西洋文明 雑話 [5] (近代・思想と経済)

「雇用/利子/お金の一般理論」[第VI巻]交易サイクル重商主義/高利貸/印紙/消費不足一般理論から導かれる社会哲学ショーペンハウア 「イデア」老人論ペシミズムショーペンハウアー と父ゲーテ色彩論お金とマルクス「資本論 」の商品「法の哲学」意志論家族/市民社会/国家ヘーゲル法哲学の考察キルケゴールとオルセンキルケゴールの言葉キルケゴール諸説・・・
 

雑学の世界・補考   

『雇用、利子、お金の一般理論』
 第VI巻 一般理論が示唆するちょっとしたメモ

 (ジョン・メイナード・ケインズ 著 1936)  
第22章 交易サイクルについてのメモ

 

これまでの章では、あらゆる時点における雇用量を決めるのが何かを示したと主張してきましたので、それが正しいならば当然出てくるのは、この理論が交易サイクル(訳注:景気循環)という現象を説明できるはずだ、ということです。
実際の交易サイクルの事例をどれでも詳しく検討すれば、それがきわめて複雑で、それを完全に説明するためには私たちの分析のあらゆる要素が必要となることがわかるでしょう。特に、消費性向や流動性選好、資本の限界効率の変動がすべて関係していることがわかるはずです。でも事業サイクルの本質的な特徴、特にそれを周期サイクルと呼ぶことを正当化する、時系列変化と継続期間の規則性は、主に資本の限界効率が変動する過程から生じているのだ、と私は主張します。事業サイクルは資本の限界効率の周期的な変化によって引き起こされると考えるのがいちばんいいのではないでしょうか。ただしそれが、経済システムの他の重要な短期変数に生じる関連した変化のために複雑化し、時に増幅されているのです。この理論を展開するには一章ではすまず、丸ごと本一冊が必要ですし、事実関係をもっと詳しく検討する必要があります。でも以下の手短なメモは、これまでの理論から示唆される検討の方向性を示すには十分でしょう。
セクションI

 

周期サイクル的な運動というのはつまり、システムがたとえば上向きに進むにつれて、それを引き揚げている力が当初は威力を拡大し、相互に累積的な効果を持つけれど、だんだんその力を失って、やがてどこかの時点で、反対方向に働く力に置き換えられます。そしてこんどはそちらが威力を集め、相互に強化しあいますが、これもまた最高潮に達してから弱まり、また反対の動きに道をゆずる、ということです。でも周期サイクル的な運動というのは、単に上がったり下がったりする傾向がいつまでも続かずにいずれ逆転する、というだけの話を意味するのではありません。その時系列推移や、上下変動の期間に、ある程度それとわかるだけの規則性があるということも意味しています。
でも、交易サイクルについての説明が適切なものであるためには、カバーすべき特徴がもう一つあります。つまり、危機という現象です——上昇から下降への転換が、しばしば突然暴力的な形で生じるのに、下降傾向が上昇傾向に変わるときには、そんな急激な転回点はないのが通例だ、ということです。
投資変動で、それに対応した消費性向の変化が起きない者は、すべて雇用の変動をもたらします。投資の量はきわめて複雑な影響を受けるので、投資自体の変化や資本の限界効率の変動が、すべて周期的なものになることはほぼあり得ません。 ある特殊な一例、つまり農業の変動に関係したものは、本章のあとのセクションで別に検討します。でも十九世紀の環境における典型的な産業交易サイクルの場合、資本の限界効率変動に周期性があるべき決定的な理由がいくつかあるのだ、と私は考えます。こうした理由は、それ自体としても交易サイクルの説明としても、決して目新しいものではありません。ここでの私の唯一の狙いは、それをこれまでの理論と結びつけることなのです。  
セクションII

 

私の言いたいことをいちばんうまく紹介するには、好況の後期に入って「危機」が到来するところから始めるのがいいでしょう。
これまで資本の限界効率1は、資本財の既存の豊富さや希少性や、また資本財の現在の生産費用に依存するだけでなく、資本財の将来収益についての現在の期待にも左右されるということを見てきました。ですから耐久資産の場合には、新規投資が望ましいと思われる規模を決めるに際して、将来についての期待が大きな役割を果たすのは自然だし、もっともなことだと思えます。でもこれまで見た通り、こうした期待の根拠はとてもあぶなっかしいものです。変動する信頼できない証拠に基づいているため、そうした期待は突然のすさまじい変化を起こしかねません。
さて、私たちはこの「危機」を説明するのに、取引目的と投機目的の双方でお金の需要が増大することから、金利が上昇傾向になることを強調するのに慣れてきました。ときにはもちろん、この要因が確かに加速要因となりますし、ときには危機の火付け役になることさえあるかもしれません。でも私は危機の説明としてもっと典型的で、しばしば支配的なものは主に金利上昇ではなく、資本の限界効率が突然崩壊することなのだ、と主張したいのです。
好況の後期段階は、資本財の将来収益に関する楽観的な期待が十分に強いため、それがますます豊富になり、生産費用が上昇して、おそらくは金利も上昇しているのも相殺できるほどです。組織化された投資市場の性質として、自分が何を買っているかほとんど何も知らない購入者と、資本的資産の将来収益についての妥当な推計をするよりは、次の市場感情の推移の予測に血道をあげる投機家たちに影響されているため、過剰に楽観的で買いのかさんだ市場に幻滅が到来すると、それは突然に、カタストロフ的な勢いで下落します2。 さらに、資本の限界効率崩壊に伴う失望と将来に対する不確実性は、自然に流動性選好の急増をもたらします——そしてそのため金利も上がります。ですから資本の限界効率崩壊がしばしば金利上昇を伴うという事実は、投資減少を深刻に悪化させます。でもこの状況の本質はそれでも、資本の限界効率崩壊にあるのであって、特にそれがそれまでのフェーズにおける、大量の新規投資に最も貢献していた資本の場合にはそれが言えます。流動性選好は、それが事業や投機の増加と関連してあらわれるもの以外は、資本の限界効率崩壊の後でないと増えません。
これこそまさに、不景気をかくも御しがたくしているものなのです。後になれば、金利低下が回復に大きく貢献するし、おそらくはそれが回復の必要条件でもあるのでしょう。でもとりあえずは、資本の限界効率崩壊があまりに徹底していて、現実的に可能な金利削減をいくらやっても不十分かもしれません。もし金利削減だけで有効な療法となり得るのであれば、大して時間をかけずに回復もできるし、金融当局が多かれ少なかれ直接コントロール可能な手法だけですむでしょう。でも実際には、普通はそうは行きません。 そして資本の限界効率を回復させるのは、そうそう簡単ではありません。というのもそれを決めているのは、実業界の制御不能で聞き分けのない心理だからです。普通の言い方をすると、個人主義的な資本主義経済において実にコントロールし難いものといえば、安心の復活なのです。不況のこの側面は、銀行家や実業家が正しく強調していたことで、「純粋金融的」対処法を信奉していた経済学者たちはこれを甘く見ていたのです。
ここで私の論点です。交易サイクルにおける時間要素の説明、つまり回復が始まるまでに通常はある程度の時間規模が必要だという事実の説明は、資本の限界効率回復を律する各種の影響に求めるべきなのです。第一に、ある時期における通常の成長率と比較した耐久資産の寿命、そして第二に余剰在庫の保有費用のおかげで、景気下降の期間は偶発的なものにはならず、たとえば今回は一年で次回は十年などといった変動はみせず、習慣上の規則性、まあ三年から五年といった期間が毎回観測されるのです。
危機で何が起こるかを思い出しましょう。好況が続いている限り、新規投資のほとんどが見せる当期収益は、そんなに不満なものではありませんでした。幻滅がやってくるのは、見込み収益の信頼性について突然疑念がわき起こるからです。それは新規に生産された耐久財の在庫が増えるにつれ、当期収益がだんだんジリ貧になってきたからかもしれません。もし現在の生産費用が後日よりも高いと思われたら、これも資本の限界効率低下のさらなる理由となります。疑念はいったん始まると、急速に広がります。ですから不況の発端では、たぶん限界効率がゼロかマイナスにすらなった資本がたくさんあるでしょう。でも、利用や劣化、陳腐化を通じた資本の減少が、一見してわかるほど十分な希少性を作りだして限界効率を上げるまでにかかる時間は、その時代での平均的な資本の寿命からくる、かなり安定した関数になっているかもしれません。もしその時代の特徴が変われば、標準的な時間間隔も変わります。たとえば人口増の時代から人口減少の時代になれば、サイクルを特徴付けるフェーズは長くなります。でもこれまでの話で、なぜ不況の期間がその時代における耐久資産の寿命や通常の成長率と明確な関係を持つのか、本質的な理由が得られます。
第二の時間安定要因は、余剰在庫の保有費用によるものです。それはその在庫吸収を一定期間内で終えるよう強制しますが、それはあまりに短期ではなく、あまりに長期でもありません。危機の後で突然新規投資が止まれば、仕掛品の余剰在庫が積み上がるでしょう。こうした在庫の保有費用は、年率10パーセント以下になることはほとんどないはずです。ですからその価格低下はそれらが、せいぜい三年から五年で吸収されるような条件をもたらすに足るものでなければならないことになります。さて在庫吸収プロセスはマイナス投資ですから、これはさらに雇用を抑えることになります。そしてそれが終われば、目に見えて回復が感じられるでしょう。
さらに、運転資金削減も、下降期の産出低下には必然的につきものですが、これまたマイナス投資の一要素となります。これはかなりのものとなりかねません。そして不景気がいったん始まると、これは景気低下方向への強い累積的な影響を与えます。典型的な不況の最初期フェーズでは、たぶん在庫積み増しにつながる投資が続いていて、これが運転資金のマイナス投資を相殺するでしょう。次のフェーズでは、短期的に在庫と運転資金両方でマイナス投資が見られるでしょう。最低点を過ぎた後、たぶん在庫はさらにマイナス投資が続き、運転資金の再投資が相殺されます。そして最後に、回復がようやく軌道に乗れば、どちらの要素も同時に投資を後押しします。耐久消費財の投資変動に対する追加的で付加的な影響は、この背景の中で検討しなくてはなりません。この手の投資減少が周期的な変動をスタートさせてしまえば、この周期がある程度進行するまでは、回復の後押しはほぼ不可能です3。
残念ながら資本の限界効率が大きく下がると、消費性向も悪い方向に動きがちです。というのもそれは、証券取引所の株式の市場価値を暴落させるからです。さて証券取引所の投資に積極的な興味を示す人々にとって、特にその人が借りた資金で株式投資をしている場合には、これは当然ながらきわめて気の滅入る影響を及ぼします。こうした人々は実際の所得の状態よりも、そうした投資価値の上下動のほうが消費意欲に強く影響するかもしれません。今日のアメリカのように「株式志向」の社会だと、株式市場の上昇は満足のいく消費性向にとって、ほとんど不可欠な条件なのでしょう。そしてこの状況は、ごく最近までは見すごされてきましたが、明らかに資本の限界効率低下による景気沈滞効果をさらに悪化させるものなのは確実です。
いったん回復が始まれば、それが自分で自分を強化して累積する様子は明白です。でも下降フェーズだと、固定資本と原料在庫がどちらも一時的に余っていて運転資金が減らされている状態だと、資本の限界効率関係スケジュールが下がりすぎて、金利を実施可能な範囲でどれだけ下げても、新規投資を十分に確保するような形でそれを修正することはできなくなります。ですから現在のように市場が組織されて影響されていると、資本の限界効率に関する市場の推計は、実にすさまじい上下動を起こして、それに対応して金利が変動しても十分に相殺できないかもしれません。さらに上で見たように、株式市場でこれに対応する動きは、消費性向が最も必要とされるときに、それを抑えてしまうのです。自由放任条件では、雇用の大幅な変動を避けるのは、投資市場の心理が徹底的に変わらない限り不可能かもしれません。そしてそんな心理の変化が起きると期待すべき理由はありません。私は、当期の投資量を秩序だてるという責務は、民間の手に任せておくのは安全でないと結論します。 
セクションIII

 

これまでの分析は、好況の特徴は過剰投資であり、来る不況の唯一の対策はこの過剰投資を避けることだ、という見方をする人々と同意するものだ、と思われるかもしれません。その見方によれば、上に挙げた理由から低金利で不況を防ぐことはできないが、高金利で好況を避けることはできるとのこと。確かに、低金利が不況対策になるのに比べれば、高金利は好況対策としてずっと効果が高いという議論には説得力があります。
でもこうした結論を上の議論から導き出すのは、私の分析を誤解しています。そして私流の考え方からすれば、深刻なまちがいを含んでいます。というのも過剰投資ということばがあいまいだからです。それはその投資の原因となった期待を失望させるような投資を指すのかもしれず、あるいは厳しい失業状況ではまったく使い道がない投資を指すのかもしれず、あるいはあらゆる資本財があまりに豊富で、完全雇用の条件下ですら、その設備の寿命の間に置き換え費用以上のものを稼ぎ出せないような状態を指すのかもしれません。厳密に言うと、過剰投資の状態とは一番最後のものだけで、それ以上の投資がすべて単なるリソースの無駄遣いとなるような状態のことです4。さらに、この意味での過剰投資が好況の通常の特徴だったとしても、その対処方法は高金利ではありません。高金利は有益な投資も排除してしまいますし、消費性向をさらに引き下げることにもなります。対処法は、所得の再分配などを通じて消費性向を刺激するような手立てを講じることなのです。
でも私の分析によれば、好況の特徴が過剰投資だと言えるのは、前者の意味においてのみです。私が典型的だとする状況は、資本があまりに豊富で社会全体としてもそのまともな使い道がまったくないような状況ではありません。どうみても失望せざるを得ないような期待に動かされた、不安定で持続不能な条件下で投資が行われているような状況が典型なのです。
もちろん、好況時の幻影のために、ある特定の資本的資産があまりに過剰に作られすぎて、産出の一部はどんな尺度で考えても、資源の無駄遣いになっていることはあり得ます——いや実際その可能性は高いでしょう。ちなみに付け加えておけば、これは好況でないときにもたまに起こることです。するとつまり、それは行き先のまちがった}投資につながるわけです。でもそれを超えたところでは、実際には完全雇用条件下でも 2 パーセントくらいの収益しかない投資が、たとえば 6 パーセントの収益をもたらすという期待で実施され、それに基づく値づけがされることが、好況の基本的な特徴として挙げられます。幻滅がやってくると、この期待は正反対の「悲観論の誤謬」で置き換わり、実際には完全雇用で 2 パーセントの収益をもたらす投資が、いまやマイナスの収益しかもたらさないという期待になってしまいます。その結果として生じる新規投資の崩壊のせいで失業が発生し、そのおかげで完全雇用下でなら2パーセント稼いでいたはずの投資も、本当にマイナスの収益しかあげられません。すると家は不足しているのに、それでも今ある家は高すぎてだれも住めないというような状態になります。
ですから好況への対処方法は、金利の引き上げではなく、金利の引き下げなのです5! そうすることで、その好況なるものが長続きできるかもしれないのですから。交易サイクルへの正しい対処法は、好況をつぶして世界を常にミニ不況状態にしておくことではないはずです。むしろ不況をつぶして、世界を常にミニ好況状態にしておくことであるはずです。
つまり不況を終わらせるはずの好況を起こすのは、高すぎる金利と常軌を逸した期待の状態ということになります。金利は適切な期待の状態だと完全雇用には高すぎるのですが、常軌を逸した期待の状態は、それが続く限り、その高金利で実際に抑えられるようなものではないのです。好況というのは過剰な楽観論が、冷静になれば高すぎる金利に勝利する状況なのです。
戦争中を除けば、近年では完全雇用につながるほど強い好況の経験は一つもないのではないかと思います。アメリカでは、1928-29 年の雇用は通常の基準からすればきわめて満足のいくものでした。でも一部のきわめて専門的な労働者群を除けば、労働不足の証拠はまったく見られませんでした。一部の「ボトルネック」は起こりましたが、経済全体としての産出はもっと拡大余地がありました。また住宅の標準や設備があまりに高くなっていて、完全雇用を想定すれば家の寿命を通じて、全員が利払い分など考慮せずとも置き換え費用だけをカバーする利率で、欲しいだけのものをすべて得ていた、などということもありません。また交通や公共サービスや農業改良が究極まで進み、それ以上の追加が置き換え費用すらまかなえるとはまともに期待できない状態になっていたということもありません。正反対です。1929 年のアメリカが厳密な意味での過剰投資状態だったと想定するのは馬鹿げています。実情は別の性格のものでした。それに先立つ五年間の新規投資は、確かに全体として実にすさまじい規模だったので、それ以上の追加投資から来る見込み収益は、冷静に考えれば、急落していました。ただしい予想をしていれば、資本の限界効率は空前の低い水準に下がったことでしょう。ですから「好況」は長期金利がきわめて低く、特定方向の投資があまりに過剰でまちがったものになるのを避けない限り、安定して続くことは不可能だったはずです。実際には金利はかなり高くて、投機的な興奮状態の影響下にある特定方向——したがって過剰になる危険がことに強かった分野——以外では投資を抑えていたのです。そして投機的な興奮を抑えるほどの高い金利は、同時にあらゆるまともな新規投資をも潰していたでしょう。ですから異常に大量の新規投資が長引くことで起こる状況に対する治療法として金利を引き上げるのは、病気は治すが患者も殺すような類の療法に属しているのです。
実際、イギリスやアメリカ並みに豊かな国で完全雇用に近い状態が長期間続けば、消費性向が現状通りだと新規投資の量があまりに多くなりすぎて、いずれ完全投資の状態に到達することは十分に考えられます。この場合の完全投資とは、それ以上どんな耐久財を増やしても、まともな計算では総収益が置き換え費用を超えることはまったく期待できないような状態です。さらにこうした状態は比較的近い将来にやってくるかもしれません——たとえば25年以内かそれ以下で。厳密な意味での完全投資がいまだかつて、一瞬たりとも起こったことはないと主張しているからといって、私がこれを否定していると思っていただいては困ります。
さらに、もし現代の好況が厳密な意味での一時的な完全投資や過剰投資と関連しているのだと想定するにしても、高金利が適切な対処方法だと考えるのはやはりばかげています。もしそれが適切ならば、病因は過少消費にあるとする論者たちの議論が完全に正しいことになるからです。すると対処方法としては、所得の再分配やその他の方法で、消費性向を高めるような各種の手法だということになります。そうすれば同じ量の雇用でも、それを支えるために必要な当期投資は少なくてすむのですから。 
セクションIV

 

ここで便宜的に、各種の観点から現代社会が過少雇用に陥るという慢性的な傾向の原因は過少消費にあるのだ、と主張する重要な学派について一言述べておきましょう——つまり、社会慣行や富の分配で消費性向が無用に低くなっているのがいけない、という学派です。
既存の条件——あるいは少なくとも最近まで存在していた条件——では、投資の量が計画されずにコントロールもされず、鞭だったり投機的だったりする個人の私的な判断によって決まる、資本の限界効率の狼藉と、因習的な水準からほとんど決して下がらない長期金利に委ねられていました。そういう条件でなら、こうした学派の発想は現実的な政策のガイドとしてまちがいなく正しいものです。というのもそうした条件では、雇用水準をもっと満足のいく水準に引き上げる手段が他にないからです。もし投資を増やすのが物質的に実施不可能なら、明らかにもっと高い雇用を確保するには、消費を増やす以外に手はありません。
実務的には、こうした学派と私の唯一のちがいは、まだ投資を増やすことで得られる社会的な便益がたくさんあるのに、消費の増大にばかりちょっと力点を置きすぎじゃないかと思うところです。でも理論的には、彼らは産出を増やす方法が二つあることを無視している、という批判を受けることになります。資本の増大をもっと緩めて、消費増大に努力を集中すべきだと判断するにしても、代替案をよく考えて、目を開けた状態で判断しなくてはなりません。私自身はというと、資本が希少でなくなるまで資本ストックを増やせば実に多大なメリットが得られることに感嘆しています。でもこれは実務的な判断であり、理論的な審判ではありません。
さらに、私としてはすぐに譲歩して、いちばん賢明なのは両面から同時に攻めることだと言いたい。投資の量を社会的にコンとロー李して、資本の限界効率をだんだん下げるようにする一方で、私は同時に消費性向を増やすあらゆる政策を支持します。というのも投資で何をしようと、現在の消費性向では完全雇用は維持できそうにないからです。ですから、両方の政策が同時に機能する余地はあります——投資を奨励し、同時に消費を奨励するのです。それも単に、既存の消費性向で増えた投資に対応する水準の消費にとどまらず、もっと高い水準の消費をもたらすのです。
もし——例示のためにキリのいい数字を使うなら——今日の産出水準が、継続的な完全雇用の場合に比べて 15 パーセント低いとしましょう。そしてこの産出の 10 パーセントが純投資で、90 パーセントは消費だとします。さらに、現在の消費性向の下で完全雇用を確保するには、純投資が 50 パーセント増えなくてはいけないとしましょう。そうなれば産出は 100 から 115 に上昇し、消費は 90 から 100 に、純投資は 10 から 15 に上がります。もしそうならば、消費性向を変えることで、消費が 90 から 103 になるようにすれば、純投資は 10 から 12 に上がるだけですむのです。 
セクションV

 

別の学派によれば、交易サイクルを解決するには消費や投資を増やすのではなく、雇用を求める労働の供給をへらすこと、つまり雇用や産出を増やさなくても、既存の雇用量を再分配すればいいとか。
これは私には拙速な方針に思えます——消費増加計画よりずっと明白に拙速です。どこかの時点では、各個人はこれ以上所得を増やすべきか余暇を増やすべきか、それぞれの利点をてんびんにかけるでしょう。でも私が思うに、現在の証拠を見れば、大半の個人は余暇を増やすよりは所得増を望むというのが強く裏付けられます。そしてもっと所得が欲しいと思う人々に、もっと余暇を楽しみなさいなどと説得するに足る十分な理由はまったく思いつきません。 
セクションVI

 

驚異的に思えることかもしれませんが、交易サイクルの解決には、好況期の初期段階で金利を引き上げて、景気を冷やすことだと考える学派が存在します。多少なりともこの政策への裏付けを持った唯一の議論は、D・H・ロバートソン氏が提唱しているもので、彼は要するに、完全雇用なんて実現不可能な理想でしかなく、せいぜい期待できるものといえば現在よりもずっと安定して、平均で今よりちょっと高いくらいの雇用を目指すことだ、と想定しているのです。{p327}
投資のコントロールや消費性向を左右する政策が大きく変わることはなく、おおむね現状が続くものと想定すれば、好況が起こりそうになるたびに最もピント外れな楽観主義者ですら怖じ気づくような高金利を課して、それを蕾のうちに刈り取るような銀行政策により、平均ではもっと有益な期待の状態が生じるのだ、という議論もできなくはないとは思います。景気沈滞を特徴づける期待の失望は、あまりに大量の損失と無駄を生み出しかねず、好況を潰しておいたほうが有用な投資は平均で見ると高くなるかも知れません。これが本当に正しいかどうかは、この想定を見ているだけでははっきりとは言えません。これは現実的な判断の問題で、詳細な証拠が必要とされる話です。ただしこの議論は、まるで見当外れだった投資にすら伴う消費増加からくる、社会的なメリットを見すごしている可能性はあります。だからそうした投資があったほうが、何も投資がないよりはマシかもしれません。それでも、1929 年アメリカのような好況に直面したとき、きわめて開明的な金融コントロールですら、手持ちの武器が当時は連邦準備制度しかない状態では、手のうちようがあったかどうか。それが実施できるどんな代替案も、結果には大した差をもたらさなかったかもしれません。でもこれが正しかったとしても、そんな見通しは危険で無用なほどに敗北主義です。それは現在の経済制度においてうまく機能していないものを、あまりにたくさん今後もずっと容認しつづけろと奨励するか、すくなくともそうなると想定してしまっているのです。
しかしながら、雇用水準がたとえば以前の十年の平均水準よりも目に見えて上がりそうになったら、高金利を課してすぐにそれを潰すという厳しい方針は、通常は頭の混乱以上の根拠がまったくないような議論に基づいていることが多いのです。この議論はときには、好況時の投資は貯蓄を上回りがちなので、高金利にすれば一方では投資が抑えられて一方では貯蓄が奨励されるから均衡が回復するといった信念から生じています。これはつまり貯蓄と投資が等しくないことがあるという意味で、したがってこうした用語を何か特殊な形で定義し直さない限り、何の意味も持っていません。あるいは投資増大に伴う貯蓄増大は望ましくなく不公正だとされますが、その理由は、一般的にそれが物価高と結びついているから、というものです。でもそれなら、既存の産出水準や雇用水準が上がるのはすべて否定されることになります。というのも物価高は本質的には投資増のせいではないからです——短期的には産出が増えると供給価格も増えるという事実からくるものです。それは収穫逓減という物理的な事実のせいでもあり、産出が増えると費用単位の名目額が増える傾向にあるせいでもあります。供給価格一定の条件下なら、もちろん物価上昇もありません。それでもやはり貯蓄増には投資増が伴います。貯蓄増をもたらすのは産出増です。そして物価上昇は産出増の副産物にすぎず、貯蓄増がなくて消費性向が増しただけでも同じように起きます。物価が低くても、それが産出が低いだけのせいだったら、そんな物価で買える状態に既得権益を持つ人はいません。
あるいはまたもや、投資増がお金の量の増大で仕組まれた金利低下によるものなら、そこに邪悪なものが忍び込むなどと言われます。でも、既存の金利水準に特段の美徳があるわけではないし、新しいお金はだれも「押しつけられる」わけではありません——それは低金利や取引量増大からくる流動性選好の上昇を満たすべく作りだされただけで、低い金利で貸し出すよりは現金を持ちたいという人がそれを保有するだけです。あるいはまたもや、好況を特徴付けるのは「資本消費」だとか言われます。資本消費とはどうやらマイナスの純投資のことのようです。つまり消費性向が高すぎるということです。交易サイクルという現象が、戦後ヨーロッパの通貨崩壊で生じた通貨からの逃亡のような事態と混同されているのでない限り、証拠はすべて正反対のことを示しています。さらにもし彼らの言う通りだったとしても、過小投資の条件に対する療法としては、金利引き上げよりは金利引き下げのほうが適切でしょう。こうした学派の言うことは、私にはまったく理解できません。いや、ひょっとして総産出は絶対に変わり得ないという暗黙の想定を入れれば理解はできるかも。でも産出一定を想定するような理論は、明らかに交易サイクルの説明にはあまり役にはたちません。 
セクションVII

 

交易サイクルの以前の研究、特にジェヴォンズによるものでは、工業の現象よりも季節による農業の変動で説明をつけようとしていました。上の理論からすると、これは問題へのアプローチとしてきわめて見込みの高いものです。というのも今日ですら、農業産品在庫の年ごとのちがいは、当期投資の速度変化をもたらすアイテムとしては最大のものの一つだからです。ましてジェヴォンズの執筆当時——さらには特に、彼の使った統計がカバーする期間——では、この要素は他のあらゆるものを大きく引き離していたことでしょう。
ジェヴォンズの理論は、交易サイクルが主に収穫の豊作・不作変動によるものだというのは、以下のように言い直すことができます。大豊作となると、後の年に持ち越される量にかなりの追加が行われるのが通例です。この追加分の売上げは農民たちの当期所得に追加されて、彼らはそれを所得として扱います。一方持ち越し分の増加は社会の他の部分に対し、何ら所得支出の減少はもたらさず、貯蓄から資金調達されます。つまり持ち越し分への追加は、当期投資の追加となるわけです。価格が暴落した場合でも、この結論の有効性は変わりません。同じように不作だと、この持ち越し分が引き出されて当期に消費され、消費者の所得支出で対応する部分は、農民たちにとって当期所得は作り出しません。つまり持ち越し分から引き出される分は、それに対応した当期投資の削減をもたらす、ということです。ですから、もし他の方面への投資が一定とすれば、持ち越し分に大量の追加が行われる年と、そこから大量の引き出しが行われる年とでは、総投資の差はきわめて大きくなります。そして農業が支配的な産業である社会では、それは他の投資変動の通常要因に比べると、圧倒的に大きくなります。ですから上昇転換点は豊作の年で、下降転換点は不作の年だというのは自然なことです。豊作と不作の定期的な周期には物理的な原因があるというその先の理論は、もちろんまったく別の話で、ここでは扱いません(訳注:ジェヴォンズはそれが太陽黒点によるという理論を展開していた。)。
もっと最近になってこの理論がさらに進み、事業にとってよいのは豊作ではなく不作だとか言われています。なんでも、不作だと少ない報酬でも人々が喜んで働くようになるからだとか、あるいは結果として生じる購買力の再分配が消費にとってなにやらよいものだからとか。言うまでもなく、豊作・不作現象が交易サイクルの説明になるという記述で私が念頭においているのは、この手の理論ではありません。
でも変動の農業的な原因は、現代世界ではずっと重要性が下がっています。理由は二つあります。第一に農業産出は世界の総産出に占める割合がずっと小さくなっています。そして第二に、ほとんどの農業産品には世界市場が発達して、それが両半球にまたがっているので、豊作年と不作年の影響は均されてしまい、世界全体での収穫変動は、個別の国の収穫変動率に比べてずっと小さなものとなっています。でも昔は、各国はほとんど自国の農業収穫だけに依存していたので、農業産品の持ち越し量変動に多少なりとも比肩する変動要因は、戦争を除けば見つけるのはきわめて困難だったのです。
今日ですら、当期投資の量を決めるにあたって原材料の在庫変動が果たす役割には、農作物も鉱物も含め、十分注目することが重要です。転換点に達した後も不景気からの回復が遅い原因は、主に余剰在庫が減って通常水準に戻るのにデフレ効果があるせいだと私は思います。当初は在庫の蓄積は、好景気が破綻した後で起こり、崩壊の速度を緩和します。でもこの救済に対する支払いは、その後の回復率が引き下げられることで行われなくてはなりません。実際、目に見えるほどの回復が多少なりとも起こるためには、在庫削減がほとんど完全に進まないとダメなことさえあります。というのも他の方向への投資は、それを相殺するような在庫への当期マイナス投資がないときには景気の上昇を生み出すに十分なものであっても、そうしたマイナス投資がまだ進んでいる限りはまったく不十分かもしれないからです。
私が考えるに、この典型的な例はアメリカの「ニューディール」の初期段階で見られました。ルーズベルト大統領の大規模な借り入れ支出が始まったとき、各種の在庫——特に農作物の在庫——はまだかなり高い水準にありました。「ニューディール」は部分的にはこうした在庫を減らそうという厳しい試みを含んでいました——そのために当期産出を減らしたりなど、手は尽くされたのです。在庫の通常水準までの削減は、必要なプロセスでした——このフェーズは耐えるしかありません。でもそれが続く限り、つまりは二年ほどは、それは他の方面に対して行われていた借り入れ支出を大幅に相殺してしまいました。それが完了してやっと、まともな回復に向けて道が調ったのです。
最近のアメリカの経験も、完成品在庫や仕掛品のストック——「在庫」と呼ぶのが通例となりつつあります——が景気変動に果たす役割の好例を与えてくれます。それは交易サイクルにおける大きな動きの中で、細かい上下振動を引き起こすのです。製造業者は、何ヶ月か後に生じると期待される消費規模に備えるべく産業を動かしますが、ちょっとした計算ミスもしがちで、通常それはちょっと先走りすぎる方向のまちがいとなります。自分のまちがいに気がついたら、かれらは当期消費の水準よりも生産をちょっと収縮させて、過剰在庫を吸収させる必要があります。そしてちょっと先走っては少し待つというペースの差は、当期の投資量への影響をそれなりに見せて、現在のアメリカで得られる見事に揃った統計を背景に、その影響ははっきりとうかがえるのです。 

1. 誤解の余地のない文脈ではしばしば「資本の限界効率の一覧表スケジュール」という意味を便宜的に、「資本の限界効率」と書きます。
2. 本書で前に(12章)示したことですが、民間投資家は新規投資に自分が直接責任を持つことはほとんどないが、直接責任のある事業者たちは、自分ではもっとまともな理解をしてはいても、市場の空気に流されるほうが財務的に有利でしかもそれがしばしば避けがたいことなのだと知ることになるのです。
3. 拙著『貨幣論』第四巻の一部の議論はこれに触れたものです。
4. でも、消費性向が時間の中でどう分配されるかについての特別な想定のもとでは、マイナス収益をもたらす投資は有益かもしれません。社会全体として見ると満足を最大化しているかもしれないからです。
5. 逆側から主張されるいくつかの議論については以下の記述 (p. {p327}) を参照。というのも現在の手法を大きく変えることが許されないのであれば、私も好況期に金利を上げるのは、実際の状況においては、望ましくはなくても害が相対的に小さいと同意するからです。 
第23章 重商主義、高利貸し法、印紙式のお金、
 消費不足の理論についてのメモ

 

セクションI 
二百年ほどにわたり、経済理論家たちも、実務家たちも、貿易収支が黒字の国には特別な利点があり、貿易収支が赤字だと深刻な危険があるということについて、何ら疑念を持ちませんでした。特に貿易収支赤字の結果が、貴金属の流出ということになる場合はそうです。でも過去百年、意見はめざましく分裂しました。ほとんどの国では、大半の国士や実務家は古代からのドクトリンを信奉し続けて来ました。その反対論の故郷たるイギリスですら、半分近くはそうです。でもほとんどあらゆる経済理論家たちは、そうした問題についての懸念は、ごく短期を別にすればまったく根拠がないと主張しています。というのも貿易のメカニズムは自己調整的であり、それに介入しようという試みは無駄なばかりか、それを実施しようとする者たちを大きく貧窮させる、なぜならそれは国際分業の利点を阻害するからである、というのがその議論です。伝統にしたがい、便宜的に古い意見を重商主義と名付け、新しい意見を自由貿易と名付けましょう。ただしこれらの用語は、もっと広い意味でもせまい意味でも使われるので、文脈を見て解釈する必要はあります。
一般的にいって現代経済学者たちは、国際分業から得られる利得は重商主義的な慣行がまともに主張できる利点を十分に上回るものだと断言しています。そればかりか、重商主義者の議論は、徹頭徹尾、知的な混乱に基づいているのだ、というのです。
たとえばマーシャル1は、重商主義に対する言及を見るとまったく好意的でないというわけでもないのですが、それでも彼らの中心的な議論はまったく顧みることなく、以下で検討するような、彼らの議論にある一抹の真実については触れもしません2。同様に、自由貿易経済学者たちが、たとえば幼稚産業の奨励や交易条件改善などに関する現代の論争で行う理論的な譲歩は、重商主義の主張の本質的な部分を考慮したものではありません。今世紀最初の25年間における財政論争では、保護貿易が国内雇用を増やすかもしれないという譲歩を経済学者が行った例は、一件たりとも思い出せません。たぶん私自身が書いたものを例として引用するのがいちばん公平でしょう。1923年という時期でも、古典派の忠実な生徒として自分の教わり考えたことについて一切の疑念も持たず何ら留保もつけなかった私は、こう書いています。「もし保護貿易にできないことが一つあるとすれば、それは失業を治すことである(中略)保護貿易支持論はないわけではなく、それが不可能ではないながら考えにくいメリットを確保するという議論はある。これについては簡単には答えられない。だがそれが失業を治癒するという主張は、最も醜悪かつ粗雑な形での保護主義の誤謬である」3。それ以前の重商主義理論となると、理解可能な記述はまったく見つかりませんでした。だから私たちも、それがアホダラ経も同然だったと教わって、それを信じてきたのです。古典派の支配は、かくも絶対的に圧倒的かつ完全なものだったのでした。 
セクションII

 

まず私自身のことばで、今の私には重商主義ドクトリンの科学的な真理だと思えるものを述べさせてください。それからそれを、重商主義者たちの実際の議論と比較しましょう。ただしそこで主張されている利益というのは、自他共に認める自国の利益であって、世界全体の利益とはならないだろうということはご理解ください。
ある国がちょっと急激に富を増やしているとき、この嬉しい状態のさらなる進行を阻害しかねないのは、レッセフェール条件だと、新規投資への誘因が不足することです。消費性向を決める社会政治環境と国民条件を考えると、進歩的な国の厚生は基本的に、これまで説明した理由から、そうした投資誘因が十分にあるかどうかで決まります。それは国内投資かもしれず外国投資かもしれません(後者は貴金属の蓄積も含みます)。そしてこの二つがあわさって総投資となります。総投資が利潤動機だけで決まる状況では、国内投資の機会は長期的には、国内金利で決まります。一方外国投資の量は必然的に貿易収支の有利さの規模で決まります。ですから公共当局による投資というのがまったくあり得ない社会においては、政府が専念するのが適切となる経済的な対象は、国内金利と国際貿易収支なのです。
さて賃金単位がある程度安定していて、突発的に大きな変動は見せないとすれば(ほぼ常に成り立つ条件です)、流動性選好の状態が短期変動の平均として見た場合にある程度安定していれば、そして銀行の慣行も安定していれば、金利は社会の流動性を満たすために存在する貴金属の量を賃金単位で測ったものによって左右されます。同時に、かなりの対外融資や外国にある資産の直接所有がほとんど不可能な時代だと、貴金属の量の増減は、貿易収支が黒字か赤字かでもっぱら決まります。
したがってふたを開けてみると、当局が貿易黒字にこだわったのは、両方の狙いを満たしていたのでした。そしてさらには、それを実現するための手持ちの唯一の手段でもあったのです。当局が国内金利や他の投資誘因を直接コントロールする手段をまったく持たなかった時代にあって、貿易黒字を増やす手段は、外国投資を増やすための直接的な手段として、使える唯一のものでした。そして同時に、貿易黒字による貴金属流入は、国内投資を促進するために国内金利を引き下げるための、唯一の間接手段だったのです。
でも、この政策の成功には二つの制約があり、無視できないものです。国内金利が下がりすぎて投資量が十分に刺激されすぎ、雇用が上昇して賃金単位が上昇する臨界点の一部を突破したら、国内費用水準の増加は貿易収支にとって不利な動きを見せるようになり、つまり貿易黒字を増やそうという努力はやりすぎとなって自爆したことになります。また国内金利が外国の金利に比べてあまりに低くなったら、黒字幅に比べて不釣り合いな外国貸し出しが起こってしまい、それにより貴金属が流出して、それまで得られたメリットが逆転してしまうかもしれません。このどちらかの制約が働いてしまうリスクは、国際的に重要な大国では大きくなります。それは、その時の鉱山から産出される貴金属量が比較的限られている状況では、一つの国にお金が流入するというのは、他国から流出しているということです。したがって自国での費用上昇と金利低下という悪影響は、外国においては(もし重商主義政策をやりすぎたら)費用低下で金利上昇という傾向によって相対的にさらに悪化しかねません。
十五世紀後半から十六世紀にかけてのスペインの経済史は、過剰な貴金属が出回ったことによる賃金単位への影響で、貿易が破壊された国の例となっています。二十世紀戦前のイギリスは、外国融資と外国資産の購入をやりすぎたために、しばしば国内金利低下が阻害されて自国内での完全雇用実現に必要な水準が実現できなかった国の例です。インドはあらゆる時代に流動性選好が強すぎて、それがほとんど強すぎる情熱にすらなり、巨額の慢性的な貴金属流入ですら、実富成長と相容れる水準まで金利を下げるには不足だった国の例を見せてくれます。
それでも、ある程度は安定した賃金単位を持ち、国民性で消費性向と流動性選好が決まり、お金の量と貴金属のストックとを厳格に結びつける金融システムがあるような社会を考えるなら、その繁栄を維持するためには、政府当局が貿易収支の状態を慎重に見守ることが必須となります。というのも貿易黒字は、大きすぎなければ、きわめて景気刺激効果が高いからです。一方、貿易赤字はすぐに慢性的な不景気をもたらしかねません。
だからといって、輸入品を最大限に制限すれば、最も有利な貿易収支が実現されるということにはなりません。初期の重商主義者たちはこの議論を大いに強調し、しばしば貿易規制に反対することとなりました。長期的に見れば、そうした規制は有利な収支に対して悪影響をもたらすものだったからです。実際、十九世紀半ばのイギリスという特殊な状況では、ほぼ完全な自由貿易こそが貿易黒字増大に最も有利な政策だったとすら言えるでしょう。戦後ヨーロッパにおける貿易統制という現代の体験は、自由に対して浅慮で障害を設けて貿易収支を好転させるつもりが、実際には逆の結果を生んだという例をたっぷり提供してくれます。
これを始めとする理由から、ここでの議論から得られる現実的な政策について、拙速な結論を下してはいけません。貿易の制限については、特別な根拠で正当化できない限り、一般性のある強い否定論があります。国際分業のメリットは、古典派がかなり課題に誇張したとはいえ本物ですしきわめて大きいのです。貿易黒字により我が国が得るメリットが、どこか他の国に同じだけのデメリットを生じるという事実(この点について重商主義者たちは完全に認識していました)は、各国は公平で正当と思われる以上の割合の貴金属を抱え込まないよう穏健な政策が必須だというだけでなく、穏健でない政策は貿易黒字を求める無意味な国際競争につながり、それはみんなに被害を与えるということを意味します4。そして最後に、貿易統制政策はその表向きの目的を実現するためですら厄介な道具です。というのも個別の利権や管理上の無能、この業務につきまとう内在的な困難のために、結果として意図とは正反対の結果が生じかねないのです。
したがって私の批判の重点は、私が教わってきて長年にわたり教えてきた、レッセフェールドクトリンの理論的基盤の不適切性に向けられているのです——つまり、金利と投資の量は最適水準に自己調整されるから、貿易収支にばかりこだわるのは時間の無駄だという考え方を批判したいのです。というのも私たち経済学者集団は、何世紀にもわたり実務的な国家運営の主要目的であったものを、子供じみたこだわりだとして扱うという尊大なまちがいの罪を犯してきたのは明らかだからです。
このまちがった理論に影響され、ロンドン市は次第に考え得る限り最も危険な均衡維持手法を考案しました。それはつまり、銀行利率と外国為替レートとの厳格な連動です。というのもこれをやると、完全雇用に対応した国内金利を維持するという目的が完全に排除されてしまうからです。というのも実際には国際収支勘定を無視するのは不可能なので、国内金利を保護するかわりに、それを盲目的な力の作用のために犠牲にしてそれをコントロールする手法が編み出されたのです。最近ではロンドンの実務的な銀行家たちもそれなりに痛い目を見て、イギリスにおいては銀行利率の技法は、それが自国の失業を引き起こしかねないときには、対外収支保護のためには決して使われないと期待できそうです。
個別企業の理論と、一定のリソース雇用からくる生産物の分配理論として見れば、古典派理論が経済思考にもたらした貢献は否定しようがないものです。それらについて明晰に考えようとすれば、この理論を思考ツールの一部として持たないわけにはいきません。先人たちにおいて価値のあったものを古典派が無視していると指摘していても、この点を疑問視していると思われては困ります。それでも国家への貢献として、経済システム全体を考え、システムのリソース全体について最適な雇用を確保することを考えた場合、十六世紀と十七世紀の経済思想の初期のパイオニアたちの手法がいくつか現実的な智恵の断片を実現したのに、リカードの非現実的な抽象化がそれをまず忘れ去り、その後それを踏みにじってしまったのです。高利貸し禁止法により金利を引き下げようとする厳しいこだわりには(これは本章で後に触れます)、賢いものがありました。それは国内のお金のストックを維持し賃金単位の上昇を抑えるものだったのです。そして避けがたい外国への流出や賃金単位上昇5、あるいはその他各種の理由でお金のストックがどうしても不足になったとき、最後の手として平価切り下げをすぐにやってお金のストックを回復させたのも賢明でした。 
セクションIII

 

経済思想の初期のパイオニアたちは、根底にある理論的基盤をあまり認識することなく、実用的な智恵の処世術にぶちあたっていたようです。ですから彼らが何を推奨したかとともに、その時に彼らが挙げた理由も手短に検討しましょう。これは重商主義に関するヘクシャー教授の名著を参照することで簡単にできます。その本では、二世紀にわたる経済思想の特徴が、始めて一般の経済学読者に提供されたのです。以下の引用は主にヘクシャー教授の著書から取ったものです6。 
(1) 重商主義者たちの思想は、金利が適正水準になるような自己調節的な傾向があるなどとは決して想定しませんでした。それどころか、金利が無用に高すぎることこそ富の成長に対する主要な障害だということを彼らは強調していました。そして金利が流動性選好とお金の量に依存することさえ認識していました。流動性選好の低下とお金の量の増大を求めており、数名は自分たちのお金の量増大に対するこだわりが、金利引き下げを狙ったものだと明言しています。ヘクシャー教授は彼らの理論のこうした側面について、次のようにまとめています。
もっと明敏なる重商主義者たちの立場は、この点で他の多くの点と同様に、きわめて明晰ながらいくつか限界はあった。彼らにとって貨幣とは——今日の用語を使うなら——生産要素であり、土地と同じ位置づけで、時に「自然の」富とは別の「人工的な」富とされた。資本の利息は貨幣を借りるための支払いで地代と同じであった。重商主義者たちは金利の高低について客観的な理由を見つけようとした時には——そしてこの期間にはますますそれを試みるようになっていた——その原因を貨幣総量に見いだした。文献は大量にあるが、その中から最も典型的な例だけを選び、何よりもこの概念がいかに長続きし、根深く、実務的な考慮事項とかけ離れていたかを示そう。
イングランドにおいて、1620年代の金融政策をめぐる論争と東インド貿易をめぐる論争の主役たちは、どちらもこの点については完全に合意していた。ジェラルド・マリネスは自分の主張について詳しい理由を述べて「貨幣が豊富だと利息の額または率を減らす」(『商人法と自由貿易の維持』 1622)と述べた。その凶暴でいささか破廉恥な論敵エドワード・ミッセルデン答えて曰く「高利の対症療法は大量の貨幣かもしれぬ」 (『自由貿易または貿易繁栄の手段』、同年)。その半世紀後の主導的な著述家たちのうち、東インド会社の全能指導者チャイルドと、その最も技量あふれる論敵は、法的な金利上限(チャイルドはこれを熱烈に要求した)をどこにすればオランダの「貨幣」をイングランドから奪うことになるかについて論じた (1668) 。彼はこのゾッとする不便に対し、債券を通貨として利用し、その移転を容易にすることが対症療法となると述べた。というのも彼に言わせると、「これはまちがいなく我が国で使われている貨幣の少なくとも半分を供給するからである」。その論敵だったペティは、まったく利害の衝突など意に介さず、他の人々と完全に同意して、貨幣の量が増えれば金利が10パーセントから6パーセントに下がると説明し (『政治算術』 1676)、「硬貨」の多すぎる国の対処方法としては利息つきで融資することを助言したのであった (『貨幣問答集』1682)。
この理由づけは当然ながら、イングランドだけに限られたものではなかった。たとえば数年後 (1701年と1706年)、フランスの商人と政府は高金利の原因が、そのときの硬貨 (disette des espèces) の希少性によるものだとこぼし、貨幣流通を増すことで金利を引き下げようとしたのであった。[ヘクシャー『重商主義』 vol ii., p.200, 201, ごくわずか短縮.]
大ロックはペティとの論争の中で、金利とお金の量との関係を抽象用語で表現した初の人物かもしれません7。彼はペティの提案した金利上限に反対しました。その根拠は、「貨幣の自然な価値は、それが金利を通じて年ごとにある程度の所得を稼ぐことから得られ、それは王国における取引の総量(即ちあらゆる財の一般的な販売)に対する、王国をその時に通過するお金の総量の比率に依存する」ために、金利制限は地代制限と同じくらい非現実的だ、というものでした8。ロックによれば、お金には二つの価値があります。 (1) その利用価値、それは金利で与えられます。「そしてこの点においてそれは土地の性質を持ち、土地においては地代と呼ばれるものが、貨幣においては用途と呼ばれるのである9」 (2) その交換価値「そしてこの部分でそれは商品の性質を持つ」。そしてその交換価値は「そうした物の多寡との比率での貨幣の多寡のみに依存し、金利がなんであるかには依存しないのである」。つまりロックは二重価値理論の生みの親なのです。まず彼は、金利がお金の量(流通速度も考慮しています)と取引価値総額との比較で決まるのだ、と主張します。次に彼は、交換におけるお金の価値は、お金の量は市場の財の総量との比率で決まると主張します。でも——片足を重商主義の世界に突っ込み、片足を古典派の世界に突っ込んで立っていたため10——ロックはこの二つの比率同士の関係について混乱していました。そして流動性選好の変動の可能性をまったく見すごしていたのです。でも彼は、金利引き下げが物価水準には何ら直接の影響を持たず、物価に対する影響は「金利変化が取引において貨幣や商品の出入りをもたらし、したがって当地イングランドにおけるそれらの比率を以前と変える」ことでのみ生じる、と喜んで説明しました。つまり金利引き下げが現金の輸出か算出増大につながる場合にのみ物価に影響するということです。でも彼はきちんとした統合理論には最後まで進まなかったと思います11。
重商主義者の頭が金利と資本の限界効率を易々と区別したことは、ロックが「高利貸しをめぐる友人からの手紙」から引用した一節(刊行1621年)を見ればわかります。「高金利は取引を衰退させる。金利からの利得は取引からの利潤よりも大きく、豊かな商人はそのために商売をあきらめて手持ち資産を利息のために貸し出し、小さい商人は破産するのだ」。フォートレー(『イングランドの利子と改善』1663)は、富を増やす手段として低金利が強調された別の例となります。
流入した貴金属が過剰な流動性選好のために抱え込みにあってしまうようなら、金利への利点は失われるということを、重商主義者たちは見逃しませんでした。一部の例(たとえばマン)では、国家の力を増強しようという狙いのために、国に宝を蓄積すべきだと主張する者が出ました。でも他の人々ははっきりこの方針に反対しました。
たとえばシュレッターは、いつもの重商主義議論を持ち出して、国の財宝庫の中身が大幅に増えたら、国内の流通から貨幣がいかに奪われてしまうかという赤裸々な絵図を描き出した(中略)かれもまたきわめて論理的に、財宝を修道院が貯め込むのと、貴金属の輸出超過との類似性を描き出した。貴金属流出は彼にしてみれば、考え得る最悪の事態なのだった。ダヴェナントは多くの東洋諸国がきわめて貧しいことを説明した——でもかれらは世界の他のどの国よりも多くの金銀を持っていると思われていた—— その原因は、財宝が「王家の財宝庫に死蔵されてしまっているから」なのだという。(中略)もし国による抱え込みが、よくても疑わしい便益しかなく、しばしば大いなる危険をもたらすなら、言うまでもなく個人による抱え込みは、ペストのように忌み嫌われるべきである。これは無数の重商主義者たちが怒りをぶちまけた傾向の一つであり、それに対する異論が一つたりとも見つけられるとは、私は思わないのである。[ヘクシャー『重商主義』 vol ii., p.210, 211.] 
(2) 重商主義者たちは、安さの誤謬と過剰な競争が交易条件を国にとって不利にするかもしれないという危険を認識していました。ですからマリネスは『レックス・メルカトリア』 (1622) でこう書いています。「取引を増やそうというのを口実に、他の者より安値で売ろうと頑張ってコモンウェルスを害するなかれ: というのも商品が安い財であるなら取引は増えぬ。なぜなら安さは要望が小さく金が希少なときに生まれるもので、それが物事を安くする。したがって逆が取引を増やす、金が大量にあり、商品のほうが要望されて大事になるときだ」[ヘクシャー『重商主義』 vol ii., p.228.] 。この方向での重商主義思想を、ヘクシャー教授は以下のようにまとめています。
一世紀半にわたり、この立場は何度も何度もこのような形で述べられている。つまり他国に対して比較的金の少ない国は「安く売って高く買わねばならない……」
十六世紀半ばの『共通の繁栄についての論説』初版においてすら、この態度はすでにはっきり表れていた。ヘイルズは実際、こう語っている。「だが然るに異人たちが連中の品と交換に我々の品を取って満足するなら、我々の品が連中にとって安くなるよう他の物(即ち、他の物のうち我々が連中から買う物)の値段を引き上げるよう促すものは何か? そうなれば我々はやはり敗者となり、連中が我々に対して勝ち手を持ち、連中は高く売りしかも我々の物を安く買い、結果として連中を豊かにして我々を貧窮させる。だが我々がむしろ己の品の値段を上げ、それに対して連中も上げ、今の我々のようにまた上げたらどうであろうか。その中で一部は敗者にもなろうが、でもそうでない場合に比べその数は減る」。この点について、ヘイルズは数十年後の編集者から無条件の絶賛を浴びている (1581)。十七世紀にはこの態度が、根本的に何ら変わらぬ重要性を持って復活した。したがってマリネスは、この不幸な立場は自分が何より恐れたもの、つまり外国によるイギリスの為替レート過小評価の結果だと考えたのだった。(中略)その後同じ概念は絶えず繰り返し現れた。ペティは著書『賢者に一言』 (執筆 1665, 刊行 1691),で、お金の量を増やそうという激しい努力は「近隣諸国(決して少なくはない)のどの国よりも数学的にも幾何学的にも確実に多くの貨幣を持つ」時まで止まない、と主張している。ペティの本の執筆から刊行までの間に、コークはこう宣言した。「もし我々の宝が近隣諸国より多いのであれば、その絶対量が今の五分の一だろうと気にしない」 (1675).[ヘクシャー『重商主義』 vol ii., p.235.] 
(3) 重商主義者たちは「財の恐れ」とお金の希少性が失業の原因だと始めて論じた人々で、これを古典派たちは2世紀後に馬鹿げたこととして糾弾するようになります。
禁輸の理由として失業を挙げる議論の初の適用例の一つは、1426値のフィレンツェで見られる。(中略)これについてのイングランドの法制は少なくとも1455年に遡る。(中略)ほとんど同時代といえるフランスの1466年上例は、リヨンの絹産業の基盤となり、後に大いに有名になったが、それが実は外国商品に対するものでなかったことから、実はそれほど興味深いものではない。だがこれもまた失業男女何万人にも仕事を与える可能性について言及している。この議論がどれほど当時取りざたされていたかわかろうと言うものだ(中略)
この問題についての初の大論争は、ほとんどあらゆる社会経済問題の論争と同じく、十六世紀半ばかその少し前にイングランドで、ヘンリー八世とエドワード六世の御代に起こった。これとの関連で、1530年代末期に書かれたとおぼしき一連の著作に触れぬわけにはいかない。そのうち二つはクレメント・アームストロングによるものとされる(中略)彼はそれを、たとえば以下のようにまとめる。「見慣れぬ商品や財が大量に毎年イングランドにもたらされるために、貨幣が過少となったばかりでなく、各種の手工芸が破壊された。これは多数の一般人が職を得て肉や飲料の支払いに充てる金銭を得るはずの場だが、それがないためにかれらは怠惰に暮らし物乞いをして盗みを働かねばならない」
私の知る限りでこの種の状態についての典型的な重商主義議論としていちばんの好例は、貨幣の希少性を巡るイギリス下院における論争で、1621年に深刻な不景気が特に布の輸出で生じたときに起こったものである。状況は、議会で最も影響力の強い議員の一人、エドウィン・サンディーズ卿によって非常に明確に述べられた。彼は農民と工芸職人がほとんど至るところで苦しみを強いられていると述べた。織機は至るところで地方部での資金不足のために停まったままで、農民たちは契約不履行を強いられ、それも「(神のおかげで)地の果実が不足しているからではなく、貨幣が不足しているからだ」という。この状況は、これほどまでにひどく必要性の感じられている貨幣がどこに流れていったかに関する詳細な調査につながった。貴金属の輸出(輸出超過)につながったり、それに対応する国内の活動のために貨幣の消失に関係あると思われたあらゆる人物に対し無数の攻撃が仕掛けられた。[ヘクシャー『重商主義』 vol ii., p.223.]
重商主義者たちは、自分たちの政策がヘクシャー教授の言うように「一石二鳥」だったことを認識していました。「一方で国は歓迎されざる財の余剰分を始末できたし(これは失業を起こすと考えられていた)、一方では国内の貨幣総ストックは増えた」[ヘクシャー『重商主義』 vol ii., p.178]ため、結果として金利が下がるという利点が得られたのです。
人類史を通じて、貯蓄性向のほうが投資誘因より強いという慢性的な傾向があったことを念頭におかないと、重商主義者が実際の経験を通じて到達した発想を研究するのは不可能です。投資誘因の弱さはいつの時代にも経済問題の核心でした。今日ではこの誘因の弱さに関する説明は主に、既存の蓄積の規模にあります。ですがかつては、ありとあらゆるリスクや危険性が大きな役割を果たしたかも知れません。でも結果は同じです。個人が自分の富を増やすのに消費を控えるというのは、事業者が耐久消費財建設のために労働を雇用するなどして国富を増やす誘因よりも強いのが普通だったのです。 
(4) 重商主義者たちは、自分たちの政策がナショナリズム的な性格を持ち、戦争につながりやすいことについても幻想は抱いていませんでした。彼らは明白に、自国の利益と相対的な強みを狙っていました12。
この国際金融システムの不可避な帰結を彼らが平然と受け入れたことについては、批判もあるでしょう。でも知的には彼らのリアリズムは、国際固定金本位制や国際融資のレッセフェールを支持する現代の人々の混乱した思考に比べてずっとマシです。そうした人々は、これこそいちばんよく平和をもたらす政策だと信じているのですから。
というのも、金銭契約が存在し、習慣はかなりの期間にわたっておおむね固定され、国内流通量と国内金利が主に貿易収支で決まるような経済(たとえば戦前のイギリス)では、自国での失業対策としては貿易黒字を目指し、近隣諸国を出し抜いて金融貴金属を輸入する以外に正統的な手法がなかったのです。歴史的に見て、各国の利益を近隣諸国の利益とこれほど効率よく相反するように仕向ける手法としては、この国際金本位制(あるいはそれ以前は銀本位制)以上のものが考案されたことはありません。なぜならそれは自国の繁栄が、市場の競争的な獲得と、貴金属に対する競争的な欲求に直接依存するよう仕向けたからです。幸福な偶然により、金と銀の新規供給が比較的豊富だったときには、この闘争はある程度は緩和されたかもしれません。でも富の成長と、消費性向の低下にともなって、それはますます血なまぐさくなりがちでした。自分の欠陥論理を抑えるほどの常識も持ち合わせていない正統経済学者たちの果たした役割は、最後の最後まで悲惨なものでした。というのも逃げ道を見つけようとやみくもにもがくうちに、一部の国はそれまで自律的な金利を不可能にしていた責務を放棄したのですが、これに対してこうした経済学者たちは、かつての足かせに戻ることこそが全般的な回復に必須の第一歩だと教えたのです。
実際にはこの正反対が成り立ちます。国際的な懸念などに左右されない自律的な金利水準政策と、国内雇用の最適水準を目指す国内投資プログラムは、自国をも助けるし、同時に近隣国も助けるという意味で、二重に祝福されているのです。そしてあらゆる国がこれらの政策を同時に追求すると、国際的な経済の健全性と強さが回復します。これは、それを国内雇用で測っても、国際貿易の量で測ってもそうなります13。 
セクションIV

 

重商主義者たちは、問題があることには気がついたのですが、それを解決できるところまで分析を進めることはできませんでした。でも古典学派は問題を無視したのです。それはその前提として、そうした問題が存在しないことにする条件を導入したためです。結果として、経済理論の結論と常識の結論との間には裂け目が生じてしまいました。古典派理論の驚異的な成果は、「自然人」の信念を克服して、しかも同時にまちがっている、ということだったのです。ヘクシャー教授が述べるように:
するともし、お金とお金が作られる材質についての根底にある態度が十字軍の時代から18世紀に至る期間で変わらなかったなら、そこから言えるのは我々が深く根ざした概念を相手にしているということである。その同じ概念はいま挙げた五百年の期間よりも以前からあったものかもしれない。ただしそれは「財の恐怖」と同じ度合いではないかもしれないが。(中略)レッセフェールの時代を除けば、こうした発想から逃れられていた時代はない。この点について「自然人」の信念を一時的にせよ乗り越えられたのは、レッセフェールの独特な知的傾向があればこそなのだった[ヘクシャー『重商主義』 vol ii., pp.176-7.]
「財の恐れ」をぬぐい去るには、純理論たるレッセフェールへの無条件の信念が必要だった(中略)それは金銭経済における「自然人」の最も自然な態度だった。自由貿易は自明と思われた要因の存在を否定し、レッセフェールが人々をそのイデオロギーの鎖に捕らえ続けられなくなったら、街場の人々の目にはすぐに否定されるべき運命にあるのだった[同書 vol ii., p.335.]。
私はボナー・ローが経済学者たちを前にして、怒りと困惑の入り混じったものを示していたのを覚えています。経済学者たちが、自明なことを否定していたからです。彼はその理由がわからずにとても困っていました。古典学派の支配と一部の宗教の支配とのアナロジーが思い出されます。というのも人の心に深遠かつ現実離れした概念を導入するのに比べて、自明なことを否定させるというのは、その思想の威力をはるかに示すことになるのですから。 
セクションV

 

これと結びついてはいますが別個の問題があります。これまた何世紀にも、いや何千年にもわたり、啓蒙された意見がずっと確実で自明なドクトリンだとしてきた意見があり、それを古典学派が子供っぽいといって論駁したのですが、これまた復活させて名誉を回復させることが必要です。私が言っているのは、金利は社会的な利益を最高にするような水準に自律的には調整されず、絶えず高すぎるものとなりがちなので、賢い政府は規制と習慣と、さらには道徳律による刑罰まで導入することで金利を抑えるべきだ、というドクトリンのことです。
高利を禁止する規定は、記録がある中で最も古い経済的な慣行です。古代および中世社会においては、過剰な流動性選好による投資誘因の破壊は突出した悪であり、富の成長に対する第一の障害でした。そしてそれは当然のことです。というのも経済生活である種のリスクや危険性は、資本の限界効率を引き下げますが、一部は流動性選好を増やすようにするからです。だれも安全だとは思わない世界ではつまり、金利は社会の使えるあらゆる手立てで抑えない限り、あまりに高くなりすぎて、適切な投資誘因が実現しなくなってしまいます。
私は中世の教会が金利に対して持っていた態度が本質的に馬鹿げていると信じ込まされて育ちました。そして融資金利で得られる収益と、直接投資による収益とを区別しようとする細々した議論は単に、まぬけな理論から実務的な逃げ道を見つけようとするイエズス会的な試みにすぎないと教わりました。でも今そうした議論を読むと、古典派理論がどうしようもなくごっちゃにしてしまったものを区別しようとする、真摯な知的努力に見えます。つまりそれは金利と、資本の限界効率とを区別しようとしていたのです。というのもいまや、スコラ学者たちの探究は資本の限界効率を高くしつつ、規制と慣習と道徳律を使って金利を引き下げておく方式の説明をつけようとしていたのだ、ということが明らかだと思えるからです。
アダム・スミスでさえも、高利貸し禁止法に対する態度はきわめて穏健なものでした。というのも彼は、個人の貯蓄が投資か負債によって吸収され、そしてそれが前者の形で使われるという保証はないということをよく知っていたからです。さらに彼は貯蓄が負債になるのではなく新規投資となる可能性を高めたかったので、低金利を支持していました。そしてこのため、ベンサムに猛烈に攻撃された一節で14、スミスは高利貸し禁止法の穏健な適用を擁護したのでした15。さらにベンサムの批判は主に、アダム・スミスのスコットランド的用心が「投影者」たちには厳しすぎ、金利上限は正当かつ社会的に有益なリスクに対する補償の余地をあまりに少なくしてしまう、というのが根拠でした。というのもベンサムが「投影者」というのは、「富の追求、あるいはその他どんな目的のためであれ、富の支援を受けてなんであれ発明の道に進もうとするあらゆる人物(中略)自分たちのどんな仕事においてであれ、改良と呼べるものすべてを狙うあらゆる人々(中略)それはつまり、人間の力のあらゆる利用で、工夫の才がその支援として富を必要としているものを含める」からです。もちろんベンサムは、適切なリスク負担をじゃまするような法律に抗議するのは当然です。ベンサムはこう続けます。「実直な人物は、こうした状況ではよいプロジェクトを悪いものから選り分けたりはせず、どんなプロジェクトにもかかわろうとしなくなるであろう」16
もしかすると、アダム・スミスが自分の発言で本当に上のようなことを考えていたのか、疑問視することはできるかもしれません。あるいはベンサムの中に、私たちは(彼が書いていたのは1787年3月「白ロシアのクリコフ」からですが)十九世紀のイギリスが十八世紀イギリスに向かって語りかけているのを聞いてしまっているのでしょうか? というのも、投資誘因が不足するという理論的な可能性を見失ってしまうなど、投資誘因が空前に有り余っていた偉大な時代でもなければあり得ないことだからです。 
セクションVI

 

いい機会なので、ここで奇妙で不当にも無視されている予言者シルビオ・ゲゼル (1862-1930) に触れておきましょう。彼の業績は深い洞察の閃光を含んでおり、彼はすんでのところで問題の本質に到達し損ねただけなのです。戦後期に彼の信奉者たちは、私にゲゼルの著作を大量に送りつけてきました。でも議論にいくつか明らかな欠陥があったために、私はまったくその長所を発見し損ねていました。分析が不完全な直感の常として、その重要性は私が独自のやり方で自分なりの結論に到達した後になってから、やっと明らかとなったのです。その間私は、他の多くの経済学者同様に、このきわめて独創的な探究をイカレポンチの作文と大差ないものとして扱ってきました。本書の読者の中でゲゼルの重要性になじみのある人物はほとんどいないと思われるので、本来であれば分不相応なほどのページを割くことにします。
ゲゼルはブエノスアイレスで成功したドイツ商人で17、アルゼンチンで特に猛威をふるった八十年代末の危機をきっかけに、金融問題の勉強を始めました。処女作『社会国家への橋渡しとしての貨幣改革』は1891年にブエノスアイレスで刊行されました。お金についての彼の根本的なアイデアは同年に『ネルヴス・レルム』なる題名で刊行され、その後多くの著書やパンフレットを発表してから、1906年にはそれなりの資産家としてスイスに引退し、人生最後の十年を食い扶持を稼ぐ必要のない人物にできる最も楽しい仕事二つ、著作と実験農業に費やしました。
彼の主著の第一部は1906年にスイスのレ・ゾー=ジュヌヴェで『完全な労働所得の権利実現』として刊行され、第二部は1911年にベルリンで『利子の新理論』として発表されています。この二つを合冊したものが戦争中(1916) にベルリンとスイスで刊行され、『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』という題名の下で六版まで版を重ねました。英語版は『自然的経済秩序』(フィリップ・パイ訳)です。1919年4月にゲゼルは、短命に終わったバイエルンのソヴィエト政府に参加して財務相を務めましたが、その後軍法会議にかけられます。晩年の十年はベルリンとスイスでプロパガンダに費やされました。ゲゼルはそれまでヘンリー・ジョージを中心としていた宗教もどきの熱心な支持者を集めて、世界中に何千もの弟子を持つ教団の、崇拝される預言者となりました。スイス・ドイツ自由地自由貨幣ブントとその他多くの国からの同様な組織の第一回国際大会が、1923年にバーゼルで開かれています。1930年に彼が死んでから、ゲゼルのようなドクトリンに熱狂する特殊な種類の支持者たちの多くは、別の(私から見ればあまり重要でない)預言者たちに流れていきました。イギリスでこの運動の指導者はビュチ博士ですが、彼らの文献はテキサス州サンアントニオから配布されているようで、その本拠は今日ではアメリカにあり、経済学者の中ではただ一人アーヴィング・フィッシャー教授がその重要性を認知しています。
崇拝者たちはゲゼルを何やら預言者的な装いに仕立て上げてしまいましたが、ゲゼルの主著は冷静な科学的言語で書かれています。とはいえ、一部の人が科学者にふさわしいと考える以上の、もっと情熱的で感情的な社会的正義への献身が全体を貫いています。ヘンリー・ジョージから派生した部分は18、運動の強さの源としてはまちがいなく重要ですが、全体としては副次的な興味の対象でしかありません。本全体の狙いは、反マルクス的な社会主義を確立することとでも言いましょうか。レッセフェールに対する反動で、マルクスとちがうのは古典派の仮説を受け入れるのではなく、それに反駁することで、まったくちがった理論的基盤に基づいているところです。また競争を廃止するのではなく、それを自由に行わせるところもちがっています。私は未来がマルクスの精神よりもゲゼルの精神から多くを学ぶだろうと信じています。『自然的経済秩序』の序文を読者が読めば、ゲゼルの道徳的な気高さはわかるでしょう。思うにマルクス主義に対する答は、この序文の方向性に見つかるでしょう。
お金と利子の理論に関するゲゼル独自の貢献は以下の通りです。第一に、彼は利率と資本の限界効率とを明確に区別し、実質資本の成長率に制限を設けるのが利率だと論じます。次に、金利は純粋に金融的な現象であり、お金の利率の重要性をもたらすお金の特異性は、その所有が富の蓄積手段ともなり、保有手数料が無視できるほどで、保有手数料のかかる商品在庫など他の富の形態は、実はお金が設定した基準があるからこそ収益をもたらせるのだと論じます。彼は金利が時代を通じて比較的安定していることを挙げて、それが純粋に物理的な性質だけに依存しているはずがないという証拠とします。というのもお金の基準が一つのものから別のものに変わったら、その物理特性の変化は実際に見られる金利の変化に比べ、計算できないほど大きいはずだからです。つまり(私の用語を使えば)一定の心理的性質に依存する金利は安定しており、大きく変動する部分(これは主に資本の限界効率スケジュールを決めます)は金利を決めるのではなく、概ね一定の利率が実質資本のストック成長をどれだけ容認するかを決めるわけです。
でもゲゼルの理論には大きな欠陥があります。彼は、商品在庫を貸し出すときに収益を計算できるのは、金利があるからなのだということを示します。かれはロビンソン・クルーソーと見知らぬ人物との対話19——実に優れた経済小話で、この種のものとして書かれたどんなものにもひけはとりません—— この論点を説明します。でも、なぜ金利が他の商品利率のようにマイナスになれないのかを説明したのに、かれはなぜ金利が正なのかを説明し損ねるのです。そしてなぜ金利が(古典派の主張するように)生産的な資本の収益が定める基準に左右されないのかも説明しません。これは流動性選好の概念を彼が考えつかなかったからです。かれは利子の理論を半分しか構築しなかったのです。
彼の理論の不完全性は、まちがいなくその業績が学会に無視されてきた理由です。それでも彼は理論を十分先に進めて実務的な提言を行っています。それは必要なものの本質は含んではいますが、提案した通りの形では実現できないかもしれません。彼は実質資本の成長が金利によって抑えられてしまい、このブレーキが外されれば、実質資本の成長は現代社会ではきわめて急速になって、たぶんゼロ金利もすぐとは言わないながらかなり短期間で正当化されるようになるだろう、と論じます。ですから何より必要なのはお金の利率を下げることで、これを実現するには、お金にも他の実物在庫と同じような保有費用を持たせることだ、というのが彼の指摘です。ここから彼は有名な「印紙スタンプ」つきのお金という有名な処方箋を導きます。ゲゼルと言えばもっぱらこれが連想されるほどで、これはアーヴィング・フィッシャー教授からもお墨付きをもらいました。この提案によれば、紙幣(ただしこれは明らかに他の形態のお金、少なくとも銀行券にも適用されるべきでしょう) は保険カードと同じで毎月印紙スタンプを貼らないと価値が保てず、その印紙スタンプは郵便局で買える、というものです。印紙スタンプ代はもちろん、何らかの適切な金額で固定されます。私の理論によれば、その値段は完全雇用と整合する新規投資に対応した資本の限界効率に対し、金利が上回っている分(印紙スタンプ代を除く)とほぼ等しくなるべきです。ゲゼルが実際に提案した料金は週あたり0.1パーセントで、年率5.2パーセントに相当します(訳注:エクセル君によれば5.3パーセント強になったが、まあ誤差範囲か。)。これは現在の条件下では高すぎますが、適正な金額は時々変える必要もあるし、試行錯誤で求めるしかないでしょう。
印紙スタンプつき紙幣のもとになる発想はしっかりしています。それを実際に、小規模に実行する手段も見つかることは確かに考えられます。でもゲゼルが直面しなかった困難はいろいろあります。特に、お金は流動性プレミアムを持つという点でユニークな存在ではなく、他の物品とはその度合いがちがうだけであり、他の物品のどれよりも大きな流動性選好を持っているというだけでその重要性が出てくるのだ、ということに気がついていませんでした。ですから印紙スタンプ制度で通貨から流動性プレミアムが失われたら、その穴を埋めようとして各種の代替品が長い行列を作るでしょう——銀行券、満期負債、外貨、宝石や貴金属全般、などです。前に述べた通り、金利を引き上げるよう機能していたのは、おそらくは土地保有願望だった時代があるでしょう——ただしゲゼルの制度だと、この可能性は土地の国有化によってあり得なくなっていますが。  
セクションVII

 

これまで検討した理論は、有効需要を構成するもののうち、十分な投資の誘因に依存するものに向けられていました。でも失業の悪を他の構成要素のせいにするのも、目新しいことではありません。これはつまり、消費性向の不足ということです。でも今日の経済的悪に関するこの別の説明——これまた古典派経済学者には同じくらい評判が悪いものです——は十六世紀と十七世紀の思想ではずっと小さな役割しか果たさず、それが勢力を拡大したのは比較的最近になってからです。
過少消費への文句は、重商主義的な思考のごくおまけ的な側面でしかありませんでしたが、ヘクシャー教授は「豪奢の効用と倹約の悪についての根深い信念」を示す数多くの例を引用しています。「倹約は実は、失業の原因とされ、その理由は二つあった。第一に、実質所得は交換にまわらなかったお金のぶんだけ減ると信じられていたこと、そして第二に、貯蓄はお金を流通から引き上げてしまうと思われていたこと」[ヘクシャー前掲書 ii巻 p.208]。1598年にラファマス(国をすばらしくする宝や富)はフランス産の絹を使うのに反対する人々を糾弾して、フランスの豪奢品購入はすべて貧困者の生活を支えるのであり、ケチは貧困者を疲弊させて殺してしまうのだと述べました。[同書 ii巻 p.290] 1662年にペティは「娯楽、すばらしいショー、凱旋門等々」を、その費用は醸造者やパン屋、仕立屋、靴職人などのポケットに還流するのだという根拠で正当化しました。フォートレーは「衣服の過剰」を正当化しました。フォン・シュレッター (1686) はぜいたく取り締まり規制を批判し、自分は衣服などにおける誇示がもっと派手だったりいと思う、と述べました。バルボン (1690) はこう書いています。「ぜいたくさは個人にとってはよろしくないものだが、商売にとってはちがう。(中略)ねたみは悪徳であり、その人間にも商売にもよろしくない」[同書 ii巻 p.209] と書きました。1695年にケーリーは、みんながもっとたくさんお金を使えば、みんなもっと大きな所得を得て「もっと豊かに生きられるかもしれない」と書いています。 [同書 ii巻 p.291]
しかしバルボンの意見が主に普及したのは、バーナード・マンデヴィルの『蜂の寓話』によるところが大きいのでした。この本は1723年にミドルセックスの大陪審によって社会に有害として有罪宣告され、道徳科学の歴史の中で、その悪名高さのために傑出しています。これを誉めた人物として記録されているのはたった一人、ジョンソン博士で、この詩に困惑するどころか「現実の生活で目から大いにウロコが落ちた」と宣言しています。本書の邪悪さ加減は、『全英伝記事典』におけるレズリー・スティーブンのまとめを読むといちばんよくわかります。
マンデヴィルはこの本で大いに不興を買った。そこでは道徳のシニカルな体系が、巧妙なパラドックスにより魅力的なものとされている。(中略)そのドクトリンは、繁栄は貯蓄よりはむしろ支出により増すというものだが、これは当時の多くの経済学的誤謬と親和性を持ち、それは未だに絶滅していない20。人間の欲望は本質的に邪悪であり、したがって「私的な悪徳」を作り出すという禁欲主義者の教えを取り入れ、さらに富が「公共の便益だ」という一般の見方を取り入れたことで、彼は文明が悪辣な性向の発達を意味するとあっさり示して見せた(後略)
『蜂の寓話』の文は、寓意的な詩です——「不満タラタラの巣、あるいは正直者になったジャックたち」は、繁栄していた社会で市民たちが突然に豪奢な生活を捨て、国が武器を減らして、貯蓄を励行しようとしたために生じる悲惨な運命を描いたものとなっています。
暮らして消費したものを借金でまかなうなど いまやそれでは名誉が保てず 仲買人のお仕着せ給仕たちは絞首刑 彼らは馬車をあっさり手放し 名馬を揃いで売りに出す 田舎別荘を売って負債を返済。
豪奢な支出は道徳的詐欺として糾弾され 外国にも軍を駐留させず 外国人たちの虚栄を嘲笑し 戦争で得られる空しい栄光をあざ笑う。
戦うのは自国のためだけで 権利や自由が掛かっているときのみ。
傲慢なクロエは 高価な美女の勘定書を節約 丈夫な外衣を一年は着る。
そして結果はいかに?——
さて偉大なる巣を思い、ごろうじろ 正直さと商売がいかに相容れるものか 見栄張りは消え、次第に先細り まったくちがった相貌を見せる というのも消えたのは毎年大金を使った 彼らだけに非ず それを糧に暮らしていた無数の者たちも 同じく日々消え去ることを強制された。
他の職に鞍替えしようとしても無駄 どの稼業もすでに在庫が余った状態 土地と家屋の値段は下がり テーバイのように遊びによって建てられた 見事な壁の奇跡の宮殿は いまや賃貸にだされ(中略)
建設業は完全破壊 装飾業者は雇われず 肖像画家の世評も最早なく 石切、石工も声はかからず。
したがって「教訓」は 美徳では国々を豪奢に 活かすことなどできはせぬ。
黄金時代を復活させる者は、正直さなどドングリほども意に介してはならぬ。
寓話に続くコメントからの抜粋2本を見ると上の詩には理論的な根拠がなかったわけではないことがわかります。
この堅実なる経済、一部の人が貯蓄と呼ぶものは、民間の世帯においては資産を増やす最も確実な手段であり、したがって一部の者は国が痩せ衰えるのも豊かになるのも、同じ手法を追求すれば(彼らはそれが可能だと思っている)国全体にも同じ効果をもたらし、したがって例えばイギリスは、近隣国の一部のように倹約を旨とすればずっと豊かになると考えるのである。これは、私が思うに、誤りである。21
それどころかマンデヴィルは次のように結論します。
国を幸福に保ち、繁栄と呼ぶ状態にするには、万人に雇用される機会を与えることである。すると向かうべきなのは、政府の第一の任を、できる限り多種多様な製造業、工芸、手工芸など人間の思いつく限りのものを奨励することとすべきである。そして第二の任は、農業と漁業をあらゆる方面で奨励し、人類だけでなく地球全体が頑張るよう強制することである。国の偉大さと幸福は、豪奢を規制し倹約を進めるようなつまらぬ規制からくるのではなく、この方針から期待されるものである。というのも黄金や銀の価値が上がろうと下がろうと、あらゆる社会の喜びは大地の果実と人々の労働の成果に常にかかっているのであるから。この両者が結びつけば、それはブラジルの黄金やポトシの銀にもまさる、もっと確実でもっと尽きせぬ、もっと現実の本物の宝なのである。
かくも邪悪な思想が二世紀にもわたり、道徳家たちや経済学者たちの非難を集めたのも不思議ではありません。その批判者たちは、個人と国家ともに最大限の倹約と経済性を発揮する以外にはまともな療法はないという謹厳なるドクトリンを抱え、自分がきわめて高徳であるように感じたことでしょう。ペティの「娯楽、すばらしいショー、凱旋門等々」はグラッドストン的財務の小銭勘定に道を譲り、病院も公開空地も見事な建物も、さらには古代モニュメント保存すら「お金がなくてできない」国家システムとなりました。ましてや見事な音楽や舞台などあり得ません。これはすべて民間の慈善や、先の考えのない個人の寛大さに委ねられることとなったのです。
続く一世紀にわたり、このドクトリンはまともな論者の間では登場しなかったのですが、後期マルサスになると、有効需要の不足という概念が失業の説明としてがっちりとした場所をしめるようになります。これについてはかなりたくさん、マルサスに関する拙稿22で論じましたので、ここではその拙稿でも引用した特徴的な一節を一、二ヶ所繰り返すだけで十分でしょう。
我々は世界のほとんどあらゆる部分で、莫大な生産力が活用されていないのを目にしているね。そして私はこの現象について、実際の産物の適切な分配が行われていないために、継続的な生産のための適切な動機が与えられていないのだ、ということで説明するんだ。(中略)私ははっきりと、通常の生産動機を大きく阻害することできわめて急速に蓄積しようとする試み、これは必然的に非生産的な消費の大幅な減少を伴うが、これは富の進捗を未然に抑制してしまうと考える。(中略)だが急速に蓄積しようという試みがそうした労働と利益との分断をもたらして、将来の蓄積の動機も力も破壊してしまい、結果として増大する人口を維持して雇用し続ける力を失ってしまうのであれば、そうした蓄積の試み、あるいは貯蓄しすぎようという試みは、その国にとって実は有害だと思わないかね? [マルサスからリカードへの書簡、1821年7月7日付け]
問題は、生産が増大してもそれに伴う地主や資本家たちによる非生産的な消費がないことで生じる資本の沈滞、そしてそれに続く労働需要の沈滞が、国に害を及ぼさずに起こり得るのか、地主や資本家たちによる非生産的な消費が、社会の自然余剰の適切な比率で存在しつづけ、それにより生産の動機がじゃまされずに続き、不自然な労働需要を防ぎ、その後の労働需要の必然的かつ唐突な低下を起こさない場合と比べて、幸福や富の度合いを減らすことに成りはしないか、ということなんだよ。でももしそうであるならば、倹約は生産者にとっては悪いかも知れないが、それが国にとっては悪くないとなぜ言えるのかね? あるいは地主や資本家たちの非生産的な消費が、とくには生産の動機が失われたときの状態を適切に治してくれる治療法にならないなどと、本気で言えるのかね?[マルサスからリカードへの書簡、1821年7月16日付け]
アダム・スミスは資本が倹約によって増し、あらゆる倹約的な人物は公共に利益を及ぼし、富の増加は消費を上回る産物の量によるのだと述べた。こうした立場がかなりの部分で正しいというのはまったく疑問の余地がない。(中略)だがそれがどこまでも正しいわけではないというのはかなりはっきりしている。そして貯蓄の原理は極端までいけば、生産動機を破壊してしまうことも明らかだ。あらゆる人がいちばん慎ましい食事や最も貧しい衣服や極度に貧相な家で満足したら、それ以外の食料、衣服、家屋は確実に存在しなくなる。(中略)二つの極端は明らかだ。そしてそこから、中間の点があるはずだということもわかる。これは生産力と消費意欲のどちらも考慮して、富を増大させようという誘因が最大になる地点である。ただしその点を政治経済学のリソースで決めることはできないかもしれないが。[マルサス『政治経済学原理』序文、pp.8.9]
私がこれまで出会った有能で賢い人々の主張するあらゆる意見のうち、セイ氏による「消費または破壊された製品は閉ざされた出口」 (I. i. ch. 15) というのは、公正な理論と最も直接的に逆行するものであり、実体験によりもっとも一貫して反証されるものである。だがそれは、あらゆる商品はお互いとの関係においてのみ考えるべきだ——消費者との関係ではなく——という新しいドクトリンから直接導かれるものでもある。おたずねするが、今後半年にわたり、パンと水以外のあらゆる消費が禁止されたら、商品の需要はどうなってしまうだろうか? なんと商品が蓄積されることか! なんと大量の出口! そんな事態になったら何ともオイシイ市場ができるではないか![マルサス『政治経済学原理』p.363 脚注.]
でもリカードは、マルサスの主張にまったく耳を貸しませんでした。この論争の最後の残響は、ジョン・スチュアート・ミルの賃金資金理論に関する議論に見られます23。ミル自身はこれを、むろん彼が学んできた各種の議論の中でも、後期マルサスの否定において重要な役割を果たしたものだと考えていました。ミルの後継者たちは賃金資金理論を否定しましたが、ミルによるマルサスへの反駁がこの賃金資金理論に基づいていたということは見落としました。彼らの手法は、この問題を経済学自体から捨て去ることでしたが、そのためにそれを解決したわけではなく、単に話題にしなかったのです。これは論争から丸ごと消え去りました。最近になってケアンクロス氏が、その名残を無名のビクトリア時代人の中に見いだそうとしましたが24、予想よりはるかに少ないものしか見つかりませんでした25。過少消費の理論は冬眠を続けていましたが、そこで1889年になってJ・A・ホブソンとA・F・ママリーによる『産業の生理学』が登場しました。これは五十年近くにわたってホブソン氏がひるむことのない、しかしほとんど報われない情熱と勇気を持って正統経済学に対してつきつけてきた、多くの著書の中で最初の最も重要な本です。これは現在は完膚無きまでに忘れ去られてはいますが、この本の刊行はある意味で、経済思想における一大画期だったのです26。  
『産業の生理学』はA・F・ママリーとの共著で書かれました。同書の成立について、ホブソン氏は次のように語っています27:
吾輩の経済学的異端論が形成され始めたのは、八十年代の半ばになってからのことでありました。地価に反対するヘンリー・ジョージ・キャンペーンや、労働者階級の目に見える抑圧に反対する各種社会主義団体の初期のアジテーションが、ロンドンの貧困をめぐるブースによる二冊の調査報告とあわさりまして、吾輩の感情に深い印象は残したものの、政治経済学に対する信頼を破壊するところまでは行かなかったのであります。それが破壊されたのは、偶然の接触とでも申し上げるべきものからでしょうか。エクセターでの学校で教えております時に、ママリーなる実業家と個人的に知り合う機会を得ました。この人物は当時もその後も大登山家として知られておりましして、マッターホルン登山の別ルートを発見し、1895年には有名なヒマラヤの山ナンガ・バルバットに挑んで他界されました。吾輩のこの人物とのつきあいは、申し上げるまでもないでしょうが、こうした身体的な活動方面でのことではございませんでした。でもこの人物は精神の登山家でもありまして、自分自身の発見への道を見いだす天性の目を持っており、知的権威を崇高なまでに無視しておいででしたな。この御仁が吾輩を過剰貯蓄に関する論争に巻き込んだのです。これは事業が悪い時期に、資本と労働の過少雇用をもたらすものだと彼は考えておりました。長いこと吾輩は、正統経済学の武器を使いまして、この議論に対抗せんといたしました。しかしながら彼は辛抱強く吾輩を説得いたしまして、吾輩はかの御仁と共に『産業の生理学』なる本で過剰貯蓄議論を詳説することとなったのです。この本は1889年に刊行されました。これは吾輩の異端経歴の公然たる第一歩でして、それがもたらすすさまじい帰結など、まったく予想だにしておりませんでした。というのもちょうどその頃、吾輩は教職を退きまして、大学公開講座で経済学と文学の講師という新しい職に就いたばかりだったのです。最初の衝撃は、ロンドン公開講座委員会が、吾輩に政治経済学講義を行ってはいかんと禁止してきたときでした。なんでもこれは、拙著を読んでそれがその正気度から見て、地球は平らだと示そうとしたに等しいものだと考えた、さる経済学教授の介入によるものだったとか。あらゆる貯蓄はすべて資本構造物の増加と賃金支払いに向けられるのだから、有用な貯蓄額に上限などあるはずがないではないか、というわけでございますな。まともな経済学者であれば、あらゆる産業進歩の源を抑えようなどとするそのような議論は、すべて恐怖を持って見ずにはおられない、ということでございます28。別の興味深い個人的な体験が、我が罪悪の正当性を得心させてくれることとなりました。ロンドンで経済学について講義は禁じられたものの、オックスフォード大学公開講座運動の大いなるご厚意で、ロンドン以外の聴衆に対しての講義を許されたのです。これは労働者階級の生活に関する現実的な問題だけに限ることとされておりました。さてたまたまこの当時、慈善組織協会が経済学テーマの講義キャンペーンを企画しておりまして、吾輩に講義を用意するよう招聘してくだしました。吾輩はこの新しい講義作業に喜んで応じると述べましたが、突然何の説明もなく、この招聘が却下されたのです。その時ですら吾輩は、無限の倹約の持つ美徳を疑問視したというだけで、自分が許され難い罪を犯したのだということにはほとんど気がついておりませんでした。
この初期の著作でホブソン氏は、共著者と共に、古典派経済学(これは彼が学んできたものです)に対する直接の言及を後期著作よりもたくさん行っています。そしてこの理由から、さらにはそれがその理論の初の表現だったことから、そこから引用して著者の批判や直感がいかに重要できちんとした基盤を持つものか示そうと思います。序文でかれらは、自分たちが攻撃する結論の性質について以下のように指摘します。
個人と同様に社会にとっても、貯蓄は豊かにして消費は貧しくするものであり、実質的にお金への愛があらゆる経済的な善の根源にあるという主張だと一般に定義づけられるかもしれない。それは倹約する個人を豊かにするだけでなく、賃金を引き上げ、失業者に職を与え、あらゆる方面に恵みをまき散らすというわけである。日々の新聞から最新の経済論考まで、説教壇から国会まで、この結論は幾度となく繰り返されては述べなおされているため、それを疑問視することこそが積極的に不敬であるかのように思えるほどである。しかしながら大半の経済思想家たちの支持する学会は、リカードの研究が刊行されるまではこのドクトリンを一貫して否定し、それが最終的に受け入れられたのは、彼らがいまや爆発した賃金資金ドクトリンに対抗できなかったためでしかない。その結論が、論理的な根拠となっていた議論が否定された後も生き残っているというのは、それを主張した偉人の発揮する権威という仮説以外では説明がつかない。経済学の批判者たちは、この理論を詳細に批判しようとしたが、その主要な結論に触れるのに怯えて引き下がった。我々の狙いは、こうした結論が成り立たず、貯蓄を無用にやりすぎることが可能であり、そうした無用な倹約は社会を貧しくして、労働者を失業させ、賃金を引き下げ、商業界には事業不景気として知られるあの陰気な衰弱ともたらす、ということを示すことである(中略)
生産の目的は利用者に「効用と便宜」をもたらすことであり、そのプロセスは始めて原材料を扱うところから、それが最後に効用や便宜として消費されるまで、連続したものである。資本の唯一の利用は、こうした便宜や効用の生産を支援することであり、その利用の総和は毎日毎週消費される効用と便宜の総計で必然的に変わってくる。さて貯蓄とは、既存の資本総量を増やすが、同時に消費される効用や便宜の量を減らす。したがってこの習慣を無用に実施すれば、使うのに必要な以上の資本蓄積をもたらし、この過剰分は一般過剰生産の形で存在する。[ホブソン&ママリー『産業の生理学』pp.iii-v]
いまの最後の文で、ホブソンのまちがいの根っこがあらわれています。つまり彼は、過剰な貯蓄が必要な以上の実際の資本蓄積を引き起こす、と想定しているのです。これは実は二次的な悪でしかなく、予測の誤りを通じて起こるだけのものです。でも主要な悪は、完全雇用下においての必要とされる資本以上の貯蓄性向なのです。これにより、予測の誤りがない限り完全雇用が実現されなくなります。でも一、二ページ先で、ホブソンは私から見ると、話の半分を水も漏らさぬ精度で記述します。ただし相変わらず金利変化の役割や事業の安心状態変化の役割を見すごしてはいますが。これらを彼は、所与のものとしているようです。
こうして我々は、アダム・スミス以来のあらゆる経済学的教えが寄って立つ基盤、つまり毎年生産される量は自然要因、資本、労働で決まってくるという主張がまちがっており、逆に生産される量はこうした総量が決める上限を超えることはできないものの、無用な貯蓄とそれに伴う過剰供給がもたらす生産への制約によりこの上限値のはるか下に抑えられるかもしれず、実際にそうなっているということを示した。つまり現代産業社会においては、消費が生産を制約するのであり、生産が消費を制約するのではない。[同書 p.vi]
最後に彼は、自分の理論が正統派の自由貿易議論の有効性にどう関係するかに気がつきます。
我々はまた、正統派経済学者たちがアメリカのいとこたちや他の保護主義集団に対して実に気軽に投げつける、商業的低能なる糾弾が、もはやこれまで提示されてきた自由貿易議論によっては最早まったく維持できないことを指摘しよう。というのもそれらはすべて、過剰供給が不可能だという想定に基づいているからである。[同書p.ix]
続く議論が不完全なのは認めます。でもそれは、資本というのが生み出されるのが貯蓄性向によるのではなく、実際および見込みの消費からくる需要に応じて作られるものなのだ、ということを明示的に述べた初の記述なのです。以下の引用の詰め合わせは、この線に沿った思考を示しています:
社会の資本を利得ある形で増やすには、それに伴う消費財の消費増がなくてはならないというのは明らかであろう。(中略)貯蓄と資本の増加はすべて、有効になるためには、即座に将来の消費増が対応しなければならない。[同書p.27](中略)そして将来の消費というのは、十年後、二十年後、五十年後の将来ではなく、現在からちょっと先の将来である。(中略)もし倹約や用心で人々が現在もっと貯蓄するようになれば、かれらは将来にもっと消費することに同意しなければならない [同書p.50, 51](中略)生産プロセスにおいては、現在の消費速度で消費財を提供するのに必要な以上の資本は経済性をもって存在しえない。[同書p.69] (中略)私の倹約は社会全体の経済的倹約にはまったく影響せず、社会全体の倹約のうちでこの特定部分を実施したのが私か他人かを決めるだけなのは明らかである。我々は社会のある部分における倹約が他の部分に所得以上の暮らしをするよう強制する道筋を示そう。[同書p.113] (中略)ほとんどの現代経済学者は、消費がどんな可能性の下でも不十分であることはあり得ないと否定する。社会をこうした極端に走らせるような経済的力の作用を見つけられるだろうか? そしてそうした力があるなら、それに対して商業機構が有効な抑止を提供しないであろうか? まずはきわめて組織化された産業社会すべてにおいて、倹約の過剰をもたらしかねない勢力が自然に働いていることが示される。第二に、商業機構によって提供されると言われる抑止は、まったく機能しないか、あるいは深刻な商業の悪を防ぐには不適切だと示される。[同書p.100] (中略)マルサスとチャルマースの論点に対してリカードが出した短い答えで、後の経済学者は十分だとして受け入れたようである。「生産は常に他の生産やサービスによって購入される。貨幣とは単にその交換を実現するための媒体にすぎぬ。したがって生産の増加は常に、それに対応して購入し消費する能力の増加を伴うのであり、過剰生産の可能性はないのである」 (リカード『政治経済学原理』 p. 362).[同書p.101]
ホブソンとママリーは、金利というのはお金の利用に対する支払い以外の何物でもないというのを理解していました29。また論敵たちが「貯蓄を抑えるものとして利率(または利潤)が下がり、生産と消費の間の適正な関係を回復する」30と主張するのも十分承知していました。これに対する返答として彼らは「もし利潤の低下で人々が貯蓄を減らすようになるなら、それは二つのどちらかの形で機能するはずである。一つは消費を増やすよう促すか、あるいは生産を減らすよう促すかである」31。前者について彼らは、利潤が下がれば社会の総所得が低下することを述べ、「平均所得が下がっているときに、倹約のプレミアムも同じく下がっているからといって人々が消費をふやすよう促されるとは想定できない」と述べます、一方二番目の選択では「供給過剰による利潤低下で生産が抑えられるというのを否定するのは、我々の意図からはきわめて遠いところにあり、この抑制の働きを認めることこそが我々の議論の核心なのである」32とかれらは述べています。それでも、彼らの理論は完全性を欠いていました。それは本質的には、金利についての独立の理論を持っていなかったせいです。結果としてホブソン氏は(特に後の著書では)過少消費が過大投資につながるという点をあまりに強調しすぎ、相対的に弱い消費性向はそれを補うだけの新規投資が必要なのにそれが得られず、これが失業に貢献するのだという説明にはたどりつけませんでした。そうした投資は、一時的に誤った楽観論のために実現するかもしれませんが、一般には見込み利潤が金利の定める基準以下に下がるために生じないことなのです。
戦後になって、過少消費の異端理論がたくさん登場し、中でもダグラス少佐のものがいちばん有名です。ダグラス少佐の主張の強みは、もちろん正統経済学がその破壊的な批判のほとんどについて、まともな返答ができないというところからきています。一方でその主張の細部、特にその通称 A+B 定理なるものは、かなりが単なるまやかしです。もしダグラス少佐が B 項目を事業者たちによる資金調達だけに限り、更新や置き換えに対応した当期費用などを含めなければ、もっと真実に近づけたかもしれません。でもその場合ですらそうした支出が、他の方面への新規投資や、消費支出増加で相殺される可能性は考慮する必要があります。ダグラス少佐は、その正統経済学の論敵たちに対してであれば、少なくとも自分は経済システムの明らかな問題を完全に見すごすようなことはしなかった、と主張する権利があります。でも彼は、他の勇敢なる異端論者たちと並ぶ地位を確立したとはとても言えません——異端軍の中では、少佐というよりは一兵卒くらいでしょうか。真の異端論者たるマンデヴィル、マルサス、ゲゼル、ホブソンらは、自分の直感にしたがって、ぼんやりと不完全な形であっても、真実を見ることを選んだのです。明晰さ、一貫性と明快な論理を使って到達したものとはいえ、事実からみて不適切な仮説に頼ったことからくる、まちがいを維持し続けるのを潔しとしなかったのでした。  

1. 彼の『産業と貿易』補遺 D; 『お金、信用、商業』 p. 130; 『経済学原理』 補遺 Iを参照。
2. 重商主義に対するマーシャルの見方は、『経済学原理』初版p.51の脚注にうまくまとまっています。「英国や独逸においては貨幣と国富との関係についての時代遅れな意見があれこれ研究されてきた。それらはまとめて、貨幣の機能に関する明晰な思考を欠いた混乱した考えとして理解すべきであり、純国富がその国における貴金属備蓄のみに左右されるといった意図的な想定の結果としてまちがっているのだと理解すべきではない」。
3. 『国とアテナイオン』1923年11月24日
4. 不況に対して賃金低下で応じるという弾性的な賃金単位療法は、同じ理由から、近隣諸国を犠牲にして自国に利益をもたらす手段となりかねません。
5. 少なくともソロンの時代以来、そしておそらく、統計があればそれ以前の何世紀にもわたり、おそらく人間の本性に関する知識から当然期待されることですが、賃金単位は長期的に見てじわじわ上がる安定した傾向があります。それが下がるのは経済社会の衰退と解体のときだけです。したがって進歩と人口増大とまったく別の理由でも、だんだんお金のストックを増やすのは不可欠だったのです。
6. そのほうが私の木手金もかなうのです。というのもヘクシャー教授ご自身も全体として古典派理論信奉者であり、私よりも重商主義理論家たちにはるかに手厳しいからです。ですから彼による引用の選択が、重商主義の叡智を示そうとしてゆがめられている可能性はまったくありません。
7. 『金利を下げ貨幣の価値を上げる帰結に関するいくつかの考察』1692年刊行だが執筆はその数年前。 ↩
8. 彼はそこに「単に貨幣の量だけでなく、その流通速度にもよる」と付け加えています。
9. もちろん「用途」というのは古い英語で「利息」の意味です。
10. 後にヒュームは、古典派の世界に片足半を突っ込むことになりました。というのもヒュームは経済学者たちの中で、均衡に向かって永遠にシフトし以降し続ける状態にくらべて均衡位置が重要なのだと強調する立場を創始したからです。とはいえ彼はまだかなりの重商主義者だったので、人々が生きているのはその移行の中なのだという事実を見すごしはしませんでした。「黄金と金の量の増大が産業にとって有益なのは、金銭の獲得と物価上昇の間の、合間または中間状態のみに限られるのである。(中略)ある国の国内の幸福から見れば、貨幣の量の多寡は何ら帰結をもたらさぬのである。統治者のよき政策は、可能ならばその貨幣の量を増やし続けるようにすることだけである。何となれば、その手法により統治者は自国の産業精神を活かし、あらゆる真の力と富の源泉である労働の状態を増すからである。貨幣の減少する国は、実はその時期には、同じだけの貨幣を持つがそれが増加傾向にある国に比べると、実はもっと弱くて悲惨なのである」 (『金銭についての論説』 1752).
11. 利子というのがお金につく利子だという重商主義者の見方(この見方は今の私には文句なしに正しく思えます)がいかに完全に忘れ去られたかは、よき古典派経済学者たるヘクシャー教授がロックの理論をまとめる際にこうコメントしていることからもわかります——「ロックの議論は反駁不能に思える(中略)利子というのが本当に貨幣を貸すことの価格と同義であるならばの話だが。だがそうではない以上、これはまったく無意味である」 (ヘクシャー『重商主義』 vol. ii. p. 204).
12. 「国内で重商主義者たちは、常にきわめてダイナミックな目的を追求していた。だが重要なことは、これが世界中の経済リソースが静的だという発想と絡み合っていたということである。というのもこれこそが、果てしない商業戦争をいつまでも続けさせた根本的な不調和を創造したものだったからである。(中略)これが重商主義の悲劇であった。中世はそのすべてにおける静的な理想のため、そしてレッセフェールはすべてにおける動的な理想のおかげで、この結果を免れたのだった」 (ヘクシャー『重商主義』 vol ii., pp. 25, 26)
13. 国際労働機関 (ILO) がこの真理を、当初はアルバート・トーマスの下で、そしてその後H・B・バトラー氏の下で一貫して認識してきたという事実は、無数の戦後国際機関の中でも突出して目立っています。
14. ベンサム「高利貸し擁護論」補遺の「アダム・スミスへの手紙」
15. 『国富論』第二巻第四章。
16. この文脈でベンサムの引用を始めたからには、読者のみなさんに彼の最もすばらしい一節を思い出していただかずばなりますまい。「技芸というキャリア、投影者たちの足取りを受け付ける偉大なる道は、広大でおそらくは果てしない平原として見ることができる。そこにはクルチウスが飲み込まれたような沼地も点在しているであろう。そのそれぞれは、閉じるにあたり人間の犠牲者が落ち込まなくてはならないのだが、一度それが閉じれば、それは閉じて二度と開かず、後に続く者たちにとってその道はそのぶん安全となるのである」
17. ドイツのルクセンブルグ国境近くで、ドイツ人の父とフランス人の母の間に生まれました。
18. ゲゼルは土地が国有化されたときに補償金を支払うべきかどうかでジョージと意見が分かれていました。
19. 『自然的経済秩序』pp.297 以降。
20. スティーブンは著書『十八世紀イギリス思想史』 (p. 297) で「マンデヴィルが称揚した誤謬」について書き、「これを完全に論破するには、商品の需要は労働の需要とはちがうのだというドクトリン——これはあまりにも理解されておらず、これをきちんと理解しているかどうかこそ経済学者の資質の最高の試験かもしれない——にあるのである」と述べています。
21. 古典派の先駆者たるアダム・スミスの以下の記述と比べましょう。「個々の世帯の行いにおいて堅実と思われるものは、偉大な王国の行いにおいても決して愚行たり得ない」——おそらくこれは、上のマンデヴィルの一節についての言及でしょう。
22. 拙著『人物評伝』pp.139-47.
23. J. S. ミル『政治経済学』第一巻 v章。ママリー&ホブソン『産業の生理学』pp. 38 et seq. にはミルの理論のこの側面について、きわめて重要で鋭い議論があり、特にミルの「商品の需要は労働の需要ではない」というドクトリンが論じられています(ちなみにこれは、マーシャルが賃金資金理論に関するきわめて不満足な議論の中で、詭弁でないことにしようとしたものです)。
24. 「ビクトリア人と投資」『経済史』1936.
25. 彼の参考文献の中でいちばんおもしろいのは、フラートンの論説『通貨の規制について』(1844) です。
26. J. M. ロバートソン『貯蓄の誤謬』は」1892年に刊行され、ママリーとホブソンの異端説を支持しました。でもこれは大して重要な本ではなく、『産業の生理学』のような鋭い直感をまったく欠いています。
27. 1935年7月14日に、コンウェイホールでロンドの倫理学会に対して行われた演説「経済学異端者の告白」にて。ホブソン氏の許可を得てここに掲載します。
28. ホブソンは不遜にも『産業の生理学』p. 26でこう書いています。「倹約というのは国富の源であり、国が倹約的であればあるほど、その富は増す。これがほとんどあらゆる経済学者の教えである。その多くは倹約の無限の価値を説くにあたり、なにやら倫理的尊厳じみた口調にすらなるのである。経済学の陰気な歌の中で、この一言だけが、人々の耳に届いたようである」
29. 同書p.79.
30. 同書p.117.
31. 同書p.130.
32. 同書p.131.  
第24章 結語:『一般理論』から導かれそうな社会哲学について

 

セクションI 
私たちが暮らす経済社会の突出した失敗とは、完全雇用を提供できないことであり、そして富と所得の分配が恣意的で不平等であることです。今までの理論が前者に対してどういう関係を持つかは明らかです。でも二番目に関係する重要な側面も二つあります。
十九世紀末以来、富や所得のきわめて大きな格差を取り除くにあたり、大きな前進が見られました。これは直接課税という道具によって実現されたものです——所得税、付加税、相続税——特にイギリスではこれが顕著です。多くの人々は、このプロセスをもっと進めたいと思うでしょうが、二つの懸念事項があるのでそれがためらわれます。一つは、巧妙な税金逃れがあまりに割りのいい商売になってしまうこととリスク負担に対する動機を無用に削減してしまうことです。でももう一つ大きな障害は、資本の成長が個人の貯蓄動機の強さに左右されるという信念であり、そしてその資本成長の相当部分は、金持ちによる余剰分の貯蓄からきているのだ、という信念なのだと私は思います。私たちの議論は、この前者の懸念には影響しません。でも、後者については、人々の態度をかなり変えるかもしれません。というのもこれまで見てきたように、完全雇用が実現されるまでは、資本の成長は低い消費性向に依存するどころか、むしろそれに阻害されるからです。そして低い消費性向が資本成長に有利になるのは、完全雇用が実現した後でしかありません。さらに経験から見ると、既存の条件下では各種機関による貯蓄や減債基金による貯蓄でも十分すぎるくらいで、消費性向を挙げそうな形で所得を再分配する手段のほうが、資本の成長には積極的に有利なのです。
この問題について今の世間の考え方がいかに混乱しているかは、相続税が国の資本的な富の削減の原因だという、きわめてありがちな信念にもよく表れています。仮に国がこうした相続税の税収を通常の歳出にあてて、その分だけ所得税や消費税が減らされたり廃止されたりするとしましょう。するともちろん、相続税を高くすれば社会の消費性向を上げる効果があります。でも習慣的な消費性向が上がれば一般に(つまり完全雇用以外では)投資誘因も増すように作用するので、通常考えられている議論は真実の正反対なのです。
ですから私たちの議論から得られる結論は、現代の条件にあっては富の成長は、一般に思われているような金持ちの倹約から生じるものではまったくありません。そんなことをすればかえって富の成長が阻害されてしまいます。富の大幅な格差について、主要な社会的正当化の一つは、したがってこれで排除されます。一部の状況である程度の格差を正当化できるような、私たちの理論には影響されない他の理由がないとは申しません。でも、これまでは慎重に動くのが堅実と思われていた理由のうち、最も重要なものはこれで棄却されます。これは特に、相続税に対する私たちの態度に影響します。というのも所得の格差については多少の正当化理由が存在しますが、その一部は相続の格差にはあてはまらないものだからです。
私はといえば、私は所得や富のかなりの格差については社会的心理的な正当化ができると考えていますが、でも今日存在するほどの大きな格差は正当化できないと考えます。価値ある人間活動の一部は、金儲けという動機を必要としたり、個人の富の所有がないと完全に花開くことはできなかったりします。さらに、人間の危険な性向も、金儲けと個人の富の機会があると、比較的無害な方向に昇華できます。そうした形で満たされなければ、そうした性向は残酷な活動や、個人の権力や権威の無軌道な追求など、各種の自己強大化に出口を見いだしかねません。人が市民仲間を強権支配するよりは、己の銀行口座を強権支配するほうがましです。そして銀行口座の強権支配は市民仲間の支配の手段でしかないと糾弾されることもありますが。少なくとも時には銀行口座が身代わりになってくれることもあるのです。でも今日ほどの高い掛け金でこのゲームが実施されているのは、そうした活動の刺激や、そうした性向の満足のためだけでは必ずしもありません。ずっと掛け金が低くても、プレーヤーたちがそれに慣れてしまえば、同じ目的は十分に実現できます。人間性を変えるという作業と、それを管理するという作業とを混同しててはいけません。理想的な共同体においては、人はそうした掛け金に一切興味を示さないよう教わったり指導されたり育てられたりするかもしれません。それでも平均的な人や、社会のそれなりの部分だけでも、お金儲けの情熱に強く中毒しているのであれば、そのゲームの実施は許し、ただルールと制限は設けるだけにするのが、賢く堅実な国家運営というものでしょう。 
セクションII

 

しかし私たちの議論からは、第二のずっと根本的な議論が導かれ、これも富の不平等の未来に関わるものです。その議論とは、金利の理論です。これまでは、そこそこ高い金利を正当化する理由は、十分な貯蓄誘因を提供することが必要だから、というものでした。でも有効な貯蓄の規模は必然的に投資規模で決まるのであり、投資規模を促進するのは低金利だということを私たちは示しました(ただし完全雇用に対応する点を超えて、こういう形での刺激はしない限りですが)。ですから完全雇用をもたらす資本の限界効率をにらんで、金利を引き下げるのが私たちにとっていちばん有利なのです。
この基準だと、これまで支配的だったものよりずっと低い金利につながるのは確実です。そして資本の増大をもたらすのに対応した資本の限界効率関係スケジュールを推定できる限りで見れば、継続的な完全雇用の状態を維持するのが現実的であるなら、金利は安定してだんだん下がり続けるはずです。ただしもちろん、総消費性向(国のものも含む)に派手な変動があれば別ですが。
資本需要にはっきり上限があるのは確実だと思います。つまり、限界効率がとても低い値になるまで資本のストックを増やすのは、むずかしいことではないはずです。だからといって、資本設備の利用がほとんど無料になるという意味ではありません。単にそうした設備からの収益は、摩耗や陳腐化による損耗と、リスクや技能と判断の適用をカバーするだけのマージンをほとんど超えないものとなる、というだけです。一言で言うと、耐久財がその寿命期間中にもたらす総収益は、短命な財の場合とまったく同じで、その生産の労働費用と、リスクや技能と監督分の費用をカバーするだけになる、ということです。
さて、こうした事態はある程度の個人主義とは何の問題もなく相容れるものですが、でもそれは金利生活者の安楽死を意味し、そして結果として、資本家たちが資本の希少価値を収奪せんとする、累積的な抑圧も安楽死することとなります。今日の金利は、地代と同じで、何か本当の犠牲に対する報酬などではありません。資本の所有者が利子を得られるのは、資本が希少だからです。これは地主が地代を集められるのが土地の希少性のためなのと同じです。でも土地の希少性には本質的な理由があるかもしれませんが、資本の希少性には本質的な理由などありません。そうした希少性の本質的な原因、つまり利子という形で報酬を提示しない限り集められない、本当の犠牲という意味での希少性要因は、長期的には存在しません。例外は、個人の消費性向が奇妙な特徴を持っていて、完全雇用下における純貯蓄が、資本が十分豊富になる以前に終わってしまうような場合だけです。でもその場合ですら、国の機関を通じての共同貯蓄を維持することで、資本が希少でなくなるまで増大することはできます。
ですから資本主義の金利生活者的側面は移行期のものでしかなく、役目を終えたらそれは消え失せると私は考えます。そしてその金利生活者的側面が消えれば、資本主義の他の多くの面も、激変に直面することでしょう。そして金利生活者の安楽死、機能なき投資家の安楽死が突然のものとはならず、単に最近イギリスで見られたようなものが延々と引き延ばされて続くだけのものになるというのは、私が提唱する物事の秩序にとっては大きなメリットではあります。それは革命など必要としないのです。
ですから実務的には(というのもここには実現不可能なものは何一つないからです)、私たちは資本の量を増大させてそれが希少でなくなるようにすることを目指すといいかもしれません。そうなれば機能なき投資家は最早ボーナスを受け取れなくなります。さらには直接課税方式を使って、金融業者や事業者等々(かれらはこの稼業が隙でたまらないはずなので、その労働は現在よりずっと安く調達できるはずです)の知性と決意と実施能力を、適切な報酬で社会のために活かすようにすべきです。
同時に、一般の意志(これは国家の政策に内包されています)を誘導することで投資誘因の増大と補完をどこまで実施できるかは、やってみないとわからないことは認識すべきです。また、平均的な消費性向への刺激も、資本の希少性価値を一、二世代のうちになくすという狙いを潰さずにどこまでやって安全化は、実地に試すしかありません。やってみたら、消費性向は金利低下によってあっさり強化されて、完全雇用は現在よりちょっと大きいだけの蓄積量で実現されてしまうかもしれません。そうなれば、高額所得や相続に対する課税強化には反対論が出ても仕方ありません。そうした課税強化は、現状よりもずっと低い蓄積で完全雇用が達成できるようにしてしまう、というのがその反対論となるでしょう。こうした結果の可能性、いや蓋然性すら私が否定していると思われては困ります。というのもこうした事態では、平均的な人が環境変化にどう反応するかを予想するのは拙速にすぎるからです。でも、現在よりちょっと多い程度の蓄積率で完全雇用を確保するのが簡単だとわかれば、少なくとも巨大な問題は解決されたことになります。そして、いま生きている世代に消費を制限してもらって、いずれその子孫たちの代で完全雇用が実現されるようにする場合、その制限の規模や手法をどうするのが適切かというのは、別の議論に委ねられることとなるでしょう。 
セクションIII

 

他の一部の側面からしても、これまでの理論が示唆するもの、そこそこ保守的です。というのも、現在は主に個人の主体性に任されている事柄に対して、中央によるコントロールをある程度確立することがきわめて重要だと示してはいるものの、まったく影響を受けないきわめて広範な活動領域が残されているからです。国家は、一部は課税方式を通じて、一部は金利の固定を通じて、そして一部はひょっとして他の方法でも、消費性向に対して誘導的な影響を与える必要があります。さらに、銀行政策が金利に与える影響は、最適な投資量を独自に決めるには不十分だろうと思えます。ですから、いささか包括的な投資の社会化が、完全雇用に近いものを確保する唯一の手段となるはずだ、と私は考えるのです。これは、公共政府が民間イニシアチブと協力する各種の妥協や仕組みを排除するものである必要はありません。でもそれを超えるところで、社会のほとんどの経済生活を包含するような、国家社会主義体制などをはっきり主張したりするものではありません。国家が実施すべき重要なことがらは、生産の道具を所有することではないのです。もしも国が道具を増やすための総リソース量を見極められて、その所有者に対する基本的な報酬率を見極められたら、それで必要なことはすべてやり終えたことになります。さらに社会化に必要な手立てはだんだん導入すればよく、社会の一般的な伝統に断絶が生じる必要はありません。
受け入れられている経済学の古典派理論に対する私たちの批判は、その分析に論理的な誤りを見つけようとするものではありませんでした。むしろその暗黙の想定がほとんどまったく満たされておらず、結果として現実世界の問題を解決できないというのが批判の中身です。でも私たちの中央コントロールが、実際に可能な限り完全雇用に近い総産出量を確立するのに成功したとしても、その点から先になると、古典派理論は再び活躍するようになります。産出量が所与とすれば、つまり古典派の思考方式の外側で決まるとすれば、何を生産するか、それを生産するのに生産要素がどんな比率で組み合わさるか、最終製品の価値がその生産要素にどんな形で配分されるかについては、民間の自己利益をもとにした古典派分析に対して、何ら反対すべき理由はないのです。あるいは、倹約の問題に対して別の形で対応したとしても、完全競争や不完全競争などの条件下で、民間の利点と公共の利点をどれだけ一致させるかについては、現代古典派理論に対してまったく反対するものではありません。ですから消費性向と投資誘因の間での調整には中央のコントロールが必要ですが、その範囲を超えてまで以前より経済生活を社会化する理由はまったくありません。
この論点を具体的に説明すると、今のシステムが、使われている生産要素を大幅にまちがった形で雇用していると想定すべき理由はまったく見あたらないと思うのです。もちろん予想がまちがう例はあります。でもそれは意思決定を中央集権化したところで避けられません。働く能力も意欲もある人が1,000万人いて、雇用されている人が900万人いたら、その900万人の労働力がまちがった方向に振り向けられているという証拠はありません。現在のシステムに対する文句とは、その900人を別の仕事に就けるべきだということではありません。残り100万人にも作業が与えられるべきだということです。現在のシステムが壊れてしまっているのは、実際の雇用の量を決める部分であって、その方向性を決める部分ではないのです。
ですからこれは私がゲゼルと同意見の部分ですが、古典派理論のギャップを埋めた結果として生じるのは「マンチェスター方式」を捨て去ることではなく、経済の各種力の自由な活動が生産の潜在力を完全に活かすためには、どんな性質の環境が必要なのか示すことなのです。完全雇用の確保に必要な中央のコントロールはもちろん、政府の伝統的な機能の大幅な拡張を必要とします。さらに現代の古典派理論自体も、経済的な各種力の自由な活動を抑えたり導いたりすべき各種の状況を指摘しています。でも、民間の発意と責任を行使する余地は相変わらず広範に残されるでしょう。その余地の中では、伝統的な個人主義の長所が相変わらず成り立つのです。
ここでちょっと立ち止まって、これらの長所は何だったか思い出してみましょう。その一部は効率性という長所です——分散化と自己利益作用がもたらすメリットです。意思決定の分散化と個人の責任からくる効率性のメリットは、十九世紀の想定よりも大きいかもしれません。そして自己利益の活用に対する反動は、行きすぎているかもしれません。でも何よりも、個人主義は、その欠点や濫用さえ始末できるなら、個人の自由をいちばん守ってくれるものとなります。なぜなら他のどんなシステムと比べても、それは個人選択を実施する場を大幅に広げるからです。また人生の多様性をいちばんよく守ってくれるものでもあります。これはまさに、それが個人選択の場を拡大したことで生じており、それを失ったことは均質国家や全体主義国家の損失の中でも最大のものです。というのもこの多様性は、全世代の最も安全で成功した選択を内包した伝統を保存するからです。それは現在をその気まぐれの分散化によって彩ります。そしてそれは伝統と気まぐれの従僕であるとともに、実験のメイドでもあるので、将来を改善するための最も強力な道具なのです。
ですから政府機能の拡大を行い、消費性向と投資誘因それぞれの調整作業を実施するというのは、十九世紀の政治評論家や現代アメリカの財務当局から見れば、個人主義への恐るべき侵害に見えるかもしれません。私は逆に、それが既存の経済形態をまるごと破壊するのを防ぐ唯一の実施可能な手段だという点と、個人の発意をうまく機能させる条件なのだという点をもって、その方針を擁護します。
というのももし有効需要が不足なら、資源の無駄遣いという公共スキャンダルは耐えがたいばかりか、そうしたリソースを活動させようとする個々の事業者たちは、きわめて不利な条件で活動することになってしまうからです。事業者が遊ぶ危険の遊戯は、無数のゼロだらけで、プレーヤーたちは手札を全部ディールするだけのエネルギーや希望があっても、全体としては負けてしまいます。かつて世界の富の増分は、プラスの個人貯蓄総量より少なくなってしまいました。これまで世界の富の増分は、プラスの個人貯蓄総量より少なく、その差額を補填してきたのは、勇気と発意を持ちつつも傑出した技能や異様な幸運が伴わなかった者たちの損失でした。でも有効需要が適切なら、平均的な技能と平均的な幸運だけで十分なのです。
今日の権威主義国家体制は、失業問題を解決するのに、効率性と自由を犠牲にしているようです。確かに世界は、現在の失業を間もなく容認できなくなるでしょう。その失業は時々短い興奮の時期を除けば、今日の資本主義的な個人主義と関連しており、私の意見ではその関連性は必然的なものなのです。でも問題の正しい分析があれば、その病気を治癒させつつ、効率性と自由を維持できるはずです。 
セクションIV

 

さっきさりげなく、新しいシステムは古いものよりも平和をもたらしやすいかもしれないと述べました。その側面を改めて述べて強調しておく価値はあるでしょう。
戦争にはいくつか原因があります。独裁者のような連中は、少なくとも期待の上では戦争により楽しい興奮が得られるので、国民たちの天性の好戦性を容易に煽れます。でもこれを超えたところでは、世間の炎を煽る仕事を手助けするのが、戦争の経済的な要因、つまり人口圧と市場をめぐる競争的な戦いです。十九世紀に圧倒的な役割を果たしたのはこの第二の要因だし、今後もそうなるかもしれません。こちらの要因がここでの議論の中心となります。
前章で、十九世紀後半に主流だった国内のレッセフェールと国際的な金本位制のシステムでは、政府が国内の経済停滞を緩和する手段として、市場を求めて争う以外に手がなかったと指摘しました。というのも国にとって、慢性的または間歇的な失業を緩和できるあらゆる手段が排除されており、残った手段は所得勘定上の貿易収支の改善だけだったのですから。
ですから経済学者たちは現在の国際制度について、国際分業の果実を準備しつつ各国の利益を調和させているのだ、と賞賛するのに慣れていますが、その奥にはそれほど優しくない影響が隠されているのです。そして各国の政治家たちは、豊かな老国が市場をめぐる闘争を怠るならば、その繁栄は停滞して失速すると信じておりますが、それは常識と、事態の真の道筋に関する正しい理解であり、それが彼らを動かしているものなのです。でも各国が自国政策によって自国に完全雇用を実現できることを学習すれば(そしてまた付け加えなければならないのは、彼らが人口トレンドで均衡を実現できれば、ということです)、ある国の利益を隣国の利益と相反させるよう計算された、大きな経済的な力は存在しなくてすみます。適切な状況下では、国際分業の余地もあるし、国際融資の余地も残されています。でも、ある国が自分の製品を他の国に押しつけなければならない火急の動機はなくなりますし、他国の産物を毛嫌いする理由もなくなります(しかもそれが買いたい物を買う金がないからというのではなく、貿易収支を自国に有利に展開するため収支均衡をゆがめたいという明示的な目的のために行われることはなくなります)。 国際貿易は、今のような存在であることをやめるでしょう。今の国際貿易は、自国の雇用を維持するために、外国市場に売上げを強制し、外国からの購入は制限するというものです。これは成功しても、失業問題を闘争に負けた近隣国に移行させるだけです。でもそれがなくなり、相互に利益のある条件で、自発的で何の妨害もない財とサービスの交換が行われるようになるのです。 
セクションV

 

こうした発想の実現は非現実的な希望なのでしょうか? 政治社会の発達を律する動機面での根拠があまりに不十分でしょうか? その発想が打倒しようとする利権は、この発想が奉仕するものに比べて強力だしもっと明確でしょうか?
ここではその答を出しますまい。この理論を徐々にくるむべき現実的手法の概略を述べるのでさえ、本書とはちがう性質の本が必要となるでしょう。でももし本書の発想が正しければ——著者自身は本を書くときに、必然的にそういう想定に基づかざるを得ません——ある程度の期間にわたりそれが持つ威力を否定はできないだろう、と私は予言します。現在では、人々はもっと根本的な診断を異様に期待しています。もっと多くの人は喜んでそれを受け入れようとし、それが少しでも可能性があるようなら、喜んで試してみようとさえしています。でもこういう現代の雰囲気はさて置くにしても、経済学者や政治哲学者たちの発想というのは、それが正しい場合にもまちがっている場合にも、一般に思われているよりずっと強力なものです。というか、それ以外に世界を支配するものはほとんどありません。知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文書き殴り学者からその狂信的な発想を得ているのです。こうした発想がだんだん浸透するのに比べれば、既存利害の力はかなり誇張されていると思います。もちろんすぐには影響しませんが、しばらく時間をおいて効いてきます。というのも経済と政治哲学の分野においては、二十五歳から三十歳を過ぎてから新しい発想に影響される人はあまりいません。ですから公僕や政治家や扇動家ですら、現在のできごとに適用したがる発想というのは、たぶん最新のものではないのです。でも遅かれ早かれ、善悪双方にとって危険なのは、発想なのであり、既存利害ではないのです。 
 
芸術が表現するものとは何か
  ショーペンハウアの芸術論におけるイデア

 

1. はじめに 
芸術が表現するものとは何か。芸術の内容をめぐるこの問いは、古くからの議論においてたびたび立てられてきたものである。或るときは現実の模像が、或るときは神の御姿が、そしてまた或るときは人間の内面が、芸術の表すべき内容であると考えられた。それは時代や地域によって様々な仕方で考えられてきたし、多くの哲学者や美学者、そしてもちろん芸術家自身が、この議論に参加してきた。しかしながら、決定的な答えは未だ与えられてはいないし、おそらく今後も与えられることは困難だろう。アドルノ(Theodor Wiesengrund Adorno 1903–1969) の印象的な言葉を借りれば、過去の諸々の議論を通して、「芸術に関してはもはや何ものも自明ではないということが、自明なことになった」1)のである。
とはいえそれは、芸術をめぐる様々な思考や言説が、総じて無意味で語るに値しないものであるということを意味するのではない。産み出された様々な芸術作品が、それを鑑賞する者へと直接的に多大な影響を与えるのは言うまでもないだろう。しかしまた、考え出された様々な芸術理論も、間接的な仕方ではあれど、鑑賞者に芸術なるものを理解するための契機を与え、また時には芸術家に創作のための刺激を与えてきた。そこには必ずしも問題に対する唯一つの解答はなかったかもしれない。しかしそれでもなお、芸術活動と芸術理論との間に生じるそういった相互作用的なプロセスに、芸術について考えることの意味の少なくとも一つが存しているように思われる。
そのような、現実に存在する芸術活動との相互作用的なプロセスの中で芸術理論を展開した哲学者の一人が、ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 1788-1860) である。彼の主著『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung, 1818/19) の第3 巻「表象としての世界の第二考察」はまさしく芸術を主題としたものであり、そもそも芸術とは何であるかという原理的な問題から、芸術ジャンルの区分や現存する作品の評価付けという個別的な問題に至るまで、美学的な諸問題が彼の根本思想との連関の中で詳細に論じられている。そして第3 巻の副題「根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトン的イデア、芸術の客観」が示しているとおり、ショーペンハウアーはそこで、芸術がその表現の対象とするものとは、プラトンの言うイデアである、としているのである。
芸術の表現対象はイデアである、というショーペンハウアーの芸術論は、一方で彼と同時代の美学との深い連関のなかにありながら、他方で19世紀末から20世紀にかけての様々な芸術家や芸術思想に少なからぬ影響を与えてきた。それというのも、彼が芸術の核心に据えたこのイデアなるものは、古典的・伝統的な要素と近代的・前衛的な要素とをある種矛盾した形で含みこんでいるものであり、それゆえにまた、芸術の表現対象として一定の説得力を持つものであったからである。しかしながら彼の芸術論に関して、これまで古典主義やロマン主義、あるいはドイツ観念論といった同時代の美学理論との影響関係は多く論じられてきたが、他方で20世紀前半の革新的芸術理論との響応関係については、断片的な指摘はなされているものの、十分に論じられてきたとは言えないように思われる2)。
それゆえ本稿では、芸術論における「イデア」について、ショーペンハウアー自身のテクストに沿ってその概要を掴みつつ、そこからそれが孕む問題性と、ポスト印象派や表現主義といった近代芸術と共鳴するその可能性とを指摘することを目指したい。そしてそこから、芸術が表現するのは何であるのかという古くからの問題に対する、19世紀から20世紀において一定の説得力を持ちえた一つの解答を見て取ることができたらと思う。それはおそらく問題に対する唯一の解答にはならないであろうが、それでもこの試みが、私たちが芸術というものを考えるための一つの手がかりになるならば、幸いである。 
2. 芸術が表すものとしてのイデア

 

まずは、ショーペンハウアーが芸術というものをいかなるものと考えているのか、彼の言に耳を傾けてみることにしよう。
さて、それでは、あらゆる相対関係の外部にありそれに依存しないで存在しているもの、本来ただそれだけで世界についての本質を示すもの、世界の現象の真なる姿たるもの、どんな変化にも従うことがないものであり、それゆえどんな時でも同じ真理を伴って認識されるもの、一言でいうとイデアIdee なるもの、物自体すなわち意志の直接かつ適合的な客体性であるもの、こういったものを考察するのはどのような認識の仕方であるのか?―それは芸術、つまり天才の作品である。芸術は、純粋な観照を通して把握された永遠なるイデアを、つまり世界のありとあらゆる現象についての本質的なものや持続的なものを、繰り返して表すのであり、そして芸術が繰り返して表す場である素材に応じて、それは造形芸術だったり、詩芸術だったり、或いは音楽だったりするのである。(WI, 217)
彼の芸術理解の要点は、さしあたりこの箇所に凝縮しているといってよい。ここでは、イデアの認識は天才の活動である芸術においてなされ、芸術はその認識されたイデアを表すものである、と明確に述べられている。しかしながら、この「イデア」なる語をもっていったい何が言い表されているのかを理解しないことには、彼の芸術論への理解は曖昧なままにとどまるだろう。それゆえ本章ではまず、「世界の現象の真なる姿」或いは「意志の直接かつ適合的な客体性」というイデアの定義を、正確に把握することから始めたい。そしてその上で、イデアを芸術において観照するという「天才」の在り方について確認し、ショーペンハウアー芸術論の基本的な枠組みの理解を目指そうと思う。 
(1)意志と表象としての世界におけるイデア
ショーペンハウアーの芸術論について考察するためには、それに先立って、彼の思想の根本的な世界観を理解しなければならない。というのも、彼の言に従えば、彼の芸術に関する思索も、美学としてそれ自体で独立・完結したものではなく、あくまで彼の根本にある「唯一つの思想」の展開の一側面でしかないからである3)。彼の述べるこの「唯一つの思想」とは、「意志と表象としての世界」という主著の題目に象徴される彼の世界に関する洞察を意味していると考えられる。だとすると、この「意志Wille」と「表象Vorstellung」という二つの鍵概念の意味を把握し、世界を意志と表象であるとする彼の根本的な世界観を理解しないことには、厳密な意味でその思想を論じることはできないのである。
それではいったい、世界が意志と表象である、とはどういうことであろうか。その理解のためには、まず、ショーペンハウアーの思想がカント(Immanuel Kant 1724–1804) の認識論から出発している点に注意する必要がある。すなわち彼は、認識主観への徹底した批判的検討から「現象Erscheinung」と「物自体Ding an sich」とを分け離して考察するという、カントの『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft, 1781) における世界観の基本的な枠組みを踏襲しているのである。そこでは、世界のありとあらゆる事物は、認識する主観が感性と悟性によって作り出した「表象」(ないし「現象」)としてしか捉えられないとされ、その事物が主観によって捉えられる以前に何であるかという物そのものの在り方(すなわち「物自体」)は、決して主観によって知覚されえないと考えられている。ショーペンハウアーもまた、認識論的にはこのような「表象一元論」とでも言うべき立場をとり、「世界は私の表象である」(WI, 3)と述べるそのように、世界の事物は全て自らの感覚器官を通して獲得された表象であると考えるのである4)。
しかしながらショーペンハウアーは、世界は全て自らの主観によって構成されているというこの「表象一元論」を認識論的な真理であるとしながら、それでもなお「この直観的な世界というのは、それが私の表象であるという他に、それ以上何であるというのか」(WI, 22) を問い極めんとする。そして彼は、私たちが自らの身体について、外的にはそれを因果関係の中に存する一つの表象として観察する一方で、内的には根拠の不明瞭な盲目的意志の発動として感じることができるということを手がかりに、表象の向こう側にある「物自体」は「意志」であるのではないかと想定する。そしてこの想定を、「類比Analogie」という推論形式をもって世界のあらゆる事物や現象に当てはめて考察した結果、「意志が、あらゆる個別のものの、そしてまた全体の最内奥であり、核心である。その意志が、盲目的に働くあらゆる自然の力において、現象しているのである」(WI, 131) と考えるに至る。このようにして、彼は、この世界は私たちの表象であると同時に、その不可知的な最内奥において盲目的な意志であるという結論を導き出すのである。
さてショーペンハウアーは、イデアをも、このような表象と意志という二元論的な世界観のなかに当てはめて考え、むしろこの表象と意志との間の断絶を埋めるものであるかのように規定する。『意志と表象としての世界』では、プラトン的イデアについて次のような説明が与えられている。
[……]無数の個体において表されている意志の客観化の多様な諸段階は、この個体にとっての模範として、或いは事物の永遠なる型Form として、現実に存在するのだが、それは時間と空間の内へと、つまり個体の媒体の内へと自ら入っていくことはなく、いつも在るものであり、いかなる変遷にも従属することはなく、常に存在しながら、決して生成しないものなのである。[……]私は言おう、この意志の客観化の諸段階とはプラトンのイデア以外の何ものでもない、と。(WI, 153–154)
ここでは、人間の感覚によって捉えられない意志がこの世界の事物として生成する(すなわち「客観化する」)際に多様な段階として現れるのだということが指摘され、イデアとは現実の個々の現象がそれを模範とするようなその段階としての「型Form」であると述べられている。猫を例に取ってみよう。現実に生きる猫には個体差があり、それぞれが別々の個体として生きている。しかしショーペンハウアーによれば、その個々の猫も、他の全ての事物と同じように、「意志」なる盲目的な本質が「表象」として現れたもの(つまり主観に対して客観となったもの)に過ぎない。そしてその個々の猫が現象する際に、あたかもそれが模範であるかのように従う猫の「型」こそが、イデアであるというのである。さらにイデアは、「意志の客観化の諸段階」と言われるように、この世に存在する多様な事物に対応して、蜂の型・松の型というように、無数の種類の「型」として考えられているのである。
このようにしてプラトン的イデアは、ショーペンハウアーの思想に則った形で再定義される。すなわち彼はイデアを、個物に囚われることはないがしかし個物がそれを模範とするものとして「世界の現象の真なる姿」と呼び、また意志という世界の本質が段階的に姿を現したものとして「意志の直接かつ適合的な客体性」と規定するのである。 
(2)天才によるイデアの観照
ショーペンハウアーは、このようなプラトン的イデアの認識を、それ以外のあらゆる個々の事物の認識から截然と区別する。ここで注意しなければならないのは、彼が、イデアを除くあらゆる事物の認識は「根拠の原理に依存した事物の観察の仕方」であるとし、ただイデアの認識だけが「根拠の原理に依存しない事物の観察の仕方」(WI, 218) である、と特徴づけていることである。
ショーペンハウアーにおける「根拠の原理」とは、原因−結果や根拠−帰結といったような、因果関係に基づいたものの見方のことであるが、彼によれば、私たちがものを考えたり世界の事物を眺めたりする際には、私たちの認識は常にその根拠の原理に制約され、それに従属しているのだという5)。そしてまた、根拠の原理というこの認識の原理は、意志の現象である私たちが意志の欲するところをスムーズに果たすために、意志の盲目的な力に奉仕するように定められているとも考えられている。このような「根拠の原理」に囚われたものの見方から脱し、意志に奉仕することを止めたときに、初めてイデアの認識が可能となるのだが、それはあくまで例外的な認識の仕方であるとショーペンハウアーは述べる。
[……]個々の事物について通常の認識からイデアの認識へと移行することは、可能ではあるがしかし例外としてのみ観察されうる事柄であり、認識が意志への奉仕から自らを引き離し、まさしくそれによって主観が単なる個体であることを止め、そうして純粋で意志を欠いた認識主観として在ることによって、突然に生じる事柄なのである。
そういった純粋で意志を欠いた認識主観というのは、もはや根拠の原理に従って諸々の関係を追いかけることはせず、差し出された客観を、なんらかの別の客観とのつながりを気にしないで、しっかりと観照Kontemplation することに安らぎを見出し、それに没頭するものなのである。(WI, 209–210)
この引用箇所で重要なのは、主観が「純粋で意志を欠いた認識主観として在ることによって」、根拠の原理から解放されてイデアの観照が可能となる、という点である。この純粋認識主観という在り方は「観照Kontemplation」とも言い換えられているが、ショーペンハウアーはこの観照に耽る卓越した能力を持つ者こそ「天才Genie」であると考える。
天才の本質は、そのような[純粋な]観照への圧倒的な能力にある。そしてこの観照は個別の人格やその人にまつわる諸関係を全て忘れるよう要求するので、その場合天才性というのは最も完全なる客観性以外の何ものでもなく、個別の人格すなわち意志の方へと向かう主観的な方向とは正反対の、精神の客観的な方向なのである。(WI, 208)
この引用箇所を理解するにあたって、先の「意志の直接かつ適合的な客体性」或いは「意志の客観化の諸段階」というイデアの定義を思い出してほしい。個々の事物に拘って根拠の原理に囚われたままの主観的な認識とは正反対に、事物をその究極の客観性においてありのままに眺めたイデアの認識こそが、天才という純粋な認識主観によってなされる「観照」なのである。言い換えれば、天才が天才であることの所以は、ショーペンハウアーの言説に従えば、世界を客観的に観照することができるか否かという点、すなわち純粋な認識主観になることができるか否かと
いう一点にかかっているのである。
このような極端なまでの客観性を備えた天才こそが、この世界を純粋な仕方で観照し、世界の真の姿であるイデアを容易に認識することができるとされる。とはいえショーペンハウアーは、イデアを認識するこの能力は、天才に比べれば程度の低いものではあるが、人間なら誰にでも多少なり備わっているものである、とも考えている(WI, 229)。ただしその能力の程度の甚だしい者こそが天才なのであり、さらに天才は、彼が観照したイデアを芸術作品の創造を通して表現することができ、さらにはそれによって、天才でない者がイデアを認識する手助けをすることができるというのである。というのも、イデアの認識は、現実の世界から直接的な仕方でなされるよりも、天才が創造した芸術作品を通した方が容易になされるからである(ibid.)。「イデアは、生において自らを明らかならしめるが、それはただ天才に対してのみである」(HNI, 419)が、芸術作品の鑑賞において、「芸術家は、彼の眼を通して私たちの世界への眼を開かせてくれる」(WI, 230) のである。
以上見てきたように、ショーペンハウアーにおいては、天才の作品すなわち芸術とは、観照によって認識されたイデアという存在の真実を表現するものだと考えられている。1815年の草稿において既に、「芸術の目的は、物自体ないしはプラトン的イデアの認識を伝達することにある」(HNI, 306) 或いは「芸術の本質は、イデアを描くことにある」(HNI, 297) と明確に述べられている。彼においては、まさしく天才によって認識されたプラトン的イデアこそが、芸術が表現する内容であると考えられているのである6)。 
3. 芸術におけるイデア観照の二側面

 

ショーペンハウアーの芸術論の原理的部分、すなわちイデア論の基本的な枠組みは、前章において示されたものと思う。芸術は彼によって、イデアという事物の究極の客観性を表現するもの、天才という純粋認識主観によってなされるものとして考えられた。ところで、彼のこの芸術論には、不可欠な二つの要素が指摘されうる。
私たちは、美的な観察の仕方のうちに切り離せない二つの構成要素を見出してきた。[一つ目は]個々の事物としてではなく、プラトン的なイデアとして、すなわち事物のあらゆる種にとって変わることのない型として、客観を認識することである。[二つ目は]それに加えて、認識する者が、個体としてではなく、純粋で意志を欠いた認識主観として、自らを意識することである。(WI, 230)
この少し後では、イデアとして事物を認識する仕方は美的な内省の「客観的側面」であるとされ、また純粋で意志を欠いた認識主観と成ることは「主観的側面」であると規定されている(WI, 234–235)。すなわちここでショーペンハウアーは、芸術におけるイデアの観照という事態に、客観的側面および主観的側面という欠かすことのできない二側面があることを指摘しているのである。
この指摘は、彼の芸術論を考える上で決して軽視してはならないものである。というのも、イデアの認識において主観−客観の二側面どちらをも欠かすことができないと考えたというこの点に、ショーペンハウアーの芸術論が持つ問題性の核心があるからである。以下、この点の意味と重要性について、検討していきたい。 
(1)客観的側面―意志の客体性としてのイデア―
ショーペンハウアーのイデア論を『意志と表象としての世界』の記述に即して理解しようとすると、そこでは何よりもイデアの客観的側面が強調されているように思われるかもしれない。それは彼がイデアを「客体性」や「客観性」と規定している箇所や、主観が主観的な方向から離れ去った時に(つまり、純粋な認識主観となった時に)はじめてイデアの観照が可能となるとしている箇所に、看取できる。確かにショーペンハウアーの述べるイデアは、認識する者が自らの個体性を離れ、事物をただただ客観的な仕方でありのままに眺めることによって認識されうるものと考えられているのである。
このような客観的側面の強調は、イデアを意志の客観化の諸段階であるとする、既に確認した彼の世界観に基づいている。それはすなわち、ありとあらゆる現象は、事物の根底に蠢く盲目的意志が自らを客観化したものだと想定され、その客観化の段階ないしは型として個々の現象から独立しているかのように眺められるのがイデアである、という世界観である。そしてそこでは、事物の究極の客体性としてのイデアを観照する能力を有する者こそが天才だと考えられている。しかしそうだとすると、天才とはいわば世界に満ちた事物の本質を眺めることの能力であるということになり、芸術的天才も能動的な創造者というより受動的な享受者としての性格を強く持つことになる。天才は、芸術的観照に際して「対象において自らを完全に失う」のであり、「まさしく自らの個体であること、意志であることを忘れ、ただ純粋な主観として、客観の明澄な写し鏡としてのみ、在り続ける」のである(WI, 210)。
イデア論における客観的側面の強調から帰結されるこの天才の受容的性格というのは、ショーペンハウアーの芸術論の一つの極をなすものである。そこでは、かつて天才の能動的性格と目されてきたものは、天才が天才と見なされるための一条件でしかないということになる。例えば、想像力の強さは「天才性に伴うもの」ないし「天才性の条件」でしかないとされ(WI, 220)、天才が世界の事物をより広い視野で眺めるための手段として考えられることになる。さらには天才が産み出す芸術作品でさえ、「美的満足を生じさせる[イデアの]認識を容易ならしめる手段でしかない」ということになる(WI, 229)。このようにしてショーペンハウアーは、天才性の核心をあくまでも客観的にイデアを認識する能力に見るのであり、さらには天才すなわち芸術を為す者を、能動的な創造者としてではなく、受動的な享受者ないし媒介者として理解してもいるのである7)。
このような天才観の下では、カントにおいてある意味で最大限に強調された天才の独創的性格・創造的性格は、ある意味でずっと低く評価されることになる。それはとりわけ、ショーペンハウアーが、同時代やそれ以前の美学において天才の秘訣とされた「想像力Phantasie」を、天才の本質的な構成要素ではあっても、天才性そのものではないとする(WI, 219) 点に顕著に見て取れるだろう。それは、カントが、「美術schöne Kunst は、天才の芸術である」8)というショーペンハウアーと共通する見解を持ちながら、美を「構想力と悟性との自由な遊び」9)に根拠付け、さらには天才を「ある主観が自らの認識能力を自由に行使する場合の、その主観の自然的素質による模範的な独創性」10)であると規定したのとは、まったく趣を異にしている。カントによる美や天才の規定は、それが後にガーダマー(Hans-Georg Gadamer 1900–2002) によって近代の主観主義的美学の嚆矢として批判されることにもなるように、人間の主観的要素に重点を置いている。しかしそれに対してショーペンハウアーは、「[芸術]作品においては[……]存在するものの真理が生起する」11)とするハイデッガー(Martin Heidegger 1889–1976) や、芸術を「真理の認識」として考えるガーダマーの立場に近しい仕方で、事物の真理・本質であるイデアこそ芸術の表現対象であるとし、芸術に置ける客観的側面をしっかりと見据えているのである12)。
芸術的天才のこの享受者的・媒介者的な性格は、1844年に刊行された『意志と表象としての世界』続編においていっそう強調された仕方で叙述されている。
[純粋認識主観という状態において]私たちはほとんど事物という他なるものについてのみ知るのであり、ほとんど私たち自身については知ることがない。それゆえ私たちの意識の全てはもはや、直観された客観が表象としての世界へと現れてくるために通る媒体Medium 以外の何ものでもないのである。(WII, 420)
この引用箇所に見られる、他なるものとしての事物を純粋に観照する能力、すなわちそこにイデアを見出す能力の卓越が「天才」と呼ばれるならば、天才とは事物をありのままに受け容れる一つの媒体だということになる。この見方に従えば、表現の内容が自然の事物であるにせよ人間の情念であるにせよ、純粋なイデアとして事柄をそのままに受け容れ、主観的な介入の一切を排して客観的に表現するのが、あるべき芸術家の姿だということになるだろう。 
(2)主観的側面―純粋な認識主観―
このように見ると、ショーペンハウアーの芸術論は、天才の独創性・主観性よりも表現対象であるイデアの客観性を重視していると理解されるかもしれない。事実、彼の芸術論はしばしばそのように評価されてきたのだが、しかしこのような理解は事態をやや単純化しすぎている13)。
ここで注意しなければならないのは、ショーペンハウアーが芸術の客観的側面を強調しているからといって、彼が芸術的観照における主観的側面を軽視したり、いわんや無視したりしているということにはならない、という点である。それどころか、イデアの観照における主観的側面は、ショーペンハウアーの芸術論において、その客観的側面に優るとも劣らない不可欠な契機を担っているとさえいえるのである。それは『意志と表象としての世界』の叙述にも看取できる。なによりもまず[……]認識する主観が純粋な認識主観へと自らを高め、まさにそれによって観察された客観をイデアへと高めることに
よって、表象としての世界は完全かつ純粋に現れ出ることになる。[……]このイデアなるものは、客観と主観とを同じような仕方で自らのうちに含んでいるのであるが、それというのもそのような在り方がイデアの唯一の形式であるからであり、それでいてイデアにおいてこの[客観と主観という]両者が完全に均衡を保っているからである。(WI, 211–212)
この引用箇所に表されているのは、ショーペンハウアーが、イデアの観照という事態を、眺められる事物という客観と純粋な認識という主観の両方が揃って初めて成立するものと考えているということである。
「[……]プラトン的なイデアというのは必然的に客観であり、認識されたものの一つであり、表象の一つである、そしてまさにその点によって、しかしまたその点によってのみ、イデアは物自体から区別される」(WI, 206) と彼が述べるように、本来決して認識されえないものであるはずの意志=物自体の客体化としてのイデアは、純粋認識主観と化した天才によって受け容れられて初めて、本来の意味でのイデアとして表象されることになるのである。
この、イデアを認識するための純粋な認識主観は、既に述べたように、媒体的な在り方をするもの、事物をありのままに映しとる受容体とでもいうべきものである。しかしこれを逆に考えると、イデアという客
観的真実が媒介的に理解・認識されるには、純粋認識主観というこの受容体が不可欠であるということでもある。天才によるこうした媒介的・受容的なイデアの把握は、「直観的anschaulich」な認識としてのみなされうる、とショーペンハウアーは述べる(WII, 430)。「直観するということAnschauung が、はじめて事物の本来の、真なる本質を、未だ条件付けられた仕方でではあるが、明らかにし、開示するのである」(WII,432) というその言に従えば、芸術的天才が彼の芸術活動においてまず為さねばならないのは、直観の働きによってイデアを純粋に受容する純粋認識主観となることなのである。
イデアの認識におけるこの主観的側面は、ショーペンハウアーの芸術論におけるもう一つの極である。ここでさらに指摘しておきたいのは、学位論文『充足根拠率の四方向に分岐した根について』(Ueber die vierfache Wurzel des Satzes von zureichenden Grunde, 1813) が著された前後の時期において、主観的側面をいっそう強調した仕方で、さらに言えばいっそうカント的な仕方で、ショーペンハウアーがイデアを捉えているという点である。1814年の草稿を見てみよう。
プラトン的なイデアとは、本来理性において現前するファンタスマ[想像されたもの/Phantasma]である。イデアは、理性が普遍性という印章を押したファンタスマである。[……]プラトン的なイデアは、想像力と理性の共同した働きによって生じるのである。(HNI, 130–131)
1813年の学位論文では、ファンタスマとは「想像力Phantasie」ないしは「構想力Einbildungskraft」によって「反復して表されたもの」とされている(Go, 27)。これらの規定に従えば、イデアとは、想像力という主観の側の作用によって構成されたものであり、そこに理性が普遍性の捺印を押したものだということになる。もっともこの点に関しては、学位論文が、カントの深い影響下で、徹頭徹尾主観に強調点を置いた側から物された書であることを考慮に入れなければならない。というのも1818年に完成した主著『意志と表象としての世界』においてショーペンハウアーは、意志という物自体の側から世界を捉えなおすことで、同時にイデアをも意志の客体性として定義しなおし、主観にその受容者の役割を与え、既述のように想像力をイデア認識の手助けをするに過ぎないものへと引き下げているからである14)。
とはいえショーペンハウアー自身が、彼の主著の理解のためには学位論文の内容を前提としなければならないと述べている点(WI, IX–X) に鑑みて、学位論文の記述を尊重するならば、イデアにおける主観的側面が欠かせないものであるばかりか、イデアの客観性よりもそれを認識する主観性の方が強調されかねないような視点がそこに内在していることに気付かされる。ここで注目すべきは、イデアが主観によって恣意的に構成されうるという(ショーペンハウアー自身によって退けられている)可能性がそこに見出せるということではない。そうではなくて、このように考えることでイデアの超越的な絶対性や静止的な固定性が説得力を失い、イデアを認識する働きが相対化されうるという点が重要なのである。すなわち、意志そのものやその意志の客観化の諸段階と規定されたイデアがいかに時間や空間を超えた永遠的な実在だと想定されるにしても、その直観的な認識が個々の人間主観によってなされる以上、イデアがイデアとして受け容れられるか否かは、絶対的な事柄ではないばかりか、媒体としての主観の受容能力に応じて変化することでさえありうるということになるのである。
このように、ショーペンハウアーにおけるイデアは、あくまでも、事物という客観的側面と認識者という主観的側面とが両極として相互に関係しあう繊細な緊張関係において成り立つものなのである。既に述べたように、従来はこの前者の側面が強調されて理解されがちであったのだが、そのような理解の下では後者の側面が軽視されてしまうことになる。彼のイデア論を理解するにあたっては、プラトン以来、現象世界から隔絶した実在であると考えられてきたイデアを、むしろそれを認識する人間の主観があって初めて成り立つものであるとするその視点の転回を、決して見逃してはならない。あえて言えばそれは、人間を超越した形而上の世界の実在として考えられてきたイデアを、人間がそこに生きている形而下の世界の現象の中に引き降ろすような、大胆な転回であったとさえ理解できるのである15)。 
4. 古典性と近代性の狭間で

 

ショーペンハウアーの芸術理論は、認識されるイデアと認識する純粋主観という二つの契機を共に不可欠なものと見なすことで、大きな問題性を孕むことになり、またそれゆえに多様な受け取り方をされうるものである。実際ショーペンハウアーの芸術論は、多くの哲学者や美学者、或いは芸術家によって、さまざまな仕方で理解され論じられてきたが、その評価のされ方は非常に多岐にわたっている。すなわち、一方では古代に芸術の範をとる古典的理論と近しいものと解釈されながら、他方では近代から現代にかけての当時は前衛とさえ見なされた芸術家たちによって、彼らの芸術に刺激を与える新しい芸術理論として受け容れられもしたのである。
このような評価の二重性を端的に象徴するのが、ショーペンハウアーの芸術論と19世紀末から20世紀にかけてのモダニズム芸術との係わり合いである。ジンメル(Georg Simmel 1858–1918) は、1907年に刊行されたショーペンハウアーに関する彼の講義録において、当時既に評価が確立していた自然主義や印象派の芸術観とショーペンハウアーのイデア論がかみ合っていない点を指摘して、その意味でショーペンハウアーの芸術論を「近代的modern な芸術把握」ではないと断じている16)。しかし他方で、19世紀後半に『意志と表象としての世界』の仏訳がパリで刊行されて以来、その芸術論はポスト印象派などといったフランスを中心とした美学潮流にはっきりとした影響を与えていたと伝えられている17)。
さらには現代芸術の父と呼ばれるセザンヌ(Paul Cézanne 1839–1906) もショーペンハウアーの著作を何らかの形で読んでおり、その思想はアポリネール(Guillaume Apollinaire 1880–1918) などを通してキュビズムにまで伝わっていったという事実さえ指摘されている18)。このようにして、ショーペンハウアーの芸術論は、ある文脈では古い美学に属するものと見なされながらも、別の文脈では新しい芸術潮流と響応するものとして認められてきたのである。
このような評価の多層性は、彼の理論におけるイデアをどのように理解し、またそれをどのような芸術作品と結びつけるかという問題にかかわっている。それゆえ本章では、ショーペンハウアーのイデア理論のどこに、古典性と近代性、或いは保守性と革新性という、その二面性が見て取れるのかを、概観的にだが、考察してみたい。 
(1)保守的な芸術観とその葛藤
仮にだが、ショーペンハウアー自身に、古代に範をとる古典主義的芸術と、彼の時代にとっては新しい潮流であったロマン主義的芸術とのどちらに親近感を覚えるかと尋ねたら、おそらく前者を選んだことだろう。実際、彼の芸術上の嗜好は、彼の芸術論の原理を時には無視するような形で、古典主義的芸術に向かっている。たとえば、彼は同時代に持て囃されたゴシック建築よりも古代の建築様式を重要視し(WII, 475)、ロマン主義の詩文芸よりも古典主義の詩をより真実のものと称揚している(WII, 492–493)。このような彼の趣味が、主観性が前面に出過ぎているとして同時代の作品を嘆き、彼の芸術理論を自身の嗜好に強引に合わせようとしている様をみると、彼のイデア論が持つ豊かな可能性は、窒息させられてしまっているようにさえ思われる。
同じような窮屈さは、ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』における芸術論の後半で、様々なジャンルの芸術それぞれにそのジャンルが描き出すべきイデアを斟酌して割り当てながら、それらを「上位höher」「下位nieder」という序列の中に組み込むような議論をする場面(WI, 250–251) にも感じ取れる。彼は一般にそう思われているほどには強硬な芸術の序列づけはしていないが、それでもやはりその芸術論にはジャンル間のヒエラルキーが存在する。そのヒエラルキーにおいて底辺に位置づけられるのは、「重さ」「堅さ」などといった物質の性質のイデアを表現対象とする建築芸術であり、さらには自然や動物・人間の容貌というイデアを対象とする彫刻芸術も、決して高くはない位置しか与えられない。それに対して、人間の性格の動きを表現することができる絵画芸術はもう少し位の高いものとされ、人間の内面性を表現する詩芸術や音楽芸術は、特別の高い位を授けられる。このようにして芸術相互に序列をつける仕方は、ショーペンハウアーの保守的な芸術観を裏打ちするものであろう19)。
少年時代から両親と共にヨーロッパ各地を旅行しながらさまざまな古典的芸術に親しみ、また古典主義者ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749–1832) とも深い交流のあったショーペンハウアーにとって、この保守的な趣味は自然なものであったのかもしれない。とはいえ、彼の芸術理論の枠組みは、もはやこのような古典的なヒエラルキーを必要としないものになってしまっているようにも思われる。確かに、表現の幅という側面を見れば、素材や実用性の点で制約がある建築芸術よりも造形芸術の方がいっそう豊かであるといえるかもしれないし、人間の内面に直接訴えかける詩芸術や音楽の方がより印象的であると言うことはできるかもしれない。しかしそのような実際上の問題が、芸術のジャンルそのものや、意志の客体性であるイデアそのものに、序列をつける根拠にはならないであろう。というのも、芸術はイデアを表現するものであるという彼の原理に従えば、諸芸術はそれが芸術である限りどれも皆イデアを表現するものであり、その意味で等しく現象の内奥の真実を明らかにするものであるはずだからである。この点で、ショーペンハウアーの芸術論において、実際の芸術活動の序列付けをする局面と、イデアに関する純粋な理論の局面とが、葛藤に陥ってしまっているのである。
彼が「とるに足らない事物」を描いたに過ぎないオランダの画家たちの静物画や、やはり「とるに足らない風景という対象」を描いたロイスダール(Jacob van Ruisdael ca. 1628–1682) の風景画を賞賛し、その絵画の中に純粋に認識されたイデアを見ることができると述べるとき(WI,232)、この葛藤はより鋭いものとなっている。静物画が表す花瓶や果実、或いは風景画が表す河畔や木々というのは、ショーペンハウアーのイデアの階層的秩序においては、決して高い位置を占めるものではない。しかしそのような「とるに足らない」事物も、真なる眼差しによってイデアとして認識されることができるというのであれば、なぜそれをあえて他のものよりも低く見積もらなければならないのであろうか。むしろ、イデアに階層的秩序などなく、純粋に認識されたイデアであればどのようなイデアでも同等の価値と真実性を持ちうると考えるべきではないだろうか。もしそのように考えてよいならば、そこから19世紀後半から20世紀にまたがる芸術思想へと向かう歩みは、理論の問題としては、実はそれほど遠いものではない。ショーペンハウアーの芸術理論には、そういったモダニズムの芸術理論と共鳴しうるような潜在的な可能性が存しているのであり、それが彼の保守的な嗜好と葛藤し、そこに矛盾を生ぜしめているのである。 
(2)イデアの持つ革新性と展開の可能性
ショーペンハウアーのこの保守的な芸術嗜好から離れて、彼の理論だけに沿って考えるならば、彼のイデア論を、古典的な規範に縛られる必要がないばかりか、20世紀の芸術理論と響応するものとして理解することさえ可能である。前章で見たとおり、彼におけるイデアとは、意志という物自体が現象する際の「型」である客体が、純粋な媒体となった主観によって認識されたものである。この理論の下では、客体を客体として捉えられるか否かは個々の主観の才能によって異なり、天才性の在り方の相違によって認識されるイデアも無限に変わりうることになる。このようなイデアは、恣意的なものではないものの、主観の受容能力に応じて無限の多様性を持つものであり、必ずしも概念のように「何か」として把握されなければならないわけではないだろう。ショーペンハウアー自身は、なおプラトン主義的な規定を引きずって、イデアを未だ概念のように名付けられるものだと考えている節があるが、少なくとも彼の論に沿って考える限り、もはやイデアが“名付けられるイデア”である必然性はなくなるのである。
このような問題性は、ショーペンハウアーが個々の芸術とそれが表現するイデアについて述べる際にも既に顕われている。その一つの例は、彼が「人間」における「種族の特徴」と「個体の特徴」とを区別し、前者に(猫のイデア、松のイデアと同様に)人間という種族のイデアを見ながら、後者に性格のイデアとでもいうべき個体ごとの独自性を見ている点である(WI, 260)。「どの人間も、幾分かはまったく独自のイデアを表している」(WI, 265) と彼が述べる時、そのイデア論の要点は、普遍的・客観的な妥当性にあるのではなく、人間という具体的な自然が示す多様な相貌という客観を天才という主観が受け入れるその在り方に移っている。もちろんここに、人間だけは他の動植物と違って個性を持っているのだというような、近代的な人間中心主義の傲慢を見ることも可能であろう。しかしそこには他方で、事物や世界の多様性、言葉や概念で汲み尽くすことのできない多様性を、ありのままのイデアとして眺めるという現実の相貌への眼差しが見え隠れしているのである。
このような、もはやプラトン的な理解に収められえないイデアへの眼差しは、彼の音楽論において頂点に達する。ショーペンハウアーは、「[音楽以外の]芸術は全て、意志をただ間接的に、すなわちイデアの助けによって客観化する」が、音楽だけはイデアを通り過ぎ、「意志全体の直接の客観化であり模写」ないしは「意志それ自体の模写」であることができると述べる(WI, 310)。すなわち音楽だけは、イデアという「型」を介することなく、意志それ自体の響きを享受する者へと伝えることができる、とされているのである。しかしむしろ、この音楽において表され享受される“それ自体”もまたイデアの一つの在り方だと考えることができるのではないだろうか。視覚という身体的媒体が、絵画の中に何かしらの事物を、舞台の上の俳優達に独自の性格をそれぞれ見て取るように、音楽によって聴き取られる旋律もまた、聴覚という身体的媒体を介して表象されたものに過ぎない。であるならば、いくらショーペンハウアーが音楽を意志自体の直接の客観化と定義づけようとも、やはりそれは何かしらの概念化できないイデアを表している、ということになるのである。
ショーペンハウアーによって再定義されたイデアを、このように展開して考えると、芸術的天才の媒介と表現の能力に応じて、イデアが呈する多様な相貌が想定されることになる。これについてジンメルは「このような[意志の客観化の]諸段階は限りない数存在するかもしれないし、それらを芸術によって明らかならしめる可能性も限りなく存在するかもしれない」20)と正当にも述べている。この意味は、おそらくジンメル自身が考えていた以上に示唆に満ちたものである。というのも、この理論に従えば、芸術家は、純粋な認識主観として事物や世界を媒介することで、それまではイデアと見なされていなかったようなイデアを、誰も捉えられなかったような新しいイデアを、概念によっては名付けられることができないイデアを、表現できる可能性を持っていることになるからである。この、芸術的天才によって作品化されることでしか表現されえない何ものか、あえて言えば“名付けられえないイデア”(と、ここではさしあたり名付けておくことにする)こそが、ショーペンハウアーの芸術論が潜在的に示唆していた、よりいっそう近代芸術と共鳴するような芸術の表現内容なのである。
芸術作品という表現によって私たちが完全に満たされるのは、ただ、私たちがどんなに熟考しても概念の明瞭さにまで引き摺り下ろすことができないような何ものかを、その表現がそこに留めおく場合だ
けなのである。(WII, 466–467)このようにショーペンハウアーが述べるとき、「概念の明瞭さにまで引き摺り下ろすことができないような何ものか」とは、明らかにこの“名付けられえないイデア”である。とはいえショーペンハウアー自身は、概念で捉えきれないイデアの可能性をこのように示唆しながらも、それを十分に突き詰めた形で展開しはしなかった。しかし彼の芸術論は、この「イデア」という言葉をもって、芸術においてしか表現できないような世界や事物のありのままの姿を、明らかにその視野に入れていたのである21)。 
5. おわりに

 

アーノルド・シェーンベルク(Arnold Schönberg 1874–1951) は、彼の芸術観を表したエッセイ「歌詞との関係」の冒頭においてショーペンハウアーに言及している。シェーンベルクはショーペンハウアーについて、「[……]彼は音楽の本質について本当に余すところなく述べている」と一定の評価を与えながらも、「そのショーペンハウアーでさえ[……]後に、理性では理解できないこの[音楽という]言語の委細を
私たちの概念へと翻訳しようとすることによって、己を見失ってしまう」と述べ、音楽の本質を言葉によって説明しようと奮闘するその姿勢に異議を申し立てている22)。このようにしてシェーンベルクは、「芸術作品の、もっとも真実かつもっとも内的な本質」23)が言葉によっては汲み尽くされえず、ただ芸術作品によってしか表現されえないものであることを、芸術家自身の立場から示そうとしている。ショーペンハウアーの述べるところのイデアとは、まさしくこの「芸術作品の、もっとも真実かつもっとも内的な本質」を、できる限りの言葉でもって、哲学者の立場から説明しようとしたものであるだろう。
本稿において検討したとおり、ショーペンハウアーにおけるイデアは、個々の事物についての現象を超越した範型であるだけではなく、芸術においてのみ表現されうるような、この世界のあらゆるものの相貌の、概念では捉えきれない真の姿を言い表している。そしてその世界の相貌を表現するのが芸術であると考えるならば、ショーペンハウアーの言うイデアの理論は、20世紀に盛隆した抽象芸術とさえ重なり合うものとして理解されることになる。というのも抽象芸術は、世界や人間の内面などが持つ内的なリズムそれ自体を、具象から離れてありのままに表現したものであると、少なくとも一面では考えられているからである。
実際、「内面の響き」の表現として自らの絵画を説明するカンディンスキー(Wassily Kandinsky 1866–1944) らの抽象芸術理論と、ショーペンハウアーのイデア論とは、幾つかの点で共通項が指摘されうる24)。
響きはフォルム[=型Form]の魂であり、フォルムはただ響きによってのみ生命あるものとなることができ、内なるものから外なるものへと働きかけるのである。フォルムとは、内なる内容の外なる表現である。
芸術上のフォルムをめぐるカンディンスキーのこの言説は、本稿において検討したショーペンハウアーの芸術論と重なり合うものである。つまり芸術とは、芸術家という主観が自ら媒体となって感じ取った世界の内奥の物自体の響きを、イデアという客観的な型を通して表現するものであり、その意味で芸術の表現とは「内なる内容の外なる表現」であると言えるのである。このようにして、ショーペンハウアーにおいて芸術が表現するものとされたイデアは、プラトン主義的なイデアの意味を超え出て、20世紀の芸術活動とさえ響き合うような豊かな意味内容を持ちえたのである。 
凡例
・本稿において使用するショーペンハウアーのテクストとその略号は以下の通りであり、引用に際しては括弧の中に略号・頁数の順に記す。
Werke: Arthur Schopenhauer, Sämtliche Werke, 7 Bände, Herausgegeben von Arthur Hübscher, F.A. Brockhaus, Wiesbaden.
Go: Ueber die vierfache Wurzel des Satzes von zureichenden Grunde, 1. Ausgabe (1813), in: Werke VII.
WI: Die Welt als Wille und Vorstellung, Band 1 (1818/19), in: Werke II.
WII: Die Welt als Wille und Vorstellung, Band 2 (1844), in: Werke III.
PI/II : Parerga und Paralipomena (1851), 2 Bände, in: Werke V/VI.
HNI-V: Arthur Schopenhauer, Der handschriftliche Nachlaß, 5 Bände, Herausgegeben von Arthur Hübscher, Waldemar Kramer, Frankfurt a.M., 1966–1975.
・本稿における欧文からの引用は、特に断りのない場合は拙訳によるものである。引用文中の[ ]は筆者による補足を示し、[……]は中略を意味する。 

 

1)Theodor W. Adorno, Ästhetische Theorie (1960). In: Gesammelte Schriften B. 7.,Frankfurt am Main, Suhrkamp Verlag, 1984, S. 9.
2)ショーペンハウアー芸術論と彼の同時代美学との影響関係を論じた比較的新しい論文としては、以下のものが挙げられる:高橋陽一郎「ショーペンハウアーにおける〈イデー〉の形成―プラトン受容から芸術哲学へ(上)」(日本大学文理学部人文科学研究所編『研究紀要』第65号、2003年、1―14頁)、「ショーペンハウアーにおける〈イデー〉の形成―プラトン受容から芸術哲学へ(下)」(同『研究紀要』第68号、2004年、15―30頁)、久保光志「ショーペンハウアーと造形藝術」(日本ショーペンハウアー協会編『ショーペンハウアー研究』第10号、2005年、94―108頁)。
3)ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』第一版の序文において、同書で展開される形而上学、美学、倫理学は全て、彼の「唯一つの思想」の諸相に過ぎないと述べている(WI, VII–VIII)。
4)鎌田康男「ミレニアムのショーペンハウアー」(鎌田康男・齋藤智志・高橋陽一郎・臼木悦生訳著『ショーペンハウアー哲学の再構築〈新装版〉―《充足根拠率の四方向に分岐した根について》(第一版)訳解―』法政大学出版局、2010年)、166―178頁を参照。そこでは、カント批判から出発した学生ショーペンハウアーがやがて積極的にカント哲学を継承するようになり、学位論文に結実する「表象一元論」を作り上げていく過程が、具体的に描かれている。
5)ショーペンハウアーは根拠の原理を、正確には四つに分岐したものと考えているが、その詳細は本稿では割愛する。前掲書『ショーペンハウアー哲学の再構築〈新装版〉』第一部「《充足根拠率の四方向に分岐した根について》(第一版)訳解』を参照。
6)もっともプラトン当人は、芸術がイデアを表現するなどと考えておらず、芸術はただ個々の事物を模写するだけだと考えていた点には注意しなければならない。もちろんショーペンハウアーもこのことをよく自覚しており、プラトンの芸術理解を「最大にしてよく知られた誤りの源泉」だと断じ、あえてその正反対の主張をするのだと表明している(WI, 250)。
7)このように天才の受動的な性格を強調しているからといって、ショーペンハウアーが実際的な芸術活動における能動的な側面を全く無視しているというわけではない。晩年の『余禄と補遺』(Parerga und Paralipomena, 1851) において、彼は「作品を仕上げるという働きAusführung に際しては[……]まさしく目的がそこに在るというそのために、意志は再び活動することができるし、更にいえば活動しなければならない。そのような仕方で再びそこでは根拠の原理が[認識を]支配するのであり、それに従って芸術の手段を芸術の目的に相応しいように整えなければならない。そのようにして、画家はデッサンの正確さや色の取り扱いに、詩人は彼の構想の配列や表現・韻律などに専心するのである」(PII, 446) と述べている。ショーペンハウアーは、芸術作品を制作する働きを、天才の天才性の核心としてのイデアの認識とは別次元の実務的問題として見ていたのである。
8)Immanuel Kant, Kritik der Urteilskraft, Philosophische Bibliothek, Bd. 39a, hrsg. v. K. Vorländer, 1963, S. 160.
9)a.a.O., S. 56.
10)a.a.O., S. 173.
11)Vgl. Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes. In: Gesamtausgabe, Bd. 5., V. Klostermann, 1977, S. 25. なおハイデッガー自身は、ショーペンハウアーの芸術論を美学の名にすら値しないものと見なし、極めて批判的な態度をとっている(Vgl. Martin Heidegger, Nietzsche: der Wille zur Macht als Kunst. In: Gesamtausgabe, Bd. 43., V. Klostermann, S. 125)。しかしそれにもかかわらず、ハイデッガーの芸術論はショーペンハウアーのそれと理論的には極めて近しい事態を言い述べており、その意味でこのような批判的態度は不可解なものでさえある。この点は渡邊二郎氏も指摘しており、「ショーペンハウアーの芸術論」(『ショーペンハウアー研究』第10号、2005年、5―27頁)において詳細かつ的確に論及しているので、参照されたい。
12)渡邊二郎『芸術の哲学』(ちくま学芸文庫、1998年)229―232頁、および335―341頁を参照。渡邊氏は、「主観を超えた〈客観的〉な存在の真実」を「露呈」するものとして、すなわちアリストテレス以来の(そしてハイデッガーやガーダマーもそこに含まれる)「存在論的美学」の系譜のうちにあるものとしてショーペンハウアーの芸術論を評価している。
13)その典型とも言えるのが、注12で挙げた渡邊二郎氏による評価である。この評価は、ショーペンハウアーの芸術論が狭隘な主観性を超え出たイデアという客観的な存在の真理を説いているという点からすると正当なものであるが、しかし本稿で検討するように、ショーペンハウアーの芸術論がイデアの観照において主観を欠かせないものと考えている点に鑑みると、やや単純化された評価であるようにも思われる。この点については高橋陽一郎氏も筆者と同様の指摘をしている。前掲論文「ショーペンハウアーにおける〈イデー〉の形成―プラトン哲学から芸術哲学へ―(下)」の29頁、注19を参照。
14)このような経緯からすると、学位論文の執筆時期におけるイデアは想像力によって恣意的に捻出されうるものだと考えられていたように思われるかもしれないが、実際はそうではない。学位論文執筆期のイデアは、幾何学的図形のような意味での(たとえば二等辺三角形はどのようにイメージしても同じ形となる、というような意味での)「十全な表象」(Go, 63) であるとも定義づけられており、ここで既に「型Form」としての普遍性と模範性を付与されている。それゆえ、学位論文のイデアと『意志と表象としての世界』のイデアとは、それぞれ表象と意志という別の側から規定されている違いがあるだけで、それぞれの規定の間には矛盾がないことになる。齋藤智志「詩人は数学者に似る―ショーペンハウアー哲学の整合的理解に向けて―」(『理想』678号、2007年、81―90頁)を参照。
15)樋口克己氏も同じ指摘をしている。「表象であるということは、この現象世界の内部にある、ということである。プラトン自身はイデアを、この現実世界を超えた別の世界(イデア界)に属するものと考えていたはずだが、その〈プラトンのイデア〉をショーペンハウアーは(それを表象の一部と看做すことによって)〈マーヤーのヴェール〉に覆われたこの世界の内部に、言うなれば引き降ろしたのである」(樋口克己「芸術・真理・虚偽―ショーペンハウアー《と》芸術―」『ショーペンハウアー研究』第10号、83頁)。
16)Vgl. Georg Simmel, Schopenhauer und Nietzsche. In: Gesamtausgabe Band 10, herausgegeben von Michael Behr, Volkhard Krech und Gert Schmidt, Suhrkamp, 1995, S. 281.
17)「1888年には『意志と表象としての世界』のビュルドーによる仏訳(Monde comme volonté et comme représentation) が、パリで出た。フランスにおいて、後期印象主義と初期ユーゲントシュティールのフランス美学に与えたショーペンハウアーの影響は、じかに典拠を示して証明することができる。エミール・ベルナールが手紙のなかで書いているところによると、ベルナールはブルターニュ旅行中片時もはなさずに一巻のショーペンハウアーを持ち歩いており、ポン= タヴェンではたびたびショーペンハウアー論議がたたかわされたという」(ハンス・H・ホーフシュテッター『ユーゲントシュティール絵画史―ヨーロッパのアール・ヌーヴォー―』、種村季弘・池田香代子訳、河出書房新社、1990年、40頁)。
18)ウード・クルターマンによると、セザンヌがカントやショーペンハウアーの著作を読んでいたことが伝えられており、それがアポリネールなどにも影響を与えていたという。実際、理論の面で、これらの芸術家の美学理論とショーペンハウアーの芸術論とは重なり合うところがある。クルターマン『芸術論の歴史』(神林恒道・太田喬夫訳、勁草書房、1993年)、176頁および193頁を参照。
19)久保光志氏は、ショーペンハウアー美学を「美術理論における古典主義的な〈イデア〉の理論を、それ以外の他の藝術ジャンルに拡張することによって成り立つもの」と見ることができる点、また美学に適用された芸術ジャンルの「ヒエラルキー的な諸段階」が、部分的な新しさはあっても、基本的にはフランスの絵画彫刻アカデミーのような古典的伝統に従うものであった点を、指摘している。前掲論文「ショーペンハウアーと造形藝術」のとりわけ97頁を参照。
20)Simmel, a.a.O., S. 279.
21)久保光志氏もこのイデアの多様性に言及しており、「[……]すでに〈イデア〉を語ることの必然性はなくなるのではないだろうか。こう考えれば、〈個性〉としての〈性格〉の多様性をそれとして認めるほうが、むしろ事態に即していると思われる」(前掲論文、104頁)と述べている。氏はまた、客観的側面を強調するショーペンハウアーのイデア論では意志の「表現」が十分な仕方でなされえないとした上で、「このような困難を取り除くにはイデア論の枠組みから解放されなければならない」(106頁)とも述べる。この指摘は、人間や世界の多様性を表現するためにあえてプラトン的「イデア」の語を使用する必然性はないという点では、的を射ている。しかしイデアの観照という事態が客観的側面にのみ優位を置くがゆえに「表現」を十分になしえないとする点は、本稿で考察した主観的側面の重要性を鑑みると、やや一面的な見方であるように思われる。私自身は、ショーペンハウアーのイデア論は、主観と客観の両側面を不可欠なものとして措く点で、20世紀の芸術論とさえ呼応するものだと考えるし、その意味でイデア論の枠組みから「解放されなければならない」とは思わない。むしろそれを、より豊かな内容を持たせて展開することさえ可能なのではないかと考えている(とはいえ、このようなイデア論がはたしてショーペンハウアーのものであるのかという点は、問題ではあるだろうが)。
22)Arnold Schönberg, Das Verhältnis zum Text. In: Der Blaue Reiter (1912), heraus- gegeben von Kandinsky und Franz Marc, München, R. Piper & Co. Verlag, 1976, S. 28.
23)a.a.O., S. 32.
24)K・ハリーズ『現代芸術への思索―哲学的解釈―』(成川武夫訳、玉川大学出版部、1976年)中の「直接性の探求」(前掲書173―194頁)および「イシスのヴェール」(同195―210頁)を参照。同書においてハリーズは、20世紀抽象芸術を理解するための思想的な手がかりとして、ショーペンハウアーに多く言及している。そこにはショーペンハウアーの思想から逸脱した恣意的な解釈も見られるが、同時にショーペンハウアーの芸術論の内的な豊かさを考える上で非常に示唆深い記述も見られる。
25)Kandinsky, Über die Formfrage. In: Der Blaue Reiter, S. 75. 
 
ショーペンハウアーの老人論 / ペシミストの楽天的考察

 

1.
団塊の世代が定年を迎えている昨今、老人問題が盛んに議論されている。その多くは経済的、社会的観点からのものであり、議論は白熱化している。そして老人問題を考えてゆくと、ついには老いそのものの考察へと進まざるを得ない。
しかし老いについて語ることは、元来タブーだったのではなかろうか.『老い』(1970)を出版したボーヴォワールは「社会にとって、老いは言わば1つの恥部であり、それについて語ることは不謹慎なのである」と書いている。今日の日本で老いに対する議論が盛んなのは、高齢化率の高まりとは別に、経済的条件の好転に伴い、老いを全体としてネガティブにのみ見るのではなく、プラス面を評価する地盤が出来てきたことも寄与しているように思われる。
ところで、20世紀前半までは平均寿命も短く、まさに「人生七十古来稀」の世界であったから、今日のような老人全体を対象とした社会的レベルの議論は無きに等しいが、昔から老人あるいは老いについて語った人物は少なくない。ここでは、いささかシニカルではあるが、老年に積極的な評価を与えたショーペンハウアー(1788〜1860)をとりあげたい。彼は自他共に認めるペシミストで、生涯独身の哲学者である。63歳で出版した『余録と補遺』(1851)に含まれる「年齢の差異について」において、楽天的老人論を展開した。
彼の老人論は、あくまで、自身の老いを哲学者の立場から深く掘り下げるところからきており、そこに普遍性を見出そうとしている。しかし、実際に見えてくるのは、ショーペンハウアーの人と哲学である。今日の老人問題への示唆を求めてアプローチしても無駄になるであろう。むしろ、各自の老いという、個人的なかかわりで見るべきであって、そうすれば裨益するところも多いと思われる。ペシミストがなぜ楽天的だったのか、また、彼の老後は実際にどうだったのかを含めて以下に述べてゆきたい。  
2.
ショーペンハウアーは「年齢の差異について」の中で人間の一生を4つの時期に分けている。それは少年期、青年期、壮年期、老年期で、それぞれの時期の特徴を要約すると次のようになる。少年期は、特権的、観照的、審美的で幸福が強烈であればあるだけ不幸も強く感ずる。青年期は生きることを渇望するために、かえって挫折することも多く不幸に陥る。また、性欲に悩まされる。壮年期についていえば、40歳を過ぎると憂鬱である。情念や野心を断念したわけではないが、行く手に死をみるからである。そして老衰に先立つ
老年期は最も幸福である。「最良の年」と呼ぶこともできる。ただし、それには2つの条件がある。それは健康と、弱まった体力をカバーする程度の金をもつことである。この2つが満たされれば生涯のうちで極めてしのぎやすい時期となる。まず、時間が速く過ぎ去るので退屈がない。また情念が沈黙して、血も冷却し、性本能から開放されて人は理性を取り戻す。そしてこの世はすべて空しいとの洞察を得るから精神的にも平静を保つ。壮年期には憂鬱の種となる死も理性と精神的平静の前では脅威にならない。
このように見てくると確かにショーペンハウアーは老年期を高く評価していることが分かるが、重要なことは、その考え方が彼の哲学体系と密接に結びついており、単に「年齢の差異について」のみに見られる孤立的、断片的なものではないということである。
彼の哲学の根本命題は主著のタイトルそのもので『意志と表象としての世界』である。「意志」は世界の本質、本体で盲目的に生きようとする。意志に支配されると、人間は常に欲望に悩まされて休まることがない。これに対して「表象」としての世界は、認識の世界であって知的でやすらかである。ショーペンハウアーの目的は意志の世界を捨てて表象の世界に入ることであるが、人間は生涯に二度、これを経験する。一度目は少年期で、まだ意志が十分に働かないためと、逆に直観力や認識力が高いためである。二度目は老年期で意志の力が弱まるために認識力が表面にでてくるのである。 
3.
彼の哲学は「ペシミズム」の哲学といわれるが、ラテン語の語源が意味するところは「常に最悪のことを考えて行動する」イズムなのである。ペシミズムは日本語で厭世主義あるいは悲観主義と訳されるが、本来「最悪主義」と訳されるべきものである。波多野精一のように、この訳語を採用した学者もいたけれども、一般化するに至らなかった。その理由の1つとして考えられるのは、ペシミズムには確かに厭世主義の側面もあるからである。ショーペンハウアー自身は著作で自分をペシミストと書いたことはないが、ホルンシュタインとの対話の中で、バイロン、レオパルディそして彼自身を最も偉大なペシミストと呼んだことが記録されている。生涯と著作、とくに生涯から判断すると、ショーペンハウアーには「最悪主義者」が相応しいが、バイロン、レオパルディには向いていない。むしろ「厭世主義者」の方が当たっている。それで結局のところペシミストのままが無難ということにもなる。オプティミズムも同じく「最善主義」という意味であるが、こちらは「楽天主義」で問題ないように思われる。とくに形容詞形のオプティミスティックは長いので「楽天的」の方が具合がよい。
ところで「最悪主義」には用心深さや守りの姿勢が感じられる。これは老人に多くみられるものである。バイロンやレオパルディは、これらに欠けていたが、ショーペンハウアーは若い時から老人向きの行動原理を守っていたのである。これらの点からみると、ショーペンハウアー哲学は、元来、老人向きのもの、老人にこそ、よく理解されるものと思われる。彼の哲学はペシミズムという、若者を惹きつけやすい名称でよばれることがあるために、若者の哲学と考えられる場合が多いが、これは正しいとはいえないのである。彼は同じ「年齢の差異について」の中で次のようにも言っている。「若い人は直観がすぐれているから詩に適しており、老人は思考がすぐれているから哲学に向いている。若者には憂鬱と悲哀があるが老人にはある種の朗らかさがある。若い人は不安だが老人は平穏。独自の認識は若い時に持たねばならないが、偉大な著述家の傑作は50歳頃から生まれる」。
いずれも老年期を褒めこそすれ、貶すものはない。そしてこれらの特徴づけも、彼自身の経験からきていることは彼の伝記を読めば容易に想像がつく。それでは老人には欲と呼ばれるものは無いのだろうか。そんなことはない。名誉欲(Ruhmsucht)があるのだ。弟子のフラウエンシュテットが師の考えを伝えている。「名誉欲をショーペンハウアーは老年の根本特徴とみなした。老人たちに、すでに他のすべてが無くなっているとしても、彼らは、なお、この一つのもの、すなわち名誉欲をもっている」。しかしこの名誉欲も身を亡ぼすような危険なものではない。それは過去の「英雄的行為」や「かつての栄光」を語ることであり、どんな老人も、彼の生涯において、自慢できる「喜びの日」や「栄光の日」を持ったことがあるとショーペンハウアーは考えているからである。
とはいえ、たとえ健康であっても、老人は長生きをすればするほど、死に近づき、死の影が忍び寄ってくることは避けられない。この問題を抜きにして、老年を論じることはできないだろう。ショーペンハウアーの答えはEuthanasieである。これは辞書には安楽死とあるが、彼の意味するところはleichtes Sterben すなわち「苦痛のない楽な死」である。彼は次のように説明する。「高齢になるにつれて加速度的に全ての力が消滅してゆくことは、確かにたいへん悲しいことである。しかしそれは必然的なこと、いやそれどころか、ありがたいことである。というわけは、もしそうでないと、すでに準備作業をしている死が非常に辛いものになるだろう。だから非常な高齢に達することがもたらす最大の利益はEuthanasieすなわち、非常に軽い、病気が原因でない、痙攣をともなわない、全くそれと感じられない死である」。これは多くの日本人が希望している「ポックリ逝く」というのに近いと思われる。実際にショーペンハウアー自身の願望でもあった。それでは、このような死に恵まれる人は何歳位の人であろうか。彼は90歳を超えた人だけだといっている。
死後の世界についてはどうであろうか。ショーペンハウアーは、個体の存続あるいは持続をきっぱり否定する。つまり個体は死ねば滅びるのである。このことからキリスト教は否定される。他方で彼は「われわれの真の本質は死んでも滅びない」と主張する。庶民感覚では、死んだら自分がどうなるかが最大の関心事である。いや、これは庶民に限ったことではないかもしれない。「真の本質は死んでも滅びない」といわれても、理解に苦しむのが普通である。すくなくとも、これで救われることはないだろう。ところで、これは汎神論ではない。汎神論はキリスト教を前提にしているという解釈のもとで、同じく否定されているのである。ショーペンハウアーは、この自分の哲学からの帰結に確信をもち、死に至るまで揺らぐことがなかった。すでに述べたように彼は自分に沈潜し、そこから一般論を導き出してくる。彼がこのように死及び死後の世界について信念をもち、それに安んじていたことも、彼の老人論に影響したことは疑いのないところである。
老人にとって死に劣らず脅威とされているのが孤独である。年をとればとるほど、当然ながら、先輩、同輩が他界してゆき、若い人からはボーヴォワールではないが、「1つの恥部」として目をそむけられる。だから孤独と死が結びついた孤独死ほど惨めなものはないと思われている。しかしショーペンハウアーにとっては、孤独は老年の特徴というより、人間の中身の問題であって年齢は関係ないのである。「才知に富む人間(ein geistreicher Mensch)ならば、全く孤独になっても自分の持つ思想や想像によって結構なぐさめられるが、愚鈍な人間であってみれば、社交よ芝居よ遠足よ娯楽よと、いかに引切りなしに目先がかわっても、死ぬほどつらい退屈は、どうにも凌ぎがつかない」。このことから、彼は孤独を好み、自らによって慰められる人は「一財産持っているのと同じ」とみなしている。また彼は「人間の幸福にとっては、われわれのあり方(Was einer ist, What he or she is)、即ち人柄こそ、文句なしに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである」といっているが、「才知に富む人間」とは、まさしく「われわれのあり方、即ち人柄」にかかわるので、努力してなれるものではない。健康や金を手に入れるのとは異なる。この、われわれのあり方の重要性を彼は英語の表現を引き合いに出して分かりやすく説明している。「英語で『楽しむ』ことを『自分を楽しむ(to enjoy one’s self)』というのはきわめて適切な表現だ。例えばhe enjoys himself at Paris.『彼はパリで自分を楽しむ』といい『彼はパリを楽しむ』とはいわない」。 
4.
晩年のショーペンハウアーは「常に最悪のことを考えて行動する」を実践した結果、健康と金を維持できていた。孤独は、若い時から友として、その効用を説いてきたので、苦にならないどころか、むしろ歓迎する状況にある。普通の人間であれば、老後はこの3点セットで事足りる。現代の老人問題は、まず健康と金、つぎが孤独対策といったところであろう。更に彼は、長年悩まされてきた性欲から解放され、死及び死後の世界についても自分なりの確固とした見解を持ち、微動だにせずという状態にある。加えて、長い不遇時代を経て、今や近著のおかげで主著を含めて彼の著作が読まれるようになってきた。更にいえば、妻子など係累がまったくないので後顧の憂えがない。このような人物、老人の中での例外中の例外が書く老人論が楽天的なのは当然である。最初に述べたように何ら老人問題解決のヒントにはならないかもしれない。しかし、われわれ個々人が老後を考える上で、それぞれの置かれた状況に応じて、彼の老人論から多くの示唆を得られるのではないだろうか。
最後に彼の死について簡単に述べておきたい。彼はEuthanasie(苦痛のない楽な死)を狙って90歳まで生きることを目指していたが、結果的には1860年に72歳で永眠した。80歳のカント、83歳のゲーテには遠く及ばないが、19世紀に生きて古稀を越えたのだから長生きの部類にはいる。晩年のショーペンハウアーと身近に接したグヴィナーは、臨終について次のように書いている。「9月21日の朝、彼はいつものように起床して冷水浴を試み、続いて朝食を取った。やがて来た家政婦がちょうど朝の空気を部屋に入れて立ち去ったばかりであったが、つづいてまもなく往診に訪れた医者が入室して、彼の死を発見した。彼はソファの隅で仰向けに寄りかかったまま死んでいた。肺卒中(Lungenschlag)が苦痛を与えぬままに彼をこの世から連れ去ったのである」。彼は4月頃から呼吸困難や動悸を経験し、9月には肺炎で出血症状もみせていたが、死亡当日の記述からみれば、念願のEuthanasie で死を迎えたということも出来るだろう。
註:「年齢の差異について」の邦訳は、橋本文夫氏による名訳に依った。  
 
近代ヨーロッパのペシミズム

 

はじめに
ペシミズムの本質は、現実世界に向けられた批判的なまなざしである。世界― ことに、現代の西欧(化された)世界 ― は、さまざまな欲望が渦巻く現実を無批判に受け入れ、欲望充足の円環構造を無限増殖することによって成り立っているように見える。欲望の自己増殖が人の心、社会、自然環境に与えるダメージには目もくれようとしない。これに対してペシミズムは主張する― 「世界は最悪である」。それは現状を最善のものとして盲目的に受け入れ賛美する西欧的世界を「生への意志の肯定」として示しつつ、これに「ペシミズム的還元」を施し、意志の自己否定、意志の鎮静という新たな地平を開く。
「ペシミズム」はその反対語である「オプティミズム」と同じく、近代市民社会の造語である。しかし、現実批判としてのペシミズムは、思想の歴史と同じぐらい古い。本稿のねらいは、次の二点に集約できる。1現実批判としての「ペシミズム」が、とくにヨーロッパ世界において果たした思想文化史的役割を、ショーペンハウアー哲学の視点から評価すること。そこから2西欧の文化形成に深く関わってきたキリスト教における「ペシミズム」的要素を検討し、「ペシミズムと宗教」をめぐる議論への提題とすることである。 
一 ヨーロッパのペシミズム
名のないペシミズム〜 名付けられたペシミズム〜 名を失ったペシミズムヨーロッパ思想文化史におけるペシミズムを考察するにあたり、その特徴を際立たせるために、近代市民社会以前の「名のないペシミズム」と近代市民社会、ことに産業革命期以降の「名付けられたペシミズム」とに分けてみよう。両者に共通するのは現実への批判的なまなざしであるが、明らかな相違も認められる。さらに、ペシミズムの現代的形態を「名を失ったペシミズム」として描いてみることにしたい。
「名のないペシミズム」と「名付けられたペシミズム」を区別する理由は、第一に、ペシミズムという表現が存在しない近代以前の思想をペシミズムと呼ぶのは、ひとつのアナロジーであり、近代市民社会において自覚的にペシミズムと名付けられるものと不用意に同一化することの危険に注意を喚起するためである。しかし同時に、第二に、両者を区別しつつ、非・近代西欧(的)思想における「ペシミズム的なもの」の意義を問う姿勢表明でもある。 
二 近代ヨーロッパのペシミズム― 名付けられたペシミズム・負け惜しみのペシミズム
近代市民社会は、既成の存在秩序、たとえば伝統的同業組合を無効であると見なし、なきものとし、新たな存在秩序の構築を意欲した― 新製品を開発し、新しい市場戦略を産みだし、そして何よりも貨幣経済とその帰結であるグローバル経済とに代表される新たな経済システムを構築しつつ、既成の秩序を駆逐していった。
カントからドイツ観念論を経てショーペンハウアーに引き継がれる「意志」の概念は、近代市民の思考行動様式に与えられた別名である。カント以降の伝統では、意志は一定の表象によって対象を産出、ないし規定する能力であり、ショーペンハウアーによれば、表象としての世界も意志が認識能力に働きかけたことによって生じるファンタスマに本質的に依存している。
新たな存在秩序を構築し、その目的の実現に向かって突進する意志が強いほど、障害に突き当たったときの反動も大きい。一八四八年の革命の失敗、経済発展にもかかわらず拡大する社会的格差、ヨーロッパの繁栄を支えた植民地における独立運動、そして世界大戦の時代へと、様々な障害が立ちはだかることになったのである。
「名付けられたペシミズム」は、近代市民社会特有の欲望と生への意志とがあおられ、強められ、ついに障害に突き当たって挫折したときに、「いくら努力しても無駄なことさ、最悪の世界なのだから」と、自分に言い聞かせる負け惜しみのペシミズムである。そのために、世界を最悪であると認識するにとどまらず、砕かれた意志への反動として「厭世的」に世界に背を向けることになる。そのような厭世観が欲望と生への執着と表裏一体であり、それ自身が一つの自己矛盾である、ということを、ショーペンハウアーはその自殺論において示した。
ニーチェもそのような事態を正しく理解しており、ペシミズムの背後にデカダンスとルサンチマンを見たのであった。そのような意味で、負け惜しみのペシミズムは、十九世紀後半のペシミズムの本質をなすと言ってよい。しかし、自分自身の生命の充溢に基づくディオニュソス的ペシミズム以外のすべてのペシミズム的思考を、伝統的キリスト教におけるペシミズムをも含めて十把一絡げに生命力の低下、すなわち弱者の自己保身欲によって説明しようとしたニーチェは、その限りにおいて十九世紀後半の近代市民社会の思考行動様式を体現する意志の形而上学者であった。 
三 現代消費社会における名を失ったペシミズム― 創造から消費へ
私たちは近代市民社会の直系社会に生きている、少なくともそのように考えられることが多い。私たちの国家理念は、近代市民社会のそれを継承しているように見える。新日本国憲法は、アメリカ合衆国憲法やフランス人権宣言の系譜に位置しているではない。
しかし、近代市民社会は十九世紀末を境に消費社会へと変化をとげた。それによってペシミズムの意味も変化した。「名のないペシミズム」へと問い進む前に、この点についても言及しておきたい。
近代市民の思考行動様式は、哲学的には新たな存在秩序を構想し実現する「意志」の概念に集約される。新たな存在を産みだす自由な創造は、同時に産みの苦しみをともなう。物資の消費に伴う利便と快楽は、生産の労苦によって担保されていたのである。
しかし、産業革命による生産量の飛躍的増大と共に、生産と消費の分離が進む。必要があるから生産するのではなく、生産すればするだけ儲かるから生産するのだ。生産は消費を度外視した自動機械(industria, business)となる。生産の余剰部分は当面、国家的な大量消費(その代表格が軍事産業とその帰結としての戦争であった)によって吸収された。この解決方法は現代の覇権主義国家が今なお好んでとる方法である。だが、その対価はあまりにも大きい。消費の主体は軍から民へと移行する。個々の市民の消費を活性化するために、消費のシステムは消費欲求のシステムへと組み替えられ、営業と宣伝の領域へと委譲される。社会及び家庭における生産者と消費者の分化が進み、純粋消費者であることは美化された。この社会観の変化に、ハリウッド映画が果たした「功績」は大きい。欲求の無限増殖こそが、生産と切り離された消費を無限運動(perpetuum mobile)とすることができるのである。生産を忘れた消費大衆は、無反省に消費欲求の無限増殖を生きる。― 専業生産者としての夫は残業に明け暮れ、その間妻は買物へ(有閑マダム)、子どもは大学に籍を置きつつ消費大衆へと純粋培養される(大学の遊園地化)。無限増殖する(させられる)欲望という名の癌細胞は、今や残されたあらゆる非生産者集団を餌食とする― 老いる人々を死に至るまで追いかけ、死を一層不安なものとする。そして最後の犠牲者は、心身にハンディキャップを負う人々だろう。こうして人間は、経済の持続的発展のために責任能力の限界まで、いな、自己の責任能力の限界を超えて消費へと駆り立てられることになるだろう。現代消費社会は、盲目な生への意志の肯定の極限状態である。
生産を忘れた消費社会は、価値が生産によってではなく、無限の交換によって、マネーゲームによって産みだされると信じた。消費動向こそが経済的活力の指標となった。消費社会は、生産の担保を失い、過渡的形態としての金の担保も失い、シャボン玉のようにふくらみ、シャボン玉のようにはじけた。しかし、生産の労苦を憎む消費大衆は、負け惜しみのペシミズムを産みだすだけの知的労苦にも耐えられず、テレビや街角にあふれる食欲・性欲・自己顕示欲・所有欲といったプリミティヴな欲望の充足に短絡的に逃避する。かつての創造的欲望充足の代償行為にふけりつつ、自らを自由であると錯覚する。映画『マトリクス』の青いピルを選び取ったのである。そこにあるのは、「名のないペシミズム」とも「名付けられたペシミズム」とも異なる、「名を失ったペシミズム」、「究極のペシミズム」である。 
四 名のないペシミズム
近現代のヨーロッパ的ペシミズムは、創造的意志の理想化、欲望の無限増殖、そしてすべての「人間らしさ」を欲求充足へと格下げすることによって特徴づけられる。それは個々人のアイデンティティ、社会環境、自然環境を危機に追い込みつつも、大衆消費物資の生産・流通・消費の拡大によって、無限にふくらむバブルの夢を見せた。日本の経済復興は、大衆消費物資の生産・流通・消費の再拡大によって達成されると信じる時代錯誤がまだまだ根強い。
しかし私たちは、「ペシミズムと宗教」という共通テーマによって、近代市民社会のペシミズムとは別のペシミズムの可能性を捜し求めている。それは自己中心的な欲望の充足の神聖化によって、すべての公共性(ポリテイア)を家政(オイコノミア)へと解消した近代市民社会の盲目な生への意志の肯定の代償としての負け惜しみのペシミズムではありえない。
「名のないペシミズム」は、欲望の賛美が世界をあるべき世界とあるがままの世界に分裂させ、その分裂によって人を自己矛盾と争いに突き落とすことを、欲望の自己増殖に先立って感知し、注意深い欲望の制御、意志の鎮静へと導く。ヨーロッパにおいてそのような予見的で注意深いペシミズム(vorsichtiger Pessimismus)の役割を担ったのがキリスト教であった。この時期に至るまでの数世紀― ヤスパースは枢軸時代と名付けている―に、古代ギリシャ、古代ユダヤ、古代インド、古代中国でそのような注意深いペシミズムの性格を帯びた智慧が多様な仕方で現れ、それが儒教、仏教、キリスト教など、その後の人類を導く諸宗教へと結実していったのは興味深い。注意深いペシミズムという観点から、教義の多様性にもかかわらず、諸宗教の対話のひとつの地平が見出されるであろう。
キリスト教は、少なくともその初期においては著しく現実批判的である。それは、イエスが当時のユダヤ教に対して行った体制批判だけではない。むしろ、自然人としての人間の内的現実― その自己中心性への洞察と批判こそが、初期キリスト教におけるペシミズムの根幹をなす。アダムが神の掟にそむいて犯した罪(原罪)こそが苦と死との原因であり、罪を悔い改め、キリストにおける愛の共同態(教会)に立ち帰ることによって人は平安と永遠の命とを得る、というメッセージはキリスト教の根幹をなすものである。誤解を恐れずに述べるなら、日本における一般的なキリスト教理解、すなわちキリスト教の根本を「唯一神の存在」に求めるという理解は、キリスト教の現実的生(個としての、および共同態の生を含む)への関わりから眼をそむけ、一つの神話的反自然科学的教理体系へと矮小化してしまう危険がある。「神の存在」(神学的には神の存在証明)というテーマ自身が、キリスト教がイスラームと抗争関係に入る十一世紀以降に成立するものであり、それまでは神は「存在する」というより「生きる」といわれることが多かったのである。いずれにせよ、キリスト教を「名のないペシミズム」として理解することは、キリスト教の根幹に人間の原罪性、すなわち自己中心性への洞察を見る、ということを意味する。愛の共同態にそむく自己中心的な欲望充足への性向を「罪」という定式にもたらしたうえで、そのような罪の奴隷状態からの解放こそがキリスト者の真の自由であるとする思想は、キリスト教の歴史において極めて重要な流れを形成している。奴隷(僕)とは、主人に仕えて自己自身を思うとおりに制御できない状態である。だが、身分としての奴隷以上に、思慮を欠き、自己の欲望に支配される奴隷の心、罪の奴隷状態こそが克服されなければならない、その自己中心的な思考行動様式を転換し(改心し)、新しく生まれる必要があると考えられたのである。ちなみに、このような奴隷理解は、古代ギリシャ・ポリス世界においてもひろく受け入れられており、そのような思想的近親性が、キリスト教のヘレニズム世界への伝播を容易ならしめたとも言える。「~の貌にて居給ひしが、・・・僕の貌をとりて人の如くなれり。・・・己を卑しうして死に至るまで、十字架の死に至るまで順ひ給へり。」と描かれるキリストは、主と僕の概念を逆説的に読み替えることにより、まさにそのような自己中心性からの解放の模範となった。
後世のしばしば排他的・攻撃的な「信仰」ではなく、すべてを、自分にとって好ましくないもの(苦)、好ましくない人(敵)までをも受け入れる「キリストのまねび imitatio Christi」の思想が成立する。劇的に描写されることが多い殉教物語も、中世における清貧も禁欲も、本来は、天国に行くという「最大の欲望」を満たすためというより、キリストのまねびの表現と解されるべきものであった。自らの自己中心的な心の貧しさに直面してへりくだる者だけが、神に出会うのである。「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。・・・幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。」
名のないペシミズムは、挫折による名付けられたペシミズムと異なり、それが働いている限り、ペシミズムとしては自覚されない。なぜなら、自己中心の挫折ではなく、予見的で注意深い自己中心の克服こそが関心事だったからである。もっとも、自己中心的意志の克服自身が克服への意志として、挫折の危険に瀕する、というパラドックスは常に自覚されていた。マイスター・エックハルトに代表される中世神秘主義の流れ、ことにチューリンゲンの聖エリザベートの生涯は、このパラドックスとの格闘そのものであり、自己犠牲的な隣人愛の行為の原点として理解されなければならない。そして同種の問題意識がショーペンハウアーにおいては「意志の否定」、すなわち近代市民社会において怪物的な規模へと膨張した存在構築への意志の鎮静の思想へと結実したのである。 
五 ショーペンハウアーのキリスト教観
キリスト教におけるこのようなペシミズム的要素に注目するならば、なぜショーペンハウアーがキリスト教の本質をペシミズムと考えたか、容易に理解できる。ショーペンハウアーのペシミズム理解は、「厭世主義」― 世界への精神的不適応を白状すること― ではない。人間の自己中心性(エゴイズム)の不在を道徳の根源におくことにこそ、ショーペンハウアーのペシミズム論の核心がもっとも明確に表現される。それはキリスト教の伝統に見られる名のないペシミズム、ないし注意深いペシミズムに限りなく近い。ショーペンハウアーは、イエスの教えの本質はペシミズムであるとした。しかしながら、近代市民社会的・自己利益肯定的・楽観主義的なキリスト教の諸形態の繁栄によって誤解の危険が大きかったキリスト教に替えて、仏教をペシミズムの宗教の代表格として評価したのだった。
同時に、晩年のショーペンハウアーが自らの哲学をペシミズムと「名付ける」に至って、さまざまな誤解の種を蒔いてしまったことも、看過できない。実際、ショーペンハウアーに対する批判の多くは、彼のペシミズムを反抗的できむずかしく、負け惜しみの強い性格に帰している。それによって、負け惜しみのペシミズム(その本質は盲目な生への意志の肯定)を生みだした近代市民社会への批判を本質とするショーペンハウアーのペシミズムが見誤られた。しかし、それらの誤解にもかかわらず、ショーペンハウアーによって提起された「ペシミズム」への問いは、自己利益(多くは経済的自己利益)至上主義へと凝り固まり、「人間とはそういうものさ、だから私もそのように自己利益を求めて生きるほかない」と、公然とあるいは内心で開き直る自己中心的な究極のペシミズムに対して、別のもう一つの生き方― 注意深いペシミズム― を指し示す。それは、時代の波にもまれながらも、現代にまで生き続けた諸宗教と共有することのできるメッセージではないだろうか。 
 
ショーペンハウアーとその父

 

筆者は数年来「哲学と家族」というテーマのもと、とくにショーペンハウアー哲学を論究の俎上に載せてきた。
「哲学と家族」というテーマ設定はこれまで、ほとんどなされたことがないように思われる。
たしかに、両親や兄弟姉妹などとの関係が哲学者の人間育成や思想形成に及ぼした影響については、伝記などに詳述されることはあるにせよ、思想問題としての意義に関しては傍系に留め置かれてきたというのが実情であろう。「家族」に関する社会学や心理学、教育学はあっても、「家族哲学」という語がおよそ耳にされないことにも、そのことは明らかである。「家族哲学」は将来的課題として横目ににらみつつも、さしあたり、家族のメンバーもまた、哲学者本人に劣らず、文化史的に重要な足跡を残している事例を取り上げ、そのことによって、思想問題としての「家族」のダイナミズムをより具体的に浮き彫りにすることに取り組みたい。
こうした問題意識からするなら、ショーペンハウアー一家は対象として取り上げるのにうってつけである。というのも、早く死んだアルトゥールの父は別とするなら、母ヨハナはワイマールでサロンを主催して、ゲーテなどと親交を保つと共に、小説や旅行記を矢継ぎ早に発表し、当代隋一ともいうべき女性流行作家としての地位を築いたし、また病弱の妹アデーレは残した作品の数こそ少ないものの、多方面に傑出した才能を発揮した人物であったからである。
だが、本稿で主題とするのは、アルトゥール・ショーペンハウアーと、彼が16 歳のとき死別した父、ハインリヒ・フローリスとの関係である。ただし、父とのその関係はもっぱら、息子の側の思想の問題として考察される。つまり、父との関係が息子の思想にどのような「影響」を及ぼしたのか、その内実を探るというのが、本稿の目論見である。その際、重点は、父から受けた教育などの具体的事項が、個々の論点に関する息子の思想内容をいかに規定しているのかというところにではなく、むしろ、息子の思想活動を全体として可能ならしめる「空間」がその精神に映じた「父」の姿によって、どのようにして開拓され、彼の思想のいわば「超越論的」枠組みを構成することになったのか、を解明することにおかれる。 
結論を少々先取りしておくなら、ショーペンハウアー思想において、「父」は亡きものであることによって、「真理」と同一視される。しかも、その「真理」たるや、この世の諸真理の真理としての身分を保証するような超越論的真理であって、いかなる妨害や誘惑の魔手も寄せ付けないだけの純粋性と強靭性を具えた理念として理想化される。「神」ないし「神」の代理として神格化された真理である。真理のこの理念化ないし神格化を可能ならしめた存在、いや非存在こそ、ショーペンハウアーにあっては「父」であった。 
1.父の死

 

1819 年12 月当時31 歳のアルトゥール・ショーペンハウアーは、ほぼ1 年前に出版した主著『意志と表象としての世界』への矜持を胸に秘めながら、ベルリン大学哲学部の私講師の地位を得るべく、同学部の学部長に対し、それまでのみずからの経歴を述べた比較的長文の文章をラテン語でしたため、提出した。その履歴書の最初のほうで彼は次のように述べている。
わたしはダンツィヒで1788 年2 月22 日に生まれました。父はハインリヒ・フローリス・ショーペンハウアーで、現在も存命中の母、ヨハナ・ヘンリエッテ・トロジーナーは公刊された多数の著作によってもよく知られています。とはいえ、わたしはあやうくイギリス人になるところでした。というのも、母は出産間近かになってようやくダンツィヒに戻ったからです。――他方、父は立派な人でした。裕福な商人でポーランド国王の宮廷顧問官でもありました。もっともそのように呼ばれることは決して認めませんでしたが。峻厳でしたが、同様に公平で誠実、信義に厚い人で、そのうえ商売上の事柄について卓越した慧眼を備えていました。この父にわたしがどれだけのおかげを蒙っているか、言葉でもって表現することはほとんどできません。というのも、父が最良のものと思って定めたわたしの進むべき道筋は、わたしの精神に適したものではなかったとはいえ、次のようなことはすべてひとえに父のおかげなのです。つまり、わたしが早くからいろいろな学芸に習熟し、ついでまた、わたしが唯一そのために生まれたところの学問研究を追及し、精神を学識によって高めるべく自由と余暇とそれ以外の補助手段に恵まれたこと、そしてそのあと最後には、より成熟した年頃となったいま、わたしのような境遇や才能の持ち主がごくまれにしか享受したためしのない便宜がわたしには労力を払うまでもなく与えられてあるということ、すなわち、自由極まりない余暇とあらゆる心配事の完全な欠如、これによってわたしには、続く多くの年月を利得とはまったく無関係な研究や探求、また難解な省察にもっぱら振り向け、最終的には、探求し考察したことを何ものにも気を取られずまた煩わされずに書き記すことが許されたのです。 「なんとなれば、いかなる帝もこれだけの余暇をわれらに授けることはかなわなかったのだから。Nam Caesar nullus nobis haec otia fecit.」―― こうしてわたしは、この立派な父がわたしに対してしてくれた、口ではまったく言い表しえないほどの善行と恩恵とを、生きている限り、心からの感謝の念を持っていつも思い起こすことでしょうし、また父の思い出を聖なるものとして心のうちに培ってゆくことでしょう 。
父ハインリヒ・フローリスに対する敬愛の念が吹き零れそうな文面である。とはいえ、「父の思い出」を云々する最後の一文からも推察されるように、父はすでにこの世にない。この履歴書が執筆されている時点で、死去から15 年近くも年月は過ぎている。1805 年4 月20 日、裕福な貿易商であったハインリヒ・フローリスは、家の倉庫に開いていた隙間から運河に落下して死亡した。自殺と推定されている。そのしばらく前から病的な不安と難聴の亢進に悩まされ、神経質で激昂しやすくなっていた。記憶障害も出てきていた。自分の性格と正反対の、およそ20 歳年下ではつらつと元気、知的興味の旺盛で教養豊かな社交好きの妻ヨハナに対する嫉妬もあったかもしれない。むろん商売上の心配もあったろう。いずれにせよ、さまざまな事情が重なった上での、死であった。享年58。
ハインリヒ・フローリスはアンドレアス・ショーペンハウアーとその妻アンナ・レナータ(精神的に病的なところがあったといわれる)の長男として、1747 年ハンザ同盟の自由都市ダンツィヒに生れた。アルトゥールの履歴書にもあったように、「峻厳でしたが、同様に公平で誠実、信義に厚い人で、そのうえ商売上の事柄について卓越した慧眼を備えてい」た。故郷のダンツィヒを愛する、誇り高く気骨のある共和主義者であり、ヴォルテールの愛読者であった。第1 回ポーランド分割(1772 年)後、ダンツィヒはプロイセン軍に包囲されたが、プロイセンの司令官はアンドレアスに世話になった礼に、馬好きなハインリヒのために馬の飼料の搬入を申し出たところ、ハインリヒは「今のところ自分の厩には備えがあるし、備蓄が尽きたら馬どもを始末するまでだ」と答えたという、エピソードが残されている。「自由なくして幸福なしPoint de bonheur sans liberté」というフランス語を紋章としていた家の長にふさわしい毅然たる態度である。
諸国を旅行することを愛し、フランス、イギリスには数年間滞在したこともある。特にイギリスの生活習慣を重要視し、一時はかの地に移住を考えさえした。ダンツィヒを離れるまではオリーヴァという田舎の地に別荘を構え、イギリス風庭園の造成にも熱中した。毎日、イギリスとフランスの新聞を読み、息子には「タイムズ」を、これを読めばすべてがわかるといって、勧めた。(息子は生涯その勧めに従った。)息子に対しては、どこかしらデカルト(『方法叙説』)を意識していたであろう「わが息子は世間という書物を読むべし」を教育方針としていた。1793 年第2 回ポーランド分割で、ダンツィヒがプロイセンに併合されることになったのを嫌い、一家はハンブルクに移住するが、その際税金だけで財産の十分の一を失うという痛手を厭わなかった(それでも商売はそののちある程度立て直された)。ハンブルクでは市民権を取らず、居留民Beisasse で通した。(そのためもあって、アルトゥールも生涯無国籍人のままであった。)
政治権力におもねることも、まして脅迫されることも潔しとしなかった、この自由市民は、しかし、性格的には、突然激昂したり、ふさぎこむという気難しさを具えていた。いわゆる癇癪もちのはなはだしい人とでも言えば、それほど実態から離れていないだろう。この気難しく神経質な性格を、息子アルトゥールは受け継いだ。そして、そのことは息子自身、重々自覚していた。
次に挙げるのは、1833 年ごろ、つまりアルトゥール45 歳ごろに書かれた断片である。  
挙句のはてに、自然はわたしの心に、猜疑心・過敏症・激情・矜持を、哲学者の平常心mens aequa とほとんど折り合いがつかないほど贈与して、わたしを孤立させた。父からわたしは、自分でも呪わしい、・・・自分の意志の力のすべてを繰り出して抑え込まねばならなかった不安感を受け継いだのだ。この不安は時折りほんのちょっとしたことをきっかけとして、すさまじい勢いでわたしを襲い、そのためわたしは自分の行く手に、可能ではあるが、ありそうもない不幸ばかりをありありと見ることになるのだ。恐ろしいことを空想するとこの性向は時によって信じがたいものにまで嵩じる。すでに6 歳の頃、ある夕べ散歩から帰ってきた両親は、わたしが突如両親から永久に見捨てられたと妄想して、完全に絶望しているさまを見出した。特別興奮するようなことが生じなくとも、わたしのうちには絶えず心配する心があって、危険を何もないところにも見また探し出してしまうのである。この心配性のために、ごく些細ないや事も無限な大きさに拡大され、人付き合いがすっかり難しくなるのである 。
心配癖の事例としては、病気や諍い、兵役、毒入りタバコの摂取などが挙げられているが、これらはみな事実でもないのにやたらと不安を掻き立てたのであり、また「夜中物音がしようものなら、ベッドから跳ね起き、剣とピストルをつかんだ。ピストルには常時弾をつめてあった」(Ibid.)という。いかにも大げさで滑稽な感さえするが、これだけの過敏な心配性が父の遺伝だとして息子は自覚していたというのである。ここの記述と、上述の履歴書を対照してみよう。いずれの叙述内容も、ショーペンハウアーの筆の誠実性を疑う理由はない。履歴書でひたすら強調されていたのは、父が息子たる自分に「余暇」を与えてくれたおかげで、自分は後顧の憂いなしに哲学研
究に邁進できる境遇となったということであった。ありていに言えば、父が残してくれた遺産が自分をこれまでも、これからも、生計上の経済的心配から自分を解き放ってくれた。だから、自分は独立不羈の精神をもって哲学探求に身も心も捧げることができる。自分の書くこと・教えることには金銭的な下心など忍び込む恐れはないのであって、すべてはことごとく、ひたすらに純粋な真理愛の発露にほかならない。それもこれも、亡き父の恩なのであって、どうして父に心からの敬慕の念を捧げないでいられよう。
だが、その同じ父は、1833 年の断片によれば、「猜疑心・過敏症・激情・矜持を、哲学者の平常心とほとんど折り合いがつかないほど」息子の性格に引き継いだのであった。この疑り深い心配性に息子は生涯悩まされ引き回されることになるだろう。この性格は哲学者としての活動を妨げるものにほかならない。とするなら、いくら父のおかげで経済的に自立して哲学活動を営む「余暇」が与えられたとしても、その半面で、その活動の障碍となる「不安」な性格を植え付けられたとなれば、父の恩も半減するといわねばならないのではないか。
ところが、どうやら息子はそのようには考えない。「この立派な父がわたしに対してしてくれた、口ではまったく言い表しえないほどの善行と恩恵とを、生きている限り、心からの感謝の念を持っていつも思い起こすことでしょうし、また父の思い出を聖なるものとして心のうちに培ってゆくことでしょう」と1819 年末の履歴書が述べていたことは、それ以降も従順に守られたといってよい。その何よりもの証拠は、「不安」の遺伝について記していたあの断片と同じ1833 年に執筆された次の遺稿に明らかである。その年アルトゥールは、初版ではほぼ黙殺の運命に晒された『意志と表象としての世界』の第二版の出版を計画し、そのための序文の草稿も執筆する。それは、同書を「父」に捧げる内容となっている。  
  献辞(端的に手短に)
  父ノ公明ナル御霊ニPiis patris manibus
私が真理のために生きながら、その殉教者となることがなかったのは、あなたのおかげと感謝します。私が生まれながらの、学び考え探求しようという衝動に付き従いながら、貧窮も物乞いも諂いもしないで済み、あるいは、哲学を他なる思惑の道具に貶めその思惑に従って私の説を形作ったり、それどころか、光を恐れる者たちである坊主や偽善者に私を卑劣なたくらみの道具として売り渡そうという誘惑に陥らずに済んだのも、ただあなたのおかげですし、這イツクバル凡人médiocre et rampant と割の合わない競争をする必要もなく、生涯頭をまっすぐ上げて「ワレワレニハ二日ノ命シカナイ、軽蔑スベキ輩ノモトヲ這イツクバッテソノ二日ヲムザムザ過ゴスノハ詮方ナイコトダnous n’avons que 2 jours à vivre : il nous vaut pas la peine de les passer à ramper sous des coquins méprisables」というヴォルテールの高貴な忠告を遵守できたのもあなたのおかげです。――自分自身を自由に所有するためなら他のいかなる所有も喜んで断念する私の自足性のゆえに、その自己所有が実際に生涯にわたって私に与えられ、それゆえ、毎朝日が登るとともに、この一日は私のものだと言いえたのは、あなたのおかげなのです。また私の尽力に同時代者がまったく関心を示さなかったとしても、仕事を完成させる差障りにはならず、それに全生涯を捧げることができたのも、あなたのおかげです。以上のことすべて、これだけ多くの偉大なことすべてを私は、忘れがたい父であるあなた、ひたすらあなただけに負うているのであって、この世のほかの誰にでもありません。
そのことに対し、私はいま、あなたがかつて見越していたとおりに、毎日感謝を奉げています。
ナントナレバ、イカナル帝モコレダケノ余暇ヲワレラニ授ケルコトハカナワナカッタノダカラ。だから、どうか庇護者としての名誉ある地位をお受けになってください。私の哲学に喜びと教えを見出す者なら誰でも知っておくべきことなのですが、この哲学は、私なしではありえなかったと同様に、あなたなしにもありえなかったのです。そして、私の名前が及ぶ限りあなたの名前もまた及ぶべきなのです。というのも、あなたの偉大な善行に対して応えることができるのはこのことだけなのですから。(HN,4-I,S.161-162. なお同様の文面はすでに1828 年とその翌年にも記されている。Vgl.HN,3,S.379-380, S538.)
この序文は結局、その時期には第二版の出版がままならなかったこともあって、上の文面のままで日の目を見ることはなかった。(第二版がさらに大幅に改訂増補されて上梓されるのは、これからおよそ十年後の1844 年のことである。そのときには、後に見るように、序文も新たに書き直されることになる。)しかし、父が愛読した著作家であるヴォルテールからの引用といい、さらには、父が15 歳の息子に与えた忠告である「頭をまっすぐに上げ」た正しい姿勢のさりげない強調(1804 年10 月23 日付、および11 月20 付けの、つまり、死の半年前の最後の、父の息子宛書簡参照)といい、たとえ「序文」として公刊されたとしても一般読者には到底その含みは伝わりようがなかったにしても、そしてその意味であまりにプライベートな形による遅ればせながらの父への愛情と謝意の告白であるにせよ、この草稿が息子の真情に発するものであることは間違いないだろう。だが、父に対する敬慕と感謝の念がいかに大きかろうと、履歴書も漏らしているように、「父が最良のものと思って定めたわたしの進むべき道筋は、わたしの精神に適したものではなかった」のも確かなことであった。アルトゥール晩年の高弟、フラウエンシュテトは次のようなアルトゥールとの会話を記録している。
わたし[フラウエンシュテト]がある時彼[アルトゥール]に、彼は若いときにたいへん苦しんだということがあって、そこから彼のペシミズムは説明付けられるのではないか、と尋ねると、こう彼は答えた。「そんなことは全然ない。そうではなくて、自分は若者の頃いつも大変憂鬱で、18 歳ごろだったか、まだたいそう若いときに、『この世界は神が創ったんだって? そうじゃない、むしろ悪魔が創ったんだ』と一人思ったもんだ。――むろん、父親が厳しかったもんだから、教育ではたしかに随分苦しまねばならなかったがね 。
ここに言われる父の教育の厳しさとは、父の個々の指導の苛酷さというよりも、息子を自分の後継者として貿易商に育成しようというその教育方針が、学問の研究の道を歩みたいという息子の願望と真っ向から衝突したがゆえの厳しさと考えるべきものであろう 。たしかに、この厳しさが自分のペシミズムの直接的誘因であることはショーペンハウアーは否定している。しかし、ついでの付け足しのようにして、父の教育ゆえの「苦しみ」をわざわざ挙げているということにも意味が秘められているだろう。晩年のショーペンハウアーにとってすら、少年の頃の教育の「苦しみ」が「苦しみ」の経験として、まず第一に思い浮かべられるものだった。まるで教育のこの「苦しみ」こそ、ペシミズム的世界観の成立にダメを押したかのようである。だが、父ゆえのこの苦しみにもかかわらず、また、上述の「不安」な性格の遺伝にもかかわらず、息子の父への敬慕の念はとめどなく深い。どうしてであろうか。そこには何か事情がなければならない。
ところで、フラウエンシュテトがショーペンハウアーと親しく交わるようになるのは、1840年代のことであるから、上の会話はそれ以降のことと考えるべきだろうが、それ以前にすでにショーペンハウアーは、神ではなく悪魔がこの世を創造したという、会話中の報告と同趣旨のことを、遺稿ノートに書き付けている。
17 番目の歳のとき、学校で学識ある教育を受けたわけでもないのに、わたしは、病・老・痛・死を目の当たりにした青年期の仏陀のように、生の悲惨に心打たれてしまった。この世が声高に判明に語っている真理はやがて、わたしのうちにも刻み込まれていたユダヤ的ドグマに打ち勝ち、わたしは、この世は至善の存在の作品なんかではありえない、むしろ悪魔の作品であって、悪魔は被造物の苦痛を目の保養にしようとして、被造物を存在に呼び出したのだ、と結論付けた。所与の出来事はそのことを示唆していたし、そのとおりなのだという信念が優位を占めるようになった。(HN,4-I,S.96)
この遺稿は1832 年執筆と推測されている。年代的な前後関係や、フラウエンシュテトによる報告はあくまで伝聞による報告であることなどからして、フラウエンシュテトにあった「18 歳ごろ」よりも「17 番目の歳のとき」の方が信頼性が高いと考えるべきであろう。「17 番目の歳」とは言うまでもなく、アルトゥール16 歳のときのことである。16 歳とは年号では1804 年である。
この前の年からこの年の夏すぎまで、アルトゥールは両親と連れ立ってヨーロッパ周回の旅に出ていた。ということは、彼のペシミズム的世界観の成立は、生来の「憂鬱」の気質を素地としながらも、この旅での見聞・経験によって――父の教育による「苦しみ」とも相俟って――定礎された、ないし少なくとも、この旅によって決定的な確認を強要された、と言わねばならないだろう。
「憂鬱」の気質とは、父から受け継いだ「不安」な性格とは別のものではない、少なくとも両者は同じ線上にあるものだろう。そして、その発作のときどきには、哲学者としての活動を阻害しかねない、「不安」の突発であるにせよ、これの基層となっている「憂鬱」の気質こそ、ショーペンハウアーにおいてこの世の真実を見通す眼差しの視座を構成するものであろう。とするなら、ショーペンハウアー哲学のペシミズムを成立させる要素はすべて父絡みのものということになる。これらの要素なしには自分の哲学はありえなかった。さらに、哲学することの外的自由を確保したあの「余暇」も父のおかげであった。父は内的・外的に哲学者としての自分の礎となっている。つまり、「不安」な性格の遺伝だとか、教育の「苦しみ」という、表面的に見れば敬愛の情を失わさせそうな要因もじつは、哲学者の「誕生」という観点からするなら、逆に敬慕の念を深めるものにほかならなかったのだ――このように考えれば、父への過剰ともいえる感謝の気持ちは一応説明付けられそうである。だが、ことはそれほど簡単ではない。  
ヨーロッパ周回の旅とは、ドイツを出発して、オランダ、イギリス、フランス、スイス、オーストリアなどを経由して再びドイツへ帰還するものであった。1803 年春から翌年の秋口にかけて、一年半に及ぶ大旅行を、アルトゥールは父母とともに敢行したのである。しかし、この旅行にアルトゥールは無条件で参加を許されたわけではなかった。むろん、旅そのものは両親、なかんずく父親の発案である。当時かろうじて5 歳の長女アデーレがその大旅行の一員に加えられなかったのは無理もないとしても、15 歳の息子の方も、この旅行の権利を当然のこととして認められたわけではない。そこには、父と息子のつばぜり合いともいうべきドラマが秘められていた。
先述のように、父の教育方針と息子の希望は相容れなかった。息子は、学問研究の道を目指して、ギムナジウムへの進学を願っていた。父は自由な共和主義者として、息子の希望を無下に拒絶することはなかったが、一計を案じた。それが、あの旅行への息子の参加条件である。息子を旅行に連れて行くことそれ自体は、「わが息子は世間という書物を読むべし」という教育モットーにもかなっていたであろうし、第一、これ以前にもすでにこの方針に則って、娘アデーレの生まれた1797 年、父は息子を伴いパリ経由でル・アーヴルに赴き、商売上の仲間であるド・ブレジメール宅に息子を二年間預け、フランス語を習得させる。アルトゥールは同宅の同い年の息子アンティームと親交を結び、それはアルトゥールにとって生涯で最も楽しい少年時代の想い出となった。(帰国直後にはドイツ語での会話に支障をきたすほどであった。)
しかし、父は今度のこの大旅行に関しては、それに加わることと引き換えに、ギムナジウム進学の断念を求めた。つまり、進学を諦めその代わりに旅行に参加するか、それとも、旅行を諦めギムナジウム進学を選ぶかという、二者択一を息子に迫った。15 歳の少年は旅行の誘惑(親友アンティームの住むル・アーヴル再訪も見込まれる)に勝てなかった。あえなく、ギムナジウムの方は放棄してしまう。おそらく、父は息子の選択結果をあらかじめ見越していただろう。というのも、「世間という書物」云々というあの教育モットーからして、ギムナジウム進学との交換という取引なしにも、アルトゥールを旅に連れて行って、おかしくはないからである。父は初めから息子を旅に参加させる心積もりだったのではないか。それゆえ、息子はその性格などからしていずれにせよ、旅のほうを選ぶということによほど強い確信を父はもっていたと思われる。
正規の学校教育の放棄を代償として、この旅から得られたものはたしかに大きい。それは人格形成的にも、またペシミズムの定礎の上でも、さらに強烈な好奇心を満たし、生れもった冷徹な観察力に磨きをかける上でも重要な意義をもっていた。後年アルトゥールは、哲学者にとっての、書物による知識獲得よりも、実地の直観的経験の重要性を強調するようになるが、その素地はこの旅によって植え付けられたのである。いずれにせよ、この旅行の計略をもって、父は息子の学問への道を(一時的に)断念させた。学問への道を開いてくれたのは逆に、――詳細な経緯の説明に踏み込むことはできないが――小さい頃からそりが合わず、相互に敬遠し嫌悪しあっていたともいえる母のほうであった。いや、それよりもなによりも、父の死そのものであった。父が1805 年4 月という、この、いわば絶妙のタイミングで死んでいなかったら、哲学者ショーペンハウアーは誕生していなかった公算が強い。とするなら、父へのいやます崇敬と愛情とはなにを意味するのか。(そして、ちょうどそれの裏返しで進行し増大していったかにも思われる母への憎悪は?)こうして問題は改めて振り出しに戻る。 
父の死後も、アルトゥールは尊敬する父との約束に従って、父の志を継いで商人になるための勉強をしばらくは続ける。だが、母の方は早々に父の商社を店じまいして、新天地を求めて翌1806 年9 月には娘のアデーレをつれ、ワイマールに移住してしまう。かの地でサロンを主催し、ゲーテをはじめとする錚々たる教養人を集めて評判となる。ひとりハンブルクに残され悶々たる日々を送るアルトゥール(父の厳しい教育による「苦しみ」!)。一年後の1807 年、アルトゥールはついに耐え切れなくなり、母に泣きついて、商売の道を放棄し、ワイマールで名誉ある地位を築いていた母のとりなしを得て、ゴータのギムナジウムに入り、のちにはゲッティンゲンとベルリンの両大学で哲学研究に没頭することになった。そしてそれまでの研究成果として完成されたのが、学位請求論文『根拠律の四重の根について』(1813 年)であった。
商人になることを免れえたのは、父の死がなければ考えられなかったことである。とするなら、とくにヨーロッパ周回の旅行後には、父の死への、17 歳時という季節はずれのエディプス的な無意識的欲望がアルトゥールに蠢いていなかったかどうか。そしてそれの「否定」が母への憎悪となって転移され顕在化したといえないかどうか。いや、旅行後から実際の父の死までの間に、その無意識的欲望が事実として蠢いていたかどうかが一番の問題なのではない。そうではなくて、父の死という事態を迎えてしまうや、それ以降はアルトゥール本人にとって、父の死以前に自分がそうしたエディプス的欲望を抱いていたかのように解釈され感じられてしまうことになるという点が、決定的に重要なのである。
自分は自分の願いどおり今や学問の世界へ足を踏み入れた。それはしかし、父が存在する限り、なしえなかったことであり、自分の行く手は閉ざされたままのはずであった。ところが、父の死により自分の願いは成就された。だがそれは愛する父への裏切りにほかならない。学問への精進とは、父の死が可能とした背信行為である。父の死とは――したがって、自分が心の奥底において何にも増して希求していたことだったのではないか。だが、それだけは認められない! 父の死への欲望はなんとしても否定されなければならない。そのためにはどうすればよいのか。父の死を願っていなかったことの証拠をいかにして提示すればよいのか。それには、死への欲望とは正反対の態度を示すにしくはないだろう。対象の死の欲望と正反対の態度――対象への人一倍の
敬愛の情以上に、それにふさわしいものはあるだろうか。
かくして、父への異常とも言える敬愛の情の素性は明かされた。父の死に関する無意識的な罪責感――それが度外れな敬意の底に潜められていた。したがって、父の厳しさや不都合な遺伝も、また詐術ともいうべき二者択一の強要なども、贖罪意識に取り付かれた息子からするなら、自分の罪への罰として、それが自分に害をもたらすものであればあるほど、より歓迎すべきものなのだ。他方、父の死への無意識的欲望の成就はこの欲望そのものとは別のところにその原因が特定されねばならない。その最も手っ取り早い標的とされたのが、息子とは常々折り合いの悪かった母ヨハナであった。父の死の原因として母がいったん認定されたからには、それ以降母との和解の可能性は息子にはもはや思いもよらないことになる。さもなければ、自分が苦労して創作した「ファミリー・ロマンス」はもろくも崩れ去ってしまうほかないだろう。アルトゥールは以来、父の味方にして母の敵としての息子の役を生涯の終わりまで演じつづけるだろう。むろん、それは衷心からの演技である。
アルトゥールは父の死を、病み衰える夫の面倒をみずに社交に明け暮れていたとして、母親のせいにする(Vgl.G,S.151-152)。(もっとも、20 歳も年上の夫との関係が必ずしも愛情溢れるものでなかったことは、ヨハナ自身も認めている。)いわば反動形成による、エディプス的三角関係の反転が生じていた。とするなら、エディプス的罪責意識に基づく、父への敬愛は、青年期以降のアルトゥールの思想形成にとってどのような意義を有し、いかなる「影響」を与えたのであろうか。究明しなければならないのは、この問題である。そのためには、アルトゥールのゲーテとの交渉に目を転じなければならない。 
2.ゲーテからの自立

 

学位論文を完成したアルトゥール・ショーペンハウアーは1813 年11 月から1814 年5 月まで、母の住んでいたワイマールの地に滞在した。その間にゲーテとの知己を得(ゲーテは学位論文を好意的に読んでいた)、色彩について共同研究をおこなう。ゲーテはかの大著『色彩論』を1810年にすでに出版していたが、むろん色彩への興味は引き続き持続していた。クネーベル宛書簡(1813 年11 月24 日付)でゲーテはショーペンハウアーを「注目すべき面白い若者」で「一種の鋭い独自の感覚Eigensinn(=頑固さ)」を具えていると評した。また、1814 年5 月にショーペンハウアーがワイマールを去る際にも、「打ち解けたいくつもの会話のお供と想い出に」として、次の短詩を書き記し暖かい諫言を送っている。「自分の価値を享受しようとするなら、/君は世間にも価値を認めてやらねばならない。」(Vgl. HN,4-U,S.121)
その後ドレスデンに移ったアルトゥールは、『視覚と色彩について』を1815 年に書き上げる。
同書の全体は、「緒論」に続いて「第一章 視覚」、「第二章 色彩」に分かたれているが、「緒論」ではまずゲーテの色彩論の二つの功績を挙げる。1.「ニュートンの誤った理論の古くからの妄想」を打破したこと。2.色彩に関する「重要で完備し意義深いデータ・材料」を提示したこと。それは経験の単なるかき集めではなく、事実の体系的な記述であるが、ただしそれに留まり、本来の説明・理論にはなっておらず、そのための準備であるとする。「この点でゲーテの作品を補完し、そこに盛られたデータの基礎となる最高原理を抽象的な形で立てて、語の最も厳密な意味で色彩の理論を提示すること――それが本論考の試みるところである。」
もっともその試みは、生理的現象としての色彩という観点に限定される(生理的色彩こそが、色彩論の最も重要な半分であって、それに比べると、物理的・化学的色彩とは従属的な半分である、とショーペンハウアーは考えるからである。)「このようにして例えば、われわれはとくに、全体としては完全に正しいゲーテが何らかのことで過ち、全体としてはまったく間違っているニュートンがある程度真理を述べている地点を見出すことになるだろう。ただし、ニュートンの正しさとは本来意味上というよりは字面上の正しさであって、それも全面的に正しいというわけではないのだが。」(Ibid.,S.201)こう記した後、ショーペンハウアーは(初版において)次のように続けている。
ところで、見出された理論からおのずと流れ出る、そのような訂正は、それをなした理論家にとってたいした賞賛になるものでもなければ、訂正を蒙った経験収集家にとって目立った不利益となるわけでもない。というのも、経験の道を通って科学に新たな領野を開き、多量の事実を見つけ出し、それらを直接的な連関にしたがって秩序付けて描き出す者は、新たな陸地を発見しその最初の暫定的な地図をスケッチする者に似ているのだからである。それに対し、理論家は、そうした人によってその陸地に案内された一人の人に似ており、陸地内の高い山に登って、その頂上から陸地を一望の下に収めるのである。理論家が山に登っていったというのは、彼のやった仕事である。しかるに、高所から、下方をさまよう人々が次にたどるべき道をどこで見失うのかを見て取ったり、山々・河川・森林の相互の位置関係をより正確に定めるといったことはすべて、いまとなっては、容易になされることであり、たいした功績ではないのである 。
「緒論」初版のこの文章では――その後の事態の推移を紹介しながら、自分をもっぱら弟子に比定する二版における文面(SW,III,S.201-202)以上に――ゲーテは「父」の役割を与えられているといってよい。なぜなら、息子である自分は、父のなした準備作業を受けそれを土台として、さらに一歩進んで父を乗り越え、父のはじめた事業を完成させると述べているのだからである 。  
実際1749 年生れのゲーテは、亡父より二歳年下であり、アルトゥールはその父が40 歳過ぎのときの子なのだから、ゲーテはアルトゥールの父たるにふさわしい年頃の人であろう。それだけに、16 歳で父を亡くした(『視覚と色彩について』執筆当時20 代後半の)アルトゥールからすれば、ゲーテに父の面影を投影しながら、偉人ゲーテへの憧憬を強めていたとしても、不思議はないであろう。その意味で、「緒論」初版の一節は、息子の課題である、父への依存と独立が図らずして見事に表出されてしまっている文章である。――だがはたして、その理解で十分だろうか。
アルトゥールの(『視覚と色彩について』初版時における)ゲーテの「色彩論」に対する異論は次の3 点である。1.色彩の両極性について、2.菫色の発生について(この点は第二版では削除されることになる)、3.色彩からの白の製作について。いまこれらの争点について、ゲーテとショーペンハウアーの見解を具体的に検討するには及ぶまい。ただ、「息子」アルトゥールが「父」ゲーテに対して、異論の弁明をしている個所は見逃すわけにゆかない。
これらの反論は、わたしがゲーテの作品[『色彩論』]の価値を心底感じ入り、あらゆる時代で最高の偉人の一人を著者とするに完全にふさわしいとして同作品を尊重しているのであるから、それだけに嘘偽りのないものであって、純粋に客観的な根拠から発したものであることがわかっていただけるろう。新たに作り出された教説は、たとえそのような偉人に由来しているとしても、後続の者がなんら付け加えるところも訂正するところも残っていないほど、成立時直後にすでに完成されているとすれば、そのほうがほとんど奇跡だろう。したがって、わたしの証明した間違いや、もしかしてそれ以外にも他の間違いがゲーテの作品に含まれているとしても、これは、全体の真理に比するなら取るに足らず、過失にすぎないとして、偉大な業績によって完璧に相殺されることになるだろう。その偉大な業績とは、百年にもわたって崇められ信じ込まれてきた、自己欺瞞と意図的な詐欺とのかの奇妙な混交[ニュートンの色彩理論]を暴き出し、同時に、自然の当該部分に関する全体として正しい表現を提示したことである。(初版からの引用であるが、第二版もほぼ同一の文面である。Vgl. SWIII,S.287.)
一方ではいかにもゲーテの功績を持ち上げた内容であり、ゲーテに対する自分の異論を小さく見せようとしているようにも感じられる。だが、アルトゥールはむろん、自説の正しさを確信しており、その点に関しては、たとえ「父」なるゲーテであっても、いや、「父」なるゲーテであるからこそ、ほんの少しの譲歩の気配も示さない。このことは、『視覚と色彩について』執筆後、同書に関してゲーテと交わしたやり取りによく表われている。
『視覚と色彩について』の原稿をアルトゥールは1815 年7 月ゲーテに送り、批評を請い、出版にあたってその刊行者になってくれないかと頼む。しかし、ゲーテはそれに対し八週間無しのつぶてを貫く。(生理的・物理的・化学的という総合的視座から色彩現象にアプローチするゲーテからするなら、自説に対するアルトゥールの個々の異論もさることながら、もっぱら生理学的な観点から色彩を論ずるその理論的基調に根本的な違和感を感じたに違いなく、アルトゥールの請願においそれとは乗れなかったのだろう。)9 月になってアルトゥールは再度ゲーテに催促する。そして、頼みを聞いてくれないのなら、原稿を返却してくれ、と請う 。
10 月になってやっと届いたゲーテの手紙では、Seebeck 博士に原稿を送ってみたいが、どうだろうか、博士とあなたとの共同研究が望ましい、と提案されていた。これに対し、ショーペンハウアーは11 月11 日十頁ほどの長文の手紙を書き、提案は、さる牧師の娘を連想させると応酬する。つまり、娘は自分が仕えていた主人に嫁入りすることを願っていたのだが、主人のほうは自分の配下の狩人を娘の相手にと考えていたのだ。あるいはジャンージャック・ルソー。かれはさる貴婦人に食事に招かれたのだが、それは婦人の召使たちとの食事であったとやがて気がついたのだ、と。Seebeck は剽窃するかもしれないとすら言って、ゲーテの提案を拒否する。自分が望みまた必要とするのはゲーテのような「権威」なのだ。
いかなる疑問も心に留め置かない勇気が哲学者たるものの勇気なのです。(・・・)この哲学的勇気はしかし、あなたがわたしに認めておられる探求への忠義・誠実と一体のものであって、反省行為から発現してくるものでもなければ、意図すれば何とかかき立てられるというものでもなく、生来の精神の方向性なのです。(・・・)わたしは、自分が色彩に関する最初の真なる理論を、科学の歴史が及ぶ限り最初の真なる理論を提示したことを、完全な確信をもって知っています。わたしにはまた、この理論がいつか一般に通用し学校の子どもたちにも広まっているだろうことがわかっています。(・・・)あなたの色彩論がピラミッドに喩えられるとしたら、わたしの理論はピラミッドの頂点、大きな建物全体が広がってゆく出発点となる分割不可能な数学的な点であって、この点なしにはピラミッドがもはやないほど重要なものなのです。いっぽう下方からいくらピラミッドを切りとっていっても、それはピラミッドであることを止めるわけではありません。
いかにも鼻っ柱の強い20 代後半の青年の、思い上がった文面というべきだろうか。よりにもよってゲーテに向かってついには堪忍袋の尾を切らせ、あなたには私の理論の正しさがわからないはずがない、なにのに、いくつかの点であなたに反対しているから、その理論に取り組むのがいやで沈黙を決め込んでいるのだ、と傲慢な挑発の弁を吐くが、1816 年も2 月に入るとあきらめ気分となる。
結局アルトゥールは、最後には一人で『視覚と色彩について』を刊行するしかなかった。刊本はむろんゲーテに送付されるが、その際アルトゥールは添え状(1816 年5 月4 日付)を同封し、同書はかなり訂正され増補されており、ご意見を伺いたく、また、この夏お会いできないかという趣旨の質問をかなり懐疑的な口調でお願いしている。添え状の始めは以下のような文章である。  
閣下
印刷の完了した拙著を光栄にも、ご送付させていただきます。わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだのです[『イザヤ書』63-3、ゲーテ『詩と真実』第三部第15 章]。しかし、この点に関しても他の点に関してと同様、わたしは独力で立ってもいます。だからわたしの運命は次のようなものです。ナントナレバ、イカナル帝モコレホドノ余暇ヲワレラニ授ケルコトハカナワナカッタノダカラ。ジョルダーノ・ブルーノ 1600 年自らの信ずる真理のために時の教会によって火刑に処されたジョルダーノ・ブルーノからのこの引用(De innumerabilibus, immenso et infigurabili, 1591, VIII, epilog)は注目されてよい。
これは1819 年のベルリン大学宛の履歴書にも、主著第二版の献辞の草案にも見られたラテン文である。それらはすべて、亡き父との関連で引き合いに出されていた。つまり、父のおかげ(その気質や遺産のおかげで)で、定職につく必要もなく、またまわりの状況に左右されずに(他人の思惑に配慮することなく)、哲学に専心できる「余暇」が確保されたのだ、と。ここでは、文脈上この「余暇」を作り出したのは、哲学者本人であることになっているが、しかし、以上のことを踏まえるならば、ここでの引用には「父」の面影が何ほどか「影響」していると考えることも許されよう。いや、もっと正確に述べよう。
ブルーノからの引用の初出はゲーテへのこの添え状である。したがって、1816 年段階では、ブルーノの文章と「父」とはまだ直接結びついてはいなかったかもしれない。しかし、この段階でショーペンハウアーは、ゲーテとの精神的訣別を決意する。その決意を告げたのが、ブルーノからの引用であった。どんなに偉大なゲーテの不興を買おうとも、「真理」に殉じたブルーノのごとく、自分もその確信を曲げることはできないと、ゲーテからの自立を宣言したのである。だが、アルトゥールは実の父、いまは亡きハインリヒ・フローリスからも、同じような精神的自立を獲得しようとしたわけではない。
確かに、ショーペンハウアーはゲーテに亡父の遺影をしのび、その庇護を求めつつ、なおかつゲーテを乗り越えて精神的独立を達成しようとしていたと、解釈することは――上にも見たように――可能である。しかし、その一方で、ブルーノの引用からも窺えるように、「父」とゲーテとの間にはやはり一線が画されてもいたのではないか。ゲーテからの自立を可能にし促したのは実は亡き父の面影であった。というか、ゲーテからの助力の断念がショーペンハウアーの自立を促す決定的一歩となり、それがやがて亡父の面影と結合し、自立の契機としてはひたすら父が強調され、父は「真理」と同一視されることとなった――むしろ、このように考えるべきではないだろうか。
ゲーテからの自立は、その色彩論に対する異論として具体化していたが、それはなにより「真理」を後ろ盾とし「真理」を自らの生と思想の準拠軸とすることによって正当化される。「真理」はその意味で絶対的「権威」であるとともに、「父」のイメージの具現にほかならない。なぜなら、「真理」への絶対的帰依(「真理」を絶対的「父」たらしめ、それに無条件に――死を賭してまで――服従すること)を可能ならしめた存在こそ、実在の亡父だったのだからである。亡父に対する思慕と敬意が、歳降るにつれていや増すように思われる素因はここにもある。具体的な生身の人間ゲーテからの「真理」の分離・独立がゲーテとの交渉(その共闘と確執)以降のこと、あるいは少なくともそれ以降により確実なものになったするなら、亡父と(亡夫の二歳年下の)ゲーテとの差異の確認を通して、アルトゥール・ショーペンハウアーは父の死を、侵すべからざる聖なる「真理」空間の確立・確定としてしてとらえなおすことに成功したと言ってもよいだろう。この「真理」空間は父がまさに死んでいるということによって難攻不落のものとなった(死者を攻撃することは誰にもできない)、ゲーテにすら攻略不能になったのである。「イカナル帝モ…」という引用句の反復はそのことを示唆しよう。
「真理」を自らの生と思想の絶対的準拠軸としたショーペンハウアーは、「真理」の認識に留まらず、「真理」の空間に棲息し「真理」の存在そのものと化さなければならない。つまり、「子」であるみずからが「父」(「真理」)となるのでなければならない。それは、結局は子を持たなかった(実際には、持ちかけたが、生まれてまもなく失った)ショーペンハウアーにとって、自己自身を家族化することであり、作品という形で、失われた家族の代償を形成することであった。  
「子」と「父」は二人だけで家族として自己完結し自閉する。それゆえに、「真理」の実現を可能とした実在の父の心理的ステータスがひたすら高められるの反比例して、母と妹は彼にとって家族としての実質を失い(父の死の原因と思い定められた母との関係は1814 年5 月に決定的な破局を迎えていたし、妹とも良好な関係とは言い難い)、いわば家族の影と化してゆくことになる。
ただし、ゲーテとの関係はあくまで依存から自立への道をたどるのであって、端的な敵対関係に反転するわけではない。だからこそ、アルトゥールは主著公刊の折もそれを献本できた(ゲーテは熱心にそれを読んでいる、叙述の明晰さが特に気に入っているとの報告を、妹のアデーレから1819 年3 月に得ている)のであり、それ以前イタリア旅行に出る際にも、ゲーテに推薦状を頼むというある種虫のよいことをなしえたのである。また、1849 年11 月27 日のSibylle Mertens-Schaaffhausen 宛書簡においては、フランクフルト市のゲーテ記念アルバムに事寄せて、『色彩論』に関してゲーテが蒙った不正に怒りつつ、次のように述べている。
彼[ゲーテ]は、25 歳のわたしを個人的にこの点に関する弟子にして、わたしを納得させるのに労力を惜しまなかったとき、デーモンに駆り立てられていたのです。彼は自分の受けた狼藉に復讐してくれる者を育てたのですから、いま天上から見下ろすなら、(・u65381 ・・)[彼は]言うことでしょう、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
ここにおいては、故ゲーテは神格化されてもいるが、それは、イエスを神の子とする天の声を伝える聖書のもじり(『マタイ伝』3 の17 参照)からもわかる。ということは、「わたし」は「真理」である父なる神(=ゲーテ)の「息子」であることになり、自分はあくまでも、(この世における)真理の体現者としての地位を維持していることになろう。ただし、ゲーテは――そのままで――「わたし」の父であるという点にアクセントがあるのではなく、むしろ逆に、真理をつかんでいたがゆえに、そしてそれゆえにのみ、ゲーテは、真理の代弁者である「わたし」の父たる資格を得ることになるのだ(少なくとも、ゲーテと自分の父―息子関係は、唯一、真理によって結ばれているのであって、それ以外のなにものによってでもない)、というのがショーペンハウアーの「真意」というべきであろう。また引用において、父―息子関係を認定するのはあくまでゲーテのほうであるとされ、ショーペンハウアー自身ではないということも注目されるが、それも、一見謙遜のポーズにも見えるにせよ、むしろ、生前はショーペンハウアーの真理を正確に理解できなかったゲーテが天上に位置して初めてそのことを悟り、かくして彼を「息子」として認知することになる――ということは、そのときはじめてゲーテも「父」となったということだ――という筋書きだと理解すべき事柄であろう。
重要な点は、この時点では「父」ゲーテがすでに死亡し、非在となっているということである。
彼の死は1832 年5 月22 日である。1832 年とはこの世を悪魔の作品としたというエピソードを伝えている断片の執筆の年であり、その翌年には例の「父への献辞」の草稿も記されていた。ショーペンハウアーにおいては、「真理」とは「父」の非在と一体化して屹立するものなのだ。本稿の最終節ではこの非在としての「真理」に焦点を定めて議論が進められることになる。そして、これまで無造作に用いられてきた「真理」なる語がショーペンハウアーにおいて意味するその内実についても。 
3.非在の「真理」

 

初版の分量の二倍以上に増補された『意志と表象としての世界』の第二版が1844 年上梓された。第二版への序文も本稿第1 節で見た草稿とは内容的にまったく異なり、量的にも(草稿が一、二頁のものだったのに対し)その十倍くらいに拡大された。少々抜粋する。
困窮と欲求にすべてが奉仕し苦役しなければならないということ、これこそまさに、困窮と欲求のこの世の呪いである。それゆえにこそ、光Licht と真理とを求める、なんらかの高貴で崇高な努力が、誰からも邪魔されずに開花し、それ自身のための生存を許されるというような具合に、およそこの世はなっていないのだ。そうではなく、そのような努力はいったんは人々に認められるところとなり、よってそれのコンセプトが行き渡るようになったとしても、物質的な利害や個人的な目的によってたちまち取り押さえられてしまって、その道具や仮面に仕立て上げられてしまうだろう。(・・・)哲学はもう久しい間あまねく、一方では[国家という]公の目的のために、他方では[営利という]私的な目的のために、手段として奉仕せざるをえなかったのだが、わたしはと言えば、それには妨げられずに、三十年以上にわたって、自分の考えの道筋を追ってきた。そうせざるをえなかったからであるし、ほかにしようもなかったからだ。ある本能的な衝動のゆえにである。けれども、この衝動の支えとなっていたのは、隠された真実を考え照らし出したものはいつか、別の思考する精神を捉え、感銘を与え、喜ばせ、慰めとなるであろうという確信であった。(・・・)わたしの導きの星となっていたのはまったく本気で言うのだがganz ernstlich、真理だったのである。(・・・)さて、わたしの哲学、すなわち、[人々の宗教的欲求におもねる思弁という]不可欠の小道具を欠き、遠慮会釈もなく、なんら滋養の足しにならず、沈思黙考する哲学――この哲学がおのれの北極星とするのはひたすら真理、裸の、報いられず人好きもせず、しばしば迫害される真理だけであって、右顧左眄せずに、この星を目指してまっすぐ舵を取るのである――は、あのalma mater[養いの母、母校]、滋養たっぷりの善良なる大学哲学と一体全体なんのかかわりがあるだろうか。大学哲学は百の思惑と千の下心を満載し、支配者の懸念、所管庁の意向、地域の教会の決まりごと、出版者の希望、学生の評判、同僚との友好関係、時局の動向、聴衆のその時々の嗜好、その他同様のことをたえず気にかけながら、わが道を慎重に面倒をかわしながら進んでいく。あるいは、個人的な目的をいつだって最内奥の動機としている、講壇や聴講席における喧しい学校の騒動と、静かで真剣なわたしの真理探究がいかなる共通性をもつだろうか。(・・・)このようにしてわれわれはほとんどいつの世もゴルギアスたちやヒッピアスたちが跋扈するのを眼にし、不条理がたいてい頂点を極めて、騙し騙される者たちの合唱をかき分けて個人の声が通ってゆくことなどありえないと思われるにしても――それでもやはり、本物の著作はいつでもそれ独自の静かでゆったりとした強力な作用を保ちつづけるのであって、最後には、奇蹟でも起こったかのように、本物の著作は喧騒の中から立ち昇ってゆくのが見えるのである。それはさながら、気球が、この地上空間の分厚い大気圏からより純粋な領域へと上昇してゆき、その領域にいちど到達すると静止して、もはや誰にもそこから引き摺り下ろすことがかなわなくなるようなものである。(SW I,S.15,S.17-18,S.25,S.26.)
以上の抜粋からも予想できるだろうが、1833 年の「献辞」草稿ではあれほどの熱情をもって引き合いに出された「父」はここでは一言たりとも言及されない 。この差はなにを意味するのだろうか。十数年の時の経過がアルトゥールの考えを変えたということではない。というのも、1841、42 年に記された「序文」草稿では「わたしの父」のことが、かつてほどの熱烈さは薄らいではいるものの、依然として言及されているからである(HN 4-U,S.270)。もしかして、プライヴェートなことを公の場で露骨に口に出すのは憚られたのだろうか。「父」への謝意に溢れていた、すでに25 年前の履歴書も、公的文書ではありながら、万人の目に触れるものではなかった。
いずれにせよ、はっきりしていることは、公刊された主著の第二版への序文には、父は非在と化すということである10。  
実は、1831 年に、アルトゥールは父母に関する視霊現象を体験したと報告している。この体験では、「自分が当時現存の母よりも長生きするであろうことが示唆され、すでに死亡していた父は光Licht〔=灯り〕を手にしていた」、という(HN,4-I,S.47.Vgl.G,S.251)(ちなみに母の死は1838 年4 月)。結局は「父」への言及が脱落あるいは隠蔽されることになった『意志と表象としての世界』第二版序文で「光と真理とを求める高貴で崇高な努力」が引き合いに出されていたのはわけなしとしない。父は「光」であり、「真理」である。あまねくすべてを照らし出す「光」、その意味で「真理」である「父」は、まさにそういうものであるからこそ、文章の表面からは身を引き、非在とならねばならなかった。
思えば、父は非在であることによって、哲学者としての息子にしかるべき「影響」を与えてきたのであった。まず、癇癪もちとしての父はその性格が不在となることによって、つまり、癇癪が鎮められているときにこそ、息子は同じ性格を共有しながら、哲学者としての活動をまっとうできるのであった。また、実在の父は、息子の側からするなら、まことに絶妙のタイミングで死んだ。学問かヨーロッパ周回の旅かの二者択一を迫られて息子が後者を選択したとき、いったんは閉ざされたかに見えた学問への道を再度開いてくれたのが、結果的に父の死であり、息子に対する最終的な母の同意と激励であった。そして言うまでもなく、父の死という形の非存在は、息子に、遺産相続によって、生計の自立を可能にし、哲学者として「真理」に挺身する「余暇」を授けたのであった。(父の死は母ヨハナにも同様の、いやそれ以上の効能をもたらした。母がサロンを開いて、一躍教養女性の代表者として名を馳せるきっかけを、それは与えてくれた。息子には、それも許しがたいことの一つだったかも知れない。)
こうして三重の意味で父の非在は、息子に、哲学者としての道程を可能ならしめた。そればかりか、公刊された主著第二版序文からも、かつての計画とは異なり、父は非在となった。しかし、父が非在となることによって何が変ったのだろうか。それは、「真理」の前景化である。――非在の父によって、自分は哲学者としての本道を歩むことができた。しかし、哲学者の本道とは何か。それは、「抽象概念」を用いて世界の正体をありのままに描き出すこと、その意味で、「抽象概念による世界の完全な反復、いわば反射」(SW I,S.136)である。いや、「反射」に尽きない。
むしろ、その反射を通して、人間の生き方の道筋を指し示すことである。世界の反射と人生の指針とが渾然一体となったものこそ、ショーペンハウアーにとって「真理」の名に値するものであり、それが、主著『意志と表象としての世界』を始めとする多くの著作で彼が解き明かそうとしたことであった。その限り、「真理」とは世界の実相であり人生の規範であった。この意味での「真理」が第二版序文で前面に掲げられ、それに献身する自分の姿が顕彰される。
そのためには、哲学者たる自分は、「真理」を歪め裏切るこの世の猥雑な欲望に左右されない存在として描き出されねばならない。猥雑にして卑小な欲望から脱却し逆にこの世を観照する生活上の「余暇」を授けたのが父であった。だが、いかに父の恩が尊いものであろうと、そしてそれに応えようとする息子の志がいかに気高いものであろうと、それは所詮この世の卑賤な凡事の一例にすぎない。それはあくまで、アルトゥール・ショーペンハウアーという個人の私的事情であって、「真理」をひたすら求めるべき哲学にとってはたんなる偶然にすぎない。父への熱き思いは私人の胸にしまわれて、哲学の公共性に顔を出すべきでない――公刊著作からの父の非在の理由とはこのようなものだろう。
ところが、世界の実相にして人生の規範としての「真理」それ自体も、『意志と表象しての世界』――総じて公刊著作の――本文においては非在となる。ちょうど序文で「父」が非在であることによって、「真理」に殉ずることを怖れない哲学者としての「息子」の存立を可能ならしめたように、この「真理」概念はショーペンハウアー哲学それ自体が成立する一大前提をなすものとして、(序文後の)本論における思想の行論からは身を潜めることになる。本論で公言される真理概念はもっぱら「世界の反復」としてのそれである。まるで、非在の移譲ないし転移が生じたかのようなのだ。どうしてそういうことになるのであろうか。  
ショーペンハウアーにとって「真理」の具体的内容とは、物自体としての「意志」でありその「意志」に弄ばれては苛まれるこの世の悲惨である。意志とその悲惨とは、この世の人々が生きている「真理」である。上掲第二版序文などに活写された「哲学教授」連が繰り広げている醜悪な姿とは、その戯画にすぎない。
生きられている「真理」は認識されている「真理」ではない。哲学とは言ってみれば、生きられている真理を認識される真理へ転換し昇華する営為にほかならない。しかしそのためには、認識へと転換・昇華されるべき対象に対し、何らかの距離を取る必要がある。ところが今の場合、真理は生きられてしまっており、したがってそのうちに人は――認識者自身も――巻き込まれ埋没している。そこから距離を取ることは至難の業である。とすれば、距離はことさらに創出されねばならない。そしてその創出は認識そのものによってなされるしかない。生きられる「真理」の認識とは、その認識自身の前提条件の創出と同時的になされねばならないのである。
ところが、意志的要素が認識に混在する限り、意志という「真理」の認識は不可能である。なぜなら、意志はつねに人間をして「真理」を、つまり意志自身を生きさせてしまうのであって、それに対して距離をたもった認識の対象化を遮断してしまうからである。「意志それ自身は認識以外のなにものによっても廃棄されない」(SW I,S.544)。それは裏を返すなら、「認識」は意志を脱却したところでしか成立しないということである。そしてそのことは、哲学に人生をささげようと決意して間もない、23 歳の若きアルトゥールが、息子の将来を慮った母の働きかけもあって、哲学の専攻に再考を求めた老詩人ヴィーラントに対し、「生とは厭わしい事柄です。僕は、この生を熟考することによって生を過ごして行くことに決めたのです」11 と答えたときに、すでに示唆されていたことでもあった。
後年ニーチェがいかなる犠牲もおそれぬ「誠実性」を体現した人物としてショーペンハウアーの名をあげ、そのことによって「良きヨーロッパ人」の代表者(『愉快な学』357)と称したのも、若い頃のショーペンハウアーの国際的な経歴もさることながら、「意志」に発する人生の利害をことごとくものともしないところで屹立する「真理」の認識に彼の哲学の真骨頂を認めたればこそであった。
こうして意志の穢れをきれいさっぱり拭い去ったところで、そしてそこにおいてのみ、「真理」の認識という偉業は達成される。それはつまり、「真理」認識の圏域とは、まさに意志という認識さるべき真理内容からの超出領域として存立するということである。しかし、世界の実相とは「意志」であり、意志の「表象」である。したがって、「意志」からの超出とは世界それ自体からの超出であって、しかも世界以外に存在はないのだから、その超出領域とは無、非存在であるほかない。「真理」の認識は無、非存在の場でなされるのであり、また同時にその無の場を創出する作業にほかならない。だが、この無とは、「意志」の世界の側に身を置いた立場からの規定にすぎない。無の場に視座を定めるならば、世界、この現実の世界こそが無とみなされねばならない。だから、『意志と表象としての世界』正編第四巻の最後はこう結ばれるのである。
意志の全面的な廃棄の後に残るものは、いまだ意志に満ちた者すべてにとってはたしかに無である。しかしまた反対に、意志が方向転換し自己否定をなした者にとっては、このわれわれのたいそうリアルな世界が、その恒星の数々と銀河の数々とともに――無なので…ある。(SW I,S.558)  
「認識」は世界を無化してそこからの超越を可能にし、この超越的無の立場から、「意志と表象としての世界」の真相が描写される。だが、この「認識」の立場は「意志と表象としての世界」の思想内容全体の前提でありながら、なおかつそれ自身を自己創出しなければならない立場であった。その限り、「意志それ自身は認識以外のなにものによっても廃棄されない」という、この「認識」の立場を直示するような(上掲の)文章などが著作の行論の途中で唐突に顔を覗かせ、認識とはことごとく「意志」に奉仕するその手段であるという、それまでの一般原則と真っ向から矛盾するような事態を招いて、読者を混乱に陥れることはあっても、自己創出される前提という、きわどいこの「認識」の立場そのものは、ショーペンハウアーにとって正面切って論じることが極めて困難となってしまったのである。
「真理」とは世界の実相と人生の規範が渾然一体となったものであった。たしかに、こうした「真理」概念は伝統的になんら目新しいものではないかもしれない。要するに、本節最初の引用からも察せられるように、「真理」のためには命を失うことも厭わない(しかし時が立てばいずれ世の中もわかるだろう)という場合の「真理」がそれにあたる。しかし、近代以降、とくにヒューム以降、「事実」と「規範」の峻別が哲学的には「常識」となるにしたがって、「事実」=「規範」としてのこの「真理」概念は旗色が悪くなってきた。実際、ショーペンハウアー自身が真理概念を論じ、それを四種類に分類するときにも(『充足根拠律の四重の根について』における「論理的真理」「経験的真理」「形而上学的真理」(これは初版時の命名であり、1847 年上梓の再版においては「超越論的真理」と改名)「メタ論理的真理」の四種類)、そのいずれにも「規範」としての「真理」の意味合いは認められない。
この「真理」概念は西洋の伝統においては、「神は真理である」とか「真理は神である」とか、あるいはその両者が合体したものとして理解されてきたものであろう。だが、ショーペンハウアーにおいて特徴的なことは、「真理は神である」とはまだしも言うことができても、「神が真理である」のほうはもはや妥当しないことである。言うまでもない、ショーペンハウアーはドイツ人「最初の公然たる不屈の無神論者」(ニーチェ前掲書)だからである。したがって、「真理は神である」も正確には、「真理は神の代理人である、ないし神の相当物である」の意味でなければならない。
ショーペンハウアーは「神は真理である」を「真理は神である」に転換したといってもよい。「真理」はいまや神という究極の支柱ないし保証人を失ってしまった。だが、それだけに、「真理」を神的地位に据えるには、並々ならぬ精神の腕力が必要だった。ショーペンハウアーは「真理」を神格化することによって、逆に神から解放したのである。だから彼は、「わたしの導きの星となっていたのはまったく本気で言うのだが、真理だった」と大言しえたのであり、絶対的規範としての「真理」に導かれている以上、自分の哲学の真理は最終的に勝利を収めずにはおかないと確信していたのだ。(もっともニーチェなら、そこになおキリスト教的伝統の残滓を見たであろうが。)
(主著第二版序文の最後にある)「気球」に乗ったショーペンハウアーは天高く舞い上がり、地上からはもはや誰にもその姿は見えない。この高みにあって非在となった「真理」がしかし、地上のあらゆる真理を見渡し、いわば一望監視するのだ(高所からの展望に対するアルトゥールの嗜好はあのヨーロッパ周回時に、両親に促されて付けていた「旅日記」にもすでに明らかであるが、本稿35 頁の『視覚と色彩について』初版からの引用などを参照)。そして、非在の「真理」のこの高みとは天なる「父」の玉座であることは言うまでもない。
ショーペンハウアーは、西洋の歴史上はじめて、少なくともそのきわめて早い時期に、「真理」がいかなる宗教的基盤も抜きで、それ自体として、絶対的規範となったことを揚言した。「無制約的な誠実な無神論」(ニーチェ前掲書)――ショーペンハウアーのこの立場においてはじめて、(単なる事実そのままというに留まらない)自立的な絶対的規範としての「真理」はその姿を剥き出しにしたのだ。この規範としての「真理」概念に則って、ショーペンハウアーは自らの哲学的営為を繰り広げていたのであって、その心意気は上掲の第二版序文にも遺憾なく発揮されていよう。何かが「真理」だとすれば、それは「真理」だからこそ、そして「真理」であるというそのことだけによって、いかに醜悪で自己にとって、いや総じて人間に不都合な内容であれ、万難を排して追求されねばならないのだし、またそれに値するのだということである。
そして、この絶対的規範としての「真理」概念が、現代においても依然として、その学問的活動の規範として作動していることは、縷言するまでもないだろう。 

*1., Arthur Schopenhauer: Gesammelte Briefe, herausgegeben von Arhur Hübscher, 2., verbesserte und ergänzte Auflage, Bonn, 1987,S.47-48.
*2., Arthur Schopenhauer : Der handschriftliche Nachlaß, Band 4-U, S.120-121. 以下、同遺稿集からの引用はHN の後に、巻数と頁数とを挙げる。
*3., Arthur Schopenhauer: Gespräche, neue, stark erweiterte Ausgabe, herausgegeben von Arthur Hübscher, Stuttgart-Bad Cannstatt, 1971, S.131. 以下G と略記。
*4., ここには、後に述べるヨーロッパ周回の旅の途上、英語力の上達のためにイギリスのウィンブルドンで数ヶ月間寄宿学校に預けられた際の、生涯のトラウマともなる教育体験も念頭にあるかもしれない。両親はその間スコットランドなどを旅して回っていた。息子からすれば随分恨めしい話で、親に裏切られたという思いが募ったことだろう。イギリスでの教育体験については、Bridgwater, P.: Arthur Schopenhauer’s English Schooling, London and New York, 1988 参照。
*5., Arthur Schopenhauer: Sämtliche Werke, textkritisch bearbeitet und herausgegeben von Wolfgang Frhr. von Löhneysen, Frankfurt a.M., 1986, Band III, S.200. 以下同全集からの引用はSW という略記の後、巻数をローマ数字で、頁数をアラビア数字で挙げる。
*6., 『視覚と色彩について』初版からの引用はCD-ROM, Schopenhauer im Kontext, Berlin, 2003 によっているので、頁数の指示はない。
*7., たとえば、ザフランスキーは、「緒言」初版の文章に直接的に関連付けながらではないが、その方向で理解している。 Safranski,R.: Schopenhauer und Die wilden Jahre der Philosophie, München und Wien, 1988, S.285.
*8., 以下、ゲーテとショーペンハウアーのやり取りはArthur Schopenhauer: Der Briefwechsel mit Goethe und andere Dokumente zur Farbenlehre, herausgegeben und mit einem Essay von Ludger Lütkehaus, Zürich, 1992 から引用する。
*9., 草稿の文面は部分的に、『パレルガとパリポメナ』に収められた「人生知のためのアフォリズム」の中の一章「人が有するものについて」に利用されることになる(Vgl.SW IV,S.418-420)。ただし、そこにブルーノからの引用はもはや――公刊著作にはどこにも――見られない
*10., ついでながら、初版への序文にも父への言及はない。CD-ROM やSW の索引で検索する限り、公刊著作のどこにも父の名は、総じて家族の名は出てこない。
*11., Gwinner, W.: Arthur Schopenhauer aus persönlichem Umgang dargestellt, Frankfurt a.M., 1987, S.45.  
 
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

 

(Johann Wolfgang von Goethe、1749-1832) ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力(英語版)』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代(英語版)』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行(英語版)』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」『色彩論』などの著作を残している。 
1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテとして生まれる。父方の家系はもとは蹄鉄工を家業としていたが、ゲーテの祖父にあたるフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテはフランスで仕立て職人としての修行を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成した。その次男であるヨハン・カスパーがゲーテの父にあたる。彼は大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志したがうまく行かず、枢密顧問官の称号を買い取った後は職に就かず文物の蒐集に没頭していた。母エリーザベトの実家テクストーア家は代々法律家を務める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めた。ゲーテは長男であり、ゲーテの生誕した翌年に妹のコルネーリアが生まれている。その後さらに3人の子供が生まれているがみな夭折し、ゲーテは2人兄妹で育った。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送った。当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派はプロテスタントであった。
父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てた。ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けた。5歳から寄宿制の初等学校に通うが、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、ダンス、カリグラフィー、ピアノ、ダンスなどを学ばせた。ゲーテは特に語学に長けており、少年時代すでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得している。少年時代のゲーテは読書を好み、『テレマック』や『ロビンソン・クルーソー』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んだ(その中には『ファウスト』の民衆本も含まれる)。詩作が評判であったのも幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っている。
14歳の時、ゲーテは近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わる。なおこのグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部のヒロインの名に取られている。 
1765年、ゲーテは16歳にして故郷を離れライプツィヒ大学の法学部に入学することになる。これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向であり、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧している。ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新のロココ調の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入らなかった。この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいる。しかし都会的で洗練された彼女へのゲーテの嫉妬が彼女を苦しめることになり、この恋愛は破局に終わった。
ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通ったが、その後病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされた(病名は不明であるが、症状から結核と見られている)。19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになる。この頃、ゲーテは母方の親戚スザンナ・フォン・クレッテンベルクと知り合った。彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとするヘルンフート派の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えた(後の『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている)。またこの頃ゴットフリート・アルノルトの『教会と異端の歴史』を通じて異端とされてきた様々な説を学び、各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰であるという汎神論的な宗教観を持つに至った。
またゲーテはこの時期に自然科学に興味を持ち、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出している。ゲーテは地質学から植物学、気象学まで自然科学にも幅広く成果を残しているが、既にこの頃にはその基礎を作り上げていた。 
1770年、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領シュトラースブルク大学に入学した。この地で学んだ期間は一年少しと短かったが、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験している。とりわけ大きいのがヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとの出会いである。ヘルダーはゲーテより5歳年長であるに過ぎなかったが、理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もあった。当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、ホメロスやシェークスピアの真価や聖書、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていった。
またこの時期、ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性と恋に落ちている。彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出合った。彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれるが、しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われている。
1771年8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻った。しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、弁護士の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設した。友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったが、しかしゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになった。ゲーテは作家のヨハン・ハインリヒ・メルクと知り合って彼の主宰する『フランクフルト学報』に文芸評論を寄せ、またこの年の10月から11月にかけて処女戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を書き上げた。しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあったヴェッツラーへと送られることになった。
1772年4月にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜んだ。ヴェッツラーはフランクフルトの北方に位置する小さな村であったが、ドイツ諸邦から有望な若者が集まっており、ゲーテは特にヨハン・クリスティアン・ケストナーやカール・イェルーザレムと親しい仲となった。6月9日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で15歳の少女シャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちた。ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになるが、まもなく彼女は友人ケストナーと婚約中の間柄であることを知る。ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴ったが、彼女を奪い去ることもできず、9月11日に誰にも知らせずにヴェッツラーを去った。
フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となったが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送った。シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたという。そんな折、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届いた。原因は人妻との失恋である。この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の構想を抱かせることとなった。
続く3年間をゲーテはフランクフルトで過ごしたが、この間にゲーテの文名を一気に世界的に高めることになる二つの作品が成立した。まずゲーテは『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を改作したうえでメルクの援助を受けて1773年7月に自費出版を行なうが、この作品はすぐに評判となりほどなくドイツ中の注目を集めた。そして1774年9月、ヴェッツラーでの体験をもとにした書簡体小説『若きウェルテルの悩み』が出版されると若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こし、ドイツを越えてヨーロッパ中にゲーテの名を轟かせることになった。また生涯をかけて書き継がれていくことになる『ファウスト』に着手したのもこの頃である。
この2作品によってシュトゥルム・ウント・ドラングの中心作家となったゲーテは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとその兄ヨハン・ゲオルク、ヨハン・カスパー・ラヴァーター、レッシング、クロプシュトックなど当代一流の文人たちと交流を持つようになった。また知見を広げるため、ヨーロッパ各地へ旅行も活発にし、1774年7月からはラーヴァーターと教育学者バーゼドといった友人たちと、ライン地方へ講演旅行に行っている。1774年12月には、後にゲーテを自国ヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公がパリ旅行の途上でフランクフルトのゲーテを訪問している。
このような中でゲーテはフランクフルト屈指の銀行家の娘であるリリー・シェーネマンと新たな恋に落ちた。1775年4月にはリリーの友人である女性実業家デルフの仲介によって婚約に至るが、しかし宗派や考え方の違いから両家の親族間のそりが合わず、この婚約も難航した。婚約直後にゲーテはしがらみから逃れるようにして単身でスイス旅行に行き、リリーへの思いを詩に託したが、結局この年の秋に婚約は解消することになった。
1775年11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上のハイデルベルクのデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった。
当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭であった。アウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていた。彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラントを息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていた。
26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていった。到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛であった。
ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着した数日後のことであった。彼女はヴァイマールの主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書いた。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はゲーテがイタリア旅行を行なうまで12年にも及んだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『イフィゲーニエ』や『タッソー』など文学作品も彼女からの人格的な影響を受けており、ゲーテの文学がシュトルム・ウント・ドラングから古典主義へと向かっていく契機となった。
シュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的には空白期間である。1780年の31歳の時、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会。4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンをモデルとした秘密結社を登場させている。ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし、1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国の宰相となった(以後、姓に貴族を表す「フォンが付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになる)。政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の産業の振興を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングら当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。 
1786年、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった。
ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し、1787年1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中に読んだベンヴェヌート・チェッリーニの自伝を帰国後にドイツ語に訳しており、さらに30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『イタリア紀行(英語版)』が書かれている。
1788年にイタリア旅行から帰ったゲーテは芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテを失望させることになる。なお帰国してから2年後の1790年に2度目のイタリア旅行を行なっているが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国している。
最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んだ。彼女を見初めたゲーテは彼女を恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。帰国後まもなく書かれた連詩『ローマ哀歌』も彼女への恋心をもとに書かれたものである。しかし身分違いの恋愛は社交界の憤激の的となり、シュタイン夫人との決裂を決定的にすることになる。1789年には彼女との間に長男アウグストも生まれているが、ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れなかった。なおゲーテとクリスティアーネの間にはその後4人の子供が生まれたがいずれも早くに亡くなり、長じたのはアウグスト一人である。
まもなく始まったフランス革命に対しては、ゲーテはその自由の精神に共感したものの、革命がその後辿った無政府状態に対しては嫌悪を感じていた。1792年7月にフランスがドイツに宣戦布告すると、プロイセン王国の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、ヴァルミーの戦いに参加した。この時勝利に際して「ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる。(Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus, und ihr könnt sagen, ihr seid dabei gewesen.) 」との言葉を残した。翌年5月にもフランスに占領されたマインツの包囲軍に参加している。
ゲーテとシラーとはともにドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングとヴァイマル古典主義(「ドイツ古典主義」、「擬古典主義」などとも)を代表する作家と並び称されるが、出合った当初はお互いの誤解もあって打ち解けた仲とはならなかった。ゲーテは1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘しているが、その後1791年にシラーが『群盗』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようにしていた。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、一時はゲーテに対し反感を持っていた。しかしその後1794年のイェーナにおける植物学会で言葉を交わすとゲーテはシラーが自身の考えに近づいていることを感じ、以後急速に距離を縮めていった。この年の6月13日にはシラーが主宰する『ホーレン』への寄稿を行っており、1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式(エピグラム)によって当時の文壇を辛辣に批評した。こうして互いに友情を深めるに連れ、2人はドイツ文学における古典主義時代を確立していくことになった。
この当時、自然科学研究にのめりこんでいたゲーテを励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味を詩作へと向けさせたのもシラーであった。ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年に教養小説の傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させた。1799年にはシラーはヴァイマルへ移住し、二人の交流はますます深まる。また『ファウスト断片』を発表して以来、長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆をうながしたのもまたシラーである。ゲーテは後に「シラーと出会っていなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。 
1805年5月9日、シラーは肺病のため若くして死去する。シラーの死の直前までゲーテはシラーに対して文学的助言を求める手紙を送付している。周囲の人々はシラーの死が与える精神的衝撃を憂慮し、ゲーテになかなかシラーの訃報を伝えられなかったという。実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっている。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテのイタリア旅行(1786年)に始まり、このシラーの死を持って終わるとされている。
1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオン軍がヴァイマルに侵攻した。この際酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働いたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士と力を合わせてゲーテを救った。ゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めた。カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれた。
また1808年にナポレオンの号令によってヨーロッパ諸侯がエアフルトに集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かい、ナポレオンと歴史的対面を果たしている。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫び感動を表した。
晩年のゲーテは腎臓を病み、1806年より頻繁にカールスバートに湯治に出かけるようになる。ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となった。1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表された。1807年にはクリスティアーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力(英語版)』(1809年)が生まれている。またこの年から自叙伝『詩と真実』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『色彩論』を刊行している。1811年『詩と真実』を刊行。1816年、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ。
1817年、30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『イタリア紀行(英語版)』を刊行した。最晩年のゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、バイロンに詩を送り、ユーゴー、スタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学に興味を持ってコーランやハーフェズの詩を愛読した。このハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『西東詩集』(1819年)である。
1821年『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代(英語版)』刊行。『修行時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性を否定し「諦念」の徳を説いている。またこの年、ゲーテはマリーエンバートの湯治場でウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女に最後の熱烈な恋をした。1823年にはアウグスト公を通じて求婚するも断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれた。
1830年、一人息子アウグストに先立たれる。ゲーテは死の直前まで『ファウスト』第2部の完成に精力を注ぎ、完成の翌1832年3月22日にその多産な生涯を終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉と伝えられている。墓はヴァイマル大公墓所(ドイツ語版)(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラーと隣り合わせになっている。 
自然科学者としての業績

 

ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している。20代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパール・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く、1784年にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し比較解剖学に貢献している。
自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた。1790年に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:de:Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした。このような考えからゲーテはリンネの分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われている(星野慎一『ゲーテ』)。
またゲーテは20代半ばのころ、ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいる。なお針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって1806年に名づけられた。
晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ。1810年に発表された『色彩論』は20年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している。 
ゲーテと音楽

 

ゲーテの作品には非常に多くの作曲家が曲を付けている。特に重要なのは『魔王』『野ばら』『糸をつむぐグレートヒェン』『ガニュメート』などのフランツ・シューベルトによる歌曲であり、シューベルトが生涯作曲した600曲もの歌曲のうち70曲ほどがゲーテの作品に付けられた曲である。ゲーテ自身は曲が全面に出すぎて素朴さに欠けるとしてシューベルトの曲をあまり好まなかったが、シューベルトの死後の1830年に『魔王』を聴くと「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と感動し評価を改めた。
ゲーテの音楽観は保守的なものであり、たとえば歌曲については民謡を理想とし、カール・ツェルターやヨハン・ライヒャルトらの作曲を好んだ。他にゲーテが評価した音楽家としてはウォルフガング・アマデウス・モーツァルトがおり、『ファウスト』に曲をつける権利があるのはモーツァルトだけだとも語っていた(エッカーマン『ゲーテとの対話』)。モーツァルトに言及した多くの文章も残っており、特に彼の音楽を「悪魔が人間を惑わすためにこの世に送り込んだ音楽」と評した言葉はよく知られている。モーツァルトのゲーテ歌曲には『すみれ』があり、特に早いゲーテ歌曲の一つであるが、モーツァルトは作曲した時ゲーテの作だとは知らなかった。
またゲーテはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも高い評価を与えていた。初めて『運命』を聴いたときには非常に動揺し、「みんなが一斉にあんな音を同時に演奏したらどうなってしまうのだ、建物が壊れてしまうではないか」と言っていた(前掲書より)。ベートーヴェンもゲーテを尊敬し劇音楽『エグモント』やカンタータ『静かな海と楽しい航海』などゲーテの作品に曲をつけている。2人は1812年にカールスバートの温泉地で対面しており数日間の交流を持ったが、ゲーテはベートーヴェンの難聴に同情しつつもその陰気さや無礼さを嫌った。ほかにゲーテと親交のあった作曲家にはフェリックス・メンデルスゾーンがおり、序曲『静かな海と楽しい航海』などを作曲している。
ゲーテの作品のなかで最も多く曲が付けられているのは『ファウスト』であり、オペラだけでも50もの作品が作られている。『ファウスト』に基づく音楽で代表的なものは、エクトル・ベルリオーズの『ファウストの劫罰』(1846年)、シャルル・グノーの歌劇『ファウスト』(1859年)、アッリーゴ・ボーイトの歌劇『メフィストーフェレ』(1869年)、ロベルト・シューマンの『ファウストからの情景』(1844年-1859年)、フランツ・リスト の『ファウスト交響曲』(1857年-1880年)、グスタフ・マーラーの『交響曲第8番』(1906年)など。先に挙げたシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」なども『ファウスト』からの曲である。
この他にゲーテの作品に基づく有名な音楽作品として、シューマン『ミニョンのためのレクイエム』、トマの歌劇『ミニョン』、ブラームスの『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』(アルト・ラプソディ)、マスネの歌劇『ウェルテル』、デュカスの『魔法使いの弟子』などが挙げられる。特にオペラ化に関しては成功作がフランスに集中しており、お膝元のドイツ圏にもイタリアにも目ぼしい作品がない点は特異な傾向である。 
受容と影響

 

ゲーテの晩年にはドイツでロマン派の文学が興隆し、その理論的支柱であったシュレーゲル兄弟をはじめ多くのロマン派の作家はゲーテ、シラーを範と仰いだ。しかし晩年「世界文学」を唱えるようになったゲーテはロマン派の国粋的な面を嫌うようになり、「ロマン派は病気だ」と言って批判的な立場を取った。ゲーテが死んだ翌年の1833年にはハインリヒ・ハイネがその死を受けて『ドイツ・ロマン派』を執筆し、同時代のドイツ文学の状況を総括した。
また近代言語学の祖であり『グリム童話』の編者でもあるヤーコプ・グリムが作成した『ドイツ語辞典』にはゲーテの全作品から非常に多くの引用が取られており、辞典の序文には「彼の著作から僅かでも欠如するよりは、他の人々の著作から多く欠如したほうが良い」と書かれている。マルティン・ルターによるドイツ語訳聖書によって大きく発展した現代ドイツ語(英語版)がゲーテによって完成させられたことは今日では定説となっている(木村直司「ゲーテ像の変遷」)。
ゲーテはフランス革命の際に保守的な反応を取ったことから左翼的な思想の持ち主からはしばしば「偉大な俗物」と言われ批判を受けた。文学史上ではハイネやルートヴィヒ・ベルネ、青年ドイツの作家が彼の批判者である。もっともカール・マルクスは「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と述べており、レーニンもまたゲーテを愛読し、1917年に国外に逃亡した際にはネクラーソフの詩集とともにゲーテの『ファウスト』を携えていった(星野、前掲書)。
ゲーテの人気は19世紀なかばごろ一時下火となったが、1876年に発表されたヘルマン・グリムによる『ゲーテ』によってやや神格化を被りつつ人気が再燃した。1885年にはグリムが中心となってヴァイマルにゲーテ協会が設立され、今日に至るまでゲーテ研究の中心となっている。20世紀に入って以降もゲオルゲ、ホーフマンスタール、リルケらの詩人がゲーテの詩を範と仰ぎあるいそこからは霊感を受けており、またノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンはゲーテをドイツ人の代表者として頻繁にエッセイや講演で論じ、晩年にはゲーテを範として長編『ヴァイマルのロッテ』『ファウスト博士』を執筆している。1927年にはゲーテを記念しフランクフルト・アム・マインでゲーテ賞が設けられており、戦後ビューヒナー賞にとって替わられるまで長くドイツ文学においてもっとも権威ある賞として機能した(三島憲一『戦後ドイツ』)。
日本における受容
日本では1871年(明治4年)に初めてゲーテの名が紹介されたが、本格的な受容が起るのは明治20年代からである。作品の翻訳は1884年(明治17年)、井上勤が『ライネケ狐(Reineke Fuchs)』を『狐裁判』として訳したものが最初で、この訳は当初自由出版社から出されていたが1886年(明治19年)に版権が春陽堂に移って新たな初版が出され、1893年(明治26年)までに5版が出るほどよく読まれた。1889年(明治22年)には森鴎外が訳詩集『於母影』においてゲーテの詩を翻訳し、特にその中の「ミニヨン」の詩は当時の若い詩人たちに大きな影響を与えた。鴎外はゲーテを深く尊敬しており、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の翻訳や『ファウスト考』『ギョッツ考』などの論考を著し、1913年(大正2年)には日本初の『ファウスト』完訳を行なっている。
日本では明治20年代から30年代にかけては若手作家の間で「ウェルテル熱」が起り、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶ら『文学界』同人の作家を中心に『若きウェルテルの悩み』が熱心に読まれた。特に島崎藤村は晩年までゲーテを愛読しており、随筆『桃の雫』(1936年)の中でゲーテに対する長年の思いを語っている。外国文学に批判的だった尾崎紅葉も晩年にはゲーテを熱心に読み、「泣いてゆく ヱルテルに会う 朧かな」を辞世の句として残した。また『ウェルテル』と並んで『ファウスト』も若い作家の間で熱心に読まれていた。文壇に「ウェルテル熱」が起る前に早世した北村透谷は『ファウスト』を熱心に読んでおり、『蓬莱曲』などの作品を書く上で大きな影響を受けている。倉田百三は代表作『出家とその弟子』を書く際、鴎外訳の『ファウスト』から様々な影響を受けたことを語っており、国木田独歩も『ファウスト』を熱心に読み影響を受けたことを『欺かざるの記』のなかで繰り返し述べている。他にゲーテを愛読しゲーテについての著述を残している者に長与善郎、堀辰雄、亀井勝一郎などがいる(以上、星野『ゲーテ』より)。
1931年(昭和6年)には日本ゲーテ協会が創設され、ドイツ文学の研究・紹介を行っている。また関西ゲーテ協会の主催で毎年ゲーテの誕生日の夜に「ゲーテ生誕の夕べ」が開催されており、そこではゲーテにちなんだ歌謡のコンサートや講演が開かれている。1964年(昭和39年)には実業家粉川忠によって東京都北区に東京ゲーテ記念館が立てられており、日本語の翻訳本や原著だけでなく世界中の訳本や研究書、上演時の衣装などを含む関連資料を所蔵する世界的にも類例のない資料館となっている。
ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在した。このことを諷して斎藤緑雨は「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳を詠んだ(矢崎源九郎『日本の外来語』参照)。 
 
色彩論

 

(Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが1810年に出した著書。教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートンの色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。
ゲーテの色彩論は、約二十年の歳月をかけて執筆された大著であり、ゲーテはこの著作が後世においてどのように評価されるかにヨーロッパの未来がかかっていると感じていた。そこまでゲーテが危機感を抱いていた相手とは、近代科学の機械論的世界観である。色彩論においてはニュートンがその代表者として敵対視されている。ニュートンの光学では、光は屈折率の違いによって七つの色光に分解され、これらの色光が人間の感覚中枢の中で色彩として感覚されるとしている。ゲーテは、色彩が屈折率という数量的な性質に還元されて理解されることが不満だった。
ゲーテの色彩論がニュートンの光学と根本的に異なる点として、色の生成に光と闇を持ち出しているということがある。ニュートンの光学はあくまで光を研究する。闇とは単なる光の欠如であり、研究の対象になることもない。だがゲーテにとって闇は、光と共に色彩現象の両極をになう重要な要素である。もしもこの世界に光だけしかなかったら、色彩は成立しないという。もちろん闇だけでも成立しない。光と闇の中間にあって、この両極が作用し合う「くもり」の中で色彩は成立するとゲーテは論述している。

色彩は光の行為である。行為であり、受苦である。(『色彩論』まえがき)
色彩論においては、色彩は光の「行為」として捉えられている。すなわち生けるものなのである。ゲーテは語りかける自然ということを言っているが、語りかけるとは、語るものと、語りかけられるものがあってこそ成り立つものだと言える。色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、自然たる光の共同作業によって生成するものである。
音や香りなどの感覚もそうだが、色彩には、ただ客観的な自然を探求しようとする姿勢では捉えられないものがある。色彩は数量的、客観的に分析される光の中に最初から含まれているとすると、客観的に光を分析してゆけば色彩のことが分かるということになる。ゲーテはこれに、外界の光を分析するだけでは理解できない、眼の働きによる色彩の現象を持ち出して反論する。灰色の像を黒地の上に置くと、白地の上の同じ像よりも明るく見える。この像を単独で、客観的に分析するだけでは明るさの違いは説明できない。これには眼の作用が関わってくるからである。
対立するものが呼び求め合うというこの運動は、ゲーテが自然のうちに見いだした分極性の働きである。眼はひとつの色彩の状態にとどまらず、明るさと暗さという両極にあるものを呼び求め合うことによって新たなる色彩を生み出す。このようにゲーテは、静止した対象としてではなく、生成するものとしての色彩を見いだすのである。ゲーテにとって生きるとは活発に運動し、新たなるものを創造することである。
ゲーテは光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする。くもった媒質を通して光を見ると黄色が、闇を見ると青色が生じるからである。プリズムの実験によって、ゲーテはこの黄色と青を両極とする色彩論を展開する。白い紙の上に黒い細長い紙片をおき、プリズムを通してそれを眺めると、上から順に青、紫、赤、橙、黄という色が並んで見える。プリズムと眼の角度を調整し、色を重ねて行くとこの並びは最終的に青、赤、黄となる。ゲーテはこれを色の三原色とした。そしてこの三原色を中心としながらダイナミックな動きを内包する色彩環を提唱する。
ゲーテの色彩環は、赤を頂点としながら黄と青を両端とする三角形に、緑を下の頂点としながら橙と紫を両端とする逆向きの三角形が重ね合わされたものである。赤と黄の間に橙、赤と青の間に紫が配置される。この六角形では赤に対しては緑、黄に対しては紫、青に対しては橙が反対の所に位置している。
この色彩環において対になっている色を、我々の目が実際に対として捉えていることを、ゲーテは残像の実験によって確かめる。白紙の上に色を付けた紙片を置いてそれをじっと見つめる。しばらくしてから色付きの紙片を取り去ると、白紙の上に紙片の色とは違う色の残像が浮かび上がる。その残像の色こそ対になっている色である。即ち赤は緑、黄は紫、青は橙の残像を出現させるのである。ここにも対立する色が呼び求め合う働き、分極性が見出される。色彩は静止したものではなく、それ自身の内部に力を有して運動するものであり、動きもその色単独のものではなく、他の色と結びついた動きであるというこの考え方は色を有機的・生命的に捉えたものだと言える。
色彩現象の全体を包括する色彩環は、一と全、特殊と普遍の合一を示している神秘的な形である。ニュートン的なスペクトルでは、色彩は色光の波長により赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の直線として分析され、円を描くなどということはない。色彩環は数量化された自然ではなく、人間が感覚する自然を探求したゲーテの姿勢から見いだされたものだと言える。ゲーテの色彩環は、活動しながら新たなる色彩を生み出す生きた自然の秩序を示したものである。多種多様な色彩現象をその種々異なる段階に固定し、並列したまま眺めると全体性が生じる。この全体性は眼にとって調和そのものである。
眼は単なる青にも黄にも満足せず、それ以外の色を求める。黄と青は呼び求めあい、結合することによって第三の赤という高度なものを生み出すという。赤はただ黄と青が混ざったというわけではなく、黄が橙を、青が紫を経て高みで合一したものである。黄色と青の絵の具はそのまま混ぜれば緑色になる。ここにゲーテが分極性とならんで自然の中に見いだした力、高昇の働きがある。高昇とは自らを高め、発展させようとする上昇意欲である。赤は高昇の働きを経て合一したぶん、エネルギーに充ちた力強い色になっている。
Purpurには皇帝や国王が着用する緋の衣という意味があり、高貴な色とされる。ゲーテは人間に体験される色彩を探求したから、色彩が人間の精神に与える影響のことも扱っている。その影響も色彩環から説明されるところがある。赤は色彩環の頂点をなす最も力強い色であったが、その対極、色彩環の一番下に位置する緑はどうかというと、地に根を下ろした安定した色だという。
光に近い色である黄色、そしてそれに近い橙などはプラスの作用、すなわち快活で、生気ある、何かを希求するような気分をもたらす。闇に近い色である青、そしてそれに近い紫などはマイナスの作用、すなわち不安で弱々しい、何かを憧憬するような気分をもたらすとゲーテは言っている。人間の精神は不思議と色彩環が示す秩序の影響を受けているように見えるとゲーテは述べた。 
 
お金とは何かを明らかにしたマルクス

 

他人がどのようにして金儲けをしているかは大いなる謎である。あの人はどうやって金儲けをしているのだろうと思うことはよくある。それ以上に、いったいどうやったらお金をうまく稼げるのだろうかと思うことがある。
そういう思いにとらわれる人はこの『資本論』を読むとよい。すると、金のある人は金を元手にして金儲けをするが、金のない人は汗を出して金儲けをするしかないという、ごく当たり前のことを教えられる。もちろん、前者が資本家であり、後者が労働者である。
また、物を売り買いして金儲けをするのはおかしいと思う人がいるかもしれない。なぜなら、物々交換とは同じ値打ちのものを交換することである。それなら、お金で物を買うときも品物の値打ちと同じ価値のお金を払うべきだ。それなのに、仕入れ値に利益を上乗せして物を売るのは正直ではない。こんなふうに思う人はこの本を読めばよい。商人はけっして利益を上乗せして売るようなインチキをしているわけではないことがこれを読めば分かる。
ものの価値とは何だろうと考えることもあるだろう。例えば、ゴッホの絵はあんなにへたくそなのに何億と値が付く。それは、あの絵を欲しがる人が多くて、しかも金に糸目を付けない人がいるからだろう。しかし、ゴッホが生きていたときには何の価値もなかったものが、どうして今ではあんなに価値があるのだろうか。そんな疑問を持った人にもこの本はおすすめだ。 
また、政府がどうしていつまでも景気を回復できないでいるのか知りたい人も、これを読めば多少の参考にはなるだろう。すくなくとも、資本主義経済では物の値段は人間の思い通りにはならないこと、人ではなく物がこの社会を支配していることが分かるだろう。
それらのことをマルクスは、商品というものの存在を分析することから解明していった。
たとえば靴は履き物として使うほかに別の物と交換する道具として使うこともできると言ったのは、アリストテレスだ。これは要するに物々交換のことを言っているのであるが、物々交換専用に作られたものが商品であり、物々交換の進んだ形が貨幣経済だ。
そこでマルクスは、同じ価値の物同士の交換である物々交換の分析から出発して、商品とはなにか、貨幣とはなにかを明らかにしようとした。そこから出発して、最終的に資本主義経済を解明しようとしたのがこの本である。
しかし、最近では『資本論』を読もうとしても、本屋で見かけることもむつかしくなった。社会主義や共産主義の失敗があきらかになった現代では、マルクスの書いた『資本論』などはその失敗の原因のようなものだと思われて誰にも読まれなくなっている。
しかし、実は『資本論』とは社会主義や共産主義の教典ではないし、左翼活動のバイブルでもない。 
この本は、商品とは何か、商品の価値とは何か、労働とは何か、お金とは何か、利潤とは何か、資本とは何かが明らかにしたものである。しかし、それだけではなく、資本主義社会がどれほど人間を不幸にしているかをも明らかにしている。その意味では、糾弾の書である。
つまり、『資本論』とは、近代経済の仕組みを分析した学者の研究書であるだけでなく、資本主義が如何に非人間的であるかを明らかにした書物なのである。
ところが、『資本論』を手に入れていざ読もうとしても、とても読めたしろものではないことがすぐに分かる。内容が難しいのだけでなく、そもそも何が書いてあるか分からないのだ。
本当のことを言うと、難しいのは最初だけである。一番よく出回っている新日本出版社の新書本でいえば、一冊目だけが難しい。しかもその最初の第一章と第二章だけが難しい。さらに、第二章の内容は第一章の内容の言い換えでしかないから、第一章さえ乗り越えればよいのだ。そうすれば後は小説でも読むように読めるだろう。
この第一章が難しい原因の一つが日本の翻訳書だ。英訳ならまだ分かるように訳してある。ところが、日本語の訳はどれもこれもひどい直訳で、見たこともないような漢字の熟語がつぎつぎに出してきて、わけの分からないものにしてしまっている。
もっとも、マルクスも言い方も分かりにくいことが多い。例えば、第一章商品の第一節の題名は、「商品の二つの要素:使用価値と価値」となっているが、使用価値と価値を分けて考えるとはどういうことか。そもそも、使用価値は価値の一つではないのかと言いたくなる。初っぱなから分かりにくいのだ。
実は、マルクスのいう「価値」と「使用価値」は別物なのだ。それは本文を読んではじめて分かることである。それでは不都合だということでフランス語版では「使用価値と交換価値つまり本来の価値」と変えてある。では、マルクスの言う「価値」とは交換価値のことかというとそうでもない。
たとえば、机の値段は何で決まるか。それは机の使用価値かと言えばそうではない。どんな机もその上でものを書いたり読んだりするのに使うという点では変わらない。だから、基本的に使用価値ではどの机の値段も差が付かない。ものの値段、つまりものの価値を考えるときには使用価値は考えてはいけないのだ。
では、机の値段の違いは何から来るかと言えば、その机をつくるのにどれだけ手がかかっているかだろう。いい材料を使えば高くなるが、そのいい材料も探してくるのに手間がかかる。こういうふうに、その机を作るのにどれだけ労力がかかっているかで価値は決まる。これを労働価値と呼ぶ人もいる。マルクスにとっての商品の「価値」とは、まさにこのことである。
しかし、マルクスはこれを単に「価値」と呼んでいるので注意がいる。
逆に、机の使用価値は、それを作るにのどれほど手が掛かっているかとは関係がない。いくら手が込んだ机でも、使い方は同じだからである。
しかし、その机は実際に市場で何円の価値があるかとなれば、別の考え方を導入する必要がある。つまり何円の価値があるかと言うことは、何円のお金と交換できるかということである。そこで交換価値という考え方がでてくる。 
このように考えると、商品には使用価値と「価値」と交換価値があることがわかる。資本論の中でもこの三つの価値が論じられるのだが、その順番は使用価値、交換価値、価値となっている。
この中で注目すべきは、この「価値」の概念が広まるためには、人間が平等であるという考え方が広まる必要があるということだ。だから、奴隷制労働に基づいていた古代ギリシャのアリストテレスには、この「価値」の概念が分からなかった。
しかし、マルクスは、この「価値」の概念を広めた貨幣経済の発達が、人間の平等という考え方を広めるのに貢献したとも言っている。
貨幣経済では金さえあれば何でも買える。貨幣経済とは商品をお金に交換することである。お金に代えられるということによって、さまざまの商品の違いはなくなってしまう。商品は全て平等なのだ。なぜなら、お金は平等だから。
お金が平等なのは、労働が平等だからである。労働が平等なのは、人間が平等だからである。こうして、貨幣経済の発達と、人間の平等とは共に発展したのである。人間が平等になったのは、貨幣経済が発達したからなのだ。
そもそも、価値の大きさを決めるのが労働時間の長さである以上、それが誰の労働であるかを区別するのは意味がない。価値でありさえすれば、それがどこの馬の骨が作った価値であろうと価値に変わりはない。恋に貴賤の上下はないというわけである。
この分析の中では、商品の価値の分析と労働の分析が平行して行われていて、それが分かりにくいところだ。しかし、労働が「価値」を作り出している以上は、この二つの分析が平行して行われるのは当然のことなのである。マルクスにとっては「価値」の研究をするということは、とりもなおさず労働の研究をすることである。だから、マルクスが労働のことをあれこれ言い出したら、これは価値のことつまりお金のことを言っているのだと思いながら読むといい。
この本では「形態」という言葉がしょっちゅう出てくる。これもこの本の分りにくさの原因の一つだ。この言葉は「あるものがそのもの自体としての意味だけでなく、別のものとして意味を持っている」あるいは「別の物としての役割を果たす。あるいは機能を持つ」ということを言いたいときに出てくる。
たとえば、商品は利用される物としての役割だけでなく、「価値」としての役割もある。そういう場合に、商品の「価値の形態」「価値形態」という言い方をする。逆に、その本来の役割は「自然形態」と呼ばれる。しかし、日本語で理解する場合には、「形態」という言葉を省略して考える方が分かりやすいことが多い。
また、「何々の現象形態である」という言い方もしきりに出てくる。この場合は、「何々を表す役割を持っている」あるいは「何々の表れとしての意味をもっている」ということである。
実際、この本は有名な本ではあるが、読まれることの少ない本でもある。その第一の原因は、上でも言ったように、日本語の読みやすい翻訳書がないことである。どれもこれもマルクスが軽蔑したガチガチの直訳ばかりなのだ。
特に最初の方で、Abstraktionという単語を直訳したことが諸悪の根元になっているようだ。ドイツ語のAbstraktionは英語で言うabstractionだが、これを辞書の訳語どおりに「抽象」と訳すとわけが分からなくなる。例えば、第一章第一節のdie Abstraktion von ihren Gebrauchswertenを「商品の使用価値からの抽象」(岩波文庫など)と訳しては何のことか分からない。
確かに、最新の小学館の独和大辞典でもAbstraktionは 1 抽象[化],抽象作用.2 抽象的な概念 としか載っていない。しかし、これは名詞だから、それに対応する動詞がある。それはabstrahierenで、独和大辞典には他動詞として「抽象化する」という意味の他に、自動詞として「(von以下を)度外視する」「断念する」「無視する」という意味が載っている。
ここから、名詞であるAbstraktionには「度外視すること」「断念すること」「無視すること」という意味があることがわかる。すると、上の文は「商品の使用価値からの抽象」の他に、「商品の使用価値を度外視すること」という意味があることがわかる。そして、この方が文脈に合致するから、これがマルクスの意図する意味だと推測できるのである。
したがって、資本論の多くの和訳のうちで、この個所を「抽象」と訳しているものは避けるべきだろう。「抽象」を使わずに「商品の使用価値の捨象」と、昔の哲学用語である「捨象」を使って訳しているものがある。これなら読めるのではないか。「捨象」とは要するに「捨てること」だと思ってよいからである。
ちなみに、ここでマルクスは「商品の使用価値を無視することによって、商品の交換価値が明らかになる」と言っているが、なぜそうなるかは上に既に書いたように、「価値」と使用価値とは関係がないからである。
『資本論』はそれ以前の経済学の内容を全否定したものではなく、それを土台にして書かれている。だから、『資本論』はマルクス主義者でなくても、経済学を学びたければ是非読んでおきたい古典中の古典である。もちろん、経済学に取り組むのにもっと手頃な入門書はあるだろう。『資本論』自身の解説書もたくさんある。しかし、結局は本物に立ち戻るしかないのだ。
Hic Rhodus, hic salta! 「ここがロードス島だ。ここで跳べ」(イソップ寓話集の中で、ロードス島でなら高く跳べると言い張る走り高跳びの選手に、ある人がいった言葉。『資本論』第4章「貨幣の資本への転化」第2節「一般的定式の諸矛盾」の末尾に引用された)なのである。
 
『資本論 』 [ 第一章 商品 ]  カール・マルクス

 

第一節 商品には二つの面
 すなわち使用価値と「価値」(=価値の実体、価値の量)がある。 
資本主義が行われている国の総資産は「巨大な商品の集積」であり、個々の商品がその基本的な要素であるように見える。したがって、われわれの研究は商品の研究から始まる。
商品とは、まず最初に、人間が利用する物であって、人間の何らかの欲求を満たす属性を備えた物だといえる。この欲求が胃袋に発するものであるか空想に発するものであるかは重要ではない。また、生活手段つまり食料のように人間の欲求を直接満たすものであるか、それとも生産手段のように間接的に満たすものであるかも重要ではない。 
紙や鉄など人間の役に立つものは、それが何であれ性質と数量という二つの観点から見ることができる。人間の役に立つものはどれであっても全体として様々な属性を備えたものなので、様々な面で人の役に立つことができる。人間は歴史を通じて、この様々な面を物の中に発見して、様々な利用方法を見つけ出してきた。同時に、この便利な物の量を計るための社会的な尺度も見つけてきた。商品を計測する尺度は、計る対象の様々な性質や、習慣に応じて様々である。
ある物が便利だとか有用だとかいうことは、その物は使うに値する、つまり使用価値があるということである。物の便利さや有用さというものは空中のどこかに浮んでいるものではない。それは商品という現実の物の属性であって、現実の商品なしには存在しえないものである。だから、たとえば、鉄や小麦やダイヤモンドという現実の商品が使用価値であり富なのである。ある商品が有用性という属性を持っているかどうかは、その商品にどれだけ多くの人手が掛かっているかとは関係がない。
商品の使用価値を考えるときには、われわれは常にその商品の数を数えずにはいられない。われわれは何ダースの時計とか何反の布地(=ここではリンネル、亜麻布)とか何トンの鉄とかいうのである。ただし、個々の商品の使用価値については、そのための学問である商品学にまかせればよい。
使用価値が実際に現われてくるのは、商品が使用されたり消費されたりする場面である。使用価値は、社会の中で様々な形をした物的資産の内容を形作っている。これから我々が考察しようとしている資本主義社会では、使用価値は同時にもう一つの価値、すなわち交換価値の物的な担い手ともなっている。 
交換価値は、一見するところ、使用価値のある物を別の使用価値のある物と交換するときの割合、つまり、ある商品とある商品の量的な関係であるように思われる。この割合は時と場所によって変化する。したがって、交換価値は全く相対的なものであって、偶然的要素が大きいように思われる。だから、「商品が自分自身の中にもっている本質的な交換価値」などと言うならばそれは矛盾であると思われる。この問題をもう少し詳しく見てみよう。
ある商品、たとえば1クォーター(=約291リットル)の小麦は、靴墨や絹織物や金などの様々な商品と、それぞれ異なる割合で交換できる。したがって、小麦はたった一つではなく様々な交換価値を持っている。しかしながら、それぞれに異なる量の靴墨と絹織物と金などが全部同じように1クォーターの小麦の交換価値を表わしているということは、各々の量の靴墨と絹織物と金なども交換価値であって、互いに交換できるということであり、同じ大きさであるということである。
ここから言えることは、まず第一に、一つの商品がもっている様々な交換価値は一つの同じ物を表わしているということであり、第二に、交換価値とは、要するに、単なるそれ自身とは別の内容による現れ方、あるいは別の内容による表現方法でありうるということである。
次に、小麦と鉄という二つの商品を例にとってみよう。この二つの商品が交換される関係は、両者の交換比率が如何なるものであろうと、常に特定の量の小麦とある量の鉄が等しいことを示す一つの等式によって表わすことができる。つまり、
 1クォーターの小麦=aツェントナー(=約40キロ)の鉄
ということになる。この等式が意味することは何だろうか。それは、1クォーターの小麦とaツェントナーの鉄という二つのまったく異なるものの中に、同じ大きさの共通なものが存在するということである。つまり、この二つのものは、そのどちらとも異なる三つ目のものと等しいのである。ということは、この二つのものはいずれも、その交換価値に関する限り、この三つ目のものに置き換えることができるということになる。
このことは簡単な幾何学の例で説明することができる。多角形の面積を計算して比較する場合、多角形は複数の三角形に分解される。しかし、三角形はその見かけ上の形とは全く異なる「底辺かける高さ割る2」という表現に置き換えられる。それと同じように、様々な商品のもつ交換価値は、ある共通なものの大きさに換算されて、その大小で表わされるのである。 
この共通なものは、商品がもっている幾何学的属性でも物理学的属性でも化学的属性でも、その他自然に備わったどんな属性でもありえない。商品のそのような物としての属性が問題になるのは、それによって様々な使用価値が商品にもたらされる場合だけである。他方、商品の交換関係の明らかな特徴は、そこでは商品の使用価値が度外視されることである。商品と商品が交換される場では、適当な割合の量さえあれば、ある使用価値と別の使用価値の間には何の違いもなくなるのである。
むかしバルボンが「交換価値が同じなら、ある種類の商品と別の種類の商品とは同じ値打ちである。なぜなら、同じ交換価値をもつ二つのものの間には、どんな違いも存在しないからである」と言ったのは、このことを言ったのである。
つまり、使用価値という面から見れば、様々な商品には何よりもまず性質的な違いがあるが、交換価値という面から見れば、様々な商品には数量的違いしかなく、そこにはいささかの使用価値も含まれないのである。
ところで、商品という現実の物から使用価値がなくなっても、そこにはまだ一つの属性が消えずに残っている。それは労働によって生産された物であるという属性である。しかし、この労働生産物という属性も今では元のままではありえない。なぜなら、労働生産物から使用価値を取り去るということは、それを使用価値たらしめている物質的な構成要素も形も取り去ることになる。それはもはや机でも家でも糸でもその他どんな有用なものでもないのだ。生産物に備わっていて感覚で捉えられるような特徴はすべて消え去っている。
それはまた、もはや家具師の労働の産物でも大工の労働の産物でも紡ぎ師の労働の産物でも、その他いかなる特定の生産的労働の産物でもないということである。労働生産物の有用な特徴を取り去ると、そこに表われている労働それ自体の有用な特徴も消え去ってしまうのである。それと同時に、この労働の多様な具体的形態も消え去ってしまう。その結果、それぞれの労働の違いはなくなってしまい、全ての労働は同じ「人間の労働」、抽象的な「人間の労働」に還元されてしまうのである。
さて、様々な労働生産物から色んなものを差し引いたあとに残った物をよく見てみよう。すると、様々な労働生産物の内容でいま残っているのは、同種のとらえどころのない物体であり、それぞれの違いの無くなった「人間の労働」の単なる固まりである。言い換えれば、それは生産物に注ぎ込まれた「人間の労働力」の固まりであって、それがどのような形で注ぎ込まれたかは問われないのである。いまや労働生産物が表わしているのは、それを生産するために「人間の労働力」が注ぎ込まれたということ、つまり、その中に「人間の労働」の蓄積があることだけである。そして、このような様々な生産物に共通する社会的な実体(=人間の労働)の結実としてみたときの労働生産物こそが「価値」すなわち商品価値なのである。 
商品と商品が交換される関係においては、商品の交換価値は商品の使用価値にはまったく依存しないことはすでに明らかである。いま実際に、労働生産物からその使用価値を取り去ることによって、上で定義したような労働生産物の「価値」が得られた。すると、商品の交換関係や商品の交換価値の中に指摘された共通なものとは商品の「価値」だということになる。この探求が進んでいけば、あとでわれわれはこの交換価値をふたたび扱うことになるが、その時には、交換価値は「価値」の必然的な表現方法、あるいは「価値」の現象形態として現われるだろう。けれども、ここではとりあえずその形態は別にして商品の「価値」の方を考察していこう。
さて、使用価値あるいは富としての商品が「価値」を持っているのは、ひとえに抽象的な「人間の労働」が商品という形に具体化されているからに他ならない。では、商品の価値の量はどのようにして計るのだろうか。それは、その商品に含まれる「価値を形作る実体」つまり労働の量によって計られる。そしてこの労働の量は時間の長さによって計られる。さらに、この労働時間は何日とか何時間とかの単位で計られる。
商品の「価値」がそれを作るのに費やした労働の量によって決まるとすれば、未熟な労働者であるほど、それを作るのに多くの労力を要するから、商品の「価値」も高くなるように思われるかも知れない。しかし、「価値」の実体を形作る労働とは、同じ「人間の労働」であり、同じ「人間の労働力」の注入なのである。全ての商品の「価値」の中に表われている社会の全ての労働力は、無数の個別の労働力から成っているにもかかわらず、ここでは全く同じ「人間の労働力」と見なされる。つまり、この無数の個別の労働力の各々はどれも、他の労働力と同じ「人間の労働力」なのである。ということは、個々の労働力は社会の平均的な労働力であるという特徴を備えており、そのような社会の平均的な労働力として機能するということであり、ある商品を生産するのに、平均的に必要とされる労働時間あるいは社会的に必要とされる労働時間しか要しないということである。
この社会的に必要とされる労働時間とは、社会に存在する普通の生産条件を使って、その社会の平均的な技能レベルと集中力をもって、何らかの使用価値を持つ物を生産するのに必要な労働時間のことである。
英国で蒸気式の織機が導入されてからは、一定量の糸を布地に変えるのに要する労働は以前の約半分ですむようなった。一方、手工業者が同じ量の糸を布地に変える労働時間は以前と同じである。しかし、手工業者が一人で時間をかけて作った商品も、社会的にはその半分の労働時間しか意味せず、その商品の価値も以前の半分になってしまうのである。 
以上から、社会的に必要とされる労働の量、つまりある使用価値を作り出すためにその社会で必要とされる労働時間だけが、商品の価値の量を決めているということが分かる。ここでは個々の商品はその商品の種類の平均的な典型と見なされる。同じ大きさの労働量が含まれている商品、つまり同じ労働時間で作ることのできる商品は同じ価値の量を持っている。ある商品の「価値」と別の商品の「価値」の比率は、その商品を作るのに要する時間と別の商品を作るのに要する時間の比率と同じである。「全ての商品は価値として見たときは、ある量の労働時間の固まりにすぎない」(マルクス『経済学批判』)
すると、もしある商品を作るのに必要な労働時間が変わらなければ、その商品の価値の量も変わらないことになる。しかしながら、商品を作るのに必要な労働時間は、その労働の生産力が変われば変わってくる。この労働生産力は様々な要素で決まってくる。それは例えば、労働者たちの平均的な技能レベルであり、科学の発展のレベルとそれを技術的に応用する力、生産工程の社会的な組織化、生産手段の規模とその効率性、さらには自然環境である。
これは例えば、同じ量の労働を使っても、豊作の年には8ブッシェル(=約300リットル)の小麦が収穫できるのに、不作の年には4ブッシェルしか収穫できないということである。また、同じ量の労働を使っても、豊かな鉱脈の方が、貧しい鉱脈よりたくさんの金属を産出するということである。 
地球の浅いところにはダイヤモンドは滅多に存在しない。だからそれを発見するには大抵の場合多大の労働時間を必要とする。だから、少しの量のダイヤモンドが多大な労働を意味する。金でさえその「価値」に見合った値段で売り買いされたことはないと言う人がいる。ダイヤモンドはなおさらである。
ブラジルの鉱山から80年間に産出されたダイヤモンドは、ブラジルの砂糖キビ農園やコーヒー農園の1年半の平均生産物と比べると、労力つまり価値の点ではるかに上回っているにもかかわらず、価格の面ではそれらに及ばないという人もいる。
豊かな鉱山なら、同じ量の労働を使ってより多くのダイヤモンドが産出されるから、ダイヤモンドの「価値」は下がる。もし、少しの労働で炭素をダイヤモンドに変えることができるようになれば、ダイヤモンドの「価値」は煉瓦の「価値」よりも下がる可能性がある。
一般的に言って、労働生産力が増せば増すほど、製品を作るのに必要な労働時間は短くなり、その製品の中に結実している労働の量も小さくなり、製品の「価値」も下がる。逆に、労働生産力が下がれば下がるほど、製品を作るのに必要な労働時間は長くなり、製品の「価値」も上がる。したがって、ある商品の価値の量は、その商品に具体化されている労働の量に比例し、労働生産力に反比例して変化する。
ただし、使用価値はあるが上記の意味での「価値」を持たない物もある。便宜を享受するのに労働を必要としないものがそれである。たとえば、空気、処女地、自然の草原、野生の木などがそうである。
また、人間の労働の生産物で便利なものなのに商品ではないものがある。自分が作ったもので自分の欲求を満たしているだけの人は、使用価値を作り出してはいるが、商品を作っているわけではない。商品を作るためには、単に使用価値を作るだけではなく、他人にとっての使用価値、社会的な使用価値を作らなければならない。
結局、ある物が「価値」であるためには、人が利用するものでなければならないのである。役に立たないものをつくる労働は役に立たない労働であるから労働と呼ぶに値せず、それは全く「価値」を作り出すことはない。 
第二節 商品に表われている労働には二つの面がある。

 

まず、商品が使用価値と交換価値の二つの面を持つことが明らかになった。次に、労働にもこの二つの面があり、「価値」の観点から見るかぎり、使用価値をもたらしている労働の様々な特徴は消えてしまうことが示された。特に商品に含まれているこの労働の二面性をわたしは初めて指摘して検討を加えておいた。しかし、この労働の二面性は現代の経済学を理解する上での重要なポイントなので、ここでもう少し詳しく説明しておこう。
ここでは例として一着の上着と一反の布地を考えてみよう。そして、前者は後者の倍の「価値」があるとしよう。この場合、一反の布地の「価値」をWとすると、一着の上着の「価値」は2Wということになる。
上着は使用価値であって、人間の特定の欲求を満たすことができる。上着を作るためには、ある種の生産的活動が必要である。その活動の内容は、どんな目的をもって、どんな作業をし、どんな材料を使い、どんな道具を使って、どんな物を作るのかによって決まってくる。
われわれはここで、ある労働の有用性が生産物の使用価値の中に現われている場合や、ある労働が使用価値を作り出しているような場合に、そのような労働を簡単に「有用な労働」と呼ぶことにする。そしてこの有用性の観点からは、労働は常にその目標とする成果との関係において観察されることになる。
さて、上着と布地はその使用価値の性質が異なっているが、それと同様に、これらのものを産み出す二種類の労働つまり裁縫とはたおり(機織)もまたそれぞれ性質が異なっている。もしこの二つのものが性質の異なる使用価値を持たず、それぞれの製品が異なる性質をもつ有用な労働によって作られたのでなかったら、そもそもこの二つのものが商品として互いに交換されることはありえない。上着と上着は交換されることはない、つまり、同じ使用価値同士が互いに交換されることはないからである。
これは商品全体とそれを作り出す労働全体について言えることで、様々な種類の使用価値とそれを体現する様々な商品があれば、それだけ様々な種類、部類、種別、科目、系列を異にする有用な労働があるのは明らかである。そして、これこそが労働の社会的な分業ということなのである。 
そして、この労働の社会的分業は、商品の生産が可能となるためには無くてはならない条件である。もっとも、商品の生産が行われていなくても、労働の社会的分業が行われていることはある。例えば、古代のインドでは労働は社会の階層に分割されてはいたが、生産されたものが商品となることはなかった。もっと身近な例でいうと、どこの工場でも組織的に労働の分業が行われているが、だからといって労働者たちは自分たちがそれぞれに作ったものを自分たちの間で交換することはない。互いに依存し合わない独立した私的な労働によって作られた製品だけが、商品となって互いに交換されるのである。
これまでに分かったことを整理してみよう。まず、どんな商品であろうとその使用価値には、一定の目的を持った生産的活動、すなわち有用な労働が込められている。使用価値のある様々なものが商品として互いに交換されるためには、それぞれの使用価値の中に、性質の異なる有用な労働が込められていなければならない。
生産物が商品という形をとっている社会、商品を作る人たちからなる社会では、このような性質の異なる有用な様々な労働が、独立した生産者による互いに依存しない私的な事業として行われ、それが多方面に分岐した体系となって、労働の社会的な分業に発展する。
ところで、上着は客が買って着ようが、仕立屋が自分で着ようが、いずれの場合も使用価値として機能していることに変わりはない。また、仕立屋が独自の職業となって、労働の社会的分業の独立した一部となっても、それによって、上着とそれを作る労働との関係はそれ自体変化するわけではない。実際、服をつくる必要があれば、誰かが仕立屋にならなくても人類は太古の昔から服を作ってきた。
しかしながら、上着や布地やその他の物的な資産のうちで自然に存在しないものは、目的を持った特別な生産的活動(=有用な労働)によって常に作り出してやる必要があった。そして、自然に存在する特定の物を使って人間の特定の欲求を満たしてやらねばならなかった。だから、どんな社会形態であるかに関わらず、労働は、使用価値を生み出すもの、つまり「有用な労働」として、人間と自然の間の物質変換を媒介し人間の生活を成り立たせるためには無くてはならない条件であり永遠に変わらない摂理なのである。
使用価値のあるもの、つまり上着や布地などの現実の商品は、自然に存在する物と労働という二つの基本要素が結び付いたものである。ということは、上着や布地などに込められている様々な有用な労働のすべてを除き去ったとしても、その材料となっている要素は残る。それは人間とは無関係に自然に存在するものである。 
人間の生産活動は物の形態を変えるだけあって、自然と同じことをするのである。それだけでなく、この形態を変える仕事においても、人間は常に自然の様々な力に助けられている。だから、人間は労働によって様々な使用価値を作り出しているといっても、ただ労働だけでそうしているわけではない。つまり、物的資産の源は労働だけにあるのではない。だから、ある人が言うように、労働が物的資産の父であるとすれば、自然すなわち大地がその母だということになる。
さて、われわれの考察はここからは人が利用するものとしての商品から、「価値」としての商品に移る。
先程われわれは上着は布地の倍の「価値」があると仮定した。しかし、いまわれわれにとって重要なのは、二つの商品の間にこのような量的な違いがあるということではない。むしろ、われわれがここで注目したいのは、一着の上着の価値の量が一反の布地の価値の量の倍なら、二反の布地は一着の上着と同じ価値の量をもつということである。つまり、価値として見るかぎり、布地も上着も、同じ種類の労働が物として現われたものであって、同じ実体をもつ物なのである。
確かにはたおりと裁縫とは性質の違う労働ではある。しかし、同じ人間が交互にはたおりをしたり裁縫をしたりする段階の社会もある。そういう段階の社会では、この二つの異なった労働の方法は同じ人間の労働の異なった表われでしかなく、別々の人間がする個別の役割分担として固定してはいない。それはたとえば、われわれの仕立屋が今日は上着を作り、次の日にズボンを作っても、それらは同じ一人の人間の労働の異なった表われでしかないのと同じである。また、ちょっと考えたら分かることだが、現代の資本主義社会でも、労働需要の変化に合わせて、特定の量の労働力が、ある時は裁縫にまわされたり、ある時ははたおりにまわされたりする。このような労働の形態の変更は必ずしもスムーズに行くとは限らないが、必要とされている。 
生産的活動からその特徴つまり有用な労働の特徴が取り去られても、その活動が「人間の労働力」の注入であることに変わりはない。裁縫とはたおりはそれぞれ性質の異なった生産的活動ではあるが、両方とも人間の知力、腕力、感覚、技能などを物を作るために注入することに変わりはない。その意味で両者はともに「人間の労働」なのである。これらは「人間の労働力」を注入するための二つの異なった労働形態に過ぎない。もちろん、いずれの労働形態に「人間の労働力」を注入するにしても、そのためにはその労働力自体がある程度のレベルに到達している必要があるのは言うまでもない。
しかし、商品の「価値」が表わしているものは、まさに抽象的な「人間の労働」であり、抽象的な「人間の労働力」の注入なのである。ブルジョア社会では将軍や銀行家は大きな特徴をもっているのに一般的人間にはほとんど特徴がないが、それは「人間の労働」についても言える。「人間の労働」とは、単純な労働力、つまり、平均的な普通の人間なら誰でも自分の肉体組織の中に持っている、何の訓練も経ていないような労働力の注入のことである。
もちろん、平均的で単純な労働自体、国によって文化レベルの違いによって様々な特徴の違いはあるが、ある特定の社会の中ではそれは一定のものである。この場合、複雑な労働は単に単純な労働を何乗かしたものか、あるいは何倍かしたものと見なされ、その結果、少ない量の複雑な労働は大量の単純な労働と等しいことになる。このような置き換えが日常茶飯事で行われているのは、誰にも覚えがあるだろう。複雑な労働によって作られた商品でも、「価値」としては単純な労働で作られたものと同じ扱いを受ける。つまり、商品の「価値」はある量の単純労働だけを表わしているのである。
単純労働を基本単位として様々な種類の労働を換算する場合の換算比率は、生産者たちの知らないうちに社会のどこかで決められている。だから、この比率は生産者たちには慣習によって決まっているように思える。話を簡単にするために、これからはどのような種類の労働力も単純な労働力を意味するものとする。その方が換算の手間が省けるからである。
というわけで、「価値」としての上着と布地は、それらが持っている使用価値の違いが取り去られているが、それと同じように、これらの「価値」の中に体現されている労働も、裁縫とはたおりという有用な労働形態の違いは取り去られている。
使用価値としての上着と布地は、目的をもった生産的活動と布と糸が結び付いたものであり、それに対して、「価値」としての上着と布地は、単なる同種の労働の固まりでしかないが、それと同じように、これらの商品の「価値」の中に含まれている労働もまた、布と糸が労働と生産的に結び付いたものではなく、単なる「人間の労働力」の注入と見なされるのである。 
使用価値としての上着と布地を裁縫とはたおりが作りだすことができるのは、まさにこの二つの労働が異なった性質を持っているからである。それに対して、「価値」としての上着と布地の実体が裁縫とはたおりであるのは、まさにこの二つの労働がそれぞれの独特の性質を失い、どちらも同じ性質、「人間の労働」という性質を手に入れたからにほかならない。
ところが、上着と布地は単に「価値」であるだけでなく、一定の大きさをもつ価値である。そして、われわれの仮定では、上着は一反の布地の倍の「価値」をもっているのである。では、両者の価値の量のこの違いはどこから来るのか。それは、布地には上着の半分の労働しか含まれていないということ、つまり、上着を作るためには、布地を作るのと比べて、倍の時間の労働力を注ぎ込む必要があることから来ているのである。
したがって、商品に込められた労働は、使用価値に関する限りその性質に意味があるが、価値の量に関する限り、それはすでに特別な性質のない「人間の労働」に換算されており、その量だけに意味がある。前の場合は、どのような労働であり何という労働であるかが重要だが、あとの場合は、どれほどの労働であるか、つまり労働時間の長さが重要なのである。ある商品の価値の量はその中に込められた労働の量だけを表わしているから、様々な商品は適当な比率のもとでは、常に同じ価値の量を持つはずなのである。
つぎに、一着の上着を作るのに要する全ての有用な労働の生産力が変わらないなら、上着の量が増えるにつれて上着の価値の量は増えていく。つまり、一着の上着がX日の労働日を意味するなら、二着の上着は2X日の労働日を意味するというふうに増えていくのである。
では、一着の上着を作るのに必要な労働が倍になったり半分になったりしたらどうだろう。前の場合は、一着の「価値」は以前の二着分の「価値」を持つようになるだろうし、後の場合は、二着の「価値」が以前の一着分の「価値」しか持たないようになるだろう。しかし、いずれの場合も一着の上着が果たす服としての役割は変わらないし、一着の上着に込められた有用な労働の性質も変わってはいない。ところが、その生産のために注入された労働の量は変わっている。
使用価値の量が多くなればそれだけ物的な資産も大きくなる。例えば、二着の上着の方が一着の上着よりも大きな資産となる。これは、二着の上着があれば二人の人に着せることが出来るが、一着の上着しかなければ一人しか着せることが出来ないということである。
ところが、物的な資産が大きくなるほどその価値の量は小さくなるということもある。このような逆向きの動きが起きるのは、労働に「価値」と使用価値という二つの面があるためである。
生産力とは当然ながら有用で具体的な労働の生産力のことであり、実際に、目的を持った生産的活動が一定の時間内に達成できる達成効率を左右するのはこの生産力である。したがって、有用な労働は、生産力が大きくなればより豊かな生産源となるし、生産力が小さくなればより貧しい生産源となる。 
その代わりに、生産力が変わっても「価値」の中に表われている労働それ自体は変化しない。生産力は労働の有用で具体的な面に関するものであるから、労働の有用で具体的な面が取り去られるやいなや、当然ながら、生産力の変化は労働に影響を及ぼすことが出来ない。
したがって、生産力の大小に関わらず、同じ時間内の同じ労働は常に同じ量の「価値」を生み出す。しかし、同じ時間内の同じ労働が産み出す使用価値の量は一定ではなく、生産力が上がればより大きな使用価値を生み出すようになるし、生産力が下がればより小さな使用価値しか生み出せなくなる。
したがって、生産力が上がって、同じ労働でも多くの製品を作れるようになり、労働が産み出す使用価値の量が増えたとしても、もしこの生産力の上昇によって生産に必要な労働時間の合計が短縮されれば、増産された全体のものの価値の量はかえって小さくなる。逆の場合もまた同じである。
あらゆる労働は、一方では、肉体を使って「人間の労働力」を注入することであり、同じ「人間の労働」つまり抽象的な「人間の労働」という属性によって、商品の「価値」を産み出すのである。しかし、他方で、全ての労働は、目的をもった特別な形態で「人間の労働力」を注入することであり、この有用で具体的な労働という属性によって、使用価値を産み出すのである。 
第三節 商品がもつ価値としての形態あるいは交換価値について

 

商品というものは、使用価値つまり鉄とか布地とか小麦など現実の商品の形態で世の中に現われる。これが商品のありふれた本来の形態である。しかしながら、これが商品であるためには、二つの意味、すなわち人に使用されるものであると同時に「価値」を持っているものである必要がある。ということは、商品が商品である、つまり商品が商品の形態をもつためには、本来の形態と「価値」としての形態の二重の形態を持っていなければならないことになる。
ところで、商品に「価値」があるということは、実に捉え所のなく非常に分かりにくいことである。現実の商品は手に取ってみればおおざっぱにでもそれがどんなものかは理解できる。それとは違って、自然にある物質は「価値」があるということとは少しも関係がない。だから、一つの商品を手にとって、いくらひねくり返してみても、どうしてそれが「価値」ある物なのかは分からないままである。
しかしながら、商品に「価値」があるためには、商品が「人間の労働」という同じ社会的単位の表われでなければならないこと、したがって商品に「価値」があるということは極めて社会的なことだということを思い出すなら、商品に「価値」があるということは商品と商品の社会的関係の中にしか現われないことは明らかである。
実際、われわれは、商品の交換価値あるいは商品の交換関係から出発して、商品の中に隠れている「価値」の実体を明らかにした。われわれは今やこの「価値」の現象形態つまり交換価値に立ち戻らねばならない。
他のことはいざ知らず、様々な商品にはそれぞれの使用価値という多様な自然形態があるが、そのほかに、それとは極めて対照的に全ての商品に共通な「価値としての形態」があり、お金の代わりに使われることがあることは誰でも知っているだろう。
しかし、ここで大切なことは、ブルジョア経済学がこれまで一度も手がけたことがないこと、つまり、お金がどのようにして発生したかを跡づけることである。つまり、商品の「価値」は価値の等式によって表わされるが、この価値の表われの発展の跡を、その最も単純素朴なものから魅惑的なお金になるまでを順にたどっていくのである。その過程で、お金というものがもつ謎を解いていきたいと思う。
価値の等式のうちで最も単純なものは、明らかに、一つの商品と任意の別のもう一つの商品の価値の等式である。二つの商品の価値の等式によって、ある商品の「価値」は最も簡単に表わされる。 
A.単純な価値形態、単独の価値形態、あるいは偶然な価値形態

 

x量の商品A=y量の商品B:x量の商品Aはy量の商品Bの価値がある。
(二反の布地=一着の上着 つまり二反の布地は一着の上着の価値がある) 
1.価値を表わす等式の二つの極:相対的な価値形態と等価物の形態
全ての価値形態の秘密はこの単純な価値形態つまりこの一つの等式の中に隠れている。だからこそ、単純な価値形態の分析には特別な困難が伴うのである。
この等式では二つの異なる商品、この例では布地と上着が、明らかに、それぞれ別々の役割を果たしている。この式では布地が自分の価値を上着によって表わしており、上着は布地の価値を表わす材料となっている。布地が主役であって、上着は補助的な役割をしているといえる。布地の価値は上着との比較によって表わされている。つまり、布地は相対的な価値の形態をとっている。一方、上着は等価物としての役割を果たしている。つまり、上着は等価物の形態をとっている。
相対的な価値形態と等価物の形態は、価値を表わす一つの等式の中で、相互に依存しあい密接に結び付いて切り離すことのできない要素であるが、同時に、互いに相容れることのない対極をなしている。つまり、これらの形態のそれぞれが常にこの等号で結ばれた商品に別々に割り当てられるのである。
例えば布地の価値は布地で表わすことはできない。二反の布地=二反の布地という等式は、布地の価値を表わしてはいない。むしろ、この等式は二反の布地は二反の布地以外の何ものでもなく、布地という実用品が特定の量だけ存在することを表わしているだけである。
だから、布地の価値は他の商品によって相対的に表わすしかない。ということは、布地の相対的な価値を表わすためには、その前提として等価物の形態をした何か別の商品が布地と交換できる必要があるということである。
一方、この別の商品は等価物の役割をしながら、同時に相対的な価値形態で表わされることは不可能である。それは自分自身の価値を表現するのではなく、別の商品の価値を表わす材料を提供するだけなのである。
もちろん、「二反の布地=一着の上着 つまり、二反の布地は一着の上着の価値がある」という等式は、その逆向きの「一着の上着=二反の布地 つまり、一着の上着は二反の布地の価値がある」という意味も含んでいる。しかしながら、上着の価値を相対的に表わすためには、等式の向きを実際に逆にしなければならない。そして、そうするやいなや、上着ではなく布地が等価物の役割を負ってくる。ということは、価値を表わす同じ等式の中では、一つの商品が同時に二つの形態をとることはできないということである。つまり、この二つの価値形態は対極に位置して、互いに相容れないものなのである。
次に言えることは、一つの商品が相対的な価値の形態となるかその反対の等価物の形態となるかは、その時に価値を表わす等式のどちら側に来るかにかかっているということである。つまり、その商品が他の商品の価値を表わす道具となるのか、それとも他の商品によってそれ自身の価値が表わされるのか、によってそれが決まってくるのである。 
2.相対的な価値形態
a.相対的な価値形態の中身
では、二つの商品の価値の等式の中に、一つの商品の単純な価値の形態はどのように表われているだろうか。それを知るためには、われわれはまず最初にこの価値の等式を、その数量的な面から完全に離れて観察しなければならない。
ところが、一般に行われている方法はこの逆で、人々は価値の等式の中にある二種類の商品が同じ価値を持つための比率にばかり注目しがちである。
相異なる二つのものの大きさを量的に比較するためには、この二つのものの量を同じ単位に換算する必要があることを人々は忘れている。この二つのものの量は、同じ単位で表わすことによってはじめて同種のものとなり、同じ尺度で比べることができるようになるのである。 
「二反の布地=一着の上着」であろうと、「二反の布地=二十着の上着」であろうと、「二反の布地=X着の上着」であろうと、ある一定の布地が何着の上着の価値と等しいかには関わらず、それらが何らかの比率で等しくなるということは、布地と上着は価値の量としては同じ単位で表わされており、両者ともに同じ性質を持つものだということになる。つまり、この等式の背景には「布地=上着」という等式があるのである。
しかし、同じ性質を持つと見なされるこの二つの商品は、この等式の中でどちらも同じ役目を果たしているわけではない。ここでは布地の価値だけが表わされているのである。布地の価値は、布地がその「等価物」である上着、つまり布地と「交換できる物(=上着)」との関係によって表わされているのである。
この関係においては、上着はすでに価値ある物で、別の商品が価値であることを表わす物と見なされる。というのは、ここでは上着はそういう物としてはじめて布地と等しい物となるからである。
一方で、布地はそれ自身が価値であることが明らかになる。つまり、そのことが明確な形で表わされるのである。というのは、価値である布地だけが、同じく価値であり「交換できる物」である上着と関われるからである。 
布地と上着の場合と同じように、酪酸は蟻酸塩とは全く異なる物質である。ところが、両方とも同じ化学物質である炭素(C)水素(H)酸素(O)からできており、しかもこれらの割合も同じである。つまり、両方ともC4H8O2なのである。
そこで、もしわれわれが酪酸は蟻酸塩と等しいと言うなら、それは第一に、この関係の中で蟻酸塩は別の物がC4H8O2であることを示す物と見なすことであり、第二に、酪酸もまたC4H8O2であることを示すことにである。つまり、酪酸が蟻酸塩と等しいと言うことによって、酪酸の実際の形とは別に、酪酸の化学的な実体が表わされるのである。
われわれが、価値としての商品は「人間の労働」の固まりにすぎないと言うとき、それはわれわれの分析によって商品の使用価値を取り去っただけであって、商品の本来の形態つまり自然形態とは別に、価値としての形態を商品に与えているわけではない。
ある商品と別の商品を価値の等式におく場合は、そうではない。ある商品を別の商品と関連づけることによって、その商品が価値であることがはっきりしてくる。
例えば、布地が価値ある物としての上着と等しいと言うことは、上着の中に込められた労働は布地の中に込められた労働と等しいと言うことである。
確かに、上着を作る裁縫という労働は、布地を作るはたおりという労働とは種類の異なる具体的な労働であるが、はたおりは裁縫と等しいと言うときには、裁縫はこの両方の労働のなかに現に存在する同じ物、つまり「人間の労働」という両者に共通な特徴に事実上置き換えられるのである。
こうして、回りまわって、はたおりが価値としての布地を織る限りにおいては、はたおりもまた裁縫と異なる特徴を何も持っていない抽象的な「人間の労働」であると言えるのである。
つまり、様々な種類の商品を等式の形で表わすことによってのみ、価値を作り出す労働に特有の性格が明らかになるのである。なぜなら、そうすることによって、様々な種類の商品の中に込められた様々な種類の労働は、それらに共通のものつまり抽象的な「人間の労働」に事実上置き換えられるからである。
しかしながら、布地の価値を作り出すという労働の特有の性格が明らかになっただけでは充分ではない。なぜなら、「人間の労働」あるいはまだ固定した状態に達していない「人間の労働力」は価値を作り出しはするが、それ自身は価値ではなく、それが固定した状態になり物の形になったときにはじめて価値となるからである。 
この布地の価値を「人間の労働」の固まりとして表わすには、布地の価値を、布地とは違う物であってしかも同時に布地と他の商品に共通する「ある物」で表せばよいのである。われわれの問題はもう解けたも同然である。
上着が布地の価値を表わす等式の中で、布地と中身が同じ物であり、布地と同じ性質を持つものと見なされるのは、上着が一つの価値だからである。したがって、上着はここでは価値が目に見える形で現われている物、手にとって分かる自然形態のままで価値を表わす物と見なされるのである。
といっても、この上着は現実の上着という商品であって、単なる一つの使用価値にすぎない。単独で存在する一着の上着は、ありふれた布地同様、価値を表わしてはいない。しかし、このことは、この上着は布地と価値の等式の中にある時の方が、この等式の外にあるときより、多くの意味を持つということに過ぎない。それは、多くの人が金モールの付いた上着を着ているときの方が、着ていないときより偉いのと同じ事である。
この上着の製作の際には、実際に「人間の労働力」が裁縫という形で注入されている。つまり、この上着の中には「人間の労働」の蓄積がある。この点から見ると、この上着は価値の担い手なのである。もっとも、この属性はいくらこの上着を眺めても目に見えるものではない。
そして、この布地の価値を表わす等式の中では、この上着はこの点からのみ意味があるのである。つまり、ここでは上着は価値が具体化した物、価値を体現する物と見なされるのである。そして、この布地は、上着がいかに無愛想な表情をしていようとも、この上着の中に自分と同じ「価値」という美しい心があることを認めたのである。とはいえ、上着が布地の価値を表わすことができるのは、たまたまその時布地にとって「価値」が上着の形をしていたからにすぎない。
同様にして、例えば、Aという人がBという人を「陛下」と言って敬うのは、たまたまその時Aにとって「陛下」というものがBの姿をしていたからにすぎない。つまり、Aにとって「陛下」というものは君主が変わるに従って髪形や表情やその他の多くの特徴を変えるものなのである。
したがって、上着が布地の等価物となっているこの等式の中では、上着という形のものが価値の姿をしていると見なされるのである。したがって、布地という商品の価値が、上着という現実の商品によって表わされる、つまり、ある商品の価値が別の商品の使用価値で表わされるのである。
使用価値としての布地は、どう見ても上着とは異なる物であるが、「価値」としての布地は「上着と同じ物」であって、上着と同じ姿、価値の姿をしているのである。こうして、布地はその本来の形態とは似ても似つかぬ「価値としての形態」を手に入れるのである。布地が「価値」であることは、それが上着と等しいことによって明らかになる。それは、キリスト教徒の本質が羊であることは、キリスト教徒が神の子羊(=キリスト)と等しいことによって明らかになるのと同じである。 
以上から、布地が別の商品である上着と関わりを持つやいなや、商品の価値の分析で明らかになったことの全てがこの布地に当てはまることが分かるだろう。ただし、ここでは布地の価値は商品の世界だけに通用する言葉で表わされている。
だから、例えば、労働が「人間の労働」という抽象的な属性によって布地の「価値」を作り出すということは、「上着が布地と等しい物と見なされ、上着が価値である時に、上着は布地と同じ労働によって作られている」と表現される。また、布地が価値あるものであるという素晴らしいことと、布地(=亜麻)が現実にはごわごわした物であるということとは関係がないということは、「価値は上着の姿をしており、その結果、ある卵が別の卵と同じであるように、価値ある物としては布地は上着と等しい」と表現される。
ちなみに、商品の言葉にはユダヤ人の使うヘブライ語のほかにも多くの言語が存在するが、その正確さはまちまちである。たとえば、商品Aの価値は、商品Aが商品Bと等しいことによって表わされるということを、ドイツ語の"wert sein"は、ロマンス語の動詞である"valere, valer, valoir"ほど分かりやすくは表現できない。例えば、 Paris vaut bien une messe!(訳注「パリはミサに値する」仏王アンリ四世の言葉で、パリは新教派の王がカトリックに改宗してでも入城する値打ちがあるという意味。この改宗によって王は国内の宗教的対立を収束させてスペインと戦う体制を作った)。
要するに、商品Aの価値を商品Bで表わす等式によって、商品Bの自然形態は商品Aの価値形態となるのである。つまり、商品Bという現実の物が商品Aの価値を映す鏡となるのである。商品Aを、価値を体現する物としての商品B、つまり「人間の労働」が物の形をとったものとしての商品Bと結び付けることによって、使用価値Bは商品Aの価値を表わす素材に変わるのである。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表わされることによって、相対的な価値形態を獲得するのである。 
b.相対的な価値形態がもつ数量面の特徴
ところで、こうして価値が表わされる商品はどれもみな、例えば、15シェッフェル(=約800リットル)の小麦とか、100ポンド(=50キログラム)のコーヒーのように、一定の量で使われるものである。この一定の量の商品にはある量の「人間の労働」が込められている。ということは、価値形態は単に抽象的な価値を表わすだけではなく、ある特定の量的価値つまり価値の量を表わさねばならないことになる。
つまり、商品Aの価値を商品Bで表わす等式、つまり布地の価値を上着で表わす等式では、「価値を体現する物」としての上着という商品種が布地と質的に等しいだけではなく、特定の量の布地(例えば二反の布地)が、「価値を体現する物」つまり「等価物」の特定の量(例えば一着の上着)と等しい。
「二反の布地=一着の上着 つまり、二反の布地は一着の上着の価値がある」という等式が成り立つためには、一着の上着と二反の布地に込められた価値の実体は同じでなければならない。つまり、それぞれの量の二つの商品は同じ労働量、つまり同じ長さの労働時間で作られていなければならない。
ところが、二反の布地を作るのに必要な労働時間も、一着の上着を作るのに必要な労働時間も、それらを作るはたおりと裁縫の生産力が変われば、それにつれて変わってくる。そこで、この生産力の変化は価値の量の相対的表現にどんな影響を与えるか、考えてみる必要がある。
b.I. 上着の価値が変わらないのに、布地の価値が変わった場合。
例えば亜麻をつくる田畑のひどい不作のために、布地を作るのに必要な労働時間が倍になったら、布地の価値は倍になる。すると「二反の布地=一着の上着」ではなく「二反の布地=二着の上着」となる。つまり、今や一着の上着には二反の布地の半分の労働時間しか含まれていないのである。その反対に、例えば織機が改善されて、布地の生産に必要な労働時間が半分になれば、布地の価値も半分に減少する。それにしたがって、今では「二反の布地=1/2着の上着」となっている。商品Aの相対的価値、つまり商品Bによって表わされた商品Aの価値は、商品Bの価値が変わらない場合には、商品Aの価値に正比例して上がったり下がったりする。
b.II. 上着の価値が変わったのに、布地の価値が変わらない場合。
この場合、例えば羊毛の刈り取り作業が停滞したために、上着を生産するのに必要な労働時間が倍になったら、「二反の布地=一着の上着」ではなく今や「二反の布地=1/2着の上着」となる。その反対に、上着の価値が半分に減少すれば、「二反の布地=一着の上着」ではなく「二反の布地=二着の上着」となる。商品Bによって表わされる商品Aの相対的価値は、商品Aの価値が変わらない場合には、商品Bの価値に反比例して下がったり上がったりする。
IのケースとIIのケースを比べると、相対的価値の量はまったく正反対の原因によって同じような変化をすることがわかる。「二反の布地=一着の上着」は、(一)布地の価値が二倍になっても上着の価値が半分になっても「二反の布地=二着の上着」という等式になり、また、(二)布地の価値が半分になっても上着の価値が二倍になっても「二反の布地=1/2着の上着」という等式になる。
b.III. 布地と上着を製作するのに必要な労働量が、同時に同じ方向に同じ割合だけ変化する場合。
この場合には、両者の価値がどう変わろうと「二反の布地=一着の上着」はその前後で不変である。この両者の価値の変化は、価値が変わらない三つ目の商品と比べたときに明らかになる。すべての商品の価値が同時に同じ割合だけ上がるか下がるかした場合には、それらのすべての商品の相対的な価値は変わらない。二つの商品の価値が実際にどう変わったかは、同じ労働時間の間に生産される商品の数量が以前と比べて今の方が多いか少ないかを見れば分かる。
b.IV. 布地と上着のそれぞれを製作するのに必要な労働量、つまりそれらの価値が、同時に同じ方向に変化するが同じ程度でない場合、あるいは反対方向に変化する場合など。
ある商品の相対的な価値に対して、可能なすべての組み合わせが与える影響については、以上のI、II、IIIの三つの場合を応用すれば容易に明らかになるだろう。
つまり、商品の価値の量の実際の変化は、相対的な価値の表現に、つまり相対的な価値の量に、明確で完全な形で反映されることはない。ある商品自身の価値が変わらなくてもその商品の相対的な価値が変わる可能性があるし、ある商品自身の価値が変わったのにその商品の相対的な価値が変わらない可能性がある。さらには、商品自身の価値の量と商品の相対的な価値が同時に変わったとしてもその変化の量が同じとは限らない。
3.等価物の形態
これまで見てきたように、ある商品A(布地)はその価値を別の種類の商品B(上着)の使用価値で表わすことによって、商品Aは商品Bに等価物の形態という独特の価値形態を付与する。
上着は実際の形とは異なる価値形態(たとえばお金)に代わることなく、布地の等価物となることによって、布地という商品がそれ自身価値であることを明らかにする。つまり、布地がそれ自身価値であることは、布地と上着が直接交換できることによって実際に表わされる。したがって、ある商品が等価物の形態であるということは、その商品が他の商品と直接交換できる形態であるということである。
しかしながら、ある種の商品、例えば上着は別種の商品例えば布地の等価物になり、布地と直接交換できるという独特の属性を手に入れるとしても、それによって上着と布地を交換する比率が与えらるわけでは決してない。布地の価値の量が与えられている場合、この比率は上着の価値の量によって変わってくる。
そして、上着の価値の量は上着を生産するのに要する労働時間によってきまる。それは上着が等価物として表わされていて布地が相対的価値として表わされているのか、その反対に布地が等価物として表わされていて上着が相対的価値として表わされているのかには関わりがない。つまり、いずれの場合でも上着の価値の量はその価値形態とは関係なく決まるのである。
しかしながら、上着という種類の商品は価値を表わす等式の中で等価物の位置を受け持つやいなや、もはや上着の価値の量は価値の量として表わされることはない。上着は価値の等式の中では別の物の量を表わすだけである。
例えば、四反の布地の価値はどれ程かと問えば、それは二着の上着の価値があるということになる。ここでは上着という種類の商品が等価物の役割を果たしており、「上着という使用価値」が「価値を体現する物」として布地と交換できると見なされている。ということはまた布地の価値の特定の量を表わすには、特定の数の上着があればいいということである。
このように、二着の上着は四反の布地の価値の量を表わすことはできるが、上着によってそれ自身価値の量、つまり上着の価値の量を表わすことはできない。
これらの事実を皮相的に捉えて、価値の等式の中で等価物はある物(=使用価値)の単純な量を意味するだけだと考えた人たちは、しばしば、価値を表わす等式に表われているのは単なる量的な関係だけだと誤解しがちである。しかし、ある商品に等価物の形態を与えることは、けっしてその商品の価値の量を決めることではない。
等価物という価値形態を観察する場合にわれわれの目を引く第一の特異性は、「使用価値がそれとは反対のものつまり「価値」の形態となる」ということである。つまり、商品はその本来の役割を捨てて価値を表わす役割をもつようになるのである。
しかし、このとき注意しなければならないのは、この変化は、商品B(上着、小麦、鉄など)に対して別の任意の商品A(布地など)が置かれている価値の等式の中で、商品Bについてこの関係の中だけで起こるということである。どんな商品も自分自身を等価物としての自分自身に結びつけることは出来ないし、自分自身の自然形態を自分自身の価値を表わすために使うことは出来ない。したがって、あらゆる商品は等価物である他の商品に結び付くしかないのである。つまり、他の商品の自然形態を自分自身の価値を表わす形態として使うしかないのである。
このことを別の例で説明しよう。例えば、計量の単位の「重さ」という尺度は、現実の商品を現実の商品(=使用価値)のままで尺度の基準として利用する。例えば砂糖は物として見た場合には重い物であり重さを持っている。しかし、砂糖の重さは見ただけでは分からないし感じることも出来ない。そこで、重さがあらかじめ分かっている鉄の固まりを利用する。
鉄の本来の役割は、それだけで見る限りは、砂糖の本来の役割と同じく、重さを表わすことではない。しかし、砂糖を「重さ」として表わすために、われわれは砂糖と鉄を重さの等式の中に置く。この等式の中で鉄は重さ以外のどんな意味も持たない物と見なされる。こうして、一定の量の鉄が砂糖の重さを表わす計量単位となり、砂糖という物に対して重さを表わす役割だけをもつようになる。鉄がこの役割をもつのは、重さを知りたい砂糖か何か別の物が鉄と比較される等式の中だけのことである。
もちろん、この二つの商品に重さがなければ、これらがこの重さの等式の中に置かれることはないし、一方が他方の重さを表わすものとなることもない。しかし、鉄と砂糖を天秤で計れば、どちらにも重さがあることはすぐに分かるし、適当な割合にすれば同じ重さになる。
この重さの等式の中では鉄という現実の物が砂糖に対して重さとしての意味しかもたないが、それと同じように、価値を表わす等式の中では上着という現実の物が布地に対しては価値としての意味しかもたないのである。
しかしながら、似ているのはここまでである。砂糖の重さを表わす等式の中で鉄が意味しているものは、鉄と砂糖の両方が共通にもっている自然な属性つまり両者の重さだが、布地の価値を表わす等式の中で上着が意味しているのは両者の自然な属性ではなく、両者の「価値」という極めて社会的なものである。
ある商品例えば布地の相対的な価値形態によって表わされていることは、布地が価値であることは、その現実の物ともその物の属性ともまったく別のもの、例えば「上着と同じ物」であることなのである。そして、そのことによって、この形態に社会的関係が秘められていることがわかるのである。
等価物の形態については逆のことが言える。等価物の形態は、上着のような現実の商品が、そのままの自然な形態で価値を表わしている。ということは、それは元々はじめから価値の形態を持っているということである。
たしかに、これは等価物としての上着という商品に布地という商品が結び付いている価値の等式の中だけで有効である。しかし、ある物の属性は他のものとの関係から生まれるのではなくて、その関係の中で発揮されるものであるから、上着の等価物としての形態、つまり直接他のものと交換できるという属性は、上着が重さを持っているとか着れば暖かいとかいう属性と同じく、明らかに上着が元々持っている属性なのである。
そして、これこそが等価物の形態の不可解さの原因である。この不可解さは、等価物の形態がお金という完成した形で現われてはじめて、ブルジョア経済学者たちのうかつな目にも見えてきた。その時になってやっと彼らは金や銀の不思議な特徴を明らかにしようとした。といっても、彼らは金や銀よりも地味な商品でもお金として使えるのだと言い、つぎつぎと粗末な商品を持ち出して、昔はこんなものでも商品の等価物としての役割を果たしていたのだと、その度ごとに悦に入っているだけなのである。
しかし、「二反の布地=一着の上着」という価値を表わす単純な等式の中に、等価物の形態の不思議な特徴がすでに隠れているということに、彼らは気付かない。
等価物の役割を果たす現実の商品は、抽象的な「人間の労働」が具体的な形をとって現われたものと見なされており、同時に特定の具体的で有用な労働の産物である。つまり、具体的な労働がここでは抽象的な「人間の労働」を表わすのである。例えば、上着が単に抽象的な「人間の労働」が具体化したものと見なされるとすれば、上着という形に現実に具体化される裁縫という労働は、単なる抽象的な「人間の労働」の具体的な表われと見なされるのである。
裁縫の役割は、布地の価値を表わす等式の中では、着る物を作ったり人の外見を飾ることではない。それは、人にそれが「価値」であると見られる物を作り出すことである。そして、この「価値」とは抽象的な労働の固まりのことであって、布地の価値に結実した労働と少しも違いのないものである。
そして、裁縫がこのような「価値」を映す鏡を作り出すためには、裁縫は「人間の労働」という抽象的な属性以外の何ものをもその作物に映し出してはいけないのである。
確かに、はたおりという労働形態にも裁縫という労働形態にも「人間の労働力」が注入されている。つまり、この二つの労働形態はともに「人間の労働」という普遍的な属性を備えている。だから、ある種の場合、例えば価値を産み出すという場合においては、二つの労働形態は共に「人間の労働」という観点からだけから見ていればよい。ここには何も不思議なことはない。
しかしながら、商品の価値を表わす等式の中では問題は少々ややこしくなる。例えば、布地の価値を産み出すのは「人間の労働」という普遍的な意味でのはたおりであって、はたおりという具体的な労働ではない。このことを表わすために、この等式では布地の等価物(=上着)を生産する具体的な労働である裁縫が、はたおりと対置されるのである。そして、この場合には、裁縫は抽象的な「人間の労働」の具体的な表われと見なされるのだ。
しがたって、「具体的な労働がそれと反対のものつまり抽象的な『人間の労働』を表わす役割をもつ」ということが、等価物という価値形態の第二の特異性ということになる。
しかしながら、この裁縫という具体的な労働は、単なる普遍的な「人間の労働」を表わすものと見なされることによって、布地の中に込められている別の労働との同一性を手に入れ、その結果、この裁縫という労働は、様々な製品を生産する他のあらゆる労働と同じく私的な労働であるにもかかわらず、直接社会と関わりを持つ労働になるのである。それだからこそ、この裁縫という労働は、直接他の商品と交換できる商品として自らの姿を表わしているのである。
そして、「私的な労働がそれと反対のものつまり直接社会と関わりを持つ労働となる」ということが、等価物という価値形態の第三の特異性なのである。
価値形態のみならず、多くの思考形態、社会形態、自然形態を初めて分析した偉大な学者アリストテレスに立ち戻れば、等価物の形態の特異性のうちで最後に明らかにした二つのものは、いっそう明らかになるだろう。
というのは、第一に、アリストテレスは、商品の貨幣としての形態は単純な価値形態、つまり、ある商品の価値を他の任意の商品で表わすやり方が発展したものにすぎない、とはっきり言っているのである。というのは、アリストテレスはこう言っているからである。
「『五つのベッド=一軒の家』というのは『五つのベッド=これこれの貨幣』というのと違わない」
さらにアリストテレスは、価値をこのように表わす等式が成り立つためには、家とベッドが性質的に同じ物と見なされる必要があること、そして、どう見ても別のものであるこの二つの物は、このように本質的に同じ物と見なすことによってはじめて同じ尺度で計れる量として結びつけることができることを、見抜いていた。
なぜならアリストテレスはこう言っているからである。「交換するためには同じ物でなければならない。同じ物は同じ尺度で計られなければならない」
しかし、アリストテレスはここで終わっていて、価値の形態についてのそれ以上の分析を断念している。そして「実際の所は全然ちがう種類のものを同じ尺度で計ることは不可能である」つまり性質的に同じ物と見なすことは不可能であり、このように同一視することは、様々な物の真の本質とは相容れないことであって、「実際的な必要を満たすための応急処置」でしかないと言っているのである。
アリストテレスの分析がなぜ行き詰まったかは彼の言葉から明らかである。つまり、彼の価値概念には欠陥があったのである。ベッドの価値を表わす等式の中で、家がベッドに向かって表わしている双方に共通の中身つまり性質的に同じ物とは何だろうか。「そんなものは実際にはあり得ない」とアリストテレスは言う。なぜだろうか。
家がベッドに向かって双方に共通する物を表わすことができるのは、ベッドと家の双方の中に実際に含まれている共通の物を、家が表わしているからにほかならない。そして、それこそが「人間の労働」なのである。
ところが、アリストテレスは、商品が価値の形態をとることは知っていたが、あらゆる労働が同じ「人間の労働」として、つまり同じ価値を持つものとして、この形態の中に表われているということを、価値形態から読みとることが出来なかったのである。なぜなら、ギリシャ社会は奴隷労働に基づいており、人間の不平等、人間の労働力の不平等を本来の基盤としていたからである。
価値を表わす等式の秘密は、すべての労働が同じものであり、同じ意味を持つもの、普遍的な「人間の労働」であることである。だから、この謎を解くには、人間はみな同じであるという概念が万人の固定観念に発展している必要がある。しかし、そんなことが実現するには、社会の中で、商品の形態が労働生産物の普通の形態であり、商品所有者としての人間の相互関係が支配的な社会的関係になっている必要がある。
アリストテレスはその天賦の才を発揮して、商品の価値を表わす等式の中に同一性の関係が潜んでいることを発見した。ただ、彼が生きた社会の制約があって、この同一性の関係が「実際には」どこに存在するのかを発見できなかったのである。
4.単純な価値形態のまとめ
ある商品が価値としての役割をすること(=価値形態)は、その商品と別の商品との価値の等式の中に単純な形で表われている。言い換えれば、それはその商品と別の種類の商品が交換される関係の中に表われている。
商品Aの価値の質は、商品Aが商品Bと直接交換できることに表われている。商品Aの価値の量は、ある量の商品Aがある量の商品Bと交換できることに表われている。別の言葉で言えば、ある商品の「価値」は、商品が「交換価値」として扱われることによって明確な形で表わされるのである。
この章の始めにわたしはよくある言い方で「商品とは使用価値と交換価値のことである」というふうに書いたが、厳密にはそれは正しくない。商品とは使用価値つまり人に使用されるものであると同時に「価値」なのである。商品の価値が商品の自然形態とは異なる固有の現象形態つまり交換価値の形態で表われるとき、商品は使用価値と価値の二つの面を元々もっていることが明らかになる。
商品は単独で観察される限りけっして交換価値の形態をとることはない。商品はもう一つの別種の商品との交換関係つまり価値の等式のなかで観察されてはじめてこの形態をとるのである。このことを知っている限り、先の言い方をしても構わないだろう。むしろ、その方が簡単である。
ここまでのわれわれの分析から次のことが証明された。それは、商品が価値の形態をもつこと、あるいは商品の価値が等式で表わすことができるのは、商品が元々価値をもっていることからであって、商品が交換価値として表わされるから価値や価値の量が生まれてくるのではないということである。ところが、この後の考え方こそ、重商主義者やその追随者たちや、その敵である最近の自由貿易提唱者たちが等しく信じ込んでいることである。
重商主義者たちは、価値を表わす等式の質的側面、つまり、貨幣という形で完成する商品の等価物の形態を重視している。それに対して、最近の自由貿易提唱者たちは、どんな値段でも商品を売りさばく必要があるので、相対的な価値形態の量的側面を重視する。したがって彼らにとっては、商品の価値も価値の量も、交換関係の中で表われる形、日常の値札に表われる形だけでのみ存在する。
ロンドンの金融街での混乱を極めた出来事に対して学問的な修飾を施すことを仕事にしていたスコットランドのマクロードにしても、迷信にとらわれた重商主義者と迷信から覚めた自由貿易提唱者との妙ちくりんな合成品となったにすぎない。
商品Aの価値が商品Bとの価値の等式によって表わされることを詳しく観察することによって、この等式の中では、商品Aの自然形態は使用価値だけであると見なされ、商品Bの自然形態は「価値」だけであると見なされることが明らかになった。したがって、商品の中に隠れている使用価値と「価値」の内的な対立は、この等式においては、二つの商品の関係という外的な対立によって表わされていることになる。
そして、この関係の中では、価値を表わしたい商品は元々使用価値のみをもっていると見なされ、それに対して、価値を表わす商品は元々交換価値のみをもっていると見なされる。だから、ある商品の単純な価値形態とは、その商品の中に含まれる使用価値と「価値」の対立の単純な現象形態なのである。
労働による生産物はどのレベルの社会でもそれが人に使用されるものであることに変わりはない。歴史上の特定の発展段階になると、人に使用されるものを生産するのに注ぎ込まれる労働がその物の具体的な属性、つまり、その物の価値と見なされる。そしてその時初めて、労働生産物が商品となる。それは要するに、商品が単純な価値形態をとると同時に労働生産物も単純な商品の形態をとるということであり、商品形態の発展が価値形態の発展と同時に起こるということである。
しかし、この単純な価値形態はまだ充分な発展を遂げていない萌芽状態であり、幾多の変遷を経た後に価格という形態に到達するものであることは、ちょっと考えれば分かることだ。
商品Aの価値を商品Bによって表わすことは、商品Aの使用価値と「価値」の違いをはっきりさせるだけであり、ある別のたった一つの商品との交換関係に置くだけである。そこでは、商品Aが他のどの商品とも中身が等しく、どの商品とも量的な比例関係にあることは示されてはいない。
一つの商品の単純な相対的価値の形態には、もう一つの商品による唯一つの等価物の形態が対応するだけである。だから、布地の相対的な価値を示す等式の中で上着が等価物の形態となって直接交換できるのは、この布地という唯一の種類の商品だけである。
にもかかわらず、この単独の価値形態はひとりでにもっと完全な形態に成長する。確かに、この単独の価値形態によっては、ある商品Aの価値が別のたった一つの種類の商品によって表わされるだけである。しかし、この別の商品の種類が上着でも鉄でも小麦でも何であっても、この際どうでもよいことである。
商品Aが様々な種類の商品に対して価値の等式に置かれるたびに、同じ商品Aの価値を表わす様々な種類の単純な等式が生まれる。そして、この商品の価値を表わす等式は、この商品と異なる商品の種類の数だけ生まれる。この商品の価値を表わすたった一つの等式が、今やこうして様々な種類の単純な等式の列に変貌を遂げ、その列が次のように長く伸びていくのである。
B.総体的な価値形態、あるいは、長く伸びた価値形態

 

z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または =w量の商品D または =x量の商品E または =等々
(二反の布地=一着の上着 または =10ポンドの紅茶 または=40 ポンドのコーヒー または =1クォーターの小麦 または =2オンスの金 または =1/2トンの鉄 または =等々)
1.長く伸びた相対的価値形態
ある商品、例えば布地の価値は、今やそれ以外の無数の商品によって表わされている。布地以外のあらゆる現実の商品が布地の価値を映す鏡となっているのである。
そして、初めてここで布地の価値が真に普遍的な「人間の労働」の固まりであることが明らかになる。というのは、布地を作る労働が今や明確に他のどんな「人間の労働」とも等しい労働として表われているからである。それらの労働が本来どのような形態をもっているか、それが上着か小麦か鉄か金かそれとも他のどんな商品に結実しているかは関係がない。
したがって、布地は、その価値の形態を通じて、もはや別のもう一つの商品に対して社会的な関係にあるのではなく、全ての商品に対して社会的な関係にあることになる。商品としての布地は、商品という世界の中で市民権を得たのである。それと同時に、この商品の価値を表わす等式が無限に伸びていることからも、商品の価値はそれが使用価値としてどんな独特の姿をしているかには無関係であることが分かる。
最初に示した「二反の布地=一着の上着」という等式では、この二つの商品が一定の比率で交換可能であるというのは偶然の出来事であるかもしれない。それに対して、二番目に示した等式では、この偶然の出来事とは本質的に異なる事実、この一見偶然に見える出来事の背景となっている事実が透けて見える。
この等式では布地の価値の量は一定である。それは、布地の価値を表わしているのが上着だろうとコーヒーだろうと鉄だろうと、その他無数の様々な所有者のもつ無限の様々な商品のどれだろうと同じである。ここにあるのはもはや商品を所有する二人の人間の偶然の関係ではない。ここから明らかなのは、交換することによって商品の価値の量が決まるのではなく、その反対に、商品の価値の量によって商品の交換比率が決まるという事実である。
2.個別の等価物の形態
布地の価値を表わす上の等式の中で、右辺にある上着、紅茶、小麦、鉄等々の商品はどれもみな等価物であり、したがって価値を体現する物であると見なされている。これら右辺のそれぞれの商品がもっている本来の個々の形態は、今やどれもが個別の等価物の形態なのである。
それと同じく、様々な現実の商品の中に込められている様々な種類の個々の具体的で有用な労働も、いまや普遍的な「人間の労働」が同じ数だけ個別に具体化して表われた姿と見なされるのである。
3.総体的な価値形態あるいは長く伸びた価値形態の欠点
第一の欠点は、この価値の等式の列は終わることがないために、商品の価値を他の商品によって相対的に表わすやり方はいつまでたっても完結しないことである。一つの価値の等式が別の価値の等式に結び付いている連鎖は、新しい価値の等式を作り出す新たな商品の種類が現われるとともに永遠に伸びていく。
第二の欠点は、この連鎖を伸ばしていくと、様々な種類のばらばらな価値の等式によるモザイクが出来てしまうことである。
最後の欠点は、それぞれの商品の相対的な価値がこうした長く伸びた形で表わされるしかないとすれば、それぞれの商品の相対的な価値形態は、永遠に終らない等式の羅列となり、しかもそれが商品ごとに全部異なってくるということである。
そして、長く伸びた相対的な価値形態のこれらの欠点は、その等価物の形態にもそのまま反映される。どの種類の商品であろうとその本来の個々の形態が、ここではどれもが別の等価物の形態となり、しかもそれが無数に存在する以上は、現実に存在する等価物は不完全なものしかなく、しかも、その内のどれか一つしか等価物になれないのである。
それと同様に、個別の商品による等価物の中に込められた個々の具体的で有用な労働も、「人間の労働」の個別の、従って、不完全な現れ方でしかない。確かにこの個別の現れ方をすべて集めさえすれば、人間の抽象的な労働の総体的なあるいは完全な現れ方が得られるかもしれない。しかし、それでも、その現れ方はけっして統一性のあるものではない。
しかしながら、長く伸びた相対的な価値形態は、次に示すような相対的な価値の単純な表現、つまり最初に示した形の単純な等式を単に集めたものでしかない。
 二反の布地 = 一着の上着
 二反の布地 = 10ポンドの紅茶 等々。
 そして、これらの等式は逆向きにしても意味は変わらない。
 一着の上着 = 二反の布地
 10ポンドの紅茶 = 二反の布地 等々。
実際、ある人は自分の持っている布地をほかの多くの商品と交換しようとして、最初の等式のように布地の価値を多くの別の商品で表わすとすれば、ほかの商品の持ち主たちは必然的に自分たちの商品を布地と交換しようとして、逆向きの等式のように自分たちの持っている様々な商品の価値を第三の商品である布地で表わすしかない。
そこで、われわれはもし「二反の布地=一着の上着 または =10ポンドの紅茶 または=等々」という等式の列を逆向きにして、事実上すでにこの列の中に含まれている逆向きの等式にすると、つぎの形態が得られる。
C.普遍的な価値形態

 

 一着の上着       =┐
 10ポンドの紅茶    =│
 40 ポンドのコーヒー =│
 1クォーターの小麦  =├ 二反の布地
 2オンスの金      =│
 1/2トンの鉄      =│
 x量の商品A      =│
 その他の商品     =┘
1.価値形態の性格の変化
この価値形態では、まず第一に、様々な商品の価値が単純に一つの商品によって表わされている。第二に、様々な商品の価値が同じ商品によって統一性をもって表わされている。この価値形態は単純で、共通性があり、それゆえ普遍的である。
最初に示した単純な価値形態(A)も二番目の長く伸びた価値形態(B)も、いずれも、ある商品の価値がそれ自身の使用価値つまり現実の形とは別のものであることを表わしていただけである。
最初の形態(A)は「一着の上着 = 二反の布地、10 ポンドの紅茶 = 1/2 トンの鉄等々」という価値の等式で表わされる。これは、上着の価値は「布地と同じ物」であることを表わし、紅茶の価値は「鉄と同じ物」であることを表わし、等々ということだが、上着の価値と紅茶の価値を表わす「布地と同じ物」と「鉄と同じ物」は別個のものである。それは布地と鉄が別個のものであるのと同様である。この最初の形態が実際に現われるのは、労働生産物が偶然の物々交換で商品に変わるというごく初期の段階であるのは明らかである。
二番目の形態(B)では、最初の形態の場合よりも、ある商品の価値とそれ自身の使用価値とを区別する度合いが進んでいる。というのは、例えば上着の価値は、ただ「上着と同じ物」ではないだけで、「布地と同じ物」、「鉄と同じ物」、「紅茶と同じ物」、その他のあらゆるものと同じ物でもあり得るからである。つまり、上着の価値は、今やあらゆる形をとって上着の本来の形態と対立する。
しかし他方で、二番目の形態では、普遍的な価値形態のように、様々な商品を一つにまとめる等式の形にすることは全く不可能である。というのは、一つの商品の価値の等式ごとに、他のあらゆる商品が等価物の形態をとって連なっているからである。この長く伸びた価値形態が実際に最初に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜が、もはや例外的ではなく習慣的に他の様々な商品と交換されるようになった段階である。
それに対して、今新たに得られた普遍的な形態では、無限に存在する商品の価値が、それらの中から選び出されたたった一種類の商品、たとえば布地によって表わされ、全ての商品の価値がこの布地との等式によって表わされる。ここでは、ある商品の価値は「布地と同じ物」と表わされることによって、それ自身の使用価値から区別されるだけでなく、あらゆる使用価値からも区別される。そして、まさにそれゆえに、その商品が他のあらゆる商品と共通なものであることが示されるのである。この形態において初めて様々な商品が実際に価値として互いに結び付き、互いに交換価値として姿を現すのである。
最初の二つの形態の場合は、別の種類のもう一つの商品によって、あるいは別種の多くの商品によって、一つ一つの商品の価値が表わされていた。だから、この二つの場合では、価値の形態をとることは、それぞれの商品についてのいわば私的な出来事だった。その出来事は単独で完結しており、他の商品がそこに主体的に関わることはない。他の商品は個々の商品に対してただ等価物として補助的な役割を演じるだけである。
それに対して、普遍的な価値形態は、無限に存在する商品の共同作業によって成り立っている。ある一つの商品が普遍的な価値として表わされるということは、同時に他の全ての商品の価値がその一つの同じ等価物によって表わされるということであり、新たに登場する商品の種類もそれに従うということである。
ここから次のことが明らかになる。様々な商品に価値があるということは商品の単なる「社会的なありよう」であるから、それは全ての商品の社会的な関わりによってしか表わすことがでない。したがって、商品の価値の形態は社会的に有効な形態でなければならない。
「布地と同じ物」という形態に置かれるとき、あらゆる商品は今や質的に同じ物、つまり普遍的な価値となるだけでなく、同時に量的に比較可能な価値の量となって姿を現わすのである。つまり、全ての商品の価値の量が全く同じ物つまり布地によって表わされたおかげで、全ての商品の価値の量は互いに比較可能となったのである。
それは例えば「10ポンドの紅茶 = 二反の布地」であり「40ポンドのコーヒー = 二反の布地」なら「10ポンドの紅茶 = 40 ポンドのコーヒー」ということであり、1ポンドのコーヒーの中に1ポンドの紅茶の1/4の価値の本質つまり労働が込められているということである。
世の中のあらゆる商品の相対的価値を普遍的形態で表わす場合、その中からただ一つ取り出された等価物の商品、ここでは布地に普遍的な等価物の性格が付与される。布地の自然形態がこの世界の共通の価値の形であり、布地は他の全ての商品と直接交換することができるのである。
こうして、布地の実際の形が、あらゆる「人間の労働」が目に見える形に結実したもの、あらゆる「人間の労働」が普遍的社会的な姿をとったものと見なされるのである。それと同時に、布地を作り出すはたおりという私的な労働が、同時に普遍的に社会と関わりを持つ労働となり、他のあらゆる労働との同一性を獲得するのである。
普遍的価値形態を構成している多数の等式の中では、布地に具体化された労働が、それ以外の商品に込められている労働と順に同じ物と見なされる。そうして、はたおりという労働は、いまや普遍的な「人間の労働」が普遍的な形で現われたものとなったのである。
普遍的価値形態の中では、商品の価値の中に具体化された労働は、現実の労働のあらゆる具体的な形態と有用な属性が取り除かれた労働であるという否定的な形で表わされるだけではない。普遍的価値形態の肯定的な特徴は明らかである。それは全ての現実の労働が「人間の労働」という共通の特徴、すなわち「人間の労働力」の注入に置き換えられることである。
普遍的価値形態は、労働生産物を区別のない「人間の労働」の単なる固まりとして表わしており、「人間の労働」こそは全ての商品の社会的な表われであることを、それ自身の構造によって明らかにしている。こうして普遍的な価値形態は、「人間の労働」の普遍的性格が商品世界の中で労働の特有の社会的性格を形作っていることを明らかにしているのである。
2.相対的な価値形態と等価物の形態の発展関係
相対的な価値形態が発展する程度に応じて等価物の形態も発展する。ただし、等価物の形態の発展は、相対的な価値形態の発展の表われであり結果でしかないということを忘れてはならない。
まず、一つの商品の単純で偶然な価値形態では、別の一つの商品が唯一の等価物になる。次に、相対的な価値の長く伸びた形態、つまり、一つの商品の価値を他の全ての商品によって表わす方法では、それら全ての商品に様々な種類の個別の等価物の形態が与えられた。そして、最後に、一つの特定の種類の商品に普遍的な等価物の形態が与えられた。というのは、それ以外の全ての商品に、この唯一の商品を通じて統一性のある普遍的な価値形態を与えられたからである。
しかしながら、価値形態が普遍的なものに発展するに応じて、価値形態の二つの極である相対的な価値形態と等価物の形態との対立関係もまた発展する。
すでに、最初の等式の形「二反の布地=一着の上着」にこの対立が含まれている。しかし、まだこの対立は固定されてはいない。この等式は前から読むか後ろから読むかによって、布地と上着という対極にある二つの商品の各々が相対的な価値形態にもなり等価物の形態にもなりうる。この段階ではまだこの対立関係を固定して考えることは難しい。
第二の等式の形になってもなお、一つ一つの種類の商品がそれぞれの相対的な価値を全面的に展開するだけである。つまり、他の全ての商品が等価物の形態となってそれぞれの商品と対立することによって、一つ一つの種類の商品が長く伸びた相対的な価値形態を手に入れるだけである。
ここでは、もう価値の等式、例えば、「二反の布地=一着の上着 または =10ポンドの紅茶 または =1クォーターの小麦等々」の両辺を入れ替えることはできない。そうすることは、この等式の性格を完全に変更して、長く伸びる総体的な価値形態から普遍的な価値形態に変えることになるからである。
最後の等式の形になってようやく商品の世界は普遍的社会的で相対的な価値形態を手に入れる。なぜなら、一つの商品を除くすべての商品が普遍的な等価物の形態から排除されるからである。つまり、他の全ての商品がこの形態をとらないことによって、一つの商品、ここでは布地が、他の全ての商品と直接交換できる形態、つまり、直接社会と関わる形態を手に入れるのである。
逆に、普遍的な等価物の役割を担う商品は、全ての商品が手に入れた統一性のある普遍的な相対的価値形態をそれ自身が手にすることはできない。もし、布地が、つまり普遍的な等価物の形態をもつ何らかの商品が、同時に普遍的な相対的価値形態をとりうるなら、布地は自分自身の等価物にならざるをえない。そうなると、二反の布地=二反の布地という一種の同語反復になってしまい、価値も価値の量も表わすことはできない。
もし普遍的な等価物の相対的価値を表わしたければ、普遍的な価値形態を表わす第三の等式を逆転しなければならなくなるだろう。普遍的な等価物は他の全ての商品と共通の相対的な価値形態を持つことはできない。普遍的な等価物の価値は、他の全ての現実の商品の無限の列の中に相対的に表われるだけである。こうして今や、長く伸びた相対的価値形態つまり第二の等式の形が、普遍的な等価物となっている商品の特別な相対的価値形態として姿を現わすのである。
3.普遍的な価値形態から貨幣形態への移行
普遍的な等価物の形態は、抽象的な価値の一形態である。したがって、どの商品もこの形態をとることが出来る。一方、たった一つの商品しか等価物の形態をとることはできない(第三の等式の形)。つまり、その商品は他の全ての商品から等価物として一つだけ選び出されねばならないのである。
そして、特定の一種類の商品が最終的に等価物として選び出された瞬間から、全ての商品についての統一性のある相対的な価値形態が客観的に安定したものとなり、普遍的・社会的に有効なものとなる。
そして、等価物の形態がある特定の商品の自然形態と社会的に結び付いたとき、その商品が「貨幣という名の商品」となり、お金として通用する。そして、商品世界の中で普遍的な等価物の役を演ずることが、その商品に特有の社会的役割となる。そして、その商品がその機能を社会的に独占して行う。
歴史のなかでこの特等席を獲得した商品は、第二の形の等式(B)では布地の個別の等価物の一つとなり、また第三の形の等式(C)では相対的な価値が布地によって表わされた様々な商品のうちの一つの商品つまり金だった。そこで、われわれは第三の形の等式の布地という商品の代わりに金という商品を置くことにする。すると次の形態が得られる。
D.貨幣形態

 

 二反の布地        =┐
 一着の上着        =│
 10ポンドの紅茶      =│
 40 ポンドのコーヒー     =├ 2オンスの金
 1クォーターの小麦    =│
 1/2トンの鉄         =│
 x量の商品A       =┘
第一の形の等式(A)から第二の形の等式(B)への移行と、第二の形の等式から第三の形の等式(C)への移行では本質的な変化があった。それに対して第三の形の等式とこの第四の形の等式(D)とでは、等価物の形態が布地から金に変わったこと以外は何の違いもない。
第三の形の等式での布地の役割、つまり普遍的な等価物の役割を、第四の形の等式では金が果たすのである。この間の進歩は、直接に何とでも交換できる形態つまり普遍的な等価物の形態が、今や社会的な慣習によって金という特別な商品の自然形態と結び付いたことである。
金(きん)がお金として他の商品と交換出来るのは、金がすでに商品として以前から他の商品と交換できたからに他ならない。他の全ての商品と同じく金はすでに等価物の役割を果たしていたのである。それは偶然の交換行為における単独の等価物であったときも、他の多くの商品(=等価物)と並んで個別の等価物であったときも同様である。金は徐々に様々な大きさの集団の中で普遍的な等価物としての役割を果たすようになる。
全ての商品の価値を表わす等式で金が等価物の役割を独占するとき、金は「貨幣という商品」になる。そして金が「貨幣という商品」になったときから、第四の形の等式(D)は第三の形の等式(C)とは違うものとなる。言い換えれば、普遍的な価値形態が貨幣形態に変化するのである。
ある商品例えば布地の相対的な価値を、すでに「貨幣という商品」として機能している商品、例えば金で単純に表わしたものが、値段である。したがって、布地の値段の形態は次のようになる。
 二反の布地=二オンスの金 
 あるいは、もし二オンスの金の貨幣が£2なら、
 二反の布地=£2
普遍的な等価物の形態が理解できて、第三の形の等式(C)で表わされる普遍的な価値形態が理解できれば、貨幣形態という考え方には何も難しいところはない。また、第三の等式は逆向きにすれば第二の等式(B)つまり長く伸びた価値形態になるし、第二の等式を構成しているのは、第一の等式(A)つまり「二反の布地=一着の上着」あるいは「x量の商品A=y量の商品B」でしかいない。したがって、単純な価値形態の中に貨幣形態の萌芽は既に存在するのである。
第四節 商品の物神性とそのからくり

 

商品というものは、一見するところ何の問題もない自明のものであるように思える。しかし、商品を詳しく研究していくと、それは複雑に錯綜したとんでもない難物で、とても一筋縄ではいかない代物であることが分かる。商品をその属性によって人間の必要を満たすものと見るにしろ、「人間の労働」が作り出したものがこのような属性を備えているものと見るにしろ、商品が使用価値であるかぎり、そこには何も分かりにくいことはない。
人間が自然の物質の形を自分の活動によって自分に便利なように作り変えることには,何の不思議なこともない。例えば、人が木を加工して机を作れば、木の形は変わる。しかし、机が木という手に触れればそれと分かるありふれた材料で作られていることに変わりはない。
ところが、ひとたび机が商品となるやいなや、もう五感の理解を越えた不可解なものとなる。そうなれば、机は地面に足を下にして置かれるだけではなく、足を上に逆さに置かれて他の全ての商品と交換され、その木製の頭からわけの分からない言葉をしゃべりだすのである。それはこっくりさんのテーブルが勝手に踊り出すよりも奇妙な光景である。
商品の不思議さはその使用価値から生まれるのではない。それは商品の価値の量を決定するものの中身つまり労働からも生まれない。
なぜなら、最初の場合、使用価値を生み出す労働や生産的活動には様々なものがあるが、それらが単なる人間の肉体の様々な役割分担であり、そのような役割分担とは、それらがどんな内容でどんな形態をしていようと本質的に人間の脳味噌、神経、筋肉、感覚器官など諸々(もろもろ)の器官を使うことでしかないのは、生理学的に何の疑いもないことだからである。
二つめの場合、つまり、商品の価値の量を決定するものの中身つまり労働時間の長さや労働の量について言うなら、それは労働の質からはっきり区別されており、何ら分かりにくい点はない。商品のない社会でも、生活に必要なものを作るのに要する労働時間は、発展のレベルに応じて程度の違いはあっても、人々にとって重要な意味があったに違いない。結局、人間が何らかの形でお互いのために働くようになりさえすれば、人間の労働は価値として社会と関わりを持つようになるのである。
では、労働生産物が商品という形をとるやいなや、それが謎めいた性格を持つようになるのはなぜだろう。明らかにこの原因は商品という形態にある。
商品においては、「人間の労働」の同一性は、労働生産物の価値の同一性という形をとり、「人間の労働力」の注入量は、労働生産物の価値の量という形となり、その結果、生産者たちの労働の社会性(=同一性)が実現される生産者たちの関係は、労働生産物の社会的な関係という形をとるのである。
したがって、商品の形態が謎に満ちていることの原因は単に次のことにある。それは、人間の労働が商品の形をとることで、労働の社会的な性格が労働生産物それ自身の客観的な性質として、あるいは労働生産物の本来の社会的な属性として、人間の目に見えることである。したがってまた、労働全体に対する生産者たちの社会的な関係が、生産者たちの関係ではなく生産物の社会的な関係として見えるのである。この置き換えによって、労働生産物は人間の五感ではとらえられない社会的な物つまり商品となるのである。
物が光に当たって人間の目に見えるときも、これと同じである。物に反射した光が視神経に当たるとき、光の反射は視神経に対する主観的な刺激としてではなく、目の外側に存在する物の客観的な形として知覚される。
しかし、物を見る場合には、外側の対象物ともう一つの物である目の間を実際に光が飛び交う。それは物理的な物と物との間の物理的関係である。それに対して、商品の形態は、商品の物理的な性格やそれに由来する物と物との関係とは全く関係がない。これは労働生産物が商品として表わされる価値形態についても当てはまる。商品の世界で人間の目に物と物との関係の変幻自在な姿として見えるものは、人間と人間の社会的関係にほかならないのである。
これと似たものを探すとすれば、宗教の世界の曖昧模糊とした領域に逃げ込むしかない。ここでは人間の頭から生まれてきた物たちが、独自の生命を持つ自立した生き物のように、互いに関わり合い、また人間と関わりを持つのである。
商品の世界でも人間の手によって作られた製品がこれと同じことをする。これをわたしは物神崇拝(=物フェチ)と名付ける。労働生産物が商品として作られるやいなや物神崇拝がそれに付着する。物神崇拝と商品生産は切り離すことができない。
これまでの研究ですでに明らかなように、全ての商品にこういう物神性があるのは、商品を作り出す労働に特有の社会的性格があるためである。
一般的に言って、何か便利なものが商品となるには、それが互いに独立して私的に行われた労働の産物でなければならない。この私的な労働が集まったものが、全体としての社会的労働である。生産者たちは自分たちの作ったものを交換することで、初めて社会と接触することができる。したがって、この私的な労働がそれに特有の社会的性格を手に入れるのもこの交換の場である。
別の言い方をすれば、交換という行為によって労働生産物が互いに直接的に結びつき、それを通じて生産者たちが互いに間接的に結びついて、はじめて私的な労働が全体としての社会的労働の一部となる。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的な結びつきが、働く人間と人間の直接的な社会的関係としてではなく、そのままの形で、つまり、物を通じた人間同士の関係、物同士の社会的な関係として見えるのである。
労働生産物は交換によってはじめて、手にとって分かる実用品という性格を離れて、社会的に等しい「価値あるもの」という性格を得る。このように労働生産物が「便利なもの」と「価値あるもの」という二つの方向に実際に引き裂かれるためには、交換という行為が充分な広がりと重要性を獲得して、便利なものが交換のために作られるようになり、物に「価値」があるということが生産の場ですでに意識されている必要がある。
これが実現した瞬間から、生産者の私的な労働は実際に二重の社会的性格を持つようになる。
一方では、私的な労働は、有用な労働として社会の要求を満たし、その結果、全体としての労働の一部分、自然に成長した労働の社会的分業システムの一部分としての意味を持つようになる。
他方で、私的な労働は、生産者自身の多様な要求をも満たしてくれるものとなる。なぜなら、それぞれの有用な私的労働は他の有用な労働と同じ物と見なされ、互いに交換可能だからである。  
様々な労働をかくも完全に等しいと見なすことは、それらの実際の相違点を度外視することによってはじめて可能となる。つまり、様々な労働は、「人間の労働力」の注入つまり抽象的な「人間の労働」としてそれらが持っている共通の特徴に置き換えられることによって、はじめて同じ物と見なされるのである。
私的な生産者たちの目には、彼らの私的な労働がもっている二重の社会的性格は、現実の流通と交換の場に表われる形をとって見える。彼らにとっては、私的労働の有用な社会的性格は、労働生産物がとくに他人にとって便利なものでなければならないということであり、様々な種類の労働の同一性という社会的性格は、素材の様々に異なる労働生産物が共通の価値をもっているということである。
つまり、人間が労働生産物をどれも「人間の労働」の物的な表われと見なすから、人間は労働生産物を「価値」として交換するのではないのである。その逆である。人間は様々な労働生産物を交換の場で「価値」として同一視するから、様々な労働を「人間の労働」として同一視するのである。人間は知らずにそうしているのである。
だから、「価値」が何かは「価値」自身から読みとることは出来ない。ところが「価値」はあらゆる労働生産物を社会的意味を持つ象形文字に変える。そこで、後に人間はこの象形文字の意味を解読して、自分自身の作った社会的産物の秘密を探ろうとする。というのは、言葉が社会的産物であるように、人に使用されるものを「価値」と見なす習慣は社会的な産物だからである。
労働生産物は「価値」としてみる限り、その生産に注ぎ込まれた「人間の労働力」が物の形をとって表われたものであると、ある学者がやっとのことで発見したとき(=労働価値説)、それは人類の発展史上画期的な出来事だった。しかし、この発見では、労働の社会的性格がどうして物の形をして見えるのかは明らかにされなかった。
互いに独立した私的な労働に特有の社会的性格とは、「人間の労働」としての同一性であり、それが労働生産物の価値の形態として表われるのである。独特な生産形態つまり商品生産についてだけ当てはまるこの事実は、上記の発見にもかかわらず、商品生産に関わる人たちにとって、変わらぬ決定的な有効性を持っている。それは、学者によって空気の成分が基本的要素に分析されても、空気その物は何の変化もしないのと同じである。  
製品を交換する人が実際に一番関心を持っているのは、自分の商品で他の商品がどれほどたくさん手に入るか、つまり、自分の商品がどんな割合で他の商品と交換されるかということである。交換が繰り返されてこの割合が次第に固定してくると、その割合はその労働生産物の本来の性質であると思えてくる。だから、例えば、1トンの鉄と2オンスの金が同じ価値であることが、1ポンドの金と鉄が化学的にも物理的にも異なるのに同じ重さであるのと同じようなことに思えるのである。
しかし、実際にある労働生産物が価値であることが確定するのは、それが価値の量として流通することによってである。この価値の量は常に変動するが、それは生産物を交換する人たちの意志や予想や行動には関係がない。交換する人たちの社会的な動きは物の動きという形をとる。しかし、彼らは物の動きを制御するどころか物の動きに制御されてしまうのである。
その後、製品の生産が完全な形に発展してくると、経験だけから次のような学問的洞察が生まれてきた。それは、私的労働は互いに独立して営まれているが、自然に成長した労働の社会的分業システムの一部として全ての方面で相互に依存し合っており、つねに社会的に釣り合いのとれた尺度で評価されるということである。なぜなら、製品の交換比率は偶然に支配されて絶えず変動するにもかかわらず、製品を社会的に生産するのに必要な労働時間が、全てを支配する自然の法則のように君臨しているからである。それはたとえ家が頭の上から崩れ落ちようとも変えることができない重力の法則のようなものである。
したがって、価値の量を労働時間によって決定する過程こそは、商品の相対的価値の表面的な変動の裏側に隠れたからくりなのである。しかし、このからくりが分かっても、労働生産物の価値の量が偶然だけで決まるという印象を取り去るだけで、価値の量が物の形で表わされることに変わりはない。  
人間生活の形態を考察したり、学問的に分析したりすることは実際の発展の跡を逆向きにさかのぼることである。それは事実の流れに遅れて行われる。したがって、発展のプロセスが終わったあとの結果を扱うことになる。
労働生産物を商品に変えてそれを流通させる前提条件となる様々な価値の形態もまた、社会生活の中に自然な形で固定してしまっている。だから、人々はこの形態を変わらないものと見なして、その歴史的な特徴を明らかにしようとはせずに、この形態の意味を明らかにしようとする。
だから、人々は単に商品の価格を分析して商品の価値の量を明らかにしようとしたのであり、商品をすべて金額で表わすことで商品が価値であることを明らかにしようとしたのである。しかし、商品をすべて金額で表わす貨幣形態は発展の最終形態であって、この形態は、私的労働の社会的性格と私的労働者の社会的関係を明らかにするどころか、実際にはそれらを覆い隠しているのである。
確かに、抽象的な「人間の労働」の普遍的な具現物としての布地と、上着や靴墨などの商品が結び付くと言えば、いかにも突飛なことを言っているように見える。しかし、上着や靴墨などの商品の生産者たちが、その製品を普遍的な等価物としての布地に──あるいはそれが金でも銀でも同じことだが──結び付けるときには、生産者たちの私的労働と社会全体の労働との関係が、生産者たちにとっては、まさにこの物同士の関係という突飛な形をとって見えるのである。
それどころかこの突飛な形態がブルジョア経済学の基本概念を産み出している。この形態こそが、商品生産という歴史的性格を持つ社会的生産様式の生産関係を理解するための、社会的に有効で客観的な方法なのである。
商品世界の神秘も、商品生産の基礎となる労働生産物を取り巻いているあらゆる不可解な魔力も、別の生産様式がとられている所に行けば、たちまちにして消えさってしまう。  
経済学者たちはロビンソン・クルーソー風の小説を好む傾向があるので、ここで無人島に住むロビンソンに登場してもらおう。質素な性分のロビンソンではあっても、様々な欲求を満たさねばならないのは同じである。だから、様々な種類の有用な労働によって道具や家具を作ったり家畜を飼ったり釣りや狩りをしなければならない。ここにはお祈りのたぐいのことは含めていない。なぜなら、それらは楽しむための行動で、労働ではなく娯楽だからである。
ロビンソンはこのように様々な生産的活動に従事するが、それが同じロビンソンの様々な活動形態でしかないこと、つまり「人間の労働」の様々な表われでしかないことを彼は知っている。だから、彼は自分の時間を様々な労働に正確に振り分ける必要がある。全体としての活動の中でどの活動を長めにどの活動を短めにするかは、目標とする成果を達成するために克服すべき困難の度合いによる。それは経験によって分かることである。
やがてロビンソンは、壊れた船から救出しておいた時計と帳簿とインキとペンを使って、一人前の英国人らしく自分のために帳簿をつけ始める。その帳簿には自分の持っている実用品と、それを作るために必要な様々な仕事と、様々な物を一定の量だけ作るのに要する平均的な労働時間の一覧が書いてある。
ここには、ロビンソンが作った資産を形づくる様々な物とロビンソン自身との関係が、それほど知力を傾けなくても誰でも理解できるほど、分かりやすく単純な形で表われている。にもかかわらず、ここには価値の本質的な要素がすべて含まれている。
では、ロビンソンの明るい島から中世の暗いヨーロッパに目を移してみよう。そこにあるのはロビンソンのような独立した人間ではなく、農奴と領主、家来と主人、信者と牧師というように、相互に依存し合っている人たちである。この個人的な依存関係が、物を生産する社会的関係の性格だけでなく、その関係の上に築かれた生活空間の性格をも決定している。
しかしながら、まさに個人的な依存関係が社会の基礎を作っているために、労働とその生産物はそれらの現実の姿とは異なる幻想的な姿(=商品)をとる必要はない。それらは仕事とその成果として社会の営みの中に自然にとけ込んでいる。労働のありのままの姿と個々の労働がもっている特殊性が、ここでは直接社会と関わりを持つ労働の形態なのであって、商品生産が基本の社会で見られる普遍性は存在しない。  
夫役労働も商品を作る労働もその量を時間の長さで計るのは同じである。しかし、農奴は誰でも自分が領主のために注ぎ込む労働力がどれだけかをはっきり知っている。牧師に支払う十分の一税も牧師がくれる祝福よりもはるかに分かりやすい。この世界の人たちの身分上の役割分担についてどう考えるかは別として、彼らの労働における人と人の社会的関係は人と人の関係のままであり、物と物、労働生産物と労働生産物との社会的関係を仮装することはない。
次に、共同社会の労働つまり直接社会と関わりを持つ労働は、文明化されたあらゆる民族の歴史の初期に自然に発生するものであるが、それを研究するためにわざわざ歴史をさかのぼる必要はない。もっと手近な例で充分である。田舎の農家で父親を中心に行われる産業がまさにそれである。彼らは穀物も家畜も糸も布地も服も自分たちの必要のために作っている。これらの様々な物はその家族にとっては家族労働の生産物でしかなく、それらが商品として互いに交換されることはない。
これら生産物を産み出す様々な労働、つまり農業も畜産も紡績もはたおりも裁縫も、そのままの形で社会的な役割を果たしている。なぜなら、これらの様々な労働は家族の役割分担であって、商品生産の場合と同じく、独自の自然発生的な労働の分業となっているからである。つまり、男女の別と年齢の違いだけでなく、季節の変化に伴う自然条件の変化に応じて、家族の間で労働が配分され、家族の構成員のそれぞれの労働時間が決められるのである。しかし、個人の労働力は最初から家族という共同体の労働力の一要素としてのみ機能しているから、時間の長さで計られた「個人の労働力」の注入が、ここでは最初から労働の社会的性格を具えているのである。  
変わって最後に自由な人間の共同体について考えてみよう。ここでは人々は共同の生産手段を使って働き、個人的な労働力を社会的な労働力として意識的に注入する。ここではロビンソンの労働の特徴がすべてそのまま当てはまる。ただし個人に対してではなく社会に対して当てはまる。ロビンソンが作った物はすべて彼自身の個人的な独占物で、ロビンソンが直接使用出来るものであった。この共同体が作った物はすべて社会のものである。この生産物の一部は生産手段として使われる。この部分は社会的なまま残る。しかし、別の部分は共同体の構成員の生活手段として消費される。この部分は構成員の間で配分されなければならない。
この配分方法は、社会の生産組織の特殊性とそれに応じた生産者たちの歴史的な発展レベルによって違ってくる。単に商品生産と比較するために、個々の生産者に割り当てられる生活手段の取り分はその人の労働時間によって決められると仮定してみよう。すると、労働時間は二つの意味を持ってくるだろう。
まず、社会が労働時間を計画して人々に割り当てれば、様々な欲求に応じて労働の分担割合を正しく決定できるようになる。他方、労働時間は、共同労働を個々の生産者に割り当てる尺度になるだけでなく、共同生産物のうち個人で消費する分を分配するさいの尺度にもなる。そしてこの場合には、労働と労働生産物に対する人間の社会的な関係は、生産過程においても分配過程においても単純明快である。
一方、商品生産者たちで構成される社会における一般的な社会的生産関係は、生産物を商品つまり「価値」として扱い、私的な労働を商品という物を通じて同じ「人間の労働」として相互に結びつけるが、そのような社会にとっては、抽象的な人間を崇拝するキリスト教が最もふさわしい宗教である。特に、キリスト教のブルジョア的発展であるプロテスタントや理神論がそうである。
古代インドや古代ギリシャ・ローマの生産様式の中では、生産物を商品に変えることや商品生産者としての人間の存在は大きな意味をもっていなかった。しかし、商品生産者の役割は共同体が崩壊するにしたがって大きくなっていった。
本来の意味での商人は、エピクロスの神々のように世界と世界の狭間(はざま)に住むか、あるいはポーランドのユダヤ人のように社会の隙間で暮していた。
このような古代社会の生産機構はブルジョア社会よりもはるかに単純明快なものである。しかし、そのような生産機構は、他人との自然な部族的つながりという臍(へそ)の緒がまだ切れない個人の未成熟さ、あるいは人々が支配被支配の直接的関係にあることに依拠したものである。
彼らの生産機構の前提となっているのは、労働生産力が低い発展段階に留まっていることと、その結果として、生活物資を生産する過程にいる人間と人間の関係、人間と自然の関係が密接であることである。  
このような関係の密接さは古代の自然崇拝や民間信仰の理念に形を変えて表われている。現実の世界が宗教に反映されることがなくなるには、日々の実際の生活を成り立たせている諸々の関係が、人間と人間との関係あるいは人間と自然との関係として、日頃から人々にとって分かりやすく合理的なものである必要がある。
社会生活のプロセス、それはとりもなおさず物質的な生産過程(=労働とその生産物の交換)のことであるが、その姿が神秘的な分りにくさを脱するためには、その過程を共同社会の自由な人間がつくりだして、しかもそれを意図的に計画された統制の元に置きさえすればよい。しかし、そのためには社会の物質的な基盤あるいは物質的な生活条件が整備されることが必要であり、それは長くてつらい発展の歴史の後に自然発生的に生まれるものである。  
これまでの経済学は確かに不完全ながらも価値と価値の量を分析して、これらの形態に込められた中身(=労働)を見つけ出すことはできた。しかし、なぜこの中身が価値という形をとるのか、なぜ労働が価値として表わされ、時間の長さによって計られた労働の量が労働生産物の価値の量として表わされるのかを、これまでの経済学は問いかけはしなかった。  
これらの問題は人間が生産過程を制御するのではなく生産過程が人間を制御する社会形態に特有のものであることは明らかである。ところが、これらの問題は、これまでの経済学者のブルジョア的意識の中では、生産労働自体と同じくらいに理の当然の自明なことと見なされてきたのである。だから、彼らがブルジョア以前の社会の生産組織の形態を分析するのは、キリスト以前の宗教をキリスト教の教父たちが分析するようなものだと言える。  
全ての商品と物神崇拝とが切り離せないこと、あるいは、労働の持つ社会的性格が物の形をとっていることについて、一部の経済学者がどれほど思い違いをしているかは、とくに交換価値の形成における自然の役割についての退屈で無意味な論争を見れば明らかである。交換価値とは物に込められている労働を表わす一つの社会的な方法であるから、例えば為替相場と同じで、自然の要素を含みようがないのである。  
商品の形態はブルジョア的生産の最もありふれた最も単純な形態である。それゆえ現代ほど際だったものではなく現代ほど支配的でなければ、商品形態は昔から姿を現わしている。したがって、その形態の物神性も比較的容易に見抜くことが出来るように思われる。しかし、具体的にこの形態を観察し始めるやいなや、とても一筋縄でいかないものだと分かるのである。
重金主義者の思い違いはどこから来たのだろうか。重金主義者は金と銀が貨幣という形で一つの社会的生産関係を表わしていることには思い至らず、奇妙な社会的属性を備えた自然の物質であると見ていた。重金主義者を馬鹿にしている現代の経済学者も資本を扱うやいなや、彼らの物神崇拝が明らかになってくる。また、地代は社会からではなく地面から生まれるという重農主義者の思い違いが消え去ってからどれほどの時間も経ってはいない。
しかし、ここでは話を元に戻して、商品形態自体について書かれたもう一つの例をあげて最後としたい。それはこのよなものである。
商品がもし話をすることができるなら、商品はこう言うかもしれない。
『我々商品の使用価値が人々には重要かもしれないが、それは物としての我々にとっては重要ではない。物としての我々に重要なのは我々の価値である。我々が商品というものとして流通していることがこのことを証明している。我々は交換価値としてのみ互いに関わるのである』
そこで、経済学者たちが商品の心をどのように代弁しているか聞いてみよう。
『価値(交換価値)は物の属性であり、富(使用価値)は人の属性である。物の属性としての価値は当然交換されるが富は交換されない』
『富(使用価値)は人の属性であり、価値は商品の属性である。人や共同体には富があり、真珠やダイヤモンドには価値がある。ある真珠やあるダイヤモンドには真珠やダイヤモンドとしての価値がある』  
真珠やダイヤモンドの中に交換価値を発見した化学者は今のところ一人もいない。一方、この化学的な物質を経済的に発見したこの人たちは自分たちの判断の鋭さに自信満々である。しかし、その発見とは、物の使用価値はその物の物質的特性には依存せず、一方その価値は物としてのそれに属しているということなのだ。
しかしながら、彼らの正しさが保証されるのは、ある特殊な状況下においてだけである。つまりそれは、物の使用価値は物が交換されなくても、人がその物を持っているだけで実現されるが、それとは反対に、物の価値は交換という社会的なプロセスの中だけで実現されるという特殊な状況(Umstand)である。
わたしはここでシェークスピアの喜劇「から騒ぎ」の中でドッグベリーがシーコールに言った妙な忠告を思い出さずにはいられない。「男前であるというのは特殊な状況(Umstände)でなければ手に入らないが、読み書きの能力はほっといても手に入るものだから自慢してはいかんのだよ」  
 
ヘーゲル「法の哲学」における「意志」論 / 自由と自然をめぐって

 

1 はじめに 
「自然と自由との関係が近代の文化と哲学との主要問題である」(1)ことは周知のとおりである。自然科学の急激な発達と自由の一般的な自覚とは、「啓蒙の時代」を特徴づける重要な要素である。「近代自然科学において捉えられているような自然にとっては、必然性の様相と法則探究的科学というタイプとが範型的となったが、それに対して近代的な自由の理念という意味での自由にとっては、可能性の様相と自律および自己規定的実践というタイプとが範型的となった」2。両者はそれぞれ独自に発展して、異なった「二つの伝統」を形成するだけでなく、互いに競合するに至らざるをえない。必然的法則に従って生成消滅するものは自由ではありxないし、自分自身の規定(使命)に従って行為するものにとって決定論は受け容れ難いからである。自然と自由とは単に対立をなすだけでなく、相互に矛盾し合う。自然と自由の両方に関わりつつ生きる人間は、こうした分裂状態にあって引き裂かれざるをえない。近代以降、この矛盾対立の克服を目指して様々な哲学者たちが思索を傾注したが、その中にヘーゲルも含まれている。
ヘーゲルにとっての主要問題も、「必然的法則に支配されている宇宙において、人はいかにして自由でありうるか」{3)である。ヘーゲルは、因果的必然的法則を探究する自然の認識と自由な人間の実践とのそれぞれを、独立した二つの学の対象として考察するだけではなく、両者の分裂・対立をより高い統一的な視点から克服しようとした。
『エンチュクロペディー』の体系は、「論理学」、「自然哲学」、「精神哲学」に区分され、それぞれにおいてヘーゲルは論理や自然、精神についての、古代から当時に至るまでの様々な哲学的立場を、経験科学などをも含めて批判的に摂取しつつ、独自の立場から位置づけて体系を構築している。この体系を構成する「論理学」、「自然哲学」、「精神哲学」は、それぞれ「即且つ対自的な理念の学」、「自分の他在における理念の学」、「自分の他在から自己の内へ還帰した理念の学」(Enz。§18)(4)である。すなわちヘーゲル哲学の対象はあくまで「理念」なのであり、「必然性と偶然性」(Enz。§248)を示す自然と、その本質が「自由」(Enz。§382)である精神とは、思惟の抽象的なエレメントから、他在という外面的な形式を経て、即且つ対自的な本来のあり方へと至る「理念」の発展における第二段階と第三段階をなすと見なされている。ヘーゲル哲学の体系形式に着目したこのような見方は既に、自然と自由の関係という問題に対するヘーゲルの取り組み方を示唆していると言えるだろう。自然と自由とは同じレベルにおいて相互に対立するものと見なされているのではなく、自由の方が自然より上位に置かれているのである。
では、このような外面的な捉え方によって体系の中での位置づけが見て取られる自由と自然との関係を、ヘーゲルは実際の具体的な哲学的思惟の遂行においてどのように考察しているだろうか。
小論ではさしあたり、自由を本質とする「精神」と「外的な客観」との関係を考察する(§483)「客観的精神論」を詳述した『法の哲学』の冒頭において展開されている「意志」論を基にして、自由と自然との関係についてのヘーゲルの見方を考察する手がかりを探りたい。 
II 「意志」論としての『法の哲学』

 

ヘーゲルの『法の哲学』は、単に狭い意味での法律、いわゆる「抽象法」だけでなく、「道徳」や「人倫」をも含めた広い意味での「法」を考察の対象としているが、「法」の地盤は「精神的なもの」であり、そのさらに詳しい場所と出発点は「自由な意志」である(§4)。したがって「自由」が「法」の実体と規定をなすのであり、「法体系」とは「自由の実現された国」に他ならない(§4)。ある「定在(Dasein)」が一一般に「自由意志」の定在であるということが「法」であり、それは「理念」としての「自由」である(§29)。「哲学的法学」は「法」の「理念」をその対象とするが、「法」の「理念」とは、「法」の「概念」だけでなく、その「現実化(実現)」をも意味している(§1)。
このように、ヘーゲルの『法の哲学』における「法」の考察の基礎には「自由意志」が存している。ヘーゲルにとって「意志」は常に自由であり、自由でないような意志は意志ではない。そ航は物体が常に重さを持つのと同様である。この「自由意志Jの発展段階のおのおのが、『法の哲学』の三つの領域を構成している「抽象法」、「道徳」、「人倫」に他ならない。
『法の哲学』の「区分」(§33)によると、まず「抽象法」の領域においては「意志」は直接的であり、「意志」の概念は抽象的な「人格性」、また「意志」の「定在」は直接的で外的な「物件」である。次に「道徳」の領域においては、「意志」は外的な定在から自己のうちへと還帰しており、主観的個別性として普遍的なものに対立している。最後Y'「人倫」の領域においては、「意志」は上の二つの契機の統一であり、真理態である。そして、この「人倫」の領域は、さらに「家族」、「市民社会」、「国家」に区分されている。「抽象法」の領域においては、即自的に自由な直接的個別的な「人格」としての抽象的な自我と「物件」との関わり、また、ある「人格」と他の「人格」との関わりが「所有」や「契約」、「不法」として考察されている。「道徳」の領域においては、対自的に自由な主体としての自律的意志が「企図」と「責任」、「意図」と「福祉」、「善」と「良心」との関係において考察されている。そして「人倫」の領域においては、主体的意志と客体的法則との統一としての即且つ対自的に自由な「人倫的なもの」の、「家族」から「市民社会」、「国家」への発展が考察されている。
こうした『法の哲学』の区分や内容の概観からもわかるように、『法の哲学』において考察の基礎となっている「意志」ないし「自由意志」とは、普通想定されるであろうような単なる個人的意志に限られるものではなく、個人と個人の間で働く意志作用や、さらにそうした個k人の意志の寄せ集めでしかないような共通の意志を超えた普遍的な意志をも意味している。「意志」という言葉の意味する範囲がこのように拡大するにつれて、「自由」の意味も拡大するだろうし、それと対立すると見なされている「自然」の意味も変わってこざるを得ない。「自然」には、認識の対象として眼前に見いだされる外的自然だけでなく、「自由」と対立すると見なされる限りでの人間の本性や人為的自然も含まれる。
小論でその考察の手がかりを探るべき自由と自然の関係は、このような観点から見られるべきものである。ただし以下での探究の範囲は、もっぱら『法の哲学』「緒論」で展開されている「意志」の概念の分析に限定する。 
皿 「意志」の三契機

 

「意志」の分析にあたってヘーゲルは、まず「意志」の三つの契機を提示する。
第一の契機は、普遍性の契機である(§5)。この場合の普遍性とは、すべての個物に共通して含まれる一。的な性質といったものではなく、あらゆる特殊を排除した絶対的抽象、純粋な無規定態である。普遍性という契機は、ヘーゲルにとって「意志」と「思惟」とが不可分であることに由来する。『エソチュクロペディー』の「主観的精神論」において、「自由意志」である「自由な精神」は、「感情(直観)」から「表象」を経て「思惟」へと発展する「理論的精神」と、「意志」としての「実践的精神」との統一であることが前提されている(§4、Enz。§440-82)。「自由意志」とは「自己が自由であることを知っている精神」(Enz。§482)に他ならない。したがって、通常の意味での「意志Jとは、何物かを欲すること、何かをしようと意志することだが、「知」ないし「思惟」としての「精神」は、こうした「何物か」や「何かをすること」といった特殊な内容を捨象して、普遍性の地盤に立つことができる。そこでは欲求や欲望、衝動などの自然的なものによって与xられた特定の内容が解消され、純粋に自己自身を思惟しようとする働き、「自我の純粋な自己内還帰」だけが存する。普遍性とは、「意志」のこのような抽象的な契機、特定の内容を排除した無規定的な側面を意味しており、この点で「自由意志」は「空虚な自由」、また、意志とその内容とを、すなわち主観と客観とを分離して捉xる「悟性の自由」である。
ところで、欲求や欲望、衝動などの自然的なものによって与xられた特定の内容が「意志」の自由な働きを阻害する制限と見なされる場合、それを排除するということは、自由が肥大し、「無制限な無限性」となることを意味する。このような自由が現実的な形態をとると、宗教的な場面では、世俗を離れ自己の内面に沈潜する「インド的な純粋瞑想の狂信」となり、政治的な場面では、現存する一切の社会的秩序を破壊しようとする狂信となる。こうした狂信は、自分では普遍的平等の状態や普遍的宗教的生の状態といった何か積極的なものを目指しているつもりであっても、そうした積極的な状態はふたたび直ちに破壊されるべき何らかの秩序に転化せざるをえないゆえに、結局「破壊の狂暴」でしかありえない。「自由」の持つ一つの契機のみを拡大した「悟性的自由」は一面的なものにすぎないが、それをこのように唯一最高の自由と見なすのでなく、あくまでも一契機にすぎないものと見なす限りで、それ自身本質的な規定なのである(§5。Zusatz)。
「意志」の第二の契機は特殊性である(§6)。第一の側面において見られた「意志」は、あらゆる特殊な対象や内容を捨象した抽象的な無規定態にあったのに対して、この第二の側面において、「意志」の主体である自我は区別や規定といった働きを行なう。自我は、何物かを欲するとか、何かをしようと意志するという仕方で、意志の主体としての自我自身と、特定の内容を持ったこのものとかこういう行為とかの対象とを区別し、自分の対象を限定(規定)するとともに、そのように限定された内容を持つことによって自我自身をも特定のこの自我として限定(規定)するのである。特殊性の契機はこのように、。「意志」の内容を特殊な内容として、自我を特殊な自我として定立(Setzen)する働きである。この定立作用によって自我は、現実を顧みない独断的な立場、自己自身の純粋な思惟の立場から「定在」のなかへ、「有限性」のなかへと進み入る。
「意志」の第二の契機の提示に際して、ヘーゲルはカントやフィヒテの批判を行なっている。ヘーゲルによれぽ、カントもフィヒテも「普遍性」と「特殊性」の二契機を区別してはいるが、まだヘーゲル自身の立場である思弁哲学には到っていない。フィヒテの場合、自我は端的に自己自身を定立する「無制限老」であり、肯定的なもの、それだけで真なるものと見なされる。それに対して、自我に端的に反対定立される非我、すなわち自我にとっての制限は、否定的なものとして自我に付け加えられるにすぎない。普遍的なものとしての自我と特殊なものとしての非我とは、厳然と分離されたままである。カントの場合も、意志が自己自身の法則に従う「意志の自律」の形式的普遍性と、特定の対象に関係する「他律」という特殊性とは、「知性界」と「現象界」との分離と同様に、結合されることはない。両者とも、無限性と有限性との二元論の立場にとどまるのである。
このような批判の当否はともかくとして、この批判において述べられている、普遍性と特殊性の関係についてのヘーゲルの捉え方を確認しておく必要があるだろう。ヘーゲルの論理学によれば、普遍性と特殊性とは互いに無関係なのではなく、普遍性のうちには既に特殊性が含まれている。「意志」についても、第一の契機である普遍性は特殊な内容が捨象されることによって普遍的なのだが、特殊性を否定するという仕方で既に自体的(ansich)には第二の契機である特殊性を含んでいるのである。第二の契機は、第一の契機に自体的に含まれていたものを自覚的に定立したものに他ならない。二つの契機のいずれか一方のみを単独で真なるものと見なすところに、カントやフィヒテの根本的誤りがある、とヘーゲルは考えている。
「意志」の第三の契機は個別性である(§7)。個別性とは、単なる個体を意味するのではなく、普遍性と特殊1生との統一であり、特殊性が自己のうちへと還帰し、それを通じて普遍性へ復帰したものであると表現されている。「意志」のうちには、自我が何物かを意志するという場合の、自我が自我自身に係わるという抽象的普遍性の側面と、特定の何物かという特殊性の側面とが同時に含まれている。個別性の契機とは自我の自己規定であるが、それは本来普遍的に自由な自我が特定の内容を持つという仕方で自分自身を限定(規定)し、そのように規定され制限されたものとして、すなわち自分自身の否定として自己を定立することであるとともに、同時に自己のもとにとどまり、自己との同一性を保つことである。
第三の契機における「自由意志」は、前の二つの契機の統一として、「自我は、否定性の自己自身への関係である限りにおいて、自己を規定する」というあり方をとる。第一の契機である普遍性は、特殊な内容を捨象するという意味で否定する働き、否定的なものである。また第二の契機である特殊性も、第一の契機を止揚するという意味で否定する働き、否定的なものであった。したがって、両契機の統一とは、否定的なものが否定的なものを否定するという働きのことであり、このような事態が「否定性の自己関係」と表現されている。「意志」は、このような否定的自己関係の運動において自己を規定する、すなわち特定の対象を持つのである。
また、「意志」は自己関係である以上、それが内容として持つ特定の対象の規定態は、「意志」にとって外的な拘束力によって与7i。。られた必然的なものではなく、「意志」にとってはどうでもよいものである。「意志」はその規定態が「意志」自身の働きによって定立されたもの、「意志」の働きによって媒介された観念的なもの(dieideelle)であることを知っているのである。第一の契機における「意志」も自我の純粋な自己内還帰であり一種の自己関係であるが、そこで成立していたのは、あらゆる規定態を「意志」の自由を制限するものとして排除することができるという「絶対的可能性」であった。しかしそれは結局空虚な自由にすぎない。それに対して第三の契機においては、特定の規定態が与えられており、しかも「意志」はそれが単なる「可能性」であることを自覚している。
以上が「自由意志」を成立させる三つの契機である。「自由な意志」は、あらゆる規定を捨象して自己自身に関係し、自己のもとにとどまる普遍であるが、それだけでは空虚な抽象物であり、自己を限定して特定の内容を持たねばならない。しかし特殊性のもとにとどまって普遍性へと向かわない限り、ただ外的に与えられた偶然的なものに依存しており、この場合も「意志」は抽象物にすぎない。真の具体的な「自由意志」は、特殊性と対立する普遍性ではあ為が、その特殊性が自己内還帰の運動を通じて再び普遍性と合一するような、そういう普遍性である。また、普遍性や特殊性の契機をそれだけで単独に取り出して、「意志は普遍的である」とか「意志は自己を規定する」とかと語ることは、一面的な悟性の立場に立って「意志」を「主体」や「基体」として予め前提することである。しかしヘーゲルによれば、「意志」は、そうした規定作用)、rY`先だって存するような普遍ではない。「意志」が「意志」であるのは、ようやく規定作用として、すなわち自己のなかへ自己を媒介し、自己のうちへ還帰する活動としてなのである。
「意志」のこのような活動は既に、「否定性の自己関係」と表現されていた。この「自己関係的否定性」としての無限性が思弁の最内奥のものであり、あらゆる活動や生、意識の源泉であると見なされている。このことは「精神」の本質が形式的には自由であり、自己同一性としての「絶対的否定性」である(Enz。§382)、とされていることとも関連しており、さらに検討を要する重要な論点である。ここでは、「意志」の三つの契機を確認するにとどめておく。 
IV 「意志」の諸形式

 

さて次にヘーゲルは、「意志」の三つの形式を、その発展段階を追って叙述しているが(§9-29)、それらの形式が区別される基礎となっているのは「意志」の第二の契機である特殊性である。特殊性の契機にしたがx。ば、「意志」はある規定態を何らかの内容や対象として区別し、限定(規定)し、定立する働きをなすものであり、そうした「特殊化」によって特定の「定在」のうちへと進み入っているのである。この点において「意志」は有限性の立場にある。
「意志」は、何物かを欲すること、何かをしようと意志することである。したがってそこには、「意志」の主体とその対象との対立が生じている。特殊性の契機に基づいて、外界を眼前に見いだす自己意識としての主観的なものと、外的で直接的な現実存在としての客観的なものとの形式上の対立が生じるのである。この対立が「意志」の規定態であり、「意志」を特殊へと限定するものであるが、さらに「意志」は、「規定態において自己へと還帰する個別性」でもあり、主観的なものと客観的なものとの対立を克服しようとする働きでもある。したがって、「意志」は「主観的な目的を、活動や手段による媒介を通じて客観性へと移す過程」としての、「形式的な意志」である(§8)。つまり、「意志」は自分の主観的な目的を客観において現実化する働きである。そしてその働きのあり方によって「意志」のいくつかの形式が区別されることになる。まず最初に、「意志」の目的が直接的である場合、「意志」は即自的にのみ、すなわちその概念においてのみ自由である。そして、「意志」が自己自身を対象とすることによってようやく、即自的に自由であった「意志」が対自的にも自由となる。「自由意志」が即自的なものから即且つ対自的なものへ発展していく段階において、「意志」は「衝動、欲望、傾向性」、「恣意」、「即且つ対自的に自由な意志」などの具体的な形態をとるととになるのである。
さて、「意志」がさしあたり即自的にしか自由ではない場合、それは「直接的ないし自然的な意志」である。それは、自分の内容を直接的に見いだすような「衝動」、「欲望」、「傾向性」であるが、「意志」は本性上こうしたものによって規定されているのである。したがって「自然的な意志」は、確かに「意志」の理性的なあり方に由来する内容をもってはいるが、なお直接性という形式のうちにとどまっているゆえに、形式と内容とが一致しておらず、「有限な意志」とされている。
このような「意志」において見いだされる内容汲ヘ種々さまざまな衝動であり、自分自身の意志の働きによって生じたものであるという点で「私のもの」ではあるが、また普遍性の契機によって抽象的無規定的なものでもあって、その対象や満足のさせ方は多様である。自由な「意志」はこうした内容と対象の二重の無規定態において自分の衝動を満足させるために自らに個別性という形式を与えるが、これによって「意志」は「決定する意志」となり、「現実的な意志」となる。
「有限な意志」は、個別性の点では形式上でしか無限ではなく、個kの内容、つまり自分の本性の諸規定や自分の外的現実性には拘束されているが、普遍性の契機に基づく自己内反省(還帰)的な側面によれば、さまざまな内容や対象を超越しており、個kの内容には拘束されることはない。それゆ}このような「意志」にあっては、内容である衝動や主体である自我は、或るものであることもできれば他のものであることもできるというように、「可能的なもの」であり、選択することができる「可能性」である。こうして「意志」の自由は「恣意(選択意志)」となる(§15)。
「恣意」の中には、一・切を捨象する自由な反省という普遍性の契機と、内的外的に与えられた内容や素材に依存しているという特殊性の契機とがともに含まれている。したがって「恣意」は「矛盾としての意志」であって、真に自由な意志ではない。意志の自由ということで通常思い浮かべられるのは、「したいことができる」という自由であるが、実はそれはこの「恣意」であって、ヘーゲルによれぽ真の自由意志ではなく、自然的な衝動によってのみ規定された意志と、即且つ対自的に自由な意志との間に、反省によって設けられた中間物にすぎない。悟性の立場における自己意識の普遍的統一としての反省は自由な自己規定と見なされているが、実は形式的な普遍性、統一であり、自分が自由であるとの、「意志」の抽象的な確信にすぎない。
「意志の自由」と「恣意」とが混同されている限り、「意志は実際に自由であるのか、それとも意志の自由といったものは欺隔にすぎないのか」という論争に関して、ヘーゲルは「決定論」に正当性を認める。すなわちそれが、自己決定という抽象的な自由に、意志の働きによってはいかんともし難い外的な必然性を明確に対峠させる点において正当性を認める。そして自由な自己決定のみが意志に内在的で、他の要素は外から与}られたものであるとする点で、「恣意」を自由と見なす「反省哲学」を批判するのである。
以上見られてきた「意志」の形式は、対自的に無規定的で、外的な素材に自分の規定態を見いだす普遍だったが、その真理態が「即且つ対自的に自由な意志」であり、これこそ真実の理念であるとされる。「即且つ対自的に自由な意志」は「意志」自身を、しかもその純粋な普遍性における「意志」そのものを自分の対象とする。それによってこの「意志」は、欲望や衝動がもっていた自己意識の感覚的外面性を止揚し、「思惟的普遍性」へと高めるのである。自然的直接性や特殊性を止揚し、普遍性へ高める働きは、思惟の活動に基づいている。ここで再び、「意志」と「思惟」との関係が問題となる。「意志」は「思惟する知性」としてのみ真実の自由な意志なのである。また、この「即且つ対自的に自由な意志」は自分自身が対象であり、「他者」や「制限」を持たず、ただ自己のうちへと還帰しているゆえに、真に無限であり、端的に自己のもとにある。
以上が、「即自的にのみ自由な意志」から「即且つ対自的に自由な意志」への発展における「意志」の諸形式である。ただし、ここで示されたのは「意志」の理念の抽象的な概念が「自由な意志を意志する自由な意志」(§28)であるということだけであり、「意志」の「定在」としての「法」(§29)の具体的な形態化の叙述は、『法の哲学』の本論に委ねられる。 
V 自由と自然をめぐって

 

ヘーゲル自身がたびたび指摘しているように、ヘーゲルにとっての「学」の方法や論理的術語の詳述は「論理学」において前提されているが、「論理学」ではそれが抽象的な場面において語られており、かえって『法の哲学』などの具体的な場面において、その意味する事柄がより明らかになるだろう。そこで最後に、これまで辿ってきた「意志」論における論理的術語である普遍性、特殊性、個別性という「意志」の三契機を再び取り上げて検討してみることによって、小論の締め括りとしたい。
これらの術語は確かに、類、種差、個物という伝統的な論理概念と関連してはいるが、ヘーゲル独自の仕方で捉え直されている。普遍性は「自我の純粋な自己内反省」、「自分の純粋な思惟」と言われていた(§5)が、これはいわば「自我=自我」という同一律であり、それゆえにこそ「純粋な無規定態」や「絶対的抽象」と換言されていた。ここY'は単純な自己肯定、自己関係の契機が見て取れる。しかも、この自我は具体的な内容を否定、捨象する働きをなすものであるという点で否定的なものであったから、自己肯定、自己関係とはいっても、「否定的なものの自己肯定、自己関係」である。一方特殊性は、自我が自分自身を規定(限定)することによるものであった(§6)。ヘーゲルによれば「すべての規定は否定である」(V。121)から、ここには自己否定の契機が見て取れる。しかも自我は否定的なものであるから、この自己否定は、否定的なものの自己否定である。さらに否定的なものが自分の持つ否定作用を働かせるという意味で、これもまた「否定的なものの自己関係」と言うことができる。そして最後に個別性は、普遍性と特殊性とを一面的な契機として自分のうちに含む全体性であるから、二重の意味での「否定的なものの自己関係」、「絶対的否定性」であり、これがヘーゲル本来の「無限性」(§7)に他ならないのである。逆に、「具体的に普遍」(§6)的な全体性である個別性を抽象化することによって、同一性、区別、自己関係、自己肯定、自己否定などの契機が、したがって普遍性や特殊性、個別性などの論理的概念が分節されてくるのである。このようにヘーゲルは、形式論理学的観点からは当然区別されるべきいくつかの位相を混同した、奇妙な論理に従っているように思えるが、逆にこれによって矛盾対立するものを一層高い立場から統一するだけでなく、対立するもののレベルと統一するもののレベルをも統一する論理を見いだしたと言うこともできるだろう。
このような論理は「意志」の三契機の分析において見られるだけでなく、「意志」と「外的な客観」との関係においても働いている。「意志」は三つの契機を含むものとして「否定的なものの自己関係」であり、「無限性」である。したがって「意志」は自己の抽象的普遍的な概念を否定し、自己の他者としての定在を生み出す。このことは、「意志」が自己の目的を外的で特殊な定在として実現することに他ならない。この事態を逆の方向から見るならぽ、外から与えられたもの、偶然的必然的なものが「意志」自身の自由な働きによって生じたものと見なされるということである。ヘーゲル哲学における「自由」が「必然性の洞察」と言われるのは、こうした「意志」に含まれる契機の働きによる。と言うよりも、「意志」というものの中にこのような契魑機を見て取ることによってヘーゲルは、必然性と自由、自然と自由の対立を克服しようとしているのである。
小論は『法の哲学』の冒頭部分にのみ基づいて考察を進めてきたために、論理的術語の検討に終始した。そのため、形式的側面に片寄った論述であり、ヘーゲル『法の哲学』の豊かな内実を捉えていないという非難は甘んじて受けなければならない。またその限りで、ヘーゲルにおける「理念」が「走り去る船が溺れる者を置き去りにするように、自然と自由の分離を置き去りにした」{6}という批判にも答xられない。
ただ、自由と自然の関係についてのヘーゲルの見方が成立する地盤また、そこで働く普遍性、特殊性、個別性や同一性、否定性などの論理的概念の役割は確認しておかねばならないだろう。 

(1)HermannKrings,`NaturandFreiheit',inZeitschriftfurphilosophische Forschung39(1985),S.6.
(2)Ibid.,S.5.
(3)G.H.R.Parkinson,`Hegel'sconceptoffreedom',inHegel,ed.M.J.Inwood(Oxford,1985),p.154.
(4)ヘーゲルの著作からの引用は原則として,G.W.F.Hegel,Werkeinzwanzig Banden.Hrsg.v.E.Moldenhaueru.K.M.Michelの巻数をローマ数字で,ページ数をアラビア数字で示す。ただし,『法の哲学』からの引用はパラグラフ数のみを,『エンチュクロペディー』からの引用は略号(Enz.)とパラグラフ数を示す。
(5)パーキンソソは,ヘーゲルにおける「意志」の対象,目的,内容の区別に関して次のような例を挙げている。すなわち,たとえば私がコップー杯の水を飲みたいと意志する場合,私の意志の対象は水を飲むことであり,目的はのどの渇きをいやすこと,そして内容ほ水を飲むという欲望である。Cf.G.H.R.Parkinson, ibid.,p.159,n.12.
(6)HermannKrings,ibid.,S.10.  
 
家族の限界・国家の限界 または自然の捏造

 

1 《家族−市民社会−国家》という三項関係  
『法哲学』の正式な書名は、Grundlinien der Philosophie des Rechts oder Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse、つまり『法の哲学または自然法と国家学・要綱』である。ここでは、「法の哲学 Philosophie des Rechts」は、「自然法と国家学 Naturrecht und Staatswissenschaft」と言い換えられる。ヘーゲルの言う「自然法 Naturrecht」は、実定法 positives Rechtとは区別された哲学的法 philosophisches Recht (PhR35 §3)である。すなわち、表題では哲学的法である「自然法」の理論で実定的な「既成国家」を批判しつつ、哲学的な「国家」を実体化することが意図されている。しかも、そのための梃子である「自然法」論は社会契約説批判をその内容とする。哲学的法としての「自然法」を手段としながら、自然法論の一方の帰結である社会契約説を批判するのである。
ヘーゲルの批判は、社会契約説が国家の成立を個別意思相互の契約によって説明する点に向けられる。ヘーゲルによれば、個別意思相互の一致によって成り立つのは特殊意思に過ぎない。個別意思をいくら集積させようと、契約によって成立する特殊意思からは「国家」という普遍意思は生まれない。では、普遍意思はどこにどうやって成立するのか? ヘーゲルの答えは明快である。普遍意思は「成立」したりはしない。なぜなら、普遍意思は常に/既にそこにあるから。これを把握しないのは、個別意思が無教養だからである。したがって、必要なのは、未だ存在しない(と個別意思が妄想する)普遍意思を成立させることなどではなく、常に/既にそこにある普遍意思が自らの本質であることを個別意思に自覚させること、すなわち教養形成である。
周知のように、ヘーゲルの『法哲学』「人倫」の章は、《家族−市民社会−国家》という三項関係で展開される(註1)。《家族−国家》という古代的な二項関係でもなく、《市民−国家》という近代の契約説的な二項関係でもなく、《家族−市民社会−国家》という三項関係によって、社会契約説が批判される。個別意思はこの三項関係の中には登場しない。個別意思が直接に国家を形成したり国家と向き合ったりしているのではないからである。しかし、他方、ヘーゲルの三項関係には、家族と国家とが常に/既にそこにある普遍であり実体であることが前提となる。また、この三項関係は、個別と普遍が特殊によって媒介されるという構造をとっていない。一方の普遍である家族と他方の普遍である国家が、市民社会(=経済社会)という特殊によって媒介される。しかも、媒介項である市民社会の評価は低いのである。
こうした三項関係から、『法哲学』の意図が見えてくる。第一の目標は、市民社会の現実を受け入れて、これを媒介項として理論に組み込むことであり、やっと形を現し始めたばかりのドイツの市民社会を積極的に理論化することである。第二の目標は、第一の目標を可能にする根拠として、家族と国家を近代化すること、したがって、ドイツの国民国家化とそれを支える近代的家父長制を確立することである。そのためには、法・倫理・国家・家族といった普遍と近代における個別者の自由とをどう両立させるかが問題となる。ヘーゲルが模索していたのは、個別主体の実体化とそれら個別主体相互の「契約」に基づく「(擬似)普遍的」な国家を否定しつつ、かつ自由の否定にも至らない道はあるのか、という課題であった。ヘーゲルはそうした道があると答える。それが彼の考える「国家」と「家族」であるのだが、はたしてこれは妥当な結論であろうか? 本稿は、この問題をジュディス・バトラーJudith Butlerを手がかりとしながら考察する。  
2 家族

 

この三項関係を成り立たせるためには、身体や性という所謂「自然」を、家族や国家という「人工物」と媒介する神話が必要である。しかし、ヘーゲルは家族を「自然」であると規定する。人倫Sittlichkeitを構成する三項関係において、家族は「自然的な精神」であり、その「分裂態ないしは現象態」が市民社会であり、「特殊な意思の自由な自立(=市民社会:筆者補足)を許しつつ、普遍的で客観的な自由」であるのが国家である(PhR87-88 §33)。国家も最初の「民族の有機的な精神」から普遍的な世界精神へと展開する(PhR88 §33)。この最初の段階が「国民Nation」ではなく「民族Volk」であることは注意すべきだろう。「民族」の方が身体的・地理的・物理的条件に制約された概念であり、その意味でより自然に近いものとされている、と考えられるのである。
家族を自然的であるとするのは、家族が身体と性とに直接結びつくからである。「その(=人倫の:筆者補足)最初の定在は再び自然的なものである。それは愛と感覚の形式を持ち、すなわち家族(傍点はヘーゲル)である。ここでは個人は自分のそっけない人格性を廃棄して、自分がひとつの全体の中にいることを自覚する(PhR91 §33Zu。)」。ここで言う「愛」は、まずは性愛のことであり、親子の愛へと発展するだろう。愛は家族の一体感を自覚させる。理性的な自覚ではなく、感覚Empfindungによる自覚である。家族の中では個別の主体である必要はないから、市民として必要になる人格性は家族においては不要である。
この理論が、身体と性という所謂「自然」を根拠にして家族の自然性とその普遍性とを一緒に説明しようとするものであることは明らかだ。しかし、自然から精神へという単純な議論をしているわけではない。引用の中でヘーゲルは「再び」と言っているが、これは、§33の補遺の冒頭で、自由な意思を定在化させるために、意思は感性的定在である物件、すなわち外的な物質にかかわらなくてはならない(PhR91 §33Zu。)、と述べていることに対応している。議論は、自然物を最初の対象とする段階から抽象法へ、抽象法から道徳性へという議論を経て、人倫の冒頭で再度自然に回帰しているのである。してみると、家族が自然であるとはいっても、この自然性は身体や性のような自然性と同レベルのものではありえない。家族の自然性はむしろ構築されたものである。
「人倫」の家族論の冒頭は次のように始まる。「家族は、精神の直接的な実体性として、精神の自己感覚的な統一、すなわち愛を使命とする。したがって、家族の志操 は、精神が自分の個体性の自己意識をそれ自体で絶対的に存在する本質態であるこの(家族の)一体性の中に持つことであり、この一体性の中では、ひとつの人格としてではなく、(家族の)構成員としてあることである(PhR307 §158)」。構築された自然であった家族が、ここでは直接的な実体性になっている。構築の痕跡は一体性の中に消し去られている。こうした家族は、婚姻によって成立し、子どもの養育によって解体する (PhR309 §160)。してみると、この家族はきわめて近代的な家族であり、核家族である。核家族の使命は次世代の再生産に尽きる。ヘーゲルも家族の使命についてこれ以上には語らない。したがって、身体と性は家族における根本的な問題である。
では、性別とは何か? 「両性という自然的規定は、この規定の持つ理性性によって知的なまた人倫的な意義を得る。この意義は両性という区別によって規定されているのであるが、概念である人倫的実体性は、具体的な統一としての自分の生命性をこの区別から獲得するために、みずから両性という区別へと自分自身を分裂させるのである(PhR318 §165)」。これはすなわち、個々の男女にとっては自然的な規定である自身の身体とその性別は、自己展開する精神の自己運動という観点から見れば、人倫的実体それ自体が自己分裂して、男性・女性として産み出したものだということである。「自然」であると見なされたものは、実は「構築されたもの」である。このことを、ヘーゲルのテキスト自体が語ってしまっている。しかし、性別はあくまでも「自然的規定」として固定される。「したがって、自己分裂する精神のその一方の側は、独立して存在する人格的な自立性へと、自由な普遍態を知りかつ意思することへと、概念把握する思惟の自己意識へと、そして客観的な最終目的を意思することへと向かい、――自己分裂する精神のもう一方の側は、具体的な個別態と感覚という形式で実体的なものを知りかつ意思することであり、一体性のうちで自らを保持する――前者は対外的な関係において力を持ち、実行する者であり、後者は受動的で主観的な者である。したがって、男性は国家や学問等において、あるいは外界および自分自身との闘争と労働において、自分の現実的で実体的な生活を営む。それゆえ、自分自身との自立的な合一を戦い取るには自分を分裂させることによるしかない。男性がこの合一を静かに直観し、感覚的で主観的な人倫性を持とうとすれば、これを家族の中に求めることになる。女性は家族の中に自分の実体的な使命を持ち、こうした家族的恭順の中に自分の人倫的志操を持つのである(PhR318-319 §166)」。
引用が示すように、165節から166節は「したがってdaher」で結ばれている。しかも、166節の冒頭は二つの側面が列挙されているだけであるのに、途中からこれまた突然に「したがって」とつながり、この前者が男性で後者が女性であるとされる。なぜ「したがって」なのかは説明されていない。むしろ、ヘーゲルにとっては、この分裂が男女の性を帰結し、そのどちらが男性でどちらが女性であるのかは自明だったのである。人倫的実体の分裂を自然的規定で説明しようとしているが、この自明性を説明しなければ、説明は説明として機能しない。しかし、ヘーゲルにはその必要は認められなかったのである。なぜなら、それは自明であるからだ。
166節の補遺によれば、女性は、高度な学問や哲学、ある種の芸術上の創作といった、普遍性を要求される領域には向いておらず、思いつきや趣味はあっても理念を持ってはいないという (PhR219 §166Zu。)。これがヘーゲルの言う女性の「自然的規定」である。ここから、先にも引用した「家族において女性は自分の実体的な使命を持ち、家族的恭順Pietätにおいて自分の人倫的志操を持つ」という、家族内での役割が説明される。これらの性質は女性の「女性性」であるとは言えよう。しかし、必ずしも自然性ではない。「女性らしさ」ではあっても、女性の自然的規定とは言えない。問題はこう言い換えてもよい。すなわち、ヘーゲルの議論は、自然=本来性によって現実=事実性・実定性を説明しようとするものだが、この説明は、何が本来的で何が自然であるのかを確定しない限り説明にならない。事実性を本来性によって説明しようとしても、本来性は事実性からしか把握できないのであるから、この議論は原理的に不可能である。かえって、本来性を事実性でもってなぞることで、この説明は、意図とは逆に、事実性から本来性を捏造することになる。もちろん、ヘーゲルにはgender概念はない。しかし、これを用いて同じことを言うなら、genderをsexで説明しようという試みは、sexそれ自体の本来性を証明できない限り、同語反復に終わるばかりか、かええてsexの本来性なるものを捏造する、ということである。そして、この証明は原理的に不可能なのである。ヘーゲルの家族論の試みはまさしくこの不可能な同語反復である。
166節の補遺であげられている女性性に対応する男性性、したがってヘーゲルの言うところの男性の「自然的規定」の具体的な内容は、実はどこにも語られていない。両性の「自然的規定」と言いながら、実際には、男性はun-markedであり、女性はmarkedなのである。それも正常な男性の欠如態としてmarkedなのである。したがって、女性の「自然的規定」については語るべきことがあるにせよ、男性のそれについて語る必要はない。また、女性の自然的規定によって女性の役割が説明されたが、これに対応する男性の役割、すなわち、「国家や学問等において、あるいは外界および自分自身との闘争と労働において、自分の現実的で実体的な生活を営む」という役割は、説明のための自然的規定を欠いているばかりではなく、家族の中では成り立たたず、市民社会や国家へと移行するとされる。これを言い換えると、自然的で連続的な差異を「両性の自然的規定」すなわち「男女」という対立項にカテゴライズすることで、家族は市民(=男性市民)を産出する装置として位置づけられるのである。  
3 市民社会

 

上述の家族の位置づけは、しかし恒久的なものではない。家族の使命は子の産出と養育であるから、成人に達した子が自立し、新たな家庭を築くに及んで、子らを育んだ家庭は解体することになる(PhR330 §177)。ヘーゲルは核家族を念頭においている。「一般に家族と呼び習わされているもの、すなわち血統あるいは家系というものは、世代を経るごとにますます疎遠となり、ますます非現実化していく抽象物となるしかない(PhR336 §180An。)」。家族は解体する。解体した家族が産み出す人格が、市民社会の主体となる。
家族の解体は他の側面では家族の拡大としても現象する。家族は、自然な仕方で、また人格性の原理にしたかって、多数の家族に分裂する。「これら多数の家族は総じて自立的で具体的な人格として、したがって相互に外的にかかわりあう。言い換えると、家族の中には人倫的な理念がまだその概念として存在しているのであるが、家族の一体性の中に結び付けられていた諸契機は、概念から解き放たれて自立的な実在態を獲得しなくてはならない。――それが差異の段階である(PhR338 §181)」。家族を人格が代表している。この人格は、家族の内においては男性が担っていたものであった。それが家族を代表して、家族財産の主体として市民社会に出てくる。
家族財産の主体である男性市民は「人格Person」である。「特殊な者である自らを目的とする具体的な人格は、諸々の欲求の全体であり、自然必然性と恣意との混合であって、市民社会のひとつの原理である。――しかし、特殊な人格は本質的に、同等な他の特殊態と関係していて、したがって、それぞれの特殊態は他の特殊態によって媒介されることによって、同時にまた端的に、もうひとつの原理である普遍態の形式に媒介されてのみ、世間に通用するものとなり、満足を得る(PhR339 §182)」。人格が通用するのは、ひとつには各自の教養形成によるものであった。男性に割り振られた役割、すなわち「外界および自分自身との闘争と労働」において、「自分自身との自立的な合一を戦い取るには自分を分裂させることによるしかない(PhR319 §166)」という、男性市民のあり方は、端的に、他の同等な特殊態との関係・媒介を必要とするのである。しかし、もう一方の側面として、人格の通用には普遍態との媒介が、すなわち、国家という普遍に関わってそのために働くことが必要となる。
ヘーゲルは、国家と市民社会は混同されてきたと言う。これは、社会契約説が「個別意思=人格」の相互の契約によって成立する「特殊意思」を、「普遍意思」である国家と見なしている点に対する批判である。ヘーゲルの言う国家とは「個人の自立態と普遍的な実体性の巨大な統一が成り立っているような精神(PhR91 §33Zu。)」である。国法が「最高の具体性をもった自由」であるためには、この統一を成り立たせる媒介がなくてはならない。それが市民社会だ、というのである。それゆえ、この媒介を統一と取り違えてはならない。これをしも国家というのなら、それは「外的国家 」であり、それは「強制国家ないしは悟性国家」でしかない(PhR340 §183)。しかし、この媒介なしには国家と個人の統一はない。労働と財産をめぐる私的権利の相克に介入する司法・行政、また職業団体は、市民社会の領域に属する。だとすると、国家に残された機能とは何かが問題となる。 
4 国家

 

「国家は人倫的理念の現実態である」。現実態であるとは、国家が「直接に(=無媒介に)習俗において実在Existenzを有している」と同時に、「個人の自己意識と知と活動において媒介された実在を有している(PhR398 §257)」ということである。前者は、国家が家族同様に常に/既にそこにある実体であるということを意味している。後者は、常に/既にそこにある実体が生身の人間の知と活動において媒介されているのでなくては、実体として支えられないということである。常に/既にそこにある実体は、実体であることが諸個人に対して常に明らかにされ、意識され続けなくてはならない。しかも、このことが諸個人自身の活動によって自己意識的に遂行されなくてはならない。近代国家はその実体性を国民の力によって再生産され続けなくては維持できないのである。
個人にとって国家が自分の本質であるということは、国家が自分の活動の目的であり、かつ活動の産物でもあるということである。だからこそ、国家は個人にとっての実体的自由である(ebenda)。しかし、これを国家の側から見ると、国家は個人の諸活動によって自己運動する自己目的であるから、国家という実体的自由は、国家に属する諸個人に対する最高の権利となる。ゆえに、「個人の最高の義務は国家の一員たること(PhR399 §258)」という事態が帰結する。
こういう結論になるのも、国家においては実体的なもの(=国家の普遍性)と特殊なもの(=市民社会を介して国家に参入する特殊な利害を有する個人)とが融合しているからである。261節の長文の注解では次のように論じられている。「義務とは、私にとって実体的であるもの、絶対的に普遍的なものに対するふるまいのことであり、権利とはこれとは反対に、この実態的なものの定在一般のことであり、したがって実体的なものの特殊態の側面であり、私の特殊な自由のことである。それゆえ、両者は形式的な段階ではそれぞれ異なった側面に、ないしは異なった人格に割り当てられる(PhR408 §261An。)」。一方にとっての権利は他方の義務である。だがこれは形式的なレベルのことでしかない。国家は人倫的なものであり、実体的なものと特殊なものの融合である。であるから、「実体的なものに対する私の義務は同時に私の特殊な自由の定在である。言い換えると、国家においては私の義務と権利とは唯一の連関の中に結合されている(PhR408 §261An。)」。国家においては、国家が国民に行使する権利は、国民である私の国家に対する義務であり、それは同時に私の権利でもある。
形式的にも、国家においては義務と権利は同一となるのであるが、内容からするとそうはならない。上述の形式的な同一性は、抽象法と道徳性の段階では、内容の点でも抽象的な同一性が存在しているばかりである。誰かの権利は万人の権利であるべきだ、誰かの義務は同じく万人の義務であるべきだ、というのである。しかし、人倫態においては、内容は必然的に展開される。したがって、形式的には同一である権利と義務が、再び内容的に異なって割り振られることになる。父と子は権利・義務に関して同等ではないし、市民は君主や政府に対して持っている義務と同等な内容の権利を持っているわけではない(PhR408-9 §261An。)。にもかかわらず、国家においては権利と義務は同一なのである。内容的に異なって配分されている権利と義務を、「同一だ」と認識することが求められているのである。権利と義務とが同一となるような国家を新たに「樹立」することは、社会契約説、特にルソーの議論の問題点として批判されている(PhR400-1 §258An。)。とすれば、こうした同一性を実現するにはまず、国家という実体が常に/既にここにあるということを前提とせざるを得ない。かくして、議論は再び振り出しに戻る。民族とその習俗の自然性に拠らない限り、これは説明し得ない。
ヘーゲルの挙げる国家の理念は次の三つである。第一に個別国家の国内法、第二に個別国家相互の関係としての対外法、第三が類としての普遍的理念である世界史である(PhR404-5 §259)。国家は国内に向かっては普遍的実体である。しかし、国家はひとつだけではない。一国の国民にとって唯一絶対の国家であっても、国家は複数あるから、国家相互の関係が生じないわけにはいかない。このとき、個々の国家は個別国家として相対することになる。ちょうど、家族が実体であり、家族内においては普遍性を有していながら、これが市民社会に向かって解体していく際には、家族はそれを代表する家長という一個人の人格として現象し、家族を背負った個別の人格相互が市民社会で相対するように、対内的にそれ自体としては普遍である国家も、国際関係には個別の主体として参入していかざるを得ない。個別主体である国家が個別利害を背負ってひしめく特殊領域である国際関係には、利害対立を調停すべき装置は存在しない。家族と市民にとっての実体であるような普遍(=国家)は、ここにはありえない。それゆえに、世界史の審判という観点が導入されることになる。先のことはわからないから最善を尽くすのみ。戦争も辞さない。これが個別国家の対外的なありかたなのだ。
国家と家族とが、対内的なあり方と対外的なあり方で性格を変えるということには注意すべきであろう。国家も家族も、対内的には実体であり普遍的であるが、対外的には個別国家であり個別家族である。ところが、市民社会は常に特殊である。これは市民社会が家族と国家との媒介であって、常に個別者相互の特殊な利害関係としてあり続けるからである。だが、この関係が成り立つのは、市民社会が一国の内部でのみ成り立ち、他国における市民社会との関係に関しては国家が介在してくる、という前提がある場合のみである。もし、市民社会が国家の枠組みを超えて拡大し、これを国家が統御できないという事態になれば、市民社会はそれが属する国家とその国家を形作る家族とを媒介する中間項とはなりえなくなるはずだ。この事態は国際関係の場合とパラレルである。国家間の国際関係の場合、国家を超える普遍的な実体を想定することができないため、国際関係それ自体には個別国家相互を媒介する充分な機能がない。市民社会も、国家の枠を超えると媒介機能を喪失しかねないはずである。その意味で、ヘーゲルの想定する市民社会は、未だ一国市民社会の枠を超えていないのである。
市民社会が一国の内部での媒介装置であるのは、現代の国家では当然国家の機能の一部とされる司法等の機能が、ヘーゲルの国家論では市民社会に割り振られていることからも想像できる。これらの機能が市民社会に割り振られてしまうと、国家に残っている機能はいくらもない。ヘーゲルの挙げる国内法の区分とは「a)普遍的なものを規定し、確定する権力――立法権力。b)特殊な領域や個別の事件を普遍的なもののもとに包摂すること――統治権力。c)最終意思決定機関としての主観性――君主権力(PhR435 §273)」の三つである。権利と権力に同じ「権」の字を用いる日本語では明確になりにくいが、この三つの権力は原文ではRechtではなくGewaltである。理念においては実体の権利Rechtであったものが、国家の機能としては暴力Gewaltとして機能する。立法権はここでは君主の立法権力をさす。議会は「主観的で形式的な自由という契機を、すなわち、多数者の意見や思想という経験的な普遍態としての公共の意識を現存させる(PhR469 §301)」という使命を有しているに過ぎない。それは君主の立法と統治に対する助言者でしかない。というのも、ここで「議会」らしきものと見なされているのは、身分制議会のことであって、これは実際のところ身分の複数形に過ぎないからである。
『法哲学』のどこを開いても、国家の機能として理論上帰結する実体性と、習俗や民族によって常に/既に現存させられている実体性とが同じものだという論証はなされていない。国家は必要であり、それは実体的でなくてはならないが、これが人格という特殊態や、人格を持つ個々人の身体や性とを普遍的なものへと統合しうるのは、統合が既に民族やその習俗として現にあるからだ、という断言以上のものはない。ヘーゲルには国家がこうした所謂自然性に依拠して常に/既に現存しているということは自明だったのだろう。 
5 媒介は成立しているか?

 

このように見てくると、ヘーゲルの議論にはいくつかの前提が存在していることがわかるだろう。
まず、《家族−市民社会−国家》という三項関係は、身体や性の所謂「自然性」を家族や国家という人工物と媒介しなくてはならないが、この根拠とされたのは、家族や国家が常に/既にそこにあるという所謂「事実」であった。しかし、これには、これらの自然性から国家と家族の実体性を導出しようとしながら、その実、国家や家族の要請からこれらの自然性を説明してみせるという倒錯に行き着く。身体や性の、したがって男性性・女性性の自明性が揺らぐと、自然性そのものも揺らぐ。そこでヘーゲルは、『精神現象学』におけるアンティゴネー悲劇論の参照を求める(PhR319 §166An。)。そこでは、人間の掟に従うか、神々の掟に従うかは両性の性別という二項原理にしたがって既に決定済みであるとされたのである(PhG345ff。)。
だが、この議論には難点がある。『精神現象学』におけるアンティゴネー悲劇論は、国家という人間の掟に属する実定法の世界と家族という神々の掟に属する自然法の世界との対立で構成されている。この構成はギリシア悲劇から引用されたpolisとoikosという古代的二分法で構成されている(註2)。しかし、ヘーゲルが『法哲学』で問題にしようとした近代社会はこうした二分法では説き得ない。それゆえにこそ、ヘーゲルは《家族−市民社会−国家》という三項関係を持ち込んだはずである。それにもかかわらず、肝心の男性性・女性性を自然であると述べるくだりで『精神現象学』の当該箇所を参照するよう求めるのは、身体と性に関する自然性の議論は古代ギリシアの段階で既に解決済みであるとヘーゲルが見なしていたからに他ならない。
だが、バトラーはそうは見ない。バトラーは、ヘーゲルはアンティゴネー悲劇論を「母権制から父権制への過渡的段階を表すもの、だが同時に、親族原理も表すものと位置づけた (註3)」として批判する。その根拠は、何よりもまず、ヘーゲルが「アンティゴネー」を「女性一般」へとすりかえる点にある(註4)。アンティゴネー論は、「女性性は共同体の永遠のイロニーである(PhG352)」という結論に至る。これは、国家にとっては犯罪ではあっても、それ自体は神々の掟に従った正当なものであったはずのアンティゴネーの行為が、アンティゴネーが女性一般とすりかえられることで、女性性による共同体への犯罪的関与という理解に固定されてしまう、ということである。
だが、アンティゴネーの行為は女性一般の行為へと普遍化できる内容のものであろうか。これに対しては、バトラーは二重の批判をしていると見てよいだろう。すなわち、第一点は、はたしてアンティゴネーは女性性を代表できるのかどうかという点、第二点は、アンティゴネーがオイディプスの娘であること、したがって近親姦の結果の娘であることをヘーゲルが無視しているという点である。第一点について言えば、妹のイスメーネーとの対比で見る限り、所謂「女性性」と見なしうる性格を多分に持っているのはむしろ妹の方である。姉のアンティゴネーは、その言動の仕方としてはクレオンと対等に、しかし別の掟(=人間の掟)にしたがって行為していると見なしうるのである。すなわち、アンティゴネーは男のジェンダーを身に纏っている。ジェンダーは自然性とは無縁なのだ。よって、アンティゴネーを女性一般とすりかえることは論理的に不可能である。第二点はさらに複雑な問題をはらんでいる。オイディプスの妻はオイディプスの母であったから、アンティゴネーの母は彼女の祖母であり、かつ兄嫁であり、彼女の父は彼女の兄であり、彼女の兄弟は彼女の甥でもある。親族関係は混乱している。こうした混乱はむしろ親族関係を破壊するものと言ってよい。にもかかわらず、ヘーゲルはこの近親姦に言及しないのである。ヘーゲルは、兄と妹の間には欲望は存在しないから、この関係は純粋であって、女性にとって人倫的実体への最高度の予感である(PhG336)ということになるのだが、近親姦であることを前提にするなら、この議論は全くの空論となる。バトラーによれば、ヘーゲルの承認論は欲望から出発するのであるから、欲望が存在しないなら承認はありえないはずだ(註5) ということになる。しかし、それを認めてしまうと、自然性を実体とすることで家族と国家とを説明し、両者を市民社会で媒介させることで社会契約説の克服をはかる、というヘーゲルの構想は崩壊してしまうだろう。
《家族−市民社会−国家》という三項関係のもうひとつの前提は、媒介項である市民社会は国家体制のうちに包摂されるという思い込みである。ヘーゲルが国民国家についての議論しかしていないのは明白である。家族が引き合いに出されるのも、家族のアナロギーで国家を語ることがこのレベルでなら可能であるからである。事実、日本の明治政府はこれを実践して見せたのである。
しかし、国民国家を超える議論はここからは出て来ようがない。また、市民社会が国家の枠組みを超えて肥大化する事態は、ヘーゲルの想定外であったと考えられる。国際関係についての『法哲学』の議論は、個別国家同士が特殊な利害をめぐって対立するという構図であるが、こうした構図は個別国家が国内の経済活動や司法活動を完全に包摂しているのでなくては成り立たない。国家の統御を離れた多国籍企業であるとか、犯罪の行われた場所と時刻と方法とを特定できないようなネット犯罪に対して、個別国家は無力である。ヘーゲルの言う「市民社会」もまた、国家と家族によって秩序付けられる一国民国家内部における「欲望の体系」を意味するのであって、国家の枠組を超えることはできない。市民社会という概念はヘーゲルの発明によるものであったけれども、これが国家の枠組みを超えて肥大化している現在、ヘーゲルの立てた三項関係では市民社会を基礎付けることはもはや不可能というべきであろう。 
6 結論

 

《家族−市民社会−国家》という三項関係は、家族論における性差のジェンダー化に大きく依拠している。国家主義者が家族についての反動的言説を繰り返すのは、単に国家が家族のアナロギーで説明されることばかりが理由ではない。家族における男女の性役割genderを身体という所謂自然、すなわち自然的性差sexを用いて説明するというレトリックが、彼らの国家論を組み立てているからだ。ヘーゲルの理論も、身体の自然性、習俗と民族の自然性をもとに家族と国家を説明するという図式をとる以上、これと同断である。家族の多様性を認めると、必然的にヘーゲル的国家は崩壊する。あるいは、市民社会領域の拡大は国家と家族の変質を余儀なくする。
しかし、すでに見たように、男女の自然的な性差から両者の社会的な役割を説明するという体裁をとるヘーゲルの議論は、堂々巡りをする。前提となっている「自然」とはMännlichkeit / Weiblichkeitとしか言い表しようのないものである。「女」を「女らしさ」で定義し、「男」を「男らしさ」で定義するなら、それは単なる同語反復にしかならない。バトラーによって批判される個々の論点は、実際のところ、ヘーゲルのテキストそれ自体がすでに自ら吐露してしまっている。ジェンダー化というのは、性をめぐる諸現象における連続的差異を、「男・女」という二元対立にカテゴライズする原理であるが、ここでは、自然的性差と社会的性差の峻別ということはおよそ意味を成さない。バトラーが『ジェンダー・トラブル(註6) 』で暴露したように、自然的性差はむしろ社会的性差に関する言説によって捏造されるのだからである。
では、ヘーゲルの議論にはなんら積極的な価値はないのであろうか? 序文における有名なせりふ「ミネルヴァの梟(PhR28)」に反して、ヘーゲルの立論はドイツの時代状況を先取りしていた、とは言ってよいだろう。たとえば、ヘーゲルの論じる家族は、子どもの成長と自立によって解体する家族である。家族における個別者というのが家族の中の死者であり、位牌に名前の書き込まれた死んだ祖先の方が生きている人間より優位に立つといった、『精神現象学』で展開される議論からは離れている。しかも、こうした家族は当時のドイツにおいては未だ成立してはいなかったはずである。さらにまた、ヘーゲルの国家論は立憲君主制をとるが、立憲君主制自体も、当時のヨーロッパですら新種の政体であったことは念頭に置かれるべきであろう。『法哲学』での君主の位置付けは機関説そのものである。しかし、当時ですら、イギリスなどの国々では、経済はすでに国家の枠組みを超えていたはずである。その意味では、国民国家レベルを超えることのできぬヘーゲルの理論は、やはり「ミネルヴァの梟」でしかなかったのではないだろうか。
以上の議論から、グローバル・エシックスに関して何が言えるだろうか? 国家と家族を自然性から説明するという枠組みが、媒介項の肥大化によって不可能となったとしても、国家や普遍的な権力が消滅したわけではない。むしろ、個別の国民国家を超える《帝国》とも言うべきものが地球規模で展開し始めているというネグリ/ハートの指摘(註7) には見るべきものがある。普遍的な価値は万人に共有されなくてはならないが、問題となるのは、共有のされ方である。社会契約説の虚構性を認めつつも暫定的にこれに依拠するという道もとらず、自然を捏造するヘーゲルの道もとらず、しかも、国家や家族というカテゴリーが無効となったという前提で、普遍的な価値の共有を目指すとすれば、このカテゴライズの過程を監視し、吟味することが、さしあたって必要となる。価値の産出は、いずれにせよ、現象する差異をカテゴライズすることに繋がる。差異は現象する。カテゴライズされる以前に現象する。カテゴライズが不可避であるなら、必要なのは、現象がカテゴリーへと変質する過程を暴くことであり、カテゴライズに対する異議申し立ての可能性を常に万人に開くことであろう。 

註1 以下、ヘーゲルからの引用は G.. W. F. Hegel, Werke in zwanzig B?nden, Theorie Werkausgabe, Suhrkamp Verlagを用いる。『精神現象学』はPhGと略記してページ番号を付し、『法哲学』はPhR と略記してページ番号とパラグラフ番号を付す。An.はAnmelkungのZu.はZusatzの略である。検索には石川が管理・運営するヘーゲルテキストデータベースを用いた。
註2 ビルガー・P・プリッダート『経済学者ヘーゲル』高柳良治他訳、御茶の水書房(1999)、p.26
註3 Judith Butler, Antigone’s Claim, Kinship Between Life & Death. Columbia University Press, New York. 2000. p.1 竹村和子訳『アンティゴネーの主張 問い直される親族関係』青土社(2002) p.13 ここでは、アンティゴネー解釈について、ヘーゲル、イリガライ、ラカン等が批判されるが、本稿ではヘーゲル批判に絞って考察する。
註4 Judith Butler, ebenda. P.36 訳書p.76
註5 Judith Butler, ebenda. P.13f. 訳書p.37f
註6 Judith Butler, Gender Touble, Feminism and the Subversion of Identity. Routledge, Chapman & Hall.Inc. 1990  竹村和子役『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社(1999)
註7 Michael Hardt, Antonio Negri, Empire. Harvard University Press, 2000 水嶋一憲他訳『〈帝国〉グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』以文社(2003) 
 
ヘーゲルの法哲学についての一考察

 

はしがき 
ドイツ観念論の完成者であると共に、その最高の代表者であるヘーゲル(G.W・F.Hegel、1770−1831)の哲学が弁証法の思想などを含んでいることによって、現代においても大きな意義を持っていることは多言を要しないことである。そしてヘーゲルの哲学において、法哲学が重要な地位を占めていることは多くの学者によって認められている。ヘーゲルの法哲学については、主著の「法哲学綱要」(1821)の翻訳や解説が行われ、又一般に法哲学や法思想に関する著書において一通り論述されているが、しかしヘーゲルの法哲学を、その形成と発展並びに彼の先行者であるカント(Immanuel Kant、1724一1804)の法哲学との相違に着限して特別に考察した著作は現在まで多くは発表されていないように思われる。そこで本稿においては、主としてヘーゲルにおける法哲学の形成と発展について考察し、すすんでそれとカントの法哲学との相違について若干の叙述を試みたいと思う。1)
ヘーゲルの法哲学に関連のある著作は前記の「法哲学綱要」のはかに「ドイツ憲法論」(1802)、「自然法の学問的聴級の方法について」(1802−1803)、「入論の体系」(1802−1803)及び歴史哲学(1807)などであるが本稿においては、主として「法哲学綱要」において論述されていることについて考察する。
なお、カントにおいてもヘーゲルにおいても法哲学の主著は単に所謂「法律」の哲学だけでなく政治哲学や道徳哲学を包含している。殊にヘーゲルの「法哲学綱要」は、彼の精神哲学の第二部門である「客観的精神」の体系を論述したもので、単に「法律」だけの哲学を内容とするものではなく、倫理学、社会哲学、政治哲学、歴史哲学などの広汎な領域を包含している。しかし、本稿においては専ら「法律」の哲学を中心として考察する。 
第一 ヘーゲルにおける法哲学の形成と発展

 

1) はじめにヘーゲルの哲学思想、特に法哲学と国家哲学に関する思想が形成され発展した状況について一瞥する。ヘーゲルはドイツの南西部のヴユルチンベルク公国の首都シユトウットガルトで生れたが、概してヴユルテンベルクの住民は宗教を信ずる心が厚く又神秘的な気風に満ちており、そしてこの地方はドイツのうちでも特に多くの思想家や詩人を輩出した。ヴユルテンプルの住民の高い精神生活は、殊に自然哲学、神知学、神君及び敬慶主義などに印象強く顕現していた。このような故郷の精神的環境がヘーゲルの哲学思想の形成に大きな影響を与えたことは想像に難くない。彼は生涯故郷の精神的な遺産に深い愛着を感じていたといわれている。2)
さらにこの地方の住民は、右のような精神的な傾向に加えて仕事についての非常な敏捷さと実際的な感覚とを結合させる才能を具備していた。ヘーゲルにおける深遠な精神的思索への沈潜と、具体的実際的な事物への関心との結合はヴュルチンベルクの住民の具備していた特徴の一つの顕現と見ることができるであろう。3) 
2) へ−ゲルは故郷のギムナジウムに入学してギリシアやローマの古典についての教養を得たが、この教養がヘーゲルの哲学思想の形成の上に、方向を決定するほどの大きな影響を及ぼした。そしてヘーゲルの法商学、国家哲学及び社会哲学の思想において重要な意味を持つところの、真に倫理的な国民という理念は、実にこのギムナジウム在学時代に得られたギリシア精神についての教養の中に成熟したのである。彼はこの時代においてギリシアの詩人の作品を愛読したが、彼は特にソフォクレス(Sophokles、BC496−406)の作品であるアンチゴネは、社会的全体を破壊するところの、個人と国家との間や、内心の叫びと法則との間の闘争を、すぐれた方法を以て叙述したものとして、最も崇高な悲劇作品であると考えた。彼のギムナジウム時代の日記には、すでに、彼の精神的発展を特色づけるところの、歴史に対する心の傾き、精神界における生成と推移への沈潜及び民族の運命に対する関心などが明白に記録されている。4) 
3) ヘーゲルは1788年から1793年まで、神学の学生としてチエーピソゲソ大学に在学した。初めの2年は主として哲学の研究に、彼の3年は神学の研究にささげられた。この大学時代に彼ほ詩人のヘルデルリソ(1770−1843)及び哲学者のシェリソグ(1775−1854)と交友関係を結ぶに至ったが、この交友関係がヘーゲルの哲学思想の発展の上に多くの影響を及ぼした。彼等は熱心にルソー(1712−1778)やシラーの著作を読んでこれを論評し又カソトの哲学について研究した。さらに彼等はギリシャの詩と哲学の研究に没頭したが、このギリシアについての研究が、ギムナジウム時代の教養と相待って、ヘーゲルの心中に、大学で教えられた便宜的形式的な新教の神学と教義とに全く対立するところの、そして人間生活と倫理との生命ある形式であり、特定の国民精神の表現であるところの民族宗教の思想を強く植え付けることになった。ヘーゲルの国家哲学は、如何にして倫理的な国家は組織されることができるか、如何にして民族の国家がギリシアの都市国家のように、すべての人の心を傾倒させ忠誠を鼓舞するような社会となることができるかという問題から出発し、そしてこの間題をめぐって考察されたものであるが、この間題は彼の民族宗教の思想に由来しているのである。5〉
テエーピソゲソ大学在学時代のヘーゲルが崇拝していた人はルソーであったといわれている。彼が偉大な哲学者の著作を読んだ場合において興味を感じた問題ほ現状の改善を目指す問題や実際的政治的な問題であったが、かかる問題についての思想家の中でも特にルソーはヘーゲルにとって、最も偉大な精神的指導者であった。そしてルソーの確立したところの、全体の利益を目的とする超個人的な「一般意思」の概念にほ、へ−ゲルや浪漫派が民族精神と呼んだところのものがなんらかの関連性を持っている。6)
要するに青年学生時代のヘーゲルは古代ギリシアを回顧してその国家や文化に深い憧憬を抱き、その復興を熱望した。この時代の彼の国家哲学思想は、かような心境の下に、ギリシアの都市国家を模範として形成されたものであった。しかしその国家哲学思想は後には大きく変化することになったのである。 
4) へ−ゲルは1793年の秋からベルンの名門シュタイガー家の家庭教師となった。シュタイガー家には、哲学、歴史及び政治などに関する豊富な蔵書があって、ヘーゲルは自分の研究のためにこれらの蔵書を使用することができた。家庭教師の仕事には比較的閑暇があり、彼ほこの間に国家、社会及び政治に関する広汎な知識を習得した。当時、ヘーゲルによって研究され、そして彼の法哲学思想の形成と発展に影響を与えたと認められる人々を挙げると、ホップス(1588−1679)、ヒューム(1711−1176)、ライプニッツ(1646−1716)、Pック(1632−1704)、マキアヴュリ(1469−1527)、モンテスキュー(1689→1755)、ルソー、シヤフツペソ(1671−1713)、スピノザ(1632−1677)及びグォルテール(1694−1778)などである。前に述べたようにヘーゲルは学生時代からルソーを崇拝し又フランス革命の精神に共鳴してこの革命を「素晴らしい夜明け」と呼んだ。当時のヘーゲルは、フランス革命を謳歌する自由主義者であったが、しかしカントのように終生変ることなくその精神に共鳴していたのではなく、後には保守的な国家絶対主義者となったのである。7)
ヘーゲルが、初めて世間に発表した著作はベルン時代に書かれたもので、それはジャン・シャツク・カルという法律家が地方財務官のベルナ、ル・ド・ミュラル宛の書簡の形式で書いたところのベルン政府弾効に関する文書の翻訳と、その翻訳に付加されたものでヘーゲル自身の執筆にかかる、ベルンの国法と政治組織すなわちベルンの憲法及び立法司法行政並びに財政と税制に関する綿密な実際的研究に基づく註解とであった。この翻訳と註解ほヘーゲルがフランクフルトの家庭教師をしていた1798年に公刊されたが、書かれたのはベルン在住時代のことであって、それはヘーゲルの政治的実際的な問題に対する関心の成果であり、これによって当時のヘーゲルの法哲学及び国家哲学に関する思想を窺うことができる。金子武蔵博士はその著書「ヘーゲルの国家観」において、へーゲルがカルの書簡の翻訳を行ったことについて「カルの著は多分にルソーの影響を受け、自然法的立場よりベルン政府の施政を以て人権を蹂躙せるものと断じた、極めて印象的なる法曹文学であるとのことである(ローゼソツゲァイク)。然し彼がカルの翻訳を行ったということは、フランス革命の感化著しきものがある所以と見るの外はない。ヘーゲルがカル親書訳を行ったということは、思想家としては最も多くルソー、ジュネーグ生れのルソーの感化によることである」と言われている。8) 又ベルンの国政上の諸問題についての精密な註解ほ、成長しつつある国家哲学者としてのヘーゲルが経験的歴史的な事実について思索し、できるだけ事実に忠実な叙述を行ったもので、その方法においてモンテスキューを範とするものであると言われている。9) 
5) ヘーゲルほ友人ヘルデルリンの斡旋で、1797年の初めから、フランクフルトの富裕な商人ゴーゲル家の家庭教師となった。そしてヘーゲルとヘルデルリンとの旧交が復活し、2人の間の精神的な共同と協力が緊密となり、それがヘーゲルの哲学的思索を強力に推進させ又思索の内容を充実せしめることに役立った。この時代の著作としては、第一に「基督教の精神とその運命」という題目で統一された若干の論文集が顕著なものである。この論文においてヘーゲルが特に考察を傾けている問題は「愛による運命との和らぎ」である。しかしここにおいても彼にとって主要な問題ほ健全な国民生活の倫理的な根本真理の確保ということであった。又これらの論文集において、ヘーゲルの後の形而上学と論理学に対してきわめて重要な意味を持つ「止揚」の概念が初めて現われた。この概念は、法と生活との、理想と現実との一致を表現することに役立ち、かくしてプラトン(BC427−347)の形而上学的二元論とカントの存在と当為との分離とを克服することに役立った。このように対立と反対とを克服して、弁証法的に且つ発展的に、より高次なものへの統一、一致という意味において、事物を思索し初めたことほ、ヘーゲルの哲学的認識における一つの進歩といわなければならない。10)
フランクフルト時代に執筆した神学に関する論文においても、ヘーゲルは国家哲学の問題を徹底的に検討した。当時の彼の国家哲学は、国家を以て契約に基いて成立したものとする、自然法学的、合理主義的な啓蒙時代の国家概念を克服したものであった、そして生活を統一的に把握するという立場から、トマジクス(1655-1728)やカントの法律論の特色である法と道徳との分離を止揚し、国家を以て法と道徳との一致であり、倫埋的社会の顕現であるとする見解に次第に近づいていた。この場合においても、ギリシア都市国家の埋想が彼の国家観の基礎となっていることはもちろんである。
ヘーゲルは1798年に「ヴュルテンペルクの最近の内部事情特に市会憲法の欠陥について」という論文を発表した。この論文において彼が問題としたことは、政治的に老朽化した国家に新らしい生命を吹込み、そして新らしい事態に適応する憲法を与えるということであった。仮は「人間の習慣、欲望及び意見ともはや調和せす、精神の消え去った制度や憲法、法律かさらに長く存在しそしで悟性や感覚がもはや何の関心をも持たない形式が、民族の結合を長く維持するのに十分効果があると信じる人々は何と盲目であることか」といっている。11) 又彼は当時のドイツの商業、経済の中心であったフランクフルトにおいて政治のみならず経済をも大いに研究しにが、経済については特にイギリスり問題か彼を惹きつけた。そしてイギリスの貧民税の性格や効果について深く考察した。彼はプロシアの法制改革についても検討し、当時のプロシアの監獄制度に鋭い批判を加えた。彼はすでに神学に関する論文において、刑罰の本質の究明を試みたが、今や実際政治の見地から犯罪と刑罰の問題を検討したのである。12)
1797年、カントの法哲学の主著「道徳形而上学」が公刊された時、ヘーゲルはこれを徹底的に検討した。そして政治と経済との実証的研究の成果を基礎としなから、カントり法哲学における法と道徳との、合法性と道徳性との区別を止揚して、一つのより高い概念に統一しようと努力した。このより商い概念をヘーゲルは後には人倫と呼んでいる。彼は従来から心中に抱いていたところの理念と現実との及び当為と存在との対立の問題を如何に解決するかに心を傾げ、すべての生活現象を包含し、従って法と道徳をも統一的に包含する存在についての概念を見出そうと努力したのである。13) 
6) ヘーゲルは1801年1月、当時留学界の中心であったイエーナに移った。何年、彼は最初の哲学の公刊論文「フィヒテの哲学体系とシェリングの哲学体系との差異」を書いた。この論文はフィヒテについての卓れた批判、シェリングの自然留学及び精神哲学に対する熱烈な共鳴並びにヘーゲル自身の哲学的立場の強調などを特色とするものであった。この論文に引続いて彼は大小多くの論文を発表した。
イェーナ時代においてヘーゲル哲学のなし遂げた進歩は特に弁証法思想の形成である。弁証法はすべての概念あるいはすべての現実的な現象は、それだけを孤立させて考えてもその本質ほ明らにならず、それを全体的な関係において、すべての現象の全体におぃて考えてはじめて十分且完全に理解され得るという認識の表現である。この意味において、すべての個々の契機は自己を越えて進み、自己と異ったもの、自己と反対なものを指向し、それらとともに一つのより高い統一に結合する。それゆえに三つの行程すなわち定立、反立及び綜合が弁証法の運動と体系構造の根本形式となる。14)
ヘーゲルにおいては、青年時代から始まったところの政治、国家、民族、倫理等の問題は、自己の哲学体系を樹立しようと活動し始めたイニーナ時代においても、依然として少しも彼の念頭から離れない根本問題であった。15) そして法哲学や国家哲学に関連のある重要な論文や手記を執筆した。それらの中には、第一に「ドイツ帝国憲法論」がある。これは1798年以来、フランクフルトにおいて準備されて、1801年から1802年にわたってイニーナにおいて書き上げられたものである。この論文については別の機会に、詳細に論述する。第二に「自然法の学問的取扱の方法について」が挙げられる。この論文については後で多少論及するが、要するにホップスの経験主義に基づく自然法学説やカント、フィヒテなどの先験主義に基づく自然法学説を批判して自己の絶対的人倫の自然法学説を論じたもので後年の「法哲学綱要」の先駆ともいうべざものである。第三に「人倫の体系」が挙げられる。この論文は社会哲学的な内容を持ち、後の「法哲学綱要」の萌芽というべきものであるが、厳密な弁証法の構成を収りながら、第一に自然倫理について、第二に自然倫理に対立するものについて、そして第三に絶対的倫理すなわち自然倫理とそれに対立するものとの綜合について論述している。自然倫理の論述においては、労働、経済、所有、家族、婚姻などの問題が取り上げられている。自然倫埋とそれに対立するものとの綜合は、後にヘー ゲルが客観的精神及び絶対的精神と呼んだものである。「人倫の体糸」の結論においては、絶対的倫理の最高の顕現は、有磯的全体としての民族であるが、それは後の「法曹字綱要」においては国家とされるのである。また「人諭の体系」の論述から知られることは、ヘーゲルかイェーナ時代においてアダム・スミス(1723−179U)の著作を研究し、経済の問題について深い考察をめぐらしたことと、一方において豊かな富を形成しながら、他方において労働者の没落をもたらすところの私的資本の欠陥を認識していたことである。16)
イェーナ時代のヘーゲルの思想においては、精神の最高の段階は民族精神であった。しかしその思想の背後には、客観的精神を超えた絶対的精神の段階が輝いていた。そして歴史ほ絶対的なものが自己を展開することであり、現実の出来事を哲学的に把握する歴史哲学は絶対的精神を認識するもので、世界歴史は世界法廷として絶対的真埋の唯一の尺度であるとするヘーゲルの歴史哲学の思想はイェーナ時代において芽生えていた。17)
又この時代におけるヘーゲルの国家観についてみれは、ギリシアの都市国家を理想とした青年時代の国家観から次第に離れて、国家は単なる有機的な発生物でほなく、政治家の行動や意欲に従うものであり、社会秩序もかかる行動や意欲に従って形成されなければならぬという確信を抱くに至った。彼はナポレオン(1769−1821)の興隆から強い感銘を受け、政治的現実について具さに思索したが、その結果、国家観も変化することになったのである。1806年10月イェーナがフランス軍に占領されてナポレオンがそこに入城した時に、ヘーゲルが友人のニータンメルに宛てて、世界精神の権化としてのナポL/オンを賛美して書いた手紙は、当時の彼の心境をよく示しているということが出来る。18)
へ−ゲルは1807年「精神現象学」を公刊した。この著作については、本稿においては詳論することを省略するが、要するに人間の精神あるいは意識について、最も単純な直接の感性的意識が種々の段階を経過して最高の絶対的知識に到達するまでの過程を論述したものである。それは彼の哲学的発展の頂点に立つものであり、哲学的著作の中で最も天才的なものの一つであって永久的な価値を有するものと辞せられている。この著作においても法哲学に関連のある事項が多少叙述されている。19) 
7) ナポレオン戦争の結果、イェーナ大学は閉鎖の止むなきに至ったので、ヘーゲルは大学教授の職を失った。そこでイェーナを去って、1808年10月までバンベルグにおいて新聞の編集に従事したが、このことによって政治上の実際的、時事的な問題についての識見を高めることができた。その後間もなくニュルソベルクのギムナジウムの校長となり、1811年には貴族の娘と結婚した。1812年から1816年までの間にへ〜ゲルは彼の「論理学」を完成した。この「論理学」は彼の哲学体系の第一部を構成し形面上学の基礎的な分をなすものである。 
8) へ−ゲルはハイデルベルク大学に就職したい希望を抱いていたが、1816年10月そのことが実現した、そして1817年に「1815年及び1816年におけるヴュルチンベルク王国の議会の会議録に現われている審議についての批評」と題する論文を発表した。これは従来ドイツにおいて出された政治評論の中でも最も優ればものの一つであったといわれている。前に挙げた1798年の論文においては国王の絶対主義に反対したが、この論文においては国王に味方しその人民に対して時代に相応しい憲法を与えることを欲している。またこの論文において、後の「法哲学綱要」が詳細に取扱った「組合」と「社団」の概念がはじめて現われ、人間の団結をもたらすことのできる共同体の形成のために弁じている。20)
ハイデルベルク時代の主要な著作は、1817年に出版された「哲学的諸学集成」である。この著作は彼の哲学体系の全体を論述したもので、倫理学、自然哲学、精神哲学の三大部分に分かれ、、各部分がまた形式的に三つの部分に分れている。本稿の主題であるヘーゲルの法哲学は、右の精神哲学の中で客観的精神として論述されているものである。客観的精神は精神哲学において、主観的精神と絶対的精神との中間に位置し、その意義は特に重要であってこの点について高山岩男博士は次のように述べられている。
「客観的精神の思想はヘーゲルの創唱に係る極めて独自な思想である。ヘーゲル独自の精神哲学ほこの客観的精神の哲学より始まるものと考うべきであろう。そして客観的精神ほ実に人倫の精神である。客観的精神界は歴史的社会的現実界である。これ等の問題はすでに明かにした如くヘーゲルが青年時代より最も多くの思索を愛し、最も強い関心を有した問題であった。客観的精神の哲学が彼の哲学体系中極めて精彩ある地位を占むるのも決して偶然な事柄ではない。<哲学的諸学集成>はこの客観的精神の哲学の概略を組織し、進んで絶対的精神の哲学を芸術、宗教、哲学にわたって簡単に組織している。併し大学において自然法、国家学の講義を試みたヘーゲルはこの客観的精神の哲学の手記を<哲学的諸学集成>と同様な意味で公刊するに至った。これが<法の哲学綱要>の著である。」21) 
9) ヘーゲルはハイデルベルク大学教授を経てベルリソ大学教授となり、1818年10月講義を開始した。ベルリン時代はヘーゲルの哲学が全ドイツを支配した時代で彼の名声はドイツの知鼓階級の問で重きを加え、そしてプロシアの官吏や法律家にとって、ヘーゲルの講義を聴くことが就職と昇任のための特別の条件であった。
ヘーゲルがベルリン時代において公刊した最初の著作は、法哲学の主著「法哲学綱要」であった。この著書の序言にほ、1820年6月25日の日付がついているが、翌年に出版された。序言の冒頭において出版の動機を彼は次のように語っている。「この綱要を出版する直接の動機は私の聴講者に、私が職責上法の哲学に関して行う講義のための案内書を与える必要からである。この教科書は私がかって自分の講義のために作った<哲学的諸学集成>のうちに哲学のこの部門に関してすでに含まれているものと同じ根本概念を、一層詳細に、特により体系的に詳論したものである。」22)
「法哲学綱要」は所謂「法律」だけの哲学ではなく、広くヘーゲルの社会哲学に関する著作であり、また特に彼の国家に関する見解が根本的に且徹底的に論述されている著作であって、他の著作と異なり彼が自己の哲学体系における特殊な部分を論述したところの唯一のものである。従ってこの著作を考察するに当っては、彼の哲学の全体的な関係において並びに彼の精神的発展の範囲において行うことが絶対に必要であって、この著作だけを孤立させて考察してほならないのである。23)
「法哲学綱要」ほ序言と緒論の後に第一部において抽象法、第二部において道徳、第三部において人倫をそれぞれ取扱っている。ヘーゲルほこの三部を綜合して「法哲学」という名称を用い、「客観的精神」の理論として論述したのである。客観的精神は主観的精神と絶対的精神との中間に位するもので、直接意識的でもなく絶対的でもないが、しかし我々人間が歴史と文化との基礎の上に、われわれの存在として規定せられた超個人的な社会的精神的な歴史と文化との媒介の中に生活しているという意味において客観的であるところの精神的領域である。24)
へ−ゲルは抽象法は定立、道徳ほ反立そして人倫は綜合という方法で、客観的精神の世界を論述して個人主義的な自然法もカント的な個人主義道徳も真の社会生活の確固たる基礎となることはできず、法と道徳の2つは、1つの一層高次なもの、すなわち人倫的な全体に止揚されなければならぬという見解を示したのである。25) 
10) すでに述べたようにヘーゲルの哲学は論理学、自然哲学及び精神哲学の三部に分たれ、このうち精神哲学においてほ、精神は主観的(個人的)、客観的(社会的)及び絶対的(神的)の三段階に発展するものとされ、法は客観的(社会的)に発展する精神すなわち客観的精神に属するものとされるのである。主観的精神は肉体その他自然的環境に支配されあるいは本能や衝動に制約される状態から次第に発展して他人の自由を認め、自己の慈恵を抑制し自己以上の意志すなわち一般的意志である客観的精神に服するようになる。この客観的精神ほ抽象法、道徳及び人倫という段階を以て発展する。その最初の段階である抽象法は人格の成立に直接に関係する法であって、所有、契約及び不法がその内容となる。次の段階である道徳は客観的規範としての抽象法を遵守しようとする内部的心情である。そして抽象法と道徳とを綜合したものが人倫である。人倫は具体的な実在者によって顕現される。その第一段階にあるものが家族であり、次の段階に位し家族と全然性質を異にするものが市民社会でありそして家族と市民社会を綜合して人倫の最高の段階にある最高道義の具現者が国家である。こうしてヘーゲルによれば国家は人倫の最高の実現態であり、又自由の最も完全な実現態であって、実に地上における神の顕現である。国家は決して契約に基づくものでほなく、また個人の目的に奉仕する手段でもない。却って個人の目的を手段として奉仕せしめる絶対の目的であり、目的自体である。国家こそヘーゲルの客観的精神の最高の発展段階であり、理性が自己の自由を現実社会の中に実現する最高の人倫態である。26) 
11) 以上のように国家至上主義を極端にまで押し進めた後、ヘーゲルは更に次のように説くのである。「一つの国家の自由と他の国家の自由とが衝突した場合には、それを裁く高次の裁判官はないから、結局において、戦争は不可避である。戦争が起れば強い国が勝つ。勝った国は勝ったことによって、自らが世界理性の運載者であったことを立証する。故に世界史は世界審判である。」27)
ヘーゲルをして前述のような国家観を抱かせるに至った理由ほ、主としてほ彼の哲学の弁証法的な方法と、彼の生きた時代の現実の政治や国家の状況、特にプロシア国家の独裁専制政治の状況であろう。
こうしてヘーゲルの法哲学ほ、国家絶対観を特色とし戦争弁護論を含むものとして、多くの人々から峻烈な批判を受けることとなったのであるが、しかし彼以後の哲学や法学を始めとする多くの社会科学に対して多大の影響と波紋とを与えたのである。
なお、ヘーゲルの最後の政治論文は1831年に、その3分の2まで発表された「イギリスの改革法案について」と題するものであった。すでに国家絶対主義老となっている彼ほ、選挙権の拡張を目的とするこの改革法案に対して反対の意見を述べている。この論文については後の機会に詳論する。
ヘーゲルにおける法哲学の形成と発展について概観したので、最後に法哲学が全哲学体系においてどんな意義を持っているかについて妥当と思われる一つの見解を掲げておく。「法哲学はヘーゲルの思想発展の最初から関心の中心を占めた部門であり、おそらく彼の思想体系がこれを回って形成されたと考えられるから、論理学の根柢には絶えず法の領域、現実界への顧慮が払われていたに相違ない。この意味においてヘーゲル体系の秘密は法哲学のうちにあるといってよい。」28) 
第二 ヘーゲルの法哲学とカントの法哲学との比較考察

 

1) ヘーゲルの哲学はドイツ観念論のうちでも、思弁的観念論と呼ばれてカントの批判的観念論と対立する。ヘーゲルはカトン哲学の研究を以て哲学的思索の生活を始めたが、ヘーゲルの哲学の出発点はカントの哲学であり、そしてヘーゲルの哲学はドイツ観念論の頂点に立つものとなった。しかしヘーゲルほカントの採った形而上学に対する批判的な態度を棄てて、形而上学的な認識または普遍的なもの及び絶対的なものについての認識は可能であるとの立場からカントの批判的観念論と訣別した。
カントは認識論的な研究から出発し、比較的老年に至って、実際的、政治的な問題に関心を向けて法哲学、国家哲学に関する著作を発表したが、ヘーゲルはすでに青年時代から政治的、歴史的な問題に関心を持ち、これについて思索や著作を行った。その後、ヘーゲルほカント哲学の研究を開始し、先ずカントの倫理学について多くの理解を持つに至ったが、しかしヘーゲルほカントの倫埋学における定言命令及び厳粛主義に対しては反対の思想を抱いていた。そしてカントの倫理学において認められている実践理性と倫理との分離、倫理法側と経験的な傾向性との分離については大なる疑問を抱いていた。しかしその後ヘーゲルにおいては止揚の概念が考え出されて右の分離は克服されるのである。29)
こうしてカント哲学を特色づけているところの、理想と現実との分離、当為と存在との対立を認める理想主義的二元論ほヘーゲルにおいて止揚されることになる。ヘーゲルは「法哲学綱要」の序文において「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といっているように、カントの強調した理想と現実、自由と必然との対立をその弁証法的一元論によって統一した。 
2) 以上のように、ヘーゲルはカント哲学の研究から出発してそれを批判し反駁する立場に立つに至ったが、法哲学や国家哲学においても2人の間には著しい思想上の相違が認められる。その相違は右のような理想主義的二元論と弁証法的一元論との対立に基づいているものであるが、それはまた2人の置かれた時代的環境と人間的性格の差異を示すものといわなければならない。さらにカントは個人主義的な性質を持つ人格という概念を中心として人間、社会、法などを理解しようとしたのに対してヘーゲルは精神という概念によって人間、社会、法などを解釈したことも、両者の大なる相違を生ずる原因であった。かくしてカントの法と国家に関する思想は個人主義的な自然法思想であるのに対して、ヘーゲルのそれは全体主義的な実定法思想である。ドイツ理想主義哲学者の法と国家に関する思想は、カントの後、フィヒテ(1762−1814)によって次第に個人主義の立場を離れて全体主義の方向に進み、ヘーゲルに至って国家を絶対化する国家至上主義にまで発展した。そしてヘーゲルは法を社会的全体の立場から考察し、国家の超個人的実在性を主張した。30) そこで尾高朝雄博士は次のようにいわれている。「へーゲルの法哲学の特色は、法を飽くまでも社会的全体の立場から考察し、国家の超個人的実在性を徹底して説いた点にある。この点でへーゲルの思想は、法をば互に衝突する疑意相互の調和の法則と見、国家存立の根拠を多数個人間の契約の拘束力に求めた、個人主義的原子論的なカントの法および国家観と、正に対照的な地位に置かれる。」31) またカントは法哲学の主著の結論において「普遍的かつ永続的な平和の確立は法学の全終局目的を形成する」32) と述べているように、永久平和の問題を中心として法的思索を行い法の,根本的使命は永久平和の実現であるとしたのであるが、これに対してヘーゲルは、法を以て客観的精神の実現と考え、その最高段階に国家を置き、現実の国家を合理化し、さらにそれの神性を説いたのであって、この点に彼の法哲学の特色がみられるのである。 
3) 次に法哲学上の若干の問題について、ヘーゲルとカントとの見解を比較考察する。
(1) 先づ2人の自然法学に対する閑係についてみるに、近世の自然法思想はグロチウス(1383−1645)に始まり、ホツブス、ロック、プーフエンドルフ(1632−1694)、トマジウス、ルソー等を経てカントに至って最高潮に達した。そしてカントは自然法学の中でも、特に理性法学の完成者といわれている。理性法字は人間の理性から自然法の諸原理を導き出そうとするもので、人間の理性的存在者としての自由を確保することが法の根本的使命であるとする。カントはこの理性法の理論を「道徳形而上学」(1797)の第一部「法学の形而上学的基本原理」において展閲している。33)
ヘーゲルは「自然法の学問的収扱の方法について」を著わして伝統的な自然法学の批判を行い、自然法学の正しい方法を確立しようとした。彼はホップスの採ったところの、人間の経験的欲望を基礎として法を定義する経験的方法や、カント及びフィヒテの採ったところの、内容的な法の概念決定をしないで単に形式的な定義を以て満足する形式的方法を批判しそして経験の助けをかりないで純粋な思推によって認識を構成するところの思弁的方法を採って、絶対的道徳の本性の理念によって法の本質を明らかにしようとした。34) またヘーゲルは「法哲学綱要」に「自然法及び国家学」という副題を付けているが、「法哲学綱要」の中には伝統的な意味における自然法に触れているところは少しも発見されないのみならず、ヘーゲルの歴史観は、自然法理論の永久不変の特徴である理想法の観念をすべて排除している。35)
以上のようにヘーゲルの自然法学に対する関係は極めて複雑であって、彼を以てカントと同じように自然法学者であると看做すことは正当ではないであろう。この点について恒藤恭博士は、広い解釈を取られて「自然法学がヘーゲルによって批判の対象とされている処では自然法学とヘーゲルの理論とは対立の状態にあるけれど、この批判によって固められた地盤に立脚してヘーゲルが自己の法律哲学の確立を企てる処でほ、ヘーゲルの体系そのものも亦自然法学の全関連の中に位置している。」といわれ、36) また高山岩男博士はヘーゲルの特殊な立場を指摘せられて「一面においては法を以て民族精神の無意識的生産あるいは表現とする歴史法学派の所説に通じながらも、他面においては法を以て永遠なる理念の組織とする自然法学派と一脈相通ずるものをも有し、いわば両者の特有な綜合をなす所以がここに見出されるであろう。」と述べられている。37)
要するに自然法学に対する関係からみれば、ヘーゲルはカントのように自然法学者であるとみるべきでほなく、その国家に関する見解に徹しても結局は法実証主義者となったとみるのが正当であろう。ダスタフ・ボーメルは国家の全能を説いたへーゲルを法実証主義の祖としている。38) 
(2) ヘーゲルの法哲学において国家論とならんで特色を持っている見解は、刑法論である。そこでこれをカントの刑法論と比較してみる。ヘーゲルの刑法論は弁証法的方法に立脚している。彼によれば刑罰ほ正義を実現するものであり、正当な報復である。それは法を否定するものを更に否定して法の権威を回復するものであり、犯罪に対する正当の応報である。ヘーゲルはこのように応報説を採っているが、しかしそれはカントの応報説のようにクリオ説すなわち同一物対する同一物による支払の関係を事実的に解する説ではなくて、等価説すなわち犯罪に対する応報は必ずしも眼に対する眼、歯に対する歯であるという必要はなく、犯罪に対して相当な価値を持つ手段による支払を以て足りるという説を採っている。またカントは「人を殺した者ほ死ななけれはならない」として死刑を肯定したが、ヘーゲルもこれを肯定し、死刑廃止論は未熟な感傷であると考えている。39〉
滝川幸辰博士は2人の刑法論を比較して次のように述べられている。「刑罰が社会進化の過程として考えられるとき、それほカントの如く犯罪あれば、心ず反動がなければならないという類のものであってほならない。刑罰は、それが社会秩序の恢複に必要なとき、はじめて要求せられる。この意味において、ヘーゲルの刑法論は、カントのそれが犯罪という悪のために刑罰という意を以て報いねばならないというのに対して、別の意味を有つ。文化的ヘーゲルが理論的カントに対し、刑法論において優れているという理由は、この点にある。」40) 
(3) 国家に関する見解や戦争と平和に関する思想においてもヘーゲルとカントとの間には著るしい相違が見受けられるが、これらの点についてはすでに論述したところによって多少は知り得られるのでここに再び繰り返さない。また、ヘーゲルやカントの法哲学における重要な問題であるところの法と自由、法と道徳の問題にも論及しなければならないわけであるが、このことも後の機会に譲ることとする。 
(4) 政体についてはカントもヘーゲルもともに君主政を望ましいと考えていたが、カントほ彼の時代の実際の憲法のうちでは民主主義と権力分立主義を基礎とするアメリカ合衆国の憲法を以て最も理想的なものと考えたようであるが、ヘーゲルはこれに対してイギリスの憲法に最も好意を寄せており、その身分的世襲的君主政を最善のものと考えていた。41) 
(5) ヘーゲルほカントと異なり国家契約説を否定したのみならず、婚姻をも契約ではないとし婚姻を単に市民的契約として理解することほ粗雑な俗見であるといっている。42) またカントの行った人の法、物の法及び物と人の法という区分法にも反対している。43) これらの点については詳論を略する。 
第三 結 ぴ

 

ヘーゲルの法哲学について、その形成発展とカントの法哲学との相違とをきわめて粗雑ではあるが考察したので、最後に彼の法哲学の学問的意義について一言する。
1) ヘーゲルの法哲学ほ単に専門の法学者によってのみならず、多くの学者達によって種々の批判を加えられた。カール・マルクス(1818−1883)が「へーゲル国家哲学の批判」と題する書物を著わしていることも有名なことである。本稿においてほ、これらの批判については論述しないが、ただ一つの代表的な例として、現代イギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872−)の批判を示して置く。ラッセルは日く「ヘーゲルの形而上学から出て来る結論は、真の自由は専制的な権威者への服従の中に存するということ、自由な言論は悪であるということ、絶対君主政は善であるということ、戦争は善であるということ、プロシアの国家はヘーゲルが著作をした時代の最善の国家であるということ、そして戦争は善であり、国際紛争を平和的に解決するための国際機構ほ不幸なものであるということなどである」と。44) ラッセルの言葉はやや誇大であると思われるが、国家を神格化し、国家絶対主義の立場に立脚するヘーゲルの法哲学に対するものとしてはラッセルの批判ほ誤っていないであろう。 
2) しかし、国家絶対観や戦争弁護論はとも角として、ヘーゲルは法哲学においても大きな業績を遺したといわなければならぬ。カントにおいても同様であるが、ヘーゲルは「法と自由」「法と道徳」などの法哲学上の根本問題について深遠な思索を行って先人のなし得なかった思想的な成果を生み出し、また、法哲学の体系の樹立の上に大きな寄与をしたのである。さらにカントによっては明らかにされなかったところの、国家と社会との区別はヘーゲルによって明らかにされた。こうしてヘーゲルは、後世における法哲学の発展に対して大きな影響を与えたのである。 
3) ヘーゲルは一生の間、真理の探究に専念し、哲学上不朽の偉業を成就した。彼の業績は時代を超越して、知を愛する者の深い関心をよび起させている。恒藤恭博士は「永遠の真理を観ようとした数多くの企ての中で、ヘーゲルのそれは最も目ざましいものの一つであることは、疑をいれぬであろう」といわれている、45) ヘーゲルのみた法や国家の永遠の姿は必ずしも人々の受け容れ得るものではなかったけれども、恒藤博士の言葉はヘーゲルの法哲学についても妥当するというべきであろう。まことに、永遠のすがたにおいて法や国家をみようとする欲求を持っている人々はヘーゲルの法哲学に関心を寄せずにはいられないのであって、この意味においてヘーゲルの法哲学は現代的な否恒久的な意義を有するものということができるであろう。 
最後に法哲学をも含めて広くヘーゲルの哲学に関する学者の評価で私も全く同感であるところの2、3の点を掲げて筆を爛く。46)
(1)ヘーゲルの哲学体系は、百科の学にわたる普遍性と驚嘆すべき建築術的構造とのためのみならず、さらに独創的で深遠高尚壮大な思想の豊富さ並びにその体系の与えた影響とのために、永久に優れた地位を占めるであろう。ヘーゲルは学問殊に人間に関する科学や政治思想や人間生活そのものの上に現在に至るまで深い継続的な影響を及ぼして釆た。
(2)ヘーゲルについての知識は、現代の精神的危機を理解しようと欲する何人にとっても、過去のいかなる哲学者についての知識よりも、濃かに必要であろう。
(3)ヘーゲルがわれわれに教えていることほ、不滅の観念、永久不変の真理及び永久の哲学が存在しなければならぬということである。 

 

1) 「法哲学綱要」の邦訳には次の2種がある。速水、岡田訳(岩波書店刊行)、高峯訳(創元文庫)。著書としては次のようなものがある。金子武蔵著「ヘーゲルの国家観」、田村実著「ヘーゲルの法律哲学」。
2) Friedrich Biilow、Hegel:Recht.Staat.Geschichte.(以下Biilowと略記する)ss・1‾2。
3) Carl J.Friedrich、ThePhilosophyof Hegel・p・2。
4) Bulow、ss.2−3。
5) C.J.Friedrich、ibid.pp.2−8。
6) Biilow、ss、7−8。
7) 〃 ss.11−12。
8) 金子著「ヘーゲルの国家観」(90真一92頁)。
9) 金子著、同上92頁、Bulow、s.13。
10) Bulow、ss.17−18。
11) 〃 ss.20−21。
12) 〃 s.21。
13) 〃 s.22。
14) 〃 s.25。
15) 高山岩男著「ヘーゲル」69頁。
16) Bulow、ss.31−33。
17) 〃 ss.33−34。
18) 〃 s.36。
川) 〃 ss.36−38。
20) 〃 s.42。
21) 高山著、同上227貢−228頁。
22) Hegel、Grundlinien der Philosophie des Rechtst(Philos・Bib)s.3 高峯訳上巻5頁。
23)Bulow、s.51。
24) 〃 s.52。
25) 〃 s.52。
26) Hegel、Grundlinien ss.207−211。岩波哲学小辞典所載「ヘーゲル」社会科学の名著所載「法哲学綱要」参照。
27) 哲学名著解題所載「法哲学綱要」参照。
28) 速水、岡田訳「法の哲学」453頁。
29) Bulow、s.9。
30) 船田享二著「法律思想史」311−319頁。
31) 尾高朝雄著「法哲学」81頁。
32) Kant、Metaphysik der Sitten(Philos BiI))ss.205−208。
33) 〃                        ss.33−35。
34) Bulow、ss.101−103.。
35) ダントレーヴ著、久保正幡訳「自然法」109−113頁。
36) 恒藤恭著「法の基本問題」293頁。
37) 高山岩男著「ヘーゲル」241ー242頁。
38) 阿南成一著「現代の法哲学」31頁。
39) Hegel、Grundlinien ss.90−99頁。
40) 滝川幸辰著「刑法講義」(現代法学全集所載)27頁−28頁。
41) Paulsen、Immanuel Kant.s.341。シュヴューグラー著、谷川、松村訳「西洋哲学史」(下)345頁。
42) Hegel、Grundlinien s.80、ss.150N156。
43) 〃           ss.53−55。
44) B.Russell、Philosophy and Politics.p.17.。
45) 恒藤恭著「法の基本問題」292頁。
46) C.J.Friedrich、ibid.pp.14−64。
 
彼女に対する私の関係 / キルケゴールとレギーネ・オルセン

 

子供を乳離れさせようと思うとき、母はその乳房を黒く染める。子供に飲ませてならないのに乳房に魅力を残しておくのは、まことに残酷なことであろう。乳房を黒く染めれば、子供は乳房が変わったのだと思う。しかも母は同じ母であり、母のまなざしはいつものように愛情にみちてやさしい。子供を乳離れさせるために、これ以上の恐ろしい手段を必要としないものは幸なるかな!(おそれとおののき、キルケゴール) 
1 キルケゴール
キルケゴールはすでに遠い人であろうか?確かに遠い。私達が、私達の安楽なその日ぐらしの寝床で薄く開いた眼の中にぼんやり見るとき、それはずい分遠いに違いない。(彼は1855年安政2年に没した)「私は憂鬱だ」「私はまだ一度も子供だったことがない」と語る人の憂鬱。彼は自分自身について「私は一日も憂鬱の圧迫から自由だったことはない」と述べている。
けれど、長靴を履き、だぶだぶのズボンをだらしなくはみ出して道を行く哲学者(しかしまだ30そこそこなのだ)の後から「あれか、これか」とはやし立てながらついて来る子供達や、こき下ろしの記事をマンガ入りで執拗に連載する文芸雑誌とそれに対抗する生き生きとした反論、難解しごくでやけにもったいぶったその上にふざけきっている標題や、次から次へと繰り出してくる多重人格的ペンネームの付け方(沈黙のヨハンネス、ニコラウス・ノベタネ、フラーテル・タキトゥルネス、アンティ・クリマクス、etc、 etc)には、ずい分現代的でポップな詩人の行き方が見える。
(詩人?「私は詩人ではない」哲学者?「それでもない」宗教家?「それも違う」「私は私自身に関係し、私自身であろうと欲することにおいて、私を措定した力のうちに透明に根拠を置こうとする何ものかである」) 
2 レギーネ体験
キルケゴールは1837年24歳のとき、14歳のレギーネ・オルセンと出会う。3年たってレギーネが17歳になったとき、二人は婚約し、11ヶ月後キルケゴールの方から婚約指輪を送り返して、その契約は破棄される。これがキルケゴールにおけるレギーネ体験と呼ばれるものである。
キルケゴールはこの体験について次のような謎めいた言葉を残している。「この秘密を知るものは私の全思想の秘密を知るものである」このような言葉が言われている以上、その「秘密」を解く鍵を探そうとするのは当然のことではないだろうか?
エマーソンの言うように、どのような詩人、哲学者にもプライバシーは存在する。しかし、生自体を直接原資料として哲学を引き出して崩れない、まったく偽りの含まれていない生、(まったくというのが厳密でないとすれば、偽りもまた一つのゆるがせにできない真実であるとして)があるとすれば、書き残された書物の中から、詩人の生に遡行する試みもまた、許されなくてはならない。
「詩人というものは自分には表現できない小さな秘密を代償にして、自分以外の全ての人の重い秘密を表現する言葉の力を償うものだから」(「反復」)
私は私の「直感」を頼りにしてこの詩人の「秘密」に迫ってみようと思う。とてつもない見当外れで終わるのが関の山ではあろうけれど。
70年代のドイツの学生反乱に影響を与えている行動的神学者、モルトマンは「キルケゴールは人間を精神として捉えすぎたので、たとえばレギーネとの婚約を破棄したのではないか」と言っている。イエスの十字架を神の王国建設の挫折ととらえ、教会の燭台の間から十字架を外に、社会に持ち出そうとするモルトマンの立場からすれば、これは当然のコトバであるかもしれない。
キルケゴールは「人間は精神である」と規定し、「神の前に罪あるものとして、単独者として立つ」ことを求めた。しかし、哲学がどこまでも観念の高みに上昇し、抽象的体系の形式的整合性に中でついに生身の生を完全に忘却してしまうことこそ、キルケゴールのヘーゲルに対する最大の批判であった。彼はヘーゲルについて「大宮殿を建てた人間がその宮殿に住まないで、その傍らの犬小屋に住んでいる」と揶揄している。だからモルトマンの「人間を精神として捉えすぎて」というコトバは当たっているとしても全面的なものでは有り得ない。 
3 結婚
当時、キルケゴールはまだ半ば学生であり、レギーネに会ってから始めた語学教師のアルバイトも1年位で止め、その後はまったく職業に就いていなかった。喫茶店や書店などのツケが山のように溜まり、父親がその尻ぬぐいをさせられている。
結婚?まともな生活!しかし、考えられないことではない。彼はレギーネを深く愛している。愛は困難に打ち克つだろう。あるいは、キルケゴールの本来的多情さが結婚を妨げたのだろうか?確かに彼が「気の多い人」であったことは彼の口からも明らかだ。しかし、それは誰についてでも言えることであり、実際的困難を引き起こすほどの障害になったとは考えにくい。
あるとき、男と女が出会い、結婚する。それは半ば偶然であり、また必然でもある。つまり、つねに可能的なものであり、単なる1個の事実であるに過ぎない。2人は祭壇の前に立ち、聖書に手を置いて誓う。「何を?」『永遠を』
この定式、「結婚」が「永遠」によって規定されるという定式は、多分まだしばらくは(あるいは後、ほんの束の間)改定されることはないだろう。しかし、キルケゴールによれば「永遠は、人間に決して知られることのない何かであり、ただ逆説として、永遠が時間性に突入する非歴史的な瞬間にのみ触れることのできる何ものかである」
キルケゴールが「結婚」に与えた1つの美しい規定がある。「生の美的段階―恋愛、倫理的段階―結婚、宗教的段階―破婚」これが私の耳に真理のようにさえ聞こえてしまうのは、一種の聴覚的錯覚であろうか?(レギーネ・オルセンとの婚約解消が、ここでの破婚―宗教的段階にあることは言うまでもない) 
4 絶望
人はときに絶望する。深く、あるいは、少しく。それは暗い水の中で溺れかけたときの危機に似ている。口は塩辛い水を呑み、体内に侵入した水は外の水に支えることを止めるようにと早くも要求し始める。
確かに、波しぶきと烈風の中で精神を惹きつける岬が存在し、遠くを見据える目をもった灯台は叫ぶ。「この岩がエデンだ。ここで難破せよ!」この声に抗うことが誰にできただろう。19世紀ヨーロッパは眼前にこの岩を見出した。「我々はもはや救われている」「今こそ、難破するときだ」しかし、溺れるものがここで易々と水没することを、この孤独な哲学者は許さなかった。
絶望の書「死に至る病」の著者はその絶望がまだまだ不足していることを指摘する。絶望して気絶し、死んでしまったかのように横たわっているが、「死んで寝ている演技のようなものだ。」「そのうち時がすぎ、外からの助けが来れば、この絶望者の生命もよみがえってくる。彼は彼が止めたところから始める。彼は自己ではなかったし、自己になったこともない。」「絶望とは死に至る病とは呼ばれ得ない。」
「死に至るまでに病んでいるということは死ぬことができないということであり、しかもそれも生きられる希望があってのことではなく、それどころか、死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのである。」絶望の果てしない<絶望的な>エスカレーション。意識が増せば増すほど、意識が上昇するのに比例して絶望の度が強まってゆく。厳格な対位法にもとづく無限上昇カノンだ。 
5 意識された絶望
意識された絶望はその弱さにおいて絶望である。弱さ、力の無さ。5本の指にありったけの力をこめているのに、汗ですべりやすくなった指から逃げ去るものを留めることのできない握力の無さ。<何もかも、一切が無益だった>しかし、「地上的なもの、地上的なあるものについて絶望する自己はまた、自己が絶望であることをも自覚する」
私は絶望だ。私は絶望している。その絶望には限界がない。<私は何処に行こう?私ハ何処ニ行コウ!>それは、自己がある永遠なるものをもともと含んでいることを示している。私の絶望の深さによって、その限度の無さによって推し量ることのできる永遠なものがあり、あるばかりでなく失われているということ。<どこに永遠の愛などあるだろう!だが愛が永遠でないとしたら?> 
6 自己自身であろうと欲しない絶望(自殺)
永遠と自分自身とが共に失われているという絶望。このとき絶望は単に受難ではなくて行為であり、「自己は絶望して自己自身であろうと欲しないか、絶望して自己自身であろうと欲するか」のいずれかとなる。絶望して自己自身であろうと欲しないとき、(これは絶望の女性的形態である)私はもはや私ではない。
暗い閉め切られた部屋の中で、私は何か得体の知れない、私自身も知らない大きな虫のようなものに変容する。精神?これが私達の中に巣食う精神という名の虫であろうか?宛先不明郵便物の処理という呪うべき仕事をまかされたあの郵便局員のように、(精神?)は机の下にもぐり込み、部厚い書物の冷え冷えとしたページの間に平たくなって横たわる。
「この閉じこもりが絶対的に、アラユル点ニオイテ完全ニ、保たれる場合には、自殺が彼にもっとも身近に迫る危険となるだろう」(この危険は誰かたった1人の人にでも打ち明けられるなら1音階ゆるめられる) 
7 自己自身であろうと欲する絶望(反抗・苦役)
絶望して自己自身であろうと欲するとき(これは絶望の男性的形態であり、反抗である)私は私だ―、私は私であることを譲らない。私が私であること、それは不可能であり、絶望だ。なぜなら私は単に事実として私であり、限定された具体性としての特定でしかない。だが、驚くべきことに、私の中には1つの無限な力が保有されている。つまり私の「無限なる形式、否定的な自己の力」による反抗である。この「否定的な自己の無限な形態の力」は行動的、あるいは受動的に表現される。
絶望的な自己が行動的な自己である場合、絶望者は破壊者として、全否定者、無の思想家として現れる。だがそれは本来暫定的なものでしかない。このとき「自己は本来つねにただ実験的にのみ自己自身に関係する。」「1つの思想がどれほど長く追求されるにしても、その行動の全体は仮設の埒内を出ない。」「自己が殿堂の構築を完成したかと見えるまさにその瞬間に、自己は気ままに全体を無に解消させることができる。」
絶望した自己が受動的な自己である場合、絶望者は無限の苦役につながれたプロメテウスである。だが、彼の誇りは無限に繰り返されるこの苦難に決して屈服せず、地獄のあらゆる苦しみを嘗め尽くしてもなお、救いを拒否して自己自身であろうと欲するところにある。
しかし、このような絶望のエスカレーションの全過程の最後に、絶望の度のもっとも強まった極限として、絶望は悪魔的な絶望となる。絶望は自己の裂け目である責め苦の中に、自分の全情熱を投げかける。そのとき、この情熱は暴走してついに悪魔的な兇暴となる。 
8 悪魔的な絶望(誘惑者)
なぜなら神の前にあって絶望は罪であり、自己の罪について絶望する罪であり、罪の赦しについて絶望する罪(つまづき)であるから。かくて、反抗は極限的なもの、神への反抗となる。<私は破滅だ。私は滅亡だ!>
この悪魔的な絶望者の呼び名は「誘惑するもの」(「誘惑が来ることは避けられない」実にイエスでさえも誘惑にさらされたのだ。「しかし誘惑をもたらすものはわざわいだ」それが罪の甘美を伴うゆえに、その甘美が善いもののもたらす楽しみをはるかに超える度合いを有していることのために、誘惑はわざわいである。その甘美は析出した死の甘さである。)エデンにおいてイヴをそそのかした蛇、「キリスト教を積極的に廃棄し、それを虚偽であると説く者」である。
このようにして、私達はキルケゴールの絶望の全過程をたどって(この絶望のさまざまなカテゴリーがどれほど普遍的なものであるかは驚くほどである。「死に至る病」1巻の中に、人間の絶望と苦悩のすべての形態が封ぜられているのではないかとさえ思われる。)ようやくキルケゴールの最初の主要な著作、レギーネ・オルセンとの葛藤から産み出された、手に触れてまだ熱い書物、「誘惑者の日記」にたどりつくことができた。 
9 誘惑者の日記
「誘惑者の日記」はレギーネとの破綻の2年後に刊行された全2巻からなる大部な著作「あれか―これか」の第1部に含まれる1つの独立した作品である。「誘惑者の日記」にほどこされた何重もの遮蔽と隔離は、作者がこの「人間をその根源的様相において捉えようとする書物」を、どの程度に危険なものとして取り扱っているかを示している。
キルケゴールはまず第1の隔離として、「あれか―これか」全体の架空の著者、あるいは刊行者として、ウイクトレル・エレミタという人物を設定している。その序言によれば、この書物を書いたのはエレミタ自身ではなく、彼は、この書の草稿を古道具屋から買った古机の引出しの中に偶然見つけた、ということになっている。
この草稿の筆者として2人の人物が設定される。第1部美的内容部分の作者はAと呼ばれ、第2部倫理的内容の筆者はBと呼ばれる。これが第2の隔離である。第3の隔離として、ヨハンネス(誘惑者)という人物が設定され、「誘惑者の日記」はこの人物の引き出しからAが偶然発見し、整理清書したものとされる。
この「支那の魔法箱のなかに隠れている箱」のような書物の構造は、遺伝子工学の組み替え実験に要求される生物学的隔離の最も厳重な段階を想起させる。このように何段もの隔壁に防護されて始めて、作者はこの書を実際的に取り扱うことができたのである。
しかし、このようにして厳重に封ぜられた<わざわいなるもの>とは、実は、金の生毛のそよぐ白く瑞々しい桃の果肉に埋まる固い果核の沈黙であった。これは少女の秘密である。少女―「世界の外交上のあるゆる秘密など、ひとりのうら若い娘の秘密にくらべたら、いったい何であろう。」「秘密ほど、多くの誘惑と多くの呪いとにつつまれたものはない。」 
10 少女
2人が出会ったとき、レギーネはまだ幼さの残る14歳の少女、水の泡の中に誕生したばかりの少女だった。「彼女は美しさの絶頂にあった。若い少女の発育は少年のそれとは意味がちがう。少女は生長するのではない。少女は誕生するのである。少女は長いあいだかかって誕生し、生長して誕生するのだ。この点に少女の無限の豊かさがある。」
誘惑者がコーデリアに結婚の申し込みをするときの、17歳の誕生日を迎えた少女の印象。「摘み取ったばかりの新鮮な薔薇、そうだ、この娘自身があたかも摘み取ったばかりの新鮮な花のごとく、そのように新鮮で、いましがた到着したばかりのようなのだ。若い娘というものがどこで夜をすごすものなのか誰が知っていよう。それは幻想の国なのだと、僕は思う。そしてそこから、彼女は毎朝かえってくるのだ。彼女の若々しい新鮮さはそこからくるのだ。彼女はいかにも若々しく、しかも、いかにも成熟しきったように見える。それはあたかも、自然が、やさしく豊かな母親のように、いまこの瞬間に彼女をその手からとき放ったばかりのように思えるほどである。」
これはもちろん、少女一般についても言えることであるから、キルケゴールがレギーネを愛しただけでなく、少女一般を愛していたと言うこともできる。しかし、「婚約を解消して広汎な可能性がひらけると、かなりの女のことを、つまり、どれだけ多くの女のことでも、心配してやれるのだ」のようなテキストは、むしろ説得力を欠いて疑わしい。
キルケゴールとレギーネの愛の形式は確かに独特なものであった。それは「心の奥深く立ちこめている永遠の夜」と表象される青年キルケゴール自身の、深い憂鬱という特性を考えてもただちに想像し得ることだ。キルケゴールは半ば意識的に、ほとんど不可避のものとして、2人の当面の関係を極めてプラトニックな、反省的なもの―中性的なものに保とうとした。
「蝿たたきで叩きまわっているような恋人たちの接吻の音」「1ぱいのシャンパンを享楽するのと同じように、あわだつ瞬間に、若い娘を享楽する」ようなやり方は到底できなかった。「彼女の心は情熱的で非凡なものに対する欲求」をもっていたから、「彼女は自由でなければならない」「彼女が重い物体のごとく落ちてくるのでなく、精神が精神に引き寄せられるような仕方で腕の中に落ちてくるような」「自由の独特な遊戯」でなくてはならなかった。このことに関わって、キルケゴール自身充分意識していた1つの事柄を指摘することができる。 
11 自愛
「私がただひとりを愛しているということは、夜の静寂(しじま)にしか洩らしてはならない秘密である。夜の静寂にもけっして繰り返してはならない秘密なのだ。だから、私にこの告白を強いるものは、災いあれだ。」(『日記』のための手稿)この秘密は、つづく欄外の補足「ついに彼自身が、ナルキッソスと同じように〔自分自身〕に惚れ込んでしまった」によって、彼自身の自愛<ナルシシズム>であることがわかる。
「あなたのお兄さんはきのう、わたしがいつもわたしの靴屋のことや、わたしの果物屋のことや、わたしの辻馬車の馭者のことなどしか話さない、といって非難されました。それはわたしが特に好んで第1人称の所有代名詞を使うのを咎めておられるようでした。」(レギーネ宛て書簡)「ぼくはぼく自身への恋におぼれている、と人びとはぼくのことを言います。」(『日記』)
(ナルキッソスは残酷にもエコーの愛に心をとめなかった。彼女は悲しみのあまり死んであとに声だけが残った。そのように少女の愛はいく分かは「雲を抱く」ような空しいものになる契機をはらんでいた。
<ぼくは彼女を捨てるだろう>確信にみちたナルキッソスのコトバ。そのコトバは文字通り厳密に実現された。さらにこのコトバはより具体的には次のように表記される。「娘がひとたび身をささげつくしたならば、すべては終わりである。」(『日記』) 
12 処女性
コーデリアと婚約した誘惑者ヨハンネスの心そそる計画「一方では婚約を破棄してコーデリアとの関係をいっそう美しく、いっそう意味深いものとすることができるように手はずをととのえ、他方では時をできるだけうまく利用して、自然からめぐみ与えられた彼女のあらゆる優美さ、あらゆる愛らしさを楽しむようにすること。やがてぼくが彼女に愛するとはいかなることか、ぼくを愛するとはいかなることかを学び知らせることができたあかつきには、婚約は不完全な形式として破れ、彼女はぼくのものになる。」
反省的誘惑者ヨハンネスはこのような独特の恋愛の美的段階を楽しんだのち、その深奥の果実を味わいつくして捨てる。だが、キルケゴールがこの作品を「彼女を突き放すことのために」「子を乳離れさせようとする母親がその乳房を黒く染めるような」悲痛な目的をもって書いたことを忘れてはなるまい。
キルケゴール自身の中に、処女性に対する強い憧憬のあったことは確かだ。「女性が他者のための存在として特徴づけられるのは、純粋な処女性によってである。処女性とは、すなわち、自分のための存在であるかぎりはじつは1つの抽象物であるが、他者のために存在する場合にのみ自己をあらわすような存在である。」
「瞬間がこの場合このように無限な意味をもってくる。その瞬間がくるまでに長い時間がかかる場合もあれば、短い時間で足りることもあるが、その瞬間がくるやいなや、もともと他者のための存在であったものが、相対的な存在の形をとるにいたり、それによって他者のための存在は終わってしまう。」
(この規定を裏返しにすれば、「女性が他者のための存在でないとすれば、処女性は単なる抽象である」という結論がただちに引き出される。ヘーゲルの用語によれば、他者のための存在とは、物一般、あるいは労働者その他使役されるものである。これに対し、キルケゴールは、女性という存在がある点を境にまったく対極的な2つの区間に分割されるとし、この分割点にはある超時間的なものが現れると考えている。) 
13 絶対的冷淡さ
キルケゴールにあっては、処女性とはこのように絶対的なものであった。「もしこの他者のための存在が、そのための存在である他の存在との関係において、自己のための存在であろうと試みる場合には、その矛盾は絶対的な冷淡さとなってあらわれる。絶対的献身の正反対は絶対的冷淡さであり、これは抽象的存在(処女膜のこと)とは逆の意味で、目に見えぬものである」
この平板な概念的記述の中に、私達はこの不幸な愛の真相を解く1つの手がかりを得ることができる。それは、「目に見えないもの」であるために、明らかには表現され得ない。だから、「誘惑者の日記」の中の何処を探しても、これにあたるものを見出すことはできないだろう。しかし、たった1つ、決定的な記述が存在する。それもたった1行。
ぼくのコーデリア 抱擁とは、戦いのことなのでしょうか?
あなたのヨハンネス
愛し合う2つのナイーブな魂が抱擁しあうとき、もしそれが戦いであったとすれば、そこには、目に見えぬ何かが介在していなくてはならない。2人は目に見えない何か、2人を決定的に隔てる何かがあるために、自分達の意に反して(見かけ上)争うことになるのだ。それを突き破ろうとする試みは、空しく、そして荒々しいものになる。キルケゴールは、この「自己が自己のための存在であろうとする矛盾」を「目に見えないもの」と表現することによって、それが外的な要因に関わるものであることを示唆している。
少女の周辺に存在する目に見えないものとは、少女の処女性をめぐるある危機に際し、防御的あるいは対抗的に形成されると考えられる。つまり、1人の少女における近接的占有の危機(これは一般にはまず少女にもっとも近い男性である父によってもたらされるであろう)とそれに対する反発の作用によって、少女の表層に硬質の透明なバリアーが形成され、それがまた、少女に独特の完成した印象を与えることになる、と言うことができよう。
それは既婚の女性に見られる冷却した表情とは異なり、少女に透明な反射作用と、ある種の冒し難い気品、高過ぎる値札の付いた商品を前にして思わず後退してしまうときの畏怖にも近いものを与える。このようにして最初の脅威あるいは危機に反応して、少女は目に見えない武装を、自分自身にも気付かれることなく身に帯びるのである。 
14 父娘の関係
私はここでまだ証明されていない1つの仮説を提出しよう。つまり、「父なるものの映像が少女に深く埋め込まれているときには、少女は同年の彼女に相応しい対象ではなく、自分よりはるかに年上の男性にかえって自然な恋愛感情を抱くようになる(傾向がある)」というものである。少なくとも、ある少女が自分よりずっと年長の男性を慕うようになるときには、彼女の父のイメージがその最初の隠れた動因になっているということは、納得されるであろう。
これを認めるとすれば私達のケースにも直ちに適用することができる。事実キルケゴールとレギーネは10も歳が離れているのだ。そこで、「レギーネ・オルセンには彼女の父の心理的影響が濃厚に存在する」としよう。とすれば、キルケゴールは彼女の父と一種のライバル関係にあることになり、またそう仮定すると容易に理解される様々な事実が存在する。
「彼女に対する私の関係」に収録されたレギーネに宛てた書簡。レギーネが15歳で堅信礼を受けた折のものである。「あなたはこの間わたしを訪ねてこられたとき、お父さんから堅信礼のお祝いに鈴蘭香水を1壜贈っていただいたと言いましたね。あなたはわたしがそれを聞いてはいなかったと思ったかもしれません。。。ところがそうではないのです。けっして。」といって、彼自身も香水を送ろうとしていることを告げる。
「あなたがこの瞬間に(あなたが出かける直前に)香水を受け取られるということは、あなたもまたこの瞬間の無限性を知っておられることを、わたしが知っているからなのです。間に合ってほしいものです。急いでおくれ、わたしの使いの者よ!急いでおくれ、わたしの思いよ!そしてわたしのレギーネよ、ちょっと一瞬間待っておくれ!一瞬間だけたちどまっていておくれ!」
(この急きこみ方は尋常ではない。「この瞬間の無限性」というコトバは、出かける直前という単なる時刻を指し示したものとしてはあまりに大げさに過ぎるのではないか?)
この手紙の冒頭に1つの短詩がそえられている。
わたしのレギーネ、苦痛は終わる、冗談と同じに、夜と同じに、知らないうちに。 
15 魅惑的な場面
これは確かに非常に interesant な(興味ある)ものだ。この詩はドイツ語で書かれていて、誰の詩であるかはわからない。キルケゴール自身が書いた可能性はもちろんある。「苦痛は終わる。/ 冗談と同じに、/ 夜と同じに、/ 知らないうちに。」これは何だろう?もっとも当たり前に解釈すれば、これはあの、いわゆる「初体験」と呼ばれるものを指していると取ることが可能である。だが、この詩をそのようなものと解釈すれば、この手紙の内容は全体として極めて容易ならぬ問題について書かれているということになる。
キルケゴールは「どのような場所と時間がもっとも魅惑的なものとみなされるべきか」という設問を立て、「それは結婚式、それもとくに一定の瞬間、花嫁衣裳を身につけて花嫁が新郎に身をゆだねる瞬間、「謎が解ける前に涙が震えるとき」と答えている。「(この瞬間において)何かが欠けても、ことに主要な矛盾の1つが欠けても、この場面はたちまち魅惑的なものの1部を失ってしまう。」
続けてもう1つの「魅惑的な場面」が描かれる。「有名な銅版画がある。そこには1人の懺悔者が描かれている。彼女はあまりにも幼なく、あまりにも無邪気に見えるので、彼女はいったい懺悔すべきどういうことをもっているのだろうかと、その少女のためにも、聴罪師のためにも、当惑をおぼえるくらいである。彼女はヴェールを少しあげて、何かを、のちにはおそらく彼女に懺悔の動機をあたえることになるようなものを、探してでもいるように外の世界をながめている。」「もしぼくがその背景に置かれたとしても、この少女にさえ異存がなければ、ぼくにはなにも異存はありはしない。」
1849年、レギーネの父商事顧問官オルセンが死んだあと、キルケゴールは長く決着のつかないこの事件の(宗教的な意味での)きまりをつけるために、レギーネの夫となったシュレーゲル宛ての手紙に、レギーネに書いた手紙を同封する。その手紙のいくつかの下書きには、この事件にレギーネの父が深く関与していることを示唆する個所が見える。これらの記述から推量されることは、キルケゴールのレギーネの処女性に関する疑いであり、レギーネとその父との間に何か重大な秘密が存在しているという疑念である。
これはキルケゴールを深い恐れと猜疑の深淵に陥とし込んだ。このキルケゴールの疑惑の内容が事実であったかどうか、ということは必ずしも重要な問題ではない。どちらにしても結果はまったく同じであったであろうから。キルケゴールがこの疑惑を、神の前で自分に負わされた巨大な責め苦と感じ、恐れおののき、スープ皿で泳ぐ蝿のように絶望しながら、なおそれからひと揺るぎも身を引かず、巨人のように耐え、そこから彼の一切の思想的行動を非妥協的に展開していったところに、この事件の重大さ、隠された恩寵の深さが存在している。 
16 倫理が効力を失う場所
「本符はいかなる罪をもあがなうものなり。たとえ処女なる母に暴行しようとも」と免罪符に書かれているということを彼は22歳のとき父の口から聞き、大きな衝撃を受けた。2年後に始めてこのときのことを記したノートにはこう書かれている。「うっかり口をすべらせて語った言葉は、人を麻痺させる蛇のような眼つきで、子供達を一種の精神的無能力、悪の王国へと至らしめる機会を与える働きをする。」(「日誌」)
彼の父は神の呪いから自分もその家族も逃れ得ないと考えていた。(この父の秘密を知ったことが、キルケゴールの内面の闇を底知れぬものにしている。父の事業における成功によってもたらされた莫大な富は、それ自体神の呪いに他ならなかった。)
宗教的なある段階、つまり高次に地上から乖離した段階にあっては、倫理的なものはもはや場所を持たない。そのことの証明を彼は「おそれとおののき」の中でアブラハムの逸話を借りて執拗に追求している。キルケゴールは確かに恐るべき地点に立っていた。何人もかつてこのような場所に、このように長く踏みとどまったことはなかった。
彼は神の直前にいた。そして、無限に隔たっていた。そこには白いスベスベした巨大な壁が垂直に立ち塞がっていた。これがキルケゴールの見出した神への入り口―絶対的背理<神の背中>である。彼はそれに触れた。あるいは押したかもしれない。あるいは熱烈に叩いたことすらあっただろう。だが、入り口は現れなかった。
ここが私達の始めた探求のほぼ終点である。キルケゴールはこの場所にもう一度自分の生身の身体をたずさえて自分の足で来ることはないことを知っている。ここは、春や秋の遠足で来られるようなところではなく、年老いてからもう一度行ってみることのできるような場所でもない。ここに来るための鉄道に乗るためには、何処へ向かっているのかということも、何を燃料として走っているかも、何を見るのかということさえも――何1つ、この鉄道に関する知識を持っていないことが必要なのだ。
「ひとは2度と同じ流れを渡ることはできない。」
キルケゴールは「おそれとおののき」の末尾にこのヘラクレイトスのコトバを引いて、そのことを確認する。
いつまでも――あなたの――もとにいさせて――くだされば――たとえ――小さな戸棚の中に――住まねば――ならないのであっても――わたくしは――たとえ――小さな――戸棚の中に――戸棚の中――戸棚の――いつまでも――
さて、私達は再び私達の安楽な寝床に戻って夢のつづきを始めよう。女が私の箱から煙草を1本抜き取るところであったか?それとも私の指先からすばやく吸いさしを奪ったのであったか――? 
 
キルケゴールの言葉

 

自分自身を忘れるという、もっとも危険なことが世間では、いとも簡単になされている
冬の夜更け、彼はよく、明かりをつけた幾つかの部屋を歩き回っていた。どの部屋にもインクとペンが用意され、考えが浮かぶと、歩みを止めて書きつけたという。
「世界中で最も多量のインクを使った人」といわれるセーレン・キルケゴールは、人生の根本問題に、深刻に取り組んだ哲学者だった。
1813年、キルケゴールは7人きょうだいの末子として、デンマークの首都・コペンハーゲンに生まれた。22になるまでに、5人の兄や姉が死に、母親も他界する。家庭は暗い空気に包まれた。
父の勧めで彼は、コペンハーゲンの北方、自然豊かな北シェランへ、約2ヵ月の旅に出る。そこで、生涯の核心となる思想を抱いた。「ギーレライエの手記」と呼ばれる日記が残っている。
私に欠けているのは、私は何をなすべきか、ということについて私自身に決心がつかないでいることなのだ。(略)  私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などをさがし出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう。哲学者たちのうちたてた諸体系をあれこれと研究し、求められればそれについて評論を書き、それぞれの体系内に見られる不整合な点を指摘しえたにしたところで、何の役に立とう
このころ、デンマークでは、ヘーゲルらの哲学が流行していた。そこには、いかめしい体系はあっても、肝心な自己の生き方が抜け落ちている。キルケゴールは、彼らの哲学を拒絶し、「自分がそのために生き、そのために死ねる真理」を探そう、と思ったのだ。
そんな彼の前に現れたのが、レギーネ・オルセンだった。たちまち、彼女の美貌に魅了され、27歳で婚約する。だが、約1年後、約束を一方的に破棄している。
レギーネに出会って、彼は〈この世に舞い戻っ〉た。しかし、恋する人を得ても、大事な問題は未解決のまま。
たとえ全世界を征服し、獲得したとしても、自己自身を見失ったならば、なんの益があろうか
と、当時の日記に書いている。 
実存への3段階
キルケゴールは以後、執筆活動に没頭していく。『あれか―――これか』『哲学的断片』『人生行路の諸段階』などを次々と出版。人間の真の生き方に到達する道を、3段階に分けて考え、記している。
第1は、欲望のままに快楽を追う「美的段階」である。しかし、有限な人間に無限の欲は満たせない。一時満たされても、やがて倦怠やむなしさに襲われ、絶望してしまう。
快楽では真の幸福は得られぬと気づいた人は、良心に目覚め、欲を抑え、道徳的に生きようとする。第2の「倫理的段階」だ。
しかし、不完全な人間に、完全な善は遂行できない。真剣に善に向かうと、良心の働きが鋭敏になり、これまで見過ごしてきた自分の悪が我慢できなくなる。真面目になるほど罪悪感が深まり、またもや絶望するほかないのである。
では、この絶望から、どうしたら救われるのか。
人間を超越した絶対者の力によるしかない、と彼は考えた。第3の「宗教的段階」である。有限な人間の内側を探しても、無限の絶対者は存在しない。だから、救済は信仰の決定的飛躍によってのみ得られると確信する。
西欧で生まれ育ったキルケゴールにとって、「信仰」とは、キリスト教であった。
彼は、聖書の記述を疑わないように努力した。例え話や冗談として扱わず、まともに受け止めようとしたのである。
比喩や象徴的に解釈する周囲の者を容赦なく非難し、腐敗した教会へも、妥協を許さぬ攻撃を加え、自身は、熱烈に「信仰」を探し求めていく。 
絶望からの解放求めて
しかし彼は最後まで、キリスト教を信じ切れなかった。
著作を偽名で出版し、真の信仰者でない自分が、キリスト教の書物を、
わたし自身の名で出版する権利などあるはずがない
と日記につづった。そして、
キリスト教はどこにもない
と絶望の叫びを残している。
教会攻撃の最中、彼は路上で昏倒する。病院に運び込まれた40日後、牧師を拒んだまま、42歳の生涯を閉じたのだった。真の救済を宗教に求めた彼が、死の床で友人に告げた言葉は、
僕は祈る。死にのぞんで、絶望から解放させてもらえるように
であったという。
キルケゴールは生前、自分自身を忘れるという、もっとも危険なことが世間では、いとも簡単になされていると、『死に至る病』で警告した。続けて、
どのような喪失にしろ、これほど平静にすまされることはないもので、ほかのものなら何を喪失しても、腕1本、足1本、金5ターレル、妻、そのほか何を失っても、ひとはすぐに気づくのである
と書いている。
自己を知る重要性を認識しながらも、彼にそれを知ることは不可能だった。 
 
セーレン・キェルケゴール 諸説 

 

セーレン・キェルケゴール 1 
生涯
1813年5月5日、セーレン・キェルケゴールは、56歳の父ミカエル・キェルケゴールと、45歳の母アンネ・ルンの末子の第七子として、コペンハーゲンに生まれた。父ミカエルは、相当な資産家であったが、西ユトランドにある寒村の貧農の出で、幼少期、寒さと飢えに苦しみながら生活していた。その頃、彼は絶望に駆られ、激しく神を呪ったことがある。母のアンネは後妻で、結婚の5ヶ月後には第1子を生んだ。つまり結婚前にすでにミカエルの子を宿していたのである。この不貞と12歳のときに神を呪ったことが、敬虔なキリスト者であったミカエルを一生涯悩ませることとなった。ミカエルは子供たちに、異常とも言えるほど厳格に宗教教育を行った。神に呪われた人間であるという自覚から、神の祝福を信じきることができない父の憂愁は、幼いセーレンに深く刻み込まれ、キェルケゴールはその憂愁を受け継いでしまう。後にキェルケゴールは「私は生まれたときから老人であった」と自らの幼児期を追憶している。
キェルケゴールは1830年コペンハーゲン大学神学部に入学する。入学後2、3年間のことははあまり知られていないが、彼は徐々に神学から離れていく傾向にあったようだ。普通なら、1835年に神学の最終試験を受けることになっていたのだが、彼は1835年の夏の間、保養地ギーレライエにこもる。この地で、彼は8月1日付けの日記に「実存宣言」ともいわれる次の手記を記す。 
「私に欠けているものは、私は何をなすべきかということについて、私自身に決心がつかないでいることなのだ。つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが問題なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。真理とはイデーのために生きることでなくて何であろう。人は他の何ものを知るよりも先に、自己自身を知ることを学ばなければならない。さあ賽は投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!」
しかし、このような決意の後、おそらく1835年の秋、彼が手記の中で「大地震」と名づけた深刻な衝撃が彼を襲った。彼の手記の主要な一節は次のようになっている。
「大地震が起こったのはその時であった。それはすべての現象に対する一つの新しい誤りのない解釈の法則を、突如として私に強いる恐るべき大変動であった。私の父の長生きは神の祝福ではなく、むしろ呪いであり、私たち家族の卓越した知的能力は互いに苦悩を与え合うためにのみ存在しているのではないかと思い始めた。私は、父が、私たちの誰よりも長生きせねばならない不幸な人であり、父自身のあらゆる希望の墓の上にたてられた十字架であることを知り、死の沈黙が私のまわりに迫ってくるのが感じられた。神の罰が全家族にふりかかるにちがいない。」
この「大地震」とはキェルケゴールが感じた決定的な死期の切迫と恐怖であることは間違いない。彼には七人の兄弟がいたが、1834年末にはセーレン自身と兄ペーターの二人が生存するのみであった。母もまた1834年に死んでいる。キェルケゴールにとって、この異常な数の死亡者は「誤りのない解釈の法則」つまり、神によって家族全員が抹消され、唯一父のみが長生きし、老後の孤独を罰として与えられるということの証拠であった。彼は亡くなった兄弟たちが34歳以上生き永らえなかったことから、自分の達しうる最高年齢が34歳であろうと信じていた。その結果彼は信仰に愛想をつかし、彼自身が「破滅の道」と呼ぶような快楽主義的生活に耽溺する。しかしながら、1838年には恩師メーラーとの出会いもあり、再びキリスト教に接近し、長らく険悪な関係にあった家族と和解した。1840年には、神学の最終試験に合格し、10年に及ぶ大学生活を終えた。
1840年最終試験をパスした後キルケゴールは、1837年に出会って以来、好意を寄せていたレギーネ・オルセンに近づき、その年の9月8日に婚約を申し出、9月10日にはその承諾を得た。しかし、その翌日には後悔している。レギーネへの愛が冷めたのではなく、深みを増す程に、彼は自分の憂愁、死期の切迫、過去の放蕩(彼は1836年に、娼家で純潔を失っている)などが、彼女を不幸にするのではないかと危惧したのである。逡巡の末、彼は1841年、婚約破棄の手紙を送る。レギーネは彼を手放そうとはしなかったが、キェルケゴールは彼女を突き放した、<恐怖の期間>と彼が称する二ヶ月間の末、レギーネとの関係を断ち切った。
レギーネとの別離の後、彼は猛烈な勢いで著作活動を行う。しかし別離してもなおレギーネを愛していた。彼の前期の著作は全て「私のただ一人の読者」レギーネに捧げられている。風刺新聞「コルサール」によって公衆からの嘲笑を受け、世間的虚偽に立ち向かうことを決意した彼は、神の前に単独で「例外者」として立つことこそが、キリスト者の真の生であるという考えを強め、国教会とも対立する。彼は最後まで神が主権者であるとし、国家の官吏である牧師から聖餐式を受けることを拒否して、1855年11月11日午後9時、その生涯を閉じた。 
思想
キェルケゴールは三つの段階を人格発展の成長段階と考えていた。その三つとは審美的段階、イロニーによる「飛躍」、倫理的段階、ユーモアによる「飛躍」、そして宗教的段階である。
キェルケゴールは『あれか−これか』で審美的人生か倫理的人生の選択を迫る。本作は二部構成になっており、第一部は審美家Aの手記と誘惑者ヨハンネスの日記からなっており、第二部はAの友人である、中年の判事ウィルヘルムが出したAへの警告の手紙となっている。
審美家にとっては快楽が人生の目的である。享楽的であるためには、恋愛をしても結婚せず、仕事はしても定職を持たずというように、あらゆる世間的なしきたりや人間的義務に縛られてはならない。Aは千三人もの女性を誘惑したドン・ジュアン賛美をし、第七論文『輪作』で快楽の「輪作」を提唱する。Aは全ての人間は退屈であり、「気を紛らすのは人間の宿命である」と仮定し、外的変化を求める「転作」ではなく、自分自身の内的変化による「輪作」によってこそ、永久に享楽的でありえるのだと述べる。第一部は『誘惑者の日記』で終わっている。誘惑者ヨハンネスが、若き娘コーデリアとの恋愛を記している。ヨハンネスは、ドン・ジュアンのように、コーデリアが自分のものとなった直後、彼女を捨てる。『あれか−これか』を含めて、前記の著作者は仮名になっているが、誘惑者の日記には、自分自身を誘惑者として示し、レギーネを突き放そうとするキェルケゴールの、悲痛な思いが含まれている。
倫理的人間にとって、人生の意義は責任と義務を負って生きることにある。定職を持ち、結婚もする。審美的人生は、所詮退屈しのぎの空想による可能性の中での飛翔であり、夢は夢に過ぎないのであって、そこに待っているものは退屈以上に恐ろしい虚無である、一方倫理的人生は現実に足をつけたものである。現実世界に足をつけ、そこで課される義務と責任を引き受けるときにのみ、生は意味のあるものとなる。ウィルヘルムの言うように、快楽を選択する代わりに、自己自身を選択するのが倫理的人生の特徴である。
続く『おそれとおののき』での主題はアブラハムによるイサクの犠牲である。ここでキェルケゴールは宗教的人生観を提示する。信仰の父といわれるアブラハムは、神に、息子イサクを自分に犠牲として捧げるよう命じられる。アブラハムは苦しむが、イサクを捧げる決心をし、イサクと二人でモリヤの山に向かう。三日の行程の後、モリヤの山に着いたアブラハムはイサクを殺そうとする。そのとき、アブラハムは神の声をきく。「その子を殺してはならない。あなたが神を恐れる者であることを私は知った」と。そうして再びイサクを神の贈り物として受け取るのである。このことをキェルケゴールは「宗教的信仰による倫理的なものの目的論的停止」と名づけた。アブラハムは神の前に個別者として立つ宗教的生を生きている。アブラハムが信仰によりイサクを取り戻したように、キェルケゴールは信仰によるレギーネとの愛の受け取りなおしの可能性を信じて『反復』を書いた。しかしレギーネの婚約の報によって、反復は不可能となる。
1845年『人生行路の諸段階』によって、宗教的段階に移行しつつある自分の状態を著した。五人の人々が、酒の席でおのおの恋愛について語る「饗宴」の形式をとっており、第三部クイダムという男が語る『責めありや?責めなしや?』に重点がおかれている。これはかつてのレギーネ体験を冷静に反省したものであるが、ここには神を信じたいが信じきれず、苦悩するキェルケゴールの姿がある。クイダムは、宗教的人生に移行しようとするユーモアの段階にいる。
1846年『非学問的あとがき』を書いて初めて、キェルケゴールあは今日の「実存的真理概念」とも呼ばれる、「主体性が真理である」という考えに到達する。彼はキリスト教の背理性にも言及する。普遍的人間的なもの、たとえば古代ギリシャの宗教を宗教性Aとし、キリスト教を宗教性Bとした。Bは非人間的である。なぜなら、死後の生への専念を要求するからである。キリスト教の思想は理性によって認識できない。キェルケゴールはテルトゥリアヌスの言う「不条理なるが故に我信ず」という逆説を推敲したのである。
1849年に刊行された『死にいたる病』とは絶望のことである。彼は絶望していない人間などおらず、絶望していないと思っていること自体が絶望なのだと述べ、絶望を、理念的また意識的諸形態に分類する。絶望は「自己自身に関係し、自己が自己を措定した力を見失い、自我の殻にしがみつこうとする」ものである。第二部では絶望は罪であるとまで言われている。絶望の罪は神の前で絶望して自分自身であろうと欲する、あるいは欲しないという意志の意識にある。そのことがわかったならば、絶望を取り除くことができるはずであり、、そのような立場こそ信仰の立場であると本書は述べる。次の著作『キリスト教の修練』では信仰により絶望を除去された、信仰者とは、どうあるべきなのかを論じ、堕落した当時の教会を非難した。
キェルケゴールは後の実存主義に多大なる影響を与え、ハイデッガー、ヤスパース、サルトル、カミュなどの著作は彼の思想なしには存在しえなかっただろう。 
セーレン・キェルケゴール 2 
デンマークの哲学者。実存主義哲学に大きな影響を与えた。コペンハーゲンで富裕な商人の子として生まれ、コペンハーゲン大学で神学と哲学を学んだ。この時期にヘーゲル哲学を知り強く反発。レギーネ・オルセンとの婚約と破棄の体験から思想的に大きな影響を受け思索・著作に専念し数多くの著書を残す。1855年10月に路上で倒れ翌11月に没した。彼は最高の真理は主観的であり合理的客観的な説明を拒むと考え、体系的哲学は人間の実存に関する考えを誤らせると唱えた。また、個人を自己選択により自ら構築するもので普遍的基準で決定できないものと捉えている。「あれかこれか」で自己選択を美的段階・倫理的段階の二段階とし、前者では退屈と絶望に直面して後者へと達するとしている。更に「人生行路の諸段階」などでは宗教的段階を提起し、絶対者(神)の意志に全面的に服従する事で宗教的生活に至り真の自由を得る事ができると述べている。デンマーク国教会を始めとする当時の欧州社会を堕落したと考え、「死に至る病」では苦悩が真の信仰の本質であると強調し「現代の批判」では現代は価値が量でのみ判断されると非難している。
キルケゴールは富裕な商人の家庭に生まれました。父親が若い時に神を呪った事に起因する強い罪悪感とそれにともなう宗教心を抱いており、キルケゴール自身もその父親から厳しい教育を受け大きな影響を受ける事になります。学生時代にはそうした父親への反発から奔放な生活に傾倒した事もあるようですが、後年にはそれが父親が抱いたのと同様な罪悪感として宗教的傾向を後押しするようになったようです。「偉大なるダメ人間シリーズ」でも述べているので余り立ち入った記述は避けますが、この時期にレギーネとの婚約とその破綻などを通じて思索を深めていったともいわれています。
さて、キルケゴールは生涯公職に就く事はありませんでした。生活については、父親が残した遺産が二万クローネ以上にわたっており収入がなくとも食っていくには困らなかったようです。一度は牧師になる事も考えたようですが、神への信仰・服従を唱える一方で教会の堕落を弾劾するようになり不可能になりました。また、レギーネをめぐる騒動が新聞で揶揄された事を切っ掛けに新聞とも激しく対立・論争を繰り広げており、これも大きな精神的負担となったと思われます。
元来が鋭敏な感受性を持って生まれてきたところに、父親から厭世的な価値観を植え付けられ、あげくに悲恋やら誹謗中傷やらでいよいよ社会への適合を失っていったと言う事でしょうか。父親から厭世観を受け継いだ一方で、商才は受け継いでいなかったようです。遺産が残っていなかったら野垂れ死にしてそうですね。まあ、父親によって歪められたと言えなくもない事を考えると、それくらいは息子のために計らってやって然るべきだとは思いますが。
キルケゴールは鋭敏な感受性と聡明な頭脳を持ち合わせていながら、社会活動でも恋愛でも不適合者とならざるを得ませんでした。彼が哲学者と言う事を考えると、例によって例の如くというべきなんでしょうか。しかし、「軽度のロリコン」「重度のメイドマニア」に続いて「ニート」とこれで三冠王です、彼は。 
 

 

■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。