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雑学の世界・補考   

 
謝罪の歴史 

大東亜戦争 開戦の詔勅 (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
今の憲法では国の交戦権を認めていませんし、天皇が勅令を出すこともありませんが、日本が戦争を起こすときは天皇が開戦の詔勅を発し、講和あるいは終戦の詔勅で、戦争が終結したことを知らせてきたのです。開戦の詔勅には、日本がなぜ他国と戦争するのかという記述が簡潔に書かれてあります。さて、日本はなぜ戦争をしたのでしょうか?日本人から見た答えがここにあります。太平洋戦争の開戦を布告した詔書です。開戦時に官公庁や地方の役所に配付されたもの
太平洋戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)  
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ 勵艶E務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル 皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ 帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ 逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ搴ュシテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復 セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ拐~ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ  u々經濟上軍事上ノ脅威ヲ搗蜒V以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル 帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ~靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ 遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
<読み下し文>   
天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ばんせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に  
忠誠(ちゅうせい)勇武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に示(しめ)す。  
朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せいせん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんことを期(き)せよ。  
抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(かくほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)かざる所(ところ)。  
而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ)と為(な)す所(ところ)なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざし)ならんや。  
中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至(いた)らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜんりん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけい)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。  
米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。  
朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。  
斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。  
皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上(かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せんじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
太平洋戦争開戦  
昭和16年の開戦を人々が知ったのはラジオだった。その年の12月8日は日曜日だった。その日の日本放送協会は、午前6時40分から「武士道の話」という番組を放送していた。それが終わると同7時から開戦を知らせる臨時ニュースを流した。  
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部発表。12月8日午前6時、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり」  
館野守男アナウンサーが緊迫した声で放送した。この日、午前中だけでも開戦を知らせる臨時ニュースが5回放送されている。  
午後は勇壮な音楽放送が行われていた。午後6時半から30分間、「合唱と管弦楽」と題して、軍艦行進曲や海ゆかば、敵性撃滅、遂げよ聖戦などが放送されている。  
同7時になると君が代の後、日本放送協会の中村茂業務局告知課長が、詔書奉読、内閣総理大臣の東条英機陸軍大将が録音で「大詞を拝し奉りて」とした放送が行われている。引き続いて奥村喜和男情報局次長が「宣戦の布告に当りて国民に愬う」と題して、防衛参謀長の小林浅三郎陸軍中将が「全国民に告ぐ」と、開戦の正当性の訴え、戦意高揚をねらった放送が立て続けに行われた。  
この日は開戦関連の放送を聞こうと人々の多くは、ラジオ店の前などに集まっていた。この頃、ラジオの普及率はまだ四五・八%で六六二万四千台余であった。前年の五月に、五〇〇万を突破したばかりだった。またこの年のラジオの生産台数は、八七万六千台でピークに達していた。翌年から終戦まで激減していくことになる。  
この日を境にラジオ放送は、急速に国に統制されていく。そのひとつが放送は原則として東京発の全国中継となり、気象通報や天気予報は中止された。また電波の発信地を解らなくするために周波数を一〇〇〇キロサイクルにしたり、全国を軍管区地域別の5群に分け、空襲警報などの軍情報を地域別に伝達することになった。これらはいずれも、戦争が始まった12月の間に実施されている。  
また軍情報を伝達する目的から、ラジオ放送を一人でも多くの人たちに聞かせようと、同放送協会は「放送局型受信機」(通称・国民型ラジオ)を斡旋している。価格は61円70銭程度だった。  
開戦時、放送協会の放送局は67局あり、職員数5950人にもなっていた。
大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)  
大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。大東亜戦争(対米英戦争)開戦の日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された。  
1942年1月2日に閣議決定され、同月8日より実施。これに伴い、1939年9月から毎月1日に行われていた興亜奉公日は廃止となった。大詔奉戴日は大東亜戦争中は継続するものとされていた。  
大詔奉戴日の趣旨は「皇國ノ隆替ト東亞ノ興廃トヲ決スベキ大東亞戰爭ノ展開ニ伴ヒ國民運動ノ方途亦畫期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戰ノ大詔ヲ渙發アラセラレタル日ヲ擧國戰爭完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス」とされ、興亜奉公日より一層戦時色の強いものとなった。国旗掲揚、君が代吹奏、宮城遥拝、詔勅・勅語の奉読などの他、学校では御真影の奉拝や分列行進なども行われた。  
興亜奉公日で推奨されていた、児童・生徒の日の丸弁当は引き続き実施されたが、戦争末期になると食糧事情が悪化し、日の丸弁当ですら容易に作ることができなくなっていった。  
大詔奉戴日設定ニ関スル件  
昭和17年1月2日 閣議決定  
一、趣旨 / 皇国ノ隆替ト東亜ノ興廃トヲ決スベキ大東亜戦争ノ展開ニ伴ヒ国民運動ノ方途亦画期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラレタル日ヲ挙国戦争完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス  
二、名称 / 大詔奉戴日  
三、日 / 八日  
四、実施項目 / 趣旨ニ基キ大政翼賛会ニ於テ政府ト密接ナル連絡ノ下ニ設定スルモノトス  
五、実施 / 昭和十七年一月ヨリ大東亜戦争中継続実施シ大政翼賛会之ガ運用ノ中心トナルモノトス  
六、昭和十四年八月八日閣議ノ決定ニ依リ設定セラレタル興亜奉公日ハ之ヲ廃止シ其ノ趣旨トスル所ハ大詔 奉戴日ニ発展帰一セシムルモノトス  
天罰発言事件 (天佑天罰事件、天罰天佑事件)
1945年(昭和20年)6月9日に帝国議会で鈴木貫太郎総理大臣によってなされた演説に不適切な語句が含まれるとして、後日の議会で議員より質問がなされ、それに対する鈴木の答弁をめぐって会議が紛糾した事件。
1945年6月9日、第87回帝国議会が招集された。その目的は義勇兵役法と戦時緊急措置法の採択である。議会の招集を推進した内閣書記官長の迫水久常によると、鈴木や海軍大臣の米内光政は当初開催に反対であったという。迫水は、法治国家として今後新たな立法が必要となる一方、交通通信手段に対する戦争の影響で議会を開けなくなることが予想されるため、開会可能な状況で臨時議会を招集し、広範な立法権を政府に委任させるべきと考えた。すでに国家総動員法で行政府に広範な立法委任が認められ、さらに大日本帝国憲法第31条においては天皇による非常大権の規定も存在したが、迫水は「法律によって議会の委任を受けるほうが、民主的である」と考えたと記している。
この日午前10時30分より開かれた貴族院本会議および11時9分から開かれた衆議院本会議で、鈴木は発言を求め、戦争継続を訴える演説をおこなった。その中で、鈴木は「米英の非道」に言及した文脈で以下のように発言した(原文のカタカナをひらがなとし、一部漢字をカナ表記に変更。引用部分全体では貴族院と衆議院で助詞等の細部に違いがあるが、太字の部分はまったく同一である。以下の引用は貴族院での発言)。
「今次の世界大戦の様相を見まするのに、交戦諸国はそれぞれその戦争理由を巧みに強調しておりますけれども、畢竟するに人間の弱点として誠に劣等なる感情である嫉妬と憎悪とに出づるものに他ならないと思うのであります。私はかつて大正七年、練習艦隊司令官として米国西岸に航海いたしました折に、「サンフランシスコ」におきましてその歓迎会の席上、日米戦争観につきまして一場の演説をいたしたことがあります。その要旨は、日本人は決して好戦国民にあらず、世界中最も平和を愛する国民なることを歴史の事実を挙げて説明し、日米戦争の理由なきこと、もし戦えば必ず終局なき長期戦に陥り、誠に愚なる結果を招来すべきことを説きまして、太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告したのであります。しかるにその後二十余年にして米国はこの真意を諒得せず、不幸にも両国相戦わざるを得ざるに至りましたことは、誠に遺憾とするところであります。しかも今日我に対し無条件降伏を揚言しておるやに聞いておりますが、かくの如きはまさにわが国体を破壊し、わが民族を滅亡に導かんとするものであります。これに対し我々の取るべき途は唯一つ、あくまでも戦い抜くことであります。帝国の自存自営を全うすることであります。」— 鈴木貫太郎、『官報』号外1945年6月9日
サンフランシスコ訪問に関する話題は、迫水が演説原稿を起草するに先立ち、鈴木に「何か特別に仰せになりたいことはないか」と尋ねた際、鈴木が「別段、特にないが」と返答しつつ語ったエピソードであった。迫水はこれを、鈴木が「終戦への意図の片鱗を示す一つの機会と考えて」いると解して、演説原稿の中に取り入れた。6月7日の閣議で原稿を提出するとこの箇所に対して議論が起き、下村宏(国務大臣・情報局総裁)・左近司政三(国務大臣)・太田耕造(文部大臣)・秋永月三(内閣綜合計画局長)と迫水の5人で改訂を協議することとなった。その結果、「必ずや(日米)両国ともに天罰を受くべし」という文言を「天譴必ずや至るべし」と変更することでアメリカのみが天罰を受けていると解せる形への修正が決まる。しかし、翌8日以降に演説原稿は元の内容に戻され、そのまま本会議で用いられた。
会議録には両院とも、演説中に不規則発言があったという記録はなく、鈴木が「我らは速やかに戦勢を挽回し、誓って聖慮を安んじ奉るとともに、これら勇士(引用者注:将兵や英霊)に酬(むく)いんことを期するものであります。以上私の信念を披瀝しまして、諸君のご協力を冀(こいねが)う次第であります」という言葉で演説を締めくくると拍手が起きたと記されている。本会議ではこのあと、阿南惟幾陸軍大臣と米内光政海軍大臣による戦況報告に続き「陸海軍に対する感謝決議案」の採択(全会一致)、政府提出の戦時特別法案(両院で対象は異なる)の説明と、議案を審議する特別委員の選出をおこなった。貴族院では質疑や答弁はなかった。一方、衆議院では鈴木・米内・阿南の演説や議案への質疑がおこなわれ、太田正孝・森田重次郎・濱田尚友が質問に立ち、このうち濱田は鈴木が演説において世界の中で昭和天皇ほど世界平和と人類福祉を希求している者はいないとした点を、「神聖な」天皇を他の国の指導者と比較しているように見えると問題視する発言をしたが、「天罰」については言及していない。迫水の戦後の回想では、ある議員は迫水に「総理の真意は判った。しっかりやってくれ」と涙ぐみながら話し、護国同志会所属のある議員は「総理はけしからぬことをいった。内閣をつぶしてやるぞ」と語ったという。迫水は、護国同志会は「軍との連絡が多い立場に立っていた」と記している。
議員からの質問と鈴木の答弁
会議録によると、鈴木の演説から2日後の6月11日に開かれた衆議院戦時緊急措置法案(政府提出)委員会において、質問に立った小山亮が「質問に入ります前に極めて重大なことだと考えておりますので、真面目に厳粛な気持ちでお尋ね申し上げたいことが一つあります」と前置きして鈴木の発言を取り上げ、天皇の詔勅には常に「天佑を保有し」「皇祖皇宗の神霊上にあり」といった発言があり、天佑神助を受けると確信して戦争に臨んでいる国民は「どんなことがあっても天罰を受けようなどという考えは毛頭持っておらないだろうと思う」と述べ、戦争を仕掛けた国が天罰を受けるというのを間違えたのではないか、この発言を残すのでは国民に悪い影響を与えるから打ち消すだけのご釈明を一つ願いたい、と鈴木に求めた。鈴木は答弁に立ったが、後述のように後から発言を取り消したため、会議録は線が引かれているのみである。答弁に対して会議録には「『不敬だ』『御詔勅ではないか』『委員長委員長』と呼び、その他発言する者多く聴取することあたわず」とあり、議場が騒然としたことが記録されている。小山は「ただいまの総理大臣の御言葉は、そのまま聞き逃すことはできない」とし、不穏な言辞を一般国民が口にしたら刑罰を受けかねないのに、総理大臣が演説に引用してそれを問題ないと釈明するのでは国務を任せられない、国体を明徴にするため、総理の国家に対する信念を伺いたいと述べた。委員長の三好英之が質問や答弁を「相当重大なること」として、「責任ある答弁を政府に求める」ために休憩を宣言、約6時間後に再開した。休憩となって国会内の控室に戻った閣僚の多くは「不敬」呼ばわりされたことで意気消沈していたが、鈴木だけは泰然とした態度をしていたという。迫水はこの休憩中に護国同志会をはじめとする議会内各派との交渉や閣内の意見整合を図り、鈴木が発言を取り消して改めて答弁する方向での合意を得た上で再開できたと記している。
休憩後、鈴木は「こと皇室に関することでありまして、非常に大切なことでありますが、言葉が足りませなんだために、大変誤解を生じましたことは、まことに恐懼いたしております」と述べて、答弁につき「全部これを取り消し」、改めて「小山の言うように戦争挑発者(米国)が天罰を受けるという意味だ」「詔勅の『天佑を保有し』という言葉は通常の『天佑神助』と異なる崇高深遠なものだというのが真意で、天罰と並べて使われるようなものではない」と釈明し、そこで再び約30分の休憩となった。
再開した委員会で小山は改めて当日の自分と鈴木の発言をたどり、最初の自分の質問に対する答弁がなされない上、自分は「天佑」と「天罰」を並べて使っていないのに「並べて使ったからこういう答弁をしなければならない」と受け取れるような曖昧な答弁をするのは何事かと食い下がった。小山は鈴木が取り消した発言を再度取り上げ、国体に疑念を抱かせるような発言を取り消しで済むのは問題だと述べたが、委員長の三好から「取り消した発言に議論を重ねるのは議事進行上考慮願いたい」と要求を明確にするように諭されると、「天罰と天佑を並べたと自分がどこで言ったか、という質問への答弁」だと返答した。政府側が答弁しないと三好が伝えると、小山は、立法の一部を政府に委ねるような法案を出そうとしているときに国体問題すら満足に答弁できない内閣では委任できないと述べ、勝ったと言いながら敗勢濃厚になっているようなごまかしを国民は求めていない、答弁できない内閣に質問はしないとして議場を退席した。
小山が所属していた護国同志会は、鈴木の演説や答弁を非難する声明書を出し、その中で「(鈴木の)不忠不義を追及し、もってかくの如き敗戦醜陋の徒を掃滅し、一億国民あげて必勝の一路を驀進せんことを期す」と記した。閣僚内では、議会召集に最初から反対していた和平派の米内海相は内閣を反逆者扱いされたことに怒り、議会の閉会を主張した上、議会への反発から辞意を表明した。迫水によると、米内は護国同志会の罵倒のほかにも議会が法案への修正要求などによって内閣の動揺を誘っているのだから打ち切るべきだと主張し、会期延長による法案成立で閣議がまとまると「皆さん、そんならそうしなさい。私は私は私で善処する。しかし、皆さんには迷惑はかけません」と断言したことで、他の閣僚は辞意と受け止めたという。大日本帝国憲法では首相に閣僚の任免権はなく、海軍大臣が辞職して後任を海軍が指定しなければ総辞職せざるを得なくなる(軍部大臣現役武官制を参照)。このため、阿南惟幾陸軍大臣や鈴木が米内を説得して翻意させ、内閣総辞職は免れた。迫水の回想では阿南のほかに閣内の海軍出身者(左近司政三や豊田貞次郎、八角三郎ら)が説得に当たったが、阿南の慰留が「特に有効に作用した」という。
なお、言論統制と紙面の制約下にあった日本の新聞では、演説の紹介では「両国ともに天罰を受ける」という文章は省略され、小山の質問と鈴木の答弁で委員会が紛糾したことは具体的に報じられなかった(内容に触れずに「質問と答弁のみで休憩に入った」と記された)。
演説と質問の背景
保阪正康は、鈴木は終戦に導いていくために、議会の力を借りるべく、演説のこの発言で和平に向けた真意の理解を求めたのではないかと記している。
半藤一利は、日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて連合国の無条件降伏の主張を変えさせることが演説の目的だったとし、込められた意図が前駐日米大使であり米国国務次官であるジョセフ・グルーや戦争情報局で日本の和平派に向けたメッセージ放送(ザカライアス放送)を短波ラジオで流していたエリス・M・ザカライアスに、同盟通信の古野伊之助や井上勇(ザカライアスの放送に対する質問を、対米短波放送でおこなっていた)によって伝えられていたとしている。
ザカライアス放送では7月7日の第10回で鈴木の演説について取り上げたが、それは「天罰」を含む箇所ではなく、国力の現状について率直に述べた箇所で、その事実に対して演説が「徹底抗戦が唯一取るべき道」という「全く矛盾した結論を引き出した」と指摘し、絶望的な状況を終わらせるために鈴木に対して「日本国民の絶滅や奴隷化を意味しない無条件降伏」を速やかに受け入れるべきだとする内容であった。
小堀桂一郎によると、鈴木の演説はアメリカのワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズにも要約されて紹介されたが、そのいずれにおいてもサンフランシスコ訪問に関する箇所は省略され、「無条件降伏は拒否する」という点に焦点が当てられていた。一方、ニッポンタイムズはその部分を訳出し、またラジオ・トウキョウを通じて演説が伝えられたため、日本側は海外に対して発表を伏せていないという。この点に関して小堀は、米紙がその部分を訳出しなかったのはむしろ国内の戦意低下を恐れて公表を控えたのではないかという平川祐弘の推論を踏まえ、鈴木の真意は和平の意思をアメリカに伝えることだったが、ザカライアスも含めてその意図はアメリカ側とかみ合わなかったと評している。
一方、護国同志会をはじめとする議会側は、徹底抗戦派の陸軍幹部がこの機会に鈴木内閣を倒閣することを望んでいた。護国同志会の一員だった中谷武世は戦後の回想録で「内閣と護国同志会とが、首相の演説をめぐって激突した時点に於て、機を逸せず終戦派との対決姿勢を打ち出し、手遅れにならぬ中(うち)に和平降伏への動きを封ずべきだった」と記している。  
 
終戦の詔勅 (玉音放送)

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク  
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ  
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ  
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス  
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。  
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。  
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。  
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。  
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。  
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。 考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。  
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。  
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。  
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。 
『昭和天皇独白録』書評  
戦後の昭和21年(1946年)3〜4月にかけて、昭和天皇が大東亜戦争の原因と経過、終戦についてご自分の記憶だけを元に語られた独白を、外交官(書記官)の寺崎英成(てらさきひでなり)が書き留めて記録していたものである。  
遠慮なく話せる極めて近しい側近だけを集めた非公開の場での昭和天皇の発言であり、ここだけの話の“内輪の述懐”として語った本音が含められているだけに、主権者とされた天皇自身が先の大戦をどのように認識していたかだけではなく、個別の政治家・軍人の判断や行動についてどう思っていたのかという『戦時中には決して語られなかった対人評価の思考・感情(率直にいえば人物に対する好き嫌いも含む)』が残されているのは興味深い。  
本書第1巻の冒頭では、『合計五回、前后八時間余に亘り大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を松平宮内大臣(慶民)、木下侍従次長(道雄,藤田侍従長は病気引篭中)、松平宗秩寮総裁(康昌)、稲田内記部長(周一)、及寺崎御用係の五人が承りたる処の記録である、陛下は何も「メモ」を持たせられなかった』と本書が作成された昭和天皇へのインタビューの由来が記されてある。  
大日本帝国憲法下における天皇は主権者(軍統帥権の総覧者)であり、人間を超越した宗教的な現人神(神聖不可侵の血統者)として国民に教育されていたため、現代からの印象としては政治家であろうと軍人であろうと天皇が命令を下せば簡単に服属させられるようにも思う。  
だが、国家の政情を支える根本が『国民感情・国民教育・世論』であること(国民の大多数が好戦性・軍礼賛・反米意識・現状の不満を持っていれば天皇であってさえもその国内世論に反対することは不可能なこと)を天皇は知悉していた。  
それもあって、日独伊の三国軍事同盟+日米開戦に対して天皇はそれに全面的賛同はしかねるといった懸念・注意・示唆を臣下に幾度か示しながらも、はっきりとした戦争反対の意思表明を敢えてしなかったのではないかと感じられる。  
1930年代からは特に国家が総力を上げて、“国民皆兵・富国強兵・滅私奉公・アジア進出”を可能とする『戦争・戦死に適応可能な国民の愛国教育』を続けてきたのだから、天皇がいくら現人神としてのオーラをまとっていても個人として急に『アメリカやイギリスとの戦争は回避すべき(ドイツやイタリアに接近し過ぎてアメリカとの不可避な決戦図式を強調することは危険である)・軍や内閣が行おうとしている軍事政策は朕の意思に背いているので阻止したい』と発言すれば、国内情勢をクーデターが起こりかねない非常に不穏な空気にする危険性が十二分にあった。  
無論、昭和天皇が対話重視の協調主義的な外交戦略(特に英米との戦争の回避・日中戦争の早期講和)をすべきと本心では思っていたのに、どうしてそれを実際の政治に反映させる強い意思を示さなかったのかの最大の理由は、戦時中にあっても明治維新以来の天皇の位置づけは『専制君主・君主親政』ではなく『立憲君主・内閣と議会の決定の正当性を担保する権威』であったからである。  
昭和天皇は東条英機内閣が日米開戦の決定(真珠湾攻撃の追認)をした時にそれを速やかに裁可したが、このことについて立憲君主である天皇の承認・裁可の作業が原則として『拒否権を持たない事務的作業』であることを訴えてやむを得なかったのだと語っている。  
現代日本の日本国憲法下の立憲君主的な天皇制に置き換えても明らかだが、天皇が首相・内閣・国政・議会の決定などに対して、『それは朕の意思に沿わないから改めよ』と命令する権限は戦前の天皇であっても基本的にはないのである。  
一方、戦前の天皇は絶対権威者としての『現人神』に位置づけられており、政治家・軍人の上層部であってもそのご発言に対して軽々に否定・批判することはできなかったし、天皇が本気で『お前の政策や行動は絶対に許されない』と言えば、前近代的な宣旨・綸旨としての効力を持ち得た可能性はある。天皇自身は『現人神のフィクション』について拒絶的であり、私は普通の人間と同じ解剖学的構造を持っているのだから神などではなく人間であるという科学的(常識的)な自己認識についても語られている。  
昭和天皇は前近代的・人治的な専制君主としての像・力を自ら否定して(現神としての宗教的な神聖君主像の流布にも冷ややかな態度であり)、近代的な立憲君主としての権威・責任の役割を果たさなければならないという意識を強く持っていたことが本書の複数のエピソードから伺われるのは趣き深いところではないかと思う。
昭和天皇が臣下の首相・軍人に対して例外的に自分の意思を示して命令や指示、賛否表明をした事例としては、『張作霖爆殺事件(1928年)に対する軍法会議の処分を怠った田中義一内閣の総辞職』『上海事件(1932年)における白川義則大将に対する停戦・戦線不拡大の指示』『ポツダム宣言受諾と終戦決定の御前会議における御聖断(1945年)』などがある。  
天皇は『満州事変』を拡大して日中全面戦争に突入する契機になりかねなかった『上海事件(上海占領)』において、軍部上層の命令には従わず自分の私的な停戦命令(勝っていても軍を進めない戦線不拡大の命令)を忠実に履行した白川義則大将を忠臣として賞賛する歌を贈っているが、当時は天皇が中国進出の戦争に否定的であるという誤解が広まってはならないとして、この歌の存在は侍従武官によって隠匿されることになった。  
天皇は『満州事変の拡大+日中戦争の広域化』を非常に警戒して陸軍(関東軍)を何とか牽制したいとも思っていたが、その理由は中国大陸の懐の深さもあるが、それ以上に満州という北部の田舎だけへの進軍に留まるならまだしも、北京・南京・天津といった中国主要都市への進出を強引に進めれば必ず英米の強力な干渉を招いて、中国だけでなく英米も敵に回した泥沼にはまる(そういった日本の大陸進出・占領拡大を英米は戦争の大義名分として逆に手ぐすね引いて待ち受けている可能性がある)との警戒であった。  
満州事変を主導した石原莞爾は、事変の拡大による日中戦争への突入に反対していたが、陸軍省・軍務課長だった武藤章は石原に対して『かつて閣下が行った事変と同じことをしているのです』と嘯いて、事変を南京攻略・漢口攻略へと段階的に拡大していってしまった。  
この辺りの日中戦争泥沼化につながっていく歴史の転換点において、昭和天皇は一貫して蒋介石政権との早期講和を希望していてドイツのトラウトマン工作による『日本有利な日中講和』に期待をかけていたが、松井石根(まついいわね)軍司令官の強硬論に陸軍・参謀本部はのっかってしまい、引き返すことのできない『南京攻略』へと更に中国進出の度合いを深めてしまったのである。  
この時点で、トラウトマン仲介における日中講和が実現していれば、蒋介石も乗り気であったと伝えられる所から、現在日中関係の歴史認識の対立の原因になっている『南京虐殺』も起こらなかったといえる。その意味においても後付けにはなるが、松井石根司令官の勢い・好機を逸せずに南京を攻略すべしの意見具申は、中国人の抗日戦争のナショナリズムに着火して、戦線の収拾を困難にする正に歴史の転換点となった。  
東条内閣における日米戦争の決定については、アメリカ主導のABCD包囲網による石油輸出禁止の締め上げが日本を戦争に駆り立てる主な誘因となったが、『陸軍の主戦論+東条英機・杉山元・永野修身の戦争論』は当時の日本の圧倒的なマジョリティの世論と国粋主義の後押しを受けていたもので、対米戦争に抑制的であった近衛文麿や豊田貞次郎、米内光政などはその意見を大々的に述べることも困難であった。  
昭和天皇は東条英機という陸軍に影響を振るい得る主戦派の人物に対して、『天皇に対する忠誠心』を過大に評価したところもあるが、ポスト近衛文麿の首相となった東条に対して『時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふということ=戦争やむなしに傾いた9月6日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になるように極力尽力せよ・陸海軍の協調体制を築いて日米開戦を回避せよ』という大命を含ませていたという。  
だが結局、東条は元々が主戦派でもあり天皇の内意に従うことはできず、陸軍の圧力もあったが日米開戦不可避の政局に流されて真珠湾攻撃で戦端を開くのである。  
戦前の日本の政治体制の問題点としての『シビリアンコントロール(文民統制)の機能不全・議会の前線への影響力低下・大本営の独断専行と報道統制・極端に敵愾心や滅私奉公を煽った国民教育(国民精神総動員)』なども合わせて考える必要がある。  
また議会政治が軍部によって実質的にのっとられてしまったような恰好になった原因の一つが『現役武官制(陸軍省・海軍省の大臣には今で言う制服組の現役武官しかなれないルール)』における陸海軍の大臣の出し渋り(軍の意向に従わないのであれば内閣を構成する大臣を出さずに議院内閣制を停滞させるという脅し)にあったことも留意しておきたい点である。  
昭和天皇は日本人の国内世論について、『多年にわたって錬磨してきた精鋭なる日本軍を持ちながら、米国の強硬な要求(近代日本の戦争成果の多くの放棄の要求)に対して戦わずしてむざむざと不利な妥協(国民には屈服と映る妥協)をしたほうが良いという平和論を唱えたならば、国内のナショナルな与論が沸騰して必ずクーデター(政権転覆ないし天皇暗殺)が起こっただろう』と述べている。  
この日米開戦と天皇の本音のエピソードについては、ジョン・ガンサー『マッカーサーの謎』に以下のような記述があるのだという。  
「天皇は今度の戦争に遺憾の意を表し、自分は『これを防止したいと思った』といった。するとマッカーサーは相手の顔をじっと見つめながら、『もしそれが本当とするならば、なぜその希望を実行に移すことができなかったか』とたずねた。裕仁の答は大体次のようなものだった。『わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押しこめておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう』と」  
似た内容になるが、なぜ昭和天皇が基本的には『戦争反対+三国同盟反対の英米協調主義(交渉戦略重視の平和主義)』の理念を内心に抱えながらも、アメリカとの太平洋戦争の開戦に際して明確に“ノー”と言わなかったのかの理由について、本書では天皇自らが“ベトー(天皇大権に依拠した絶対拒否権)”という概念を用いて以下のように述べている。  
今から回顧すると、最初の私の考は正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し『クーデター』様のもの(=注記。終戦反対・玉音放送阻止・録音盤強奪のための陸軍の徹底抗戦派による宮城襲撃事件)が起こった位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が『ベトー(拒否)』を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。  
日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍ら愈々(いよいよ)と云ふ時に蹶起(けっき)を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作って之に補給しよーとすれば、日本の産業を殆ど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。  
開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であったのだから、私が若し開戦の決定に対して『ベトー』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであらうと思ふ。  
反米から親米へと価値観が180度転換してゆく戦後において昭和天皇の口から語られたことであるので、『昭和天皇独白録』に記録された内容がすべて客観的な史実や中立的な人物評価であるという保証もないとは言えるが、立憲君主制下における天皇(君主)の影響力・役割の限界と葛藤・苦悩が伝わってくる内容である。  
近年は自公政権下(安倍政権下)において、集団的自衛権・積極的平和主義(自衛隊の海外派遣による国際支援活動・武器使用要件・機雷撤去要件の緩和)を中核とした『安保法制の大改革』が進められており、実質的な改憲と言っても良いほどの安全保障体制の急転換が起こっている。  
昭和の戦争の歴史や軍部の振るった政治への影響力を、昭和天皇の言行録を下に振り返ってみた時に思うのは、“専守防衛・災害救助・国際協力(平和維持活動)”に徹してきた戦後日本の自衛隊のあゆみは理念としても国民の安全保護においても概ね正しかったということであり、“日米安保条約による抑止力”の恩恵を受けていた側面はあっても日本自身が『敵対国に定めた国の人々を殺傷する軍事作戦』に直接的に関与しなかったことの国際的信用は大きいということである。  
自衛隊を軍隊(国防軍・日本軍)に変更したい、自衛隊は国際的には軍隊として認識されているのだから自衛隊という名称にこだわる必要はないという論調は、安倍政権の安保法制に関心の強い議員に多く見られるが、自衛隊と軍隊との違いは『国際的・法律的な他律の定義』にあるというよりも、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)を経験した日本が『武力による問題解決(武力で外国人を威圧・殺傷することによる問題解決)』を放棄して国際協力を進めるという決意・意識の転換にあったと見るべきではないだろうか。  
外国に合わせて自衛隊から軍隊への名称変更を進めたり、自衛隊の武器使用要件を弱めたり戦闘に参加しやすくしたりして戦場の前線(形式的には後方支援とされるが)に出ることよりも、戦後日本が外国に対する威圧・殺傷を一切してこなかった自衛隊のような『軍隊の持つ役割・使命の平和化』を国際的に広めていくことのほうが本質的に価値のあることだろうと思うのだが。  
反省  
一般的には自分がしてきた行動や発言に関して振り返り、それについて何らかの評価を下すこと、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること。あるいは自己の心理状態を振り返り意識されたものにすること。  
自分が正しいと思ったとき人は反省しない。軽い気持ちかもしれないが、 人にはそういう紛争の種が潜んでいはしないか。放っておくと危険だろう。  
ジョン・ロックは反省を、外的対象に向けられる感覚に対して、意識の働きに向けられた内的感覚と考えた。  
哲学史において、アリストテレスは感覚を五感に制限して内的感覚を否定したが、プラトンは、「精神の目」を認めていた。カントは、これを「内的直観」と呼び、ヘーゲルは反省を、相関的な関係を持った二つのものの間にある相互的反射関係を示すために用いた。  
「振り返って考えることのほかに、過去の自分の言動や行動、考え方に対して、その過去から現在までに得た知識・情報を元に過去の自分のありかたを鑑み、将来に渡って、悔い改め改善しようとする気持ち、これがなければ人間的成長はない。」
謝罪  
自らの非を認め、相手に許しを請う行為である。謝罪する側される側共に個人単位、団体単位、国家単位など様々な規模があり、謝罪する理由は本心からのものと、戦略的なものに分けられる。一般的には頭を下げるなどをして謝罪の意思を表す。謝罪は謝罪をする人の社会における地位や影響力、性格、価値観、土地の風習、文化、国際的であるかどうかなどで、具体的な行為は種々さまざまである。  
歴史問題における謝罪 / 歴史問題における謝罪は主に国家が行った戦争や紛争、政策による被害者とされる側への謝罪である。不祥事等と較べ謝罪の必要性や加害者、被害者の定義が曖昧である為、加害者とされる側が謝罪を示したとしても被害者とされる側からは「謝罪ではない、謝罪が十分ではない」と批判されることがある。逆に加害者とされる側は謝罪すること自体を「弱腰、自虐的なこと」と批判することがある。
遺憾  
一般には、「思い通りに事が運ばなくて残念だ」という意味で、期待したようにならずに、心残りに思うこと。残念に思うこと。英語では、regret、shame、indifferentなどの表現で表される。「遺憾の意を示す」ということは「残念である」という意味で、謝罪をしているわけではない。  
外交における「〜は遺憾である」という声明は「〜は為されるべきではなかった」という見解の表明として使われている。相手の行為に対する言及であれば非難となり、第三者の行為に対する言及であれば旗幟の表明となる。ただし、いずれの場合も劇的な対処を行わず事態を収拾せんとする意向を暗示するものであることが多い。  
本来の意味とは違い、英語の表現では、express regret、あるいはexpress concernなどが用いられるため、外交表現においては、その言葉の中に直接語られていないものの、暗黙の内に示唆されている部分に真意が隠されていることが多く、これを読み誤ると外交関係の中での対話の意味を取り違えることになる。  
特に政治関係において都合よく多用される表現であるが、本来の意味で解釈すれば、かえって相手に不快感を与えるものであるため、注意が必要である。  
もともとこの用語は日本政治の慣用語であり国際外交の場では意味不明なものでしかなかったが、昭和40年代に日本が表明として使ったことがあり、この言葉の微妙さが話題になった。現在では他の国の表明においても、遺憾の意を表したなどと伝えられることも多い。  
懺悔1  
宗教における神、聖なる存在の前にて、罪の告白をし、悔い改めることをいう。  
仏教における懺悔  
仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。  
天台宗懺法  
天台宗の法要儀式には懺法(せんぼう)と言うものがある。懺法とは、自ら知らず知らずの内に作った諸悪の行いを懺悔(さんげ)して、お互いの心の中にある「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒を取り除き、自分の心をさらに静め清らかにする儀式である。12世紀中頃には宮中行事の一つでもあった。  
『吾妻鑑』の記述には、12世紀終わりの正治2年(1200年)2月2日条に、頼朝没後、将軍家北条政子が法華堂において法華懺法を始行せられる、という記事が見られる。武家の政道が始まり、約15年後には懺法が行われていた事になる。  
法華懺法 - 法華経を読み儀式を行う。天台宗懺法もこの分類に入る。  
観音懺法 - 観世音菩薩を本尊として儀式を行う。  
阿弥陀懺法  
吉祥懺法  
また、懺法と同様に、懺悔する儀式に悔過(けか)がある。記述例として、『日本書紀』皇極天皇元年(642年)6月25日条に悔過を行った記録があるが、その理由は、雨乞いのために牛馬を生贄に出したが効き目がなかったので、仏の教えに従って悔過をして雨乞いしたというものである(道教的儀礼から仏教的儀礼を採用した形である)。  
修験道  
仏教の影響を多分に受けた修験道においても懺悔は行われ、山祇(山神)の好む秘密告白と祓えとの一分岐である。懺悔をする対象が直接的であり、修行の一環でもある(この点において、仏教ともキリスト教とも異なる)。  
キリスト教における懺悔  
キリスト教では「ざんげ」と読み、その影響からか、現在では「懺悔」の読み方は一般的には「ざんげ」となっている。  
「懺悔」は聖公会などで多用される語彙であるが、キリスト教の全ての教派で日常的に使われる表現ではない。カトリック教会での秘跡は「ゆるしの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。  
懺悔2  
仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来は「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。
懺悔3  
真の懺悔の行いとは、単なる罪の告白ではなく、仏性を洗い出し、仏性を磨き上げることです。  
仏教ではすべての人に仏性があり、どんな悪い人でも仏の心をもっていると説いています。しかし、残念なことに人がよい行いを続けるのは容易なことではありません。思い違い、心得違いで知らずにたくさんのあやまちを犯し、欲の心、愚痴、不平や怒り、そして怠けなどで人はまわりに心配や迷惑をかけてしまいます。人間はよい行いよりも、つい悪い行いをしてしまい、せっかくの素晴らしいこころを持っていても、しだいに汚れてしまうのです。こころが汚れてくると人の話に耳を貸さず、人の悪口を平気で話し、悪い考えや行いなどをしてしまいます。人と人との関係に不協和音を生じさせ、争いや苦しみをつくってしまうのです。そして、自分やまわりの人たちを不幸にしてしまいます。  
そのような原因になる心の汚れを落とし、輝きをよみがえらせることが出来れば自分やまわりの人たちも幸せになり、さらには神仏の御心にかなうことができるのです。そのためには、悪いことをしたら、見栄や体裁を捨てて、自らの非を率直に認め、素直にわびることです。そして、汚れの元がなににあるのか、自分の心を省みて、自覚し、あやまちを繰り返さないことが大切なことです。  
仏教の「懺悔」 4 
法(ダルマ)という概念はとっても多岐に渡っているので、所謂法律もダルマだし、仏法 もダルマですね。ところで仏法における法律は何かというと、戒律です。 法律は犯せばもれなく罰則(ペナルティー)がついてきますが、戒律はそうとは言えませ ん。  
仏教の戒律において最も思い罪は「波羅夷罪」です。 これには4つありますので、四波羅夷と言います。この筆頭に来るのが「婬戒」です。 あとは「盗戒」「断人命戒」「妄説得上人法戒(=大妄語戒)」と続きます。仏教の戒律は破っても罰則と言うほどのものはありません。 布薩で懺悔すればいいのです。 敢えて言うなら、衆僧の前で告白して懺悔するのが罰ということになりましょうか。しかし、波羅夷罪は不可悔罪で、懺悔を許されません。 波羅夷罪を犯した比丘は不共住、つまり僧伽を追放されます。但し、婬戒には例外があります。  
この「懺悔」(が罰則である)という思想は、仏教の特徴をよく表していると思います。  
第1項 贖罪  
欧米でしたら罪を犯したときに求められるのは「贖罪」です。簡単にいうと「目には目を、歯には歯を」というヤツです。要するに、相手に詫びるために、その損害に代わる何らかの代償を提供することによって、相手の許しを得ます。こういった考えが近代法学の出発点になっていると思います。ですから法律を違犯すれば、慰謝料や罰金を払ったり、応報刑(ではないと主張する人もいるけれど、実質的には応報に相当するのではないでしょうか)を受けることになります。  
第2項 懺悔  
懺悔(デーサナー)には、損害を与えてしまった相手に対して許しを請うというような意味はありません。自己の犯した罪を他人の前に告白して、それによって罪を清めるのが目的です。戒律を犯してしまった場合、損害を与えた相手に対して懺悔をするのではなく、罪に穢れていない「清浄な比丘」の前で懺悔をします。自己の罪を発露し、再び犯すまいとの決心を表明すれば、懺悔を受ける「清浄比丘」は犯戒比丘の懺悔を受け入れます。それによって懺悔は成就します。布施が見返りを求めない施しであるように、懺悔もまた罪に対して代償を要求しないのです。  
第3項 懺悔の目的  
これはどういうことかというと、罪を犯してそれを隠しておくということは一種の苦痛です。心の重荷になっています。誰かに言ってしまえば楽になることってありますよね?そして心を汚す行為です。よって、自己の犯した罪を清浄な他者に告白し罪を公にすれば、私している(自分だけの秘密にしている)ことによって重荷になっている罪を解消することができるのです。それによって罪の汚れから自己の心が開放されます。  
心の開放ということが仏教の目的の一つですから、犯戒する(罪を犯す)ということは相手に迷惑をかけたかどうかということよりも、自分の心が汚れたかどうかに重点があるということになります。ですから、相手にどう償うかということは問われないのではないでしょうか。あくまで、犯戒した自分をまず認め、そしてその自分がどうあるべきか、ということが主眼なのでしょう。   
戦争責任論争
 帝國憲法第五十五條と昭和天皇の御聖断
昭和20年(1945)8月14日午前10時50分から始まった御前会議において、昭和天皇に対し、鈴木貫太郎内閣総理大臣は、閣議では約八割五分がポツダム宣言およびバーンズ回答の受諾に賛成しているものの全員一致を見るに至らず、重ねて叡慮を煩わせる重罪を陳謝した後、改めて反対の意見ある者より親しく御聞き取りの上で重ねて御聖断を仰ぎたい旨を申し上げた。
昭和天皇は内閣国務各大臣の輔弼に依り大権を行使する立憲君主であったから、鈴木総理大臣の助言を受け容れ、御自身の御考えを述べられた上でポツダム宣言およびバーンズ回答の受諾を表明された。
しかし昭和天皇の御聖断が我が国の国家意思として確定するには、昭和天皇が臣民に我が国がポツダム宣言を受諾し連合国に有条件降伏することを告げる所謂「終戦の詔書」に鈴木内閣閣僚全員の副署(同意のサインつまり承認)が必要であった(大日本帝國憲法第五十五條および内閣官制第五條)。 
そこでソ連の勢力拡大に奉仕する革新将校の巣窟であった陸軍省軍務課の竹下正彦中佐が御前会議の終了後、阿南惟幾陸軍大臣の元に駆けつけ、阿南陸相に「辞職して副署を拒んでは如何」と進言した。この進言に動揺した阿南陸相は、林三郎秘書官に辞職の用意を命じたものの、すぐに翻意して辛うじて辞職を思いとどまり、同日午後7時20分から始まった閣議において他の閣僚とともに詔書に署名した。
かくして昭和天皇の御聖断は終戦の詔書として実施の効力を得、我が国の国家意志として確定したのであった。まさに我が国の土壇場であった昭和20年8月14日の昭和天皇の御聖断ですら、輔弼を担当する内閣国務大臣の副署を得なければ、我が国の国家意志として国策の最終決定として有効にならなかったのである。
「大臣の副署は二様の効果を生ず。一に、法律勅令及び其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の効力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく、外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。二に、大臣の副署は大臣担当の権と責任の義を表示する者なり。蓋し国務大臣は内外を貫流する王命の溝渠たり。而して副署に依て其の義を昭明にするなり。」(伊藤博文著大日本帝國憲法義解第五十五條解説)
帝國憲法第五十五條「国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず 凡て法律勅令その他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す」はこれほど厳重に天皇の統治権行使を制限するのである。
だから帝國憲法はその代償として天皇を無答責(法的政治的無責任)の地位に置き(憲法第三條、天皇の神聖不可侵)、天皇を輔弼(助言)し、天皇が裁可し公布する法律勅令その他国務に関る詔勅に副署(同意)する国務大臣に天皇に対する直接的責任と人民に対する間接的責任を負わせるのである。
従ってポツダム宣言受諾の責任は、昭和天皇に御聖断を仰いだ内閣総理大臣と終戦の詔書に副署した内閣閣僚に有り、昭和天皇には無い。開戦の責任も同様である。
帝國憲法の第四條と第五十五條が立憲君主制と国務大臣輔弼副署制を明規している以上、昭和12年3月に文部省が発行したパンフレット「国体の本義」が天皇を現人神と尊称しようが、昭和天皇は独自に如何なる法律勅令その他国務に関る詔勅も制定できない立憲君主であった。
そして帝國憲法の第三條と第五十五條が天皇の無答責と国務大臣の責任を明規している以上、戦時中に昭和天皇が臣下の者と如何なる質疑応答を交わそうが、昭和天皇は敗戦責任を負わない。
支那事変を大東亜戦争に発展させ我が国を敗戦に導いた責任は、1937年7月7日の盧溝橋事件の勃発から1945年9月2日のポツダム宣言の正式調印まで天皇を輔弼する国務大臣に就任した政治家および軍人に有るのである。とくに近衛文麿の責任が最重大であることは筆者が論証した通りである。
「大臣政事の責任は独り法律を以て之を論ずべからず、又道義の関る所たらざるべからず。法律の限界は大臣を待つ為の単一なる範囲とするに足らざるなり。故に朝廷の失政は署名の大臣其の責を逃れざること固より論なきのみならず、議に預かるの大臣は署名せざるも亦其の過を負わざることを得ざるべし。専ら署名の有無を以て責任の在る所を判ぜむと欲せば、形式に拘り事情に戻る者たることを免れず。故に副署は以て大臣の責任を表示するべきも副署に依って始めて責任を生ずるに非ざるなり。」(伊藤博文著大日本帝國憲法義解第五十五條解説)
敗戦責任の所在は明白であり、帝國憲法第五十五條の解釈は無法で不毛な戦争責任論争に終止符を打つのである。
 
謝罪の歴史1 1965〜1969

 

1965年6月22日 - 椎名悦三郎外務大臣
(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)  
[通称、日韓基本条約 / 1965.06.22署名 / 1965.12.18発効] 
日本国及び大韓民国は、両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望を考慮し、両国の相互の福祉及び共通の利益の増進のため並びに国際の平和及び安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、一九五一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び一九四八年十二月十二日に国際連合総会で採択された決議第百九十五号(III)を想起し、この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よって、その全権委員として次のとおり任命した。  
日本国   日本国外務大臣 / 椎名悦三郎 ・ 高杉晋一  
大韓民国 大韓民国外務部長官 / 李東元 ・ 特命全権大使 / 金東祥  
これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。  
第一条【外交・領事関係の開設】  両締約国間に外交及び領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。  
第二条【旧条約の無効】  千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓民国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。  
第三条【大韓民国政府の地位】  大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。  
第四条【国連憲章の原則】 (a)  両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。(b) 両締約国は、その相互の福祉及び共通の利益を増進するに当たつて、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。  
第五条【通商交渉の開始】  両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、条約又は協定を締結するための交渉を実行可能な限り速やかに開始するものとする。  
第六条【民間航空交渉の開始】  両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限り速やかに開始するものとする。  
第七条【批准・効力発生】  この条約は、批准されなければならない。批准書は、できるだけ速やかにソウルで交換されるものとする。この条約は、批准書の交換の日に効力を生ずる。  
以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。  
一九六五年六月二十二日に東京で、ひとしく正文である日本語、韓国語及び英語により本書二通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。  
日本国のために    椎名悦三郎 高杉晋一  
大韓民国のために  李東元   金東祥  
日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 [通称、日韓基本条約]  
1965年(昭和40年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。日本の韓国に対する莫大な経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化などが取り決められた。なお竹島(韓国名独島)問題は紛争処理事項として棚上げされた。
条約交渉までの経緯  
「対日戦勝国」としての請求  
1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。  
日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。  
1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した。  
また韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結時も戦勝国(連合国)としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた。  
1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問は梁駐米韓国大使に対して「日本と戦争状態にり、かつ1942年1月の連合国共同宣言の署名国である国のみが条約に署名するので、韓国政府は条約の署名国にはならない」と述べた。梁駐米韓国大使は「大韓民国臨時政府は、第二次世界大戦に先立つ何年も前から日本と戦争状態にあった」と反論した。アメリカは「朝鮮は大戦中は実質的に日本の一部として日本の軍事力に寄与した」ため、韓国を対日平和条約の署名国からはずした理由とした。  
韓国側はこうしたアメリカ側の判断を受け入れがたいとみなし、韓国側は「韓国の参加を排除したことは非合理性が犯す非道さの極まり」と非難した。兪鎮午日韓会談代表は1951年(昭和26年)7月30日に発表した論文で「韓国を連合国から除外する今次の草案の態度自体からして不当だ。第二次世界大戦中に韓国人で構成された組織的兵力が中国領域で日本軍と交戦した事実は韓国を連合国の中に置かねばならないという我々の主張の正当性を証明している。」と主張した。  
1951年9月8日の日本国との平和条約調印式に韓国の参加は許可されなかった。  
一方、参加リストから外された後も韓国はアメリカに使節団を派遣し、解放後の朝鮮における日本の公共私有財産の没収について書かれた米軍政庁法令33号「朝鮮内にある日本人財産権取得に関する件」の効力を確認するなど、対日賠償請求の準備をすすめていた。  
韓国の主張に対し日本側は、韓国を合法的に領有、統治しており、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対して戦争賠償金を支払う立場にないと反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル、大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル)の返還を請求する権利があると主張した。  
しかし、1951年7月25日付け大韓民国駐日代表部政務部作成の「説明書」には、「大韓民国が日本に要求する賠償は、上記のような戦闘行為を直接原因とした点は至極少ない」とあり、また「韓国併合条約が無効であるとして、そこから発生した当時までの被害を一括して賠償というのも難しい」とされていた。  
アメリカ合衆国の仲介  
日韓交渉の背後には1951年7月頃からアメリカ政府の主導があったことが知られており、当時の李承晩大統領が韓国を「戦勝国」としてサンフランシスコ講和条約に参加することを求めたものの、第二次世界大戦当時には既に朝鮮半島が日本の統治下にあり、日本と交戦する関係になかったために「戦勝国」として扱う根拠がないことからアメリカやイギリスをはじめとした連合国側から拒絶され、「当事国」になることができなかった。  
1951年9月の日本国との平和条約調印後、サンフランシスコ講話会議に参加することが許可されなかった李大統領は、日本政府との直接対話を希望し、アメリカの斡旋で日韓は国交正常化交渉に向けて、1951年10月20日に予備会談を開始した。会談は東京の連合軍最高司令部(SCAP)でシーボルド外交局長の立会いのもとに行われた。
日韓会談  
昭和26年(1951年)10月20日の交渉から1965年の日韓基本条約締結までの会談を日韓会談、日韓国交正常化交渉という。交渉では、日韓併合により消滅していた国家間の外交交渉の回復方式、「李承晩ライン」以降韓国が不法占拠を続けていた竹島(独島)をめぐる漁業権の問題、戦後補償(賠償)の問題、日本在留の韓国人の在留資格問題や北朝鮮への帰国支援事業の問題、歴史認識問題、 文化財返還問題など多くの問題を含んでおり、独立運動家として日本を敵視し続けていた李大統領の対日姿勢もあり予備交渉の段階から紛糾した。しかし、最終的には冷戦での安全保障、アメリカの希望もあり、合意にいたった。韓国は当時「戦場国家」であり、日本は「基地国家」であった。
会談直前  
予備会談  
1952年1月9日、日韓会談直前の予備会談で日本側から「日韓の雰囲気をよくするため」の文化財返還が提示された。  
李承晩ライン  
李承晩は対話の前提として、まず日本の謝罪、「過去の過ちに対する悔恨」を日本側が誠実に表明することが必要であり、そうすることで韓国の主張する請求権問題の解決にうつることができるとした。しかし、日本側は逆に日本も韓国に対して請求権を要求できるとのべ、反発した李承晩は報復として、日韓会談直前の1952年(昭和27年)1月18日、韓国は一方的に日本海に軍事境界線の李承晩ラインを宣言する強硬政策に出た。
第1次会談  
第1次会談は1952年2月15日-4月25日に行われた。請求権問題、日韓併合条約(旧条約無効問題)、文化財返還などが議題となった。  
1952年2月20日の第1回請求権委員会で韓国の林松本代表は「日本からの解放国家である韓国と、日本との戦争で勝利を勝ち得た連合国は、類似した方法で、日本政府や日本国民の財産を取得できる」と述べ、日韓会談は日本側がこの主張を認めるか否かにかかっていると日本に警告し、韓国は連合国と同等の権利を持ち、朝鮮半島に残された日本財産没収の正当性を主張した。韓国は、日本国との平和条約第14条の「日本国が、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきこと」、また各連合国が日本の財産を差し押え、処分する権利を有することなどを請求権の根拠とし、自らを連合国の一員と位置づけることで日本から利益を得ようとしていた。  
1952年2月21日の第1回財産請求権委員会で韓国側が韓日財産及び請求権協定要綱で「韓国より運び来りたる古書籍、美術品、骨董品、その他国宝、地図原版及び地金と地銀を返還すること」と提示された。これについて韓国側は2月23日、「不自然な方法、奪取のごとき、韓国民の意思に反して搬出された」と規定した。  
1952年3月5日の第4回基本関係委員会で韓国「大韓民国と日本国間の基本条約(案)」を提出したが、その第3条は「大韓民国と日本国は1910年8月22日以前に旧大韓帝国と日本国の間で締結されたすべての条約が無効であることを確認する」となっていた。  
1952年3月10日の第5回請求権委員会で日本側がインドは独立後もインド国内にあった英国の財産を認めたと述べたところ、韓国側は「太平洋戦争で日本が無条件降伏したことにより韓国が解放されたのだからインドと英国の関係とは違う」と述べ、イギリスとの合意の下に独立したインドと、日本の敗戦によって解放された韓国は違うし、韓国は日本と敵対した結果独立したと主張した。  
1952年3月12日の第5回基本関係委員会で日本側は、「日本と大韓帝国との間のすべての条約と協定はすでに消滅しているのだからこのような条項を挿入することは無意味である。」などとして削除を要請した。韓国側は「1910年以前の条約は意思(民族の総意)に反して行われたものであるので遡って無効としなければならない」が、法理論上は問題があるとも認めていた。日本は旧大韓帝国が国際法上の主体として消滅している以上、大韓民国は別個の国でcontinuityはなく、すでに消滅した条約の無効をいまさら問題とすることは意味がないと述べた。これに対して韓国は大韓民国は「韓半島にはなくとも海外にあって、三一宣言にもあるごとく民族として継続している」と大韓民国は大韓帝国の継承国であることを主張した。ただし、大韓帝国の消滅は1910年であり、上海での大韓民国臨時政府成立は1919年であり、両者の継続性はなく、また「1910年以前の条約が民族の総意に反した」という主張も事実に基づく主張ではなかった。  
1952年3月22日の第6回基本関係委員会で日本は「日本国と大韓民国との間の友好条約(案)」を提出した。その第1条「国際連合憲章の目的及び原則に、且つ、両国間の善隣関係に即応する方法によって」を韓国は削除を求めた。また韓国側林松本代表は英国とインドの例について、韓日と英印は根本において差異があり、インドが英国の合意下に独立した大英帝国の一連邦であるという事実を忘れてはならず、韓国は日本への併合に合意していなかったと述べた。  
1952年3月26日の第7回基本関係委員会で日本は(これまでの)「条約や協定は現在は効力を有しない(at present ineffective)」と提案したが、韓国は「最初から無効(null and void from the beginning)」とすべきと主張した。  
1952年4月2日の第8回基本関係委員会では日本側は前文に「日本国と旧大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定が日本国と大韓民国との関係において効力を有しない(ineffective)」としるされた。日本の記録では「韓国側から第一条の一部につき留保を付したほか、全条文について意見の一致」をみたとある一方、韓国の記録『韓日会談略記』では「旧条約無効問題」について妥協できなかったとある。ただし、韓国の記録は一部が不自然に削除されている。  
同日1952年4月2日の松本俊一と梁代表との非公式会談で、日本側が訂正案を出したところ韓国から異議は出されなかった。  
1952年4月16日-18日の松本俊一と梁代表との非公式会談で、韓国側は、日本が朝鮮半島に残した畏友財産に対する請求権を放棄しない限り、審議はすすめられないと申し出た。  
1952年4月21日の松本俊一と金代表との非公式会談で、韓国側は基本条約前文について蒸し返し、「無効(null and void)」との記載を要求、日本側は「効力を有しない(ineffective)」が「最善である。この点は絶対に譲れない。」と反論、金代表は韓国政府内では「illegal(非合法、不法、違法)」に置きかえようとの強硬論もあったと抗弁した。
第2次会談  
第2次会談は1953年4月15日-7月23日に行われた。しかし、第2次会談直前の日韓関係は険悪化し、1953年1月5日から7日までの非公式訪日のさいの吉田茂と李承晩の直接会談も非常に険悪なものであったとされる。  
第2次会談では、韓国は韓国国宝などの目録を提示し、日本は調査中と答弁した。1953年4-7月の非公式会談で広田アジア局第2課長は日本渡来の経緯に種々あり、古く渡来したものもあれば正当な価格で購入したものもあるので、これを網羅的にとりあげることは困難と答弁した。  
韓国軍による日本漁船銃撃と竹島上陸  
また第2次会談と平行して、韓国が一方的に宣言した李承晩ラインの問題も深刻化し、会談直前の1953年2月4日には韓国海軍によって日本の民間の漁船が銃撃され、船長が死亡する第一大邦丸事件が発生した。また、第2次会談が開始直後の4月20日には韓国の民兵独島義勇守備隊が島根県の竹島に駐屯した。なお、1953年7月27日には朝鮮戦争が休戦した。
第3次会談  
第3次会談は1953年10月6日-10月21日に行われた。日本側首席代表の外務省参与久保田貫一郎によれば、10月6日の第3次会談以前までは、原則的なことではなく、未払い給料、文化財、水産関係の事案などの事務的な交渉を行ったいたが、第一大邦丸事件や韓国の民兵による竹島上陸などの実力行使を背景に、10月以降の会談では韓国側は既成事実の圧迫の前に全問題を一気に解決しようと図り、事務的なことから本質的な議題へと移ったところ、後に「久保田発言」として知られる10月15日会談での韓国併合などの歴史認識問題にいたった。  
1953年10月13日の会談で久保田参与は、日本は戦争中、東南アジア諸国で掠奪や破壊をしその賠償をしようとしているが、韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない、万一あるなら賠償すると述べた。  
久保田発言  
1953年10月15日の会談で、韓国側が、日本の在韓財産はアメリカが接収したのであり本来なら韓国は36年間の日本の支配下での愛国者の虐殺、韓国人の基本的人権の剥奪、食料の強制供出、労働力の搾取などへの賠償を請求する権利を持っていると述べたところ、久保田貫一郎が日本は植林し、鉄道を敷設し、水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろうと反論し、また米国による日本人資産の接収は国際法に違反していないと考えるし、違反してたとしても米国への請求権は放棄したと回答した。この久保田の発言に対して、「植民地支配は韓国に害だけを与えたと考えている」韓国側からは、妄言として批判され、日韓会談は中断した。  
久保田参与による説明(1953年10月27日参議院)や、韓国側の記録によると会談は以下のような内容であった。 
日本の請求権問題、在韓日本人財産の扱い  
[韓国の主張] 請求権の問題について日本側の要求は認められない、日本側の請求権はなく、韓国側から日本に対する請求権の問題だけがある。併合時代の韓国は奴隷状態の地域であり、そこに所在していた日本人財産は、元来権力的搾取によって不法に取得したものであるから、没収された。奴隷地域を解放させるという第二次世界大戦後の新しい高次的理想は、私的所有権尊重よりももっと高次的で、より強いもので、そうした理想を実現させるために没収されたのである。  
/ [久保田貫一郎参与の主張] 私有財産の尊重という原則に基いた対韓請求権は放棄していない。また韓国にあった日本の私有財産が没収されていないという解釈ではアメリカ軍政府の措置は国際法に合致しているが、韓国のように日本の私有財産は没収されたという解釈では米国が国際法違反をやつたということになり、日本としてはそういう解釈はとりたくない。連合国が中立国に所在する日本人財産まで没収したのは不当である。  
朝鮮総督府の政治  
日本の請求権の要求は多分に政治的であり、もし日本がそのような政治的な要求をするのなら、韓国としては韓国併合36年間の賠償を要求。  
/ もし韓国併合36年間の賠償要求を出していれば、日本としては、総督政治のよかった面、例えば禿山が緑の山に変つた、鉄道の敷設、港湾の建設、米田が非常に殖えたことなどをあげて韓国側の要求と相殺したであろう。  
カイロ宣言問題  
朝鮮総督政治は警察政治で以て韓国民を圧迫搾取し、自然資源も枯渇せしめ、そうであればこそカイロ宣言に韓国の奴隷状態ということを連合国が明記した。  
/ カイロ宣言は、戦争中の興奮状態において連合国が書いたものであるから、現在は、今連合国が書いたとしたならば、あんな文句は使わなかつたであろう。  
朝鮮(韓国)独立  
韓国側は、第二次世界大戦後の処理で国際法が変つて、被圧迫民族の朝鮮民族の独立と解放の原則が出て来たが、朝鮮の独立にしても講和条約を待たずに独立したが、これは国際法違反かと質問した。  
/ 韓国の独立はサンフランシスコ条約の効力発生時点だから、それ以前の独立は、たとえ連合国が認めていても、日本から見れば異例措置である(10月15日会談)。韓国独立は国際法違反の問題ではなく、ある新しい国家が独立した場合、それを他の国が承認するかしないかの問題がある。講和条約以前に独立した韓国について国連はじめ多数の国家が承認した事実を日本は認定するものであるが、この承認を時期尚早とも見ないし、国際法違反とも思わない。日本はカイロ宣言に明示された韓国の独立方針を承認し降伏文書に署名したが、その後の日本は連合国に占領され完全主権国家ではなかったので韓国独立を自ら進んで承認できなかった。日本は平和条約発効時点で韓国独立を承認したが、連合国の承認日付と発効日付に間隔があったので、これが国際法上異例であるという発言であった(10月21日会談での説明。韓国側記録による)  
日本人の強制送還  
終戦のときに日本人が朝鮮から強制送還されたことは国際法違反かと質問した。  
/ 久保田参与は、それは占領軍の政策の問題であり、国際法違反であるともないとも言わないと答えた。  
 
1953年10月20日の会談で金代表は、10月15日の会談で日本側は、次のように発言したと確認を求め、日本による朝鮮統治は強制的占領であったし、日本は貪慾と暴力で侵略し自然資源を破壊し、朝鮮人は奴隷状態になったと述べた。  
韓国が講和条約の発効の前に独立したことは国際法違反である、と日本はいった。  
日本人が終戦後朝鮮から裸で帰されたことが国際法違反である、と日本はいった。  
請求権について米国と韓国が国際法違反をしている、と日本はいった。  
カイロ宣言の奴隷状態というものは興奮状態で書いたものである、と日本はいった。  
久保田参与は、韓国独立は日本から見れば異例であつたが国際法違反かという問題ではない、日本人送還も国際法違反であるともないとも言わなかつた、米国側の軍政府も国際法違反を犯したことにはならない、カイロ宣言の効力は戦争中の興奮状態で書かれたものである。朝鮮統治は、悪い部面もあっただろうが、いい部面もあつたと答えた。金代表は「日本代表の発言は破壊的である」と同じことを繰返すのみであった。  
1953年10月21日の会談で韓国側は久保田発言を撤回し、悪かったと認めなければ会談の続行は不可能と述べた。久保田参与は、韓国は日本が非建設的であるというが、韓国は1952年の日韓会談直前に李承晩ライン宣言を強行したり、日本の漁船を拿捕し、雰囲気を悪化させたし、これは国際法違反であり、国際司法裁判所に提訴するのが原則であると述べ、国際会議で見解を発表するのは当然のことであるし、まるで暴言したかのように外国に宣伝することは妥当ではないし、撤回はしない、また発言が誤りであったとは考えないと答えた。韓国側は会談に今後出席できないが、これは完全に日本に責任があると述べ、会談は終了し、韓国は「久保田妄言」への報復として李承晩ラインを設定し、竹島を占領した。  
10月27日の参議院で久保田参与は、韓国側は日本に対して「戦勝国」であると錯覚しており、また、「被圧迫民族の独立という新らしい国際法ができたから、それにすべてが従属される」ため、韓国は国際社会での寵児であるという認識があるが、いずれも「根拠がございません」と答弁している。また、久保田貫一郎外務省参与は1953年10月26日付の極秘公文書「日韓会談決裂善後対策」 で韓国について「思い上がった雲の上から降りて来ない限り解決はあり得ない」と記述し、韓国人の気質について「強き者には屈し、弱き者には横暴」であると分析した上で、李承晩政権の打倒を開始するべきであるとの提言を残しており、この公文書の存在を2013年6月15日に報道した朝日新聞は久保田発言について日韓交渉を決裂させた原因とした。  
久保田発言は1957年12月31日、藤山愛一郎外相と金裕沢大使との会談で撤回された。
第4次会談  
第4次会談は1958年4月15日-1960年4月15日に行われた)  
1958年4月16日、日本は東京国立博物館の106点の文化財を韓国に返還したが、韓国側は資料的価値の低いものと評価して、韓国には歓迎されなかった。1958年6月4日、日本は韓国側の気持に同情的であると述べたが、10月には全文化財の引渡は不可能とのべた。  
四月革命以降の韓国  
1960年4月19日には韓国で四月革命が発生、4月26日に李承晩は大統領を辞任した。  
1960年8月23日に成立した張勉政権は日韓正常化を掲げた。
第5次会談  
第5次会談(1960年10月25日-1961年5月15日)では専門家会議がはじめて実施され、韓国の不法に持ち去られたという主張と日本の反論が繰り返された。日本側が正当な手段で入手したと主張すると、韓国側は「正当な取引であるとしても、その取引自体が植民地内でなさえた威圧的な取引であった」と答えた。  
1961年5月16日、韓国で朴正煕らが5・16軍事クーデターを起こし、日韓会談は中断した 。韓国のクーデター直後、池田ケネディ日米首脳会談では民政移管を条件として韓国軍事政権の支持が合意された。
第6次会談  
第6次会談(1961年10月20日-1964年12月2日)。  
1962年3月の会談にあたっての韓国内部文書では、請求金額について無償援助は最低2億6000万ドル、債券4600万ドルは日本が放棄することを前提に、交渉では始め8億ドル、次いで6億ドルを順次提示、5億ドル、最悪4億ドルでの妥結も可能だが、最低2億6000万ドル以上は絶対に無償援助によるもので、最大限の努力を尽くすこととあった。  
大平-金外相会談  
1962年10月、11月に大平正芳外相と金鍾泌大韓民国中央情報部(KCIA、現大韓民国国家情報院)部長による外相会談が開催された。会談で韓国側は妥協金額を6億ドル、日本は1.5億ドルを提示し、アメリカの仲介で3-3.5億ドルに収まっていった。  
10月21日会談で大平外相は3億ドル、年2500万ドルで12年の支払いとのべ、この年2500万ドルについては、日本がフィリピン、インドネシア、ベトナム、タイ、ビルマ、台湾に7600万ドルを毎年賠償として支払ってきたがこのなかで最多の額がフィリピンで2500万ドルと説明した。金KCIA部長は、フィリピンが2500万ドルといってもそれに従う必要があるのか、フィリピンの場合と韓国の場合は異なるとのべ、また12年はあまりに長いとのべた。大平外相は、国会や国民に合理的に納得してもらうために独立祝賀金といった名目などの理由を加えたり、請求権についてもなぜ韓国にあげなけれなばならないのかといいう国民の声もあり、6億ドルは到底ありえないと答えた。  
10月22日の池田首相と金KCIA部長会談で、池田首相は法的根拠に基づいた純弁財額はいくら厚く計算しても7000万ドルであり、相当な考慮によって1.5億ドル、またはそれ以上を提示した。  
11月11日会談で無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上という条件が提示され、大平外相が40分ほど考えた末合意し、合意内容をメモし、金KCIA部長に渡した。このメモは「金・大平メモ」とよばれる。  
また韓国側は、韓国の軍事力が日本の国防に貢献しているため負担金を要求、日本は「韓国の防衛力は韓国自体を守るために存在している」のであり、もし日本を守るために存在するなら韓国国民のプライドが許さないはずだと反論した。  
朴正煕議長の来日  
国家再建最高会議議長朴正煕が1961年11月に訪日し池田勇人と会談し、朴議長は請求権問題は賠償的性格でなく法的根拠を持つものに限るとのべ、池田首相も、法的根拠が確実なものに対しては請求権として支払い、それ以外は無償援助、長期低利の借款援助を示唆し、経済協力方式による解決が提示された。しかしこれが報道されると、韓国内で朴政権が妥協したと批判されたため、朴政権は請求権問題と「経済協力」は別々の問題であると説明した。  
この日韓首脳会談が契機となり、歴史認識問題や竹島(独島)の帰属問題は「解決せざるをもって、解決したとみなす」で知られる丁・河野密約により棚上げとなり、条約の締結に至った。  
1963年には韓国国内政治の混乱があったが、朴正煕が大統領に当選すると、李承晩ライン撤廃に向けての漁業協定に問題が集約していった。しかし1964年6月3日には日韓条約反対デモが警察を占領する6.3事態が発生し、戒厳令が韓国で宣布され、交渉も凍結された。のちに大統領となる李明博もこの時逮捕され、懲役刑を受けた。  
これ以降、進展しない日韓交渉に苛立ったアメリカはベトナム戦争の激化もあり、露骨に介入するようになっていった。
第7次会談  
第7次会談(1964年12月3日-1965年6月22日)  
1965年6月22日に文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定が締結された。
日韓会談での争点  
旧条約無効問題  
本条約は締結されたとは言え、これ以前に締約された日韓併合条約や協定に対する「もはや無効であることが確認される」という条文に対して日韓両国の解釈が異なるなど、歴史認識論議が絶えない。  
韓国側は、本条約の締結により「過去の条約や協定は、(当時から)既に無効であることが確認される」という解釈をしているのに対し、日本側は本条約の締結により「過去の条約や協定は、(現時点から)無効になると確認される」という解釈をしている。これは、特に韓国併合に対して、韓国側は「そもそも日韓併合条約は無効であった」という立場であるのに対し、日本側は「併合自体は合法的な手続きによって行われ、併合に関する条約は有効であった(よって、本条約を持って無効化された)」という立場をとるという意味である。これは、韓国側が主張した "null and void" (無効)に already を加えて "already null and void" (もはや無効)とし、双方の歴史認識からの解釈を可能にしたもので、事実上問題の先送りであった。  
藤井賢二はこうした感情的で、歴史的事実とは乖離した旧条約無効の主張は、韓国が自らを連合国(戦勝国)として位置づけようとしたことと密接な関係があると述べている。韓国側公開文書「1950年10月 対日講和条約に関する基本態度とその法的根拠 対日講和調査委員会」に添付された駐日韓国代表部政務部による1951年10月25日付の説明文には、「韓国が対日平和条約に署名できなかったのは、韓国が対日戦争に参加しなかったという事実に起因すると言えるが、韓日合併条約無効論の立論が不十分であったためでもあると記されおり、旧条約無効の主張は韓国が自らを連合国として位置づけるためにも妥協は許されなかったと藤井は指摘している。  
文化財の返還問題  
朝鮮半島から流出した文化財の返還問題については付随協定として「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結んだ。これにより日韓間における文化財の返還問題に関しては法的に最終的に決着した。  
日本は「正式の手続きにより購入したかあるいは寄贈を受けたか、要するに正当な手続きを経て入手したもので、返還する国際法の義務はない」との立場をとっていたが、およそ1321点の文化財を韓国側へ引き渡した。椎名悦三郎外相は「返還する義務は毛頭ないが、韓国の文化問題に関して誠意をもって協力するということで引き渡した」と説明した。当初、韓国側は「返還」、日本側は「贈与」という表現を用いるよう主張し、最終的に「引渡し」という表現で合意した。  
個人への補償  
韓国が日韓交渉中に主張した対日債権(韓国人となった朝鮮人の日本軍人軍属、官吏の未払い給与、恩給、その他接収財産など)に対して日本政府は、「韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行う」と提案したが、韓国政府は「個人への補償は韓国政府が行うので日本は韓国政府へ一括して支払って欲しい」とし、現金合計21億ドルと各種現物返還を請求した。次の日韓交渉で日本は韓国政府へ一括支払いは承諾したが21億ドルと各種現物返還は拒否し、その後、請求額に関しては韓国が妥協して、日本は「独立祝賀金」と「発展途上国支援」として無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び融資を行った。  
この時、韓国政府はこの供与及び融資を日本に対して債権を有する個々人にはほとんど支給せず、自国の経済基盤整備の為に使用した。現在この点を批判する運動が韓国で起きている。また、交渉過程で、日本が朝鮮を統治している時代に朝鮮半島に残した53億ドル分の資産は、朝鮮半島を占領した米ソによってすでに接収されていることが判明しており、この返還についても論点のひとつであった。交渉過程ではこれら日本人の個人資産や国有資産の返還についての言及も日本側からなされたが、最終的に日本はこれらの請求権を放棄した。  
日本の対韓請求権  
日本の対韓請求権に関しては、韓国が米国に照会して日本の対韓請求権は存在しないことが確認されている。1945年12月の米軍政法令第33条帰属財産管理法によって、米軍政府管轄地域における全ての日本の国有・私有財産を米軍政府に帰属させることが決定された。また日本国との平和条約第二条(a) には「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。  
「強制徴用」・「強制連行」問題  
韓国政府は交渉の過程で、「強制徴用、徴兵被害者など多大な被害を受けた」として日本政府に対し資料の開示と賠償を要求したが、日本政府は「韓国政府に証明義務がある」と主張した。韓国政府は関連資料をすべて日本側のみが持っていると主張した上で強制徴用、徴兵被害者などの被害者数を「103万人余」とした。なおこの数値については、当時交渉に参加した鄭一永元外務次官自身が「適当に算出」したと証言している。2009年の韓国政府の発表では約12万人の強制動員が確認された。
条約の内容  
条約は7条からなる。  
第2条では、両国は日韓併合(1910年)以前に朝鮮、大韓帝国との間で結んだ条約(1910年(明治43年)に結ばれた日韓併合条約など)の全てをもはや無効であることを確認した。  
第3条では日本は韓国が朝鮮にある唯一の合法政府であることを確認し、国交を正常化した。また日本の援助に加えて、両国間の財産、請求権一切の完全かつ最終的な解決が確認され、それらに基づく関係正常化などの取り決めを行った。  
条約は英語と日本語と韓国語(朝鮮語)で二部ずつが作られ、それぞれ両国に保管されている。  
この条約によって国交正常化した結果、日本は韓国に対して莫大な経済援助を行った。政府開発援助 (ODA) もその一環である。  
付随協約  
日韓基本条約締結に伴い、以下の協定及び交換公文形式の約定が結ばれた。  
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定)  
日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(在日韓国人の法的地位協定)  
日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定(日韓漁業協定)  
文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定  
日本国と大韓民国との間の紛争の解決に関する交換公文  
財産及び請求権に関する協定  
最終的に両国は、協定の題名を「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」とした。この協定において日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することに合意した。  
両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する(個別請求権の問題解決)。  
一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする(相手国家に対する個別請求権の放棄)。  
「経済協力金」とその使途  
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定によって日本は韓国に次のような資金供与及び融資をおこなった。  
3億ドル相当の生産物及び役務 無償(1965年)(当時1ドル=約360円)  
2億ドル 円有償金(1965年)  
3億ドル以上 民間借款(1965年)  
計約11億ドルにものぼるものであった。なお、当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。  
また、用途に関し、「大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。」と定められてあった。  
韓国政府はこれらの資金を1971年の対日民間請求権申告に関する法律及び1972年の対日民間請求権補償に関する法律(1982年廃止)によって、軍人・軍属・労務者として召集・徴集された者の遺族に個人補償金に充てた。しかし戦時徴兵補償金は死亡者一人あたりわずか30万ウォン(約2.24万円)であり、個人補償の総額も約91億8000万ウォン(当時約58億円)と、無償協力金3億ドル(当時約1080億円)の5.4%に過ぎなかった。また、終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らは補償対象から除外した。  
韓国政府は上記以外の資金の大部分は道路やダム・工場の建設などインフラの整備や企業への投資に使用し、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展に繋げた。
反対運動  
条約締結に際し、日韓両国で激しい反対運動が起こった。韓国では南北分断が固定化され、冷戦に日本が巻き込まれることで、「日本の平和」が奪われ、日本が戦争に参加するようになるとして批判された。  
1965年8月14日、韓国国会は条約批准の同意案を可決した。日本での反対運動は学生活動家や旧社会党などによって展開された。そこでは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を無視した韓国との単独国交回復に反対するものが主であった。これは、当時の社会党、共産党などは、北朝鮮を朝鮮半島の唯一正統な政権と認識していたからであり、韓国を唯一正統な政権と認める本条約は受け入れがたい内容だったからである。  
結局、衆参両院の日韓特別委員会に於いて与党の自民党がこの条約の委員会採決を強行。本会議でも自民党と民社党のみが出席(他党は審議拒否)して条約の承認を可決した。一方で韓国側の反対運動は感情的な反日論特に歴史認識、請求権、李承晩ライン破棄等で、韓国側は従来の主張を大幅に譲歩させたためこれに対して「売国奴。」「豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の日帝侵略の償いをはした金で許すのか。」「屈辱的譲歩。」というものが大勢ではあったがその他にも朴政権【当時の朴政権は軍事独裁政権であった。なおこの種の開発独裁に関する不正蓄財やODAに関する批判はフィリピンやペルー等反日感情がとりわけ強くない国でも起きておりこの視点の批判が韓国特有のものというわけではない。】の不正蓄財に日本側の資産が流用されると言った韓国国内の政治事情にからむ反対意見や日本資産の直接流入による貿易赤字や失業率の増大低賃金労働の固定化等経済的事情を主張する意見もあった。  
なお日本の左翼はこの時点ではさほど韓国には肩入れしておらず、前述のように北朝鮮を朝鮮半島の正統な政権と認識する前提で、あるいは少なくとも南北対等の前提で反対していた。そのため、後年のような歴史認識の相違等は主たる反対理由にはしていなかった。韓国側は最終的に戒厳令を敷いてデモを鎮圧している。
北朝鮮の立場  
北朝鮮は '日本・南朝鮮「協定」' とよび、日本からの「強盗さながらの要求」によってむすばれた無効なものであると主張する。  
北朝鮮政府は「日本はまだ北朝鮮に対して、戦後賠償や謝罪をしていない」と、北朝鮮による日本人拉致問題の解決の交渉の上で再三述べ、日朝国交正常化と日本の北朝鮮に対する戦後賠償と謝罪が何より先決だと主張している。  
日韓両国は日韓基本条約第三条にて韓国政府の法的地位を「国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの」として朝鮮にある唯一の合法的な政府とすることで合意した。この国連決議は韓国の単独選挙を行うことに関する決議であるが、韓国の単独選挙は米軍政府管轄区域(38度線以南)のみで行われ、ソ連軍政府管轄区域である38度線以北は除外された。  
日本は現在、このような解釈をもとに、北朝鮮による日本人拉致問題の解決と日本の北朝鮮に対する国交正常化後の経済協力を包括した日朝国交正常化交渉を行っている。
条約締結後も繰り返される対日請求  
日韓請求権並びに経済協力協定によって韓国の日本に対する一切の財産及び請求権問題に対する外交的保護権は放棄されているが、その後も韓国議会、司法、韓国民による対日請求が出されており、日本側の主張と対立が生じている。慰安婦問題、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題、日本に略奪されたと主張される文化財の返還問題などが争点となっている。  
個人請求権に関する日本政府答弁と訴訟  
日本国内においては、財産、権利及び利益については外交的保護権のみならず実体的にその権利も消滅しているが、請求権については、外交的保護権の放棄ということにとどまっている。また、約11億ドルの無償資金と借款を援助することと、韓国が対日請求権を放棄することに法的な直接のつながりがないとされている。  
1991年8月27日、柳井俊二条約局長として参議院予算委員会で、『(日韓基本条約は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ』と答弁。これ以降、韓国より個人請求権を根拠にした訴訟が相次ぐようになった。  
この第二条の一項で言っておりますのは、財産、権利及び利益、請求権のいずれにつきましても、外交的保護権の放棄であるという点につきましては先生のおっしゃるとおりでございますが、しかし、この一項を受けまして三項で先ほど申し上げたような規定がございますので、日本政府といたしましては国内法をつくりまして、財産、権利及び利益につきましては、その実体的な権利を消滅させておるという意味で、その外交的な保護権のみならず実体的にその権利も消滅しておる。ただ、請求権につきましては、外交的保護の放棄ということにとどまっておる。個人のいわゆる請求権というものがあるとすれば、それはその外交的保護の対象にはならないけれども、そういう形では存在し得るものであるということでございます。1993年5月26日の衆議院予算委員会 丹波實外務省条約局長答弁
盧武鉉政権以降の再請求(2005年)  
韓国政府や韓国メディアはこの協定による賠償請求権の解決について1965年当時からも韓国国民に積極的に周知を行うことはなく、民間レベルでも日本政府への新たな補償を求める訴えや抗議活動がなされ続けていた。賠償請求の完全解決は、韓国側議事録でも確認されており、日本政府もこの協定により日韓間の請求権問題が解決したとしているが、韓国政府は2005年の盧武鉉政権以降から、慰安婦、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題は対象外だったと主張をはじめた(#韓国政府における議事録の公開参照)。また2005年4月21日、韓国の与野党議員27人が、日韓基本条約が屈辱的であるとして破棄し、同時に日本統治下に被害を受けた個人への賠償などを義務付ける内容の新しい条約を改めて締結するように求める決議案を韓国国会に提出した。とともに、日韓両政府が日韓基本条約締結の過程を外交文書ですべて明らかにした上で韓国政府が日本に謝罪させるよう要求した。  
韓国政府による対日補償要求終了の告知(2008年)  
2009年8月14日、ソウル行政裁判所による情報公開によって韓国人の個別補償は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないことがようやく韓国国民にも明らかにされてから、日本への徴用被害者の未払い賃金請求は困難であるとして、韓国政府が正式に表明するに至った 。補償問題は1965年の日韓国交正常化の際に日本政府から受け取った「対日請求権資金」ですべて終わっているという立場を、改めて韓国政府が確認したもので、いわゆる慰安婦等の今後補償や賠償の請求は、韓国政府への要求となることを韓国政府が国際社会に対して示した。  
韓国最高裁、日本企業の徴用者に対する賠償責任を認める(2012年)  
2012年、日韓併合時の日本企業による徴用者の賠償請求を韓国最高裁が認めた。韓国最高裁は「1965年に締結された韓日請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するための交渉ではないため、日帝が犯した反人道的不法行為に対する個人の損害賠償請求権は依然として有効」とし「消滅時効が過ぎて賠償責任はないという被告の主張は信義誠実の原則に反して認められない」と述べている。原告(請求訴訟者)の同一趣旨による日本における訴訟は原告側の敗訴が確定しているが、韓国最高裁ではこれを認めることはできないとしている。  
李明博大統領による天皇謝罪要求(2012年)  
2012年8月14日に李明博大統領は天皇による謝罪を要求する演説を行い、日韓の外交摩擦が生じた。ただし本条約は両締約国及びその国民の間の財産、権利及び利益並びに請求権に対する外交的保護権放棄についての規定であり、上記のようなそれ以外の要求について何ら言及するものではない。  
日本政府側の対応  
日本は請求権協定により「完全かつ最終的な解決」をみたとの立場をとり続けている。  
岸田外務大臣(安倍第二次内閣)は、2013年5月22日の衆院外務委員会で、旧日本軍慰安婦への補償について、日韓国交正常化時の請求権協定により「解決されたと確認されている。紛争は存在しない」と述べた。協定の解釈や実施をめぐる「紛争」は外交的に解決するよう3条で定めるが、補償問題は対象外との日本政府の立場を明らかにした。
個人請求権に関する日本政府の主張に対する異論  
慰安婦国連報告  
1996年1月から2月にかけて国連人権委員会に報告されたクマラスワミ報告では、本条約に言及したうえで個人請求権に関する日本政府の主張に対して以下の通り反論している。  
104.さらに日本政府は、特別報告者に手渡した書面で、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(1965年)/20第2条第1項は、「両締約国及びその国民の財産、権利及び利益に関する問題が、………完全かつ最終的に解決されたこととなること」を確認していると主張する。第11条(3)は、「一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって………他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置……に関してはいかなる主張もできないものとする」としている。実際、総額5億米ドルが支払われたと,日本政府は指摘する。  
107.国際法律家委員会は、1994年に公表された「慰安婦」に関する調査報告(21)の中で、日本政府が言及する諸条約は、非人道的処遇に対して個人が行う請求権を含む意図はまったくなかったと述べている。「請求権」という言葉は、不法行為による請求権を含まず、また合意議事録または付属議定書でも定義されていない、と国際法律家委員会は論じる。また、戦争犯罪及び人道に対する犯罪から生じる個人の権利の侵害に関して,なんら交渉はなされなかったとも主張する。国際法律家委員会はまた、大韓民国の場合、日本との1965年協定は、政府に対して支払われる賠償に関連するもので、被った損害に基づく個人による請求権は含んでいないと断言している。  
日本政府はこのクマラスワミ報告に対する再反論を行っている。  
日本の市民団体による請求権未解決説  
日本の団体強制動員真相究明ネットワークは、当時の日本政府内で「完全かつ最終的に解決された」ことは曖昧なままで請求権は未解決であったことが認識されていたと大蔵省の内部資料などで明らかになったと主張している。また、日韓会談文書・全面公開を求める会は文書の全面公開を要求している。
韓国政府における議事録の公開  
2005年1月17日、韓国において、韓国側の基本条約、及び、付随協約の議事録の一部が公開された。韓国政府は、公表と同時に、「政府や旧日本軍が関与した反人道的不法行為は、請求権協定で解決されたとみられず、日本の法的責任が残っている」との声明を発表した。韓国側の議事録が公開されると、日本と韓国間の個人賠償請求について当該諸条約の本文に「完全かつ最終的に解決した」と「1945年8月15日以前に生じたいかなる請求権も主張もすることができないものとする。」の文言が明記されている事が韓国国内に広く知られるようになった。また、韓国では2005年8月26日に追加公開を行った。公開前に、国益に著しく反すると判断されるごく一部については非公開とされた。公開における文書の分量は、156冊で、3万5354ページである。韓国側の議事録が明らかになったことで、日韓交渉時における韓国政府の交渉に不満を持つ一部の韓国国民は、再交渉して条文の補填を要求している。韓国のインターネットで東北亜歴史財団、東亜日報などが公開し、日本語の部分訳もある  
日本政府は、(議事録、メモなどの日韓会談に関する文書の公開は)日朝交渉への影響を及ぼすとして、公開しておらず、韓国政府に対しても非公開を随時要請していた。韓国側の文書公開に対しても、町村信孝外相(当時)が、特段のコメントをする必要はないと述べている。  
日韓基本条約2  
1951年の講和会議では、1910年の日韓併合以来植民地となった朝鮮は排除されました。当時の吉田首相やイギリスが、朝鮮は対日参戦国ではないという理由で招請に反対したことなどが理由です。しかし、45年のポツダム宣言の受託によって日本の植民地支配は終了していたことに鑑みると大きな疑問を残しました。結局、終戦から20年も経過したこの年、日本と大韓民国政府との間で日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)の批准書が交換され、関連する協定とともに発効しました(12月18日)。条約は日本の植民地支配が終わっていることを法的に確認し、両国間の国交を正式に樹立するものでした。  
条約の交渉は15年の長きに及ぶ難交渉でしたが、この年に多くの問題を先送りして急遽締結されました。その背景として、この年北ベトナムの爆撃を開始したアメリカ、ベトナム派兵を決めた韓国、そして日本の3国の軍事的な関係の強化をアメリカが急いだことが指摘されました。そのため、朝鮮の南北分断を固定化させることへの懸念とあいまち、条約締結に対して日韓双方で激しい反対運動が起きました。しかし、両国とも条約の締結が強行されました。  
問題点として、1韓国を朝鮮半島全域における唯一の合法的な政府としました。そのため、現在に至るも、朝鮮人民民主主義共和国との国交は樹立されないという極めて異常な事態が続いています。21910年の日韓併合条約については、日本は韓国の独立時に失効、韓国は当初から無効と主張しました。この点も現在でも歴史認識の問題として争われています。3在日朝鮮人のうち、韓国籍を持つ者についてのみ永住権等が認められました。4対日戦勝国として戦争賠償金を求める韓国に対して日本は、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対してそれを支払う立場にないと主張しました。結局韓国が妥協して、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が締結されました。内容は、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び貸付です。これによって、国民の請求権に関する問題は、「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とされました。しかし、同時に協定には、「供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない」と規定され、事実大部分はインフラの整備等軍事政権の基盤の強化に使われました。軍人・軍属・労務者に対する補償は僅か(日本円にして3万円)でした。終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元性奴隷の方々には全く補償がありませんでした。  
そのため、1990年代以降、冷戦体制が崩壊し民主化が進んだ韓国からは、他のアジア諸地域からと同様に、軍事政権の正統性を問うことと並行して、日本の戦争責任の追及・個人からの対日補償要求が台頭し、重大な問題となっています。 
日韓基本条約3  
日韓基本条約(正式名:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)とは、1965年6月22日に日本(佐藤栄作首相)と韓国(朴正煕大統領)の間で締結された条約であり、簡単に言うと戦後保証問題は解決済みであり、韓国・韓国人は日本・日本国民に対して賠償を要求することが一切できないことの根拠である。同時に複数の協約が結ばれた。  
概要  
この条約は日本と韓国の間の国交正常化、および戦前の両国関係の清算や戦後補償について取り決めている。ただし戦後補償については付随協約(韓国との請求権・経済協力協定)による。また第二次日韓協約・韓国併合条約の合法性に関する問題や竹島帰属問題は、事実上「棚上げ」された。  
条約制定当時、日本と韓国の間には賠償問題のみならず、前述の竹島問題など課題が山積しており、韓国内では激しい条約締結反対運動も起こった。それでも両国が妥協し国交を回復したのは、同1965年にベトナム戦争を始めたアメリカが日韓の戦争協力を得るべく、「資本主義陣営として団結し社会主義に対抗する」よう両国に圧力をかけたためだと言われている。  
第二条  
1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。  
注)1910年8月22日:韓国併合条約(韓国併合ニ関スル条約)の締結日。  
韓国併合条約及びそれ以前に日韓間で結ばれた条約・協定は無効であることが規定されているが、重要なのは「もはや」の3文字である。条約作成時、戦前の日本の朝鮮植民地支配を清算するにあたって、日本側は、「日韓併合条約とそれ以前の条約・協定は、当時は合法であったが、日韓基本条約締結以後は無効になる」とする立場をとった。一方韓国側は、「それらの条約・協定は、当初から無効・不法である」とする立場をとっていた。  
結局両者の間で折り合いがつかず、韓国側が求めていた、  
It is confirmed that all treaties or agreements concluded between the Empire of Japan and the Empire of Korea on or before August 22, 1910 are null and void.  
という英語条文の表現に、"already" の一語をつけ加え  
It is confirmed that all treaties or agreements (中略) are already null and void.  
とし、日韓どちらの解釈にも合うよう妥協的措置がとられ、解釈は「棚上げ」された。現在においても、この問題に関する議論、特に外交権を接収した第二次日韓協約や韓国併合条約(詳細は韓国史を参照)の合法性に関する議論は収束していない。  
第三条  
大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号(V)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。  
注)国際連合総会決議第195号(V):大韓民国が朝鮮半島における唯一の合法政府であることを認める国連決議。上記日韓基本条約のPDFの末尾に内容が載っている。  
社会主義陣営の一員であった北朝鮮が、合法的政府と認められていなかったことを示している。
韓国との請求権・経済協力協定  
正式名は「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」  
第一条  
1. 日本国は、大韓民国に対し、  
a.現在において1080億円に換算される3億合衆国ドルに等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から10年の期間にわたって無償で供与するものとする。各年における生産物及び役務の供与は、現在において108億円に換算される3000万合衆国ドルに等しい円の額を限度とし、各年における供与がこの額に達しなかったときは、その残額は、次年以降の供与額に加算されるものとする。ただし、各年の供与の限度額は、両締約国政府の合意により増額されることができる。  
b.現在において720億円に換算される2億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けで、大韓民国政府が要請し、かつ、3の規定に基づいて締結される取極に従って決定される事業の実施に必要な日本国の生産物及び日本人の役務の大韓民国による調達に充てられるものをこの協定の効力発生の日から十年の期間にわたって行なうものとする。この貸付けは、日本国の海外経済協力基金により行なわれるものとし、日本国政府は、同基金がこの貸付けを各年において均等に行ないうるために必要とする資金を確保することができるように、必要な措置を執るものとする。  
前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。  
ここでは、日本政府が韓国政府に対し事実上の賠償金(厳密には「経済協力金」であって賠償金とは書かれていない。これは日本政府が「日本は戦前朝鮮を合法的に領有しており、大戦においても韓国と交戦状態にあった訳ではないので、日本は韓国に賠償を支払う立場にない」としているためである)として3億ドルを無償で支払い、2億米ドルを低利融資することが定められている(当時は固定相場制で1ドル=360円)。この他にも、3億ドル以上が民間借款として韓国政府に低利融資された。  
ちなみに1965年度の日本の一般会計予算は3兆7千億円、同年の韓国の国家予算は3.5億ドルであり、無償供与の賠償金3億ドル=1080億円は、日本の国家予算の1/40、韓国の国家予算とほぼ同額であった。今の価値に直すとおおよそ1兆〜2兆円程度であろうか。  
第二条  
1.両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。  
2.この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執つた特別の措置の対象となったものを除く。)に影響を及ぼすものではない。 a.一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益  
b.一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって1954年8月15日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいつたもの  
3.2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。  
まず1.では、韓国政府・国民の日本に対する賠償請求問題は、この協約で規定された日本政府による韓国政府への経済援助をもって完全に解決されることが定められている。なお、日本政府による韓国国民への直接賠償が規定されていないのは、韓国政府が自国民への個別保障をするので日本政府は韓国政府へ一括して賠償金を支払って欲しいという、韓国政府の要請によるものである。  
ついで3.では、今後韓国政府・国民は日本に対し一切の賠償請求ができないと定められている。しかし韓国政府は後になって、日本軍の従軍慰安婦への賠償や当時広島・長崎で被爆した韓国人への賠償は、この規定に含まれないとする主張をし始めた。これに対し日本政府は、韓国に対する全ての賠償問題は同協約で解決済みだとの姿勢を貫いている。 
日韓請求権協定  
1965年に結ばれた「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」のこと。略称は「韓国との請求権・経済協力協定」ともいう。両国の国交正常化のための「日韓基本条約」とともに結ばれ、日本が韓国に5億ドルの経済支援を行うことで、両国及び国民の間での請求権を完全かつ最終的に解決したとする内容。  
日本の太平洋戦争敗戦後、韓国はサンフランシスコ条約の当事国に含まれなかったため、国交は成立しないままとなっていた。52年の同条約発効直前に、韓国は一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占領するなど日韓両国の関係が悪化した。後に、クーデターによって政権についた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、日米など諸外国との関係改善を急ぎ、65年には「日韓基本条約」が締結された。これに付随して交わされたいくつかの協約の一つが日韓請求権協定である。  
この協定は、日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与することなどで、両国及びその国民の間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認する内容である。したがって、戦時中などに生じた事由に基づく請求権は、いかなる主張もすることができない。また、この協定に関する紛争があれば外交経路で解決するものとし、解決できない時は第三国を交えた仲裁委員会に付託することになる。  
韓国政府は条約内容を長らく国民に明らかにしていなかったが、2009年には徴用工の未払い賃金等もこれに含まれていたと公式に弁明。同国内では、国民が受け取るべき補償を、韓国政府が一括で受け取り費やしたとの批判もある。近年になって、戦争中に徴用された韓国人らによる訴訟で、韓国の裁判所から日本企業に対する賠償命令が相次いで出された。韓国の最高裁判所に当たる大法院で賠償が確定すれば、これに対して国際司法裁判所に提訴すべきだなどの意見が日本側から出ている。韓国側では請求権の具体的な内容が協約に記されていないことなどから、従軍慰安婦や在韓被爆者などについてはこの協約の対象とはならないとする意見もある。
1966年 
1967年 
1968年 
1969年 
 
謝罪の歴史2 1970〜1974

 

1970年 
1971年
1972年9月29日 - 田中角栄総理大臣  
(日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明)  
日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。  
毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。  
田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。  
日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。  
日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。  
日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。  
一 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。  
二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。  
三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。  
四 日本国政府及び中華人民共和国政府は、千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。  
五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。  
六 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。  
七 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。  
八 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。  
九 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。  
千九百七十二年九月二十九日に北京で  
日本国内閣総理大臣 田中角栄   日本国外務大臣 大平正芳  
中華人民共和国国務院総理 周恩来 中華人民共和国外交部長 姫鵬飛
日中国交正常化  
1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国とが国交を結んだことであり、戦後27年、中華人民共和国建国23年を経て戦後の懸案となっていた日中間の不正常な状態を解決した。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄、周恩来両首相が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国に断交を通告した。  
前史・戦後の日中関係  
二つの中国  
1945年の第二次大戦の終了で日本軍が降伏して、その後国共内戦が始まり、1949年10月1日、中華人民共和国が建国された。大陸では中国共産党が勝利して、それまで少なくとも中国を代表していた中華民国政府・中国国民党は台湾を支配するのみとなった。ここに中国を代表すると主張する政府が北京と台北で対峙することになった結果、世界各国は中国を承認するに際して、どちらの政府を中国を代表する政府と見なすかという中国代表権問題に直面することとなった。この時は日本はまだ戦後4年でGHQの統治下に置かれ、外交権の無い時期であった。西側でもイギリスは1950年1月に、台湾との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して、中国代表権問題については最初からアメリカとは違うスタンスを取った。  
そして同じ年1950年に、朝鮮戦争が始まり、1952年4月に日本が戦後の独立を果たした頃には、すでに朝鮮半島では国連軍の主力である米軍と中国の人民解放軍が砲火を交えて東アジアは緊張と混乱の中であった。この東西対立の激しい時代に入って日本はアメリカの保護の下に西側陣営に属し、国内に対立を残しながら台湾の中華民国政府を支持する立場に立ち、北京の中華人民共和国とは国交断絶の状態が結局1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を促進する動きのみが続いた。  
日中民間貿易協定  
中華人民共和国が建国されて以降、日本と中華人民共和国との交流は友好関係にあった日本共産党や日本社会党以外は細々とした民間交流に過ぎなかった。  
1950年10月1日には日中友好協会が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。この時期は台湾と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。  
吉田内閣と日華平和条約  
吉田茂首相は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも台北の中華民国政府(国府)を承認するとは明言しなかった。西側でもイギリスが北京を承認しつつ台湾とも関係を保っていることに注目して、国府を承認するにしても上海に貿易事務所を開設することに言及していた。むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて、結果として国府承認に踏み切らざるを得なかった。そして講和条約が発効された4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中国との国交正常化で最も難しい問題となった。  
鳩山内閣と政経分離  
吉田茂の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に石橋湛山通産相は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中国は注目していた。1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した周恩来総理は、平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望すると表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た。翌1956年9月には、日本人の戦犯およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。  
こうした動きには中国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。  
岸内閣とアジア外交  
1957年2月に石橋首相の病気辞任の後岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に台湾に立ち寄り、蒋介石総統と会談して台湾との関係を強化した。岸政権は必ずしも中国との経済関係の進展に消極的であったわけではないとされている。そして1958年3月に第四次日中民間貿易協定が結ばれた。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に台湾とアメリカから反発が出て、台湾では予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中国側が態度を硬化。険悪なムードが漂う中で1958年5月2日に長崎国旗事件が起きた。これに中国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。  
そしてこの年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、日中間はしばらく膠着状態となった。中国は岸首相が台湾の蒋介石の大陸反攻に一定の支持をしたことを重く受け止めていた。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中国側の「政経不可分の原則」と相対して国レベルでは断絶であった。1959年に訪中した石橋湛山前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。 しかし民間レベルでの接触は続き、友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は60年代も続くのである。  
池田内閣と二つの中国政策  
1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸首相が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田首相は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。池田首相は国連中心の外交方針で、中国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、台湾の国府の議席を維持したまま中国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし北京も台北も「一つの中国」を原則としており、多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた。  
池田首相は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾)にその地位を限定することで国府の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても国府の議席は守られると考えていた。そのためには国府を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は中国の国連加盟に対する国内の抵抗が大きいとするものであった。この問題はこの時で終わってしまった。  
そして1964年1月に突然フランスのドゴール大統領が中国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中国との国交正常化をしても国府が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に国府が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田首相は、中国の国連加盟が実現すれば日本も中国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に国府は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した。  
友好貿易とLT貿易  
1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三、古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周恩来首相から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い団体や企業が中心的な役割を果たしていた。  
そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日空社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保障や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中国側代表廖承志と日本側代表高碕達之助の頭文字からLT貿易と呼ばれている。しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後台湾へ希望先を変えて、その後もとの中国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中国へ強制送還したが、国府が反発して日台関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田元首相が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田首相の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。  
さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。  
文化大革命と覚書貿易  
1964年秋に池田首相が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争、沖縄返還、日米安保延長があり、そして中国では原爆保有、文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。  
1966年3月には日本共産党の宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した。この直後、中国では文化大革命が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。  
国交正常化の経緯  
米中接近  
中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1962年頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。  
1971年3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にヘンリー・キッシンジャー米国大統領補佐官(当時。後に国務長官)が北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。  
この当時アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、また膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中国訪問が実現した。  
このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中国のものでなく、日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであることをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった  
佐藤内閣  
佐藤首相は、池田前首相の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、国府を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤首相が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時先進国で中国との国交が正常化していない国は日本と西独だけで他の英仏伊加がすでに承認していたことは、日本外交が取り残されているとの認識が一般にも広がっていった。一方当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国(台湾)を支持する勢力が多数であり(石原慎太郎や浜田幸一なども親台湾派であった)、様々な権益が絡んでいた。また当然のことながら、中華人民共和国、中華民国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎氏は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫氏は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」ことで右往左往することになった。  
71年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし台湾を排除することは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案」と中国・台湾両国とも議席を認める「複合二重代表制決議案」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めたアルバニア案の採決で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしており、日本はただ反対するだけで何の対応も出来ない状況に置かれて佐藤外交の無策ぶりが目立った。中国の国連加盟が実現して台湾が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛ての親書を託したが、中国側の対応は冷ややかであった。中国側は佐藤内閣には何ら期待しておらず、もはや次の内閣が日中間の正常化をめざすことは誰の目にも明らかになった。  
田中内閣  
1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入委員長が訪中して27日から3日間延べ10時間に渡って周恩来首相と会談して、中国の考え方の内容が示された。帰国後の8月4日に田中首相と大平外相にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中首相はこれを読んで北京に赴くことを決意した。  
この時から中国側も田中内閣での日中国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中首相と会談する場が設けられて、その場で田中首相は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え、中国側から正式に田中首相を本国へ招待することが伝えられた。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。  
日中国交正常化交渉  
ここで田中首相は、アメリカよりも早く日中国交回復を果たすことを決断した。  
このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中首相は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった。  
1972年9月25日、田中首相は秋晴れの北京空港に降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、田中首相、大平外相、二階堂官房長官、高島条約局長、橋本中国課長、栗山条約課長など8名。中国側は、周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志会長、韓念龍外交部副部長、張香山顧問など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が台湾との日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めることで中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中首相は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶した。  
26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した。午後の首脳会談で周恩来首相から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、台湾は中国の一部とする中国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」旨の案を提示した。  
27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中首相から出されたが周首相から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中首相・大平外相・二階堂長官の3氏は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。  
28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平外相から日本と台湾の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周首相は黙認する姿勢を示した。  
そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄と外務大臣:大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第2次大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。  
なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている。  
それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。
1973年 
1974年 
 
謝罪の歴史3 1975〜1979

 

1975年 
1976年 
1977年 
1978年 
1979年 
 
謝罪の歴史4 1980〜1984

 

1980年 
1981年
1982年8月24日 - 鈴木善幸首相  
「過去の戦争を通じ、重大な損害を与えた責任を深く痛感している」「『侵略』という批判もあることは認識する必要がある」
1982年8月26日 - 宮澤喜一内閣官房長官

 

(歴史教科書に関する宮沢内閣官房長官談話) 
一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において 「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する 」との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。 
二、 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。 
三、 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。 
四、 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。
1983年
1984年9月6日 - 昭和天皇

 

(大韓民国全斗煥大統領歓迎の宮中晩餐会のおことば) 
このたび、大韓民国大統領閣下が、国務御多端の折にもかかわらず、令夫人とともに、国賓として、我が国に御来訪になったことに対し、私は、心から歓迎の意を表します。大統領閣下の御来訪は、貴国元首の初めての公式御来日として、両国の関係史上、画期的なことであり、両国の友好増進のため、誠に喜ばしいことであります。ここに、御一行をお迎えして、宴席をともにできるのは、喜びに堪えません。  
顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国であり、その間には、古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。我が国は、貴国との交流によって多くのことを学びました。例えば、紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し、学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります。永い歴史にわたり、両国は、深い隣人関係にあったのであります。このような間柄にもかかわらず、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。  
今日、両国の努力と協力により、将来に向かって益々友好と親善が深められ、ともに繁栄する時代が開かれつつあることは、私の深く喜びとするところであります。このたびの大統領閣下の御来訪が、新しい日韓関係の一層の発展と強化をもたらす大きな契機となることを希望いたします。  
閣下が、大統領御就任以来、貴国民の期待を担い、国運の進展のため内政に外交に日夜努力しておられることに対し、私は、深く敬意を表します。また、大統領閣下の卓越した御指導の下に、貴国が、政治、経済、文化、社会等の各分野においてめざましい発展を遂げていることは、国際社会から高い評価を受けております。先般のロスアンゼルス・オリンピックにおける貴国選手の活躍は、貴国の国運隆昌の象徴であり心から祝意を表します。四年後には、ソウルで、平和の祭典オリンピックを開催されると伺っておりますが、その御成功をお祈りいたします。  
閣下御夫妻の御滞在は極めて短く、また、御多忙の御日程でありますが、どうか快適に、また、有意義にお返しになりますよう希望いたします。  
ここに杯を挙げて、大統領閣下並びに令夫人の御健康と御多幸をこい願い、併せて、大韓民国国民の繁栄を祈ります。
大韓民国全斗煥大統領の答辞  
天皇陛下、総理大臣閣下ご夫妻、ならびに、内外貴賓のみなさん。  
私は本日、私たち夫妻と私たち一行を心から歓迎して下さり、かつ、このように盛大な晩餐会を催して友誼にみちたお言葉を賜わりましたことに対して、衷心より感謝の意を表するものであります。  
合わせて、貴国政府の指導者と国民が、私と私たち一行をあたたかく迎えて下さったことに対しても、深い感謝の意を表するしだいであります。  
私は、有史以来初めて貴国を公式訪問した大韓民国の国家元首として、陛下とともに交歓する歴史的な機会を得ましたことを、なによりも意義深いものと考えております。  
歴史的な韓日関係の新たな幕開けに際して、陛下が過ぐる日の両国関係史における不幸だった過去について述べられるのを、私はわが国民とともに厳粛な気持ちで傾聴しました。  
われわれ両国には、「雨降って地固まる」という共通のことわざがあります。  
親しい仲どうしは、一時争うことがあっても、その瞬間が過ぎたらたがいに胸襟を開きあい、前よりももっと親しくなる、という意味に使われることわざであると私は承知しております。  
われわれ両国のあいだにあった不幸な過去は、今や、より明るく、より親しい韓日間の未来を開拓していくうえで、貴重ないしずえにならねばならないと信じております。  
われわれ両国を結束させる原動力は、平和を目指すわれわれの意志にあります。  
わが国は近世以降だけでも、数多くの戦争の惨禍を経験しました。  
もっとも最近の例だけをあげても、一九五〇年から三年間、私たちは同じ民族どうしの戦争を体験しました。  
戦争の被害による苦痛が人一倍大きく、その傷痕がいまなお治らずに続いているため、わが大韓民国は平和がすなわち信仰であり、それを守るための実践意志もまた、だれに劣らず強烈であると申し上げることができます。  
私と大韓民国政府が非暴力平和主義を国家指標の一つとし、また、民族統一問題においても平和的達成のために努力しているのは、そのような歴史を通じて鍛えられた平和意志に基づくものであります。  
日本は、その憲法に明示された平和主義に立脚して、今日の富強な国を建設しました。  
そのため、平和の理想は、世界のどの民族よりも切実な韓日両国の共同の理想として、それを指向する韓日両国の真摯な献身が要求されているのであり、このような事実は、われわれ両国と国民を善隣と相助で結束させる強力な絆になっている、と私は確信しております。  
私は、戦後の日本が今日の自由と繁栄を享受するようになるまで、貴国の政府と国民が一致団結、勤勉と誠実で忍苦し努力してきたのをよく承知しております。  
その結果として日本が成し遂げた驚くべき発展相を直接目にしながら、私は短期間のうちにこのような偉大な業績を積み上げた日本国民の努力に対して、深い敬意を表するとともに、汗を流さずにはいかなる幸福も手に入れることはできないという真理を、あらためて吟味しております。  
わが大韓民国は今、五千年の歴史の正統性を継承、民族の底力を躍動させるべく、あらゆる努力を傾けております。  
私たちは祖国の発展と平和的統一のための前進に拍車を加えており、世界の平和と繁栄に寄与する国際社会の責任ある一員として、献身的な努力を尽くしています。  
今や、われわれ両国は自由と民主、そして平和と繁栄という共通の理念のもと、この地球村でもっとも親しい隣人どうしとして、全世界の亀艦となる善隣関係を樹立していかねばなりません。  
そのようにして、両国の国民がともに未来を開拓していく新たな同伴者時代を強力に築いていかねばなりません。  
地球の生成とともにはじまった両国の近隣関係は、この地球が消滅しないかぎり変えることのできない宿命なのであり、また、今日のわれわれはもちろんのこと、われわれの遠い子孫に拒否できない摂理でもあります。  
したがって、われわれは地球の堅固さを信じているのと同様に、両国同伴者時代の開幕に対する当為性をわれわれの確信たらしめてともに努力することを提言しながら、きょうのこの席がそのような約束の場となるよう、心から祈ってやみません。  
内外貴賓のみなさん。  
天皇、皇后両陛下の万寿と日本国の無窮な繁栄のために、そして、新たな韓日両国同伴時代の開幕のために、ともに祝杯を挙げましょう。  
1984年9月7日 - 中曽根康弘首相

 

「貴国および貴国民に多大な困難をもたらした」「深い遺憾の念を覚える」
 
 
謝罪の歴史5 1985〜1989

 

1985年 
1986年 
1987年 
1988年 
1989年 
 
謝罪の歴史6 1990〜1994

 

1990年4月18日 - 中山太郎外務大臣
「自分の意思ではなしに、当時の日本政府の意思によってサハリンに強制移住をさせられ就労させられた方々が、戦争の終結とともにかつての祖国に帰れずに、そのまま現地にとどまって暮さざるを得なかったという一つのこの悲劇は、まことにこの方々に対して日本としても心から済まなかったという気持ちを持っております。」
1990年5月24日 - 今上天皇  
(大韓民国盧泰愚大統領歓迎の宮中晩餐会のおことば)  
この度、盧泰愚大韓民国大統領閣下は、国務御多忙の折にもかかわらず、令夫人とともに、我が国を訪問されました。貴国のめざましい発展を導いてこられた大統領閣下を、国賓として我が国にお迎えできますことは、誠に意義深く、また、喜ばしいことであります。御一行を心から歓迎申し上げます。  
朝鮮半島と我が国は、古来、最も近い隣人として、密接な交流を行なってきました。我が国が国を閉ざしていた江戸時代においても、我が国は貴国の使節を絶えることなくお迎えし、朝野を挙げて歓迎いたしました。しかしながら、このような朝鮮半島と我が国との長く豊かな交流の歴史を振り返るとき、昭和天皇が「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない」と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません。  
このような時代を経たのち、日韓友好の再生を願う両国各界各層の方々の強い熱意によって、両国関係が回復し、あらゆる分野で友好と協力の関係が見られるようになりました。関係者の方々に対して深く敬意を表します。  
いまや日韓両国は、ともに、世界の平和と繁栄のため、大きな役割を果たすことを求められる国となりました。私は、今後両国民がますます相互理解を深め、両国関係の一層の成熟を図り、力を合わせて、この課題にこたえていくことを切に希望いたします。  
特に、次代を担う若者たちの交流が活発化し、そこに両国を結ぶ新たな友情が生れつつあることを、私は心強く思います。この新たな友情は、今後両国が力を合わせて人類の将来に対して大きな貢献をしていくための礎となりましょう。  
今回の大統領閣下の御訪日は、二十一世紀に通ずるこのような新しい日韓関係の礎となるものと信じます。  
大統領閣下は関西地方にも赴かれると聞いております。幸いに新緑の爽やかな季節でもあります。御滞在が快適で、有意義なものとなりますよう心から願ってやみません。  
それでは、ここに杯を挙げて、大統領閣下御夫妻の御健康と御多幸、並びに、大韓民国国民の皆様の一層の御繁栄を祈念いたしたいと存じます。
大韓民国盧泰愚大統領の答辞  
天皇陛下ご夫妻、天皇ご一家のみなさま、部総理大臣ご夫妻、そしてご参席の貴賓のみなさま、私ども夫妻と一行を歓迎し、このように暖かく盛大な晩餐会を催して下さったことに感謝いたします。  
同時に、わが国と国民に対して友誼に満ちたお言葉を賜りましたことに謝意を表するものであります。  
日本は陛下のご即位によって、平成の新しい時代を迎えました。本日、陛下と歴史的な交歓をもち、天皇ご即位の祝賀の挨拶を直接お伝えできますことを意義深く考えます。  
また、日本が戦後の廃虚から立ち上がり、全世界が羨む平和で繁栄する国家を築いたことに、讃辞を送ります。  
私は平成時代が日本ばかりではなく、私どもが生きる東アジアと世界の平和と繁栄、友誼を増進する時代になるものと確信いたします。  
遥かな古代から今日に至るまで、韓日両国は最も近い隣人として親しんで来ました。  
わが両国の国民は狭い海峡を越えてお互いに往来し、相手国の文化形成に大きな影響をおよぼし合いました。  
両国間には歓迎すべきことも数多くありました。  
しかしわが国民は近世に入り、苦痛を受ける一時期を経験しなければなりませんでした。  
両国間の長い善隣友好の歴史から見るとき、暗い時代は相対的に短い期間でした。  
歴史の真実は消されたり忘れられたりすることはありませんが、韓国国民はいつまでも過去に束縛されていることはできません。  
われわれ両国は真正な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し、友好協力の新たな時代を開かねばなりません。  
日本の歴史と新しい日本を象徴する陛下がこの問題に深い関心を示されましたことは、きわめて意味深いことです。  
今やわれわれ両国が近くて近い隣人、信頼する友邦として、両国関係を発展させるのに障害となってきた過去の歴史の陰を消し、残滓を取り除くためにわれわれすべてが努力しなければなりません。  
そうすることによって、わが両国間の望ましい関係をわれわれの子孫に受け継がせなければなりません。  
陛下、われわれはいま世紀的激変の中で二十一世紀を迎えようとしています。  
自由と繁栄を志向する人間の熱望は冷戦体制を崩壊させ、世界の版図さえ変えつつあります。  
韓日両国が共に追求してきた自由と民主主義は、この世界の普遍的価値になろうとしています。  
二十一世紀はアジア・太平洋時代になるものと予見されてきました。  
今日の世界において、韓日関係はたんにわが両国間においてのみ重要なのではありません。  
東と西の文化が調和をもたらすアジア・太平洋地域が、人類の新しい文明を牽引し、平和と繁栄を増進するのに主導的役割を果たさなければならないのです。  
さらに、わが両国はより良き世界と人類の繁栄のために、大きく貢献しなければなりません。  
それはまさに、人類と歴史に対する私どもの責務であります。  
二百七十年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、<誠意と信義の交際>を信条としたと伝えられます。  
かれの相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。  
今後のわれわれ両国関係もこのような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう。  
世界のなかの韓日関係を志向する巨視的視点に立ち、誠意と信頼に基づいて共に努力すれば、韓日関係の未来は限りなく明るくなるにちがいありません。  
「君子の交わりは水のごとく淡し」(君子之交淡如水)という諺がございます。  
われわれ両国の友好関係も、そうあらねばなりません。  
貴賓のみなさま、天皇陛下ならびに皇后陛下のご健勝と、平成時代を迎えた日本国の無窮の繁栄を祈願しつつ、ともに祝杯をあげたいと思います。  
ありがとうございました。
1990年5月25日 - 海部俊樹首相

 

(大韓民国大統領盧泰愚閣下ご夫妻歓迎晩餐会での海部内閣総理大臣の挨拶)  
盧泰愚大統領閣下、令夫人、並びにご列席の皆さま  
私は総理就任以来、大統領閣下とお目にかかることを強く願っておりました。このたび閣下のご来日が実現の運びとなり、その願いがかなえられましたことは、私にとって大きな喜びであります。国務ご多忙の中、ご来日頂きましたことを感謝申し上げますとともに、ご一行に対して心から歓迎の意を表します。  
我が国と朝鮮半島は一衣帯水の地にあり、最も近い隣人という関係は、いかに国際情勢が変化しようとも、未来にわたって変わることはありません。このような両者の間に、密接な友好と善隣の関係が保たれることこそ、そこに住む人々の幸せとこの地域の平和の重要な基盤であります。  
にもかかわらず、数千年にわたる我が国と朝鮮半島の交流の歴史は、決して平らかとばかりは申せませんでした。  
私は、大統領閣下をお迎えしたこの機会に、過去の一時期、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます。  
我が国は、戦後、厳しい反省に立って平和国家の道を選択し、その後一貫して貴国をはじめ広く国際社会全体の信頼を回復することに努めてまいりましたが、私は、我が国は、今後ともこの姿勢を変えることなく、更にその努力を強めていかなければならないと考えます。日韓両国の悠久の善隣友好関係も、先ず我が国のかかる努力が貴国民に納得されてはじめて揺るがぬものとなるのでありましょう。  
論語に、「言必ず信あり、行い必ず果す」という言葉がありますが、私はこの人間としての道徳の第一歩は、国家が信頼をかちとるうえにも不可欠な要件であると考え、内政外交にわたる政治運営を進めてまいる決意であります。  
日韓国交正常化以来、既に四半世紀が経過しました。この間、両国関係で飛躍的な発展を見たことを、私は誠に喜ばしく存じます。特に交易や人的往来の面ではその前進は著しいものがありました。近年の交易量についてみると、我が国は貴国の貿易相手国として第二位、貴国は我が国の貿易相手国として第二位となりました。また、貴国からの我が国への訪問者はその数においてアメリカ人を抜き、第一位になったと聞きます。  
しかし、我々はこの量的交流の拡大に満足していてはなりません。貴国は、近年の目覚ましい成長を通じて、広く国際社会から、その貢献を期待される国となっており、我が国もまた、世界から大きな役割を果すことを求められる国となりました。しかも、両国は、単に隣国であるのみならず、自由と民主主義という価値観を共有しております。このような両国は、その協力関係の次元を更に高めて、世界の要請にこたえていかなければなりません。  
思い起こせば、両国間の交流の歴史は、遠く古代にまでさかのぼるものでありますが、我が国国民は、古代よりの貴国の文化に対し深い尊敬の念を抱いておりました。我が国に伝来する様々な芸術作品に、百済や新羅あるいは高麗という名称を冠したものが少なくないことを見てもこの事実は明らかだと申せましょう。  
本日、このたびの大統領閣下のご来日を慶賀して、雅楽と韓国国楽との交流演奏会が行われましたが、そこにおいて宮内庁楽部により演奏された曲目の中にも、高麗楽と呼ばれるもののうちの代表的な曲目が入っていたと聞いております。  
このような交流の伝統の上に立って、これからもますます多くの両国国民がお互いの文化に接する機会を持つことと思います。そして、私は、このような文化交流を通じ、両国国民間の相互理解と尊敬が更に増進されることを期待してやみません。  
大統領閣下のご滞在が短期間であることは誠に残念でありますが、薫風爽やかなこの五月は、日本の一年中で最もよい季節であります。閣下が有意義で、快適な旅行を楽しまれますよう、心からお祈り申し上げる次第です。  
ご列席の皆さま、盧泰愚大統領閣下と令夫人のご健康、大韓民国の益々のご発展を願い、日韓友好の末永い発展を祈念して、ここに杯を挙げたいと存じます。
1991年
1992年1月16日 - 宮澤喜一首相

 

(大韓民国大統領盧泰愚閣下ご夫妻主催晩餐会での宮澤内閣総理大臣のスピーチ)  
盧泰愚大統領閣下、令夫人、並びにご列席の皆様  
私は、総理となって初めての外国訪問に、大統領閣下のご招待を受け、貴国、大韓民国を訪れることができました。心から嬉しく思います。今夕は、このように盛代な晩餐会にお招き頂き、また只今は、大統領閣下から懇切なお言葉を賜りました。一行を代表して厚く御礼申し上げます。  
私は、我が国の戦後の歩みに幾分なりとも携わってきた人間として、我が国と緊密な関係にある貴国の力強い発展に、かねてから強い関心を抱いてまいりました。本日、久しぶりに当地に降り立って、市中の目ざましい変わりようを目のあたりにし、改めてその感を深くいたしました。貴国の国民各位が、南北分断という困難を克服して、このように立派な国づくりをされましたことに、深い敬意を表します。  
また、貴国は昨年、長年の念願であった国連加盟を実現され、さらに先の南北総理会談では、南北間の和解と不可侵、交流協力が盛り込まれた合意書を採択されるなど、画期的な成果を収められました。心から祝意を表しますとともに、朝鮮半島に住むすべての方々が願っておられる平和統一が、一目も早く実現されますよう祈念いたします。  
世界は今大きな激動のさなかにあります。冷戦の解消は人類にとって新たな時代を開くための大きな前進でしたが、東西緊張のかげにひそんでいた問題が浮上し、新たな紛争も生じています。未来は楽観を許さぬものがあります。今や世界でも有力な国家となった貴国と我が国の協力関係は、そのような世界の平和と安定の重要な柱の一つです。価値観を共有する日韓両国は、両国だけでなく、アジアと世界のためにも、その協力の関係を一層深めていかなければなりません。  
このような協力の基礎として、私は、両国間の信頼関係をこれまでにも増して確固たるものとしていくことが必要だと思います。信頼関係を支えるのは、相互理解であります。その際、私たち日本国民は、まずなによりも、過去の一時期、貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し、反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います。  
私は、我が国と貴国が、相互に理解し合える土台として、文化に多くの共通点を持っていることを心強く思っています。その理由は、言うまでもなく、我が国が古来、貴国との密接な交流の中で、貴国の文化の恩恵を受けつつ、自らの文化を築いてきたことにあります。  
もとより両国の文化には共通点ばかりがある訳ではありません。多くの相違点を理解し合うことも相互理解の大切な条件であります。お互いがお互いの文化を学び、高め合うとともに、相互理解を深め、信頼関係を高めていくならば、それは、来たるべき時代を建設し、両国の協力関係を確固たるものとするための重要な糧となるに違いありません。  
私は若い頃から書に親しんでまいりましたが、書もまた、両国が共有する文化の一つであります。昔から、書は人なりと言い、書を見れば、その人の人格や奥深い心を知ることができるとされてきました。このような考え方は、貴国においても同じではないでしょうか。江戸時代、唯一の外国使節であった朝鮮通信使の一行には、貴国の秀でた文人が多数含まれていましたが、我が国の文人は、至るところで競って書画を請い、また、詩文の唱酬など華やかな交歓がなされました。言わば書は、日韓間の深い心の交わりの一つの象徴と言えるのではないかと思います。  
日本では昔から、正月に自分の願いや決意を大きく墨書する「書き初め」という習慣がございます。私は、年のはじめにあたり、また新たな時代のはじめにあたり、永きに亘る日韓友好を願いつつ、次のように書き初めを致しました。  
「至誠天に通ず」と。  
大統領閣下、並びに御列席の皆様  
私は、明後日、皆様のお世話で、貴国の古都、慶州を訪れる予定になっております。我が国の文化の故郷の一つとも言うべきこの由緒深い土地に杖を引いて、これまでの日韓の交流に思いをいたし、さらに今後の展望について思索の羽を延ばすことができるものと、今から楽しみにしております。  
それでは、最後に、盧泰愚大統領閣下、令夫人、並びに関係各位のご厚情に感謝し、皆様方のご健康とご繁栄、貴国の一層のご発展をお祈りして、杯を上げたいと思います。  
コンペ! カムサハムニダ。
1992年1月17日 - 宮澤喜一首相

 

(宮澤喜一内閣総理大臣の大韓民国訪問における政策演説)  
(アジアのなか、世界のなかの日韓関係)  
尊敬する朴浚圭{朴浚圭にパクチュンギュとルビ}国会議長、そして御列席の大韓民国国会議員の皆様、私は、本日、大韓民国を代表する皆様に、そして皆様を通じて韓国国民の方々に、こうしてお話する機会を得たことを、大変うれしく存じます。国会閉会中にもかかわらず、私にこのような機会を与えて下さった議長閣下、各党の指導者と議員の皆様に、心から感謝の意を表したいと思います。  
世界は今日、まさに激動の最中にあり、ここ朝鮮半島にも大きな変化の波がおし寄せています。貴国は昨年秋、ついに40数年来の念願だった国連への加盟を果たされ、また、去る12月の南北首相会談では、画期的な合意書が署名されて南北の関係に大きな進展が見られました。まさに慶賀すべきことであり、隣国としても喜びにたえません。  
私は、かねてから貴国の力強い成長ぶりに注目し、是非とも貴国を訪問して盧泰愚大統領閣下をはじめ貴国の要路の方々と忌憚のない意見交換を行いたいと考えておりました。このたび総理としての初の外国訪問に、お祝いの言葉を携えて、歴史的な時期の只中にある貴国を訪れることができましたことは、私にとって大きな感激であります。  
(新しい平和秩序を求めて)  
御列席の皆様、冷戦の終焉は、平和を切望する世界のひとびとにとって朗報でした。私たち人類は新しい世界に大きく一歩を踏みだしたと言うことができます。しかし、湾岸危機をはじめ、旧ソ連邦の混乱やユーゴスラヴィアの内戦など、冷戦後の世界は激しい流動を続け、新しい平和秩序の確立が容易ならぬものであることを示しています。  
このような時代に対処するには、世界のあらゆる国々が、積極的にその力を合わせ、新たな秩序づくりに向けて努力を行わなければなりません。世界の諸国が国連を中心に結集し、世界の平和と安定のために、それぞれの国力と国情に応じた貢献を行わなければならない時代が来ています。いまこそ国連がその創設時の理想の実現に邁進すべきときではないでしょうか。  
私は、この意味からも、貴国が、正式に国連の仲間入りをされたことを、誠に心強く感じます。日韓両国は、アジアと世界のダイナミズムの牽引車としての役割を果たすことを求められています。両国が、これを契機に、国連という場においても、相談し合い、協調し合っていくことが大切です。日韓の協力関係は、国際社会に対して新たな意義を持つこととなるでしょう。  
世界の平和と安定に貢献する際に我が国は、過去の教訓を踏まえ、平和憲法のもと専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国にならないとの基本方針を堅持してまいります。そして、この方針をむねに、国際の平和と安全の維持のため、経済的貢献の強化に加え、政治的、さらには人的貢献の強化をはかってまいります。とくに、多大な貢献をしている国連の平和維持活動に対しては、平和維持隊への参加も含め、一層の人的協力を可能にするよう、現在国内体制の整備を進めており、国際社会の期待に応えていく決意です。  
(アジア・太平洋地域)  
御列席の皆様、昨年10月のパリ会議において、カンボディア問題の包括的政治解決のための合意が達成されました。我が国は、アジアの一国として、また、カンボディア問題についての東京会議を開催する等の努力を行ってきた国として、このたびの和平の到来を心から喜んでいます。カンボディアは、今回の合意をもって長く苦しい戦火に終止符を打ち、国家再建に取り組んでいくことになりました。それは、東南アジアで最も不安定な地域だったインドシナ全体が、アジア・太平洋地域の活力ある経済発展に参加することを意味するとともに、私たちが強く関心を抱いているアジア・太平洋地域の平和と安定に明るい希望を投げかけるものでもあります。  
そして今、アジア・太平洋地域は、近年のめざましい成長によって、国際社会から大きな注目を集めるようになっています。21世紀の世界を引張っていくのはこの地域だと言う人もいます。私は、このようなアジア・太平洋の活力は、この地域の人種、宗教、文化、伝統、価値観、経済の発展形態等が極めて多様であることに起因すると思います。かつては、その多様性と、それゆえの複雑性は、アジアの発展を遅らせている原因だとされました。しかし、時代の大きな変化の中で、いまそれが自ずと補完し刺激し合うようになり、たくましいエネルギーが生み出されているのです。  
したがって、私たちは、この地域の発展をはかるに当たって、それが持つ多様性を尊重しつつ、域内の協力と対話を、この地域に適する、開かれた形で強化していかなければなりません。域内の協力と対話の場としては、既にアセアン拡大外相会議があり、この会議に貴国が昨年から参加されるようになったことは、心強いかぎりです。私はまた、1989年のアジア・太平洋経済協力閣僚会議、すなわちAPECの発足を極めて意義あることと考えています。特に、昨年秋、貴国で開催された第3回APEC閣僚会議において、中国、台湾、香港の参加が実現し、APECの理念、指針等を示す宣言が採択されたことを高く評価したいと思います。APECにおける我が国と貴国との協力がますま重要になっていくことは疑いありません。  
さらに、私は、朝鮮半島と中国とロシアと我が国とを包含する北東アジアの大きな発展の可能性に注目したいと思います。この地域には、豊富な労働力と資源があり、日韓の経済力と技術力があります。今まで政治の壁にはばまれ、必ずしも十分な交流、協力が行われなかったこの地域ですが、冷戦の終焉に伴い、それぞれの経済の長所、短所を補い合い、生かし合える素地ができつつあります。日韓両国を中心に、また、米国等他の関係諸国の協力も得つつ、この地域を「緊張」の地域から「協力」の地域に変え、繁栄する開かれた北東アジアを創造することは、努力次第で実現の可能な私たちの夢と言えましょう。私は、この夢の実現の成否は、我が国と貴国との今後の協力にかかっていると申しても決して過言ではないと思います。  
(朝鮮半島情勢)  
日本国民は、朝鮮半島に平和的な統一が実現する日が来ることを心から願っています。それは、何よりも朝鮮半島の平和と安定が東アジアの平和と安定の要であるからです。また、その平和的統一を求めてやまない皆様の民族的な願いは、ここに多くの友人を有する隣人として、私たちにも痛いほどよくわかるのです。同じ家族でありながら、離れ離れになって暮らさなければならない朝鮮半島の離散家族の話を耳にするたびに、私は、胸を締めつけられる思いがいたします。日本人の中にも、配偶者と共に北朝鮮に移住したひとびとがおり、日本にいるその父母や親類縁者は再会を望んでいますが、なかなか実現いたしません。多くは高齢になったこれらのひとびとから、私たちに寄せられる手紙には、北朝鮮に移住した娘や妹に一目会いたいという思いが切々と綴られています。分断の悲劇は一日も早く終わらせなければなりません。その際、朝鮮半島の平和的統一は、南北間の対話を通じて達成されるべきものであることは言うまでもありません。  
昨年の南北首脳会談で署名された合意書の中で、私が特に注目しましたのは、貴国の主張によって南北間の交流と協力がうたわれたことであります。イソップ物語にもあるように、人がマントを脱ぐのは、北風に吹かれたときよりも、暖かい太陽の光を浴びたときであります。私は、異なる政治、経済、社会体制の中で半世紀近くも過ごしてきた人々に、同胞としての変わらない愛情をもって接しようとする貴国の暖かい心に感銘しました。同時にまた、北朝鮮を孤立化させるよりもむしろ外の世界に迎え入れた方が、その改革と変化、特に開放を促し、朝鮮半島の平和と安定に資するという貴国の考え方に共鳴しました。貴国が、北朝鮮の国連加盟を支持されたのも、そのような気持の現われと言えるのではないでしょうか。私は、北朝鮮が、貴国の真意を理解し、国際社会の責任ある一員として行動するよう強く希望いたします。  
我が国が現在北朝鮮と行っている国交正常化交渉は、これまでに5回の会談を重ねました。この交渉において、我が国は、日本と北朝鮮との間の不正常な関係を正すという側面だけでなく、日朝間の国交正常化が朝鮮半島の平和と安定に資するべきであるという側面をも重視しています。これは、北朝鮮を責任ある一員として国際社会に迎え入れた方がよいという貴国の考えと軌を一にしています。また、私は、これまでの会談で、我が国がこうした考え方に立って、朝鮮半島の平和と安定にとって特に重要な南北対話の促進を、常に呼びかけてきたことを申し上げておきたいと存じます。  
ただし、かなり活発な議論の結果、双方の立場についての理解は進んだものの、日朝両者間の基本的立場の隔たりは依然としてさほど狭まってはおりません。とくに私は、核開発問題はこの地域の安全にとって重大であり、日朝の国交正常化までにどうしても解決しておくことが不可欠だと考えます。唯一の被爆国たる日本の国民は、朝鮮半島において核兵器が開発されることがないよう心から念願しています。そのため、我が国は、従来から、北朝鮮が国際原子力機関の査察を受け入れることに加え、再処理施設を保有しないよう求めてきたのです。  
我が国は、貴国がこの問題の解決に向けてとってこられた非核化宣言、南北同時査察提案、核不存在宣言等の一連の措置を高く評価してきています。また、昨年末に南北間で非核化に関する共同宣言の案文に仮署名が行われたことは、この問題の解決に向けての大きな前進であり、心から歓迎します。我が国としては、今後この宣言が早期に実施に移されることを期待するとともに、北朝鮮がその言葉通りに、一刻も早くIAEA保障措置協定を締結、完全履行し、核開発に関する国際的な懸念を解消するよう引き続き強く求めてまいります。  
我が国は、近い将来に朝鮮半島のすべてのひとびとの幸福を保障する平和的統一が実現することを期待し、今後とも貴国とは緊密に連絡をとりつつ、引き続き北朝鮮との交渉を粘り強く進めていきたいと考えます。  
(日韓関係)  
御列席の皆様、日本国民は、貴国が世界の平和と自由と繁栄のため、努力してこられたことを知っています。1988年のオリンピックも、湾岸危機における多国籍軍への協力も、先般のアジア・太平洋経済協力閣僚会議の開催も、その一例だったと思います。日本国民は、貴国のそのような努力を高く評価し、その成功を心から喜んでいます。  
貴国は今や世界の有力な国家であります。世界が貴国に期待する国際的役割もますます大きなものとなるでしょう。新しい世界への困難な航海をするに当たって、我が国が、そのような貴国を、歴史的、文化的な共通点の多い隣国として持っていることを、私は実に心強く感じます。そのような貴国と我が国との間のゆるぎない関係は、両国はもとより、アジア、ひいては世界を大きく裨益するでありましょう。そして、そのようなパートナーシップを、私は、「アジアのなか、世界のなかの日韓関係」としてとらえたいと思います。  
このような重要なパートナーシップの基礎として、私たちは、何よりも両国間の信頼関係を確固たるものとしなければなりません。我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に、我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが、私は、このようなことは実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っております。  
さらに私は、先の大戦時に生きた人間の一人として、21世紀を担う次の世代に、私たちの世代の過ちを過ちとして伝え、これを二度と繰り返すことのないよう、歴史を正しく伝えていかなければならないと感じています。それは、私を含めて、私たちの世代の責任です。我が国はこれまでも日韓関係の正しい理解の普及に努めてまいりましたが、今後ともこのような努力を重ねてまいりたいと考えております。私は、過去の事実を直視する勇気、被害を受けられたひとびとの感情への理解、そして、二度とこうした過ちを繰り返さないという戒めの心を国民のあいだ、とりわけ青少年たちのあいだにさらに培ってまいる決意です。
 
今日、日韓両国の交流・相互依存関係は、飛躍的に高まっています。それに伴って、新たな摩擦や問題が生じてきていることも否定できません。しかし、これらの問題は、率直な話合いによって、理解や協調という解決を求めることができるでしょう。貿易不均衡についても、両国の協力により、貿易の拡大均衡の方向で解決されていくものと信じています。そのため、私は、盧泰愚{盧泰愚にノテウとルビ}大統領閣下に両国経済人を中心としたフォーラムを設置することを提案いたしました。私は、このフォーラムを、自らの直接の関心の下におき、そこで、貿易不均衡の原因と対策を忌憚なく議論して頂きたいと思います。フォーラムの提言については政府としても前向きに取り組んでまいります。  
私たちは、常に明日の世界を見つめつつ、二国間の調和と協力に全力を尽くさなければなりません。それが、未来志向的な日韓関係を深め強化して、新しい世界をつくっていくための重要な道程です。  
二国間の相互協力の土台は相互理解です。相互理解を推し進めていくには、双方が相手の歴史、文化、社会等をよく知らなければなりません。一昨年の盧泰愚{盧泰愚にノテウとルビ}大統領閣下の御訪日以来、我が国では、両国間の古くからの交流について、また、貴国の歴史、文化等について、新たな関心が高まりを見せています。  
私は、こうした関心の高まりを活かすため、新たに次のような措置をとっていきたいと考えます。一つは、我が国の大学等における朝鮮半島の文化、言語等に関する教育研究と日韓両国の大学等の共同研究の一層の推進です。これを通じて両国の学術的、知的な交流が発展することが期待されます。もう一つは、貴国の歴史、文化、思想、伝記等の優れた書物を日韓共同で日本語に翻訳した上、我が国で出版し、我が国国民の幅広い層に貴国に対する理解を深めることです。また、これまでもいろいろな施策を講じてきた青少年交流については、明年度から5年間にわたり、さらに500名の貴国の青年を我が国に招聘したいと思います。これに加えまして、私は、単に二国間だけでなく、近隣国を含めた幅広い交流を進めていくため、日本、韓国、中国、旧ソ連邦等の青年を対象とする多角的な青年交流計画を検討しているところです。  
他方、貴国におかれても、我が国の歴史、文化、社会等に対し理解を深めていただくことを希望いたします。このような双方の努力が進むならば、人的、文化的な交流はさらに進み、両国の友好協力の関係は、ますますゆるぎないものとなるにちがいありません。  
御列席の皆様、「漢江の奇跡」と呼ばれる貴国の経済成長は、すでに世界の知るところとなりました。日本がアジアで唯一の先進工業国であった時代は既に過去のものになりつつあります。両国が手を携えて、アジアで、また国際社会で行っていくべきことは、多くの分野に広がっています。  
私はまず、我が国は、いまや援助供与国となった貴国と協調しながら、経済的貢献を進めていきたいと考えています。双方の豊かな経験を生かして、開発途上国への経済協力を推進していけるとは、実にすばらしいことではありませんか。  
また、私は、自由貿易体制の恩恵を受けてきた日韓両国は、その体制の維持と強化に共に努力していくことが必要であり、ウルグァイ・ラウンドの成功のため協力していきたいと思います。  
さらに私は、新しい協力分野として、日韓間の環境協力を挙げたいと思います。明るい21世紀をつくり、次の世代の子供たちに美しい自然の遺産を残していくため、共に国境を越えた課題としてこれに取り組んでゆこうではありませんか。  
(むすび)  
御列席の皆様、私の地元の広島県福山市には、鞆浦{鞆浦にとものうらとルビ}という古くから海上交通の拠点として栄えた港町があります。それは、江戸時代の貴国からの通信使が上陸した寄港地で、私も幼いころはよく遊びに行きました。この地の福禅寺には、通信使一行の宿舎が今も残っており、「対潮楼」という宿舎の名を書した木額がかかっています。この木額は、この宿舎を「対潮楼」と名付けた、通信使の正使洪啓禧{洪啓禧にホンケフイとルビ}が、息子の洪景海{洪景海にホンギョンヘとルビ}に書かせ、福禅寺の住職に与えた文字をもとにつくられたといわれております。靹浦{鞆浦にとものうらとルビ}から島々の浮かぶ海は瀬戸内海でも絶景の一つであります。御出席の皆様も、日本にお出でになるとき、ぜひ一度、この古き日韓交流の跡を訪ねていただきたいと思います。  
私は、日韓両国の先人たちが残してくれたこのような交流の歴史の上、「アジアのなか、世界のなかの日韓関係」として何百年、何千年と続く両国の友好協力関係が築かれることを願ってやみません。このたびの私の貴国訪問が、そのような両国の関係の進展にいささかでも貢献できるものとなることを願いつつ、私の話を終わりたいと思います。  
御清聴ありがとうございました。
1992年7月6日 - 加藤紘一内閣官房長官

 

(朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表)  
朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題については、昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果について配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。調査の具体的内容については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、許しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。  
政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未架に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。  
この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。
1993年8月4日 - 河野洋平内閣官房長官

 

(慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話) [いわゆる河野談話] 
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
1993年8月23日 - 細川護煕首相

 

(所信表明演説)  
このたび、私は、内閣総理大臣に任命され、国政を預からせていただくこととなりました。  
我が身に課せられた責任の重さはまことにはかり知れないものがございます。と申しますのも、この内閣は、歴史の一つの通過点ではなく、新しい歴史の出発点を画するものと私は受けとめているからでございます。このような認識から私は、このたびの内閣を新しい時代のための変革に着手する内閣と位置づけ、「責任ある変革」を旗印に、心魂を傾けてその職責を遂行してまいる決意でございます。  
長らく続いた米ソ両大国を二つの極とする東西対立の時代が終わり、国際社会では今、旧来のシステムにかわる新たな国際秩序を模索して、さまざまな試みが検討され、また、必死の努力が行われております。ひとり我が国だけが時代の大きな流れに逆らえるはずもなく、冷戦の終えんとともに、冷戦構造に根差す日本の政治の二極化の時代も終わりを告げました。今回の総選挙の結果は、多くの国民が保革対立の政治に決別し、現実的な政策選択が可能な政治体制の実現を期待されたものと受けとめております。ここに一つの時代が終わりを告げたことを国民の皆様方とともに確認し、二十一世紀へ向けた新しい時代が今、幕開きつつあることを明確に宣言したいと思います。  
このところ、鹿児島を中心とする豪雨災害や北海道南西沖地震、雲仙岳噴火など自然災害による被害が相次ぎました。国政についての所信を申し述べるに先立ちまして、これらの災害で亡くなられた方々とその御遺族に対し謹んで哀悼の意を表しますとともに、負傷された方々や避難生活を続けておられる方々に心からのお見舞いを申し上げます。  
先般、私も鹿児島の被災地を訪れ、自然の猛威の恐ろしさを目の当たりにしてまいりました。災害の復旧と今後の安全の確保に全力で取り組むことは言うまでもありませんが、避難生活を強いられている方々が不安な毎日を送られていることを思い、一日も早く平常時の生活に戻られるよう、政府、地方公共団体が一体となって住居の確保や被災施設の早期復旧など生活環境の整備を急いでまいりたいと思います。また、災害復旧後のこれらの地域の活性化に必要な措置についても積極的に展開してまいりたいと思っております。  
私はまず、この政権がいわゆる「政治改革政権」であることを肝に銘じ、政治改革の実現に全力で取り組んでまいります。  
我が国が終戦以来の大きな曲がり角に来ている今日ほど、政治のリーダーシップが必要とされているときはなく、一刻も早く国民に信頼される政治を取り戻さなければなりません。歴代の内閣が抜本的な政治改革の実現をその内閣の最優先の課題として取り組んでこられましたが、いまだ実現を見るに至っておりません。政治改革のおくれが政治不信と政治の空白を招き、そのことが景気の回復など多くの重要課題への取り組みの妨げとなり、これからの日本の進路に重大な影響を及ぼしつつあることを私は深く憂慮してまいりました。今回の選挙で国民の皆様方から与えられました政治改革実現のための千載一遇のチャンスを逃すことなく、「本年中に政治改革を断行する」ことを私の内閣の最初の、そして最優先の課題とさせていただきます。  
そのため、選挙制度については、衆議院において、制度疲労に伴うさまざまな弊害が指摘されている現行中選挙区制にかえて小選挙区比例代表並立制を導入いたします。また、連座制の拡大や罰則の強化などにより政治腐敗の再発を防止するとともに、政治腐敗事件が起きるたびに問題となる企業・団体献金については、腐敗のおそれのない中立的な公費による助成を導入することなどにより廃止の方向に踏み切ることといたします。これらの改革案の詳細については、現在、連立与党各党の間で精力的に検討作業が進められておりますので、私といたしましては、その結論を待って、できるだけ早い機会に国会に御審議をお願いし、これらを一括して何としても本年中に成立させる決意でございます。  
政治改革は、単に政党や政治家だけの問題ではございません。法律や制度を変えるとともに、国民、有権者の皆様方にも、いわゆる金権選挙や利権政治を根絶する決意をお持ちいただかなければ、政治改革を真に成功に導くことは困難であろうと思っております。ぜひとも国民の皆様方の御理解と御協力をお願い申し上げる次第でございます。  
また、私は、政治腐敗の温床となってきた、いわゆる政・官・業の癒着体制や族議員政治を打破するために全力を尽くしてまいります。直接、間接を問わず、行政が政治家の票や資金の応援をすることがあるとすれば、その弊害は政治や行政の根幹にまで及ぶことになるだけに、政治と行政との関係改善や、綱紀の粛正に毅然たる態度で臨んでまいりたいと思います。  
冷戦終結後の国際社会や国民の多様な要請にこたえていくためには、行政の面でも、より一層柔軟性や機動性を高めていくことが不可欠であります。まずは緊急の課題である政治改革の実現に全力を投入することといたしますが、行政改革にも本格的に着手しなければならないと思っております。率直に申し上げまして、規制緩和や地方分権の推進、縦割り行政の弊害是正などの課題は、利害が錯綜し、また、さまざまな障害もあって、これまで大きな前進を見ないままに今日に至っております。しかしながら、これらの課題は、国民の目から見て透明で公正な行政を実現するためにも、そして東京一極集中を是正し、地域の特色や自主性が反映される活力に満ちた地域行政を展開していくためにも、何としてでもなし遂げなければならない課題であり、私としても具体的な成果を上げるべく強い決意でこれに取り組んでまいりたいと思います。  
我が国は今、政治ばかりでなく経済の分野においても依然として厳しい局面にあり、一日も早く長期化した不況を克服してまいらなければなりません。国内景気は、一連の経済対策の効果もあってバブル経済の崩壊による最悪の状態からは脱しつつあるとも見られますが、最近の急激な円高や異常な天候不順は内需拡大の動きに悪影響を与えかねず、今後の景気回復には予断を許さないものがあります。私は、景気の先行きに対する不透明感を払拭するためには、円高の国内経済への影響や景気の状況を注視し、厳しい財政状況を十分踏まえつつ、時期を失することなく必要かつ効果的な対策を講じることが肝要であると考えます。そこで、今年度予算の執行や四月に決定した総合的経済対策の実施に万全を期していくことはもとより、規制緩和や円高差益の問題を初め、幅広い観点から現下の緊急状態に対応するための諸施策を早急に取りまとめ、実行に移してまいりたいと思います。  
また、日本経済の潜在的な活力を高めていくためには、長期的視野に立って経済構造の変革を図り、民間の活力がより自由に発揮されるための環境を整備していくことが重要であると考えております。  
現在、国家財政は、依然続く構造的な厳しさに加えて、バブル経済の崩壊に伴いまことに深刻な状況に立ち至っておりますが、来年度予算編成に際しましては、特例公債を発行しないことを基本に財政改革を強力に推進しつつ、従来にも増して財源の重点的効率的配分に努めてまいります。特に、公共事業のシェアの抜本的な変更に取り組み、国民生活の質の向上に資する分野に思い切って重点投資するなど、本格的な高齢化社会の到来する二十一世紀を見据えて、社会資本整備の着実な推進を図ってまいりたいと思います。  
また、税制については、平成元年度に抜本的な税制改正を行って以来、約五年が経過しておりますが、その間、バブルの発生とその崩壊、高齢化の一層の加速などの事態が生じております。私は、このような経済社会情勢の変化に現行の税制が即応したものになっているのかどうかを点検し、公正で活力ある高齢化社会を実現するため、年金など国民負担全体を視野に入れ、所得、資産、消費のバランスのとれた税体系の構築について、国民の皆様方の御意見にも十分耳を傾けながら総合的な検討を行ってまいりたいと存じます。現在、税制調査会では、このような方向で御審議をいただいているところであり、その検討の成果を尊重してまいりたいと考えております。  
我が国は、これまで経済的発展に最大の重点を置き、その本来の目的であるはずの国民一人一人の生活の向上や心の豊かさ、社会的公正といった点への配慮が十分ではなかったことを率直に反省すべきであります。最近になって政府は、生活者のためのさまざまな対策を講じてきてはおりますが、必ずしも政策の重点が変わったというふうに国民の皆様方が肌で実感されるまでには至っておりません。私は、豊かな生活環境を求め新たなライフスタイルを指向する動きが見られることを念頭に置いて、ここでいま一度、生活者・消費者の視点や環境の保全、男女共同参画型社会の実現といった視点に立って、従来の制度や政策について徹底的に見直しを行っていくことが必要であると考えております。直近の問題で申し上げるならば、輸入品を中心として円高の効果がより速やかかつ円滑に還元され、円高のメリットを国民が確実に享受できるよう対応してまいりたいと存じます。  
今、我が国は急速に高齢・少子社会へと移行しておりますが、二十一世紀までに残りわずかな期間しか残されていないことを考えるならば、今のうちに福祉の充実を始めとする対策を積極的に打ち出し、美しい快適な環境の中で、都市勤労者も農山漁村で暮らす方々も生き生きと多様な価値観を実現できる社会の実現を目指してまいらなければならないと考えます。  
思えば内閣が発足したこの八月は、我が国にとって永遠に忘れられない月であります。十二支をちょうど四回さかのぼった昭和二十年八月、我々は終戦によって大きな間違いに気づき、過ちを再び繰り返さないかたい決意で新しい出発を誓いました。  
それから四十八年を経て我が国は今や世界で有数の繁栄と平和を享受する国となることができました。それはさきの大戦でのたっとい犠牲の上に築かれたものであり、先輩世代の皆様方の御功績のたまものであったことを決して忘れてはならないと思います。我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べるとともに、今後一層世界平和のために寄与することによって我々の決意を示していきたいと存じます。
 
世界は今、地球的規模のさまざまな課題に直面しておりますが、私は、平和と国際協調という憲法の精神を尊重しつつ、国際国家としての我が国の立場と責任を十分に自覚し、これらの世界的な課題の解決に従来にも増して積極的な役割を果たしていく決意であります。  
現在、国連を中心として冷戦後の新たな世界平和秩序を構築するための懸命の努力が行われておりますが、私は、より平和で、そして人権が尊重される世界を目指して、国民の十分な理解を得つつ、国連による国際的な努力に対する人的貢献を着実に展開していくとともに、冷戦後の世界に対応できるような国連改革、国連強化のためにも積極的に寄与してまいりたいと思います。  
大量破壊兵器の不拡散は、我が国を含む国際的な安全保障を確保する上で緊急の課題であり、私としては核不拡散条約の無期限延長を支持してまいりたいと考えております。さらに進めて究極的に地球上から核兵器を廃絶し、国際的軍縮を達成することこそが世界の平和をもたらすゆえんであり、そのため、より積極的な外交努力を展開してまいる決意であります。  
世界全体の平和と繁栄のためには日米安保条約を中核とする日米両国の緊密な協力が不可欠であります。私は、米国がアジア・太平洋地域における米国の存在と関与を継続する決意を示していることを歓迎するとともに、良好かつ建設的な日米関係を維持、構築していくことを日本外交の基軸として最善を尽くしてまいりたいと思います。  
また、私は、アジア・太平洋地域の一員としての我が国の役割を重視し、常に謙虚な姿勢を忘れずに相互の信頼を醸成しながら、この地域の平和と繁栄のために可能な限りの貢献を行ってまいりたいと考えております。そこで、これらの国々との間の経済・政治両面にわたる対話と協力をこれまで以上に緊密に進めるとともに、中国、韓国、ASEAN諸国等近隣諸国との一層の関係改善に努めてまいります。  
ロシアとの関係については、北方領土問題を解決し、国交の完全正常化が実現するよう努力するとともに、ロシア国内の改革に対し応分の支援を行ってまいりたいと考えております。  
さらに、統合を進め国際社会における役割をますます高めつつあるヨーロッパ諸国などとも引き続き一層緊密な協力関係を築いてまいりたいと思います。  
戦後から今日に至るまでの我が国の経済的繁栄は、国際的に市場経済が機能し、多角的自由貿易体制が維持されて初めて可能であったと申し上げても過言ではありません。現在、世界経済の低迷を背景に保護主義的な動きの高まりや国際経済摩擦が激化する様相を見せていることはまことに懸念すべき状況であり、このようなときにこそ我が国が自由貿易体制を維持、強化するための国際協調に率先して取り組んでいくことが重要であります。  
ウルグアイ・ラウンド交渉が不調に終わるようなことがあれば、世界経済に深刻な影響を与えることは確実であり、先般の東京サミットにおいて確認されたように、交渉の年内終結に向けて、我が国としても引き続き全力を尽くしてまいる決意でございます。なお、農業については、各国ともそれぞれ困難な問題を抱えておりますが、我が国としても、これまでの基本方針のもと、相互の協力による解決に向けて最大限努力してまいります。  
米国やEC諸国を初め、幾つかの国々から我が国の大幅な経常黒字が国際経済に与える影響を懸念する指摘がなされていることを真摯に受けとめ、私は、良好な対外経済関係を維持するのみならず国民生活の向上を図るためにも、内需拡大努力や市場アクセスの改善、内外価格差の是正、規制緩和等消費者重視の政策を積極的に推進し、経常黒字の縮小に向けて努力してまいりたいと考えております。このため、各方面からの意見も拝聴して、我が国の経済社会構造の変革も視野に入れた今後我が国がとるべき対応策について、早急に取りまとめを行いたいと考えております。九月にも日米包括経済協議が開始されますが、自由貿易主義や市場経済原則に従って日米双方が努力することにより対外不均衡の改善を図り、安定的な日米経済関係を築いていくことが重要であると認識いたしております。  
また、ODAの積極的な活用などによる資金面、技術面等での協力を通じた地球的規模の問題の解決、開発途上国や旧社会主義国の改革努力への支援など、国際社会の期待にこたえ我が国の国力にふさわしい国際社会への寄与を行ってまいりたいと思います。特に、近年、世界各地で異常気象が常態化しつつあることもあって、地球環境問題への関心はますます高まってきております。地球環境問題は遠い将来の問題ではなく、いっときの猶予も許されない緊急の課題であり、私は、我が国が有する経験と能力を十分に生かしながら、地球環境問題の解決に向けた国際的な努力に対し率先した役割を果たしてまいりたいと思っております。  
私は、今後の政治運営に当たって、質の高い実のある国づくり、言ってみれば「質実国家」を目指してまいりたいと思います。  
かつて小泉八雲は第五高等学校の生徒に向かって、「日本にはすばらしい精神がある。日本精神とは、簡潔、善良、素朴を愛し、日常生活において無用の贅沢と浪費を憎む精神である。その精神を維持、涵養する限り、日本の将来は期して待つべきものがある」と申しました。  
私は、若いころこの言葉を知ったのですが、今や我が国は、国も国民も背伸びをせずに、自然体で内容本位の生き方をとるべき時代を迎えていると感じております。外に向かっては大国主義に陥ることなく、内にあっては、文化の薫り豊かな質の高い実のある生活様式を編み出し、美しい自然と環境を将来のために残していくことが何よりも大切だと思っております。  
政治や行政はもちろん、経済や国民生活においても、できる限り虚飾を排して質と実を追求していくことを私の政治理念の根本に据えてまいりたいと思っております。  
このたびの内閣は、八党派によって樹立されたいわゆる連立政権でありますが、私どもは政権の樹立に際し、外交、防衛、経済、エネルギー政策などの基本重要政策について、原則として今までの国の政策を継承することを確認いたしました。新しい時代のために、政治の刷新のために、あえて立場の違いを乗り越えて国民の負託にこたえようと努力したそのこと自体が大きな歴史的意義を有していると考えている次第であります。  
今何よりも重要なことは、国民の政治に対する信頼を回復することであります。そのためには、政治改革を早急に実現することが必要なことは言うまでもありませんが、私は、冷戦時代が国内政治にもたらした傷跡をいやすための「国民的和解」の観点に立って、与野党間の関係も「対立から対話へ」、「相互不信から相互信頼へ」そして「反対のための反対から建設的提案競争の時代へ」と転換していくことが何よりも肝要だと思っております。わだかまりやこだわりを捨て、ともに力を合わせて、常に国民に目を向けた政治が我々の原点だということを忘れずに、国民生活の向上と安定につながる施策を大胆に打ち出していくことこそが重要であります。  
我々は、国民の皆様方が示された歴史的審判が正しい選択であったことを証明するため、一致協力して国政の運営に取り組んでまいる決意でございます。  
何とぞ、国民の皆様方、議員各位の深い御理解と御支援を賜りますよう心よりお願いを申し上げます。 
1993年9月24日 - 細川護煕首相

 

「私が侵略戦争、侵略行為という表現を用いましたのは、過去の我が国の行為が多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたとの同一の認識を率直に述べたものでございまして、改めて深い反省とおわびの気持ちを表明したものでございます。」
1994年8月31日 - 村山富市首相

 

(「平和友好交流計画」に関する村山内閣総理大臣の談話)  
明年は、戦後五十周年に当たります。私は、この年を控えて、先に韓国を訪問し、またこの度東南アジア諸国を歴訪しました。これを機に、この重要な節目の年を真に意義あるものとするため、現在、政府がどのような対外的な取組を進めているかについて基本的考え方を述べたいと思います。  
1 我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です。戦後五十周年という節目の年を明年に控え、このような認識を揺るぎなきものとして、平和への努力を倍加する必要があると思います。  
2 このような観点から、私は、戦後五十周年に当たる明年より、次の二本柱から成る「平和友好交流計画」を発足させたいと思います。第一は、過去の歴史を直視するため、歴史図書・資料の収集、研究者に対する支援等を行う歴史研究支援事業です。第二は、知的交流や青少年交流などを通じて各界各層における対話と相互理解を促進する交流事業です。その他、本計画の趣旨にかんがみ適当と思われる事業についてもこれを対象としたいと考えています。また、この計画の中で、かねてからその必要性が指摘されているアジア歴史資料センターの設立についても検討していきたいと思います。なお、本計画の対象地域は、我が国による過去の行為が人々に今なお大きな傷痕を残しているアジアの近隣諸国等を中心に、その他、本計画の趣旨にかんがみふさわしい地域を含めるものとします。この計画の下で、今後十年間で1千億円相当の事業を新たに展開していくこととし、具体的な事業については、明年度から実施できるよう、現在、政府部内で準備中であります。  
3 いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。なお、以上の政府の計画とあいまって、この気持ちを国民の皆様にも分かち合っていただくため、幅広い国民参加の道をともに探求していきたいと考えます。  
4 また、政府としては、女性の地位向上や女性の福祉等の分野における国際協力の重要性を深く認識するものであります。私は、かねてから、女性の人権問題や福祉問題に強い関心を抱いております。明年、北京において、女性の地位向上について検討し、21世紀に向けての新たな行動の指針作りを目指した「第四回世界婦人会議」が開催されます。このようなことをも踏まえ、政府は、今後、特にアジアの近隣諸国等に対し、例えば、女性の職業訓練のためのセンター等女性の地位向上や女性の福祉等の分野における経済協力を一層重視し、実施してまいります。  
5 さらに、政府は、「平和友好交流計画」を基本に据えつつ、次のような問題にも誠意を持って対応してまいります。その一つは、在サハリン「韓国人」永住帰国問題です。これは人道上の観点からも放置できないものとなっており、韓国、ロシア両政府と十分協議の上、速やかに我が国の支援策を決定し、逐次実施していく所存です。もう一つは、台湾住民に対する未払給与や軍事郵便貯金等、長い間未解決であった、いわゆる確定債務問題です。債権者の高齢化が著しく進んでいること等もあり、この際、早急に我が国の確定債務の支払を履行すべく、政府として解決を図りたいと思います。  
6 戦後も、はや半世紀、戦争を体験しない世代の人々がはるかに多数を占める時代となりました。しかし、二度と戦争の惨禍を繰り返さないためには、戦争を忘れないことが大切です。平和で豊かな今日においてこそ、過去の過ちから目をそむけることなく、次の世代に戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があったことを語り継ぎ、常に恒久平和に向けて努力していかなければなりません。それは、政治や行政が国民一人一人とともに自ら課すべき責務であると、私は信じております。   
 
謝罪の歴史7 1995〜1999

 

1995年6月9日 - 衆議院決議  
(歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議。いわゆる戦後50年衆院決議)  
本院は、戦後五十年にあたり、全世界の戦没者および戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。  
また、世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。  
本院は、日本憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。  
右、決議する。 
1995年7月 - 村山富市首相

 

(「性のためのアジア平和国民基金」発足のご挨拶)  
ごあいさつ 「女性のためのアジア平和国民基金」の発足にあたり、ごあいさつ申し上げます。今年は、内外の多くの人々が大きな苦しみと悲しみを経験した戦争が終わってからちょうど50年になります。その間、私たちは、アジア近隣諸国等との友好関係を一歩一歩深めるよう努めてまいりましたが、その一方で、戦争の傷痕はこれらの国々に今なお深く残っています。  
いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います。  
このたび発足する「女性のためのアジア平和国民基金」は、政府と国民がともに協力しながら、これらの方々に対する国民的な償いや医療、福祉の事業の支援などに取り組もうというものです。呼びかけ人の方々の趣意書にも明記されているとおり、政府としても、この基金が所期の目的を達成できるよう、責任を持って最善の努力を行ってまいります。  
同時に、二度とこのような問題が起こることのないよう、政府は、過去の従軍慰安婦の歴史資料も整えて、歴史の教訓としてまいります。  
また、世界の各地で、今なお、数多くの女性が、いわれなき暴力や非人道的な扱いに苦しめられていますが、「女性のためのアジア平和国民基金」は、女性をめぐるこのような今日的な問題の解決にも努めるものと理解しております。政府は、この面においても積極的な役割を果たしていきたいと考えております。  
私は、我が国がこれらのことを誠実に実施していくことが、我が国とアジア近隣諸国等との真の信頼関係を強化、発展させることに通じるものと確信しております。  
「女性のためのアジア平和国民基金」がその目的を達成できるよう政府は最大限の協力を行う所存ですので、なにとぞ国民のみなさまお一人お一人のご理解とご協力を賜りますよう、ひとえにお願い申し上げます。 
1995年8月15日 - 村山富市首相

 

(戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話。いわゆる村山談話) 
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。  
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。  
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。  
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。  
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。  
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。  
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
談話を発表したあとの記者会見での質疑応答  
ご質問をいただく前に、私の方から一言申し上げておきたいと思いますが、イギリスのメージャー英首相あて書簡について、イギリスのいろいろな報道がなされておりますが、このことについて一言説明を申し上げたいと存じます。  
私はメージャー首相の保守党党首再選に対し、お祝いの書簡をお送りいたしました。他方、今年は戦後五十周年という年でもありますが、戦争捕虜の皆さんが先の戦争中の日本軍の捕虜収容所で受けた待遇等について、依然、激しい感情を抱いていると言うようなことも聞いております。したがって、その書簡の中で従来より私が明らかにしている気持ちを改めて表明をさせていただいた次第であります。  
すなわち、我が国の過去の行為が戦争捕虜を含め、多くの人々に深い傷を与えたことに対し、深い反省とお詫びの気持ちを有しているということについて申し述べたところでございます。また、この気持ちを本日の総理談話でも、一層、明らかにしたところでございますから、そのようにご理解を賜りたいと存じます。以上です。  
記者質問 ‐ 談話の中で総理は、「国策を誤り」という表現、更に「侵略」と「植民地支配」ということを明確に表現されてますが、この表現から当時の政策決定全体に何らかの責任があるというふうに、我々は読めるのですが、この表現の持つ意味、それから当時、日本の元首であり、統治権を総攬する立場にあった天皇も含めて、責任の及ぶ範囲をどのようにお考えか。お伺いできますか。  
○総理 天皇の責任問題につきましては、戦争が終わった当時においても、国際的にも国内的にも陛下の責任は問われておりません。今回の私の談話においても、国策の誤りをもって陛下の責任を云々するというようなことでは全くありません。天皇陛下がひたすら世界の平和を祈念しておられ、先の大戦に際しても、解除をするための全面的に努力もされており、また、戦争終結のご英断を下されたことは良く知られているところであると思います。私は、植民地支配と侵略といったようなことにつきましては、あの戦争によって、多くの国々、取りわけアジア近隣諸国の国々に対して、多大の損害と苦痛を与えてきたという認識については、明確に申し上げておいた方がいいと、同時にそのことについて謙虚に反省もし、国民全体としてお詫びの気持ちを表すということが、五十年の節目にとって大事なことではないかというふうに考えて申し上げたところであります。  
記者質問 ‐ 次に、諸外国から戦争被害者、個人の方から、日本政府に対して賠償請求が相次いでおりますが、従来、日本政府は、これに対して裁判所の判断に任せるという対応を取っていますが、今回の談話でこれだけ明確に責任の所在を表明された以上、今後、訴訟や各種要求に対して、どのような対応を取られていくのか、変更があるのか、お伺いしたいと思います。  
○総理 従軍慰安婦の問題を始めですね、諸外国の人々から損害賠償や国家補償を求める訴訟が提起されていることは承知をいたしております。しかし、先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題につきましては、日本政府としては、既にサンフランシスコ平和条約、二国間の平和条約及びそれとの関連する条約等に従って誠実に対応してきたとこでございます。したがって、我が国はこれらの条約等の当事国との間では、先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題は、所謂、従軍慰安婦の問題等も含めてですね、法的にはもう解決が済んでいるというふうに思っておりますので、今お話のございましたような個人補償を国として行う考えはございません。このような立場に立って、所謂、従軍慰安婦の問題等、現在取り組んでおる戦後処理の問題についてはですね、これからも誠意を持って対応していきたいというふうに考えておるとこであります。  
記者質問 ‐ 「国策を誤り」とありますけれども、これだけ断定的に言われる以上は、どの内閣のどの政策が誤ったかという認識があるか、明確にお示しください。  
○総理 戦後五十年の節目の年に、あの当時のことを想起してまいりますと、やっぱり、今申しましたようにアジア近隣諸国、多くの国々において、多大の損害とその苦痛を与えてきたというこの事実はやっぱりきちっと認識をする必要があるというふうに思いますから。どの時期とかというようなことを断定的に申し上げることは適当ではないのではないかというふうに考えています。  
記者質問 ‐ 侵略について。これまで侵略行為と言ってきたことを侵略と言い換えた理由は何ですか。  
○総理 これは先程来申し上げておりますように、過去の一時期に、そうした行為によって、多くの国々、取りわけアジア近隣諸国の皆さんに多大の損害と苦痛を与えてきたということを認識をする、その認識を表明したのでありまして侵略行為とか侵略とかいう言葉の概念の使い分けをしている訳ではございません。  
○総理 どうもありがとうございました。
歴史的事実を積極的に示し、謝罪外交と決別する機会だった  
河野談話・村山談話を行う前に、近隣諸国の歴史・国民性・外交方針を十二分に研究しておくべきであった。国内問題を取り扱うような安易さで近隣諸国と外交を行った事が大きな過ちである。十分な調査・準備を怠った事が、現在の"土下座外交"と揶揄される外交を招いている。  
現在での研究しなくても判っている近隣諸国の外交の特徴 •我国からの謝罪を認める意思が無い  
• 国家間で結んだ条約より、司法が優越する事を認めている。(戦時徴用で住金・三菱重工に賠償命令)  
• 国家間で結んだ条約を無視し、解決済事項の謝罪・賠償を求める(慰安婦問題)  
• 二国間の外交問題を無関係の国でロビー活動を行い、我国の名誉を貶める(慰安婦の像)  
• 自国の歴史認識での、極端な内政干渉(靖国問題)  
• 自国の歴史認識での、極端な教育(反日教育)  
• 歴史的事実の捏造・改竄(尖閣・竹島問題)  
• [親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法]で、日韓併合条約を締結した李完用の子孫9名から154筆、約25万4906平方メートル(36億ウォン相当、日本円で約4億8000万円)の土地を没収し、韓国政府に帰属させる旨の決定を下した。  
• 自国民への言論弾圧・偏ったマスコミ報道(韓国における言論統制政策)  
• 他国の災害・事故を喜び、軽薄な満足感・優越感を感じる国民性  
国家間の外交パワーでは、日本は押し込まれている。多少の軋轢・摩擦が起こる事を覚悟して、中間地点まで押し返すべきであった。問題を先延ばしにした結果、多少の軋轢・摩擦では済まない程に問題が大きくなっている。1977年吉田清治の[朝鮮人慰安婦の強制連行証言-自らの証言を創作と認める]から始まる慰安婦問題だが、35年経つが一向に解決が出来ていない。同じ外交姿勢では、今後同じ年数の35年掛けても解決は出来ないであろう。謝罪を受け入れる意思のない国に謝罪を続ける事は無意味である。今後は、無関係の国でロビー活動を行い我国の名誉を貶める事が、最大の外交損失となってくる。我国は、毅然とした強い姿勢を示さなければいけない時期に来ている。同じ過ちを繰り返すことは許されない。
「国策を誤り」の文言が、初めて挿入された  
「国策を誤り」云々の文言が、初めて挿入された。「国策を誤り」を明確に認めたため、その後、責任の主体や対象となる具体的な政策・時期について活発な議論が行われる事となった。  
国際外交を進める上で、問題解決する為に謝罪を行い、外交問題解決に向かう区切りとしなければいけない時に、「国策を誤り」と談話に導入した事が、逆に問題を提起している。  
この「国策を誤り」が結果的に、慰安婦問題などの議論を進めさせる事に少なからず関与している。
村山談話においては、天皇責任の不問化が確認された  
村山談話においては、天皇責任の不問化が確認されています。  
天皇の責任問題については「戦争が終わった当時においても、国際的にも国内的にも陛下の責任は問われておりません。」として、「今回の私の談話においても、国策の誤りをもって陛下の責任を云々するというようなことでは全くありません。」と、その存在を否定した。  
天皇という日本の象徴が責任を負うという形式的な責任論を求める海外勢力に対し、村山談話はある意味では、国体擁護を確定した意味があると評価できる。  
想定内の質問なので答弁の準備が出来ていたのであろう。天皇責任を否定している。ここで、失言・肯定を含む発言をしていたら今頃は、靖国問題・慰安婦問題・教科書問題と同じように天皇の責任が外交問題になっていた可能性がある。  
余談ですが、昭和天皇は三度退位を覚悟されています。  
一回目は昭和20年(1945年)8月29日、昭和天皇は木戸幸一内大臣に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍びがたきところとなるが、自分一人引き受けて、退位でもして収める訳には行かないだろうか」と述べられています。当時、言われていたのは天皇は皇太子に譲位して高松宮を摂政とするものでした。しかし、木戸内大臣は退位を言い出せば共和制論議がおこったり、戦争犯罪者と認めたとして訴追される可能性があるとして反対し、鈴木貫太郎も「今、退位すれば日本は混乱する。在位のまま戦争責任(道義的責任)を負っていかねばならぬ」と考え、結局思いとどまることになります。  
二回目は東京裁判の判決のときで、このときはGHQ総司令のマッカーサーの反対にあいます。これは朝鮮半島情勢や東ヨーロッパの情勢で共産勢力が台頭しており、マッカーサーは日本をアジアの反共の砦にしたかったため、この時期の退位は共産勢力を助長することになると考えたためと言われています。  
三回目はサンフランシスコ講和条約のときで、「皇室だけなんら責任をとらないのは割り切れぬ空気を残すことになる」という論調のもとによるものです。しかしこのときは吉田茂首相の反対にあってかないませんでした。国会で中曽根康弘が天皇退位について吉田茂首相に質問したところ、吉田首相は中曽根を"非国民”呼ばわりしたそうです。
『損害賠償や国家補償は、法的にはもう解決が済んでいる』と言及  
『先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題につきましては、日本政府としては、既にサンフランシスコ平和条約、二国間の平和条約及びそれとの関連する条約等に従って誠実に対応してきたとこでございます。したがって、我が国はこれらの条約等の当事国との間では、先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題は、所謂、従軍慰安婦の問題等も含めてですね、法的にはもう解決が済んでいるというふうに思っておりますので、今お話のございましたような個人補償を国として行う考えはございません。』と賠償・補償を否定している。
村山談話以降の内閣は、村山談話を継承する事を確認される事となった  
橋本内閣 1996年(平成8年)1月24日  
橋本龍太郎内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において本談話の今後の取り扱いを問われ、本談話の意義を踏まえて対アジア外交を進めていく旨、答弁した。  
小渕内閣 1998年(平成10年)8月11日  
小渕恵三内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において歴史認識について問われ、本談話の基礎の上に立って外交を行っていく旨、答弁した。  
森内閣 2000年(平成12年)11月22日  
森喜朗内閣総理大臣は、参議院予算委員会において「かつての戦争」についての認識を問われ、「95年の村山内閣総理大臣談話というもの、これが我が国の過去の問題についての政府としての正式な見解でございます。これに基づいて、特に周辺近隣アジア諸国とはこの精神をしっかり受けとめて、そして外交交渉を進めていくということが大事だと考えております。」と答弁した。  
小泉内閣 2005年(平成17年)8月15日の終戦の日  
小泉純一郎内閣総理大臣は、村山談話を踏襲した『小泉内閣総理大臣談話』を発表して、再びアジア諸国に謝罪した。  
第1次安倍内閣  
小泉の後を受けた安倍晋三内閣総理大臣は、保守派として知られ、首相就任以前に村山談話に対し批判的な発言をしていたため、首相就任後、村山談話にどのような態度を取るかが注目されていた。  
2006年(平成18年)10月5日  
安倍首相は、衆議院予算委員会で、村山談話について「アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実」であることは「国として示した通りであると、私は考えている」とし、これを1993年(平成5年)の河野談話とともに、「私の内閣で変更するものではない」と明言した。  
福田康夫内閣 2008年(平成20年)5月7日  
福田康夫内閣総理大臣は、中華人民共和国の胡錦濤国家主席の日本訪問を受け、日中首脳会談に臨んだが、首脳会談後の共同声明では村山談話について一切言及しなかった。福田は自由民主党総裁選挙における総裁候補だった2007年(平成19年)9月19日、日本外国特派員協会での記者会見にて「首相が言ったことだから正しいものと考える必要がある」と述べ、同じく候補者の麻生太郎も「歴代内閣は皆、同じことを申し上げてきている」と発言している。  
麻生内閣 2008年(平成20年)10月2日  
麻生太郎内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において、村山首相談話を受け継ぐのかどうか問われ、村山談話や小泉談話は「さきの大戦をめぐる政府としての認識を示すものであり、私の内閣においても引き継いでまいります。」と答弁した。なお、同年11月、政府見解と異なる認識を示した論文を発表したとして航空幕僚長を更迭され、退職した田母神俊雄は、参考人として招致された参議院外交防衛委員会の席で、「いわゆる村山談話なるものを公然と批判したことは全くありませんし、論文の中でも全く触れておりません。」とした上で、「村山談話と異なる見解を表明したということで更迭をされた」との認識を示した。  
鳩山由紀夫内閣 2009年(平成21年)9月21日(日本時間22日)  
アメリカ合衆国のニューヨークにおいて、中華人民共和国の胡錦濤国家主席と会談した鳩山由紀夫内閣総理大臣は、「互いの違いを乗り越えられる外交をするのが友愛の外交だ」とした上で、「村山富市首相談話を踏襲する」と表明した 。
村山談話の評価  
外交として強い態度で押し返すのでは無く、謝罪する事により一歩後退し、天皇責任の不問・損害賠償や国家補償の法的解決済みを、談話と記者との質疑応答に盛り込んだ事になります。結果として、名誉・プライドを捨て実を取った事になりますね。言い換えると、謝罪は繰り返すが天皇責任と賠償は認めない事になります。  
以降の内閣が村山談話を継承するのは、絶対に譲れない[天皇責任の不問・損害賠償や国家補償の法的解決済み]を継承している事になります。  
不安定な政治が続いている中での、社会党・自民党の連立政権です。将来を見据えた毅然とした外交政策を求める事は無理があったでしょうね。立場・考え方により歴史認識は違います。村山談話の評価は次世代の歴史学者が行うでしょう。  
1996年6月23日 - 橋本龍太郎首相

 

(橋本総理大臣・金泳三大統領共同記者会見)  
(金大統領)   このたび橋本総理の初の御訪韓に当たり、我々両国首脳は昨日の晩餐、今朝の朝食会 、そして先ほど終わったばかりの首脳会談を通 じて、お互いの関心事について忌憚なく意見を交わしました。橋本総理と私は、2002年のワールドカップの韓日共催決定が両国関係の発展にとって極めて望まし いということに認識を共にし、今後2002年のワ ールドカップが史上最も成功した大会になるよう積極的に協力していくことにしました。  
我々2人は、アジアで初めて開かれるワールドカップ大会が、両国関係者の共同作業によって成功 裏に開催され、両国民間の友情が更に深まるこ とを期待するとともに、このため両国政府間においても緊密な連絡体制を維持していくことにしまし た。  
我々両国首脳は、最近の北韓情勢について意見を交わし、韓半島の平和と安定のためには隣国であ る日本の役割が重要であるということで認識を 共にし、北韓が一日も早く四者会談提案に応じることによって、韓半島に恒久的な平和体制を築くた めの協議が始まるよう緊密に協力することにし ました。  
その上、橋本総理と私は、北韓核問題の解決のため堅持してきた韓日米三国の連携体制が、韓半島 の平和と安定のため緊要であるということに認 識を共にし、今後この体制をより強固にしていくことに合意しました。  
我々両国首脳は、両国の相互理解の増進のためには、両国において相手国、及び両国関係の歴史に 関する研究は、一層活発化し、深まることが望 ましいということにつき、認識を共にしました。  
また、このような研究を支援、奨励するため、韓日両国の民間の知識人による歴史研究に関する会 議を早期に構成することが望ましいということ に見解が一致しました。  
橋本総理と私は、次世代の主人公となる青少年交流の重要性を再確認すると同時に、今後、学生、 社会人等、青少年交流をより一層拡充するため 、実務レベルに協議機関の設置を検討させることにしました。  
我々両国首脳は21世紀を控え、両国間の経済関係が更に発展することが重要であるという点に認識 を共にし、投資促進、産業技術協力等の分野に おいて共通の利益を増進するため、引き続き努めることにしました。  
橋本総理と私は、国連、APEC、ASEM、WTOといった国際機関等においての両国間協力の 重要性を勘案し、今後このような国際機関等に おいての協力をより一層強化していくこととしました。  
我々2人は最も近い隣国である韓日の友好協力関係の増進のため、両国の首脳が可能な限り頻繁に 合い、隔意なく意見を交わすことが重要である という点について見解を共にし、今後より活発に首脳交流が行われるよう協力していくことにしまし た。  
ありがとうございました。  
(橋本総理)   では、続いて私の方からも、冒頭のごあいさつをしたいと思います。  
今回、私は金泳三大統領の御招待をいただき、このチェジュ島に参りました。滞在時間は短いもの でしたけれども、大統領閣下とお会いし、くつ ろいだ雰囲気の中で率直、しかも幅の広い意見交換をすることが出来たことを大変うれしく思います 。そして、温いおもてなしをいただいた大統領 閣下始め、韓国の皆さんに心からお礼を申し上げたいと思います。  
まず、今回のワールドカップ・サッカーの日韓共同開催の決定を契機として、大会を本当に成功に 導くために、関係者間の協力を通じて、日韓友 好協力のきずなを一層強めていく、そうした思いを大統領と共にすることが出来たこと。私としても 誠に意を強くしたことであります。  
金大統領と私は、国連海洋法条約の締結に関連し、先般のASEMの際の日韓首脳会談における合 意内容というものを再確認し、その合意にした がって、領有権問題と切り離して排他的経済水域の境界確定や漁業協定交渉を促進していくとともに 、秩序のある操業を確保するなど、交渉の促進 のための環境づくりにもお互いに努力していくことについて意見の一致を見ることが出来ました。  
大統領閣下と私は、また、国際情勢一般についても、有意義な意見交換を行うことが出来ました。 両国の友好協力の関係というものは、アジア太 平洋地域にとどまらず、国際社会全体の安定と繁栄にとって重要だということが再確認されました。  
また、北朝鮮の動向を中心に、北東アジア情勢についても忌憚のない意見交換を行いました。この 地域の平和と安定のためには、今後とも日韓両 国が、これにアメリカを加え、日米韓三国の緊密な連携が重要だという点も改めて確認されました。  
そして最後に私の方から、双方の都合のよいとき、大統領閣下に日本を是非訪問していただきたい 、お越しをいただくことを提案をし、金大統領 から御快諾をいただきました。これからも金大統領といつでも気軽に、しかも忌憚のない意見交換を 行い、お互いの信頼に根差した友好協力関係を 構築していきたいと思います。  
21世紀を目前に控えた今、両国の国民が一層相互理解を深め、共に手を携えて未来を切り開いてい くことを心から願っております。
(質疑応答)  
(質問) 韓日両国が未来志向的な関係を構築するためには、日本が過去の歴史に対して正しい認識 をし、真の反省がなければならないと思います 。まず、この問題についての橋本総理の御意見を伺いたいと思います。また、韓日両国関係におきましては、歴史問題を含め、独島とか従軍慰安婦問題等の微妙な問題が ありますけれども、まだ解決されていない懸案 問題がありますけれども、今回の首脳会談においてこの問題についても話し合われたかどうか。また 、話し合われたとしたらその内容をお伺いした いと思います。  
(橋本総理)   首脳会談そのものの模様については、今、大統領閣下、そして私から申し上げたこと で尽きています。  
私は丁度1965年、日韓条約の署名が行われた、奇しくも昨日がその日でしたけれども、その 署名が行われた後、当時の佐藤自由民主 党総裁の指示を受けて、日本の学生たちを連れて、お国の学生諸君との対話をするために初めて韓国 を訪問しました。  
その旅行のときに、実は当時は野党の議員でおられた金大統領閣下と仲介をしてくれる方があって 、初めてお目に掛かることが出来た訳ですが、 それ以来随分長い日時が経ちましたけれども、その旅行のことを今も私は記憶の中に鮮明にとどめて います。  
実は私は敗戦のとき小学校2年生でしたけれども、その初めての韓国訪問の際に、我々が教育の中 で学ばなかった長い両国の歴史の不幸な部分を 現実に触れる、そして教えられる機会を持ちました。  
例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありまし たし、そうしたことがいかに多くのお国の方々 の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります。  
私は総理に就任して以来、繰り返して、過去の重みからも、未来への責任からも、我々は逃げるこ とは出来ないということを繰り返し申し述べて きました。  
我々は今まさに、過去の重みを背負いながら、このワールドカップサッカーというものを契機に して、未来への責任と夢をつくり上げていこう としています。  
また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた 問題はないと思います。そして、心からおわび と反省の言葉を申し上げたいと思います。
 
(質問) 金泳三大統領にお伺いいたします。  
今回の首脳会談では、未来志向的な観点から様々な分野について、新しい日韓関係をいかにつくる かということにお話しなったと思います。未来 志向的な日韓関係を考える際に、いわゆる日韓の友好関係を考える際に、大きな懸案として天皇陛下 の訪韓の問題がいまだ残っていると思います。 就任以来、天皇訪韓について強い意欲を持っていらっしゃると聞いております金泳三大統領が、この 問題に基本的にどのように考え、対処されよう と考えていらっしゃるのか、まずお伺いしたい。  
2つ目には、金泳三大統領の任期中にこの問題が実現する可能性があるのかどうか。  
また、現状においてこの問題を妨げている障害として何があるのか、大統領がどうお考えかお伺い したいと思います。  
(金大統領)   まず、今回の首脳会談におきましては、この問題は話し合われませんでした。天皇の 御訪韓は両国の友好関係を新たに確認するよい 契機となり、非常に重要な象徴的な意味がありますので、両国の国民が歓迎する雰囲気の中で行える のが重要であります。両国はこのような雰囲気 醸成のためお互いに努力をしなければなりません。  
この問題は、両国の国民の努力いかんにかかっている問題であり、早く行うことも、遅くなること もそれにかかっていると言えます。  
(質問) 橋本総理大臣にお聞きしますが、今回の会談のテーマの最も大きな一つが北朝鮮を巡る情 勢の分析だったと思いますが、今回の首脳会談 でこの問題について新たに進んだ認識が得られたのかどうか。新しい理解が得られたのかどうかとい う点が1点と総理は間もなくリヨンでのサミ ットに出席されますけれども、今日の話し合いの成果を具体的にどのような形でサミットでの討議に 生かしていくお考えなのか。その点についてお 伺いします。  
(橋本総理)   首脳会談の中では、北朝鮮情勢を中心にして、北東アジア情勢の様々な角度からの意 見交換を行うと同時に、この地域の平和と安定 のためには、今後ともに日韓両国にアメリカを加えた日韓米三国の緊密な連携が重要だということを 改めて確認しました。  
同時に、金大統領とアメリカのクリントン大統領がまさにこのチェジュ島で発表された四者会合提 案、これはその発表の直後に私は支持の声明を 出しましたけれども、その姿勢は今も変わっておりません。そして、この四者会合提案に対して北朝 鮮が依然としてこれを受け入れるという回答を まだ行っていない訳ですけれども、この四者会合の早期実現に向けて、今後共に緊密に協力をしてい くことでお互いの意見は一致しました。  
そして、リヨン・サミットには当然ながら中東、あるいはボスニア問題その他と併せて朝鮮半島の 情勢というものも議論に出てくると思います。  
今回、金大統領との間で率直に行ったお互いの意見、そしてそれを踏まえた基本的な認識というも のを持って参加各国の首脳たちと忌憚のない意 見交換を行いたい、私はそう考えております。  
そして、同時にそのチャンスを何としてもつかみたいと思っていますけれども、KEDOに対して 一層の協力を各国にも求めたい。そのようにも 思っております。  
(質問) 北韓のことにつきまして大統領に伺いたいと思います。  
先ほど橋本総理が四者会談を実現させるための韓日間の連携体制についてお触れになりましたが、 まず、北韓に四者会談を受け入れさせるための 日本の役割について、また、日本の努力について話し合われたことがありましたらお聞かせ願いたい と思います。  
また、日朝正常化交渉及び日朝関係改善について、またもう一つ、韓日間の北に対する食糧支援問題に ついての意見調整等が今回の首脳会談において 行われたかどうか、御説明を願いたいと思います。  
(金大統領)   橋本総理は、私とクリントン大統領が去る4月16日、ここチェジュ島で四者会談を提 案した直後、直ちにこれに対する支持を表明さ れました。総理は今回の首脳会談において、四者会談に対する支持を再確認されると同時に、その実 現のための協力を約束されました。  
韓半島の平和と安定のためには日本の役割が大変重要であり、我々は対北韓政策に関する韓日米の 三国間の連携の枠組みの中で、日本と緊密に協 議していきたいと思います。  
日本政府も、対北韓政策について、我が政府との協議を密にしていく旨約束されました。 
1996年10月8日 - 今上天皇

 

(大韓民国金大中大統領歓迎の宮中晩餐会のおことば)  
このたび、大韓民国大統領金大中閣下が令夫人とともに、国賓としてわが国をご訪問になりましたことに対し、心から歓迎の意を表します。ここに、今夕をともに過ごしますことを誠に喜ばしく思います。  
一衣帯水の地にある貴国とわが国の人々の間には古くから交流があり、貴国の文化はわが国に大きな影響を与えてまいりました。八世紀にわが国で書かれた歴史書、日本書紀からはさまざまな交流の跡がうかがえます。その中には、百済の阿花王、わが国の応神天皇の時、百済から経典に詳しい王仁が来日し、応神天皇の太子、菟道稚郎子に教え、太子は諸典籍に深く通じるようになったことが記されています。この話には、当時の国際社会の国と国との関係とは別に、個人と個人との絆が固く結ばれている様が感じられます。後には百済から五経博士、医博士、暦博士などが交代で来日するようになり、また、仏教も伝来しました。貴国の多くの人々がわが国の文化の向上に尽くした貢献は極めて大きなものであったと思います。  
このような密接な交流の歴史のある反面、一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております。  
両国の間には、様々な局面を持つ長い歴史があります。私たちは、このような関係にある両国の歴史を、常に真実を求めて理解することに努めるとともに、両国の人々の努力によって芽生えつつある相互の評価と敬愛の念を、未来に向かって育てていかなければならないと思います。日韓両国が、共通の目的としてよりよい民主国家としてのあり方を求め、互いに心して、あるべき今後の関係を築いていくことを切に念願いたします。  
近年、幸いなことに、両国の人々の熱意と努力によってさまざまな分野で交流が進み、相互理解と友好関係が増進していることは喜ばしいことであります。特に若い世代の人々の交流が盛んになってきていることは、今後の両国関係の発展に大きな期待をもたせるものであります。先日も政府の主催する日本韓国青年親善交流事業の一つとして貴国を訪問した青年韓国派遣団に会いましたが、団員が貴国の人々の心に触れ、貴国への理解と親しみを深めてきたことをうれしく感じました。また、昨年五月、大阪において開催された「日韓青少年交流ネットワークフォーラム」は、さまざまな分野で国際交流に携わる日韓の青少年が一堂に会し、自らの手で今後の交流のあり方を論議し、展望を開いていく上で大変に意義深い試みでありました。今後とも、両国民が、共に、揺るがぬ信頼と友好をはぐくみ、豊かな友好協力の関係を築いていくことを切に願ってやみません。  
大統領閣下がこのたびわが国をご訪問になったことは、両国関係の将来にとって極めて大きな意義を持つものであります。短く、ご多忙なご滞在ではありますが、わが国各界の人々と広くお接しになるとともに、深まりゆくわが国の秋の風物をお楽しみいただきたく思います。この度のご訪日が、秋の実りのごとく、大統領閣下並びに令夫人にとって実り多く快適なものとなりますよう希望いたします。  
ここに大統領閣下並びに令夫人のご健勝と大韓民国国民の幸せを祈って、杯をあげたく思います。 
1997年8月28日 - 橋本龍太郎首相

 

(新たな対中外交を目指して / 読売国際経済懇話会における橋本総理スピーチ)  
・・・前略・・・ 第二は、日中間の対話の強化であります。勿論これまでにも日中の多くの先人達が対話を増やすべく努力をしてこられました。私も、一九七九年に訪中してから、公式にも、山登りという個人的な趣味を含めましても、繰り返し中国を訪問し、個人的に日中対話の拡大に努めてまいりました。人の往来交流の面では、一九七二年にはわずか九千人であった両国間の人的往来は、昨年は、百万人をはるかに超えるに至りました。我が国への中国人留学生も二万三千人と、日本に学ぶ外国人留学生全体の四〇%以上に達するまでになっています。  
しかし、今後の日中関係の重要性を考えれば、現状ではまだ決して十分な交流があるとは言えず、相互の対話の機会を一層拡大していく必要があります。  
冒頭申し上げたように私は来週訪中しますが、この訪問を、単に一度の首脳訪問として終わらせるのでなく、できるならば、今後日中首脳レベルの相互訪問をより頻繁に行うこととし、そのキック・オフと位置付けることができればと願っております。私の訪中の後、本年は李鵬総理の訪日、明年には江沢民主席の訪日が予定されておりますが、こうした往来が定着し、隣人同士として頻繁に普段着で話し合える関係、そして、場合によっては両国間での懸案がある時期ほどより頻繁に対話をするという関係、を築いていくことが大切であると思います。  
勿論、対話拡大の必要性は首脳レベルだけのものではなく、むしろ多種多様なレベルで実現する必要があります。政府間の対話について言えば、首脳間で高い優先順位を与えた案件については、責任を有する閣僚のレベルで、例えば定期的に会合を開催し、問題の解決を図ることも有用でしょう。また、こうした政府間の対話とは別に、日中双方の先人の時代の交流に倣って、政治家個人のレベルの交流を活発化させることも重要です。更に長期的に日中関係にとって重要なことは、草の根レベル、特に次世代を担う青年レベルの対話の機会を拡大していくことだと思います。  
こうした日中間の対話のチャネルを多層化することと合わせて、対話の対象となる分野も幅を広げていくことは当然のことであります。  
さて、日中間の対話で現在最も必要とされる分野は、安全保障の分野であることに誰も異論がないと思います。  
先程も述べましたように、冷戦の終わりは残念ながら平和と安定を保証するものではありません。アジア各国は、紛争を防止し、平和と安定をもたらすメカニズムを自らの努力で作り上げなければなりませんし、これこそが、冷戦終了後のアジア諸国の最大の課題でもあります。日中間でもこのような考え方から工夫を重ねていくことが必要であります。  
御承知の通り、中国の一部には「日本が軍事大国の道を歩むのでないか」という声がありますし、他方、日本の一部にも「中国の軍事力の脅威」を指摘する人々がいます。  
私は、我が国が、歴史の教訓を学び、まさに、「前事を忘れず、後事の戒めとする」という視点が広く国民の中に定着していると確信しております。私自身も一昨年村山前総理が発表した内閣総理大臣談話、すなわち「植民地支配と侵略によって、多くの国々、取り分けアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」た「歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明」するとの考えと同じ考えを持っています。この内閣総理大臣談話を決定したとき、私も内閣の一員でございました。日本国内の一部に中国側の感情を刺激しかねない発言があったとしても、日本という国が将来、軍事大国にならず平和国家としての道を歩み続ける決意であることは、我々日本人にとっては、自明なことであると考えます。しかしながら、自らに明らかなことではあっても、中国を始めとするアジア諸国に不信が生まれないような努力は弛まなく続けていく必要があります。昨年来、我が国の安全保障の根幹である日米安全保障体制につきましても、中国側から様々な形で見解が表明されているわけですが、この問題もやはり対話を重ねることにより、中国側の懸念を解いていく努力が不可欠でありますし、現在進めている「指針」見直しの作業も引き続き透明性をもって行ってまいりたいと考えております。日米安保共同宣言において明確に述べられておりますように、日米両国は、アジア太平洋地域の安定と繁栄にとり中国が肯定的かつ建設的な役割を果たすことが極めて重要であると考えており、この関連で、中国との協力を更に深めていかなければなりません。  
他方、中国の軍備の問題について、中国政府は、中国の軍備はあくまでも防衛のためであり、中国は覇権を求めるものではないと強調しています。そして、中国には、客観的に中国の軍事力の水準を評価すれば、これが脅威となることはあり得ないし、中国は和を尊ぶ伝統があり、この点からも他国に脅威を与えることはないとの主張もあります。私は、このような主張を疑うものではありません。しかし同時に、国際的に広くこうした主張が受け入れられるための最良の道は、やはり、我が国が為さなければならないと同様に、中国も他国に対して透明性を高めていくよう努めるべきではないかと思います。その点では、現在日中間で行われている安全保障対話や防衛関係者の交流を一層活発にしていくことが重要な役割を果たすと思います。  
こうした安全保障を巡る対話は、二国間や多国間、政府レベルや民間レベルなど様々な多元的・重層的な交流・対話が重要であり、ARFなど既に実施されているものもありますが、更なる交流・対話が試みられるべきでしょう。  
こうした対話を通じて、日中間の誤解の発生を避けるとともに、アジアの平和・安定は、対話・協議によってより良く確保出来るという確信を日中両国が持ち得る体制を作っていかなければなりません。・・・後略・・・ 
1997年9月6日 - 橋本龍太郎首相

 

(総理内外記者会見記録 / 北京シャングリラホテル)  
1.総理冒頭発言  
本日はどうもありがとうございます。  
まず、この記者会見にあたって、今回の中国訪問は非常に素晴らしいかつ有意義なものであったということを申し上げたいと思います。日中国交正常化25周年という記念すべき年に、中国政府のお招きによって、我が国にとって最も重要な国の一つである中国を訪問できたことは、それ自体が私にとって大きな喜びでありました。昨日、一昨日と、江沢民主席、李鵬総理をはじめ中国首脳の方々と、実りある意見交換が出来ました。この後、私は、東北地方の瀋陽、大連の二つの都市を訪れます。そしてここでは、地方部の発展の状況を自分の目で見せて頂くと同時に、改めて過去の歴史を直視しながら、将来の日中関係に思いを至す良い機会にしたいと考えています。  
翻って昨年来の日中関係の状況を見ますと、11月、マニラでの江沢民主席と私との会談を行いました。この会談を経て、国交正常化25周年をともに祝う環境が整ってまいりました。私は、こうした望ましい方向というものを確たるものにしていく、そして日中関係を安定的に発展の軌道に乗せることを強く望んで今回中国を訪問したわけです。この度、私は、中国の政府首脳の方々との間に日中関係から国際情勢、更には地球規模問題に至る日中間の協力、幅広い話題について意見交換を行うことができました。これを通じて、両国関係発展の基礎を確認するとともに、首脳間の一層の信頼関係を築きあげ、新たな四半世紀に向けての、対話と協力の関係を強化していくための基礎を築くことができたと確信しています。両国は今後は少なくとも毎年1回、いずれかの側の首脳レベルが相手国を訪問することになりました。これを受けて、11月、李鵬総理の訪日、さらに明年の江沢民主席の訪日に向けて関係を一層強固なもの、堅固なものとすべく努力を払っていきたいと考えます。  
私は、昨日の国家行政学院での講演の中で、日中関係の一層の発展を目指す上で、両国間の対話と協力を推進していくことの重要性を述べました。そして、日中両国が来世紀に向けて、アジア太平洋地域、そして世界のことを考え、幅広い問題について話し合い、協力していくべきであることを強調しました。両国が対話と協力を進めて行くべき面、分野というものはたいへん広範なものになるはずですが、私は特に、安全保障面で対話を進めながら信頼関係を築いていくことが重要と考えています。  
最近、中国側から日米安保の問題、なかんずくいわゆる「指針」の見直しに関わる問題について、強い関心が表明されてまいりました。一昨日の首脳会談において、私から李鵬総理に対し、日本の基本的な考え方についての説明を行いました。また、他の要人の皆さんとの会談でもこうした問題は常に話題になり、その度に日本の基本的な考え方を申し上げてきたところです。こうした会談はお互いの立場に対する理解を進める上で、また深める上でも、一定の成果を得たものと確信しております。  
また、地球規模問題に向けられる日中間の協力として、今回の訪中で、「21世紀に向けた日中の環境協力」という構想を私の方から提案し、基本的な賛同を得ました。環境情報ネットワーク、モデル都市構想の二つの柱からなる構想でありまして、両国が協力して他国にも影響を及ぼしうる大気汚染などの地球規模の問題に対処していきたいと考えています。そしてこうした日中双方の努力の結実を心から期待しています。  
また、今次訪中を直前に、新たな漁業協定の実質合意、中国のWTO早期加盟に向けた議論の大きな進展が見られました。いずれも日中双方が誠実な交渉を積み重ねてきた結果であり、双方の交渉担当者に対して改めて私は敬意を表したいと思います。更に一昨日、本年度分の円借款の交換公文署名も行われ、加えて文化面での協力についての話し合いも進んでいます。こうした実務面の協力は、相互信頼の基礎でもありますし、今後益々発展させていきたいと考えています。  
最後になりましたが、今回の訪問に際し、中国側からたいへん温かい歓迎を示していただいたこと、その周到な準備と接遇すべてに心から謝意を表したいと思います。  
2.質疑応答  
(報道官)これから質疑応答を行います。質問のある方は挙手をお願いします。どうぞ。  
(問)総理は、今回中国を訪問されるに当たり日・米・中の三角形のうちの日・中の一辺を強化したいとおっしゃってましたが、江沢民国家主席、李鵬総理ら首脳との会談で本音をぶつけ合うことができたとお考えですか。  
(総理)今、あなたからも触れられたように、私は、本当にアジア太平洋地域の平和と繁栄を確保し、より堅固なものにしていこうとするとき、これは日・米・中の3カ国が良好かつ安定的な関係を築いていくことが不可欠と思っています。そしてその意味で日米、日中、米中のそれぞれの2国間関係が前進し発展しうるプラス・サムの関係にあると考えています。そしてまさに今回の訪中では、その三角形の一辺である中国と我が国のあいだをより前進させたい、そんな思いでこちらにまいりました。昨日、一昨日と、江沢民主席、李鵬総理をはじめ、中国の首脳の方々と先程申し上げたように幅広い議論をすることができた。そしてそれはお互いが相手のいうことに理解を示しながらも、問題によっては意見の違うところも率直に認め合う、そういった意味で、私は本音の対話ができたと思っています。そしてこれは、日中の関係の発展の基礎を確認した上で、将来に向かって幅広い日中関係を形作っていく上で、その基礎として大きな役割を果たし得る、それだけの本音の議論ができた、私はそう思っています。  
(問)現在、国交を正常化して25周年になりますが、この安定に対して影響を与えるものは、台湾の問題、そしてまた歴史認識の問題が存在しております。日本政府はこれらの問題について、どのような措置を講じたのでしょうか。日本の閣僚が、歴史の問題につきまして、歴史を歪曲し、また中国国民の感情を傷つけるような発言が出てきております。総理はこれらの問題について、何か良策、良い方法はありませんでしょうか。  
(総理)まずこれは、申し上げたいことですけれども、日本をはじめ各国の中には、いろいろ異なることをいう人がいる。それが日本の制度だということは、是非私は理解していただきたいと思うんです。その上で、それが日本政府の、多くの、圧倒的に多くの日本人国民の本意でないということを明確に申し上げたいと思います。日本政府は、第二次世界大戦敗戦の日から五十周年の1995年、内閣総理大臣談話という形をとりまして、我が国として、過去の日本の行為が中国を含む多くの人々に対し、耐え難い悲しみと苦しみを与えた、これに対して深い反省の気持ちの上に立ち、お詫びを申し上げながら、平和のために力を尽くそうとの決意を発表しました。私自身がその談話の作成に関わった閣僚の一人です。そしてこれが日本政府の正式な態度である、立場であることを繰り返し申し上げたいと思います。そしてこのことは首脳間における論議の中でも、中国側に私も率直に申し上げ、李鵬総理も私の発言に完全に同意すると、そう言って頂きました。そして、ここで一つ申し上げたいことはこの記者会見が終わりますとすぐに、私は戦後の日本の総理として初めて東北地方を訪問させていただきます。そして、9・18事変記念館の博物館も見せて頂くつもりでいます。これはまさに過去の歴史を直視した上で、将来にむけての友好協力の実をあげたい、そうした思いからこういう日程を選んである、そういう点も、是非ご理解いただきたいと思います。  
(問)ガイドラインの見直し問題についてお伺いします。今回の一連の会談で、中国側から強まっておりましたガイドライン見直しに関する懸念、これは払拭、あるいは和らげることができたかどうか。それから、李鵬首相はこの問題については最終報告がまとまった段階で判断したいということで、いわば判断留保という形になっていますけれども、今後この見直し作業をどのように進めていくのか、以上2点お願いします。  
(総理)今回の首脳会談、そして要人会談の中では、私から「指針」の見直し、そして台湾に関する問題について、我が国の立場を一所懸命ご説明をしてきました。そして、我が国の立場に対する中国側の理解というものは私は深めて頂けたと思います。しかしそれは、その理解をされた上で、これを了解されたというものではありません。なお、私は中国側には懸念が存在しているであろうことを、自分でも感じています。この指針の今後の策定に向けても、まず私たちが心がけるべきことは、それは透明性を確保して、どこから見てもきちんと特定の問題に向けてのものでないということを理解して頂けるよう、透明性を確保することの重要性に十分留意しながら作業を進めていく、同時にその作業の結果については、中国側にも説明を行いたい。またそういう意志を申し上げたところ、そういう説明を十分待って、判断をしたいと言われたことはあなたの言われたとおりです。そういうやりとりができるようになったこと自体が、私は今度の日中首脳会談の、一つの成果だったと思っていますし、懸念を完全に払拭していくためには、私は両国間の安全保障対話、そしてその中で直接の防衛担当者どうしの交流といったものを積み重ねていきながら、事実をもって、その懸念を払拭していく努力をこれからも続けていかなければならないと思っています。・・・後略・・・ 
1998年7月15日 - 橋本龍太郎首相

 

(橋本総理発 コック首相宛書簡要旨)  
我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。  
私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います。  
そのような気持ちを具体化するため、貴国の関係者と話し合った結果、貴国においては、貴国に設立された事業実施委員会が、いわゆる従軍慰安婦問題に関し、先の大戦において困難を経験された方々に医療・福祉分野の財・サービスを提供する事業に対し、「女性のためのアジア平和国民基金」が支援を行っていくこととなりました。  
日本国民の真摯な気持ちを表れである「女性のためのアジア平和国民基金」のこのような事業に対し、貴政府の御理解と御協力を頂ければ幸甚です。  
我が国政府は、1995年の内閣総理大臣談話によって、我が国が過去の一時期に、貴国を含む多くの国々の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことに対し、あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたしました。現内閣においてもこの立場に変更はなく、私自身、昨年6月に貴国を訪問した際に、このような気持ちを込めて旧蘭領東インド記念碑に献花を行いました。
 
そして貴国との相互理解を一層増進することにより、ともに未来に向けた関係を構築していくことを目的とした「平和友好交流計画」の下で、歴史研究支援事業と交流事業を二本柱とした取り組みを進めてきております。  
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。 
1998年10月8日 - 小渕恵三首相

 

(日韓共同宣言 / 21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ)  
1.金大中大韓民国大統領夫妻は、日本国国賓として1998年10月7日から10日まで 日本を公式訪問した。金大中大統領は、滞在中、小渕恵三日本国内閣総理大臣との間で会談を行った。両首脳は、過去の両国の関係を総括し、現在の友好協力関係を再確認するとともに、未来のあるべき両国関係について意見を交換した。  
この会談の結果、両首脳は、1965年の国交正常化以来築かれてきた両国間の緊密な友好協力関係をより高い次元に発展させ、21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップを構築するとの共通の決意を宣言した。  
2.両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。  
小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。  
金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。  
また、両首脳は、両国国民、特に若い世代が歴史への認識を深めることが重要であることについて見解を共有し、そのために多くの関心と努力が払われる必要がある旨強調した。  
3.両首脳は、過去の長い歴史を通じて交流と協力を維持してきた日韓両国が、1965年の国交正常化以来、各分野で緊密な友好協力関係を発展させてきており、このような協力関係が相互の発展に寄与したことにつき認識を共にした。小渕総理大臣は、韓国がその国民のたゆまざる努力により、飛躍的な発展と民主化を達成し、繁栄し成熟した民主主義国家に成長したことに敬意を表した。金大中大統領は、戦後の日本の平和憲法の下での専守防衛及び非核三原則を始めとする安全保障政策並びに世界経済及び開発途上国に対する経済支援等、国際社会の平和と繁栄に対し日本が果たしてきた役割を高く評価した。両首脳は、日韓両国が、自由・民主主義、市場経済という普遍的理念に立脚した協力関係を、両国国民間の広範な交流と相互理解に基づいて今後更に発展させていくとの決意を表明した。  
4.両首脳は、両国間の関係を、政治、安全保障、経済及び人的・文化交流の幅広い分野において均衡のとれたより高次元の協力関係に発展させていく必要があることにつき意見の一致をみた。また、両首脳は、両国のパートナーシップを、単に二国間の次元にとどまらず、アジア太平洋地域更には国際社会全体の平和と繁栄のために、また、個人の人権が尊重される豊かな生活と住み良い地球環境を目指す様々な試みにおいて、前進させていくことが極めて重要であることにつき意見の一致をみた。  
このため、両首脳は、20世紀の日韓関係を締めくくり、真の相互理解と協力に基づく21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップを共通の目標として構築し、発展させていくことにつき、以下のとおり意見の一致をみるとともに、このようなパートナーシップを具体的に実施していくためにこの共同宣言に附属する行動計画を作成した。  
両首脳は、両国政府が、今後、両国の外務大臣を総覧者として、定期的に、この日韓パートナーシップに基づく協力の進捗状況を確認し、必要に応じこれを更に強化していくこととした。  
5.両首脳は、現在の日韓関係をより高い次元に発展させていくために、両国間の協議と対話をより一層促進していくことにつき意見の一致をみた。  
両首脳は、かかる観点から、首脳間のこれまでの緊密な相互訪問・協議を維持・強化し、定期化していくとともに、外務大臣を始めとする各分野の閣僚級協議を更に強化していくこととした。また、両首脳は、両国の閣僚による懇談会をできる限り早期に開催し、政策実施の責任を持つ関係閣僚による自由な意見交換の場を設けることとした。更に、両首脳は、これまでの日韓双方の議員間の交流実績を評価し、日韓・韓日議連における今後の活動拡充の方針を歓迎するとともに、21世紀を担う次世代の若手議員間の交流を慫慂していくこととした。  
6.両首脳は、冷戦後の世界において、より平和で安全な国際社会秩序を構築するための国際的努力に対し、日韓両国が互いに協力しつつ積極的に参画していくことの重要性につき意見の一致をみた。両首脳は、21世紀の挑戦と課題により効果的に対処していくためには、国連の役割が強化されるべきであり、これは、安保理の機能強化、国連の事務局組織の効率化、安定的な財政基盤の確保、国連平和維持活動の強化、途上国の経済・社会開発への協力等を通じて実現できることにつき意見を共にした。  
かかる点を念頭に置いて、金大中大統領は、国連を始め国際社会における日本の貢献と役割を評価し、今後、日本のこのような貢献と役割が増大されていくことに対する期待を表明した。  
また、両首脳は、軍縮及び不拡散の重要性、とりわけ、いかなる種類の大量破壊兵器であれ、その拡散が国際社会の平和と安全に対する脅威であることを強調するとともに、この分野における両国間の協力を一層強化することとした。  
両首脳は、両国間の安保対話及び種々のレベルにおける防衛交流を歓迎し、これを一層強化していくこととした。また、両首脳は、両国それぞれが米国との安全保障体制を堅持するとともに、アジア太平洋地域の平和と安定のための多国間の対話努力を一層強化していくことの重要性につき意見の一致をみた。  
7.両首脳は、朝鮮半島の平和と安定のためには、北朝鮮が改革と開放を指向するとともに、対話を通じたより建設的な姿勢をとることが極めて重要であるとの認識を共有した。小渕総理大臣は、確固とした安保体制を敷きつつ和解・協力を積極的に進めるとの金大中大統領の対北朝鮮政策に対し支持を表明した。これに関連し、両首脳は、1992年2月に発効した南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書の履行及び四者会合の順調な進展が望ましいことにつき意見の一致をみた。また、両首脳は、1994年10月に米国と北朝鮮との間で署名された「合意された枠組み」及び朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を、北朝鮮の核計画の推進を阻むための最も現実的かつ効果的なメカニズムとして維持していくことの重要性を確認した。この関連で、両首脳は、北朝鮮による先般のミサイル発射に対して、国連安全保障理事会議長が安保理を代表して表明した懸念及び遺憾の意を共有するとともに、北朝鮮のミサイル開発が放置されれば、日本、韓国及び北東アジア地域全体の平和と安全に悪影響を及ぼすことにつき意見の一致をみた。  
両首脳は、両国が北朝鮮に関する政策を進めていく上で相互に緊密に連携していくことの重要性を再確認し、種々のレベルにおける政策協議を強化することで意見の一致をみた。  
8.両首脳は、自由で開かれた国際経済体制を維持・発展させ、また構造問題に直面するアジア経済の再生を実現していく上で、日韓両国が、各々抱える経済上の課題を克服しながら、経済分野における均衡のとれた相互協力関係をより一層強化していくことの重要性につき合意した。このため、両首脳は、二国間での経済政策協議をより強化するととともに、WTO、OECD、APEC等多国間の場での両国の政策協調を一層進めていくことにつき意見の一致をみた。  
金大中大統領は、日本によるこれまでの金融、投資、技術移転等の多岐にわたる対韓国経済支援を評価するとともに、韓国の抱える経済的諸問題の解決に向けた努力を説明した。小渕総理大臣は、日本経済再生のための諸施策及びアジア経済の困難の克服のために日本が行っている経済支援につき説明を行うとともに、韓国による経済困難の克服に向けた努力を引き続き支持するとの意向を表明した。両首脳は、財政投融資を適切に活用した韓国に対する日本輸出入銀行による融資について基本的合意に達したことを歓迎した。  
両首脳は、両国間の大きな懸案であった日韓漁業協定交渉が基本合意に達したことを心から歓迎するとともに、国連海洋法条約を基礎とした新たな漁業秩序の下で、漁業分野における両国の関係が円滑に進展することへの期待を表明した。  
また、両首脳は、今般、新たな日韓租税条約が署名の運びとなったことを歓迎した。更に、両首脳は、貿易・投資、産業技術、科学技術、情報通信、政労使交流等の各分野での協力・交流を更に発展させていくことで意見の一致をみるとともに、日韓社会保障協定を視野に入れて、将来の適当な時期に、相互の社会保障制度についての情報・意見交換を行うこととした。  
9.両首脳は、国際社会の安全と福祉に対する新たな脅威となりつつある国境を越える地球的規模の諸問題の解決に向けて、両国政府が緊密に協力していくことにつき意見の一致をみた。両首脳は、地球環境問題に関し、とりわけ温室効果ガス排出抑制、酸性雨対策を始めとする諸問題への対応における協力を強化するために、日韓環境政策対話を進めることとした。また、開発途上国への支援を強化するため、援助分野における両国間の協調を更に発展させていくことにつき意見の一致をみた。また、両首脳は、日韓逃亡犯罪人引渡条約の締結のための話し合いを開始するとともに、麻薬・覚せい剤対策を始めとする国際組織犯罪対策の分野での協力を一層強化することにつき意見の一致をみた。  
10.両首脳は、以上の諸分野における両国間の協力を効果的に進めていく上での基礎は、政府間交流にとどまらない両国国民の深い相互理解と多様な交流にあるとの認識の下で、両国間の文化・人的交流を拡充していくことにつき意見の一致をみた。  
両首脳は、2002年サッカー・ワールドカップの成功に向けた両国国民の協力を支援し、2002年サッカー・ワールドカップの開催を契機として、文化及びスポーツ交流を一層活発に進めていくこととした。  
両首脳は、研究者、教員、ジャーナリスト、市民サークル等の多様な国民各層間及び地域間の交流の進展を促進することとした。  
両首脳は、こうした交流・相互理解促進の土台を形作る措置として、従来より進めてきた査証制度の簡素化を引き続き進めることとした。  
また、両首脳は、日韓間の交流の拡大と相互理解の増進に資するために、中高生の交流事業の新設を始め政府間の留学生や青少年の交流プログラムの充実を図るとともに、両国の青少年を対象としてワーキング・ホリデー制度を1999年4月から導入することにつき合意した。また、両首脳は、在日韓国人が、日韓両国国民の相互交流・相互理解のための架け橋としての役割を担い得るとの認識に立ち、その地位の向上のため、引き続き両国間の協議を継続していくことで意見の一致をみた。  
両首脳は、日韓フォーラムや歴史共同研究の促進に関する日韓共同委員会等、関係者による日韓間の知的交流の意義を高く評価するとともに、こうした努力を引き続き支持していくことにつき意見の一致をみた。  
金大中大統領は、韓国において日本文化を開放していくとの方針を伝達し、小渕総理大臣より、かかる方針を日韓両国の真の相互理解につながるものとして歓迎した。  
11.小渕総理大臣と金大中大統領は、21世紀に向けた新たな日韓パートナーシ ップは、両国国民の幅広い参加と不断の努力により、更に高次元のものに発展させることができるとの共通の信念を表明するとともに、両国国民に対し、この共同宣言の精神を分かち合い、新たな日韓パートナーシップの構築・発展に向けた共同の作業に参加するよう呼びかけた。  
日本国内閣総理大臣 小渕恵三  
大韓民国大統領   金大中   (1998年10月8日、東京) 
1998年11月26日 - 小渕恵三首相

 

(平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言)  
日本国政府の招待に応じ、江沢民中華人民共和国主席は、1998年11月25日から30日まで国賓として日本国を公式訪問した。この歴史的意義を有する中国国家主席の初めての日本訪問に際し、江沢民主席は、天皇陛下と会見するとともに、小渕恵三内閣総理大臣と国際情勢、地域問題及び日中関係全般について突っ込んだ意見交換を行い、広範な共通認識に達し、この訪問の成功を踏まえ、次のとおり共同で宣言した。  
一  
双方は、冷戦終了後、世界が新たな国際秩序形成に向けて大きな変化を遂げつつある中で、経済の一層のグローバル化に伴い、相互依存関係は深化し、また安全保障に関する対話と協力も絶えず進展しているとの認識で一致した。平和と発展は依然として人類社会が直面する主要な課題である。公正で合理的な国際政治・経済の新たな秩序を構築し、21世紀における一層揺るぎのない平和な国際環境を追求することは、国際社会共通の願いである。  
双方は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵、平和共存の諸原則並びに国際連合憲章の原則が、国家間の関係を処理する基本準則であることを確認した。  
双方は、国際連合が世界の平和を守り、世界の経済及び社会の発展を促していく上で払っている努力を積極的に評価し、国際連合が国際新秩序を構築し維持する上で重要な役割を果たすべきであると考える。双方は、国際連合が、その活動及び政策決定プロセスにおいて全加盟国の共通の願望と全体の意思をよりよく体現するために、安全保障理事会を含めた改革を行うことに賛成する。  
双方は、核兵器の究極的廃絶を主張し、いかなる形の核兵器の拡散にも反対する。また、アジア地域及び世界の平和と安定に資するよう、関係国に一切の核実験と核軍備競争の停止を強く呼びかける。  
双方は、日中両国がアジア地域及び世界に影響力を有する国家として、平和を守り、発展を促していく上で重要な責任を負っていると考える。双方は、日中両国が国際政治・経済、地球規模の問題等の分野における協調と協力を強化し、世界の平和と発展ひいては人類の進歩という事業のために積極的な貢献を行っていく。  
二  
双方は、冷戦後、アジア地域の情勢は引き続き安定の方向に向かっており、域内の協力も一層深まっていると考える。そして、双方は、この地域が国際政治・経済及び安全保障に対して及ぼす影響力は更に拡大し、来世紀においても引き続き重要な役割を果たすであろうと確信する。  
双方は、この地域の平和を維持し、発展を促進することが、両国の揺るぎない基本方針であること、また、アジア地域における覇権はこれを求めることなく、武力又は武力による威嚇に訴えず、すべての紛争は平和的手段により解決すべきであることを改めて表明した。  
双方は、現在の東アジア金融危機及びそれがアジア経済にもたらした困難に対して大きな関心を表明した。同時に、双方は、この地域の経済の基礎は強固なものであると認識しており、経験を踏まえた合理的な調整と改革の推進並びに域内及び国際的な協調と協力の強化を通じて、アジア経済は必ずや困難を克服し、引き続き発展できるものと確信する。双方は、積極的な姿勢で直面する各種の挑戦に立ち向かい、この地域の経済発展を促すためそれぞれできる限りの努力を行うことで一致した。  
双方は、アジア太平洋地域の主要国間の安定的な関係は、この地域の平和と安定に極めて重要であると考える。双方は、ASEAN地域フォーラム等のこの地域におけるあらゆる多国間の活動に積極的に参画し、かつ協調と協力を進め、理解の増進と信頼の強化に努めるすべての措置を支持することで意見の一致をみた。  
三  
双方は、日中国交正常化以来の両国関係を回顧し、政治、経済、文化、人の往来等の各分野で目を見張るほどの発展を遂げたことに満足の意を表明した。また、双方は、目下の情勢において、両国間の協力の重要性は一層増していること、及び両国間の友好協力を更に強固にし発展させることは、両国国民の根本的な利益に合致するのみならず、アジア太平洋地域ひいては世界の平和と発展にとって積極的に貢献するものであることにつき認識の一致をみた。双方は、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであることを確認するとともに、平和と発展のための両国の役割と責任を深く認識し、21世紀に向け、平和と発展のための友好協力パートナーシップの確立を宣言した。  
双方は、1972年9月29日に発表された日中共同声明及び1978年8月12日に署名された日中平和友好条約の諸原則を遵守することを改めて表明し、上記の文書は今後とも両国関係の最も重要な基礎であることを確認した。  
双方は、日中両国は二千年余りにわたる友好交流の歴史と共通の文化的背景を有しており、このような友好の伝統を受け継ぎ、更なる互恵協力を発展させることが両国国民の共通の願いであるとの認識で一致した。  
双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる。  
双方は、両国間の人的往来を強化することが、相互理解の増進及び相互信頼の強化に極めて重要であるとの認識で一致した。  
双方は、毎年いずれか一方の国の指導者が相手国を訪問すること、東京と北京に両政府間のホットラインを設置すること、また、両国の各層、特に両国の未来の発展という重責を担う青少年の間における交流を、更に強化していくことを確認した。  
双方は、平等互恵の基礎の上に立って、長期安定的な経済貿易協力関係を打ち立て、ハイテク、情報、環境保護、農業、インフラ等の分野での協力を更に拡大することで意見の一致をみた。日本側は、安定し開放され発展する中国はアジア太平洋地域及び世界の平和と発展に対し重要な意義を有しており、引き続き中国の経済開発に対し協力と支援を行っていくとの方針を改めて表明した。中国側は、日本がこれまで中国に対して行ってきた経済協力に感謝の意を表明した。日本側は、中国がWTOへの早期加盟実現に向けて払っている努力を引き続き支持していくことを重ねて表明した。  
双方は、両国の安全保障対話が相互理解の増進に有益な役割を果たしていることを積極的に評価し、この対話メカニズムを更に強化することにつき意見の一致をみた。  
日本側は、日本が日中共同声明の中で表明した台湾問題に関する立場を引き続き遵守し、改めて中国は一つであるとの認識を表明する。日本は、引き続き台湾と民間及び地域的な往来を維持する。  
双方は、日中共同声明及び日中平和友好条約の諸原則に基づき、また、小異を残し大同に就くとの精神に則り、共通の利益を最大限に拡大し、相違点を縮小するとともに、友好的な協議を通じて、両国間に存在する、そして今後出現するかもしれない問題、意見の相違、争いを適切に処理し、もって両国の友好関係の発展が妨げられ、阻害されることを回避していくことで意見の一致をみた。  
双方は、両国が平和と発展のための友好協力パートナーシップを確立することにより、両国関係は新たな発展の段階に入ると考える。そのためには、両政府のみならず、両国国民の広範な参加とたゆまぬ努力が必要である。双方は、両国国民が、共に手を携えて、この宣言に示された精神を余すところなく発揮していけば、両国国民の世々代々にわたる友好に資するのみならず、アジア太平洋地域及び世界の平和と発展に対しても必ずや重要な貢献を行うであろうと固く信じる。 
1999年 
 
謝罪の歴史8 2000〜2004

 

2000年8月17日 - 山崎隆一郎外務報道官  
「本記事では、日本が第二次大戦中の行為について、中国に対して一度も謝罪をしていないと書かれているが、実際には日本は戦争中の行為について繰り返し謝罪を表明してきている。とりわけ、1995年8月に、村山総理(当時)が公式談話を発表し、日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ、「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」を表明し、また、1998年に、小渕総理(当時)が、日本を公式訪問した江沢民主席に対して、村山談話を再確認している。」
2000年8月30日 - 河野洋平外務大臣

 

(真の友好協力パートナーシップを求めて / 於:中国共産党中央党校[北京])  
1.前言  
本日、中国共産党幹部の最高研修機関として著名な当中央党校において、日本と中国の関係について私の所感の一端をお話する機会を与えられたことは、大変名誉なことであります。このような機会を設けて下さった胡錦濤校長、鄭必堅常務副校長を始め、関係者の方々に厚く御礼申し上げます。  
私は、当中央党校が中国国内でも最も率直かつ自由に議論が行われる場の一つであると伺っています。そこで、私は耳障りの良い話だけをするのではなく、日本の政治家としての意見を率直に申し上げたいと考えています。そして、これは日本と中国との関係を大切にしたいとの私の気持ちから出ていることを、是非ご理解頂きたいと思います。  
2.日中両国の現状と課題  
日中両国は、1972年、当時の両国指導者の英断により、国交正常化を果たしました。私も当時、30歳代の若手議員として、正常化推進の立場から、日本国内の激しい議論の応酬の渦中にいたことを思い出します。  
以来28年、日中両国は、体制の違いと過去の歴史が残した様々な問題を克服しながら、安定した友好協力関係を構築するために、たゆまぬ努力をしてまいりました。私はかねがね、地域の大国である中国の発展は地域の平和と安定の基礎であり、中国の発展に協力することは日本の国益にもかなうものであると考えてまいりました。現在、日中両国の関係は、貿易、投資、人の往来等、いずれの指標をとっても、全体の傾向としては年を経るごとに拡大しており、お互いの相互依存性はますます増してきております。  
そして、98年に江沢民主席が訪日された際に合意された「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」と33項目の協力プロジェクトは、昨年7月の小渕前総理の訪中を経て加速され、その後の日中共同作業を通じ着実に進展しつつあります。このように日中関係は、大きな流れとして、正しい方向に向かって発展していると言っていいでしょう。  
しかし、率直に申し上げて、日中間の信頼感を更に高めるためには、まだまだ私たちが多くのことを成し遂げなければならないことも、また事実です。  
日中関係において、時折頭をもたげる諸問題の背景には、私たちが国民レベルにおいて、お互いに相手のことをまだまだ良く知らないという現実があると思います。  
例えば、本年度の我が国の「防衛白書」における中国関連の記述振りを巡って、中国の多くの報道が、日本の「軍拡」や、ひいては「軍国主義復活」への懸念を表明されたと聞いています。また、我が国が新たなミサイルの脅威に対処するため米国と協力して進めている弾道ミサイル防衛(BMD)に関する共同技術研究に関しても、将来、開発・配備するか否かについては如何なる決定もなされていないのですが、既に中国においては、地域の安定に悪影響をもたらすものとして批判があることも承知しています。更に、過去の歴史の問題を巡る日本国内の極く一部の人々の言動により、中国の人々の間にしばしば対日不信の感情が呼び起こされています。  
しかし、よく「百聞は一見に如かず」と言われるように、実際に日本に来られた方、住んだことがある方にはお分かりだと思いますが、日本人自身も軍国主義による被害を受けた当の本人であり、日本において軍国主義の復活を許そうなどという人は、まず、おりません。私は、このことを自信を持って断言できます。専守防衛を防衛政策の基本とする日本が中国と軍拡競争をするなどといったことは、友好関係にもある日中間では、あり得ないことと思います。  
私は、歴史認識については、戦後50周年に閣議決定を経て発出された村山総理談話で我が国の考え方ははっきりしていると考えています。私も閣僚の一人として、この談話の作成に携わりましたが、これはその後の歴代内閣にも引き継がれ、今や多くの日本人の常識であり、共通の認識であると言えます。  
一方で、昨年、中国建国50周年の記念式典パレードによって国内外に示された中国が保有するミサイルの現状及び年々増加する軍事費にも、日本国民は強い疑問を持っています。いわゆる「中国脅威論」といった見方を取る人は、こうした点に着目しているのです。また、毎年総額300億元を超える我が国からの対中経済援助が中国の国民に良く知られておらず、正当な評価もされていないとの報道があり、日本国民の間に当惑が広まっております。  
このように、日本国内においては、中国の人たちにもっと日本の国の実状について分かってもらいたいという強い気持ちがありますが、他方において、皆さん中国の側においても、「日本人には、中国についてこんなことも分かってもらえないのか。もっと中国を理解してほしい。」との気持ちがあろうかと思います。  
私たちがお互いに理解し合い、共に協力する必要があるわけですが、そのためにも、特定の立場や考えにとらわれない国民各界各層の間の交流を一層活発にしていくことが大切だと思います。活発な交流なくして相互理解は進みようもなく、相互理解がないところに相互信頼は成り立ちません。今年5月、江沢民主席が日中関係に関する重要講話の中で言われた通り、日中友好は最終的には両国国民の友好であり、両国国民の利益であります。この意味で、私は、最近、中国の方々に日本への団体観光旅行の道が開かれたことは前進であり、日中の相互理解の促進にとっては重要な一歩であると考えます。今後、この事業が順調に拡大できるよう努力を続けたいと思います。  
一昨年、江沢民主席が訪日された際、両国間で未来を担う若い世代の相互交流につき合意しましたが、こうした考え方に沿って、本年5月、日本から5000人に上る文化・観光交流使節団が訪中し、江沢民主席を始め中国の方々に温かく迎えられました。また、同じ5月に、中国の高校生約100名が訪日され、私自身、その代表の方々と直接お会いする機会がありました。中国の若い世代の方々の日本への関心には目を見張るものがありました。インターネットの発達もあり、こうした若い世代の間での知識の伝播のスピードは決して軽視できません。双方の若者達を含む多くの人が更に交流を深め、お互いに相手の国をしっかりと見つめていくことが大事であると思います。  
1972年、日中国交正常化の偉業を成し遂げた周恩来総理は「中国と日本の民族はいずれも偉大な民族であり、中日両国人民は、子々孫々友好的にしていかなければならない」と述べられました。それに応えて田中角栄総理は、「我々は、偉大な中国とその国民との間に良き隣人としての関係を樹立し、両国がアジアひいては世界の平和と繁栄に寄与することを念願する」と語りました。私たちの先輩が決断した日中国交正常化は、しっかりとした大局観及び相手国とその国民に対する尊敬を基礎に実現したものです。日中共同声明は、その原点です。  
台湾問題についても、これまで日本政府は日中共同声明に基づいて、台湾との間では非政府間の実務的な関係を維持してきており、きちんとした対応を行っていると断言できます。台湾を巡る問題は、中国の皆さんもおっしゃる通り、当事者同士が話し合いを通じて平和的に解決を目指して頂くべき問題であります。台湾海峡の平和と安定は、我が国の国益にとっても死活的に重要であり、日本政府も国民も、一貫して、台湾問題の平和的解決を強く願っています。そのためにも、現在中断されている両岸の間の対話が一刻も早く再開されることを強く希望しております。  
江沢民主席は5月の重要講話の中で、「両国国民の間の善隣友好は主流である」と述べられました。今こそ、我々も、この精神に立ち戻るべきであり、大きな流れを決して見失ってはなりません。日中友好の大きな幹さえしっかりしていれば、枝葉の問題で木全体が揺らぐことはないと、私は確信しています。  
3.21世紀に向けた真の友好協力パートナーシップの構築  
日中両国は、毎年、首脳の訪問を行うことを約束しております。この首脳の相互訪問は、日中関係の重要性を再確認しながら、日中関係を着実に前進させるための、大切な機会を提供しております。江沢民主席の訪日と小渕前総理の訪中を経て、21世紀の日中協力の大きな方向は定まりました。そして、本年10月には、いよいよ朱鎔基総理の訪日が予定されております。私は、来るべき朱鎔基総理の訪日を、21世紀に向けて日中関係を大きく飛躍させる重要な契機にしたいと考えております。  
私は、朱鎔基総理の訪日をも念頭において、日中関係をより深く幅広いものとするために、次の提案をしたいと思います。  
第一に、先に述べた、日中間において今なお度々顔を出す問題に正面から向き合う必要があります。そのためには、お互いの国情の基礎的な部分に対する理解を深めた上で、その違いを認め、尊重し合うことが大切です。この心構えこそ、周恩来総理がよく言われた「小異を残して大同につく」ということにほかなりません。更なる信頼関係の構築へ向け大きく踏み出すために、既に述べた活発な交流ということに加え、以下の努力をしたいと考えます。  
(1) まず、日中間の信頼関係の障害となる個々の具体的な問題を、小さな芽の間に摘み取っていくシステムを早急に確立する必要があります。この関連で、日本では、最近、中国の海洋調査船や海軍艦艇が我が国近海での活動を一方的に活発化させていることが多くのマスコミによって報道され、広範な国民の懸念を呼び起こし、強い反発を引き起こしています。中国海軍の艦艇が、我が国の領海近くを航行し、我が国を一周したり、更には本州と北海道の間にある津軽海峡を通過し情報収集するという状況は、日本国内の注目を集めました。この問題は、日中関係全体に悪影響を及ぼしかねないものとして懸念し、今回、私と唐家?外交部長との間で、海洋調査船の相互通報の枠組みを作ることで一致しました。このことは、意味のある一歩を踏み出したものではないかと考えています。また、既に準備が始まっている日中首脳の間のホットライン開設のための作業も、このような考え方に沿ったものと言えましょう。  
このような早期処理の成否は、前線で仕事をする両国外交当局の努力に負う部分が大きいことは事実です。しかし、それに加え、政府全体、更には国全体が、重層的かつ多様なチャネルを生かし努力をしていく必要があります。こうした官民挙げての取り組みを推進していくためにも、日中両国のシンクタンクの間で、政府関係者の参加も得て、効果的な早期処理システムの構築に向け、早急に検討を開始することを提案します。  
(2) 二国間の問題として、もう一つ指摘しておかなければならないのは、経済協力の問題です。我が国はこれまで20年にわたり、中国の改革開放政策を政府開発援助(ODA)等を通じて支援してまいりました。今後とも、このような我が国の基本的姿勢に変わりはありません。我々は、中国の発展は、アジア太平洋地域、ひいては世界の平和と繁栄にとって不可欠と考えています。しかし、先にも述べました通り、日本の中国に対する経済協力のあり方につき、特に日本国内で様々な議論が行われています。今後の対中経済協力の実施に当たっては、これまで以上に日中両国民の十分な理解と支持を得ることが必要となっているのです。そうした観点から、我が国では、本年7月に各界有識者による懇談会を設置し、今後の対中経済協力のあり方につき、本年末を目途に提言を取りまとめてもらう予定です。そして、その提言等を踏まえ、中国に対する援助計画を年度末までに策定する予定であり、その過程においては、貴国の関係者の方々とも意見交換を行いたいと考えています。  
第二の提案は、アジア太平洋、ひいては世界的視野の中で日中関係をとらえることについてであります。21世紀を目前にして、これからは多国間関係の領域でも、日中協力を一層重視していくべきです。私はこの機会に、この面で以下の三つのことを提唱したいと思います。  
(1) まず、北東アジアの平和と安定のために、北東アジアにおける関係国の間の対話の枠組み作りを提唱します。朝鮮半島を中心に、この地域に平和と発展を求める機運が高まっている今日、これまで必ずしも十分進展してきたとは言えない北東アジア地域における対話の枠組みを強化できる可能性が出てまいりました。対話の枠組み作りに当たっては、柔軟かつ現実的なアプローチが適切であると考えます。例えば、我が国がかねてより主張してきた日米中露に韓国、北朝鮮を加えた6者会合も一つのアイデアと思います。日米中、日中韓といった対話の強化も、この流れの中で位置付けることができます。これらの対話は、アセアン地域フォーラム(ARF)の活動の強化を図りつつ、北東アジアの信頼醸成に役立つよう、関係国の意向も十分踏まえながら進めていく必要があります。対話の中身も、柔軟にこれをとらえ、環境や経済、そして人材交流といった比較的取り組みやすい分野から始め、将来的には政治分野も含む包括的な対話に発展させていくことも視野に置けば良いと考えます。  
(2) 次に、日中両国が協力してアジアにおける持続的な経済発展に向けて積極的に貢献することを提唱します。この点に関しては、アジア地域の環境改善のための協力が殊の外重要です。日中両国間では、現在、大連、重慶、貴陽の三都市において「日中環境開発モデル都市構想」を推進し酸性雨対策等の大気汚染防止に努めているほか、中国国内の100の都市を結ぶ「環境情報ネットワーク」の具体化に向け準備を着実に進めているところです。こうした環境面での協力は、日中両国間のみの協力に止まらず、韓国の参加も得て、日中韓三ヶ国の環境大臣による会合が既に2回開かれ、三ヶ国の協力のあり方につき有意義な意見交換が行われています。  
更に地域的な広がりを持つものとして、ユーラシア・ランド・ブリッジ構想と言われるものがあります。東アジアから中央アジアに至る交通・物流の整備を目指すこの壮大な構想に対し、日中両国が将来に向けて協力し、東アジアから中央アジア全域の開発に貢献することも大いに意義のあることです。エネルギー、インフラ、情報通信、観光等、両国が協力できる分野は数多いと思われます。  
これに加え、メコン河流域開発も既に緒についており、日中両国がアジア開発銀行を中心とする多国間の枠組みの中で協力し、経済発展を促進していくことができるでしょう。  
二つの国が関係を深めるためには、一つの目標に向かって一緒に協力していくことが大変効果的であると考えます。これは、人と人との関係と同じです。かつて村山内閣当時、我が国と韓国の関係が若干ぎくしゃくした時期がありましたが、その時私は副総理兼外相として、韓国の外相に対し、「とにかく何か一緒にやろう。両国が招致に名乗りを上げているサッカーのワールドカップを共同開催したらどうか」と提案しました。  
昨今、金大中大統領ら日韓首脳を始めとする関係者の努力により、日韓関係は劇的とも言える改善を見ています。ワールドカップの共同開催が決まったことも一つの契機に、国民レベルでの友好関係が一層強化され、このことが現在の両国関係全体の発展につながっているとも言えるのではないでしょうか。  
(3) 最後に、地域を超えてグローバルな課題に対する日中協力を提唱します。  
現在、経済のグローバル化が世界経済を一体化させ、その結果、市場メカニズムに基づく世界経済の枠組みを維持し発展させることが、全ての国の利益となりました。この関連で、中国は近いうちにWTOに加盟されることになりましょうが、我が国が中国のWTO加盟を強く支持してきたのも、中国のWTO加盟が、そうした世界経済のグローバル化を進展させていく上で、必要不可欠であると考えたからです。日本政府は、中国のWTO加盟につき、世界の主要国に先駆けて二国間交渉を妥結し、現在、中国の国内法制度の整備等につき具体的な技術支援を行うことを検討しています。  
また、気候変動を含む地球環境の問題について、急速な近代化を遂げつつある中国は重要な役割を担っています。立場の差はありますが、これを乗り越え、日中両国が共に積極的な貢献をしていきたいと考えます。  
このほか、中国との間では、とりわけ最先端技術分野での協力、例えば情報通信技術(IT)分野での知的交流等を通じて、世界に向けアジアの活力を発信したいものです。今回、唐家?外交部長からも、この分野における日中間協力が、日中両国のみならず、世界経済の発展にとっても有益である旨の御指摘がありましたが、私も全く同感です。  
更に、軍備管理・軍縮・不拡散は世界の平和にとり、決してゆるがせにできない問題であり、この分野における日中間の対話と協力を強化したいと考えます。今春の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議で、全面的核廃絶に向けた明確な約束を含む現実的な核軍縮措置につき全会一致で合意されたことは極めて重要です。これを現実のものとしていくために、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効が必要です。そのためには、CTBTに一早く署名された中国が同条約を早期批准されることによって、世界全体の流れを引っ張っていくことが求められていると考えます。更には米露が戦略兵器削減交渉(START)の中で、更なる核兵器の削減を行うと共に、中国を含む他の核兵器国が、一方的あるいは交渉を通じて核兵器削減の努力を行うことが是非必要です。国家ミサイル防衛(NMD)を巡っては、「核・ミサイル開発を新たに進めている国がある」との声がある一方で、「NMD配備を見過ごせば、核戦略で決定的に不利になる」といった意見もあり対立が見られますが、お互いが勝手に戦力強化を進めるのではなく、良く話し合って解決の道を探ることが何よりも重要である点を、強調しておきたいと思います。  
更に、グローバルな課題の受け皿として重要なものは、国連であります。「国連を敗者にしてはならない」という思いは、日中両国に共通していると思います。国連改革、とりわけ安全保障理事会の改革は、この文脈において喫緊の課題です。また、改革実現のために途上国の意見を反映させることが、日中双方の主張にも沿っており重要と考えています。国連には「正統性」と「実効性」が備わっていなくてはなりません。我が国の常任理事国入りは、それ自体が目的ということではなく、あくまでも国連安保理の強化という観点から議論されるべきものと思っております。そこに誤解がないことを期待致します。  
また、世界を見渡せば、民族紛争や地域紛争が今だに頻発しており、この面での対立が如何に根深いものであるかを、まざまざと見せつけております。21世紀においては、文化的、言語的、社会的、宗教的背景の異なる各国、各文明間の対話を繊細さと寛容の精神で進めていかねばなりません。我が国は、紛争を未然に防ぐことの重要性を認識し、特に「予防の文化」を育んでいく必要性を提唱しています。こうした面でも日中両国間の協力に向けた潜在力は大きなものがあると言えるでしょう。  
4.結語  
私は、1967年に政治家になりました。私も、政治の道を志して以来、日本にとって重要な隣国である中国と、安定的で良好な関係を作り上げることが自分の政治家としての使命と心得、努力してまいりました。  
20世紀も最後の数ヶ月となり、時代が変わり、社会が変わり、人も替わり、両国を取り巻く環境も大きく変わる中で、私たちは、今一度原点に立ち戻って、日中関係を真剣に考える転換点に立っていると思います。  
「時には喧嘩をすることで真の友となる」。これからの時代は、率直にお互いの本音をぶつけ合い、時には激しいやりとりを行ってでも、必死になって相手を理解し、説得する気構えを持たなければならないと感じております。私の叔父、河野謙三は、時には中国の指導者と激しいやりとりをすることもありましたが、そのことでかえって多くの友人を作り、沢山の方々と固い友情を築きました。  
本日の私の講演が、これまでの両国指導者の講演のトーンと若干異なるものがあったとすれば、それは、私の以上のような日中関係についての思いつめた認識と日中友好に対する強い信念に基づくものであることを、ご理解頂きたいと思います。ご清聴有難うございました。 
2001年4月3日 - 福田康夫内閣官房長官

 

(平成14年度より使用される中学校の歴史教科書について)  
1. 平成14年度より使用される中学校の歴史教科書について、今般、文部科学大臣は、申請のあった計8冊について検定決定を行った。  
2. 我が国の教科書検定制度は、民間の著作・編集者の創意工夫を活かした多様な教科書が発行されるとの基本理念に立つものであり、国が特定の歴史認識や歴史観を確定するという性格のものではなく、検定決定したことをもって、その教科書の歴史認識や歴史観が政府の考え方と一致するものと解されるべきものではない。教科書検定制度は、あくまでも当該図書が検定基準に照らして教科用図書として適切なものであるか否かとの観点から、検定の時点における客観的な学問的成果や適切な資料等に照らして、明らかな誤りやバランスの欠如などの欠陥を指摘し修正を求めることを基本としている。  
3. 今般の教科書検定にあたっては、その過程で近隣諸国から種々の懸念が表明されたが、検定は、学習指導要領、並びにいわゆる「近隣諸国条項」を含む検定基準に基づき、厳正に行われてきた。  
因みに、我が国政府の歴史に関する基本認識については、戦後50周年の平成7年8月15日に発出された内閣総理大臣談話にあるとおり、我が国は、遠くない過去の一時期、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止め、そのことについて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するというものである。こうした認識は、その後の歴代内閣においても引き継がれてきており、現内閣においても、この点に何ら変わりはない。  
我が国としては、今後とも、近隣諸国との相互理解、相互信頼の促進に努め、アジアひいては世界の平和と発展のために貢献していく考えである。
 
2001年9月8日 - 田中眞紀子外務大臣

 

(サン・フランシスコ平和条約署名50周年記念式典における田中外務大臣演説 / 於:サン・フランシスコ、オペラハウス)  
シュルツ長官、パウエル国務長官、宮澤総理、ブラウン市長、その他ご列席の皆様、  
50年前のこの日に、このオペラハウスでサン・フランシスコ平和条約が署名されました。太平洋が真に平和の海となるようにとの願いを込めてサン・フランシスコが選ばれたと言われています。私は、つい先程ハーツバーグ・カリフォルニア州下院議長から、9月8日を平和条約記念日と名付けるカリフォルニア州議会決議の写しを頂いたことを嬉しく思います。本日、心を開いて友好的に私どもを歓迎してくださるカリフォルニア、特にサン・フランシスコの方々に心より感謝いたします。また、シュルツ名誉会長及び「日米21世紀プロジェクト」関係者の皆様に、改めて敬意を表するとともに、御礼を申し上げます。  
サン・フランシスコ平和条約により、日本は完全な主権と平等と自由を回復しました。また、この条約により、日本は戦後の国際社会に復帰することができました。日本側全権代表であった吉田総理は演説の中で、この条約は、「和解と信頼の文書である」と述べましたが、まさにその通りとなりました。この平和条約への署名と同じ日にプレシディオで日米安全保障条約が署名されました。こうして日米両国はかけがえのないパートナーとなったのです。歴史はこれらの決断が正しかったことを証明しています。また、沖縄の返還が1972年に実現したことを強調したいと思います。  
サン・フランシスコ平和条約は、日本の戦後の発展の礎となったのみならず、国際社会の平和と繁栄の基盤となりました。この条約により、日米両国を始めとする締約国の間で戦後処理に係るすべての問題は解決され、日本及び連合国は、過去に区切りを付け、将来に向けて新たな一歩を踏み出すことができたのです。日本は、この条約上の義務を誠実に履行してきました。  
日本は、先の大戦において多くの国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えたことを決して忘れてはおりません。多くの人々が貴重な命を失ったり、傷を負われました。また、元戦争捕虜を含む多くの人々の間に癒しがたい傷跡を残しています。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、1995年の村山内閣総理大臣談話の痛切な反省の意及び心からのお詫びの気持ちをここに再確認いたします。  
ご列席の皆様、終戦直後、日本は食糧不足と経済的困難に直面しました。日本国民が苦しんでいるとき、寛大な支援を差し伸べてくれたのは米国でした。 多くの日本の若者達が、ガリオア・プログラム、フルブライト交流計画等の下で米国で勉強し、彼らが学んだことは、その後の日本の経済発展に貢献しました。また、米国は日本の多角的自由貿易体制への仲間入りを支持してくれました。日本国民はこのような米国の寛大な支援と支持を決して忘れません。  
本日、東京で、日本の戦後の復興のために米国が果たした役割に感謝の意を表することを目的として、民間イニシアチブによるA50式典が開催されました。A50の代表の方が、この式典にも出席されています。  
ご列席の皆様、50年という月日は、日米関係の歴史の三分の一にあたります。過去50年の間、国際社会は劇的な変革を経験し、数々の課題に直面してきました。日米両国も時には、貿易分野などにおける摩擦を経験しました。日米両国はこれらを乗り越えて、「比類のない、最も重要な二国間関係」を構築し、発展させてきました。これが可能であったのは、日米両国が自由、民主主義、市場経済という価値を共有しているからです。私どもはまた、友情と相互信頼という絆により結ばれています。世界の歴史において、かつて戦火を交えた二つの国が、これほど迅速に、これほど強固なパートナーシップを築いた例が他にあったでしょうか。将来、時に両国間で問題が生じることもあるかと思います。しかし、私は、日米両国が協力の精神に基づいて緊密な対話を通じ、これらの挑戦を乗り越えていくことができると確信しています。  
ご列席の皆様、新たな千年紀に入り、私どもは日米関係の新たなページをめくりつつあります。  
今日、アジア太平洋地域には依然として不確実性、不安定性が存在しています。国際社会は多くのグローバルな課題に直面しています。世界第一、第二の経済力を有する日米両国は、こうした課題に取り組んでいく責務があることを十分認識しています。  
世界は、米国が経済、地球環境や、安全保障及び軍備管理といった問題への取組みにおいて、引き続き主導的役割を果たすことを期待しています。また、世界経済の発展のため、世界は日本が自らの経済を再活性化させることを期待しています。小泉内閣は、このために構造改革を断行する決意です。また、日本は国際社会においてより積極的な役割を果たす用意があります。  
私たちは政治・安全保障における同盟国であり、また、緊密な経済的パートナーです。 私はさらに文化の面においても相互交流を深めていかなければならないと考えます。 これほど異なる歴史、文化を有する日米両国は、夫々の社会について学び続けなければなりません。 お互いの社会を構成する人々のあり方を理解して、はじめてお互いの社会を理解することができるのです。  このような考えに基づいて、私は来年から米国の高校生25名を一年間、日本に招待する計画をはじめます。 この計画が日米の相互理解を促進させ、日米関係を発展させるための小さな一歩となることを願っております。 そしてこの計画をJapan-US Mutual-understanding Programと名付け、この頭文字をとってJUMPと呼びたいと思います。  
ご列席の皆様、今日の日米両国間の友情、協力及び信頼は、全て半世紀前、この場から始まりました。 私たちの先達が、これまでの50年間行ってきたように、これからの50年間の平和と繁栄を進めることを誓い合おうではありませんか。 そして、今日この日に新しいスタートを切って手を携えてまいりましょう。ご静聴ありがとうございました。 
2001年10月15日 - 小泉純一郎首相

 

「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った。」
2001年 - 小泉純一郎首相

 

(元慰安婦の方々に対する 小泉内閣総理大臣の手紙)  
拝啓 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。  
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。  
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。
 
末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。 敬具
2002年9月17日 - 小泉純一郎首相

 

(日朝平壌宣言)  
小泉純一郎日本国総理大臣と金正日朝鮮民主主義人民共和国国防委員長は、2002年9月17日、平壌で出会い会談を行った。  
両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。  
1.双方は、この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注することとし、そのために2002年10月中に日朝国交正常化交渉を再開することとした。  
双方は、相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意を表明した。  
2.日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。  
双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施し、また、民間経済活動を支援する見地から国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、この宣言の精神に合致するとの基本認識の下、国交正常化交渉において、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。  
双方は、国交正常化を実現するにあたっては、1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄するとの基本原則に従い、国交正常化交渉においてこれを具体的に協議することとした。  
双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、国交正常化交渉において誠実に協議することとした。
 
3.双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した。  
4.双方は、北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、互いに協力していくことを確認した。  
双方は、この地域の関係各国の間に、相互の信頼に基づく協力関係が構築されることの重要性を確認するとともに、この地域の関係国間の関係が正常化されるにつれ、地域の信頼醸成を図るための枠組みを整備していくことが重要であるとの認識を一にした。  
双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した。また、双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。  
朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明した。  
双方は、安全保障にかかわる問題について協議を行っていくこととした。  
日本国 総理大臣 小泉純一郎  
朝鮮民主主義人民共和国 国防委員会 委員長 金正日  
2003年8月15日 - 小泉純一郎首相

 

(全国戦没者追悼式 内閣総理大臣式辞)  
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者御遺族及び各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し式辞を申し述べます。  
先の大戦が終わりを告げてから、58年の歳月が過ぎ去りました。苛烈を極めた戦いの中で、300万余の方々が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは戦後、遠い異郷の地に亡くなりました。私たちは、現在享受している平和と繁栄が、戦争によって心ならずも命を落とした方々の犠牲の上に築かれていることを、ひとときも忘れることはできません。戦没者の方々の御冥福を心からお祈り申し上げるとともに、衷心より敬意と感謝の誠を捧げます。  
また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに深い反省の念を新たにし、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。  
我が国は、戦後、平和を国是として、国民のたゆまぬ努力により、幾多の困難を乗り越え、平和で豊かな日本へ、めざましい発展を遂げてまいりました。  
私は、過去を謙虚に振り返り、二度と戦争を起こしてはならないという不戦の誓いを堅持するとともに、我が国が、世界各国との友好関係を一層発展させ、国際社会の一員として、世界の恒久平和の確立に積極的に貢献するよう全力を尽くしてまいります。  
終わりに、戦没者御遺族の今なお変わることのない深い苦しみ、悲しみに思いを致すとともに、皆様の今後の御多幸を心からお祈り申し上げます。 
2004年 
 
謝罪の歴史9 2005〜2009

 

2005年4月22日 - 小泉純一郎首相  
(アジア・アフリカ首脳会議における小泉総理大臣スピーチ)  
議長、御列席の皆様、半世紀ぶりに、アジアとアフリカの諸国が一堂に集うこの歴史的会議に出席することはこの上ない光栄であり、会議を主催頂いたインドネシア及び南アフリカの両共同議長に深甚なる謝意を表します。私は、この50年間我々を結びつけてきた強い絆を改めて実感し、我々が共に歩んできた道を振り返るとともに、21世紀においてアジアとアフリカの国々が世界の人々の安寧と繁栄のために何をなすべきか率直に議論するために、この会議に出席しました。  
(過去50年の歩み)  
50年前、バンドンに集まったアジア・アフリカ諸国の前で、我が国は、平和国家として、国家発展に努める決意を表明しましたが、現在も、この50年前の志にいささかの揺るぎもありません。  
我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。今後とも、世界の国々との信頼関係を大切にして、世界の平和と繁栄に貢献していく決意であることを、改めて表明します。
 
(アジア、アフリカ支援の実績)  
議長、過去50年の我が国の発展は、日本国民の不屈の努力の賜でありますが、国際社会の支援があって初めて実現できたものです。日本はこのことを忘れません。戦後の荒廃から立ち上がった国民とその世代の代表として、私は生活の向上へ向け、額に汗をし懸命に働こうとするアジア・アフリカの人々と共に歩んでいきたいと思います。  
我が国は、こうした考えに立って、アジア・アフリカ地域の開発のために人づくりやインフラ整備、水・感染症対策といった保健衛生分野の支援に力を入れるとともに、貿易・投資環境の改善に努めてまいりました。  
(将来に向けての平和的な国際協力の遂行への決意)  
本日、私は、今後我々が手を携えて進めるべき3点、すなわち、第一に経済開発、第二に平和の構築、第三に国際協調の推進に絞って発言します。  
我が国は、貧困との闘いや開発におけるパートナーシップの強化を重視します。国造りのためには、自らの意思と努力により発展を実現しようとする各国自身の決意が何よりも重要です。我が国はこのような努力を尊重し、支援します。ミレニアム開発目標(MDGs)に寄与するためODAの対GNI比0.7%目標の達成に向け引き続き努力する観点から、我が国にふさわしい十分なODAの水準を確保していきます。また、後発開発途上国の自立を支援するため貿易面でも、これらの途上国産品に対する市場アクセスの拡大に努めます。  
アジアは過去50年、大きく前進しました。しかし、開発格差の是正、経済連携の推進、先のスマトラ沖大地震及びそれに伴う津波の経験に基づく防災対策、海賊対策など、重要な課題が山積しています。具体的施策を打ち出し、アジアにおける新たなパートナーシップを構築していく考えです。防災・災害復興対策については、アジア・アフリカ地域を中心として今後五年間で25億ドル以上の支援を行います。  
本年は「アフリカの年」です。我が国は、これまでTICADを通じて、アフリカと国際社会の連帯による対アフリカ協力を進めてまいりました。この場を借りて、2008年にTICAD IVを開催すること、今後3年間でアフリカ向けODAを倍増し、引き続きその中心を贈与(grant aid)とする考えであることを表明します。  
この場に最もふさわしいテーマは、アジアとアフリカの間の協力強化です。我が国は、そのため、アジアの若者がアフリカの青年と出会い、交流し、未来に向けた人づくりを推進するアジア青年海外協力隊の創設を提案します。また官民を挙げてアジアの生産性運動の知見をアフリカに活かすための支援を実施します。こうした取組を通じて、今後4年間でアフリカにおいて1万人の人材育成への支援を行うことを表明します。  
第二に、平和の構築が重要と考えます。平和と安定こそが経済発展の不可欠な基盤です。我が国は、これまで大量破壊兵器等の拡散やテロの防止に力を注ぐとともに、カンボジアや東チモール、アフガニスタン等において平和の構築のために努力してまいりました。今後、中東和平推進のためのパレスチナ支援や、平和に向けてダイナミックな動きを示しているアフリカに積極的な支援を行ってまいります。無秩序な兵器の取引の防止、法の支配や自由、民主主義といった普遍的価値の普及は我々すべてが積極的役割を果たすべき課題です。  
第三に、我が国は、グローバリゼーションを迎えた世界が新しい国際秩序を模索する中、我々アジアとアフリカとの一層の連帯を図りつつ国際協調を更に進めていく考えです。国連は引き続き国際協調の中心的役割を果たすべきですが、今日世界が直面する諸問題に効果的に対処するためには、国連、特に安保理を今日の現実を反映した組織に改革することが必要です。アナン国連事務総長が提案しているように、九月までに安保理改革について決定を行うため協力します。  
(文明間の対話)  
アジアとアフリカの連携を強化する上では、文明間・文化間、そして人と人との対話によって経験と知見を共有することが何より大切となります。我が国は、伝統を維持しつつ近代化に取り組む各国の経験を共有すべく、七月に世界文明フォーラムを開催します。  
(結び)  
議長、昨年のノーベル平和賞はアフリカの女性として初めてケニアのマータイ女史が受賞しました。植林活動を通じて持続可能な開発に貢献したことが評価されたのです。マータイ女史は、現在日本で自然の「叡智」をテーマに開催されている愛・地球博の開会式にも出席され、日本語の「もったいない」という言葉を引用して、資源の有効利用と環境保全の重要性を訴えられました。物を大切に使おう、使える物は出来るだけ使っていこう、再使用しようという「もったいない」の精神を理解してくれたのです。アジアとアフリカは豊かな自然に恵まれ、大きな可能性を有しています。科学技術の進展によって、環境保全と持続的発展が両立する活気のある力強い社会を創り出すことは可能と信じます。我が国は、そのための努力を惜しまない決意をここに表明し、結びの言葉と致します。御静聴ありがとうございました。 
2005年8月15日 - 小泉純一郎首相

 

(内閣総理大臣談話)  
私は、終戦六十年を迎えるに当たり、改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し、二度と我が国が戦争への道を歩んではならないとの決意を新たにするものであります。  
先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷の地に亡くなられています。  
また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。  
戦後我が国は、国民の不断の努力と多くの国々の支援により廃墟から立ち上がり、サンフランシスコ平和条約を受け入れて国際社会への復帰の第一歩を踏み出しました。いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を貫き、ODAや国連平和維持活動などを通じて世界の平和と繁栄のため物的・人的両面から積極的に貢献してまいりました。  
我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。  
我が国にあっては、戦後生まれの世代が人口の七割を超えています。日本国民はひとしく、自らの体験や平和を志向する教育を通じて、国際平和を心から希求しています。今世界各地で青年海外協力隊などの多くの日本人が平和と人道支援のために活躍し、現地の人々から信頼と高い評価を受けています。また、アジア諸国との間でもかつてないほど経済、文化等幅広い分野での交流が深まっています。とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。  
国際社会は今、途上国の開発や貧困の克服、地球環境の保全、大量破壊兵器不拡散、テロの防止・根絶などかつては想像もできなかったような複雑かつ困難な課題に直面しています。我が国は、世界平和に貢献するために、不戦の誓いを堅持し、唯一の被爆国としての体験や戦後六十年の歩みを踏まえ、国際社会の責任ある一員としての役割を積極的に果たしていく考えです。  
戦後六十年という節目のこの年に、平和を愛する我が国は、志を同じくするすべての国々とともに人類全体の平和と繁栄を実現するため全力を尽くすことを改めて表明いたします。
2006年
2007年4月28日 - 安倍晋三首相

 

「慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した。」(日米首脳会談後の記者会見にて)
2008年 
2009年 
 
謝罪の歴史10 2010〜2014

 

2010年8月10日 - 菅直人首相  
(内閣総理大臣談話)  
本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。  
私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
 
このような認識の下、これからの百年を見据え、未来志向の日韓関係を構築していきます。また、これまで行ってきたいわゆる在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を今後とも誠実に実施していきます。さらに、日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くこれらをお渡ししたいと思います。  
日本と韓国は、二千年来の活発な文化の交流や人の往来を通じ、世界に誇る素晴らしい文化と伝統を深く共有しています。さらに、今日の両国の交流は極めて重層的かつ広範多岐にわたり、両国の国民が互いに抱く親近感と友情はかつてないほど強くなっております。また、両国の経済関係や人的交流の規模は国交正常化以来飛躍的に拡大し、互いに切磋琢磨しながら、その結び付きは極めて強固なものとなっています。  
日韓両国は、今この二十一世紀において、民主主義や自由、市場経済といった価値を共有する最も重要で緊密な隣国同士となっています。それは、二国間関係にとどまらず、将来の東アジア共同体の構築をも念頭に置いたこの地域の平和と安定、世界経済の成長と発展、そして、核軍縮や気候変動、貧困や平和構築といった地球規模の課題まで、幅広く地域と世界の平和と繁栄のために協力してリーダーシップを発揮するパートナーの関係です。  
私は、この大きな歴史の節目に、日韓両国の絆がより深く、より固いものとなることを強く希求するとともに、両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意を表明いたします。 
日本の謝罪外交を米国人学者が「不毛」と指摘 2010/8/25  
菅直人首相が韓国に対して謝罪した。日本が朝鮮半島を併合した過去を「悪」として謝ったのである。8月11日のことだった。だが、その余波はなお広がっている。  
「植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、改めて痛切な反省と心からのおわびを表明する」  
日本の総理が謝罪するということは、日本という国家が謝罪したことになる。さらには日本国民が韓国に謝ったことにもなる。  
だが、今の日本国民がなぜ日韓併合の責任を問われるのだろう。そもそも日本の朝鮮半島の領有は、当時の国際的な条約や規範に沿って実行されたものだ。  
正当な国際取り決めとして当時の世界で認められたのである。それを今になって「不当」と見なし、「罪悪」と断じて「おわび」をする。不可思議なことである。  
戦争に関して対外的に謝罪することは「危険」  
この菅首相の謝罪のように、国家が他の国家や国民に対し「謝る」という行為は国際的に見るとどう映るのだろうか。米国ではどう認識されているのか。  
首都ワシントンでは、今もなお日本の戦争行為の各部分をとらえて糾弾し、「日本は反省をしていない」「日本はまだ謝罪を十分にしていない」と詰問する向きもある。  
しかし「日本はもう謝罪をすべきではない」とする意見も確実に存在する。日本の謝罪に反対する識者たちが米国にいるという現実は、日本側でも認知されてしかるべきだろう。  
2009年5月には、大手外交政策雑誌「フォーリン・アフェアーズ」に「謝罪の危険」という論文が発表された。同論文は日本に対し、戦争に関して対外的に謝罪をすることはもう止めるよう訴えていた。タイトルから明白なように、謝罪は危険だというのだった。  
筆者はダートマス大学助教授のジェニファー・リンド氏、日本と朝鮮半島の歴史や安保を専門とし、2004年に博士号を取得した新進の女性学者である。その論文の主要なポイントは以下のようなものだった。  
「日本が戦争での非道な行為をこれからも対外的に謝罪することは非生産的であり、止めるべきだ。まず謝罪は日本国内でナショナリストの反発を招き、国民の分裂をもたらす」  
「日本の総理の再度の公式謝罪声明や国家決議による謝罪というジェスチャーは、日本国民同士の衝突や分裂を招くため、避けるべきだ。その代わりに日本政府も指導層も、戦前、戦時に日本がアジア各地で不当な弾圧や残虐を働いたことを認め、反省せねばならない」  
リンド氏の主張には日本側からの反論もあろう。日本の首相のたびたびの謝罪に反発するのは、単に「日本国内のナショナリスト」だけなのか。「アジア各地での不当な弾圧や残虐」といちがいに断じられるのか。  
韓国、中国はなぜ謝罪を求め続けるのか  
リンド論文はさらに次のように述べていた。  
「日本はその上で戦後の目覚ましい復興、民主主義の活力ある確立、経済と技術の世界最高水準の発展を対外的に誇示すべきだ。現在と未来の平和的、民主的な役割を他の諸国に対して強調すべきだ」  
日本は過去ではなく、現在や未来を世界に向かって示すべきだというのである。  
この部分の主張に異存のある日本人は少ないだろう。その上でリンド氏は歴史問題の和解では一方に謝罪があれば、他方に謝罪を受け入れる前向きな対応がなければ意味がないと指摘していた。  
「韓国の指導層は自らの統治の正統性を示すために日本を叩く必要はもうない。中国共産党も自らの統治の正統性を支えるために国内の反日感情をあおってきたことは知られており、国民の日本嫌悪は本来それほど強いわけではないのだ」  
要するに韓国も中国も日本の態度にかかわらず、自国の政権の統治が正しいのだということを自国民に誇示するために、日本を非難し、謝罪を求めてきたという構図を指摘しているのだ。  
だから、そんな自国の政治事情からの日本への謝罪要求に日本側が何度も何度も謝ることは、不毛だという意味である。  
米国も英国もフランスも植民地支配の謝罪はしない  
日本の謝罪の不毛については、実は米国の別の学者も1冊の学術書で説いていた。ミシガン州のオークランド大学講師で日本研究学者のジェーン・ヤマザキ氏が2006年に出版した『第二次世界大戦への日本の謝罪』と題する書である。  
ヤマザキ氏は日本現代史研究で博士号を得た女性学者で、日本での研究や留学の体験も長い。日系ではない欧州系米国人だが、日系人と結婚したため、ヤマザキという名になったのだという。  
ヤマザキ氏は同書でまず一般論として「主権国家が過去の自国の間違いや悪事を認め、対外的に謝ることは国際的には極めて稀だ」と述べる。  
国家が過去の好ましくない行動を謝罪しない実例として、「米国による奴隷制やインディアンの文化破壊、フィリピンの植民地統治、英国によるアヘン戦争、インド、ビルマの植民地支配」などを挙げていた。  
そして「現代世界では国家は謝罪しないのが普通であり、過去の過誤を正当化し、道義上の欠陥も認めないのが一般的だ」と記していた。  
確かにフランスがベトナムやカンボジアを植民地にしたことに「おわび」を表明したという話は聞いたことがない。同様にオランダがインドネシアを植民地支配したことへの公式謝罪というのもないのだ。  
またヤマザキ氏は、もし国家が自国の過去の行為を謝罪すれば、次のような弊害が起きるとも論じるのだった。  
「過去の行動への謝罪は国際的にその国の道義的な立場を低くし、自己卑下となる」  
「国家謝罪はその国の現在の国民の自国への誇りを傷つける」  
「国家謝罪はもう自己を弁護できないその国の先人と未来の世代の両方の名声を傷つける」  
日本の謝罪外交は「失敗」である  
ヤマザキ氏は特に日本の謝罪を1965年の日韓国交正常化にまでさかのぼって詳細に紹介し、その総括を「不毛」とか「失敗」だと特徴づけていた。日本の謝罪外交の決算は失敗だというのである。  
その理由は次のように記されていた。  
「日本は首相レベルで中国や韓国に何度も謝罪を表明してきた。だが、歴史に関する中韓両国との関係は基本的に改善されていない。国際的にも『日本は十分には謝罪していない』という指摘がなお多い。これらの現状が、日本の謝罪が失敗だったことの例証となる」  
こうなると、ひたすら「おわび」を繰り返してきた菅首相はじめ日本の歴代首相は哀れである。いくら謝罪をしても、その効用が何もないからだ。その理由の大きな部分についてヤマザキ氏は以下のように総括していた。  
「謝罪が成功し、効果を生むためには、謝罪の相手がそれを受け入れる用意があることが不可欠だ。だが、韓国や中国にはその意思はなく、歴史問題で日本と和解する気がないと言える」  
だから日本の首相の「おわび」はただ虚しく自虐の暗渠に消えていく、ということなのだろう。 
2011年 
2012年
「和解」を困難にする「謝罪外交」は見直す時期ではないのか? 2012/8/20  
どうして中国や韓国の世論は、日本に対して領土ナショナリズムによる攻勢をかけてくるのでしょうか? それは、中国側から見た日本、韓国から見た日本というのは他の二国間関係とは異なり、第2次世界大戦の終結以降も、正常な関係が持てていないからです。  
正常でないというのは、日本が常に謝罪要求の対象だということです。これは、二国間関係としては異常です。では、どうして日本と周辺国との間には、こうした異常な関係が続いているのでしょうか?  
まず、中国と韓国は、日本の「国体=国のかたち」が戦前戦後を通じて一貫していると考えています。戦前の国体が「護持される」ということが、戦争終結の条件として連合国に認められた以上、国体の一貫性は明白であり、したがって現在の日本の国体は過去の責任を継承しており、すなわち謝罪の主体となるという考え方です。  
これに対して、日本の世論の半分は同調していると言っていいでしょう。「日本国は周辺国に対して永遠に謝罪を続けるべき」だと考えており、それが倫理的に正当だと考えているのです。一歩引いて考えると、日本国の国民が日本国の名誉を貶めて日本国が謝罪に追い込まれることが正義と考えているように見えます。自虐史観とか、反日的という批判がされるのも分からないではありません。  
ですが、こうした考え方を持つ人は大真面目なのです。自分たちは国家に裏切られて倫理的敗者の汚名を着せられたので、二度と国家を信じず、国家が悪行をせぬよう、また過去への謝罪を履行するよう監視すべきと考えているのです。つまり、最後の世界大戦に敗北したまま国体が護持されたという偶然を利用して、国家性悪説を前提とした心情的な無政府論とでも言うべき「理想主義の実験」を行なっているというわけです。  
この「個人が国家に優越する」という思想は、同時に「国家に依存する人間を蔑視する」という尊大な姿勢を伴っていますが、敗戦というのは精神的にも物理的にも、それだけ巨大な喪失であり、その喪失感の反映としてそのような稀有な思想が長期にわたって多数派となっていたという事実を軽々に否定はできないと思います。  
残りの半分は、日本国が永遠の謝罪者であれという立場には強く反発しています。直接の動機は自然なもので、「現代の世代が過去の問題に対して謝罪する必要はない」という直感的なものに発しています。ですが、これに続く思考回路に問題があるのです。  
それは「第2次大戦の敗戦により国を失う結果となった戦前の歴史は国際情勢の被害者として不可避であった」という史観を抱えていることです。この史観の延長上には「日韓併合と独立運動への弾圧」や「南京入城時の非戦闘員殺害」などの個別の問題について、一つ一つ事実関係に別の視点を持ち込んで過去に遡って名誉回復を図ろうという態度が伴っています。  
この考え方は、日本を一歩外に出れば国際社会では孤立するだけです。ですが、国体が一貫しているという立場からは、現在形の謝罪を拒否するためには過去の事件について一つ一つ正当化が必要になる、これは論理的にも心情的にも自然な流れではあります。まして「謝罪を拒否すると現在形での断罪が突きつけられる」という中では、それを理不尽だと思う反骨心が事実関係の再評価への一方的な情熱に向かうのも仕方がないわけです。  
私はこの3つの考え方のいずれも修正が必要と思います。こうした三つ巴の関係があるかぎり、日本は周辺国とは永遠に和解できないからです。何故かというと、日本の両極端の立場が、周辺国の謝罪要求を反対方向から煽る構造から脱せないからです。  
ところで、この3つの考え方には共通点があります。それは、「日本の国体=国のかたち」が戦前戦後を通じて「護持」された結果「不変である」という前提に立っているということです。  
その結果として、周辺国は「現在の日本は過去の責任を継承している」と信じて疑わず、日本の左派は「戦前の国体が護持された以上は日本国は永遠の謝罪者であるべき」という考えにとらわれ、右派は「戦前の国体と現在の国体が一貫しているのだから、現在の国の名誉を確保するためには戦前の歴史も肯定しなければならない」という考え方に囚われているわけです。  
私は発想を転換して、この考えを捨ててはどうかと考えます。つまり戦前には様々な国家レベルの判断ミスを重ねて「国体は傷ついた」ものの、戦後日本の官民挙げた努力の結果、全方位外交の平和国家としての実績を70年近く積み上げて、今は日本の「国体は修復されている」と考えてはどうかと思うのです。  
言い換えれば、現代の日本人の世代は、世代から世代へと国体を修復してゆく努力を継承し、修復された「日本国」という「国体=国のかたち」を基礎として国家としての統合を果たしているわけです。  
そのように考えれば、現代の日本人は、戦争や侵略や植民地化の行動に関しては「現代における周辺国への謝罪者となる必要はない」のです。つまり、今の世代は「生まれながらにして、永遠の謝罪を義務付けられた悪玉国家」に生まれたのでもなければ、「謝罪要求に反発するついでに、戦前の歴史についてまで無理に正当化をしなくてはならない」と思い詰める必要もないのです。  
勿論、民族を意識した個人としてといった私的なステイタスでは、自然な罪障感ということはあって良いのです。日本人であれば真珠湾なり、南京というような場所では恭順の表情で振舞わねばならないという個人的な義務感は当然であり、継承の努力もされるべきとすら思います。ですが、国家として、現在の国民の生存権を保護し、法治を行い、領土を保全する法人格として公的な謝罪者である義務はないのです。  
では、謝罪する義務がないのであれば、国家として何もしなくてもいいのでしょうか? そんなことはありません。余りにも巨大な戦争の犠牲に関しては、メリハリの利いた和解の儀式が何としても必要です。そのためには「共同での追悼」という行動がふさわしいと思います。現在の日本人が現在の中国人や韓国人に対して謝罪する代わりに、静かに日中、日韓での共同の追悼の儀式を行えば良いのです。  
追悼と謝罪の違いは単純です。追悼というのは過去の膨大な犠牲に対して、時空を越えてストレートに誠意を捧げる行為です。一方で、謝罪というのは当事者間で行うべきものであり、中国や韓国の現在の世代はこれを受け取る権利はなく、現代の日本人はこれを捧げる義務はありません。過去の悪しき行動のパターンや悪しき価値観を残すことで、現在も具体的な脅威を与えているのであれば別ですが、国体が修復された以上、そんな懸念は自他ともに不要です。  
ちなみに、国体が修復されたというロジックであれば「第2次大戦の懲罰として北方領土の占領は正当化できる」というロシアの論理にも対抗できると考えられます。  
いずれにしても、国家として戦前の行動の責任を継承し、無関係な世代に永遠の謝罪者であれと強制する不自然からは解放されるべきです。政権が謝罪を強要される中で、外交交渉上の心理戦に引きずられることも止めるべきです。そうでなくては、対等で安定的な現在形での2国間関係は不可能です。謝罪外交は一刻も早く修正されるべきと思います。 
2013年
2013年1月3日 - 安倍首相 
「勝てば官軍」早くも「脱原発」「原発ゼロ」無力化「卒原発」死語化  
安倍晋三首相が就任してまだ、1週間にもならないというのに、「脱原発」「原発ゼロ」という言葉が、早くも無力化、日本未来の党の嘉田由紀子代表(滋賀県知事)が発明したかと思われる「卒原発」は、すでに死語化してきている感がある。マスメディアの批判はもっと手厳しい。これらの言葉を「言葉遊びだった」とこき下ろしている始末だ。「脱とかゼロとか言っても、いつまでに実現するのか、工程がはっきりしない」というのが、最大の理由だ。ドイツが、メルケル首相の下で、「2022年原発ゼロ」の大方針を定めて、実現に向けて全力を上げている実例には、一切耳を傾けないという状況である。そのドイツは、日本の福島第1原発大事故が起こる前までは、「2033年原発ゼロ」の方針で計画を進めていた。これは、旧ソ連のチェルノブイリ原発大事故の際、欧州大陸に放射能や放射性物質が飛散してきた経験から、自国の原発をゼロにしようと決心した。  
ところが、日本の福島第1原発大事故の報を聞いて、恐怖感を強めて、「原発ゼロ」の実現目標を10年前倒ししたのである。  
10月16日から20日の日程でドイツを訪問して、このドイツが行っている「2022年原発ゼロ」の実施状況を視察した小沢一郎元代表の「視察団」は、ドイツが全政党一致したこの計画に取り組んでいるのを聞いて、感心したという。これに反して、日本の国会では、「国民の生活が第一」しか、「原発ゼロ」を決めていないと聞き知ったドイツの人々が、大変ビックリしていたという。さすがに、これには、小沢一郎元代表も、二の句がツケげなかったらしい。  
それからわずか2か月の間に、総選挙があり、原発推進に熱心な自民党が大圧勝し、「脱原発」「原発ゼロ」を訴える抗議の声を無力化、あるいは、死滅化してしまったのである。  
いまや原発推進派は、官軍であり、「脱原発」「原発ゼロ」派は、賊軍である。どちらが、盛儀なのか。それは、言うに及ばす、勝った方が、正義である。正義の「正」という文字は、「一」と「止」という文字の組み合わせで成り立っているけれど、「一」は、「都市国家の城壁」を表わし、「止」は、外敵が進軍してくる様子を表わしている。「止」は、「止まる」とは読まず「進む」と読む。従って、「正」は、外敵に侵略されて、侵略した外敵の勝利したるけれど、「一」は、「都市国家の城壁」を表わし、「止」は、外敵が進軍してくる様子を表わしている。「止」は、「止まる」とは読まず「進む」と読む。従って、「正」は、外敵に侵略されて、侵略した外敵の勝利した姿を示している。  
負けた側は、いかに百万語を費やして、正当性を訴えようとも、勝利者からは、まったく相手にされない。  
総選挙後の日本のいまの様子は、「原発推進派」が勝利しているので、「脱原発」「原発ゼロ」派の言説は、敗軍の言葉として説得力を持たない。いま発言力を持っているのは。自民党、読売新聞、産経新聞、夕刊フジなどの原発寿推進派である。  
その読売新聞が12月31日付け朝刊が「1面」で「首相、原発推進を明言 事故原因究明の上で」という見出しをつけて、安倍晋三首相が、本格的に原発新設を進めていく決意をしたことを報じている。これは、丸で誇らしげな「勝利宣言」である。  
しかし、可愛そうなのは、福島第1原発大事故の被災地から避難している人々である。  
住み慣れた故郷に帰れない現実を認めて、諦めざるを得なくなった人々が、故郷に「中間貯蔵施設」が建設されるのを仕方なく認めようとしているのだ。  
朝日新聞12月31日付け朝刊「1面」で「中間貯蔵施設の調査候補地住民 7割『建設計画に理解』 本社アンケート305人回答」という見出しをつけて、報じている。  
しかし、原発推進を続けていると、また再び福島第1原発のような大事故が、絶対に起こらないという保証はない。万が一、大事故が起きた場合、政治家はもちろん、原発推進を煽り立ててきた読売新聞はじめマスメディアは、責任を取れるのであろうか。あるいは、責任を取る覚悟はあるのであろうか。 
安倍首相の東南アジア訪問で示された日本外交の新5原則 2013/1/23  
安倍首相の東南アジア歴訪  
1月16〜18日、安倍晋三首相は、最初の外遊先として、ベトナム、タイ、インドネシアを歴訪した。  
ベトナムではグエン・タン・ズン首相と会談、原発建設計画や高速道路などのインフラ整備、レアアース開発などの貿易投資で協力を進展させることを合意するとともに、尖閣諸島問題、南シナ海の領有権問題で圧力を強める中国を念頭に「全ての地域の紛争と問題を、国際法の基礎に基づき平和的交渉を通じて解決すべきだ」という点で一致した。そして南シナ海問題では「力による現状の変更に反対する」との認識を共有するとともに、政治・安全保障分野でも協力を進めることを確認した。安倍首相はまた、「日中関係は日本にとって最も重要な2国間関係のひとつだ。引き続き冷静に対応し、中国との意思疎通を維持・強化して、関係をしっかりマネジメントしていく」と述べた。  
安倍首相は翌17日にはタイのインラック・チナワット首相と会談した。インラック首相は共同記者会見で、安倍首相がタイの治水事業、高速鉄道計画、ミャンマーのダウェイ経済特区開発といったインフラ事業への日本企業の参入に関心を示したと述べ、ダウェイについて、タイ、ミャンマー、日本の3カ国で近いうちにハイレベルの協議を行うべきだとした。  
安倍首相はさらに18日にはインドネシアでスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領と会談を行った。安倍首相は共同記者会見で、東南アジア諸国連合(ASEAN)との関係を日本外交の「最も重要な基軸」と確認するとともに、「日本外交の新たな5原則」について述べた。これは日本のASEAN外交、さらには東アジア外交の原則として非常に重要であるため、以下、少し長くなるが、当初予定されていた安倍首相による演説の原稿から引用しておきたい。(演説は、アルジェリア人質事件により、安倍首相が急きょ日本に帰国したため、実現しなかった。)  
日本外交の新たな5原則  
「第1に、2つの海(編注=太平洋とインド洋)が結び合うこの地において、思想、表現、言論の自由――人類が獲得した普遍的価値は、十全に幸(さき)わわねばなりません。  
第2に、わたくしたちにとって最も大切なコモンズである海は、力によってでなく、法と、ルールの支配するところでなくてはなりません。わたくしは、いま、これらを進めるうえで、アジアと太平洋に重心を移しつつある米国を、大いに歓迎したいと思います。  
第3に、日本外交は、自由でオープンな、互いに結び合った経済を求めなければなりません。交易と投資、ひとや、ものの流れにおいて、わたくしたちの経済はよりよくつながり合うことによって、ネットワークの力を獲得していく必要があります。メコンにおける南部経済回廊の建設など、アジアにおける連結性を高めんとして日本が続けてきた努力と貢献は、いまや、そのみのりを得る時期を迎えています。(中略)  
第4に、わたくしは、日本とみなさんのあいだに、文化のつながりがいっそうの充実をみるよう努めてまいります。  
そして第5が、未来をになう世代の交流を促すことです。(中略)  
いまから36年前、当時の福田赳夫総理は、ASEANに3つの約束をしました。日本は軍事大国にならない。ASEANと、『心と心の触れ合う』関係をつくる。そして日本とASEANは、対等なパートナーになるという、3つの原則です。  
ご列席のみなさんは、わたくしの国が、この『福田ドクトリン』を忠実に信奉し、今日まできたことを誰よりもよくご存知です。いまや、日本とASEANは、文字通り対等なパートナーとして、手を携えあって世界へ向かい、ともに善をなすときに至りました。大きな海で世界中とつながる日本とASEANは、わたくしたちの世界が、自由で、オープンで、力でなく、法の統(す)べるところとなるよう、ともに働かなくてはならないと信じます」  
ASEAN、オーストラリアとの連携を重視  
念のために確認しておけば、安倍首相の東南アジア歴訪に先立ち、1月3日には麻生太郎副総理がミャンマーを訪問し、テイン・セイン大統領と会談して、ミャンマーの対日債務5000億円の一部を放棄する意向をあらためて示すとともに、ティラワ経済特区開発支援の意思を確認した。  
また、1月9〜14日には、岸田文雄外相がフィリピン、シンガポール、ブルネイ、オーストラリアを訪問した。岸田外相は、1月10日付のフィリピン地元紙への寄稿で「ASEANとの関係強化を重視する」と述べるとともに、フィリピンとの連携強化の重要性を強調、海洋安全保障分野において「支援と協力は惜しまない」と表明した。また、ブルネイでは、同国が2013年のASEAN議長国であることから、「ブルネイが議長国の責任を果たし、成果につながるよう日本も努めたい」と述べた。さらに13日には、オーストラリアでボブ・カー外相と会談し、安全保障分野などにおける関係強化を確認するとともに、日豪経済連携協定(EPA)交渉の早期妥結を目指すことで合意した。  
つまり、まとめて言えば、安倍政権は、政権発足1カ月以内に、総理、副総理、外相がASEAN加盟10カ国中7カ国(ベトナム、タイ、インドネシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、ブルネイ)とオーストラリアを訪問し、日本が、日米同盟と並んで、ASEAN、オーストラリアとの連携を重視していることを行動で示すとともに、外交の原則を明らかにした。近年、特に3年余りの民主党政権下、日本外交が漂流していただけに、これは重要であり、大いに歓迎である。  
「中国封じ込め」の見方はピント外れ  
今回の安倍首相の東南アジア歴訪について、韓国の『東亜日報』、中国の『人民日報』などは、これは、中国を「封じ込め」、中国包囲網を強化する試みだ、と報じている。しかし、このような「力の政治」の「色眼鏡」で21世紀の東アジアの国際関係と日本のアジア外交を理解しようとするのは、ピント外れも甚だしい。中国がこれほど世界経済に統合され、中国が、日本も含め東アジア/アジア太平洋の多くの国々の主要貿易パートナーとなっている現在、中国「封じ込め」などできるわけがないし、誰の利益にもならない。いま東アジア/アジア太平洋の課題となっているのはそういうことではない。  
中国、インド、ブラジル、インドネシア、トルコなどの「新興国」の経済成長によって、世界的にも、東アジア/アジア太平洋においても、富と力の分布は急速に変化しつつある。特に中国の台頭は目覚ましい。では、こういう富と力の分布の急速な変化に応じて、世界的に、また東アジア/アジア太平洋において、どのような政治経済秩序を、どのような原則の下、いかに作っていくか。それが現在の課題である。  
中国が台頭したからといって、中国が東アジアの盟主となり、周辺諸国は政権交代のたびに特使を中国に派遣し、その祝福を求めるようなことは、ほとんどの国は望まないだろう。まして、東アジアにおけるルール作りにおいて、中国が一方的にルールを決め、周辺諸国はそれをただ受け入れるとか、中国と周辺諸国の領土問題やその他の紛争において、中国が力によってその意思を周辺諸国に押し付けてそれで良いということにはならない。  
法の支配の原則の下、国際法と整合的な形で、当事者全ての合意の上にルールを作り、ルールができれば、全ての当事者はそのルールを順守する、これはごく当たり前のことである。国際公共財としての海洋における法とルールの支配の確立、そしてASEAN加盟国間の連結強化によって、ASEANの国々がいかなる国の勢力圏にも囲い込まれることなく、世界に開かれた形で発展するのが望ましいこと、これも当たり前のことである。  
21世紀の東アジア/アジア太平洋の秩序づくりのため、日本はこうした原則にのっとり、日米同盟を基軸としつつ、地域協力のハブとしてASEANを重視し、その統一性を支持するとともに、ASEANの国々、さらにはオーストラリアなどのパートナーの国々と協力していく。そして中国が国際的に責任ある役割を果たすよう、中国に関与していく。それが、今回の安倍首相らの東南アジア訪問で示された日本外交の方針である。 
NYタイムズのための「慰安婦問題」入門  
年頭からNYタイムズが取り上げた慰安婦問題  
今年の1月2日、ニューヨークタイムズ(電子版)は「日本の歴史を否定する新たな試み」という社説を出した。新年早々、アメリカとはほとんど関係のない日韓関係についてNYタイムズがコメントするのも奇妙だが、そのトーンは次のように日本の新聞にも見られない強いものだ。  
日本の新しい首相、安倍晋三は、日韓の緊張を高めて協力を困難にする間違いを犯そうとしているように見える。彼は第二次大戦についての日本の謝罪を修正しようと試みる兆しを見せているのだ。そこには韓国などの女性を性奴隷に使ったことも含まれる。(中略)  
1993年に日本は、ようやく日本軍が数千人のアジアやヨーロッパの女性を強姦して奴隷にしたことを認め、そうした残虐行為を初めて正式に謝罪した。犯罪を否定したり謝罪を薄めたりするどんな試みも、太平洋戦争で日本の圧政下に置かれた韓国や中国やフィリピンの人々を怒らせるだろう。(中略) 安倍氏の恥ずべき衝動は、北朝鮮の核兵器についての東アジアの重要な協力を阻害する可能性がある。そうした歴史修正主義による過去の漂白は、長期的な経済低迷の脱却に専念すべき日本にとって邪魔になるだろう。   
国内には、もう慰安婦の強制連行を問題にするメディアはほとんどない。この発端となった朝日新聞でさえ、社説でも1993年の(慰安婦問題について謝罪した)河野談話の見直しは「枝を見て幹を見ない態度だ」という表現で、強制連行が行なわれたという報道を事実上撤回している。  
そんな中で、なぜかアメリカでは日本政府に謝罪を求める決議案がニューヨーク州議会に提出されるなど、慰安婦が執拗に取り上げられている。そのほとんどは「20世紀最大の人身売買」などという荒唐無稽なものだが、NYタイムズまで「軍が強姦して性奴隷にした」などというのは困ったものだ。  
慰安婦問題については韓国人を説得することは不可能なので、アメリカが重要な役割を担っている。本来は彼らが日韓の橋渡しをしてくれればいいのだが、国務省は「今さらこの問題を蒸し返して河野談話を見直すと日韓問題がこじれる」という見解だ。NYタイムズの社説も、こういうアメリカ政府の方針を反映したものだろう。  
これは政治的には妥当な判断かもしれない。この問題で韓国の誤解を解くことは不可能だと思うが、せめて欧米人には事実を理解してほしい。だから遠回りではあるが、欧米メディアの誤解している(というより根本的に知らない)事実関係をおさらいしておこう。  
詐話師」の嘘から始まった慰安婦騒動  
日本軍が「慰安婦」を従軍させていたという都市伝説は古くからあったが、1965 年の日韓基本条約でも賠償の対象になっていない。「従軍慰安婦」という言葉も日本のルポライターの造語で、戦時中にそういう言葉が使われた事実もない。  
ところが1983 年に吉田清治という元陸軍兵士が『私の戦争犯罪』という本を出し、済州島で「慰安婦狩り」を行なって多数の女性を女子挺身隊として戦場に拉致した、と語った。これは「勇気ある証言」として多くのメディアに取り上げられたが、彼の話は場所や時間の記述が曖昧で、慰安婦狩りをどこで誰に行なったのかがはっきりしない。そこで済州島の地元紙が調査したところ、本の記述に該当する村はなく、日本軍が済州島に来たという事実さえ確認できなかった。  
吉田以外にはこういう証言をした人物はいないため、これは彼の捏造ではないかとの疑惑が出て、歴史学者の秦郁彦氏などが彼を問いただしたところ、吉田は1996 年に「フィクションだった」と認めた。常識的には、自分が犯罪を犯したと名乗り出る人がいるとは思えないが、戦争体験については誇大に「懺悔」することで注目を引き、本や講演で稼ごうとする「詐話師」がいるのだ。  
本来なら話はこれで終わりだが、吉田の話が韓国のメディアにも取り上げられたため、1990 年に韓国で「挺身隊問題対策協議会」という慰安婦について日本に賠償を求める組織ができた。これに呼応して高木健一氏や福島瑞穂氏などの弁護士が、日本政府に対する訴訟を起こそうとして原告を募集した。それに応募して出て来たのが、金学順だった。  
彼女は1991 年8 月に来日し、訴訟の原告として裁判を起こすとともにメディアにも登場し、伝説の存在だった「慰安婦」が初めて名乗り出たケースとして話題になった。私は当時、NHK 大阪放送局で終戦記念番組を制作していたが、そこに金を売り込んできたのが福島氏だった。  
金は「親に売られてキーセンになり、義父に連れられて日本軍の慰安所に行った」と証言し、軍票(軍の通貨)で支払われた給料が終戦で無価値になったので、日本政府に対してその損害賠償を求めたのだ。  
われわれは強制連行の実態を取材しようと、2 班にわかれて韓国ロケを行なった。私の班は男性で、もう一つの班が女性の慰安婦だった。現地で賠償運動をしている韓国人に案内してもらって、男女あわせて50 人ほどに取材したが、意外なことに1 人も「軍に引っ張られた」とか「強制的に働かされた」という人はいなかった。  
当時の朝鮮半島は日本の植民地だったが、賃金は内地の半分ぐらいで貧しかったため、本土に出稼ぎに行く人が多かった。そこに朝鮮人の「口入れ屋」がやってきて、炭鉱などの職を斡旋して手数料を稼いでいたのだ。  
その労働者を運ぶ船は、軍の船だった。慰安婦の場合も、慰安所の管理は軍がやっていることが多かった。だまされて「タコ部屋」から逃げられない事件も多かったが、監禁したのは業者である。もちろん好ましいことではないが、これは商行為であり、国家に責任はない。  
どう調べても強制という実態がないため、番組はインパクトの弱いものになった。慰安婦が初めて実名で名乗り出て来たことは話題を呼んだが、それは当時は合法だった公娼(公的に管理された娼婦)の物語に過ぎない。NHKは、この話を深追いしなかった。  
慰安婦の「強制連行」は朝日新聞の大誤報  
ところが朝日新聞は金学順が出て来たとき、「戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかった」という植村隆記者の「スクープ」を掲載した。  
続いて朝日新聞は、1992年1月の「慰安所 軍関与示す資料」という記事で日本軍の出した慰安所の管理についての通達を報じた。このとき慰安婦の説明として「女子挺身隊として軍に強制連行された」と書いたため、その直後に訪韓した宮沢喜一首相は韓国の盧泰愚大統領に謝罪した。  
しかしこの通達は「慰安婦を誘拐するな」と業者に命じたものだ。軍が慰安婦を拉致した事実はなく、そういう軍命などの文書もないが、韓国政府が日本政府に賠償を求めたため、政府間の問題になった。  
日本政府は1992年に「旧日本軍が慰安所の運営などに直接関与していたが、強制連行の裏づけとなる資料は見つからなかった」とする調査結果を発表したが、韓国の批判が収まらなかったため、1993年に河野談話を発表した。そこでは問題の部分は次のように書かれている。  
慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  
ここで「官憲等が直接これに加担した」という意味不明の言葉を挿入したことが、のちのち問題を残す原因になった。この問題については2007年に安倍内閣の答弁書が閣議決定され、ここでは「調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」と明記されている。  
つまり政府としては「強制連行はなかった」というのが公式見解なのだが、この答弁書で「官房長官談話のとおり」と書いたため、「官憲が加担した」という河野談話を継承する結果になった。このときNYタイムズ紙のノリミツ・オオニシ支局長が慰安婦問題を取り上げて「元慰安婦」の証言を報じ、安倍首相は訪米で謝罪するはめになった。  
誤解と行き違いが重なって問題が拡大した  
同時進行で見てきた私の印象では、この問題はいろいろな行き違いが重なって思いがけず延焼が広がってしまったという感が強い。そもそも朝鮮半島の労働者を酷使したという意味なら、慰安婦よりも男性の労働者のほうがはるかに大規模で深刻な問題である。  
たとえば第二次大戦の末期に秋田県の花岡鉱山で中国人労働者が過酷な労働環境に抗議して蜂起し、暴行や虐殺で400人以上が死亡した「花岡事件」のように、強制労働の実態はあった。ただ、この場合も遺族などが戦後補償訴訟を起こした相手は鹿島だったことでもわかるように、強制労働の責任者は民間企業だった。  
60万人ともいわれる男性の強制労働に比べると、慰安婦の規模は数万人とはるかに小さく、賃金も二等兵の20倍以上もらっていたといわれる。その慰安婦だけが脚光を浴びたのは、吉田清治がこれを猟奇的な強姦事件として描いたためだ。彼は小遣い稼ぎのための作り話ぐらいのつもりだったようだが、それを利用して集団訴訟を行なおうとした日本の弁護士が問題を拡大した。  
私が最初に金学順の話を聞いたときは「親に売られた」といい、訴状にもそう書かれていた。それが朝日新聞の報道のあとで「軍に連行された」という話にすり替わった経緯は今も不明だ。  
植村記者の義母は日本政府に対する慰安婦訴訟の原告団長だったので、彼の記事は訴訟を有利にするための捏造だった疑いもあるが、「女子挺身隊」という吉田の嘘を踏襲しているところから考えると、単純に吉田証言を信じてその「裏が取れた」と思い込んだ可能性もある。  
朝日新聞の取材に協力したのが、吉見義明氏(中央大学教授)である。彼の『従軍慰安婦』(岩波新書)は英訳されているため、海外ではこれが唯一の参考文献になっていることも誤解の原因である。  
吉見氏がこの問題を調査し始めたのは、朝日新聞が強制連行を報じたあとなので、最初から強制連行の証拠をさがすというバイアスが入っていた。前述の通達も誘拐を禁じる文書なのに、吉見氏がそれを誘拐の命令と誤読したことが混乱の原因になった。  
昨年、橋下徹大阪市長が「吉見氏も強制連行がないと認めた」と述べたのに対する吉見氏の抗議声明で「日本・朝鮮・台湾から女性たちを、略取・誘拐・人身売買により海外に連れて行くことは、当時においても犯罪でした。誘拐や人身売買も強制連行である、と私は述べています」と書いている。  
つまり彼は韓国では軍が慰安婦を拉致した実態がないことを認めた上で、民間人による誘拐や人身売買を「強制連行」と呼んでいるのだ。このように定義すれば、強制連行があったことは明らかで、政府も最初から認めている。つまり吉見氏と朝日新聞は、国家の責任問題を女性の人権問題にすり替えたのである。  
拙劣な政府の対応が世界に誤解を拡大した  
朝日新聞が火をつけた問題を決定的に大きくしたのが、政府の拙劣な対応だった。河野談話で「官憲等が直接これに加担したこともあった」と書いたのは、河野氏のブリーフィングによれば、インドネシアで起こった軍紀違反事件(スマラン事件)のことだ。これは末端の兵士が起こした強姦事件で、責任者はBC級戦犯として処罰された。  
ところが河野談話ではこの点を明記しなかったため、朝鮮半島でも官憲が強制連行したと解釈される結果になった。このように誤解を与える表現をとった原因を、石原信雄氏(当時の官房副長官)は、産経新聞の取材に答えて次のように明かしている。  
当時、韓国側は談話に慰安婦募集の強制性を盛り込むよう執拗に働きかける一方、「慰安婦の名誉の問題であり、個人補償は要求しない」と非公式に打診してきた。日本側は強制性を認めれば、韓国側も矛を収めるのではないかとの期待感を抱き、強制性を認めることを談話の発表前に韓国側に伝えた。  
強制を示す文書は出てこなかったのに、あたかも強制があったかのような曖昧な表現をとることで、外務省は韓国政府と政治決着しようとしたのだ。ところが結果的には、これが「日本は強制を認めた」と受け取られ、韓国メディアが騒いで収拾がつかなくなった。その後も国連人権委員会のクマラスワミ氏がまとめた報告書では、慰安婦を「性奴隷」と規定して日本政府に補償や関係者の処罰を迫ったが、その根拠が河野談話だった。  
政府は財団法人「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立して元慰安婦に「償い金」約13億円を渡し、歴代首相が「おわびの手紙」を送った。このように政府が「強制はなかったが悪かった」という態度表明を繰り返したため、世界に誤解が定着してしまったのだ。  
海外メディアが関心をもつようになったのはこの時期だから、彼らはそもそも慰安婦が「軍の奴隷狩り」として問題になった経緯を知らない。彼らにとっては最初から慰安婦は女性の人権問題なので、「強制連行はなかった」というのは言い訳としか映らない。元慰安婦が「私は強制連行された」と弁護士に教えられた通り答えると、何も証拠がなくても信じてしまう。  
私がNYタイムズ東京支局のタブチ・ヒロコ記者とこの件についてツイッターで会話したとき、私が「元慰安婦の話には証拠がない」というと、タブチ記者が「彼らが嘘つきだというんですか?」と反論したことが印象的だった。彼らにとっては慰安婦は被害者で日本軍は犯人なのだから、気の毒な被害者が嘘をつくはずがないのだ。  
このように自分の先入観を確証する事実しか見なくなる心理的な傾向を確証バイアスと呼ぶ。海外メディアは最初に「日本軍が大規模な人身売買を行なった」という誤解から入ったため、公権力の行使があったのかどうかという問題の所在を取り違え、慰安婦=人身売買=強制連行という図式で報道してきたのだ。  
必要なのは批判ではなく治療  
このように何を「慰安婦問題」と見るかによって、その答は違う。当初は軍が「慰安婦狩り」で誘拐したことが問題だった。たとえば第二次大戦末期のナチスには、親衛隊や強制収容所の看守のための国営売春施設があったといわれる。これは戦意昂揚のために親衛隊指導者のヒムラーが創設したもので、オーストリアのマウトハウゼン・グーゼン強制収容所をはじめ、12の強制収容所に売春施設があったとされる。  
日本軍がこのような組織的な国営売春を行なって女性を連行・監禁したとすれば、たとえ法的な賠償責任がなくても、日本政府は韓国政府に謝罪すべきだ。朝日新聞が最初に報じたのは、これに近いイメージだったから大事件に発展したのだ。  
ところが政府の調査でも、軍が連行したという証拠がまったく出てこない。単に文書がないというだけではなく、元慰安婦と自称する女性の(二転三転する)身の上話以外に、連行した兵士もそれを目撃した人も出てこないのだ。慰安婦の大部分は日本人だったが、その証言も出てこない。  
最近では吉見氏も、日本の植民地だった朝鮮や台湾から軍が女性を誘拐して海外に連れて行った事実は確認できないことを認めている。彼は「中国や東南アジアでは強制連行があった」というが、その証拠はスマラン事件の裁判記録しかない。これは軍紀違反として処罰されたのだから、むしろ日本軍が強制連行を禁じていた証拠である。  
このように少なくとも韓国については、日本軍が韓国から女性を連行した証拠はないというのは歴史家の合意であり、問題はこの事実をどう解釈するかである。吉見氏のように「民間業者による誘拐や人身売買も強制連行である」と定義すれば、それが一部で行なわれたことは事実だが、それは日本軍の責任ではない。  
ところがNYタイムズは「日本軍がアジアやヨーロッパの女性を強姦して奴隷にした」と書き、日本軍が主語になっている。彼らの表現は曖昧だが、日本軍が韓国女性を強制的に「性奴隷」にしたと考えているようだ。  
当初の吉田の話では、韓国女性を「奴隷狩り」したことになっていたのだが、それが嘘だとわかると、朝日新聞や吉見氏が「民間の人身売買も強制連行だ」と拡大解釈してごまかし、NYタイムズなど海外メディアがこれに追随したことが混乱の原因だ。アメリカ議会などの決議も、人身売買を非難しながら強制連行を問題にするのも矛盾している。日本軍が暴力で拉致したのなら、人身売買なんかする必要はない。  
日本政府が責任の所在を明確にしないまま河野談話で謝罪したのは、取り返しのつかない失敗だった。今ごろ「狭義の強制と広義の強制」などと言っても、言い訳がましくなるだけで世界に通じるとは思えない。アメリカ国務省の「日本が弁明しても立場はよくならない」という情勢認識は残念ながら正しい。  
こうした行き詰まりを打開する第一歩として、この問題が嘘と誤解と勘違いで生まれたことを海外メディアに理解してもらう必要がある。しかし彼らは「日本軍は凶悪な性犯罪者だ」という強迫観念にとりつかれた患者のようなものだから、「あなたの考えは間違っている」と批判しても効果はない。  
必要なのは、彼らのバイアスを自覚させる治療である。慰安婦問題がどのように発生し、どこで誤解が生まれ、どういう行き違いでここまで大問題になったのかという経緯を説明して、彼らに刷り込まれた先入観を解除することが相互理解の第一歩だろう。  
ブッシュに慰安婦問題で謝罪した安倍首相  3/16  
自称保守派の言論人が、慰安婦問題に関して、全然気づいていない安倍首相のミスがある。第1次安倍政権時代の2007年(平成15)4月27日、訪米した安倍首相とブッシュ大統領(当時)の共同記者会見で、「従軍慰安婦問題について、ブッシュ大統領に説明したのか。またこの問題について改めて調査を行ったり、謝罪をするつもりはあるのか」と質問されて、安倍はこう答えた。  
「自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と(議会で)述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した」  
続けてブッシュが言った。  
「私は安倍総理の謝罪を受け入れる。自分は、河野談話と安倍総理の数々の演説は非常に率直で、誠意があったと思う」  
ブッシュ大統領とアメリカ人は、この時点で安倍首相が「謝罪」したという認識なのである。  
7年前にこう謝罪したのに、第2次政権で河野談話の見直しができると安倍が思っていたこと自体がどうかしていたのだ。どうやら安倍は、上記の発言は「謝罪」ではないと本気で思っていたらしい。  
2010年(平成22)の対談で、安倍はこう言った。  
「私がアメリカで慰安婦問題について謝罪をしたと書いた新聞もありますが、私は謝罪なんかしていないんです。向こうで申し上げたのは、『20世紀は戦争の時代だったし、人権も抑圧されたことがある。日本も無関係でなかった。しかし21世紀はそうではない時代にしたいと我々も考えている』ということです」  
ではなぜブッシュが「安倍総理の謝罪を受け入れる」と言った時に「謝罪ではない」と言わなかったのか? 目の前で「謝罪を受け入れる」と言われて黙っていたのだ。全世界がこれを謝罪と受け取った。そう取らない者などいるわけがない。  
それを安倍は後になって「謝罪じゃないやい!」と駄々をこね、それが国際社会で通用すると思っていたのだ。  
安倍晋三のこういう空気を読まない感覚は、アメリカの真意が読めない、国際社会の評判が読めない感覚に繋がっており、日本国にとって案外リスクの高い人物であることを、知っておいた方がいい。 
安倍首相 ブッシュ米大統領(当時)に「慰安婦謝罪」の意外な真相  6/1  
「慰安婦謝罪」の意外な真相 (産経新聞 2013/5/23)  
筆者にも責任の一端があるため、この際きちんと整理しておきたい。安倍晋三首相が第一次政権時代の平成19年4月のブッシュ米大統領(当時)との会談で、慰安婦問題に関して大統領に「謝罪した」とメディアが一斉に報じ、いまなお国会などでこの問題が取り上げられる件についてだ。実はこの報道は誤解に基づいており、真相は異なった。  
きっかけは、会談後の共同記者会見で慰安婦問題について両首脳が、それぞれこう答えたことだった。  
首相「極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ない気持ちでいっぱいだ。20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と(米議会で)述べた。このような話を本日、大統領にも話した」  
大統領「私は安倍首相の謝罪を受け入れる」  
この場面を見たメディアは「慰安婦問題 大統領『謝罪受け入れ』」(産経新聞4月28日付)などと筆者も含めて書いた。だが、よく考えれば、そもそも論理的にヘンな話だっだ。  
元慰安婦に「申し訳ない気持ち」を抱くのはともかく、当事者でもない米大統領に謝るのは筋が通らない。疑問に思った筆者が5月1日の同行記者団との内政懇で「意味が分からない」と質問すると、首相は明確に謝罪を否定した。  
「米国に謝罪したということでは全くない。当たり前の話だ」  
メディアはこちらの発言はほとんど取り上げなかったが、首相は今月20日の参院決算委員会でも、改めて「私が大統領に申し訳ないという立場では全くない」と明言している。  
それならばなぜ、6年前の共同記者会見で大統領は「謝罪を受け入れる」と述べたのか。その後、首相本人を含む複数の関係者に取材して判明した事実は意外なものだった。首脳会談の冒頭で、大統領からこんな申し出があったのだ。  
「ミスターアベ、きょうは慰安婦問題と米国産牛肉の対日輸出の件は、話をしたことにしておこう」  
つまり、双方にとって難しい話題は実際は避けながら、対外的には協議した形をとりたいというわけだ。結局、慰安婦問題は話題にしなかったのに、質問を受けた大統領が適当に話を合わせようとして「なぜか『謝罪』と言っちゃった」(政府筋)のが真相だ。  
大統領は18年11月、ベトナムで日米韓3カ国首脳会談が行われた際にも事前に首相にこう持ちかけた。  
「面倒だから、盧武鉉韓国大統領とは朝鮮半島の話はしないでおこう」  
盧大統領と朝鮮半島情勢を議論すると、すぐに歴史問題を持ち出して対日批判を展開するので大統領はへきえきして避けたのだろう。首脳会談の機微を示すエピソードだ。  
こうした事情と外交的配慮もあってか、政府が今月17日に閣議決定した19年4月の日米首脳会談に関する答弁書は「ややこしい書きぶり」(首相周辺)だ。  
首相が慰安婦問題で大統領に謝罪や釈明をしたとは一切認めない一方、公式には「話をした」ことになっているため、「説明」は行ったことにした。その内容については、共同記者会見での首相発言(つまり議会での言葉)を引用した。  
以上、経緯を反省を込め記した。ともあれ、首相がいくら否定しても米大統領に「謝った」「屈服した」と信じたがる人が少なくないのは、日本人の対米認識・感情を考える上で興味深い。  
「河野洋平と朝日新聞を国会に喚問しろ」山際澄夫 (WiLL 2013/5/30 抜粋)  
安倍氏ほど「慰安婦」問題に熱心に取り組んだ首相はいない。「慰安婦」問題は、首相にとっては原点ともいうべき問題だからだ。総ての教科書に「従軍慰安婦」が掲載されるのに危機感を覚えて、中川昭一氏らと「日本の前途と歴史教育を考える会」をつくって河野談話否定に取り組んできたのである。  
第1次安倍政権では、「いわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする答弁書も閣議決定した。  
そんな首相にとって最大の誤算が、当時のブッシュ米大統領との日米首脳会談で「慰安婦」問題で謝罪をする羽目に追い込まれたことだった。  
安倍氏は、日米首脳会議では実際には「慰安婦」問題は論議されず、その後の共同記者会見でブッシュ大統領に「安倍首相の謝罪を受け入れる」と一方的に語られたものだと証言しているが、共同会見を見ると首相は「慰安婦の方々が非常に困難な状況で辛酸をなめられたことに対し、人間として首相として心から同情し、申し訳ない思いだ。20世紀は人権侵害の時代だった。21世紀を人権侵害のない素晴らしい世紀にするため、日本が貢献したいと大統領に話した」と述べている。  
首相としては一般的な人権問題を語ったつもりかもしれないが、否定しなかった以上、第3者からみれば謝罪したも同然だろう。これが結果的に、その後の「慰安婦」を「20世紀最大の人身売買」とする米議会でのマイク・ホンダ決議を許すことに繋がったといえなくもない。  
この決議によって米国では、「20万人もの女性が強制連行されて性奴隷にされた」というのが「慰安婦」に対する米メディアでの一般的な認識になってしまったのだから、悔やんでも悔やみきれない。  
いま、韓国系米国人によって米国内に「慰安婦」碑が相次いで建設されていることも、この決議と無縁ではない。決議には、日本が「慰安婦」問題で公式謝罪することが盛り込まれているが、「慰安婦」碑の建立は日本が謝罪していないことを理由にしているのである。(略)  
今回、中国、韓国は戦線をどんどん拡大させた。特に韓国は朴槿恵統領が米国でのオバマ大統領との首脳会談で「日本は正しい歴史認識を持たなければならない」と日本非難に踏み切った。 
中国の活発な首脳外交と「インド太平洋」の地政学 2013/11/14  
APEC、TPP、「ASEANプラス」首脳会議開催  
10月上旬、インドネシア・バリ島でアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議と環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉首脳会合、ブルネイで東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議をはじめ、日本・ASEAN首脳会議、ASEANプラス3(日中韓)首脳会議、東アジア首脳会議などの一連の「ASEANプラス」の首脳会議が開催された。  
その首尾はほぼ予想通りだった。APEC首脳会議はアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)実現をめざす方針を確認した。しかし、TPP交渉の首脳会合では「大筋合意」が見送られた。広く報道された通り、その一つの理由は、政府機関の一部閉鎖で米国のバラク・オバマ大統領がアジア歴訪を取りやめたことにあるだろう。一方、東アジア首脳会議はASEANを中心とする東アジア地域包括的経済連携(RCEP)交渉の早期実現で一致した。また、南シナ海の領有権問題について、中国とASEANの合意に基づいた「行動規範」の策定作業を「歓迎」するとともに、2002年の「行動宣言」の履行を重視することを強調した。(関連記事1)(関連記事2) (関連記事3) (関連記事4)  
中国の首脳外交は地政学を変えるか  
中国はこの前後、極めて活発に首脳外交を行った。習近平国家主席は10月2日、ジャカルタでインドネシアのスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領と会談し、軍事協力の強化で合意した。10月4日にはマレーシアでナジブ・ラザク首相と会談、ここでも軍事も含めた関係の強化で合意した。10月13〜15日には李克強首相がベトナムを訪問し、中越両国で南シナ海共同開発に関する協議のための作業グループを設置することで合意した。さらに李首相は10月23日、訪中したインドのマンモハン・シン首相と国境防衛協力協定に調印した。  
中国のこうした活発な首脳外交を見て、メディアでは、中国と東南アジア、インドの地政学的関係が変わりつつある、といったコメントが散見される。しかし、そういう結論を出すのはまだまだ早計である。南シナ海の領有権問題についても、それ以外の問題についても、中国がこれからも大国主義的に力によって現状変更を試みようとする限り、これに対応、対抗する動きがなくなることはない。  
ベトナムはカムラン湾に外国海軍艦船の補給・整備施設などをロシアと共同で建設しているほか、ロシアから潜水艦を購入し、潜水艦基地の建設も決めている。また、今回のAPECにあわせてバリ島で開かれた日越首脳会談で、安倍晋三首相とベトナムのチュオン・タン・サン国家主席は、海洋安全保障分野における連携推進で合意した。インドネシアは太平洋とインド洋を結ぶシーレーンの要衝であるスラウェシ島のパルに潜水艦基地を整備し、今年末から運用する。また、現有2隻の潜水艦を2024年までに10隻以上に増やすとともに、米国から攻撃用ヘリコプター8機を購入する計画である。インドは2012年にロシア製原子力潜水艦を配備し、今年8月には初の国産空母を進水させた。11月中には、ロシア製空母がインドに引き渡される。また、シン首相は10月下旬、モスクワでロシアのウラジミール・プーチン大統領と会談し、次世代戦闘機の共同開発推進など、軍事協力の一層の強化についても合意した。  
さらに、オバマ大統領が今回、アジア歴訪を取りやめたからといって、それで米国がアジア重視の戦略を転換するわけでもない。米国は「リバランス」の名の下、アジア太平洋地域における米軍のプレゼンス拡大のために、太平洋と大西洋に50対50の割合で展開する米海軍艦船の比率を2020年までには60対40とするとともに、攻撃型潜水艦、第5世代戦闘機、新型巡航ミサイルなどを新たにアジアに投入する予定である。これに伴い、米国は太平洋に展開する空母については6隻体制を維持し、対潜水艦戦能力などを備える沿岸海域戦闘艦(LCS)を配備しつつあり、また、太平洋地域における共同軍事演習、米艦船の各国への帰港なども増やしている。(関連記事)  
日本も、フィリピン、マレーシア、ベトナムに対し、巡視船供与など、海上保安機能の強化のための支援を行っている。これは「戦略的政府開発援助(ODA)」の一環として実施されており、2012年の米軍再編計画見直しに関する日米共同文書にアジア太平洋地域沿岸国に対するODAの「戦略的な活用」が明記されている通り、米国の「リバランス」と密接に連動している。  
アジア太平洋あるいは最近使われるようになった「インド太平洋(Indo-Pacific)」の地政学的変化を理解するには、こうした動きを見る必要がある。そうした観点からすれば、最近の中国の首脳外交は、2008年以降の中国の大国主義的行動が引き起こした問題に対する弥縫(びほう)策、またはダメージ・コントロールと考えた方がよい。  
日米、5年後に原発事故リスク評価統一基準  
日本経済新聞(10月31日付朝刊)によれば、日米両政府は原子力発電所の事故のリスクを評価する統一基準をつくるため、11月上旬に会合の予定という。東京電力福島第一原子力発電所の事故を教訓に、日米原子力協定に基づいて連携策を話し合い、2018年に協定の見直し期限が来ることに鑑み、5年後を目標に、津波、地震、火災など、原発事故をめぐるリスクの評価に数値基準を取り入れ、データの共有も目指すという。課題は「確率論的リスク評価(PRA)」の導入で、米国ではすでに1995年から活用されており、評価方法について米国政府との擦り合わせが済めば、今年7月に原子力規制委員会が定めた原発の規制基準もこれに照らして見直すことになるという。  
わたしはこれまで「論点」において、日本のエネルギー政策を原子力規制委員会が事実上決めていること、原子力発電所の安全性は日本特有の問題ではなく世界的課題であることを指摘してきた。ここでまた、そういう議論を繰り返すことはしない。しかし、次の一点は指摘しておきたい。原子力規制委員会設置法には、原子力規制委員会は「確立された国際的基準を踏まえて原子力利用における安全の確保を図るため必要な施策を策定」するとある。わたしとしては、PRAの導入時期は、5年後でなく、もっと早い方がよいと思うが、米国政府としても日本政府、特に原子力規制委員会の安全審査の動向が及ぼす世界的影響をずいぶん懸念したのであろう、こういう形で原子力発電所の安全基準が定められることは大いに歓迎である。 
暴走する隣国のドン 習近平、この男大丈夫!? 2013/11/25  
「戦争の準備をせよ」「逆らうものはタイホせよ!」「尊敬するのは毛沢東」  
中国共産党の重要会議「3中全会」を終え、革命に明け暮れた毛沢東路線をひた走る習近平主席。だが恐怖政治に不満が渦巻き、その影響は日本にも飛び火してくる。中国でいま何が起こっているのか。  
カリスマ歌手が突然消えた  
習近平政権の中長期の政策を決める「3中全会」(中国共産党第18期中央委員会第3回全体会議)が、11月9日から12日まで北京で開かれた。  
その最終日に採択されたコミュニケ(声明)に、「国家安全委員会」なる新組織の設立が盛り込まれたことが、内外の話題を呼んだ。コミュニケには、〈国家の安全体制と安全戦略を完全なものにするため、健全な公共安全システムを新設する〉と書かれている。  
取材にあたった産経新聞中国総局の矢板明夫特派員が解説する。  
「国家安全委員会は、習近平主席が、公安部や国家安全部など国内の警察・情報機関、及び人民解放軍を完全掌握するために新設する機関です。  
周知のように、3中全会直前の10月28日には天安門広場前で、また11月6日には山西省の共産党庁舎前で、2度の爆破テロが起こりました。習近平政権に対する国民の不満は、頂点に達しているということです。また3中全会に合わせて、全国から10万人が陳情のため北京へ押し寄せたという話も聞きました。  
そんな中、習近平は今後、弱者を切り捨て、富国強兵の道に突き進もうとしている。そうなると、知識人たちの激しい抵抗が予想されます。そこで国家安全委員会を創設し、逆らう者は迷わず拘束して、一罰百戒にしようという狙いなのです」  
実際、この夏以降、習近平政権による容赦ない知識人への弾圧が始まっている。一例を挙げれば、次の通りだ。  
・7月22日、若者のカリスマである女性歌手・呉虹飛が、身に覚えのない国家騒乱罪で逮捕された。呉虹飛はそのまま、北京市朝陽区の拘置所に、11日間も勾留された。呉虹飛が突然、失踪したことで、ファンたちが騒ぎ出し、ようやく拘束を解かれた。ゲッソリして帰宅した呉虹飛は、拘置所に自分と同様の逮捕者が約20人もいたことを明かした。  
・8月24日、広州一の人気紙『新快報』の劉虎記者が、「馬正其・国家工商総局副局長が重慶市の幹部時代に多額の賄賂を受け取っていた」と書いたことで、社会紊乱罪が適用されて逮捕された。10月19日には、同紙の陳永洲記者が、湖南省の国有企業「中聯重科」の批判記事を書いたとして、「商業名誉毀損罪」で逮捕された。  
・8月25日、著名な慈善家の薛蛮子氏が、突然逮捕された。薛蛮子氏は、米シリコンバレーでIT企業「UTスターコム」を立ち上げて大成功を収めた後、帰国。「多発する幼児誘拐事件は中国の恥だ」として、自らのミニブログを使って、誘拐された子供たちの救援活動を行っていた。ミニブログのフォロワーは、逮捕時の段階で1202万2924人に達し、歯に衣を着せない政府批判で知られていた。  
・9月13日、やはりミニブログで1000万人以上のフォロワーを持つ投資家の王功権氏が、公共秩序紊乱罪で逮捕された。かつて「北京の不動産王」と言われた王功権氏もまた、政府を恐れない大胆な風刺詩をネット上に発表することで人気を博していた。  
日本を悪者にする  
前出の矢板特派員が語る。  
「3中全会を終えた習近平は、毛沢東と同様の手段で国民を統制するつもりです。つまり、中国国内で意見を主張できるのは自分だけという体制を作ろうとしているのです。だから知識人がモノを言えばすぐに捕まえる。  
だが、二世政治家の習近平には、毛沢東のようなカリスマ性はないし、いまはインターネットもあって前世紀とは時代が違う。そのため、国民の反発がエスカレートし、暴動となり手がつけられなくなる可能性があります」  
在中国ドイツ大使館の外交官も、次のように嘆く。  
「私が得ている情報では、中国はインターネット警察官の採用を増やしていて、いまの2倍の100万人態勢を目指しているようです。一体こんなことをして何になるのでしょう? 中国政府は日本に対して、『ナチス時代の反省を繰り返すドイツに学べ』と喧しいが、ドイツに学ぶべきは中国の方でしょう。旧東ドイツはシュタージ(秘密警察)が10万人以上に膨れ上がり、その重みに耐え切れなくなって崩壊したのですから」  
実際、市民の間では、習近平政権に対する失望感が溢れている。  
「3中全会のコミュニケは、『改革』という言葉を59回も並べただけの空疎なものでした。国民が期待していた国有企業の独占禁止や民営化、農地売買の自由といった諸政策は、ことごとく骨抜きにされたのです。この絶望的なコミュニケを見た国民は、ガックリです」  
11月6日には、北京経済管理職業学院国際貿易学部の王錚副教授が、収賄の罪で無期懲役刑が確定している薄煕来元中央政治局員を終身主席とする「中国至憲党」の結党を宣言。習近平政権に、憲法に定めた結社や表現の自由を守るよう求めた。王副教授は直ちに当局に拘束された模様だ。  
このように、習近平の恐怖政治が始まった中国は、不安定な情勢だ。  
そうなると、気になるのが日中関係だ。周知のように昨年9月に日本が尖閣諸島を国有化して以降、中国とは険悪な関係が続いている。習近平主席は、中南海の会議などで、「日本が国有化を撤回しない限り、友好関係は築かない」として、強硬姿勢を貫いているという。前出の矢板特派員が続ける。  
「習近平は、国内問題がいよいよ対応不能になった場合は、独裁者の常として、近隣諸国を悪者に仕立てようとするでしょう。すなわち、尖閣問題を再燃させるのです。  
具体的には、人民解放軍の艦艇を繰り出し、海上保安庁の巡視船に対して、『直ちにわが国の領海から出なければ攻撃する』と威嚇します。すると、中国との衝突を恐れるいまの日本は、引いてしまう可能性が高い。尖閣における日本の支配を崩せば、習近平は国民的ヒーローとなり、政権の求心力は一気に高まるというわけです」  
実際、3中全会のコミュニケにも、次のような不気味な記述が見られる。  
〈戦争ができ、戦争をすれば勝利する強軍の目標を定め、中国の特色ある現代的な軍事力のシステムを構築する〉  
習近平主席は、昨年12月に広東軍区を視察した際、艦艇に乗って、この言葉を強調した。以来、軍関連の視察を行うたびに、必ずこの訓話を述べている。これは、近未来の日本との戦闘に備えよという意味なのか。  
折しも、11月13日の中国外交部の定例会見では、日本人記者が、「国家安全委員会は、安倍政権が設立を目指している国家安全保障会議を意識したものなのか」と質問した。すると秦剛報道局長は、次のように答えたのだった。  
「国家安全委員会の設置は明らかに、テロ組織や国家の分裂主義者、カルト集団たちを緊張させた。日本も、その部類に入りたいのか?」  
マーケットは失望した  
ところで、3中全会のコミュニケは、中国の経済界を大いに失望させた。  
上海浦東新区の証券取引所近くに店舗を構える、中国の大手証券会社幹部が、肩を落として語る。  
「3中全会を終えた翌13日朝から、株価の下落が止まらず、上海総合株価指数は、あっという間に2100を切ってしまいました。結局、終値で前日より1・82%もの暴落となりました。習近平主席は、正直言って完全に疫病神です」  
証券会社幹部の恨み節は続く。  
「実はこれで5度目の習近平暴落≠ネのです。1回目は、'07年10月の第17回共産党大会で、当時の胡錦濤主席の後継者が、習近平に事実上決定した時でした。それまで6429ポイントという史上最高値をつけていた上海総合株価指数は、『経済オンチがトップに就く』ということで、急降下を始めたのです。  
2回目は、昨年11月の第18回共産党大会で習近平が党トップの総書記に就任した時で、ついに上海総合株価指数が2000ポイントを割りました。3回目は今年3月に、習近平が国家主席に選出された時で、一日で3・65%もの大暴落です。  
4回目が、習近平が還暦の誕生日を祝った今年6月。そして5回目が、今回の『3中全会』が終わった翌日です。習近平にとっての重要な節目ごとに株価が暴落するのは、彼が中国経済をダメにする疫病神と見られているからに他なりません」  
同じく3中全会の取材を行った中国人ジャーナリストの李大音氏によれば、政権内部でも、習近平主席への不満が渦巻いているという。  
「習近平主席は中国という国を、尊敬する毛沢東主席のガチガチの社会主義時代に戻したい。一方、ナンバー2の李克強首相は、中国を西側先進国のような資本主義体制に変えたい。この両者が、ガチンコでぶつかったのが、今回の3中全会でした。  
李克強首相は、政府のシンクタンクである国務院発展研究センターに、『383方案』と呼ばれる新たな開放政策を出させたり、『市場経済の父』と呼ばれる経済学者の呉敬lに『政治の民主化』を叫ばせたりしました。また、3中全会の初日には、秘密会議の自分の演説を、わざわざテレビで生中継させることまでしたのです」  
結局、このナンバー1vs.ナンバー2の権力闘争は、最高権力者の習近平が押し切ってしまった。  
「コミュニケでは、『社会主義』という単語が28回も連発されました。また、『社会主義文化強国』という単語が現れました。これは、5000万人もの犠牲者を出した毛沢東時代末期の文化大革命を想起させます。  
そんな中で、李克強首相が唱えていた経済改革『リコノミクス』など、どこかへ消し飛んでしまったのです。まさに、改革派の完敗です」(李記者)  
バブルは終わった  
だが、こうした「改革派の敗北」は、すでに9月の時点で、その予兆が出ていたという。李記者が続ける。  
「李克強首相は、毛沢東亡き後、中国の最高指導者となって改革開放政策を指揮したケ小平を尊敬していて、『現代のケ小平』になりたい。そこで、かつてケ小平が始めた深圳経済特区のマネをして、上海に自由貿易区を作りました。  
そして、9月29日に行われた自由貿易区の除幕式に出席すべく、上海へ出張に行きました。しかし習近平主席は、自らが昨年末に定めた贅沢禁止令に違反するとして、李首相の除幕式参加を禁止したのです。  
そのため李首相は、北京へトンボ返りせざるを得ませんでした。首相としての面目は丸潰れです。しかも李首相は帰郷するや、9月30日の国慶節の祝賀パーティで、今度は読みたくもない社会主義色あふれる習近平主席の祝賀メッセージを代読させられたのです。明らかに不機嫌顔でした」  
このような体たらくなので、李首相自ら音頭を取って、大々的に上海自由貿易区への外資系銀行の誘致を図ったにもかかわらず、これに応じたのは、米シティバンクとシンガポール開発銀行だけだった。上海にそれぞれ1000人以上ものスタッフを置いている大手邦銀各行も、とりあえずは様子見の状態だ。  
3中全会の「不本意な結果」を受けて、中国の不動産バブルの崩壊も懸念され始めた。中国初の国策投資会社である中国国際金融有限公司は11月11日、「まもなく不動産バブルが崩壊し、来年は7%成長が不可能になるかもしれない」という緊急声明を発表した。  
BTT大学の田代秀敏教授が語る。  
「日本はかつて、不動産バブルが崩壊したことによって、『失われた20年』となりました。いま中国経済がクラッシュしたら、中国で稼いでいる『ユニクロ』のファーストリテイリングを始め、中国で稼いでいる数多くの日本企業は甚大な損失が出ます。そうなれば日本の税収も減り、国債や年金など多方面に影響が出てきます」  
習近平主席の危険な政権運営は、日本も対岸の火事では済まないのである。 
2014年  
韓国に謝罪せよという村山氏の呼びかけに、安倍首相は従うだろうか? 2/12  
村山富市元首相は韓国の議会で演説したなかで、日本の安倍首相が、第2次世界大戦中の日本軍の犯罪を認めた独自の声明に即した行動をとることを希望する発言を行った。  
1995年、当時、社会党党首から連立内閣の首相となった村山氏は、第2次世界大戦中に日本軍が行った犯罪および、韓国の植民地化を行ったことについて謝罪した。当時、日本の多くの人にとってこの認識は大きなショックを与えるものにうつったが、その代わりこれによって1998年に採択された日韓の首脳らによって和解と協力の共同宣言への道が開かれた。確かに、村山氏のあと、安倍晋三氏も含め、複数の日本人政治家らが日本側から過去の過ちとアジアの民族の前に行った罪を謝罪する必要性を口にしたが、それでも「平和の道」を歩いていくことは容易いことではなかった。  
韓国では、こうした謝罪では不十分だ、これは実のこもったものではない、占領と韓国人女性の従軍慰安婦に対する損害賠償を支払うべきだという声明が盛んに出されていた。歴史の正義を回復しようとする韓国人活動家らにインスピレーションを与えたのはユダヤ人だったと思われる。ユダヤ人らはドイツからホロコーストの犠牲者に対する多額の賠償金を得ただけでなく、ナチズムを肯定するあらゆる試みに対し、刑事事件として訴追する法を制定させた。  
だが、「より心のこもった」謝罪とより多額の賠償金を得ようとする韓国の執拗な試みは日本国内に苛立ちを呼んだ。なんど謝罪し、どれだけ払ったら気が済むのだ?という発言が出されたのは国粋主義者の間からだけではない。インテリ、ジャーナリストらからも「慰安婦は自発的に働いたのであり、それに対する報酬も受け取ったのだ」というような批判が聞かれもした。日本は朝鮮を併合し、より発展した農業メソッドを導入し、朝鮮産業の発展を促し、道路をつくり、朝鮮人の若者には日本で大学教育を受ける権利まで与えたのだ。だから日本は謝ることは何もない。  
もちろんこうした批判は韓国内で嵐のような憤りを呼び、新たに謝罪と賠償を要求する声が上げられた。  
一部にはまさにこれが原因で、日本国内で「日本固有の」領土、竹島を返還せよという要求があげられるようになってしまった。  
互いに繰り広げるクレーム合戦が二国間防衛協力拡大についての、また中国を加えた三国の自由貿易ゾーンの創設についての日韓交渉を著しく複雑化させた。  
今日村山氏が安倍首相に対し、アジアに対する罪を認めるよう呼びかけたことは、韓国の議会、社会からの支持を受けた。安倍氏自身も韓国と未来を見据えた関係を構築するためであれば、こうした懺悔を十分行なうかまえであっただろう。韓国との関係は安倍氏にとっては、日本をますます脅威と捉え始めている中国との、最高レベルでの対話を開く期待を失ってしまったことから、より重要なものとなっている。それを証拠付けるのは、安倍氏の靖国神社参拝が中国のみならず、韓国にも憤りを呼んだ点だろう。参拝には米国、ロシアも批判の声を上げた。  
靖国神社参拝とそれに対する中国、韓国の反応は今、将来に主眼をすえた関係修復をという村山氏のよびかけに応じることが簡単にはいかないことを表している。これは日本側からも、韓国側からも妥協の準備を求めるものだ。過去の事実を認めろという村山氏の発言を文字通り捉えれば、日本人は竹島の返還要求を引き下げねばならなくなる。というのはこの島が韓国の管轄に移行したのは「過去の事実」であるからだ。それにこれは現在に事実でもある。ついでに言えば「北方領土」、つまり南クリル諸島がロシアの管轄に移行したことも同じだ。  
村山ロジックに従うと、韓国人もおそらく、歴史の財産、日本の占領とそれに付随したものを認め、謝罪と慰謝料請求を引っ込めざるをえなくなる。日本と韓国がこうした歩みを進めるならば、日本側には中国との尖閣諸島(釣魚諸島)についての交渉に論拠が現れるはずなのだが。  
とはいえ、率直に言えば、これを期待するのは望み薄だ。 
「集団的自衛権行使は合憲」砂川判決、根拠は「暴論」 4/17  
厚い扉を開く鍵か、それとも「我田引水」の典型か。これまで違憲とされてきた集団的自衛権行使を巡る議論で、安倍晋三首相らが砂川事件最高裁判決(1959年)を根拠として「行使は合憲」と主張し始めた。だが法曹界を訪ね歩くと、一国の宰相が唱えるにはどうにもお寒い「新解釈」のような−−。  
「徹頭徹尾『個別的』の話」 判例「好き勝手に読み替えできない」  
「砂川判決が集団的自衛権を否定していないことははっきりしています」。8日、民放BSの番組に出演した安倍首相、集団的自衛権への考えをキャスターに問われ「砂川事件最高裁判決から見ても違憲ではない」との持論を早口で展開した。  
砂川事件。少なからずの人が「ハテ何だっけ?」と首をかしげたのではないか。おさらいしておこう。57年に東京都砂川町(現・立川市)の駐留米軍基地拡張に反対するデモ隊が基地内に立ち入り、メンバーが日米安保条約に基づく刑事特別法違反罪で起訴された事件のことだ。  
裁判では駐留米軍の存在と戦力不保持を定めた憲法9条2項との整合性、つまり事実上「日米安保の合憲性」が問われた。59年3月の1審判決は「米軍の駐留は違憲」と無罪を言い渡したが、同年12月の最高裁判決は「わが国が存立を全うするために必要な自衛のための措置をとることは国家固有の権能として当然」と、米軍駐留や日米安保は必要な自衛措置であり合憲と判断。1審判決を破棄した。  
安倍首相が判決を引用して強調するのは、「必要な自衛措置」に自国への武力攻撃に対処する個別的自衛権だけでなく、他国への攻撃を日本が阻止できる集団的自衛権も含まれる−−という点だ。  
「全く理解できません。砂川判決からは集団的自衛権が合憲だという結論はとても導き出せない」。苦笑いするのは憲法学が専門の長谷部恭男早稲田大教授だ。昨年11月の衆院国家安全保障特別委で特定秘密保護法について「特別な保護に値する秘密を政府が保有している場合は、漏えいが起こらないよう対処することは必要」と賛成意見を表明し、一部から「御用学者」などと批判された。  
その長谷部さん、「判決文を見れば実に単純な話です」と続ける。憲法の平和主義は日本を守るための自衛権を否定していない。ただし9条2項があり、2項が指すような戦力は持つことができない。すると日本の平和と安全を維持するために必要な防衛力が不足する。これを補うために外国に安全保障を求めることまでは9条は禁じていない。だから日米安保に基づく米軍駐留は戦力に当たらず違憲ではない−−判決には、そうとしか書いていないというのだ。「徹頭徹尾、日本を守るための個別的自衛権がテーマであり、米国など他国への武力攻撃に対処する集団的自衛権とは何ら関係ない話なんです。集団的自衛権を否定する文言はありませんが、だから『否定していないことははっきりしている』と言われても……」。ちなみにこのような砂川判決の“解釈”は「私は聞いたことがありません。まともに反論したり、議論したりすることが恥ずかしくなるほどの暴論です」と首を振った。  
もともと「砂川判決=集団的自衛権行使容認論」を自民党内で最初に言い出したのは高村正彦副総裁だ。3月31日の党安全保障法制整備推進本部の初会合で「判決は個別的、集団的という区別はせず、固有の権利として自衛権を持っていると言っている。必要最小限(の武力行使)には集団的自衛権に入るものはある」と講演。安倍首相の主張はこの見解に沿ったものだ。  
高村氏は弁護士でもある。日本弁護士連合会の憲法委員会副委員長を務める伊藤真弁護士は「政治家以前に、弁護士としてあり得ない発言です」と切り捨てる。安倍氏も高村氏も判決や判例の読み方自体が間違っている、と続けるのだ。  
「判決や判例はある事件に対してこのような判断が下された、とセットで考えることが前提です。あるフレーズや言葉だけを取り出して一般化し、好き勝手に読み替えることはできない。砂川判決で語られている自衛権が『個別的とか集団的とか区別されていない』などと拡大解釈するのは無理です」。最高裁判決が集団的自衛権行使容認を意図したものでないことは、2カ月後に岸信介首相が国会で「集団的自衛権は憲法上許されない」と答弁したことからも明らかだという。  
高村氏らの見解は「高村さんらが唐突に思いついたものではなく西修・駒沢大名誉教授の影響だ」(自民党ベテラン議員)との見方が永田町で広がっている。西氏は第1次政権時から安倍氏の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)のメンバーで、唯一の憲法専門家だ。  
日本は砂川判決の3年前に国連加盟したが、国連憲章51条では「個別的、集団的自衛権は固有の権利」とされている。このことから西氏は「砂川判決が言う自衛権も当然、双方が含まれると解すべきだ」と主張し、高村氏も「砂川判決に国連憲章が視野に入っていなかったということは考えられない」と自身のブログで述べている。  
伊藤さんは「砂川判決を書いた最高裁判事も51条を把握していたことは間違いない。しかし、判事が意識したことと、判決が集団的自衛権を認めているかという議論は全く別です」と言う。長谷部さんも「条約に類する国連憲章より憲法が上位だと考えるのが通説。そもそも国連憲章を前面に出すなら砂川判決を言い出す必要はない」。連立を組む公明党も、弁護士出身の山口那津男代表や北側一雄副代表から「論理に飛躍がある」と疑問視する声が相次ぐ。  
ではなぜ今、異端とも言える考えが浮上したのか。前出のベテラン議員は「年末の日米防衛協力指針(ガイドライン)改定に集団的自衛権行使を反映させたい、という焦りもあるが、行使容認に踏み切って米国への一方的な依存を是正し、『戦後レジーム脱却』の一歩にしたいというのが本音だろう。支持率の高い今やるしかないと、なりふり構っていられないのだろう」と皮肉る。  
伊藤さんは「改憲して行使を容認したいが、改憲要件を定めた96条を緩めようとしても世論の反発が強くうまくいかない。憲法解釈を変えればまた立憲主義の否定だと批判される。ならば最高裁判決だ、と。こんな猫の目のようなことをやっていては国民の視線はますます冷めてしまうでしょう」と手厳しい。  
歴代政権や法曹界が積み上げてきた見識とかけ離れた論理を展開する安倍政権。集団的自衛権行使が是か非か、という以前の問題ではないか。 
河野談話の政府検証 6/21  
河野談話作成過程等に関する検討チーム / 検討会における検討  
1 検討の背景  
(1)河野談話については、2014年2月20日の衆議院予算委員会において、石原信雄元官房副長官より、(1)河野談話の根拠とされる元慰安婦の聞き取り調査結果について、裏付け調査は行っていない(2)河野談話の作成過程で韓国側との意見のすり合わせがあった可能性がある(3)河野談話の発表により、いったん決着した日韓間の過去の問題が最近になり再び韓国政府から提起される状況を見て、当時の日本政府の善意が生かされておらず非常に残念である旨の証言があった。  
(2)同証言を受け、国会での質疑において、菅官房長官は、河野談話の作成過程について、実態を把握し、それを然るべき形で明らかにすべきと考えていると答弁したところである。  
(3)以上を背景に、慰安婦問題に関して、河野談話作成過程における韓国とのやりとりを中心に、その後の後続措置であるアジア女性基金までの一連の過程について、実態の把握を行うこととした。したがって、検討チームにおいては、慰安婦問題の歴史的事実そのものを把握するための調査・検討は行っていない。  
2 会合の開催状況  
2014年4月25日(金)準備会合 / 5月14日(水)第1回会合 / 5月30日(金)第2回会合 / 6月6日(金)第3回会合 / 6月10日(火)第4回会合  
3 検討チームのメンバー  
秘密保全を確保する観点から、検討チームのメンバーは、非常勤の国家公務員に発令の上、関連の資料を閲覧した。  
弁護士(元検事総長) 但木敬一(座長) / 亜細亜大学国際関係学部教授 秋月弘子 / 元アジア女性基金理事、ジャーナリスト 有馬真喜子 / 早稲田大学法学学術院教授 河野真理子 / 現代史家 秦郁彦  
4 検討の対象期間  
慰安婦問題が日韓間の懸案となった1990年代前半から、アジア女性基金の韓国での事業終了までを対象期間とした。  
5 検討の手法  
(1)河野談話にいたるまでの政府調査および河野談話発表にいたる事務を当時の内閣官房内閣外政審議室(以下「内閣外政審議室」)で行っていたところ、これを継承する内閣官房副長官補室が保有する慰安婦問題に関連する一連の文書、ならびに、外務省が保有する日韓間のやり取りを中心とした慰安婦問題に関する一連の文書および後続措置であるアジア女性基金に関する一連の文書を対象として検討が行われた。  
(2)秘密保全を確保するとの前提の下、当時の政府が行った元慰安婦や元軍人等関係者からの聞き取り調査も検証チームのメンバーの閲覧に供された。また、検討の過程において、文書に基づく検討を補充するために、元慰安婦からの聞き取り調査を担当した当時の政府職員からのヒアリングが内閣官房により実施された。  
(3)検討にあたっては、内閣官房および外務省から検討チームの閲覧に供された上記(1)の文書ならびに(2)の聞き取り調査およびヒアリング結果に基づき、事実関係の把握、および客観的な一連の過程の確認が行われた。  
6 検討チームの検討結果  
検討チームの指示の下で、検討対象となった文書等に基づき、政府の事務当局において事実関係を取りまとめた資料は別添のとおりである。検討チームとして、今回の検討作業を通じて閲覧した文書等に基づく限り、その内容が妥当なものであると判断した。 
河野談話検証で手詰まりとなった日韓両国 2014/6/29
河野談話検証の評価  
2014年6月20日、日本政府は『慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯 〜河野談話作成からアジア女性基金まで〜』を発表した。いわゆる「河野談話の検証結果」である。  
この報告書を検証するための資料は外交文書扱いということで公開されていない。そのためこの文書を直接我々は検証できないが、談話を発表した河野氏自身が正しいと発言していることから、妥当な内容だと思われる。  
河野洋平元衆院議長は21日、山口市内で講演し、いわゆる従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官談話の作成過程を検証した政府の報告書について、「足すべきものはなく、正しく全て書かれている。引くべきこともない」と述べ、検証結果は妥当だとの考えを示した。  
それに対する反応だが、日本国内では政治的ポジションによって完全に分かれ、関係国(韓国、アメリカ)もそれぞれ全く違う反応をみせている。  
(1) 慰安婦は売春婦であり慰安婦問題は捏造から生じたという立場  
この立場の代表的な意見として、古森義久氏のJBPressでの『慰安婦問題「濡れ衣」の元凶は誰か』をあげておく。この機会に河野談話を見直すべきだと主張している。  
慰安婦についての河野談話を検証する有識者の新報告は、不当な非難によって日本が国際的にいかに傷つけられてきたかを改めて浮かび上がらせた。戦時の日本の官憲が組織的に女性たちを無理やりに連行するという「強制」はなかったことが裏づけられたからだ。  
(2) 河野談話の見直しに反対する立場  
この立場の代表的意見として、日本共産党の赤旗から以下の記事を引用しておきたい。  
日本が「自主的に河野談話を作成した」ということを明示したことを評価し、河野談話を見直さないという方針を評価している。  
報告書は、談話作成時に韓国側と文言調整したが、「それまでに行った調査を踏まえた事実関係を歪めることのない範囲で、韓国政府の意向・要望については受け入れられるものは受け入れ、受け入れられないものは拒否する姿勢で調整した」として、日本側が自主的に行ったとの見方を指摘。作成過程については「その内容が妥当なものであると判断した」と明記しています。  
(3) 韓国(および日本国内の韓国の主張に対してシンパシーを持ったり主張の正当性を認める人)  
予想されたこととはいえ、韓国はこの検証そのものに強く反発している。日本国内の韓国の主張に対してシンパシーや主張の正当性を認める人も同様の反応を示す。  
2014.7.2 当初、韓国(および日本国内の韓国シンパ)としていたが、韓国シンパが粗雑な言葉だという指摘があったので、日本国内の韓国の主張に対してシンパシーを持ったり主張の正当性を認める人と表現を変更した。  
韓国外交省の趙太庸(チョテヨン)・第1次官は23日、別所浩郎・駐韓国大使を呼び、安倍政権が公表した河野談話の検証結果について抗議した。韓国側は「強制性を認めた談話を無力化させようとしている」と分析。今後、慰安婦の実態に関する白書を発行するなど国際社会への訴えを強める方針だ。  
河野談話検証に対抗する目的だと思うが、韓国は外務省ホームページで従軍慰安婦の証言動画を公開した。  
政府は、いわゆる従軍慰安婦の問題を巡って謝罪と反省を示した平成5年の河野官房長官談話について、20日、談話の作成に当たって韓国側と事前に綿密に調整していたなどとした有識者による検討結果を公表しました。  
これに対して、「政治的妥協の産物だと印象づけて談話の価値をおとしめている」などと反発している韓国政府は、27日夜、元慰安婦だとする女性らの証言などからなる英語のドキュメンタリー作品2つを韓国外務省のホームページに掲載しました。  
(4) アメリカ(政府)  
一方アメリカは、河野談話を維持するという日本の決定を支持しつつも、河野談話や従軍慰安婦などの問題について、日韓双方から距離を置き、日韓の対話を促す立場をとっている。  
この問題についてアメリカ政府は、談話を継承するという安倍政権の方針を支持する姿勢を示しており、今回の会談でバーンズ副長官は、韓国側に対し、対話を通じて問題の解決を図るべきだというアメリカの立場を伝えたものとみられます。  
正直言って、どの立場、どの国も、予定調和的反応だと思う。口悪く言えば、新鮮味がなく面白みがない。つまり、この河野談話検証は、衝撃の事実などないインパクトに乏しいものだったということだろう。*1
慰安婦問題の構造  
私は、慰安婦問題の本質は「戦時における性暴力の廃絶」という世界がいまだ解決できていない人道上の難問題だと考えている。  
しかし、今、現実に我々の目の前に存在している慰安婦問題は、  
•人道上の問題を盾に日本に対して外交上の成果をあげようとする韓国政府  
•韓国のナショナリズムを背景に、数の力を武器にしてアメリカ社会に日本批判の世論を作ろうとする韓国系社会  
•韓国系ロビーに呼応し韓国の主張をそのまま主張するアメリカの議員団  
と、アメリカを巻き込んだ政治・外交問題となっている。  
その状況に対し、  
•慰安婦は売春婦であり韓国から不当な非難を浴びていると批判する国内のグループ  
が強く反発し、韓国からの慰安婦問題に関する日本非難の根拠となっている『河野談話』を見直すよう安倍政権に圧力をかけた。安倍政権もそのようなグループ(ナショナリスト)の政治的支持を政権運営上必要としているし、安倍首相自身も『河野談話』に強く疑問を持っていることから、今回の検証は行われることになった。  
ここにあるのは、人道問題という本質はとうの昔にどこかへ行ってしまい、日本も韓国も両国とも、この問題を国内政治と外交の問題として捉えているという構図だ。両国政府は建前上この問題を人道問題としているが、そんな言葉は空虚にひびく。それが現実だ。
慰安婦問題を解決できるのか  
最善の方策=政治問題を完全に分離し人道問題として解決を図る  
慰安婦問題を解決する最善の方策は、慰安婦問題の原点に立ち返り、政治問題を完全に分離した上で、人道問題として解決を図ることだというのは、異論がないのではないかと思う。但し、この方策の実現可能性は?と問われると、実現可能性は限りなくゼロに近いとしかいいようがない。  
その理由を端的にいえば、韓国の立場としては、「現在韓国が主張していることは人道問題であって政治問題ではない」という主張を韓国は撤回できず(撤回は朴大統領の政治的な死を意味する)、政治問題ではないという立場に立てばそもそも分離すべき政治問題などないからだ。そうすると、日本の立場としては、「韓国の日本に対する請求権は完全かつ最終的に解決された」という条約に基づいた立場を続けるだけになる。  
私の国際関係の分析は現実主義(リアリズム)によるものを基本にしている。この考えの基本になるのは、国益であり、プラグマティック(実利主義的)な考え方だ。  
実利主義的に考えれば、実現可能性がない方策を追い求めるのは無意味だ。前述の通り、慰安婦問題を純粋な人道問題として解決するのは不可能になっている。だからその試みはもう行われないし、もし万が一、なにかの拍子にその試みが行われてもそれは徒労に終わるだろう。*2  
次善の方策=政治問題と割り切って解決を図る  
日韓両国が、慰安婦問題をプラグマティックな政治問題だと割り切ってしまえば、慰安婦問題解決に向けた微かな道のりが見えてくる。  
その場合、目指すのは、日韓両国の国益の許す範囲内での妥協だからだ。  
日韓双方の主張は、大きく相違しているだけに、妥協がなりたつのか?という点は確かに疑問符がつくが、それでも全く可能性ゼロとも思わない。  
なお、この方策は、アメリカ政府の立場=「対話を通じて問題の解決を図るべきだ」と同じだと思う。この方策の可能性がゼロではないと思う理由のひとつが、日韓の調停者としてのアメリカ政府の存在があるからだ。*3
慰安婦問題の解決を阻害するもの  
日韓両国のナショナリズム  
ひとつは、日韓両国のナショナリズムだ。  
韓国のナショナリズムは、「旧日本軍によって行われた性暴力の賠償を求めるのは当然だ」という被害者の正義に基づく。  
日本のナショナリズムは、「慰安婦は当時許容されていた売春婦制度であって現在の基準で性暴力扱いするのは不当だ」とか「条約によって請求権がなくなったものを何度も求めるのは不当だ」とか「当時の軍の強制が証明されない以上、国としての賠償はできない」とか、法の正義というべきものに基づいている。でも、本音レベルでいえば、「性暴力は日本だって受けたし、後日韓国だってやった。なぜ日本だけが責められるのか」という不公正に対する反発という弱者の正義に基づいていると考えるべきかもしれない。  
後述するが、どれが正しいかいうメルクマール(基準)を私たちプラグマティックな現実主義者は重視しない。この場合、日本と韓国のナショナリズムのどちらがより正しいかという判断はしない。  
複数の立場で複数の正義が主張され、その正義同士が真っ向からぶつかるという状況は、国際関係では別にめずらしいことではないし、逆に国際関係で問題になっているものは、ほとんど全てそれぞれがそれぞれの正義を主張しているといっても過言ではない。*4  
私たち現実主義者は、そのような主張がぶつかっている状態で、何が正しいかというアプローチが紛争を解決しないことを知っている。正しさを競い合っても、問題はこじれていくばかりだ。  
非妥協的なリベラル、マスコミ  
一方、人道上の解決を強く訴える人たち(その主張はリベラル的なもの)の中で、非妥協的な人もいる。こういった人たちも、解決策が不完全であるからと言う理由で、慰安婦問題の政治的解決を阻害する。  
特にいわゆる韓国から「良識的」と評価されるマスコミは、解決よりも批判を優先する。  
すでに経済状態も厳しく、フラストレーションがたまっている日本国民にとっては、「100%満足のいくものではないかもしれなけれど、真摯に謝り、精一杯の誠意を示した。なのに、ゼロ回答か…」という失望感が広がりました。そこから、「中韓に謝ってもいいことない。かえって居丈高な態度をとられるじゃないか。欧米もなんだ。自分たちだって植民地支配をしていたし、性の問題で後ろめたいことがあるのに、善人ぶってお説教か」という怒りが出てきた。  
この怒りは、正当なものだと思います。日本の有力なメディアも、政治家も、私たち専門家も、そういう国民の思いを、韓国や中国や欧米に伝えることを怠ってきました。特に、政府の責任は大きいと思います。担当者は、自分が担当している期間は波風立てたくないと、首をすくめて嵐が過ぎるのを待つだけ。「私たちはここまでやってきたんだから、堂々と発信して、韓国のメディアとも戦いましょう」と何十回言ってもダメでした。  
日本のいわゆる「良識的な」メディアも、韓国のメディアの問題点は、まったく取り上げない。むしろ、「国家賠償を行わず、法的責任は取らなかったのは不十分」という論調でした。  
正しさ、正義というメルクマール(基準)  
「私の主張は正しい」「私たちこそ正義だ」  
こういった発言を真顔で発言する人を思い浮かべてみてほしい。それはナショナリストだろうか? それとも善人ぶったマスコミだろうか?  
自分の意見と異なる人への批判はあっていいのだけど、日韓のナショナリズム、すなわちナショナリストの主張の全部が間違いとはいえないし、善人ぶったマスコミにもそれぞれ主張できる正当性がある。しかし、慰安婦問題の場合、その主張は真っ向から対立している。何を持って正しい、正義だというのは、その人の考え方次第という状況だ。  
そこで、仮に、両者が歩み寄り、その正当性を双方が認め合って、五分五分で決着しようとした場合、それぞれの主張する正しさ、正義ってどう変えたらいいのだろうか? 本当に両方の主張を半分ずつ取り入れて合意できるような正しさとか正義とかは成り立つのだろうか?  
こじれた国際問題の場合、その多くは、当事者が非妥協的な立場をとり続けている。  
私は、正しさ、正義というメルクマールを全否定しているわけではない。ただ重視していないだけだ。なぜならそのメルクマールには限界があり、両者が正しさや正義を主張するこじれた関係を改善するには向いていないという負の側面があるからだ。たとえその当事者が当事者でない立場だと理解できないような正しさや正義を主張していたとしても、当事者の主張を否定すると解決どころか関係はこじれるだけになる。  
慰安婦問題も、世界にゴロゴロしているこじれた国際問題の例に違わず、当事者(日本と韓国)の非妥協的な態度が解決の最大の阻害要因になっている。問題を解決するためにふさわしいメルクマールとは、より妥協可能なものであるべきとは思わないだろうか?
慰安婦問題に対する3種類のアプローチ  
日本のナショナリストのアプローチ  
今回の河野談話の検証作業は、「河野談話は正しくないから見直すべきだ」という圧力から行われたものだ。ここにあるのは「正しさ」というメルクマールだ。それは慰安婦問題について「慰安婦とは売春婦のことだ。政府や軍が組織として関与した強制はなかった。だから謝罪など必要なく河野談話は撤回すべきだ」という主張に繋がる。これは彼らなりの「正しさ」が根底にあるアプローチだが、そのアプローチをとった場合、その行き着く先を冷静に想像してほしい。  
欧米を含めて、戦場における性暴力の問題を解決できた国は存在しない。ほとんどの国がうろめたい過去を持っている。月日が経ち、せっかく忘れ去ろうとしているそんなパンドラの箱を開けたがる国があるだろうか。それよりも門前払いで、日本は戦場における性暴力を正当化する国というレッテルを張り、それを厳しく批判する自国という構図を作りたがるだろう。それが、当事国でない他国の「正しい姿勢」だ。  
重ねて言いたい。  
どんなに日本の旧軍が組織として慰安婦運営に関わっていないという資料を出しても、日本は免罪だという国は現れない。それどころか日本は非難の集中砲火を浴びる。その理由は「自国が現在になっても解決できていない戦場の性暴力の問題を70年前の日本の旧軍が解決できているはずがない。つまり日本は重要な事実や資料を隠していると考えられる」という考えを各国とも覆さないからだ。それを覆すと東京裁判そのものの是非にまで行き着く。そんな大事を抱えてまで、日本を擁護する国があるだろうか?  
河野談話の発表当時のリベラルなアプローチ  
では、彼らが批判対象としている河野談話はどうだったのだろうか。皮肉なことに、今回の検証報告にそれが明確に示されている。  
河野談話は、日韓両国が文言をすりあわせて作られたものである。では、なぜ日韓両国は文言をすりあわせたのか? それは日韓両国とも、この問題が両国の政治、外交問題であると認識していた証左だ。  
外交問題だと認識しているのであれば、なぜそれを正式に外交の俎上に上げ、補償(償い金)や謝罪の方法、文まで含めて、日韓の正式な合意ができるまで交渉しなかったのだろうか? 日本側の自主性にまかせたいという韓国側の主張をなぜそのままうけとってしまったのだろうか?  
私のような、プラグマティックな現実主義者にとっては、それが最大の失策だと思える。  
元慰安婦への「措置」について日本側が,いかなる措置をとるべきか韓国政府の考え方を確認したところ,韓国側は,日韓間では法的な補償の問題は決着済みであり,何らかの措置という場合は法的補償のことではなく,そしてその措置は公式には日本側が一方的にやるべきものであり,韓国側がとやかくいう性質のものではないと理解しているとの反応であった。  
もし、河野談話の発表と同時に、日韓両国の共同声明を発表し、将来に向けて慰安婦問題の解決を宣言できていたとしたら、その後の日韓関係はどうなっていただろうか。  
一方、慰安婦問題の解決について共同声明を出せない=日韓の正式な合意がない状況で、謝罪の文言をすり合わせた事実すら隠し、謝罪と償い金支払いを優先した場合はどうだったかは、20年経った今、明確に答えはわかっている。それでも当時謝罪を強行したのは、「日本は戦争における被害について謝罪すべきだ。悪いことをしたのだから謝罪するのは当然だ」という正義のメルクマールがその根底にあったからではないか? これは慰安婦問題について解決の合意はなかろうと「誠意を示せば日韓関係は改善する」という思い込みにも似た善意のアプローチといえると思う。そしてそれがもたらした現状を思い返してほしい。特に国民の善意からはじまった償い事業が、どう潰されていったかを直視してほしい。  
このアプローチが行われたのは、日韓関係をよくしたいという善意であったことは間違いない。ただその結果は、日韓関係をもっとこじらせて解決を困難にし、先の世代につけを回しただけになった。善意だからといって免責されない。外交問題である以上結果責任は当然ある。  
なによりもこのアプローチを阻害したのは、当の韓国自身であったことを忘れてはいけない。  
現実主義的なアプローチ  
私たちプラグマティックな現実主義者は、こんな場合、日韓の合意=実利がない場合、謝罪すべきでないという結論を出す。謝罪は最終的な解決の合意と同時でなくてはならない。だから合意ができるまでひたすら交渉する。何年経とうともだ。当時であれば、人道的に「慰安婦が高齢になってしまい時間切れになる」というリベラルやマスコミから大きな批判をうけただろうが、それに動じずただひたすら合意をめざすだけ。交渉が難航すれば時間を置く。これがプラグマティックなアプローチだ。  
3種類のアプローチのどれを選ぶか  
さて、ここにあげた3つのアプローチ、どれが正しいかとは問わない。私たち現実主義者が問うのは、20年前、3つのうちどのアプローチだったら、20年後の今、今よりもよい日韓関係を導く可能性が高かったかということだ。  
例え現在に至るまで、20年以上交渉が続き、韓国から非難があったとしても、交渉している事実を公開していれば、国際社会で一方的に日本が非難されることはなかっただろうと思う。一進一退の状況が続けば、日韓双方とも解決を先延ばしする利益がなくなっていくので、妥結の可能性は高まっていっただろう。私はそう考えている。
慰安婦問題と日韓関係の今後の展望  
韓国政府から慰安婦問題で妥協的な反応を引き出すには?  
歴史に if を問うてもあまり意味はないのはよくわかっているつもりだ。少しif論を書きすぎた。本当に大事なのは、今後であるという点は異論がないだろう。  
慰安婦問題は、日韓両国とも妥協的な態度にならない限り解決しないと書いた。では、どうすれば韓国を妥協的な態度に変えられるのだろうか?  
日本が韓国の主張する通りの誠意を見せるべき? これも河野談話を発表したアプローチと同じ=善意のアプローチだね。2度同じ失敗をしてはいけない。  
相手国が妥協的な態度になったから、自国も妥協的になる。それがプラグマティックなアプローチだと重ねて言いたい。  
韓国政府はプラグマティックか?  
韓国政府は、妥協的ではないとして、プラグマティック(実利的)なのだろうか? もしそうでなければ、実利で韓国と交渉しても結果は得られない。  
私は、韓国政府は十分にプラグマティックだと考えている。  
韓国は、慰安婦問題を解決しないことが韓国の利益になっている。「人道」という錦の御旗でいつでも好きなときに日本に対して非難を浴びせられ、日本からの譲歩を勝ち得る材料となるからだ。解決すると、その外交カードを失う。そんな合理的な判断があり、日本に対し、日本が飲めないとわかっている要求をつきつけている。それは韓国の立場からすると、当然のことだと思う。  
では、日本はどうすれば、韓国政府から慰安婦問題で妥協的な反応を引き出せるのだろうか?  
韓国政府が十分にプラグマティックである以上、そのためには、合理的、実利的な理由で、慰安婦問題の解決を先延ばしすると韓国が不利益になる状況を作るしかないだろう。  
(1) アメリカの圧力を利用する  
アメリカは、アジアへのリバランスを指向している。いくら名に実が伴っていないとはいえ、方針は方針だ。  
その前提はアメリカ軍を削減しつつ、アジアでのプレゼンスを維持することだ。この難題に対する回答が、日米同盟、米韓同盟を発展させ、日米韓軍事同盟にすることだろう。そのためにアメリカは日韓両軍(自衛隊)の共同運用を実現したい。そこでその一歩として「日韓秘密情報保護協定」を締結する。この協定は、締結の一歩手前までいったのだが、当時の韓国の李明博政権が締結の直前でキャンセルした。その理由の一つにあげたのが、日本軍慰安婦記念碑の撤去運動を日本側が行ったことだった。  
韓国は、安全保障問題と慰安婦問題をリンケージした。これを慰安婦問題の政治的な利用と呼ばずしてどう呼べばいいのだろうか?  
当然、アメリカも韓国が「日韓秘密情報保護協定」の締結ができない本当の理由が慰安婦問題にあると思っているはずがない。ただし、安全保障問題と慰安婦問題という本来関係のない2つの国際問題を韓国がリンケージした以上、この2つはセットで考える必要がある。*5  
アメリカは、安全保障問題を前進させるために、慰安婦問題の前進を必要としている。その動機があるため、アメリカは日韓両国に慰安婦問題の解決に向けた取り組みを行うように圧力をかけ続けるだろう。それを日本は利用すべきだ。  
(2) 時間をかける  
慰安婦が生きている間になんとかしたいという取り組みは本当に残念なことに頓挫した。国際関係では善意の関係など信じていない現実主義者の私だが、例え自説が誤っていることになろうと、それでもできることをまずやろうとした償い事業が日韓関係の改善に役に立っていたらよかったのにと本当に思う。でも現実は、国際関係では本当に簡単に国益のため善意は踏みにじられ、善意からはじまった行動は頓挫させられる。そんなありふれた事例の一つになった。  
償い事業のホームページで、次のようなくだりが紹介されている。日本人として、このような話を見聞きすると、やはり心が揺さぶられる人は多いのではないだろうか?  
人が受けた痛みは、人でなくては癒せない。本質は人道問題だという慰安婦問題の本当の姿がかいま見られると思う。人道的に見れば、元慰安婦本人に対する謝罪は本当に必要だと思う。*6  
そしたら、彼女がわんわん泣きながら、「あなたには何の罪もないのよ。」って。「遠いところをわざわざ来てくれて、ありがとう。」というような趣旨のことを言って、でもずっと興奮して泣いていて、しばらくお互い抱き合いながらお互いそういう状態でいて・・・  
私は、「でも私はあなたは私に罪がないって言って下さったけど、でも私は日本人としてやはり罪があるんですよ。」と言いました。「日本の国民の一人として、あなたにおわびしなきゃいけないんです。」というような、そういうやりとりがあって。  
しかし、韓国政府の考えは、やはり国益優先であった。韓国政府は、日本の国としての謝罪を要求し償い事業を拒否した。償い事業を受け入れることは、韓国の外交交渉力をそぐことになるので、真っ向からこれを否定し、償い事業をつぶす方策を実施した。以下を読んでもらえれば、かなり露骨なやり方で償い事業ををつぶしにきたのは、よくわかると思う。  
同年3月、金大中大統領が就任しました。新政府は、同年5月、韓国政府として日本政府に国家補償を要求することはしない、その代わりにアジア女性基金の事業を受けとらないと誓約する元「慰安婦」には生活支援金3150万ウォン(当時日本円で約310万円)と挺対協の集めた資金より418万ウォンを支給すると決定しました。韓国政府は、142人に生活支援金の支給を実施し、基金から受けとった当初の7名と基金から受けとったとして誓約書に署名しなかった4名、計11名には支給しませんでした。  
外交交渉は、国益優先である。その現実は認めなければいけない。韓国政府のこのやり方を非難するのは容易ではない。どの国も国益を第一に考えている。私たちがここから学ぶべきは、やはり相手も国益優先で外交をすすめている以上、日本も国益優先で対応する必要があるということだ。正義というものさしで外交を見るのではなく、そんなプラグマティックな考え方を受け入れてほしいと思う。  
ただし、そのように国益優先の当時の韓国政府ですら、国家賠償を要求していない。それは日韓基本条約とその付随条約*7によって、韓国の請求権は完全かつ最終的に解決されていることがわかっていたという点は指摘しておきたい。  
ここから、更に時間が経ち、慰安婦問題には、安全保障問題などその他の分野の国際問題がリンケージした。いろんなものでがんじがらめになっている。そんな20年のツケがある。例え慰安婦問題が解決できたとしても、その解決には時間がかかる。必要な時間をかける覚悟を日本は持つべきだ。  
今、既に高齢になった元慰安婦の女性もいつまでも生き続けるわけではない。ひどい言い方なのはわかっているが、もう彼女らが生きている間にこの問題が解決できる見込みはほとんどない。  
一方、韓国側は、元慰安婦の女性が全員亡くなってしまったら、その後この問題について求心力を失ってしまうという心配を持っているように思える。  
そこで彼らは、新たな装置を作った。いわゆる「慰安婦像」である。  
元慰安婦の最後の生存者が亡くなった時、その「恨」はこの慰安婦像に象徴され、慰安婦像は韓民族統合の(慰安婦問題だけでなく)全ての日本に対する「恨」の象徴になるだろう。そして、日本の要人が訪韓する度にこの像の前にひざまづき謝罪することを、民族の悲願とするようになるだろうと思っている。そして日本に対する新たな「恨」が統合され続け、韓国のナショナリズムの象徴として、意味合いを少しずつ変えながら残り続けるだろうと思う。  
そして韓国は、今やその象徴を人道の名のもとに世界各国へ輸出しはじめた。  
慰安婦問題は、早々短い年月で風化はしない。  
(3) 韓国軍慰安婦に対する対応を見極める  
1990年代に外交問題になってから始まったとはいえ、日本軍慰安婦について、韓国政府は毎月一定の生活費を支給している。  
一方、韓国政府が国として運営していた朝鮮戦争後の韓国軍慰安婦については、女性団体が韓国政府に対応を求めていたし、何度か国会で左派野党が問題にするものの進展はなく放置されていた。  
今回、日本の河野談話検証結果の発表の直後、韓国軍慰安婦たちが集団提訴を行った。*8  
河野談話検証結果の発表と時期が重なったのは偶然ではなかろう。この提訴もまたとても政治的なものだ。  
女性らは1957年から韓国国内の米軍基地周辺で米兵を相手に売春をさせられた。韓国政府は米軍を相手にした売春を認める「特定地域」を設け、女性たちを管理。性病の検査も強要し、感染者の収容所も設けていたという。  
これがどう日韓関係に影響するかは、ネットで多く見られる発言のように単純ではないと思うが、一般的に言ってどんな事案にも有利な点、不利な点がでてくるものだ。  
この問題を韓国の司法がどう裁くのか。特に韓国の憲法裁判所が『元「慰安婦」の対日損害賠償請求権問題を解決するために政府が具体的な努力をしないのは請求者たちの基本権を侵害するもので憲法違反である』とした判決内容との差を詳細に分析し、日本が外交交渉上有利になるものを把握すべきである。  
また、韓国国内の世論、特にマスコミの論調の分析も必要だ。  
慰安婦問題は既に人道問題に名を借りた韓国のナショナリズムの現れとなっていると思われるが、日本としては韓国のマスコミの言論や世論からその証左を得たいところだ。  
この裁判には、韓国の左派系野党の朴槿恵政権への攻撃という側面もあるので、人道問題よりも韓国国内の政治問題の方がクローズアップされがちになろうと思うが、注目はしておきたいと思う。  
日本の左派の中では、この裁判で韓国が人道的な対応を行うことを期待する向きもあるようだが、この裁判の韓国国内の真の姿は韓国の左派対朴槿恵政権というものであり、そうそう日本の左派が期待するような竹を割ったような人道的な決定は行われないだろうと思う。  
それでも朴槿恵政権が死中に活を求めて人道的な対応を行い切ったとしたら、それはそれで朴槿恵政権を高く評価すべきであり、日本のこの問題=慰安婦問題に対する対応は変化せざるを得ないと思う。まあお手並み拝見である。  
(4) 韓国のいやがる外交を行う  
なんだかマキャベリズムを全面に出した言い回しになってしまったが、真意としては、韓国がいやがろうと必要な外交を日本は粛々と行うべきというものに近い。  
韓国がいやがる外交とは、こんなものがある。
北朝鮮との外交交渉  
日本にとっては、北朝鮮との問題を解決する動きをとるのは当然だし、交渉内容をなぜ事前に韓国に説明しなければならないのか理解に苦しむ意見なのだが、なぜか韓国には焦りがあるようだ。  
国交正常化まで言及された29日の北朝鮮・日本の会談の結果、発表は韓国政府にとっては突然の内容だった。日本は、韓国側に事前に具体的な説明をしなかった。悪化の一途をたどっている韓日関係の現状を物語るものだ。  
集団的自衛権の行使の容認と法整備  
アメリカか中国か、日本の集団的自衛権行使容認は、韓国の二股外交の矛盾をえぐる。中国にいい顔をしようとすれば日本の集団的自衛権行使に反対したいし国民感情もそれに近い。一方で日本の集団的自衛権行使は日米同盟を強化し、それは間接的に米韓同盟にも好影響がある。  
韓国が二股外交を行い、態度を鮮明にしない状況は、アメリカも日本も自国の国益を損ねる状況である。韓国に旗幟を明らかにするよう迫る外交は必要だ。  
韓国メディアの報道は「総理が思いのままに憲法解釈を変える日本は民主国家なのか」「戦争ができる国に生まれ変わる」(朝鮮日報)といった厳しい批判ないし警戒の論調が目立つ。  
一方、韓国外務省は安倍晋三首相が記者会見した5月15日に論評を出し、日本の安保防衛論議につき「平和憲法精神堅持、透明性維持、地域の安定と平和維持に寄与する方向で」と注文を付けた。朝鮮半島の安保と韓国の国益に影響を与える事項は韓国の要請か同意がない限り決して容認できず、日本は過去の歴史に起因する周辺国の疑念と憂慮を払拭(ふっしょく)していかねばならないとも言及した。一見、「断固反対か」とも思えてしまう。  
だが注目すべきは韓国政府が公式には反対とも賛成とも明言していない点だ。あまりに複雑で悩ましい現実があり、態度を鮮明にしかねるのである。  
しかし、韓国自身がリンケージしたからとはいえ、慰安婦問題を考える上で、安全保障問題まで考えねばならない状況は異常だ。  
こんな馬鹿げたリンケージは、早晩韓国に解かせねばならないし、二度と安全保障問題と慰安婦問題を韓国にリンケージさせてはいけない。安全保障問題と慰安婦問題のリンケージは、慰安婦問題の解決に役立たないばかりか、東アジアの安定を損ねるだけである。日本はこの件について厳しく韓国を批判すべきだと思う。
日韓両国とも手詰まりになっている  
前項で日本がとるべき方策を考えたが、そのうちどれか決定打=これをやれば慰安婦問題を解決できるというものがあっただろうか?  
自分で書いていてそれを否定するのも申し訳ないのだが、そういったものはないと思う。  
だからといって、ナショナリストが主張するように河野談話を否定するのも、韓国が主張するように先に日本が誠意を見せるべきだという言に乗っかるのも、失敗するのが見えている。  
日本は手詰まりになっている。  
では、韓国の方はどうか。  
朴槿恵大統領は、告げ口外交と日本では散々に批判されている外交、各国を精力的に外訪し外訪先で日本批判を行う外交を展開してきた。  
さて、その外交の成果はあがっているだろうか?  
どんな国も、日本と韓国の二国間の歴史問題など興味がないんだ。少なくとも優先順位は低い。(但し、中国は除く)  
朴大統領の外訪によって外訪先の国にもたらす国益があるので、外訪時の会見では外訪先国の首脳は韓国に対しリップサービスをするだろうが、それをうけて何か動いた形跡があるだろうか。  
更にこの河野談話の検証結果の発表だ。これは外交上秘密にしようと日韓両国で同意した内容の暴露でもある。  
それは日本の外交上、秘密を漏らす国としての外交上のダメージをもたらすが、一方で秘密であることをいいことに態度を豹変させた韓国の外交の身勝手さも表面化させた。  
韓国もこれまでのように一本調子の日本への非難を行いにくくなった。  
結局韓国も手詰まりに陥ったといえる。  
韓国は外交の秘密を河野談話検証で公開したことに憤っている。  
一方、日本は韓国で政権が変わるたび、態度を変え、外交の秘密を盾にして韓国のナショナリズムを全面に出した外交に辟易としている。  
当面、慰安婦問題で日韓は対話なき対立関係が続くのだろう。でも、それは李明博前大統領が竹島に電撃上陸して以来続いていることであり、これが日韓関係の普通の姿だ(だってもう2年近く続いている)と割りきってしまえば、日本の外交上、そこまで大きな問題ではないともいえる。  
私は、李明博前大統領の竹島上陸で、日韓関係は壊れたと思っているが、少なくとも日韓双方とも不信と冷ややかな視線を相手に投げる新しい日韓関係の時代に突入したというのは間違いないと思う。  
でもそれは、私のようなプラグマティックな現実主義者にとっては、対価を求めない理想主義的な外交、そしてどんどん相手の要求が高くなり理想と現実が乖離していくばかりの外交よりも、対峙を恐れず国益を重視する実利的な外交の方が望ましいと思っている。日韓関係がそのような関係になるためには、通らざるをえなかった反駁の時代なのだろう。
韓国をめぐるアメリカと中国の綱引き合い  
結局、慰安婦問題については、韓国がアメリカ側に残るのか、中国圏に入るのか、旗幟を鮮明にするまでは韓国の姿勢は変わらないと思う。韓国がアメリカ側に残ると決断した場合のみ、韓国は妥協的になると予想する。今週、7月3〜4日に、中国の習近平国家主席が国賓として韓国を訪問し、朴槿恵大統領と首脳会談を開く。そこでどのような動きがあるか、まずはそれを見極めたい。  
「中国へベットすべきでない」とアメリカもかなり露骨に韓国へ圧力をかけているようだ。米国政府が韓国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)加盟の動きにブレーキをかけた。(AIIBとは、中国が自国中心の新しい国際金融秩序を構築するという目標で設立を推進している機構。) 東アジアでの綱引きは続く。
 
*1 / つまりみんな知っていた。公然の秘密だったということと思う。この検証はただ公然の秘密を公開しただけの効果しか持たないと思う。それを大層なものとして河野談話の否定まで持って行こうとする日本のナショナリストも、強硬に反駁する韓国と韓国のシンパたちも、主張は真っ向からぶつかっているが同じ水準の反応に見える。  
*2 / 慰安婦に対する「償い事業」は、日本の立場の許せる範囲で人道的解決を目指したものとして、一定の評価はできるが、その事業は、日韓関係においては残念ながら新たな軋轢を生むことになった。日韓関係は、当時よりも更にこじれてきており、このような事業を行ってもその結末は容易に想像できる。  
*3 / 韓国政府も日本政府も慰安婦問題解決の意欲は薄いと思われる。韓国は中国との関係の兼ね合いがあり、アメリカが望む日韓秘密情報保護協定を締結したくないのだが、その交渉ができない理由のひとつがこの慰安婦問題で日本が誠意をみせないからとしている。慰安婦問題の交渉が進展しはじめると、そういった日韓秘密情報保護協定の締結交渉ができない理由が失われてしまう。一方日本政府も、韓国政府の変化がなければ、慰安婦問題に対する請求権は解決済みという立場を変える理由がなく、解決に積極的と思えない。アメリカ政府が圧力を加え続けないと、この問題を解決しようという動きは活性化しないだろう。  
*4 / はてなでは、慰安婦問題について、韓国の主張を補完する投稿がときどきホットエントリにあがる。こういった人たちの投稿の意図は不明だが、その投稿の効用は韓国のナショナリズムの補完にしかならない。今のところ大きな力にはなっていないが、それらは日本のナショナリズムを刺激し、対立を深めるだけで、慰安婦問題の解決の阻害要因になると分析している。  
*5 / 関係のない2つの問題をセットで考えるとかおかしいと考える人は多いかもしれない。正しさのメルクマールだとそうだと思う。しかしリンケージとは頻繁に使われる外交交渉のテクニックであり、このこと自体を批判することはできない。問題は、リンケージというのは、問題解決を容易にするために行う場合と、問題解決をわざと難しくするために行われる場合と2つあり、韓国の今回のリンケージは明らかに後者、問題解決を難しくするために行ったということだ。  
*6 / 韓国という国に対する謝罪は、それは人道問題ではなく外交問題であって、今のところ河野談話だけで十分と思う。これ以上の謝罪を韓国が要求するなら、プラグマティックにそれに見合う韓国からの譲歩を要求すべきだ。  
*7 / 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定  
*8 / 報道では米軍慰安婦となっているが、詳細な内容がまだわからないので、米軍慰安婦よりも概念の広い韓国軍慰安婦の用語を使った。もっとも私はその2つを区別することにそれほど意味がないと思っている。両方とも女性の人権に対する侵害であることは変わらない。
「河野談話」検証報告を米国はどう受け止めたか 7/7  
慰安婦碑設置の動きを止める、との狙いは逆効果に?  
河野談話作成過程等に関する検討チーム(座長・但木敬一元検事総長)が「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯〜河野談話作成からアジア女性基金まで〜」と題する報告(以下、「検証報告」)を公表してから2週間がたった 。外務省は検証報告を公表すると同時に英語仮訳を配布。その内容は米政府関係者や米メディアにも同時に知れ渡った。  
韓国政府は激しく反発。チョ・テヨル第2外務次官は、「河野談話を検証すること自体、同談話の形骸化を意図したものであり、韓日国交正常化以降、韓日関係の根幹となってきた河野談話、村山談話という2大談話の一方を日本政府は有名無実化しようとしている」と断じている。韓国政府は韓国版「慰安婦白書」作成にも踏み切った。韓国国会は7月上旬にも「検証糾弾決議案」を採択する。そうした中で米国は検証報告をどう受け止めているのだろうか。  
国務省記者会見で食い下がる韓国人記者  
米国務省で6月20日に開かれた定例記者会見で、検証報告を受けて、韓国人記者が米政府の受け止め方を質そうとサキ報道官に執拗に迫った。  
サキ報道官のコメントは既に、新聞などが部分的に報じている。だが、若干長くなるが、同報道官と韓国人記者とのやりとりの詳細を「再現」してみたい。従軍慰安婦問題に対する安倍政権の対応を米政府がどう見ているか、そのニュアンスが手に取るように分かるからだ。  
開口一番、韓国人記者がこうただした。「米政府は検証報告の結論に同意するか」。これに対してサキ報道官は用意されたメモを読み上げた。  
「元首相(村山富市)と河野(洋平)元官房長官が示した謝罪は、近隣諸国との関係改善を目指した日本にとって重要な一つのチャプター(第一章)だというのがわれわれの見解だ。われわれは『この河野談話を維持・確認することが安倍政権の立場である』とした官房長官(菅義偉)の20日の談話に留意する。われわれはこの問題あるいは過去に生じたその他の問題に対する日本のアプローチが、近隣諸国とのより強固な関係の構築に資する方法で行われるよう、継続的に勧めている。この点についてのわれわれの立場は変っていない」  
この答えに満足しない韓国人記者は、「そうした(米国の)見解を日本政府も受け入れることが必要だと思わないか。この問題は韓国及び中国にとってセンシティブな論題だからだ」とさらに質問した。  
サキ報道官:「オバマ大統領がアジア諸国を歴訪した際に述べた通り、韓国と日本は多くの共通の利害を有している。両国が未来志向で、お互いが分かち合う諸問題を解決するために一緒に行動するか、それが重要である」  
韓国人記者:「オバマ大統領は日本滞在中に、日本はこの問題を解決するためにより先取的な措置を取るよう呼びかけた。日本政府はその後、大統領のアドバイスを受け入れたと思うか」  
サキ報道官:「大統領が滞日中に述べたのは、彼ら(日韓双方)が過去を振り返り、未来を見据えるべきだということだと思う。ここで言う未来志向とは、(日韓双方が)一緒になって問題を解決し、過去の出来事を過去のこととして忘れ去る(Put events of the past behind you)という意味だ」  
韓国人記者:「しかし日本政府は過去を振り返り、将来を見ようとはしていないように思えるが…」  
サキ報道官:「われわれは日本に対し未来を見据えるよう勧めている」  
「検証報告は河野談話を傷つけるものだ」  
韓国人記者:「ということは、米政府は検証報告は河野談話を傷つけるものではないと考えているのか」  
サキ報道官:「河野談話を継承するという安倍政権の立場は菅官房長官の談話で示されている。この点については既に述べた通りだ」  
韓国人記者:「河野談話の作成に当たって韓国政府と日本政府は協議したと、検証報告は結論付けている。その結論自体、河野談話に疑惑を生じさせると考える者もいる。そうした意見に同意するか」  
サキ報道官:「日本政府の立場は既に指摘した通りだ。(菅官房長官談話が)明確に表明している」  
韓国人記者:「検証報告は(慰安婦問題解決には)役に立たない措置(Unhelpful step)ではないのか」  
サキ報道官:「われわれが重点を置いているのは、日韓双方が関心を共有する問題について日韓が一緒になって解決するよう勧めることにある」  
韓国人記者:「韓国政府は検証報告の公表を踏まえて独自の検証をし、国際社会とともに(対日)行動を取ると言明している。こうした動きを米政府は支援するか」  
サキ報道官:「米政府は、日韓両国は広範囲にわたる諸問題と関心事を共有していると考えている。日韓両国がこれらの問題を前向きに解決することに重点を置くよう勧めている」  
米政府のホンネは「検証報告は無用の長物」  
上記の質疑応答で仄見えてくるのは、安倍首相が第1期政権以来、言明していた河野談話見直しに対する米政府の警戒心だ。ワシントンからの強い説得を受けて、見直しを一応撤回したものの、安倍首相周辺には「見直し」論が燻り続けている。そうした中で、河野談話を作成した経緯を検証する検討チームが出てきた。「国務省は当初から、安倍首相肝いりの検討チームに不快感を示していた」(米有力紙の国務省担当記者)という。  
サキ国務省報道官が6月20日に示した公式見解は、日本政府への配慮から、不快感の部分は“伏せ字”にしていた。韓国人記者とのやりとりで、検証報告自体について一切コメントしていないのはそのためだった。その一方で、検証報告を受けて菅官房長官が行った「河野談話見直しせず」発言を評価した。  
検証報告に対する米国の苛立ち  
既に公表されている米議会調査局の報告書を読むと、「河野談話」を作成する過程で日本が韓国側に事前に相談し、意見聴取していたことが、当時、米政府に伝えられていたことが分かる。  
このため、朴槿恵政権に代わってから、これまでの経緯を一切無視する韓国政府の対応に米政府は困惑していた。もっとも、安倍首相周辺が第2期政権になっても河野談話「見直し」論を蒸し返したことが韓国側を刺激したことは否めない。  
いずれにせよ、2013年5月7日の菅官房長官談話で「見直し」を否定したというのが米政府の認識だった。それでもなお、安倍首相は検討チームによる検証に固執。そして今回、鳴り物入りで検証報告を公表したのだ。  
国務省OBの一人はこうコメントしている。「日本が何を言おうと『謝罪せよ、保証せよ』と反日批判を続ける韓国に、嫌気が差したのも分からないわけではない。しかし大人気なく外交上の儀礼を破って、裏交渉の内幕を暴露してなんの益があるのだろう。日本の品位を貶めるだけだ。一方、これだけ過去の経緯が公にされると、韓国は立つ瀬がなくなってしまう。韓国の政府高官が直ちにワシントンに急行したのはその表われだ。日韓関係はこれでさらに険悪になる」。  
こうした「外交上の儀礼破り」に対する批判、不満もさることながら、米国内には検証報告が示した結論にもある種の苛立ちがある。「歴史から目を逸らす日本人たち」と題する、米ニューヨーク・タイムズが6月22日に掲載した社説はその一つだ。  
「もし安倍首相が韓国との緊張関係を和らげる目的で同検証報告を公表したのだとすれば、それは逆効果になった。なぜならこの報告は1993年8月4日の河野談話の正確さについて疑問を生じさせる結果になっているからだ。同検証報告は、河野談話に書かれた謝罪は韓国との精力的な裏交渉の結果であると述べ、これが確固たる証拠に基づいたものかどうかに疑問を呈しているからである」  
同紙の社説はさらに、安倍首相が2006〜07年に首相だった当時、「慰安婦たちは売春婦であり、当時の日本当局が強制的に奴隷扱いしたものではない」とするナショナリストの立場を支持していたことや、12年に首相に返り咲いた時に「河野談話」の修正を公言していた点を指摘。その後、安倍首相が慰安婦たちへの悲痛な思いを表明しても、韓国人の不安は少しも和らいではいないとしている。  
「今回の検証報告は、1993年の河野談話は草案作りの段階で日韓両政府が協議したことを暴露している。そして日本政府による慰安婦への謝罪が誠心誠意のものではなかったことを示す結果となっている。協議というものは2国間関係で死活的に重要だ。特にセンシティブな事案においてはなおさらである。両者の協議(の内容)を否定的な論理構成のために公表するのは誤りである」  
ホンダ議員は佐々江駐米大使に非難の書簡  
検証報告は、慰安婦碑の設置を阻止する役に立つのだろうか。そのリトマス試験紙になりそうなのが、慰安婦碑設置の旗振り役である日系のマイク・ホンダ下院議員(民主、カリフォルニア第17区)の動向だ。ホンダ議員は6月27日、声をかけた同僚議員と連名で、佐々江賢一郎駐米大使あてに検証報告を非難する書簡を突きつけた。  
今回ホンダ議員の呼びかけに応じた下院議員は17人。慰安婦問題で日本批判を繰り返しているアダム・シィフ議員(民主、カリフォルニア第29区)、ロレッタ・サンチェス議員(民主、第47区)といった「常連」だ。  
この書簡の趣旨は以下の通り。  
1. 検証報告の公表とそのタイミングは遺憾であり、不幸なことだ  
2. 日本政府が衆院予算委員会の要求に応えて検証報告を提出することは議会人として理解できる。が、その内容を公表し、慰安婦たちの苦しみに対する関心を不必要に逸らそうとしている  
3. 検証報告は従軍慰安婦に対する旧日本軍の強制性が確認されていないことを示唆する結論になっている。これは到底受け入れられるものではない  
ホンダ議員の書簡はその上で、菅義偉官房長官の「河野談話は見直さない」との発言を評価、「官房長官がこの公約を遵守し、同発言を覆すことのないよう最善を尽くすよう希望している」とクギを刺している。  
本題から少し外れるが、この書簡を読んでいて気になるのは、菅義偉(Yoshihide Suga)の名前をYoshihida Sugaとミススペリングしていること。米国にいる、外務省の関係者は「揚げ足をとるようだが、一国の大使に出す書簡において、その国の官房長官の名前の綴りを間違えることで、ホンダという日系議員の脇の甘さをいみじくも露呈した」と指摘する。ホンダ議員は申し開きできないところだろう。  
韓国系団体はホンダ書簡を手にさらに運動を活発化?  
いずれにせよ、米国内の慰安婦碑設置運動を展開している韓国系団体は、このホンダ議員の書簡を金科玉条のごとく扱い、今後の運動に利用するという。これは韓国系団体に近い筋から筆者が得た情報だ。となると、慰安婦碑の設置を止める目的で作成された検証報告は、むしろ逆効果になる可能性がある。  
一方、カリフォルニア州グレンデールに設置された慰安婦像撤去を求めて在米邦人団体、「歴史の真実を求める世界連合」(=GATH、目良浩一代表)が起こした裁判への影響はどうか。同連合や韓国系団体の動向を定点観測しているロサンゼルス在住の今森貞夫・近現代研究会主宰は筆者とのインタビューで次のように指摘した。  
「現時点では、日本政府が前面に出ることは、かえってやぶへびになる。慰安婦碑の設置を阻止する取り組みはやればやるほど逆効果だ。慰安婦の正確な数字にしろ、軍による強制性にしろ、米国内ではある種の固定観念が出来上がってしまっている。ブレインウォッシュ(洗脳)されてしまっている。これを覆せるのはアメリカ人のまともな知識人、学者、ジャーナリストしかいない。日本はこうしたアメリカ人に地道にアプローチしていく以外にない。長期戦だ」  
日韓関係は沈静化するどころか、今後より熱くなっていきそうな気配がする。 
慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策 10/14  
日本政府は、慰安婦問題に関して、平成3年(1991年)12月以降に調査を行い、平成4年(1992年)7月、平成5年(1993年)8月の2度にわたり調査結果を発表、資料を公表し、内閣官房において閲覧に供している。また、平成5年(1993年)の調査結果発表の際に表明した河野洋平官房長官談話において、この問題は当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとして、心からのお詫びと反省の気持ちを表明し、以後、日本政府は機会あるごとに元慰安婦の方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを表明してきた。  
慰安婦問題が多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であることから、日本政府及び国民のお詫びと反省の気持ちを如何なる形で表すかにつき国民的な議論を尽くした結果、平成7年(1995年)7月19日、元慰安婦の方々に対する償いの事業などを行うことを目的に財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」(略称:「アジア女性基金」)が設立された。日本政府としても、この問題に対する道義的な責任を果すという観点から、同年8月、村山内閣にてアジア女性基金の事業に対して必要な協力を行うとの閣議了解を行い、アジア女性基金が所期の目的を達成できるように、その運営経費の全額を負担し、募金活動に全面的に協力するとともに、その事業に必要な資金を拠出する(アジア女性基金設立以降解散まで、約48億円を支出)等アジア女性基金事業の推進に最大限の協力を行ってきた。なお、基金は平成17年1月の時点で、インドネシア事業が終了する平成18年度をもって解散するとの方針発表を行っていたこともあり、右インドネシア事業が終了したことを受けて、平成19年3月6日に解散発表をおこない、平成18年度をもって解散した。  
1.アジア女性基金への協力  
日本政府はアジア女性基金と協力し、慰安婦問題に関連して各国毎の実情に応じた施策を行ってきた。アジア女性基金のフィリピン、韓国、台湾における償い事業は平成14年9月までに終了している。また、アジア女性基金は、オランダ及びインドネシアにおいてもそれぞれ国情に応じた事業を実施しており、オランダにおける事業は平成13(2001)年7月に、また、インドネシアにおける事業は平成19年3月にそれぞれ終了した。  
解散後、同基金の対象事業であった元慰安婦へのケア等については、元アジア女性基金関係者・団体を通じてフォローアップ事業として行っている。  
(1)フィリピン、韓国、台湾  
アジア女性基金は、各国の政府等が元慰安婦の認定を行っているフィリピン、韓国、台湾においては、既に高齢である元慰安婦個々人の意思を尊重し、事業受け入れの意思を表す方に対して事業を実施するとの基本方針の下、元慰安婦の方々に対し、国民の募金を原資とし日本国民の償いの気持ちを表す「償い金」をお届けするとともに、日本政府からの拠出金を原資とし元慰安婦の方々の医療・福祉分野の向上を図ることを目的とする医療・福祉支援事業を実施した。その際、日本政府を代表し、この問題に改めて心からお詫びと反省の気持ちを表す内閣総理大臣の手紙が元慰安婦の方々に届けられた。これらの国・地域における事業は平成14年(2002年)9月末に終了した。事業内容については以下のとおり。  
なお,最終的な事業実施数は285名(フィリピン:211名,韓国:61名,台湾:13名)。  
(ア)総理の手紙  
日本政府は、これまで様々な機会に、慰安婦問題について、心からお詫びと反省の気持ちを表明してきたが、以下(イ)、(ウ)のアジア女性基金の事業が行われる際に、この問題に関し、総理が日本政府を代表して、改めて心からのお詫びと反省の気持ちを表す手紙を直接元慰安婦の方々にお届けしてきた。(別添参照)  
(イ)国民的な償いの事業  
日本政府は、慰安婦問題について、国民の啓発と理解を求める活動を行い、アジア女性基金が行ってきた国民的な償いを行うための民間からの募金活動に協力を行ってきた。  
その結果、アジア女性基金は、国民個人、民間企業、労働団体さらには、政党、閣僚などからの共感を得て、基本財産への寄附を含め、総額約6億円の募金が集まった。アジア女性基金は、それらの募金を原資とし、平成8年(1996年)7月、韓国、フィリピン、そして台湾における元慰安婦の方々に対して、一人当たり200万円の「償い金」をお渡しすることを決定し,また政府拠出金を原資とする医療・福祉支援事業300万円(韓国・台湾),120万円(フィリピン)を実施(一人当たり計500万円(韓国・台湾),320万円(フィリピン))した。  
上記「償い金」をお渡しするに際しては、総理の手紙とともに償いの事業の趣旨を明らかにしたアジア女性基金理事長の手紙及び国民から寄せられたメッセージを併せて届けた。  
(ウ)政府資金による医療・福祉支援事業  
日本政府は、道義的責任を果す事業の一つとして、韓国、フィリピン、台湾における元慰安婦の方々に対するアジア女性基金による医療・福祉支援事業に対して、5年間で総額約7億円規模(最終的な事業実施総額は5億1200万円)の財政支出を行うこととした。本事業の内容は、例えば、(a)住宅改善、(b)介護サービス、(c)医療、医薬品補助等であるが、元慰安婦の方々の置かれている実情に沿うものとすべく、相手国政府、さらには関係団体等とも協議の上で実施してきた。  
(2)インドネシア  
日本政府は、アジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すためにインドネシアにおいてどのような事業を行うのが最もふさわしいかにつき検討してきたが、インドネシア政府が、元慰安婦の特定が困難である等としていることから、元慰安婦個人を対象とした事業ではなく、同国政府から提案のあった高齢者社会福祉推進事業(保健・社会福祉省の運営する老人ホームに付属して、身寄りのない高齢者で病気や障害により働くことの出来ない方を収容する施設の整備事業)に対し、日本政府からの拠出金を原資として、10年間で総額3億8千万円規模(最終的な事業実施総額は3億6700万円)の支援を行うこととし、平成9年(1997年)3月25日にアジア女性基金とインドネシア政府との間で覚書が交わされた。  
なお、同施設への入居者については、元慰安婦と名乗り出ている方や女性が優先されることとなっており、また、施設の設置も、元慰安婦が多く存在したとされる地域に重点的に設置されることとなっている。最終的には69カ所の高齢者福祉施設が完成した。  
(3)オランダ  
オランダにおいては元慰安婦の方々の認定が行われていないことを踏まえ、日本政府は、アジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すために如何なる事業を行うのがふさわしいかにつきオランダ側の関係者と協議しつつ検討してきた。その結果、平成10年(1998年)7月15日、アジア女性基金とオランダ事業実施委員会との間で覚書が交わされ、慰安婦問題に関し、先の大戦中心身にわたり癒しがたい傷を受けた方々の生活状況の改善を支援するための事業を同委員会が実施することとなった。  
アジア女性基金は、この覚書に基づき、日本政府からの拠出金を原資として、同委員会に対し3年間で総額2億5500万円規模(最終的な実施総額は2億4500万円)の財政的支援を行うこととし、同委員会は79名の方に事業を実施した。この事業は、平成13年(2001年)7月14日に終了した。  
(4)歴史の教訓とする事業  
アジア女性基金は、このような問題が二度と繰り返されることのないよう歴史の教訓として未来に引き継いでいくべく、日本政府と協力しつつ、慰安婦問題に関連する資料の収集・整理等を行った。  
2.女性の名誉と尊厳に関わる今日的な問題への積極的な取り組み  
日本政府は、女性に対する暴力などの今日なお存在する女性問題を解決すべく積極的に取り組んでいくことも、将来に向けた日本の責任であると考えており、アジア女性基金が行っている今日的な女性問題の解決に向けた諸活動に政府の資金を拠出する等の協力を行ってきた。  
アジア女性基金は、このような活動として既にこれまでにも、以下のような事業などにも積極的に取り組んできた。今日的な女性問題に関する国際的な相互理解の増進という観点からも、このような活動は大きな意義がある。  
(1)今日的な女性問題をテーマとする国際フォーラムの開催。  
(2)今日的な女性問題に取り組むNGOが行う広報活動の支援。  
(3)女性に対する暴力など今日的な女性問題の実態や原因究明及びその予防についての調査研究事業。  
(4)このような問題に悩む女性へのカウンセリング事業及び効果的なカウンセリングを行うためのメンタルケア技術の研究、開発事業。 
朴政権の日本批判、「大衆迎合」「不合理」と海外メディアが批判  11/7  
韓国政府は1日、竹島に建設を予定していた避難施設「独島入島支援センター」の建設を「保留」した。これが日本に配慮した結果だと受け止められ、韓国内の政界やメディアから非難の声が上がっている。また、このタイミングで、韓国のこれまでの「ジャパン・バッシング」を批判する論説が、複数の海外メディアに掲載されている。  
実態は日本に配慮した「中止」だと批判  
中央日報などの韓国メディアによれば、建設計画の撤回は、1日の関係閣僚会議で決まった。6日に公表された資料によれば、安全管理、環境、景観などの点で検討すべき課題が残ったため、建設を保留することにしたという。  
この「保留」という表現に対し、朝鮮日報政治部のアン・ジュンホ記者は、コラムで「(建設の)撤回そのものも問題だが、その後の政府のあいまいな対応が問題をさらに大きくしている」と批判している。  
同記者は、政府発表の公式な理由は「事実とは異なる」とし、実際は外交部(外務省)が「支援センター建設は日本との外交摩擦を招く」などとして、日本側に配慮した事実上の中止だと主張。それを伏せてあくまで「保留」とする政府を、「納得しがたい言い訳を並び立てるばかりでは、国民からの信頼は一層遠のく」と強く批判している。  
一方、中央日報は、政府が決定に至った内幕を明らかにしないのは、「領有権強化」と「国際紛争化の可能性」の間のジレンマのためだと記す。同紙は、日本が施設建設による環境汚染などを理由に国際海洋法裁判所(ITLOS)に提訴すれば、日本の思惑通りに竹島の領有権問題が国際紛争化する恐れがあると分析。「保留」はそれを避けるための戦略だと、一定の理解を示しているようだ。  
韓国の反日感情は「自国を北京の搾取に晒す」  
今回の動きは、韓国の対日姿勢の軟化を示すものなのか?オーストラリアのwebメディア『ビジネス・スペクテイター』は5日付で、韓国のジャパン・バッシングは、戦略的な代償を伴うという記事を掲載している。  
記事によれば、数週間前にシンガポールで開かれた会合で、ある韓国高官が筆者のジョン・リー記者に「韓国は中国がどれだけ核武装しようが北朝鮮が核開発を進めようが、日本が核保有国にならない限りは気にも止めない」と、自嘲的に発言したという。リー記者は、目の前の脅威である中国と北朝鮮よりも日本に敵意を燃やすメンタリティを「不合理な国粋主義的な感情」と表現。それによって「勝者」となるのは中国と北朝鮮だと記す。  
また、昨年、南スーダンで平和維持活動をしていた韓国軍が自衛隊から提供された弾薬を国民の非難を受けて返却した問題を取り上げ、「これによって、韓国の一般人の中では、自国の部隊に十分な弾薬を与える要求よりも日本への敵意の方が大きいという事が証明された」と皮肉を込める。  
そして、自国のハルビン駅に韓国で抗日活動の英雄とされる安重根(アン・ジュングン)の記念館を作ったように、中国は韓国を引き入れて日米韓の同盟に「楔を打ち込もうとしている」と指摘。「(韓国は)日本をバッシングすることで一時的に歴史的な痛みを癒やすことができるかもしれない。しかし、それは自国を北京の搾取に晒すことにつながる」と警告している。  
印研究者「朴政権は袋小路に向かっている」  
デリー大学の東アジア研究家、サンディップ・ミシュラ助教授も、オピニオンサイト『ユーラシア・レビュー』で、朴槿恵(パク・クネ)政権の外交政策に疑問を投げかけている。  
同助教授は、朴政権は一見巧みに軍事的パートーナーのアメリカと経済的パートーナーの中国とのバランスを取った「二面外交」を展開しているように見えるが、「結果的には前政権と同じ道を同じゴールに向かって歩んでいる」としている。そのゴールとは、北朝鮮問題を始めとする韓国の外交課題が何一つ進展しない「袋小路」だという。  
また、朴大統領が再三にわたる安倍首相からの2者会談の要請を断っていることについて、「そのジェスチャーは韓国内の大衆の支持を得るのには有効かも知れない。しかし、外交面では戦略的な態度だとは言えない」と批判。『ビジネス・スペクテイター』のリー記者も同様に、「大衆迎合主義は韓国の戦略的利益に資することはない」と述べている。  
2014年11月9-11日 - 安倍首相

 

(北京APEC首脳会議) 
平成26年11月9日、APEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議のため北京を訪問している安倍総理は、カナダのスティーブン・ハーパー首相と会談を行いました。  
また、ロシア連邦のプーチン,ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ大統領と会談を行いました。  
11月10日、APEC首脳会議のため北京を訪問している安倍総理は、インドネシア共和国のジョコ・ウィドド大統領と会談を行いました。また、ペルー共和国のオヤンタ・ウマラ・タッソ大統領と会談を行いました。  
午後には、中華人民共和国の習近平国家主席と会談を行いました。  
総理は、会談後、次のように述べました。「日中両国が戦略的互恵関係の原点に立ち戻って、関係を改善させていく第一歩となったと思います。  
今回、このAPECの場を活用して、まず対話をスタートする。首脳間の対話をスタートする。そのための静かな努力を重ねてきたところでありますが、先般、正式な外相会談が成立いたしました。そして、今回、習近平主席と首脳会談を行うことができた。これは、アジアの国々だけではなくて、多くの国々が、日中両国で首脳間の対話がなされることを期待していたと思います。そうした期待に応える形において、関係改善に向けて第一歩を記すことができたと思います。  
また、海上連絡メカニズムにつきましても、実施について要請をしたところでありますが、実施に向けて具体的な事務作業に入ることとなると思います。」  
その後、TPP首脳会合に出席し、夜には、習近平中国国家主席夫妻による歓迎式典に出席しました。  
11月11日、APEC首脳会議のため北京を訪問している安倍総理は、習近平中国国家主席による出迎えを受けた後、首脳会議(議題「地域経済統合の進展」)に出席し、首脳記念撮影に臨みました。続いて、記念植樹を行いました。  
午後には、ワーキングランチ、首脳会議(議題「革新的な発展、経済改革及び成長の促進」)に出席した後、内外記者会見を行いました。 
日・ミャンマー首脳会談  
安倍晋三総理大臣は、11月12日、ASEAN関連首脳会議へ出席のため訪問中のミャンマー・ネーピードーにてテイン・セイン大統領と会談を行ったところ、概要は以下のとおりです。両国首脳は同会談に先立ち、本年が日・ミャンマー外交関係樹立60周年という節目の年であることにかんがみ、日本とミャンマーの緊密な関係を象徴するものとして、60周年の記念貨幣(PDF)の最初の一枚をテイン・セイン大統領に渡しました。また、ティラワ経済特別区の新規開発区域に関する覚書及び汚職撲滅宣言の交換に立ち会いました。  
1 冒頭発言  
(1)冒頭、安倍総理から、ASEAN議長国としての采配振りに敬意を表しました。また、ミャンマーにおける諸改革の進展に向け、日本は今後も支援していく旨表明しました。  
(2)これに対し、テイン・セイン大統領からは、日本からの経済分野をはじめとする多大な支援に感謝しており、今後も協力をお願いしたい旨述べました。  
2 政治・安全保障  
安倍総理から、ミャンマー政府と少数民族との国民和解に向け、「積極的平和主義」の下、本日同席の笹川陽平・国民和解担当日本政府代表とも連携し、国内和平への関係者の取組を強力に支援していく、全国規模の停戦合意の早期実現を強く期待している旨述べました。これに対し、テイン・セイン大統領からは、笹川代表をはじめとする日本からの支援には感謝しており、引き続き国民和解を推進していきたい旨述べ、現状の説明がありました。また、安倍総理から、ミャンマー西部ラカイン州の情勢改善に向けた更なる取組を働きかけ、テイン・セイン大統領からは、外国の協力も得つつ情況の改善に努力したい旨の発言がありました。さらに、安倍総理からは、国軍から防衛大学校への留学など、防衛交流進展への期待を表明しました。  
3 経済関係・経済協力  
(1)安倍総理から、今般、邦銀3行に参入許可が付与されたことを歓迎した上で、金融部門全体の発展に貢献したい旨述べ、テイン・セイン大統領からは、これを契機に日本からの投資が増加することへの期待が表明されました。また、安倍総理は、投資拡大のため租税条約の早期締結を目指したいとの認識を伝えました。  
(2)テイン・セイン大統領から、これまで官民を挙げてティラワ経済特別区の開発を支援いただいていることに感謝しており、ミャンマー政府としても必要な協力を惜しまない旨述べました。  
(3)安倍総理から、今般、総額260億円の円借款3件の供与(PDF)を決定したこと、これも活用して、中小企業向け金融、配電網、ティラワ港などの整備に協力したい旨述べました。また、郵便・通信・放送、建設などの分野において協力するほか、日本の官民の知見を活かし、保健・医療分野の拠点整備や人材育成など支援していく考えである旨述べました。テイン・セイン大統領からは、日本からの幅広い支援に改めて謝意の表明がありました。  
(4)また、両首脳は、ダウェー開発についても今後、日本、ミャンマー、タイの3カ国間で協議していくことで一致しました。  
4 遺骨収集  
安倍総理から、戦時中ミャンマーで亡くなった日本人の遺骨収集についても重視しており、協力を要請したのに対し、テイン・セイン大統領から、人道的観点からできる限りの協力をしたい旨述べました。  
5 地域・国際情勢  
両首脳は、今回のASEAN関連首脳会議等において「海における法の支配」、北朝鮮問題等の地域・国際情勢についても連携を深めていくことで一致しました。  
日・フィリピン首脳会談  
11月12日、安倍総理大臣は、ASEAN関連首脳会議出席のために訪問中のミャンマーにおいて、アキノ・フィリピン共和国大統領と会談を行ったところ、概要は以下のとおり。  
1.冒頭  
安倍総理から、フィリピンは基本的価値と戦略的利益を共有する戦略的パートナーであり、関係を一層強化し、共通の課題に取り組みたいと述べた。これに対し、アキノ大統領からは我が国における御嶽山の噴火災害や台風被害に対するお見舞いとともに、昨年のフィリピンにおける台風被害に際しての我が国からの支援に対して謝意が述べられ、さらに両首脳は、ともに自然災害を頻繁に経験する両国間で防災・災害対応において協力を深めていくことで一致した。  
2.二国間関係  
(1)政治・安全保障関係  
(ア) 安倍総理から、アキノ大統領から繰り返し力強い支持を得ている「積極的平和主義」の取組を引き続き推進しているとして、本年7月に安保法制整備の基本方針を閣議決定したことなどにつき説明した。そして、両首脳は、二国間の安全保障・防衛協力の一層の強化につき一致した。  
(イ) ミンダナオ和平について、安倍総理から、2016年の自治政府設立に向けた移行プロセスの着実な進展を期待するとともに、日本は引き続き支援を惜しまない旨述べた。アキノ大統領からは、改めて日本の支援(注:日本は2006年以降で150億円以上の支援を実施)に対する謝意の表明があった。  
(2)経済関係・人的交流  
(ア) 安倍総理から、日本企業の投資を一層活発化させるため、フィリピンの投資環境の改善を重視しているとして、一層の環境整備につき働きかけを行いました。アキノ大統領からは、フィリピン側で行っている投資環境改善努力につき説明があった。  
(イ) 安倍総理から、成長の基盤整備に支援を惜しまないとして、運輸・交通インフラ整備案件(注1)及び洪水対策案件(注2)に対して総額約200億円の円借款供与を決定した旨を伝達した。アキノ大統領からは、これらの支援につき、深甚なる謝意が表明されるとともに、都市交通網を始めとするインフラ整備への引き続きの支援に高い期待が示された。  
(ウ) 安倍総理から、「観光立国実現に向けたアクション・プログラム」の下で、本年9月からフィリピンへの更なる査証緩和措置を開始した旨説明した。アキノ大統領からは、日本の措置に対し歓迎の意が示されました。  
3.地域情勢・国際場裡での協力  
(1)両首脳は、現下の地域情勢についても意見交換を行い、南シナ海を含む海洋における「法の支配」の重要性について、改めて確認した。  
(2)安倍総理より、日中首脳会談の実施を含め、日中関係改善の流れにつき説明した。  
(3)アキノ大統領より、フィリピンは日本の安保理常任理事国入りを支持していると述べた。  
(注1)メトロマニラ立体交差建設計画(第6フェーズ)(供与限度額:79.29億円)  
マニラ首都圏の交通渋滞が著しい交差点において、立体交差を建設することにより、交通渋滞の緩和を図り、もってマニラ首都圏の輸送効率の向上及び都市環境改善に寄与するもの。具体的にはマニラ首都圏の幹線4地点の立体交差道路の建設。  
(注2)洪水リスク管理計画(カガヤン・デ・オロ川)(供与限度額:115.76億円)  
ミンダナオ島カガヤン・デ・オロ川の河川改修を実施することにより、河川流域の洪水被害の軽減を図り、もって同地域の安定的な経済の発展に寄与するもの。具体的には、堤防及び洪水擁壁の建設、橋梁の改良、避難道路のかさ上げ、住民啓発等。  
日豪首脳会談  
11月12日、ASEAN関連首脳会議出席のためミャンマーを訪問中の安倍内閣総理大臣は、トニー・アボット・オーストラリア首相(The Hon Tony Abbott、 Prime Minister of Australia)との間で日豪首脳会談を行ったところ、概要は以下のとおりです。  
1 冒頭  
(1)冒頭、アボット首相から、日豪の「特別な関係」を更に強固に、そして広範囲で多元的な関係にしていきたい、防衛・防衛装備品の協力も今後ますます強化していきたい、日豪の友好協力関係は、両国間の貿易投資や、人と人とのつながりに象徴されており、豪州の戦後の繁栄は日本の協力なしには考えられないとの発言がありました。  
(2)これを受け、安倍総理からは、アボット首相からの御嶽山噴火についてのお見舞いへの御礼、我が国の海自護衛艦「きりさめ」も参加した11月1日のアルバニー船団100周年記念式典成功に対する祝意を伝達しました。また、G20ブリスベン・サミットの議長としてのアボット首相の指導力を評価し、サミットで具体的成果が得られるよう最大限貢献したい旨述べました。  
2 二国間関係  
(1)共同運用や訓練を円滑化する協定など安全保障・防衛分野の協力に関して、両首脳間で前回(9月)のニューヨークでの首脳会談以降の進捗が確認されました。  
(2)来年のアボット首相の訪日について、双方の都合が良い時期に実現すべく、具体的な調整を進めることで一致しました。  
(3)安倍総理から、両国関係について有識者が議論する「日豪会議」を再編・強化したい旨提案し、今後、その詳細を検討していくことになりました。  
(4)経済関係に関しては、日豪EPAの早期発効を目指して両国の国内手続を促進すること、また、TPPについては早期妥結、RCEPについては2015年末までの交渉完了を目指して日豪が連携することを確認しました。またエネルギー分野での一層の協力についても意見交換を行いました。  
3 地域・国際場裡における協力  
(1)北朝鮮や南シナ海等の地域の平和と安定に関する問題、エボラ出血熱、ISILといった国際的課題への対応等について東アジア首脳会合(EAS)の場を含め、日豪で連携・協力することが確認されました。  
(2)また、日豪米3か国首脳会議の成功に向けて、更には来年創設70周年を迎える国連の改革においても、協力していくことを確認しました。  
(3)さらに、安倍総理から、10日に北京で行われた日中首脳会談を含む日中関係に関する最近の一連の動きに言及し、日中両国が「戦略的互恵関係」の原点に立ち戻り、関係を改善させていく第一歩を記すことができた旨述べました。これに対しアボット首相からは、今回の会談をきっかけにして、日中間の対話が更に進むことを期待する旨発言がありました。  
日・マレーシア首脳会談  
11月13日安倍総理大臣は、ASEAN関連首脳会議出席のために訪問中のミャンマー・ネーピードーにおいて、ナジブ・マレーシア首相と会談を行ったところ概要は以下のとおり。  
1. 安倍総理から、ナジブ首相とは頻繁にお会いしているが、引き続きマレーシアとの幅広い協力関係を深めたい旨を述べたところ、ナジブ首相からも、安倍総理との会談を通じて既に良好な両国関係が更に強化されることを歓迎する旨述べた。  
2. マレーシア・シンガポール間の高速鉄道整備計画に関しては、安倍総理から、日本の新幹線導入についての期待を改めて伝達したところ、ナジブ首相からは計画の現状についての説明がなされた。  
3. またこの機会に、安倍総理からは、海洋安全の分野に関し、マレーシアの海上法令執行庁(MMEA)の支援を継続していく旨を改めて伝達した。  
日・タイ首脳会談  
13日、ASEAN関連首脳会議に出席のためミャンマー・ネーピードーを訪問中の安倍晋三内閣総理大臣は、プラユット・ジャンオーチャー首相(H.E.Mr.Prayuth Chan-o-cha)と会談を行いました。概要は以下のとおりです。  
1.冒頭、安倍総理から、10月のASEM首脳会議に続きプラユット首相と会談できうれしい、先週はプラウィット副首相兼国防大臣が訪日され、我が国閣僚との間で有意義な会談が行われた、引き続き交流と対話を推進していきたい旨述べました。  
2.また、安倍総理から、早期民政復帰に対する期待を表明するとともに、タイ国内の高速鉄道をはじめとするインフラ整備における関心を伝え、東日本大震災後の放射性物質に係る食品輸入規制の早期完全撤廃、タイで活動する日本企業にとって重要な公正・透明な投資環境の重要性を訴えました。  
3.これに対し、プラユット首相からは、民政復帰に向けた諸改革の取組みにつき説明があり、日本からも支援を得たい旨発言がありました。また、食品輸入規制については一部緩和を決定したとしつつ、残る規制についても安全性を確認しつつ検討したい、投資環境整備にもしっかり取り組みたいとの説明がありました。さらに、タイ国内の鉄道分野の整備計画につき説明があり、今後、両国の当局間で協力につき協議していくことで一致しました。このほか、プラユット首相からは、観光、治水、エネルギー分野での両国間の協力への期待が表明されました。 
習近平主席、一度も笑顔なく…安倍首相と25分間、二言三言の対話 11/11  
会いはしたが、両国首脳には笑いどころか微笑もなかった。日本の安倍晋三首相と中国の習近平・国家主席は10日午前11時50分から約25分間、北京の人民大会堂で初めての首脳会談を行った。日本の首相と中国の国家主席の間での首脳会談は、2011年12月の野田佳彦首相と胡錦濤主席以来、約3年ぶりだ。だが格式や内容面は、1時間前に開かれた韓中首脳会談とは相反した姿だった。  
まず習主席は安倍首相よりも遅く現れた。アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の主人である習主席が、客人を先に来させて待たせたのだ。安倍首相は立ったまま10秒余り、戸惑いながら待たなければならなかった。一歩遅れて現れた習主席は、安倍首相が差し出した手を握ったのだが、いら立ったように終始かたい表情だった。安倍首相が握手したまま何か挨拶の言葉をかけ、そばにいた通訳者を通そうとしたが、習主席は頭をくいっと回して写真撮影に応じた。心苦しくなった安倍首相の顔が瞬間固まった。ぎこちない雰囲気が流れた。以後メディアに公開された場面の中で2人は一度も視線を合わせなかった。習主席がやむを得ずに安倍首相に会うということを加減なく見せているようだった。まるで3月のハーグでの韓米日首脳会談当時の朴槿恵(パク・クネ)大統領と安倍首相の姿を見るようだった。  
会談場所も意外だった。人民大会堂というのは格式を備えているが、日中会談は懇談会のようなものだった。通常の公式の首脳会談の場合、双方が両国の国旗が置かれたテーブルを間に置いて一列に向かい合って座って進める。普通、テーブルには花と参席者の名札が置かれる。  
しかしこの日の日中首脳会談は、テーブルなしで馬蹄形に配置されたソファに座ったまま行われた。日本側の倍席者も3人に制限された。国旗も特になかった。隔意ない面会や面談で使われる方式だ。習主席が先に待って朴大統領を明るく笑って迎え、テーブルを間に置いて双方の参席者が向かい合って行われた韓中首脳会談とは対照的だ。  
外交消息筋は「中国が対内外的に『公式の首脳会談ではない』という印象を与えるために意図的に演出をしたと見られる」として「APEC主催国なので会うけれども、日本との関係改善には積極的に取り組む意向がないということを見せたもの」と解釈した。実際、中国政府は会談後にホームページにあげた発表文で「日本側の要請によって実現した面会」と意味を縮小した。  
本会談でも双方は7日に発表した「日中間の4つの合意文」を確認する程度で、二言三言やりとりしたまま終わったという。習主席は「最近2年間、中日関係がかなり難しい状況に置かれた『是非曲直』は明らかだ」として日本の歴史認識を狙った。進んで「歴史問題は13億人の中国人民の感情問題だ。日本が両国間で合意した政治文書や村山談話など歴代政権が明らかにしてきた約束を遵守する時に初めて友好関係を結ぶことができる」と圧迫した。靖国という単語を取り上げなかったが「政治的困難を克服することに若干の認識の一致を見た」という合意文に、安倍首相の靖国参拝の中断の意味が含まれていることに釘を刺したわけだ。安倍首相は「日本は積極的平和主義のもとで歴代の日本政府が歴史問題に関して明らかにしてきた『認識』を持続的に堅持する」としながら「4項目の共同認識を実現して関連問題を適切に処理する」と答えた。  
安倍首相は会談後「日中関係改善のための第一歩になった」として意味を付与した。会談に同席した加藤勝信・官房副長官は習主席の「固い表情」についての質問が相次ぐと「習主席は非常に自然に対応したと見ている。安倍首相が『(先月東京で)中国の上海歌舞団の公演“朱鷺”を観賞した』と話すと同調するように深く首を縦に振った」と反論した。
「韓国は完全に取り残された」 日中首脳会談受け、“焦り”広がる韓国メディア  11/11  
安倍晋三首相と中国の習近平国家主席が10日、北京で初の首脳会談を開いた。これを受け、韓国メディアには「韓国は完全に取り残された」(ハンギョレ新聞)など、焦りとも取れる反応が溢れている。  
また、北朝鮮が8日、スパイ容疑で拘束していた2人のアメリカ人を釈放したことも、米朝関係の前進=韓国の孤立を示す要素として関連づけて論じられている。  
「中国が日本批判の共同戦線から離脱」  
安倍首相と習主席の初の会談は、日中両国にとっても約2年半ぶりの首脳会談となった。会談に先立ち、両国は尖閣問題について「双方は異なる見解を有していると認識」、歴史認識問題で「双方は歴史を直視」するなどとした合意文書を発表。尖閣周辺海域での不測の事態を回避するため、危機管理メカニズムを構築することなどでも合意した。  
一方、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は就任以来、日本側からの再三に渡る首脳会談の要請を拒否し続けている。その背景には、メディアの論調を含む国民の反日感情への配慮があると識者らは指摘している。しかし、ここにきて韓国の各大手メディアの社説は、首脳会談開催を是とする論調に一気に傾いているようだ。  
中央日報によれば、韓国政府は日中首脳会談に先立ち、「(日中首脳会談の)成功の可否と関係なく(韓国は)毅然と対処する」方針を表明したという。しかし、同紙は会談前日の社説で、内心は違うと指摘。「中国と日本の接近で韓国だけ疎外される可能性を懸念し、苦心を繰り返すほかない立場になった」と記す。ハンギョレ新聞の社説も「中国が日本批判の共同戦線から離脱した今、韓国は完全に取り残された」としている。  
脱「親日コンプレックス」を促す社説も  
中央日報の社説はさらに、「韓国政府は北京の気流を直視して韓日首脳会談が実現する環境作りとタイミングをつかむことに全力を傾けなければならない」と、中国に倣って首脳会談を開くべきだと明言している。そして、国民は「親日コンプレックス」から抜け出し、国益を最優先する現実路線に転換すべきだと主張している。  
とはいえ、同社説は、「歴史暴走を中断する日本の努力が先行しなければならない。特に安倍首相が慰安婦問題に前向きな立場を見せなければならない。それでこそ早い時期に韓日首脳が会う条件を作ることができる」と、従来の政府見解と同様の前提条件を掲げる。一方、安倍首相は6日、別所浩郎駐韓国大使に託した親書を通じて、「前提条件なし」での全面的な日韓対話の再開を改めて求めたという。  
上記の親書に触れた韓国英字紙『コリア・ヘラルド』の社説もまた、「建設的で意味のあるサミットを開催するため、正しい雰囲気作りをしなければならない」と、日韓首脳会談開催の必要性を認めている。両首脳が顔を合わせる直近の機会で首脳会談が実現する可能性は低いものの、その間に実務者協議を積極的に進めるべきだとしている。  
米朝接近で北朝鮮問題でも「取り残される」  
一方、朝鮮日報とハンギョレ新聞の社説は、北朝鮮が8日、スパイ容疑で拘束していた2人の米国人を釈放した件にも触れている。拘束されていたもう一人の米国人は既に先月釈放されており、「北朝鮮による米国人拘束問題は全て解決した」と朝鮮日報は記す。  
ハンギョレ新聞によれば、韓国政府は、これによって6ヶ国協議などアメリカの北朝鮮政策は何も変わらないという見解を示しているという。しかし、同紙は最近のアメリカの北朝鮮外交が積極性を増している例を複数挙げ、北朝鮮問題でも韓国が取り残されることを懸念している。  
朝鮮日報の社説も同様の見方を示している。日中関係についても「両国の対立が一気に解消することはないはずだ」としながら、「対話の窓口が開かれたことだけは間違いない」と記す。そして、「問題はこれまで中国と歩調を合わせ、安倍首相との首脳会談に応じないことを重要なカードと見なしてきた大韓民国の外交政策だ」批判。「突然の米朝雪解けムードと中日接近を横目で見ながら、国民は一層の不安を感じざるを得ないだろう」と結んでいる。 
 
謝罪の歴史11 2015

 

日中韓の歴史問題、今年が正念場―第2次大戦終結70年 2015/1/3  
今年は第2次世界大戦の終結から70年の節目の年となる。世界の大半では、記憶から薄れゆく戦争を振り返る好機となることだろう。ところがアジアでは、戦争の歴史は今も生きている。それゆえに、2015年は困難な年になるかもしれない。  
戦後70周年を迎えるタイミングは、アジア地域の大国同士――中国、日本、韓国――の関係がここ数年間で最も険悪な時期と重なってしまった。アジア地域ではめったに見られないような政治的手腕が発揮されないと、暴動や意図せぬ衝突が起こる可能性も否定できない。  
そうした不幸な出来事が起きるとすれば、それは3カ国それぞれにまかれた積年の反感、不信感、恨みの種の結実と言えるだろう。この3国間にはまだ解決できていない領土問題があることから、国家主義的な感情の高まりは大惨事の原因になり得る。特に中国と韓国の両国と反目している日本国民には懸念すべき理由がある。  
まずは歴史問題でアジアと欧州を比べてみよう。欧州では主な戦争記念日にかつての兵士たちが一同に会し、戦死者たちを追悼している。ところがアジアの人々は、いまだに互いの戦争責任を追及し合っている。70周年は許しと和解のチャンスにもなり得るが、激しい批判や反日感情の爆発につながる可能性の方が高い。  
中国の習近平国家主席は昨年12月、初となった南京事件国家追悼式典に参加することで、2015年の基本姿勢を示した。中国はこの日を含め、日中戦争に関連して新たに3つの国民の休日を制定した。中国の政府高官たちは対立の歴史を乗り越えようとせず、それを国家主義的な誇りの中心に据え、自国民に今日の日本を事実上の敵国と思わせようとしている。  
日本からの挑発的な発言は中国の国家主義的な指導部の追い風になった。一例が、物議を醸した2013年の安倍首相の「侵略という定義は学界的にも、国際的にも定まっていない」という発言である。南京大虐殺その他の虐殺が起きたこと自体を否定する日本の国家主義者たち、戦争犯罪に関する過去の日本政府の謝罪が訂正されるかもしれないという同国政府当局者の曖昧な発言は火に油を注いだ。  
特に冷え込んでいるのが日韓関係で、戦時中の「従軍慰安婦」問題は、最も基本的な水準を除く両国政府高官による協力の主な障害となっている。  
戦後70年が経過しようとしている今も東アジアという地域は歴史に捕らわれており、永続的な憎悪のようなものに陥りかけている。そうした状況は中国と韓国で実施された世論調査でも裏付けられた。両国の国民は民主国家である日本を最大の脅威と位置付けている。  
こうした冷え込んだ関係だけでも懸念に値するが、国家主義的な感情がこの地域の海にまで流出する恐れもある。東シナ海では、日本による尖閣諸島の実効支配に中国が積極的に反論している。日本海の竹島については、日本政府と韓国政府のあいだで領有権をめぐる見解が食い違ったままだ。両国の船舶の衝突といった小さな事件でさえ、あっという間に手に負えない事態に発展しかねない。  
戦後70周年となる今年に必要なのは、東アジアにこれまでなかったような政治的手腕である。3カ国のリーダーは、感情を落ち着かせ、将来に目を向ける上で、それぞれが重要な役割を果たすことができる。  
米国政府の腹を探ってきた安倍政権は、戦争に対してこれまでで最も包括的な謝罪を行うことを検討すべきである。安倍首相はすべての関係国が知る具体的な事実を挙げ、日本の戦争犯罪をはっきりと認めることで、新たな時代を切り開くことができる。そのあとで、アジアにおける協力関係と市民社会を強化するための大胆な計画に軸足を移せばいいのだ。  
習主席は、中国政府の外部の世界に対する疑念を脇に追いやり、リベラルで民主的な日本はアジアの平和の脅威ではないということを認めて、ニクソンの電撃訪中のような方針転換を図ることができる。そのあとで協力の新たな時代を約束すれば、日本政府も即座にこれに報いるはずだ。  
一方、韓国の朴槿恵大統領は、リベラルな価値観を共有できる日本をアジアにおける最も緊密なパートナーとして受け入れ、北朝鮮への対応から日米韓3カ国同盟の活動まで、さまざまな問題における実質的な協力を確約すべきだろう。  
こうしたことすべてが必要だが、いずれも実現する可能性は低い。必要とされているリーダーシップが発揮されなければ、反日暴動が勃発したり、海洋事故が地域の危機に発展したりしたとしても全くおかしくない状況にある。憎悪という感情の種は、長くかかったとしてもいずれは苦い果実を実らせてしまうものだ。  
その一方で、東アジアの主要国が今年をうまく乗り切ることができれば、より協力的で安定的な未来が待っているという合図になりそうだ。 
「中国旋風」は弱まらない―緊張緩和はみせかけ 2015/1/7  
中国の周辺国との関係に目立った変化が現れているようだ。地域のいじめっ子は支援者に変わった。  
ここ数カ月、威嚇は数百億ドルの投資に取って代わられている。爆発寸前だったベトナムとの領有権争いは突然静まった。日本との関係も好転している。  
全てを締めくくるかのように、中国の汪洋副首相は数週間前のシカゴでの会合で、同国の広範な外交政策上の熱望には米国主導の世界秩序をひっくり返そうという意図は含まれていないとし、中国がこの地域で力を誇示する中で米国の外交政策陣の間で強まっていた見方に反する発言をした。同副首相は、米国は依然として「世界を導いている」と述べたのだ。  
緊張緩和のように見えるが、これは持続するのだろうか。  
当てにしない方がいい。中国は領有権の主張を少しも緩めていない。ジョージ・ワシントン大学エリオット国際関係大学院の中国政策プログラム・ディレクター、デービッド・シャンボー氏は、中国外交政策の大きなシフトと見られるのは「大体が戦術的、レトリック的なものだ」と指摘した。  
同氏は「今年は(中国の)周辺国と米国に対するより厳しい戦術に舞い戻ることになるだろう」と話している。  
同氏や他のアナリストは、東アジアの運命を方向付けるという長期的な野望、それに、この目標達成のために習近平国家主席が行っている前例のない外交的努力に引き続き注目している。  
こうした野望のスケールは大きい。習主席が「アジア太平洋の夢」について語る時、同主席は18世紀に中国が最盛期を迎えたころに同国王朝が手にしていたものさえ上回るような地域支配を心に描いているのだ。  
これが実際に何を意味するのか理解するためには、資金の流れを見るといい。中国の資金は地域のコンテナ港、工業団地、アジア大陸を走る高速鉄道、ハイウエー、エネルギーパイプライン、その他のインフラに回されている。北京はこうした努力を表現するのに「包括的連結性」という言葉を作りだした。  
中国の資金の全てが約束通りに実体化するかどうかは議論の余地がある。ただ、その中核部分に中国とネットワークで結ばれたアジアを置くという戦略的目標は明確だ。  
話はこれにとどまらない。習主席は大規模自由貿易圏も構想しており、これは世界最速のペースで成長しているアジア地域全体に中国の市場を拡大しようとするものだ。  
習主席と李克強首相はこれらの全てを達成するために、熱狂的な外交攻勢に乗り出した。2人は過去2年間に少なくとも17回外遊し、5大陸の50カ国以上を訪れ、外国の国家元首や政府首脳と500回近く会談した。  
思い起こしてほしい。彼らは世界第2位の経済をオーバーホールし、共産党のために食うか食われるかの汚職撲滅運動を進めながら、この外交攻勢を優先的に行ってきた。  
王毅外相は、習主席と李首相は世界に「中国旋風」を巻き起こしたと誇らしげに口にしている。これは空威張りではない。実際、同外相の言葉は、2014年の最大の外交政策上のシフトにスポットライトを当てている。つまり、中国は今や「機会を待ち、能力を隠そう」というかつての最高指導者、ケ小平氏の行動原理から決定的に脱却したのだ。  
しかし、戦闘機や艦隊という形でこれ見よがしに示されるこれらの能力は、中国の周辺国を神経質にさせた。このことは、中国の連結プロジェクトが軌道に乗る前に、これをだめにしてしまう恐れがあり、東アジアでの米国の影響力を弱めるのではなく、逆に強固なものにする。米国は自国には東アジアの防衛者の役割が振られていると考えるようになり、これは中国の意図するところとは正反対の結果だ。  
これが、北京の新たな友好的外交攻勢の背景だ。中国が昨年、領有権紛争が起きているベトナム沖合の海上に巨大な石油掘削リグを作り、大胆な領有権主張を展開した時、ベトナムの大衆は中国企業を狙って暴れ回り、流血の事態となった。しかし中国は今では融和的な言葉を遣っている。中国の高官は12月、今や「メガフォン外交」に終止符を打つべき時だと述べた。  
答えの出ていない大きな問題は、習主席は東アジアの新秩序の中で米国によるどのようなリーダーシップの役割を予想しているのか、ということだ。表面的には、米国は依然として世界の覇権者だという汪洋副首相の認識―謙遜でないとしたら―が、第2次世界大戦後に主として米国が形作ってきた同地域を再構成する中国の能力に関する新しい現実をうかがわせるのかもしれない。同副首相は「中国には米国の立場に挑戦する野心も能力もない」と述べたのだ。  
融和的レトリックのより可能性の高い説明は、周辺国はよみがえった中華思想の秩序の中に強制的に引き込まれることを望んでいないことを中国が認識するに至った、ということだ。  
このことが、「連結性」と「旋風」の外交が平和的手段で目指すものであるようだ。中国が東アジアをその拡大する経済の中に取り込む時には、同地域における米国の地位は弾丸が一発も発射されることなく、小さくなっていることだろう。 
戦後70年、日本が謝罪しても東アジア情勢は改善せず 2015/1/14  
第2次世界大戦の終戦から70年を迎える今年、「懺悔(ざんげ)のモデル」のドイツのように振る舞うよう日本に求める声が一段と高まる公算が大きい。  
ドイツほど深い悔恨を鮮明にした国はかつてない。史上最も破壊的な戦争のあと、ドイツは苦しみながら自己反省して謝罪した。それが再び平和が脅かされるとの恐怖を沈静化させる一助となった。安心した欧州は、和解が可能になった。  
これとは対照的に、日本が戦争という過去を振り返るとき謝罪していると感じられないことが多い。これが、日本の軍国主義によって辛酸をなめた中国と韓国との関係が依然としてとげとげしい理由だとされている。また、尖閣諸島(中国名は釣魚島)をめぐる日中両国の緊張の高まりが武力衝突につながるのではないかとの現実的な懸念にもつながっている。  
日本はきっぱりと全面謝罪すべきだとの議論がある。東アジアの緊張緩和のためだというのだ。そして東アジア地域の政治家、学者、そして戦争犠牲者のグループの間では、安倍晋三首相が日本の降伏70周年の8月に何を言うかに既に期待が高まっている。  
そんな簡単な話ならどんなに良いことか。  
だが第一に、日本がこれまで公式の謝罪を出し惜しみしてきたというのは事実ではない。  
日本が戦時中の自らの苦しみにひたる傾向があると批判することはできる。同様に、学校の教科書で戦時中の旧日本軍の残虐行為を過小評価する一方、広く行われた奴隷労働、南京大虐殺、そして旧日本軍のために性奴隷とされた「慰安婦」の強制徴用といった諸事実を公的な立場にある人々が声高に否定していることも批判できる。  
しかし日本の指導者たちが謝罪しないと非難することはできない。この数十年間、彼らは繰り返し謝罪してきたからだ。  
例えば1991年、当時の宮沢喜一首相はアジア太平洋で日本が与えた「耐え難い苦しみと悲しみ」に許しを請うた。また降伏50年目の1995年に当時の村山富市首相は植民地支配と侵略について「痛切な反省の意」を表し、「心からのおわび」を表明した。  
だが、日本の指導者で、ドイツ(当時西独)のウィリー・ブラント首相が1970年にワルシャワ・ゲットー蜂起の記念碑前でひざまずいた象徴的な行動に匹敵することを行った人は皆無だ。2001年に当時の小泉純一郎首相が韓国で花輪をささげ、植民地支配を謝罪したぐらいだ。  
第二に、安倍首相が本格的に謝罪するとしても、それが大いに役立つかどうか全く明白ではない。それはかえって事態を悪化させるかもしれない。  
「謝罪する国々:国際政治における謝罪(Sorry States: Apologies in International Politics)」の著者ジェニファー・リンド氏は、謝罪は和解のために必要であるとの広く浸透した考えに異議を唱える。同氏は、ドイツとフランスは、ドイツが実際にナチの残虐行為を償い始める以前ですら仲直りしていたと指摘している。一世代(20-30年)という年月が必要ではあったが。  
加えて、謝罪は政治的にリスキーだ、とリンド氏は言う。それは謝罪する国において反発を引き起こしかねないからだ。  
それこそ日本で起こっていることだ。日本では、公式謝罪は右翼のナショナリストやその他の過激主義者から否定の声が一斉に出てくる引き金になっており、謝罪に込められた誠意を台無しにしている。  
安倍首相につきまとう問題は、同首相がこの種の人物を重要なポジションに任命してきたことだ。それが、安倍氏の真意がどこにあるのかという疑念が持ち上がるきっかけになっている。安倍首相は2013年、A級戦犯が他の戦没者とともに合祀(ごうし)されている靖国神社を参拝し、同首相を批判する陣営に攻撃材料を提供した。それが中国と韓国をして安倍氏は悔い改めない軍国主義者とのレッテルを貼らせることになったのだ。  
これは厄介な事態だ。もっと謝罪をしても、それは東アジアにおける真の問題を解決しないだろう。歴史をめぐる議論は、同地域の政治家たちによってそれぞれの国内目標のために利用されているのだ。  
歴史論議は、この地域では競合するナショナリスト的なアジェンダ(目標)をあおる。それらは領土紛争をかき立て、実際的な外交上の解決を排除してしまう。  
中国では、反日感情がレジーム(体制)を支える不可欠なつえと化した。日本を悔い改めない悪漢として描くことは、中国の軍事的増強を正当化する一助になっている。  
同じように、日本では多くの人々が中国の経済的な興隆を日本の存立を脅かす脅威としてみるようになった。有権者にとっての安倍氏の魅力は、少なくとも部分的には、同氏が日本の強力な隣国である中国に対峙(たいじ)してくれるだろうという期待があるためだ。安倍氏をひざまずかせれば、北京とソウルでは万事うまく行くだろうが、東京では恐ろしいことになるだろう。  
世界のどこでも真の和解にこぎつけるのは極めて難しい。このため、政治家は追い込まれなければ和解しようとしないのが常だ。そこでは共通の脅威の存在が役に立つ。欧州ではそうだった。つまり、冷戦への対応という至上命題が欧州(西欧)の和解を促したのだ。  
しかし、残念ながら、東アジアにおける政治的な力は、おおむね正反対の方向に作用している。一層の敵意という方向だ。  
そこで、安倍氏は8月15日の終戦70年にあたり何を言うべきだろうか。安倍氏は「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たしていくのか」を新たな談話に書き込むことを約束した。同氏はまた、これまで(歴代政権)の公式謝罪から後退させるつもりはないことを強調した。  
これらはすべて、世界的なステーツマン(政治家)としての安倍氏の立ち位置を改善するのに不可欠だ。しかし、安倍氏が何を言おうと、日本の近隣2国(中国と韓国)をなだめられる公算は小さい。リンド氏は「魔法の言葉」というものはないと述べ、「それでも、中国は不満だろう」と語った。  
たとえ日本がドイツをモデルとし、アジアにおける第2次世界大戦の傷を癒やそうとした場合でも、問題は、中国と韓国がその後、「赦(ゆる)しのモデル」であるフランスのように行動するかどうかなのだ。 
第三次安倍内閣の課題 2015/2  
昨年十二月に行われた衆院選での勝利をうけて、第三次安倍内閣が発足した。新たなスタートを切った安倍政権は、懸案の景気問題など日本の抱えている様々な課題に対して、この一年、どう向き合っていくべきか。ゲストの発言を踏まえて、キャスター二人が語り合った。  
アベノミクスへの「期待」  
「(衆院選で)安倍首相はアベノミクスという具体的な政策を示して戦った。それに対抗するビジョンが野党から出てこなかったのが大きい」=世耕弘成・官房副長官(昨年十二月十五日)  
近藤 昨年末の衆院選では与党が圧勝し、安倍首相が引き続き政権を担当することになりました。国民の最大の関心事は経済問題でしたから、与党の経済政策は、一応の信任を得たものといえます。  
玉井 ただ、国民の多くはアベノミクスのもたらす果実を実感できていなかったようです。実際、安倍首相も「アベノミクスは道半ば」と言っているわけですし、「現状には満足していないが、今後には期待している」というのが、今回の選挙で示された民意だったのではないでしょうか。  
近藤 これに対して、野党はアベノミクスに代わる経済政策を打ち出すことができなかった。世耕氏の指摘にはもっともなところがあると思います。  
玉井 民主党は小選挙区の六割にしか候補者を立てられず、政権の受け皿になるという野党第一党の役割を放棄した。選挙の緊張感を失わせた民主党の罪は重い。  
「(消費税率が一〇%に引き上げられる)二〇一七年四月までに景気が回復していないと、国民から厳しい審判を受けることになる」=山際大志郎・経済産業省副大臣(昨年十二月十七日)  
近藤 安倍首相は、昨夏頃からの景気減速などを受け、当初は今年十月に予定していた消費再増税を延期したわけですが、二〇一七年四月には必ず引き上げると明言しています。それまでに何としても景気を浮揚させねばならないわけで、今年はいよいよアベノミクスの成果が問われる年になります。  
玉井 来年七月には参議院選挙も控えています。国民の期待にこたえるために残された時間はそれほどありません。アベノミクスの成果を目にみえるかたちで示すことが重要です。  
カギ握る今春の春闘  
近藤 その意味では、今年の春闘に注目しています。二月中旬には労組側が要求を経営側に提出し、賃金交渉がいよいよ本格化します。焦点は物価上昇分を上回る賃上げが実現するかどうかですが、その点、大企業に関してはかなり期待ができそうです。問題は労働者の七割以上が働いている中小企業で、その業績は地域や業種によって「まだら模様」というのが実態です。アベノミクスの恩恵をどれだけ多くの国民に行き渡らせることができるかは、引き続き大きな課題です。  
玉井 政府、労働界、経済界の代表による「政労使会議」は、昨年の春闘に続いて賃上げに向けた努力をしていくことで合意しています。いわば首相官邸が労組の主張を代弁する異例のかたちとなっており、安倍首相の強い意気込みが読み取れます。  
「(農業、医療など規制の残る分野で、今年は)成長戦略の具体化が見える年にしないといけない」=甘利明・経済再生大臣(一月五日)  
近藤 もうひとつ重要なのは、アベノミクスの「第三の矢」である成長戦略の成否です。昨年後半から株式市場は荒っぽい値動きを見せていますが、市場は日本の成長戦略に本当に推進力があるのかを見極めようとしています。もちろん関連する法改正などにはある程度時間がかかりますが、与党は選挙で大勝して大きな政治的パワーを得たのですから、早急に規制緩和を進め、成長戦略を強力に推進する姿勢を打ち出さねばならない。さもなければ、失望が市場を覆ってしまい、景気回復はさらに遠のいてしまうでしょう。  
玉井 そこで安倍首相は、既得権益をもつ旧来の支持団体の応援を得て当選してきた自民党議員を抑え込むことができるのか。かといって、かつての小泉首相のように、党内の議員を抵抗勢力呼ばわりするような「劇場政治」も望ましくない。安倍首相の政治手腕が問われるところです。  
「(地方にあって)今まで日本経済を回してきた公共事業と企業誘致の陰に隠れて力を落としてきたものの潜在力をいかに伸ばすか」=石破茂・地方創生担当大臣(昨年十二月二十六日)  
近藤 疲弊した地方の再生も引き続き大きなテーマです。現在の改正地域再生法では、自治体サイドが政府に新たな支援策を提案する仕組みがもうけられています。こうして地方の自主性を引き出すのは大事なことですが、現実には観光資源や人的資源なども乏しく、有効なアイデアを打ち出せない自治体も多い。すべての地域がうまくいくような施策は存在しないことは直視しなければなりません。  
集団的自衛権で対立も  
「(与党の勝利は)決して『積極的に信任を受けた』と胸を張れるほどではなかった。多様な民意を受け止めていくには、謙虚な姿勢が必要だ。数におごらないよう自ら戒めなければならない」=公明党の山口那津男代表(昨年十二月十八日)  
玉井 最大の懸案である経済問題以外にも、今年注目すべき政治的課題は幾つかあります。集団的自衛権の限定行使を可能にする自衛隊法改正案などの関連法案は、四月の統一地方選後に国会に提出される見通しとなっており、与野党の対立は必至の状況です。  
近藤 今春にはこれと並行して日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定も行われるので、安保関係で国会審議が白熱していくことが予想されます。玉井 国民の安全を守るため集団的自衛権の限定行使を可能にしようという与党の論理には説得力があると思いますが、ここでひとつ注意したいのは、外交・安保政策というのは仮に政権交代があっても揺らがないことが大事だということです。与党側は数の力に頼らず、野党を巻き込んでいくような政治の技術を見せてほしい。  
近藤 春闘の結果なども含め、安倍政権がこの春をうまく乗り切れるかどうかは、重要なポイントになりそうです。  
玉井 八月には戦後七〇年の首相談話も発表されます。安倍首相は、アジアへの侵略を謝罪した戦後五〇年の村山首相談話などの立場を「全体として引き継いでいく」としていますが、内容次第では国際社会の反発を買って国益が損なわれる恐れもある。賢明な判断を期待したいところです。 
2015年2月12日 - 安倍首相

 

(第百八十九回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説)  
まず冒頭、シリアにおける邦人殺害テロ事件について、一言、申し上げます。事件発生以来、政府はあらゆる手段を尽くしてまいりましたが、日本人がテロの犠牲となったことは、痛恨の極みであります。衷心より哀悼の誠を捧げるとともに、御家族に心からお悔やみを申し上げます。非道かつ卑劣極まりないテロ行為を、断固非難します。日本がテロに屈することは決してありません。水際対策の強化など、国内外の日本人の安全確保に、万全を期してまいります。そして食糧、医療などの人道支援。テロと闘う国際社会において、日本としての責任を、毅然として、果たしてまいります。
一 戦後以来の大改革  
「日本を取り戻す」  
そのためには、「この道しかない」  
こう訴え続け、私たちは、二年間、全力で走り続けてまいりました。  
先般の総選挙の結果、衆参両院の指名を得て、引き続き、内閣総理大臣の重責を担うこととなりました。  
「安定した政治の下で、この道を、更に力強く、前進せよ。」  
これが総選挙で示された国民の意思であります。全身全霊を傾け、その負託に応えていくことを、この議場にいる自由民主党及び公明党の連立与党の諸君と共に、国民の皆様にお約束いたします。  
経済再生、復興、社会保障改革、教育再生、地方創生、女性活躍、そして外交・安全保障の立て直し。  
いずれも困難な道のり。「戦後以来の大改革」であります。しかし、私たちは、日本の将来をしっかりと見定めながら、ひるむことなく、改革を進めなければならない。逃れることはできません。  
明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。  
「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。」  
明治の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。
二 改革断行  
(農家の視点に立った農政改革)  
戦後一千六百万人を超えていた農業人口は、現在、二百万人。この七十年で八分の一まで減り、平均年齢は六十六歳を超えました。もはや、農政の大改革は、待ったなしであります。  
何のための改革なのか。強い農業を創るための改革。農家の所得を増やすための改革を進めるのであります。  
六十年ぶりの農協改革を断行します。農協法に基づく現行の中央会制度を廃止し、全国中央会は一般社団法人に移行します。農協にも会計士による監査を義務付けます。意欲ある担い手と地域農協とが力を合わせ、ブランド化や海外展開など農業の未来を切り拓く。そう。これからは、農家の皆さん、そして地域農協の皆さんが主役です。  
農業委員会制度の抜本改革にも、初めて、踏み込みます。地域で頑張る担い手がリードする制度へと改め、耕作放棄地の解消、農地の集積を一層加速いたします。  
農業生産法人の要件緩和を進め、多様な担い手による農業への参入を促します。いわゆる「減反」の廃止に向けた歩みを更に進め、需要ある作物を振興し、農地のフル活用を図ります。市場を意識した競争力ある農業へと、構造改革を進めてまいります。  
「変化こそ唯一の永遠である。」  
明治時代、日本画の伝統に新風を持ち込み、改革に挑んだ岡倉天心の言葉です。  
伝統の名の下に、変化を恐れてはなりません。  
農業は、日本の美しい故郷を守ってきた、「国の基(もとい)」であります。だからこそ、今、「変化」を起こさねばならない。必ずや改革を成し遂げ、若者が自らの情熱で新たな地平を切り拓くことができる、新しい日本農業の姿を描いてまいります。  
目指すは世界のマーケット。林業、水産業にも、大きな可能性があります。昨年、農林水産物の輸出は六千億円を超え、過去最高を更新いたしました。しかし、まだまだ少ない。世界には三百四十兆円規模の食市場が広がっています。内外一体の改革を進め、安全で、おいしい日本の農水産物を世界に展開してまいります。  
(オープンな世界を見据えた改革)  
オープンな世界へと果敢に踏み出す。日本の国益を確保し、成長を確かなものとしてまいります。  
最終局面のTPP交渉は、いよいよ出口が見えてまいりました。米国と共に交渉をリードし、早期の交渉妥結を目指します。欧州とのEPAについても、本年中の大筋合意を目指し、交渉を更に加速してまいります。  
経済のグローバル化は一層進み、国際競争に打ち勝つことができなければ、企業は生き残ることはできない。政府もまた然(しか)り。オープンな世界を見据えた改革から逃れることはできません。  
全ての上場企業が、世界標準に則った新たな「コーポレートガバナンス・コード」に従うか、従わない場合はその理由を説明する。その義務を負うことになります。  
法人実効税率を二・五%引き下げます。三十五%近い現行税率を数年で二十%台まで引き下げ、国際的に遜色のない水準へと法人税改革を進めてまいります。  
(患者本位の医療改革)  
患者本位の新たな療養制度を創設します。世界最先端の医療を日本で受けられるようにする。困難な病気と闘う患者の皆さんの思いに応え、その申出に基づいて、最先端医療と保険診療との併用を可能とします。更に、安全性、有効性が確立すれば、国民皆保険の下で保険適用としてまいります。  
医療法人制度の改革も実施します。外部監査を導入するなど、経営の透明化を進めます。更に、異なる機能を持つ複数の医療法人の連携を促す新たな仕組みを創設し、地域医療の充実に努めます。  
(エネルギー市場改革)  
電力システム改革も、いよいよ最終段階に入ります。電力市場の基盤インフラである送配電ネットワークを、発電、小売から分離し、誰もが公平にアクセスできるようにします。ガス事業でも小売を全面自由化し、あらゆる参入障壁を取り除いてまいります。競争的で、ダイナミックなエネルギー市場を創り上げてまいります。  
低廉で、安定した電力供給は、日本経済の生命線であります。責任あるエネルギー政策を進めます。  
燃料輸入の著しい増大による電気料金の上昇は、国民生活や中小・小規模事業の皆さんに大きな負担となっています。原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた原発は、その科学的・技術的な判断を尊重し、再稼働を進めます。国が支援して、しっかりとした避難計画の整備を進めます。立地自治体を始め関係者の理解を得るよう、丁寧な説明を行ってまいります。  
長期的に原発依存度を低減させていくとの方針は変わりません。あらゆる施策を総動員して、徹底した省エネルギーと、再生可能エネルギーの最大限の導入を進めてまいります。  
安倍内閣の規制改革によって、昨年、夢の水素社会への幕が開きました。全国に水素ステーションを整備し、燃料電池自動車の普及を加速させます。大規模な建築物に省エネ基準への適合義務を課すなど、省エネ対策を抜本的に強化してまいります。  
安全性、安定供給、効率性、そして環境への適合。これらを十分に検証し、エネルギーのベストミックスを創り上げます。そして世界の温暖化対策をリードする。COP二十一に向け、温室効果ガスの排出について、新しい削減目標と具体的な行動計画を、できるだけ早期に策定いたします。  
(改革推進のための行政改革)  
各般の改革を進めるため、行政改革を、併せ、断行いたします。  
歴代内閣で肥大化の一途を辿(たど)ってきた、内閣官房・内閣府の事務の一部を各省に移管し、重要政策における内閣の総合調整機能が機動的に発揮できるような体制を整えます。  
十七の独立行政法人を七法人へと統合します。私たちが進める改革は、単なる数合わせではありません。攻めの農業を始め諸改革を強力に進めていくための統合であります。金融庁検査の導入など、法人毎の業務の特性に応じたガバナンス体制を整備し、独立行政法人の政策実施機能を強化してまいります。  
四月から日本医療研究開発機構が始動します。革新的ながん治療薬の開発やiPS細胞の臨床応用などに取り組み、日本から、医療の世界にイノベーションを起こします。  
日本を「世界で最もイノベーションに適した国」にする。世界中から超一流の研究者を集めるため、世界最高の環境を備えた新たな研究開発法人制度を創ります。ITやロボット、海洋や宇宙、バイオなど、経済社会を一変させる挑戦的な研究を大胆に支援してまいります。  
(改革断行国会)  
「知と行は二つにして一つ」  
何よりも実践を重んじ、明治維新の原動力となる志士たちを育てた、吉田松陰先生の言葉であります。  
成長戦略の実行。大胆な規制改革によって、生産性を押し上げ、国際競争力を高めていく。オープンな世界に踏み出し、世界の成長力を取り込んでいく。為すべきことは明らかです。要は、やるか、やらないか。  
この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。「行動」です。「改革の断行」であります。日本の将来を見据えながら、大胆な改革を、皆さん、実行しようではありませんか。
三 経済再生と社会保障改革  
(経済の好循環)  
この二年間、全力で射込んできた「三本の矢」の経済政策は、確実に成果を挙げています。  
中小・小規模事業者の倒産件数は、昨年、二十四年ぶりの低い水準となりました。就職内定を得て新年を迎えた新卒予定者は、八割を超えました。大卒で六年ぶり、高卒で二十一年ぶりに高い内定率です。有効求人倍率は、一年以上にわたって、一倍を超え、仕事を探す人よりも、人を求める仕事の数が多くなっています。正社員においても、十年前の調査開始以来、最高の水準となりました。  
この機を活かし、正規雇用を望む派遣労働者の皆さんに、そのチャンスを広げます。派遣先企業への直接雇用の依頼など正社員化への取組を派遣元に義務付けます。派遣先の労働者との均衡待遇の確保にも取り組み、一人ひとりの選択が実現できる環境を整えてまいります。  
昨年、過去十五年間で最高の賃上げが実現しました。そしてこの春も、企業収益の拡大を賃金の上昇につなげる。更には、中小・小規模事業の皆さんが原材料コストを価格に転嫁しやすくし、経済の好循環を継続させていく。その認識で、政労使が一致いたしました。  
デフレ脱却を確かなものとするため、消費税率十%への引上げを十八か月延期し、平成二十九年四月から実施します。そして賃上げの流れを来年の春、再来年の春と続け、景気回復の温かい風を全国津々浦々にまで届けていく。そのことによって、経済再生と財政再建、社会保障改革の三つを、同時に達成してまいります。  
来年度予算は、新規の国債発行額が六年ぶりに四十兆円を下回り、基礎的財政収支の赤字半減目標を達成する予算としました。二〇二〇年度の財政健全化目標についても堅持し、夏までに、その達成に向けた具体的な計画を策定いたします。  
(社会保障の充実)  
消費増税が延期された中にあっても、アベノミクスの果実も活かし、社会保障を充実してまいります。  
難病の皆さんへの医療費助成を大幅に広げます。先月から、小児慢性特定疾病について、新たに百七疾病を助成対象としました。難病についても、この七月を目指し、三百疾病へと広げてまいります。先月から高額療養費制度を見直しました。所得の低い方々の医療費負担を軽減いたします。  
認知症対策を推進します。早期の診断と対応に加え、認知症の皆さんが、できる限り住み慣れた地域で暮らしていけるよう、環境を整えてまいります。国民健康保険への財政支援を拡充することと併せ、その財政運営を市町村から都道府県に移行することにより、国民皆保険の基盤を強化してまいります。  
所得の低い高齢者世帯の皆さんの介護保険料を軽減いたします。介護職員の皆さんに月額一万二千円相当の処遇改善を行い、サービスの充実にも取り組みます。他方で、利用者の負担を軽減し、保険料の伸びを抑えるため、増え続ける介護費用全体を抑制します。社会福祉法人について、経営組織の見直しや内部留保の明確化を進め、地域に貢献する福祉サービスの担い手へと改革してまいります。  
子育て世帯の皆さんを応援します。子ども・子育て支援新制度は、予定通り、四月から実施いたします。引き続き「待機児童ゼロ」の実現に全力投球してまいります。幼児教育や保育に携わる皆さんに三%相当の処遇改善を行い、小学校の教室を利用した放課後児童クラブの拡大や、休日・夜間保育、病児保育の充実など、多様な保育ニーズにもしっかりと応えてまいります。
四 誰にでもチャンスに満ち溢れた日本  
(女性が輝く社会)  
その担い手として、これまで子育てに専念してきた女性の皆さんの力にも、大いに期待しています。「子育て支援員」制度がスタートします。子育ても一つのキャリア。そのかけがえのない、素晴らしい経験を活かしてほしいと思います。  
私は、女性の力を、強く信じます。家庭で、地域社会で、職場で、それぞれの場で活躍している全ての女性が、その生き方に自信と誇りを持ち、輝くことができる社会を創り上げてまいります。  
「女性活躍推進法案」を再び提出し、早期の成立を目指します。国、地方、企業などが一体となって、女性が活躍しやすい環境を整える。社会全体の意識改革を進めてまいります。  
本年採用の国家公務員から、女性の比率が三割を超えます。二〇二〇年には、あらゆる分野で指導的地位の三割以上が女性となる社会を目指し、女性役員などの情報の開示、育児休業中の職業訓練支援など、女性登用に積極的な企業を応援してまいります。  
(柔軟かつ多様な働き方)  
高齢者の皆さんに、多様な就業機会を提供する。シルバー人材センターには、更にその機能を発揮してもらいます。障害や難病、重い病気を抱える皆さんにも、きめ細かな支援を行い、就労のチャンスを拡大してまいります。  
あらゆる人が、生きがいを持って、社会で活躍できる。そうすれば、少子高齢社会においても、日本は力強く成長できるはずです。  
そのためには、労働時間に画一的な枠をはめる、従来の労働制度、社会の発想を、大きく改めていかなければなりません。子育て、介護など働く方々の事情に応じた、柔軟かつ多様な働き方が可能となるよう、選択肢の幅を広げてまいります。  
昼が長い夏は、朝早くから働き、夕方からは家族や友人との時間を楽しむ。夏の生活スタイルを変革する新たな国民運動を展開します。  
夏休みの前に働いた分、子どもに合わせて長い休みを取る。そんな働き方も、フレックスタイム制度を拡充して、可能とします。専門性の高い仕事では、時間ではなく成果で評価する新たな労働制度を選択できるようにします。  
時間外労働への割増賃金の引上げなどにより、長時間労働を抑制します。更に、年次有給休暇を確実に取得できるようにする仕組みを創り、働き過ぎを防ぎ、ワーク・ライフ・バランスが確保できる社会を創ってまいります。  
(若者の活躍)  
日本の未来を創るのは、若者です。若者たちには、社会で、その能力を思う存分発揮し、大いに活躍してもらいたいと願います。  
若者への雇用対策を抜本的に強化します。三割を超える若者が早期離職する現実を踏まえ、新卒者を募集する企業には、残業、研修、離職などの情報提供を求めます。若者の使い捨てが疑われる企業からは、ハローワークで新卒求人を受理しないようにいたします。  
非正規雇用の若者たちには、キャリアアップ助成金を活用して正規雇用化を応援します。魅力ある中小企業がたくさんある。そのことを若者たちに知ってもらうための仕組みを強化します。  
(子どもたちのための教育再生)  
「娘は今、就職に向けて前向きに頑張っております。」  
二十歳の娘さんを持つお母さんから、手紙を頂きました。娘さんは、幼い頃から学習困難があり、友達と違う自分に悩んできたといいます。  
「娘はだんだん自己嫌悪がひどくなり『死んでしまいたい』と泣くこともありました・・・学校に行くたびに輝きが失せていく・・・しかし、娘は世の中に置いて行かれまいと、学校に通いました。」  
中学一年生の時、不登校になりました。しかし、フリースクールとの出会いによって、自信を取り戻し、再び学ぶことができました。大きな勇気を得て、社会の偏見に悩みながらも、今は就職活動にもチャレンジしているそうです。その手紙は、こう結ばれていました。  
「子どもは大人の鏡です。大人の価値観が変わらない限りいじめは起こり、無くなることはないでしょう。・・・多様な人、多様な学び、多様な生き方を受け入れ、認め合う社会を目指す日本であってほしいと切に願っております。ちっぽけな母親の願いです。」と。  
否(いや)、当然の願いであります。子どもたちの誰もが、自信を持って、学び、成長できる環境を創る。これは、私たち大人の責任です。  
フリースクールなどでの多様な学びを、国として支援してまいります。義務教育における「六・三」の画一的な学制を改革します。小中一貫校の設立も含め、九年間の中で、学年の壁などにとらわれない、多様な教育を可能とします。  
「できないことへの諦め」ではなく「できることへの喜び」を与える。地域の人たちの協力を得ながら、中学校で放課後などを利用して無償の学習支援を行う取組を、全国二千か所に拡大します。  
子どもたちの未来が、家庭の経済事情によって左右されるようなことがあってはなりません。子どもの貧困は、頑張れば報われるという真っ当な社会の根幹に関わる深刻な問題です。  
所得の低い世帯の幼児教育にかかる負担を軽減し、無償化の実現に向け、一歩一歩進んでまいります。希望すれば、高校にも、専修学校、大学にも進学できる環境を整えます。高校生に対する奨学給付金を拡充します。大学生への奨学金も、有利子から無利子への流れを加速し、将来的に、必要とする全ての学生が、無利子奨学金を受けられるようにしてまいります。  
誰にでもチャンスがある、そしてみんなが夢に向かって進んでいける。そうした社会を、皆さん、共に創り上げようではありませんか。
五 地方創生  
(地方にこそチャンス)  
地方で就職する学生には、奨学金の返済を免除する新たな仕組みを創ります。東京に住む十代・二十代の若者に尋ねると、その半分近くが、地方への移住を望んでいる。大変勇気づけられる数字です。  
地方にこそチャンスがある。  
若者たちの挑戦を力強く後押しします。一度失敗すると全てを失う、「個人保証」偏重の慣行を断ち切ります。全国の金融機関、中小・小規模事業の皆さんへの徹底を図ります。政府調達では、創業から十年未満の企業を優先するための枠組みを創り、新たなビジネスに挑む中小・小規模事業の皆さんのチャンスを広げてまいります。  
地方にチャンスを見出す企業も応援します。本社などの拠点を地方に移し、投資や雇用を拡大する企業を、税制により支援してまいります。地域ならではの資源を活かした、新たな「ふるさと名物」の商品化、販路開拓も応援し、地方の「しごとづくり」を進めてまいります。  
地方こそ成長の主役です。  
外国人観光客は、この二年間で五百万人増加し、過去最高、一千三百万人を超えました。ビザ緩和などに戦略的に取り組み、更なる高みを目指します。  
日本を訪れる皆さんに、北から南まで、豊かな自然、文化や歴史、食など、地方の個性あふれる観光資源を満喫していただきたい。国内の税関や検疫、出入国管理の体制を拡充いたします。全国各地と結ぶ玄関口、羽田空港の機能強化を進めます。地元の理解を得て飛行経路を見直し、国際線の発着枠を二〇二〇年までに年四万回増やします。成田空港でも、管制機能を高度化し、同様に年四万回、発着枠を拡大します。アジアとのハブである沖縄では、那覇空港第二滑走路の建設を進めます。二〇二一年度まで毎年三千億円台の予算を確保するとした沖縄との約束を重んじ、その実施に最大限努めてまいります。  
(地方目線の行財政改革)  
熱意ある地方の創意工夫を全力で応援する。それこそが、安倍内閣の地方創生であります。  
地方の努力が報われる、地方目線の行財政改革を進めます。それぞれの地方が、特色を活かしながら、全国にファンを増やし、財源を確保する。ふるさと納税を拡大してまいります。手続も簡素化し、より多くの皆さんに、地方の応援団になってほしいと思います。  
地方分権でも、霞が関が主導する従来のスタイルを根本から改め、地方の発意による、地方のための改革を進めてまいります。地方からの積極的な提案を採用し、農地転用などの権限を移譲します。更に、国家戦略特区制度を進化させ、地方の情熱に応えて規制改革を進める「地方創生特区」を設けてまいります。  
(安心なまちづくり)  
伝統ある美しい日本を支えてきたのは、中山間地や離島にお住まいの皆さんです。医療や福祉、教育、買物といった生活に必要なサービスを、一定のエリアに集め、周辺の集落と公共交通を使って結ぶことで、小さくても便利な「まちづくり」を進めてまいります。  
安全で安心な暮らしは、何よりも重要です。ストーカー、高齢者に対する詐欺など、弱い立場の人たちを狙った犯罪への対策を強化してまいります。児童虐待から子どもたちを守るため、SOSの声を「いち・はや・く」キャッチする。児童相談所への全国共通ダイヤル「一八九」を、この七月から運用開始いたします。  
御嶽山の噴火を教訓に、地元と一体となって、観光客や登山者の警戒避難体制を充実するなど、火山防災対策を強化してまいります。近年増加するゲリラ豪雨による水害や土砂災害などに対して、インフラの整備に加え、避難計画の策定や訓練の実施など、事前防災・減災対策に取り組み、国土強靱化を進めてまいります。  
昨年は各地で自然災害が相次ぎました。その度に、自衛隊、警察、消防などの諸君が、昼夜を分かたず、また危険も顧みず、懸命の救助活動に当たってくれました。  
「たくさん雪が降っていて、とっても、こわかったです。」  
昨年十二月の大雪では、徳島県でいくつもの集落が孤立しました。災害派遣された自衛隊員に、地元の中学校の子どもたちが手紙をくれました。  
「そんなとき、自衛隊のみなさんが、来てくれて、助けてくれて、かんしゃの気持ちでいっぱいです。・・・わたしたちも、みなさんに何かしなくては!と思い、手紙を書きました。」  
私たちもまた、彼らの高い使命感と責任感に対し、今この場から、改めて、感謝の意を表したいと思います。
六 外交・安全保障の立て直し  
(平和国家としての歩み)  
昨年十月、海上自衛隊の練習艦隊が、五か月間の遠洋航海から帰国しました。  
「国のために戦った方は、国籍を超えて、敬意を表さなければならない。」  
ソロモン諸島リロ首相の心温まる御協力を頂き、今回の航海では、先の大戦の激戦地ガダルカナル島で収容された百三十七柱の御遺骨に、祖国へと御帰還いただく任務にあたりました。  
今も異国の地に眠るたくさんの御遺骨に、一日も早く、祖国へと御帰還いただきたい。それは、今を生きる私たちの責務であります。硫黄島でも、一万二千柱もの御遺骨の早期帰還に向け、来年度中に滑走路下百か所の掘削を完了し、取組を加速してまいります。  
祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、お亡くなりになった、こうした尊い犠牲の上に、私たちの現在の平和があります。  
平和国家としての歩みは、これからも決して変わることはありません。国際情勢が激変する中で、その歩みを更に力強いものとする。国民の命と幸せな暮らしは、断固として守り抜く。そのために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする安全保障法制の整備を進めてまいります。  
(戦後七十年の「積極的平和主義」)  
本年は、戦後七十年の節目の年にあたります。  
我が国は、先の大戦の深い反省と共に、ひたすらに自由で民主的な国を創り上げ、世界の平和と繁栄に貢献してまいりました。その誇りを胸に、私たちは、これまで以上に世界の平和と安定に貢献する国とならなければなりません。次なる八十年、九十年、そして百年に向けて、その強い意志を世界に向けて発信してまいります。  
幾多の災害から得た教訓や経験を世界と共有する。三月、仙台で国連防災世界会議を開きます。「島国ならでは」の課題に共に立ち向かう。五月、いわきで太平洋・島サミットを開催します。二十一世紀こそ、女性への人権侵害が無い世紀とする。女性が輝く世界に向けて、昨年に引き続き、秋口には、世界中から活躍している女性の皆さんに、日本にお集まりいただきたいと考えています。  
本年はまた、被爆七十年の節目でもあります。唯一の戦争被爆国として、日本が、世界の核軍縮、不拡散をリードしてまいります。  
国連創設から七十年にあたる本年、日本は、安全保障理事会・非常任理事国に立候補いたします。そして、国連を二十一世紀にふさわしい姿へと改革する。その大きな役割を果たす決意であります。  
本年こそ、「積極的平和主義」の旗を一層高く掲げ、日本が世界から信頼される国となる。戦後七十年にふさわしい一年としていきたい。そう考えております。  
(地球儀を俯瞰する外交)  
今後も、豪州、ASEAN諸国、インド、欧州諸国など、自由や民主主義、基本的人権や法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携しながら、地球儀を俯瞰する視点で、積極的な外交を展開してまいります。  
その基軸は日米同盟であります。この二年間で、日米同盟の絆は復活し、揺るぎないものとなりました。日米ガイドラインの見直しを進め、その抑止力を一層高めてまいります。  
現行の日米合意に従って、在日米軍再編を進めてまいります。三月末には、西普天間住宅地区の返還が実現いたします。学校や住宅に囲まれ、市街地の真ん中にある普天間飛行場の返還を、必ずや実現する。そのために、引き続き沖縄の方々の理解を得る努力を続けながら、名護市辺野古沖への移設を進めてまいります。今後も、日米両国の強固な信頼関係の下に、裏付けのない「言葉」ではなく実際の「行動」で、沖縄の基地負担の軽減に取り組んでまいります。  
日本と中国は、地域の平和と繁栄に大きな責任を持つ、切っても切れない関係です。昨年十一月、習近平国家主席と首脳会談を行って、「戦略的互恵関係」の原則を確認し、関係改善に向けて大きな一歩を踏み出しました。今後、様々なレベルで対話を深めながら、大局的な観点から、安定的な友好関係を発展させ、国際社会の期待に応えてまいります。  
韓国は、最も重要な隣国です。日韓国交正常化五十周年を迎え、関係改善に向けて話合いを積み重ねてまいります。対話のドアは、常にオープンであります。  
ロシアとは、戦後七十年経った現在も、いまだ平和条約が締結できていない現実があります。プーチン大統領とは、これまで十回にわたる首脳会談を行ってまいりました。大統領の訪日を、本年の適切な時期に実現したいと考えております。これまでの首脳会談の積み重ねを基礎に、経済、文化など幅広い分野で協力を深めながら、平和条約の締結に向けて、粘り強く交渉を続けてまいります。  
北朝鮮には、拉致、核、ミサイルの諸懸案の包括的な解決を求めます。最重要課題である拉致問題について、北朝鮮は、迅速な調査を行い、一刻も早く、全ての結果を正直に通報すべきであります。今後とも、「対話と圧力」、「行動対行動」の原則を貫き、拉致問題の解決に全力を尽くしてまいります。
七 二〇二〇年の日本  
(東日本大震災からの復興)  
昨年末、日本を飛び立った「はやぶさ2」。宇宙での挑戦を続けています。小惑星にクレーターを作ってサンプルを採取する。そのミッションを可能とした核心技術は、福島で生まれました。東日本大震災で一時は休業を強いられながらも、技術者の皆さんの熱意が、被災地から「世界初」の技術を生み出しました。  
福島を、世界最先端の研究、新産業が生まれる地へと再生する。原発事故によって被害を受けた浜通り地域に、ロボット関連産業などの集積を進めてまいります。  
中間貯蔵施設の建設を進め、除染を更に加速します。東京電力福島第一原発の廃炉・汚染水対策に、国も前面に立ち、全力で取り組みます。福島復興再生特別措置法を改正し、避難指示の解除に向けて、復興拠点が円滑に整備できるようにします。財政面での支援も拡充し、故郷に帰還する皆さんの生活再建を力強く後押ししてまいります。  
三月には、東北の被災地を貫く常磐自動車道が、いよいよ全線開通いたします。多くの観光客に東北を訪れていただきたい。被災地復興の起爆剤となることを期待しています。  
高台移転は九割、災害公営住宅は八割の事業がスタートしています。住まいの再建を続けると同時に、孤立しがちな被災者への見守りなどの「心」の復興、農林水産業や中小企業など「生業(なりわい)」の復興にも、全力を挙げてまいります。  
「はやぶさ2」は、福島生まれの技術がもたらした小惑星のサンプルと共に、二〇二〇年、日本に帰ってきます。その時には、東北の姿は一変しているに違いありません。いや、一変させなければなりません。「新たな可能性と創造」の地としての東北を、皆さん、共に創り上げようではありませんか。  
(オリンピック・パラリンピック)  
その同じ年に、私たちは、オリンピック・パラリンピックを開催いたします。  
必ずや成功させる。その決意で、専任の担当大臣の下、インフラ整備からテロ対策まで、多岐にわたる準備を本格化してまいります。  
スポーツ庁を新たに設置し、日本から世界へと、スポーツの価値を広げます。子どもも、お年寄りも、そして障害や難病のある方も、誰もがスポーツをもっと楽しむことができる環境を整えてまいります。  
(日本は変えられる)  
私たち日本人に、「二〇二〇年」という共通の目標ができました。  
昨年、日本海では、世界に先駆けて、表層型メタンハイドレート、いわゆる「燃える氷」の本格的なサンプル採取に成功しました。「日本は資源に乏しい国である」。そんな「常識」は、二〇二〇年には、もはや「非常識」になっているかもしれません。  
「日本は変えられる」。全ては、私たちの意志と行動にかかっています。  
十五年近く続いたデフレ。その最大の問題は、日本人から自信を奪い去ったことではないでしょうか。しかし、悲観して立ち止まっていても、何も変わらない。批判だけを繰り返していても、何も生まれません。  
「日本国民よ、自信を持て」  
戦後復興の礎を築いた吉田茂元総理の言葉であります。  
昭和の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません。私は、この議場にいる全ての国会議員の皆さんに、再度、呼び掛けたいと思います。  
全ては国民のため、党派の違いを超えて、選挙制度改革、定数削減を実現させようではありませんか。憲法改正に向けた国民的な議論を深めていこうではありませんか。  
そして、日本の未来を切り拓く。そのために、「戦後以来の大改革」を、この国会で必ずや成し遂げようではありませんか。  
今や、日本は、私たちの努力で、再び成長することができる。世界の真ん中で輝くことができる。その「自信」を取り戻しつつあります。  
さあ皆さん、今ここから、新たなスタートを切って、芽生えた「自信」を「確信」へと変えていこうではありませんか。  
御清聴ありがとうございました。 
日本は中国に25回も「戦争謝罪」をした 
 ――それでも対日批判を強める理由は? 2015/3/12  
人民日報元評論員・馬立誠氏は「日本は中国に25回も謝罪した。もう謝罪する必要はない」と書いている。日本は極東国際軍事裁判により裁かれ、以降、平和憲法を守っている。中国の終わりなき対日非難を考察する。  
日本は世界で最も多く謝罪し続けている国  
中国共産党の機関紙「人民日報」の元高級評論員(解説委員)だった馬立誠氏は、2002年12月に中国のオピニオン誌『戦略と管理』(2002年6号)の中で、「対日関係の新思考――中日民間の憂い」という論考を発表した。それ以来、馬立誠は、「日本はもう十分に謝罪した。中国はこれ以上日本に戦争謝罪を求めるべきでない」と書き続けている。2013年9月、香港にある「鳳凰網」(網:ウェブサイト)の取材に対して、「日本は中国に対してすでに25回も戦後謝罪をしている」と、具体的回数まで挙げている。  
筆者自身は、回数は数えていないが、少なくとも1972年9月29日の日中国交正常化調印式において当時の田中元首相が謝罪して以来、日本の多くの首相が中国の国家主席あるいは国務院総理(首相)と会談するたびに、「お詫び」の言葉を述べているのは確かだ。  
天皇陛下さえ、「お詫び」の言葉を述べている。  
そもそも日中国交正常化は、中国(中華人民共和国)と日本が戦後初めて国家同士として公的に発表した共同声明で、それを受けて78年に締結された日中平和友好条約は、ある意味、「終戦4年後に誕生した国家」との「終戦協定」に相当する。  
それまで「中国」を代表する国として国連に加盟していたのは蒋介石・国民党の「中華民国」だったので、国家間としての対話は「中華民国」とするしかなかった。  
この共同声明あるいは日中平和友好条約における中国側の最大の要求は「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法的な政府であることを承認する」ということだった。だから「中華民国」との国交を断絶せよと日本に迫った。日本国内には反対論もあったが、日本は中国の要求を重んじて「中華民国」と国交を断絶し、以後、「台湾」と呼ぶようになっている。  
日中国交正常化において中国は自ら戦後賠償を放棄した  
この共同声明において注目すべきもう一つの点は、中国側が自ら戦後賠償を放棄したということである。  
日本側は準備していたのに、中国側は、終戦直後、「中華民国」総統だった蒋介石が日本に対する戦後賠償を放棄したことにならい、自ら放棄したのである。  
その理由は、「一つの中国」を主張しているスタンスから、蒋介石・国民党政府と同じ主張を表明したことと、もう一つは長年にわたる毛沢東(共産党軍)と蒋介石(国民党軍)との対立から、毛沢東には、それなりの意地と体面があったものと考える。  
しかし日本は戦後賠償の代わりに1979年から巨額の対中ODA(政府開発援助)による支援を開始し、北京空港や地下鉄など、150項目以上の巨大な大型プロジェクトの経費を負担してきた。2008年になってようやく「新たな」円借款支援は停止したが、2007年までに約束した円借款支援は今もなお続いており、それが終了するのは2017年である。  
さらに、対中ODAのうちの無償資金協力や技術協力は今もなお撤廃されておらず、これまで通り中国に捧げ続けている。  
中国は2010年にGDPが世界第二位になり、日本を凌駕したというのに、それでも日本国民の血税を中国に注ぎ続けているのである。中国人の富裕層が日本で爆買いしている一方、日本国民の中には貧困で命を落としていく人が後を絶たない。東日本大震災の復興事業もままならない。  
その日本国民の、限りなく増税されていく血税を、日本政府は中国に今もなお注ぎ続けているのだ。  
それでいて、中国の教科書には日本の侵略行為に関する記述は膨大にあり、抗日記念館の授業見学は義務付けられているが、日本の総額3.6兆円にのぼるODA支援に関しては、ただの一文字たりとも触れていない。  
それに比べて、たとえばシンガポールの教科書などでは日本の侵略行為を明記すると同時に、戦後の日本が対シンガポールODA支援をしてきたことをも明記している。  
今もなお続いている対中ODAが、中国の軍事力強化に貢献していないとは言い難い。中国は少なくとも、その分だけ多く、軍事費に予算を注ぐゆとりが生じるからだ。その強化された中国の軍事力に対抗するために日本の防衛力強化をしなければならないとしたら、日本は何という矛盾を抱えていることだろう。  
日本の戦後謝罪は国際法的には決着している  
日本は終戦直後に設けられた極東国際軍事裁判において戦争責任を裁かれ、戦争責任者を犯罪人として処刑あるいは懲役刑という形で罰せられ、それを受け入れた。それによって戦争への罪を認め、反省を表明したのである。  
1951年9月には、連合国諸国との間で締結されたサンフランシスコ平和条約によって戦争犯罪を認め謝罪し、占領軍アメリカの「指導」によって制定された平和憲法を順守して、それ以降、二度と戦争を起こしていない。  
サンフランシスコ平和条約には、「中華民国」(国民党)と「中華人民共和国」(共産党)の両方が「自分こそが『中国の代表だ』」と主張したので、連合国側は「中国」を「連合国諸国」から外した。  
そのため同年「中華民国」とは日華平和条約によって戦後処理を行い、日米同盟の中でアメリカの制約を受けていた日本は、「中華人民共和国」が国連に加盟したあとで、アメリカにならい、日中国交正常化共同声明および日中平和友好条約によって、「中華人民共和国」との戦後処理も法的に終わらせたのである。  
この時点で国際法上、日本の戦後処理は終わっている。  
しかもトウ小平は、「国家賠償を放棄することを人民に相談しなかった」とする、被害を受けた中国人民の民間賠償要求を退けた。  
国家に決定権があり、国家間では解決済みとしたのだ。  
その民間賠償要求が中国でも認められるようになったのは、2013年のことである。  
なぜ今になって対日批判を強めるのか――台頭するナショナリズム  
1991年12月のソ連崩壊によって、米ソ冷戦構造は消滅した。それに伴い、全世界的にナショナリズムが台頭し始めたのは事実だ。だから中国のナショナリズム台頭だけを責めることはできない。  
しかし中国ほど愛国主義教育の名の下に「日本の侵略戦争」の被害のみを強調して、日本がどれだけ絶えることのない援助を中国にしてきたかを公表しない国も少ないだろう。  
軍事情報を主として伝えるウェブサイト鉄血網のソーシャルサイト「鉄血社区」が2012年12月28日に、日本のODA援助に関して書いたところ、売国奴と罵られるほどのバッシングを受けたことがある。  
このような心情に関して冒頭の馬立誠氏は「中国が愛国主義教育を実施したため、ナショナリズムが高揚して若者が非常に好戦的になっている。その若者たちに『中国政府がいかに日本に対して強硬的な姿勢を取っているか』を見せないと、中国政府自体が『売国政府』と罵られるのだ」という趣旨のことを書いている。  
この言葉は筆者がかつて多くの書籍の中で書いて来たことと、ほぼ完全に一致している。  
馬立誠氏はさらに、このスパイラルは中国を国際社会で孤立させていき、中国自身にとって良くないと警告している。  
いま中国のメディアでは、安倍政権の右傾化を激しく批判し、日本が軍事大国になろうとしていると報道しているが、日本の「不戦の誓い」は、そうたやすく破られるものではないし、日本国民の多くは、二度と戦争を起こしてほしくないと思っている。戦争を起こすような選択を日本国民は絶対に選ばないと信じている。  
そのためにも、中国が終わりなき対日批判を、これ以上激化させていかないことを祈る。なぜなら、それは日本国民の心に反中感情を巻き起こし、それゆえに「軍事力で中国をやっつけろ」といった言論を生みかねないからである。  
反省している人間を責め続ければ(いや、批判がますます激しくなれば)、それは逆効果であることを、人間関係においても人類は知っているはずである。  
戦後70周年に当たり、客観的事実を冷静に見ていかなければならない。  
追記 / サンフランシスコ平和条約締結時においては、日本がまだ十分には戦後復興しておらず戦後賠償請求をしても支払い能力なしとして、多くの関係国(主として大国)が請求を放棄している。その直後に「中華民国」と結ばれた日華平和条約においても、蒋介石はそれにならった。しかし、1972年の日中共同声明公布時点では、日本のGDP成長率は9%という高度成長期にあり、文化大革命中の中国から見れば比較にならない復興を遂げている。したがって日本に支払い能力がなかったとは思えない。筆者は日中国交正常化交渉に関係した人物から、当時の田中角栄が本当は何を考え覚悟していたかを直接聞いている。この人物の考え方は栗山尚一氏の見解と全く異なっていた。一方、中国側は表面的には「A級戦犯に全ての罪を負わせて、さらに日本人から賠償を取るのは忍びない」という趣旨のことを述べて賠償を放棄したとされている。しかし交渉場面に直接関係していた老幹部でかつて筆者の友人だった者から、毛沢東が何を考えていたかを直接聞いている。このコラムに書いた中国側の本音に関する根拠は、この老幹部の証言に基づく。 
日本離れできない隣国が受けた大きなショック 2015/3/23  
韓国は毎日のように日本、日本、日本だ。日本のことが気になって気になって仕方がないという風景だ。よく世論調査の結果に出るように「いちばん嫌いな国は日本」が本当なら、これはたまらなく不愉快だろう。「われわれはもう日本の属国ではない!」「日本のことなどもう見たくも聞きたくもない!」と叫ぶに違いない。  
今年は韓国が日本の統治から解放されて70年。しかし「日本のことはもういい」という声はどこからも上がらない。「日本離れできない韓国」とは筆者が10年ほど前に書いた本のタイトルだが、相変わらず日本、日本、日本なのだ。  
20日の韓国紙の1面トップも「敗戦70年ぶりに安倍(晋三首相)が米議会で演説」(中央日報)である。韓国では日本の首相が訪米して議会で演説するという話に異様な関心を示している。「安倍演説実現」に対しては、いまいましい雰囲気がありありで、ついでにミシェル・オバマ米大統領夫人の日本訪問にも嫉妬(?)がうかがわれる。  
安倍首相の米議会での演説への関心は、歴史への反省に言及するかどうかなのだが、日米は70年前に戦争したのだから当然、そうした歴史には触れるだろう。関係ない韓国が騒ぐのは、慰安婦問題で日本に反省させようということだが余計なことだ。そこまでの関心と“干渉”は日本人の反韓感情を刺激するだけということが分かっていない。  
韓国(のマスコミ)は日米関係が深まることに、どこか不安と嫉妬を抱いているように見える。  
結果的に安保関係で日本の役割が増大することに伝統的な警戒心を働かせるということは分からないでもないが、この地域の安全保障問題で日本抜きの米韓安保協力はありえないという現実を見ようとしない。  
先ごろシャーマン米国務次官が米国内の講演で「政治指導者が過去の敵を非難することで安上がりな拍手を受けることは難しいことではない」と述べたと大騒ぎしたのもそうだ。  
特定の国を挙げたわけではないのに、韓国で一斉に不満と非難の声が上がったのは、韓国のことを言われたと思ったからだ。この裏には、過去にこだわった韓国の対日外交に米国が不満と批判を抱いているという話が伝わっていたことがある。  
韓国マスコミは「日本の肩をもった」と嫉妬(?)する前に、米国向けに慰安婦問題などで日本非難に熱を上げるという、日米韓3国関係の中での自らの特異さ、異様さを振り返ってみるのが先だろう。  
先に大騒ぎしたメルケル独首相の訪日では「歴史で日本に厳しく注文」などと我田引水して大喜びしたが、これも不思議だ。韓国はもう十分に大きく強い国になったのだから、日本のことで一喜一憂することはないと思うのだが。  
いや、韓国への日本の影響はいまだそれほど大きいのだろうか。その意味で最近の一喜一憂の中で韓国側に最もショックだったといわれているのが、安倍首相の国会演説や外務省のホームページなどで、韓国を「日本と自由民主主義などの価値を共有する国」と明示しなくなったことだ。  
これは「反日無罪」をはじめ日本批判なら何でもありという韓国の対日姿勢に対する日本人の嫌気の反映である。日本と価値を共有する米国も韓国のそういうところにいらだっているのだ。 
安倍首相、米議会演説に韓国メディア“歯ぎしり”自国の外交力不足に批判 3/24  
安倍晋三首相が大型連休中に予定している米上下両院合同会議での演説に対し、韓国メディアが神経をとがらせている。「対米外交の危機」(中央日報)と焦りをあらわにすると同時に、自国の外交力不足に批判の矛先を向けているのだ。  
「安倍首相が演説する場合、終戦70年と韓日国交正常化50周年を迎えることを踏まえ、歴代内閣の歴史認識をそのまま継承し歴史問題に対する心からの省察を見せるべきだ」  
韓国・聯合ニュース(日本語電子版)は20日、韓国外交部当局者の話として、安倍首相の演説にこう注文をつけた。  
演説は、4月下旬からの大型連休中の首相訪米に合わせて行われる。日本の首相による米議会での演説は1961年の池田勇人首相(当時)以来54年ぶりで、過去には、安倍首相の祖父、岸信介首相(同)も演説に臨んでいる。上下両院での演説は初めてだ。  
安倍首相の演説をめぐっては、在米韓国系団体が反対の署名活動をするなどロビー活動を展開したが、米議会内で理解を得られなかった。それだけに、韓国メディアの報道には、歯ぎしりしながら自国の外交力不足を嘆く国内世論がにじみ出ている。  
前出の聯合ニュースは「韓国政府は、あらゆる外交ルートを使って(演説の中で)歴史問題に関し前向きなメッセージが出されるよう、働きかけを強める」との見通しを示す一方、「演説を阻止できなかったことは、対米外交の失敗ではないか」と指摘した。  
中央日報(日本語電子版、20日)は「金・人脈がつかんだ『議会演説』」との記事を掲載し、「日本がお金と人脈で米議会と政府に働きかける間、韓国外交は『メディア発表用外交』に集中した」「韓国外交は声ばかり大きく、いざ米政府・議会を相手には力を発揮できない外交力の不在を表した」と伝えた。夕刊紙の文化日報も20日、「韓国外交の惨めな失敗」と報じた。  
『ディス・イズ・コリア』(産経新聞出版)がベストセラーになっているジャーナリストの室谷克実氏は「背景にあるのは、韓国が勝手に『歴史修正主義者』とレッテル貼りしてきた安倍首相が、米国から理解を得つつあることへの焦りだろう。ただ、米議会での演説に日本政府がそれほど執心したとは思えない。『負けた』『負けた』と騒ぐ韓国人の感覚は、日本人には理解しがたい」と語っている。 
韓国元大統領「昭和天皇」に遺憾と反省求める… 韓国外交文書で発覚 3/30  
1984年9月に韓国の全(チョン)斗(ド)煥(ファン)大統領(当時)が国賓として初訪日した際、韓国政府が日本側に対し、昭和天皇が日本の朝鮮半島統治などについて反省を示すよう事前に求めていたことが30日、分かった。韓国外務省が同日公開した当時の外交文書の内容として、聯合ニュースなどが報じた。  
韓国政府は84年初めに全氏の訪日を計画。昭和天皇の反省表明が訪日の「大前提」だと規定したという。  
反省については「(韓国の)国民感情を考慮し、最大限強い言葉で反省を確かに示さなければ、訪日への納得が得られない」とし、公式に「過去の不幸な歴史を認め、遺憾表明と深い反省を示すよう」求めた。一方で、昭和天皇の発言が「過去を完全に清算するものではない」とし、日本側に具体的な行動も求めた。  
韓国側は当時、昭和天皇の歴史への言及について日本側は「不可避」との立場だと分析。しかし、発言内容は外交の対象でないとし交渉はしなかったという。  
昭和天皇は84年9月6日、全氏が出席した宮中晩さん会で「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはならない」と述べた。 
ドイツ紙特派員が安倍政権の圧力を告白! 
 在独日本総領事を通じて外国人記者に注文!外務省も安倍批判に猛抗議! 4/11  
ドイツの日刊紙「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」の東京特派員だったカールステン氏(Carsten Germis)が、安倍政権になってから報道規制が厳しくなったと暴露する旨の記事を掲載しました。  
これは2015年4月2日に掲載された記事で、カールステン氏は「2012年に安倍政権が勝利を収めて以降、事態は一変した」と述べ、この数年は報道に対する検閲が強化されていることを明らかにしています。  
カールステン氏が安倍政権を批判する記事を書いたところ、在フランクフルト日本総領事が彼のところにやって来て、こうした記事の内容が「中国によるプロパガンダ」に利用されていると東京からの抗議を伝えました。  
また、日本総領事がカールステン氏らの記事を「誤報」と指摘したことから、カールステン氏が誤報の根拠を要望したところ、総領事は「(中国などと)金が絡んでいるのでは?」というような侮蔑の言葉を発言。  
その上で、日本政府側は「(カールステン氏ら外国人記者が)ビザ取得のために中国のプロパガンダを書かざるを得ないのだろう」等と哀悼の意を勝手に表明していたことを暴露しました。  
カールステン氏の暴露記事には、安倍政権が外国メディアの記者たちを高待遇で接待しようとしていた事も記載されています。安倍政権の前の民主党はこのような規制行為はせず、紳士的に政策などを分かり易く説明しようと努力していたようです。  
Confessions of a foreign correspondent after a half-decade of reporting from Tokyo to his German readers  
But things seem to have changed in 2014,and MoFA officials now seem toopenly attack critical reporting.In 2013, with Abe’s administration in charge, I was called in once again after I wrote about an interview with three comfort women. This also included a lunch invitation, and once again I received information to help my understanding of the prime minister’s thoughts.But things seem to have changed in 2014, and MoFA officials now seem to openly attack critical reporting. I was called in after a story on the effect the prime minister’s nationalism is having on trade with China. I told them that I had only quoted official statistics, and their rebuttal was that the numbers were wrong.  
安倍政権、在独日本総領事を通じて外国人記者に圧力?:ドイツ紙特派員の告白が話題に  
外務省からの攻撃 / そしてついに、5年前には考えられなかった、外務省からの攻撃(attacks)もはじまった。Germis氏による、安倍政権の歴史修正主義に関する記事が報道された後、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙編集長のもとに、在フランクフルト日本総領事が訪れたというのだ。総領事は東京からの抗議を伝えた上で、こうした記事の内容が「中国によるプロパガンダ」に利用されていると述べたそうだ。  
記者や新聞社を侮辱 / Germis氏による強い憤りはつづく。同紙編集長が、領事に対して記事の内容が誤報である事実の提示を求めたところ、総領事は「金が絡んでいるのでは?」とまで述べて、同氏や編集長、そして新聞社を侮辱(insulting )したというのだ。また総領事は、ビザ取得のために中国のプロパガンダを書かざるを得ないのだろう、と哀悼の意すら示したのだという。こうした驚くべき姿勢に、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙が屈することはなく、むしろその批判的な論調は強まった。  
強まる高圧的態度 / しかしGermis氏によれば、ここ数年で高圧的な態度は強まっている。2014年になると、外務省は明らかに安倍政権に対する批判記事を攻撃しはじめ、「歴史の歪曲」や安倍政権の国粋主義的な立場によって「東アジアのみならず世界から日本は孤立する」といった表現に対して抗議がはじまったという。ほかにも同氏が、中国から賄賂を受け取っているという領事のコメントについて正式に抗議した際には、「誤解だ」という回答のみがくるなど、外務省からの姿勢は厳しいものになる一方のようだ。 
2015年4月22日 - 安倍首相

 

(アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議 安倍内閣総理大臣スピーチ) 
バンドン会議60年の集まりを実現された、ジョコ・ウィドド大統領閣下、ならびにインドネシアの皆様に、心から、お祝いを申し上げます。アジア・アフリカ諸国の一員として、この場に立つことを、私は、誇りに思います。  
共に生きる  
スカルノ大統領が語った、この言葉は、60年を経た今でも、バンドンの精神として、私たちが共有するものであります。古来、アジア・アフリカから、多くの思想や宗教が生まれ、世界へと伝播していった。多様性を認め合う、寛容の精神は、私たちが誇るべき共有財産であります。その精神の下、戦後、日本の国際社会への復帰を後押ししてくれたのも、アジア、アフリカの友人たちでありました。この場を借りて、心から、感謝します。60年前、そうした国々がこの地に集まり、強い結束を示したのも、歴史の必然であったかもしれません。先人たちは、「平和への願い」を共有していたからです。  
そして今、この地に再び集った私たちは、60年前より、はるかに多くの「リスク」を共有しています。強い者が、弱い者を力で振り回すことは、断じてあってはなりません。バンドンの先人たちの知恵は、法の支配が、大小に関係なく、国家の尊厳を守るということでした。卑劣なテロリズムが、世界へ蔓延しつつあります。テロリストたちに、世界のどこにも、安住の地を与えてはなりません。感染症や自然災害の前で、国境など意味を持ちません。気候変動は、脆弱な島国を消滅リスクに晒しています。どの国も、一国だけでは解決できない課題です。  
共に立ち向かう  
私たちは、今また、世界に向かって、強い結束を示さなければなりません。その中で、日本は、これからも、出来る限りの努力を惜しまないつもりです。 “侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない。” “国際紛争は平和的手段によって解決する。” バンドンで確認されたこの原則を、日本は、先の大戦の深い反省と共に、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました。そして、この原則の下に平和と繁栄を目指すアジア・アフリカ諸国の中にあって、その先頭に立ちたい、と決意したのです。 
60年前、インドの農家と共に汗を流し、農機具の使い方を伝え、スリランカの畜産者たちを悩ませる流行病と共に闘うことから、私たちはスタートしました。そして、アジアからアフリカへ。日本が誇るものづくりの現場の知恵や職業倫理を共有してきました。エチオピアでは、「カイゼン」のトレーニングプログラムにより、生産性が大幅に向上しています。1993年には、アフリカの首脳たちを日本に招き、互いの未来を語り合う、TICADをスタートしました。 暦はめぐり、世界の風景は一変しました。最もダイナミックで、最も成長の息吹にあふれる大地。それこそが、アジアであり、アフリカであります。アジア・アフリカはもはや、日本にとって「援助」の対象ではありません。「成長のパートナー」であります。来年のTICADは、初めて、躍動感あふれるアフリカの大地で開催する予定です。人材の育成も、インフラの整備も、すべては、未来への「投資」であります。   
共に豊かになる  
アジア・アフリカには、無限のフロンティアが広がっています。  
オープンで、ダイナミックな市場をつくりあげ、そのフロンティアを、子や孫にまで、繁栄を約束する大地へと変えていかねばなりません。TPP、RCEP、FTAAPは、更にアフリカに向かって進んでいく。私は、そう考えます。成長をけん引するのは、人材です。それぞれの国の多様性を活かすことは、むしろ力強いエンジンとなるはずです。日本は、女性のエンパワメントを応援します。手と手をとりあって、アジアやアフリカの意欲あふれる若者たちを、産業発展を担う人材へと育てていきます。アジア・アフリカの成長を、一過性のものに終わらせることなく、永続的なものにしていく。その決意のもとに、日本は、これらの分野で、今後5年で35万人を対象に、技能の向上、知識習得のお手伝いをする考えです。  
私たちの国々は、政治体制も、経済発展レベルも、文化や社会の有り様も、多様です。しかし、60年前、スカルノ大統領は、各国の代表団に、こう呼び掛けました。私たちが結束している限り、多様性はなんらの障害にもならないはずだ、と。私たちが共有している様々なリスクを再確認すれば、多様性のもとでも、結束することなど簡単でしょう。直面する様々な課題を解決するために、私たち、アジア人、アフリカ人は、結束しなければなりません。  
この素晴らしい多様性を大切にしながら、私たちの子や孫のために、共に、平和と繁栄を築き上げようではありませんか。 
ありがとうございました。
新局面開く首相のバンドン演説  
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議での安倍晋三首相の演説(以下、安倍演説と略)は、高い関心を寄せられるべき演説であった。  
第二次世界大戦後70年の節目に日本の「大義」や「信条」を表明する機会としては、此度の安倍演説や米国連邦議会上下両院合同会議での演説は、今夏に発出されると伝えられる「安倍談話」よりもはるかに重大な意義を持つ。この2つの演説に対する反響や評価は、先々の日本の国際社会における対外「説得性」に直接に関わってくる。  
東南アジア諸国に示された配慮  
然るに、安倍演説の注目点として語られたのは、「植民地支配と侵略に対する謝罪と反省」に絡む認識が、どのように扱われるかということであった。  
特に満州事変以後の対中進出や第二次世界大戦勃発前後の対東南アジア進出は、客観的には「侵略」と表する他はないのであるとすれば、それに対する反省を忘れないでおくのは、特に東南アジア諸国との「縁」を紡いでいく上での前提である。  
安倍演説中、「先の大戦の深い反省」という言葉が示されたのは、東南アジア諸国には必要な配慮であった。この配慮の上でこそ、「侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない」という原則を守る趣旨の日本の誓約は、その「説得性」が担保されるのである。  
もっとも、安倍演説に対する評価に関して、中国や韓国、そして東南アジア諸国でニュアンスの違いが見られたのは、留意に値しよう。たとえば、安倍演説の後、洪磊中国外務省報道官は、「国際社会は日本が侵略の歴史を直視し、近隣諸国との和解だけでなく国際社会からの信頼を獲得するために、それ(歴史)を注意深く見直すことを期待している。われわれは日本が国際社会からの正義を求める声に真剣に耳を傾けてくれることを願う」と語っている。  
また、習近平中国国家主席は、5カ月ぶりに行われた日中首脳会談の席では、「歴史問題は中日関係の政治的基礎に関わる重大原則問題だ。日本側は真剣にアジアの隣国の懸念に対応し、歴史を直視する積極的なシグナルを対外的に発出してほしい」と語った。  
「最厳冬期」が過ぎた日中関係  
習主席以下、中国政府の反応は、「前の戦争に対する反省が示されれば、今後、特段の謝罪の言葉を要しない」という線で落ち着きつつあることを示している。それは、日中関係における「最厳冬期」が既に過ぎている事情を反映しているのであろう。  
しかも、『朝日新聞』記事が伝えた東南アジア諸国の反応が暗に示すように、事有る度に日本に謝罪を迫るという姿勢は、国際社会全体の「常識」に照らし合わせて異形なものになっている。  
東南アジア諸国要人の反応を列挙すれば、たとえば、「(お詫(わ)びがなかったことに)大きな意味は見いだしていない」(マレーシア通信マルチメディア相)、「特にわれわれが言うべきことはない」(ミャンマー外相)、「(お詫びなどの言及は)安倍首相が判断すること」(カンボジア外相)、「演説で触れられていない言葉についてコメントはない」(インドネシア外務次官)といったあんばいである。  
記事が伝えるように、東南アジア諸国においては「主な関心は日本によるアジア・アフリカ地域への積極的な経済関与だ」ということである。そして安倍演説で強調されたものこそ、こうした関与における「従来の実績」と「今後の意志」であったのではないか。  
韓国に災厄もたらす「硬直」  
事実、此度のバンドン会議記念会議の成果として確認されたのは、貧困や格差の解消に向けた協調、さらには途上国の相互協力を通じた経済発展であった。これが、会議に集まったアジア・アフリカ諸国の最大公約数的な「要請」である。  
他方、韓国政府からは、「深い遺憾の意」が漏れている。安倍演説中、「植民地支配と侵略に対する謝罪と反省」という表現が消えたことを指してのことである。  
今月初頭、韓国外務省高官の発言として報じられた「日本は100回でも詫びるべきだ」という発言に重ねるとき、韓国政府の姿勢に「硬直」の二文字をみるしかないのは、もはや致し方ないことかもしれない。  
そして、安倍演説に対する中国や東南アジア諸国の反応に照らし合わせるとき、この「硬直」は、韓国にとっては先々の災厄になるであろう。  
そうであるとすれば、安倍演説で示された「反省したとしても謝罪はしない」という方針は、歴史認識案件での日本政府の姿勢の新たな「デフォルト(既定値)」になるのであろう。その意味では、この演説は、日本の対外政策における一つの局面を開いたものとなろう。次はワシントンでの演説が「鍵」となる。 
安倍首相、バンドン会議の演説に"お詫び"なし 韓国メディア「我が国の外交の失敗」  
安倍晋三首相は4月22日、インドネシアで開かれているアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で演説した。第2次世界大戦への「反省」を表明した。一方で「お詫び」には触れなかった。この演説に対して、海外メディアからは「弱々しい演説」との指摘や、「韓国外交の失敗」などの懸念の声が出ている。  
安倍首相は、60年前のバンドン会議で採択された平和十原則のなかから、「侵略、武力行使によって他国の領土保全や政治的独立を侵さない」「国際紛争は平和的手段によって解決する」の2つを引用。その上で、「バンドンで確認されたこの原則を、日本は先の大戦の深い反省と共に、いかなるときでも守り抜く国であろうと誓った。この原則の下に平和と繁栄を目指すアジア・アフリカ諸国の中で、その先頭に立ちたいと決意した」と述べた。  
しかし、「心からのお詫び」などの文言はなく、また、小泉元首相が2005年に演説した際に使った「いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持」などの言葉は見られなかった。代わりに、「法の支配が、大小に関係なく、国家の尊厳を守る」「世界に向かって強い結束を示さなければならない」などの表現が使われた。  
世界から注目が集まった安倍首相の演説  
今回のアジア・アフリカ首脳会議は、1955年4月、当時のインドネシアのスカルノ大統領の呼びかけで、反植民地主義を掲げて開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の開催から60周年を記念して行われた。この演説を巡っては、8月の終戦記念日に合わせて発表する戦後70年の首相談話(安倍談話)の「原型」になるとの見方もあり、歴代の首相談話の内容に、どの程度触れるのかに注目が集まっていた。  
これまでの首相談話では、1995年に当時の村山富市首相が発表した戦後50年談話(村山談話)が、日本軍のアジア諸国への植民地支配と侵略を認め、アジアの人々に「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ち」を表明。戦後60年の2005年には、小泉純一郎首相(当時)が村山談話をほぼ踏襲した「小泉談話」を出し、「改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」とした。  
これらの談話について、安倍首相は4月20日、BSフジの番組に出演した際に「植民地支配と侵略」「心からのお詫び」などの文言を使うかどうかを問われ、これまでの首相談話を引き継ぐとしながらも、「同じことを入れるのであれば談話を出す必要はない」と述べていた。  
安倍首相の演説の演説を海外はどう報じたか  
この安倍首相の演説に対し、ロイターは安倍首相が「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」と述べたことを挙げ、中国の明らかな軍備増強を意識した発言だと報じた。AFP通信は「日本の首相は第2次世界大戦について反省を表明したが、詫びるのはやめた」との見出しで報じた。記事は、安倍首相のことを「国家主義者」とした上で、この演説が小泉氏のものと違って「弱々しい」と指摘した。  
聯合ニュースは「バンドンで期待を裏切った」との見出しのついた記事で、安倍首相の演説が「残念なレベルに留まった」と批判した。記事は、「アメリカのメディアも安倍首相に対し歴史認識について反省を促しているが、安倍首相の“マイ・ウェイ”は続いている」と表現した。  
しかし、一方で、「韓国政府はアメリカを通じて安倍首相に対し圧力をかけ続けているとしているが、安倍首相に変化はない」とした上で、「アメリカに、日本へ真の反省と謝罪を促す役割ができないなら、韓米関係にも悪影響が及ぶ」「歴史問題では進展が得られず、外交の失敗との懸念も出ている」とも指摘している。さらに、安倍首相と習近平・中国国家主席の日中首脳会談が実現することにも触れ、「韓国だけ外交で疎外されているではないかという観測も出ている」としている。 
安倍首相の「おわび」なき「反省」について 4/23  
安倍首相がバンドン会議で、日本の侵略行為に対し、「深く反省」していると表明したが、「おわび」の言葉はなかったそうだ。政治的にはそれでいいと思う。「反省」だけでは足りない、「謝罪」もしろというのは、執拗すぎる。  
平和条約を結んだあとなのに、永久に「謝罪」しろと言われるのは正直うんざりするし、全然、建設的ではない。政治の世界では、「反省」を口にしただけでも謙虚すぎるくらいで、一国民であるわしは反省すらしない。  
帝国主義の時代には、侵略も植民地支配も善悪の基準では行われていない。イギリスは清国にアヘンを売って、人民を退廃させ、銀を吸い上げた。これが原因でアヘン戦争が起こったが、イギリスは清国を打ち負かし、香港島を占領した。まったく無茶苦茶である。  
イギリスは毎年、中国に対して「反省」と「謝罪」を繰り返してはいないし、中国もイギリスには「反省」も「謝罪」も要求してはいない。  
中韓が日本にだけ「謝罪」を要求するのは、「中華思想」の影響だろう。  
アヘン戦争の結果を見た日本の幕末の志士たちは、日本の近代化が必要だと悟り、明治維新を起こした。ペリー来襲から大東亜戦争までは日本の運命である。  
安倍首相のように「深く反省」していたら、靖国神社の英霊を「顕彰」することが出来ない。どういう意図で真榊を奉じたのかわからない。  
だが、大東亜戦争に負けたことについて、わしは当時を生きた国民ではないにしても、「反省」をしている。朝鮮併合の道義的側面も、支那事変の泥沼化も「反省」している。  
これは戦前からの連続性を持った国民として、日本が失敗したことについての「反省」である。 
安倍首相演説、“スカルノの魂見習う”と現地報道 「反省」「おわび」とは異なる着目点 4/24  
先日インドネシアで開催されたアジア・アフリカ会議60周年式典は、文字通りの地域の首脳が勢揃いする一大外交イベントでもあった。各首脳がこの場でどのような内容の演説をするかで、その国の今後の方針が明らかとなる。  
安倍晋三首相の演説については、当然ながら以前からニュースの種となっていた。過去、すなわち第二次世界大戦の「反省」には触れるのか触れないのか。この点はスタンスの違いこそあれ、日中韓のメディアの間では最大の関心事だった。  
では、開催地インドネシアのメディアは「安倍演説」をどのように報道しているのか?  
スカルノの言葉を語る安倍首相  
実のところ、一国の首脳の演説に関する報道はどのメディアも大差ない。安倍総理が言った言葉を要約して書けば、それが記事になるからだ。  
ただし、ある一部分だけ各メディアごとに大きな差異がある。それは見出しだ。互いが互いをリライトしたような記事が並んでいたとしても、「安倍首相、過去の過ちには一切触れず」や「日本政府、未来志向の姿勢表明」と見出しがつけばそれぞれのスタンスの違いがよく分かる。  
インドネシアのメディアも、それは同じだ。現地紙シンドニュースの場合、安倍総理の演説を伝える記事に「日本の首相、スカルノの言葉を引用」という見出しをつけている。野党系メディアのビバの記事も「日本首相、スカルノの懇願を会場で取り上げる」とあり、大手ニュースサイトのオーケーゾーンも「スカルノの魂を見習う、日本首相の演説」と書いている。安倍首相がスピーチの冒頭と結びに、1955年の第一回アジア・アフリカ会議開催を呼びかけたスカルノ大統領の発言を引用したからだ。インドネシアメディアの視点は、やはり日中韓のそれとは全く違う所にある。  
「安倍首相は演説の終わりに、アジアとアフリカの諸国民が1955年の先駆者のように手を取り合うよう呼びかけた(オーケーゾーンの記事より)」  
日本は「後悔」している  
一方で、安倍首相が過去の戦争に対する反省を表明したと伝えるメディアもある。現地テレビ局のメトロTVは、安倍演説のこの部分を取り上げている。  
「『侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない』、『国際紛争は平和的手段によって解決する』 。  
バンドンで確認されたこの原則を、日本は、先の大戦の深い反省と共に、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました(日本語訳は外務省ホームページより引用)」  
ちなみにこの記事の見出しを直訳してみれば、「日本の首相、式典を通して第二次大戦の行為を後悔する」となるだろうか。これが中韓のメディアならば、安倍首相が口にした文言についてさらなる追求があるかもしれないが、少なくともメトロTVは上記の演説内容を「日本の後悔」と位置付けているようだ。それ以上の追求・言及は見当たらない。  
インドネシアの立場  
このように開催地メディアの報道は、我々に新鮮な見方をもたらしてくれる。  
インドネシアは世界有数の親日国ではあるが、現政府は日本と中国のどちらにも過度に寄らない姿勢を見せている。この国の場合は外国からの投資が成長の鍵になっているということと、オーストラリアとの外交的対立を抱えているためアジアの経済大国とは常に友好的でありたいという要素がある。もっと平たく言えば、日中のどちらかに肩入れすることはできないのだ。  
微妙な立ち位置にいるインドネシアだが、それが故に今年はアジア各国との積極的外交へ舵を切る動きが非常に目立った。ジョコ・ウィドド大統領は先月、日中を歴訪し莫大な額の投資を両国の財界人に約束させた。さらに帰りがけにはシンガポールを訪れ、リー・クアンユー元首相の葬儀に参列している。  
そのような最中で開催された、今回のアジア・アフリカ会議。60年前にスカルノ初代大統領が撒いた種は、確かに芽を出しているのだ。 
韓国、米PR会社と契約 慰安婦問題、世界に訴える 日中会談・安倍演説受け危機感 4/24  
インドネシア・ジャカルタで22日に行われた日中首脳会談と安倍首相の演説を受け、韓国メディアが韓国の「孤立化」を心配している。大手紙・朝鮮日報は、日中の関係修復によって「反日本陣営」に韓国だけが留まることになると懸念。ハンギョレ新聞も、世界が日本の「反省」を受け入れれば、謝罪を求め続ける韓国が「逆に異常扱いされかねない」と不安を訴えている。  
安倍首相は、29日にも米議会で演説をし、改めて過去の戦争について反省の意を表明すると見られているが、韓国はこれにも対抗意識を燃やしているようだ。ウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ)は、韓国政府が慰安婦問題などに関する自国の主張を世界に訴えるため、アメリカのPR会社と契約したと報じている。  
日中の雪解けで韓国が「反日本陣営」に取り残される?  
朝鮮日報は、ジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年首脳会談の演説で、安倍首相は「日本の侵略という事実にのみ言及し、植民地支配に関する文言を外した」と記す。その背景には「韓国を外交的に孤立させようという意図がある」としている。  
「つまり、日本は侵略の事実だけを認めれば、日本の歴史認識問題解決を促す韓中両国のうち、中国を納得させられると考えた可能性があるということだ。この場合、植民地支配についても謝罪を要求している韓国だけが『反日本陣営』にとどまることになる」と同紙は主張。また、10年前のバンドン会議50周年演説で、当時の小泉純一郎首相が「深い反省の文言を入れたのとは対照的なものだ」とし、安倍演説を批判している。  
朝鮮日報は、日中首脳会談についても、韓国の「孤立化」を懸念する記事を掲載している。それによれば、習近平国家主席が中国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)について、「既に国際社会であまねく歓迎されている」と述べると、安倍首相は「中国側とAIIB問題について話し合うことを望んでいる」と応じたという。これについて、同紙は「中・日関係がAIIB協力をきっかけに和解局面に転じるのでは、との見方がある。このため、日本と今も確執を抱えている韓国の孤立を懸念する声が出ている」と記している。  
「謝罪」にこだわる韓国が「逆に異常扱いされかねない」  
ハンギョレ新聞も、安倍首相のバンドン会議演説について、韓国への「植民支配に対する謝罪」には触れず、広く「先の大戦への深い反省」だけに言及したと、不満を表す。そして、日本の識者(和田春樹・東京大学名誉教授)へのインタビューを通じて、「植民地支配に対する反省」が初めて含まれた1995年の村山談話に比べて不十分だったとしている。また、木村幹・神戸大学教授の「韓国が願う植民支配に対する言及を除くことによって、今後日本は韓国と中国を分離して、韓国を孤立化させていこうという意思を明確にした」というコメントを掲載している。  
さらに同紙は、29日の米上下両院合同会議の演説で、安倍首相が今回同様「先の大戦への深い反省」だけに言及したとしても、「日本が戦争に対する謝罪をしたので、植民支配や日本軍慰安婦問題に対して明確に謝らなくとも問題にはしない」という空気が米国内に生まれると予想。そして、「安倍首相の歴史認識を巡って韓米間の溝が深まる状況が予想される」と心配する。  
ある韓国政府関係者は、「もし安倍首相が米国上下両院合同演説で第2次大戦当時の真珠湾攻撃のような内容を取り上げて戦争に対する反省の意向を示すならば、おそらく米国議会は拍手を送るだろう」「そのようなムードの中で韓国が過去に対して謝罪がないとして問題提起するならば、逆に異常扱いされかねない」と、ハンギョレ新聞に話したという。  
英識者は安倍演説は過去の謝罪を踏襲したと評価  
安倍首相の米議会演説を巡るこうした懸念の下、韓国政府はワシントンDCを拠点とするある米PR会社と契約を結んだという。これを報じたWSJによれば、韓国政府は特に慰安婦問題について、世界に向けて自国の立場を主張することに重点を置いているようだ。企業名の非公開と匿名を条件にWSJの取材に応じたPR会社幹部は、「安倍氏の演説を聴いた記者団に、彼が言わなかったことを理解させる」ことが自分たちの任務だと話したという。  
一方、韓国の解釈とは別に、日中首脳会談と安倍演説に対する客観的な評価も出始めている。ドイツメディア『ドイチェ・ヴェレ(DW)』は、その成果について、アジア情勢を専門とするロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)のクリスティン・スラク氏にインタビューしている。スラク氏は大筋で、今後日中の緊張関係がいくらか改善に向かうと見ているようだ。  
同氏は今回の首脳会談は、日中関係が冷えきっている中で行われた公式会談であり、両国にとって「重要なものだった」と評価。尖閣問題や歴史認識問題といった課題は積み残されているものの、両首脳が両国の貿易関係を良好に維持する事の重要性を揃って認識したことは意義深かったとしている。また、安倍首相の演説については、「深い反省」を表明したことで、1995年の村山談話を含む「日本が過去に行った謝罪を再度行った」と評価している。 
「謝罪とおわび」がなかった安倍首相の演説 評価したのは産経だけ / 社説読み比べ  
アジア・アフリカ諸国の指導者が反植民地主義などを打ち出した「バンドン会議」から60年が経ったのを記念して、インドネシアの首都ジャカルタで首脳会議が開かれた。  
安倍晋三首相は22日に演説。大手メディアは、安倍首相が先の大戦中の日本による「アジア諸国に対する植民地支配と侵略へのお詫び」を演説に盛り込むかどうか注目していたが、安倍首相は「反省」を口にしても謝罪には踏み込まなかった。  
演説は大手メディアにとって期待外れに終わったと言える。各紙が安倍首相の演説に批判的な社説を掲載し、評価したのは産経のみだった。  
毎日、朝日 / 村山談話は日本外交の土台  
毎日新聞は、安倍首相が「先の大戦の深い反省」に触れたことを紹介。の同日行われた日中首脳会談を引き合いに、日中関係の改善を訴えた。  
日中が角を突き合わせていては地域の平和、繁栄にはつながらない。昨秋に続く首脳会談で、両国が戦略的互恵関係に基づき、世界の安定と繁栄に貢献する必要性を確認したことは歓迎できる。(毎日新聞 社説 / 「バンドン会議 日中は原点を忘れるな」 2015/04/23)  
演説について触れたこの社説では、安倍首相の歴史観については深く言及しなかったが、前日に掲載した戦後70年の首相談話についての社説では、「侵略」などの文言を盛り込むように首相に釘を刺している。  
首相談話は「先の大戦への反省」を踏まえた未来志向のものにしたいと首相は言う。あの戦争は国内にあっては310万人の死者を出し、外に向かっては侵略によっておびただしい数の人命を犠牲にした。したがって「先の大戦の反省」とは、国際的には侵略の事実を認めることと同義だと言ってもいい。過去において日本が中国を侵略したことは、首相談話を検討する有識者懇談会(21世紀構想懇談会)の座長代理である北岡伸一国際大学長らの発言にもある通り、歴史的に明らかである。侵略という言葉は戦後50年の村山談話と戦後60年の小泉談話に盛り込まれ、国際的にも確立された日本の公的な認識となっている。これをゆるがせにしない姿勢を明確にしてこそ、戦争の反省と未来への歩みは意味を持つ。「過去の談話を全体として引き継ぐ」だけでは、伝わらないものがある。過去の談話にあるのだから繰り返す必要はない、というのが安倍首相の考えだ。だが、首相は第2次政権になってから、侵略の定義は「学界的にも国際的にも定まっていない」「(国の)どちらから見るかにおいて違う」と語り、侵略をはっきり認める姿勢を見せていない。それが首相の本心なら、70年談話に入れる入れないは枝葉末節どころか、日本の国際社会での立ち位置を左右する問題ということになる。(毎日新聞 社説 / 「侵略という言葉 『枝葉の議論』ではない」 2015/04/22)  
朝日新聞は、安倍首相が演説におわびの言葉を盛り込まなかったことを強く批判。戦後50年の「村山談話」、同60年の「小泉談話」で政府が表明したように、「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」ことを認めるべきだと論じた。  
首相は会議に発つ前夜のテレビで、村山談話について「引き継いでいくと言っている以上、もう一度書く必要はないだろう」と述べ、戦後70年の安倍談話には「植民地支配と侵略」「おわび」などは盛り込まないことを示唆した。きのうの演説はこれに沿った内容だ。この考えには同意できない。「侵略の定義は定まっていない」といった言動から、首相は村山談話の歴史観を本心では否定したいのではと、アジアや欧米で疑念を持たれている。引き継いでいるからいいだろうとやり過ごせば、疑念は確信に変わるだろう。表立って批判されなくとも、国際社会における信頼や敬意は損なわれる。それがいったいだれの利益になるというのか。一部の政治家が侵略を否定するような発言を繰り返すなか、村山談話は国際的に高く評価されてきた。その後のすべての首相が引き継ぎ、日本外交の基礎となった。率直に過去に向き合う姿勢が、「未来への土台」となったのだ。それをわざわざ崩す愚を犯す必要はない。(朝日新聞 社説 「70年談話へ 未来への土台を崩すな」 2015/04/23)  
東京 / 平和国家のはじまりは戦争への反省  
東京新聞も、安倍首相が「植民地支配」「侵略」「おわび」を語らなかったことを指摘し、「負の歴史も受け入れ」よと批判した。  
安倍首相は、〔村山、小泉の〕二つの首相談話を含めて「歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」と述べてはいるが、「基本的な考え方を引き継いでいくと言っている以上、もう一度書く必要はない」とも語っている。首相としては敗戦までの過去の歴史よりも、焦土の中から復興を遂げた戦後日本の歩みや、今後の国際貢献に焦点を当て、「未来志向」の談話としたいのだろう。しかし、二つの首相談話で言及している「植民地支配と侵略」への「反省とおわび」は歴史認識の根幹だ。全体として引き継ぐのだから、その都度言及しなくても国際社会の理解は得られると考えるのは、あまりにも独善的である。戦後日本の平和国家としての歩みは誇るべき歴史であり、先人の努力と知恵に敬意を表したい。同時に、平和国家としての立脚点が先の大戦への反省にあることを忘れてはなるまい。一国の歴史には誇るべきも反省すべきもあるだろうが、負の歴史も受け入れてこそ、国を愛するということではないか。未来志向に魂を入れるためにも、首相自身の言葉で「侵略」「おわび」を語るべきだ。言葉を省いて国際社会の誤解を招く愚は犯すべきでない。(東京新聞 社説 「侵略とおわび 自身の言葉で語らねば」 2015/04/23)  
読売、日経 / 「物足りない」「玉虫色」  
この問題に関しては、読売新聞も安倍首相の歴史認識への言及が「物足りなかった」とやんわりと批判。日中の歩み寄りを求めた。  
物足りなかったのは、首相の歴史認識への言及である。約6分間の演説とはいえ、侵略の否定などバンドン会議の原則に触れたものの、先の大戦については「深い反省」を示すにとどめた。前回の50周年首脳会議では、当時の小泉首相が過去の植民地支配と侵略を認め、「痛切なる反省と心からのお詫わび」を明言した。この表現を、約4か月後の戦後60年談話にも反映させた。安倍首相は今夏、戦後70年談話を発表する。日本が過去の反省を踏まえ、世界の平和と繁栄にどんな役割を担うのか。談話では「深い反省」の中身が問われよう。(中略) 習氏は、「歴史問題は中日関係の重大な原則問題だ。歴史を直視する前向きなシグナルを出してほしい」と注文したという。首相は、歴史認識に関する歴代内閣の立場を引き継ぐと説明した。歴史認識を巡る日中間の溝は深い。中国主導のアジアインフラ投資銀行、尖閣諸島周辺での中国の領海侵入など、懸案も多い。過去の問題を乗り越え、未来志向の関係を築くには、日中双方が歩み寄る努力が欠かせない。(読売新聞 社説 「バンドン演説 首相70年談話にどうつなげる」 2015/04/23)  
日経は、「明確な謝罪」を述べず、国内の支持者層とアジア諸国の双方に配慮した安倍首相の言い回しは、「玉虫色」で分かりにくいと疑問を呈した。  
先の大戦の評価はひとそれぞれだが、アジアに多大な被害をもたらしたことは否定できない。10年前、当時の小泉純一郎首相はバンドン会議演説で村山談話に沿って「反省」と「おわび」を語り、そのまま小泉談話に盛り込んだ。それと比べると今回の演説の書きぶりは複雑だ。「侵略」を非難した60年前のバンドン宣言を紹介したうえで、「バンドンで確認された原則」を守り抜くと誓う。ほかにも、ある文章に他の文章を引用する入れ子構造の箇所がいくつかある。先の大戦が「侵略戦争」であったことを否認したのかと問われれば「侵略に触れている」と反論できる。だが、直接の言及はない。首相の支持基盤である保守派とアジア諸国との外交関係の双方に配慮した結果なのだろう。玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか。いまのままでは、戦後70年を平穏に終えるのは容易ではあるまい。(日経新聞 「アジアの人々の心に響いたか」 2015/04/23)  
産経 / 文言よりも実際の外交成果が重要  
今回、安倍首相が演説で訴えた「未来志向」を積極的に評価したのは、産経1紙だった。演説の文言よりも、実際に周辺国との絆を深められるかが重要だと論じた。  
未来に軸足を置いた訴えを評価したい。安倍晋三首相が、アジア・アフリカ(AA)会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議の演説で、戦後の日本のAA諸国との協力を振り返りつつ、今後も共に平和と繁栄を築いていく決意を表明した。首相は演説で、先の大戦への深い反省を表明し、そのうえで、1955年のバンドン会議での「先人の知恵」に言及した。「他国の内政に干渉しない」「侵略や武力行使で他国の領土保全や政治的独立を侵さない」などの「平和10原則」を念頭に置いたものだ。この日の演説は、今月末に予定されている米議会での演説、8月の戦後70年談話の前段と位置づけられる。今後の一連の演説、談話を通じて、日本が一貫して平和国家の道を歩んできたことや、将来も積極的に貢献していく決意を全世界に発信してほしい。(中略) 首相演説でもうひとつ重要だったのは、「強い者が弱い者を力で振り回すことはあってはならない。法の支配が、大小に関係なく国家の尊厳を守るということだ」と強調したことだ。経済、軍事両面で台頭する中国を想定した発言であろう。この日行われた日中首脳会談で双方は関係改善に触れたが、中国の動向を見る限り、大きな前進は望めまい。(中略) 文言の変化を、反省や謝罪姿勢の後退などと決めつけるのは、公正な態度とはいえまい。問われるのは関係諸国との絆を強められるかである。(産経新聞 主張 「首相バンドン演説 『未来志向』を評価したい」 2015/04/23)  
29日に控えている米議会上下両院合同会議での演説、終戦記念日に予想される「戦後70年談話」がどのような内容になるのか。安倍首相は、90年代から顕著になった日本の「謝罪外交」を打ち破ることができるのか。今後もしばらく、安倍首相の発言に国内外の注目が集まるだろう。 
日中首脳会談・安倍首相は戦後謝罪なしでも、日中首脳が笑顔で握手の「怪」  
インドネシアのジャカルタでアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催された。前回、インドネシアでバンドン会議が行われた時は、私はまだ国会新聞に所属しており、その取材で私も出かけたことを記憶している。確か、その時は小泉純一郎内閣であり、小泉首相の靖国神社参拝に反対して日中関係が悪化していたと思う。そして小泉首相がバンドン会議で「戦争の謝罪」を行うことによって、胡錦濤と握手をするということになるのである。  
その光景に対して、アフリカのとある国(というかどの国だか忘れたのであるが)が、私とたまたまジャカルタ空港のラウンジで会った時に「なぜ小泉はアジアアフリカ会議で、アフリカもいたのに、あんなところで謝罪をしたのだ。日本のおかげでみんな独立してよ転んでいるに」といった話は、いつか、ブログで紹介したと思う。  
さて、今回もなぜか「日本の謝罪」ということがアジアアフリカ会議で問題になった。しかし、小泉内閣の時とかなり事情は異なっている。小泉内閣の時は「靖国神社に参拝しただけ」であったのに対して、今回は「靖国神社の参拝などは当たりまえ」で、とっくの昔にそのことは行っているのである。  
そしてそのうえで、日中関係の悪化を安倍首相はそのまま容認していたのである。基本的には日本の景気対策優先党いうことであり、日本は円安路線を行いつつ、中国や韓国の「物まね」や「技術スパイ」を否定し、日本の技術力や日本の企業力の復帰に努めた。もちろん、まだ道半ばであるが、このことによって、中国や韓国の経済状態がかなり悪化したことは間違いがない。結局「日本が離れると、中国や韓国が疲弊する」という結論になる。少なくとも現象としてそのようになるのだ。その事に関し、中国の習近平は、昨年御APECで日中首脳会談を行った。その仏頂面での20分は、中国が経済的な事情で日本と首脳会談をやらざるを得なくなったということと、その本人の意思に反しているということ、もっと言えば中国の外交および経済的敗北を意味していると、多くの評論家や世界の外交関係者がささやくようになったのである。  
そして、今回、「謝罪無きバンドン会議での安倍演説」のあと、日中首脳会談がどのような状況で行われたのか、ということが非常に注目された。あにはからんや、習近平は、笑顔で安倍首相と握手したのである。  
日中関係改善で一致、戦略的互恵推進…首脳会談  
安倍首相は22日夕(日本時間22日夜)、インドネシアのジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の60周年記念首脳会議に合わせ、中国の習近平シージンピン国家主席と約5か月ぶりに首脳会談を行い、日中関係の改善を図る方針で一致した。  
日中首脳会談は首脳会議の会場で約25分間行われ、両首脳は日中関係改善に向け、政府間対話や民間交流を進めることで一致した。中国主導で設立準備が進むアジアインフラ投資銀行(AIIB)や、歴史認識問題についても議論した。  
会談の冒頭、習主席は「最近、両国民の共同努力の下で、中日関係はある程度改善できた」と評価した。安倍首相も「昨年11月の首脳会談以降、日中関係が改善しつつあることを評価したい」と応じ、戦略的互恵関係を推進し、地域や世界の安定や繁栄に貢献していくことで一致した。  
習主席は「中国は(巨大経済圏構想の)『一帯一路』の建設とAIIBの創設を呼びかけており、国際社会から歓迎されている。AIIBでここまで各国の理解が得られたのは想定外だった。安倍首相も理解してくれると信じている」と続け、日本の参加を促した。  
首相は「アジアのインフラ(社会資本)需要が増大し、金融メカニズムの強化が必要だとの認識は共有する」と応じる一方、「ガバナンス(統治)などの問題があると聞いている。事務当局間で協議してもらい、報告を待ちたい」として、慎重姿勢を崩さなかった。  
歴史認識問題について、習主席は「歴史を直視してこそ相互理解が進む」とし、「9月(3日)の抗日戦争勝利記念日でも、今の日本を批判する気はない」と述べ、記念行事に招待した。  
これに対し、首相は「村山談話、小泉談話を含む歴代内閣の立場を全体として引き継いでおり、今後も引き継いでいく」と述べた。「先の大戦の深い反省の上に、平和国家として歩んできた姿勢は今後も不変だ」とも語り、理解を求めた。  
日中首脳会談のポイント (4/23 読売新聞)  
▽両首脳は日中関係が改善傾向にあることを評価  
▽戦略的互恵関係の推進で一致  
▽日中間の対話と交流の促進で一致  
安倍首相の「謝罪なし」演説が日中関係修復に影落とす=仏メディア報道「2人とも顔がこわばっている」「今、誰が謝罪すべきだと思う?」―米国ネット  
2015年4月22日、AFP通信は、インドネシアのジャカルタを訪問中の安倍晋三首相と中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席が約5カ月ぶりに首脳会談を行ったが、会談に先立って安倍首相が行った演説によって両国の関係修復への努力が損なわれたと報じた。  
安倍首相と習主席の約30分の会談は、第二次世界大戦に関する認識や領土問題をめぐり悪化していた両国の関係修復を模索する中で行われた。昨年11月の会談時よりは和やかな雰囲気の中、会談前に安倍首相と習国家主席は握手を交わしたが、ぎこちなさのある握手だった。  
日中首脳会談に先立ち、安倍首相は22日午前、バンドン会議で演説を行った。その中で、第二次世界大戦に対する反省の念については言及したが、謝罪の言葉は述べなかった。さらに、この日、日本では100人以上の国会議員が靖国神社を参拝した。中国と韓国は靖国神社参拝について、日本が過去の侵略について悔恨しようとしていないことの表れだと見ていると伝えている。  
この報道に、米国のネットユーザーがコメントを寄せている。  
「会談で何を話したかは重要ではない。ただビジネスを続け、中国がお金を稼ぎ、人生が続いていくということだ。日本が戦争に対してどう思っているかなんて重要なことではない。日本は米国によって原爆を落とされたが、今は米国の友好国だ。だから同じようにすればいいんだ」  
「日本はもっと円高にするべきだ。1ドル=75円くらいにね」  
「日本には外交政策はないが、内政においては強いシステムを持っている。そしてそれだけだ」  
「第二次世界大戦での日本を支持するわけではないが、中国はチベットに対して謝罪を表明したことがあるのか?」  
「中国よ、もう先へ進むべきだ。あなたたちは他の国々を苦しめているだけだ」  
「2人とも顔がこわばっているな」  
「私たちの同盟国である日本は、ただ中国を無視すべきだったのに」  
「どれだけの人々が日本製のテレビを見ているんだ?謝罪は受け入れられた」  
「何度、謝罪が必要なんだ?日本は今、問題を起こしているのか?答えはノーだ。中国は今、戦前の日本のように軍事力を強化して領有権を主張しているのか?答えはイエスだ。では誰が謝罪すべきだと思う?」  
【社説】韓国外交に孤立化を避ける戦略はあるのか  
中国の習近平国家主席と日本の安倍晋三首相が22日、バンドン会議(1955年にインドネシアのバンドンで行われたアジア・アフリカ会議)60周年を記念してアジア・アフリカ諸国の首脳会議が行われたインドネシアのジャカルタで、2国間の首脳会談を行った。昨年11月に中国・北京で首脳会談を行ってからわずか5カ月で、2度目の会談を行ったことになる。2012年12月に安倍政権が発足してから1年11カ月にして行われた前回の会談を突破口とし、今回の会談で対話の流れをつくり上げたものと考えられる。  
習主席は昨年7月に韓国を訪問した際、安倍内閣の歴史に逆行する動きを真っ向から批判し、韓中両国が共同で立ち向かうことを提案した。日本を「盗賊」と呼んだことさえある。そんな習主席がわずか数カ月の間に2度も安倍首相と会談した。今回の会談が30分にも満たない短いものだったという点を差し引いても、中国と日本の関係が正常化の段階に差し掛かっていると受け止めざるを得ない。  
安倍首相は今回のアジア・アフリカ会議の演説で、1955年のバンドン会議で採択された「平和10原則」に盛り込まれた「侵略または侵略の脅威、武力行使によって他国の領土保全や政治的独立を侵さない」という項目を取り上げ「日本はこの原則を、先の大戦の深い反省とともに、いかなるときでも守り抜く国であろうと誓った」と述べた。しかし、植民地支配や侵略戦争を引き起こしたことに対する謝罪は一言もなかった。中・日首脳会談がこの演説の直後に行われたという点で、中国は安倍首相の演説内容を受け入れたか、あるいは容認したと解釈できる。日本はまた、米中関係の変化の隙を縫うように、18年ぶりに米国との同盟関係を大幅に強化することで合意し、今月29日には安倍首相が日本の首相として初めて、米国の上下両院合同会議で演説を行う。  
韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部(省に相当)長官は最近、米中両国の板挟みとなっている韓国のジレンマについて「両国からラブコールを受けている状況は、厄介なことではなく、祝福と受け止めるべきだ」と語った。韓国外交のトップがこのような発言をしながら、日本との首脳会談を3年も避け続けている間に、中・日首脳会談が相次いで実現した。韓国政府は日本の歴史に対する後ろ向きな姿勢について原則的な対応をしつつも、安全保障や経済の問題については、より柔軟で現実的な打開策を示す必要がある。  
日中首脳会談のポイント (朝鮮日報 2015/4/23)  
▽両首脳は日中関係が改善傾向にあることを評価  
▽戦略的互恵関係の推進で一致  
▽日中間の対話と交流の促進で一致  
ということになる。しかし、これらの内容に関して、いったい何が問題なのであろうか。実はこの話し合いは、「今まで日中関係で行ってきたこと」で「安倍首相になって止まっていたこと」を再度進める、要するに今までと同じにするということを言ったに過ぎない。逆に言えば、「謝罪」がなくても、日中関係は、謝罪があった時と同じ推移で物事が進むということを安倍首相は証明したことになる。  
さて、もう一つの「反日国」である「韓国」はどうなったのであろうか。  
上記の記事の一段落をそのまま抜き出す。  
韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部(省に相当)長官は最近、米中両国の板挟みとなっている韓国のジレンマについて「両国からラブコールを受けている状況は、厄介なことではなく、祝福と受け止めるべきだ」と語った。韓国外交のトップがこのような発言をしながら、日本との首脳会談を3年も避け続けている間に、中・日首脳会談が相次いで実現した。韓国政府は日本の歴史に対する後ろ向きな姿勢について原則的な対応をしつつも、安全保障や経済の問題については、より柔軟で現実的な打開策を示す必要がある。 (上記より抜粋)  
さて、「具体的な策無き韓国の反日政策」がこの一文に見て取れる。米中の間に挟まれているが、そもそも尹炳世外相の言うとおり「ラブコールが両方からきている」のか、それとも「厄介者を押し付けあっている」のか、その部分をもう少し考えるべきであるし、また、その内容をしっかりと考えるべきである。そのうえで、「客観的な事実を踏まえた」上での「安全保障や経済の問題については、より柔軟で現実的な打開策」が必要なのではないか。もちろん、韓国の国民性や今の政府の能力では、そのようなことは非常に難しいのであろう。ましてや次々とスキャンダルが出てきている状態で、朴槿恵政権にそのような話をすることはかなり難しい。実際に、「能力の上限を超えた政治判断はできない」というのが通説であり、そのために混乱し、損害を被るのは、韓国の朴槿恵政権でも、日本の民主党政権でも、いつも国民なのである。  
そのような状況を、韓国の国民を代表して、今まで一緒になって反日を行っていた朝鮮日報が社説でこのような文章を掲載したことには、中な興味深いと思うものである。  
さて、今後の対応であるが、日本は、日中・日韓というような二か国間ではなくもっと大きな地球規模で物事を考えるべきである。そろそろ、「二か国間外交」ではなく「グローバル外交」を行うべきではないか。 
2015年4月30日 - 安倍首相

 

(安倍首相米議会演説。安倍総理大臣は日本時間の30日未明、アメリカ議会上下両院の合同会議で、日本の総理大臣として初めて演説しました。)  
議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、1957年6月、日本の総理大臣としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国総理として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。申し上げたいことはたくさんあります。でも、「フィリバスター」をする意図、能力ともに、ありません。皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベイカー。民主主義の輝くチャンピオンを大使として送ってくださいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。  
私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル・フランシア夫人、寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日頃、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。デル・フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方なら躊躇なく採用する。――この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だとずいぶん言われました。  
私の名字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主主義の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。  
先刻私は、第二次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐な場所でした。耳朶を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。その星の一つ、ひとつが、倒れた兵士100人分の命を表すと聞いたときに、私を戦慄が襲いました。金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海…、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました。親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。  
みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、仰っています。「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」。もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のお祖父さんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。本当に、ありがとうございました。  
戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。みずからの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。みずからに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。焦土と化した日本に、子どもたちの飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました。米国がみずからの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、ASEAN諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。  
こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。その営為こそが、TPPにほかなりません。しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。経済規模で、世界の4割、貿易額で、世界の3分の1を占める一円に、私たちの子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。  
実は、いまだから言えることがあります。20年以上前、GATT農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。世界標準に則って、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍の穂先となりこじあけてきました。人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。  
親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心からよかったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父のことばにあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。  
私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。日本はオーストラリア、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は各段に安定します。日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。第一に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第二に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第三に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私たちには、その責任があります。日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外務大臣、中谷防衛大臣と会って、協議をしました。いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。きのう、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に合意をしたのです。  
1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。人間一人一人に、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。私たちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまや私たちに、新しい自己像を与えてくれました。いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢さを備え、深い信頼と友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。  
まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。「落ち込んだ時、困った時、目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子どもたちに、支援の手を差し伸べてくれました。私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれました。――希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかによい場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。 
“従来通り謝罪を”英紙 “米を満足させれば十分”米識者 4/29  
26日、安倍首相が1週間のアメリカ訪問の旅に出発した。イギリスのフィナンシャル・タイムズ誌(FT)は、首相の訪米は日米の対中関係にも影響を及ぼすものであり、中国に対抗するものであってはならないと指摘した。アメリカのメディアは、FTとは対照的な識者の意見も紹介している。  
首相の評価は高いが、中国に配慮を  
イギリスのフィナンシャル・タイムズ誌(FT)は、ナショナリスト的な傾向には懸念があるものの、安倍首相は、ここ数十年でもっとも理路整然としたリーダーとして、アメリカでの評価は概して高いと述べる。今回の訪米でも、首相は友達として扱われ、公式晩餐会で歓迎され、議会演説にも招かれると同誌は報じている。  
しかしながら、中国との関係を考えた場合、日米が団結して中国に対抗しているという印象は与えてはならないとFTは述べ、安倍首相の訪米中、中国に対する日米の態度が、3つの場で試されると指摘する。  
議会演説  
まず最初は、第二次大戦中の日本の行為に言及するであろう安倍首相の議会演説だ。FTは、首相は「日本は十分謝罪した」と考える保守派に属しており、従来使用されてきた謝罪の言葉を、演説では使わないことをほのめかしたと述べる。しかし、侵略者としての日本は、いつ謝罪をやめるのかを決める贅沢な身分にはないと指摘。近代史の過失や欠点の多くをごまかしている中国に説教されるのはもちろん癪に障るが、もし「普通の」国として世界から信頼されたいのなら、首相はじっと唇を噛んで、従来のやり方を踏襲すべきと述べる。  
これに対し、テンプル大学日本校でアジア問題を研究するジェフリー・キングストン教授は、「過去について、首相が誠実に、深く悔いているように話せば、人々はそれで十分と受け止める」と考えている。「中国や韓国は、細部に渡ってチェックを入れ、何を言っても彼らを満足させることはできない」ため、首相がすべきは、アメリカを十分に満足させることだと指摘している(ロサンジェルス・タイムス、以下LAT)。  
防衛協力  
2番目が、防衛だ。日米は、27日に防衛協力の指針の改定で合意しており、日本の集団的自衛権行使を前提とし、自衛隊の活動を拡大させる内容が盛り込まれている。FTは、これがアンチ中国協定のように映らなければ、害はないだろうとしている。  
一方、金融リサーチ会社『Gavekal Dragonomics』 のアナリスト、トム・ミラー氏は、中国がアジアからアメリカを追い出そうとしており、軍事力増強に努め、必要ならば経済的な影響力を政治にも使おうとしていると述べており(LAT)、これが日米を警戒させているとLATは言う。国際平和カーネギー基金のアナリスト、ジェームス・ショフ氏は、「日本のゴールは、防衛協力を進め、中国への抑止を強化することだ」と話しており(LAT)、安倍首相の訪米時に日米防衛協力が話し合われたことは、中国牽制となる意味合いが強いことを示唆した。  
TPP  
3つ目は、TPPである。TPPは貿易協定であり、それを装った地政学上の協定ではないことを明確にする必要があるとFTは述べる。同誌は中国には可能な限り早い参加を促し、ルールに基づいたシステムに統合していくべきと述べている。  
これに対し、ワシントン・ポスト紙に記事を寄せた共和党下院議員のポール・ライアン氏は、中国は世界中で貿易協定を交渉中で、自国に有利なルールにしようとしていると指摘。日米は、「世界経済のルールを描くのは、中国?それとも我々?」と自問してきたと述べる。同氏は、日米が組めば、アジア太平洋で弱い者いじめに走り、覇権を再主張する中国に対抗できると述べている。  
FTは、日米が中国を国際社会に引き入れることが、安倍首相訪米の背後にある意義であるべきとしているが、異論もあるようだ。今回の訪米が中国を含めた国際社会にどのように受け止められるのか、注目して行きたい。 
安倍首相のアメリカ議会演説内容 4/30  
歴史認識問題  
安倍首相は「戦後の日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に歩みを刻んだ。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない。思いは歴代首相と全く変わらない。第2次世界大戦の米軍の犠牲に「心に深い後悔」を抱いている。日本と日本人を代表して、第2次世界大戦で失われた全てのアメリカの人の魂に深い敬意を込めて永遠の追悼を捧げます」などと述べ、先の大戦への痛切な反省を示しました。  
一方で中韓が求めていた、村山談話にあるような「心からのおわび」といった謝罪の言葉は用いませんでした。また、従軍慰安婦問題についても「紛争下、常に傷ついたのは女性だった。私たちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけない。」と言及したのみで、慰安婦問題そのものには言及しませんでした。  
そのため、韓国メディアからはさっそく批判されています。  
韓国の聯合ニュースは30日、安倍晋三首相の米議会上下両院合同会議での演説について、「『植民地支配と侵略』などの表現や明確な謝罪の言葉がない上、慰安婦問題には全く言及しなかった」と指摘した。  
その上で、「歴史に対する謝罪と反省を求めた周辺国の期待に遠く届かなかった」と批判した。  
聯合は「第2次安倍政権が、第2次大戦に関して『アジア諸国民に苦しみを与えた』と言及したのは初めて」と指摘。一方で、慰安婦問題に言及しないまま「女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけない」と強調したと皮肉った。  
さらに、「韓国などアジアへの謝罪をせず、太平洋戦争と米国人には強い言葉で反省を示す矛盾した態度を見せた」と批判した。   
安全保障政策  
安倍首相は、アメリカのリバランス(再均衡)政策への支持を表明。またアジアの海洋政策について、以下の三つの原則に基づく平和主義を唱えました。  
第一に国家が何か主張するときは国際法に基づいてなす。第二に武力や威嚇は用いない。第三に紛争解決は平和的手段による。太平洋からインド洋にかけての広い海を、自由で法の支配が貫徹する平和の海にしなければならない。そのためにこそ日米同盟を強くしなくてはならない。-引用元は最下部に記載  
さらに、日米新ガイドラインとそれを実現するための法改正(集団的自衛権含む)をこの夏までに国会で成立させると明言しました。  
これに対し、民主党の小西議員が「この発言は国会を軽視するもの」だとして猛反発しています。  
TPPについて  
安倍首相は「環太平洋連携協定(TPP)には、単なる経済的利益を超えた長期的な安全保障上の大きな意義があることを忘れてはならない。日米間の交渉は出口がすぐそこに見えている。米国と日本のリーダーシップでTPPを一緒に成し遂げよう。」と発言し、TPPには安全保障政策上からも利益があると唱え、TPPの早期妥結への決意を表明しました。  
感想  
内容としては事前に予想されていたものとほぼ同じだったので特に驚くものはありませんでしたね。(安全保障法制を夏までに成立させると言及したことぐらいか?)  
歴史認識問題での「謝罪・お詫び」については、先のバンドン会議でも言及しなかったので、今回の演説でも言わないだろうなというのはありました。韓国メディアが発狂してますがいつものことなので気にするほどのことではないと思います。  
集団的自衛権の関連法案を含む安全保障法制について「夏までに成立させる」と明言したのは大きいですね。非協力的な公明党への脅しでしょうか?  
TPPについては安倍首相がこのように自信を持って明言したので早晩妥結されるでしょうね。日本国内でも反TPP派の統制経済大好きさんたちが交渉失敗を祈ってるみたいですが、幸いにしてその希望はかなわないでしょう。(交渉が難航しているように見えるのも各国の交渉用のブラフであって、あとは細かいところの詰めの作業に入っているものと思われます。) 
安倍首相の米国議会演説、各国で評価が割れる 4/30  
4月30日午前0時にアメリカ議会で安倍首相が行なった演説について、各国も大々的に取り上げていました。中国や韓国などは慰安婦問題などに言及しなかったことを指摘し、「謝罪がなかった」と強く批判しています。ただ、韓国は朴槿恵大統領の訪米を控えていることからやや控え目の反応でした。  
欧米のメディアも「全面的な謝罪には至らなかった」と安倍首相の演説を評価しています。米NBCニュースは「韓国と一部米議員は謝罪を求めてきたが安倍首相は表明しなかった」と取り上げ、ウォール・ストリート・ジャーナルも「韓国系米国人や退役軍人らが求めていた用語は使わなかった」と報じました。  
いずれも慰安婦問題などの戦争犯罪に対する具体的な謝罪が無かった事を指摘していますが、アメリカの議会議員からは「安倍首相は謝罪したと思う」「完璧だった。言うことを言っていた」と賞賛の声も多いです。  
バイデン米副大統領は「歴史問題で責任が日本の側にあることを非常に明確にした」と述べ、演説の内容に好意的なコメントをしました。  
訪米中の安倍晋三首相は29日、米議会の上下両院合同会議で日本の首相として初めて演説した。米国では歴史に関する言及に注目が集まり、演説を評価する見方と不十分という声の両方が上がった。  
安倍首相は演説で、ワシントンの第2次世界大戦記念碑を訪れたことを紹介し、米軍の死者に対して「深い悔悟を胸に、黙禱(もくとう)を捧げた」と述べた。演説を聞いた議員からは、「第2次世界大戦が引き起こした不幸を認識したもので、適切だった」(スティーブ・コーエン下院議員)などの声が上がった。ただ、元米兵捕虜の遺族団体「バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のジェン・トンプソン代表は、「旧日本軍による捕虜への虐待に言及しなかったことに失望した」と話した。  
米欧メディアは29日、安倍晋三首相の米議会上下両院合同会議での演説について相次いで報道した。安倍氏が先の大戦への「痛切な反省」を表明したことについて、AFP通信は「全面的な謝罪には至らなかった」と指摘した。米NBCニュースは「韓国と一部米議員は謝罪を求めてきたが安倍首相は表明しなかった」と報じた。  
米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は、安倍氏が演説で「韓国系米国人や退役軍人らが求めていた用語は使わなかった」と報じた。ロイター通信は韓国や中国が「安倍首相は歴史をもみ消そうとしている」と批判したと指摘した。そのうえで、安倍氏が演説で「日米同盟の未来と、環太平洋経済連携協定(TPP)に懐疑的な議員への要請に焦点を当てることを選んだ」と解説した。  
バイデン米副大統領は29日、安倍晋三首相が米上下両院合同会議での演説で「先の大戦に対する痛切な反省」を表明したことについて、歴史問題で「責任が日本の側にあることを非常に明確にした」と述べた。演説終了後、共同通信などの取材に答えた。  
オバマ政権として首相の歴史問題への言及を評価した発言。同時に、日本の「責任」に言及することで、韓国や中国との関係改善に向けたさらなる取り組みを促したともいえそうだ。 
安部首相演説に関して一部日本メディアの報じ方の偏り 4/30  
海外メディアでは安倍首相の演説には評価する声が流れており、特にアメリアとの関係をよりよいものにする「希望の同盟」という言葉は感銘を受ける人が多かったようだ。特にスタンディーングオーベーションで大きな拍手が流れたのは硫黄島で戦った元アメリカ海兵隊員と旧日本軍の守備隊司令官の孫の新藤前総務大臣との握手の時であった。これを安部首相は「元敵同士だった人たちが手を取り合うことを奇跡と言わずなんという」とコメント、大きな拍手が流れることとなった。  
しかし、米議会のすぐそばでは反日議員のマイク・ホンダが元慰安婦達に「日本に謝罪を要求する」運動をするようによびかけ嫌がらせをするように支持しており、これには米国ネットでも「米議会を利用するな」と痛烈に批判の言葉が流れた。  
各報道機関は「首相演説に関して評価する声」という記事とともに「一部(元従軍慰安婦とマイク・ホンダ議員)は批判」というような記事の見出し等で報じた。  
しかし、一部メディアや朝日新聞は「演説に賛否両論」「評価が二分した」と記事の見出しで内容を掲載、少数派の議員の意見を「大半」と印象操作を行い安部首相の演説を貶めようとする事となった。  
また、米議会ではアメリカと日本との歴史に関する言及に注目が集まりその点は硫黄島の内容等で大喝采をえたはずなのだが、朝日新聞らは「歴史認識が不十分」と掲載。日本と中韓の歴史認識をまるで「日本と各諸国の歴史認識」とミスリードを誘うような記事内容で掲載した。  
米国での演説で日米関係をよりよくするためのスピーチに関して中国韓国との歴史認識に関して言及する報道機関が多く疑問を感じる人が多数いるようだ。  
朝日新聞 / 「前向き」「失望した」 安倍首相演説、米で評価二分  
訪米中の安倍晋三首相は29日、米議会の上下両院合同会議で日本の首相として初めて演説した。米国では歴史に関する言及に注目が集まり、演説を評価する見方と不十分という声の両方が上がった。  
安倍首相は演説で、ワシントンの第2次世界大戦記念碑を訪れたことを紹介し、米軍の死者に対して「深い悔悟を胸に、黙?(もくとう)を捧げた」と述べた。演説を聞いた議員からは、「第2次世界大戦が引き起こした不幸を認識したもので、適切だった」(スティーブ・コーエン下院議員)などの声が上がった。ただ、元米兵捕虜の遺族団体「バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のジェン・トンプソン代表は、「旧日本軍による捕虜への虐待に言及しなかったことに失望した」と話した。  
産経新聞 / 安倍首相、米議会演説で「希望の同盟」を強調  
安倍晋三首相は29日午前(日本時間30日未明)、日本の首相として初めて米上下両院合同会議で演説した。題名は「希望の同盟へ」。戦後70年の節目に、敵対国から同盟関係となった日米の「心の紐帯(ちゅうたい)」を訴え、日米同盟の発展が世界の平和と安定に貢献するという「未来志向」の考えを前面に打ち出した。 
「拍手は免罪符にならず」=安倍首相演説を批判―韓国各紙 4/30  
安倍晋三首相の米議会演説について、30日付の韓国主要各紙は1面で「謝罪どころか自賛だけ 安倍の詭弁(きべん)」(東亜日報)などと批判的に報じた。同紙は社説で「米議会の拍手が(韓国などの被害への)免罪符にはならない」とくぎを刺した。  
中央日報は、演説で「侵略、植民地支配という言葉や慰安婦問題への言及がなかった」と指摘。一方で、戦時の米国への犠牲には「礼を尽くして哀悼の意を示した」と、対応の差に不快感をあらわにした。  
東亜日報の社説は「反人倫的な戦争犯罪をのらりくらりとごまかし、歴史的な舞台での率直な謝罪を望んだ国際社会の期待をまた裏切った」と失望感を示した。その上で「日本が植民地支配と侵略を十分に謝罪する前に、戦犯国家の汚名をそそぎ、世界平和への責任を負う役割を果たすことに賛成できない」と主張した。  
一方、朝鮮日報社説は、首相が演説で強調した日米同盟強化について「日本を通じて中国をけん制するという(米国の)戦略が込められており、米日と中国の覇権争いの構図が朝鮮半島周辺でつくられている」と懸念を表明。「韓国外交が無能と無気力から目を覚まし、国家生存戦略を打ち立て、行動する時だ」と訴えた。 
歴史的な機会を逃した安倍首相の米議会演説 4/30  
安倍晋三首相は歴史的な機会を逃した。アジア諸国との不幸な過去を整理し、未来に進むことができる絶好のチャンスを失った。安倍首相は昨日、歴代の日本首相で初めて米議会上下両院合同会議で演説し、スピーチのほとんどを米日関係に使った。日本の侵略と植民地支配でアジア諸国が受けた苦痛には一言述べる程度で終えた。終戦70年を迎えて周辺のアジア諸国と和解できる機会を自ら蹴った格好だ。  
安倍首相の昨日の演説はかなり以前からアジア各国国民の耳目を集めてきた。口からどんな言葉が出るのか誰もが注目した。米議会でする演説であるだけに両国関係に焦点を合わせるのが当然かもしれないが、それでも終戦70年に米上下院でする初めての演説であるだけに、より大きな意味を込めるものと期待した。戦争に対する反省を土台に世界の平和に寄与するという確約が真正性を帯びるには、日本のために苦痛を受けた隣国の人々に対する謝罪と反省の心が込められるべきだった。  
しかし安倍首相は「みずからの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた」とし「戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に歩みを刻んだ」と簡単に言及した。歴代首相が表明した立場を堅持すると述べたが、村山談話や河野談話の具体的な内容は一言も口にしなかった。侵略と植民地支配という表現もなく、お詫びという表現もなかった。慰安婦問題には全く触れなかった。日本との戦争で犠牲になった米国人に対しては最大限の礼を尽くして哀悼を表しながらも、日本のために犠牲になった隣国の人々に対する哀悼はなかった。  
安倍首相は米国のアジアリバランス(再均衡)政策を積極的に支持し、隙のない米日軍事協力を通じて積極的に平和主義を実践すると強調した。しかし過去の過ちに対する謝罪はなかった。過去のない未来はない。8月15日に発表される終戦70年談話までこのような状況が続けば、どうやって日本と共同の未来を図るのか。韓国の外交の大きな宿題だ。  
安倍首相は「謝罪拒絶」=米議会演説を批判−中国メディア 4/30  
中国国営新華社通信は30日、安倍晋三首相の米議会演説について「侵略の歴史と慰安婦問題への謝罪を拒絶し、一部米議員の強い批判を招いた」と報じた。その上で「歴史への直視を拒否したことは、アジア・太平洋の20万人の慰安婦への侮辱だ」とするマイク・ホンダ米下院議員のコメントを伝えた。  
新華社は、今年が日本の敗戦から70周年に当たると指摘した上で、「安倍首相は集団的自衛権の解禁を追求しながら、一方で歴史を直視したがらず、日本の侵略行為を粉飾し、国内外の憂慮と抗議を引き起こしている」と批判した。 
安倍首相演説「非常に遺憾」=「真の謝罪示されず」−韓国外務省 4/30  
韓国外務省報道官は30日、安倍晋三首相の米議会演説について、「正しい歴史認識を通じて周辺国との本当の和解と協力が行える転換点になり得たのに、そのような認識も真の謝罪も示されなかったことを非常に遺憾に考える」と批判する声明を発表した。 
安倍首相の米議会演説 韓国政府から声明「非常に遺憾」「逆に進む矛盾犯した」 4/30  
韓国政府は30日、安倍晋三首相の米議会上・下院合同演説の内容を問題にして遺憾を表明した。  
韓国政府は同日、外交部の魯光鎰(ノ・グァンイル)報道官名義の声明で「日本の安倍首相の米議会演説は正しい歴史認識を通じて周辺国との真の和解と協力を成し遂げられる転換点になりえたにもかかわらず、そういった認識も、真の謝罪もなかったことを非常に遺憾に思う」と明らかにした。  
続いて「日本が米議会演説で明らかにした通り、世界平和に寄与するには過去の歴史を率直に認めて反省することを通じて国際社会との信頼および和合の関係を成し遂げていくことが重要だが、行動はその逆を進むという矛盾を犯している」と指摘した。  
魯報道官は「日本は植民支配および侵略の歴史、旧日本軍の慰安婦被害者に対する残酷な人権蹂躪の事実を直視する中で、正しい歴史認識を持って周辺国との和解と協力の道を進まなければならない」と促した。 
安倍首相演説:米メディア、TPPや安保に焦点 4/30  
安倍晋三首相が29日に行った米議会演説に関する米主要メディアの報道は、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の売り込みや、日本が安全保障分野でより国際的、積極的役割を果たすとの説明に注目したものが目立った。一方で、歴史問題で明確な謝罪がなかったことに触れる記事もあった。  
ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は「安倍首相が議会演説で貿易協定を支持」との見出しで記事を掲載。米国で組合などを支持基盤に持つ与党民主党にTPPに対する強硬な反対論があることに触れ、「首相の売り込みに懐疑派説得の効果があったかは不明だ」とした。韓国系米国人団体から慰安婦問題での謝罪要求があることも紹介し、演説や訪米中の公式発言では「新たな謝罪はなかった」と報じた。  
ニューヨーク・タイムズ(電子版)もTPPに焦点をあて、日米間で難航している交渉に関し「具体的な妥協策を示さなかった」と指摘。慰安婦問題でも演説には具体的説明がなかったとの評価を示した。  
AP通信は安倍首相が第二次世界大戦での米兵死者に哀悼の意を表したが大戦中の旧日本軍の残虐行為には謝罪がなかったとの記事を配信。ワシントン・ポスト(電子版)は、日米同盟強化を安倍首相が演説で強調したと伝え、「(日本が)世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく」との発言を紹介した。 
安倍首相演説:元従軍慰安婦の支援団体が批判「責任回避」「謝罪を」 4/30  
安倍晋三首相は29日の演説で、第二次世界大戦に対する「痛切な反省」を表明しアジア諸国に「苦しみ」を与えたなどと述べたが、直接的なおわびの言葉はなく、旧日本軍の元従軍慰安婦を支援する米国の韓国系団体や一部議員、元米軍人団体からは「責任回避だ」「謝罪すべきだ」との批判も聞かれた。  
安倍首相は歴史問題で歴代内閣の立場を引き継ぐと表明したが、会場の米連邦議事堂付近で抗議活動をしていた「ワシントン慰安婦連合」の徐玉子(ソオクチャ)顧問は「首相が代われば立場が変わるかもしれない」と指摘、国会決議などによる確認を求めた。  
元慰安婦の李容洙(イヨンス)さん(86)を傍聴に招いたマイク・ホンダ下院議員(民主党)は、慰安婦問題で謝罪がなかったと指摘した上で「安倍首相が日本政府の(戦争)責任から逃れ続けていることに衝撃を受けた」と反発。安倍首相が女性の人権擁護の必要性に言及したことに触れ、「(まずは)過去の罪を認めなければ歴史は繰り返す」などと批判した。
韓国の国益 安倍首相を抑え込むには 4/30  
米国訪問中の日本の安倍晋三首相のスケジュールの中で目につくのは、29日の笹川財団基調講演だ。韓国と日本ではこれを「米国内の代表的な日本の広報機関」と報道した。だが笹川の正体を知ると、あきれ返って鳥肌が立つ。歴史歪曲に組織的に関与してきたという疑惑がある右翼の大物、笹川良一(1899〜1995)氏の名前をとった団体だからだ。  
笹川氏は自他共に認めるファシストだ。太平洋戦争前イタリアのファシストであるベニート・ムッソリーニの熱烈な崇拝者だった。1931年日本版ファッショ政党である国粋大衆党を立ち上げて総裁をつとめた。39年にはイタリアに飛んでムッソリーニと会見して有名になった。飛行機と飛行場を軍に献納して愛国運動を主導し、42年衆議院議員に当選した。「1人の命を1機の飛行機に乗せて敵の軍艦1隻と変える」という概念を主張して神風自爆攻撃の理論的背景を提供したという。終戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯の容疑者に指定されたが3年間収監された後、不起訴処分を受けた。  
釈放された笹川氏は競艇事業で富豪になり、これを基に62年日本財団(The Nippon Foundation)の前身である日本船舶振興会をつくった。日本財団は約2660億円の資産から発生する年間220億円程度の収益を予算に使う日本最大の財団だ。笹川氏は74年、米国の時事週刊誌タイムとのインタビューで「私は世界で最もお金持ちのファシストだ」と遠慮なく話したほどだ。  
日本財団は船舶調査・民間交流・日本広報・貧民支援などを手がけるが実状は各国の知識人・学者・政治家に食い込んで笹川氏の戦犯行跡と日本の戦争犯罪を歪曲することを主としてきたという評価だ。代表的なものがこの財団が出資した東京財団が南京大虐殺を虚構だと歪曲するパンフレットを世界中にばら撒いたことだ。安倍首相がこうした団体で演説した理由は「支持基盤の手なずけ」とみるほかはない。日本が民間団体を前面に出して民間交流という名分でどれほど長く体系的に、しつこく歴史歪曲活動を繰り広げてきたのか垣間見える部分だ。安倍首相が今回、米国を訪問して見せてくれる歴史蹂躪的な行動がすでにかなり前から徹底して準備されてきたという話だ。  
日本政府も米国の広報・ロビー企業を雇用して水面下で米国の政策立案者に緻密に事前の整地作業を行っていたことが明らかになっている。日本政府は米国の大手広報企業「ダシュル・グループ」やロビー専門ローファームの「エイキン・ガンプ」「ホーガン・ロヴェルス」「ポデスタ・グループ」などと契約したという報道がこれを後押ししている。米主流社会とつながっている広報・ロビー企業を雇用して米国の政策立案者・意志決定権者・水面下の実力者・シンクタンク・メディアなどを相手に日本に肯定的なイメージを与えることのできるノウハウやアイデア、人脈を提供してもらったと考えられる。韓国も接触する国務省や国防省ではなくて、最高位層を動かせる非公式のインナーサークルに直接食い込んだ可能性が大きい。  
要するに日本政府は広報・ロビー企業を雇用して積極的に米国の首脳部に接近し、ファシストを公言する極右者が生前に作った民間団体は歪曲された歴史認識を米国にまき散らすために波状攻勢をかけたという話だ。これに対抗して韓国政府と民間は声明発表・公務員接触・デモ・抗議書簡・新聞広告などで大衆を相手に日本の歴史歪曲の行為を必死に告発した。だが、このように米国の心臓部にひそかに食い込んだ日本を相手にしては力不足だったのかもしれない。  
今こそ国益を守るために対米アプローチのパラダイムを根本的に切り替えなければならない時だ。費用がかかっても米国を動かす人に公式・非公式的に接近して心を動かせる手堅い広報とロビー戦略が必要だ。そんな人物を探して外交の全面に配置する案もある。果敢に外国広報・ロビー・戦略・マーケティング企業を雇用する案も積極的に考慮しなければならない。韓国の外交官たちがいかに有能で忠誠心にあふれていても、彼らだけでは日本に敵対し韓国の国益を守ることが容易ではないということを、安倍首相の訪米成果が見せているのではないだろうか。  
「安倍首相の演説に深く失望…謝罪の次の機会は終戦記念日」 5/1  
ロイス米下院外交委員長が先月29日(現地時間)、旧日本軍慰安婦被害者に対する謝罪をしなかった安倍晋三首相の米上下院合同演説を批判した。ロイス委員長はこの日、中央日報との電話インタビューで、「安倍首相が慰安婦被害者に対して謝罪する次の機会は米国と韓国、全世界が祝う8月の第2次世界大戦終戦70周年記念日」と強調した。ロイス委員長は「きょう安倍首相の演説内容を聞いて深く失望した」とし、このように明らかにした。共和党所属で代表的な知韓派のロイス委員長はこの日、「安倍首相が東アジアの外交関係を悪化させる過去の問題を適切に扱う機会を活用できず、非常に残念だ」とし「安倍首相は域内の協力に寄与する治癒と和解のメッセージを送る機会を逃さないよう希望する」という声明も発表した。以下は一問一答。  
−−安倍首相の演説をどうみるか。  
「安倍首相は慰安婦問題を取り上げて、この人たちに謝罪するべきだった。マイク・ホンダ議員と私を含む多くの議員が安倍首相側に接触し、歴史問題、特に慰安婦問題を正直に明らかにするよう要請しただけに、安倍首相の演説には失望した。(慰安婦になった)少女は捕まり、性的奴隷生活を経験した。今回の演説は、メルケル独首相の言葉のように安倍首相が正面から歴史を直視する機会だった。しかし安倍首相はそのようにせず、本当に失望した」  
−−外交委員会レベルで慰安婦問題を扱う計画はあるのか。  
「委員会ではしたし、最近では地域で扱っている。私が暮らすカリフォルニア州フラートンでは昨年、元慰安婦女性を招待し、市民が彼女たちの話を聞いた。カリフォルニア州グレンデールの慰安婦碑には私も行った。最近ここで記念式が開かれた。また慰安婦問題を知らせるために、カリフォルニア州で教科書に関して我々がするべきこと(慰安婦関連記述)が重要だ。次世代を教育するためだ。同じ教育が日本でも許され、生徒に戦争に関する真実を知らせなければいけない。日本の生徒は全体の歴史を学ばなければいけない。戦争の歴史全体、戦争に対する客観的な歴史だ。しかし(慰安婦募集の強制性を否認した)大阪市長のように一部の政治家の話を聞くと、日本には歴史を否定しようとする一部の努力があることが分かる」  
−−一部では、安倍首相の訪米と議会演説で米日がさらに近づき、韓国が疎外されるという心配がある。  
「米国と韓国は韓国戦争(朝鮮戦争)当時から特別な関係だ。両国は非常に親密だ。多くの米国人が、その父親が、韓国で服務した。それで個人的に韓国に対して親近感と共感がある。私が共同発議して通過させた韓米自由貿易協定(FTA)もあり、8年前には下院がすべての議員の支持の中、全会一致で日本軍慰安婦決議案を通過させた。米国は日本とも同盟だ。しかし我々には安倍首相に対し、歴史を否定する日本国内の政治家に対抗して慰安婦に加えられた不当な行為について謝罪するべきだと話してきた」  
−−安倍首相が米国には深い反省を表明した半面、韓国にはそうしなかったという批判がある。  
「我々が話すイシューがまさにそのイシューだ。第2次大戦中に被害にあって苦痛を受けた幼い少女に関するイシューだ。彼女たちの苦痛は謝罪を受けるべきものだ。議会は8年前、マイク・ホンダ議員が発議し、私が共同発議した(日本軍慰安婦)決議案を通過させたほど、これをはっきりと感じている」  
−−日本政府に助言することがあれば。  
「8月の第2次世界大戦終戦70周年記念日には、全世界が各国首脳の話に注目する。(この日は)欧州と全世界の人々が全体主義とファシスト政府から解放された日だ。日本政府が慰安婦問題を明らかにする機会だ。日本政府が慰安婦生存者に彼らがしたことを謝罪すれば、国際的に治癒に大きく役立つだろう」  
この日、民主党のエリオット・エンゲル(下院外交委幹事)、マイク・ホンダ、ジュディ・チュー、チャールズ・レングル下院議員らも声明とインタビューで、旧日本軍慰安婦に対する謝罪が抜けた安倍首相の演説を一斉に批判した。ニューヨークタイムズはこの日、「安倍首相に対し、戦争中の日本軍の残虐行為を認めるべきだという要求が驚くほど強かったが、安倍首相は具体的に述べなかった」と報じた。英ガーディアンも「第2次世界大戦中に犠牲になった米国人には謝罪したが、慰安婦問題には言及しなかった」と指摘した。 
独断で謝罪を拒んだ安倍首相、再び世界の信用を失う羽目に―中国メディア 5/1  
2015年4月30日、新華社は安倍晋三首相が29日に米国議会で行った演説が世界を再び失望させたと批判した。以下はその概要。  
安倍首相は29日午前(日本時間30日未明)、米議会上下両院合同会議で演説したが、「侵略」や「侵略戦争」「アジアの人びとに多大の損害と苦痛を与えた」といった言葉はなかった。安倍首相は侵略の歴史や慰安婦問題に対する謝罪を拒否している。米国議会議事堂前には善良な人びとが安倍首相に対する抗議活動を行った。中国政府は日本政府に対し、これまでに何度も歴史を直視し、慰安婦問題を含めた歴史問題に関して責任ある態度で善処するよう求めてきた。  
反ファシスト戦争勝利70周年の今年は、日本にとって戦後70周年の年でもある。この大切な時期に安倍首相とその政府が歴史を反省し、心からの謝罪を行えば、日本とアジア諸国との関係は大いに改善されることだろう。しかし、安倍首相はこうした人びとの期待や希望を裏切り、自らの言動で国際社会を失望させた。安倍首相のこうした姿勢は驚くべきものではない。母方の祖父はA級戦犯(訳者注:正確にはA級戦犯被疑者。不起訴で釈放)だ。  
米国は自らが主張する「アジア太平洋リバランス」に日本の協力が必要なため、安倍首相の発言を黙認するどころか、支持する姿勢を示している。時代の流れに逆らった安倍首相の発言は将来の日本に深刻な影響を及ぼすだろう。米国は日本の真珠湾奇襲攻撃を忘れずにこれを教訓としなければ、いつか日本に足元をすくわれるだろう。 
謝罪しない安倍首相…試される韓国外交 5/1  
安倍晋三首相の米議会演説をきっかけに、韓国の対日外交戦略に批判が出ている。日本は過去の問題を巧妙に避けながら米国と急速に親密になったが、韓国はこれに対応できていないという指摘だ。  
海外メディアは30日、安倍首相が米議会演説で直接的な謝罪をしなかったとして批判した。フィナンシャルタイムズは「日本の行動を謝罪する意向がないという一貫した立場を見せた」とし「8月の安倍談話でも植民地支配と侵略に対する歴代内閣の謝罪を薄めるおそれがある」と評価した。しかし韓国政府は直接的な批判を自制しながら「遺憾」という立場を明らかにした。魯光鎰(ノ・グァンイル)外交部報道官は30日に発表した声明で、「日本は植民地支配および侵略の歴史、日本軍慰安婦被害者に対する残酷な人権じゅうりん事実を直視する中、正しい歴史認識を持ち、周辺国との和解と協力の道に進むべきだ」と述べた。  
一部の人は、米国に頼る韓国の消極的、受動的な外交戦略に問題を提起している。米国と日本、中国は国益により敏捷に離合集散するが、韓国は消極的な態度で一貫しているということだ。ワシントン内の韓国外交官は、ホワイトハウスと米議会を相手に安倍首相が直接謝罪を表明するようロビー活動をしたことが分かった。しかしこの戦略が失敗し、結果的に日本を変えられなかったという指摘が出ている。外交専門家は日米新同盟時代を迎えて韓米日関係を再設定し、対日、対米戦略を新たに組む必要があるという意見を出している。  
朴母、(パク・チョルヒ)ソウル大教授は「韓日関係は過去の解決策が通用しない新しい段階に入った」とし「以前とは違う日本に我々が期待できることが変わったという点を認識し、お互いテストする段階を経て、新しい均衡点を見いださなければいけない」と述べた。  
政府・与党は1日、外交安保対策会議を開き、対策を調整する予定だ。朱鉄基(チュ・チョルギ)青瓦台(チョンワデ、大統領府)外交安保首席秘書官は「(日本と)今年中に過去の問題を解決しようと努力中で、過去の歴史と安保問題を区別して扱いながら韓日関係を必ず解決する」と述べた。  
安倍首相の謝罪は東アジアの問題を解決しうるか? 5/3  
東アジア諸国の政治家の多くは、日本の安倍首相がアメリカ議会の演説で、近隣諸国における第2次世界大戦中の旧日本軍の行動について謝罪することに期待を寄せていました。  
この謝罪は、これらの政治家の見解では、地域的な対立を解決するための重要な歩みと見なされていましたが、安倍首相はこうした期待には注目しませんでした。  
国際的な慣例では、国際的な問題の解決のための「謝罪の文化」が受け入れられていることに、全く疑いの余地はありませんが、第2次世界大戦をめぐる日本と近隣諸国の因縁の対立が、謝罪によって解決されるだろうというこの期待は、東アジア地域に対する面識のなさを物語っているように思われます。  
安倍首相は先月26日、アメリカ訪問を開始しました。彼は、29日にはアメリカ議会で演説し、第2次世界大戦中に日本が否定的な役割を果たしたことには軽く触れ、遺憾の意を表しています。  
アメリカ議会での安倍首相の演説は、一部の近隣諸国の反発に直面しました。韓国外務省は声明において、「アメリカ議会での安倍首相の演説で、歴史に対する正しい認識に基づいた誠実な謝罪が全く見られないことは、甚だ遺憾」と表明しました。この声明ではさらに、「安倍首相の演説は、歴史の正しい認識に基づき、近隣諸国と日本が和解、協力するための転換点となりえるものだったが、安倍首相はこの機会を活用しなかった」とされています。  
韓国は、第2次世界大戦中の旧日本軍による従軍慰安婦問題を理由に、また中国は当時の日本による侵略行為を理由に、常に日本に対し謝罪を要求していました。中国と韓国の一部のメディアも、今回の安倍首相のアメリカ訪問について、「アメリカは、安倍首相に対し、議会で謝罪するよう求めるべきだ」と報じています。  
アメリカは、第2次世界大戦で人類史上初の原子爆弾を使用した唯一の国です。この歴史的な経験の犠牲となった国の国民は、まさに日本人でした。もっとも、アメリカは決して、広島と長崎への原爆投下を理由とした謝罪を行っていませんが、日米関係は常に戦略的なものとなっています。  
さらに、謝罪だけですべての問題が解決できたなら、これまでに東アジア地域内の対立は解消されていたはずです。日本の岸信介元総理は、1957年に第2次世界大戦中の日本の行動を理由に、当時はビルマと呼ばれていた現在のミャンマー国民に対し、謝罪しました。これまでに、日本の政府関係者は演説の中で、少なくとも51回にわたり近隣諸国に謝罪しており、それらの多くは中国と韓国に対するものでした。  
1998年11月26日には、小渕首相がこの両国の政府関係者との会談について声明を発表し、「日本は、過去に中国国民に苦痛と損害を与えたことによる責任を感じており、このために中国側に対し、深い反省を示した。中国側は、日本が歴史から教訓を得て発展の為の道を歩むよう希望している。これに基づき、両国は友好関係の発展に向けて努力していく」とされています。  
2010年12月7日、菅首相は、日本による韓国併合100周年に際し、「日本の帝国主義は朝鮮半島の人々の意思に反して、朝鮮半島を植民地化した」と強調しました。また、「遺憾の意を表明し、日本の植民地主義体制のために生じた苦痛や被害についてお詫びする」としています。  
日本の政府関係者は、この数十年間に何度も全てのアジア諸国、さらにはオーストラリアにも謝罪しました。しかも、欧米諸国はこうした慣例的な謝罪を歓迎しており、その理由はこのようなプロパガンダにより、アメリカによる日本への原爆投下を、日本の悪行を停止させるためのものとして正当化できるからです。  
もっとも、謝罪は主な対立が解決した後の、1つの象徴的な行動であり、いずれの対立も謝罪によって解決されていません。東アジアの現実もこれと同様です。日本と韓国が、竹島の領有権を巡る日本の主張を検討するときには、確実に両国の対立はおのずと解決されると思われます。  
さらに、日本と中国が尖閣諸島の領有権に関する主張を検討すれば、日本と中国の問題も解決されるでしょう。  
さらに北方領土問題も存在します。この地域は、第2次世界大戦末期に旧ソ連軍に占領され、(ソ連崩壊後は)依然としてロシアに占領されています。これらの島々の領有権を巡る主張は非常に真剣であり、日本とロシアは第2次世界大戦の終戦以来、これまで平和条約を締結していません。ロシア政府が、旧ソ連軍の行動に関して何度も謝罪したとしても、北方領土問題が決着しないうちは、この謝罪は受け入れられないと思われます。  
逆もまたしかりです。つまり、日本はロシアの石油と天然ガスを必要としているために、またロシアは日本の投資と技術を必要としていることから、これまでに何度も北方領土問題について協議し、これを解決する用意があると表明しています。この場合、この問題は解決されると思われます。 
朴大統領「日本、歴史直視できず過去の歴史に埋没」 5/4  
朴槿恵(パク・クネ)大統領が安倍晋三首相の米国上下院での演説に関して「日本が歴史を直視できず自ら過去の問題に埋没しつつある」と批判した。  
朴大統領は4日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)首席秘書官会議で「安倍政権が過去の問題について心からの謝罪で近隣諸国との信頼を強化できる機会を生かせないのは、米国でも多くの批判を受けている」と伝えた。  
朴大統領は「日本が過去の問題に埋没しつつあったとしても、これは私たちに解決できない問題」と強調した。それと共に「韓国の外交は過去の歴史に埋没せずに、過去の歴史は過去の歴史のとおり明確に指摘して行かなければならない」と話した。  
朴大統領はさらに「韓米同盟や韓日関係・韓中関係などの外交問題は、また別の次元の明確な目標と方向性を持って推進しなければならないだけに、各事案にともなう韓国外交の目標達成のために所信を持って積極的な努力を傾けてほしい」と関係部署に注文した。  
「6月の朴大統領訪米、外交的孤立を突破する機会に」 5/4  
日本の安倍晋三首相の米国訪問(4月26日〜5月2日)は「日米新蜜月時代」を開いたとの評価を受けている。バラク・オバマ大統領との首脳会談を通じ両国の同盟をさらに強化し、日本の首相としては初めて上下両院合同会議で演説をした。両国はまた、米軍と自衛隊の共同対応範囲を現在の「日本周辺」から「全世界」に拡大する内容の日米防衛協力指針(ガイドライン)改定にも合意した。1980年代初めのロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘首相の「ロン・ヤス蜜月」が再現されている状況だ。「バラク・晋三蜜月」という言葉まで出てきている。東アジアの外交舞台で韓国の立ち位置がますます狭まるような局面だ。日米の密着が東アジア情勢に及ぼす影響と韓国に必要な戦略を陳昌洙(チン・チャンス)世宗(セジョン)研究所日本研究センター長、キム・ジュンヒョン韓東(ハンドン)大学国際地域学科教授、ソ・ジョンゴン慶熙(キョンヒ)大学政治外交科教授に聞いた。  
――改定された日米防衛協力指針を評価するなら。  
▽陳昌洙=この指針は当初日本が軍事攻撃を受けた場合に日米が共同対応することから始まり、97年に韓半島有事の際に日本が後方支援をするという内容に改定された。今回の改定は日本の役割をさらに拡大したことが核心だ。大きく3つに要約できる。まず、米国が軍事攻撃を受けた場合に日本が対応できるという点だ。2番目に、日本の支援範囲が北東アジアではなく全世界に拡大したということ。3番目に尖閣諸島(中国名・釣魚島)のようなグレーゾーン(中間地帯)の防衛のために警察ではなく軍隊を動員できることになったということだ。これで世界の警察としての米国の役割に日本もともに参加できる道が開かれた。もちろん中国に対する対応もさらに積極的にできることになった。今回の改定で韓国には得失がある。肯定的な側面は韓半島有事の際に米軍のほかに自衛隊が介入できるようになり戦争抑止効果が大きくなったということだ。だが、同時に多者が介入することにより状況が韓国の望まない方向に流れかねないという懸念もある。このため韓半島が関連した事案では緊密な協力と透明性が要求されている。また他の否定的影響は日米と中国間の緊張が高まりかねないということだ。こうした場合、中国との関係を無視することができない韓国の立場では悩みがさらに深まることになる。  
▽キム・ジュンヒョン=日米防衛協力指針改定の方針はすでに2013年10月に発表されていた。韓国政府はこれまで自衛隊が韓半島有事に介入する場合「韓国の主権尊重」という表現を具体的に明示しなければならないと要求したが結局貫徹されなかった。韓国政府の外交力が残念だ。  
――安倍首相は米議会での演説で旧日本軍慰安婦問題などに言及しなかったが。  
▽陳昌洙=過去の問題には核心キーワードがある。植民地支配、侵略、反省、謝罪などがそれだ。安倍首相はこれまで植民地時代の侵略を認めずにいる。今回も「アジアに相当な苦痛を与えた」という言及だけした。事実この言葉も言いたくなかっただろう。だがそれなりに妥協したのだ。したがって安倍首相の過去史に対するマジノ線はこの水準だろう。8月の談話にも謝罪はないと予想される。彼は慰安婦問題に対しても「人身売買」という表現を使った。政府レベルではない民間業者による不道徳な行為という主張だ。このために今後も韓日関係は困難を経験するものとみられる。  
▽キム・ジュンヒョン=安倍首相の発言は徹底して計算されたものだ。彼の発言は韓国と中国には満足できないが米国の指導者らには受け入れられる水準であるためだ。ジョー・バイデン副大統領は「安倍首相は日本の責任を明確にした」と評価した。結局安倍首相が念頭に置いた点は被害を受けた周辺国ではなく米国だったということだ。韓国は米国が日本を圧迫し謝罪を受けられるとの希望を持ったが結局意味ある結果を得ることはできなかった。安倍首相の8月の談話でも大きな変化はないだろう。  
▽ソ・ジョンゴン=韓国の戦略をもう少し洗練させるようにするにはこれを他の側面から見つめる必要もある。米国議会に対する理解だ。安倍首相の過去史否定を批判したマイク・ホンダ議員、エド・ロイス議員らは全員下院所属だ。事実米国の外交を牛耳るのは上院だ。韓国の意見をもう少し強くアピールし貫徹させるためには上院を狙った積極的な外交が必要だ。  
――日米首脳会談が残したものは。  
▽陳昌洙=自衛隊の役割拡大に向けた集団自衛権の解釈変更とこれを通じて憲法を改正しようとする安倍首相をオバマ大統領が認めたものだ。その代価として米国は日本の役割拡大を通じて北東アジアの均衡を維持するのに必要な軍事費負担を減らせるはずだ。日本の外交が成功を収めているとみることもできるが、詳細に見れば第2次世界大戦以降の戦後体制への回帰ともみることができる。安倍首相の構想は米国に依存する日米同盟体制を通じ北東アジアと国際社会での影響力を拡大するというものだ。このため日本国内メディアでも偏向的な外交に対し懸念の声が出てきている。  
――習近平中国国家主席が先月22日にインドネシアで開かれたアジア・アフリカ首脳会議(バンドン会議)で安倍首相と首脳会談をしたが。  
▽陳昌洙=中国の戦略的利益追求の断面を見せる事例だ。韓中関係と日中関係をゼロサムゲーム式で見てはならない。片方の利益が必ずしも他方の損にはならない。現在では韓日関係が北東アジアで最も重要な変数のひとつだ。中国は韓国を日米密着に対するバッファーゾーン(緩衝地帯)として活用しようとする。今後韓日関係が改善されれば韓米日同盟はさらに強力になるだろう。こうした場合バッファーゾーンとしての韓国に対する期待も減るほかない。バンドン会議での習主席の態度はこれをあらかじめ考慮した戦略に従ったものだ。  
▽ソ・ジョンゴン=習主席の態度は国家指導者として首脳外交の重要性を見せている。彼のうっすらとした微笑が中国と日本の関係改善に対する期待を膨らませている。だが、徹底した計算に基づく行動なのでより綿密に中国の意図を把握することが必要だ。  
――国際外交舞台での立ち位置が狭くなる朴槿恵(パク・クネ)政権に注文したいことは。  
▽ソ・ジョンゴン=朴大統領は任期の半分を過ぎる時点を迎えている。政府が危機意識を痛感しなければならない。ともすると朴大統領は退任後に南北関係と韓日関係を断絶させた大統領と評価されるかもしれない。朴大統領は6月に米国を訪問する予定だ。訪米は韓国の大統領が国際政治で最もスポットを浴びられる舞台だ。これを効果的に活用できる戦略と大きなビジョンが必要だ。例えば「日本は過ちを犯したがこれ以上謝罪に執着しない」「北朝鮮に対しても北朝鮮制裁のための5・24措置に固執せず進んでいく」などの積極的な外交を展開しなければならない。より適切な表現とタイミングを研究し来月の訪米を良い機会に活用するよう望む。特に北朝鮮と関連しては72年のリチャード・ニクソン元米大統領の中国訪問が良い事例になるだろう。ニクソン大統領が徹底した反共主義者だったために逆説的に中国との関係改善が可能だったという評価がある。だれも彼の思想的指向を疑わないので積極的な外交を展開することができたということだ。朴大統領もこれと類似した外交を展開できるはずだ。  
▽キム・ジュンヒョン=朴槿恵政権の問題点のひとつは、韓国には「プランB」がないということだ。最善にならない場合には次善策が必要だが、こうした準備がしっかりとされていない。「真正性フレーム」にはまっているのも問題だ。「原理主義の罠」にはまって常に真正性だけ問い詰めているのだ。こうした場合、北朝鮮や日本と対話することはできない。これに対し米国に対しては過度に神話的・宗教的な観点を持っている。絶対に米国は裏切らないという信頼だ。こうした態度では実用的な利益を勝ち取りにくい。こうした脈絡から韓国の外交政策を厳しく評価するならば、国内用ポピュリズムのためのものとも言える。  
▽ソ・ジョンゴン=現在韓国は相手方の態度変化だけを強力に要求している。変化がない場合には何もできない状況に陥っているのだ。残念な状況だ。  
▽陳昌洙=批判に対しすべて同意はしないが一理ある。北朝鮮や日本に関連した現状を見ればもどかしい。原則を守ることも必要だ。だがもっと重要なのはその原則を具体化し成果を出さなければならないということだ。今年は朴槿恵政権に本当に重要な時点だ。  
――ロシアが最近中国・北朝鮮との関係を強化しているが。  
▽キム・ジュンヒョン=ロシアは欧州での孤立から抜け出すために北東アジアに関心を向けている。また、極東地域開発に対する関心も大きい。このためロシアは北東アジア諸国が手を差し出す場合には積極的に反応している。最近のロシアの動きもこれに伴うものだ。9日にはロシアで第2次世界大戦戦勝記念行事が行われる。朴大統領が直接参加できなくても他の高官を代わりに送る方法もあったはずだが残念だ。米国に対する影響力を拡大できる機会を逃したようだ。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記がロシア訪問を断念したのは破格の行動を見せても得るものがあまりないという判断からだ。中国訪問に先立ちロシアを訪れることも負担になっただろう。  
▽陳昌洙=ロシアとの協力強化を北朝鮮に対する圧迫用とだけ考えてはならない。米国との同盟強化とともに他の強大国との関係も増進させなければならない。自立的で独自の外交空間を確保しなければならない必要性があるためだ。大きな構図で国際関係を把握しなければならない。  
――日米首脳会談でオバマ大統領が日本の国連安保理常任理事国入りを支持したが。  
▽キム・ジュンヒョン=オバマ大統領は2010年11月に日本を訪問した時も支持の意向を明らかにした。今回も日本に対する配慮レベルの発言だけのこと。日本が常任理事国になる可能性はほとんどない。 
日本はなぜ謝罪しないのか 2015/5/6 中央日報  
日本はなぜ日帝の蛮行を率直に認めないのか。同じ戦犯国のドイツは熱く謝罪するのにだ。  
ドイツ人は良心的だが日本人は無作法だからか。中国・南京で30万人を殺戮した日本だ。だが、ドイツ民族の方が正しいというにはまったく苦しい。しらふで600万のユダヤ人を虐殺したのはだれなのか。  
敗戦後に日本の政治学会ではファシズム研究がブームとなった。日帝時代に軍部や官僚がなぜ無謀な戦争を行ったのかの診断があふれた。アジアの被害国に対する謝罪が不十分なことも研究対象に上がった。結論はこうだった。  
まずドイツは責任を転嫁する対象があった。ほかでもないナチスだ。ドイツ人の多くが狂気の集団ナチスのポピュリズムにだまされあらゆる悪行を犯したので許してほしいという論理が可能だった。実際にナチスの核心はみんな非正常な人だった。アドルフ・ヒトラーは誇大妄想症患者であり、ナチス突撃隊長のヘルマン・ゲーリングはモルヒネ中毒者、ゲシュタポ総帥のハインリッヒ・ヒムラーは男色狂だった。  
日本は違った。20世紀始めから社会の主流である官僚と軍部全体がファシストに変化する。東京大学、陸軍士官学校を出た完全な最高エリートたちだ。彼らが植民地侵略と戦争を主導したのでだれのせいにできるだろうか。  
自分の考えより多数派の意見に従う日本人の特性が別の背景に挙げられた。法廷に立った日本の戦犯は自身の決定が「当時の状況では仕方なかった」と主張した。そうするつもりはなかったが周辺の状況が、全体意見が圧迫してきて極端な選択をしたという弁明だった。ナチスの核心は無謀でも卑怯なことはなかった。法廷に立ったゲーリングは「オーストリア合併はヒトラーの反対まで押し切って100%私の責任で行われた」と堂々と述べる。  
日本軍部に蔓延した「皇道主義」も大きな原因と指摘された。これは天皇の力を天下に広めるのが正義だと考える盲信的思想だ。捕虜虐待で法廷に立った日本軍看守の弁明は同じだったという。全員「あれだけ捕虜によくしてやったのにこうするのか」と悔しがった。捕虜を軍靴で踏みにじったことは悔いなかった。ただ自身が収容所の施設改善にどれだけ努めたのか強弁した。捕虜虐待すら天皇の栄光をより高めるために当然な行為と信じたのだ。さらに南京虐殺の責任者だった上海駐屯軍司令官松井石根はこうした話までする。「アジアはひとつの家族で、中日戦争も兄が誤った弟を愛していて殴ったもの」と。罪のない30万人虐殺まで愛から出た行為という詭弁だった。  
こうしたゆがんだ認識が日本社会にとぐろを巻いている限り真心からの謝罪が出てくるわけがない。軍国主義復活を試みる安倍晋三首相が退いても大きく変わりはしないだろう。日本国内の良心派勢力さえ「だれが首相になっても慰安婦問題を政府レベルで公式に謝罪する確率は0%」と口をそろえる。  
独島(ドクト、日本名・竹島)問題もそうだ。香港の著名な歴史学者馮学栄は最近「中国の歴史と関連した笑い話」という文をインターネットに載せ話題を集めた。中国の歴史と関連し彼が皮肉った事案は5種類だった。  
まずモンゴルの地を強奪した中国が各国の独立を支持すると宣伝し、ベトナム戦争と韓国戦争の時にベトナムと韓半島で戦争を行っても外国を侵略したことがないと自慢するのは欺瞞だと書いた。台湾が古代から中国の領土だったと言い張ることや清国末期に朝鮮を飲み込もうとしたのに帝国主義政策を展開したことがないと主張することすべて失笑を買うと彼は指摘した。  
最後に尖閣諸島(中国名・釣魚島)を中国の領土だと無条件に強弁するのも笑わせることに挙げた。尖閣諸島がなぜ自分たちの領土なのか根拠も挙げられないのに中国人みんなが興奮するということだ。  
韓国や日本だと大きく異なろうか。独島領有権をめぐり相手方の論理に細かく反撃できる両国の国民が何人いるだろうか。ほとんどがやみくもにもともと自分たちの領土だと主張するのは明らかだ。こうしたとこに「過去史解決優先」に固執しても何を得られるだろうか。ある日本専門家は韓日間の慰安婦、独島紛争を高血圧や糖尿のような成人病に例える。常に治癒に努力しなければならないが完治も難しく、どうかすれば一生ともに生きなければならない事案ということだ。ゆえに慰安婦・独島問題解決が優先だと言い張り続けるのは日本と共存しないということと同じだ。  
安倍首相登場後に韓国内の対日感情は悪化した。中国はもっと深刻だ。今年初めの世論調査で韓国人の74%が「日本に好感が持てない」と答えた。これに対し昨年末「日本が嫌いだ」と答えた中国人は83%だった。そんな中国が先月日本との首脳会談を電撃断行して実利を狙い始めた。日本を無視するには経済的利害があまりに大きいためだ。  
韓国も同様だ。成人病のような過去の問題と政治・経済的協力を別に議論する「ツートラック」という話が出るのもそうしたことからだ。  
このままでは北東アジアで仲間はずれにされるという懸念があちこちから聞こえる。まだ活路はある。韓中日首脳会談を韓国主導で開催するのも方法だ。体面を傷付けることなく対日関係を改善する道を探さなければ韓国外交の将来はますます暗くなる。 
「中国の文化で重要なのは自己反省」最高指導部 安倍首相演説に不満表明 5/8  
中国共産党序列4位の兪正声・人民政治協商会議主席は8日、北京の人民大会堂で自民党の額賀福志郎元財務相らと会談し、安倍晋三首相の米議会やジャカルタでの演説について「中国人は侵略を受け、犠牲を与えた(日本は)教訓を酌むべきなのに、その部分が淡々としており不満だ」と述べた。  
「中国の文化で重要なのは自己反省だ。他国にこれほどの災難を与えたのに反省しないのであれば、日本が過ちを繰り返すのでは、と懸念せざるを得ない」とも指摘した。中国最高指導部メンバーが、米議会演説などへの態度を表明したのは初めて。  
首相は、米議会で先の大戦への「痛切な反省」を示したが、中国としては、「侵略」や「おわび」に触れなかった米議会演説をベースにした戦後70年の首相談話では受け入れがたいとの意思を示した形だ。 
大衆迎合政治に翻弄される韓国 5/8  
ナポレンオン3世がプロシアに大敗したように、国を亡ぼしてしまうのか・・・  
最近の韓国メディアは、今までの感情的・扇動的な反日一辺倒の論調を忘れてしまったかの様に、「日本との首脳会談を3年間も避けているうちに、中・日首脳会談が相次いで開かれてしまった。もう少し柔軟で現実的な打開策を考える必要があるのでは」と、手のひらを返したようなコメントをし始めました。韓国マスコミの変わり身の早さはいつもの驚かされますが、この様な扇動的なメディアや扇動的な世論に迎合してきたパク政権は、いよいよ苦しい立場に追い込まれそうですね・・・。  
韓国の反日は、メディアが先頭にたって誘導している感があります。パク大統領になって以降、特に感情的な反日記事が多い気がします。客観的な論調が少なく、「安倍が内外で四面楚歌に陥っている」と、期待を込めた偏向報道が当たり前の状況になっている様です。日本では週刊誌レベルの記事が、国を代表する新聞で報道される状況なんですよね。  
もう一つの問題点は、扇動メディア、感情的な世論に「迎合してしまう大統領」なんですよね。指導者が扇動的なメディアや世論に迎合する事が危険なことは、歴史が証明してくれています。普仏戦争を引き起こし、フランスをプロシアに大敗北させてしまったナポレオン3世。現実を冷静に考えず、感情的な国民に迎合して起こしてしまった戦争なんですよね。  
パク大統領の大衆扇動に流されやすい気質(韓国の指導者は、皆ですが・・・)で思い浮かぶのは、セウォル号に関連した海洋警察がスケープゴートとして解体されてしまったり(解体されたら、原因究明や再発防止もできません)、北朝鮮には条件なしで対話を提案する一方、友好国であるはずの日本には条件付きでしか対話を許さなかったり(国民の反日感情が国益よりも優先される国ですし)、・・・・。色々、思い当たることが多いですよね。韓国世論は、元々感情的になり易いのですが、法(法治)を無視してでも、情(人治)を大切にしないと成り立たない、前近代的な社会なのかもしれませんね。  
その結果、常識を超えて暴走する韓国に、日本はほとほと呆れており、アメリカもやっと気付きだしてくれたのかもしれません。今後も、「国全体が情緒に振り回される」という韓国の思考構造がある限り、傍からみると奇妙な外交・内政も、韓国にとっては当たり前であり続けるのでしょうか。例えそれが、韓国の国益に沿っていない行動だとしても・・・。  
以下の鈴置さん(日本経済新聞社編集委員)は、「今の韓国を人間に例えれば、信念がありそうで実は自信がなく、情緒が不安定な人と考えておくべきです。そういう人との付き合いは、適度の間合いを置くのが常道です。」と、コメントされています。・・・その通りですよね。  
ナポレオン3世に擬された朴槿恵  
「扇動メディアが国を亡ぼす」と悲鳴を上げる大物記者たち  
朝鮮日報は扇動メディアだ  
――前回は、韓国で朴槿恵政権の外交が「無能」と批判されている、という話でした。  
鈴置 / 保守派指導者の1人、趙甲済(チョ・カプチェ)氏は朴槿恵政権がスタートした2013年から「米中等距離」や「親中反日」外交は反米につながる危険なものだ、と繰り返し主張してきました。その意見が韓国でようやく理解され始めた時、趙甲済氏は「国内外で見捨てられる朴槿恵の親中反日路線」(4月23日、韓国語)を自身のネットメディアに載せました。この記事が興味深いのは朴槿恵政権だけではなく、「反日」を扇動した主犯として、最大手紙の朝鮮日報を厳しく批判したことです。  
趙甲済氏はまず、朝鮮日報の社説「5カ月ぶりにまた開いた中・日首脳会談、孤立避ける戦略はあるのか」(4月23日、韓国語版)を引用します。この社説も朴槿恵外交への批判が目的でした。趙甲済氏が引用したのは以下の部分です。  
・「米中双方からのラブコール」などと外交当局のトップが言い、日本との首脳会談を3年間も避けているうちに、中・日首脳会談が相次いで開かれた。  
・政府は日本の歴史に関する退行的な言動に対しては原則を持って対応しつつも、安保や経済問題についてはもう少し柔軟性のある現実的な打開策を考える必要がある。  
手のひら返しで「反日の失敗」と批判  
この社説を引用した後、趙甲済氏は返す刀で次のように朝鮮日報に筆誅を加えます。  
・朝鮮日報をはじめとする韓国メディアの一方的、感情的、非戦略的な反日報道に迎合し、親中反日の外交路線を堅持してきた朴槿恵大統領が、この社説を読んだらさぞ複雑な思いにとらわれたであろう。  
・もし、朴大統領が条件なしで安倍首相と会談しようとしたら、歴史戦争をそそのかしてきた朝鮮日報などのメディアは「自尊心のない外交」と猛烈に非難したことだろう。  
・(朴大統領の反日外交は)中国のラブコールと韓国メディアの反日報道に忠実に従ったものだ。しかし、日中和解ムードと米日の蜜月関係の進展によって韓国が孤立した姿を見せるや否や、その事態の展開に責任のあるメディアが朴大統領の反日外交に背を向け始めた。  
確かに朝鮮日報は、先頭に立って韓国を「反日」に誘導してきました。それなのに反日路線が破綻すると、突然に手のひらを返し「反日政権」を批判したのです。「いくら何でもご都合主義ではないか」と趙甲済氏は問い質したのです。  
世界を知らない韓国人  
――朝鮮日報にことさらに厳しい感じですね。  
鈴置 / 「反日」に限らず内政に関しても、朝鮮日報の扇動的な報道がひどくなる一方だ――と、保守層の一部は問題視していました。趙甲済ドットコムでも、しばしば話題になります。趙甲済氏はこれまでも、韓国メディアの無責任さを厳しく追及してきました。例えば「安倍が勝ち、韓国言論人が負ける日!」(2014年12月13日、韓国語)です。日本の総選挙での自民党大勝に韓国人は驚く。韓国紙が「安倍は内外で四面楚歌に陥っている」と偏向報道してきたからだ。韓国メディアの感情的で偏った反日報道により、韓国人は世界がどう動いているか知らないのだ――との内容でした。この記事に関しては「『慰安婦』を無視されたら打つ手がない」で引用、解説してあります。  
実利より人気、事実より扇動  
趙甲済氏の「国内外で見捨てられる朴槿恵の親中反日路線」の批判は「扇動メディア」だけではなく「それに迎合する大統領」に及びます。以下です。  
・指導者が扇動的メディアや扇動的な世論に従うことほど危険なことはない(ナポレオン3世はそうして普仏戦争を起こし、プロシアに大敗北したのだ)。  
・朴大統領は実利よりも人気、事実よりも扇動に弱い体質を見せてきた。セウォル号に関連した海洋警察の解体、いったんは首相に内定した文昌克(ムン・チャングク)氏の処遇。いずれもメディアの(事実と異なる)攻撃を基にした判断だ。  
・朴大統領は核武装した北朝鮮の政権に対しては条件なしでの対話を提案する一方、友好国の日本には条件付きの対話を提議した。誰が見ても従軍慰安婦問題は、韓国人の生存自体を脅かす北の核問題よりも優先順位が低いはずなのだが。  
朴槿恵大統領を、おじの七光りで権力を握り大衆迎合で国を治めようとして失敗したナポレオン3世になぞらえる韓国人に会ったことがあります。でも、それは私的な席での発言でした。しかし今や、読者の少ないネットメディアとはいえ、公開の場で語られるようになったのです。  
強面だから信念がある?  
なお、保守系大手紙は政権を「無能外交」と批判しても、さすがに大統領本人を追い詰めるような攻撃はしません。「大統領は外交に明るくない。そこで周辺の人々が外交をやっているのだろうが、この人たちが間違っている」的な書き方が多いのです。  
――大統領の意向を忖度して新聞が「反日」記事を書くのではなく、新聞が「反日」だから大統領がそれに引っ張られる、という趙甲済氏の分析は興味深いですね。  
鈴置 / そこです、この記事の面白い点は。いつも強面で他人を非難する朴槿恵大統領は、何やら確固たる信念があるように見えます。韓国の指導層も外国人にそう説明しますし、米国や日本のアジアハンズにもそう見る人が多い。でも実は「反日」を含め、この大統領の激しい言動はメディアや中国に煽られているに過ぎないのだ――と趙甲済氏は断じたわけです。そして大統領を煽る韓国メディアも、ご都合主義的にくるくると主張を変える、と批判しているのです。  
「信じたいこと」を書く新聞  
趙甲済氏のメディア批判に応えたかのように、朝鮮日報の金大中(キム・デジュン)顧問が2月17日「李首相承認の敗者はメディアだ」(韓国語版)を書きました。金大中顧問はもちろん同名の元大統領とは別人で、韓国保守言論の大御所的存在です。  
李完九(イ・ワング)前首相の就任を巡る騒動から書き起こしていますが、本質はメディア批判――自己批判です。ハイライトは以下です。  
・メディアの最も危険な要素は「虚偽報道」である。自分の信じたいこと、したいことだけに執着し、事実から目を背け、国民を誤った道に導く「虚偽メディア」は「権力に迎合して書けないメディア」よりも害が大きい。  
金大中顧問は「虚偽メディア」の具体例として「安倍首相の歴史認識に同調する日本の右翼メディア」と、虚報を繰り返した米NBCのアンカーを挙げています。  
ネットと過激さ競う韓国紙  
――日本のネットも、既存メディアと比べ過激で感情的です。でも、既存メディアの主張がネットに引っ張られているという話は聞いたことがありません。  
鈴置 / 韓国ではものごとが理屈よりも感情で決まりがちです。既存メディアが“ネット世論”以上の社会的影響力を保とうとすると、それに負けない激しい感情論を展開せざるを得ないのです。もともと韓国の新聞やテレビは日本や西欧と比べ、論理よりも感情を基に主張します。それがインターネットとの競争で、ますます感情的、情緒的になったのです。趙甲済氏と金大中顧問という、韓国の2人の超大物記者は立場は異なります。が、情緒的になる一方のメディアが国を誤らせる、との危機感では期せずして一致したのです。2人の記事を補助線に、韓国という国の「今」を描くと以下の図式が浮かびます。大衆迎合的な指導者が登場した。この指導者は民意に極めて敏感で、過激な“ネット世論”と、それに引きずられる既存メディアに動かされている。その結果、韓国は時に常識を超えて暴走する――。  
日本の産業遺産登録も阻止  
――確かに「反日」を見ても、最近の韓国の行動はこれまでの「争い方の常識」をはるかに超えています。  
鈴置 / 産経新聞の前支局長を在宅起訴して8カ月も出国禁止にする。盗んだ仏像を日本に返さない。戦時徴用者への補償など、国交正常化時に完全に解決した問題を再び蒸し返す。安倍晋三首相の米議会演説は国を挙げて邪魔する。明治日本の産業遺産が世界遺産に登録されそうになると、外交部が「全力で阻止」と宣言――。こうした常軌を逸した行いの数々には首をひねらざるを得ません。韓国人の気分は一時的に満足させるでしょうが、長期的には韓国の国益に大いに反するからです。ただ「日本をやっつけろ」という激しい“ネット世論”と、それに影響された既存メディアが、大衆迎合的な指導者の背中を押していると考えると、納得がいきます。少なくとも「朴槿恵大統領は頑固だから」といった単純な説明よりは説得力があるのです。  
強硬路線を変える素振り  
――その韓国が日本との関係改善に動く、との報道があります。  
鈴置 / 「2トラック戦略」などと称し、韓国は日本に対し「歴史問題では対日要求を降ろさないが、安保や経済では協力しよう」と言い出しています。「外交的孤立から脱せよ」との“世論”が韓国に充満したからです。“世論”に敏感なこの政権は、少なくとも路線を変える素振りは必要と判断したのでしょう。日本に対しては、慰安婦での強硬姿勢は変えないが、通貨スワップは結んでほしいし、北朝鮮の軍事情報は持ってこい――と言ってくるのではないかと思われます。  
情緒不安定な人との間合い  
――日本はどう対応すればいいのですか?  
鈴置 / 日本の悪口を世界で言いつつ「仲良くしようぜ」と言い出す韓国の虫のよさは、とりあえず横に置きます。先ほどからくどいほど述べたように、韓国という国はますます感情や情緒で動く国になりました。今現在は「外交的孤立を恐れる」情緒で動いています。しかし、中国から少し優しくされたら「やはり中国は我が国の味方だ」とそっくり返って、対日協調路線などはすっ飛ぶ可能性があります。反対に、中国から「日本などと仲良くするな」と脅されても、韓国の世論は縮み上がり、再び日本叩きに乗り出すかもしれません。今の韓国を人間に例えれば、信念がありそうで実は自信がなく、情緒が不安定な人と考えておくべきです。そういう人との付き合いは、適度の間合いを置くのが常道です。米国も韓国の、特にこの政権の性格を見切ったのでしょう、非常に慎重に――距離感を持って、韓国を取り扱うようになっています。ことに米大使襲撃事件以降は。 
“日本憎し”報道の果てに反省… 気の毒な韓国国民 5/11  
先の安倍晋三首相訪米に際し「アベが歴史で謝罪しない!」といって連日、非難報道を繰り返していた韓国マスコミがこのところ多少、正気を取り戻しつつある。興奮の後に反省といういつもの反日報道のパターンではあるが。  
反省点の一つとして出ているのが、日米同盟強化の中で「韓国外交は孤立しているのでは」という不安だ。政府の外交姿勢が過去に執着し過ぎた結果だと批判しているが、慰安婦問題を押し立て日本批判をあおってきたのは韓国マスコミだから、政府批判の前にまず自己批判すべきだろう。  
その意味で4日付の東亜日報の「米国が見る韓国と日本」という1ページ特集は自己批判かもしれない。米国の世論調査を引用し「“日本を信頼”が68%で“韓国を信頼”は49%…米国民は当然視」と伝え、さらにアジアで日本を好感していない国は韓国と中国だけで、東南アジアなど他の国々は軒並み80%前後が日本に好感と紹介している。  
つまり韓国マスコミは安倍氏の訪米で米国の日本批判の話ばかりを伝え、“日本憎し”の報道をしたが「実は実際の米国民は韓国より日本の方を信じている」と軌道修正しているのだ。日本との過去の問題に目をくらまされ、世界や国際情勢がちゃんと見えなくなっている韓国国民は気の毒である。 
韓国国会「反省のない安倍糾弾決議案」全会一致で可決 5/13  
12日付け韓国は中央日報の記事から。  
韓国国会、安倍首相米演説糾弾決議案を採択 5/12  
韓国国会は12日に開催した本会議で「反省のない安倍糾弾決議案」を採択した。韓国国会は同日午後に本会議を開き、侵略の歴史および慰安婦に対して反省のない安倍首相糾弾決議案が在籍議員238人の全員一致で可決された。この決議案は、日本の安倍首相が米国上・下院合同演説をはじめ、あらゆる場で侵略と植民支配、旧日本軍慰安婦問題に言及せず、「人身売買」などの巧妙な表現でこの問題の本質を曇らせようとする反人権的形態を示していると強く糾弾している。また、靖国神社への参拝、集団的自衛権の行使、独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の侵害など、一連の非常識行動が韓日関係に否定的な影響を及ぼすおそれがあることを厳重警告した。  
 
「侵略の歴史および慰安婦に対して反省のない安倍首相糾弾決議案」が、「在籍議員238人の全員一致で可決」であります。全会一致とはお見事です。  
もちろん「親日」のレッテル貼られたら韓国社会では生きていけません、ですから一人でも反対したら国会議員でいられなくなることでしょう、その意味では全会一致は当然のことなのであります、しかしなあ、これで民主主義国家なのでしょうか、全体主義的で少し怖い感じ(苦笑)でございます。  
気になるのが糾弾理由。日本の安倍首相が米国上・下院合同演説をはじめ、あらゆる場で侵略と植民支配、旧日本軍慰安婦問題に言及せず、「人身売買」などの巧妙な表現でこの問題の本質を曇らせようとする反人権的形態を示している。  
なんで日本の総理大臣が「あらゆる場で侵略と植民支配、旧日本軍慰安婦問題に言及」しないといけないのでしょうか。だいたいよその国の首相がさらによその国の議会でその当事国用の演説をするのに、なんでその演説の中で韓国に謝らなければいけないのでしょうか? 韓国的にはいけないんでしょうねえ。これが韓国の民意ということでしょうか。・・・ 
「外国」の議会で演説する内容を批判する韓国という国家の「外交的非常識」  
韓国は、自分たちの国家のアイデンティティとして「日本に対抗する」ということを行ってきた。実際に、「敗戦国」である「日本」が「韓国そのものよりも上にいる」という感覚が許せず、それらの諸悪の根源をすべて日本に持って行くというようなアイデンティティで動かしてきた。  
しかし、元来責任感のあまりない韓国人の動きは、そのまま「韓国」として「エゴイズム」をそのまま表に出してしまったような感じになってしまう。  
まさに「差別の構造」がここにある。差別の構造とは、ある意味で「差別」する側の絶対的な悪を訴えているように見える。しかし、同時に「差別される側の差別されていることの特権」を優遇するというような状況に繋がる。韓国は「一人前の国家」を主張しながら「差別されている国の特権」をそのままにしようとしているいびつな国家であるといえる。その国家の「いやらしさ」は、基本的に「一人前の国家」がしないような非常識を平気で行ってしまうということになってしまうのである。  
今回は安倍首相がアメリカ議会で行った演説、その演説に対して、外交ではありえないことをしているのである。  
安倍首相の米議会演説に猛反発 韓国サイドいやがらせの異常さ  
安倍晋三首相(60)が4月29日(日本時間同30日)米連邦議会で行った演説に、村山談話が言及した「植民地支配や侵略」や「心からのおわび」が盛り込まれなかったことについて、韓国、中国両政府は同日、遺憾の意や不満を相次いで表明した。  
韓国外務省は演説について「正しい歴史認識を通じ、周辺国と真の和解と協力を成し遂げる転換点になり得たにもかかわらず、そうした認識も心からのおわびもなかった」との報道官声明を発表。侵略や慰安婦問題などに言及しなかったことを批判したが、具体的にどの部分が遺憾なのかは示さなかった。  
一方、中国外務省の報道局長は、演説の具体的な内容については論評を避けた。  
特に韓国メディアはヒステリックな批判報道を繰り返している。「韓国呪術と反日」などの著作がある但馬オサム氏はこう語る。  
「安倍首相の訪米に関して、韓国サイドは常軌を逸した妨害、いやがらせ行動を仕掛けていました。2007年に下院で可決したいわゆる“慰安婦決議”の提案者であるマイク・ホンダ議員は、演説の日のために韓国から来た元慰安婦の李容洙氏をわざわざ帯同し、会場入りした。演説終了後の満場の拍手に肩透かしを食った形でしょう」  
その李氏を前面に押し出した在米韓国人による抗議デモもあった。安倍首相の訪米に合わせ、韓国の大学教授がニューヨーク・タイムズに「真珠湾攻撃を忘れるな」との広告を掲載。日本はいまだ米国の敵というわけだ。  
「ハーバード大での質疑応答では案の定、韓国留学生から慰安婦問題をどう思うかと切り出された安倍首相は、慰安婦を『人身売買の被害者』と表現し『胸が痛む』と語りました。慰安婦を“性奴隷”と認識させたい韓国に対する現時点での精一杯の切り返しです。同時に慰安婦問題を過去、戦時に起きた不幸の一つと一般化したのは見事。なぜなら、慰安婦問題は女性一般における人権問題と主張していたのは他ならぬ韓国なのですから」と但馬氏は指摘した。  
2015年4月30日、韓国・聯合ニュースによると、韓国政府と与党セヌリ党は、日米が新たな「蜜月時代」を迎えたことについて議論する緊急対策会議を開く。環球網が伝えた。  
同会議は新たな段階を迎えた日米同盟が東アジアの外交、安全保障に及ぼす影響を議論するもので、尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部長官や韓民求(ハン・ミング)国防長官らが出席する。  
セヌリ党の関係者は、「揺るぎない日米同盟」が地域に与える影響について韓国政府は研究を進めているが、外交上の孤立を回避し、国益の最大化を目指すために研究のスピードを加速すると述べている。また、同党の劉承(ユ・スンミン、=「日」に「文」)院内代表は、「一方にはより強固になった日米同盟、もう一方には中国という状況。韓国は生き残りのために慎重に戦略を選ばなければならない」と指摘し、対米、対日外交戦略の調整案を策定中だと語った。  
さて、単純に、日本と韓国ということではなく一般論として。一つの主権国家の首相が、別の主権国家の議会に呼ばれて演説するという事は、当然に、二国間の関係に関する内容であり、その二国間の関係が中心に演説されることになる。その内容に関しては、当然にそのほかの国に関しても配慮されることになるが、そのことが中心になることはない。ましてや、その演説内容に関しては事前に様々な打ち合わせが行われることになり、その打ち合わせの中において、さまざまなことが含まれる高度に外交的なものである。その内容に関して第三国が何らかの苦情を言ったり、ましてやその内容に関して政府の報道官が政府のコメントとして批判するのは「内政干渉」でありなおかつ「二国間の外交に関する干渉」であって、許されるものではない。  
いや、このようなことが許される外交関係が一つだけある。まさに「宗主国が属国に対して行う」場合である。さて、韓国は日本やアメリカの宗主国にいつからなったのであろうか。ここに「アメリカ」を含めることが最も重要である。単純に安倍首相が演説をしたのはアメリカの議会である。要するに韓国の非難コメントは、「安倍首相」というスピーカーと同時に、その演説に拍手を送りその演説を行わせた「アメリカ」の議会に対しても批判を行ったことになる。要するに「韓国は日本やアメリカに、そして日米二か国間の外交に批判をする権利がある国」というような、壮大な「思い違い」があることが明らかになるのである。  
なんとバカな国であろうか。まさに「差別漁れる側の構造」要するに「差別されていたのであるから自分たちには特権がある」かのように考えていて、一人前の自主的な、そして個別のアイデンティティを持った国家としての自立した外交ができない国家、もっと言えば「半人前の勘違い国家」でしかないというような感覚を、世界各国ン自分で表明したかのような内容になっている。  
そしてこのような韓国の「勘違い」をそのまま報道し、また日本において、まったくお暗示様なことを言っている、議員たちのあまりにも「おろか」で「外交の無知」が東アジアの外交関係をおかしくし、東アジアの平和を妨げている元凶なのである。  
そのようなことをしっかりと、さまざまな人にわかっていただきたいものである。 
2015年5月13日 - 核兵器不拡散条約(NPT)の文書

 

NPT最終文書 被爆地訪問提案を削除、中国大使が提案 5/13  
核拡散防止条約(NPT)再検討会議で交渉中の最終文書について、中国の傅聡軍縮大使は12日、国連本部で毎日新聞の取材に応じ、世界の指導者らの広島、長崎の被爆地訪問という日本提案の削除を求めたことを明らかにした。大使は理由を「提案は日本が第二次大戦の犠牲者であるかのように歴史をゆがめることが目的だからだ」と述べた。  
日本の提案は8日配布の初回の最終文書草案に盛り込まれていたが、大使は11日の非公開会合で削除を要求。12日配布の2回目の草案から削除された。韓国代表も大使の発言を支持したという。  
大使は「広島、長崎へのいかなる言及も受け入れないと日本側に伝えた」と述べ、こうした文言が盛り込まれた最終文書には同意しないことも明言した。再検討会議は全会一致が原則。歴史認識問題が核軍縮の議論にも影を落とす形となった。  
指導者らの被爆地訪問の提案は、岸田文雄外相が会議初日の先月27日、一般討論演説で発表。初回草案には「被爆70年にあたり、核兵器使用に伴う破壊的な人道的結末の実相を目撃し、被爆者の証言を聞くという提案に留意する」と書かれた。  
傅大使は「生存者(被爆者)の状況には同情するし(核兵器反対という)人道的な理念には異議は唱えない」と述べる一方で「日本は第二次大戦の加害者だ」と強調。従軍慰安婦問題や南京大虐殺を指摘した上で「日本政府は朝鮮、中国、東南アジアでの日本軍の残虐行為を何度も否定している」と非難し「第二次大戦の部分的な説明や解釈を国際社会に押しつける権利はない」と主張した。 
NPT最終文書案 中国大使「歴史の歪曲が日本の目的」 5/13  
核拡散防止条約(NPT)再検討会議の最終文書案を巡り、日本が提案した世界の指導者に広島・長崎の被爆地訪問を求める文言の削除を中国が求めていたことが12日明らかになった。傅聡・中国軍縮大使は「第二次大戦の被害者であるかのように歴史をゆがめることが日本の目的」と述べ、「歴史の歪曲(わいきょく)」という文脈から日本の提案を批判しており、安倍晋三首相の戦後70年談話を念頭に置いた日本へのけん制といえそうだ。  
中国外務省の華春瑩(かしゅんえい)副報道局長は13日、最終文章案について「理性的で実務的で協力的な態度で臨むべきであり、複雑で敏感な問題を入れるべきではないからだ」と削除を要請した理由を説明。「機会があれば中国の指導者が広島と長崎を訪れるのか」と問われると、華副報道局長は南京大虐殺記念館を挙げて「日本の指導者がいつ訪れるのか聞いてみたい」とも反問した。  
中国は2009年に習近平国家主席(当時は国家副主席)が訪日した際には日本の国民に平和、友好のメッセージを伝えるため、広島、長崎の訪問を一時検討したとされている。だが昨年7月には重慶市の週刊の地方紙「重慶青年報」が「日本は再び戦争をしたがっている」との表題で、日本地図の広島と長崎の場所に原爆のきのこ雲とみられるイラストを描いた記事を掲載した。  
今年は中国にとり「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70周年」であり、9月3日の「抗日戦争勝利記念日」には習指導部初の軍事パレードが北京で行われる。昨秋から2度、日中首脳会談が開かれたが、習主席は歴史問題に繰り返し言及。安倍首相の米議会での演説にも、中国外務省は直接的な評価を避け、植民地支配を謝罪した「村山談話」にあえて触れている。  
菅官房長官「歴史問題とは関係なく、理解に苦しむ」  
一方、菅義偉官房長官は13日の記者会見で、「核兵器のない世界に向けた思いを共有することは、核不拡散の推進に資する」と文言の意義を強調。中国側の「日本が第二次大戦の被害者であるかのように歴史をゆがめている」との指摘に対し「そもそも歴史問題とは関係なく、理解に苦しむ」と強く批判した。 
日本が各国指導者の「被爆地訪問」を提案するも中国反対で全文削除に 5/14  
国連本部で開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議で日本が各国指導者達の被爆地訪問を提案したところ、中国の反対で該当する文章が全て削除されることになりました。  
5月12日に開催された核軍縮を扱う委員会で全文削除が判明し、中国側も削除を求めたことを認めています。当初案では世界の指導者らが被爆地を訪ねて、被爆者の証言を聞くように提案していましたが、それが全て丸ごと削除されました。  
中国側は「会議はいま重要な段階に入っており、複雑で敏感な問題を持ち込むべきではない」と述べ、会議を混乱させる恐れがあることから反対だと表明しています。  
ただ、韓国を含む数十カ国が日本の提案に賛同していたことから、批判の声も多く見られました。  
記者会見では中国政府高官に対して、「長崎、広島に中国の指導者が訪問するかどうか」という質問が飛び出て来ますが、「中国の指導者が行くかどうかを聞く前に、日本の指導者がいつ中国の南京大虐殺記念館を参観するのか聞きたい」と中国の担当者はコメント。  
長崎や広島は日本を戦争被害者として正当化する可能性があるとして、中国政府は訪問を強く拒んでいます。  
被爆地訪問の提案を全削除 中国の要求受け NPT会議  
国連本部で開催中の核不拡散条約(NPT)再検討会議で、核軍縮を扱う委員会が12日、最終文書の素案第2稿を加盟国に配った。当初案は世界の指導者らに被爆地を訪ね、被爆者の証言を聞くよう提案していたが、今回は丸ごと削除された。中国が削除を求めたことを認めた。〜省略〜12日付の第2稿から被爆地訪問の提案が削除されたことについて、中国の傅聡軍縮大使が12日、記者団に対し「日本政府が、日本を第2次世界大戦の加害者でなく、被害者として描こうとしていることに私たちは同意できない」と述べ、11日のNPT会合で削除を求めたことを明らかにした。韓国を含め「少なくとも12カ国」が賛同したという。中国外務省の華春瑩副報道局長は13日の定例会見で、この件について「会議はいま重要な段階に入っており、複雑で敏感な問題を持ち込むべきではない」と日本の動きを強く批判。さらに、長崎、広島に中国の指導者が訪問するかどうかとの質問には「中国の指導者が行くかどうかを聞く前に、日本の指導者がいつ中国の南京大虐殺記念館を参観するのか聞きたい」と述べ、中国の歴史認識問題に絡めて日本を牽制(けんせい)した。  
外相 「NPT文書に被爆地訪問の文言を」 5/13  
岸田外務大臣は記者団に対し、NPT=核拡散防止条約の再検討会議の合意文書の草案から、中国の働きかけで世界の指導者に広島・長崎への訪問を呼びかける文言が削除されたことを受けて、合意文書に文言が盛り込まれるよう、みずからが先頭に立って働きかける考えを示しました。 
中国要求に日本困惑 NPT案「被爆地訪問要請」削除 5/14  
国連本部で開かれている核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、最終文書の素案をめぐって、日本と中国などの間で激しい攻防が続いている。世界の指導者や若者に広島と長崎の被爆地を訪問するよう要請する部分が、当初案には盛り込まれていたものの、十二日に各国に配布された修正案からは削除されていた。歴史認識問題で日本と対立する中国の要求を受けた措置とみられ、日本政府は「理解に苦しむ」と反発している。   
削除されたのは、八日作成の素案にあった「世界の指導者や若者らに直接、核兵器がもたらす被害の実相を見て、被爆者の証言を聞くよう要請するという提案に留意する」との項目。十二日配布の修正版では丸ごと削られていた。  
中国の傅聡軍縮大使は十二日、国連本部で記者団に「日本が第二次大戦の犠牲者であるかのような表現で、加害者としての歴史をねじ曲げようとしていることに同意できない」と述べ、十一日の会合で削除を求めたことを明らかにした。  
これを受けて、菅義偉官房長官は十三日の記者会見で「世界の政治指導者や若者による被爆地訪問という提案はそもそも歴史問題と関係がないものだ」と反論。最終文書の作成に向けて交渉に臨む日本の代表団は「日本の提案が盛り込まれるよう引き続き努力を続ける」と文言の復活を求めていく方針だ。 
NPT文書案から日本の要請が削除される、中国の要求か / 韓国 5/14  
2015年5月13日、韓国・文化日報によると、米ニューヨークで開催された核兵器不拡散条約(NPT)の再検討会議で、日本は各国指導者の広島・長崎訪問の必要性を主張したが、最終的な合意文書案にはこの内容は入らなかった。  
NPT再検討会議の主要3委員会(核軍縮、核不拡散、原子力の平和利用)がまとめた会議の最終合意文書草案には、日本の要求により「世界の指導者たちが広島と長崎など日本の被爆地を訪問する必要がある」との文言が含まれる見通しだったが、最後日の12日に参加国に配布された草案改訂版にはこの内容は入っていなかった。日本メディアは、中国の傅聡(フー・ツォン)中国軍縮大使が日本の被爆地訪問の要請文章に対して、「歴史を歪曲(わいきょく)する」と削除を求めたことを伝えている。中国の削除要求が受け入れられたために草案から削除された、との見方だ。  
この報道に、韓国のネットユーザーから多くの意見が寄せられている。  
「削除されてよかった。(日本は)第2次大戦時の自国の被害を大々的に宣伝しようとしているようだ」  
「今回は防止できたが、日本は弱いふりをしてずる賢い陰険なことを企んでいる」  
「日本はそんな要請をしていたのか?日本が戦争の被害国だということを強調したいんだろう。本当にどうしようもないやつらだ」  
「日本は自分たちが被害者だとし、広島、長崎を前面に押し出そうとしているが、原子力発電とプルトニウム精製技術を放棄しようとしない。はっきり言って、次に核兵器を使う国があるとしたら、それは日本だ」  
「日本の提案は理解できる。実際に多くの日本人が自分たちは被害者だと信じているのだから。日本のアニメを見ても、そのような感情が読み取れる。まあ、その目論見は外れたが」  
「いまだに、被害者意識を持ち続けている日本が理解できない」  
「このような提案をしていたということは、そろそろ米国を裏切る準備か?」  
「日本が原爆を持つと考えている人もいるようだけど、そんなことはあり得ない。なぜそういう考え方になるんだ」 
アメリカ人の6割強が「日本は戦争謝罪の必要ない」  2015/5/15  
中国、韓国の“執拗な”要求は的外れ? 
4月29日、安倍晋三首相が日本の首相として初めて、アメリカの上下両院合同会議で演説を行った。アメリカの議員の琴線に触れるキーワードを散りばめた演説は、党の区別なく絶賛された。  
この演説は、日本のメディアでも大きなニュースとなったが、歴史的な出来事にもかかわらず、国民の関心度は低いように感じられた。それは、「政治的無関心」の空気が、日本全体を覆っているからではないだろうか。  
インターネット調査会社のマクロミルが定点観測している「MACROMILL WEEKLY INDEX」のデータから、「政治関心度」を見てみよう。昨年11月第3週時点の65.9ポイントを頂点に減少傾向にあり、安倍首相の演説直前(4月第4週)では、56.4ポイントと9.5ポイント減少していた。  
さらに、同データの「政治テーマ」(関心のある国の政策テーマ)を見てみると、「外交・安全保障政策」は今年2月第1週の35.9ポイントから減少傾向にあり、4月第4週で24.1ポイントと、実に11.8ポイントも下げていた。  
政治的無関心が顕著に表れたのは、2014年12月に行われた衆議院議員総選挙だ。小選挙区の投票率は52.66%と、戦後最低を記録した。4月に行われた統一地方選挙の投票率も、前半戦は38の道府県で過去最低を記録、後半戦も市長選、市議選、町村長選などで過去最低が相次いだ。  
安倍政権が長期政権となる可能性が高まった一方、国民の政治的関心はさらに低くなっていきそうだ。安定的な政権が誕生したから関心が低くなったのか、関心が低くなったから安定的な政権が誕生したのか。「卵が先か鶏が先か」のような話になるが、いずれにしても、政治的関心の低下は権力チェックの緩みにつながり、政治的暴走を許しかねない。  
我々国民は、安定的な政権の時こそ、政治的関心を高めるように努力しなければならないのだ。  
さて、ここでもう一つ興味深い統計データを見てみよう。アメリカのピューリサーチセンターが4月7日に発表した、アメリカ人の日本に対する印象の調査である。  
「第二次世界大戦中の行いについて、日本は十分な謝罪をしたか」という質問について、「日本はすでに十分な謝罪をした」が37%、「謝罪は必要ではない」は24%で、合計61%のアメリカ人が、日本について「十分な謝罪をした、あるいは謝罪は必要でない」と答えているのだ。  
普段、我々は中国や韓国が「日本は謝罪していない」と主張するニュースに触れることが多いため、アメリカ人も同様の考えをしていると思いがちだ。しかし、実際はそうではないのである。安倍首相の歴史的演説によって、この数字がどのように変化するか、注目だ。  
いずれにせよ、今回の安倍首相の訪米によって日米関係の潮目は変わった。今後の政治の動きに、私たちはこれまで以上に関心を持つべきである。 
各国驚かせた中国「歴史認識」攻勢 NPT最終文書案「被爆地訪問」削除 5/22  
NPT再検討会議の最終文書案で、被爆地の広島、長崎への訪問を世界の指導者に促す文言は復活しなかった。日本は巻き返しを図ったものの、「歴史認識」をからめて攻勢に出た中国に押し切られた格好だ。一方、最終文書案は、主要争点をめぐって核保有国と非核保有国との“溝”が埋まらないまま議長裁量で各国に提示され、決裂やむなしとの悲観論が大勢を占めつつある。  
「歴史の歪曲だ」「日本は戦争の被害者の立場を強調している」−。核兵器の惨禍を世界に訴えようと、「被爆地訪問」実現を求めた日本側に対し、中国の傅聡軍縮大使が今月中旬、「過去」を持ち出して日本を批判したことは、議場の各国代表団を驚かせた。  
今年は中国にとり、「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70周年」。今夏に安倍晋三首相が戦後70年談話を出すことも念頭に置いた牽制だったとはいえ、日本には予期せぬ“冷や水”となった。  
最終文書採択は全会一致が原則だ。「被爆地訪問」への支持は着実に広がり、日本は20日、中国と少なくとも2回交渉を行ったが「立ちはだかる壁」(外交筋)を前に、対処のしようがなかったという。  
一方、最終文書案の内容をめぐっては、核保有国と非核保有国との対立が解消されないままだ。  
「核兵器禁止条約」の文言が最終文書案で削除されたのは、文言の言及に慎重姿勢を見せる米英両国に加え、強く反対するフランスに配慮した結果だ。ただ、オーストリアなど非核保有国側からは批判が出ている。  
核兵器がもたらす「非人道性」をめぐる記述についても異論が多い。「核兵器は使用されてはならない」と記述したことや、核軍縮教育の重要性を盛り込んだことが非人道性の認識を高めることにつながり、「前回会議より前進した」と考える国が多い半面、核保有国側は懸念を強めている。  
事実上の核保有国であるイスラエルを念頭に置いた中東地域の「非核化」問題では、アラブ諸国が今年11月末までの「国際会議」開催を目指していた。  
これに対し、イスラエルの友好国の米国などは「早期開催」にとどまっていた。最終文書案では開催時期について、折衷案の「2016年3月まで」となったが、双方に不満が残る内容だ。 
政治化する日中韓歴史問題 5/23  
韓国 / 朴大統領の「正しい歴史認識」発言  
歴史問題が政治的にますます制御不能になりつつある。  
韓国メディアの報道によれば、5月6日、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は、米国のオバマ大統領との首脳会談において、「北東アジア地域の平和のためには日本が正しい歴史認識を持たなければならない」と述べたという。また、朴大統領は、同8日には、米議会上下両院合同会議で演説して、「北東アジアでは国家間の経済依存が高まる一方で、歴史問題に端を発した対立が一層深刻になっている。歴史に正しい認識を持てなければ明日はない」とも述べた。  
わたしには、なぜ朴大統領が日韓の歴史認識の問題を米国で取り上げるのか、米国の政治指導者に「日米同盟をやめろ」とでも言いたいのか、全く分からない。しかし、朴大統領の言う「正しい歴史認識」とはもちろん韓国政府が主張する歴史認識であり、1990年代以降、日韓両政府がこの問題の政治的処理にいかに努力したか、その歴史について、大統領がどれほど「正しく」認識しているか、大いに疑問である。  
昨年9月の「論点」でも述べたことであるが、1998年、小渕恵三首相と金大中(キム・デジュン)大統領は「日韓共同宣言―21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」において、次のように宣言した。  
 
両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。  
 
また、2002年から2010年にかけては、小泉純一郎首相と盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の合意(2001年)に基づき、日本と韓国の多くの歴史専門家の参加を得て、日韓歴史共同研究が2期にわたって実施された。報告書も提出されている。このように、歴史認識の問題については、日韓の間に多くの積み重ねがある。「正しい歴史認識」というからには、朴大統領としても、こういう歴史を踏まえて、発言すべきである。  
日本 / 閣僚の靖国参拝と歴史認識発言  
一方、日本では、4月21日、麻生太郎副総理が春季例大祭に合わせて靖国神社に参拝した。麻生副総理はこれまで、靖国問題ではA級戦犯の分祀(ぶんし)を主張していただけに、これは理解できない。しかし、「盟友」の麻生副総理が靖国に参拝すれば、安倍晋三首相としては、「(前回の)首相在任中に靖国参拝できなかったのは痛恨の極み」と述べていただけに、閣僚の自由意志と言って済ますわけにはいかず、擁護しないわけにはいかなかった。首相は4月24日の参議院予算委員会で、閣僚らの靖国神社参拝について「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ。わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保している」と述べた。  
安倍首相はまた、すでにこれまでにも、戦後70年の節目となる2015年には、過去の「植民地支配」と「侵略」を認めた「村山談話」(1995年)を見直し、未来志向の「安倍談話」を出す意向を示していた。おそらくそのためだろう、4月22日の参議院予算委員会では、安倍内閣として、村山談話を「そのまま継承しているわけではない」と表明し、翌23日には「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と述べた。しかし、5月15日の参議院予算委員会では村山談話に対する認識を軌道修正し、「過去の政権の姿勢を全体として受け継いでいく。歴代内閣(の談話)を安倍内閣としても引き継ぐ立場だ」と述べるとともに、「歴史認識について(自身が)述べると外交・政治問題に発展していく。歴史家に委ねるべきだ」との考えを示した。  
歴史認識問題で日本の一部にある修正主義史観を支持する声は国際的にはほとんどない。政治家が発言すればするほど、この問題は政治化する。また、安倍内閣の副総理、閣僚が靖国に参拝すれば、問題はさらに政治化する。その結果、1998年の日韓共同宣言の精神、2000年代の日韓、日中の歴史共同研究の試みなどはますます失われていく。安倍首相自身が結局のところ述べたように、歴史認識の問題は歴史家に委ねた方がよい。同時に、歴史問題についての政府要人と政治家の発言と行動が、日本に対する国際的信頼を傷つけていることも忘れない方がよい。  
また、政府として、それ以上のことをしたい、というのであれば、歴史家の間でその知的誠実さ(integrity)を国際的に高く評価される人たちを選考委員として、英語、日本語、韓国語、中国語のうち、少なくとも3つの言語で、専門家の査読を経た上で、その研究成果をアカデミック・ジャーナルに発表することを条件に、20世紀のアジアにおける植民地支配と戦争と革命と反革命について、歴史研究助成プログラムを作り、研究を奨励するのがよい。  
中国 / 『人民日報』の「沖縄帰属問題」論文  
中国では、5月8日、中国共産党中央委員会の機関紙『人民日報』に、張海鵬・中国社会科学院学部委員と李国強・中国社会科学院中国辺彊史地研究センター研究員の連名で、「馬関条約と釣魚島問題を論じる」と題する論文が掲載された。この論文は、濱川今日子著「尖閣諸島の領有をめぐる論点」(『調査と情報』565号[国立国会図書館、2007年])の都合の良いところをつまみ食いしつつ、日本が尖閣諸島(中国名:釣魚島)を「掠(かす)め取り」、これを下関条約(馬関条約=日清戦争[甲午戦争、1894〜95年]の講和条約)によって「合法化」した、しかし、中国は、尖閣諸島を台湾の管轄下に組み込み、長期にわたって実効性ある管轄を実施してきた、と主張する。これは驚きではない。  
しかし、この記事は、中国の「歴史認識」と領土権について、パンドラの箱を開けかけている。それが日本でも世界的にも、この記事が多くの関心を呼んだ理由であるが、なかなか注意深く書かれており、沖縄は中国の領土だ、と真っ向から主張しているわけではない。その議論を少し丁寧に紹介すると、次のようになる。  
 
日本が釣魚島列島を沖縄県の管轄下に組み入れたことは、甲午戦争と関係し、日本の「琉球処分」とも関係する。沖縄は元々琉球王国のあった地だ。琉球王国は独立国家で、明初から明朝皇帝の冊封を受けた、明・清期の中国の藩属国だ。明朝以降、中国は歴代冊封使を琉球に派遣した。明治維新後、日本が琉球、朝鮮、中国を侵略する出来事が発生した。台湾征伐と琉球侵略は同時に進行した。1875年、天皇は清朝との冊封関係の断絶を琉球に命じた。1877年、清朝政府の何如璋駐日公使は「朝貢阻止では止まらず必ず琉球を滅ぼす。琉球が滅べば朝鮮に及ぶ」と指摘した。1879年、日本政府は琉球王国を併吞し、沖縄県と改称した。清政府はこれに抗議し、中日間で琉球交渉も行われた。しかし、1887年、総理衙門大臣が日本の駐中国大使に琉球問題が未解決であることを提起したときには、日本はこれを顧みず、1895年の馬関条約で、台湾およびその附属諸島(釣魚島諸島を含む)、澎湖諸島、琉球は日本に奪い去られた。中国は1941年に対日宣戦し、馬関条約を破棄した。日本はカイロ宣言とポツダム宣言の日本の戦後処理に関する規定を受諾し、これらの規定に基づき、台湾およびその附属諸島、澎湖諸島が中国に復帰するのみならず、歴史上懸案のまま未解決だった琉球問題も再議できる時が到来した。(張海鵬・李国強「馬関条約と釣魚島問題を論じる」、『人民日報』[2013年5月9日])  
 
琉球は明、清の時代には「中国」の藩属国だった。日本の「琉球処分」(沖縄県設置)の後も、琉球の帰属は日中の懸案だった。下関条約で「奪い去られた」が、中国は1941年にはこの条約を破棄した。カイロ宣言とポツダム宣言で日本はその戦後処理に関する規定を受け入れた。だから、中国は、主張しようと思えば、琉球の領有権を主張できる。まして尖閣諸島は明らかに中国のものだ。これがその主張である。  
しかし、ポツダム宣言には、「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない」とあり、この「諸小島」には沖縄も含まれている。だから、沖縄の施政権は1972年に米国から日本に返還された。この問題について、論文は全く何も言わない。また、その根っこには、かつて明、清の時代に「中国」が冊封した「藩属国」の領域について、中国は、主張しようと思えば、その領有権を主張できる、という考えがある。さて、それでは、明、清の時代に「中国」に朝貢し、冊封を受けた現在のタイ、ベトナム、ミャンマーなどはどうなるのか。さらに、1880年代になって冊封・朝貢国が実質的に朝鮮一国となり、ソウルに駐在した袁世凱が自らをイギリスのインド駐在官になぞらえてResident(総理朝鮮通商交渉事宜)と称しつつ、「朝貢国」ではなく、「保護国」として位置付けた現在の北朝鮮と韓国の領域はどうなるのか(川島真・毛利和子『グローバル中国への道程―外交150年』[岩波書店、2009年]参照)。ここでは、韓国、日本とは違う形で、中国政府は歴史研究をつまみ食いして政治的に使っている。  
沖縄県民約9割が中国に否定的印象  
なお、インターネット上では、こういう議論に反論して、タイ、ベトナムなどと沖縄は違う、他国はすでに独立している、したがって、沖縄も独立すべきだ、という議論がある。それに関連し、参考までに述べておけば、沖縄県庁が実施した県民の中国と台湾に対する意識調査結果(2012年11月〜12月)が5月9日の『沖縄タイムズ』で紹介されている。これによれば、沖縄県民の中では、中国への印象が「良い」「どちらかといえば良い」は合計9.1%にとどまったのに対し、「良くない」「どちらかといえば良くない」で合計89.0%に達した。対照的に、台湾については、肯定的な印象が計78.2%に上り、否定的な印象は計19.2%だった。比較のために「言論NPO」の日本全国調査(2012年4〜5月実施)の結果を見ると、中国への印象が「良い」「どちらかといえば良い」の合計が15.6%、「良くない」「どちらかといえば良くない」の合計が84.3%だった。 
2015年5月23日 - 二階総務会長が率いる約3千人の訪中団

 

習式揺さぶりの術? 5/24  
二階氏ら「正義と良識ある日本人」、安倍首相が「諸悪の根源」  
中国の習近平国家主席は23日夜、自民党の二階俊博総務会長が率いる約3千人の訪中団(財界や日中友好団体の関係者らで構成)と面会した際、安倍晋三政権の歴史認識を暗に批判する一方、訪中団のメンバーを「正義と良識のある日本人」などと褒めたたえた。日本政府と一般の国民を切り離す「二分論」を展開し、日本の世論に揺さぶりをかけようとする思惑があるとみられる。  
日中関係をめぐっては、3月末から5月初めにかけて自民党の谷垣禎一幹事長や高村正彦副総裁、額賀福志郎元財務相ら日本の要人が相次いで訪中し、それぞれ習主席との面会を求めたが実現しなかった。  
2012年11月に中国の最高指導者となった習主席は対日強硬姿勢を崩さず、日本政府要人と会うことを極力避けており、今回の二階氏訪中に関しても、「習主席には会えないのでは」との見方が出ていた。  
ところが、習主席は人民大会堂で開かれた日中の交流式典に突然登場し、関係者を驚かせた。ある中国共産党関係者は「別に二階氏の力で面会できたのではなく、習主席は日本の民間人に対し『日中関係悪化の原因は全て安倍政権にある』と直接強調するのが目的だ」とした上で、「日本の世論を分断し、8月に発表される戦後70年の首相談話や憲法改正の動きを牽制(けんせい)したい思惑もある」と指摘する。  
日本政府と国民を区別する二分論は毛沢東時代からの対日工作の常套(じょうとう)手段だ。「諸悪の根源は軍国主義の復活を図る右翼政治家にあり、日本国民は政府に洗脳された被害者だ」という論法で、日本のリベラル勢力などを味方に付けることを目的にしているという。  
習主席はこの日の講演で、唐代の詩人、李白と、唐で学んだ阿倍仲麻呂との友情などを例に挙げ、日中交流には長い歴史があり、今後も民間交流を展開する必要性を強調した。その上で、日中戦争が中国国民に大きい災難をもたらしただけではなく、「日本国民もあの戦争の被害者だ」と主張し、訪中団に「歴史を歪曲(わいきょく)する動きに一緒に反対しよう」と呼びかけた。 
「人民網」報道 5/24  
習近平国家主席は23日、北京の人民大会堂で中日友好交流大会に出席し、重要な講演を行った。習主席は講演の中で、「中日双方は歴史を鑑とし、未来志向で、中日関係の4つの政治文書を基礎として、平和発展をともに促進し、子々孫々の世代に至る友好関係をともに考え、両国が発展する美しい未来をともに作りだし、アジアと世界の平和に貢献しなければならない」と強く訴えた。  
習主席は、「中日は一衣帯水の隣国であり、2千年あまりにわたって平和発展が両国国民の心にある主旋律だった。両国国民は互いに学び合い、互いに相手を鑑とし、それぞれに発展を促進し、人類の文明の進歩に向けても重要な貢献を行ってきた。近代以後は、日本が対外侵略を拡張する路線を歩んだため、中日両国は一時期、痛ましい歴史を刻み、中国国民には深刻な災難がもたらされた。両国の旧世代の指導者たちは高度な政治的な知恵に基づいて、重要な政治的決断を行い、幾重にもわたる困難を克服して、中日の国交正常化を実現するとともに、平和友好条約を締結し、両国関係の新たな時代を切り開いた。中日両国の見識ある人々はかつて両国関係のために積極的に奔走し、たくさんのことをしてくれた。歴史が照明するように、中日友好事業は両国と両国国民にとってプラスであり、アジアと世界にとってプラスであり、私たちがもっと大切にし、注意深く守る価値のあるものであり、これからも努力を続けていく」と述べた。  
習主席は次のように指摘した。「(「論語に」)『徳は孤ならず、必ず隣あり』とあるように、中日両国の国民が真心で友情を結び、徳をもって隣国に接すれば、必ず子々孫々の世代に至る友好関係を実現することができる。中国は中日関係の発展を高度に重視している。私たちは日本とともに、中日関係の4つの政治文書を土台として、両国の善隣友好協力を推進していきたい」。  
また習主席は次のように強く訴えた。「今年は中国人民抗日戦争勝利70周年および世界反ファシズム戦争勝利70周年にあたる。当時、日本の軍国主義が犯した侵略の罪を覆い隠すことはできないし、歴史の真相をねじ曲げることもできない。日本の軍国主義による侵略行為を歪曲・美化しようとするいかなる発言や行動も、中国国民とアジアの被害国の国民はこれを認めないし、正義と良心をもった日本国民もこれを認めないことを信じる。前事を忘れざるは後事の師なりだ。歴史をしっかりと胸に刻むことは、未来を切り開くためだ。戦争を忘れないことは、平和を守るためだ。日本国民もあの戦争の被害者だ。中日双方は歴史を鑑とし、未来志向で、平和発展をともに促進し、子々孫々の世代に至る友好関係をともに考え、両国が発展する美しい未来をともに作りだし、アジアと世界の平和に貢献しなければならない」。  
習主席は、「中日友好の土台は民間にあり、中日関係の前途は両国国民の手の中にある。中国政府は両国の民間交流を支援し、両国各界関係者が、特に若い世代が中日友好事業に勢いよく飛び込むことを奨励し、両国の青年が友好の信念を固め、積極的に行動し、友好の種を継続的にまき、中日友好を大きな木に育て、さらに木々が生い茂る森林に育て、中日両国国民の友好を子々孫々の世代へと引き継いでいくことを期待する」と述べた。  
日本の自民党の二階俊博総務会長はあいさつの中で、「このたびの日中友好交流大会は非常に重要なものであり、日本の各界からたくさんの参加があった。中国政府がこのように重視し支援してくれたことに感謝している。習近平主席の講演は非常に重要なものであり、私たちは日中関係の発展推進に向けてさらに努力しなければならない。日中関係の土台は民間にある。両国国民の民間・文化交流を維持すること、特に両国の青少年の相互理解と相互往来を促進することは二国間関係の長期的発展を維持するために非常に重要であり、双方がこうした分野での交流協力を強化することを願う。私たちは中国とともに、両国関係の長期的発展に向けて絶えず努力していきたい」と述べた。  
今回の中日友好交流大会はここ数年の中日両国の民間交流における一大イベントで、政治、経済、観光、文芸など日本の各界の友好の士約3千人が集まった。大会では、両国が民間の交流協力を強化し、中日の子々孫々の世代に至る友情のために手を携えて努力することを呼びかける「中日友好交流大会提起書」が、中日各界の人々により共同で発表された。 
中国各紙 日本訪中団に好意的 民間交流の推進 5/24  
24日付中国各紙は、習近平国家主席が23日に北京で二階俊博自民党総務会長ら約3100人を前に語った発言の内容を大きく伝えた。記事は日中間の民間交流の推進を好意的に伝える内容が目立つ。日本の文化、観光などの分野での協力を強め、民間交流を歴史問題など政治分野の対立とは切り離す中国側の意向が反映された模様だ。  
共産党機関紙「人民日報」は、習氏の演説を1面トップで掲載。二階氏が率いた訪中団について「民間交流の推進は両国関係改善にプラスのエネルギーになる」と伝えた。  
また北京紙「京華時報」は、北京で買い物をする日本人観光客を1面写真で掲載。訪日する中国人観光客が増えているが、中国を訪れる日本人観光客が増えることを期待しているようだ。  
一方、二階氏は24日、北京の日本大使館で記者会見し、日中経済交流を活性化させるため、新たな機構を創設する方針を明らかにした。さらに中国の次世代リーダーと目される胡春華広東省共産党委員会書記と会談したと明かし「信頼に足る人物だった」と振り返った。  
二階氏は北京滞在中、清華大での講演やNHK交響楽団の北京公演(10月31日を予定)の調印式にも臨んだ。 
訪中団を称賛 世論分断の思惑 習主席、安倍政権批判と使い分け 5/25  
中国の習近平国家主席(61)は23日夜、自民党の二階(にかい)俊博総務会長(76)が率いる約3000人の訪中団(財界や日中友好団体の関係者らで構成)と面会した際、安倍晋三政権の歴史認識を暗に批判する一方、訪中団のメンバーを「正義と良識のある日本人」などと褒めたたえた。日本政府と一般の国民を切り離す「二分論」を展開し、日本の世論に揺さぶりをかけようとする思惑があるとみられる。  
日中関係をめぐっては、3月末から5月はじめにかけて自民党の谷垣禎一(さだかず)幹事長(70)や高村(こうむら)正彦副総裁(73)、額賀(ぬかが)福志郎元財務相(71)ら日本の要人が相次いで訪中し、それぞれ習主席との面会を求めたが実現しなかった。  
「二階氏の力ではない」  
2012年11月に中国の最高指導者となった習主席は対日強硬姿勢を崩さず、日本政府要人と会うことを極力避けており、今回の二階氏訪中に関しても、「習主席には会えないのでは」との見方が出ていた。  
ところが、習主席は人民大会堂で開かれた日中の交流式典に突然登場し、関係者を驚かせた。ある共産党関係者は「別に二階氏の力で面会できたのではなく、習主席は日本の民間人に対し『日中関係悪化の原因はすべて安倍政権にある』と直接強調するのが目的だ」とした上で、「日本の世論を分断し、8月に発表される戦後70年の首相談話や憲法改正の動きを牽制(けんせい)したい思惑もある」と指摘する。  
毛時代からの常套手段  
日本政府と国民を区別する二分論は毛沢東時代からの対日工作の常套(じょうとう)手段だ。「諸悪の根源は軍国主義の復活を図る右翼政治家にあり、日本国民は政府に洗脳された被害者だ」という論法で、日本のリベラル勢力などを味方につけることを目的にしているという。  
習主席はこの日の講演で、唐代の詩人、李白(701〜762年)と日本人留学生の阿倍仲麻呂(698〜770年)との友情などを例に挙げ、日中交流には長い歴史があり、今後も民間交流を展開する必要性を強調した。その上で、日中戦争が中国国民に大きい災難をもたらしただけではなく、「日本国民もあの戦争の被害者だ」と主張し、訪中団に「歴史を歪曲(わいきょく)する動きに一緒に反対しよう」と呼びかけた。  
二階氏「首相も成果喜んでいる」  
自民党の二階(にかい)俊博総務会長は24日、北京市内で記者会見し、安倍晋三首相の親書を中国の習近平国家主席に手渡した今回の訪中について「(電話で報告した)首相も喜んでおり、一応の成果を挙げた」と強調した。  
二階氏は、23日に北京の人民大会堂で開かれた中国政財界との交流会の最中、首相と複数回電話でやりとりしたことを紹介。「首相からは、ねぎらいの言葉があった。帰国後に(詳しく)報告したい」と語った。  
また、二階氏は「(日中間で)これからよく知恵を出し合おうという中、日本も真摯(しんし)に応えていくことが大事だ」とも指摘。政府側に日中関係改善に向け、さらなる努力を促した。同席した日本経団連の御手洗冨士夫(みたらい・ふじお)名誉会長(79)は「有意義で充実したミッションだった」と総括した。  
習氏は交流会で「日本軍国主義を美化・歪曲(わいきょく)しようとする言動も許されない」などと述べ、安倍首相が今夏に出す戦後70年談話を牽制(けんせい)。これについて二階氏は「日中は環境が違う」としたうえで、「世界が注目している。日中問題がいかに重要か十分に分かったうえで、首相は考えている」と語った。  
現地紙、好意的に報道  
5月24日付の中国各紙は、習近平国家主席が23日に日中観光交流イベントであいさつし、日中友好協力の推進に意欲を示したことを大きく伝えた。自民党の二階(にかい)俊博総務会長が率いる約3000人の訪中団を好意的に取り上げている。  
共産党系の人民日報や中国青年報、軍機関紙の解放軍報などは「中日友好交流大会」の文字を背景に話す習氏の姿や北京市内を観光する訪中団の写真を1面に掲載。関係が悪化した2012年秋以降、中国の主要メディアが両国関係を前向きに捉えて大々的に報じるのは珍しい。  
人民日報は「中日間の平和で友好的な関係を維持することは、両国人民の利益に合致し、アジアと世界の平和と安定の維持にもつながる」と指摘した。北京青年報は、3000人の訪中が「両国の民間交流の重要な活動だ」とする中国の観光当局者の声を紹介。“親中派”の二階氏がこれまでも日本の各界の関係者を率いて訪中してきたと伝えた。 
日本を毛嫌いする中国人、それでも訪日旅行に熱を上げるのはなぜ? 5/16  
2015年5月13日、中国メディア・九個頭条に「中国人は日本が嫌いなのに、なぜ日本旅行に熱を上げるのか」と題する記事が掲載された。「日本人の93%が中国を嫌っている」という調査結果が中国のインターネット上で取り沙汰されているが、それでも日本を訪れる中国人観光客は増加を続け、日本経済を動かす力になっている。  
英BBCが調査会社を通して行った意識調査でも日中の国民が互いに友好的な感情を持っていないことが明らかになり、「中国は世界に悪い影響を与えている」と回答した日本人は73%、「良い影響を与えている」はわずか3%だった。一方、「日本は悪い影響を与えている」と回答した中国人は90%に上り、「良い影響を与えている」は5%にとどまった。中国人の日本に対する評価には、領有権問題や歴史問題などが大きく影響している。また、日本人も中国との領有権争いや中国の急成長、訪日中国人のマナーの悪さなどを快く思っていない模様だ。  
しかし、14年に日本を訪れた中国人観光客は241万人で、前年と比べ84%も増えた。悪い印象を持つにもかかわらず増加した背景には、円安、免税対象品の拡大、ビザ発給要件の緩和がある。また、日中関係改善が必要だと考える両国民は多く、両国のこれまでの複雑な歴史を考えると「好感」「反感」という簡単な言葉で考えるのはふさわしくないのではないだろうか。  
日本の社会や実際の生活をよく知れば、日本の大部分の市民は中国に対して偏見など持っていないことに気付く。「93%の日本人が中国嫌い」という調査結果も、両国民の多くが現状を改善すべきだと考えている点が見過ごされている。かつて日本によって大きな苦痛を味わった中国人にとって、当時の日本政府の非道な行為と日本国民を分けて考えることは難しいだろう。しかし、これを乗り越えてこそ中国人の懐の深さが示される。感情論ではなく冷静な姿勢で両国の国民が向き合うことを期待する。 
習近平が3000人訪中団を熱烈歓迎した現実が意味すること 5/26  
習近平の演説に隠された意図  
5月24日、朝7時、北京時間――。  
中国共産党中央で外交政策の立案に携わる幹部から、ショートメールが送られてきた。そこには前日の夜、習近平国家主席が、訪中した自民党の二階俊博総務会長に同行した約3000人の日本人訪中団を前に、演説を行ったことを受けたコメントが記されていた。  
「故郷と歴史を大切にする習主席が、地元の陝西省を引き合いに出しながら、西安が中日交流史の窓口になった歴史、しかも日本の使節を代表する阿倍仲麻呂と唐代詩人を代表する李白や王維らが深い友情を築いた歴史を、自らの言葉で振り返った。日本との外交関係を高度に重視している証拠だ。現に習主席は演説の内容や文言にとことんこだわっていた」  
共産党機関紙である『人民日報』は、5月24日付の一面トップで、習主席が日本の3000人訪中団の前で演説をしたことを報じた。写真には、紅字で記された「中日友好交流大会」という壁をバックに、青いネクタイを着用した習主席が比較的穏やかな表情で映っていた。  
「中国は中日関係の発展を高度に重視している。中日関係は困難な時期を経てきているが、この基本方針は終始変わらないし、これからも変わらない。我々は日本側と手を携えて、4つの政治文書の基礎の上、両国間の善隣、友好、協力関係を推進していきたいと願っている」  
このように、対日関係重視という基本方針がこれまでもこれからも変わらない政治的立場を自ら主張した習主席の「中日友好交流大会」への出席と演説を大々的に報じたのは、前述の『人民日報』だけではなかった。共産党のマウスピースと称される国営新華社通信は5月24日、“習近平:中日友好的根基在民間”と名づけた記事をヘッドラインで配信した。習主席が演説のなかで最後の主張として口にした「中日友好の根幹と基礎は民間にある」という一節である。  
党中央でプロパガンダを担当する宣伝部の知人に確認してみると、「習主席があそこまで対日関係を重視されている。我々の立場も、中日友好の重要性を全面的に宣伝する方向で一致した」とのことであった。  
確かに、私が本稿を執筆している2015年5月25日4時(北京時間)の時点で、新華網(新華社通信ウェブ版)、人民網(人民日報ウェブ版)、央視網(中国中央電視台ウェブ版)、鳳凰網(香港フェニックスグループのウェブメディア)、そして中国の4大ポータルサイトと称されることもある新浪、網易、捜狐、騰迅すべてのサイトにおいて、習近平国家主席が中日友好交流大会に出席し、演説をした旨がヘッドライン(トップ記事)として報じられていた。  
習近平国家主席の対日関係重視を象徴するケースを扱ってきたが、本稿の目的は“日中友好”をプロパガンダすることにはない。標的はあくまで、本連載の核心的テーマである中国民主化研究である。そして、中国民主化研究とは相当程度において中国共産党研究であり、とりわけ昨今の政治情勢に基づいて見れば、中国共産党研究とは相当程度において習近平研究である。  
習近平研究という視角に考えを及ぼした場合、習近平国家主席が、日本の主要新聞に“異例”とまで言わせるほど(『日中、進む対話…二階氏訪中、異例の歓迎』:読売新聞5月24日、『習主席の訪中団への演説、異例の1面トップ 人民日報』朝日新聞5月24日)約3000人の訪中団を熱烈に歓迎し、対日関係重視を鮮明に打ち出したという現実は、重要な参考材料となるはずだ。  
習首席と対日関係を解き明かすケーススタディ  
習近平研究を対日関係というケーススタディを通じて掘り下げることを主旨とする本稿では、1つの結論と3つの留意点を提起し、検証する。  
結論を述べる。  
国内の反対勢力、タカ派、そして排外的なナショナリズムに満ちた一部の大衆世論から“日本に弱腰過ぎる”と非難されかねないような“異例”の対日重視と友好ムードを大胆不敵に打ち出した事実から判断して、習近平の共産党内外、および中国政治社会における権力基盤と威信は相当程度強固になっていると言える。  
この現状は、習氏自身の意図や信条に基づいて、周りに無駄な遠慮をすることなく政策や対策を打ち出しやすいという文脈において、対日関係にとってだけでなく、政治・経済・社会レベルなどにおける改革事業にとって有利に働くと言える。そして、現状から判断する限り、具体的なアプローチや優先順位はさておき、習主席が対日関係の改善だけでなく、改革事業の促進に後ろ向きだと断定する根拠を見出すことは難しい。  
党内で権力基盤を固め、社会で威信を築いてきた源泉は、本連載でも度々扱ってきた“反腐敗闘争”にあるだろう。闘争を通じて党内における政敵や政権運営にとって邪魔な勢力を打倒し、と同時に、お上の腐敗に対して極めて敏感、かつ憤慨的な反応を示してきた大衆に対して「習近平は人民に味方する素晴らしい指導者だ」という印象を抱かせた。大衆のあいだでニックネーム化して久しい“習大大”(習おじさん)という呼称が、その印象を可視化している。  
私は個人的に、都市部の道端で暇そうに雑談をしている住民や(拙書『われ日本海の橋とならん』(ダイヤモンド社)/第四章“「暇人」のエレガントな生活”ご参照)、就職先が見つからず、日々ネット上で不満をぶちまける大学生たちだけでなく、北京大学の教授や市民派ジャーナリストといった知識層までもが“習大大”という呼称を口にしながら習主席の存在と業績を絶賛していたことに、驚きを隠せなかった。  
中国共産党の最近の対日外交を振り返ってみよう。昨年11月、北京で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に際して行われた安倍晋三-習近平会談を皮切りに、4月下旬にはインドネシアで開催されたバンドン会議に際して、安倍—習体制となって2回目となる日中首脳間の会談が行われた。習主席に笑顔がなかった1回目に比べて、2回目の会談では、習主席もわりと和やかな表情で、ソファに座り込んで安倍首相と語り合った。この間、3月には日中安保対話が4年ぶりに、日中韓外相会談が3年ぶりに再開されている。日中間のハイレベル対話は、多角的に機能しつつある。  
中国国内には、「安倍首相はバンドン会議での演説で“植民地支配”や“侵略”という言葉を使わず、“お詫び”もしなかったのに、習主席はなぜ安倍晋三に会ったのだ?そこまで日本側の面子を立てる必要はどこにあるのか?」といった猜疑的な見方も存在した。実際に、中国の知識人たちからも、私の元にそのようなコメントが飛んできた。  
「親日的」という雑音を浴びても跳ね返すだけの権力基盤がある  
しかしながら、である。  
周永康・元政治局常務委員や徐才厚・元中央軍事委員会主席といった大物を政治的失脚に追い込み、何より無産階級の政党である中国共産党にとって、どんな勢力よりも味方につけておきたい“群衆”という勢力が習近平を“全体的”に支持している状況下において、習近平のやり方に公然とノーを叩きつけたり、習近平の政策を公の場で名指しで批判したりする知識人は、一部の“異見分子”を除いて限りなくゼロに近いという状況である。  
冒頭の党中央幹部は言う。  
「確かに、ここ半年における習主席の対日政策は“親日的”に映る。実際にそうかもしれない。しかし、仮にそのようなレッテルを誰かに貼られたとしても、そんな雑音を平然と無視し、跳ね返すだけの権力基盤がいまの習主席にはある」  
実際、習主席は“反腐敗闘争”でモノにした権力基盤と威信を武器に、トップダウンで改革を推し進めるための“改革小組”といったワーキンググループなどを活用しつつ、経済・社会レベルの構造改革を中心にダイナミックな政策を打ち出している。政策がどこまで果実となるかはいまだ定かではないが、少なくとも「習近平政権=改革派政権」というイメージは先行している。  
結論部分を簡単にまとめると、習近平の対日重視→権力基盤が強固な根拠→改革事業に有利、という構造になるであろう。これは、以前【全3回短期集中考察:“民主化”と“反日”の関係(3):中国の民主化を促すために日本が持つべき3つの視座】で指摘した「中国共産党のガバナンス力が強化・健全化することが、トップダウン型の民主化政策につながり、その過程でこそ健全な対日世論・政策環境が生まれる」というロジックともつながっている。  
もちろん、本連載でも度々検証してきたように、習近平は「改革重視=政治改革に意欲的」とは必ずしもならないし、「政治改革に意欲的=民主化への布石」という具合に方程式が成り立つほど、中国共産党を取り巻く政治的・歴史的情勢は単純ではない。習主席は西側発の自由民主主義を“輸入”することには否定的な態度を示してきており、西側の政治制度を“真似る”類の政治改革に突っ込む可能性は極めて小さいと言わざるをえない。  
ただ、それでも改革事業を重視し、物事を変えていくこと自体に大胆かつ意欲的な習近平政権には、引き続き政治レベルの改革という世紀ミッションが現実味を帯びるであろうし、本連載で度々主張してきたように、私自身は、仮に中国共産党が民主化も視野に入れた政治改革を実行するのであれば、習近平政権が最大、そして最後のチャンスだと見ている。  
習近平の権力が強大化することは重大な政治&統治リスクにもなり得る  
ここからは3つの留意点である。これは、前述の結論に対する、あるいは結論を受けた上で、それでも留意すべきポイントという意味である。  
1つ目。習近平国家主席の権力基盤と威信が強固になるプロセスは、対日政策にとっても改革事業にとっても、相当程度有利に働く局面が増えていくことを意味するが、と同時に、習主席の権力や威信そのものが強大化、肥大化し過ぎることは、それ自体が、中国共産党体制にとって重大な政治&統治リスクになる点に留意したい。  
私から見て、習近平に権力が集中する状況下での共産党という組織形態は、内政も外交も、政治も経済も、軍事も社会も、すべての分野で習近平が自ら決定し、実行しなければ物事が進められない。誰も習近平に代わって、あるいは習近平を凌駕する形で物事を決定し、実行することができない一種の“恐怖政治”が党内外の構造と空気を覆っている。このような状況下において、仮に習近平国家主席の身に何か不測の事態が起きたとしたら……。  
私は共産党という組織は、機能不全に陥るリスクに見舞われると予測する。また、私がワシントンDCで話をうかがった複数の中国問題専門家や対中政策立案者が、「習近平に権力が集まりすぎるのはリスキー」という観点から、太平洋の向こう側の政治情勢を眺めている。日本でも、朝日新聞国際報道部の峯村健司・機動特派員が著書『十三億分の一の男:中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争』(小学館)のなかで、“頂層設計(トップダウンによる政策設計)の弱点”として、「私が想定する最大のリスクは“強大になり過ぎる習近平”だ」と主張している。  
2つ目。【全3回短期集中考察:“民主化”と“反日”の関係(2):中国共産党の正当性としての“反日”は弱まっている】のなかで“反日→反党・反政府→中国共産党一党独裁体制の崩壊→民主化”というシナリオを、具体的事例を挙げながら検証したが、習近平主席も“行き過ぎた反日感情は人民のナショナリズムを狭隘・排他的なものへと膨らませ、社会不安とガバナンスリスクを煽る”という懸念を念頭に、対日関係をマネージしようとしているように見える点に留意したい。  
2005年と2012年に中国各地で大規模かつ連鎖的に勃発したような反日デモ運動が再来し、それらを制御できなくなり、共産党の統治力や正統性そのものに疑問が投げかけられるリスクを懸念しているのだろう。私自身は、習主席は、前述のシナリオにあるように、“反日”は結果的に“中国共産党一党独裁体制の崩壊”をももたらし得る破壊力をもったファクターだと認識している、と考えている。  
ちなみに、対日政策が“親日的”になりすぎることによって、党内の保守派やタカ派、一部の一般大衆から叩かれる可能性については、前述したように、現時点での権力基盤をもってすれば抑え込めると踏んでいるだろう。  
“懐柔政策”は中共にとっての十八番 対中慎重派を取り込むための抑止構造か?  
3つ目。これは日本の対中政策にも直結してくるポイントであるが、日本政府・社会・国民としては、習近平国家主席が、日中関係が“友好的”だったとされる1980年代の胡耀邦時代を想起させるような約3000人の訪中団を熱烈に歓迎し、異例の待遇を施したことに鼻の下を伸ばしている場合では決してない現実を、心に留めたい。二階俊博・自民党総務会長を含めた対中友好派を戦略的に取り込むという“懐柔政策”は、中国共産党にとっての十八番だ。内政、外交を問わず、である。  
習主席を含めた党指導部の脳裏には、友好派を取り込むことによって、対中慎重派、あるいは強硬派を牽制するという抑止構造が描かれているだろう(本来、日本の対中的な立場や見方は“友好派・慎重派・強硬派”のように単純にカテゴライズできるものでも、されるべきものでもないが、現実問題として、中国共産党が自らの政治的立場に端を発し、日本の対中勢力を分裂的に捉える傾向があるため、あえてこのように記したー筆者注)。そして、その構造のなかの中心人物が安倍晋三首相であり、中心アジェンダが9月3日に予定されている“中国人民抗日戦争勝利70周年式典”であることは、言うまでもない。  
習主席は中日友好交流協会での演説で、次のように述べている。  
「当時、日本軍国主義が犯した侵略の罪を覆い隠すことは許さない。歴史の真相を歪曲することも許さない。日本軍国主義による侵略の歴史を歪曲・美化しようと企む如何なる言動を中国人民とアジアの被害国は受け入れない。そして、正義と良心を持った日本国民もそれを受け入れないと信じている」 
まるで孔明の罠。習近平が「反日戦略」を方向転換してきたワケ 2015/5/27  
中国が今度は日本にすりよってきた!? 先日、3000人の日本人訪中団の交流式典で「熱烈歓迎」とも取れる演説を行った習近平国家主席。この「すりより」の意味するものは? 無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』著者で国際関係アナリストの北野幸伯さんはここに、中国の「日米分断戦略」の次なる作戦を見て取ったといいます。  
中国は、なぜ日本にすりよりはじめた? どうする、日本  
2010年9月の尖閣中国漁船衝突事件。2012年9月の尖閣国有化。これで、「戦後最悪」になってしまった日中関係。ところが、中国側が、日本に「すりよって」きました。  
夕刊フジ5月25日。「朋(とも)あり遠方より来る、また楽しからずや。3000人余りの日本各界の方々が遠路はるばるいらっしゃり、友好交流大会を開催する運びになった。われわれが大変喜びとするところだ」習氏は23日夜、北京の人民大会堂で開かれた交流式典に突然姿を見せ、孔子の言葉を引用しながら笑顔であいさつした。会場では二階氏とも面会し、安倍首相の親書を受け取り、「戦略的互恵関係を進めていけば、日中関係はいい結果になると期待している。安倍首相によろしく伝えてほしい」と語った。  
これ、「中国はようやくわかってくれた!これで日中友好は進む!」と考えるのはナイーブすぎます。  
個人で考えてみてください。昨日まで、社内でも社外でもあなたの悪口をいいまくっていた男。彼が、突如豹変し、にっこり微笑んですりよってきたら? 普通は、「なんか裏があるんじゃないか?」と疑うでしょう?そして、疑ってみるべきなのです。  
大国の言動は「戦略」にそっている  
皆さん、人生に「戦略」ありますか? 「戦略」はなくても、少なくとも「目標」はありますか? その「目標」を達成する「目的」ははっきりしていますか?  
ひょっとしたら、あなたには、「目標」も「目的」も「計画」もないかもしれません。しかし、あなたの「会社」には「目標」があるでしょう? その目標を達成するための「計画」もあるでしょう? なかったら、そうとうヤバいですね。  
国家だって同じです。  
自分の国を「こうしたい」という目標があって、計画をたて、それにむかって前進していく(日本は、しばしば「行き当たりばったり」なので、他国の行動が理解できない)。  
では、中国の目標ってなに?  
まずは、日本に勝って「アジアの覇権国」になることでしょう。  
こちらをごらんください。  
習近平主席 太平洋には米中両大国を受け入れる十分な空間 Bloomberg 5月18日配信 / (ブルームバーグ):中国の習近平国家主席は17日、ケリー米国務長官に対し、米中双方は両国の関係に影響しない形で意見の相違を管理する必要があると述べた。米国は中国による南シナ海への進出について自制を促している。国営新華社通信などによれば、習国家主席は人民大会堂でケリー国務長官と会談し、両国の関係は「全体的に安定している」と評価。「両国の新たな関係は初期の成果を得ている」と述べた。さらに、「広い太平洋は中国と米国の両国を受け入れる十分な空間がある」とも語った。  
これって、「中国は太平洋の東半分を支配する。アメリカは西半分を支配するってことでどう?」といっているように感じますね?  
歴史をみれば、•スペインとポルトガルの覇権争い / •スペインとオランダの覇権争い / •オランダとイギリスの覇権争い / •イギリスとフランスの覇権争い / •イギリスとドイツの覇権争い / •アメリカとソ連の覇権争いなど、ナンバー1とナンバー2は常に覇権争いをしてきました。だから、中国だけが例外になって、「覇権争いをしない」と考えるのは、「平和ボケ」なのです。  
まず、「アジアの覇権」を奪い、そしてアメリカを蹴落として「世界の覇権を狙う」ということでしょう。  
アメリカのリベラル派は、「いや、中国はアメリカがつくった世界秩序の中で台頭したいだけ。アメリカの脅威にはならない」といっていた。しかし、「AIIB」を見て、中国は明らかに、「アメリカとは別の世界秩序をつくろうとしている」ことに気がついた。それで、アメリカのリベラルも、慌ててるのです。  
中国、最重要戦略は、「日米分断」  
では、どうやって、アジアの覇権、ついで世界の覇権を得るのか?これ、簡単で、まず日本を叩き潰す。日米を分断し、日本が米国債を買わなくなれば、アメリカをつぶすことも容易になるでしょう。それで、2012年11月、中国はモスクワで、ロシアと韓国に「反日統一戦線構築」を提案した。毎回書いていますが、その骨子は、  
1.中国、ロシア、韓国で、【反日統一戦線】をつくろう!  
2.日本には、北方4島、竹島、そして【沖縄】の領有権もない(つまり、沖縄は【中国領】である)  
3.【アメリカ】を反日統一戦線に引き込もう  
どれもすごいですが、特に3番目は重要です。  
この戦略に沿って、中国は、全世界、特にアメリカで大々的に「反日プロパガンダ」を展開してきた。安倍総理訪米前に、アメリカ政府から、「議会演説では中韓にきっちり謝罪しろ!」と圧力がかかるほど、プロパガンダは浸透していた。  
ところが、3月に(日本以外の親米国が全部アメリカを裏切った)「AIIB事件」が起こった。これで、アメリカは、「わが国最大の脅威は、ロシアではなく中国である」と理解した。そこに安倍総理がやってきて、「希望の同盟」演説をし、日米関係は非常に良好になった。これで、「反日プロパガンダ」による「日米分断工作」はいったん挫折したのです。  
しかし、「戦略」は不変  
いままで、アメリカに日本の悪口をいいつづけることで、日米分断をはかってきた。それがうまくいかなかったらどうするか? 別の方法を考えればいい。たとえば、日中関係を改善する。するとどうなります? 実を言うと、結果は同じ「日米分断」になるのです。たとえば、鳩山ー小沢政権のとき、日中関係はとてもよかった。それで、日米関係はどうなりました? そう、「戦後最悪」になった。「日本の悪口を、アメリカにいいつづける」「日本との関係をよくする」この2つは全然違うように見えますが、「戦略」からみると、「まったく同じこと」なのです。何が違うかというと、戦略を達成するための【作戦】が違う。  
では、日本はどうするべきか?  
日中関係については最近、アメリカに利用されないよう、「中国を挑発するな」という記事を書きました。 そしたら、今度は中国がすりよってきた。日本はどうすればいいのでしょうか?これは簡単で、アメリカに、「中国がこんなこといってきましたが、どうしたらいいでしょうか?」ときけばいいのです。「やはり、北野は『従米主義者だ!!!』」こんな意見も出ることでしょう。しかし、私たちの目標は、あくまで「アメリカを中心とする中国包囲網の形成」でしょう? 日本としては、アメリカに利用されて、「日本 対 中国」の対立構造になりたくない。そのためには、「いつもアメリカが主人公」でいてもらったほうがいいのです。これは日本が主体的に、「アメリカを主人公にする」のですから、まったく「従米」ではありません。  
日米関係をさらに「盤石」にするために  
それに、日米関係は、AIIB事件と安倍総理の米議会演説でよくなったとはいえ、「強固」「盤石」というには、ほど遠い状況です。日本は、わずか2年半前まで「反米親中」民主党が政権にあった。そして、安倍総理も、4月末まで、「右翼」「軍国主義者」「歴史修正主義者」と思われていた。もし日本が、アメリカを味方につけて中国に圧勝しようとすれば、「日米関係をさらに強化する」言動をとっていく必要があります。そのために必要なのは、「一貫性」です。  
台湾は、1年365日、しかも何十年も「日本が好きです!」といいつづけている。つまり「一貫性」がある。だから、日本人は台湾が好きです。  
しかし、中国は、「反日統一戦線をつくろう!」といったり、「仲良くしよう」といったり、全然一貫性がない。だから、信用できない。  
日本も、少なくとも中国が沖縄侵略をあきらめるまでは、一貫して「アメリカが好きです」といいつづけなければなりません。安倍総理も、毎日オバマさんに電話して、「報連相」するぐらいでちょうどいいのです。 
南シナ海で何が起きようとしているのか? 「日米欧vs.中ロ」は一触即発 2015/5/29  
南シナ海の緊張が激化している。5月20日には中国による岩礁の埋め立て・軍事基地化を警戒し偵察飛行していた米国の対潜哨戒機に対して、中国海軍が8回にわたって退去するよう警告する事件も起きた。米中はどうなるのか、そして日本は…。  
前CIA副長官が「中国との戦争やむなし」発言  
米中間の緊張はいまや「戦争も避けられない」といった過激な声まで飛び出すほどだ。米中央情報局(CIA)のマイケル・モレル前副長官は20日、CNNのインタビューに答えて「南シナ海で中国の攻撃的行動が引き起こしている米中間の対立は、まさしく将来いつかの時点で戦争に突入する危険性を示している」と語った。  
するとその5日後、今度は中国の共産党系新聞「環球時報」が「米国が中国に人工島の建設停止を要求するのをやめなければ、米国との戦争は避けられない」という論説記事を掲載した。米国と戦うことも考えて、中国は「注意深く準備すべきだ」とも指摘した。  
まさに売り言葉に買い言葉のような展開である。米国の偵察飛行は公海上だったが、米国は近い将来、埋め立て現場から12海里以内にも進入する構えだ。そうしなければ「12海里以内は我々の領海」という中国の主張を認めた形になって、それは絶対に認められないからだ。  
私は日米首脳会談直後に書いた5月1日公開のコラムで「今後の焦点は尖閣諸島ではない。むしろ南シナ海だ」と指摘した。それから、わずか3週間でこの展開である。  
中国は26日に発表した国防白書で米国の名指しを避けながらも「地域外の国の南シナ海への介入」を指摘して「海上軍事闘争への準備」を呼びかけた。この調子だと、南シナ海を舞台にした米中の対立は一段と激化していくだろう。  
緊張の現場は「南シナ海」だけに限らない。習近平国家主席はロシアの対ドイツ戦勝70周年記念式典に出席し、プーチン大統領と肩を並べて軍事パレードを観閲した。その直後、中国とロシアの艦隊が地中海で合同軍事演習を実施した。  
地中海は欧州の裏庭である。ロシアによるクリミア侵攻以来、欧州はロシアを脅威とみなして、北大西洋条約機構(NATO)の軍用機を東欧やバルト諸国に派遣し厳戒態勢を敷いてきた。「これ以上のロシアの無法は許さない」という決意の表れである。  
中ロ海軍がまもなく日本海で軍事演習  
一方で、英国をはじめ独仏など欧州各国は相次いで中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加を表明した。なぜかといえば、4月1日公開コラムで指摘したように「欧州にとって中国は脅威ではない」という認識だったからだ。欧州は中国を相互に利益を得るウインウイン関係のビジネス・パートナーとみなしてきたのだ。  
ところが今回、わずか3隻とはいえ中国の艦隊が地中海に登場した。こともあろうに、欧州の敵であるロシアの艦隊(6隻)と初めて合同軍事演習を繰り広げたのだ。欧州が受けた衝撃は少なくない。  
もはや中国が欧州を脅かす可能性がゼロとはいえなくなったからだ。ロシアの立場で考えれば、欧州をけん制するうえで「中国の援軍」はだれより頼もしく映っただろう。  
地中海だけにもとどまらない。中ロ両国海軍は8月、日本海で合同軍事演習をする予定だ。こちらは中国にとって願ってもない展開である。尖閣諸島をめぐって日本に圧力を加えるうえで「ロシアの援軍」を期待できるからだ。中ロの異常接近は双方が欧州と日本をにらんで、だれにも明らかなけん制のデモンストレーション(示威活動)になった。  
ゴールデンウィークの首脳会談で安倍晋三首相とオバマ大統領が日米同盟の緊密さを高らかにうたい上げたと思ったら、中国とロシアは直ちに反応し、米国を出し抜くように地中海で欧州を飛び上がらせ「次は日本海だぞ!」と日本を脅かしているのだ。  
こうした展開は中ロvs日米欧の冷戦復活を思わせる。  
かつての冷戦は共産主義勢力が活発に動いたトルコ、ギリシャに対する米国の援助(トルーマン・ドクトリン、1947年)から始まり、旧ソ連が道路と鉄道を封鎖したベルリン危機(48年)で後戻りできなくなった。  
同じように、いまの南シナ海の岩礁埋め立て・軍事基地建設問題は1つ間違えれば、中ロと日米欧のグローバルな対立に発展しかねない危険性を秘めている。というより、むしろ「南シナ海はクリミア半島を含めてグローバルに広がりつつある緊張状態を象徴するホット・ポイント」と理解するほうが正確ではないか。  
だからこそ、いまは局地的に見えても、南シナ海の扱いがグローバルな緊張の行方を左右する鍵になる。そんな南シナ海危機に日本はどう対応するのか。  
自衛隊は南シナ海でどこまでやるのか  
先の5月1日公開コラムで触れたように、日米が合意した防衛協力の指針は南シナ海を念頭に置いて「平時からの協力措置」の1番目に「情報収集、警戒監視及び偵察」を挙げて次のように記した。  
〈自衛隊及び米軍は、各々のアセットの能力及び利用可能性に応じ、情報収集、警戒監視及び偵察(ISR)活動を行う。これには、日本の平和及び安全に影響を与え得る状況の推移を常続的に監視することを確保するため、相互に支援する形で共同のISR活動を行うことを含む〉  
注意深く「アセットの能力及び利用可能性に応じ」、つまり「できる範囲でやりますよ」と書いているが、まさに今後は「自衛隊は南シナ海でどこまでやるのか」が焦点になる。中谷元防衛相は最近の日本経済新聞のインタビューで「日本を取り巻く情勢、日米間の議論などを踏まえて不断に検討していく課題だ」と答えている。  
政府内には「尖閣諸島を抱えて南シナ海まで手を広げられるのか」という慎重論もあるが、実は自衛隊はすでに「下見」を始めている。海上自衛隊の対潜哨戒機P3Cが南シナ海周辺を飛んでいるのだ。  
P3Cが初めて海外に出たのは2009年だ。ソマリア沖の海賊対策に自衛隊法で認められている海上警備行動として出動し、隣のジブチに設営した基地を拠点に警戒監視活動にかかわった。ジブチは事実上、自衛隊初の海外基地になっている。  
ソマリア沖で活動を続けてきたP3Cは5月13日、日本に帰国途中、ベトナムのダナンに立ち寄った。この件は産経新聞が報じている。ほぼ同じ時期に外洋航海の演習中だった海上自衛隊の護衛艦2隻、直前には米海軍のミサイル駆逐艦もダナンに寄港している。  
この飛来は中国の埋め立てに対する警戒監視活動と銘打ってはいないが、実質的に自衛隊による警戒監視の下見とみて間違いない。  
P3Cは高性能を誇るが、いかんせん航続距離は6600キロにとどまる。日本最南端の沖縄・那覇基地から南シナ海までは2000キロだ。那覇から飛んで任務を遂行するには遠すぎる。どうしても現地近くに基地を設けて補給する必要が出てくる。  
P3Cはなぜベトナム・ダナンに立ち寄ったのか  
そこで注目されるのが、ベトナムやフィリピンなど中国の脅威にさらされて、日米の支援を求めている国々なのだ。ベトナムやフィリピンの基地を自衛隊が活用できれば問題はなくなる。そういう展開をにらんで今回、P3Cがダナンに立ち寄ったとみていい。  
日本はフィリピンとの間で1月29日、防衛協力強化を目指して覚書を交わしている。フィリピンのガズミン防衛相はその際、中谷元防衛相との会談で「強く日本の対応、姿勢を支持するとともに全力で協力する」と発言している。  
フィリピンは1992年に米軍を追い出した後、中国の岩礁占拠を目の当たりにして2014年4月、米国と軍事協定を結び直した。クラーク空軍基地やスービック海軍基地を再び米軍に提供する。  
そうなれば、自衛隊のP3Cがクラーク空軍基地を使えるようになるかもしれない。そもそもフィリピン自身が1月の防衛相会談で日本に中古の自衛隊P3Cを供与してくれないか、と打診しているのだ。このときはフィリピン側の運用能力の問題で日本が断っているが、自衛隊が来てくれるのなら、自分たちの技術習得に役立つのだから大歓迎だろう。  
国会では安保法制見直しをめぐって「武力行使の例外拡大がどう」とか「自衛隊員のリスクがどう」とか議論されている。それが大事でないとは言わないが、現実に進行している南シナ海危機と水面下の自衛隊の対応こそ国民が知りたい話ではないか。 
2015年6月7-8日 - G7 エルマウ・サミット

 

安倍首相、対中「G7共通の価値観」構築狙う 6/7  
7日にドイツ南部エルマウ城で開幕した主要国首脳会議(サミット、G7)で、ウクライナ情勢と並び注目を集めるのが中国による南シナ海での岩礁埋め立て問題だ。安倍晋三首相は、オバマ米大統領とともに「国際法を無視した行動は許されない」と問題提起し、中国寄りの姿勢が目立つ欧州の首脳とも中国非難の「共通の価値観」構築を狙う。  
「日本はG7唯一のアジアの国だから、アジア情勢についてもしっかりと議論したい。その上で、G7の結束を示すサミットにしたいと思う」  
安倍首相は5日、今回の外遊出発に先立ち、羽田空港で記者団にこう語った。「アジア情勢」の一番の念頭にあるのが中国問題だ。  
中国は南シナ海のスプラトリー(中国名・南沙)諸島で大規模な埋め立てを進めており、中国人民解放軍幹部が埋め立ては軍事目的であることを公言するようにもなった。中国の野心的な試みに対する国際社会の懸念の高まりを受け、以前から尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺への中国の海洋進出に対し脅威を訴え続けてきた安倍首相への共感は広がりつつある。  
ただ、地理的に中国とは距離のある欧州諸国は、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に相次いで参加表明するなど、巨大な人口を抱える中国との経済的な結び付きは強めたいのが本音でもある。中国を欧州の経済成長に欠かせない市場とみており、深刻な対立は避けたいのだ。  
安倍首相はサミットの討議で、中国に対する欧州の“ダブルスタンダード”を突き、対中非難を強める日米への同調を訴える構え。同行筋は「安倍首相は、欧州首脳に『南シナ海と経済で、中国への対応が違うのではないか』と指摘するつもりだ」と明かす。  
6日に北京で開かれた「日中財務対話」では経済・金融分野での協力推進で日中両国は一致したが、安全保障面での中国の脅威が増せば、日中の「戦略的互恵関係」は根底から覆されかねない。安倍首相は欧州首脳を味方に引き込み、中国に対抗したい考えだ。 
■Leadersʼ Declaration G7 Summit
7-8 June 2015  
We, the leaders of the G7, met in Elmau for our annual Summit on 7 and 8 June 2015. Guided by our shared values and principles, we are determined to work closely together to meet the complex international economic and political challenges of our times. We are committed to the values of freedom and democracy, and their universality, to the rule of law and respect for human rights, and to fostering peace and security. Especially in view of the numerous crises in the world, we as G7 nations stand united in our commitment to uphold freedom, sovereignty and territorial integrity.  
The G7 feels a special responsibility for shaping our planet’s future. 2015 is a milestone year for international cooperation and sustainable development issues. The UN Climate Conference in Paris COP 21 is crucial for the protection of the global climate, the UN summit in New York will set the universal global sustainable development agenda for the years to come and the Third International Conference on Financing for Development in Addis Ababa will support the implementation of the Post-2015 Development Agenda. We want to provide key impetus for ambitious results. “Think ahead. Act together.” – that is our guiding principle.  
We have today agreed on concrete steps with regard to health, the empowerment of women and climate protection, to play our part in addressing the major global challenges and to respond to some of the most pressing issues in the world. Furthermore, in addition to fostering trade as a key engine for growth, putting these concrete steps into action, will help us to achieve our pivotal goal of strong, sustainable and balanced growth as well as job creation. We call on others to join us in pursuing this agenda.  
( 2015G7エルマウ・サミット首脳宣言  
我々G7 首脳は、年一回のサミットのため、2015 年6 月7日及び8 日にエルマウで会合を開催した。我々は、共有された価値と理念に導かれ、現代の複雑で国際的な経済的及び政治的諸課題に対処するために緊密に協働することを決意する。我々は、自由及び民主主義の価値、これらの普遍性、法の支配及び人権の尊重、並びに平和及び安全を促進することにコミットしている。特に世界の多数の危機に鑑み、我々は、G7諸国として、自由、主権及び領土の一体性を堅持するとの我々のコミットメントにおいて一致団結する。  
G7は、地球の将来を形成する上で特別な責任を感じている。2015年は、国際協力及び持続可能な開発課題にとって、節目となる年である。パリでの気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)は、世界の気候の保護にとって極めて重要であり、ニューヨークでの国連サミットは、今後にわたる、普遍的で、地球規模で、持続可能な開発アジェンダを設定し、アディスアベバでの第3回開発資金国際会議は、ポスト2015年開発アジェンダの実施を支持する。我々は、野心的な結果のための重要な推進力を提供することを望む。「先を見越して考え、共に行動する。」、これが我々の指針である。  
我々は、本日、主要な世界的課題に対処する役割を果たすために、また、世界で最も喫緊の諸課題に対応するために、保健、女性の能力強化及び気候保護に関する具体的な措置について合意した。さらに、貿易を成長の主要な原動力として促進することに加えてこれらの具体的な措置を実施することは、強固で持続可能かつ均衡ある成長及び雇用創出という我々の重要な目標を達成することを助ける。我々は、他の国々に対して、このアジェンダの追求に参加するよう要請する。)
■Global Economy  
State of the Global Economy  
The global economic recovery has progressed since we last met. In some major advanced economies growth is strengthening and prospects have improved. The decline of energy prices has supportive effects in most of the G7 economies. However, many of our economies are still operating below their full potential and more work is needed to achieve our aim of strong, sustainable and balanced growth. Overall G7 unemployment is still too high, although it has decreased substantially in recent years. We also continue to see challenges such as prolonged low inflation rates, weak investment and demand, high public and private debt, sustained internal and external imbalances, geopolitical tensions as well as financial market volatility.  
We commit to addressing these challenges and to continuing our efforts to achieve growth for all. Stronger and inclusive growth requires that we confront the vulnerabilities in our economies. To ensure that G7 countries operate at the technological frontier in the years ahead, we will foster growth by promoting education and innovation, protecting intellectual property rights, supporting private investment with a business friendly climate especially for small and medium-sized enterprises, ensuring an appropriate level of public investment, promoting quality infrastructure investment to address shortfalls through effective resource mobilization in partnership with the private sector and increasing productivity by further implementing ambitious structural reforms.  
We agree to deliver on past reform commitments in these areas which will increase confidence and lift sustainable growth. We will continue to implement our fiscal strategies flexibly to take into account near-term economic conditions, so as to support growth and job creation, while putting debt as a share of GDP on a sustainable path. We concur that monetary policies should maintain price stability and support economic recovery within the mandate of central banks. We reaffirm our existing G7 exchange rate commitments.  
A sound economic basis is a cornerstone for a better life for all people. Putting the world on a sustainable growth path in the long run will require in particular the protection of our climate, the promotion of health and the equal participation of all members of society. Therefore, the G7 commits to putting these issues at the centre of our growth agenda.  
Women’s Entrepreneurship  
Women’s entrepreneurship is a key driver of innovation, growth and jobs. However, across G7 countries and around the world far fewer women than men run their own businesses often due to additional barriers that women face in starting and growing businesses. We agree on common principles to boost women’s entrepreneurship, as set out in the annex, and invite other interested countries to join us in this effort. In particular, we will make girls and women aware of the possibility of becoming entrepreneurs. We will address the specific needs of women entrepreneurs, e.g. by promoting their access to finance, markets, skills, leadership opportunities and networks. We ask the OECD to monitor progress on promoting women’s entrepreneurship. We welcome the G7 Forum for Dialogue with Women to be hosted by the Presidency on 16 and 17 September 2015. We also reaffirm our commitment to continue our work to promote gender equality as well as full participation and empowerment for all women and girls. We welcome the “World Assembly for Women: WAW!” to be hosted by Japan, G7 Presidency in 2016.  
Financial Market Regulation  
A sound international financial system is key to putting growth on a sustainable path. Core reforms have been agreed to tackle the root causes of the global financial crisis, and important progress has been made on building a stronger and more resilient financial system, in particular by strengthening the soundness of the banking sector. However, the job is not yet finished, and following through on regulatory reform continues to be key. Going forward, we have identified the following priorities: full, consistent and prompt implementation of agreed reforms will be essential to ensuring an open and resilient global financial system. We will continue to address the “too-big-to-fail” problem on a global level to protect taxpayers from bearing losses generated by the failure of global systemically important financial institutions. In particular, we remain committed to finalizing the proposed common international standard on total loss absorbing capacity for global systemically important banks by November, following the completion of rigorous and comprehensive impact assessments.  
We also remain committed to strengthening the regulation and oversight of the shadow banking sector, appropriate to the systemic risk posed. Timely and comprehensive implementation of the agreed G20 shadow banking roadmap is essential. In addition, we will monitor and address any newly evolving systemic risks from market-based finance, while we will work to ensure that it is able to fulfil its role in supporting the real economy. To help reduce systemic risk and increase transparency, we also stress the importance of enhanced cross-border cooperation in financial regulatory areas to enable regulations to be more effective, particularly in the areas of resolution and derivatives markets reform, where swift implementation is required. We encourage jurisdictions to defer to each other, when justified in line with the St Petersburg Declaration. Finally, we will also continue to monitor financial market volatility in order to address any emerging systemic risk that could arise.  
Tax  
We are committed to achieving a fair and modern international tax system which is essential to fairness and prosperity for all. We therefore reaffirm our commitment to finalize concrete and feasible recommendations for the G20/OECD Base Erosion and Profit Shifting (BEPS) Action Plan by the end of this year. Going forward, it will be crucial to ensure its effective implementation, and we encourage the G20 and the OECD to establish a targeted monitoring process to that end. We commit to strongly promoting automatic exchange of information on cross-border tax rulings. Moreover, we look forward to the rapid implementation of the new single global standard for automatic exchange of information by the end of 2017 or 2018, including by all financial centres subject to completing necessary legislative procedures. We also urge jurisdictions that have not yet, or not adequately, implemented the international standard for the exchange of information on request to do so expeditiously.  
We recognize the importance of beneficial ownership transparency for combatting tax evasion, corruption and other activities generating illicit flows of finance and commit to providing updates on the implementation of our national action plans. We reiterate our commitment to work with developing countries on the international tax agenda and will continue to assist them in building their tax administration capacities.  
Moreover, we will strive to improve existing international information networks and cross-border cooperation on tax matters, including through a commitment to establish binding mandatory arbitration in order to ensure that the risk of double taxation does not act as a barrier to cross-border trade and investment. We support work done on binding arbitration as part of the BEPS project and we encourage others to join us in this important endeavour.  
Trade  
Trade and investment are key drivers of growth, jobs and sustainable development. Fostering global economic growth by reducing barriers to trade remains imperative and we reaffirm our commitment to keep markets open and fight all forms of protectionism, including through standstill and rollback. To that end, we support a further extension of the G20 standstill commitment and call on others to do the same. At the same time, we remain committed to reducing barriers to trade and to improving competitiveness by taking unilateral steps to liberalize our economies. We will protect and promote investment and maintain a level playing field for all investors. International standards for public export finance are key to avoiding or reducing distortions in global trade, and we emphasize our support for the international working group on standards for public export finance.  
We are committed to strengthening the rules-based multilateral trading system, including by contributing to full and swift implementation of the WTO Bali package. The focus in 2015 should in particular be on the entry into force of the WTO Trade Facilitation Agreement (TFA). To that end, G7 members commit to making every effort to complete their domestic ratification procedures in advance of the Tenth WTO Ministerial Conference (MC 10) in Nairobi this December. We also call for swift agreement by July of a WTO post-Bali work programme that secures a prompt conclusion and balanced outcome of the Doha Round and we fully support ongoing efforts in the WTO to this end. Both the implementation of the TFA and agreement on a post-Bali work programme should lay the ground for a successful MC 10, the first WTO Ministerial to be held in Africa. We stand ready to continue our support to developing countries to help implement the measures agreed in the TFA. We must build on the success of the 2013 WTO Ministerial, which reinvigorated the negotiating pillar of the WTO, and demonstrated that flexibility is achievable within the consensus framework of the WTO. We look forward to the discussions at the G20 on ways to make the multilateral trading system work better, based on input from the WTO.  
While strengthening the multilateral trading system remains a priority, we also welcome ongoing efforts to conclude ambitious and high-standard new bilateral and regional free trade agreements (FTAs) and look forward to swift progress in plurilateral negotiations, including the Trade in Services Agreement (TiSA), the expansion of the Information Technology Agreement (ITA) and the Environmental Goods Agreement (EGA). We will work to conclude the expansion of the ITA without delay. These agreements are able to support the multilateral system, contribute to stronger global trade and to more growth and jobs and can act as building blocks for future multilateral agreements. To this end, FTAs need to be transparent, high-standard, and comprehensive as well as consistent with and supportive of the WTO framework.  
We welcome progress on major ongoing trade negotiations, including on the Trans-Pacific Partnership (TPP), the Transatlantic Trade and Investment Partnership (TTIP) and the EU-Japan FTA/Economic Partnership Agreement (EPA), aimed at reaching ambitious, comprehensive and mutually beneficial agreements. We will make every effort to finalize negotiations on the TPP as soon as possible as well as to reach agreement in principle on the EU-Japan FTA/EPA preferably by the end of the year. We will immediately accelerate work on all TTIP issues, ensuring progress in all the elements of the negotiations, with the goal of finalizing understandings on the outline of an agreement as soon as possible, preferably by the end of this year. We welcome the conclusion of the negotiations on the Comprehensive Economic and Trade Agreement (CETA) between Canada and the EU and look forward to its timely entry into force. We will work to ensure that our bilateral and regional FTAs support the global economy.  
Responsible Supply Chains  
Unsafe and poor working conditions lead to significant social and economic losses and are linked to environmental damage. Given our prominent share in the globalization process, G7 countries have an important role to play in promoting labour rights, decent working conditions and environmental protection in global supply chains. We will strive for better application of internationally recognized labour, social and environmental standards, principles and commitments (in particular UN, OECD, ILO and applicable environmental agreements) in global supply chains. We will engage with other countries, for example within the G20, to that end.  
We strongly support the UN Guiding Principles on Business and Human Rights and welcome the efforts to set up substantive National Action Plans. In line with the UN Guiding Principles, we urge private sector implementation of human rights due diligence. We will take action to promote better working conditions by increasing transparency, promoting identification and prevention of risks and strengthening complaint mechanisms. We recognize the joint responsibility of governments and business to foster sustainable supply chains and encourage best practices.  
To enhance supply chain transparency and accountability, we encourage enterprises active or headquartered in our countries to implement due diligence procedures regarding their supply chains, e.g. voluntary due diligence plans or guides. We welcome international efforts, including private sector input, to promulgate industry-wide due diligence standards in the textile and ready-made garment sector. To promote safe and sustainable supply chains, we will increase our support to help SMEs develop a common understanding of due diligence and responsible supply chain management.  
We welcome initiatives to promote the establishment of appropriate, impartial tools to help consumers and public procurers in our countries compare information on the validity and credibility of social and environmental product labels. One example is the use of relevant apps, which are already available in some countries. Moreover, we will strengthen multi-stakeholder initiatives in our countries and in partner countries, including in the textile and ready-made garment sector, building upon good practices learned from the Rana Plaza aftermath. We will continue supporting relevant global initiatives. Furthermore, we will better coordinate our bilateral development cooperation and support partner countries in taking advantage of responsible global supply chains to foster their sustainable economic development.  
We support a “Vision Zero Fund” to be established in cooperation with the International Labour Organization (ILO). The Fund will also add value to existing ILO projects with its aim of preventing and reducing workplace-related deaths and serious injuries by strengthening public frameworks and establishing sustainable business practices. Access to the Fund will be conditional: the Fund will support those recipients that commit themselves to prevention measures and the implementation of labour, social, environmental and safety standards. We agree to follow up on the matter and look forward to the Fund reaching out to the G20.  
We also commit to strengthening mechanisms for providing access to remedies including the National Contact Points (NCPs) for the OECD Guidelines for Multinational Enterprises. In order to do so, the G7 will encourage the OECD to promote peer reviews and peer learning on the functioning and performance of NCPs. We will ensure that our own NCPs are effective and lead by example.  
We welcome the closing of the funding gap in the Rana Plaza Donor Trust Fund for compensating the victims of the tragic accident in 2013.
■Foreign Policy  
Acting on Common Values and Principles  
We, the G7, emphasise the importance of freedom, peace and territorial integrity, as well as respect for international law and respect for human rights. We strongly support all efforts to uphold the sovereign equality of all States as well as respect for their territorial integrity and political independence. We are concerned by current conflicts which indicate an erosion of respect for international law and of global security.  
Based on our common values and principles we are committed to:  
Finding a Solution to the Conflict in Ukraine  
We reiterate our condemnation of the illegal annexation of the Crimean peninsula by the Russian Federation and reaffirm our policy of its non-recognition.  
We reiterate our full support for the efforts to find a diplomatic solution to the conflict in eastern Ukraine, particularly in the framework of the Normandy format and the Trilateral Contact Group. We welcome the OSCE’s key role in finding a peaceful solution. We call on all sides to fully implement the Minsk agreements including the Package of Measures for their implementation signed on 12 February 2015 in Minsk, through the established Trilateral Contact Group and the four working groups. We are concerned by the recent increase in fighting along the line of contact; we renew our call to all sides to fully respect and implement the ceasefire and withdraw heavy weapons. We recall that the duration of sanctions should be clearly linked to Russia’s complete implementation of the Minsk agreements and respect for Ukraine’s sovereignty. They can be rolled back when Russia meets these commitments. However, we also stand ready to take further restrictive measures in order to increase cost on Russia should its actions so require. We expect Russia to stop trans-border support of separatist forces and to use its considerable influence over the separatists to meet their Minsk commitments in full.  
We commend and support the steps the Ukrainian government is taking to implement comprehensive structural reforms and urge the Ukrainian leadership to decisively continue the necessary fundamental transformation in line with IMF and EU commitments. We reaffirm our commitment to working together with the international financial institutions and other partners to provide financial and technical support as Ukraine moves forward with its transformation. We ask the G7 Ambassadors in Kiev to establish a Ukraine support group. Its task will be to advance Ukraine´s economic reform process through coordinated advice and assistance.  
( ウクライナにおける紛争解決の追求  
我々は、ロシア連邦によるクリミア半島の違法な併合への非難を改めて表明し、同併合の不承認政策を再確認する。  
我々は、ウクライナ東部における紛争の外交的解決を見いだす努力、特にノルマンディー・フォーマット及び三者コンタクト・グループの枠組みの下でのものへの完全なる支持を改めて表明する。我々は、平和的解決を見いだすことに関する欧州安全保障協力機構(OSCE)の主要な役割を歓迎する。我々は、全ての当事者に対し、設立された三者コンタクト・グループ及び4つの作業部会を通じて、2015年2月12日にミンスクにおいて署名された実施のための包括措置を含むミンスク合意を完全に履行するよう要請する。我々は、コンタクト・ライン沿いにおける最近の戦闘の増加を懸念する。我々は、全ての当事者に対し、停戦及び重火器の撤去の完全な尊重及び履行を改めて呼びかける。我々は、制裁の期間はロシアによるミンスク合意の完全な履行及びウクライナの主権の尊重に明確に関連されるべきことを想起する。制裁は、ロシアがこれらのコミットメントを履行したときに後退され得る。しかし、我々はまた、ロシアの行動に応じ必要ならば、ロシアのコストを増大させるために、更なる制限的措置をとる用意がある。我々は、ロシアが、分離派武装勢力への国境を越えた支援を停止するとともに、ミンスク合意のコミットメントを完全に履行させるよう分離派武装勢力に対し大きな影響力を行使することを期待する。  
我々は、ウクライナ政府が包括的で構造的な改革を実施するためにとっている措置を賞賛及び支持し、ウクライナの指導部がIMF及びEUのコミットメントに沿って必要な基本的変革を断固として継続することを要請する。我々は、ウクライナが変革を前進させるに当たり、資金的及び技術的な援助を提供するために、国際金融機関及び他のパートナーと協働することに関するコミットメントを再確認する。我々は、キエフのG7大使に対し、ウクライナ・サポート・グループを設立するよう求める。その任務は、協調された助言及び支援を通じて、ウクライナの経済改革プロセスを前進させることにある。)  
Achieving High Levels of Nuclear Safety  
Achieving and maintaining high levels of nuclear safety worldwide remains a major priority to us. We welcome the report of the G7 Nuclear Safety and Security Group. We remain committed to bringing the Chernobyl Shelter Project to a successful completion in order to make the Chernobyl site stable and environmentally safe.  
Maintaining a Rules-Based Maritime Order and Achieving Maritime Security  
We are committed to maintaining a rules-based order in the maritime domain based on the principles of international law, in particular as reflected in the UN Convention on the Law of the Sea. We are concerned by tensions in the East and South China Seas. We underline the importance of peaceful dispute settlement as well as free and unimpeded lawful use of the world’s oceans. We strongly oppose the use of intimidation, coercion or force, as well as any unilateral actions that seek to change the status quo, such as large scale land reclamation. We endorse the Declaration on Maritime Security issued by G7 Foreign Ministers in Lübeck.  
( ルールを基礎とした海洋秩序の維持及び海洋安全保障の達成  
我々は、とりわけ海洋法に関する国際連合条約に反映された国際法の諸原則に基づく、ルールを基礎とした海洋における秩序を維持することにコミットする。我々は、東シナ海及び南シナ海での緊張を懸念している。我々は、平和的紛争解決、及び世界の海洋の自由で阻害されない適法な利用の重要性を強調する。我々は、威嚇、強制又は武力の行使、及び、大規模な埋立てを含む、現状の変更を試みるいかなる一方的行動にも強く反対する。我々は、リューベックにおいてG7外相が発出した海洋安全保障に関する宣言を支持する。)  
Strengthening the System of Multilateral Treaties / Arms Trade Treaty  
We emphasise the importance of strengthening the system of multilateral treaties and commitments and in this regard stress the importance of the Arms Trade Treaty, which entered into force on 24 December 2014.  
Preventing and Combating Proliferation  
We remain committed to the universalisation of all relevant treaties and conventions that contribute to preventing and combating the proliferation of weapons of mass destruction, in particular the Nuclear Non-Proliferation Treaty (NPT), the Chemical Weapons Convention and the Biological and Toxin Weapons Convention. We strongly regret that, although agreement was reached on a number of substantive issues, it was not possible to reach consensus on a final document at the Ninth NPT Review Conference. The G7 renew their commitment to the full implementation of the 2010 Action Plan across the three pillars of the Treaty. The NPT remains the cornerstone of the nuclear non-proliferation regime and the essential foundation for the pursuit of nuclear disarmament and non-proliferation, as well as for the peaceful use of nuclear energy.  
Iran  
We welcome the political understanding on key parameters of a Joint Comprehensive Plan of Action reached by the E3+3, facilitated by the EU, and Iran on 2 April. We support the continuous efforts by the E3/EU+3 and Iran to achieve a comprehensive solution by 30 June that ensures the exclusively peaceful nature of Iran’s nuclear programme and ensures that Iran does not acquire a nuclear weapon. We call on Iran to cooperate fully with the International Atomic Energy Agency on verification of Iran's nuclear activities and to address all outstanding issues, including those relating to possible military dimensions. We urge Iran to respect the human rights of its citizens and to to contribute constructively to regional stability.  
North Korea  
We strongly condemn North Korea’s continued development of nuclear and ballistic missile programmes, as well as its appalling human rights violations, and its abductions of nationals from other countries.  
Supporting Diplomatic Solutions  
We are deeply concerned by the dramatic political, security and humanitarian situation in fragile countries and regions and the dangers originating from these conflicts for neighbouring countries and beyond. We condemn in the strongest terms all forms of sexual violence in conflict, and are committed to enhancing the role of women in international peace and security. Sustainable solutions need to be inclusive in order to reestablish effective governance and achieve sustainable peace and stability.  
We support the ongoing UN-led processes to find lasting solutions for peace and stability in Syria, Libya and Yemen. A genuine UN led transition based on the full implementation of the Geneva Communiqué is the only way to bring peace and defeat terrorism in Syria.  
Libya  
In Libya, we are deeply concerned about the growing terrorist threat, arms proliferation, migrant smuggling, humanitarian suffering and the depletion of state assets. Unless a political agreement is reached, the ongoing instability risks prolonging the crisis that is felt most keenly and acutely by the Libyan people themselves. They are already suffering as terrorist groups attempt to expand into ungoverned space and criminal networks exploit the situation by facilitating irregular migration through Libya.  
The time for fighting has passed, the moment for bold political decisions has come. We call on Libyans from all sides to seize this opportunity, to put down their weapons and work together to transform the aspirations that gave birth to the revolution into the political foundations of a democratic state. The time for political agreement is now and we commend those Libyans who have supported the dialogue process and displayed leadership by pursuing peace in their own communities.  
We welcome the progress made by all the parties to the negotiations led by UNSRSG Bernardino León. Libyan leaders must now grasp the opportunity to conclude these negotiations and to form a Government of National Accord (GNA) accountable to the Libyan people. They, and those who have influence over them, must show the necessary strength and leadership at this critical moment to reach and implement agreement.  
Once an agreement is reached, we stand ready to provide significant support to such an inclusive and representative government as it tries to build effective state institutions, including security forces, to restore public services, to expand infrastructure, strengthen, rebuild and diversify the economy and to rid the country of terrorists and criminal networks.  
Israeli-Palestinian Conflict  
On the Israeli-Palestinian conflict, we call upon the parties, with the active support of the International Community, including the Quartet, to work towards a negotiated solution based on two States living in peace and security.  
Fighting Trafficking of Migrants/Tackling Causes for Refugee Crises  
We are extremely preoccupied about the increasing and unprecedented global flow of refugees, internally displaced persons, and migrants caused by a multitude of conflicts and humanitarian crises, dire economic and ecological situations and repressive regimes. Recent tragedies in the Mediterranean and the Bay of Bengal/Andaman Sea illustrate the urgent need to address effectively this phenomenon, and in particular the crime of trafficking of migrants. We reaffirm our commitment to prevent and combat the trafficking of migrants, and to detect, deter and disrupt human trafficking in and beyond our borders. We call upon all nations to tackle the causes of these crises that have such tragic consequences for so many people and to address the unique development needs of middle-income countries hosting refugees and migrants.  
Fighting Terrorism and its Financing  
The scourge of terrorism has affected countless innocent victims. It denies tolerance, the enjoyment of universal human rights and fundamental freedoms, including religious freedom, destroys cultural heritage and uproots millions of people from their homes. In light of the Foreign Terrorist Fighters phenomenon, the fight against terrorism and violent extremism will have to remain the priority for the whole international community. In this context we welcome the continued efforts of the Global Coalition to counter ISIL/Da’esh. We reaffirm our commitment to defeating this terrorist group and combatting the spread of its hateful ideology. We stand united with all countries and regions afflicted by the brutal terrorist acts, including Iraq, Tunisia and Nigeria whose leaders participated in our discussions at Schloss Elmau. It is a task for all nations and societies to confront the conditions conducive to the spread of terrorism and violent extremism, including the spread of hatred and intolerance, also through the internet, by promoting good governance and respect for human rights. We stress the importance of implementing the necessary measures to detect and prevent acts of terrorism, to prosecute those responsible, and rehabilitate and reintegrate offenders, in accordance with international law, and to prevent the financing of terrorism.  
The fight against terrorism and terrorist financing is a major priority for the G7. We will continue to act fast and decisively, and will strengthen our coordinated action. In particular we reaffirm our commitment to effectively implement the established international framework for the freezing of terrorists’ assets, and will facilitate cross-border freezing requests among G7 countries. We will take further actions to ensure greater transparency of all financial flows, including through an appropriate regulation of virtual currencies and other new payment methods. We reaffirm the importance of the ongoing work undertaken by the Financial Action Task Force (FATF), and commit to contributing actively to this work. We will strive to ensure an effective implementation of FATF standards, including through a robust follow-up process.  
Likewise, we are committed to combating wildlife trafficking, which is pushing some of the world’s species to the brink of extinction and in some instances is being used to finance organized crime, insurgencies, and terrorism.  
Supporting African Partners  
We welcome the strengthening of democratic institutions and the growing economic opportunities across Africa, and note this progress under challenging circumstances across the continent, including progress in establishing stability in Somalia and a largely peaceful democratic transition in Nigeria. We reiterate our continued commitment to support African partners in addressing challenges to security, governance and stability, including in Mali, Sudan, South Sudan, the Central African Republic, the Democratic Republic of Congo, Somalia, Nigeria and most recently Burundi.  
Supporting Afghanistan  
We are committed to an enduring partnership with Afghanistan in support of its stability, prosperity and democratic future.  
Supporting the Reconstruction in Nepal  
We are deeply saddened by the loss of life and destruction caused by the devastating earthquakes in Nepal and are offering the people and the government of Nepal our ongoing support. We will continue to provide emergency assistance as needed and are ready to consider requests for bi- and multilateral financial and technical support as well as reconstruction assistance in alignment with the priorities of the Nepalese government. We strive to contribute to the restoration of lost and damaged cultural treasures.
■Health  
The enjoyment of the highest attainable standard of health is one of the fundamental rights of every human being. We are therefore strongly committed to continuing our engagement in this field with a specific focus on strengthening health systems through bilateral programmes and multilateral structures.  
Ebola  
We commit to preventing future outbreaks from becoming epidemics by assisting countries to implement the World Health Organization’s International Health Regulations (IHR), including through Global Health Security Agenda and its common targets and other multilateral initiatives. In order to achieve this we will offer to assist at least 60 countries, including the countries of West Africa, over the next five years, building on countries’ expertise and existing partnerships. We encourage other development partners and countries to join this collective effort. In this framework, we will also be mindful of the healthcare needs of migrants and refugees.  
The Ebola crisis has shown that the world needs to improve its capacity to prevent, protect against, detect, report and respond to public health emergencies. We are strongly committed to getting the Ebola cases down to zero. We also recognize the importance of supporting recovery for those countries most affected by the outbreak. We must draw lessons from this crisis. We acknowledge the work that is being done by the WHO and welcome the outcome agreed at the Special Session of the Executive Board on Ebola and the 68th World Health Assembly. We support the ongoing process to reform and strengthen the WHO’s capacity to prepare for and respond to complex health crises while reaffirming the central role of the WHO for international health security.  
We welcome the initiative proposed by Germany, Ghana and Norway to the UN Secretary-General to draw up a comprehensive proposal for effective crisis management in the area of health and look forward to the report to be produced by the end of the year by the high-level panel established by the UN Secretary General. The Ebola outbreak has shown that the timely mobilization and disbursement of appropriate response capacities, both funding and human resources, is crucial. We welcome the ongoing development of mechanisms including by the WHO, the World Bank and the International Monetary Fund and call on all partners to strongly coordinate their work. We support the initiative taken by the World Bank to develop a Pandemic Emergency Facility. We encourage the G20 to advance this agenda. Simultaneously, we will coordinate to fight future epidemics and will set up or strengthen mechanisms for rapid deployment of multidisciplinary teams of experts coordinated through a common platform. We will implement those mechanisms in close cooperation with the WHO and national authorities of affected countries.  
Antimicrobial Resistances  
Antimicrobials play a crucial role for the current and future success of human and veterinary medicine. We fully support the recently adopted WHO Global Action Plan on Antimicrobial Resistance. We will develop or review and effectively implement our national action plans and support other countries as they develop their own national action plans.  
We are strongly committed to the One Health approach, encompassing all areas – human, and animal health as well as agriculture and the environment. We will foster the prudent use of antibiotics and will engage in stimulating basic research, research on epidemiology, infection prevention and control, and the development of new antibiotics, alternative therapies, vaccines and rapid point-of-care diagnostics. We commit to taking into account the annex (Joint Efforts to Combat Antimicrobial Resistance) as we develop or review and share our national action plans.  
Neglected Tropical Diseases  
We commit ourselves to the fight against neglected tropical diseases (NTDs). We are convinced that research plays a vital role in the development and implementation of new means of tackling NTDs. We will work collaboratively with key partners, including the WHO Global Observatory on Health Research and Development. In this regard we will contribute to coordinating research and development (R&D) efforts and make our data available. We will build on efforts to map current R&D activities, which will help facilitate improved coordination in R&D and contribute to better addressing the issue of NTDs. We commit to supporting NTD-related research, focusing notably on areas of most urgent need. We acknowledge the role of the G7-Academies of Science in identifying such areas. In particular, we will stimulate both basic research on prevention, control and treatment and research focused on faster and targeted development of easily usable and affordable drugs, vaccines and point-of-care technologies.  
As part of our health system strengthening efforts we will continue to advocate accessible, affordable, quality and essential health services for all. We support community based response mechanisms to distribute therapies and otherwise prevent, control and ultimately eliminate these diseases. We will invest in the prevention and control of NTDs in order to achieve 2020 elimination goals.  
We are committed to ending preventable child deaths and improving maternal health worldwide, supporting the renewal of the Global Strategy for Women’s, Children’s and Adolescents’ Health and welcoming the establishment of the Global Financing Facility in support of “Every Woman, Every Child” and therefore welcome the success of the replenishment conference in Berlin for Gavi, the Global Vaccine Alliance, which has mobilized more than USD 7.5 billion to vaccinate an additional 300 million children by 2020. We fully support the ongoing work of the Global Fund to fight AIDS, Tuberculosis and Malaria and look forward to its successful replenishment in 2016 with the support of an enlarged group of donors.
■Climate Change, Energy, and Environment  
Climate Change  
Urgent and concrete action is needed to address climate change, as set out in the IPCC’s Fifth Assessment Report. We affirm our strong determination to adopt at the Climate Change Conference in December in Paris this year (COP21) a protocol, another legal instrument or an agreed outcome with legal force under the United Nations Framework Convention on Climate Change (UNFCCC) applicable to all parties that is ambitious, robust, inclusive and reflects evolving national circumstances.  
The agreement should enhance transparency and accountability including through binding rules at its core to track progress towards achieving targets, which should promote increased ambition over time. This should enable all countries to follow a low-carbon and resilient development pathway in line with the global goal to hold the increase in global average temperature below 2 °C.  
Mindful of this goal and considering the latest IPCC results, we emphasize that deep cuts in global greenhouse gas emissions are required with a decarbonisation of the global economy over the course of this century. Accordingly, as a common vision for a global goal of greenhouse gas emissions reductions we support sharing with all parties to the UNFCCC the upper end of the latest IPCC recommendation of 40 to 70 % reductions by 2050 compared to 2010 recognizing that this challenge can only be met by a global response. We commit to doing our part to achieve a low-carbon global economy in the long-term including developing and deploying innovative technologies striving for a transformation of the energy sectors by 2050 and invite all countries to join us in this endeavor. To this end we also commit to develop long term national low-carbon strategies.  
The G7 welcomes the announcement or proposal of post-2020 emission targets by all its members, as well as the submission of intended nationally determined contributions (INDC) and calls upon all countries to do so well in advance of COP21. We reaffirm our strong commitment to the Copenhagen Accord to mobilizing jointly USD 100 billion a year by 2020 from a wide variety of sources, both public and private in the context of meaningful mitigation actions and transparency on implementation.  
Climate finance is already flowing at higher levels. We will continue our efforts to provide and mobilize increased finance, from public and private sources, and to demonstrate that we and others are well on our way to meet the USD 100 bn goal and that we stand ready to engage proactively in the negotiations of the finance provisions of the Paris outcome. We recognize the potential of multilateral development banks (MDBs) in delivering climate finance and helping countries transition to low carbon economies. We call on MDBs to use to the fullest extent possible their balance sheets and their capacity to mobilize other partners in support of country-led programs to meet this goal. We thank the presidency for the publication of the Background Report on Long-Term Climate Finance and call for a further exchange in all relevant fora in view of COP 21.  
Mobilization of private sector capital is also crucial for achieving this commitment and unlocking the required investments in low-carbon technologies as well as in building resilience against the effects of climate change. To overcome existing investment barriers finance models with high mobilization effects are needed.  
To this end, we will:  
a) Intensify our support particularly for vulnerable countries’ own efforts to manage climate change related disaster risk and to build resilience. We will aim to increase by up to 400 million the number of people in the most vulnerable developing countries who have access to direct or indirect insurance coverage against the negative impact of climate change related hazards by 2020 and support the development of early warning systems in the most vulnerable countries. To do so we will learn from and build on already existing risk insurance facilities such as the African Risk Capacity, the Caribbean Catastrophe Risk Insurance Facility and other efforts to develop insurance solutions and markets in vulnerable regions, including in small islands developing states, Africa, Asia and Pacific, Latin America and the Caribbean as set out in the annex.  
b) Accelerate access to renewable energy in Africa and developing countries in other regions with a view to reducing energy poverty and mobilizing substantial financial resources from private investors, development finance institutions and multilateral development banks by 2020 building on existing work and initiatives, including by the Global Innovation Lab for Climate Finance as set out in the annex.  
We also reaffirm our ambition to make the Green Climate Fund fully operational in 2015 and a key institution of the future climate finance architecture.  
We remain committed to the elimination of inefficient fossil fuel subsidies and encourage all countries to follow and we remain committed to continued progress in the OECD discussions on how export credits can contribute to our common goal to address climate change.  
We pledge to incorporate climate mitigation and resilience considerations into our development assistance and investment decisions. We will continue our efforts to phase down hydrofluorocarbons (HFCs) and call on all Parties to the Montreal Protocol to negotiate an amendment this year to phase down HFCs and on donors to assist developing countries in its implementation.  
In order to incentivize investments towards low-carbon growth opportunities we commit to the long-term objective of applying effective policies and actions throughout the global economy, including carbon market-based and regulatory instruments and call on other countries to join us. We are committed to establishing a platform for a strategic dialogue on these issues based on voluntary participation and in cooperation with relevant partners, including the World Bank.  
Energy  
We reaffirm our commitment to the energy security principles and specific actions decided in Brussels in 2014, welcome the progress achieved since then under the Rome G7 Energy Initiative and will continue their implementation. Moreover, we welcome the G7 Hamburg Initiative for Sustainable Energy Security, in particular the additional concrete joint actions to further strengthen sustainable energy security in the G7 countries and beyond.  
Notably, we reaffirm our support for Ukraine and other vulnerable countries in their ongoing efforts to reform and liberalize their energy systems and reiterate that energy should not be used as a means of political coercion or as a threat to security. We welcome the intention of the Ukrainian government to reduce energy-related subsidies and invest in energy efficiency programmes.  
In addition, we intend to continue our work on assessments of energy system vulnerabilities. Moreover, we will work on strengthening the resilience and flexibility of gas markets, covering both pipeline gas and liquefied natural gas. We regard diversification as a core element of energy security and aim to further diversify the energy mix, energy fuels, sources and routes. We will strengthen cooperation in the field of energy efficiency and launch a new cooperative effort on enhancing cybersecurity of the energy sector. And we will work together and with other interested countries to raise the overall coordination and transparency of clean energy research, development and demonstration, highlighting the importance of renewable energy and other low-carbon technologies. We ask our Energy Ministers to take forward these initiatives and report back to us in 2016.  
Resource Efficiency  
The protection and efficient use of natural resources is vital for sustainable development. We strive to improve resource efficiency, which we consider crucial for the competitiveness of industries, for economic growth and employment, and for the protection of the environment, climate and planet. Building on the “Kobe 3R Action Plan”, and on other existing initiatives, we will continue to take ambitious action to improve resource efficiency as part of broader strategies to promote sustainable materials management and material-cycle societies. We are establishing the G7-Alliance on Resource Efficiency as a forum to share knowledge and create information networks on a voluntary basis. As set out in the annex, the Alliance will collaborate with businesses, SMEs, and other relevant stakeholders to advance opportunities offered by resource efficiency, promote best practices, and foster innovation. We acknowledge the benefits of collaborating with developing countries on resource-efficiency, including through innovative public private partnerships. We ask the UNEP International Resource Panel to prepare a synthesis report highlighting the most promising potentials and solutions for resource efficiency. We further invite the OECD to develop policy guidance supplementing the synthesis report.  
Protection of the Marine Environment  
We acknowledge that marine litter, in particular plastic litter, poses a global challenge, directly affecting marine and coastal life and ecosystems and potentially also human health. Accordingly, increased effectiveness and intensity of work is required to combat marine litter striving to initiate a global movement. The G7 commits to priority actions and solutions to combat marine litter as set out in the annex, stressing the need to address land- and sea-based sources, removal actions, as well as education, research and outreach.  
We, the G7, take note of the growing interest in deep sea mining beyond the limits of national jurisdiction and the opportunities it presents. We call on the International Seabed Authority to continue, with early involvement of all relevant stakeholders, its work on a clear, effective and transparent code for sustainable deep sea mining, taking into account the interests of developing states. Key priorities include setting up regulatory certainty and predictability for investors and enhancing the effective protection of the marine environment from harmful effects that may arise from deep sea mining. We are committed to taking a precautionary approach in deep sea mining activities, and to conducting environmental impact assessments and scientific research.
■Development  
Post-2015 Agenda for Sustainable Development  
2015 is a milestone year for international sustainable development issues. The Third International Conference on Financing for Development in Addis Ababa, the UN Summit for the adoption of the Post-2015 agenda in New York and the Climate Change Conference in Paris will set the global sustainable development and climate agenda for the coming years.  
We are committed to achieving an ambitious, people-centred, planet-sensitive and universally applicable Post-2015 Agenda for Sustainable Development that integrates the three dimensions of sustainable development – environmental, economic and social – in a balanced manner.  
The agenda should complete the unfinished business of the Millennium Development Goals, end extreme poverty, leave no-one behind, reduce inequality, accelerate the global transition to sustainable economies, promote sustainable management of natural resources, and strengthen peace, good governance and human rights. In order to mobilize appropriate action in and by all countries and by all stakeholders, we support the formulation and communication of key policy messages. We are committed to building a new global partnership based on universality, shared responsibility, mutual accountability, efficient and effective monitoring and review and a multi-stakeholder approach to our common goals of ending extreme poverty by 2030 and transitioning to sustainable development.  
To help foster this new transformative agenda, we have committed to significant measures on global health, food security, climate and marine protection, sustainable supply chains and women’s economic empowerment.  
Collectively, we commit to supporting furthering financial and non-financial means of implementation, including through domestic resource mobilization, innovative financing, private finance, official development and other assistance and an ambitious policy framework.  
We reaffirm the essential role that official development assistance (ODA) and other international public finance play as a catalyst for, and complement to, other sources of financing for development. We reaffirm our respective ODA commitments, such as the 0.7% ODA/GNI target as well as our commitment to reverse the declining trend of ODA to the Least Developed Countries (LDCs) and to better target ODA towards countries where the needs are greatest. We also commit to encouraging private capital flows.  
Food Security  
Good governance, economic growth and better functioning markets, and investment in research and technology, together with increased domestic and private sector investment and development assistance have collectively contributed to increases in food security and improved nutrition.  
As part of a broad effort involving our partner countries, and international actors, and as a significant contribution to the Post 2015 Development Agenda, we aim to lift 500 million people in developing countries out of hunger and malnutrition by 2030. The G7 Broad Food Security and Nutrition Development Approach, as set out in the annex, will make substantial contributions to these goals. We will strengthen efforts to support dynamic rural transformations, promote responsible investment and sustainable agriculture and foster multisectoral approaches to nutrition, and we aim to safeguard food security and nutrition in conflicts and crisis. We will continue to align with partner countries strategies, improve development effectiveness and strengthen the transparent monitoring of our progress. We will ensure our actions continue to empower women, smallholders and family farmers as well as advancing and supporting sustainable agriculture and food value chains. We welcome the 2015 Expo in Milan (“Feeding the Planet - Energy for Life”) and its impact on sustainable agriculture and the eradication of global hunger and malnutrition.  
Women’s Economic Empowerment  
Women’s economic participation reduces poverty and inequality, promotes growth and benefits all. Yet women regularly face discrimination which impedes economic potential, jeopardizes investment in development, and constitutes a violation of their human rights. We will support our partners in developing countries and within our own countries to overcome discrimination, sexual harassment, violence against women and girls and other cultural, social, economic and legal barriers to women’s economic participation.  
We recognise that being equipped with relevant skills for decent work, especially through technical and vocational education and training (TVET) via formal and non-formal learning, is key to the economic empowerment of women and girls, including those who face multiple sources of discrimination (e.g. women and girls with disabilities), and to improving their employment and entrepreneurship opportunities. We commit to increasing the number of women and girls technically and vocationally educated and trained in developing countries through G7 measures by one third (compared to “business as usual”) by 2030. We will also work to increase career training and education for women and girls within G7 countries.  
We will continue to take steps to foster access to quality jobs for women and to reduce the gender gap in workforce participation within our own countries by 25% by 2025, taking into account national circumstances including by improving the framework conditions to enable women and men to balance family life and employment, including access to parental leave and childcare. The private sector also has a vital role in creating an environment in which women can more meaningfully participate in the economy. We therefore support the UN Women’s Empowerment Principles and call on companies worldwide to integrate them into their activities. We will coordinate our efforts through a new G7 working group on women.  
CONNEX  
We reaffirm our commitment to the initiative on Strengthening Assistance for Complex Contract Negotiations (CONNEX), aimed at providing multi-disciplinary expertise in developing countries for negotiating complex investment agreements, focusing initially on the extractives sector. We emphasize the three pillars of: information integration and accessibility; independence and quality of advice; and capacity building among stakeholders. We endorse the Code of Conduct for multi-disciplinary advisory services and encourage support providers and other relevant stakeholders to incorporate the Code as a set of binding principles into their contracts worldwide. We encourage pilot projects to be undertaken under the banner of the CONNEX initiative in collaboration with support providers, such as the African Legal Support Facility. We welcome further coordination on mechanisms for knowledge sharing and peer learning on the subject of negotiation support.  
Deauville Partnership  
We reconfirm our strong commitment to the people of the Middle East and Northern Africa (MENA). Given the current challenges in the region, we renew our commitment to the Deauville Partnership with Arab countries in transition. We support their efforts to improve governance and the rule of law and welcome the recent agreement on the Deauville Compact on Economic Governance and the Action Plan for Financial Inclusion. We further support their efforts to strengthen democracy and human rights and implement economic and social reform to achieve inclusive growth especially for women and youth, including by fostering responsible financial inclusion and facilitating the flow of remittances. The G7 remains committed to working with governments and global financial centres to follow up on asset recovery efforts. We are convinced that, along with the Deauville partner countries, we can contribute to economic, social and political progress in the Arab countries in transition. The Transition Fund remains an important instrument for supporting country-led reform. We endorse measures to further enhance the Fund´s effectiveness, future viability, and impact. We are committed to delivering on pledges made to date and welcome additional contributions to ensure the capitalization goal is met.  
G7 Accountability  
We remain committed to holding ourselves accountable for the promises we have made in an open and transparent way. We welcome the Elmau Progress Report 2015 which demonstrates the progress we have made so far on our biodiversity commitment and shows how this progress contributes to other G7 development commitments. The report also stresses the need for continued action in this regard. We look forward to the next comprehensive progress report in 2016.  
Conclusion  
We look forward to meeting under the Presidency of Japan in 2016.  
2015年6月22日 - 韓日国交正常化50周年記念式

 

(平成27年6月22日、安倍総理は、都内で開催された韓日国交正常化50周年記念式に出席しました。総理は、挨拶の中で次のように述べました。)  
ちょうど半世紀前の今日、日本と韓国は、日韓基本条約に署名し、新たな時代を開きました。その50周年の記念すべき本日、東京とソウルで、同時に、日韓国交正常化50周年の祝賀行事が開催されますことを、心よりお慶び申し上げます。  
50年前の当時、私の祖父の岸信介や、大叔父の佐藤栄作は、両国の国交正常化に深く関与しました。その50年後の今日、私自身も総理大臣として、この記念すべき日を迎え、この祝賀行事に出席できることを、大変嬉しく思います。  
本日の祝賀行事に、韓国より、ユン・ビョンセ外交部長官、また、ソウルでの祝賀行事にパク・クネ大統領に出席していただいていることを喜ばしく思います。  
日韓国交正常化当時、両国間の人の往来は年間1万人でしたが、現在、500万人を超えるようになりました。また、両国間の貿易額は、当時の約110倍となりました。  
2002年には、サッカー・ワールドカップを日韓で共催し、近年は、日韓両国で『韓流(はんりゅう)』、『日流(にちりゅう)』といった文化ブームも見られました。  
このような活発な人的往来や緊密な経済関係、そして、お互いの文化の共有は、国交正常化以降、両国が作り上げた、かけがえのない財産と言えるでしょう。このような日韓関係の発展は、多くの方々の不断の努力により、数々の障害を乗り越えて築かれたものです。  
そこでは、日本にとっては韓国が、韓国にとっては日本が、最も重要な隣国であり、お互いに信頼し合いながら、関係を発展していかなければならない、との強い想いが広く共有されていたと思います。  
私は、国交正常化から半世紀経った本年に、これまでの50年にわたる日韓両国の発展の歴史を振り返り、両国の人々に共有されてきた、このようなお互いへの想いを、改めて確認し合うことが重要であると考えます。  
日韓国交正常化50周年のテーマは、『共に開こう 新たな未来を』です。  
我々は、多くの戦略的利益をお互いに共有しています。現在の北東アジア情勢に鑑みれば、日韓両国の協力強化、さらには、今日はキャロライン・ケネディ駐日米国大使もお見えでありますが、日韓米の3か国の協力強化は、両国にとってはもちろん、アジア太平洋地域の平和と安定にとっても、かけがえのないものです。  
私の地元である下関は、江戸時代に朝鮮通信使が上陸したところです。下関市は、釜山市と姉妹都市となっており、毎年11月には、『リトル・プサン・フェスタ』というお祭りが開催されます。日本の各地には、韓国の地方自治体と姉妹関係を結んでいる自治体がたくさんあり、今後は、このような地方交流も、一層、発展させていきたいと考えています。  
両国が、地域や世界の課題に協力して取り組み、ともに、国際貢献を進めることは、両国の新たな未来の姿を築くことにつながると確信しています。  
御列席の皆様、これまでの50年間の友好の歴史を振り返りながら、そして、協力、発展の歴史を振り返りながら、これからの50年を展望し、共に手を携え、両国の新たな時代を築き上げていこうではありませんか。そのためにも、私といたしましても、パク・クネ大統領と力を合わせ、共に努力していきたいと思います。  
本日、ここにいらっしゃる方々は、日韓関係の発展のために御尽力されてこられた、両国にとっての恩人の皆様です。改めて、心よりの敬意を表するとともに、皆様方の益々の御健勝と御発展、そして、日韓両国の新たな未来を祈念いたしまして、私の御挨拶とさせていただきたいと思います。  
「新しい未来へ」 韓日首脳が祝辞=国交正常化50年 6/22  
韓日が国交を正常化してから50年を迎えた22日、両政府はソウルと東京で記念式典を開催し、朴槿恵(パク・クネ)大統領と安倍晋三首相がそれぞれ出席した。  朴大統領は在韓日本大使館がソウル市内のホテルで開催した韓日国交正常化50周年の記念式典であいさつし、「(韓日間の)過去の歴史の重荷を和解と共生の気持ちで降ろせるようにしていくことが重要だ。両国がそれを始める時、国交正常化50周年である今年は、韓日両国が新しい未来を開く元年になるだろう」と述べた。  また「国交正常化50周年である今年を新しい協力の未来に進む転換点にすることが後世に対するわれわれの責務」と強調した。 安倍首相は在日韓国大使館が東京都内のホテルで開催した記念式典で、「50年の友好の歴史を振り返り、これからの50年を展望し、新たな時代を築いていこう」と呼び掛けた。その上で「朴槿恵大統領と力を合わせ(両国関係の発展に)努力していきたい」と語った。  
日韓首脳会談どこまで来たのか…越えなければならない山は 6/22  
22日、日韓両国で大使館が主催する日韓修好50周年記念レセプションには、両国の首脳が出席し、相手側にメッセージを伝えた。レセプションへの出席は、朴政権発足後、2年半の日韓関係の屈曲を見た時、当初の可能性は希薄だった。しかし50周年当日を一日前にした21日になって電撃的に出席が実現することになった。50周年行事をきっかけに関係改善が必要な中、共感帯が形成されるだろうという解釈が出てきた。  
日韓は週末に、外務省の杉山外務審議官の訪韓、外交部のユン・ビョンセ長官就任後初となる来日など高位級人事が両国を行き来する緊密な日程をこなした。特にユン長官は安倍首相と面会し、朴大統領の口頭メッセージを伝達するなど、両国首脳の“特使外交”も進められた。日本からは日韓議員連盟の額賀会長が安倍首相の特使として、朴大統領を表敬訪問し、安倍首相のメッセージを伝えた。一部では、週末に繰り広げられた両国のメッセージ交換が事実上の“間接的首脳会談”に違いないという解釈まで出てきている。したがって自然に残る関心は、二人の首脳が会談形態で向き合う姿がいつ演出されるかに注がれている。  
日韓は、朴政権と安倍政権発足後、過去史問題により葛藤を繰り広げてきた。これにより朴大統領が昨年の光復節(8月15日)の祝辞で「慰安婦問題を正しく解決する時、日韓関係が堅実に発展するだろう」とし、関係改善の前提条件として慰安婦問題解決を選定するほどだった。  
しかしユ・フンス駐日大使は最近「慰安婦問題解決が両国首脳会談の前提条件ではない」という立場を明らかにし、首脳会談の敷居を下げる動きを見せている。特に21日、日本で開かれたユン長官と岸田外相との日韓外相会談で、両国が長崎県の端島(通称:軍艦島)など朝鮮人が強制徴用された施設の世界遺産登録に関して「進展した合意」に達したと伝えられ、両国が過去史問題進展を通じた「首脳会談への道ならし」に出たのではないかとも分析されている。これにより、両国で開かれた日韓修好50周年記念レセプションで両国の首脳が直接口頭で提示するメッセージに込められた内容が、今後の日韓首脳会談の本格推進速度を予測できる基準になると見られる。  
これに関して大統領府は、安倍首相を表敬訪問したユン長官を通じて「もう少し努力すれば今後首脳会談を含めたいいことがあるだろう」という朴大統領のメッセージを伝えている。しかし相変わらず、日韓首脳会談への過程は順調ではないようだ。日韓が両国首脳のメッセージを交換するほど、表面的には関係の進展に至ったが、すでに関係改善の前提条件になる過去史問題の整理は足踏み状態だからだ。  
日韓修好50周年をきっかけに両国が過去史問題に対する合意も早く進展に導かれるだろうという展望が出てきているが、一部では「一時的進展」に終わる可能性もあると見ている。これは菅官房長官が18日「慰安婦問題に対する日本の基本的考えは今日まで変わらない」とし、「そういった点について韓国側に粘り強く説明し、理解を求めるという基本的考え方は変わらない」と述べた点でも予測可能な部分でもある。結局日本が、1965年の日韓請求権協定で慰安婦に関する法的問題は終結されたという主張を繰り返し、「韓国側が要求する水準」の責任ある措置をとらない可能性は相当ある。特に8月、安倍首相の戦後70周年談話に「謝罪と反省」が含まれるかなど、過去史問題に対する真心のある表現が込められていない場合、首脳会談議論は瞬く間に水面下に沈む可能性が高い。  
専門家はこのような観点で日韓がことし中に実現の可能性が提起されている日中韓での首脳会談では日韓両国の首脳が会う場面を作りながら、順次段階を踏む必要があると指摘している。会談結果がよくない場合、吹いてくる爆風に対するリスクが大きい二国間会談よりは、他者行事を通じた“自然な出会い”によって始まるのが外交的負担は少ないという観点においてである。  
日韓はまず日韓修好50周年レセプションでの首脳間メッセージの交換をきっかけに、首脳会談のための外交チャネル間での実務協議を進めると見られ、今後の推移が注目される。  
ユン外相は「慰安婦問題において初期より今の時点で意味ある進展に至ったと言える」とし、「詳しい事項について我々が望むことが入るよう努力しなければならない状況だ」と説明し、日韓が過去史問題に対するそれなりの接点も探していることを明かしていた。また「両国関係が好循環的にいくのが大事だ」とし、「日本の『明治日本の産業革命遺産』の世界遺産登録問題が円満に合意されることが、おそらく好循環の接近に相当するモメンタムになると思う」と述べ、日韓修好50周年をきっかけに広がる両国関係改善の歩みの推進力に続く意志を明らかにした。  
四つの政治戦が集中した夏 / 60年安保闘争の幸運に深く感謝する夏  
安保法制の諸法案(戦争法案)が衆院で審議入りとなった。政府は今国会での成立をめざしている。今の状況から考えれば、法案が可決成立するときは強行採決で押し切った形になるだろう。それはいつだろうか。マスコミで跋扈する政局屋たちが、国会の日程を垂れて法案の行方を講釈する幕はもう少し先だが、産経の記事を読むと、6月24日までの会期を47日間延長して、8月10日が閉会という予定になっている。この記事は少し古い情報なので、今後の審議と駆け引きの中で変動はあると思われるが、お盆の前に参院本会議で可決して成立というのが安倍晋三の基本戦略だ。必要な審議時間から考えてそのタイムラインとなり、それを前提とすると、7月初旬と予想される衆院特別委での審議打ち切り採決が攻防の一つのヤマ場となる。いずれにせよ、あと2か月後には決着はついている。審議先送りになっていれば、われわれの勝利であり、可決成立になっていれば安倍晋三の勝利だ。審議先送りになった場合、私の予測だが、単純に秋の臨時国会に再提出になるのではなく、法案そのものの作り直しになり、来年の通常国会まで持ち越しになる可能性が大きい。それだけ問題点が多く、根本的に不具合で、審議をすればするほど破綻が明らかになって混乱が広がる法案だ。まともに審議できない。安倍晋三は、最初からこの法案をまともに審議するつもりがない。  
10本の法案を一つのパッケージにして、「平和安全法制整備法」などという冗談のような名前をつけたのは、おそらく防衛官僚の智恵ではなく、安倍晋三の独断だろう。本来、一つ一つの新法案や改正法案を審議し、前と何がどう変わったのか、新しい概念(存立危機事態・重要影響事態)はなぜ導入されたのか、その説明に合理性があるのか、時間をかけて丁寧に審議する必要があるし、マスコミが報道して国民の間で議論がされなくてはいけない。安倍晋三が10本の法案を1本に纏めたのは、法案の中身に立ち入って詳しく審議させないためであり、国民に考える時間を与えず、急いで可決成立させてしまうためだ。つまり、今回の二つの戦争法案は、最初から細かな審議や説明をするつもりがなく、問答無用の強行採決での決着が想定されている。法案の修正も考えていない。報ステで立野純二が喝破したように、「決めつけ」と「すり替え」と「ごまかし」で終始する作戦であり、いわゆる「平行線」で時間を潰し、民主党を憤慨させて委員会欠席に追い込むか、混乱のまま時間切れで強行採決に持ち込む思惑だ。先週(5/20)の党首討論の様子が、まさに特別委の進行を先取りしていたと思われるが、安倍晋三は野党側の質問に答えず、壊れたレコードのように「新三要件」を何度も復唱し、対論者の持ち時間を潰していた。NHKの絵(編集映像)を作ることしか考えてない。  
この法案は、論議に足るまともな中身を持っておらず、おそらく、自衛隊の将官も意味をよく理解しておらず、従来の法制度体系との異同について整合的に納得していないはずだ。存立危機事態とか、重要影響事態とか、新三要件の歯止めとか、そういう詭弁と詐術を部下に向かって真顔で説明することは無理だろう。とりあえず彼らが意味を了解できるのは、改定された日米ガイドラインの方で、ガイドラインから現場にダウンロードされる具体的な要綱や計画の方に注意を向け、そこにコミットし、自らの隊の行動を基礎づけざるを得ない。法律から切り離される。日本国の法律体系で自らを根拠づけることができない。これは、自衛隊を官邸のフリーハンドにするという意味であり、安倍晋三の私兵にするということで、完全に米軍の指揮下に入った - 第1次大戦下のインド軍のような - ロボット的な植民地軍に完成させるということだ。法案の中身については、また別の機会に論じたいが、一つだけ言えるのは、この法案をそのまま成立させたら、もう次の法律改正はなく、戦争が始まるということであり、戦争を始めるということである。確実に戦場での戦闘で自衛隊員が死に、そうなった後、英霊として合祀するべく靖国神社の国営化法案という段階に進むだろう。実際に昨日(5/26)、法案の審議入りと同時のタイミングで、元統幕長の斎藤隆が口火を切り、それをNHKの7時のニュースが報道した。  
この夏は、重大な政治戦が目白押しの状況になっている。(1)安保法制(戦争法案)の国会審議、(2)辺野古の埋め立て工事、(3)川内原発の再稼働、(4)戦後70年談話の発表の四つがあり、それに加えて、(5)残業代ゼロや派遣法改悪の労働法制の審議がある。安倍晋三は、この五つの政局を同時期に集中させて設定していて、すべてを一気に突破する構えのようだ。強気の安倍晋三らしいし、安倍晋三の側に立って考えたとき、その戦略設計は間違っているとは言えない。合理的だ。なぜかと言うと、反対派は運動のエネルギーが分散されるからであり、一つの問題に一点集中できないという環境条件を押しつけられる。現在、川内原発の再稼働は7月下旬と言われている。戦後70年談話は、終戦の日の8月15日が発表予定である。例えば、辺野古の海への砕石とコンクリートの流し込みと同時に、衆院特別委での強行採決をやればどうなるだろう。マスコミは、安保法制(戦争法案)の方は騒ぎたてるだろうが、辺野古の方は大きく報道しないだろう。世間の関心を永田町の方に引きつけ、どさくさ紛れで辺野古の工事を強行し、全国からの反発と非難の声を殺ぐ、そういうショック戦略が考えられているのではないか。この二つを同時に突破されたら、左翼リベラルの側は、当然、その対策と挽回に回らなければならず、そうなると川内原発の再稼働を止める運動を盛り上げることが難しくなるだろう。  
戦争法案を強行採決され、辺野古の埋め立てを強行され、川内原発を再稼働されたら、その三つが重なって起きたときは、左翼リベラル勢力は呆然自失になっていて、敗北感と無力感に打ちのめされ、もう8月15日の戦後70年談話を食い止める力は残ってないだろう。安倍晋三は、戦争法案を突破し、辺野古の工事を強行し、川内原発を再稼働させて、マスコミを黙らせ、三つの政治戦の勝利者として、アウステルリッツの三帝会戦に勝利してパリに凱旋したナポレオンのように、8月15日に靖国神社に参拝して、「侵略」も「植民地支配」も「反省」も「お詫び」もない、「積極的平和主義」を謳歌する戦後70年談話を発表するに違いない。マスコミの岸井成格も、ネットの内田樹も、潰走の末に放心して絶句することだろう。2か月なんてあっと言う間に過ぎてしまう。川内原発の再稼働を止める条件は、戦争法案の国会通過を阻止し、辺野古の工事を中止させることだ。この二つの政治戦に勝利できれば、原発再稼働はできなくなり、戦後70年談話も先送りになる。畢竟、四つは一つである。来月(6月)が勝正念場だ。思い出すのは、2年前の特定秘密保護法案の政局で、11月7日から衆院で審議入りし、12月6日には参院本会議で可決成立した。スピード決着だった。審議入りしてからは、岸井成格や東京新聞などマスコミは批判の論陣を張ったが、反対運動の立ち上げが遅く、国会での野党の抵抗も脆弱だった。  
2年前と比べて、今回はテレビがひどく萎縮している。朝日が読売化している。秘密保護法案のときも、世論調査は反対が多数だった。集団的自衛権のときもそうだった。世論は反対多数なのに、安倍晋三は強引に押し切り、その後の選挙では勝利した。国民は選挙で安倍晋三にNoを突きつけなかった。左翼リベラルは、2014年の都知事選と衆院選で安倍晋三を敗北に追い込む戦略戦術を組まず、身勝手な党利党略を貫き、安倍晋三の権力を安泰にさせた。本当なら、この法案が審議入りする前に、民主・共産・小沢で協議があってよく、法案反対の国民運動が提起されてしかるべきだったのだが、期待したその場面は現出しなかった。統一戦線の結成を望む声はか細く、その斡旋に動く学者・文化人も登場しなかった。野党がどこまで、アリバイのポーズでなく、本当に可決成立を阻止する決意で臨むのか、今の時点では確信が持てない。民主と維新が、例えば労働法制の方とバーター取引に応じるとか、秋国会での冒頭採決を密約して形だけ成立を先延ばしにするとか、そういう裏切りの動きに出てわれわれを騙す展開も十分に考えられる。この2年間を客観的に正視すると、憂鬱な記憶ばかりが蘇って、今回の(四つが重なった)政治戦の行方に悲観的な気分にならざるを得ない。だが、逆もまた真で、安倍晋三が四つを一度に集中させたことは、安倍晋三が負ければ、四つが一気に吹っ飛ぶことでもある。ピンチはチャンス。  
丸山真男は、最晩年の1995年に60年安保を回顧して、「突如としてあの大爆発になった」と当時の実感を語っている。「なにしろ、国会の周辺は毎日毎日何十万という市民でしょう。いま、ああいう事態というのは、ちょっと考えられないですね。正直言って、よくあれだけ、どこからも動員されないで、自然に集まったものだと思います。社会党とか総評とか、そんなのは全体の市民から見たらほんの一部で、文字通り連日何十万という市民が国会を取り囲んだ」(第15巻 P.337)。丸山真男にとって、60年安保の市民の爆発は意外なものだった。この言葉は、一つの救いというか励ましの材料になるものだ。60年安保の反対闘争の爆発は、丸山真男にも意外であり、したがって岸信介にも意外な出来事だった。もし60年安保の闘争がなかったらと、最近はその想像をめぐらせることが多い。改憲が断行され、戦前レジームに戻り、天皇は元首に、自衛隊は国防軍になって、ニクソン・軍産複合体と謀って停戦下の朝鮮半島に介入し、台湾海峡で謀略工作をして紛争を起こし、ベトナム戦争に派兵していただろう。東アジアの中で、韓国や台湾以上に強烈な反共軍事国家となっていただろう。高度経済成長などなく、共産党は再び(三たび)非合法化されていたに違いない。日本の60年代は、実際の進行とは全く違う形になり、その後の姿も大きく変わっていた。中学校の社会科の教師が、60年安保は内乱寸前だったと言っていたことを思い出す。  
市民の爆発的闘争がなければ、それこそ、非合法化された左翼によるテロ事件(武力革命闘争)が起き、日本国憲法などとっくに吹っ飛んだ過酷な社会になっていた。60年代の高度成長期に子どもだった者として、あの、梶原一騎の少年マガジンと、永井豪の少年ジャンプと、巨人のV9と、円谷プロや東宝や大映の怪獣映画の、すなわち東京五輪から大阪万博までの、かぎりなく、かぎりなく平和で希望に満ちていた懐かしい時代を思い返したとき、その幸運と感謝を今ほど強く思わないときはない。
「戦後70年談話」の閣議決定は見送り? 安倍首相のジレンマ 7/3  
安倍晋三首相が今夏に出す「戦後70年談話」をめぐり、閣議決定を見送る方向で調整されていると報じられている。また「終戦の日」である8月15日より前倒しする案も浮上しているようだ。過去の村山・小泉談話はいずれも閣議決定され、8月15日に発表されてきた。今回の談話をめぐる報道をどう見るか。戦後50周年記念事業などに内閣外政審議室審議官として携わった美根慶樹氏に寄稿してもらった。  
村山・小泉談話では「反省」「お詫び」表明  
安倍首相は2012年末、政権に復帰したころから、戦後70周年には首相としての談話を発表する考えを表明しており、その後、国会答弁などで50周年の村山談話や60周年の小泉談話を「全体として引き継ぐ」と説明してきました。  
村山談話と小泉談話では、日本が先の大戦で近隣諸国などに対し、「植民地支配と侵略によって」「多大の損害と苦痛を与えた」ことについての「痛切な反省」と「心からのお詫び」の気持ちが表明されています。しかし、安倍首相は、これらのうち、どの部分は継承し、どの部分は継承しないか、明確な説明をしていません。  
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」が持論です。戦後に作られた制度や秩序は本来の日本のあるべき姿を歪めており、是正する必要があるという考えであり、日本国憲法についても改正が「不可欠」だと主張しています。また安倍首相は、「侵略」の定義は定まっておらず、先の大戦における日本の行為を侵略であったと断定するのは適当でないという考えです。  
このような事情から、安倍首相は村山・小泉両談話において重要な表明である、日本は近隣諸国を「侵略」したという認識を引き継がないのではないかという疑問を持たれています。  
「侵略」言及せず閣議決定避ける?  
安倍首相は談話の内容について有識者の意見を徴するため懇談会(21世紀構想懇談会)を設置し、同懇談会は6月25日に審議を終えました。そこで議論がもっとも白熱したのは日本の行為を「侵略」と位置付けるかどうかであり、「侵略」であったとする意見が相次いだ一方、侵略の定義は明確でないとして、「侵略という言葉の使用は問題性を帯びる」との声も出たと報道されました(26日付『読売新聞』)。  
懇談会の議論の結果を談話に取り入れるか、取り入れるとしてもどの程度か、決まっていません。菅官房長官は6月22日の記者会見で、「懇話会でのさまざまな意見を聞いた上で、最後は首相を中心に政府として判断する」と述べています。  
「談話」の意味やその発表要件は法律で定義されていませんが、首相として見解を表明しておいた方がよい重要問題について談話が発表されるのが習わしです。首相限りで発表されることもありますが、談話が閣議決定されると内閣全体が了承したことになり、重みが増します。村山・小泉両首相談話は閣議決定されました。  
しかし、安倍首相の談話については閣議決定しない考えがあるといううわさが出ています。そのことを質問された菅官房長官は、「まだ何も決まっていない」と答えました。これが日本政府の公式な立場です。  
このようなうわさが出るのは、安倍首相には「侵略」の意味などについてこだわりがあるからのようですが、「侵略」への言及を避けた談話については、内閣の他の構成員(国務大臣)が賛成するか必ずしも明確でありません。また対外的にも問題がありうるからです。  
70年談話を出す意味との整合性  
中国や韓国は村山・小泉両談話を積極的に評価し、安倍首相も戦後70周年談話を発表するのであれば、両談話のような歴史認識を明確に示すことを強く希望しています。先の大戦で日本による植民地支配と侵略によって多大の損害と苦痛をこうむった両国として当然でしょう。  
しかし、安倍首相の談話が「侵略」など重要な歴史認識を明言せず、避けて通れば両国が反発することは不可避であると思われます。日韓首脳会談実現の努力に悪影響を及ぼし、結局開かれなくなる恐れも排除できません。また、米国からも問題視される危険があります。米国は安倍首相の靖国神社参拝など歴史に対する姿勢に疑問を抱いているからです。  
下手をすると一種の矛盾した状況に陥る危険があります。つまり、安倍首相にしても重要な問題だからこそ談話を発表するのでしょう。しかし、安倍首相個人の歴史認識にこだわれば内外で強く批判され、ひいては政治的な問題に発展して国会運営に困難が生じ、安保法制審議にも影響が及ぶ恐れがあります。そういう事態を回避するために閣議決定しないというのは、結局談話を重要な表明として扱わないことになるのではないかと思われます。閣議決定しないことにより、反対意見を交わそうとするのはしょせん姑息な手段ではないでしょうか。  
談話は発表しなければならないものではありません。しかし、首相として談話を発表する限り、内容的にも、手続き的にも堂々とした姿勢で臨んでもらいたいと願わずにおられません。 
2015年8月14日 - 戦後70年安倍首相談話

 

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。  
百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。  
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。  
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。  
 
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。  
そして七十年前。日本は、敗戦しました。  
戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。  
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。  
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。  
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。  
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。  
 
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。  
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。  
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。  
 
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。  
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。  
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。  
ですから、私たちは、心に留めなければなりません。  
戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。  
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。  
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。  
 
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。  
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。  
しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。  
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。  
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。  
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。  
 
私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。  
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。  
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。  
終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。  
平成二十七年八月十四日 内閣総理大臣 安倍晋三  
「ありのまま受け止めて」=安倍首相、各国の理解に期待  
安倍晋三首相は14日、戦後70年談話を発表した記者会見で、「中国の皆さんには、わが国の率直な気持ちをありのまま受け止めていただきたい」と述べた。また、「アジアの国々をはじめ、多くの国々と未来への夢を紡いでいく基盤にしていきたい」と述べ、各国の理解に期待を示した。  
首相は日中関係について、「習近平国家主席との2度にわたる首脳会談を通じ、戦略的互恵関係の考え方に基づいて改善していくことで一致している」と強調。「対話のドアは常にオープンだ」と述べ、習氏との再会談にも意欲を示した。  
一方、首相はウクライナとともに東シナ海、南シナ海に言及し、「世界のどこであろうとも、力による現状変更の試みは決して許すことはできない」とけん制した。  
村山富市首相談話が日本の行為と認めた「侵略」の文言を70年談話にも記述したことに関しては、「具体的にどのような行為が侵略に当たるかは、歴史家の議論に委ねるべきだと考えている」と踏み込んだ説明を避けた。  
首相はまた、「できるだけ多くの国民と共有できるような談話を作っていくことを心掛けた。聞き漏らした声はないか、常に謙虚に歴史の声に耳を傾け、未来への知恵を学んでいく」と語った。  
談話「侵略」盛り込むも“直接言及”避ける  
政府は14日、戦後70年の安倍首相談話を閣議決定した。焦点となっていた「侵略」については、言葉は盛り込まれたものの、先の大戦における日本の行為を侵略だと直接言及することは避けた。  
安倍首相「事変、侵略、戦争、いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」  
安倍首相は会見で、「具体的にどのような行為が侵略にあたるかは歴史家の議論に委ねるべき」と述べた。  
また、談話では「お詫び」について、日本政府がこれまで心からのお詫びを表明してきたことに言及した上で、「こうした立場は今後も揺るぎない」と述べるにとどめた。  
安倍首相「(我が国は先の大戦について)繰り返し痛切な反省と 心からのお詫びの気持ちを表明してきました。こうした歴代内閣の立場は今後も揺るぎないものであります」  
その上で、談話では「あの戦争には何ら関わりのない私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」としている。  
また、「植民地支配」については「永遠に訣別(けつべつ)しなければならない」としている。安倍首相は会見で、「歴史の教訓を深く胸にきざみ、アジア、そして世界の平和繁栄に力を尽くす、そうした思いも今回の談話に盛り込んだ」と強調した。  
海外反応は様々 メディアは厳しい声も  
 米国「痛切な反省を歓迎」、台湾「歴史事実直視を」  
安倍晋三首相が14日に発表した戦後70年談話は海外の主要放送局が中継したほか通信社も速報を流し、その内容と表現を巡り世界の注目を集めている。米国やオーストラリア、フィリピン政府などが談話を評価する声明を発表する一方、欧米メディアの一部は厳しい見方を示す。各国の見方はまだら模様だ。  
米国家安全保障会議(NSC)のネッド・プライス報道官は14日、「安倍首相が痛切な反省を表明したことを歓迎する」との声明を出した。首相が歴代内閣の談話を継承する認識を示したことを歓迎するとともに、世界の平和と繁栄に力を尽くすとした安倍首相の意向を評価した。  
プライス氏は「70年にわたり日本は平和や民主主義、法の支配を実証してきた」として「世界の国々の模範となるものだ」と述べた。  
オーストラリアのアボット首相は同日、安倍晋三首相の戦後70年談話を「歓迎する」との声明を発表した。アボット氏は「第2次大戦での豪州や他国の苦しみを認識したもの」と評価したうえで、同じ地域にある国々が未来志向で「共に前進する」ことの大切さを訴えた。  
日豪が戦後70年を経て「特別な関係」を築いたと指摘し、それを可能にしたのは両国の国民や指導者が「過去の影が未来を決定づけることを拒んだ」からだと述べた。豪州は戦争での犠牲や苦難を忘れたことはないが、日本は「何十年にわたり模範的な国際市民として世界の平和や安定に貢献してきた」と強調した。  
大戦の激戦地だったフィリピンの外務省は14日夜「戦争の惨禍を繰り返さないとする日本に同意する」とコメントし、談話を評価する立場を示した。  
台湾の総統府は同日、安倍晋三首相が発表した戦後70年談話について「馬英九総統は日本政府が今後も歴史の事実を直視し、深い反省と教訓を心に刻むことを期待する」との声明を発表した。馬総統が2008年の就任後に日台友好を推進してきた成果にも触れるなど、日本側への配慮もにじませた。  
一方、欧米メディアの見方は厳しい。米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は「近隣諸国が要求していたような安倍首相自身の言葉による率直な謝罪は避けた」と解説。米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、過去の村山談話で使われていた「心からのおわび」「植民地支配と侵略」という表現をそのまま繰り返すことはなかったと指摘した。  
英ロイター通信は安倍首相が「彼自身の新しいおわびは表明しなかった」と報じた。英国放送協会(BBC)も、独自の新たな謝罪は示さなかったと分析。安倍首相は度重なる謝罪の要求にいら立ちを感じている国内の声に配慮する必要があったと解説した。  
仏AFP通信は安倍首相が、将来の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならないと語ったことを伝えた。  
ドイツのDPA通信は中国と韓国が談話の内容に関心を示していたと指摘した上で、安倍首相が「(談話で)繰り返し謝罪した」と伝えた。ただ将来も謝罪を続けるかどうかが曖昧になっていることや、歴史の真相究明が遅れていることを指摘する記事もあった。  
シンガポールの政府系テレビ局は安倍首相が談話を読み上げ始めると同時にニュース専門チャンネルで中継した。途中他のニュースを挟みつつ、同時通訳をつけて談話の紹介を続けた。カギとされた「深い反省」「心からのおわび」の言葉が含まれたことを繰り返し報じ、中国と韓国が謝罪を迫っていたことを紹介した。  
中韓米それぞれの反応  
中国外務省は、報道官のコメント発表し、「この重大な問題で曖昧な態度をとってはいけない」などと暗に批判した。  
中国外務省の張業遂筆頭外務次官は14日夜、北京に駐在する日本の木寺大使を呼び出して、中国側の厳しい立場を表明した。一方、木寺大使は「一部だけを切り取って強調するよりも、談話全体としてのメッセージを受け取ってほしい」と張外務次官に伝えたという。また、中国外務省の報道官は「日本が被害を受けた国の人々に真摯(しんし)なお詫(わ)びをして軍国主義の歴史ときっぱり決別することは当然のことであり、この重大な問題で、いかなる曖昧な態度もとってはいけない」などとするコメントを発表した。これは安倍首相が「侵略」や「お詫び」について直接言及しなかったことを暗に批判したものとみられる。  
また、韓国外務省の当局者によると、14日夜、尹炳世外相は日本の岸田外相から談話の趣旨について電話で説明を受けたのに対し、「日本の誠意ある行動が何よりも重要だ」と応じたという。ただ、談話への評価については「綿密に検討してから立場を明らかにする」と述べ、現段階での評価は避けた。  
韓国のSBSテレビは、談話には「植民地支配」や「侵略」などの重要なキーワードが盛り込まれたものの、行為の主体が不明確だと批判的に報じた。その上でSBSテレビは「過去の談話から後退したとの批判は避けがたい」と伝えている。  
一方、アメリカのNSC(=国家安全保障会議)は14日、声明を発表し、「歴代内閣の立場は揺るぎないとしただけでなく、第2次大戦中に日本がもたらした苦痛に対する『痛切な反省』を表したことを歓迎する」と述べた。また、談話が「世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献する」と述べたことも「評価する」としている。  
中国外務省がコメント  
中国の外務次官が、北京駐在の木寺大使に中国側の立場を表明し、「日本が被害を受けた国の人々に真摯なお詫びをして、軍国主義の歴史ときっぱり決別することは当然のことであり、曖昧な立場を取るべきではない」などとしている。  
戦後70年談話の評価 
安倍政権「3つの試練」  
安倍政権にとって、「試練の3連発」であった。11日の川内原発再稼働、14日の戦後70年談話、17日の4−6月期GDP速報である。  
このうち最大の懸念ともいわれていた戦後70年談話は、うまく乗り切ったようだ。共同通信社が14、15両日に実施した全国電話世論調査によると、戦後70年談話について、「評価する」との回答は44.2%、「評価しない」は37.0%だった。内閣支持率は43.2%で、前回7月の37.7%から5.5ポイント上昇した。  
4−6月期GDP速報はよくないといわれているが、政権運営としての善後策はある。GDP統計がよくない原因は、1年前の消費増税の影響が長引いているためだ。であれば、本コラムで既に指摘したように、外為特会の“20兆円”を増税の悪影響解消に使えばいい。景気対策としては、減税・給付金中心の政策がいいだろう。  
さて、最大の懸念であった戦後70年談話について触れたい。3400字程度なので、是非全文を読むことをおすすめする。この談話は、外国語訳もされている。  
中学・高校の歴史の授業で習った、日本が第二次世界大戦に突入していく経緯を復習するいい機会だ。西洋列強の植民地支配がアジアに及んで、それへの対抗で日本は道を間違ったということだ。この70年談話では、西欧列強も悪いことをした、日本も悪かった、そして今の中国も悪いことをしているという、ごく普通の歴史が書かれている。  
「カントの三角形」に従っている  
この談話を起草した人は、国際政治・関係論の素養がある。  
それを示す前に、コラム「集団的自衛権巡る愚論に終止符を打つ! 戦争を防ぐための「平和の五要件」を教えよう」において、過去の戦争データから、平和を達成するための理論を紹介したことを思い出して欲しい。  
具体的には、1 きちんとした同盟関係をむすぶことで40%、2 相対的な軍事力が一定割合(標準偏差分、以下同じ)増すことで36%、3 民主主義の程度が一定割合増すことで33%、4 経済的依存関係が一定割合増加することで43%、5 国際的組織加入が一定割合増加することで24%、それぞれ戦争のリスクを減少させる 。  
これは、1 同盟関係、2 相対的な軍事力を中心に説明する「リアリズム」と3 民主主義、4 経済的依存関係、5 国際的組織加入で説明する「リベラリズム」がともに正しいことをも示している。後者の3点は、哲学者カントにちなんで、「カントの三角形」ともいわれている。  
今回の戦後70年談話は、「カントの三角形」にほぼ従った歴史の説明になっており、この意味で、国際政治・関係論の裏付けがあり、国際社会で理解されやすくなっている。この点、国内左派が依存する憲法論議は世界ではほとんど通じない「お花畑」であることと好対照だ。  
「人々は『平和』を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」と書かれているが、政治が軍部の独走を防げなかったことにより 3 民主主義、経済ブロックで 4 経済的依存関係、国際連盟脱退で 5 国際的組織加入、つまり、「カントの三角形」の3点がいずれも崩れていったというわけだ。  
そして、日本が第二次世界大戦に進んでいったわけで、この過程は、「カントの三角形」という観点でみれば納得である。  
政治的に「無難」  
こうした国際政治の常識がバックグランドにあるので、戦後70年談話は世界から受け入れられるだろう。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」というワードがあるかどうかは、かなり矮小な観点であるが、戦後70年談話では、その点にも配慮がされている。  
そうした矮小な観点から見る人たちは、ワードが入っているかどうかだけを気にするので、逆にいえば、ワードを入れたら本格的な批判ができなくなるということだ。事実、中国も韓国もまともに、戦後70年談話を批判できていない。  
その上で、安倍首相が言いたいことは「第二次世界大戦を忘れてはいけないが、謝罪しつづけることもない」ということだ。ここはしっかり書き込まれている。当事者の子供や子孫は、事実を忘れてはいけないが、当事者の子孫としての責任を引き継ぐのではないだろう。責任問題は講和条約などで既に清算済みである。  
以上の意味で、戦後70年談話はよく書かれており、政治的に「無難」である。  
ただ、残念なのは、冒頭の世論調査で、安保関連法案の今国会成立について、反対62.4%、賛成29.2%となっていることだ。  
まだ、国民の多くは、安保関連法案の本質が理解できていない。安保関連法案について、その本質をいえば、1同盟関係の強化により戦争リスクを最大40%減らし、2自前防衛より防衛費が75%減り、3個別的自衛権の行使より抑制的(戦後の西ドイツの例)になるという点だ。  
安保関連法案と戦後70年談話の両方をみると、安保関連法案は1同盟関係、2相対的な軍事力に対応し、戦後70年談話は3民主主義、4経済的依存関係、5国際的組織加入の「カントの三角形」に対応していることがわかる。つまり、安保関連法案と戦後70年談話は、見事に先の本コラムで掲げた「平和の五条件」に対応している。  
こうしてみると、国際政治・関係論の立場から、安倍政権はきわめてまっとうかつ世界で通用する安全保障政策によって平和を追求している。にもかかわらず、安保関連法案に国民の理解が進んでいない点が気になる。  
元首相らが反対しているのは「いい兆候」  
ただし、「いい兆候」もある。マーケットでいうリバース・インディケーター、俗に言う「逆指標」「逆神」である。物事の本質をなかなか理解できないときに、あの人がいうのなら間違いに違いないと確信するのだ。  
11日、元首相5人が安保関連法案に反対を表明した。元首相とは、細川、羽田、村山、鳩山、菅各氏である。この方々は、これまでの歴史で決して名宰相とはいえない人たちであろう。その人たちが安保関連法案に反対するのであるから、おそらく安保関連法案はいいものだろうという連想だ。  
そういえば、細川政権は7%の消費増税もどきの国民福祉税をいいだした。羽田政権は戦後最短の内閣だった。村山政権は、阪神淡路大震災でまったく機能しなかったし、5%への消費増税を内容とする税制改革法案を決定した。鳩山政権は、在日米軍の抑止力を理解できずに辺野古移転で迷走した。菅政権は、福島第一原発事故で初動を間違ったし、急に消費増税を言い出した。  
勘のいい人ならば、安保関連法案についてはこうした「逆神」が反対するのであるから、賛成してもいい、となるのではないか。もちろん、世界の常識は「賛成」である。これまでのデータから、安保関連法案によって戦争リスクを減らせることが明らかだからだ。戦後70年談話とあわせてみれば、戦争リスクを減らすのには、ベストな組み合わせなのだ。 
2015年8月15日 - 戦没者追悼式 安倍首相式辞

 

天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。  
遠い戦場に、斃(たお)れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥(はる)かな異郷に命を落とされた御霊の御前に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。  
皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。  
70年という月日は、短いものではありませんでした。平和を重んじ、戦争を憎んで、堅く身を持してまいりました。戦後間もない頃から、世界をより良い場に変えるため、各国・各地域の繁栄の、せめて一助たらんとして、孜々(しし)たる歩みを続けてまいりました。そのことを、皆様は見守ってきて下さったことでしょう。  
同じ道を、歩んでまいります。歴史を直視し、常に謙抑を忘れません。わたくしたちの今日あるは、あまたなる人々の善意のゆえでもあることに、感謝の念を、日々新たにいたします。  
戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓(ひら)いていく、そのことをお誓いいたします。  
終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、末永いご健勝をお祈りし、式辞といたします。  
2015年8月15日 - 戦没者追悼式 天皇陛下のおことば

 

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。  
終戦以来既に70年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。  
ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。  
 
 
 
勝てば官軍

 

極東国際軍事裁判 
第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。  
この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東條英機元首相を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告人は7名、人道に対する罪で起訴された被告人はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこのthe judgmentsを受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している。 
戦犯裁判までの経緯 

 

アメリカの対日政策  
裁判方式  
1944年8月から終戦以降の政策方針と敗戦国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた。  
国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会  
アメリカの対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設立された。さらにその下位組織極東小委員会(Subcommittee for the Far East,SFE)が1945年1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された。戦犯裁判方式にするか、指導者の処刑方式かの検討もなされ、1945年8月9日報告書(SFE106)では対独政策を踏襲し、「共同謀議」の起訴を満州事変までさかのぼること、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので人道に対する罪を問責しても無駄であると報告された。8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた。  
連合国戦争犯罪委員会による対日勧告  
また、1943年10月20日に17カ国が共同で設立した連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)は戦争犯罪の証拠調査を担当する機関であったが、終戦期には政策提言などを行うようになっており、オーストラリア代表ライト卿が対日政策勧告を提言し、1945年8月8日には極東太平洋特別委員会を設置し、委員長には中華民国の駐英大使顧維鈞が就任し、8月29日に対日勧告が採択された。  
SWNCC57/3指令  
アメリカ統合参謀本部がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する国務・陸軍・海軍調整委員会が1945年10月2日にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における戦犯裁判所の設置準備が開始された。  
しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際裁判」には否定的で、「57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東条英機を裁く権限を自分に与えるよう1945年10月7日の陸軍宛電報でのべ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによって「戦争の犯罪化」に反対した。GHQ参謀第二部部長ウィロビーによれば、マッカーサーが東京裁判に反対したのは南北戦争で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからとのべている。  
スティムソン、マクロイ陸軍次官補らはマッカーサーの提言を採用せず、57/3指令の国際裁判方針を固守した。
イギリス  
イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった。結局英国は、1945年5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省およびイギリス連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは1945年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任した。
国際検察局の設置  
1945年(昭和20年)12月6日、アメリカ代表検事ジョセフ・キーナンが来日する。翌7日、マッカーサーは事後法批判の回避、早期開廷、東条内閣閣僚の起訴をキーナンに命じた。翌1945年(昭和20年)12月8日、GHQの一局として国際検察局(IPS)が設置された。
国際軍事裁判所憲章と特別宣言  
1946年(昭和21年)1月19日、ニュルンベルク裁判の根拠となった国際軍事裁判所憲章を参照して極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められた(1946年4月26日一部改正)。  
同1946年(昭和21年)1月19日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言を発した。この宣言は、ポツダム宣言および降伏文書、1945年12月26日のモスクワ会議(英語版)によってマッカーサーに対してアメリカ・イギリス・ソ連、そして中華民国から付与された、日本政府が降伏条件を実施するために連合国軍最高司令官が一切の命令を行うという権限に基づく。
フランス  
アメリカ国務省は1945年末にフランス政府に対し判事と検察官を指名するよう要請したが、フランスが悠長であったため翌1946年1月22日に催促した。フランスははじめインドシナ高等弁務官のダルジャンリューの意見もあり、パリ大学のジャン・エスカラを選んだ。エスカラは1920年代に蒋介石中華民国の法律顧問をつとめたこともあったが、要請を断り、他の学者を紹介するにとどめた。一方、第二機甲師団陸軍准将ポール・ジロー・ド・ラングラードらが政府に対して派遣する法律家は植民地での経験があるものがよいと提言し、マダガスカルや西アフリカの控訴院判事を歴任したアンリ・アンビュルジュが指名された。しかしアンビュルジュも出発直前になって固辞し、アンリ・ベルナールが指名された。
日本の裁判対策  
終戦後、日本では自主裁判も構想されたが、美山要蔵の日記にもあるように残虐行為の実行者のみが裁判の対象となってしまい、戦犯裁判は戦勝国による「勝者の裁き」であるとの覚悟があったとされる。  
1945年10月3日、東久爾内閣は「戦争責任に関する応答要領(案)」を作成し、その後11月5日終戦連絡幹事会は「戦争責任に関する応答要領」を作成し、天皇を追求から守ること、国家弁護と個人弁護を同時に追求すると書かれた]。  
外務省外局終戦連絡中央事務局主任の中村豊一は1945年11月20日、戦犯裁判対策を提言し、弁護団、資料提供、臨時戦争犯罪人関係調査委員会の設置、戦争犯罪人審理対策委員会を提言したが、外務省は政府指導になるという理由で却下した。  
その後、吉田茂が12月に法務審議室を設置した。1946年2月には内外法政研究会が発足し、高柳賢三、田岡良一、石橋湛山らが戦争犯罪人の法的根拠や開戦責任などについての研究報告をおこなった。 
裁判 

 

国際検察局から執行委員会へ  
1946年(昭和21年)2月2日、イギリス代表検事が来日する。2月13日に ジョセフ・キーナンアメリカ合衆国代表検事がアメリカ以外の検事は参与であるとの通達を出すと、イギリス、英連邦検事はこれに反発し、3月2日に各国検事をメンバーとした執行委員会が設立される。  
執行委員 
ジョセフ・キーナン(アメリカ合衆国派遣) - 首席検察官  
アーサー・S・コミンズ・カー(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣) - 次席検察官  
S・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)  
アラン・ジェームス・マンスフィールド(オーストラリア連邦派遣)  
ロナルド・ヘンリー・クイリアム(ニュージーランド派遣)- 裁判の進め方や未訴追戦犯の拘留が長い事に抗議し、1947年末に帰国している。  
ヘンリー・グラタン・ノーラン(カナダ派遣)  
向哲濬(中華民国派遣)  
ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)  
W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)  
ゴビンダ・メノン(インド派遣)  
ペドロ・ロペス(アメリカ領フィリピン派遣)
被告人の選定  
1946年1月、被告の選定にあたってイギリスはニュルンベルク裁判と同様に知名度を基準に10人を指名した。執行委員会の4月4日会議では29名が選ばれるが、4月8日には石原莞爾、真崎甚三郎、田村浩が除外された。4月13日にはソ連検事が来日したが、ソ連側は天皇訴追を求めなかった。そのかわり4月17日、ソ連は鮎川義助、重光葵、梅津美治郎、富永恭次、藤原銀次郎の起訴を提案し、そのうち重光と梅津が追加され、被告28名が確定した。  
被告人  
荒木貞夫 / 板垣征四郎 / 梅津美治郎 / 大川周明 / 大島浩 / 岡敬純 / 賀屋興宣 / 木戸幸一 / 木村兵太郎 / 小磯國昭 / 佐藤賢了 / 重光葵 / 嶋田繁太郎 / 白鳥敏夫 / 鈴木貞一 / 東郷茂徳 / 東條英機 / 土肥原賢二 / 永野修身 / 橋本欣五郎 / 畑俊六 / 平沼騏一郎 / 広田弘毅 / 星野直樹 / 松井石根 / 松岡洋右 / 南次郎 / 武藤章
起訴状の作成過程  
1946年4月5日の執行委員会でイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検事は起訴状案を発表、そのなかで「平和に対する罪」の共同謀議を、1931年〜1945年の「全般的共同謀議」と4つの時期におよぶ個別的共同謀議(満州事変、日中戦争、三国同盟、全連合国に対する戦争)の5つに分割した。また平和に対する罪では死刑を求刑できないので、通例の戦争犯罪である公戦法違反で裁くべきであると主張した。  
訴因「殺人」と「人道に対する罪」  
極東国際軍事裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる。このような起訴方針についてオランダ、中華民国、フィリピンは「アングロサクソン色が強すぎる」として批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での日本軍による行為を追加させた。  
ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった。南京事件は訴因のうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた]。  
昭和天皇の訴追問題  
オーストラリアなど連合国の中には昭和天皇の訴追に対して積極的な国もあった。白豪主義を国是としていたオーストラリアは、人種差別感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情が強い上に、差別していた対象の日本軍から繰り返し本土への攻撃を受けたこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった。また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた。エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。1945年8月14日に連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)で昭和天皇を戦犯に加えるかどうかが協議されたが、アメリカ政府は戦犯に加えるべきではないという意見を伝達した。1946年1月、オーストラリア代表は昭和天皇を含めた46人の戦犯リストを提出したが、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドはこのリストを決定するための証拠は委員会の所在地ロンドンに無いとして反対し、このリストは対日理事会と国際検察局に参考として送られるにとどまった。8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された。  
アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視され、さらに1946年1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった。なお、オーストラリア同様イギリス連邦の構成国であるニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した。またソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定した。  
1946年4月3日、最高意思決定機関である極東委員会(FEC)はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」ことが合意された。4月8日、オーストラリア代表の検事マンスフィールドは天皇訴追を正式に提議したが却下され、以降天皇の訴追は行われなかった。  
海軍から改組した第二復員省では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧軍令部のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった永野修身以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では軍中央への責任が天皇訴追につながりかねない為、現場司令官で責任をとどめる弁護方針の策定などが成された。さらに、陸軍が戦争の首謀者である事にする方針に掲げられていた。1946年3月6日にはGHQとの事前折衝にあたっていた米内光政に、マッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。また、敗戦時の首相である鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている。  
なお昭和天皇は「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる)。
起訴状の提出  
起訴状の提出は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われた。  
極東国際軍事裁判において訴因は55項目であったが、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれた。判決では最終的に10項目の訴因にまとめられた。
裁判官・判事  
ウィリアム・ウェブ(オーストラリア連邦派遣) - 裁判長。連邦最高裁判所判事。  
マイロン・C・クレマー少将(アメリカ合衆国派遣)- 陸軍省法務総監。ジョン・P・ヒギンズから交代。  
ウィリアム・パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)- スコットランド刑事上級裁判所判事  
イワン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)- 最高裁判所判事。陸大法学部長- 法廷の公用語である英語を使用できなかった。  
アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣)- 軍事法廷主席検事 - 法廷公用語である英語を十分使用できなかった。  
梅汝璈(中華民国派遣) - 立法院委員長代理。イェール大学ロー・スクール学位取得者だが、法曹経験はなかった。  
ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣) - ユトレヒト司法裁判所判事  
E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣)- ケベック州裁判所判事。  
エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣)- 最高裁判所判事。  
ラダ・ビノード・パール(インド派遣) - カルカッタ高等裁判所判事。判事の中では唯一の国際法の専門家であった。東京裁判では平和に対する罪と人道に対する罪とが事後法にあたるとして全員無罪を主張。  
デルフィン・ハラニーリャ(フィリピン派遣) - 司法長官。最高裁判所判事。日本の戦争責任追及の急先鋒で、被告全員の死刑を主張。
弁護団の結成  
GHQは1945年11月には戦犯容疑者が非公式で弁護人を探すことを許可していた。  
日本人弁護団  
日本人弁護団は、団長を鵜澤總明弁護士とし、副団長清瀬一郎、林逸郎、穂積重威、瀧川政次郎、高柳賢三、三宅正太郎(早期辞任)、小野清一郎らが参加した「極東国際軍事裁判日本弁護団」が結成された。しかし、日本人弁護団内部では、自衛戦争論で国家弁護をはかる鵜澤派(清瀬、林ら)と個人弁護を図る派(高柳、穂積、三宅)らがおり、さらに国家弁護派内部でも鵜澤派と清瀬派の対立などがあった。日本人弁護団の正式結成は開廷翌日の1946年5月4日であった。  
アメリカ人弁護団  
ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人しか許されなかったが、東京裁判ではアメリカ人弁護人も任命された。日暮吉延によればこれは「勝者による報復」批判を免れるためだった。  
1946年(昭和21年)4月1日に結成されたアメリカ人弁護団団長は海軍大佐ビヴァリー・コールマン(横浜裁判の裁判長)。弁護人としては海軍大佐ジョン・ガイダーほか六名であった。しかしコールマンが主席弁護人を置くようマッカーサーに求めたところ、受理されず、コールマンらは辞職する。変わって陸軍少佐フランクリン・ウォレン、陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニーらが派遣され、新橋の第一ホテルを宿舎とした。  
陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)  
陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当)  
ジョージ山岡(日本語を解した。東郷担当)  
ウィリアム・ローガン(木戸担当)  
オーウェン・カニンガム(大島浩担当)  
陸軍中尉アリスティディス・ラザラス(畑担当)  
デイヴィッド・スミス(広田担当)  
ローレンス・マクマナス(荒木担当)  
予備海軍大佐リチャード・ハリス (軍人・弁護士)(橋本担当):日本語が達者であり、弁護部管理主任も務めた。  
ジョージ・ウィリアムズ(星野担当)  
フロイド・マタイス(板垣、松井担当)  
マイケル・レヴィン(賀屋興宣、鈴木担当)  
ジョゼフ・ハワード(木村担当)  
アルフレッド・ブルックス(小磯、南、大川担当)  
ロジャー・コール(武藤担当)  
ジェイムズ・フリーマン(佐藤担当)  
陸軍大尉ジョージ・A・ファーネス(重光担当)  
エドワード・マクダーモット(嶋田担当)  
チャールズ・コードル(白鳥担当)  
ジョージ・ブルウェット(東條担当)
開廷  
1946年5月3日午前11時20分、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂において裁判が開廷した。27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。  
連合国のうち、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、ソ連の7か国と、イギリス連邦内の自治領であったオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そして当時独立のためのプロセスが進行中だったインドとフィリピンが判事を派遣した。  
同日午後、大川周明被告が前に座っている東条英機の頭をたたき、翌日に病院に移送された。
罪状認否  
1946年5月6日、大川をのぞく被告全員が無罪を主張した。この罪状認否手続きで無罪を主張するのは普通のことだが、毎日新聞記者はラジオで「傲然たる態度」と罵倒し、読売新聞記者も同様の罵倒をした。
弁護側の管轄権忌避動議  
1946年5月13日、清瀬一郎弁護人は管轄権の忌避動議で、ポツダム宣言時点で知られていた戦争犯罪は交戦法違反のみで、それ以後に作成された平和に対する罪、人道に対する罪、殺人罪の管轄権がこの裁判所にはないと論じた。  
この管轄権問題は、判事団を悩ませ、1946年5月17日の公判でウェブ裁判長は「理由は将来に宣告します」と述べて理由を説明することになしにこの裁判所に管轄権はあると宣言した。  
しかしその後1946年6月から夏にかけてウェブ裁判長は平和に対する罪に対し判事団は慎重に対処すべきで、「戦間期の戦争違法化をもって戦争を国際法上の犯罪とするのは不可能だから、極東裁判所は降伏文書調印の時点で存在した戦争犯罪だけを管轄すべきだ。もし条約の根拠なしに被告を有罪にすれば、裁判所は司法殺人者として世界の非難を浴びてしまう。憲章が国際法に変更を加えているとすれば、その新しい部分を無視するのが判事の義務だ」と問題提起をしたという。日暮吉延はこのウェブ裁判長の発言は裁判所の威厳保持のためであったとしたうえで、パル判決によく似ていたと指摘している。
補足動議  
1946年5月14日午前、ジョージ・A・ファーネス弁護人が裁判の公平を期すためには中立国の判事の起用が必要であるとのべた。またベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、戦争には国際法があり合法である、戦争は国家の行為であって個人の行為ではないため個人の責任を裁くのは間違っている、戦争が合法である以上戦争での殺人は合法であり、戦争法規違反を裁けるのは軍事裁判所だけであるが、東京法廷は軍事裁判所ではないとのべ、さらに戦争が合法的殺人の例としてアメリカの原爆投下を例に、原爆投下を立案した参謀総長も殺人罪を意識していなかったではないか、とも述べた。  
翌日の5月15日の朝日新聞は「原子爆弾による広島の殺傷は殺人罪にならないのかー東京裁判の起訴状には平和に対する罪と、人道に対する罪があげられている。真珠湾攻撃によって、キツド提督はじめ米軍を殺したことが殺人罪ならば原子爆弾の殺人は如何ー東京裁判第五日、米人ブレークニイ弁護人は弁護団動議の説明の中でこのことを説明した」と報道した。また全米法律家協会もブレイクニー発言を機関紙に全文掲載した。
検察側立証  
立証段階  
以下、立証段階の日程と項目である。  
1946年6月4日、検察側立証開始:冒頭陳述。  
1946年6月13日、一般段階:国家組織、世論指導など。  
1946年7月1日、満州事変段階。  
1946年8月6日、日中戦争段階。  
1946年9月19日、日独伊三国同盟段階。  
1946年9月30日、仏印段階。  
1946年10月8日、ソ連段階。  
1946年10月21日、一般的戦争準備段階。  
1946年11月4日、太平洋戦争段階。  
1946年11月27日、残虐行為段階。  
1947年1月17日、個人別追加立証。  
1947年1月24日、検察側立証終了。  
キーナン冒頭陳述  
1946年6月4日、首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは冒頭陳述において、この裁判を「これは普通一般の裁判ではありません」「全世界を破滅から救うために文明の断乎たる闘争の一部を開始している」、被告(日本軍部)は「文明に対し宣戦を布告しました」と述べた。キーナンは日本の不義なる体質を日露戦争にまでさかのぼって、侵略戦争をするのは国家でなく個人であると主張した。キーナンは陳述を終えるとすぐに帰国し、不在の間決定権は誰にあるのかわからない状態であった。英連邦検察陣はキーナンの尊大で自分が目立つことばかり考えていると語っていた。  
裁判の進行は遅く、ニュージーランドの判事や検事は検察のおよび裁判長の運営方法が問題であるとして辞意を示している。
証人喚問  
証人にはドナルド・ニュージェント、大内兵衛、瀧川幸辰、前田多門、伊藤述史、鈴木東民、幣原喜重郎、清水行之助、徳川義親、若槻礼次郎、田中隆吉らがなった。  
また前満州国皇帝愛新覚羅溥儀も出廷した。ハバロフスクに抑留中の溥儀は中国からは漢奸裁判にかけられるかもしれないという脅威もあり、すべて日本の責任で自分に責任はないと証言した。8月21日にブレイクニ弁護人が溥儀の書簡を出して反対尋問を行うと「全く偽造であります」といい、重光葵は歌舞伎の芝居のようであったと回想している。溥儀も後の自伝で、自身を守るために偽証を行い、満州国の執政就任などの自発的に行った日本軍への協力を日本側によると主張し、関東軍吉岡安直などに罪をなすりつけたことを認めている。また自らの偽証が日本の行為の徹底的な解明を妨げたとして、「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と回想している。アンリ・ベルナール判事は溥儀の証言について「溥儀は、満州国は最初から全て日本の支配下にあったと述べているが、彼自身がすでに、1932年3月10日に本庄に対して同意を提案する書簡を書いているではないか。この書簡の署名が強制のもとになされたものであるという事実は証明されなかったのだから、溥儀が法廷で行った興味深い供述から生じたような結果などよりも、本官はその書簡によって示されたものを信じる」と述べている。
弁護側反証  
検察側立証が終了すると、弁護団は1947年1月27日、公訴棄却動議を提出し、デイヴィッド・スミス弁護人はアメリカ連邦裁判所への提起も考えているとのべた(判決後に提訴。広田判例を参照)。1947年2月24日、弁護側反証が開始された]。  
弁護人による被告別動議は次の通り。  
被告 / 弁護人 / 内容  
荒木貞夫 / ローレンス・マクマナス / 1928年に共同謀議に参加したと検察は主張するが、満州事変勃発時に陸相ではなかった。荒木による残虐行為の証拠は提出されていない。  
土肥原賢二 / フランクリン・ウォレン / 戦争の共同謀議時期には常に出先軍で上官の命令に服していた。残虐行為の証拠は提出されていない。  
橋本欣五郎 / E・ハリス / 満州事変勃発時には参謀本部ロシア班長、日中戦争勃発時には民間人であった。桜会が共同謀議の一部であったことは証明されていない。残虐行為の証拠は提出されていない。1937年のレディバード号事件は錯誤によるもの。  
畑俊六 / アリスティディス・ラザラス / 戦争勃発時には政府諸機関と無関係。中支那派遣軍に着任したのは南京陥落から2月後で、南京はすでに平穏だった。  
平沼騏一郎 / フランクリン・ウォレン / 共同謀議に無関係。中国での残虐行為で起訴されたが証拠がない。  
広田弘毅 / デイヴィッド・スミス / 南京事件の責任を問うことが「奇妙」である。広田内閣中、日本は平和で、広田が「自存自衛の戦い」と述べたこともない、広田の起訴自体が大なる誤算。  
星野直樹 / ジョージ・ウィリアムズ / 一官吏にすぎない。告発された内容は満州への外資導入計画を誤解したものである。  
板垣征四郎 / フロイド・マタイス / 満州事変時は本庄繁関東軍司令官や軍中央に従った。広東や漢口での「殺人」時に陸相だったというだけで刑事責任を問うに不十分。シンガポールの残虐行為でも検察は「何らかの責任」があると述べたにすぎない。  
賀屋興宣 / マイケル・レヴィン / 専門行政官であり、広東や漢口での「殺人」時には蔵相を辞している。開戦、残虐行為の責任はない。  
木戸幸一 / ウィリアム・ローガン / 満州事変時は内大臣秘書官長で共同謀議には参加せず。三国同盟に責任はない。内大臣は残虐行為を犯すべき地位にない。  
木村兵太郎 / ジョゼフ・ハワード / 軍人としての義務以上をしていない。陸軍次官中の権限は陸相通達を各司令官に通達することのみ。1944年、ビルマ方面軍司令官に着任したとき、日本軍は敗走中で在任中に捕虜を管理した証拠はない。  
小磯國昭 / アルフレッド・ブルックス / 満州事変時は南陸相の命令と幣原政策に従って遂行した。太平洋戦争は自衛的合法戦争と理解する。首相には捕虜の扱いに介入する権能はない。  
松井石根 / フロイド・マタイス / 中支那方面軍司令官として軍中央の命令で南京攻撃を遂行したにすぎない。作戦中は蘇州で執務し、残虐行為について問責できる証拠はない。  
南次郎 / アルフレッド・ブルックス / 満州事変時は陸相として事件不拡大に努めた。日本の陸軍大臣の権限は非常に制約されており、海外派兵上奏権を持つのは参謀総長である。  
武藤章 / ロジャー・コール / 命令を実践に移すことが任務だった。捕虜に関係する陸軍省の証拠は歪曲されている。スマトラ近衛師団長在任中、捕虜は正式の命令系統以外で取り扱われたので、武藤に責任はない。  
岡敬純 / フランクリン・ウォレン / 真珠湾攻撃時、政策決定者ではなかった。捕虜処遇についえ命令を権限を有した証拠もない。  
大川周明 / アルフレッド・ブルックス / 告発された行動を可能にする地位になく、著書で個人的野望や犯罪的意思を唱道してもいない。満州事変関連証拠は風説的である。  
大島浩 / オーウェン・カニンガム / 政策立案者、軍司令官になったこともない。通常、外国使臣の訴追は禁じられている。ドイツ在勤中、日本政府の指令なしに交渉したことはない。  
佐藤賢了 / ジェイムズ・フリーマン / 真珠湾攻撃時、一課長にすぎず、戦争計画に参加できる地位ではなかった。1942年4月以降、軍務局長として俘虜収容所を管轄したと検察は告発したが、管轄は陸相である。  
重光葵 / ジョージ・A・ファーネス / 日中平和維持に努めた。ソ連検事が証拠もなしに主張したような、張鼓峰事件交渉でソ連領土を割譲せよと求めた事実はない。駐英大使在任中は三国同盟交渉に関与していない。捕虜問題に関する外相の権限は、政府間文書の仲介することだけである。  
嶋田繁太郎 / エドワード・マクダーモット / 真珠湾攻撃50日前に海相に就任したが、会議に参加したのは3回だけで、それ以前は軍令系統の地位になかった。残虐行為について海軍省は出先の艦隊司令官を統制できない。また海軍所管の俘虜収容所での非行は立証されていない。  
白鳥敏夫 / チャールズ・コードル / 外務省情報局長どまりの職業外交官で、満州事変時は幣原外相の侵略阻止方針に協力した。イタリア外相の日記を証拠に三国同盟を無条件受諾しなければ内閣を総辞職せしめと脅迫したと検察は主張したが、白鳥は1940年1月に大使解任されているし、また大使辞任で内閣総辞職とは荒唐無稽。  
鈴木貞一 / マイケル・レヴィン / 日中戦争勃発時には大佐だった。総動員計画は1941年に企画院総裁に就任する前からほぼ成立していた。  
東郷茂徳 / ベン・ブルース・ブレイクニー / 外務省は捕虜管理に責任はない。陸軍の照会や抗議を通達しただけである。天皇から日米和平交渉を命じられ努力した。対米通告は駐米大使に攻撃前の手交を訓令しており、結果的に手交が遅れた責任はない。  
東條英機 / ジョージ・ブルウェット / 共同謀議、残虐行為について法的証拠がない。  
梅津美治郎 / ベン・ブルース・ブレイクニー / 支那駐屯軍司令官在任中の梅津・何応欽協定締結を告発されたが、それは参謀長の仕事であり、協定は騒動を抑える了解にすぎない。関東軍司令官就任はノモンハン事件終了の一週間前でこの事件に責任はない。ソ連検事の告発は「不在証人の集積」である。  
判決

 

最終的訴因  
当初55項目の訴因があげられたが、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、1948年(昭和23年)夏には、最終的には以下の10項目の訴因にまとめられた。  
訴因1 - 1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議  
訴因27 - 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争  
訴因29 - 米国に対する侵略戦争  
訴因31 - 英国に対する侵略戦争  
訴因32 - オランダに対する侵略戦争  
訴因33 - 北部仏印進駐以後における仏国侵略戦争  
訴因35 - ソ連に対する張鼓峰事件の遂行  
訴因36 - ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行  
訴因54 - 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反  
訴因55 - 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反  
被告人別の訴因と量刑  
判決における被告人別の訴因と量刑は次の通り。大川周明は精神障害が認定され訴追免除、永野修身と松岡洋右は判決前に死去していた。  
被告人 / 訴因 / 量刑  
荒木貞夫 / 1,27 / 終身禁錮刑  
土肥原賢二 / 1,27,29,31,32,35,36,54 / 死刑  
橋本欣五郎 / 1,27 / 終身禁錮刑  
畑俊六 / 1,27,29,31,32,55 / 終身禁錮刑  
平沼騏一郎 / 1,27,29,31,32,36 / 終身禁錮刑  
広田弘毅 / 1,27,55 / 死刑  
星野直樹 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
板垣征四郎 / 1,27,29,31,32,35,36,54 / 死刑  
賀屋興宣 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
木戸幸一 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
木村兵太郎 / 1,27,29,31,32,54,55 / 死刑  
小磯國昭 / 1,27,29,31,32,55 / 終身禁錮刑  
松井石根 / 55 / 死刑  
南次郎 / 1,27 / 終身禁錮刑  
武藤章 / 1,27,29,31,32,54,55 / 死刑  
岡敬純 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
大島浩 / 1 / 終身禁錮刑  
佐藤賢了 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
重光葵 / 27,29,31,32,33,55 / 禁錮刑7年  
嶋田繁太郎 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
白鳥敏夫 / 1 / 終身禁錮刑  
鈴木貞一 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑  
東郷茂徳 / 1,27,29,31,32 / 禁錮刑20年  
東條英機 / 1,27,29,31,32,33,54 / 死刑  
梅津美治郎 / 1,27,29,31,32 / 終身禁錮刑
判事の個別意見書  
判決はイギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。  
判事団の多数判決に対して、個別意見書が5つ出された。同意意見としてフィリピンのハラニーニャ意見書、別個意見としてウエッブ意見書、パル、ベルト・レーリンク、アンリ・ベルナールは反対意見書を提出した。極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが、法廷で読み上げられることはなかった。  
ハラニーニャ同意意見書  
徹底した親米派のハラニーニャ同意意見書では、刑が一部寛大にすぎると批判し、原爆投下が早期決戦をもたらしたとまで述べられた。これはパル反対意見書を批判する目的で書かれたとみられている。  
パールの個別反対意見書  
イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。パールは1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。  
ベルナールの個別反対意見書  
アンリ・ベルナール判事は 梅汝璈中華民国代表判事に対して1948年7月26日に「正義は連合国の中にあるのではないし、その連合国の誰もが連合という名の下にいかなる特別な敬意を受けることができるわけでもないのだ」と述べている。また南次郎が満州事変を「自衛権の発動」と承認した時に多数派判事が非難するなかベルナール判事は満州事変は「ありふれた事件」でしかなく、また「自衛すべきであると思うときには自衛権がある」「この決まりは実際に攻撃も侵略もないケースにおいても自衛権の発動を妨げるものではない」と述べた。満州事変問題については「事変と称されている事実が起きた時点では、中国政府自身、まだ日本を敵国とみなしていなかった」として、当時の日中衝突を日本側の行為だけを非とするのはおかしいとし、また「我々は、あらゆる大国が自らにとっての生命線を自国内ではなく他の国に置いてきたことを了承してきたし、今日でも了承しているではないか。チャーチルはイギリスの生命線をライン河に置いてきた」とものべ、さらに「法的な解決、あるいは仲裁のイニシアティブをとるべきであったのは、日本によって行使される特権の廃止を求めていた中国側にあった」と主張した。また、オーウェン・カニンガム弁護人が東京裁判を「茶番劇」と批判したことについて判事たちが法廷から追放したことについては、いかなる制裁措置も適用されてはならないと批判した。共同謀議については定義が曖昧で、被告が共同謀議に成功したとする多数派判決について「疑わしく、」「正式な証拠がない限り、この疑いを消えないし、また被告を有罪とすることは許されない」とのべた。  
ベルナールの個別反対意見書では、自然法は国家の上位にあり、自然法によって侵略戦争が犯罪であることは証拠があれば可能である、しかし日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、東アジアを支配したいという希望の存在が証明されたにすぎないから平和に対する罪で被告を有罪にすることはできない。また天皇不起訴は遺憾と述べた。また東京裁判で予審が行われなかったことについて「訴追が最も重大な性質の犯罪に関したものであり、その立証が非常に大きな困難をもたらすものであったという事実にもかかわらず。被告は直接に本裁判所に対して起訴され、かれらは、予審という方法によって弁護側資料を手に入れたり、まとめたりするように努力する機会を与えられなかった。予審は、検察側からも弁護側からも独立した司法官が双方に同等に都合のよいように行うものであって、その間に被告は弁護人の援助によって利益を得たであろうと思われる。本官の意見では、この原則の違反から起こる実際の結果は、本件においては特に重大である」と主張した。また、「裁判所が欠陥のある手続きを経て到達した判定は、正当なものではあり得ない」と東京裁判について断じた。  
レーリンクの個別反対意見書  
ベルト・レーリンク判事は個別反対意見書において、侵略戦争が犯罪になったのは1928年の不戦条約でなく、1945年8月のロンドン協定からであるとした。事後法の禁止は政策の規則なので戦勝国はこれを無視できるが、平和に対する罪だけで死刑求刑には反対し、終身刑が妥当とした。  
また広田弘毅に対して「中国側の要求で、広田は南京虐殺と日本側の不法行為に責任ありとして裁判にかけられ、死刑判決を受けました。私は、広田は南京虐殺に責任ありとは思いません。生じたことを変え得る立場ではなかったのです。ですから、私の反対判決は、彼は無罪放免とすべきという趣旨でした」とのべている。被告について「彼らはそのほとんどが一流の人物でした。」「海軍軍人、それに東條も確かにとても頭が切れました」とし、さらに「一人として臆病ではありませんよ。本当に立派な人たちでした」と評価した。  
ウエッブ別個意見書  
ウエッブ別個意見書では多数派と同じく憲章の拘束力を認め、不戦条約によって侵略戦争の不法性を是認した。また天皇の責任訴追について、天皇不起訴に不満なわけではないが天皇の戦争責任を踏まえて被告の減刑を考慮すべきであると主張した。日暮吉延はこれはオーストラリア本国に向けて書かれたものとした。
判決言い渡し  
1948年(昭和23年)11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・ウェブは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された大川周明1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。
刑の執行  
7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。
未訴追者への裁判と裁判終了  
一方で戦犯容疑者に指定されたものの、訴追が開始されていない者達が未だ残っていた。1948年1月、ニュージーランドは1948年12月31日の時点で戦犯捜査を打ち切るよう主張し、アメリカ側もこれ以上の戦犯裁判継続はほとんど意味がないという見解を示していた。ニュージーランドとアメリカは捜査終了後の1949年6月30日をもって裁判を終了させるべきであるという見解を統一し、首席検察官のキーナンもこれ以上の戦犯裁判は行うべきではないという見解を示した。7月29日の極東委員会でニュージーランド代表は1949年6月30日に裁判を終了させるべきと提議した。賛成したのはアメリカとイギリスだけであり、その他の国は明確に反対しなかったが、BC級戦犯の裁判については継続を求める声が上がった。この協議中の11月12日に判決が出、極東国際軍事裁判は継続されているのかどうかという法的問題が持ち上がった。  
1949年2月18日、極東委員会第五小委員会においてアメリカ代表は、「A級戦犯」裁判は2月4日の時点で終了し、新たな戦犯の逮捕は検討されていないという見解を示した。3月31日の極東委員会において、可能であれば捜査の最終期限を1949年6月30日とし、裁判は9月30日までに終了するという決議が採択された。 
裁判以後

 

平和条約における受諾  
1951年9月8日に調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)第11条において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められているが、これは講和条約の締結により戦時国際法上の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた軍事法廷の判決が失効(あるいは無効)となり、当事者の請求により即刻釈放すべき義務を締約国に課されることを回避するために設けられた条項である。  
日本国との平和条約第11条の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の解釈を採っている。
戦犯の赦免  
日本国内においては、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は4000万人に達したと言われ、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌1953年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。また収監されていた極東国際軍事裁判による受刑者12名は、1956年(昭和31年)3月末時点ですべて仮釈放されている。
■裁判の評価と争点
この裁判については裁判中、また裁判以後も批判をふくめ様々な評価がなされており、裁判の公平性やその他の争点をめぐって歴史認識問題のひとつとなってもいる。日本政府は「日本国との平和条約」11条によりこの裁判および他の連合国法廷の裁判を受諾したため、異議を申し立てる立場にないという見解をとっている。  
アメリカやヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされた。イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
アメリカ政府・GHQ要人の発言  
GHQのチャールズ・ウィロビーもレーリンク判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」と述べたという。  
国務省ジョージ・ケナンも東京裁判について「法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある」「しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなされた」として、戦勝国が敗戦国にを制裁する権利がないというわけではないが、「そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した。ケナンはさらに国務省宛最高機密報告書のなかでこの裁判は「国際司法の極致として賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質がごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、法ではないと批判した。ただし、ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であったとものべている。  
マッカーサーの発言  
東京裁判の事実上の主催者ともいえたダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争勃発直後の1950年10月15日、ウェーキ島でのハリー・S・トルーマン大統領との会談の席で、W・アヴェレル・ハリマン大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。  
またマッカーサーは1951年(昭和26年)5月3日に開かれた上院軍事外交合同委員会において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだったのです」と証言した。この発言においてマッカーサーは、大東亜戦争が日本の自存自衛のための戦争であったことを認めたとされる。またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べた。小堀桂一郎はこの発言を「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している。
「勝者の裁き」  
首席検察官ジョセフ・キーナンの冒頭陳述「文明の断乎たる闘争」という表現に基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。  
一方、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことなどから、"勝者の裁き"とも呼ばれる。レーリンク判事も「勝者の裁き」であったとした。  
歴史学者リチャード・H・マイニアは著書『東京裁判−勝者の裁き』で「アメリカの原爆投下行為に人道に対する罪は適用されないのか」と被告の選定、すなわち連合国の戦争犯罪行為が裁かれなかったこと、また、昭和天皇の不起訴だけでなく証人喚問もなされなかったこと、判事が戦勝国だけで構成されたこと、侵略を定義するのは勝者であり従ってプロパガンダになる可能性などを問題視し、したがって侵略戦争を理由に訴追することは不可能であると主張した。  
2013年2月12日衆院予算委員会において安倍晋三首相は「先の大戦」の総括は、日本人自身の手ではなく、「東京裁判という、言わば連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされた」と述べた。中華人民共和国政府はこの発言を批判、2013年11月12日に上海で開催された「東京裁判国際シンポジウム」で華東政法大学の何勤華は「東京裁判は人類の正義の力が邪悪な勢力に打ち勝ったことに伴う重大な成果で、正義の法律が日本の罪人を処罰した正当行為」とのべた。また、粟屋憲太郎は「東京裁判の中には誤りもあるが、日本はサンフランシスコ講和条約で判決を受諾して国際社会に復帰できた。それを忘れて『勝者の裁き』というのは誤りだ」と述べた。
共同謀議  
またニュルンベルク裁判において用いられた「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導部やヒトラー内閣、親衛隊という組織」が共同して戦争計画を立てたという「共同謀議」の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている。  
しかしナチス・ドイツ体制は総統であるアドルフ・ヒトラーの指導者原理に基づくイデオロギー集団であったナチ党によって一党支配体制が構築されていたが、戦前の日本の事情とは異なっている。当時唯一の政党であった大政翼賛会は対立していた旧政党が合同してできたものであり、ナチ党のような強力な団結は持っていなかった。また陸海軍や枢密院、重臣や木戸内大臣などの宮中グループの政治的影響力も強く、これらの間での政見の統一は困難であった。実際の被告中にも互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。この状況を被告であった賀屋興宣は「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と評している。このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿や杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。  
ジョージ山岡弁護人は「共同謀議なるものは、最も奇異にして信ずべからざるものの一つである。すくなくとも最近14年間にわたる孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ、ならべたてられているにすぎない」と弁護した。  
また、1945年以前の国際法に共同謀議については記載されていなかったという反論に対してウエッブ裁判長も別個意見書のなかで「国際法は、多くの国の国内法とは異なって、純粋の共同謀議という犯罪を明示的に含んでいない」「同様に、戦争の法規の慣例も単なる純粋共同謀議を犯罪としない」と認めている。さらに「英米の概念に基づいて、純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、また各国の国内法において共同謀議とされている犯罪の共通の特徴と認めるものに基づいて、そうする権限もない」とし、もし共同謀議を犯罪とするならば、それは「裁判官による立法」となるとものべている。しかし、多数派判決では共同謀議は罪状として認められた。以前の国際法に記載がなかったにも関わらず審理するということは、法学の原則である「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし(Nullm crimen sine lege,nulla poena sine lege)」に抵触するのかどうかが問題とされていたのであった。
被告人の選定  
被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している。また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している。この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官ボナー・フェラーズ(英語版)准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている。
判事の選定  
判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝璈判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事が法廷の公用語である日本語と英語のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。
法的根拠と公平性  
極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際してハーグ陸戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動であり戦争行為に含まれる。尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。戦争犯罪の処罰についてはポツダム宣言10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の戦争犯罪概念が拡張され検討されたことに特徴がある。なお、仮に国際実定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、実定法上の根拠がない「事後法」により訴訟が提起され、また連合国側の戦争犯罪は裁かれず「法の下の平等」がなされていない問題があり、よってこの「裁判」は政治的権限によって行われた報復であるとの批判がある。  
またこの裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかった。こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い。当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。  
国際法学者ハンス・ケルゼンは「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。敗戦国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである」と敗戦国の戦犯裁判を批判した。  
国際法学者クヌート・イプセンは「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力をもっていた国際法に基づくものではなかった」とし、戦争について当時個人責任は国際法的に確立しておらず、事後法であった極東国際軍事裁判条例は「法律なければ犯罪なし」という法学の格言に違反するものであったとした。ミネソタ大学のゲルハルト・フォン・グラーンもパル判事の意見を支持し、当時パリ協定の盟約・不戦条約があったとはいえ主権国家が「侵略戦争」を行うことを禁止した国際法は存在せず、「当時も今日も、平和に対する罪など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」とのべている。  
イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は国際連合裁判所についての規定「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない」(世界人権宣言第11条第2項)を引合いに出し、「戦勝国の判事のみでもって排他的に構成された裁判所」は「独立の公平な裁判所」とはいえず、枢軸国犯罪人を早急に裁くために設定された裁判所条例や、事後になって犯罪を創設したことは、世界人権宣言第11条第2項規定と相容れず、ドイツと日本の戦犯裁判が「法の規則を設定したという価値は取るに足りぬようにおもわれる。むしろ、重大な退歩させたというべきである」と述べている。  
歴史学者ポール・シュローダーは「裁判所の構成、政治的状況、さらに戦後まもない時期の世論の趨勢が一体化して、事件についての冷静で均衡のとれた判決を不可能にした」「歴史家はもしかすると、(裁判所が達した)結論が国際法と正義の発展において多大な前進であったという点については疑わしく思うだろう」と指摘した。  
ロンドン大学のジョン・プリチャードは次のように東京裁判の問題点を摘出している。  
検察は真実の解明よりも、日本の指導者を厳しく処罰することで日本人を再教育することを目的としていた。  
判事たちの多数は検察の主張を鵜のみにして、弁護側の証拠や反証反論を一方的に却下した明確な形跡がある。  
通常の戦争犯罪(捕虜、民間人への残虐行為等)は全体の5-10%であり、ドイツよりも比率が低い。  
戦争を「侵略」と「自衛」に分けることは困難であり、日本の歴代指導層が一致して侵略戦争を企図した形跡もなく、したがって共同謀議や、「不法戦争による殺人」といった訴因は法的根拠を持っていない。  
当時存在しなかった平和に対する罪を過去に遡って適用したり、罪の根拠を1928年のパリ不戦条約に求めることには無理がある。  
事後法の観点  
ラダ・ビノード・パール判事の意見書のように、第二次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが1944年(昭和19年)秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の二つの新しい犯罪規定については事後法であるとの批判や、刑罰不遡及の原則(法の不遡及の原則)に反するとの批判がある。また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になるドワイト・D・アイゼンハワー元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている。
証拠規則  
歴史学者ジョン・ダワーは「この裁判が公正であったかどうかについての意見の相違は、軍事法廷の手続きとしてなにを適切と考えるかという前提の違いに表れる。陸軍長官スティムソンでさえ、一般の法廷でふつうにある、さらには軍法会議にもあるような、訴訟手続き上の規則や保証もなしにこのような裁判が行われるとは想像だにしなかった。軍事法廷、あるいは軍事委員会の手法が採用されたのは、そうすることで、検察側にほかの状況では許されない手続き上の裁量が、とくに証拠の証拠能力有無の裁量が可能になるからである」とし、連合国は被告の主張を正当化することを妨害するために、証拠に関して制限を加えたと指摘し、「勝者によって緩められた証拠規則が、裁判に恣意性と不公正の入りこむ余地を与えた」ことは明らかであると批判した。
協議の経過  
ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。  
オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。
「A級戦犯」  
A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介や笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内の左翼系メディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる。こうした用語法は、連合国の国民のみならず日本国民においてさえ、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。
日本での評価  
左派勢力からは、この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った『平和主義』を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)。日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という。宮台真司はこの裁判を、昭和天皇と日本国民の大部分から罪を取り除いて戦後の復興に向けた国際協力を可能にするために、もっぱらA級戦犯が悪かったという「虚構」を立てるものだったと位置づけ、A級戦犯だけが悪かったわけではないにせよ、虚構図式を踏襲するべきだと主張した。
「東京裁判史観」  
東京裁判史観とは、東京裁判の判決をもとにした歴史認識のことで、満州事変から太平洋戦争にいたる日本の行動を「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略とする点を特色とする。この史観は連合国軍総司令部民間情報教育局により昭和20年末から新聞各紙に連載された「太平洋戰爭史」によって一般に普及した。この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識として保守派から批判があり、また昭和天皇や731部隊の戦争責任が免責されたため進歩派からも問題点を指摘されている。  
秦郁彦によれば、1970年代に「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めた。東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「自虐史観」に反発の矛先を向けているという。秦は渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳・小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や、非専門家の論客がこうした主張の主力を占め、「歴史の専門家」は少ないと指摘している。  
これらの論者があげる裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。  
審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『紫禁城の黄昏』すら却下された。  
判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。  
また江藤淳によればGHQは占領下の日本においてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)、とも主張している。  
秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている。  
1.侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者の裁き」だったゆえに敗者の例だけがクローズアップされたと強調する。  
2.「パール判決書」を「日本無罪論」として礼賛する。  
3.講和条約11条で受諾したのは「裁判」ではなく「判決」と訳すべきだったと強調する。  
4.二次的所産の歴史観を批判の対象とする。  
 
勝てば官軍、負ければ賊軍

 

勝てば官軍負ければ賊軍とは、何事も強い者や最終的に勝ったものが正義とされることのたとえ。  
たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、負けた者は不正となる。物事は勝敗によって正邪善悪が決まるということ。  
「官軍」とは、時の朝廷や政府に味方する軍勢のことで、明治維新で敗れた幕府は賊軍の汚名に泣いたという。「賊軍」は「官軍」の反語で、朝廷や政府の意思にそぐわないとされた側の軍のこと。単に「勝てば官軍」とも。  
類義 / 小股取っても勝つが本 / 力は正義なり / 強い者勝ち / 泣く子と地頭には勝てぬ / 無理が通れば道理引っ込む
2  
どちらにも道理はあろうが、結局は勝ったほうが正義になり負けたほうが悪になってしまうという意味。転じて、どんな卑怯な手を使おうが勝ってしまえば(≒成功してしまえば)あとはどうとでもなるという意味。  
戦争を始めとしたあらゆる争いごとでは実際がどうであれ、結果的に勝ったほうが正義であり負けたほうが悪になってしまう。官軍とは人民を守る政府の軍隊で、賊軍とはそれに反乱する軍隊のこと。元々は幕末時に朝廷と幕府の戦いで、負けた幕府側が賊軍の名に泣いたことから来ている。  
歴史学というのは基本的に当時の史料をもとにして研究が進められるのであるが、当時の勝利者が自らの統治を確固たるものにするべく歴史書を改竄し真実の歴史を隠してしまうことは洋の東西を問わず多いことである。例えば、倒した相手に暴虐非道の王であったとか愚昧な統治者であったとかレッテルを張ることがよく見られる。そんなことされると敗者にいかな正義があろうが、正史の上でも悪人にされてしまうのだ。「勝ったほうが正義」というのは歴史を学ぶ上では重要な前提である。  
史料が改竄されなくても大抵の場合、敗者に発言権はないのでどんな卑怯な手を使っても勝てば良いという見方もできる。戦争なら核ミサイルや捕虜虐殺。スポーツならラフプレイやお行儀の悪い選手強奪など。負けた後に敗者がなにを言ってもやはり無視されたり言い訳と取られてしまうことが多い。しかし最近はネットとかがあるから悪いことするとすぐ広まってしまうことも。  
しかしこれと同時に「判官びいき(アンダードッグ効果)」という言葉も存在する。敗者への同情によって評価を得られることもあるのだ。
3 官軍  
君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指す。  
尊皇思想が根ざす日本史上において「天皇陛下の軍隊である」という意識は、軍全体の士気にも大きく影響した。対する言葉は「賊軍」。しかし、官軍・賊軍の立場はその状況次第で変動が激しく、天皇(朝廷)の勅書や後継をめぐる戦略が繰り返される傾向にある。江戸時代の民衆がこれを揶揄した狂歌「勝てば官軍 敗ければ賊よ 命惜むな 國のため」があり、後に「勝てば官軍、負ければ賊軍」といった諺も生まれている。  
戊辰戦争 / 「官軍」の呼称が用いられていた例として著名なのは、戊辰戦争において新政府軍が旧江戸幕府軍を賊軍として討伐した際のものである。1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦い後、仁和寺宮彰仁親王を征討大将軍、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じて諸道鎮撫使・諸道総督府などを各地に派遣した。この際、官軍は菊章旗(「錦の御旗」)を掲げた。鎮撫使や総督府には長州藩・薩摩藩などの雄藩の実力者が参謀などとして参加していた。官軍といっても実態は新政府側についた諸藩の軍と草莽の部隊によって構成され、大総督府がこれらの部隊を統制した。また、各地に民政局を設置して窮民保護を掲げて民衆に宣伝を行った。その一方で、窮民保護方針に基づく「年貢半減令」を伝達した赤報隊を偽官軍として弾圧したり、世直し一揆を鎮圧するなど、宣伝と矛盾する措置が行われたこともあった。 
4 賊軍  
「官軍」の対語で、日本史上その軍の正当性を否定する言葉。天皇(朝廷)の意思にそぐわないとされた側の軍(反乱軍)のこと。朝敵とほぼ同じ意味だが、多く幕末・明治維新以後に用いられた。明治政府成立後は、反政府軍の事を意味するようになった。  
「賊軍、官軍」の歴史  
平治元年(1159年)-永暦元年(1160年)、平治の乱で源頼朝・義経、源義朝とともに賊軍に。  
文治元年(1185年)、平家滅亡に伴い、源氏、官軍に。  
木曽義仲、賊軍認定を受ける。  
承久3年(1221年)、鎌倉幕府追討の院宣によって鎌倉幕府が賊軍になるものの、承久の乱で幕府軍が官軍を破ったことから、当該院宣が取り消される事態に発展、逆に官軍になる。  
足利尊氏、賊軍認定を受けるも、建武政権を滅ぼし、官軍となる。  
幕末...長州藩と会津藩が官軍と賊軍の地位を争う。  
明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い...旧幕府軍が「朝廷の意向を無視し、王政復古を行った薩摩藩の陰謀に誅戮(ちゅうりく)を加える」という討薩の表をもって大坂城から京へ進軍中に「錦の御旗事件」が発生。官軍と賊軍の地位が逆転する。  
幕末の「賊軍」  
幕末においては当初、朝廷が幕府の政策を支持したため、禁門の変などで対外強硬策を主張した長州藩及びその支持者が賊軍とされた。しかし孝明天皇の崩御後、朝廷は方針を変更し、薩摩藩・長州藩などが官軍となり、薩長軍と戦った旧幕府軍は「賊軍」となった。歴史書では長年にわたって薩長に逆らった江戸幕府軍は賊軍扱いされ、幕府軍の主力を占めた会津藩・奥羽越列藩同盟は賊軍とされた。  
明治の「賊軍」  
実質的に明治時代「賊軍」となったのは西南戦争などでの反乱士族とその同調者のみである。また明治初期に多く起こった一揆も「賊軍」とは言われない。長らく汚名を被っていた旧幕府軍に対し、西南戦争関係者の名誉回復は比較的早く、1889年(明治22年)に西郷隆盛が大赦で許されたのを皮切りに、大正時代が終わるまでに関係者の多くは名誉回復している。  
 
「勝てば官軍」か茶番の東京裁判

 

フセイン裁判と東京裁判 勝者が敗者を裁けるか  
我々はいわゆる“東京裁判”(正式には、極東国際軍事裁判)を歴史的な一つの茶番として告発するが、それは、この裁判が、帝国主義的醜悪と悪の権化であった日本の支配者たち(のごく一部)を裁判にかけ(まさに“見せしめ的に”)、その“罪”を告発したからではなく――この点についていえば、東京裁判は、この任務さえろくに果たさず、アメリカの政治的思惑と恣意によって支配されていた――、帝国主義の先頭に立っていた天皇を免罪にし、また当時最強の帝国主義国家であったアメリカの反動的な支配層を全く裁かなかったからである。今また、アメリカはイラクを侵略し、国家を転覆し、「勝者」としてフセインを裁こうとしているが、これこそ、我々がここで東京裁判を取り上げ、その意義と内容を問う一つの理由である。  
東京裁判は「永久に戦争を廃絶する」のではなく――当時、アメリカの検事の一人は日本の軍国主義や侵略戦争や不正と非道徳を告発し、裁くことによって、それが可能になると主張したが――、その不公正と恣意によって、むしろ反対に新しい反動的戦争の種を温存し、蒔(ま)いたとさえ言えるのだ。  
東京裁判とは、太平洋戦争に勝利したアメリカが、日本の戦争は不正義であり、侵略戦争であったとして、日本を裁いたもので、終戦の翌年(一九四六年)の春に始まり、延々二年間にわたって審議を続け、四八年十一月に判決がくだった、アメリカ占領軍が主催した裁判のことである。  
告発されたのは東条英機を始めとする二十八名で、このうち、死刑になったのはわずか七名であった。あとの者は二名(東郷茂徳と重光葵)を除き終身刑であったが、大部分は刑が軽減され、途中で釈放された。  
二十八名はほとんどが“侵略戦争”に責任があるとみなされた軍部と政府のトップであったが、生き残っていた右翼の一方の旗がしらの大川周明が入っていたのが、いくらか違和感を覚えさせる位だった。  
東条や大川以外のそうそうたる名簿の一部をあげてみれば、陸軍“皇道派”(急進派)の先頭に立っていた荒木貞夫(陸相、文相)であり、在満特務機関長、軍事参事官、陸軍航空総監、在シンガポール方面軍司令官の土肥原賢二であり、在満師団長、中支派遣軍最高司令官の原俊六であり、枢密院議長、首相で反動派の期待の星だった平沼騏一郎であり、関東軍参謀長、日独伊の三国同盟の主唱者の板垣征四郎であり、文相、厚相、内相などを務め、天皇のh黷フ側近で“重臣会議”を牛耳り、天皇を手玉に繰った木戸幸一であり、関東軍参謀長、拓務相であり、首相となった政治家肌の軍人の小磯国昭であり、南満鉄道総裁、外相として国際連盟脱退の立役者、また三国同盟を先導した超反動の松岡洋右であり、東条の片腕として海軍を戦争にひきずった島田繁太郎であり、陸軍次官、関東軍司令官、参謀長の梅津美治郎であり、「蒋介石を相手にせず」と声明した外相であり、首相も務めた広田弘毅等々であった。  
みな“満州事変”(一九三一年)や日中戦争(一九三七年)――日本は「戦争」と言いたくなかったので「支那事変」と呼んだが――、そして太平洋戦争(一九四一年)に“責任”ありとアメリカが認めた政治家であり、軍人であった。  
彼らは、「平和に対する罪」、「殺人」、そして「人道に対する罪」といった抽象的な罪科で裁かれ、“侵略戦争”とそのための“共同謀議”が大いに問題にされたが、しかしこのことだけでは誰も死刑にされていない。むしろ、これに加えて、司令官としての責任を問われた者の死刑が目につく、つまり「人道に対する罪」といったことが刑の軽重の差になっている。  
すなわち絞首刑に処せられた七名は、東条、広田、土肥原、板垣、木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ派遣軍司令官)、松井石根(陸軍大将、上海派遣軍司令官)、武藤章(陸軍中将、陸軍省軍務局長)であり、板垣、土肥原、武藤、松井、木村といった“軍司令官”連中が並んでいるが、この中には必ずしも“大物”と言えない顔もある。  
たとえば、広田が死刑というのは酷だという評価は最初からあったし、また終身禁固にされた者の中には、広田以上に死刑になって当然の札付きの悪党は何人もいた(否、二十八人が仮に死刑になったとしても、そんなものでは全く不十分だったろう、なぜなら、もっとはるかに多くの軍国主義者、帝国主義者、天皇制主義者、反動の悪党たちのために数百万、数千万の人々が死地に追いやられたのだから、そんなにも多くの人々の死に、支配階級の全体が“責任”を負っていたのだから)。  
二十八名が起訴され、二十五名全員が有罪ということで数があわないのは、途中で亡くなったり、大川のように精神異常ということで、裁判から除外された者がいたからである。 
なぜ1914年以降の日本だけか 「裁かれるべき」は帝国主義一般だ  
東京裁判のテーマは、先号でもちょっと触れたが、1、「平和に対する罪」であり、これは日本が侵略戦争を準備し、実行したというもの(ここではとりわけ、「共同謀議」が問題とされた)、2、国際的な戦争法規や慣例(第一次世界大戦後の“不戦条約”等々)に背いたというもの、3、「人道に対する罪」、つまり住民虐殺や捕虜虐待、奴隷化等々であった。  
裁判の根拠になったのは、ポツダム宣言第十項の次の文章である。ポツダム宣言とは、四五年七月二十六日、日本の降服条件を規定した連合軍の布告である。  
「吾らは日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、吾らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加うるものなり」  
見られるように裁判の対象者は「吾らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人」であって、重点は捕虜虐待や住民虐殺といったところに置かれていたのであるが、しかしこうした意味での「戦争犯罪人」はすでに“現地”において裁判がいくらでも行われ、死刑などが科されていたのである。これには、中級、下級の将校たちもたくさん含まれていた。  
ところが東京裁判では、東条を始めとして、むしろ侵略戦争(と、帝国主義戦争)の開始と遂行に責任を持った国家の指導者たちが裁かれたのであって、主として問題にされたのも、そうした意味での“戦争責任”であった。  
しかも“罪”の内容は単に“満州事変”や日中戦争、太平洋戦争にとどまらず、一九一四年以降の戦争と、それによる“領土”の横奪等々だというのである。  
このことは、ポツダム宣言の第六項が、「『カイロ』宣言の条項は履行せられるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州、四国並びに吾らの決定する諸小島に局限されるべし」と謳ったことと関係する。  
そしてカイロ宣言(四三年十一月、アメリカ、イギリス、中国が発した、日本の降服条件を示した宣言で、ポツダム宣言の基礎となった)は、一九一四年の第一次大戦勃発以降、日本が行った“侵略行為”を指摘し、次のように主張していた。  
「(この三国の)目的は、一九一四年以来、日本国が奪取し、また占領したる太平洋における一切の島嶼を日本より剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のごとき、日本国が清国より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することにあり、日本国は暴力及び貪欲により日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。前記の三大国は朝鮮人民の奴隷の状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしめんとする決意を有する」  
また、東京裁判は日本がソ連と戦った、一九三八年と三九年の戦争――一般に、張鼓峰事件、ノモンハン事件として知られているが、“侵略”というより、“国境事件”と呼んだ方がより事実に近い――もまた“侵略戦争”として告発されているが、しかしこの戦争については、すでに日ソ間で停戦条約が結ばれ、解決されているのであって、なぜ東京裁判で問題にされなくてはならなかったのか、まさに「国際法と慣例」に即しても了解することはできないだろう。  
ただ太平洋戦争末期、ソ連もまた“参戦”したということからのみ説明されるようなことであった。  
そして一九一四年以降というなら、当然日本の“シベリア出兵”(一九一八〜二二年)も、まさに“侵略行為”として持ち出されるであろうが、しかし仮にそれが正真正銘の“侵略行為”であり、どんな正当化もありえないとしても、しかし東京裁判で“裁かれなくては”ならないという理屈にはならないであろう。  
“原告団”にはソ連も中国も加わっていたのだから、裁かれるべきは“満州事変”以降となるのは当然であり、さらには一九一四年以降となるのもまた当然であった。  
しかしなぜ日本の帝国主義が第一次世界大戦以降と区切られて“裁かれなくては”ならないのか、それ以前の帝国主義や侵略戦争の“罪”はどうなのか。  
そしてさらに、なぜ日本の帝国主義だけが“裁かれなくては”ならないのか、本家本元である欧米の強大な帝国主義国はどうなのか。アメリカもまたフィリッピンの領有など十分に帝国主義政策を強行してきたのであり、またそもそも、日本と「太平洋の覇権をかけて」激突したのも、アジアの市場、とりわけ中国の広大な、将来性のある市場を日本に“独占”され、囲い込まれることを憎んだからではなかったのか。  
日本の帝国主義が“裁かれなくては”ならないとするなら、アメリカの帝国主義も、否、帝国主義一般が“裁かれなくては”ならなかったはずである。だが、アメリカは(つまり東京裁判は)決してそのようには問題を提起しなかったし、できなかったのである。  
東京裁判が最初から茶番であり、矮小でしかありえなかった理由である。 
米占領軍の“動機” ポツダム宣言による裁判か  
東京裁判では、「何を裁くのか」、「何のための裁判か」ということは、終始一貫はっきりしなかった。  
それはこの裁判が、帝国主義戦争に勝利したアメリカが、敗北したもう一つの帝国主義国家日本の罪を問うという、本質的に限界のあるものだったからである。勝った帝国主義国家が、負けた帝国主義国家を一体どんな“罪”で裁くことができたというのか。  
まさにこのあたりを突いたのが、清瀬一郎弁護人であった。清瀬は冒頭陳述で、「日本の降伏はアメリカのいうような“無条件降伏”ではなく、この点ではドイツと違う、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏したのだから“条件付き”だ、ポツダム宣言を根拠に“裁く”というならまだわかるが、ニュールンベルグ裁判の原則を借りてきてやるのはおかしい、ポツダム宣言の『吾らの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人』という基準でのみ裁判をすべきだ」と、アメリカ占領軍に“食ってかかった”。  
「平和に対する罪」とか「人道に対する罪」など、ポツダム宣言のどこにもないような項目を持ち出して、日本(の支配層)を裁く“法的な権限”があるのか、というのだ。ナチスをこうした“罪”で裁いたのはいいとしても、日本は違うのだ(日本はドイツと違って無条件降伏したのではない、ポツダム宣言を受諾して降伏した、つまり“条件付き”の降伏だ云々)と主張し、占領軍の“痛いところ”突いたのである。  
もし“合法的”を売り物にするなら、きちんと裁判の“合法性”を確認せよということであって、弁護人・清瀬の冒頭陳述は、客観的に、占領軍のいう“合法性”の見せ掛けを、つまり東京裁判のインチキ性を、それが帝国主義戦争に勝利した国家の一種の恣意でしかないことを、鋭く暴露することになったのである。  
実際、占領軍の告訴は一貫したものではなかった、つまりポツダム宣言にそったものではなかった。そもそも占領軍にも、アメリカの検事たちにも、ポツダム宣言に“忠実に”裁判をやろうという意思はほとんどなかった。彼らの意図は別のところにあった、つまりアメリカの裁判目的は、自らの戦争を正当化し、その帝国主義的意図を覆い隠すことであり、さらにまた、日本の戦争の“犯罪性”を決定的に印象づけ、日本の“古い”支配層の権威を徹底的に失墜させ、彼らから日本の国民を切り離し、アメリカの占領政策をスムーズに浸透させ、貫徹させることであった(もっとも、ここでアメリカは巧妙な術策を弄し、天皇だけを古い支配層の全体から切り離して、ただ一人“罪”がないとしたが、帝国主義戦争の先頭に最初から最後まで立っていた天皇に“罪”がないということは、ごく“常識的に”考えてもありえなかった)。  
だから、占領軍は日本の旧支配層の「国内政策」まで、あれこれと並べたてて、その“罪”を告発した。例えば起訴状は、日本の支配層の(つまりこの場合は、二十八名の被告たちの)国内政策を、「日本国民に組織的に民族的優越性の思想を植え付け、政治的に日本の議会制度にナチ党あるいはファシスト党と同様の組織を導入し、これを侵略の道具化した。また経済的に、日本の資源の大部分を戦争目的に動員した。また政府に対する陸海軍の威令と制圧を強化し、翼賛会を創設、国粋主義的膨張政策を教え、新聞ラジオに厳格な統制を加えて国民の世論を精神的に侵略戦争に備えさせた」といった“罪”を盛り込んだが、これはまさにお笑いであったろう。  
これはちょうど、不埒なブッシュが、「大量破壊兵器」を口実にイラクに攻め込んでみたが、それが見つからないからといって、今度はフセインの“国内政策”を問題にして、その「専制政治」や「弾圧政策」を持ち出したのと、同じようなもの、まさにご都合主義そのものであった。  
日本の支配層が侵略戦争をやったということなら、それを問題にすべきであって、“国内政策”などまた別のことである。一体、大政翼賛会を組織したとか、資源を戦争目的に動員したとかいったことが、東京裁判とどういう必然の関係があったというのだろうか。  
こんなことを持ち出すならアメリカはどうだったのか、ということになる。アメリカもまた、国内でいくらでも“弾圧政策”や報道統制、国家主義や愛国主義の扇動をやり、アメリカの“優越性”(つまりアメリカの“体制”の絶対性、至上性)のお説教をしていたのであって、そのことで日本を責めることができるはずもなかったのである。  
今まさに、厚かましいブッシュがアメリカのひどい反動的な“体制”(“民主主義”のかげに隠れた専制体制)を棚上げしながら、フセインの「独裁」のことをあげつらうのと同様であった。実際、トルーマンのやったことは、ブッシュのやっていることと寸分とちがわないのであって、日本の反動たちが、当時のアメリカのやったことを非難しながら、今ブッシュがイラクに対してやっていることを擁護し、夢中になっていることほどにみっともなく、自己矛盾していることはない。 
果たして「侵略戦争」か “太平洋戦争”の本質  
アメリカの告訴の根底は、日本が「侵略戦争」をやった、というものであった。この観念によれば、単に日本が中国やアジアを「侵略」したに留まらず、アメリカとの戦争、すなわち太平洋戦争もまた日本の「侵略戦争」であり、アメリカはそれに反対して決起したにすぎない、というのだ。  
アメリカは自らの行った戦争を帝国主義戦争であると言えなかったので、日本の戦争を単なる「侵略戦争」、不正の戦争として告発し――歴史的に批判されたのでなく、単に道徳的に非難されたにすぎない――、したがって自らの戦争は、それに対抗する“正義の”戦争であると公言したのである。  
主席検事のキーナンは裁判の冒頭陳述で、なぜ日本が(二十八名の被告が)告訴され、裁かれなくてはならないかを明らかにした。  
彼は日本の戦争は「文明への挑戦」であり、被告たちは「民主主義国家に対し、侵略的戦争を計画し、準備し、かつ開始した」と糾弾した。「そればかりでなく、進んで人間を動産および抵当物のごとく取り扱った。これは、殺戮と幾百万の人々の征服および奴隷化を意味する」云々。  
キーナンは、侵略戦争という犯罪行為は、国家の罪ではなく、その国家の頂点にあった首脳者の罪として、個人が罪を問われるのだ、と奇弁を述べた。  
「国家自体が条約を破るものでなく、また公然たる侵略戦争を行うものではなく、責任はまさに人間という機関〔器官?〕にある。これら被告の不法行為の結果は、あらゆる犯罪の内で最も古い犯罪である殺人を構成し、人命の不法もしくは不当なる奪取となった」  
こうした告訴そのものが、占領軍の裁判の本性を、つまりそれが“公正な”裁判といったものとはほど遠いものであったことを教えている。  
日本がアメリカに対して、侵略戦争を行ったなどということはナンセンスであった、というのは、日本がアメリカ“本土”を攻撃し、犯したことは全くなかったからである。  
辛うじてそれらしきことを探せば、開戦時、ハワイを“奇襲”したこと、一九四二年の春、アリューシャン列島のアメリカの領土であったアッツ・キスカ島を攻撃、占領したこと、あるいは戦争の初期にアメリカの植民地であったフィリッピンから、アメリカ軍を追い出したこと、等々にすぎない。日本の潜水艦が遠くアメリカ“本土”のどこかを一、二度攻撃したということもあったかもしれない(蚊が刺したほどの感覚も、アメリカには与えなかったが)。  
こうしたことをもって、アメリカは日本の対アメリカの戦争を「侵略戦争」と呼ぶのであろうが、しかしこうした評価が“無理”であり、牽強付会であるのは一見して明らかであろう。仮にそうした意味で「侵略」を問題にするなら、沖縄を「侵略」し、また日本本土を空爆で完膚なきまでに破壊したアメリカの方に言われるべきであろう。  
ハワイ等々の戦闘はすべて日本とアメリカの帝国主義戦争の一環、一部であって、日本のアメリカ“侵略”といったこととは別であろう。  
そして日本が“民主主義”や“文明”一般を攻撃した、などというのもばかげている、というのは、連合国の側にも、いくらでも“非民主的な”国家は存在していたからである。  
戦後、アメリカはスターリン下のロシアを“赤い”専制国家と呼んで激しく対立するようになるが、もしそれが真実だとするなら、当時アメリカと組んでいたロシアは決して“民主主義”国家でも、“文明”国家でもなかった、ということになる。  
また蒋介石のもとでの中国が一つの専制国家であり、それ以外でなかったことも明白である。  
そしてアメリカ自身が表面的な“民主主義”や“自由”の装いのもとで、独占資本の一つの“専制国家”として存在していることも、我々は確認できるのだ。  
とするなら、日本の戦争目的が「民主主義を葬り去るため」だなどと言うのは極端な一面化であろう。  
確かに日本は軍部独裁国家、天皇制専制国家ではあったが(そして資本の言う“自由主義”“民主主義”といったものの偽善や自己矛盾や虚偽を嘲笑してはいたが)、しかしだからといって、日本の戦争の動機が“民主主義”国を粉砕したり、“文明”を否定するためであった、などと言うのは一面化であろう。だが占領軍は(つまりアメリカは)、こうした偽りの観念を必要としたのである。  
日本が行った中国やアジアとの戦争を侵略戦争と呼ぶことは可能であろうが、しかし対アメリカの戦争まで、その概念に入れることはできないのであって、この戦争までも「侵略戦争」で片付けようとしたことは、ただそれだけで、東京裁判の正当性をあやしくするのである。  
アメリカはアメリカの戦争の帝国主義的本性を隠すために、この戦争を日本の「侵略戦争」と呼んだが、それは現在、ブッシュが自らのイラク戦争の帝国主義的性格をごまかすために、イラクの「大量破壊兵器」やフセインの「非民主主義」を持ち出すのと同様であろう。  
まして、国家は犯罪を犯さない、犯罪は国家の頂点に立つ人間の責任だと言って、東京裁判を正当化する理屈は荒唐無稽でばかげているであろう。  
こんな具合に、国家と支配階級(つまり“人間”)を切り離すのは全くお粗末ある。国家とは支配階級の“武装した”機関以外の何ものでもなく、両者は別ものではない。支配階級の“人間”が有罪だというなら、その国家もまた有罪であり、逆もまた真実である。厳密に言うなら、アメリカは個人を裁くのではなく、国家を裁かなくては決して首尾一貫しないのである。  
実際、東条などは公然と、自分は国家の政策として戦争を行ったのであって、その意味では個人としての責任はない(国家の諸機関で決定された戦争をやったにすぎない、自分の意思だけでやったのではない等々)、と主張したのである。  
そしてまた、アメリカの主張は天皇の場合、その矛盾をさらけ出している、というのは、天皇は戦後、自分の意思は戦争ではなかったが(必ずもそうでないのは、多くの証拠や証言が明らかにしている通りだが)、国家や機関にしばられて戦争の先頭に立ったのだ、と卑怯な弁解をやった(あるいは、多くの人に証言させた)からである。  
もし国家に責任がなくて、国家の中枢にいて、戦争を指導した人間に責任があるというなら、どうして占領軍は、天皇のごまかしの言い訳を聞いたのか、それを許したのか。個人の責任であって、国家の責任でないというなら、天皇こそまず第一番に“戦争犯罪人”として告発されるべきであって、国家の決定に従っただけ、という天皇の言い抜けは通用しなかったはずだ。 
「人道に対する罪」 「南京大虐殺」など暴露さる  
東京裁判はまた、戦争中、日本軍が犯した数々の残虐行為や、軍部の策謀や謀略を暴き出したのであって、それまで厳密な“報道統制”のもとでつんぼ桟敷におかれていた日本の国民をひどく驚かせたのであった。  
それらの暴露は、日本の国民に、自分たちのやった戦争の反動性や犯罪性を思い知らせ、アメリカの占領支配や、資本主義体制や民主主義の“押しつけ”や、東京裁判等々を容認する心理的な雰囲気を醸成して行ったともいえる。  
日本“国民”は、現在のイラクの人民とは違って、決してアメリカ占領軍に“テロ”を仕掛けなかったばかりか、それを「解放軍」とさえ呼んで、その“民主化”を支持し、迎合したのであった(共産党までが、この支配的流れに乗ったのはお笑いであった)。  
東京裁判では、例えば“満州”への侵略拡大が謀略の連続によるものであったこと、またその過程で三月事件や十月事件等々の軍部のクーデタ騒ぎがあったことが暴かれ、また「柳条溝事件」――一九三一年九月十八日夜半、奉天北方の柳条溝で満鉄路線が爆破され、“満州事変”が始まった――はいかにして、誰によって企まれたのかが追及され、あるいは日中戦争のさなかに起きた「南京大虐殺」や、東南アジア等々の“占領地域”での日本軍の残虐行為なども告発され、また“満州国家”の実態なども溥儀などによって明らかにされ(もっとも、溥儀の告発は自己正当化のためにのみなされ、必ずしも信用できるものではなかったが、それは戦後、すべての“おえら方”の証言がそうであったのと同様である)、日本国民に大きな衝撃を与えた。  
何しろ国民は、これまでそうした事実は一切知らされておらず、国や軍部が振りまく――そしてもちろん、マスコミやインテリたちも同罪だったが――いつわりの情報をほとんど盲目的に信じてきたからである。  
この意味で、東京裁判は、自分たちの戦争の反動的で、帝国主義的な本性を日本国民に反省させるという、大きな“学習効果”をもったということはできる。  
「南京虐殺」の事実もまた、公然と東京裁判の法廷に持ち出された。中国代表の向検事は、日本が謀略と武力と麻薬を使って中国を侵略し、民衆の大量虐殺という“罪”を犯したと告発し、その代表として「南京虐殺」を持ち出した。  
「人道に対する日本軍隊の犯罪はあらゆる占領地域にわたり全期間おこなわれた。その顕著な一事例は、一九四〇年南京陥落時に発生した。中国軍があらゆる抵抗を中止し、南京市が全く被告松井指揮下の軍隊に制御されたのち、暴行と犯罪の大狂乱が始まり、やむことなく四十余日にわたって続行された。  
この兵は、将校、東京の統帥部の完全なる了知と同意の下に残虐行為により、中国民衆のあらゆる抗戦意識を永久に滅却しようと企図したものである。  
これは殺人、虐殺、拷問、凌辱、略奪、破壊を含むもので、孤立的事例ではなく、典型である……。なお日本軍は侵略の拡大のためアヘンその他の麻薬を使用し、これによつて侵略の反抗を無感覚、無能力化されようと意図した」  
検事側は多くの証言により、微に入り細をうがって「南京虐殺」のひどい実際を明らかにしようとした。  
周知のように、「南京虐殺」によって何人が殺されたのかで、今にいたるまで大きな議論がある。数十万という数字があげられるかと思うと、多くて数万という反動派の学者もいる。  
東京裁判は、多くの証言や、紅卍会や崇善堂の記録による埋葬死体の数などから、二十万〜三十万という数字を示唆していた。この二団体が二週間に埋葬した死体が、十五万五千以上だったからというのである。  
仮に虐殺が五十万でなく五万であったとしても、占領時に大量の住民虐殺や迫害がなされたという事実は否定しがたかった。もちろん、そんなことを全く知されておらず、自分たちは“聖戦”を戦ったと信じていた日本国民は、裁判で暴露された事実に驚愕し、戦慄したのであった。  
「南京虐殺」で罪を問われたのは、松井であり、武藤であり、そして当時、外務大臣であった広田であった。広田の死刑には、「南京虐殺」が関係していたかもしれない。検事側は、「南京虐殺」は偶発的なものではなく、政府や軍部のトップはこの事件を知っていながら、決して抑制しようとしなかった、と主張したからである。  
しかし、「南京虐殺」が罪のない一般住民を大量無差別に殺す「人道に対する罪」だというなら、日本への“無差別爆撃”や原子爆弾の投下はどうだというのだろうか。これほどの“住民虐殺”もまたなかった。  
だが、アメリカは日本軍部の“罪”を暴くのに熱心だったが、自らの犯した「人道への罪」に対しては、もちろん何一つ語らなかったが、これはちょうど、今ブッシュがフセインの“罪”について語っても、自らのそれに対して、どんな反省もしていないのと同様である。 
 

 

戦争の正当性叫んだ東条 すべて「自存自衛」のためと強弁  
自殺をしそこない、その小心な本性をさらけ出した東条は、東京裁判で、自らの“信念”を臆面もなく吐露して止まなかった。彼は法廷を利用して、自らと日本国家がやったことは全面的に正しく、戦争自体、何ら反省することはない、それは正当な“自衛戦争”であり、日本が国家として自立、自存を保っていくために必要な戦争であったと開き直った。  
彼が反省し、謝罪することがあるとすれば、それは日本の敗戦に対してであって、この点については総理大臣であった自分は責任を負うと殊勝顔を装った。  
他方では、彼は天皇は十五年戦争に何ら責任はないと“かばった”が、しかしなぜ、自ら正当だと称する戦争に天皇が無関係だったなどと言うのか、奇妙な理屈ではあった(天皇は裏切り者だったとでも言いたいのか)。  
とにかく、多くの他の被告が醜い自己正当化にふけり、自分は本心では平和を望んでいたのだとか弁明したのに対し――この点では、天皇も同じであった、否、天皇ほどこうした自己正当化をしたり、やらせた日本人はいなかったと言える――、東条だけは公然と十五年戦争を擁護し、美化した。  
彼は、日本はアメリカなどによって「自衛」が根底的におびやかされたからこそ、止むに止まれず戦争したのであって、悪いのは日本を追いつめ、その国家を存亡の縁にまで追いやったアメリカである、と言いたてた。  
彼は法廷で、あるいはその「口述書」を通して、一九四〇年、四一年の日米関係を詳しく跡付け、アメリカがいかに不当であり、横暴であって、制裁や非妥協的な態度によって、日本の利益と自存をおびやかし、日本を経済的、政治的に袋小路に追い込んで来たかを“論証”しようとした。  
“満州事変”も中国への“進出”も、南北仏印(現在のベトナム)への“進駐”も、すべて「日本の自存自衛」のために行われたものであって、それをとやかくアメリカが言いがかりをつけ、日本に対して経済的封鎖や制裁を行い、あるいは軍事的、外交的に圧迫を加えて来たのだから、アメリカにこそ問題があり、すべてアメリカが悪い、という“論理”である。  
東条は口を極めて日本は妥協を望んだが、アメリカこそ戦争をやりたかったので、早くから戦争を決意して、日本との交渉に臨んでいたと強調した。だからこそ妥協が成り立たず、戦争といった事態にまで立ち至ったのだ、と。  
また東条は一九四〇年、四一年にアメリカの軍事生産が飛躍的に増大し、戦争準備が急速に進んだことを指摘し、これこそアメリカが戦争を決意し、日本を叩く準備をひたすら急いだ証拠だと強調した。それに対して、日本が備えたのは当然だ、もし備えなかったら、自分は総理大臣としての責務を果さなかったということで糾弾されただろう、というわけだ。  
戦争はアメリカのハル・ノートが提出されたことで不可避となったが、妥協を拒否し、戦争宣言とも取れる、こうした“最後通帳”の文書こそ日米戦争の直接の原因で、戦争責任を言うなら、アメリカの方にこそあった。  
また、アメリカは日本の無線を盗聴、解読することによって、日本が攻撃に出るのを知っていながら、日本に最初に攻撃させようと策動し、挑発したのであり、日本が先に(宣戦布告もなしに)攻撃した(すなわちハワイ急襲)などというのは正当ではない、とも“匂わせた”。  
しかし、“満州”国家をでっちあげ、中国全体に侵略を拡大しつつ、さらには仏印、タイなどの“南方”に進出しつつ、「この目的達成のためには対米英戦を辞さない」という決定をしていながら(一九四一年九月六日の“御前会議”)、戦争はアメリカの挑発のために起こったと言うには、相当の厚かましさと一人よがりが必要であった。  
アメリカは、日本が中国や南方アジアから撤退しなければ、もう妥協しないと決意を固めつつあったが、こうした立場はまた、アメリカの“自衛”という理屈で正当化されていたのである。  
中国や南方アジアへの日本の軍事的侵略の拡大は、アメリカにとって「重大な脅威」であった、というのは、それがアジアにおける、太平洋におけるアメリカの覇権を決定的におびやかしたからだ。  
ハワイはさておくにしても、仏印の日本軍占領は、たちまちアメリカの植民地であったフィリッピンへの「重大な脅威」になった。日本の南アジア進出は、アメリカの“自衛意識”を一挙に高めた。日本の侵略の拡大はもう、アメリカにとって“よそごと”ではなくなったのである。  
だから、日本がアメリカとの戦争を「自衛のため」と叫んだと同じくらいに、アメリカもまた憤慨して「自衛のため」とわめいたが、しかしこの両国の言う「自衛」とは、自国や自国民の「自衛」では全くなくて、アメリカにとってはフィリッピン等々の植民地であり、日本にとっては“満州”やアジアの支配地域であったにすぎない。  
日本について言えば、後に明らかになったように、本当の「自衛」――つまり“本土防衛”等々――が問題になったときには、軍隊は何の役にも立たなかったのであり、全く「自衛」などしなかったし、できなかった。アメリカの日本“本土”空襲はほとんど自由、無制限に行われたし、原爆投下を妨げるような「自衛」活動もなかった。  
ブルジョアや帝国主義者の言う「自衛」とは、こんなものであり、ただこんなものとしてのみ現実的だった。この教訓を我々は決して忘れてはならない、というのは、今また「自衛」のための軍隊の増強とか、海外派遣といったインチキがもっともらしく言われ始めているからである。  
もちろん、開戦に向けてアメリカは策動した、早くから戦争を決心していて、日本から攻撃させようとしたにすぎない、という非難もナンセンスである、というのは、同じことを東条を始めとする軍部もやっていたからである。  
ルーズヴェルトが、日本が中国等々から手を引かない限り戦争だと決意していたというなら、日本も同様で、アメリカが日本に中国等々から撤兵せよと迫り、その点で日本の立場を認めないなら、妥協を拒否するなら、戦争しかないと断言していたのである。  
アメリカは日本がすでに戦争行動に移っているのを知っていて、何ら手を打たなかったと非難してみても、日本の方こそがハワイに“やみ討ち”をかけたのだから、大した自己正当化にはならない。  
策動を張り巡らしたのは“お互い様”としか言いようがないが、それは単純に、両国が帝国主義的政治にふけっていたことを教えるにすぎない。戦争はその避けられない結果である。 
天皇の“戦争責任(上) 開戦の詔勅は「平和の意思表示」か  
東条は東京裁判で、終始一貫、天皇をかばい、天皇には“戦争責任”がない、と言い張った。  
天皇は一貫して平和主義者であって、太平洋戦争のときも戦争には反対であった、戦争開始は内閣の意思として決定したが、それは天皇の意思に反してのことであり、天皇は「とにかく私の進言、統帥部その他責任者の進言によってシブシブご同意になったのが事実」である、天皇は最後まで平和的解決を望んでいられた、それは一九四一年十二月八日の開戦のご詔勅の文句にもはっきり表れている、つまりやむにやまれぬ事情で戦争になったのだという形で、天皇の気持ちが繰り込まれている、云々。  
しかし、開戦時の天皇の詔勅に繰り込まれているという、天皇の「戦争反対の意思」とはどんなものであったであろうか。  
詔勅は、断固として米英を撃てと絶叫しつつ、そもそも悪いのは米英である、と言っているにすぎない。日本はもともと平和を愛好し、またこの間も「東亜の安定をもって世界の平和」のために一貫して努力してきたにもかかわらず、中国は「帝国の真意を理解せず、みだりに事を構えて東亜の平和を撹乱」し、帝国に対して武力に訴えてきた、そしてアメリカはそんな中国を助けただけでなく、「東洋覇権の非望をたくましく」して、帝国の周辺で武力を増強し、また経済的制裁をもって「帝国の生存に重大な脅威」を加えてきた、だから日本は「やむをえず」「自存自衛のために」戦争を開始するのだ、というのである。  
こうしたものは、「平和の意思」といったものでは全くなく、戦争の汚い自己正当化であり、卑しい責任回避でしかない。  
東条は、開戦の詔勅のこんな理屈を持ち出して、天皇の平和主義を言い張り、天皇は開戦にも、戦争自体にも何の関係もなく、またどんな責任もない、と強調したのである。  
だが、「東亜の安定」をもって世界の平和を企図したと言っても、その「東亜の安定」とは、朝鮮の植民地化であり、中国の一部、つまり“満州”の事実上の占領と植民地化であり、さらには中国全体から東南アジアへの武力進出と支配であったとするなら、それが天皇の平和への意思であると言うには、相当の厚かましさと破廉恥さが必要であった。むしろ、それは天皇の「戦争への意思」を語っていたというべきだろう。  
実際、詔勅で天皇は、自分は平和の意思を持っていたが、アメリカがそれを理解も評価もせず、踏みにじったから、戦争に訴える以外ないと独善を振りまきつつ、日本人の全体を戦争へと“駆りたてて”いるのであって、戦争に反対し、平和主義に徹底せよ、などと全く“匂わせても”いないのである。  
実際には、天皇は対米英の戦争を「ご裁可」したのであって、そのことを東条自身もはっきり証言している。すなわち、東条は、東条、両総長(杉山参謀総長と永野軍令部総長)が、天皇に『日本の自存を全うするために、ひらたく言えば、戦争以外に生きる道はありません』と申し上げ、ご嘉納いただいた」と、明確に証言している。  
つまり天皇は、戦争を“裁可”した、すなわち「御名を署し、御璽を押捺した」のであり、正式に戦争への「ゴー」の号令を発したのである。天皇がその号令を発することなくして、政府も軍部も、そして日本全体も戦争に向かって一路邁進することは決してできなかったのである。  
もし本当に、そして真剣に、天皇が戦争に反対であったというなら、どうして天皇は戦争を勅裁したのか、それを“お許しに”なったのか。天皇は自らの責任において、それにノーと言うことができたのであり、また戦争反対が信念なら、断固としてノーと言うべきであったが、それは“人間”として当然のことではなかったか。ことは極めて重要であって、あいまいな態度の余地などなかったのだ。  
しかし東条は、天皇は戦争には反対であったが、しかしノーとは言わなかったと、事実上いうのだ。  
これは一体、何であろうか、反動たちが言いはやしているように、天皇の高潔な人格を示しているというのであろうか。  
労働者にとっては、ここには単なる小心な卑怯者が見えるだけである。「本当は」戦争には反対だとか言いながら、しかし実際には、数百万、数千万の人々の命を奪うことになる戦争に反対せず、むしろ、その先頭に立って、国民全体を戦争に駆り立てる、ひどい偽善者、表裏あるペテン師がいるだけだ。戦争には反対だとか言いながら、全力をあげて戦争を阻止しようとしない卑劣漢――そうできる地位にあり、大きな影響力をもっていたにもかかわらず――がいるにすぎない。  
東京裁判では、検事側から東条に向かって、「日本の臣民たる者は何人たるも天皇の命令に従わないということは考えられないと〔東条は〕言いました。それは正しいか」という質問が出された。  
しかし東条は、この質問にまともに答えなかったし、答えることができなかった。  
「それは、私の国民としての感情を申しあげていた。天皇の責任問題とは別です」、という意味不明のごまかしが東条の答えであった。  
一九四一年九月の御前会議で、「もしアメリカが妥協しなかったら――これはつまり、日本にあくまで、東南アジアのみならず、中国や満州からの撤兵を求めて来る、ということだ――、対米戦争も辞さない」という決定がなされてから、何回かの御前会議がもたれ、最後には、十二月二日の御前会議で戦争が決まったのだが、この時間は、結局、天皇に戦争を納得させ、決意させるための時間かせぎでしかなかったと言える。  
妥協を迫る天皇をごまかし、すかし、戦争しかない(アメリカが妥協しないから、こちらもできない)という結論にもって行くのが、東条を中心とした“軍部”の筋書きであり、策したとろこだったが、それは結局成功し、天皇は戦争を“お許しになった”のである。  
天皇も、自らの帝国主義的立場の放棄、つまりアジア各地からの撤兵の意志も信念も何もなかったのだから、結局は軍部の意思に引きずられ、追随するしかなく、かくして戦争を正当化し、国民を駆り立てるために、誰よりも大きな役割を担い、“お役に立った”(“元首”としての役割を十分に果たした)のである。こんな人間が、どうして戦争に「責任がない」などと言えようか。  
太平洋戦争で日本がもし勝っていたなら、その手柄はまず天皇にこそ帰せられ、そしてこの戦争は正義の戦争であったと言いはやされたことであろう。  
だとするなら、この戦争の“責任”が問われるとするなら、天皇こそ第一に問われなくてはならないということほどに、明白なことがあるだろうか。 
天皇の“戦争責任”(中) 主席判事は「天皇有罪」を明言  
そもそも、四一年十月十八日、近衛内閣は総辞職して、東条が首相になったが、誰もが、これこそ戦争内閣だと信じ、対米戦争は不可避になったと思った。まさに東条内閣の登場こそ、日本が対米戦争を決意したことの表明でなくて何であったろう。  
実際、近衛が内閣を投げ出したのは、東条と対立したからであり、東条に、アメリカに対して妥協し、中国からの撤兵を約束させようとしたが、東条の反撃――というより、“激怒”――に会って、「嫌気がさした」からであった。  
こうした経過からしても、東条内閣の出現のもつ意味は明らかであった、だが天皇は何を思ったか――東条の登場こそ平和への道とでも勘違いしたのか――、自らひどく信頼する東条に、この重大な時期の内閣を“任せた”のである、つまり戦争に向かって進めと発破をかけたと同様のことをしたのである。大体、東条を“深く”信頼し、首相に任命しておいて、戦争への責任がない、などとどうして言えるのか。東条内閣こそ対米戦争を意味したからである。  
個人的なことを申して恐縮だが、この当時のわたしの父の書いたものを読んでいると、父は東条内閣の誕生を、正確に、そしてただちに、対米戦争のための内閣であり、体制づくりであると認識していた。そして、これこそ日本全体の一般的な見方でもあっただろう。  
天皇が、東条を「深く」信頼して、「毒をもって毒を制す」などと考えていたとするなら、つまり軍部の最強硬派、“武闘派”の東条をもって来て、陸軍の強硬派を抑えることができ、戦争を回避できる――というのは、東条は天皇を絶対視しており、その気持ちをないがしろにするようなことは決してないだろうから――、と信じていたとするなら、天皇は単なる愚昧なお人好しであり、その甘い判断によって「国を誤った」のである。  
こんな幻想によって、東条を首相の座に据え、戦争へのゴーサインを出したということ一つでも、天皇の“戦争責任”は明白であり、重大である。  
実際、天皇は東条内閣の出現を歓迎し、明白に、その後押しをしたのだ。天皇は東条が天皇ベッタリであり、ちやほやと持ち上げるのにすっかり感激し――東条ほどに、天皇に対する忠誠心が厚く、“天皇絶対主義者”はいないと言われた――、東条を“高く”評価していたのである(とするなら、天皇の“忠臣”東条が、天皇の気持ちに反して、戦争を開始した、などとどうして言えるのか、東条は天皇の意思が必ずしも平和つまり“対米屈服”ではないと知ったからこそ、開戦を決意したのではないのか。このように“解釈”しなければ、右翼の連中は決して論理的なつじつまを合わせることはできないだろう)。  
木戸日記には、木戸が東条首相を奏請したとき、天皇のご機嫌すこぶる麗しく、「極めてよろしくご諒解あり、『いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということだね』と仰せあり。感激す」とあるという。  
つまり天皇と東条はまさに“君臣一体の”盟友であり、“盟友”として太平洋戦争を戦ったのであり、東条が反動で軍国主義者の“悪玉”であり、他方天皇は、平和主義者の“善玉”であった、などというのは“後世の”自由主義者たちが描いた“善悪論”ほどに、つまらない神話はない。  
さて、天皇を弁護する陳腐な理屈の一つは、天皇は絶対君主ではなく立憲君主であり、政府の決定事項には反対しない、という原則を固く守った、あるいは守ろうとしてきたのであって、だから天皇は政府が決定した戦争には責任がない、というものである。  
しかし天皇の権力は絶大であり、東条でさえ天皇の言葉を絶対視していたと言うなら、天皇は政府の言うことをただ「裁可」していただけだ、ロボットだったにすぎない、だからどんな国家や政府の悪事にも「責任はない」などと言って、世の中に通用する話であろうか。  
公けに謳われている憲法上の地位――国の統治権は天皇にある、と明記されていた――をとっても、また軍隊の指揮が天皇の下にあるという“統帥権”の規定にせよ――この規定により、軍部(参謀本部や軍令部)は“独走”した――、天皇の法的な、あるいは事実上の権力は明白であって、都合のいいときだけ、自分は権力はなかったのだ、などと言うのは卑怯な弁解であり、自分の卑劣さを隠すごまかしでしかない。主体的な立場が全く抜け落ちており、道徳観念ゼロ、ということか。  
とにかく、天皇には少なくとも統帥権はあり、しかも「大元帥」だったのだから、軍部を抑えることはできたはずだ、参謀本部や軍令部に対して徹底的な影響力、支配力を発揮すればよかったのだ。  
東京裁判でも、天皇“無罪論”に対して、あるいは天皇を裁判にさえかけなかったことに対して、決定的な異議が提出された。それはウェッブ裁判長の「別個意見」であった。これは「少数意見」として提出されたものである。  
その中で、ウェッブは次のように、天皇問題について述べている。  
「戦争を行うには、天皇の許可が必要であった。もし彼が戦争を望まなかったならば、その許可を差し控えるべきであった。彼が暗殺されたかもしれないということは、問題の答えにはならない。この危険は、自己の義務を危険があっても遂行しなければならない統治者のすべてが冒しているのである。いかなる統治者でも、侵略戦争の開始という犯罪を犯しておいて、そうしなければ命が危うかったのであるからといって、それを犯したことについて、赦されるものと正当に主張することはできない。  
天皇は進言にもとづいて行動するほかなかったということは証拠と矛盾している。彼が進言にもとづいて行動したとしても、それは彼がそうすることを適当と認めたからである。それは彼の責任を制限するものではなかった。しかし、いずれにしても、大臣の進言に従って国際法上の犯罪を犯したことに対しては、立憲君主でも赦されるものではない。  
〔しかし〕本官は、天皇が訴追されるべきであると示唆するものではない。それは本官の仕事ではない。彼の免責は、疑いもなく、すべての連合国の最善の利益のために決定された」  
ウェッブの言葉に、付け足すことは余りない(彼が太平洋戦争を、日本の「侵略戦争」としてのみ理解しており、したがってアメリカなどの帝国主義者はどんな“罪”もないと無邪気に信じていることを除いては)。彼は、天皇が決定的に“有罪”であること、そして彼が免責されたのは、罪がなかったからではなく、罪があったにもかかわらず、アメリカなどの「利益」といった、極めて政治的な事情が作用したからであることをはっきり語っている。 
天皇の戦争責任(下) 戦争は「ご聖断」で終わったのか  
天皇“無罪論”の根拠の一つは、天皇のヘゲモニーによってようやく戦争が終わったのであり、その結果、戦後の日本があり得たのだ、これこそ天皇の平和への意思を教えるものだ、そんな天皇に“戦争責任”などがあろうはずはない、といったものである。  
東京裁判を主催したアメリカも支配層も、また天皇の“平和主義”を信じるふりをし、またそれをもてはやしさえしたのであった。  
そして、天皇の終戦にあたっての“役割”は、戦後、自由主義者らによって高く評価され、美化されてきた。彼らは、天皇の“役割”の中に、自らの“戦争責任”を昇華させ、棚上げしてくれる何かを見出したのである。  
あの悲惨な戦争は、天皇が戦争中止を決意し、それを「ご聖断」という形で発表されたからこそ終焉を迎えることができ、日本国家と国民が滅亡から救われた、というのである。  
しかしこうした主張は二重の意味でインチキであり、あるいは幻想でしかない。  
まず第一に、戦争は天皇の「ご聖断」によって終わったのではなく、日本のブルジョア階級が、そして国民の大多数が――一部軍部の“狂信的な”軍国主義者、天皇制主義者を除いて――戦争はもう決して勝つことができないばかりか、続けることさえ不可能だ、本土決戦などとんでもない、それは一方的な大虐殺と国家体制の致命的な崩壊、解体に帰着しかねないと思い始めたからであった。  
鈴木内閣や天皇一派は、ブルジョア階級と国民のこの顕在の、あるいは潜在の意思を知ったから、ひしひしと感じたから、そしてこれ以上戦争を継続するなら、労働者人民の怒りと不満が爆発して、総反乱、革命さえありうることを恐れたから、戦争の幕引きをしたにすぎない。  
卑劣で、臆病な日本のブルジョア階級は、つまり鈴木政府は、自らの責任と主体性で、戦争を終結する勇気がなかったから、天皇の陰に隠れ、その権威を利用したのであって、天皇の「ご聖断」は単なる一契機にすぎないのだ。  
せいぜい、それは軍部の一部――“徹底抗戦”、“国体護持”をわめいていた――対する抑制作用を果たしたにすぎず、天皇の「ご聖断」があろうがなかろうが、戦争など続けられる状況になかったのである。  
天皇一派は大いに急ぎ、そして事態を“先取り”しなくてはならない十分の理由があったのだ、というのは、一九一七年のロシアや一九一八年のドイツに見らたれように、あるいはムッソリーニ“解任”後のイタリアに見られたように、敗戦の不満や怒りが戦争の先頭に立ってきた君主制に向けられ、革命によって天皇制や旧体制が打倒される可能性がますます大きくなってきていたからである。  
一九四五年、天皇が一貫して終戦のために努力したなどというのは一種の神話であって、実際には、天皇はぎりぎりのときまで軍部と同様に、「決定的な一戦を交え、はなばなしい勝利を得てから終戦の交渉を」と考えていたにすぎない、つまり東条とともに、最後の決戦に国民を動員しようとあくせくしていたのである。  
すでに日本の青年の大量虐殺以外何も意味しなくなっている戦争を終わらせる強力な意思があったなら、例えばすでに前年、サイパン玉砕で東条内閣が責任を取って辞職したときなどに、断固として終わらせることもできたのであって、もしそうしていれば、どれほど多くの日本の青年の命が救われ、経済の崩壊や産業の損失が少なくて済んだことであろうか。  
責任ある地位にあれば、もう日本がアメリカに勝つことなど全く夢物語であることははっきり分っていた(天皇も理解していたはずだ)、しかし天皇一派や軍部は、ごまかしの小磯内閣などによって七ヵ月もあたら貴重な時間を空費し――その間に何十万、何百万という日本の青年たちがむだに、無為に死んで行った!――、また鈴木内閣になってからも、徹底抗戦をわめき、七月二十六日、ポツダム宣言が出ても「無視する」と回答してその受諾、つまり終戦を遅らせ、結局は、原子爆弾やソ連参戦があるまで、何の意味もない戦争を続けたのである。  
そんなにも受諾を遅らせた理由というのが、天皇制維持がはっきり約束されていないとか、戦後の日本の政府は国民の自発的な意思によって選ばれるという条項が気に入らなかった――日本の国家体制は国民の自由意思によって決まるといったものではない、天皇制は国民の自由意思とは関係のない云々――というのだから、話にもならないのである。本当にひどい話ではあった。  
アメリカ側はこの間、はっきりと、ポツダム宣言を受諾しないから、日本があくまで戦争を継続する決意だから、しかたないから原子爆弾を投下したと明言したのであって(アメリカは「日本に対する原子爆弾の使用は、日本の無条件降伏拒絶に対する回答なり」と放送し、ポツダム宣言を受諾しないなら、この爆弾投下を継続すると通告した)、とするなら、この間の戦闘や広島、長崎で原爆によって死んだ多くの人々の「責任」は直接に、「天皇制護持」にこだわって、ポツダム宣言受諾を三週間も遅らせた、軍部や天皇一派にこそあると言って過言ではない。  
こんなゴタゴタのためにこの間に失われた数万、数十万の青年や国民の命に対し、天皇はどう「責任」をとってくれるというのか。天皇制の護持のための“犠牲”でなくて、これは何のためだというのか。天皇制論者や国家主義者、反動どもは、こうした犠牲も、また国家のためだった、必要だったと強弁するのか、できるのか。  
こうした一切のことに対して、つまり数百万、数千万の日本人、そして中国や朝鮮やその他の国の人々の死に対して、天皇と天皇制は「責任を負っている」のである。  
そして、天皇がポツダム宣言受諾を明言し始めたのが、天皇の地位がどうやら保証されそうだということが分かったからであるのだから、天皇の“平和主義”もいいかげんなものである。彼は自分の地位と命が安泰とわかってから、「国民のために戦争をやめる」などとのたまうのだから、まさに見事な偽善者、卑怯なご都合主義者というべきであろう。  
天皇といった連中は、武士階級が台頭し、実際上権力を失ってからは、強者のかげに隠れつつ、自己保身と策略に汲々とする、こうした卑劣な存在でしかなかったし、実質的権力を持たないのだから、それ以外になりようがなかったのだ。  
東京裁判は天皇を「無罪」とすることで、この裁判がそれ自体、正当であり、公平であり正義である等々が世界をあざむく見せかけにすぎず、一つのペテンであることを、決定的に暴露したというべきであろう。 
ソ連に対する「侵略」問題 一週間の戦闘で“原告”の地位に  
東京裁判では、日本によるソ連への「侵略」が問題になった。その逆ではない。  
日本の十五年戦争の全体が、したがってまたアメリカとの太平洋戦争も「侵略戦争」であったとするなら、そしてソ連が東京裁判で原告の立場に立ち、日本を告発するとするなら、日本をソ連に対する「侵略」国に仕立てあげなくてはならなかったのであり、また事実、ソ連はそうしようとしたのである。何しろソ連も、勝利した連合国のれっきとした一員だったのだから。  
ソ連はたった一週間の日本との戦争により、日本の「侵略」を告発する東京裁判の原告としての、つまり検事側の国としての資格と権利を獲得し、日本のソ連に対する“罪”をあげつらったが、しかしそれは相当に「無理」をしなくてはなしえないことであった、というのは、少なくとも、十五年戦争の間には、日本のソ連侵略といったものは見出すことができなかったからである。  
だから、ソ連のゴルンスキー検事は、日本の対ソ侵略を論証するに、一九〇四年の日露戦争から始めなくてはならず、さらに第一次世界大戦や、その後のシベリア出兵を持ち出し、また一九三一年の満州国のでっち上げは、一九一八〜二二年のシベリア出兵と同じで、ソ連極東に領土を獲得しようとする日本の野心の現れである、日本はソ連の資源を忘れることができなかったのだ等々と論じなくてはならなかったのである。  
日本はかつてソ連“侵略”と領土や資源への野望を明らかにしたのだから、その意図をもって太平洋戦争をも始めたのであり、したがってソ連への“侵略”は明らかだ、というのである。  
こうした粗雑な理屈が、東京裁判で反撃を受けたのは当然であった。  
ラザラス、カニンガム、ブレークニーらの弁護人は、ソ連の告発に対する反証を展開し、ソ連検事は腹を立てて、「連合国の侮辱だ」とわめき立てた。  
しかし、日本が“南進論”を確定し、一九四一年六月に「日ソ中立条約」を締結してから敗戦の時まで、日本がソ連を「侵略」しようとしたとか、その意図を持っていたという証拠は一切出てこなかったし、ソ連の検事もそれを見つけることができなかった。  
反対に、弁護人たちは、日本がソ連を「侵略」するという意図も、実力もなかったことを容易に証明することができた。  
実際、日本の支配階級は、アメリカとの戦争だけでも「手に余る」ようになっており、ソ連が連合国の一員として“参戦”することを極度に恐れ、ソ連を刺激しないように、まるで“腫物に触る”ように接していたのであった。  
そしてまた一九四四年ころから、強力を誇った“関東軍”を引き抜いて、“南方”(フィリッピン等々)に次々と転送するなどして、すでに“満州”にはソ連と戦うまともな戦力など残っていなかったのである。  
また、ヒトラーは再三にわたって、日本にソ連との戦争を始めるように要求して来たが――まさに三国の防共協定をタテに――、しかし日本は対ソ戦争を開始し、“満州”からシベリアに向けて軍隊を進めようとは決してしなかった。  
ソ連はヨーロッパでナチス・ドイツと血まみれの死闘を戦っていた、だから、日本がシベリアに侵攻すれば、当初はかなりの“成果”をあげることができたであろう、しかし頑迷固陋な軍部もさすがに、アメリカに加えてソ連と戦うことが自殺的冒険主義であると分かっていたのである。  
だから、日本がソ連を「侵略」したとか、しようと企図していたとか言うのは、言ってみれば“言い掛り”に近いものであった。  
ソ連はただ連合国の一員として、日本との戦争を一週間戦ったというだけで、こんな厚かましい主張を繰り返したのだが、まさに茶番であり、スターリンの愚劣さや粗野な精神を暴露しただけであった。  
ソ連はまた、ドイツなどとの防共協定や一九三八年の張鼓峰事件、三九年のノモンハン事件などをあげつらって、日本の「侵略」を論証しようとしたが、しかし弁護人は、そうした事件はゲリラ的な“領土紛争”であり、しかもすでに協定などで解決済みの問題であって、ソ連検事の主張は成り立たない、と反論した。  
弁護人はまた、ソ連が連合軍の一員として、日本を告発する側に立ったことを突いて、ソ連は日ソ中立条約を無視して参戦したのであって、日本を告発する資格があるのかと迫った。  
ソ連のワシリエフ検事は、興奮して「連合国の一員を侮辱するものだ」とか、「あいつぐソ連邦への悪意ある攻撃は許すことができない、法廷の善処を乞う」と叫んだのであった。  
この裁判の場において、ソ連の日本攻撃が一九四三年十一月のテヘラン会議において提起され、一九四四年十月の会議で、ドイツ敗北の三カ月後に日本との戦争を始めることが確認されていたこと、そしてポツダム会議では、ソ連は八月下旬に対日攻勢を開始すると通告していたことも明らかにされた。  
アメリカは明らかに、ソ連参戦以前に、日本との戦争を終えることを目指していたのだが、それは戦後、アジアでのソ連の発言権が大きくなるのを嫌ったからである。  
東京裁判における、ソ連の日本告発は一つの茶番であったが(つまりそれは、全体として茶番であった東京裁判の“有機的な”一部であった)、アメリカはそのことを百も承知で、ソ連の告発の肩を持った。というのは、当時、アメリカも似たような告発をしていたからであり(日本と同盟して戦った、第一次世界大戦における日本の“罪”を云々する等々)、またソ連とアメリカがまだ“蜜月の仲”にあったからである。 
 

 

ついに25名に有罪判決 至る所に恣意的な“基準”  
一九四八年四月十六日、東京裁判は二年間の長い審議を終えた。  
判決が下ったのは、それから数カ月が経過した、十一月十二日のことであった。  
刑の宣告を受けたのは二十五名、うち死刑が七名、終身禁固十六名、禁固二十年一名、禁固七年一名であった。  
死刑は、東条英機(首相、陸相、参謀長など)、広田弘毅(首相、外相)、土肥原賢二(在満特務機関長など)、板垣征四郎(中国派遣総司令官、陸相)、木村兵太郎(ビルマ派遣軍総司令官)、松井石根(上海派遣司令官)、武藤章(陸軍省軍務局長)であり、終身禁固には、木戸幸一(内大臣など)、平沼騏一郎(首相など)、賀屋興宣(蔵相)、荒木貞夫(陸相、文相)、小磯国昭(首相など)、畑俊六(陸相、中国派遣軍総司令官)、梅津美治郎(関東軍司令官など)、日本帝国主義、軍国主義を代表した、そうそうたる名前が並んでいた。  
死刑と終身禁固を逃れたのは、禁固二十年の東郷茂徳(外相など)と、禁固七年の重光葵(外相など)だけであった。  
「侵略戦争」の“共同謀議”の罪は、重光と松井を除いて全員が問われた。この“共同謀議”といった罪状自体あいまいであったが、裁判の課題が“戦争責任”を問うとした以上、この罪状をあげないわけには行かなかったのだ。  
しかし“共同謀議”の罪状をあげるなら、戦争に「ゴーサイン」を出した天皇が免責されたことは大矛盾であり、この東京裁判が公平でも正義でも、事実に基づくものでもないことを端的に暴露していた。  
中国侵略の罪は、東郷や重光も含めて、ほとんどすべての被告が問題にされた。また米国への「侵略」の罪も多くの被告が問われたが、これに死刑となった広田が入っていなかったのは注目される。  
「残虐行為」の罪状、いわゆる「人道に反する」罪で有罪を問われたのは、東条、武藤、木村、板垣、土井原の五名で、いずれも死刑になっているから、この罪状はとりわけ厳しい基準になったのである。  
東条がこの罪を問われたのは、戦争初期のアメリカ飛行兵捕虜の死刑の責任を問われたからである。松井は南京大虐殺の責任を問われ、木村はビルマにおける「捕虜虐待」が問題にされた。木村は、捕虜取り扱いは自分の管轄外であるなどと弁解し、松井の弁護人も、松井は自分のもとにあった軍隊に、終始「軍紀風紀を厳守せよ」と訓令していたなどと主張したが、裁判ではそうした弁解はほとんど考慮されなかった。  
広田の死刑については、オランダのローリング判事は、広田の経歴は、「本裁判によって死刑に値すると判断された侵略の巨頭連の仲間でなかったこと」を明示している、「軍事的な侵略を提唱した日本国内の有力な一派に賛同しなかった」、「彼は第一次近衛内閣――つまり中国との戦争を開始し、拡大した内閣――の外務大臣をやめた後は、二度と内閣に列しなかった」など、多くの例を示して無罪を主張したが、しかし広田自身は一言も弁解せず、「自分は有罪だ」とつぶやいたと言う。  
もちろん、広田がいかなる意味でも“無罪”だということではなく、広田以上の悪党は山ほどいたということ、広田が死刑になるくらいなら、何千、何万の軍国主義の猛者連中もまた死刑に値したということであろう。  
判決に対する反応を、一、二紹介しておこう。参議院議員の松本治一郎は、天皇の“戦争責任”を問題にして次のように語った。  
「天皇は初めから戦争を防止できる地位にいたのであり、戦争は天皇の名において開始された。この見地からすれば天皇が裁判を免れたという自体が不思議なくらいだ。東京裁判の記録は天皇がいかに無気力な人であるかを証明した。このような天皇が国家の象徴としてとどまるのは危険だ。戦後の日本は天皇制など必要としない」  
また朝日新聞は、その社説で、判決は「平和決意の世界的表現」という大層な見出しを掲げて次のように論じた。  
「さらに東京裁判設置の背景となったポツダム宣言が『我らに無責任なる軍国主義者が世界より駆逐せられざれば、平和安全および正義の新秩序が生じ得ることを主張する』と述べ、さらに東京法廷十一カ国を代表するキーナン主席検事が、『世界列強は、無責任な軍国主義をただに日本から駆逐しようと意図したばかりでなく、それを世界から駆逐しようと決意した』といい、『この長期にわたる審理は常に、全世界に対する戒めとなるように期待された』と述べた事実を想起する。モスクワ宣言、ポツダム宣言を貫き、さらにたくましい流れとなって東京裁判を貫いたものが、実にの平和確保への烈々たる熱意であることは、自ずから明らかだ」  
しかし、半世紀前、平和主義のチャンピオンをきどったアメリカが、今、軍国主義の代表として世界に君臨し、イラクに見られるように野蛮のかぎりを尽くしていることほどに、東京裁判に対する辛辣な皮肉はない。 
ピントはずれの「日本無罪論」 インドのパール判事の「判決書」  
判事の中の一人、インドのパールは「日本無罪論」を主張する「判決書」を提出したが、それは多数派判決書よりも長い、膨大なものであり、後に「日本無罪論」として出版された。  
しかし当時の日本の“世論”はそれに冷淡で、「日本無罪論」を受け入れるような雰囲気は全くなかった。大衆は、戦争中に犯された日本の支配階級の数々の犯罪をすでに知り、またこの戦争がどんなに不当な、「大義」を欠いたものであるかを深く反省し始めていたからである。  
もちろん、パールの見解が反響を呼ばなかったのは、本質的に、その見解が観念的、形式的なものであったからであった。  
彼は、国際法などを持ち出して、長々と法律談義を展開したが、そんなものに余り関心を持つ人はいなかったのである。国際法に照らし合わせて、東京裁判は有効か否か、また裁判の経過や結果は、厳密に“法律的な”正当性と適応性を有しているのか、といった議論は、大衆にとってはどうでもいいことであった。  
パールは戦勝国が正義で、敗戦国が不正といえるかと問い、またポツダム宣言に基づいて裁判をするというが、しかしポツダム宣言にそんな“法的な”根拠があるのか、「侵略」といい、「自衛」というが、しかしそれは果たして日本だけの論理だったのか、愛国主義教育や軍国主義教育を槍玉にあげるが、アメリカを始めとするすべての国も同様なことをしていたのではないか、等々、パールがあげる非難は数限りがなかった。  
もちろんそのいくつかはアメリカの痛いところをついたが、しかし大部分は形式的な法律談義であった。彼が絶対視するのは“法律的”見地だが、しかし彼はこうした立場自体が、一つの限界ある立場であること、法律もまた支配階級の道具にすぎないことを理解していないし、また世界の列強が戦う場では、諸列強が従わなくてはならない“法律”など存在していないことを“忘れて”いる。  
彼は日本が「国際法」に背いたというが、それはどの、どんな法律であるかを“詳細に”点検し、例えば日本の戦争犯罪人の罪状とされた「共同謀議」といったものが存在しなかったことを論証する。  
また、戦争は国家的行為として決定され、行われたのであって、そうした戦争に対して、いかにして「個人」の罪を問えるのかと叫ぶのである。  
パールは、東京裁判は、裁判の形を借りた、アメリカなど連合国の「復讐」である、と断じている。そして彼は、博愛と寛大と許しといった宗教的な観念を持ち出すのだから、お笑いである。  
要するに、彼は帝国主義者、軍国主義者といえども愛でもって許せ、寛大に扱え、彼らの「立場」をも理解してやれ、と説教し、日本の東条らはヒトラーのドイツと違って、そんなにも悪いことはしていない、一貫して「誠実」でさえあった、と言うのである。  
「東条一派は多くの悪事を行ったかもしれない。しかし日本の大衆に関する限り、東条一派は大衆を思想の自由も言論の自由もない恐怖におびえた道具の地位に陥れることに成功しなかった。日本の国民はヒトラーのドイツのように、奴隷化されなかった。国民は自己の信念、信仰及び行為について完全に自由を保持した。そしてこれらの者は、いかに合法的な宣伝の影響を受けたとしても、なお市民たるものの真の本質に一致するものであった。国民の意見に対して加えられた影響も、すべて他の平和愛国的民主国で行われるものと本質的に違いのあるものでない」 
実際、こうした評価は全く途方もない日本軍国主義の美化でしかなかった。パールは、日本帝国主義のやったようなことは、英米も実際にやっていると主張したが、それは日本も「無罪」だと言うためであって、英米やソ連などもまた帝国主義国家として「有罪だ」と言うためではなかった。  
パールはアメリカの原爆投下も非難し、それによって戦争が早く終わったとか、アメリカと日本の多くの生命が救われたという理屈に反論し、こうした理屈は戦争を早く終わらせることが戦争の犠牲を少なくするのだから、戦争においては残虐で徹底した手段でやらなくてはならないとわめいた、第一次世界大戦のときのドイツ皇帝と同じだと強調したが(ウィルヘルム二世はわめいた、暴虐なやり方でするなら、フランスとの戦争は二カ月で終わるだろう、しかし「人道的な配慮をすれば」戦争は数年間も長引くだろう、云々)、しかし無意味な大量殺戮である帝国主義戦争において、野蛮でないやり方とは何か、平和的な手段による帝国主義戦争とはどんなものかについて、説明することは決してできなかった。  
純粋に「ヒューマニズム」の立場に立ち、厳正な“法律的”観点を順守すべきと称したパール「判決書」は、東京裁判のあれこれの欠陥をえぐりだし、それが結局は勝利したアメリカなどの「復讐」の一種だと主張したが、本質的に観念的であり、反動的でさえあって、ピエロ的な役割以上を果たすことができず、一部のプチブル世論以外にはどんな影響も及ぼすことができなかった。  
問題は「日本が無罪」だというところになく、日本だけでなく、英米やソ連もまた「有罪」だというところにあったからである。 
公正でも正義でもなく(上) 法的根拠さえあやしかった  
東京裁判を総括するとき、まず問題になるのは、そこで問われた日本の三つの罪、つまり戦争法規、戦争慣例に違反したという通常の「戦争犯罪」、非人道的行為、迫害行為などの「人道に対する罪」――南京などの一般住民の虐殺、奴隷的虐使、等々――、そして“侵略戦争”などの計画や準備や開始や実行とそれらへの共同謀議、共同準備にたずさわったという「平和に対する罪」、が妥当であったかであり、ついで、仮に妥当であったにしても、裁判が正義に基づき、公正に行われたか、である。  
そしてまた東京裁判は、アメリカが盛んに言いふらし、一つの課題ともした、世界の恒久平和をもたらしたか、ということも問われるであろう。  
しかし東京裁判は、これらの課題のどれ一つをとっても、それを「満たしていた」とはお世辞にも言いがたいのである。  
そもそも太平洋戦争が戦争法規に違反していたか、いないかといったことが、一体どうした基準で言えるのであろうか。世界国家も世界憲法も世界警察も実在しない国際社会においては、結局は、国家の行為――戦争行為も含む――を裁くどんな法規も権力も存在していないのである。  
第一次世界大戦後には、戦争を規制するさまざまな法律が、各国の合意によって作られ数十の国によって調印されてはいる(例えば「不戦条約」等々。しかし皮肉なことに、これが調印されたのは、そんな条約が無意味なものとなりつつあった一九二八年である)。こうした国際条約が有効であり、実質的なものであったとするなら、世界中の諸国は戦争をすれば、その“罪”は厳しく罰せられるということになったであろう。  
弁護団は、罪刑法定主義(罪を定めるには、あらかじめ法律がなくてはならないとする主張)、法律不遡及の原則をもって、検事側に迫ったが、しかし主席検事のキーナンによって、戦勝国が「侵略戦争」の責任者を処罰できないという理由はありえない、日本は無条件降伏したのだ、ときめつけられただけであった。  
つまり、東京裁判の“法的”根拠といったものは、最初からあやふやであり、いいかげんなものだったのである。“法的”根拠は、アメリカが作ったとも言えるのであり、それに基づく裁判であった、ということである。“法律”に基づくブルジョア支配といったものは本質的にこうしたものであり、彼らはいつでも、必要とあれば、自らに都合のいい法律を見つけだすのであり、あるいは勝手に作り出すのである。  
単に「法律に基づく」裁判といったことがあやしかっただけではない、公平とか正義とかいった観念もまた決定的にないがしろにされ、踏みにじられたのであった。  
例えば、裁判官はみな戦勝国から選ばれたのであり、しかも結局は、アメリカの意思がまかり通るような構成になっていた。  
裁判の内容も、また結果さえも、最初からアメリカの意思によって決定されていた。例えば天皇を無罪にするというのは、“公正な”裁判の結果ではなく――否、裁判さえ行われず、戦争の先頭に立ち、だれが見ても戦争に決定的な役割を果たしていた天皇は、被告はおろか、証人としても法廷に姿を見せなかった!――、最初から、アメリカの意思として押しつけられたのであった。  
最も重要な、決定的ともいえる“戦争犯罪人”の一人、天皇を最初から除外するなど、まさに、“公正”や“正義”が聞いてあきれるような、いいかげんで、ゆがめられた裁判であった。  
裁判の根拠とされた、“罪”といったものも、ほとんど正当なものではなかった。それが正当ではなかったというのは、日本の軍部や支配階級が“罪”を犯さなかった、ということではなく、同じような“罪”を犯していたアメリカの支配階級が、日本の支配階級を“裁いた”ということであった。  
もし日本の支配階級に“罪”があり、“罰せられ”なければならないとするなら、アメリカの支配階級も同様であった。東京裁判で問題とされた“罪”のほとんどは、アメリカによってもまた犯されていたからである。  
例えば、日本は「侵略戦争」をやったという“罪”で裁かれたが、しかし「侵略戦争」をしたり、植民地を領有したり、他の民族を抑圧したりということは、アメリカやイギリスもやっていたこと、否、彼らこそがそもそも十九世紀の帝国主義の時代以来(あるいはそれ以前からも)、世界中でやってきたことであった。  
そしてまた、太平洋戦争すなわち日本とアメリカとの戦争は、果たして、日本の側から言って「侵略戦争」であり、アメリカの側からは「自衛のための戦争」などと言えたであろうか。  
アメリカの理屈は、日本が先に真珠湾を攻撃し、戦争を始めたのだから、日本は侵略者であり、アメリカは日本の侵略に対して反撃し、“自衛の”ために戦ったにすぎない、といったものであったが、しかし日本が真珠湾を攻撃したのは、アメリカの領土を犯し、占領し、支配するためではなかったから、アメリカの論理は根本からナンセンスであり、まさに牽強付会、こじつけそのものであった。  
日本はアメリカとの戦争はまさに太平洋と世界の覇権をかけた戦争であることを完全に自覚していたが、同様に、英米もまた日本との戦争が、アジア支配と深くかかわるものであることを完全に認識していた。  
この戦争はまさに、「どちらの側から見ても」帝国主義戦争であって、先にたまたまどちらが攻撃したかといったことはどうでもいいことであった。  
東京裁判では、アメリカ側が日本が中国から撤退しなければ戦争しかないと腹をくくっており、むしろ戦争を挑発さえしたことの一端が暴露されたが、しかし日本もまた、中国問題で妥協――といっても、日本が中国から手を引かないという前提のもとでの――ができなければ戦争だと決意し、実際的な戦争準備をどんどん進めていたのだから、同じようなものであった。 
公正でも正義でもなく(下) 天皇“責任”の棚上げはペテンの象徴  
戦争の通常の慣習とか、「人道」に反した行為とかいった問題でも、東京裁判は茶番でしかなかった。  
「人道に対する罪」を裁いたというこの裁判の矛盾もしくは欺瞞は、例えば、アメリカによる“無差別”空襲、とりわけ広島、長崎への原爆投下を全く問題にもしなかったことにも、端的に現れていた。  
アメリカの帝国主義者、軍国主義者たちにとっては、南京大虐殺は、非戦闘員に対する「非人道的な」行為であったが、四十五年三月十日の東京大空襲(この文字通りの“無差別空襲”によって、何百万戸が被災し、十万人の婦女子を含む“非戦闘員”が殺された)や、広島や長崎への原爆投下(同様に、二十万人もの死者が出た)は、決して“非人道的な”行為でも何でもなかったのである。  
「無防備都市に対する無差別攻撃」は、ナチスファシストによるスペインのゲルニカ市に対する爆撃以来、国際的に“非人道的”行為として糾弾され、また“非戦闘員”に対するまさに“無差別的”攻撃や殺戮は、“国際法”でも禁止されてきたのではなかったのか。  
だが東京裁判では、日本軍の蛮行は「非人道的」として厳しく追及され、罰せられながら、アメリカの無差別空爆や原爆投下は、アメリカの数十万人の軍人の生命を救った正当な作戦として――というのは、それが戦争終結を早め、アメリカが日本“本土”に上陸してやらなければならなかっただろう過酷な戦争を無くしてくれたから――、大いに美化されたのである。  
ついでに言っておくが、我々が広島、長崎への原爆投下を持ち出すのは、アメリカが南京虐殺など日本の帝国主義者の野蛮性だけを問題して、自らの野蛮性を蔽い隠しているからであって、帝国主義戦争一般の野蛮性、非人間性と切り離して、原爆だけを特別視したり、それだけを道徳的に非難するためではない。問題は帝国主義戦争自体にあるのであって、その個々の野蛮性、非人間性にあるのではない。この点で、共産党や平和主義者のプチブル活動家たちは根底から間違っている。原爆や地雷だけを“道徳的に”問題する諸君は、帝国主義の体制とその戦争自体が、そのための一切の兵器が、野蛮であるという単純な真実を“忘れて”いる。  
そして最後に、「侵略戦争」の共同謀議という“罪”についていえば、その中心に常にあった天皇が故意に(まさに“政治的に”)除外されたのは、まさに茶番であった東京裁判の総仕上げとも言えた。  
天皇の「戦争責任」は明白で、それを明らかにする“証拠”はいくらでもあった。  
例えば、開戦の直前の一九四一年十月、東条英機はまさに天皇の信任を得て、近衛に代わって首相の地位についたが、それは、それまでの対米戦を決意した御前会議の決定を白紙還元し、国策の再検討をするという条件付であった。  
そして“天皇絶対主義者”だった東条が、当時、天皇から「中国から撤兵せよ、対米戦争はいかにしても回避せよ」と明確に言われれば、それに従っただろうことも明らかだった。  
東京裁判当時、マッカーサーの意を受けた検事キーナンから圧力をかけられた弁護人神埼正義は、東京拘置所の東条に面会し、「この戦争は閣下が陛下の命令に背いて始めたものだと、法廷で証言してくれませんか」と頼み込んだ。  
しかし東条は、天皇の意向を受けて戦争回避の道をさぐったが破綻した、それでやむをえず開戦を天皇に申し出たら、「よし」と言われた(つまり容認されたから)、だから戦争を始めたと信じていたので――そして、天皇絶対主義者としての東条としては、それ以外考えられなかった――、憤然としてこの申し出をことわったという。  
彼は断固として、「それは無理な注文ですよ。陛下のご裁可があったからこそ開戦したのです。私は死を覚悟している。臣下として、一天万乗の君の御命令に背いて、この戦争を始めたなどとウソの証言をして、それで死にきれますか」と反発したという。  
しかし東条は、天皇に「迷惑をかけないために」、そして天皇を救うために、この立場を変え、また自分の“信念”をごまかして、法廷では“練習した通りの”発言しかしなかった。  
実際、天皇の言うがままにしか行動しないという忠実な“天皇の赤子”東条が、戦争を始めたとするなら、それが天皇の意思であることほどに明白なことがあろうか。天皇の意思が戦争ではなかったとするなら、自分は決して戦争を始めなかった、と東条自身が断言しているのだ。この“証言”は決定的であろう。  
また法廷でも、天皇の責任追及に熱心だったウェッブ裁判長は、東条の「日本国の臣民が、陛下のご意思に反してかれこれするということは、あり得ぬことであります」という証言を何とか引き出し、それについて、「ただいまの回答がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずであります」と、わざわざ注意を喚起している。  
つまり彼は、法廷でも天皇の“有罪”は明白に立証されたも同然だ、と言っているのだ。  
かくして、天皇問題一つ取っても、“公正”で、“正義”に貫かれた裁判が行われた、などというのは全くの空ごとであったことが了解されるだろう。  
それはまさに「勝者(アメリカの支配階級)が敗者(日本の支配階級)を裁いた」のであって、日本の労働者人民が日本の支配階級を裁いたのではなかった。だから、それは本質的に一つの欺瞞であり、ペテンでさえあった。  
そして日本の支配階級、つまりルジョア勢力(そしてもちろん、その一部であるあれこれの種類の“インテリ”、文化人も含めて)は、決定的に裁かれなかったのである。そして、彼らは戦後、自分は本心では戦争に反対であった、仕方がなかったのだ、早くから戦争の終結を考えていたのだ、などの責任回避のごまかしの言葉を並べ、自己弁護に汲々としつつ、労働者人民を瞞着し、その権力を防衛したのである。  
こうした卑怯な連中の先頭に天皇が立っていたのは言うまでもないことであった。戦後においても、天皇は彼らの“防御服”、もしくは保護色として大いに役立ったのだ。  
東京裁判の問題点(その限界、その的外れ、その欺瞞)は、さらに、それが現在のアメリカのイラク侵略にまでつながっているという意味でも重要であるろう(アメリカは東京裁判で、自らの立場を絶対化し、正当であると宣言したが、しかし今やその“思い違い”はイラクにおいて決定的に暴露されている。イラク問題では、アメリカはかつて日本を裁いたと同様に、自らを裁かなくてはならないのだ)。 
軍国主義一般の“罪”暴かず 正当化された米帝国主義の蛮行  
東京裁判に対する、日本“国民”の反応は、冷淡なものであった。かつての(直前までの)自分たちの最高指導者たち、自分たちが信じ、崇拝してやまなかった国家の頂点にあった人々が、自由を奪われ、裁判にかけられ、その“罪”――基本的に、自分たちが共有している“罪”、というのは、この裁判では、日本のやってきた戦争そのものが“裁かれた”といってもいいからだ――があばかれ、罰せられようとしているのに、日本“国民”も“世論”も、少しも被告たちに同情的でなかった。  
むしろ、彼らは裁かれ、糾弾されて当然、という雰囲気であり、マスコミは東条らがどんなにつまらない小人物であり、悪人でさえあったかを、さかんに書き立てた。  
南京事件とか、個々の戦争犯罪にとどまらず、勝つ見通しもなく、「無謀な」戦争を勝手に開始し、何百万もの国民を死と飢えに追いやった行為そのものが、許しがたいものに思われたのだ。それに戦争中、ずっと国民を偽ってきたということが、国民の怒りを買った。息子や夫、肉親や近隣の人たちの死に、彼らが責任を負っているという思いは、東条らが罰せられて当然という思いにつながり、日本の軍国主義者がやったのと同じような、もしくはそれ以上のアメリカの“犯罪”――無差別空襲、原爆等々――はその分、免罪された。それもまた結局は、東条等の“無謀な”戦争のせいではないのか、というわけである。  
もちろんアメリカの軍政下にあり、マッカーサーの意思がそのまま権力意思としてまかり通っている中で、東京裁判はおろか、アメリカ占領軍に対するどんな批判的な世論も許されなかったということはあったが、しかし、日本“国民”はいわば、それまでの日本の指導者たちに完璧にあいそをつかしたかであった。  
とするなら、東京裁判の法廷に天皇が被告として引き出されたとしても、日本“国民”の反応が、東条英機に対する反応と違っていたと言えるか、大いに疑問である。  
まだ判決が出ない四七年二月、横田喜三郎――後の最高裁判所長官――の『戦争犯罪論』が出たが、極めて特徴的であり、基本的に東京裁判を擁護し、美化するものであった。  
彼は、法学者として、仮に東京裁判が「罪刑法廷主義に反する」ものであったにしても、「大きな変動期」は別であり、またその原則を「国際裁判に適用することは、必ずしも絶対的な、無上命令的な要請ではない」、そもそも国際法そのものが「全体として不備であり」、違法な戦争を引き起こしたものを処罰するのは何ら差し支えない、戦争責任者の「罰こそ前もって定められていないが、罪は前もって定められている」等々と強調したが、こうしたものはまさに、東京裁判に対する当時の日本国民の感情や姿勢をかなり反映していたと言えよう。  
つまり、日本国民自身が、日本のかつての指導者の「罪」を認めたのであり、だから、彼らは東京裁判をある程度、当然で、やむをえないものとして受け入れたのであるが、それはまた、中国侵略から太平洋戦争にいたる十五年戦争を、擁護することも正当化することもできない“不正な”戦争として、自ら認めたことでもあった。  
ただ日本国民は、同時に、アメリカの戦争をも帝国主義戦争として告発することができなかったが、それは事実上、プチブル民主主義者に堕落した日本共産党が――他のブルジョア政党などは言うまでもないが――アメリカを“解放軍”と持ち上げ、マッカーサーに追随する“超”日和見主義的立場をとったことと、深く関連していた。彼らはアメリカを「民主主義」の守護神と信じ、その帝国主義的本性を蔽い隠したのだ。  
東京裁判に対する批判の声が上がるのが、林房雄などが「太平洋戦争肯定論」などを書いて、日本の国家主義と反動の勢力が開き直り、反撃に転じたころからであり、それ以来、彼らは執拗に、アメリカ軍の占領支配や憲法や民主主義の「押しつけ」や、そして東京裁判はみな、日本民族の尊厳や自尊心を否定し、民族としてふぬけにし、国家として骨抜きにするためのアメリカの“陰謀”みたいなものであって、断固として一掃されるべきであるとわめいて来た。  
東京裁判が開廷してから五〇年たった一九九六年十二月、神奈川県で「東京裁判を考えるシンポジウム」が開催されたが、その席でも、東大教授の藤岡信勝は、「東京裁判史観」は日本がやった戦争に対する罪悪感を日本人に植えつける思想改造の作戦計画であり、日本弱体化政策の一環であったとわめきたてた。  
そのために、今、中学、高校の歴史教育は、日本の「悪口」ばかり教え、「自国の誇り」を教えないから、ただ外国に謝罪するだけで、外国人にも尊敬をうけない、というのである。  
学生時代の“軽はずみの”急進主義者から、無内容な反動に転向した西部、『国民の道徳』なるものについてもったいぶり、知ったかぶりをして論じ、十五戦争において天皇にはどんな「責任」もなかったことを詭弁的に論証し、また東京裁判は単純に「アメリカの『見せしめ』もしくは『復讐』」のためのものであって、アメリカとしては当然であっても、それを認識できない日本人は愚かだとののしり、また日本の「一般国民」が自分の家族を戦争で失った恨みを晴らしたいと思って、東京裁判などで自国の指導者が裁かれ、死刑になっても怒らないことに憤慨して、次のようなわけの分からないことを書くのだ。  
「しかし、そうだからといって、占領軍や外国人たちによって、自分の復讐を代行してもらおうとするのは、不道徳の振る舞いと言わざるをえない。しかも責任における法律、政治そして道徳の要素を区別することすらしないのは、旧世代に対する粗暴、残虐、無慈悲に当たる。しかもそれを国家解体の方向で行うのは、売国の謗〔そし〕りを受けるところである」  
西部は日本の「一般国民」をこんな具合に、「不道徳」の罪で告発するが、全くこの男の愚劣さといやらしい反動ぶりには限度がないと言うべきだろう。  
西部のような不潔な人間は、『国民の道徳』について語る前に、自分自身の、どうしようもない偽善や「不道徳」(いな、悪徳だ!)や「道徳論の歪み」についてこそ、深く反省すべきであろう。  
東京裁判が「間違って」いるのは、日本の反動的で、軍国主義的な支配階級を“裁いた”からではない、そうではなくて、それがアメリカの、世界中の帝国主義者、軍国主義者を裁かなかったからであり、さらにはそれらを正当化しさえしたから(例えばアメリカの帝国主義戦争は民主主義や自由のためであって、正義であった等々)である。かくして東京裁判は、その限界を暴露されざるをえないのであり、また事実、暴露してきたのである。  
東京裁判の開廷に立ち会ったマーク・ゲインはその『日本日記』の中で、かつての指導者が被告人として打ちひしがれ、うらぶれて被告席につらなるのを見て、「全くわが目を疑うような光景だった」と記し、こうした被告たちの伝記を誰かが書くなら大きな意義があるだろうと言っている。  
「こうした歴史は、政治権力が人民の手からすべり出てしまって、軍部や大企業の手中に握られることがいかに危険であり、有害であるかということのいい教訓になるにちがいない。歴史には、そのパターンを繰り返すという不愉快な習慣があるのだから、昨日の日本について真実であったことが、ごくわずかな違いであっても、明日他の国でも同じく真実であり得るかもしれないからである」  
これはアメリカの現在を事前に鋭く告発した言葉として輝いている。アメリカは今、イラクでやっていることからも分かるように、かつて東京裁判等々で非難したことを、そのまま実行している。  
 
勝てば官軍

 

一年前、ある有名な優良企業に講演に行きました。営業報告はなるべく文章部分を減らし、営業情報を数値化しリアルタイムでナレッジメネージメントを行ない、営業の全体像が見えるようにすべきだと口説いたところ、マネージャークラスの方から猛反発を受けました。「うちは毎日数千文字の日報を通じて先輩が後輩を教育してきたから本日の会社がある」と言うのです。日本を代表するような会社ですから当人達から「文章をたくさん書くからこうなった」といわれると反論できないものです。  
あれから半年経ったところ、この会社は売上が減り、株価も下がりました。気になって例のマネージャーに「営業社員達が書く文章の量を減らしましたか」と訪ねましたが、「冗談がきついですね」といわれました。実は来店客数も取り扱い商品数も微増なのに売上が減りました。原因はデフレでした。  
うまく行っているときは人間は改革意欲を失い、マイナス面に目を向けなくなります。本来、黒字は結果であり、その原因には市場環境、パートナーシップ、商品力などの要素もあれば営業プロセスの要素もあります。黒字が出ているからといって営業プロセスの改革を怠ると市場環境などが悪化するとすぐに赤字に転落してしまいます。  
「勝てば官軍」、「結果は全て」という言葉はありますが、これは負けた側、これから勝とうとする側が言う言葉です。勝った側がこんなことを言っていると次に戦いに負けてしまいます。中国の兵法には「勝敗は兵家の常」とあります。勝ち負けは常にあることですが、我々の営みは限りなく続くものです。重要なのは勝っても負けても常に平常心を以ってノウハウを蓄積し体力を改善して行くことです。  
「勝てば官軍」、「結果は全て」は勝利への執着心を強めるには良いスローガンですが、科学的マネジメントと相反する部分があることに留意すべきです。極端なことを言えば、結果主義は最も安易で誰でもできる管理方法です。その延長戦には勝った時はいけいけどんどん、負けた時は自信を失ってしまう結果があります。  
したがって勝っても負けてもあくまでも一時的な結果に過ぎません。その理由であるプロセスの改革・改善は企業が存続する限り常に行なうべきことです。経営側と管理側が自らに課す言葉としては「勝てば官軍」、「結果は全て」ではなく「勝って兜の緒を締めよ」、「結果には理由がある」であると肝に銘じるべきでしょう。  
 
きみ、勝てば官軍という商売はあかんよ

 

「経営は、絶対に勝たないとダメなんだ。なんだかんだと言っても、結局は、利益なんですよ。いかなる方法であっても、結果を出すという、そういう考えがないとダメ。」と言い出したのは、松下幸之助の姻戚関係にあるS専務(当時)である。  
経営は結果が全てなのか?  
それを聞いた私は、「それは、おかしいですよ。確かに、経営は、利益をあげなければならないと思いますが、だからと言って、なんでもやっていい、いかなる方法でもいいというのは、言い過ぎではないですか」と言った。  
S専務は、私を嘲笑うような表情で「君は、経営者でないから、経営の厳しさを知らない。経営は死にもの狂いなんだ。だから、ときには手段を選ばず、ときには、法に触れない、ギリギリのこともやらなければならないんだよ。そういうことをやっても、とにかく、売り上げを伸ばし、利益を確保する、そういう結果を出す経営をすることをしないと、会社は成り立っていかないんだ」と声を大きくして言う。  
私は納得いかなかった。「そんなことまでして、売り上げを伸ばし、利益をあげても、世の中に迷惑をかける、法に触れなくとも、道義的に、人間的に反するようなことをしたら、いけないんじゃないですか。それは、勝てば官軍、ということで、許されないと思います。たとえ、道理に反しても、勝てばいい。結果を出せばいいという専務の考えは、経営者が考えることではないですよ。結果も正しく出すけれど、過程も正しくおこなっていく。それが経営者の心掛けることではないですか」と私も次第に激しい口調になっていく。S専務も一層激高し、「君、経営を知らん者が、無責任に、そんなことを言うべきではない。そうなんだよ。勝てば官軍でいいんだよ。勝てば官軍。経営はそういうもんなんだよ」と続ける。  
松下幸之助のベッドの横で、S専務とこのようなやり取りをしていたが、松下はベッドに横になり、聞いているのかいないのか、眠っているのかいないのか、ずっと目をつむったままであった。  
私は、S専務とのやり取りを、松下の前で、いささか興奮して激論したことを一瞬後悔しつつ、多分、このような議論には興味がないのかもしれないし、眠っているとすれば迷惑なことだと思い、適当なところで、S専務に「もう止めましょう」と言って、二人で部屋を退出した。  
松下の経営の支えになっていたもの  
それから、1カ月ほど経って、松下と話をしていると、松下が、遠くを見るようにして、昔話をし始めた。  
「わしがな、店を始めた頃、加藤大観さんという、真言宗のお坊さんが、縁あって、わしの側にいたんや。この人は、わしの健康長寿と店の繁栄を祈ってくれていた。まあ、わしの相談相手にもなってくれていたな。あるとき、一つの製品について、度の過ぎる激しい競争がおこなわれてな。わしは、正しい競争ならするけど、不当な乱売競争はしないと心掛けていたから、その競争に乗らんかったんや、最初はね。けど、いくつもの店が入り乱れて、まあ、乱売合戦や。さすがのわしも、腹をすえかねて、徹底的にやってやろうやないか、と考えた。そいでな、その加藤さんに言うたんや。徹底的にやろうと。そうすると、加藤さんは、静かにこう言ったんや。  
“そうですか。それはなかなか勇ましいことですな。あなたがそこまで思い立ったのであればおやりなさい。ただ、あなたは、数百人の従業員をかかえている。あなたは今、一時的な怒りにかられて、損得を超越してやろうとしているのだから、たとえそれで大きな損をしても、気分がスカッとするかもわからない。しかし、その結果生まれる経営難は、抱えている何百人もの人に及ぶのです。それは大将のすることですか。それは匹夫下郎のすることです。大将というものはそんなことをしてはいけない。  
ほかのところが乱売競争を仕掛けてきても、あなたが正しいということをやっているのであれば、決して心配はいりません。乱売しているところへは、一時的にはお客が行くかもしれません。しかし、出船もあれば入船もある、というのが世の常です。あなたが、自分の感情にかられて、やるんだというのなら、おやりなさい。しかし、それは、大将のすることではありません”と。  
まあ、こう言うんやね。わしは、うーん、なるほどと思って、乱売合戦に参加するのを止めた。結果はどうなったかというと、大観さんの言うた通りになった。」  
松下は、ここで一呼吸した。そして、今度は、私の顔を見据えながら、  
「きみ、わかるか、商売するとき、結果を出せばいい、結果だけが商売や、と考えたらあかん。その仕方やな、それも大事や、ということやね。なにをやってもいい、勝てば官軍、という商売は、あかんよ。結局は、失敗するで」  
これは、私が、研究所の経営を任される前年の話である。ちなみに、くだんのS専務(のちの社長)の会社は、8000億円の負債を抱えて、後日、2005年、倒産した。  
 
「勝てば官軍」から4年〜日本マクドナルドの苦悩 (2005)

 

 日本マクドナルド創業者の藤田氏が「勝てば官軍」と胸を張ってから2年目で赤字転落。その後2004年期に黒字回復したものの業績低迷は続いている。  
藤田氏の発言に対して私がこのメールマガジンで「企業の浮沈は世の常であり、成功は80%は幸運と思うべき」と指摘した直後から転落は始まっていたのでした。企業の成功は、与えられた物理的条件に自分の努力が合致した結果です。その物理的条件を完全に読み切ることはほとんど不可能なのです。その物理的条件を出来る限り論理的に解明しようと努力しているのが、当社の「モティベーティブ・セール(提案型販売)」なのです。  
 日本マクドナルドの失敗は「100円バーガー」と言われています。これは低価格路線を象徴しているのでしょう。つまり、“値引き合戦”に陥ったのです。  
値引きは、競合他社(他店)商品より安い値段に設定し集客を図るものです。集客拡大を狙うには最も単純な方法論であり、行き着く先は見えているのです。つまり、他店が追従した場合、効果は消えます。そのため、多くは一瞬の成功に終わるのです。『禁断の方法論』、と私は皆さんに申し上げています。  
 競合がある場合“値引き合戦”に陥り、収益が悪化し共倒れとなるのですが、「古くはダイエー、最近ではユニクロが成功したではないか?」と仰る方も多いことと思います。  
ユニクロは“価格破壊”に成功し業績を伸ばしたではないのか?ダイエーは日本を代表する企業になったではないか?どれも事実です。「値引き合戦による失敗」と「価格破壊による成功」との違いは何処にあるのか?  
 答えは?・・・「時間差」。  
価格破壊は競合他社が、追いつくのに時間がかかった、また競合他社が現れるまでに時間があった場合といえます。値引き合戦は直ぐに対抗処置を執られてしまい、価格差が直ぐになくなったのです。では何故、直ぐに他者が追いつけないことがあるのでしょうか?  
 ユニクロの場合を考えてください。  
衣料品を中国生産し、それまでの常識を破る値段設定が出来たのです。この“中国で安く、良い品質で安定して生産すること”が、直ぐには真似が出来なかったのであり、仕入れ原価の安さを生かした品揃えや商品構成を実現したこと、管理技術の開発など、政策実現のスピードが早かったことが功を奏したと考えられます。さらに、フリースなどの商品開発、カジュアルウエアーに集中したことなど、スピードと方策の良さがあげられます。  
 競合他社がユニクロのビジネスモデルに追従してからは、ご存じの通り業績は低迷してきました。これは、ビジネスモデルそのものの優位性が崩れ、商品企画、管理技術等の僅差での競合状態となり、圧倒的な差がなくなったのです。つまり、これ以上の値引きは“値引き合戦”となってしまうのです。  
 では、日本マクドナルドは低価格路線を打ち出した時、“値引き合戦”となることに気付かなかったのでしょうか?  
5年前、マクドナルドと競合するのは、その他のハンバーガーショップ、ケンタッキー、牛丼、回転寿司、コンビニ弁当・おむすび等数多く存在していました。そのどれもがマクドナルドの値引きに、即対応出来る状態であったといえます。ユニクロを追いかける場合のような、ビジネスモデルそのものの差はなかったのです。  
 それはスーパー各店舗間の安売り合戦の様に、即応出来る範囲のものでした。これでは一時的には集客が増え、売上が伸びますが、直ぐに追いつかれて集客が減り、値上げも出来ず収益率を落としてしまっただけに終わったのです。まさに、典型的な“値引き合戦”に終わったのです。  
これを見抜けなかったのには、過去の成功に対する過信が見えます。また、最近ではアメリカ本部の海外での低価格路線の成功に対する執着が見えます。  
 ハンバーガーの市場について考える時に、アメリカと日本文化の差を認識する必要があります。  
アメリカでは、ハンバーガーの生活の中に占める重要度は日本と比較すれば重いといえます。日本では、ハンバーガーやサンドイッチだけでなく、お弁当やおにぎり、どんぶりなど選択肢が多いのです。お米文化が基本にあることを無視しては市場を見誤ることになります。お客様の立場とのズレが感じられます。  
 「新しいマクドナルドの使い方は?」と問い直してみます。  
マクドナルドの日本での創業期、それはお客様に対する新しい生活スタイルの提案でありました。パン食の広がりにマッチしたのです。それを見抜いた藤田氏はさすがで、しかし、幸運でもあるのです。“パン食生活スタイルの提案”がマクドナルドの基本でした。歩きながらの食し方は、「立ち食いは行儀が悪い」とのそれまでの常識に対する新しい提案でした。余談になりますが、成田空港の建設が始まった頃、反対派農民の応援に全共闘の学生が入り、農家の縁側でお婆ちゃんから食事をもてなされた時のことです。ヘルメットに覆面、立て膝で食べ始めた学生に対し「ちゃんと座ってお食べ!!」とお婆ちゃんが一喝すると、鉄パイプや火炎瓶で闘争している学生達が、おとなしく座ったと聞きます。そんな時代に、歩きながらの食事はとんでもないことでありました。“ドライブスルー”もまた、モータリゼイションが始まって“行儀の悪さを乗り越えた”新提案でありました。  
 さて現在、マクドナルドはその当時のようなセンセーショナルな生活に対する提案が出来ていません。  
「現在のマクドナルドの新しい提案にふさわしい方策は何か??」皆さんも考えてみてください。  
 
勝てば官軍、負ければ賊軍

 

「勝てば官軍」という言葉がある。戦いには勝てばよい。手段はどうでも良いし卑怯なことだってやってもよい。とにかく勝てば正義である。という意味である。これが良いか悪いかは別として、実際にそのような考えでもって戦いに挑む人間がいることは確かであるし、そのような歴史があるのも確かである。また、なにも戦争だけに使われる言葉でもない。例えばスポーツやギャンブルなど、争いというモノがあれば同時にこの考えが自然に発生してくる。勝つということに対するメリットが大きければ大きいほど。  
「勝てば官軍」それは確かに真理の一面でもある。しかし考えなければならないことはその逆もまた存在するということである。「負ければ賊軍」である。「勝てば官軍」の意味は「勝てば無条件に正義」なのであるから、「負ければ賊軍」の意味は「負ければ無条件に悪」ということになるだろう。つまり、「勝てば官軍」という言葉を使って戦いに挑む者は、「負ければ賊軍」というデメリットも背負って戦っていることになる。まさに「勝てば天国負ければ地獄」である。  
27日に「サッカーTOYOTAカップ」が国立競技場で行われた。サッカーに興味の無い人はさっぱり分からないだろうから説明するが、これはサッカーのクラブチーム(日本では「ジュビロ磐田」とか「サンフレッチェ広島」のようなチーム)の世界一を決める大会である。ワールドカップは自国内の代表を集めてそれ同士で戦うが、クラブチームは国内リーグ等を戦うためのチームなので当然外国人もいることが多い。もちろん外国人も出場できる。人によっては、大会ごとに招集されてメンバーも固定されていなくて練習量も少ない代表チームが戦うW杯より、むしろ一年を通して固定したメンバーで練習しているクラブチームの世界一決定戦のほうがレベルが高い、という人もいる。とにかくこの「TOYOTAカップ」は歴史も長く権威も最高のモノがあり、名実ともに「世界一クラブチーム決定戦」なのである。(自虐史観が身にしみてしまっている)多くの日本人は日本でこれが行われるので、その凄さがいまいち実感できない者もいるが、W杯と全く同等のサッカーの2大タイトルなのである。これが日本で毎年行われることにオレはこの時期になるといつも幸せを感じるのである。  
前置きが長くなってしまった。そのトヨタカップが先日行われたのだ。今年の対戦は「バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)」と「ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)」今回は延長戦までもつれ込んだ白熱した試合だった。ところで、南米の選手はよく「マリーシア」と呼ばれる「卑怯なプレー」を使う選手が多い。「マリーシア」とはかみ砕いていえば「明文されたルール」にさえひっかかなければ、「審判さえだませれば」何をやっても良い、という考え方である。勝つためにはどんなことでもするということではある。「ボカ・ジュニアーズ」は昨日これを爆発させた。前半途中に一人退場してから引き分け狙い(PK戦狙い)になったことなあり、タックルに対してひっかかってないのに転んだり、痛くもないのに痛がって時間をかけたり、その選手に対してトレーナーがグラウンド中央を走り抜けて試合再開を妨害するということまでしていた。まさに「勝てば官軍プレー」である。  
元々日本のチームには出場権が無いため、毎年トヨタカップについては世界最高のチームプレーを楽しむために見ているので、どっちかを応援することはしないのだが、さすがにこの「ボカ・ジュニアーズ」のプレーがひどかったためにオレは途中から「バイエルン・ミュンヘン」を応援していた。結果、延長戦後半に「バイエルン」が得点を決め世界一を手にした。オレは「おっしゃあああああああああ」と叫んだもんだ。負けた「ボカ」はいいとこなしである。あれだけ反則ギリギリのことを繰り返し、ブーイングを浴びて、それでも勝つためだけにやってきたのに負けたのである。試合終了後、大喜びする「バイエルン」を後目に、「ボカ」の選手の多くは座り込んでしまい涙を流す選手もいた。その姿をテレビはアップで流していた。テレビ側とすればそういうシーンは視聴者が感動し視聴率を稼げるのだろうからむしろ喜んでいる「バイエルン」より長い時間「ボカ」の選手を映していたように思う。負けて悔しがる姿、というのは同情を誘える、けっこう日本人好みのシーンである。  
しかしオレは全く「ボカ」の選手に同情を感じなかった。だって「勝てば官軍プレー」をして負けたのだから、ヤツらは「賊軍」なのである。いくら涙を流したところで所詮は「賊軍」さらにいえば「死人に口なし」である。多分もし「ボカ」が勝っていたとしてその際にサッカーのページなんかに行くと  
「ボカは卑怯だ。あんなプレーをしてまで勝って、実力じゃない」「あれこそが勝つための努力じゃないか。『勝てば官軍』なんだよ」  
と、こんな会話が交わされていたんじゃないかと想像してしまう。今までもそうだった。だからこそ「勝てば官軍プレー」で戦って負けたのであれば、それなりの報いを受けるべきだろうと思う。テレビの解説者もサッカーファンも、もっと「ボカ」の選手をボロクソに言うべきなのである。「ボカ」のせいでさわやかに見れなかった。実力を十分に発揮できなかった。全く点が入らないつまらない試合展開になってしまった。これぐらい言われても当然なのではないだろうか。もしオレがそれよりひどいことをボロクソに言ったとしても、それをとがめるような発言をする人間は「勝てば官軍」を認めてはいけないはずである。「勝てば官軍」を認めると言うことは「負ければ賊軍」も認めることになる。そして「負ければ賊軍」ということは、負けたら何を言われても全てを受け入れなければならないのだ。「負ければ無条件で悪」なのだから。「勝てば官軍・負ければ賊軍」この二つは表裏一体なのである。  
最後にサッカーについて、ついでだからちょっと言わせてもらう。毎年トヨタカップのテレビ中継には、ゲストとして明石屋さんまが呼ばれるのだが、そのさんちゃんは「ボカ」のプレーを見て「これこそが世界のプレーや。日本はこんなプレーをもっと勉強してマネせなあかん」と言っていたが、オレは賛成できない。  
元々日本人は「正々堂々」を好む民族であり、「勝てば官軍」という半ば自虐するようなことわざはあるが、それを進んで実践しようとはしない。だから日本サッカーも南米の「勝てば官軍プレー」をマネしなくてもいいと思う。それよりは正当なプレーこそを磨いて「官軍」を「賊軍」にしてしまう方が、プレーヤーもファンも楽しいんではないだろうか。少なくともオレはそっちの方がいい。  
日本サッカーはまだまだ発展途上なのだから、下手な小細工をまねるよりはさらなる上を目指して頑張って欲しいと願っている。日本人には日本流の戦い方が一番あっているはずなのである。  
 
佐賀の乱 / 勝てば官軍、負ければ賊軍

 

明治新政府の英雄たちに挑み、死んでいった男がいます。  
1867年、江戸幕府が滅亡し、時代は明治時代へと移っていきます。新しくつくられた新政府は、新しい国づくりをおこなうため、さまざまな制度を整えていきます。  
この新政府の政治家として活躍したのは、みなさんもどこかで聞いたことがあると思われる超有名人ばかり。薩摩藩出身の西郷隆盛や大久保利通、長州藩出身の木戸孝允や伊藤博文など。そして彼ら超有名人以外にも、新政府には薩摩藩・長州藩出身のヤツらが多かった。  
なぜかというと、薩摩藩・長州藩は江戸幕府を倒すときに大活躍しているんですね。だから、そのあとにできた新政府では重要なポストにつくことができた。結果出してるヤツにゃあ何もいえないんですな。  
しかし、もちろんその他の藩の連中も新政府にはいます。例えば佐賀藩出身の政治家。  
超有名人でいえば大隈重信(早稲田大学をつくった人ですよ!)なんかでしょうけど、「江藤新平」という男がいます。知ってる?  
江藤はえらそうなヤツが大嫌い。だから薩摩・長州がふんぞりかえっているように見えて大嫌い。「調子のりやがって・・・この野郎(怒)」ムカムカ。  
さて、1873年、新政府では大論争が起こります。いまだ国交のひらかれていないお隣の国、朝鮮との関係をどうしようか、ということについてです。  
日本は何回か朝鮮に「国交ひらいてよ」って言ったんですけど、朝鮮はいっこうに拒否。話を聞こうとしません。  
ここで「征韓論」という考えが出る。この「征韓論」は、国交をひらこうとしない朝鮮に軍艦でせまり大砲でも1発お見舞いして、武力でおどしつけて開国させちまえという考え方で、江藤はこの論を唱えました。黒船でおどしつけてペリーが自分らの日本を開国させたのに似てますな?  
同じく西郷隆盛や、土佐藩出身の板垣退助たちもいっしょに征韓論を主張する。  
しかし大久保利通や伊藤博文は大反対。「今の日本には戦争する力などない。先に国内の制度を整えることが先決だ!」  
話し合いはず〜っと平行線だったんですが、結局大久保たちの勝ちに終わります。決着!征韓論はダメ!アウト!  
征韓論を主張していた江藤「やってられんわ、こんな政府(怒)」ムカムカ。キレた江藤は政府をやめてしまいました。このとき西郷隆盛や板垣退助たちも同じく政府をやめてしまいます。  
そして江藤は板垣退助と共に、「薩摩藩・長州藩がぎゅうじっている新政府はダメだ!国民の意見をきちんと反映させる国会が必要だ!」と、国会の開設を求める民選議員設立建白書を提出しました。(民選議員とは、国会のことです)何とか薩摩・長州の独裁政治を終わらせたい。江藤はそう願っていました。  
しかしどうも危険なニオイがする。どうやら江藤の故郷である佐賀で、新政府に対する武力による反乱が起こりそうだ。「おいおい、気持ちはわかるけどよ・・・」江藤は故郷の連中を説得するために佐賀に帰ります。新政府のやり方に不満をもつ連中は世間にごまんといたわけです。  
しかし時や遅し。佐賀の過激な連中が、政府と関係の深い商人の家を襲ってしまいました。「あ〜あ、やってもうたか・・・」江藤はその連中にかつがれます。「新政府のやり方に反対して政府をやめた江藤さんが帰ってきた!あんたがリーダーになってくれ!」わっしょいわっしょい。  
「もう、しょうがねえ。やってやるよ!」江藤、この反乱軍のリーダーになってしまいます。そして1874年、反乱を起こす。「佐賀の乱」です。  
乱の参加者は何と約1万2000人。みーんな新政府にムカムカムカムカ。  
「この江藤めが!!」反乱軍にムカムカの新政府の大久保利通は、熊本にある明治政府の軍隊「鎮台」を派遣、激しい戦いが始まりました。  
反乱軍もよく戦いました。しかし圧倒的な政府の軍勢に押され、鎮圧されました。  
捕まった江藤は、死刑になりました。「まあ、これが俺の人生よ・・・。」  
彼は新政府にいた時、司法関係の仕事をしていました。彼は江戸時代にあった「さらし首」は残虐だと反対し、禁止する法律をつくっていました。しかし彼は、自分のつくった法に適応されることなく、大久保利通たちの決定により、死後、「さらし首」になってしまいました。  
 
当時、明治政府が備えていた軍隊のことを「鎮台」といいます。この「鎮台」は、東京・大阪・熊本・仙台にあって、後に名古屋と広島が加わり6つとなり、それぞれ軍を配置していました。  
「佐賀の乱」では、熊本鎮台が中心となって反乱の鎮圧をおこないました。この乾亨院には戦いで亡くなった熊本鎮台の兵士達の墓があるんですね。  
政府軍のお墓の方が立派につくられていますよね?どちらのお墓も同年の明治7年につくられています。墓を建てたとき、新政府軍の威光をみせつけたかったんだといわれています。政府としては、反乱軍を悪役に仕立てあげねばいけませんからね。格の違いを見せつけないといけない。  
反乱軍は悪役とされますが、大正2年に恩赦(特別な許し)が出て、慰霊碑がつくられることになりました。  
「佐賀の乱」といわれる江藤新平の反乱ですが、地元佐賀では「佐賀の役」といわれることも多いんですね。あの戦いは「乱」ではないんだと。「勝てば官軍」という言葉があるように、「敗者」となった江藤をかばう地元の方も多くいらっしゃいます。  
 
勝てば官軍、負ければ賊軍

 

明治維新から語られてきたこの言葉の真の意味をどれくらいの日本人が自覚してきたでしょうか。  
今では江戸時代の市民社会もかなり見直され、自然と一体化した、士農工商の身分に関係ない共生の「パラダイス社会」だったことも徐々に理解されてきました。その象徴として、江戸市民が身につけていた「江戸仕(思)草」も紹介されてきています。傘かしげ、肩引き、お心肥やし、こぶし腰浮かせ、時泥棒などがその代表的なものです。でもそれは、「形」としてかろうじて伝え残っているもので、大切なことは、その根っこにある、自然も含む一切のものとの共生の生き方、つまり日本人本来の「こころ」「生き様」なのです。これを今では「ヤマトごころ」と言っているわけです。つまり江戸時代は、社会を構成する「人づくり」が、講や寺子屋あるいは寄り合い等でシステム的にもキチンと行われていたということです。江戸仕(思)草では、「3才こころ、6才躾、9才言葉、12で文(ふみ)、15理(ことわり)で末決まる」といわれていました。言葉というのは、あいさつだけでなく、大人と同様の世辞が自分の言葉でキチンと言えることをいいます。つまり、「おはようございます」に加え、「本日はお暑うございますね」というような人間関係を築く大人の会話力を身につけることを意味します。このために幼少時から、意味はわからなくとも古典を丸暗記させることを徹底したわけです。この「日本語(やまとことば)の語彙力」が、その後の学問、教養としてだけでなく、人間力養成の基盤となっていったわけです。12才文(ふみ)というのは、12才になれば、両親の代わりに代筆で手紙をかけるということです。さらに15才理(ことわり)というのは、世の中の仕組みをしっかり理解して、店の番台を親の代わりに勤められるようになることなのです。  
このようにして心豊かに何世代も積み重ねられて育まれた50万の市民が暮らす江戸は、まさに人間性豊かで、心温まるパラダイス社会だったに違いありません。ちなみに江戸100万人の残り50万のほとんどは、参勤交代でやってくるお登りの地方侍たちです。歴史的に文書で残っているのは、この武士たちの、いわゆる公的な書物であり、市民の文化は文書として残されなかったのです。それを唯一、絵で見せて残しているのが浮世絵と言えます。ところが明治政府は、この江戸を否定して成り立っているのですから、なんと江戸仕草そのものさえも禁止してきたのです。この為、戦後に日本を統治したGHQがこの江戸仕草を「解放」したときに、秘かに江戸仕草を伝えていた人たちがお礼にGHQを訪れたほどです。こういう面までも考えてGHQは、二重、三重にマインドコントロールを戦後の日本社会にかけていったわけです。  
ところで、江戸末期に日本を訪れた西欧人たちは、江戸の市民生活を見て、「この世のパラダイス」と手記に書き残したり、母国の家族等に手紙で送っています。彼らが江戸社会をどう感じたのか、訪れた日にち順に追体験的に見ていきましょう。もちろん、彼らは旅行の物見遊山で来たわけではありません。欧州を起点とする白人による世界の植民地化前線の東回りと西回りが巡り会う最終局面として、黄金の国・ジパングの植民地化が究極の目的でした。もっとも、彼らも世界金融支配体制者たちに使われる駒に過ぎませんが。彼らは航海上、日本に来る前に中国に立ち寄ります。その中国を「ウジ虫を知らずに踏んでしまった気色の悪い気持ち」であると書いています。居住区は汚いし、子どもたちは「ギブ・ミー・マネー」であり、「売られている製品は全てコピー製品であり、吐き気をもよおし、二度と来たくない」、とまで母国の母親に書いた随行員もいます。そこからさらに極東の地である日本に行くわけですから、あまり期待はしなかったと思われます。ところが日本に一歩踏み込んだ途端に大讃辞に変わります。まず、船からみる国土が美しい。緑豊かな野山に、綺麗に整備された段々畑や棚田がとけこんでいます。これまでの世界のどこでも見たこともない自然と人工物がシンクロした絵画そのものの立体風景です。下田あるいは横浜の寒村に着くと、浮世絵で見た色鮮やかな着物を着た健康そうな子どもたちが、「うちにおいでよ〜」と手を引きます。その農家に行って見ると、士農工商で一番貧しいはずの農家は、四辺が綺麗に生け垣で仕切られ、その中に小さないながらも見事な日本庭園と色鮮やかな鯉が泳ぐ池があります。家に入れば、土間があり、床の間には綺麗な掛け軸がかけられています。当時の欧州では、彼らの階級は「農奴」であり、文字も書けず、何世代も藁葺きの中で雑魚寝生活でした。つまり、世界でもっとも裕福な農民が暮らす国、それが日本だったのです。個人宅にもお風呂があり、さらに出される食事にビックリです。なんと陶磁器が使われています。他の国では、このような食器は貴族以上でないと使っていません。しかも海の幸、山の幸に溢れ、自然の風味を最高に活かした世界最高の美味しい健康食です。特に、欧米人さえ見たこともない醤油や味噌など健康に素晴らしい発酵食品を使っています。帰り際には、農民であるはずの彼らが書いた掛け軸までプレゼントされます。最下級の農民が芸術的な書道が出来ることに最後までビックリ仰天です。せめてお礼にペンでもと渡そうとすると、頑なに受け取りません。そうなのです。これが日本の「おもてなし」であり、日本各地のどこでも日常から旅人たちに振る舞われていた日本人の慣習そのものだったのです。ちなみに私が小さい頃の四国伊予の実家では、このおもてなしをお遍路さんたちに行っていました。  
彼らは、その後陸路で江戸に向かうのですが、街道が綺麗に整備されていることにも驚きます。キチンと歩ける道路が整備されているだけでも、世界広しといえども当時は日本しかありません。しかも街道沿いに旅人のための日陰を提供する松などの樹木が植えられています。さらに一定間隔で宿場町が整備され、飛脚や駕籠(かご)、さらに宿や飲食店なども利用できます。街道がわざと曲がっているかと思えば、遠景に富士山、近景にお城というふうに、ビューポイントを設けるなどの情緒溢れる道造り、町造りを行っています。  
さらに江戸に着くと、まさに人類史上初の大公園都市です。  
中央に江戸城を中心とした大公園があります。それを核心に300の武家屋敷の大公園があり、さらにそのまわりには1500もの寺院等の中公園が配置されています。市民の小さな家にも庭があります。鳥瞰図的に見れば、まさに地球唯一の地上の楽園自然都市です。町造りも合理的にしっかりしていて、大通りの門戸を占めると外部からの侵入は困難で、治安上も安心できます。行き交う人々は、江戸仕草の体現者であり、挨拶や話している様子も明るく、そこにいるだけで心温まります。野の鳥さえも人の肩に留まってさえずっています。一番気性の荒々しいと思われる船乗りが集まる船着き場に行ってみると、聞こえてくる言葉は、「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」ばかり。彼らは、日本人が自分たちのことを南「蛮」人という意味がよくわかったと手記にも書いています。実は、現在のUCLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)では、国際関係論で、「19世紀のパリは、江戸を見習って造った」と教えているのです。まさに、ゴッホが日本の浮世絵から江戸を学び、そこからヤパン・インプレッション(福沢諭吉が明治政府の意を汲んで「印象派」と意訳。実際は、日本浮世絵派あるいは「日本主義」)が生まれ、世界の市民が解放されて行ったのです。そういう意味でも、日本は世界の「雛形」だったのです。  
江戸の市民生活の素晴らしさのエピソードとして完全リサイクル有機農法を紹介します。  
現代の都会生活でもアパートやマンションの集合住宅が多いように、江戸でも「長屋」がありました。大家が50両払って代官から営業権を購入します。家賃はいりません。さらに「老人」や「病人」が入居人として歓迎されたと言います。住人の仕事は「用をたす」ことだったからです。ちなみに、当時、上下水道が完備していたのも、世界で江戸だけです。その下水道に、「トイレ」の排泄物を流すことは厳禁です。それだけ、衛生管理観念も進んでいました。下水道にトイレの排泄物を流すようになったのは、「文明開化」した明治維新以降なのです。欧米化が日本文明を劣化させた一つの例証です。長屋で溜められた「うんち」は、郊外の農家が買い取りに来ます。その売り上げが、現代価格で年1000万円ほどになったようです。つまり、それだけ現金を出せた農民も豊かだったのです。農家では、それを肥だめで微生物利用による完全有機肥料として活用しました。世界で初の完全有機リサイクル農法だったわけです。老人や病人は、消化力が落ちているので、排泄物の中に「有効成分」が多く、貴重な存在として大事にされたわけです。正月などには、わが子のように住人に大家さんがお餅などを配ったのです。  
このような市民のパラダイス国家を運営していたのが、侍たちです。彼らは、武道に励みながら、市民のために誠実にこの国を切り盛りしていました。なにせ300諸藩も、市民も一切江戸幕府に税金を納める必要はありませんでした。完璧な地方自治で、経済的にも独立し、幕府も各藩も、自己責任でキチンと運営しなければならなかったのです。組織・制度上からも為政者たちが、エゴの「利権」に走ることなど出来なかったのです。しかも彼らは、生まれたときから15才で元服するまで、「武士としてのこころ、躾、言葉、文、理」を、市民以上に藩校などで、専門の講師たちに徹底して訓育されました。優秀なものは、身分にかかわらず、他の藩校や幕府の昌平校などに藩費で留学もできました。この中には、商人や農民の優秀な子どもも選抜されていました。武士になれたのです。このように生まれたときから高度の人間教育を受け、いざというときは命さえ惜しまない世界最高の利他を体現する為政者、それが江戸時代の侍=武士だったのです。彼らが存在する限り、これまで植民地化した国々のように、武力で制圧することもできません。軍艦10隻持ってきても、上陸できるのはせいぜい数百人です。万単位の武士の誠の中では身動きもできません。  
この日本をいかに植民地化、つまり金融支配するか。  
それには、無私の「武士道精神」「ヤマトごころ」を徹底的に排除し、個人の「利権」を基礎にする国造りに変えるしかありません。このためには、武士階級、端的にその象徴の「江戸」を完全否定しなければなりません。そのために、武士(薩長)でもって武士(江戸)を排除する。これが明治維新の真実です。こうして見ると、明治政府が極端な欧米化政策をとった本当の理由が見えてくると思います。彼らは世界金融支配者の裏からの支援を受けて、政権に就きました。世界が称賛してモデルとした江戸のパラダイス社会を徹底して否定するしか彼らの生きる道はなかったのです。西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。引き続く、東北での戊申戦争も真実は異常です。震災後、いわき市に講演に行きましたが、東北では、戦争と言えば、大東亜戦争ではなく、いまだに戊辰戦争を指します。なぜでしょうか?ヤマトごころ、武士道で育った日本人は、喩(たと)えまがい物の錦の御旗とわかっていても、弓矢を引くことはありません。東北の武士たち、つまり15歳以上の男子は、城に集まり武装解除の準備をしていました。街には姉妹や母、祖母たちしか残っていません。そこに上陸してきた新政府軍たちは、こともあろうに残っていた子女を強姦・陵辱・殺害そして火を放ち廃墟として行ったのです。この惨状を知り、死を賭して戦わざれば、もはや武士とは言えません。こうして東北の真の武士たちは、最後の15才の白虎隊まで戦って散華していったのです。この「史実」も日本ではタブーとなっています。しかし、地元の人々のこころを消すことはできません。彼ら「官軍」が江戸に帰り、勝った勝ったとはしゃぐのを見て江戸市民は、「これで日本も500年とは言わないが、300年は時代を(つまり戦国時代に)遡(さかのぼ)ってしまった。彼らは三代もしないうちに、この国をイギリスやアメリカに経済的に売ってしまうだろう」と影で嘆いていたのです。三代後とは、まさに現代です。完璧に世界金融支配体制の忠犬ポチ公として、国民の健康と安全とを犠牲にして、彼らに国民が背に汗して稼いだ日本円(税)を貢ぐ現代の為政者たちの姿を、当時の江戸仕草の体現者たちは予言していたのです。  
ちなみに150年前の浮世絵に、現在のスカイツリーと同じ場所・高さのタワーが描かれています。新聞でも江戸時代の予言と紹介されました。私には、友人の光明氏のような当時の霊能者が、未来の日本を見て、神を憚(はばか)らぬバベルの塔として警告しているとしか思えません。亀戸という地名は、洲が亀の甲羅のようにあるから付けられた地名です。そんな海である砂州の埋め立て地に、世界最高の高層建築物を建てるなど、東京直下型などの地震の想定内として真剣に考えたのでしょうか?いずれにせよ、「征服者」であった薩長主体の明治政府は、徹底して江戸を否定しました。世界の自由民主化の原点であった浮世絵の歌川派さえ解消させたのです。つまり、日本のまごころ、ヤマトごころの否定でした。それ故、極端な欧米主義に立脚するしかなかったのです。こうして、欧米人が認めていた「世界のパラダイス・江戸日本社会」を「自己否定」したのです。  
つまり出発当初から進路を誤ってしまったのです。この明治維新の暗黒面をキチンと反省せずして、日本の再生もありえないでしょう。最近でも、明治維新は素晴らしかったが、戦後のGHQの占領政策で日本はダメになった、ときめつけています。これでは、またまた元の木阿弥になってしまいます。明治維新の反省が全くないから、ガイアの今回の警告もまったく無視して、世界金融支配体制者に影で操られた明治政府の構造と意図を引き継ぐ現為政者たちが、引き続き原発再稼働の滅びの道をまっしぐらに進んでいるのです。彼らを見ていると、後ろから何ものかに脅されているかのように、既存の原発等利権の維持拡大に顔を暗く引きつらせながら邁進しています。それが世界金融支配体制の中の核エネルギー部門であることは論を待ちません。  
いずれにせよ、とても今生の本来の目的である霊性を向上し、この地球文明を未来の子どもたちのために、5次元社会へ責任持って導くと自覚しているようには見えません。もう彼らの好きなままにさせてはいけません。原発無き、本来の宇宙エネルギーの道へ舵をいますぐ切り替えなければなりません。ガイアのレッドカードが目前に迫っています。それは、東海・東南海・南海連動型大地震、それに引き続く富士山噴火、そして壊滅的な東京直下型巨大地震となって現れるでしょう。雛形の日本がこの惨状ですから、世界はさらに、巨大火山噴火、核戦争、ウィルス感染等々で現代文明そのものの破滅へとなりかねないでしょう。  
再度問います。  
今我々は、滅びの道を歩んでいるのでしょうか。永久(とわ)の道を歩んでいるのでしょうか。あるいは、まだ引き返せる位置でしょうか。3.11フクシマをガイアの警告と認識できたのでしょうか? いえ、あなたはどの道を歩みたいのですか?  
 
偉大な企業家とペテン師は紙一重。勝てば官軍、負ければ賊軍となる

 

時は1978年。私は知人を通じて20歳半ばにしか見えないある黒人の若者に出会いました。彼が偉大な起業家だったのかそれともペテン師だったのか、今でも判断がつきません。しかし、私の印象では彼は偉大なビジネスマンだったように思えます。そのとき彼が何をやろうとしていたかをここでお話ししようと思います。  
彼は何の変哲もない黒人青年で、背広は着ずカジュアルルックで、どう見てもビジネスマンには見えませんでした。私の知人の日系アメリカ人女性はいたく彼に入れ込んでいました。別に男女関係ということではありません。彼女によると、今彼はすごいことを起こそうとしているというのです。そのときは直に本人からその話は出ず、何がすごいことなのか、私には皆目見当がつきませんでした。しかし、あとで彼女から聞いた話は、私をうならせるのに十分でした。その後、逐一彼女から途中経過を聞かされ、そのプランの成功を祈ったものです。それはかなり壮大なプランでした。  
ここでこの青年をTとして話を進めてみます。Tは誰の紹介も面識もないにもかかわらず、元ヘビー級世界ボクシングチャンピオンのところに出かけていき、「あなたに金もうけをさせてあげます。あなただっていつまでもボクシングをやっているわけにはいかないでしょう。あなたはこの書類に、私があなたの名前を使うことを了承したと書いてくれるだけでオーケーです」と言って、何のために彼のサインが必要かを説明したあと、元チャンピオンのサインを手にすることに成功してしまいました。  
次に彼は、靴墨メーカーで世界一の会社に出かけ、「あなたのビジネスを一大飛躍させてあげます。今まで以上にあなたが飛躍できないのは、競争相手を持たないからです。そこでその解決策ですが、あなたがその競争相手を作るのです。自分のものと競争相手のものと両方をあなたが作れば、それだけあなたの売上も利益も上がるでしょう。この話は、よそに持っていっても良かったのですが、あなたを見込んでチャンスをあげようと思います。この話に乗りますか。ブランド名はチャンピオンです。そして、これが元チャンピオンの同意書です」と言って、その契約書を見せたのです。  
メーカーはこの話のメリットを検討し、元チャンピオン直筆のサインを見てすぐに承諾しました。Tはさっそくサンプルをたくさん作らせました。その足で、当時小売チェーンストアで第1位の会社に乗りこみ、「あなたの会社を信じられないくらいもうけさせるプランを持っています。ほかの候補者も考えましたが、あなたを見込んでこのチャンスをあげようと思ってやってきました。どうです、乗りませんか」と言って、靴墨メーカーとの契約書と、元チャンピオンとの契約書、そして靴墨メーカーが製造した立派なサンプルを見せました。  
大手チェーンストアはすぐにこの話に乗ってきました。具体的なプランを煮詰めるため、何度もトップ役員会議が開かれるようになりました。会議はホテル、チェーン店本社、また飛行機の中と何度も開かれました。Tはホテルに宿泊するときはいつも最高級の部屋を取り、レンタカーも高級車を乗り回しました。どうしてそのように金回りが良かったかというと、実は私の知人のクレジットカードを使っていたからです。実は、彼女はこの大プロジェクトが成功したときに、全利益の一定パーセントを約束されていたので、彼に彼女のカードを使わせていたのです。  
話はどんどん進み、とうとう最終の詰めに入りました。ところがこのとき、たまたま彼女の夫が彼女のクレジットカードの請求書をみてびっくり仰天し、すぐそのカードをキャンセルしてしまったのです。うまくいっていた彼のプランはここまでで、今までのように自由に動けなくなった彼の行動に、疑問を持ち始めた各社が調査を開始。元チャンピオンがその計画の持ち主でなければ、靴墨メーカーが元チャンピオンを巻き込んだ計画でもなく、チェーン店が元チャンピオンを使っての計画でもないことが判明し、大きな名前を持ったもの同士をくっつけようとした彼の試みは、ここですべてご破算になってしまいました。  
たった一つの小さなミス、すなわち彼女の夫を巻き込むことを忘れたミス、それがこの壮大なプランを崩壊に導いたのです。彼はもう目前まで近づいていたチャンスをつかみ損ね、失意のうちに行方不明になってしまいました。一方、私の知人はその後しばらくの間、Tの使ったカードの支払いのため苦しい目にあいました。  
このプロジェクトの最中、私と彼と彼女の3人でコーヒーを飲みに行ったときに、急にTが立ちあがり、ある男性に話しかけ始めました。シャービスという、ラテン系の人々の労働環境改善のために戦っていた有名な運動家でした。見ず知らずのシャービスにTはこう切り出しました。「あなたは間違っている。あなたがやっていることはすべてのラテン系の人々に良い労働者になれと指導しているのであって、それは間違いだ。本当にあなたがラテン系の人々の力になって、生活向上を考えるならば、彼らに自分のビジネスを始めるように指導すべきだ」  
あなたは、Tをどう思いますか。もしこのプロジェクトがうまくいっていたならば、彼は大成功を収めたビジネスマンとして、世間から高く評価されていたはずです。でも失敗したため、彼はペテン師として評価されてしまいました。  
勝てば官軍、負ければ賊軍です。あなたもぜひ自分のビジネスで成功してください。さもないと、「あいつは大ボラ吹きだった」という、たったそれだけの言葉があなたのすべての努力に対する評価になってしまいます。さあ、もう成功よりほかに道はありませんね。ぜひがんばってください。  
 
「謝罪」も「反省」も「不戦の誓い」もなしで…

 

8月15日を「終戦の日」とか「終戦記念日」と呼ぶ言い方には、私は前々から違和感をもっていた。そこには、「敗戦」という事実を認めたくないとする意識が強く働いているように感じられるからである。8月15日か、降伏文書に調印した9月2日か、あるいは連合国に対してポツダム宣言受諾を通告した8月14日か、どの日をとってもいいが、いずれにせよそれは「敗戦」の日である。戦争が終わったという意味では「終戦」でもよさそうにみえるが、「勝って終わった」のと「負けて終わった」のでは、同じ「終戦」でも意味が全然ちがう。なのに、それをあえて「終戦」というどっちつかずの言葉で表現することは、「負けて終わった」という事実から目をそらすという意味をもつ。そして、現実に、日本社会にそういう効果をもたらしている。だから、いまだに過去を美化しあるいは正当化するような発言が有力政治家の口から平気で飛び出し、そしてそれを支持しあるいは煽りさえするマスコミが、とるに足りない「イエロー・ジャーナリズム」としてではなく、一人前の顔をして棲息しているのである。  
戦争は、所詮、暴力と暴力の対抗である。そこには、いかなる意味においても「正義」はない。だから、畢竟、「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということになるしかないのである。戦争というものはそういうものだと、私は思う。同じ「終戦」でも「勝って終わった」のと「負けて終わった」のでは全然意味がちがう、というのは、そういうことである。勝って「官軍」になるのと負けて「賊軍」になるのでは、大きなちがいであろう。日本は、1945年の8月に無条件降伏したことで、「賊軍」になったわけである。「賊軍」にはいかなる「大義」もないことになるから、どんな言い訳もどんな正当化も通用しない。「すべて悪かった」と謝る以外に道はない。それを認めたくない、そうしたくないという意識が、「終戦」という言い方になっているのだと思う。「勝てば官軍…」なんておかしいじゃないか、というのは、ある意味まっとうな正義感覚であるし、私もそう思う。だから戦争なんかするものじゃないのだ。が、現実に戦争をし、そしてそれに負けた以上、「賊軍」の立場は否定できないのであり、あの戦争に関しては「すべて悪かった」と認めることからしか「戦後」は出発できない。それをあいまいにしてきたことで、68年も経ったというのにいまだに、ことあるごとに中国や韓国などとの関係を悪化させているのである。  
戦争に負けて「賊軍」になった国がその後生き延びていくためには、過去の国とは完全に断絶し、まったく別個の「人格」の新しい国として再出発しなければならない。さもなくば、「賊軍」の「汚名」を晴らすためにもう一度戦争をして勝つしかない。ドイツは、憲法上も、そして現実政治の中でも、ナチスを完全に否定的存在とすることで、前者の道を徹底した。日本の場合、日本国憲法は基本的に前者の道を宣言したのだが、しかし、憲法自身が、象徴という形に変えたとはいえ天皇の存在を継承したことによって、過去の「大日本帝国」との断絶を不徹底なものにした。その代わり、徹底した非武装条項(第9条)によって後者の道を完全に断つことを企図したわけである。しかし、過去との断絶の不徹底さは現実政治の中で増幅され、それにつれて、「賊軍」の立場を受け入れがたいとする心情がじわじわと染み出してきた。そして、「汚名」を晴らす道を閉ざしている憲法9条を変え、自衛隊を普通の軍隊にして、いざとなれば戦争も辞さずという方向に、いま、この国の政治は踏み出そうとしている。  
今年の8月15日、「全国戦没者追悼式」での式辞で、安倍首相は、1993年の細川内閣とその次の村山内閣以後自民党政権の時も含めてずっと継承されてきた、アジア諸国に対する加害責任と「深い反省」・「哀悼の意」、そして「不戦の誓い」を、言わなかった。「謝罪」の言葉も「反省」の弁も一切なく、「戦争をしない」とはあえて言わず、ただ戦場に散った「御霊」への「感謝」だけを前面に出した式辞であった。これは、「賊軍」となったことを認めず「汚名」を晴らす道を選ぶ、という宣言に等しい。少なくとも、諸外国にそう受け止められても仕方がないものであった。こういう政治を続けていたら、国際社会で孤立することになるのは必至である。私は、これまで何度も、「アメリカからも見放されるぞ」と言ってきたが、先の橋下大阪市長の「慰安婦発言」、つい先だっての麻生副総理の「ナチスの手口にならってはどうか」発言、そしてこの安倍首相式辞と、こんなことが続けば、本当にアメリカからも見放される日は遠くないと思う。  
「賊軍」の「汚名」を晴らすためにもう一度戦争をやって勝つ、などというのは、空想・夢想もいいところである。誰が考えても、そんなことは不可能だということはわかりそうなものである。だが、安倍首相が「強い日本を取り戻す」というとき、どうも本気でそう考えているように聞こえる。「日本維新の会」の石原共同代表などは本気でそう考えているに違いないと思うが、首相までもがそう考えているとしたら、この国は破滅の道を進むしかないことになる。なによりも、そんな過去の「汚名」を晴らすことに現在の政治の全精力を傾けるなど、まったく馬鹿げたことである。そういう馬鹿げた政治、そして国を滅ぼしかねない政治が、安倍政権の進める政治なのである。そこを見ずに、目先の数字だけで実体も実感も伴わない「景気回復」という言葉に踊らされて安倍政権支持なんてことを言っていたら、この国は本当に滅びると思う。年寄りの杞憂に過ぎないのならいいのだが……。(2013/8/19)  
 
ソ連軍の満州侵攻

 

1945年の今日(8月9日)は、ソ連軍が満州に侵攻した日です。前日の8月8日に、ソ連は日本へ宣戦布告。その数十分後に軍隊を動かし、8月9日未明には満州に侵攻したのです。  
ソ連軍は、たくさんの戦車と機関車に乗って満州にやって来ました。その機関車の先頭には、裸にされた日本人女性が縛り付けられていたそうです。彼らが何故、そのような行動を取ったのか、詳しくは知りません。それがロシアの伝統なのか、女性を縛り付けておけば、機関車を攻撃されないと思ったのか、それとも他の理由なのか、私には分かりません。ただ、このエピソードを初めて聞いた時、私は日本人として、非常に不愉快な気持ちになったことを覚えています。当時、満州には多くの日本人が住んでいました。そして、ソ連軍によって、大勢の日本人が殺戮されたのです。  
当時、日本とソ連は「日ソ中立条約」を結んでいました。これは「日本とソ連は、お互いに中立を守って戦争をしない」という条約です。この条約は翌年4月まで有効であったため、ソ連軍による侵攻は、国際条約違反にあたります。その後、8月15日に日本政府はポツダム宣言を受諾。無条件降伏をしました。しかし翌16日に、ソ連軍は千島列島に侵攻を開始。既に日本は白旗を上げているのにです。結局、9月5日までこの侵攻は続き、最終的にソ連軍は北方領土を占領しました。  
たまに不思議に思うことがあります。  
日本軍による真珠湾攻撃が現在でも「闇討ち」と非難される中、何故、ソ連軍のこの行動が許されているのでしょうか?  
30万人以上の一般市民を、原爆で殺すように命じたトルーマン大統領が、何故、A級戦犯にならないのでしょうか?  
その答えは単純です。日本が負けたからに他ありません。勝てば官軍、負ければ賊軍。我々は賊軍なので、何も文句は言えません。  
誤解しないで欲しいのですが、私は「勝つまで戦え」とか「次は負けないぞ」とか言っているわけではありません。私は、太平洋戦争は愚かな戦争であると思っていますし、アジアを侵略した日本軍は悪であると思っています。ただ、この世には絶対の正義は存在しない。強い者、そして勝った者によって、正義が決定されるのだ、ということを言いたかっただけです。しかし、「強い者、勝った者が幸せか?」と言えば、必ずしも、そうとは言いきれないのが、歴史の非常に面白いところでもあります。  
 
ソ連対日参戦
満州国において1945年8月9日未明に開始された、日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘。  
日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。
背景  
19世紀の帝政ロシアの時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は世界を共産主義化することを至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。極東での日ソの軍拡競争は1933年(昭和8年)からすでに始まっており、当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進したが、1936年(昭和11年)ごろにはすでに圧倒的なソ連の国力から戦備に決定的な開きが現れており、師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站にわたって極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを大きく凌いでいた。  
張鼓峰事件やノモンハン事件において日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識したが、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争勃発で南方へと移行する。戦局の悪化は関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらした。満洲における日本の軍事力が急速に低下する一方でドイツ軍は敗退を続け、ソ連側に余力が生じたことでソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。
情勢認識  
クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じころ対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のためにソ連への対日参戦を画策していた。1943年10月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。このときソ連はドイツを破ったのちに参戦する方針と回答した。1945年2月のヤルタ会談ではこれを具体化し、ドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束。ソ連は1945年4月には、1941年に締結された5年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めないことを、日本政府に通告した。ドイツ降伏後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。  
日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとした。しかしソ連が中立条約の不延長を宣言したことやソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議において総合的な国際情勢について議論がなされ、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。  
関東軍首脳部は、日本政府よりも事態を重大に見ていなかった。総司令官は1945年(昭和20年)8月8日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していたことに、それは表れている。時の山田総司令官は戦後に「ソ軍の侵攻はまだ先のことであろうとの気持ちであった」と語っている。ただし、山田総司令官は事態急変においては直ちに新京に帰還できる準備を整えており、事実ソ連軍の攻勢作戦が発動してすぐに司令部に復帰している。なお、6月に大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい」と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢をある程度予期していながらも、重大な警戒感は持っていなかった。  
関東軍第一課(作戦課)においては、参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていたが、ソ連軍の侵攻が冬まで持ち越してもらいたいという願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。つまり、関東軍作戦課においては、1945年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも9月以降、さらには翌年に持ち越すこともありうると判断していたのだった。この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。  
関東軍の前線部隊においては、ソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地貞吾参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。  
さらに第四軍司令官上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、7月ころから絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究したところ、8月3日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えたものの、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。  
他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大したことから、同地域における対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。が、1945年5月9日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、再び対ソ作戦に転換する。このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識されるが、兵力が限られていたことから、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しないこととした。 しかし、上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。千島においては既に制海権が危機に瀕していることから、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。  
樺太において陸軍の部隊の主力となっていたのは第88師団であった。同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から8月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、現体勢に変化なしという方面軍の回答を得たのみだった。 対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは8月6・7日の豊原での会議においてのことであった。 千島においては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。
作戦の概要  
ソ連軍  
ソ連戦史によれば、対ソ防衛戦におけるソ連軍の攻勢作戦の概要としては、第一に鉄道輸送を用いて圧倒的な兵力を準備し、第二にその集中した膨大な戦力を秘匿しつつ満州地方に対して東西北からの三方面軍に編成して分進合撃を行い、第三に作戦発動とともに急襲を加え、速戦即決の目的を達することがあげられる。微視的に看れば、ソ連軍は西方面においては左翼一部を除いて大部分は遭遇戦の方式でもって日本軍を撃滅しようとし、一方東方面においては徹底的な陣地攻撃の方式をとっている。北方面は東西の戦局を見極ながらの攻撃という支援的な作戦であった。 北樺太及びカムチャツカ方面では、開戦の初期は防衛にあたり、満洲における主作戦の進展次第で南樺太および千島への進攻を行なうこととした。  
日本軍  
関東軍  
関東軍の作戦構想とは、ソ連軍の主力部隊の来襲が予想される西方面で、逐次的な抗戦と段階的な後退行動によって敵部隊を消耗させつつ連京線以東の山岳地帯に誘導して、ここで敵主力を可能な限り叩き、最終的には通化・臨江を中心とする総複郭内に立て篭もる。また満州各地で広く遊撃戦を行い、できる限りソ連軍の戦力を破砕する。ただし一部の前進を阻止遅滞させるための玉砕的な戦闘も予想しうる。後退の際には適時交通要所や重要施設は破壊して、敵の行動を妨害する、というものだった。  
戦術理論として一定の合理性を持つ作戦であったものの、当時の情勢と関東軍の準備状況などからは遊撃戦の展開や段階的な後退は非常に実行が困難な作戦であった。西正面のソ連軍の機甲部隊に対しては、第44軍(3個師団基幹)と第108師団を配備したに過ぎず、またこれらの部隊も火力・機動力ともに機甲部隊に対しては不足しており、実戦では各個撃破される危険性が高かった。また関東軍は戦力の差を縮めるためにゲリラ戦を重視していたが、これは現実的に難しく、困難であった。東部正面においては、元来工事の準備が遅れており、陣地防御もままならない状況であった。通信網でさえ第一線の部隊と司令部間であっても通じておらず、第一方面軍司令部と第五軍司令部の通信は8月14日になってからであった。  
第五方面軍  
第88師団(樺太)においては、対米戦に対応していた時期から、第88師団は樺太を真逢と久春内を結ぶ線で二分、それぞれで自活しつつ来攻する敵の殲滅にあたることとし、状況やむをえない場合に持久戦に移ることとし、同時に北海道との連絡維持を任務としていた。北部では八方山の陣地を軸とし、その西方山地や東方の軍道(東軍道または栗山道)沿いに北上、侵攻軍の翼に反撃、ツンドラ地帯内か西方山地に圧迫撃滅を図るものであり、南部では上陸阻止を第一としていた。  
目標が対ソ戦に切り替わると、以北で小林大佐指揮下の歩兵第125連隊が八方山の複郭陣地などを活用し持久戦にあたり、南進阻止を企図するとした。以南の地域では東半部を歩兵第306連隊西半部に歩兵第25連隊をおき、師団主力は国境ソ連軍の邀撃にはあたらないとする旨が伝えられた。また、豊原地区司令部により、1945年3月25・26日には邦人7688名を地区特設警備隊要員として召集、教育しており、住民を利用したゲリラ戦をも想定していたともいえる。  
第91師団(北千島)においては、他の島嶼と同じく北千島においても水際直接配備が当初は主であったが、戦訓から持久戦による出血強要へと方針が転換された。しかし陣地構築の困難さから、砲兵については水際に重点が置かれた。極力水際で打撃を与えつつ、神出鬼没の奇襲で前進を遅滞させるという村上大隊の戦闘計画に掲げられた任務は、その好例といえよう。全体の布陣は二転三転したが、最終的には幌筵海峡重視の配備となっていた。防御に徹した教育訓練がなされたことや、徹底した自給自足により栄養不良患者をほとんど出さなかったのも特徴である。  
居留民への措置  
関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えられていた。開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。それでも、関東軍総司令部兵站班長・山口敏寿中佐は、老幼婦女や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課(作戦)に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐保持」を理由に却下している。  
状況悪化にともない、満州開拓総局は開拓団に対する非常措置を地方に連絡していたが、多くの居留民、開拓団は悪化していく状況を深刻にとらえていなかった。 また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、「対ソ静謐保持」を理由に国境付近の開拓団を避難させることもなかった。 ソ連侵攻時、引き揚げ命令が出ても、一部の開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、待避をよしとしなかった。この判断については、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々の、無敵と謳われた関東軍に対する過度の信頼と情報の不足が大きな要因であると考えられる。  
8月9日ソ連軍との戦闘が始まると直ちに大本営に報告し、命令を待った。命令が下されたのは翌日10日で、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な居留民待避の検討を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。第一列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、対立鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。結果として最初に避難したのは、軍家族、満鉄関係者などとなり、暗黙として国境付近の居留民は置き去りにされた。  
これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。特に国境付近の居留民の多くは、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っており、死に物狂いでの逃避行のなかで戦ったが、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や(麻山事件・佐渡開拓団跡事件)、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。弾薬処分時の爆発に避難民が巻き込まれる東安駅爆破事件も起きた。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、収容所に送られ、孤児や満州人の妻となる人々も出た。  
当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は  
軍人関係家族 2万0310人 / 大使館関係家族 750人 / 満鉄関係家族 1万6700人 / 民間人家族 240人  
この時、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。  
当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる「流れる星は生きている」では、避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出したと記述している。また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。
経過  
初動  
宣戦布告は1945年8月8日(モスクワ時間午後5時、日本時間午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとしたが領事館の電話は回線が切られており奇襲を伝える手段は残されていなかった。  
8月9日午前1時(ハバロフスク時間)にソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。同じ頃、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、午前6時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。この攻撃は関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後1時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。さらに総司令官は宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。皇帝溥儀は満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。  
西正面の状況  
ソ連軍ではザバイカル戦線、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。一方方面軍主力は、最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京−奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、本格的な交戦は行われなかった。逆にソ連軍から見ると日本軍の抵抗を受けることなく順調に前進できた。  
第3方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第3方面軍作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である機甲部隊は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃に向かった。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上った。  
ソ連軍は8月13日には牡丹江を占領し、16日には勃利を占領した。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていた。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退した。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことであった。  
東正面の状況  
東方面においては日本軍は第1方面軍が、ソ連軍は極東方面軍が担当していた。日本軍の10個師団と独立混成旅団・国境守備隊・機動旅団各1個に対し、ソ連軍は35個師団と17個戦車・機械化旅団基幹であった。日本の第1方面軍は、国境の既存防御陣地を保守し、ソ連軍の主力部隊が進行した後は後方からゲリラ戦を以って奇襲を加える防勢作戦を計画していた。牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、同方面軍の任務は、侵攻する敵の破砕であったが、二次的なものとして、満州国と朝鮮半島の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。  
しかし、日本軍の各部隊の人員や装備には深刻な欠員と欠数があり、特に陣地防御に必要な定数を割り込んでいた。同方面軍の主力部隊の一つであった第5軍を例に挙げれば、牡丹江沿岸、東京城から横道河子の線において敵を拒否する任務を担っていたが、銃剣・軍刀・弾薬・燃料だけでなく、火器・火砲にも欠数が多く、銃・軽機関銃、擲弾筒は定数の三分の一から三分の二程度しかなく、また火砲は第124師団、第135師団ともに定数の三分の二以下、第124師団は野砲の欠数を山砲を混ぜて配備し、第135師団は旧式騎砲、迫撃砲で野砲の欠数を補填しているほどであった。  
実際の戦闘においては第二十五軍、第三十五軍団を主力部隊とする極東方面軍の激しい攻撃を受けることになった。天長山・観月臺の守備隊は敵に包囲され、天長山守備隊は15日に全滅、観月臺は10日に陥落した。また八面通正面では秋皮溝守備隊は9日に全滅、十文字峠・梨山・青狐嶺廟の守備隊も10日にソ連軍の圧倒的な攻撃を受けて陥落、残存した一部の部隊は後退した。平陽付近では、前方に展開していた警備隊がソ連軍の攻撃で全滅し、残りの守備隊は8月9日に夜半撤退したが、10日にソ連軍と遭遇戦が発生し、離脱したのは850人中200人であった。このように各地で抵抗を試みるもその戦力差から悉くが撃破・殲滅されてしまい、ソ連軍の攻撃を遅滞させることはできても、阻止することはできなかった。  
東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと正しく判断した清水司令官は、第124師団、その後方に第126・第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置した。穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されたが、後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了することができた。牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受けた。南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置していた。  
一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていた。羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止した。広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍は、よく善戦して各地で死闘を繰り広げたが停戦時の17日にはソ連軍が第2線陣地に迫っていた。  
北正面の状況  
満州国の北部国境地域、孫呉方面及びハイラル方面でも日本軍(第4軍)は抵抗を試みるもソ連軍の物量を背景にした攻撃で後退を余儀なくされていた。孫呉正面においては、ソ連軍は36軍・39軍・53軍・17軍及びソ蒙連合機動軍を以って8月9日に機甲部隊を先遣隊として攻撃を行ったが、当時の天候が雨であったために沿岸地区の地形が泥濘となって機甲部隊の機動力を奪ったため、作戦は当初遅滞した。日本軍は第123師団と独立混成第135旅団で陣地防御を準備していたが、第2極東方面軍の第2赤衛軍が11日から攻撃を開始した。ソ連軍の攻撃によって一部の陣地が占領されるも、残存した陣地を活用して反撃を行い、抵抗を試みていた。しかし兵力の差から後方に迂回されてしまい、防衛隊は離脱した。またハイラル正面においては、ソ連軍はザバイカル方面軍の最左翼を担当する第36軍の部隊が進行し、日本軍は第119師団と独立混成第80旅団によって抵抗を試み、極力ハイラルの陣地で抵抗しながらも、戦況が悪化すれば後退することが指示されていた。第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、戦闘ではソ連軍の正面からの攻撃だけでなく、南北の近接地域から別働隊が侵攻してきたために後退行動を行った。  
北朝鮮の状況  
北朝鮮においては第34軍(主力部隊は第59師団、第137師団「根こそぎ動員」師団、独立混成第133旅団)が6月18日に関東軍の隷下に入り、7月に咸興に終結した。戦力は第59師団以外は非常に低水準であり、兵站補給も滞っていた。開戦して第17方面軍は関東軍総司令官の指揮下に、第34軍は第17方面軍司令官の指揮下に入った。また羅南師管区部隊は本土決戦の一環として4月20日に編成された部隊であり、2個歩兵補充隊と、5個警備大隊、特設警備大隊8個、高射砲中隊3個、工兵隊3個などから構成されていた。  
第一線の状況として、ソ連軍の侵攻は部分的なものであった。咸興方面では第34軍はソ連軍に対して平壌への侵攻を阻止し、朝鮮半島を防衛する目的で配備され、野戦築城を準備していた。しかし終戦までソ連軍との交戦はなかった。一方で羅南方面では、ソ連軍の太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊・第一極東方面軍第25軍・第10機甲軍団の一部が来襲した。12日から13日にかけて、ソ連軍は海路から北朝鮮の雄基と羅南に上陸してきた。8月13日にソ連軍の偵察隊が清津に上陸し、その日の正午に攻撃前進を開始した。羅南師管区部隊は上陸部隊の準備が整わないうちに撃滅する作戦を立案し、ソ連軍に対抗して出撃し、上陸したソ連軍を分断、ソ連軍の攻撃前進を阻止するだけの損害を与えることに成功し、水際まで追い詰めたが、14日払暁まで清津に圧迫し、ソ連軍の侵攻を阻止する中15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念し、防御に転じた時に8月18日に停戦命令を受領した。
南樺太および千島の概況  
当時日本が領有していた南樺太・千島列島は、米軍の西部アリューシャン列島への反攻激化ゆえ急速強化が進んだ。1940年12月以来同地区を含めた北部軍管区を管轄してきた北部軍を、1943年2月5日には北方軍として改編、翌年には第五方面軍を編成し、千島方面防衛にあたる第27軍を新設、第1飛行師団と共にその隷下においた。 結果、1944年秋には千島に5個師団、樺太に1個旅団を擁するに至る。  
しかし、本土決戦に向けて戦力の抽出が始まると、航空戦力を中心に兵力が転用され、1945年3月27日に編成を完了した第88師団(樺太)や第89師団(南千島)が加わったものの、航空兵力は貧弱なままで、北海道内とあわせ80機程度にとどまっていた。  
他方、ソ連軍は同方面を支作戦と位置づけており、その行動は偵察行動にとどまっていた。1945年8月10日22時、第2極東戦線第16軍は「8月11日10:00を期して樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を受領、ようやく戦端を開く。しかし、準備時間が限定されており、かつ日本軍の情報が不足していたこともあり、各兵科部隊には具体的な任務を示すには至らなかった。情報不足は深刻で、例えば、樺太の日本軍は戦車を保有しなかったにもかかわらず、第79狙撃師団に対戦車予備が新設されたほどであった。北千島においてはさらに遅れ、8月15日にようやく作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島の占守島、幌筵島、温禰古丹島を占領するように命じた。  
南樺太の戦闘  
樺太の日本軍は、1941年の関東軍特種演習から対ソ戦準備をしていたが、大東亜戦争中盤からは対米戦準備も進められて、中途半端な状態だった。第88師団が主戦力で、うち歩兵第125連隊が国境方面にあった。対ソ開戦後は、特設警備隊の防衛召集や国民義勇戦闘隊の義勇召集が実施され、陣地構築や避難誘導を中心に活動した。居留民については、1944年秋から第5方面軍の避難指示があったが、資材不足などで進んでいなかった。ソ連軍侵攻後に第88師団と樺太庁長官、豊原海軍武官府の協力で、23日までに87670名が離島できた。その後の自力脱出者を合わせても、開戦時住民約41万人のうち約10万人が脱出できたにすぎない。 なお、戦後の引揚者は軍人・軍属2万人、市民28万人の合計30万人で、残留した朝鮮系住民2万7千人を除くと陸上戦の民間人死者は約2,000人と推定されている。後述の引揚船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する。  
樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、8月9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。11日5時頃より、樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの2方向から侵入した。他方、日本軍は9日に方面軍の出した「積極戦闘を禁ず」という命令のため、専守防御的なものとなった。後にこの命令は解除されたが前線には届かなかった。日本軍は、国境付近の半田10kmほど後方の八方山陣地において陣地防御を実施した。日本の第5方面軍は航空支援や増援作戦等を計画したが、8月15日に中止となった。  
戦闘は8月15日以降も継続し、むしろ拡大していった。日本政府からの明確な指示が出ないまま、ソ連軍による無差別攻撃に対応し日本軍も自衛戦闘として応戦を続けた。16日には塔路・恵須取へソ連軍が上陸作戦を実施。20日には真岡へも上陸し、この際に逃げ場を失った電話交換女子達が集団自決する真岡郵便電信局事件が発生した。真岡の歩兵第25連隊は、ソ連軍による軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に移った。熊笹峠へ後退しつつ抵抗を続け、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。  
8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による空爆が加えられ多数の死傷者が出た。同日朝には樺太からの引揚船「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」が留萌沖でソ連軍潜水艦に攻撃され、1708名の死者と行方不明者を出した(三船殉難事件)。  
その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には豊原に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には大泊に上陸、樺太全土を占領した。  
千島列島の状況と戦闘  
アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも占守島をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初はアッツ島からの空爆に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、ある程度の数が終戦まで確保(第91師団基幹の兵力約25000人、火砲約200門)された。防衛計画は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。  
8月9日からのソ連対日参戦後も特に動きはないまま、8月15日を迎えた。方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。だが、ソ連軍は15日に千島列島北部の占守島への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示していた。  
18日未明、ソ連軍は揚陸艇16隻、艦艇38隻、上陸部隊8363人、航空機78機による上陸作戦を開始した。投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍基地の全艦艇など、第128混成飛行師団などであった。日本軍第91師団は、このソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくともソ連軍の艦艇13隻を沈没させる戦果を上げている。  
上陸に成功したソ連軍部隊が、島北部の四嶺山付近で日本軍1個大隊と激戦となった。日本軍は戦車第11連隊などを出撃させて反撃を行い、戦車多数を失いながらもソ連軍を後退させた。しかし、ソ連軍も再攻撃を開始し激しい戦闘が続いた。18日午後には、日本軍は歩兵73旅団隷下の各大隊などの配置を終え有利な態勢であったが、日本政府の意向を受け第5方面軍司令官 樋口季一郎中将の命令に従い、第91師団は16時に戦闘行動の停止命令を発した。停戦交渉の間も小競り合いが続いたが、21日に最終的な停戦が実現し、23・24日にわたり日本軍の武装解除がなされた。  
それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日に択捉島、9月1日〜4日に国後島・色丹島の占領を完了した。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の、3日から5日のことである。
ポツダム宣言受諾後のソ連の戦闘  
外地での戦闘が完全に収束する前に、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌日、終戦詔書が発布された。  
このことにより攻勢作戦を実行中であった日本軍の全部隊はその作戦を中止することになった。  
しかし、ソ連最高統帥部は「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。このため、日本軍は戦闘行動で対応するほかなかった。  
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営以下の日本軍全てに対する戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令が出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊はほぼすべてが激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたために、全く状況は変わらなかった。  
8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将がソ連側と交渉に入ったものの、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は8月20日午前まで停戦しないと回答した。関東軍とソ連軍の停戦が急務となったマッカーサーは8月18日に改めて日本軍全部隊のあらゆる武力行動を停止する命令を出し、これを受けた日本軍は各地で戦闘停止し、停戦が本格化することとなった。同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。  
8月19日15:30(極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。これを受けて、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、ソ連軍による作戦は1945年9月2日の日本との降伏文書調印をも無視して継続され、結局、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってソ連軍は初めて一方的な戦闘を終了した。
前線部隊の状況  
対ソ防衛戦は満州国各地、及び朝鮮半島北部などにおいて広範に行われた。全体的には日本軍が終始戦力格差から見て各地で一日の間に陣地を突破される事態が各地で発生し、突破された部隊は南方への抽出を受けて全体的に戦力が低下しており戦況を立て直すことができず、いとも簡単に前線陣地を突破され潰走することがほとんどであった。  
しかし、編成が終了したばかりの新兵と装備が不十分という寡弱な部隊を、強大なソ連軍が進撃してくる戦場正面に投入したが、交戦前に混乱状態に陥った部隊は皆無であった。例えば第5軍は、絶望的な戦力格差があるソ連軍と交戦し、少なからぬ被害を受けたものの、1個師団を用いて後衛とし、2個師団を後方に組織的に離脱させ、しかも陣地を新設して邀撃の準備を行い、さらに自軍陣地の後方に各部隊を新たに再編して予備兵力となる予備野戦戦力を準備することにも成功している。是には非常に優れた指揮の下で円滑に後退戦が行われたことが伺える。  
また既存陣地(永久陣地及び強固な野戦陣地)に配備された警備隊は、ほぼ全てが現地の固守を命じられていた。これは後方に第二、第三の予備陣地が構築されておらず、また増援が見込めない為である。そのため後退できない日本軍の警備隊は、圧倒的な物量作戦で波状攻撃をかけるソ連軍に対して各地で悲愴な陣地防御戦を行い、そのほとんどが担当地域で壊滅することになった。ここで注目すべき点は、戦闘力が寡弱な中隊・小隊であるにも拘らず、事前に防御すべき守備線を捨てる部隊がなく帝國陸軍発足以来の敢闘精神を発揮し、大挙満州国に侵入してきたソ連軍をみてもその戦闘開始以前において個人的に離隊した兵士が一人として見当たらないことである。
在留邦人の状況  
日本軍の一切の武力行動禁止が命じられ、ソ連軍が満州各地に進駐してくると地域の在留邦人は悲劇的な事態に追い込まれていく。ソ連軍首脳部は日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていたが、ソ連軍の現地部隊はそれを無視しており、正当な理由のない発砲・掠奪・強姦・車輛奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していった。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封殺され失われていた。このような中で、ソ連軍から支配地を引き継いだ八路軍による圧政から通化事件‎のような虐殺事件が起きた。  
ソ連軍は開拓団で退避した人々の群れを見ると、機銃掃射を浴びせた。それでも逃げる在留邦人を、今度は中国人農民が匪賊となって襲撃し、虐殺して死者の衣服まで奪い取って行った。8月14日に起きた葛根廟事件では、数千人の避難民が退避している際にソ連軍から一斉射撃を浴びた後、戦車で轢き殺された。その後生存者も死者も中国の暴民によって衣服をはがされ、強姦された。また吉林省扶余県の開拓団の事例では、親しかった中国人が暴徒襲撃の情報を教えてくれたので、竹槍などで武装して戦ったが、中国人暴徒の数は2000人にも及び、婦女子以下自決して272名が死んだという。そのほか、敦化事件、牡丹江事件、麻山事件などが起こった。  
このような逼迫した状況下で関東軍の現地責任者は、一刻も早くこの現状下に鑑み現地での状況を東京に逐次伝え、ソ連に対してこのような事態を一刻も早く改善するようにと外交的交渉を早く進展するようにと求めることが限界であった。この時点で本来なら関東軍を指揮督戦して励ます筈の上層部はすでに航空機等で本土にいち早く退避しており、満州国に残された現地の責任者等は、このような現地状況を日本政府に電報を使用して再三に渡って送り続けた。一方日本政府は聯絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するようにと本土より打電をして取り計らっていた。  
このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は中国残留日本人と呼ばれており、日中両国の政府やNPOによる日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から60年が経た後でも完全な解決には至っていないのが現状である。また、樺太では在樺コリアンの問題が残っている。 
 
近代日本の国防と外交

 

はじめに
諸君は知っているだろうか。今、我々が生活を営んでいるこの日本が、かつて外国勢力により危うく侵略されそうになったという事実を。  
それは今からたった約150年前の出来事である。よく考えてほしい。たった150年前である。  
その頃の日本人は徳川幕府260年の歴史の最後の瞬間に生きていたのであるが、西洋諸国の東洋への侵略活動も最終フェーズに入り、とうとうその仕上げとして日本、シナ、朝鮮へ侵略の駒を進めてきたのである。その侵略は西洋列強諸国による植民地拡大として歴史に刻まれている。  
シナ(当時は清国である)は、アヘン戦争に敗れ、イギリスに香港を割譲、巨大帝国である清は、地球の裏側から侵略してきた英国にその領土の一部を割譲させられたのである。この事実は侵略者である西洋諸国にとっては、巨大帝国であった清に勝利することができたことは驚異であったろうし、清国敗れるの報を聞くに及び、当時の日本人達は脅威と感じたのである。  
既知のこととは思われるが、当時の日本は所謂「鎖国」を行い、外国との交渉を一切絶っていたように思われるが、実はそうではなく、オランダを通じてヨーロッパ各国の情勢については把握していたということが近年明らかになってきている。だが、それらの情報収集もむなしく、日本は何ら具体的な対策を取ることをしなかった。あの巨大帝国である清が英国に敗れ、清の領土は少しずつ浸食されているにもかかわらずである。もっとも当時の日本にとっては具体的対策など取りようもなかったのであるが。  
その後遅れてきた帝国主義国家で新興国家であったアメリカ合衆国が、日本へ開国を求める。それ以前にもロシアは日本に開国を求めるが、徳川幕府はその要求をはねつけた。その鎖国体制の延長として米国の開国要求に対しても開国せずの判断であったが、やがてその砲艦外交に恐れをなした幕府は開国するに至った。そして不平等条約を締結させられ、日本は西洋列強に侵略される一歩手前まで来たのである。まさに植民地一歩手前の状況であり、日本は滅亡の寸前にあったと言えるだろう。  
もちろん、そのような状況に至るには様々な政治的な思惑があったことは確かである。今の日本の軍備で西洋諸国に対抗したところでとても勝てる見込みはない。ゆえにまずは開国をして貿易を行い、西洋の技術、知識を輸入し、それによって軍備、国力を充実させて西洋に侵略されないような国へと改造しなければならない。  
そうした観点から当時の幕府は様々な改革を行い、制度を導入したが、それは幕府の政策として最終的に成功に至ることはなかった。なかでも、外国勢力とどう対峙すべきかを、幕府だけでは決めることができなかったという点が徳川幕府の権威が崩壊するきっかけであったものと思われる。薩摩藩や長州藩、土佐藩、会津藩などをはじめとする雄藩に「意見」を求めてしまった。これでは幕府の権威は一気に失墜していく。今まで強力な軍事力を保持して日本を支配していた幕府が外国の脅威に対してまともな対応を行うことができないことを露呈してしまった。関ヶ原の戦い以降、冷や飯を食わされ、常にお家断絶の危機感とともにあった外様である雄藩が倒幕へと動き始めるのは時間の問題であったかもしれない。  
そして幕府を守る諸藩と倒幕へ向かう諸藩の戦い、内戦が起こった。これが戊辰戦争である。戦争は長期化することはなく、内戦中に外国勢力の介入を避けたことは幸運であったが、もう少し戦争が長引いていれば日本は米英仏あたりに分割されていたかもしれない。明治維新から始まる日本の近代は戦争により始まり、常に外国勢力との戦い、駆け引き、緊張感のもとに展開していたと言えるであろう。そしてその近代は大東亜戦争の敗北に全て結実している。  
150年前の歴史を振り返り、そして今、我々の生きるこの日本を見ればどうであろうか。  
国内においては、政治不信、経済不況、リストラという名の首切り、就職大氷河期、増加する自殺、少子化、子殺し、親殺し、外国人犯罪、振り込め詐欺、年金不信、公教育の崩壊。  
外交においては、北朝鮮の拉致、北朝鮮のミサイル問題、シナ、韓国などの内政干渉、竹島、尖閣諸島、東シナ海ガス田問題、北方四島問題、日米安全保障問題とテロリズムへの対策、そしてTPP参加問題など問題が山積している。  
が、今の政府はこれら諸問題についてせいぜい年金問題くらいについてはある程度の解決策を出しているが、殆どの問題については対処療法に止まるだけで、根本的な対策を行っているとは言えない。特に、外交、安全保障問題については無知蒙昧も甚だしい。  
特に平成21年の民主党政権の誕生により、外交については何もしないでくれとお願いしたいくらい酷い政策が行われている。こんなことではいずれ日本はシナや朝鮮の属国になってしまうであろう。  
この「維新論」は今まさに滅びようとしている我らの祖国日本の現状を認識し、我らの祖国日本を本来あるべき姿に復活させるべく、つたないながらも在野の一国士がその策の是非を世に問わんとするものである。  
本書は四部構成とし、第一部では明治維新から現在までの歴史を俯瞰し、ここ140年の歴史で我が国は何を国是とし、どう活動し、その結果我が国が現在抱える諸問題の現状とその原因を考えてみたい。第二部では我が国の国防と外交はいかにあるべきかを述べたい。次巻の第三部、第四部では第一部、第二部の内容を踏まえた上で、国内の諸問題についての「維新」を提案し、その策と意見を述べたい。  
この原稿の執筆中、平成23年3月11日、私は仙台市内において東日本大震災の被災者となった。あの数分間の恐怖の激震の中でビルの天井を見上げながら私は死を悟った。私は不幸中の幸いであの大津波に飲まれること