤穂を震撼させた。大名の刃傷事件には前例がある。前例では、事件を起こした大名は領地没収・お家取り潰しの処分が下されている。主家が取り潰されるということは、その家臣全員が収入を失い、浪人に身を落とすことを意味していた。赤穂も例外ではなかった。同日夜、主君切腹、吉良にお咎めは無しという、幕府の裁断を伝える第二の使者(大石瀬左衛門せざえもん(25)、原惣右衛門そうえもん(54))が到着する。
赤穂混乱
江戸から急行してきた使者によってもたらされた、主君の刃傷事件の報が広まると、赤穂は大騒ぎになった。国家老・大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしたか(43歳)は、赤穂の混乱を鎮めるべく指揮にあたった。藩札引換を行って領民の不安を取り除いた。27日〜29日にかけて、藩士を総登城させ、城内で大評定を開き、今後取るべき行動についての話し合いが行われた。激昂する一部の武士達は籠城抗戦を唱えた。勇敢な論であるが、あまり現実的ではないだろう。大石は、赤穂城受け取りにやって来る受城目付宛てに
「喧嘩相手の吉良上野介は何の処分も受けていないのに、城を明け渡す事は出来ない。家中の者が納得できる処置を願う。」
という内容の「鬱憤之書付」を作成し、江戸に使者を送った。
しかし、使者が江戸に到着する前に受城目付は赤穂に来てしまう。大石は受城目付の城検分に立ち会っている時も、ひたすら赤穂浅野家の再興と吉良の処分を嘆願したが、結局は受け入れられなかった。
この間、家老の大野九郎兵衛などは、藩札処理問題で岡嶋八十右衛門と揉めて赤穂を逐電してしまっている。他にも、赤穂を捨てて逃げ出した藩士はいるようだ。しかし、大石にとってはその方が好都合だったのかもしれない。自らの保身を優先して逃げ出す者は、大石がこれからやろうとしていることには必要なかっただろう。後に、大石は自分の存念を語り、それに賛同する者から起請文きしょうもん(神文しんもん:誓約書のこと)を取ったのである。現在、その時の起請文と思われる書が残っており、それには以下のような内容のことが書いてあるらしい。
このたび申し合わせの本意を相達し申すべく候 親族に一切洩らし候まじく候 (訳:今回話し合って決めた我らの本懐は必ず遂げます。親戚一同にも秘密にします。)
この起請文を集める場面は、映画などでもよく描かれているが、いつ頃書かれたものなのかは、わかっていないらしい。また、「本懐」についての内容も不明である。大石は4月14日に、堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛ら、江戸在中組の代表が赤穂に到着し、彼らと面談した。後にこの3名は、吉良邸への討ち入りを積極的に唱え、大石に討ち入りの決行を催促していたため、江戸急進派と呼ばれている。会談の結果、3名は納得して江戸に戻ったようである。これを考えると、大石の本懐とはこの時既に「討ち入り」だったのかもしれない。
赤穂城明け渡し
4月19日。赤穂城は目付・代官立会いのもとで、受城使の龍野藩主・脇坂安照と足守藩主・木下公定に引き取られた。赤穂開城後も、大石ら一部の者達は赤穂に残り、残務の処理にあたった。
内蔵助、京都山科へ
赤穂にて残務処理を終えた一同は、6月4日に解散した。内蔵助は24日に花岳寺で主君・内匠頭の百か日法要をとり行い、25日に新浜浦から船で大坂に向かった。そこで、先に出発していた妻のりくと子供達と合流し、28日に新居のある京都は山科、西の山に落ち着いた。彼が、再び故郷の赤穂の地を踏むことはなかった。
吉良邸、本所松坂へ
吉良上野介の屋敷は江戸城の城郭内、呉服橋門のすぐそばにあったが、隅田川の東の本所松坂町へ移された。これは自主的な引越しではなく、幕府からの命令である。この屋敷替えの理由については、呉服橋邸近隣の蜂須賀家などから、赤穂浪士が討ち入ったら迷惑だ、と言われたためとか、幕府から嫌われたためとか、あるいは単純に、高家筆頭職を辞して無役となったため江戸城の近くに住む必要はないから、などいろいろな説がある。転居命令の狙いについてはさておき、江戸城外への転居によって、赤穂浪士が討ち入りやすくなったのは、間違いないだろう。ちなみに、引越し先は松平登之助の空屋敷であったため、改築が行われた。
この吉良邸転居により、今すぐにでも討ち入りを行いそうな勢いを持つ堀部安兵衛ら江戸急進派は、この事実を手紙で内蔵助に知らせている。以前から、江戸急進派は討ち入りの決行を内蔵助に催促していたが、内蔵助は時期尚早だと慰撫に務めていたことが、書簡の往来記録で明らかになっている。血気盛んな江戸急進派といえども、吉良邸が江戸城内にある時にはさすがに手が出しにくいが、城外の本所松坂なら討ち入りはかなり容易になる。吉良邸の転居は江戸急進派を刺激し、今にも暴発しそうな勢いになったため、内蔵助は慰撫の使者を送らざるをえなかった。
内蔵助、江戸へ
堀部安兵衛ら江戸急進派の意気は日に日に盛んになってきた。手紙のやりとりだけでは彼らの昂ぶりを抑えることができないとみた内蔵助は、潮田又之丞や大高源吾らを慰撫の使者として派遣し、説得させたが、江戸急進派の意見は変わらなかった。潮田や大高は、かえって安兵衛に説得されて江戸急進派に属してしまうほどである。10月下旬、内蔵助自らが江戸に出発した。目的は当然、江戸急進派の慰撫である。11月はじめに江戸に到着し、10日には急進派との会談を行った。この席上で内蔵助は
近いうちに大学様(内匠頭弟・浅野長廣)の処遇が決まるであろうから、それまでは隠忍自重しよう。その結果、仇討ちを行うのなら、3月中に決行しよう。
という方針を出して、なんとか一党の分裂を止めたのである。
14日、内蔵助は泉岳寺に眠る主君を尋ねた。この日は、月は違うが主君の命日である。この時、浪人となっていた不破数右衛門が一党に加わったと言われている。
12月はじめ、内蔵助は京都山科に帰った。
上野介隠居
この日、吉良上野介は嫡孫の義周(よしちか)に家督を譲り、隠居の身となった。既に無役の身となっていたが、隠居することで幕政の表舞台からは完全に身を引いた形になった。家督を継いだ義周は、上野介義央の「孫」であり「息子」ではない。これは、上杉家との縁組関係に起因している。
上野介義央の正室は、上杉家当主・上杉綱勝(景勝の孫)の妹・三姫(富子)であった。上杉綱勝は病気がちな人物で、嗣子がないまま突然病死してしまった。戦国時代の名将・上杉謙信以来、武家の名門であった上杉家は断絶の危機にさらされたのである。この時、上野介と三姫の間に産まれた男子を綱勝の養子として、後を継がせることで上杉家はなんとか断絶を免れることができた(ただし、30万石から15万石に減知された)。上杉家を継いだ上野介の息子は「綱憲」と名乗り、吉良家と上杉家は親子の関係になった。
上野介には男子が二人誕生したが、もう一人は早世してしまっているため、嫡男がいなかった。そこで、綱憲の次男を上野介の養子という形にして、吉良家を継がせたのである。映画などで、上杉家が吉良家の味方で登場するのはこういう経緯があったためである。
高田郡兵衛脱盟
高田郡兵衛は200石で江戸詰であった。生没年は不詳だが、槍の達人であり、その腕をかわれて赤穂浅野藩に仕えた。郡兵衛は堀部安兵衛らと並んで、討ち入り決行を強く唱える江戸急進派の一人であった。しかし、この頃、脱盟してしまっている(脱盟の時期については定かではない)。その理由は、伯父の内田三郎右衛門から養子になるように頼まれ、他家に仕官する道を選んだとか、兄が内田に吉良邸討ち入りの真意をもらしてしまったために、口外を防ぐためにやむを得ず養子になった、などと言われているが、理由は定かではない。討ち入り後、郡兵衛は泉岳寺へ祝い酒を持って浪士たちにふるまおうとしたが、彼らの反応は冷たく、罵声を浴びせられたという。その後の郡兵衛の消息は不明。
萱野三平、摂津の自宅にて自害
主君への忠誠と、親への孝行。二つの板ばさみに苦しみ、悲運の生涯を閉じた赤穂浪士。萱野三平重実(かやのさんぺいしげざね)について一言で表現するなら(人間を一言で表現するのはたいへん難しいですが)、このように言えるのではないかと思います。こちらでは、忠と孝の板ばさみに悩み苦しんだ萱野三平重実を紹介いたします。
萱野家は源氏の流れをくむ一族で、鎌倉時代から摂津萱野郷を領した土豪の家だった。この地は西国街道に面しており、この街道に面して立派な武家屋敷を構えていたという。戦国時代、萱野家は織田信長の配下である伊丹城主・荒木村重に所属していた。ところが、村重は信長に対して謀反を起こして敗北。萱野家も領地を没収されてしまう。時が流れて江戸時代になると、縁あって美濃出身の旗本・大嶋家に仕えることとなり、萱野家旧領付近の大嶋家の所領となっていた土地の代官を勤めることとなった。三平は延宝3年(1675年)に、父・重利の三男として誕生した。13歳の時に父の主君・大島出羽守の推挙で浅野内匠頭に中小姓として仕えることとなった。中小姓は、主君の側用人のような役職だったらしい。
元禄14年(1701年)3月14日 浅野内匠頭刃傷事件
三平は、早水藤左衛門と共に主君の刃傷事件を赤穂に知らせる第一の使者となって、早駕籠に乗った。言葉で記述するのは簡単だが、この早駕籠の使者というのは命懸けのものだったらしい。乗り心地の良さなどは皆無であり、乗り手は振り落とされないように必死につかまっていなければならなかった。実際、彼と早水は途中で数回、駕籠から振り落とされてしまったらしい。それでも、この報はすぐに赤穂に知らせなければならなかった。刃傷事件となれば、お家取り潰しという処分も可能性がある。主家がお家取り潰しなるということは、赤穂藩士全員が所領を召し上げられ、浪人に身を落とすことを意味していた。彼らは不眠不休で155里(約600km)の道のりを突っ走り、驚異的な早さで3月19日未明に赤穂に到着。疲労困憊、息も絶え絶えの状態であったが、井戸水でわずかに一心地ついただけで、すぐに国家老(筆頭家老)・大石内蔵助良雄にこの凶報を伝えたのであった。
少々脱線するが、彼の人柄をうかがわせるこんな話が残っている。
早駕籠で赤穂へ急ぐ途中、西国街道沿いの実家の前を通ると、そこで母の葬儀が行われているのを目にした。母という存在は大きい。親不孝を自認し孝行などにまるで縁のない人間であっても、その母の死に際して心に悲しさを感じない、という者は一部の例外を除けばまずいない。ましてや、三平ほどの人物が、母の葬儀を目の当たりにして、後ろ髪を引かれることなしに振り切ることなどできなかったであろう。しかし、彼は重大な任務の途中であった。主家を失う悲しみの報告の上に、母を失った悲しみを背負って、一路赤穂に向かった、というのである。
さて、話は戻る。
同日の夜、第二報が赤穂に到着。
浅野内匠頭は切腹だが、相手の吉良上野介にお咎めなし
という幕府の裁定が赤穂に伝えられた。喧嘩両成敗の慣習法を無視した処置だと赤穂藩士達は激しく憤り、籠城論、開城論、殉死論などが飛び交って混乱を極めたが、結局は無血開城となった。しかし、事件はこれだけでは終わらない。大石は藩士達を集めて自らの存念を語り、それに賛同する者から起請文を集めたのである。他の藩士達と同様に、幕府の処置に激しい憤りを覚えた三平も起請文を提出。大石の盟約に加わった。この時の盟約とはどのようなものだったのかははっきりしていないが、彼の胸中には「吉良邸討ち入り」があったのかもしれない。
4月下旬頃 赤穂開城後、三平は摂津・萱野郷の実家に戻った。
三平は討ち入りを急ぐ「急進派」であったという。急進派といえば堀部安兵衛を中心とする「江戸急進派」が最大勢力であったが、三平も同様に早期の討ち入りを唱えていた。しかし、その前に彼にはやり残していた大事なことがあった。母の供養である。6月28日、母の百か日の法要をとりおこない、葬儀に参列できなかった悔いを埋め合わせた。
母の供養も済ませた三平は、大石に討ち入りの決行を促すが、大石はうなずかなかった。この時はまだ主君・浅野内匠頭長矩の弟である浅野大学長広の処分が決まっていなかったのである。浅野家再興運動を進める大石から見れば、明らかに時期尚早であった。
9月下旬頃、大石は猛る三平をなだめ、説得するために、大高源吾を使者として派遣した。大高源吾は俳諧をたしなむ文化人でもあり、「子葉」という俳号も持っていた。討ち入り直前に吉良邸で開かれる茶会の情報を入手したのも彼である。三平もまた俳諧をたしなんでおり、「涓泉けんせん」の俳号を持っていた。この二人に神崎与五郎の「竹平」を加えて、「大高子葉」「萱野涓泉」「神崎竹平」で赤穂三羽烏と呼ばれていたらしい。その点を考えれば、三平をなだめる使者として大高源吾が彼を訪れるのは効果もあるだろうし、また第三者から見ても、俳人同士が句を楽しんでよく会っている、と受け取ることができる。この辺、大石の智謀が感じられる。
なお、大高源吾は三平のみに限らず、その他の同士との連絡役として各地を飛び回っているた。
そうした中、三平の父・重利は、三平に「大嶋家への再仕官」を勧めたのである。実際、三平は美濃の大嶋家に数日逗留したこともあった。今の三平は浪人に過ぎない。簡単に言えば無職である。長く続けるものではない。仕官先を失ったら別の仕官先を探すことが、浪人侍の普通の身の振り方であった。また、大嶋家は戦国時代に土地を失った萱野家を返り咲かせた恩ある主君の家である。しかし、彼はすぐにこの話に飛びつくことなどできなかった。父に再仕官の口を見つけてもらうために、これまで浪人を続けたわけではない。浪人を続けていた理由は、もちろん来る「吉良邸討ち入り」のためであった。
三平には「忠」を重んじる心があった。俳句をたしなむ風情を知る心もあった。そして、「親孝行」の精神も持ち合わせていた。それだけに、父に薦められた再仕官の話を無下に断ることはできなかった。「忠と孝」。この両方をわきまえていた彼は、その両方の板挟みとなってしまった。父・重利は、息子が「吉良邸討ち入り」に参加する意志がある、ということを確信していたらしい。三平は「江戸に出て仕官先を探す」と言って、江戸へ向かう許可を父に求めたこと。世間では「いつ赤穂浪士が主君の仇を討つのか?」という噂が絶えなかったこと。父・重利は当惑した。今回の討ち入りはただ事では済まされない、ということは簡単に予想できた。討ち入りは、幕府の裁断に対する反抗、という一面が拭えない。勝っても負けても、罪を問われるのではないだろうか?親戚縁者に罪が及ぶのが当時の習わしであったし、場合によっては恩ある主家・大嶋家にも累が及ぶかもしれない。旗本である大嶋家の家臣の者から、討ち入り参加者が出たということで、罪を問われる可能性は十分考えられた。
三平の心は乱れた。
元禄14年年末頃
説はいくつかあるようだが、この頃、江戸で高田郡兵衛が脱盟した。郡兵衛は堀部安兵衛と同じく、江戸急進派の一人であった。槍の実力はかなりのものであり、討ち入りに対して盛んに気焔を上げていた者である。その郡兵衛が脱盟した。脱盟の理由は「再仕官」である。あれほど討ち入りを盛んに急かしていた郡兵衛の脱盟に憤る同志は多く、堀部安兵衛などは郡兵衛を斬ろうとしたらしい。三平が、郡兵衛脱盟の報を聞いたかどうかはわからないが、もし聞いていたのなら、これが彼の最期を決めた決定的な要因だったのかもしれない。
元禄15年1月14日 萱野三平自害
この日は、月こそ違うが主君の命日と同日であった。三平は自宅の長屋、西の部屋で自害して果てた。彼が自害という道を選ぶまでに、どんなことを考え、思い悩んでいたのだろうか。遺書は父と大石内蔵助宛てに、2通残した大石宛てのものには、同志達と共に約束を果たせない罪を侘び、そして討ち入りの成功を祈る旨を記したという。俳人でもある彼の辞世の句は
晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り
であった。
「心の花曇り」とは、彼の心に重くのしかかって消えない「忠と孝」の板ばさみのことだろうか。忠義の信念を貫けば、親兄弟に罪が及び、「孝」が立たない。だからといって、大嶋家へ再仕官すれば、それは結局は高田郡兵衛が選んだ道と同じものだった。「孝」を立てれば「忠」が立たなかった。「日ごろ」とあるから、きっと来る日も来る日も悩んでいたのだろう。そして、「晴れゆくや」。「死」という道を選ぶことで、来る日も来る日も彼の心に立ち込めた「花曇り」は、晴れ渡ったのだろうか。
吉良邸討ち入りに参加したのは、47名。討ち入りに至るまでに、多くの者が脱落していきました。脱落していった者たちは「醜夫」などと呼ばれ蔑まれていましたが、志半ばにて病死した岡野金右衛門(討ち入った岡野金右衛門の父。彼の名は「九十郎」だったが、無念の死を迎えた父の名を受け継いで、討ち入りに加わった。)、矢頭長助(矢頭右衛門七の父)、そして萱野三平を「醜夫」に入れているものはありません。特に萱野三平は「48番目の浪士」と呼ばれることもあり、赤穂市の大石神社では討ち入った四十七士に加えて、浅野内匠頭と萱野三平の木像を祀っています。また、東京・泉岳寺にある四十七士の墓所には、48基の墓があります。余分な1基は、萱野三平のものだという説もあります。
山科会議
この日、山科の内蔵助邸で会議が行われた。前年の11月、江戸急進派に対しては3月頃には浅野長廣の処遇が決まると見込んで、3月に討ち入り決行と伝えていたが、予想に反して長廣の処遇はなかなか決まる気配を見せなかった。この会議で、事を起こすのは浅野長廣の処遇が決定してから、という内蔵助の方針が採択されたが、江戸急進派はおそらく納得しないであろう。そこで、この会議の決議を知らせることと、江戸急進派を説得するという二つの役目を持つ使者として、吉田忠左衛門(62)と横川勘平(36)が派遣された。
内蔵助、妻のりくを離別
4月の中ごろ、内蔵助は妻のりくを離別して、実家の豊岡(現在の兵庫県豊岡市)に帰した。幼い子供達は、母・りくと共に豊岡に移ったが、前年に元服し良金(よしかね)と名乗っていた長男の主税(ちから)は(幼名:松之丞)、父・内蔵助と共に山科に残った。この離別は、りくに武家の妻としての不手際があったからではなく、内蔵助が暴発しそうな江戸急進派に対して、自分にも討ち入りの覚悟があることを暗に伝えたかったため、と考えられている。りくは豊岡に移ってから、身籠っていた三男・大三郎を出産。この事を手紙で内蔵助に伝え、内蔵助からも義父に対する御礼と子供への心遣いが記された返書が届けられている。
円山会議
7月18日、浅野大学長廣に浅野本家である安芸浅野藩にお預けという処分が下された。この報が浪士達にもたらされ、内蔵助は京・大坂に在住している同志を召集。京都・円山にて会議を開いた。会議の参加者は19名で、顔ぶれは、大石内蔵助・間瀬久太夫・小野寺十内、そして江戸から駆けつけてきた堀部安兵衛らである。
浅野家再興の望みを絶たれた今、彼らの目指すところは一つになった。吉良邸討ち入りである。この会議で討ち入り決行が決議され、本格的な準備が開始された。まず、内蔵助は討ち入りに臨むにあたって、参加者の再選定を行った。この時既に、起請文を集めてから1年もの月日が流れている。その間、浪人生活をしていた者の生活環境も変わっていれば、心境の変化があってもおかしくない。そこで、貝賀弥左衛門、大高源吾を使者として派遣し、討ち入りはなくなったと偽って、起請文を返させたのである。既に討ち入りに参加する気持ちがなくなっていた者は起請文を受け取ったが、討ち入りを心待ちにしていた者は怒りだして起請文をつき返した。この起請文返しで脱落者は70名にものぼり、同志は全部で50人ほどと、半分以下に減少してしまった。
赤穂浪士の討ち入り
前日の夜から降り続いた雪で、江戸は朝から雪景色となっていた。雪は多くの武士・町人・商人ら江戸の者にとっては難儀なものであったが、主君の仇討ち・吉良邸討ち入りを決行しようとする播州赤穂浪士達にとっては有利な天気であった。彼らは十分に戦闘準備を行い、防寒着で事を起こすことができるが、不意を討たれた吉良方は赤穂浪士だけでなく寒さとも戦わねばならなかった。
しかし、赤穂側にも不安要素はあった。京都・円山会議ののち、討ち入り浪士の再選定を行ってはいたが、準備が進むにつれて討ち入りが現実のものとして見えてくると、恐怖・怖れを感じて脱走する者が相次いだ。残った者は47名。吉良邸には100名ほどの侍がいると予想されていた。対する赤穂浪士は、吉良方の半数程度であった。
夕刻頃。江戸の各地に潜伏している浪士・諸々の討ち入り道具が船を使って集結。準備が完了してから、浪士達の統領・大石は組み分けを発表した。
表門隊
い組 大石内蔵助良雄 / 原惣右衛門元辰
ろ組 堀部弥兵衛金丸 / 間瀬久太夫正明 / 村松喜兵衛秀直 / 村松三太夫高直
は組 近松勘六行重 / 間十次郎光興 / 大高源吾忠雄
に組 早水藤左衛門満尭 / 矢頭衛門七教兼 / 神崎与五郎則休
ほ組 岡野金右衛門包秀 / 貝賀弥左衛門友信 / 横川勘平宗利
へ組 片岡源吾右衛門高房 / 富森助右衛門正因 / 武林唯七隆重
と組 矢田五郎右衛門助武 / 奥田孫太夫重盛 / 勝田新左衛門武尭
ち組 吉田沢右衛門兼定 / 小野寺幸右衛門秀富 / 岡島八十右衛門常樹
裏門隊
り組 大石主税良金 / 吉田忠左衛門兼亮
ぬ組 潮田又之丞高教 / 小野寺十内秀和 / 間喜兵衛光延
る組 不破数右衛門正種 / 木村岡右衛門貞行 / 前原伊助宗房
を組 間新六光風 / 千馬三郎兵衛光忠 / 茅野和助常成
わ組 間瀬孫九郎正辰 / 奥田貞右衛門行高 / 中村勘助正辰
か組 堀部安兵衛武庸 / 磯貝十郎左衛門正久 / 倉橋伝助武幸
よ組 赤埴源蔵重賢 / 大石瀬左衛門信清
た組 菅谷半之丞政利 / 三村次郎左衛門包常 / 杉野十平次次房 / 寺坂吉右衛門信行
吉良邸は広大な敷地を持っているが、出入り口は表門と裏門の二つのみである。吉良を屋敷の外に逃がさないためには、47名を二手に分けて出入り口を完全に封鎖する必要があった。表門隊の大将はもちろん大石内蔵助。吉良の寝所に近く、激戦が予想された裏門隊の大将は嫡男の大石主税とし、副将として始終、内蔵助を支えてきた吉田忠左衛門(62)を添えた。
そして寅の上刻(午前3時頃)。時を同じくして表門隊は数名がはしごを使って門を乗り越え、扉のかんぬきをぬいて全員突入、裏門隊はかけや(門壊用の大きな木槌)で扉を破って突入した。
表門隊の一番乗りは「ち組」の小野寺幸右衛門(27)。玄関を蹴り破って屋内に突入、さらに襖を倒して次の部屋に入ったところで数名の吉良方の侍が襲ってきた。幸右衛門はそのうちの一人と対峙、繰り出す敵の槍をかわして斬り伏せた。ふと気付くと、この部屋にはたくさんの弓が並べられている。幸右衛門は咄嗟の判断で弓の弦を全てなぎ払い、使い物にならないようにしてしまった。
文武両道の士だった矢田五郎右衛門(28)は屋内で奮戦している際、斬り伏せた相手と共に火鉢に刀をぶつけて折ってしまった。その後は、斬った相手の刀を拾って戦ったという。
裏門隊は予想されたとおり、多くの吉良方侍が現れたちまち激戦となった。裏門隊大将の大石主税は門を破ってすぐに出てきた敵と対峙、気合と共に槍を突き出して相手を突き伏せた。若干15歳に過ぎない主税の奮戦に、一同の士気はおおいに高まったという。
磯貝十郎左衛門(24)は台所でうろうろしていた者を取り押さえた。その者は
「私は身分の低い台所役人でございます。どうかお見逃しくだされ」
と震えた声で哀願した。討ち入り前に大石は、女子供はもちろん無抵抗の者には手を出さないように厳命していたが、彼はあえて台所役人を脅してロウソクを出させた。このロウソクを灯して屋敷内を明るく照らしたのである。
四十七士最強の剣客と評されていた堀部安兵衛(33)は、苦戦している味方を助けて次々と敵と斬り結んでいった。数で劣る赤穂勢がどんどん屋内に攻めていけたのは彼の活躍によるところが大きい。
豪勇の士である不破数右衛門(33)の持ち場は屋外だったが、主戦場が屋内に移って屋外に敵がいなくなるといてもたってもいれなくなり、屋内に乱入した。戦闘終了後、彼の体は返り血で真っ赤であり、刀は刃こぼれがひどくて使い物にならなかったという。
弓の使い手であった神崎与五郎・早水藤左衛門(39)・茅野和助(36)は、敵の威嚇・味方の掩護に活躍した。
不意打ちを受けたに等しかった吉良勢もなかなかの奮戦を見せたが、赤穂勢の勢いを止めることはできなかった。赤穂勢が十分な着込みをしていたのに対し、吉良勢の多くは寝巻き姿のままであった。寒い夜では明らかに不利な要因であった。さらに赤穂勢は着込みの下に鎖帷子くさりかたびらを着用していたため、浅い斬撃などはあっさりとはじき返されてしまった。それだけに、赤穂勢は勇猛果敢に攻めにまわることができた。それに比べて吉良勢は防具になるような物は着用する余裕がなかったから、浅い攻撃でも手傷を負ってしまった。
戦闘開始から約2時間。屋敷の奥ではまだ激戦が続いていたが、ついに赤穂勢が待ちこがれていた笛の音が邸内に響き渡った。吉良上野介の首級を挙げたという、勝利の笛であった。
吉良上野介の寝所に近かった裏門隊は、立ちはだかる吉良勢を突破して上野介の寝所(と思われる部屋)にたどりついたが、布団は空で上野介の姿はない。二つしかない門は赤穂勢が制圧しているので、邸内のどこかに隠れたに違いない。間重次郎(25)と武林唯七(31)が吉良を探していたところ、かすかな物音が彼らの耳に入った。怪しんで近づいてみると、突然戸が開いて皿やら鉢やらと一緒に、二人の侍が刀を振りかざして飛び出してきた。これを討ち果たし、中をのぞいてみると、白い物がうずくまっている。さらに近づいてみると、その白い物は突然奇声を発して小刀を振り上げてきた。驚いた重次郎は持っていた槍で一突き、さらに武林が一太刀浴びせると、その者はうめいて倒れた。暗い小屋の中から外に引き出して見れば、その者は白無垢の小袖を着た老人であった。白無垢の小袖は身分の高い者のみが着用できる寝巻きである。この老人こそ吉良上野介ではないか?亡君が斬りつけた傷跡を確認してみると、眉間の傷についてはよくわからなかったが、背中には縫った痕が確認できた。吉良上野介に間違いあるまい。感極まる彼らは勝利の笛を吹いたのであった。
一番槍をつけた間重次郎が上野介の首を斬り落とした。念のため、捕らえておいた者にその首を見せて、間違いなく吉良上野介であることを確認した。袋に包んだ吉良の首級は潮田又之丞高教(34)が槍先に掲げて引き上げとなった。一行が目指したのは、主君・浅野内匠頭が眠る泉岳寺である。
泉岳寺凱旋
泉岳寺に到着した一行は、主君の墓前に吉良上野介の首を供え、仇討ち成功の報告を行った。刃傷事件から1年と10ヶ月。彼らはここに本懐を遂げることができた。この後のことは、幕府の判断に身を委ねるということで、吉田忠左衛門と冨森助右衛門が泉岳寺への凱旋途中で一行を離れて、大目付の仙石伯耆守邸へ出向いて事の次第を報告した。また、この間に寺坂吉右衛門が姿を消しているため、幕府に身柄を預けられたのは46名となっている。寺坂は吉田忠左衛門配下の足軽で、大石らの密命を受けて密かに姿を消したとも、脱走したとも言われている。その後、寺坂は享保8年(1723年)に山内家に仕え、暇をもらった後は江戸で過ごし、麻布の曹渓寺に葬られた。
赤穂浪士切腹までの道のり
吉良上野介を打ち果たして本懐を遂げた46名の赤穂浪士達は、その身を幕府の裁定に委ねることになった。最終的には、彼らは切腹となるのであるが、そこに至るまでには多くの人々の思惑が絡んでいたのである。ここでは、討ち入り後の赤穂浪士と幕府、そして庶民の思惑を見ていく。
討ち入り直後
将軍・徳川綱吉は、大石らが作成した討ち入り口上書を読み、彼らの行動を忠義であると褒めた。また、老中の阿部正武(あべ まさたけ)は
「かねてから上様は家臣は文武忠孝を心がけるようにと教え、ご自身も四書五経を講じて人倫の道をお説きになっていらっしゃいました。それが形となって現れたのでしょう。」
と、討ち入りを忠義の行動と見て褒めている。同じく老中の小笠原長重(おがわさら ながしげ)は
「赤穂浪士の行為は武士道にふさわしいものであり、真実の忠義であるから永預かりの処分にしたい。」
と、浪士らの助命を希望している。
一方、庶民では赤穂浪士討ち入りが大ニュースとなり、彼らは一躍ヒーローとなって話題を独占したようである。ある商人は手紙に「江戸中の手柄」と書き記している。また、こんな落首が現れた。
たのもしや 内匠の家に 内蔵(くら)ありて 武士の鑑を 取り出しにけり (歌意 : 頼もしいことではないか。内匠の家(浅野内匠頭)に内蔵(大石内蔵助)があって、武士の鑑を取り出してきた。)
このように、討ち入り直後は幕府、庶民共に討ち入りを忠義の行動と褒め称える声が圧倒的に多かったのである。対照的なのは吉良上野介の実子・上杉綱憲と上杉家であった。綱憲は実父の仇を討とうとしたのだが、幕府から畠山義寧(はたけやま よしやす)が使者として派遣され「裁きは幕府が取り仕切るので手出しは無用。」と、上杉家による仇討ちを制止させたのである。こう言われては、上杉家も幕府の制止を振り切って赤穂浪士を襲撃することはできず、幕府の動向を見守るより他がなかった。
忠義の士と褒められている赤穂浪士であったが、彼らは自分達の処分については覚悟ができていた。切腹である。討ち入り後の12月15日、泉岳寺にて赤穂浪士の一人、三村次郎左衛門が母に宛てた手紙にはこのように書いている。
みな共、検視次第 切腹仕る筈に御座候
切腹とは武士だけに許された「死」の手段であった。切腹と言い渡されれば、彼らは「武士」として死ぬことができ、武士の面目を立てることはできる。しかし、「打ち首」と言い渡されれば、それは「罪人」として処刑されることである。
赤穂浪士への批判
しかし、赤穂浪士らは褒められてばかりいたわけではない。彼らの行為を非難する意見が現れたのである。その一つは、討ち入りが武家諸法度に違反している、というものである。武家諸法度には「徒党を組み誓約をなす事を禁ず」という文があるが、彼らは討ち入りのために集団となって(徒党を組んで)動いていた。もう一つは討ち入りまでの経過を非難するもので、「町人や人足などに身をやつし、夜中に人家に忍び込むのは武士道に反する行為であり、夜盗同然の行いである。打ち首にすべき。」という厳しいものであった。このように、浪士らの処分については意見が分かれて紛糾し、なかなか裁断が下されなかった。年が明けて1月になると、江戸市中ではこの煮え切らない状況を揶揄するような落首が現れた。
四十七 捨てる命に 年をとり
儒学者の見解
赤穂浪士の沙汰については、学者もそれぞれの意見を述べている。まず赤穂浪士助命を唱えたのが聖堂学問所を取り仕切る大学頭(だいがくのかみ)・林信篤(はやし のぶあつ:京学派。号は「鳳岡(ほうこう)」)である。学問好きの綱吉は、将軍宣下を受けた翌月には林を招いて議論をし、その後、林家の私塾を湯島聖堂に移築して林を大学頭に任命。旗本や御家人に朱子学を講義させたという経緯がある。林の論をまとめると
昔から主君の仇はとるというのが人の道の大原則である。今、赤穂浪士に厳罰を加えれば、天下に笑われることはもちろん、忠義の道が廃れることは間違いない。
となる。林は赤穂浪士を忠義の士とし、助命を唱えた。一方、綱吉の側用人・柳沢吉保のお抱え学者である 荻生徂徠(おぎゅう そらい:古学派)は林の意見とは対立するものであった。
「そもそも浅野が吉良を殺そうとしたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではありません。だから、吉良は浅野の仇ではありません。浅野は殿中にも関わらず刃傷に及んだが打果せずに罰せられました。浪士たちは浅野の邪志を継いだ者であり、義士ではありません。」
と、赤穂浪士は「義士」とは言えないとしている。そして
「忠義だけを唱えるのは時勢を知らないことであり、天下の政治ではありません。浪士たちを助ければ上杉家の面目は立たず、敵討ちの名のもとに上杉家と浅野家の間で争乱になります。それを防ぐために、一刻も早く死罪にするべきです。」と、浪士らを厳しく処罰するように説いている。
しかし、徂徠もこのように言いながら「その志を推すに、また義と謂べきのみ」と、浪士の忠義の心は認めているという。
浪士処遇の投票
年が明けても、赤穂浪士に対する処遇は決まらなかった。そこで、幕府の重臣60余名がそれぞれの意見を書いて提出するという、投票のようなものが行われたのである。
綱吉の前で意見書が読み上げられたが、どの意見もまるで打ち合わせておいたかのように、特徴のないものであったという。島流しにする、永久お預けの身にする、という意見が一つずつあったのみであった。側用人の柳沢吉保は白紙を投じた。その理由として、どういうものでも上様の意に従うのみ、と説明したという。
最後に、綱吉は「浪士達の行いは真の忠義であるといえるが、それは浅野家に限ったことであり、天下の道理ではない。従って、切腹を申し付けるのがよいと思う。」という自分の意見を伝えて、会は幕を閉じた。
投票の真偽
この投票の話は「赤穂義人纂書(あこうぎじんさんしょ:原本は磐城平藩士・鍋田晶山が収集した赤穂事件に関する記録集。)」の「三島氏随筆」に書かれている。しかし、この部分は「この書の真偽はわからないが、理はある。」と、鍋田晶山の注釈が加えられているらしい。そこから既に、この投票の話の真偽は定かではないのである。この投票は「入札(いれふだ)」と呼ばれる方法で、戦国大名や江戸時代の庶民の間ではしばしば行われていたらしいが、幕府でも行われたという記録は見つかっていないという。さらに、原書となる「三島氏随筆」が見つかっていないという事実もある。そう考えると、この話の信憑性は低いと言わざるを得ない。が、鍋田の注釈にもあるように、この時期の幕府混迷の様子を表しているものであり、最終的な幕府の決断とも一致しているため、実話であったとしても理屈が通らないわけではないかもしれない。
綱吉と公弁法親王の会談
綱吉は、年賀の挨拶に江戸城を訪れた上野寛永寺の皇族の僧・公弁法親王(こうべんほっしんのう)に、赤穂浪士の処分について相談した。公弁法親王は輪王寺門跡(りんのうじもんぜき:日光の輪王寺の住職(門跡)は、天台座主(てんだいざす:天台宗の最高位の僧))となり、日光と寛永寺を管理した。別名は日光門主(にっこうもんず))であり、高僧中の高僧である。
綱吉は「赤穂浪士の忠烈は今の時勢には珍しいものであり、命を助けたいのだが、天下の政治のことを考えると切腹させねばならない。法親王はどうお考えか?」と尋ねたところ、法親王はこう答えたという。
「彼らの本懐は達成され、もはやこの世に思い残すことはないはず。だから幕府の裁定に身を任せようと申し出たのです。今さら命を助けても忠義の士なればこそ二君にまみえる事を良しとするはずもありません。このような忠義の者たちを許し、のたれ死にさせるよりは武士の道を、立てて死を与えることこそ、その志を立てることとなるでしょう。」
この言葉を聞いて、綱吉は赤穂浪士を切腹とすることに決めた、と言われている。
徳川実紀の信憑性
この話は徳川家の正史である「徳川実紀」(詳しくはこちら)の本編と附録に書かれている話である。興味深いことに、上記の話は本編に書かれているものの、附録には、法親王は綱吉の問いには何も答えずに帰った、と記されており、矛盾しているのである。両方とも、この話は伝聞として記述されているため、実話とは断定できないと思われる。また、徳川実紀自体が赤穂事件に関しては幕府の都合のいいように編集されたとして、信用できないという説もある。
赤穂浪士切腹
泉岳寺に凱旋した後、寺坂吉右衛門を除いた46名は、松平(久松)、水野、細川、毛利の4家の江戸屋敷にお預けの身となっていた。 この日、幕府から切腹を伝える使者が4つの大名家に派遣され、46名の赤穂浪士はその日のうちに預けられた大名家で全員切腹となった。同じ日、吉良家当主の吉良義周が呼び出され、赤穂浪士討ち入りの際の仕方不届き、という理由で吉良家は領地召し上げ、お家断絶となり、義周は罪人として信濃高島へお預けの身となった。
大石内蔵助は細川邸に預けられていた。「細川家御預始末記」によると、細川邸への使者となった幕府の目付・荒木十左衛門は大石を呼び寄せ、自分の意志で、大石に吉良家がお家取り潰しになったことを伝えた、と記録されているらしい。また、「堀内伝右衛門覚書」(堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん):細川家の家臣。内蔵助らの世話にあたった。)にも、大石一人が幕府の使者に呼び出されて何か告げられ、内容を後で知ったと記されているという。
吉良義周は「仕方不届き」と裁断されたが、討ち入り時の彼の行動はどのようなものだったのだろうか?
不届きというからには、ろくに戦いもせずに逃げ回ったとか、事が終わるまで隠れていた、などが想像されるだろうが、事実は全く逆である。彼は薙刀で武林唯七ら浪士数名と渡り合い、数箇所に傷を負って負傷している。その後の経過は不明だが、幕府の役人が検分に来たときは、傷ついた体を起こして役人を迎え、屋敷を案内している。所領が没収されるほどの醜態はさらしていないように思えるが、幕府は吉良家に対して厳しい態度で接している。前年の浅野内匠頭刃傷事件の時とは、反対の接し方と見ていいだろう。
こうして、一連の赤穂事件は幕を閉じた。  
 
忠臣蔵2

 

刃傷事件
江戸時代の前期、第5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代である元禄14年(1701年)3月14日の午前11時ごろ、江戸城本丸大廊下すなわち「松の廊下」という場所で起こった事件。
その日は、将軍綱吉にとってとても大切なイベント(※1)の日で、そのイベントの勅使饗応役(接待役)をしていたのが播磨赤穂藩(※2)藩主浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)で、その指南役(教育係で上司)が高家(こうけ ※3)の吉良上野介(きら こうずけのすけ)であった。
イベント開始前の午前11時ごろ、吉良上野介と梶川頼照(かじかわ よりてる)が松の廊下で少し立ち話をしていると、突然、上野介の背後に浅野内匠頭が現れ「この間の遺恨覚えたるか(このまえ受けたひどい恨みを覚えているか)!」と言いながら上野介を斬りつけた。突然の出来事であったが、その場にいた頼照が内匠頭を押さえつけたため、上野介は額と背中に傷を負った程度で命にかかわるようなことはなかった。
当時、将軍がいる江戸城内での刃傷沙汰はご法度。刃傷沙汰を起こせば即日切腹が原則であったが、その刃傷沙汰の原因が「乱心」(※4)であれば、お預けになる可能性もあった。しかし、刃傷沙汰を起こした理由を聞かれた浅野内匠頭は「乱心ではなく、遺恨である」という主旨の回答をした。将軍綱吉も大切なイベントの邪魔をされたことに激怒していたことから、それ以上この刃傷沙汰の原因究明がされることはなく、内匠頭は「殿中抜刀の罪」での即日切腹となった。
一方、斬られた側の吉良上野介は、浅野内匠頭が「遺恨である」と言っていることに対し「さような覚えはない」と回答し、また、斬りかかられたときに上野介は刃を抜かなかったこともあり、お咎めなしとなった。
※1 将軍が行った年賀の挨拶の返礼のために天皇が寄越した使者を、宴や舞などで接待する催し
※2 今の兵庫県赤穂市
※3 幕府の儀式や典礼を指導する役職
※4 怒りのあまり我を忘れること
討ち入り
刃傷事件の影響は、播磨赤穂藩藩主 浅野内匠頭の切腹だけではなく、幕府は浅野家に対して赤穂城の明け渡しを命令した。その命令を受け、浅野家の筆頭家老(お殿さまの次にえらい人)であった大石内蔵助は、家臣たちを集めて会議を開き「いつか内匠頭の弟をお殿さまにして、みんなで浅野家を立て直そう」と話をし、お城を明け渡した。
仕えるお城がなくなった浅野家の家臣たちは浪人となり、各地に散り散りになった。それでも、お家再興派と急進派に分かれてたまには喧嘩もしながら、浅野家の今後をどうするか会議をくりかえした。そして、討ち入りの年である元禄15年(1702年)7月18日、内匠頭の弟が広島の浅野本家にお預けとなり、浅野家を立て直せる見込みが途絶えたことをきっかけに、旧赤穂藩士たちの気持ちは「仇討ち(あだうち)」ひとつに定まった。
旧藩士らは、仇討ちを果たすため江戸へ集まってからは、みな身分を隠して情報収集をおこなった。そして、大高源五(おおたか げんご)が12月5日に吉良邸で茶会が開催される情報を入手したが、あいにく5日の茶会は延期となり、後日横川勘平(よこかわ かんぺい)が12月14日に茶会が開催される情報を入手。その情報をもとに「討ち入りは、12月15日の午前4時」と決定し、前日の12月14日の夜、47名の義士たちはそれぞれ3つの場所(※1)にわかれて集まった。(江戸時代は、日の出から次の日の出までが1日とされていたので、12月15日午前4時は、12月14日の寅の刻となり、討ち入りは12月14日とされている)
※1 本所林町五丁目の堀部安兵衛宅、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、本所二ツ目相生町の前原伊助宅
吉良邸での仇討ち
12月15日の午前4時ごろ、旧赤穂藩士47名は吉良邸に到着。表門から入る「表門組」と、裏門から入る「裏門組」の二手にわかれて侵入した。表門組の大将は大石内蔵助。裏門組の大将は、内蔵助の息子である大石主税(おおいし ちから)だった。戦いが始まっても、肝心の吉良上野介がなかなか見つからない。そして、夜が明ける直前の午前6時前に、ようやく台所の小屋に隠れていた上野介を見つけ、打ち倒すことができた。こうして、仇討ちは成功した。
泉岳寺へ
吉良邸到着から約2時間後の、午前6時ごろ。義士たちは吉良邸を出て、浅野内匠頭が眠る泉岳寺(せんがくじ)へ向かった。この時、吉田忠左衛門(よしだ ちゅうざえもん)と冨森助右衛門(とみのもり すけえもん )は、内蔵助の命により、泉岳寺ではなく幕府へ自首に向かった。そして、泉岳寺に到着。ここで、寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)は、内匠頭の弟である浅野大学への報告のため、広島に向かう。残った義士たちは、上野介の首級(しるし)を内匠頭のお墓にお供えし、仇討ちの成功を報告した。
赤穂義士の処分
赤穂義士らの処分については、幕府のなかでも意見の違いがあったが、最終的には
「赤穂の義士たちの行為は家臣として立派だが、浅野内匠頭は刃傷沙汰を起こして殿中抜刀で罰せられたので、厳格にいうと仇(かたき)は幕府のはず。それにもかかわらず吉良上野介を仇としてみだりに騒動を起こしたことは、法を犯したことになる。義士たちへの同情とは別に、法を犯したことに対する罪を問うべきであり、情のために法を曲げれば、法の権威が失われ治安を維持できなくなる」
という荻生徂徠(おぎゅう そらい ※1)という人の意見が採用された。これにより、広島にいた寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)を除く46名の旧赤穂藩士に、切腹が命じられた。
「切腹」は「打首」などの他の死罪とは異なって、名誉ある死とされていた。
切腹は、「幕臣(ばくしん)」と呼ばれる将軍の直属の部下にのみ許される死に方とされていて、その幕臣の家臣である「陪臣(ばいしん)」に対し、通常は切腹が命じられることはなかった。浅野家の家臣であった旧赤穂藩士たちは「陪臣」であったため、通常だと切腹にはならないものの、一途に主君のためを思い入り私欲を忘れて尽くしたことは、憐れむべきものであるとされ、武士としての名誉である切腹による死罪となった。大石内蔵助も、この切腹という幕府の判断に関して「どんな処分になっても良いくらいのことをしたのに切腹とは、ありがたい。」と言ったらしい。
なお、義士たちへの処分が決まったのと同時に、吉良家に対しての処遇も決定され、吉良家は領地召し上げ(※2)、改易(かいえき ※3)となった。
※1 有名な儒教者で当時の将軍である徳川綱吉(とくがわ つなよし)の政策補佐官でもあった。
※2 所有・支配している土地を取り上げること
※3 切腹よりひとつ軽い罪で、武士の身分を取り上げること
赤穂義士切腹
4つの大名の家(※4)にお預けになっていた赤穂義士46名は、幕府から切腹の命が伝えられたその日に全員切腹をした。そして、彼らの亡きがらは、浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。(※5)
※4 水野家、松平家、毛利家、細川家
※5 間新六(はざま しんろく)ただ一人だけは、親族の菩提寺であった築地本願寺に埋葬されたが、後に泉岳寺に分骨されている
綱吉の死と浅野家再興
義士ら切腹の6年後である宝永6年1月10日(1709年2月19日)に、徳川綱吉が死去。それにともない、新しい将軍(徳川家宣)になった際、内匠頭の弟である浅野大学が許され旗本に戻ったことより、討ち入り前に大石内蔵助らが希望していた浅野家のお家再興が実現した。
 
忠臣蔵3 / 浅野内匠頭刃傷事件の原因

 

『忠臣蔵』 「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。ただし忠臣蔵は、かなりの演出・創作・脚色が行われており、必ずしも史実の通りではないことも周知とされている。」
物語や映画などにかなりの演出・創作・脚色は付き物だが、ではどこまでが史実でどこまでが作り話なのかという肝心なことが何も書かれていない。『忠臣蔵』のハイライトは言うまでもなく赤穂浪士の討ち入りの場面だが、このきっかけとなったのは江戸城中松の廊下の刃傷事件だ。今回は松の廊下の事件について考えてみたい。
松の廊下
子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて刀を抜き吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。
刃傷事件の起こった日は、勅使(天皇の使者)が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉(勅語)を受けた将軍が挨拶を返す(勅語奉答)という最大の儀式が行われる日であり、浅野内匠頭は勅使御馳走役という勅使接待の直接担当者で、接待総責任者の吉良に対して刃傷事件を起こしたということなのだ。浅野内匠頭はこの重要な儀式をぶち壊してしまったのだが、この時の吉良上野介は全く無抵抗だった。普通に考えれば、悪いのは浅野内匠頭で、吉良はただの被害者だ。それが、『忠臣蔵』のストーリーでは逆転してしまって、吉良が大悪人になってしまっている。そもそも『忠臣蔵』は吉良が余程の大悪人でなければ成立しえない物語である。
吉良上野助
ところが、吉良上野介の地元である愛知県吉良町では、今も上野介を名君として称えているのだそうだ。上野介の功績としてあげられるのは、洪水に苦しむ領民のために「黄金堤」を築き、また、新田の開拓に努めた、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがり領内を巡検し、領民と語らったなどである。実際吉良町には「赤馬」という郷土玩具があるが、これは上野介の馬をモチーフにしたという。世間の吉良への逆風をものともとせず、今もって名君として慕われているというのだが、どうも『忠臣蔵』とのギャップがありすぎるのだ。
江戸城中間取りと浅野内匠頭
まず、松の廊下で浅野が吉良に切り付けた時、後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)という人物が、この事件の一部始終を書き残している。(『梶川氏筆記』) これによると、
「…内匠殿が参られたので、『私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます』と申しました。内匠殿は『心得ました』と言って本座(所定の場所)に帰られました。その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に『その件について申し伝えるように』と話すと、吉良さんは『承知した』とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6〜7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が『今日、御使の時間が早くなりました』と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、『これは』と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました。上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。吉良殿が倒れたとほんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二〜三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。
内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
その時、内匠殿が言われるのは、『上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり』ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされていました。刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとり囲んで連れて行く途中、『もはや、事は済んだ。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う』と言われると、その後は言わなくなりました。この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ対してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。」
有名な『この間の遺恨覚えたるか』という部分がない写本もあり、この部分は後世に挿入されたという説もあるようだが、この文書のポイントとなるところをまとめると、
1 浅野内匠頭が吉良上野介を斬る直前は、吉良は梶川と話していた。
2 浅野内匠頭は吉良上野介を後ろから斬りかかり、合計で四太刀も浴びせている。その後梶川が止めに入る。
3 浅野が吉良を斬った理由はずっと恨みに思っていたからというのだが、何があって恨みに思っていたかは具体的には何も書かれていない。
となる。
これが芝居や映画では、多くの作品が
1 吉良が浅野内匠頭を侮辱する。
2 浅野内匠頭が「吉良待て」と声をかけてから正面から吉良に一太刀浴びせ、吉良は額に傷を負う。
3 逃げる吉良を追って浅野は吉良の肩口に一太刀浴びせる。そこへ梶川が止めに入る。
となっている。
梶川与惣兵衛頼照は八代将軍吉宗の家臣であり、現場にいた彼の記述が事実とかけ離れたことを書くことは考えにくいのだが、彼の記述を正しいとすると浅野内匠頭は吉良を不意打ちしている卑怯な男で、しかも四太刀も浴びせながら吉良を仕留めることができなかったのではダメな武将になってしまう。これでは物語にならないことは誰でもわかる。四十七士の義挙の物語を描く上では、浅野内匠頭が善玉であり吉良上野介が悪玉でなければならないだろう。なぜならば、吉良が善玉であるならば、四十七士が吉良を討ち入りに行くことに「義」がないことになってしまうからだ。
それゆえに芝居や映画では、吉良は悪い男に描かれることになる。吉良が浅野に対して多額の賄賂を要求したとか、間違ったことを浅野に教えて恥をかかせたとか、当日浅野を大勢の前で罵倒したなど諸説があるが、そのようなことを記録した当時の史料は存在せず、事件の後で創作されたものである。
では浅野内匠頭の家臣は、主君が吉良を斬った理由について心当たりがあったのだろうか。
吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の手になる文書が今に残されている。
大石内蔵助
大石内蔵助が書いた口上書には、「去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀につき、意趣を含み罷りあり、殿中に於いて、忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候。…」とあり、主君が吉良を斬りつけた理由については「何か我慢できないところがあったのか」と、家臣ですら肝心なことがよくわかっていないのだ。
『忠臣蔵』のストーリーに影響されてか、浅野は吉良に恨みを持っていたという説が多数説になっている。しかしそれを裏付ける確実な当時の史料は存在せず、浅野内匠頭は何も語らないまま処刑されてしまった。
確かな裏付けがない事から、浅野内匠頭が発狂したとか、精神障害があったという説も結構根強くある。浅野内匠頭自身が当時鬱状態で治療を受けていたことや、内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝という人が刃傷沙汰を犯して切腹させられている事実もあり、遺伝的にそのような事件を起こす要素があったという説もはかなり説得力がある。
しかし、『忠臣蔵』の愛好家には、浅野内匠頭に精神障害があったという説は受け入れがたい事だろう。これでは感激のドラマには到底なりえないからだ。
多くの人が歴史小説や時代劇や映画やドラマを親しみながら知識を蓄積してこられているが、小説等には多かれ少なかれ創作部分が含まれていることに留意すべきである。それがわかっていても、ストーリーの中に実在の人物が出てくると、その多くが史実であるかのように錯覚し、作者の描く人物像に強く影響を受けることは避けられないだろう。
それが国民の常識になっているような歴史上の出来事であっても史実ではないことが少なからずあることを何度か書いてきたが、どんな有名な事件であっても多数説を鵜呑みにするのではなく、複数の説を読み比べて自分で考えることが、事実が何かを知る上で重要なのだと思う。 
 
忠臣蔵4 / 赤穂浪士の処刑論争

 

前回、赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、吉良上野介が大悪人でなければただの殺人行為となってしまって物語が成り立たないことを書いた。この討ち入りについて「主君の仇討ち」という言葉がよく使われるのだが、松の廊下では浅野内匠頭の方が吉良上野介を殺そうとして斬りつけたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。普通に考えれば、浅野の家臣である赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りすることを「仇討」というのはどこかおかしい。
江戸城松の廊下
そもそも浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた理由がよくわからない。『忠臣蔵』の物語には吉良がひどく浅野を苛めたことがいろいろ創作されて書かれているのだが、当時の記録からはそれらしき理由が見えてこないのだ。そして肝心の赤穂浪士もその理由がよくわかっていなかったとしか思えない。
刃傷事件の当日の浅野内匠頭に関する記事は、現場にいて後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照の記した『梶川氏筆記』に詳しい。この記録によると浅野内匠頭は吉良を「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて切り付け、取押えられてから大勢の前で「上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり」と何度も繰り返し口にしたという記述があるのみで、過去にどのようなことがあって吉良に恨みを持つに至ったかについては、浅野は何も語らなかった。
その後浅野内匠頭に対し老中の取調べがあり、取り調べにあたった目付の一人が記述した『多門伝八郎筆記』によると、こう書いてある。
「私が内匠頭さんに『どうして場所を考えずに上野介さんに切りつけたか』と聞きました。内匠頭さんは一言の弁解もせず、『お上に対しては少しも恨みはありません。上野介には個人的な恨みがあり、前後も忘れて殺そうと切りつけました。この上はどのような処分でもお受けいたします』と答えました。なおも内匠頭さんは『しかしながら、上野介を打ち損じたのはいかにも残念である』と悔しがっていました。」
というのだが、この『多門伝八郎筆記』は自己宣伝の臭いが強く、史料としてはあまり評価されていないようなのだが、この文書にも浅野が吉良に恨みを持った具体的な理由が書かれていないのは、浅野が何も語らなかったので書けなかったのだろう。
浅野内匠頭は即日切腹が命ぜられて田村右京太夫の屋敷に預けられる身となり、そこに訪ねてきた家来の片岡源五右衛門に遺言を残している。その遺言には
「兼ねては知らせ置く可く存ぜしも、その遑(いとま)なく、今日のことは已むを得ざるに出でたる儀に候。定めて不審に存ず可き乎。(かねてから知らせておこうと思ったが、その時間がなく今日やむを得ずやってしまった。さだめし不審に思うだろう。)」
と書かれているだけなのだが、この言葉を赤穂に持ち帰って大石内蔵助に伝えても、主君が吉良を斬りつけた理由は、誰もさっぱり判らなかっただろう。
このとおり死ぬ間際まで浅野内匠頭は吉良を斬りつけた理由を語らないまま処刑されてしまったのである。
しかし元禄15年12月14日に吉良邸への討ち入りは実行された。浅野の家臣たちは主君が刃傷事件を起こすに至った理由が少しでもつかめたので討ち入りを決心したのかというと、そうでもなさそうだ。
浅野内匠頭家来口上
志士たちが討ち入りを決行した際に吉良邸の門前に突き立てられたとされる『浅野内匠頭家来口上書』という書状が残っている。ここには内匠頭が「吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり候処(何か到底我慢ができないことでもあったでしょうか)」と述べているだけで、主君が吉良に刃傷に及んだ理由については、討ち入りを実行した時点でも何も分かっていなかったようなのである。
口上書はさらに「右喧嘩の節、御同席に御差留の御方これあり、上野介殿討留め申さず候。内匠頭末期残念の心底、家来共忍び難き仕合にご座候。…」と続き、討ち入りの理由は要するに、主君が吉良を恨んで殺そうとしたのだが、梶川与惣兵衛に止められて思いを成就することができなかった。なき主君が生前に果たそうとしたことを主君に代わって成し遂げたい、と言っているだけなのだ。単刀直入に言えば、主君が殺そうとして殺せなかった吉良を殺して、主君の無念を晴らしたいということだが、これは仇討というよりも、恨みを残して死んだ主君の霊を鎮めるための行動と理解した方が適切であるような気がする。
吉良邸討ち入り
『忠臣蔵』の物語がテレビや映画などで毎年のように放映されて、四十七士の討ち入りが義挙であると考えることが日本人の常識のようになっているのだが、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は、当時の民衆は四十七士に対する同情と讃嘆が白熱し、志士たちを預けていた細川、松平、毛利、水野各家から助命嘆願書が提出されていた中で、四十七士を死罪とするか切腹させるか助命するかで随分対応に苦慮した記録が残っている。
「幕閣の中にも『夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし』と唱え、磔獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。」
「学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は『四十六士の行為は、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない』と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。『浅野は殿中抜刀の犯罪で死罪なのに、吉良を仇と言うのはおかしい。幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然』というのが江戸幕府の見解ということになる。」とまとめられている。
荻生徂徠の意見書は、理路整然としたもので非常にわかりやすい。この意見が将軍を動かして赤穂浪士に対し「切腹申付」を決心させたものである。福島四郎著『正史忠臣蔵』という本に現代語訳がでている。
「大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、まず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋違いだ。内匠頭はどんな恨みがあったのかは知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果たさなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得違いを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができるであろうか。しかし士たる者、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於いては同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥 (ゆる) すべきではない。」
「…内匠頭は殿中を憚らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格に言えば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らは吉良氏を仇として猥りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を憚らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せられるべきであるが、しかし一途に主君のためと思って、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申しつけらるるが至当であろう。…」
「…もし私論を以て公論を害し、情のために法をニ、三にすれば、天下の大法は権威を失う。法が権威を失えば、民は拠るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。」
荻生徂徠はこのように赤穂浪士同情論を排して法を犯した罪を問うべきであり、情のために法を曲げれば、法が権威を失って治安を維持できないと述べており、法治国家として極めて当然のことを述べている。
荻生徂徠よりももっと厳しく、儒学者の佐藤直方は「…仙石の屋敷まで自訴して出て、上の命を待った。これは死をのがれ、あわよくば賞誉してもらおうとの魂胆に外ならない。流浪困窮して腹立ちまぎれに吉良を討ったもので、忠義心や惻怛(そくだつ:いたみ悲しむ)の情から出た行動ではない」と、もっと厳しい評価をしているのだ。
荻生徂徠も佐藤直方も現代でも通用するような正論を堂々と述べているのだが、幕府も自らの命を捨てて亡き主君の思いを成し遂げた四十七士を義士と認め、義士の行動を賞賛する世論に迎合した『忠臣蔵』が書かれ、それが舞台で演じられ映画やテレビ番組でも何度も放映されて、史実とかなり違う物語が日本人の常識になってしまった。
しかし、一旦日本人の常識となってしまうと多くの人の思考が停止してしまい、異論が耳に入らなくなることは決して好ましい事ではない。大激論となった四十七士の処分に関する議論を少しでも知ることで、元禄時代がもっと身近に感じられて、この時代の歴史を学ぶことが楽しくなってくる。 
 
忠臣蔵5 / 赤穂浪士切腹の判断は正しかったのか

 

吉良邸討ち入りを決行した赤穂浪士を死罪とするか、切腹させるか、助命するかで意見が割れて幕府がその判断に随分苦慮したことを前回書いた。当時の著名な学者にも意見を求め、結局荻生徂徠の意見が採用されて赤穂浪士たちには切腹が命じられたのだが、五代将軍徳川綱吉はこの裁断を下すのに、なんと四十日近くかけたのだそうだ。
綱吉
将軍綱吉といえば貞享4年(1687)に出した「生類憐みの令」があまりに有名で、厳しい態度で政治に臨んで民衆を苦しめたイメージがあるのだが、学問を重んじて文治政治を推進し、好景気を現出して近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉らの文化人を生み、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠らの学者を多く輩出し、最近では少なくとも綱吉の治世の前半については評価が高まっているという。綱吉は特に儒学(朱子学)を重視した影響から尊皇心が非常に厚く、元禄14年(1701)の松の廊下事件の際に、浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹に処されたのは、将軍綱吉が朝廷との大事な儀式を浅野のために台無しにされたことに激怒し、直ちに切腹させることを命じたからである。
しかしながら松の廊下事件の時は、浅野内匠頭の切腹を即日に執行させた将軍綱吉が、吉良邸討入りの時は赤穂浪士の処分の決定に四十日近くかけてしまったのは何故なのか。普通に考えれば、綱吉が松の廊下で吉良を斬りつけた浅野内匠頭の行為を許せないのであれば、浅野の家臣が吉良を討ち取った行為を直ちに厳罰に処す裁断がおりなければ辻褄が合わないのだ。
将軍綱吉の考えが明確に文章で残されているわけではないが、裁断を下すのに四十日近くかかったという事は綱吉が厳罰説ではなかったことを意味する。幕府の公式的な考え方は大学頭の林信篤が唱えた助命論と考えるべきであろう。林信篤の説は、「天下の政道は忠孝の精神を盛ならしむるを第一とする。国に忠臣あり、家に孝子あれば、百善それから起って、善政おのずから行われる。」と、赤穂浪士のように家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがないという考え方で、「もしかかる忠義の精神を一貫して亡主のために尽した士を処罰する時は、忠孝御奨励の御趣旨を滅却することになり、御政道の根本が覆ってしまう。」と、四十七士を直ちに無罪とすべきと論じている。
しかし、幕閣の中には赤穂浪士を厳罰に処すべきとの意見もあり、幕府は当時の学者に意見を求めたところ、同様に死罪とするか、切腹させるか、助命するかの意見が分かれたが、法の権威を維持すべきとの荻生徂徠の説が採用され、全員切腹と相成った。
死罪説と切腹説との違いは、赤穂浪士を単なる犯罪者として処刑するか、武士の体面を保つ方法で処刑するかの違いで、赤穂浪士を義士と認めるかどうかにポイントがある。また助命説は、赤穂浪士を義士と認めて助命させようとする説であり、結論は異なるものの討ち入りを義挙と考える点では切腹説と同じである。
忠臣蔵討ち入り
赤穂浪士の討入りを普通に考えれば、徒党を組んで他人の家に押し入って主人を殺すという犯罪行為である。吉良上野介は、処刑された浅野内匠頭が恨んでいたという理由で殺された被害者であったにもかかわらず、吉良を殺した赤穂浪士の行為を幕府が「義挙」とした判断を、吉良の関係者にとっては容認し難いものであっただろう。
この赤穂浪士の討入りを義挙とすることにこだわった幕府の判断に、問題はなかったのだろうか。幕府は、大学頭である林信篤の「家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがない」の考え方で赤穂浪士を義士として認めてしまったのだが、この判断は幕府の大失敗で、後に幕府を滅ぼすことにつながったという説があることを最近になって知った。
はじめに将軍綱吉が儒学(朱子学)を重んじたことを書いたが、そもそも江戸幕府は徳川家康の時代に武家政治の安定のために朱子学を公式学問として採用している。その理由は朱子学が主君への絶対の忠誠を説くものであったからだ。
しかし、朱子学において忠誠を尽くすべき対象は「覇者(武力をもって統治する者)ではなく王者(徳をもって統治する者)である」とされており、その解釈において山崎闇斎(やまざきあんさい)のように「天皇こそが王者であり、この国を統治する者は幕府ではなく天皇家であるべきだ」との考えを持つ学者が当時は少なからず存在した。
山崎闇斎
山崎闇斎の提唱した朱子学は崎門(きもん)学と呼ばれて、水戸学・国学などとともに幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたとされている。
山本七平
評論家の山本七平氏が、山崎闇斎の門下生である浅見絅斎(あさみけいさい)こそが明治維新の招来者であると主張しているのだが、浅見絅斎は赤穂浪士を完全な義士と高く評価した人物であり、主著の『靖献遺言(せいけんいげん)』は尊王思想の書で幕末の志士達の必読書となり、明治維新の原動力の一つとなった書物だと言われている。
井沢元彦氏の『逆説の日本史』で山本七平氏の文章が紹介されている。
「…浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。…違法行為をした、しかしそれが未遂であった。そこでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動も否定しなければ論理があわない。現代でも『殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤判ではない。従ってそれは怨まない。しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう』などということは、それを正論とする者はいないであろう。こうなれば結局、…理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にはない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だという事になる。」(『現人神の創作者たち』)
「…対象が天皇で、幕府が天皇に対して吉良上野介のように振舞ってこれを悩ませ、天皇が幕府を怨んでいると思い込んだ人間が『靖献遺言』を読んだらどうなるであろうか。何しろ死んだ浅野長矩に対して心情的にこれと一体化できるなら、勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる。いわば処刑されても殉教者のような評価を受けることになるのである。…」(『現人神の創作者たち』)
赤穂浪士の討入りはただの殺人事件として処理すべきであったのだが、幕府は事件を起こした浪士を犯罪者とはせず義士であることを認めてしまった。そのために、この事件は『忠臣蔵』として歌舞伎や人形浄瑠璃で繰り返し演じられ、赤穂浪士の討入りは義挙であるとの考えが人々の間に定着していった。さらに、天皇が国を統治するべきであるとする山崎闇斎や浅見絅斎の思想が、幕末時期に倒幕思想として急激に広まっていった。
このように幕末に倒幕運動が盛り上がった背景をたどっていくと、幕府が赤穂浪士を義士と認めてしまった事から始まったという説にはかなり説得力がある。
井沢元彦
井沢元彦氏が『逆説の日本史M近世爛熟編』で指摘している通り、明治天皇の父である孝明天皇はあくまで幕府の力による鎖国維持を望んでいたのだが、多くの「勤王の志士」は「倒幕こそ天皇の意志」と勝手に考え、倒幕運動をすることが正義であると考えて行動していったのである。この点については昭和の『2.26事件』を起こした陸軍将校についても同様で、武力を以て元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗や、農村の困窮が収束すると考えて昭和天皇が信頼していた政府の重臣達の殺害に及んだのと良く似ているのだ。
山本七平氏の言う「勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる」と信じたメンバーが、実際に日本の歴史を動かしていったことになる。朱子学の「忠義」なるものを重視して国の統治を行うという考え方そのものが、一歩誤れば危険な方向に進む要素があることを知るべきである。
江戸幕府が赤穂浪士を義士と認めたことは、言い方を変えると、幕府の法よりも超越する正義があることを幕府自身が認めたということである。幕府は自ら墓穴を掘ったと言うこともできるのだ。
もし幕府がこの時に赤穂浪士を直ちに打ち首にしていればどうなっていただろうか。赤穂浪士はただの殺人犯であるので『忠臣蔵』という物語は成立せず、山崎闇斎や浅見絅斎の説が全国に広がることもなかっただろう。とすれば幕末の倒幕運動があれほどに盛り上がることもなく、明治維新で天皇中心の国に生まれ変わることもなかったかもしれないのだが、無能な江戸幕府がペリー来航以降の対応を誤って近代国家への脱皮ができずに、列強にもっと多くの国富を奪われていたことも考えられないわけではない。
わが国の歴史を見ていると、何度も大きな危機に遭遇しながらも様々な偶然に助けられたり、新しいリーダーが現われたりして、結果としてベターな方向に進んでいくことがよくある。昨今のわが国の情勢は決して楽観できるものではないが、過去の歴史がそうであったように、様々な難題を抱えながらも、なんとかうまく乗り越えていって欲しいものである。  
 
赤穂浪士「辞世の句」

 

赤穂浅野藩主・浅野内匠頭長矩 (あさのたくみのかみながのり)享年35歳
   風さそふ花よりも尚我はまた春の名残をいかにとかせん
   冷光院殿前朝散大夫吹毛玄利大居士
早水藤左衛門満堯 (はやみ とうざえもん みつたか)享年40歳
   地水火風 空のうちより 出し身の たどりて帰る 本のすみかに
潮田又之丞高教 (うしおだ またのじょう たかのり)享年35歳
   武士の道とばかりを一すじにおもひ立ぬる死出の旅路に
矢田五郎右衛門助武 (やた ごろえもん すけたけ)享年29歳
   不詳
横川勘平宗利 (よこかわ かんぺい むねとし)享年37歳
   気懸りも なくて今年の 霞哉
赤埴源蔵重賢 (あかばね げんぞう しげかた)享年35歳
   不詳
矢頭右衛門七教兼 (やこうべ えもしち のりかね)享年18歳
   出る日の ひかりも消て 夕ぐれに いはなんことは かなしかりける
三村次郎左衛門包常 (みむら じろうざえもん かねつね)享年37歳
   雪霜の 数に入りけり 君がため
前原伊助宗房 (まえばら いすけ むねふさ)享年40歳
   春来ぬとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪
中村勘助正辰 (なかむら かんすけ まさとき)享年42歳
   梅が香や 日足を伝ふ 大書院
冨森助右衛門正因 (とみのもり すけえもん まさより)享年34歳
   先立ちし人もありけ今日の日を終の旅路のおもい出にして
寺坂吉右衛門信行 (てらさか きちえもん のぶゆき)享年83歳
   不詳
武林唯七隆重 (たけばやし ただしち たかしげ)享年32歳
   三十年来一夢中、捨身取義夢尚同、双親臥病故郷在、取義拾恩夢共空
千馬三郎兵衛光忠 (せんば さぶろうびょうえ みつただ)享年51歳
   不詳
杉野十平次次房 (すぎの じゅうへいじ つぎふさ)享年28歳
   不詳
倉橋伝助武幸 (くらはし でんすけ たけゆき)享年34歳
   不詳
菅谷半之丞政利 (すがのや はんのじょう まさとし)享年44歳
   不詳
木村岡右衛門貞行 (きむら おかえもん さだゆき)享年46歳
   おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは
神崎与五郎則休 (かんざき よごろう のりやす)享年38歳
   梓弓春近ければ小手の上の雪をも花のふぶきとや見ん
茅野和助常成 (かやの わすけ つねなり)享年37歳
   天地の外はあらじな千種たに もとさく野べにかるると思へは
近松勘六行重 (ちかまつ かんろく ゆきしげ)享年34歳
   不詳
吉田忠左衛門兼亮 (よしだ ちゅうざえもん かねすけ)享年64歳
   かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道
貝賀弥左衛門友信 (かいが やざえもん とものぶ)享年54歳
   不詳
吉田沢右衛門兼貞 (よしだ さわえもん かねさだ)享年29歳
   不詳
勝田新左衛門武堯 (かつた しんざえもん たけたか)享年24歳
   不詳
奥田貞右衛門行高 (おくだ さだえもん ゆきたか)享年26歳
   不詳
小野寺幸右衛門秀富 (おのでら こうえもん ひでとみ)享年28歳
   今朝もはやいふ言の葉もなかりけりなにのためとて露むすぶらん
小野寺十内秀和 (おのでら じゅうない ひでかず)享年61歳
   今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ
原惣右衛門元辰 (はら そうえもん もととき)享年56歳
   かねてより 君と母とに しらせんと 人よりいそぐ 死出の山道
岡嶋八十右衛門常樹 (おかじま やそえもん つねしげ)享年38歳
   不詳
大石瀬左衛門信清 (おおいし せざえもん のぶきよ)享年27歳
   不詳
大石主税良金 (おおいし ちから よしかね)享年16歳
   あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉
間十次郎光興 (はざま じゅうじろう みつおき)享年26歳
   終(つい)にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道
間新六郎 (はざま しんろくろう)享年24歳
   思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを
間喜兵衛光延 (はざま きへえみつのぶ)享年69歳
   思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを
間瀬久太夫正明 (ませ きゅうだゆう まさあき)享年63歳
   雪とけて 心に叶ふ あした哉
間瀬孫九郎正辰 (ませ まごくろう まさとき)享年23歳
   不詳
不破数右衛門正種 (ふわ かずえもん まさたね)享年34歳
   今日ありと心に知りて武士のおはる月日の身こそ辛けれ
奥田孫太夫重盛 (おくだ まごだゆう しげもり)享年57歳
   不詳
堀部安兵衛武庸 (ほりべ やすべえ たけつね)享年36歳
   梓弓 ためしにも引け 武士(もののふ)の 道は迷わぬ 跡を思はば
堀部弥兵衛金丸 (ほりべ やへえ あきざね)享年77歳
   雪はれて 思ひを遂る あしたかな
片岡源五右衛門高房 (かたおか げんごえもん たかふさ)享年37歳
   不詳
礒貝十郎左衛門正久 (いそがい じゅうろうざえもん まさひさ)享年25歳
   若水の 心そむかぬ 影もりかな
岡野金右衛門包秀 (おかの きんえもん かねひで)享年24歳
   その匂ひ 雪のあさぢの 野梅かな
村松三太夫高直 (むらまつ さんだゆう たかなお)享年27歳
   極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人
村松喜兵衛秀直 (むらまつ きひょうえ ひでなお)享年62歳
   命にもかえぬ一をうしなはば逃げかくれてもこゝを逃れん
大高源五忠雄 (おおたか げんご ただたけ)享年32歳
   梅で香む 茶屋もあるべし 死出の山
大石内蔵助良雄 (おおいし くらのすけ よしたか)享年45歳
   あら楽や 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし  
萱野三平重実 (かやのさんぺいしげさね)享年28歳
   晴れゆくや 日頃心の 花曇り 
 
荻生徂徠1

 

館林の綱吉(翌年5代将軍に)に仕えていた父の方庵がお暇を願い、江戸に戻った直後に江戸御構(おかまい=江戸から退去させる刑罰)となり、一家で京都を目指そうとするが、母方の親戚の説得で上総の長柄郡本能に逼塞。母親(32歳)は、旗本に繋がる家の出だったが、転居直後に没。
転居時、方庵54歳、兄助之丞18歳、伝次郎(徂徠)14歳、弟小次郎7歳。
既に徂徠は漢文が書け、『四書大全』も読破。
京に上って学問で身をたてようとしたが、父親から、そのためにはまず本を読めと言われ、江戸で手に入れられる本を片端から読みまくる。
13年後に江戸御構を解かれるが、父と兄弟は地元に残り、徂徠のみ学問を目指して江戸で学塾を開く。
江戸では、所縁のあった三田の長松寺に宿をとり、増上寺近辺の豆腐屋の裏に2間の長屋を借りて、増上寺の学僧相手に漢文を舌耕(ぜっこう)する。
『詩経』の魯頌(ろしょう)の巻の「閟宮(ひきゅう)」の編に「徂徠之松」とあり、徂徠の幼名が双松(なべまつ)であるところから、徂徠と号した。
最初から漢文を従頭直下(しょうとうちょっか)といって、返り点や捨て仮名を付さずに上から下に真っ直ぐ読むという教育基本方針を堅持。
売りは、南総での猛勉強時代に作った字書で、何百という漢籍から語原をあまねく引いた大部の力作。字の意味の似たものを集めてそれぞれの違いを解説する独特のもの。
武田信玄の家来に武川衆と言われた一族がいたが、徳川の時代になってそれぞれ伝手を頼って徳川家に仕える ⇒ 柳沢氏の6代目が4代将軍家綱に仕え、その弟は館林の綱吉に仕えたが、その息子の保明(やすあきら)が家督し、綱吉が将軍になると綱吉に従って本城に入り、綱吉の寵愛を受けて15年後には72千石の大名となり、武州川越に城を持ち、奥の役人の最高位である側用人でありながら、表の役人である老中格にもなっていた。
増上寺の大僧正が保明に、門前に風変わりな儒者がいるがお抱えにしないかと徂徠のことを持ちかける。保明は、館林時代に荻生姓の御薬匙がいたことを記憶していたのと同時に、徂徠が上総出身というのを聞いて、保明の上総の東金出身の母に尋ねたところ、方庵をよく知っていた。
保明は、綱吉に方庵の息子を取り立てるとお伺いを立てたところ、綱吉も方庵のことを思い出し、召し抱えることになる。
元禄9年31歳の時、徂徠は保明に召し抱えられる。御馬廻で15人扶持(75俵)。
豆腐屋の裏に借家、貧しさを見かねた豆腐屋が援助していたお返しに、2人扶持を豆腐屋に与えた話が、『徂徠豆腐』と題して講談や落語にもなりやがては浪花節にもなる ⇒ 落語のサゲは、しきりに恐縮する豆腐屋に向かって徂徠は言う、「何を申すやら。そなたとは切らずの縁ではないか」 古今を通じて学者が、それも大学者が、講談はともかく落語や浪花節の主人公として語られた例は、徂徠以外にはいない。
時は朱子学が真っ盛り。朱子学は、宇宙は理と気から成っているとする高遠壮大な理論に基づくスケールの大きい学問だが、とりわけ「人はかくあるべし」ということを教え、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の”五倫”と、仁、義、礼、智、信の”五常(ごじょう)”の規範や名分を重視。
保明の領内で、貧しさのあまり妻子を捨て、親を捨てて出家した僧が捕まり、親棄ての罪で処罰されようとした際、保明がなんとか穏便に済ませようとして召し抱えていた儒者に知恵を出させようとした際、徂徠が、僧の咎は為政者の仕置きのせいだとして、為政者が反省し、僧には仁政をもって報いるべしと説き、8歳上の保明を満足させた。
将軍にとって、東照神君家康を祀る日光東照宮への参詣は、数少ない娯楽の1つだったが、幕庫が空になった綱吉は今日にも日光にも行けず、代わりにやたらに家臣の家に出掛けたが、最も多かったのが保明の屋敷で、18年間に58度に及ぶ。
学問好きな綱吉は、御成先でも漢籍の講釈をさせ、徂徠も列席。
綱吉は、お気に入りの側近20数人も学問に精通させるため、本来であれば官立の林大学頭の昌平黌に通わせるべきところ、保明に仕えている儒者について学問を学ばせた。
徂徠は、31歳の時その中の1人の妹を嫁に迎える。
綱吉の生母の桂昌(けいしょう)院は、家光との間に綱吉をもうけるが、早くから綱吉に学問を励ませただけあって、本人も学問好き、徂徠も儒者同士の議論の競い合いに加わる。
綱吉の気紛れから、方庵が71歳だというのに奥医師に取り立てられ、徂徠も加増。
元禄14年、綱吉は、保明に松平の称号と綱吉の偏諱を授け(へんき=貴人の名前の通字でない方の字をもらうこと)、保明は吉保と名乗る。
徂徠は、従頭直下を主張しながら読み方は自己流だったため、本来の「唐音(または華語)」を新たに吉保が雇い入れた儒者から学ぶ。
江戸の儒者で最も勢いが良かったのは木下順庵(元禄11年歿)、弟子に新井白石、室鳩巣等の「木門の五先生」がいた。
綱吉には子供が出来ず、早逝した兄の綱重の息子で甲州藩主の綱豊を後継に指名(6代将軍家宣)、綱豊の去った甲州を、初めて徳川一門以外の柳沢吉保に与える。
徂徠は、字書の作製とか、「崎陽之学」(唐音の学習)への没頭とか、これまでのほとんどを言語学者として生きてきたが、本当は学者を目指していたのに、何をやればいいかが分からなかった。
40歳の時、妻に死に別れ。
43歳の時、綱吉薨去。
明暦の大火(1660年)の後、幕庫には385万両あったものが、20年で130万両に激減、綱吉の日光参詣(10万両かかる)もままならなかったため、貨幣の改鋳を行い、古い慶長小判2枚の金を溶かし新しい元禄小判3枚を作り、益金5百万両を幕庫に入れたものの、自身の続く浪費に加え、元禄12,3年と続いた凶作による減収の補填、元禄16年(1703年)の地震復旧とあらかた費消、さらに富士山噴火(1707年)の追い打ちで、幕府は全国から平等に100石につき2両を徴収、40万両を掻き集め、うち16万両を降灰除去作業に使う。全国平等に徴税したのは後にも先にもこの時だけ。
家宣の代になって、吉保は邸内の学校閉鎖を命じられ、徂徠も吉保から扶持米を受けながら自活の道を探す。吉保は老齢を理由に引退し、下屋敷のあった六義園で余生を送る。
漢籍を読む場合、返り点や送り仮名を使って読む方法を「和訓」といい、吉備真備がつとめて雅な言葉を使って和語に訳したものに過ぎないが、何か高邁な訓詁のように尊重された。
魚を取る筌(ふせご)とウサギをかける蹄(わな)は獲物を獲れば不用の物となる。そこで荘子は、目的を達するまでの手段を「筌蹄(ようてい)」といい、転じて、手引き、案内のことなどをも「筌蹄」というようになったところから、徂徠は自らの辞書を出版するに当たり、『譯文筌蹄』と題した。
徂徠が茅場町に開いた私塾は、「茅」を「蘐」とも書くところから「蘐園(けんえん)」と呼ばれ、徂徠の来る者拒まずの方針もあって後の俊秀が次々と門下に集まる。
新井白石一派は、徂徠が古文辞を学び始めたことを聞いて、「風変わりなことをするただの酔狂者」とみて非難、徂徠もまた古文辞が広まらない原因を白石一派による妨害のせいとして白石を「文盲」と罵る。
古文辞
中国の明代に七子派の文人の唱導した文章を,従来の古文と区別して古文辞と称する。後漢末から六朝にかけて盛行した,対偶の特色を生かした結果,修辞中心で内容の乏しくなった駢儷文(べんれいぶん)の弊害を打破するために,隋・唐にかけて,古文復興(古文運動)がとなえられ,唐の韓愈,柳宗元らによって確立し,北宋の欧陽修,蘇洵,蘇軾(そしよく),蘇轍,王安石,曾鞏(そうきよう)らによって継承された。それは四書五経などに見られる聖賢の理想を根底として,駢儷文の対偶形式と,空疎な内容を改革することを目的としていた。
徂徠は人を誉めこそすれ貶すことはなかったが、今日の泰斗・伊藤仁斎とその息子・東涯、それと白石に対してだけは違った(仁斎に対しては手紙を出したが返事がなかった)。
白石の妨害にあって、徂徠は韓使との面会が果たせずに悶々とする。
1712年 家宣が在位僅か3年5か月で死去、跡は4歳の嫡子家継。家宣の政治を仕切っていた白石がますます権力を振るう。
48歳で水戸家の医者の娘と再婚。
翌年、仁斎を批判した『蘐園随筆』を出版、随所にちりばめた知識は万巻の書を読破しなければ得られるものではなく、その学識の深さと博覧強記に読む者は圧倒され、「世に徂徠あり」と、名は一気に高まった。
ただ、徂徠は才能を重んじて序列を作り、徳行を重んじなかった(長幼の序がない)ため、家の中での秩序が乱れた。
『蘐園随筆』の1年後に『譯文筌蹄』刊行。徂徠の名を慕って入門してくるものが後を絶たず、徂徠は意気軒高、得意の絶頂にあったが、2度目の妻が産後の肥立ちが悪く死去。
妻を亡くして、仕事の上でも意欲をなくした徂徠は、持病の結核を悪化させる。
将軍家継は8歳で死去、8代将軍の吉宗は白石を政治に参与させず、徂徠もようやく頭に垂れ込めていた雲が晴れる思いをする。
朱子が四書の1つ『大学』にある「格物致知」とは「窮理(物の理を窮める)」と解釈し、学問をする者はすべからく万物の理を窮め、万物に即し、万物の理を手掛かりに知を完成すれば、誰でも聖人になれると説いているのは間違いで、「物」とは聖人の教えであり、「格」とは格(まね)き寄せることで、聖人の様々な教え、具体的な内容を我が物とすることが「格物」であり、具体的な内容が我が物となれば即ち「知」が自然に明らかになる。つまり「知」が至る、「致知」ということになる、というのが徂徠の主張。
天の寵霊によって、ある日突然「道」というものがなんであるかを大悟し、新しい世界を獲得、その日から徂徠は机に向かって新たなる書の執筆に精魂を傾け、数か月後に『弁道(べんどう)』なる書を書き上げる。
次いで『弁名』を著わし、「道・徳・仁・智・礼・義」など儒教の経典に現れる80ほどの抽象語の意味や概念を厳密に確定、『弁道』と並んで「徂徠学」の基本書となる。
両書とも、『学則』の延長であり、入門の士に示すのみとしていたが、『学則』は死の前年刊行され、『弁道』も死後9年して刊行。
ただ1人生き残った娘が17歳で急逝。
享保5年 門人から孔子の肖像画に賛を頼まれ、「「歳さい庚子こうし(享保5年)夏なつ五月日本国夷人物にほんこくいじんぶつ茂卿もけい拝手はいしゅ稽首敬題けいしゅけいだい」と書く。日本国の夷人である物茂卿が拝手稽首して敬(つつ)しみて題すという署名が後々物議を醸す。なぜ物(物部)姓を名乗ったのかについては、徂徠がしばしば物部氏の系統であると自称して憚らず、物性を名乗るとともにその際は茂(しげ)る卿(おのこ)を意味する茂卿を字とした。『先王の道』は、孔子以後はまともに伝達されず、徂徠に至って初めて説く者が現れたとすれば、夷人物茂卿は「第2の孔子」でなければならないという自負が現れたものとみることができる。
この時「夷人」を名乗ったため、儒者に対する明治政府の贈位の際、頼山陽が従三位、伊藤仁斎、熊沢蕃山、新井白石が正四位に叙されたが、徂徠派は除外。
享保5年 『論語徴』脱稿 ⇒ 論語の注釈書。書いていることは全て古文辞に照らし合わせているところから「徴」と名付けた。時に発せられる痛罵が耳に心地よい。孔子についても、地位を得なかったのでその道を天下に行わせることは出来ず、言っていることもせいぜいが『論語』に述べられている程度に留まり、「詩書礼楽」には遠く及ばないと喝破しながらも、『論語』もうまく使いこなせば大いに役立つという。
「身体髪膚之を父母にうく。敢えて毀傷せざるは考の始まりなり」とあるが、単に傷をつけるの意ではなく、古文辞に照らしてみると当時は体の一部を傷つける刑罰が一般的だったところから、「身体髪膚」とは体罰で傷つけられる体の一部を指すとの解釈。
朱子が『論語集注』を著わして以来、昔のいろいろな儒者の注釈が失われてしまったが、徂徠は仏書まで参照を広げることにより古義を掘り起こすことが出来た。
清朝の儒学は、明朝までの朱子学一辺倒の時代と違い、考証学が全盛だったため字義には喧しく、多くの学者が、「物茂卿の『論語徴』に言う云々」として徂徠の説を引いている。
清朝の学者たちが徂徠の学説、特に『徴』の解釈の価値を高く見たことは、日本の儒者に反対者が多いことと対照的。
これをもって徂徠は「経学」の著作から手を引く ⇒ 徂徠学の確立。
吉宗の代になって、将軍から「治道」の要諦を聞かれ、「楽礼制度」の導入を説き、新しい制度によって世の中を作り変えるべきとした。
明代に大租洪武帝の肝煎りで作られた郷村の教化、防犯を目的とする教えに『六諭(りくゆ)』があり、清朝になってからも欽定として各省に頒布し、庶民教化の一助としたが、その解釈書である『六諭衍義』を入手した吉宗は、庶民教育に活用しようと幕府お抱えの儒者だった室鳩巣に訳させるも、俗語(白話)の解釈を知らなかったため、徂徠にお鉢が回ってきた ⇒ 翻訳の具体的なやり方についてのやりとりから、吉宗が徂徠の力を認め、異例の服地下賜となり、徂徠の文名をさらに高める。
その後も吉宗から何かと尋問があり答えている。
吉宗の財政面での改革成功のもととなった足高制度も、幕府の公式記録には載っていないが、徂徠の発案という ⇒ 役職ごとに役高を決め、禄が足りないものは不足分を足してお役を勤めさせる。人材発掘に有効。
吉宗の私的秘書のような立場の人から度々召し抱えるとの意向が伝えられたが固辞。
昔に返ることが最善・最良の策であるとするなど、復古的な提言が多く、吉宗の考えに近いところもあった。
吉宗は徂徠の実力を認め、公儀に召し抱えるとともに、官学の学長とでもいうべき林家の当主や白石と同等に叙爵しようとしたが、俗っぽい名誉なんか求めるべきではないという儒者としての矜持に加え、5百石をもらう柳沢家にも大恩がある手前、徂徠としては辞退するほかなかった。
享保13年、前年末から患った浮腫が悪化して死去 ⇒ 吉宗から薬が下賜されたというが、これも異例のことであり、吉宗は徂徠の死を甚く惜しんだという。
徂徠学以後の儒学は、徂徠学に対する批判から始まる。多くの儒者が、儒学が重んじてきた仁義や道徳を蔑にしていると徂徠学を批判する。
批判の筆頭は、朱子学の総本山である林家昌平黌で、「寛政異学の禁」が敷かれてあくまで朱子学を守ろうとしたが、仁斎から様々な疑問を投げかけられ、徂徠から追い打ちをかけられてとどめを刺されたかのごとく壊滅的な打撃を受け、失地を回復できないまま細々と生き長らえて明治を迎える。
その他の批判者も徂徠を一歩も超えることは出来ず、明治以降の日本人は儒学を捨てた。
江戸期250年の間の日本人はこぞって儒学に向かい、知と知を競い合うことに鎬を削り、競い合うことで脳に磨きをかけた ⇒ 明治に入って人文科学や社会科学、自然科学が入ってくると、それらに素早く切り替え、当たり前のように我が物にできたのは、偏に250年に亘って脳や知力に磨きをかけて来たからで、その頂点に立つ男こそ「知の巨人、荻生徂徠」。
徂徠と赤穂浪士の処分について、徂徠の具申によるとする説があるが事実は異なる ⇒ 田原嗣郎『赤穂四十六士論』。
「梅が香や隣は荻生惣右衛門」を其角の作として喧伝されるのも、実際のところは2年のずれがあり事実ではない。
 
荻生徂徠2

 

中国において儒教は紀元前1世紀、漢の時代に国教となったが、その後外来の仏教に圧倒され鎮火していた。10世紀、宋の時代になって官僚を中心に儒教復活の機運が盛り上がり、13世紀になって朱熹によって朱子学が完成した。庶民ではなく、士大夫つまり官僚のための学問である。従来の儒教と異なり、正邪を分別することに異常な情熱を傾けた大義名分論の体系というべきものであった。忌まわしい夷狄の金が北方から迫っているという事情が背景にある。
朱熹は仏教、道教の論理を組み込んで壮大な宇宙観を展開し、宇宙には天の定める秩序があり、それぞれが天命に従えば宇宙の秩序は成り立つとした。すなわち、世界は万物の根源である「理」と、それに対し、感情や欲望から自由になれない「気」によって構成されているが、人は理性を備えているため、努力して「理」を把握すれば社会秩序は保たれるとした。理屈でがんじがらめにされた窮屈な世界である。
家康は戦後体制の安定化を図るにあたり、行儀作法のままならぬ武士どもを矯める手段に朱子学を採用した。朱子学がとりわけ階級制度にこだわる点は、身分制度を根付かせるのにうってつけであり、士農工商の士には士大夫でなく武士をあてがった。林羅山が博覧強記を買われて登用された。しかしその地位は決して高くない。剃髪のうえ僧侶のごとき屈辱的な姿での出仕となった。しかし3代林鳳岡に至り家塾は湯島聖堂となり、彼は僧形を廃して畜髪を許され、大学頭(だいがくのかみ)を拝命した。以後、大学頭(大学学長に相当)の官職は林家の世襲となった。
歴代将軍のなかでも5代徳川綱吉の儒学好きは尋常でなく、ついには周りに講話するまでに精通した。その綱吉は老中政治に不満をいだき、将軍権力の奪還をねらって側用人政治を実施した。すなわち幕閣の意見は、腹心・蜻吉保を通さずには具申できなくしたのである。吉保の存在感は一挙に膨張し、事実彼は老中の地位にまで登りつめることになる。
その蜻吉保に抜擢され、儒学ならびに政治の講学を受け持ったのが、30を過ぎた少壮気鋭の荻生徂徠である。将軍綱吉に寵用された吉保は,58度も自邸を来訪した綱吉のために儒者の講席を設け,徂徠を講師に選任した。そして綱吉の中華癖に合わせ,吉保も華音(中国語で発音)にこだわり,徂徠に華音での講釈を命じた。つまり、古典漢文を返り点、送り仮名なしで原文のまま、華音のみで講釈せよというのである。当時の日本にこの難題に応えられる儒者は、おそらく徂徠以外いなかったとおもわれる。驚くべきことだが、徂徠の中国語は全くの独学である。これがきっかけで、徂徠は古文辞学を極めるようになる。
当時、朱子学の閉塞感に対抗して、孔子の時代に戻って古典を学び直そうとする動きがおこっていた。寛文2年(1662)、山鹿素行は、朱子学を机上の学問で抽象的にすぎ、現実的でないと批判し、朱熹の考えでなく孔子や周公の考え方を、直接学ぶべきだと唱えた(古学)。
これに引き続き伊藤仁斎も、孔子没後千年以上も経って創られた朱子学の論旨に惑わされてはならないとし、古学の中でも、「論語」や「孟子」を緻密に読み解いた(古義学)。その結果、人間関係には相手を思いやる「仁」が最も大切で、論語や孟子から、自分がとるべき正しい行動「義」を学ぶべきだと主張した。
しかし、これでは手ぬるいと、直接原語のまま古典を読み解こうとしたのが荻生徂徠である。彼は、朱子学を憶測にもとづく虚妄の説であると喝破。政治改革を目指しても、『理』『気』にとらわれ身動きが取れないため、既成概念の枠を取り払わねばならないと唱えた。そして、天下を治める道とは、民が安心して生活できること(経世済民)であり、そのためには尭や舜によって作られた儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を用いて、人民の意見や才能を育み、発揮させることが肝要であるとした。さらに、六経に記された礼楽刑政を知るためには、古文辞(古語)を学ばねばならないと唱えた(古文辞学)。六経とは『詩経』『書経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』の五経に「楽経」を加えたものである。
徂徠は主君柳沢吉保を通じて将軍綱吉への政治的助言を惜しまなかったが、さらに2代を経て8代将軍徳川吉宗からも厚い信任を得て、その諮問にあずかった。とくに吉宗に奉呈した政治改革論『政談』は、政教分離を説いた彼の代表作となった。
元禄16年(1703年)、赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣が世論を後ろ盾に賛美助命論を唱えたのに対し、徂徠は義士切腹論を主張した。すなわち、赤穂浪士がとった主君への復讐は、義に適うものではあるが、あくまで私的な論理である。しかし一方で、公儀の許しも得ずに騒動をおこしたのは、法として許すわけにはいかない。そこで武士の礼をもって、切腹に処するならば実父を討たれたうえに手出し無用とされた上杉家にも面目がたつ。それが“まつりごと”というものであると蜻吉保に進言。結局、将軍綱吉は徂徠の意見を採りいれたのである。
もともと儒教は士大夫(官僚)による政治を本意とするが、実際に幕府政治に重きをなした儒者は、徂徠のほかには僅かに新井白石がいるぐらいである。1709年、綱吉の死とともに蜻吉保が失脚したため,徂徠は日本橋に私塾を開き,華話華音のみによる中国古典研究「古文辞」を13年間も続け、多くの門弟を育てたのち、63歳で没した。男子の本懐というべきであろう。
 
荻生徂徠3

 

享保十三年(1728年)1月19日、独自の思想『古文辞学』を提唱した江戸中期の儒学者・荻生徂徠が63歳で死去しました。
寛文六年(1666年)は江戸に、医者の息子として生まれた荻生徂徠(おぎゅうそらい)でしたが、14歳の時に、父の失脚により、しばらくの間、母の実家にて不遇の日々を送りました。
『近世大儒列伝』によれば、その時に、父の荷物の中から、以前に父が書き移していた『大学諺解(げんかい=林羅山著)』を見つけ、これを必死に読みはじめたのが、学問に目覚めたキッカケだとの事・・・
以来、様々な本を読みふけり、独学で以って学問を究めていく徂徠は、元禄五年(1692年)の27歳の時に、父が許された事から江戸へと戻り、再び学問に励みながら、芝増上寺の近くに塾を開いて、わずかながらの生活費を稼ぐようになりますが、これが、なかなかの貧乏生活・・・
この極貧生活を見るに見かねたのが、増上寺の門前にて豆腐屋を営んでいたご主人・・・「余り物だから…」「どうせ、捨てる物だから…」と、毎日、豆腐粕(おから)を徂徠のもとに届けでくれたのです。
やがて、何とか幕府に召し抱えられた徂徠は、まず、その豆腐屋に礼を尽くすべく、少ない給料の中から、お米3升を買い、毎月、かの豆腐屋に贈ったのだとか・・・
ご存じの方も多いと思いますが、これが『徂徠豆腐』という落語や講談の元となったお話です。(もちろん、落語や講談は少しアレンジされてますが…)・・・で、この美談を耳にしたのが、時の将軍=徳川綱吉(とくがわつなよし)の側用人だった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)・・・
元禄九年(1696年)、吉保は徂徠を書記に大抜擢するのですが、ここで、発揮されるのが、これまで頑張りに頑張りぬいて来た学問です。
柳沢邸にて講義をしたり、次々と浴びせられる政治の質問にも適格に応える徂徠に、徐々に周囲も信頼を置くようになり、やがて将軍=綱吉も彼に理解を示すようになります。
『先哲像伝(せんてつどうぜん)』によれば、やはり徂徠に教えを請うていたあの名奉行の大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)をして、「博識洽聞(はくしきこうぶん)知らざる所無し」と言わせたとか・・・
そんな中で先ほどの落語『徂徠豆腐』とともに有名な逸話として知られるのは、元禄十五年(1702年)12月に起きた「元禄赤穂事件」との関わり・・・
実は、史実として起きた出来事を呼ぶ場合は「元禄赤穂事件」、物語として流布している物を指す場合は「(仮名手本)忠臣蔵」と使い分けがされている事で解るように、実際の討ち入りと、それをモデルにしたお芝居やドラマは、あちらこちらが違っているわけですが、現在1番有名な『仮名手本忠臣蔵』こそ、事件があってから50年後に初上演となっているものの、早い物は討ち入り前に、討ち入り後はその3ヶ月後の翌年の2月に複数の、赤穂事件関連のお芝居が上演されています。
つまり赤穂事件は、その事件があった直後から一般市民にも知れ渡るほどの話題になっていたわけで・・・しかも、それらの多くは、「曽我兄弟の仇打ち」になぞらえたりしての仇打ち賛美で、また、討ち入りした彼らも、「忠臣」「義士」と呼ばれていて、その呼び名でお察しの通り、庶民はもちろん、多くの知識人たちもが、彼らを擁護し、助命論を展開していたのです。
しかし、そんな中で、徂徠は幕府の質問に答える形で、あえて「切腹」を主張します。
「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也」
つまり、義理人情でいくと、主君の無念を晴らした彼ら赤穂浪士の行為はワカランでもないが、法のもとでは明らかに罪人である・・・と、
さらに付け加えて・・・
そもそも、江戸城内での刃傷事件に関しては、その後に幕府の沙汰が執行されているわけで、そこを、幕府の許可無しに騒動を起こした事は許されない事。
情に流された私論で以って公論を曲げるような事になったら、天下の法は成り立たなくなる。
その代わり、罪人=処刑とするところを、武士の礼を以って切腹とすれば、彼らの忠義も軽んじた事にはならない。・・・と、
私としては見事なお答えのように思います。
・・・で、結果的に、赤穂浪士の面々は、徂徠の意見の通りに切腹となるのですが、かの落語の『徂徠豆腐』では、恩返しに来た徂徠に対して、豆腐屋が
「義士を切腹させたヤツのお礼は受けたくない!」
てな事を言う場面がありますので、この事が、一部の義士ファンからの反感をかっていたかも知れません。
「反感をかう」と言えば、徂徠が、後世の解釈をつけず論語などの経典を研究する『古文辞学(こぶんじがく)』の開祖的立場だった事から、当時の主流だった朱子学(しゅしがく)を、「憶測にう基づく虚説」と痛烈批判した事で、朱子学者から反感を持たれていた事も確か・・・
やがて、綱吉が亡くなって柳沢吉保が失脚してからは、柳沢邸を出て、日本橋茅場町にて私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いて、多くの弟子たちを育て、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)にも助言する立場にあった徂徠でしたが、
享保十三年(1728年)1月19日に、彼が63歳で死去した後には、対立していた朱子学者側から、「尋常な死に方では無かった」とか、「幕府の命で徂徠の遺体は島流しにされた」とかの、あらぬ噂を流されたうえに、徂徠の墓を巡って、「誰が主導権そ握るか」で弟子同士が対立して、一門がバラバラになってしまったようで・・・何とも悲しい雰囲気ですが、
しかし、一方では、死に臨んだ徂徠の最期の言葉として「海内一流の人物、物茂卿(ぶつもけい)、将に命を隕(おと)さんとす。天、為めに此の世界をして銀ならしむ」
その日、江戸に大雪が降った事を受けて、「一流の俺が死ぬから、神さんが銀世界にしはったんやで!」との豪快な言葉を残したという事も伝えられていますので、徂徠自身は、大いに満足のいく人生だったのかも知れませんね。 
 
荻生徂徠のエピソード

 

儒学者の荻生徂徠(おぎゅう_そらい)の若い頃の話です。延宝元年(1673)、徂徠は父と共に江戸を追われ、上総に蟄居したのは14歳の時であった。
流浪し、書物も少なく、師も友人も無かった。たまたま古行李(こうり)の奥に、父が書き写した『大学諺解(げんかい)』(林羅山著)の1冊を見つけ、これを熟読し、よく味わった。また、種々の書物を探して読みあさり、独学したが、上総に10年余りいて、25歳の時、父と一緒に江戸へ戻った。
その後、父は家を出て、医官となり、第三子の叔達(しゅくたつ)に跡を継がせた。徂徠は芝浦に下り、生活費を稼いだが、ひどい貧乏であった。だが、少しも気にせず、勉学に励んだ。
ある日、入口に声がした。
「ごめんなすって。わっしは近くの増上寺門前の豆腐屋でござんすが、あつあつの豆腐粕を持ってきやした。食べておくんなせい。」
と言う。驚いた徂徠は、
「せっかくだが、支払う金子が今、手元にないので」
と断ろうとすると、
「どうせ余りもんだから、銭などいらねえよ」
と置いて帰ってしまった。それからは毎日、豆腐粕を届けてくれた。その豆腐屋は、食うや食わずの中で学問に励む徂徠の姿を垣間見て感心し、少しでも助けてやろうという気になったのである。
その後、徂徠はようやく認められて幕府に召し抱えられるようになった。まず、第一に世話になった豆腐屋に恩返しをと考え、毎月少ない給与の中から米三升を豆腐屋へ贈った。時の老中柳沢吉保は、荻生徂徠の評判を聞いて、書記に採用し、俸給十五人扶持を与えた。
当時、徳川五代将軍綱吉は学問を好み、たびたび吉保の屋敷に出掛け、徂徠に命じて家臣へ経書を講義させ、恩賞などを贈った。
やがて徂徠は古文辞学を説き、学問の総裁として活躍し、次第に食禄を増して五百石を拝領し、番頭格に進んだ。

藏一杯の書物を売るという話を耳にすると、早速、家財を売り払って60両程の金子を用意し、それを買い求めた。彼は日頃、時間を惜しんで読書に励み、薄暗くなると、戸外に出て読み、家人が灯をともすと、すぐさま灯のそばに寄って本を読んだ。
また、徂徠は草書が好きで、「人には得手不得手があるもので、自分は楷書が苦手である」と言って、草書ばかり書き、草書韻会を机の上に置いて学んだという。

藤元啓(げんけい=伊藤南昌)という者が字を書く事がうまいので、徂徠は自分の塾に置いて書を写す仕事をさせていた。ところが、元啓は徂徠の召使いの女と、ひそかに情を交わすようになった。徂徠は、それに気づいていたが、問いただしはしなかった。だが、元啓は知られたと悟り、とうとう塾から姿をくらましてしまった。
その後、しばらくして徂徠が町を通ると、元啓が印肉の行商をしているのを見つけた。すぐさま使いの者をやったが、元啓は家の奥に隠れてしまった。探し出して連れ帰らせ、また、もとのように塾に置いてやった。

大岡越前が江戸町奉行の時、徂徠を招いて食事をした。
「私は天下の大役を仰せつかっていますが、学問が無くて、諸事に行き届かぬ事と思います。先生の門に入って学びたいものです。」
と言った。徂徠は
「あなたは優れた裁きをされています。今から学問の道にお入りになると、学問に偏り、お役の方がおろそかになり、かえってお勤めが粗略になる恐れがあります。」
と答えた。その言葉に越前守は、
「学問をする者は、お役目が務まらぬと申されるか。」
と尋ねた。
「学問は大道であって、ある時、急に思い立って始めても役に立つものではありません。なまじ、理屈が分かると、万事が悪く見え、かえって役に立ちません。奉行のお役目は天下の風俗を取り裁き、正邪を正す事にあります。これまでのお裁きで十分です。もし、学問をなさりたいのなら、ご隠居後でもよいと思います。元来が優れた方ですから、どのようにも達成出来ることでしょう。ご子息への戒めにもなりましょう。決して無益な事ではありません。当分の学問は、かえって妨げになりましょう。」 
 
「徂徠豆腐」落語の舞台

 

三遊亭円窓の噺、「徂徠豆腐」(そらいどうふ)によると。
正月二日、江戸の小商人は早々に商いにやって来た。
豆腐屋七兵衛さんが芝増上寺門前の貧乏長屋に入ってきた。転げ込むように住んでいた二十五、六の若者。朝から晩まで書物を読んでいるか、筆をとっているかの毎日。
注文で1丁売った。ガツガツ食べて4文の金が無いから、明日まとめて払うと言う事になった。翌日も同じようにガツガツ食べてツケにした。3日目も同じで、七兵衛さんが聞くと、学者の勉強をして、世の中を良くしたいと言う。それなら出世払いで良いからと、翌日から差入れが始まった。
味付きのおからがメーンで、あとは日替わりの売れ残り。三日に一度はお握り。女房の心尽くしのおつけ。若い学者は涙を拭きながら食べました。この長屋では「おからの先生」って言われるようになった。
ある時、七兵衛さん風邪をこじらして寝込んで商いに出られなくなた。
マクラも上がって、長屋を訪ねたが、もぬけの殻で、行き先も分からなかった。長屋で名前を聞くと「確か、お灸がツライ、とかなんとか言っていたよ」。
その後何回か足を運んだが戻らなかった。縁がなくなって夫婦の頭から先生の事が消えていった。
元禄十五年十二月十四日。赤穂浪士の吉良邸への討ち入り。
翌十五日の夜中。豆腐屋の隣りから火が出まして、あっという間に辺り一帯が全焼しました。
明けて十六日の朝。まだ焦げ臭いものが立ち込めた無残な増上寺門前。
大工の政五郎が豆腐屋七兵衛さん宅に火事場見舞いに訪れたが、着のみ着のままで焼け出され、魚濫坂下の薪屋さんに避難しているという。
薪屋さんで七兵衛さん夫婦に会い、ある人から頼まれて10両の金を持参したので受け取って欲しいと渡した。受け取った七兵衛さん、嬉しいが分からない金に手を付けられないと、薪屋と相談の上、神棚に上げ、困った時に使う事にした。
元禄十六年二月四日 四十七士の切腹。街では「なんてぇこった。あんな立派な義士たちをさッ」。とか「まったくだ。誰なんだい、そんなこと決めやがったのはッ」との声が大勢を占めた。
10日後政五郎が訪ねてきた。腰を痛めた七兵衛さん夫婦を大八車に乗せて、芝増上寺門前の焼け跡へ。
焼けたはずの店が建ってる。棟梁に聞くと七兵衛さんの店だという。そこに現れたのはあの、おから先生で過日のお礼を述べた。「あれから増上寺の了也僧正にもお世話に相成り、五年後、僧正のお口利きでご大老の柳沢美濃守さまのお引き立てをいただきまして、仕官が叶いました。また、なんらご挨拶もせず長屋を出ましたこと、お詫びを申し上げます。訪ねてきた友人たちに『このままでは体がもたない』と連れ出されたも同然で。」と詫びた。それから「火事にあって焼け出されたことを知り、すぐにお見舞いをと思いましたが、ご存知の赤穂の討ち入りがありました。以来、それに掛かり切りになりまして、お顔出しのいとまもありませんでした。この二月四日、赤穂の面々が腹を召し、ようよう動けるようになりまして、やっと、お詫び方々お目にかかることができました」。
10両も、おから先生が届けたものであった。
おから先生の本当の名前を聞くと、『お灸がつらい』ではなく、「荻生徂徠」だと言う。おぎゅう…? そらい…?と聞いて、七兵衛さん思い出した。「岩田の隠居が言ってた。『赤穂の義士に切腹をって、言い出した学者が”おぎゅうそらい”だ』って。その学者って、お前さんかいッ?」と訪ねると、その通りだという。
それだったら使い込んだが10両と、この家はいらないと言う。
徂徠が言うには、「ご主君を失った家臣一同、仇を討ちたしの一心は当然のことでありましょう。まさに義の一字でしょう。しかし、仇討ちはご法度、徒党を組むことも禁じられております。天下の大法を犯しております。法を曲げるわけには参りません」。ですから「私は法を曲げずに、法に情けを注いだのです」。
「仇を討ち、本望を遂げたのでしょうが、方々にはもう一つ思いがあったはずです。ご主君のおそばへ馳せ参じることです。それゆえ、わたくしは『赤穂の浪士に追い腹を』と言上したのでございます」 。
「そんなのは、学者の理屈だよ。」と言う七兵衛さん。
「いえ、これは武士の本分に通じることなのです。七兵衛さん。武士の差しまする大小二本の刀はなんのためでしょうか」。「人を斬るためだろうが」。「まさに大のほうは人を斬るためでしょう。討ち入りで存分に使われました。では、小の脇差はなんのためでしょう」 。「そんな・・・」。
「己で己を斬るためです。武士の本分、魂は小の脇差にあると、私は思っております。常日頃から己で己を切る覚悟のない武士はまことの武士ではございません。切腹は武士の誇り、誉れなのです。打ち首や獄門などとは比べようのないものなのです。また、散り際をいかにいさぎよくするか、武士というものはそこに生涯のすべてを懸けていると言っても過言ではないのです」 。
「切腹については浪士の方々から異議を申し立てる声は一つもございませんでした。二月四日、切腹の様子を検死役の方々が異口同音に申しておりました。『赤穂の方々、皆一様に清々しいお顔で、ご主君のそばに馳せ参じる喜びを現わしておられた』と。本望の叶ったことは間違いないと、私は思っております。 法を曲げずに、情けを注ぎました」。
「法を曲げずに情けを注いだというのは、七兵衛さん。あなたもなさっています。十年前、私は銭を払うような素振りで、都合、三丁の豆腐を食しました。無銭飲食です。法に触れた行いです。しかし、あなたはそのことには 触れず、『出世払いでいい』と情けをくださったではありませんか。あなたは天下の法に許す限りの情けを注いでくださったのです」。「そんなつもりじゃねぇんだよ」と、七兵衛さん。
「そのおかげで、私はなんとか世に出ることができました。私も、赤穂の浪士に法を曲げずに情けを注いだつもりです。十年前、長屋で七兵衛さんに言われました。『腹を減らしてここで死んではならぬ。どうせ死ぬのなら、世に出て見事に花を咲かせてから死ね』と。十年たった今、私、その言葉を赤穂の面々に言っているような気がしてならないのです。『見事に花を咲かせたのであるから、見事に・・・、見事に散れ!』と」。
七兵衛さん「焼け出されたときは焼き豆腐になっちまったが、今、先生の話を聞いているうちに、泣き豆腐になっちまった。なぁ、おっかぁ。武士に意地があるんなら、情けもあるはずだ。ご主君のそばへ送ってやるのも情ですね、先生」。「わかっていただけて、私も嬉しいです。ですから、十両もこのお店もお受け取りください」。「ありがとうございます。貰ったり返したりいたしまして。お豆腐だったら、とうに崩れてしまってます」。
徂徠は、「増上寺の了也僧正に七兵衛さんの話をいたしました。すると『寺でもその豆腐にあやかりたいものじゃ』とおっしゃいました。いかがですかな、増上寺へのお出入りは? 」。
早速納める事にしたが、名前をいただいて『徂徠豆腐』と付けた。
「徂徠豆腐を泉岳寺へ持ってって四十七士にもお供えし、四十七士に喜んでもらえれば、こっちの自慢になりますよ。それにしても切腹した赤穂浪士も立派だが、先生もてぇしたもんですね」 。
「いや、私は豆腐好きのただの学者ですよ」。
「いや、そんなことはねぇ。この店を見りゃぁわかります。先生はあっしのために自腹を切ってくださった」。
荻生徂徠( おぎゅう_そらい)
寛文6年2月16日(1666年3月21日)〜 享保13年1月19日(1728年2月28日) 江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者。本名は雙松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)で徂徠は号である(「徂來」との説もある)。本姓は物部氏。父は幕府将軍徳川綱吉の侍医荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読む解く方法論としての古文辞学を確立した。また、柳沢吉保や八代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。江戸に生まれ、14歳の時上総の本納村(現・茂原市)に移り、25歳で江戸に帰って学問に専念した。元禄9年(1696)31歳で綱吉の側用人の柳沢吉保(やなぎざわよしやす)に仕えたが、宝永6年(1709)44歳の時、吉保の失脚にあい、藩邸を出て日本橋茅場町に住み、私塾を開いた。やがて徂徠派を形成する。享保7年(1722)56歳以後は将軍徳川吉宗に接近して諮問にあずかった。享保13年(1728)に死去、享年63歳。墓所は東京都港区三田の長松寺。
芝増上寺門前
芝増上寺(芝公園4)の東側(芝公園1&2丁目)は増上寺の子院がぎっしりと軒を並べていた所ですが、今は一寺も有りません。そのど真ん中に港区役所が建っているくらいですから。その東側(芝大門1&2丁目)の1丁目(北側)は落語「江島屋騒動」で紹介した芝神明の有るところで、神明前と呼ばれました。 その南側2丁目は片門前町1〜3丁目及び中門前町1〜3丁目がありました。その東側は第一京浜国道(旧東海道)でその両側を濱松町と呼ばれました。その先大名屋敷の向こうには東京湾、いえ、江戸の海が望めました。話を戻して芝増上寺門前とは片門前町と中門前町を合わせた町を呼称しているのでしょう。又はそこにある表門(現存)をくぐる道(所)を大門(だいもん)と言いましたので、その門前だと言ったのかもしれません。
魚濫坂下( ぎょらんざかした。三田4と高輪1の境目の坂)
三田と高輪の境にある坂が魚濫坂、北側で桜田通りとの交差点が魚濫坂下です。魚藍坂の中腹に魚藍観音を安置した寺があるために名づけられた。 坂下にあった薪屋さんに豆腐屋さん夫婦が避難していました。
徂徠の墓所
東京都港区三田4−7の長松寺にあります。(月の岬の麓に存在)。月の岬は、伊皿子坂を東海道の方から登っていくと頂に到着します。その峰は北東から南西に連なった尾根になっています。尾根の部分に道が走っていて、岬のような形状から、土手道とは言わず、綺麗に岬と呼ばれた。ここが、かつて東京湾を一望に見渡せる場所であり、特に夜になると海から上る月がまことに美しく月の名所として名高かった。江戸時代、徳川家康により”月の岬”と称された。ただし江戸時代は大名屋敷や寺社が立ち並び庶民が立ち入ることは出来なかった。したがって庶民が遠望を楽しめるのは、伊皿子(いさらご)坂、潮見坂辺りに限られたと考えられます。
伊皿子坂(いさらござか):明国人・伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりともいう。第一京浜国道の泉岳寺交差点から登って伊皿子交差点まで。その先下り坂を魚濫坂と言い、桜田通りの交差点を魚濫坂下という。
「朝顔に 釣瓶取られて もらい水」 千代
この有名な句を詠んだ井戸がこの近くにあります。
元和7年(1621)に麻布狸穴に開創された薬王寺は、寛文元年(1661)に現在の場所(三田4−8−23)に移転して来ました。俳人加賀千代は、諸国歴遊の途中に薬王寺の井戸水が霊水であるとの噂を耳にし、ここへ立ち寄りました。千代はここで、「朝顔に 釣瓶取られて もらい水」(朝起きて外へ出てみると、井戸の釣瓶に朝顔がからみついて咲いているので、それをちぎって水を汲むには忍びないと思い、そのままにして近所からもらい水をした)と詠みました。その井戸は現在も残っています。
泉岳寺 (港区高輪2−11)
播州赤穂藩・浅野内匠頭公は勅使饗応役を幕府から命ぜられました。その役目の上司が吉良上野介です。浅野内匠頭が接待に関して、吉良上野介に指導を仰いだのですが、種々の嫌がらせを受けたと言われています。それは、武士の立場を著しく傷つける理不尽なものであったため、ついに元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭は江戸城・松の廊下で刃傷に及んだのです。傷は深手ではありましたが命を奪うことは出来ませんでした。これが松の廊下事件と呼ばれるものです。
当時は「喧嘩両成敗」という御定法があったため、浅野・吉良いずれも処罰を受けると思われていたところ、予想に反して赤穂藩は改易,浅野内匠頭は即日切腹。しかも大名という高い位にもかかわらず、庭先での切腹でした。一方の 吉良はお咎めなしとなったのでした。
赤穂藩の武士たちがこの処罰に納得するはずはなく、処罰の撤回と藩の再興を嘆願しましたが容れられませんでした。そして家老・大石内蔵助を頭とした47人の武士が、2年近く後の元禄15年(1702年)12月14日に吉良邸に討ち入り、 本懐を成就したのです。
本懐成就した赤穂義士たちは、亡き主君に報告すべく、内匠頭が眠る泉岳寺へ吉良の首級を掲げながら向かったのです。
義士たちは逃げ隠れすることなく幕府に白分たちの行いを報告し、討ち入りの翌元禄16年(1703年)2月4日に四大名家(細川家・松平家・毛利家・水野家)にて切腹となりました。
この史実である赤穂事件はのちに演劇化され、「忠臣蔵」として今でも多くの日本人の心をつかんで放さないものとなっています。それはこの中に日本人の重んじる「義」や「忠」という精神が貫かれているからなのです。 
 
「忠臣蔵」諸話1

 

1 「役の体系」論と「兵営国家」論
近世日本の社会に関する仮説(理論)の中で、私が最も強く影響を受けているのが、「役の体系」論と「兵営国家」論である。前者は、尾藤正英氏が提示した、人々がそれぞれの職分=役を果たすことによって社会が成立している構造を、中世の「職の体系」に対して「役の体系」と名付けた考え方である。後者は、高木昭作氏が提示した、近世国家全体が非戦闘員を含んだ軍事組織として成立しているという見方である。私にはこの二つの理論が無関係なものだとは思えなかった。尾藤氏のいわゆる「役」は、高木氏のいう「兵営」内における職務に相違ない。拙稿「『職分』としての『武』」は、そのような問題関心から書いたものである。
2 私戦停止と「喧嘩両成敗法」並びに「敵討」
「兵営国家」論は、近世国家成立の過程と整合している。豊臣秀吉の統一事業は、いわゆる「総無事令」によって私戦を停止する、つまり全国の大名を軍事的統制下におくことによって成立していた(藤木久志氏の論考など)。パクス・トクガワナがそれを継承するものであったことは、言うまでもない。そして、その支配の機構(幕府の組織)は「庄屋ジタテ」という表現から知られるとおり、三河の国人領主であった時からの連続性をもつ、戦国大名の組織を拡大したものだったのである。戦国時代には、それ以前に比較すれば組織的に戦うことが求められるようになっていたため、戦国大名が自らの軍団の規律を維持する必要性が高まった。特に同士討ちを防ぐために私闘の禁止が不可欠であり、そのために「喧嘩両成敗」が法規範として定着していく。つまり、「喧嘩両成敗法」は「総無事令」と同じ私戦停止法だったのである。その意味で、「喧嘩両成敗法」=私戦停止法は幕藩制の根幹に関わるものだったのであり、成文法として存在しないにもかかわらず「天下の大法」と認識されたのは故のないことでない。
ただし、兵営国家を維持するためには、戦闘者たる武士の気概・矜持を必要とした。この観点からすれば、例えば親の敵を眼前にしながらこれを見逃しにするような武士は戦闘者としての資質に欠けるものだ、という感覚を肯定しなければならない。私闘を放置すれば軍団の秩序は維持できない。私闘を否定すれば、軍団の士気は維持できない。「喧嘩両成敗法」と「敵討」はこの兵営国家を継続させるために、どうしても必要な装置なのである。通常はこの間の矛盾は意識されない。喧嘩の当事者AがBを殺害して逃走したために、Bの関係者bがAを捜し出して討つという、典型的な「敵討」の場合には、警察制度の不備は指摘できるとしても、「喧嘩両成敗法」を否定することにはならない。むしろ「敵討」によって「喧嘩両成敗法」の実効を挙げるという、補完的な役割を果たしたものと見なすことができる訳である。
しかしながら、「喧嘩両成敗法」またはその根底にある私戦停止は、私闘である「敵討」との間に、矛盾を潜在させている。赤穂事件は、この矛盾を顕在化させたということができるであろう。
3 赤穂事件の性格
赤穂事件の発端である浅野長矩刃傷事件の動機は、いまなお不明である。しかしながら、動機自体の詮索をそれほど重視する必要はなく、元禄時代人がこれを「喧嘩」ととらえたことの方がより重要と考えられる(尾藤正英『元禄時代』)。この「喧嘩」については、ある事情(幕府の「片落」裁定)のために「喧嘩両成敗法」が実現できなかった。浅野家遺臣が「敵討」によってこれを補完したのは、如上の幕藩兵営国家の構成原理に則った行動である。その意味では、主観的にも客観的にも、大石らの行動は反体制的ではない。しかし、この行動は、一面で幕府の「片落」裁定に対する批判行動という側面をもつ。そのうえ、隠居とはいえ上級旗本(直参)を牢人となった陪臣が殺害するという事態は、軍団の規律維持のために認められるものではない。この点、赤穂事件は類例を見ない特殊なものであるので、他の事件(例えば「浄瑠璃坂の仇討」)と比較して論ずることにあまり意味はない。
大石らの行動を是認すれば、私闘禁止の兵営国家秩序に傷が付く。全否定すれば、戦闘者たる武士の誇りと気概を失わせる。幕府が四十六士に対して「切腹」という名誉を重んじた死刑形式を採用したのは、まずまずの“落とし所”だったと言えよう。しかし、問題は根本的に解決された訳ではない。
4 儒者の関心と作られた「物語」
「文」を重んじる儒学者にとって、兵営国家は必ずしも居心地の良い場所ではなかった。それは儒者が“文弱”であるという意味でない。儒者中では最も軍事に関心を持っていた荻生徂徠 (山鹿素行は儒学に関心をもつ兵学者だと考える)が、兵営国家を批判して「制度」を立てる必要を説いていた(『答問書』)のは、その現れである。徂徠とその政治論の後継者・太宰春台が四十六士批判の先鋒に立ったのは偶然ではない。ここに兵営国家の矛盾点が見えたからである。これに対して、兵営国家の現実と儒教的徳治論の予定調和を信じているのが、室鳩巣に代表される朱子学者であった(もちろん、すべての「朱子学者」が同じ意見だった訳ではない)。ただし、この立場でも兵営国家をそのままでは肯定できない訳で、兵営国家が儒教的世界観に合致することを証明する必要があった。『赤穂義人録』はその目的性をもった述作である。浅野家牢人の行動を儒教的な「義」と見なすことによって、鳩巣はこの課題を果たした。この名著により、この事件を忠義な家臣の物語と解釈する立場は完成されたのである。
大石らが「忠義」でなかった訳ではない。しかし、それだけで括れない部分は、この「物語」の中から欠落していく。鳩巣が意識的に虚偽を述べた訳ではない。しかし、彼は自分の理想を大石に投影し、記録にあらわれない部分に虚構を加えていく。その結果できあがった「物語」的大石像が、武士のひとつの理想型として幕末まで(現代までというべきか)生き続けることになる。現実の浅野家旧臣は、江戸時代前半の武士の行動規範に則って行動した。儒教的に解釈された赤穂義士は、江戸時代後半の武士の行動規範を示すものとなった。もとより両者は全く別な存在ではない。その間にあるズレはたぶんそれほど大きなものではないのだろうが、近世の武士のありようを考える上での問題としては決して小さくはないように思われる。
5 軍忠状と軍人勅諭の間に
モノノフとは得物をとって“戦う人間”のことであり、サムライとは貴人の近くに伺候して“仕える人間”のことである。戦闘者と奉仕者という二つの性格は、武士の全歴史を通じてつきまとっている。しかし、その意味合いに変化はあるだろう。中世の文書に「軍忠状」と呼ばれる物がある。この場合、「忠」とは戦功と同義である。精神的な意味での忠誠をさほど重視しない、ある種の功利主義を見ることができる。単純にいえば、戦闘者の立場が優先されているのである。明治の軍人勅諭で最も重視されたのが「忠節」だった。近代国民軍の精神的紐帯としては愛国心が求められそうなものであるが、国民意識が十分に成熟していなかったためもあって、主従制の原理が軍隊の規律を維持するために用いられた。ここでは、戦って手柄を立てることよりも、むしろ精神的な服従が重視された。これまた単純にいえば、武士ではない軍人ですら、奉仕者の立場が優先されたということになろう。
中世の軍忠状と近代の軍人勅諭の間に、価値の逆転現象が起こっている。その逆転現象が起こったのが近世である。『葉隠』について、「武士道」(戦闘者の立場)と「奉公」(奉仕者の立場)の2つの系列が指摘されている(相良亨氏)のは、両者の均衡関係を示しているだろう。山本常朝と同時代を生きた大石内蔵助ら赤穂藩士にも、同様の均衡があったことが想定できる。「物語」の赤穂義士について、後者への傾斜が見られるとすれば、その「物語」が作られていく過程は、価値意識の変化のひとつのモデルケースたりうるのではなかろうか。
6 赤穂事件研究の意義
もちろん、以上のことは十分に論証されたものではない。ただ、赤穂事件自体の史実の確認と、「物語」が作られていく過程とを検証する作業には、このような問題を考察していくのに連なる意義が認められるのではないか、ということを述べたかったのである。
第一に、この事件は「喧嘩両成敗法」と「敵討」という、兵営国家を構成する二つの装置の関わり合いを事実に即して検討するための、格好の材料である。
第二に、これを「物語」と比較することによって、武士のあるべき姿(理想像)の変化を知ることができるだろう。
そして第三に、その変化のあとは、近代日本のあるべき臣民像がどのように作られていったかを、巨視的に考えるための手がかりを提供してくれるはずである。
赤穂事件の研究は、単にテレビドラマや映画を楽しむための好事家の仕事ではなく(という意味は、決して好事家を軽視する趣旨ではない)、近世の国家構造や、近代ミリタリズムの思考法の探求にもつながるものだと考えたい。  
 
「忠臣蔵」諸話2

 

旧暦の12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日です。
赤穂浪士の討ち入りとはどういう事件かというと。
江戸時代、徳川綱吉という人がいました。征夷大将軍という、今の総理大臣に当たる人です。毎年お正月には、天皇陛下の御使いである勅使をお迎えするという儀式があります。その接待役が浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)という大名でした。今で言えば、従業員二百人くらいの会社の社長兼赤穂市選出国会議員です。その時の儀式は、綱吉にとって身分の低かった母親に位を授けてもらおうというこれでもかという下心があったので、それはそれはいつもにもまして大事な儀式でした。ところが、接待役の浅野内匠頭が何を血迷ったか、接待役を指導する係の吉良上野介という人に斬りかかりました。この吉良という61歳の御老人、不意を突かれたので無抵抗でした。原因は本当のところはまったくわかっていません。吉良さん、本当に身に覚えがないそうです。よく、吉良さんが意地悪したという噂があるのですが、ありえません。考えてみましょう。いつもにもまして重要な儀式です。将軍の機嫌を損ねたら何をされるかわかりません。意地悪などして儀式で粗相があったら、自分の責任になってしまうので、絶対に意地悪をしないどころか、いつにもましてピリピリしていたのが真相です。
で、この浅野という若者、性格最悪で、癲癇気質の、キレやすい若者だったようです。そもそも、武士のくせに刀を「振り回して斬りつける」というのがなっていないというか、それが頭おかしかった証拠では?と言われるくらいで。本気で殺すつもりなら、突け!ということです。
要するに24歳のバカ殿が何かの拍子にキレて起こした殺人未遂事件です。で、内匠頭は切腹。(当たり前だ)吉良はお咎めなし。(当たり前だ)この時「武士を畳の上ではなく、庭先で切腹させるのは屈辱だぁ」とよく言われるのですが、討ち首じゃなくて切腹の名誉を与えられただけでもありがたい訳で。
もちろん浅野家はお取り潰し。200人の従業員、じゃなかった、家臣団は路頭に迷う羽目に。で、普通は再就職先を求めて就活を行うのですが、47人くらいあきらめきれない人たちがいたのですね。この人たちを赤穂浪士と言います。「赤穂藩の元正社員で今は無職の人」という意味です。というか、マトモな就職活動をするよりも「世間をあっと言わせて、イイ所に再就職しよう」みたいな一発屋根性丸出しの話になったのです。
で、一年半もネチネチと計画を練りに練って、本当に吉良邸に押し入ってしまいました。まさか平和な時代にそんなことをされるとは思っていない吉良家はほぼ無抵抗。あわれ、これまた無抵抗の吉良老人は首をはねられてしまいました。よく、吉良側が必死の防衛策を用意していたとか言われるのですが、本気でそんなこと考えているなら、愛知県の領地に帰っていればよい訳で。自分を殺しに来る奴がいるとは本気で思っていないから、ノコノコと江戸で隠居生活をしているのです。
そこで、大石内蔵助以下赤穂浪士一同、主君の墓がある浅草の泉岳寺までデモンストレーションの行進。これで江戸庶民は「この平和ボケの時代に偉いねえ」などとほめそやし、「この時代に主君の恩義を忘れないとは見上げたものだ。武士の鑑だ」「そこまで思わせた浅野という殿様は偉い人だったに違いない」「その浅野さんをキレさせた吉良というのは相当悪い奴に違いない」と、ドンドン話は変な方向にねじ曲がり、結構いいところの諸大名家から「是非、我が藩に来てください!」などとお呼びがかかりました。
で、最終的な決断は綱吉が下さなければならないのですが、あんまりにも話が広がりすぎてどうしようもなくなります。議論は百家争鳴で、「武士の鑑だ!とりあえずアゲとく」「本気で仇討をするなら、吉良の首をあげたら、その場で切腹しろよ」「いや、御公儀(幕府=綱吉のこと)の非を訴えたかったのです。デモで世の中は変るんです。署名もお願いします」「さすがに将軍のおひざ元で騒ぎを起こしたらまずいだろ」「吉良じゃなくて、白川とか羽毛田とか、もっと悪い奴ら他にいるだろう」とか、収拾がつかなくなります。
で、綱吉は家臣たちに「お前らはどっちだ。参考にするから全員、意見を署名入りでこの箱の中に入れるように」とかやり出します。本気で参考にしようと思っていたのは、柳沢吉保ただ一人なのですが、その吉保の意見は「上様の御意のままに!」見事に丸投げされ返されました。
そこで綱吉は、二人の学者に御前ディベートをさせます。綱吉自身も学者だったので、「モメゴトは公開討論で決着をつけよう」というフランスなど文明国共通の方法を持ち出したのですね。日本の学者でこれをやったのは吉野作造と、あと誰だ???ですが。
御前討論の一人は東大総長兼法学部長の林鳳岡(一生勝ち組)。もう一人は、やたらと政界にコネがあった私大講師の荻生徂徠(年収五百万円、後に失業)。
林さん、思いっきり時流便乗の立論。「彼らは武士の鑑です。だから、上様が無罪にしてあげることで徳を示すことになるんです」綱吉、、、うーん。それは法を曲げることになるし、自分の失敗を認めることだし…。
それに徂徠先生の反論。「彼らは武士の鑑である。だから切腹の名誉を与えるべきである!」相手の持ちだした根拠を逆用した反論を、「たーんあらうんど」と言います。ディベートの基本技です。毛沢東の得意技でもありました。かくして、一件落着。
三河人の歴史観だとこうなります。愛知県東半分の人たち、忠臣蔵と長篠の戦に関して、日本で最も正しい歴史観を持っていると思うの、私だけ? 
 
「忠臣蔵」諸話3

 

どんな時代の中で起きたことだったのか。今もまたぞろ、大晦日のテレビが「忠臣蔵」を予告しています。まるで、日本人たるもの、忘れてはならない必見の物語、魂を覚醒させる物語として。かくまでして、毎年毎年繰り返して説き聞かされる「忠臣蔵」とは何なのでしょうか。
「忠臣蔵」とは、下世話なものいいをすれば、頭に血が上った殿様が思考停止の末に一族郎党を路頭に迷わせたがために生まれた物語。放り出された浅野家の侍は、浪士となっても殿様の敵を討ち、「武士の鑑」として未だに語り継がれている復讐譚。この復讐譚は、手を替え品を替え、飽きもせず毎年登場し、日本という国に鋳込まれた記憶として、日本国民の遺伝子とは何かを問いかけているようです。「忠臣蔵」に込められた復讐心の遺伝子こそが日本の国民精神の器を形つくっているのかもしれません。「復讐するは我にあり」との思いこそは民族の心といえば、毎年語り聞かされる「忠臣蔵」によせる思いに託された心のありかも読めるかもしれません。「美しい国」日本の原器はこの復讐譚にありとすれば、日本人たるものの「誇り」の根が見えてくるのではないでしょうか。逆になんとも貧相な「品格」よとみれば、そもなんとも悩ましいのが「忠臣蔵」をめぐる世界といえましょう。
そも「忠臣蔵」をこのように説いたら、腹立たしく思う人もありましょう。そこはそれ、「忠臣蔵」として語られることになる物語が生まれてきた事件を整理し、事件に託されて語り継がれてきた世界をたどることで、己が場を歴史に確かめる作業をすることとします。
18世紀第一年目の事件
1701年、元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で、播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家筆頭の三河吉良の領主吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に刃傷に及ぶ事件がおこりました。時に東山天皇の勅使と霊元上皇の院使を城中に迎える日の出来事だけに、接待役にもかかわらず事件をおこした浅野長矩は、即日切腹、家断絶、城明け渡し、領地没収の処分を受けますが、接待の最高責任者吉良義央にはなんの咎めもありませんでした。翌元禄15年12月14日夜から15日朝にかけ、主人を失い、城を明け渡した浅野の浪人たちが、元家老大石内蔵良雄(おおいしくらのすけよしたか)の指揮の下で吉良邸に乱入、上野介義央の首をとり、東京芝高輪の泉岳寺にある浅野長矩の墓地に持参しました。
18世紀冒頭、赤穂浪士が世間を騒がせたころのヨーロッパでは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルド一世(1640年−1705)がオーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王として君臨、オスマン帝国の第2次ウィーン包囲を撃退、1699年ハンガリー王国を奪回し、大国復興への足がかかりを築き、ウィーンが華の都として発展していく時代です。徳川の平和の御世を騒がせた「忠臣蔵」と呼ばれ花のお江戸の物語を遠きウィーンの宮廷にやがてモーツアルトが登場してくる世界と重ねて想像力の翼を飛ばして、時間を旅してみても面白いのでは。そのためにも事件がどのように語られたかをみておきましょう。
浪士たちの処分
この殿中刃傷事件は、吉良邸襲撃で幕を閉じ、「赤穂事件」「赤穂一件」「赤穂浪人復仇事件」「赤穂義士復讐」なる名称で呼ばれ、物語化されて「忠臣蔵」となったのです。なぜ浅野が刃傷に及んだのかは、憶測されはするものの、不明です。時は徳川五代将軍綱吉の御世、元禄文化の花開いた法と儀礼の「文治世治」が展開し、徳川の平和が制度化していく時代のこと。そうした時代の刃傷事件。将軍綱吉は、朱子学を講ずるほどの学問好きで、朝廷からの勅使を迎えた場での事件だけに、喧嘩両成敗の慣例を無視して浅野を厳しく処断し、吉良には見舞いをさしむけました。しかし赤穂の遺臣の復讐劇には感激したようで、「義士」としての助命論を期待します。
赤穂浪士の処分は、林大学頭鳳岡(はやしだいがくのかみほうこう)が武士の鑑として助命論を説いたのに対し、古学の荻生徂徠が「義士」として切腹させるべきとの法治の判決を主張します。かくて元禄16年2月に浪士たちには切腹が申し渡されました。遺骸は、泉岳寺に送られ、浅野の墓の周囲に葬られました。その戒名にはすべて「刃」と「剣」が付けられています。
ちなみに指導者大石良雄は「忠誠院刃空浄剣居士」、元京都留守居番の小野寺十内秀和は「刃以串剣信士」等々。ここには、自然な心ばえによる治世の代が終り、法にもとずく作為によって良き治世を目指すべき時代が来たことがうかがえます。幕府の統治イデオロギーの変化を物語る事件が赤穂一件にほかなりません。
事件の背景といわれるもの
なぜに刃傷におよんだかはよくわかりません。
その一は、武家の儀礼を担当する高家筆頭の吉良に浅野が指導料を十分に届けなかった、賄賂をしないが故に恥をかかされたことへの遺恨。
その二が、三河吉良の塩が上質な赤穂の塩に市場で敗れたために、吉良から何かと浅野が疎んじられたことへの遺恨、等々。
強欲吉良に対して、浅野は清廉な武士の典型という構図で物語りが語られていきます。ここには時代が期待した武士の規範への幻想が託されているようです。ちなみに吉良の殿様は、矢作川に黄金堤を築いて治水につとめるなど、領内の民政に心をつくした人物で、領民から慕われていました。そのため三河吉良の地では、「忠臣蔵」を上演する旅芝居がかかることがありませんでした。尾崎士郎の『人生劇場』はそんな吉良の人情を描いています。日本全国が「忠臣蔵」一色に塗りつぶされるなかで、三河の地には己が郷党への密かな誇りが貫かれていたのです。
世人は、吉良領民の悲愁に目を向けることなく、赤穂浪士の吉良邸討ち入り、復讐劇を期待していたいふしがあります。ちなみに浅野の城地没収、家名断絶で赤穂の家臣が浪々の身となり、故地を離れていく状況を「大石の蔵とはかねて聞きしかど よくよくみればきらず蔵かな」との落首が人の口にのぼったように、泰平の代を破る、なにかことあれかしとの期待が世間にはありました。その思いを討ち入りは果たしてくれたわけです。いわば浅野内匠頭刃傷事件は、吉良邸討ち入りとなり、浪士たちの切腹、吉良家の領地没収、浪士の遺児への処分で一件落着。しかし浪士は、「平和」の御世に封印された閉塞感を打開したいという世人の見果てぬ夢が託され、「義士」と呼ばれ、その行動をめでられたのです。室鳩巣は、『赤穂義人録』を前田家に献上し、事件の経過を描き、浪士の行動とその志を賛美し、巻二で浪士個人の伝記を述べ、後の義士銘銘伝への道をひらきました。
いわば赤穂浪士の事件は、武士が戦士であることを忘却し、「士道」に名分に官僚として己が身を律していかねばならなくなった過渡期の時代に、戦士たる本分を世に問いかけた出来事にほかなりません。事件によせる反応は、統治を乱す騒擾との思いがある一方、いまだ確立していない「士道」のイデオロギーを体現した一典型をめぐる思惑が生めるものでした。それがために儒者は侃侃諤諤と己の場を論じたといえましょう。まさに徳川統治の転換を代弁したところに、「忠臣蔵」とよばれることとなる赤穂浪士の復讐譚があります。それだけに物語は、年の暮れに想起され、己が人生行路と重ねて総括する営みに時代の気分を託し、「日本人」たる我を発見する場とみなされたのだといえましょう。
「忠臣蔵」という物語は、時代を生きる者にとり、世に入れられぬ己の見果てぬ夢、生きて在る己の存在を登場人物の誰かに仮託することで、報われぬ日々の営みを癒す世界だったのではないでしょうか。
閑話休題
乃木希典も赤穂浪士に武士道の姿を想いみた一人だけに、このことにこだわっています。しかし「義士」論では正面から殿を問い質すものがありません。「義士」を時代社会にどのように位置づけるかというイデオロギーの問題であり、赤穂の浪士を非とすること憚る風潮が明治の御世以後の世間の気分となっていたといえましょう。さて、その論争はいかに。「忠臣蔵」美談ともいうべき記憶はどのようにして日本国民に刷り込まれたのでしょうか。
「義士」をめぐる論争
浪士を義士と賞賛する声は、伊藤東涯が『義士行』の長詩で、浅海綗斎(けいさい) が「四十六人の輩、忠義の大要はまぎるる事なし」と『赤穂四十六士論』で主張しました。水戸徳川家の彰考館の学者は浪士を支持し、三宅観瀾(かんらん)は『烈士報讐録』で顕彰します。
その一方、荻生徂徠は『赤穂四十六士論』『徂徠擬律書(そらいぎりつしょ)』で「義央、長矩を殺さんとせしに非ず。君の仇と言うべからざるなり」としたうえで、「主人のために讎をほうじたのは侍たる者の恥をしっており、己を潔くする道にして、其事は義であるとはいえ、其党に限る事なれば、畢竟は私の論」「私論を以て公論を害せば、此以後、天下の法は立べからず」と論じ、弟子の太宰春台は『赤穂四十六士論』で、「吉良は赤穂の仇なのか」と問い、「仇にあらざるを仇とす。妬婦の情に類せずや」と批判しています。佐藤直方も『復讐論』で吉良が仇ではないと論じています。当代の儒者は、事件を前にして、己の学問を問われたといえましょう。
まさに事件は、武断政治から法と礼を規範とする文治政治がもたらした徳川の平和に棹をさすものだけに、「戦士」たる者の志を武士の代の規範にどのように位置づけるかが問われたのです。世間は、戦国の余風が治まった天下泰平の世で、戦国の余燼を見る想いにたじろぎ、多くの武士が事件で死に、切腹したことに驚きました。しかも「平和」な当世に主君の仇を討った戦士が登場したとなると、世に説かれる武士の道義、士道を眼前に見る想いを地でいった物語として好奇心をつのらせました。ここに物語は、当世風にいえば事件記者的な好奇心がテレビの話題となるように、きわもの嗜好よろしく歌舞伎や浄瑠璃の舞台を彩ります。
また外国人の眼は、元禄16(1703)年、浪士切腹の年に入貢したオランダ商館長ハルデナントス・デ・ゴロウトの見聞をもとに、日本の君臣間の「忠誠の鏡」と紹介しております。「忠誠」の物語との思いは、第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの親日感情となり、日露講和の仲介者に成さしめました。その意味では、「騎士道」につらなるものとして、「忠臣蔵」に日本武士道の幻想を読みとり、ある日本像が造型されたのだといえましょう。それは新渡戸稲造の『武士道』を受けとめた下地ともなります。
上演された物語
1703(元禄16)年2月、浪士切腹後の16日から、曽我兄弟の仇討ちに仮託した「曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)」が江戸の中村座で上演されたものの、3日で禁止されました。そのため、この事件を題材としたのは、事件から4年後の1706(宝永3)年、浄瑠璃「碁盤太平記」を待たねばなりません。太平記に仮託した事件の語りはここにはじまります。舞台をささえた大衆の気分は、儒者の議論にかかわりなく、浪士は義士、忠臣であり、善玉として描かれています。これが「義士伝」「忠臣蔵」の基本形となります。
そして討入りから47年目の1748(寛延元)年に「仮名手本忠臣蔵」の上演。それは、討入り後に姿を消し、生き残った47人目の「志士」とも称されることとなる寺坂吉右衛門が死んだ翌年のことです。ちなみに、寺坂は大石が討入り成功後に逃がし、成功の報を芸州浅野家など伝える旅に出したといわれています。この行為は、寺坂に赤穂の浪士の吉良討ちの行為にこめた意図を広く天下に喧伝し、徳川の御政道を質そうとした大石良雄の遠大なる謀という「神話」となります。 「仮名手本忠臣蔵」こそは、いろは47文字にあて、四十七士を描き、現在にいたるまで上演され続けています。
かくて「忠臣蔵」が一人歩きをし、「義士」像には時代の思いが託され、さまざまな「忠臣蔵」が文学作品や映画となり、TVドラマとして、年の瀬の話題となり、世間の注目を集めております。
小説、映画、テレビのなかで
「忠臣蔵」なる名称に仮託された忠義の物語は、武士道鼓吹の尖兵として、軍国日本の魂の物語、日本精神の精華として時代の装飾に彩られて語られてきました。この位置づけは、江戸に行幸した明治天皇が1868(明治元)年11月5日に勅使を泉岳寺に差遣して勅旨を述べ、金幣をとどけたなかに近代日本の精神のありかを読み取れます。まさに天皇は、維新政府に始まる日本国家は、赤穂の浪士の行為を「義挙」とする論功行賞を行い、「仮名手本忠臣蔵」に呼応した民の心に寄り添うことで国家の精神の造形をはじめたといえましょう。かくて浪士の復讐譚は、「忠臣蔵」となり、己が主君に報いる精神の物語として唱和されたのです。その歌は、世間に認められず世に入れられぬ敗者の美学を奏でるものとして裏声でうたわれる世界でもありました。
忠臣武士道の世界は、日露戦争後の忠君愛国熱を背に武士道節で一世を風靡した桃中軒雲右衛門の浪花節が忠臣蔵で人気を博しました。義士の事績は、福本日南の『元禄快挙録』(1909年)が「義士」像の決定版として、世間の評判を呼びました。義士の切腹は武士道の精華とされ、日本人の腹切りとして世界に喧伝されます。しかし赤穂浪士の切腹図は皆苦痛で顔をゆがめています。士道を体現し見事などといえるものではありません。ここに浪士たる生身の人間の姿があります。
こうした生身の人間を現在の物語にしたのは、「義士」像にひそかに異議を唱え、義士ではなく浪士としての大石一党を描いた大仏次郎『赤穂浪士』(1927年)です。この作品は、後にNHK大河ドラマ「赤穂浪士」として街の話題を呼びましたが、昭和初頭の不安な世相を背景に失業武士たる赤穂の浪士の吉良邸討入りにいたるドラマが描かれています。
ついで船橋聖一『新忠臣蔵』(1957-61年)は大河ドラマ「元禄繚乱」の原作ですが、昭和元禄の気分になぞり復讐譚にみられる人間模様が権力をめぐるドラマとなっています。最近のものでは、池宮彰一郎『四十七人の刺客』(1992年)、ついで『最後の忠臣蔵』、改題『四十七人目の刺客』(1997年)等々がありますが、各作品には時代の空気が投影されており、大石良雄ら赤穂の浪士に託した現在を生きる作者の思いが描かれています。
このような目で作品にふれ、「義士」なる世界を問い質したとき、日本と日本人が「忠臣蔵」なる物語に寄せねばならなかった哀しき自画像が見えてくるのではないでしょうか。 
 
萱野三平重実 (かやのさんぺいしげさね)

 

主君への忠義の心と、家族への恩義の心、どちらも捨てることができず自らの命を絶った誠実な男。刃傷事件の発生を赤穂に伝える大事な役目をはたした。
三平は、仕事で江戸城へきていた浅野内匠頭にお供して江戸城にいた。そんなとき、刃傷事件が発生。この一大事を少しでも早く赤穂にいる筆頭家老の大石内蔵助に伝えるため、早水藤左衛門と一緒に早駕籠(はやかご)にのって赤穂に向かった。
江戸から赤穂への道のりの途中には三平の実家がある村があった。そこを通りかかったとき、偶然にも三平のお母さんのお葬式を見かけたが、いまは少しでも早く赤穂に行かなければと思い、手を合わせて祈りをささげただけで、赤穂へ急いだ。
赤穂に到着した三平と藤左衛門は、内蔵助の屋敷のほど近くにある井戸で水を飲み、息を整えてから事件の第一報を伝えた。このときに、2人が立ち寄った井戸は、息継ぎ井戸としていまでも赤穂に残っている。
赤穂城が開城になったあと、三平は実家に戻ってお母さんの供養をした。その後、内蔵助や大高源五、小野寺十内などに会い、主君のかたきとして吉良上野介を討つ仲間に加わった。しかし、その仇討ち計画に三平の父が気づいてしまう。父は別の家の家老であったので、もし三平が仇討ちをしたとなれば、父の主君にも迷惑がかかることが考えられた。父は三平に「家に戻ってこい」と伝えた。三平は父や兄を簡単に裏切ることもできない。もし裏切ってこのまま仇討ち計画に参加していると兄が幕府に計画をばらすかもしれない。そうすれば同志に迷惑がかかる。だからといって、主君 内匠頭への忠義もあるうえ、仇討ち計画から抜けることもできない。など、どうしていいか思い悩んだ。主君への忠義、父や兄への孝や恩、そのなかのどれを選ぶかになったとき、三平が選んだのは、自ら命を絶つことだった。
辞世の句 (享年28歳 元禄15年1月14日、自殺)
晴れゆくや 日頃心の 花曇り 
 
赤穂四十六士の切腹と遺子の処罰

 

仙石伯耆守の称賛と分散収監が決まる
四十六士の生別 仙石伯耆守から細川家にお預けの十七人に対し、討入りの様子につきお訊ねがあったと原惣右衛門の「討入り実況報告書」にある。義挙に感激した仙石伯耆守が浪士から討入りの様子を直接聞きたかったのが真で、講談の「十八ヶ条の申し開き」は史実と異なる。
幕府の動向
○ 仙石伯耆守へ自訴した吉田忠左衛門と富森助右衛門より事情聴取。
○ 井上万右衛門が「調書」を作成して仙石伯耆守は月番老中稲葉丹後守へ報告して登城。
○ 老中、若年寄、伯耆守で閣僚会議を開き四大名家へのお預けと処分は後日と決める。
○ 四大名家への分散収監が決まり四十六士は仙石邸で生別することになる。
学者の意見と将軍綱吉の決断
綱吉の決断で切腹が決まる 幕閣や世論は浪士賛美と同情無罪論の中、学者の意見は二つに分かれる。
○ 浪士賛美(同情無罪論) 林鳳岡(ほうこう)、室鳩巣、三宅観蘭など。
○ 法政論(有罪処罰論) 荻生徂来、太宰春台、佐藤直方(忠義と法律違反は厳格に区別すべき)
綱吉の決断
湯島に聖堂をおこし、自ら忠孝を説いた綱吉だが、天下の大法を破ったことには躊躇せざるをえず、民意か法律かで悩んだ末、一月二十日過ぎに「切腹申しつけよ」と断を下した。
親類書の提出
切腹の前ぶれ 一月二十二日お預けの四家の留守居役を招き、老中稲葉丹後守からお預け人の「親類書」を提出するよう命じている。親類書は当時の慣例として切腹の前触れであったから、四十六人は勿論、四家でも近く切腹の申し渡しがあると推察した。この資料により正確な戸籍等が分かり、貴重な史料となっている。 
名誉の切腹か斬罪か
細やかな配慮
幕府は苦心の末、名誉の切腹の形を取りながら、三宝を通常以上に離して置き半身屈める処を打ち首にした。士礼と斬罪との紙一重のやり方だったとされる。
細川家
○ 藩主細川越中守綱利(肥後熊本城主五十四万石)、生没寛永二十年(1641)〜正徳四年(1712)七十二歳。義を重んずる家風であり加えて大藩でもあったので浪士の扱いも一番優れていた。落首で「細川の水(水野)の流れは清けれど只大海(甲斐)の沖(隠岐)ぞ濁れる」とあり細川と水野の浪士に対する厚遇を讃えている。
○ 世話役堀内伝右衛門五十八歳で二百五十石。忠誠篤実な人物で「堀内覚書」を残し、十七人の詳細(人物、性向や伝言の取り次ぎや切腹時の遺言などを)書き留め、義士研究の第一級の史料となっている。
○ 浪士引き取り家老の三宅藤兵衛他八百七十余人が仙石邸に向かい引き取る十二月十六日午前二時頃に到着し、直後に藩主自ら面会して「いずれも忠義の至り感心である。まことに天命に応ったことだと思う」とねぎらいの言葉を与えている。
○ 切腹細川家では十七人の居間には生け花が飾られ最後の料理と風呂もたてられ、浅黄無垢の麻裃、黒羽二重の小袖などが渡された。八ツ刻(午後二時頃)上使荒木・久永が到着し切腹を申し渡す。
○ 切腹命令書「浅野内匠儀、勅使御馳走之御用被仰付置、其上時節柄殿中を不憚不届之仕形ニ付御仕置被仰付、吉良上野儀無御構被差置候処、主人あたを報候と申立、内匠家来四十六人致徒党、上野宅江押込、道具抔持参、上野を討候儀始末公儀を不恐候段重々不届候、依之切腹申付者也 未二月四日」(註)四家とも大体同じ内容でした。
○ 切腹の時間十七人の切腹は午後四時にはじまり午後六時頃に終わる。首実検は最初の二人だけであとは省略され、1時間50分で終えており、所要時間は1人5、6分になる。
○ 葬送の様子切腹後死骸は桶に入れ、一人ずつ乗り物に乗せて、籠提灯一対、小姓一人、足軽四人ずつを配し、前後を騎馬で固めて泉岳寺へ送った。
細川家(17名) 数字は切腹順 歳は享年 括弧内介錯人
上の間 九名 / 01 大石内蔵助45歳 (馬場一平) 06 小野寺十内61歳 (横井儀左衛門) 02 吉田忠左衛門64歳 (富森清太夫) 07 間喜兵衛69歳 (栗屋平右衛門) 03 原惣右衛門56歳 (増田定右衛門) 09 掘部弥兵衛77歳 (米良市右衛門) 04 片岡源五右衛門37歳 (二宮新右衛門) 12 早水藤左衛門42歳 (魚住藤右衛門) 05 間瀬久太夫63歳 (本庄喜助) *
下の間 八名 / 08 礒貝十郎左衛門25歳 (吉田五左衛門) 14 赤埴源蔵35歳 (中村角太夫) 10 富森助右衛門34歳 (氏家平七) 15 奥田孫太夫57歳 (藤沢長右衛門) 11 潮田又之丞35歳 (一宮源四郎) 16 矢田五郎右衛門29歳 (竹田平太夫) 13 近松勘六34歳 (横山作之丞) 17 大石瀬左衛門27歳 (吉田孫四郎) 松平家 切腹は一人六分
○ 藩主松平隠岐守定直(伊予松山城主十五万石)、生没万治三年(1660)一月十九日〜享保五年(1720)十月二十五日六十一歳。
○ 世話役波賀清太夫朝栄(ともひさ)歩行目付で剣客、気骨のある接待役。大石主税の介錯人をつとめ、お勤め中に聞き書きした「波賀朝栄聞書」は第一級の研究史料。
○ 切腹十名の切腹は午後五時に始まり午後六時頃に終わる。介錯人は浪士二人に一人。
○ 切腹の時間約1時間で1人あたり6分の所要時間になる。
松平家(10名) 
数字は切腹順 歳は享年 括弧内介錯人
01 大石主税16歳 (波賀清太夫) 06 千馬三郎兵衛51歳 (波賀清太夫) 02 堀部安兵衛34歳 (荒川十太夫) 07 不破数右衛門34歳 (荒木十太夫) 03 貝賀弥左衛門54歳 (大島半平) 08 中村勘助48歳 (大島半平) 04 菅谷半之丞44歳 (加藤分左衛門) 09 岡野金右衛門24歳 (加藤分左衛門) 05 木村岡右衛門46歳 (宮原久太夫) 10 大高源五32歳 (宮原久太夫)
毛利家
○ 藩主毛利甲斐守綱元(第三代藩主,長門長府藩五万石),生没慶安三年(1651)十二月二十三日〜宝永六年(1709)三月一日享年六十歳。
○ 藩主の接見十二月二十九日に接見する。食事は二汁五菜、昼お菓子、お酒、火鉢も入れ「太平記」などの読み物を読むことが出来た。
○ 切腹切腹刀の代わりに扇を紙に包んだものを十本用意したいわゆる「扇子腹を切らす」つもりでいたが幕府目付に否定され急遽、小脇差しに取り替えられた経緯があり、介錯人は浪士二人に一人で行われた。
○ 切腹の時間午後三時過ぎに始まり午後四時過ぎに終わる。1人あたりの所要時間は6分になる。
毛利家(10名) 数字は切腹順 歳は享年 括弧内介錯人
01 勝田新左衛門24歳 (鵜飼惣右衛門) 06 吉田沢右衛門29歳 (鵜飼惣右衛門) 02 村松着兵衛62歳 (江波清吉) 07 小野寺幸右衛門28歳 (江波清吉) 03 武林唯七32歳 (榊正右衛門) 08 前原伊助40歳 (榊正右衛門) 04 倉橋伝助34歳 (田上五左衛門) 09 間新六24歳 (田上五右衛門) 05 杉野十平次28歳 (進藤猪右衛門) 10 岡島八十右衛門38歳 (進藤猪右衛門)
水野家
○ 藩主水野監物忠之(第四代藩主、三河岡崎藩、五万石後六万石)、生没寛文九年(1669)六月七日〜享保十六年(1731)三月十七日享年六十三歳。
○ 待遇大書院を屏風で仕切って預かるように準備するも、身分の軽い者だからと外の戸障子などを釘付けにした長屋に収監される。後に待遇が改善され三田の中屋敷に移し二汁五菜に改め正月には雑煮も出て祝うことが出来た。
○ 切腹切腹刀は刀身を板で両方から挟み布で包んで切っ先を五分、出した小脇差しであった。午後四時に始まり午後五時丁度に終わる。
○ 切腹の時間約1時間で1人あたりの所要時間は6分になる。
水野家(9名) 数字は切腹順 歳は享年 括弧内介錯人
01 間十次郎26歳 (青山武助) 06 矢頭右衛門七18歳 (横山笹右衛門) 02 神崎与五郎38歳 (稲垣左助) 07 間瀬孫九郎23歳 (小池権六郎) 03 村松三太夫27歳 (広瀬半助) 08 茅野和助37歳 (徳山又蔵) 04 横川勘平37歳 (山中源七郎) 09 三村次郎左衛門37歳 (田口安右衛門) 05 奥田貞右衛門26歳 (杉野源内) *
四十六士の戒名
泉岳寺住職の酬山長恩は引導を渡すに当たって、「碧巌録」第四十一「則古徳剣刃上」の公案からとって四十五士全部に「刀」と「剣」を戒名に分けてつける。酬山は間新六だけが一人欠けているのを残念に思って毛利家の列に同じように土饅頭を作り法号を授けた。 
赤穂義士の遺子の処罰とその後
赤穂義士の遺子 四人が伊豆大島へ流刑
○ 旧幕時代まで「三族連座制(父母・兄弟・妻子)」があったが元禄の頃には弛み、男子の遺族だけが罰せられ、妻と女子及び僧籍にある男子は免除された。四十六士の十九遺児のうち流刑に該当する十五歳以上の男子は四人で十四歳未満の男子は十五歳まで刑は猶予された。
○ 流刑者四人の配流地は伊豆大島。元禄十六年(1703)四月二十七日四人は佃島の岸で御舟奉行の小笠原彦太夫に引き渡されて四月二十九日頃大島へたどり着いた。
流人の持ち込める限度は士分で米二十俵、金札で二十両以内であった。吉田伝内、間瀬左太八、中村忠三郎は本多家や松平家の好意で米十九俵と金十九両が贈られたが、木村政右衛門は小笠原家から米二俵と金四両だけしか貰えなかった。
流刑者四人の詳細
○ 間瀬左太八(定八・貞八)間瀬久太夫次男二十歳、宝永二年四月二十七日に病没 享年二十二歳「月山祖潭信士」大島元町で眠る。
○ 吉田伝内吉田忠左衛門次男、僧侶になることを条件に宝永三年九月十六日に遠島が許され、本多家からは寺坂吉右衛門を迎えに出した。江戸小石川関口町の洞雲寺で得度して名を恵学と改め十月の末、本多家の転封地の越後村上の永昌寺で修業に入る。宝永六年(1709年)正月十日綱吉他界に伴い還俗する。吉田忠太夫兼直と名乗り本多家の客分扱いになった。
○ 村松政右衛門村松喜兵衛次男二十三歳、僧侶になることで流罪が許され、江戸洞雲寺で剃刀を当て無染と名を改める。恩赦で武士に還り小笠原家に返り咲くことになったが何故か後年、武州赤山の田舎で貧しく暮らしその終わりは詳でない。
○ 中村忠三郎中村勘助嫡子十五歳、奥州白河の松平大和守直矩家臣で伯父に当たる三田村十郎太夫方に母と共に居たところを収監されて伊豆大島へ。桂昌院殿御法事により赦免されて宝永三年九月に江戸に着き母たちの待つ奥州白河に帰り、赦免の条件通り僧籍に身を置いた筈だがその後は不明。「寺坂筆記」には三年後に死んだとある。
十五歳未満の遺子
大石内蔵助 次男 大石吉千代 13歳 / 中村勘助 次男 中村勘次 5歳 / 大石内蔵助 三男 大石大三郎 2歳 / 木村岡右衛門 子 木村惣十郎 9歳 / 片岡源五右衛門 長男 片岡新六 12歳 / 木村岡右衛門 次男大岡次郎四郎(養子)8歳 / 片岡源五右衛門 次男 片岡六之助 9歳 / 茅野和助 子 茅野猪之吉(助) 4歳 / 原惣右衛門 子 原十次郎 5歳 / 奥田貞右衛門 子 奥田清十郎 2歳 / 矢田五郎右衛門 長男 矢田作十郎 9歳 / 岡島八十右衛門 長男 岡島藤松 10歳 / 富森助右衛門 子 富森長太郎 2歳 / 岡島八十右衛門 次男 岡島五之助 7歳 / 不破数右衛門 子 不破大五郎 6歳
 
仮名手本忠臣蔵

 

人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。赤穂事件を題材としたもの。通称「忠臣蔵」。
江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。この元禄14年から15年(1701 - 1702年)にかけて起った赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」の物語は、演劇をはじめとして音曲、文芸、絵画、さらには映画やテレビドラマなど、さまざまな分野の創作物に取り上げられている。この「忠臣蔵」という題名と現在一般に流布する「忠臣蔵」の物語は、『仮名手本忠臣蔵』を濫觴とするものである。
赤穂事件は、『仮名手本忠臣蔵』以前に浄瑠璃や歌舞伎で扱われている。確認できる早い例としては、元禄16年の正月に江戸山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の大詰で、曽我の夜討ちにかこつけ赤穂浪士の討入りの趣向を見せたという。また元禄16年春に京都で上演された『傾城三の車』(近松門左衛門作)にも討入りの趣向が伺える。その後、赤穂事件を扱ったものとして『碁盤太平記』(近松門左衛門作)、『鬼鹿毛無佐志鐙』(吾妻三八作)、『忠臣金短冊』(並木宗助ほか作)など多くの作が上演されたが、これらを受けて忠臣蔵物の集大成として書かれたのが本作であり、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』とならぶ義太夫浄瑠璃の三大傑作といわれる。かつて劇場が経営難に陥ったとき、上演すれば必ず大入り満員御礼となったことから、薬になぞらえて「芝居の独参湯」とも呼ばれていたほどである。それだけに上演回数もほかの演目と比べれば圧倒的に多く、現在に至るも頻繁に舞台に取り上げられている。
『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」とは、赤穂四十七士をいろは四十七文字になぞらえたもので、赤穂事件を扱った先行作にも『忠臣いろは軍記』、『粧武者いろは合戦』、『忠臣いろは夜討』など「忠臣」、「いろは」といった言葉が外題に含まれるものがある。「忠臣蔵」の「蔵」については、元文5年の江戸市村座で『豊年永代蔵』が上演されており、元禄の豪商淀屋辰五郎の家の蔵を「いろは蔵」と称したように、「いろは」を蔵の呼び名にする事があった。松島栄一はこうした当時の背景から「いろは」と「蔵」とを結びつけたとし、また「赤穂事件の中心人物である大石内蔵助の名というのも、なにほどかの関係をもっているであろう」と述べている。
『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっている義太夫浄瑠璃である。本来ならその全十一段の「あらすじ」をまずまとめて示し、その後に作品の内容について解説すべきであるが、上でも触れたように本作は現在に至るまで頻繁に上演されている人気演目であり、この全十一段は文楽と歌舞伎いずれも、おおむね現行演目として伝承されている。従って段によっては、ひとつの段だけでも解説すべきことは多い。そこで本作については段ごとに原作の浄瑠璃にもとづく「あらすじ」と、その段についての「解説」に分け以下作品を紹介する。 
主な登場人物
左兵衛督直義(さひょうえのかみただよし) / 室町幕府将軍足利尊氏の弟。尊氏の代理として、京から鎌倉へと下向し鶴岡八幡宮に参詣する。
高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう) / 大名。鎌倉に在住する尊氏の執事職。その性格は傲慢で、或る人妻に横恋慕する。その人妻とは…
桃井若狭之助安近(もものいわかさのすけやすちか) / 大名。桃井播磨守の弟。鎌倉に下向した直義の饗応役となる。性格は気短か。
塩冶判官高定(えんやはんがんたかさだ) / 伯耆国の大名。桃井若狭之助と同じく直義の饗応役となる。普段は冷静沈着な性格。
かほよ御前(かおよごぜん) / 塩冶判官の正室。もとは宮中に仕えた内侍。なお原作の浄瑠璃の本文表記では仮名書きで「かほよ」であるが、現行の文楽・歌舞伎では「顔世」の字を宛てている。
加古川本蔵行国(かこがわほんぞうゆきくに) / 桃井若狭之助の家の家老。
戸無瀬(となせ) / 加古川本蔵の妻。後妻。
小浪(こなみ) / 加古川本蔵の娘。じつは本蔵の先妻の娘なので、戸無瀬とは実の親子ではない。大星由良助のせがれ力弥とはいいなづけの約束を交わしている。
鷺坂伴内(さぎさかばんない) / 師直の家来。おかるに横恋慕する。
おかる / かほよ御前に仕える腰元。早の勘平とは恋人どうしで、のちに夫婦となる。寺岡平右衛門の妹。
早の勘平重氏(はやのかんぺいしげうじ) / 塩冶家の譜代の家臣。
石堂右馬之丞(いしどううまのじょう) / 塩冶家に訪れた上使。
薬師寺次郎左衛門(やくしじじろうざえもん) / 同じく塩冶家に訪れた上使。師直と親しくしている人物。
原郷右衛門(はらごうえもん) / 塩冶家の諸士頭。
大星由良助義金(おおぼしゆらのすけよしかね) / 塩冶家の家老。国許にいる。
大星力弥(おおぼしりきや) / 由良助の息子。塩冶判官のそば近くに仕える。
斧九太夫(おのくだゆう) / 塩冶家の家老。
斧定九郎(おのさだくろう) / 斧九太夫の息子。
千崎弥五郎(せんざきやごろう) / 塩冶家家臣。
与市兵衛(よいちべえ) / 寺岡平右衛門とおかるの父親。山城国山崎に百姓をして暮らしている。
与市兵衛の女房 / 与市兵衛の妻、寺岡平右衛門とおかるの母。歌舞伎では「おかや」という名がついているが、原作の浄瑠璃ではこの人物に名は無い。
一文字屋(いちもんじや) / 京の祇園にある女郎屋の主人。
寺岡平右衛門(てらおかへいえもん) / 塩冶家に仕える足軽。おかるの兄。
矢間十太郎(やざまじゅうたろう) / 塩冶家家臣。ただし十段目と十一段目では名が「重太郎」と表記されている。
竹森喜多八(たけもりきたはち) / 塩冶家家臣。
お石(おいし) / 由良助の妻。
大鷲文吾(おおわしぶんご) / 塩冶家家臣。
天河屋義平(あまがわやぎへい) / 塩冶家に出入りしていた廻船問屋。摂津国堺に店を持ち商売をしている。
園(その) / 義平の妻。原作の表記では仮名書きで「その」としているが、可読性を考慮して「園」とする。
大田了竹(おおたりょうちく) / 斧九太夫抱えの医者。園の父、義平の舅。  
概要
塩冶判官高定は、足利尊氏の代参として鎌倉鶴岡八幡宮に参詣する足利直義の饗応役を命じられる。しかし塩冶判官は指南役の高師直から謂れのない侮辱を受け、それに耐えかねた判官は殿中で師直に切りつける。その結果、判官は切腹を命じられ塩冶家は取り潰しとなる(大序、二段目、三段目、四段目)。判官切腹の際に高師直を討てとの遺命を受けた家老の大星由良助は、浪士となった塩冶家の侍たちとともに師直への復讐を誓い、それを計画し実行する(四段目、十段目、十一段目)。
この他に複数の段にわたるエピソードとして、早野勘平のエピソードと加古川本蔵のエピソードがある。
塩冶家譜代の侍である早の勘平は、刃傷事件の際に腰元のおかると逢引をしていてその場に立ち会えず、おかるの故郷の山崎に、おかるとともに駆け落ちする(三段目)。おかるの父与市兵衛のもとで猟師として暮らす勘平は、山崎街道で猪と間違えて人を撃ち殺してしまう。勘平が撃ったのは、与市兵衛を殺して金を奪った斧定九郎であった。その金は与市兵衛が勘平の討入り参加の資金として、おかるを遊郭に売った金である。しかし暗闇の中で勘平は自分が殺したのが定九郎であることに気づかず、定九郎のふところの金を奪う(五段目)。与市兵衛の遺体が見つかり、義士の千崎弥五郎と原郷右衛門に与市兵衛を殺して金を奪ったと非難された勘平は切腹する(六段目)。一方、遊郭に売られたおかるは祇園一力茶屋で由良助と出会い、おかるの兄寺岡平右衛門は義士への参加が認められる(七段目)。
加古川本蔵は塩冶判官とともに直義の饗応役を命じられた桃井若狭之助の家老である。本蔵の娘の小浪は由良助の息子の力弥とは刃傷事件の前に婚約していた。小浪と本蔵の妻戸無瀬は力弥を訪ねて東海道を歩いて京の山科に向かう(八段目)。小浪と戸無瀬のあとを追って山科に現れた本蔵は、刃傷事件の際に判官を抱き止めたことで師直は軽傷にとどまり、判官は切腹塩冶家はお取り潰しになったことを後悔しており、わざと力弥に討たれて師直館の絵図面を由良助に渡す(九段目)。 
大序・鶴岡の饗応
『仮名手本忠臣蔵』は、以下の文章を以って始まる。
嘉肴(かかう)有りといへども食せざれば其の味はひをしらずとは。国治まってよき武士の忠も武勇もかくるゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例(ためし)を爰(ここ)に仮名書きの太平の代の。政(まつりごと)…
どんなにおいしいといわれるご馳走でも、実際に口にしなければそのおいしさはわからない。平和な世の中では立派な武士の忠義も武勇もこれと同じで、それらは話に聞くだけで実際に目にすることが無くなってしまうのである。だがそんな世の中でも、立派な忠義の武士は必ずいる。それはたとえば、星は昼には見えないが夜になれば空にたくさん現われるのと同じように、普段は見えなくても忠義の武士は、あるべきところには確かに存在するのだ。そんな武士たちの話をわかり易いように仮名書きにして、これから説明することにしよう…という大意で、要するにこれから「忠」も「武勇」も備わった「よき武士」である「赤穂浪士」たちのことについて語ろうということである。
(鶴岡兜改めの段)時に暦応元年二月下旬のことである。
将軍足利尊氏は南朝方の新田義貞を討ち滅ぼし、南北朝の動乱は収まりつつあった。鎌倉の鶴岡八幡宮では社殿の造替を済ませたので、尊氏の弟である左兵衛督直義が京から鎌倉へと下向し、今日は将軍尊氏の代参として鶴岡八幡へと参詣するところである。幕を張った馬場先にいる直義は大勢の供を従え、供の中には鎌倉在住の執事職高武蔵守師直、さらに直義の饗応役として桃井若狭之助安近と塩冶判官高定が任ぜられて控えている。
皆の前には唐櫃がひとつ置かれていた。直義には鶴岡代参のほかに、いまひとつ尊氏に命じられたことがあり、それは討取った新田義貞着用の兜を探しだし、これを鶴岡八幡宮の宝蔵に納めることであった。その兜というのが後醍醐天皇から下賜されたものであり、また義貞が清和源氏の血筋であるのを誉れとしたことによる。しかし義貞が死んだとき、そのそばには四十七もの兜が散らばってどれが義貞の兜なのか判らず、とりあえずそれらの兜を集め、この唐櫃にまとめて入れていたのである。この中から義貞がかぶったという兜を探し出し、鶴岡八幡に納めなければならない。
だが兜を納めようという直義に師直は「これは思ひ寄らざる御事」と口を挟み、清和源氏の血筋はいくらでもいる、そんな理由で義貞の兜をもったいぶって扱う必要はないという。これに桃井若狭之助が声をあげ、これは義貞軍の残党を懐柔し降参させようという将軍尊氏公の御計略であろう、「無用との御評議卒爾なり」と言おうとするのを師直はさえぎる。もしこの中から間違って義貞のものではない兜を選んでは後に大きな恥となることだ。「なま若輩ななりをしてお尋ねもなき評議、すっこんでお居やれ」と頭ごなしに怒鳴りつけた。これに目の色を変える若狭之助、それを察した塩冶判官が言葉を添え、直義の判断を仰ぐ。直義には兜の見極めについて考えがあった。かつて宮中に内侍として奉仕し、後醍醐天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしていたかほよ御前を、この場に呼び出したのである。かほよ御前は塩冶判官の妻である。かほよは唐櫃のなかからひとつの兜を取り出し、蘭奢待の香るこの兜こそ義貞着用のものに間違いないと差し出した。
見極められた兜を直ちに宝蔵に納めようと、直義は塩冶判官と若狭之助を連れて社殿に向かいその場を離れた。するとかほよの美貌に以前より執着していた師直がかほよに言寄り、付け文を無理やり渡そうとする。困惑するかほよ。そこへ折りよく来合わせた若狭之助にかほよは助けられたが、邪魔されて怒り心頭に発した師直は若狭之助を散々に口汚く罵り、これに怒った若狭之助は師直へ刃傷に及ぼうとする。しかし直義が帰館のため、判官も含めた供の者を従えて通りかかるので、若狭之助は無念ながらもこの場では自重するのだった。
解説
江戸時代、文芸や戯曲においてその時々に起こった事件をそのまま取り上げることは、幕府より禁じられていた。加賀騒動をはじめとするお家騒動を記した実録本なども出版を禁じられており、写本の形でのちにまで伝わっている。赤穂事件もある意味武家社会の醜聞ともいえる事件であり、これを取り上げることは幕政批判に通じかねないことから、人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居においても、興行する側は相当の用心を以ってこの事件を脚色し、上演していた。それは本来の時代や人物の名前などを、違う時代や人物に置き換えて脚色することで抜け道としたのである。その時代や人物も「小栗判官」や「太平記」などさまざまだったが、この『仮名手本忠臣蔵』では近松の『碁盤太平記』に見られる設定や人物名、すなわち「太平記」の「世界」を借りている。それは直接には、『太平記』巻二十一「塩冶判官讒死の事」を題材としたものである。
「塩冶判官讒死の事」のあらましは、高師直が塩冶判官高貞の妻の美しさを聞きつけこれに執心し、恋文を送るが判官の妻からは拒絶される。これに腹を立てた師直が将軍尊氏や直義に判官のことを讒言した結果、判官は謀叛の汚名を着せられ、最後は判官やその妻子も無残な死を遂げるというもので、この話をもとに『仮名手本忠臣蔵』は吉良義央を高師直、浅野長矩を塩冶判官に置き換え、師直が判官の妻に横恋慕したことを事件の発端としている。
本作の師直は「人を見下す権柄眼(まなこ)」、義貞の兜の事についてもそれが将軍尊氏の「厳命」でありながら、「御旗下の大小名清和源氏はいくらも有る。奉納の義然るべからず」と口を挟んで憚らない。自らが仕える将軍家に対してでさえこうなのだから、自分より地位の低い者等に対しても傲慢な態度に出るのは当然である。それが若輩ながらもれっきとした大名である若狭之助を口汚く罵ったり、ほんらい人妻であるはずのかほよ御前に横恋慕してしつこく言い寄るという所業に表れている。そしてこの師直の傲慢さが悲劇を生み、それに多くの人が巻き込まれることになるのである。
時代物の義太夫浄瑠璃の最初の段を「大序」(だいじょ)という。「大序」はたいていが内裏や寺社、または将軍の御所などといった重々しい場面で、そこに天皇や公卿、将軍や大名などの高位の人物が集まって話が始まる。人形浄瑠璃は古くは通しの上演が原則だったので、各作品が再演されるときには「大序」も上演されていたが、現行の文楽にまで絶えず伝承されてきたのは『仮名手本忠臣蔵』と、ほかには『菅原伝授手習鑑』の「大序」があるぐらいである。歌舞伎の義太夫狂言においても、人形浄瑠璃の作品が歌舞伎に移された当初は「大序」が上演されもしたが、そのほとんどが早くに廃滅した。歌舞伎の演目として絶えることなく伝承され、今日にまで上演され続けてきた「大序」は、『仮名手本忠臣蔵』が唯一といってよいものである。
歌舞伎では必ず幕を開ける前に、「口上人形」と呼ばれる操り人形による「役人替名」(やくにんかえな)、すなわち配役を「相勤めまする役人替名…塩冶判官高定、○○○(演じる役者の名)…」と読み上げることがある。これはもと歌舞伎の芝居では、芝居の最初の幕が開く前に下級の役者が幕の前に出て、裃姿で「役人替名」を読み上げることがあり、それを人形が演じる形で残したもので、この「役人替名」の読み上げが見られるのも現在では『仮名手本忠臣蔵』の大序だけである。天王立という鳴物で幕を開ける荘重な場面であり、東西声で幕を開けた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をしないで、竹本に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、役を勤めはじめる。
六代目尾上梅幸はかほよ御前について、「この役は品格と色気で、品が七分に色気が三分というところでしょう。色気があるので、師直とのあんな事件(横恋慕されること)が出来上がる」と述べている。これは七代目澤村宗十郎も、「顔世御前の役は、品格と色気とが大切」としている。
原作の浄瑠璃では、かほよを助けたあと師直に悪口された若狭之助が、「刀の鯉口砕くる程」握り締め師直と一触即発のところ、直義が先払いの声とともに供を連れてその場に通りかかり、判官もその行列の「後押へ」すなわち最後のほうに加わってそのまま行過ぎる。これは文楽でも同様で、長柄の傘を差しかけられた直義が、判官や大名たちを従え舞台上手から下手へと通り過ぎるが、これを若狭之助が見送って立とうとすると師直が嫌がらせに袖でさえぎり「早えわ」という。この「早えわ」は、師直の人形遣いが言うのである。それで師直と若狭之助二人で幕となる。文楽の人形遣いが舞台上でせりふを言うのは珍しいことである。歌舞伎でもおおよそこの段取りであるが、幕切れは師直が二重舞台の石段、舞台下手側に勇んで刀を抜こうとする若狭之助、列から離れた判官が若狭之助を押しとどめるという『曽我の対面』の幕切れと同じ形式となる。また若狭之助が刀に手をかけ師直を斬ろうとすると、そこで直義の帰館を知らせる「還御」の声がかかり、師直と若狭之助ふたりだけで幕になることもある。
現行の舞台では直義以下の人物が大銀杏のある八幡宮の境内にいて、その中で「兜改め」が行われるが、上のあらすじでも紹介したように原作の浄瑠璃の本文には「馬場先に幕打廻し。威儀を正して相詰むる」とあり、直義たちは参詣者が下馬するための「馬場」、すなわち境内の外の幕を張った場所にいる。要するに原作の本文に従えば、「兜改め」をする場所は八幡宮の境内ではないということである。これは「兜改め」が済んだあとで直義が判官と若狭之助を率いて兜を社に納めようとするときにも、「段かづらを過ぎ給へば」とある。「段かづら」は今も鶴岡八幡宮の鳥居前に残る参道である。
『仮名手本忠臣蔵』の歌舞伎における上演では、原作の浄瑠璃とは違った内容が見られる。これは大筋では違いは無いものの、脚本や演出などに各時代の役者たちの工夫が入れられるなどしたことにより、それが歌舞伎における型(演技・演出等)となって残り、芝居の演出やせりふなどが原作の浄瑠璃のものとは相違するようになったのである。さらに東京(江戸)と上方においても、同じ段の同じ場面で型に相違がある。そうした原作、東京、上方、また文楽における型の違いについても以下触れることにする。 
二段目・諫言の寝刃
(力弥使者の段)足利直義が鶴岡八幡に参詣した翌日のこと。時刻もたそがれ時、桃井若狭之助の館ではあるじ若狭之助が師直から辱めをうけたと使用人らが噂している。若狭之助の家老加古川本蔵はそれを聞きとがめる。そこへ本蔵の妻戸無瀬と娘の小浪も出てきて、若狭之助の奥方までもこの噂を聞き案じていると心配するので、本蔵は「それほどのお返事、なぜとりつくろうて申し上げぬ」と叱り、奥方様を御安心させようと奥に入る。
塩冶判官の家臣大星由良助の子息である大星力弥が、明日の登城時刻を伝える使者として館を訪れる。いいなづけの力弥に恋心を抱く小浪は本蔵や戸無瀬が気を効かせ、口上の受取役となるがぼうっとみとれてしまい返事もできない。そこへ主君若狭之助が現れ口上を受け取り、力弥は役目を終えて帰った。
(松切りの段)再び現れた本蔵は娘を去らせ、主君に師直の一件を尋ねる。若狭之助は腹の虫がおさまらず師直を討つつもりだと明かす。ところが本蔵は止めるどころか、若狭之助の刀をいきなり取って庭先に降り、その刀で松の片枝を切り捨て「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。喜んだ若狭之助は奥に入る。見送った本蔵は「家来ども馬引け」と叫び、驚く妻や娘を尻目に馬に乗って一散にどこかへ去っていく。
解説
桃井若狭之助安近は、その若さもあって気の短いお殿様である。その気短なお殿様が師直のような人間に、大名たちが居並ぶ公の場で「すっこんでろこのバカ!」などのように罵倒されては収まらない。そんな若狭之助には加古川本蔵という「年も五十の分別盛り」の家老が仕えていたが、その「分別盛り」であるはずの男が後先の考え無しに師直を斬ってしまえばよいと、無分別なことを主君に勧めて憚らない。まして家老という重い立場であれば、必死になって諌めるのが筋である。さらに本蔵はその話のすぐ後に、馬に乗ってどこかへ駆け出してゆく。「分別盛り」の男が血気にはやる主君を諌めもせず、大急ぎでどこへ行くつもりなのか。その答えは、このあとの三段目で明らかになるのである。
この段で、実説の大石内蔵助に当たる大星由良助の名がはじめて出てくる。その息子の力弥というのも実説の大石主税のことである。ただし由良助が姿を現すのは四段目になってからである。
なお歌舞伎の二段目については台本が二種類あり、ひとつは上のあらすじで紹介した原作の浄瑠璃にもとづくものだが、もうひとつこれを書き替えた「建長寺の場」というものがあり、これを「二段目」として上演することがある。これは七代目市川團十郎が初演し、その台本が上方の中村宗十郎に伝わったものだという。内容は、大序の鶴岡八幡で師直に罵られた翌日の夜、若狭之助が鎌倉建長寺に仏参ののち寺の書院で休息している。そこへ若狭之助を迎えに来た本蔵が、床の間の掛け軸に記されている文字をめぐって若狭之助とやりとりをし、その中で師直を斬るという若狭之助をやはり本蔵が諌めることなく、松の枝を切ってそれを勧めるというものである。ただしこの「建長寺」では舞台面が室内をあらわす平舞台の大道具なので、松を切るくだりでは床の間にある盆栽の松を切ることになっている。また七代目團十郎がはじめてこの「建長寺」を演じたときには、まず建長寺の住職となって若狭之助との禅問答があり、そのあと本蔵に替わって出たという。しかしいずれにしても現行の歌舞伎では、この二段目は通し上演の際にも省略しほとんど上演されることがない。 
三段目・恋歌の意趣
(進物の段)新築の御殿に直義が逗留し、大名などはじめとして多くの名ある武士が直義饗応のため礼服に身を整えて詰めている。時刻も正七つの夜明け前でまだ辺りは暗い。そこへ館の門前に師直が烏帽子大紋の姿で、家来の鷺坂伴内に先払いをさせながら到着する。師直はあのかほよ御前のことをなおも執着し、どうやって物にしようかなどと伴内と話しているところに、若狭之助の家来加古川本蔵が師直に直接会いたいとこの場に来ているとの知らせが来る。さては若狭之助がその本蔵を遣わして、昨日の鶴岡での遺恨を晴らすつもりだな…ここへ呼び寄せやっつけてやろう。そう考えた師直は、伴内とともに刀の目釘をしめして本蔵を待ち構えた。
ところが師直の前に出た本蔵は、意外な行動に出る。本蔵は師直の前をはるか退ってうづくまり、このたび将軍尊氏公より直義公饗応という名誉の役目を主人若狭之助は仰せ付けられ、本来若輩の若狭之助が首尾よく勤められるのも、みな師直様のお取り成しによる、そこでそのお礼として進物を差し上げたいと、師直の目前に黄金や反物など多くの進物を並べたのである。本蔵が仕返しに来たと思っていた師直と伴内、このありさまに拍子抜けして顔を見合わせた。
「…これはこれは痛みいったる仕合せ」と師直は言葉を改め、本蔵からの進物を取り収め若狭之助のことについて誉めだした。手の裏を返したこの師直の態度に、本蔵はしてやったりと内心喜ぶ。そして師直に挨拶して場を立とうとしたが、機嫌をよくした師直が殿中の様子をみてゆくがよいと熱心に勧めるので、それではと本蔵は、師直のあとについて門内へとは入るのだった。
(どじょうぶみの段)程もなく、供を連れた塩冶判官が到着するが若狭之助がすでに出仕していると聞き、「遅なわりし残念」と譜代の家来早の勘平ひとりを連れ、殿中へと急ぎ行く。
かほよ御前に仕える腰元のおかるは、かほよから師直あての文の入った文箱を持って門前まで来る。その恋人の勘平がふたたび門前あたりに来たのを見たおかるは、勘平を呼び止めた。勘平は文箱を主人塩冶判官の手から師直様へ渡すようにしようというところ、判官が勘平を呼んでいるとの声に勘平は文箱を持って館の内へと入った。すると入れ違いに伴内が現われる。いまの勘平を呼ぶ声は伴内のしわざであった。おかるに岡惚れする伴内は、恋敵の勘平がいないのを幸いにおかるにしなだれかかり口説くが、そこへ奴たちが来て「伴内様師直様の急ぎ御用」というので、仕方なく伴内は奴たちとともに立ち去った。
そこへまた勘平が出てくる。いまの奴たちは、勘平が頼んでわざと伴内を呼びにやらせたのである。二人きりとなった恋人どうし、手に手をとって逢引のためその場を立ち退く。
(館騒動の段)御殿では饗応のための能が催されるなか、若狭之助は「おのれ師直真っ二つ…」と、差した刀を握り締め師直を待ち構えていた。
師直が、伴内をともないそこへ来た。だが師直主従は若狭之助の姿を遠くから認めると、「貴殿に言い訳いたし、お詫び申す事がある」と刀を投げ出して鶴岡でのことを詫びる。「その時はどうやらした詞の間違いでつい申した…武士がこれ手を下げる」と師直は、伴内もともに若狭之助に対して幾度も詫びた。これが最前本蔵による進物のせいだとは知らぬ若狭之助、この師直のあまりの態度の変わりように拍子抜けし、また呆れて刀には手を掛けていたものの、抜くにも抜かれず困ってしまう。近くの物陰に隠れる本蔵は、あるじ若狭之助の様子をはらはらしながら見守っている。師直主従はさらに若狭之助に追従を重ね、若狭之助は戸惑いながらも、伴内に連れられて奥の間へとは入るのだった。本蔵も無事に済んだことにほっとして、いったん次の間へと下がる。
あとには師直一人が残る。そこに塩冶判官が長廊下を通ってやって来た。
判官を見た師直は「遅し遅し。何と心得てござる。今日は正七つ時と、先刻から申し渡したではないか」という。本蔵から賄賂を受け取りはしたものの、本来なら若僧と馬鹿にする若狭之助に頭を下げ、追従を並べたことが師直にとっては内心面白くなく、機嫌を損ねていた。
しかし判官が「遅なわりしは不調法」と謝りつつ、勘平を通して届けられたかほよ御前からの文箱を取り出し師直に渡すと、師直はまたもがらりと様子を変え、執心するかほよの文が来たことに機嫌を直す。師直は文箱を開けて中身を改めた。…だがその内容は、師直の期待を大きく裏切るものだった。かほよの文には次の和歌が記されている。
「さなきだに おもきがうへの さよごろも わがつまならぬ つまなかさねそ」
これは『新古今和歌集』にある古歌であり、要するに塩冶判官というれっきとした夫(つま)を持つ自分への求愛はお断りしますという返事であった。
この恋の不首尾に、師直の怒りは収まらない。そしてこの怒りは、いま目前にする判官にぶつけられた。さてはこの夫の判官にも自分のことを打ち明けているのだろう…そんな勘繰りをしながら、判官の出仕が遅れたのは、奥方のかほよにへばりついていたからだろうとか、または判官のことを井戸にいる鮒に譬えるなどの悪口を、判官に向って散々に浴びせる。あまりのことに判官もついに堪忍袋の緒が切れた。
「こりゃこなた狂気めさったか。イヤ気が違うたか師直」「シャこいつ、武士を捕らえて気違いとは、出頭第一の高師直」「ムムすりゃ今の悪言は本性よな」「くどいくどい、本性なりゃどうする」「オオこうする」と判官は、刀を抜いて師直へ斬りつけた。
判官が抜いた刀は師直の眉間を切る。なおも斬り付けようとする判官、だが次の間に控えていた本蔵がこれに気付き、判官を抱きかかえて止める。師直はその場を逃げ出し、騒ぎを聞きつけた大名たちも駆けつけ判官は取り押さえられ、館の内は上を下への大騒ぎとなった。
(裏門の段)館は判官の刃傷により、表門裏門ともに閉められた。腰元のおかると情事の最中だった勘平は館で騒動が起こったことを知り、慌てて館の裏門へと駆けつけたが、聞けばあるじの判官が師直と喧嘩となって刃傷に及んだことにより、閉門を命じられ罪人の乗る網乗物で自らの屋敷に送られたという。
主家が閉門となったからには戻ることも出来ない。色事にふけって大事の主君の変事に居合わせなかったとは武士にあるまじき事…もはやこれまでと勘平は刀に手をかけ切腹しようとした。だがおかるがそれを止め、こうなったのも自分のせい、ひとまず自分の実家に来て欲しいといって泣き沈む。勘平は、いまは本国に帰っている家老の大星由良助が戻るのを待ってお詫びしようと、おかるのいうことを聞いてこの場を立ち退くことにした。
すると、鷺坂伴内が手下を率いて勘平を捕らえに現われた。勘平は「ヤアよい所に鷺坂伴内、おのれ一羽で喰いたらねど、勘平が腕の細葱(ほそねぶか)、料理塩梅食うて見よ」と、手下どもをやっつける。伴内も勘平に斬りかかるが、首をつかまれ投げ飛ばされた。勘平は伴内を斬り殺そうとするが、おかるが「そいつ殺すとお詫びの邪魔、もうよいわいな」と留めるのを、伴内は隙を見て逃げてゆく。もはや夜明け、明け六つの空が白む中、おかると勘平はこの場を落ちてゆくのであった。
解説
二段目の最後で本蔵は馬で駆け出していったが、その理由がこの三段目で明らかとなる。すなわち機転を利かせて師直に賄賂を贈り、事を収めようとしたのである。この賄賂は功を奏し、若狭助は師直を斬る覚悟をするが師直が平謝りに謝るので拍子抜けし、結局斬ることができなかった。なお本蔵が二段目で若狭之助との話の最後に、若狭之助の刀をいきなりとって庭に降り、松の木の枝を切るが八代目坂東三津五郎によれば、これは松を切ることでそのヤニを刃に付け、それで再び刀を抜こうとしても抜きにくくしたのだという。
「進物場」は現行の文楽と歌舞伎では師直は出ず、伴内の傍らにある駕籠に乗っていることになっている。歌舞伎では伴内が、本蔵が主の師直へ仕返しに来るのだろうと思い、「エヘンバッサリ」などといいながら中間たちと本蔵を討つ稽古をする。それが仕返しではなかったと知れた後のおかしみなど、伴内を演じる役者の腕の見せ所である。
そのあとかほよから師直に宛てた文箱を、腰元のおかるが持ちやってくる。おかるをめぐって早の勘平と伴内とのやり取りがあり、伴内を追い払うと勘平とおかるの逢引となるが、この勘平とおかるの軽率さがのちの六段目の悲劇への伏線となっていき、勘平の「色に耽ったばっかりに」の悲痛な後悔の台詞に繋がってゆく。筋としては重要な場面だが、現行の歌舞伎では上演時間の都合により省略され、ほとんど演じられることがない。このあたりの件りを「どじょうぶみ」というのは、伴内がおかるの前に現われるとき「鰌(どじょう)踏む足付き鷺坂伴内」という浄瑠璃の文句があることによる。また勘平の名について「早野勘平」とすることが多いが、原作の浄瑠璃では「早の勘平」としている。
「館騒動」は通称「喧嘩場」とも言い、この場面がいわゆる「刃傷松の廊下」にあたる。原作の浄瑠璃では若狭之助が奥へ入ったあと、「程も有らさず塩冶判官、御前へ通る長廊下」と塩冶判官が現われ、そこで師直に呼び止められる。「長廊下」というのが史実の「松の廊下」を思わせるが、歌舞伎では「足利館松の間の場」と称し、大きな松が描かれた大広間の大道具となっている。また大筋では変わらぬものの、原作の浄瑠璃とは段取りやせりふが歌舞伎では変わっている。東京(江戸)式でそのおおよその段取りを述べると以下のようである。
「進物場」から舞台が廻り、「松の間の場」になると思い詰めた若狭之助が長裃姿で花道より出てくる。すると上手より師直も伴内を連れて現われる。それを見た若狭助は本舞台へと駆けて行き、刀に手をかけて師直を斬ろうとするが、「これはこれは若狭之助殿、さてさてお早いご登城…」などと言いながら師直は卑屈に謝り、伴内も若狭之助にすがりつき止める。結局気勢をそがれた若狭之助は「馬鹿な侍だ!」と、一言罵倒して引っ込む。そのあと師直は伴内と「馬鹿ほどこわいものはないなァ」「御意にござりまする」などと話し、伴内が引っ込むと塩冶判官がこれも長裃姿で花道より出てくる。それを見た師直、「遅い遅い」と若狭之助に侮辱された憤懣を判官にぶつける。そこへ折悪しくも、その師直へかほよから求愛を断る文が届く(東京の型では、判官はかほよからの文箱を持たずに出る)。かほよから返信がきたことにいったんは気をよくしたものの、例の「さなきだに」の和歌を見てすっかり機嫌を悪くした師直は、かほよのことを引き合いに出して判官に悪口しはじめる。これにむっとするも塩冶判官は抑える。だが「ハハハハハ…師直殿には御酒召されたか」というと師直は「何だ、酒は飲んでも飲まいでも、勤むるところはきっと勤むる武蔵守。コリャお手前、酒参ったか(飲んだか)」と、以下長ぜりふで判官のことを罵り、最後は「鮒だ鮒だ、鮒侍だ」という。ついに判官が腹に据えかね刀に手をかけるが、師直がそれを見て「殿中だ!」と叫ぶ。殿中での刃傷は家の断絶と、判官は必死にこらえる。それでもなお毒づく師直に耐えかねた判官は、ついに師直へ刃傷におよぶが、下手側に立ててあった衝立の陰から本蔵が飛び出し、判官を抱き止める。師直は上手へと逃げて入り、烏帽子大紋姿の大名たちが大勢出てきて判官を取り囲み止めるところで幕となる。
上方の型では若狭之助が師直を斬るのをあきらめて立ち去ろうとするとき、「昨日鶴岡において拙者への悪口雑言、そのとき斬り捨てんと思えども…」とやや長めのせりふを言い、最後に「馬鹿な侍だ」と言い捨てて引っ込む。十三代目片岡仁左衛門はこれを「大阪式」と称している。また上でも述べたように原作では判官がかほよからの文箱を師直に直接渡すが、東京式では判官の役が安く見えるとして、茶坊主が出てその場に届けることになっている。上方では原作通りに判官が文箱を持ち、花道から出てくる段取りである。
師直が判官を罵るとき、「判官の出仕が遅れたのは、奥方のかほよにへばりついていたからだろう」と言うが、内山美樹子は判官のモデルである浅野内匠頭が女色を好み、昼夜の別なく女と居て戯れていたという『土芥寇讎記』の記事を引き、こうした風聞を踏まえた上で判官をこのように罵らせたのではないかと指摘している。
この段の師直は原作の浄瑠璃の本文にもあるように、本来は烏帽子大紋の姿であったが、歌舞伎では大紋の長袖では判官にからみにくいという理由で、現行のような着付けに長袴だけの姿となっている。ただし若狭助が引っ込んだ後、判官登場までの間に師直が舞台上に出した姿見で茶坊主や伴内たちに手伝わせ、長袴だけの姿から烏帽子大紋に着替えるという演出があった。これは「姿見の師直」と呼ばれ、三代目尾上菊五郎が創作した型だといわれるが、じつは三代目中村歌右衛門が始めたものである。師直が通りかかる大名たちに挨拶を交わしながら烏帽子大紋に着替え、のちに判官にからむくだりで烏帽子と大紋の上を取るというものだが、明治以降は五代目菊五郎と六代目菊五郎、その弟子の二代目尾上松緑が演じたくらいで、今日では全く廃れている。しかし歌舞伎における現行の師直の姿は、この「姿見の師直」の着替える前の姿がもとになっているのである。
「裏門」は「どじょうぶみ」のくだりと同様、現行の歌舞伎ではほとんど上演されることがなく、この「裏門」の代わりとして『道行旅路の花聟』がもっぱら上演されている。
道行旅路の花聟
これは『仮名手本忠臣蔵』の元々の内容ではないが、現行の歌舞伎の通し上演では一体化して上演されている。 清元節を使った所作事で、天保4年(1883年)3月、江戸河原崎座で初演された。このときは『仮名手本忠臣蔵』を「表」すなわち本来の幕とし、その「裏」として段ごとに新たな幕を加えるという「裏表」の趣向で演じられたもので、この『道行旅路の花聟』は三段目の「裏」として出された所作事である。三升屋二三治の作。その語り出しが「落人も、見るかや野辺に若草の」と始まるところから、通称『落人』(おちうど)という。ただしこの語り出しは、じつは菅専助・若竹笛躬合作の浄瑠璃『けいせい恋飛脚』(安永2年〈1773年〉初演)からの焼き直しである。
内容はおかる勘平が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた鷺坂伴内が二人にからむというものだが、その詞章は三段目の「裏門」から多くを拝借しており、「裏門」を書替えた所作事といえる。初演の役割は勘平が五代目市川海老蔵、おかるが三代目尾上菊五郎、伴内が尾上梅五郎。以来人気演目として、今日に至るも盛んに上演されている。楽しく色彩豊かな所作事で、さわやかな清元を聞きながら、軽やかで華やかな気分を味わう演目。せりふには地口も盛り込まれており、特に東京でよく出る。舞踊の定番の演目でもある。
なおこの所作事は、上で述べたように本来ならば三段目のあとに出すべきものであるが、戦後の昼夜二部制の興行では四段目の後に演じられている。つまり『落人』で昼の部を終り、五段目からを夜の部にする構成である。
蜂の巣の平右衛門
『道行旅路の花聟』が初演されたときに同じく三段目の「裏」として出されたのが、通称『蜂の巣の平右衛門』である。ただし近年では上演を見ない。内容は、塩冶家の足軽寺岡平右衛門が鎌倉から国許へ書状を届ける途中、近江の鳥本宿の茶店に立ち寄り休む。そこで巣にいた蜂がよそから来た蜂と争うのを見るなどして胸騒ぎを覚え、鎌倉へ引き返そうとするが、蜂の争いとは塩冶判官が師直へ刃傷に及ぶ兆しであったというもの。これも三升屋二三治の作であった。平右衛門は五代目海老蔵で、海老蔵はこの平右衛門を『道行旅路の花聟』の前に演じ、次に勘平へと早替りして出た。『蜂の巣の平右衛門』は『日本戯曲全集』第十五巻に台本が収録されているが、「四段目裏」となっている。 
四段目・来世の忠義
(花籠の段)扇が谷にある塩冶判官の上屋敷は、あるじの判官が閉門を命じられたことにより大竹で以って門を閉じ、家中の者たちも出入りを厳重に禁じられていた。
そうして蟄居している判官に、妻のかほよ御前は夫の心を慰めようと、八重桜を籠に生けて判官へ献上しようとするところに、諸士頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が参上する。郷右衛門によれば本日上使が館に来るとの知らせ、閉門を赦すという御上使であろうと郷右衛門はいうが、九太夫はそうではあるまいと打ち消し、師直に賄賂でも贈っておけばよかったなどという。これに郷右衛門は腹を立て九太夫と言い争いとなるのをかほよがなだめ、事の起こりはこのかほよから、あの「さなきだに」の和歌を師直に送らなければこんなことには…と嘆くのであった。そこへ「御上使のお出で」という声がするので、かほよをはじめとして人々は座を改め、上使を迎える。
(判官切腹の段)足利館から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が上使として来訪した。情け深い石堂に比べ、師直とは親しい間柄の薬師寺は意地が悪い。一間より判官が出てきて上使に応対する。判官は切腹、その領地も没収との上意を申し渡される。これには同席していたかほよはもとより、家中の者たちも驚き顔を見合わせるが、判官はかねてより覚悟していたのかその言葉に動ずる気色も無く、「委細承知仕る」と述べた。そして着ているものを脱ぐと、その下からは白の着付けに水裃の死装束があらわれる。判官はこの場で切腹するつもりだったのである。だがせめて家老の大星由良助が国許から戻るまでは、ほかの家臣たちにも目通りすまい…と待つが、なかなか現れない。
判官は力弥に尋ねた。「力弥、力弥、由良助は」「いまだ参上仕りませぬ」「…エエ存命に対面せで残念、残り多やな。是非に及ばぬこれまで」と、遂に刀を腹に突き立て、近くにいたかほよがそのさまを正視できず目に涙して念仏を唱える。そのとき大星由良助が国許より駆けつけ、後に続いて一家中の武士たちが駆け入った。「ヤレ由良助待ち兼ねたわやい」「ハア御存生の御尊顔を拝し、身にとって何ほどか」「オオ我も満足…定めて仔細聞いたであろ。エエ無念、口惜しいわやい」…と判官は刀を引き回し、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」とのどをかき切って事切れた。由良助はその刀を主君の形見として押し頂き、無念の涙をはらはらと流すのだった。だがこれで判官の、余の仇を討てとの命が伝わったのである。
石堂は由良助に慰めの言葉をかけ、薬師寺とともに奥へ入った。上使の目を憚っていたかほよ御前はそれを見て、とうとうこらえきれず「武士の身ほど悲しい物のあるべきか」と判官のなきがらに抱きつき、前後不覚に泣き崩れるのだった。判官の遺骸は塩冶家菩提所の光明寺へと埋葬するため、駕籠に乗せられるとかほよも嘆きつつそれに付き添い館を出て、光明寺へと急ぐ。
(評定の段)そのあと、一家中で今後のことについての会議をすることになった。由良助は家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫はせがれの定九郎とともに立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに主君の命を伝え、仇討のためにしばらく時節を待つように話す。やがて明け渡しの時が来る。由良助たちは「先祖代々、我々も代々、昼夜詰めたる館のうち」も、もう今日で見納めかと名残惜しげに館を出る。
(城明け渡しの段)表門の前では屋敷明け渡しに反対する力弥ら若侍たちが険悪な雰囲気で立ち騒いでいる。そこへ出てきた由良助は判官が切腹に使った刀を見せ、師直に返報しこの刀でその首をかき切ろうと説得するので、人々は「げにもっとも」とその言葉に従う。だが屋敷の内には薬師寺が、「師直公の罰があたり、さてよいざま」というとどっと笑い声が起こる。その悔しさに屋敷内へと駆け込もうとする諸士を由良助はとどめ、「先君の御憤り晴らさんと思ふ所存はないか」というので皆は無念の思いを抱きつつも、この場を立ち去るのであった。
解説
原作の浄瑠璃では最初にかほよ御前が花を誂える「花籠の段」があり、切腹の前のほっと心の安らぐ場面といえるが、歌舞伎では「花献上」とも呼ばれるこの場面は通常省略される。ここに諸士頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が来て、九太夫は師直に賄賂を贈っておけばよかったなどという。この斧九太夫のモデルとなったのは赤穂藩家老の大野九郎兵衛で、判官切腹後の「評定」においても、亡君のあだ討ちより自分も含めた家中の諸士に金を配り、すみやかに屋敷を明け渡そうというなど、後の「忠臣蔵」の物語に見られる大野九郎兵衛のイメージがすでに描かれているといえよう。なお原作の浄瑠璃では、このあと五段目に出てくる九太夫のせがれ斧定九郎も「評定」に同席しているが、現行の舞台では出てこない。また現行の文楽では「評定」はふつう省略される。
この四段目は異名を「通さん場」ともいう。その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への出入りを禁じ、遅刻してきても途中入場は許されない。出方からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。成句「遅かりし由良之助」のもとになった大星由良助はここで初めて登場する。
原作の浄瑠璃では「花籠」からそのまま同じ場面で判官が切腹するように書かれているが、歌舞伎では「花献上」と「判官切腹」とは場面を分け、いったんかほよ以下の人物たちが引っ込むと襖や欄間などを「田楽返し」の手法で変え、「判官切腹」の場になった。またかほよ御前は原作では「花籠」からそのまま上使を出迎え、判官の切腹にも嘆きつつ立ち会う。そして判官が事切れそのなきがらが駕籠に乗せられると、それに付き添って館を出ることになっているが、現行の歌舞伎では上使の石堂と薬師寺が引っ込んだあと、葬礼を表す白無垢の衣類に切髪の姿ではじめて舞台に現われ、由良助に向って「推量してたもいのう」などと嘆きつつ声を掛け、そのあと焼香などあって駕籠に付き添い引っ込むという段取りとなっている。七代目尾上梅幸によれば、古くは塩冶判官役の役者は駕籠に乗せられて引っ込むと、そのまま駕籠を降りずに担がれて自宅に帰ったという。
「城明け渡し」では、原作の浄瑠璃では由良助は家中の侍たちとともに門前を立ち去るが、現行の歌舞伎では由良助は力弥を含めた諸士を説得しその場を去らせた後、一人残って紫の袱紗から主君の切腹した短刀を取りだし、切っ先についた血をなめて復讐を誓う。この場の侍たちは由良助の説得に「でも」と揃って言葉を返そうとするところから、「デモ侍」と俗称される。現行の文楽においては「デモ侍」は登場せず、歌舞伎と同じく由良助ひとりだけで立ち去る。
由良助が門前から立ち去るべく歩み始めると、表門が遠ざかってゆく。実際には表門の大道具を次第に舞台奥へと引いてゆくのであるが、上方の型では1枚の板に門を描いた大道具で、それが上半分が折れてかえすと小さく描かれた門になる「アオリ」を用い、どんどん門が遠ざかってゆく様を表す。もっとも六代目尾上梅幸によれば、表門を奥へと引くようになったのは九代目市川團十郎が由良助を演じた時に始めたことで、それまでは東京(江戸)でも上方式の「アオリ」だったという。
歌舞伎では釣鐘の音、烏の声に見送られ(これは舞台裏で烏笛という笛を吹く)、由良助は花道の七三のあたりで座って門に向かい両手を突くのが柝の頭、そのあと柝無しで幕を引く(上方は柝を打つ)。幕外、懐紙で涙をふき鼻をかみ、力なく立ちあがって、下手から登場した長唄三味線の送り三重によって花道を引っ込む。
この「城明け渡し」の表門には、太い青竹2本を門の扉に筋違いに打ちつけて出入りさせない様を見せることがあるが、これは上方の型と文楽で見られるものであり、東京の舞台ではこの青竹は江戸の昔から用いられない。閉門となった武家の表門には、実際に上記のごとく青竹を打ちつけた。江戸では旗本のほか諸藩の武士も多く集まるところから、それら武士の目に遠慮して「青竹」を見せなかったという。それは、たとえ芝居の上の絵空事であろうとも閉門を意味するこの「青竹」は、大名旗本に仕える武士にとっては目にしたくないものだったからだといわれている。大坂あたりでは町人が中心の都市だったので、これをさして気にもせず舞台で見せていたようである。当時お家(大名家)がお取り潰しになるということは、現代の大企業が倒産するといった以上の衝撃を世間に与えていたのであり、そのお取り潰しとなる様子を脚色して見せたのが『忠臣蔵』だったのである。 
五段目・恩愛の二つ玉
(鉄砲渡しの段)鎌倉より駆け落ちしたおかると勘平は、山城国山崎のおかるの実家にたどり着き、ふたりは夫婦となって暮らしていた。勘平は身過ぎとして猟師になり、この山崎のあたりで鹿や猿などを鉄砲でしとめ、今日も山中に獲物を求めて歩いている。そこへ六月(旧暦)の夕立に出くわし、あまりの雨の勢いの強さに松の木の下で雨宿りをする。だが雨はなかなか止まず、すでに日は暮れ夜になっていた。
うかつにも商売道具である火縄銃の火が、雨で消えてしまった。そこに運よく提灯を持ち合羽を着た男が通りがかるではないか。勘平はその提灯の火を分けてもらおうと、「イヤ申し申し。卒爾ながら火を一つ」とその男に近寄る。しかし男は鉄砲を所持している勘平を山賊だと思い込み身構え、「びくと動かば一討ち」と勘平を睨みつける。勘平は、こういう場所では盗賊と間違われるのも無理はないと思い、「鉄砲それへお渡し申す。自身に火を付けお貸し…」と言ったところで男が勘平の顔を見て、「早の勘平ならずや」と声を掛けた。なんと二人は顔見知り、この男はかつての塩冶判官の家臣、千崎弥五郎だったのである。
勘平は思いがけない朋輩との再会に驚き、しばしうつむいて言葉もなかった。お家の大事に有り合せる事ができず、こうして時節を待って主君判官にお詫びしようと思いのほか、ご切腹となってしまった。それというのもみな師直のせいとは聞いたが、どうすればその返報ができるだろうかと考えていたところ、仇討ちの謀議があるとの噂を聞いたので、ぜひともその連判状に加えてくれと勘平は千崎に頼む。千崎はそんな勘平の様子を見て不憫とは思ったが、かつての朋輩といえども仇討ちの大事を軽々しく口にはできぬと思い、「コレサコレサ勘平、はてさて、お手前は身の言い訳に取りまぜて、御企ての、連判などとは何のたはごと」とわざととぼけ、亡君の石碑建立の御用金を集めている…合点かと謎を掛ける。すなわち仇討ちのための資金を集めているということである。勘平はそれを飲み込み、その金を用立てると約束して今の住いを教える。千崎も承知し両名は別れた。
(二つ玉の段)二人が別れて去ったあとまた雨の降りだす夜道を、杖をついて老人がやってきた。そこへもうひとり、「オオイ親父殿、待って下され」の声とともに怪しげな男が追いかけてくる。男は斧九太夫の息子の定九郎、親に勘当されて今では薄汚い盗賊である。
「さっきにから呼ぶ声が、きさまの耳へは入らぬか…こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と定九郎は老人の懐から無理やり財布を引き出す。それを抵抗する老人に「エエ聞きわけのない。むごい料理するがいやさに、手ぬるう言えば付き上がる。サアその金をここへまき出せ。遅いとたった一討ち」と無残に斬りつけ、老人が自分の娘の婿のために要る金、お助けなされて下さりませと必死に頼むのも取り合うことなく、定九郎はむごたらしく老人を殺した。そしてその財布を奪い、中身が五十両あるのを確かめて「かたじけなし」と財布の紐を首に掛け、老人の死骸を近くの谷底に蹴り落とした。
だがそのうしろより、逸散に来る手負いの猪。定九郎はあやうくぶつかりそうになるのをよけ、猪を見送る。その瞬間、定九郎の体を二つ玉の弾丸が貫く。悲鳴を上げる暇もなく、定九郎はその場に倒れ絶命した。
定九郎が倒れている場所に、猪を狙って鉄砲を撃った勘平がやってくる。猪を射止めたと思う勘平は闇の中を、猪と思しきものに近づきそれに触った。猪ではない。「ヤアヤアこりゃ人じゃ南無三宝」と慌てるが、まだ息があるかもと定九郎の体を抱え起こすと、さきほど定九郎が老人より奪った財布が手に触れた。掴んでみれば五十両。自分が求める金が手に入った。「天の与えと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける」。
解説
ここから、場面は京に程近い街道筋へと変わる。この五段目の舞台となるのは「山崎街道」であるが、山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは山陽道のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、「天下分け目の天王山」で名高い山崎の戦いなど、幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は横山峠、すなわち現在の京都府長岡京市友岡二丁目の周辺であり、大山崎町ではない。
ところで、この五段目の定九郎に惨殺される老人とは何者か。後の解説に差し障るので先に白状すると、これはおかるの父与市兵衛である。その与市兵衛が雨の降る暗い中を、五十両という大金を持って道を急いでいるのはなぜか。その仔細は六段目で明らかになる。
五段目とこのあと続く六段目の勘平の型は三代目尾上菊五郎が演じたものを濫觴としており、これを五代目菊五郎が受け継ぎ、さらにその息子の六代目菊五郎が演じて完成させたもので、現行の東京式ではこれ以外の勘平の型はない。五代目尾上菊五郎は九代目市川團十郎とともに「團菊」とならび称された名優である。
「鉄砲渡し」は上方では「濡れ合羽」ともいう。千崎弥五郎は東京の型では蓑を着ているが、上方では合羽を着ているからである。時は旧暦の「六月二十九日」(現在の真夏、7月〜8月)の深夜。この日が「六月二十九日」だったというのは、のちの七段目に出てくる。旧暦(太陰太陽暦)の「二十九日」は月の出ない暗闇である。天候は強烈に打ちつける雨が降っている(舞台構成上、これは強調されていない)。幕が開いて最初は勘平が笠で顔を隠し、時の鐘で笠をどけて顔を出す。まっ暗闇の舞台に勘平の白い顔が浮かび上がる優れた演出である。
「二つ玉」のくだりについては、現行の歌舞伎においては上で紹介した原作のあらすじからはかなり違った内容となっている。大きく異なるのは定九郎と与市兵衛にかかわる部分で、東京(江戸)での型、いまひとつは上方に残る型の二つがある。三人の人物が出てくるが、まずは現行の東京式の段取りを紹介すると次のようになる。
「鉄砲渡し」で勘平と千崎が別れて引っ込んだあと、舞台が廻って舞台中央に稲束のかかった稲掛け(稲束で出来た塀のように見える)、その左右に草むら等のある舞台面となる。「又も降り来る雨の足、人の足音とぼとぼと、道の闇路に迷わねど、子ゆえの闇に突く杖も、直ぐなる心、堅親父」という床の浄瑠璃のあと、与市兵衛が花道より出てきてそのまま本舞台に行き、稲掛けの前で休もうと座る。そこでいろいろとせりふがあって、最後に与市兵衛が財布を押し頂くと、後ろの稲掛けより手が伸びて財布を奪う、与市兵衛は驚いて稲掛けの中に入ろうとする。と、与市兵衛が刺されてうめき声を上げ倒れ事切れる。そして稲掛けの中から財布を咥え、抜き身を持った定九郎が現われ、着物の裾で刀の血糊を「忍び三重」という下座音楽に合わせてぬぐい、財布の中身を探って「五十両…」というせりふ。原作と違って定九郎が与市兵衛を追いかけ、声をかけることは無い。その場を立とうと定九郎は与市兵衛の死骸を草むらに蹴り込み、蛇の目傘を差して花道にかかるが、花道向うから猪が走ってくる様子に定九郎は慌て、本舞台に戻り稲掛けの中に隠れる。花道から猪が出て本舞台へと行き、その中をひとまわりして駆ける。猪は上手に入り消える。定九郎は猪から逃げようと稲掛けの中から後ろ向きに出かかり立ち上がる。その姿は猪のようである(猪のように見せなくてはならない)。と、ぬかるみに片足を取られてよろめく。すると鉄砲の音とともに、定九郎、血を吐きあおむけに倒れこむ。花道から出てきたのは、今発射したばかりの鉄砲を抱えた勘平。さらに花道で鉄砲を構え、本舞台に向けて撃つ。片手で火のついた火縄の真ん中を持ち、先端をぐるぐると回しながら本舞台へと行き、鉄砲の火を消し獲物に縄をかけるも、どうやら様子が変だ。「コリャ人!」薬はないかと死者の懐を探り財布の金を探し当て、いったんは財布を戻して去ろうとするが再び戻って財布を手にし、「天の助けと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに」の浄瑠璃通り花道を引っ込む(非常に技巧的に難しい)。
上方歌舞伎の演出はこれとはまた違っている。与市兵衛が現れて稲掛けの前にしゃがみこんだところ、突如二本の手が現れ、与市兵衛の足元をつかむ。定九郎の手である。そのまま引き込んで、与市兵衛を刺し殺す。定九郎は、やはり与市兵衛を殺すまで一言も発しない。また定九郎のなりは山賊そのもののぼろの衣装である。通常この役は端役として大部屋役者に割り当てられる。二代目實川延若は勘平、与市兵衛、定九郎三役早替りの演出を行っていた。この型は三代目實川延若を経て今日では四代目坂田藤十郎に伝わっている。上方歌舞伎らしい見せ場の多いやりかたである。
初代中村仲蔵はこの定九郎の人物設定そのものを変え、二枚目風の役にした。五段目の定九郎はもとはどてら姿のいかにも山賊らしい拵えだったのが、仲蔵は黒羽二重の着付け、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えにしたのである。そもそも定九郎は、勘当される前は家老の息子である。この仲蔵がはじめた拵えは大評判となり、以後ほかの役者もこの姿で演じ、定九郎は若手人気役者の役ともなった。また仲蔵自身も、門閥外だったにもかかわらず大きく出世する節目となる役であった。この仲蔵の創案した拵えは「仲蔵型」と呼ばれ、文楽にも逆輸入され演じられている。
ただし仲蔵はその扮装を大きく変えはしたものの、実際にはおおむね上で紹介した原作の内容通りに演じたようである。定九郎が現在のように稲掛けから現れるようになったのは、四代目市川團蔵が定九郎と与市兵衛を早替りでやったときの型が伝わったもので、稲掛けの中で与市兵衛から定九郎へと早替りして出た。この早替りでの段取りを、定九郎と与市兵衛を別々の役者で演じても使うようになったのである。また『仮名手本忠臣蔵』を演じた役者たちの評を集めた『古今いろは評林』(天明5年〈1785年〉刊)には仲蔵の定九郎について、「仲蔵二度目あたりより黒羽二重の古き着物に成り、やぶれ傘さして出るなど仕はじめたり」とある。仲蔵がはじめて定九郎を演じたとき、今のような黒地の着物だったかどうか定かではなく、傘も持っていなかったらしいことが伺える。仲蔵は定九郎を生涯に八度演じたが、そのなかで回を重ねるごとに拵えなどを工夫し「仲蔵型」を作り上げたと見られ、それがのちの役者たちに受け継がれている。
この定九郎に九代目團十郎は、さらに多くの演出変更を行なった。その一つが金を数える定九郎の科白である。「五十両、かたじけない」というせりふだったのを、「かたじけない」を取り「五十両…」だけにした。つまり歌舞伎では全編を通して、定九郎の科白が「五十両」たった一つだけになったのである(現行では、四段目に定九郎は出ない)。
ところで従来から問題になっているのが、「二つ玉」についての解釈である。浄瑠璃の本文では「…あはやと見送る定九郎が、背骨をかけてどっさりと、あばらへ抜ける二つ玉」とあり、「玉」とは鉄砲の弾丸のことだが、この「二つ玉」の「二つ」が何を意味するかで解釈が分かれている。東京式では「二つ」とは回数のことだとして勘平は鉄砲を二発撃ち、二発目は花道に出て鉄砲を構え撃つ。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち「火薬が二倍使われている威力の強い玉」と解釈し一発しか撃たず、花道で撃つこともない。『浄瑠璃集』(『新潮日本古典集成』)の注では「二つ玉」について『調積集』を引き、それによれば弾丸と火薬を二発分、銃にこめて撃つことであるとしている。なお十三代目片岡仁左衛門は上方歌舞伎の役者だが、鉄砲を東京式に二発撃っている。「出てきて、一発撃ってきまると、きっぱりする」からだという。
原作では「飛ぶがごとくに急ぎける」と、金を手にした勘平はすぐさまその場を走り去るが、歌舞伎では探り当てた財布をいったん手放して花道へと行き、しかし「あの金があれば…」と考えてまた戻り、金を手にすると花道を駆けて引っ込む。そのまま何の気兼ねも無く金を持っていったのでは、のちの六段目の勘平に同情が集まらないということで工夫された型である。これも三代目菊五郎の工夫と伝わる。 
六段目・財布の連判
(身売りの段)勘平が定九郎を誤って撃ち、その懐から金を奪って去った夜、その夜も明けて朝が来た。ここは勘平夫婦が身を寄せているおかるの親与市兵衛の家である。
寝床より起きたおかるが身仕舞いをすますところに、与市兵衛の女房でおかるの母が帰ってきた。与市兵衛は前日から出かけており、それがもう戻ってもよい時分なのにまだ帰らないので、母が近くまで様子を見に行っていたのだった。与市兵衛を案じる母と娘が話をする中、そこに京の祇園町から人が訪れる。それは女郎屋一文字屋の主人であった。
おかるは、じつはこの一文字屋に女郎として身を売ることになっていた。与市兵衛はその相談に京の都まで行き、一文字屋におかるの身売りを条件に百両の金を貸してくれるよう頼んだので、一文字屋は与市兵衛と証文を交わし、前金として五十両の金を渡すと与市兵衛は喜んで帰っていった。それが昨夜の四つ時のことである。だがその与市兵衛はまだ戻らない。とにかく証文を交わして金を渡したからにはもはやこちらの奉公人、おかるは連れて行くと一文字屋は後金の五十両を出し、母親が止めるのも聞かずに同道してきた町駕籠におかるを押し込みこの家を立とうとする。そこへ鉄砲を持った勘平が帰ってきた。
勘平はこの場の仔細を聞いた。おかるの母は、予てから勘平には金が要る事があると以前より娘おかるから聞いていたので、どうにかしてそれを工面してやりたいと思っていたが、ほかに当てもない。そこで与市兵衛が娘を売り金にして婿の勘平に渡そうと考え、昨日からその与市兵衛が祇園町まで行きこの一文字屋と話をつけ、前金の五十両を受け取ったはずだがまだ戻らないと勘平に話す。勘平は与市兵衛夫婦の心遣いに感謝し、与市兵衛がまだ戻らぬうちは女房は渡せないという。
だが、一文字屋の話に勘平は愕然とする。
与市兵衛は五十両の金を持っていく時、手ぬぐいを金にぐるぐる巻いて懐に入れた。それでは危ないと一文字屋は与市兵衛に財布を貸した。与市兵衛はその財布に五十両を入れて持って帰った。その財布とはいま自分が着ているものと同じ縞模様の布地だという。まさか…と勘平は昨夜の死体(定九郎)から自分が奪った財布をこっそり見た。見れば一文字屋が着ているものと全く同じ色と模様。なんということだ、昨夜自分が鉄砲で撃ち殺し、その懐から金を奪ったのは他ならぬ舅どの…!
あまりのことに勘平が放心していると、おかるが父与市兵衛に会わずこのまま行ってよいものかどうか尋ねる。勘平は、じつは与市兵衛には今帰った道の途中で出会ったから、安心するようにと、やっとの思いでいう。おかるはその言葉で納得し、夫や親との別れを惜しみながらも、一文字屋の用意した駕籠に乗って京の祇園町へとは向かうのだった。
(勘平切腹の段)嘆き悲しみながらもおかるを見送った母親は、勘平に与市兵衛のことを尋ねる。さきほど途中で会ったといったが、どこで会ったのか。だがそれについて勘平が、まともに答えられるわけがない。そこへ、猟師たちが与市兵衛の死骸を戸板に乗せてやってきた。夜の猟を終えて帰る途中、与市兵衛が死んでいるのを見かけたのだという。母は夫与市兵衛の死骸を見て驚き、泣くより他の事はなかった。猟師たちもこの場の様子を不憫に思いつつ立ち去る。
ふたりきりになった勘平と母。母は涙ながら勘平に問う。いかに以前武士だったとはいえ、舅が死んだと聞いては驚くはず。道の途中で会った時、おまえは金を受け取らなかったか。親父殿はなんといっていた。返事ができないか。できないだろう、できない証拠はこれここにと、勘平に取り付いてその懐から財布を引き出した。
さっき勘平がこの財布を出していたのを、母はちらりと見ていたのである。財布には血も付いている。一文字屋がいっていた財布に間違いない。「コレ血の付いてあるからは、こなたが親父を殺したの」「イヤそれは」「それはとは。エエわごりょはのう…親父殿を殺して取った、その金誰にやる金じゃ…今といふ今とても、律儀な人じゃと思うて、騙されたが腹が立つわいやい。…コリャここな鬼よ蛇よ、父様を返せ、親父殿を生けて戻せやい」と母は勘平の髻を掴んで引寄せ、散々に殴り、たとえずたずたに切りさいなんだとて何で腹が癒えようと、最後は泣き伏すのだった。勘平もこれは天罰と、畳に食いつかんばかりに打ち伏している。そんなところに、深編笠をかぶったふたりの侍が訪れた。
訪れたのは千崎弥五郎と原郷右衛門である。勘平は二人を出迎え、内に通した。勘平は二人の前に両手をつき、亡君の大事に居合わせなかった自分の罪が許され、その御年忌に家臣として参加できるよう執り成しを頼む。だが郷右衛門の言葉は勘平の期待を裏切る。勘平はじつは、ここに帰る途中で大星由良助に弥五郎を通じて例の五十両の金を届けていた。しかし由良助は、殿に対し不忠不義を犯した駆け落ち者からの金は受け取れないとして、金を返しに郷右衛門たちを遣わしたのである。郷右衛門は勘平の前に五十両を置く。
そんな様子を聞いていた母は、「こりゃここな悪人づら、今といふ今親の罰思ひ知ったか。皆様も聞いて下され」と、勘平が与市兵衛を手にかけたといういきさつを話し、お前がたの手にかけてなぶり殺しにして下されと、ふたたび泣き伏す。郷右衛門と弥五郎はびっくりし、刀を取って勘平の左右に立ち身構えた。
弥五郎は声を荒らげ「ヤイ勘平、非義非道の金取って、身の咎の詫びせよとはいはぬぞよ。わがような人非人武士の道は耳には入るまい」と睨み付け、郷右衛門も「喝しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ。舅を殺し取ったる金、亡君の御用金になるべきか。生得汝が不忠不義の根性にて、調へたる金と推察あって、突き戻されたる由良助の眼力あっぱれ…汝ばかりが恥ならず、亡君の御恥辱と知らざるかうつけ者。…いかなる天魔が見入れし」と、やはり勘平を睨みつけながらも、目には涙を浮かべるのであった。堪りかねた勘平は、もろ肌を脱ぎ差していた脇差を抜いて腹に突っ込んだ。
「亡君の御恥辱とあれば一通り申し開かん」と、勘平はこれまでのいきさつをふたりに話した。昨夜弥五郎殿に会った帰り、猪に出くわし撃ちとめたと思った、だがそれは人だった。とんでもないことをした、薬はないかとその懐中を探ると財布に入れた金、道ならぬこととは思ったがこれぞ天の与えと思い、弥五郎殿のあとを追いかけその金を渡した。だがこの家に帰ってみれば、「打ちとめたるは我が舅、金は女房を売った金。かほどまでする事なす事、いすかの嘴(はし)ほど違ふといふも、武運に尽きたる勘平が、身のなりゆき推量あれ」と、無念の涙を流しつつ語るのだった。
話を聞いた弥五郎は、郷右衛門とともに与市兵衛の死体を改めた。見るとその疵口は、鉄砲疵にはあらで刀疵。それを聞いた勘平も母もびっくりする。そういえばここへ来る道の途中、鉄砲に当って死んだ旅人の死骸があったが、近づいてよく見ればそれは斧九太夫のせがれ定九郎であった。九太夫にも勘当され山賊に身を落としたと聞いてはいたが、さては与市兵衛を殺したのは定九郎だったのだと郷右衛門は語る。勘平の疑いは晴れた。知らぬうちに定九郎を撃って舅の仇討をしたのである。母は誤解だったことがわかり勘平に泣いて詫びる。だが遅すぎた。郷右衛門たちの心遣いで瀕死の勘平の名は討入りの連判状に加えられた。勘平と母親は、財布と五十両の金を出し、せめてこれらを敵討ちの供に連れてゆくよう頼む。郷右衛門はそれを聞き入れ、財布と金を取り収める。やがて勘平は息絶えた。涙に暮れる母の様子を不憫と思いつつも、郷右衛門と弥五郎はこの場を立つのであった。
解説
勘平は前段五段目の時点で、師直への仇討ちの謀議を知っており、その仲間に加わりたがっている。そのためには活動資金が必要であることも知っていた。そこでおかるの父与市兵衛は勘平のために、勘平には内緒で京の遊郭一文字屋に行き、おかるの身を百両で売ることになった。与市兵衛は一文字屋から支払われた前金の半金五十両を手にして、京から自宅への帰途に着く。
この五十両が、そのまま勘平に渡ればなんとも無い話である。ところが与市兵衛は道中盗賊(定九郎)に襲われ、金と命を奪われる。たまたまそのとき、勘平はその付近で猟をしており、定九郎を猪と間違えて偶然に誤射し、これも死んでしまう。勘平は定九郎が大金の入った財布を持っていることに偶然に気づき、持ち主を失ったその財布を横領する。かくして、金五十両は勘平に直接渡らず悪党定九郎を経由したことにより、犯罪の金となってしまう。後でそれが大変な悲劇、つまりこの六段目の勘平切腹につながる。与市兵衛の女房はその挙動と財布から勘平が夫を殺したと思い、勘平も夜の闇の中で何者であるか知らないで取った財布だけに、自身が舅与市兵衛を殺したものと思い込み気も動転してしまうのである。誤解が誤解を生む悲劇、その典型といえよう。
切腹し瀕死の勘平が後悔にふける「いかばかりか勘平は色にふけったばっかりに」という科白が有名だが、じつは原作の浄瑠璃にはこのせりふにあたる本文はなく、歌舞伎における入れ事である。またおかるの母(与市兵衛の女房)も原作の浄瑠璃では名は無く、歌舞伎では「おかや」という名が付いている。ほかにも一文字屋についても現行の歌舞伎では出てくることはなく、かわりに一文字屋の女将でお才という女が来ておかるを連れて行く。さらに判人(女衒)の源六という男もこのお才に付き添い出てくる。原作では勘平のもとを訪ねるのは千崎弥五郎と原郷右衛門であるが、郷右衛門を不破数右衛門に替えて演じることが多い。
勘平の切腹はいわゆる手負事である。原作の浄瑠璃では上でも紹介したように、勘平は郷右衛門と弥五郎に問い詰められたすえ切腹するが、歌舞伎では問い詰めたあとに郷右衛門が「かような所に長居は無用、千崎氏、もはや立ち帰りましょう」弥五郎「左様仕ろう」と両人が帰ろうとするのを勘平が必死になって引きとめ、申し開きをして最後に「…金は女房を売った金、撃ちとめたるは」郷右衛門・弥五郎「撃ちとめたるは」勘平「舅どの」のせりふで郷右衛門たちが「ヤヤ、なんと」と驚き叫ぶのをきっかけに腹を切る。
ただしこれは東京式での段取りで、上方では勘平が切腹する段取りはかなり違う。勘平が上の段取りで腹を切り、そのあと与市兵衛の傷を郷右衛門たちが改めたことにより勘平の無実が晴れる。上方では郷右衛門たちが与市兵衛の傷を改めている間、勘平の無実が晴れる寸前に勘平は腹を切る。これは「いすかの嘴の食い違い」という浄瑠璃の言葉どおりに行うという意味である。また勘平の死の演出は、「哀れ」で本釣鐘「はかなき」で喉を切りおかやに抱かれながら手を合わせ落ちいるのが現行の型だが、這って行って平服する型(二代目実川延若)もある。これは武士として最期に礼を尽くす解釈である。また上方は、勘平の衣装は木綿の衣装で、切腹ののち羽織を上にはおる。最後に武士として死ぬという意味である。東京の型では、お才らとのやりとりの間に水浅葱(水色)の紋付に着替える。この時点で武士に戻るという意味であり、明るい色の衣装で切腹するという美しさを強調している。論理的な上方と耽美的な東京(江戸)の芸風の相違点がうかがわれる。なお文楽でも勘平は紋付に着替えるが、それは郷右衛門たちが来てからの事である。
勘平は十五代目市村羽左衛門、初代中村鴈治郎、二代目實川延若、十七代目中村勘三郎がそれぞれ名舞台だったが、抜群なのは六代目尾上菊五郎の型である。菊五郎は絶望の淵に墜ちていく心理描写を卓抜した表現で勤め、現在の基本的な型となっている。おかやは老巧な脇役がつとめることで勘平の悲劇が強調されるのでかなりの難役である。戦前は初代市川延女、戦後は二代目尾上多賀之丞、五代目上村吉彌、二代目中村又五郎が得意としていた。祇園の女将お才は花車役という遊里の女を得意とする役者がつとめる。十三代目片岡我童や九代目澤村宗十郎が艶やかな雰囲気でよかった。お才につきそう判人源六は古くは名脇役四代目尾上松助の持ち役だったが、戦後は三代目尾上鯉三郎が苦み走ったよい感じを出していた。 
七段目・大臣の錆刀
(祇園一力茶屋の段)ここは京の都、遊郭や茶屋の連なる夜の祇園町。その祇園町の一力茶屋に師直の家来鷺坂伴内とともにいるのは、もと塩冶の家老斧九太夫である。九太夫は師直の側に寝返り内通していた。
二人は大星由良助が、仇討ちを忘れてしまったかのように祇園で放蕩に明け暮れているという噂を聞き、それを確かめにきていたのだったが、由良助は二階座敷で遊女たちを集め酒宴を開き、高い調子で太鼓や三味線を囃させ騒いでいる。これを下から見ていた九太夫も伴内も呆れるが、なおも由良助の心底を見極めようと、座敷に上がり、ひそかに様子を伺うことにした。
そのあと、もと塩冶の足軽寺岡平右衛門の案内で、これも塩冶浪士の矢間十太郎、千崎弥五郎、竹森喜多八の三人が一力茶屋を訪れる。矢間たちも由良助の放蕩を聞き心配して尋ねに来たのだったが、敵討ちのことを尋ねられた由良助は酔っ払ってまともに相手にならない様子である。怒った矢間たちは「性根が付かずば三人が、酒の酔いを醒ましましょうかな」と由良助を殴ろうとするも、平右衛門に止められる。敵討ちの同志に加わりたいと平右衛門は由良助に願い出るが、由良助は話をはぐらかして相手にせず、敵討など「人参飲んで首くくるような」馬鹿げたものだと言い放つ。矢間たちはいよいよ腹を立て、「一味連判の見せしめ」と由良助を斬ろうとするが平右衛門は矢間たちをなだめ、ひとまず別の座敷へと三人をいざないその場を立った。
由良助は酔いつぶれて寝ている。そこへ人目を避けながら力弥が現われるとむっくと起きた。力弥はかほよ御前からの急ぎの密書を由良助に渡し、またその伝言として師直が近々自分の領国に帰ることを告げて去る。由良助が密書を見んと封を切ろうとするところ、九太夫が現われる。
由良助は九太夫と盃を交わす。今日は旧主塩冶判官の月命日の前日、すなわち逮夜で本来なら魚肉を避けて精進すべき日であった。九太夫は由良助の真意を探ろうと、わざと肴の蛸を勧めるが、由良助は平然とこれを食し、幇間や遊女たちと奥へと入る。伴内が出てきて「主の命日に精進さへせぬ根性で、敵討ち存じもよらず」と九太夫と話すが、ふと見ると由良助は自分の刀を置き忘れていた。「ほんに誠に大馬鹿者の証拠」と、こっそり由良助の刀を抜いて見ると、刀身は真っ赤に錆びついている。「さて錆たりな赤鰯、ハハハハハ…」と嘲笑する二人。だが九太夫は、まだ由良助のことを疑っていた。最前、力弥が来て由良助に書状を渡すのを見かけたからで、それについての仔細を確かめるべく、座敷の縁の下に隠れて様子を伺うことにする。伴内は九太夫が駕籠に乗って帰ると見せかけ、空の駕籠に付き添い茶屋を出て行った。
あの勘平の女房おかるははたして遊女となっていたが、今日は由良助に呼ばれてこの一力茶屋にいた。飲みすぎてその酔い覚ましに、二階の座敷で風に当っている。その近くの一階の座敷、由良助が縁側に出て辺りを見回し、釣燈籠の灯りを頼りにかほよからの密書を取り出し読み始めた。そこには敵の師直についての様子がこまごまと記されている。だがそれを、二階にいたおかると縁の下に隠れていた九太夫に覗き見されてしまう。密書を見るおかるの簪が髪からとれて地面に落ちた。その音を聞いた由良助ははっとして密書を後ろ手に隠す。「由良さんか」「おかるか。そもじはそこに何してぞ」「わたしゃお前にもりつぶされ、あんまり辛さに酔いさまし。風に吹かれているわいな」
由良助は、おかるにちょっと話したい事があるから、そこから降りてここに来るよう頼む。そばにあった梯子で、わざわざおかるをふざけながら下へと降ろす由良助。そしておかるに「古いが惚れた」、自分が身請けしてやろうと言い出した。男があるなら添わしてもやろう、いますぐ金を出して抱え主と話をつけてやるといって、由良助は奥へと入った。
夫勘平のもとへ帰れるとおかるが喜んでいると、そこに平右衛門が現れる。おかるはこの平右衛門の妹であった。おかるは由良助が読んでいた書状の内容について、平右衛門にひそかに話した。平右衛門「ムウすりゃその文をたしかに見たな」おかる「残らず読んだその跡で、互いに見交わす顔と顔。それからじゃらつき出して身請けの相談」「アノ残らず読んだ跡で」「アイナ」「ムウ、それで聞えた。妹、とても逃れぬ命、身共にくれよ」と平右衛門は刀を抜いておかるに斬りかかろうとする。驚くおかる、ゆるして下さんせと兄に向って手を合わせると、刀を投げ出しその場で泣き伏した。
平右衛門は、父与市兵衛が六月二十九日の夜、人手にかかって死んだことをおかるに話した。おかるはびっくりするが、「こりゃまだびっくりするな。請出され添おうと思ふ勘平も、腹切って死んだわやい」と、勘平もすでにこの世にいないことを話す。あまりのことに兄に取り付き泣き沈むおかる。だがあの由良助がおかるをわざわざ身請けしようというのは、密書の大事を漏らすまいと口封じに殺すつもりに違いない。ならば自分が妹を殺し、その功によって敵討ちに加えてもらおうと、平右衛門は悲壮な覚悟でおかるに斬りつけたのである。「聞き分けて命をくれ死んでくれ妹」と、おかるに頼む平右衛門。
おかるは、「勿体ないがとと様は非業の死でもお年の上。勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのはさぞ口惜しかろ…」となおも嘆くが、やがて覚悟を決めて自害しようとする。そこに由良助が現れ、「兄弟ども見上げた疑い晴れた」と敵と味方を欺くための放蕩だという本心をあらわし、平右衛門は東への供を、すなわち敵討ちに加わることを許し、妹は生きて父と夫への追善をせよと諭す。さらにおかるが持つ刀に手を添えて床下を突き刺すと、そこにいた九太夫は肩先を刺されて七転八倒、平右衛門に床下から引きずり出された。
由良助は九太夫の髻を掴んで引き寄せ、「獅子身中の虫とはおのれが事、我が君より高知を戴き、莫大の御恩を着ながら、かたき師直が犬となって有る事ない事よう内通ひろいだな…」と、あえて主君の逮夜に魚肉を勧めた九太夫を、土に摺りつけねじつける。九太夫はさらに平右衛門からも錆刀で斬りつけられ、のた打ち回り、ゆるしてくれと人々に向って手を合わせる見苦しさである。由良助は、ここで殺すと面倒だから、酔いどれ客に見せかけて連れて行けと平右衛門に命じる。そこへこれまでの様子を見ていた矢間たち三人が出てきて言う、「由良助殿段々誤り入りましてござります」。由良助「それ平右衛門、喰らい酔うたその客に、加茂川で、ナ、水雑炊を食らはせい」「ハア」「行け」
解説
大石内蔵助が敵の目を欺くため、京の祇園の遊郭で遊び呆けてみせるというのは「忠臣蔵」の物語ではおなじみの場面だが、そのおおもとになったのがこの七段目である。もっともこの七段目も、初代澤村宗十郎の演じた芝居がもとになっている。
この七段目は別名「茶屋場」とも呼ばれる。六段目で暗く貧しい田舎家での悲劇を見せた後、一転して華麗な茶屋の場面に転換するその鮮やかさは、優れた作劇法である。浄瑠璃では竹本座での初演時に6人の太夫の掛合いで以ってこの七段目を語っており、現行の文楽でも複数の太夫の掛合いで上演されている。浄瑠璃は「花に遊ばば祇園あたりの色揃え…」の唄に始まり(歌舞伎でもこの唄を下座音楽にして始まる)、綺麗な茶屋の舞台が現れる。
斧九太夫は師直の内通者、いわばスパイとして鷺坂伴内とともに登場する。さらにここに足軽の寺岡平右衛門が矢間、千崎、竹森の三人を連れてくる。これを「三人侍」というが、歌舞伎では同じ塩冶浪士でも、違う人物に替えて出すこともある。茶屋の喧騒の中、これらの敵味方が入り混じって由良助の真意を探ることになる。
仲居と遊ぶ由良助は紫の衣装が映える。心中に抱いた大望を隠し遊興に耽溺する姿は、十三代目片岡仁左衛門が近年随一だった。彼自身祇園の茶屋でよく遊んでいたので、地のままに勤めることができたのである。平右衛門は、十五代目市村羽左衛門、二代目尾上松緑が双璧。おかるは、六代目尾上梅幸が一番といわれている。
前半部の由良助が九太夫と酒を飲む茶屋遊びの件りでは、仲居や幇間たちによる「見たて」が行われる。見たてとは、にぎやかな囃子にのって、小道具や衣装ある物に見たてることである。九太夫の頭を箸でつまみ「梅干とはどうじゃいな」、酒の猪口(ちょこ)を鋸の上に置き「義理チョコとはどうじゃいな」、手ぬぐいと座布団で「暫とはどうじゃいな」といった落ちをつける他愛もない内容だが、長丁場の息抜きとして観客に喜ばれる。いずれも仲居や幇間役の下回り、中堅の役者がつとめる。彼らにとっては幹部に認めてもらう機会であり、腕の見せ所となっている。
幕切れ近く「やれ待て、両人早まるな」の科白で再登場する由良助は鶯色の衣装で、性根が変わっているさまを表す。歌舞伎では幕切れは、平右衛門が九太夫を担ぎ、由良助がおかるを傍に添わせて優しく思いやる心根で、扇を開いたところで幕となる。文楽では平右衛門が、両腕で九太夫を重量上げのように持ち上げるという人形ならではの幕切れを見せる。
この七段目の由良助は、初代澤村宗十郎の演技を手本として取り入れたものと伝わっている。『古今いろは評林』には次のようにある。
「…延享四卯年(1747年)、京都中村粂太郎座本の時、大矢数四十七本と外題して澤村宗十郎〈後に助高屋高助 元祖 訥子〉大岸役にて、六月朔日より初日、出して大入りを取りし也…今の仮名手本七ツ目(七段目)は此の時澤村宗十郎が形と成りて、凡そ其の俤を手本と成り来たれり…」
これは初代宗十郎が『大矢数四十七本』という忠臣蔵物の芝居で、大石内蔵助に当る「大岸宮内」という役を勤めたときの事を記しており、また『古今いろは評林』には由良助を当り役とした役者として、二代目宗十郎と三代目宗十郎の名があげられている。大石に当る役で茶屋遊びをするという初代宗十郎の芸が源流となって浄瑠璃の七段目が成立したが、一方それが二代目宗十郎、三代目宗十郎へと七段目の由良助として伝えられたのである。
なお大星由良助ではない「大岸宮内」の系統は、『仮名手本』上演後も演じられている。寛政6年(1794年)5月、江戸都座において『花菖蒲文禄曽我』(はなあやめぶんろくそが)が上演された。これは亀山の仇討ちを題材としたもので忠臣蔵物とは関わりがないが、このとき三代目宗十郎が演じたのが桃井家の家老「大岸蔵人」で、この大岸がやはり祇園町で遊ぶ場面があったようである。このときの宗十郎扮する大岸蔵人は東洲斎写楽のほか初代歌川豊国、勝川春英などが描いているが、紋所が宗十郎の定紋である「丸にいの字」になっているほかは、いずれも七段目の由良助そのままの姿である。 
八段目・道行旅路の嫁入
(道行旅路の嫁入〈みちゆきたびじのよめいり〉)由良助のせがれ力弥と加古川本蔵の娘小浪はいいなづけであったが、塩冶の家がお取り潰しになったことにより、その婚儀も本来流れるはずであった。力弥と添い遂げられないことを悲しむ娘を見て、母の戸無瀬はこの上は改めて娘小浪を力弥の嫁にしてもらおうと、供も連れずに母娘ふたりで、鎌倉から由良助たちのいる京の山科へと向う。
解説
加古川本蔵の妻戸無瀬と小波の母娘が嫁入の決意を胸に、二人きりで山科へと東海道を下る様子を見せる所作事である。その浄瑠璃の詞章には東海道の名所が織りこまれ、旅情をさそう。道具(背景)も旅程に合せて次々転換させたり、奴をからませるなどの演出がある。浄瑠璃の文句も東海道の名所旧跡を織り込み、許婚のもとに急ぐ親子の浮き浮きした気分を表す。立女形と若女形が共演する全段中最も明るい場面で、これが九段目の悲劇と好対照をなす。「八段目の道行は、九段目に続ける気持で踊れ」とは六代目中村歌右衛門の言葉である。しかし現行の歌舞伎では三段目の増補である『道行旅路の花聟』ばかりが上演され、この本来の内容である「道行旅路の嫁入」は近年の通し上演が七段目までしか出ないこともあり、ほとんど上演されることがない。
さて江戸では、義太夫狂言の道行は豊後節系の浄瑠璃で演じられるのが例であった。この八段目「道行旅路の嫁入」もその例に漏れず、曲を常磐津や清元にして上演されているが、その内容は『義経千本桜』四段目の「道行初音旅」と同様、原作の内容を増補している。たとえば『日本戯曲全集』に収録される清元所作事の『道行旅路の嫁入』(天保元年〈1830年〉4月、市村座)は、最初に原作どおり戸無瀬と小浪が出て所作があり引っ込むと、そのあとさらにお伊勢参りの喜之助と女商人のおかなというのが出てきて所作事となる。しかも肝心の戸無瀬と小浪は、子役に踊らせるという趣向であった。
ほかには文政5年(1822年)3月、中村座で八段目に常磐津を地にした『旅路の嫁入』が上演されている。このときは戸無瀬と小浪のほかに、それに従う供として関助と可内(べくない)という奴、そして女馬子のお六というのが出てくる。内容は戸無瀬と小浪が関助も交えての所作のあと、関助が悪心を起こし可内から路銀を奪おうとするのを、馬子のお六が可内に味方して立回りとなるといったものである。このときは三代目坂東三津五郎が戸無瀬と可内の二役、小浪とお六が五代目瀬川菊之丞、関助が中村傳九郎であった。この常磐津の曲は『其儘旅路の嫁入』(そのままにたびじのよめいり)と称し今に残っている。 
九段目・山科の雪転し
(雪転し〈ゆきこかし〉の段)雪の深く積った山科の由良助の住い。そこにあるじの由良助が、幇間や茶屋の仲居に送られて朝帰りである。由良助はいい歳をして積った雪を雪こかし、すなわち大きな雪玉にして遊ぶ。奥より由良助の妻お石が出てきて由良助に茶を出すが、それを一口飲んだ由良助は酔いが過ぎたかその場でごろりと横になってしまう。せがれの力弥も出てきたので、幇間や仲居たちは帰っていった。やがて由良助も丸めた雪が溶けぬよう、日陰に入れておけと言い残しお石や力弥とともに奥へと入った。
(山科閑居の段)加古川本蔵の妻戸無瀬と、その娘の小浪がこの山科の閑居に来る。小浪はすでに花嫁衣裳のなりで、本日この場で力弥との祝言をあげようという心積もりである。「頼みましょう」という戸無瀬の声に下女のりんが出て母娘を座敷に通し、やがてお石が二人の前に現われた。
戸無瀬は、以前よりいいなづけの約束があった力弥と小浪の祝言をあげさせたいので、本日娘を連れ、夫本蔵の名代として訪れた旨をお石に話す。だが、それに対するお石の返答はにべもない。以前確かにいいなづけの約束はしたが、今は浪人者のせがれでは下世話にいう提灯に釣鐘というもの。つりあわぬ縁だからこっちには気遣いせず、どこへなりともよそへ縁組して下さいというので、戸無瀬は思わぬ返答にはっとしながらも、もとは千五百石取りの国家老だった由良助殿、五百石取りの本蔵と釣合いが取れぬはずが無いというのを、「イヤそのお言葉違ひまする」とお石はさえぎった。
「五百石はさて置き、一万石違うても、心と心が釣合へば、大身の娘でも嫁に取るまいものでもない」「ムムこりゃ聞きどころお石様。心と心が釣合はぬと仰るは、どの心じゃサア聞こう」と戸無瀬はお石に詰め寄るが、お石は、旧主塩冶判官が師直に殿中で斬りつけたのは、師直よりあらぬ侮辱を受けて起こったこと、それに引き換えその師直に進物を贈って媚びへつらう追従武士の本蔵の娘では釣合わないから嫁にはできぬという。「へつらひ武士とは誰が事、様子によっては聞捨てられぬ…」と夫を罵られた戸無瀬は、それでもやはり娘可愛さから、なおも小浪を力弥の妻として認めてくれるようお石に頼む。が、お石は「女房なら夫が去る。力弥に代わってこの母が去った」と言い放ち、襖をぴっしゃりと締め奥へと入ってしまった。
これまでの様子を黙ってみていた小浪は、わっと泣き出す。戸無瀬は娘に、力弥のことは諦めてほかに嫁入りする気はないかと尋ねるが、あくまでも力弥と添い遂げたいという小浪の気持は変わらなかった。こうなってはせっかく送り出してくれた本蔵のところにも、もはや申し訳なさに帰れない。戸無瀬と小浪は、この場でともども自害しようとする。
戸無瀬は、差してきた本蔵の刀でまず娘を斬ろうとした。「母も追っ付けあとから行く。覚悟はよいか」と立ちかかると、ちょうど表には尺八を吹く虚無僧が来て、「鶴の巣籠り」の曲を奏でている。「鳥類でさへ子を思ふに、咎もない子を手にかけるは…」と嘆きのあまり足も立ちかね手も震えたが、何とかそれを押さえ、戸無瀬は刀を振り上げ小浪を斬ろうとした。その下に座す小浪は、念仏を唱えながら手を合わせている。このとき、奥より声が聞えた。
「御無用」 娘を斬ろうとする戸無瀬は、思わずこの声に動きを止めた。すると表に立っていた虚無僧も、尺八の音を止める。とまどう戸無瀬。いや、今の「御無用」とは虚無僧を追い払うための言葉であろう。自分たち母娘の自害を止めたのではないと、戸無瀬は「娘覚悟はよいかや」と再び刀を振り上げた。その拍子にまたも「御無用」の声。
「ムム又御無用ととどめたは、修行者(虚無僧)の手の内か、振り上げた手の内か」「イヤお刀の手の内御無用。せがれ力弥に祝言さしょう」と、お石が何も載せていない白木の三方を捧げ持ちながら、戸無瀬と小浪の前に現われた。「殺そうとまで思ひ詰めた戸無瀬様の心底、小浪殿の貞女、志がいとほしさにさせにくい祝言さす」というお石。だがそのためには、「世の常ならぬ」引き出物をこの三方で受け取ろうという。戸無瀬は自分が差している本蔵の刀を差し出そうとするが、お石はそれを受け取らない。「ムムそんなら何がご所望ぞ」「この三方へは加古川本蔵殿の、お首を乗せて貰ひたい」
「エエそりゃ又なぜな」と驚く戸無瀬にお石はさらにいう。本蔵が止めたせいで塩冶判官は殿中で師直を討ち果たすことが出来ず、むざむざとご切腹なされたのである。その憎しみが本蔵にかからないと思うのか。家来の身としてそんな本蔵の娘を、何の気兼ねも無しに嫁にできる力弥ではない。「サア、いやか、応かの返答を」とお石が迫る。戸無瀬と小浪はうつむいて途方にくれるばかりである。
そんなところに「加古川本蔵の首進上申す」と、それまで表にいた虚無僧が内へと入ってきた。編笠を脱いだその顔を見れば、それは他ならぬ加古川本蔵だったのである。戸無瀬も小浪もびっくりする。
「案に違はず拙者が首、引き出物にほしいとな。ハハハハハ…」と本蔵は、お石を嘲笑う。主人の仇を報じようという所存もなく遊興や大酒に溺れる由良助、そんな「日本一の阿呆のかがみ」ともいうべき者の息子へ娘を嫁にやるために、この首は切れぬといって三方を踏み砕いた。これにお石は「ヤア過言なぞ本蔵殿、浪人の錆刀切れるか切れぬか塩梅見しょう」と、長押の槍を取って本蔵に突きかかったが、本蔵も留め立てする戸無瀬と小浪を邪魔ひろぐなと退きのけてお石と争い、最後はお石が本蔵にねじ伏せられた。そこへ怒った力弥が出てきて、お石の手から離れた槍を取り上げ本蔵めがけて突く。槍は本蔵の脇腹を突き通した。槍を突かれて倒れる本蔵に、力弥は戸無瀬や小浪の嘆きも構わずに止めを刺そうとすると、「ヤア待て力弥早まるな」と由良助がその場に現れる。
「一別以来珍しし本蔵殿。御計略の念願とどき、婿力弥が手にかかって、さぞ本望でござろうの」と、由良助は娘のためわが身を犠牲にする本蔵の真意を見ぬいていた。
本蔵は語る。主人若狭之助が鶴岡で師直より受けた侮辱によりこれを恨み、討ち果たさんとするのを知った。そこで先回りして若狭之助にも知らせず、師直に進物を贈って機嫌を取り持った。この賄賂は功を奏したが、今度はその矛先が塩冶判官に向けられてしまった。塩冶判官が刃傷に及んだとき、飛び出してその後ろを抱きかかえて止めたのは、師直が軽傷で済めばまさか厳しいお咎めにはなるまいと判断したからであった。だがその予想は裏切られ判官は切腹、塩冶家はお取り潰しの憂き目にあう。おかげで力弥に嫁入りしようという娘小浪の難儀ともなった。だからせめてもの申し訳に、この首を婿の力弥に差し出そうというのである。「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心推量あれ由良殿」と、涙にむせ返りながら語る本蔵の様子に、戸無瀬や小浪はもとより大星親子三人もともに嘆くのであった。
由良助は障子を開け、奥庭に置いた雪で作ったふたつの五輪塔を見せる。由良助と力弥親子の墓のつもりである。覚悟のほどを見た本蔵は、「婿へのお引きの目録」と称して師直邸の絵図面を渡す。由良助は師直の館へ討入りの際、雨戸のはずし方について自ら庭に降り立ち、庭の竹をたわめてその反動ではずす方法を本蔵に見せると、本蔵は「ハハア、したりしたり」と誉めた。由良助は討入りの用意にすぐさま摂津の堺へと立つことにしたが、本蔵の使った深編笠や袈裟で虚無僧に変装する。本蔵は人々が嘆く中に事切れる。力弥と小浪は双方の親から晴れて夫婦と認められたが、それも一夜限りのこと、由良助はそんなふたりをあとに残し、堺に向けて出立するのだった。
解説
「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心」。この言葉は、娘小浪を思う加古川本蔵の親心をよく表しているといえるが、本蔵が命を捨てるのはわが子を思ってのことだけではない。
そもそも本蔵は、由良助たち塩冶浪士から見れば「部外者」である。本蔵にとっても塩冶判官がその身に咎ありとして上意により切腹、お家はお取り潰しになったからには、その家臣大星家との縁組も解消され、それらに関わるべき義理もいわれもない。大名家の家老という重い立場を思えばなおさらである。だが本蔵は、由良助たちも含めた塩冶家のことについて、無碍に切り捨てる事が出来なかった。力弥に槍で突かれた本蔵は由良助に物語る。「思へば貴殿の身の上は、本蔵の身に有るべき筈」と。つまりまかり間違えば若狭之助が師直に斬りつけ、その結果若狭之助が切腹、桃井家はお取り潰しになっていたということである。
ほんらい一触即発だったはずの若狭之助と師直とではなく、師直とは直接問題のなかったはずの塩冶判官が師直へ刃傷に及んでしまったのは、塩冶判官があるじ若狭之助の「身替り」になったようなものだとの思いが本蔵にはあった。また判官を止めたことで、却って判官とその家中にとっては事が裏目に出てしまう。塩冶家の人々に対する同情、そしてうしろめたさ。おおやけには本蔵自身に何の落ち度もないはずであるが、その同情とうしろめたさが本蔵を動かし、由良助に師直邸の図面を渡して婿の力弥にわが身を討たせる。これは主君若狭之助に対する「忠義」からの行動ではない。しかし宮仕えの侍の命は、「忠義にならでは捨てぬ命」である。だからこれは「子ゆえに捨つる親心」、すなわち娘可愛さから縁につながる婿の家に助力し、命を捨てるのだと本蔵は物語るのである。
現行の歌舞伎では上でも述べたように、通しでも七段目までしか出ないことから、八段目も含めて九段目を上演する機会は少なくなっており、上演される場合にはみどり狂言形式の興行において、一幕物の演目として出されることが多い。また現在は全く上演されないが、幕開きに由良助が仲居幇間をつれて大きな雪玉をころがして出てくる「雪転し」という端場がある。雪中の朝帰りという風情のあるもので、のちにこの雪玉が後半部、由良助が本蔵に覚悟のほどを見せる雪製の五輪塔(墓)になるのである。昭和61年(1986年)の国立劇場での通し上演ではこの場が上演されている。
戸無瀬親子が大星宅を訪れる時、下女りんが応対しとんちんかんなやりとりで観客を笑わせる。「寺子屋」の涎くり、「御殿」の豆腐買おむらのように、丸本物の悲劇には道外方が活躍する場面がある。緊張が続く場面で息抜きをするための心憎い演出である。それだけに腕達者な脇役がつとめる。古くは中村吉之丞、近年では加賀屋鶴助が持ち役にしていた。
本蔵と由良助、戸無瀬とお石との火花を散らす芸の応酬が見どころである。本蔵は十一代目片岡仁左衛門、由良助は八代目松本幸四郎、二代目實川延若がよかったといわれている。また、戸無瀬は三代目中村梅玉、お石が中村魁車。芸の上でしのぎを削りあった両優のやりとりは壮絶だった。戦後は六代目中村歌右衛門の戸無瀬、七代目尾上梅幸のお石が素晴らしかった。力弥は十五代目市村羽左衛門が一番だった。
本蔵や由良助をよく勤めた十三代目片岡仁左衛門は九段目がとても気に入っており、「本当の美しさ、劇の美しさは九段目やね。…この舞台に出てくる人間が、まず戸無瀬が緋綸子、小浪は白無垢、お石が前半ねずみで後半が黒。由良助は茶色の着付に黒の上で青竹の袴。…本蔵は渋い茶系の虚無僧姿。力弥は東京のは黄八丈で、上方だと紫の双ツ巴の紋付で出ます。みんなの衣装の取り合わせが、色彩的に言ってもこれほど理に叶ったものはないですわな」と、色彩感覚の見事さを評している。
原作の浄瑠璃では由良助が庭に降り立ち、竹をたわめて雨戸を外す仕組みを本蔵に見せることになっているが、歌舞伎では由良助に代って力弥がこれを行うように変えられている。文楽は原作通り由良助である。また文楽では大道具が逆勝手となっている。文楽、歌舞伎の大道具は通常いずれも家の入り口が下手側に設けられるが、この九段目では逆の上手側に設けており、これは人形を遣う上で、力弥が本蔵に向って槍を突くときに逆の勝手にしないと具合が悪いのだという。
なおこの段では実際の赤穂事件を当て込んだ言葉があり、由良助の妻「お石」は実際の「大石内蔵助」を指し、本蔵の「浅き巧みの塩冶殿」は実際の「浅野内匠頭」と赤穂の名産「塩」を利かせている。
本蔵下屋敷 / 九段目の前の話として、『増補忠臣蔵』という作者不明の義太夫浄瑠璃が明治に入ってから出来ている。通称『本蔵下屋敷』。内容は、本蔵が師直に賄賂を贈ったことを若狭之助が怒り、それにより本蔵は自宅とする桃井家の下屋敷で蟄居している。そこに若狭之助が来て本蔵を手討ちにしようとするが、じつは力弥に討たれたいとの本蔵の真意を悟り、師直館の見取り図と虚無僧の使う袈裟編笠を渡して暇乞いを許すというもの。ほかに若狭之助の妹三千歳姫と、若狭之助を毒殺しようとする敵役の井浪番左衛門が出てくる。歌舞伎にも移され古くは度々上演されたが、現在ではほとんど上演を見ない。 
十段目・発足の櫛笄
(人形まわしの段)ここは摂津堺にある廻船問屋の天河屋である。店は繁盛しその暮らし向きは豊かであったが、今この家にいるのは主人の天河屋義平とその息子の四つになるよし松、それと丁稚の伊吾八の三人。ほかの奉公人は義平が理由をつけて辞めさせてしまい、さらに義平は自分の女房さえも実家に帰してしまっているのだった。そのわけは、もと塩冶家の用向きを勤めていた義平が高師直を討たんとする大星由良助たちに味方し、そのための用意を手伝っているからで、この秘密を知られないための用心である。伊吾八は幼いよし松の機嫌をとるため、人形をもてあそびながらあやしている。
時もすでに黄昏時、大星力弥と原郷右衛門が天河屋を訪ねる。大星たちは明日にも出立して鎌倉に向かうことになっていた。義平は、大星たちが討入りに使う武器や防具類は、すでに船などで送る手はずになっていることをふたりに報告した。これを聞いた力弥は「天河屋の義平は、武士も及ばぬ男気な者」と言い、由良助にも知らせて安堵させようとふたりは店を去った。
そこへ入れ違いに現れたのは、義平にとっては舅の大田了竹である。了竹は、もと斧九太夫抱えの医者であった。その了竹のところに女房である園(その)を義平は預けていたが、了竹は理屈をつけて娘の園を離縁しろという。義平はなにかあるなとは思いながらも、園への離縁状を書いて了竹に渡した。なにか胡乱なことをしているらしい義平よりも、娘にはもっと身分のよい男のもとに嫁入りさせるつもりだと、なおも憎まれ口を叩く了竹を義平は蹴飛ばして店から追い出す。
(天河屋の段)夜になった。大勢の捕手が現われ店に踏み込み、義平を捕らえようとする。「コハ何故」という義平に対し、塩冶判官の家来大星由良助に頼まれ武器防具を鎌倉に送ろうとしたことが露見したので、義平を急ぎ捕らえに来たのだという。「これは思ひもよらぬお咎め、左様の覚えいささかなし」と言おうとする義平に捕り手たちは「ヤアぬかすまい、争はれぬ証拠有り」と、荷物を持ち込んだ。見ればそれは、義平が大星たちのために送る荷を入れた長持で、中には武具防具が入っている。そのまだ菰に巻かれて鍵のかかった長持を切り開こうとするのを見て義平は捕り手たちを蹴飛ばし、長持の上にどっかと座った。
これはさる大名家の奥方が使うわけありの道具が入っている、それを開けて見せてはそのお家の名が出て迷惑の掛かる事と、義平は長持を開けさせることを拒む。それを見た捕り手の一人が一間の内に駆け入り、義平の子のよし松を引き出した。「有りやうにいへばよし、言はぬと忽ちせがれが身の上、コリャ是を見よ」と、刀を抜いてよし松の喉もとに差しつけた。義平はこれを見てさすがにはっとしたが、顔色は変えずに次のように言った。「女わらべを責める様に、人質取っての御詮議。天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さぬ…」
だが捕り手たちもそれに退くことなく、「白状せぬと一寸試し、一分刻みに刻むがなんと」というが義平も「オオ面白い刻まりょう」と、ついには捕り手たちよりわが子をもぎ取って、自ら絞め殺そうという勢いである。だがそこへ、「ヤレ聊爾せまい義平殿」という声とともに、なんと長持の中から現れたのは由良助であった。
じつは捕手は大鷲文吾や矢間重太郎をはじめとする判官の家臣たちで、由良助は義平の心を試したのだと謝った上で、「武士も及ばぬ御所存、百万騎の強敵は防ぐとも、左程に性根は据はらぬもの」と義平を褒め称えるのであった。捕り手に化けていた人々も「無骨の段まっぴら」と、畳に頭を擦り付けるようにして義平に頭を下げる。やがて由良助はこの場を立とうとするが、義平は目出度い旅立ちに手打ちの蕎麦を差し上げたいというので、由良助は「手打ち」とは縁起がよいとその馳走に預かることにし、義平に案内されてみな奥へと入った。
そのあと、ひとりの女が提灯を持って、天河屋の戸口にまで来る。義平の女房の園である。鍵がかかっているので伊吾を呼ぶとやってくる。園がわが子よし松の様子を案じて伊吾に尋ねていると、義平が来て伊吾を奥へとやり、再び戸口に鍵をする。「コレ旦那殿、言ふ事があるここあけて」「イヤ聞く事もなし」と義平は聞く耳を持たない。義平は園の親の了竹が斧九太夫に繋がる悪人なので、園とはいったん縁を切る心であった。だが園は戸の隙間から、最前了竹が義平に書かせた離縁状を投げ入れた。了竹からこの離縁状を盗みこっそり抜け出して来た、了竹とは親子の縁を切るつもりだと園はいう。義平も、まだ幼子で母を慕うよし松のことを思うと不憫ではあったが、それでも了竹に渡したはずの離縁状を内緒で手にしては「親の赦さぬ不義の咎」、筋が通らないから持って帰れと離縁状を返し、戸口もしっかりと閉めてしまった。
ひとり表に残された園は、「咎もない身を去るのみか、我が子にまで逢はさぬは、あんまりむごい胴欲な」と、その場で嘆き伏してしまう。やがて、もうこうなっては親了竹のもとにも戻れない、自害して果てようとその場を立ち駆け出そうとした。するとそこへ、覆面をした大男が現われ園をひっ捕らえて髷を切り、園が髪に挿していた櫛や笄、また懐のものまで奪って逃げ去った。盗られたのは離縁状である。髪を切って離縁状まで奪ってゆくとはなんということか、いっそ殺してと園は泣き叫び、義平もこの表の様子に気付き驚いて飛び出そうとしたがそれを堪え、ためらいつつ門口にとどまる。
そこへ奥より由良助たちが出てきて、義平に暇乞いを述べ、出立しようとする。このとき由良助は世話になったお礼にと、白扇に載せたなにかの包み物を義平に贈ろうとしたが、義平はこれを金包みだと思い怒る。自分は礼が欲しくて世話をしたのではない、義心からのことであるという義平、しかし由良助は「寸志ばかり」のことと言い残し、そのまま表を出る。義平はいよいよ腹を立て、贈られた包み物を蹴飛ばした。するとその中から飛び出したのは金子にあらで、最前に園の頭から切った髪と櫛笄、そして離縁状。それらを表から見た園はびっくりして駆け寄る。義平も驚きつつ、さてはさっき園の髪を切ったのは由良助たちだったのだと気付く。それは由良助が大鷲文吾にやらせたことだった。
園の髪を切ったのは「いかな親でも尼法師を、嫁らそうとも言ふまい」、すなわち尼であれば、同じ屋根の下に暮らしていても夫婦とはいえないから、これで了竹に対しては申し訳が立つだろう。そして髪はいずれ伸びるから、その櫛笄が髪に挿せるようになったら改めて夫婦として縁を結べばよい。これが世話になった義平への返礼であった。義平は園とともに由良助に感謝する。そしてさらに由良助は、「兼ねて夜討ちと存ずれば、敵中へ入り込む時、貴殿の家名の天河屋を直ぐに夜討ちの合言葉」として、「天」と呼べば「河」と答えるよう定め、由良助たちは天河屋を出立するのであった。
解説
「天河屋義平は男でござる」の名科白で有名なのがこの十段目であるが、歌舞伎では天保以降幕末になるとあまり上演されなくなり、さらに戦前まではまだ上演の機会もあったが、現在ではほとんど上演されることがない。八代目坂東三津五郎は、この十段目が上演されなくなったのは幕末の世情不安から、その上演を憚る向きがあったのではないかと述べている。戦後も二代目市川猿之助、八代目三津五郎、昭和61年(1986年)12月国立劇場の通しで五代目中村富十郎が、平成22年(2010年)1月大阪松竹座の通しで五代目片岡我當が勤めたくらいである。ほとんど上演されないので、型らしい型も残っていない。
この十段目については、「作として低調」「愚作」といわれ評判が悪い。役者のほうでも、義平の心をしかも子供を枷にしてわざわざ試し、そのあと長持の中から出てくる由良助が、これでは演じていて気分が悪いと散々である。ゆえに由良助ではなく不破数右衛門をその代りとして出したこともあった。しかし寛延2年6月に中村座で上演されたときには二代目市川團十郎が義平を勤めており、しかも團十郎はこのとき義平の役ひとつだけであった。また『古今いろは評林』においても義平について、「立者の勤めし役也…海老蔵(二代目團十郎)仕内は各別なり」と記し、後半の女房の園とのやりとりをひとつの見せ場としていたことが伺える。
斧九太夫は師直に繋がる人物であり、その九太夫の掛り付けの医者だったのが義平の舅大田了竹である。九太夫は七段目の時点で死んだと見られるが、了竹はいまだ師直と繋がっている可能性があった。そこで義平は自分の女房の園から討入りの秘密が漏れぬよう、いったん自分のそばから園を遠ざけていたのである。そして案の定、離縁状を書いて渡したとき了竹は次のようにいう。
「聞けばこの間より浪人共が入り込みひそめくより、園めに問へど知らぬとぬかす。何仕出かそうも知れぬ婿、娘を添はして置くが気遣ひ。幸いさる歴々から貰ひかけられ、去り状(離縁状)取ると直ぐに嫁入りさする相談…」
要するに了竹は、義平が師直を仇と狙う塩冶浪士に加担しているのではと疑っていた。これでは園を呼び戻すことも出来ない。園がひそかに店の表に来て離縁状を持ってきたときも、義平は筋が通らぬといってそれを突き返したが、それだけではなく了竹本人のことが枷となっていたのである。しかし義平と園のあいだにはよし松という幼い子もあり、よし松のことを気遣い嘆く園を不憫であると義平も本心では思っていた。だがそうかといって今、中に入れるわけには…と、この女房とわが子をめぐる葛藤が、義平を演じる役者にとっては古くは見せ場のひとつになっていたということである。しかし初演からはるか後になるとこうした見どころも、人々の目から見れば飽き足らないものとなってしまったようである。なお「忠臣蔵」という言葉はこの段の最後に、「…末世に天(あま)を山といふ、由良助が孫呉の術、忠臣蔵ともいひはやす」と出ている。 
十一段目・合印の忍び兜
(討入りの段)ついにその日はやってきた。大星由良助らは渡し舟に乗り込み、ひそかに稲村ヶ崎に上陸する。陸に上がったのは一番が由良助、二番目が原郷右衛門。三番目が大星力弥…と、四十六名の者達が、揃いの袴に黒羽織、胴には「忠義」の文字を入れた胸当てを着け、さらに各々の名を記した袖印を付けている。予てよりの「天」と「河」との合言葉を忘れるなと云い合わせ、取るべき首はただひとつと、皆は師直の館へと向う。
かくとは知らぬ師直は、伝え聞いた由良助の放蕩が本当だと真に受け油断していた。今日も今日とて薬師寺次郎左衛門を客とし、芸子や遊女も呼んで酒宴の大騒ぎ、果ては酔いつぶれて誰彼の別なくその場で雑魚寝のだらしなさである。その油断を狙って矢間重太郎と千崎弥五郎が館の塀に梯子を掛け、そのまま登って塀の中へと忍び入った。館の内から表門のかんぬきを外し、皆を招き寄せる。館の建物には雨戸が入れてあったが、あの山科の閑居で由良助が本蔵に見せたように、竹をたわめて綱を張り、その綱を切った反動で雨戸をばらばらと外し、諸士は裏門からも提灯や松明を持って邸内へと乱れ入った。これに「スハ夜討ちぞ」と師直側も気付き斬り合いとなるが、由良助は「ただ師直を討取れ」と諸士に下知する。
すると師直の館の両隣にある屋敷でも師直邸での騒ぎに気が付き提灯を高く掲げ、何の騒ぎかと由良助たちに呼びかけた。由良助は、自分たちは塩冶判官の旧臣である、亡君の仇である師直を討ちに来たのであり、そのほかに危害を加えるつもりはないと申し述べると、両隣の二つの屋敷は神妙であると感心し、提灯を引いて静まり返った。
やがて戦いから一時ばかりが過ぎたが、師直側は手負いの者数知れず、味方は二、三人ばかりが薄手を追っただけである。ところが肝心の師直が、屋敷のどこを探しても見当たらない。もしや館から外へ逃れたのかと、寺岡平右衛門が表へと駆け出そうとするまさにその時、矢間重太郎が師直を引っ立てて現れた。柴部屋に隠れていたのを見つけたのだという。由良助は「出かされた手柄手柄。さりながらうかつに殺すな。仮にも天下の執事職、殺すにも礼儀有り」と師直を上座に据え、おとなしく首を渡すように述べると師直は、予てから覚悟はしていた、さあ首取れといいながら油断させ抜き打ちに切りかかった。だが由良助はそれを避け、「日ごろの鬱憤この時」と切りつけると、それに続いて浪士たちも師直に刀を浴びせ、最後は判官が切腹に使った刀によってその首を掻き切る。ついに本懐は遂げられた。一同の喜びようはこの上もなく、みな嬉し涙に暮れるのであった。
由良助は懐より塩冶判官の位牌を取り出し、師直館の床の間に据え、さらにその前に師直の首を置いて亡君に手向け、涙して礼拝する。その位牌へ焼香の一番目には、師直を見つけた矢間重太郎が行った。その二番目には由良助がと皆が勧めるが、由良助は「イヤまだ外に焼香の致し手有り…早の勘平がなれの果て」と言って懐より縞の財布を取り出した。これこそは勘平を苦しめ自害させ、そしてせめてこれだけでも討入りのお供にと勘平から託されたあの財布である。「金戻したは由良助が一生の誤り」と、寺岡平右衛門に「そちが為には妹聟」と財布を渡し、亡君への焼香をさせるのだった。平右衛門は「二番の焼香早の勘平重氏」と高らかに、しかし涙声で呼ばわって焼香する。浪士たちも勘平の身の上に、胸も張り裂ける思いである。
そのとき俄に人馬の声と陣太鼓、そしてときの声が上がる。さてはまだいる師直の家来たちが攻めかけてきたかと思うところ、そこへさらに駆けつけてきたのは桃井若狭之助。若狭助は、今表から攻めてきたのは師直の弟師安の手勢で、ここはひとまず判官の菩提所光明寺へと退くようにという。由良助たちはその言葉に従い、後のことは若狭之助に任せて立ち退くことにした。すると今までどこに隠れていたのか、薬師寺と鷺坂伴内が現われ「おのれ大星のがさじ」と討ってかかる。それらの相手に力弥が切り結び、最後は薬師寺も伴内も斬られて息絶える。それを見た人々は手柄手柄と賞美するのであった。
解説
すでに述べたように、『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっているが、これを内容の上で通常の五段続の義太夫浄瑠璃に当てはめるとすれば、次のようになる。
【大序、二段目、三段目】…初段
【四段目】…二段目
【五段目、六段目】…三段目
【七段目、八段目、九段目】…四段目
【十段目、十一段目】…五段目
五段続の浄瑠璃では五段目は物語の大団円を描くものだが、それはほんの申し訳程度の場面を付け加えたものであることが多い。ゆえに義太夫浄瑠璃の五段目はその多くが早くに廃滅し演じられなくなった。またこれは歌舞伎でも同様で、三段目の切または四段目の切まで演じてそれを「大詰」とするのが常であった。しかしこの五段目に当たる『仮名手本忠臣蔵』の十一段目は、「討入り」の場面として現在に至るも演じられている。それは後に述べるように、原作通りではない改変された内容になってはいるものの、浄瑠璃や歌舞伎の芝居の中ではこれも冒頭の「大序」と同じく、稀な例といえる。
原作の十一段目の内容は近松の『碁盤太平記』の討入りの段によるところが大きい。冒頭の「柔能く剛を制し弱能く強を制するとは、張良に石公が伝えし秘法なり」というのも、この『碁盤太平記』から取ったもので、これをはじめとして浄瑠璃の詞章にかなりの部分を借りている。最初に由良助たちが船に乗って稲村ヶ崎を過ぎ岸に上がり、師直の館に討入って以降のくだりもおおむね同じといえる。しかし『仮名手本忠臣蔵』ではこの最後の場面で早の勘平を「財布」という形で登場させ、また討入りした浪士の人数を「四十六人」としており、じつはこの勘平も加えて「四十七人」としている。
この段は、現行の歌舞伎では原作の浄瑠璃からは完全に離れた内容となる。極端にいえば、上演ごとに異なった台本や演出となるので内容が一定しない。しかし由良助たちが師直の館に討入り、師直側と大立回りのすえ最後は炭小屋に隠れていた師直を討ち取るという筋書きは変わらない。その一例として以下を掲げる。
(高家門前の場)由良助、力弥ら浪士たちは師直館の門前に居並び、館の中へと討入ろうとする。(高家討入りの場)浪士たちと師直の家来たちとのあいだで大立回りが演じられる。清水一角などが雪の降るなか浪士たちと応戦。最後には浪士たちは炭小屋に隠れていた師直を見つけ引き出す。由良助は判官の形見の腹切り刀を差し出し自害するよう師直に勧めるが、師直はその刀で由良助に突きかかってくる。由良助は師直から刀をもぎ取り刺し殺す。そしてその首を討ち、由良助たちはついに本懐を遂げ勝どきをあげる(現行では、ここで終演となる事が多い)。(花水橋引き揚げの場)一同は師直の館を引き揚げ、判官の墓所のある光明寺(泉岳寺)へと向う。その途中、花水橋(両国橋に相当)で騎馬の桃井若狭之助(または服部逸郎)と出会い、若狭之助は一同の労をねぎらう。由良助たちは若狭之助と別れ、花道を通って引っ込み幕。
「引き揚げの場」は嘉永2年9月、江戸中村座で初めて上演された。 
その後の上演
寛延元年の8月14日から竹本座で上演された『仮名手本忠臣蔵』は、「古今の大入り」となった。ところがその興行の最中、竹本座の中で揉め事が起こる。それは人形遣いの筆頭である吉田文五郎と、太夫の筆頭である竹本此太夫が九段目について演出上のことで対立し、最後は此太夫がほかの主要な太夫たち数名とともに竹本座を離れ、竹本座とはライバルであった豊竹座へと移籍してしまったのである。この騒動の後も竹本座では太夫を編成し直して興行を続けてはいたものの、次第に入りは薄くなり、その年の11月なかばには千秋楽となってしまった。しかし『仮名手本忠臣蔵』自体の人気はこれ以後も衰えることはなく、竹本座や豊竹座が退転したのちも人形浄瑠璃において上演を繰り返し、現在の文楽へと伝えられている。
江戸で人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』が上演されたのは大坂竹本座での初演の翌年、寛延2年の正月のことである。このときは文五郎と此太夫の騒動の余波で竹本座を離れ、さらに大坂も離れて江戸に下っていた豊竹駒太夫が堺町の肥前座で、『忠臣蔵』の七段目と九段目を語った。この興行も「古今無類の大当り」といわれるほどの大評判を取ったという。
いっぽう歌舞伎としては、竹本座で初演されたその年の12月1日、大坂中の芝居において『仮名手本忠臣蔵』は初めて上演された。江戸では翌寛延2年2月6日より森田座で、同年5月5日からは市村座で、6月16日には中村座で上演された。京都では同年3月15日より中村松兵衛座(北側芝居)での上演が最初である。その後歌舞伎においても途切れることなく、現代に至るまで上演を繰り返している。
その上演頻度は、歌舞伎だけに限っても初演から幕末までのおよそ120年間、江戸と上方の「大芝居」すなわち官許の大きな劇場だけで『仮名手本忠臣蔵』は280回興行されているが、そのほか『仮名手本』ではない赤穂義士劇も165回上演されており、これを平均すると年に四回というペースで上演されていたことになる。当時は今と違い、歌舞伎の演目はその都度新作を書いて上演するのが建前であったことを考えれば、『仮名手本』を含めた赤穂義士劇の人気がどれほど高かったかが伺えよう。そのあまりの上演頻度に「なんぼ歌舞伎の独参湯じゃというて、湯茶の代りに飲んでは効くまい」(『役者金剛力』、天保11年〈1840年〉刊)といわれるほどであった。そして『忠臣蔵』の人気は近代以降も衰えることがなかった。
赤穂義士劇は上でも述べたように古くはその「世界」等が定まらなかったが、『仮名手本忠臣蔵』が上演され人気を博してからは、これ以後書かれた浄瑠璃・歌舞伎の赤穂義士劇も『仮名手本忠臣蔵』における「世界」と人物設定を用いて作劇されるようになった。また『忠臣蔵』の人気は芝居だけに留まらず文芸や音曲、寄席芸、大道芸、果てはおもちゃの類にと、ありとあらゆるものに取り上げられているが、それらについては忠臣蔵物の項に譲ることとする。『仮名手本忠臣蔵』の人気により、「遅かりし由良之助」のように赤穂事件に関わる実在の人物の名よりも、本作における登場人物の名が用いられることもあった。
昭和3年(1928年)8月、旧ソ連において史上初の歌舞伎の海外公演が行われることになった。これは前年11月に小山内薫がモスクワを訪問した折、ソ連側の関係者との話がきっかけで実現したものである。座組は二代目市川左團次以下20名、ほかに竹本や長唄、大道具小道具床山など総勢48名がソ連へと渡航し、モスクワとレニングラードの劇場で二十六日間に渡って歌舞伎の公演を行った。この公演は大好評、連日の大入り満員を以って迎えられたが、このとき演目のひとつとして『仮名手本忠臣蔵』が大序から四段目まで、それに討ち入りも加えて上演された。この『忠臣蔵』を見たセルゲイ・エイゼンシュテインは、四段目の明け渡しの場での左團次扮する大星由良助の演技について、興味深く記録している。
しかし第二次世界大戦後、『忠臣蔵』は上演禁止の憂き目にあう。戦後日本を占領統治下においたGHQは軍国主義につながるものを禁止していったが、歌舞伎は忠義(愛国につながる)という理念の宣伝媒体だったとされ、そのように看做された一部の演目が上演を禁じられた。そのなかでも特に『忠臣蔵』は危険な演目であるとして目をつけられ、これも上演が禁止されていたのである。
昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れていた東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』は上演された。このときは昼夜二部制の九段目までの上演で、二段目と八段目を略し、四段目の次に『落人』を出す構成であった。主な配役は以下の通りである。
塩冶判官、戸無瀬(二役)…三代目中村梅玉
高師直、早野勘平(二役)…六代目尾上菊五郎
大星由良助、不破数右衛門(二役)…七代目松本幸四郎
顔世御前、一文字屋お才、お石(三役)…七代目澤村宗十郎
桃井若狭之助、寺岡平右衛門、加古川本蔵(九段目)(三役)…初代中村吉右衛門
足利直義、おかる(落人)…十六代目市村羽左衛門・四代目中村もしほ(一日替り)
おかる(六・七段目)…三代目中村時蔵
石堂右馬之丞、千崎弥五郎(二役)…七代目坂東三津五郎
薬師寺次郎左衛門、斧定九郎(二役)…九代目市川海老蔵
大星力弥…七代目尾上梅幸
鷺坂判内(落人)…二代目尾上松緑
判人源六…四代目市川男女蔵
小浪…六代目中村芝翫
これは当時考えられる最高の配役といえるものであったが、この配役についてはGHQの検閲官だったフォービアン・バワーズの指示によるものがあったという。ともあれこの興行は初日から満員御礼で、切符を求める客が殺到する大当りとなった。 
現行の歌舞伎での上演形態
『仮名手本忠臣蔵』は現在でもほぼその全段が演目として残っている稀な義太夫浄瑠璃・丸本歌舞伎である。ただし現行の歌舞伎では、上演時間等の都合によって以下のように内容を大幅に省略している。
大序 / おおむね省略なし。
二段目 / ほとんど上演されず、上演することがあっても改作の「建長寺」を二段目として出すことが多い。
三段目 / ほとんどの場合「どじょうぶみ」と「裏門」を省略し、また幕間を置かず次の四段目を続けて上演する。
四段目 / 「花籠」が省略され、この四段目のあと清元『落人』を挿入する。
五段目 / 省略なし。普通ではこのあと幕を引かずに舞台を廻し、すぐに六段目の場となる。
六段目 / 原作冒頭のおかると母のやりとりから、一文字屋(お才)が訪ねて来るまでを略す。
七段目 / 冒頭の九太夫と伴内の登場を略す。なお現行では通しでもこの七段目までしか上演されず、その後に「討入り」の幕が付け加えられることがある。
八段目 / みどり狂言形式の興行で、独立した所作事として上演されることがある。
九段目 / これもみどり狂言形式の興行で、一幕物の演目として上演されることがある。ただしそれでも「雪転し」が通常省略される。
十段目 / ほとんど上演されない。
十一段目 / 現行の討入りの場面は原作の浄瑠璃の内容に基づくものではなく、幕末から明治にかけての後人の補筆によるものである。
要するに現行で上演される場合には、
1.大序
2.三段目・四段目
3.『落人』(ここまで昼の部)
4.五段目・六段目
5.七段目(このあと「討入り」の幕が付く事あり)
という構成になることが多い。なお通常二段目・八段目・九段目はあまり上演を見ないが、昭和49年(1974年)の国立劇場において逆に二段目・八段目・九段目だけを上演するという試みがあった。こうしないと、九段目までに至る力弥と小浪の関係がほとんどわからないからである。 
こぼれ話
大序
梨園ではこの『忠臣蔵』に限っては、どの役柄でも先人に教えを乞うことは恥といわれるほどである。八代目坂東三津五郎がまだ坂東蓑助と名乗っていた十代のころ、大序の直義をはじめて演じることになった。役をあてられた役者には、その役者が言うべきせりふだけを記した「書き抜き」が渡されるが、蓑助が渡された書き抜きを見ると表紙だけで中身がない。それで父親の七代目三津五郎に「お父さん表紙しかない」というと、「そんなこといったら恥をかくよ。忠臣蔵は全部ないんだ」といわれたという。要するに役者にとっては改めて書き抜きなど貰う必要はなく、普段から何の役だろうとよく心得ておき、これをやれといきなり言われても出来て当たり前なのが『忠臣蔵』なのだということである。この表紙だけの書き抜きは『菅原伝授手習鑑』や『義経千本桜』においてもそうだったという。
八代目三津五郎が十八、九のころ、東京劇場で『忠臣蔵』が上演されたときのこと。大序の鶴岡八幡の舞台に飾られる大銀杏の木は、葉が黄色いのが従来からの約束であるが、本文には「暦応元年二月下旬」とある。この食い違いに六代目坂東彦三郎が異を唱えた。「これは秋じゃねえんだ。本文によれば二月下旬(陰暦)なんだから黄色いわけがねえ」と、葉の色を青葉に変えさせた。ところが初日の幕が開き、当時辛口の劇評家として知られた岡鬼太郎がこの青葉の大銀杏を見て、「だれがこんなことをした」とカンカンに怒った。次の日、大銀杏の葉はいつも通りの黄色に戻ったという。
三段目
六代目尾上菊五郎が師直、三代目中村梅玉が塩冶判官で三段目の「喧嘩場」を演じたときのこと。舞台で梅玉と二人だけとなった菊五郎がふと梅玉の腰の辺りを見ると、刀を差していない。塩冶判官が師直に斬りつけるのだから刀がなくては話にならないが、菊五郎が梅玉に「笹木さん(梅玉の本姓)刀ありませんなあ」というと「はァおまへんな」と悠然としている。さすがの六代目もこれには慌て、後見(黒衣)に刀を持ってこさせようと、そのあいだ菊五郎がアドリブでいろいろなせりふを入れてその場をしのいだという。
四段目
屋敷明け渡しで由良助が門前から去るときに烏が鳴く。烏笛という笛を吹くのであるが、或る役者がこの明け渡しの由良助をやったとき本物を使おうと、その劇場の屋根に魚を置き、それを餌に烏をおびき寄せ鳴かそうとしたという。しかし人間と違って本物の烏のこと、やはりうまくいかずに失敗したのだとか。ちなみに初代中村吉右衛門の門人中村秀十郎はこの烏笛の名人だった。
五段目
猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。ある大部屋役者が猪役に出ることになり、楽屋で待機していたらうっかり寝てしまった。夢うつつに「シシ、シシ」と叫ぶ声がするので、さあ大変出る場面を過ぎてしまったと大慌てで花道から舞台に向って走り出したらちょうど四段目、判官切腹の場面で猪が飛び出し芝居がめちゃくちゃになった。「諸士」と舞台で言った声が「シシ」(猪)に聞こえてしまったのである。
ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕の係がお前にも「成田屋」や「中村屋」のように声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろうと思った。いよいよ本番、猪が花道から飛び出した。すると揚幕係がかけたのが「ももんじ屋!」、場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。
また昔はかなりいい加減なというか、おどけた事も許されていたらしい。十七代目中村勘三郎の話によれば、ある猪役の役者は本舞台に行くと、大道具の松の木に手をかけ「向うに見えるは芋畑、芋でも食ってくれべえかぁ」といって見得をしたという。
与市兵衛、定九郎、勘平の三人は五段目と六段目で全員死ぬことになる。死ななかったのは、猟師の勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで江戸時代には、次のような川柳が詠まれている。「五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり」
与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、京都府長岡市友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない(『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊)。
九段目
加古川本蔵が山科閑居に虚無僧姿で現われるが、この虚無僧の深編笠(天蓋)は、江戸時代には劇場側が芝居の小道具として作ってはならない決まりであった。それは実際に虚無僧が使っている編笠を、虚無僧寺から借りてきて使ったのである。この虚無僧の編笠をめぐる事件が当時起こっている。それは『仮名手本』ではないが忠臣蔵物のひとつ『太平記忠臣講釈』を上演した際に、或る役者がやはり虚無僧姿で出たときのこと、その役者が編笠を伏せて置いたのが大問題になった。虚無僧が編笠を伏せて置くのは、その虚無僧が重罪人であることを示すものだったからである。この舞台をたまたま見ていた本物の虚無僧がこれに怒り、虚無僧の作法ではないと仕切場(劇場の事務方)に怒鳴り込んで帰らない。結局、劇場側は謝罪文を書いて詫びたという。
平成19年(2007年)1月、大阪松竹座午後の部の「九段目」では十二代目市川團十郎の由良助、四代目坂田籐十郎の戸無瀬で上演され、このときの午前の部の『勧進帳』とともに、「市川團十郎」と「坂田藤十郎」の史上はじめての共演が実現した。
十一段目
討入りの場面では雪が降るのが約束だが、この雪は三角形の紙でできた雪である(現在では三角ではないこともある)。江戸時代には、『忠臣蔵』の討入りのように雪の降る芝居を出すときには髪結床を廻り、髪を結うときに出る元結の切れ端を集めた。その白い切れ端を雪にするためで、ほんらい捨てるものを利用して舞台に生かしたのである。 
 
忠臣蔵の真実

 

1.長矩の接待の失敗
仮名手本忠臣蔵では、浅野からの謝礼が少ないことに腹を立てた吉良義央が意地悪くウソを教えたり、足を ひっぱたりした結果、恥をかかされた長矩が腹を立て殿中で刃傷に及んだということになっている。しかし、長矩が接待役をおおせつかったのはこれが 初めてではない。わずか17歳のとき、大石内蔵助の叔父である江戸家老の補佐、そして吉良義央に指導を仰ぎこの大役を大過なく こなしている。にもかかわらず2度目の時に大きな失敗を繰り返してし まったのはなぜなのだろう?
1) 吉良義央がウソを教えた?
まず吉良家への託が少なかったのが事実だとして考えて みよう。
吉良家は高家筆頭で大名格の家柄だ。しかし実態はただの 旗本に過ぎず高々4000石の扶持で大名格の体面を保つ ために、その領地経営は火の車だっただろう。したがって、儀典長として作法や儀礼を教えて受け取る その謝礼は重要な財政の一部になっていたはずだ。また多少謝礼が少なかったとしても、それに遺恨を持ってウソを教えて浅野の評判を落とすようなことをしたとも考え難い。
なぜなら、来年以降も別の大名に同じように指南をすることにより得られる謝礼を受け取るためには、どんなぼんくらであろうと失敗しないように指導しなくては、自分の対面を保つことが出来ない。第一浅野が失敗すればそれを指導した自分の責任問題にもなりかねないのだ。そう、吉良家というコンサルタント会社にとって、浅野家は良いお客さんだったわけである。お客さんを大切にしない企業なんてありえない。
2) 失敗の原因は義央にある?
吉良義央に対する謝礼や、饗応の場での失敗の数々。しかし、これらを実際に指揮指導したのは長矩ではない。吉良家へ挨拶に行くにしても、両家の江戸家老どうしであらかじめ手はずやお膳立てをし、長矩、義央の会談は形式だけのはずだ。これは、現在の会社同士の大型取引でもそうであるし、国同士の交渉でもそうであり、江戸時代もまた同じだったはずだ。すなわち、このような実務レベルの管理と長矩の補佐は江戸家老の責任だったはずだ。疑問は江戸家老は何をしていたのか?に尽きる。
3) 江戸家老に対する考察
上述のように疑惑紛々の江戸家老であるが、考えられる理由は二つ。
1. 本物の無能者説。
2. 意図的に長矩の足をひっぱた陰謀説。
2 はつい数年前 NHK 大河ドラマで扱われた元禄繚乱の主張である。江戸家老が長矩の正妻あぐり姫に横恋慕をし、長矩の失墜をねらったというストーリーだったようである。
1. 2. いずれにしても、江戸家老は失敗を重ね、長矩に対するその言い訳として、吉良義央にウソを教えられたという言い訳を繰り返したのではないだろうか? そして長矩が切腹をした後、国許への報告書の中でも、この主張をさらに膨らまし、義央がウソを教えさらに浅野評判を貶める噂を振りまき、それに憤怒した長矩が殿中で刃傷沙汰に及んだと主張したのでないだろうか? その証拠といえるかどうかわからないが、この江戸家老は討ち入りにも参加していない。それどころか江戸を出奔しているらしいのだ。
2. 殿中での刃傷沙汰の真実
歌舞伎や映画の中では吉良義央が、浅野長矩を足蹴にしながら、「この田舎侍!」なんて言うシーンが描かれている。そしてこれに我慢できなくなった長矩が、抜刀し吉良義央に切りつけることになる。
しかしこれは本当だろうか?
吉良家は直参旗本、高家筆頭、肝匙(きもいり)の大名格。さらに徳川家、上杉家、島津家との姻戚関係がある。しかし、どんな肩書きがあろうとも、4200石の旗本に過ぎない。
一方赤穂浅野家は、戦国大名浅野の分家であり53500石の大名だ。格から言っても所領の大きさからも浅野家の方がはるかに上のはず。松の廊下ですれ違うときも道を譲るのは、吉良義央であって長矩ではない。
では刃傷沙汰はなぜ起きたのだろう?
吉良義央はもうすでにかなりの高齢である。年寄りというものは大体において小言が多くなる。そこで次のような仮説を考えてみた。
朝から朝廷の使者の饗応で失敗を繰り返す浅野長矩。部下の江戸家老は失敗の原因が吉良義央だと主張する。このときもうすでに、ぼんぼん育ちの長矩はストレスで爆発寸前。饗応役をほっぽらかして逐電してしまうという失態まで演じてしまう。
さていよいよ饗応が始まろうとしている朝。いよいよ事件現場松の廊下である。
松の廊下を義央と同僚が歩いている。向こうからは本日のもう一人の主役である、浅野長矩が歩いてくる。長矩は江戸家老から嘘八百吹き込まれているから、吉良義央に対する態度もかなり硬直した物だったはずだ。饗応役の指南役である義央に対する態度としては礼を失してたはずだが、度を外れていたとも思われない。
一方、まさか長矩が嘘八百吹き込まれているとも思わない義央は、同僚に対して、「最近の若い侍は礼儀を知らないものが多くて困りますな」と、あくまでも世間一般の話として話かけた。
そう今でも中年以上の年になると思わず口に出るあのセリフである。 一方ストレスで押しつぶされそうになっていた長矩は、このセリフを聞きつけ完全にぶち切れてしまい、吉良義央に切りかかったと考えることは出来ないだろうか? 長矩は7歳で家督を継いだボンボンである。こらえ性がなかったのだろう。
3.幕府の赤穂浅野家と吉良家に対する処罰の違いに対する謎
松の廊下での事件後直ちに長矩は捕縛され、さらに即日切腹。そして、赤穂浅野家は取り潰しになる。一方吉良家に対しては何のお咎めもなし。これが赤穂旧藩士の不満が募り、後々吉良邸への討ち入りの原因となる。
確かに吉良家への直接の咎めはなかったのだが、上野之介義央は、高家筆頭肝匙の職を辞している。
理由は伝わってはいないが、饗応役指南の職を全うしなかったことに対して責任を取ったと考えることが出来る。このことから考えて、幕府が浅野家に対して下した処罰は...
1. 饗応役を十分に全うすることが出来ず、幕府の面目をつぶした。
2. 饗応役を途中で投げ出し逐電した。
3. 指南役の義央に対して逆恨みをし切り付けた。
ことに対するもので、殿中で抜刀したことが原因ではなかったようである。実際に殿中で抜刀したにもかかわらず不問に付された侍もいる。このため浅野家には厳罰が下され、吉良家は不問に付されたのであろう。
4.浅野家があっさりと取り潰されたわけ
これには二つの理由が重なったためと考えられる。
1) 乱心に対しては厳罰を江戸幕府は封建領主の乱心についてはこれまでも厳しい態度を取って来ている。小早川秀秋、池田輝興いずれも取り潰しになっている。皮肉なことに池田家取り潰しの跡、常陸笠間から入国したのが長矩のおじいさん長直。そしてその三代目がまたしても乱心。偶然とは言え不思議である。
2) 赤穂浅野家の生い立ちが災いした。
赤穂浅野家は浅野本家の戦国大名の浅野長政(豊臣秀吉の妻おねの兄弟)が引退し隠居する際に、その隠居の賄いとして10,000石の石高で常陸笠間を徳川家康が所領として与えたのが始まりである。その後長政の三男が笠間藩を相続し、二代目の長直のとき先に述べた池田輝興の乱心により、53,000石に加領して赤穂に移封して来たものである。本家の浅野家は広島に合計456,000石を持つ大大名だ。したがって幕府としては隠居屋として与えた領地をそのまま安堵してきたが、長矩の乱心を口実に領地を取り上げたという意識が働いたことも考えられる。
5.大石内蔵助の心情
大石内蔵助は浅野内匠頭長矩が切腹した後、その弟浅野大学を立てて赤穂浅野家を存続させようと、浅野本家、幕府へ積極的に働きかけている。社長亡き後の重役としては当然のことだろう。しかし願いかなわず、赤穂浅野家は取り潰しが確定してしまう。
さてこのような場合次に考えるのは、失業した家臣団の処遇である。
知り合いの家老を通じて、他家へどの位家臣団が再雇用されるかを考えていたはずだ。また城を明渡すに際して、城の最高責任者である内蔵助は立つ鳥後を濁さずの例に倣うわけではないが、いかにスムースに城を明渡すかがその脳みその大半を占める悩み事だったに違いない。またおそらく、長矩の失態の本当の原因も薄々気づいていたのだろう。したがってこの時点で内蔵助の脳裏には討ち入りだの敵討ちだのという考えはまったくない。
結局討ち入りを決めた150名近い家臣団の血判状に自らも血判を押したのは、とりあえず家臣団の暴走を治めるための方便だったと想像している。その後内蔵助は京都で豪遊し、これを幕府の目をくらますためと映画・小説・歌舞伎では描かれているが、これも出来ることなら討ち入りをしたくない。時間が経てば家臣団の団結も崩れ、一人・二人と落伍していくだろう。と考えたのではないだろうか? 2年経ち討ち入りに参加したのは結局47人に過ぎなかったことがその裏づけだ。100人近い人間が脱落しているのだ。
6.堀部安兵衛の行動の謎
まず堀部安兵衛の生い立ちを紹介しておこう。堀部安兵衛は、元は新潟新発田藩の藩士中山弥次衛門の息子であり、父親が隅廓で起こした失火が原因で取り潰し、浪人になり御家再興のために江戸に出てきた。安兵衛17歳のことである。そこで知り合いになり叔父・甥の契りを結んだ菅野六左衛門が高田馬場で決闘に及ぶにあたり助太刀をし、めまぐるしい活躍をしたのを、赤穂浅野の家臣堀部弥兵衛金丸に見初められ養子になった。安兵衛は養子入りする際に、中山家の再興を条件につけている。赤穂事件の8年前の出来事だ。纏めると安兵衛は中山家の再興が真の目的であったはずだ。この彼の生い立ちを前提に彼の心理を分析すると、理解不能な矛盾にぶつかる。
赤穂浅野家の取り潰しが決まったときにも、安兵衛の頭の大半を占めていたのは、”また浪人に逆戻り。さて中山家再興のためには次はどうしよう?”ということであり、あだ討ちだの討ち入りだのという心境ではなかったはずだ。ところが現在にも残されている彼と大石内蔵助との手紙のやり取りを纏めた堀部武庸筆記では、彼は討ち入りの急先鋒になっているのだ。この理由を分析してみよう。
1) プライドの塊
侍は多かれ少なかれプライドで行動基準を決めているところがある。特に彼は、幼少のときに中山家が取り潰され長い浪人時代をすごして苦労をしている。せっかく手にした仕官先を失ったのだから、その元凶と信じるにたる(少なくとも赤穂の浪人にはそのように見えた)吉良を討とうとしたのか?
2) おだてに乗り易い性格
有名な高田馬場の決闘の経験者。事実はともかくとしてとりあえず人を切ったことのあるのは赤穂藩士広と言えども安兵衛ただ一人。(実際には高田馬場では、大刀に手を掛け今にも抜き放しそうな、赤だこ安兵衛を見た相手が恐れを為して逃げ散ったというのが真実)討ち入り急進派の若い侍に相談されたとき、”イヤ”とはいえなくなったのだろう。
3) 義理人情の人
またまた高田馬場の決闘に戻ろう。この決闘で助太刀をした相手は菅野六左衛門。彼とはたまたま一緒になった居酒屋で意気投合し、叔父・甥の固めの杯を交わした間柄であり血のつながりはない。いくら義理人情が重要しされた江戸時代とはいえ、命を掛けて決闘の助太刀をするような相手ではない。六左衛門もそのことを承知していて、決闘当日に安兵衛には女中を通じて手紙で知らせただけであった。(このとき彼は二日酔いでくたばっていたらしい。)
昼過ぎ目を覚ますと勝手口に菅野六左衛門の手紙を発見する。それから講談や落語で有名な高田馬場へのかけっこが始まる。さて赤穂浪士四七士の中に安兵衛の義理の父、堀部弥兵衛金丸の名前もある。下級武士の堀部弥兵衛金丸が討ち入りに参加するのに安兵衛が不参加というわけにも行かなかっただろう。そして最後に安兵衛は自己陶酔型の性格の持ち主であり、ひとたび討ち入りと決まったら自ら、自分の気分を高揚させて行った結果、堀部武庸筆記にあるような手紙の記述になったものと想像できる。
7.吉良邸で応戦した侍の数
吉良邸で旧赤穂藩士と応戦したのは70人強。うち命が助かったのは2人くらいのはずだ。大きな江戸屋敷に詰めている侍の数としては少なすぎる。当時の武家屋敷の塀は二重構造になっており、その内側に下級武士は住まいをあてがわれていた。言うなれば生きた防御壁である。そこで城内に忍び込んだ旧赤穂藩士は、この武家長屋の出入り口にかんぬきを素早く掛け、戦闘に参加できないようにしてしまった。結局長屋の中に閉じ込められた200名近い侍は戦闘に参加することもなく、外で何が起こっているのかもわからぬまま朝を迎えたというていたらくだったのだ。
8.隣家では何をしていたか
これが一番笑える話かもしれない。江戸市内ではすでに旧赤穂藩士が吉良邸へ討ち入りするかもしれないというのは、かなり噂になっていたらしい。そこで隣では、なんと物見台を屋敷の境界近くに作り、そこで酒を飲みながら見物していたというのだ。しかも、自分のところが争いに巻き込まれるのを避けるために、庭内に完全武装をした兵士を配置するという念の入れようだ。
さらに吉良邸から逃げてくる吉良藩士を、槍で追い返すというおまけつき! ”潔く戦って散りなされ” てなことを言ったらしい。もうここまで来ると、忠臣蔵は美談ではなくコメディーの世界である。
9.なぜ赤穂浪士は切腹させられたのか
これは江戸幕府のニ重支配体制が原因である。赤穂浪士は自分の主君長矩に対しては忠義を果たした。しかし、侍は主君への忠義を通して幕府への忠誠を求められている。江戸の町で許可なく兵を動かし私闘を演じたのだから、赤穂浪士の行動は幕府に対しては不忠義である。したがって本来なら、打ち首獄門という最悪の厳罰が下されても仕方がない。
しかし、幕府は名誉ある切腹という結論を下した。これは当時の江戸幕府のバランス感覚ではギリギリの妥協だったのだろう。
一方吉良家は、討ち入りに参加した赤穂浪士よりはるかに多い侍を擁していながら、主君吉良上野之介義央を殺害されており、武士としての本分を果たさなかったとして結局取り潰しになっている。
この辺りも抜群のバランス感覚として評価できる。  
 
忠臣蔵史実 

 

コ川綱吉は名君とはいい難い
五代将軍綱吉の元禄時代を華やかで、人間謳歌の時代と捉える向きがある。しかしながら、典型的な封建君主政治における、彼の非人道行為を見るとき、綱吉を名君とあがめる曲学阿世の論者には、逆に論者の精神構造を疑うものである。生類憐れみの令が悪法であることはほとんどの歴史家が認めている。赤穂城明け渡しの際に、大石内蔵助が赤穂城に住みついた野良犬の数を数えて、幕府に報告しているが、浪人となってちりぢりになる人間の生活よりも、野良犬の数の方が大切という、馬鹿さ加減の時代である。
吉良上野介は名門ではあるが、名君ではない
吉良上野介は足利将軍家の血筋でもあり、室町時代はたいへんな権勢を有していた。さらに上杉家当主の実父でもあり、上杉家当主の正室は紀州徳川家の姫君でもある。その姻戚関係を見ると大変な名門で、また茶もよくするなど文化人でもあった。しかし、借金だらけで全て上杉家に負んぶに抱っこ、大名家に行ってはそこの宝物を持ってきてしまう人物が名君といえようか。土手や塩田を作って名君ならば、日本国中の殿様は全員が名君になる。名君とは上杉鷹山のような方を指すのである。名君説を称える方々は、自分の思いばかりでなく、論証を出すべきである。地元が名君といっているのは単なる伝承である。吉良町の歴史家が、黄金堤等は吉良上野介の事跡ではないことを証明し、吉良上野介のやったといわれている治水工事は、単なる伝承であることを書いている。
元禄14年の勅使饗応役の責任者は吉良上野介ではない
元禄14年の勅使饗応役を拝命したのは浅野内匠頭であり、課役としての全出費も浅野内匠頭が担当している。吉良上野介はたんなる差添役である。したがって、不名誉な事件が起これば全責任は吉良上野介が受ける、の論理は見当違いである。この論理を正視しなければ、後の討入りも偏見することになる。その証拠に松之廊下での刃傷事件で、責任をとったのは浅野内匠頭だけである。この時、勅使はすでに登城しており、松之廊下に面した休息の間にいたのである。そのため、幕府は勅使にお伺いを立て、儀式の場所を予定の白書院から黒書院に変更している。朝廷に対する幕府側の失態の責任を取ったのは浅野内匠頭だけで、吉良上野介はお構いなし、よく養生するようにと言われているのである。
浅野と吉良は幕閣が組み合わせたのではない
3月の勅使饗応のための浅野内匠頭と吉良上野介の相役は、3月の月番高家である吉良上野介と偶然に組み合わさったものである。浅野内匠頭は勅使接待の予算について、2月の内は2月の月番高家の畠山民部に相談し、700両でOKとなった。3月になって再び3月月番の吉良上野介に話しをもっていったのである。吉良上野介が京都へ行っていて留守だったので畠山民部に相談したのでも、幕府から吉良上野介と組むよう言われたために吉良上野介に相談したのでもない。しかし、吉良上野介はこの予算にNGを出し、吉良上野介と浅野内匠頭の確執が生じた。これを証する史料として「沾徳随筆」がある。
松之廊下事件の原因は、吉良上野介の陰湿ないじめである
元禄赤穂事件について書かれた多くの本では、浅野内匠頭の刃傷の原因は不明であるとしている。その理由として、原因が書かれた史料がなく証拠がないというものである。証拠がないと主張する方々は、現代の学校でのいじめで証拠がないと主張する方々と同じである。よく調べもせずに思い込みだけで、自分の学校にはいじめはない、と言っているのである。よく学んで勉強し直すことである。「堀部弥兵衛金丸私記」「系図附録」「赤穂義人録」「沾徳随筆」「岡本元朝日記」「陽和院書状」を読み直すべき。これらの江戸時代に書かれた史料には、はっきりと吉良上野介の大名いじめ、性格の悪さ、浅野内匠頭がいじめられたことが書かれている。
松之廊下事件は突発的に起こった
江戸城内では何件もの刃傷事件が起きている。それらの事件では最初から相手を殺す意志をもって登城している。したがって確実に相手を殺すために意識的に刺しているのである。しかしそれらの事件と比べ、浅野内匠頭は突き刺してはおらず、刀が顔面に向かっている点などから、悪口を耳にして突如切り付けたものである。浅野内匠頭が斬りつけた小さ刀を短刀だと勘違いしている方が多い。短刀だと思い違いをしているから、短刀などで斬りつけるのは武士にあらず、などと頓珍漢なことを言うのだ。小さ刀は江戸城での儀式の時などに身につける長さが2尺前後の刀で、これより1寸でも長くなれば、太刀になるのである。
浅野内匠頭は精神の病ではない
浅野内匠頭の叔父の内藤和泉守忠勝(内匠頭の母の弟で鳥羽城主)が増上寺において、永井信濃守尚長(宮津藩主)を刺し殺した事件がある。これをもって浅野内匠頭も遺伝的に総合失調症だと決めつける方がいる。そのほとんどが、史料の誤読と研究不足によるものである。間違って理解したために、人物像とその時の状況を正しく把握していない。特に元禄事件を論じる精神科医は、何件かの殿中での刃傷事件を挙げ、その事件を起こした人物は、全員総合失調症だと決めつけ、浅野内匠頭は被害妄想だったとしている。
浅野内匠頭の一太刀目は額にあたった
元禄14年3月14日の松之廊下で、吉良上野介は梶川与惣兵衛と立ち話をし、その時、後ろに座っている高家衆に向かって、浅野内匠頭を罵った。それを聞いた浅野内匠頭が怒りのあまり斬りつけ、高声をあげたため、吉良上野介は梶川与惣兵衛の方へ向き直った。そのとき振り下ろした浅野内匠頭の刀が吉良上野介の額に入ったのである。江戸城で吉良上野介の治療をした外科医の栗崎道有が証明している。
吉良上野介のいじめレパートリーの中に畳表替えはあった
吉良上野介のいじめのレパートリーは幾つもあるが、その一つとして畳表替えがある。この増上寺での畳表替えについては、「寺坂私記(赤穂義士史料 中央義士会)」にその予定であった記述がある。最近では「岡本元朝日記(秋田県公文書館)」にも畳表替えのいじめが書かれていることが発見されており、実際にあったことが証明される。
吉良上野介が本所へ移ったのは9月3日である
吉良上野介が呉服橋から本所へ移ったことについて、義士たちに討たせやすくするために取った幕府の処置だ、などというまことしやかな説がある。呉服橋(現在の千代田区八重洲1丁目)は江戸城に近く、屋敷の場所としては一等地である。高家肝煎から寄合となった4,200石の吉良上野介が、一等地に居られるわけがない。元禄14年8月19日は屋敷替えを仰せつけられた日で、実際に移ったのは次の月の9月3日である。
「預置候金銀請払帳」は1冊ではない
赤穂城を引き払うときに残った、690両の赤穂浅野家のお金の使い道を記した帳簿が「預置候金銀請払帳(赤穂義人纂書 国書刊行会)」である。現在、箱根神社に一冊残されているが、これは原本ではない。元禄15年8月まで矢頭長助が記帳していた原本の1冊がなければならない。現存する箱根神社の1冊は清書されたもので、記帳者が最初から最後まで一人で変わっていないことが証拠である。
金銀請払帳その他16点の品々は12月13日甚三郎によって、落合与左衛門まで運ばれたのである
「預置候金銀請払帳」など16点の品々が、吉良邸討入りの前に大石内蔵助から瑤泉院の用人であった落合与左衛門に近松勘六の家来甚三郎によって届けられた。その品々は元禄15年11月29日付けの書状とともに届けられている。これを11月29日に届けられたと主張する説がある。「落合与左衛門覚書」「江赤見聞記(赤穂義人纂書 国書刊行会)」を良く読むこと。11月29日は運ばれた日ではない。12月13日に甚三郎によって運ばれたことが書かれている。
大石内蔵助の第一次東下りの主目的は、690両の取付けと、瑤泉院への復讐の誓いである
元禄15年11月29日付けの大石内蔵助から落合与左衛門宛の書状に書かれている「一義」であるが、「一義」を浅野家再興も含めて見るのは間違い。再興運動は旅費も含めて50両しか使っていない。それで再興できるか考えれば一目瞭然だ。大石内蔵助は元禄14年11月3日に江戸に着き、11月23日に京に向け江戸を発った。これが第一次の東下りである。江戸に滞在している間に大石内蔵助は南部坂の瑤泉院と合って、吉良上野介を討つことを誓い、690両をそのために使うことの了承を得たのである。11月29日の書状が証拠。
大石内蔵助は元禄14年中の早い時期に、吉良を討つことを決めていた
大石内蔵助は元禄15年2月16日付けの堀部安兵衛等宛ての書状、元禄15年5月21日付けの同じく堀部安兵衛等宛ての書状、元禄15年12月13日付けの恵光等宛ての書状等に、赤穂城離散の頃には吉良上野介を討つことを決めていたことを書いている。
大石内蔵助は諸説で述べられているほど遊興していない
大石内蔵助の祇園や島原などでの遊興は有名である。しかし、実際は山科の自宅から一番近い伏見の橦木町で遊んでいたことは史料に明らかであるが、祇園や島原で豪遊したことは書かれていない。橦木町での遊びについても、討入りにより親戚に類が及ばないよう、自分を勘当するための画策であることが、「朝原重栄覚書」に書かれている。
理玖は豊岡里帰りの際、一人の子供だけ連れて行ったのである
元禄15年の4月に理久は子供を連れて、山科から豊岡の実家に帰った。この時、るりは進藤家の養女になっていて、一緒には暮らしていない。また吉千代は一足先に豊岡へ行っていた。一緒に帰ったのは、くうだけである。
義士たちは江戸と京都(上方)で、変名を使い分けていた
大石内蔵助は、京都では池田久右衛門、江戸では垣見五郎兵衛のように変名を変えていた。他の義士も同様に使い分けていたようである。
大石内蔵助が第二次東下りの際、実際に江戸へ入ったのは10月30日である
大石内蔵助は、元禄15年10月7日に京都を出発し、10月26日に川崎平間村に到着した。ここから大石内蔵助は指示を出していたが、30日にはこっそり江戸へ入り、会合を繰り返していた。これは「寺坂私記」「伊藤覚書」により証明される。したがって平間村には4日間しか宿泊していない。
寺坂吉右衛門は、元禄15年11月19日の段階で、上方へ登る計画であった
寺坂吉右衛門が逃亡ではなく、討入り後に上方へ行くことは事前に決められていたのである。貝賀弥左衛門の元禄15年11月19日に書かれた綿屋善右衛門宛の書状に認められる。
大石内蔵助は羽倉斎家との交際はない
大石内蔵助が羽倉斎(荷田春満)と直接交流したことはない。羽倉斎の書状で大石父子とあるのは、大石無人と三平をしていうのであって、諸先覚は錯誤している。大石無人と三平は大石内蔵助の親戚で、浪人をしていたが、江戸における義士の後援者であり、12月14日に吉良上野介が本所の屋敷で茶会を催す情報を、羽倉斎から得た人物である。大石内蔵助はその情報を大石無人と三平から得たのである。
大石内蔵助の主家再興運動費は50両しか使っていない
「預置候金銀請払帳」には使用用途が書かれているが、赤穂浅野家の再考のために使われた費用は旅費も含めて、50両である。手みやげ程度の費用で柳沢相手にどこまで浸透していたか、はなはだ疑問である。
討入りの兵法は、山鹿流だけの作法に則った訳ではない
吉良邸討入りに際しては、山鹿流兵法だけを使っていたわけではない。大石内蔵助自身が山鹿流をマスターしていたわけでなく、赤穂浅野家の元々の流派であった甲州流もアレンジしていたのである。なお、討入りの際に山鹿流陣太鼓を敲いていたというのは間違いで、裏門を掛矢で打ち破った時の音であると考えられている。
12月14日は両国堀部弥兵衛宅へ全員が集まるよう言い渡されていた
元禄15年12月14日の夜、全員が両国の堀部弥兵衛宅に集まるよう言われていた。三々五々集まった義士達はそこで大石内蔵助等に挨拶をし、酒を酌み交わしてそれぞれの集合場所へ行ったのである。表面上は門出の祝儀としていたが、実際は討入りへの第一関門だったのである。直前まで脱盟する同志がいたため、最終人数の確認であった。吉田忠左衛門ら数名が堀部弥兵衛の家から本所林町五丁目の堀部安兵衛の家に移動する途中、両国の亀田屋でそばを食している。
寺坂吉右衛門は逃亡者ではない
寺坂吉右衛門が脱盟したと主張する方々がいるが、論ずる必要もない。逃亡者だと思う方は、研究をやりなおすべきである。
大石内蔵助は、浅野内匠頭の墓前で祭文を読んではいない
「泉岳寺書上」などに書いてあるように、大石内蔵助が泉岳寺の浅野内匠頭の墓前で祭文をよんだといわれているが、実際には祭文を作ってもいないし、読み上げてもいない。各地にある祭文は全部本物ではない。
「白明話録」は全て真実である
四十七士が引き揚げてきた泉岳寺に白明という修行僧がいて、そこで実際に自分が見聞きしたことを書いたのが「白明話録」である。これは白明53年後に書いたもので、とても内容は信用できないと主張する者がいるが、その方は語る資格なし。白明はメモを取っていたのである。
義士戒名の刃劔は、切腹したからでもなく、激闘したからでもない
義士の戒名には「刃劔」が使われている。これは泉岳寺の九世酬山朝音が、碧巌録41則古徳劔上の公案より採用したもので、切腹したからでも激闘したから付けられたものでもない。
討入り後、学者による表面論争はなかった
荻生徂徠、佐藤直方、太宰春台、松宮俊仍、五井蘭洲、横井也有、浅見絅斎等が盛んに義士の行動に対して論評を加え、丁々発止の議論をしていたかのような印象を与えるが、独裁者綱吉の前で自由な論争ができるわけがない。第一彼らが「四十六士論」等の論評を書いた時期はそれぞれ異なるのである。
大石内蔵助は、東軍流の免許皆伝ではない
大石内蔵助は、34才の頃高松の東軍流奥村無我のところで修行をしたことがある。現在、ここでの起請文なるものがあるが、起請文は単に入門の際差し出すもので、免許皆伝の免状ではない。
寺坂吉右衛門は浅野家の陪臣ではない
寺坂吉右衛門を吉田忠左衛門の家来で、浅野内匠頭からみると陪臣だと勘違いしている方が多い。寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門の家来だったが、27才の時に吉田忠左衛門の推挙によって足軽になり、足軽頭だった吉田忠左衛門の組に入ったのである。足軽を陪臣だと思っている方は、歴史を最初からやり直す必要がある。大学の講師ですらこの区別もできないのにはビックリである。
元禄事件の起きた時代の赤穂浅野家は5万石である
赤穂浅野家の祖、浅野内匠頭長直は正保2年に笠間から赤穂に転封となった。この時の石高は5万3500石である。長友の時代になって、このうちの3500石を浅野長賢(家原浅野家)に分けられ、5万石になったのである。5万3500石という方は、勉強のやり直し。
コ川実紀は正しい内容である
徳川実紀は文化6年(1809年)に幕府が編纂を開始したもので、元禄赤穂事件から100年以上も経っている(一応の完成は天保14年)。このことから、内容は信に足りないと主張される方も、勉強し直しである。これも下地になる条文が残っていて、それに従って書き直しているのである。特に、浅野内匠頭の刃傷事件の原因の記述で、「世に傅ふる所は」と始まっているが、これを単なるうわさ話と捉えて、ここの記述は風評だから信じるに足りない、とほとんどの研究者は無視しているが、これは「世に伝わっている資料によれば」と解釈するのが正しい。徳川家の正史である「徳川実紀」は全て下地になる書があって書いているのである。単なるうわさ話など記載してはいない。
「赤城義臣伝」は学術的史料にはならない
「赤城義臣伝」を信用し史料として捉えてはいけない。これは江戸時代の小説である。90%がずれている内容である。
堀部安兵衛の妻名は「キチ」である
堀部安兵衛の妻の名はキチである。堀部安兵衛のわか宛ての手紙に「キチ」とある。
橋本平左衛門の雅号は「進歩」である
復本一郎氏の「進歩」寺坂論(俳句忠臣蔵 新潮社)は、いかにも貧弱であり決定打がない。寺坂にはもともと「萬水」の雅号がある。
「多門伝八郎筆記」は疑問はあるが、一級史料である
元禄14年3月14日の刃傷事件の時に、浅野内匠頭の事情聴取を行い、切腹の時の検使役として田村邸に行った御目付が多門伝八郎である。多門伝八郎が書き残したものが「多門伝八郎筆記(赤穂義人纂書 国書刊行会)」で、そこに浅野内匠頭の辞世の句や、切腹の前に片岡源五右衛門が浅野内匠頭に会いに来たことなど、この書だけに記載されている事柄がある。また、浅野内匠頭の切腹の場所が庭であったことに対して、大目付庄田下総守に執拗に抗議をしたことなど、その記載ぶりがかなり浅野内匠頭に対して同情的なためと、自分をあまりに正義漢に描いていることもあって、この書は後世の偽作であると主張する方々がいる。しかし、当人でなくては知り得ない内容が書かれていることなどを考えると、本人の作であるとすることが妥当であり、内容的には多少疑問の所はあるが一級史料である。現在、写本だけが残されており、本物が現れていない以上認めざるをえない。
内藤忠勝の事件と松之廊下事件とは関係ない
浅野内匠頭の叔父の内藤忠勝の増上寺における刃傷事件をとりあげて、浅野内匠頭もこの血を継いだので総合失調症である、との血統説を述べる方は、小説的にしか判断できない方である。21年前の事件を取り上げ、血統で同じ事件を起こす確率は考えられない。
大石内蔵助に関わる女性は4人である
大石内蔵助に関わる女性として、理玖(本妻)、桂(相生知行地)、家女房(リヨの母)、かる(山科)の4人がいる。
元禄事件の研究はし尽くされてはいない
特に学者にこの種の研究はし尽くされて、もうなにも出ない旨、主張される方が意外に多いが、もっと正視しろ。まだまだわかっていないことが沢山ある。そのように主張する人間に限って、浅野内匠頭の刃傷の原因は不明であると言う。
書簡の日付は、その日に発送したとは限らない
手紙の日付は、必ずしもその日に発送したとは限らないので重ねて考査すること。今のようにポストがあって直ぐに配達されるわけではない。京などへ行く人間に託す場合もあり、書いてから暫く時間が経って託す人間に渡される場合などがある。
土芥寇讎記が示してある浅野内匠頭の批評は史実とは全く違う 
「土芥寇讎記」をそのまま信じて、史料として利用される歴史家がいる。「土芥寇讎記」は歴史学として価値観はあるが、これは公儀隠密の報告であり、隠密の報告は全て虚偽の報告である。したがって浅野内匠頭の内容も他の史料とマッチするところがない。他の大名の項を見てみるとよい、多くの外様大名も同じような書き方で、女色に溺れたバカ殿様になっている。
天野屋利兵衛は元禄事件には関係なく、最大の援護者は綿屋善右衛門である
「天野屋利兵衛は男でござる」は有名な台詞で、赤穂義士の後援者として演劇では有名である。元禄時代に大坂に天野屋利兵衛という人物も実在したが、天野屋利兵衛が討入りに関与したという一級資料はない。実際に四十七士を援護した人物は、綿屋善右衛門という京の呉服商である。京都本妙寺の「斉藤文書」による。また、元禄15年11月19日付けの貝賀弥左衛門から綿屋善右衛門宛ての手紙に、綿屋善右衛門から100両借りたこと、再度15両を借りたい、ということが書かれている。 
 
忠臣蔵 登場人物 

 

赤穂藩関係者
浅野内匠頭長矩(享年三十五)
名君である祖父・長直と兵法学者・山鹿素行の影響を強く受けていた。痞(つかえ)の持病持ち。
瑤泉院(討ち入り時三十歳)
内匠頭の妻女。五歳で婚約、十七歳で結婚。討ち入り後は助命・赦免に奔走し、四十一歳で逝去する。
大野九郎兵衛知房(討ち入り時の年齢・不明)
赤穂藩家老の一人。小心者の上、利己的な行動が多く、まさに内蔵助の引き立て役。義士びいきの町人たちから身を隠すため、変名して京都の仁和寺(にんなじ)付近に住むが、結局困窮して餓死したとされる記述もある。
進藤源四郎俊式(討ち入り時五十六歳)
内蔵助の従兄弟で、次女・るりを養女とする。山科住居の世話や遊興三昧等で内蔵助を支援するが、叔父の説得で脱盟。討ち入り後は後悔のためか半髪して自閉の生活を送るが、八十一歳まで生きた。
高田郡兵衛資政(討ち入り時の年齢・不明)
槍術の達人で急進派の一人だったが、早々に脱盟した。討ち入り後に祝い酒を持って泉岳寺に現れるが、浪士たちに「踏み殺してしまえ」とまでいわれてしまう。
吉良関係者
吉良上野介義央(討ち入り時六十二歳)
若い頃は美男だったと言われる。虚栄心が高く、上杉家に生活費や衣装代、茶道具代、遊興費などをつけまわしていたらしい。
小林平八郎央通(討ち入り時四十五歳)
もとは上杉家にいた、吉良家の家老格。奮戦したと称されるが、実は「下っ端」という嘘を見破られて、その場で首を打ち落とされた。「葛飾北斎伝」によると、平八郎の孫娘が、北斎の母親らしい。
清水一学義久(討ち入り時二十三歳)
上杉家からの派遣は作り話で、十三〜十四歳の頃に上野介が農民から取り立てた美青年。忠義心が高く、最後まで上野介のそばにいたという。
色部図書頭安長(討ち入り時三十九歳)
討ち入り当時の上杉家の江戸家老。討ち入りのあとに、赤穂浪士たちを追撃しようとする主君・上杉綱憲をいさめた話で有名だが、史実は父親の喪中で休職中だった。
上杉綱憲(討ち入り時四十歳)
上野介の長男で、上杉家の君主。微妙な立場からか、討ち入り時に目立った動きをしなかった。能が好きで散財したともいわれる。
討ち入り浪士(表門)
大石内蔵助良雄(討ち入り時四十四歳)
実は貧相な小男だったが、剣技に優れ事務能力も高く、その上絵も描く超マルチ家老であった。
原惣右衛門元辰(討ち入り時五十五歳)
無血開城の功労者で、内蔵助の片腕。「討入実況覚書」の筆者。
間瀬久太夫正明(討ち入り時六十二歳)
嫡男孫九郎と父子で参じた。討ち入り時には指令部の一端を担う。
堀部弥兵衛金丸(討ち入り時七十六歳)
四十七士の最古老。ケンカ安兵衛の舅で、うたた寝で集結に遅刻した強者。縁者へ「少しは酒を飲むように」と洒落た遺言を残した。
岡野金右衛門包秀(討ち入り時二十三歳)
講談等で有名な『恋の絵図面』の主人公。潜伏時に出会った吉良家の女中・艶の父親が吉良邸を改築した棟梁だったため、絵図面を手に入れようと画策。金右衛門に惚れた艶が絵図面を持ち出すという物語。美男子だったのは事実だが真面目な青年だったので、女中を騙した話は創作という見方が強い。ただし恋人はいたらしい。
貝賀弥左衛門友信(討ち入り時五十三歳)
吉田忠左衛門の弟。内蔵助の命を受け大高源五と共に連判状を携えて同士たちを訪ね、義士の絞り込みを遂行。その結果として七十数人が脱盟し、後には忠義の士が残ったのである。
村松喜兵衛秀直(討ち入り時六十一歳)
江戸詰だったため、内匠頭切腹後初めて赤穂の地を踏む。長男三太夫と共に浪士として最後まで仇討ちの運命を甘受した、実直な士。
矢頭右衛門七教兼(討ち入り時十七歳)
亡父・長助の意志を継いで浪士に加わった、紅顔の美青年。泉岳寺の雲水が女性と間違えたという。
横川勘平宗利(討ち入り時三十六歳)
茶人の僧から延期になっていた吉良邸茶会通知の代筆を頼まれ、討入り日決定の最重要情報、茶会の日時を偶然掴んだ、強運の男。
近松勘六行重(討ち入り時三十三歳)
浅野家再興の道を模索していた内蔵助の命を受け、吉田忠左衛門と共に江戸急進派の暴走を鎮めた才人。
早水藤左衛門満堯(討ち入り時三十九歳)
浅野家最強の弓兵。討ち入り時は表門組で飛び出す敵を射殺した。また早駕籠で赤穂に内匠頭変事の第一報をもたらしたのもこの人。ただし内匠頭切腹は夜まで伝わらず、藤左衛門も衝撃を受けた。
大高源五忠雄(討ち入り時三十歳)
茶人として吉良の茶会を探った。また俳人として多くの書簡や俳句を残しており、潜伏時にも句集『二つ竹』を出版。これらは今でも当時を知る貴重な資料である。
間重次郎光興(討ち入り時二十五歳)
槍の達人。上野介を最初に発見して一番槍を付け、首級を挙げた。
神崎与五郎則休(討ち入り時三十七歳)
浪人を経て浅野家に仕えた下級武士で、武士の義を貫いた男。前原伊助と述作した『赤城盟伝』では、不忠義者を厳しく批判している。また有名な講談の『吾妻下り堪忍袋』の主人公だが、これは虚説。ただし大酒飲みだったのは事実で、お預け先の水野邸でも打ち身の薬と称し、晩酌をしていた。
片岡源五右衛門高房(討ち入り時三十六歳)
刃傷事件当日に内匠頭の供を勤めており、検死役の恩情で切腹前の内匠頭を見ることができた唯一の赤穂浪士。遺体を泉岳寺に埋葬し、髷を切って主君に殉じた。
冨森助右衛門正因(討ち入り時三十三歳)
気配りのきく人物で、有事に備え常に懐中に二十両所持していた話は有名だ。俳句の心得もあり、雅号を春帆という。また四十七士が揃って泉岳寺に葬られたのは、助右衛門の嘆願によってである。
奥田孫太夫重盛(討ち入り時五十六歳)
前主君の内藤和泉守も刃傷沙汰で切腹しており、生涯に二度主君の切腹に遭遇した運の悪い男。熱血漢で内匠頭の切腹が納得できず、浪士達を仇討ち決行へと導いた。
矢田五郎右衛門助武(討ち入り時二十八歳)
戦国強者三河武士の末裔で文武両道の士。討ち入り時に愛刀を折ったため敵の刀で奮戦したが、切腹時までそれを気にしていたという。
吉田沢右衛門兼貞(討ち入り時二十八歳)
一族五人が浪士に連なる。非常に美男子で、歌舞伎役者に間違われたという逸話まで創作された。
岡嶋八十右衛門常樹(討ち入り時三十七歳)
刃傷事件後財務整理を担当。大野九郎兵衛に使い込みの嫌疑をかけられ、大野邸に怒鳴り込んだ。
武林唯七隆重(討ち入り時三十一歳)
吉良に一番太刀を付けた人物。祖父は中国の医師であり、思想家・孟子の末裔である。勇猛果敢な傑物で、切腹時介錯に失敗されても冷静に対処したという逸話もある(ただし真偽は不明)。一方内匠頭のお使いで、かきつばたの花を取りに行き屋敷を間違えたり、その枝をうっかり馬のムチに使いボロボロにしたりと、粗忽者としてのエピソードも残っている。
勝田新左衛門武堯(討ち入り時二十三歳)
安兵衛・十平次に次ぐ剣術の達人。妻子と舅を欺いた講談で有名だが、これは創作で独身だった。
小野寺幸右衛門秀富(討ち入り時ニ十七歳)
大高源五の実弟で小野寺十内の養子。討ち入り時まっ先に吉良邸に突入し、用意されていた弓の弦を切って弓兵を無効化させた。その冷静な判断と活躍は、お預け先の毛利家でも賞賛されたという。
討ち入り浪士(裏門)
大石主税良金(討ち入り時十五歳)
内蔵助の嫡男で最年少。父より先に東下りしたのは、大石外しの思惑があった江戸急進派に対し、人質としての意味もあったようだ。
吉田忠左衛門兼亮(討ち入り時六十二歳)
内蔵助の副将。事件後の公儀御届けで忠左衛門が潔い口上を述べたことで浪士たちは不名誉な打ち首を免れ、武士の体面を保った。
小野寺十内秀和(討ち入り時六十一歳)
多数の親族が参加した中で、老いを感じさせない働きを見せた。有名なおしどり夫婦であったため、妻の丹は後を追い自害している。
間喜兵衛光延(討ち入り時六十八歳)
息子二人と浪士に加わる。文武両道に秀でた温厚な老武士であった。
潮田又之丞高教(討ち入り時三十四歳)
剣術にも医術にも長けた才人。舅の脱盟後、妻を案じて離縁した。
中村勘助正辰(討ち入り時四十七歳)
書が巧みな祐筆役として開城前後の残務整理をこなす。書の腕を見込まれ、内蔵助の代筆も勤めた。
不破数右衛門正種(討ち入り時三十三歳)
事件当時浅野家閉門中の浪人だったが、内匠頭の墓前に詫びを入れて加入した強者。討ち入り時の活躍は壮絶で、ササラのようになった愛刀が近年まで保管されていた。
千馬三郎兵衛光忠(討ち入り時五十歳)
性格的に内匠頭と合わなかったため、浅野家からの暇乞いを決心した矢先に刃傷事件が勃発してしまった。それでも忠義に殉じた剛直な士である。
木村岡右衛門貞行(討ち入り時四十五歳)
陽明学に造詣が深い学士で、思想から浪士に加わる。江戸入り前に知人の僧に法名を付けてもらい、それを付けて討ち入りに出向いた。
前原伊助宗房(討ち入り時三十九歳)
吉良邸の隣に米屋を開いて潜伏していた。討ち入り時は邸内の案内役も勤めている。
間瀬孫九郎正辰(討ち入り時二十二歳)
討ち入り後泉岳寺に向かう途中、子供が袖印を欲しがったので、引きちぎってあげてしまった。父・久太夫と浪士に加わった二世だが、まだ若く心優しい青年であった。
奥田貞右衛門行高(討ち入り時二十五歳)
近松勘六の腹違いの弟。医術の心得があり、町医者に扮して吉良邸を探った。討ち入り当日が息子のお七夜で、清十郎と命名する。これが父子永遠の別れとなったが、清十郎は後にご赦免となり無事に成人。他家に召し抱えられた。
茅野和助常成(討ち入り時三十六歳)
前主家が断絶し、浪人から再仕官して四年でまた事件勃発。浅野家と縁が深いとはいえなかったが、次々お家を断絶する幕府の一方的政策に憤りを感じ浪士に加わる。
間新六光風(討ち入り時二十三歳)
作法上の切腹(実際に腹を斬らず、介錯人が合図の後に首を斬る)を潔しとせず、自らの短刀で本当に割腹し、壮絶な最期を遂げた。
礒貝十郎左衛門正久(討ち入り時二十四歳)
芸事を好んだが内蔵助に目通りした後はそれを断ち、忠勤に励む。危篤状態の実母を後に残し、涙をのんで吉良邸へと向かった。
堀部安兵衛武庸(討ち入り時三十二歳)
高田馬場の決闘で有名だが、史実では大酒呑みではなく決闘に遅刻もしなかった。熱血漢だったのは事実で、江戸急進派の代表である。
赤埴源蔵重賢(討ち入り時三十四歳)
講談等で有名な『赤垣源蔵徳利の別れ』の主人公。赤垣(あかがき)ではなく赤埴(あかばね)が正しい。大酒呑みの源蔵が討ち入り前兄に別れを言う人情話だが、史実では酒も飲めず兄もいなかった。後に講釈師が創作したようだ。
大石瀬左衛門信清(討ち入り時二十六歳)
大石一族で討ち入りに加わったのは主税と瀬左衛門の二名のみ。また瀬左衛門の討入り装束は伯父・無人の手を経て大石家の後裔へ伝えられ、大石神社に現存している。
菅谷半之丞政利(討ち入り時四十三歳)
美少年で義母にまで懸想されたという講談があるが、これは創作。実際は兵学を学んだ四十過ぎの武士で、内蔵助の参謀であった。また潜伏時は毎日釣りをしていて、討入り後は釣場が名所となった。
倉橋伝助武幸(討ち入り時三十三歳)
「旗本の次男で放蕩者」という話は創作。早くから仇討ちを考えていた過激派で、肝の太い武士だったが、洒脱な一面も持っていた。
杉野十平次次房(討ち入り時ニ十七歳)
家財道具を処分した千両近くの大金を持参し、江戸で困窮していた浪士の潜伏生活を助けた。面識のあった槍の達人・俵星玄蕃が討ち入り時、十平次の助太刀にきたという逸話は後世の創作である。
村松三太夫高直(討ち入り時二十六歳)
父・喜兵衛と浪士に加わる。愛刀を刀研ぎに出し、柱で試し切りをした逸話があるが、これは創作。
三村次郎左衛門包常(討ち入り時三十六歳)
浪士中もっとも身分が低く差別も受けたが、見事に本懐を遂げた。
寺坂吉右衛門信行(討ち入り時三十八歳)
討ち入り後内蔵助から本懐達成報告の命を受け、生き証人としてただ一人生き残った浪士。その後は伊藤家に十二年、山内家に三十三年仕え、延享四年十月六日・八十三歳で苦渋に満ちた人生を閉じた。
幕府関係者
徳川綱吉(討ち入り時五十七歳)
「生類燐みの令」で悪名高いが、幕藩体制の強化と安定に指導力を発揮。刃傷事件では激怒して評定せずに内匠頭を断罪する一方、討ち入りは義挙と喜んで助命する意志を持っていたとされる。
柳沢美濃守吉保(討ち入り時四十五歳)
綱吉の懐刀。史料によっては名宰相だったり、奸智に長けた出世欲の塊との評価が分かれている。綱吉が没すると、すぐに引退した。
仙石伯耆守久尚(討ち入り時四十六歳)
当時の幕府大目付。討ち入りを義挙と考え、浪士たちを手厚く扱う。内蔵助への尋問では、堂々たる態度と弁説に感服・感銘を受けた。
荒木十左衛門政羽(討ち入り時四十一歳)
赤穂城請取目付で、検使徒目付としても肥後熊本藩主邸へと赴き、十七人の切腹に立ち会った。正徳五(一七一五)年に、不手際から小普請役へ左遷されている。
多門伝八郎重共(討ち入り時四十五歳)
内匠頭の取り調べと切腹の検使を務める。評定なしや庭先の切腹に対して抗議したりと、気骨ある行動をした。晩年は不遇な日々を過ごし、享保八(一七二三)年に六十五歳で没する。 
 
大石良雄1

 

(おおいし よしお/よしたか) 江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。
「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。
大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。その後、大石氏は応仁の乱などで没落したが、大石良信の代には豊臣秀次に仕えた。秀次失脚後、良信の庶子にして次男の大石良勝(良雄の曽祖父)は京で仏門に入れられたが、京を脱走し江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになった。良勝は、大坂夏の陣での戦功が著しかったため、浅野長政の三男浅野長重(長矩の曽祖父で常陸国真壁・笠間藩主)の永代家老に取り立てられる。長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移ることになる。
良勝の長男大石良欽も赤穂藩浅野家の筆頭家老となる。また良勝の次男大石良重も家老となり、浅野長直(長矩の祖父)の息女鶴姫を妻に賜っており、その子の二人はいずれも浅野長直に分知されて幕府旗本(浅野長恒と浅野長武)になった。
大石良欽は鳥居忠勝(鳥居元忠の子)の娘を娶り、その間に大石良昭を長男として儲けた。その良昭と備前国岡山藩の重臣池田由成(天城3万2,000石を領する大名並みの陪臣。また実際には岡山藩池田家の本家筋に当たる。詳しくは池田氏や岡山藩を参照のこと)の娘くまの間に長男として、播州赤穂城内に生まれたのがこの大石内蔵助良雄である。幼名は松之丞(一説に竹太郎)。
第6代将軍御台所熙子とは大石の一族、小山氏が代々近衛家諸太夫を勤める縁戚関係でもある。このため、熙子の弟、近衛家熈が義士碑に揮毫している。
生涯
万治2年(1659年)、大石良昭の長男として生まれる。幼名は松之丞。
延宝元年(1673年)9月6日、父良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。またこの年に元服して喜内(きない)と称するようになる。延宝5年(1677年)1月26日、良雄が19歳のおりに祖父良欽が死去し、その遺領1,500石と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぐ。また赤穂藩の家老見習いになり、大叔父の良重の後見を受けた。延宝7年(1679年)、21歳のときに正式な筆頭家老となる。天和3年(1683年)5月18日には良雄の後見をしていた良重も世を去り、いよいよ独立しなければならなくなった。
しかし平時における良雄は凡庸な家老だったようで、「昼行燈」と渾名されていたことは有名である。したがって藩政は老練で財務に長けた家老大野知房が牛耳っていたと思われる。貞享4年(1686年)には但馬豊岡藩京極家筆頭家老、石束毎公の18歳の娘りくと結婚。元禄元年(1688年)、彼女との間に長男松之丞(後の主税良金)を儲けた。さらに元禄3年(1690年)には長女くう、元禄4年(1691年)には次男吉之進(吉千代とも)が生まれている。
また元禄6年(1693年)には大石良雄は、京都にあったようで伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。また前年に奥村重舊に入門し、東軍流剣術を学んでいる。
元禄7年(1694年)2月、備中松山藩水谷家が改易となった際、主君浅野長矩が収城使に任じられた。良雄は先発して、改易に不満で徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城に単身入り、水谷家家老鶴見内蔵助を説得して無事に城を明渡させた。二人が偶然同じ「内蔵助」であったことから「両内蔵助の対決」として世間で評判になったという逸話もあるが、これは討ち入り事件後に創作された話らしく、明確な資料に基づいているわけではない。城の受け取りが無事に済むと長矩は赤穂へ帰国したが、良雄は在番として留まり、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの一年半余り、松山城の管理を任せられた。元禄8年(1695年)8月に赤穂へ帰国。元禄12年(1699年)には次女るりが生まれている。元禄13年(1700年)6月には長矩が参勤交代により赤穂を発つ。この時が良雄が主君と相見える最後の機会となった。
そして運命の元禄14年(1701年)が訪れ、2月4日に江戸にある長矩は、東山天皇の使者として江戸へ下向する予定の勅使達の接待役を幕府より命じられた。接待指南役は高家肝煎・吉良義央であった。
内匠頭刃傷と浅野家お家断絶
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城では勅使が持ってきた勅旨に対して将軍が奉答するという勅答の儀が執り行われるはずであった。しかしこの儀式が始まる直前、江戸城松之大廊下において勅使接待役にある浅野長矩が吉良義央に対して刃傷におよんだ。尊皇心の厚い将軍として知られる徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩を大名としては異例の即日切腹に処し、さらに赤穂浅野家をお家断絶とした。一方、吉良には何の咎めもなかった。
早水満尭と萱野重実の第一の急使、足軽飛脚による第二の急使、原元辰と大石信清の第三の急使、町飛脚による第四・第五・第六の急使、と次々に赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、3月28日までには刃傷事件・浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。27日から3日間にかけて赤穂にいる家臣に総登城の号令がかけられ、赤穂城内は幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれて紛糾した。恭順派の大野知房は、篭城派の原元辰・岡島常樹などと激しく対立し、4月12日には赤穂から逃亡した。こうした中、良雄は篭城殉死希望の藩士たちから義盟の血判書を受け取り、城を明渡した上で浅野長矩の弟浅野長広を立てて浅野家再興を嘆願し、あわせて吉良義央の処分を幕府に求めることで藩論を統一する。また良雄は、紙くず同然になるであろう赤穂藩の藩札の交換に応じて赤穂の経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめた。かつての「昼行燈」ぶりが信じられないような適切な処置であった。
また、良雄は物頭の月岡治右衛門と多川九左衛門を江戸に派遣して、幕府収城目付荒木政羽らに浅野家再興と吉良上野介処分を求めた嘆願書をとどけさせた(しかしこの二人は任を誤り、江戸家老安井彦右衛門に手渡し、美濃大垣藩主戸田氏定の手紙を持って帰ってくる)。4月18日、荒木らが赤穂に到着すると、良雄自身も浅野家再興と吉良義央処分について三度の嘆願を行っている。こうした良雄の努力もあって荒木個人の協力は得られたようで、江戸帰還後に荒木は老中にその旨を伝えている。翌日4月19日、隣国龍野藩の藩主脇坂安照と備中足守藩の藩主木下公定率いる収城軍勢に赤穂城を明け渡した。赤穂城退去後は遠林寺において藩政残務処理にあたり、この間は幕府から29人扶持を支給された。5月21日に残務処理もあらかた終わり、6月25日、ついに良雄は生まれ故郷赤穂を後にした。
お家再興、江戸急進派との軋轢
赤穂退去後、良雄は家族とともに京都山科に隠棲した。良雄が山科を選んだのは、大石家が近衛家の親族であるとともに、大石家の叔父進藤俊式の一族進藤長之(近衛家家臣)が管理していた土地だったことや、大津の錦織にいた母の兄である、阿波蜂須賀藩家老初代池田山城守玄寅の子三尾(池田)官兵衛正長と行き来し、浅野家再興の政界工作をするためでもあったと考えられる。
また、大石の外戚にあたる、当時の京都東山の泉涌寺の長老であった卓巖和尚という人物が、泉涌寺塔頭の来迎院の住職をしており、この人物を頼って大石は来迎院の檀家となって寺請証文を受け、いわば身分証明書を手に入れた形となった。そして、山科の居宅と来迎院を行き来し、来迎院にしつらえた茶室「含翆軒」にて茶会を行いながら、旧赤穂藩士たちと密議をおこなったといわれる[1][2]。
しかし、この頃から早くも浅野家遺臣たちの意見は二つに分かれはじめていた。一つは奥野定良(1,000石組頭)・進藤俊式(400石足軽頭)・小山良師(300石足軽頭)・岡本重之(400石大阪留守居役)ら高禄取りを中心にしたお家再興優先派、もう一つは堀部武庸(200石江戸留守居役)・高田郡兵衛(200石馬廻役)・奥田重盛(150石武具奉行)ら腕自慢の家臣を中心に、小禄の家臣たちに支持された吉良義央への仇討ち優先派である。それぞれの派の特徴として、前者は赤穂詰めの家臣が多く、後者は江戸詰めの家臣であることが多かったため、後者を江戸急進派とも呼んだ。
一党の頭目たる大石良雄自身は、どっちつかずの態度で分裂を回避しながら、実際にはお家再興に力を入れて、江戸急進派に時節到来を待つよう促すという立場をとった。赤穂を立ち去る前には遠林寺住職祐海を江戸へ送って、将軍徳川綱吉やその生母桂昌院に影響力を持っていた神田護持院の隆光大僧正などに浅野家再興の取り成しを依頼し、7月には小野寺秀和とともに浅野長矩の従兄弟にあたる戸田氏定と浅野家再興を議するために、美濃国大垣城を訪れている。また先に嘆願した荒木政羽からも良雄へ「浅野家お家再興の望みあり」という書状が届いている。
しかし、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸ら江戸急進派は、この間も良雄に江戸下向を促す書状を再三にわたり送り付けている。良雄は江戸急進派鎮撫のため、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)・潮田高教(200石絵図奉行)・中村正辰(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式と大高忠雄(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部に論破されて急進派になってしまったため、10月、良雄が自身で江戸へ下向した(第一次大石東下り)。良雄は江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で堀部と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの時、かつて赤穂藩を追われた不破正種が一党に加えてほしいと参じている。良雄は長矩の眠る泉岳寺へ参詣した際に主君の墓前で不破の帰参と同志へ加えることの許可を得た。この江戸下向で荒木や長矩の瑤泉院とも会っている。江戸で一通りやるべきことを終えた良雄は、12月には京都へ戻った。帰京後、嫡男大石良金を元服させている。大石良金は盟約に加わることを望み、良雄はこれを許した(妊娠中の妻りく、長女くう、次男吉之進、次女るりは翌年元禄15年(1702年)4月に妻の実家の豊岡へ帰した。りくは7月に大三郎を出産。この子はのちに広島藩に仕えることになる)。
しかし、この帰京後から、良雄の廓などでの放蕩がひどくなった。『仮名手本忠臣蔵』の影響で、これは吉良家や上杉家の目を欺くための演技であるというのが半ば定説化している。しかし良雄はもともと赤穂藩時代から自由気ままな遊び人であり、本当に楽しんでいた面もあった可能性は高い。近年の『忠臣蔵』のドラマでも、「人間内蔵助」を描こうとして後者に描かれることが多い。(一方そもそも放蕩の事実はないとする説も有力。良雄放蕩の根拠『江赤見聞記』は落合勝信の著と見られるが、脱盟者の進藤俊式と小山良師が言ったことをそのまま載せたものとみられており、『堀部筆記』にもまるで出てこないことから)
この年の年末からは脱盟者も出始めており、その一人は江戸急進派の中心人物・高田郡兵衛であった。これは江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。良雄はこれを好機として元禄15年(1702年)2月の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定。吉田兼亮(200石加東郡郡代)と近松行重(馬廻250石)を江戸に派遣して江戸急進派にこれを伝えた。しかし江戸急進派は納得せず、良雄をはずして独自に決起することを模索しつつ、ついに6月には江戸急進派の頭目堀部武庸が自ら京都へ乗り込んでくる。「もはや大石は不要」として良雄を斬り捨てるつもりだったとも言われる。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて良雄もお家再興が難しい情勢を知っている。7月18日、ついに幕府は浅野長広にたいして広島藩お預かりを言い渡した。ここにお家再興は絶望的となり、幕府への遠慮は無用となった。
討ち入り
御家再興は絶望的となったのを受けて、7月28日、良雄は堀部武庸なども呼んで円山会議を開催し、吉良義央を討つことを決定した。武庸はこれを江戸の同志達に伝えるべく江戸へ戻っていった。また8月には貝賀友信(蔵奉行10両2石3人扶持)、大高忠雄らに神文返し(盟約の誓紙=神文の返還)を実施し、死にたくない者は脱盟するようそれとなく促した。このときに奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之・長沢六郎右衛門・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら、お家再興優先派が続々と脱盟していった。
一方、なお盟約に残った同志たちは次々と江戸へ下向していった。9月19日には大石良金が山科を発ち、さらに10月7日には良雄自身も垣見五郎兵衛と名乗って江戸へ下向した。『忠臣蔵』を題材にした物語では、「道中で本物の垣見五郎兵衛が出現して良雄と会見、五郎兵衛は良雄たちを吉良義央を討たんとする赤穂浪士と察して、自分が偽物だと詫びる」という挿話が入るが、これは創作である。
良雄は10月26日には川崎平間村軽部五兵衛宅に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発した。さらに11月5日に良雄一行は江戸に入り、日本橋近くの石町三丁目の小山屋に住居を定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手した。また吉良義央在邸確実の日を知る必要もあり、良雄旧知の国学者荷田春満や同志大高忠雄が脇屋新兵衛として入門していた茶人山田宗偏から12月14日に吉良邸で茶会がある情報を入手させた。良雄は確かな情報と判断し、討ち入りは同日夜と決する。討ち入りの大義名分を記した口上書を作成し、12月2日、頼母子講を装って深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させた。これが最終会議となる。討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。
12月15日未明。47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、浪士たちは遂に吉良義央を探し出し、これを討ち果たして、首級を取った。本懐を果たした良雄たち赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げると、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。
最期
良雄は、吉田兼亮・富森正因の2名を大目付仙石久尚の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣されてきた。良雄らは彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動した。幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられた。長男良金は松平定直の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとなる。
仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。
元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、良雄と面識がある幕府目付荒木政羽であった。良雄は細川家家臣安場一平の介錯で切腹した。享年45。亡骸は主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士。
辞世の句
大石良雄の辞世の句一般には[1]として知られるが一部文献には[2]とされる。
   [1] あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
   [2] あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし - 『介石記』『江赤見聞記』『義人遺草』
しかしながら上記は浅野長矩の墓に対してのもので、実際には次が辞世の句とも言われている。
   極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
人物評
「内蔵助生質静にして言葉少な也」東條守拙(赤穂浪士9士の預かりを担当した三河国岡崎藩主水野忠之の家臣)
「良雄人となり温寛にして度あり」栗山潜鋒(同時代の水戸学者)
「良雄人となり簡静にして威望あり」室鳩巣(同時代の儒学者)
「良雄人となり和易樸矜飾を喜ばず、国老に任ずといえども事に於いて預ること鮮し。しかも内実豪潔にして忠概を存じ最も族人に厚し。」三宅観瀾(同時代の水戸学者)
物静かで飾り気のない性格だが、内面は厚く人望があった事が窺われる。その一方、土芥寇讎記では浅野内匠頭に暗君という評価を下しているので、「(前略)次に、家老の仕置も心もとない。若年の君主が色にふけるのを諫めないほどの「不忠の臣」の政道だからおぼつかない」と書かれている。名指しされている訳ではないが、その家老の中に大石良雄が含まれている可能性は高い。
大石りく
生い立ち
りくは寛文9年(1669)に豊岡藩の武家屋敷で、石束(いしづか)源五右衛門毎公(つねとも)の長女として生まれました。石束毎公は豊岡藩京極家家臣の筆頭家老でした。
りくは18歳になって、赤穂・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の家臣、首席家老・大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)に嫁ぎます。良雄はこの時28歳でした。大石家は、近江の国(滋賀県)栗太郡(くりたぐん)、宇治川沿いの大石村より出て浅野家に仕え、代々家老をつとめ1500石を賜り内蔵助と称しました。
結婚して間もなく、元禄元年(1688)長男の主税良金(ちからよしかね)が生まれ、3年には長女くう、4年には次男吉之進(きちのしん)(のちに吉千代)が生まれ、にぎやかになりました。
討ち入りのあと
元禄14年(1701)3月14日、江戸城内、松之廊下で主君浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を腰の小刀で切り付けたのです。浅野内匠頭長矩はただちに切腹。浅野家は断絶、赤穂城は没収となりました。
大石内蔵助が開城準備や残務処理をしました。これらの悲痛な忙しさを裏で支えたのが、妻りくでした。城を明け渡したあと、大石一家は京都の山科へ移り住みました。そこで討ち入りの日を世間をあざむきながら、じっと待ちました。
元禄15年(1702)4月、大石内蔵助は長男・主税を残して、りくと3人の子供たちを豊岡へ返しました。7月には三男・大石大三郎が生まれました。
同年12月14日、大石内蔵助を頭に赤穂浪士たちが吉良上野介邸へ討ち入りました。翌年2月4日、義士一同に切腹を命ぜられました。りくは次女・るりや大三郎と共に豊岡市日撫の隠居所・眞修院(しんしゅういん)に移りました。夫の切腹後は再婚せず、髪を剃り遺児の養育に専念し、良妻賢母で武士の妻の手本として称えられました。
正徳3年(1713)、大三郎が広島藩浅野家に仕官し1500石を賜り、りくも広島で暮らしました。元文元年(1736)11月19日、68歳の生涯を広島でとじました。墓は広島の国泰寺墓地にあり、子どもたちと一緒に眠っています。豊岡市日撫の正福寺には遺髪塚があります。
 
大石良雄2

 

家系図と系譜
○本姓 藤原氏 藤原秀郷から出ていると云われる。秀郷が関東に赴き平将門を討ったとき、一子を近江の国栗太郡大石庄に留めたが、その名をとって氏としたとされる。
○大石家と浅野家との関係は浅野長政に始まり、浅野長政の三男長重に仕えた大石内蔵助良勝が大坂の役で敵の首級を二つ挙げ、その後次第に重用され千五百石の家老に抜擢される。
○大石内蔵助良勝の後は嫡男、大石内蔵助良欽(よしたか)が嗣ぎ、その子大石権内良昭は早逝したのでその子、大石内蔵助良雄(よしたか)が祖父良欽の養子となった。大石家の家紋です
○大石内蔵助良欽の弟で大石頼母助良重は別に一家を興し、長恒・長武の二子を挙げる。浅野長直は長恒を養子とし赤穂郡若狭野三千石を分与し旗本の士に列し元禄十三年従五位下で美濃守と称し、次子長武は加東郡三千五百石の浅野家の分家長賢の養子となった。
○大石内蔵助良勝の弟で大石八郎兵衛信云(のぶこと)も父兄の縁故により浅野長重に仕え大坂の役で功を立て長男を大石五左衛門良総、次男を八郎兵衛信澄という。兄の良総は浅野家に仕えたあと浪人し江戸に住んで吉良討ち入りを支援した大石無人となる。その子郷右衛門良麿が津軽家に仕えることになる。
○弟の信澄は浅野家に仕えて四百五十石を食み長男を大石孫四郎信豊といい三百石受領し、次子が赤穂義士の一人、大石瀬左衛門信清(のぶきよ)で百五十石を食み一家を成した。
大石良雄の出自と経歴
生年 万治二年(1659)
没年 元禄十六年二月四日(1703)
享年 四十五歳
戒名 忠誠院刃空浄剣居士
父 権内良昭 三十四歳で早逝した為良雄は祖父内蔵助良欽の養子となり家督を継ぐ。
母 クマ 備前池田家家老池田出羽由成の長女で元禄四年三月四日に京滞在中に病没。浅野家出入りの商人、綿屋善右衛門の世話で京都寺町仏光寺上ル聖光院に葬られる。戒名は「松樹院殿鶴山栄亀大姉」。良昭と死別した後は「鶴」「松寿院」と称した。
禄高 千五百石(譜代)
兄弟 弟 専貞(大西坊)・弟 良房(喜内)早逝
役職名 国家老上席
親戚 奥野将監・進藤源四郎・小山源五右衛門・大石孫四郎
屋敷 赤穂城三の丸
変名 池田久右衛門・垣見五郎兵衛・大星由良之助良兼(仮名手本)
幼名 松太郎
仮寓所 山城国山科・京都四条道場・武蔵国川崎在平間村・江戸日本橋石町三丁目小山屋弥兵衛店
性格 (別記載)
討入守備 表門 総隊長
刀 (別記載)
お預け所 肥後熊本藩
雅号 可笑(かしょう)
切腹場所 肥後熊本藩 細川越中守綱利下屋敷
妻子 (別記載)
介錯人 安場一平(あんばいっぺい) 宝永九年(1709)四三歳で没。子孫の保和は男爵となり福岡や愛知県知事を歴任。
好物 花は牡丹、食べ物は蕎麦とにらがゆ(韮入りのお粥)
変名由来 垣見五郎兵衛の由来は先祖発祥の地江州神埼郡垣見からの説と母方の祖父池田玄蕃の重臣垣見丹下からの説とがあり確定に至っていない。
遺言 「別にしたためるほどのことではないが今夏参勤交代で熊本へ下られる時にでも私の従弟の大西坊が城川八幡にいるから、今日のこの好天に、心晴れやかに相果てたとお伝え願います。そうすれば但馬にいる次男のほうへも通ずると思います」
辞世句 「あら楽やおもひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」
「かかる」は「翳る」(かげる)の説あり。「あら楽し」は「赤穂義士辞典」にあり出典は「江赤見聞記」とある。「あら楽や」は「介石記」「義人遺草」にある。この詩は泉岳寺に吉良上野介の首を供えて敵討ちを報告した時とされ、ほかに「極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人」や「花の雲空も名残になりにけり」があります。
容姿や人柄などの特筆事項
容姿について
○傍系大石家の記録や「半日閑話」には一体のつくりが痩せ形で梅干しを見るようだとある。
○収監先の細川家世話役の堀内伝右衛門覚書には「手甲や小袖が常人に使用にならぬほど小さい」とあって相当に小柄で案外貧相な人であったようである。
人柄について
温寛にして度あり、あだ名は昼行灯 温厚沈着。寛容で物事にあくせくしない性格で昼行灯と、あだ名される。
○小野寺十内から京都小野寺十兵衛宛の手紙
「内蔵助儀家中一統に感心せしめ候て進退をまかせ候と相見え申候。年若に候えども少しもあぐみ申す色も見え申さず、毎日終日城にて万事を引き受けたじろぎ申さず滞りなくさばき申候」とある。
○井上団右衛門の言葉(団右衛門は広島浅野から開城を見届けに来た用人)「如何にも常人の人と相見え申さず、内蔵助などと片名を呼び申す仁体に相見え申さず候、是非内蔵助殿と唱え申さず候ては成り申さざる様に相見候」とある。
○栗山潜峰(史家学者)「忠義碑」の中で「人なり温寛にして度あり、齷齪(あくせく)と自らを用いることを為さず」とある。
○三宅観欄「烈士報讐録」のなかで「人なり和易簡樸、衿飾を喜ばず、国老に任ずと雖も事に預かること鮮(すくな)し、而も内実剛潔にして忠概を存し、最も族人に厚し」とある。
思想について
「討入り趣意書」の中で内蔵助は主君である浅野内匠頭長矩の殿中刃傷事件に対し「時節場所をも弁へざる働き、不調法至極」と書き入れさせているのは私情にとらわれぬ考え方で「人々心得之覚」(討入り訓令)や「起請文前書之事」(連判状前文)にも一端がうかがえる。
刀について
則長二尺八寸金拵え・脇差則長二尺在之。備前清光、康光の異説がある。
刃こぼれあり 堀内伝右衛門覚書によると「相州物の大乱れ刃で脇差は松葉先一尺ほと血糊の跡があって、刃こぼれがあり定めて上野介殿のとどめを刺されたるものと察し申し候」、脇差は『万山不重君恩重一髪不軽臣命軽』と大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀で相当の業物」とある。
剣術について
免許皆伝 三十四歳で東軍流免許皆伝を得る。(異説あり)
○東軍流の奥村権左衛門重旧は無我と号して美作、備前、備中、播磨、四国と歴遊して池田・浅野・松平らの許で藩士に剣を授ける。万治二年(1659)の生まれで大石内蔵助とは同年。
○奥村権左衛門宛の手紙元禄四年(1691)五月十三日付では「東軍流剣術再度御教道願い上げ度き存念に付き」とし、殿様へのお暇乞いを得て先生の許へ推参仕り度いと伺いを立てる。
○同年八月に高松へ渡り翌年、免許皆伝一巻を授かる。
○門弟は五百余人で内蔵助の叔父大石平内が松平讃岐守に仕えた関係と海上交通の地理的な関係もあったと考えられ、赤穂藩からは大石瀬左衛門や潮田又之丞も修業している。
山鹿素行と内蔵助
武士道の真髄を直に教わる 山鹿素行が反朱子学の罪に問われて赤穂に配流されたのは寛文六年から延宝三年までの八年九ヶ月(45〜54歳)に及ぶ。
○大石内蔵助は八歳から十七歳で多感な時期であったこと。
○山鹿素行の配居に十年間内弟子として学んだ二歳年長の磯谷平介が学友に選ばれていることなどから、山鹿素行の感化を受けたことは容易に想像できる。
○教えに「金の計算のできない侍は何をさせても駄目」というのがある。
「金銀請払帳」にみる経済感覚
とても優れた人 瑤泉院(内匠頭の正室阿久利)付家老、落合与左衛門に奥方御化粧料なる預かり金の使途明細を誌した「金銀請払帳」を元禄十五年十一月二十九日に差し出している。
○受け取りや証拠が添えてあった。
○収支不足分の七両一分を自弁している。
○毛頭自分用事には仕候儀御座なく候と添えてあった。
○大石内蔵助は自分の藩札の交換もしなかった。
以上の事柄から実直で、些事に拘泥しないように見えて実は経済の念に大変、優れた人であったことが窺える。  
赤穂城の屋敷や仮住まい、山科隠棲での特筆事項
赤穂城三の丸屋敷
赤穂城三の丸にあり大手門をつきあたった所(当時は大手門を入って右に曲がり多門をくぐって左に曲がった所)で家老職藤井又左衛門の屋敷の右隣りにある。広さ千九百坪余りで本邸は享保十四年(1729)に焼失。長屋門と庭園は現存します。浅野家断絶後、永井家の家臣篠崎長兵衛の屋敷となりその後、森藩の藩札の紙漉場になりました。明治になり家老藤井又左柄門の屋敷跡を中心に大石神社が創建され現在に至っています。
開城後の仮住まい
「おせど」と呼ばれる仮寓の地 尾崎の「おせど」は家扶瀬尾孫左衛門の兄元屋八十右衛門の別宅で、残務整理のために山科に発つまで家族と共に仮住まいした所で大石内蔵助仮寓の地として保存されています。右の画は赤穂を去るに際し、同村の老僕八助に与えたと伝わる内蔵助自筆の拓本ですが、画風に異論も出て真贋のほどは不明です。
大坂へ去る
内蔵助名残の松 伊和都比売大神(いわつひめ)御崎下の新浜港から大坂へ向かい元禄十四年(1701)六月二十五日に大坂に着いています。内蔵助名残の松は昭和二年に松食い虫により枯れ現在は二代目。初代の切り株が花岳寺に保存されています。
山科隠棲
○進藤源四郎四百石の縁地で山科西野山村に千八百坪の土地を購入し一年四ヶ月滞在する。現在地は京都市東山区山科西野山桜ノ馬場町。
○三月二十一日には山科近辺の土地を探して欲しい旨大石家の一族である石清水八幡宮の大西坊、専成坊、正之坊の三人に宛て、手紙を書いている。
○元受人は進藤源四郎
○大石内蔵助のあだ名「昼行灯」とは真逆の迅速性が際だつ出来事である。
○昭憲皇太后が詠む御詩に(明治十二年七月)大石内蔵助と題して「梅の花雪に埋もれて人知れず春をや待ちし 山科の里」がある。
山科を選んだ理由
○京都東山と逢坂山との谷間の南へ広がる盆地で、東海道にも近く、京都や伏見にも近くて地理的条件が良かったこと。
○八幡宮は祖父大石義勝以来の縁地でそこの大西坊には内蔵助の弟、専貞が常住しその後内蔵助の養子覺連(叔父小山源右衛門の子)も入っていた。
○江州石山の東の大石村には大石家の縁者も多く、特に浅野家の家臣進藤源四郎(物頭役四百石)が山科西野山村に先祖から田畑を所有していたので頼った。
○幕府の取り締まりが厳しく浪人が住居を構えるには庄屋、年寄、村役人の許可が必要だった。
○進藤源四郎の身許保証を得て許可を受け田地を買い入れ母方の姓池田、池田久右衛門と名乗って家を建て住居を構えた。
山科での乱行
吉良の親族である伏見奉行の建部政字が大石内蔵助の動静を看視していたこともあり「ずぶ六と見せて心は酔いもせず」が内蔵助の本音であったのでは?
伏見橦木町に通う人を「白魚大臣」といった。遊び代が九匁程度に対し京都から橦木町の駕籠代が五匁二分で駕籠代と遊び代が同程度だったことから竹代の高い白魚にちなむ。ちなみに、当時の祇園の遊女代金は三十匁程度だったという。
「お軽」の話
「おかぢ」「おかや」「可留」だったとも云われる。生家は二文字屋で京都二条寺町で出版業とも古道具屋をしていたとも伝えられる。又、京都島原中ノ町の娼家の女だったとの説もある。十八歳で四十四歳の内蔵助のところに小間使い兼側女として入ったのは諸書が一致している。子を宿すが子供のその後は不明。内蔵助は大西坊住職に宛てた手紙で、寺井玄渓や養子の大西坊覺連に生まれる子の将来を頼んでいる。
お軽の墓
○京都上善寺に墓があり「清譽貞林法尼」が戒名。
○京都柴野瑞光院の過去帳には「清譽貞林法尼」正午三癸巳十月六日二十九往生二条京都坊二文字屋可留久右衛門妾也」とある。(註)正午三癸巳は正徳三年(1713)にあたります。
大石内蔵助の詩 / 雅号 可笑
○「今は早霞が関を立出て君ます里の花をいざ見ん」
○「とふ人に語る言葉のなかりせば身は武蔵野の露と答へん」東へ下りて(義人遺草)
○「あらたのし思ひは晴るる身は捨つるうきよの月にかかる雲なし」泉岳寺で(江赤見聞記・義人録)
○「よしの山よしやといゝもはてぬまに尚なけかるる世にもあるかな」(菜華圓書翰)
○「何怨殺我身 一朝乍作塵 唯歓達君志 長不失為臣」瑞光院主が江戸にて貰い帰りし辞世
○「桂花一朝雖開眉 思郷断腸不待夕」 (赤城義臣伝) (註)桂花は木犀の花
○「存命て浮世の春は近けれど御法の花を待つぞ久しき」(鐘秀記)
○「思ひ入る身は武蔵野の夕露の残る心は朝野下艸」(赤城義臣伝)
○「千代経ても老ひぬ例を常磐山色添ふ松に今ぞ知らるる」
○「濁江のにごりに魚のひそむともなどかはせみの捕らで止むべき」
○「水に映る花や藻屑に浮かべて散しを恨む岸の梅が枝」
○「木のもとに消すは有共吹風に散らば憂からん花のしら雲」
○「大井川今も御幸の址とめて秋は綿のとばり掛くらん」 寄松祝い
○「山の端を月の夕に打見れば松ばかりこそ峯に立ちけれ」
○「兎に角に思は晴るる身の上に暫し迷の雲とてもなし」
○「武士の命に高き名をかへて唯もかくこそあるまほしけれ」
○「池水にしばしが程は降り消えて凍る方より積る白雪」
○「しけかりし世のことわざを行かへてなみだひまなき年の暮れかな」
○「なかたなやさすがおかしき年の暮」(菜華圓書翰)
○「やぶれたる障子つづくるけさの雪」(菜華圓書翰)
○「永らへて花を待つべき身なれどなほ惜しまるる年の暮かな」 
夫婦・妻・子供に関する特筆事項
妻子のこと
1.妻 理玖(りく) 石束源五兵衛毎公千二百石の長女(但馬豊岡藩京極甲斐守高住三万五千石の家老)
2.長男 主税良金(享年十六歳)
3.長女 クウ(享年十五歳)
4.次女 ルリ(享年五十三歳)
5.次男 吉千代(享年十九歳)
6.三男 大三郎(享年六十九歳、元禄十五年七月十五日生まれ)
夫婦のこと
○小野寺十内の手紙に、大石主税は「せい五尺七寸」とあり、原惣右衛門の手紙に「年あひよりひね申候、器量(かんろく)能(良く)候」とある。
○りく夫人の手記にも娘のルリが大振りであると述べている。広島市小町の国泰寺にあるりく夫人の墓誌銘にも人並みはずれた趣が書いてあり、子供らは母の骨格を受けて生まれたものか。大石内蔵助の容姿を重ねると蚤の夫婦ということになる。
妻の実家
○古学派(出石)と赤穂古学派(山鹿素行)で交流があった。(赤穂→出石(介在)→豊岡)
○実家は京極家の血筋にもあたる譜代。石束源五兵衛毎公(つねとも)は剛直で政数に明るい父の源五兵衛毎術(つねやす)の後をうけて源五兵衛の名跡と家老職知行千二百石を継いだ。
○長男 宇右衛門三百石
理玖を離縁
浅野大学の処分が決まり 主家再興の望みがなくなり敵討ちをするに際し父子の罪が妻達に及ばないようにどうしても縁を切っておく必要があった。
○京都出立前に妻の父石束源五兵衛と妻の兄同姓宇右衛門に宛てた一文を認めて男山八幡の覺連に届け、自分が江戸入りしたのを見極めて豊岡に届けさせるよう依頼する。
山科から豊岡へ妻子を帰す時に離縁とする説があるが、東下りが決定した時が正しい。
○元禄十六年浪士切腹のころ、豊岡京極家から幕府に差し出した公文書(元禄十六年二月五日)にも「内蔵助妻去年午十月初旬離別」とあるのがその根拠になっている。
理玖のこと
忠臣の妻として浅野本家で厚遇を受ける 大石内蔵助亡きあと剃髪して香林院と称する。
本家芸州浅野家より終生百石をもらい大石内蔵助切腹から二十三年後の元文元年(1736)十一月十九日六十八歳で没し国泰寺に葬られる。戒名は「香林院花屋寿栄大姉」
○理玖の手紙
弘前藩大石庄司(郷右衛門)に広島入りの模様を書く。「広島から武林勘助(唯七の兄)が三十人もの人数で迎えに来てくれ、豊岡からは叔父の佐々宇佐衛門が姫路まで妹婿の田村瀬兵衛が広島まで送ってくれた。豊岡出発は九月二十六日、雨にも遭わず十月一日に広島に着き、広大な屋敷と千五百石の知行を得た」との内容。
○理玖の手紙(村尾なる女性宛)
「何事もこの両人の子供に引かされ候て月日を送り申候。いとどさへ父親なく候へば子どもの作法も思はしからず候。男子は殊に母親の申す事はおろそかに聞き入り候。何卒人にも人と言わせ度く候。朝夕世話のみに紛れ暮らし候」とある。
○理玖の手紙(ルリの結納について)
「おるり縁組み仰付られ候事は、先だって申し進んじ結構に仰付られ候。悦び申す御事。御察し下され候べく候。浅野長十郎殿より結納の祝儀も四月二十八日に参り候はずに御座候。一入(ひとしお)に悦びまいらせ候」とある。
次男 吉千代(のち吉之進と改める)
数奇な運命 累罪を恐れた石束家一門は元禄十五年六月に松平伊賀守領分の但州美含郡竹野谷の順谷村井山にある円通寺の大休和尚の許で出家させる。元禄十五年十月に剃髪し「祖練(錬)元快」と名乗るが大赦令の出た直後の宝永六年(1709)三月一日に十九歳で入寂。興国寺に葬られたが興国寺が廃寺となり正福寺のクウの墓域に移されている。
○豊岡城主京極甲斐守からの元禄十六年二月五日の公儀届書に「内蔵助妻去年十月初旬離別、吉之進母離別前より出家」とある。
○吉千代の将来について、大石内蔵助は討入りの前々日に赤穂の恵光・良雲・神護寺の三僧に宛てた暇乞状の中で吉之進の出家を残念がり「一度武名之家をおこし候様に支度事に候」と書いている。
三男 大三郎
忠臣の子息として出世する・千五百石 元禄十五年(1702)七月五(七)日に豊岡石束家で生まれる。百日余りで石束家の家来雲伝(くもで)茂兵衛の養子となりその後、生後六ヶ月で宮津の眼医者林文左衛門が金子十両を添えて実子として貰い受けている。幕府は遺子の探索で、大三郎を林文左衛門の実子としては認めず内蔵助の三男とした為、再び石束家に引き取られている。
略歴
1.宝永六年(1709)の大赦により免罪となり晴れて大石内蔵助の跡取りとして成長する
2.正徳三年(1713)九月二十六日に芸州浅野家の招きで千五百石の知行で召し抱えられる
3.享保二年(1717)十六歳で元服し大石外衛良恭と名乗る
4.享保六年(1721)九月、安芸守吉長の一門浅野帯刀の娘と結婚、旗奉行次席から表番頭に出世
5.明和七年(1770)二月十四日六十九歳で広島で没す
6.墓所と戒名 国泰寺で戒名「松巌院忠幹蒼栄居士」
長女 くう
宝永元年(1704)九月二十九日十五歳で病没し但馬豊岡日撫正福寺裏山に埋葬。戒名は正覺院本光妙智信女。
次女 るり
広島で幸せを得る 進藤源四郎の養女となるが、理玖が豊岡に帰る時に戻される。○大三郎が正徳三年(1713)に安芸広島藩に仕官する時、母と共に広島に移る。
○広島藩士と結婚 正徳四年(1714)藩主浅野吉長の命で十六歳の時、安芸広島藩家臣浅野長十郎信之(後の監物直道)の妻となり二男四女をもうけた。
○宝暦元年(1751)六月に五十三歳で死去。墓所は常林院で戒名は「正聚院定譽寿真大姉」
母と子が受けた本家浅野での厚遇は大石内蔵助の忠義に報いるためであったに相違ない。 
 
或日の大石内蔵助 / 芥川龍之介

 

立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨(さが)たる老木の梅の影が、何間(なんげん)かの明(あかる)みを、右の端から左の端まで画の如く鮮(あざやか)に領している。元浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしかつ)は、その障子を後(うしろ)にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。
九人一つ座敷にいる中(うち)で、片岡源五右衛門(かたおかげんごえもん)は、今し方厠(かわや)へ立った。早水藤左衛門(はやみとうざえもん)は、下(しも)の間(ま)へ話しに行って、未(いまだ)にここへ帰らない。あとには、吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)、原惣右衛門(はらそうえもん)、間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)、小野寺十内(おのでらじゅうない)、堀部弥兵衛(ほりべやへえ)、間喜兵衛(はざまきへえ)の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、あるいは書見に耽(ふけ)ったり、あるいは消息を認(したた)めたりしている。その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか、まだ春の浅い座敷の中は、肌寒いばかりにもの静(しずか)である。時たま、しわぶきの声をさせるものがあっても、それは、かすかに漂(ただよ)っている墨の匂(におい)を動かすほどの音さえ立てない。
内蔵助(くらのすけ)は、ふと眼を三国誌からはなして、遠い所を見るような眼をしながら、静に手を傍(かたわら)の火鉢の上にかざした。金網(かなあみ)をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。丁度、去年の極月(ごくげつ)十五日に、亡君の讐(あだ)を復して、泉岳寺(せんがくじ)へ引上げた時、彼自(みずか)ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰って来たのである。
赤穂(あこう)の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何(いか)に彼は焦慮と画策(かくさく)との中(うち)に、費(ついや)した事であろう。動(やや)もすればはやり勝ちな、一党の客気(かっき)を控制(こうせい)して、徐(おもむろ)に機の熟するのを待っただけでも、並大抵(なみたいてい)な骨折りではない。しかも讐家(しゅうか)の放った細作(さいさく)は、絶えず彼の身辺を窺(うかが)っている。彼は放埓(ほうらつ)を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。山科(やましな)や円山(まるやま)の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って来る。――しかし、もうすべては行く処へ行きついた。
もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党四十七人に対する、公儀(こうぎ)の御沙汰(ごさた)だけである。が、その御沙汰があるのも、いずれ遠い事ではないのに違いない。そうだ。すべては行く処へ行きついた。それも単に、復讐の挙が成就(じょうじゅ)したと云うばかりではない。すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した。彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心の疚(やま)しさに曇らされる所は少しもない。彼として、これ以上の満足があり得ようか。……
こう思いながら、内蔵助は眉をのべて、これも書見に倦(う)んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習いをしていた吉田忠左衛門に、火鉢のこちらから声をかけた。
「今日(きょう)は余程暖いようですな。」
「さようでございます。こうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡気(ねむけ)がさしそうでなりません。」
内蔵助は微笑した。この正月の元旦に、富森助右衛門(とみのもりすけえもん)が、三杯の屠蘇(とそ)に酔って、「今日も春恥しからぬ寝武士かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。句意も、良雄(よしかつ)が今感じている満足と変りはない。
「やはり本意を遂(と)げたと云う、気のゆるみがあるのでございましょう。」
「さようさ。それもありましょう。」
忠左衛門は、手もとの煙管(きせる)をとり上げて、つつましく一服の煙を味った。煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。
「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」
「さようでございます。手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした。」
「我々は、よくよく運のよいものと見えますな。」
二人は、満足そうに、眼で笑い合った。――もしこの時、良雄の後(うしろ)の障子に、影法師が一つ映らなかったなら、そうして、その影法師が、障子の引手(ひきて)へ手をかけると共に消えて、その代りに、早水藤左衛門の逞しい姿が、座敷の中へはいって来なかったなら、良雄はいつまでも、快い春の日の暖さを、その誇らかな満足の情と共に、味わう事が出来たのであろう。が、現実は、血色の良い藤左衛門の両頬に浮んでいる、ゆたかな微笑と共に、遠慮なく二人の間へはいって来た。が、彼等は、勿論それには気がつかない。
「大分(だいぶ)下(しも)の間(ま)は、賑かなようですな。」
忠左衛門は、こう云いながら、また煙草(たばこ)を一服吸いつけた。
「今日の当番は、伝右衛門(でんえもん)殿ですから、それで余計話がはずむのでしょう。片岡なども、今し方あちらへ参って、そのまま坐りこんでしまいました。」
「道理こそ、遅いと思いましたよ。」
忠左衛門は、煙にむせて、苦しそうに笑った。すると、頻(しきり)に筆を走らせていた小野寺十内が、何かと思った気色(けしき)で、ちょいと顔をあげたが、すぐまた眼を紙へ落して、せっせとあとを書き始める。これは恐らく、京都の妻女へ送る消息でも、認(したた)めていたものであろう。――内蔵助も、眦(まなじり)の皺(しわ)を深くして、笑いながら、
「何か面白い話でもありましたか。」
「いえ。不相変(あいかわらず)の無駄話ばかりでございます。もっとも先刻、近松(ちかまつ)が甚三郎(じんざぶろう)の話を致した時には、伝右衛門殿なぞも、眼に涙をためて、聞いて居られましたが、そのほかは――いや、そう云えば、面白い話がございました。我々が吉良(きら)殿を討取って以来、江戸中に何かと仇討(あだうち)じみた事が流行(はや)るそうでございます。」
「ははあ、それは思いもよりませんな。」
忠左衛門は、けげんな顔をして、藤左衛門を見た。相手は、この話をして聞かせるのが、何故(なぜ)か非常に得意らしい。
「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも可笑(おか)しかったのは、南八丁堀(みなみはっちょうぼり)の湊町(みなとちょう)辺にあった話です。何でも事の起りは、あの界隈(かいわい)の米屋の亭主が、風呂屋で、隣同志の紺屋の職人と喧嘩をしたのですな。どうせ起りは、湯がはねかったとか何とか云う、つまらない事からなのでしょう。そうして、その揚句(あげく)に米屋の亭主の方が、紺屋の職人に桶で散々撲(なぐ)られたのだそうです。すると、米屋の丁稚(でっち)が一人、それを遺恨に思って、暮方(くれがた)その職人の外へ出る所を待伏せて、いきなり鉤(かぎ)を向うの肩へ打ちこんだと云うじゃありませんか。それも「主人の讐(かたき)、思い知れ」と云いながら、やったのだそうです。……」
藤左衛門は、手真似をしながら、笑い笑い、こう云った。
「それはまた乱暴至極ですな。」
「職人の方は、大怪我(おおけが)をしたようです。それでも、近所の評判は、その丁稚(でっち)の方が好(よ)いと云うのだから、不思議でしょう。そのほかまだその通町(とおりちょう)三丁目にも一つ、新麹町(しんこうじまち)の二丁目にも一つ、それから、もう一つはどこでしたかな。とにかく、諸方にあるそうです。それが皆、我々の真似だそうだから、可笑(おか)しいじゃありませんか。」
藤左衛門と忠左衛門とは、顔を見合せて、笑った。復讐の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな些事(さじ)にしても、快いに相違ない。ただ一人内蔵助だけは、僅に額へ手を加えたまま、つまらなそうな顔をして、黙っている。――藤左衛門の話は、彼の心の満足に、かすかながら妙な曇りを落させた。と云っても、勿論彼が、彼のした行為のあらゆる結果に、責任を持つ気でいた訳ではない。彼等が復讐の挙を果して以来、江戸中に仇討が流行した所で、それはもとより彼の良心と風馬牛(ふうばぎゅう)なのが当然である。しかし、それにも関らず、彼の心からは、今までの春の温(ぬく)もりが、幾分か減却したような感じがあった。
事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊(いささ)か驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔(ま)く事になった。これは恐らく、彼の満足が、暗々の裡(うち)に論理と背馳(はいち)して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好い性質を帯びていたからであろう。勿論当時の彼の心には、こう云う解剖的(かいぼうてき)な考えは、少しもはいって来なかった。彼はただ、春風(しゅんぷう)の底に一脈の氷冷(ひれい)の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。
しかし、内蔵助の笑わなかったのは、格別二人の注意を惹かなかったらしい。いや、人の好い藤左衛門の如きは、彼自身にとってこの話が興味あるように、内蔵助にとっても興味があるものと確信して疑わなかったのであろう。それでなければ、彼は、更に自身下(しも)の間(ま)へ赴いて、当日の当直だった細川家の家来、堀内伝右衛門を、わざわざこちらへつれて来などはしなかったのに相違ない。所が、万事にまめな彼は、忠左衛門を顧(かえりみ)て、「伝右衛門殿をよんで来ましょう。」とか何とか云うと、早速隔ての襖(ふすま)をあけて、気軽く下の間へ出向いて行った。そうして、ほどなく、見た所から無骨(ぶこつ)らしい伝右衛門を伴なって、不相変(あいかわらず)の微笑をたたえながら、得々(とくとく)として帰って来た。
「いや、これは、とんだ御足労を願って恐縮でございますな。」
忠左衛門は、伝右衛門の姿を見ると、良雄(よしかつ)に代って、微笑しながらこう云った。伝右衛門の素朴で、真率(しんそつ)な性格は、お預けになって以来、夙(つと)に彼と彼等との間を、故旧(こきゅう)のような温情でつないでいたからである。
「早水氏(はやみうじ)が是非こちらへ参れと云われるので、御邪魔とは思いながら、罷(まか)り出ました。」
伝右衛門は、座につくと、太い眉毛を動かしながら、日にやけた頬の筋肉を、今にも笑い出しそうに動かして、万遍なく一座を見廻した。これにつれて、書物を読んでいたのも、筆を動かしていたのも、皆それぞれ挨拶(あいさつ)をする。内蔵助もやはり、慇懃(いんぎん)に会釈をした。ただその中で聊(いささ)か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子(ようす)である。これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑(おか)しかったものと見えて、傍(かたわら)の衝立(ついたて)の方を向きながら、苦しそうな顔をして笑をこらえていた。
「伝右衛門殿も老人はお嫌いだと見えて、とかくこちらへはお出(いで)になりませんな。」
内蔵助は、いつに似合わない、滑(なめらか)な調子で、こう云った。幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。
「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々(かたがた)に引とめられて、ついそのまま、話しこんでしまうのでございます。」
「今も承(うけたまわ)れば、大分(だいぶ)面白い話が出たようでございますな。」
忠左衛門も、傍(かたわら)から口を挟(はさ)んだ。
「面白い話――と申しますと……」
「江戸中で仇討(あだうち)の真似事が流行(はや)ると云う、あの話でございます。」
藤左衛門は、こう云って、伝右衛門と内蔵助とを、にこにこしながら、等分に見比べた。
「はあ、いや、あの話でございますか。人情と云うものは、実に妙なものでございます。御一同の忠義に感じると、町人百姓までそう云う真似がして見たくなるのでございましょう。これで、どのくらいじだらくな上下(じょうげ)の風俗が、改まるかわかりません。やれ浄瑠璃(じょうるり)の、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行(はや)っている時でございますから、丁度よろしゅうございます。」
会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下(ひげ)の辞を述べながら、巧(たくみ)にその方向を転換しようとした。
「手前たちの忠義をお褒(ほ)め下さるのは難有(ありがた)いが、手前一人(ひとり)の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」
こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者(しょうしんもの)ばかりでございます。もっとも最初は、奥野将監(おくのしょうげん)などと申す番頭(ばんがしら)も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、ついに同盟を脱しましたのは、心外と申すよりほかはございません。そのほか、新藤源四郎(しんどうげんしろう)、河村伝兵衛(かわむらでんびょうえ)、小山源五左衛門(こやまげんござえもん)などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門(ささこざえもん)なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい。」
一座の空気は、内蔵助のこの語(ことば)と共に、今までの陽気さをなくなして、急に真面目(まじめ)な調子を帯びた。この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したと云っても差支えない。が、転換した方向が、果して内蔵助にとって、愉快なものだったかどうかは、自(おのずか)らまた別な問題である。
彼の述懐を聞くと、まず早水藤左衛門は、両手にこしらえていた拳骨(げんこつ)を、二三度膝の上にこすりながら、
「彼奴等(きゃつら)は皆、揃いも揃った人畜生(にんちくしょう)ばかりですな。一人として、武士の風上(かざかみ)にも置けるような奴は居りません。」
「さようさ。それも高田群兵衛(たかたぐんべえ)などになると、畜生より劣っていますて。」
忠左衛門は、眉をあげて、賛同を求めるように、堀部弥兵衛を見た。慷慨家(こうがいか)の弥兵衛は、もとより黙っていない。
「引き上げの朝、彼奴(きゃつ)に遇(あ)った時には、唾を吐きかけても飽き足らぬと思いました。何しろのめのめと我々の前へ面(つら)をさらした上に、御本望(ほんもう)を遂げられ、大慶の至りなどと云うのですからな。」
「高田も高田じゃが、小山田庄左衛門(おやまだしょうざえもん)などもしようのないたわけ者じゃ。」
間瀬久太夫が、誰に云うともなくこう云うと、原惣右衛門や小野寺十内も、やはり口を斉(ひと)しくして、背盟(はいめい)の徒を罵りはじめた。寡黙な間喜兵衛でさえ、口こそきかないが、白髪(しらが)頭をうなずかせて、一同の意見に賛同の意を表した事は、度々(どど)ある。
「何に致せ、御一同のような忠臣と、一つ御(ご)藩に、さような輩(やから)が居(お)ろうとは、考えられも致しませんな。さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍(いぬざむらい)の禄盗人(ろくぬすびと)のと悪口(あっこう)を申して居(お)るようでございます。岡林杢之助(おかばやしもくのすけ)殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類縁者が申し合せて、詰腹(つめばら)を斬らせたのだなどと云う風評がございました。またよしんばそうでないにしても、かような場合に立ち至って見れば、その汚名も受けずには居(お)られますまい。まして、余人は猶更(なおさら)の事でございます。これは、仇討(あだうち)の真似事を致すほど、義に勇みやすい江戸の事と申し、且(かつ)はかねがね御一同の御憤(おいきどお)りもある事と申し、さような輩を斬ってすてるものが出ないとも、限りませんな。」
伝右衛門は、他人事(ひとごと)とは思われないような容子(ようす)で、昂然とこう云い放った。この分では、誰よりも彼自身が、その斬り捨ての任に当り兼ねない勢いである。これに煽動(せんどう)された吉田、原、早水、堀部などは、皆一種の興奮を感じたように、愈(いよいよ)手ひどく、乱臣賊子を罵殺(ばさつ)しにかかった。――が、その中にただ一人、大石内蔵助だけは、両手を膝の上にのせたまま、愈(いよいよ)つまらなそうな顔をして、だんだん口数をへらしながら、ぼんやり火鉢の中を眺めている。
彼は、彼の転換した方面へ会話が進行した結果、変心した故朋輩の代価で、彼等の忠義が益(ますます)褒(ほ)めそやされていると云う、新しい事実を発見した。そうして、それと共に、彼の胸底を吹いていた春風は、再び幾分の温(ぬく)もりを減却した。勿論彼が背盟の徒のために惜んだのは、単に会話の方向を転じたかったためばかりではない、彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思っていた。が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思っていない。人情の向背(こうはい)も、世故(せこ)の転変も、つぶさに味って来た彼の眼(まなこ)から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎるほど自然であった。もし真率(しんそつ)と云う語(ことば)が許されるとすれば、気の毒なくらい真率であった。従って、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかった。まして、復讐の事の成った今になって見れば、彼等に与う可きものは、ただ憫笑(びんしょう)が残っているだけである。それを世間は、殺しても猶飽き足らないように、思っているらしい。何故我々を忠義の士とするためには、彼等を人畜生(にんちくしょう)としなければならないのであろう。我々と彼等との差は、存外大きなものではない。――江戸の町人に与えた妙な影響を、前に快からず思った内蔵助は、それとは稍(やや)ちがった意味で、今度は背盟の徒が蒙った影響を、伝右衛門によって代表された、天下の公論の中に看取した。彼が苦い顔をしたのも、決して偶然ではない。
しかし、内蔵助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。
彼の無言でいるのを見た伝右衛門は、大方(おおかた)それを彼らしい謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。愈(いよいよ)彼の人柄に敬服した。その敬服さ加減を披瀝(ひれき)するために、この朴直な肥後侍(ひござむらい)は、無理に話頭を一転すると、たちまち内蔵助の忠義に対する、盛な歎賞の辞をならべはじめた。
「過日もさる物識りから承りましたが、唐土(もろこし)の何とやら申す侍は、炭を呑んで唖(おし)になってまでも、主人の仇(あだ)をつけ狙ったそうでございますな。しかし、それは内蔵助殿のように、心にもない放埓(ほうらつ)をつくされるよりは、まだまだ苦しくない方(ほう)ではございますまいか。」
伝右衛門は、こう云う前置きをして、それから、内蔵助が濫行(らんこう)を尽した一年前の逸聞(いつぶん)を、長々としゃべり出した。高尾(たかお)や愛宕(あたご)の紅葉狩も、佯狂(ようきょう)の彼には、どのくらいつらかった事であろう。島原(しまばら)や祇園(ぎおん)の花見の宴(えん)も、苦肉の計に耽っている彼には、苦しかったのに相違ない。……
「承れば、その頃京都では、大石かるくて張抜石(はりぬきいし)などと申す唄も、流行(はや)りました由を聞き及びました。それほどまでに、天下を欺き了(おお)せるのは、よくよくの事でなければ出来ますまい。先頃天野弥左衛門(あまのやざえもん)様が、沈勇だと御賞美になったのも、至極道理な事でございます。」
「いや、それほど何も、大した事ではございません。」内蔵助は、不承不承(ふしょうぶしょう)に答えた。
その人に傲(たかぶ)らない態度が、伝右衛門にとっては、物足りないと同時に、一層の奥床しさを感じさせたと見えて、今まで内蔵助の方を向いていた彼は、永年京都勤番(きんばん)をつとめていた小野寺十内の方へ向きを換えると、益(ますます)、熱心に推服の意を洩(もら)し始めた。その子供らしい熱心さが、一党の中でも通人の名の高い十内には、可笑(おか)しいと同時に、可愛(かわい)かったのであろう。彼は、素直(すなお)に伝右衛門の意をむかえて、当時内蔵助が仇家(きゅうか)の細作(さいさく)を欺くために、法衣(ころも)をまとって升屋(ますや)の夕霧(ゆうぎり)のもとへ通いつめた話を、事明細に話して聞かせた。
「あの通り真面目な顔をしている内蔵助が、当時は里げしきと申す唄を作った事もございました。それがまた、中々評判で、廓(くるわ)中どこでもうたわなかった所は、なかったくらいでございます。そこへ当時の内蔵助の風俗が、墨染の法衣姿(ころもすがた)で、あの祇園の桜がちる中を、浮(うき)さま浮さまとそやされながら、酔って歩くと云うのでございましょう。里げしきの唄が流行(はや)ったり、内蔵助の濫行も名高くなったりしたのは、少しも無理はございません。何しろ夕霧と云い、浮橋(うきはし)と云い、島原や撞木町(しゅもくまち)の名高い太夫(たゆう)たちでも、内蔵助と云えば、下にも置かぬように扱うと云う騒ぎでございましたから。」
内蔵助は、こう云う十内の話を、殆ど侮蔑されたような心もちで、苦々(にがにが)しく聞いていた。と同時にまた、昔の放埓(ほうらつ)の記憶を、思い出すともなく思い出した。それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮(あざやか)な記憶である。彼はその思い出の中に、長蝋燭(ながろうそく)の光を見、伽羅(きゃら)の油の匂を嗅ぎ、加賀節(かがぶし)の三味線の音(ね)を聞いた。いや、今十内が云った里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云う文句さえ、春宮(しゅんきゅう)の中からぬけ出したような、夕霧や浮橋のなまめかしい姿と共に、歴々と心中に浮んで来た。如何に彼は、この記憶の中に出没するあらゆる放埓の生活を、思い切って受用した事であろう。そうしてまた、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩(たいとう)たる瞬間を、味った事であろう。彼は己(おのれ)を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢想さえ出来ない所である。従って、彼の放埓のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。
こう考えている内蔵助が、その所謂(いわゆる)佯狂苦肉(ようきょうくにく)の計を褒(ほ)められて、苦(にが)い顔をしたのに不思議はない。彼は、再度の打撃をうけて僅に残っていた胸間の春風(しゅんぷう)が、見る見る中に吹きつくしてしまった事を意識した。あとに残っているのは、一切の誤解に対する反感と、その誤解を予想しなかった彼自身の愚に対する反感とが、うすら寒く影をひろげているばかりである。彼の復讐の挙も、彼の同志も、最後にまた彼自身も、多分このまま、勝手な賞讃の声と共に、後代まで伝えられる事であろう。――こう云う不快な事実と向いあいながら、彼は火の気のうすくなった火鉢に手をかざすと、伝右衛門の眼をさけて、情なさそうにため息をした。
―――――
それから何分かの後(のち)である。厠(かわや)へ行くのにかこつけて、座をはずして来た大石内蔵助は、独り縁側の柱によりかかって、寒梅の老木が、古庭の苔(こけ)と石との間に、的※[白+轢のつくり](てきれき)たる花をつけたのを眺めていた。日の色はもううすれ切って、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏(たそがれ)がひろがろうとするらしい。が、障子の中では、不相変(あいかわらず)面白そうな話声がつづいている。彼はそれを聞いている中に、自(おのずか)らな一味の哀情が、徐(おもむろ)に彼をつつんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴(さえ)返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――内蔵助は、青空に象嵌(ぞうがん)をしたような、堅く冷(つめた)い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳(たたず)んでいた。
   (大正六年八月十五日) 
 
吉良義央諸話 

 

 
吉良義央1 (吉良上野介)

 

(きら よしひさ/よしなか) 江戸時代前期の高家旗本。高家肝煎。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。
生涯
寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本・吉良義冬(4,200石)と酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれともされる。義冬の母が高家今川家出身であるため、今川氏真の玄孫にあたる。継母は母の妹。
弟に東条義叔(500石の旗本)、東条義孝(切米300俵の旗本)、東条冬貞(義叔養子)、東条冬重(義孝養子)、孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。
承応2年(1653年)3月16日、将軍・徳川家綱に拝謁。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任(位階が高いにもかかわらず、上野守でなく上野介である事については、親王任国を参照)。
万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。この婚儀は美男子であった義央を、富子が見初めたとの逸話もあるが、確実な資料からは見出せない。『上杉年譜』は「万治元年3月5日、柳営において老中・酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋列座のなか、保科正之から三姫を吉良上野介へ嫁がせるべき旨を命じられたことを千坂兵部が(綱勝に)言上した」と幕命による婚儀と記している。富子との間に二男四女(長男・三之助、次男・三郎、長女・鶴姫、次女・振姫、三女・阿久利姫、四女・菊姫)に恵まれた。ただし次男・三郎と次女・振姫は夭折。
名門の家柄
万治2年(1659年)から父とともに出仕する。部屋住みの身分ながら、家禄とは別に庇蔭料1,000俵が支給された。
寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛した。
寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する賀使としての2度目の上洛の際、同年2月3日、22歳にして従四位上に昇叙している。24回もの上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら使者職を行っていた事は、高家としての技倆が卓越していた事を表している。優秀な技倆を綱吉が寵愛した為ともいわれている。
寛文4年(1664年)閏5月、義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。綱勝急死は義央による毒殺説が存在するが、これは上杉家江戸家老・千坂高房らと対立して失脚した米沢藩士・福王子八弥の流言飛語で、綱勝自身も若いころから病弱で、何度か病に倒れ、危篤になったこともあり、毒殺説の信憑性は乏しいとされている。
以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、たびたび財政支援をさせたほか、3人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとした。長女・鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女・阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕の室、四女・菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。
寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。
延宝8年(1680年)8月29日、高家の極官である左近衛権少将に転任し、天和3年(1683年)3月には大沢基恒、畠山義里とともに高家肝煎に就任した。貞享3年(1686年)、西尾藩と折衝の後、領地のあった三河国幡豆郡に黄金堤を築く。
また、長男・綱憲の上杉家入り以後、嫡男は次男・三郎だったが、貞享2年(1685年)9月1日に夭折。綱憲や幕府とも協議の末、綱憲次男の春千代を吉良左兵衛義周と改名させて養子とし、元禄3年(1690年)4月16日に江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。
元禄11年(1698年)9月6日、江戸の大火により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。この大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野長矩であった。
松の廊下の事件
元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの御馳走人を命じられた。義央は高家肝煎の筆頭だったが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、江戸に帰着したのは2月29日だった。長矩は過去に1度、勅使御馳走人を経験していたのだが、以前とは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。
3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏、畠山義寧らによって別室へ運ばれた。外科医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。その後、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の『多門筆記』によると、義央は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている(多門筆記は事件のだいぶ後に書かれたもので、他者の作も考えられる)。長矩は、即日切腹を命ぜられた。
義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。この本所移転は、幕府によって計画的に行われたという説が有力となっている。理由のひとつは表門の移設である。松平登之助の屋敷だったときは屋敷の正面は南であったが、吉良屋敷になって東に変わった。これは元禄14年前後の江戸の地図を見比べると明らかに変更がなされており、松平登之助の屋敷の正面が南であったことは昭和43年に公開された幕府普請奉行の役所用資料「御府内往還場末其外沿革図書」にも記されている。また、吉良邸の絵図面を見ると東に表門がありながら、表玄関の正面が南になっている。表門を入ってから左に回りこまなければ玄関に入れない。元禄15年(1702年)12月13日付で大石良雄が赤穂の3人の僧に宛てた書簡には「若老中(若年寄)もご存知のようでうまくいくと思う」という意味のことが書かれている。なお旧赤穂藩士との確執が噂され、近所の阿波富田藩蜂須賀家から吉良を呉服橋内より移転させるよう嘆願があったとされる。これは堀部安兵衛らが大石に送った8月19日付書簡に書かれてあったことで、後世になって流されたものとされる。また屋敷替えに富子は同道していなかったといわれてきたが、吉良上野介も本所屋敷には常住していなかった。また、後年の作品に記されている、富子が「浅野も腹を切ったのだからあなたも切ったらどうです?」と言ったシーンは史料には見当たらず、新屋敷が狭くて大勢の女中を連れることができないというのも、過去の2つの屋敷と比較すれば、根拠に乏しい。
この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付の庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重など、義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。
12月11日、義央は隠居願いを提出した。これは依願退職のようなもので、即座に受理された。養嗣子・義周が家督を相続した。元禄15年(1702年)7月に浅野長矩の弟・長広が浅野本家に預かりとなった。
これと前後して茶人・山田宗偏は本所に茶室を構えていたので、義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。12月14日に茶会があるとの情報が宗偏を通じて、宗偏の弟子・脇屋新兵衛(その正体は四十七士の一人大高忠雄)につかまれていた。元赤穂藩筆頭家老・大石良雄はこの日を討ち入り日に決定した。
最期
12月15日未明、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。当主・義周はじめ吉良家臣らは防戦にあたるも、義央自身は炭小屋に隠れた。赤穂浪士たちは義央の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとするや、皿鉢や炭などが投げつけられ、2人の吉良家臣が斬りかかってきた。切り伏せたあと、奥で動くものがあったため、間光興が槍で突いた。義央は脇差で抵抗しようとするも、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。
義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられたあと、箱に詰めて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へ送り返し、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。二人の連署の署名がある吉良の首の領収書(首一つ)を泉岳寺が残している。先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が首と胴体をつなぎ合わせたあと、菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。
この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが、大正期に万昌院と改めて中野への移転に伴って墓も移動し、現在は史跡に指定されている。
評価
忠臣蔵の「悪役」として有名な義央の評価は芳しくない。一方、領地三河国幡豆郡では、貞享3年(1686年)に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓や人柄から「名君」とされ、地元では慕われている。吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは義央が黄金堤を築いた際に当地を訪れ、赤馬に乗って作業を視察したことに関係する玩具である。黄金堤の名称は築堤によって水害を終息させ農業生産の安定に寄与した義央の遺徳を偲んで後代になり称されることになったものであり、同様に赤馬の玩具も築堤作業を視察する義央が騎乗した赤い馬を称えるため、天保年間になり作成が始まったものである。
義央には浅野長矩以外の御馳走人にも、いわゆるいじめを行っていたという逸話が多く残っている。
元禄11年(1698年)、勅使御馳走人となった亀井茲親は義央からいじめを受け、耐えかねた茲親は家老の多胡真蔭に洩らしたという。真蔭は主君を諫める一方で、密かに金遣役を呼んで納戸金一箱を取り出させ、茶菓子のなかに入れて手土産として吉良邸へ持参し、主君の無礼を詫びたうえ、指導引き回しを懇願して帰邸。翌日より茲親への態度が急に優しくなったので事なきをえた、という話が津和野名産の茶菓子源氏巻誕生の逸話として残っている。しかし、この逸話の初出は、大田南畝(蜀山人)の『半日閑話』(1768〜1822年)であり、さらに桃井若狭之助(亀井茲親)と加古川本蔵(多胡真蔭)のエピソードが登場する『仮名手本忠臣蔵』(1748年初演)の後に書かれているので、後世の創作の可能性が高い。
浅野が刃傷に及ぶ前、伊予大洲藩主・加藤泰恒や出羽新庄藩主・戸沢正庸が日光法会中に受けた義央のいじめを浅野に伝え、お役目を終えるまで耐えよと諭した逸話が、冷光君御伝記(誠尽忠臣記よりの情報としている)や義人録(広島藩士御牧武大夫信久の証言として)などに記されている。
上杉家家臣たちからの評価も芳しくなかった。出納帳には「上野介殿江」という項目が設けられ、吉良家の買掛金や普請は上杉家が持つのが恒例となっていた。呉服橋の新邸も上杉家から支出されている。米沢藩江戸勘定方・須田右近は国元の重臣にあてた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と書き遺している。そのため、近年の忠臣蔵を扱ったドラマの中には上杉家江戸家老の色部安長が「金食い虫」である義央を消すため策動したものであるかのように描くものもある。上杉家は領地を削られても藩士を解雇せずにいた上に度重なる領地召し上げから財政状態は芳しくなかったため、吉良への仕送りも楽なものではなかった。
赤穂浪士の討ち入りが朝廷に伝わった時、東山天皇の嬉々としていた様子が関白・近衛基熙の日記に記されている。幕府の方針を忠実に実行しただけとはいえ、義央は幕府による朝廷抑制政策の通達役に立つことが多かった。そのため、天皇もまた義央に含むところがあった事が推測される。そればかりでなく、次代将軍をめぐっての問題がある。近衛基熙の娘・熙子は甲府家に嫁いでいた。将軍綱吉の娘は紀伊家に嫁いでいる。紀伊徳川家の娘は上杉家に嫁いでいる。元禄13年末に亡くなった水戸光圀の妻は近衛基熙の叔母にあたる。刃傷事件の3日後、綱吉は初めて紀伊家の江戸屋敷を訪問している。次期将軍擁立については、綱吉・上杉・吉良と近衛・水戸が対立していた。光圀が亡くなったことで紀伊家が有利になったようだが、それが原因で綱吉政権を倒そうとする動きがあったことから、元禄14年4月から6月にかけて、幕府直属の軍隊による大規模な射撃演習が繰り返し行われた。
茶人としての義央は、茶匠千宗旦の晩年の弟子の一人であり、『茶道便蒙抄』を著した茶人山田宗偏などとも親交を持っていた。「卜一」(ぼくいち・上野介の上の字を二分したもの)という茶の号を持ち、卜一流を興していた。
備考
義央以外の高家衆
刃傷事件があった元禄14年(1701年)、義央は高家肝煎の地位にあったが、当時の高家は彼を含めて9人いた。義久以外では畠山基玄(従四位上侍従)・大友義孝(従四位下侍従)・品川伊氏(従四位下侍従)・京極高規(従四位下侍従)・戸田氏興(従四位下侍従)・織田信門(従五位下侍従)・畠山義寧(従五位下侍従)・横瀬貞顕(従五位下侍従)である(元禄14年当時)。
この内、吉良義央・畠山義寧・大友義孝の三人が高家肝煎職だが、なかでも義央は高家肝煎職の最古参であり、且つ唯一の左少将であった。高家筆頭と呼ばれているのはこのためである。
江戸っ子と田舎大名
義央が浅野長矩を「田舎大名」と愚弄した根拠はない。ただ、義央も三河国(愛知県)に領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。義央も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地にアイデンティティを持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地にアイデンティティを持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。
吉良と大石の親戚関係
吉良義央と大石良雄の二人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。義央から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。しかし、事件前から面識があったかどうかは不明。 
 
吉良上野介2

 

寛永18年(1641年)9月2日、高家(江戸幕府の儀礼などをつかさどる重職)で旗本の吉良義冬と酒井忠勝の姪の嫡男・吉良義央(よしなか、或いはよしひさ)として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。父義冬の実母が今川家の出自なので、今川氏真の玄孫でもある。
なお、明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任され、翌年の4月には出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・富子と結婚し、上杉家との血縁関係を築く。
名家である今川家の血を引き、東北の雄藩上杉とも関係強化を果たした上野介は諸芸に秀でた若者に成人し、徳川家綱や後西天皇と言った公武の頂点に立つ御歴々に謁見するなど、高家御曹司としての才覚をいかんなく発揮した。
松の廊下
その後も上野介は自らの長男を上杉の養子にして御家断絶を防ぐなど人脈を作り、28歳で家督を相続して以降は朝廷への使者としての務めを果たし、優秀な実績を残す。貞享3年(1686年)、西尾藩と折衝の後、領地の三河国幡豆郡に黄金堤を築いた逸話は名高い。だが、後世ではこれらの行動すべてが裏目に出てしまう。
それは、元禄14年(1701年)3月14日午前10時過ぎの事である。以前から付き合いのあった播磨赤穂藩主・浅野長矩(3年前に吉良邸を襲った火事の消防指揮を執ったのが浅野)によって、勅使接待の指南役をしていた上野介は背後から斬り付けられたのである。背中と額に重傷を負った上野介は救出され、抜刀して暴れるという暴挙を起こした長矩は怒り狂った徳川綱吉の命令によって即日切腹、赤穂藩は取り潰しとなる。
この件について上野介は「拙者は恨まれることをした覚えはなく、浅野公の乱心でございましょう」と言った趣旨の発言をしている。
吉良邸討ち入り
松の廊下での事件後、上野介は高家肝煎の職を辞する届け出を3月26日に提出、8月13日には屋敷替えを拝命。12月11日、義央は隠居願いを提出し、孫の義周に家督を相続させた。その4日後、彼に運命の時が訪れる。大石内蔵助率いる赤穂四十七士が討ち入りをしてきたのである。吉良家に出入りし、上野介も師事した茶人に近づくなどして情報を察知した赤穂浪士は上野介を倒すべく邸内に乱入した。
上野介は義周や清水一学らの防戦の御蔭で炭小屋に隠れることができたが、間光興に槍で突き刺され、脇差を振り回して抵抗するも、武林隆重の剣に倒れた。享年62(満61歳)「霊性寺殿実山相公大居士」の戒名を与えられた。事件後、父の危機を見捨てるという恥辱に耐えた上杉家は存続するも、義周は改易された上に配流先で死去し、高家としての吉良家は事実上滅亡した。
逸話
黄金堤を築いた治水の名君として愛知県では人気があり、吉良町では彼が乗った赤馬にちなんだ郷土玩具が存在する。高家はほとんど地方へ行くことはなかったが、領民を気遣った殿様が敵の兇刃に倒れたことへの追悼の念がそうした伝説を産んだとも言われる。また、息子を養子縁組させた山形県や出生地の一つとも伝わる群馬県にも彼にまつわる史跡は多い。
新田開発や塩田の整備も考慮していたとされ、赤穂との軋轢は塩の産地である赤穂藩に技術指導を依頼したら断られたことが一因ともされるが根拠は不明瞭である。
賄賂を要求する卑しいイメージが横行しているが、当時の賄賂は「まいない」と言って現代ほどマイナスのイメージはなく、高家への指南料として献上するものだったので、それを求めた上野介は当然のことをしただけだった。
津和野藩(島根県)の亀井茲親公が賄賂をケチったために嫌がらせをしたが、家臣がお菓子に小判を入れて詫びたらその機智を褒めて許したと言う「源氏巻」なる郷土菓子の逸話にも登場するが、創作の可能性が高い。
偉大な人物であったことは確実だが、その手の英雄にありがちな敵の多さもまた事実であり、上杉家が援軍を出さなかったのは、金策に困っていた時に金食い虫の上野介(高家は物入りだった)を排斥するための口実説がある。また、朝廷からは抑圧的な幕府の手先として煙たがられ、将軍の側近なども吉良を滅ぼす算段を立てていたため、破滅させられたという陰謀論も存在する。 
 
吉良義央3

 

忠臣蔵の敵役
赤穂事件からおよそ300年。吉良上野介ほど悪く言われ続けた人物はおるまい。なんといっても忠臣蔵の話は上野介がとびっきりの悪人でなくては始まらないのである。
芝居の上野介の因業じじいぶりは見事といっていい。
だいたい、忠臣蔵の前半の見せ所は上野介じじいの悪態に、耐えに耐えた内匠頭が堪忍袋の緒を切って遂に松の廊下で刃傷に及ぶところにある。
この場合、上野介が内匠頭につらくあたればあたるほど、悪人であればあるほど、刃傷に及んだ内匠頭とその仇を討った赤穂浪士がひときわ引き立つというものである。
考えてみれば忠臣蔵と言う作品が現在にいたるまでウケてきたのは、様々な要素があるだろうが、要素の一つに、耐えに耐えた内匠頭がついに上野介に刃傷に及んでしまった点が世の中のお父さんに共感を持って迎えられたからではあるまいか。上野介のいじめに耐える内匠頭の姿が、上役に耐えるお父さん方にダブって共感し、刃傷のシーンで一瞬スカっとする。この構図が、忠臣蔵が恐怖のワンパターンでありながら世の中のお父さんにウケてきたのではあるまいかと思う。
実録 刃傷松の廊下
しかし、浅野内匠頭の刃傷が吉良上野介のいじめによるものであるというのは、忠臣蔵と言うお芝居の虚構であり実際には原因はわからない。
しかし、徳川家の公式記録、『徳川実記』では、
「吉良は、朝廷、幕府の礼節典故に通じていることではその右に出る者がいなかった。そのため名門大名といえどもみな辞を低くして彼の機嫌をとり、儀式のあるごとに教えを受けた。それゆえ、彼は賄賂をむさぼって莫大な財をなしたという。しかるに内匠頭は少しもへつらうことなく、このたびの接待人を賜っても賄賂を遣わなかったので、吉良はその事を憎み、何事も内匠頭に告げ知らせず」
と、あり、享保期の学者、室鳩巣(むろ きゅうそう)は『赤穂義人録』で、
「義央自らその能を矜り人に驕る。長矩人となり強硬、ともに屈せず」
とある。これは早い時期から刃傷の原因が吉良の浅野に対してのいじめであったと言う説が定着していたのであろう。
しかし、この説は刃傷の原因がわからなかったからこそ生まれた説といっていいであろう。
なぜ、このような説が生まれたのであろうか。それは内匠頭が吉良に斬りつけた際に叫んだ、
「この間の遺恨、覚えたるか!」
と、言った言葉が一人歩きしたのではないだろうか。
浅野は吉良に「遺恨」があるとういう。しかし、その遺恨の内容はわからない。しかし、周囲の人は判らないじゃ納得しない。そこで人々は遺恨の内容を憶測する。そこで一番説得力があるのが吉良のいじめだ。
そして吉良はなぜ浅野をいじめたか?
浅野の賄賂が少ないことに吉良が根に持ったのだと考えればストーリーが成り立つ。
つまり、私は、吉良いじめ説というのは、根拠が無いのに関わらず、内匠頭の「この間の遺恨覚えたるか」という言葉だけが一人歩きして生じた説に過ぎないのではないかと思う。
だいたい、内匠頭は本当に上野介を殺したいと思うほどの憎しみをもって刃傷に及んだのであろうか。結論から言えば、浅野に遺恨はあっても、それは殺したいと思うような遺恨でもなければ、憎しみをもって刃傷に及んだのではなく、突発的におきた一時的な感情、もしくは乱心によるものであったのではないかと思う。
ここで、現場の状況を追いながら見てみよう。
この時の詳細な記録は、旗本、梶川与惣兵衛(かじかわ よそべえ)という人物が残した日記、「梶川与惣兵衛日記」に残っている。梶川は吉良に斬りつけた浅野を抱きとめた人物で、(お芝居では内匠頭を抱きとめて、「殿中でござる!」と叫んでいる人)いわば事件現場の一部始終を最も近い位置にいた目撃者である。
「梶川日記」によれば事件当日、所用があって大廊下(松の廊下)で上野介と打ち合わせをしていると、何者かわからぬが、「この間の遺恨覚えたるか!」と叫んで上野介の背後から斬りつけた。何者と思って見ると、浅野内匠頭。
「これは」と吉良が振り向いたところを眉間にもう一太刀。上野介がうつぶせに倒れたところに、さらに内匠頭が斬りかかったので、梶川は内匠頭に飛びついて背後から抑えた。
ここで注目しなければいけないのは、芝居では刃傷の直前、上野介と内匠頭は口論。上野介の罵詈雑言に耐えかねて刃傷に及んだ形になっている。しかし、実際は刃傷の直前、上野介は梶川と会話を交わしていたのであり、内匠頭とは口論などなかった。つまり、直接、刃傷を誘発する状況ではなかったのである。
しかも、不可解なのは内匠頭の行動だ。このとき内匠頭は烏帽子大紋に長袴といった芝居で見るようなあのカッコウでとても動きにくい。しかも斬りつけた刀は「小サ刀」といって短刀である。短刀で人を殺傷しようとするならば切るより突かなくてはならない。しかし、内匠頭は動きにくい格好でしかも斬り付けたのである。これらの事を考えると、内匠頭は吉良を本当に殺害しようとしたのか、また、遺恨というが殺傷に及ぶだけの遺恨だったのか疑いたくなる。
斬り付けられた吉良上野介は、傷は浅かったものの、高齢(61歳)と典医が止血できなかったこともあって軽いショック症状を起こしていた。しかし、外科医の栗崎道有がまず気付け薬を飲ませてから止血、傷口の縫合をおこない、さらに軽い湯漬けをとると、正気をとりもどした。
上野介は取り調べに対し、「意趣をふくまれる覚えは無い。おおかた浅野の乱心であろう」と、答えた。上野介にとって嘘偽りの無い実感であったであろう。
実像、吉良上野介
上野介の地元、愛知県吉良町では、今も上野介を名君として称えている。
上野介の功績としてあげられるのは、洪水に苦しむ領民のために「黄金堤」を築いた・・・、また、新田の開拓に努めた・・・、また、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがり領内を巡検し、領民と語らったなどである。実際吉良町には「赤馬」という郷土玩具があるが、これは上野介の馬をモチーフにしたという。
世間の吉良への逆風をものともとせず、今もって名君として慕われているのだから、上野介の実像を考えるとき、この点のことを考慮に入れねばなるまい。
上野介は決して業突張りのくそじじいではなかったのである。 
しかし、誤解を受けやすい人物だったのではないかと思う。
刃傷事件の3年前、やはり勅使饗応役に就いた津和野藩主、亀井茲親(かめい これちか)が怒って上野介を斬ろうと計ったが、家老の才覚で穏便に済ませた話や、親戚の津軽公の屋敷で御馳走を受けたとき、「おかずは良いが、飯がまずい」と放言したというはなしが伝わっているが、自分の思ったことを考えなしに放言してしまう癖があったのではないかと思われる。
考えてみれば、上野介の家柄の「高家」は殿中の行事を司る家柄であり、吉良家は高家の筆頭の家柄である。官位は従四位上。禄高4200石ながら並みの大名よりは位が高い。
当然、気位が高く、田舎大名を見下した言動をしがちになるのも当り前と言えば、当り前かもしれない。
勅使饗応の指導を行うたびに、ついついチクリ、チクリと皮肉をいう上野介と、それを受けるたびにフラストレーションがたまる内匠頭。そして、松の廊下のあの場面。何かの拍子で乱心状態に陥った内匠頭が、たまったフラストレーションが爆発したのがあの刃傷であった。赤穂の悲劇は、上野介の性格と、内匠頭の乱心が引き起こしてと言えそうである。
刃傷事件の1年9ヶ月後の元禄15年(1702)12月18日。赤穂の浪士は吉良邸に討ち入り、上野介を討ち取る。
吉良上野介。62歳。その首は赤穂浪士の手で、浅野内匠頭の墓前に供えられた。
あわれをとどめたのは、上野介の実孫で養子の、吉良左兵衛義周(きら さひょうえ よしちか)である。彼は、討ち入りの日、薙刀をもって応戦したが、負傷した。その後、赤穂浪士に切腹の沙汰が下ったのと同時に、幕府より「当夜の振る舞いよろしからず(父を守れず、討ち死にもしなかったので)」と言うことで、領地没収のうえ、信州諏訪高島、諏訪家へお預けとなった。
厳しい制約を受けた幽閉生活も3年になろうとした宝永3年(1706)1月20日、左兵衛義周は21歳の若さで没した。
名門、吉良家はここに滅びたのである。
上野介と言う人物を冷静に考えたとき、身に覚えのないことで刃傷を受け、揚げ句のはてに恨みを受けて殺され、おまけに家は断絶させられると言う、まったく不幸としか言いようが無い。 
 
吉良上野介義央と吉良左兵衛義周

 

吉良家
先祖は名門足利氏
○ 足利将軍の流れをくみ、足利義氏の子の長氏が三河国幡豆郡吉良庄に移って以来「吉良」を名乗ったのを祖とする。
○ 足利幕府では渋川、石橋と共に御三家と呼ばれた家柄で道で出会うと、大名までが下馬しなければならなかった名門だったが応仁の乱以後没落し今川、織田、徳川と渡り歩く。吉良義定(義央の曾祖父)は吉良家中興の祖と言われる人物で徳川家康に取り立てられ二代将軍秀忠の侍臣となり千五百石を賜り天和元年(1615)に初めて高家となる。
苦しい台所事情
賄賂との関係は? 地位待遇が大名並であるのに知行は参州幡豆郡で三千二百石と上州の二郡で千石、合わせて四千二百石しかなく、上杉家から妻と綱憲を合わせて年に六千石の補助を貰っているなど決して楽な財政状態ではなかった。
上杉家相続の経緯
上野介の長男が継ぐ
○ 上杉家当主の綱勝(三姫の兄)は吉良邸で会食をして一週間後に急死したことで後継狙いの毒殺説「米沢史談」が浮上するが確証はない。
○ 綱勝には後継がなく上野介義央の嫡男で二歳の三郎(後の弾正大弼綱憲)を義嗣子として後継にする。これにより半分の十五万石になるが上杉家の存続に成功する。
○ 綱憲の妻は為姫で紀州徳川家光貞の娘。
上杉家の処罰
すまじきは宮仕え? 討入り当時の出羽米沢藩主は吉良上野介の長男の上杉弾正大弼綱憲だが親の敵も討たず、浪士に対しても手出しをしなかったことから、月番老中稲葉丹後守より増上寺火消し番を罷免されて伊達遠江守へ交替を申し渡される。追撃をすれば騒乱罪、隠忍自重して耐えれば不忠の責めが待つ、宮仕えはいつの世も辛いもの。
吉良上野介義央
生い立ち
○ 生年月日 寛永十八年九月二日(1641)
○ 没年月日 元禄十五年十二月十四日(1702)
○ 享年 六十一歳
○ 戒名 霊性院殿前上州別当従四位上羽林実山成公大居士
○ 禄高 四千二百石
○ 出身と生国 武藏国江戸鍛冶橋生まれ
○ 長男 三郎(上杉家へ養子に出す・後の上杉弾正大弼綱憲)
○ 長女 鶴子 島津薩摩守綱貴妻(上杉家の養女として)
○ 次女 阿久里 津軽采女信房妻(上杉家の養女として)
○ 三女 菊子 酒井主膳忠平妻(上杉家の養女として)
○ 養子 春千代(上杉綱憲の子を養子にする・後の吉良左兵衛義周)
○ 父 吉良義冬 慶長十二年生 左近衛権少将兼若狭守従四位上 寛文八年六十二歳没
○ 母 酒井紀伊守忠吉娘(忠吉の兄は綱吉の時代の老中酒井忠勝)
身分と職務と略歴
大名に匹敵する身分でスピード出世 官位は従四位上左近衛権少将で高家筆頭。十九歳〜六十歳まで肝煎を務める。(註)高家とは足利以来の名家二十六家(大沢・武田・畠山・吉良等)を言う。幕府の儀礼を扱う旗本で官位は大名に準ずる。老中に直属し、将軍の名代として京都朝廷、伊勢神宮、日光東照宮への代参、京都からの勅使、院使の接待などを司る役で当時は東山天皇で朝廷との関係は比較的良かった。略歴(幼少から秀才の誉れが高かった)
1.承応二年(1653) 十三歳の春、四代将軍家綱に御目見得。
2.明暦三年(1657) 十七歳で従四位下吉良上野介義央と名乗る。
3.万治元年(1658) 十二月二十一日三姫を嫁として迎える。
4.寛文三年(1663) 二十三歳で従四位上となり吉良家最高の位階を得る。長男三郎誕生。
5.寛文四年(1664) 二十四歳の時、上杉藩主綱勝の急死が毒殺による暗殺事件と噂になる。
6.寛文八年(1668) 二十九歳の時、父義冬が死去し家督を継ぎ以降、高家筆頭として君臨する。
吉良上野介の治績
郷里では名君 高家として殿中の典礼を司り多忙であったが郷里、吉良町では名君と慕われる。○ 黄金堤の築造、洪水が多く須美川に長さ九十余間・高さ十三尺の堤防を築いた。
○ 寺島用水の開墾灌漑用水用に須美川の水を引き入れる。
○ 雑田川排水路の開墾。
○ 富好新田の開拓(一旗本の事業としては規模からして疑問が残る)
○ 塩業の奨励。
性格
そんなに悪い? 徳富蘇峰「近世日本国史」によれば、「茶坊主気質の最も醜悪なる方面の代表者と見るべき人であった。上にへつらい、下におごり仲間を凌ぎ世の中を我が物顔に振る舞う海千山千、煮ても焼いても食えぬ代物」とある。
教養と詩 とても優れた人
茶道 / 義央は茶道を千利休の孫の千宗旦に学び造詣が深かった。また宗旦の相弟子山田宗偏とも親交があった。書道 / 義央は書道にも優れ華蔵寺には彼が書いた仲秋の歌の短冊が保存されている。詩 /
○ 十三夜 「雨雲は今宵の空に懸かれども晴れ行くままに出ずる月影」
○ 十五夜 「名にしおふ今宵の空の月影はわきていとはん雲もなし」

名門上杉家のお姫さま 三姫(さんき)または富子で羽州米沢三十万石上杉弾正少弼定勝の四女で上杉播磨守綱勝の妹。生没は寛永二十年(1643)六月十一日から宝永元年(1704)八月八日、寺は東北寺、戒名は「梅嶺院清岩栄昌大姉」
吉良屋敷
屋敷替えは幕府の策略? 元禄十四年(1701)八月十九日に本所松坂町二丁目松平登之助の空き家に移る。江戸城からは外郭となり、幕府が転居を許したことが討入容認の意図が詮索される原因となる。又、隣家が蜂須賀飛騨守で討入を警戒して老中へ吉良の屋敷替えを要請していたとも言われる。
屋敷敷地二千五百五十坪、総建坪八百四十六坪一合五勺、本家三百八十八坪一合五勺、長屋四百二十六坪(内厩二十七坪、腰掛九坪)
吉良家菩提寺万昌院について
天正二年(1574)に今川義元の孫、澄存が群馬県宝田の長年寺から仏照円鑑禅師を招いて創建した寺で江戸城半蔵門外→市ヶ谷→牛込築地八幡町に移り、この時上野介の遺体を葬る。大正三年に現在地に移り昭和二十三年に功運寺と合併している。吉良上野介義央、祖父義定、祖父義弥、父義冬、栗崎道有、水野重郎左衛門、歌川豊国の墓もある。
吉良左兵衛義周(きらさへいよしちか)
経歴と処罰
処分を宣告される 吉良左兵衛義周は吉良上野介義央の養子だが、実際は吉良上野介の長男三郎(上杉家の養子になり綱憲を名乗る)の次男で義央の孫にあたる人。
○ 生年は貞享二年(1686)、上杉家生まれで幼名は春千代。
○ 吉良上野介の養子になったのは元禄二年(1689)、四歳の時。
○ 赤穂浪士が討ち入った時は十七歳で薙刀を振るって渡り合い武林唯七の一撃に刀を捨てて逃げ生き延びた結果、江戸城評定所に於いて大目付仙石伯耆守や同奉行丹羽近江守ら列座の上、処分の宣告を受け、二月十一日の日暮れには安芸守邸へ護送される。宣告文「吉良左兵衛義周 浅野内匠家来共、上野介を御討候節、其方仕方不届に付領地被召上諏訪安芸守之御預被仰付者也」
過酷な幽閉の記録 あわれ義周の最期
○ 諏訪へ出立 家老の左右田孫兵衛・小姓の山吉新八の二人を従え網乗物に載せられて信州高島(現諏訪市)に流されるがこの裁定は死一等を減じられただけの厳しいものだった。
○ 「諏訪家御用状留帳」の記録によると「待遇は大変厳しいもので二月末まで洗濯は許されず三月十一日に義周の月代や髭が長く伸びたから剃ってもよいかとの願いに対し二週間も経った二十六日になって月代を剃ることはならんが髭は鋏で刈ってもよい、老母への手紙も検閲を受けなければならなかった」とある。
○ 宝永元年(1704)六月二日に実父の綱憲が四十二歳で病没する。
○ 同年の七月八日には養母で実の祖母の梅嶺院の死に遭っているが弔問も許されなかった。
○ 左兵衛は元来丈夫な質ではなく流謫中に疝気や風邪など度々患っていた。
○ 宝永二年(1705)十二月一日に悪寒発熱して病臥のまま正月を過ごす。
○ 宝永三年(1706)一月十九日の暮れから小便が出なくなり、呼吸困難に陥り一月二十日卯の上刻(午前六時頃)に絶命する。享年二十一歳。
○ 死骸は直ちに塩漬けにされて検使の来着を待ち神宮寺村の法華寺に埋葬された。
○ 検使役の幕府御書院番右谷七之助は死後二週間も経った二月四日に南丸へ到着している。 
 
赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周

 

赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。
「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜左兵衛の側に寝ていた中小姓一人、徒士の者三人が行方不明となっている。これは逃亡したとみられるから、結局吉良屋敷の内にいた者は一五○人」と書いているそうだ。
屋敷の中にいたのは150人で死傷を免れたのが101人というのだが、この中には女子供もいた数字で、内訳はよくわからない。死傷者の多くが寝起きを襲われたというのは吉良側はほとんど警戒をしていなかったということを意味する。武装した赤穂浪士は全員無事で、吉良側は一方的にやられまくったということだ。
吉良側では赤穂浪士の討入りがある可能性を日々注意はしていたのだろうが、情報入手ができていなかったようである。一方大石内蔵助には吉良家の情報がかなり詳しくわかっていた。
寺井玄渓宛て大石内蔵助の12月14日付け書状
「茶会の日もこれで決まった。12月5日に茶会があるというので討入りを考えていましたが、将軍が柳沢吉保殿屋敷をお成りと聞き、延期していました。14日に茶会があるというので、討入りをすることに決定しました」(「会日ヲも自然と承候、先日(5日)これ在り候へ共 御成日故遠慮致し、今日(14日)これ在るに付き明日打込申事ニ候」
将軍の御成り日まで把握していたというのは、赤穂浪士は幕府筋の情報ルートを持っていたという事になる。
吉良側にとってみればいつ来るかわからないものを、毎日受け身で待ち続けるのではいくらなんでも体が持たない。少なくとも武器は寝室の近くに置いて、異変を察知すれば直ちに動ける程度の準備は常々していたことだろう。
当時の江戸には町ごとに設置された「木戸」と呼ばれる仕切りがあり、夜10時以降の通行を制限するために木戸が閉められて、通行するためには木戸番に理由を告げて脇の潜り戸を通してもらう必要があったはずだ。そこでもし異変があれば木戸番や吉良邸の辻番が吉良邸に何らかの合図をしてもおかしくないところなのだが、この辻番や木戸番と赤穂浪士はトラブルなく通過したのか、特に記録が残されていないようなのだ。
脅されて黙って赤穂浪士を通したのかもしれないが、そのために異変を知ることが遅れてしまえば、守る側の吉良側は圧倒的に不利になることは言うまでもない。
ではこの赤穂浪士の討入りを、吉良側ではどう見ていたのか。
吉良上野介の孫で、養子の嫡子で17歳の吉良義周(よしちか)は、討ち入り後の15日に、幕府の検使にこの日の出来事について口上書を差し出している。 口上
書(現代語訳)
「昨日14日午前3時過ぎ、父の上野介や私がいる所へ、浅野内匠頭の家来と名乗り、大勢が火事装束の様に見えたのが、押し込んできました。表長屋の方は、2ヶ所に梯子をかけ、裏門は打ち破って、大勢が乱入してきました。その上、弓矢や槍、長刀などを持参しており、あちこちより切り込んできました。家来たちが防いだが、彼らは兵具に身を固めてやってきたので、こちらの家来は死んだり、負傷をしたものがたくさん出ました。乱入してきた者には、負傷させたが討ち取ったものはいません。私たちの屋敷に切り込んだので、当番の家来で近くに寝ていたものは、これを防ぎ、私も長刀で防戦しましたが、2箇所に負傷し、目に血が入って気を失いました。しばらくして、気がついたので、父のことが急に心配しになりました。今へ行って見ると、最早父は討たれていました。その後は、狼藉を働いた赤穂浪士は引揚げ、居りませんでした」
と、まるで防戦一方で、『米沢塩井家覚書』によると、「御疵も御眉間に少々、御右の御肩下御疵の長さ四五寸ほど、底之はよほど入申候、御あはら骨一本を切り申し、其の砌御身動之の節、かちり々と音の仕る程の事に候」とあり、眉間の刀傷は深く、長さが15cm程であばら骨が1本斬られてかちりと音がしたと書かれている。
武家諸法度には「徒党を組み誓約をなす事を禁ず」という条文がある。赤穂浪士の討入りは明らかに武家諸法度に違反する行為であったし、夜中に人家に忍び込む行為は武士道にも反する行為でもあった。
討入りの日に吉良家に幕府検使目付として派遣された安部式部信旨と杉田五左衛門勝行は、報告書を幕府に提出している。その報告書をうけ、老中一同は、赤穂の牢人たちの所業は「まさに夜盗の仕業である」といった感想を吉良家に伝えたというのだが、五代将軍・徳川綱吉が赤穂浪士の討入りを賞賛したために途中で結論が変わったようなのである。
討ち入りの日からまだ日も浅い元禄15年(1702)12月23日に老中列座のもと幕府・評定所の寄合が開かれ、その内容をつたえる「存寄書(ぞんじよりがき)」(意見書)では、赤穂浪士たちの夜討ちを賞賛し、読みようによっては赤穂浪士を助命したいともとれる内容が書かれている。
吉良家に関わる部分を要約すると次のようなものである。
1 吉良左兵衛義周は「武道不覚悟」で申し訳が立たない。自決すべきなのにそれもできなかったのだから、切腹を申し付けるべきである。
2 吉良家の家来で手合わせをしなかったもののうち、侍身分のものは斬罪に処されるべきである。多少とも働き手傷を負ったものは親類へのお預けに処されるべきである。 3 小者・中間は追放に処すのが妥当である。
4 赤穂の牢人たちが泉岳寺に引き上げるのを傍観した(吉良家の縁家である)上杉家は改易・断絶に処してもかまわない。
5 赤穂の牢人たちについては、武家諸法度の第一条までもちだし真実の忠義であると述べ、四大名家に預けたまま裁定はあとでもよい。
評定所は徳川幕府の最高裁判所のようなもので、その主体である寺社奉行、勘定奉行と町奉行の評定所一座に大目付・目付で構成される。また「存寄書」というものはあくまでも評定所の意見であって幕府の最終決定でもないが、幕府の中枢の考えが反映されてそれなりの影響力がある書類である。
赤穂浪士と吉良家の処分についてその後幕府内部で意見が割れて、綱吉の裁定に日時を要したことはこれまでの記事に書いたので繰り返さない。
赤穂浪士の処分が決まった同じ日(2月4日)に吉良義周は江戸幕府の評定所に呼び出され、義周の討入り当日の際の「仕形不届」(武道不覚悟)を問われ、家名断絶・領地没収を言い渡された。
この処分に納得できなかった義周はその後自ら評定所に足を運んだものの、幕府は「こうしなければ世論が納得しない」といって取り合わなかったそうだ。
そして元禄16年(1703)2月11日、吉良義周は罪人として諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は2名のみで、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだったという。
諏訪藩に到着すると信州高島藩三万石の居城、高島城南之丸の諏訪湖のほとりにある一室に幽閉されたのが、ここでの生活は過酷を極め、寒さの厳しい真冬でも木綿布子1枚で火鉢などで暖をとることもできず、また自殺防止のために脇差や扇子、楊枝、鼻紙などを身に着けることもできなかったという。
さらに幽閉中に悲しい知らせが相次いだ。
宝永元年(1704)6月2日には実父上杉綱憲が享年42歳で死去。同じ年の8月8日に養母(祖母)梅嶺院が享年61歳で死去と、度重なる身内の訃報に義周はかなりショックを受けただろう。
このような厳しい環境での生活のために、義周はたびたび体調を崩し衰弱していく。
幽閉から3年ほどたった宝永2年(1705)10月頃から発熱や悪寒といった症状が出て完全に寝たきりとなり、翌年の1月20日に21歳の生涯を終えたという。
今まで何度か書いてきたが、普通に考えれば浅野内匠頭が殿中で吉良上野介を斬りつけたのであって、吉良上野介は単なる被害者だ。浅野内匠頭は即日切腹となったが、それは幕府が命じたことであり、赤穂藩が仇討ちをするとすれば相手は幕府でなければ筋が通らない。
しかし赤穂浪士が命を奪ったのは松の廊下刃傷事件の被害者である吉良上野介で、この被害者の命を奪う行為は「仇討」と呼ぶべきものではなく、亡君の遺志を完結させて霊を慰める儀式のようなものである。義周にまで罪が問われる理由がどこにあろうか。
夜討ちで吉良邸に侵入してきた赤穂浪士に寝起きで防戦した吉良家からすればこの処分は到底納得できるものではなかっただろう。無能な幕府の犠牲になった吉良義周のその後の運命は、まことに哀れとしか言いようがない。
長野県諏訪市の法華寺に吉良義周の墓がある。そこに次のような熱い解説が記されている。
「義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。…世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。」 
 
「義にあらず 吉良上野介の妻」書評 鈴木由紀子著

 

元禄14年(1701)3月14日。赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)が勅使下向の殿中において、吉良上野介義央(よしなか)に刃傷(にんじょう)に及び、将軍綱吉の直裁により即日切腹を命じられる。
吉良上野介の妻・富子を主人公とした歴史小説である本書で、作家は、富子に「即日切腹というのはあまりにも性急な裁きであるが、公儀の判断は間違ってはいなかった。内匠頭から斬り付けられ、手傷を負わされた夫が敵呼ばわりされるいわれはない。夫も刀を抜いたというならともかく、口論があったわけでもなく、一方的に仕掛けられたもので喧嘩ではない。何度同じ問いをくり返し、答えのない迷路で苦しんだかしれない」と独白させている。
富子の独白と作家の独白が微妙に重なり、言うに言えない緊張感をかもし出しつつ物語が進んでいくところに、本書の読みどころがある。
米沢藩30万石の第4代藩主上杉綱勝の妹・三姫(富子)は万治元年(1658)に4200石の旗本で高家衆筆頭の吉良家の嫡男・義央に嫁いだ。義央18、富子16。刃傷事件をさかのぼること43年前のことであった。
寛文4年(1664)閏5月7日、上杉家の当主綱勝は実子のないまま、27歳で急逝。嗣子なくして藩主が急逝したとなれば、家禄没収、お家断絶が幕府の定法(じょうほう)であった。実家の一大事に際し、富子は初子で一人息子の三郎(のちの綱憲=つなのり)を養嗣子として上杉家へ差し出し、上杉家を救っている。なお、米沢藩は御家断絶はかろうじて免れたものの、30万石から15万石に減封されている。
物語では、三郎を手離すのは身を裂かれる思いだが、「不識庵謙信公以来の武門の名家・上杉の血筋を絶やさぬためにも三郎を嗣子にせねばならぬ」とする富子の母や千坂ら上杉家の重臣たちの懇請をうけいれて、最愛の嫡男を手離すことに夫・義央とともに同意している、とつづられている。
貞享2年(1685)には、長男を実家に差し出した後にようやく授かり、吉良家の跡取りとして育てた次男が8歳で病没してしまう。「夫妻は奈落の底に突き落とされたような衝撃を受ける。富子は43で、もはや子が生める年齢ではなかった」。
嗣子を養子に出した吉良家には、元禄3年(1690)、上杉綱憲の次男・春千代(5歳。のちの左兵衛義周=よしちか)が養子に入った。春千代は義央、富子にとっては実の孫であり、かくて、上杉家と吉良家は三重の血縁関係で結ばれることになる。
刃傷事件は吉良夫妻にとってはまさに不慮に生じた事件であり、これを機として二人を取り巻く環境は一変する。この事件を第三者的な立場から冷静に見ていた人物が夫妻の身近にいた。義央の刀傷を治療した御典医の栗崎道有である。道有は、「一方的な被害者でありながら、傲岸不遜な強欲爺のようにいわれているこの品のいい老人が気の毒でならなかった」。「内匠頭のように痞の持病がある人は、極度に緊張した状態が続くと、病的に興奮することがよくあるのです」と富子に告げ、富子を慰めている。

内匠頭の刃傷の原因について、古来、乱心説や吉良の賄賂強要説等があるが、事件の発端となる肝心かなめのことが謎に包まれているのである。
「その本当の理由はいまだに闇の中である。製塩技術をめぐる吉良と浅野の確執があったという説は刃傷の原因になるとは考えられず、浅野家からの進物が少ないことによるという説も俗説に過ぎない」という作家は、内匠頭「痞」説に傾斜しているのであろうか。
その年の8月19日、義央は幕命で邸替えとなり、本所に移り、隠居している。
この時点での義央の心中を描写して、「政治の裏も表を見つくして来た義央には、この度の邸替えが何を意味するか、おおよその見当はついた。世評を反映して幕閣の空気も変わっていることを察知した義央は、潔く運命を甘受するつもりであった」とある。この肝心の箇所は富子の眼を通した状況描写なのか、作家の創作をまじえた判断か、微妙であるが、従来、強欲で悪評高い人物とされている義央を、作家が世評とは異なった人物として造形しようとしていることはあきらかである。
吉良邸討入りの戦闘シーンは描かれず、ただ、「元禄15年12月14日、大名火消をよそおった47人の武装集団が人気のない江戸の町を疾駆していた」とのみある。抑制の利いた文章の間から、その後に続く富子と吉良家の悲運が予告されているようで、読者は気が抜けない。
赤穂浪士の討入りは義挙として受け止められ、士道を貫いた義士よ、士道の鑑よ、と世間の賞賛をあびた。「ありえないことが現実に起きたのである。当時の世論が、狂気じみた興奮につつまれたのもそのためであった。彼らの行為はまさしく快挙であったろう」とは作家の独白である。
富子の内面を描写して、作家は富子に、「大石内蔵助の周到な謀略にはめられた。幕府への反抗という根元にひそむ真意を隠して、巧妙に夫を『君父之讐』とすりかえた内蔵助の戦略に身震いがした。義にあらず。このままではすまされぬ。怒りにふるえつつ、非業の最期をとげた夫の無念を思う」と語らせている。
一月半の後の、元禄16年(1703)2月4日、元禄赤穂事件に幕府の裁決が下る。赤穂浪士は即日、切腹、浅野家の菩提寺、高輪泉岳寺に埋葬することを許される。一方、吉良家に対しては、左兵衛義周は領地召上げ、信州高島(長野県諏訪市)諏訪安芸守忠虎に御預けとするとの苛酷な処断であった。
義周は網をかけた囚人籠に乗せられ、本所にある諏訪家の江戸屋敷に護送されると聞いて富子は驚愕する。
父親のために赤穂浪士と最後まで戦うべきところを生きのびたのは見苦しい。つまり、討ち入り事件の際にとった態度がよろしからずという理由での、理不尽な裁きであった。真実は「浪士と出会った義周は小長刀をふるってたたかったものの、額や背中に深手を負って人事不省となった」ことであることを知っている富子は「幕府の裁定は赤穂浪士礼賛という世論におもねた政治的措置であり、あわれなのは非情な政治のいけにえにされた義周だ」と嘆き憤る。
いわれなき罪を着せられて、3年の幽閉の後に、精神的打撃、浪士よりうけた負傷の悪化などから、宝永3年(1706)1月20日、義周は春を待たずわずか21歳の生涯を閉じ、清和源氏の嫡流足利氏の一門・吉良家は絶えた。
兄が急死したため、わが子を実家上杉家へ差し出し、その代わりに吉良家の跡取りとして上杉から貰い受けたのが孫にあたる義周であったが、その義周の身に災難が降りかかったのだ。因果応報というにはあまりにも苛酷で無惨なめぐりあわせではないか。せめてもの救いは、富子が義周の死を知ることなく、宝永元年(1704)8月に息引き取っていることであろうか。享年62であった。
文学の世界でも、“さまざまなる忠臣蔵”がある。なぜ忠臣蔵はこんなに長く日本人に愛され親しまれてきたのか。
家を捨て、故郷を捨て、浪人に身をやつして討ち入りを果たした者たちの「正伝」があり、討ち入りに参加しなかった者たちに焦点を合わせた「異伝」があれば、内匠頭の後室・瑤泉院、内蔵助の妻リクなどをヒロインとした「女忠臣蔵」もあるが、悪役として定着してしまった吉良方を対等に扱った作品もわずかながらある。
既成の了解事情をくつがえし、新しい視点で史実の隙間をぬい、実相に迫る試みは今後ともつきることはないであろう。
吉良義央の妻・富子を主人公とした本書は吉良富子の評伝であり、その意味で、〈忠臣蔵もの〉歴史小説としての面白み・意外性は乏しいが、吉良上野介の妻の目からとらえた“もう一つの忠臣蔵”であるといえる。
舅の義冬や娘たちとの家族愛にめぐまれた富子の周囲の状況が事細かにしかも、あくまでも自然体で書かれているがゆえに、富子たち吉良・上杉方の立場、生きざまが読者の脳裏に広く深く刻み込まれ、“忠臣蔵の世界”をさらに味わい深いものにしている。佳品である。
 
吉良上野の立場 / 菊池寛

 


内匠頭(たくみのかみ)は、玄関を上ると、すぐ、
「彦右衛(ひこえ)と又右衛(またえ)に、すぐ来いといえ」といって、小書院へはいってしまった。
(そらっ! また、いつもの癇癪だ)と、家来たちは目を見合わせて、二人の江戸家老、安井彦右衛門と藤井又右衛門の部屋へ走って行った。
内匠頭は、女どもに長上下(ながかみしも)の紐を解かせながら、
「どうもいかん! また物入りだ! しょうがない!」と、呟いて、袴を脱ぎ捨てると、
「二人に早く来るよう、いって参れ!」と催促した。
しばらくすると、安井彦右衛門が、急ぎ足にはいって来て、
「何か御用で!」といって、座った。
「又右衛は?」
「お長屋におりますから、すぐ参ります」
「女ども、あちらへ行け! 早く行け!」と、内匠頭が手を振った。女は半分畳んだ袴、上下を、あわてて抱いて退ってしまった。
「例の京都からの勅使が下られるが、また接待役だ」
「はっ!」
「物入りだな」
「しかし、御名誉なことで、仕方がありませんな」
「そりゃ、仕方がないが……」と、内匠頭がいったとき、藤井又右衛門が、
「遅くなりました」といって、はいって来た。
「又右衛門、公儀から今度御下向の勅使の御馳走役を命ぜられたが、それについて相談がある」
「はい」
「この前――天和三年か、勤めたときには、いくら入費がかかったか?」
「ええ……」二人は、首を傾けた。藤井が、
「およそ、四百両となにがしと思いますが」
「そのくらいでした」と、安井が頷いた。
「四百両か! その時分(じぶん)と今(いま)とは物価が違っているから、四百両では行くまいな。伊東出雲(いとういずも)にきくと、あいつの時は、千二百両かかったそうだ」
「あの方のお勤めになりましたのは、元禄十年――たしか十年でしたな」
「そうだ」
「あのとき、千二百両だといたしますと、今日ではどんなに切りつめても、千両はかかりましょうな」
内匠頭は、にがい顔をした。
「そんなにかかっちゃ、たまらんじゃないか。わしは、七百両ぐらいでどうにか上げようと思う」
「七百両!」と、二人は首を傾けた。
「少なすぎるか」
「さあ!」
二人は、浅野が小大名として、代々節倹している家風を知っていたし、内匠頭の勘定高い性質も十分知っていたので、
「それで、結構でしょう」と、いうほかはなかったが、伊東出雲とて、少しも裕福でないのに、その伊東が千二百両かけたとしたら、御当家が七百両では少しどうかしらと、二人とも思っていた。
「第一、近頃の世の中はあまり贅沢になりすぎている。今度の役にしても、肝煎りの吉良に例の付届をせずばなるまいが、これも年々額が殖えていくらしい」
「いいえ、その付届は、馬代金一枚ずつと決っております」
「それだけでも、要らんことじゃないか。吉良は肝煎りするのが役目で、それで知行を貰っているのだ。わしらは、勅使馳走が役の者ではない。役でない役を仰せつかって、七、八百両みすみす損をする。こっちへ、吉良から付届でも貰いたいくらいだ」
二人の家老は頷くよりほかはなかった。

用人部屋へ戻って来た二人は、
「困ったなあ!」といって、腕組みをした。
「吉良上野という老人は、家柄自慢の臍曲りだからな」
「家柄ばかり高家で、ぴいぴい火の車だからなあ」
「殿様は、賄賂(わいろ)に等しい付届だと、一口におっしゃるが、町奉行所へだって献残(将軍へ献上した残り物と称して、大名が江戸にいる間、奉行の世話になった謝礼として、物品金子を持参することをいう)を持ち込むのだからな。大判の一枚や小判の十枚ぐらいけちけちして、吉良から意地の悪いことをされない方がいいがな。もしちょっとした儀式のことでも、失敗があると大変だがな」
「しかし、前に一度お勤めになったから、その方は大丈夫だろうが、七百両で仕切れとおっしゃるのは、少し無理だて」
「無理だ」
「勅使の御滞在が、十日だろう」
「そうだ」
「一日百両として、千両。前の時には日に四十両で済んでいるが、天和のときの慶長小判と今の鋳替(ふきかえ)小判とでは、金の値打が違っているし、それに諸式が上っているし……」
「御馳走の方も、だんだん贅沢になってきているし……」
「そうさ。出雲だって千二百両使っているのに、浅野が七百両じゃ……ざっと半分近いのでは、勅使に失礼に当るからなあ」
「困った」
「困ったな。急飛脚でも立てて、国元の大野か大石かに殿を説いてもらう法もあるが、大野は吝(けち)ん坊で、七百両説に大賛成であろうし、大石は仇名の通り昼行灯で、算盤珠のことで殿に進言するという柄ではないし……」
「困ったな。できるだけ切りつめて、目立たぬところは手を抜くより法はない」
「黙って家来に任しておいてもらいたいな、こんなことは」
「いくらか、こんなときにいつもの埋合せがつくくらいにな」
「悪くすると、自腹を切ることになるからな」
「そうだ!」
「とにかく、まず第一に伝奏屋敷の畳替えだ」二人は、接待についての細かな費用の計算を始めた。

殿中で高家月番、畠山民部大輔へ、
「今度の勅使饗応の費用の見積りですが、ちょっとお目通しを」といって、内匠頭が奉書に明細な項目を書いたのを差し出した、畠山は、それをしばらく眺めていたが、
「わしには、こういうことは分からんから、吉良に――ちょうど、来ているようだから」と、いって鈴の紐を引いた。坊主が、
「はい」といって、手を突いた。
「吉良殿に、ちょっとお手すきなら、といって来い!」
「はっ!」
坊主が立ち去ると、
「とんだ、お物入りですな」と、畠山がいった。
「この頃の七、八百両は、こたえます」
「しかし、貴殿は塩田があって裕福だから」
「そう見えるだけです」
「いや、五万三千石で、二百何十人という士分がおるなど、ほかでは見られんことですよ。裕福なればこそだ」といったとき、吉良上野がはいって来た。
「浅野殿の今度の見積りだが、今拝見したが、私には分からん。肝煎指南役が一つ!」
畠山が書付を、吉良へ渡した。
「なかなか早いな。どうれ」
吉良は、じっと眺めていたが、
「諸事あまりに切りつめてあるようじゃが」と、内匠頭の顔を見て、
「これだけの費用じゃ、十分には参らぬと思うが」と、つけ足した。
「七百両がで、ございますか」
「そうだ」
「しかし、これまでのがかかりすぎているのではありませんか、無用の費(ついえ)は、避けたいと思いますので」
上野は、じろっと内匠頭をにらんで、
「かかりすぎていても、前々の例を破ってはならん。前からの慣例があって、それ以下の費用でまかなうと、自然、勅使に対して失礼なことができる」
「しかし、礼不礼ということは、費用の金高にはよりますまい!」
「それは理屈じゃ。こういうことは前例通りにしないと、とかく間違いができる」
「しかし、年々出費がかさむようで……」
「仕方がないではないか。諸式が年々に上るのだから、去年千両かかったものが、今年は千百両かかるのじゃ」
「しかし、七百両で仕上りますものを、何も前年通りに……」
「どう仕上る?」
「それは、ここにあります」そういって、内匠頭は書状を差し出した。
「それは、とくと見た。しかし、そうたびたびの勤めではないし、貴公のところは、きこえた裕福者ではないか。二百両か五百両……」
「一口に、おっしゃっても大金です。出す方では……」
「とにかく、前年通りにするがいい」吉良の声は少し険しくなっていた。
「じゃ、この予算は認めていただけませんか」
「こんな費用で、十分にもてなせると思えん」
「おききしますが、饗応費はいくらの金高と、公儀で内規でもございますか」
「何!」上野は赤くなった。
「後の人のためにもなりますから、私このたびは七百両で上げたいと思います」
「慣例を破るのか」
「慣例も時に破ってもいいと思います。後の人が喜びます」
「ばか!」
「ばかとは何です」
畠山が、
「内匠っ!」といって、叱った。
「慣例も時によります」
内匠頭は、青くなっていいつづけた。
「勝手にするがいい」吉良は拳をふるわせて、内匠をにらみつけていた。

藤井が去ると、
「怪しからんやつだ」と、上野は呟いた。
用人が、
「浅野から」といって、藤井の持って来た手土産を差し出した。
「それだけか」
「はい」
「外に、何にも添えてなかったか」
「添えてございません」
「彼奴(きゃつ)め、近年手元不如意とか、諸事倹約とか、内匠と同じようなことをいっていたが、そうか」
上野は冷えたお茶を一口のんで、
「主も主なら家来も家来だ」
「何か、申しましたか」
「ばかだよ。あいつらは。揃いも揃って吝(けち)ん坊だ!」
「どういたしました」
「浅野は、表高こそ五万三千石だが、ほかに塩田が五千石ある。こいつは知行以外の収入で、小大名中の裕福者といえば、五本の指の中へはいる家ではないか。それに、手元不如意だなどと、何をいっている!」
「まったく」
「下らぬ手土産一つで、慣例の金子さえ持って来ん。大判の一枚、小判の十枚、わしは欲しいからいうのじゃない。慣例は、重んじてもらわなけりゃ困る。一度、前に勤めたことがあるから、今度はわしの指図は受けんという肚なのだろうが、こういうことに慣例を重んじないということがあるか。馳走費をたった七百両に減らすし、わしに慣例の金子さえ持って来ん。こういうこと、主人が何といおうと、家の長老たるべきものが、よきに計らうべきだが、藤井も安井も算勘(さんかん)の吏で、時務ということを知らん。国家老の大石でもおれば、こんなばかなことをすまいが。浅野は、今度の役で評判を悪くするぞ。公儀の覚えもめでたくなくなるぞ」
上野は、内匠頭にも腹が立ったが、江戸家老の処置にも怒りが湧いてきた。
(わしのいうことをきかないのなら、こっちにもそのつもりがある)
そう考えて、
「手土産など、突っ返せ!」といった。用人が、
「それはあまり……」といった。
上野は、だまって何か考えていた。

竜の口、堀通り角の伝奏屋敷は、塀も壁もすっかり塗り替えられて、庭の草の代りに、白い砂が、門をはいると玄関までつづいていた。
吉良が、下検分に来るという日なので、替りの人々は、早朝から詰め切って、不安な胸でいた。
「どこも、手落ちはないか」
「無いと思う」
「思うではいけない」
「じゃ断じてない」
「でも、七百両ではどこかに無理が出よう」
「相役の伊達左京の方は、いくら使ったかしら?」
「それはわからん!」
「伊達より少ないと、肩身が狭いぞ」
「第一評判が悪くなる」と、人々がいっている時、
「吉良上野介様あ!」と、玄関で呼ぶ声がした。
「そらっ!」
人々が立ち上った。玄関の式台、玄関脇には、士(さむらい)が、小者が、つつましく控えていた。玄関の石の上に置いた黒塗りの駕から上野介が出て、出迎えの人々にかるく一礼して、玄関を上った。人々は、上野の顔色で、上野の機嫌を判断しようとした。
「内匠頭は?」
「只今参上いたします」
上野は、内匠頭が玄関に出迎えぬので、いよいよ腹立ちと不愉快さとが重なってきた。そして式台を上って、玄関に一足踏み込むと、
「この畳は?」と、下を見た。
「はっ!」
「取換えた畳か?」
「はっ!」
「何故、繧繝縁(うんげんべり)にせぬ?」
人々は、玄関を上るが早いか、すぐ鋭く咎めた上野介の態度と、その掛りも内匠頭もいないのとで、どう答えていいかわからなかった。
「内匠を呼べ!」
「はい只今!」
「殿上人には、繧繝縁であることは子供でも知っている。この縁と繧繝とでは、いくら金がちがう?」
「玄関だけは、繧繝でなくてもよろしかろうかと……」士の一人が答えかけると、
「だまんなさい! お引き受けした以上、万事作法通りになさい! 出費が惜しいのなら、なぜ手元不如意を口実に断らんか。お受けした上で、慣例まで破って、けちけちすることがあるか。内匠を早く呼びなさい!」
上野が、こういっていたとき、内匠頭が険しい目をして、足早に家来の後方へ現れて来た。
「何か不調法でもいたしましたか」上野に、礼をもしないでそういった。
「不調法?」上野は頷いて、「不調法だ! この畳の縁は何だっ!」
「繧繝です」
「繧繝にもいろいろある。これは、何という種類か」
「それは知りません。しかし、畳屋には、繧繝といって命じました。確かに繧繝です」
「模様が違う。取り換えなさい!」
「取り換える?」
「そうだ!」
「今から」
「作法上定まっている模様は、変えることにはなりませぬぞ。いくら、貴殿が慣例を破っても、こういうことは勝手には破れんからな。即刻、取り換えなさい。次……」
そういうと、上野は内匠頭の返事も待たず、次の間にはいった。
内匠頭は、蒼白になって、その後姿をにらんでいた。

明日の、勅使の接待方の予定が少し変ったときいて、内匠頭は、伊達左京を探してきこうとしたが、茶坊主が、
「もう、お下りになりました」といった。
「吉良殿は?」
「おられます」
内匠頭は、廊下へ出で、高家衆の溜(たまり)へ歩きつつ、
(上野にきくのは、残念だが……)と思った。
(しかし、伊達にききにやるのも面目にかかわるし……)
そう思って、松の間の廊下へ出たとき、上野が向うから歩いて来た。
「しばらく」
上野は、じろっ! と内匠頭を見て、立ち留った。
「明日、模様替えがありますそうで、どういう風に……」
「知らないのか」
「ききもらしましたが、どうかお教えを!」
「ききもらした! 不念な。どこで何をしていた?」
「ちょっと忙(せわ)しくて」
「忙しいのは、お互いだ」
上野は、行き過ぎようとした。
「しばらく、どうぞ明日の」といって、右手で上野の袖をつかんで引いた。
「何をする!」上野は、腕を振って、大声を出した。腕が内匠頭の手に当った。
「何一つ、わしのいうことをきかずにおいて、今更のめのめと何をきく?」
上野が、大声を出したので、梶川が襖を開けて、顔を出した。内匠頭は蒼白になっていた。
「わしを、あるか無しかに扱いながら、自分が困ると、袖を引き止めて何をきくか?」
上野は、内匠頭がだまっているので、
「ばかばかしい!」と呟いて、行き過ぎようとした。
「教えて下さらんのか?」
「教えて下さらんというのか、内匠、貴殿、わしが教えてきいたことがあるか?」
「明日のことは、儀式のことにて、公事ではござらぬか」
「公事なればこそ、先刻通達したときに、なぜききもらした?」
「それは、拙者の不念ゆえ、お教えを願っているのに」
「貴公の不念の尻拭いをしてやることはない!」上野は、そういって歩き出した。
「教えんと、おっしゃるのか」内匠は、後から必死の声で呼んだ。
「くどい!」
「公私を混同して……」と、内匠がいうと、
「それは、貴公だろう。金の惜しさに、前例まで破って!」
「何!」
梶川が、
「あっ!」と、低く叫んで立ち上った。上野は、
「何をする!」と、叫んだ。内匠頭の手に、白刃が光っていた。
上野は、よろめいて躓(つまず)くように、逃げ出した。内匠頭が及び腰に斬りつけたとき、梶川が、
「何をなさる!」と叫んで、組みついた。

「内匠頭は、切腹と決りました」と、子の左兵衛が枕元へ来ていった。
上野は、横に寝て、傷の痛みに顔を歪めていたが、
「そうだろう」と答えた。
「お上では、乱心者としてもっと寛大な処置を取ろうとなさいましたが、内匠頭は、乱心でない、上野は後の人のために生かしておけんなどと、いろいろ理屈をいったそうで、とうとう切腹に……」
「あの意地張りの気短め、どこまで考えなしか分かりゃしない。そして、殿中ではどう評判をしている。どちらが悪いとかいいとか」
「ええ、内匠頭の短慮と吝嗇(りんしょく)はよく知っていますが、殿中で切りつけるには、よくよく堪忍のできぬことがあってのことだろうというので、やはり同情されています。梶川の評判はよくないようです。どうしてもっと十分にやらせてから、抱きとめなかったかと……」
「無茶なことをいう、十分にやられてたまるものか。わしは軽い手傷だし、向うは切腹で家断絶だから、向うに同情が向くだろうが、といって、わしを非難するのは間違っている」
「いや、父上を一概に非難してはいませんが」
「いや、事情の分かっている殿中でそのくらいなら、ただことの結果だけを見る世間では、きっとわしをひどくいうだろう。わしは、今度のことでわるいとは思わん、わしは高家衆で、幕府の儀式慣例そういうものを守って行く役なのだ。その慣例を無視されたのでは、わしにどこに立つ瀬があるか。ことの起りは、あちらにある。ところが、殿中でわしに斬りつけるという乱暴なことをやったために、よくよくのことだということになって、たちまち彼奴(きゃつ)が同情されることになるのだ。わしが、あの時殺されていても、やっぱり向うが同情されるだろう。あいつが、でたらめのことをやったということが、世間の同情を引くことになるのだ。ばかばかしい」
「しかし、わけを知っている人は、よく分かっています」
「そうだろう。だから、お上からも、わしはお咎(とが)めがなくて、あいつは切腹だ。しかし、世間は素直にそれを受け入れてくれないのだ。彼奴が乱暴なことをしただけで、向うに同情が向くのだ。思慮のない気短者を相手にしたのが、こちらの不覚だった。まるで、蝮(まむし)と喧嘩したようなものだ。相手が悪すぎた」
「まったく」
「内匠も内匠だが、家来がもっと気が利いていれば、こんな事件にはならないのだが。わしは、迷惑至極だ。斬られた上に世間からとやかくいわれるなんて。こんな災難が、またとあるか」
医者が次の間から、
「あまり、お喋りになっては」と注意した。

上杉の付家老、千坂兵部が、薄茶を喫し終ると、
「近頃、浅野浪人の噂をおききになりましたか」と、上野にいった。
「どんな?」
「内匠頭のために、御隠居を討つという」
上野は笑って、
「何でわしを討つ? 内匠頭に斬られそこなった上に、まだその家来に斬られてたまるか」
「なるほど、内匠頭が切腹を命ぜられたのは自業自得のようなもので、恨めば公儀を恨むべきで、老公を恨むところはないはずですが、ただ内匠頭が切腹のとき、近臣の士に、この怨みを晴らしてくれと遺言があったそうで、家臣の者の中に、その遺志を継ごうというものが数多あるそうで……」
「主が、自分の短慮から命を落したのに、家来がその遺志を継ぐという法があるものか」
「ところが、世間の者は、くわしい事理は知らずに、ただ敵討というだけで物を見ます。こういう衆愚の力は、恐ろしいものです。その吹く笛で踊る者が出てきます。それに、浅野浪人も、扶持に放れた苦しみが、この頃ようやく身にしみてきましたから、何かしらやりたいのです。仕官も思い通りにならないとすると、局面打開という意味で、何かやり出すにきまっています。彼らは、位置も禄もありませんから、強いのです。何かしてうまく行けば、それが仕官の種になりますし、失敗に終っても元々です。だから、この際、思い切って上杉邸へお引き移りになったらいかがですか」
「いやなことだ!」上野介は、首を振った。
「わしは、ちっとも悪いことをしたと思っていない。わしと内匠頭の喧嘩は、七分まで向うがわるいと思っている。それを、こんな世評で白金へ引き移ったら、吉良はやっぱり後暗いことがあるといわれるだろう。わしは、それがしゃくだ」
「御隠居も、なかなか片意地でございますな」
「うむ。だが、わしはつまらない喧嘩を売られたとしか思っていない。わしは、喧嘩を売った内匠の家来たちに恨まれる筋はないと思っている」
「理屈は、そうかも知れませぬが」
「一体、浅野浪人の統領は誰だ!」
「大石と申す国家老でございます」
「大石内蔵助か。あの男なら、もっと事理(わけ)が分かっているはずだ。わしを討つよりか、家再興の運動でもすると思うが。わしを討ってみい、浅野家再興の見込みは、永久に断たれるのだが」
「さようでございましょうが、禄を失いました者どもは、それほどの事理を考える暇がございますまい。公儀という大きい相手よりも、手近な御隠居を……」
「分かった! 分かった! しかし、内匠頭をいじめたようにとかく噂されている上に、今度はその敵討を恐れて逃げ回っているといわれて、わしの面目にかかわる。来たら来たときのことだが、千坂、結局噂だけではないか」
「なれば結構でございますが。しかし、万一の御用意を」
「だが、引き移るのはいやだよ」
「それならば、、お付人として、手の利いたものを詰めさせる儀は」
「うむ。それもいいが、なるべく世間の噂にならぬように」
「はは」
千坂は、この頑固な爺と気短な内匠頭とでは、喧嘩になるのはもっともだと思った。しかし、この頑固さを、世間でいうように、強欲とか吝嗇(りんしょく)とかに片づけてしまうのは当らないと思った。

どどっと物の倒れる、めりめりと戸の破れる、すさまじい響きが遠くの方でして、人の叫びがきこえてきた。上野介は、耳をすました。
「火事だ」という声がした。
(この押しつまった年の暮に不念な。邸内かな、それとも隣屋敷か……)と、思いながら上野は、
「火事か」と、隣にいるはずの近侍に声をかけた。そして、半身を起すと、畳を踏む音、家来の叫びが、きこえた。
「火事はどこだ。誰かいないか!」
気合をかけたらしい、鋭い声がした。近い廊下の雨戸が、叩き落されたらしい音がした。同時に、どっかの板塀にかけやを打ち込んでいるらしい音が、つづけざまにきこえた。
「浅野浪人かな?」
上野は、有明の消えている闇の中で脇差をさぐり当てた。
と、薄い灯の影がさして、
「御前」側用人が、叫んではいって来た。
「狼籍者が、押し込みました」
「浅野浪人か」
「そうらしいです。すぐお立退きを」
上野は、あわてて起き上った。太刀打ちの音がした。掛け声がきこえた。人の足音が、庭に廊下に部屋に、入りみだれかけた。
「こちらへ!」
「どこへ行く」
「お早く、お早く」
側用人は、勝手口に出て、戸を引き開けた。雪あかりであった。いろいろな物音が、冴えかえって、はっきりときこえてきた。用人は、炭小屋の戸をあけて、
「ここへ!」といった。上野は、裸足のまま中へはいると、用人はすぐ戸をしめてしまった。
「大勢か」
「五、六十人。裏と表から」
「五、六十人!」
上野は、そんなに大勢の人間が、浅野の家来の中から、自分を討つために残っていようとは思えなかった。
「外の加勢でもあるのではないか」
「さあ」
「別に悪いことをせん人間が、喧嘩を売られて傷を受け、世間からは憎まれた上に、また後で敵として討たれるなんて、こんなばかなことがあるものか」
上野は、世間や敵討といったような道徳に、心の底からしみ出て来る怒りを感じた。
「御前、しっ、黙っていないと、見つかります」
上野は、呟くのを止めた。炭小屋の中はしんしんとして冷え渡っていた。外の人の叫び、足音は、だんだん激しくなってきた。
「本当に、浅野浪人か」
「そうらしいです」
「これで、俺が討たれてみい、俺は末世までも悪人になってしまう。敵討ということをほめ上げるために、世間は後世に俺を強欲非道の人間にしないではおかないのだ。俺は、なるほど内匠頭を少しいじめた。だが、内匠頭は、わしの面目を潰すようなことをしている。わしの差図をきかない上に、慣例の金さえ持って来ないのだ。これはどっちがいいか悪いか。しかし、先方が乱暴で、刃傷(にんじょう)といった乱手(らんて)をやるために、たちまち俺の方が欲深のように世間でとられてしまった。あいつはわしを斬り損じたが、精神的にわしは十分斬られているのだ。それだのに、まだ家来までがわしを斬ろうなどと、主人に斬られそこなったからといって、その家来に敵と狙われる理由がどこにあるか。まるで、理屈も筋も通らない恨み方ではないか。わしに何の罪がある。ひどい! まったくでたらめだ!」
上野介は、寒さと怒りとに、がたがたふるえながら首を振った。
物音が、少し静かになった。
「行ったのかな」
「いいえ。まだまだ」
二人は、炭俵の後方に、ちぢんでいた。雪を踏んで、足音が小屋を目指して近づいて来るのがきこえた。

戸が軋って、雪明りがほのかにさしこんだ。
「しまった、だめだ」と思ったとき、戸口へ火事装束らしい姿の男が現れて、槍をかまえながらはいろうとした。用人が、薪を掴んで立ち上ると、投げつけた。その男は、たちまち戸口へ飛び出すと、
「この中が怪しいぞ」と、叫んだ。そして、もう一度槍を構えて、
「出ろ!」と、叫んでじりじりとはいって来た。用人は、炭を、薪を、投げつけたが、用人の後の白衣(びゃくえ)を着た上野の姿を見つけると、
「ええい!」と、叫んで、突きかけて来た。上野は、後へ下ろうとして、荒壁へ、どんと背をぶっつけたとたん、太股をつかれて尻餅をついた。
(何の罪があって、わしは殺されるのだ。どこに、物の正不正があるのだ。わしは、殺された上に、永劫(えいごう)悪人にされてしまうのだ。わしの言い分やわしの立場は、敵討という大鳴物入りの道徳のために、ふみにじられてしまうのだ)
上野は、炭を掴んで投げつけた。用人が、槍を持っている男の側を兎のようにくぐって、外へ出たとたん、雪の上に黒い影が現れて、掛け声がかかると、用人はよろめいて手を突いた。
「この中が、怪しいのか」
もう一人の男が、ずかずかとはいって来て、上野の着物の白いのを見当に、
「参るぞ!」と、刀を振り上げた。
「大石がいるか」上野がきいた。
「誰だ! 貴公は」
「大石がいたら……」
「いなさる」
上野は、
(大石がいたら、この筋の立たない敵討を詰(な)じってやろう)と、思いながら、立ち上ろうとして、よろめいた。後から来た男が、襟首を掴んで、引きずろうとした。
上野は、
(主も無茶なら、家来も無茶なことをする連中だ)と感じたが、恐怖に心臓が止りそうで声が出なかった。そして、ずるずると引きずられて出た。
「やあ! 白綸子を着ている」
外で待っていた一人がいった。誰かが、呼子の笛を吹いた。
(白綸子を知っている。何も物事がわからんくせに、白綸子だけを知っている。わしはどうして浅野主従のために、重ね重ねひどい目に遭うのか)
上野は混乱した頭の中で、
(わしは内匠頭に殿中で斬られたために、強欲な意地悪爺のように世間に思われた。わしの方が何か名誉回復のために仕返しでもしたいくらいだ。それだのに、わしが前に斬られかけたということが、なぜ今度殺される理由になるのか。まるきり物事があべこべだ)
人々が黒々と集って来た。
小肥りの、背のあまり高くないのが来ると、
「大夫、どうも上野殿らしく!」と、一人が丁寧にいった。
(これが、大石か)と、上野が思ったとき、
「傷所を調べてみい」
二、三人が手早く肩を剥き出して、手燭をさしつけた。
「あります」
大石は、頷くと、雪の中へ膝を突いた。上野は、おやっと思いながら、ちらっと見ると、
「吉良上野介殿とお見受け申します。われわれは元浅野内匠頭の家来――大石内蔵助良雄以下四十六名の者でありますが、先年は不慮のことにて……」
と、雪の中に手をついて名乗りかけた。
(なるほど、これだ。大石は、やはり大石だ。なぜ、あのとき江戸におらなんだ。大石がおれば、わしもお前もこんなことにならずに済んだのだ。大石だけが、わしの心をいくらか知っている。そうだ、すべてが不慮のことなのだ。わしのばかばかしい災難なのだ。災難とあきらめて討たれてやろうか)
上野が、混乱した頭で、自分勝手なことを考えていると、大石は何かいい終って、短刀を差し出すと、
「いざ!」といった。
短刀を突きつけられると、上野の頭に、わずか萌していたあきらめは、たちまちまた影をかくした。自分の立ち場も言い分も、敵討というもののために、永久にふみにじられてしまう怒りが、また胸の中に燃え上っていた。
彼は、浅野主従、世間、大衆、道徳、後世、そのあらゆるものに刃向って行く気持で、その短刀を抜き放ってふらふらと立ち上った。
「未練な!」
「卑怯者め!」
(何が卑怯か、わしには正しい言い分があるぞ!)そう思いながら、あてもなく短刀をふり回していると、
「間(はざま)! 切れ!」と、大石がいった。
(大石にも、不当に殺される者の怒りが分からんのか)と思ったとき、
「ええっ!」と、掛け声がかかった。 
 
仮名手本忠臣蔵

 

大序
鶴が岡兜改めの段
嘉肴(かこう)ありといへども食せざればその味を知らずとは。国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るゝに、たとへば星の昼見えず夜は乱れて現はるゝ、ためしをこゝに仮名書の太平の代の政。頃は暦応元年二月下旬。足利将軍尊氏公。新田義貞を討ち亡し、京都に御所を構へ、徳風四方にあまねく、万民草の如くにて靡き従ふ御威勢。国に羽をのす鶴が岡八幡宮御造営成就し、御代参として御舎弟足利左兵衛督直義公(あしかがさひょうえのかみただよしこう)鎌倉に下着なりければ、在鎌倉の執事高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう)御膝元に人を見下す権柄眼。御馳走の役人は桃井播磨守が弟、若狭助(わかさのすけ)伯州の城主塩谷判官高定(えんやはんがんたかさだ)。馬場先に幕打廻し、威儀を正して相詰むる。直義公仰せ出ださるゝは「いかに師直。この唐櫃に入れおきしは、兄尊氏に亡されし新田義貞、後醍醐の天皇より賜つて着せし兜。敵ながらも義貞は清和源氏の嫡流、着棄の兜といひながらそのまゝにもうちおかれず。当社の御蔵に納める条、その心得あるべしとの厳命なり」とのたまへば 武蔵守承り「これは思ひもよらざる御事。新田が清和の末なりとて、着せし兜を尊敬せば、御旗下の大小名清和源氏はいくらもある。奉納の儀然るべからず候」と遠慮なく言上す。「イヤさやうにては候まじ。この若狭助が存ずるは、これはまつたく尊氏公の御計略。新田に徒党の討ちもらされ、御仁徳を感心し、攻めずして降参さする御方便と存じ奉れば、無用との御評議卒爾なり」といはせも果てず「ヤア師直に向つて卒爾とは出過ぎたり。義貞討死したる時は大わらは。死骸のそばに落ち散つたる兜の数は四十七。どれがどうとも見知らぬ兜。さうであらうと思ふのを奉納したその後で、さうでなければ大きな恥。なま若輩な形をしてお尋ねもなき評議すつこんでおゐやれ」と御前よきまゝ出るまゝに杭とも思はぬ詞の大槌。打ち込まれてせき立つ色目。塩谷引取つて「コハごもつともなる御評議ながら、桃井殿の申さるる治まる代の軍法。これ以て捨てられず、双方まつたき直義公の御賢慮仰ぎ奉る」と申し上ぐれば、御機嫌あり。「ホヽさいはんと思ひし故、所存あつて塩谷が婦妻を召し連れよと言付けし。これへ招け」とありければ、『はつ』と答への程もなく、馬場の白砂、素足にて裾で庭掃く裲襠(うちかけ)は、神の御前の玉箒。玉も欺く薄化粧。塩谷が妻の顔世御前は、はるか下つて畏る。女好きの師直、そのまま声かけ「塩谷殿の御内室顔世殿。最前よりさぞ待遠。御大儀御大儀。御前のお召し。近う/\」と取持ち顔。直義御覧じ「召出すこと外ならず。往時(いんじ)元弘の乱れに後醍醐帝都にて召されし兜を、義貞に賜つたれば、最期の時に着つらんこと疑ひはなけれども、その兜を誰れあつて見知る人ほかになし。そのころは塩谷が妻、十二の内侍のその内にて、兵庫司の女官なりと聞き及ぶ。さぞ見知りあらんず。覚えあらば兜の木阿弥、目利き/\」と女には、厳命さへも和らかに、お受け申すもまたなよやか。「冥加にあまり君の仰せ。それこそは私が明け暮れ手馴れし御着の兜。義貞殿拝領にて、蘭奢待(らんじゃたい)といふ名香を添へて賜はる。御取次はすなわち顔世。そのときの勅答には、人は一代名は末代、すは討死せん時、その蘭奢待を思ふまま、内兜にたきしめ着るならば、鬢の髪に香を留めて、名香かほる首取りしといふ者あらば、義貞が最期と思召されよとの詞はよもや違ふまじ」と申し上げたる口もとに、下心ある師直は、小鼻いからし聞きゐたる。直義詳しく聞し召し「ホヽウ審(つまびら)かなる顔世が返答。さあらんと思ひし故、落ち散つたる兜四十七、この唐櫃に入れ置いたり。見分けせよ」と御諚意の、下侍、屈むる腰の海老錠を、あける間遅しと取り出すを、おめず臆せず立寄つて、見れば所も名にし負ふ、鎌倉山の星兜。とつぱい頭、獅子頭、さて指物は家々の流儀/\によるぞかし。あるひは直平(ちょっぺい)筋兜、錣のなきは弓のため、その主々の好みとて、数々多きその中にも、五枚兜の竜頭これぞと言はぬその内に、ぱつと香りし名香は「顔世が馴れし義貞の兜にてござ候」とさし出せば、「さやうならめ」と一決し「塩谷、桃井両人は、宝蔵に納むべし。こなたへ来たれ」と御座を立ち、顔世にお暇給はりて段かづらを過ぎ給へば、塩谷、桃井両人も打連れ 
恋歌の段
てこそ入りにける。あとに顔世はつぎほなく「師直さまは今しばし、御苦労ながらお役目をお仕舞あつて、お静かに。お暇の出たこの顔世、長居はおそれ、さらば」と立上る袖、すり寄つてじつと控へ「コレマアお待ち待ち給へ。けふの御用仕舞次第そこもとへ推参してお目にかけるものがある。幸ひのよいところ召し出された。直義公はわがための結ぶの神。ご存じの如く我れら歌道に心を寄せ、吉田の兼好を師範と頼み日々の状通。そのもとへ届けくれよと問合せのこの書状、いかにもとのお返事は、口上でも苦しうない」と袂から袂へ入るる結び文。顔に似合はぬ『様参る武蔵鐙(あぶみ)』と書いたるを、見るよりはつと思へども『はしたなう恥ぢしめてはかへつて夫の名の出ること。持ち帰って夫に見せうか。いや/\それでは塩谷殿、憎しと思ふ心から怪我過ちにもならうか』と、ものを言はず投げ返す。人に、見せじと手に取上げ「戻すさへ手に触れたりと思ふにぞ、わが文ながら捨ても置かれず。くどうは言はぬ。よい返事聞くまでは口説いて/\、口説きぬく。天下を立てうと伏せうともままな師直。塩谷を生けうと殺さうとも、顔世の心たつた一つ。なんとさうではあるまいか」と、聞くに顔世が返答も、涙ぐみたるばかりなり。折から来合はす若狭助。例の非道と見て取る気転。「顔世殿、まだ退出されぬか。お暇の出て暇取るは、かへつて上への畏れ。はやお帰り」と追つ立つれば、『彼奴(きゃつ)さては気取りし』と、弱味を食はぬ高師直。身が立たす。このたびの役目、首尾よう勤めさせくれよと、塩谷が内証顔世の頼み、さうなくては叶わぬ筈。大名でさへあの通り。小心者に捨知行、誰が蔭で取らする。師直が口一つで御器提げうも知れぬ危い身代。それでも武士と思ふぢやまで」と邪魔の返報憎て口。くわつとせきたつ若狭助、刀の鯉口砕くるほど握り、詰めは詰めたれども『神前なり、御前なり』と一旦の堪忍も、いま一言が生死の、詞の先手「還御ぞ」と、御先を払ふ声々に、せんかたなくも期を延ばす、無念は胸に忘られず。悪事さかつて運強く切られぬ高師直を、明日はわが身の敵とも知らぬ塩谷が後押さへ。直義公は悠々と歩御(ほぎょ)なり給ふ御威勢。人の兜の竜頭。御蔵に入るる数々も、四十七字のいろは分け、仮名の兜を和らげて、兜頭巾の綻びぬ国の、掟ぞ 
二段目
桃井館本蔵松切の段
繕ひ立帰る。本蔵一間より立ちかはり「ハア、殿これに御入り。いよ/\明朝は正七つ時に御登城、御苦労千万。今宵も最早九つ、暫く御まどろみ遊ばされよ」「成程/\、イヤナニ本蔵、其方にちと用事あり、密々の事、近う/\」「ハヽ。常ならぬご様子、何かは知らず、委細具(つぶさ)に御仰せ下さるべし」と差寄ればにじり寄り、「イヤナニ本蔵今この若狭助が言ひ出す一言、なにによらず畏り奉ると、二言と返さぬ誓言聞かう」「ハアこれは改つた御詞。畏り入り奉るではござれども、武士の誓言は」「ならぬといふのか」「アイヤさにあらず。先づ委細とつくと承り」「仔細を言はせ後で意見か」「イヤそれは」「詞を背くか」「サア」「サア」「サア」「ササなんと」「ハヽ」ハツとばかりに差しうつむきしばらく、詞なかりしが、胸を極めて差添抜き、片手に刀抜出し、てう/\と金打し、「本蔵が心底かくの通り、止めも致さず他言もせぬ。先ず思召しの一通り、おせきなされずと、この本蔵めが胃の腑に、落付くやうにとつくりと承らん」と相述ぶる。「ムヽ一通り語つて聞かせん。この度管領(かんれい)足利左兵衛督直義公、鶴が岡造営故、この鎌倉へ御下向、御馳走の役は塩谷判官、某両人承るところに尊氏将軍よりの仰せにて、高師直を御添人、万事彼が下知に任せ御馳走申上げよ。年配といひ諸事物馴れたる侍と、御意に従ひ勝つに乗つて日頃の我儘十倍増し、都の諸武士並居る中、若年の某を見込み雑言過言二つにと思へども、お上の仰せを憚り、堪忍の胸を押へしは幾度。明日は最早料簡ならず、御前にて恥面かかせる武士の意地。その上にて討つて捨つる。必ず留めるな。日頃某を短慮なりと、奥を始めその方が意見、幾度か胸にとつくと合点なれども。無念重る武士の性根。家の断絶奥が歎き、思はんにてはなけれども、サ刀の役目弓矢神への恐れ。戦場にて討死はせずとも、師直一人討つて捨つれば天下のため、家の恥辱には代へられぬ。必ず/\短気故に身を果す若狭助。猪武者よ狼狽者と、世の人口を思ふ故、汝にとつくと打明かす」と、思込んだる無念の五臓を貫く思ひなる。横手を打つて、「したり/\、ムヽよう訳をおつしやつた。よう御了簡なされた。この本蔵なら今迄了簡はならぬところ」「ヤイ本蔵ナヽなんといつた。今迄はよう了簡した堪忍したとは、わりやこの若狭助をさみするか」「ハヽこれはお詞とも覚えず。冬は日蔭夏は日面、よけて通れば門中にて、行違ひの喧嘩口論ないと申すは町人の譬、武士の家では杓子定規。よけて通せば方図がないと申すのが本蔵めが誤りか。御詞さみ致さぬ心底、御覧に入れん。サア殿、まつこの通りにさつぱりと遊ばせ/\」「オヽ言ふにや及ぶ」「アヽコレ人や聞く」とあたりに気をつけ、「今夜はまだ九つぐつたりと一休み。枕時計の目覚し本蔵めが仕掛け置く。サヽ早く/\」「オヽ聞き入れあつて満足せり。奥にも逢うて余所ながらの暇乞ひ。本蔵/\面を上げい」「ハヽア」「モウ逢はぬぞよ、さらば」さらばといひ捨てて、奥の一間に入給ふ武士の、意気地は是非もなし。御後影見送り/\、勝手口へ走り出で「本蔵が家来ども、馬引け、早く」といふ間もなく、股立しやんとりりしげに御庭に引出せば、縁よりひらりと打乗て「師直の館まで、続けや続け」と乗出す。轡にすがつて戸無瀬、小浪「コレ/\どこへ、始終の様子は聞きました。年にこそよれ本蔵殿、主人に御意見も申さず合点のゆかぬ、留めます」と母と娘がぶら/\/\、轡に縋り留むれば「ヤア小差出た、主人のお命、お家のため思ふ故にこの時宜、必ず此事殿へ御沙汰いたすな、お耳へ入つたら娘は勘当、戸無瀬は夫婦の縁を切る、家来ども、道にて諸事を言付けん、そこ退け両人」「イヤ/\/\」「シヤ面倒な」と鐙の端、一と当てはつしと当てられて『うん』とばかりにのつけに反るを見向きもせず「家来、続け」と馬煙、追立て打立て力足、踏立ててこそ 
三段目
下馬先進物の段
かけり行く。足利左兵衛督直義公、関八州の管領と新たに建てし御殿の結構。大名小名美麗を飾る晴れ装束。鎌倉山の星月夜と袖を列ぬる御馳走に、お能役者は裏窓口、面御門はお客人御饗応の役人衆、正七つ時の御登城武家の、威光ぞ輝きける。西の御門の見附の方『ハイ/\/\』といかめしく提燈照らし入り来るは、武蔵守高師直。権威をあらはす鼻高々、花色模様の大紋に、胸に我慢の立烏帽子。家来どもを役所/\に残し置き、しもべ僅かに先を払はせ、主の威光の召しおろし、鶴の真似する鷺坂伴内、肩ひぢいからし「もしお旦那。今日の御前表も上首尾/\。塩谷で候の、イヤ桃井での候のと、日頃はどつぱさつぱとどめしけど、行儀作法は狗(えのころ)を、屋根へあげたやうで、さりとは/\腹の皮。イヤそれにつき兼々塩谷が妻顔世御前、未だ殿へ御返事いたさぬ由。お気にはさへられな、/\。器量はよけれど気が叶はぬ。なんの塩谷づれと、当時出頭の師直様と」「ヤイ/\声高に口きくな。主ある顔世、たびたび歌の師範に事寄せ、口説けども今に叶へぬ。すなわちかれが召使、かるといふ腰元新参と聞く。きやつをこまづけ頼んで見ん。さてまだ取得がある。顔世が誠にいやならば、夫塩谷に仔細をぐわらりと打明ける、所を言はぬは楽しみ」と、四つ足門の片蔭に主従うなづき話あふ。折もあれ、見付に控へし侍あはただしく走り出で「われわれ見付のお腰掛に控へし所へ、桃井若狭助家来加古川本蔵、師直様へ直きにお目にかからんため、早馬にてお屋敷へ参ったれどもはや御登城、ぜひ御意得奉らんと、家来も大勢召し連れたる体、いかが計らひ申さんや」と聞くより伴内騒ぎ出し、「今日御用のある師直様へ、直きに対面とは推参なり。それがし直談」と走りゆくを、「待て/\伴内、仔細は知れた。一昨日鶴が岡にての意趣ばらし、我が手を出さず本蔵めに言ひ付け、この師直が威光の鼻をひしがんため。ハヽヽ伴内ぬかるな。七つにはまだ間もあらん。これへ呼び出せ。仕廻うてくれん」「なるほど/\、家来どもソレ気を配れ」と、主従刀の目釘をしめし、手ぐすね引いて待ちかけゐる。詞に従ひ加古川本蔵。衣紋繕ひ悠々と打通り、しもべに持たせし進物ども、師直が目通りに並べさせ、遥かさがつて蹲り「ハアはばかりながら師直様へ申し上げ奉る。このたび主人若狭助、尊氏将軍より御大役仰せつけられ下さる段、武士の面目、身に余る仕合せ。若輩の若狭助、なんの作法も覚束なく、いかがあらんと存ずるところに、師直様万事御師範を遊ばされ、諸事を御引廻し下され候ゆゑ、首尾よく御用勤むるも全く主人が手柄にあらず、みな師直様の御執成(おんとりなし)と、主人を始め奥方一家中、われわれまでも大慶この上や候べき。さるによつて近ごろ些少の至りに候へども、右御礼のため一家中よりの贈り物、お受け遊ばされ下さらば、生前の面目ひとしほ、願ひ奉る。すなはち目録御取次」と伴内にさし出せば、「エヘヽヽヽ、目録。一つ巻物三十本、黄金三十枚若狭助奥方。一つ黄金二十枚家老加古川本蔵。同十枚番頭、同十枚侍中。右の通り」と読み上ぐれば、師直は開いた口ふさがれもせずうつとりと、主従顔を見合せて、気抜けのやうにきよろりつと、祭の延びた六月の晦日見るが如くにて、手持無沙汰に見えにける。にはかに詞改めて「これは/\、/\痛み入つたる仕合せ。伴内こりやどうしたもの、ハテさてお辞儀申さばお志そむくと言ひ、第一は大きな無礼。イヤハヤ本蔵殿、なんの師範いたすほどの事もないが、とかくマア若狭助は器用者。師範の拙者及ばぬ及ばぬ。コリヤ伴内、進物どもみな取納め。エエ不行儀な、途中でお茶さへ御進ぜぬ」と、手の裏返す挨拶に本蔵が胸算用。『してやつたり』と猶も手をつき「もはや七つの刻限、はやお暇。ことに今日はなほ晴れのお座敷。いよ/\主人儀引廻し頼み存ずる」と立たんとするを押止め、「ハテえいわいの。貴殿も今日のお屋敷の座並、拝見なされぬか」「イヤ陪臣(またもの)のそれがし、御前の畏れ」「大事ない/\。この師直が同道するに、誰がぐつとも言ふ者ない。ことにまた若狭助も、なんぞれかぞれ小用のあるもの。平に平に」と勧められ「しからば御供仕らん。御意を背くはかへつて無礼。先づお先へ」と後につき、金で面はる算用に、主人の命も買うて取る、二一天作そろばんの、桁を違えぬ白鼠。忠義忠臣忠孝の、道は一筋まつすぐに打ちつれ 
腰元おかる文使いの段
御門に入りにける ほどもあらさず入り来るは塩谷判官高定。これも家来を残し置き、乗物道に立てさせ、譜代の侍早野勘平、朽葉小紋のさら袴ざわ/\ざわつく御門前。「塩谷判官高定登城なり」とおとなひける。門番まかり出で「さきほど桃井様御登城遊ばされ御尋ね。只今また師直様御越しにて御尋ね。はや御入り」と相述ぶる。「ナニ勘平。もはや皆々御入りとや。遅なはりし、残念」と勘平一人御供にて御前へこそは急ぎ行く。奥の御殿は御馳走の、地謡の声播磨潟 √高砂の浦に着きにけり/\」謡ふ声々門外へ、風が持て来る柳蔭。その柳より風俗は、負けぬ所定の十八九、松の緑の細眉も、堅い屋敷に物馴れし、奇特帽子の後帯。供の奴が提灯は、塩谷が家の紋所。御門前に立休らひ「コレ奴殿。やがてもう夜も明ける。こなた衆は門内へは叶わはぬ。こゝから去んで休んでや」と、詞に従ひ「ナイ/\」と、供の下部は帰りける。内を覗いて「勘平殿はなにしてぞ。どうぞ逢ひたい用がある」と、見廻す折から、後影、ちらと見付け「おかるぢやないか」「勘平様逢ひたかつたに、ようこそ/\」「ムヽ合点のゆかぬ夜中といひ、供をも連れず只一人」「さいなア、こゝまで送りし供の奴は先へ帰した、私一人残りしは、奥様からのお使ひ。どうぞ勘平に逢うてこの文箱。判官様のお手に渡し、御慮外ながらこの返歌を御前のお手から直ぐに師直様へ、お渡しなされ下さりませと伝へよ。しかしお取込の中、間違ふまいものでなし。マア今宵はよしにせうとのお詞。わたしはお前に逢ひたい望み、なんのこの歌の一首や二首。お届けなさるゝほどの間のないことはあるまいと、つい一走りに走って来た、アヽしんどや」と吐息つく。「しからばこの文箱。旦那の手から師直様に渡せばよいぢやまで。どりや渡して来う待つてゐい」という中に門内より「勘平/\/\判官様が召しまする。勘平/\」「ハイ/\/\只今それへ。エヽ忙しない」と袖振切つて行く後へ、どぜう踏む足付き鷺坂伴内「おかぼう/\、コレおかぼう。ハヽヽヽヽなんとおかる。恋の知恵はまた格別。勘平めとせゝくつてゐるところを、勘平/\旦那がお召しと呼んだはきついか/\きついか。ハヽヽヽヽ師直様がそもじに頼みたいことがあると仰しやる。我らはそさまにたつた一度。君よ/\」と抱付くを、突飛ばし「コレ猥らなことを遊ばすな。式作法のお家にいながら狼藉千万。あた不作法なあた不行儀」と、突退くれば「それはつれない。暗がり紛れについちよこ/\」と、手を取り争ふその中に「伴内様/\。師直様の急御用。伴内様/\」と、奴二人がうろうろ目玉で「これはしたり伴内様。最前から師直様が御尋ね、式作法のお家にゐながら、女を捕へあた不行儀な、あた不作法」と、下部が口々。「エヽ同じやうになにぬかす」と、面ふくらして連立ち行く。勘平後へ入替り「なんと今の働き見たか。伴内めが一杯喰うて失せをつた。俺が来て旦那が呼ばしやると言ふと、おけ古いとぬかすが面倒さに奴共に酒飲ませ、古いと言はさぬこの方便。まんまと首尾は仕おほせた」「サアその首尾ついでにな、ちよつと/\」と手を取れば「ハテ扨はづんだマア待ちやいの」「なに言はんすやら、なんの待つことがあろぞいなア。もうやがて夜が明けるわいな。是非に/\」是非なくも、下地は好きなり御意は善し「それでもこゝは人出入り」奥は謡の声高砂√松根に倚つて腰をすれば「アノ謡で思ひ付いた。イザ腰掛けで」と手を引合ひ、打ちつれてこそ 
殿中刃傷の段
連れて行く 脇能過ぎて御楽屋に鼓の調べ太鼓の音。天下泰平繁昌の寿祝ふ直義公、御機嫌なゝめならざりける。若狭助はかねて待つ師直遅しと御殿の内、奥をうかがう長袴の紐しめくゝり気配りし、『おのれ師直、真二つ』と刀の鯉口息をつめ、待つとも知らぬ師直主従。遠見に見付け「これは/\若狭助殿。てさてお早い御登城。イヤハヤ我折りました。我れら閉口々々。いや閉口ついでに貴殿に言訳いたし、お詫び申すことがある」両腰ぐわらりと投げ出し「若狭助殿。改めて申さねばならぬ一通り。いつぞや鶴が岡で拙者が申した過言、サヽお腹が立つたであろう。もつともぢや/\、そこをお詫び。その時はどうやらした詞の違ひでつい申した。我れら一生の粗忽。武士がコレ手をさげる。真平/\。仮令そのもとが物馴れたお人なりやこそ、外ほかの狼狽者で見さつしやれ。この師直真二つ。こわやの/\。ありやうがこの節貴殿のうしろげ手を合わして拝みました。アハヽヽ。アヽ年寄るとやくたい/\。年に免じて御免々々。これさ/\武士が刀を投げ出し手を合はす。これほどに申すのを聞き入れぬ貴公でもないわさ。とかく幾重にも誤り/\。珍才ともどもにお詫び/\」と金が言はする追従とは夢にも知らぬ若狭助。力みし腕も拍子抜け。いまさら抜くに抜かれもせず。寝刃合はせし刀の手前、さしうつむきし思案顔。小柴の蔭には本蔵が瞬きもせず守り居る。「ナニ珍才、この塩谷はなぜ遅い。若狭助殿とはきつい違ひ。扨々不行儀者。いまにおいて面出しせぬ。主が主なれば家老で候とて諸事に細心(まごころ)のつく奴が一人もない。いざ/\若狭殿、御前へお供いたそ。サアお立ちなされ/\。いやさこれ師直めあやまつてをるぞ。コリヤこヽな粋め/\粋様め」「イヤ若狭助最前からちと心悪うござる。マア先へ」「何とした/\。腹痛か。コレサ珍才、お背中/\。お薬進ぜうかな」「イヤ/\それほどにもござらぬ」「然らば少しの内おくつろぎ。御前の首尾は我れらがよいやうに申し上ぐる。ソレ珍才一間へ御供申せ」と主従寄つてお手車に、迷惑ながら若狭助『これは』と思へど、是非なくも奥の一間へ入りければ「アヽもう楽ぢや」と本蔵は天を拝し、お次の間にぞ控へ居る。ほどもあらさず塩谷判官。御前へ通る長廊下。師直呼びかけ「遅し/\。なんと心得てござる。今日は正七ツ時と先刻から申し渡したでないか」「なるほど遅なりしは不調法。さりながら御前へ出るはまだ間もあらん」と袂より文箱取り出し「最前手前の家来が貴公へお渡し申しくれよ、すなはち奥顔世方より参りし」と渡せば、受取り「成程々々。イヤそこもとの御内方は扨々心がけがごさるわ。手前が和歌の道に心を寄するを聞き、添削を頼むとある。定めてそのことならん」と押しひらき「さなきだに重きが上のさよ衣、わがつまならぬつまな重ねそ/\。フンハアこれは新古今の歌。この古歌に添削とはムヽヽヽ」と思案の中『わが恋のかなはぬしるし。さては夫に打ち明けし』と思ふ怒りをさあらぬ顔「判官殿。この歌ご覧じたでござらう」「イヤたヾいま見ました」「ムヽ手前が読むのを、アヽ貴殿の奥方はきつい貞女でござる。ちよつと遣はさるゝ歌がこれぢや。つまならぬつまな重ねそ。アヽ貞女々々。そこもとはあやかり者。登城も遅なはる筈のこと。家にばかりへばりついてござるによつて、御前の方はお構ひないぢや」とあてこする雑言過言。あちらの喧嘩の門違ひとは判官さらに合点ゆかず、むつとせしが「ハヽヽヽヽこれは/\師直殿には御酒機嫌か、御酒参つたの」「いつ盛らしやつた。イヤいつ飲ました。御酒下されても飲まいでも勤むるところはきつと勤むる。貴公はなぜ遅かったの。御酒参つたか。イヤサ内にへばりついてござつたか。貴殿より若狭助殿ハヽア格別勤められます。イヤまたそのもとの奥方は貞女といひ御器量と申し、手跡は見事。御自慢なされ/\。むつとされな。嘘ではないわさ。今日御前にはお取込み。手前とても同然。その中へ鼻毛らしい。イヤこれは手前が奥で歌でござる。それほど内が大切なら御出御無用。総体貴様のやうな、内にばかり居る者を井戸の鮒ぢやといふ譬がある。後学のため聞いておかつしやれ。かの鮒めがわづか三尺か四尺の井の中を、天にも地にもないやうに思ふてふだん外を見る事がない。ところにかの井戸がへに釣瓶について上ります。それを川へ放ちやると、なにが内にばかり居る奴ぢやによつて喜んで途を失ひあちらへうろうろこちらへうろうろあげくには、橋杭で鼻をうつて即座にぴり/\/\/\と死にまする。さあかの鮒めが。貴様も丁度その鮒と同じこと。鮒よ鮒よ、鮒だ、/\、鮒武士だ」「フウム」「殿中だ」「ハア/\/\」「ハヽヽヽヽ」と出放題。判官腹に据えかね「こりやこなた狂気召さつたか。イヤサ気がちがふたか師直」「イヤこいつ武士をとらへて気違ひとは。出頭第一の高師直」「ムヽすりや今の悪言は本性よな」「くどい/\、がまた本性ならどうする」「ムヽオヽかうする」と抜討ちに真向に切りつける眉間の大傷。『これは』と沈む身のかはし、烏帽子の頭二つに切れ、また切りかゝるを抜けつくぐりつ逃げ廻る折もあれ、お次に控へし本蔵走り出て押しとゞめ「コレ判官様御短慮」と抱きとむるその隙に、師直は舘をさしてこけつまろびつ逃げ行けば「おのれ師直真二つ。放せ本蔵放しやれ」とせりあふ中、舘も俄に騒ぎ出し、家中の諸武士、大名小名押さへて刀もぎとるやら。師直を介抱やら、上を下へと 
裏門の段
立騒ぐ 表御門裏御門、両方打つたる舘の騒動提灯ひらめく大騒ぎ。早野勘平うろ/\眼走り帰つて裏御門、砕けよ破れよと打叩き大音声「塩谷判官の御内早野勘平、主人の安否心許なし。こゝ開けてたべ早く/\」と呼ばはつたり。門内よりも声高々「御用あらば表へ廻れ、こゝは裏門」「なるほど裏門合点。表御門は家中の大勢早馬にて寄り付かれず、喧嘩の様子は何と/\」「喧嘩の次第相済んだ。出頭の師直様へ慮外致せし利によつて、塩谷判官は閉門仰付けられ、網乗物にてたつた今帰られし」と聞くより「ハア南無三宝、お屋敷へ」と走りかゝつて「イヤ/\/\閉門ならば舘へはなほ帰られじ」と行きつ戻りつ思案最中。腰元おかる道にてはぐれ「ヤア勘平殿、様子は残らず聞きました。こりや何とせうどうせう」と取付き嘆くを取つて突退け「エヽめろ/\とほえ面、コリヤ勘平が武士はすたつたわやい。もうこれまで」と刀の柄。「コレ待つて下され。こりやうろたへてか勘平殿」「オヽうろたへた。これがうろたへずにをられやうか。主人一生懸命の場にも在り合わさず、あまつさへ囚人同然の網乗物お屋敷は閉門、その家来は色に耽りお供にはづれしと人中へ、両脇差し出られうか。こゝを放せ」「マヽヽヽ待つて下さんせ。もつともじや道理ぢやが、その狼狽武士には誰がした。皆わしが心から死ぬる道ならお前より私が先へ死なねばならぬ。今お前が死んだらば誰が侍ぢやと褒めまする。こゝをとつくりと聞き分けて私が親里へひとまづ来て下さんせ。父様も母様も在所でこそあれ頼もしい人、もうかうなつた因果ぢやと思うて女房の言ふ事も聞いて下され勘平殿」とわつとばかりに泣き沈む。「さうぢやもつともそちは新参なれば、委細の事は得知るまい。お家の執権大星由良助殿、今だ本国より帰られず、帰国を待つてお詫びせん。サア一時なりとも急がん」と身拵へするところへ 鷺坂伴内、家来引連れ駆出で「ヤア/\勘平。うぬが主人の塩谷判官おらが旦那の師直様と何か知らぬが殿中においてあつちやの方でぼつちやくちや、こつちの方でべつちやくちや、ちやつちやくちや/\咄しのうち、小さ刀をちよつと抜いてちよつと切つた科によつて屋敷は閉門網乗物にてエツサツサ/\、エツサツサ/\、エツササとぼつ帰したわい。追付首がころりと飛ぶは知れたこと。サア腕回せ連れ帰つてなぶり切り、覚悟ひろげ」とひしめけば「ハヽヽヽヽよい所へ鷺坂伴内。おのれ一羽で食足らねど勘平が腕の細ねぶか、料理塩梅食うて見よ」「イヤ物は言はすな家来ども」「畏つた」と両方より「捕つた」とかゝるを「まつかせ」とかいくゞり、両手に両膝捻上げ、はつし/\と蹴返せば、代つて切込む切先を、刀の鞘にて丁ど受け、廻つて来ると鐺と柄にて仰向にそらし、四人一緒に切りかゝるを、右と左へ一時に、でんがく返しにばた/\/\と打据へられ、皆ちりぢりに行く後へ、伴内いらつて切りかゝる、引ぱづしそつ首握り、大地へどうともんどり打たせ、しつかと踏付け「サアどうしようとこつちのまゝ。突かうか切らうかなぶり殺し」と振上ぐる刀に、すがつて「コレ/\そいつを殺すとお詫びの邪魔。もうよいわいな」と留める間に 足の下をこそ/\と、尻に尾のない鷺坂は頭はあるかと振つてみて「あるとも/\大丈夫」命からがら逃げて行く「エヽ残念々々、さりながら彼奴をばらさば不忠の不忠。ひとまず夫婦が身を隠し、時節を待つて願うて見ん」もはや明六ツ東がしらむ横雲にねぐらを離れ飛ぶ烏かはい/\の女夫連れ、道は急げど後へ引く、主人の御身いかがと案じ行くこそ 
四段目
花籠の段
浮世なれ塩谷判官閑居によつて扇ケ谷の上屋敷。大竹にて門戸を閉じ、家中の外は出入を留め、事厳重に見へにけり。かゝる折にも花やかに奥は媚く女中の遊び、御台所顔世御前。おそばには大星力弥、殿のお気を慰めんと鎌倉山の八重九重、色々桜花籠に活けらるゝ花よりも、生ける人こそ花紅葉。柳の間の廊下を伝ひ、諸士頭原郷右衛門。後につゞいて斧九太夫「これは/\力弥殿、早い御出仕」「イヤそれがしも国許より親どもが参るまで昼夜相詰め、まかりある」「それは御奇特千万」と郷右衛門、両手をつき「こんにち、殿の御機嫌は如何お渡り遊ばさるゝ」と申し上ぐれば、顔世御前「オヽ二人とも大儀々々、このたびは判官様お気詰りに思召し、お失例(しつらい)でも出ようかと案じたとは格別。明け暮れ築山の花盛り御覧じて御機嫌のよいお顔ばせ。それ故にみづからもお慰みに差上げうと名ある桜を取寄せて、見やる通りの花ごしらへ」「ハ如何さまにも仰せの通り。花は開くものなれば、御門も開き閉門をお赦さるゝ吉事の御趣向。拙者も何がなと存ずれど、かやうなことの思ひつきは、イヤモ不調法なる郷右衛門。ヤア肝心の事申し上げん。今日御上使のお出でと承りしが、定めて殿の御閉門を御赦さるゝ御上使ならん。なんと九太夫殿、さうは思召されぬか」「ハヽヽヽヽコレサ/\郷右衛門殿。この花といふものも当分人の目を喜ばすばかり。風が吹けば散り失せる。こなたの詞もまつその如く、人の心を喜ばさうとて武士に似合はぬぬらりくらりと後からはげる正月詞。サヽヽなぜとお言やれ。このたび殿の御落度は饗応の御役儀を蒙りながら、執事たる人に手を負せ、舘を騒がせし科。軽うて流罪、重うて切腹。自体また師直公に敵討は殿御不覚」と聞きもあへず郷右衛門「さてはその方、殿の流罪切腹を願はるゝか」「イヤ願ひは致さぬ、願ひは致さねど詞を飾らず真実を申すのぢや。もとはと言へば郷右衛門殿、こなたの吝嗇(りんしょく)しはさから起こつたこと、金銀をもつて面を撲りめさるれば、かやうなことは出来申さぬ」と巳が心に引当てゝ、欲面打消す郷右衛門「人に媚びへつらふは侍ではない。武士でない。なう力弥。なんとさうではあるまいか」と詞の角を、なだむる御台「二人とも争ひ無用。このたび夫の御難儀なさるもとの起りはこの顔世。いつぞや鶴が岡で饗応の折柄、道知らずの師直、主のあるみづからに無体な恋を言ひかけ、さまざまと口説きしが、恥を与へ懲りせんと判官様にも露知らさず、歌の点に事よせ、さよ衣の歌を書き恥ぢしめてやつたれば、恋のかなはぬ意趣ばらしに判官様に悪口。もとより短気なお生れつき、え堪忍なされぬはお道理でないかいの」と語りたまへば、郷右衛門、力弥もともに御主君の御憤りを察し入り、心外面にあらはせり。『はや御上使の御出で』と玄関広間ひしめけば、奥へかくと通じさせ、御台所も座を下り、皆々 
塩谷判官切腹の段
出迎ふ間もなく 入り来る上使は石堂右馬丞、師直が眤近(じっきん)薬師寺次郎左衛門、『役目ならば罷り通る』と会釈もなく上座につけば、一間の内より塩谷判官しづ/\と立ち出で「これは/\御上使とあって石堂殿、御苦労千万。まづお盃の用意せよ、御上使の趣承り、いづれもと一献酌み積欝をはらし申さん」「オヽそれようござろ。薬師寺もお相手致さう。したが上意を聞かれたら酒ものどへは通るまい」と嘲笑へば右馬丞「我れ/\今日上使に立つたるその趣、つぶさに承知せられよ」と懐中より御書取り出し押開けば、判官も積を改め、承るその文言「このたび塩谷判官高定。私の宿意を以て執事高師直を刃傷に及び、舘を騒がせし利によつて国郡を没収し切腹申しつくるものなり」聞くよりはつと驚く御台。並み居る諸士も顔見合せ、あきれはてたるばかりなり。判官動ずる気色もなく「御上意の趣意細承知つかまつる。さてこれからは各々の御苦労休めにうちくつろいで御酒一つ」「コレ/\判官だまり召され、その方が今度の科は縛り首にも及ぶべきところお上の慈悲をもつて切腹仰せつけらるヽをありがたう思ひ、早速用意もすべき筈。殊にもつて切腹には定つた法のあるもの。それになんぞや、当世風の長羽織、ぞべらぞべらとしらるヽは酒興か。たゞし血迷うたか。上使に立つたる石堂殿、この薬師寺へ不作法」ときめつくれば、につこと笑ひ「この判官酒興もせず、血迷ひもせぬ。今日上使と聞くよりも、かくあらんと期したる故、かねての覚悟見すべし」と大小羽織を脱ぎ捨つれば、下には用意の白小袖、無紋の上下死装束、みな/\これはと驚けば、薬師寺は言句も出でず、顔ふくらして閉口す。右馬丞さし寄つて「御心底察し入る。即ち拙者検使の役、心静かに御覚悟」「ハヽア御親切かたじけなし。刃傷に及びしより、かくあらんとはかねての覚悟。恨むらくは舘にて加古川本蔵に抱き留められ、師直を討ちもらし、無念骨髄に通つて忘れがたし、湊川にて楠正成最期の一念によつて生を引くと言ひし如く、生き替り、死に替り、欝憤を晴らさん」と怒りの声ともろともに、お次の襖打ちたゝき「一家中の者ども、殿の御存生に御尊顔を拝したき顔。御前へ推参致さんや。郷右衛門殿お取次、郷右衛門殿お取次」と家中の声々聞ゆれば、郷右衛門、御前に向ひ「いかがはからひ候はん」「フウもつともなる願ひなれども、由良助が参るまで無用々々」はつとばかりに一間に向ひ「聞かるゝ通りの御意なれば、一人も叶はぬ、/\」諸士は返す詞もなく、一間もひつそとしづまりける。力弥御意をうけたまはり、かねて用意の切腹刀、御前に直すれば、心静かに肩衣取りのけ座をくつろげ「力弥」「ハツ/\」「由良助は」「いまだ参上つかまつりませぬ」「フウ存生に対面せで残念。ハテ残り多やな。コレ/\御検使。御見届け下さるべし」と三宝引き寄せ九寸五分押し頂き「力弥、々々」「ハツ/\」「由良助は」「いまだ参上つかまつりませぬ」「是非に及ばぬ。これまで」と刀逆手に取り直し、弓手に突き立て引廻す。御台二た目と見もやらず、口に称名、目に涙。廊下の襖踏みひらき、駆け込む大星由良助。主君のありさま見るよりも「ハツ/\/\ハア」とばかりにどうと伏す。後に続いて千崎、矢間、そのほかの一家中ばら/\と駆け入つたり。「国家老大星由良助、たゞいま到着仕りました」「ナニ国家老由良助とな。最期の対面苦しうない 近う」「ハツ」「近う」「ハ」「近う、/\、/\」「ハツ/\/\」「ヤレ由良助、待ちかねたわいやい」「ハヽア。御存生の御尊顔を拝し、身にとつて何ほどか」「オヽ我も満足々々。定めて子細聞いたであらう。聞いたか。/\。エヽ無念。口惜しいわやい」「ハヽア委細承知仕る。この期に及び申上ぐる詞もなし。たゞ御最期の尋常を願はしう存じまする」「オヽ言ふにや及ぶ」ともろ手をかけ、ぐつ/\と引廻し、苦しき息をほつとつぎ「由良助。この九寸五分は汝へ形見。我が欝憤を晴らさせよ」と切先にてふえはね切り、血刀投出しうつぶせに、どうど転び、息絶ゆれば、御台を始め、並み居る家中、眼を閉じ息をつめ、歯を食ひしばり控ゆれば、由良助にじり寄り、刀取り上げ押戴き、血に染まる切先を打守り、/\拳を握り、無念の涙はらはらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみわたり、さてこそ末世に大星が忠臣義心の名を上げし根ざしはかくと知られけり。薬師寺はつと立ち上り「判官がくたばるからは、早々屋敷を明け渡せ」「イヤさは言はれな薬師寺。いはゞ一国一城の主。ヤ方々、葬送の儀式取りまかなひ心静かに立ち退かれよ。この石堂は検使の役目。切腹を見届けたれば、この旨を言上せん。ナニ由良助どの、御愁傷察し入る。用事あらば承らん。必ず心おかれな」と並み居る諸士に目礼し、悠々として立帰る。「この薬師寺も死骸片づけるその間、奥の間で休息せう。家来参れ」と呼び出し「家中ども、がらくた道具門前へほうり出せ。判官が所持の道具ソレ俄浪人にまげられな」と舘の四方をねめ廻し、一間の内へ入りにけり。御台は一間を転び出で「なう由良助。さても/\武士の身の上程悲しいもののあるべきか。いま夫の御最期に言ひたいことは山々なれど、未練なと御上使のさげしみが恥づかしさに、いままでこらへてゐたわいの。いとほしのありさまや」と亡骸に抱きつき、前後も分かず泣き給ふ。「力弥参れ。御台所もろとも亡君の御骸を御菩提所光明寺へ早々送り奉れ。由良助も後より追付き、葬送の儀式取り行なはん。堀、矢間、小寺、間そのほかの一家中道の警護致されよ」と詞の下よりお乗物手舁に舁き据え戸を開き、みな立寄つて御死骸、涙とともに乗せ奉り、しづ/\と舁ぎ上ぐれば、御台所は正体なく嘆き給ふを、慰めて、諸士の面々我れ一と、お乗物に引添ひ/\、御菩提所へと 
城明渡しの段
『はつた』と睨んで  
五段目 
山崎街道出会いの段
立ち出づる。鷹は死しても穂は摘まずと、たとへに洩れず入る月や、日数も積もる山崎の、辺りに近き侘び住居、早野勘平若気の誤り、世渡る元手細道伝ひ、この山中(やまなか)の鹿(しし)猿を、撃つて商ふ種ケ島も、用意に持つや袂まで、鉄砲雨のしだらでん。誰が水無月と夕立の、晴れ間をこゝに松の蔭。向ふより来る小提灯、これも昔は弓張の、灯火消さじ濡らさじと、合羽の裾に大雨を、凌ぎて急ぐ夜の道、「イヤ申し申し、卒爾ながら火を一つ御無心」と立ち寄れば、旅人もちやくと身構へし、「ムヽ、この街道は不用心と知つて合点の一人旅。見れば飛道具の一口商ひ。得こそは貸さじ出直せ」と、びくと動かば一討と、眼を配れば、「イヤア成程、盗賊とのお目違ひ御尤も千万。我れらはこの辺りの狩人なるが、先程の大雨に、火口も湿り難儀至極。サア鉄砲それへお渡し申す。自身に火を付け御貸し」と、他事なき詞顔付を、きつと眺めて、「和殿は早野勘平ならずや」「さ言ふ貴殿は千崎弥五郎」「これは堅固で」「御無事で」と、絶えて久しき対面に、主人の御家没落の、胸に忘れぬ無念の思ひ、互ひに拳を握り合ふ。勘平は差し俯き、暫し詞もなかりしが。「エヽ、面目もなき我が身の上、古朋輩の貴殿にも、顔も得上げぬこの仕合せ、武士の冥加に尽きたるか。殿判官公の御供先、御家の大事起こりしは、是非に及ばぬ我が不運。その場にもあり合はせず、御屋敷へは帰られず、所詮時節を待つて御詫びと、思ひの外の御切腹。南無三宝、皆師直めが為す業。せめて冥途の御供と、刀に手は掛けたれど、何を手柄に御供と、どの面提げて言ひ訳せんと、心を砕く折から、密かに様子を承はれば、由良殿御親子、郷右衛門殿を始めとして、故殿の欝憤散ぜんため、寄り寄りの思し召し立ちあるとの噂。我れらとても御勘当の身と言ふでもなし、手掛り求め由良殿に対面遂げ、御企ての連判に御加へ下さらば、生々世々の面目。貴殿に逢ふも優曇華(うどんげ)の、花を咲かせて侍の、一分立てゝ給はれかし。古朋輩のよしみ武士の情、御頼み申す」と両手を付き、先非を悔いし男泣き、理りせめて不憫なる。弥五郎も朋輩の、悔み道理と思へども、大事をむさと明かさじと、「コレサコレサ勘平。はてさて、御手前は身の言ひ訳に取り混ぜて、御企てのイヤ連判などとは何の戯言(たわごと)。左様の噂かつてなし。某は由良殿より郷右衛門殿へ急ぎの使ひ。先君の御廟所へ、御石碑を建立せんとの催し。しかし、我々とても浪人の身の上。これこそ塩谷判官の御石塔と、末の世までも人の口の端(は)にかゝるもの故、御用金を集むるその御使ひ。先君の御恩を思ふ人を選り出すため、わざと大事を明かされず。先君の御恩を思はゞ、ナ、ナ、合点か」と、石碑になぞらへ大星の、企みを余所(よそ)に知らせしは、実に朋輩のよしみなり。「ハヽア、忝ない弥五郎殿。成程、石碑と言ひ立て御用金の御拵へある事、とつくに承はり及び、某も何とぞして御用金を調へ、それを力に御詫びと、心は千々(ちぢ)に砕けども、弥五郎殿、恥づかしや主人の御罰で今このざま。誰れにかうとの便りもなし。されどもかるが親与市兵衛と申すは頼もしい百姓。我々夫婦が判官公へ不奉公を悔み嘆き、何とぞして元の武士に立ち返れと、伯父姥共に嘆き悲しむ。これ幸ひ、御辺に逢ひし物語、段々の子細を語り、元の武士に立ち返ると言ひ聞かさば、わづかの田地も我が子のため、何しに否は得も言はじ。御用金を手掛りに郷右衛門殿までお取次ぎ、一入(ひとしお)頼み存ずる」と、余儀なき詞に、「ムヽ成程、然らばこれより郷右衛門殿まで、右の訳をも話し、由良殿に願ふて見ん。明々日必ずきつと御返事。すなはち郷右衛門殿の旅宿の所書き」と、渡せば取つて押し頂き、「重々のお世話忝なし。何とぞ急に御用金を拵へ、明々日御目に掛からん。某が在所御尋ねあらば、この山崎の渡し場を左へ取り、与市兵衛と御尋ねあらば、早速相知れ申すべし。夜更けぬうちに早くも御出で。アヽコレ、この行先はなほ物騒、随分ぬかるな」「合点々々。石碑成就するまでは、蚤にも食はさぬこの身体。御辺も堅固で、御用金の便りを待つぞ。さらば」「さらば」と両方へ、立ち別れてぞ 
二つ玉の段
急ぎ行く。またも降り来る雨の足、人の足音とぼとぼと、道は闇路に迷はねど子故の闇につく杖も、直ぐなる心堅親仁(かたおやじ)、一筋道の後から、「オーイ、オーイ。オイ親父殿、先にから呼ぶ声が、貴様の耳へは這入らぬか。この物騒な街道を、よい年をして大胆々々。連れにならう」と向ふへ廻り、ぎよろつく眼玉、ぞつとせしが、さすがは老人、「これはこれはお若いに似ぬ御奇特な。私もよい年をして一人旅は嫌なれど、サアいづくの浦でも金程大切な物はない。去年の年貢に詰まり、この中から一家中の在所へ無心に往たれば、これもびた平なか才覚ならず。埒の明かぬ処に長居はならず、すごすご一人戻る道」と、半分言はさず、「ヤイヤイ喧しい。有様が年貢の納まらぬ、その相談を聞きには来ぬ。コレ親仁殿、俺が言ふ事とくと聞かしやれ、マアかうぢやわ。こなたの懐に金なら四五十両の嵩、縞の財布にあるのを、とつくりと見付けて来たのぢや。貸して下され、貸して下され。男が手を合はす。定めて貴様も何ぞつまらぬ事か、子が難儀に及ぶによつてといふ様な、ある格な事ぢやあろうけれど、俺が見込んだら、ハテしよ事がないと諦めて、貸して下され、貸して下され」と懐へ手を差し入れ、引ずり出だす縞の財布、「アヽ申し、それは」「それはとは、これ程こゝにあるもの」と、ひつたくる手に縋り付き、「イエイエ、この財布は後の在所で草鞋買ふとて端銭(はしたぜに)を出しましたが、後に残るは昼食(ちゅうじき)の握り飯。霍乱(かくらん)せん様にと娘がくれた和中散、反魂丹(はんごんたん)でござります。お許しなされて下さりませ」とひつたくり、逃げ行く先へ立ち廻り、「エヽ聞き分けのない。酷い料理するが嫌さに、手緩う言へばつけ上がる。サア、その金こゝへ捲き出だせ。遅いとたつた一討ち」と、二尺八寸拝み討ち、「ノウ悲しや」と言ふ間もなく、唐竹割りと切り付くる、刀の廻りか手の廻りか、外れる抜身を両手にしつかと掴み付き、「どうでもこなた、殺さしやるの」「オヽ、知れた事。金のあるのを見てする仕事。小言吐かずとくたばれ」と、肝先へ刺しつくれば、「マアマア待つて下さりませ、マアマア待つて下さりませ。ハア是非に及ばぬ。成程々々、これは金でござります。けれどもこの金は、私にたつた一人の娘がござります、その娘が命にも代へぬ大事の男がござりまする、その男のために要る金。ちと訳ある事故浪人して居まする。娘が申しまするは、あのお人の浪人も元は私故、何とぞして元の武士にして進ぜたい、進ぜたいと、嚊とわしとへ毎夜さの頼み。アヽ身貧にはござりまする。どうも仕覚(しがく)の仕様もなく、婆と色々談合して娘にも呑み込ませ、婿へは必ず沙汰なしと示し合はせ、ほんに、ほんに親子三人が血の涙の流れる金。それをお前に取られて娘はなんとなりませう、娘はなんとなりませうぞいの。マア一里行けば私が在所、金を婿に渡してから殺されませう。申し、申し、娘が喜ぶ顔見てから死にたうござります、これ申し。さりとてはお情けない。アヽかういふ事とは露知らず、さぞ女房子が待ちおらうと、そればつかりが気に掛かり、冥途の道をうろうろと迷ひまする」とせき上げて、取り乱したる恩愛の、心ぞ思ひやられたり。「貧乏寺の鐘の声、オヽ悲しいこつちやわ。もつととこぼえ、ヤイ老いぼれめ。その金で俺が出世すりや、その恵みでうぬが倅も出世するわやい。人に慈悲すりや悪うは報はぬ。アヽ可愛いや」とぐつと突く、『うん』と手足の七転八倒、のたくり廻るを、脚(すね)にて蹴返し、「オヽいとしや痛かろけれど、俺に恨みはないぞや。金がありやこそ殺せ、金がなけりやコレなんのいの。金が敵だいとしぼや。アヽ南無阿弥陀仏、南無阿弥。南無妙法蓮華経。どちらへなりと失せをろ」と、刀も抜かぬ芋ざし抉り、草葉も朱(あけ)に置く露や、年も六十四苦八苦、あへなく息は絶へにけり。仕済ましたりと件の財布、暗がり耳の掴みよみ、「ヤア五十両、アヽ久し振りのご対面、忝なし」と首にひつ掛け、死骸をすぐに谷底へ、はね込み蹴込み泥まぶれ、はねは我が身にかゝるとも知らず立つたる後より、逸散に来る手負ひ猪、「これはならぬ」と身をよぎる、駆け来る猪は一文字、木の根岩角踏み立て蹴立て、只一まくりに飛び行けば、『あはや』と見送る定九郎が、背骨をかけてどつさりと、肋へ抜ける二つ玉、ふすぼり返つて死したるは、心地よくこそ見えにけれ。『猪撃ち留めし』と勘平は、鉄砲引提げこゝかしこ、「こりや人」『天の与え』と押し頂き、猪より先へ逸散に、飛ぶが如くに 
六段目 
身売りの段
立ち帰る。所も名に負ふ山崎の小百姓、与市兵衛が埴生の住家、今は早野勘平が浪々の身の隠れ里、女房おかるは寝乱れし、髪取り上げんと櫛箱の、暁かけて戻らぬ夫、待つ間もとけし投島田、結ふに言はれぬ身の上を、誰にか柘植(つげ)の水櫛に、髪の色艶梳き返し、品よくしやんと結ひ立てしは、在所に惜しき姿なり。母の齢(よわい)も杖つきの、野道とぼとぼ立ち帰り、「オヽ娘、髪結ひやつたか。美しうよう出来た。イヤもう、在所はどこもかも麦秋時分で忙しい。今も藪隙で若い衆が麦かつ歌に、『親父出て見やばゝん連れて』と唄ふを聞き、親父殿の遅いが気に掛り、在口まで行たれど、ようなう影も形も見えぬ」「サイナ、こりやまあどうして遅い事ぢや。わし、一走り見て来やんしよ」「イヤノウ、若い女子一人歩くは要らぬ事。殊にそなたは小さい時から在所を歩くことさへ嫌ひで、塩谷様へ御奉公にやつたれど、どうでも草深い処に縁があるやら戻りやつたが、勘平殿と二人居やれば、おとましい顔も出ぬ」「オヽかゝ様のそりや知れた事。好いた男と添ふのぢやもの、在所はおろかどんな貧しい暮らしでも苦にならぬ。やんがて盆になつて、『とさま出て見やかゝんつ、かゝん連れて』といふ唄の通り、勘平殿とたつた二人、踊り見に行きやんしよ。かゝさん、お前も若い時覚えがあろ」と、差し合ひくらぬぐわら娘、気もわさわさと見えにける。「イヤノウ、なんぼその様に面白をかしう言やつても、心の中はの」「イエイエ、済んでござんす。主のために祇園町へ勤め奉公に行くは、かねて覚悟の前なれど、年寄つて父さんの世話やかしやんすが」「そりや言やんな。小身者なれど兄も塩谷様の御家来なれば、外の世話する様にもない」と親子話の中道伝ひ。駕籠を舁かせて、急ぎ来るは祇園町の一文字屋。「サヽ駕籠の衆ござれ。コウツト、なんでもこの前来た時は、確かこの松の木から、一軒、二軒、三軒目。オヽこゝぢや、こゝぢや」と門口から。「与市兵衛殿内にか」と言ひつゝ這入れば、「これはこれは遠い処を、ソレ煙草盆、お茶あげましや」と親子して、槌で御家を白人屋の亭主、「さて、夕べはこれの親父殿もいかい大儀、別条なう戻られましたかな」「エヽ、さては親父殿と連れ立つて来はなされませぬか。これはしたり、お前往てから今にをいて」「ヤア戻られぬか。ハテ面妖(めんよう)な。ハア、もし稲荷前をぶらついてかの玉どんに摘まりやせぬかの。コレ、この中こゝへ見に来て極めた通り、お娘の年も丸五年切り。給銀は金百両、さらりと手を打つた。これの親父が言はるゝには『今夜中に渡さねばならぬ金あれば、今晩証文を認め、百両の金子(きんす)お貸しなされて下され』と戻をこぼしての頼み故、証文の上で半金渡し、残りは奉公人と引き換への契約。何がその五十両渡すと喜んで戴き、ほたほた言ふて戻られたはもう、四つでもあらうかい。夜道を一人金持つてゐらぬものと、留めても聞かず戻られたが、但しは道に」「イエイエ、寄らしやる所は、ノウ母さん」「ないとも、ないとも。ことに一時も早うそなたやわしに金見せて喜ばさうとて、息せきと戻らしやる筈ぢやに、合点がいかぬ」「イヤイノ、コレ、コレ…合点のいくいかぬはそつちの穿鑿(せんさく)。こちは下がりの金渡して、奉公人を連れて去の」と、懐より金取り出だし、「跡金の五十両、これで都合百両。サア渡す、受取らしやれ」「お前、それでも親父殿の戻られぬ中は、のうかる、わが身はやられぬ」「ハテぐづぐづと埒の明かぬ。コレ、ぐつともすつとも言はれぬ与市兵衛の印形、証文が物言ふわいの、これ証文が。今日から金で買ひ切つた体、一日違へばれこづゝ違ふ。どうでかうせざ済むまい」と手を取つて引立つる、「マアマア待つて」と取り付く母親、突き退け跳ね退け、無体に駕寵へ押し込み押し込み、舁きあぐる門の口。鉄砲に蓑笠打ち掛け、戻りかゝつて見る勘平、つかつかと内に入り、「駕籠の中なは女房ども、コリサマアどこへ」「オヽ勘平殿、よい所へよう戻つて下さつた」と母の喜び、その意を得ず、「どうでも深い訳があろ。母者人、女房ども、様子聞かう」とお上の真中、どつかと坐れば、文字の亭主、「ハヽア、さてはこなたが奉公人の御亭ぢやの。いやも、たとへ御亭が布袋が大黒が弁天が毘沙門でも、『許婚の夫などと、脇より違乱妨げ申す者これ無く候』と、親父の印形あるからは、こつちには構はぬ。サアサア早う奉公人を受取らうかい」「オヽ婿殿合点が行くまい。かねてこなたに金の要る様子、娘の話で聞いた故、どうぞ調へて進ぜたいと、言ふたばかりで一銭の当てもなし。そこで親父どのの言はしやるには、ひよつとこなたの気に、女房売つて金調へ様と、サよもや思ふてではあるまいけれど、もし二親の手前を遠慮して居やしやるまいものでもない。いつそこの与市兵衛が婿殿に知らさず娘を売らう、まさかの時は切取りするも侍の習ひ、女房売つても恥にはならぬ。お主の役に立つる金、調へておましたら満更腹も立つまいと、昨日から祇園町へ折極はめに往て、今に房らしやれぬ故親子案じて居る中へ、親方殿が見へて、昨夜親父殿に半金渡し跡金の五十両と引き換へに、娘を連れて去なうと言ふてなれど、親父殿に逢ふての上と訳を言ふても聞き入れず。今連れて去なしやるところ、どうせうぞ、勘平殿」「ハヽ、これはこれは、まづ以て舅殿の心遣ひ忝ない。したがこちにもちつとよい事があれども、マアそれは追つて、イヤコレ親父殿も戻られぬに、女房どもは渡されまい」「とはまた何故に、とは何故に」「ハテ、いはゞ親なり判がゝり。尤も夕べ半金の五十両渡されたでもあらうけれど」「アヽこれいのこれ、京大坂を股にかけ女護島程奉公人を抱へる一文字屋、渡さぬ金を渡したと言ふて済むものかいの、コレ済むかいの。まだその上に慥かな事があるてや。これの親父がかの五十両といふ金を手拭にくるくると巻いて懐に入れらるゝ。『アヽそりや危ない危ない、そりや危ない。これに入れて首に掛けさつしやれ』と、俺が着てゐる、かう、かうかうこの単物(ひとえもの)の縞の切れで拵へた金財布貸したれば、やんがて首にかけて戻られう」「ヤアなんと、こなたが着てゐるこの縞の切れの、金財布か」「オヽてや」「あの、この縞でや」「なんと、慥かな証拠であらうがな」と、聞くより『ハツ』と勘平が肝先にひしと堪へ、傍辺りに目を配り、袂の財布見合はせば、寸分違はぬ糸入り縞。『南無三宝、さては夕べ鉄砲で撃ち殺したは舅であつたか、ハア、ハツ』と、我が胸板を二つ玉で撃ち抜かるゝより切なき思ひ、とは知らずして女房、「コレこちの人、そはそはせずと、遣るものか遣らぬものか、分別して下さんせ」「ム成程。ハテもうあの様に慥かに言はるゝからは、行きやらずばなるまいか」「アノ父つさんに逢はいでもかえ」「アヽイヤイヤ、親父殿にも、今朝ちよつと逢うた、が戻りは知れまい」「フウ、そんなりや父つさんに逢ふてかえ。それならさうと言ひもせで、母さんにもわしにも案じさしてばつかり」と言ふに文字も図に乗つて、「それを見みいなどうどすえ。七度尋ねて人疑へぢや。親父の在り所の知れたので、そつちもこつちも心が良い。まだこの上にも四の五のあれば、いやともにでんど沙汰。マアマアさらりと済んでめでたい、めでたい、ハヽヽヽヽ。ヤコレお袋も御亭も六条参りしてちと寄らしやれ。サアサアお娘、早く駕籠に乗りや、乗りや。エヽ乗りやいのう」「アイ、アイ。これ勘平殿、もう今あつちへ行くぞえ。年寄つた二人の親達、とうでこなさんのみんな世話。取り分けて父つさんはきつい持病。気を付けて下さんせ」と、親の死に目を露知らず、頼む不便さいぢらしさ、『いつそ打ち明けありのまゝ、話さんにも他人あり』と、心を痛め堪へ居る。「オヽ婿殿、夫婦の別れ暇乞がしたかろけれど、そなたに未練な気も出よかと思ふての事であらうぞいのう」「イエイエ、なんぼ別れても、主のために身を売れば、悲しうもなんともない。わしや勇んで行く。母さん、したが父つさんに逢はずに行くのが」「オヽ、それも戻らしやつたらつひ逢ひに行かしやろぞいの。煩はぬ様に灸据ゑて、息災な顔見せに来てたも、ヤ」「アイ」「ヤ」「アイ」「ヤ、ヤ、ヤ」「アイナア」「鼻紙扇もなけりや不自由な。なんにもよいか。ソレとばついて怪我しやんな」と、駕籠に乗るまで心を付け、「さらばや」「さらば」「なんの因果で人並な娘を持ち、この悲しい目を見る事ぢや」と、歯を食いしばり泣きければ、娘は駕籠にしがみつき、泣くを知らさじ聞かさじと、声をも立てず咽せ返る。情なくも駕籠舁き上げ、道を 
早野勘平腹切の段
早めて急ぎ行く。母は後を見送り見送り、「アヽよしない事言うて娘もさぞ悲しかろ。オヽこな人わいの、親の身でさへ思ひ切りがよいに、女房の事ぐづぐづ思ふて煩うて下さんなや。この親仁殿はまだ戻らしやれぬ事かいなう。こなた逢うたと言はしやつたの」「成程」「そりやマア何処らで逢はしやつて、何処へ別れて往かしやつた」「されば、別れたその処は、鳥羽か伏見か淀竹田」と、口から出次第めつぽう弥八、種が島の六、狸の角兵衛、所の狩人三人連れ、親仁の死骸に蓑打ち着せ戸板に乗せ、どやどやと内に入り、「夜山仕舞うて戻りがけ、これの親仁が殺されてゐられた故、狩人仲間が連れて来た」と、聞くより『ハツ』と驚く母、「何者の仕業、コレ婿殿、殺した奴は何者ぢや、敵を取つて下されなう。コレノウ親仁殿、親仁殿」と、呼べど叫べどその甲斐も、泣くより他の事ぞなき。狩人共口々に、「オヽお袋、悲しかろ。代官所へ願うて詮議して貰はしやれ。アヽ笑止々々」と打ち連れて、皆々我が家へ立ち帰る。母は涙の隙よりも、勘平が傍へ差し寄つて、「コレ婿殿、よもや、よもや、よもや、とは思へども合点が行かぬ。なんぼ以前が武士ぢやとて、舅の死目見やしやつたらびつくりもしやる筈。こなた、道で逢うた時金受取りはさつしやれぬか。親仁殿が何と言はれた、サ言はつしやれ、言はつしやれ。サ何と、どうも返事はあるまいがの。ない証拠は、コレこゝに」と、勘平が懐へ手を差し入れて引き出だすは、「さつきにちらりと見ておいたこの財布。コレ、この様に血の付いてあるからは、こなたが親仁殿を殺したの」「ヤ、それは」「それはとは、それはとは、エヽわごりよはなう。隠しても隠されぬ、天道様が明らかな。親仁殿を殺して取つたその金や、誰に遣る金ぢや。聞こえた。身貧な舅、娘を売つたその金を、中で半分くすねておいて、皆遣るまいかと思ふてコリヤ、殺して取つたのぢやなア。今といふ今迄、律儀な人ぢやと思うて、騙されたが腹が立つわい。エヽこゝな人でなし、あんまり呆れて涙さへ出ぬわいやい。なう愛しや与市兵衛殿、畜生の様な婿とは知らず、どうぞ元の侍にしてやりたいと、年寄つて夜も寝ずに、京三界を駆け歩き、珍財を投げうつて世話さしやつたも、かへつてこなたの身の仇となつたるか。飼ひ飼ふ犬に手を喰はるゝと、ようもようもこの様に、惨たらしう殺された事ぢやまで。コリヤこゝな鬼よ蛇よ、父様を返せ、親仁殿を生けて戻せやい」と、遠慮会釈もあら男の、髻を掴んで引き寄せ引き寄せ叩き付け、「づだづだに切りさいなんだとて、これで何の腹が癒よ」と、恨みの数々口説き立て、かつぱと伏して泣きゐたる。身の誤りに勘平も、五体に熱湯の汗を流し、畳に喰ひ付き天罰と、思ひ知つたる折こそあれ。深編笠の侍二人、「早野勘平在宿をし召さるゝか、原郷右衛門、千崎弥五郎、御意得たし」と訪へば、折悪けれども勘平は、腰ふさぎ脇挟んで出で迎ひ、「これはこれは御両所共に見苦しきあばら家へ御出で、忝なし」と、頭を下ぐれば郷右衛門、「見れば家内に取り込みもあるさうな」「アヽイヤ、もう些細な内証事。御構ひなくともいざまづあれへ」「然らば左様に致さん」と、ずつと通り座に着けば。二人が前に両手を付き、「この度、殿の御大事に外れたるは拙者が重々の誤り、申し開かん詞もなし。何卒某が科御許しを蒙り、亡君の御年忌、諸家中諸共相勤むる様に、御両所の御取り成し、偏へに頼み奉る」と、身をへり下り述べければ。郷右衛門取りあへず、「まづもつてその方、貯へなき浪人の身として、多くの金子御石碑料に調進せられし段、由良助殿甚だ感じ入られしが、石碑を営むは亡君の御菩提、殿に不忠不義をせしその方の金子を以て、御石碑料に用ひられんは、御尊霊の御心にも叶ふまじとあつて、ナソレ金子は封の儘相戻さるゝ」と、詞の中より弥五郎懐中より金取り出だし、勘平が前に差し置けば、『ハツ』とばかりに気も顛倒(てんどう)、母は涙と諸共に、「コリヤこゝな悪人面、今といふ今、親の罰思ひ知つたか。ハイ、皆様も聞いて下さりませ。親仁殿が年寄つて後生の事は思はず、婿の為に娘を売り、金調へて戻らしやるを待ち伏せして、アヽアレあの様に殺して取つた金ぢやもの、天道様がなくば知らず、何で御用に立つものぞ。親殺しの生き盗人に罰を当てゝ下されぬは、神や仏も聞こえませぬ。あの不孝者、御前方の手に掛けて、なぶり殺しにして下され。わしや腹が立つわいの」と、身を投げ伏して泣きゐたる。聞くに驚き両人刀追つ取つて弓手馬手に詰め掛け詰め掛け、弥五郎声を荒らげ、「ヤイ勘平、非義非道の金取つて身の科の詫びせよとは言はぬぞよ。わが様な人非人、武士の道は耳にも入るまい、親同然の舅を殺し、金を盗んだ重罪人は大身槍の田楽刺し、拙者が手料理振舞はん」と、はつたと睨めば郷右衛門、「渇しても盗泉の水を飲まずとは義者の戒め。舅を殺し取つたる金、亡君の御用金になるべきか。生得汝が不忠不義の根性にて、調へたる金と推察あつて、突き戻されたる由良助殿の眼力、ハヽ天晴れ天晴れ。さりながら、ハア情けなきはこの事世上に流布あつて、塩谷判官の家来早野勘平、非義非道を行ひしといはゞ、汝ばかりが恥ならず、亡君の御恥辱と知らざるか。こなこな、こなこなこな、うつけ者めが。勘平、コレサ勘平、御身はどうしたものだ。左程の事の弁へなき、汝にてはなかりしが、いかなる天魔が魅入りし」と、鋭き眼に涙を浮かめ、事を分け理を責むれば、堪り兼ねて勘平諸肌押し脱ぎ脇差を、抜くより早く腹へぐつと突き立て、「ム、いづれもの手前面目もなき仕合はせ、拙者が望み叶はぬ時は切腹と兼ねての覚悟、わが、わが舅を殺せし事、亡君の御恥辱とあらば一通り申し開かん、両人共にまづ、まづまづ、まづまづまづ聞いてたべ。夜前弥五郎殿の御目に掛かり、別れて帰る暗紛れ、山越す猪に出合ひ、二つ玉にて撃ち留め、駆け寄つて探り見れば、猪にはあらで旅人、南無三宝誤つたり。薬はなきかと懐中を探し見れば、財布に入つたるこの金。道ならぬ事なれども、天より我に与ふる金とすぐに馳せ行き、弥五郎殿にかの金を渡し、立ち帰つて様子を聞けば、撃ち止めたるは、撃ち止めたるは、わが舅。金は女房を売つた金、か程迄する事なす事、いすかの嘴(はし)程違ふといふも、武運に尽きたる勘平が、身の成り行き推量あれ」と、血走る眼に無念の涙。子細を聞くより弥五郎ずんど立ち上り、死骸引き上げ打返し、『ムウ、ム』と疵口改め、「郷右衛門殿これ見られよ、鉄砲疵には似たれどもこれは刀で抉つた疵。勘平早まりし」と、言ふに手負も見てびつくり、母も驚くばかりなり。郷右衛門心付き、「イヤコレ千崎殿、アヽこれにて思ひ当つたり。御自分も見られし通り、これへ来る道端に鉄砲受けたる旅人の死骸、立ち寄り見れば斧定九郎。強欲な親九太夫さへ、見限つて勘当したる悪党者。身の佇みなき故に、山賊すると聞いたるが、疑ひもなく勘平が、舅を討つたは彼奴が業(わざ)」「エヽ、そんなりやアノ親仁殿を殺したは、他の者でござりますか。ハア」『ハツ』と母は手負に縋り、「コレ、手を合はして拝んます。年寄りの愚痴な心から恨み言ふたは皆誤り、堪へて下され勘平殿、必ず死んで下さるな」と泣き詫ぶれば、顔振り上げ、「只今、母の疑ひもわが悪名も晴れたれば、これを冥途の思ひ出とし、後より追付き舅殿、死出三途を伴はん」と、突込む刀引廻せば、「アヽ暫く暫く。思はずもその方が舅の敵討つたるは、未だ武運に尽きざるところ。弓矢神の御恵みにて、一功立つたる勘平、息のあるうち郷右衛門が、密かに見する物あり」と、懐中より一巻を取り出だし、さらさらと押し開き、「この度、亡君の敵高師直を討ち取らんと神文を取り交し、一味徒党の連判かくの如し」と、読みも終らず苦痛の勘平、「シテその姓名は、誰々なるぞ」「オヽ徒党の人数は四十五人、汝が心底見届けたれば、その方を差し加へ一味の義士四十六人。これを冥途の土産にせよ」と、懐中の矢立取り出だし姓名を書き記し、「勘平、血判」「オヽ心得たり」と、腹十文字に掻き切り、臓腑を掴んでしつかと押し、「サ血判、仕つた」「アヽコリヤ乗るな、乗るな。早野勘平繁氏、確かに血判相済んだぞ」「チエヽ忝なや有難や。わが望み達したり。母人、嘆いて下さるな。舅の最期も女房の奉公も、反古にはならぬこの金、一味徒党の御用金」と、言ふに母も涙ながら、財布と共に二包み、二人が前に差し出だし。「勘平殿の魂の入つたこの財布、婿殿ぢやと思うて敵討の御供に連れてござつて下さりませ」「オヽ成程、尤もなり」と、郷右衛門金取り納め、「思へば思へばこの金は、縞の財布の紫摩(しま)黄金、仏果を得よ」と言ひければ、「ヤア仏果とは穢らはし、死なぬ死なぬ。魂魄この土に留まつて、敵討ちの御供する」と、言ふ声も早四苦八苦、『惜しや不憫』と両人が、浮む涙の玉の緒も、切れてはかなくなりにけり。「ヤア、ヤアヤア、もう婿殿は死なしやつたか。さてもさても世の中に、俺が様な因果な者が又と一人あらうか。親仁殿は死なつしやる、頼みに思ふ婿を先立て、いとし可愛いの娘には生き別れ、年寄つたこの母が一人残つてこれがマア、何と生きてゐられうぞ。コレ親仁殿、与市兵衛殿、俺も一緒に連れて往て下され」と、取り付いては泣き叫び、また立ち上つて、「アヽコレ婿殿、母も共に」と、縋り付いては伏し沈み、あちらでは泣きこちらでは『わつ』とばかりにどうど伏し、声をはかりに嘆きしは、目も当てられぬ次第なり。郷右衛門突立ち上がり、「これこれ老母、嘆かるゝは理りなれども、勘平が最期の様子、大星殿に詳しく語り、入用金手渡しせば満足あらん。首に掛けたるこの金は、婿と舅の七七日(なななぬか)。四十九日や五十両、合はせて百両百ケ日の追善供養、後懇ろに弔はれよ。さらば、さらば」「おさらば」と、見送る涙見返る涙、涙の浪の立ち帰る、人もはかなき次第なり。 
七段目 
祇園一力茶屋の段
(花に遊ばゞ祇園あたりの色揃へ、東方南方北方西方、弥陀の浄土へ光ぴかぴか、光輝く色揃へ、わいわいのわいとな)「誰そ頼まう、亭主は居ぬか、亭主々々」「これは忙しいわ忙しいわ、どいつ様ぢや、どなた様ぢや。ヤ斧九太様、御案内とはけうといけうとい」「イヤ初めての御方を同道申した。きつう取り込みさうに見えるが、一つ上げます座敷があるか」「ござりますともござりますとも。今晩はかの由良大尽の御趣向で、名ある色達を掴み込み、下座敷は塞がつてござりますれど、亭座敷が明いてござります」「そりやまた蜘蛛の巣だらけであらう」「また悪口を」「イヤ、良い年をして女郎の蜘蛛の巣にかゝらまい用心」「コレハきついわ。下には置かれぬ二階座敷、ソレ灯を灯せ仲居共」「アイアイ」「何と伴内殿、由良助が体御覧じたか」「九太夫殿、ありやいつそ気違ひでござる。段々貴殿より御内通あつても、あれ程にあらうとは、主人師直も存ぜず、拙者に罷り上つて見届け、心得ぬ事あらば、早速に知らせよと申し付けましたが、テさて我(が)も偏私(へんし)も折れましてござる。伜力弥めは何と致しましたな」「こいつも折節この所へ参り共に放埒。差し合ひくらぬが不思議の一つ。今晩は底の底を探り見んと心巧みを致して参つた。密々にお話し申さう。いざ二階へ」「まづまづ」「しからば、かうお出で」(蓬莱や、聞かばや伊勢の初便り、こちの便りを松葉町、夕告げ鳥のしどけなく)「弥五郎殿、喜多八殿。これが由良助殿の遊び茶屋、一力と申すのでござる。誰そちよと頼みたい」「アイアイどなさんぢやえ」「イヤ、我々は大星殿に用事あつて参つた。奥へ往て言はうには、『矢間十太郎、千崎弥五郎、竹森喜多八でござる。この間より節々迎ひの人を遣はしますれども、お帰りのない故、三人連れで参りました。ちと御相談申さねばならぬ儀がござる程に、お逢ひなされて下され』と、きつと申してくりやれ」「それは何とも気の毒でござんす。由良さんは三日この方飲み続け、お逢ひなされてから他愛はあるまい。本性はないぞえ」「テさてマア、さう言ふておくりやれ」「アイアイ」「弥五郎殿、お聞きなされたか」「承つて驚き入りました。初めの程は敵へ聞かする計略と存じましたが、いかう遊びに実が入り過ぎまして、合点が参らぬ」「何とこの喜多八が申した通り、魂が入れ替つてござろうがの。いつそ一間へ踏込み」「アヽイヤイヤ、とくと面談致した上」「成程、しからばあれにて待ちませう」「手の鳴る方へ、手の鳴る方へ」「捕らまよ、捕らまよ」「由良鬼や待たい、由良鬼や待たい」「捕らまへて酒飲まそ、捕らまへて酒飲まそ。コリヤ捕らまへたわ。サヽ酒々、銚子持て、銚子持て」「イヤコレ由良助殿、矢間十太郎でござる。こりや何となさるゝ」「南無三宝、仕舞うた」「オヽ気の毒、何と栄さん、ふし食た様なお侍さん方、お連れさんかいな」「さあれば、お三人とも恐い顔して」「イヤコレ女郎達、我々は大星殿へ用事あつて参つた。暫く座を立つて貰ひたい」「そんな事でありそなもの。由良さん、奥へ行くぞえ、お前も早うお出で。皆さんこれにえ」「由良助殿、矢間十太郎でござる」「竹森喜多八でござる」「千崎弥五郎御意得に参つた」「御目、覚まされませう」「これは打ち揃うてようお出でなされた。ガ何と思うて」「鎌倉へ打立つ時候は、何時頃でござるな」「さればこそ。大事の事をお尋ねなれ。かの丹波与作が歌に、江戸三界へ行かんして、ハヽヽヽヽ、御免候へ、たわいたわい」「ヤア酒の酔に本性違はず」「性根が付かずば三人が」「酒の酔ひを」「醒まさせませうかな」「ヤレ聊爾なされまするな。憚りながら平右衛門め、それへ参つて只一言、申し上げたき儀がごわります。暫く、暫く、暫く暫く、お控へ下さりませう。御家老様、寺岡平右衛門めでごわります。御機嫌の体を拝しまして、如何ばかり大悦に存じ奉ります」「フウ、寺岡平右衛、寺岡平右衛とは、エヽ何でえすか。前かど北国へお飛脚に行かれた、足の軽い足軽殿か」「ネイ、ネイ、左様でごわります。殿様の御切腹を北国にて承りまして、南無三宝と宙を飛んで帰りまする道にて、早御家も召し上げられ、一家中も散り散り、と承つた時の無念さ。奉公こそ足軽なれ、御恩は変らぬ御主の仇。おのれ師直めを一討ちと鎌倉へ立ち越え、三ケ月が間非人となつて付け狙ひましたれども、敵は用心厳しく近寄る事も叶ひませず、所詮どん腹かつさばかん、とは存じましたが、国元の親の事を思ひ出しまして、すごらすごら帰りました。所に、天道様のお知らせにや、いづれも様方の一味連判」「ゴホン、ゴホン、ゴホン」「石碑、御建立の様子を承りまして、ヤレ嬉しや有難やと、取る物も取り敢へず、あなた方の御旅宿を訪ね、ひたすらお頼み申し上げましたれば、『ム、出かいた、うい奴ぢや。お頭へ願つてやろ』とお詞に縋り、これまで推参仕りました。サ師直屋敷の」「アヽ来いよ、来いよ、来いよ。コレ」「ネイ」「コレ」「ネイ」「コーレ」「ネーイ」「其元は足軽ではなうて、大きな口軽ぢやの。何と太鼓持ちなされぬか。尤もみたくしも、蚤の頭を斧(よき)で割つた程無念なとも存じて、四五十人一味を拵へて見たが、味な事の。よう思うてみれば、仕損じたらこの方の首がころり、仕畢せたら後で切腹。どちらでも死なねばならぬといふは、人参飲んで首括る様なもの。殊に其元は五両に三人扶持の足軽」「それはあんまり」「サヽお腹は立てられな、お腹は立てられな、アハヽヽヽヽ。はつち坊主の報謝米程取つてゐて、命を捨てゝ敵討ちせうとは、そりや青海苔貰うた礼に太々神楽を打つ様なもの。我等知行ウーイ千五百石、貴様と比べると敵の首を斗升で量る程取つても釣り合はぬ、ヤ釣り合はぬ。所で、やめた」「エヽ」「ナ、聞こえたかえ、聞こえたかえ。とかく浮世は、コレ、コレ、かうした物ぢや、ツヽテン、ツヽテン、チンチンチンツンシヤン、なぞと弾きかけた所はたまらぬハヽヽヽヽ、ヤたまらぬですわいワハヽヽヽヽ」「これは由良助様のお詞とも覚えませぬ。わづか三人扶持取る拙者めでも、千五百石の御自分様でも、繋ぎましたる命は一つ、御恩に高下(こうげ)はござりませぬ。押すに押されぬは御家の筋目、殿の御名代もなされまするお歴々様方の中へ、見る影もねえ私めが、差し加へてとお願ひ申すは、憚りとも慮外とも、ほんの猿が人真似。お草履を掴んでなり共、お荷物をヤツと担いでなり共参りませう。御供に召し連れられて、由良助様、御家老様、どうか御供に召し連れられて、これはしたり、寝てござるさうな」「コレサ平右衛門、あつたら口に風邪ひかすまい。由良助は死人も同然、矢間殿、千崎殿、もう本心は見えましたか。申し合はせた通り計らひませうか」「いか様、一味連判の者共への見せしめ。イザいづれも」と立ち寄るを、「ヤレ暫く」と平右衛門、押し宥め、傍に寄り、「つくづく思ひ廻しますれば、御主君にお別れなされてより、仇を報はんと様々の艱難。木にも萱にも心を置き、人の謗り無念をばぢつと堪へてござるからは、御酒でも無理に参らずば、これまで命も続きますまい。醒めての上の御分別」と、無理に押へて三人を、伴ふ一間は善悪の、明りを照らす障子の内、影を隠すや、 月の入る。山科よりは一里半、息を切つたる嫡子力弥、内を透かして正体なき父が寝姿、起こすも人の耳近しと、枕元に立ち寄つて、轡に代はる刀の鍔音、鯉口ちやつと打ち鳴らせば、「お松、お竹は居らぬか。水を持つて来いよ、水を持つて来いよ、誰れも居らぬと見える。どれどれ、庭を降りてチト酔ひを醒ましてかうか、ウーイ。ヤア力弥か、鯉口の音響かせしは急用あつてか、密かに密かに」「只今御台顔世様より急の御飛脚密事の御状」「他に御口上はなかつたか」「敵高」「コリヤ、敵と見へしは群れ居る鴎、時の声と聞こへしは、浦風なりけり高松の。大きな声ぢや、密かに密かに」「敵高師直、帰国の願ひ叶ひ、近々本国へ罷り帰る。委細の儀は御文との御口上」「よし、よし。その方は宿へ帰り、夜の中に迎ひの駕篭。行け、行け」「ハヽツ」『ハツ』とためらふ隙もなく、山科さして引返す。「まづ様子気遣ひ」と、状の封じを切る所へ、「大星殿、由良助殿、斧九太夫でござる。御意得ませう」「ヤこれは久しや久しや。一年も逢はぬうち、寄つたぞや、寄つたぞや。額にその皺伸ばしに御出でか、アノこゝな、筵(むしろ)破りめが」「アヽイヤ由良助殿、大功は細瑾(さいきん)を顧みずと申すが、人の謗りも構はず遊里の遊び。大功を立つる基、天晴れの大丈夫、末頼もしう存ずる」「ホヽウ、これは堅いわ堅いわ。石火矢と出かけた。さりとては置かれい、置かれい」「イヤ由良助殿、とぼけまい。まこと貴殿の放埒は」「敵を討つ術と見えるか」「おんでもない事」「ヤ忝い。四十に余つて色狂ひ、馬鹿者よ、気違ひよと、笑はれうかと思うたに、敵を討つ術とは。九太夫殿、ホヽ嬉しい、嬉しい」「スリヤ其元は、主人塩谷の仇を報ずる所存はないか」「けもない事けもない事。家国を渡す折から、城を枕に討死と言ふたのは、ありや御台様への追従(ついしょう)。時に貴様が、朝敵同然と、その場をついと立つた。我等は後に、かうしやち張つてゐた。いかいたはけの。所で仕舞は付かず、御墓へ参つて切腹と、裏門から、ヤこそこそこそ。今この安楽な楽しみするも貴殿のお陰。昔のよしみは忘れぬ、忘れぬ。堅みを止めて、コリヤ砕けをれ、砕けをれ」「いか様、この九太夫も昔思へば信太の狐。クワイ、化け顕はして一献酌まうか畜生めハヽヽヽヽヽ。サヽ由良殿、久しぶりだ御盃」「また頂戴と会所めくのか」「差しをれ、飲むわ」「飲みをれ、差すわ」「ちやうど受けをれ肴をするわ」と、傍に在りあふ蛸肴、挟んでずつと、「手を出して、足を戴く蛸肴。忝ない」と戴いて喰はんとする手をぢつと捕へ、「コレ由良助殿、明日は主君塩谷判官の御命日。取分け逮夜が大切と申すが、見事その肴、貴殿は食ふか」「食べるとも食べるとも。但し主君塩谷殿が、蛸になられたといふ便宜(びんぎ)があつたか」「ム」「エヽ愚痴な人ではあるぞ。こなたや俺が浪人したは、判官殿が無分別から。スリヤ恨みこそあれ精進する気、微塵もごあらぬ。御志の肴、賞翫(しょうかん)致す」と、何気なもくたゞ一口に味はふ風情、邪智深き九太夫も、呆れて、「サテこの肴では飲めぬ飲めぬ。鶏締めさせ鍋焼きさせん。其元も奥へ御出で。女郎共、歌へ、歌へ。足元もしどろもどろの浮拍子、テレツクテレツクツヽテンテン」「おのれ末社共、めれんになさで置くべきか」と、騒ぎに紛れ、入りにける。始終を見届け鷺坂伴内、二階より降り立つて、「九太夫殿、子細とつくと見届け申した。主の命日に精進さへせぬ根性で、敵討ち存じも寄らず。この通り主人師直へ申し聞け、用心の門を開かせませうか」「成程、最早御用心に及ばぬ事」「コレサ、まだこゝに刀を忘れて置きました」「ほんに誠に。大馬鹿者の証拠、嗜みの魂見ませうかな」「見ませう見ませう。ヤレ九太夫殿、貴殿は鞘の方をお持ちなされ。拙者は鍔のおかるの方を持つて、ヒイフウミツの拍子を以て抜きませう。それは宜しふござるか」「宜しふござる」「ヒイフウミツ」「さて錆びたりな赤鰯」「猫がおらいで仕合はせでござるわ、ハヽヽヽヽヽ」「いよいよ本心顕はれ御安堵々々々。九太夫が家来、迎ひの駕篭」『ハツ』と答へて持ち出づる、「サア伴内殿、お召しなされ」「まづ御自分は老体、平に、平に」「然らば御免」と乗り移る。「イヤナニ九太夫殿、承はればこの所に、勘平が女房が勤めてをると聞きました。ガ貴殿には御存知ないか、九太夫殿、九太夫殿」と、言へど答へず『コハ不思議』と、駕篭の簾を引き開くれば、内には手頃の庭の飛石、「コリヤどうぢや、九太夫は松浦佐用姫(まつらさよひめ)をやられた」と見廻すこなたの縁の下より、「コレ、コレ伴内殿、こゝでござる」「九太夫殿、どこでござる」「こゝでござる」「どこでござる」「こゝ」「どこ、どこ、どこ。ヤコレハコレハ、九太夫殿には結構な所へ、御転宅召されたな」「九太夫が駕篭抜けの計略は、最前力弥が持参せし書簡が心許なし。様子見届け後より知らさん。矢張り我等が帰る体にて、貴殿はその駕篭に引添うて」「合点々々」と頷き合ひ、駕篭には人のある体に、見せてしづしづ立ち帰る。 

折に二階へ、勘平が妻のおかるは酔ひ醒まし、早廓馴れて吹く風に、憂さを晴らしてゐる所へ。「ちよと往て来るぞや。由良助ともあらう侍が、大事の刀を忘れて置いた。つい取つて来るその間に、掛物も掛け直し、炉の炭もついで置きや。アヽそれそれ、こちらの三味線踏み折るまいぞ。これはしたり、九太はもふ去なれたさうな」(父よ母よと泣く声聞けば、妻に鸚鵡のうつせし言の葉、エヽ何ぢやいなおかしやんせ)辺り見廻し由良助、釣燈篭の明りを照らし、読む長文は御台より敵の様子細々と、女の文の後や先、参らせ候ではかどらず、余所の恋よと羨ましく、おかるは上より見下ろせど、夜目遠目なり字性も朧ろ、思ひ付いたる延べ鏡、出して写して読み取る文章、下屋よりは九太夫が、繰り下ろす文月影に、透かし読むとは、神ならず、ほどけかゝりしおかるが簪(かんざし)、バツタリ落つれば、下には『ハツ』と見上げて後へ隠す文、縁の下にはなほ笑壷、上には鏡の影隠し、「由良さんか」「おかるか。そもじはそこに何してぞ」「アイ、わたしやお前に盛り潰され、あんまり辛さの酔ひ醒まし。風に吹かれてゐるわいな」「ムウ、ハテなう。よう風に吹かれてぢやの。イヤかる、ちと話したい事がある。屋根越しの天の川でこゝからは言はれぬ。ちよつと下りてたもらぬか」「話したいとは、頼みたい事かえ」「マアそんなもの」「廻つて来やんしよ」「アヽイヤイヤ、段梯子へ下りたらば、仲居が見つけて酒にせう。アヽどうせうな。アヽコレコレ、幸ひこゝに九つ梯子、これを踏まへて下りてたも」と、小屋根に掛ければ、「この梯子は勝手が違うて、オヽ恐。どうやらこれは危いもの」「大事ない、大事ない。危ない恐いは昔の事、三間づゝまたげても赤膏薬も要らぬ年輩」「阿呆言はしやんすな。船に乗つた様で恐いわいな」「道理で、船玉様が見える」「エヽ覗かんすないな」「洞庭の秋の月様を、拝み奉るぢや」「イヤモ、そんなら降りやせぬぞえ」「降りざ降ろしてやろ」「アレまだ悪い事を、アレアレ」「喧しい、生娘か何ぞの様に、逆縁ながら」と後より、ぢつと抱きしめ、抱き降ろし。「何とそもじは、御覧じたか」「アイ、いいえ」「見たであろ、見たであろ」「何ぢややら面白さうな文」「アノ、上から皆読んだか」「オヽくど」「アヽ身の上の大事とこそはなりにけり」「ホヽヽヽ、何の事ぢやぞいな」「何の事とはおかる、古いが惚れた、女房になつてたもらぬか」「おかんせ、嘘ぢや」「サ嘘から出た真でなければ根が遂げぬ。応と言や、応と言や」「イヤ、言ふまい」「なーぜ」「サお前のは嘘から出た真ぢやない。真から出た皆嘘」「おかる、請け出さう」「エヽ」「嘘でない証拠に、今宵の中に身請けせう」「イヤ、わしには」「間夫(まぶ)があるなら添はしてやろ」「そりやマアほんかえ」「侍冥利。三日なり共囲うたら、それからは勝手次第」「エヽ嬉しうござんす、と言はして置いて、笑おでの」「イヤ、直ぐに亭主に金渡し、今の間に埒させう。気遣ひせずと待つてゐや」「そんなら必ず待つてゐるぞえ」「金渡して来る間、どつちへも行きやるな。女房ぢやぞ」「それもたつた三日」「それ合点」「エヽ忝うござんす」「どりや、金渡して来うか」(世にも因果な者ならわしが身よ、可愛い男に幾瀬の思ひ、エヽ何ぢやいなおかしやんせ。忍び音に鳴く小夜千鳥)「アヽ騒ぐは騒ぐは。流石は花の祇園町、面白さうに歌いをるは。アヽ何とやら、ム、入相の鐘は廓の夜明けかな、とはよく言つたものだなアハヽヽヽヽ。ヤそれはさうと妹に逢ひてえもんだが。ム幸ひの女中、ちとお尋ね申さうは、この内へ山崎辺からかるといふ女が勤めに来て居る筈だが、お前には御存知ねえか」「エヽ何ぢや知らぬが、用があるなら勝手へ往て問うて下さんせ」「サア、さうは思つたが、勝手も何かゴタゴタと忙しさうだ。さう言はずと、御存知ならどうか教えてくれろ」「エヽ知らぬわいな」「これはしたり、すげねえ女だな、さう言はずとちよつと教えてくれろ、御女中、どうか教えてくれろ、わりや妹でねえか」「お前は兄様、恥しい所で逢ひました」と顔を隠せば、「苦しうない、苦しうない。関東よりの戻りがけ、母人に逢うて詳しく聞いた。お主の為、夫の為、よく売られた。ムヽでかいた、でかしたナア」「さう思ふて下さんすりや、わしや嬉しい。したがまあ喜んで下さんせ。思ひがけなう今宵請け出さるゝ筈」「それは重畳(ちょうぢょう)。シテ何人のお世話で」「お前も御存知の大星由良助様のお世話で」「何ぢや、由良助殿に請け出される。それは下地からの馴染みか」「なんのいな。この中より二三度酒の相手、夫があらば添はしてやろ、暇が欲しくば暇やろと、モ結構過ぎた身請け」「さてはその方を早野勘平が女房と」「イエ、知らずぢやぞえ。親夫の恥なれば、明かして何の言ひませう」「ムウ、すりや本心放埒者。お主の仇を報ずる所存なねえに極まつたな」「イエイエ、これ兄様、あるぞえ、あるぞえ」「あるとは何が」「サア、高うは言はれぬ。コレ、かう、かう」と、囁けば、「待て、待て、待て待て、ソーレ」「アー」「ムウ、すりやその文確かに見たな」「残らず読んだその後で、互ひに見合はす顔と顔。それからぢやらつき出して、つい身請けの相談」「アノ、その文残らず読んだ後で」「アイナア」「ムウ、それで聞こえた。妹、とても遁れぬそちが命、身どもにくれよ」と抜き打ちに、はつしと切れば、ちやつと飛び退き、「コレ兄様、わしには何誤り。勘平といふ夫もあり、きつと二親あるからは、こな様の儘にもなるまい。請け出されて親夫に、逢はうと思ふがわしや楽しみ。どんな事でも謝らう、許して下んせ、許して」と、手を合はすれば平右衛門、抜身を捨てゝ、「可愛や妹、わりや何も知らねえな。親与市兵衛殿は六月廿九日の夜、人に切られてお果てなされた」「ヤア、それはマア」「コリヤ、びつくりするな、びつくりするな。まだ後にびつくりの親玉があるわい。われが請け出されて添はうと思ふ勘平はな」「勘平さんは」「その勘平は」「勘平さんは」「勘平は、勘平で、やつぱり勘平だわい」「エヽ何の事ぢやぞいな。エヽ聞こえた、そんならあの勘平殿にはよい女房さんでも出来たのかえ」「エヽイ、そんな陽気な事ちやねえわい」「そんなら兄さん、勘平殿はえ」「その勘平はな、腹を切つて死んだわやい」「エヽ、オヽ、ムヽヽヽ」「アヽ道理だ道理だ、その驚きは尤もだ。ガこれには、何だ、様子のある、アヽしまつた、コリヤ妹が目を廻した、てつきりさうであらふと思ふた。アヽ仲居衆、仲居衆、女郎が目を廻した、水を持つて来てくれろ、水を持つて来てくれろ。エヽ誰も居ねえと見える、幸いの手水鉢、アヽ水を今くれるぞ。ソーリヤ水だ。おかるやーい、妹やーい、気が付いたか、気が付いたか」「オヽ兄さん」「オヽ兄だ、平右衛門だ、面を見ろ面を」「コレ兄さん、勘平さんはどうさしやんしたえ」「チエヽ情けねえ、又尋ねるのかやい。その勘平はな、友朋輩の面晴れに、腹を切つて死んだわやい」「ヤアヤアヤアそれはマアほんかいの。コレのうのう」と取り付いて、「コレ兄さん」「ムヽ」「どうせう」「道理だ」「どうせう」「道理だ」「どうせうどうせう、どうせうぞいなあ」「尤もだわやい、尤もだわやい。様子話せば長い事、お痛はしいは母者人、言ひ出しては泣き、思ひ出しては泣き、娘かるに聞かしたら泣き死にかなするであろ、必ず言つてくれなとのお頼み。言ふまいとは思へども、とても遁れぬそちが命。サその訳は、忠義一途に凝り固まつた由良助殿、勘平が女房と知らねば請け出す義理もなし。ガもとより色にはなほ耽けらず、見られた状が一大事、請け出だし刺し殺す思案の底と、確かに見えた。よしさうのうても壁に耳、他より洩れてもその方が科、密書を覗き見たるが誤り、殺さにやならぬ。人手に掛けよりわが手に掛け、大事を知つたる女、妹とて許されずと、それを功に連判の、数に入つて御供に立たん。小身者の悲しさは、人に勝れた心底を、見せねば数には入れられぬ。聞き分けて命をくれ、死んでくれ、妹」と、事を分けたる兄の詞、おかるは始終せき上げ、せき上げ、「便りのないは身の代を、役に立てゝの旅立ちか、暇乞ひにも見へそなものと、恨んでばつかりをりました。勿体ないが父さんは非業の死でもお年の上。勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのは、さぞ悲しかろ、口惜しかろ、逢ひたかつたであらうのに、何故逢はせては下さんせぬ。親夫の精進さへ知らぬは私が身の因果、何の生きてをりませう。御手に掛からば母さんがお前をお恨みなされましよ。自害したその後で、首なりと死骸なりと功に立つなら功にさんせ。さらばでござる兄さん」と、言ひつゝ刀取り上ぐる、「ヤレ待て暫し」と止むる人は由良助、『ハツ』と驚く平右衛門、おかるは、「放して殺して」と、焦るを押へて、「ホウ、兄妹共見上げた疑ひ晴れた。兄は東の供を許すぞ」「ハヽア」「妹はながらへて、未来への追善」「サア、その追善は冥途の供」と、もぎ取る刀をしつかと持ち添へ、「夫勘平連判に加へしかど、敵一人も討ち取らず、未来で主君に言訳あるまじ。その言訳はコリヤこゝに」と、ぐつと突込む畳の隙間、下には九太夫肩先縫はれて七転八倒、「それ引き出だせ」の、下知より早く平右衛門、朱に染んだ体をば無二無三に引き摺り出し、「ヤア九太夫め、テ良い気味」と引立てゝ、目通りへ投げ付くれば、起き立たせもせず由良助、髻を掴んでぐつと引き寄せ、「獅子身中の虫とは己れが事。我が君より高知を頂き、莫大の御恩を着ながら敵師直が犬となつて、ある事ない事よう内通ひろいだな。四十余人の者共は、親に別れ子に離れ、一生連れ添ふ女房を君傾城の勤めをさするも、亡君の仇を報じたさ。寝覚めにも現(うつつ)にも、御切腹の折からを思ひ出しては無念の涙、五臓六腑を絞りしぞや。取り分け今宵は殿の逮夜、口に諸々の不浄を言ふても、慎みに慎みを重ぬる由良助に、よう魚肉を付き付けたな。否と言はれず応と言はれぬ胸の苦しさ。三代相恩の御主の逮夜に、喉を通したその時の心、マどの様にあらうと思ふ。五体も一度に悩乱し、四十四の骨々を砕くる様にあつたわやい。チエヽ獄卒め、魔王め」と、土に摺り付け捻ぢ付けて、無念涙にくれけるが。「ソーレ平右衛門」「ヘーイ」「喰らひ酔うたその客に、加茂川でナ」「いかゞ計らひませう」「水雑炊を喰らはせい」「ハヽア」「行け」「ヤ、シテカイナ」 
八段目
道行旅路の嫁入
浮世とは誰がいひ初めて飛鳥川。ふちも知行も瀬とかはり、よるべも浪の下人に結ぶ塩谷の誤りは、恋のかせ杭加古川の、娘小浪が許婚結納も取らずそのままにふりすてられし物思ひ、母の思ひは山科の婿の力弥を力にて、住家へ押して嫁入りも、世にありなしの義理遠慮。腰元連れず乗物もやめて親子の二人連れ。都の空に志す雪の肌も寒空は、寒紅梅の色添ひて、手先覚へず凍え坂。薩垂峠にさしかかり、見返れば富士の煙の空に消へ、行方も知れぬ思ひをば晴らす嫁入の門火ぞと祝ふて三保の松原につづく。並松街道を狭しと打つたる行列は誰と知らねどうらやまし。アヽ世が世ならあの如く。一度の晴と花かざり伊達をするがの府中過ぎ。城下。過ぐれば気散じに母の心もいそ/\と二世の盃済んで後閨の睦言私言(むつごとささめごと)。親知らず子知らずと蔦の細道もつれ合ひ男松の肌にひつたりとしめてかためし新枕。女夫が中の若緑、抱いて寝松の千代かけて、変るまいぞの睦言は嬉しからうとほのめけば、アノ母様の差合ひを脇へこかして鞠子川。宇津の山辺の現にも、夢にも早う大井川水の流れと人心、都の花に比ぶれば、日蔭の紅葉色づいて、つひ秋が来てさ男鹿の妻故ならば朝夕に辛苦するのもなんのその。この手柏のうら若き二人が中にやや産んで、ねん/\ころろんや、ねんねが守はどこへ行た。どことは知れたその人に逢ふて恨みをなんとまあ、どう言ふてよからうと、しんき島田のうさはらし。我が身の上を。かくとだに。人しらすかの橋越へて行けば吉田や赤坂の。招く女の声揃へ√縁を結ばば、清水寺へ参らんせ。音羽の滝にざんぶりざ、毎日さう言ふて拝まんせ。さうじやいな、ししきがんかうがかいれいにうきう。神楽太鼓にヨイコノエイ、こちの昼寝を覚まされた。都殿御に逢ふて辛さが語りたや。ソウトモ/\。もしも女夫とかかさまならば伊勢さんのひきあはせ 鄙びた歌も。身にとりてよい吉相になるみ潟。熱田の社あれかとよ。七里の渡し帆を上げて艪拍子揃へてヤツシツシ。舵取る音は。鈴虫かいや、きりぎりすなくや霜夜と詠みたるは、小夜更けてこそくれ迄と、限りある舟急がんと母が走れば、娘も走り空の霰に笠覆ひ舟路の友の後や先。庄野亀山せきとむる伊勢と吾妻の別れ道。駅路の鈴の鈴鹿越え、間の土山雨が降る。水口の端に言ひはやす石部石場で大石や、小石拾ふて我が夫となでつさすりつ手に据ゑて、やがて大津や三井寺の麓を越えて山科へ程なき里へ 
九段目
雪転かしの段
急ぎゆく。風雅でもなく、洒落でなく、しやう事なしの山科に由良助が侘住居。祇園の茶屋に昨日から雪の夜明し朝戻り、幇間仲居に送られて酒がほたえる雪転(こか)し。雪はこけいで雪こかされ。仁体捨てし遊びなり。「旦那、もうし旦那。お座敷の景ようござります。お庭の藪に雪持つてとなつたところ、とんと絵にかいた通り。けうといじやないかのうお品」「サアこの景を見て、外へはどつちへも行きたうござりますまいがな」「ヘツ朝夕に見ればこそあれ、住吉の岸の向ひの淡路島山といふ事知らぬか。自慢の庭でも家の酒は飲めぬ/\。エヽ通らぬ奴/\。サア/\奥ヘ奥へ。奥はどこにぞ、お客がある」と先に立つて飛石の、詞もしどろ、足取りもしどろに見ゆる酒機嫌。「お戻りさうな」と女房のお石が軽う汲んで出る、茶屋の茶よりも気の端香。「お寒からう」と悋気せぬ詞の塩茶酔ざまし、一口飲んであとうちあけ、「エヽ奥、無粋なぞや/\。折角面白う酔うた酒さませとは。アアヽヽ降つたる雪かな。いかによそのわろたちがさぞ悋気とや見給ふやらん。それ雪は打綿に似て飛んで中入りとなる。奥はかゝ様といへばとつと世帯じむといへり。加賀の二布(ふたの)ヘお見舞の遅いは御用捨。伊勢海老と盃。穴の稲荷の玉垣は、朱うなければ信がさめるといふやうなものかい。オイこれ/\/\こぶら返りぢや足の大指折つた/\。おつとよし/\。ついでにかうじや」と足先で、「アヽこれほたへさしやんすな嗜ましやんせ。酒がすぎると他愛がない。ほんに世話でござろうの」と物和かにあいしらふ。力弥心得奥より立出で、「もうし/\母人。親父様は御寝(ぎょし)なつたか。これを上げられい」と差出す親子が所作を塗分けても、下地は同じ桐枕。「オヽ/\」おうは夢現、「イヤもうみな往にやれ」「ハイ/\/\、そんならば旦那へよろしう。若旦那ちと御出でを」目遣ひでいに際悪う帰りける。声聞えぬまで行過ぎさせ、由良助枕を上げ、「ヤア力弥。遊興に事寄せまるめたこの雪。所存あつての事じやが何と心得たぞ」「ハア雪と申すものは降る時には少しの風にも散り、軽い身でござりませうとも、あの如く一致してまるまつた時は、峰の吹雪に岩をも砕く大石同然重いは忠義、その重い忠義を思ひまるめた雪も、あまり日数を延ばしすごしてはと思召しての」「イヤ/\、由良助親子、原郷右衛門など四十七人連判の人数は、みな主なしの日蔭者。日蔭にさへ置けばとけぬ雪、せく事はないといふ事。ここは日当り奥の小庭へ入れて置け。蛍を集め雪を積むも学者の心長き例。女ども、切戸内から開けてやりやれ。堺への状認めん。飛脚が来たらば知らせいよ」「アイ/\」間の切戸の内。雪こかし込み戸を立つる、襖
山科閑居の段
引立て入りにける人の心の奥深き山科の隠家を、訪ねてここに来る人は、加古川本蔵行国が女房戸無瀬。道の案内の乗物をかたへに待たせたゞ一人、刀脇差さすが実(げ)に行儀乱さず庵の戸口。「頼みませう/\」といふ声に、襷はずして飛んで出る、昔の奏者今のりん、「どうれ」といふもつかうどなる。「ハツ大星由良助様お宅はこれかな。さやうならば加古川本蔵が女房戸無瀬でござります。まことにその後は打絶えました。ちとお目にかかりたい様子につき、はる/\参りましたと伝へられて下され」と言ひ入れさせて、表の方。「乗物これヘ」と舁き寄せさせ、「娘ここヘ」と呼出せば、谷の戸あけて鶯の梅見付けたるほゝ笑顔。目深に着たる帽子のうち、「アノ力弥様のお屋敷はもうここかえ。わしや恥かしい」となまめかし。取散らす物片付けて、「まづお通りなされませ」と下女が伝へる口上に、「駕籠の者みな帰れ。サヽご案内頼みます」といふも、いそ/\娘の小浪、母に付添ひ座に直れば、お石しとやかに出で迎ひ、「これは/\、お二方ともようぞやお出で。とくよりお目にもかかる筈、お聞きおよびの今の身の上。お訪ねに預りお恥づかしい」「あの改まつたお詞。お目にかゝるは今日初めなれど先だつてご子息力弥殿に、娘小浪を許婚致したからは、お前なり私なりあひやけ同士。ご遠慮に及ばぬ事」「これは/\痛み入る御挨拶。ことに御用繁い本蔵様の奥方、寒空といひ思ひがけない御上京。戸無瀬様はともあれ小浪御寮、さぞ都珍しからう。祇園、清水、智恩院、大仏様御覧じたか。金閣寺拝見あらばよいつてがあるぞえ」と心置きなき挨拶に、ただ、「あい/\」も口のうち、帽子まばゆき風情なり。戸無瀬は行儀改めて、「今日参る事余の儀に非ず。これなる娘小浪許婚致して後、御主人塩谷殿不慮の儀につき由良助様、力弥殿御在所も定かならず。移り変るは世の習ひ。変らぬは親心とやかくと聞合せ、この山科にござる由承りました故、この方にも時分の娘、早うお渡し申したさ。近頃押付けがましいが、夫も参る筈なれど出仕に隙のない身の上、この二腰は夫が魂。これを差せばすなはち夫本蔵が名代と私が役の二人前。由良助様にも御意得まし、祝言させて落着きたい。幸ひ今日は日柄もよし、御用意なされ下さりませ」と相述ぶる。「これは思ひも寄らぬ仰せ。折悪う夫由良助は他行。さりながらもし宿におりましてお目にかかり申さうならば『御親切の段千万忝う存じまする。許婚致した時は、故殿様の御恩にあづかり、御知行頂戴致しまかりある故、本蔵様の娘御をもらひませう、しからばくれうと言ひ約束は申したれども、ただ今は浪人、人遣ひとてもござらぬ内へ、いかに約束なればとて、大身な加古川殿の御息女。世話に申す提灯に釣鐘、釣合はぬは不縁のもと。ハテ結納(たのみ)を遣はしたと申すではなし、どれへなりと外々へ御遠慮なう遣はされませ』と申さるるでござりませう」と聞いてはつとは思ひながら、「アノまあお石様のおつしやる事。いかに卑下なされうとて本蔵と由良助様、身上が釣合はぬとな。そんならば申しませう。手前の主人は小身故家老を勤むる本蔵は五百石。塩谷殿は大名、御家老の由良助様は千五百石。すりや本蔵が知行とは、千石違ふを合点で許婚はなされぬか。ただ今は御浪人。本蔵が知行とはみな違うてから五百石」「イヤそのお詞違ひまする。五百石はさて置き、一万石違うても心と心が釣合へば、大身の娘でも嫁にとるまいものでもない」「こりや聞き所お石様。心と心が釣合はぬとおつしやるは、どの心じやサア聞かう」「主人塩谷判官様の御生害、御短慮とはいひながら正直を本とするお心より起りし事。それにひきかへ師直に金銀を以てこびへつらふ追従武士の禄を取る本蔵殿と、二君に仕へぬ由良助が大事の子に釣合はぬ女房は持たされぬ」と聞きもあへず膝立て直し、「へつらひ武士とは誰が事。様子によつては聞捨てられぬ。がまあそこを赦すが娘の可愛さ。夫に負けるは女房の常。祝言あらうがあるまいが、許婚あるからは天下晴れての力弥が女房」「ムヽ面白い。女房ならば夫が去る。力弥に代つてこの母が去つた。去つた。」と言ひ放し、心隔ての唐紙をはたと引立て入りにける。娘はわつと泣出し、「折角思ひ思はれて許婚した力弥様に、逢はせてやろとのお詞を頼りに思ふて来たものを。姑御の胴欲に去られる覚えわたしやない。母様どうぞ詫言して祝言させて下さりませ」とすがり歎けば、母親は娘の顔をつく/\と打眺め打眺め、「親の欲目か知らねども、ほんにそなたの器量なら十人並にもまさつた娘。よい婿をがなと詮議して許婚した力弥殿。訪ねて来た甲斐もなう、婿にも知らさず去つたとは、義理にもいはれぬお石殿。姑去りは心得ぬ。ムウ/\さては浪人の身のよるべなう筋目を言ひ立て、有徳な町人の婿になつて義理も法も忘れたな。ノウ小浪今いふ通りの男の性根。去つたといふを面当欲しがる所は山々。ほかへ嫁入りする気はないか。大事のところ、泣かずともしつかりと返事しや。コレどうぢや/\」と尋ねる親の気は張弓。「アノ母さまの胴欲な事おつしやります。国を出る折父さまのおつしやつたは、浪人しても大星力弥、行儀といひ器量といひ幸せな婿を取つた。貞女両夫に見(まみ)えず、たとへ夫に別れてもまたの殿御を設けなよ。主ある女の不義同然、必ず/\寝覚めにも殿御大事を忘るるな。由良助夫婦の衆ヘ孝行つくし、夫婦仲睦じいとてあじやらにも、悋気ばしして去らるるな。案ぜうかとて隠さずと、懐妊(みもち)になつたら早速に知らせてくれとおつしやったをわたしやよう覚えている。去られて往んで父様に苦に苦をかけてどう言ふてどう言訳があらうとも、力弥様よりほかに余の殿御、わしやいや/\」と一筋に恋をたてぬく心根を、聞くに堪えかね、母親の涙一途に突詰めし覚悟の刀抜放せば、「母さまこれは何事」と押留められて顔を上げ、「何事とは曲がない。今もそなたがいふ通り一時も早う祝言させ、初孫の顔見たいと、娘に甘いは父(てて)の習ひ。喜んでござる中へまだ祝言もせぬ先に、去られて戻りましたとてどう連れて往なれうぞ。といふて先に合点せにや、しやうもやうもないわいの。ことにそなたは先妻の子。わしとはなさぬ仲ぢや故およそにしたかと思はれては、どうも生きてはゐられぬ義理。この通りを死んだ後で父御へ言訳してたもや」「アノもつたいない事おつしやります。殿御に嫌はれわたしこそ死すべき筈。生きてお世話になる上に苦を見せまする不孝者。母さまの手にかけてわたしを殺して下さりませ。去られても殿御の家こゝで死ぬれば本望ぢや、早う殺して下さりませ」「オヽよう言やつた。でかしやつた。そなたばかり殺しはせぬ。この母も三途の供、そなたをおれが手にかけて母も追付け後から行く。覚悟はよいか」と立派にも涙とどめて立ちかかり、「コレ小浪。アレあれを聞きや、表に虚無僧の尺八、鶴の巣籠り。鳥類でさへ子を思ふに、科もない子を手にかけるは、因果と因果の寄合ひ」と思へば足も立ちかねて、震ふ挙をやう/\に振上ぐる刃の下。尋常に座を占め、手を合せ、「南無阿弥陀仏」と唱ふる中より、「御無用」と声かけられて思はずも、たるみし拳尺八も、ともにひつそと静まりしが。「オヽそふじや。いま御無用と止(とど)めたは、虚無僧の尺八よな。助けたいが山々で、無用といふに気後れし、未練なと笑はれな。娘覚悟はよいかや」とまた振上ぐるまた吹出す。とたんの拍子にまた「御無用」「ムヽまた御無用と止めたは、修行者の手のうちか振上げた手のうちか」「イヤお刀の手のうち御無用。倅力弥に祝言させう」「エヽさういふ声はお石様。そりや真実かまことか」と尋ぬる襖のうちよりも、「あひに相生の松こそ目出たかりけれ」と祝儀の小謡白木の小四方(じほう)。目八分に携へ出で、「義理ある仲の一人娘、殺さうとまで思ひつめた戸無瀬様の心底、小浪殿の貞女。志がいとほしさ、させにくい祝言さす。その代り世の常ならぬ嫁の盃、受取るはこの三方。御用意あらば」とさし置けば、少しは心休まりて、抜いたる刀鞘に納め、「世の常ならぬ盃とは引出物の御所望ならん。この二腰は夫が重代。刀は正宗、差添は浪の平行安。家にも身にも代へぬ重宝。これを引出」とみなまでいはさず、「イヤコレ浪人と侮つて価の高い二腰。まさかの時に売り払へといはぬばかりの婿引出。御所望申すはこれではない」「ムヽそんなら何が御所望ぞ」「この三方へは加古川本蔵殿のお首をのせて貰ひたい」「エヽそりやまたなぜな」「サイノ御主人塩谷判官様。高師直にお恨みあつて鎌倉殿で一刀に斬りかけ給ふ。その時こなたの夫加古川本蔵、その座にあつて抱き留め殿を支ヘたばつかりに、御本望も遂げられず、敵はやうやう薄傷(うすで)ばかり、殿はやみ/\御切腹。口ヘこそ出し給はね、その時の御無念は、本蔵殿に憎しみがかかるまいか。あるまいか。家来の身としてその加古川が娘、安閑と女房に持つやうな力弥じやと思ふての祝言ならば、コレこの三方へ本蔵殿の白髪首。いやとあればどなたでも、首を並ぶる尉(じやう)と嫗(うば)。それ見た上で盃させう。サヽヽいやか、おうかの返答を」と鋭き詞の理屈づめ。親子ははつとさしうつむき、途方に 

暮れし折柄に、「加古川本蔵が首進上申す。お受取りなされよ」と表に控へし虚無僧の、笠脱ぎ捨ててしづ/\とうちへ入るは、「ヤアお前は父様」「本蔵殿。ここはどうして。このなりは合点がいかぬ。こりやどうぢや」と咎むる女房、「ヤアざわ/\と見苦しい。始終の仔細みな聞いた。そちたちに知らさずここへ来た。様子は追つてまず黙れ。イヤナニそこもとが由良助殿の御内証アアアヽヽヽお石殿よな。今日の仕儀かくあらんと思ひ、妻子にも知らせず様子をうかがふ加古川本蔵。案に違はず拙者が首、婿引出に欲しいとな。ハヽヽヽいやはやそれや侍のいふ事さ。主人の仇を報はんといふ所存もなく、遊興に耽り大酒に性根を乱し、放埓なる身持、イヤモ日本一の阿呆の鑑。蛙の子は蛙になる。親に劣らぬ力弥めが大だはけ。狼狽(うろたへ)武士のなまくら鋼、この本蔵が首は切れぬ。馬鹿つくすな」と踏み砕く。「割れ三方のふち放れ、こつちから婿にとらぬ。ちよこざいな女め」といはせも果てず、「ヤア過言なぞ本蔵殿。浪人の錆刀、切れるか切れぬか塩梅見せう。不肖ながら由良助が女房、望む相手じや。サア勝負、/\/\」と裾引上げ、長押にかけたる槍追取り、突きかからんずその気色、「これは短気な、マア待つて」と留め隔つる女房、娘。「コリヤ邪魔ひろぐな」と荒けなく右と、左へ引退くる、間(あひ)もあらせず突掛る、槍のしほくび引掴み、もぢつて払へば身を背向け、もろ足縫はんと閃めかす。刃背(はむね)を蹴つて蹴上ぐれば、拳放れて取落す。槍奪はれじと走り寄る、腰際帯際引掴み、どうと打付け動かせず、膝に引敷く豪気の本蔵。敷かれてお石が無念の歯がみ。親子はハア/\危ぶむ中へ、駆出る大星力弥。捨てたる槍を取る手も見せず、本蔵が右手(めて)のあばら、左手(ゆんで)ヘ通れと突通す。うんとばかりにかつぱと伏す。「コハ情なや」と母娘。取りつき歎くに、目もかけず、とどめ刺さんと取直す。「ヤア待て力弥。早まるな」と槍引留めて由良助。手負に向ひ、「一別以来珍しし本蔵殿。御計略の念願届き、婿力弥が手にかかつて、さぞ本望でござらうの」と星をさいたる大星が詞に、本蔵目を見聞き、「主人の欝憤を晴らさんとこのほどの心遣ひ、遊所の出合に気をゆるませ、徒党の人数は揃ひつらん。思へば貴殿の身の上はこの本蔵が身にあるベき筈。当春鶴が岡造営のみぎり、主人桃井若狭之助、高師直に恥しめられ、もつてのほか御憤り。それがしを密かに召され、まつかう/\の物語。明日御殿にて出くはせ一刀に討留むるとのコレ思ひつめたる御顔色。止めても止まらぬ若気の短慮。小身故に師直に、賄賂薄きを根に持つて恥しめたると知つたる故、主人に知らせず不相応の金銀衣服台の物、師直へ持参して心にそまぬへつらひも、主人を大事と存ずるから。賄賂おほせあつちから謝つて出た故に、斬るに斬られぬ拍子抜け。主人が恨みもさらりと晴れ、相手代つて塩谷殿の難儀となつたはすなはちその日。相手死なずば切腹にも及ぶまじと、抱き止めたは思ひ過ごした本蔵が一生の誤りは娘が難儀と、白髪のこの首、婿に進ぜたさ。女房、娘を先へのぼし、こびへつらひしを身の科にお暇を願うてなコリヤ道を変へてそち達より二日前に京着。若い折の遊芸が役にたつた四日のうち、こなたの所存を見抜いた本蔵、手にかかれば恨みを晴れ、約束の通りこの娘、力弥に添はせて下さらば未来永劫御恩は忘れぬ。コレ手を合はして頼み入る。忠義にならでは捨てぬ命。子故に捨つる親心。コレ/\推量あれ由良助殿」といふも涙にむせ返れば、妻や娘はあるにもあられず、「ほんにかうとは露知らず、死に遅れたばつかりに、お命捨つるはあんまりな。冥加のほどが恐しい。許して下され父上」とかつぱと伏して泣叫ぶ、親子が心思ひやり、大星親子三人も、ともにしをれて居たりしが、「ヤア/\本蔵殿君子はその罪を憎んでその人を憎まずといへば、縁は縁、恨みは恨みと、格別の沙汰もあるべきにとさぞ恨みに思はれんが、所詮この世を去る人。底意を明けて見せ申さん」と未然を察して奥庭の障子さらりと引開くれば、雪をつかねて石塔の五輪の形を二ツまで、造り立てしは大星がなり行く果てをあらはせり。戸無瀬はさかしく、「オヽ御主人の仇を討つて後、二君に仕へず消ゆるといふお心のアレあの雪。力弥殿もその心で娘を去つたの胴慾は、御不愍余つてお石様。恨んだがわしや悲しい」「アヽコレ/\戸無瀬様のおつしやる事、玉椿の八千代までとも祝はれず、後家になる嫁取つた、マこのような目出たい悲しい事はない。コレ/\/\かういふ事がいやさにナむごうつらう言ふたのが、さぞ憎かつたでござんしよのう」「イヽエイナわたしこそ腹立つまま、町人の婿になつて義理も法も忘れたかといふたのが恥づかしいやら悲しいやら、どうも顔が上げられぬお石様」「アこれ/\/\戸無瀬様。氏も器量もすぐれた子。何としてこのやうに果報つたない生れや」と声も涙にせき上ぐる。本蔵熱き涙をおさへ、「ハツアヽ嬉しやご本望や。呉王を諌めて誅せられ。辱かしめを笑ひし呉子胥が忠義はとるに足らず。忠臣の鑑とは唐土(もろこし)の予譲、日本の大星。昔よりいまに至るまで唐と日本にたつた二人。その一人を親に持つ力弥が妻になつたるは、女御更衣にそなはるより、百倍まさつてそちが身は、武士の娘の手柄者。手柄な娘が婿殿へお引の目録進上」と懐中より取出すを、力弥取つておし戴き、開き見ればコハ如何に、目録ならぬ師直が屋敷の案内。一一に玄関、長屋、侍部屋。水門、物置、柴部屋まで絵図に委しく書付けたり。由良助、はつと押戴き、「ヘツエありがたし/\。徒党の人数は揃へども敵地の案内知れざる故、発足もナこれ、これまでは延引せり。この絵図こそは孫呉が秘書。我がための六韜三略。かねて夜討と定めたれば、継梯子にて塀を越え、忍び入るには縁側の雨戸はづせば直ぐに居間。ここをしきつてコレ/\、コレ/\コレかう攻めて」と親子が喜び、手負ながらもぬからぬ本蔵、「イヤ/\それは僻言ならん。用心厳しき高師直、障子襖はみな尻差し。雨戸に合栓合枢(くろろ)。こぢては外れず大槌(かけや)にて、毀たば音して用意せんか。サヽヽそれいかが」「オヽそれこそ術(てだて)あれ。凝つては思案に能はずと、遊所よりの帰るさ。思ひ寄つたる前栽のアレ/\あの雪持つ竹。雨戸をはづす我が工夫。仕様をここにて見せ申さん」と庭に下りしも雪深く、さしもに強き大竹も、雪の重さにひいわりと、しはりし竹を引廻して鴨居にはめ、「雪にたはむは弓同然。コレこの如く弓を拵ヘ弦を張り、鴨居と敷居にはめ置きて、サヽヽヽ一度に切つて放つ時は、まつこのやうに」と積もつたる枝打払へば、雪散つて伸びるは直ぐなる竹の力。鴨居たはんで溝はづれ、障子残らずばたばた/\。本蔵苦しさ打忘れ、「ハヽヽヽウム、ハヽヽヽ、ウムハヽヽヽヽヽアしたり/\。計略といひ義心といひ、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに、浅きたくみの塩谷殿。口惜しき振舞ひや」と悔やむを聞くに、「御主人の御短慮なる御仕業。今の忠義を戦場のお馬先にて尽くさば」と思へば無念に閉ぢふさがる。胸は七重の門の戸を、洩るるは涙ばかりなり。力弥はしづ/\降り立つて、父が前に手をつかへ、「本蔵殿の寸志により、敵地の案内知れたる上は、泉州堺の天川屋義平方へも通達し、荷物の工面仕らん」と聞きもあへず、「なにさ/\、山科にある事隠れなき由良助。人数集めは人目あり。ひとまず堺へ下つて後あれから直ぐに発足せん。その方は母嫁戸無瀬殿もろともに、後の片付諸事万事何もかも、心残りのなきやうに。ナヽコリヤあすの夜舟に下るべし。我は幸ひ本蔵殿の忍び姿を我が姿」と袈裟打ちかけて、編笠に恩を戴く報謝返し。未来の迷ひ晴らさんため、「今宵一夜は嫁御寮ヘ」舅が情の恋慕流し。歌口しめして立ち出づれば、かねて覚悟のお石が歎き、「アヽこれもうし御本望を」とばかりにて名残り惜しさの山々を、言はぬ心のいぢらしさ。手負は今を知死期時、「父さま。もうし父さま」と呼べど、答へぬ断末魔。親子の縁も玉の緒も。切れて一世のうき別れ。わつと泣く母、泣く娘。ともに死骸に向ひ地の、回向念仏は恋無常。出で行く足も立ち留り、六字の御名を笛の音に、「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」これや尺八煩悩の枕並ぶる追善供養。閨(ねや)の契りは一夜ぎり。心残して立出づる。 
十段目
天河屋の段
出で入るや、小舟大船入交り、荷揚げ荷積みの賑はしき境湊の夜は更けて、月の曇りに影隠す隣家も寝入る亥の刻過ぎ、空にまたたく天河の此家を目がけ捕手の人数十手早縄腰提灯、灯かげすかして窺ひ/\犬とおぼしき家来を招き、耳打すればさし心得門の戸せはしく打叩く「誰ぢや/\」も及び腰「イヤ宵にきた大船の船頭でござる、舟賃の算用が違うた、ちょっと開けて下され」「ハテ仰山な僅な事であろあす来た/\」「イヤ今夜浮ける船、仕切って貰はにや出されませぬ」と、いふも声高近所の聞えと、義平は立出で何心なく門の戸を、明くるとその儘「捕つた/\、動くな上意」と追取巻く「コハ何故」と四方八方、眼を配れば捕手の両人、「ヤア何故とは横道者、汝塩谷判官が家来大星由良助に頼まれ、武具馬具を買調へ大廻しにて鎌倉へ遣はす条、召捕り拷問せよとの御上意、遁れぬ所ぢや腕廻せ」「是は思ひも寄らぬお咎め、さやうの覚え聊かなし、定めしそれは人違へ」といはせもたてず、「ヤアぬかすまい争はれぬ証拠あり、ソレ家来ども」「はつ」と心得持来るは、宵に積んだるござ荷の長持、見るより義平は心も空、「ソレ動かすな」と四方の十手、その間に荷物を切解き、長持明けんとする所を、飛びかかつて下部を蹴退け「ヤア麁忽千万、この長持の内に入置いたは、さる大名の奥方より、お跳へのお手道具、お具足櫃の笑ひ本、笑ひ道具の注文までその名記し置いたれば、明けさしては歴々のお家のお名の出る事、ご覧あつてはいづれものお身の上にもかかはりませうぞ」「ヤアいよ/\胡乱者、なか/\大抵では白状致すまい、ソレ申合せた通り」「合点でござる」と一間へ駈入り、一つ子由松を引立て出で「サア義平、長持の内はともあれ、塩谷浪人一統に堅まり、師直を討取る密事の段々、汝よく知つらん、ありやうにいへばよし、いはぬと忽ち忰が身の上、コリヤ是を見よ」と抜刀、稚き咽に差付けられ、はつと思へど色も変ぜず、「ハヽヽヽヽ女童を責めるやうに、人質取つての御詮議か、いかに可愛い子なればとて、子にほだされ存ぜぬ事を存じたとはえ申さぬ、知らぬと云うたら金輪奈落地獄の責に逢ふとても、一言半句も申されぬわ」「テモ胴性骨の太い奴、管槍鉄砲くさりかたびら四十六本のしるし迄調へやつたる汝の知らぬと云うて云はしておかうか、白状せぬと一寸試し一分刻みに刻むが何と」「ヲヽ面白い刻まれう、武具は勿論、公家武家の冠烏帽子、下女小者が藁沓まで、買調へて売る人が商人、それを不思議とて御詮議あれば、日本に人種はあるまい、一寸試しも三寸縄も、商売故に取らるる命、惜しいとは思はぬ、忰も目の前で突け/\/\、摂津河泉の揚荷積荷、出船入船何百そう、湊町の町人の、男の中の男一匹、少しは知られた顔面、天河義平は ヘヽ男でござる」と、長持の、上にどっかと大磐石、いつかな動かぬ面魂。「テモ強情な不敵者。この上ははやこの忰、只一突き」と構へる切先、「ヤレ待て暫し」と、長持の中より呼ぶ声。コハ如何にと、思はず飛び退き身構ゆれば、ゆう/\として立出る大星由良助良金義平はびつくり捕人の面々、十手捕縄打捨ててはるか下つて座をしむる。威儀を正して由良助義平に向ひ手をつかへ、「サテ/\驚入つたる御心底、泥中の蓮、いさごの黄金の貴公と見込んで頼んだ一大事、この由良助は微塵聊か、お疑ひ申さねども、馴染近付きなき四十人余の中には、天河屋の義平は生れながらの町人、今にも捕はれ詮議にあはゞ如何あらん何とか云はん、殊に寵愛の一子もあれば子に迷ふは親心と評議まち/\、案じる胸も休まらぬ古朋輩の者どもへ安堵させん為、せまじき事とは存じながら右の仕合、麁忽の段は真平々々、百万騎の強敵は防ぐとも、左程に性根はすはらぬもの人ある中にも人なしと申せども、町家の中にもあればあるもの、静謐の世には賢者もあらはれず、ヘエヽ惜しいかな、悔しいかな、亡君御存生の折ならば、一方の旗大将、一国の政道をお預け申したとて惜しからぬ御器量、武骨の段真平」と畳に頭をこすりつける。「ヤレそれは御迷惑、お手あげられて下さりませ、私はもと軽い者、お国の御用承ってより、経上ったこの身代、判官様の様子承って共に無念、何卒この恥すすぎやうはないかと、町人づれにも及ばぬ心、いろ/\碎くその折柄、思ひがけない由良助様のお頼み、向ふ見ずにも只一筋、御恩報じの一心にお力をつけるばかり、身の程知らぬこの義平が志もお取りなし」と、あつき詞に人々も、思はず涙催して奥歯かみ割るばかりなり。稍あつて由良助、それと矢間に目くばせに、はつと心得重太郎、何か様子は白地の扇、白台がはりに一包、のせてさし置く義平の前、「イヤナニ御亭主、今晩鎌倉へ出立仕ればいつまた逢ふ事もなき我等、重々の御厚意に、礼は詞に述べ難し、せめて寸志はこの一品、些少ながら御受納下さらば、この上の悦びなし」と、いといんぎんに辞儀すれば義平は色を変へ、「アヽイヤ申し御家老様、イヤサ大星由良助様礼物受ける心にて、この命がけのお世話申さぬ、町人と見侮り、小判の耳で面はるのか、たゞし性根を見違へたか、エヽ穢らはしいこの進物、お返し申す」と、投げ出せば包解けて内よりばらり、あらはれ出しは櫛笄、切り髪包みし紙の端「どうやら覚えある手蹟は ヤヽコリャこれ女房にあたへし去り状、どうしたこと」と、不審にて固唾をのんでいたりける。「ホヽ不審はさこそ義平殿、我等の宿願叶へさせんとの秘密を守るその為に、御内所までも離縁の誠心、ホヽ天晴れ見上げし義心の程、まつた御内所おその殿、夫に立つる操は一つ再び二夫に仕へずとおしげも涙切り髪に浮世を捨てし健気の心、かほのどの義心貞心を見極めし上は、何をか云はん、今は離別に及ぶまじと、ソレおその殿こなたへ」と思ひがけなき大星の、声に隠れし妻のおその、勝手を走り転び出づれば「あれ母さんぢゃ」と、由松がうれしいわいのと取り縋る、母も引き寄せ頬ずりし咽びながらも口説言、「ほんに思へば女ほど因果なものがあろかいな、夫の受けし殿様の御恩は女房も同じ事、これが男であるならば共に御恩に報へるもの、妹背かはした夫婦でも女と生れし悲しさは、露ひと言の打明けさへ泣くに泣かれぬ浅間しや」と夫の膝に打伏せば義平もハッと胸せまり、声を忍びの泣く涙、ややあって由良助「イヤナニ義平殿、今宵出立のその上は本望遂ぐるも百日とは過ごすまじ、その髪の延びる間もおよそ百日、敵討の報らせあらば再び生くる夫婦の道、その時に櫛笄、それその切り髪を添に入れ、目出度く迎へる笄髷の三国一の祝言には、無用の去り状、破るが仲だち由良助」と引裂く三行半分は身が預ると懐にふた味もある大星が詞ぞ情なみだなる、「はや出立」と由良助「かねて敵討と存ずれば敵中へ入込む時、貴殿の家名の天河屋を直ぐに敵討の合詞、天とかけなば河と答へ、四十余人の者共が天よ河よと申しなば貴公も敵討にお出でも同然、はやお暇」と出立づる。末世に天を山といふ由良助が孫呉の術、忠臣蔵ともいひはやす、娑婆の詞の定めなき、別れ/\て 
十一段目
花水橋引揚の段
出でて行く
柔能く剛を制し弱よく強を制するとは、張良に石公が伝へし秘法なり。塩治判官高定の家臣大星由良之助これを守って、一味の義士一子力弥、原郷右衛門、千崎、矢間、小寺、中村、不破、竹森、大鷲源吾、片山そのほか四十余騎、着たる羽織の合印。いろはにほへどゑひもせず、艱難辛苦の一年も、首尾よく本望成就に今ぞ晴れゆく富士の嶺、朝日に高く照り映えて解くるは胸の仇の雲。由良助声あって、「いかにかたがた。味方に幸ひ討死もなけれど手疵の者もあるべけれ。ともども労り助け合ひ、菩提所まで引揚ぐべし。今一息ぞ気をゆるされな」と労りはげまして行く折柄。駒をはやめて一騎がけ、走り来たって「ヤア待たれよ、我は桃井若狭助、委細たゞ今聞くよりも御祝詞申しに駆けつけ申した。あっぱれ各々の忠臣義心、首尾よく本望達せられ、その喜びや如何ばかり。泉下に在す判官殿もさぞ御満悦の事やらん。大星殿おめでたう存ずる」といふも眼に浮く露涙。こころ誠をあらわせり。由良助一礼し「ハヽア、こはありがたき桃井様。今は何をか申すべき。たゞ寂々の二字とのみ」「ウムさこそあるべし、この上は早まらず上の裁きを心静かに菩提所にて待ち給へ。時移れば師直の家臣追討かけんもはかり難し。程よき時刻の移るまでそれがしこゝに道塞ぎ、よし師直方来るとも一歩もこゝは通すまじ。はやとく行かれよ方々」と忠に報ゆる義の声に、大星始め一味の義士「これはありがたし忝し。御好意うける今の身のやがて御礼は冥途より。さらば」「さらば」と一礼し、思ひ交々、一筋の道をわかれて右左。見送る若狭、見返る義士、宿世の縁や忠臣の鑑ぞ代々に曇りなき、今に残る仮名手本、名は千載にいちじるき。 
大詰
光明寺焼香の段
大詰光明寺焼香の段 柔よく剛を制し弱よく強を制するとは、張良に石公が伝へし秘法なり。塩谷判官高定の家臣、大星由良助これを守って一味の勇士四十余騎。着たる羽織の合印いろはにほはへとと立並ぶ。「イカニ方々この首一つ見んために、妻を捨て子に別れ、千辛万苦の甲斐あって、亡君にもさぞ御満足。今日はいかなる吉日ぞや。年来の望みを達せし」と一同にわっと嬉し泣き理(ことはり)至って道理なり。由良助懐中より九寸五分取出し、師直が首諸共御墓に供ヘ奉り、「恐れがら亡君尊霊へ申し上げ奉る。さんぬる御切腹の折柄より御無念を晴し奉らんと、昼夜忘るる隙もなく、わざと遊興に日を送り、諸士の剛健を試し見る不忠の族はみな逃げ失せ、わづかに残る四十余人。心を一致に今日只今御片見にと下されしこの短刀にて師直が首かき切り御位牌へ手向け奉る。草葉の蔭にて御受取り下さるべし。アヽイザ/\お一人づゝ御焼香」「アイヤ先づ惣大将の御自分様より」「イヤ/\拙者より先へ矢間十太郎殿イザ御焼香なされ」「それは又存じも寄らずいづれもの手前御贔負は却って迷惑」「ナニサ贔屓にあらず。四十余人の衆が師直が首取らんと、一身を拠つ中に貴殿一人。柴部屋より見出し、生捕りになされたはよく/\主君尊霊のお心に叶ひし矢間殿。御羨しう存ずる。なんといづれもさやうにてはござるまいか」「いかにも御尤もに存じます」「それはなんとも」「ハテさては時刻が延びるイザとく/\」「ハア然らば御免」と立上り一の焼香はぜひなく/\。「二番目は由良助殿イザ御立ち」と勧むれば、「アイヤまだ外に焼香の致す人あり」「そりゃ何者誰人」と、問へば大星懐中より碁盤縞の財布取出し、「これが忠臣二番目の焼香、早野勘平が成れの果。ハア不便な最期を遂げさせしと、片時忘れず肌離さずイヤナニ力弥、この財布平右衛門に渡せよ」といふにはっと子息力弥、平右衛門の手に渡せば、「これは扨て勿体ない。御家老様より平に/\」「コレ平右衛門、妹聟のその方にと、父上の御気遣ひなるぞ」「平右衛門、思召しをむげにせまい。イザ仕れ」と諸士の声々、「ハッ」とばかりに平右衛門押し戴き/\、「お情こもるそのお詞。草葉の蔭よりさぞ有難う悦ぶことと存じます。冥加に余る仕合せ」と財布を香炉の上に着せ、「二番焼香早野勘平重氏」と、高らかに呼ばはれば、列座の諸士も賞美の詞、末世末代伝ふる義臣、これも偏に君が代の、久しき例竹の葉の栄えを、こゝに書き残す。
 
無宿人国記 / 吉川英治

 

女被衣おんなかぶり

「蒲団は――お炬燵こたは――入れたかえ」
船宿のお内儀かみさんだ。暗い河岸かしに立って、いつもの、美いい声こえを、張りあげている。
息が、白く、冬の夜の闇に見えた。
寒々と更ふけた大川の中で、「おう」と、船頭の答えをきくと、かの女は、河岸づたいに、五明楼の庭へ戻って、「あの……船のお支度が」と、女中へ告げた。
上杉家の国家老、千坂兵部ちさかひょうぶは、茶屋の若主人や、廓なかから送ってきた女たちの小提灯こぢょうちんにかこまれて、ひょろりと、手拍子に、
   さても見事になあ
   振って振りこむ花槍は
   雪かあらぬか
   さっさ ちらちら白鳥毛
   振れさ どっこい
「お履物はきものを――」「殿様、おあぶない、肩にお手を」
兵部ひょうぶは、眸のながれたような眼で、明りにつれて、海月くらげみたいに、ふわふわとうごく、無数の女の顔を、見まわして、
「――船は、どこじゃ。船は」
「庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の桟橋ふなばしまで、おひろいを」
   さても是非なや
兵部はまた、広間に聞える槍踊りの丹前節に、低声こごえをあわせて、
   ――なびかんせ
   台傘、立傘、恋風に
   ずんとのばして
   しゃんとうけたる柳腰
「きゃーッ」
前へ歩いて行った女の小提灯が、ふいに、人魂みたいに、宙へ躍った。――と、一緒に、後のすべての灯りと、人影も、「あっッ」と、悲鳴をあげて、ばたばたと、兵部を捨てて、逃にげ転まろんでしまった。
「――な、何とした事。これやひどい、此方このほう、一人を置いて」
兵部は、よろめいた腰を、とんと、庭石へ落して植込みの闇を見つめた。――すぐ、うしろが大川の水であるために、黒い人影が二つ、眼の前に立っているのが、くっきりと、分った。
じっと、兵部の眼が、それへ行くと、二本の白い刃が、だまって、彼の方へ迫って来た。兵部は、心のうちで、すぐ、(来たな!)と、眉間みけんに、直感の熱痛を感じて、同時に、(いつか、来るはずのものが来たのだ。赤穂の浪士――かれらの刺客せっかくだ。もうやむを得ん)と、静かな、覚悟の中に、策を、そしてまた、執るべき態度を、考えていた。

「ふいに、驚かせて、失礼いたした。――ちと、お訊ねいたすが」案外だった。――その言葉のていねいなのに。
のっそりと、兵部に近づいて来たのは、浪士らしくない。肩や、袖の、綻ほころびから、痛々しい血汐をにじませている。蒼白な顔に、鬢びんをみだし、一人は十手を、一人は白刃をさげていた。
「町方じゃの」兵部がいうと、「左様――」と、肩で、喘あえぎながら一礼して、「たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の生首くびをかかえ、血刀を引ッさげたまま、逃げこんで参ったのを、御承知はあるまいか」「存ぜぬ」と、兵部は、無駄だった気がまえを弛ゆるめて、「――狂人かの」と、訊ねた。
「いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、廓さとや盛り場で、喧嘩をしては、狂人ほど人間を斬る奴。町方も、ちと持てあましておる男で」
「ふむ……それが、女の生首を抱えてとは」
「実は、この堀の涙橋に」と、同心は、兵部の人物と、軽い誘さそいに、つり込まれて、
「――江戸唄の師匠をしておる、里次さとじという女があります。今申した浪人者はそれと、だいぶ深間ふかまで、何でも、二、三百石の知行ちぎょうを、その女一人のため棒に振ってまで、国元を、出奔してきた程な仲だったらしいので。――だが女は男の不身持と、斬ったの、殺したのと、血なまぐさい行状ばかり見ているので、愛想あいそもつき、恐こわくもなって、近頃は、町道場の林崎という男をひき入れておった訳です」
「む……」
「だが、一方の浪人と、どうして手を絶きったものかと、今夜も、林崎や悪友のならず者が、里次の家へ寄って、飲みながら話しておると、伊勢詣いせまいりに行くといって、五日ほど前に、家を出た浪人が、台所から、ふいに、今帰って来た――というが早いか、一瞬の間に、居合した七人ばかりの――それも江戸ではかなり有名な林崎や、ごろ剣客を、ばたばたっと一人も余さず、たたっ斬って、最後に、女の生首くびを片手に」
「わかった」と、兵部は、もう興味がないように、「それから先は、お察しできる、町方は、飛んだお怪我、はやく、手当をせぬと、この冬風に」「かたじけない。御免を」と、二人の同心は、彼にいわれて、急に手傷の痛みと、場合とを、思い出したらしく、何か、囁ささやいて出て行った。
そこに、腰かけたまま、兵部は、手を鳴らして、「女ども、女ども」しかし、誰も来なかった。ただ、気のつよい船宿のお内儀かみだけが、「は……はい」と、四阿亭あずまやの蔭で、寒さと、恐さに顫ふるえながらも低く答えた。
「お前は、そこにいたのか。――羽織を脱いで、貸してくれい」
「羽織は、着ておりませぬ」
「いかさま……では、いや、あれにある、伊達羽織だてばおりを」
兵部が、指さしたのは、羽織ではない。小座敷の窓に掛けてある、派手な、女小袖だった。お内儀が、それを外はずして来て渡すと、「――頭巾には、ちと、綺麗きれい」と、呟つぶやきながら、ふわりと、後ろへ投げた。
闇が、咥くわえ込むように、小袖はすすすと、丁字ちょうじの葉蔭へ、うごいて行った。――内儀は、さっきから、見まいとしているそこの物に、また、慄然りつぜんとして、唾をのんだ。
初めから――かの女は、知っていた。
それは、役人より早く、女たちの眼を、吃驚びっくりさせた影だった。みんなが、きゃっといって、逃げる突嗟とっさに、兵部の後ろへ廻って、屈かがみ込こんだのである。兵部は、とたんに、刺客せっかくの一人かと――鋭い眼を投げたが、同心との対話のうちに、何もかも、解けたらしく、知らぬ顔を装っていた。
けれど、気のつよい、船宿のお内儀の背すじを凍らせたのは、その人影でも血刀でもなかった。――それは、兵部が同心と話している間に、極めて、ひそやかに、ある目的を遂行していた暗闇の動作である。作業である。
憎むが如く、笑うが如く、また泣くが如く――そこに屈んでいた人間は、女の生首くびを、手から、転がして、また頬摺ほおずりをした。そして、すばやく小柄こづかをもって、丁字ちょうじの根を、掘りかえして、生首くびを埋いけてしまったのだった。
――そこへ。
絢爛けんらんな女小袖が、ふわと、落ちたので、男は、それを頭からかぶると、「武士のお情け――」四尺ばかり、進んで、兵部のすぐ後ろへ、ひたと、両手をついた。
「どなたか存ぜぬが、忘れはいたさん」
「――無事な所まで、此方このほうの船で」
「それは、あまり」
「いや……」と、兵部は立って、
「内儀」
「はい。今――お提灯あかりを」
「足もとは、水明り、それには及ばん。やがて、万字屋から、家来どもが、引揚げてくるであろうが、此方は、船で先に下屋敷へ――と、よいか、最前の、言伝ことづてを」
「覚えておりまする」
「そして……」と、自分の後ろから、小袖を、女被衣おんなかぶりにして、忍びやかに、尾いてくる者を顎あごで指して、「夢――人には告げるな。――わしの浮気を」

両河岸りょうがしは、霜しもが白い。
灯ともさない屋形船やかたが一艘そう、氷をすべるように、大川を下って行った。
「――寒かろう、はいってはどうだ」中の兵部は、こう、外へ声をかけた。
小袖をかぶったまま、鷺さぎのように、舳みよしに屈んでいた男は、振り向いた弾みに、刀の鐺こじりを、かたんと、屋形の角に音をさせて、
「何、ここで……。すぐ其処の百本杭ひゃっぽんぐいあたりで、降ろして貰おう」
「まあ、そう申すな、炬燵こたつの火も、ちょうどよい加減、酒も温あたたまっておる。はいって、一献いっこんやってはどうじゃ――河千鳥の声をさかなに」
それを、兵部ひょうぶの独ひとり語ごとのように、外の男は、そら耳にうけて、じっと、暗い川波を見つめていたが、「オッ、寒いっ」と、思わず、くさめを一つして、小袖で口を抑おさえた。
「風邪をひくぞよ、一角いっかく」
「えッ?」
男は、そう言った兵部の声を、疑うように、「俺を、一角と知っているおめえは?」
「うとい奴じゃの。たとえ、わずかな間でも、禄を食はんだ旧主の声を、忘れる奴があろうか」
舷ふなべりに、身を這はわせて、小障子の隙間から、中を覗いていた一角は、途端に、「あっ、しまったッ」弾はじかれたように、突っ立った。そして、河へ飛び込もうとするのを、兵部の手が、鐺こじりを掴つかんで、
「何で逃げる。――たとえ路傍の人間であろうと、危急を救われた礼も述べずに、姿を消すが、作法か、武士か」
「――面目次第もございませぬ」
屈み込んで、がばと、顔を伏せた。その手を、兵部は、すくい取って、ずるずると中へ、
「清水一角と申したの」
「はっ、御、御意にござります」
「たしか、村上寛之助の推挙で、上杉藩の剣道方に、一年か、二年……。あれは、何日いつ頃であったかの」
「もはや、四、五年前、流浪中の事にござります」
「只今も、流浪中ではないのか」
「はっ」
一角は、穴でもあったらはいりたかった。なぜこの人に救われたかを後悔するのだった。
「そちの仕官中に、国許くにもとで、一、二度見かけた事がある。腕のたつ武士と、噂をきいていたが、いつの間にか、此方このほうの在府中に出奔したという事じゃった」
「この姿で、お目にかかったのが、残念にござります。どうぞ、御慈悲をもって、このまま、お見遁みのがしを」
「見遁せとは」
「何事も、お訊たずねなく。――犬でも助けたと思おぼし召めして」
「卑下ひげいたすな。若い時代の過あやまちは、生涯の評価にはならぬ。その慚愧ざんきをなぜ有為な身に、すぐれた腕に、鞭むちとせぬか」
「立ち直って、身を固めたいと念じながら、持ったが病やまい、自暴やけから自暴へ、持ちくずした身の傷は、癒なおるどころか、殖えるばかりで、今後のことも今となって、その冷ひやっこい川風の中で考えてみると……」
「それや、無理もない。惰性だせいというもの、そこに、転機が来なければの」
兵部は、つぶやいて、酒瓶ちろりのくびを抓つまんだ。一角へ、杯を与えて、
「ひとつ、飲まんか」
「恐れいります。御大身のお酌しゃくでは」
「あとも、燗銅壺かんどうこについておる。では、そちの手酌にまかせて」と、膳ぐるみ、押しやって、
「――だがの一角、もうこの辺が、考え所ではないかの。人間も年三十に近いとなれば」
炬燵ぶとんへ、兵部は、顔を横に当てて、うつうつと、何か考え込んでいるふう。大きな宿題が――苦労が――胸にあるらしい。そういえば、才識に経世に、米沢よねざわの宝といわれたこの人にも、めっきりと老ふけてきた影がみえる。――いかに、事の内容が容易でないかを、その眉が、語っている。何か、尠すくなくもそれは、主家上杉藩の浮沈にもかかわる程な。

で、実は。
この三月でいい出府を、彼は、二月ふたつきも繰上げて急に、国元の米沢から上ってきたわけだった。問題の重点は、世間からも注意されている吉良上野介きらこうずけのすけの身についてである。いうまでもなく、上野介の夫人は、上杉家の当主綱憲つなのりの母にあたる――吉良家と上杉、これは、断きっても断れない関係のものである。
上杉家では――いや藩の輿論よりは、太守の綱憲自身が、しきりと聞える、赤穂浪士たちの潜行的な噂に対して、(もし、父を討たれては)と、躍起となった。
(そして上杉家の名折れ、謙信以来の武門の恥、どうかせねば)と、江戸家老の沢根さわね伊兵衛に謀はかって、(飯倉いいぐらか――桜田か――いや白金の下屋敷が、最も、堅固)と本所から上野介の身を夜陰、そこに移して、秘密の上にも、秘密を守って、警戒していた。
(大事! 社稷しゃしょくの危機)と、兵部は、その、余りにも無謀な――浪士と上杉家との対立を敢てする策に――驚いて国元から駈けつけるとすぐ、綱憲に、その失計を説きたてた。
社稷しゃしょくか父子の情かである。一人の上野介か、上杉家全藩の生命かである。
綱憲も、その非を覚って、兵部の諫いさめどおり、また上野介を、本所の彼自身の邸やしきに戻した。だが、兵部の心は、それだけに、負担を感じている。公然とはできない吉良邸の警戒に、赤穂の浪士たちの行動が、潜行的になればなる程、水も洩れてはならないのである。
何よりも、彼が第一に、(さて、人間はいないものだ)とつくづく、当惑したのは、上野介の身辺を警戒するにたる腕のしっかりした人物だった。
(剣客などは、いくらでも)と、ふだんは考えられる江戸にも、さてとなって、求めると、実に、その人がない。
町道場で、相当に、認められている人物でも、ひそかに交渉させてみると、(吉良の屋敷では)と、断るのが、多いし、上杉の藩士を詰つめさせては、赤穂との対立になるし、素姓の知れない人間は、敵方の諜者を入れこむ惧おそれがある。
今――およそ兵部の眼鏡めがねで、八、九名の浪人を抱えて、付け人にさせてはあるが、とても、まだ安心はできない。赤穂の浪士たちに対しては、物の数でない。
で――兵部は、そういう点で、ふと、清水一角の名を、思い出した事があったし、また、米沢の国元にも、藩士でさえなければ、眼ぼしいのが、二、三名はいるが……などと炬燵こたつぶとんへ、横にした頭の中で、船の揺れを感じながら眼をふさいで、じっと考えつめるのだった。
今夜なども、飲めない酒を飲んでまで――また、老いと苦悩の、億劫おっくうな気もちをも曲げて、花街へ、人を招んで、おかしくもない夜更かしに帰るのも、みな、上野介のために、幕府側の人々を、手なずけておくためだった。
(これが、自分が大石の立場であるなら、ふえる白髪しらがも、苦労栄ばえというものだが……)と、心で、自嘲しながら、ふっと、頭をもたげた時、「――殿様、百本杭ひゃっぽんぐいで」と、船が、急に舵かじをまげていた。
冷たい杯を置いたまま、じっと、俯向いていた一角が、すぐ首を出して、「お、着けてくれ。――俺はそこで」と、立ちかけると、兵部が、「いや、そのまま、行け、着けてはならん」と、船を河心へ返させて、一角へ、顎あごで、陸おかの人影をさしていった。
「さすがに、町方というものは、鼻がきくの。あれを見い、根気よく、河岸づたいに、この船を尾つけてくる」
「あ……」
一角は、小障子を閉たてた。
船が、永代えいたいに着くと、橋袂はしたもとに、迎えの灯が待っていた。千坂の家来たちに囲まれて、そこから近い兵部の下屋敷へはいってゆく浪人を、清水一角と、はっきり分っていながら、町方とその捕手たちは、どうにも、手が下くだせないで、「ちッ、忌々いまいましいなあ」と、睨にらまえて見ているだけだった。
首の番

ゆすり、辻斬、ばくち場荒し。一角の兇状は、一つや二つの首では足りない。
「一歩でも、出て来たら」と、町方は、意地にもなって、
「千坂の屋敷から、半年でも一年でも、眼を離すな」と、伏せを撒まいて、張込んでいた。
「物騒だが……其方そちならば」と、当の兵部は、召使から邸外の様子を聞いて、苦笑しながら――「急ぐことゆえ、今宵にも、米沢表へ」と、あれから急に、旅立つことになった一角へ、餞別せんべつとはいえない、かなりな額の金を、こっそりと、渡した。
旅といっても、一角は、相変らずな着ながし一枚、もう寒明かんあけ、寒さもここらが関と、多寡たかをくくって、「では、いずれまた」と、貰った編笠を、横に抱いて、書院の縁に立った兵部の姿へ、目礼を。兵部はそこから、うなずいて、「確しかと、そちを見込んで」と、特に、見込んで――に力をいれて、「……頼んだぞ」といった。
ひらりっと、庭戸を押して、一角は、裏門の外へ走っていた。――と、すぐばたばたっと附近から雁がんのように立った跫音を、兵部は、知っていたが、黙然と、空を見ていた。家来たちも、主人の気持のまま、じっと、問わず聞かずに、黙っているよりほかなかった。
だいぶ、間まを措おいてから、やはり不安でならないように、兵部は唐突だしぬけに、「誰か、見届けて来い」と、いいつけた。
やがて、およそ半日も経って、やっと帰って来た家臣の口から、彼が、難なく町方のかこいを衝ついて、一気に、板橋口から街道を北へ、立って行ったと聞いて、「――そうか」と、初めて、ほっと、脇息きょうそくに、気づかれを、落して、「人は使いよう……。一角も、こんどは胆に沁しみて、立ち直ったとみえる」頼もしげに、そしてまた、一つの心の負担をも、軽くしたように、呟つぶやいた。

春だが、寒かった。
山の襞ひだには、雪が深い。
(四年ぶりだ――)と、数えながら、一角は、笠のつばを上げて、板谷峠いたやとうげの上に立った。
そこから、米沢城下の町、川、橋、黒い天主、さまざまな思い出の一廓を見出すと、なつかしさ、などという常人のする感情は、すぐ消えて、(しまッた。なぜ俺は、兵部ひょうぶの手に――)と、いつか、屋根船に救われた夜と、同じ後悔を、ここでも、苦にがく繰返して、「思えば、飛んでもねえ事を、頼まれてしまった」と、呟いた。
自分では、摺すり切れてしまったと思っていた武士根性が、まだ幾分か、どこかに潜んでいたかとも苦笑されて、「うまく、兵部に抱き込まれた。――だが、どうせ、どう捨てても転んでも、惜しくはねえ体だから、いいようなものの……」 
城下へはいった一角は、その翌日、藩の湧井わくい半太夫と青砥あおと弥助をふいに訪ねた。どっちも、一角が仕官時代の旧友ではあり、また、米沢では――いや奥羽の剣人としては、五指のうちに数えられる若者たちだった。
「どうしたんだ? 一角」ふたりは、眼を瞠みはって、彼を迎えた。
お互いに、飲いける口くちを知っているので、松川岸の隣松亭りんしょうていへ行って、「まあ、久闊きゅうかつは、酒から」と、すぐに、寛くつろぎあった。
「――風の便りに、江戸にいるとは聞いていたが」
「いや、面目ねえ、相変らずといいてえが、尾羽おは打うち枯らしてこの姿だ」
「勿体ないものだね、貴様ほどの腕をもって」
「そいつがかえって、世の中を、真っ直ぐに歩くにゃ邪魔らしい」
「どうだ、吾々も尽力をするが、もう一度、御奉公しては」
「今さら――」と、苦笑して、
「実あ、こんな体でも、売れ口はついているのだ。それも、俺にゃ相当な条件で」
「そいつは、目出度い話だ、どこへ」
「相手の名をいう前におめえ達にも、相談があるが……。どうだ、乗るか」
「吾々は、藩に籍のある体、そうままには」
「そこは、万々、心得ての上だ。――五年約束で、前金を一人あてに、二百両渡す、ある時期がすんだら、ちゃんと、藩籍へもどして、今の禄より、加増もしようという、うめえ話だ。悪かあねえだろう」
「誰だ、相手というのは。――どこの藩だかそれを先に」
青砥あおとが、少し乗り気になると、湧井は、笑い消して、
「あまり話がうま過ぎる。一角、久しぶりに来て、人を担かつぐのも、程にしろよ」
「なに、嘘だものか」
懐中ふところから、百両の封金を、一つ、二つ、三つ――と眼の前へ転ころがして、
「見てくれ、手金さえ、持って来ている」
「ふふむ……」
「いくら、腕はできても、こう泰平つづきでは、軽輩のうだつが上がる時はねえ。――それを、どうだ、近頃にしちゃ、耳よりだろうが」
「――つまり、俺たちを、召抱えたいというのか」
「まあ、そんなものだ。肉縁の者を捨てて、脱藩してくれというのだから」
「それで、五年後には帰参させて、禄も増すというのは、どういうわけだ。合点がゆかぬが」
「そこが、相談。うん、といえ」
「だが先に――」
「いや、先にゃ、話せねえ。――何しろ、洩れたら」
「では、誓う」
「脱藩をか」
「いや、他言を――」
「友達を、疑いたかあねえが、これだけは。――何しろ肉縁を捨てるほどな、覚悟のいることだしまた、家中へも、秘密だ。ぜひとも、うん、といって貰わないうちは」
「じゃ、俺は……」と、青砥あおとが、言いかけるのを、湧井わくいはあわてて、
「待て待て。――返辞はいつまでか」
「早いに、越した事はねえ。明日あしたのうちにでも」
「じゃ、明夕みょうせきまでに、熟考して」
「花沢屋に泊っているから、そこへ、返辞をしてくれ、待っているぜ」と、一角は、二人に別れて、宿へ帰った。

「なぜ、俺ほど、やくざな人間が、兵部に頼むといわれた時、いやだと、断りきれなかったろう?」
宿屋の一間で、腹ン這いになりながら、一角はまたしても、同じ悔いを、胸の中で、呟いた。
「やっぱり――彼女あいつの魂が、おれを国へ……」
ぽろんと、銀脚ぎんあしの釵かんざしを、指先から落して、
「お里のにおいが」と、ぞっと、背中に寒いものを、感じた。
まだ、女の髪油かみあぶらが、生々なまなまと、曇っている。見つめていると、ありし日の女の姿が、ぼっと、眸にひろがって来る気さえする。
かっと一時の感情で、自分の手に斬かけた里次の釵かんざし――。その生首くびをつかんで、堀の茶屋へ逃げこんだ際、あの突嗟とっさに、生首くびは、丁字の木の蔭に埋いけたのであるが、釵は、釵だけは――自分が殺した程な女なのに、何となく、捨てきれずに、肌へつけて、持っていた。
「――いけねえ、どう考えても、お里の弟だ。その木村丈八郎へ、直じかに会って今度の事を話すのは、気が咎とがめる。……おれが、お里を誘拐かどわかして、連れ出した事は、いまだに、知らねえらしいが」
そこへ、女中が、
「おふたり連れで……。湧井わくい様、青砥あおと様と仰っしゃるお方が」
「お、来たか」
あわてて、釵をふところに、
「――通してくれ」
青砥弥助と、湧井半太夫は、
「よくよく、思案してみると、今の世の中では、軽輩者けいはいものは、生涯つとめても軽輩者、百金の手当があれば、肉親の者の保証は充分になる。――うん、と言おう。抱える相手を明かしてくれ」と、同意の返答だった。
「有難い、それで俺も顔が立つ」
ふたりへ、百金ずつの金を渡して、
「実は、貴公たちをお抱かかえになるのは、当地でも、噂になっているだろう、赤穂の浪士に狙われている吉良殿だ」
「げっ、あの吉良か」
「表立って、上杉藩から、剣士を引き抜いて、吉良の首の番に、付けるわけにも行かねえ。――で、妙な縁で、俺が、国家老の千坂兵部ちさかひょうぶ様から頼まれて、この米沢表から、湧井半太夫、青砥弥助、木村丈八郎――と、こう三人を、引ッこ抜くことを頼まれたというわけだ」
「なるほど、じゃ、千坂様の才覚なのか。――それで、謎は解けたが、あの吉良の首の番は、少し、世間へ」
「それは、誰も考えるが、やはり一つの上杉家の奉公――五年という年を限っての話だし」
「もうひきうけた事だ。嫌とはいわん。――けれど、もう一名の木村丈八郎へは、話がついたのか」
「いや、まだ丈八郎へは」
「あれ程、急いでおるのに」
非常な苦痛のように――
「丈八郎へは、貴公たちから、懸合かけあってくれまいか」
「む……話してもよいが」

痛いものを怺こらえるような眼を、ふと、反そらして、「たのむ、是非」と、一角は言った。――ほんとに、腹の底から、頼む、という語韻で、
「実あ、あの男だけが、ちと、俺にゃ苦手なのだ」
「何か、弱味でも、あるのか」
「丈八郎は、おそらく、知るまいと思うが、あれの姉のお里」
「ム。米沢きっての美人だった。――不思議と、あの家すじには、美人ばかり生れる」
「今さらいうのも、懺悔ざんげめくが、同藩の市岡へ、嫁とつぐ約束になって、結納ゆいのうまですんでいたあの女を、婚礼の間際まぎわに隠したのは、俺だ、この一角なのだ」
「えっ? ……。じゃあ、嫁ぐのを嫌って、川へ、身を沈めたというのは嘘か」
「川縁べりの下駄も、遺書かきおきも、俺のさせた狂言で、うまく国許をずらかってから、彼女あいつは、江戸で女師匠、俺は、持ったが病やまいの博奕ばくち、酒。……四年のあいだ苦労をさせたが、つい先頃、風邪かぜが原因もとで、死なしてしまった」
「ふーむ、そうか。じゃあお里は、江戸で貴公と暮していたのか」
「そんな、こんなで、今さらあれの弟の丈八郎へ、いくら兵部様の名指しといっても、俺からは、ちと」
「なるほど、尤もだ。――そして御家老の兵部様が、木村丈八郎へお眼をつけなすッたのも、遉さすがに、鋭い。年は若いが、あれなら、吉良殿の付人つけびととして申し分はない。腕では、赤穂の浪士のうちでも、丈八郎ほどなのは少ないだろう」
「だが、今の話は、貴公たちだけに、打ち明けたのだ。――行っても、丈八郎には、どこまで、俺とお里の事は内密に」
「いいとも、もう先でも、諦めていること、何も好んで……。それよりは、吉良殿の方の一件を」
「すぐ、行ってくれるか」
「吉報を、待っていろ」
翌日は――と首を長くしていたが、沙汰がない。次の日も、二人は、見えなかった。
「こじれているな、話が」
そう感じて、一角は、なお二人から返辞のいいことを祈った。自分の役目ばかりでなく、もし、兵部の秘策を明かして、先が、聞き入れない場合は、首にして、帰らなければならないからだった。
「お里を手に斬かけたさえ、後では、いい気持ではないのに、その弟まで、万一にも」と、考えると、祈らずに、いられなかった。――どうか、難なく、丈八郎が、吉良家へ身売りする事を、承知してくれればいいがと。
「そうだ、返辞を待っている間に」顔を、笠でかくして、彼は、急に思い立ったらしく、宿屋を出て行った。
すぐ、分った。
城下の南郊、梅が、ふくらんでいる。生前に、お里から聞いていた木村家の菩提寺ぼだいじである。
「む、ここか」と、探しだした、一つの墓。
あたりを見廻した。――梅花うめが明るい。
今日まで、肌に、抱いているにも、捨ててしまうにも、気にかかって、このまま、なお持っていると、病気にでも取ッつかれそうな気がしていた簪かんざしを――あの里次の生首くびのにおいを持つ簪を――、そっと、墓石のそばの土中へ、ふかく、差し込んだのである。
悪夢を、封じたように、「ああ、これで、さっぱりだ」と、一角は、掌ての土をたたいた。
春の雲が白い。――紅梅が紅い。
からん、からん、と笑いたいように、心が軽くなった。
「気一つだ」
だらだらと、丘を降りて来た。
すると――麓ふもとから、若い、一人の女が、上ってくる。
「オヤ、何処かで?」と、初めは、そんな程度の注意だったが、両方から近づくにつれて、「やっ?」愕然がくぜんとして、喉でさけんだ。
何ものかに、押し返されるように、彼は、たたたと、後へ戻った――いや蹌よろめいた。そして、樹の蔭にかくれて、あらい息を、肩で、「不思議だ、お里が来る、お里が?」――と、一角にしては、おかしいくらい、あわてて、顔いろさえ変えて、呟いた。
美人系

「丈八郎という男は、今時の、若いに似あわぬ一徹者いってつものだ。二人が、何と説いて聞かせても、金で身売りなどとは、剣士の恥。たとえ、一時の方便でも、藩へ無断で、脱走するなどとは、以てのほか――とばかりで、俺たちも、口をすッぱくして通ったが、匙さじを投げた。あれは、諦めものだぞ」
宿へ帰ると――青砥弥助に湧井のふたりが待っていて、一角の顔を見るなり、こう言って、「どうする?」と、彼の決意を聞くのだった。
「じゃ、兵部様の腹中を、洩もらしたのだな」
「少しは、格好かっこうを話さなければ、所詮、耳をかす男ではないもの」
「しかたがねえ。話が、不調とあれば、首にして、江戸へ連れて帰るだけの事。――貴公たちは、先へ、発足ほっそくしてくれ。そして、兵部様へ、丈八郎の方は、百に一つ、見込みが難しいとお告げしておいて貰いたいが」
「承知した」
その晩のうちに、湧井と青砥は、脱藩して、城下から姿を消してしまった。――軽輩だけに大した余波もないらしいが、一角は、後に残って、これからが、仕事だと思った。
(丈八郎を、暗討やみうちするか――もう一度、ぶつかって、心を翻ひるがえさせてみるか――)に、彼は、迷った。
五日目ぐらいには、宿をかえて、宵になると、番士小路の木村丈八郎の家の附近をうろついていた。丈八郎は、米沢城の乾門いぬいもん番士、禄ろくは、高々百石たらずである。夜勤よづめ交代で一日おきには、家にいない事になるらしい。
(討つ気なら、造作ぞうさはねえが?)
一角は、そう考えたが、毎夜のようにのぞく彼の家に、留守をしている二人の姉妹きょうだいを見ると、そんな気もちは失せて、「成程、青砥弥助が言っていたが、この家は、美人の血統ちすじだ」と、感心した。
自分と逃げて、江戸で終ったお里は一番娘であった。そのお里に、まるで、生写しに、似ているのが、いつぞや、墓地で見かけた、二番娘のお八重。――三番目のお信のぶは、十五、六か、まだ、至ってあどけない小娘で、これは少し丸顔、兄の丈八郎の方に似ている顔だ。
「――どう見ても、お里そっくりだ。いくら姉妹きょうだいとはいえ、ああも」
機おりがあったら、口をきいて見たい気がした。
墓地で、ふいに会った時は、場所も場所だし、自分の気持も、妙に尖っていたので、そんな心は出なかったが――。
夜と、昼も、彼はお八重の顔を頭に描いた。――お八重か、お里か、けじめのない一つの眸が、いつも、彼の前にちらついた。
「はてな、俺は恋を? ……」
一度思った女は、きっと、命がけでも取ってきた一角の経験と興味が、また、春と一緒に、胸の中に、頭を擡もたげだした。水っぽい春の月――風のぬるい春の晩が――妙に彼の血を駆り立てた。
だが、恋はしても、恋には悩まない一角だった。いや、悩んでいる時間すら持たない男だった。押おしというか、自信というか、ぶつかってゆく。――その手で、お里も、ほかの多くの女をも、経験してきた彼は、やがて、お八重がよく町医の関口※(「王+奇」、第3水準1-88-6)庵きあんの所へ通うのを知って、ある夜、わざと、
「お里どの。お里」と、呼びとめた。
「え?」
案のじょう、お八重は、びっくりした眼を、彼に向けて、
「――姉の名を、お呼びになって、貴方様は」
「や、人違い。――余りよく似ているので」
「どこかで、お見かけしたような?」
「四年ほど前に、浪人した清水一角」
「あ、よく姉がお噂をしていた……」
「そのお里どのが慕したわしく、旅のついでに、そっと、当地へ立ち寄ったが、今ではどこに」
「姉はもう果てました。ちょうど、あなたが御浪人なさった頃に」
「えっ、死んだ……。それは、ちっとも知らなかったが」
「私たち姉妹きょうだいほど、薄命なものは、ございませぬ。姉のお里も、嫁ぐ先が心に染まないで、身を投げたのでございますし、私も、嫁ぐとすぐに良人おっとに死なれて」
もう、美人薄命が真に近いように、美人は多淫たいんであるという言葉がほんとなら、お里も、その一人だったし、このお八重も、そうではないかと、一角は、肩をならべて歩くうちに、勝手な異性観を、描いていた。
人なつこい――柔らかな感じ。そして、男のことばを、怖ろしく、異性的にうけて、蠱惑こわくに反射してくるお八重を、彼は、幾十人もの女を手がけた経験から、「これは、思いのほか、手なずけ易い。……それに出戻りの女は」と、もう甘い香を――雪国の女の特有な肌を――官能の中に弄もてあそんでいた。
「いち度、お訪ねして、いろいろと、伺いたい事もあるし……」
「ええ、どうぞ」
「また、何かと、話したいこともあるが、実は、この間うち、脱藩した青砥弥助の口から、弟御へ、ちと、内密を洩らしてあるので、一角が、訪ねては」
「丈八郎ならば、この頃は、相役が病気なので、たいがいな夜はおりませぬ。……お信はいても」と、お八重の求めている気持は、眼で分った。一角は、編笠の中に、暗い笑みを、泛うかべながら、「では、近いうちに」と、彼女を、辻に捨てて、ぷいと横丁へ曲がってしまった。

渡り鳥が、夜ごとに空をよぎって行く。
「女庭訓おんなていきんで育った武家娘なんて、男にかかると、から、意気地はねえ」一角は、つぶやいた。
反撥のある、妙に強気な、江戸の女を知ってから、お里に、不足を覚えたように、そのお里に似ているという、ほんの、軽い出来心だった彼の悪戯いたずらは、お八重を、自分のものにした夜から――「俺も、物好き」と、彼を、微苦笑させた。
美人にはちがいないが、お八重は、癆咳病ろうがいだった。――そういえば、死んだお里も、よく、悪い咳せきをしていたが――と考えると、丈八郎の家系には、その血のあることが、慥たしかである。美人系は、一つの、病系なのだ。
「旦那様、あの、お手紙が」
宿屋の女中が、取次いできたのを、一角は封をきらないで、
「少し、風邪ぎみで、寝ているといってくれ」
すぐ、お八重の文字と分るのであるが、――一角は、五、六度の遊戯で、もう何の感興も燃えなかった。同時に、この頃は、前のお里のことも、ふッつりと、頭にこだわらなくなった。
「べら棒な。――ほかに男をこしらえた女、俺が手に斬かけて、成敗したのは、当りめえだ」
明くる日もまた、女中が、
「旦那様」
「また、手紙か」
根負けがして、彼は、次の夜にお八重をたずねた。――しかし、勃然ぼつぜんとして、かれの気持は、その日から一変していた。
「丈八郎に出会ったら一討ち!」と、むしろそれを、希望していた。
が、その夜も、丈八郎は留守で、裏の木戸には、末娘のお信が立っていた。この娘こは、また何というほがらかに出来ているのか、出戻りの姉にいいつけられて、いつも、恋の番をしているのである。
お八重は、彼を見ると、
「まあ、憎い……」と、膝ひざに、恨んで、
「あんなに、お手紙をあげたのに、たった一度の御返辞も下さらないで」
「いつか、遅く帰った時から、風邪心地で寝ていたのだ」
「でも、返辞を書くぐらいな事……。それ程なお心も、私には、ないのでございましょう」
ああ、平凡だ。
尠すくなくも、一角が経験した女の数では、こんな会話では、欠伸あくびを感じる。
でも――無碍むげには、あしらえなかった。出戻りのお八重は、丈八郎の留守の間を、貪むさぼるように戯たわむれた。
すると、外にいたお信が、「あっ、兄様が!」ばたばたっと家の中へ、駈けこんで来て、姉へ告げた。
「帰って来ました。兄様が」
「えっ、丈八郎が」
お八重は、ふるえ声で、「あなた。はやく……。裏口から」
一角は、うごかなかった。後ろの脇差へ飛びついて、片膝を立てたのみである。お八重は、顔いろを――身の置場を失って、意味の聞きとれない言葉を発しながら、一角の手をつかんで、無理に、無性むしょうに、
「ここにいては。裏! ……あっ、いけない、そこの納戸なんどへ」
一角は、その手を、振り払って、「――退どいていろッ」

途端に。
ばさっと、庭先の連翹れんぎょうの花が、嵐みたいに揺れた。垣を踏みこえて来た激しい物音から、一箇の人影が、縁側へ、躍り上がった。
「――おのれっ、一角だな」
「おっ、木村丈八郎か」
「人の噂は、嘘でなかった。近頃、城下をうろついている犬みたいな浪人が、わしの留守へも、忍んでくると言っていたが、おのれ、何しにここへ――」と、鐺こじりを上げて、ぶるぶると、右手の拳こぶしに、鍔音つばおとをさせた。
(この男か)と、一角は、そういって、ジリジリと前へ迫ってくる鋭い眉目びもくを見上げた。彼の淡い四年前の記憶では、まだ竹刀しないをかついで、よく道場通いの途中で見かけた前髪の小童こわっぱであったが、今仰ぐと、二十歳はたちか、一か、末娘のお信の方に似てやや丸顔な、唇くちの大きな、そして、健康にはちきれている逞たくましい青年だ。
(……ウーム、なるほどできるな)直感的に一角も、ぴりっと、構えを、呼吸いきを、反射しながら、「丈八!」と、威圧的に、あびせて、
「いつぞや、青砥弥助と湧井半太夫の両名から、貴様に伝えたことがあろう」
「だまれ、この場合に。――それを問うのではない、何で! 何の用があって! 女ばかりの留守を狙ねらって」
「それは、てめえの姉に訊きけ。おれは、お八重の媚こびに釣られて来たまでの戯たわれ男お」
「な、なにっ」
「しかも、こっちは旅の人間、不義をあらだてては女の損――まあ、それは後の裁きにまかせる。――俺は、さし当って、会ったが幸い、てめえに糺ただす一言がある」
「恥知らずめ」
丈八郎は、憎悪そのものの眸を、俯うつ伏ぶしている姉へも投げた。が、すぐそれが、一角の眼を見ると、よけいに、焔ほむらとなって、「不義を見つけられて、居直る所存だな」と、罵詈ばりした。
あざ笑って、
「てめえは、まだ、女を知らぬな。そう野暮に、棘立とげだつものじゃない。俺の聞きたいという一言は、いつぞやの返答。――どうしても、嫌か。――千坂兵部殿の苦衷くちゅうを買って、吉良家へ行ってやる気はないか」
「賢明人の御家老様が、何で、おのれ如き素浪人に、そんな大事なお打明けなさるものか。よしまた、真まことであるにもせよ。丈八郎には上杉家の藩君がある。――ばかなッ。脱藩して吉良殿の付人に、身売りなどとは、思いよらぬ沙汰だ」
「では、どうあっても、嫌か」
「とっとと、この米沢から退去すればよし、いつまでも、うろついていると、命はないぞ」
「待てっ。――俺のいう事を先にいうな。命がないぞとは、こッちの切り札。千坂殿の密策を聞かしたからには」
立つ――同時に、「丈八郎、命はもらった」と、鞘さやはうしろに飛ぶ、刀身は前に、そして、一角のからだは畳一枚、踏み出していた。

風を切って――横に。
ばすっと、丈八郎が一角の出ばなを薙ないだ。
「あっッ……兄様っ」
「お信、あぶない」
「やめて! やめて!」
「ええ、邪魔」と、妹をつき倒して。――柄つかを持ち直して。
「さあ、来い一角」
「おう、退ひくな」
「何を」
ち、ち、ち、ち……と刃と刃の先が鳴り合った。
押す。もどす。――丈八郎は、挑いどみかけた。――フウッと、一角の技わざに引かれて、はいると一気に、
(この顔ッ)と、真っ向を睨んで、斬りつけた。
だっッと、一角は、退がった。背なかを、襖ふすまにぶつけたので、襖は、次へ倒れた。ベリッと、それを踏んで、よろめくと、(しめた)と、丈八郎は、盲目的に、躍って、揮ふり下ろしたが、一角は、反対の方へ、ぽんと、飛びかわして、(それは柱だっ)と、罵倒ばとうした。
丈八郎の刀は、斜はすかいに、隅柱へ斬りこんだまま、抜けなかった。とたんに、うしろへ一角の刃を、感じたので、手を離して、振り向くせつなに、さっと、真っ赤なものが、自分の腕にも、胸にも、部屋にも、眸いっぱいに見えた。
ウーム……と、誰か、分らない呻うめきがながれた。行燈あんどんは、消えて、倒れた弾はずみに、ころころと、灯皿が白い煙の糸をひいて、独楽こまみたいに、部屋を廻った。
ウウム……と、二度目の苦鳴を聞いたとたんに、「あッ――お信が」と、発狂したように、お八重がさけんだ。
丈八郎も、一角も、はッと気を抜いて、「おうっ?」と、跳びひらいたまま、一瞬、茫ぼうとなって、畳に、もがいている意外な犠牲者の影を見つめたが、丈八郎は、自分を目がけた一角の刃が、弾みに、罪のないお信を斬ったことに、気がついたので、
「妹の仇っ」と、喚わめいて、「――動くなっ、そこを」と、小脇差で、突っかけた。
組長屋である、裏の屋敷でも、隣でも、深夜の物音にさわぎ出した様子である。一角は、書院窓を蹴やぶって、縁から、飛び下りた。
盗賊。――盗賊。
そんな声が、八方に聞えて、彼はよけいに戸惑ったが、うしろから、「卑怯ッ」と、よぶ丈八郎へ、「後日っ」と、言い返して、木戸へ、肩をぶつけて突き破るがはやいか、地を躍って、深い闇へ、魔形まぎょうに似た提さげ刀がたなの光を、何処ともなく、晦くらましてしまった。

「――斬られたと? だ、だれが」
「盗賊ではないのか」
「灯りを。――どなたか、灯りを先に点つけてください」
組長屋のものが寄って、そこに、ぶち撒まかれた鮮麗な血と、お信の、むごい姿とを、見た時は、いつのまにか、姉のお八重は家の中にいなかった。
勝手口の戸が一枚、開いていた。――恥かしい! と丈八郎はくちびるを噛んだが、人々が、驚きと、焦燥しょうそうに、気づかずにいるので、口に出さなかった。
「――助かる。背すじだ、薄傷うすでだ」
来あわせた老人が、お信の黒髪を、膝にかかえ入れて、白晒布しろさらしを、勢いよく裂いているのに、丈八郎は、初めてわれに返って、
「た、助かるでしょうか」
「切ッ尖だからの。もう二寸、肩へはいったら。――焼酎しょうちゅうを早く、焼酎を」
「お信っ。お信っ……」
丈八郎の眼はうるんでいた。
医者がくる。お信は、意識をひらくとすぐ、「姉さんは……」と、ほそい声で、訊ねた。
「そんな事、訊いてくれるな」
夜具の下で、手を握りあって、丈八郎とお信は泣いた。――淫みだらをしたお八重こそあの場で、斬られてしまえばとさえ思うのだった。
(お八重さんが見えない――)
(男と逃げたらしい)
組長屋から、家中へ、そんな噂が、ぱっと立った。
傷は、日にまして快よくなって行ったが、お信も、それを心に病やむらしかった。兄に対して、何か、悔悟かいごと、叱責しっせきを、恟々おどおどと待つ気ぶりも見える。
「兄は留守がちだが、お前は、いつも家にいたのだ。あの一角と、姉と、不義のほかに、何か事情わけでもあったのではないか」
丈八郎が、ある日、こう問いつめると、
「いいえ」と、お信は、首を振った。
「ふいに、兄様が帰るとか、人が訪ねてくるといけないから、外を見ていよといわれて、いつも、垣根かきねの所に、立っていただけです」
「そうではあるまい、何か、他に仔細があろう。言え。兄は、どんな事があっても、お前には、怒りはしない」
「じゃ……」と、お信は、考えて、
「何もかも、話しますけれど、兄様、怒ってはいやですよ」
「む……」
「一番上の――お里姉様を殺した人は、あの一角じゃないでしょうか」
「えっ。どうして」
「でも、私は知らなかったけれど、お八重姉さんが、そう言いました。だから、私も今に、きっと、あの一角に殺されるのかも知れないって。――それでも――殺されても関かまわないから、私は、あの人を忘れることはできないと、私にだけ、口ぐせに、言っていました」

「不審だな。一番上の姉のお里は、同藩の市岡氏うじへ、嫁ぐ約束になった時、それを嫌って入水じゅすいしたのだから」
「いいえ、嘘です。――それもこれも、一角のつけ智恵で、ほんとは、江戸へ行って一緒に暮しているうち、一角に、殺されたのです」
「どうしてお前は、それを、はっきり言える」
「お八重姉さんが、この間、拾って来た物があるんです。うちのお墓のそばに、差し込んであった銀の釵かんざし、不思議に思って、寺男に聞くと、三十近い浪人が姉さんのお詣まいりをする前に、埋いけて行ったというではありませんか。それが、一角なのです」
「お八重は、自分の姉と、そうした悪縁のある一角と知りながら、なぜまた、あんな男に引きずられて……」
「だから、私にも、お八重姉さんの気持はわからない。なん度、泣いて、意見をしたか知れませんが」
「血だなあ」
丈八郎は、ほっと、重い吐息をついて、
「――争えないものは、血すじだ、親から生みづけられている人間の血の運命だ。――お信、その釵はここにあるか」
「いいえ、お八重姉さんは、お墓から、それを見つけて来た日から、肌身に離したことはありません」
「そうか。……いやそうだろう。あの銀の釵なら、二女ふたりの母親が、若い頃に挿さしていた品、その釵が、淫奔いんぽんな血とつき纏まとって、お里に愛され、お八重にまで持たれて行った――怖ろしい気がする」
「兄様。いま仰っしゃった二女ふたりの母とは――それは、私たちのおっ母さんとはちがうのですか」
「亡父ちちの過失あやまち。わしも、深くは知りとうないし、きょうまで、姉妹きょうだいの気持にけじめは持たなかったが、異母胎はらちがいじゃという事は、さる人から、聞いていた。――その母という人は、美人ではあったが、癆咳ろうがいで、若死にをしたという話も……」
夜具の襟が、さめざめと、ふるえるのだった。丈八郎は、「泣くな」と、宥なだめて、「おまえと、わしは。……おまえと、わしだけは。ほんとの武士の子だ、武士の娘だ」と、蒲団ぐるみ、抱きしめた。
そこへ、裏町の――軽輩な家中へ内職の仲継なかつぎをしている老人が、見舞に来て、憤然と、「丈八郎殿、貴公、とんだ濡ぬれ衣ぎぬをきておるぞ」と、尖った拳こぶしを、膝において、いうのだった。
「何事ですか、この、丈八郎の冤罪えんざいとは」
「貴公、清水一角から、金を取っておるか」
「ばかな」と、一苦笑に、
「なんで、彼奴きゃつのごとき、人非人から。――恨みこそあれ、金子きんすなどを」
「ところが、世間は、そう視ておらん。――例の、湧井と青砥の二人が、脱藩した事から、貴公にも、疑いがかかっておる。一角とぐるになって、米沢藩の腕利てききを、他藩へ引きぬいたのだと申しおる。――でなければ、お八重どのが」
と、硬骨老人も、そこだけは、少し、遠慮していうように、
「――一角について、逃げるわけもないし、それを、兄たる丈八郎が、黙って見ておる理わけもないと。――ま、一理あるな。そう申しおる」
「ウウム……左様でござりますか」
「処分せいとか、斬れとかいう声が高い。もし、重役が、家中の声に動かされると、切腹とくる。絶家、物笑い。――わしは近所に住んで、御気性も知っておるで、犬死にはさせとうない。逃げたらどうだ、今のうちに」
「あなたまでが、拙者を、左様な、卑怯者と……」
「いや、逃げるといったのは、わしが悪い。冤えんを雪そそぐのだ、潔白を立てるのだ。――それには」
「は」と、丈八郎の眼が光った。
「一角の首を、米沢へ、引ッさげて帰藩する。それより潔いさぎよいことは、あるまいが」
「有難う存じます。よくこそ、御注意を」
で、――なくとも、燃えるような憎悪。血こそちがえ、姉の仇あだ。
彼の家も、それから、ここ二、三日の後には、住み手のない空家となった。まだ、狼藉ろうぜきの夜の足痕あしあとの残る、裏庭の連翹れんぎょうの花は、春をいたずらに、みだれて咲いて――。
「若いな。……は、は、は」
その二人を、門口から見送った朝、何か、意味ありげに、こう笑って、吾家うちへはいった老人は、これまた、俄にわかに、旅支度をして、いつの間にか、米沢からいなくなっていた。
いなずま八荒

(おや? ここでも会った。――妙に何処でも会う老人)と、思うまに、駕かごのタレを刎はね上げた一角の姿を見つけて、先でも、同じように、(おや)と、いう眼いろを閃ひらめかせた。
涼しい木蔭では必ず会う。酒を売る所、三味線のある所、この老人に、出会わないことはない。
「駕屋、一汗拭け」
「ありがとう存じます。――旦那あ、短気だから堪たまらねえ、この炎天に、こんなに飛ばしたこたアありませんぜ」
「心太ところてんでもすするがいい、ああ、ここは涼しそうだ。老爺おやじ、床几しょうぎを借りるぜ」
須賀川すかがわ並木の一軒茶屋。
松の根がたに、駕を置かせて、ずっと日蔭へはいると、さっきから、馴つッこい顔を向けていた旅商人たびあきんどの老人が、
「おっと、と、と。旦那あ、其処は」
「なんだ」
「よけいなお世話のようですが、さっき掛けた女衆が、嬰児あかごに粗相そそうをさせたんでまだ、尿ししで濡ぬれている筈で、――お値だんは同じ事、こちらへ、お腰かけなさいまし」
「そうか、女衆の粗相ならよいが、嬰児のでは、あやまるとしよう」
「はははは。飯坂いいざかでは、だいぶお賑にぎやかなことで」
「二、三度、温泉壺ゆつぼの中で、ぶつかったな」
「旦那も、覚えておいでになりますか」
ぷっと、煙草たばこの火玉をふいて、風に、ころがり出したのを、雁首がんくびで抑えながら、
「足かけ二月ふたつき、永い御湯治ごとうじで。――てまえが、仙台から、会津福島の花客とくいを、ぐるりっと、一廻りして来ても、まだ御滞在と聞いたには驚きましたな」
「何屋だい――老人は」
「どう見えますかの。町人には、相違ございませぬが」
「そうだな……。黒焼屋くろやきやか」
「さすがに、女向きな所を仰っしゃる。だが、違います」
「薬屋でもなし、呉服屋でも」
「だんだんお近くなりますな。実は、その辺――繭仲買まゆなかがいの銀六と申して、こ覧の通り、秤はかり一本、腰にさしたのが飯の種です。出店は、諸国の桑くわある所、住居は、繭の中とでもいいましょうか、いやもう、のん気な風来商売で、歩いてばかりおりまする」
「繭買か。なるほど」
「いやですぜ、顔を見て。――顔がさなぎに似ているなんぞは」
「人間のさなぎは、老人としよりばかりじゃねえ。俺なんぞも、若いさなぎの方だろうよ」と、自嘲をうかべた。
「御謙遜ごけんそんで」と、銀六老人は、首を振って、
「どうして、飯坂あたりの夜ごと日ごと、酒よし、女よしの、あのぶん流し振り、いやもう、恐れ入ったものでした」
「ひどく、感心するな」
「いたしますとも、真昼、北上川の温泉壺ゆつぼの中に、白い首と、旦那の首と、二つならべて、河鹿かじかを聞いているなんざあ、言語道断」
「よくねえ老人としよりだ。いつのまにか、俺の悪い所ばかりを、覗のぞいていやがる」
「は、は、は、は。それからまだ――福島から来ていた後家殿を何して」
「もう沢山」と、焼酎しょうちゅうの茶椀をさしあげて、「亭主、代りを」しゃべっているまに、軽く五合はのんでいる。

近頃は、酒が、水みたいに飲めるのである。
(自暴やけに、身を腐らすというものは、底のねえものだ)と、一角は、自分で自分の早い転落を、あきれた眼で、ながめられた。
千坂兵部ちさかひょうぶに、(人間も三十に近いとなれば――)と、心機の一転を啓発されて、江戸を、立った頃は、もう底まで行ったやくざ者と、自分の堕落だらくを嘆いたものだったが、今を省かえりみると、それから更に、一歩も二歩も、やくざの沼に辷すべり込んでいる。
(己惚うぬぼれではなく、人並以上の腕を持つ一角が――)と、腐ってゆく、身の脆もろさを、殊に、若さを、口惜しく思わぬでもないが、どうにもならない――宿命的なものが、折角、志した米沢でも、尾ついて廻った。
第一の原因は、木村丈八郎の話の不調。それから、こっちの密策が洩れたこと。お八重が、うすうす自分とお里の秘事を知ったらしいこと。清水一角ともあるものが、罪もない小娘を、過あやまってでも、斬った事。
一つも、いい事はない。
(千坂兵部へ、何といって、顔をあわせよう。――見込んでといわれて、米沢へ。――ああいけねえ。男が、男に、見込んでといわれる程、苦手なものはねえ)
悶々もんもんとして、あれからの一角は、旅が、捗はかどらなかった。悪い原因は、もう一つある。それは懐中ふところに、兵部から貰った多分な金があることだ。
で、つい――(ままよ)と、酒。女。――若い骨が、腐るまでと、五十年の道中を、たった、三月か半年に、縮めようと努力している一角だった。
「どれ、そろそろ」と、腰を上げると、繭買まゆかいの銀六老人が、
「今夜は、白河で」
「いや、陽いッぱいに、大田原までは、のせるだろう」
「ついでの事に、夜旅をかけてもいい。今市いまいちとまで、突っ走りとうございますね」
「行くか、交際つきあえ」
異存はなかった。
駕へ、酒をつませて、今市を指して飛ばした。夜を越して、草露に濡れた駕が、へとへとに疲れて、酒と白粉の宿場へ、抛ほうりこまれたのはその翌日――。
三日ほど遊んでいるうちに。
「驚いた老人としよりだ。酒も強いが、何ていう芸人だろう。してみると、俺などは、極道ごくどうにかけると、まだまだ嘴くちばしが青いのかも知れねえ」
と、繭買の銀六老に、一種の尊敬をもってきた。猥談わいだん、酒談、博戯ばくぎ、悪事と諸芸、道楽の百般にわたって、この老人の該博がいはくさは、驚くべきものだった。――といって決して一角を、女たちの前で、子供あしらいにするではなく、実際に飲んで遊ぶとなればなお、面白い。彼自身が、苦労も何も忘れているばかりでなく、相手をして、ほんとに、顎あごを外はずして遊ばせるのである。
「なぜ、おめえは、秤量はかりなんぞを、腰に差していねえで、幇間たいこもちにならなかったか」と、一角が、上わ唇を舐なめあげて聞くと、
「あいつが、楽な商売に見えますかい」と、老人は、一蹴に答えて、
「それよか、旦那あ、なぜ一本ですむ物を二本差して、窮屈きゅうくつがっているよりも、さらりと、博奕打ばくちうちにでもならないのか、わしゃあ、ふしぎ……」と、真面目にいった。
女たちが、話の深味を、はきちがえて、
「博奕ばくちならば、今、日光には、大きな賭場とばができていますから、私たちが、男だったら」
「そうそう」と、老人は、膝を打って、
「陽明門の御修築で、諸国から、職人たちが集まっているせいだろう。あれはすばらしい。日光の賭場を知らずに、博奕は語るな。旦那あ、どうですな」
「行こう」
思い立つと、すぐだった。
気まぐれではない――ここの払いをしてみると、一角は、もう底の透いてみえる持ち金に、少し、心細さもあったのである。

あぶら蝉ぜみ、みんみん蝉、日光山がジイ――ッと啼いているようだ。
「馬鹿なやつじゃねえか。あれが、ほんとの、自暴やけのやん八」
香りの高い檜ひのきの板を、削り台にそろえて、十人ばかりの大工が、絹よりうすい鉋屑かんなくずを舞わせながら、
「ふふむ、あの浪人者か。山の大賭場おおとばへ割りこんで、素ッ裸に、取られたっていうなあ」
「素人しろうとのくせにしやがって、諸国の親分が出張っている盆へ行って、商売人の金を取ろうっていう量見が、第一、押しがふてえ」
「だが、毎日、そっちこっちの工事場で、寝てばかりいやがって、邪魔になってしようがねえな」
「先へ行く路銀も失くなったんだろう。賭場とばをのぞいちゃ、金をゆすッて、ああして、酒ばかり食らってやがる。――まさか、左官や塗師ぬしの手伝いもできず、侍もああなっちゃお仕舞だな」
「叱しッ……。やたらに、大でけえ声を出すな。眼をさますぞ」
鉋音かんなおとを止めて、職人たちは、後ろを見た。板小屋の横の板束の上に、清水一角は、涎よだれをたらして、寝ていた。
連れの銀六老人は、いつともなく、別れたものと見える。
「ううむ……」と、寝返りを打って、あぶなく、板束の上から、転がりかけて抱きついた。
毛脛けずねが、出ている。鋸屑おがくずだらけな髷まげが、そッくり返っている。二寸ほど鞘辷さやすべりしている大刀の刀身も、賭場で、勝負をしてしまったのか、あわれにも、竹である。
「態ざまあねえな」
職人たちは、べっと、唾つばをして、鉋かんなに腕の縒よりをかけ初めた。
「おう、何をしているんだお八重、はやく来ねえか」
向う側の参道並木――杉や燈籠とうろうで鬱蒼うっそうとして、人影は見えないが、胴間声どうまごえで、こう呶鳴どなっている者がある。
板小屋の横をのぞいた女の顔が、それへ、あわてながら、
「はい、今すぐに――」と、答えながら、一角の寝すがたへ、何か、結んだ紙片かみきれらしいのを、抛ほうりつけて、ばたばたと連れの方へ、駈けて行った。
ひら、ひら、と白い結び文は、鉋屑かんなくずといっしょに舞っていた。
今、眼をさましたのか、寝ているはずの一角の眼は、赤く濁った眼を開いて、じっとそれを見ているのだった。今、通りすぎた男女ふたりの足数でも心に測っているように。
やがて。
むっくりと起きて、それを拾った。読むとすぐ、裂いて、袂たもとに突っこみながら、
「ああ、喉が渇かわいた」と、まだ幾分か、宿酔しゅくすいの眼まいを感じるらしく、ふら、ふら、と御手洗みたらしの方へあるいて行った。
風が、山をうごかしてきた。喬木の魔形まぎょうが雲のはやい空に揺れて、唸っている。足場の人影は、あわただしく、活溌になって、木ッ葉や、鉋くずが、地に舞った。
「ちょっと伺います。――職人衆、仕事のお手を止めて、恐れ入ります」
仕切帳でも包んであるのか、小風呂敷を腰から前へ結んで、矢立に、道中差、千種ちぐさの股引ももひきを見せて、尻端折しりはしょりをしている、若い商人あきんどていの旅人だった。
「――来るぜ、ひと夕立」と、雪脚くもあしに趁おわれて、ばたばたと、片づけ仕事に慌あわてていた大工たちが、
「なんだい。物売りなら、明日あした来ねえ」
いい加減に、答えていると、
「いえいえ、てまえは、縮布屋ちぢみやの手代で、物売りではございません」と、若者は、ていねいに挨拶をし直して、
「伺うかがいたいのは、実はこの日光の御普請場ごふしんばに、賭場とばがあるそうで」
「おい。邪魔だな、あぶねえぜ」
「はいはい、相済みません。――その賭場に、十日ほど前から、清水一角という浪人が、遊びに来ているという事を、ちらと他ほかから耳にしたのでございますが、どなたか、御存じでございましょうか」
「知らねえよ、一角なんていうな」
「でも、慥たしかな所から……おかしい。間違いはないような話なのですが」
「幾歳いくつぐらいな浪人だい」
「やがて三十近い――どこか凄味すごみのある痩やせた男でございます」
「じゃ、あれじゃねえか。縮布屋ちぢみやさん、あの板屋の横に、昼寝をしていたが」
「えっ」と、身をかわすように、縮布屋は飛び退のいて、
「――何処に?」
「おや、いつのまにか、見えねえようだ。何処へ行っちまったのか」
すると、一人が、「あの浪人者なら、たった今、町から帰けえってくる途中で打ぶつかったが、何か、一本槍に、宇都宮街道の方へ、急いで行ったぜ」
「え、宇都宮の方へ。――そうですか、いや大きに」
縮布屋の手代は、そう聞くと、笠を持ち直して、まっしぐらに、神橋しんきょうの方へ、走ったが、姿を見つけると、橋の袂たもとから、「あっ兄様。ここに」と、十五、六の順礼娘が、「分りましたか」と、側へ駈けてきた。
「おお、お信。よろこんでくれ」と、息の弾みにも、その欣びを昂たかぶらせて、
「相手は、分った。やっぱり、ゆうべそっと報しらせてくれた人の告げは、嘘ではなかった。……しかし、あれは誰だったろう」
「ほんとに、不思議な。――今朝旅籠はたごを立ってから、ふと見ると、兄様の菅笠の裏に、そんなお告げが書いてあったなんて。……まるで神様が」
「いや人間の字だよ」と、縮布屋ちぢみやは、笠の裏を返して、読み直しながら、
「お前は、そうして順礼姿、わしは、縮布屋の丈八と身なりまで変えて、こうして相手の一角を狙つけているなんていう事は、旅先で、知ってる者はない筈だが? ……」
ぽつと、雨が、顔に触った。
「オオ」と、丈八は、落着かない眼を空に、
「今、普請場できいた話には、その一角は、たった今ほど、宇都宮の方へ行ったというのだ。――お前は女の足、わしと一緒には、駈けきれまいし、といって、ここで一歩の差は、百里の差になる。……ああ困ったな」と、焦心あせり顔に、つぶやいた。
すると、さっきから、森の薄暗がりに、黙然と腕を拱くみあわせて、こっちをながめていた繭買まゆかいの銀六老人が、のそ、のそ、と歩いて来ながら、
「丈八さん、お信どのは、わしが預っておる。そんな事に、気をひかれずに、早く相手を追ッて行きなさい」

「やっ、御老人」と、丈八はびっくりして、
「あなたは、米沢の裏町にいた――」
「まあ、そんな事は、どうでもよい。実は、貴公たちが、発足ほっそくして後、わしも江戸の親戚みよりに急用が出来てな」
「もしや、ゆうべのお報らせは」
「実は、おせっかいだが、わしの教えた事だ。今市へ泊った晩に、相宿あいやどの者からひょいと聞き込んだので」
「存ぜぬために、お礼も申さず」
「いやいや、こッちに都合のわるい連れがいたので、わざと、お会いしなかったのじゃ。――だが、今聞けば、一足ちがいで、ここを立ったという事。はやく行かっしゃい、時遅れては」
「では、お信は、まだあの傷手いたでの病み上がり、どうぞ」
「ああ、心配しなさるな。どうかけ違っても、わしが、ひきうける」
「安心しました、それでは」
「一角も、剣を把ると、名だたる腕利てきき。ぬかりはあるまいが、油断はせまいぞ」
「その儀は」と、初めて、明るい一笑を投げて、丈八は、宙を翔かけるように、街道を急いで行った。
みだれる雲――疾風はやての叫び――行ゆく方ては宵闇よいやみほど暗かった。時々、青白くひらめく稲妻が眸ひとみを射、耳には、おどろおどろ、遠い雷鳴かみなりがきこえてきた。
「あっ――傘が」と、男女ふたりは、柄えを持ちあった。
び、び、び、と傘の耳を鋭い風の戦慄せんりつと、雹ひょうみたいな雨つぶの音が、横に、なぐッて行く。
鹿沼かぬまの、博奕打ばくちうち、玉田屋の酉兵衛とりべえは、この一夏で、日光の出開帳でかいちょうから上げた寺銭の大部分を、今、連れてゆく、孫のようなお八重の身代金に、投げだしたといわれていた。
お八重は、今市の茶屋へ、出たばかりな女だった。道中悪にかどわかされて、そこへ、捨て売りにされただけに、素人しろうとくさいのと、武家出の女という事が、酉兵衛の心をうごかした。金で、花街まちから抜くとすぐ、中禅寺の乾分こぶんの家にあずけて、時折、
(どうだ、景気は)などと、そのお八重を連れて、二人で、見せびらかしにでも歩くように、賭場とばへ出ることもあった。
で、一角とも、場所で、二度か三度は、会ったはずである。――だが、お八重は、※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも、彼との事などを、酉兵衛とりべえに洩もらしている気遣きづかいはなかった。
きょうは、細尾の身内に、祝い事があるので、山を降りた。お八重は、それをどんなに待ちかねたろう。酉兵衛が、駕でというのを、何のかのと、歩かせて来たのも、彼女の考えからだった。
「みろ、言わねえ事じゃねえ。ぽつぽつ、降ッて来たじゃねえか」
「でも、相傘なら、いいじゃありませんか」
傘の蔭から、お八重は、時々、後ろを気にしていた。そして、跫音を感じると、
「あらっ」と、不意に、傘の手を離して、それを、追うように見せて、身を交かわした。
「あぶねえ。大谷川だいやがわへ墜はまるなよ」
雨に、眼をつぶりながら、振向いたとたんである。蓑みのを、頭からかぶって、向う見ずに駈けてきた男が、どんと、胸いたへ肩をぶつけて来たと思うと、酉兵衛の脇差の柄つかへ、手を伸ばした。
「何をしやがる」
「かッ!」
蓑を刎はねた浪人者の顔を、酉兵衛は、あっと、一眼見たきりだった。ずばっ――と片手なぐりに、肋骨あばらへ斬り下げられて、
「ウーム……」と、真ッ赤なものを吐く爬虫類はちゅうるいみたいに、手も足も縮め込んで、雨の中を、転がった。
どぼうん――と大谷川に、飛沫しぶきが立った。
激流は、人間の血あぶらと、背なかだけを見せた丸っこい死骸とを、一瞬のまに、流して行った。
「しばらくだったなあ……」
一本のやぶれ傘の中で、男女ふたりは、笑い顔をながめ合って歩いた。雷光いなびかりが、絶えず、白い雨を見せて、睫毛まつげのさきに閃ひらめいていた。

きょうまで、どんなに苦労をしたろう、探したろう、そして、寝る間も――というような事を、女は、雨も雷鳴かみなりも――濡ぬれる冷たさも、うつつに、昂奮こうふんしてしゃべった。
「金は」
一角は、お八重が、いい加減、言いくたびれるのを待って、
「――持って来たろうな」
「金なんか……。江戸へゆけば、思案の上で、どうにかなるでしょう。路銀さえあれば」と、帯を、ちらと覗いた。
「じゃ、支度をして来なかったのか」
「ええ。……だって、とても乾分こぶんたちの眼があって」
女は、一角の期待していた重点には、まるで、無関心のように、「でも、私は、嬉しい」と、傘の柄にある男の手を、上から、痛いほど、重ねて握りしめた。
(馬鹿。馬鹿。馬鹿)
自分へか、女へか、一角はむらむらと、やり場のない、怒りを感じた。――まるで食い違っている女と自分とが、こんな吹き降りの中を、一本の傘で、歩いている物好きさが!
(金なのだ。俺がいま欲しいのは。――江戸へゆけば、兇状だらけ。千坂の屋敷以外には、身のおき所もねえ体)
だが、足は、この日光街道は、まっ直ぐに、中仙道から江戸へ向いている――
「ちッ」と、思わず、唇をゆがめて、
「ああ、酒がさめた。酒が恋しい」
「そんなに、この頃は、飲むのですか」
「半日も、一刻いっときも、酒がなしじゃいられねえ」
「私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もう飲あげない。そして可愛がってばかりあげる」
一角は、ふいに、傘の下を、脱け出した。
「あら、何処へ」
「居酒屋だ」
戸を細めている真暗な居酒屋の軒下に立って、一角は、枡ますをうけ取った。樋といの雨水が、ざっざと、背なかを打つのであった。
ぐうっと、眼をねむって一息に――
「おお、美味うめえ。――亭主亭主、もう五合」
一升の冷酒ひやは、一角の体温をほどよく温めた。あきれて、後ろへ立っているお八重へ、
「オイ。銭を払え」
お八重が、帯の間から数える小銭を見て、彼は、さらに、女の貧しさを憎んだ。それは、二晩の旅籠代はたごだいにもたりない。
「面倒だ――剰銭つりは――こう亭主、剰銭の分だけ、追い足しに」
さすがに、酔よいが、いっぺんに、発して、一町ばかり歩く頃から、雨が、逆さに降ッてるように見えた。
「濡れますよ。傘の中に、はいっていないと」
「ええ、小うるせえ」と、女の手を、肩を振って、振り落して、
「――てめえは一体、どこへ行く気だ?」
「あんな事をいって。江戸へでしょう。そして、私には、お里姉さんのように、江戸唄のお師匠様にはなれないけれど、針仕事ぐらいはできるから」
「だれが、そんな夢を見ろと言った。一角は、天下の無宿、おめえなどと、巣を持つ土地さえありゃしねえ。――ばかばかしい、金でも持って来るかと思やあ……」
「清水さん。おまえ、それは本気で」
「本気も嘘もあるものか。元々、一角は、浮気者だ。浮気者なればこそ、禄にありついたと思うと、そいつに身を破る。こっちの身を破らせておいて、女は、後じゃ恨みつらみ……。それを思うと、酒は可愛い。おれはこれから宗旨をかえて、生涯酒を無宿の女房ときめる。……へッ、へッ、へ、へ。よくもここまで俺も……は、は、は」
「何が……何がおかしいのですえ。……じゃ清水さんは、初めから私を」
「あたりめえだろう。てめえも、武家の出戻りでありながら、ただ、行きずりの一角に、すぐ手を出せば乗るなんざ、女庭訓おんなていきんを外れている。身から出た錆さび」
「な、なんですッ」
「おっ――あ、あぶねえ、食いつくのか」
「口惜しいっ……。く、口惜しいっ……」
「泣け泣け。肩なら、いつまででも貸してやる。……おお、何か落ちた、髪あたまの物が」
お八重は、雨の中へ、手をのばして、
「あ……姉さんの罰ばち」
「姉さん?」
「――堪忍して、堪忍して」と、拾った小さい物を、抱きしめた。
ぎょっと、彼女の手へ、一角は――酒と血とを、交ぜたような、どろんとした眼を、すえて、
「何だ? ……それは」
「釵かんざし」
「畜生ッ」
雨が――きゃあッ――という悲鳴を吹き攫さらッた。
小脇差で、たった一打ちに、お八重の首を、ぶらんと、斬って伏せた一角は、どっどと、雷いかずちにあわせて鳴る大谷川の激潭げきたんのふちを、蹌々そうそうと――踉々ろうろうと――刃の血を、雨に、洗わせながら歩いて行く。
どこの追分で、道をちがえたか、それとも、裏街道と、早まって、先へ追い越してしまったのか、縮布屋ちぢみや丈八は、とうとう、一角の姿を見出さなかった。
吉良家の人々

江戸らしい。どうしても。
あらゆる物証からも、六感からも、丈八はそう教えられて、日ごとに、江戸中を探していた。
初秋の二百十日過ぎ。――町には、祭りの提灯ちょうちん、花車だし、シャンギリの音が――そして空には赤とんぼが、江戸の秋を染めている澄んだ日だった。
「御用っ」
左衛門橋を、ばらばらっと人が――声が飛んでった。
砂利場の砂利に、腰を下ろして、(銀六老人にも、あのまま、別れっ放しだが、お信は、守っていてくれてるだろうか。あの物堅い老人ゆえ、安心は安心だが)と、すこし疲れた面もちに、考えていた縮布屋ちぢみや丈八は、「何か?」と、橋の跫音に、顔を上げた。
とたんに――一箇の物体が、視線をかすって、橋の袂から、河へ。――と思うと、どぼうんと、白い飛沫しぶきが、丈八の顔にまでかかった。
「石?」と、丈八は、思ったが、橋の欄てすりに、足をとめた町方や、捕手や、弥次馬の群れは、
「飛びこんだ、飛びこんだ」
「あの辺に――」
「水がうごいている」
わいわいと、指さしているうちに、町方同心が、指図をする。捕手たちが、そこらの舟へ飛びうつる。竿さおで突く、鉤かぎを投げる。
「――はてな?」
丈八だけは、その人々が、みんな視力の錯覚にかかっているように見えた。で――何気なく、そこを離れて、橋袂はしたもとから、欄干らんかんにかけて、背中ばかり並べている群集の空地を見ると、今、捕手たちが追い込んで来た元の方へ、ふところ手にして、にやりと、笑いを歪ゆがめながら戻ってゆく男がある。
ごくッ……と、丈八は、喉のどに生唾なまつばをつかえさせた。似ている! と思う直感と、たしかに! という直感と、一時に、十文字に、胸をつきぬいて、大きく心臓が呼吸した。
場所――地の理――尾つけまわして、ちょうと、黄昏頃たそがれごろ。
どこの仮巣へ帰るのか。
祭りの赤い宵空に、夕月の映るを見ながら、竹屋河岸の酒屋の軒ばを出て、ぶら、ぶら、と火除地ひよけちの桐ばたけを、一角は、よろめいて行った。
(よしっ、今だ)と見て、丈八が、「待てっ。一角っ」と、するどく、ぶつけて、突嗟とっさに、前へ突っ立つと――分らない――朦朧もうろうと靄もやでも隔てて見るように、
「だ、誰だ」
「酔をさませ。木村丈八郎だ」
「来たかっ、丈八」
「米沢への江戸土産みやげに、その首を貰った」
「ばッ、ばかなッ。……わ、笑わすなよ、丈八。俺こそ、貴様の首がぜひとも入用だ。江戸への、米沢土産に、てめえの首をぶら下げてゆけば、ちと、閾しきいはたかいが、一時の身の置き場はある」
「だまれ、姉の怨みも」
「それで来るなら、それもよし、返り討ちだぞ」
「何の」
「くそうッ」

ちかッと、青い夕月の光が、脇差の刃に刎はねた時、一角の体は、肩を落して、豹ひょうのように、丈八のふところに、はいっていた。
だっッ、と足で搏うった。
(不覚)と、丈八は、柄つかがしらで、一角の小手を突いたが、とたんに、足が浮いた。――投げ――食ったな――と宙で感じると、逆さまに見える敵の影を、(おのれっ!)と、払ッた。
びゅっと、風の立つような勢いで、一角は後へ跳んでいた。でも、切っ尖は、彼の睫毛まつげから、三寸とは、離れていなかった。
とたんに丈八は、見事に五体を、抛られていたのである。本能的に、刀だけは、ぴたっと、前へかまえていた、そして、一角はと見ると、大刀は抜かず、小脇を払って、あれが、ほんとの一角の眼か――と見られる凄すごい眸を、ジッと刃のみねから真っ直ぐにつけている。
「止めろっ。おいっ! あぶない!」突然、誰か、こう呶鳴った。
そして、一角のうしろからも、丈八郎の後ろからも、むずと、抱きすくめた者がある。
「や、青砥あおと弥助」
「おう、湧井わくい半太夫じゃねえか」
丈八郎も、一角も、同じように驚いた。そして、互いに、叫び、悶もだえ、抱きとめている手を振りもいで、挑いどみあうのを抑えながら、「待てっ、任まかせろ。――御家老もおいで遊ばしている事だ。御家老に対しても」と、二人は、必死に制した。
「え。千坂様が」
さらに、意外に衝うたれているまに、青砥は、手をあげて、「駕、駕」と、桐ばたけの蔭の灯を呼んだ。
飛んできた、町駕が二つ。――湧井は、無理やりに、
「さ、はいってくれ。討つとも、討たれるとも、とにかく、話はお屋敷で」
微行しのびの塗駕が、すぐそばを通った。提灯ちょうちんのしるし、まぎれもない、千坂家のものである。
その後に尾ついて、「――早く、早く」と、湧井半太夫と、青砥弥助とは、駕を急せき立てて、たッたと駈けだした。そして、真っすぐに浜町の千坂家の下屋敷へ。
祭りを見せるといって、馬喰町ばくろちょうの旅籠はたごから、お信を連れて、出あるいていた繭買まゆかいの銀六老人は、お信には、分らぬ、知れぬ、とばかりいっていた丈八郎の行動を、どうして、そう心得ているのか、
「さ、見つかった」と、火除地ひよけちへ、急いで来たが、案外な――という顔をして、「はてな、何処へ」と、遠ざかった駕を、必死に、追いかけて行った。
だが――それがやがて、千坂家の表門へ、駕通しに、ずっと呑まれてしまったのを見届けると、「ああ、しまった!」と、何もかも、泡沫ほうまつに帰したように、しばらく、茫然と、厳いかめしい門扉もんぴを眺ながめていた。
「どうも、しかたがない。――やはりそれだけ、千坂兵部の手が大きいのだ。お信さんや……」と、振り向いて、
「お前も、いろいろ、苦労をしなすったね。だが、これからは、大きな人物のふところで、雨にも、風にもあたるまい。木村丈八郎の妹だといって、そこの家をたずねなさい。……何、わしかい? わしはまあ、遠慮しよう。じゃ、御機嫌よく」
と、お信を置いて、それなり、風のように姿をかくしてしまった。

呉ごと越えつと、仇あだと敵かたきとが、こうして一つの釜かまの飯を食う、食うのが、間違っているか、宿命なのか。
本所松坂町の吉良家の侍部屋で、もう一年と幾月かを、思わず暮してしまった丈八郎は、(なんと、人間は、ふしぎな生きもの)と、感ぜざるを得なかった。人がではない、自分がである。自分の変化がわからないのである。
一つ釜の飯の同化力はおそろしいものだ、と思った。――この、吉良殿の首番としてごろごろしている侍部屋には、今、十一人の剣客がいる。自分もそのひとり、清水一角も、その一人だ。
「――たのむ。お家のために、吉良殿ではない、上杉家の社稷しゃしょくのために」
あの、直江なおえ山城以来の人物といわれている国家老の千坂兵部が、軽輩も軽輩――とるにたらない若輩じゃくはいの自分へ、「私怨は、わすれてくれ。わしが、たのむ」と、手をついたではないか。手を。
(衝うたれずにいられるか)丈八郎は、否いなやなく、(一角とは、桐ばたけで、刺さし交ちがえたと思って、吉良殿へ、参りまする)と答えたのだった。
ところが――初めは、朝夕に、顔をみるさえ、影をみるさえ、むらっと、殺意に燃えた一角が、誰より、一番ふかい自分の友だちになっている。一つ釜の飯の感化なのか、今では、憎もうとしても、憎めない。
「さあ来い。酒を賭けるか」と、毛脛けずねをむきだして、脛押しをしている一角。酔えば十一人の部屋を、ひとり顔に、寝ている一角。
「よく、無宿者が集まりやあがったぜ。ここは、人間のさなぎが寄った無宿人の国だ。どうだい、今日は、おれが、貸元になるから、無宿者の真似をして、遊ぼうじゃねえか」
飲むか、寝るか、女ばなしか、する事がないので、大びらに、博奕ばくちなども初めるが、自分の首の番をしてもらっている吉良殿は、弱身があるので、
「左様な事は、相成らぬ」とも、いえなかった。
丈八郎は、たった一つの希望、お信のことだけを、時折、思いだしたが、その将来は、千坂兵部が誓ってくれている。何の、思いのこす事はないのである。
(いつでも)と、死を待つ、さわやかな気持が、非常に、彼を自由にした。どんな遊戯ゆうぎ、どんな、見下げるような浪人とも、楽につきあえて、面白く、相手の人間性を見ることができた。
――殊に一角に対する考えは、前とは、まるで変っていたし、一角も、やや心の落着きと、その居所を得たというのか、だいぶ、荒すさんだ影がとれてきた。
「雪だ」というので、まかない方へ、「こん夜は、鮟鱇鍋あんこうなべを出せ。酒も、よけいに」と、それを、十一人でとり囲んで、ぐっすり寝込んだ晩だった。まさに、十二月の十四日である。
屋根の雪なだれ――かと、思っていた物音に、耳をすますと、陣太鼓。
がばっと、真っ先に、一角が、
「丈八郎」と、蒲団を刎はねて――
「起きているか」
「お……。いぶかしいぞ」
「来たっ。は、は、は、は。丈八郎、俺は、なんだか、嬉しくってたまらない。とうとう来た――俺の、俺の待ちかねた日だ。ぬかるなッ」
もう、青砥あおと弥助も、湧井半太夫も、十一人すべてが躍りあがって、
「赤穂の浪士、何ほどのことがあろう」
長押なげしの槍へ、手をのばす者、日ごろ、稽古けいこをしていた、半弓の弦つるを鳴らす者――。
「丈八郎! 俺と一緒に働け」
一角は、一枚の雪戸を蹴ってさけんだ。眼を射いるような白夜の光が、さッと、室内へ冷たい空気をふきこんだ。

裏門、表門。――室内へ、庭口へ。
烏のような人数が、どっと、なだれ込んだ。誰が将、誰が某なにがしとも、わかたない。
付人つきびと側の十一人、鳥居与右衛門、須藤与一、左右田そうだ孫八たちは、みるまに、奮戦して、ばたばたと討死した。
一角は、朱あけになって、「丈八郎、いるか。――丈八郎」と、たえず、彼を呼びながら、「けなげな、赤穂の浪人、清水一角のいるからには、ここは一歩も」と、奥書院にかよう、中門に立った。
「推参ッ」と、萩垣はぎがきの横から、槍が走った。――若い、赤穂浪士の一人だった。
「うぬ!」
だっと追って、片手に大刀を、左手に、小脇差をもって、飛びかかった。雪をもった、松の梢が、間へ、ばさっと落ちた。
「矢頭やとう。あぶないッ」
それを、ささえるように、がっしりと、武装をした一人が、さけんで、
「――赤穂の旧藩士、奥田おくだ孫太夫重盛、一角どのへ、参る!」と、槍をくりのばした。
「何ッ」
ふと、声に覚えがあったので、片手を、上段に、ふり向いた一角は、鉢金はちがねの下とはいえ、あざやかに見える敵の顔に、「あッ? 老人」と、ど肝を抜かれて、叫んだ。
敵は、笑って、
「繭買まゆかいの銀六、お覚えか」
「さては、老人、赤穂の廻し者であったな」
「むろん、米沢あたりにも、一人や二人の間諜かんちょうは。――これも、尽きぬ御縁」
「おっ、よい敵だ」
半弓の矢が、どこからか、飛んで来た。二、三合、刃まぜをする間に、奥田孫太夫は、あっと深股ふかももを抑えて、
「残念ッ」と、いいながら、雪の上に、腰をくだいた。
「弱いぞ、銀六。――いや奥田老人」
振りすてて、走り去ると、奥田老人は、「卑怯卑怯、返せ、一角」と、どなった。
乱れ髪に雪を――全身に血を、浴びて、一角は、斬りまわった。もう、白い雪と、赤い血としか、何ものも見えなかった。人影と見れば、双方から、ぶつかッて、刃をあわせた。
「――おッ、そこにいたか」
池のふちに、苦戦の丈八郎を見出して、「――助太刀ッ」と、味方へ、気勢をつけて、その群れへ、斬りこんだ。
誰か、雪を真っ赤にして俯ッ伏していた赤穂方の一人が、ふいに見た、一角の足を、刀でなぐった。
「ええッ、此奴こいつ」
踉よろけながら、後ろへやった刀が、かつんと、鉢金に弾んだと思うと、鍔から三、四寸の所から、折れて、氷柱つららのように、すッ飛んだ。
しきりと、室内から、半弓を射て、味方を助ける者があった。――また、ひと群れが、庭木戸から、押しもどって、どっと、雪が、まっ黒になるほど、紛雑ふんざつする。
「丈八……俺を……丈八……俺を……」
そこを、斬り破って、刀を杖に、よろめいてゆく一角の顔は、もう、あらかた血と、青い皮膚だった。
木村丈八郎の腕を、自分の脇の下へ、かたく抱きこみながら、
「さ。……どこか。……何処でもいい、人眼にかからない、所で、俺の首を……斬れ……。斬ってくれ」
「しっかりしろ! 一角、まだ、まだ」
「いや、御奉公はした。千坂殿への奉公はした。……貴様だって……立派だ……立派に頼まれただけの事はやった。上野介こうずけのすけの首なんか、千坂殿だって、いつかはと、覚悟はしている。ただ……上杉家の立場が……ただそれだけだ。討て、はやく、人の来ないうちに」
「もう、そんな私怨は、千坂殿のまえで忘れた約束だ。俺は、斬らん。――二人で、もう一度、赤穂の浪人の中へはいって、斬り死にをしよう。なあ、一角」
「いけねえ。……それでは、俺の気がすまない。この雪の夜を、こんな、誂あつらえ向きな晩を、さばさば……と」
彼は、雪をつかんで、唇くちに入れた。
「――赤穂の敵は、立派だなあ。戦いながら、惚々ほれぼれした。武士さむらいはやっぱり武士に、成り切らなくっちゃ、嘘なんだ。丈八……貴様あ、立派な武士になれ」
「ばかなっ、俺も、今夜は死ぬ身――」
「よせ。吉良の庭に、犬死するな。庭ざかいの塀を越えて、上杉家へ、駈け込め。――千坂殿が、きっと来ている。千坂殿は、きっと、貴様の生きて帰ってきたのを欣ぶ!」
丈八郎は、初めて、一角の眼に、涙というものを見た。口へ押しこんだ、雪をかみながら、濡れた睫毛まつげを、しばたたくのである。
「……さっ、斬れ、おいっ。頼むから、きれいに、斬やってくれ。年三十にならねえうちに、生きるに持てあましたこの首を」  
 

 

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