西洋文明 雑話 [6] (近代・科学)

種の起源人間の進歩進化フロイト1夢分析2夢判断3夢判断4自我とエス5狼男6制止/症状/不安7ナルシシズム8自我と防衛9快感原則10抑圧フロイトと精神分析ダヴィンチの禿鷹空想夢判断/寺田放射線と科学者ベクレルキュリー山田延男ラザフォード放射線雑話アインシュタイン1アインシュタイン2アインシュタインの教育観・・・
相対性理論・諸説 / 理論への疑念理論の誤り1理論の誤り2ビッグバン宇宙やブラックホールは正しいか理論理解の誤り相対性理論と実用性理論の誤り3理論の誤り4GPSと相対性理論GPS原子時計と相対性理論重力場相対性原理側面観理論の誤り5・・・
 

雑学の世界・補考   

種の起源

種の起源 / ダーウィンの発見
チャールズ・ダーウィンの「種の起源」は省略化され、一般的に知られている書名です。正式な書名は、「自然選択に基づく種の起源(On the Origin of Species by Means of Natural Selection)」および、「生存競争で恵まれた品種の保存(the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life)」から由来しています。イギリスの自然主義者、チャールズ・ダーウィン(1809-1882年)は1842年、(彼の運命的な5年間にわたるビーグル号の船旅から戻ったちょうど6年後)に種の起源を書き始めました。1859年に出版した「種の起源」は、チャールズ・ライエル著作の「地質学の原理(第三巻に及ぶ:1830-1833年)」および、トーマス・マルサス著作の「人口論」(1798年)が多大な影響を与えています。
種の起源 / 自然選択説
チャールズ・ダーウィンは「種の起源」の中で自然選択説の概念を紹介しています。そのしくみは、良性の遺伝子変異を保存し、蓄積するという概念から成り立っています。例えば、ある種の生物が羽を生やし、飛ぶ機能を発達させたとしましょう。その子孫は、その能力を引き継いで、またその子孫へ遺伝を引き渡します。自然選択説はより優れた能力を持ち、生存競争に生き延びる個体が種として残ってゆくと定めています。何世紀もの間、人間は家畜や植物などの交配(ブリード)で劇的な変化をもたらしてきました。徐々に、不利益な特色を抑制し、望ましい特色の遺伝子を保存および蓄積してきたのです。自然選択説と人口によるブリーダーとの違いは、ヒトが良性遺伝の保存を操作するのか、自然がそれを選択するのかの違いです。
ダーウィンのたどり着いた結論は、彼の鋭い観察にしては不完全なものでした。彼は自然淘汰がすべての生物人口の進化とバリエーションを説明できると考えていました。さらにそのバリエーションには最終的にすべての種が帰化するもとの先祖があると、次のように結論付けています。「観察可能で似た特性から、すべての生物は一つの大きな家族ということが確信できる」1 ダーウィニストは現在の生物の先祖は非生物から進化したと論じています。 鳥、バナナ、魚、花などの生物が非生命体から進化したという考えは1800年代ではもっともらしく思えたかもしれません。当時の生物学は初期の段階で、生命の細胞は一滴の原形質だとしか考えられていませんでした。その頃はグレガー・メンデル(1822-1884年)が遺伝のコンセプトの研究を始め、1850年後半にルイス・パスツール(1822-1895年)は自然発生論の誤りに対し論駁しようと試みています。これらの科学者の研究(ダーウィンの進化論の反対者)や過去50年間にわたる生物学、生化学、および遺伝学の物凄い進歩により、ダーウィンの理論はすべてが正しくないことは明確です。例えば、遺伝子のバリアが存在することが確証されました(よって、豚は飛ぶことができない)。種の中で性質の違いがあることは確かです(異なる肌の色合い、顔の特徴、髪質など)。大きく、毛の長い犬もあれば、小さく毛の短い犬もいます。しかし、如何なる種類の犬でも犬以外は産みません。鳥とバナナは遠戚ではありません!自然発生のメカニズムは科学的に証明されていますし、確実なことは、ある自然発生は化学的な規制で不可能だということす。
種の起源 / ヘンズロー教授の助言
ダーウィンの理論、「種の起源」の背景にはジョン・スティーブンス・ヘンズロー教授(1796-1861)の重要な助言があったことを忘れてはなりません。ヘンズロー教授はケンブリッジ大学のダーウィンの教授のひとりでした。事実上、あのビーグル号の船長、ロバート・フィツロイ(1805-1865年)にダーウィンを紹介したのも、ヘンズロー教授でした。チャールズは航海前に、ヘンズロー教授からチャールズ・ライエル(1797-1875)著作の「地質学原理」を勉強することを進められています。ヘンズロー教授は「事実のために必ずそれを読みなさい、ただし、野蛮な理論を決して信じなように。」と助言しています。2
【脚注】
1 Charles Darwin, On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, 1859, p. 109.
2 Richard Milner, The Encyclopedia of Evolution, p.286.  
ダーウィン進化論 / 前提
ダーウィン進化論は、すべての生物 ・鳥、バナナ、魚や花などには、関連付けられる先祖(common ancestor)があるとして幅広く受け入れられている理論です。ダーウィンの基本的理論は、生命は非生命体から発生、発達、および純粋な自然主義の強調(突然異変)を前提にしています。つまり、より複雑で高度な生物でもより単純な組織体から進化する、ようするに新しい種は遺伝子の突然変異から発生しより優れた変異が維持され(自然選択説として知られている)これらの良性変異は次世代に継がれると提示しているのです。さらに長い年月をかけ、良性変異は蓄積し、全く異なった種の生物となります。(オリジナルの変形体ではなく、完全に異なった生物になる。)
ダーウィン進化論 / 自然選択説
ダーウィン進化論は比較的新しい原型であるのに対し、進化論の世界観自体はアンティークのように古い概念です。アナクシマンドロスなどの古代ギリシャの哲学者は非生命体が進化し動物へ、そして人類に進化したと仮定しています。その後、チャールズ・ダーウィンの「自然選択」のメカニズム説が登場しました。このメカニズムは、良性の遺伝子変異を保存して蓄積するという概念から成り立っています。例えば、ある種の生物に羽が出て飛ぶことができるようになりました。するとその子孫は同じ遺伝子を引き継いで行きます。劣等の遺伝子を持った子孫は途絶え優れた遺伝子をもった子孫は繁殖し、生存競争に生き延びる要素を備えたものだけが生き延びると言う説が自然選択説です。自然選択説は自然に従っての繁殖から人工的に良い品種を作るブリーダーのようなものです。何世紀もの間、人間は家畜や植物などの交配(ブリード)で劇的な変化をもたらしてきました。ブリーダーは徐々に望ましくない特色を取り除きます。自然選択説も同じ様に劣ったものは排除されると定義しているのです。
ダーウィン進化論 / ゆっくりだが確実に…
ダーウィンの説く進化論はゆっくりとした気の遠くなるような過程です。ダーウィンは次のように書いています:「自然淘汰は、わずかな継続した良性異変を利用することによって作用する。これは、突然、短時間で起きることはなく、ゆっくりと長い年月を掛けたプロセスである。」1 よってダーウィンは、「もし、自然淘汰が種の起源でないとしたら私の理論は成り立たない」と認めています。2 このような複雑な器官は「還元出来ない複雑さを持つシステム(irreducibly complex system)」と呼ばれています。このシステムは複数の欠かせない要素から成り立ち、一部分が欠けただけで全部の働きが停止するのですべての要素が不可欠です。3 従って、そのようなシステムが1つ1つ徐々に作られたという考えは成り立ちません。一般的にネズミ取りが、非生命的な「還元できない複雑さ」の例として挙げられます。ネズミ取りは5つの要素から成り立っています:1)受器、2)強力なスプリング、3)「ハンマー」と呼ばれる細い棒、4)ハンマーを固定する延べ棒、および、5)土台となるプラットホーム。この中でたった一つの部品でも欠ければ完全に働きません。このようにネズミ捕りのすべての部品が不可欠です。ネズミ取り機は還元できない複雑さを備えているのです。4
ダーウィンの進化論 / 危機に瀕する進化論
ダーウィンの進化論は過去50年間にわたる生物学、生化学、および遺伝子学の物凄い進歩により、正当性が危機に瀕しています。現在私たちは還元できない複雑さを持つシステムが細胞に存在することが解っています。特定された複雑性が顕微鏡の生物学的世界を瀰漫します。分子生物学者のマイケル・デントン氏はこう書いています:「最小のバクテリアの細胞は、重さ10-12グラムでとてつもなく小さいが、それぞれは真にミクロで小型化された工場の生物単位です。各細胞は人類が発明した如何なる機械よりもはるかに複雑で幾千に及ぶ分子機械で設計された1000億に及ぶ原子で成り立っています。非生物界にはこのような生物単位は絶対存在しないと断言できます」。5
そして、この細分化できない複雑性を観察するには顕微鏡を必要としません。ダーウィンの時代には認識されなかった、還元できない複雑性を備えた良い例が目、耳、心臓の働きです。 しかしながらダーウィンがこう認めています:「目の異なった距離に焦点を調整し、光の許容を調節する目の驚くべき装置、および色彩錯乱しないように修正する装置が自然淘汰によって形成されるなどと考えるのは、真にとんでもなく不合理のように思える」。6
【脚注】
1 Charles Darwin, \"On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life,\" 1859, p. 162.
2 Ibid. p. 158.
3 Michael Behe, \"Darwin\'s Black Box,\" 1996.
4 \"Unlocking the Mystery of Life,\" documentary by Illustra Media, 2002.
5 Michael Denton, \"Evolution: A Theory in Crisis,\" 1986, p. 250.
6 Charles Darwin, \"On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life,\" 1859, p. 155.  
DNAニ重らせん / とてつもなく膨大な複雑性の発見
DNAニ重らせんは今までの科学界全体を通して最も偉大な発見の一つであるといえます。1953年、ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックによって、DNAは遺伝子によって物理的物質を形作る生命体の最も重要な分子であると提示されました。2001年の中期になると、ヒトゲノムプロジェクトとセレラ・ジェノミックス社が提携してDNAに内在する本質と複雑性について提示しました。現在人間のDNA分子が3ミリオンの化学物質で綿密に配列されていることは知っています。DNA分子の中の単一細胞であるバクテリアのE.細菌にしてもその中に含まれている情報は世界中の図書館にある最も分厚い本を全部集めた情報より膨大となります。
DNA二重らせん / 基盤
DNA(デオキシリボ核酸)はらせん階段のような渦巻形にねじれた二本鎖の分子です。それぞれの鎖は、対になる糖リン酸塩のバックボーンと多数の塩基から成立しています。鎖のらせん階段の部分はアデニン(A)と、チミン(T)と、シトシン(C)とグアニン(G)の4つの塩基から成立しています。これらの塩基はアルファベットのような役割をもち、単語、文章、および段落などを形成し、細胞の性質と働きを成します。これはコンピューターの「0」や「1」などのバイナリーコード(数字)と比較的似ています。ソフトウェアーからコンピューターへ伝達するように、DNAコードは情報を有機細胞に伝える遺伝子の言語です。
DNAコードはフロッピーデスクの2進コードのように極めて単純に対になって構成されています。しかし高度な複雑性はその機能に依存しているのです。現在、放射性結晶学のような近代技術によって細胞は「一滴の原形質」であるだけではなく、顕微鏡でなければ観察する事の出来ないほど微小でスペースシャトルより精密で複雑な構成です。
このようにDNAコードは驚異的な複雑性を備えていますが、さらに科学者を驚嘆させたのがコードの変換システムでした。どんな言語でも文字や単語は特定の言語の領域内でなければその意味を成さないように、それは近代的情報学説の基盤なのです。単純な2進コードに関しては「ポール・リビアの真夜中のドライブ」を引用する事ができます。有名なこの話の中でミスターリビアは彼の友人に、イギリス人たちが陸から来たならば一本のろうそくに火を燈して北部教会の窓に置き、もし彼らが海から来たならば2本のろうそくに火を燈すようにと依頼しました。ポール・リビアと友人の間に同じ基準となる言語がなければ、この単純な伝達法は意味を成しません。ではこの単純な例と因子を拡大してみましょう。
DNA分子は複雑なメッセージシステムです。DNAが無作為な物質力によって築かれたならば、情報も無作為な物質力によって築かれるはずです。多くの科学者は化学物質が構成される単位は自然的進化のプロセスを通してであると言っています。しかし、材料の情報は完全に個々独立した伝達情報量であることを認識しなければなりません。従って化学物質の単位は複雑なDNA情報の形成とは無関係なのです。例えば、「自然は創造された」という情報がインク、クレヨン、それともペンキで書かれたかは全く問題でないように、情報が2進コードやモールスコード、または符号で書かれたとしても媒体自体は独立していて、含まれている情報の意味は全く変わりなく、情報と伝達材料が無関係であることが理解できます。ある科学者は、最初のDNA分子の中にある自己組織の領域情報は化学物質自体が構成したものであると解釈しています。また他にも外から加わった組織が最初のDNAを形成したという解釈があります。しかし、材料ベースが伝達した、またはそれ自体が情報を構成したという理論は非論理的です。 進化論の遺伝子情報とは相反してDNA分子の科学組織構造は完全に独立しているのです。
DNA二重らせん / 進化論をくつがえす
生命の起源は何もないところに何らかの物質力が加わって発生したと言うDNA二重らせんの科学的解釈仮説は人の力を必要とせずに取り除かれます。 全世界は自然現象で偶発的に“発生”したのでありデザインされたのではないと多くの人々に信じ込ませているのが進化論です。しかし、秩序正しく配置されたDNA分子が発見され、生命の有機体と情報コードが非常に複雑であると知った今、進化論説は否定され、宇宙を司るデザイナーの存在を認識せざるを得ないのです。  
 
人間の進歩・進化

 

要約
チャールズ・ダーウィンとテイヤール・ド・シャルダンは、ともに独自の進化論を唱える中で、「進化の過程にある人間」という存在をみつめた。その視点は、今日の人類にとって急務の課題である地球環境問題に対処するうえで、重要な示唆を与えてくれると考えられる。ダーウィンは、人間の社会−文化的な進化論を通じて、人間の道徳性は、社会性本能と共感能力に起因して進化してきたものだとし、文明の発達を伴うことで、その対象は人間社会にとどまらず、動物界、地球全体にも及ぶものであるとした。また、テイヤールは、宇宙の発生や神の存在をも包含する壮大なキリスト教的進化論を展開する中で、人間は現在、進化という不可逆の流れの中にあり、これまでにたどってきた道筋に散在するあらゆる要因を複雑に絡ませてその歴史を形成してきたとした。彼らはともに、生物界におけるつながりや、人間社会の歴史、宇宙や生命誕生の歴史といった、時間的にも空間的にも広大な流れの中の一点に、現在の人間は置かれているということを教えてくれる。
筆者の研究は、ワシントン条約におけるアフリカゾウの象牙取引に関して、条約会議レベルで決定されたことが、地域社会にどのような影響を及ぼすのか、その相互の関連性を明らかにすることを試みるものである。ワシントン条約は、国際取引の規制のみを行う条約であるが、種を絶滅のおそれから保護するというその目的を達成するためには、取引のみならず、地域社会での保全をめぐる諸問題や国際関係など、他の多くの要因を検討する必要がある。それは、生物界における人間の位置を認識すること、人間や宇宙の歴史の中で今人間はどのような地点にいる存在なのかを自覚することにまで及ぶ。二人の進化論者の「進化の過程にある人間を見つめる目」は、この点において、地球環境問題の解決のために人間が持つべき視点に大いなるヒントを与えてくれるものである。
1.はじめに

 

地球上の生命は、私たち人間は、この先どこへむかうのだろうか。その未来は、一体どのようなものになるのだろうか。19世紀から20世紀の間に活躍した二人の学者、チャールズ・ダーウィンとテイヤール・ド・シャルダンは、それぞれに生命と人間についての進化論を生みだした。二人は自身の論を展開する中で、「進化の過程にある人間」という存在を見つめた。その目に人間の姿はどう映ったのだろう。
現代は、貧困や差別、戦争といった人間社会の問題のほかに、地球の存続と人類の存続というこれまでにないスケールの大問題―地球環境問題が、人々の間で共通に、大きく意識されるようになった時代である。環境問題の解決のために、人間はこのさき一体何をすればよいのか。どのように歩むことが、解決の糸口へとつながるのか。この命題に答えを出すためには、二人の学者が進化論を通じて提示した、進化の過程にある人間、地球やその生命とのつながりやかかわりを持つ存在としての人間を見つめる目が不可欠であるように思う。
本稿では、ダーウィンとシャルダンそれぞれの進化論を概観した後、筆者の研究対象であるワシントン条約における野生生物(おもにアフリカゾウ)の保全を模索する事例から、条約に求められている変化を考察する。そのうえで、こうした地球環境問題を考えるにあたり、二人の視点にどのように学ぶことができるのかに触れてみたい。  
2.ダーウィンの進化論・テイヤールの進化論

 

2−1.『種の起源』に始まるダーウィンの進化論
チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809〜1882)は英国の博物学者であり、大学卒業後、海軍調査船ビーグル号に乗り込み南米のガラパゴス諸島やオーストラリアなどを探検し、数多くの動植物を観察した。そして、その経験と実証の裏づけに基づき古くからみられた生物学上の進化論を体系化し、1859年、かの有名な『種の起源』を発表する。
『種の起源』において展開された自然淘汰説のくわしい説明は本論では省略するが、通説によれば、この著作においてダーウィンは人間の進化を主題とすることはなかったとされている1。キリスト教に端を発する創造説が人々の間で一般的であったヨーロッパ社会において、異端的とも解されない立場ととられることを畏れたダーウィンは、人間の進化について取り立ててまとめることはしなかったものの、種の進化の中に人間の進化が当然含まれることははっきり意識していたといわれている2 。
入江重吉3 によれば、ダーウィンが、そうした人間の進化に関して具体的に論じ始めたのは、1871年発表の『人間の由来』からである。ここで彼は、人間の生物的進化と社会−文化的進化という進化論における二つのレベルを明確に区別しつつ、人間の社会−文化的進化(すなわち道徳性の進化)とは、共感能力と社会性本能に起因するものであり、それすら進化論的に説明できる、つまり動物にまでその由来をたどることができるとしている。ダーウィンは、これを集団淘汰という語を用いて以下のように説明している。「共感は、たがいに助けあい守りあっている動物すべてにとって、きわめて重要なものの一つなので、この感情がどんなに複雑なかたちで起こったとしても、自然淘汰によって強められたであろう。というのは、きわめて共感に満ちた個体が多数集まっているような共同体は、よく栄え、多数の子孫を育てるだろうからである」4。
入江は、こうした理論展開を受けて、「人間の場合、社会性本能は動物と同じくさしあたって同一集団の仲間にのみ限定されていた。ところが、文明の発展に応じて、限定された集団の枠をそのつど乗り越えて、社会性本能や共感が広げられていった」。5とし、その著作の中で人間の道徳性の対象が動物や地球環境につながる可能性を示唆している6。
以上より、ダーウィンは、人間が単に他の動物も含めた一連の生物学的な進化の途上にあるというだけでなく、その道徳性においても同じ過程をたどって進化を続けているということを示している。ここにおいて、人間は、他の動物と切っても切り離せない生物学的なつながりの中に存在しているとともに、自身をとりまく動植物や環境にも目をむけてゆく過程にある存在であると解されているといえる。 
2−2.テイヤールによるキリスト教的進化論
テイヤール・ド・シャルダン(1881〜1955)は、フランスのイエズス会士であるとともに、古生物学者・地質学者でもあり、物理学や化学、哲学にも精通したユニークな人物である。彼は、イエズス会の修練士、教師などを経て中国などアジアでの研究活動に従事し、北京原人の発見などの偉業を成す。そうした中で『現象としての人間』を執筆し、独自のキリスト教的進化論を打ち立てる。
宇宙の発生から、生物発生、人類発生と続く過程は、人類の叡智が確立されることによって頂点へと収斂していくとしたこの壮大な説は、ダーウィンによる進化論という科学的な事象と、キリスト教という思想を結びつけるはたらきをした。テイヤールは、分子などの例を用いて自身の説を詳細に説明しており、クロード・トレモンタン7によれば、「科学という領域、現象というレベルに立って、創造のわざが人類の進化を通じてどのように継続されているか、を教えている」8 とされる。
テイヤールがこの説を述べる中で重視している点の一つに、現在も人間は進化の過程にあり、進化というものの流れは続いており不可逆である、ということがある。また、進化の頂点へとむかっているこれまでの歴史をふりかえって、「ますます断片的になる意識の要素がますます無秩序な不統一状態になって漂うのが望見できる」9として、過去に散在していたさまざまの事象が複雑に絡み合い、集中して現在や未来があるのだとしている。こうした視点に立ち、テイヤールは、現在を生きる人間というものを、不可逆の流れの中で容易にはほどけない、変えることのできない複雑な多数の要因を引きずりながら、ある方向を目指して歩んでいるもの、と解していたのではないか、と考えられる。 
3.ワシントン条約におけるアフリカゾウ論争と地域社会への影響

 

ここまでは、ダーウィンとテイヤール両者の進化論から、それぞれの「進化の過程にある人間を見つめる目」を考察してきたわけだが、筆者の研究においても、人間をそれ単体として捉えるのではなく、何かの流れや他のものとのかかわりの中で捉えることが重要となってくる。以下では、研究の概略を紹介するなかで、その点を明らかにしていく。
筆者の研究は、ワシントン条約におけるアフリカゾウの象牙取引をめぐる条約会議での論争と、地域社会での人間とアフリカゾウとの共存の実態(ゾウの保全・保護やゾウと人との衝突など)という二つの異なる次元における現象について、その相互作用や関連を明らかにすることを試みるものである。その命題は、突き詰めると、人間が野生生物との共存を図ることが不可欠であることを自覚した上で、どのようにしてそれを実践していくのか、そうした未来に向けて人間は何をすべきなのか、という問いとなる。 
3−1.アフリカゾウの減少と象牙の全面輸出禁止をめぐる動向
ワシントン条約10(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)とは、絶滅のおそれのある野生動植物種の国際取引を規制することで、それらを絶滅のおそれから守ることを目的とした国際条約である。
この条約の対象となる野生生物種は、原則として商業取引が禁止される附属書T、ある一定の条件を満たせば商業取引が認められる附属書U、自国において保護したい種について他国に取引規制の協力を求めたいときに掲載する附属書V、の三つの附属書に掲載されたものである。どの附属書にどの種を掲載するかは、二年に一度開催される条約締約国会議において、参加国によって議論されて決まる。そうして、附属書に掲載された種を輸出、輸入、再輸出、海から取得するなど、「取引」するという行為が禁止もしくは制限される。
1973年に条約ができ、1976年に初めての締約国会議が開催されたとき、アフリカゾウは附属書Uに掲載された。アフリカゾウはアフリカ大陸全土に生息していたが、西欧による植民地支配の到来とともに象牙を目当てに大量に殺戮され、北部、西部、中央部では個体群の規模は小さくなっていた。その一方で、東部では保護区でのサファリなど観光資源として重要視されており、南部においても間引きなど計画的な管理の下、豊富な個体群が保たれていた。しかし、1976年には大陸全体で130万頭11いたゾウは、象牙の需要が世界的に高まる中で大規模な密猟にあい、1987年には76万頭12にまで減少する。特に、ケニアやタンザニアなどでは保護区や国立公園内において密猟が急増化し、ゾウの数は激減した13。このことは、これらの国々の観光業にも大打撃を与えた。
こうした事態を受け、アフリカゾウの生息国は、国によって多少の状況の違いはあれ、アフリカゾウという種をいかに絶滅のおそれから守るかについて、締約国会議で全体での合意を形成しようとする。しかし、アフリカゾウという誰もが知る野生動物の顕著な減少があまりにショッキングな事実であったため、過剰反応したアメリカやフランスの動物保護・愛護系のNGOは、ゾウ減少の原因である密猟を引き起こす象牙取引を一切禁止すべき(つまり、すべての国に生息するアフリカゾウを附属書Tに掲載すべき)である、という端的な論理を用いて大規模なキャンペーンを世界中で開始する14。この影響を、アメリカやフランスに始まり、ケニア、タンザニア、西アフリカ諸国などの関連国が受け、そこへさらに政治的な圧力なども加わった結果、アフリカゾウの取引反対派が多数を占めた1989年の締約国会議では、南部アフリカ諸国など、一部の国の個体群が格上げ基準を満たしていないにもかかわらず、全個体群は附属書Tへと掲載されることになった。
その影響は現地においても顕著に現れることとなる。タンザニアにおいては、密猟の取締りがさらに強化され、それまで保護区近辺の村に現れては、村人に金を払い密猟をさせていたバイヤーの姿も見られなくなった。また、各保護区で活動を展開する欧米のNGOにはキャンペーンによる多額の寄付金が入ったため、それらが取締りやゾウの保護活動に充てられ、規制は一層活発になった。生きているゾウから経済的な利益を得る観光業を重視するケニアやタンザニアにとって、アフリカゾウの附属書T掲載は、このように密猟に対抗する手段として期待できるものであった。NGOの働きかけはあったにせよ、ケニアやタンザニアが取引停止を指示したのも、こうした効果を見込んでのことが大きかった。
しかし一方で、地域レベルでは、それまで法規制はあったものの、実質的には放任されていた保護区に隣接する村の住民による生活のための狩猟権までが厳格に制限される結果となり、深刻な問題となる。また、管理政策の成功によりゾウの頭数が安定しており、観光業に加えて、象牙や肉、皮などを資源として利用することで経済的利益を得ることも重視する南部アフリカ諸国では、このことは重大な経済的損失と受け止められた。これらの国々では、野生生物の所有権や利用権を国から地方に委譲し、地域社会が地元の野生生物資源を利用することで貧困解消を狙うなどのプログラムも実施されており、その重要な資金源としての象牙取引が停止されることは大きな痛手であった。こうした事情もあり、1989年の締約国会議では、附属書T掲載基準を明らかに満たしていない国々について、その個体群の格下げを次回以降の会議で検討することが決定された15。 
3−2.象牙の全面輸出禁止措置から取引再開に向けての動向
1989年の全面輸出禁止を受け、ジンバブエ、ボツワナ、ナミビアを中心とした南部アフリカ諸国は、1992〜1997年にかけて開催された三回の締約国会議で、あらためて、各国の状況の違いに応じたより柔軟なアフリカゾウ生息国・関連国による合意形成を目指すべく取り組みを行う16。彼らはまず、それまで曖昧であった附属書の掲載基準を詳細に定めることを会議上で求め、1994年の会議において新しい基準が定められた。次に、その基準に照らし合わせて自国のゾウ個体群が附属書Tではなく附属書Uに掲載されるべきである旨を証明した。さらに、EUの協力のもとで開催された、アフリカ諸国の間で互いの状況についてわかりあうための現地視察を含めたアフリカ諸国会議において、各国の代表者に理解を求めた。
こうした努力の結果、1997年の締約国会議において、象牙取引は会議で認められた場合にのみ実施する、取引相手も会議で認められた国のみとする、象牙の違法取引状況とゾウの違法捕殺状況についてのデータベースをつくり動向をさぐり続けるなど17、多くの条件つきではあるが、ジンバブエ、ボツワナ、ナミビア三ヶ国の個体群が附属書Uへ掲載されることとなった。これを受け、1999年には日本とこの三ヶ国の間で一回限りの象牙取引が実施された。
以後、2000〜2004年にかけては、2000年の会議で南アフリカの個体群が新たに附属書Uに掲載されたものの、依然として、ケニアからは全個体群の附属書Tへ掲載が求められる一方で、南部アフリカ諸国からはさらなる取引実施を求める声があがり、議論は平行線をたどっていた。だがそれも、2007年の会議において、取引反対派、取引推進派両方の意見を汲み取る形で、2008年に新たな象牙取引を一回実施した後は9年間取引を停止する、次々回の会議までに(9年が過ぎた後の)象牙取引実施のための意思決定プロセスを作成する、という合意18がアフリカ諸国全体で形成されたことで、一応の終息となった。ここにおいては、動物保護・愛護系のNGOやアメリカ、フランスなどの大国や元宗主国などによる圧力もほとんど介入することがなかった。
また、2007年の会議において特筆すべき点として、1989年の時点では象牙取引反対派であったタンザニアが、自国の個体群の附属書Uへの掲載をもとめたことがある19。タンザニアではゾウの頭数が回復しており、それに伴い、南部アフリカ諸国の場合と同様にゾウによる農作物被害などが起き、人とゾウの衝突が増加していたという背景があった。 
3−3.条約における議論と地域社会での実情との関係をどう考えるか
ワシントン条約は、しかし種の国際取引の規制に関してのみ定める条約であるが、その目的である「絶滅のおそれの防止」には、実際にその地域で対象種とかかわりを持つすべての人間、すべての行為や取組みが関係してくる。そして、条約会議によって決定された種の附属書への格上げ・格下げなどの決定は、国際取引という行為のみにとどまらず、現地での規制や地域住民の生活など広範囲に影響を及ぼすことは、上記でも触れたとおりである。逆に、条約会議での締約国による合意形成や意思決定は、対象種の国際取引データのみならず、絶滅のおそれの防止に関わるすべての要因に常に左右されているといえるだろう。
こうした事実を考慮すればこそ、対象種をめぐるあらゆるレベルでの動向を整理し、それらをとらえるための枠組の形成が求められてくる。アフリカゾウが生息する地域では、人間とゾウの間にどのような問題が生じているのか。その問題には、その地域の人間社会におけるどのような要素、問題・課題が関連しているのか。自治体は、国は、そうした問題の発生と解決にどのようにかかわってくるのか。そして、そのような事情をそれぞれに抱えた国々と、他の象牙やゾウ製品を利用する国々の間には、どのような問題・課題が存在しているのか。地域や自治体、国、国際社会あらゆる段階において、何をめざすことが求められているのか。これらすべてを含む全体像を描き出した上で、国際取引を規制するワシントン条約には何ができるのかを考えていくことが重要である。  
4.まとめ / 持続可能な発展に向けた視点の構築を目指して

 

野生動植物という単体の「種」を、絶滅のおそれから守るということに対して、ワシントン条約という立場・国際取引という分野からどのようなアプローチが可能なのか。それを鮮明にするには、以下の二点を考慮したうえでの、条約会議における各国の、経済・社会・文化など多分野にまたがる議論が必要である。すなわち、野生生物の置かれている状況にとって、国際取引がどのくらいの脅威となるのか、野生生物の一番近くに暮らし、それらとかかわりをもつ地域社会にとって、国際取引はどのような影響力を持つのか。
こうした変革をワシントン条約に迫るものとして、生物多様性条約と「持続可能な発展」という概念20 の登場がある。生物多様性条約は、生物多様性の保全とその持続可能な利用、遺伝資源の利用から得られる利益の衡平な配分を目的として、1992年に締結された条約である。そして、その対象範囲の幅広さから、ワシントン条約や他の野生生物、自然環境に関連する条約の上に立ち、それらを束ねる枠組条約と位置づけられている。ワシントン条約は、成立当初には、その目的が示すとおり、野生動植物を保護・保存することを目指す条約であった。しかし、野生動植物に全く手をつけないのではなく、それらを持続的に利用することでその保全を図ろうとする姿勢を持つ生物多様性条約の枠組みに組み入れられたことによって、その目指す方向を明確に修正することが求められるようになったのである。
だがこのことは、突然迫られた転換などではなく、アフリカゾウ論争という現象のうちにも、豊富な個体群を持つ南部アフリカ諸国による象牙利用をいかに違法取引や密猟を誘発しない形でおこなうか、象牙取引というアフリカゾウの利用を関係国はどう考えてゆくのか、という問いとして現れていたものである。また、生物多様性条約は、「自国の法令に従い、生物の多様性の保全及び持続可能な利用に関連する伝統的な生活様式を有する原住民の社会及び地域社会の知識、工夫及び慣行を尊重し、保存し及び維持すること」を明記している21。この点に関しても、地域社会での野生生物の狩猟権問題などが、ワシントン条約が考慮しなければならない問題として持ち上がってきている。ワシントン条約はまさに、持続可能な発展に適応していくことを求められている。
ところで、持続可能な発展を目指す人間は、はたして進化・進歩の途上にある人間といえるのだろうか。ダーウィンのいう道徳性の進化からすると、地球の環境にまで目を向け始めた人間はその点においては進歩しているのかもしれない。しかし、環境問題というさまざまの要因が複雑に絡み合った事象を引きずり、不可逆な道を進む人間の歩みは、形態こそテイヤールのいう進化に近いものはあるが、終着点が見えないだけに、進化しているとは言いがたい面がある。
だが、ダーウィンとテイヤールの二人の進化論を見るとき、重要なのはその進化の行きつくさきではなく、私たち人間がその過程の中に、宇宙や生命、自然とのかかわりやつながりを持ったものとして存在しているということである。壮大な時間軸や他との関連という全体の中の、どこに今人間は位置しているのか。それを絶えず意識する目を二人の論者から学ぶことが、地球環境問題の解決に、持続可能な発展の形成に、重要な意味を持つといえる。 
1 入江重吉『ダーウィニズムの人間論』、26頁。
2 入江・前掲書(1)45頁。
3 入江重吉は、現在松山大学経済学部教授である(哲学、エコロジー論)。
4 入江・前掲書(1)204頁。
5 入江・前掲書(1)208頁。
6 くわしくは、入江・前掲書(1)終章参考のこと。
7 クロード・トレモンタンは、哲学、聖書釈義学、自然科学に精通したフランスの思想家である。
8 クロード・トレモンタン『テイヤール・ド・シャルダン』54、55頁。
9 トレモンタン・前掲書(8)、85頁。
10 1973年成立1975年発効。世界175カ国が加盟している(2009年11月時点)。
11 阪口功『地球環境ガバナンスとレジームの発展プロセス』86頁。
12 阪口・前掲書(11)、91頁。
13 くわしくは、イアン&オリア・ダグラス=ハミルトン『象のための闘い』を参考のこと。
14 くわしくは、阪口・前掲書(11)、第5章参照のこと。
15 ワシントン条約第7回締約国会議決議7.9。
16 くわしくは、Phiyllis Mofson , in Jon Hutton and Barnabas Dickson, Threatened Convention: The Past, Present and Future of CITES(EARTHSCAN,2000), Zimbabwe and CITES: Influencing the International Regime, pp.105-119 を参照のこと。
17 ワシントン条約第10回締約国会議決議10.9及び10.10。
18 ワシントン条約第14回締約国会議決定14.75〜14.79。
19 ワシントン条約第14回締約国会議提案書、COP14Prop.7。
20 「持続可能」という考え方は、もともと自然保護分野において発達してきた概念である。1980年、IUCN、UNEP、WWFが共同で発表した『世界保全戦略』には、「自然資源の保全を通じて持続可能な開発の達成を促進援助すること」が目的として書かれ、注目された。その後、1984年に国際連合に設置された、環境と開発に関する世界委員会(通称ブルントラント委員会)の報告書『OUR COMMON FUTURE』(1987年)の中で、持続可能な発展(開発)とは、「将来世代が自らの欲求を充足する能力を損なうことなく、今日の世代の欲求を満たすこと」と説明された。ここでいう発展(開発)とは、地域開発、土木開発、経済規模の拡大といった意味よりも、「より豊かな状態を目指し向上していく」といった意味合いを有している点に留意する必要がある。参考文献/西井正弘編『地球環境条約』(有斐閣、2005)など。
21 生物多様性条約第八条(j)項。  
 
フロイト1 「夢分析」

 

フロイトによれば、夢は人間の願望を満たすためのものであり、わたしたちの見る夢はすべて何らかの意味のあるものだとしています。そして夢には願望がそのままの形で現れる場合と、潜在的な願望が形を変え歪曲されて現れる場合があるとしています。後者の潜在的な願望とは夢を見ている本人にも分からないような抑圧された無意識的な願望のことで性愛的な願望が常に含まれているといわれています。このような夢の変装を見破り隠された願望を探り出すためにはフロイトの説いた四つの夢の性質「不安」「退行」「抑圧」「検閲」について知っておく必要があるでしょう。
「不安」不安の大きい人ほど大きな夢を見る
夢のフロイト心理学でよく取り上げられる代表的な夢に、猛獣に追われて逃げまわっているのがあります。このような夢を見た後は恐怖のあまりびつくりして目を覚まし夢でよかったと胸をなでおろすでしょう。この夢は幼児期に親から受けた圧力が潜在的な不安となって現れるものとされています。
また気の強い嫁からいじめられる姑も同じような夢を見ることがあることから、この夢は必ずしも幼児期の不安の現れだけとは言えません、要するに強いものにいじめられる時の不安感が夢に表れるというのが特徴であるといえます。
不安は他にもいろいろな夢になって表現されます。例えば歯が抜ける夢や髪の毛が抜ける夢もそうです。夢のフロイト心理学では、このような歯が抜ける夢や髪の毛が抜ける夢を性的な能力への不安や性的な葛藤による不安と結びつけて分析しています。しかし、このような「不安夢」は繰り返し見ることによっていつの間にか不安が解消されてしまうことが判明されています。夢にはこうした不思議な浄化する作用の性質も持つています。
「退行」夢のタイムスリップは逃避飛行
現代社会では個人の自由があまりにも尊重されているために、何をするにつけても、かえってどうしたらいいのか困惑してしまう人が多いのではないでしょうか、例えば恋愛を楽しむ自由もあれば恋なんてしない自由もあります。結婚する自由もあれば結婚しない自由もあり、さまざまな自由の中で若者はなかなか心を調整することが出来ず、不安や葛藤に悩ませれてしまうことが多いものです。この心の不安や葛藤は緊張を強めてストレスへとつながつていきます。すると心は乱れはじめ、ついにはすべてを放棄して子供のようにだだをこねて、まったく自由でなくなったように泣き叫ぶ状態に陥るところの心理学でいう退行現象が見られる人もいます。
一般的にこのような状態の時は夢を見やすいということが言えます。つまり前項「不安」でも説明しましたように、不安や葛藤により心のバランスを失い、悪夢や不安夢を見やすい状態になっているのです。
ところで、この退行は夢の中でも起こります。夢の中では、タイムスリップして過去の出来事がよみがえってくる現象として表れます。まさに以前の状態に逆戻りして行くのです、特にナルシスト的な自己愛の強い人や自己中心的な人が不透明な不安に襲われたりすると夢の中で自分の幼児期に逃避するかのごとく、このような夢を見やすいようです。しかし最近の夢の世論調査によると現実の出来事や日常生活の一部が夢に表れることが圧倒的に多く退行の形で表れることは少なくなっているようです。
「抑圧」どうして夢の中のわたしは理解不可能なの
前述のとおりフロイトは夢は人間の願望を満たすために存在するものだと説きました。この願望とは日常生活の中で満たされなかったもので、ささいなものから、近親相姦などの性的欲求や人によっては殺人などさまざま夢です。人々はこのような願望が心の中に沸いてきても、それらが実現できないものであったりすると、なんとかそれらを忘れようとして無意識の世界に閉じ込めてしまうのです。またかといって非常に感情的に興奮したり恐怖に脅えたり嫌悪感を感じたりしたことなどが、記憶としてインプットされず本来は忘れてしまったと思い込んでいたことも、無意識の世界に押し込まれていることがあります。このように抑圧された無意識の中の願望や感情は夢となってさまざまな形で表れてきます。なぜなら眠っている時は精神的緊張がゆるみ、今まで抑圧されてきたものが一気に溢れ出るという説もあります。つまり抑圧されてきた願望をゆるみの中で満たすことによって心のバランスをうまく保っているのです。
しかし実際に見る夢の内容は支離滅裂でどんな意味があるのかもさっぱりわからないようなものがあるのは、皆さんの経験から多いのではないでしょうか。例えば父親が大好きな女の子が、その気持ちを無意識の中で押さえようとして夢の中で大勢の人がまわりにいる前で父親と派手なケンカをしているというのもそうした夢の一つでしょう。
夢は眠っている間の心理現象ですが、内容がはっきりしないことが多いために、忘れてしまっているものが少なくありません。
「検閲」夢には映倫のように検閲のチェックがある
ここでは夢の驚くべき一面を紹介しましょう。なんと夢はあなた自身の内なる表れでありながら、あなた自身が気づかないところで内容を改ざんして編集してしまっているのです。例えばきわどい性描写の夢とか寝汗でびっしょりなるような恐ろしい夢を見たとします。しかし実は性描写されたものは無意識の世界ではもっとグロテスクな意識であったり、夢の中のとてつもない恐怖は実は気味の悪い復讐であったりするのです。まさか自分ではそこまで思っていたとは信じられないような心の働きが無意識の世界ではあるのです。
ところが、そこに「検閲」という作用が働いているために無意識の世界に秘められた内容は夢の中に表れてもいいような内容に置き換えられてしまっているのです。つまり検閲とは抑圧された願望が夢となって表れてくる前に、その願望をチェックして、あまりにも激しい感情や不都合な願望にブレーキをかける役目をしているのです。その結果として願望はひどく歪曲され姿をがらりと変えて夢に表れるので、何を意味しているのか、どうしてそんな夢を見るのがさっぱりわからなくなってしまうのです。そのため、その人とってそれほど重要でないことが夢の中心となることがあります。ですから夢分析で大切なことは検閲された夢の持つ本当の意味を見破ることなのです。 
 
フロイト2 「夢判断」

 

(Die Traumdeutung, The Interpretation of Dream) 1900年に発表された、オーストリアの精神科医ジークムント・フロイトによる夢に関する精神分析学の研究である。
フロイトは1856年に生まれ、ウィーン大学で医学を学ぶ。脳解剖の専門医としてウィーン総合病院に勤務し、フランスのサルペトリエール病院でも学ぶ。1893年に友人の医師ヨーゼフ・ブロイアーと共同で『ヒステリー研究』を発表する。本書は医師として担当した事例に関する研究の成果であったが、出版当初は評価されなかったために初版600部を完売するために8年間かかった。
夢についての考察は古代から行われてきたが、心理学的な観点からの研究は多くない。したがって夢の原因についても神学的な説明がなされてきた。やがて心理学的な説明が試みられ、睡眠中の感覚の刺激によって夢にその刺激が反映されるという説明がなされるようになった。しかしフロイトは、この感覚刺激だけではないことを指摘し、夢の内容を精神状態と関連付ける議論をさまざまな事例研究に基づいて展開した。
夢の構造
フロイトによれば夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。
治療への応用
フロイトは夢において充足させようとする願望がイメージにより曖昧に表現されているかについて注意を払っている。この理由としては願望を明確化することを妨げようとする意識によって夢が歪曲されることを挙げている。意識による夢の検閲を回避するために無意識は願望を間接的な表現を活用するのである。なぜなら、通常では意識的に抑制されるべきと見なされている性欲が夢の中では願望として発動するためである。フロイトは文明社会の成立により人間の本能が制限されているものの、それは消滅したわけではなく、その性欲を夢は暗喩的な表現によって満足させるものと捉えることができると論じる。 
 
フロイト3 「夢判断」

 

夢の問題の学問的文献
本書では、夢が目覚めている時の心の動きの中に、ある一定の位置に据え置くことのできるような心の所産だということ、そして夢がなぜ奇妙なとりとめもないものなのか、それを明らかにしたいと思う。古代ギリシア、ローマにおいては、夢は神やデーモンのお告げだと考えられ、外部の別世界からやってきたものとされていた。その後、アリストテレスは夢を魂の働きだと考え、現在の夢に関する研究の端緒を開いたが、本格的な夢の研究が始まるのは近代を待たねばならなかった。以下、夢の学問的文献を問題別にまとめておく。
A 覚醒状態に対する夢の関係
ヒルデブラントによれば、夢は現実の生活から切り離された、それ自体でまとまった存在なのだが、夢の材料は現実の生活から採ってこられたものであり、結局は現実の世界から完全に遊離することはできない。
B 夢の材料――夢の中での記憶
夢が覚醒時には覚えのないような記憶や言葉を材料として駆使することは、多くの報告が物語っている。ヒルデブラントやシュトリュムペルは、夢が覚醒時において意義のあるものではなく、どうでもいいような些細なものを材料にすることを強調し、特に忘れていた幼年時代の生活が材料になるのだと述べている。だからこそ、一見、夢は意識生活と繋がりがないように見えるのである。
C 夢の刺激と夢の源泉
夢の源泉には、外的感覚刺激、内的感覚興奮、内的身体刺激、純粋に心的な刺激の4つがある。外的感覚刺激は睡眠中に外部から受ける刺激で、明らかに夢の源泉となっている。内的感覚興奮は主観的な刺激によるもので、例えば幻覚をみた後で夢に幻覚の内容が出てくるように、これもまた夢の源泉と考えられる。内的身体刺激は身体器官から発するものであり、心臓や肺が悪いと不安な夢を見るし、消化器系統の障害では吐いたりする夢を見る。最後に心的刺激だが、これは覚醒時における関心であり、夢の形象の由来を解き明かす重要な夢の源泉なのだが、これまでの研究では重視されていない。
D 眼が覚めると夢を忘れてしまうのはなぜか
シュトリュムペルによれば、夢には秩序もなければ論理もないため、すぐ次の瞬間バラバラに崩れてしまうような構成になっており、記憶されるための条件を欠いている。しかも眼が覚めると外部の感覚世界のことに忙殺され、わずかに覚えていた夢の記憶も自由勝手に歪められ、忘れられてしまうのである。
E 夢の心理学的な諸特異性
フェヒナーは、夢の舞台は覚醒時の表象生活の舞台とは別物だと主張している。例えば覚醒時の思考は概念によって行われるのだが、夢は概して視覚的形象、聴覚的形象によって思考する。勿論、睡眠時には外界に対して背を向けているため、それは思考というより実際の体験として信じられている。こうした夢の表象を互いに結びつける連想作用は覚醒時の連想作用とは違い、特殊なものである。
F 夢の中における倫理的感情
不道徳な衝動は覚醒時にもあるのだが、実際の行動にならないように普段は抑止されている。しかし、ヒルデブラントやモーリによれば、睡眠時にはこの抑止がなくなり、夢は隠された倫理的欠陥をわれわれに知らせることになる。
G 夢理論と夢の機能
夢理論は主に次の3つの説に分けられる。1)覚醒時の完全な心的活動は夢の中でも継続されるという説。この説では夢の奇妙な連想の説明ができない。2)夢では心的活動が低下し、諸関連が弛緩し、材料が貧弱になるという説。これは夢を部分的覚醒と考える説で、夢における奇妙な連想の説明もできるのだが、何のために夢を見るのかはわからない。3)覚醒時においては不完全か全く行えないような心の仕事への能力が夢にはあるとする説。これなら、夢は覚醒時の不完全なものを補うためにある、と考えることができる。
H 夢と精神病との諸関係
グリージンガーは、願望充足を夢と精神病に共通な表象行為だと述べている。夢と精神障害は一致する点も多く、将来、精神障害のメカニズムを解明する上でも大きな意味を持つであろう。 
夢判断の方法 / ある夢実例の分析
「夢を解釈する」とは夢に「意味」を与えることであり、心的諸行為の連鎖に、夢を同資格のものとして組み入れることを意味している。夢に意味を与えるやり方には、象徴的夢判断(夢を一つの全体と捉えて類似の内容に置き換える方法)、解読法(解読のキーを頼りに、夢を暗号文のようにみる方法)などが昔からあったが、学問的には無視されている。しかし、夢には実際に意味があり、学問的な夢判断の方法も可能だということを、私は精神分析の治療の中で確信するようになった。病的表象は、それが患者の精神生活から出てきた諸要素へ還元されると、患者はこの表象から解放される。では、夢を一病的症状のように扱い、精神分析の技法を適用してみたらどうかと考え始めたのだ。精神分析が成功するかどうかは、患者が自分の頭の中に浮かんだこと一切を包み隠さず言ってくれるかどうかに懸かっている。そこで、あまり重要でなさそうだとか、関係ないと思っても、これを抑えつけず、批判せずに観察し、報告するよう指示するのである。意識的な批判が後景に退けば、「欲せられざる諸観念」が浮かび上がってくることになる。この方法を夢判断にも同じように適用するのである。
イルマの注射の夢
大きなホールに多くの客がおり、その中にイルマもいる。私はイルマに「まだ痛むといったって、それは実際に君自身の咎なのだ」と言うと、イルマは「私がどれほど痛がっているか、頸、胃、お腹なんかがどんなに痛いか、おわかりかしら。まるで締めつけられるようなんです」と言う。私はびっくりしてイルマを凝視すると、蒼白く、むくんでいる。これは内臓器官関係のことを見落としていたかなと思い、喉を診ようとすると、イルマはちょっといやがる。いやがることはないのに……。右側に大きな斑点、別の場所に鼻甲介状の縮れた形の白灰色の結痂がある。ドクター・Mを呼んで診てもらうと、間違いないという。友人のオットーもレーオポルトも傍にいる。Mは「これは伝染病だが、しかし全然問題にならない。その上、赤痢になると思うが、毒物は排泄されるだろう」と言った。どこからこの伝染病がきたかも分かっている。オットーが、イルマが病気になって間もない頃にプロピュール製剤を注射したのだ。……プロピレン……プロピオン酸……トリメチラミン(この化学方程式はゴシック体で見えた)……この注射はそう簡単にはやらないものなのだが……おそらく注射器の消毒も不完全だったのだろう。
分析 / 最初のイルマとの会話は、まだイルマが痛みを持っているとしても、それに対してフロイトは責任を持ちたくないということを意味している。また、蒼白く、むくんでいたある女性と、ディフテリアと診断されていたイルマの親友(白い斑点はディフテリアを意味する)の2人が、イルマとすり替えられている。そして、苦痛の原因がディフテリアのように器質的なものならば、フロイトはまたしてもその治癒に責任がないことになる。しかし、イルマをディフテリアという重病にしたままでは良心に咎めるため、「全然問題にならない」というMの慰めの言葉が必要となったのだ。オットーとレーオポルトの2人が登場するのは、用心深いレーオポルトを賞賛し、プロピュール製剤を注射したオットーを批判するためであろう。前日、フロイトはイルマについてのオットーの発言の中に、自分への非難を感じていたのである。トリメチラミンは性的新陳代謝の産物だとフロイトは聞いたことがあるため、ゴシックで強調されていたのは、性的要素の優位に対する暗示を意味しているのだろう。これもまた、フロイト自身の理論(性欲を重視した理論)を正当化することに繋がっている。

以上が分析結果だが、フロイトはこの分析の遂行にあたって、あまりにも多くの思いつきが浮かび上がってくるので、それを追い払うのに苦労したと述べている。この夢は、その日の夜のいくつかの事件(オットーの報せ、病歴執筆)によって生じた願望を充たしている。つまり夢の結論は、現在のイルマの苦痛に対しては私の責任ではなくオットーに責任がある、ということになるのであり、フロイトの願望を充たしているのである。夢は実際に意味を持っており、夢の内容は願望充足なのである。 
夢は願望充足である
願望充足が夢の唯一の意図であるから、夢は完全に利己主義的である。夜中に喉がかわけば、水を飲む夢を見る。また、子どもの夢も単純な願望充足を示しており、苦労して解くべき謎も少ない。子どもは性的欲望に関する夢は多くないかもしれないが、食べたいお菓子が出てくるなど、食欲に関する夢は多く、夢が願望充足を意図していることを端的に教えてくれるのである。 
夢の歪曲
「夢は願望充足である」という命題の一般化は、苦痛夢や恐怖夢によって否定されるように思える。しかし、夢の顕在内容が苦痛や不安を示していても、分析してみれば、その潜在内容はやはり願望充足夢であることがわかる。イルマの注射の夢にしても、うわべはさりげない内容であったのに、潜在内容は願望充足を意図していた。では、なぜ初めから願望充足という性格を示さないのだろう。夢はなぜ分析してみるまでその意味がわからないほど歪曲されているのだろうか。これについてフロイトは次のような夢を例にして説明している。
フロイトの教授任命に関わる夢
その夢の前日、フロイトは助教授に任命されるかもしれないという噂を聞いていたが、それは宗教上の理由から考えても、かなり難しいことであった。夢の内容は、友人Rが伯父であり、かなりの親愛の情を感じていること、友人Rの顔つきがいつもと違っていることなどが思い出された。馬鹿げた夢のように思えたが、フロイトはそれを自分の抵抗の現れだと気づき、分析に取りかかる。フロイトの伯父ヨゼフは罪を犯して裁きを受けたことがあり、父が「ちょっと足りないところがある」と言いながら心配していたことを思い出す。Rが伯父であるなら、フロイトは「Rには少し足りないところがある」と考えていることになり、それは承認しがたい不愉快なことだという。また、同僚のNも教授候補になっていたが、彼は告訴されたことがあるため、自分の昇進は難しいと言っていたことを思い出す。つまり、夢の中の伯父はRとNの2人とすり替わっているのだ。RとNの教授任命が遅延しているのが宗教上の理由であるなら、それはフロイトにも同じことが考えられる。しかし、遅延の理由が、Rが馬鹿者でNが罪人であるためなら、フロイトの教授昇進には十分な見込みがあることになる。しかし、自分が教授になるために2人の友人をおとしめたのだとすれば、それは納得しがたいことだとフロイトは思う。第一、彼は夢の中でもRに親愛の情を感じているのだ。ところが、この親愛感こそRが馬鹿だという自分の主張を隠すものであり、潜在内容が歪曲(偽装)されたものなのである。最初に馬鹿げた夢だと思ったのも、この不愉快な自分の主張に直面したくなかったのだと言えるだろう。
ここまでの考察から、夢の形成には2つの心的力が関わっていることがわかる。願望を形成する力と、夢の願望に検閲を加え、その表現を歪曲する力である。第二の検問所の検閲特権は、意識への入場を許可するかどうかという点にあり、好都合に変更(歪曲)した上でなければ、検問所の通過を許すことはない。だからこそ、苦痛内容は快楽内容の偽装として夢の舞台に現れるのであり、あらゆる夢の意味は願望充足なのである。(こう考えてみると、「意識する」とは、「表象する」過程とは別種の、「表象する」過程からは独立した独特の心的行為であるように思える。意識は別のところから与えられた内容を知覚する、一個の感覚器官のようなものなのかもしれない。)
フロイトの患者の夢
この婦人患者の夢は、人を夕飯に招待しようと思ったが、薫製の鮭が少しあるほかは何の貯えもなかったので断念した、というものである。買い物に行こうと思ったが、日曜の午後なので店は閉まっているし、出前も電話の故障でできなかったのだ。分析の結果、この夢の前日、患者は女友達を訪問していたこと、彼女は「いつまた夕ご飯によんで下さる?」「もっと肥りたい」と言っていたことがわかった。この女性のことを夫は誉めそやしていたが、彼女は痩せており、夫は豊満な女性が好みである。フロイトはこの夢を、夕飯をご馳走したくない願望の充足だという。夕飯をご馳走すれば、女友達の身体はふっくらとし、夫の好みの女性になってしまうからだ。しかしこの願望は、夕飯に招待したかったのにできなかった、というような話に歪曲されている。また、患者は女友達の代わりに自分自身を夢に登場させ、自分の願いが充たされない夢を見ていることになるので、これは女友達への同一化が生じていると考えられる。同一化はヒステリー的思考によるものであり、患者は自分を女友達の位置に置くことで、夫に誉めそやされたいと願っているのである。
フロイトは様々な患者から「自分の夢は願望充足ではない」という反論を受けているが、彼はそれをことごとく願望充足の夢として分析してみせる。例えば、フロイトの言っていることが間違っていてほしい、という願望の充足だった患者もいる。子どもの死を悲しむ夢をみた患者に対しては、愛する人に(葬式で)会えるからだと分析している。「願望に反する夢」の多くは、フロイト(分析医)の言うことが間違っていることを願うような願望か、マゾキズム的要素(攻撃的・サディズム的要素が転化したもの)による願望のいずれかである。後者はマゾキズム的願望を「不快な夢」によって充足しようとするものだ。いずれにしろ、夢が大きく歪曲されているのは、その夢の願望に対する嫌悪・抑圧意図が存在するからであり、「夢は、ある(抑圧され・排斥された)願望の、(偽装した)充足である。」 
夢の材料と夢の源泉
A 夢の中に出てくる最近のものと些細なもの
どんな夢の中にも、前日の諸体験への結びつきが見いだされる。二、三日前の印象が出てくることもあるが、前日にその印象を思い出していることがほとんどで、一晩も経っていないような諸体験こそ夢の材料の中心となるのだ。ただし、前日の諸体験がもっと遠い過去の諸体験に結びついている限りでは、その材料を人生のいかなる時期からも選び取ってくることができる。また、夢に関する諸印象の第一のものは、どうでもいいような、付随的な事情であり、ごく些細なものが夢の材料となるのである。この重大なものから些細なものへの心的アクセントの「移動」は、夢の検閲によって願望を隠すように歪曲されたことによるものだ。だからこそ、さして重要ではない諸体験の残滓が夢に使われるのである。また、夢の作業には、存在する夢の刺激源を統一体へとまとめ上げる、一種の強制力がある。前日の二つの異なった体験も、夢の中では一つのものになるのである(圧縮)。
ここで夢源泉を認識させる種々の条件を整理すると、1)夢の中へ直接出てくる最近の重要な体験(イルマの注射の夢、教授任命に関わる夢)、2)夢によってひとつの統一体に結合される数多くの最近の重要な体験、3)夢内容中に些細であるが時を同じくする一体験を通じて表現される一つないしはそれ以上の最近の重要な体験、4)夢の中で必ずある最近の、しかし些細な印象によって代理される内的な重要な体験、の4つに分けることができる。また、いかなる無意味な夢刺激物もなく、無邪気な夢もない。無邪気な夢の中には、性的要素が検閲によって歪曲され、些細なものに移動(偽装)しているものが多い。われわれは些細事のために睡眠の邪魔は絶対させないものなのである。
B 夢の源泉としての幼児的なもの
夢を生み出した願望自体は、幼年時代に由来することも多い。例えば先に挙げた「教授任命に関わる夢」なども、幼年時代(偉い人物になると周囲から言われていた)の欲望に繋がっているのである。たとえ現在の願望であっても、遠い幼児の思い出から強力な援護を受けていることが多い。どんな夢の顕在内容にも、ごく最近体験したことへの繋がりはあるが、これに反して潜在内容の中には、現在にいたるまで「最近のもの」として保存されてきたような、非常に古い体験への繋がりがある。いくつかの願望充足が一つの夢に統一されているばかりでなく、一つの意味、一つの願望充足が他のものを隠蔽していて、その衣をはいでいくと、一番下のところで非常に早い幼児時代の願望の充足実現にぶつかることが非常に多い。これは「必ず」と言った方がいいかもしれない。
C 身体的夢源泉
身体的刺激源には、1)外部の諸対象から出てくる客観的感覚刺激、2)主体的にのみ基礎づけられるところの感覚器官の内的興奮状態、3)身体内部から発する身体刺激の3種類がある。これらが夢に影響を与えることは、幾多の観察、実験によって確かめられている。しかし、このような外的刺激源(生理的刺激源)だけで夢が十分説明されるわけではない。夢を見させる動機が身体的刺激源以外のところになければ、夢形成ということはあり得ないのである。すでに述べたように、夢は最近の材料と幼児期の材料を好むのだが、ここに睡眠中における新しい興奮材料(身体的刺激)が加わると、これも一緒になって夢形成に(些細な印象として)材料を提供する。特に身体的刺激が睡眠を妨害し、夢を中断させることになりそうな場合は、その材料を夢にさりげなく織り込むことで、睡眠を続けることを可能にしている。目覚まし時計が鳴り響いても、その音が夢の中でサイレンに偽装されていれば、睡眠を続けることができる。眠り続けたいという願望はつねに夢形成の動機となるのであり、夢を見ること自体がこの願望の充足となるのである。
D 類型的な夢
誰にでも同じように現れてくる夢は、同一の源泉から出てくると推測できるため、夢の源泉を解き明かすのに都合がよい。いくつか例を挙げてみよう。
a)裸で困惑する夢
他人の前で裸だったり、無様な服装でいたりする夢で、羞恥と困惑を覚え、その場から逃げ出したくともできない。しかし、周囲はそれに対して無関心である、という夢である。幼児時代は、裸は少しも恥ずかしいものではなかったし、何も恥ずかしがる必要のないパラダイスであった。裸体夢はこのパラダイスへと連れ戻すことで、願望充足を意図している。しかし、露出場面は第二の心的組織によって拒否されているため、この表象は羞恥と困惑を生じさせるのである。検閲の要求に従えば、この露出は中断すべきものなのだ。なお、同じ露出の夢でも、困惑や羞恥を感じない場合は類型夢ではない。
b)近親者が死ぬ夢
これは夢の中で悲しみを感じる場合と感じない場合があるのだが、後者は類型夢とは言い難い。何故なら、甥の死によって愛人と再会できたというような夢は、甥の死を願望するとか願望しないとかは、些末な問題であるからだ。このことから、夢の中の感情は潜在内容に属するものであり、表象内容のようには歪曲を受けない、ということがわかる。これとは逆に、類型夢としての近親者の死は苦痛に満ちており、しかも近親者の死を願望しているものである。勿論、夢を見た時点でその人の死を願っていることはほとんどない。多くは、幼児時代のある時期に抱いた願望なのである。
子どもは利己的であり、何が何でも自分の欲求を満足させようとする。妹や弟が生まれれば、親の愛情が自分から離れてしまうので、この世にいなければいいと感じるだろう。しかし、子どもが軽々しく「死んじゃえ」と言ったとしても、その子はまだ死の悲惨や恐怖については何も知らないのだ。子どもにとって「死んだ」ということは、「行ってしまった」というくらいの意味なのである。また、親の場合は自分と同性の親が死ぬ夢を見る。これは、男の子は母親に、女の子は父親に最初の愛情を向け、同性の親を自分の恋仇と見なすためである。これには父親が娘を可愛がったり、母親が息子に加担するといったような、親の態度によるところが大きい。子どもは自分を可愛がってくれない方の親に反抗するのである。(この見解を支持するような伝説として、エディプス王伝説とソポクレスの同名の劇がある。また、シェイクスピアの「ハムレット」は、父の亡霊が命じた伯父殺しをなかなか遂行しない。これは、ハムレットの幼児時代の願望が伯父と同じであるため、その罪悪感から伯父殺しを遂行できないのだ。)近親者が死ぬ夢は、その途方もない願望ゆえに検閲を免れ、歪曲されずに現れる。だからこそ苦痛がともなっているのである。
c)試験の夢
この類型夢は、試験に落第して、もう一度繰り返さなければならないという夢である。試験に落第する夢は、幼年時代にしてはならないことをして受けた罰への、消し去りがたい記憶がもとになっている。この記憶が、厳格な試験の日において、心の中に戻ってくるのである。 
夢の作業
本章の課題は、夢思想(潜在内容)がいかなる過程を通じて夢内容(顕在内容)へと変わっていくのか、それを探求することにある。顕在内容は一種の象形文字で綴られていて、その一つ一つを潜在内容の言葉に翻訳してみなければならない。これらの象形文字を記号関係に従って読もうとせずに、その形象価値に従って読んでしまえば、必ず迷路に踏み込むことになるのである。
A 圧縮の作業
夢の圧縮作業とは、夢思想における複数の人物や物の要素だけが選択され、綜合人物や混合物など、新たな統一的形象を作り上げることである。例えば「イルマの注射の夢」においては、イルマはフロイトの娘や妻、中毒のために死んでしまった女性患者、小児施療所の子ども等、複数の人物の特性が統合され、一個の綜合人物が作り上げられている。また、圧縮作業を示す絶好の材料として、夢における言語形成物(合成語)がある。夢の作業が圧縮しようとする対象に言葉と名称とを選び与える時、滑稽な、そして奇妙な造語が作られるのだ。例えば、ある女性患者の夢における「Maistollmutz」(マイストルミュッツ)という綴り字は、Mais(玉蜀黍)、toll(乱痴気騒ぎ)、manstoll(男狂いの)、Olmutz(オルミュッツ=地名)などが圧縮されたものである。また、こうした言語の変造は、妄想症やヒステリー症、強迫観念にも見られる。
* 意識における言語は物表象と語表象の二つからなるのだが、無意識では物表象しかないため、夢では語が物のように現れて、圧縮されたり分割されたりする。
B 移動の作業
夢思想の中で強い関心のあった要素は、価値度の低かった別の要素に変換されて夢内容に現れ、まるで価値なき要素のごとく取り扱われることがある。夢の作業に働いている心的な力は、一方では心的に価値の高い諸要素からエネルギーを剥奪し、他方では多面的制約(多方面に繋がっていること)の途を通じて、価値度の低い諸要素を価値ある要素に作り変え、この新しい諸要素が夢内容に入ってくるのだ。このように、夢形成においては個々の心的強度の転移および移動(置き換え)が行われる。
C 夢の表現手段のいろいろ
夢は、個々の夢思想の間にある論理的諸関係を表現すべき手段を持ち合わせていない。「もしも」「……がゆえに」「ちょうど……のように」「といえども」「……か、あるいは……か」といったような前置詞は、夢の中では無視され、具体的な内容だけが加工されるのである。したがって、夢の作業が打ち壊したこれらの関連を復元するのは、夢判断の手に委ねられることになる。夢の外見上の思考によって表現されているものは、夢思想の材料の属性なのであって、夢思想間の関係、夢における知的作業の表現ではないのだ。しかし、この論理的な組立てをできるだけ暗示しようと努める夢もある。以下、その例を挙げよう。
1.夢の中で二つのものが近接して出てくる場合は、夢思想における緊密な関連を示している。2.短い夢Aと長い夢Bに分けられていれば、「Aであるから、Bである」というように、両者の因果関係を意味することもある。3.「……か……か」という二者択一の表現は夢にはない。夢の話し手が「庭か部屋かどっちかでした」と言う場合、それは「庭と部屋」という、単なる並列と見るべきである。4.夢に「否」は存在しないので、その反対物によってしか表現されない。5.夢は類似性、合致、「ちょうど……のように」などの論理的諸関係については、すでにある夢材料に同一化するか、新たな統一へと混合化することによって見事に表現する。「Aは……だが、Bも……だ」という場合、Bのような行動をとるAが出てきたり、AとBを合わせた混合人物が出てくる。6.夢の形式は、しばしば隠蔽された内容表現のために利用される。例えば夢に不明瞭な箇所(欠如)があれば、女子性器(ペニスの欠如)を意味する等。
* 夢においては、思考形式は物のように形象化し、思考対象となる。例えば、「2+2=4」における「+」や「=」のような形式が、夢においては「2++=4」のように「2」や「4」のような要素として現れる。無意識には思考形式と思考対象の峻別はないのである。
D 表現可能性への顧慮
夢思想の平板で抽象的な表現は、夢内容においては形象的で具象的な表現と置き換えられる。夢の材料には視覚的形象が優先的に採り上げられ、それによって夢の様々な表現が可能になっているのである。
E 夢における象徴的表現 / 続・類型夢
夢は様々な象徴を偽装的表現にさいして利用するのだが、これらの象徴の中には必ずといっていいほど同一の意味を有するものがある。長くとがった武器は男性性器、部屋や容器類は女体、階段での昇降は性行為、等々。これらは特に類型夢の分析には有効である。類型夢は、「歯の刺激の夢」(手淫欲望を示している)のようにいつも同じ意味を持つものと、飛行したり墜落する夢のように、内容が同一でも全然意味が違うものの2つに分けられる。しかし、象徴の意義を過大に見積もるべきではなく、夢を見た本人の自由連想にこそ決定的な意義がある。
F 実例 / 夢における計算と会話
夢の作業は計算などしない。夢に計算する場面が出てきても、それは表現できない材料への暗示となる数字を並べているにすぎないのだ。また、夢は文句や会話を新たに創造したりはしない。筋の通った会話であろうとなかろうと、実際の会話や小耳にはさんだ文句の切れ端を夢思想の中から借用し、本来の文脈とは無関係な形に組み合わせたり、こま切れにしているだけである。
G 荒唐無稽な夢 / 夢における知的業績
夢内容の荒唐無稽性は表面だけのものにすぎない。それは、批評と嘲笑が夢を見ている本人の無意識を動機づけている場合、「ばかげたことだ、無意味だ」という批判が、夢の荒唐無稽性として現れているだけなのだ。一方、夢内容における批判のような活動は、夢作業の思考活動ではなく、夢思想の材料に属している。それは夢思想における批判の繰り返しであり、それが仕上げの済んだ形成物として夢内容に入ってくるのである。また、ひとが覚醒後に夢に下す批判、夢の再現が呼び起こす諸感情などは、その大部分が潜在夢に属している。
H 夢の中の情動
情動は表象との結合においてのみ考えられるのだが、夢においては、危険な表象であっても全く怖くなかったり、些細なことに激怒している場合がある。このように、夢において情動と表象が適合しないのは、情動の方は元のままであるのに、表象内容の方だけは移動と代理という夢作業を受けているからである。情動は検閲の作用に屈服しないため、表象群から離脱して夢内容に現れる。しかし、情動も全く夢検閲の影響を受けないわけではなく、抑制されたり、反対物に変えられることもある。また、夢の中の情動が単一の源泉によるものとは限らず、複数の情動源泉が夢作業において同一の情動を形成していることも少なくない。(この情動と表象の関係は、夢よりも神経症においてはっきり現れる。ヒステリー患者や強迫神経症患者は、些細なことを怖がったり、自己非難のきっかけにしてしまい、そんな自分自身を不審に思うものだ。神経症者における情動はつねに本物なのであり、精神分析はこの情動に釣り合っていたはずの、抑圧された表象を探し求めるのである。)
I 第二次加工
夢の検問所は夢内容を制限したり削除したりするだけではなく、夢内容に新しいものを添加し、不合理で支離滅裂なものを筋の通った体験に加工する機能もある。このため、夢はその加工された筋立てに意味があるように見えるのだが、これは実際の夢の意味からひどくかけ離れている。この夢を形成する第四の契機を第二次加工という。

以上、これまでの夢を形成する契機を4つにまとめると、1.検閲の目を逃れようとする要求(移動)、2.心的材料の圧縮、3.感覚的形象による表現可能性への顧慮、4.合理的外観への顧慮(第二次加工)、となる。 
夢事象の心理学
A 夢を忘れるということ
夢の忘却はその大部分が抵抗の仕業である。したがって、夢分析に際して忘れられた夢の箇所は偽装(夢作業)の成功しなかった箇所であり、それが突然思い出された場合、それこそが夢の最も重要な部分だと考えてよい。(しかし、夢にはどうしても解けない結び玉(夢の臍)があり、それについては放置しておかざるを得ない)。抵抗は日中も働いているが、夜の間はその力の一部を失っており、このことが夢の形成を可能にしている。睡眠状態は検閲の威力を減退させることで夢形成を可能にしているのである。夢判断は目標のない表象に身を委ねているという批判があるが、無意識の目標表象が諸表象の流れを決定しているのであり、目標表象のない思考というものはない。意識的な目標表象は抵抗の支配下にあるのだが、抵抗が弱まれば抑圧されていた目標表象へ導かれ、一見不合理にも思えるような連想に結びつくのである。
B 退行
心という装置を一つの組立て道具(顕微鏡や写真機のようなもの)として考えると、それぞれの映像(表象)がどのようにして成り立っているのかを考えることができる。まず、心的活動を何らかの刺激から発して反応へ至るものだとすれば、第1図(442頁)のように、心的過程は知覚を受け取る組織(知覚末端)から身体的反応を起こす組織(運動末端)へと経過する。その際、諸知覚が心の中に痕跡(記憶痕跡)を残すことは、連想が生じることからも明らかである。だとすれば、記憶力を持たない知覚末端の背後には、記憶する組織があることになるだろう。しかも、同一の興奮(知覚刺激)が様々な定着化を受けていると考えられるので、記憶組織は複数あるのだと仮定できる(第2図:443頁)。また、記憶が様々な抵抗を受けながら運動末端に達するのだとすれば、運動末端の直前には批判を加える組織(検問所)があるのだと想定できる(前意識)。そして、前意識の背後には、前意識を通過する以外に意識に通じる途を持たない組織(無意識)がある(第3図:445頁)。
この心的装置で夢を考えると、興奮は覚醒時のように運動末端の方へ移動するのではなく、逆に知覚末端の方へ移動するのだと考えられる。これは複雑な表象(観念)から、それがかつて出てきたところの感性的形象へ逆戻りしていることを意味する。日中は知覚末端から運動力へ向かって流れる潮流も、夜間は抵抗の力が弱まり、意識へと逆流するのである。前意識における夢思想の構造は解体し、夢思想は元の素材に還ってしまう。夢は退行的性格を持つのである。これは、夢が幼児期場面の代用物でもあることからも言える。また、ヒステリーや妄想症の幻覚、正常人の幻影なども退行と見なすことができる。
C 願望充足について
思考活動によって衝動を制御するようになると、子どもに見られるような強烈な願望の形成は断念される。そのため、自我の意識的願望は同内容の無意識的願望によって強化されなければ、夢を作り出すだけの十分な力を持たない。この無意識的願望とは、検閲がまだ存在しなかった頃の幼児期願望なのである。しかし、意識的願望が無意識的願望と合致しない場合もあり、抑圧されていた無意識的願望の充足に対して、自我は苦痛な観念を夢に登場させて抵抗しようとする。これが不快夢や刑罰夢である。それは、ある意味で自我の願望充足(懲罰願望)を示している。したがって、夢の願望は、「意識」対「無意識」という対立より、「自我」対「抑圧物」という対立によって考えた方がわかりやすい。(これは、後に上位自我の議論に繋がっている)。ヒステリー症の症状も夢と同じで、二つの対立的願望充足が一つの表現において出会う場合にのみ生じている。
もともと人間の心は、最初はできるだけ自分を無刺激な状態に置こうとするものだったに違いない。だからこそ、外部からの刺激・興奮を直ちに運動として放出するという、先の図式を採用したのだ。だが、内的欲求に発する興奮(例えば食欲)は、単に手足をバタバタすれば解消できるものではない。そのため、この願望が一度満たされれば、その興奮(欲求)が生じる度に、これを解消しようという原始的思考がこの時の知覚の記憶像を呼び起こすことになるのだ。しかし、この知覚の再生は満足をもたらさないため、より合目的的な思考活動が始まり、興奮の抑制を可能にしていったのであろう。夢は原始的思考への退行であり、幼児期に由来する無意識的願望の充足、その願望に結合した記憶像の再生(知覚の再出現)を目指しているのである。
D 夢による覚醒 / 夢の機能 / 不安恐怖夢
夢過程はまず無意識の願望充足として許容されるが、前意識はこの願望を拒否し抑制する。つまり、夢を見る人にとってこの願望は気に入らないのであり、だからこそ、自我の願望は夢に不安という形式で現れるのである。
E 第一次および第二次過程 / 抑圧
興奮の自由な流出を目指す心的過程を第一次過程、その第一次過程の表象によって不快を生じそうな場合、これを阻止したり抑制する過程を第二次過程とする。第一次過程は知覚同一性を作り出すために興奮放出へ努力し、第二次過程はこの意図を放棄し、その代わりに思考同一性を獲得しようとするのだ。最初から与えられている第一次過程に対し、第二次過程は徐々に形成され、やがて幼児期の願望とは矛盾するような目標表象を作ることも多い。この場合、幼児期の願望充足は不快を生じることになるため、「抑圧」されることになる。
F 無意識と意識 / 現実
哲学者は無意識を意識的なものの対立物という意味で用いているが、心理学的な意味では、無意識は意識化されない無意識と、意識化できる無意識(前意識)の二つにわけることができる。無意識的なるものは、外界の現実と同じように未知なものであり、外界が感覚器官の報告によっては不完全にしか捉えられないように、意識のデータによっては不完全にしか捉えられないような、本来、現実的な心的なものなのである。 
 
フロイト4 「自我とエス」

 

意識と無意識的なもの
精神分析では、心的なものを意識的なものと無意識的なものに分ける。例えば、あるときに意識された表象は、次の瞬間には消えるのだが、それは再び意識されうる。それはその表象が潜在していた(無意識だった)ということであり、この潜在的な表象は意識されないまま、精神生活にとって影響を与えることができる。意識されないのはある種の力がそれに反対するからであり、この意識されない状態を抑圧といい、抑圧を起こしてそれを支持している力を、精神分析では「抵抗として感じる」と主張する。抑圧されたものは、無意識的なものの原型であり、無意識の概念は抑圧理論から得られたものなのだ。
しかし、「潜在的ではあるが意識されうるもの」もあり、記述的な意味では無意識は二種類あることになる。そこで(記述上の混乱を避けるために)、力動的な意味ではこれを前意識的と名づけることにし、無意識的という名前は「抑圧されて意識されないもの」にかぎることにする。これで、意識Bw、前意識Vbw、無意識Ubwの3つの術語が揃ったことになる。この区別は非常に有効なものであるが、さらに研究を進めていくと不十分であることが明らかになる。
われわれは個人の精神過程の脈絡ある一体制を自我と名づけたが、自我は精神の法廷であり、精神のあらゆる部分過程の調節を行ない、夜の間でさえ夢の検閲を続けている。精神のある傾向は自我によって抑圧され、意識から閉め出されるのであり、精神分析においても、連想が抑圧されたもの近づくと、自我の抵抗によって連想は停滞してしまう。しかし、患者は抵抗に左右されていることが分からない。つまり、自我の中には意識されないものがあるのであり、抑圧されたものと同じように、意識することなしに強い作用を示すのだ。結局、神経症は意識的なものと無意識的なものの葛藤ではなく、「統合する自我」と「分離された抑圧されたもの」との対立を考えねば説明できない。あらゆる「抑圧されたもの」は無意識的であるが、無意識的なものは全てが抑圧されているのではなく、自我の一部もまた無意識的なのである。 
自我とエス
内部から意識的になろうとするものは、記憶の痕跡によって可能になる。記憶体系が知覚〓意識体系に直接結びつくとすれば、記憶の残存物がもっている内部の備給は、知覚〓意識体系の要素へと容易に引き継がれると考えられる。この記憶痕跡の備給が知覚要素をおおうだけでなく、完全に知覚要素に移行してしまうと、知覚と区別しがたい幻覚となる可能性があるのだ。そして、何かが意識される(前意識的になる)のは言語表象との結合によるのであり、言語表象は聞かれた言語の記憶の、聴覚的な残存物なのである。一方、視覚的な記憶の残存物は、思考の具体的な素材として意識されても、思考を特徴づけるような素材間の諸関係については、視覚的表現を与えることができない。そのため、言語による思考よりも無意識的な過程に近いと言える。精神分析では、前意識的な仲介者を作り出すことで、抑圧されたものを意識的にするのである。
* フロイトは、意識は物表象と語表象の二つからなるが、無意識は物表象しかないと述べている。例えば夢には素材としての物表象だけが現れ、思考としての素材間の関係も視覚的な表象となって現れる。
快と不快の系列の内部知覚は、外部から由来する知覚よりもはるかに根源的である。このように内部から直接伝達する感覚の場合、無意識的表象を前意識にもたらす結合仲介物は、特に必要ではない。感覚は意識的か無意識的かのどちらかであり、たとえ感覚が言語表象と結合するときでさえ、意識的となるためには直接そうなるのであり、意識と前意識の相違は意味をもたないのだ。
このように、外部と内部の知覚と知覚〓意識の表面体系の関係が明らかになると、自我のことがより明らかとなる。自我はその核心である知覚体系から由来しており、記憶の残存物に依存している前意識を含んでいるが、それ自身は意識されない。一方、自我がその中で存続する他の心理的なもの(無意識的にふるまうもの)を、グロデックにならってエスと名づけよう。自我は知覚〓意識の仲介のもとで、外界の影響によって変化するエスの部分であり、その自我から知覚体系が核心として発展する。自我は知覚体系が表面を形成している部位に限局されており、自我とエスは下のほうで合流している。しかし、抑圧されたものもエスの一部であり、抑圧の抵抗によって自我とは分かれているが、エスを通して自我と連絡することができるのだ。これを図で示すと(273頁)、「聴覚帽」が自我の上に斜めにのっているようになる。
自我はエスに対する外界の影響とエスの意図を有効に発揮させるように努力し、快感原則の立場に現実原則をおこうと努力している。自我は理性を代表し、情熱を含むエスという奔馬を統御する騎手のようなものだ。しかし、熱心な熟慮を必要とする知的作業でも、意識にのぼらずに前意識的に行われることがある。それだけでなく、自己批判と良心のように、きわめて価値の高い精神活動でさえ無意識に行われ、重要な影響を及ぼすことがある。それは、分析中に抵抗が意識されないことからも分かるし、このような無意識的罪悪感こそ神経症に決定的な役割を演じているのだ。自我は意識的自我である前に、身体の感覚が投射された身体自我なのである。 
自我と超自我(自我理想)
メランコリー(鬱病)の苦悩は、失われた対象を自我の中に再現し、対象備給を同一視によって代償するというものであるが、このような代償は自我の形成に重大な貢献をしている。そもそも口唇期においては対象備給と同一視は区別されていなかったに違いない。性的対象が棄てられねばならないとき、口唇期への一種の退行がおこり、自我の中に対象をつくることで、自我は対象を棄てることが可能になるのであろう。この取り入れという過程は初期の発達段階ではしばしば起こるので、自我の性格は棄てられた対象備給の沈殿であり、対象選択の歴史を含んでいるのである。
性愛対象選択が自我変化に転ずること(対象の特質を自分の性格に取り入れること)は、自我がエスを支配し、エスとの関係を深める一つの方法である。自我が対象の性状を身につけるとき、自我はエスに対してさえ愛を強いる(自己を愛するようにしむける)のだ。このように、対象リビドーが自己愛リビドーに変わることは、性的目標の放棄をもたらし、非性化、すなわち一種の昇華をもたらす。
* 自我の対象同一視が多くなり、強くなりすぎて不調和になると、個々の同一視が互いに隔絶し、自我の分裂が生じる可能性がある。その極端な例が、個々の同一視が交替しながら、意識自体を引き裂くことが、いわゆる多相性人格であろう。
幼い時代に起こった同一視の効果は永続的であるため、自我理想の背後には最初の最も重要な同一視、特に父との同一視がかくされている。この関係には、エディプス関係の三角関係的な素因と、個体の両性的素質の二つが関わっている。男児の場合、最初は母に対する依存型の対象備給がはじまる一方、同一視によって父をわがものにする。しかし、母への性的願望が強くなると、父がこの願望の妨害者であることを認め、エディプス・コンプレックスを生じる。ここで父との同一視は、敵意の調子を帯びるようになり、母に対する父の位置を占めるために、父を除外したいという願望に変わる。そして、母との同一視か父との同一視を強化することで、(母との関係を保ちながら)母への対象備給を放棄し、エディプス・コンプレックスは崩壊する。普通は父との同一視を強化し、父との関係はアンビヴァレントになり、男児の男らしさは堅固なものになる。
しかし、父と母、どちらの同一視に終わるかは、両性的素質の相対的な強度に依存している。例えば、男児は母に対する愛情の対象選択だけでなく、女児のようにふるまい、父に対して女性的態度を、母に対して嫉妬深い敵対的態度を示す場合がある。女児の場合も、普通は母との同一視の強化によって女らしくなるのだが、父との同一視によって男らしさを現すことがある。より詳細に研究すれば、完全なエディプス・コンプレックスの場合、陽性と陰性の二重のコンプレックスがあって、この両性的素質が互いに干渉していると考えてよいだろう。
エディプス・コンプレックスに支配される性的段階の結果として、互いに結合した二つの同一視が設立され、自我の中に沈殿が起こる。この自我変化は特殊な立場を保ち、自我理想あるいは超自我として、自我の他の内容に対立することになる。しかし、超自我はエスが最初に対象を選択した際の単なる残存物ではなく、その対象選択に対する精力的な反動形成の意味を持っており、自我との関係は「お前は父のようであらねばならない」という勧告だけではなく、「お前は父のようであることはゆるされない」という禁制をも含んでいる。これは、自我理想がエディプス・コンプレックスの抑圧によって生まれたからであり、その抑圧が(権威、宗教教育、授業の影響で)加速度的に行われるほど、超自我は良心、無意識的罪悪感として自我を厳格に支配するのである。
自我理想とはエディプス・コンプレックスの遺産であり、自我が本来、外界現実の代表者であるのに対して、超自我は内的世界、つまりエスの代理人として自我に対立する。自我と理想の間の葛藤は、現実と心理の、外界と内界の対立を写すものなのである。その後の成長過程では、教師の命令や禁止等が自我理想に残り、良心として道徳的監視を行ない、自我の行為との間の緊張は罪悪感として感じられることになる。また、社会的感情は、共通の自我理想にもとづく他人との同一視によって成り立つ。 
二種類の本能
本能にはエロス(性本能、自己保存本能)と死の本能があるが、この二種類の衝動は混合することもあれば、解離する可能性もある。例えば性衝動のサディズムは衝動が混合しているが、独立したサディズムは解離の典型である。一般に、初期の段階から性器期への進歩はエロス成分が加わるのだが、性器期からサディズム肛門期への退行は衝動が解離すると考えられ、神経症では衝動解離と死の衝動の発現が見られる(後に述べる強迫神経症など)。この二種類の本能の対立は、愛と憎しみの対立で置き換えることもできる。様々な事情によって、愛は憎しみに変わる。アンビヴァレントな態度は最初からあるもので、変転は、エネルギーが性愛的興奮から離れて敵対的エネルギーに移ることによるのである。
この移動エネルギーは非性化したリビドーであり、自我はリビドーの一定部分を、自己とその目的のために昇華し、それによって緊張を支配するエスの仕事を助けるのだ。そもそもの初めに、あらゆるリビドーはエスの中に蓄積されたが、自我はまだ形成中であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給におくり、次に強化された自我はこの対象リビドーを占有(わがものに)し、自己をエスに対する愛の対象たらしめようとする。自我の自己愛は対象という二次的なものから撤退したものなのである。 
自我の依存性
自我は大部分が、放棄されたエスの対象備給の代わりになる同一化から形成されている。この同一化の最初の時期に属する超自我は、自我の中で特別の機関としてふるまい、その後、強化された自我と対立するようになるのだ。超自我は、自我がまだ弱い時期に起きた最初の同一化であり、エディプス・コンプレックスの遺産として強大な対象を取り入れた結果であるため、生涯にわたって強い支配力を保持することになる。子供が両親に従うように、自我は超自我の命令に服従するのだ。そして、エスのうちに深く入り込んだ超自我は、自我に対してエスの代表としてふるまい、意識から遠く離れているのである。
これらの関係を示す臨床的事実がある。例えば、分析中に治療の現状が良好であることを示したり、部分的解決が得られたりすると、きまったように状態を悪化させる人々がいる。これを陰性治療反応というが、問題は道徳的な要素、罪悪感にあるのだ。この無意識的罪悪感の原因は、かつての放棄された愛情関係、その影響下に形成された超自我(自我理想)にある。罪悪感を取り除くには、抑圧された原因を徐々に取り除き、意識的な罪悪感に変わるようにするしかない。また、分析者が自我理想の位置に置かれるかどうかも、治療結果を左右するだろう。
強迫神経症とメランコリーでは、罪悪感は非常に強く意識され、自我理想は特別な厳格さを示す。メランコリーの場合は超自我が意識を独占しており、批判対象は同一視によって自我に取り入れられているので、超自我は自我に対してサディズムを発揮する。この場合、死の本能が超自我を支配しており、自我は死に駆り立てられるのを防ぐためには躁病に転じるほかない。これに対してヒステリーでは、超自我の批判は抑圧され、罪悪感は無意識なままにとどまる。しかし強迫神経症では、自我は罪悪感が関係する素材だけしか抑圧できないため、抑圧された衝動によって罪悪感は生じるのだが、自我によって是認されることはない。
強迫神経症では、前性器的体制への退行によって、愛の衝動が(衝動解離によって)攻撃衝動にかわるのだが、メランコリーと違って対象は保持されているため、この攻撃衝動が自己へ向かうことはなく(つまり自殺衝動はない)、対象を滅ぼそうとする。この攻撃衝動はエスにとどまり、それに対して自我は反動形成や予防策を講じるのだが、それでも超自我はこの攻撃衝動に対して自我を非難する。そして、超自我の非難によって攻撃を統御すればするほど、攻撃衝動は自我へ向け換えられたことになる。死の本能は、リビドーを統御する力を与えるが、それは自己の生命を失う危険性をともなっているのである。
* 衝動解離はエロス的成分の昇華と破壊性の解放をもたらすのであり、超自我の場合も父との同一視によって衝動解離が生じ、その残忍性を強めることになったのであろう。
自我は外界の脅威、エスのリビドーからの脅威、超自我の脅威という、三様の不安におびやかされている。超自我に対する自我の不安、つまり良心の不安は去勢不安から引き継がれたものであり、死の不安も去勢不安の加工されたものだと考えられる。神経症的不安は、自我と超自我とのあいだの不安(去勢の、良心の、死の不安)によって強められるのであろう。自我はエスの無意識的な命令を合理化し、エスと現実や超自我との葛藤を解消しようとするのであり、精神分析は自我のエス征服をおしすすめるのに役立つのである。 
 
フロイト5 「ある幼児期神経症の病歴より」(症例 / 狼男)

 

本論文は症例「狼男」と呼ばれており、ある患者(以下、狼男と呼ぶ)の幼児期の神経症に関してのみ報告されたものである。狼男の幼児期神経症は、まず4歳頃に不安ヒステリー(動物恐怖症)として始まり、次第に強迫神経症へと変わって、10歳まで続いている。最初、狼男はひどく無関心な状態が続いていたため、分析に協力させるために、フロイトは転移と期限設定法を利用した。陽性転移が起きれば、不安〓抵抗が中和され、精神的平衡が成立する。さらに、一定の期限がきたら治療を打ち切る旨を告げ、患者の病気への執着を弱めたのである。こうして本格的な分析治療が始められることになった。
環境と病歴の概観
* 家族の構成は、父、母、姉、乳母。母親は病気がち。父親は抑鬱症。
第一期(3歳)……1歳半で原光景。以後、姉の誘惑を受けるまでおとなしい性格。
第二期(3歳〜4歳)……性格変化の時期(姉の誘惑後、暴れ、泣き叫び、イライラする)。
第三期(4歳〜4歳半)……動物恐怖症の時期(不安夢以後)。
第四期(4歳半から10歳)……強迫神経症の時期(宗教の導入後)。
誘惑およびその直接の結果
3歳の頃から姉の性的誘惑(お尻を見せ合ったり、ペニスを掴んで弄ぶ)が始まり、これが男性としての自己感情に不快を与えることになる。姉は知的にも優れており、狼男は姉に圧倒された生活を過ごしていた。この姉に対して受動的であった事実は、姉に対する能動的な態度を示す空想(姉の衣服をはぎ取る等)によって隠蔽されることになる。姉の誘惑を拒絶した狼男は、自分の性器を触ってもらいたいという受動的な性目標をナーニャ(乳母)に向け、性器いじりを始めた。しかし、ナーニャは「そんなことをする子はそこの所(性器)に<傷>を受けますよ」と言う(去勢威嚇)。そのため、彼の性生活は性器以前の性的体制に退行し、サディズム的な肛門愛的傾向を帯びることになる。こうして、怒りっぽくなり、不満を爆発させ、小さな動物に対しても残虐になった。また、サディズムはマゾヒズムにも転化し、姉によって植えつけられた受動的な態度は父親に向けられ、マゾヒズム的な意図の対象とされた。 
夢と原光景
姉の誘惑によって始まった悪行と性的倒錯傾向は、4歳以降、神経症へと変わる。そのきっかけになったのは、ある不安夢である。夢の内容は、ある冬の夜、窓がひとりでに開き、外には大きな木があり、そこに幾匹かの白い狼が座っていた、というものである。この夢を形成した一番強い願望は、父から(同性愛的)性的満足を得ることであったに違いない。この願望は、1歳半の時に眼にした両親の性交の記憶(原光景)を蘇らせ、偽装されて夢となったのだ。しかしこの光景は、ナーニャの威嚇、おしっこをしている少女を見たことなど、漠然と感じていた去勢が、実際に起こりうることを確信させることになる。母親のような満足を得るためには、去勢されねばならないというわけだ。この父の脅威から逃れるために、彼は父親への受動的態度を抑圧し、狼=父親に対して怖れを抱くようになったのである(動物恐怖症)。 
二、三の討論
早期幼児期の記憶は、現実のできごとの再現ではなく、空想形成物であるかもしれない。しかし、本症例のように、「その後病歴に対して著しい意義を持つような内容を有する光景は、通例は記憶として再生されるものではなく、むしろ数多くの標示を総合しながら骨を折って一歩一歩推定――されねばならない」(分析による構成)。 
強迫神経症
4歳半の頃、彼の敏感で不安な状態を改善するために、母親は聖書を教え始める。その結果、動物恐怖症は解消されたのだが、新しく強迫症状が現れ始めることになる。彼は、神の受難に耐えるキリストに同一化し、父に対するマゾヒズム的態度を昇華した。非常に信心深くなり、床につく前には必ず長いお祈りをし、際限なく十字を切り、夕方には聖像の一つ一つに接吻するようになる。しかし、一方ではキリストに受難を与えた神=父へのサディズム的な敵意も生じ、「神〓豚」「神〓大便」という連想をどうしても避けることができなかった。フロイトによれば、このアンビヴァレンツな葛藤は肛門愛に関係している。また、乞食や不具者、老人を見ると大きく息を吐き出し、他の条件では息を吸い込まねばならなかった。それは、悪霊を吐き出し、聖霊を吸い込むという意味があり、病気でやつれた父を見て、そうなりたくはないという願望の現れであった。その後、ドイツ人家庭教師の影響で信仰を捨て、受動的(同性愛的)態度(マゾヒズム)を脱却し、かなり正常な発達を歩むことになる(このことが、分析治療における転移において役立つことになったとフロイトは述べている)。 
肛門愛とコンプレックス
強迫神経症は加虐的・肛門愛的素質の上に発生している。彼は幼児期から腸障害に苦しんでおり、分析治療を受ける頃にも浣腸が与えられなければ排便活動ができない状態にあった。この腸障害は強迫神経症の根底にある部分的なヒステリーである。不安夢によって抑圧された父への女性的態度は、腸症状に退行し、幼児期の下痢や便秘、腹痛となって表現された。大便は身体から分離可能な贈物であり、子ども、ペニスを意味している。排便行為は快感と引き換えに身体の一部を放棄することであり、母親のように去勢を受け入れて父から快楽を与えられ、子どもを父親に贈ることなのである。動物恐怖症として抑圧されていた去勢が受け入れられ、強迫神経症になったわけだ。 
根源期からの追加 / 解決
狼男の記憶に、黄色い縞の入った大きな蝶に不安を感じた、というものがある。この記憶の背後には子守娘(グルーシャという、黄色い縞のある梨と同じ名前)の記憶が隠蔽されている。彼は子守娘が床を洗っている時、小便を漏らしてしまったのである。排尿行為は性的な誘惑を意味している。子守娘の姿勢(蝶の羽のように、脚がV字になっていた?)に刺激された失禁は、子守娘にしかられたのであろう(去勢威嚇)。このグルーシャとの光景の分析によって、患者の抵抗はなくなり、後はただ連想を集めて構成するだけに専心すればよかった。 
総括と諸問題
口唇的体制は摂食本能に依存した性的興奮であるため、その統御がうまくいかなければ摂食障害となる。やがて口唇的体制は肛門愛体制に発達し、姉の誘惑によって性器的体制に目覚め始めるが、ナーニャの去勢威嚇によって、再びサディスティックな肛門愛体制に退行する。そしてサディズムはマゾヒズムに転化し、アンビヴァレンツな葛藤を抱え込む。次に不安夢による原光景の活性化によって、性器的体制が再び活動し始めるのだが、去勢不安によって恐怖症となる。そのため、無意識的同性愛は腸障害(ヒステリー)を生じさせ、肛門愛のサディズム、マゾヒズムはその後も沈殿して活動を継続。やがて抑圧という高度な形式(宗教による)によって恐怖症は解消するが、代わりに強迫神経症となり、潜在的に活動していたサディズム、マゾヒズムは、神への冒涜、自己=キリストの受難という形ではけ口を得る。やがてドイツ人家庭教師の影響下に、表面的には性器的体制へと移行し、成人となる。しかし、淋病によって去勢不安が復活し、男性的自己愛が挫折。神経症となってフロイトの分析を受けることになったのである。 
 
フロイト6 「制止、症状、不安」

 

制止とは自我機能の制限の表現であり、自我とエスまたは超自我との葛藤を避けるために起きる機能低下である。この機能の異常な変化や新たな作用が問題となったとき、それは症状と呼ばれるが、それは中断された衝動満足の徴候と代償であり、抑圧過程の結果なのだ。自我はこうした症状と闘うために、様々な防衛を試みることになる。この防衛には抑圧の他に、置き換え、退行、反動形成など、様々な種類があり、その違いによって神経症を分類することができる。また、防衛は自我とエスの区別以前ではその方法が異なり、超自我の形成以前と以後でも異なっている。 
恐怖症、ヒステリー、強迫神経症の防衛
恐怖症1(症例ハンス): ハンスは馬に噛まれるという不安(症状)のために、街を歩くこともできなかった(制止)。馬は父親が置き換えられたものであり、原因はエディプス状況における去勢不安である。幼い年齢では動物と人の違いがまだ分からないので容易に置き換えられ、動物恐怖症を生じやすい。彼は父に対して愛情と嫌悪という両立性の葛藤があり、一方では父親に愛されたいと感じ、それが馬に噛まれる、つまり父親に食べられるという、受動的(女性的)な情愛衝動を示している。他方、それ以上に母親への情愛衝動が強く、母との関係を邪魔する存在として、父親を憎むことになる。しかし、父親への愛情からこの攻撃衝動は抑圧され、逆に父親からの攻撃という反対物に転化し、さらにそれは馬からの攻撃に置き換えられる。それは同時に去勢不安を示しているのである。
恐怖症2(症例狼男): 狼恐怖症のロシア人少年の場合、彼もハンスと同じように去勢不安が原因だが、それは母親をめぐるライバル心からではなく、母親のように父に愛されたいという欲望が強い。つまり、ハンスと違って、両立性の葛藤において父親への愛情がより強かったのだ。しかし、母親のように愛されるためには、自分も去勢された存在でなければならないことになる。この去勢不安が、彼の恐怖症を引き起こしているのである。
ヒステリー: 転換ヒステリーでは、不安は生じない代わりに、運動麻痺、不随意性の運動や痙攣、痛みや幻覚など、症状は運動機能に現れる(転換する)。その原因は、抑圧がおこった状況の中で痛みがあった、幻覚はその状況での知覚であった、麻痺している運動はその状況で遂行されるはずであった、などが考えられる。つまり、身体的な苦痛はあるのだが、その代わりに不安は完全に抑圧されている。
強迫神経症1: 強迫神経症の症状には、まず禁止、警戒、処罰などの否定的な性質のものがあり、その後、これと反対の代償満足が生じる場合がある。原因はヒステリーと同じように情愛衝動だが、性器期的編成が弱いこともあり、抑圧は不完全にならざるを得ない(罪悪感が関係する素材だけしか抑圧できない)。その結果、自我の防衛は初期のサディズム的肛門期への退行に向い、衝動解離によって情愛衝動は攻撃衝動へと変わり、対象への破壊衝動と同時に、超自我の破壊性を強めることになる。そして、自我は厳格化した超自我に服従するあまり、高度な反動形成を発展させ、極度に良心的、同情的、潔癖となる。しかし、超自我の過酷な批判を甘受する(禁止を守る)ことによって、自我は罪悪感を自覚せずにすむという代償満足を得ることができる。逆に言えば、ヒステリーと違い、不安や罪悪感が生じるからこそ、それを償おうと禁止を守るのである。
強迫神経症2: 強迫神経症には取消と分離という二つの手段がある。取消は否定をこととする魔術的な儀式であり、運動の象徴によって不安な状況が起こらないようにし、その状況自体を吹き払ってしまおうとする防衛反応である。また、強迫神経症ではヒステリーのように不安な体験を忘れ去ること(完全な抑圧)はできないが、その情緒を失い、連想的な関係を制圧したり中断することはできる。これを分離といい、正常者が都合の悪いことを遠ざけたり、注意を逸らしたりするのと基本的には同じである。また、攻撃衝動と情愛衝動はどちらも身体的な接触や結合が関わるため、強迫神経症では特に接触や結合が禁止される行為となりやすい。 
不安の問題
不安は期待と明瞭な関係をもち、漠然としていることと、対象がないという特徴がある。対象がある場合は恐怖と呼ばれることになるだろう。不安の根底には興奮の高まりがあり、一方ではこれが不快の性質をつくりだし、他方では緊張解除によって軽減される。不安は危険な状態への反応として起こり、そういう状態に再びおかれると、きまって再生される。そのため、不安は危険状況への信号としての役割を担っており、この信号によって自我の制止が起こり、精神神経症の原因ともなる。例えば、洗浄強迫の場合、手を洗うという強迫行為は、不安の襲来をふせぐという意図をもっている。一方、危険な状況下で自動的に不安反応が現れる場合もあり、これは現実神経症の原因となる。不安は神経症の基本現象であり、症状形成はすべて不安を避けるために企てられたものである。といっても、この不安の原因は自覚されはしない。現実の不安は分かっている危険に対する不安だが、神経症的不安は分からない危険に対する不安なのである。
子供の不安は、愛する人(母親)を見失うという唯一の条件に還元できる。最初は出産という生物学的な意味での母親との離別があり(ランク)、次に直接の対象喪失という意味で母からの離別がある。母親が見えなくなったり、いなくなったりしたときの不安がこれである。乳児は母親が一度目の前から消えると、もう二度と見られないかのように思いこむのであり、それがまた現れるということは学習してはじめて分かることである。「いないいないばあ」という遊戯は、この大切な知識を教えるものでもあるのだ。やがて、対象がちゃんといることが分かっても、今度は対象からの愛情を失う危険性が、不安の条件となるのである。去勢不安もまた、価値ある対象(性器)の喪失を意味し、それが超自我の形成によって、良心の不安や社会的な不安に発展する。この場合、超自我の処罰や怒りが自我の不安を引き起こすわけだが、それは超自我(両親)の愛情を失う不安でもあるのだ。そして、超自我に対する不安の最後の変化は、死の不安である。 
 
フロイト7 「ナルシシズム入門」

 

ネッケによれば、「ナルシシズム」という述語は、ある人間が自分の肉体を対象のように扱い、性的な関心を抱いてこれを眺め、さすり、愛撫して、ついには完全な満足に達する行為を表すもので、一種の性目標倒錯を意味する。しかし、ナルシシズム的な態度は非常に広範囲にわたって認められるため(例えば神経症者はナルシシズム的態度によって精神分析を困難にする)、性目標倒錯ではなく、自己保存本能のエゴイズムをリビドー面で補足するものであろう。
例えば、パラフレニア患者(精神分裂病)は誇大妄想と、外界の人物や事物からの関心の離反を特徴としており、自己のリビドーを外界から撤収している。誇大妄想は対象リビドーの犠牲によって生じたものであり、外界から撤収されたリビドーは自我に供給され、ナルシシズム的態度になる(二次的なナルシシズム)。また、同様なナルシシズム的態度は原始人や児童にも見られる。このように、自我リビドーと対象リビドーには一つの対立があり、一方が余計に使われれば、それだけ他方が減ってゆく。後者の発展段階が恋着であり、その逆が偏執病者の世界没落の空想である。そして、自我に固有のリビドー(自我リビドー)と、対象に付加されるリビドー(対象リビドー)を区別することは、性欲動と自我欲動とを互いに区別するという仮説(リビドー理論)に基づいている。

感情転移神経症(ヒステリー、強迫神経症)が欲動のリビドー的な動きの追求を可能にしたように、早発性痴呆やパラノイアは自我心理への洞察を可能にする。また、器質的疾患やヒポコンデリー、愛情生活を観察することも、ナルシシズム研究には重要である。順を追って述べてみよう。
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者は、リビドー的関心を愛の対象から引き上げ、愛することをやめている。病人はリビドーの割当を彼の自我へと引き戻し、全快後に再びそれを送り出すのだ。同じように、ヒポコンデリー(心気症:悪くもないのに身体的な苦しみを訴える)も、関心とリビドーを外界の対象から引っ込めて、自分が気を取られている器官に集中する。感情転移神経症が対象リビドーの鬱積によって起こるように、ヒポコンデリーは自我リビドーの鬱積によって起こるのである。ヒポコンデリーはパラフレニアにおいても生じ、その関係は、現実神経症(不安神経症、神経衰弱症)が感情転移神経症に対する関係と同じである。つまり、感情転移神経症における不安に相当するのが、パラフレニアにおけるヒポコンデリーであり、不安を解消するための空想形成(転換、反動形成などの心的加工)に相当するのが、パラフレニアの誇大妄想なのである。パラフレニアが感情転移神経症と区別される点は、拒否によって自由になったリビドーが、空想中の対象にとどまらず、自我に回帰してくることにある。
ナルシシズム研究の第三の方途は人間の愛情生活である。最初の自体愛的な性的満足は、自己保存に役立つ機能として体験され、世話をしてくれる母親(またはその代理者)に依存している。それが後に自立した性の欲動となり、母親は最初の性的対象となるのだ(依存型)。しかし、リビドー発達に障害をこうむった場合、愛の対象を母親ではなく自分自身を選ぶことがある(ナルシシズム型)。病気ではなくとも、全ての人間は一次的ナルシシズムをそなえており、これが対象選択の際に優勢に現れてくることも少なくない。男女を比較してみると、男性は(母親への転移によって)依存型になりやすく、対象愛のために自我リビドーが乏しくなりやすい。女性の場合は、思春期になるにつれて(女性性器の発達のために)ナルシシズムが高まり、対象愛を構成しがたいものにするので、愛するより愛されることを求めやすい。また、子どもができれば対象愛は強くなるのだが、ナルシシズムが復活すれば(同一視)、子どもは「赤ん坊陛下」として甘やかされることなる。

リビドー的な欲動活動は、それが文化的および倫理的な諸観念と衝突すると、これらの観念を自分に対する規範として認め、それらが要求するところに自ら従おうとする。つまり、自我の自尊心から抑圧が生じるのである。自我の側からみた抑圧の条件は、自己のうちに一つの理想をうち立て、それに現実の自我をあわせることにある。このような「理想自我」にあてはまるのが、幼時には現実の自我が享受していた自己愛なのだ。ナルシシズムは、幼時の自我と同様に完全性をそなえて存在する、この新たな理想的な自我に変位したものとして姿を現す。しかし、この理想自我の完全性は現実の様々な規範によって崩され、やがて「自我理想」という新しい形式のなかに、もう一度完全性を獲得しようとする。彼が自己の理想としてその眼前に投影するものは、幼時の失われたナルシシズムの代理物なのである。また、こうした理想形成は自我の諸要求を高めると共に抑圧を支援するものであり、昇華のように別の目標に要求を向け換えることではない(昇華は抑圧を生じない)。
ナルシシズム的満足を確保するために現実の自我を絶えず監視し、理想に合わせようとするような心的法廷があるとすれば、注意妄想や観察妄想を正しく理解することができるだろう。彼らは自分たちの考えが全て知られているし、自分たちの行為は観察され、監視されているのだと訴え、「いま彼女はまたあの事を考えている」と、その声の存在を主張する。実際、われわれの一切の意図を観察し、関知し、批判するこのような力は事実存在しており、正常な生活を営んでいるわれわれにも見られる。いわば、この心的法廷には良心がその番人として立てられているのだ。良心という掟は、第一には両親の批判の、ついで社会(教師、同胞、世論)の批判の具体化されたものであり、はじめは外部からの禁止または妨害によって、抑圧傾向が生じてくる際に反復される現象であった。この力が退行すると、観察妄想のように声が具体的に聞こえ、良心の発達史を逆行的に再生することになる。自己観察の上に築かれた良心の自己批判は、内界探求の役目も果たし、この内界探求が哲学的思考に材料を提供している。このことは、パラノイア患者の思弁的体系形成(妄想)とも無関係ではないだろう。
自我感情はまず自我誇大という形で現れる(自尊心のようなもの)。人が現に所有しまたはこれまでに達成した一切のもの、経験によって裏書きされた素朴な全能感情のあらゆる残存物が、自我感情の高揚を助けるのだ。また、自我感情はナルシシズム的リビドーに緊密に依存している。例えばパラフレニアにおいては自我感情が高められ、感情転移神経症においては低下しているし、愛されないことは自我感情を低下させ、愛されることは自我感情を高めるのである。対象へのリビドー割当は自我感情を高めないため、愛する対象への依存や恋着は自我感情を低下させる。したがって、恋着している人は自己のナルシシズムの一部を喪失し、卑屈になるのであり、愛されなければ自我感情を高めることができない。愛されないまま自我感情を再び高めるには、対象からリビドーを引き上げるしかないのだ。
自我の発達は一次的ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、このナルシシズムを再び獲得しようと激しい努力を生み出し、自我理想を形成する。つまり、リビドーを自我理想に、理想の実現によって得られる満足感に移動させるのである。同時に、自我は対象割当のリビドーを送り出してきたものであり、自我はこのような割当と自我理想のために貧困になるのだが、対象満足や理想実現によって再び豊富になる。自我感情の一部は一次的なものであり、小児ナルシシズムの名残だが、第二の部分は経験によって裏書きされた全能性(自我理想の実現)に由来し、第三の部分は対象リビドーの満足に由来している。また、性的理想は自我理想に対して補助関係にあり、自我に理想として欠けている長所を所有する者は愛されやすい。自我理想の実現が困難な人は、性的理想によって自我感情を高めようとするのである。最後に、自我理想は社会的な部分を有しており、家族や階級、国民の共通の理想でもある。この理想が実現されないと罪責の意識が生じるのだが、それは元来、両親の愛を失うことへの不安から、後に不特定多数者への罪責感になったのだ。 
 
アンナ・フロイト8 「自我と防衛」

 

第一編 防衛機構の理論 
1章 自我の位置と役割
フロイトが精神分析を始めた頃は、自我は問題にされず、深層の無意識を明らかにすること、抑圧された衝動や感情、空想を研究することが重要であった。つまり、精神分析は深層心理学と同じものと見なされていたのだ。しかし、実際に患者を治療しようとすれば自我の錯乱に直面するため、その異常さを取り除いて自我の健康を取り戻すことが必要となる。1920年、「快感原則の彼岸」と「集団心理学と自我の分析」において、フロイトは自我の研究の端緒を開いた。現在の精神分析の課題は、人格を構成するエス、自我、超自我と呼ばれる三つの部分(審級)の相互関係、外界との関係を研究することにある。1920年以前の精神分析ではエス(無意識)を明らかにすることが課題だったが、以後においては自我の構造を明らかにすることが新しい課題となったのである。
自我を研究すれば、エスや超自我は自我を媒介にして間接的に知ることができる。エスは意識に現れたときに間接的に推測できるだけであり、超自我もはっきり意識されているわけではない。自我の変化の仕方を見れば、どのようなエスの衝動があるのか、どのような超自我の命令が働いているのかが明らかになるのだ。
「エスの領域は、いわゆる《一次過程》とよばれるような性質をもった領域である。すなわち、この無意識的な領域においては、観念はバラバラで、論理的な統一がなく、ある観念は他の観念と置き換えられやすく、互いに対立しているものが排他的にならず、矛盾せずに並存している。」(p.9)。「これに反して、自我の領域においては、観念は厳格な規則にしたがって連合される。論理的に理路整然としている。これがいわゆる《二次過程》と呼ばれているものである。すなわち、二次過程は、衝動を簡単に満足させないようにする。満足させようとするならば、自我の承認を得なければならない。」(p.10)。現実のルールを無視して衝動を満足させることはできないのだ。その上、超自我が倫理的、道徳的規範によって自我を統制しているため、この規範に一致しなければ衝動を満足させることはできない。
「衝動は自我から批判され、変容をせまられるので、尋常な方法をすてて、奇襲作戦をこころみ、自我を圧倒し、満足を得ようとする。衝動がこのような敵意にみちた侵略をするから、自我は疑いぶかくなる。自我は反攻作戦をこころみ、逆にエスの領域のなかに侵入してゆこうとする。自我の反攻作戦の目的は、衝動を永久に沈黙させることである。自我は適当な防衛法を利用して、衝動の侵略をふせぎ、自分自身を維持しようとする。」(p.10-11)。「われわれが知ることのできるのは、歪められない、もとのままのエスの衝動ではなく、自我が反攻作戦につかう防衛法によって変形され、自我の色彩が加えられたエスの衝動である。分析者の研究課題は、心理過程がエス、自我、超自我の間につくられた妥協の過程であることを明らかにすることである。」(p.11)。 
2章 エス、自我、超自我は分析的にいかに研究されるか
精神分析療法が発見される以前の催眠法においては、無意識的なものを理解しようとはしていたが、自我の役割はほとんど考えられていなかった。むしろ、自我は催眠を妨げるものであるため、催眠は自我の妨害を除去し、深層の無意識を明らかにするものであった。無意識を患者に説き聞かせ、意識化させれば症状は消える、というわけだ。しかし、無理に意識的されたエスの衝動に対して、自我は新たな自己防衛の抗争を始めるため、催眠法の効果は一時的なものでしかない。
1895年、フロイトとブロイアーの「ヒステリー研究」において明らかされた自由連想法では、自我を強いて除去することはなかった。そのかわり、自我は連想を評価したり論理的関係に気を配ることを禁じられ、エスが話しやすくなるように自制を求められる。しかし、催眠と違って自我は元気であるため、様々な防衛法を使って連想の流れを邪魔し、自我はエスに対して《抵抗》を示す。分析の規則を厳守させようとすることが、むしろ葛藤を生み出すのだ。そこで、分析者の注意は連想から抵抗に、エスの内容から自我の活動に移される。連想に及ぼす影響から、どんな防衛法を使ったのかを明らかにし、自我を再構成するのだ。したがって、分析者の任務は防衛機構を知ることであり、次に防衛機構によって歪められたものを元通りにすることである。置き換えられたものを修正し、分離されたものを真の文脈に戻し、切断された関係を統合させる。そこで、もう一度自我分析からエス分析に注意を移すのだ。精神分析は一方向的な催眠法と違い、自我とエスの二方向に交互に注意を向けながら治療する方法なのである。
患者が分析の根本規則に従っている時は、意図的に自我の機能を停止しているのだが、夢を見ている時は、眠りによって自我の機能は自動的に停止している。したがって、夢の解釈は、潜在夢の思想を明らかにする限りではエスの研究に役に立つ。夢における象徴を解釈すれば、エスの内容が明らかになるのである。一方、夢における歪曲や置き換えからは、自我の防衛を知ることができる。
転移の解釈も自我分析とエス分析に分けることができる。「患者が分析者に対して経験するあらゆる衝動興奮が、転移とよばれるものである。この興奮はそのときの分析状況にそくして新しくつくりだされたものではない。この興奮は小さいとき――ほんとうに全く幼児時代の対人関係に起源をもち、分析中に反復強迫のために再生されたものにすぎない。」(p.24)。そのため、転移は患者の過去の情緒的経験を知るのに都合がよい。転移は次の3つに分けられる。
a.感情転移: 患者は分析者に対して、愛、憎しみ、嫉妬、不安のような激しい感情を抱き、自分の感情がかき乱されていると思う。これらの感情の源泉は、幼児期の感情関係、エディプス・コンプレックスや去勢コンプレックスの中にある。この転移から、幼児期の衝動生活を明らかにすることができる。
b.防衛の転移: 幼児期の衝動だけでなく、その時の防衛法まで強迫的に反復する。この場合、分析の焦点を衝動から特定の衝動防衛の機構に、つまりエスから自我に移すほうがよい。この転移を解釈することは、エスの内容だけでなく自我の活動も明らかにすることができるのだ。
c.行為に移された転移: 日常生活では自我の方が強いのだが、分析状況ではエスの方が強くなるようにしむけられる。転移が強くなると、転移の感情に含まれている衝動や防衛を、日常生活の行為に現しはじめる。この行為を解釈すれば、自我やエスに供給された実際のエネルギー量も明らかにすることができるが、これは防衛の転移より扱いにくく、治療的に利益の少ないものであり、避けられねばならない。
今日の精神分析においては、自我の大部分が無意識的なものであることがわかり、自我分析が重要なものとなってきた。しかし、自我の抵抗ばかりを分析していれば、エスの内容は犠牲にされざるを得ないし、強度の転移は多くの材料を提供するが、行為に移されれば分析状況を越えたものになり、治療関係を修正することが困難になる。自我分析とエス分析のバランスが大事なのである。 
3章 分析の対象としての自我の防衛活動
「分析者の課題は、無意識的なものを意識的にすることである。無意識的なものは、エス、自我、超自我のいずれの領域にもふくまれている。どんな領域にふくまれていようと、とにかく、無意識的なものを意識的にすることが分析の課題である。分析者はいずれの領域にふくまれている無意識的なものにも、平等に、客観的に注意をむける必要がある。」(p.36)。
あらゆる抵抗は自我の防衛工作から起きてくるため、抵抗としてあらわれるものはすべて自我分析に役立つ。また、自我は衝動にともなっておきる情緒に対しても、抑圧、置き換え、転倒のような防衛法を利用して情緒の表出を防ごうとする。したがって、情緒の変化から自我を知ることもできるのだ。自我の防衛を研究できるもう一つ分野は《性格》である。性格は過去において旺盛であった防衛過程の名残りであり、ある防衛過程が繰り返されることで永続化され、現実に防衛すべき状況から離れて《性格の装甲》(ライヒ)にまで発展するのだ。性格の装甲を分析する場合、防衛法は凝固した姿でしか理解されないし、意識にもたらすことは難しい。
特定の神経症と特殊な防衛法の間には規則正しい関係がある。例えば、ヒステリー患者は衝動の侵略に対して、抑圧によって観念表象を意識から排除する。強迫神経症の場合は、衝動を全体の文脈から切り離し、観念表象と情緒を隔離してしまう。
児童分析においては自由連想が使えないという欠点がある。エスの情報は自由連想でなくとも、例えば夢や遊戯、描画などから理解することができるが、自由連想を使わない分析は、分析の根本規則(自我の自制)によって生じる葛藤を生み出すことができない。この葛藤こそ自我に抵抗を生じさせ、防衛活動を明らかにすることができるのである。つまり、児童分析はエス分析には強いが、自我分析には弱い、ということだ。イギリス学派は児童の遊戯を大人の自由連想と同格に扱いうると考え、遊戯の中断を自由連想の中断と同じように見なし、自我の防衛を明らかにできると主張している。しかし、これは象徴解釈を極端にまでおしすすめる危険があるので適当ではない。自由連想を使えないという欠点は、情緒の変化の分析によって補えばよい。例えば落胆するかと思うと無関心であったり、嫉妬するかわりに親切である場合、通常の情緒の変化を妨げる自我の防衛が働いていると考えられるのだ。 
4章 防衛機構
フロイトが防衛という言葉を最初に使ったのは「防衛〓精神神経病」(1894)だが、その後、防衛という言葉はあまり使用されず、抑圧という言葉が使われるようになった。しかし、「制止、症状、不安」(1926)の補注で、フロイトは防衛という概念を見直し、自我が利用する手段一般を防衛と呼んだほうがよい、抑圧は防衛の一種だと述べている。そして、特定の症状と特定の防衛法には緊密な関係があることも、すでにフロイトによって示唆されているのである。例えば、ヒステリーには抑圧、パラノイアには投影、強迫神経症には転倒が利用されるのだ。自我の防衛法は、退行、抑圧、反動形成、隔離、打消し、投影、取り入れ、リビドーの自己への向け換え、転倒、昇華あるいは置き換え、という十種類が考えられている。
若い婦人の事例: 彼女は兄弟の影響で男根羨望に苦しめられ、嫉妬心から母親に激しい敵意を感じていた。しかし、一方では愛情も強かったために、この敵意は母親を失う不安を引き起こし、自分を激しく批判するようになる。この愛憎の矛盾した葛藤を解決するために、彼女は憎しみの感情を母以外の他人に向けた(置き換え)。しかし、この置き換えでは葛藤は十分に解決されなかったため、憎しみを内に向けるようになる(リビドーの自己への向け換え)。今度は自虐的傾向が強くなったため、自分が他人を憎んでいるのではなく、他人が自分を憎んでいるのだ、と確信するようになる(投影)。こうして彼女は罪悪感から解放されたのだが、愛されているという感じを持つことはできなくなった。投影という防衛機構を利用したことは、彼女の性格にパラノイアの刻印をおすことになったのである。
もし彼女が憎しみを抑圧によって解決し、身体的症状に転換されていたなら、ヒステリーとなっていただろう。同じように憎しみが抑圧されていても、抑圧されたものが逆戻りしないように反動形成が作られていたら(つまり母に過度にやさしくなっていたら)、そして強迫的な儀式によって攻撃衝動が爆発しないように防衛されていたら、強迫神経症となっていたかもしれない。自我が抑圧を利用するなら、葛藤は解決されるがヒステリーや強迫神経症になってしまう。抑圧は他の防衛法に比べると独特な位置を占めており、強大な衝動興奮をも克服することができるのだが、情緒的、衝動的生活から意識的なものは追放され、自我の統制はなくなり、永久に人格の統一を破壊する危険性がある。このため、神経症になりやすいのである。
すでにフロイトも指摘していたように、エス、自我、超自我が分化した心的体制で利用される防衛法と、それ以前の防衛法では違いがある。自我とエスが分化していなければ抑圧は問題にならないし、抑圧や昇華は発達過程の後期に使用される。退行、転倒、リビドーの自己への向け換えは、おそらく発達的差異に関わりなく、衝動と同じくらい古いものであろう。投影や取り入れは、自我と外界が分化していなければ利用できないと考えられる。しかし、イギリス学派によれば、自我が外界から分化するのは投影や取り入れの機構によるものである。 
5章 不安や危険にもとづく防衛過程の概観
大人の神経症の場合、自我が衝動を恐れるのは超自我を恐れているのであり、自我の防衛は超自我にもとづく不安によって生じている。超自我は理想的基準を代表し、その基準に照らして性欲を禁止し、攻撃を反社会的であると決めつける。自我は独立性を失い、超自我の願望を遂行する道具の位置に格下げされるのである。自我は必ずしも願望を認めないわけではないが、超自我が衝動の満足を禁止しているため、その命令に服従して、エスと抗争せざるを得ないのだ。
「もし、神経症が超自我の峻厳さからつくられるものであるならば、子どもの養育を受け持っている人々が、ただ、過度に厳格な超自我を形成するようなことは、どんなこともしないようになればよい、ということになる。」(p.70)。子どもは同一視によって、両親を手本にして超自我を作るので、両親は子どもに対し、極端に厳格な道徳的掟を見せつけるべきではない。攻撃性についても、外界へのはけ口が必要である。そうすれば、子どもは大人になっても残忍な超自我の不安に怯えずにすみ、神経症になる心配もない、という考え方もある。しかし、こうした(ライヒや一部の教育者による)理想は、現実的なものではない。実際には超自我に関係なく神経症になる場合あることは、幼児神経症を見れば明らかである。
子どもの神経症の場合、衝動に対する防衛は超自我の不安ではなく、現実の不安によって起こされる。幼児の自我は、養育している人たちが衝動の満足を禁止するため、そうした現実的な罰(特に去勢)を恐れるのである。重要なのは、外界からの不安であろうと、超自我の不安であろうと、不安によって防衛過程が起こるということだ。また、超自我や両親の援助がないと感じる場合、そして衝動が過度に強い場合においても、自我の不安が生じ、神経症になることがある。自我の不安は、良心の不安や現実の不安によって、普段は隠されているのである。
「分析という治療は、患者の防衛をとりのぞき、これまで防衛されていた衝動の興奮や情緒をあらためて意識にもたらし、自我が超自我や衝動や情緒ともっとも安全なかたちで和解できるようにすることである。」(p.79)。防衛が超自我の不安によって起きている場合は、葛藤は全く心理的な問題であるから、超自我が穏当なものになれば和解は容易である。幼児神経症のように現実の不安が問題である場合は、養育者の態度変更が必要である。分析は自我を強める場合もあれば弱めることもある。自我を強めることができれば、治療は成功に向かっているのである。 
第二編 現実の不安や現実の危険をさける例 / 幼児期の防衛

 

6章 空想における現実否認
防衛の精神分析的研究は、エスと自我の葛藤(ヒステリー、強迫神経症の分析)にはじまり、次に自我と超自我の葛藤(メランコリーの分析)、自我と外界(現実)の葛藤(動物恐怖症の分析)へと、その研究を進めてきた。特に幼児期は身体的に弱く、誰かに頼らなければならないので、現実の不快や危険にさらされやすい。では、幼児はどのように外界に対して防衛するのだろうか。
ハンスの動物恐怖症: ハンスは母を愛し、父には嫉妬のために攻撃的であった。しかし、父を愛してもいたので、攻撃的衝動の罰として、自分は去勢されるのではないか、という不安がおきた。この去勢不安を現実の不安と同じように恐ろしく感じたので、まず《置き換え》という防衛法が利用された。父に対する不安は動物への不安に置き換えられ、父に対する恐怖を《転倒》して、父から迫害されているという不安に換えた。さらに、口唇期の特性である、咬み切られるのではないか、という不安にまで《退行》した。こうして、母への禁止された愛情、父に対する攻撃衝動は意識から消えたのだが、去勢不安はウマへの恐怖として残り、戸外へ出ることを断念しなければならなくなった。ハンスの恐怖症を治すためには、不安がウマとは関係ないことを示し、その後で父を恐れる必要もないことを示す必要がある。しかし、ハンスは恐怖症が治った後も、父より身体(性器)が小さいことで、父への嫉妬、攻撃性は残っていた。そのため、ハンスは「鉛管工が釘抜きで尻と性器をぬきとり、より大きく、より立派なものにつけかえる」という空想(父と同じ性器をもつ空想)によって、現実を否認し、自分の願望を満たしたのである。
大人と動物を同一視することは、正常な子どもでもよく見られる。ある7歳の少年は、ハンスと同じように父親を動物(ライオン)と同一視することで、父への不安を動物に置き換え、空想の中でライオンを飼い慣らすことで不安を解消している。つまり、空想によって現実の不安を否認すること、特に動物空想によって父への不安を解消することは、子どもではよくあることなのだ。こうした白昼夢は、やがて自我の現実検討の力が強くなってくることもあり、児童期の初期が過ぎる頃にはなくなってしまう。 
7章 言葉や行為における現実否認
大人が子どもに与える喜びのうち、多くのものは現実の否認によってつくり出される。小さい子どもに「なんと大きいんでしょう」と言い、事実は逆であるのに、「お父さんのように」強い、「兵隊のように」勇敢だ、などと言う。子どもが怪我をすると「もうよくなった」と言い、子どもが嫌いな食べ物だと「ちっともまずくない」と教え、誰かがいなくなって寂しがると「すぐ帰ってくる」と言う。子どものほうも、こうした慰め方を利用するようになり、苦しいことがあると「なんともない」といつも決まって言い、母親が部屋からいなくなると「ママ、すぐくる」と呟いたりする。しかし、こうした子どもの強迫的現実否認は、その環境から逃れようとするもので、それ自身病的な性格をもつものではない。
強迫神経症においては、反動形成が禁止された衝動興奮を逆転し、抑圧は反動形成に加勢されて安定する。子どもが空想、言葉、行為によって現実を転倒する場合も、同じような不安の解消ができる。(ただ、神経症の場合は内在化された葛藤が問題だが、子どもの場合は外界への防衛であるところに違いがある)。言葉や行為による現実否認の防衛方法は、空想における現実否認と同様、自我の現実検討の力が強くなる頃には利用できなくなる。しかも、空想なら誰にも知られることもないが、言葉や行為は外界に表出されるため、外的条件によってより制限されるのである。 
8章 自我機能の制限
現実否認と抑圧、空想と反動形成の間には類似点がある。外界の不快と内界の不快を避けようとする方法の間には、ある平行関係があるのだ。子どもがもう少し成長してくると、現実否認のような方法を用いなくても、外界の不快を避けることができるようになる。実際に不快になるような場面を避けることができるからだ。特に他人の優れた成績を見ること(遊びや運動、勉強など)は、父親(女の子の場合は男性)への劣等感、自分より大きな性器への嫉妬に繋がっているため、その活動を止めることになる。(* アンナ・フロイトは去勢コンプレックスの考えを踏襲しているため、自我の劣等感情を去勢不安やペニス羨望に還元する傾向があり、問題を複雑にしてしまっている)。自分の活動を制限し、不快なことに遭遇しないようにすること、これを自我機能の制限という。
自我機能の制限は、神経症の制止との間に平行関係が見られる。神経症の制止は禁止された衝動が行為に移されないように防衛しているのであり、それは環境が変わっても変化しないが、自我機能の制限は外界に対する防衛であるため、環境の条件によって変化する。制止の背後には衝動的願望があるため、単純な制止で間に合わなくなると神経症になるのだが、自我機能の制限の場合、制止のような葛藤は起きない。それは外界の不快を避けることが目的なのであり、自我発達の正常な過程なのである。しかし、過度に逃避ばかりしていれば、それは自我の貧困化、神経症的な制止に繋がってしまう。そのため、最近の教育学のように自由ばかりを与えるやり方は、決して好ましいことではない。 
第三編 防衛の二つの類型

 

9章 攻撃者との同一視
《同一視》は超自我の形成に必要な機構であると同時に、衝動の克服に役立っている。例えばあるチックで顔がひきつる少年は、いつも彼を怒っていた先生の顔つきにそっくりであったし、幽霊を恐れていたある少女は、幽霊の格好をして不安を克服していたという事例がある。ここには攻撃者との同一視が見られる。子どもは不安を与える人の属性を取り入れ、攻撃を模倣することで、恐怖を与えられる者から恐怖を与える者に変化し、不安を処理するのだ。
攻撃者との同一視は超自我の発達に必要な前段階であり、自分の行為に対する他人の批判を内在化することに繋がっている。「子どもはたえずこの内在化の過程を反復し、自分を教育してくれる人の特質を自分のものにするようにとり入れ、その人たちの属性や意見を自分のものとし、超自我を形成するに必要な材料をあらかじめ準備しているのである」(p.144)。しかし、この内在化だけでは自己批判の能力は形成されないので、子どもは批判を外界に向けてしまう。批判を受け入れた瞬間に、自分の罪を他人になすりつけてしまうのだ。この防衛機構を《投影》という。
批判する権威を超自我として取り入れ、禁じられた衝動興奮を他人に投影するため、自我は、最初は他人に対してのみ厳格になる。他人への非難は罪悪感の先駆なのだ。「真の意味での道徳は、超自我の批判と同じような意味を持つように、とり入れられた批判が内在化し、そのために、自我が自分の過誤を自覚するようになるときにはじめておきてくる。その頃から、超自我の厳しさは外でなく、内に向けられ、他人に対する不寛容さは次第になくなってゆく。」(p.148)。こうした超自我の発達過程において、他人への攻撃性が残っている場合は、メランコリー患者の超自我が自我に対して冷酷非情であるのと同様、他人に対しても冷酷になる。また、投影が同性愛的衝動に対する防衛となる場合は、愛は憎しみに《転倒》され、パラノイア的な妄想を起こさせる。 
10章  愛他主義
投影は、危険な衝動興奮を意識すると、その危険を自我とは関係のないものとしてしまう。イギリス学派によれば、まだ抑圧の生じていない生後数ヶ月の頃、幼児はすでに最初の攻撃的興奮を外界に投影するという。この時期にはまだ自他の区別がはっきりしていないため、投影が利用されても不思議ではないだろう。投影によって、自我は自分を批判する代わりに他人を非難するようになるため、人間関係は損なわれる。しかし、自分の衝動興奮を他人に「愛他的に譲渡」した場合、逆に人間関係を強固にすることもある。例えば、衝動を満足させる代理人に同一視した場合、代理人の願望に対しては理解を示して寛大となり、自分に対しては反動形成によって厳しくなることがある。自分の衝動を他人によって満足させようとするため、愛他的行動となるのである。例えば、男性の夢のために過剰に尽くす女性、理想を子どもに求める親、ある種の慈善家、ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」など。 
第四編 衝動の強さにもとづく不安の防衛 / 思春期を例として

 

11章  思春期における自我とエス
精神分析では、性生活は幼児期からすでに始まっていると考えるため、思春期を特に問題にすることは少ない。ただ、思春期は幼児初期、更年期とともに、エスが強化され、自我が弱体化される時期として考える必要がある。これは、エスは生涯を通じてほとんど変化しないのだが、自我が変化するためである。
幼児の場合、自我は自分の願望を自覚し、衝動に対する自分の力を反省できるほど強くはない。エスに対する自我の態度は、外界から命令されたものに過ぎないのだ。外界の影響を多く受ければ「よい」子だと言われ、衝動を制限しようとしないなら「わるい」子と言われるのである。やがて、衝動の要求が大きくなり、現実の不安が強くなってくると、内的な葛藤が生じるようになる。この葛藤によって、衝動を克服しようとする自我の機能が形成される。自我はある程度まで衝動を抑制できるようになるのだ。潜在期になると、自我は新しい内容、知識、能力を獲得し、外界に対してより強くなってくる。両親への依存に代わって同一視が現れ、両親や教師の願望や理想はますます自我に取り入れられる。こうして環境の要請に一致する永続的な組織体制、超自我が形成されるのである。
思春期になると、身体的成熟によって活気を与えられた衝動は、性衝動として心理的なものになる。そして自我とエスの間に新しい内的葛藤が生じるのである。潜んでいた口唇的、肛門的関心は再び表面に現れ、獲得されていた清潔の習慣は消え、汚いものを欲したり、だらしない服装をし、露出傾向や残忍性が現れる。しかし、幼児初期の性欲が復活しても、すでに自我は強くなっているため、簡単にはエスに譲歩しない。さらに、前性器的興奮をおこす衝動は減少し、性器的感情や目的、性器に関する観念が重要になっているで、前性器的な攻撃性や幼児的倒錯は消え去る。もっとも、性の衝動が正常か異常かは大人の価値判断であって、本来は自我とは関わりがない。そして、思春期の怒濤のような衝動に抵抗してきた自我の組織体制は、一般に生涯を通じて変わらないほど強固になる。 
12章  思春期における衝動の不安
思春期における自我の衝動に対する態度には、禁欲と知性化が顕著に見られる。思春期の禁欲は、衝動のある性質ではなく、その量的な強さに対する不安から生じている。衝動が「私は……したい」といえば、自我は「お前は……すべきでない」と答えるのだ。しかし、この禁欲が無害な衝動や必要でさえあるような衝動まで拒否するなら、例えば身体的満足は全て悪いと考えて拒否するなら、むしろ危険である。神経症のような代償的満足もないので、突然に禁欲を捨てて衝動耽溺に変わることも珍しくないが、そうでもなければ精神病に至る場合さえある。
青年の知的過程を研究すると、青年が関心を抱いている主題は、自分の心の中に生じている心理的葛藤と同じ主題であることが多い。性衝動に身を任すか、それを放棄するか、自由と束縛、権威に対する反抗と屈従、といった問題である。衝動を熟考すること、すなわち知性化は、禁欲以上に衝動を抑制する手段となる。青年の世界観、社会変革の思想は、エスの衝動的欲望の中に新しい欲望を見つけるために作られる。知性の強化は衝動を克服しようとする自我の努力によるものであり、言語的に表現し、意識的に統制することを可能にする。だからこそ、精神分析において感情や衝動過程を言語的に表現することが治療に繋がるのである。
思春期における対人関係は原始的な同一視にもとづくものが多く、真の意味での相手というものはいない。同一視は次々と対象を変えることができるので、熱情的に誰かを愛したり崇拝したかと思うと、すぐに別の人へと心変わりをするのだ。 
自我と防衛機制
(The Ego and the Machanisms of Defense) 1936年に発表されたアンナ・フロイトによる精神分析学の研究である。精神分析の概念と理論を確立したジークムント・フロイトの娘であるアンナ・フロイトは自我と児童心理についての研究者であった。本書は父フロイトの自我と防衛の概念を参考にした主著であり、フロイト派の精神分析の理論を発展させたものである。
フロイト派の理論によれば、防衛とはさまざまな心理的作用に対する自我の苦闘である。自我は人間の精神において無意識と外部環境とを調整するように努力する。防衛機制は自我が自己意識を守る作用であり、不安に対して防衛機制が効果的に機能すれば自我、イドそして超自我という三つの機関に勝利することができると考える。三つの機関の関係性について整理すれば、自我とは思考を司る意識の領域であり、イドとは無意識の領域、そして超自我とは社会通念や道徳規範を司る領域である。
本能である性欲や暴力性を自我は満たそうとするが、超自我はそれを妨げる。そのことで自我と超自我は衝突することになるため、防衛機制を機能させて自我を納得させている。ある女性の事例によれば、彼女は自らの旺盛な本能衝動を成人後には一転してそれを完全に抑制するようになった。言い換えれば、成人によって自分の欲望を自覚したことで、他人を通じて自分の欲望を満足させるという防衛機制が機能したのである。
この事例での防衛機制が果たしている心理的機能とは自らの欲望を他者に投影することであるが、これとは別種に抑圧という防衛機制の心理的機能がある。ある少女の事例によれば、彼女は自分の母親に対する否定的な感情を抑圧したために反動として過度な優しさを示すようになり、家庭環境には適応できたが精神の成長過程に問題が生じた。。別の事例では父親の性器を噛み切りたいという空想から摂食障害になった少女も示されている。これらの事例では心理的葛藤を解決する方法として防衛機制が抑圧を行ったために多方面に問題が転移したと述べる。
フロイトは防衛機制の観察を踏まえて児童の心理について述べており、ごっこ遊びが児童の置かれている無力な状態を仮想的に変化させるものであることを指摘した。つまり空想的な物語を通じて子供は権力を獲得することができるようになる。思春期における若者の反社会的行動もこの延長上に位置づけることができる心理的反応であり、もし性的衝動に対して適切に処理することができなければ精神疾患に繋がると論じる。 
 
フロイト9 「快感原則の彼岸」

 

精神分析理論では心的過程が「快感原則」に支配されて進行するものと考える。経済論的な観点からすれば、快は興奮量の減少に、不快は興奮量の増加に対応するので、心的装置は興奮量を低めに、あるいは恒常に保とうとする(快感原則は恒常原則に由来する)。しかし、快感原則は自己を守る際には無用であり、危険でさえあるため、自我の自己保存本能の影響を受けて「現実原則」が交代し、満足を延期または断念させることになる。衝動要求と危険威嚇に対する反応は、快感原則か、それを修正する現実原則によって導かれるのである。
「外傷神経症」とは生命の危険と結びついた災害(戦争や事故)の後に生じる病であり、主観的な苦痛、衰弱、混乱などの徴候がみられ、災害の回想に心を奪われる。この場合、特定の対象への「恐怖」が支配しているのであって、危険の予期である「不安」が原因とはいえない。
生後一年半の男児による糸巻き遊びの例。この子は糸巻きを投げては「オーオーオー」と言い、ひもを引っ張って糸巻きが姿を現すと「ダー」Da(いた)と言いながら、何度もこれを繰り返した。この遊びは母親がいなくなることと現れることに関係している。糸巻きが現れると「ダー」と言うのは、母親が現れることへの歓びを意味している。しかし、糸巻きを投げることは母親が消えることを意味しているので、これを繰り返すことは苦痛をともなうはずである。これは快感原則に一致するのか?
「患者は抑圧されたものを医師が望むように、過去の一片として追想するかわりに、現在の体験として反復するように余儀なくされる。この再現は、望ましくはないがいとも忠実に登場して、いつも小児の生活、したがってエディプス・コンプレックスと、それからの派生物との幾分かを内容としており、つまり医師に対する関係という転移の領域で規則的に演ぜられる。治療がここまで進めば、以前の神経症は、いまや新しい転移神経症にとってかわられたのだということができる。」(p.159)
医師は患者に忘れた過去を再体験させ、外見上の現実が忘れた過去の反映であることをさとらせねばならないのであり、その意味では転移神経症に移行する段階を避けるわけにはいかない。このように反復される体験(反復強迫)は、抑圧された衝動興奮を発現させるので、自我に不快をもたらすはずなのだが、一定の満足を与えるものでもあるため、快感原則には矛盾しない。しかし、反復強迫が快感の見込みのない体験を再現する場合もある。苦痛に満ちた人間関係を何度も繰り返す人たち、あるいは災害神経症者や子どもの糸巻き遊びを考えれば、快感原則の埒外にある反復強迫が存在するのではないかという仮定が成り立つ。「反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快感原則をしのいで、より以上に根源的、一次的、かつ衝動的であるように思われる。」(p.163)
生命ある有機体にとって、外界の影響に対する刺激保護は刺激受容以上に重要な課題である。刺激保護によって外界の影響による興奮量は抑えられるのだが、この刺激保護を突破するほど強力な興奮は外傷性と呼ぶことができる。外傷性神経症も刺激保護の破綻の結果だと解してよい。外傷神経症の原因は不安の発生が途絶えたことにあるので、外傷場面の苦しい夢を見るのは、不安(危険の予期という防衛反応)を発展させつつ刺激の統制を回復するためであり、これは「夢は願望実現」であるという命題の例外といえる(不安夢や処罰の夢は例外ではない)。この夢は反復強迫にしたがうものであり、これは「快感原則の彼岸」が存在することを意味している。
本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前の状態を回復しようとするものだと考えるなら、結局それは死へと繋がっていることがわかる。「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるとしかいえない」(p.174)。一方、性的本能は本来「生の本能」であり、死に導く他の本能と対立する関係にある。自我本能は死を、性的本能は生の継続を強いるのである。
*ここでは、自我本能と性的本能の対立は、「死の本能」Todestriebと「生の本能」Lebenstriebの対立に置き換えられ、生物学的観点からの検討がなされている。その結果、生物学では死の衝動を否定しきれないことがわかったとフロイトは述べている。
リビドー説の発展を概観してみると、まず転移神経症の分析によって「性的本能」と「自我本能」の対立を考えざるをえなかった。「性」の概念は生殖機能に属さない多くのものを包含することになったが、自我本能のほうはまず自己保存に役立つ本能として、抑圧し、検閲するものだと考えられていたにすぎない。やがて、リビドーが自我に向けられることが注目を集め、自我を性的対象とする自己愛的リビドーは性的本能の表現であり、自己保存本能と同一視されるにようなるのだが、それによって自我本能と性的本能の対立は不十分なものになった。自我本能の一部がリビドー的であるとみなされたからである。だとすれば、リビドー的本能以外に他の本能はないことになるのだろうか? 「否」とフロイトは答える。ここに「生の本能」と「死の本能」の対立という新しい考え方が登場することになる。
生の本能と死の本能の対立は、対象愛そのものに見いだせる。それは愛(情愛)と憎(攻撃)との対立である。以前から性的本能のサディズム的要素は認めていたが、サディズムは自我の自己愛的リビドーの影響によって、自我からはみ出して、対象に向かってはじめて現れる死の本能だと仮定することができるかもしれない。また、マゾヒズムを死の本能の直接的な現れとして、一次的なものだと考えることもできる。
「われわれは精神生活の、いや、おそらくは神経活動一般の支配的な傾向として、快感原則においてうかがわれるように、内的な刺激緊張を減少させ、一定の度合いにたもつか、またはそれを取りのぞく傾向があるのを知った。(バーバラ・ロウの表現による涅槃原則Nirvanaprinzip)。このことが、われわれが死の衝動の存在を信ずるもっとも有力な動機の一つである。」(p.187)
快感原則は心的装置に興奮が起こらないようにするか、興奮の量を一定に保つのだが、それは無機的世界の静止状態にもどるという、全生物の普遍的努力の一翼を担っている。性的行為の快感は高度にたかまった興奮の瞬間的な消滅と結びついているが、衝動興奮の「拘束」は準備的な機能であって、興奮を放出の快感において解消するように調節する。ここに快感原則が死の本能に関係する可能性が認められるのである。「快感原則は、まさに死の本能に奉仕するもののように思われる」(p.194)。 
 
フロイト10 「抑圧」

 

衝動(欲動)を無効にしようとする抵抗にぶつかるのが、衝動の運命である。衝動はある条件のもとで抑圧の状態におかれる。外的な刺激作用が問題なら「逃避」すればよいのだが、衝動の場合には逃避という方法は役立たない。「そこで、のちには判断の回避(拒否)という衝動に対抗する良い方法が見つかるだろうが、その前段階、つまり逃避と拒否の中間物が抑圧であり、その概念は精神分析の研究以前には設定できなかった」(p.78)。
「抑圧」が起きるには、衝動目的を達成することが快感ではなく不快感を与えてしまう、という条件が必要である。抑圧のもとにある衝動は満足の可能性が充分にあるし、それ自体は快感に満ちているが、他の要求や意図と一致しない。それは一方では快感を、他方では不快を生むのであり、不快の動機が満足の快感よりも強い力を持つことが抑圧の条件となっている。また、精神分析の経験からすれば、「抑圧はもともと存在する防衛機制ではなく、意識された精神生活と無意識の精神生活とのはっきりした区別ができる以前にはありえないということ、抑圧の本質は意識からの拒絶と隔離においてのみ成り立つということである」(p.79)。抑圧の機制が生じる以前は、反対物への転化、自分自身への向け換えなどが衝動を防衛していたのだ。「精神の審判秩序の構造や、無意識と意識の区別をもっと経験するまで、抑圧の本質の深みに入り込むのを延期しなければならない」。われわれにできるのは、抑圧の二、三の特徴を記述的にまとめることだけである。
「われわれには原抑圧Urverdrangung、つまり衝動の心理的(表象的)な代表が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に定着が行なわれる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに衝動が結びつくのである。これは後で述べる無意識的な過程の特長の結果おこるのである」。「抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期の抑圧である」。原抑圧を受けたものは、それと関連する可能性のあるすべてのものに引力を及ぼすのだ。
抑圧は意識の体系への関係だけしか妨げないので、抑圧されたものは無意識の中で存続し、組織化され、派生物を生み、結びつきを固くする。衝動の代表が抑圧によって意識の影響をまぬがれると、無意識において自由に発展するのだ。それは闇の中で極端な表現形式を見つけてはびこるため、神経症者の心の中で育つと、患者にとっては異物にしか見えない。「神経症の症状は抑圧されたものの派生物」であり、拒絶されていた意識への通路を症状形成によって最終的に勝ち取ったものなのだ。(精神分析では、抑圧されたものの派生物を出すように要求しているのであり、その派生物は隔離や歪曲のために、意識の検閲を通過できる)。
抑圧は個別的であるだけでなく、流動的でもある。「抑圧とはたえず力の消費を必要とするものであり、その消費を中止したら重大な結果をまねくであろうから、新しい抑圧の働きが必要となる」(p.81)。抑圧されたものは意識されたものにたえず圧力をかけていて、それにはたえず反対圧力が加わり、平衡が保たれている。抑圧し続けることは力の消費を意味するのだ。また、抑圧の流動性は、夢の形成にも示されている。衝動が活性化すると、直接に抑圧を放棄するのではなく、回り道をしながら意識に入り込もうとする。しかし、活性化によって不快な表象がある程度以上に強くなると抑圧が生じる。抑圧は不快をやわらげることにその代償を見つけるのだ。
ここまでわれわれは、衝動代表を衝動から汲んだある量の精神的エネルギー(リビドー)でみたされている表象(表象群)として理解してきたが、表象以外にも衝動を代表するものとして「情緒価」がある。このことから、衝動の運命は三種類あることがわかる。「つまり、衝動はまったく圧迫されて見えなくなってしまうか、なんらかの質的な色彩をおびた感情として現われるか、または不安に転化するかである。最後の二つの可能性は、衝動の精神的なエネルギーを感情、とくに不安に置きかえることが衝動の新しい運命なのだと理解するように教えている」(p.82)。「われわれは抑圧の動機と意図が不快をさけることにほかならないことを覚えている。したがって、衝動代表の感情価の運命は、表象の運命よりずっと重要であり、これが抑圧過程の評価を決定するのである。抑圧が不快や不安の起こるのを防ぐのに失敗したら、たとえそれが表象の部分でその目的を達したとしても、それは失敗だといってよいだろう」(p.83)。
抑圧とは一般に代理形成を生み出すものだ。では、代理形成と症状形成を一致させてよいのだろうか。症状形成のメカニズムと抑圧のメカニズムは一致するのだろうか。さしあたり言えるのは、「この両者はまったく違うものであり、代理形成や症状形成を作るものは抑圧それ自体ではなくて、まったく別な過程から発生する抑圧されたものの再現の徴候なのだということである」。事実、抑圧のメカニズムは代理形成のメカニズムと一致しない。代理形成のメカニズムには様々な種類があり、そのうち一つは抑圧のメカニズムに共通する点がある。それはエネルギー充当(性衝動を問題にするならリビドー)の除去である。
不安ヒステリーの場合(例;動物恐怖)。抑圧のもとにある衝動興奮は、父に対する不安をともなったリビドー的態度であり、抑圧後、この興奮は意識から消えていたが、代理として、不安の対象に適した動物が父と同じ位置を占めていた。表象部分(リビドー対象としての父親)の代理形成は「置き換え」(動物)の道をたどり、その結果、父に対する愛情要求は狼への不安になったのだ。この場合、抑圧は失敗したものと考えてよい。抑圧の作業は表象を除去して置きかえただけであり、不快の軽減は成功していないからだ。そのため神経症の活動はしずまらず第二段階に進み、不安の発生を防ぐ多くの回避が行なわれる。
転換ヒステリーの場合。抑圧によって「情緒価」はまったく消えてしまう。(他の場合には、抑圧はそれほど完全ではなく、苦痛な感覚の一部が症状自体と結びついたり、いくらかの不安の発生が避けられなくなり、恐怖症のメカニズムを働かせる。)転換ヒステリーでは、衝動代表の表象内容は意識から完全に除去され、代理形成として、神経支配が起こり、時には感覚性、時には運動性の性質を持ち、興奮または制止として現われる。過度に神経支配された場所は、抑圧された衝動の代表自体の一部なのだ。「ヒステリーの抑圧は、それが充分な代理形成によってのみ可能であるかぎり、完全な失敗だと判断されても仕方がない。しかし抑圧の本来の課題である情緒価の処理という点では、ヒステリーは一般に完全な効果をおさめている。その場合転換ヒステリーの抑圧過程は、症状形成で終了して、不安ヒステリーのように二段階に――または無限に――つづく必要がない」(p.85)。
強迫神経症の場合。「退行」によって、情愛的な力がサディズム的な力にかわって現われるため、抑圧下にあるのがリビドー的な力なのか敵意をもった力なのかはっきりしない。愛する人に対する敵意に満ちた衝動が抑圧下にあるのだ。「まず抑圧の仕事は完全な成果をおさめ、表象内容は拒絶されて情緒は消失してしまう。代理形成として自我の変化、つまり、症状とはいえないような良心の高まりが現われる。ここで代理形成と症状形成は分解してしまう」。抑圧はリビドーの除去をもたらしたが、その目的のために、反動形成、反対物の増強という方法を使ったのだ。「しかし、初めはうまくゆく抑圧も長続きせず、経過が進むにつれて失敗が多くなってくる。反動形成によって抑圧を許した両立性は、抑圧されたものが再現できる場所でもある。消滅した情緒は、社会的不安、良心の不安、容赦ない非難などに変化してふたたび現われてくる」。拒否された表象は置き換えによって代理される。しかし、この表象は意識によって執拗に拒否され続ける。「そこで強迫神経症の抑圧の仕事は、なんら効果のない、終わることのない輪を描くのである」。 
 
フロイトと精神分析

 

1.精神分析前史 
メスメリズムと動物磁気
フランツ・アントン・メスメルFranz Anton Mesmer  1734〜1815。スイスとドイツの国境近くで生まれた。動物磁気による治療法であるメスメリズムの創始者。初め、神学を学び、後に、ウィーン大学に入って医学を学び、ウィーンで医者となる。(学位論文のタイトル-「人体の疾患に及ぼす惑星の影響について」)メスメルは医者を開業し、金持ち未亡人と結婚し、大きな屋敷をかまえた。星が人間の運命を支配するという占星術の原理を磁石の力によって説明しようとして、磁石を用いて人間の体をたたいたりなでたりしているうちに、催眠状態を起こすことを発見した。そして、動物や人間にも磁石の働きに似た作用を持つ「動物磁気」があると考えるようになる。しかしこの考え方は、ウィーンで反対され、1778年パリに行った。(一説に、「動物磁気療法」がセクハラ疑惑をかけられそれがスキャンダルとなった」とも、、)「科学ブーム」に浮かれていたパリでは、高級住宅地の真ん中に診療所を開き、彼の「革命的新医術は」は大当たり、貴族やブルジョワが列を成して押しかけた。一人ひとりを治療している暇のなくなったメスメルはバケ(大きなカシの桶)を使った集団治療を始めた。水の入ったバケの中や周りにガラスや石、鉄の付属品をつけておく。桶の横からは20本ほどの鉄棒が出ていて、患者たちはそれを握る。病人(ヒステリー患者等)たちを、紐で結び合わせ、電気回路のようなものをつくる。その回路を動物磁気が流れる、というものだった。音楽や照明、鏡などの調度品、彼自身の奇妙な服装(教祖のような)や態度などによって、患者は発作を起こす、そしてその発作がおさまると症状が消えているのだった。(このように人工的に発作を起こし症状を消滅させる治療法を「分利法」という。)フランス政府は、学者などからなる特別の調査機関を設けて調べた結果、暗示による催眠状態の存在は認められたが、金属磁気と同じような作用を持つ動物磁気の存在は否定され「ペテン」の烙印を押された。彼のほうから積極的に動物磁気の存在を立証できなかったため、次第に不評判になり、スイスに帰って亡くなった。暗示療法の創始者とされる。
メスメルは、同業者がに磁石を使って効果をあげた話を聞いて自分でも磁石に取り入れたわけであるが、治療効果をもたらすのは磁気ではなく、東洋で言う「気」のようなものだろうと考え、それを「動物磁気」と名づけた。「動物磁気は宇宙を満たしていて、それが人間・地球・宇宙を、そして人間どうしを媒介としており、人体内部にある流体の分布が不均衡になると病気になる。したがって、動物磁気療法によって、磁気流体の均衡を回復すれば病気は治る」のである。
このような仮想流体が心を動かしているという発想は、フロイトのリビドーの概念へと継承される。 
メスメリズムから催眠術へ
メスメルは明確にはしなかったが、「人間が人間を治す」という精神療法の前提がこの時代に認識され始めた。
仮想流体=「動物磁気」 「磁気力」=感化・影響
磁気力の強い人だけが治療できる
メスメルの発見は、その弟子ピュイゼギュール伯爵が受け継いだ。
ピュイゼギュールは、呼吸疾患に悩んでいた青年に磁気療法をほどこした。すると青年は奇妙な睡眠状態に陥った。「眠ったような」、「覚醒しているような」、「別の人格」があらわれたのを確認した。そしてその状態にいるときは、伯爵の「命じるままに」行動し、その状態から覚めると、「磁気睡眠」状態にいたときの記憶は一切なかった。
伯爵はこの磁気睡眠状態を「人口夢遊病」と命名した。
(後に、イギリスの医師ブレイドはこれを「催眠 hypnotism」と命名。) 
シャルコーとヒステリー
パリのサルペトリエール病院(フロイトが留学した病院)は、女性専門の精神病院であると同時に、ホームレス収容所でもあった。当時、4千人以上の女性が収容されており、患者500人につき医師一人、治癒率は10%以下、年に200人〜300人の精神病患者が亡くなっていた。
そこの院長ジャン・マルタン・シャルコーは、多発性硬化症や筋萎縮性側索硬化症(シャルコー病)の研究などで多くの業績を残した人であるが、同時に催眠療法の大家であり、ヒステリーの専門家でもあった。
シャルコー Jean Martin Chrcot 1825〜93年 フランスの精神医学者 ヒステリーおよび催眠術に関する講義によって世界的に知られた。彼は、震顫麻痺(体が震える病気で彼自身もそれにかかり始めていた)の発見、多発性硬化症、シャルコー病(シャルコーは脳脊髄硬化症とよんだ=筋萎縮性側索硬化症)(脊髄を中心に、脳皮質から筋肉にいたる運動神経路の変性がある病気)等の、症状を発見.
シャルコーいわく「医療において医師が、すでにわかっているものだけに注目するのはいかがなものか」、「新事実、つまり新しい病気(といっても実際は人類同様に古いものだが)に眼を向けるということはすばらしい」
精神病理学、心理療法、精神分析などに大きな影響を与えた。彼の門下には、ビネー、フロイト、ジャネー等がいる。 
2.催眠術から精神分析へ  
留学から帰ったフロイトは、アパートメントを借りて開業、催眠術を用いて治療にあたった。(患者はほとんどが金持ちの女性であった。)しかし、催眠術はかかりやすい人とかかりにくい人がいる。これはフロイトにとってかなり重要な問題であった。(催眠術で治療にあたる医師にとって、催眠術にかからない人がいて、それが噂になると致命的打撃をうける。)かくしてフロイトはしだいに催眠術から遠ざかり、精神分析療法が誕生するにいたった。フロイト「精神分析の成立史のなかで催眠現象が果たした役割は、どんなに高く評価しても評価しすぎることはないであろう。精神分析は、理論面でも治療面でも、催眠現象から継承した遺産を駆使しているのである」 
アンナ・O (ベルタ・ボッペンハイム)とブロイアー
精神分析史上、最も有名な患者は、アンナ・Oである。
アンナ.O(ベルタ・パッペンハイム)
フロイトの友人ブロイアーの患者。
ブロイアーによるアンナ
「知能が高い」・「記憶力抜群」・「人並みはずれた教養と才能の持ち主」・「心優しい慈善家」
「驚くほど鋭い知性と鋭い直観力があり、そのために彼女をだまそうとしても必ず失敗する」
「単調な生活のために知的欲求不満に陥り、白昼夢に耽る傾向があった」
「彼女のヒステリーを促進させたのは父親が不治の病にかかったこと」
「献身的な看病の結果、食欲減退し衰弱、神経性の咳が始まった。」
「その他、斜視、頭痛、視覚障害、感覚喪失、局部麻痺、意識が途切れる」
「また黒い蛇の幻覚を見る、言語障害、人格分裂がはじまり、父の死後さらに悪化」」
後に、ベルタ・パッペンハイムという先駆的なソーシャル・ワーカーとなる。
婦人参政権運動の闘士であった。
アンナは毎夕、ブロイアーの往診受けた。診察の時間になるとアンナは自ら催眠状態に陥り、自由に話をした。
ブロイアーは、話をすると症状が軽くなっているアンナを発見した。アンナは自分が発明したこの方法を「談話療法」(ふざけて「煙突掃除」)と呼んだ。これが、言葉を唯一の治療手段とする精神分析療法の芽生えである。 
アンナの症状と談話治療
−どんなにのどが渇いても水を飲むことができない−
アンナの談話の要約
−アンナの家にイギリス人家庭教師が住み込んでいた(アンナの話し相手として)。アンナはその女性が嫌いだった。ある日、その女性がアンナの飼っている犬にコップで水を飲ませるのを目撃し、激しい嫌悪感をおぼえた。水が飲めなくなったのはそれから。−
アンナはその話をするまで、忘れていたのだが、思い出して話したとたん、水が飲めるようになった。
−音楽を聴くと咳が出る−
−アンナは、父親の看病をしている最中に隣からダンス音楽が聞こえてきたとき、「いいなぁ、私は一日中父親の看病をしているというのに、みんなは楽しくやっている」と思った。が、次の瞬間、「そんなことを考えてはいけない」という罪悪感に襲われた。それ以来音楽を聴くと咳が出るようになった。それは、あのとき他人を羨んだ罰なのだ。−
こうしてアンナは次から次へと症状を「話して消した」。
しかし、アンナはブロイアーによって、スイスのサナトリウムに送られた。
−すべての症状が落ち着いたかのように見えたある晩、ブロイラーはアンナに呼びだされた。行って見ると、アンナは下腹部を痙攣させて「先生の子が生まれる」と叫んでいた。想像妊娠であった。ブロイラーは動転し、怖くなり、アンナの治療を放棄してしまった。彼女はサナトリウムでも症状が再発した。− 
抑圧と自由連想法
フロイトは、パリ留学前に、アンナの話をブロイラーから聞いて非常に興味を持った。シャルコーにも話したが、彼は興味を示さなかった。フロイトも、「談話療法」を治療に取り入れた。
「ヒステリー患者は記憶(無意識的記憶)に苦しめられている」−『ヒステリー研究』1895(ブロイアーとの共著)
「嫌な体験」は、無意識の中へ「抑圧」される。抑圧されたものは意識から忘れ去られる。しかしそれ(嫌な体験)は、無意識の中に留まり、後になって症状を引き起こす。患者がその抑圧された記憶を思い出すことによって症状が消える。この「抑圧」の概念が精神分析の出発点となり、「話すと症状が消える」という「浄化法」あるいは「カタルシス法」が精神分析の基本である。
抑圧 repression
精神分析における最も重要な概念。抑圧とは意識することに耐えられないもので、“衝動を代理しているもの”“衝動を表す言葉”を意識から追放し、排除することを意味する。これをフロイトは「意識から遠ざけること」という。ヒステリー、神経症に最も典型的に認められる防衛機構とみなされる。意識から追放されたものが無意識的なものであるが、一度だけ意識から追放すれば、それは無意識的なものになってしまい、再び意識に現れないと言う意味ではない。いくら払いのけても衝動のある限り、抑圧によって衝動は抹殺されてしまうわけではないから、耐えられるものは意識に現れてくる。だから絶えず抑圧のためにエネルギーを消費することになり、疲労せざるを得ない。この不経済なエネルギーを消費しなくてもすむように抑圧を完成するためにはさまざまな心的過程を仮定する必要がある。例えば、検閲という過程によって耐えられないものは、許容しうるものに変えられてしまうというものである。こうした抑圧の考え方の中で最も重要なものは原抑圧である。これは、意識的に耐えられないものを排除する抑圧より以前に既に原抑圧が起きており、無意識的なものがつくられ、その無意識的なものが耐えられないものをひきつけようとすることを意味している。この意味でふつうに抑圧とよばれるものは、後抑圧とよばれる。原抑圧というものがどんなものか、フロイトは必ずしも明白ではない。ラカンは「象徴的なものをつくりあげる端緒」とみなし、原抑圧が起きる以前に意識から排除しなければならない経験をすることから精神病が理解される。いずれにしても、抑圧がどんな心的過程であるかは、抑圧が完成されず、無意識的なものが意識に現れるときである。抑圧されたものが症状として現れるだけでなく、日常生活においても、言い間違い、思い違い、過ち、夢などに現れることをフロイトは示している。
自由連想 free association
フロイトによって始められた心理療法の技術。(手法自体はゴルトンが最初に報告している)フロイトは、最初催眠による治療を試みたが、期待したほどの効果を得られず、催眠に代るものとして自由連想を始めた。すなわち、催眠中に与えられた暗示を被催眠者はすべて思い出すことができるが、それらが催眠中に与えられた暗示であることを知らない。こうした事実を基にしてフロイトは患者に心に浮かぶことを、どんなつまらないことでも、言いにくいことでも残らず思い出すようにさせた。こうして自由に思い出させると、その中に症状の元になっている心理的葛藤に行き当たることを見つけた。しかし、経験を積むにつれて、自由に思い出すことは非常に困難で、自由に思い出すことを妨げている諸条件こそが明確にされるべきものと考え、精神分析という用語が使われるようになった。しかしこれは自由連想が技法として無価値であるということではない。 
ヒステリーと幼児期の性的虐待とエディプス(オイディプス)・コンプレックス
フロイトはブロイアーの患者アンナの症状は、性欲と関わりがあることをはっきり見抜いた。まず、「水が飲めない症状」の原因を疑った。意識に現れた原因「犬がコップから水を飲んだ」ことの他に原因があるのではないかと考えたのである。原因を遡れば真の原因に辿り着くと考えた。
まずフロイトは、複数の女性患者が同じ告白をすることを発見しそれに注目した。
フロイト「分析によって明らかにされる連想記憶の連鎖をたどっていくと、、、、、最後には必ず性的体験の領域に到達する。その性的体験とは、『早すぎる性的経験』である。」−父親もしくは身近な男性からの性的虐待−
しかし、フロイトは次第に患者の告白を疑り始めた。そしてそれまでの主張「ヒステリーの原因は幼児期の性的虐待である」という「誘惑理論」を放棄するにいたった。−性的虐待は患者の空想である
「その空想をどうして患者たちは抱くのか」⇒「異性の親への愛情」⇒「その愛情は普遍的なものである」
こうしてまとめたのがフロイトのエディプス(オイディプス)・コンプレックスの理論である。
−幼児が同性の親を亡くして、異性の親と結ばれたいという欲望とこの欲望をめぐる心の葛藤
男の子の場合−男の子は母親と結ばれたいと思うが、女児にペニスがないことを発見し、去勢されたに違いないと推測する。そして、母親を愛すると自分も去勢されるかもしれないという不安に駆られる(去勢不安)。したがって、母親への愛情を断念する。また実際にマスターベーションを親に見つかって『そんなことをしていると、おちんちンを切るよ』といわれ、去勢不安を募らせる。父親から罰せられるかもしれないという恐怖心は、やがて超自我となり彼の心に住み続ける。
女の子の場合−女の子は既に自分が去勢されてしまっていることを発見する。それはペニス羨望を抱かせる。そして、自分をそのような「不完全な」形に産んだ母親を恨む。母親も同じだと築いた女の子は、父親に愛情を向けても、母親を恐れはしない。やがて思春期には、母親と和解し、父親離れをする。すなわち男性との結合の観念を受け入れるようになる。 
無意識と多重人格
フロイトが催眠術から学んだのは「人間の心の中には自分でも知らない部分がある」ということ、すなわち「無意識」である。その中には別の人格(自我)が潜んでいる場合もある。それが表面に現われた場合を多重人格という。
「フロイトにとって無意識を仮定することは必然的であった。なぜならわれわれが日常的に経験する動機の不明瞭な思いつき、途中の経過が不明瞭な思考の結果(ひらめき)、ちょっとしたいい間違い、書き違い、夢、神経症の症状、これらはすべて、『意識に上らない他の作用を前提としない限り説明がつかない』のであり、『無意識をそこに挿入してみると、これらの意識されたはたらきは、はっきりした関連のもとに秩序づけることができる』のである。」
フロイト「無意識に直接アクセスすることは不可能だ」 
無意識 unconscious(Ucs)
無意識的という形容詞としての用法は、意味が広い。自動的、機械的で意識されないこと、注意の範囲を超えているために気づくことのできないこと、思い出すことのできないことを意味する。意識されないものをすべて無意識的という。フロイトの場所論(topographical viewpoint)によると、心的装置は、意識系、前意識系、無意識系のそれぞれの系からなり、名詞的に使われる。無意識の内容をなすものは、意識に入り、とどまることのできない抑圧された観念である。この意味では、無意識は抑圧されたものと同義になる。しかし、抑圧は系統発生的に考えられるところからいえば、抑圧されたものと言い切れないところもある。後年になって、心的装置は、イド、自我、超自我の系として考えられるようになるが、ほぼ無意識はイドに対応する。しかし、自我、超自我は前意識、意識に対応するものではない。無意識は現実に対する配慮を欠き、快‐不快の原則にしたがう系として考えられ、抑圧された観念は相互に自由に置き換えられ、圧縮されたりするし、時間を持たず、破壊されるものでもなく、一次的過程としての特質を持っている。これを比喩的にいえば、抑圧された観念の結合によってつくりあげられる空想的小説の筋書きとしての骨子をつくりあげているものである。ユンクにおいては、個人的無意識と集合的無意識が区別され、無意識は創造的活動の母胎をなしていると考えられる。いうまでもなく、無意識は直接に観察されるものではなく、症状や夢を手がかりとして構成されたものである。その意味で夢は無意識を知るための王道であるといわれる。 
夢、夢の仕事、夢の分析
夢に対する関心は古代からあり、夢のカタログも古代からあった。
「洞窟や器は女性の象徴である」−アルテミドロス『夢の書』
フロイトは、夢のカタログを作ることよりも、「夢の潜在内容」を「無意識的欲望」と結びつけて、「夢判断」をした。夢の解釈は、夢を出発点とした自由連想によっておこなわれる。フロイトは、「夢を生産するのは、無意識的欲望である」といっていたが、すべての夢が欲望充足の夢であるはずもなく、後年、「夢理論」を修正し「反復強迫」の概念を導入した。 『夢判断』公刊(1900年)以来、フロイトの夢分析の研究は、精神分析の基礎的資料として使われるようになった。基本的には抑圧された願望を充足させ、覚醒によって睡眠を中断させないようにする機能をもつものと考えられた。これに対して、1953年以来、クライトマンの指導する睡眠の研究によりREMSの発見以来、夢の実験的研究が行われるようになり、夢の研究は大きな飛躍をしてきた。ふつうわれわれが夢とよんでいる視覚的表象はREMSにおいて見るものであり、入眠時、あるいは覚醒時に見る視覚的表象、あるいはNREMに見る夢とは区別されている。こうした研究からいえば、フロイトの夢の理論はそのまま実験的に確証しうるものとは考えられない。
夢の仕事 dream work
無意識的な思考法は、フロイトのいう一次的過程で、現実での合理的・意識的な思考様式とはかなり異なる。
さまざまな思想内容が圧縮されたり、置き換えられたりする。
例えば、
A,B,Cの3人の特徴がAに凝縮され、AはBのような着物をつけ、Cのような言葉遣いをしたりするようなものである。こうした一次的思考様式は漫画などにも使われている。置き換えは、父を憎んでいるときに、父親の洋服を汚すというように、部分的表現によって全体を暗示しようとするものである。さらに潜在内容は、以上のような夢の仕事によって視覚的、あるいは聴覚的イメージに変容されるが、それらのイメージは個々ばらばらで統一性をもっていない。これをまとめ、一つの物語につくりあげるのが、二次的加工(改訂)(secondary elaboration)である。
夢の分析 analysis of dreams
精神分析においては、自由連想の分析と同時に夢の分析が行なわれる。思い出された夢の順序に従い、個々の内容について自由連想をしていき、夢全体の統一的な解釈が行われる。しばしば象徴的解釈が利用される。
例えば、ナイフ、鉛筆などのように尖ったものは、男性性器を象徴することから、。そこから夢の解釈は容易になる。しかし、常にとがったものが男性性器を象徴するとはかぎらない。個人の過去経験のいかんによって、その象徴的意味も異なるので自由連想によって意味は明らかにされる。 
性欲の変遷
フロイトのいう「幼児性欲」の概念は、非常に顰蹙を買った。なぜなら、それまでは思春期以前の子どもは無垢で、性的なこととは無縁と考えられていたから。
フロイト「そのような非難は、『性的』と『性器的』の混同に基づいている。思春期以前と以後では同じ性欲でも意味が違う。けれど、幼児が性欲を抱くことは変わりない。幼児は多形倒錯的である。性感はまだ性器に集中しておらず、性感帯は体中に拡散している。それがまず口唇周辺に集中する。母親の乳房を吸っている段階である。ついで肛門に集中する。これはトイレットトレーニングの時期に重なるが、この磁気に自我が形成され、サディズムはこの時期に起源がある。男根期にいたると、男根の有無が重要な意味をもってくる。それまで母親との双数関係にあった子どもは、父-母-子という三角関係の中に自分を位置づけ、女児は自分の持っていない(失った)男根を持っている父親に欲望を向け、男児は母親を自分のものにしたいと願い、父を敵視する。かくしてエディプス・コンプレックス状況が生まれる。去勢不安によって、エディプス・コンプレックスは外見上は解消され、潜伏期に入る、やがて性器期にいたって、性欲は性器の優位のもとに統合される。」
性的倒錯 sexual pervesion 
幼児は性的に分化していないため、性的欲望は不定で多面的であり、特定の対象と特定の目的をもたない性的関係が結ばれるとみなされ、成長してもこの傾向が保たれていることを性的倒錯という。性的倒錯は、この幼児的願望を満たそうとするものであるのに対して、神経症はその願望を退けようとするものであるとフロイトは解した。性的倒錯とみなされるものは、相手に攻撃を加えて苦しめることによって満足をえ得ようとする加虐性愛、自分を苦しめることによって満足を得ようとする被虐性、同性愛、口唇と性器の接触を求める口腔性交、肛門による性行為、動物との性行為、子どもとの性行為によって性的満足を求める愛童症、動物愛玩症などがある。 
自我とエス
人間の心がどんな構造をしているのか、フロイトは考えた。その初期においてフロイトは、意識と無意識を考えた。次に提唱したのが「自我」と「エス」の「二元論」である。エスとはニーチェに由来する概念で、「自分のなかにはあるが、自分とは考えられず、『それ』としか考えられない部分」である。フロイトのいうところのエスは「もろもろの欲望から来るエネルギーで充満しているが、いかなる組織ももたず、いかなる全体的意志も示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしかもっていず、エスは混沌であり、沸き立つ興奮に満ちた釜」である 自我はエスと闘い、妥協し、あるときは優勢に立ってエスを従属させ、あるときはエスに振り回される。「自我のエスに対する関係は、奔馬を統御する騎手」みたいなもの。但し、自我はそれを意識的にするわけではない。自我は自分のしていることを知らない。例えば、抑圧。自我はそれを意識すると苦痛や罪悪感をおぼえるような観念や記憶を抑圧してしまうが、自分では抑圧したことを知らない。抑圧の他、否認(知覚した現実を現実として認めない)、分離、反動形成、取り消し、同一化、投影などの「防衛メカニズム」を駆使しながら(繰り返すが、あくまでもむ無自覚的に)、自分の身を守って生きていく。(フロイトの死後末娘アンナはこの自我の防衛メカニズムの研究を進めた-自我心理学)
自我 ego
自我という概念は、最も広範囲にわたる意義を持ち、根本的には、人間とは何かという問題に答えようとするときの中心的な概念である。したがって、自我をどのように考えるかが、心理学の理論の基本となる。生物学的、行動主義的な研究者は、自我という概念はあまり用いず、個体とか人という概念を使い、人間を社会的存在としてみようとするときは、役割、態度という概念を重視する。精神分析的、哲学的な理論を組み立てようとする人たちは、好んで自我という概念を使う傾向がある。しかし、自我の概念は一様ではない。もっともあいまいなのは自我と自己の概念である。もっとも一般的には、自我は主体とみなされ、自己は客体とみなされる。これは、見る自分と見られる自分、反省する自分と反省される対象となっている自分を区別するものである。経験される対象となっている自己のことを現象的自己という。この意味で経験する主体としてのは超越的自我といわれる。自己については感じ、知ることができるが、自我については知ることができないことを意味している。しかし、自己と自我がいつもこのように区別されているとは限らない。同じ研究者でも、自我を全く違った意味で使うことがある。フロイトの場合、自我衝動というときの自我は生物的個体の意味をもち、自我リビドーというときは客体に対する主体の意が強い。しかし、場所論で超自我とエスに対する意味で自我という用語を使うときには心理的機能のことを示している。自我の形成、発達についてもあいまいである。あるときにはエスが発達的に分化して自我が考えられるかと思うと、同一視によって自我が形成されるとも考えられる。レヴィンにおいては生活空間があたかも自我であるかのようにみなされるが、その上に自我が追加され、理論的には不明確な概念となってきている。このような混乱が起きてくる根拠は、基本的に主体と客体とを分けて考えようとするところにある。そこでもともと主体と客体の区別はなく、主体は客体であり、客体は主体であるという考え方がつくられる。ラカンの鏡像段階の概念はこうした考え方を端的に示すものであり、フロイトの同一視の考え方を展開したものといえる。自我はイデオロギーの産物に過ぎない幻影とみなされる。(幼児期や思春期にはイドの衝動が強く、自我はあまり強くなっていないので、イドや超自我との間に葛藤が生じてくる。アンナ・フロイトは特に自我の防衛機能について論じ、フェレンツィは自我の発達について詳細な記述を試みている。ハルトマンはフロイトが不明確なままに残していた自我機能を明確にしている。すなわち、フロイトは前述の自我の意識的機能については初期に簡単に触れただけで−夢の分析−それ以後あまり普及しなかった。そのため、自我はもっぱら不満や葛藤から形成されると考えられやすかったが、葛藤とは関係なく自立的機能を持っていることを強調している。この考えは、ピアジェなどの知的発達の考えと軌を一にするものである。
エス(Es独) イド(id=it)
グローデックによって導入された精神分析の用語。外国語の三人称の代名詞には、雨が降るというとき it rain というように、雨を降らせる主体の意味がある。考えると言うとき es denkt in mir のようにエスが考える主体として使われる。こうしたことから、sん認証の代名詞(ラテン語でイド)は行動を起こさせるものを意味するようになった。フロイトは人の全体構造を考えるとき、それを三つの部分、すなわち、イド、自我、超自我に区別し、イドは全く無意識的な心的エネルギーの源泉と考えた。本能的衝動と呼ばれるものは、このイドの重要な部分である。このほか幼児期の体験から作られてきた願望も総べて含まれる。 
トーテムとタブー
フロイトは個人の心理から集団の心理へ、さらには人類全体の心理学へとその理論を広げた。
「原初、人類は一人の独裁的な家長に支配される小さな部族単位で生活していた。部族内の女性はすべて家長が独占していた。ある日、息子たちが団結して反乱を起こし、父親を殺して食べてしまった。だが彼等は父親を憎むとともに愛してもいたので、その後、罪悪感に苛まれ、トーテムを殺すことを禁じ、自由の身になった女たちを自分のものにすることを自ら禁じた。かくしてタブーが出来上がった。タブーの裏には父親殺しと母親の征服という二つの根元的願望がある。
この原父殺し」は、人類最初の犯罪として人類の歴史にぬぐいがたい痕跡を残し、あらゆる文化に浸透している。この原父殺しは文明の基礎であり、人類はこの犯罪から出発してあらゆる文明をつくりあげた。」
※フロイトのこの仮説は、現在では空想小説とみなされている。
タブー  taboo
禁忌の意。語源はポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの言語にあり、探検家クックが英語に導入したといわれる。
語源的には禁じられたもの、触れることのできないものを意味する。トーテミズムの社会に見られる風習で、特定の人、動物を避けること、事物や場所に近寄らないこと、特殊な行為を避け、特定の言葉を使わないようにすること、これらは総べての人に適用されることもあるし、特定の個人にのみ適用されることもある。常時守らなければならないものもあるし、特定のときのみ守らなければならないタブーもある。これを守らないと、災い、危険がその人や社会起きると信じられている。タブーに触れると清めの式が必要となる。文明社会においても類似の現象が見られる。
タブーに基づく真理的葛藤のため神経症が起きる。タブーは触れることのできないという意味で神聖なものを意味することもある。
トーテミズム  totemisim
トーテムの信仰のことを言う。トーテミズムは宗教的信仰を具現するものであったり、魂の危機を救うものと考えられる。あるいは単純に氏族を区別するための記号に過ぎないこともある。
トーテム totem
アルゴンキアン族(北米の土着インディアン)の語で守護神の意味をもつ。彼等の信仰によると、トーテムと呼ばれる動物、植物、自然物(石など)は、自分たちと近親の関係を持っていると考えたり、トーテムを自分たちの先祖とみなしている。ある部族では思春期に薬物による幻想や夢の中に現れるものを個々人のトーテムとみなしている。オーストラリアやアフリカでは氏族のトーテムがあり、それを殺して食べることは禁じられている。氏族の名前や紋章としても使われる。このような信仰はヨーロッパ、アジアでも認められる。頭が動物をかたどった神がそれである。 
幻想の未来
「幻想」とは宗教−キリスト教(フロイトはユダヤ人だが徹底した無神論者)をさす。フロイト「宗教は幼児期の『よるべなさ』から生まれる。幼児は父親に頼ろうとするが、その父親の代理が宗教」 
欲動とその運命
欲動=人間を動かすエネルギー
動物は本能にしたがて生きている。本能とはその種のすべての固体に共通する行動様式である。動物は何も考えなくても生きていける。動物の本能は生まれたときすでに遺伝子に書き込まれている。人間は本能が壊れてしまった。原因は不明。直立歩行をはじめた人間の大脳は爆発的進化した。そのせいかもしれない、はたまた、ネオテニーのせいかもしれない。とにかく本能が壊れてしまった、というのがフロイト考え。フロイトは人間における本能に似たものを「欲動」とよび、動物の本能と区別した。欲動をフロイトは、二つに分けた。
〔1「性の欲動」&「2自己保存欲動」〕←後に、ナルシシズムの概念を導入
性欲動には対象に向かう欲動と、自己自身に向かう欲動とがある。しかし最終的には、性の欲望(エロス)と死の欲動(タナトス)の二元論を提唱。(死の欲動は新宗教の集団自決や無差別殺人など現代のさまざまな現象を解明する重要な概念である。) 
ナルシシズム narcissism(自己愛)
エコーの愛を拒絶して水面に移った自分の姿に見とれ思いを寄せたナルシスを語源にした造語。リビドーが外の対象に向けられず、自分自身の姿に向けられるもの。同性愛では異性の愛を拒絶し、同姓の愛を求めるが、この同性は自分自身の姿に似たものであるという意味で自己愛に基づく対象選択である。誇大妄想を持つ精神病では、外の対象に向けられていた対象リビドーは、自分に向けられる自我リビドーとなる。もともとは自我リビドーが根源的なもので、ちょうど下等動物が偽足を出して外の対象と接触し、必要に応じて偽足を体内にしまいこむのと同様に考えられる。
そのため、対象リビドーを内にしまいこんだものを二次的自己愛といい、根源的な自我リビドーにもとづくものを一次的自己愛という。発達的には、自体愛に特別な心的作用が加わり、自己愛に発展すると考えられる。
この特別な心的作用は同一視とみなされる。自体愛においては自我が成立していないが、他者との同一視によって自我が成立することによって、自分の身体でなく自分の自我を愛するようになる。ラカンの発達的段階としての鏡像段階は、この同一視を考慮しようとするものである。自己愛は自分のことだけに関心を示し、他人に対する配慮を欠くてんでは利己主義と似ている。自己愛を傷つけられると激しく怒り、あまり自己愛が強いと羞恥心が強くなる。発達的には、自己愛を喪失することにより、その代理として自我理想がつくられれてくる。 
自我リビドー ego libido
神経症の治療から精神病の治療に眼が向けられるとき、精神分析に自己愛の考え方が導入され、リビドー自我リビドーと対象リビドーに分けられる。自己愛においては、まずリビドーは自我に付着しているものと考えられる。これを一次的自己愛とよぶ。すなわち、リビドーはまず自我に付着しており、後になって対象に向けられる。これを対象リビドーという。対象に付着していたリビドーが再び自我に向け変えられたときは、二次的自己愛が起きると考えられる。
これは精神病の誇大妄想、ヒポコンデリーなどに顕著に見られるものである。
自我リビドーが大になれば、それだけ対象リビドーは小さくなる。
対象リビドーが大きくなれば、それだけ自我リビドーは小さくなる。
フロイトの理論構成から言えば、字がリビドーと自我衝動は全く異なるものであるが、自我という概念の曖昧さから、混同される危険性がある。自我がリビドーの貯蔵庫であるかのように述べられることもあるが、さまざまな誤解の元にもなる。 
エロス eros
ヘシオドスによって最初に記載された最古の最も強大な神。無秩序の中から調和のとれた秩序を作り出す。その後、性的な愛の神とみなされ、献身的、非性的な愛アガペー(Agape)あるいはカリタス(Cartas)に対立するものとみなされる。フロイトの後期の衝動論では、エロスは死の衝動に対立するもので、性的衝動よりも包括的で自己保存の衝動をも含めた意味で考えられる。 
フロイトの患者たち
ドーラ
ドーラは当時18歳(フロイト44歳)の女性で、フロイトに分析治療を受けたが途中治療をやめた患者である。
ドーラはブルジョアの娘で両親と兄と暮らしており、家と親しくしていた。彼女の症状は16歳のときから始まった。いわゆるヒステリー性の“咳”であった。咳が直ると“声が出なくなり”“鬱状態”に陥り“自殺願望”まで抱くようになった。ドーラはK氏からセクハラを受けており、ドーラの父親はKの妻と不倫関係にあった。ドーラ。『父がK婦人との関係を続けるために、自分をK氏に差し出したのだ』と考えていた。フロイトはドーラのヒステリー症状を“Kしへの淡い恋心”“父親への近親相姦的愛情”“K婦人への同性愛感情”などから分析した。しかし、3ヶ月足らずでドーラが一方的に分析をやめてしまった。フロイトは『私の解釈を受け入れない憎らしい娘め』と書いている この頃のフロイトはまだ、精神分析家としては未熟で、転移、逆転移を理論化する以前だった。ドーラの分析の失敗を通じ、分析治療の技法を確立していったということである。
小さなハンス
ハンスの分析は、彼の父親(マックス・グラーフ,音楽学者)を通して行なわれた。
ハンスは5歳のとき、『馬に噛まれるから』と言い、外に出るのを恐がるようになった(馬恐怖症)。また荷馬車を引いている馬が倒れるという恐怖も抱いていた。精神分析の信奉者である父親は、「ハンスは大きなペニスを恐がっているのだ」と解釈したが、フロイトは「ハンスは自分のペニスを失うのを恐れている」と解釈した(去勢恐怖)。『馬に噛まれる』という少年の恐怖は、父親から罰せられることへの恐怖が転換されたもの(その父は髭をたくわえており、馬に似ているとフロイトは思った)である。どうして父親に罰せられるのか。それは少年が母親に対して性愛感情を抱いているからで、『馬が倒れる』というのは父親の死に対する願望のあらわれである。
こうして、エディプス・コンプレックスの理論ができあがっていく。
ねずみ男
ねずみ男の分析は、治療が成功した唯一の事例といわれている。
彼は治ったものの、第一次大戦で戦死した。
ねずみ男とよばれる(フロイトが呼んだ)強迫神経症患者は、当時29歳の法律家で、自分の父親と自分の愛する女性の身に恐ろしいことがおきそうだという恐怖におびえていた。また誰かを殺したいという衝動と、剃刀で自分ののどを書ききりたいという衝動に苦しめられていた。さらに、小額の借金を返すべきかどうかという問題をめぐって死ぬほど悩んでいた。彼は性的には早熟で、6歳のときすでに、女性の裸を見たいという欲求を抱くと父親に不幸が降りかかるという強迫観念に苦しめられていた。29歳になってもその強迫観念に苦しめられていたのだが、そのとき父親はすでに亡くなっていた。
“ねずみ男”とフロイトが呼んだひとつの理由は、『鼠刑のはなし』が頭から離れないという患者の訴えから。(鼠刑とは、在任の尻の上に鼠の入った鉢をかぶせるというもので、鼠は出繰りを探して肛門を食い破って内臓の中に入り込むという。)彼の強迫観念の核はこの鼠という象徴であったことをフロイトは指摘する。
フロイトは、父親の身を案ずる気持ちが実は父への愛情だけでなく、実は父親の死を願う気持ちのあらわれれであることを明らかにした。∴ねずみ男は治ったのである。
シュレーバー
パラノイア患者シュレーバーは『ある神経病患者の回想録』(妄想)を出版した。主レーバーは神から世界を救うという任務を与えられたが、その任務を遂行するには女性に転換することが必要であった。
フロイトはこの妄想を分析した。
整形外科医であり著述家、教育改革者を父に持つシュレーバーは、幼い頃より厳格な父に厳しく育てられた。彼は最高裁判所の判事にまでなったが、精神病院で10年以上も過ごした人物である。回想録の中で重要な意味をもつのは太陽、その太陽は父親の象徴である。フロイトはシュレーバーの妄想の根に父親に対するアンビヴァレンツと、女性になって男性を愛しまた男性から愛されたいという“同性愛”感情があることを突き止め、この回想録が「回復・再建の企て」であることを明らかにした。
狼男
ロシア人貴族のセルゲイ・パンケーエフで、1909年末にフロイトのもとへやってきた。
彼の分析は4年以上続いたが、フロイトによって打ち切られた。彼は結婚できるほどに回復したが、完治はしなかった。彼はロシア革命ですべての財産を失い、第一次大戦後にまたフロイトのもとを訪れ経済的援助をうけた。彼は生涯フロイトを敬愛した。彼はフロイトの患者であることが自慢であった。
狼男と呼ばれるのは、彼の夢による。−3歳のパンケーエフは窓際で寝ていた。窓がひとりでに開いたのでおそるおそる外を見ると、大きな木の枝に6,7匹の狼が座っていた。彼は食べられてしまうのではないかという恐怖に駆られ、悲鳴を上げて目を覚ました。
この幼児期の一件から、彼は神経的な性行動−後背位性交を好み、ヒップの大きな女性を好み、身分の低い女性を求める−に走った。フロイトは狼の夢の背後に、衝撃的事実があることを確信し、彼は1歳半のときに両親の性交を目撃したに違いないと解釈した。そして両親は3回続けて性交し、うち1回は後背位で交わったと結論した。
1920年代半ばに、パラノイア的な症状を呈し、ブルンズヴィックの分析を受けている。 
考古学と精神分析
フロイトが古代遺物の蒐集を始めたのは父親の死後だった。
リン・ガムウェイ-研究者曰く
「フロイトはエジプトやギリシャに自分の父=祖先=ルーツを求めた?!」
「フロイトが蒐集を始めたのは、フロイトが同業者たちから最も阻害されていた時代で、彼は彫像たちを並べて自 分の(沈黙セル)聴衆に見立てて、自らの心を慰めていたのではないか」
フロイトはつぎのようにいっている。
「『ヒステリー研究』のなかのR嬢の事例は、私が手がけた最初の完全なヒステリー分析であったが、これによって私は一つの処置を発見した。私は後にそれを〔精神分析治療という〕ひとつの治療法まで高め、目的意識をもってそれを駆使するようになった。その処置とは、病因となる心的素材を順次に層ごとに取り出して処理する方法で、われわれは好んでそれを古代の埋没都市の発掘技術にたとえたものだ。」
「精神分析家と言うものは、発掘に取り組む考古学者と同じく、一番深いところにある最も貴重な宝物に到達するには、患者の心の層を一つ一つ掘り起こしていかなければならないのだ」と狼男に語った
※精神分析の考えでは、神経症の原因は全て幼児期の体験にある。したがって精神分析治療とは、現在の状態、すなわち症状から出発して、考古学者がいくつもの地層を掘り起こしていくように、心の層をひとつひとつ掘り起こしていって、症状の原因である幼児期の体験を探り当てる作業なのである。 
転移(感情)sference
心理治療が進み、患者が治療者に対して自分の不安や希望などを自由に話すようになってくると、患者は幼児期に親などに対して抱いていた無意識的な感情や葛藤を治療者に移すようになってくる。すなわち、患者は幼児期の葛藤を治療者との関係で現実的に再経験することになる。心理治療が成功するか否かは、こうした関係がつくられるか否かにかかっている。この転移的関係が起きたとき、患者は転移神経症になっているといわれる。患者が治療者に感情・態度などを転移するとき、正の転移と、負の転移が起きる。正の転移は患者が治療者に行為や愛情を抱くときである。
このとき、患者は自由に話し、信頼を示し、治療者により沿うように近寄り、夢の中に治療者が現れたことを報告し、身だしなみを良くするようになり、他の患者に嫉妬を抱いたり、症状が急になくなったりする。負の転移が起きるときには、患者は治療者に敵意を示し、治療が伸展しないことをこぼしたり、治療者を非難したり、不誠実だといってなじる。自由に話すことができず、夢を思い出して話すことも少ない。時には治療を中止せざるを得ない状態にもなる。このような負の転移が起きるのは、治療者が性急に、患者にとって非常に苦痛な事件などに言及したり、それを話させようとするからである。治療者は、最初、患者に対して好意を持っていても、治療が進むにつれて、好意が次第に薄れ、敵意が増大し、患者と面接するのが嫌になってくることがある。これは反対転移とよばれるものである。これらの転移的感情は、治療場面のみで起きるとは限らない。日常生活においても起きている。
転移神経症
フロイトが最初に転移神経症という用語を使ったときには、精神分析によって治療できる神経症(ヒステリー、不安ヒステリー、強迫神経症)を総括した意味をもっていた。現在では治療中に患者が分析者に感情を転移するときのことをいう。
転移抵抗
分析を受けている患者が点意中に現れようとする感情や衝動のあるものを抑圧しておこうとする傾向のこと。患者は、例えば、親に対する以前の感情を分析者に転移しているが、その転移感情の中には、今でも受け入れがたいものがあるから、それは抑圧されなければならない。例えば、女性の患者が男性の分析者に対してやきもちをやくのは、彼女の中に父親に対するエディプス・コンプレックスがあって、性的な関心をあらわに表出し得ないからである。 
精神病 psychosis
一般に精神障害を大別して、神経症と精神病に分ける。神経症は障害の程度が軽いが、精神病は、その程度の重いことをいう。神経症と精神病の教会を診断的に明確にすることは必ずしも容易ではない。幻覚や妄想があるから精神病(分裂病)であるというように、単一な症状からは診断できない。精神病は、器質的障害によるものと機能的障害によるものとに大別される。前者は梅毒性の進行麻痺、脳腫瘍、動脈硬化症などに付随して起こる精神病である。後者は、感情的障害を主とする躁鬱病、思考様式に障害のある分裂病、妄想症などである。一般に機能障害は体質的・心理的要因によって起こるとされているが、遺伝や神経内分泌などの影響についてもさまざまな研究が行われている。
フロイトは神経層と精神病の違いを次のように理解した。
「神経症」 衝動(イド)が抑圧されるとき、抑圧された衝動は意識に浮かび上がろうとする。このとき自我はその衝動が元のままの姿で意識に浮かび上がらないように歪曲し、防衛をする。これが症状となって現れるとき神経症となる。
「精神病」 現実との接触が遮断され自己愛に留まっているが、失われた現実を取り戻そうとするとき、衝動があまりに強大で自我の防衛を圧倒してしまい、衝動と現実が衝突し、現実を歪曲するか空想的に破壊するよりほかになくなっているものと考えている。
神経症 neurosis
神経症は精神神経症と現実神経症に区別される。
精神神経症−恐怖症、強迫神経症、ヒステリーなど
現実神経症−不安神経症、神経衰弱など
もともと神経症は現実神経症のことを意味し、生理的な機能障害(自律神経、神経内分泌)に由来するものと考えられていたが、今日では神経症と精神神経症は、ほとんど同じ意味で用いられる。 
パラノイアparanoia(妄想症)
語源的には理性からはずれているの意。
1863年カールバームが被害妄想や誇大妄想などを記述するとき使用した用語。
妄想症は徐々に発展し、強固に組み立てられ、変えることのできない論理的に体系化された妄想を持つ重い精神障害である。妄想的な信念を持っているほかは、一般には顕著な異常はないが、その妄想のため思考様式は大きな障害を受けている。しかし妄想症と診断される患者はまれで、妄想症に類似の妄想性反応を示すものが多い。病因としては、心理的に高い野心を持ちながら失敗するため、罪悪感を持ったりする場合、例えば、親があまりに高い望みをかけ、権威主義的で厳格な場合など、その子は妄想症的傾向を発展させていく。また、異性の親を過度に同一視した子どもなどが、この傾向を示すようになる。この防衛機制はフロイトによって示されているように、投映が中心をなしている。
妄想 delusion
事実に即さない誤った信念。ある程度までは誰でも妄想を持つことによって人格的な安定を得ている。不安に対して自分が強大な力を持っているような妄想は、英雄物語やおとぎ話などに一般に見られる。これらは自分の願望を満たすように事実を歪曲して情緒的安定を得ようとするものである。であるから、妄想は理性的思考によって支配されているのではなく感情によって支配されている。妄想症は体系的に汲み上げられた妄想を持っているが、これは論理的ではなく、感情に支配された防衛である。一般に欲見られる妄想は、誇大妄想、被害妄想、関係妄想などである。これらの妄想は外の世界に対して攻撃的であるが、自分自身に対して攻撃的になると、抑うつ的妄想が起きる。例えば、自責、罪、貧困などの妄想である。
妄想的人格 paranoid personality
この人格の顕著な特性は、頑固で嫉妬深く、他人に対し疑い深く不審の念を持ち、挑戦的・攻撃的で、妥協を知らない。成功心が強く、自分の能力を超えた目標を追求する。批判を受け入れないか、他人を批判し、軽蔑する。自分の優れたところを顕示しようとする。権力の座につけば専制的になる。防衛機構としては投映を利用しやすい。例えば、わたしは彼が憎らしい、という代わりに、彼はわたしを憎んでいるから、たしが彼を攻撃するのは正当であるというように、自分の敵意や攻撃を他人にかぶせる。こうした人格的特性は、これ以上に発展しない限り、病的とはいえない。が、抑圧された同性愛などがもとで精神病にも発展する。また、科学や芸術などで貢献するような仕事をしうることもある。 
フロイト・雑話 
フロイトとユング
深層心理学のパイオニアであるユングは、1875年貧しい牧師の息子としてスイスに生まれた。幼い頃から空想に耽り、白昼夢も見ることがあったらしい。ユングは心霊現象の研究で学位を取得し、1900年にチューリッヒの精神病院に勤めた。そこで院長をしていたのが、分裂病の研究で知られるオイゲン・ブロイラーであった。(精神分裂病、アンビヴァレンツ-相反感情併存、自閉症などは彼の造語)ブロイラーにフロイトの『夢判断』を読んで他の医師に説明するように命じられたユングは、深い感銘を受け、他の論文も読み漁り、フロイトの考えを自分の研究に取り入れた。『早発性痴呆の心理学』(1906年)ではフロイトを引用し、賛辞している。1906年ユングは自分が執筆・編集した論文集『診断学的連想研究』をフロイトに送った。この本は、フロイトの自由連想方を実証的に裏付けるもので、フロイトはユングに礼状を送った。同年、フロイトは神経症理論に関する論文集をユングに送った。その礼状の中でユングは「わたしはフロイトの擁護者であり精神分析の伝道者です」と宣言した。こうして二人の交友は始まった。翌年ユングはフロイトを訪ねている。(そのとき、二人は13時間も話し続けたらしい。)ユングはフロイトを父親のようにしたい、フロイトはユングを息子のように可愛がった。フロイトはユングを精神分析運動の後継者にするつもりでいた。しかし、ウィーンにはすでにフロイトの信奉者たちのグループができており、1910年に国際精神分析学協会が設立されたとき、フロイトはユングを初代会長に就任させたものだから、ウィーン派とチューリッヒ派の対立は激化し、ユングは協会から脱退してしまった。
1909年のエピソード
この年、フロイトとユングはアメリカのクラーク大学から講演依頼を受けた。(フロイトは聴衆からもマスコミからも大歓迎を受け、将来、精神分析がアメリカで栄えることを予感させた。)
出発の前日、一緒に食事をしたとき、
ユング「北ドイツの泥炭地帯で先史時代の人が発掘された」
フロイト「どうして君は、死体にそんなに興味を持つのですか?」と気絶、、、「君があの話題にこだわるは私の死を望んでいるからだ」
この旅行の間中フロイトとユングは毎日行動をともにし互いの夢を分析しあった。
ある夜ユングは次のような夢を見た。
「彼は古い家の二階にいた。その部屋には見事な家具があり、すばらしい絵が壁にかかっていた。下へ降りていくと、もっと古い家具があった。彼は家中を探検してみようと思った。床を調べてみると石でできていた。ある一枚の石板に環がついていてそれを引くと医師板が持ち上がり、階段が見えた。それを降りていくと岩の中にくりぬかれた洞窟があり、そこには骨や壊れた陶器が散らばっていた。原始文化の名残であった。そして人間の頭蓋骨がふたつあった。」
フロイトはこの夢を聞いて、その頭蓋骨が誰のものかということに興味を持った。
フロイト「ユングはその頭蓋骨の持ち主に対して死の願望を抱いているのだ」
ユングはそれは、全くの的外れだと思った。「夢の中に出てきた家は心のイメージであり、二階は私のイ意識、一階は個人的無意識、地下は集合的無意識なのだ。頭蓋骨は人類の祖先のものであり、死の願望とは何の関係も無い」
またフロイトの見た夢について、ユングは、フロイトの私生活のことももっとはなしてほしいと願った。しかし、フロイト「そんなことしたら、私の権威が危うくなってしまう」と、、、
ユング「フロイトは個人的権威を心理よりも上においている。」とフロイトに幻滅、、、
神秘主義、オカルトについてユングが聞いたとき
ユング「神秘主義やオカルトについてどう考えるか」
フロイト「戯言だ」
-ユングは自分の横隔膜が真っ赤に焼けた鉄のように感じた。その瞬間、二人の近くにあった本箱の中で大きな爆裂音がした。二人は『びっくりして立ち上がった。
ユング「これがまさに超常現象ですよ」
フロイト「ばかばかしい」
ユング「いいえ、あなたは間違っている。私の言うことが正しいことを証明するために、
しばらくするともう一度さっきと同じ爆裂音がするはずです」
-ユングの言うとおりであった。フロイトは精神分析運動の指導者の地位を奪われることに脅えていた?!
、、、、、のだろう、、、、というのがユングの分析だった、、、
そして二人は決別
ユングは、フロイトの「人間の無意識的欲望は総べて性的なもの」という主張に賛成できなかった。
ユング「心的エネルギーは、もっと広く一般的で『生命力』というべきもので、性欲はその一部にしか過ぎない。
そして、フロイトのいう無意識の下方にはもっと重要な層-『無意識集合的』がある」
フロイトと決別したユングは精神的危機に陥り、そこから抜け出すのに数年かかったそうな。
(フロイトと決別した弟子たちは、ほとんど例外なく精神的危機に陥っている。ライヒは精神病に、タウスクは自殺した) 
フロイトと文学
若い頃は、シェークスピア、ゲーテ、をはじめ、ギリシャ・ラテンの古典にいたるまで読み漁った。
が、同時代の文学、特に前衛文学には何の興味も示さなかった。
晩年は、推理小説が好きだった。
お気に入りはシャーロックホームズやアガサ・クリスティなどで、大抵は一晩で読んでしまった。 
家政婦
「先生はほとんどいつも犯人が誰だかわかっていましたが、もしそれが違っていると、たいそうお腹立ちでした。」 
日常生活で、私たちは人の名前をうっかり間違えたり、文章を書き間違えたりする。そんなとき、ほとんどの人が「何故、まちがえたのか」を深く考え込んだりしない。しかし、フロイトはそうした“うっかり”の理由を考えた。
あるときフロイトは、自分の持っていた宝石を友人にプレゼントすることにし、それに添えるカードを書いた。ところが、fur(ウムラートが出ませんが、・・・・のために)と書くべきところを、bis(・・・まで)と書いてしまったそうな。これについてフロイトは、「furの繰り返しを避けるために別の言葉を用いたのだ。なぜ、bisという全く意味の違う言葉を用いたのかというと、これはドイツ語ではなく、ラテン語のbis(もう一度の意)であり、同じ語を用いてはいけないという意識があった。」この解釈を聞いた娘は「お父さんが避けようとしたのは単語の繰り返しではなくて、行為の繰り返しじゃないの。前に同じ女性に同じものをプレゼントしたことがあるのでは?!」と指摘した。この指摘を受けてフロイトは「私はその宝石が気に入っていて、本当は贈りたくなかったのだ」という結論に達した。
フロイト流にいえば、ちょっとした失敗も、多くの前提や力動的な決定要因によってなされるのである。 
フロイトはローマが好きでたびたび訪れ、必ず『モーゼ像』を見に行った。フロイトはその虜になってしまい、それほどの魅力はどこからくるのかを明らかにしたのが、『ミケランジェロのモーゼ像』(1914)。彼はそれを応用分析の雑誌『イマーゴ〕に匿名で発表した。あれほどの自信家フロイトもきっと自信がなかったのでしょう。
フロイト「ミケランジェロは、あえて聖書の記述に逆らって歴史的・伝説的なモーゼより一段上のモーゼをつくりあげたのだ。そうすることによってミケランジェロは、モーゼ像に何か新しいもの、超人間的なものを織り込んだのだ。この石像の巨大な肉体力に満ち溢れた筋肉の全体は・・・・・人間のなしうる最大限の精神的行為を表現している。」
※モーゼはエジプトから民を救い出したのですが、その彼等が偶像(黄金の子牛)を崇拝し、いけにえを捧げているのを見て激怒しました。フロイト以前の美術史家たちは「ミケランジェロは、怒りを爆発させる直前のモーゼを描いた」と解釈していたのです。しかし、フロイトは「ミケランジェロは怒りを鎮めようとしているモーゼを表現しようとしたのだ」と解釈しました。 
フロイトは、精神分析という武器を携えて、謎多き人物−レオナルド・ダ・ヴィンチの謎に挑戦した。(〔ダ・ヴィンチの幼児期の記憶』1910−精神分析的伝記)
−「どうやらわたしは最初から禿鷹に関わる運命にあったようだ。まだ揺りかごの中にいた頃、一羽の禿鷹が舞い降りてきて、尾で私の口を開き、私の唇を何度もその尾で突っついたのだった。」−レオナルド
※禿鷹は鳶の誤訳であることが判明している。
−フロイトは↑を、記憶ではなく後年の空想だと確信した。「尾は男根の象徴であるから、この場面はフェラチオを表している。なぜなら禿鷹は古代エジプトでは「母」を表す象形文字であった。しかも古来、禿鷹には雌しかおらず、風によって解任すると信じられていたので、キリスト教の伝統では処女懐胎の証拠として盛んに引き合いに出された。レオナルドはそれを知っていたに違いない。禿鷹には召すしかいないということは、レオナルドには父親がいなかったことを意味している。そしてレオナルドは、この母親への愛着から同性愛者になった。しかしレオナルドは性的なことにはほとんど興味がなかった。」−
−一部の同性愛者は、母親と一体化し、その一方で、自分に似た男を愛の対象に選び、かつて母親が自分を愛してくれたように、その男を愛する。−幼児性欲理論
※レオナルドは私生児として3年間過ごし、父親の再婚相手に育てられました。
そして彼の弟子は美しい少年だけだったそうです。
『モナリザの微笑み』−その微笑みは「レオナルドの中でまどろんでいたもの、遠い記憶を呼び覚ましたからではないか」
 
ルネサンスの万能人レオナルド・ダ・ヴィンチの
 『禿鷹空想』と同性愛気質の精神分析的解釈

 

シグムンド・フロイトが想像的に行ったレオナルド・ダ・ヴィンチの幼児期の精神分析に言及しましたが、その精神分析は『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出(1910)』という論文に記載されています。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、多くの優れた芸術家・文学者・技術者を生み出したイタリア・ルネサンスの盛期において、ミケランジェロ(1475-1564)やラファエロ・サンティと双璧を為す最高の天才と言われる人物です。
ミケランジェロの最高傑作は、システィーナ礼拝堂を色彩豊かに飾る広壮な天上画であり、サン・ピエトロ大聖堂のピエタ像やフィレンツェのダヴィデ像も歴史的な作品として有名です。ミケランジェロは万能人であったレオナルド・ダ・ヴィンチと比較すると、彫刻や絵画という造形美術の分野で驚異的な才能を示しました。レオナルド・ダ・ヴィンチは『最後の晩餐』と『モナ・リザ』という誰もが知っている歴史的名作を制作しましたが、絵画・彫刻の芸術分野だけでなく建設・土木・工学・科学といった技術分野でも当時としては類例のない異才を発揮しました。
古代ギリシアやローマの古典文化を復興しようとするルネサンス(文芸復興)期にその才能を遺憾なく発揮したレオナルド・ダ・ヴィンチは、芸術・技術・学問のあらゆる分野を完全に網羅する万能人を目指しましたが、逆に言えば、特定の分野に全ての情熱と能力を傾けることができなかったために、学芸の諸分野において未完の作品・論考・アイデアを数多く残す結果となりました。レオナルド・ダ・ヴィンチは無尽蔵の知的好奇心と完全主義の欲求を活かして、学芸の広範な分野において『未来を予見する研究・制作・発想』を行いました。しかし、作品の計画や技術的なアイデアが余りに壮大であり、時代の産業技術が追いつかないほどに先進的であったため、その多くを完成(実現)に導くことができなかったと言われます。
S.フロイトは古代エジプトの歴史や考古学研究に深い関心を寄せており、フロイトの診療室にはスフィンクスやアブ・シンベル神殿の絵が掛けられ、デスクの上にはエジプトの神々の小さな立像(彫刻)が無数に置かれていたといいます。フロイトは、エジプトの禿鷹の女神ムトとレオナルド・ダ・ヴィンチが幼少期から持っていた『禿鷹空想』の連想から、ダ・ヴィンチの同性愛気質を指摘して『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出(1910)』の論考を書き上げました。
ダ・ヴィンチは、父親と結婚していなかった実母カタリーナの私生児として5歳まで育てられましたが、『揺り籠の中にいる自分(赤ちゃん)の元に一匹の禿鷹(はげたか)が舞い降りてきて、その尾で口を開いて何度も唇を突っついた』という幼児期記憶をもっていました。フロイトはこの幼児期記憶を客観的な現実ではなく、ダ・ヴィンチの無意識的な願望(口愛期への退行)を反映した心的リアリティと解釈して『禿鷹空想』と呼びました。
フロイトはダ・ヴィンチの作品である『三人づれの聖アンナ(聖アンナと聖母子と小羊)』に、ダ・ヴィンチの禿鷹空想に象徴される「口唇期的な部分性欲」が反映されているとして、乳児のダ・ヴィンチの口を突付いた禿鷹の尾は「母親の乳房(男性器)」の置き換えであると言いました。『三人づれの聖アンナ』に描かれている聖アンナの衣服の袖の部分が禿鷹の輪郭に見えると主張したのは、精神分析家のオスカー・プイスターですが、フロイトはこの絵画の特異な構成から、ダ・ヴィンチの無意識的な退行欲求と乳幼児期の成育歴を読み取りました。
古代エジプト人は禿鷹を母性を象徴する鳥と考え、禿鷹の頭部を持つ母性神ムトを信仰していましたが、ダ・ヴィンチ自身が抱いていた空想に出てきた鳥は、手記の記録によると本当は「禿鷹」ではなく「鳶(とび)」であったといいます。動物行動学が進歩していない中世のヨーロッパでは、禿鷹にはオスが存在せずメスだけしかいないという迷信が信じられていました。フロイトはエジプトの母性神ムトとドイツ語のムッター(母)を言語的連想で結びつけたり、メスしかいない禿鷹が風によって妊娠するというホラボルロの迷信を、聖母マリアが処女懐胎でイエス・キリストを産んだエピソードと結び付けています。
『三人づれの聖アンナ』には、イエスの母である聖マリアとマリアの母の聖アンナが描かれているが、両者の年齢差が感じられないほどに二人とも若く描かれており、聖マリアと聖アンナの身体が複雑に絡み合って二人の身体が融合しているかのような印象を与えています。フロイトの精神分析的な絵画解釈では、聖マリアはレオナルド・ダ・ヴィンチの産みの母親であるカタリーナを象徴し、聖アンナは育ての母親であるアルビエラを象徴しているとされました。『三人づれの聖アンナ』は、ダ・ヴィンチの二人の母親(実親と養親)に対する愛情と憎悪の葛藤を表現していて、更に、ダ・ヴィンチが家族関係の混乱の中で充足できなかった口愛期(口愛期)の欲求不満を表しているのです。
フロイトは、メラニー・クラインが指摘した原始的防衛機制の一つである『投影同一視(projective identification)』の考え方を用いて、ダ・ヴィンチの同性愛気質の獲得を説明しました。母親と母親に愛されている自分を同一化して母親の立場から自分(少年)を見ることで、幼少期の自分と類似した少年を愛する同性愛の傾向が生まれるというのですが、この「投影同一視による同性愛」の考え方では、同性愛は子供時代の自分自身を愛そうとする自己愛に近似したものとなります。
ナルシシズム(自己愛)から対象愛への発達過程の途上で、母親と自己を同一視する防衛機制が過剰に働くと、自分と同一の性を持つ対象を選択する同性愛気質を獲得するというのがフロイトの心因的な同性愛論でした。同性愛的な対象選択の原因として現在では胎児期のアンドロゲンシャワーのような生物学的原因(生体ホルモン説)が有力ですが、古典的な精神分析では、母親への投影性同一化(投影同一視)や自分自身と類似した対象を愛する自己対象的(自己愛的)対象選択によって説明されていました。
ダ・ヴィンチの同性愛傾向をフィクションとして再現した読みやすい歴史小説として藤本ひとみの『逆光のメディチ』がありますが、この小説ではダ・ヴィンチが自分を美少女アンジェラへと置き換えてフィレンツェ時代の禁断の男色を語るというあらすじが取られています。今回は、『三人づれの聖アンナ』の構図から禿鷹空想(リビドーの退行)を読み取り、心因論の同性愛傾向を分析するフロイトの論考について話をしました。 
 
夢判断 / 寺田寅彦

 

友人が妙な夢を見たと云って話して聞かせた。それは田舎の農家で泊った晩のことである。全身がしびれ、強直《こうちょく》して動けなくなったが、それが「電気のせい」だと思われた。白い手術着を着た助手らしい男がしきりにあちこち歩き廻ってそれを助けてくれようとするのだが、一向|利目《ききめ》がないので困り果てたところで眼がさめたのだという。さめて見たら枕が無闇《むやみ》に固くて首筋が痺《しび》れていたそうである。
私はその一両日前の新聞記事に巡査が高圧線の切れて垂れ下がっているのを取りのけようとして感電したことが載せてあったのを思い出したので、友人にそれを読んだかと聞いたら読んだという。それならそれがこの夢を呼出した一つの種だろうということになった。寝た部屋が真暗で、電燈をつけようと思ったら電球が外ずしてあったそうで、そのときに友人は天井から垂れ下がったコードを目撃したであろうし、またソケットに露出した電極の電圧の危険を無意識に意識したのではないかと思われる。それがこの夢の第二の素因らしく思われる。次に助手の出てくるのも心当りがある。この友人には理工科方面の友達は少なくて主に自分からそうした方面の話を聞くのであるが、その私がこの頃は自身ではあまり器械いじりはしないで主に助手の手を借りて色々の仕事をやっていることをこの友人が時々の話の折節に聞かされて知っているのである。
それで堅い枕、頸《くび》の痺れ、新聞記事の感電、電気をあつかっている友人、その助手と云ったような順序にこの夢の発展の径路が進行したのではないかと想像される。
ついでに私自身の近頃見た夢にこんなのがある。
西洋人の曲馬師らしいのが居てそれが先ずセロを弾く、それから妙な懸稲《かけいね》のようにかけ渡した麻糸を操るとそれがライオンのように見えて来る。そのうちにライオンとも虎ともつかぬ動物がやって来て自分に近寄り、そうして自分の顔のすぐ前に鼻面《はなづら》を接近させる。振返って見ると西洋人はもういない。どういう訳か自分は「オーイ早く菓子を持って来い」と大声で云おうとするが舌がもつれて云えない。そこで眼がさめたが、何だかうなされて唸《うな》っていたそうである。
これも前日か前々日の体験中に夢の胚芽らしいものが見付かる。食卓でちょっと持出されたダンテ魔術団の話と、友人と合奏のときに出たフォイヤーマンのセロ演奏会の噂とでこの夢の西洋人が説明される。魔術が曲馬に変形してそれが猛獣を呼出したと思われる。それからやはり前夜の食卓で何かのついでから、ずっと前に動物園の猛獣が逃出した事のあった話をした。それが猛獣肉薄の場面を呼出したかもしれない。「御菓子を持って来い」がどうも分らないが、しかしその前々夜であったかやはり食後の雑談中女中にある到来ものの珍しい菓子を特に指定して持って来させたことはあったのである。
麻糸の簾《すだれ》がライオンになる件だけは解釈の糸口が見付からない。こんなのをうっかりフロイドにでも聞かせると、とんでもないことになるかもしれないという気もするのである。
上記の夢を見てから一と月も後に博物館で伎楽《ぎがく》舞楽能楽の面の展覧会があって見に行った。陳列品の中に獅子舞の獅子の面が二点あったが、その面に附いている水色に白く水玉を染出した布片に多分|鬣《たてがみ》を表わすためであろう、麻糸の束が一列に縫いつけてある。その麻糸の簾形に並んださまが、自分の夢に見た麻束の簾とよほどよく似ているのでちょっと吃驚《びっくり》させられた。
この符合は多分偶然かもしれないが、しかしもしかしたら、以前に類似のお獅子をどこかで見たその記憶が意識の底に残留していたかもしれないという可能性を否定することも困難である。
それにしても魔術師ないしセリストと麻束との関係はやはり分らない。事によるとこの麻束が女の金髪から来ているかもしれないが、しかし自分の記憶には金髪と魔術師また音楽者との聯想は意識されない。(昭和十年一月) 
 
放射線と科学者

 

ベクレルと放射線 
アンリ・ベクレル(1852〜1908)
放射線や放射能が発見されたのは約100年前で、実はかなり最近の出来事なのです。1896年アンリ・ベクレルは、物質が電磁波の仲間である光を吸収した時に、同じ電磁波であるX線を出すのではないかということを研究していました。当時、X線はヴィルヘルム・レントゲンによって発見された初の放射線でしたが、まだ放射性物質や放射能の存在は確認されていませんでした。ベクレルは研究のためにウランを含む試料を光に当てなければなりませんが、偶然曇りの日が続いたために試料を光に当てることができませんでした。ベクレルが試しにその試料がX線を出していないかどうか調べてみると、光を当てていないはずの試料が、X線ではない別の放射線を出していることを発見しました。研究の結果、放射線はウランの濃度に比例していることがわかりました。
キュリー夫妻とラジウム
マリー・キュリー(1867〜1934)
1898年マリー・キュリーは夫のピエール・キュリーと一緒に、放射線の電離作用を観察によってトリウムを発見しました。また、ウランの鉱石中にウラン以外の放射性元素が含まれていると予測し、ポロニウム・ラジウムを発見しました。特にラジウムの発見は多くの科学者の注目を集めました。なぜなら、とても強い放射能を持っていたため、様々な不思議な性質を持っていたからです。たとえば、常に青く光っているように見えたり、びんに入れたラジウムをポケットに入れておくと、火傷したような炎症を起こしたりしました。何よりも注目を集めたのは、ラジウムがエネルギーを出し続けたことです。放射性物質はいつか放射線を出さなくなりますが、ラジウムは半減期が約1602年と非常に長かったので、当時は永遠に放射線を出し続けるように思われました。
研究に参加した日本人、山田延男
ラザフォードと新しい原子構造
アーネスト・ラザフォード(1871〜1937)
原子は、原子核の周りを電子が回っていると言われていますが、この構造が分かったのは放射能の研究があったからです。1902年アーネスト・ラザフォードは、放射線は原子が崩壊して別の原子になるときに放出されるものであるという、当時の常識を覆すような仮定を発表しました。なざなら、原子は物質の根源であり、それ以上分割したり、変化することがないと思われていたからです。1905年にはアルファ線の正体がヘリウムという原子の原子核であることを提唱しました。1911年には「原子は原子核と電子から成り立つ」という、今私たちが信じている原子構造を提唱しました。ラザフォードはこれだけにとどまらず、α線・β線の発見、中性子の存在の予言など多大な功績を科学史に残しました。 
アントワーヌ・アンリ・ベクレル

 

(Antoine Henri Becquerel, 1852-1908) フランスの物理学者。放射線の発見者であり、この功績により1903年ノーベル物理学賞を受賞した。パリ生まれ。息子のジャン・ベクレル(フランス語版)も物理学者である。
蛍光や光化学の研究者アレクサンドル・エドモン・ベクレルの息子、科学者アントワーヌ・セザール・ベクレルの孫で、研究者の道に進んだ。エコール・ポリテクニークで自然科学を、国立土木学校で工学を学んだ。
1903年、ノーベル物理学賞をピエール・キュリー、マリ・キュリーと共に受賞した。
1908年、ブルターニュ半島のLe Croisicで55歳の若さで急死。マリ・キュリー同様、放射線障害が原因だと考えられる。
放射能のSI単位のベクレル(Bq)はアンリ・ベクレルにちなんでいる。
1896年、ウラン塩の蛍光を研究中に、ウランが放出した放射線(アルファ線)が写真乾板を露光させることを発見した。ベクレルは偶然放射線を発見したとはいえ、あくまでも蛍光の研究に結びついた発見であった。最初のきっかけは1895年11月にドイツのレントゲンが発見したX線である。ベクレルの同僚であったポアンカレは1ヶ月後に入手したレントゲンの論文をベクレルに手渡す。このときポアンカレは「X線が蛍光を生じるなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかもしれない」とベクレルに話している。
実験を始めると、太陽光に当てたウランの硫酸カリウム塩が燐光を生じることをすぐに確認できた。さらに、太陽光にさらしたウラン塩を黒い紙で包んでも写真乾板が感光することを、1896年2月に発見している。最後の幸運は曇天(どんてん)が続き実験ができなかったことだった。実験再開に備え、ベクレルはウラン塩と乾板を一緒にしまっておいた。ところが実験を再開する前に確認すると、乾板が既に感光していることに気づいたのだった。ウランが発しているのが何らかの放射線であることは、空気の電離によって確認した。ウランの濃度に対する放射線の強度の分析や、ウラン以外の放射性元素の発見はピエール・キュリーとマリ・キュリーによる。 
マリア・スクウォドフスカ=キュリー

 

(Maria Skłodowska-Curie, 1867-1934) 現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者。フランス語名はマリ(マリー)・キュリー(Marie Curie)。ワルシャワ生まれ。キュリー夫人(Madame Curie)として有名である。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任した。放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による。 

 

幼少時
生誕時の名前はマリア・サロメ・スクウォドフスカ(スクロドフスカ)(Maria Salomea Skłodowska)。父ブワディスカ・スクウォドフスキ(スクロドフスキー)は下級貴族階級出身で、帝政ロシアによって研究や教壇に立つことを制限されるまではペテルブルク大学で数学と物理の教鞭を執った科学者 。父方の祖父ユゼフも物理・化学の教授であり、ルブリンで若い頃のボレスワフ・プルフ(en)も師事した。母ブロニスワバ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校(ボーディングスクール)の校長を務める教育者だった。
マリは5人兄弟の末っ子で、姉ゾフィア(1862年生)、ブロスニワバ(母と同名、1865年生)、ヘラ(1866年生)、兄ユゼフ(祖父と同名、1863年生)。その中でもマリアは幼少の頃から聡明で、4歳の時には姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だった。
だが当時、ポーランドはウィーン会議にて分割され、ワルシャワ公国はポーランド立憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態にあり、独立国家の体をなしていなかった。帝政ロシアは知識層を監視して行動に制約をかけた。マリ6歳の時、父ブワディスカが密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失った。さらに母ブロニスワバも身体を壊してしまった。投機への失敗も重なり貧窮した一家は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いたが、1874年に生徒が罹患したチフスが一家に移り、姉ゾフィアが亡くなった。1878年には母ブロニスワバが結核で他界した。14歳のマリは深刻な鬱状態に陥り、母に倣ったカトリックの信仰を捨て、不可知論の考えを持つようになったという。 
家庭教師のキャリアと破れた恋
1883年6月にギムナジウムを優秀な成績で卒業した。 しかし当時、女性には進学の道は開かれていなかった。父は、マリを親戚やかつての教え子が住む田舎で息抜きさせ、彼女は自然の中でのんびりした生活を堪能した。
その後ワルシャワに戻ってチューターなどを務めていたが、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「さまよえる大学(en)(ワルシャワ移動大学)」で学ぶ機会を得た。その頃、姉ブロスニワバがパリで薬学修学のために貯金をしていたが、マリは申し出て働き、姉を援助することを決めた。1885年からマリは住み込みの家庭教師を始めた。最初はクラクフの法律家一家で、その後チェハヌフ(en)で農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家でガヴァネスとなった。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、ワルシャワ大学で数学を学んでいた一家の長男カジュミェシュ・ゾラフスキ(en)が惹かれ、ふたりは恋仲となった。しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された。彼女は失意のまま契約の2年間を終えるとチェハヌフを去り、バルト海沿岸にあるソポトの町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた。
1890年3月、数か月前に医師カジュミェシュ・ドウズキと婚約した姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた。だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めたこと、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じていること、留学するには蓄えが充分ではないこと、そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいたことがあった。彼女は家庭教師をする傍ら、オールドタウン近郊のクラクフ郊外通り(en) 66にある農工博物館(en)の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室はサンクトペテルブルクでロシアの著名な化学者ドミトリ・メンデレーエフの助手を務めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキーが管理しており、またローベルト・ブンゼンに学んだN. Milicerも彼女を指導した。
転機は1891年秋に、彼女にとって決して幸福ではない形で訪れた。結婚は認められなかったが、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリは連絡を取り合っていた。そして9月、二人はザコパネで避暑の旅行を共にした。もうすぐ24歳になるマリは膠着した人生に変化を期待したが、彼は優柔不断で何も決断できずにいた。そのため二人は喧嘩別れしてしまい、マリは自らフランス行きを決意した。
一方のカジュミェシュ・ゾラフスキは、博士号取得後に数学者としての履歴を積み、またヤギェウォ大学の学長、ワルシャワ教育庁の長官まで上り詰めた。だが晩年には、1935年に建てられたマリ・キュリーの銅像の前に座り込んで何かの想いにふける、ワルシャワ工科大学(en)の老教授となった彼の姿が見られたという。 
パリでの苦学
3日間の汽車の旅を経て、1891年10月、マリはパリに移り住んだ。当時、女性でも科学教育を受講可能な数少ない機関の1つであったソルボンヌ(パリ大学)の登録用紙には名前を「マリア」からフランス語風に「マリー」と書き、物理、化学、数学を学ぶ日々が始まった。スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引き、彼女自身も義兄を通じて若きイグナツィ・パデレフスキなどパリ在住ポーランド人らとも親交を持った。
しかし、将来はポーランドに戻ると決めていた自分には時間が無いことに気づき、姉夫婦の元を離れてパリによくあった7階建石造りアパートの屋根裏部屋を借りて引っ越した。マリは昼に学び、夕方はチューターを務める一日を送った。生活費に事欠いて食事もろくに取らず、暖房もなかったため寒い時には持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながら勉学に打ち込んだ。ついには倒れて医師である義兄の面倒になったこともあったが、努力を重ねた結果1893年には物理学の学士資格を得た。この年、貯蓄が底をつき一度は諦めたが、同郷の学友が彼女のために奨学金を申請し勉学を続けることができた。 
ピエール・キュリー
学士を獲得後、それまでの蓄えに頼る生活を変えてマリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになった。相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金を全額返納した。
しかし、受託した鋼鉄の磁気的性質の研究は大学や勤めていたガブリエル・リップマンの工業試験場で行うには手狭で困っていた。そんな頃、チェハヌフ時代に知り合った女性が新婚旅行でパリに来て、マリを訪ねてきた。彼女の夫であるフリブール大学(en)物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキが悩みを聞き、場所の提供を頼めそうな人物を紹介する運びとなった。それが、フランス人科学者・ピエール・キュリーだった。
ピエール・キュリーは当時35歳。パリ市立工業物理化学高等専門大学 (EPCI) の教職に就いていた。当時のピエールはフランスでは無名に近かったが、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へ繋がる基本原理などを解明していた。1893年にはイギリスのウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねる程、フランス国外では既に天才の呼び声が高かった。
しかし彼自身は出世や女性との交際など念頭に置いていなかった。勲章を断り、薄給と粗末な研修設備に甘んじながら無心に研究に打ち込む日々を送っていた。異性観について、ピエールは日記に「女性の天才などめったにいない」と、自身の学問的探求心を理解してはくれないと考えていた。
1894年春、初対面のピエールを見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と振り返り、科学や社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたという。そしてピエールも同じように感じており、彼はマリに惹かれた。後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになるキュリー夫妻はこうして出逢い、磁気とコヴァルトスキ教授が二人の天才を引き合わせたキューピット役となった。
ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」(キュリーの原理)論文の写しを彼女に贈り、二人の距離は縮まった。そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた。お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった二人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。1894年に数学の学士資格を得たマリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、ふたたびフランスに戻るかどうか決めかねていた。彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学は女性を雇い入れなかった。その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった。
1895年7月26日、質素な結婚式が行われた。新婦のドレスは義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴も無い式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた。祝福の中で式を終えた二人は、祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した。こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得た。 

 

放射能
グラシエール通りのアパートで新生活が始まった。マリはEPCIで研究を続けながら家事もこなした。裁縫は前から得意だったが、独身の頃はろくにやらなかった料理もどんどん腕を上げた。収入を助けるために中・高等教育教授の資格を取得した。1897年9月12日には長女イレーヌに恵まれ、その出産と育児には義父で医師のウジューヌ・キュリーが彼女を助けた。同年末には鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げた。
マリは夫と話し合い、博士号取得という次の段階へ進む検討に入った。二人はここで、1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが報告した、ウラン塩化物が放射するX線に似た透過力を持つ光線に着目した。これは燐光などと異なり外部からのエネルギー源を必要とせず、ウラン自体が自然に発していることが示されたが、その正体や原理は謎のままベクレルは研究を放棄していた。マリとピエールは、論文作成のためこの研究を目標に据えた。
ピエールが確保したEPCIの実験場は倉庫兼機械室を流用した暖房さえ無い粗末なもので、訪問したある学者は「ジャガイモ倉庫と家畜小屋を足して2で割ったような」と例える程だった。そこにピエールと兄のジャックが15年前に発明した光テコを利用する高精度の象現電圧計と、ピエール開発の水晶板ピエゾ素子電気計など機器を持ち込み、ウラン化合物の周囲に生じる電離を計測した。そしてすぐに、サンプルの放射現象が実際のウラン含有量に左右され、光や温度など外的要因に影響を受けないという結果を得た。つまり、放射は分子間の相互作用等によるものではなく、原子そのものに原因がことを示す。これは、夫妻が明らかにしたものの中で最も重要な事柄である。次にマリは、この現象がウランのみの特性かどうか疑問を持ち、既知の元素80以上を測定しトリウムでも同様の放射があることを発見した。この結果から、マリはこれらの放射に放射能と、このような現象を起こす元素を放射性元素と名づけた。
彼女は発見した内容を即座に発表することを強く意識し、科学における先取権(en)を持つことに敏感だった。2年前にベクレルが自身の発見を科学アカデミーに公表せずぐずぐずと翌日に伸ばしていたら、発明者の栄誉も、そしてノーベル賞もシルバナス・トンプソン(en)のものになっていた可能性がある。夫妻も彼と同じく素早い手段を取り、マリは研究内容を簡潔に要約した論文を作成し、ガブリエル・リップマンを通じて1898年4月12日に科学アカデミーへ提出した。しかし、夫妻はトンプソン同様、トリウムの放射能発見競争では敗れた。2か月前にベルリンでゲアハルト・シュミット(en)が独自に発見・発表していた。 
新元素の精製と研究
マリの探究心は止まることを知らず、次にEPCIにある様々な鉱物サンプルの放射能評価を始めた。やがて、2種類のウラン鉱石について調べた結果、トルベルナイト(燐銅ウラン鉱)の電離がウラン単体よりも2倍になり、ピッチブレンドでは4倍に相当することが分かり、しかもそれらはトリウムを含んでいなかった。測定が正しければ、これらの鉱石にはウランよりも遥かに活発な放射を行う何かしらの物質が少量ずつ含まれると彼女は考察した。マリは「できるだけ早急にこの仮説を確かめたくなる熱烈な願望にかられた」と後に述べた。
1898年4月14日、夫妻はピッチブレンドの分析にかかり、100グラムの試料を乳棒と乳鉢ですり潰す作業に着手した。ピエールはマリの考察の正しさを確信し、やがて取り組んでいた結晶に関する研究を中断して彼女の仕事に加わった。1898年7月、キュリー夫妻は連名で論文を発表した。これはポロニウムと名づけた新元素発見に関するものだった。さらに12月26日には、激しい放射線を発するラジウムと命名した新元素の存在について発表した。
夫妻の発表に学会の反応は冷淡だった。物理学者は新元素の放射線がどのような現象から生じるのかが不明な状態では賛同しづらく、化学者は新元素ならばその原子量が明らかでなければならないと考えていた。そのためには純粋な新元素の塊を得なければならない。マリはそれに挑む決意をした。しかしピッチブレンドは非常に高価で、それを入手する資金など無かった。熟考の末、ガラス製造時に着色目的で使うウラン塩を抽出した後の廃棄物を利用する方法を思いつき、主生産地であるオーストリアのボヘミア・ザンクト・ヨアヒムスタール鉱山へ伝を頼って問い合わせたところ、無償で提供を受けられることになった。しかし運送費は夫妻が負担しなければならず、家計を圧迫する要因となった。
次に必要なものは、精製に必要な広い場所だった。ピエールがEPCIに掛け合った末、二人は建物を借りることができたが、以前は医学部の解剖室に使われていた、床板も無い小屋だったが、ここがキュリー夫妻の様々な業績を生む舞台となる。
ピッチブレンドは複雑な化学組成を持つ混合鉱物であり、分離精製は非常に難しいものだった。しかし、夫妻はラジウム塩を特殊な結晶化(分別結晶法)をさせて取り出すという方法に挑んだが、それは過酷な肉体労働を要求した。数キロ単位の鉱石くずを大鍋や壷で煮沸・攪拌・溶解や沈殿・ろ過などの方法で分離し、溶液を分離結晶させることを何段階も繰り返す。小屋には煙突も無く、大きな火を使う作業は屋外で行った。平行して放射能の研究も行わなければならず、やがて夫婦間で仕事が分担され、細かな研究をピエールが、精製作業をマリが行うようになった。しかし最初に手に入れた1トンを処理しても全く足りなかった。夫妻は新元素の含有率を1/100程度と目論んでいたが実際には1/1000000相当でしかなく、有意な量を得るために必要な鉱石量は何トンにもなることはまだわかっていなかった。
夫妻には時間が足りなかった。実験にかかる経費の負担、妻を亡くした義父ウジューヌ・キュリーの同居で家族が増えて引っ越した一戸建ての家賃など生活費を稼ぐため、ふたりとも教職を続けなければならなかった。ピエールは収入を上げようとソルボンヌ教授職の空きに応募したが、師範学校を出ていないことなどを理由に落選した。そんな折の1900年、スイスのジュネーヴ大学から夫妻へ好条件の教授職オファーが舞い込んだが、実験を中断しなくてはならず辞退した。これを伝え聞いた数学者アンリ・ポアンカレは、優秀な頭脳の国外流出を防ぐために骨を折ってピエールをソルボンヌ医学部の物理・化学・博物学課程(PCN) 教授に招聘し、またマリもセーブルの女子高等師範学校の嘱託教師となった。こうして収入は少し増えたが実験には焼け石に水程度だった。 
ラジウムの青い光
ポロニウムは化学的性質がビスマスに近く、鉱石の中でビスマス様物質を探すことで比較的簡単にたどりついた。しかしラジウム発見は一筋縄ではいかなかった。化学的性質が近い元素にバリウムがあるが、鉱石中にはバリウムとラジウムの両方が含有していた。1898年の段階で夫妻はラジウムの痕跡を掴んでいたが、純粋な状態で充分な量を確保するには至らなかった。
劣悪な環境と過酷な作業、逼迫した家計を賄うための教職の多忙さゆえ、夫妻の健康状態にまで悪影響を及ぼし、ピエールは精製を一時中断すべきとも考えた。しかしマリは少しずつ着々と進む作業に希望を見出していた。1トンのピッチブレンドから分離精製できたラジウム塩化物は1/10グラムにしかならなかったが、放射性元素は着々と濃縮され、やがて試験管や蒸発皿から発光が見られるようになったからだ。マリはこれを「妖精のような光」と形容している。1902年3月には濃縮に効果的な試薬を発見し、これを用いて精製した試料のスペクトルがラジウム固有のものであることを突き止め、夫妻は純粋ラジウム塩の青い光に感動を覚えた。夫妻は、有意な純粋ラジウム塩を得るまでに11トンのピッチブレンドを処理した。
しかしこの頃、度重なる不幸が夫妻を襲う。1902年5月、マリの父ブワディスカ危篤の知らせが届き、帰郷のさなか訃報を受けた。彼女は親不孝な自分を責めたが、晩年のブワディスカは届くマリの論文を楽しみに読み、特に3月にラジウム精製成功の手紙には大いに喜び、娘を誇りに思っていた。一方のピエールに友人たちはアドバイスを送りアカデミー会員になるよう薦めたが、7月の選挙で落選する。しかしこのような活動も栄誉ではなく研究のためのもので、逆にレジオンドヌール勲章の候補となった時には研究活動に寄与しないと断っている。夫妻は研究に戻るが体に変調をきたし、ピエールはリウマチを悪化させたびたび発作に苦しみ、マリは神経を衰えさせ睡眠時遊行症を起こすようになった。翌1903年には待望の第二子を流産してしまい、マリは悲しみにくれた。
このような苦境の中で進められた研究結果を夫妻は逐一学会に知らしめ、1899年から1904年にかけて32の研究発表を行った。それらは他の学者たちに放射能や放射性元素に対する認識に刷新を迫り、研究に向かわせた。放射性元素の追究はいくつかの同位体発見に繋がり、さらにウィリアム・ラムゼーとフレデリック・ソディのラジウム崩壊によるヘリウム発生の確認、アーネスト・ラザフォードとソディの元素変換説などがもたらされた。これらは、当時の概念であった「元素は不変」に変革を迫り、原子物理学に一足飛びの進歩をもたらした。
さらに、1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼル(en)が、放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷を確認した。医学教授らと協同研究した結果、変質した細胞を破壊する効果が確認され、皮膚疾患や悪性腫瘍を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法と呼ばれる。こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになった。第一次大戦後、科学者の間で放射線被曝(en)による人体影響への危険が徐々にではあるが認知されてきて、当時の放射性物質を取り扱う科学者らは鉛を用いた放射線防護、白衣の使い捨てなどの対策を取っており、マリは研究所員らに手袋での防護をするよう厳しく指導していたが本人は放射性物質を素手で扱うことが多く、防護対策を殆ど行わなかった。そのためマリの手はラジウム火傷の痕だらけで干しスモモのような皺が残っていたという。
新元素ラジウムは、学問対象に止まらず、産業分野でも有用性が次々と明らかになった。キュリー夫妻は、ラジウム精製法に対する特許を取得せず公開した。これは珍しいことだが、そのために他の科学者たちは何の妨げもなくラジウムを精製使用することができた。フランスの実業家アルメ・ド・リール(Emile Armet de Lisle)はラジウムの工業的生産に乗り出し、夫妻の協力を仰ぎ、医療分野への提供を始めた。ラジウムは世界で最も高価な物質となった。 
栄誉の光と影
放射性物質の研究は元々マリの博士号取得を目的に始められたが、多忙のためなかなかその準備にかかれなかった。しかしそれもやっと纏められ、アンリ・ベクレルが後押しして1903年6月に論文審査を受けた。夫と義父、姉、教え子たちが見守る中、3人の論文審査教授陣は、マリにパリ大学の理学博士 (DSc)を授けた。その日の夕食会には、知り合いの他にたまたまパリに来ていて訪問したアーネスト・ラザフォード夫妻も加わっていた。
夫妻の業績を最も早く評価したのはイギリスだった。1903年6月、王立研究所は夫妻を正式にロンドンへ招待し、講演を依頼した。ピエールは実験を交えた講演で喝采を浴び、マリは研究所会合に初めて出席した女性となった。ケルヴィン卿やウィリアム・クルックス、ジョン・ウィリアム・ストラット(レイリー卿)らとも親交を持った。さらに11月には王立協会からデービーメダルが授与された。そして1903年12月、スウェーデン王立科学アカデミーはピエールとマリそしてアンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞を授与する決定を下した。その理由は「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」であった。こうしてマリは、女性初のノーベル賞を授与された人物となった。夫妻はストックホルムの授賞式には出席できなかったが、得た7万フランの賞金は一家の経済状態を救っただけでなく、金銭的に恵まれない知人や学生たちのためにも役立てられた。
このノーベル賞の審査が行われた際、アカデミーは物理学賞授与で検討を進めていたが、選考委員会の中には新元素発見は化学賞が該当するのではという疑問の声があがった。このため、1903年度受賞理由からはラジウムとポロニウムの発見はあえて外され、将来の授与に含みを持たせる対応が行われた。
ノーベル賞受賞は、二人を一気に有名人にした。しかしそれは夫妻の望むものではなかった。数々の取材や面会の依頼、舞い込む多量の手紙などに時間を取られ、あまつさえ一家の自宅や研究所にまで踏み入ろうとするマスコミに辟易し、何より研究をする余裕が奪われた。1904年、パリ大学はピエールを物理学教授職に迎える打診を行ったが、実験室が用意されないことを知ったピエールはこれを辞退しようとした。大学側は折れ、議会に掛け合って研究費と設備費を捻出し、やっとピエールの承諾を得た。
この年、マリは妊娠していたこともあり、一家は段々隠遁的な生活を送るようになった。研究はできず、大衆に追い回されるために偽名を使ってブルターニュの田舎へ避難することもあった。そんな夫妻は、1904年12月6日に次女エーヴが産まれたことで落ち着きを取り戻し始めた。1905年には教職に復帰し、実験室に入る時も持ち始めた。相変わらずパーティーなどは避けていたが、心に余裕ができると演劇鑑賞などにも出かけたり、舞踏家ロイ・フラーや彫刻家オーギュスト・ロダン、科学者関係では隣に住むジャン・ペラン夫妻、ジョルジュ・ユルバンやシャルル・エドゥアール・ギヨームなどとも親交を持ち、たびたび家に招いた。そこには教え子たちも交じることもあり、その中にはピエールの生徒ポール・ランジュバンもいた。 
1906年4月19日
1906年に入り、教授職とともに得た新しいキュヴィエ通りの実験室が動き始めた。手狭で交通に不便な郊外だったが、助手と手伝いが加わった上に実験主任にはマリが任命され、給与も支払われた。夫妻は相変わらず多忙だった。マリはセーブル女子学校の教師を続け、ピエールは科学者そして大学教授としての様々な雑務に追われていた。
それは4月19日木曜日に起こった。雨模様の日ピエールは様々な予定をこなし、馬車が行き交う狭いドフィーヌ通り(en)を横断していた際にぶつかった荷馬車に轢かれ、事故死した。野次馬は被害者が有名な科学者だと気づいた。すぐ大学に電話連絡がなされ、学部長と教授のジャン・ペランがキュリー家に向かった。その時マリは不在で、義父が彼らを招き入れて沈痛な時を待った。午後6時、イレーヌを連れて帰宅したマリはその知らせに凍りつき、暫くは誰の問いかけにも何の反応を示さなかった。遺体や遺品を受け入れたマリがとめどなく涙を流したのは、翌日に駆けつけた義兄ジャックの姿を見たときだった。この不慮の事故は世界中に報道された。しかし、21日に生家のソーで行われた葬儀では、代表団の派遣も弔辞も大げさな行列もマリは断り、質素な式となった。義父や義兄ジャックらは、感情がそぎ落ちたような彼女を心配していた。この当時のマリは日記に「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いている。その後も彼女は沈黙に沈んだまま、時に悲鳴を上げるなど不安定な精神状態にあり、日記には悲痛な言葉が並んだ。
5月13日、パリ大学(ソルボンヌ)物理学部はピエールに用意した職位と、実験室における諸権利をマリのために維持することを決めた。葬儀の翌日に申し入れられた国の遺族年金はきっぱりと断ったマリだったが、この件は回答を保留した。色々なことが頭をよぎったが、やがて彼女は「重い遺産」を受け継ぎ、ピエールにふさわしい研究所を作ることが自分のやるべきことと決断し、大学の職位と実験室の後任を受諾した。こうして、パリ大学初の女性教授が誕生した。
夏の期間、住居をピエールの実家であるソーに移して大学講義の準備に費やした。そして11月5日午後1時30分、マリは万雷の拍手を受けてソルボンヌの教壇に立った。どんな挨拶が語られるのかと興味津々の生徒や聴衆たちの前で、マリが最初に話した言葉は、ピエールが最後となった講義を締めくくった一文だった。淡々としながら、彼の志を受け継ぐマリに観衆は感動を覚えたという。 
誹謗の渦中に得た二度目の栄誉
研究に復帰したマリが最初に取り組んだことは、長年ピエールを支援したケルヴィン卿の論破だった。あえて『ロンドンタイムズ』を選び発表したケルヴィン卿の理論とは、ラジウムが元素ではなく化合物だというものだった。彼女は実験結果で反論しようと、夫妻の同僚らとともにウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラムの分離に取り組み、1910年に成し遂げて卿の誤りを立証した。同年2月25日、義父ウジューヌ・キュリーが亡くなった。息子が連れてきた貧乏な異国の女を何の偏見も無く受け入れ、様々な困難に遭ったときに支え、何より娘たちの良きおじいちゃんであった彼の死に家族は悲しみに沈んだ。
研究所は1907年からアンドリュー・カーネギーの資金援助もあり、10人程の研究員を抱えるまでになった。この年にはそれまでの研究を纏めた『放射能概論』を出版し、またラジウム放射能の国際基準単位を定義する仕事も行った。1911年に決定されたこの単位は、夫妻の姓から「キュリー」(記号:Ci)と名づけられた。
だが同年、周囲から推されて科学アカデミー会員の候補になったことがマリを煩わしい事態に巻き込んだ。空席を巡って対立候補となったエドアール・ブランリーとの間で、支持者による二つの陣営が出来上がってしまった。自由主義者のマリと敬虔なカトリックのブランリー、ポーランド人対フランス人、そして女性対男性。特にかつて1902年にピエールを負かせて会員となった人物が、女性の会員に猛反対した。さらには、カトリックの投票権者達に対してマリがユダヤ人だというデマまで流れた。エクセルシオール紙(fr)などは一面でマリを攻撃し、右翼系新聞には彼女の栄誉はピエールの業績に乗っかっただけという記事まで載った。
1911年1月23日、アカデミー会員の選出投票が行われたが、詰め掛けた記者たちや野次馬で会場は混乱の中にあった。夕方に判明した結果は僅差でブランリーが選ばれ、研究所の面々はマリ本人を除いて落胆に暮れた。この時には、マリは請われて既にいくつかの外国のアカデミー会員になっていた。彼女を拒絶したフランスが初の女性会員を選出するのは1979年であった。淡々としたマリだったが、手記にはフランスアカデミーの古い因習を嫌っていたことが書かれており、二度と候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載も拒否し、科学アカデミーと完全に袂を分けた。後のことになるが、フランスの公的機関が正式な栄誉を与えたのは、1922年にパリ医学アカデミーが医療への貢献という理由で、前例を覆して彼女を会員に選出した事だった。
マリは研究に戻り、ヘイケ・カメルリング・オネスと協同で低温環境でのラジウム放射線研究の構想を練った。ところが有名人のスキャンダルを売りに購買欲を掻き立てていた当時の新聞が、11月4日付け記事でマリの不倫記事を大々的に掲載した。相手は5歳年下で、ピエールの教え子ポール・ランジュバン。彼は既婚だったが夫婦間は冷めて別居し、裁判沙汰にまでなっていた。マリは私生活の問題で悩むランジュバンの相談を聞くうちに親密になっていた。1911年10月末にブルッセルで開かれたソルベー会議には二人揃って出席し、マリは論文を発表した若きアルバート・アインシュタインへチューリッヒ大学教職への推薦状を書いたりしている。その最中の報道は、ランジュバンに宛てたマリの手紙を暴露し、他人の家庭を壊す不道徳な女とマリを糾弾した。その後も報道は続き、またも彼女をユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだと、あらぬことを連日書き立てた。ついには記者がブリュッセルまで押し寄せ、マリは会議の閉幕を待たずに去らなければならなくなった。
ソーの自宅に帰ると、そこは群集に取り囲まれ、投石する輩までいた。マリは子供たちを連れて脱出し、親しいエミール・ボレル夫妻が一家を匿った。政府の公共教育大臣はボレルにマリを庇うなら大学を罷免すると迫ったが、夫妻は一切ひるまなかった。ボレル夫人マルグリットはジャン・ベラン教授の娘で、彼女はマリを損なうなら2度と顔を合わせないと父を逆に脅した。騒動はいろいろなところへ飛び火していた。
この騒動の渦中の11月7日、スウェーデンからノーベル化学賞授与の電報が入った。理由は「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」と、新元素発見を取り上げて評価していた。マリは、初めて2度のノーベル賞受賞者となり、また異なる分野(物理学賞・化学賞)で授与された最初の人物ともなった。だが、渦中のスキャンダルを理由に、スウェーデン側からも授与を見合わせてはどうかという声があがった。しかしマリは毅然と受賞する意思を示し、今度はストックホルムへ向かった。記念講演でマリは、ピエールの業績と自分の仕事を明瞭に区別した上で、この成果の発端はふたりの共同研究にあったと述べた。
受賞後の12月29日、マリはうつ病と腎炎で入院した。一時退院したが1912年3月には再度入院し腎臓の手術を受けた。その後郊外に家を借りて療養したが6月にはサナトリウムに入った。8月には少々の回復を見せ、女性物理学者ハーサ・エアトンの招待に応じてイギリスへ渡った。2か月間過ごした後の10月にパリへ戻ったが、ソーの家はあきらめ新たにアパートを借りた。この間、マリはずっとスクウォドフスカの姓を使っていた。マスコミは相変わらず何かネタを見つけてはマリを叩くことが多かったが、その一方で他国がマリを評価するとフランスの先進性の象徴に祭り上げるなど都合のよい記事ばかり載せ、マリはジャーナリズムを嫌悪した。
マリにとって苦しい期間、彼女を支えたのは多くの知人友人、そして家族たちだった。1912年5月には、ヘンリク・シェンキェヴィチを団長とするポーランドの教授連代表団がマリを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長を務めてもらいたいと打診した。1905年のロシア第一革命以後、帝政ロシアのくびきが緩み、何よりマリの名声が世界的なものになっていたことが大きかった。この申し出をマリは熟考し、本来自分が目指していたこと、すなわちピエールから受け継いだ研究所を彼に相応しいものにすることを思い出した。こうしてポーランド帰国は断ったが、彼女はパリから指導することを受諾した。1913年、ワルシャワの研究所開所式に出席したマリは、初めてポーランド語で科学の講演を行った。
夏頃には健康も回復し、一家でスイスを旅行するなど好きな田舎で休息を取ると、マリはまた積極的に動きはじめる。1914年7月には、夫の名を取ったピエール・キュリー通りにラジウム研究所の新しい建物キュリー棟が完成した。だが実験には取り掛かれなかった。7月28日、第一次世界大戦が勃発したためである。 

 

第一次世界大戦
戦争は研究所のスタッフたちも兵士として招集し、男性で残った者は持病を抱える機械技師だけだった。娘たちをブルターニュに止め、マリはパリに残っていた。9月2日にはドイツ軍の空爆がパリに及び、マリは政府の要請で研究所が所有する貴重な純粋ラジウム金属をボルドーに疎開させるために汽車に乗った。しかし彼女はこの非常事態に自分がやるべきことを見出し、すぐパリに舞い戻った。
ヴィルヘルム・レントゲンが1895年に発見したX線はすでにX線撮影による医療への貢献が可能となっていた。しかしフランスにはそれを実施する設備が非常に少ないことをマリは知っていた。手術において、銃弾や破片など人体に食い込んだ異物を事前に確認できれば、負傷者の生存率は上がる。彼女はX線研究に携わった経験こそ無かったが、大学の講義で教えるために知見を持っていた。マリは大学や製造業者などを廻って必要な機材を調達し、複数の病院にそれらを設置した上、教授や技師たちに依頼して操作を行った。
そこに物静かな研究者の姿は無かった。マリは軍がX線撮影設備を充分に持っていないことを知っており、移動が可能になる自動車に設備と発電機を搭載して、1914年8月頃から病院を廻り始めた。マルヌ会戦の負傷者治療に威力を発揮したこの移動レントゲン車は、軍の中で「プチ・キュリー」(ちびキュリー)の名で呼ばれた。しかし戦局の長期化によって1台では不足すると、マリは公的・私有の車を募り改造を施した。有力者夫人たちは協力的だったが、軍や行政機関は難色を示すところが多かった。マリは役人らを説き伏せて調達や通行の許可を受け、機材調達のために政府から赤十字放射線局長という役職を貰って活動した。未熟な利用者のために設備使用マニュアルを用意し、負傷者の治療に役立てた。
マリが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に加え、自動車20台となった。マリ自身も、技術者指導の講義と平行してこのX線照射車1台に乗り込んで各地を廻った。そのために自らも解剖学を勉強し、自動車の運転免許を取得し、故障時に対応するため自動車整備についても習得した。イレーヌはそんな母の姿に自分もこの活動に加わりたいと申し出て、マリはこれを認めた。さらに母子は貯蓄の相当額を戦債購入に充て、さらにノーベル賞を含む数多いメダルを寄付しようとした。ただし後者は流石に役所の担当が恐れ多いと拒否した。
レントゲン装置には、より効率的なラドンを使うようになり、ボルドーから持ち帰ったラジウム金属を使ってマリはチューブにラドン気体を詰める作業も行った。これはマリにX線被曝を起こし、後の健康状態に悪影響を及ぼしたのではと考えられている。
1918年11月、戦争は終結した。戦債は紙クズ同然となって一家は貯蓄をかなり失ったが、元々覚悟していた。そんなことよりマリが喜んだことは、1919年に故郷が他国の支配から脱しポーランド第二共和国が建国されたことだった。その初代首相は、パリ学生時代の旧友、イグナツィ・パデレフスキだった。 
アメリカ訪問
研究所は再開したが、それは設備も試料にも事欠く状態であった。1920年にロスチャイルド家が出資したキュリー財団が設立され、放射線治療の研究を支援したが、物理や化学の研究にはほとんど費用が廻らなかった。
この年の5月、アメリカの女性雑誌『ディリニエター (Delineator)』編集長のウィリアム・ブラウン・メロニーからの申し入れを受けて、マリはインタビューに応じた。この席で今何が欲しいかという質問に、1グラムのラジウム金属と答えた。その価格は既に10万ドルに相当したが、アメリカの恵まれた科学研究所を知るメロニーにとって驚きの回答だった。彼女は帰国後にキャンペーンを行い、マリにラジウムを贈呈する資金を集めた。
彼女の求めに応じ、1921年マリは娘ふたりとアメリカ渡航を決めた。そのスケジュールに多くの大学などへの歴訪から、アメリカ大統領との式典までもが準備されていると知ったフランス政府は慌て、自国が何ら名誉を与えていない不細工さを補おうとまたもレジオンドヌール勲章を授与しようとした。しかし以前と同じ理由でマリは断った。研究から離れたこの宣伝活動は気の進まないものだったが、マリは各地で大歓迎を受け、大統領ウォレン・ハーディングから直々にラジウム授与が行われた。ただし彼女はこれを個人への贈与ではなく研究所への寄贈と扱ってもらい、個人の財物にはしなかった。
1929年には再渡米し、マリは1925年にワルシャワに姉妹と設立したキュリー研究所に導入する機器類の資金を得るのに成功した。 
研究所
アメリカの旅は大成功を修め、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器類、そして資金を得た。だが彼女はこの旅で、自分の名声や影響力が想像以上に大きくなってしまい、もはや研究や実験に没頭することは許されないことを悟った。ならばと、マリはパリのラジウム研究所を立派な放射能研究の中心に育てようとした。
また、1922年にはユネスコの前身に当る国際知的協力委員会 (International Committee on Intellectual Cooperation, ICIC) メンバー12人のひとりに加わった。相変わらず着飾ることなどしなかったため、新渡戸稲造は第1回会合時の彼女の印象を「見栄えもしない愛想の無い人物」と自著に残した。
研究所は性別・国籍を問わない多様なスタッフを抱え、マリは彼らの指導に多くの時間を割いた。毎朝のように彼女の周りには研究や実験の指針や進捗を相談し、論文の校正などを願う研究員らが集った。マリは適切な指示や指導を与え、成果が上がった際には祝いのお茶会を開くなど彼らを導き、その実力を伸ばした。アルファ粒子のエネルギーが一定ではないことを示したサロモン・ローゼンブルム、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、フランシウムを発見したマルグリット・ペレーなどが研究所から出た。その中でも際立ったものは、娘イレーヌとその夫フレデリック・ジョリオ=キュリーの人工放射能の研究であり、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞した。1919年から1934年の間、研究所から発表された論文は483件になった。
だが、放射能が健康へ与える悪影響も次第に明らかとなってきた。日本の山田延男は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行い、マリの支援も受けながら5つの論文を発表した。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなった。マリはその報に触れ弔意を表す手紙を送っている。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなった。しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった。 
死去
1932年、転倒したマリは右手首を骨折したが、その負傷がなかなか癒えなかった。頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続いた。1933年には胆石が見つかったが手術を嫌がった。春にマリはポーランドを訪問したが、これが最後の里帰りとなった。1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にした。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、結核の疑いがあるという診断が下った。
療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオート=サヴォワ県パッシー(en)にあるサンセレルモ(en)というサナトリウムへ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった。
7月4日水曜日、マリはフランスで亡くなった。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬された。
彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されている。マリの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられている。中には彼女の料理の本からも放射線が検出された。これらは鉛で封された箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必須となる。また、キュリー博物館も実験室は放射能汚染されて見学できなかったが、近年汚染除去が施されて公開された。この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリの指紋からも放射線が検知されるという。
60年後の1995年、夫妻の業績を称え、ふたりの墓はパリのパンテオンに移され、フランス史の偉人のひとりに列された。マリは、パンテオンに祀られる初の女性である。この際、マリの棺内部の放射能測定が行われた。その結果360Bq/ccは若干高めながら許容濃度の5%程度にとどまり、ラジウムの半減期から考えて放射線被曝説には疑問が挟まれた。その代わりに、プチ・キュリー号で活動中に浴びたX線被曝が病気を起こしたのではという説が提唱されている。 
山田延男

 

(1896-1927) 日本の科学者。フランスのラジウム研究所(fr)(後のキュリー研究所)で物理学者であるマリ・キュリーに師事し、その長女の物理学者イレーヌ・ジョリオ=キュリーらと共に放射能の研究に貢献。研究に伴う放射線障害により、31歳の若さで死去した。ラジウム研究所に留学した最初の日本人であり、放射線化学研究の犠牲となって死去した最初の日本人とされる。
1896年(明治29年)、兵庫県神戸市に生まれる(本籍地は岐阜県岐阜市木田)。父親の仕事の都合で小学校から旧制中学校までを台湾で過ごし、学校での成績は常に主席であった。後に日本本土に移り、1916年に東京高等工業学校(後の東京工業大学)を卒業後、東北大学理学部に入学して化学を専攻。大学でも抜群の成績をおさめた。大学卒業後は同大学の講師としての勤務後、東京帝国大学(後の東京大学)航空研究所に助教授として赴任。東京大学出身でない者としては異例の出世であった。当時、同研究所は軍事に役立つ研究が推進されていたこともあり、1923年(大正12年)、山田は27歳にして日本国政府により、フランスへ派遣された。
フランスでの山田は、ラジウム研究所でマリ・キュリーに師事。同研究所で実験助手であったマリの長女イレーヌの共同研究者となり、トリウムとポロニウムから放出される放射線の飛程の研究などを行い、単独論文をいくつかと、イレーヌとの共同論文を書き上げた。その研究ぶりはマリやイレーヌらから、高い評価を受けた。
1926年に日本へ帰国。フランスで吸収した最新技術による日本国内での活躍が期待されていたが、2年半の間の放射線研究による放射線障害(後述)に体を侵されていた山田は、帰国時点ですでに健康を損なっており、帰国直後に入院。病床にありながらもフランス滞在中の研究報告を提出したことで、東京帝国大学の理学博士号を異例の若さで授与された。その後も復帰を目指して必死に闘病生活を送ったが、その甲斐もなく翌1927年(昭和2年)、31歳の若さで死去した。死の前月には東京帝国大学の教授に任命され、従六位を授けられている。
戦前の日本は放射能研究の範囲が狭かったため、日本国内ではマリ・キュリーの偉業とは対照的に、山田の留学や死についてほとんど知られていなかった。後に山田の息子の山田光男(日本薬史学会)が、1990年代以降に父の個人史解明に本格的に取組んだことで、上記のような詳細な生涯が明らかとなった。 
業績
ラジウム研究所で山田が行なった実験は、主にトリウムとポロニウムから放出される放射線の飛程の研究などであり、その優秀な頭脳と正確な技術により、マリ・キュリーから高い評価を受けたと言われる。イレーヌも山田の仕事ぶりには感服しており、山田の手がけた鮮明なウィルソン霧箱について、母マリ宛ての手紙で「山田はウイルソン装置(霧箱)の鉄板の箱を独創的方法で作り、今まで使用していた線源より9倍以上に強力で故障しない実験装置を完成した」「このまま面倒なことが起こらなければ、結果の様相をみるには、ヤマダが撮ったもので十分でしょう」と伝えている。このイレーヌの手紙の原文は、パリのキュリー博物館(en)に保存されている。
他にも山田は、ポロニウムから放出されるアルファ線や、トリウム、ラジウムに関する論文を、イレーヌやほかの研究協力者たちとともに書き上げ、フランスの科学アカデミー機関誌に発表しており、これらの報告は、ラジウム研究所の真摯な研究成績の礎になったものと見られている。イレーヌが学位を取得した際の博士論文には、山田の生前にイレーヌが山田との連名で発表したポロニウムの研究内容が引用されている。
日本へ帰国した山田が病床についた後でも、ラジウム研究所では彼の独創性が高く評価され、その重要な業績に対して表彰が行われている。山田の死にあたっては、マリはただちに弔意をこめた手紙を書き、彼の素質を礼賛している。後の1995年にアメリカで刊行されたマリ・キュリーの伝記『マリー・キュリー』には、山田がマリからのこの礼賛を受けたことが「ノブ・ヤマダ」の名で触れられている。これらの山田の研究成果は、山田の死後の1935年にイレーヌがノーベル化学賞を受賞したことで結実に至った。
山田の死から約80年後の2006年、フランスの科学史研究者 Jean-Pierre Poirierが、同国の原子科学研究史をまとめた科学書『Marie Curie-et les conquerants de l′atom 1896-2006』を著すにあたり、前述の山田の息子・山田光男の報告を参考に、山田について独立した4ページの1章を割き、その人となりや業績について解説している。
日本国内では山田の死去の翌12月、彼の母校である東北大学の東北化学同窓会報に、山田が病床で理学博士の学位を取得した際の論文が掲載され、その実験結果が高く評価されている。金沢大学名誉教授の阪上正信は、山田の研究がイレーヌのノーベル賞受賞に先駆するアルファ線による丹念な研究だと述べており、理学博士の大久保茂男も、イレーヌが後にノーベル化学賞を受賞していることから、山田も存命であればその業績が評価されていただろうと意見している。2006年には日本放射化学会で放射化学討論会50周年記念事業として『放射化学用語辞典』が刊行された際、放射化学研究に顕著な功績のあった日本人16人の中に、放射化学の先達の1人として山田の名が挙げられている。 
放射線障害
山田の研究対象のうち、ポロニウムは非常に放射能の強力な元素であり、体内に入ると生物学的影響が非常に大きく、数百ナノグラムの摂取で死亡する可能性があり、トリウムもまたラジウムよりもずっと強力な放射能を放つ元素である。しかし当時の放射線防護の知識と技術はまだ不十分だったため、研究中の山田は放射能に対する防御策をほとんど行なっておらず、研究を行っていた部屋には換気装置や防御スクリーンすら備え付けられていなかった。ラジウム研究所での研究中の写真が1枚だけ残されているが、後にこれを見た専門家たちが皆「こんな軽装では、どれほどの放射線を浴びたことか」と漏らすほどの無防備状態での研究であった。
帰国時点で山田はすでに、家族が驚くほど痩せており、入退院を繰り返すうちに、眉毛が薄くなり、皮膚がボロボロと剥げ、両目が失明に近くなり、耳も聞こえにくくなり、付き添いなしでは歩けないほどの病状となっていた。当時は放射能発見から間もなかったため、放射線障害についての医学認識も低く、同様の症例が少ないこともあって、医師の診断でも病気の原因は不明であり、親族たちからは「奇病」としてあつかわれた。しかしながら山田自身は自分の病気と放射能との関係を疑っており、イレーヌに対し、放射線による中毒患者の症例がフランスにあれば教えてほしいとの手紙を書いている。息子の光男も、父の死の当時は3歳の若さだったために父の記憶がほとんどなく、母の浪江も後に再婚したために再婚先への配慮から山田のことをほとんど話さなかったこともあり、光男は父の死因を奇病と周囲から伝えられていた。
山田の死去から数十年が経って放射線医学総合研究所が設立された後、ラジウム研究所での山田の研究の様子や、帰国後の山田の症状から、山田は典型的な放射線障害と分析されるようになった。学術報告においては、山田の死去から30年以上後の1959年、放射能研究者である飯盛里安が自著にて、山田が実験中に強い放射線を浴び続けたことによる悪性脳症で死去したと述べており、これは日本の学術報告に現れた放射線障害の最初の公式報告と考えられている。その後の1994年、理学博士・古川路明が自著にて、放射能障害の危険性の理解が十分でなかった時代に犠牲となった者として、山田の名を挙げている。
1998年、日本で開催されたラジウム発見百周年の記念講演会を機に、山田の遺品類の残存放射能の測定が行われた。遺品類は妻・浪江の両親により、病気が息子に伝染しないようにとの配慮からすべて廃棄されていたが、かろうじて浪江が密かに保管していたパスポートから放射能汚染が発見され、放射性物質の付着した指でパスポートを手にした痕跡も残されていた。このパスポートは没後から80年以上を経てもなお強力な放射能を帯びた状態で、パリのキュリー研究所古文書館に保管されている。 
アーネスト・ラザフォード

 

(Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson, OM, FRS, 1871–1937) ニュージーランド出身、イギリスで活躍した物理学者、化学者。マイケル・ファラデーと並び称される実験物理学の大家である。α線とβ線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、原子核の人工変換などの業績により「原子物理学の父」と呼ばれる。1908年にノーベル化学賞を受賞。また、ラザフォード指導のもとチャドウィックが中性子の発見、コッククロフトとウォルトンが加速器を使った元素変換の研究、エドワード・アップルトンが電離層の研究でノーベル賞を受賞している。
原子物理学の父
この称号は科学史の中だけではなく、その人柄によってこそ裏書きされる。ラザフォードは慈愛心に満ち、若い研究所員たちを、ボーイズ(息子たち)と呼んだ。ケンブリッジのキャヴェンディッシュ研究所は、設備や計測機を開発しながら大きくなり、成果を上げて行った。
その開発や研究に取り組むのは、若い所員たちであった。質量選別器でアイソトープの分離に成功したフランシス・アストン、霧箱で原子軌道を撮影した清水武雄、それを元に原子軌道を開明したパトリック・ブラケットなど、世界中から逸材が詰め寄せている。
ラザフォードは長身で、風格があり、夏のビーチでもジャケットを脱がない英国紳士であった。彼は自分で財界から寄付を募って、研究所の予算を四倍にまで伸ばした。
父と称されながら、一番弟子とは生別・死別を余儀なくされている。逆に、それ故に父性が際立つとも言える。周期表を発明し、未発見の原子を予測したヘンリー・モーズリーは、志願して従軍し、ガリポリ戦線で命を落とした。これでイギリスは、原子物理の一線から退いたと言われる。
キャヴェンディッシュ研究所でのお気に入りは、ロシアから来た物理学者ピョートル・カピッツァであった。彼は始め、ソビエトとイギリスとを自由に行き来していた。しかし、1934年、物理学者の重要性に気付いたソビエト政府は、彼を渡航禁止にした。ラザフォードはそれに抗議の手紙を出した。それに対する返事には、「イギリスがカピッツァを欲しがっているのは理解できる。我々もそれと同じくらいラザフォードを求めている」というものだった。英首相ボールドウィンの助力を頼んだが、無駄だった。カピッツァの親類の女性が、駐英ソビエト大使マイスキーに向かって、「うちのピョートルは頑固者だ」と脅すと、大使は、「我らのヨシフはもっと頑固者だ」と返した。万事窮す。ここでラザフォードはどんな手に打って出たか。彼はカピッツァの為に、三つの財団の予算を使って建設し、ケンブリッジの三つの発電所の出す電力を一度に使う高圧の実験装置を、なんと、ソビエトに送り付けたのだ。これにはソビエトも、三万ポンドの代償を支払ったのみならず、カピッツァを慰める為、モスクワに英国様式の新しい研究所を建てた。カピッツァも観念して、「我々は運命という大河の中を流れる一微粒子に過ぎない」とラザフォードに宛てた。 
 
放射線・雑話

 

自然放射能の発見
フランスのベクレルは、1896年、天然の物質からもX線と同じ様な放射線が放出されることを発見した。この発見に興味をもったピエール・キュリー、マリー・キュリー夫妻は、天然物質の中から放射性元素 Ra(ラジウム)と Po(ポロニウム)を発見した。
自然放射能、即ち自然界に存在する放射性物質は、現在までに数多くの種類が発見されている。本項では、天然の物質から放射線が放出されることを発見したベクレルの業績及び、天然物質の中から放射性元素 Ra(ラジウム)と Po(ポロニウム)を発見したキュリー夫妻の業績について述べる。
1.ベクレルによる放射能の発見
1895年のレントゲン(Roentgen)によるX線の発見の後、フランスのポアンカレ(H.Poincare)は1896年1月、X線が蛍光を帯びたガラスから出ること、また蛍光物質を光らせる性質があることから、蛍光や隣光を出す物質は普通の光の他にX線も出しているのではないかとの考えを示した。これを受けて多くの実験が行われ、誤った実験結果も多く報告された。
このような中で、1896年2月、フランスのベクレル(H.Becquerel)は、「強い隣光を出すウラン化合物(硫酸カリウムウラニル)の結晶を、黒い厚紙で遮光した写真乾板上において数日間日光にあてたところ、乾板が感光しており、この結晶からX線と似たものが放出されたと考えられる。」と報告した。この時点では、ベクレル自身ウラン化合物から出る放射線と日光(または隣光)との間に何らかの関係があると考えていた。
ところがその後、同様の実験を重ねるために乾板上にのせた結晶を準備したが、天候が不安定なために何時間日光に当てたのかはっきりしなくなった。その乾板を現像してみると日光に当てたものよりも強く感光していた。ウラン結晶を日光に当てた時間ではなく、乾板上に乗せている時間が感光に関係するという事実は、日光と無関係に何らかの放射線がウラン化合物から出ていることを示している。その後この放射線の性質が調べられ、この放射線を出す物質は、ウラン元素を含んでさえいればよく、それがウランの単体であろうと化合物であろうと、結晶であろうと水溶液であろうと、そういった物理的、化学的状態には全く無関係であること、透過線の強さは試料中のウランの含量に比例することが明らかとなった。
さらに、この放射線はX線と同様に空気を電離することが明らかにされ、電離電流の測定によるウラン線の性質の研究も行われた。天然の物質からX線のような放射線が自発的に放出されること(この作用は後年キュリー夫妻によって「放射能」と名付けられた)を発見したベクレルはこの放射線を「ウラン線」と名付けた(「ベクレル線」とも呼ばれた)が、この作用はX線よりも弱かったためこの発見の重大さは当時殆ど認識されなかった。
2.キュリー夫妻(フランス、ポーランド)によるラジウムとポロニウムの発見
それから2年後、マリー・キュリー(Marie Curie)とピエール・キュリー(Pierre Curie)夫妻は、ウラン線に関するベクレルの論文に興味をもち、ウラン線の研究を始めた。彼等は従来用いられていた写真乾板よりも正確な放射線強度測定を行うため、電離箱、キュリー式電気計、ピエゾ電気計などを用いた(あまり知られていないことであるが、ピエール・キュリーはピエゾ電気現象の発見者であり、微弱電流測定に用いる水晶板ピエゾ電気計を発明している)。これにより10E−11アンペアオーダーの電流測定を可能とし、彼等の研究の強い武器となった。マリー・キュリーはこれらの装置を用いて研究を行い、ウラン線の強さはウラン化合物中に含まれるウランの量に比例すること、ウラン線はウラン化合物の温度や圧力等の状態に左右されず、絶えず自発的に放射されていることが確認された。また、ウラン線以外の化合物についても調べ、トリウム化合物もウラン化合物と同様の放射線を出すことを発見し、この様な放射線を出す性質を「放射能」と名付けた。
種々の化合物の持つ放射能を調査していたマリーは、天然銅ウラン鉱が純粋銅ウラン鉱よりもずっと強い放射能を持つことを見つけた。このことから、ウラン化合物がウラン以外の放射性物質を含んでいるのではないかと考え、ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)という鉱物が強い放射能を持つことを突き止めた。彼等はさらに、試料の分離、放射能測定を繰り返し、1898年7月に Bi(ビスマス)に性質が似ている新しい元素を発見した。この新元素はマリーの祖国ポーランドに因んで「ポロニウム」と命名された。2人はその後もピッチブレンドの分析を進めた。ピッチブレンドの中には、その中に含まれているウランやポロニウムよりも放射能の強い物質があると考えた2人は、同じく1898年12月 Ba(バリウム)に性質が似た放射性物質があると発表した。この新元素は[放射するもの]という意味の、「Ra;ラジウム」と命名された。しかしこの時点では未だ純粋のラジウムは抽出されておらず、この発表に賛成しない科学者もいた。2人の次の仕事は1日も早く純粋なラジウムを抽出することであった。ラジウム抽出作業は多くの困難を伴った。裕福でない彼等は、原鉱はオーストリア政府から譲り受け、物理化学学校から借りた物置を実験室にして、夏の暑さと冬の寒さに耐えながら作業を続けた。そして4年後の1902年3月、ついに純粋ラジウム塩を抽出した。数十トンもの原鉱から得られたラジウムはたった0.1 グラムの白い粉末であったという。これらの業績により、マリーはノーベル物理学賞(1903年)及びノーベル化学賞(1911年)を、ピエール(1906年に事故死)はノーベル物理学賞(1903年)を授賞した。
マリー・キュリーはまた、古典化学的な手法を用いてRaの質量数を求め、「225(現在では226.03とされている)」という値を得た。なお、マリー・キュリーの親友であるアンドレ・ドゥビエルヌ(A.Debierne;ソルボンヌ大学)は1899年に、キュリー夫妻が用いたピッチブレンドの残渣の中に第3の新放射性元素があることを発見し、「アクチニウム」と名付けた。 
放射線の分類とその成因
電離放射線を一般には放射線と称している。放射線には粒子線と電磁波がある。粒子線には電荷を持つ荷電粒子線と非荷電粒子線がある。電磁波はエネルギー範囲を定めない波動場をいうが、エックス線やガンマ線のような電磁波は紫外線よりもエネルギーが高い波動場である。放射線の成因には放射性同位元素の崩壊、原子核反応、放射線どうしの転換などがある。放射線は原子炉や加速器のような人工的な装置で作りだすことができるが、自然界にもいくつかの放射線源が存在する。ここでは、放射線を種類と成因別に分類し、その概要を要約している。
1.放射線
物質はさまざまな原子・分子から構成されている。原子・分子は原子核と電子から成る。原子核の研究が進展し、高エネルギーの放射線が利用されるようになった結果、素粒子の領域も明るみに出てきた。放射線とはどのようなもので、どこから現れるのであろうか。
放射線には粒子線(粒子の流れ)と電磁波とがある。素粒子のなかで、測定器により検出が可能とされるものに、電子(電子と陽電子)やν粒子(ミューオン)のようなレプトンと陽子や中性子のようなハドロンがある。原子核の構成粒子である陽子と中性子は、核子とも呼ばれている。
原子核とは、複数の核子が核力で集合したものであり、原子とは、原子核に固有の正電荷(原子数)が、電子と電磁力で釣り合って安定化した状態である。分子はいろいろな原子どうしが、化学的な結合力(電子の集合のさまざまな状態から生ずる電磁的な相互作用)で集合した状態である。
一般に「放射線」とは、物質中で原子・分子から結合力が最も緩い電子を自由電子として引き離し、原子や分子のイオンを生成するために十分なエネルギーを持っている電離放射線を意味する。電離放射線のエネルギーには上限がない。
粒子線は荷電粒子線と非荷電粒子線に分類される。粒子線には多くの種類がある。例えば、ラドンの崩壊で生ずるヘリウムの原子核から成るアルファ線、重水素の原子核から成る重陽子線、放射性同位元素の崩壊で発生するベータ線(陽電子線を含む)、重い元素がイオン化した重イオンなどである。高エネルギー加速器の建設によって、π中間子やミューオンのようなレプトンの利用も可能になった。陽子は原子量がほぼ1である水素(軽水素)の原子核である。電荷を持っていない非荷電粒子線に中性子線がある。中性子は電磁力による反撥を受けずに原子核に接近できる。遅い中性子は荷電粒子線に比べて原子核反応(原子核どうしが衝突して起こる反応)の確率が高い。
電磁波のなかで、原子に由来するものをエックス線、原子核に由来するものをガンマ線と区別している。分野によっては、エックス線を更に軟エックス線と硬エックス線に区別している。これらはいずれも、紫外線よりも高いエネルギーの電磁波である。最近では単に、波長、波数のような電磁波の性質によって現すことが多くなっている。
2.放射能
放射線を放出する能力を、放射能があるとか、あるいは放射性であるという。放射能を有する物質のことを放射性物質といい、放射能を有する元素は放射性同位元素(放射性核種を意味したり、放射性同位体ということもある)と呼ばれている。
原子数(原子番号)は元素に固有であり、同じ元素の原子核どうしは陽子数が等しい。同じ元素であっても原子量が異なるものを同位元素(同位体)という。異種の同位元素の原子核には、同数の陽子があるが中性子数は異なっている。
一般に、元素は複数の同位元素混合物から成るものが多い。元素が異なれば化学的な性質が異なる。たとえば、水素という元素は、安定な同位元素である軽水素(陽子数1、存在比99.9885%)と同じく安定な重水素(陽子数1、中性子数1、存在比0.0115%)から成る。不安定で、一定の寿命で崩壊する同位元素が放射性同位元素(放射性核種ともいう)である。三重水素(トリチウムともいう)は水素の放射性同位元素である。軽水素、重水素、三重水素の化学的性質は、質量の相違に比べれば、ほとんど変わらないといって良い。
原子核の安定性には、核内の陽子数と中性子数のバランスが関係し、原子数が20以下のような軽い原子を別にすれば、一般に核内の中性子数は陽子数に比べて多い。一般に、安定な同位元素の数は、元素に応じて単数のばあいもあれば、複数のばあいもある。放射性同位元素の多くは、陽子数と中性子数の割合が、安定なものと比べてアンバランスになればなるほど、寿命が短くなる傾向がある。
原子数が1〜83の間にあっても、原子数43のテクネチウム(Tc)のように安定な同位元素が一つも存在しない元素もある。原子数が大きくなって原子数83の蒼鉛(Bi)を超えると、安定同位元素は全く存在しなくなる。原子数がウラン(U)のように大きいと、自然に原子核が壊れて、より安定な状態である中間の原子数である一対の元素群と複数の中性子といった多数の原子核に分裂する現象が現れる。これを自発核分裂という。
3.放射線の成因
放射線の成因は放射性同位元素の原子核の崩壊、原子核反応(入射放射線による原子核の反応、核分裂反応、核融合反応や核破砕反応なども含まれる)によるものと制動放射のように放射線どうしの転換に分けられる。また、核分裂反応を利用する原子炉や加速器を用いる人工的な放射線源と地球や宇宙のような自然界の放射線源に分けることもある。
放射性同位元素の原子核は不安定であるから、放射線を放出してより安定な同位元素に変わる。これを放射性崩壊又は放射性壊変という。単に崩壊又は壊変ということも多い。生成した同位元素の原子核が依然として未だ不安定である場合には、安定同位元素になるまでさらに崩壊を繰り返す。このさい放出される放射線は、主にベータ線(陽電子線は中性子数のバランスが少ないときに放出される)やガンマ線であるが、重い原子核あるいはその他数種の放射性同位元素からアルファ線も放出されることがある。
放射線は原子核反応によっても放出される。原子核反応が発見された当時、天然の放射性同位元素の崩壊で発生するアルファ線を利用して原子核反応が調べられた。その後、粒子加速器とその付属システムを利用するとか、核分裂連鎖反応を利用する原子炉によって、エネルギーを高めた様々な粒子線や電磁波が利用できるようになった。これらの放射線を物質に照射すると、原子核反応により多種多様の放射線が放出され、さまざまな放射性同位元素が生成する。加速器を利用して加速する粒子には、陽子、重陽子、アルファ線、その他の重荷電粒子(重イオン)や電子などがある。原子核反応の種類もさまざまで、原子核反応により放出される放射線の種類も、加速粒子のエネルギー領域によって変化する。高エネルギーの放射線を利用すると、原子核がばらばらに壊れる核破砕反応も起こる。300MeVを超える陽子線を物質に照射して中間子を放出させるとか、ニュートリノの研究用として30GeV程度に加速した陽子線も用いられている。
エックス線やガンマ線のような電磁波は原子の束縛電子と相互作用(光電効果やコンプトン散乱)して、電子にそのエネルギーのすべてかもしくは一部を与える。また、1.02MeVよりも大きなエネルギーの電磁波が物質を通過すると電子と陽電子を生成(電子対創生ともいう)して、その分だけ電磁波のエネルギーが失われる。これとは反対の現象であるが、荷電粒子が物質中を通過すると、原子核の電荷との静電相互作用により電磁波が放出される。これを制動放射と呼ぶ。
地表面には自然界の放射線が飛びかっている。主な発生源は宇宙線および我々の生活環境中あるいは地表とその近傍に存在する放射性同位元素の崩壊である。それらの強度は、いずれも地域の状況や生活条件によって大きく異なっている。
宇宙には超新星爆発のような高エネルギー放射線の発生源と考えられているものがある。地球の大気圏に飛来する宇宙線(一次宇宙線という)の成分は、陽子(水素の原子核)が90%強を占め、その他の成分は、5%程度のヘリウム(He)と少量のリチウム(Li)から鉄(Fe)までの重イオンである。一次宇宙線は大気との原子核反応によって二次宇宙線、さらには、陽子、中性子などに変換し、大部分が大気中を通過する間に崩壊するか吸収される。π中間子の崩壊で生じるミューオンならびに原子核反応生成物であるトリチウム(3H)とか放射性炭素(14C)のような放射性同位元素が、地表で観測される宇宙由来の放射線と放射能の例である。
地殻には地球の年齢相当かあるいはそれを上回る長寿命の放射性同位元素がいくつか存在する。それらのうちの主なものに、自発核分裂物質であるウランやトリウムがある。ウランやトリウムはいずれも放射性同位元素で、アルファー線やベータ線などを放出しながら次々に崩壊する。それらの子孫核種にはラドンやトロンのように、ヒトにとって最も大きな自然放射線被ばくを及ぼす、放射性希ガスが含まれる。また、ヒトの生命維持に欠かせないカリウムにも、放射性カリウム(40K)が含まれており、カリウムと同属のルビジウム(Rb)にも放射性同位元素が含まれている。 
放射能
放射能とは不安定な原子核が安定な原子核に変わる(壊変と呼ぶ)とき放射線を放出する能力をいう。放射線を放出するような不安定な元素(原子核)を含む物質もまた、放射能を有するといい、放射性物質と呼ぶ。放射性核種の壊変現象に伴う放射能の強さは毎秒壊変する割合を示す壊変定数λあるいは半減期Tで表わされる。これらはそれぞれの原子核に固有の量である。放射能には、自然放射能と人工放射能がある。人工放射能は色々なところで利用されている。
1.放射能の定義
放射能とは、不安定な原子核が安定な原子核に変わる壊変現象において放射線を放出する能力またはその強さをいう。このような元素(同種の安定な元素と比較するときに、放射性同位元素または放射性同位体と呼ぶ)を含む物質もまた、放射能を有するといい、放射性物質と呼ぶことがある。
「壊変」とは、不安定な原子核(放射性原子核)が壊れてなくなることと、元素が他の元素に変わること(変換)をいい。この二つが同時に起こることを表している。
「放射能」は1896年2月、フランスのベクレル(H.Becquerel)によって発見された。ベクレルはこの放射線を「ウラン線」と名付けた。それから2年後、マリー・キュリー(Marie Curie)はピエール・キュリー(Pierre Curie)の作った、微弱電流測定に用いる水晶板ピエゾ電気計を用いてウラン線の研究を行い、ウラン線の強さはウラン化合物中に含まれるウランの量に比例すること、ウラン線はウラン化合物の温度や圧力等の状態に左右されず、絶えず自発的に放射されていることを確認した。また、ウラン以外の化合物についても調べ、トリウム化合物もウラン化合物と同様の放射線を出すことを発見し、この様な放射線を出す性質を「放射能」と名付けた。1898年7月にBi(ビスマス)に性質が似ている新しい元素を発見した。この新元素はマリーの祖国ポーランドに因んで「ポロニウム」と命名された。2人はその後もピッチブレンド(れきせいウラン鉱)の分析を進めた。ピッチブレンドの中には、その中に含まれているウランやポロニウムよりも放射能の強い物質があると考えた2人は、同じく1898年12月Ba(バリウム)に性質が似た放射性物質があると発表した。この新元素は[放射するもの]という意味の、「Ra:ラジウム」と命名された。
2.半減期
放射性核種の壊変は、核種に固有の確率で起こる。核種一個づつをとれば、必ずしも壊変にいたる時間は一定していないが、多数の同じ核種の集まりについては、壊変の割合は核種に固有である。ある時刻から壊変によって放射性核種の数が半分に減少するまでに要する時間Tを半減期と云う。これも核種に固有である。
また1秒間に壊変する割合を壊変定数という。λとTには次の関係がある。
λ=0.693/T
3.自然放射能と人工放射能
放射能には、人間の活動に関係なく存在する自然放射能と、人間の活動に起因する人工放射能がある。自然放射能には、地球が誕生した時からあった天然放射能(原始放射能)と地球に降りそそぐ宇宙線を起源とする放射能がある。人工放射能は、人工的に作り出されたものであるが、使用する目的に応じていろいろの種類がある。
4.自然放射能
4-1.天然放射能
地殻内には、地球の誕生時にできた多数の放射性核種が広く分布している。これらは天然放射能と呼ばれ、土中、水中、植物、木材、建材等の生活環境中のいろいろの物質に含まれている。放射能は、人体内にも存在する。代表的なものは天然のカリウム中に含まれる放射性同位元素(40K)に基づくものである。
4-2.宇宙線起源の放射能
宇宙線が地球及びその大気に突入するときに、種々の放射性物質が生成する。その代表的なものに3H、14Cがある。これらの放射能は、一方では生成され、一方では壊変し安定な元素に変わるので、全体としては増えることも減ることもなく、地球上にはそれぞれほぼ一定量の放射能が存在することになる14Cの同位体比を測定し、14Cの放射能の減衰を手掛かりに、歴史考古学上の遺物の年代を推定する方法が良く知られている。
5.人工放射能(線)
人工放射能は、放射線のエネルギーを有効に利用するために、作り出されるものである。
5-1.原子力発電に関係する放射能
放射線のもつエネルギーは、原子力発電として大規模に利用されている。原子力発電に伴う大量の放射能は、十分安全に管理されている。原子力発電の発展とともに、これまで以上に原子力の安全が益々重要になってきている。
5-2.核実験に起因する放射能
核実験によって大気中に放出された放射能に起因する放射性降下物はフォールアウトと呼ばれている。米ソが大気圏中核実験を打ち切った1962年の翌年1963年を最高として年間降下量が減少し、その大部分がすでに降下しきっていると推定されている。
5-3.医療用放射能(線)
これまで100年以上にわたって電離放射線はますます医療の中で利用されており、今では診断、治療および殺菌などに欠くことができない道具としてすっかり定着している。原子力百科事典ATOMICAの中項目分類「放射線の医学利用」の小項目分類「診断」、「治療」、「殺菌・滅菌」、「医薬品・医療装置・機器」などにいろいろな利用例が紹介されている。
5-4.理工学用放射能(線)
計測、原理解明、物質の構造解析、新素材の開発、エネルギー源などでの利用は、原子力百科事典ATOMICAの中項目分類「放射線の理工学利用」の小項目分類「理化学利用」、「工業利用」、「RIの利用」に紹介されている。
5-5.農業用放射能(線)
品種改良、害虫駆除や食品の保存、環境保全技術などでの利用は、原子力百科事典ATOMICAの中項目分類「放射線の農林水産業利用」の小項目分類「品種改良等」、「食品の保存等」、「放射線による環境保全」に紹介されている。 
放射線の写真作用
放射線の写真作用は、発見当初から放射線検出法として利用されてきた。これは、その当時、すでに写真技術が一般にも利用されるほど普及していたためである。放射線の写真作用の特長は、記録・保存が可能な、放射線の可視化にある。その後、この特長を利用して、医療の分野では診療用エックス線写真をはじめとする放射線診断が、原子力の分野では写真フィルムを用いたフィルムバッジが不可欠なものとなった。放射線の写真作用は、オートラジオグラフィやラジオグラフィなど基礎から産業分野まで、広範に利用されており、写真像のイメージを増幅させる蛍光作用の併用によって、さらに用途が広まっている。ここでは、放射線の写真作用の利用方法と主な利用例を紹介し、利用上の課題にも言及する。
1.写真作用による放射線の検出と写真技術
ウランの放射能の発見(フランスのベクレル、1896年)に用いられたのは写真乾板であった。写真技術はすでに18世紀から19世紀にかけて発展していたため、可視光線下での写真撮影は、当時、わが国でも一般用としての普及が始まっていた。写真乳剤の感度、露出時間、現像・定着用試薬の性能などを現在のそれらと比較すれば、初歩的なものであったとしても、感光性物質中で光が潜像を生成し、これを視覚的に判別可能な状態にまで増幅する現像処理、現像後に乳剤中に残留する不要な感光性物質を除去する定着処理は、当時すでに実用可能な域にまで整っていたわけである。
写真乳剤としてふさわしい化合物は数多く試されたが、現在使用されている写真乳剤は、少量の沃化銀を含む臭化銀固体粒子をゼラチン膜に均一に分散したものが主体であり、現像主薬としては、メトール、ハイドロキノンあるいはフェニドンなどが、定着液にはチオ硫酸ナトリウムが多く用いられており、これらの多くが放射線の写真撮影に利用できる。
2.放射線による写真作用とその特長
放射線はハロゲン化銀を含む写真乳剤中の原子・分子に電離作用を及ぼして、自由電子、イオンや励起種を生成させる。これらが銀イオンを還元して潜像を生ずる。潜像は安定で、これを現像、定着すると放射線の写真ができる。その原理は光の写真作用と大きな相違はない。光の濃淡に相当する放射線の詳細な平面像が得られること、白色印画紙上の黒化像である写真そのものの記録・保存が可能といった、写真本来の特長はいずれも利用できる。しかし、放射線は可視光と違って視覚的には全く捉えられないため、未知の被写体中の放射線の強度は、写真法による場合は予備試験で、もしも電離作用や蛍光作用のようなその他の放射線測定法が利用できれば、それらを利用して別途測定する必要がある。また、放射線の種類は多様で、そのエネルギーも通常極めて大きい。放射線の写真撮影には、放射線の種類に応じて、写真乳剤やフィルム・乾板のなかから最適なものを選定すると同時に、併せて現像条件を念頭においた最適露出条件の決定という念入りな準備作業が必要である。被写体試料中の放射能分布や放射能量を求めるオートラジオグラフィ、放射線の透過性を利用するエックス線診断やラジオグラフィなどは、放射線の特徴を生かした写真撮影法である。
3.オートラジオグラフィとラジオグラフィ
生体試料あるいは金属材料自体に放射能がある被写体の場合は、写真乳剤を塗布したフィルムまたは乾板と被写体との間に物体を置かずに撮影する。これをオートラジオグラフィという。これにたいして人体の一部や航空機エンジンのような被写体を、放射線源と写真乳剤との間に空けた空間の適当な位置に配置して、放射線の透過像を撮影する方法をラジオグラフィと呼んでいる。特殊な場合を除いて、これらの目的に使用される写真乾板やフィルム、現像液、定着剤などは多種類のものが市販され、容易に入手可能である。
被写体は多種多様であり、撮影技術も個々に工夫を要するから、ここでは代表例を2,3紹介するに止める。
3-1. オートラジオグラフィ
操作はすべて遮光性の優れた暗室で行う。フィルムの取り扱いは“かぶり”を生じないように汚したり(化学的影響)、折り曲げたり(機械的影響)せず注意深く行う。また、被写体が発する蛍光を遮へいし、フィルムの放射能汚染を防止するため、試料を黒い紙のような薄膜で覆ってフィルムを装着する。露出時間は現像条件を考慮して別途、目的に応じた最適時間をあらかじめ求めておき、適正な像が得られるまでの一定時間暗室内に静置する。その後、フィルムを被写体から取り外し、現像、定着すると白黒写真の黒化像が得られる。被写体試料ごとに撮影、処理条件を選ぶ。一例として高エネルギー粒子線を挙げると、ハロゲン化銀微粒子を高濃度に分散させた厚い乳剤を選ぶ。現像には特別の習練が必要である。オートラジオグラフィの利用目的に応じて、次のような三種類の方法で放射線写真(オートラジオグラフ)を観察・評価する。すなわち、(1)巨視的な黒化度を黒化度計を用いて求める方法(マクロオートラジオグラフィ)、(2)微視的な黒化度を顕微鏡で調べる方法(ミクロオートラジオグラフィ)および(3)飛跡を顕微鏡で調べる方法(飛跡オートラジオグラフィ)である。いずれの方法によるとしても、放射線による乳剤の黒化が放射線の強度に比例する領域を選定しておけば、露出時間中に乳剤が被ばくした放射線の積分量、すなわち、写真の黒化度から放射線被ばく線量が求められる。マクロオートラジオグラフ法によれば、試料中の放射能の面分布が概略的に判別できる。ミクロオートラジオグラフでは、その平面像をさらに詳細に観察できる。そこで、後者は特に、動植物の薄片を用いた細胞内外の放射性同位元素(RI)の分布や諸種の材料中のRIの精細な分布を調査するのに用いられている。(3)の飛跡を調べる方法は、厚い乳剤膜を用いる宇宙線の測定とか、放射能の種類を同定するといった、試料中の放射能の判別に適している。放射線作業従事者が携帯する放射線管理用のフィルム線量計(フィルムバッジ)は、汎用的なオートラジオグラフィの応用例である。フィルムバッジは作業従事者の放射線被ばく管理にとって極めて有用であり、放射線の種類に応じて、それぞれの飛程(放射線の物質中の到達距離)を考慮して、放射線吸収用の厚さおよび組成が異なるフィルタを用いるなどして、種々の放射線を対象にした線量測定が行われる。
3-2. 非破壊検査用ラジオグラフィ
非破壊検査用ラジオグラフィの主な目的は、被写体の欠陥検査である。この目的にはコントラストの良い露出・現像条件の選定が重要である。ラジオグラフィ用の放射線源は主としてガンマ線源であり、固定式と可搬式とがある。放射線の特性は個々のRIに特有のものであり、一般に、半減期の長いRIのなかからコントラストが最大となるような放射性核種を選択して放射線源とする。汎用的なガンマ線源の例を表に示す。エックス線源には市販のエックス線発生装置が利用できる。必要な露出時間は、放射線源の種類、強度、試料の厚さと種類、写真乳剤の感度、現像条件、線源と乳剤間の距離等を勘案して決める。撮影のさいは、写真フィルムを鉛カセットに収めて光を遮断し、増感紙を使用して露出時間を短縮する。ラジオグラフィは航空機エンジン、産業用では金属溶接部等の欠陥検査用に数多く用いられている。
3-3. 医療分野における利用
医療分野におけるラジオグラフィの代表例は、診断に利用されているエックス線写真である。核医学の分野では、患者に投与するインビボ放射性医薬品を用いて、シンチグラフ(シンチレーションカメラにより撮影される写真)を診断に利用している。医療分野における利用では、コントラストの鮮明化に加えて、生体への放射線被ばく量の低減化が重要である。コントラストの鮮明化については、非破壊検査用ラジオグラフィと同様の対策が必要である。コントラストの鮮明化の実例は、CT(コンピューテッド・トモグラフィ)のようなイメージ増幅技術の応用である。被ばく線量の低減化にはフィルム感度の向上が有効な対策である。写真乳剤としてはハロゲン化銀粒子径の増大が一策であり、そのほか乳剤のフィルム両面への塗布(二重膜フィルム)、増感紙の利用などがある。
4.写真作用利用上の課題
放射線による写真作用を利用するさいの課題は、暗室操作が不可欠なことである。一例としてフィルムバッジ線量計を例に挙げれば、従来の写真フィルムに代わって暗室操作が回避でき、広い放射線エネルギー領域において吸収線量の測定感度が良い熱ルミネッセンス線量計(TLD)あるいはTLDと比べてより安定度が高く、しかも反復使用が可能な紫外線パルス励起の輝尽性蛍光物質から成るガラス線量計(Radiophotoluminescence)が利用されるようになっている。さらに、医療診断用のエックス線フィルムに変わって、わが国で開発された輝尽性蛍光物質を用いるイメージングプレートが出現し、増感紙を用いたエックス線写真に比べて、さらに2桁程度の被ばく量低減化が実現している。 
放射線の蛍光作用
物質の蛍光作用は固体理論の発展、光、材料、情報処理・計測等、各種技術分野の急速な進歩発展に伴い、その理解はますます深まっている。放射線の蛍光作用も、固体の電子状態を考慮することにより熱あるいは光ルミネセンスの領域が開拓され、これが放射線の検出や吸収線量の測定に広く応用されるようになっている。なかでも蛍光板を利用した医療診断用エックス線の放射線被ばく量低減化は、蛍光作用の画期的な応用例である。ここでは、放射線による蛍光作用の原理とその特徴を簡単に紹介し、主に放射線の検出と線量計への利用例を記す。
1.放射線の蛍光作用
物質に外部から何らかのエネルギーが加えられたとき、光が放出される現象をルミネセンスという。かっては外部からの励起が加えられている間だけ光が放出される場合を蛍光、励起が断たれた後も光の放出が続く場合をリン光と呼んで区別していた。一般にはルミネセンスを蛍光と呼んでいる。硫化亜鉛(ZnS)を主成分とする鉱物に光を照射したときの蛍光は肉眼で観察できる。蛍光を発する物質を蛍光物質(または蛍光体)という。蛍光体とは可視領域の光の発光効率が大きい物質をいう。蛍光体が放出する光の波長、強度や持続時間は物質に固有なものである。
物質に入射した放射線(電離放射線)のエネルギーによって、原子・分子の電子状態は励起状態(興奮状態)に変化する。これが基になって電磁波の放出が起こる。放射線を蛍光体に入射させると、可視領域の波長の光(ルミネセンス)が放出される。この現象をシンチレーションと称しており、シンチレータとは蛍光体の別名である。シンチレータは放射線の測定やX線による医療診断の現場でしばしば利用されている。
表に放射線の測定に用いられている主なシンチレータを示す。放射線がシンチレータを通過するさいに発生するシンチレーション光は、発光量が小さく、減衰時間は短い。放射線測定用として求められるシンチレータは、放射線が衝撃した瞬間に可視光(300〜600nm)を放出(即発発光という)し、発光効率が高く、透明で透光性に優れていなくてはならない。少量のタリウム(Tl)を不純物として含むNaI(Tl)あるいはCsIのような無機シンチレータは、ガンマ線に対する発光効率が高いシンチレータである。これに対し、有機シンチレータは減衰時間が短いのが特長である。有機シンチレータは放射能濃度の高い試料の測定に適している。有機シンチレータにはアントラセン結晶並びにポリスチレンやポリビニルトルエンなどの有機固体(プラスチックシンチレータ)がある。ベータ線のエネルギーが低い、トリチウム(3H)や炭素の放射性同位体(14C)を含む有機物は、トルエンのような溶媒に溶解し、透明なガラスまたはプラスチック容器に詰めて測定する。これを液体シンチレータという。
シンチレーション検出器の放射線検出部は、図に示すようである。いずれの場合もシンチレータを光電子増倍管に密着させた状態に配置して測定する。シンチレーション光は発光量が少ない。そこで、シンチレーション光を増幅し、電子機器で計測可能となるようにした装置が光電子増倍管である。光電子増倍管の光電面に到達したシンチレーション光は、108〜1010倍程度増幅され、その出力が電子機器で計測される。
2.熱ルミネセンスもしくは熱蛍光線量計(TLD)
ハロゲン化銀乳剤フィルムを装着したフィルム線量計(フィルムバッジ)は、放射線作業従事者の作業期間中の被ばく線量を記録することができ、写真は長期間の保存に耐えるため、放射線被ばく管理用として普及している。しかし、フィルムバッジは反復使用ができないほか、写真フィルムの装着、使用、現像から定着までの全操作を、遮光性の良い暗室で行わなければならないという短所がある。
放射線で照射された物質を加熱したさいに発光する蛍光(熱ルミネセンス)物質において、その発光量が物質の放射線吸収線量に比例し、なかでも発光効率が高いものを熱ルミネセンス物質(TLD物質)という。たとえば少量の活性化物質を混入したLiFは、原子番号が人体組織に相当しており、熱ルミネセンス物質として利用できる。これを線量計の形で携帯使用したのち、定められた温度まで一定速度で加熱し、発光量を光電子増倍管を介して計測する。TLDは写真フィルムよりも広いエネルギー領域の測定が可能であり、現像の必要がなく、焼鈍処理すれば線量計の反復使用が可能である。蓄積した記録が時間とともに僅かに退化するフェーデイングがTLDの欠点であるため、退化の少ないTLD線量計の開発が行われている。
3.輝尽発光とその利用
TLD物質を利用する際、熱の代わりに電磁波で蛍光を発生させるものを輝尽発光(Optically Stimulated Luminescence=OSL)という。輝尽発光は1980年代から、水晶や長石のような天然鉱物や磁器のような考古学的試料で観測されはじめ、自然放射線の蓄積線量を測定することによって、それらの年代を類推・決定する技術として開発、利用されてきた。輝尽発光も熱ルミネセンスのように線量計として利用できる。輝尽発光物質の開発と併せて光照射による読み出しにも種々の改良が施されており、安定性に優れた方法が開発されている。読み出しにはレーザあるいは発光ダイオードが使用され、連続波あるいはパルス波で励起光を発光させる。熱ルミネセンス法に比べてフェーデイングの恐れがない輝尽発光の利用は、特にわが国で研究が薦められており、紫外線パルスを利用するガラス線量計は放射線作業従事者用の被ばく管理に使用されている。リチウム同位体(6Li)を使用すれば熱中性子を高感度で測定できる。TLD物質の輝尽発光読み出し法を応用して開発された、イメージングプレート(位置敏感型放射線検出器)は大型であり、医療診断用エックス線による患者の放射線被ばく量を、従来の写真フィルムと比べて著しく低減可能とした。この方法は測定範囲が写真フィルムよりも広く、反復使用も可能であるため普及している。
4.光源としての利用
発光効率を高めるため、少量の活性化物質を混合した硫化亜鉛(ZnS)を放射性物質と混合し、蛍光塗料として用いた歴史は古い。その後、放射線防護の見地からそれらの使用は見直され、法令で定める放射能の上限値を下回る範囲で、トリチウム(3H)やプロメチウム(147Pm)を用いた夜光塗料の生産・使用が行われてきた。しかし、非放射性夜光塗料の開発に伴い、国内での生産活動は完全に停止し、その使用例も激減している。 
宇宙線の発見
宇宙線は、電離箱の電荷が徐々に放電していく原因の究明の過程でその存在が明らかになってきた(20世紀初頭)。ヘス(Hess)は、1911-1912 年に、気球を用いた系統的な観測により、宇宙線の存在を実証した。
1.電離箱の自然放電の原因
密閉した電離箱に与えた電荷は、時間が経つと徐々に放電してしまう。この現象は当初、絶縁の不完全によるものと考えられていたが、ガイテル(Geitel;1900)や C.T.R.ウイルソン(Wilson;1900) は、絶縁が不完全なためではなく、電離箱内の空気の電離に起因することを見出した。
それではこの電離は何故生じるのか?先ず、電離箱の内壁や充填ガス(に含まれる天然放射性核種)から出てくる放射線が考えられた。確かに壁材や充填ガスを慎重に選び、取り扱うことなどによって放電は著しく減少した。しかし完全ではなかった。次に電離箱周辺の物質(空気や土壌)から出る放射線が電離箱内部の気体を電離することが考えられたが、電離箱全体を水や鉛で遮蔽しても尚、電離を完全になくすことはできなかった。C.T.R.ウイルソン(1901)やリチャードソン(Richardson;1906) は、この電離の原因が地球外からやってくる透過力の強い何らかの放射線ではないかと推測し、様々な調査を行った。
1910年前後になると、この推測を支持するような研究結果がでてきた。空気の電離の高度分布が、土壌中放射性核種による電離だけでは説明できなかったのである。電離箱を地上から徐々に持ち上げていくと、土壌からの放射線は空気に吸収されるため電離箱の電離は減少していくはずである。ベルグウィッツ(Bergwitz;1910) やマクレンナ(Mclenna) およびマッカラム(Macallum)(1911)はこのような実験をしたが、その減少のしかたは予想よりも小さかった。また、ヴルフ(Wulf;1909) がエッフェル塔で同様の実験を行ったところ、土壌からの放射線が空気で吸収されるとして予想される電離の約6倍もの電離を観測し、彼はγ線の源が大気上層部にあるか、または空気の吸収が予想以上に小さいのではないかと考えた。
ゴッケル(Gockel;1910) はこの観測を一歩進めて、気球にのせた電離箱を用いて高度4500mまでの電離を測定した。すると、電離は高い高度でむしろ増加していることが明らかになった。土壌から放出される放射線がこのような高高度まで達するはずはないから、それ以外の放射線が上空に存在することが分ったのである。ゴッケルはこの放射線源として、放射性核種が崩壊してできた放射性のガスが大気の上層に蓄積したものを考えたが、これでは観測結果を説明するには少なすぎた。
2.気球による観測
これらの観測結果を踏まえ、宇宙線の存在を明らかにしたのはヘス(Hess、オーストリア)であった。彼は気球に電離箱をのせてゴッケルと同様の観測を行った。先ず1070mまでの高度分布を測定し(1911)、放射線の強度が地上と大差ないことを示した。次に5350mまでの高度分布を測定し(1912)、低高度では電離が減少したが 800m付近から増加し始め、4000mでは約6倍に、5000mでは約9倍になることを明らかにした。このような結果は、放射性ガスの蓄積ということでは到底説明できず、どうしても地球外から一種の放射線が来ていると考えざるを得ないとの結論に達した。もしそうであれば、この放射線は極めて強い透過力をもっているということになる。なぜなら、地球外から地上高度5000mまでは水に換算して5〜6m、地上までは同様に約10mの空気層が存在しており、この地球外からの放射線はこの厚い層を貫通して到達するのである。普通のX線やγ線は水1mの厚さもあれば殆ど吸収されてしまうことを考えれば、この地球外放射線の貫通力の強さが分る。
このようにして発見された地球外からの放射線はドイツでは「高所放射線」、「ヘス放射線」、「超放射線」などと呼ばれたが、英米では「宇宙線(cosmic ray)」と呼ばれ、現在では「宇宙線」という呼称が定着している。
その後、この高いエネルギーをもった宇宙線は世界中の物理学者の関心を集め多くの研究が開始された。
3.宇宙線の性質の観測
コールヘルスター(Kolhoerster;1913,1914) は、9300mまでの高度分布の精密測定を行い、地上での宇宙線電離強度の50倍に達することを示した。また宇宙線の空気に対する吸収係数を求め、1.0E−5/cm(Ra-Cγ線の約5分の1)の値を得た。
1925年には、ミリカン(Millikan)およびキャメロン(Cameron) がミュアー湖(標高3900m)とアロウヘッド湖(標高2060m)での観測から宇宙線の水に対する吸収係数を求め(1.8〜3.0)E−3/cm 、コールヘルスターの値(2.5E−3/cm)と一致したことから宇宙線の存在を確認した。トンネル、坑道、水底での観測も行われ、コールヘルスター(1933)は、水深1000m相当の深さでGM管により宇宙線の存在を確認している。
クレイ(Clay;1927) やコンプトン(Compton;1930-)は、地球上広く宇宙線強度を観測し、赤道近くで強度が極小になること(「宇宙線強度の緯度効果」)を確認した。さらに、緯度として「地磁気緯度」をとる方が宇宙線強度との相関が良いことから、地球大気に入射する1次宇宙線が電荷を持ち、地球磁場によって運動量の小さい粒子は跳ね返されるからであると解釈された(ストーマー(Stormer;1930)、ルメトレ(Lemaitre)およびヴァラルタ(Vallarta;1933))。宇宙線に対する地磁気の影響の概念を図に示す。
4.新しい粒子の発見
1927年にはスコベルツィン(Skobelzyn)がウイルソン霧箱により宇宙線の飛跡を初めて観測した。次いでアンダーソン(Anderson;1932) は強い磁場中でウイルソン霧箱を作動させ、宇宙線の進行方向を湾曲させて、写真撮影することによってそのエネルギーを測定した。その際、彼は磁場中で電子の軌道とほぼ同程度であるが反対方向に曲げられている宇宙線粒子の軌跡を観測した。これが陽電子の発見であり、当時ディラック(Dirac) が提唱していた量子論を基礎づけ、相対論的量子電磁力学の発展に貢献した。
また、ストリート(Street) およびスティーブンソン(Stevenson;1937)は1947年、磁場をかけた霧箱中で曲りながら止った粒子の飛跡を見出し、その質量を電子の約100倍と測定した。これが中間子の発見である。これは1934年に湯川秀樹が核力の源として提唱した粒子であり、中間子が寿命100万分の1秒でβ線に崩壊するとしたブラッケット(Blackett)の推論(1938)と併せて湯川の理論を裏付けるものであった。
このように宇宙線は、不可思議な電離成分の探求をきっかけに発見された。その後、様々な研究者によってその性質が解明され、それだけではなく、原子核理論、素粒子論上重要な事実の発見の宝庫となり、さらには宇宙論の発展にも多大な貢献をしてきたのである。 
X線と放射能の発見
陰極線の研究をしていたレントゲンは陰極線の性質を調べようとしてX線を発見した。ベクレルは蛍光と共にX線が発生している事を確かめようとして放射能を発見した。キュリー夫妻はウラン鉱の中から高い放射能を持つ新元素ポロニウム、ラジウムを発見した。19世紀末、これら一連の大発見がなされ、我々の物質に対する知識は大きな進歩を遂げた。
1.X線の発見
1895年末ドイツのヴュルツブルグ(Wuerzburg)大学の物理学教授であり、学長も兼務していたレントゲン(レンチェン:Wilhelm Conrad Roentgen、独、1845〜1923)は陰極線管(クルックス管)の実験を熱心に行っていた。陰極線管を黒いボール紙で覆い糊付けして、管内で発する蛍光が外へ漏れないようにし、また部屋のカーテンを閉めて室内を真暗にし、陰極線を発生させると、意外なことが観測された。テーブルの上に置いてある蛍光板(白金シアン化バリウム塗布)が暗闇の中で光り始めたのである。蛍光板を管から遠ざけても発光はつづいていた。蛍光板は管から1m以上離したときでも相変わらず光っていた。未だ知られていない放射線が陰極線管から発し遠くの蛍光板を光らせているにちがいないとレントゲンは考えた。この放射線は未知の線という意味でX線と呼ばれるようになった。
1895年の暮れ、レントゲンはX線の研究にたった1人で没頭しその性質を調べ上げ、その年のうちに報告にまとめた。X線の性質として次のことが報告された(要点を記す)。
イ) X線は、陰極線が管壁のガラスに当たり最も強く蛍光を発する場所から主に放出される。
ロ) 蛍光板から発する光の強度は、X線の発生点から蛍光板までの距離の二乗に逆比例して減少する。2m程度まで蛍光板を遠ざけても発光が検知される。
ハ) X線は1000頁の本でも透過するが、1.5mm厚の鉛板では殆ど遮断される。同じ厚さの板では、密度が大きいほど遮蔽する力が大きい。
ニ) X線は写真乾板を感光させる。また燐光物質として知られているカルシウム化合物、ウランガラス、普通のガラス、方解石、岩塩も発光させる。
ホ) 写真乾板の上に手を置いてX線を照射すると手の骨の写真が撮れる。装置の概念図を図1、この時撮られた手の骨の写真を図2に示す。
ヘ) X線は磁力によって進路が曲がらない。(透過力があることと磁場による屈曲のないことが、X線が陰極線と相異る点である。)
X線についてのレントゲンの第1報はヴュルツブルグ物理医学協会報告1895年版の132〜141頁に記載された。1896年が明けるとレントゲンは報告の別刷を有名な学者達に発送した。
X線は磁石によって曲げられないので陰極線とは異なることは分かっていたが、その当時は屈折、干渉、回折現象を発見できなかった。そのためX線の本性については粒子説と波動説が対立していた。粒子説はW.H.ブラッグ(Bragg)などが、波動説はストークス(Stokes)、バークラ(C.G.Barkla)などが唱えた。当時から波動説の方が多くの人々によって支持されていたが、1912年ラウエ(Max von Laue)によって結晶によるX線の回折現象が発見され、やがてX線が電磁破であることが認められるようになった。1922年コンプトン(Compton)は散乱X線の研究からコンプトン効果を発見し、X線の研究から電磁波の粒子性と波動性という二重性が確認されることになった。
2.ウランの放射能の発見
レントゲンの報告は、当時フランスの指導的な学者であったポアンカレによって1896年の1月、パリの学士院に紹介された。当時の学士院記事には「強い蛍光を発する物質は、光線と共にX線も放出している可能性がある。」というポアンカレの予測が残されている。
太陽光などの刺激によって蛍光や燐光を発する物質は数多く知られていた。パリの科学博物館の物理学教授であったベクレル(Antoine Henri Becquerel、佛、1852〜1908)は、これを確認しようと思い立った。ベクレル家は祖父の代から科学博物館の物理学教授職にあり、ベクレルの父は蛍光物質の研究者であった。父の収集した蛍光物質を使って直ぐ実験にとりかかることができた。
ベクレルは、写真乾板を黒い布とアルミ板でできた箱の中に収め、太陽光に晒しても感光しないようにした。まづこのアルミ箱の上にウラン塩の薄片を置き紙バンドで固定して太陽に数時間晒してから乾板を現像した。太陽光の刺激でウラン塩からX線が放出されれば、黒い布とアルミ板を透過したX線は写真乾板を黒化させるにちがいない。予想通り現像された乾板は黒化していた。
しかし、またもや意外なことが起こった。くもりの日がつづいたため、その間、上記の写真乾板を太陽光に晒すことができなかった。ベクレルはこれを現像して、太陽光に晒さなければ乾板は黒化しないことを確かめて置こうと考え、これを現像した。しかし写真乾板は太陽光に晒さなくても黒化していたのである。ベクレルはこの事実を1896年3月に発見した。
いろいろな物質を写真乾板の上に置いて実験してみると、蛍光を発する性質や化学形とは無関係に、ウランを含んだ物質であればすべて乾板を黒化させることが判明した。特に金属ウランの場合に黒化度は大きかった。ウランからはX線に似た感光作用を持つ放射線が出ていると考えられた。この放射線はしばらくの間、ベクレル線と呼ばれていた。
ベクレル線とX線の共通点は、上記の写真乾板に対する感光作用のほか、空気を導体化する性質(空気に対する電離作用)である。電離作用は、帯電物体がX線で照射されたり、ウランに接近すると放電が起こることから判明した。
3.ポロニウム、ラジウムの発見
ピエール(Pierre Curie、佛、1859〜1906)と結婚し、研究者としてスタートしようとしていたキュリー夫人(Marie Sklodowska Curie、ポーランド、佛、1867〜1934)は、学位取得のテーマとしてベクレル線の研究を始めた。ピエール(既に物性物理学の一流の研究者であった。)は夫人を助けようと、図3に示すような新しい微弱電流計を考案した。左側のコンデンサーABには、極板Bの上に試料が乗せられて居り、そこから出る放射線によってAB間の空気が電離され電流が生ずる。一方、右側の圧電素子Qには分銅皿Hの上に乗せられた錘によって引張られ、ここにも電流が生ずる。錘の大きさを調節すれば両方に生ずる電流が相殺され電位計Eの指示は動かない。この装置を使えば、天秤で質量を測るのと同じように、試料から放出される放射線の量が定量できる。
キュリー夫人は新型の微弱電流計を駆使して、入手できるあらゆる物質の放射能(放射線を発生する能力)を定量的に測定していった。ウランかトリウムを含む物質だけが放射能を示した。この定量測定によって、放射能はウラン元素またはトリウム元素の量に比例し、物質の温度、化学形などの影響は受けないことが判明した。
しかし、ここでも意外な例外が観測された。二種類のウラン鉱、ピッチブレンド(酸化ウラン)とシャルコリット(銅とウラニルの燐酸塩)はその中に含有するウランの量からは説明できない大きな放射能を示したのである。シャルコリットを手持ちの材料で合成して測定したが、放射能はウランの含有量の分だけしか存在しなかった。この事実は1898年4月、パリの科学アカデミーに報告された。キュリー夫人は、天然のウラン鉱石には放射能を持った未知の元素が微量に混入しており、それが鉱石の放射能を高くしているのだと考え、未知の放射性元素の探求を始めた。ピエールも物性物理の研究を中断し夫人と共に新元素の探求に協力することになった(ピエールは1906年の事故死まで放射能の研究をつづけることになる)。大量の鉱石が砕かれ溶解されて、化学分析の手法によって成分に分離されていった。成分の放射能は微弱電流計で測定され、高放射能の成分が濃縮された。未知の放射性元素はビスマスに似た挙動を示し、硫化ビスマスと放射性硫化物の混合物として取出された。ビスマスと未知元素の分離は、昇華特性のちがいから可能なことがわかった。硫化物の混合物を真空中で一旦700℃に熱し昇華させると、250〜300℃の範囲で放射性硫化物は黒い塗料のような形で壁に付着した。未知の放射性元素の一つは、このようにして発見された。1898年7月、夫妻連名の報告が科学アカデミーに提出された。この報告の中で、元素名はキュリー夫人の生まれた国の名ポーランドに因んで、ポロニウムと名付けるよう提案されている。
また、分析の際にバリウム族の中にも強い放射能が見出された。化学反応ではバリウムと同じ挙動をするが、水、水とアルコールの混合液、塩酸溶液中での塩化物の溶解度の差を利用して放射能成分が分別結晶法により分離された。このようにしてもう一つの放射性新元素ラジウムが発見された。この発見は1898年9月、キュリー夫妻と同僚のペモンの共同研究として発表された。 
α線、β線、γ線の発見
1898年頃、ラザフォードは、ウランやトリウムなどの天然の放射性物質から出ている放射線には性質の異なる少なくとも2種類のものがあることを明らかにし、透過力の弱い方を「α線」、透過力のより強い方を「β線」と命名した。この他にβ線よりもさらに透過力が大きい放射線も存在することが分り、それを「γ線」と名付けた。
1.性質の異なる放射線の発見
J.J.トムソン(Joseph John Thomson)は、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所において陰極線の実験を行い、電気の運び手であり全ての物質の基本的構成要素の1つである電子を発見した(1897年)。1895年、このJ.J.トムソンの下にやって来たのは、ニュージーランド生まれの英国移民の子アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford)であった。ラザフォードはまず、放射能とX線が気体の電気伝導に及ぼす効果に興味をもった。放射性物質から放出された高エネルギー粒子(放射線)は、気体中の原子から電子をたたき出し、これが電流の運び手としてはたらくのである。1898年、ラザフォードは、気体の電気伝導に及ぼすX線の効果についてJ.J.トムソンとの共同研究を行った後、X線と放射性物質から放出される放射線は本質的に同じ振る舞いをすることを示した。また、彼は、U(ウラン)やTh(トリウム)などの天然の放射性物質から出ている放射線の物質による吸収の測定から、UやThから放出される放射線には性質の異なる少なくとも2種類のものがあり、1つは電離能力が非常に大きく、そのため物質に吸収されやすく、薄い紙でも止ってしまうが、もう1つは、これよりも電離能力が小さく、透過力が大きいことを明らかにした。ギリシャ語のアルファベットの最初の2文字を用いて、前者をα線、後者をβ線と命名した。この他にβ線よりもさらに透過力が大きい放射線も存在することが分り、それをγ線と名付けた。α線(アルファ線)、β線(ベータ線)、γ線(ガンマ線)の性質の概念を図に示す。またアルファ線は紙一枚で、ベータ線は1mm厚のアルミニウムで、ガンマ線は1.5cm厚の鉛で放射線が遮へいできる。
2.α線の正体
α線を電気や磁場で曲げることは、電子の場合よりはるかに困難であった。しかし、ラザフォード(当時マギル大学)はこの実験に成功し(1903年)、α線の質量/電荷比を求める端緒を開いた。測定精度を上げる努力を続けた結果、1906年にこの比が水素イオンの値の約2倍であることが分った。原子量が2の元素は存在しないから、水素に次ぐ軽い元素で、電荷が2、原子量が4のヘリウムイオンと考えれば辻褄が合う。こうしてα粒子が正の電荷を持つヘリウム原子核であることが分った。なお、1903年に、ある種の放射性物質からヘリウムが生成されることが見出され(ラムゼーとソディー;マギル大学)、ラザフォードらは、ラジウムの試料から放射されたα粒子を集めてその光スペクトルがヘリウムと同じであることを確認している(1907-1908年)。
3.β線の正体
ベクレル(Antoine Henri Becquerel)は、「ウランによって放出される放射線の一部(ラザフォードによってβ線と呼ばれた放射線)は、磁場によって曲げられ、その方向は陰極線と同じ向きである」と述べた(1899年)。ラザフォードと独立にF.ギーゼルもこのことを発見している。ベクレルは、トムソンと同じような方法を使って、β線の質量/電荷比を測定し、トムソンの測定した電子の値に近いことを見出した。このように、β線が負の電荷を持つ電子であることは明らかとなった。しかしその速度は陰極線の速度よりはるかに速かったのである。
4.γ線の正体
γ線は、高い透過性をもち、磁場によって容易に曲げられなかった。この放射線はフランスのP.ヴィラール(Paul Ulrich Villard)が1900年に観測し、ラザフォードが「γ線」と名付けた(1903年) 。ラザフォードは、γ線がX線のように波長の短い光であると考えたが、このことは、γ線を結晶に当てたときの散乱を観測して、これからγ線の波長を測定することによって証明された(1914年、ラザフォード及びE.N.ダコスタ・アンドラード)。 
人工放射能の発見
人工的な原子核破壊実験は、1919年イギリスのラザフォードによって最初に行われた。イタリアの物理学者エミリオ・セグレは、1937年、サイクロトロンで照射したモリブデンから人工的に作られた最初の放射性元素「テクネシウム」(「人工」という意味)を発見した。
1938年、ドイツのハーンとシュトラスマンは、ウランと中性子との核反応生成物の中から、従来の考え方では予期されなかった核種を発見した。マイトナーとフリッシュはこの発見から核分裂の考え方を提唱した。
「人工放射能」とは人工的に作られた放射性物質の総称であり、様々な核種、生成形態があるため、何をもって「人工放射能の発見」とするかを特定することは難しい。ここでは、最初の人工核変換、最初の人工元素、核分裂の発見の3点について述べる。
1.最初の人工核変換
人工的な原子核変換実験は、1919年ラザフォードによって最初に行われた。彼は、Po(ポロニウム)からのα線を窒素ガス中に置いて、α線の到達距離の実験をしていた。このとき、Poから放出されるα線の到達距離は1気圧空気中で数cm程度であるにもかかわらず、Po線源から40cm以上の距離に蛍光板スクリーン(硫化亜鉛粉末を塗ったガラス)を置いてもときどきこれが輝いて(シンチレーション)、何らかの粒子が蛍光板に衝突していることが観測された。ラザフォードは、この粒子の磁場の中での偏向を研究して、シンチレーションを起こさせている粒子が水素の原子核(陽子)であると結論した。また、ガスの気圧を上げたり蛍光板スクリーンの前に金属箔を置くとシンチレーション数が減るが、ガスを乾燥空気にするとシンチレーション数が増えるという実験結果から、窒素14 (14N)の原子核にα線(4Heの原子核)が衝突し、酸素17(17O)の原子核と陽子に変わり、陽子が蛍光板を光らせることを発見した。これが人工的に原子核を他の原子核に変換した最初の実験であった。
2.最初の人工元素
メンデレエフ(メンデレーフ、ロシア)が最初の周期律表を発表したのは1869年のことであった。それまでに発見されていた元素も、それ以後に発見された元素も、全てこの周期律表(後年一部改良された)の予想どおりにおさまっていた。したがって新しい元素の発見は周期律表を手がかりにして進められていった。1925年にRe(レニウム)が発見されて以後、周期律表にはまだ4つの空白が残されていたが、Reの発見以後10年以上も新しい元素は発見されなかった。一方、ラザフォードの「原子はプラス電荷をもった1個の原子核とその周囲を回る多数の電子からできている」ことの発見を契機に彼の弟子たちはその原子核の性質について研究を進め、原子核は陽子と中性子からできており、元素の性質は陽子の数で決まることも明らかになった。つまり陽子の数を人工的に変えてやれば新しい元素ができるはずだ、と考えた科学者たちは、粒子に高いエネルギーを与えて原子核を壊すための装置(サイクロトロン)を考案した(1929年)。
さて、周期律表の4つの空白に相当する元素はなかなか発見されなかった。当時既に放射線を出して他の元素に変わってしまう元素もあることが分っており、自然界になければ人工的に作ってみようと考えた科学者がいた。イタリアの物理学者エミリオ・セグレは、1936年の夏アメリカのカリフォルニア大学のサイクロトロンで原子番号42のMo(モリブデン)に重陽子(陽子1個と中性子1個からなる水素の原子核)を照射しイタリアに持ち帰った。Moの原子核が陽子を1個取り込めば、陽子数43(原子番号43)の未発見元素ができるはずであった。この43番元素の化学的性質は周期律表の真上にあるMn(原子番号25)と真下にあるRe(原子番号75)に似ているはずであり、セグレは、照射した試料の中からMnとReに化学的性質の似た物質を取り出す作業を行った。そしてついに彼は、長い間化学者が発見できなかった新しい元素の存在を確認した。原子番号43の放射性元素であった。彼は、人工的に作られた最初の元素であるから、「人工」という意味の「テクネシウム」という名前を新元素につけた。1937年のことであった。これが最初の人工放射性元素(人工放射能)である。
3.核分裂の発見
1938年12月、ドイツのハーンとシュトラッスマン(シュトラスマン)は、U(ウラン)を遅い中性子で衝撃する際の(n、γ)反応で生ずるかもしれない超ウラン元素(原子番号>92)を探す目的で、このときに生ずる放射性元素の詳細な研究を行っていた。彼等は、ウランを遅い中性子で衝撃した際に生ずる数多くの放射性同位元素の中から、従来Ra(ラジウム)の同位体と考えられていた半減期86分の元素が、Raではなく原子番号56のBa(バリウム)であることを確認した。それまでは、核反応で新しくできる原子核は初めの原子核に近い種類のものに限られると考えられており、彼等の発見はその考えを完全に覆すものであった。
そこで、マイトナーとフリッシュはこの現象を次のように考えた。UからBaができたとすると、核の電荷が36e失われなければならないが、これらが多くのα粒子や陽子の放出により運び去られるよりは、例えば原子番号36(Kr;クリプトン)のような大きな粒子によって一気に運び去られたと考える方がエネルギー的により低くなり妥当である。すなわち、Uが中性子の作用でBaとKrのような2つの核に割れたとしなければならない。そしてこのように考えると、質量欠損から考えて約200 MeV のエネルギーが放出されるはずである。このエネルギーは主に割れた2つの破片の運動エネルギーになると考えられるので、このようなエネルギーをもった2つの破片粒子が放射線測定器で直接観測されるはずである。これらの考えはすべて現実に確認されて、今日の原子力利用時代の幕開けとなった。
このように原子核が同じ程度の大きな破片に割れる現象は「核分裂」と名付けられた。割れてできた物質を「核分裂生成物」と呼ぶ。235Uが遅い中性子によって核分裂すると、約40種の核分裂生成物ができ、これらは次々にβ崩壊しながら最終的には安定な核になる。その過程で発生する核種は 160種にも達する。これらの内で放射性のものは「人工放射能」である。
なお、アフリカ・ガボン共和国オクロ地区のウラン鉱床中で、約20億年前に自己持続性の核分裂連鎖反応が発生した痕跡が発見され、人為的にではなく、天然現象として核分裂が起き得ることが確認された(1972年)。この現象は「天然原子炉」と呼ばれているが、天然原子炉の存在については、1956年日本人の化学者黒田和夫が予言していた。 
電離放射線
電離放射線とは、物質に電離作用を及ぼす放射線である。一般には、電離放射線を単に放射線と称している。電離放射線には荷電粒子(アルファ線や電子線など)のように原子・分子を直接電離することができる直接電離(性)放射線と、エックス線や中性子線のように、いったん原子の束縛電子や原子核と相互作用して荷電粒子線を発生させ、二次的に発生した荷電粒子線が物質に電離作用を及ぼす間接電離(性)放射線がある。ここでは、電離放射線の性質と利用についても触れる。
1.電離放射線
電離放射線とは、物質に電離作用を及ぼすことができる放射線のことである。
一般には、電離放射線を単に放射線と称している。非電離放射線には紫外線を除き電離作用がない。
電離放射線が物質に入射すると、散乱や吸収によりそのエネルギーが物質に与えられる。電離放射線の物質へのエネルギー移行過程を、放射線と物質の相互作用という。相互作用の種類は多く、しかもそれらは互いに関連している。
電離放射線は直接電離(性)放射線と間接電離(性)放射線に大別される。ここで、直接電離(性)放射線とは、荷電をもつ粒子線(アルファ線、ベータ線など)であって、それ自体が直接、原子の軌道電子あるいは分子に束縛された電子に電気的な力を及ぼして電離を起こさせる、荷電粒子放射線のことである。
これに対し、エックス(X)線、ガンマ線などの電磁波(X線やガンマ線などの電磁波の粒子性に着目したときには、これらを光子という)あるいは電荷を持たない中性子線は、原子あるいは原子核との相互作用を介して荷電粒子線を発生させ、二次的に発生した荷電粒子線が電離作用にあずかる。そこで、これらを間接電離(性)放射線と呼ぶ。
一般的によく知られ、かつ、それらの利用頻度も多い荷電粒子線には、アルファ線、重陽子線、陽子線、その他の重粒子線(重イオンともいう)、ベータ線(電子線を含む)が、非荷電粒子線には中性子線が、電磁波には、ガンマ線及びエックス線(特性エックス線を含む)がある。
主に研究対象となっている放射線に、π中間子、μ粒子(ミューオン)やニュートリノなどがある。将来新たな放射線も登場することになろう。
2.電離放射線の性質とその利用
電離放射線のエネルギーは、空気を電離可能な、またはそれ以上である。空気を電離して一対の正イオンと自由電子を生成する平均エネルギーの値をW値という。気体のW値は、エネルギーが1MeV程度の荷電重粒子線の場合、30〜35eVである。
電離放射線は物質を構成する原子や分子と相互作用して、そのエネルギーの一部あるいは全部が物質に吸収される。放射線の物質との相互作用は、社会の様々な分野に利用されている。
電離放射線の主な一般的特徴を列記すると、
(1) エネルギー範囲が広い。
(2) 検出感度が著しく高いものが多い。
(3) 種類が多く、おのおのには特有の性質がある。
のようである。放射線の特徴には、ヒトの五感で認知されることがほとんどどないという面もあるが、この特徴が利用されているとは言い難い。上記のような特徴は単独で利用される場合もあるが、放射線の種類とその成因<08-01-02-02>に記されているように、放射線の発生源の特徴と併せて利用されるある。
放射線の発生源の主なものには、
(1) 放射性同位元素:天然に存在する元素の大部分に関係しており、特に原子数(または原子番号)が等しく、原子核が不安定なもの
(2) 放射線加速器、原子炉:人工的に放射線のエネルギーを利用した装置などがある。
放射線の物質中での電磁相互作用を利用して、荷電粒子のエネルギーを高める装置が加速器であり、速度の遅い非荷電粒子線である中性子が、原子核に接近してウランやプルトニウムのような重い原子核に作用し易いことを利用した装置が原子炉である。
荷電粒子線の透過像は、放射線の物質中の散乱、吸収状況を反映している。これを利用した技術がラジオグラフィ(診断用エックス線像も含む)である。計測制御に利用されている厚さ計やレベル計なども同類である。
電離作用を利用した蛍光灯のグロー放電管は、日用品として家庭でも多く用いられている。蛍光作用は診断用エックス線写真の増感紙や放射線量の評価に有用性が認められてきた。
放射線のエネルギーが、化学エネルギーを遙かに上回ることから、化学結合の切断、グラフト重合反応のような放射線化学反応の誘起を通して、有機物の改質に利用されており、自動車用ラジアルタイヤや耐熱性電線被覆材の強化などに利用されるほか、廃ガスの放射線処理による有害物除去の研究もすでに始まっている。
放射線の生物作用は、放射線の直接作用と併せて、遊離基による間接作用の利用も注目され、医療用具や食品の殺(滅)菌、発芽防止、品種改良、害虫駆除などのほか、がん治療、疼痛低減化などに利用されている。
放射線の検出感度は、化学的な元素分析の感度を大幅に上回るものが多い。そこで原子力分野での検出器として活用されるのは勿論、微量元素分析に応用されている。文化財の年代決定に利用されているカーボンデーティング炭素(14C)は、放射線の特性と宇宙および地球環境の恒常性を同時に利用した、精度の高い手法となっている。
非電離性放射線に分類されている紫外線は太陽光線にも含まれている。紫外線の殺菌効果は、放射線利用に先だっていた。電磁波の輻射(放射)はよく知られた現象である。 
α壊変
原子核がα粒子を放射して、原子番号が2、質量数が4だけ小さい別の種類の原子核に変わる過程をα壊変という。α粒子はヘリウムの原子核である。α壊変をする性質を持った原子核をα放射性核またはα放射体という。α放射体にはラジウム、ウラン、トリウム等、天然に存在するものの他に、カリホルニウムのように人工的に作りだされるものもある。
1.α壊変
α壊変は原子番号Z、質量数Aの原子核がα粒子を放出して原子番号Z-2、質量数A-4の原子核に変わる過程をいう。言いかえれば、陽子2個、中性子2個からできているα粒子が飛び出していったあとには、陽子が2個減って、原子番号が2だけ小さい原子核が残る。また、中性子も2個減るので質量数は合計で4だけ減少する。1909年ラザフォード(Ernest Rutherford)とロイズ(Thomas Royds)は、α粒子がヘリウム(4He)原子核であることを証明した。半減期はそれぞれの核種に特有で、短いものは214Po → 210Pbの1.64×10−4秒、長いものは238U → 234Thの4.47×10+9年など様々である。
2.α壊変のエネルギー
α壊変が起こるために必要なエネルギーの条件は、
Q=[MZ,N−(MZ-2,N-2+M2,2)]c2>0        (1)
である。ここで、MZ,N、MZ-2,N-2、M2,2は、親核、娘核、α粒子のそれぞれの質量数で、cは光の速度である。Qはこの壊変によって解放されるエネルギーで、壊変エネルギーといい、α粒子及び反跳された娘核の運動エネルギーの和、
Q=(1/2)・M2,2 v2+(1/2)・MZ-2,N-2 V2     (2)
に等しい。ここで、vはα粒子の速度、Vは娘核種の速度である。下式の運動量保存則
M2,2 v=MZ-2,N-2 V                    (3)
を用いて、(2)式を解けば、α粒子の運動エネルギーEαは、
Eα=(1/2)・M2,2 v2=Q/[1+M2,2/MZ-2,N-2]  (4)
で与えられる。
α壊変をする核種の質量数MZ,Nは、一般にα粒子の質量数M2,2=4に比べて極めて大きいので、(4)式のM2,2/MZ-2,N-2<<1となり、Qは殆どα粒子の運動エネルギーに等しくなる。すなわち、α壊変の場合、α粒子のエネルギーは一定である(β壊変の場合には、電子とニュートリノが放射されるため、両粒子とも放出エネルギーは均一ではない)。 図 は210Poから放射されるα粒子の飛跡をウイルソン(C.T.R,Wilson)の霧箱で撮影したものである。気体中の飛跡の長さがだいたい同じであるのはエネルギーが均一であることを示している。この距離のことを飛程という。α粒子の空気中の飛程(R cm)とエネルギー(Eα MeV)との間には、
R=aEα3/2                      (5)
の関係がある。したがって、空気中の飛程がわかれば、α粒子のエネルギーを推定できる。また逆に、α粒子のエネルギーが測定できれば、その空気中での飛程がわかる。
ある場合には、1種類のエネルギーのα粒子だけでなく、2種またはそれ以上の種類のエネルギーを持ったα粒子を放出する核種がある。 表は228Thの娘核212Biが208Tlにα壊変するときに放出されるα粒子のエネルギースペクトルを示したものである。これは娘核(212Bi)が直ちに基底状態(208Tl)に移らず、種々の励起状態に遷移し、そのエネルギー準位に対応したエネルギーを放出するためである。この場合Qがそれだけ小さくなり、α粒子のエネルギーも小さくなる。この時α壊変に続いてγ線の放射が起こる。放出されるγ線のエネルギーはQの小さくなった分に等しい。
3.飛程と壊変定数(ガイガー・ヌッタルの法則)
212Poから放出されるα粒子の飛程は約8.6cm、232Thのそれは約2.8cmである。α壊変の半減期は、前者が3.04×10−7秒、後者が1.41×10+10年である。ガイガーとヌッタルは、α粒子の飛程が長いほどα壊変の半減期は短いという実験的事実に着目し、1911年に飛程(R)とと壊変定数(λ)に関する多くの測定値を整理し、次式の関係式を導いた。
logλ=a・logR+b                   (6)
ここでaおよびbはと壊変系列によってきまる定数である。λはλ=(ln2)/Tなる式で半減期(T)と関係している。(6)式をガイガー・ヌッタル(Geiger-Nuttall)の法則という。
飛程はα粒子のエネルギーが高いほど長い。したがって、α粒子のエネルギーが高いほど壊変定数が大きいといえる。これは大きいエネルギーを持ったα粒子は原子核から飛び出す力が大きいし、また核内での振動回数も多いので、核外に飛び出す機会が大きくなると解釈できる。
α粒子が核の中から外へ出るには、Z>82の核については20MeV以上の高さのクーロン障壁を通らなければならない。このことはエネルギーが数MeVのα粒子にとっては、古典力学的には不可能であると考えられた。1928年、ガモフ(George Gamow)等は、障壁の中をα粒子がしみ出すいわゆるトンネル効果という概念を導入し、量子力学的取扱いによってこれを解釈した。 
β壊変
親核種から電子(β−)が放出される場合、または陽電子(β+)が放出される場合、あるいは親核種に核外の軌道電子が捕獲される場合(軌道電子捕獲)の3つの現象をβ壊変という。β壊変では、核種の質量数は変わらないが、β−壊変では原子番号は1だけ増加し、β+壊変や軌道電子捕獲では原子番号が1だけ減少する。放出される電子のエネルギーはある範囲にわたって連続的に分布している。また、β壊変の場合、γ線の放出を伴う場合が多い。
1.β壊変
β壊変は、原子核または素粒子がβ−(電子)あるいはβ+(陽電子)を放出して、他種の原子核または素粒子に変化する現象である。たとえば、
中性子  → β− + 陽子
64Cu  → β− + 64Zn
24Na  → β− + 24Mg
11C   → β+ + 11B
などがそれである。
また、陽電子を放出するかわりに原子核が軌道をまわる電子を吸収して陽子が中性子に変わる現象がある。湯川と坂田は、このような現象の起こる可能性を最初に予言した(1935年)。これを軌道電子捕獲といい、実験的にも証明されてβ壊変の一種であることがわかった。
β壊変をする性質は、最初ラジウムやトリウム等の自然放射性核種で発見されたが、原子核反応による原子核の人工的な転換や原子核分裂の実験が進められるにつれて、多くの原子核がβ壊変をすることがわかった。
β壊変では、核種の質量数は変わらない。β−壊変では原子番号が1だけ増加し、β+壊変や軌道電子捕獲では原子番号が1だけ減少する。
2.β壊変のエネルギー
α壊変で放出されるα粒子のエネルギーは一定であるのに対して、β壊変で放出されるβ粒子(電子、陽電子)のエネルギーは、 図 に示すようにそれぞれの核種に固有な上限値を持ったある分布(連続スペクトル)を持っている。このことに気付いたのはチャドウィック(Sir J.Chadwick,1914年)である。
原子核は、それぞれに固有の離散的なエネルギー準位をもっている。したがって、β壊変で放出されるβ粒子のエネルギーが連続であることをどう解釈するかが1920年代後半の大きな問題であった。
エリス(C.D. Ellis)とウースター(W.A. Wooster)は、RaE(210Bi)を熱量計の中に入れ、β壊変で放出されるβ粒子を含む全ての放射線のエネルギーを測定した(1927年)。その結果、1個のRaE原子核の壊変によって、放出されるエネルギーは平均350±40keVという値を得た。この値は、RaEから放出されるβ粒子のエネルギースペクトルの最大値1050keVより小さく、むしろスペクトルの平均値390±40keVにほぼ等しい。このことは放出されるβ粒子が、核を離れる瞬間から観測されているような連続スペクトルを持っているということになる。その後、32Pなどについても同様のことが確かめられた。そこでβ壊変の場合にはエネルギーの保存則は成立しないのではないかという意見が出てきた。
1932年にチャドウィック(Sir J. Chadwick)が中性子を発見し、ハイゼンベルグ(W. Heisenberg)が原子核は陽子と中性子から成り立っているという理論を発表した。ここでβ壊変は次のような原子核内部での核内核子の変換と考えられた。
中性子 → 陽子 + e−
この反応では、3個の粒子は共にフェルミ粒子なので、左辺の角運動量は半奇数、右辺は整数となり、反応の前後で角運動量の保存が成り立たない。
1931年パウリ(V. Pauli)は、β壊変の際に電子とともに電気的に中性なほとんど質量のない粒子が放出され、全体としてはエネルギーが保存されると仮定し、β壊変におけるエネルギーと角運動量の保存に関する問題に答えを与えた。この粒子をニュートリノといい、電子とともに放出される粒子を反ニュートリノ、陽電子とともに放出される粒子をニュートリノと名付けた。
中性子 → 陽子 + e− + ν”(反ニュートリノ)
陽子  → 中性子 + e++ + ν(ニュートリノ)
1934年、フェルミ(E. Fermi)は量子力学的にこの問題を解釈し、ニュートリノはスピン1/2、ディラックの方程式を満足し、電気的に中性、フェルミ統計に従い、質量は0または電子に比べて極めて小さい粒子であるとした。ニュートリノという粒子は、他の粒子との相互作用が非常に弱いため、検出が困難であるが、現在ではその存在が実験で確認されている。
3.β壊変エネルギー
β壊変エネルギーQは、電子とニュートリノの運動エネルギーの和である。
Q = Ee + Eν                      (1)
EeとEνは、それぞれ独立には定まらない。したがって放出される電子のエネルギーは、図に示すようにある範囲にわたって連続的に分布し、その最大値EmaxはEν=0のときである。
陽子Z個、中性子N個の中性原子の質量をMZ,Nとし、電子の質量をmとすると、β−壊変の際のエネルギー保存の式は、
MZ,N c2 = MZ+1,N−1 c2 + Q             (2)
したがって、β−壊変が起こるためのエネルギー条件は、
Q =(MZ,N−MZ+1,N−1)c2 > 0            (3)
同様に、β+壊変に対しては、
Q =(MZ,N−MZ−1,N+1 −2m)c2 > 0         (4)
軌道電子捕獲に対しては、
Q =(MZ,N−MZ−1,N+1)c2 −I > 0          (5)
となる。ここでIは軌道電子の束縛エネルギーである。
4.β壊変とγ線
β壊変においては、γ線の放出を伴う場合が非常に多い。β壊変後の娘核種、または核反応で生成された残留核は、しばしば励起状態にある。励起状態にある核は、より安定な低いエネルギー状態へγ線を放射して遷移する。なお、このγ線の放射はβ壊変そのものに直接関係はない。
ある核が 図 に示したような壊変型(壊変スキーム)で崩壊する場合、β線のエネルギー分布は複雑になる。AからB*への遷移とAからBへの遷移は別のものであり、その各々にエネルギーβ1、β2のβ線が付随する。したがって全体のエネルギー分布は 図 に示すようにその合成になる。BとB*のエネルギーの差をεとし、MB、MB*を核が基底状態Bにあるときと、励起状態B*にあるときの質量とすると MB* c2 − MB c2 = ε となり、β1のEmaxと、β2のEmaxは丁度εだけ異なる。β1とβ2の割合は、各壊変の起こる確率によって決まる。
5.崩壊定数
β壊変における崩壊定数λまたは半減期Tは、次式で与えられる。
λ=(ln2)/T=(定数×マトリックス要素)・f=C・f     (6)
関数fは、多くの人により計算され、表あるいはグラフで与えられている。Cは遷移の確率をあらわすマトリックスを含む数である。
(6)式を書きかえて、fT=0.693/Cとするとわかるように、fTが小さいほど、崩壊確率が大きいことを示している。 
放射線と物質の相互作用
放射線と物質(媒質と同義に扱う)との相互作用には、放射線の種類とエネルギーが関係する。物質の種類も関係するが、相互作用を考えるさいは、むしろ原子の構成要素(原子核と束縛電子)のような微視的側面からの理解が必要である。最も基礎的な作用過程である原子の束縛電子との相互作用では、放射線の散乱や吸収が主な過程である。その過程で物質内には原子・分子の電離、励起、光放出などの作用が起きる。原子核との相互作用においては主に原子核反応を取り上げる。ただし、放射線と物質との相互作用の種類は極めて多く、しかも、そのエネルギー依存性が大きいため、2,3の項目の概要説明に止める。
1.まえがき
放射線(電離放射線)と物質(ここでは媒質と同義に扱う)との相互作用の基は、外部から飛来する放射線というミクロな粒子(入射粒子)が、物質を構成しているミクロな粒子(標的粒子)と互いに作用を及ぼしあうことにある。つまり入射粒子が標的粒子と衝突して起こる現象の説明である。粒子どうしの衝突のさい、入射粒子が標的粒子に及ぼす力は、原子や分子の結合力に比べて圧倒的に大きい。原子核と電子の結合力は原子や分子の結合力よりも格段に大きいため、放射線と物質の相互作用を取り扱うさいに、これが中心的な課題になる。核子間に働く核力はさらに一段と大きいため、高エネルギーの放射線を扱うさいに問題になる。結合エネルギーとは反対に、作用が及ぶ空間的な距離は、原子と分子、原子核と電子、原子核内部の核子と核子の順に極端に小さくなる。
放射線には粒子線と電磁波(光子)があり、粒子線には荷電を有する荷電粒子線と荷電のない非荷電粒子線がある。放射線のエネルギーはさまざまである。そこで、まず放射性同位元素から放出される程度のエネルギーを有する放射線(10MeV以下)に的を絞って考えることにする。
2.放射性同位元素の崩壊により放出される程度のエネルギー(keV〜10MeV)の放射線と物質との相互作用
原子・分子系の外殻電子の結合エネルギーは数eVの程度であるのに対し、入射粒子が数MeVのエネルギーを有する荷電粒子の場合は、放射線のエネルギーが百万倍も大きい。そこで、物質中の電子に一万回以上も衝突を繰り返して、徐々にエネルギーを失う。荷電粒子と物質の相互作用の概念図を図に示す。これにたいし電荷を持たない中性子や光子は、1回の衝突によって大きなエネルギーを失って、その結果荷電粒子を発生させる。そのため、荷電粒子では単位長さ当たりのエネルギー損失が問題になり、非荷電粒子では衝突断面積が問題になる。
2-1. 荷電粒子のエネルギー損失
荷電を有する入射粒子のエネルギー損失過程には、弾性散乱、非弾性散乱、原子核反応と制動放射がある。粒子どうしの衝突において、入射粒子と同じ粒子が再び放出される場合と、入射粒子が標的粒子に吸収される場合がある。単独の粒子どうしの機械的な衝突が弾性散乱である。どちらかの粒子に内部構造がある場合は、衝突によって内部システムに変化が生じ、運動エネルギーの一部が移行する。これが非弾性散乱である。電子の場合に限り、原子核の近くで加速度を受けて放射される制動放射が有意に起こる。標的粒子の原子核に、エネルギーが吸収されて起こる過程が原子核反応である。入射粒子の一部は物質を通り抜ける。これを放射線の透過という。物質の単位長さ当たりのエネルギー損失を阻止能という。入射粒子のエネルギー損失には衝突によるものと放射によるものとがある。単位長さあたりの減弱率(線減弱係数という)を質量で除した値を質量吸収係数[cm2/g]という。単位長さあたりの電離数を比電離と言う。図は212Poから放出されるアルファ線のブラッグ曲線(比電離を示す)である。放射性同位元素(RI)の崩壊により放出される放射線のエネルギーは、keV程度から10MeV程度までである。keV以下の放射線のエネルギー損失は、主に弾性散乱が支配的である。keV以上になると非弾性散乱が支配的になる。特殊な例を除き、原子核反応によるエネルギー損失の割合は小さい。散乱された粒子が依然として高いエネルギー状態にあると、引き続いて散乱を繰り返し、数百eV以下に減速されると、二次的に発生した電子による電離作用や励起作用が支配的になる。気体における原子・分子の平均電離エネルギーの大きさは30eV程度、半導体の電離エネルギーは数eV程度である。減速過程には常に物質に特有の輻射を伴うが、ついには熱エネルギーが系全体に伝達される。電子は荷電粒子であるが、標的粒子と衝突したときのエネルギー損失が大きく、ひとたび原子の束縛電子に衝突すれば、入射電子との区別がなくなる点で、その他の荷電粒子(荷電重粒子という)とは異なっている。べータ線は電子線であるが、そのエネルギーは0から最大エネルギーまでの連続スペクトルである。ベータ線の物質中での吸収曲線の例を図に示す。電子の速度は同じエネルギーの荷電粒子のなかで著しく大きい。入射粒子が原子核の近くで加速を受けて放射される過程を制動放射というが、制動放射の放射率は標的粒子の質量の2乗に反比例する。電子の質量を電荷の等しい陽子の質量と比べると放射率は陽子の340万倍である。電子の場合に制動放射によるエネルギー損失が電離作用のそれと等しくなるのは、鉛で〜20MeV程度、水で〜200MeV程度である。
2-2. 非荷電粒子のエネルギー損失
電磁波の量子である光子は、物質中では主にそれを構成する荷電粒子と相互作用する。主要なものに光電効果、コンプトン散乱、電子対生成の三者がある。図に鉛における光子の阻止能とエネルギーの関係を両対数値で示す。光電効果の寄与とコンプトン散乱の寄与が等価になるのはおよそ0.7MeV、コンプトン散乱と電子対生成の場合はおよそ4MeVである。物質中で電子と陽電子対を生成するには光子のエネルギーは少なくとも1.02MeVを上回る必要がある。巨視的に見た光子の散乱、吸収の様子を図に示す。コリメートした光子の入射方向の光子数を計測すると、指数法則に従う減弱の測定ができるが、一般に、厚い物質を通過する広い線束を測定するさいには、幾何学的条件で定まるビルドアップを補正しなくてはならない。ただし、ビルドアップ係数は特定の配置ごとに求める必要がある。光子は後方散乱する。半空間全体の後方散乱線束を光子数アルベドまたはエネルギーアルベドという。散乱体の厚さが増すとアルベドは飽和する。中性子と物質の相互作用では束縛電子との相互作用は小さい。このさいは原子核との相互作用が主になる。弾性散乱、非弾性散乱、捕獲及び原子核反応がその例である。中性子のエネルギーが1MeV以下では、弾性散乱が優勢である。散乱中性子の方向分布を球対象として求めた衝突後の中性子エネルギーは、一回衝突ごとに初期エネルギーの1/eξになる。この関係を用いると初め1MeVであった中性子が熱中性子になるまでに必要な衝回数は軽水素で17.5回になる。1MeV〜数MeVの中性子は弾性散乱と非弾性散乱で減速する。さらに中性子のエネルギーが大きくなると中性子を吸収して陽子、アルファ線のような荷電粒子を1個放出する原子核反応が起こる。原子核反応では粒子の放出に伴って光子の放出が起こることが多い。熱中性子の捕獲反応断面積は原子核の種類によって著しく大きいものがある。113Cdや157Gdなどはその例である。熱中性子を吸収して光子を放出する(n,γ)反応も起こる。非荷電粒子の散乱や反応で生じた荷電粒子の物質との相互作用は、放射線の種類とエネルギーに応じて、1.で記したものと同様の過程で減速し、類似の過程でエネルギーが物質に移行する。原子核反応によりエネルギーの出入が起こる。そのため、個々の反応のエネルギー収支を求めなければならないが、RIの崩壊で発生するエネルギー範囲では、特別な例を除きエネルギー損失に占める原子核反応の寄与は大きくない。
3.高エネルギーの放射線と物質との相互作用
高エネルギーの領域では入射粒子の速度が速くなる。荷電粒子の電離によるイオン対の生成率は速度に反比例する。それに反して原子核反応は種類が増加し、一回の衝突で原子核から放出される荷電粒子の種類や数も増加する。また、重い原子核以外の核分裂反応、核破砕反応、中間子の放出なども起こる。その結果、放射線と物質の相互作用に占める電離作用の割合は、高エネルギーの領域では減少し、原子核反応の割合が増加する。エネルギーが2GeVの陽子が、厚さ2.45cmの鉛で吸収されるエネルギー損失の例では、電離作用の割合が3%以下であるのに対し、原子核反応の割合は15%であったという。非荷電粒子線の場合も事態は同様である。
同じエネルギーの荷電粒子線のなかで、電子の速度は最も大きい。3MeVの電子の速度は、真空中での光速の99%に達するが、陽子では5.7GeVの速度に相当する。
表に電子の速度と比電離能を示す。相対論的に有意な考慮が必要な領域では、制動放射損失が速度とともに大きくなる。 
 
アインシュタイン 

 

はじめに
20世紀---われわれは、悲劇的で苦悩に満ちた二つの世界戦争を経験した。それは人類史上人間が犯した最大の罪悪であり、そして、最も愚かな行為であった。他方、20世紀における科学技術と医学の進歩は、めざましいものであった。われわれは現在、その恩恵に浴している。科学技術の進歩は、人間の生活を豊か、かつ快適にし、医学の進歩は、かつて「不治の病い」といわれた病気の治療を可能ならしめた。しかしながら科学の進歩にともなう急激な技術革新はわれわれに恩恵だけではなく害悪をももたらした。すなわち、科学技術の進歩は自然を破壊し、われわれは、いまや地球規模の環境問題に直面している。
20世紀は、夢・希望の世紀でもあり、不安・混沌の世紀でもあった。この世紀の初め、アインシュタインは「相対性理論」によって、万人の宇宙観を変えた。彼の理論は、理論物理学の分野にとどまらず、思想、哲学にまで影響を及ぼし、彼をして新しい時代の預言者たらしめた。アインシュタインは、いかにして、彼の理論を作り上げたか? また、アインシュタインは、一人の人間として、どのように生きたか? このサイトは、アインシュタインの伝記を中心に、彼の科学、思想を解き明かし、そして、アインシュタインの人間像にも迫るものである。
なお、本ページの「おいたち」から「旅路の終わり」までの内容は、「神は老獪(ろうかい)にして…/アインシュタインの人と学問 アブラハム・パイス(Abraham Pais)1982年」及び「アインシュタイン イギリス BBC制作 1996年」etc.をもとに編集したものである。  
特殊相対性理論と一般相対性理論

 

特殊相対性理論(special relativity)
運動している物体の速度は、静止している人が見た場合と一定速度で走っている車の中からみた場合では、当然、異なって見える。ところが光の速度は、静止している人が測定しても、走っている車の中で測定しても、まったく同じである。この矛盾を解決するため、アインシュタインは、1905年に発表した特殊相対(性理)論で、われわれが無反省に使っている時間や長さの概念を、根本的に変えなければならないことを示した。すなわち、静止している人にとっての時間や長さと、走っている人にとっての時間や長さは、別のものだというものである。これから、多くの一見奇妙な結論が導かれたが、それらはすべて実験で確かめられた。その中では、反応の前後で物質の質量(重さ)が減少すると、その分だけ運動エネルギーは増加するという、質量とエネルギーの同等性が、特に有名である。現在では、特殊相対論は物理学者の言語の一部となっている。
一般相対性理論(general relativity)
静止してる時計や物差しと、一定の速度で走っている時計や物差しとの関係を問題にするのが特殊相対論であるが、アインシュタインは、1916年に提唱した一般相対性理論で、加速度運動をしている時計や物差しにまで、問題を一般化した。これからニュートンの万有引力(重力)が自然に導かれる。空間と運動からなる四次元空間は、たとえていえば球面の上のような曲がった空間で、その曲がり方が重力を表している。この理論は、アインシュタインの抽象的思考の産物であったが、その後いくつかの実験で実証された。アインシュタインの方程式の解から、空間の中に、ブラックホールという奇妙な場所があることが示された。宇宙物理学は一般相対性理論に基づいて論じられる。 
アインシュタインってどんな人?

 

アインシュタインのイメージといえば「親しみやすい風ぼう」が上げられる。彼はフォトジェニック(photogenic:写真うつりのよい)なのだろう。でも本当に、親しみやすい人だったのだろうか。
こんな逸話がある。
ある日、ある子供が、「近所に有名な数学の先生が住んでいる」と聞いて、さっそくその数学の先生(実はアインシュタイン)のもとを訪ね、算数の宿題を手伝ってもらった。本当に、そんなことがあったのかどうかは分からない。
人間誰しも、いい面と悪い面を持ち合わせていると思われるが、アインシュタインの場合もそうである。 
まず、いい面としては、以下のことが挙げられよう。 
彼は、努力家であった。彼は『一般相対性理論』の完成後、研究に打ち込みすぎて無理をしたせいか、風ぼうが変わるほどの大病を患っている。
彼には、ユーモアのセンスがあった、以下は、1921年、アインシュタインのアメリカ初訪問の際のニューヨーク港での新聞記者とのやりとりである。
記者 / 相対性理論の内容を一口で説明するとどうなりますか。
アインシュタイン / もし、あなたが、私の返事を、あまりくそまじめに考えないで、冗談半分できいてくださるなら、私は次のように答えることができます。今までの理論では、もし宇宙から、すべての物質が消え失せてしまったとしても、なお時間と空間は残っているとされていましたが、相対性理論によれば、もし宇宙から、すべての物質が消え去ってしまえば、時間と空間もそれと一緒に消え去ってしまうのです。
記者 / 相対性理論を本当に理解することができる人は、世界中に十数人しかいないということですが、それはほんとうですか(注:アインシュタインは、一般相対性理論の最後の原稿を出版社に渡したときに『これを理解できる人物は世界中に12人より多くない』といったとか、いわなかったとか)。
アインシュタイン / 相対性理論の説明をきいた物理学者はだれでもそれを理解するでしょう。現に私が相対性理論を講義したベルリン大学の学生は、みんなそれを、よく理解してました。
記者 / 一般大衆には、とうてい理解できないような高度の物理学の理論に対して、一般大衆が、かくも熱狂的になるのはなぜでしょう。
アインシュタイン / それは精神病理学の問題でしょう。
これらの質問がようやく終わったところで、
アインシュタイン / 私に対する試験は、これで合格にしていただきたいと思います。
彼は、世界中の人々から歓迎されるような独特の雰囲気を持つ人物であった。 
他方、悪い面としては、以下のことが挙げられよう。 
彼の皮肉と口の悪さ。
バーナード・ショー(この人も口の悪さが有名) / わが親愛なるアインシュタイン君、きみはきみの書くことを、ほんとうに、よく理解しているのかね。ひとつ正直に言ってみてくれんかね。
アインシュタイン / あなたが、あなたの書くものを理解しておられる程度にはね、バーナードさん。
彼は「がんこ」だった --- これはまた、いい面でもある --- 確かに、がんこじゃないと「一般相対性理論」みたいな大仕事をとても完成できなかっただろう。彼はまた、がんこにも生涯の最後の30年(30年もの間)を「統一場理論」の研究に費やし、その天才の時間と労力を使い果たしたが、その成果を見ることはなかった。そして、彼は、「量子力学」を、最後まで認めようとしなかったが、それは、本人も認めるがんこさだった。
彼には孤高癖があった---アインシュタイン曰く「私は、単独で走る装備をつけた馬のようなものです。二頭だてや集団はだめなんです」彼は科学者としては孤立的であった。そして、おそらく人間的にもそうだった。
彼は自分の理論が絶対に正しいと思っていた --- 彼は一般相対性理論が、皆既日食の観測によって証明されたとき、こう語っている。『イギリスの観測隊が、たとえ何も見なかったとしても、私はただ神を気の毒だと思うだけです。私の理論は正しいのです。一般相対性理論は、間違いとするにはあまりに美しすぎます。観測結果と矛盾するはずがありません』--- 彼はまた、量子力学との論争の中で傲慢にも『神はサイコロをふらない』という言葉をはいている。
彼は、平和主義者としては自己矛盾していた --- なぜなら彼は、ルーズベルト大統領宛の原爆開発を促す手紙にサインした。
彼は家族に冷たかった --- 彼は二度結婚し、二度とも失敗している。彼は、科学の探求のためには、家族をかえりみず、家族を犠牲にしたエゴイストであった。「私は予測不能の人間関係から身を引き、孤立を守るすべを学びました。人生は、油断すれば、しがらみばかりが増えていきます。とくに、結婚などは…」
アインシュタインは、20世紀を代表する天才 --- 神から知恵を授かった賢者であり、しかも、努力の人だった。また、常識にとらわれない自由人であり、変人でもあった。そして、アインシュタインは、スピノザの神、つまり宇宙そのものを神として信じていた。  
おいたち

 

「224番。ウルム(注:ミュンヘンから西へ約130km)、3月15日、1879年。本日、商人ヘルマン・アインシュタイン、住所ウルム市バンホフ通り135、信仰ユダヤ教、個人的には知っている、は下に署名する登録官の前に現れ、男子の出生を告げた。名前はアルバート、ウルムの彼の住居で生まれ、母親はパウリーネ・アインシュタイン、旧姓コッホ、ユダヤ教のもとに生まれた。3月14日、1879年、午前11時30分。読了、確認、署名:ヘルマン・アインシュタイン。登録官、ハルトマン。」
1944年、バンホフ通りの家は空襲で破壊されたが、出生証明書は今でもウルム文書館で見い出される。アルバート・アインシュタインは、1879年3月14日午前11時30分、ドイツの小都市ウルムに生まれた(1999年が生誕120年に当たる)。アルバートはヘルマンとパウリーネの二人の子供のうち最初の子供であった。1881年11月18日、彼らの娘、つまりアルバートの妹、マヤが生まれた。二人は仲の良い兄妹だった。(注:下の写真は妹マヤとアインシュタイン)
アインシュタイン家は「同化主義射的傾向」(つまり、ユダヤ人でありながら、ドイツ人に同化しようとする傾向)を持っていた。アルバートは、話し始めるまでに異常に時間がかかったので「知恵遅れ」かとはじめは心配された。しかし、後には、その心配はすぐに消え去った。
父親ヘルマンは、羽根ぶとんの商売をしていた。アルバートと両親の関係は調和のとれた、愛情あふれるものであり、母親が、より強い性格を備えていた。彼女は才能あるピアニストで家庭内に音楽を持ち込み、子供たちの音楽教育は早くから始まった。マヤはピアノ演奏を習った。アルバートは6才頃から13才頃までバイオリンの指導を受けた。バイオリンは彼の大好きな楽器となった。ちなみに、アインシュタインの好きな作曲家は、シューベルト、モーツァルト、バッハ、ビバルディ、コレッリ、スカルラッティであり、ベートーベンの重く劇的な部分には惹かれなかった。ブラームスは特に好きではなく、ワーグナーは嫌いだった。ついでに、彼の好きな画家は、ジョット、フラ・アンジェリコ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、レンブラントで、キュービズム、抽象絵画には無関心であった。
さらに、彼が好んだ文学についてもあげておこう。アブラハム・パイスは次のように記している。「文学についてのアインシュタインの習慣と好みについては私は、はっきりした描像をもっていない。次のリストは彼の好んだ作家を手あたりしだいに並べたものであるが、どのくらい完全か、どのくらい代表的なものであるかは不明である。ハイネ、アナトール・フランス、バルザック、ドストエーフスキー(『カラマーゾフの兄弟』)、ムジール、ディッケンズ、ラーゲルロフ、トルストイ(民話)、カザンツアキス、ブレヒト(『ガリレイの生涯』)、ブロッホ(『ヴィルギリウスの死』)、ガンジー(自叙伝)、ゴーリキー、ハーシー(『アダノの鐘』)、ファン・ルーン(『レンブラントの生涯と時代』)、ライク(『第三の耳で聞く』)」
父ヘルマン・アインシュタインは、飾り気のない心のやさしい、そしてどちらかというと受け身的な人間で、すべての知人から愛され、文学を好み、夕方には、よくシラーやハイネを家族に朗読してきかせた。ヘルマンの弟、ヤコブ叔父さんは、数学の問題を出してくれた。問題を解くと「(アルバート)少年は深い幸福感を味わった」。アルバートが10才から15才まで規則的に家庭を訪れるマックス・タルムートが、彼の教育に重要な貢献をした。タルムートは、貧乏な医学生で、毎週木曜日、夜、アインシュタイン家の夕食にやってきた。彼は、アルバートに科学の通俗書を読ませ、後に、カントの著作も与えた。二人は、科学と哲学を論じて何時間も過ごした。アルバートはまた、自分自身で数学の勉強を続けた。12才のとき、彼はユークリッド幾何についての小さな本をもらった。後に彼は、その本を神聖な幾何の本と呼んでいる。「その内容の明晰性と確実性は、私に言い表しようのない印象を与えた。」12才から16才まで、彼は独学で微分と積分を学んだ。
ヘルマンの羽根ぶとんの事業はあまり成功したとはいえなかった。アルバートの誕生のしばらく後に、ヘルマンの弟ヤコブ(実業家的で精力的な弟だった)は、ミュンヘンで、小さなガス水道工事店を始めようと提案した。ヘルマンは、それを承諾し、自分と妻パウリーネの資産の大部分をその事業に投資することになった。1880年(アルバート1才のとき)に、ヘルマンとその家族はミュンヘンに移った。その2〜3年後、ヤコブはもっと大きな野心をもって、ミュンヘンの発電所と照明システム用の発電機、アーク灯、電気測定装置をつくる電機工場を始めようと提案した。これらの計画は1885年、家族からの、特にパウリーネの父親からの資金援助によって実現され、この会社は1885年5月6日に正式に登記された。
アインシュタインの回想「4才か5才の頃、父は、コンパスを見せてくれました。どんなに動かしても針は常に一定の方角を示しています。それを最初に見たとき、コンパスがこれほど確かな動きをするという事実が、世界に対する私の考え方を変えました。それまで私は、何かものを動かすには、それに触れなければならないと思っていました。しかし、あの瞬間、 物事の背後には深く隠された何かが、存在するはずだということに気がついたのです。」
謎めいたその何かとは「電磁気」と呼ばれるものだった。自然界にある、基本的な力としての電磁気の発見は、19世紀物理学における最大の進歩であり、まもなく大きな技術革命をもたらすことになった。 
若き日のアインシュタイン  

 

5才の時、彼は家庭で初めて教育を受けた。この挿話は、アインシュタインが癇癪をおこして、家庭教師に椅子を投げつけたので、その場で終わりを告げた。6才になって彼は国民学校(Grundschule)(注:日本の小学校にあたる ただし4年制)に入学した。彼は、信頼できる、着実なゆっくり進む児童で、数学の問題を納得しながら解いたが、計算間違いがなかったわけではなかった。彼の成績は良かった。1886年8月(アインシュタイン7才)、母パウリーネは彼女の母親に書いている『きのうアルバートは成績をもらいました。また成績は一番で、彼の通信簿はすばらしいものでした。』しかし、アルバートは依然として静かな子供で、学校友だちと一緒に遊ぶことには関心がなかった。彼の一人きりのゲームは忍耐とねばりを必要としていた。カードで家をつくるのがお気に入りの一つだった。
1888年10月(つまり9才のとき)、国民学校から、ルイトポルト・ギムナジウム(注:Gymnasium:文化高等中学校。Grundschule四年間終了後試験を受けてはいる。9年制、卒業すると大学入学資格が得られる) に入学した。
ミュンヘン時代の話でアインシュタインが、何度かよく上機嫌で語った話がある。例のギムナジウムで、ある教師が、アインシュタインに向かって「もし、きみがクラスにいなかったらもっと幸福だろうに」と言った。アインシュタインは答えた。「私は何も悪いことをしていません。」先生の答えは「それはそのとおりだ。しかしきみはうしろの列のそこに坐って、にやにやしているが、それは私が、クラス全体から得る必要がある尊敬の念をおかしているのだ。」
少年時代のアインシュタインについての話を集めてみると、彼の最も特徴的なひととなりが、後天的なでなく、生来のものであることが、非常によく示されている。その子は、話し始めは遅かったが、小学校では一番になった。彼の成績が悪かったと広く信じられているが、それは根拠がない。その子は成人して、長い静かな形成期を経て、あらゆる科学的な成功を成し遂げた。教室に坐って、にやにやしていた少年が、老人になって、「『オッペンハイマー事件(戦後、アメリカの核開発に反対したオッペンハイマーはスパイ容疑でアメリカ政府から告発された)』を取り扱う当局者は馬鹿だ」と考えて笑い飛ばした。晩年には、彼の平和主義的な確信のおかげで、どんな権威者にも、力強く反対の発言をした。しかし、彼の個人的および科学上の行為においては、彼は権威に抵抗する謀反人でも、また、権威を転覆しようとする革命家でもなかった。むしろ、彼は非常に自由であったので、理性以外のいかなる形の権威も、彼にとっては馬鹿げて見えたのである。別の件についていえば、彼の短い宗教的熱中が痕跡を残さなかったのと同じように、後年、彼は、しばしば、ある科学的考え方に極度に熱中し、それから、それを結果を残さず捨てたのである。自分の宗教的熱中期間について、アインシュタイン自身は後に、こう書いている。「青春期のこの失われた宗教的楽園は『唯一者』から、私自身を解放するための最初の試みだったことが、私には明らかである。」この欲求は彼の生涯にわたって続いた。60歳代になって、彼は自分を、身も心も科学に売り渡すことによって、『私』および『われわれ』から『それ』へと逃れたのだといったことがある。しかし、彼は自分自身と他の人たちとの間に距離を置こうとしたのではなかった。人と離れることは、彼の心の内部のことであり、そのおかげで、彼は思索の中に埋もれて人生を歩き通すことができた。しかし、この人物について、ことに非凡と思われるのは、そうしながら、同時に彼が、世界と接触を断ったわけではなく、また世界から超然としていたわけでもなかったということである。
もう一つの、そして最も重要なアインシュタインの性格は、一人で静かに遊んでいる子どもの中にすでに明らかである。すなわち彼の『離脱』である。このことはまた、家庭での経験の方が、正式の学校教育よりも重要だったことに見ることができるし、また学生時代、独学が教室での授業より優先したこと、ベルンの特許局時代に、物理学者社会とほとんど個人的な接触なしに、彼の最も創造的研究を行ったことにも見ることができるだろう。それはまた、他の人間や権威に対する関係においても示されている。『離脱』はまた、彼のひたむきな独力の研究、最も顕著なのは、特殊相対性理論から一般相対性理論への彼の過程でも、よく彼に役立った。この性質はまた、彼の後半生においても明確であって、彼は量子力学に対して根本的に懐疑的であり続けたのだった。最後に、『離脱』は、彼にとって、伝説とカリスマに飢えた世界から、彼の大切なプライバシーを守るために実際上必要なことであった。
ミュンヘン時代に戻ろう。1894年(15才のとき)、ドイツでの競争に敗れた父ヘルマンは、工場をイタリアのパヴィア(ミラノから南約40km)に移し一家も引っ越した。ただ、学校のあるアルバートだけは、ひとりでミュンヘンに残った。
アインシュタインの回想「私はミュンヘンの学校が、いやでたまりませんでした。厳格な規律と権威主義。教師は軍人のように、むちを振るって、隊列を組ませます。私は逃げ出す方法を探し求め、やっと見つけだしました。つまり、私と懇意だった医者のところに言って、一通の診断書をもらってきたのです。私は、神経衰弱に苦しみ、すぐにも学校を離れる必要があるという内容でした。」
統一後間もないドイツ帝国の軍国主義教育は、自由にして闊達(かったつ)なアインシュタイン少年の気質には合わなかった。
アインシュタインは、連絡もせず突然、イタリアの「パヴィア」の家の玄関に現れ、両親に、こういったそうである。「心配しないでくれ、浮浪者になるつもりはないから。ぼくには、ちゃんと計画があるんだ。」それが、15才のときだから驚きである。歳にしては、ずいぶんしっかりしていた。(下の写真:15才のアインシュタイン)
ヨーロッパでも最高のレベルを誇る、スイスの「チューリッヒ連邦工科大学(Eidgenössische Technische Hochschule, ETH)」に進むのが、彼の計画だった。ドイツの「ギムナジウム」をきちんと終えていれば、無試験で入れたのだが、途中でやめてしまったため、入学試験を突破しなければならなかった。当時のアインシュタインは、卒業証書も、それに国籍もなかった。兵役を逃れるため、ドイツ国籍を放棄をしていたのだった。結局、大学の入試は不合格だった(数学においては優秀な成績を示したが、現代語と動物と植物で思わしい点数が取れなかった)。アインシュタインは、父親のすすめもあって、スイスのアーラウという町のギムナジウムに編入することにした。それは、挫折ではなく飛躍への第一歩だった。アーラウのギムナジウムは、すぐれた教育システムを持ち、最新の物理学研究室も備えていた。この研究室で、アインシュタインは電気技術の背後にある、物理法則の存在を、はじめて確認した。彼は、コンパスの針を電池と電線に近づけ、電流が磁界を誘導できることを確かめた。その二つとも、電磁気と呼ばれる同じ現象の、それぞれの側面である。また、彼は、単純な棒磁石を使って、砂鉄が磁力線に沿って集まり形作るパターンを研究したりした。そして、アインシュタインは、「光」というものも、空間を移動する電磁波であることを教えられた。 
ミレーバとの出会い

 

スイスのアーラウのギムナジウムを無事卒業したアインシュタインは、チューリッヒにある念願の「チューリッヒ連邦工科大学(ETH)」に入学した。「ETH」は、ヨーロッパ屈指の工科系大学であり、実験設備も最高に充実していた。しかし、アインシュタインは、あまり熱心な学生ではなく、お気に入りのカフェに入り浸りだった。
アインシュタインの回想「新しい教育方法が、若者の好奇心を完全に押しつぶさなかったのは、まさに奇跡です。何しろ好奇心という、この繊細な植物は、刺激を別にすれば、主に自由を養分にして育つのですのですから。」アインシュタインは、コーヒーをすすりながら、何時間もクラスメートと語り合った。その中に、同じコースを選んでいる女子学生がいた。彼女の名前は、ミレーバ・マリッチ。当時、「ETH」はヨーロッパでも数少ない、女性にも門戸を開いている大学だった。成績が大変良かったミレーバは、ハンガリーからこの大学に入学していた。そして、アインシュタインと同じ物理の教職課程で学んでいたのだ。彼にとって、ミレーバは夢の体現者だったのかも知れない。家族の束縛はなく、自立していて、アインシュタインよりも、ずっと自由だったのである。アルバートとミレーバは、しだいに、自分たちは同じタイプの人間だと考えるようになった。当時のアインシュタインにとって、ミレーバとともに学び、湖のほとりを歩き、そして、物理学について考えるのは、どれも同じくらい大切なことだった。 
学生時代のアインシュタインの成績

 

学生時代のアインシュタインの姿は、最新の研究であきらかになっている。「ETH」の記録が残っている。彼が3年のときに、興味深いことが起こっている。1899年の3月、大学当局は、公式に学生のアインシュタインを叱責した。理由は、勤勉さの欠如となっている。これは、つまりアインシュタインが物理研究室での実験を怠けていたと言うことだ。その証拠に成績表を見ると、実にはっきり、物理研究室での実験は、最低の成績「1」と書かれている。ところが同じ年、「電気技術」の研究では、優秀な成績の「6」をとっている。当時すでに、アインシュタインは、自分の好きな分野だけに情熱を傾け、その他の分野は、いっさい無視していたことが分かる。
悪くとれば、傲慢に見えるアインシュタインの態度は、ときにトラブルを生んだ。大学の物理学部長、ハインリッヒ・ウェーバーはこう言ったと伝えられている。「きみは賢い子だ、アインシュタイン。実に賢い。しかし、きみは誰の言うことも聞かないという大きな誤りを、おかしている。」
アインシュタインの回想「もちろん私は、ウェーバーの言うことなんか聞きませんでした。あの人のしている物理学は、70年前のものです。私が、自分の実験のことを話そうとしても、あの人は耳を貸さない。適当にあしらうのが最善の策でした。」
1912年にウェーバーが死ぬと、アインシュタインは友人に、きわめて彼にとって異例だが「ウェーバーの死は『ETH』のためになる」と書いている。 
就職および「アカデミー・オリンピア」

 

「ETH」における、アインシュタインの最終的な成績は、理論物理学、実験物理学、天文学について「5」、関数論「5.5」、熱伝導についての小論文「4.5」、(いづれも最高点は6)であった。ただし、友人のマルセル・グロスマンが、きれいな完全に整理された講義ノートを、貸してくれたお陰であった。
1900年8月(アルバート21才)、アインシュタインは大学を卒業し、専門教師の資格を、他の3人の仲間と一緒にとった。他の3人はそれぞれ「ETH」の助手の地位をただちに与えられた。5人目の学生、ミレーバは、卒業試験に合格しなかった。そして、アインシュタイン自身は、職を得られなかった。これは、アインシュタインにとって手痛いことだった。ウェーバーが、助手の職を約束していたのに、その約束を破った。(ウェーバーとの対立がわざわいしたのだ。)アインシュタインは、ウェーバーを決して許さなかった。
悪いことは重なり、イタリアのパヴィアでは、父親の会社が倒産した。アインシュタインは、必死で仕事を探す。収入がなんとしても必要だった。父親ヘルマンも息子の就職に力を尽くした。次のような手紙が残っている。
「拝啓 教授 息子のために、お願いに上がる図々しい父親を、どうかお許し下さい。息子は、職のない現在の状況を深く嘆いております。今や自分には、何の希望もないという思いが日に日に強まり、さらに、息子は財力の乏しい家族にとって、自分は重荷なのではないのかという不安にさいなまれています。もし、息子に助手の仕事を見つけて頂ければ、心より感謝申し上げます。 ヘルマン・アインシュタイン」
アインシュタインは、北は北海から、南はイタリアの南端まで、あらゆる物理学者に礼を尽くして、就職口の問い合わせをした。良い返事は一つもなかった。しかし、やっと、アインシュタインは、臨時の職を見つけた。1901年5月19日から、彼はヴィンターツールの高等学校で2ヶ月間の代理教員となった。ヴィンターツールの後、もう一つ臨時職が舞い込んできた。1901年9月から1年間、シャフハウゼンの私立学校に任用された。
一方、1900年頃、友人のマルセル・グロスマンが、家族にアインシュタインの無職の状態について、話したことが幸いした。この話を聞いて、グロスマンの父親はベルンの連邦特許局長官フリードリヒ・ハラーに、アインシュタインを推薦した。アインシュタインは、この推挙を深く感謝した。この件は、1901年12月1日になって特許局の空席がスイス連邦公報に広告されるに及んで実現することになった。アインシュタインは、直ちに応募の手紙を送った。途中で一度、彼はハラーの面接を受けた。おそらく彼はそのとき、採用の何らかの保証を受けたのであろう。いずれにせよ、彼はシャフハウゼンの職を辞め、任用される前ではあったが、1902年2月にスイスの首都ベルンに落ち着いた。初め彼は家族からの少ない仕送りと、数学および物理学の家庭教師の収入で生計を立てた。彼の教え子の一人は彼を、次のように記述した。
「背丈(身長)は約5フィート10インチ(1.76m)で、肩幅はひろく、少し前かがみで、薄茶の膚、官能的な口許、黒いひげがあり、鼻は少しわし鼻で、輝く茶色の眼、快い声、フランス語を正しく話すが少し訛りがある。」
モーリス・ソロヴィーヌと出会ったのはこの時期である。「善良なソロ」は初めは家庭教師としてアインシュタインの教え子だったが、終生の友人となった。アインシュタイン、 ソロヴィーヌ、およびもう一人の友人、コンラット・ハビヒトは定期的に会い、哲学、物理学、文学を、プラトンからディッケンズまで論じた。彼らは厳粛に「アカデミー・オリンピア」(上の写真)の創立者で唯一のメンバーであると宣言し、一緒に食事(典型的なのはソーセージ、チーズ、果物、紅茶だが)をし、概してすばらしい時を過ごした。
そうこうする内に、スイス連邦評議会によるアインシュタインの任命の手続きがすんだ。1902年6月16日、彼は特許局の3級技術専門職に就き、年俸は3500スイス・フランであった。
アインシュタインの回想「意外でしょうが、私にとって特許局は、大学よりずっとよい就職口でした。もし、大学の職員になっていたら、早く論文を仕上げろと、せっつかれたことでしょう。さいわいにも、そういうことからは自由だったんです。」 
恋愛、結婚、父の死

 

「愛しい人よ、きみに出会う前、ぼくは一人で、どうやって、生きていられたのだろう。きみなしでは、ぼくは自信もなく仕事への情熱も、人生へのよろこびもありはしない。つまり、きみなしでは、ぼくの人生は人生ではない。」
アインシュタインのミレーバへのラブレターである。
「1898年2月 拝啓 手紙を書きたいという思いが募り、最終的に、あなたの厳しい批評の目に自分をさらすまいという自意識は、こうしてうち負かされてしまいました。」
アルバートとミレーバは次第に自分たちは、同じタイプの人間だと考えるようになる。
「1899年8月 ぼくたちの精神的生理学的生活の、なんと密接なことか。ぼくたちは、たがいの暗いたましいを、よく理解し合い。もちろん、コーヒーをのんだり、ソーセージを食べたりするのも一緒だ。」
アインシュタインが、就職活動をしていた頃、ミレーバとの恋愛を、両親が問題にし始める。
アインシュタインの両親は、ミレーバとの結婚に強く反対した。ミレーバは自立しすぎていたのだ。母親(下の写真)はおそらく、ああいう人は、難しい本ばかり読んで、食事も作らず、靴下をつくろったりもしないとでも言ったのだろう。一緒になるなら、私は死ぬなどと。まあ、母親はたいていそういうことを言うものだが、とにかく、ミレーバとの結婚は、もうれつに反対された。
「1900年7月 愛する人よ ぼくの両親の言いぐさには、もう我慢ができない。きみが卒業試験に落ちたときのことだ、母が、『あなたの可愛いミレーバは、なんになるつもり?』というので、ぼくの妻だと答えてやった。すると、母はベッドに身を投げ出し、『お前は自分の将来を台無しにしている。子供でもできてごらん。なにもかもめちゃくちゃよ』と言うんだ、それで、ぼくの堪忍袋の緒も切れた。ぼくらの関係を侮辱することは許さない。」
1901年の春、二人は北イタリアの町コモ(ミラノの北約50km)で一時を過ごす。この事実は、初期のラブレターから、ごく最近、明らかになった。
「可愛い小さな魔女よ コモに来ておくれ。きみにとって、ほんのわずかな時間しかかからないし、ぼくにとっては、天にも昇る歓びなのだから。満ち足りた明るい心と、その明晰な頭脳を持ってきておくれ。すばらしいところに案内するから。」
ミレーバの方は、次のように書き残している。
「わたしはコモへ行った。あの人が腕を広げ、胸をおどらせて待つ町。そこで半日過ごし、ミラカルロッタ(館の名前)を訪れた。自分のそばに、自分のために、愛する人がいてくれて、どんなに幸せだったことか。しかも、彼も同じ幸せを感じていることがわかる。」
二人が訪れた館、ミラカルロッタの入り口広間には、今も『エロスとプシュケ』の彫像がおかれている。二人もこの像を眺めたことであろう。
数週間後、アルバートのもとに、ミレーバが妊娠したという知らせが届いた。それから数ヶ月、ミレーバはチューリッヒで大学卒業の試験を受ける準備を進める。アルバートは臨時の教員の職を得て、スイス中を飛びまわっていた。
「愛する人よ 結婚したら、一緒に科学の研究を続けよう。教養のない俗物として、年をとりたくないからね。今、きみ以外の人はすべて、目に見えない壁の向こうにいるようで、よそよそしく感じるんだ。」
上記で述べたとおり、アインシュタインは、1901年9月、チューリッヒ近郊のシャフハウゼンの私立学校に臨時的に任用された。一方のミレーバは、チューリッヒを出て、別の町に隠れるように移り住んだ。はためにも、妊娠が分かるようになっていたため、同じ町で、彼と一緒にいるところを、見られるわけにはいかなかったからである。ライン川の滝を訪れる観光客に紛れて、二人はひそかに会うしかなかった。結局、ミレーバは卒業再試験にも失敗し、科学者になる夢は消えた。彼女は、ハンガリーの両親のもとで出産するため、スイスを去った。アルバートが、きちんと就職しなければ二人は、結婚できなかった。いらだちがつのる中、ようやく朗報が届いた。
「愛しい人よ 昨日、友人のマルセル(グロスマン)から手紙が来た。彼の話によると、ベルンの町でのぼくの就職が、本決まりになったらしんだよ。喜びでめまいがしそうだ。でも、きっとぼくよりも、きみの喜びの方が、大きいだろうね。」
アインシュタインはすぐさま、スイスの首都ベルンに向かった。特許局に就職が決まったのだ。
ベルンで、彼が真剣に、物理学の研究を再開した頃、ミレーバは、両親のもとで出産した。1902年1月のことだった。子供は女の子で「リーゼル」と名付けられた。これは、ごく最近、明らかになった事実である。リーゼルが、生まれた後に起きた一連の出来事は、アインシュタインにとって、それまで経験したことのない大きな試練であり、激しい苦痛をもたらした。ミレーバにとってはさらに、つらい体験だったであろう。
アインシュタインの手紙「愛する人よ きみが望んだ通り、女の子だったかい? 健康かな? 泣いている? こんなに愛しているのに、ぼくはまだ会ってもいないんだね。ぼくたちが、まず解決しなければならない問題は、どうすれば、リーゼルを手元に置けるかということだ。ぼくはこの子を、絶対に手放したくない。」
しかし、スイスの公務員になったばかりのアインシュタインにとって、それは職を失いかねないスキャンダルだった。二人は、数ヶ月間、この問題と格闘し、ついに決心した。リーゼルを手放すことにしたのだった。アインシュタインは、一度もリーゼルに会うことはなかった。リーゼルは、まもなく病気になり、その後、すべての記録が消えている。
リーゼルが生まれた同じ年、アインシュタインは、イタリアの実家に帰った。父ヘルマン(下の写真)が、病を得て死の床にあったのだ。アインシュタインと父親の関係は、とても複雑だった。アインシュタインは、父親の事業が傾きつつある時期に、多額の学費を負担させていたことに、強い罪悪感を抱いていた。また、アインシュタインは、自分は父親のように、失敗したくはないと思い、成功できなかった父親を厭わしく感じる一方、誰よりも強く父親を愛してもいたのだ。
アインシュタインの回想「私は父の最期を見とりたかった。それで、部屋に入り、少し話をしました。そのとき父は、結婚を許してくれたのです。でもすぐに、もう行ってくれといって、壁に顔をそむけました。その日、父は死にました、たった一人で。」
アインシュタインは、どこか人間離れした人物として、理解されがちである。感情を否定し、すべてを超越したような感じだ。しかし、父親の死は、やはり大きなショックだった。それ以来、もう2度とこんな思いはしたくないと、考えたのかも知れない。
アインシュタインの回想「 あれが、私にとっての転換点でした。人間というのは、はかない存在ですが、そうしたことに、いつまでも捕らわれていてはいけないと、あのとき悟ったのです。私のようなタイプの人間の真髄は、考えることにあります。感じることではないんです。」
父ヘルマンの死から、数カ月経った1903年1月、アインシュタインは、ミレーバと結婚した。 
特殊相対性理論(1905年:奇跡の年)

 

1905年(アインシュタイン26才)この年はアインシュタインにとって「奇跡の年(miracle year)」と呼ばれている。この年、彼は「光」の粒子としての性質から得られた「光量子仮説」原子の存在を探求して得られた「ブラウン運動の理論」そして「特殊相対性理論」を完成させたのだ。
アブラハム・パイスは、次のように語っている。
「1905年のアインシュタインのように、あれほど短い間に物理学の地平を拡げた人は前にも後にも一人もいない。」
アインシュタインの回想「16才のとき、初めてそのイメージが浮かびました。『光』に乗ったら、いったいどんなふうになるのだろうか。16才の私に答えは見つかりませんでしたが、それから10年、同じ問いを続けました。単純な質問こそが最も難しいのです。まあ、私に何か才能があるとすれば、それは『ラバのような強情さ』です。」
彼は「光」の性質を理解するために、人生のすべてを費やしたと語っている。
アインシュタインは、16才のとき「光に乗る」というイメージを思い浮かべた。それは、 彼の頭の中で行われる有名な実験(思考実験)の最初のものである。複雑きわまりない概念を理解するための非常に単純なシナリオ。たとえば、もし「光」が「波」であるとすれば、それが、たとえどんなに速く移動しようとも、波の頂きや谷間に追いつくことは可能に違いない。「しかし」とアインシュタインは続ける。その時いったい何が見えるのだろう。「光」は止まって見えるのか。時間が止まってしまうのか。「光」の波の頂きに、ずっと乗り続けたとしたら、 凍りついた一瞬が、かいま見えるのだろうか。16才のアインシュタインは、答えを見いだせなかった。彼はまだ、訓練された科学者ではなかったのだった。
「チューリッヒ連邦工科大学(ETH)」で、アインシュタインが行おうとしていた実験は、未解決の「光」の問題に関するものだった。「光」に乗るというイメージは「光」の速度では、非常に奇妙な事態が生じるに違いないという直感から生まれたものだった。
同時代の人は「光」は「波」として伝わっていくと考えていた。「光」が「波」ならば、空間の中でその「波」が次から次へと伝わっていくための物質が必要である。当時、その物質は「エーテル」と呼ばれていた。「エーテル」の存在は、19世紀物理学のまさに土台であり常識であった。なぜなら、相対性理論以前の物理学においては「ニュートン」=「絶対空間」=「エーテル」であったからだ。
「エーテル」という物質は、あらゆる空間に満ちていると考えられていた。「光」の動きを日常の経験と一致させるために考え出されたのが「エーテル」だった。普通の状況であれば、動きを分析するのは簡単である。たとえば「船の速度」は、動かない湖の岸と比較すれば、簡単に測ることができる。同様に、船のデッキにいる「乗組員」の速度も測ることができる。 その「乗組員」が、舳先(へさき)に向かって歩いていれば、船の速度より、やや速く、船尾に向かっていれば、船よりやや遅い。この地球上では「速度」は相対的なものである。他の動く物体に対して、どちらの方向に動くかによって、速度を足したり引いたりすればよい。しかし「光」が「エーテル」に対して同様にふるまうかどうかは、大きな謎だった。「光」の速度も相対的であり、速くなったり遅くなったりするのだろうか。研究者たちは「エーテル」をとおる「光」の速度を測ろうと試みた。地球は、太陽の周りを秒速およそ30kmでまわり、同時に「エーテル」の中を猛烈な勢いで動き、「エーテル」の風がおきる。「光」の速度が変化するならば、「エーテル」の中を追い風で進む「光」は、反対に「エーテル」の中を向かい風で進む「光」よりも速くなるはずである。
しかし「光」の速度の変化を測定する実験は、全て失敗した。どの実験でも「光」の速度は、常に同じだったのだ。アインシュタインは、他の物理学者たちよりも、はるかに早い時期に「エーテル」という考え方を捨て去っていた。「エーテル」が存在しないとなれば、その意味するところは一つである。「光」の速度は一定であり不変である。「光」は、地球上の出来事を支配するあらゆる運動法則の唯一の例外なのだ。
1905年、アインシュタインは、「光」の速度は「一定不変」であると確信する。運動の問題が、まだ残っていた。地球上で、通常の速度の運動を分析することは、何の難しいことでもない。たとえば、双子の兄弟のジャグラー(juggler:こんぼう、ナイフ、ピンなどを空中で投げたり受け止めたりする曲芸師)がいるとする。お城にいる双子の兄のジャグラーは動いてはいないが、船の上にいる双子の弟のジャグラーは、5ノットの速度で動きながら、ジャグルをしている。船の弟のジャグラーから見れば、事態は逆である。自分は動いていないが、岸辺のお城にいる兄のジャグラーは、5ノットの速度で後方に動いている。これが「相対性理論」の基本原理だ。双子のジャグラーは、投げているピンの運動を述べるのに、同じ物理法則を使うことができる。ところが「光」は別である。止まってるジャグラーと、動いているジャグラーの両方を「光」が通り過ぎても、アインシュタインによれば「光」に対するそれぞれの速度は、まったく同じなのだ。
なぜ、そんなことになるのだろうか。「速度」とは、ある時間内で移動した距離のことだ。そこでアインシュタインは気づいた。「光」の速度が不変であるならば、他の何かが変化しているに違いない。アインシュタインは自問自答する。「光」の速度は、一定不変で、時間の流れこそが変化するのだ。「時間の進み方が変化する」それはまさに、根本をくつがえすような発想だった。アインシュタイン以外のすべての人にとって、時間とは絶対的かつ不変の流れであり、着実に刻まれる宇宙の鼓動であった。時間の一刻みが、伸び縮みしたり、ゆらいだりするという考えは、最初、アインシュタイン自身にとってさえ、受け入れ難いものだった。
アインシュタインの回想「大変な道のりでした。『光』に関する最初の疑問から、私の『相対性理論』にたどり着くまで10年かかったわけです。あらゆる精神的葛藤をくぐり抜け、その果てに、突然答えが浮かびました。よく晴れた日でした。友人のミケーレ・ベッソと、散歩に出かけました。しゃべるのは、もっぱら私で『きみの助けが必要なんだ』とベッソに言っていたんです。その時、答えが浮かんできました。私は、黙って家へ駆け戻りました。翌朝、ベッソを訪ねて、こう言いました。『ありがとう。完全に問題を解決したよ』」
どんな解決なのか。時間が不変ではないとしたら---動いている人と止まっている人には、それぞれ違う速さで時間が過ぎていることになる。アインシュタインは、これを次のようなパラドックスを用いて証明した。二つの出来事が、正確に同じ時点で起きたとき、すべての人が、それを同時だと認めるだろうか。実は認めないのだ。アインシュタインの頭の中で、実験の舞台は線路が選ばれた。線路沿いに二本の棒をたて、その間の距離を測る。次に、中間の地点を見つけて、そこに印をつける。適切な角度のついた鏡を使えば、中間地点にいる観察者は二本の棒を、一度に見ることができる。
さて、雷が二本の棒に同時に落ちれば、鏡でそれを見ることができる。観察者は、二つの出来事が、まったく同時に起きたのだと認めることであろう。
しかし、同じことを列車の中から見た場合は、どうだろう。彼も同じ鏡を持っている。 二本の棒の中間点に来たとき、同じように雷が落ちる。
動いている観察者には、同時には見えない。前方にある棒に落ちた雷を先に見るのだ。「光」は棒から鏡までの距離を移動するのに、時間がかかる。その間に、列車は前方の棒に向かって移動する。 つまり、前方の棒からの「光」は、目に届くまでの距離が短くてすむわけだ。そうすると、止まっている観察者と動いている観察者では、雷がいつ落ちたのか意見が一致しない。時間は「相対的」なものなのだ。
アインシュタインの回想「謎の不合理もあります。私の理論は、時間は私たちそれぞれに、違った速度で流れているということを示しただけです。きわめて単純な話なのだと説明しても、信じる人は、ほとんどいませんでした。」
時間は変化するという最初の直感から、現在「特殊相対性理論」として知られる完成した形まで持っていくのに5週間かかった。そのアインシュタインの理論は、速く動けば動くほど、静止した場合に比べて、時間の流れは遅くなることを明らかにした。彼は最初の論文で、自分にとって相対的に動いている時計は、自分から見ると遅くなっているはずだと述べている。さらに、赤道においた時計と極点おいた時計を比べれば、赤道の時計の方が、遅くなるとも述べている。1905年に彼はすべてを見通したのだ。
信じがたいことだが、車に乗って仕事に行くときは、机に向かっているときよりも、時間はゆっくり進む。速度が上がると長さも縮まる。時速50kmで走る車の中では、時間と長さの変化は、まったく分からないが、もし、車が「光」の速度の90%の速さで走れば、横から見ている者にとって、長さは通常の44%に縮まってしまうのだ。ここで、ようやく「光」に関するアインシュタインの最初の疑問に答えが出る。もし「光」に乗ることができたら何が起きるのだろうか---答え---何も起きない---なぜなら、それは、不可能だから。「光」の速度に達したとき、長さはゼロに縮まり、時間は停止する。
最初は、ほとんど、ばかげていると思える---そんなことあり得ない、これはみんなでたらめだ---と。しかし、よく考えると首尾一貫し、美しく調和し、矛盾のかけらもない。それが「特殊相対性理論」なのだ。
1905年6月30日、アインシュタインは、ドイツの一流学術誌に、「運動する物体の電磁気学」と題する論文を発表する。この論文には、参考文献も脚注も、いっさい付いてはいなかった。アインシュタインは、論文執筆までに、よく話を聞いてくれた友人ミケーレ・ベッソに謝辞を捧げている。しかし、妻ミレーバの名前は出てこない。かつて、アインシュタインとミレーバは、「光」と運動の問題について一緒に研究しようと約束していた。初期の手紙に、そのことははっきりと書かれている。
アインシュタインの手紙「可愛い子猫ちゃん きみは、ぼくにとっての神殿です。ほかの人は、その神殿に近づくことはできません。きみは誰よりも、ぼくを愛し、だれよりもぼくを理解してくれる。ぼくたちの『相対性運動』に関する研究が、すばらしい結論を得たならば、ぼくは喜びと誇りに満たされることでしょう。」
「特殊相対性理論」に関して、妻ミレーバは、どのような貢献をしたか。異論はあるだろうが、ミレーバは、実質的な貢献をしていないと考えられる。彼女は、アインシュタインの考えを、理解することや批評することはできた。しかし、彼女自身の新しい発想というものはなかった。残された手紙を見ても、彼女は一度も知的な問題を語っていない。結婚して二年、ミレーバの役割は変わっていた。彼女は、家事や子供の世話におわれていたのだった。
「特殊相対性理論」を発表した4ヶ月後、追加の短い論文が出された。そこには、あの最も有名な公式が登場する。「E=mc2(下の写真はアインシュタインの直筆)」あらゆる物体に含まれるあらゆるエネルギーは、質量×「光の速度」の二乗という、途方もない数字になることが明らかにされた。わずか、1gの物質にも、莫大なエネルギーが秘められている。しかし、もし、そのエネルギーが放出されないならば、そのエネルギーは、まったく観測されない。ちょうど、決して、お金を使わない大金持ちのようなものである。どれほど貯め込んでいるか、誰にも分からない。
世界は、はじめ、アインシュタインの発見の驚くべき意味には、まったく気づかないかのようだった。特許局につとめ、余暇に物理を研究する26才の若者が、宇宙全体に関する認識を、完全に変えてしまったのだ。
アインシュタインの回想「なぜ私に、それができたんでしょう。普通の大人は決して立ち止まって『時間』や『空間』について考えたりしません。子供だけが、そういうことをします。私の秘密は、子供のままでいたことです。私は、単純きわまりない質問を続けてきました。そして今も、問いかけています。」 
特殊相対性理論(初期の反応)

 

マヤ・アインシュタインによる略伝は、6月論文が「物理学年報」に受理されたすぐ後の兄の気持ちをあざやかに描写している。「その若い学者(アインシュタイン)は、有名なよく読まれる雑誌への発表はすぐに注目を集めるだろうと思った。彼は鋭い反対ときびしい批判を期待した。しかし彼はひどく失望した。彼の発表の後には冷たい沈黙が続いた。同誌の次の数号は彼の論文のことに全く触れなかった。専門家仲間は静観的態度をとった。論文の刊行後、しばらくして、アルバート・アインシュタインはベルリンから一通の手紙を受け取った。それは有名なマックス・プランク(下の写真)から送られたもので、教授にとって不明確ないくつかの点を明らかにすることをもとめていた。長い間待った後の、これが彼の論文がともかくも読まれていたという最初のしるしであった。若い科学者の喜びは、彼の活動を認める知らせが当時の最高の物理学者の一人から届いたので、特に大きかった。」
特殊相対性理論がたちまちのうちに討論・研究のトピックになったのは、プランクの初期の関心に負うところが大である。プランクは、自らの科学的自叙伝の中で、アインシュタインの理論にきわめて強く引きつけられた理由を述べた。「私にとってこの理論の魅力は、その基本定理から帰結される絶対的かつ不変な推論を自分で努力して導き出すことができるという事実であった。」絶対性の探求----永遠に、プランクの科学上の主要な目標であった----は新しい焦点を見出した。「量子論における作用量子のように、『光』の速度は相対性理論の絶対的な中心点である。」1905〜6年の冬学期の間に、プランクはベルリンの物理コロキウムでアインシュタインの理論を紹介した。この講義に彼の助手フォン・ラウエが出席していた。その結果、フォン・ラウエは相対論へのもう一人の初期の転向者となり、1907年にフィゾーの実験についての見事なノートを出版し、特殊相対性理論に関してさらによい仕事をし、そして特殊相対論の最初のモノグラフの著者になった。プランクもまた、1906年9月に開催された科学集会で、「相対性理論」の意味するところいくつか議論した。相対論に関する最初の博士論文は、彼の指導のもとに完成した。 
ベルンからチューリッヒそしてプラハへ

 

1905年、アインシュタインと妻のミレーバは、幼い息子とともに、スイスのベルンで静かに暮らしていた。「特殊相対性理論」の発表後も彼は相変わらず、ベルンの特許局で働いていた。
アインシュタインの手紙「親愛なる友へ。私は未だにスイスの公務員として、インクを消費しています。給料はまあまあです。特許局で毎日8時間働きますが、大学でも少し教えるようになりました。」
1907年12月になってまもなく、アインシュタインは学究としての人生のスタートを切った。
彼の第一歩は、当時として普通のことで、大学の私講師を出願することであった。これは教授職ではなく、そして大学あるいは何か他の公的団体によって俸給が支払われるものではなかった。私講師であることは任命された大学で教える権利をもつことを意味するにすぎなかった。唯一の給料は各コースの出席者の支払う小額の授業料であった。大学人としての経歴を考えうるのは、その人個人が富裕であるか、または裕福な人物と結婚している場合だけだと当時しばしば言われたものである。どちらも彼にはあてはまらなかった。多分これが、このような職を捜し求める意志が早くからありながら、なぜ何事も起きなかったのかの理由である。
1907年、それにもかかわらず、彼は特許局の職に就いたままで出願する決心をした。6月17日に彼はベルンの州当局に、PhD学位論文、17の発表済み論文(もちろん、1905年の成果を含む)、そして履歴書とを同封した手紙を送った。しかし、規則は規則である。というのは、理由は何であれ、アインシュタインは、「大学教職就任論文」として未発表の科学論文を、申請書に添えて送るという要請に従うのを省いてしまったのであった。1908年の初めに彼はやっと「大学教職就任論文」を作り、そして2月28日に、若いアインシュタイン博士に、彼の申請が受理され、そして教授権が許可された。アインシュタインは初めて学問的世界の一員となった。
1909年7月、アインシュタインは最初の名誉博士号をジュネーブ大学で授与された。10月には、チューリッヒ大学の準教授として働きはじめた。
「私は十中八九、今もらっているよりずっと良い俸給で正教授になるようにという、ある大きな大学からの招きに応じることになるでしょう。それがどこの大学であるか話すのをまだ許されておりません。」そうアインシュタインが母に宛てて書いたのは、チューリッヒで準教授職についてまだ半年もたたない1910年4月4日のことであった。彼が期待した招聘は、プラハにあるドイツ系大学、カール=フェルディナンド大学から来ることになると思われていた。1月に召集された調査委員会は教授会に提案することさえ、まだしてなかったので、彼は慎重でなければならなかった。委員会の委員長でかつアインシュタインの強力な支持者であった実験家アントン・ランパは、あらかじめ彼の意向を打診していた。1910年4月21日付の委員会報告は、3人の候補者を提案し、彼らは皆正式の申し出を受諾する意向であると述べた。アインシュタインは第1位に選べれていた。この報告はプランクの熱烈な推薦状を引用している。「相対論に関するアインシュタインの仕事は、おそらく、今までに純理論的科学さらには認識論において、成しとげられえたすべてのことを大胆に凌駕している。非ユークリッド幾何学は、それに比較すれば子どもの遊びである。」彼は続けて、アインシュタインをコペルニクスにたとえた。
その後、紆余曲折はあったが、1911年1月6日、「皇帝・教皇フランツ・ヨゼフ陛下」は4月1日付の任命を正式に承認した。アインシュタインは1月13日付の手紙で通知を受けた。任命の発令に先立って、彼は自分の宗教の帰属認定を登録しなければならなかった。彼は「モーゼ教」と書いた。3月に彼と家族はプラハに到着した。 
*(プラハ大学とその教授職について)
ヨーロッパで最も古い大学の一つであるプラハの大学は、ドイツ人の教授とチェコ人の教授をもっており、これらの教授は、それぞれ自分の言葉で講義していた。しかし、ドイツ人はチェコ人に対して、自らを優秀民族であると主張してチェコ人を蔑視し、ドイツ人とチェコ人は、いつも政治的な争いを起こし、それがプラハの大学を二つに分け、その一つをドイツ大学、他をチェコ大学と呼んだ。このドイツ大学の初代の総長は、エルンスト・マッハであった。
このプラハのドイツ大学の理論物理学の講義の講座に、1910年に一つの空席ができた。このとき、教授選出を任されていたのは、アントン・ランパであったが、ランパは、マッハの実証哲学を信奉するマッハの熱狂的な崇拝者であった。そこで、ランパは、このマッハの精神で物理学を教え得る教授を物色して、二人の候補者を見いだした。
その一人はアインシュタイン、他はグスタフ・ヤウマンであった。このような場合には、候補者の名前と、その科学的業績とが大学当局へ提出される慣例であったが、1905年にベルンで発表された論文と、それから1910年までに発表された論文とによって、すでに名声の高まりつつあったアインシュタインが、第一の候補とされ、ヤウマンは第二の候補者とされていた。
しかしながら、オーストリアの政府は、外国人(つまりオーストリア国籍を持たない人)を、プラハのドイツ人大学の教授に任命することを好まなかったので、ドイツ大学当局は、まずこの地位をヤウマンの方へ申し込んだ。ところが、アインシュタインが第一の候補にあげられていることを知ったヤウマンは、アインシュタインのように、新しいかも知れないが、わけのわからぬことをいう者を第一の候補にあげて、自分の仕事の真の評価を認めないような大学の教授にはなりたくないと、この申し入れをけってしまった。そこでオーストリア政府とドイツ大学当局は、悪しき前例「外国人嫌い」をあえておさえて、この地位をアインシュタインに申し込んだのであった。
アインシュタインは、彼の故郷となったチューリッヒの町を非常に愛していた。そして、その町をはなれて外国の町に行くことに不安を感じていたし、彼の妻ミレーバも、このチューリッヒの町を去ることを、のぞまなかった。しかし、彼が、このチューリッヒの大学から受けとっていた報酬と、彼がプラハのドイツ大学で受け取るべき報酬との間には、あまりに大きな差があったので、彼は、ついにこの申し出を受諾して、プラハへ行く決心をしたのであった。
このプラハのドイツ大学の教授の地位は、時の皇帝フランツ・ヨーゼフによって任命されることになっていたが、皇帝は、認定された教会(カトリック、プロテスタント、ユダヤ教会など)に、属する人たちだけが、大学の教授になる資格をもつと信じていたので、そうでないような人を大学の教授に任命することを拒んでいた。ところが、アインシュタインは、ミュンヘンのギムナジウムを去るときに、ユダヤ人の宗派に属する正規の帰依を捨ててしまっていたので、当時はいかなる宗教団体にも属していなかった。しかし、アインシュタインは、友人たちの忠告にしたがって、彼の調査書に彼の宗教はモーゼの宗教であると書き込んで、皇帝フランツ・ヨーゼフによる任命式を無事にすませたのであった。  
一般相対性理論(人生で最高の思いつき:重力)

 

アインシュタインの回想「私が生涯を通じてやろうとしたのは、ただ、問いかけることでした。神はこの宇宙を、別な風に作ることができたのだろうか。それとも、こう作るしかなかったのだろうか。そして、もしチャンスがあったなら、私はどんな風に宇宙を作っただろうか。」
「神の意図を読みとろう」というのは、アインシュタインの壮大な野心だった。彼は、何度もその試みに成功し、空間と時間と「光」に関するそれまでの考え方を大きく変えたのだ。
アインシュタインは、まだ20代だったが、マックス・プランクなど、当時最も権威のあった物理学者たちと交流していた。物理学全域をおおうアインシュタインの理論にもそのころはまだ空白があった。重力である。
アインシュタインの回想「マックス・プランクは私に『重力』の理論については研究するなと警告しました。この問題は難しすぎて、たとえ解明しても、だれ一人信じないだろうと彼は言うのです。それでも、私は研究しました。人生の中であれほど懸命に考えた時期はありません。最初の相対性理論など『重力』の問題に比べれば子どもの遊びです。」
「重力」は一見非常に単純である。1kgの豚肉、1kgのサクランボ、何であろうと1kgのものは、秤を同じだけ動かす。なぜなら、地球の「重力」がそれらを全く同じように引っ張るからである。しかし、その地球の働きの根本には何があるのかは、誰にも分からなかった。ニュートンは「重力」が太陽系の動きも支配していることを示した。しかし、どのようにして? それが分からなかった。また、天体が軌道に沿って動くのは、どうしてなのか? 宇宙を全体として秩序立てているのは、いったい何なのか? 「重力」は、あらゆるものを平等に扱う。なんで、できていようと、どれほど大きかろうと例外はない。そこが出発点だった。
アインシュタインの回想「それは突然のことでした。ある考えがひらめいたのです。人生で最高の思いつき(glücklichste Gedanke meines Lebens)といってもいいかも知れません。もし、人が屋根から落ちたら、その人は自分の重さを感じないだろうと考えたわけです。」
アインシュタインは、このアイデアを、別の例で説明した。誰かが、エレベーターに乗っている時、ケーブルが切れたらどうなるだろうか? その人は浮き上がり無重力になる。彼とエレベーターは、どちらも地球の「重力場」において同じ速度で、自由落下するからである。では、その人が宇宙ロケットの中にいたらどうなるか? それでもやはり、浮いている。床に足をつけさせる「重力場」がないからである。それでは、ロケットが動き始めたらどうなるか? 加速するにつれ、ロケットの床は上昇し、乗っている人にぶつかる。その人にとっては、「重力」によって、足が床に着いているように感じられるだろう。「加速」と「重力」が同じように感じられるなら、もしかすると、二つは同じものではないだろうか? アインシュタインは、そう考えたのである。「加速」と「重力」が同等であることは、革命的な新理論の基礎となるかも知れない。アインシュタインは、そう直感した。(等価原理)
彼はこう問いかけた。もし「加速によって生まれる力」と「重力」が同じなら、加速の最中に何が起こるであろうか。ロケットが加速すると、窓から入ってきた「光」は、向こう側の壁に当たる時、入ってきた位置より低くなっている。乗っている人には「光」が曲がったように見える。加速によって「光」が曲がるならば「重力」も「光」を曲げるはずだ。これは非常に重要な手がかりであった。
(等価原理と光速度不変の法則)
「等価原理 / アインシュタインが一般相対性理論の基本においた原理の一。基準系の加速度的運動によって生ずる力は重力と同等の効果をもつという。ニュートン力学にはなかった主張。」
エレベータの思考実験は、後年アインシュタインが「人生最高の思いつき」といったものである。つまり、この思考実験からアインシュタインは「等価原理」を発見したのだった。エレベータが地球の重力によって自由落下(加速度運動)すると、エレベーターの内部にいる観察者は「無重量状態」を経験する --- つまり、その人はふわりふわりと浮く。また、宇宙でエレベータが静止または等速度運動していると、中にいる観察者は同じく「無重量状態」を経験する --- その人も同じく、ふわりふわりと浮く。これは、たとえばスペースシャトルの中で乗員が宙返りしている状態である。一方、エレベータが宇宙で加速度運動をすると、内部の観測者は「重力と区別できない力」を感じる --- たとえば、スペースシャトルが加速するときである。また地球でエレベータが静止または等速度運動している場合、内部の観測者は「重力」を感じる。この観察者をAさんとしよう。もしもエレベータが密閉されていて外の状態が見えない場合、Aさんは「エレベータが地球の重力によって自由落下(加速度運動)している状態」と「エレベータが宇宙で静止または等速度運動している状態」を区別できない。Aさんにとって、それらは、ともに「無重量状態」つまり、ふわりふわり浮いている状態であるからである。またAさんは同じく「地球でエレベータが静止または等速度運動している状態」と「宇宙でエレベータが加速度運動している状態」を区別できない。いずれの場合もAさんは「重力」および「重力と区別できない力」を感じるからである。つまり、地球において静止または等速度運動しているエレベータにおける「重力」と、宇宙において「加速」しているエレベータにおける「力」は区別できない。これが「等価原理」である。
話はさらに続く。地球で、自由落下(加速度運動)しているエレベータを、地球で、外から見ている観測者は、エレベータの中の光が曲がって進んで見える。つまり、自由落下(加速度運動)しているエレベータの中の観測者Cさんには、左の壁から発した光は右の壁に向かって直進して見えるのに、エレベータの外の観測者Dさんには、光は曲がって見える。CさんとDさんの違いは、自由落下(加速度運動)しているか、してないかの違いだけである。それなのに、光の軌跡は違って見える。こうなると「等価原理」と「光速度不変の法則」は矛盾することになる。というのは、光は、同じ時間に、CさんとDさんとでは、違う距離を進むからである。そこから出てきた結論は、重力によって、時空が歪むということであった。たとえば重力によって、時間はゆっくり進む。これで、一般相対性理論の基礎は築かれた。残るは、いかにして、それを数学的に記述するかであった。 
一般相対性理論(時空)

 

1912年、アインシュタインは、自分と妻ミレーバの母校である「チューリッヒ連邦工科大学」の教授となった。重力の研究を続けるアインシュタインは、ここで以前、教わった教師から助力を得た。
アインシュタインの回想「数学の教師であるミンコフスキー(下の写真)は、学生時代の私を『怠け者の犬』と呼んでました。当たらずとも遠からずです。しかし、相対性理論は彼に感銘を与えたようでした。彼はそれを数学的表現に置き換えてくれたんです。」
数学者ミンコフスキーは、深い洞察力を持ち、アインシュタインに重要な鍵を与えた。それは、空間と時間を融合させた4次元の図式であった。たとえば、広大な舞台を思い浮かべて欲しい。そこでは4つの数字で、あらゆる出来事を記録できる。まず、3つの数字があれば、物体の位置を表せる。鼻の頭であろうと遙かな銀河であろうと、3つの数字「長さ」と「幅」と「高さ」これであらゆる物体の位置を記録できる。さらに「時間」を加えれば、この4番目の次元によって、宇宙のあらゆる出来事を記録できるのだ。星の爆発であろうと土曜の夜のデートであろうと。「デートの待ち合わせ」というのは、時間と空間に関するごく身近な経験の一つだ。まず、特定の場所が決められる。二つの道が交差するところ。そして、正確な時刻が決められる・・・たとえば10時10分。ミンコフスキーが認めたように、あらゆる出来事は「時空」のなかで単一の数学的図式を形作る。時間と空間が合わさった「時空」という概念を得て、アインシュタインはさらに先に向かう。
4次元の「時空」というミンコフスキーの成果を取り入れて、アインシュタインは、次の新しい発想を得る。それは「時空というのは、まっすぐではないのではないか」という発想である。時空は様々に曲がっているはずだと彼は考えた。時間と空間が、そったり曲がったりしたらどうなるだろうか? 何が起こるだろうか? アインシュタインが得た答え:重力が発生する。
アインシュタインの素晴らしい発想の要は、時間と空間を曲げているのは、「物質」と「エネルギー」であるという事実である。たとえば、石を池に投げ込んだとする。波が立つ。池に波を立てたのは石である。同様に、石は時間と空間の中に、重力という波を立てるのである。
物質がなければ、時空は平らである。しかし、星がそれを変化させる。星がもつ巨大な質量は、時空に大きなくぼみを作る。近くを通るあらゆる物は、そのくぼみの中に、転がり落ちたり、周囲を回ったりする。それが重力である。物質とエネルギーによって生み出された時空のゆがみを、通り抜けるための、これは直線的な道である。こうして、アインシュタインは重力と天体の軌道の関係に気づいた。たとえば、地球は、単に太陽が作ったゆがみにそって、動いているだけだったのだ。アインシュタインは、1913年に重力に関する新しい理論の基礎を発表した。
その後、1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。
アインシュタインの回想「ヨーロッパは正気を失い信じがたいことを始めてしまいました。この、いわゆる偉大な時代に生きて、私は、自分が、かくも愚かで腐った種に属していることを、どうしても信じられません。この種は自分たちの自由な意志や命令による英雄的行為、無意味な暴力、そして愛国心の名のもとに行われるすべての不愉快で非常識な行為を自慢するのです。」
アインシュタインは、ベルリン郊外に引きこもって孤独に暮らし、重力の理論に没頭した。彼は最後のハードルに直面していた。曲がった時空の数学的問題が解けなかったのである。
ただのひらめきで「一般相対性理論」が誕生したのではない。アインシュタインは、数学的困難を乗り越えねばならず、時には絶望して、あきらめかけたほどだった。当時のアインシュタインのノート(下の写真はアインシュタインの直筆のノート)を研究すると、1912年以降の彼の苦闘が、ページから伝わってくると言われる。
もはや、どう進んだらいいのか分からないというところまで、追いつめられて、彼は数学者の友人に助けを求めた。その友人とは、大学時代のクラスメートだったマルセル・グロスマン(下の写真)だった。彼の手助けで、重力の新しい理論は完成した。アインシュタインは、グロスマンから複雑な「曲面幾何学」について教えを受けた。残されたノートを見ていくと、彼は、この数学的な新しい言語を、手探りで使いはじめたことがよく分かる。そうした苦闘が、やがて実を結び「一般相対性理論」となった。微妙な部分まで、すべてマスターするまでには、3年かかった。1915年の秋までに、準備は整った。
当時、惑星の軌道は正確に理解されていたが、一つ例外があった。水星の軌道が、毎年わずかにずれる原因が分からなかったのである。アインシュタインを代弁すると、彼はこう言ったと思われる。「世界が、なんと言おうと構わない。神が、私に水星の軌道を計算してみろと告げたのだ。」彼は、その通り実行し、そして、結果が出た。
アインシュタインの回想「自分の計算が、水星の動きを正確に予測していると気づいたとき、何かが私の中で弾けました。その感覚は、あまりに強烈でした。私は、何日も仕事が手に着かず、我を忘れていました。あれほどの喜びを感じたことは、他にありません。」
「時空は曲がっている」という、アインシュタインの大胆な発想は、ここでも証明されることになる。水星は、太陽に最も近い惑星で、太陽の巨大な質量が作り出した時空のくぼみを回るに連れて、その軌道がずれていく(水星の近日点移動)。
アインシュタインの理論は、宇宙の誕生についての科学的説明にまでおよぶ。「ビッグバン」である。膨張する宇宙。銀河の構造。現代宇宙論の大きな発展は、
   
という一つの公式から導かれている。左辺は「時間と空間」右辺は「物質のエネルギー」。これが、重力に関して、アインシュタインが、たどり着いた理論:「一般相対性理論」である。
アインシュタインの数学に対する考え方

 

アインシュタインとゲオルグ・ピック
アインシュタインは、一度は数学を専攻しようと考えたことさえあった。したがって、彼はまず、チューリッヒの工芸学校の数学と物理の教師を養成するためのコースをえらんだのであった。
しかし、そのとき、幸か不幸か、数学の物理の教授の中に、ロシア生まれのヘルマン・ミンコフスキーがいた。このときミンコフスキーは、当時若くして独創的な数学者の一人とみなされていたが、彼の講義は、決して上手な講義とは言えなかった。そして、アインシュタインが、「純粋数学」に対する興味を失ってしまったのは、ちょうどこの頃であった。彼には、彼に興味のある物理学の法則を定式化するには、そんなに複雑な数学は必要とせず、簡単な数学の原理だけで十分であると思っていたので、「純粋数学」からはなれて、理論物理学の方向へ向かったのであった。
アインシュタインは、しばらく、この考えを、持ち続けていた。
現にアインシュタインが、その特殊相対性理論を発表した1905年から三年後、1908年に、アインシュタインのもとの数学の先生ミンコフスキーが、四次元の幾何学を用いて、その見事な数学的定式化を与えたときにも、アインシュタイン自身は、それを、相対性理論の真に物理学的な意味をつかむことをむしろ困難にする無用で複雑な形式主義の導入と見なしたくらいであった。また、マックス・フォン・ラウエが、アインシュタインの相対性理論を数学的に、まとめた見事な書物を発表したときにも、アインシュタインは、
「ラウエのこの本は、私自身(理解するのに)非常に努力しなければならない」と冗談を言っている。
アインシュタインの相対性理論が評判になりつつあった当時のドイツにおける数学研究の中心は、ゲッティンゲン大学であった。ミンコフスキーはチューリッヒの工芸学校から、このゲッティンゲン大学へ移っていたし、彼がアインシュタインの相対性理論の数学的定式化を始めたのは、このゲッティンゲン大学においてであった。
アインシュタインは、このゲッティンゲンの数学者たちが、数学を大いに活用した物理学の論文を発表するのを見て、
「ゲッティンゲンの人たちは、ときどき私を驚かせる。この人たちは、数学を用いて物理学を系統化しようとするのではなく、この人たちが、どんなに頭がよいかを、われわれ物理学者に示そうと努力しているように私にはみえる」と冗談を言っている。
このゲッティンゲン大学には、今世紀初頭の大数学者ダーフィット・ヒルベルトがいた。ヒルベルトは、アインシュタインが上に述べたように考えていたにもかかわらず、アインシュタインのことを、数学が必要な場所では数学を、いかに用いるべきかを十分によく知った人であると考えていた。
ヒルベルトは、かつてつぎのようにいっている。
「われわれの町ゲッティンゲンでは、街を行く学生でさえも、四次元の空間というものをアインシュタインよりも、よく理解しているかも知れない。それにもかかわらず、アインシュタインは、物理学における素晴らしい仕事をどんどんしているのである」
このようにアインシュタインは、一時は、物理学の基礎的な理論を展開するのに、そう複雑な数学は必要ないと考えていたのであるが、彼がプラハで、その相対性理論を重力のある場合に拡張しようと努力し、それに対して数学者のゲオルク・ピックが、アインシュタインの考えを発展させるための数学的武器は、イタリアのリッチとレビ・チビタの創始したテンソル解析学に他ならぬことを指摘し、そのピックの助力によってアインシュタインが、そのテンソル解析学をマスターし、当時は、数学者にとっても新しい学問であったこのテンソル解析学を縦横に駆使して一般相対性理論を発展させて以来、アインシュタインは、その考えをかえている。
したがって、アインシュタインは、それ以降いつも数学に堪能な若い人を助手にしている。
たとえば、コルネリウス・ランチョス(Cornelius Lanczos)、ヴァルター・マイヤー、レオポルト・インフェルト、ペーター・ベルクマン、バレンティン・バーグマンなど、いずれも数学的才能にめぐまれた人たちを助手としたが、これらの人たちは、いずれも今では立派な地位を得ている。  
(アインシュタインとゲオルグ・ピック)
アインシュタインがプラハで得た同僚のなかに、数学者ゲオルグ・ピック(Georg Pick 1859-1942)がいた。筆者(注 / 矢野健太郎)の考えでは、このゲオルグ・ピックくらいアインシュタインの仕事に対して大きな影響を与えた人物はないと思うのであるが、そのことを強調したことはどこにも書かれていないので、このピックにことを、少し詳しく記すことを許していただこう。
平面上の曲線の性質を論じようと思うときには、この平面上に一つの直交軸を設定し、曲線上の点をこの直交軸に関する座標で表していくのがふつうである。
ところで、1896年に、ナポリ大学のツェザロは、曲線上の一点Mにおける接線を第一の軸とし、Mにおける法線を第二の軸とするような座標を曲線に結びつけ、曲線にそって動いていくこのような座標軸に関して曲線上の点を表わし、これを用いて曲線の性質を研究するということをはじめた。ツェザロの著書は、1901年にコワレフスキーによってドイツ語に翻訳され「自然幾何学講座」と題して発刊された。それ以来この方法による幾何学は自然幾何学とよばれている。
このピックは、若いときに、プラハ大学の実験物理学者の教授であったエルンスト・マッハの助手をしたことがあり、したがってアインシュタインより二十も年上であったが、アインシュタインはピックの素晴らしい数学的才能にほれこみ、彼がその理論物理学の研究において直面した数学的問題に関しては、いつもこのピックに相談をしたのであった。
当時アインシュタインは、彼がベルンで1905年に発表した相対性理論を、いわゆる重力場がある場合に拡張しようということを熱心に試みていた。したがってアインシュタインは、毎日このピックに会い、彼が彼の相対性理論の拡張において出会っている数学的困難をすべてピックに打ち明け、それについてピックの考えをきいていた。
アインシュタインの直面している問題の意味を的確につかんだピックは、当時すでに、アインシュタインがその理論を展開するために必要な武器は、カール・フリードリヒ・ガウス(1777-1855)、ゲオルグ・フリードリッヒ・ベルンハルト・リーマン(1826-1866)にはじまり、クルバストロ・グレゴリオ・リッチ(1853-1925)とトゥリオ・レビ・チビタ(1873-1941)によって完成された絶対微分幾何学であることを見破っていた。
平面幾何学は、もちろん、平面それ自身の性質と、その平面の上に横たわっている図形の性質を研究する幾何学である。
平面上の相異なる二点を結ぶ線のうちで、それらを結ぶ線分が一番短い長さをもっているといえば、これはこの平面自身の性質と、平面上の直線の性質をいい表している。
また、平面上にかかれた任意の三角形においては、その内角の和は二直角に等しいといえば、これは平面そのものの性質と、その平面の上にある三角形という図形の性質を言い表している。
この平面幾何学を研究するには、平面上に図を描いて直接その図について研究する方法と、平面上に直交軸を設定して、いわゆる解析幾何学の手法を用いる二通りの方法が考えられる。
この解析幾何学的な手法を用いる場合には、平面上の点が二つの数の組で表し得るという事実を用いるが、それゆえに平面は二次元のものであるといわれる。
さて、ルネ・デカルト(1596-1650)とピエール・ドゥ・フェルマー(1601-1665)による解析幾何学の発見につづいて、ニュートンとゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)によって微分積分学が発見されるにおよんで、曲線や曲面の研究に微分積分学の手法を用いるということがはじめられた。
幾何学の研究に微分積分学の手法を用いる場合、それは微分幾何学とよばれるが、この微分幾何学は、カール・フリードリヒ・ガウスによってはじめて組織的に展開された。
ガウスは主として曲面の性質を微分学を用いて研究したが、その曲面の性質に二種類あることがわかる。
たとえば球面を例にとってみれば、中心とその球面上の一点を結ぶ直線は、その点における接平面に垂直であるといえば、これは、われわれの空間のなかに入っている球としての性質をのべている。
これに対して、球面上の二点を結ぶ球面上の曲線のうちで、最も短い長さをもっているのは、これらの二点を結ぶ大円(これらの二点と中心とで定まる平面で球面を切った場合その切り口に現れる円)であるといえば、これは、この球を含んでいる外の空間とは関係のない、球面そのものの性質を表している。
ガウスは、この曲面そのものの性質を研究する幾何学を、曲面上の幾何学と名づけた。
球面上の点の位置を表そうと思えば、地球上の緯度と経度のように、二つの数を必要とするから、球面は二次元のものである。同様に、曲面も二次元のものである。
この言い方によれば、平面は二次元の平らな空間であり、曲面は二次元の曲がった空間であるということができる。
したがってガウスの曲面上の幾何学は、二次元の曲がった空間における幾何学であるということができるが、これは、リーマンによって、一般のn次元の曲がった空間の幾何学へ拡張された。リーマンのはじめたこのn次元の曲がった空間の幾何学は、現在リーマン幾何学とよばれている。
このリーマン幾何学は、それを研究するのに特有の方法を必要とすることがわかってきたが、その方法は、イタリアのクルバストロ・グレゴリオ・リッチとトゥリオ・レビ・チビタによって見いだされたが、この方法は彼らによって絶対微分学と名づけられた。
しかしこの絶対微分学は、現在では、リッチ計算法とも、テンソル解析学ともよばれている。
アインシュタインから、その相対性理論拡張の着想をきき、それを発展させるための数学的な手段について相談を受けたピックは、それはこのリッチとレビ・チビタによって作られている絶対微分学そのものであることを見破って、アインシュタインにそれを研究することをすすめたのであった。
アインシュタインとピックを結ぶものがもう一つあった。アインシュタインが子どものときからバイオリンを習いはじめ、最初はいやいやであったが、次第にバイオリンのもつ魅力にひかれるようになったのはすでにのべた。
ところが、このピックもまたバイオリンをよくしたので、アインシュタインはピックとバイオリンの合奏をたのしみ、また、プラハの音楽愛好家のグループにも加わり、定期的に弦楽四重奏をも楽しむようになった。
またアインシュタインは、プラハで親しくなったサンスクリット語の教授モリッツ・ウィンテルニッツ教授の義妹の伴奏でよくバイオリンを弾いた。 
ミレーバの悩み、ベルリンへ

 

アインシュタインの回想「私は予測不能の人間関係から身を引き、孤立を守るすべを学びました。人生は、油断すれば、しがらみばかりが増えていきます。とくに、結婚などは……」
アインシュタインは、ひたすら一般相対性理論の研究に打ち込み、他のすべてのことを犠牲にした。妻ミレーバにも、ほとんど関心を向けなくなった。かつて愛し合っていた二人は、科学の研究を進めるパートナーになろうと約束していた。しかし、約束は果たされなかった。
アインシュタインの回想「私は、人付き合いが苦手ですし、家庭を大切にする男でもありません。欲しいのは私自身の平和です。個人というのは無意味だと思うと安心できません。」
1911年、アインシュタインは、プラハの大学の教授になった。大きな出世だった。しかし、一方、アパートにこもって、二人目の息子の世話におわれる妻ミレーバにとっては、プラハは流刑地のように感じられた。彼女は、自分だけ取り残されて、永遠に隅に追いやられてしまうと感じた。アインシュタインが、科学の研究をし、ミレーバが家事をすると役割分担が決まったとき、二人が何年もの間、保とうとしてきた見せかけの関係が完全にこわれたのであった。ミレーバは、自分の野望を果たすことが出来なかった。その野望とは、権力を手に入れるなどというようなことではなく、男性社会の中で新しいタイプの女性になることであった。それが、完全についえ去った。最近発見されたミレーバの手紙には、次のように書かれている。
「彼が成功を手にしたことを、私は大変、うれしく思います。私の望みは、この成功が彼の人間的側面に有害な影響を与えないで欲しいということだけです。」
ミレーバは、次のようにも書き残している。
「彼には、自分の妻のために割く時間は残っていないというわけです。私という人間は感じやすいので、それで苦しんでいるのではないかとも考えます。私は愛情に飢えており、すべてはあの忌まわしい科学がいけないのだと信じ込む寸前にまで来ています。」
1911年、第一線の科学者が集まる第1回ソルベイ会議が、ブリュッセルで開かれた。アインシュタインは出席者の中で最年少だった。しかし、妻ミレーバにとって、夫の栄光は遠い世界の出来事だった。
アインシュタインに宛てたミレーバの手紙。「きっと素晴らしい会議だったはずです。私も参加できたら、どんなに良かったでしょう。あなたとは、しばらく会っていませんが、まだ、私の顔をおぼえていますか。」
アインシュタインは、もう知的なパートナーを求めてはいなかった。妻ミレーバの孤独は、深まる一方だった。
アインシュタインは、ドイツを訪問する旅の途中、いとこのエルザに会う。エルザは、アインシュタインと同じような町、同じような環境で育った人だった。そして、アインシュタインは、エルザとなら、負担も、いさかいもない家庭生活を送れるのではないかと考えた。人生の単純な営みにまつわる、ある種の喜び、たとえば、食べたり飲んだりすることの楽しさ、アインシュタインは、そうしたものを、エルザと分かち合いたいと望んだ。
アインシュタインの手紙「親愛なるエルザ。手紙をどうもありがとう。素人にも分かる相対性理論の本というのはありません。でも、君には僕という、いとこがいます。もし、チューリッヒに来ることがあったら、妻ぬきで・・・なにしろ、彼女はとても嫉妬深いものですから・・・二人だけで散歩を楽しみましょう。」
「親愛なるエルザ。僕たちは、ともに哀れな人間です。容赦ない義務に縛られています。しかし、もう一度言います。君を愛しています。君の横を歩けるだけで、幸せになれます。僕が苦しんでいるのは、見ることしか許されない人を、愛したからです。」
当面は、それ以上、進展しなかった。
1913年、アインシュタインは、重力に関する新しい理論の基礎を発表した。それに感銘を受けたのが、ドイツの代表的な物理学者マックス・プランクだった。彼は、アインシュタインを、ベルリン大学の教授に迎えようと、みずからチューリッヒに出向いた。
アインシュタインの回想「プランクにとって私は、ご褒美の雌鳥みたいなものでした。しかし、もう一つタマゴを生めるかどうか・・・少し考えたいので、翌日、駅で会うことにしました。お断りするなら、襟に白い花をさしていくと、彼に言いました。しかし、赤い花だったら、それは、ベルリン行きを承知するという意味です。」
そして、アインシュタインは、赤い花を選んだ。
アインシュタインの経歴は、頂点に達しようとしていた。当時、ベルリン大学は、理論物理学の世界的中心だったのだ。しかし、妻ミレーバにとっては、夫の出世も無意味だった。重力の研究にのめり込むアインシュタインの家庭生活は破綻寸前だった。アインシュタインは、この頃、いとこのエルザと、また、連絡を取り始める。
アインシュタインの手紙「1913年12月。親愛なるエルザ。離婚するには、相手方の落ち度を証明するものがなければ、容易ではありません。そこで、私は妻を、クビにできない雇い人のように扱っています。寝室は別で、彼女と二人きりになるのを避けています。君と慎ましい家庭をもてたら、どんなに素晴らしいでしょう。」
1914年4月、一家はベルリンに移ったが、7月にはミレーバは、子どもを連れて、チューリッヒに戻ってしまった。
アインシュタインの回想「息子たちとの別れは、やはり辛いことでした。長男ハンス・アルバートの養育権を主張しようかとも考えましたが、どうせ、無駄だったでしょう。ミレーバは、息子たちが、私を嫌いになるように仕向けていたのです。彼女は、一緒に暮らせるような女性ではなかった・・・とっても、嫉妬深かったし・・・なぜ、結婚したんでしょうか。」 
病気、再婚、母の死

 

1915年12月、アインシュタインは友人ベッソーに宛てて、自分は「満足しているが、かなり疲れはてた」と書いた。けれども、彼は休養をとらなかった。1916年に彼は、10編の科学論文を書いたが、その中には「一般相対性理論の初の重要な概論」「自然および誘導放出の理論」「重力に関する最初の論文」「エネルギー-運動量の保存則についての論文」「シュヴァルツシルトの解についての論文」「アインシュタイン-ドゥ・ハース効果の測定のための新しい提案」が含まれている。彼はまた、相対性理論に関する初めての「半通俗的な著作」を完成した。過度の激しい活動が、適切な注意を欠いたこととあいまって、1917年のある時に始まって、数年続いた病気の主たる原因であったに違いない。
この時期がいつ始まったかは正確にはわからない。しかし、1917年2月に、アインシュタインはエーレンフェスト宛に、肝臓疾患のために厳しい食事療法を守り、きわめて安静な生活を送ることを強いられているので、オランダを訪ねることは出来ないだろうと書いた。しかし、その安静な生活は、同じ月に彼が一般相対論的宇宙論の基礎的論文を、執筆することを妨げなかった。ローレンツは、アインシュタインが、来られないことに失望を表明した。けれども、彼は書いた:「ここ数年の精力的な仕事の後だから、あなたが休養をとるのは当然のことです。」アインシュタインの返事は、彼の病気が些細なことではなかったということを示している。戦時下にあって、彼は、ベルリンにいる自分の身内が、南ドイツの親類と保っているつながりのおかげで、自分はしかるべき食事を手に入れることができると述べ、「この援助がなかったら、私がここにとどまることは、ほとんど不可能だったでしょう。また、事態が今の状態のまま続くかどうか、私にはわかりません。」と付け加えた。彼は、スイスで、病の回復をはかることを熱心にすすめた医師の忠告に従わなかった。
この時期に、エルザ・アインシュタイン・レーヴェンタールが万事をとりしきった。1876年にホーエンツォレルンのヘッヒンゲンで生まれたエルザは、アルバートの従姉であり、かつ「またいとこ」でもあった。彼女の父ルドルフは、アルバートの父ヘルマンの従兄弟であった。彼女の母ファニーは、アルバートの母パウリーネと姉妹であった。エルザがよくミュンヘンの親戚を訪れ、アインシュタインがヘッヒンゲンにやって来ていた幼年時代以来、エルザとアルバートはお互いを知っていた。彼らはお互いを好きになっていた。20代の初めに、エルザはレーヴェンタールという名の商人と結婚し、彼のもとで二人の娘、イルゼとマルゴットをもうけた。この短い結婚は離婚で終わった。アインシュタインがベルリンに到着したとき、エルザと彼女の娘たちは、ハーバーランド通りの5番の上階のアパートに住んでいた。彼女の両親は、同じ建物の下の階で暮らしていた。エルザがベルリンにいたことは、アインシュタインをこの町に引き寄せた要因の一つであった。
1917年夏、アインシュタインは、エルザの隣のアパートに引っ越した。「エルザの親切な世話のお陰で、私は昨年の夏から4ポンド体重が増えました。エルザは、私のために必要なすべての料理を作ってくれる。」けれども、この年の終わり近く、彼の健康はいっそう悪くなった。彼は胃潰瘍を患っていることが、はっきりした。次の数ヶ月間、彼は床についていなければならなかった。1918年4月、彼は外出することを許された。しかし、まだ、用心しなければならなかった。「最近、私は、ひどい発作を起こしました。それは、私がバイオリンを1時間弾いたという、たったそれだけのことで、起きたのです。」5月に、彼は再び、今度は、黄疸で床についた。12月には彼は、エーレンフェスト宛てに、完全な健康を取り戻すことは、もうないかも知れないと書いた。
その時までに、アルバートとエルザは結婚しようと決意していた。それゆえ、アインシュタインは、ミレーバと離婚する手続きを始めなければならなかった。離婚判決は、1919年2月14日に下された。それは(ことが順調にいけば)ミレーバが、アインシュタインの「ノーベル賞」の賞金を受け取るということを、取り決めていた。ミレーバは、その後ずっと、死ぬまで、チューリッヒにとどまった。初め彼女は、彼女の姓、マリッチを名乗った。しかし、1924年、彼女はアインシュタインという名に戻ることを許された。時折、子どもたちを訪ねる際に、アインシュタインは、彼女の家に滞在した。彼女は1948年に死んだ。その数年後に、アインシュタインは、彼女について書いた。「彼女は別居と離婚に決して甘んじなかった。そして、その気質は『メディア』を連想させるものになってきた。このことが、二人の男の子たちとの関係を暗いものにしたが、私は彼らを、やさしく愛していた。私の人生における、この悲劇的様相は、私が高齢になるまで続き、消え去ることはなかった。」
アルバートとエルザは、1919年6月2日に結婚した。彼は40才、彼女は43才であった。彼らはエルザのアパートに居を構えたが、アインシュタインの研究と休息の場所に使う上の階の2部屋が、それに加えられた。時折、急に胃痛が起きることがまだあったが、しかし、1920年に彼はベッソーに、とてもよい健康状態に戻り大変元気だと書いた。物静かで、暖かみがあり、母のようで、かつ典型的な中産階級であるエルザは、彼女のアルバートの世話をするのを好んだ。彼女は彼の名声を誇らしげに喜んだ。
アルバートとエルザが結婚して、半年後に、彼の母がベルリンにやって来て、息子の家で死んだ。
アルバートの母、パウリーネの一生は安楽なものではなかった。1902年に夫が限られた資産と無収入のまま彼女を残して死んだ後、彼女は妻子ヘッヒンゲンにいる姉妹のファニーのもとに行き、滞在した。その後、彼女は長い期間ハイルブロンで妻をなくしたオッペンハイマーという名前の銀行家の家に住み込み、一家の切り盛りと彼女を慕う数人の幼い子どもたちの教育とを取り仕切った。後に彼女は、一時期、彼女のやもめの兄弟ヤコブ・コッホの家の世話をし、それから、ルツェルンに移り、娘マヤとその夫パウル・ヴィンテラーの家に一緒に住んだ。
娘のもとに滞在している間に、パウリーネは腹部のガンで重病になり、ローゼナウ・サナトリウムに入院しなければならなかった。その後、まもなくして、彼女は息子と一緒にいたいということを特に希望した。1920年の初め頃、マヤ、医師、そして看護婦に付き添われてパウリーネが、ベルリンに到着した。彼女はアインシュタインの書斎に寝かされた。彼女は2月に死去した。
アインシュタインの手紙。「母が亡くなった・・・私たちは皆すっかり疲れ切っている。血のつながりの重みを皆、骨の髄まで感じている。」
突然有名になったアインシュタイン(1919年5月29日 / 日食の観測)

 

1919年の初秋、母パウリーネ・アインシュタインが、サナトリウムにいたとき、彼女は息子から、はがきを受け取ったが、それは次のような書き出しであった。「愛する母上、今日はうれしいニュースです。ローレンツが、英国の観測隊が太陽による光の偏向を実際に立証したと電報で知らせてきました。」数日前に、アインシュタインに、そのニュースを知らせた電報は、「エディントンが太陽の縁で星の変異を発見した。予備的な値は、0.9秒と、その2倍との間である。敬具。ローレンツ。」となっていた。それは、非公式の通信であった。何事も確定していなかった。それでも、アインシュタインは、興奮していた。
光の湾曲に対するアインシュタインの理解の進歩を、手短かに要約しよう。1907年、ベルンの特許局の事務官が「等価原理」を発見し、その原理は、それだけで光が何程か曲がることを意味すると知る。しかし、その効果は、あまりに小さくて、とても観測できないと思う。1911年、プラハの教授時代、彼は、その効果は皆既日食の際に、太陽をかすめて通る星の光について検出可能なこと、そしてこの場合、湾曲の大きさは、0.87秒であることを見出す。しかし、「空間」が曲がっていること、そして、それゆえに、彼の答えが間違っていることを彼はまだ知らない。彼はまだ、ニュートンに近い。空間が平坦であると信じていたニュートンは、自らの重力の法則と光の粒子説から、0.87秒 --- 現在ニュートンの値と呼ばれている --- を自分で計算できたはずである。1912年、チューリッヒ時代、「空間」は曲がっていることを発見する。数年経って、彼は空間の曲率が光の湾曲の値を変えることを理解する。1915年、彼は、一般相対性理論によれば、太陽による光の湾曲は、1.74秒 --- アインシュタインの値で、ニュートンの値の2倍 --- に等しくなることを発見する。この2倍という因子は、ニュートンとアインシュタインの対決のお膳立てをする。
アインシュタインが正しい答えを得る以前の1914年に、彼はベッソー宛に彼らしい自信をもって書いていた。「日食の観測が成功しようとしまいと、私は私の理論体系をもはや、まったく疑わない。」
歴史のいくつかの気まぐれのおかげで、彼は誤った結果の上に理論を積み上げるという当惑から救われた。つまり、1912年、ブラジルに出かけたアルゼンチンの日食観測隊は、光の偏向を実験計画に加えていたにもかかわらず、雨のため観測を中止した。また、1914年の夏に、エルヴィン・フロイントリッヒが率いたドイツの観測隊が、8月21日の日食を観測するためにクリミア半島にむかったが、第一次大戦が勃発したために、早く戻るように隊は警告を受け、何人かはそうした。躊躇した者は逮捕されたが、最後には安全に、しかし、もちろんのことだが、何の結果も持たずに帰国した。1916年のベネズエラにおける日食を観測する機会は戦争のために見逃さなければならなかった。過去の日食の際に撮った写真で偏向を探すという初期の試みからは、何も得られなかった。1918年6月の日食の期間に、この効果を計ろうとするアメリカの努力も、決定的な結果をもたらさなかった。
1919年5月29日の日食を観測するために、エディントン率いる観測隊は、南大西洋、スペイン領赤道ギニアの海岸沖、プリンシペ島へ出発した。出発に先立って、エディントンは書いた。「この日食観測隊は、初めて光の重さ(すなわち、ニュートンの値)を立証するかも知れない。あるいは、非ユークリッド空間というアインシュタインの、突飛な理論の確証を得るかも知れない。あるいは、なおいっそう遠大な帰結---偏向なしという結果に到達するかも知れない。」
5月29日、大西洋上は、朝から曇っていた。しかし、やがて空は晴れ、日食の影の中で、光の湾曲は観測された。11月になって、その結果が正式に発表された。
1919年春、一般相対性理論を説明する無声映画が、公開されていた。上の写真はその映画の一コマである。  
突然有名になったアインシュタイン(偶像の誕生)

 

日食の観測結果は、1919年11月に発表された。まさしく、一夜にして、アインシュタインは、世界の有名人になった。20世紀最初の「スター科学者」の誕生である。このとき、偶像としてのアインシュタインが、できあがった。「知性の化身」「親しみやすく理解しにくい賢者」
時は、1919年、第一次世界大戦が終わり、世界は混乱していた。国々は疲れ果て、ドイツ帝国は崩れ去った。そこに、アインシュタインという男が現れて、こう言ったわけである。「私は、ここに、宇宙には新しい法則があることを宣言する。」それは、歴史的瞬間だった。混沌とした世相の中で、特にそう感じられた。モーゼが、石板を持って、山から降りてきたようだった。
ドイツの学者であるアインシュタインが、フランスの大学から、学位を受けたとき、彼はすでに、学問を越えた存在となっていた。アインシュタインは、平和への希望を表すシンボルだったのだ。かつて、これほど、大衆の人気を得た科学者はいなかった。もう一人のスーパー・スター:チャップリンとの会見。チャップリン曰く「私に人気があるのは、誰でも私を理解できるからです。ところが、アインシュタインさん、あなたに人気があるのは、大衆の誰もが、あなたを理解できないからです。」
アインシュタインの回想「名声がますに連れて、私は、どんどん愚かになっていきました。もちろん、これは、実にありふれた現象で、巧みなユーモアとともに、すべてを受け入れなければなりません。チャップリンは、それが出来ていました。彼と会ったとき、私たちは、二人の名を呼ぶ群衆に囲まれました。『これは、どういう意味だろう』と彼に尋ねると、チャップリンは『意味はないのさ』と答えました。」  
1920年代、妻エルザは、上昇する一方の夫の地位を大いに楽しんだ。しかし、アインシュタインは、二人の間に、きっちりとした線をひいていた。寝室は別々、書斎には立ち入らせない。そして、彼は外で、年若い女性たちとつき合っていた。
アインシュタインの回想「結婚とは、偶然の結果を長続きさせようとする、成功の見込みのない企てです。結婚はすべて危険です。」
アインシュタインは、わずらわしいことのないセックスを望んでいた。家庭でも、極力、わずらわしさを避けていた。アインシュタインは、自分の義務が最小限ですむような形で、女性を追い求めた。快楽の追求は続いたが、もちろん、物理学の研究こそが最優先だった。
アインシュタインの回想「友人のミケーレ・ベッソは、一人の女性とずっと一緒に、幸せに暮らしました。私は、2度失敗しました。それも、かなり不名誉な形で・・・。私は、人間を愛せると思いますが、男女間の個人的なつながりということになると、わからなくなってきます。私は、単独で走る装備をつけた馬のようなものです。2頭だてや集団はだめなんです。」  
日本訪問とノーベル賞

 

大正時代に一世を風靡した総合雑誌「改造」の発行所改造社の社長山本実彦(さねひこ)氏は、京都大学の哲学教授西田畿多郎、東北大学の理論物理学教授石原純両氏のすすめによって、アインシュタインを日本へ招待する計画を立てた。
アインシュタインは世界各地を旅行したが、それらの旅行はいつでも、政治的な緊張に結びつけられており、したがって彼は、彼の言動が彼の敵によって悪用されないようにといつも気を配っていなければならず、そのために各地の珍しい風景や習慣を心から楽しむという余裕をもつことができなかった。
しかし、極東の日本を旅行する場合には、このような緊張からはまったく解放されて、心からその旅行を楽しむことができるであろうアインシュタインは考えた。
このときの事情をアインシュタインは、来日二週間後に書いた「日本における私の印象」という文章の中でつぎのようにのべている。
「ここ二、三年私は世界の各地を旅行した。それは一人の学者にとっては多すぎた。私のような種類の人間は、研究室にとどまって静かに勉強しているべきものだと考えていた。だから私はいつも、旅行に対する申し訳または理由を考え出して、それで安心していたのだ。いままでの多くの旅行には、ちょうど都合のよい申し訳が立ったものだから、さほど敏感でない私の良心も、たちまちその呵責から免れ得たような次第であった。ところが今回山本氏から『日本へ来てみたらどうか』との招待があったとき私の考えついた申し訳は、いままでのとは全然その性質を異にしていた。というのは、『もしこの機会を失ったならば、もう日本へ行く機会は来ないかも知れない。この機会を眼前に見ながらそれを利用しなかった、という後悔は一生忘れられまい』という感じが、一、二ヶ月どころか、半年も一年も私の時間をつぶさなければならぬ東洋への旅行を決心させた理由であった。
私が日本から招待されたということをきいて人々は非常に羨ましがった。ベルリンに住んでいてあれほど羨ましがられたことははじめてであった。私どもにとっては、日本という国は、薄いベールに包まれた不思議な国と思われている。その夢の国に私はよばれたのだ。日本人---ドイツでは淋しくくらし、熱心に勉強し、親切に笑っている、その日本人の住んでいる国に私はよばれたのだ。日本人のあの微笑! あの微笑の背後には、われわれの心とは質と形を異にしたやさしい日本の心もちがひそんでいる。小さなかわいらしい日本の器具や、ときどき流行する日本風の読み物に現れている日本の気分がどんなにわれわれのそれと異なっていることであろうか」
そこでアインシュタインは、1922年の9月にライプチッヒで開かれる自然科学者会議が終わったならば、そのあと日本を訪問したいという返事を、改造社社長の山本実彦氏にしたのであった。
こうしてアインシュタインは、1922年の10月8日、マルセーユ出帆の日本郵船の北野丸に、夫人同伴で客となったのである。
アインシュタイン夫妻をのせた北野丸は、一ヶ月以上にわたる航海ののちに、11月13日に上海に着き、11月17日には神戸に入港することになっていた。
その北野丸が上海に向かって急いでいる11月10日のことであったが、スエーデンの科学アカデミーのノーベル賞委員会は、アインシュタインに対してノーベル物理学賞を与えるということを発表した。
すでにのべたようにアインシュタインは、1905年に、19世紀までの物理学をくつがえし、20世紀の物理学を支配すると思われる特殊相対性理論を重力場の存在する場合へ拡張することを試み、ついに1916年にいわゆる一般相対性理論を完成し、その理論は、1919年の日食観測によって見事に実証されていたのである。
これほどの仕事をしたアインシュタインに対して、スエーデンのノーベル賞委員会がノーベル賞を与えるのにかくも長い時間を要してしまったのは、つぎのような理由によるものである。
まず第一に、アルフレッド・ノーベルは、そのノーベル物理学賞を設定するに当って、賞金は、それによって人類が非常に大きな利用価値を得るような、物理学の最近の発見に対して与えられるべきであるということを規定している。
ところが、アインシュタインの相対性理論は、最初は、新しい現象を主張するものではなく、それまでに知られていた多くの現象を統一的に、より簡単に理解する一つの原理を与えるものであった。したがってこれが果たして「発見」であるかどうかは、人々によって意見がわかれるところであった。ましてや、これが人類にとって大きな利用価値のあるものかどうかも、人々の意見にまかされるべき問題であった。
第二に、アインシュタインの相対性理論は、純粋に理論物理学の理論であるにもかかわらず、時間がたつにつれて、それは政治的な論争の道具に使われるようになってしまっていた。その事情を説明しよう---当時の熱狂的なドイツ国家主義者たちは、第一次世界大戦におけるドイツの敗北は、ドイツの国力や軍事力は世界中を相手にしても決してひけをとるものではなかったにもかかわらず、ユダヤ人と平和主義者がドイツを裏切ったことに原因があったと信じていた---ところで、アインシュタインはそのユダヤ人であり、しかも平和主義者であった。そしてそのアインシュタインは、ドイツの敵イギリスの学者たちが認めたがゆえに有名になった相対性理論による名声を利用して、戦後も、ユダヤ人と平和主義のための運動を展開している---以上の事情からして、もしスエーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会が、アインシュタインの相対性理論に対してノーベル賞を与えるということをすれば、それはスエーデン科学アカデミーが、政治的にアインシュタインの側に立つことになり、スエーデン科学アカデミーもまた、政治的論争の渦に巻き込まれてしまうおそれがある。
以上二つが、スエーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会が、アインシュタインの相対性理論に対してノーベル賞を与えることをためらっていた大きな理由であった。
ところが、スエーデン科学アカデミーは、以上二つのことを巧みにさけて、アインシュタインにノーベル賞を与える方法を思いついた。
それは、アインシュタインに、その相対性理論における業績ではなく、その光量子の理論における業績に対してノーベル賞を与えるということであった。
アインシュタインの相対性理論は、学者の間ばかりでなく、世界の大衆の間で話題にされるほど有名なものになってしまい、それが政争の具に供されるという事態までまねいてしまっていたが、アインシュタインの光量子の理論は、学者の間だけで知られている、相対性理論におとらずすぐれた理論であった。
しかもその光量子の理論においては、たしかに事実が発見されていた。
そこでスエーデン科学アカデミーは、「1921年度のノーベル賞は、光電効果の法則と理論物理学の領域における仕事に対して、アインシュタインに与えられた」ということを、1922年の11月10日に発表した。
アインシュタインはこの知らせを、上海へ向かいつつあった北野丸の船上できいたわけであるが、その北野丸は、11月13日の午前11時の上海に入港した。
その時の様子を、11月14日付の読売新聞はつぎのように伝えている。
船中にアインシュタイン博士を訪ねると、あたかもノーベル賞を授与されたとの報に接し、当惑の態(てい)で、自分の学説はそれほどに値するものではないと謙遜し、世界で12人しかこの学説を了解し得るものはないという説を否定し、ふつうの科学的知識のある人ならば何人もよく了解し得るであろうとのべ、なお本年クリスマス島での日食の実験は、天候が悪かったので好結果は得られなかったと語った。博士は質素な背広服で、宗教家のような温和と謙遜の態度で接したが、日本人とは学習的親和をもっているとのべていた。  
日本におけるアインシュタイン

 

さて、アインシュタイン夫妻と、上海まで出迎えた改造社社員稲垣守弥氏とをのせた北野丸は、11月14日の朝上海を出帆して神戸に向かった。
北野丸が神戸入港予定の11月17日は、数日来の雨が晴れて、小春日和の日であった。そのときの様子を、アインシュタイン自身はつぎのようにのべている。
「色々と想像はしていたものの、日本というものを明確に頭にうかべてみることはできなかった。北野丸が瀬戸内海に入って緑の島々が朝日に照らされているのを見たとき、私の好奇心は極度に緊張した。船客と船員の顔は喜びにかがやいていた。平生なら朝食の前には顔をみせないやさしい日本の婦人たちが、朝の六時というのに、もうデッキにとび出て、一時も早く故国の土を見ようと歩き回っていた。寒い朝風がふいていたにもかかわらず、人々が強い感激をおぼえているのをみて私の心は動かされた。日本人はその国土とその国民を愛している。おそらく日本人ほど愛郷心の強い国民は他にないであろう。日本人は外国語をよく話し、外国の事情に対して大きな研究心をもっている。それにもかかわらず日本人は、外国ではいつも遠来の客であるという感じからのがれることはできない。その理由はなんであろうかと、私は考えてみた。」
北野丸は、午後二時に、神戸港の和田岬にその姿を現した。
アインシュタインを出迎えるために神戸へきていた、東京大学の長岡半太郎教授、東北大学の愛知敬一教授、九州大学の桑木或雄(あやお)教授、東北大学の石原純教授、改造社の山本実彦夫妻、それに多くの新聞記者は、早速出迎えのランチで北野丸へ向かった。
アインシュタインは、出迎えの新聞記者たちにつぎのように語っている。
「私は、小泉八雲の著書によってはじめて日本を知り、その国民性にはふかく共鳴しています。日本を一度訪問してみたいとは思っておりました。このたび改造社の招きでいよいよ日本を訪問することに決まりましたのですが、私は相対性理論の知識を日本の人に与えるとともに、また日本からも何物かを得て帰りたいと思っています。私の学説はすべて確信の上に立っていますが、それでもどこかでさらに新しい発見があるかも知れないとおもって、いまなお怠らずにそれを研究し続けています。私は日本に一ヶ月余り滞在する予定ですが、その間も研究に費やしたいと思います」
アインシュタイン夫妻と出迎えの人たちをのせた北野丸は、午後四時すぎ神戸港の第三突堤に横づけされたが、神戸の港は、この有名なドイツの理論物理学者を一目見ようとする人たちであふれていた。
アインシュタイン夫妻一行は、神戸のオリエンタル・ホテルで小憩ののち、午後五時、三ノ宮発の列車で京都へ向かった。途中大阪駅では、新聞や弁当の売り子のよび声を面白がったアインシュタイン夫人は、これは一種の日本音楽だとその調子を真似てこれに興じた。
その日アインシュタイン夫妻は、京都の町を一回りしたあと、ぼんぼりのともっている都ホテルで、来日第一日目の夜をすごした。
翌11月18日は、ふたたび京都を自動車で一回りしたのち、アインシュタイン夫妻は汽車で東京へ向かった。この日は雲一つない秋晴れで、アインシュタイン夫妻は、琵琶湖、関ヶ原、浜名湖の秋景色、そして雪をいただいた富士山など、車窓から日本の景色を十分に楽しむことができた。
こうして、アインシュタイン夫妻とその一行をのせた特急列車は、11月18日の午後7時20分に東京駅へすべり込んだ。
その東京駅のプラットホームは、数百の出迎えの人たちで身動きもできぬほどであった。
当時の写真班のたくマグネシュームの煙と人たちをかきわけて夫妻が改札口へ現れると、さらにまちうけていた数千の人たちは、帽子を振る、手をたたくの歓呼をあびせ、期せずして百雷のような万歳の声がおこった。
アインシュタイン夫妻は、ステーション・ホテルで小憩ののち、東京駅から帝国ホテルへ向かった。その帝国ホテルには、歓迎の花束でかざられた部屋が夫妻のために用意されていた。アインシュタインは、「この部屋はあまりぜいたくすぎます。このホテルは大層私の気に入りましたが、もっと質素な部屋ととりかえるよう山本氏に伝えて下さい」と言ったが、山本実彦氏の、「私は礼を尽くして、できるかぎりのことをあなた方に捧げたい希望をもっています、私の誠意だけは是非受け入れていただきたいと思います」という主張におしかえされてしまった。
その翌日の11月19日にアインシュタインは、慶應義塾大学の大講堂で、「特殊および一般相対性理論について」という演題で講演を行った。
アインシュタインはまず、和服姿の石原純博士の通訳で、一時半から四時半までの三時間を、特殊相対性理論について諄々(じゅんじゅん)と説いていった。
そして、一時間の休憩ののち、さらに五時半から七時までの二時間、こんどは一般相対性理論について話をした。
こうしてアインシュタインの、来日第一回目の講演会は、通訳も含めて五時間も続いたわけであるが、最後までこれを熱心にきいた、二千数百人におよぶ日本の大衆の態度は、アインシュタインに深い感銘を与えた。
このことを報じた読売新聞の記事は、その最後を「聴衆はながいながい間一人も動揺せずに静かにきいていた。アインシュタイン氏の声は金鈴をふるように音楽的であり、石原博士の説明は女子どもにも理解される言葉使いである。二千数百の聴衆は、理屈はわからねど、まったくよわされた。ちょうどアインシュタイン氏の催眠術にでもかかったように」という言葉で結んでいる。
翌11月20日の午後は、アインシュタイン夫妻は、小石川の植物園で開かれた学士院の公式歓迎会に出席した。そして夜は明治座で日本の芝居を見物した。
アインシュタインの東京における第二回目の講演会は、11月24日に、神田の青年会館で開かれた。そのときの演題は「物理学における空間と時間について」であったが、これも、夕方の五時半から、途中一時間の休憩を入れて十時まで続いた。このときは聴衆は前回にもまして堂にあふれ、入場できなかった人の数も多かった。
以上は、相対性理論に関心を示している一般大衆のための一般講演であったが、アインシュタインの学術講演は、11月25日から、日曜を休んで12月1日までの六日間、毎日午後二時から一時間半、東京大学理学部物理学教室の中央講堂で行われた。
アインシュタインはこの講義の第一日目には空間と時間の相対性を説き、第二日目には自然法則はローレンツ変換に対して不変であるべきを説明し、ミンコフスキーの四次元世界におけるテンソル代数学を展開した。そして第三日目には、テンソルの微分を導入して、マクスウェルの電磁方程式に及んだ。
第四日目からは一般相対性理論の説明に入り、第四日目は、リーマン幾何学とテンソル解析学の説明に費やされた。第五日目には、重力の理論に入って、重力場での光の偏倚、また水星の近日点移動などの事実が説明された。
そして最後の12月1日は、宇宙論的な問題の説明に費やされた。
こうして、アインシュタインにとっては、来日以来大層忙しい日が続いていったわけであるが、11月30日付の読売新聞に、アインシュタイン博士のホテル生活という記事が見えているから以下に引用してみよう。
「入京以来のアインシュタイン教授は、ずいぶん忙しい朝夕を過ごしている。夕食などはたいていホテルで食べないほどで、夫人同伴で宴会から宴会、招待から招待とよばれつづけて、正午ごろ出ていくとホテルへは夜十時前にはほとんで帰ったことがない。朝は八時頃にはおきるようだが、九時半ごろまでは絶対部屋つきの給仕を入れず、ドアの上には『ノックをしてはいけない』と書いた札を下げている。このわずか一時間くらいが教授のあらゆる研究にふける大切な時間であるらしい。九時からは夫人とともに部屋へ非常な簡単な食事を運ばせてしたためながら、手紙やら訪問客やらの名刺を整理する。入京早々のさいにはずいぶん訪問客もあったが、教授夫妻の二室のほかに、改造社が一室を借りきって訪問客の仲取次をやっているので、このごろはそんなに訪問客には接しない。昼食は部屋でやったり食堂へ出たりするが、部屋でやるときは一品か二品、ほんのおしるしの物をとり、些細なお金も無駄にしない、万事きわだった倹約ぶりが目立つという。アルコール分を含むものは絶対にさけて、ただ静かな時をすごすが、さすが教授は非常にゆったりと落ち着いたもので、雀の巣のような頭髪もほとんど手入れをしないそうだ。なにか一つ給仕に小さなことをしてもらっても、一々丁寧に例の物やさしい調子でお礼をいい、物事はきちんと片づけるというふうだ。ホテル内の他の泊まり客はいずれも敬意を表しているが、夫人が非常に近眼なので、ときどきまちがって他人の部屋へ入ったりして小さな滑稽をのこす。このまた夫人の行動に信頼しきっている博士は、そのまま夫人についてその部屋に入り込み、学会の勇者もさすがにすこぶる恐縮して、あたふたと逃げだすこともときどきある。
お風呂が大変好きと見え、どんなにふけてもきっとお湯にはいるが、十二時すぎて打ちとけて夫人と語りつづけていることもあるという。荷物といっても夫婦でトランクが五つで、いろいろの服装ももってきているようだが、どれもこれもびっくりするほど質素なものであるという。教授は寝床へはいると、いかなることがあっても、どんな近親者がたずねてきても、かねてから一切ドアを開かぬ人として評判である。教授は『自分が寝床に入るときは、世の中のすべてから完全にまぬかれるときで、いささかの事件をも考えない。すべてを忘れてただ安眠のみを心がける。他の学者は夢のなかで方程式を考えたなどというが、自分はすべてを忘れてただ安らかに眠りつづけるだけである』といっているそうである」
さて、アインシュタインの日本におけるスケジュールはかなりきついものであった。
11月17日に神戸に着き、11月18日に東京入りしてから、12月1日までに、二つの一般講演と六日にわたる学術講演を行ったが、さらに12月2日には、東京を発って仙台へ向かった。
そしてその翌日の12月3日には、午前九時から、仙台市公会堂で、超満員の聴衆を前にして、愛知敬一氏の通訳で、午後二時半まで、同じく相対性理論に関する一般講演を行った。当日は、仙台市内はもちろん、近県から、また東京から聴講にきた人も多く、講演会は非常な盛会であった。
講演後は、アインシュタイン夫妻は午後三時仙台発の列車で松島に向かい、松島を遊覧し、そして翌12月4日の朝八時半に仙台を出発して日光へ向かい、日光で来日以来はじめて二日間の静かな休養の時間をとった。
しかし、12月6日には東京に帰り、すぐ翌日関西へ向かい、12月8日には名古屋で、10日には京都で、11日には大阪で、13日には神戸で、それぞれ一般講演を行った。
その後アインシュタイン夫妻はは奈良と宮島を見物して、12月23日夜門司に到着し、同夜は門司の三井クラブに一泊した。
そしてその翌日、12月24日は、福岡市の大博劇場で一般講演を行い、25日には九州大学を訪問した。
こうして博士夫妻は門司で日本での最後の数日を過ごしたが、その最後の夜12月28日の夜には、門司クラブにおける長井三井物産支店長の招待会に出席した。
このときアインシュタイン博士の、なにか日本の代表的な歌をききたいというもとめに応じて、列席の人たちが、義太夫、謡曲、長唄、槍さび、それにどじょうすくいにいたる隠し芸を出して、博士夫妻をよろこばせた。
そのときアインシュタインは、お礼にバイオリンを三曲奏している。
こうしてアインシュタイン夫妻は、12月29日午後三時、多くの人に見送られながら、榛名丸で日本を去り、帰国の途についたのであった。 
反ユダヤ主義に対するアインシュタインの態度

 

ドイツで、反ユダヤ主義が広まり、アインシュタインの物理学は「ユダヤ的」で不道徳だという批判が現れたとき、彼は孤立を守るという彼の信条を破り、ユダヤ社会の一員として振る舞うようになる。アインシュタインは、公然とユダヤ人として行動した。
ユダヤ民族の宿命へのアインシュタインの積極的な関心は、ベルリン時代に始まった。彼にとって、この関心は、超国家主義(インターナショナリズム)的理想と、決して矛盾するものではなかった。1919年の10月に彼は、物理学者ポール・エプシュタインに書いた。「人間は、自分の部族の仲間への気づかいを失わずに、国際的な関心を持つことができるものです。」12月に、彼はエーレンフェストに書いた。「こちら(ベルリン)は、反ユダヤ主義が強く、政治的反動傾向は激しいものです。」彼は、その頃に、ポーランドおよびロシアにおける一層過酷な運命から逃れてきたユダヤ人(当時彼らの流入は、ベルリンで特に顕著であった。1900年には、92,000人のベルリンのユダヤ人のうち11,000人が『東方ユダヤ人』であった。1925年には、172,000人中の43,000人となった)に対する、ドイツ人の反応に特に激怒した。「これらの不運な逃亡者たちのへの反感をあおりたてることは……効果的な政治上の武器となり、あらゆる、デマゴーグ(扇動政治家)によって、うまく利用されています。」数多くのこれらの亡命者たちが、文字通り助けを求めて、彼の家をノックしに来たので、アインシュタインは、彼らの窮状のことを、特によく知っていた。彼にとって、追われるユダヤ民族に関するかぎり、超国家主義は、しばらく放っておいてよかった。
いらいらの種がもう一つあった。「品位を欠く同化政策論者(ドイツ人との同化を主張する者たち)の熱望と奮闘とに、私は、終始悩まされてきました。それを、非常に多くの私のユダヤ人の友人たちの中にみてきました。これらの、そして、これに似たような様々な出来事が、私の中にユダヤ民族の感情を呼び起こしました。」アインシュタインの、科学につぐ、もっとも強いアイデンティティの根源は、ユダヤ人たることであり、それは、年が経過するにつれて、ますます強くなったに違いない。ただし、その忠誠心は、宗教的なふくみを全く有しない。1924年に、彼は、とうとうベルリンのユダヤ人集会の会費納入会員になった。しかし、たんに連帯感の行為としてであった。シオニズム(ユダヤ民族の祖国再建運動)は、彼にとって、他の何にも増して、個人の尊厳への懸命な努力の一形態にすぎなかった。彼は、シオニストの組織には加わらなかった。
アインシュタインの回想「私はユダヤ人ですが、ユダヤの教えを実践しているわけではありません。確かに、子どもの頃は信仰心が厚く、学校に行くときには、ユダヤの歌を歌っていたほどです。しかし、その頃初めて科学の本を読み、それで、私の信仰は終わりました。ただ、時を経るとともに、ある事実に気づくようになりました。それは、あらゆるものの背後には、私たちが間接的にしか、かいま見られない秩序があるということです。それは信仰にも通じます。その意味で、私は宗教的な人間でもあるのです。」 
量子力学、統一場理論

 

「光」の謎から「特殊相対性理論」へ、そして「重力」の追求から「一般相対性理論」へ ---- 自然の秩序を深く信じたからこそ、アインシュタインは、偉大な仕事を成し遂げたのであった。しかし、その確固たる信念は、物理学に生まれた次の新たな理論と、衝突することになった。1927年、第5回のソルベイ会議で、アインシュタインは「量子力学」の学者たちと同席した。「量子力学」は、物理現象を「原子」や「素粒子」など、もっとも小さなレベルで追求する学問である。ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)やニールス・ボーア(1885-1962)に代表される量子力学の科学者たちは、ミクロの世界の物理現象は、不確かさと偶然によって支配されていることを理論立てた。宇宙という最も大きな構造に焦点を当ててきたアインシュタインは、自然界に、不確かなものがあるという「量子力学」の考え方を、ひどく嫌った。
ニールス・ボーアとアインシュタイン
アインシュタインの回想「量子力学は、部分的には有効でしょう。しかし、確率とか、偶然で、すべてが決定されるという核心の原理には、納得できません。もっと深い、本当の原理があるはずです。ボルンに言ったように、神はサイコロをふらないんです。」「量子力学は大変印象的です。がしかし、私の内なる声は、それはまだ本物ではないと私に言っております。この理論は、かなり多くのものをもたらします。しかし、われわれを創造主の神秘にほとんど近づけてくれません。いずれにしても、私は神はサイコロ振りをしないと確信しております。 」
アインシュタインの『神はサイコロをふらない』という有名な言葉には、傲慢さが感じられる。なぜ、彼にそれがわかるのか。神が袖の中に、何を隠しているかは、わからない。
アインシュタインは、生涯、ボーアと論争を続けた。決して、量子力学を支持することはなかった。そして、アインシュタインは、「相対性理論」と「量子力学」を、一つにまとめる壮大な理論を打ち立てようと目指すのであった。
アインシュタインの回想「同僚からは、異論を唱える頑固者だと、見られるようになりました。長年の間に、目も耳も機能しなくなった化石のような存在です。そう言われても、いやな気はしませんでした。私の気質を、よく表していましたから・・・」
極小から極大まで、すべての物理現象を解き明かす理論、それは「統一場理論」と呼ばれる。アインシュタインは、「統一場理論」を求めて、孤独な長い道のりに踏み出した。
アインシュタインの科学上の活動の最後の期間は、ずっと、統一場理論によって支配された。また、量子論が、彼の心からなくなることもなかった。この30年間にわたって、これらの目的を達成するための方法については、暗中模索であったが、その目的自体は、彼にとっては、はっきりしていた。一般相対性理論以後の科学上の旅路で、彼は、目的の港に到着するために、輸送の方法で、多くの変更を、しばしば強いられる旅行者のようであった。彼は、ついに、たどりつかなかった。この年月における彼の研究方法の最も著しい特徴は、それほど、従前のものと違っているわけではない:航海への傾倒、熱情、そして、苦痛、後悔、あるいは思案なしに、一つの戦略をやめ、ほとんど休む間もなく、別の方策に取りかかる能力。20年の間、彼は、ほぼ5年に一度ずつ、5次元の方法を試みた。その後は、もちろんのこと、この期間中にも、彼は、まず一つの種類の、そして次には別の種類の、4次元連続によって、目的に到達する道を探った。彼はまた、一般相対性理論の問題に時間をかけることもあったろうし、あるいは、量子論の基礎を熟考したであろう。
統一場理論における彼の目的は確固としたものであった。彼の方法は多様であった。そして彼の努力は徒労であった。 
(重力場と電磁場の統一場理論)
空間に物質が存在すれば、それは、この空間に重力の場をひきおこす。そして、この重力の場は他の物体に働いて、その物体に働く力を引き起こす。
アインシュタインは、この事情を記述するために、まず四次元の空間を考え、この空間は、重力場によって定まる曲率をもっていると考えた。これが、彼の一般相対性理論の、はじめにある考えであるが、この考え方によれば、一般相対性理論は、一口に言って重力場の理論であり、四次元の曲率をもった空間は、それを表現するために最も適した空間であるということができる。
さて、上と同じ事情が、電荷を持った粒子に対しても存在する。電荷をもった粒子の存在は、空間に一つの電磁場をひきおこす。そして、その電磁場は、他の電荷をもった粒子に働いて、それに働く力をひきおこす。
アインシュタインの一般相対性理論は、物質の存在によって、ひきおこされる重力の場は、空間の曲率という形で考慮に入れているが、電荷をもった粒子の存在によって、引き起こされる電磁場を、空間の性質という形で考慮に入れるということはしてはいない。
このことを、かねがね不満に思っていたアインシュタインは、ベルリンに帰ってから(1924年)は、もっぱら、この問題ととりくんだ。このように、重力場の存在と、電磁場の存在とを空間の性質として考慮に入れた理論は、現在では統一場理論とよばれている。
上の話からもわかるように、この統一場理論は、かなり数学的な理論である。
さて、アインシュタインが、その一般相対性理論で用いた空間と、アインシュタインがその統一場理論で用いた空間の違いは、つぎのようである。
空間は平らでないといえば、空間は曲がっていると考えるのが普通であるが、空間は曲がっていると同時に、ねじれているいることもあるのである。この場合、空間がどのくらい曲がっているかを表す量は曲率、空間がどのくらいねじれているかを表す量は捩率(れいりつ)とよばれている。
これらの言葉を使えば、アインシュタインが、その一般相対性理論で用いた空間と、統一場理論で用いた空間の違いは、一口で、つぎのようにのべることができる。
アインシュタインは、その一般相対性理論では、曲率はもっているが、捩率はもっていない空間を考えた。しかし、その統一場理論では、曲率はもっていないが、捩率をもっている空間を考えた。
さて、アインシュタインが、この重力場と電磁場の両方を考慮に入れた統一場理論を研究しつつあるという噂は、1929年の3月14日という、アインシュタインの第五十回目の誕生日が近づくにつれて、世界中にひろまった。
アインシュタインは、その相対性理論によって、宇宙の謎の一つを解いた人である。そのアインシュタインが、第五十回目の誕生日を期して、この宇宙の謎を最終的に解く統一場理論を発表するであろうという噂は、ジャーナリズムにとっては、もってこいのニュースである。
したがって彼は、世界中の新聞社や雑誌社から、彼がその第五十回目の誕生日を期して発表しようとしている統一場理論の概要を誰にでも分かるような言葉で教えてほしいという要請を受けた。そして彼のベルリンの家は、毎日大勢の新聞記者や雑誌記者によって取り囲まれることになってしまった。
このアインシュタインの新しい統一場理論は、プロイセンの科学アカデミーの紀要に発表されることが分かったので、その印刷所へ手を回して、この論文が印刷発表されるのを待つより仕方なかったが、あるアメリカの新聞記者は、もしそれが発表されたならば、他のどの新聞社よりも早くそれをアメリカへ知らそうとして、アメリカへの電送写真を用意したほどであった。
この騒ぎの中で、アインシュタインの新しい統一場理論は、ついにプロイセンの科学アカデミーの紀要に発表されたが、それは、数学、ことにテンソル解析学の公式で満たされた数ページの論文であったので、新聞記者や雑誌記者にとっては、それは全くのちんぷんかんぷんであった。
しかし、リーマン幾何学の結果を利用したアインシュタインの一般相対性理論が、逆に、このリーマン幾何学の研究を刺激したのと全く同様に、リーマン幾何学の拡張を利用したアインシュタインの統一場理論が、逆にリーマン幾何学の拡張の研究を刺激したのは事実であった。 
アメリカへ、エルザの死  

 

アインシュタインは1933年10月からアメリカに永住した。もっとも、ドイツを去ろうという彼の考えは、その2年ほど前から具体化し始めていた。1931年12月、彼は自分の旅行日誌に書いている。「今日、私は私のベルリンでの地位を、基本的に手ばなすことを決心した。」このとき、彼はパサデナ(ロサンジェルス近郊)に初めて滞在するための旅路の途中であった。ドイツの最近の事件を、よく考えてみたい雰囲気であった。1年前に、ナチスは、驚異的飛躍を遂げ、ドイツ共和国議会の議席12から107に伸ばしていた。
プリンストン(ニュージャージー州)に移住しようというアインシュタインの決定は、アブラハム・フレクスナーとの3回の会見の結果であった。最初の会見は予定されたものではなかった。1932年の初め、フレクスナーは、高等学術研究所という新しい研究センター(後のプリンストン高等研究所)を作るという彼の企画について、カリフォルニア工科大学の教授たちと議論するために、パサデナを訪れていた。この機会に、彼はアインシュタインに紹介された。二人は研究所計画について一般的に議論した。1932年の春、オックスフォードで二人が再開した際、フレクスナーはアインシュタイン自身が研究所に参加する気持ちがないかどうか尋ねた。1932年6月、カプート(アインシュタインは1929年にベルリン近郊カプートに家を買っていた)での3度目の会見の際、アインシュタインは、彼の助手としてヴァルター・マイヤーを連れていけるならば、参加を熱望すると述べた。
アインシュタインは、当初、1年のうち5ヶ月をプリンストンで、残りの時間をベルリンで過ごすつもりであった。しかし、決してそうはいかなかった。1932年7月の新しい選挙で、ナチスが230の議席を得ることになった。アインシュタインが、妻に、お前は二度とカプートの町を見ることはないだろうと述べたのは、その年の12月のことであった。1932年12月10日、アインシュタイン一家は30個の荷物とともに、蒸気船オークランドでブレンメルハーフェンを出発し、再びカリフォルニアに向かった。事実これが彼らにとってドイツとの永遠の別れになった。1933年1月30日、ヒトラーが権力をにぎった。3日後に、アインシュタインは、プロシア・アカデミーの事務局宛、自分の俸給の取り決めについて手紙を書いている。しかし、事態は急速に悪化し、1933年3月28日付の手紙で、アインシュタインは辞表をベルリンのアカデミーへ送った。その1週間前、『ニューヨーク・タイムズ』は、「最近のドイツ史上、最も完全な家宅捜索が行われた」と報じた。ナチス突撃隊は、アインシュタインのカプートの家を、隠匿武器捜索のために家宅捜索をしたのである。『ニューヨーク・タイムズ』によると、彼らが発見したのは、パン切り包丁1本だけであった。
ベルリンにあったアインシュタインの論文は、義理の息子ルドルフ・カイザーの手によって、無事に救出され、フランスの外交用郵便袋で、フランス外務省に送られた。
アインシュタインのもとには、暗殺を予告する脅迫状まで届いていた。少年の日、一度そうしたように、彼は再び、ドイツから逃れる。
アインシュタインの回想「私は、いかなる国家にも、また、友人が作るサークルにも、所属したことはありません。自分の家族とさえ距離を保ちました。自分自身の中に、引きこもる必要性は、年々増しました。孤立を守ったせいで、しばしば、苦い思いをしましたが、後悔したことは、一度もありません。他人の理解や同情を受け付けなければ、彼らの意見や、偏見からも自由でいられます。」
1933年、アインシュタインと妻エルザは、アメリカに渡り、二度とドイツには戻らなかった。
静かな大学町プリンストンに落ち着くと、すぐに日課が定まった。毎朝、歩いて「プリンストン高等研究所」に通い、午後になると、マーサー通りのこじんまりした自宅に帰ってきた。
彼は、決して車の運転を覚えなかった。アインシュタインは、持ち前の風変わりな性格を、存分に発揮した。アメリカ市民となる式典に、靴下を履かずに出席したのも、その一例であった。常識的な大学教授という役割を、彼は決して、演じようとしなかった。たくみな、ユーモアの影には、深まり行く孤独が、隠されていた。
1936年、妻エルザは、短い病気の後、亡くなった。エルザの死後「熊のような孤高の生活は、度を増した」と、彼は、友人への手紙に書いている。
最初の妻、ミレーバとは、二度と会うことはなく、彼女は1949年に亡くなる。次男のエドヴァルトは、精神の病を得て、スイスの病院で、1966年に亡くなった。長男のハンス・アルバートは、カリフォルニアで工学の教授になるが、父親とは滅多に会わなかった。「統一場理論」の追究は続いた。しかし、アインシュタインは、それを発見できなかった。
アインシュタインは、「統一場理論」を追い求めたために、生涯の最後の30年を無駄にしたという意見がある。しかし、私たちは、彼の恩恵を、大いに受けているのだ。彼は、理論の統一のための道を、示してくれたのだ。今も、多くの物理学者が、核の力を、重力や電磁力と、統合しようとしている。誰もが、アインシュタインの遺産を受け継いでいるのだ。 
アインシュタインの平和思想とルーズベルト大統領への手紙

 

1930年12月、アインシュタインは、アメリカを訪問したときに、彼の平和思想を語った。その中で、アインシュタインは、戦争を阻止するための具体的な方法を示した。
アインシュタイン曰く「現在、さまざまな国の人が、国家のために、殺人の罪を犯していることに気づいてほしいと思います。いかなる状況でも、兵役は拒否すべきなのです。兵役を指名された人の2%が戦争拒否を声明すれば、政府は無力となります。なぜなら、どの国もその2%を越える人を収容する刑務所のスペースがないからです。」
この演説は、アメリカ人に、熱狂的に迎えられ、若者の襟を「2%」と書かれたバッジが飾っていった。
1933年、アインシュタインは、ナチスの迫害を逃れて、アメリカに亡命した。この時、アインシュタインは、それまでの平和思想を、突然くつがえし、ナチスへの対抗を訴えた。
アインシュタインは、ロマン・ロランと平和主義の同志として長い交流を続けていた。そのロマン・ロランにアインシュタインは、つぎのような手紙を送った。「私がお伝えすることは、あなたを驚かすでしょう。もう、兵役拒否が有効な時代は終わりました。今こそ、武器を取って立ち上がるべきです。」
アインシュタインの態度の変化に対して、ロマン・ロランは、日記に、こう書いた。「かかる精神の弱さが、一人の科学者の精神に見えるとは・・・。アインシュタインの知性は、自然科学の分野では天才的であるが、それ以外では、あいまいで、自己矛盾している。」
1939年8月2日、レオ・シラードの要請を受けて、アインシュタインは、ルーズベルト大統領宛の原爆の開発をうながす手紙に署名した。アインシュタインは、シラードが手紙を持ってきてから、2週間悩んだすえに、署名したのだった。内容は以下の通りである。
F・D・ルーズベルト 合衆国大統領
拝啓
原稿で私に伝達されたE・フェルミとL・シラードの最近のいくつかの研究は、ウラン元素が、近い将来、新しく、かつ重要なエネルギー源となるという期待を私に抱かせます。現在生じている状況は、ある面で十分注意深く見守られることが要求され、さらに必要とあらば、政府当局として、即時、行動に移すことを要求されているように思われます。したがって、私は、以下の事実ならびに勧告について、あなたの注意をうながすことが私の義務であると信じます。
この4ヶ月間におけるフランスのジョリオとアメリカのフェルミとシラードの研究によって、大量のウラニウム中に核連鎖反応を起こすことが可能になり、そして、それによって、莫大な力と、多量の新しいラジウム様の元素を生み出すことが可能になりつつあります。そしていまや、これが近い将来に実現されるのは、ほとんど確実なように思えます。
この新しい現象はまた、爆弾を作ることも可能にします。そして、新しいタイプの非常に強力な爆弾が作られるということは --- 確実というほどでないにしても --- 十分に考えられることでもあります。このタイプの単体爆弾がボートで運ばれ、港で爆発すれば、それは港全体を破壊してしまうばかりでなく、その周辺地域をも破壊してしまうでしょう。しかし、この爆弾は、飛行機での輸送には、重すぎることも明らかになるでしょう。 
米国で採掘できるウラン鉱石は、非常に質が悪く、しかも採掘量も多くはありません。カナダと旧チェコスロバキアでは、良質のウラン鉱石が、いくらか採掘されます。一方、最も重要なウラン源は、ベルギー領コンゴです。
この状況を鑑みれば、大統領におかれましては、政府と(核分裂の)連鎖反応の研究をしているアメリカ人物理学者達との、持続的接触を密にすることが望ましいと、お考えになってもよろしいでしょう。これを達成することを可能にする一つの方法は、あなたが、ご自分の信頼できる人物、かつ、非公式の立場で奉仕することができる人物に、この仕事を託すことかも知れません。その仕事は、以下のことを含みます。
a)政府の省庁に接近して、さらなる開発に関して周知すること、米国のために、ウランの確保を確実にする件について特別な注意をうながす内容の、政府の行動にむけた勧告を提案すること。
b)現在、研究は、大学の実験室の限られた予算で実施されていますが、必要なら、かくなる理由で、寄付を惜しまない私人との接触を通して、基金を用意することと、そしてまた、必要な設備が揃っている産業各社の実験室の協力を得ることで、実験作業を速めることです。
私は、ドイツが占領したチェコスロバキアの鉱山からのウランの販売を、ドイツが事実上停止したことの意味を理解しています。ドイツが、そのような早急な行動をとったことは、多分、以下のような理由で理解できます。すなわち、ドイツの次官の子息、フォン・ヴァイツゼッカーが、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に配属され、そこではアメリカのウラン研究のいくつかが、追跡研究されているのからです。
敬具
アルバート・アインシュタイン
戦後撮影された奇妙なフィルムが残っている。シラードが、アインシュタインから、原爆開発のサインをもらう場面を、わざわざ、再現したものである。なぜ、アインシュタインが、このフィルムの撮影に協力したのか---撮影の目的は不明である。しかし、アインシュタインが、原爆開発を促す手紙にサインをした行為の正しさを確信していなければ、戦後、この撮影に協力することはなかったはずだ(下の写真)。
アインシュタインの別荘をシラードとともに訪れたのが、エドワード・テラー(下の写真)であった。テラーは、ロスアラモス研究所で、原爆開発にたずさわり、戦後は、水素爆弾を完成して「水爆の父」と呼ばれるようになった。いわば、アメリカの軍事研究の時代とともに歩んだ人物である。
テラーの回想「アインシュタインは、手紙を注意深く読みました。そしてこれは、核エネルギーが、直接、われわれに使用される最初の時だろうと言いました。われわれは、核エネルギーである太陽のエネルギーを、これまで、間接的に使ってきたからです。それが、アインシュタインの唯一の感想でした。サインされた手紙は、シラードが持ち去り、大統領に届けられるまでには、3ヶ月かかりました。」
アインシュタインの手紙には、ドイツの原爆開発の中心となった学者の名前が書かれてある。それはフォン・ヴァイツゼッカーである。当時、カイザー・ヴィルヘルム研究所の新進物理学者だった。現在、ドイツ最高の物理学者であると同時に、キリスト教の立場から平和運動を進める哲学者でもある。
ヴァイツゼッカーの回想「私は、アインシュタインがとった行動は、正しかったと思います。私たちが、原爆を製造する可能性はあったからです。しかし、短期間で原爆を造ることは、不可能であることを悟りました。それは、私たちにとって、幸いなことでした。アメリカが、原爆を開発したと聞いて、本当に驚きましたよ。しかし、私たちが、アメリカ同様に努力しても、原爆は完成しなかったでしょうね。アメリカは、ドイツの千倍もの予算を投入したのですから。」
原爆開発のための「マンハッタン計画」が動き始めた。人里離れた大地に「ロスサラモス研究所」が作られた。すでに、シラードのアイデアで核連鎖反応実験は成功し、原爆の兵器としての実用化が、この研究所の使命だった。ユダヤ人亡命者をはじめ、世界中から、理論物理学、実験物理学の学者が集められ、世間から隔離され、研究生活を送った。科学者は専門別に細かく分断されて、他の分野については一切知らされなかった。アインシュタインが理想とした研究の成果の自由な交流は、ここにはなく、研究を支配するのは、科学者ではなく、国家であった。しかし、科学者は、その本質に気づかないまま、研究に熱中していった。原爆の二種類の原料のうち、プルトニウムは、ワシントン州のハンフォードで、濃縮ウランは、テネシー州のオークリッジで、急ピッチで生産されていた。ロスサラモス、ハンフォード、オークリッジの三カ所は、緊密に結びつき、秘密のうちに、核エネルギーの解放へと向かっていくのであった。
1945年、ドイツ全土は、連合軍による激しい空襲にさらされ、主要な都市は、壊滅的な打撃を受けた。5月7日、ナチス・ドイツは連合国に全面降伏した。しかし、ドイツ降伏後も、日本軍は連合国と戦い続けていた。アメリカ軍の沖縄上陸によって、日本の降伏は目前と思われたが、もしも、このまま、アメリカ軍が日本本土上陸を敢行すれば、アメリカ軍にも、多くの死傷者がでることは明らかだった。
アインシュタインにとっての敵であったナチス・ドイツは、完全に滅んだ。野獣の集団が野獣にふさわしく葬り去られたのだ。彼の心は、すがすがしいものに満ちあふれていた。しかし、その後の日々、アインシュタインは、恐ろしい予感にさいなまれた---「日本がまだ降伏していない。アメリカの原爆研究は、まだ続いている。私が日本を訪れたのは、1922年11月だった。形を喜ぶ目を持つ日本人、自然と人間が一つに結ばれた日本、そこには、数多くの友人がいる。確かに、この戦争中、日本がアジアで行った非道な行為は、ナチス・ドイツにくらべても、ましとはいえまい。だが、日本は、私と私の家族を、殺そうとはしなかった。その日本が、原爆投下の危機にさらされている。」
ドイツ降伏が目前となった頃、原爆の開発に、たずさわった科学者の中から、原爆の使用に反対する動きが出てきた。大統領宛の原爆投下反対の請願書が作られ、多くの科学者の署名が集まった。
ナチス陥落の2ヶ月前、シラードは、アインシュタインと会い、ふたたび、大統領への手紙にサインするよう求めた。原爆の日本投下を阻止しようと、シラードは、大統領に働きかけるつもりだった。原爆開発を進めるにも、原爆投下を止めるにも、アインシュタインの名声が必要だったのである。アインシュタインは、ふたたび、シラードの意見に同調しサインした。しかし、この手紙を読まないまま、ルーズベルト大統領は死亡した。 
「O weh!(ああ悲しい!)」アインシュタインは、広島に原爆が投下されたことを知ったとき、そう叫んだと伝えられる。 
戦後、ようやく、原爆の被害写真が公表された頃、アインシュタインに、手紙を書いた日本人がいた。アインシュタインから、返ってきた書簡は、いま、東京の地下金庫に保存されている。なぜ、平和主義者のアインシュタインが、原爆の開発を進めるルーズベルトの手紙に、署名したのか---アインシュタインの平和思想の根本を鋭く問いただしたのは、雑誌『改造』編集者の篠原正瑛(しのはらせいえい)だった。
篠原の手紙「その第一の目的が、人類の福祉と幸福に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」
アインシュタインは、礼儀に反して、あえて、篠原の手紙の裏に返事を書いて、送り返してきた。そして追伸には、「人を批判するときは、よく相手のことを調べてからにすべきだ」と、怒りをあらわにしていた。アインシュタインの返信には次のようにある。「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。」そして、アインシュタインは、戦争が許される条件を示した。「私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です。」 
世界政府

 

第二次世界大戦の終了に引き続く数年ほど、アインシュタインが、政治や政治運動に、のめりこんでいったときはなかった。「戦争には勝ったが平和はまだだ」と、1945年12月、聴衆に語っている。彼は、戦後の世界は、危機的に不安定であるとみなし、新しい統治形態が、要求されていると信じていた。アインシュタイン曰く「最新の原子爆弾は、広島の都市以上のものを破壊してしまった。われわれに、こびりついた時代遅れの政治観念をも、吹き飛ばしたのである。」1945年の9月という早い時期に彼は、次のように提唱している。「文明と人類を救済する唯一の方法は、法律に基づき国家の安全を保障する『世界政府』の形成である。」
彼の考えによると、その種の世界政府は、構成国を束縛することができる決定権を、与えられていなければならない。彼は、そのような権限を欠いた国際連合には懐疑的であった。世界政府は、彼の残された年月に、彼が再三再四、いろいろな形で立ち戻ってきたテーマであった。1950年にも『科学者の道徳的義務について』のメッセージの中で彼は繰り返している。「暴力的手段を排除するために、法律に基づいて、超国家的組織が創設されることによってのみ、人類は救われるのです。」このような理想に向かって、たとえ、周囲が反対しようとも、われわれは、努力すべきであると彼は信じていた。「生来、自由で良心的な人は、滅ぼされるというのは、真実かも知れないが、そのような個人は決して奴隷にされたり、盲目的な道具として仕えさせられるようなことが、あってはならないのです。」当時、多くの機会(良心的兵役拒否者に関する手紙や、議会の反米活動調査委員会へ喚問された高校教師、ウィリアム・フラウエングラスへの手紙)に、彼は市民的不服従を提唱した。「超国家的体制のもとに、世界に平和を、もたらそうとするうえでの問題は、ガンジーの方法を大規模に取り入れることのよってのみ、解決されるというのが、私の信念であります・・・・知識人の少数派が『教育の自由を抑圧する』悪に対抗するには何をなすべきであろうか。率直にいって、ガンジーの意味での非協力政策という革命的な方法しか見出しえない。」忌むべきマッカーシー時代の日付をこれらの文章は、当時としてはむしろ、まれなものであった。
さらに、アインシュタインは「原子力エネルギーの利用を人類に役立つ形で(しかも)それについての知識と情報を普及せしめる方法で進めていく」必要性を痛感していた。「・・・・それは、情報を入手した一般市民が、自身と人類の利益に役立つ形での行動を理性的に決定し、形成できるために必要である」と、その短い存在期間にアインシュタインが議長を務めた原子科学者緊急委員会という団体の憲章に述べている。1954年、アインシュタインは、秘密保護問題で、オッペンハイマーを弾劾しようとするアメリカ合衆国の行動を、公的に批判する原子力科学者の圧倒的多数に賛意を表明した。
戦後のアインシュタインの政治的関心は、上に述べたテーマに集中されていたように思える。彼の提案のいくつかは、多分、非現実的であり、また他のものは、まだ時期尚早であった。だが、これらの提案が、澄んだ精神と強い道徳的信念から生まれてきたことは確かである。
アインシュタインの政治的見解について、もっと深い問題で、あとの二つの件を述べねばならない。彼は、決してドイツ人を許さなかった。「ドイツ人が、わが同胞ユダヤ人の大量虐殺をやってからは、私は今後、ドイツ人とは一切のかかわり合いを、もつつもりはない・・・。可能な範囲で自分の良心を保った、ほんの数名については例外である。」彼にとって、例外の数名とは、オットー・ハーン、マックス・フォン・ラウエ、マックス・プランク、それにアーノルド・ゾンマーフェルトであった。
アインシュタインは、イスラエル政府について、政治的に批判的な場合もあったが、イスラエルの大儀のために献身的であった。彼は、イスラエルのことを「us(われわれ)」、ユダヤ人のことを「My people(わが同胞)」と呼んだ。アインシュタインのユダヤ人としての同胞意識は年をとるとともに強くなっていったように思われる。彼は、真に自分の故郷となる場所を見いだしえなかったのかも知れない。しかし、彼は自分の属する種族は発見できたのである。 
プリンストンにおけるアインシュタイン

 

アインシュタインが、プリンストン高等研究所の教授として着任したのは、1933年の冬のことであった。しかし、このときアインシュタインは、単なる旅行者の査証をもってアメリカに入ったのであった。
しかしながら、アインシュタインは、彼がアメリカへ移住してから三年目の1936年に彼の妻エルザを失った。
アインシュタインとミレーバの間に生まれた長男も、アインシュタインとともにアメリカへ移住したが、この人は技師として独立した。
また、エルザのつれていた二人の娘のうち一人はドイツを去ってから、まもなく亡くなったが、もう一人のマルゴットは、その夫と離婚して以来はアインシュタインと一緒に住んでいた。このマルゴットは、女流彫刻家として聞こえた人であった。
アインシュタインには、マヤとよばれる一人の妹がいたが、彼女は、アインシュタインが学んだことのあるアーラウの州立ギムナジウムの先生の子息と結婚して、イタリアのフィレンツェに住んでいたが、イタリアにおけるナチの影響に不安を感じて、彼女の夫はスイスに帰り、彼女は兄をたよってプリンストンへ来ていた。このマヤの声と話しぶりは、兄のアインシュタインのそれと、そっくりであり、彼らを訪ねる人たちを驚かせた。
ニュージャージー州、プリンストンのマーサー・ストリート112番地のアインシュタインの家には、その娘、マルゴット、その妹マヤのほかに、1929年以来アインシュタインの秘書をつとめ、のちアインシュタインのハウス・キーパーとなったヘレン・デュカス嬢が同居していた。このデュカス嬢は、アインシュタインと同じシュヴァーベンの生まれであり、エルザ・アインシュタインと同じ小さな町の出であって、精力的にアインシュタインの身の回りの仕事を片づけてくれた。
すでにのべたように、1933年の冬にアインシュタインが、アメリカに来たときには、彼は単なる旅行者としての査証しかもっていなかった。ところが、アメリカの移民局法によれば、アメリカに永住する許可を与え得るのは、アメリカ領事だけであった。そして、その領事は、アメリカ国外にしかいないのであるから、アメリカに永住する許可を得ようとする人は、一度アメリカの外へ行って、そこでアメリカ領事からそのような許可をもらってこなければならなかった。
そこで、アインシュタインは、バミューダのイギリスの植民地へ行き、そこの領事からアメリカへ永住する許可を得ようとした。
しかし、アインシュタインのような人のこの島への訪問は、非常な評判をよび、島は『お祭りさわぎ』につつまれてしまった。この地のアメリカ領事は、アインシュタインのために歓迎パーティー催し、アインシュタインに、アメリカに永住する許可を与えたのであった。
こうしてアインシュタインは、アメリカに永住する許可を得るとともに、アメリカの市民になりたいという希望を表明して、その申し込みのための用紙を得ることができたのであった。
しかし、アインシュタインが、アメリカの市民となるためには、まだ五年間待たなければならなかった。そして、そのときには、アメリカの憲法と、アメリカの市民の義務と権利に関する試験があることになっていた。したがってアインシュタインは、その試験のための勉強を非常に熱心に行ったといわれている。
アインシュタインは、1940年の10月に、娘のマルゴット、秘書のヘレン・デュカスとともに、アメリカ市民権を得たのであった。
こうしてアインシュタインとその一家は、プリンストンでの生活にとけ込んでいった。プリンストン高級研究所の教授と所員、プリンストン大学の教授と学生、そしてプリンストンの町のすべての人たちが、アインシュタインを好いた。
当時、プリンストン大学の学生たちは、  
The bright boys, they all study math
And Albie Einstein points the path
Although he seldom takes the air
We wish to God he'd cut his hair  
秀才どもは いつも数学を勉強する
そして アルビー・アインシュタインはその方針を指示する
彼は滅多に外に出ないけれど
ああ神様 彼が散髪をしますように  
とふざけて歌った。
また、アインシュタインは、町の人から相対性理論の定義をきかれて、ふざけて次のように答えたという。
「もし男の子が、きれいな女の子と一時間並んで坐っていたとすれば、その一時間は一分のように思えるでしょう。しかし、もし彼が熱いストーブのそばに一分間坐っていたら、その一分間は一時間のように感じるでしょう。これが相対性です」
また、アインシュタインが、そのまわりの人たちに与えた印象については、レオポルト・インフェルトが次のように言っている。
「プリンストンにおける私の同僚の一人は私につぎのようにたずねた。『もしアインシュタインが、彼の名声をきらい、彼のプライバシーを守ろうとするのなら、なぜ彼は普通の人がするようなことをしないのであろうか。なぜ彼は髪を長くのばし、おかしな皮の上着を着、靴下をはかず、サスペンダーをせず、カラーをつけず、ネクタイをしめていないのだろうか』--- これに対する答えは簡単である。彼の考えは、彼の入用を制限し、これを少なくすることによって彼の自由を大きくしようとしていることにある。われわれは、非常に多くの物事の奴隷になっている。われわれは、湯上がりに着る着物、電気冷蔵庫、自動車、ラジオ、そしてその他の多くの事柄の奴隷になっている。アインシュタインは、これらを最小にしようと試みたのである。長い髪は、散髪屋へ行く必要を最小にした、靴下ははかなくてもすむ、一つの皮の上着があれば、それは数年間にわたって上着の問題を解決する。サスペンダーは、寝巻の長シャツやパジャマのように余計なものである」
プリンストンの人たちは、アインシュタインに関して多くの逸話を語っている。そのなかにつぎのようなのがある。
アインシュタインの近所に一人の少女が住んでいたが、この少女の母親はあるとき、少女が、ときどきアインシュタインの家を訪問することに気がついた。そこで母親が不思議に思って、その理由をたずねると、少女は平気な顔で、つぎのように答えた。
「わたしあるとき数学の宿題の中に解けない問題があって困っていたの。そしたら友だちが『あなたの近所の112番地には、アルバート・アインシュタインという世界的な数学者が住んでいる』って教えてくれたの。そこでわたし、そのアルバート・アインシュタイン先生をおたずねして、私の困っている宿題を教えて下さるよう頼んでみたの。そしたら、その人は、とってもよい人で、よろこんでわたしの困っている問題を説明して下さったの。とても親切に教えて下さったので、学校で習うより、よくわかったわ。しかもその人は、もし難しい問題があったら、またいつでも、いらっしゃいと言って下さったので、難しい問題があると教えてもらいにいくのよ」
この少女の母親は、この話にびっくりしてしまって、早速アインシュタインの所へ詫びに行ったが、アインシュタインは、
「いやいや、そんなにお詫びになる必要はありません。私はあなたのお嬢さんと話をすることによって、お嬢さんが私から学んだこと以上のことを、お嬢さんから学んだにちがいないからです」と答えたという。
アインシュタインが、このお嬢さんに問題の解法を説明したときに書いた紙が残っているが、その問題の一つは、与えられた二つの円O1とO2に対して共通接線を引け、というのであった。 
旅路の終わり

 

第2次世界大戦の間、アインシュタインは、静かに過ごした。ルーズベルト大統領に、核の研究をうながす手紙を書いたが、原爆の製造には関わらなかった。戦争が終わると、アインシュタインは、あらゆる主義・主張に関して見解を求められた。新しい国家イスラエルの大統領になって欲しいとの要請もあったが、もちろん、辞退した。彼にとって、あくまで最優先は科学だった。
晩年のアインシュタインについて一言だけふれておこう。プリンストンの晩年のアインシュタインに出会ったことがあるという一人の老女が、その時の印象をこう語っている---『まるで幽霊みたいだったわ』---この老女の見たアインシュタインの姿---それは、波乱に満ちた生涯を生きたアインシュタインの真実の姿だったのかも知れない。
1955年の春、アインシュタインの心臓は、不調をうったえた。そして、彼は入院した。彼は、病室に、秘書を呼び、万年筆と眼鏡と書きかけの原稿を取ってくれと頼んだ。もちろん、死期が迫っていることを知っていた。それでも、仕事が気になり「私は計算したいんだ」と言った。そうやって、計算しても、その成果を見ることはできないと、彼は知っていた。彼には、それでも良かった。1955年4月18日午前1時15分、アルバート・アインシュタインは、息をひきとる。享年76才。彼は、空間や時間、宇宙の構造についての認識を、永遠に変えて、そして、去っていった。
アインシュタインの言葉「私は、生涯、自然の中に隠れている秩序を、わずかでも、かいま見ようとしてきました。すべての科学は、世界の中に存在する調和を、信ずる必要があります。理解したいという私たちの思いは、永遠のものです。」
アインシュタインの墓はない。プリンストンの葬儀パーラーで行われた彼の葬儀は、わずか12人が参加しただけの簡素なものだった。彼の肉親では、長男のハンス・アルバートだけが、顔を見せた。彼の最初の妻、ミレーヴァも、二人目のエルザも、すでに世を去っていた。葬儀は、友人の弁護士オットー・ネーサンが、ゲーテの詩「シラーの鐘へのエピローグ」の一節を暗唱しただけで終わった。公の通知も出さず、花輪も音楽も控えるように、アインシュタインは、遺書にしたためたのだった。出席者のうち、一人の女性だけが、カトリック教徒だったので、彼女は、一輪のカーネーションをアインシュタインに捧げた。「単純なものこそ美しい」アインシュタインは、生涯、そう信じていた。
遺体は荼毘にふされ、遺志に従って、灰は近くのデラウェア川に流された。 
おわりに

 

われわれは、アインシュタインの業績を、どう評価すべきであろうか? アインシュタインの「一般相対性理論」は、今日の宇宙論の土台を築いた。しかし、同時に「相対性理論」は---アインシュタイン自身が言うように「重要な進歩は、いつも新しい問題を引き起こします」---多くの謎を残した。今日の宇宙論は、もはや、観測で確かめられる範囲をはるかに超えている。どの理論も証明することは不可能なのである。われわれは、あるいは「一般相対性理論」を知らない方が---つまり、ニュートンの力学のように、「時間」は絶対で永遠であり「空間」は、まっすぐで果てしないものであるという世界観を、そのまま信じている方が、よかったのかも知れない。一方「量子力学」は、どうだろう。たとえ、その根本原理が正しかろうが正しくなかろうが「21世紀の科学の進歩は、量子力学なしには考えられない」と言われているほど現在の科学技術に貢献している。今日までの「量子力学」の急速な進歩は、その実用性に要因があったのだろう。その点からいえば「量子力学」は「一般相対性理論」よりも、われわれの生活に接点が多い。
アインシュタインの探究は「自然を理解したい」という科学者の欲求を満たすためのものに過ぎなかったのか。いや、科学の進歩が、科学者の欲求だけに任せられることがあってはならない。アインシュタインの業績は、いったい何だったのか。今現在、われわれは、それを単純に言い表す事はできない。しかし、いずれ、遠い将来かも知れないが、その答えは必ず出ると信じよう。 
 
アインシュタイン2 / 寺田寅彦 

 


この間日本へ立寄ったバートランド・ラッセルが、「今世界中で一番えらい人間はアインシュタインとレニンだ」というような意味の事を誰かに話したそうである。この「えらい」というのがどういう意味のえらいのであるかが聞きたいのであったが、遺憾ながらラッセルの使った原語を聞き洩らした。
なるほど二人ともに革命家である。ただレニンの仕事はどこまでが成効であるか失敗であるか、おそらくはこれは誰にもよく分らないだろうが、アインシュタインの仕事は少なくも大部分たしかに成効である。これについては世界中の信用のある学者の最大多数が裏書をしている。仕事が科学上の事であるだけにその成果は極めて鮮明であり、従ってそれを仕遂げた人の科学者としてのえらさもまたそれだけはっきりしている。
レニンの仕事は科学でないだけに、その人のその仕事の遂行者としてのえらさは必ずしも目前の成果のみで計量する事が出来ない。それにもかかわらずレニンのえらさは一般の世人に分りやすい種類のものである。取扱っているものが人間の社会で、使っているものが兵隊や金である。いずれも科学的には訳の分らないものであるが、ただ世人の生活に直接なものであるだけに、事柄が誰にも分りやすいように思われる。
これに反してアインシュタインの取扱った対象は抽象された時と空間であって、使った道具は数学である。すべてが論理的に明瞭なものであるにかかわらず、使っている「国語」が世人に親しくないために、その国語に熟しない人には容易に食い付けない。それで彼の仕事を正当に理解し、彼のえらさを如実に估価《こか》するには、一通りの数学的素養のある人でもちょっと骨が折れる。
到底分らないような複雑な事は世人に分りやすく、比較的簡単明瞭な事の方が却《かえ》って分りにくいというおかしな結論になる訳であるが、これは「分る」という言葉の意味の使い分けである事は勿論である。
アインシュタインの仕事の偉大なものであり、彼の頭脳が飛び離れてえらいという事は早くから一部の学者の間には認められていた。しかし一般世間に持《も》て囃《はや》されるようになったのは昨今の事である。遠い恒星の光が太陽の近くを通過する際に、それが重力の場の影響のために極めてわずか曲るだろうという、誰も思いもかけなかった事実を、彼の理論の必然の結果として鉛筆のさきで割り出し、それを予言した。それが云わば敵国の英国の学者の日蝕観測の結果からある程度まで確かめられたので、事柄は世人の眼に一種のロマンチックな色彩を帯びるようになって来た。そして人々はあたかも急に天から異人が降って来たかのように驚異の眼《まなこ》を彼の身辺に集注した。
彼の理論、ことに重力に関する新しい理論の実験的証左は、それがいずれも極めて機微なものであるだけにまだ極度まで完全に確定されたとは云われないかもしれない。しかし万一将来の実験や観測の結果が、彼の現在の理論に多少でも不利なような事があったとしても、彼の物理学者としてのえらさにはそのために少しの疵《きず》もつかないだろうという事は、彼の仕事の筋道を一通りでも見て通った人の等しく承認しなければならない事であろう。
物理学の基礎になっている力学の根本に或る弱点のあるという事は早くから認められていた。しかし彼以前の多くの学者にはそれをどうしたらいいかが分らなかった。あるいは大多数の人は因襲的の妥協に馴れて別にどうしようとも思わなかった。力学の教科書はこの急所に触れないように知らん顔をしてすましていた。それでも実用上の多くの問題には実際差支えがなかったのである。ところが近代になって電子などというものが発見され、あらゆる電磁気や光熱の現象はこの不思議な物の作用に帰納されるようになった。そしてこの物が特別な条件の下に驚くべき快速度で運動する事も分って来た。こういう物の運動に関係した問題に触れ初めると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになって来た。ロレンツのごとき優れた老大家は疾《はや》くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光よりもっと根本的な時と空間の概念の中に潜伏している事に眼をつけた。そうしてその腐りかかった、間に合わせの時と空間を取って捨てて、新しい健全なものをその代りに植え込んだ。その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈《びょうそう》はひとりでに綺麗に消滅した。
病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際《てぎわ》は第二のえらさでなければならない。
しかし病気はそれだけではなかった。第一の手術で「速度の相対性」を片付けると、必然の成行きとして「重力と加速度の問題」が起って来た。この急所の痛みは、他の急所の痛みが消えたために一層鋭く感ぜられて来た。しかしこの方の手術は一層面倒なものであった。第一に手術に使った在来の道具はもう役に立たなかった。吾等の祖先から二千年来使い馴れたユークリッド幾何学では始末が付かなかった。その代りになるべき新しい利器を求めている彼の手に触れたのは、前世紀の中頃に数学者リーマンが、そのような応用とは何の関係もなしに純粋な数学上の理論的の仕事として残しておいた遺物であった。これを錬《きた》え直して造った新しい鋭利なメスで、数千年来人間の脳の中にへばり付いていたいわゆる常識的な時空の観念を悉皆《しっかい》削り取った。そしてそれを切り刻んで新しく組立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に古い力学の暗礁であった水星運動の不思議は無理なしに説明され、光と重力の関係に対する驚くべき予言は的中した。もう一つの予言はどうなるか分らないが、ともかくも今まで片側だけしか見る事の出来なかった世界は、これを掌上に置いて意のままに任意の側から観る事が出来るようになった。観者に関するあらゆる絶対性を打破する事によって現出された客観的実在は、ある意味で却って絶対なものになったと云ってもよい。
この仕事を仕遂げるために必要であった彼の徹底的な自信はあらゆる困難を凌駕《りょうが》させたように見える。これも一つのえらさである。あらゆる直接経験から来る常識の幻影に惑わされずに純理の道筋を踏んだのは、数学という器械の御蔭であるとしても、全く抽象的な数学の枠に万象の実世界を寸分の隙間もなく切りはめた鮮やかな手際は物理学者としてその非凡なえらさによるものと考えなければならない。
こういう飛びぬけた頭脳を持っていて、そして比較的短い年月の間にこれだけの仕事を仕遂げるだけの活力を持っている人間の、「人」としての生立《おいた》ちや、日常生活や、環境は多くの人の知りたいと思うところであろう。
それで私は有り合せの手近な材料から知り得られるだけの事をここに書き並べて、この学者の面影を朧気《おぼろげ》にでも紹介してみたいと思うのである。主な材料はモスコフスキーの著書に拠る外はなかった。要するに素人画家《しろうとがか》のスケッチのようなものだと思って読んでもらいたいのである。 

アルベルト・アインシュタインは一八七九年三月の出生である。日本ならば明治十二年卯歳の生れで数え年四十三(大正十年)になる訳である。生れた場所は南ドイツでドナウの流れに沿うた小都市ウルムである。今のドイツで一番高いゴチックの寺塔のあるという外には格別世界に誇るべき何物をも有《も》たないらしいこの市名は偶然にこの科学者の出現と結び付けられる事になった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。その時の印象が彼の後年の仕事にある影響を与えたという事が彼自身の口から伝わっている。
丁度この頃、彼の父は家族を挙げてミュンヘンに移転した。今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接することの出来た自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったに相違ない。
彼の家族にユダヤ人種の血が流れているという事は注目すべき事である。後年の彼の仕事や、社会人生観には、この事実と思い合せて初めて了解される点が少なくないように思う。それはとにかく彼がミュンヘンの小学で受けたローマカトリックの教義と家庭におけるユダヤ教の教義との相対的な矛盾――因襲的な独断と独断の背馳《はいち》が彼の幼い心にどのような反応を起させたか、これも本人に聞いてみたい問題である。
この時代の彼の外観には何らの鋭い天才の閃きは見えなかった。ものを云う事を覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口重であった。八、九歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間外れの観があった。ただその頃から真と正義に対する極端な偏執が目に立った。それで人々は「馬鹿正直《ビーダーマイアー》」という渾名《あだな》を彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、誰も夢にも考えなかった事であろう。
音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌っていたが、恥ずかしがって両親にもそれは隠して聞かせなかったそうである。腕白な遊戯などから遠ざかった独りぼっちの子供の内省的な傾向がここにも認められる。
後年まで彼につきまとったユダヤ人に対するショーヴィニズムの迫害は、もうこの頃から彼の幼い心に小さな波風を立て初めたらしい。そしてその不正義に対する反抗心が彼の性格に何かの痕跡を残さない訳には行かなかったろうと思われる。「ユダヤ人はその職業上の環境や民族の過去のために、人から信用されるという経験に乏しい。この点に関してユダヤ人の学者に注目して見るがいい。彼等は論理というものに力瘤《ちからこぶ》を入れる。すなわち理法によって他の承諾を強要する。民族的反感からは信用したくない人でも、論理の前には屈伏しなければならない事を知っているから。」こう云ったニーチェのにがにがしい言葉が今更に強く吾々の耳に響くように思われる。
彼の学校成績はあまりよくなかった。特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式な詰め込み教育は工合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し初めた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤーコブ・アインシュタインに、代数学とは一体どんなものかと質問した事があった。その時に伯父さんが「代数というのは、あれは不精もののずるい計算術である。知らない答をXと名づけて、そしてそれを知っているような顔をして取扱って、それと知っているものとの関係式を書く。そこからこのXを定めるという方法だ」と云って聞かせた。この剽軽《ひょうきん》な、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。それから色々の代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打《ぶ》つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまいには遂にその証明に成効した。論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係りの教師が宣言した。
しかし中等学校を卒業しないうちに学校生活が一時中断するようになったというのは、彼の家族一同がイタリアへ移住する事になったのである。彼等はミランに落着いた。そこでしばらく自由の身になった少年はよく旅行をした。ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、しばらくアーラウの実科中学にはいっていた。わずかに十六歳の少年は既にこの時分から「運動体の光学」に眼を付け初めていたという事である。後年世界を驚かした仕事はもうこの時から双葉《ふたば》を出し初めていたのである。
彼の公人としての生涯の望みは教員になる事であった。それでチューリヒのポリテキニクムの師範科のような部門へ入学して十七歳から二十一歳まで勉強した。卒業後彼をどこかの大学の助手にでも世話しようとする者もあったが、国籍や人種の問題が邪魔になって思わしい口が得られなかった。しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤めながら静かに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生があって、その後一九〇三年にこの人と結婚したが数年後に離婚した。ずっと後に従妹《いとこ》のエルゼ・アインシュタインを迎えて幸福な家庭を作っているという事である。
一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの周旋《しゅうせん》で特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が極めて卑近な発明の審査をやっていたという事は面白い事である。彼自身の言葉によるとこの職務にも相当な興味をもって働いていたようである。
一九〇五年になって彼は永い間の研究の結果を発表し始めた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。『物理年鑑』に出した論文だけでも四つでその外に学位論文をも書いた。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。
ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇《ちゅうちょ》していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘《しょうへい》した。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼のとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦の始まった一九一四年の春ベルリンに移ってそこで仕事を大成したのである。
ベルリン大学にける彼の聴講生の数は従来のレコードを破っている。一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅《うち》へ帰ると世界中の学者や素人《しろうと》から色々の質問や註文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別|厭《いや》な顔をしないで気永に親切に誰にでも満足を与えているようである。
彼の名声が急に揚がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分らない、しかし多くのドイツ人には分りやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た。勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇《むやみ》な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のような事を述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の永いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると云い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。またアインシュタインは進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書を書かせ、これを同じ新聞に掲げた。その短い文章は例の通りキビキビとして極めて要を得ているのは勿論であるが、その行文の間に卑怯な迫害者に対する苦々しさが滲透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマクス・ラインハルトの名も交じっていた。
その後ナウハイムで科学者大会のあった時、特にその中の一日を相対論の論評にあてがった。その時の会場は何となく緊張していたが当人のアインシュタインは極めて呑気《のんき》な顔をしていた。レナードが原理の非難を述べている間に、かつてフィルハルモニーで彼の人身攻撃をやった男が後ろの方の席から拍手をしたりした。しかしレナードの急《せ》き込んだ質問は、冷静な、しかも鋭い答弁で軽く受け流された。
レナード「もし実際そんな重力の『場』があるなら、何かもっと見やすい(anschaulich)現象を生じそうなものではないか。」
アインシュタイン「見やすいとか見やすくないとかいう事は時代とともに変るもので、云わば時の函数であります。ガリレーの時代の人には彼の力学はよほど見やすくないものだったでしょう。いわゆる見やすい観念などと称するものは、例の『常識』『健全な理知』(gesunder Menschenverstand)と称するものと同様にずいぶん穴だらけなものかと思います。」
この返答で聴衆が笑い出したと伝えられている。この討論は到底相撲にならないで終結したらしい。
今年は米国へ招かれて講演に行った。その帰りに英国でも講演をやった。その当時の彼の地の新聞は彼の風采と講演ぶりを次のように伝えている。
「……。ちょっと見たところでは別に堂々とした様子などはない。中背で、肥っていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの梳《くしけず》らない団塊である。額には皺《しわ》、眼のまわりには疲労の線条を印している。しかし眼それ自身は磁石のように牽《ひ》き付ける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚の奥に隠れたあるものを見透す詩人創造者の眼である。眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。」
「彼が壇上に立つと聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかる分らぬは問題でない。ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」
「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜《けんそん》で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬《またた》く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」
「不思議な、人を牽《ひ》き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は実際にそうである。数学が出来ると同じ程度にヴァイオリンが出来る。充分な情緒と了解をもってモザルト、シューマン、バッハなどを演奏する……。」
私が初めてアインシュタインの写真を見たのはK君のところでであった。その時に私達は「この顔は夢を見る芸術家の顔だ」というような事を話し合った。ところがこの英国の新聞記者も同じような事を云っているのを見ると、この印象はいくらか共通なものかもしれない。実際彼のような破天荒の仕事は、「夢」を見ない種類の人には思い付きそうに思われない。しかしただ夢を見るだけでは物にならない。夢の国に論理の橋を架けたのが彼の仕事であった。
アメリカのスロッソンという新聞記者のかいた書物の口絵にある写真はちょっとちがった感じを与える。どこか皮肉な、今にも例の人を笑わせる顔をしそうなところがある。また最近にタイムス週刊の画報に出た、彼がキングス・カレッジで講演をしている横顔もちょっと変っている。顔面に対してかなり大きな角度をして突き出た三角形の大きな鼻が眼に付く。
アインシュタインは「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかくも彼は芸術を馬鹿にしない種類の科学者である。アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽である。彼の弾くヴァイオリンが一人前のものだという事は定評であるらしい。かなりテヒニークの六《むつ》ヶしいブラームスのものでも鮮やかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解をもった芸術的の演奏が出来るらしい。
それから、子供の時に唱歌をやったと同じように、時々ピアノの鍵盤の前に坐って即興的のファンタジーをやるのが人知れぬ楽しみの一つだそうである。この話を聞くと私は何となくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気でアインシュタインは明るい。
音楽の中では古典的なものを好むそうである。特にゴチックの建築に譬《たと》えられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェンの作品でも大きなシンフォニーなどより、むしろカンマームジークの類を好むという事や、ショパン、シューマンその他|浪漫派《ろうまんは》の作者や、またワグナーその他の楽劇にあまり同情しない事なども、何となく彼の面目を想像させる。
絵画には全く無関心だそうである。四元の世界を眺めている彼には二元の芸術はあるいはあまりに児戯に近いかもしれない。万象を時と空間の要素に切りつめた彼には色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻に過ぎないかもしれない。
三元的な彫刻には多少の同情がある。特に建築の美には歎美を惜しまないそうである。
そう云えば音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的のものとも云われない事はない。この芸術には一種の「運動」が本質的なものである。ただその時とともに運動する「もの」と空間とが物質的でないだけである。
文学にも無関心ではないそうである。ただ忙しい彼には沢山色々のものを読む暇がないのであろう。シェークスピアを尊敬してゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この名簿も色々の意味で吾々には面白く感じられる。
* ゴットフリード・ケラーとはどんな人かと思って小宮君に聞いてみると、この人(一八一九―一八九〇)はスイスチューリヒの生れで、描写の細かい、しかし抒情的気分に富んだ写実小説家だそうである。
哲学者の仕事に対する彼の態度は想像するに難くない。ロックやヒュームやカントには多少の耳を借しても、ヘーゲルやフィヒテは問題にならないらしい。これはそうありそうな事である。とにかく将来の哲学者は彼から多くを学ばねばなるまい。ショーペンハウアーとニーチェは文学者として推賞するのだそうである。しかしニーチェはあんまりギラギラしている(glitzernd)と云っている。
彼が一種の煙霞癖《えんかへき》をもっている事は少年時代のイタリア旅行から芽を出しているように見える。しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨《ほうこう》するのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の脳裡《のうり》に起っているかという事は誰にも分らない。
勝負事には一切見向かない。蒐集癖も皆無である。学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないと云われている。尤も彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は比較的極めて少数である事は当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨以外にはどこにも居ないのである。
彼の日常生活はおそらく質素なものであろう。学者の中に折々見受けるような金銭に無関心な人ではないらしい。彼の著者の翻訳者には印税のかなりな分け前を要求して来るというような噂も聞いた。多くの日本人には多少変な感じもするが、ドイツ人という者を知っている人には別にそう不思議とは思われない。特に彼の人種の事までも取り立てて考えるほどの事ではないと思われる。
夜はよく眠るそうである。神経のいらいらした者が、彼のような仕事をして、そしてそれが成効に近づいたとすればかなり興奮するにちがいない。勝手に仕事を途中で中止してのんきに安眠するという事は存外六ケしい事であるに相違ない。しかし彼は適当な時にさっさと切り上げて床につく、そして仕事の事は全く忘れて安眠が出来ると彼自身人に話している。ただ一番最初の相対原理に取り付いた時だけはさすがにそうはゆかなかったらしい。幾日も喪心者のようになって彷徨したと云っている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の心持はおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて味わい得られる種類のものであったろう。 

アインシュタインの人生観は吾々の知りたいと願うところである。しかし彼自身の筆によらない限りその一斑《いっぱん》をも窺《うかが》う事はおそらく不可能な事に相違ない。彼の会話の断片を基にしたジャーナリストの評論や、またそれの下手な受売りにどれだけの信用が措《お》けるかは疑問である。ただ煙の上がる処に火があるというあまりあてにならない非科学的法則を頼みにして、少しばかりの材料をここに紹介する。
彼の人間に対する態度は博愛的人道的のものであるらしい。彼の犀利《さいり》な眼にはおそらく人間のあらゆる偏見や痴愚が眼につき過ぎて困るだろうという事は想像するに難くない。稀に彼の口から洩れる辛辣《しんらつ》な諧謔《かいぎゃく》は明らかにそれを語るものである。弱点を見破る眼力はニーチェと同じ程度かもしれない。しかしニーチェを評してギラギラしていると云った彼はこれらの弱点に対してかなり気の永い寛容を示している。迫害者に対しては常に受動的であり、教えを乞う者にはどんな馬鹿な質問にでも真面目に親切に答えている。
智能の世界においての貴族である彼は社会の一員としては生粋《きっすい》のデモクラットである。国家というものは、彼にとってはそれ自身が目的でも何でもない。金の力も無論なんでもない。そうかと云って彼は有りふれの社会主義者でもなければ共産党でもない。彼の説だというのに拠れば、社会の祝福が単に制度をどうしてみたところでそれで永久的に得られるものではない。ただ銘々の我慾の節制と相互の人間愛によってのみ理想の社会に到達する事が出来るというのであるらしい。
勿論彼は世界平和の渇望者である。しかしその平和を得るためには必ずしも異種の民族の特徴を減却しなくてもいいという考えだそうである。ユダヤ民族を集合して国土を立てようというザイオニズムの主張者としてさもありそうな事である。桑木理学博士がかつて彼をベルンに尋ねた時に、東洋は東洋で別種の文化が発達しているのは面白いといったような事を話したそうである。この点でも彼は一種のレラチヴィストであるとも云われよう。それにしても彼が幼年時代から全盛時代の今日までに、盲目的な不正当なショーヴィニズムから受けた迫害が如何に彼の思想に影響しているかは、あるいは彼自身にも判断し難い機微な問題であろう。
桑木博士と対話の中に、蒸気機関が発明されなかったら人間はもう少し幸福だったろうというような事があったように記憶している。また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮りに同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれば、現在より多数の人間が生存し得られるかもしれないが、そうなったとした場合に、それがために人類の幸福が増すかどうかそれは疑問である」と云ったとある。ただこれだけの断片から彼の文化観を演繹《えんえき》するのは早計であろうが、少なくも彼が「石炭文明」の無条件な謳歌者でない事だけは想像される。少なくも彼の頭が鉄と石炭ばかりで詰まっていない証拠にはなるかと思う。
彼はまだこれからが働き盛りである。彼が重力の理論で手を廻さなかった電磁気論は、ワイルによって彼の一般相対性原理の圏内に併合されたようである。これが成効であるとしても、まだ彼の目前には大きな問題が残されている。それはいわゆる「素量《クアンタム》」の問題である。この問題にも彼は久しい前から手を付けている。今後彼がこれをどう取り扱うかが何よりの見ものであろう。エジントンの云うところを聞くと、一般相対原理はほとんどすべてのものから絶対性を剥奪した。すべては観測者の尺度による。ただ一つ残されたものが「作用《アクション》」と称するものである。これだけが絶対不変な「純粋の数」である。素量説なるものは取りも直さずこの作用に一定の単位があるという宣言に過ぎない。この「純数」がおそらくある出来事の「確率《プロバビリティ》」と結び付けられるものであろうと云っている。これに対するアインシュタインの考えは不幸にしていまだ知る機会を得ない。ただ彼が昨年の五月ライデンの大学で述べた講演の終りの方に、「素量説として纏《まと》められた事実があるいは『力の場《フェルド》』の理論に越え難い限定を与える事になるかもしれない」と云っている。この謎のような言葉の解釈を彼自身の口から聞く事の出来る日が来れば、それは物理学の歴史でおそらく最も記念すべき日の一つになるかもしれない。(大正十年十月) 
 
アインシュタインの教育観 / 寺田寅彦 

 

近頃パリに居る知人から、アレキサンダー・モスコフスキー著『アインシュタイン』という書物を送ってくれた。「停車場などで売っている俗書だが、退屈しのぎに……」と断ってよこしてくれたのである。
欧米における昨今のアインシュタインの盛名は非常なもので、彼の名や「相対原理」という言葉などが色々な第二次的な意味の流行語になっているらしい。ロンドンからの便りでは、新聞や通俗雑誌くらいしか売っていない店先にも、ちゃんとアインシュタインの著書(英訳)だけは並べてあるそうである。新聞の漫画を見ていると、野良のむすこが親爺《おやじ》の金を誤魔化《ごまか》しておいて、これがレラチヴィティだなどと済ましているのがある。こうなってはさすがのアインシュタインも苦い顔をしている事であろう。
我邦《わがくに》ではまだそれほどでもないが、それでも彼の名前は理学者以外の方面にも近頃だいぶ拡まって来たようである。そして彼の仕事の内容は分らないまでも、それが非常に重要なものであって、それを仕遂げた彼が非常な優れた頭脳の所有者である事を認め信じている人はかなりに多数である。そうして彼の仕事のみならず、彼の「人」について特別な興味を抱いていて、その面影を知りたがっている人もかなりに多い。そういう人々にとってこのモスコフスキーの著書は甚だ興味のあるものであろう。
モスコフスキーとはどういう人か私は知らない。ある人の話ではジャーナリストらしい。自身の序文にもそうらしく見える事が書いてある。いずれにしても著述家として多少認められ、相当な学識もあり、科学に対してもかなりな理解を有《も》っている人である事は、この書の内容からも了解する事が出来る。
この人のアインシュタインに対する関係は、一見ボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対するようなものかもしれない。彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。「琥珀《こはく》の中の蝿《はえ》」などと自分で云っているが、単なるボスウェリズムでない事は明らかに認められる。
時々アインシュタインに会って雑談をする機会があるので、その時々の談片を題目とし、それの注釈や祖述、あるいはそれに関する評論を書いたものが纏《まと》まった書物になったという体裁である。無論記事の全責任は記者すなわち著者にあることが特に断ってある。
一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。
それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとすると、この一篇の記事もやはり一つの「真」の相かもしれない。そうでない場合でも、何かしら考える事の種子くらいにはならない事はあるまい。
余談はさておき、この書物の一章にアインシュタインの教育に関する意見を紹介論評したものがある。これは多くの人に色々な意味で色々な向きの興味があると思われるから、その中から若干の要点だけをここに紹介したいと思う。アインシュタイン自身の言葉として出ている部分はなるべく忠実に訳するつもりである。これに対する著者の論議はわざと大部分を省略するが、しかし彼の面目を伝える種類の記事は保存することにする。
アインシュタインはヘルムホルツなどと反対で講義のうまい型の学者である。のみならず講義講演によって人に教えるという事に興味と熱心をもっているそうである。それで学生や学者に対してのみならず、一般人の知識慾を満足させる事を煩わしく思わない。例えば労働者の集団に対しても、分りやすい講演をやって聞かせるとある。そんな風であるから、ともかくも彼が教育という事に無関心な仙人肌でない事は想像される。
アインシュタインの考えでは、若い人の自然現象に関する洞察の眼を開けるという事が最も大切な事であるから、従って実科教育を十分に与えるために、古典的な語学のみならず「遠慮なく云えば」語学の教育などは幾分犠牲にしても惜しくないという考えらしい。これについて持出された So viele Sprachen einer versteht, so viele Male ist er Mensch. というカール五世の言葉に対して彼は、「語学競技者《シュプラハ・アトレーテン》」は必ずしも「人間」の先頭に立つものではない、強い性格者であり認識の促進者たるべき人の多面性は語学知識の広い事ではなくて、むしろそんなものの記憶のために偏頗《へんぱ》に頭脳を使わないで、頭の中を開放しておく事にある、と云っている。
「人間は『鋭敏に反応する』(subtil zu reagieren)ように教育されなければならない。云わば『精神的の筋肉』(geistige Muskeln)を得てこれを養成しなければならない。それがためには語学の訓練《ドリル》はあまり適しない。それよりは自分で物を考えるような修練に重きを置いた一般的教育が有効である。」
「尤《もっと》も生徒の個性的傾向は無論考えなければならない。通例そのような傾向は、かなりに早くから現われるものである。それだから自分の案では、中等学校《ギムナジウム》の三年頃からそれぞれの方面に分派させるがいいと思う。その前に教える事は極めて基礎的なところだけを、偏しない骨の折れない程度に止《とど》めた方がいい。それでもし生徒が文学的の傾向があるなら、それにはラテン、グリーキも十分にやらせて、その代り性に合わない学科でいじめるのは止《よ》した方がいい……」
これは明らかに数学などを指したものである。数学嫌いの生徒は日本に限らないと見えて、モスコフスキーの云うところに拠ると、かなりはしっこい頭でありながら、数学にかけてはまるで低能で、学校生活中に襲われた数学の悪夢に生涯取り付かれてうなされる人が多いらしい。このいわゆる数学的低能者についてアインシュタインは次のような事を云っている。
「数学嫌いの原因が果して生徒の無能にのみよるかどうだか私にはよく分らない。むしろ私は多くの場合にその責任が教師の無能にあるような気がする。大概の教師はいろんな下らない問題を生徒にしかけて時間を空費している。生徒が知らない事を無理に聞いている。本当の疑問のしかけ方は、相手が知っているか、あるいは知り得る事を聞き出す事でなければならない。それで、こういう罪過の行われるところでは大概教師の方が主な咎《とが》を蒙《こうむ》らなければならない。学級の出来栄えは教師の能力の尺度になる。一体学級の出来栄えには自ずから一定の平均値があってその上下に若干の出入りがある。その平均が得られれば、それでかなり結構な訳である。しかしもしある学級の進歩が平均以下であるという場合には、悪い学年だというより、むしろ先生が悪いと云った方がいい。大抵の場合に教師は必要な事項はよく理解もし、また教材として自由にこなすだけの力はある。しかしそれを面白くする力がない。これがほとんどいつでも禍《わざわい》の源になるのである。先生が退屈の呼吸《いき》を吹きかけた日には生徒は窒息してしまう。教える能力というのは面白く教える事である。どんな抽象的な教材でも、それが生徒の心の琴線に共鳴を起させるようにし、好奇心をいつも活かしておかねばならない。」
これは多数の人にとって耳の痛い話である。
この理想が実現せられるとして、教案を立てる際に材料と分布をどうするかという問に対しては、具体的の話は後日に譲ると云って、話頭を試験制度の問題に転じている。
「要は時間の経済にある。それには無駄な生徒いじめの訓練的な事は一切廃するがいい。今日でも一切の練習の最後の目的は卒業試験にあるような事になっている。この試験を廃しなければいけない。」「それは修学期の最後における恐ろしい比武競技のように、遥かの手前までもその暗影を投げる。生徒も先生も不断にこの強制的に定められた晴れの日の準備にあくせくしていなければならない。またその試験というのが人工的に無闇《むやみ》に程度を高く捻《ね》じり上げたもので、それに手の届くように鞭撻《べんたつ》された受験者はやっと数時間だけは持ちこたえていても、後ではすっかり忘れて再び取りかえす事はない。それを忘れてしまえば厄介な記憶の訓練の効果は消えてしまう。試験さえすめば数カ月後には大丈夫綺麗に忘れてしまうような、また忘れて然るべきような事を、何年もかかって詰め込む必要はない。吾々は自然に帰るがいい。そして最小の仕事を費やして最大の効果を得るという原則に従った方がいい。卒業試験は正にこの原則に反するものである。」
それでは大学入学の資格はどうしてきめるかとの問に対して、
「偶然に支配されるような火の試練《フォイアプローベ》でなく、一体の成績によればいい。これは教師にはよく分るもので、もし分らなければ罪はやはり教師にある。教案が生徒を圧迫する度が少なければ少ないほど、生徒は卒業の資格を得やすいだろう。一日六時間、そのうち四時間は学校、二時間は宅で練習すれば沢山で、それすら最大限である。もしこれで少な過ぎると思うなら、まあ考えてみるがいい。若いものは暇な時間でも強い興奮努力を経験している。何故と云えば、彼等は全世界を知覚し認識し呑み込まなければならないから。」
「時間を減らして、その代りあまり必須でない科目を削るがいい。『世界歴史』と称するものなどがそれである。これは通例乾燥無味な表に詰め込んだだらしのないものである。これなどは思い切って切り詰め、年代いじりなどは抜きにして綱領だけに止めたい。特に古い時代の歴史などはずいぶん抜かしてしまっても吾人の生活に大した影響はない。私は学生がアレキサンダー大王その外何ダースかの征服者の事を少しも知らなくても、大した不幸だとは思わない。こういう人物が残した古文書的の遺産は、無駄なバラストとして記憶の重荷になるばかりである。どうしても古代に溯《さかのぼ》りたいなら、せめてサイラスやアルタセルキセスなどは節約して、文化に貢献したアルキメーデス、プトレモイス、ヘロン、アポロニウスの事でも少し話してもらいたい。全課程を冒険者や流血者の行列にしないために発明家や発見家も入れてもらいたい。」
歴史の時間の一部を割いて、実際の国家組織に関する事項、社会学や法律なども授けてはどうかという問に対してはむしろ不賛成だと答えている。彼自身個人としては公生活の組織に関してかなりな興味をもっているが、学校で政治的素養を作る事は面白くないと云っている。その理由は第一こういう教育は官辺の影響のために本質的《ザハリヒ》に出来にくいし、また頭の成熟しないものが政治上の事にたずさわるのは一体早過ぎるというのである。その代り生徒に何かしら実用になる手工を必修させ、指物《さしもの》なり製本なり錠前なりとにかく物になるだけに仕込んでやりたいという考えである。これに対してモスコフスキーが、一体それは腕を仕込むのが主意か、それとも民衆一般との社会的連帯の感じを持たせるためかと聞くと、
「両方とも私には重要に思われる。その上に私のこの希望を正当と思わせるもう一つの見地がある。手工は勿論高等教育を受けるための下地にはならないでも、人間(〔sittliche Perso:nlichkeit〕)として立つべき地盤を拡げ堅めるために役に立つ。普通学校で第一に仕立てるべきものは未来の官吏、学者、教員、著述家でなくて「人」である。ただの「脳」ではない。プロメトイスが最初に人間に教えたのは天文学ではなくて火であり、工作であった……」
これに和してモスコフスキーは、同時に立派な鍛冶《かじ》でブリキ職でそして靴屋であった昔の名歌手《マイステルジンガー》を引合いに出して、畢竟《ひっきょう》は科学も自由芸術の一つであると云っている。しかしアインシュタインが、科学それ自身は実用とは無関係なものだと言明しながら、手工の必修を主張して実用を尊重するのが妙だと云うのに答えて次のような事を云っている。
「私が実用に無関係と云ったのは、純粋な研究の窮極目的についてである。その目的はただ極めて少数の人にのみ認め得られるものである。それでせいぜい科学の準備くらいのところまでこの考えを持って行くのは見当違いである。むしろ反対に私は学校で教える理科は今日やっているよりずっと実用的に出来ると思う。今のはあまりに非実際的《ドクトリネーア》過ぎる。例えば数学の教え方でも、もっと実用的興味のあるように、もっとじかに握《つか》まれるように、もっと眼に見えるようにやるべきのを、そうしないから失敗しがちである。子供の頭に考え浮べ得られる事を授けないでその代りに六《むつ》かしい「定義」などをあてがう。具体的から抽象的に移る道を明けてやらないで、いきなり純粋な抽象的観念の理解を強いるのは無理である。それよりもこうすればうまく行ける。先ず一番の基礎的な事柄は教場でやらないで戸外で授ける方がいい。例えばある牧場の面積を測る事、他所《よそ》のと比較する事などを示す。寺塔を指してその高さ、その影の長さ、太陽の高度に注意を促す。こうすれば、言葉と白墨《はくぼく》の線とによって、大きさや角度や三角函数などの概念を注ぎ込むよりも遥かに早く確実に、おまけに面白くこれらの数学的関係を呑み込ませる事が出来る。一体こういう学問の実際の起原はそういう実用問題であったではないか。例えばタレースは始めて金字塔の高さを測るために、塔の影の終点の辺へ小さな棒を一本立てた。それで子供にステッキを持たせて遊戯のような実験をやらせれば、よくよく子供の頭が釘付け《フェルナーゲルト》でない限り、問題はひとりでに解けて行く。塔に攀《よ》じ上らないでその高さを測り得たという事は子供心に嬉しかろう。その喜びの中には相似三角形に関する測量的認識の歓喜が籠っている。」
「物理学の初歩としては、実験的なもの、眼に見えて面白い事の外は授けてはいけない。一回の見事な実験はそれだけでもう頭の蒸餾瓶《レトルト》の中で出来た公式の二十くらいよりはもっと有益な場合が多い。やっと現象の世界に眼のあきかけた若いものの頭に公式などは一切容赦してやらねばいけない。公式は、丁度世界歴史の年代の数字と同様に、彼等の物理学の中に潜む気味の悪い怖ろしい幽霊である。よく訳のわかった巧者な実験家の教師が得られるならば中頃の学級からやり始めていい。そうしてもラテン文法の練習などではめったに出逢わないような印象と理解を期待する事が出来るだろう。」
「ついでながら近頃やっと試験的に学校で行われ出した教授の手段で、もっと拡張を奨励したいのがある。それは教育用の活動フィルムである。活動写真の勝利の進軍は教育の縄張りにも踏み込んでくる。そしてそこで始めて、多数の公開観覧所が卑猥《ひわい》なものやあくどい際物《きわもの》で堕落し切っているのに対して、道徳的なものをもって対抗させる機会を得るだろう。教授用フィルムに簡単な幻燈でも併用すれば、従来はただ言葉の記載で長たらしくやっている地理学などの教授は、世界漫遊の生きた体験にも似た活気をもって充たされるだろう。そして地図上のただの線でも、そこの実景を眼《ま》の当りに経験すれば、それまでとはまるで違ったものに見えて来る。また特にフィルムの繰り出し方を早めあるいは緩めて見せる事によって色々の知識を授ける事が出来る。例えば植物の生長の模様、動物の心臓の鼓動、昆虫の羽の運動の仕方などがそうである。それよりも一層重要だと思うのは、万人の知っているべきはずの主要な工業経営の状況をフィルムで紹介する事である。動力工場の成り立ち、機関車、新聞紙、書籍、色刷挿画はどうして作られるか、発電所、ガラス工場、ガス製造所にはどんなものがあるか。こんな事はわずかの時間で印象深く観せる事が出来る。更に自然科学の方面で、普通の学校などでは到底やって見せられないような困難な実験でも、フィルムならば容易に、しかも実際と同じくらい明瞭に示すことが出来る。要するに教育事業を救うの道はただ一語で「もっと眼に浮ぶようにする」(〔die erho:hte Anschaulichkeit〕)という事である。出来る限りは知識(Erlernen)が体験が(Erleben)にならねばならない。この根本方針は未来の学校改革に徹底させるべきものである。」
大学あたりの高等教育についてはあまり立入った話はしなかったそうである。しかしアインシュタインは就学の自由を極端まで主張する方で、聴講資格のせせこましい制定を撤廃したいという意見らしい。演習なり実習なりである講義を理解する下地の出来たものは自由に入れてやって、普通学の素養などは強要しない。ことに彼の経験では有為な徹底的な人間は往々一方に偏する傾向があるというのである。従って中等学校では生徒がある特殊な専門に入るだけの素養が出来次第その学科に対するだけの免状をやる事にすればいい。前に中学卒業試験全廃を唱えたのは、つまりこうして高等教育の関門を打破する意味と思われる。尤《もっと》も彼も全然あらゆる能力験定をやめるというのではない。医科学生になるための予備試験などは止めた方がいいが、しかし将来教師になろうという人で、見込のないようなのは早く験出してやめさせる方がいいと云っている。これは生徒に寛で教師に厳な彼としてさもあるべきことだと著者が評している。
ここで著者はしばらくアインシュタインをはなれて、これらの問題に対するこの理学者の権威の如何について論じている。理論物理のような常識に遠い六かしい事を講義して、そして聴衆を酔わせ得るのは、彼自身の内部に燃える熱烈なものが流れ出るためだと云っている。彼の講義には他の抽象学者に稀に見られる二つの要素、情調と愛嬌が籠っている、とこの著者は云っている。講義のあとで質問者が押しかけてきても、厭な顔をしないで楽しそうに教えているそうである。彼の聴講者は千二百人というレコード破りの多数に達した。彼の講義室は聞くまでもなくすぐ分る。みんなの行く方へついて行けばいい、と云われるくらいだそうである。この人気に対して一種の不安の色が彼の眉目の間に読まれる。のみならず「はやりものだな」という言葉が彼の口から洩れた。しかしこれは悪く取ってはいけない、無理のないところもあると著者が弁護している。
それから古典教育に関する著者の長い議論があるが、日本人たる吾々には興味が薄いから略する事にして、次に女子教育問題に移る。
婦人の修学はかなりまで自由にやらせる事に異議はないようだが、しかしあまり主唱し奨励する方でもないらしい。
「他の学科と同様に科学の方も、なるべく道をあけてやらねばなるまい。しかしその効果については多少の疑いを抱いている。私の考えでは婦人というものに天賦のある障害があって、男子と同じ期待の尺度を当てる訳にはいかないと思う。」
キュリー夫人などが居るではないかという抗議に対しては、
「そういう立派な除外例はまだ外にもあろうが、それかといって性的に自ずから定まっている標準は動かされない。」
モスコフスキーは四十年前の婦人と今の婦人との著しい相違を考えると、知識の普及に従って追々は婦人の天才も輩出するようになりはしないか、と云うと、
「貴方《あなた》は予言が御好きのようだが、しかしその期待は少し根拠が薄弱だと思う。単に素養が増し智能が増すという『量的』の前提から、天才が増すというような『質的』の向上を結論するのは少し無理ではないか。」こう云った時にアインシュタインの顔が稲妻のようにちょっとひきつったので、何か皮肉が出るなと思っていると、果して「自然が脳味噌のない『性』を創造したという事も存外無いとは限らない」と云った。これは無論|笑談《じょうだん》であるが彼の真意は男女の特長の差異を認めるにあるらしい。モスコフスキーはこれを敷衍《ふえん》して「婦人は微分学を創成する事は出来なかったが、ライプニッツを創造した。純粋理性批判は産めないが、カントを産む事が出来る」と云っている。
話頭は転じて、いわゆる「天才教育」の問題にはいる。特別の天賦あるものを選んで特別に教育するという事は、原理としては多数の承認するところで問題は程度如何にある。これは元来ダーウィンの自然淘汰説に縁をひいていて、自然の選択を人工的に助長するにある。尤もこの考えはオリンピアの昔から、あらゆる試験制度に通じて現われているので、それ自身別に新しいことではないが、問題は制度の力で積極的にどこまで進めるかにある、と著者は云っている。これに対するアインシュタインの考えは試験嫌いの彼に相当したものである。「競技《スポルト》かなんぞのようにやる天才養成」(〔quasisportma:ssig gehandhabte Begabetenzu:chtung〕)はいけないと云っている。結果はいかものか失敗かである。しかしこの選択も適度にやれば好結果を得られない事はあるまい。これまでの経験ではまだ具体的な案は得られないが、適当にやれば、従来なら日影でいじけてしまうような天才を日向《ひなた》へ出して発達させる事も出来ようというのである。
著者はこれにつづいて、天才を見付ける事の困難を論じ、また補助奨励と天才出現とは必ずしも並行しない事などを実例について論じている。そして一体天才の出現を無制限に望むのがいいか悪いかという根本問題に触れたところで、アインシュタインの独特な社会観をほのめかしている。しかしこれらの点の紹介は他の機会に譲ることにしたい。(大正十年七月) 
 
一般相対性理論・諸説

 

 
一般相対性理論への疑念  
時間と長さに関する従来説明は相矛盾している 
「時間」と「長さ」に関して、従来から相対性理論の解説書においてさまざまな説明がなされてきましたが、その説明には論理的に矛盾があります。以下にて指摘します。
[説明]
まず時間に関してですが、ある慣性系から、その系に対してある一定速度で運動している別の慣性系を見ると、「時間がゆっくりすすんでいるように見える」と特殊相対論では説明します。
時間がゆっくりすすむことの決定的証拠として、従来からあげられてきたものにミュー粒子の寿命の延びの現象があります。宇宙線から高速でふりそそぐミュー粒子は通常のものに比べて寿命が実際に延びるが、これは高速で運動している粒子の系の時間がゆっくりすすんだ証拠であると説明されてきました。
この説明からすると、「時間がゆっくりすすんでいるように見える」というのは、“見える”のみならずその系では実際に時間がゆっくり進んだからであるということになり、見かけではなく、実質的な時間の遅れがあるということになります(なぜなら、実際に寿命が延びたのですから)。特殊相対論の正しさを示す証拠の一つとして昔からあげられてきたのはご存知の通りです。
つぎに“長さ”を考えてみます。
ある慣性系から、その系に対してある一定速度で運動している別の慣性系を見ると、「物体の長さが縮んでいるように見える」と相対論では説明します。
ここで奇妙なことに気付きます。
“長さ”の方は、時間と違って「実際に長さが縮んだ証拠はこれである!」という実例がなぜか一つも報告されていないのです(この点は、後藤教授も著書「相対性理論の謎と疑問」の中でたしか指摘していました)。時間で遅れがあるならば、長さに関しても、「進行方向に縮んだ物体が発見された!」というニュースがあってもよさそうに思いますが、聞いたことがありません。
これはどういうことでしょうか?
時間は実際に遅れが観測されているのに、長さの方はあくまで見かけで済ませばよいということなのでしょうか?
しかし、これはおかしなことです。
相対論の論理展開を考えると、時間と長さ(空間)は、本質的に区別してあつかっていないので、上のように一方は実質的に変化があるのに、もう一方は“見かけ”にすぎないなどということは起こるはずがありません。
両方とも“実質の変化がある”かまたは両方とも“見かけにすぎない”ということならば話はわかるのですが、一方は「実質的・・」といい、もう一方は「見かけにすぎない」などというのは論理的な筋が通っておらず、到底受け入れることはできません。
相対性理論の教科書等で、時間と空間の説明をそれぞれ独立に読んでいる内には気づかなかったことが、こうして2つを並べると、重大な問題をふくんでいることがわかるのです。
特殊相対性理論の欠陥がまた一つ露呈したといえるでしょう。 
光時計の考察から相対論における時間論の間違いをさぐる

 

時間については「時間・空間の反省と物理学の新しい基本公理の提案」でも詳しく論じましたが、別の視点からみても相対性理論の時間論には思考上の誤りが存在しています。アインシュタインの時間論はデタラメであるといえるのですが、重大な点ですので、下記にて指摘しました。
[要約]
まずはじめに要点だけ述べますと、普遍的な時間の流れを光時計というもので代替してしまったことが相対性理論における決定的な間違いでありました。光時計の進みは時間そのものではないにもかかわらず、アインシュタインは「光時計の進み=普遍的時間の流れ」と強引にイコールで結んでしまったことが、20世紀物理学を根底から誤った道へと導いてしまった原因の一つといえるのです。
[説明]
相対性理論では、光時計が遅れればその系全体の普遍的な時間まで遅れると主張します。光時計が遅れると、その系内の光時計のみならず、ぜんまい時計などの機械式時計や振り子時計、結晶の振動を利用するクオーツ時計、はたまた砂時計までも遅れ、さらに生き物の心臓の鼓動も成長の度合いまでもなにもかも遅れると説明します。
しかし、そんなことはありません。
光時計の進行がおくれたら、なぜ力学的に動く機械式時計まで遅れはじめなければならないのか?遅れる理由がまったくないのです。
それはただ光時計が遅れているだけであり、それ以上の意味はありません。光時計が遅れた状態というのは、光(電磁波)が余計な距離をすすむためにより多くの時間がかかった状態をいうのですが、そんなふうに光の運動が変化したら、なぜ系の普遍的時間まで遅れることになるのか、じつはその根拠がなにもないのです。
光時計に合わせて機械式時計、クオーツ時計まで遅れはじめることなどないし、まして心臓の鼓動までゆっくりになることもありません。昔は、水時計、ランプ時計、ロウソク時計、線香時計、香時計などさまざまな時計があったのですよ。
ここで、光時計とはなにかをはっきりさせておきましょう。
「時間、空間、そして宇宙」から引用します。
光時計
「一定の距離においた平行なニ枚の鏡の間を往復する光のパルスがあったとすると、これは電磁現象を用いた最も簡単な時計として使えます(下図A)。これを光時計ということにしましょう。光のパルスが一方の鏡から他方の鏡へ行く時間を「チク」と数え,帰る時間を「タク」と数えれば、光時計のチク・タクで時間が測れます。こういう時計を考えると、相対性理論を議論するのにたいへん便利です。すべての物理現象は、(たとえば歳をとるといった現象も含めて)電磁気の法則につれて、したがって光時計の時間につれて進行します。したがって光時計の示す時間は特別な時間ではなくて、普遍的な時間を代表するものです。」
相対性理論における時間というものが見事に説明されています。
しかし、先にも述べたように上記の内容は間違っています。
「すべての物理現象は、(たとえば歳をとるといった現象も含めて)電磁気の法則につれて、したがって光時計の時間につれて進行します。」などとなぜ言えるのか?
そう言える根拠を何もあげていないにもかかわらず、強引に日常の普遍的な時間に結び付けてしまっているのがわかります(他の全ての教科書でもそうですが)。天体の運行は、なんの力によって運行しているのか?砂時計はなんの力によって動いているというのでしょうか?
動いている系では下の図Bのように光は進行し(*)、地上からみたらこの時計はゆっくりすすんでいるように見えるでしょうが、しかしこれが機械式時計、砂時計、日時計、人間の成長等になんら影響を与えるものでないこともまた明白なことです。
地上からみても、ロケットの中の機械式時計の進行は地上のものとまったく同じであるし、またロケット中の人の心臓の鼓動も地上となんら変わりありません。実際は地上からみたら光時計が遅れるというだけのこと、ただそれだけのことなのです。
(*)じつはこの光時計の光の進行も間違っています。詳しくは
時間の遅れのカラクリを明らかにする
をご覧ください。
上記の本では、図Aの光時計が地上の観測者の時計、図Bの光時計がロケットにのった光時計の運行として説明されています。
上記の本ではさらに
「光パルスが鏡の間を往復する間に、地上観測者からみれば鏡はロケットと一緒に横に動きますから、ロケットが止まっているときよりも光パルスは斜めに長い距離を同じ速さでcで進まなければなりません。これは地上の観測者から見ると、走っているロケットの時計の方がゆっくりと時を刻むことを意味します。これが運動による時計の遅れと呼ばれる現象です。これはもちろんロケットに限りません。航空機や電車に乗せた時計も、地上においた時計に比べるとゆっくり時を刻むのです。」と記述されています。
ごまかされてはいけないのは、「・・地上においた時計に比べるとゆっくり時を刻むのです。」という文です。ここでも、光時計の時間を、普遍的な時間の流れすなわち時の刻みにこっそりと置き換えようという意図が読みとれることです。
これはすべての相対論の教科書に共通した説明であり、光時計が図Aから図Bのように変わるからその系の時間まで遅れはじめる、すなわち、光時計が遅れればその系の機械式時計、砂時計から生物の心臓の鼓動、人の成長にいたるまですべてが遅れると主張する。
まったくむちゃくちゃな説明です。光という電磁波の挙動が系のすべての運動を規定したりしない。相対論の本を読む際は、この点を十分注意して読んでください。
B図の現象など、地上からみたら「光があのように運動しているのだな」という意味でしかなく、本来的な時間とは全く無関係な現象であるということが大事なポイントです。
時間とは人間が考えだした概念であり、それは「光でもって定義されなければならない」といった代物ではありません。
光でもって時間というものを定義してしまったがために、時間は光という物理的実体の性質にがんじがらめに縛られるという不自由極まりない事態に発展してしまったのです。
相対性理論では時間をまるで実体のようにあつかっていますが、それは光でもって時間を定義してしまったことからの当然の帰結だったわけです。
現代物理学で系ごとに固有の時間を考えなければならないというおかしかことになっているのも、もとをただせばアインシュタインが時間を勝手に無理やり光に結びつけたことが原因しています。
光を使うだけならまだ罪は浅かったのですが(それもミスですが)、それを「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」という互いに矛盾した原理の上に打ち立てたものですから、相対性理論の時間は度をこえておかしなものになってしまった。
さらに、そのおかしな時間概念を用いて、長さ(空間)を定義したものだから、空間の方までおかしなことになり、「こっちでは縮まないが、あっちの系から見れば縮んで見える。」などという奇妙な話がまかり通るようになってしまった。
時間というのは人間にとってわかりにくいものの一つですので、光という一見理にかなったように見えるもので説明されると、だれも「そんなものか・・・」とごまかされてしまったのも無理はないと思いますが。
ではアインシュタインがなぜ時間を光でもって定義しなければならなかったのか。
1900年初頭当時、エーテルがどうやっても発見されない理由(絶対系がいかなる手段をもちいても見つからない理由)をアインシュタインはどうしても単純な原理から導きたかったからと思われます。
当時、エーテルの問題は物理学の大問題であり、エーテルが見つからないこと、また見つからないことに対するうまい理由付けができないことに物理学者は大きな苛立ちを感じていました。
そこに颯爽と登場したアインシュタインという一青年が、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を用い時間の定義を変更するというひねり技を加えれば、ローレンツが導いたのとは違う方法で、ローレンツ変換が導けることに気付きました。エーテルというものに直接触れることなく、マイケルソン・モーレー実験の奇妙な結果を、じつにすっきりと説明してしまったのです。
そのあまりに簡潔で見事(?)な解決のし方に、物理学者がとびついたのは、当時の状況を考えればうなづけます。
しかし、この解決の仕方は、全くの誤りだったのです。アインシュタインは、重大なミスをいくつも犯しました。
そのミスに関しては、「超光速、因果律、タキオン、タイムマシン、双子パラドックスの問題に完全決着をつける」その他で詳しく述べましたのでご覧ください。ともかく、人類はアインシュタインの巧妙な説明に見事に騙されてしまった。そのごまかしを見抜けなかったわけです。
当時ならともかく、21世紀の今に至ってもアインシュタインの発明した時間を大切に守りつづけているのですから、この現状には言葉もありません。ごく簡単に言えば、相対論の時間は、「絶対系などない、全ては相対である」を正当化するために生み出されました。光時計の時間と我々の時間とはなんの関係もありません。
学者は、「相対論の時間こそが本物の時間」のように言わないと体裁がつかないから、いまでもそのように言いつづけているだけです。もちろん、ローレンツ収縮も偽りです。
相対論での時間が我々の現実の時間とまったく結びつかないということに気づかずに現代まできてしまったことは、物理学の歴史における決定的なミスだったといわざるをえません。
21世紀初頭に至っても、学者はまだ気づかない・・・。 
相対論の原理にひそむ理解不可能な論理展開を明らかにする

 

ここでは、光時計に関する従来説明の誤りと、相対論の破綻例を示します。
[説明]
まずはじめに、特殊相対性理論の原理となっている「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を記します。
光速度不変の原理
1「真空中の光の速さは光源の運動状態によらず一定である。」
特殊相対性原理
2「物理法則は、すべての慣性系に対して同じ形であらわされる。」
アインシュタインは、この1と2を指導原理として採用し特殊相対論を作り上げました。
ところで、1は2を考慮に入れると、つぎのようにも表現されます。
光速度不変の原理の別表現
3「いかなる慣性系(観測者)から見ても、光の速さは一定値cである。」
さて、「光速度不変の原理」の実験的証拠としてよくあげられるものに、連星からの光の速さの測定があります。
「相対性理論」(中野董夫著)にはつぎのように記されています。
運動している光源
「光速不変の原理によると、光の速さは光源の運動に無関係である。この原理の検証は、まず天体の観測によって行われた。真空中の静止光源による光速をc、観測者の方へ速さvで運動している光源からの光の速さをc′と書きc′=c +kvとおく。2つの星が互いのまわりを回転している二重星では、一方が地球に近づいているときは、他方の星は遠ざかっている。これらの星からくる光を観測したところ、k<10^-6であることが知られている。(途中略)このようなことから、k=0であり、光速度不変の原理は正しいと考えられる。」
このように光速度不変の原理の証拠があげられているわけですが、しかし少し考えるとわかる通り、これは「光は絶対空間を直進する」というマクスウェルの考えの正しさを確認したものになっているにすぎないということです。光が絶対系を基準に進行することを明瞭に示していて(光源の運動に影響を受けないことを示している)、相対性理論の破綻の例といえるのです。
相対論は、下記の光時計の光進行を見てもわかる通り、一方では光はまるで慣性の法則に従うかのように進行すると主張する理論(光源の運動に影響を受けて進行するのだと主張)ですので、上の事実が自身の主張を真っ向から否定していることを考えれば、相対論の内部矛盾に気づくのは容易です。
図の説明は、絶対系の存在を支持しているだけであり、この連星の結果は3の意味の「光速度不変の原理」の証拠にはなっていない。図では、連星が動き地球が止まっているという形となっていて、これでは3を証明することはできません。
3を証明するには、地球が近づいていく場合と遠ざかる場合の二重星からの光の速さを比べなければならないからです。
この二重星からの光の挙動は、相対論誕生以前に皆がマクスウェル方程式に関して認識していた「電磁波は絶対系を基準に速さcで走る」という電磁波の挙動そのものとなっていることに注目してください。
1は現代物理学においても正しいものです。これはマクスウェルが電磁気学を完成したときから皆が認識していたことで、この1の表現には、なんら相対論的な要素はありません。光速度不変の原理の正しさを証明するには、1ではなく、3の方をこそ実証しなければならない。
ここらあたりの1、2、3のからまり具合をよく理解していないと学者の説明にごまかされてしまいますので十分注意してください。
上の二重星の事実は、「光は絶対系を基準に光速cで走る」ということを支持し、絶対系の存在を強力に主張する内容のものであって、じつは特殊相対論を否定する実例であったのです。
物理学者は、特殊相対論の破綻例を「相対論の正しさの証拠」として教科書等であげつづけているわけです。
結局、物理学者は、相対論において最も本質的な3の場合の証拠をあげようにもあげられず、1の正しさを主張して、ごまかすしか手がない状態なのです。
ちなみに、光が、光時計のように、慣性の法則に従ったような進行をするものではなく、絶対系を基準に走るものであることは、つぎの例でも実証されています。
[光が、慣性の法則に従わず、絶対系を基準に走ることを実証した例]
「光速度不変の原理が実験的に実証されている」は大嘘である
レーザージャイロにより、絶対系の存在は確実となった
特殊相対論の原理における奇妙な点をさぐってみます。ここで光時計を持ち出してみましょう。
図Aにおいて、慣性系S′に固定された光源から光が上方向に発せられ往復運動しているとします。もうひとつの慣性系Sも考え、いま系S′は系Sに対して右方向に速度vで動いているとします。系Sから眺めれば、光は図Bのように斜め上方の鏡を追いかけるように運動すると相対論では主張します。
ここでもし、慣性系Sを絶対系におきかえればどうでしょうか。マクスウェル方程式によれば光は絶対系を直進すると教えますから図Bのように斜めには進まず、真上にいくことになり鏡には当たらない事態になって、上の光時計の説明はおかしいということになります。しかし、現代物理学では、「絶対系というのはありえない」となっていますから、そんな解釈は許されていません。
ところが、光は絶対系を基準に進行することは、航空機に搭載されているレーザージャイロによって実証されていますし、また上の二重星をみても明らかです。絶対系は実在します。
さて光時計では、結局、光源からの光は次の図1(「相対性理論」(中野董夫著)の図)のように進行するという驚くべきことを言っているのと同じです。
これは、光はボールと同じような進行をすると主張するものですが、はたして光(電磁波)が現実にこんな進行をするものなのかどうか。
光は本当にこんな進み方をするのでしょうか?
相対性理論を必死で守ろうとする物理学者は、光は絶対にこのように進行すると主張します。
なぜなら、現代物理学者は特殊相対性原理という原理を頑なに守る必要があるからです。もし、万が一、光が上のような進行をしないと判明したならば、もし上の方向からちょっとでもズレて進むことが判明したならば、電磁気学だけは系によって記述が差別化されることになって、「全ての物理理論はどんな慣性系でも同等」という大原理が破れることになり、相対論のみならず、現代物理は総崩れしてしまうからです。
光は、じつは、光時計のような進行の仕方をしないのです。
その理由を述べます。
上の二重星での光の挙動を見てください。光は、光源の運動の影響を受けないことが実証されています。
しかるに、上の光時計(思考上の産物!)では、光源の運動の影響を受けて(まるで慣性の法則に従うように)進行するとしている。正反対です。
以上より、光時計の光の挙動は嘘であると断言できるからです。
相対性理論が大嘘の空論であることがわかるでしょう。
光時計こそ、光速度不変の原理と特殊相対性原理を具現化したものであり、特殊相対論の土台であることをしっかりと認識してください。
そして、それがアインシュタインのとんでもない欺瞞から発明されたものであることを! 
光速度不変の原理における新パラドックスの提示

 

私が以前から心の底で、ばくぜんと疑問に思っていた問題があります。どの教科書でも議論されておらず、また今回明快な言葉としてとり出すことができましたので、ここに新しいパラドックスとして提示し、皆様の意見を問いたいと思います。以下で単に”系”と言った場合は、すべて”慣性系”を意味します。
[パラドックスの提示]
いま、ある一つの慣性系M内で光が右向きに速さcで進んでいるとします。
物体Aは右向きに速さvで進んでおり、また物体Bは左向きに速さvで進んでいるとします。
いまAとBは慣性系Mの中の物体ですから、物体Aに対する光の速さはc−vであり、また物体Bに対する光の速さはc+vとなります。Mという一つの慣性系の中で議論していることですから、当然こういう計算となります。
これは、物体Aに対する光の相対速度がc−vになり、物体Bに対する光の相対速度がc+vとなるということです。
この場合を状況1としましょう。
いま、物体Aと物体Bをそれぞれ観測者A、観測者Bに置き換えるとします。すると、途端に状況が変わってきます。
観測者をある別系の代表者と考えると、光速度不変の原理の適用できる所となり、観測者Aにとって光の速さはcに見え、また観測者Bにとってもcとなります。この場合を状況2としましょう。
さて状況1と状況2を比べた場合、非常に奇妙なことに気づきます。
状況1では、AとBをある一つの慣性系の中にある物体として考察しました。一方、状況2ではAとBを観測者という立場で考えました。どちらも、物体であるには違いなく意識をもっているかもっていないかの差にすぎません。
状況1では物体Aから見たら光はc−vで走ってくるように見え、物体Bではc+vでくるように見える。ところが、状況2のように物体を観測者としてとらえた途端、どちらの観測者にも光はcでやってくるように見える。
まったく不可解な話です。
到底納得できる話ではありません。「物体から見た・・」も「観測者から見た・・」も本質的に同じであることは明らかだからです。
ここで、相対論者はつぎのように反論するかもしれません。
「いや、上の議論は間違っている。相対性理論によれば、どんな物体からみても光の速さはcに見えるのだ!」と。
しかし、そうでしょうか。
状況1は一つの系内における物体と光の運動の関係と考えていますので、光に対する物体の相対速度は、物体Aの場合、当然c−vとなります。「その物体の立場から見たときの速度(物体から見た速度)」というのが、物理学における相対速度の定義だからです。よって、状況1で相対速度がc−vやc+vになるのは、まったく自然な議論なのです。
しかし状況2のように、光と慣性系(観測者)の間の関係としてとらえたとき、相対論の光速度不変の原理によれば、状況2は(観測者を別のある系の代表者と考えると)観測者AにもBにも光はcで進んでくるように見えることになる。
注意:相対論で”観測者”と言った場合は、”ある慣性系の代表者”(あるいは「ある慣性系に静止する座標の原点」と言ってもよい)という意味をもちます。
「一つの系内の物体としてみればc−vとなり、その物体を観測者(別系の代表者)と見方を変えただけでcになる」などというのは、まったく矛盾した話ではありませんか。「真実はどうだった?」と後で物体君に聞いたらどう答えるのでしょう?
まさにパラドックスが発生しているのです。
(言わずもがなの注意ですが、状況1も当然相対論を使っての議論ですので、この点は誤解しないでください)
同じ一人の人が、一つの物理現象をc−vと見たり、また同時に(!)cと見たりする。この奇妙さはなんなのか、相対論は幻覚症状の理論なのでしょうか?こんなことになるのは、理論が根本的におかしいことの証拠でしょう。
相対論においては、物体、系、観測者の三つがじつにあいまいに使用されてきたように思われてなりません。
こんなおかしな話になるのも、「どんな観測者にも光の速さはcである」という光速度不変の原理が間違っているからです。みなさまはどう思われますか?
さらに、合成速度の観点からも新しいパラドックスも見出しました。今回のパラドックスと合わせて考えてみてください。  
光速度不変の原理は、絶対空間を前提にしたものである

 

今回は、光速度不変の原理は、絶対空間を前提としなければ解釈できないものであることをまず示します。
さらに、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」は互いに矛盾するものであり、その二つを融合させることはできないことを明らかにします。(二つの原理が矛盾することは窪田氏が著書の中で言及されていますが証明までは記されていなかったと思いますので、ここでは私が見出した証明を記しました)
[説明]
まず「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」をはじめに書きますとつぎのようになります。
光速度不変の原理T
1「真空中の光の速さは、光源の運動状態に無関係な一定値cである。」
特殊相対性原理
2「たがいに等速度運動をしているすべての慣性系において、すべての基本的物理法則は、まったく同じ形で
表され、それらの慣性系のなかから特別なものを選び出すことはできない。」
アインシュタインは、この1と2を基本的な原理として採用し特殊相対性理論を作り上げました。
ところで、2を考慮に入れると、1の光速度不変の原理はつぎのようにも表現されます。
光速度不変の原理 U
3「いかなる慣性系(観測者)から見ても、光の速さは一定値cである。」
(*)上の1〜3は「相対性理論の考え方」(砂川重信著)を参考にしました。
以下、これらの原理をくわしく見ていきます。
我々はいま相対論の誕生する直前1904年に立っているとしましょう。そしてアインシュタインの考察を冷静に追っていき、相対論における考察の誤りをみたいと思います。
“速さ”というときは、いつも「何に対する速さか?」ということが問題になります。道を時速5km/hで歩く、というときは、地面に対しての速さをいっているわけです。ですから、1は、「光源の運動状態に無関係に、速さが一定値cとなるような特別な系が存在するのだ」ということを強力に主張していると言いかえることができます(これは、相対論誕生以前のマクスウェル方程式の解釈そのものです!)。
もしそのような系が一つもないならば、1の主張をすること自体無意味ですから、1はそういう意味なのです。その系の数は、一つか二つか・・あるいはもっとたくさんあるのか知れないが、とにかくそのよう特別な系の存在を1は主張している。
しかし、もし存在するとすれば、その特別な系はじつは一つだけなのだ、ということを以下に証明します。
[証明]
いま仮に、光の速さが一定値cとなるような特別な系として系Aが存在したと仮定しましょう。
いま系Bは系Aに対し、ある一定速度vで動いているとします。
仮定により、系Aの座標に静止した人から見ると光は一定値cで進んで見えるのは明らかです。さて、系Bは系Aに対して一定速度で動いているのですから、系B内に静止した人から光をみると、その速さは当然cとはなりません。よって系Bは特別な系とはなりえないことがわかります。
系Aに対する速度が0以外の様々な値をとる他の系を考えても、それらのいかなる系も「特別な系」となることはないことはすぐにわかります。
よって、特別な系が二つ以上存在することはありえない、もしあるとすれば、それはただ一つである、ということが証明されました(言うまでもないことですが、その絶対系に静止した数学的な座標系は無数に設定できます)。
終わり。
1 は、「だた一つの特別な系がこの世にあるのだ」と、その存在を積極的に主張している。
当時、その特別な系は、絶対空間または絶対系と呼ばれていましたから、ここでもその呼び方にならいますと、1は絶対空間の存在を強力に主張している。
1 は、絶対空間の存在を主張している。
2 は、絶対空間の存在を否定している。
このように言えることは、だれの目にも明らかになりました。1と2は全く正反対のことを主張している。
さて、当時の立場で考えると、このようにまったく折り合わない二つの原理を採用して理論を構築しようなどだれも思わないことなどすぐにわかります。1と2は矛盾しているのですから。
ところが、一人アインシュタインだけが違いました。
彼は、簡潔かつ統一的な形式というものが異常なほど好きだったのでしょう。1と2をなんとか融合させたかった。
1 はマクスウェル方程式の性質を表現したもの、2はニュートン力学を意識したものといえますが、単純な原理のところで、この2つを形式の上で統一的に表現したかったのです。形式というものに異常にこだわったのがアインシュタインでした。
1 と 2 の融合から生まれた3など、だれが見ても誤りなのはあきらかです。しかし、アインシュタインは「力学の法則はすべての慣性系に・・」ではなく、「すべての物理法則はすべての慣性系に・・・」とどうしてもしたかった。
1 と 2 などだれが見ても矛盾しているし、3など小学生がみても嘘とわかります。
しかし、3 をなんとか成立させたい。どうすればいいか・・・。
「困った。いや、待てよ。そうだ。時間とはそもそも光という手段でしか表現できないのではないか?時間を、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を基礎とし、光を使って定義し直してみると・・・おお、あのローレンツ変換式が出てくるではないか!ローレンツらのように人工的な仮説を設けて導く方法より、こちらの方がよほどすっきりしている!説得力もありそうだ。」と、このような経緯をへて、有名な「動いている物体の電気力学」を1905年に書いたと想像されます。
時間とはわかりにくいものです。
そのわかりにくいものを、光でもってあのように表現されると、だれも「時間って・・そんなものなのか・・・」となってしまってもおかしくありません。
相矛盾した1と2をどうしても理論の基礎におきたいために、アインシュタインは矛盾した原理同士の上で、その矛盾の論理を用いて時間というものを再定義したのです。
時間を徹底的にねじ曲げるることで、なんとかつじつまを合わせ、できあがったのが相対論です。原理という土台で無理をしているのですから、どこかにそのしわ寄せがくることは当然のことだったのです。
ボーアやマイケルソンなどは相対性理論に大反対だったようですが、「大天才現る!ニュートン以来の大革命!」という、マスコミを含めての世間の大合唱がそれらを押し切ってしまったのでしょう。私が相対論をよく「つじつま合わせの理論」と呼ぶのは以上のような理由からです。
アインシュタインは歴史的論文「動いている物体の電気力学」の中で、「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」が矛盾していないことの証明を与えているのですが、その証明が全くの偽りであることを、他項で示しました。それは驚くべき欺瞞の証明となっています。
以上の議論から、特殊相対性原理と光速度不変の原理は矛盾したものであることが判明しました。
物理の教科書ではよく「相対論の理論形式の簡潔さ、美しさ」ということが強調されます。
たしかに、物理学においてそれも一つの重要な要素ではありますが、しかしいくら簡潔であろうと基礎においた二つの原理が矛盾しているのですから、その上に構築された理論が正しいものとなることは絶対にない、ということを認識することが大切です。
相対論の誕生がニュートン以来の大革命などといわれるのは、「時間・空間」の概念を根底から変えてしまったからですが、アインシュタインの時間に対する考察が間違っていたのは、他の様々な箇所で示したとおりです。じつは、時間は、宇宙全体に共通に流れていると約束する、という性質のものだったのです。物理学者はいつ気づくのでしょうか・・・  
「光速度不変の原理」ではなく「特殊相対性原理」に注目すべし

 

相対論で、私がいつも思っていることがあります。それは”光速度不変の原理”に関してのことです。
特殊相対論のことになると、「光速度不変の原理がこうだ、光速度不変の原理はああだ」といろいろな人が主張するのですが、そんなことを言ってるから、核心部分がいつも不確かな状態になっている気がします。
みな光速度不変の原理という原理をいまひとつあいまいにしかつかめていないのでないでしょうか。
特殊相対性理論は光速度不変の原理だけから構成されているのではありません。
「光速度不変の原理」とともに、もう一つの柱である「特殊相対性原理」を合わせて構成されています。
すなわち、特殊相対論は、
1 光速度不変の原理
2 特殊相対性原理
という二つを指導原理として作られているのです。
アインシュタインの誤りをはっきりと認識するには、ズバリ2特殊相対性原理にこそ注目しなければならい。
光速度不変の原理ばかり見ていてはダメです(本質がぼやけてしまう)。
上の
相対論の原理にひそむ理解不可能な論理展開を明らかにする
でも説明しましたが大事な点ですので、これまでの記述をまとめる形で再度説明します。
相対論の教科書によく出てくる1、2、3をもう一度書きます。
光速度不変の原理1「真空中の光の速さは光源の運動状態によらず一定である」
特殊相対性原理2「物理法則は、すべての慣性系に対して同じ形であらわされる」
1 は 2 を考慮に入れると、つぎのようにも表現されます。
光速度不変の原理の別表現3「いかなる慣性系(観測者)から見ても光の速さは一定値cである」
はっきり言います。
1 は正しいが、2 と 3 が間違っているのです。
上の 1 は、昔から今日まで完璧に正しい。しかし、2 が間違っているのは、次でも指摘した通り多くの実例で明らかです。
相対論の原理にひそむ理解不可能な論理展開を明らかにする
「光速度不変の原理が実験的に実証されている」は大嘘である
レーザージャイロにより、絶対系の存在は確実となった
2 は完全に誤った原理です。よって、1に2を融合させた3が誤りとなるのは当然であります。
2 のような原理をいつまでも絶対的原理として信奉しているから、現代物理はどこまでもおかしなことになっていくのです。
特殊相対性原理のような間違った原理など、早急に捨て去らなければなりません。学者ははやく気付かなければならない。そして、そのことに気付いたとき、捨て去る勇気をもったとき、ゆがんだ現代物理はまともな状態へと帰ることができます。  
レーザージャイロにより、絶対系の存在は確実となった

 

航空機やロケットに搭載されているレーザージャイロにより、光速度不変の原理が破れていることが窪田氏や後藤教授により報告されています。
ところが、相対論学者は、相対性理論をつかって巧妙に反論し、レーザージャイロこそ相対論を支持するものだと主張しており、双方譲らない状態のままきているように思われます。
この問題を考えているうちに、相対論派が根本のところで大きな勘違いをしていることに気づきました。ここでは相対論派の勘違いを明らかにします。
[説明]
まず議論の本質的な焦点を、論点という形でまず一言で表現しておきます。
<論点>
レーザージャイロの光の挙動は、絶対系を前提にしなければ成り立たないものである。
この<論点>が正しいか否かが、最大の焦点になっています。
反相対論派は、上の論点は正しいと言い、よって相対性理論は間違っていると主張します(もし<論点>が正しければ結果的にこのようになります)。
しかし、相対論派は上の主張に対してまず真っ先に相対性理論をもち出し、つぎのように反論します。
相対論派の反論
回転体上の光の観測点は、回転系すなわち加速度系にあるのだから、これは特殊相対論の適用範囲には属さない。よって、このことで特殊相対論が正否を議論をするのはおかしい。これは加速度系であるから、一般相対論を用いなければならない。一般相対論で計算すれば・・・としていろいろと計算し、「ほら、まったく矛盾がない。相対論は正しいのだ。」 として、締めくくる。
そして、その一般相対論での計算が合っている合っていないで、またさまざまな議論がくり広げられています。
しかし、よく考えてみれば・・・・相対論派の主張はおかしいということに気づきます。
ここでの議論の中心は、レーザージャイロの光の挙動が絶対系を前提にしなければ成り立たないものなのか否か、ということです。上の<論点>の正否をのみを問題にしている。
もしジャイロの光の動きが、絶対系を考えなければ説明のつかないものならば、特殊相対性原理は間違いということになり、相対論は崩壊します。一方、もし絶対系となんら関係のないものならば、この現象から相対論が否定されることはありません。
ちなみに、絶対系とエーテルは無関係です。
今の議論では、この現象から必然的に絶対系が出てくるか否かが最大の焦点なのです。
ここまで来ると、気づくことがあるでしょう。
それは、この現象を説明するのに、かならずしも相対論をもち出す必要などない、ということです。
これが相対論派の反論はおかしいと私がはじめに述べた理由です。
相対論以外の観点から説明され、その結果、絶対系の存在・非存在が明らかになれば、この議論はまったく正常に終わります。そして、その結果、つぎの段階として相対論の正否が判断されるというそれだけのことです。
相対論をもち出す絶対的な必要性、必然性などないのです。
にもかかわらず、上の<論点>を証明するのに、相対論派は、まず真っ先に相対論を持ち出し、あれやこれやと説明する。相対論でなければ、<論点>の正否をだすのは無理とでも思っているかのようです。しかも、もち出してくるのは、まだ十分には実証されていない一般相対論であり、説得力などないことは明らかですし、また等価原理の観点から一般相対論が間違っていることは、一般相対性理論が間違っていることの証明で私が証明したとおりです。
それよりも、まったく違った観点から明快に証明できるのです。
[証明]
レーザージャイロは、物体の回転角速度を検出する装置です。
航空機の機体に加速度計とともにとりつければ、ジャイロからは機体の傾きの情報が、また加速度計からは位置の情報が得られ、それら情報から航空機の正しい姿勢や進行方向を逐次割り出します。
レーザージャイロと加速度計をあわせて、慣性センサといいます。
機体が傾きすぎればもとの姿勢にもどし、方向がはずれそうになれば機首を正しい方向にもどす。慣性センサは、まさに航空機の頭脳の役割を担っています。
レーザージャイロには、リング・レーザージャイロと光ファイバージャイロの2種類がありますが本質的な原理は同じです。レーザージャイロは、装置全体が回転すると光路差に応じた周波数差が生じそれから発生する干渉縞を光検出器で読みとり、その情報から回転角速度を検出します。
レーザージャイロを使うと、機体の傾きを検出しその情報を伝えることで、航空機はつねに安定したよい姿勢をたもつことができます(実際は3次元物体の回転角をリアルタイムに検出し、3次元的な情報により姿勢制御をします)。
レーザージャイロはまったくのブラックボックスの中に置かれていながら、航空機に正常な姿勢を指示し、加速度計での位置情報とを合わせることで、機体を正しく目的地まで誘導してくれる。
この事実自体が、絶対系の存在を確実にしていることは明白です。
なぜなら、もし絶対系などというものがなく光にとって“全ての慣性系が基準”などということになれば、まず航空機の頭脳として用いるという発想自体が浮かびません。設計しようにもできないからです(足場となる絶対的な基準座標を設けることができない!)。
たった一つの絶対系というしっかりとした足場(基準座標)があるから、機体の連続的な傾き等の情報値を逐次たし合わせることが保証され、正確な姿勢・位置が割りだせる。最初の出発時の初期姿勢をゼロにセットし、そこから順次更新していく状況を思い浮かべてください。
絶対系という確固たる足場があるからこそ、現地点での計算値が保証される。
もし絶対系というものを想定しなければ、飛行機の頭脳である慣性センサの設計すらできません。このことはレーザージャイロの設計自体が、絶対的基準系を足場に光が進行することを前提に組み立てられている証拠なのです。また設計上の計算を実際にみても、絶対系を想定した計算がなされている。
さらに、この装置の設計においては、慣性系、加速度系(回転系)などという区別がなされる必要がないことがわかります。「回転系は一般相対論で、慣性系は特殊相対論で・・」などとそんな風に設計をしているのではなく、そんなことにはおかまいなしに、技術者は絶対系という一つ絶対的な基準座標を用いて、古典物理学の範疇でレーザージャイロという装置を設計し作っています。そして、現実にその装置は超精密な精度で動作している。
結局、現代の技術者たちは、マクスウェル方程式を、相対論誕生以前の常識的観点から素直に解釈したということです。
真空中のマクスウェル方程式の二つのrotの式 rotE(x)=−∂B(x)/∂t と c^2・rotB(x)=∂E(x)/∂t から波動方程式が導かれますが、それを解くとその波の速度はcとなります。これこそが「電磁波がcという速度で走る絶対系という特別な足場があるんだ」と我々に教えてくれていたにもかかわらず、アインシュタインは「特別な系などない。全ての系は同等だ!」という誤った特殊相対性原理を勝手に打ち立て、電磁気学の基本解釈を無茶苦茶にしてしまった。
しかし、現代技術の前に、特殊相対性原理という原理の嘘があっけなく露呈してしまいました。
結局、光とは絶対系を基準に速さcで走るものであり、他の運動系から見た場合c以外の速さになるという、相対論誕生以前の物理学者なら誰しも考えた解釈に技術者は素直に従ったということであり、その解釈に則ってレーザージャイロを設計し大成功をみたわけです。
ブラックボックスの中にいながら、レーザージャイロは、航空機が正常に飛ぶための情報を発信しつづけている、という事実をもう一度よく考えてみてください。
光が絶対系を基準に進行していることが、この事実よりはっきりわかるからです。
証明終わり。
上の説明で慣性系、加速度系まったく関係なく、また相対性理論をもち出さずに光を使って絶対系が提示されたことに注目してほしいと思います。
以上から、冒頭の論点は、正しいと私は判断します。
特殊相対性原理の破綻は明らかで、相対論が否定されることはいうまでもないでしょう。
さらに、後藤教授、窪田氏らのレーザージャイロに関する詳細な説明をよまれることをお勧めします。レーザージャイロは、現在、飛行機のみならずロケット、ミサイル、人工衛星、ヘリコプタ、潜水艦などありとあらゆるものに搭載されその姿勢制御に強力な威力を発揮しています。
*後藤教授により、さまざまな本で、本論よりももう少し直接的な方法で光速度不変則破れの証明がなされています。 証明は、後藤教授の説明に比べれば、やや間接的な方法といえるかもしれません。ただし、絶対系の存在を示すにはこれで十分なのです。後藤教授は回転系、慣性系の区別にすこしこだわった議論をされていますが、上の証明より、 その必要もないことがわかるでしょう。  
光と時間の考察でアインシュタインは3重のミスを犯している

 

相対性理論では光が主役を演じるわけですが、光時計の考察においてアインシュタインは3重のミスを犯しています。
今回はこれまでの光と時間に関する考察をまとめる形で、そのミスを述べたいとおもいます。
[説明]
これまでマイケルソン・モーレー実験(以下MM実験)や光時計での光の考察に関して現代物理学が誤っている点をいろいろ指摘しましたが、その中心的な問題点を簡潔に説明すると、つぎのようになります。
上図をみてください。
これは、「相対性理論」(中野董夫著)の光時計の図とほぼ同じものです。
慣性系S′に固定された,y′方向に光を往復させる装置を考え、S′は慣性系Sに対してx方向に速度Vで動いているとし、この現象をSから観測しています。
系S′が系Sに対してどんな速度で走っている慣性系であったとしても、真上に発射された光はぴったり鏡Mに到達する。しかも奇妙なことに、「ベクトル合成されて、右図で左図よりベクトルの長さが長くなっているのに、そのベクトルの大きさは、依然一定値cである」という驚くべきことを言っているのが上図です。
まず問題にしなければならない点は、はたして光は図のような進行をするのか?ということです。
学者は「光は上図のようにまるで慣性の法則に従うかのように進行する」と主張します。私は「上のような進行はしない。
マクスウェル方程式より光は絶対系を足場に進行するから、真上に放たれた光は真上に進んでしまうので鏡Mには当たらない。」と主張します。
光は、上図のような進行はしません。光時計の光の挙動は誤りなのです。
その理由は、光は上図のような慣性の法則に従ったような(つまり光源の運動に影響をうけるような)進行はせず、絶対系を基準に進むことが既に実験で実証されているからです。下記で示しています。
[光が慣性の法則に従わず、絶対系を基準に走ることを実証した例]
「光速度不変の原理が実験的に実証されている」は大嘘である
相対論の原理にひそむ理解不可能な論理展開を明らかにする
レーザージャイロにより、絶対系の存在は確実となった
さて、なぜ物理学者が図1の光の進行を支持するかというと、相対論の根本原理である特殊相対性原理があるからです。しかし、この原理が誤っていることは、上記実例で示された通りですし、さらにこの原理がいかに奇妙なものであるかは、
「相対性原理」にまつわる奇妙この上ない歴史の経緯を明らかにする
で詳しく述べましたので見てください。
松田教授はその著書「なっとくする相対性理論」で、光がなぜ図1のように進行するかの理由を説明していますが、その説明が誤りであることは、「なっとくする相対性理論」の重大ミスの指摘で示したとおりです。ここで、注意してほしいのは、図1の光の進行とMM実験の縦方向の光の進行とは、本質的に同じであるということです。
そのところは教授もよく理解されており、それゆえに「なっとく・・」のp.45でレーザー装置を用いて説明されているのですが、それが全く筋の通らない説明となっているのはまったく残念です。
100年前ならば、物理学者は、マクスウェル方程式をみな私と同じ考えでとらえていました。「電磁波は絶対系を基準にcで走るのだ」と。
しかし、相対性理論が誕生したおかげで、マクスウェル方程式を間違った基盤の上でとらえるようになってしまった。
それは、時間(さらに空間)を徹底的にねじ曲げることで実行されました。
ここまでで、じつは3重のミスのうち2つのミスを説明しているのですがお気づきでしょうか。
まず、図1において、真上に放たれた光はほんとうはそのまま真っ直ぐ上に進行するのにもかかわらず、特殊相対性原理から慣性の法則に従ったように進む(鏡に向っていくように進む)ととらえてしまったことがまず第1番目のミス。
さらに2番目として、もし図1のように光が進行し(物体と同じのように進み)S系のようなベクトルを描くのならば、縦方向と横方向の速度ベクトルが合成されているのですから、右図のS系では速さは当然cより大きくならなければなりません。ところが、不思議なことに、S′系の大きさcのベクトルよりS系では長いベクトルを描いておきながら、今度はここで「光速度不変の原理」という原理をもちだし、光はどの系においてもcなので、右図(S系)でのベクトルの大きさまでもcとしてしまったこと、これが第2番目のミスでした。
図1よりcでないのは明らかですし、これは単純なミスなのです。
数学、物理学において、「速度ベクトルの長さは速さに比例させて描く」というのは基本的な規則ですから。
これは純粋な数学のミスであり、絶対に許されるべきものではありません。
しかし、あろうことか、アインシュタインは時間の定義をねじ曲げることで、「これで理屈は合っているのだ!」と主張し、そしてそれにみんな騙されてしまった。合っているはずがないのです。
時間がどのように捻じ曲げられたか、具体的な計算については、
時間の遅れのカラクリを明らかにする
をご覧ください。
さて、つぎは3番目のミスです。
仮に(あくまでも仮に!)、1番目のミスと2番目のミスがミスでなく図1の光時計の光の進行が正しいものだったとしても、この光時計の時間を我々の日常の普遍的な時間とイコールとしてしまったことが、致命的なミスでした。
相対論の時間が、日常の普遍的な時間とまったく結びつかないものであることは、これまで再三述べてきたとおりです。
すなわち
「光時計の時間」=「日常の普遍的な時間」
としてしまったことが、第3番目のミスだったわけです。説明終わり。
以上が、冒頭にのべた3重のミスです。
相対性理論は、このようにさまざまなミスが折り重なって誕生したものなのです。 
核分裂反応のエネルギーはE=mc^2が第一義の原因ではない

 

原子爆弾や原子力発電のエネルギーは、有名な式E=mc^2の「質量とエネルギーの等価性」が原因であると、従来より言われてきました。それはまるで相対論という理論があったから原子爆弾ができたかのようにも表現され、相対論の正しさの決定的証拠のように喧伝されて、現代にいたっているのは承知のとおりです。
ところが、事実は違っているのです。
核分裂の恐るべき放出エネルギーは、最初にマイトナーとフリッシによって理論的に計算されましたが、それには相対論などまったく用いずになされました(電気ポテンシャル・エネルギーによる計算でした)。後になって、彼らは、相対論のE=mc^2を用いても同じような値がでると気づいたということなのです。電気ポテンシャル・エネルギーでの計算は現代でも十分通用します。
この事実は、先日「原子爆弾」(山田克哉著)を読んではじめて知ったことなのですが、今回は、原子力発電や原子爆弾は、相対性理論があったから誕生したものではない!という驚くべき事実を、上記本を引用しつつ説明します。
[説明]
1938年(昭和13年)12月ストックホルム郊外の静かな田舎町でマイトナーとフリッシが説明したように、ウラン原子核が外部からの中性子を吸収する原子核はその中性子の持っていたエネルギーをもらい受けるので原子核のエネルギーは上がり、原子核は振動を開始する。
その結果、真中あたりにスタイルの良い女性のウエストのような「くびれ」が生じ、その原子核はくびれを境に二つの部分に分かれ、原子核は核のあるままのピーナッツのような形になり、二つの「ふくらみ」が生ずる。原子核全体はプラスに帯電しているから、この二つのふくらみの間には電気反発力による斥力が生じ、お互いに離れようとする。
しかし核力に起因する表面張力が原子核の表面に働いており、それが核の表面積を最小にしようと働くため核力(表面張力)はピーナッツ型になった原子核を表面積最小の球形に引き戻そうとする。しかし核力は至近作用しかしないので、核力に起因する表面張力は、二つのふくらみがくびれを通してくっついたままである程度以上に離れてしまうと、急激に弱まってしまう(至近作用のみならず遠距離作用をもする電気反発力はさほど弱まらない)。
この時もしピーナッツ型を球形に引き戻そうとする表面張力が二つのふくらみを引き離そうとする電気反発力に打ち勝つことができなかったら、核はくびれを境にしてひき裂かれ、核は分裂し二つの分裂片となるが、この分裂片間に存在する電気反発力(斥力)は消えることはないので二つの分裂片は勢いよくお互いに反対方向に運動エネルギーを持ってすっ飛んでいく。明らかに電気反発力が核分裂の原因である。この電気反発力は原子核内に貯えられた電気ポテンシャル・エネルギーとして表すことができるので、核分裂から放出されるエネルギーの源はすでに核内に貯えられている電気ポテンシャル・エネルギーである。
したがって核分裂機構は何もアインシュタインの有名なE=mc^2(質量欠損)など使わずに説明できる。これがマイトナーとフリッシが与えた史上最初の核分裂の物理的解釈であった。さらにマイトナーはE=mc^2を使っても核分裂を説明した。この説明は第2次世界大戦勃発直前になされたものであり、・・・・・
このように核分裂にともなうエネルギーは、電気ポテンシャルエネルギー(電気力と言ってもいいですが)が原因であり、上記の最後の文のようにE=mc^2での解釈というのは、後になってなされたものであることがわかるでしょう。

原子爆弾が炸裂した直後、いわゆる「火の玉」が形成される。原子爆弾の総エネルギーの約35パーセントは熱エネルギーとして放出される。炸裂直後の火の玉の直径は100メートルぐらいになる。爆発直前直後の原子爆弾の温度は、太陽の内部温度(数百万度から1000万度)にまで上がり、原子爆弾そのもの全部がいっきょにガスになってしまう。いったいなぜこんなとてつもない温度にまで上がるのか?
原子核1個の大きさはおよそ10兆分の1センチメートルである。そのような極微な原子核たった1個が二つに分裂しただけで2億電子ボルトのエネルギーが放出されるのである。2億電子ボルトのうち、その80パーセントである1億6000万電子ボルトは二つの分裂片が運ぶ運動エネルギーとして現れる。原子核が分裂を起こすと真っ二つに分裂片(原子核)が生成される。分裂片1個の運ぶ運動エネルギーは、その質量に速度のニ乗を掛けて二で割ったものとして表される(mv^2/2:mは質量の値を表しvは速度を表す)。
したがって分裂片の速度が二倍になるとその運動エネルギーは四倍となり、速度が三倍になると運動エネルギーは九倍、速度が四倍になるとエネルギーは16倍となる、という具合に速度が少し増えただけでも運動エネルギーは激増する!分裂直後の分裂片のスピードは平均秒速1000万メートル(時速3600万キロメートル!)で光速度の約30分の1である。分裂直後の分裂片1個の運動エネルギーはこの速度(秒速1000万メートル)をニ乗した値に比例する(1000万をニ乗するといくつになるか?)。原子核1個が分裂した際、その二つの分裂片の運ぶ運動エネルギーが1億6000万電子ボルトと出るのは右の計算に基づいている。この計算にはすでに速度を使って計算してあるので、アインシュタインの式E=mc^2はいっさい使われていない。・・・・
このように、ものすごい運動エネルギーを得た分裂片は、その後多くの分裂片とぶつかり速度を変化させつつ強烈な電磁波(X線、ガンマー線、熱線)を放出することになります。(電荷が加速度運動すれば電磁波を放出し、その際運動エネルギーは電磁波のエネルギーに転換されていくことに注意)
このように考えれば、電気反発力から運動エネルギーへそして電磁波放出へというこの道筋による解釈がもっとも自然だということができます。E=mc^2での解釈は、「そのような解釈も可能である」と後で誰かが気付いたという意味しかもっていません。相対論とはまったく関係のないところから原子爆弾が生まれたことがわかるでしょう。
以上より、昔から言われつづけてきた「相対性理論が誕生したお陰で、原子力エネルギーの利用が可能となった!」という説明は完全に誤りであると言えます。これは相対性理論が崩壊しても(まもなく確実に崩壊しますが)、現在の原子力発電は、教科書の記述は多少修正されつつも、しかしなんら痛手を負うことなく、そのまま残っていくということです。
「原子爆弾」(ブルーバックス)は、核分裂発見から原爆完成までを、臨場感あふれるタッチでえがいたもので、読んでいると自分が歴史の舞台に立っているかの錯覚をおぼえさせてくれる名著です。 
合成速度の新パラドックス

 

相対論における相対速度に関しては、
光速度不変の原理における新パラドックスの提示
でパラドックスを提示しその矛盾を指摘しましたが、合成速度の面からも新しいパラドックスを見出しました。先のものと本質は同じですが。
相対性理論があくまで正しいと主張される方は、この難問に挑戦されてはいかがでしょうか。
[詳細]
図のように大地(K系とする)に立った人に対して速度uで飛んでいるワシAと、さらにそのワシAに対してwの速度で飛んでいるワシBがいるとします。
いま、これをK系の中での物体の運動と考え、人に対する相対速度を求めてみます。K系という一つの系内で考えていますから、人からみたワシBの速度vはu+wとなることは自明です。すなわち、人は、ワシBをv=u+wで飛んでいると観測するわけです。この場合を状況1としましょう。
さて、つぎにワシAをK´系の代表(K´系の原点に固定されているとする)とし、さらにワシBをK´´系の代表と見ます。
すると、今度はK系、K´系、K´´系という3系間の運動を論じる形となり、相対性理論での系間の合成速度の計算から、人からみたワシBの速度vは、
v=(u+w)/(1+uw/c^2)
となります。この場合を状況2としましょう。この場合、人は、ワシBをv=(u+w)/(1+uw/c^2)で飛んでいると観測するわけです。
奇妙なことになりました。
なんと、状況1と2で、人から見るワシBの相対速度vが異なっているのです。
真実は一つですから、これは全くおかしいわけで、まさにパラドックスが発生しているのです。状況1と2は、物理的には全く同等な状況であることはいうまでもありません。
(言わずもがなの注意ですが、1も当然相対論を使っての議論ですので、この点は誤解しないでくださいね。)
このようになんら無理な設定をせずとも、相対性理論を適用すると、自然に決定的なパラドックスが発生してしまうことになります。このパラドックスは全く致命的で、逃れる余地はないように私の目にはうつるのですが、皆様はどのように考えられるでしょうか。このパラドックスを「合成速度の新パラドックス」と名付け、「光速度不変の原理における新パ
ラドックス」とともに今後様々に議論されることを望みます。
(注釈)
なぜ系間での合成速度が上記のような結果になるのか、念のため少し厳密な計算で示しておきます。
[合成相対速度の計算]
状況2の場合、 特殊相対論によれば、K系とK´系の変換は次のローレンツ変換で結ばれています。
x′=(x−ut)/√(1−(u/c)^2)、 y′=y、  z′=z、  t′=(t−ux/c^2)/√(1−(u/c)^2) ・・・・1
同様にK´系とK´′系の間の変換は、次のようになります。
x´´=(x′−wt′)/√(1−(w/c)^2)、 y´´=y′、 z´´=z′、t´´=(t′−wx′/c^2)/√(1−(w/c)^2)・・2
2の右辺に1を代入して整理すると、
x´´=[x−((u+w)/(1+uw/c^2))t]/√(1−(1/c^2)((u+w)/(1+uw/c^2)))・・・3
となります(t´´は略しますが、以下の結果は同じになります)。
さて、K´´系のK系に対する速さをvとすると、K´´系とK系の間のローレンツ変換は次となります。
x´´=(x−vt)/√(1−(v/c)^2)、 t´´=(t−vx)/√(1−(v/c)^2)・・・4
3と4のx´´は等しくなければならないから、比較することにより、
v=(u+w)/(1+uw/c^2)
となり、状況2での合成速度vが求まります。 
「相対性原理」にまつわる奇妙この上ない歴史の経緯を明らかにする

 

特殊相対性原理/一般相対性原理という原理を物理学が採用してきた過程を眺めると、明らかにおかしいと思う点がいくつもあります。以下、思いつくままに疑問点を述べていきます。
[説明]
まず特殊相対性原理とは何か?を見てみましょう。
「相対性理論の考え方」(砂川重信著)には、この原理が次のように表現されています。
特殊相対性原理
「たがいに等速度運動をしているすべての慣性系において、すべての基本的物理法則は、まったく同じ形で表され、それらの慣性系のなかから特別なものを選び出すことはできない。」
ここで注目すべきは、「・・・・すべての基本的物理法則は、まったく同じ形に・・・」の「すべての」という言葉です。
アインシュタインは特殊相対論を発表した当時、基本的物理法則は、全部で三つだけでした。
1 ニュートンの運動法則、2 ニュートンの万有引力の法則、3 マクスウェルの電磁気学の法則
この三つです。
もし、この原理が本当に正しいものならば、上の三つの法則が、特殊相対性原理を満たしていることを当然証明しなければなりません。そして、よく物理の教科書で書かれているように、1の運動法則と3の電磁気学は、1を特殊相対論的に書き替えると、たしかにローレンツ変換を用いれば全ての慣性系においてまったく同じ形に表現することができます。
アインシュタインは1と3でそれに成功したわけです。この時点で、1のニュートン力学は、特殊相対性理論という力学理論の極限としての意味をもつことになりました。
しかし、2の万有引力の法則(重力理論)だけは、それを特殊相対性原理にもとづく形に(すなわちローレンツ変換不変の形に)書き替えることができなかった。すなわち、書き替えに失敗したのです。
さて、この失敗したという事実に注目する必要があります。
通常ならばここで物理学者は「特殊相対性原理は間違っているのではないか?」と考えるのが普通であり、「物理学ではこんな原理は採用できない。」とするのが正常な思考にもとづく判断というものです。
なぜなら原理で「すべての・・・」と主張しているのですから、三つのうち二つでよいなどということが許されるはずがないからです。しかし、どういうわけか幸運にも生き残ってしまった。
正しい原理であることをいうためには「重力理論でも特殊相対性原理に沿った形のものができた。そしてこの重力理論の正しさが実証された。よって、これで三つの全ての物理法則はたしかに特殊相対性原理を満たすことが証明され、その原理の正しさが実証された。」という形で全員の承認を得なければなりません。
しかしそんなことは一度もなかったのです。
くり返しますが、特殊相対性原理を物理学の基本原理とするためには、まずすべての物理法則をこの原理に則った形に書き替えそれらの法則はたしかに正しいと実証してから、次のステップに進んでいかなければなりません。
しかし、そんなことはなされたことがなかった。
なぜ、このことを重要視することなく、物理学者は先へと進んでしまったのか?私には不可解でなりません。
そのことをせずに先へ進んだということは、特殊相対性原理は一度もその正しさが歴史的に実証されたことがない、ということです。
一度も実証されたことがないのに、その原理が現代物理学の基本原理として君臨し、その具体的規則”ローレンツ変換不変(共変)性”がすべての物理理論に要求される。
何かが狂っているとしかいいようがない。
そして、アインシュタインは、今度は、系を一挙に加速度系まで含めた形に拡張した一般相対性原理を勝手に作り出し(等価原理の考察からでしょうが)、それにもとづく重力理論を作りあげてしまいました。
上記本には、一般相対性原理が次のように表現されています。
一般相対性原理
「すべての基本的物理法則は、任意の座標系で同じ形で表される。」
よく考えると、アインシュタインはここでも非常におかしなことをしています。
この一般相対性原理でも「すべての・・・」と表現されていますが、当時のすべての物理法則がこの原理に則って正しく書き替えられるか否かなど、まったく分からなかったのです。
たまたまアインシュタインはこの原理を用いて、一般相対論という重力理論を作ることに成功しましたが、逆に言えば重力理論しか(いまだに!)成功していないのです。一般相対論は重力理論です。
にもかかわらず、嘘か誠か確めたこともない原理を平気で作りだして、それがあたかも正しい原理であるかのように、なぜアインシュタインは主張するのでしょうか?
一般相対性原理の正しさが証明されるのは、すべての物理法則がこの原理に則って正常に書き替えられ全ての理論の正しさが実証された後でしかありえないのです。
そして、その正しさが実証されてはじめて、その原理を物理理論の基礎として採用することが許される。この手続きを経ずに、勝手にこの原理を理論の基礎に採用してはいけない。「すべての物理法則が、加速度系まで拡張された任意の座標系で同じ形にうまく書き替えられた。そして、その書き換えられた理論の正しさが実験で確認された。」という話も聞いたことがありません。この場合も、特殊相対性原理のときと全く同じ状況が出現しているのです。
これで、なぜ「原理」などと言えるのでしょうか?
さらにおかしなことがあります。
一般相対性原理は、特殊相対性原理をより一般の形に拡張したものですから、もはや特殊・・にこだわる必要はなく、すべての物理理論は、一般・・に則った形で表現されなければなりません。にもかかわらず、重力以外の理論では、物理学者が不変形式にもっていくのは一般・・の方ではなく、どういうわけかいつも特殊・・の方(ローレンツ変換共変性の要求)なのです。
全く不可解であり、不自然なことをやっているとしか見えません。
アインシュタインは、自分勝手に架空の原理を作りだしてはその架空の原理を基礎とした理論を作っていく。
これほど、物理学の規則・規範というものを無視した態度はありません。
今回指摘したことが、現代物理学で、なぜ問題にされないのでしょうか?
こんなことは私でなくとも、だれだって気付くことです。おそらく過去何人もの人が気付いてきたことでしょう。しかし、だれも言い出さない。なぜか?
それは、現代物理学においてアインシュタインは神様に祭り上げられているからだと思います。
アインシュタイン神話が物理学全体を支配していて、その魔力の暗示にかかり、相対性理論の疑問点に関しては学者は思考をストップしてしまうからです。いまこそ目をしっかりと開いてアインシュタインのやってきたことを冷静に見つめてほしいと思います。
注意 / ここで問題にしたは、アインシュタインの考え出した特殊相対性原理と一般相対性原理です。ガリレオの相対性原理は現代でも正しいものですので、この点は間違わないでください。
追記
上では歴史の常識に従って電磁気理論(マクスウェル方程式)はローレンツ変換に対して不変であるとして話をすすめましたが、じつは従来証明は誤っており、マクスウェル方程式はローレンツ変換不変ではありません。この衝撃の事実を<マクスウェル方程式におけるローレンツ変換不変性証明の誤りの発見>で示していますのでご覧ください。 
アインシュタインは物理学の方向性を完全に間違えていた

 

上に関連してさらに述べたいことがあります。
どの本にも指摘されていないので、ここで述べさせてもらいます。それは「アインシュタインが相対性理論という物理理論を構築する際に、その方向性を間違えてしまった」ということです。
上でも述べましたが、特殊相対論が発表された当時の物理学における基本的な物理法則は、三つだけでした。
1 ニュートンの運動法則、2 ニュートンの万有引力の法則(重力理論)、3 マクスウェルの電磁気理論
この三つです。
さてまず話の前提として知っておいてほしいのは、物理学の基礎法則は、大きく二つに分けられるということです。
[1]運動の法則(「力学」とも呼ばれ、力が加わった粒子がどのように運動するかを探求する学問)
[2]力の法則(力の性質そのものを研究する分野)
大雑把に言って、物理学の基礎法則はこの二つに分けることができる。
さて、ここで上の1〜3が、どちらに属すのかを見てみますと、1はニュートン力学とも表現されるように、当然[1]に属します。
2 は、万有引力(重力)がどのような性質の力かを表現したものですから、これはもちろん[2]です。
3 の電磁気学ですが、これはマクスウェル方程式を基礎とする理論です。この方程式は、電気の力、磁気の力がどのようなものかを表現したものですから、[2]に属します。アインシュタインは、ローレンツ力をつけ加えて考察もしていますが、しかしいつでも中心はマクスウェル方程式であって、その方程式の中の一つdivD(x、t)=ρ(x、t)が積分形クーロンの法則F=kqq′/r^2と完全同値であることからもわかる通り、マクスウェル電磁気理論は、力の性質そのものを研究する分野[2]となります。
まとめますと、次のようになります。
1 は[1]に属する
2 は[2]に属する
3 は[2]に属する
これを見て、鋭い人は、すでに気付かれているかもしれません。
特殊相対論を作ったとき、アインシュタインは特殊相対性原理という原理を用いて、1のニュートン力学と3のマクスウェル電磁気学を、まずローレンツ変換に対して共変(不変)という形(ローレンツ変換で理論の形が変わらないようにすること)に統一的に表現しようとしたのです。
しかし、これは、物理理論の構築の方向性として、明らかに間違っています。
なぜなら、1は運動の法則であり、3は力の法則ですので、物理理論としては、全く異なった分野のものです。
それを、特殊相対性原理でもって1と3を、ローレンツ変換共変の形に、わざわざする必要性、必然性などないのです。
しかし、アインシュタインは、なにを勘違いしたのか、まずこの二つを特殊相対性原理で統一して表現した。これが、先に大きな過ちと言った理由です。この結果、ニュートン力学は、特殊相対論という力学に含まれる理論となりました。
統一しようと思うのならば、まず統一すべきは、2と3、すなわち電磁気学と万有引力の法則(重力理論)のはずです。電磁気力は近接作用力、重力は当時遠隔作用力と異なった形式で表現されていましたので、「これを、なんとか統一的・共通的な形式で表現できないか?」と考えるのが物理学者としては自然な態度(それが本当に正しいかどうかは別として)というものです。
ところが、力学の方程式とマクスウェル方程式を、特殊相対性原理でもってローレンツ変換不変の形としてしまった。
この方向性の過ちが、相対論誕生へと繋がる重大なミスとなったわけです。
さらに、輪をかけて悪いことに、物理学者ならここで述べたことくらいすぐ気付くはずのことなのに、一向にこの点を問題にしないのは、なぜなのでしょうか?そこまで、アインシュタインに遠慮するのはなんなのか。
そろそろアインシュタインへの遠慮もこの辺にしておかないと、将来に大きな禍根を残すことになります。
相対性理論という嘘で塗り固められた理論を、「人類最高の宝」などと称して、次代の子供たちに引き渡すわけにはいかないのです。 
超光速、因果律、タキオン、タイムマシン、双子パラドックスの問題に
 完全決着をつける

 

相対性理論に関する話では、超光速、タキオン、双子のパラドックスなどの問題がいろいろと議論されています。
それはSF的にたのしい要素もあってか、よく一般書などでその可能性が論じられています。
しかし、たのしむだけならいいのですが、真っ当な物理学者までが真剣に議論している様子は「相対論が間違っている」ことが明らかになった今となっては、見るに耐えがたいものがあります。
すでに相対論の時間はデタラメであったことが判明していますので、今回はこれらの問題に決着をつけるべく説明します。
[説明]
まずはじめに、時間に関するアインシュタインの失敗から説明していきます。
相対論では、時間を光を使って特殊相対性原理と光速度不変の原理のもとで定義しますが、これによって、時間は、光という実体の性質に縛られるものになりました。
時間とは、本来そんな性質のものではないのですが、アインシュタインが強引にやってしまい、その巧妙な手口にみんなが騙されてしまったことはこれまで再三述べてきました。
ここまででアインシュタインはすでに二つのミスを犯しています。
まず、時間とは光を使って定義するようなものではないのになぜか光を用いてそのように定義してしまった(これにはじつは理由があります、後述)ことが1番目のミス。
二つ目は、その定義に「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」という相矛盾した原理を採用したこと、これが2番目のミスであります。
さて、アインシュタインは、なぜ、そんな強引なことをしなければならなかったかといいますと、電磁気学と力学理論を、特殊相対性原理で統一的に表現するという誤った方針(ここでもアインシュタインは間違った)を強引に成立させるためには時間をいじるしかなくなり、さもそれらしい説明をつけて、時間を光を使って定義するということをやったからです。
「エーテルがみつからないのは当然だ。ローレンツのような人工的な仮説など一切考えないでよいのだ!とにかく、特殊相対性原理と光速度不変の原理だけを考えればよろしい!」という状況を成立させるために、アインシュタインは1905年の論文の冒頭でわざわざ「はて、よく考えると、時間とはそんなに自明なものではない」などと切り出し、論文の最初に時間の定義をもってくるという巧妙な展開を考えました。
特殊相対論という力学理論と電磁気理論を表現形式で統一するには、ローレンツ変換しかない。アインシュタインは当時すでに発表されていたローレンツ変換の公式に、ローレンツらとは全く違うルートからたどり着きたかったのです。
エーテルというものに直接触れない形で、当時大問題であったエーテル問題をうまく解決する方法はないかと模索しました。
そして特殊相対性原理という勝手に作り出した嘘の原理を用いてその上で「時間」を光で定義し直しある大トリックを加えるとうまくいくことに気づいたのです。なぜ時間を光を用いて定義したかと言いますと、ローレンツ変換の公式の中に光速度cが含まれているので、そこへもっていくためには、光を用いて定義するほかなかったわけです。
いま、「嘘の原理」というひどい表現を用いましたが、なぜこのように表現するのか(すべきなのか)は
「相対性原理」にまつわる奇妙この上ない歴史の経緯を明らかにする
を読んでもらえばわかります。
すなわち、アインシュタインは、エーテルというものに直接触れることなく、簡潔にすっきりとローレンツ変換の公式に、どうしてもたどり着きたかった。
そのためには、人類がもともと無意識のうちに持ち合わせていた「時間とは宇宙に共通に一様に流れているもの」という素朴で自然な約束を、捻じ曲げても時間をあのように定義し直さざるをえなかったわけです。
しかし、そのアインシュタインの時間が、日常の我々の時間と全く結びつかないものであったことは、人類史上における決定的なミスとなりました。このことに関しては、次の頁でも詳しく述べています。
光時計の考察から相対論における時間論の間違いをさぐる
さて長々と述べてきましたが、相対性理論での時間は次のように表現されるものとなりました。
t=t′/√(1−v^2/c^2)
ある慣性系(ある人)から、他の慣性系(別の運動している人)を見ると、「相手の時間がゆっくりすすんでいるようにみえる、しかもそれはお互い様であり、どちらも真実」という非常に奇妙な世界へと突入してしまった。
時間というのは、非常にわかりにくいものになったのです(光を用いて「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」で定義すれば当然ですが)。
上の式から、vは光速度cを絶対に超えられない、ということになって、「もし超えれば因果律が破れるのか?タイムマシンは可能か?タキオンはどうか?」などという人がでてくるのですが、そんな心配は無用です。時間を光を用いて、互いに矛盾した「相対性原理」と「光速度不変の原理」で定義すれば、そのような議論をせざるを得なくなるのは当たり前だからです。
超光速の問題
物体の速度は光速度cを超えられないとなったのは、アインシュタインが光と時間を勝手に結び付け、時間を上式のように表現してしまったからであり、ただそれだけの意味しかありません。光速度cがこの世の上限速度である理由などまったくないのです。光速よりも速く伝わる現象は今後いくらでもみつかるでしょう。そのことはすでに指摘されはじめていますが。
因果律の問題
また、光速度cを超えると因果律が破れるか?という問題も、アインシュタインが勝手に上式のように時間を表現したからそう思うだけであって、c以上のスピードになっても実際に因果律が破れたりすることはありません。上式は、誤った思考による産物であり、間違っているのですから、ご安心ください。
タイムマシンの問題
時間を自由にさかのぼれるタイムマシンは作れるか?という古来からの問題も、夢をこわすようで悪いですが、その答えは「不可能」ということになります。現代人は、時間を実体のように捕らえがちです。時間の流れを逆転させることに成功すれば我々は過去へと戻れるのではないか?とすぐ考えるのですが、この考えは誤りです。時間は物理的実体ではありません。人間が勝手に考え出した概念です。時間とは「宇宙全体を過去から未来へ一様に流れるもの」という古来からの人類共通の約束事にすぎないのです。相対論で、光という実体と時間を結びつけたために、時間は必然的に実体としての性質をおびてしまいました。現代人が時間をつい実体のように考えてしまう習性があるのも、相対論が影響しているのではないでしょうか。時間という言葉を出さずに、「なぜ物事の進行は逆転しないのか?こぼれた水はどうして自然にコップに戻らないのか?このような現象はなぜ起こらないか?」と問うのならば、これは物理的な問いといえますが。時間とは、人類が太古の昔より「過去から未来へ一様に流れていくもの」と共通のルールとして約束してきたものなのですから、「なぜ逆転しないのか?」などと問うのは意味のないことであるとわかるでしょう。
双子のパラドックスの問題
これはまさに、相対性理論での時間の定義そのものから発生した問題です。アインシュタインが時間を光を用いて且つ矛盾した二つの原理を使って定義したことから、必然的に生じるパラドックスですので、それが拠り所とした時間の定義自体が間違っていたことが判明した今となっては、「双子のパラドックスは、パラドックス自体が間違いであった。実際はそんなことは起こらない。議論すること自体が無意味な問題である。」という結論になります。この無意味な論争を、20世紀の人々は延々と続けてきたわけです。なんという時間の無駄遣いでしょう!

以上の議論をまとめますと、アインシュタインの考えた時間というのは嘘であった、ということです。その自分勝手な思考に、20世紀の人類は振り回され続けたわけです。 
時間の遅れのカラクリを明らかにする

 

相対論の時間は嘘であり、我々はそれに騙されていたことを上で述べましたが、相対論ではどのようにして「時間が遅れる」と説明されているのか、その欺瞞に満ちたカラクリをここで説明します。
[説明]
次図は、「相対性理論」(中野董夫著)にある光時計の図です。
慣性系S′に固定された,y′方向に光を往復させる装置を考え、S′は慣性系Sに対してx方向に速度Vで動いているとし、この現象をSから観測しています。
いま、上の左図をS′系図、右図をS系図と呼ぶことにします。
系S′が系Sに対してどんな速度で走っている慣性系であったとしても、真上に発射された光はぴったり鏡Mに到達する、という驚くべきことを言っているのが上図です。
特殊相対性理論の本質は、この図で全て表現されていると言っても過言ではないほど重要な図です。
具体的に言えば、光は物体と同じような進行をし、しかも奇妙なことに、物体の場合とは違って「ベクトル合成されて、S系図でS′系図よりベクトルの長さが長くなっているのに、そのベクトルの大きさは、依然一定値cである」と言っているのが、上図です。
この図では、物理学、数学の規則が無視されていることに注目してください。上のように、もし物体と同じように進行するならば、S系図の合成されたベクトルは、S′系図のベクトルよりも長く描かれているのですから、S系図のベクトルの大きさはcであるはずがありません。当然√(c^2+v^2)とならなければならない。
全くおかしな図です。
なぜ相対論では、こんなおかしな図を描くのか?いや、描かざるをえないのか?
それは、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を両立させるためには、上のように描かざるをえないからです。
特殊相対性原理は、ニュートン力学におけるガリレイの相対性原理を、電磁気学にも適用できるとしたものですから、光は当然物体のように進行すると主張せざるをえないことになります。ですから、物理学者は上図のように描くのです。
また、光速度不変の原理は、「どんな慣性系から見ても光速度は一定値cである」と主張するものですから、やはり、この原理を成立させるためには、S系図でベクトルをS′系図より長く描いておきながら、依然S系図でその大きさをcとするという奇怪な描き方をすることになります。
アインシュタインは、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」の融合をはかったわけですが、じつはこの二つはお互いに正反対のことを主張しており(矛盾している)、融合させることは、論理的に不可能なのです。
不可能を可能とするためには、奇妙な誤った概念を導入して解決をはかる(誤魔化す)より手がありません。アインシュタインは、時間と空間という、人類が古来より持ち合わせていた自然な概念を、こなごなにしてそれをやってしまった。
「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」が、互いに矛盾しており、相容れないものであることは、
光速度不変の原理は、絶対空間を前提にしたものである
で証明しています。
さて、上図で、時間がどのように奇妙なものになるかを見てみましょう。
光源から鏡までの距離をLとします。
S′系では、光源から出た光が上の鏡Mに到達するまでの時間t1は、当然
t1=L/c ・・・・1
となります。
S系からS′系をみると、上の右側の図のようになるので、上の鏡Mに到達するまでの時間t2は、ピタゴラスの定理より、(c・t2)^2=(v・t2)^2 + L^2 ですから、
t2=L/√(c^2 - v^2)=(L/c)/√(1 - v^2/c^2)=t1/√(1 - v^2/c^2)
となり、1よりも時間は遅れます(^2は2乗の意味です)。
これが、動いている系から見ると、相手の時計がゆっくり進むということのカラクリです。
互いに矛盾した「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を両立させるために、時間の定義を変更し、奇妙な時間概念をつくり上げ、これでエーテル問題を解決したのでした。
そして、ローレンツらの人工的な仮説を入れる方法より、より簡潔にすっきりとエーテル問題が解決できるとして世の
物理学者に受け入れられたのです。
しかし、アインシュタインの発明した奇妙な時間が、現実の時間と全く相容れないものであることに当時の学者は気付かず、「時空概念の大変革!」などと勘違いしたことは(いまだに勘違いは続いており・・)、物理学史上における決定的なミスとなりました。この辺の事情については、
光時計の考察から相対論における時間論の間違いをさぐる
に詳しく記しています。
結局、矛盾した二つの原理を強引に融合させるためには、どこかに無理を強いることになるのですが、時間にそのしわ寄せを強いたのです。悲しむべきことです。
その奇妙な時間概念を用いて、空間の方も定義し直したものだから、空間までもおかしなことになったのでした。私たちは、誤った時間・空間概念を強いられ続けているのです。
追加
「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」が、互いに矛盾していることは、
光速度不変の原理は、絶対空間を前提にしたものである
で証明済みですが、別視点からも証明できます。
「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」が相矛盾していることの別証明
[証明]
上の光時計の図を用いて証明します。
上記でもすでに言及したことですが、「特殊相対性原理」を主張すれば、光も物体の運動と同じようになり、その進行経路は上図の矢印(ベクトル)のようになります。
つぎに、「光速度不変の原理」を主張すれば、「どんな慣性系から光を見てもその大きさはc」なので、S′系図でcならばS系図でもやはりベクトルの長さはcとするということになります。
S′系図でもc、S系図でもcとなっているのですが、ここで数学上の過ちを犯しています。
ベクトルの長さが違って描かれているのですから、その大きさは当然違ってこなければなりません。
速度ベクトルの方向は速度の方向を、その長さは速度の大きさを表すというのは、数学・物理学の基本規則です。
ところが、その規則を無視し、上図では、ベクトルの長さが違うのにどちらもcとしているのです。
これは、単純な数学のミスなのです。
では、S系でもベクトルの長さを少し短くすればよいのではないか?として、(方向はそのままとして)短くして描くと、今度は、そのベクトル図では、特殊相対性原理を満たさなくなってしまうのです。
「特殊相対性原理」をまず立てれば、必然的に上図となるが、その状況のもとで「光速度不変の原理」を立てようとすると、数学の規則に違反してしまう。
それではと、「光速度不変の原理」を先に立て、ベクトルの長さをS系図とS′系図で等しく描くと、今度は「特殊相対性原理」がどうしても成り立たない図となってしまう。
結局、二つを同時に矛盾なく成立させるのは不可能とわかりました。
よって、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」は、相矛盾していることが証明されました。
証明終わり。
しかし・・・それにしても、数学とは恐ろしいものです。矛盾した上図にも、ピタゴラスの定理を適用すると、先に示したように計算はできてしまい、時間が算出されてしまうのですから!矛盾したものを大元におくと、その先の結果はどこまでも矛盾した、おかしなものが出てきます。相対性理論の時間が奇怪であるのは、じつはこんなところに原因があったのです。 
光速度不変則と相対性原理の無矛盾性証明でのアインシュタインのトリック

 

1905年の論文「動いている物体の電気力学」で、アインシュタインは「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」が矛盾なく両立し得る証明を与えています。しかし、その無矛盾性の証明には、ある大トリック(ごまかし)が使われており、その証明はデタラメとなっていることを以下で明らかにします。
[説明]
まず、はじめに「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」の定義を記します。
光速度不変の原理
T.「真空中の光の速さは、光源の運動状態に無関係な一定値cである。」
特殊相対性原理
U.「たがいに等速度運動をしているすべての慣性系において、すべての基本的物理法則は、まったく同じ形で表され、それらの慣性系のなかから特別なものを選び出すことはできない。」
アインシュタインは、このTとUを基本的な原理として採用し特殊相対性理論を作り上げました。
ところで、Uを考慮に入れると、Tの光速度不変の原理はつぎのVのようにも表現されます。
光速度不変の原理の別表現
V.「いかなる慣性系(観測者)から見ても、光の速さは一定値cである。」
アインシュタインの特殊相対論は、上のTとUを基礎におき作られています。本によっては、「光速度不変の原理」をVとし、UとVから特殊相対論ができていると書いているものもあります。
注意してほしいのは、VはUの「特殊相対性原理」の性質も含んでいるということです。
ローレンツ変換の導出は、いろいろな教科書で示されていますが、「なっとくする相対性理論」を参考にしつつ、まずその導出を一般に行われている通りに行ってみます。
[まずローレンツ変換の導出から]
慣性系であるS系を考え、そのx、y、z直交座標系を考えます。
t=0で光が一瞬パッと放出されたとします。P点に観測者がいて、その人のS系での座標を(x、y、z)とすると、波面がPに到達する時刻をtとすれば、光は原点を中心とする半径r=ctの球面に達しますから、その球面の方程式は、
r^2=x^2+y^2+z^2=(ct)^2  ・・・・・1
となります(^2は2乗)。簡単のため、x軸上のみを考えると、
x^2=(ct)^2  ・・・・・・2
となります。
いまS′系というもう一つの慣性系が、S系に対しx軸方向に速さvで進んでいるとします。時刻t=t′=0でS系と S′系の原点が一致したと仮定します。
P点の観測者のS′系での座標を(x′、y′、z′)とします。
光速度不変の原理より、S′系にいる観測者にとっても光速はcですから、その観測者Pに光が到達する時刻をt′とすると、波面はS′系の原点を中心とした半径ct′の球面上にあります。上と同様にx′軸上で考えると、
x′^2=(ct′)^2 ・・・・・3
ここで、特殊相対性原理より、求める変換は、一次式になるはずです。なぜなら、S系から見て物体の運動が等速直線運動をしていれば、S′系から見ても、等速直線運動をしているように見えなければならないからです。
そのためには、求める変換は一次式で表現されていればよいことになりますから、
x′=γ(x−vt) ・・・・・4
と、とりあえず仮定してみます。また、空間の等方性から(空間の右方向と左方向で差別はないことから)、4の逆変換を、′のついた変数とついていない変数を取りかえて、かつvを-vに置き換え、
x=γ(x′+vt)
とできることもすぐわかります。
また、光速度不変の原理より、t=t′=0に原点を発射された光は、x軸上で考えると、
x =ct ・・・・・・5
x′=ct′・・・・・6
となっているはずです。
さて、3〜6の4つの式から、x、x′、t、t′を消去すると、
γ=1/√(1−v^2/c^2) ・・・・7
となり、有名なローレンツ因子が求まりました。
さらに、3〜7の5式より、
x′=γ(x−vt) ・・・・8
t′=γ(t−x・v/c^2) ・・・・・9
と、ローレンツ変換の式が簡単に導き出されます。y、zに関しては略します。
[ローレンツ変換導出終わり]
さて、上の導出方法からもわかる通り、ローレンツ変換は、光速度不変の原理と特殊相対性原理を用いて導かれたことに注目してください。ローレンツが、この変換を導いたのとは違う方法で、アインシュタインは、この全く同じ変換式にたどりついたのです。たった二つの簡潔な原理だけから導くことに成功したわけです。
アインシュタインが論文中で示している導出方法は、上よりも少し複雑ですが、やはり二つの原理から導いており本質的には同じです。
上の導出過程をすこし振り返りますと、5、6や2、3などは、Tの光速度不変の原理の表現だけからは出てこない式で、これは特殊相対性原理の性質も含んだVの表現から出てくる式とわかります。
また、上の光の進行も非常におかしなものになっています。なぜなら、S系でも光はそのS系の原点を中心とした球面上にあり、且つまたS′系でもそのS′系の原点を中心とした球面上にあり・・となっており、これでは全く物理的なイメージが描けません。大切な物理的イメージというものを放棄し、系ごとに違う時間を導入するという奇妙な方法で誤魔化しを加えて上のように淡々と数学的・記号論的に計算を進めると、無事ローレンツ変換までたどりつきます。
このようにローレンツ変換は、光速度不変の原理と特殊相対性原理という二つから導かれたわけですが、この二つの原理は、次の
光速度不変の原理は、絶対空間を前提にしたものである
「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」が相矛盾していることの別証明
で示した通り、互いに矛盾しており、それらを両立させること(それらを基礎にして理論を構築すること)は不可能なのです。不可能にもかかわらず、アインシュタインは、新しい時間概念を導入するという方法で、それらが矛盾していないように見せかけることに成功しました。
アインシュタインは、1905年の論文「動いている物体の電気力学」で、次のように述べています。
「さて、静止系から眺めたとき、どんな光でも、既に仮定したように、それが速さcで伝播するならば、運動系(k系)からそれを眺めたときも、同じように速さcで伝播するということを証明しなければならない。なぜならば、光速度不変の原理を相対性原理と矛盾なく両立できるということを、未だ証明していないからである。」
このように述べたすぐ後で、「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」が矛盾なく両立できることを、ローレンツ変換の式(論文中では係数が掛かっていますが本質的に同じ)を用いて、証明しているのです!
ここにトリックがあります。お気づきでしょうか?
アインシュタインは、「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」が無矛盾であることの証明に、この二つの原理から導き出したローレンツ変換式を用いて、その無矛盾性を証明しているのです。
無矛盾性を証明するのに、はじめに二つの原理が両立する(無矛盾である)と仮定した所から導いた道具を用いて、無矛盾性を証明している。
これは、数学的な証明になっていません。
端的に言えば、その証明の構造は、その無矛盾性を証明するのに、「二つの原理は無矛盾である」という証明すべき結論をそっくり用いて証明している、という形となっているのです。
つまり、「光速度不変の原理と特殊相対性原理が、無矛盾であることを証明しよう。まずこの二つの原理は無矛盾であると仮定する(1とする)。さて、二つの原理は無矛盾である。なぜなら、1で仮定しているからである。よって、証明された。」という、とんでもない構造となっているのです。
証明としたら、デタラメです。
1905年の歴史的論文は、完璧なデタラメであることがはっきりしました。
また、ローレンツ変換という概念自体、矛盾から導かれている以上、無意味な虚構の産物と断定できます。
アインシュタインの論文は、現代の教科書にあるようなすっきりとした書き方がなされておらず、かなり複雑な形で書かれており、そのため問題点の焦点がぼやけ、上記の無矛盾性の証明も、よほど注意していないと、問題なく証明がなされているような気にさせられます。
しかし、アインシュタインの証明の実態は、上のようなものであり、それは「とても証明とは呼べない」ものであったのです。誤魔化し、隠蔽は政治の世界に限ったことではないようです。 
追加
アインシュタインの1905年論文「動いている物体の電気力学」の論理展開は、あまりにも奇妙です。ここでは上で述べた観点よりも、もう少し大きな視点からおかしな点を指摘したいわけですが、その論文の冒頭でアインシュタインは、次のように述べています。
・・・すなわち、どんな座標系でも、それを基準にとったとき、ニュートンの力学の方程式が成り立つ場合(このような座標系は、現在では慣性系と呼ばれている)、そのような座標系のどれから眺めても、電気力学の法則および光学の法則はまったく同じであるという推論である。この推論は1次の程度の正確さで、既に実験的にも証明されている。そこでこの推論(その内容をこれから”相対性原理”と呼ぶことにする)をさらに一歩推し進め、物理学の前提としてとりあげよう。また、これと一見、矛盾しているように見える次の前提も導入しよう。すなわち、光は真空中を、光源の運動状態に無関係な、ひとつの定まった速さcをもって伝播するという主張である。静止している物体に対するマックスウェルの電気力学の理論を出発点として、運動している物体に対する、簡単で矛盾のない電気力学に到達するためには、これらの二つの前提だけで十分である。・・・
このようにまず論文冒頭で、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を早々に導入しています。「一見、矛盾しているように見える・・」などとぼかした言い方をしていますが、一見どころか、この二つの原理は、明らかに矛盾しています。
しかし、アインシュタインもやはり「一見・・」が気になるのでしょう、なんと、長い論文のT部「運動学の部」の後半になってようやくローレンツ変換を導き出してから、次のように述べて、二つの原理が矛盾してないことを示す証明にとりかかります。
・・・さて、静止系から眺めたとき、どんな光でも、既に仮定したように、それが速さcで伝播するならば、運動系(k系) からそれを眺めたときも、同じように速さcで伝播するということを証明しなければならない。なぜならば、光速度不変の原理を相対性原理と矛盾なく両立できるということを、未だ証明していないからである。・・・・
上の文章のあとで、二つの原理が両立することを示しているのですが、それが、大嘘の証明となっていることは一つ上で示した通りです。
「矛盾しているように見えるが、しかし断固として矛盾していない!」と主張するならば、本来は、論文の冒頭でそれが矛盾していないことをまず真っ先に示さなければなりません。にもかかわらず、アインシュタインは、論文中でそのあやしげな二つの原理を、その無矛盾性の証明をしていない状態で時間と空間の定義に堂々と使いつづけるのです。この奇妙さ、おかしさはいったい何なのでしょう?
そして、論文T部の後半になって、さもいま思いついたように上のように述べて、ようやく証明にとりかかる。
どうして、後半で証明することになったのでしょうか?(いやそのようにせざるを得なかったのか?)
その理由は、とにもかくにもローレンツ変換の公式に辿りつかなければその証明ができないことが、アインシュタイン自身よくわかっていたからです。そして、その証明が、二つの原理が矛盾してないと勝手に仮定して導き出したローレンツ変換を用いて無矛盾性を示すというデタラメの証明となっていることは誠に残念なことです。
また、その誤りを、当時の論文の審査員が見抜けなかったことも、いまさらこんなことを言っても遅いとはいえ、物理学の歴史にとっては痛恨の出来事となりました。
相対性理論はアインシュタインがいなくても誕生していたかのような言い方がなされることがありますが、そんなことは絶対にありません。人類全体がアインシュタインに騙されてしまった。論文が提出された時点で、断固不採用にすべきレベルのものだったのです。
アインシュタインは、一言では言えないほど多くのミスを犯していますが、ここで指摘した無矛盾性の証明周辺においてもいかに愚かな過ちを犯しているかが、わかっていただけると思います。
21世紀初頭現在、いまだにこんな虚構にすぎない理論を信奉している現代物理学とは、一体どんな学問なのか。そして、人間の良識を欺きながら、この先、人類はどこまで相対性理論と寄り添っていくつもりなのでしょうか? 
特殊相対性原理への重大疑惑

 

ここでは、再度、特殊相対性”原理”をとりあげてみます。この原理の存在が、相対性理論に止まらず、物理学全体を全くおかしな形に歪めています。この大嘘の原理がなぜか物理学の根本原理に据えられ、現代物理の方向性を誤らせています。その重大さはいくら強調してもしすぎることはありません。
さて、まず強調したいのは、特殊相対性原理はこれまでただの一度も検証(実証)されたことがないという驚くべき事実です。そのことは、次で示していますので、ご覧ください。
「相対性原理」にまつわる奇妙この上ない歴史の経緯を明らかにする
これを読んでもらえば、現代物理学がいかにいいかげんな形で形成されてきたかに心底驚かれることでしょう。
アインシュタインがはじめてこの特殊相対性原理という奇妙な原理を世に出したのですが、次のような内容です。
特殊相対性原理
「たがいに等速度運動をしているすべての慣性系において、すべての基本的物理法則は、まったく同じ形で表され、それらの慣性系のなかから特別なものを選び出すことはできない。」
上はじつにたいへんなことを述べています。
ガリレオの相対性原理と根本的に違うのは力学に焦点をあてるのではなく、「すべての基本的物理法則は・・」と全物理法則に焦点を当てている点です。こんな奇抜な主張は、相対性原理といえば「ガリレオの相対性原理」しか知らなかった当時の学者にしてみれば、まさに驚天動地の主張だったのです。
あたり前のことですが、新しい原理が提出されたとき、物理学がそれを原理として採用するからにはまっ先にその正しさを実験的に検証するというしかるべき経緯を経なければならないのはいうまでもありません。小学生でもわかる理屈です。
ところが不思議なことに、こと特殊相対性原理に関する限り、検証がなされないまますすんでいき、なぜかいつの間にか物理学において犯してはならない聖書のようなものとして君臨するようになっていったのです(物理学の根幹部分のことであることをよく考えてみてください)。
アインシュタインが上の原理を出した時点(1905年)ではまだ”仮説”の状態でしかなかった。
もちろん当時の物理学者も、そのことには気付いていて、こんな重大な原理(仮説ですが)は早急に検証しなければならない!!と警告しています。
「相対論」(物理学史研究刊行会編、東海大学出版会)には、当時の様子を伝える論文が複数収録されており興味をひきますが、その中で、当時の物理学者A.H.Bucherer(ブーヘラー)は、「この原理を直接実験的に検証することは至上命令的な要求である。」と述べていますが、まったく正しい主張です。
また、量子論の誕生に決定的な影響を与えた当時の大御所Plank(プランク)も「・・その承認の問題はこの領域のすべての理論的探求において最重要なものとみなされる価値がある」とこの革命的なの原理に対し「検証を急げ」と主張している。
アインシュタインが1905年に提唱した段階ではまだ仮説、予想の段階にすぎなかったということです。
そして、ここからが全く不可解なのですがアインシュタインが提唱したこの原理いえ仮説は、実験的検証が一度もなされないまま、特殊相対性原理として(あたかも侵してはならない原理として)、絶対的地位を確保していったのです。
そして100年たっても、いまだにこの原理の正しさを検証した人はいないという衝撃の事実。
特殊相対性原理を、物理学の根幹の原理として採用したことは20世紀物理学における最大の失敗でした。
後世の人々からは「1世紀にもわたって物理界に君臨した世にも奇妙な”珍原理”」と笑われることになると思います。
追加
特殊相対性理論は、次の二つ原理を指導原理として成り立っています。
1 特殊相対性原理
2 光速度不変の原理
1 の特殊相対性原理が間違っていることは、これまで様々なところ(・・捧ぐ1〜3)で説明してきました。
2 の光速度不変の原理に関しては、少し事情が複雑です。
この「光速度不変の原理」への解釈のあいまいさが、相対性理論という空理空論を生き残らせる原因ともなっているわけです。ここでも特殊相対性原理が決定的にからみあっているのですが、事情の複雑な点を下記で明快に説明しています。ぜひご覧ください。
「光速度不変の原理」ではなく「特殊相対性原理」に注目すべし 
cを中心に据えてしまった相対性理論

 

アインシュタイン自身があらわした著作に「相対論の意味」というのがあります。その中で、時間に関して解説している箇所があるのですが、アインシュタインの時間というものに対する過ちが明瞭に分かる一節がありますので、今回はそこを取り上げます。
[詳細]
「相対論の意味」(アインシュタイン著) ・・・相対性理論は、光の伝播法則の上に時間の概念を樹立し、なんらの根拠なしに光の伝播に中心的理論的役割を与えるといって、しばしば非難される。しかしながら事情はつぎの通りである。時間の概念に対して物理的な意義を与えるためには、種々の場所における関係をうち樹てることを可能にするような、ある種の操作が要求される。時間のこのような定義に対して、どんな種類の操作を選ぼうともそれは問題ではない。しかしながら理論にとって都合のよいのは、それに関してわれわれが何か確実なことを知っている操作のみを選ぶことである。マックスウェルとローレンツの研究のおかげで、このことは、真空中の光の伝播に対してこそ、他の考え得るいかなる現象よりもさらに高度に成り立つのである。 ・・・
註 / この書物の英語版初版はおそらく1940年〜50年あたりではと推測されます。日本語版初版は1958年。
これを読んで、この文章中の致命的誤りをすぐに指摘できる人はすくないでしょう。
たいがいの人は、「うーん、さすがはアインシュタイン!」などと思ってしまうところではないでしょうか。
人間にとってもっともわかりづらい”時間”というものに目をつけ、1世紀のもの間、人類を騙しつづけたアインシュタインは、ただならぬ詐欺師であったと言っても過言ではありません。
上文に、アインシュタインの考えた”時間”の意味が明瞭に記されています。
「光の伝播法則の上に時間の概念を樹立し・・」という意味は、簡単にいえば「真空中の光速度cを用いて時間を定義する」という意味です。致命的に誤っているのはここです。
”c”とはなんでしょうか?
cとは、光の”速さ”であり、「1秒間に光が真空中を進む距離」として定義されるものです。
つまり、
c=299863381m/s・・・・・・・1
ですね。
昔から”速度”というのは、
速度=[距離]/[時間]
で表されてきました。 
それを、アインシュタインは、”時間”を速度cを用いて定義したのです。(ここで「はっ」と気づいた人もいるでしょう)おかしいと思いませんか?
時間を光速度cを用いて定義するには、その前に時間というものが分かっていなければならない。
なぜならcとは1の距離/時間で求められるものだからです。
アインシュタイン出現以前の素朴な時間概念で認識されていた光速度cを用いて時間を定義するという決定的論理ミスをやっているのです!
この馬鹿馬鹿しさ、愚かしさをしっかりと目を見開いてみてください(そして真っ当な時間が、奇妙な時間に変わった!)
アインシュタインのやったことは、まったくのインチキだったとわかるでしょう。
今回、指摘したことは、哲学者の千代島雅氏がさかんに主張されている内容と同じと思います。「アインシュタインの時間の定義は循環論で意味がない」というものですね。ただ哲学者だから見つけられたというほどのものでもなくて、いま言ったようにちょっとの指摘で誰にでも理解できるものです。「意味がない」どころか、絶対にやってはならないミスをアインシュタインは犯してしまったのです。
それにしても、なぜこんな簡単なことに、私たちはころっと騙されてしまったのでしょうか?
それはたぶん、光速度をたんにcとだけ書いてきたため、と私は思っています。
cなどという記号になんの意味もありません。cとは”299863381m/s”であり、cを見たら、つねに”299863381m/s”に置き換えて読まなければならないものです。
しかし、便利なものだから、いつもc、c、c、・・・とcばかりで書いているうちに、慣れっこになり”m/s”という単位の意識が薄れてしまって、アインシュタインが愚かなミスを犯してもそれに気づかなかったわけです。
cではなく、”299863381m/s”と論文中も書かれていたら、相対性理論はおそらく誕生せず、1世紀を無駄にせずに済んだのにと悔やまれてなりません。
cという記号を単にもてあそんだだけだったのが相対性理論であったといえます。
c君というよそ者が、物理国の王様であった時間・空間を、一夜のクーデターで追いやり、ずうずうしくもデンと物理国の中心に居座ってしまったものだから、時間さん空間さんは奴隷に成り下がり、曲げられ歪められても文句もいえず、どこまでも言いなりになっていったのでした。
これが、20世紀の相対性理論の物語だったのです。真実であるところが悲しいですね・・・
ところで、上で「・・・しばしば非難される。」とアインシュタインが書いていますが、当時は相対論を批判する勇気ある真っ当な学者も多くいたのですね!
今とは大違い・・・
追記
上では、時間のことを述べましたが、相対性理論は、時間・空間概念を根本的に変革した理論です。時間のみならず、空間概念までも変えてしまいました。アインシュタインは、cというものを用いて(絶対視して)、時間・空間を再定義していったのですが、それはできない相談だったのです。
空間に関する、アインシュタインの決定的なミスを示しましょう。
速度=[距離]/[時間]・・・・・・・・・・2
2 のように書けば、すぐ気付くでしょう。
空間を光速度cを用いて定義することはできないのです。なぜなら、空間(距離の概念、その測り方)を速度cを用いて定義するには、その前に空間概念が明確に分かっていなければならないからです(2を見てください!)。にかかわらず、アインシュタイン出現以前の素朴な空間概念で認識されていた光速度cを用いてまた空間を定義するという決定的ミスをやったのです!(そして、空間の方まで奇妙なものになりました)
どうですか?
相対性理論が、科学理論としての資格のない理論であるとわかったでしょう。それにしても・・・人間というのは、つくづく奇妙です。相対論のことを全く知らない人が、上の説明を読めば、すぐに「おかしいな」とわかります。しかし、「20世紀最大の偉業!時空概念を変革した天才の理論!」という標語とともに相対論を学んだ人が上の説明を受けると、とたんに訳のわからないことを言い出す・・・・これって、なぜなのでしょう?心理学の格好のテーマでは? 
工学者、技術者は完璧に知っている

 

「レーザー(Laser)」(桜井彪著)という本を見ていたら、ある重大な記述を見つけました。レーザージャイロの原理を説明する文中の記述なのですが、次のものです。
・・・たとえば、Δfが50Hzまで観測可能とすると、r=50cmとしてΩは10^-5 rad/sの桁まで測定ができる。この方法を用いると、地球の自転速度が測定できるのみならず、宇宙の中での地球の回転方向を決定することさえ可能となってきた。
通常では見過ごしてしまいそうなこのわずかな記述の中に、相対論の嘘を暴く内容が盛り込まれているのですから、驚きます。
赤字の箇所、「宇宙の中での地球の回転方向を決定することさえ可能となってきた。」という記述です。
これは、宇宙に絶対系というものが存在することを意味しています。
レーザージャイロはレーザ(光)を使って回転角速度をわり出し、航空機の位置や方向の元となる情報を与える装置です(詳しくは、こちらをご覧ください)。その装置を使って(つまり光を使って)「宇宙の中での地球の回転方向を決定することが可能」ということは、光が絶対系を基準に進行していること意味し、これは、逆にいえば光という手段を使えば絶対系を決められるということであります。
これより「絶対系などない。どんなに手段をつかっても見つからない。全ての慣性系は同等なのだ!」と主張してやまない特殊相対性原理が、現代技術の前にあっけなく否定されている。 (もし仮に、光が物体のように慣性の法則に従うような運動をするものだとしたら、その場合は、もちろん、絶対系を決めることなどできない相談です。)
工学者や技術者は、相対論などはじめから眼中になく、マクスウェルが電磁気学を完成させたときからすでに皆が信じていたこと「絶対系を足場に電磁波(光)は進行する」というその考えをそのまま用いてレーザージャイロを作り大成功をみました。そして、上記の結論です。もはや相対論が生き残れる余地などないのです。
それにしても、なぜこんな大嘘の理論が21世紀初頭に生き残っているのでしょうか。私には不思議でなりません。
すべての実験を完璧にクリアーしている量子力学と対比してみてください。嘘や誤魔化しだらけの相対論の存在に呆れかえるばかりです。
レーザージャイロだけではありません。他の数々の実験においても相対性理論が完全に否定されていることを他で記していますので、参考にしてください。
また今回の件とともに相対論の根本をささえる特殊相対性原理がいかにいいかげんな形で形成されてきたか、その欺瞞の歴史も冒頭に書いていますので、ぜひお読みください。冷静に見れば、すべてが明らかになります・・・ 
物理本のいいかげんな記述

 

巷の本では、相対論の根幹部分の説明において過去いいかげんな記述が延々と行われてきました。そして、それが放置されたままになっていて、いまでも同種の記述を見かけます。「物理学者はどこまで進んだか」を例にとり指摘します。
・・・私は前の章で、アインシュタインは、物理学のすべての法則を特殊相対論的に書き替えることに成功したと述べた。しかし、それには、ひとつだけ例外があった。実は、重力、つまり、万有引力に関する法則だけは、それを特殊相対論的に書き替えることができなかった。これは、特殊相対論のひとつの欠陥といえるであろう。・・・・
上の文章は、アインシュタインに洗脳されたところからは、こんなにもいいかげんな説明が出ててきてしまう好例ともなっています。
明らかな矛盾があるにもかかわらず、とにもかくにも読者を強引に「相対論はすごい!」の世界にひきづりこもうという意図が見てとれます。上の説明がいかにいいかげんで、デタラメかを説明します。
まず、「ひとつだけ例外があった。」という言葉に注目しましょう。
通常「ひとつだけ例外があった。」などという言葉は、「100個ある内のたった1個だけが違った!」という場合にのみ使います。あるいは少し譲って「10個ある内のたった1個だけが違った!」という場合にも許されるかもしれません。
そういう状況でしか使われないことくらい誰でもわかります。
「3個ある内で2つはそうだが、1つは違う」という場合には、絶対に使いません。
ところが・・・・、なんと上では、「3個ある内で2つはそうだが、1つは違う」という場合に使っているのです!
当時、物理学の基本法則といえば、ニュートン力学、電磁気学、万有引力の法則のこの3つだけでした。
そして、アインシュタインは、ニュートン力学と電磁気学の2つを特殊相対性原理という原理のもとに、統一的に記述することに成功し(じつはここでも重大な疑惑があります-->*)、万有引力の法則では失敗したのですが、この状況で使っているのです。
明らかにおかしいですね?
上で、「・・物理学のすべての法則を特殊相対論的に書き替えることに成功したと述べた。」と書いていますが、ここでもおかしな表現を使っています。たった2つだけの成功で「すべての法則を特殊相対論的に書き替えることに成功した・・」などと内山氏はなぜ言うのでしょうか。
次に指摘するように「2つ○で、1つ×」の状況で言えるわけがないのです。
さらに内山氏は、「実は、重力、つまり、万有引力に関する法則だけは、それを特殊相対論的に書き替えることができなかった。」などと述べます。
ここで、決定的なことに気付くでしょう。
特殊相対性原理というのは、「すべて物理法則は、すべての慣性系でその法則が同じ形で成り立つ」ことを主張するものです。にもかかわらず、万有引力に関する法則だけは、それを特殊相対論的に書き替えることができなかった。のです。ここで普通なら「特殊相対性原理は間違っているのではないか?」と疑問視するのが当然ではないでしょうか。「3つのうち、2つは成功しても、1つがどうしても成功しない」という場合、特殊相対性原理がおかしいからだ!とするのが最も自然だからです。しかし、現実には上記本のようにこの点がうやむやにされて、生き残ってしまったのです。
「ひとつだけ例外があった。」などと言って、逃げてはいけないのです!
内山氏もおそらくそんなことくらい薄々気付いていたのではないかと思いますが、アインシュタインが神様となっている現代では(上記本の出版は1983年)、そんな本当のことは絶対に書けない。
とにかく「これは、特殊相対論のひとつの欠陥といえるであろう。・・・・」などという言い訳にもならない言い訳をいって、次へさっさと進んでしまうしかないようです。
もし仮に「100個の理論があって、その内99個は特殊相対性原理を満たし、たった1つだけ特殊相対性原理を満たさない」という状況であるならば、その場合は未練もあるかもしれませんが、上はそういう状況でないことに注目してください。
どうですか?おかしいでしょう。
「ほんとうに、おかしか歴史をたどっているものだ・・」と思われるのではないでしょうか。
実験では完璧に否定されているし、上記のごとく形成史はむちゃくちゃだしで、相対論がインキチであることくらいだれでもわかります。気付いた方から、早々に相対論を捨ててください。
さらに駄目押しにもう一つ。
上で、「これは、特殊相対論のひとつの欠陥といえるであろう。・・・・」と言った後、内山氏は、どの教科書でも書いているように、ついに一般相対性原理にのっとった重力理論、一般相対性理論をアインシュタインは完成するという説明をします。
ここで、どの教科書でも「めでたし!さすがは天才アインシュタイン!」で終わります。
さて一般相対性原理とはなんでしょうか?
一般相対性原理
「すべての基本的物理法則は、任意の座標系で同じ形で表される。」というものです。
よく考えてください。「すべての基本的物理法則は・・」と言っていますね?アインシュタインは重力理論だけを一般相対性原理に則って作っただけなのに学者はなぜそれでよしとするのか?いまだに重力理論しか成功していないのですよ。アインシュタインが提唱した一般相対性原理というあまりにも奇妙な原理はいまだに実証されていない。よって仮説にすぎない。
もちろん特殊相対性原理もまだにその正しさは実証されていない。それどころか、特殊相対性原理に限っては上のごとくで、本当は現代にまで生き残っていること自体がおかしい仮説なのです。
このページの冒頭で、プランクたちが述べているようにアインシュタインが提出したこれらの仮説はまず真っ先に実証されなければならないものなのです。
にもかかわらず、現代物理学には(両仮説とも)検証しようという気配すら見えない。もう「原理」になってしまっている・・
そして、不思議なことに、現代の学者はなぜか特殊相対性原理(一般・・ではなく!)に則った形に(ローレンツ変換共変性の形に)、せっせと自分たちの理論を合わせようとしている。特殊相対性原理と一般相対性原理は現代物理の根幹部分です。それで、上の状況です。現代物理はもうむちゃくちゃと言っていいと思います。
* アインシュタインは、電磁気学も特殊相対論的に把握しようとしたのですが、その証明は間違いであることを私が、マクスウェル方程式におけるローレンツ変換不変性証明の誤りの発見で示しました。) 
最近、急に出てきた「相対論は光速度以上の速さを禁止していない!」

 

最近、とみに、「じつは、相対論は光速度以上の速さを禁止していない!」という言葉を耳にするようになりました。なぜ、急にこんないいかげんな言葉がひんぱんに聞かれるようになってきたのでしょうか?(一昔前にはまず聞かれなかったことです。)
現在、相対論のインチキが広く認知されつつあり、もはや研究者でさえも水面下ではひそかに気付いている現状にあって(光速度以上の現象も多く見出されている)、相対論信奉者は相当なあせりを感じはじめています。
上の言葉はその裏返しなのです。
じつは、相対論では、光速度以上の速さを禁止しているのです。それは、アインシュタインの原論文(1905年「動いている物体の電気力学」)を見ればすぐにわかります。 アインシュタインは、その論文の「T.運動学の部」で次のように述べている。
A ・・・vが超光速となる場合は、われわれの考察は無意味なものとなる。なお、われわれの理論においては、光速 c が、 物理学的にみて、無限大の速さと同じ役目をになうことが、これ以後の議論を見れば、理解されよう。・・・(「相対性理論」)
このように、相対論を作った当人アインシュタインが c が物理的な最大の速度だ!と述べているのです。
いったい何を根拠に相対論信奉者は「いや、じつは、相対論は光速度以上の速さを禁止していない!」などというのでしょうか?
いえ、相対論を信じるその人たちは、こういうのかもしれません。
B 「徐々に速度を上げてきてcを越えるような状況を禁止しているだけであって、はじめからcより大きい速度ならばOKなのだ!」と。
こんないい加減な説明に騙されてはいけません。
1905年に今いるとしてください。そして、アインシュタインのAの論文の文章をあなたが見たとしてください。
そのとき、あなたはAの文章を、Bの意味などととるでしょうか?
とるわけがありません。
だれでも、素直に、ああこの世の中の最高スピードはcなんだなあ・・と思うのです。
そして、近年になるまで、物理学者は相対論ではそうなのだと言ってきました。ところが、近年、急に「相対論では光速以上の速さを禁止していない」などと全くおかしなことが言われはじめた。180°の大転換!(こういうときは、「なにかあるな・・」と思ったほうがいい)
もし、仮りにアインシュタインが「Aの文章は、じつはBの意味なんだ」として書いていたとしたら、わざわざ大仰にAのように書くわけがありません。(常識で考えてください。)また、もしBの意味であったとしたら、その際は、Aの後に続けてBの意味合いであることを注釈として必ず書くはずです(これも常識)。ところが、論文にはそんな注釈は一切ない。
このように簡単な考察から、相対論では、光速度以上の速さを禁止していることが明白にわかるのです。 
 
一般相対性理論の誤りの証明

 

一般相対論の間違いと、ビッグバン宇宙論の問題点を伝えます。 
一般相対性理論が間違っていることの証明

 

一般相対性理論の基礎になっている原理に等価原理があります。
これは真の重力と見かけの力(慣性力)が同じものであることを主張するものであり、一般相対論の屋台骨となっていることはご存知の通りです。中野董夫著「相対性理論」には、この原理がつぎのように述べられています。
「慣性質量と重力質量は本来同一のもので、加速度によって生じる見かけの力と重力とは原理的に区別できないものである。」これを等価原理という。
この説明には、2種類の等価原理がまとめて表現されています。
はじめの「慣性質量と重力質量は本来同一のもので・・」は、慣性質量と重力質量の同等性を主張する古典的な等価原理です。あとの「加速度によって生じる見かけの力と重力とは原理的に区別できないものである。」はアインシュタインが考え出したもので、先のものと区別するためにこれを”アインシュタインの等価原理”と呼ぶことにしましょう。
古典的な等価原理の方は正しいのですが、アインシュタインの等価原理の方は間違っているのです。
後者の等価原理に対するアインシュタインの考察ミスから、一般相対論が間違っていることを簡単に証明することができます。詳しく説明します。
[一般相対論が間違っていることの証明]
思考実験を行って考えます。本などでもよく見られる思考実験の変形版をおこなってみます。いま無重力の宇宙空間の中に、一辺が50mほどの大きなエレベータが浮かんでいて、そのエレベータの真ん中(上下左右の壁から離れている場所)に宇宙飛行士のM氏が一人浮いているとします。このエレベータには窓がなく外は見えないとし、エレベータははるか上空にいる神様がもつロープでつり下げるられていると仮定します。ロープはまっすぐに伸びています。
M氏には当然ながら慣性質量があり、力が加われば「その力に抵抗して、その場にふんばる」性質を、M氏はもっています。この”慣性”という性質が今回の考察のポイントです。
さて、いま天体(星)がエレベータの真下に突然出現したとします。
その瞬間、M氏は慣性質量をもつので、確実に慣性変動の発揮があります。これまでふわふわと浮いていたところに重力という力が加わったのですから、その場にふんばろうとする性質が発揮されるわけです。
その物体固有の”もがき”があります。そして、いまエレベータは神様によってロープでつり下げられているのですから、エレベータ自体は天体の方へは落下していかず、M氏のみが星へ引きよせられることになって、やがてM氏はエレベータの下の床にぶつかる事態になります。
M氏は落下中も重力を受けつづけているわけですから、落下している間も(床にぶつかるまで)慣性変動の発揮がなされつづけることはいうまでもありません。この場合を状況Aとしましょう。
もう一つの別の状況を考えてみます。
いま神様が猛烈なスピードでロープをたぐり寄せはじめ(たぐり寄せのスピードを加速していく)、エレベータを突然上方にひき上げはじめたとしましょう。この場合、慣性変動の発揮はあるでしょうか?ありませんね。
この場合は、ただエレベータが上がっていくだけなのですから、当然のことながら慣性変動の発揮はありません。上の天体出現のときと、状況自体は似ていても物理的内容がまるで違っています。下の床がスピードを加速しながらただ自分に迫ってくるだけですから、”もがき”を発揮しようにもできないわけです。この場合を状況Bとします。
物理学者はこれまで状況Aの場合と状況Bの場合をまったく同等だとして扱ってきました。見かけの力などという仮りの力を使えば数学的にはたしかに一致するでしょうが、物理的内容を吟味すれば、上でみたようにまるで違うものであり、原理的に異なるもの、区別できるものであることがわかります。
従来からよく行われてきた考察は、M氏が足を床につけている状況を考えるというものでした。たしかにその場合は状況Aでも状況Bでも慣性変動の発揮があり、二つの力の区別はできないということになります。
そのことに気をよくたのか、アインシュタインは意味を拡張し一般化しすぎて、上記の重力系(状況A)と加速系(状況B)が完全に同等である(原理的に区別不可能)として一般相対性理論を作ってしまいました。
現代物理では、上の思考実験のような場合でさえも「見かけの力」=「重力」としていますが、アインシュタインが今回私が提示した思考実験を見落としたことに気づけば、このイコ−ルは成り立たないとわかるでしょう。
状況Aと状況Bの考察から、この二つの状況が根本的に異なるものであることは明らかだからです。
状況A(重力系)では慣性変動の発揮がある。
状況B(加速度系)では慣性変動の発揮がない。
明瞭に異なるものであり、原理的に区別可能です。
アインシュタインは、見かけの力を真の重力に昇格させたわけですが(真の重力と完全に同等とした)、これまでの考察から、絶対にそんなことはいえないとわかるでしょう。状況Aと状況Bは、じつは物理的に異なるものだったのです。
以上より、”アインシュタインの等価原理”は誤っていることがわかりました。
よって、一般相対性理論が間違っていることが証明されました。
証明終わり。
もし当時アインシュタインが上の思考実験に気づいていれば、重力系と加速度系が同等などと思いつくことは絶対になかったとわかります。
アインシュタインは、単純な思考実験から等価原理を考え一般相対論建設へとすすんだのですが、上記のようなことまでふくめたもっと多様な場合を慎重に検討すべきだったと思います。
上記証明から一般相対論を否定することができたわけですが、別のアプローチとして、「特殊相対論が間違っていることより、結局一般相対論も否定される」という道筋をとってもかまいません。
一般相対論は、等価原理と一般相対性原理という二つの指導原理から成り立っています。
特殊相対性原理が間違っているならば、それを加速度系にまで拡張した一般相対性原理も当然間違っていることがいえ、それを基礎とする一般相対性理論も間違った理論であると断定することができるからです。 
相対論の教科書における「等価原理」の考察は、やはりおかしい

 

等価原理でのアインシュタインの誤りを上で指摘しましたが、ここではそれが教科書でどのように記述されているかを見てみましょう。相対論の権威である内山龍雄氏の著書「物理学はどこまで進んだか」(岩波現代選書)の中の一節をとりあげます。
内山氏は、エレベータの思考実験の説明をした後、つぎのように等価原理を説明しています。
「物理学はどこまで進んだか」
・・・ここでひとつ大切なことがある。右に述べたように、ニュートン力学では、見かけの力と考えられていたものが、アインシュタインの理論では本物の力に昇格された。しかも、それは、単に力学的表現にかぎらず、すべての物理現象において、その効果が、本物の重力の効果と同様に扱われることになった。この最後に述べたことは、非常に重要なことで、それはニュートン力学にはなかったことである。これがいかに重要であるかは、次節でわかると思う。それはともかく、一般相対論では、基準系の加速度運動により生ずる力は、名実ともに、本物の重力と同等の効果を持つ力として扱われることになったわけである。そこで、この主張を等価原理という。
これを見ると、内山氏も根本的に勘違いをしていることがわかります。
どこが間違っているかは、上の赤線の記述がよく示しています。上で私が証明したように、加速度運動による見かけの力は、あくまで見かけの力であって、慣性変動の発揮が何もないのだから、本物の重力とはまったく違うものであります。にもかかわらず、上記説明では完全に同等として扱っており、それが誤りなわけです。
私たちは、はやくこの誤りに気付き、一般相対論を捨てさる決心をしなければ、その上に立った現代宇宙論はほんとうにおかしなことになってしまいます。
追加
さらに、本質的には同じですが、少し別の観点(観点2とします)から、上の状況AとBの違いを説明してみましょう。
[観点2の説明]
状況Aでは、天体が出現するわけですから、その瞬間から重力場が周囲に発生し、M氏もすぐにその重力場の影響下に入ります。ここではM氏は、天体出現直後から確実に重力を受けつづけているといえるわけです。ところが、状況Bではどうでしょうか?神様がただエレベータを上に引っ張っているだけなのですから、どこにも重力場など生じておらず、下の床にぶつかるまでM氏はどんな力も受けていないわけです。このように考えると、状況AとBが根本的に違う状況なのは明らかです。
説明終わり
[注記]
ところで、ここで注意してほしいことがあります。上記のように説明すると、物理学者から「いや一般相対論を適用すると、状況Bの加速度系の空間にも重力場が生じていることを示すことができる!!」という反論が必ずきます。しかし、ここは勘違いしないで頂きたいのですが、アインシュタインは、この種の思考実験を行った後に一般相対論を建設したのであり、もしアインシュタインが本サイトの思考実験に気づいていれば一般相対論など誕生しなかったと断言することができるからです。歴史の順序をまちがわないで頂きたいものです。
「ある思考実験を間違えて解釈したために、間違った理論がつくられた。その間違った理論を別の思考実験に適用し正しい解釈を示すことなどできない。」という論理を十分理解してください。このことから、観点2において、一般相対性理論を用いずに(その誕生前の立場にたって)、状況Aと状況Bの完全な同等性を証明することができなければ一般相対論は間違っているということになるのですが、その同等性を証明することはできないと思われます。これまでの説明より、状況AとBは根本的に異なった状況であることは誰の目にも明らかだからです。 
空間は3種類に分類できる

 

ここでは、空間の分類とその定義づけを行います。
空間に関してはトップページでも論じましたが、空間という言葉は、時間と同じで、どうも昔からはっきりとした定義づけがなされないまま使用されてきた感があって、そのことが20世紀物理学を誤った方向へ導いてしまったという気がしています。
以下では、空間の分類を試みます。
空間は、”広がり”、”座標”、”真空”の三つに分類できると考えますが、この三つを明瞭に区別しないまま使ってきたために、現代物理学は混迷の度をふかめている気がします。くわしく見ていきましょう。
空間と聞いて、まずなにを連想するかというと、漠たる広がりということでしょう。ただはてしなく広がっているその広がりそのものをさしているわけです。
この意味で空間を考えれば、「物質がないと空間は存在しない」とか「物質があるから空間も存在する」とかいう議論はあまり意味のないことであるとわかるでしょう。物質があろうがなかろうが広がりそのものはあるのであり"広がり=空間"はアプリオリに存在するものと考えるのが自然です。
ところが、空間座標となると少し意味合いが違ってきます。
空間座標(あるいは座標空間)は、物質より先にアプリオリに存在するものではなく、数学的な概念であって、物体の位置を記述するために生みだされたものであるということに気づくことが大切です。物の位置を記述するのに必要であるという必要性から生み出されました。
物の位置を記述するのに座標というものを設定せざるを得ないから設定するのであり、物がないのに座標が考えだされたりすることはありません。この意味では、「物体がなければ空間(空間座標)は存在しない」といえます。
空間座標は、それを生み出すと便利だからという理由で人間によって考えだされたものであって、この「考えだされたもの」というのは「概念」であり、アプリオリに存在するものとはまったく違うものであることを十分に認識しなければなりません。概念と実在物は違うのです。
「時間」に関してもそうですが、ここのところを古来から哲学者も物理学者もあいまいにしか考えてこなかったように思えてなりません。
アインシュタインの著作(*)の中に「デカルトは、空間を物的対象とは無関係に物質なしで存在しうるものとみなすことに抵抗してきた」という言葉がありますが、この「空間」はまさに「空間座標」を指しているといえます。
つぎに真空です。
理化学辞典には「物質の存在しない空虚な空間のこと」とあります。しかし、ディラックの空孔理論にもあるように、「真空とはじつは負の電子がびっしりとつまった状態」というようにも述べられることから、”広がり”や”座標”という意味の「空間」と異なり、空間の中身の物理的性質を鋭く問うた言葉だとわかります。それは空間そのものの物性ともよぶべきものです。
以上のように考えてきますと、”広がり”、”空間座標”、そして”真空”の三つはまったく違った意味の言葉だとわかるでしょう。空間に関しては、今述べた3種類の分類をはっきりと認識することが重要です。
空間は3種類に分類できる、と私は考えます。
現代物理学では、「空間」ということに関して意味の混乱が見られます。
これももとをただせば時間と同じく、もともと漠然とした、あいまいな定義のままに「空間」という言葉を使用してきたことが原因しているといえるでしょう。
現代宇宙論がおかしな方向にすすんでしまったのも、「空間とはなにか?」という根本的な問いをないがしろにしてきた結果といえるのです。
現代の物理学者は、「空間」という言葉を、一番目に述べた本来的な”広がり”の意味だけでなく、「真空」や「空間座標」の意味としても使ってしまっています。
私の提唱ですが、今後の物理学では、「空間」という場合はあくまで”漠たる広がり”の意味でしか用いない。数学的な空間座標をいうときは必ず「座標」とか「空間座標」という言葉を用いる。幾何学はユークリッド幾何学を用いる。また、「真空」も、これまで「空間」とほぼ同義で使用されてきたが、これからは真空(つまり空間自身の物性)をいう場合はいつでも「真空」という言葉を使用する。
以上を今後の物理学の確固たる規則としていけば、現代物理のような数学遊戯と化した不毛の議論は消え去ると信じます。
「空間(広がり)」、「空間座標」、そして「真空」、この三つは言葉の上で厳密に区別すべきです。この三つを厳格に区別しながら使用していけば、見通しのよい物理学を構築できると思います。
空間物理研究家のコンノ・ケンイチ氏はその著書で、「空間(真空)は虚無ではなく、万物を生じせしめる母体物質なのである」と述べておられます。興味深い考えですが、表現として”空間”という言葉は用いずに”真空”という言葉で一本化した方が誤解がなくより適切であると思います。
一般相対性理論では、「空間が曲がる」などと主張しますが、まったく的外れな主張です。上の3種類の意味を考えても、「空間が曲がる」などという考えが出てくる余地はありません。相対論では、時間と同様、空間における哲学的考察が足りないと思います。 
現代宇宙論は完全におかしい

 

上記証明により、一般相対性理論が誤った理論であることは誰の目にも明らかになりましたが、皆様もご存知のように、現代の宇宙論はその一般相対論を基礎としています。
物理学という学問は、基礎となる方程式を元に全てを展開しますので、その根本の方程式がもし間違っていたら、いくらそこから壮麗な建造物を構築しようとも、議論全部が大嘘となってしまいます。現在天才と称されるホーキングやペンローズが一般相対論を駆使し宇宙やブラックホールについて論じていますが、それらがいかに数学的に立派であろうと、全部誤りであると断定することができます(根本の一般相対論が間違っているのですから!)。
さて、先日ブルーバックス「世界の論争・ビッグバンはあったか?」(近藤陽次著)を読んでいて、興味深い記述を見つけましたので、下記に紹介します。
指摘されれば、もっともなことなのですが、天才と称される人たちにいわれると、どういうわけか人間は暗示にかかってそれを信じこんでしまう傾向があります。その点を近藤氏は突いています。
「世界の論争・ビッグバンはあったか?」 宇宙における銀河の分布は均一性が高いので、それを説明するために、インフレーション・ビッグバン論が生まれたわけだが、そのためには初期の宇宙は非常に高速度で膨張しなければならない。
ほとんど零に近い大きさ(プランク長さ)から1センチの大きさになるのに、10のマイナス33乗秒しかかからない。
この膨張速度は、光の速度の10の22乗倍以上になる。これは、アインシュタインの特殊相対性理論の速度限界 を、はるかに超えたものになる。
インフレーション・ビッグバン論の支持者は、通常、次のように答えて、その間の事情を説明している。
宇宙が、インフレーション・ビッグバン論でいうように、光の速度の10の22乗倍(1兆の100億倍)以上の高速度で膨張する場合、その宇宙は、時間も空間もまだ存在しないところに膨張していくのだから、特殊相対性理論による、物体の速度が光の速度の限界を超えることはないという原則が適用されない。
さらに、膨張するのは空間そのもので、その空間の中の物質がお互いから飛び離れていくのではないから、いずれにしても、その現象には光速の限界は適用されない。
だが、それはそうかもしれないと一歩譲ったとしても、右記のインフレーション・ビッグバン論で、距離と時間を議論するには、それを測る基準になる時間と空間の存在が、前提として必要ではないかと思える。ここで、インフレーション・ビッグバン論は、まだまったくテストされたことのない、未知の自然科学の”法則”を用いていることになる。・・・・
言われてみれば、そのとおりと思います。
近藤氏は宇宙論学者の矛盾した主張をやんわりと指摘されている。
「宇宙誕生初期に時間・空間は存在していない!」といいながら、そのときの状況を時間・空間を用いて議論していることのおかしさを宇宙論学者ははたして認識しているのでしょうか。
人間というのは、一旦正しいと信じこめば、もう目が見えなくなって、自分の信じた理論に有利な解釈を無意識のうちにしてしまうもののようです。そして現代物理学はなぜかアインシュタインを優先してしまう傾向があります。
ところで、今回紹介した近藤陽次氏の「世界の論争・ビッグバンはあったか?」は、たいへんな名著です。
相対論をもとにするインフレーション・ビッグバン宇宙論を優先する本が多い中で、競合する他の多くの宇宙論(相対論を用いない宇宙論)も公平に扱っていてその著者の科学者としての態度には敬服します(近藤氏は著名な天体物理学者)。
この本を読めば、ビッグバン宇宙論に有利な決定的な証拠などじつはなに一つないということがわかり、いかに我々がマスコミの情報に踊らされているかがわかります。ぜひ一度読んでみてください。 
ビッグバン宇宙論に対するフランダーンの指摘

 

「科学をダメにした7つの欺瞞」をよんでいると、天体物理学者トム・ヴァン・フランダーンが、「標準理論はおかしなことだらけ」と題して、現代宇宙論を次のように述べている箇所をみつけました。
現代のビッグバン宇宙論の奇妙な姿が映し出されていると思いますので、紹介しておきます。
「科学をダメいした7つの欺瞞」
標準理論はおかしな事だらけ
現在の自然科学の体系には大きな間違いがある。奇妙な数学理論ばかりがまかりとおり、根拠のあやふやな理論がもてはやされる。
私の専門である天文学を例にとっても、初めから最後まで、おかしな事だらけである。
まず、標準理論として多くの学者の支持を得ている「ビッグバン理論」について考えてみてほしい。この理論では、以下のような事を疑問なしに受け入れる必要がある。
大昔、時間と空間は存在していなかった。
ある時、爆発によって時間と空間が忽然と出現した。
爆発の原因は不明である。
宇宙は光速よりも速く膨張していた。
宇宙は均一である。
宇宙には均一でない大構造がある。
宇宙の膨張によって銀河同士の距離は増大するが、銀河内の太陽と地球の距離は変わらない。
このような矛盾だらけの理論が平気で受け入れられているのである。これは明らかに何かがおかしい。・・・
フランダーンのこの指摘と、上記私の等価原理に関する指摘、さらに他のページで述べた相対論における様々な欺瞞の指摘を合わせて読んでいただけば、現代宇宙論がいかに誤った道を歩みつづけているかがわかって頂けると思います。 
宇宙背景放射はビッグバン理論の決定的な証拠ではない

 

先に紹介した「世界の論争・ビッグバンはあったか?」(近藤陽次著)には、いろいろと重大な事実が指摘されています。1965年にペンジアスとウィルソンが発見した宇宙背景放射は、これまでビッグバンが実際にあった動かぬ証拠とされ、マスコミや啓蒙書などによって盛んに喧伝されてきたのはご承知のとおりです。
しかし、事実はちがっており、歴史の陰に隠れてきた驚くべき事実があったのです。
ビッグバン理論が発表されるよりはるか以前に現在の背景放射の温度2.73Kに極めて近い値を、定常宇宙論の観点から多くの天文学者が算出していたのです。
私自身はじめて知ったのですが、世間にほとんど知られていない事実と思いますので、ここに本より引用し、紹介します。
「世界の論争・ビッグバンはあったか?」
宇宙背景放射は必ずしもビッグバン論だけが予言したわけではない
ビッグバン論、定常宇宙論という二つの宇宙論にかかわる種々の論争には、重要な問題が数多く提示されている。
その中で一番よく知られているのは、宇宙背景放射であろう。
宇宙背景放射というのは、星や銀河系などの発光物体からくる光を除いた、宇宙空間そのものからやってくる光のことである。普通、その光が、絶対温度にして何K(ちなみに零K<ケルビン>=マイナス273.16℃)の黒体放射に相当するかで表される。
黒体放射とは、理想的に真っ黒な物体から放射される光のことで、その波長ごとの明るさ(エネルギー)の分布(プランク分布という。図5−1)を見ると、温度にのみ依存して分布のピークが決まっている。よって、観測された光のプランク分布を見れば、黒体放射温度が求められる。
また、物体がある温度の熱平衡状態にあるとき、その物体そのものから出てくる光のプランク分布は、同じ温度の黒体から放射される光のプランク分布と類似している。すなわち、観測された光の黒体放射温度は、その光を発している物体の温度を示しているといえる。
ビッグバン論によれば、ビッグバン直後は各素粒子がバラバラに飛び交っている状態だったが、一定の時間が経つと電子が原子核にとらえられる(つまり原子ができる)。すると、自由電子がいなくなったために光は自由に飛び回れるようになり、宇宙は、絶対温度にして4000Kの光が充満した熱平衡状態になった(これを宇宙の晴れ上がりという)。このときの光を宇宙背景放射として現在観測できるというわけだ。
ただし、銀河からの光が赤方偏移するように、この宇宙の晴れ上がりのときの光も赤方偏移して、温度に換算すると4000Kよりだいぶ低くなっているはずだと予測された。
ところで、多くの人たちが(無論、天文学者も含めてだが)、宇宙背景放射はビッグバン論のみが予言したもので、ビッグバン論でしか説明できないと信じているようだが、それは必ずしも正確とは言えない。
前述のアーサー・エディントンは、1926年に出した天体物理学の教科書の専門書に、恒星間空間の温度を銀河系内の星の光の強度から計算して、絶対温度で3.2Kと算出している。
その数年後、島銀河系の存在が確立されてから、ドイツの天文学者エルンスト・レゲナーは、宇宙空間でのイオン化現象を研究して、星からの光がほとんど無視できるような状態の銀河系間の空間の温度を計算し、絶対温度で2.8K とした。
さらに、1941年、A・マッケラーは、カナダのビクトリア天文台の台報に、恒星間物質のスペクトル観測から恒星間空間の温度を2.3Kと算出した、と報告している。
これらの数値は、どれも、最近の宇宙背景放射の測定値である2.73Kに驚くほど近い。
また、この三つの数値は、1965年に初めて観測されたときに出された背景放射温度の3.5Kと比べると、最近の測定値により近い。
ただし、エディントンもレゲナーも、この温度を直接測る方法があるかどうかは、論述していない。
宇宙背景放射の温度をめぐって
さて、ビッグバン論と定常宇宙論と両者が現れた1940年代の終わりごろの、ビッグバンの最も強力な推進者は、コーネル大学にいたロシア生まれの物理学者ジョージ・ガモフ(図5-2)と彼の同僚だったラルフ・アルファーおよびロバート・ハーマンだった。
1946年にガモフが発表した論文でのビッグバン論への最も重要な貢献は、核融合理論の導入であった。
・・・
アルファーとハーマンは、1948年に、原始の火の玉から分離した背景放射の温度を計算して、絶対温度で5Kと答えを出した。彼らはさらに、この背景放射は、星からの光から切り離して観測することはできないかもしれず、星の明かりが観測結果に混入するかもしれないと警告した。
この二人は、1949年には、新しく観測された資料から推定された宇宙全体の物質の密度を使ってこの計算をやり直し、28Kという新しい数値を出した。
ガモフ自身、これとは異なった物理条件を考慮して、それを3Kと計算した。だが、のちほど出版された彼の著書「宇宙の創造」には、宇宙の年齢が30億年との想定のもとに、それを50Kとした。その後、ガモフはさらに、それを1953年には7K、1956年には6Kと変えている。
要するに、ビッグバンの支持者の計算した背景放射の温度が、その後実際に観測された数値に、常に近かったわけではない。現在の観測結果の2.73Kに一番近かったのは、ビッグバン支持者が計算した背景放射の温度ではなく、むしろレゲナーの計算した銀河系間空間の温度(2.8K)だった。
宇宙背景放射の発見とその解釈について
ところで、1950年代から1960年代初期にかけて競合する仮説、主としてガモフたちの支持するビッグバン論と、ホイルたちの推す定常宇宙論が派手な論争を繰り返し、少し大げさにいえば、宇宙理論家たちの戦国時代のような様相を帯びていた。もちろん、こういう状況は、科学の発展のためには、必要でしかも望ましいことでもある。
1965年に、ウィルソンとペンジアスが宇宙背景放射を発見した時点で、この状況は急変した。この観測結果は、同じプリンストン大学のロバート・ディッケとその同僚たちが計算して、絶対温度3.5Kの宇宙背景放射であると結論した。偶然ながら、ディッケたちは、ちょうどそのころ彼ら自身、宇宙の背景放射を観測する計画を立てようとしていたところだった。
ただし、ウィルソンとペンジアスの地上観測では、3.5Kの黒体放射のピークは観測できなかったから、この温度の推定には外挿法(ある変域内のいくつかの変数に対して関数直が知られているとき、その変域外で関数値を推定する方法)が用いられていて、その温度の推定値に少々不確かなところがあったのはやむを得ないところだろう。
ここで読者諸氏にもう一度思い出していただきたいが、ビッグバンの支持者の他にも、銀河系間空間や恒星間空間の温度を計算した天文学者が30〜40年前からすでにいて、もしその温度と熱平衡状態にある微細粒子が存在してそれが観測可能ならば、絶対温度にして3K付近の背景放射が観測されうる可能性を提示していたのだ。
しかも、ビッグバンの支持者たちがウィルソンとペンジアスの観測以前に予測した温度は、観測された数値の3.5Kよりもかなり高いものが多かった。
にもかかわらず、天文学者のみならず、科学者一般の大多数は、この背景放射の観測をビッグバン説の絶対的な勝利と見なした。そんな事実はなかったにもかかわらず、ホイル自身が彼の説の敗北を認めたというような噂を振りまく人たちまで出てきた。
その結果、定常宇宙論は大多数の人たちに無視されるようになり、一般的に異端論とまで考えられるようになってしまった。  
宇宙の大規模構造(グレート・ウォール)とビッグバン理論の矛盾

 

コンノ・ケンイチ氏の著書「死後の世界を突きとめた量子力学」には、欧米では知られていても日本ではほとんど紹介されない(意図的に伏せられている?)ような重要な事実が数多く指摘されています。
ビッグバン理論とグレート・ウォール(宇宙の大規模構造)の関係もその一つで、コンノ氏は、つぎのように述べビッグバン理論の奇妙な点を鋭く突いています。
「死後の世界を突きとめた量子力学」
・・・
たとえば「馬のたてがみが後方になびいている」写真を見て「馬が走っている」と仮定しても、後になって別のムービーを見ると「前方から風が吹いていただけ」というようなことである。「ビッグバン理論」や「アインシュタイン相対性理論」も、これとまったく同じ誤りを犯しているのである。「ビッグバン理論」の基本となったのは、エドウィン・ハッブルが観測で見出した「宇宙の赤方偏移」という現象を「銀河が離れ遠ざかっている」(馬が走っている)という運動状態と解釈し、あげく「宇宙が膨張している」という仮定理論を数学的に発展させたことから始まった。
膨張という運動には必ず「始まり」がある。ハッブルの膨張定数を逆算すると、「宇宙(時間と空間)は百五十億年前に誕生した」となったのである。
しかし、「ビッグバン理論」の原点となった「宇宙の赤方偏移」という現象は、銀河同士が離れ遠ざかっているという運動状態をジカに確認したわけではない。「馬のたてがみが後方になびいている」という一枚の静止写真(あまりにも個々の銀河は遠くにあるので、運動の直接確認はできない)を見て「馬が走っている」運動状態と解釈し、「どこからスタートしたのか、これからどうなるのか?」という推論を数学的観点から積み重ねたものである。
しかし精度の高い別の写真やムービーで「馬が走っていなかった」ことが分かれば、ビッグバン宇宙論は直ちに崩壊してしまう。「ビッグバン理論」が崩壊の途上というのは、ハッブル宇宙望遠鏡のような精度の高い天体観測機器が打ち上げられて、ビッグバン理論と大きく矛盾する現象が続々と発見されているからである。
その最大のものに、宇宙の大規模構造(グレート・ウォール)の発見がある。
ビッグバン理論では、宇宙が誕生したのは百五十億年前とされてきたが、ハッブル望遠鏡が発見したグレート・ウォールが形成されるには、何と一千億年もかかるのである。娘の年齢が母親を上回るわけもないし、地球の山や海が地球の誕生より古いわけもない。
これだけではない。ハッブル宇宙望遠鏡の新たな観測結果によれば(もし、ビッグバン理論の基本とされてきた赤方偏移でいう互いの銀河同士が離れ遠ざかっているという解釈が正しければ)、宇宙の年齢はビッグバンがいう百五十億年前から半分の70〜80億年前に修正されてしまうのである。グレート・ウォールもそうだが、宇宙には年齢が百億年パルサーのような天体もザラに存在するのである。七十〜八十億年しか経ていない宇宙の中に、百億歳や一千億歳のパルサーやグレート・ウォールが存在するのは、どう考えてもオカシイ。
これだけでもビッグバン理論の破綻は充分といえるが、だいたいビッグバンの基本「ハッブル定数」(宇宙膨張)が正しかったなら、グレート・ウォールに見られる銀河集団のボイド(バスタブの泡のような表面に銀河が集合し、泡の中は何も無い空洞)など形成されるわけもないのである。
しかし、「宇宙の赤方偏移」は現実に観測される物理現象である。となると宇宙の赤方偏移という現象は、ビッグバン理論がいう銀河が離れ遠ざかる(馬が走っている)運動状態を示すものではなかったことになる。・・・
コンノ氏にしても、近藤氏にしても、勇気をもってこれらの事実を掘りおこしているその姿勢には心底敬服します。
日本では、どの学者も「ビッグバン理論は完全に正しい」という前提で論を進めていきますが、見ていて情けなくなります。
両氏のような「こういう解釈もあるが、こういう事実もあるのだから、このようにも解釈できる」という多様な解釈を公平に並べて検討するという、そんな真摯な姿勢が日本人学者には欠けています。
批判精神を忘れ、ただただ「アインシュタイン万歳!インフレーションビッグバン理論万歳!」と流行に乗っかってすすむ姿は、もやは学者のそれではありません。
科学者は、はやく気づかなければなりません。気づいた者の勝ちです。 
桜井邦朋博士の言葉
著名な天体物理学者・桜井邦朋博士(神奈川大学教授)は、「宇宙には意志がある」の中で、現代物理学の欠陥ともいうべき、数学偏重の危険性についてつぎのように述べておられます。
これは、現代物理への警告ともとれましょう。
「・・・物理学者の中には、数式を用いた表現ができさえすれば、それでよしと考える人たちも多い。方程式を解くことが物理学だと思い、その数式の物理学的意味を考えようとしない人が、往々にしている。しかし、そんなやり方では本当に物理学の研究ができるのか、私には疑問である。だから、「(数)式で書けば、こうなるから・・・」という説明をする人に対して、私は「その式の物理的な意味を分かるように説明してほしい」と尋ねることにしている。すると、たいていの人は「何てバカな奴だ」という顔をする。だが、それでも突っこんで聞いてみると、ちゃんとした厳密な説明ができる人は案外少ない。これは数式の持つ意味を曖昧にしか考えていないからである。物理学者ですら、こうなのだから、学校教育が数式偏重になるのも当然なのかもしれないが、これはなんとも残念なことである。今の若い人には物理学嫌いが多い、という話をよく聞くが、それは数式偏重のせいではないかと、私には思えてならない。・・・」
これを読んだとき、全く同感!と心で叫びました。(私もいつもそう感じていたので)
これは、現代物理そのものへの警笛といってよい。
インフレーションビッグバン理論なども、まさに高度な数式の遊びにすぎず、無意味そのものと断言できますが(一般相対論が嘘ですからね)、上文から、現代宇宙論の脆さ、危うさをどうしても思わざるをえません。
いえ宇宙論だけではないのかもしれません。
「10次元の世界を予測し余分の6次元は微小な世界に巻き込まれているから観測できないのだ!」と主張するインチキくささがプンプンする超弦理論もどうか「じつは嘘でした」などとならないように祈るばかりです・・・ 
 
一般相対性理論の誤りについて

 

一般相対性理論における問題点(誤り)を指摘します。現代の理論物理学が一般相対性理論を基本の一つとして構築されているのだとすれば、それは、これらの問題(誤り)を含んで現代に至っていることになります。
問題
1. 重力赤方偏移が教科書によって、縦ドップラー効果で説明されているものと、横ドップラー効果で説明されているもの(など)とありますが、二つのドップラー効果は物理的意味がまったく異なるものです。従って、二とおり(以上)に説明されていることはおかしい。
2. 一般相対性理論で、シュワルツシルト時空(例えば太陽系)に於て、空間半径方向に(人間の目の前の短い長さでさえ)一本の物指の長さが二つ以上あることは矛盾である。
3. シュワルツシルト表面が、物理学理論上の"実在"である事象の地平面であり、かつもう一方で(人間の机上の式計算である)一般座標変換で生じたり消滅したりするみかけの特異点(面)でもあることは矛盾である。 
 
ビッグバン宇宙やブラックホールを正しいとまだ信じているのですか?

 

1) ブラックホールの概念の元となったシュバルツシルトの解はある質点を仮想し、その回りの重力場を球対称の形とし重力場が変化しないときに、アインシュタインの方程式に従って解いたものである。一般相対性理論が成立すると仮定しながら、一般相対性理論の成立しない特異点としての質点をもう片方で仮定するという矛盾した手法をもちいている。これは明らかに数学的に間違いであり決してブラックホールは存在しない。また質点の形成を量子力学で説明しようとしているがそれは問題のすり替えに過ぎない。
2) 宇宙は唯一この宇宙しかない。原理的に観測不能な宇宙が無数にあり我々の住む宇宙が、その中の1つにしか過ぎないという考えは明らかに論理的にあり得ず、間違いである。それゆえに150億年前に宇宙が突然出現したということに対する、論理的な必然性を説明できない限りはビッグバン宇宙の理論としての正当性はない。
3) アインシュタインは時空の歪みの説明として力を加えても曲がったり伸びたり縮んだりしない剛体の測量棒を考えおり、この測量棒の概念はまさしく固い物質をイメージしている。 この物質が光に近い速さで円運動をすると特殊相対性理論の効果によって、決して変形することがないと仮定したにも関わらず、物質が変形したかのような結論がもたらされる。これは実は空間の歪みという概念により解決されると考えたのが一般相対性理論である。一般相対性理論では物質と空間を別物として取り扱う理由などまるでない。一般相対性理論で空間のみが収縮や膨張をし、中の物質がそのままの大きさという事はあり得ない。一般相対性理論の理念に従えば、常に空間と物質は同様の歪み・膨張・収縮をするため宇宙が膨張や収縮をするように観測されることはありえない。
4) 宇宙空間では、重力が重要な役割を果たし熱力学第2法則はそのままでは成り立たない。重力を考慮に入れ熱力学第2法則を考えると、宇宙では物質が熱的平衡にある部分と、重力的に物質が凝集している部分が混在しながら、違いに姿を変えそのような状態の変化を恒久的なものとして存在し続ける。
5) ペンジアスとウィルソンの発見した宇宙の2.7K背景放射を形成する系は宇宙全体に広がる絶対静止系でありそれは真の慣性系である。それ以外の従来慣性系と考えられていた系は、厳密には加速度系ということになる。宇宙空間に存在する物質が2.7Kで熱的平衡状態にありこれらの物質から2.7Kの背景放射が行なわれる。  
6) 宇宙が有限であれば、その空間は曲がっており、その中を進む光は当然の事ながら、曲がって進む。宇宙の曲率こそが光など従来慣性系とされた運動系の加速度の源である。背景放射を形成する系が絶対静止系であるから、光のように速いスピードで運動する物質に対してその加速度と慣性質量をかけ合わせた力で絶対静止系にとどまらせようとする方向に力が働く。これがまさしく赤方偏移となって観測される。
7) 宇宙が有限で閉じていれば、光子はその大きさをコンプトン波長とする静止質量を持つことになる。しかしその静止質量は宇宙の大きさが極めて大きい為に非常に小さい。光子がその質量を検出できるほどの速さになったときには極限の速さとしての光速度Cと区別できないが、正確には光は速度ゼロから極限値としての光速度C未満までのあらゆる速度で運動可能である。
8) クェーサーはビッグバンモデルによれば宇宙の初期にのみ存在したとされる天体である。しかしそれは本当だろうか。現在クェーサーは銀河と銀河の相互作用によって形成されるとする説が有力であるが、これが正しければクェーサーより前に通常の銀河が必要になるし、現在においてもその様な相互作用はあって良いはずである。また銀河とクェーサーが相互作用しそれらが異なった赤方偏移を示すという現象をホールトン・アープが報告したが、このことは天文学会から無視されている。
9) 背景放射があることより宇宙には絶対静止系が存在することがわかるが、その事は宇宙には静止系がいくらでもあるという特殊相対性理論を導く上での仮定条件を否定することになる。このことから特殊相対性理論は修正が必要であることになるのだが、今回具体的に修正案を示した。これにより現在観測されている赤方偏移が説明しうるのだが、極めて遠方では現在の一般的な予測とは異なってくる。新しい考え方によれば、従来宇宙の地平線までの距離と考えていた長さが宇宙の曲率半径となる。また一般相対性理論の理念からは、宇宙は膨張も収縮もできないはずなのに、一般相対性理論を解くと宇宙は定常状態におれないと言う矛盾を解消するために一般相対性理論に光速度C以外に宇宙の曲率半径Rを定数として含まなければならないことを示した。
10) 古代ギリシャでは天動説だけではなく地動説も唱えられており地球の正確な大きさも求められていた。しかし天動説はプトレマイオスによって完成され勝利をおさめた。この天動説には観測結果と整合させるため存在意味の不明な周転円というものを79個も採用している。現代においては、ビッグバン宇宙が主流を占めているが、その宇宙の誕生期とされる時期の説明がうまくつかないため、その時期にしか通用しない従来の物理学常識とは反するインフレーション理論を採用している、しかしこれもほころびを見せ始め、更に理論がつけ加えられようとしている。これは正に現代の周転円である。  
11) エネルギーには色々な種類があるが、運動エネルギーが基準となる。そしてエネルギーの保存則を重要な基準として宇宙が形成されている。エネルギー保存則から思考実験を行うと「質量=エネルギー」であることがわかり、さらに必然的に相対性理論が導かれる。またエネルギーは動かされにくいという慣性質量にその源があり、さらにこの慣性質量は宇宙全体に存在する物質からの重力作用によってつくられると考えられる。
12) 米科学誌の「サイエンス」1998.2.27発行に宇宙の膨張が加速されておりその原因は反重力としての「宇宙項」が存在するためであろうという記事がありました。宇宙が定常で光がそのエネルギーに比例した力で絶対静止系(背景放射をなす系)にとどめられようとすると、見かけ上このように観測されることを当ホームページにおいて予測していました。これらより定常宇宙は勝利したと考えて良いはずです。
13) 一般相対性理論の専門家と自称される方とのブラックホールについての議論を掲載すると共に、なぜ専門家はブラックホールが存在するという間違った結論を出してしまったかをその論理過程を検討することにより明らかにしました。数学的にはすべての理論が適用不能な特異点というものを常に既に存在するものとして取り扱っていることがわかりました。
14) 宇宙は減速膨張から加速膨張に変化していったという説が主流となりつつあるようだ。私の提唱する有限で閉じていて膨張も収縮もしない定常宇宙では、今までに示した簡単な仮説のみで、そのように解釈されるような観測データが得られることを示した。 曲率半径Rの宇宙を運動する光の加速度と慣性質量をかけ合わせた力で光を絶対静止系にとどまらせようとする方向に力が働き、これが赤方偏移となって観測される。その赤方偏移はビッグバン的には加速膨張しているように解釈される。ここに宇宙を1/4周するころには宇宙はほとんど広がっていかず逆にすぼまっていくという効果をさらに加え、ビッグバン的考えを適用すると、遠い過去には減速膨張し、最近になり加速膨張するようになったと解釈されることになる。
15) ホームページ開設以来の説明と現在宇宙論関係の世間の状況について書いた。多くの天文学者がビッグバンを疑問視しており、ホーキングは特異点を放棄し厳密な意味でのブラックホールの存在を否定した。私のビッグバンやブラックホールに対する否定の証明はパラドックスであり、もし矛盾点があるならばそれを証明しなければならない。  
16) 膨張宇宙以外では、遠くの超新星の一連の光子の放出の経過を説明できないと言われていた。ここで提唱している定常宇宙モデルではそれが説明できる。遠くからやってくる光は重力の作用により絶対静止系にとどめられようとしその為に赤方偏移を示すと考えた。これは重力赤方偏移であり、この事より遠くの天体ではそこから来る光の赤方偏移zに1を加えた値だけ時間がゆっくり進むことがわかる。またこれから過去においては時間の進み方が遅かったこともわかる。これらにより超新星の光子の放出が長くなることも正確に説明可能である。
17) 超新星の観測データから得られる赤方偏移と距離の関係と定常宇宙モデルから予想される赤方偏移と距離の関係のラインを実際に検証しました。超新星のデータは2004年に発表された文献のデータを用いました。そのままでは全く一致しませんでしたが、定常宇宙モデルから得られるラインの距離をz+1倍に補正すると観測データにほぼ一致しました。これは本来観測データの光度を (z+1)^2 倍に補正すべきであるのを補正していないせいではないかと考えられました。また比較的近くの超新星のデータから宇宙の曲率半径は150億光年程度と予想されました。
18) クェーサーが固有の赤方偏移を持つ可能性について検討しました。最近の文献に寄ればクェーサーなどは中心の非常に重力の強い部分に放射部位があると予想されているようです。もしその放射部位を直接観測すれば固有の赤方偏移を持つ可能性はあると考えられました。また公的機関が赤方偏移の異なった銀河(NGC 7603 とその近くの銀河)が相互作用をしていると記載していることやそれらが実際に相互作用している可能性が高いことの観測結果も示しました。最近の深部宇宙の観測では非常に遠くの宇宙も近くの宇宙もほとんど変わりがないという結果が得られていることをリンクもつけて紹介しました。
19) 宇宙マイクロ波背景放射がビッグバン派より早い時期に、より正確に宇宙空間からの黒体放射としてEddingtonらによって予測されていました。背景放射の10万分の1のゆらぎはビッグバンにとっても宇宙の初期に大規模構造を作ることが困難であるという難点があり、定常宇宙だけの困難ではありません。ビッグバン派によって考えられたバイアスモデルは定常宇宙にも適用可能で問題を解決できます。最近の研究で背景放射には太陽系や超銀河平面に関係するゆらぎがあり、これは背景放射が我々の近傍の宇宙空間由来であることを強く示唆するものです。
20) 定常宇宙を否定する理由として宇宙マイクロ波背景放射が10万分の1の温度ゆらぎしかないこと、そしてその放射が2.725Kの正確な黒体放射を示すことがその根拠とされています。 定常宇宙モデルにおいてシミュレーションしたところ、背景放射のほとんどは、はるか何10億光年もの遠方からやってきたものであり、近傍の宇宙空間の物質由来の粗いゆらぎは全体の中に埋もれ平均化されて滑らかなゆらぎを形成することがわかりました。 また2.725Kの正確な黒体放射は、宇宙空間の物質が銀河などの熱放射からエネルギーを得て2.725Kよりも実際はやや高い温度となり 赤方偏移する2.725Kの背景放射を補正し2.725Kに維持することが可能なことを示しました。 補正が可能な条件として150億光年の距離を放射が進む間に少なくとも宇宙空間の物質にその60%が吸収されなければならないことがわかりました。 その限界の条件では宇宙空間の物質の温度は3.59Kであることもわかりました。主流派の主張では、Tired Light モデルでは高赤方偏移の場所での背景放射は2.725Kよりも高い温度を元々持っていなければいけないと考えています。しかしそれは定常宇宙モデルではなく、非定常宇宙モデルです。それをもって、Tired Light モデルおよび定常宇宙モデルを否定することはできません。
21) Case Western Reserve University  のLawrence M. Krauss 氏等物理学者グループが従来の物理学者の定説を覆し、ブラックホールの形成の過程はブラックホールへ落下していく観測者の視点ではなく、外部の観測者の立場から考えるべきであり、事象の地平線を形成するには無限の長さの時間を必要とするため、ブラックホールは存在しないと発表しました。 これは私や多くの素人の方が主張してきた説と一致するものです。 Lawrence M. Krauss 氏は物理学会の中では非常に重要な人物として知られており、今後多くの物理学者が追従すると予想されます。 また今後一般相対性理論から同じく導き出されたと言われるビッグバン膨張宇宙が考え直されるものと考えられます。  
アインシュタインは膨張する宇宙に反対した

 

1917年、アインシュタインは彼の導いた一般相対性理論を、宇宙論に適用しようとしました。物質によって空間は歪みを生じそれはあたかも2次元の平面が曲面になるようなものであると考えたのです。そして宇宙に存在する物質がどこでも同じように分布しているのであれば、どこでも同じ曲面となりそれは2次元で考えるならば球の表面のようになるであろうと予想したのでした。この類推よりアインシュタインは宇宙に一般相対性理論を適用すれば宇宙は有限で閉じた世界となるであろうと考えました。さらに、彼は宇宙が時間的に変化して行くことのない静的なものであるという仮定をつけくわえました。彼の信念によれば、宇宙が時間とともにその大きさを変えて行くということは許されないことであったのです。
しかし、1920年代になって、フリードマンが一般相対性理論からは決して静的な宇宙モデルを引き出すことはできず、宇宙は時間の経過とともに膨張するかもしくは縮小するかのどちらかである事を証明した、ということになっています。この証明はむずかしいものでしょうが、そのおおよその理屈は一般相対性理論の概念を使わなくともニュートン力学だけで十分です。地球の表面から投げたボールは地球とボールとの間の重力作用により、減速しながら上昇していくか又は落下するかのどちらかだけです。静止するのは上昇から落下に移る一瞬のみで、時間的には0になります。ところで、宇宙にあるすべての物質は重力によって互いに引き合います。先の地球とボールとの関係を宇宙に当てはめると、上昇するのは膨張に当たり、落下するのは収縮に当たります。決して静止はできないことになります。つまり静止して、時間的に大きさの変化しない宇宙はニュートン力学からも一般相対性理論からも導くことができないとされたのです。
アインシュタインはこの結果を知って落胆しました。そして彼の静止宇宙モデルを成立させるために、宇宙項と呼ばれる項を、彼の理論のもともとの方程式に付け加えました。重力が引力だけであるために静止することができないので、そのためにこの引力と釣り合わせるために、斥力の項を宇宙項として付け加えたのです。この斥力は実験的には全く発見されていない架空の力であり、彼の信念だけによって生み出された力です。 
一般相対性理論による宇宙の膨張とはどんな事を意味するのか

 

1929年ハッブルによって発見された、遠くに存在する銀河系ほど赤方偏移が強いという事実により、膨張宇宙が広く信じられるようになりました。後にアインシュタインは、その信念を曲げ、宇宙は膨張するという考えが正しいと信じるようになるとともに、宇宙項の導入を学問上の「最大の失敗」だったと言っています。
ハッブルの発見が本当に膨張宇宙を支持するかどうかについては、他の章でさらに詳しく検討します。ここでは本当に一般相対性理論が静止宇宙を否定するのかどうかについて検討してみましょう。
ここで、この問題について思考実験を行うことにしよう。膨張する宇宙の時間を逆回しにした場合、または収縮する宇宙を考えてみよう。宇宙が長さにして、1/a(a>1)体積にして1/a3に収縮したと考えてみましょう。このとき宇宙はどのように収縮するのでしょうか。宇宙の大規模構造はその割合で収縮していくのでしょうか。銀河の大きさはどうでしょうか。惑星系の大きさはどうなるのでしょうか。恒星の大きさはどうでしょうか。つきつめて考えれば素粒子の大きさはどうなるのでしょうか。いったいどのレベルで収縮がおこるのでしょうか。どうも従来の膨張宇宙モデルでは、時間を逆回しにした時、より下のレベルでの大きさはそのままで、一番上のレベルより、つまり宇宙の大規模構造、銀河、惑系・・・・という順番に間隔が狭くなり収縮が進んでいくと考えているようです(この部分を明瞭に解説したものを私は知りませんが)。しかしその収縮の方式の根拠が明解であるとは思えません。
ここに1つの収縮のモデルとして中性子星の収縮を考えてみましょう。このような天体は収縮により物質密度が高まり、もはや原子の構造は消失し星全体が中性子だけからなる原子核となります。通常の原子の構造は壊されていますが、より下位のレベルの中性子はその大きさや性質を保持しているのです。この成立の過程では超新星爆発を起こし、その爆発によりその星の一部を吹き飛ばしますが、吹き飛ばされない部分だけを考える限り、その星の質量は収縮前も収縮後もほとんど変化はしません。
このような収縮とは全く異なったもう一つの収縮の方式について考えてみましょう。それは特殊相対性理論によるローレンツ収縮です。ロケットで光速度に近いような速さで飛行したとします。このとき運動の方向に1/aに収縮したと考えます。aがたいへん大きな数としたとき、このロケットは圧縮のために破壊され、この中の乗務員は死んでしまうでしょうか。特殊相対性理論ではそのようには考えません。外の系から見ると収縮しているようでも、そのロケットの中の乗務員は収縮しているということすら感じないで過ごすことができます。つまりローレンツ収縮では物質の最小レベルにおいても同方向に等しく収縮しているために、長さの基準も収縮し結局はその収縮した系の中においては、収縮のすべての効果がキャンセルして、まったく収縮していないのと同じ状態にいることになります。次に、ロケットが飛行しているときにロケットの中の乗務員が外の宇宙を見た場合を考えてみましょう。このとき外からロケットを見たときとは逆に、宇宙全体がロケットの運動方向に対してローレンツ収縮を受けます。そしてロケットから見ると、宇宙全体の質量があたかも増加したようにみえることになります。宇宙のどこかの惑星の住民は1つのロケットが高速で飛んだからといって圧縮されて死んだりはしません。ロケットから見ると収縮し質量も増加しているように見えても、ロケットの外の者にとっては、先ほどと同様の理由によりそれらの収縮の効果すべてがキャンセルし合ってわからなくなってしまうのです。 宇宙の収縮が中性子星とロケットのどちらの様式をとるかを考えてみましょう。これは実は簡単なことです。中性子星の収縮はその考えに相対性理論を持ち込んでおらず、それに比してロケットの方は相対性理論による収縮です。宇宙モデルが相対性理論より得られるのですからロケットのほうの収縮方式を採用するのは当たり前ではないでしょうか。ここで読者の方は宇宙モデルは一般相対性理論であり、ロケットは特殊相対性理論ではないかと思われるかもしれませんが、一般相対性理論も元は等価性原理と特殊相対性理論より導かれることを考えればその収縮の様式が特殊相対性理論によって説明できなければなりません。
そして、ロケットからみた宇宙のこのような収縮が一方向でなく、空間の3つの方向すべてに対して起こったとしても宇宙にいる人にはやはりわからないでしょう。そしてこれはまさしく、一般相対性理論により宇宙全体が収縮したのと同じ現象と考えてよいのです。 
一般相対性理論の原点にもどる

 

一般相対性理論についての解説書はたくさんあります。しかしそれらのすべてが真に、一般相対性理論を完全に理解した人によって書かれているとは限りません。その著者自身は完全に理解していると信じていて、実際にその数式的取り扱いについても慣れていたとしても、その真の理念についてマスターしている場合は少ないのです。もしかするとアインシュタイン自身も、いろいろな個々の場合において、一般相対性理論を適用するときに元の理念を忘れてしまっているかもしれません。
一般相対性理論が、すばらしく、そしてアインシュタインが天才であると言われるのは、この理論が、実験によらずに純粋に頭の中で論理によって完成されたからです。そして、今日の物理学のいろいろな理論が、多数の人々によって積み重ねられ形成されたものがほとんどであるのに対して、相対性理論は、アインシュタインただ一人の力によって生み出され、そしてその後修正が行われていないところが驚異なのです。
このような理論の是非や理念について考えるときに、他の人によって書かれた書物はほとんど信用するに足りません。この理論の応用の是非については原点に立ち返って検討すべきです。
さて一般相対性理論の出発点は重力質量と慣性質量の同等性にあります。このことは、重力と加速度の同等性をも意味しています。そしてこれより得られる時間的空間的な値の物理的解釈の求め方を、彼の著書から引用することにしましょう。
(特殊および一般「相対性理論」について A.アインシュタイン著) 適当に選んだ運動状態の基準体Kに対して相対的に重力場が存在しないような、1つの時空領域があるとせよ。このさい、注目しているこの領域に関してKがガリレイ基準体であり、特殊相対性理論の諸結果はKに対して相対的に適合する。その同じ領域を、Kに対して相対的に回転している第2の基準体K’に準拠させて考えることにする。我々が考えている像を確定するために、ここに1つの平らな円盤があって、その中心のまわりを同じ平面内で一様に回転している姿K’を考える。円盤K’上のへりに腰かけている観測者は、直径方向に外方へ向かう力を感ずる。‥‥‥‥‥‥‥‥円盤とともに運動する観測者が、1単位の測量棒を円盤のへりにそれと接線をなすように置くならば、ガリレイ系から判断して、それは1より短くなる。というのは、運動体はその運動方向に短縮するからである。それに対して測量棒を円盤の直径方向に置けば、Kから判断して、こんどはちっとも短縮しない。
ここで紹介した、アインシュタインの考え方をわかりやすく解説してみましょう。高速度で回転する円盤を考えた場合、中心部は動いていないが円盤の縁はものすごい速さで運動していることになります。この運動の速さが光速度に比して十分な速さをもつときその長さは特殊相対性理論の効果を受けます。力を加えても曲がったり伸びたり縮んだりしない剛体の測量棒を円盤の縁でその接線方向に置きますと、その堅さにも関わらず特殊相対性理論の効果により長さが縮んでしまいます。ところが円盤の直径方向では長さは縮みません。時間においてもこの効果を受けて、円盤の縁では進み方が遅れます。またこの円盤の半径と回転スピードからこの円盤の縁の外方へ向かう力(遠心力)は決定されます。この力は、円盤の外の基準となる系の人から見れば慣性の作用(遠心力)と解釈されますが、円盤の縁に腰掛けている人からは重力の作用と区別することはできません。一般相対性理論では、この重力と慣性の力を等価と考えています。つまり回転によって得られた力は、重力と同等と考え、回転によって剛体の測量棒が縮むことから、重力によってもこの測量棒は同様に縮むと考えるわけです。円盤の縁から中心までの距離の間に特殊相対性理論で得られるだけの時空の歪みをきたし、そしてこの時空の歪みは、この時に円盤の縁にいる観測者が感じられる遠心力と等しい重力作用によってももたらされると考えるのです。つまりは、一般相対性理論で得られる時空の歪みは等価原理と特殊相対性理論によっているというわけです。
さてここで気をつけていただきたいのは、アインシュタインは時空の歪みの説明として力を加えても曲がったり伸びたり縮んだりしない剛体の測量棒を考えていることです。この測量棒の概念はまさしく固い物質をイメージしています。この物質に対する特殊相対性理論の効果によって、決して変形することがないと仮定したにも関わらず、物質が変形したかのような結論がもたらされるのは、実は空間の歪みという概念により解決されると考えたのが一般相対性理論なのです。ここでは、もはや物質と空間の区別はまったくありません。空間の歪みはまさに物質のイメージによって説明されているのです。多くの人々によって間違って解釈されているのは、一般相対性理論では空間と物質が別物として取り扱うように考えられている点です。物質もある場所においてある大きさを占めている以上は、そこにおいてはその物質そのものが空間なのです。今までの宇宙モデルにおいては、宇宙が膨張や収縮をするときに、物質を形成する原子などの大きさは変わらず、したがって銀河などの天体構造の大きさもそのままで、その間の宇宙空間だけが狭くなったり広くなったりするように考えています。しかし一般相対性理論では物質と空間を別物として取り扱う理由などまるでないのです。アインシュタインが示したように、時間と空間と物質が互いに独立したものではなく、お互いに関係し合って宇宙に時空が存在するのです。空間と物質を別物として扱い物質の大きさがそのままで物質間の距離が変化し宇宙が収縮や膨張をしていくように考えるのは、ニュートン力学の考え方です。なぜ一般相対性理論を用いた結果が、ニュートン力学と同じ結果になるでしょうか。そのおかしさをなぜ認識しないのか実に不思議です。 
なぜ一般相対性理論の解釈を間違ったのか

 

これまでに述べた理由により、宇宙全体の膨張や収縮は不可能であることがわかります。しかしなぜ全ての人々特に物理学者が間違った解釈をしているのでしょうか。その理由をここで考えてみることにします。
まず一般相対性理論により空間が収縮または膨張するということがあるとします。このような空間の膨張または収縮がどのようなことを意味するのかは複雑な問題であり私にはとても説明できませんが、大きな重力を有する星の周辺ではそのようなことが起きて空間の歪みとなるわけです。しかし宇宙全体の膨張収縮はどうでしょうか。全体的に膨張するか収縮するかはあくまでも外から見たときのイメージでしかありません。宇宙に外という概念は存在しないのですからあくまでも宇宙の中で全てを考えないといけないのです。もし宇宙が収縮しようとしても一般相対性理論の理念に従えば、その中に含まれる全ての物質も同様に収縮するのですから、宇宙の大きさを測定する物差し自体も縮み結局はその収縮の効果をキャンセルしてしまいます。このように考えた場合宇宙の器としての大きさのみが膨張して、その中に存在する物質はその大きさを変えずに次第に希薄になっていくという考えは全くのナンセンスです。宇宙の概念がはっきりと身についておらず、宇宙より更に大きなものの存在を仮定しそこの物差しを使って宇宙の大きさを測ろうとしているから間違ってしまうのです。
一般相対性理論自体は決して万能の理論ではありません。ニュートン力学は光速に近い速さでは無力でしたが、特殊相対性理論ではそのような場合でも適用する事ができます。しかし特殊相対性理論でもなぜ光速度が越えられない速度でそのような値をとっているのかは分かりません。また一般相対性理論でも宇宙全体がどうなっているのかを考える場合まだまだ非力なのです。例えば宇宙の大きさを計算する場合、一般相対性理論だけでは何も分かりません。宇宙の中にどれだけの質量がどのような密度で存在しているのかという情報が前もって無ければ何の計算もできないのです。すなわち一般相対性理論自体には宇宙の大きさを決定するだけの力がないことになるのです。宇宙の大きさを決定する力がない理論に宇宙の大きさが変化するという答えを期待すること自体がおかしいのです。宇宙の大きさを決定することができる理論とは、もっと全てのこと例えば宇宙にはどれだけの物質が存在するのかということをその理論自体から導き出せるような理論でなければならないのです。しかし今の所これを満たす理論があるのかどうかすら不明です。 
一般相対性理論からは定常宇宙が導かれる

 

ビッグバンモデルでは宇宙が有限であるかどうかは宇宙の膨張の速さと宇宙の密度の関係で決まりましたが、ここでの私の主張に従えば、宇宙の膨張は必然的にゼロになるのですから当然宇宙は有限で閉じており定常宇宙でなければなりません。おもしろいことに、この宇宙モデルはまさしくアインシュタインが始めに予想したものなのです。このモデルこそが一般相対性理論の理念に唯一沿うものであり、アインシュタインの偉大さを実感します。そのもともとの理念に立ち返りそれと矛盾するような答えが数式からで出た場合、その数式に欠陥があるか、またはその適応に間違いがあると考えるべきでなのです。一般相対性理論の数式からビッグバンモデルが引き出されたといわれていますが、一般相対性理論の理念に立ち返れば空間の膨張は物質の膨張であり最初がぎっしり詰まった状態なら、時間が経過しても決して空虚な空間は出現しません。また逆に現在の宇宙の姿が空虚な空間が大部分を占めるなら、時間を逆戻しにして過去に逆上っても決してぎっしり物質が詰まった状態になりはしません。この理念と数式のギャップは、数式の適応や解釈に何か間違いがないかどうかを調べなけれなりません。数式の単調な変形が重要なのではなく、数式を生み出した理念が一番重要であることを認識しなければいけません。 
定常宇宙モデルのまとめ

 

ビッグバンの勝利で決着がついたとの幻想を一般の人に与えるような、主流の人々の思慮の浅い偏見に満ちた発言は、私からすれば信じがたいものです。 もしビッグバンが否定されれば自分たちの地位や名声が奪われてしまうという恐怖によるものなのでしょうか。 それらをすべて犠牲にしても真実をはっきりさせるのが、科学者に与えられた使命です。 多数派に今にもひねり潰されそうな立場ですので、やや強めの発言もお許しいただきたいと思います。 「批判だけならだれでもできる」、というのは主流の人たちがよく言うことですが、確かにそうかも知れません。 私のホームページが他の多くの反ビッグバンサイトと違うところは、新しい定常宇宙モデルを数式で示したことでしょう。 今までバラバラに書いていたので、その定常宇宙モデルの全体がよくわかっていない方もいるかもしれませんので、まとめて次に書くことにします。  ここに書く定常宇宙モデルは、あくまでも私が考えた一つの案であり、この案に致命的欠陥があったとしても、定常宇宙がただちに否定されるわけではありません。 しかし主流のビッグバンを信奉する方々は、私の案が廃案になるよう、また今までに私が指摘したビッグバンの問題点を解消するよう、是非努力してください。 
私は宇宙は有限で重力によって閉じていて、大きくも小さくもならず定常であると考えています。 有限で閉じた宇宙には運動量の平均値が存在し、その系は宇宙背景放射をつくり絶対静止系であり、その他の従来慣性系と考えられていた系は加速度を持ちます(この考えはどの慣性系から見ても光の速度は同じという相対性原理を否定するものではありません)。 この加速度は背景放射に対する速度vと宇宙の曲率半径Rにより求めることができ、その値は a=v^2/R となります。 宇宙論的赤方偏移はこの重力によって曲げられ閉じた空間を加速度運動することにより絶対静止系にとどめようとする宇宙からの反作用を受けて生じる、と考えています。 その実際の数式は(第9章相対性理論の修正)に示したように宇宙全体からの重力作用として光では、F=E/R (Eは光の持つエネルギー、Rは宇宙の曲率半径)の力を受けてそのエネルギーを失い、その波長は、λ=λ0e^(x/R)  (λ0は放射時の波長、eは自然対数の底、xは地球までの距離、Rは宇宙の曲率半径) に変化します。 これは赤方偏移 z = e^(x/R) -1 ともあらわせます。 この数式を実際の観測データに適用すると、 超新星の観測データから宇宙の曲率半径は約150億光年、閉じた宇宙の一周の大きさは2π*150億光年となり、約940億光年になると考えています。 おそらく宇宙の質量密度はこの大きさに宇宙を閉じさせる臨界密度になることが予想されます。 第16章に書いたように、遠くの銀河から来る光は宇宙全体からの重力作用により赤方偏移を受けるのですから、重力の強い天体から脱出する光と同等であり、放射した銀河ではz+1が示すだけ時間の経過が遅くなります。 これはその放出した時期の宇宙では時間の経過が遅かったとも考えることができます。 これにより遠くの超新星の時間経過の説明ができます。
宇宙背景放射は今までビッグバンによって予測されビッグバンの根拠とされてきました。 しかしそれは宇宙の初期の残光ではなく宇宙空間に存在する物質が熱的平衡にあるため放射していると考えています。 宇宙空間に存在する物質の放射によりどうして宇宙背景放射が10万分の1と言う滑らかさをもつのか、2.725Kの黒体放射にどうして限りなく一致するかについては第20章にて説明しています。
光子は有限な宇宙においては最大でもその宇宙の大きさ以上の波長を持つことはできず、静止時には先に1000億光年程度の波長を持ちその波長は α=h/mC(hはプランク定数、mは粒子の静止質量、Cは光速度)で表されます。 そのおおよその静止質量 m=(6.63×10^-34)/(3×10^8×1×10^27)=2×10^(-69)kgとなります。 将来光子の極わずかな静止質量が計測されれば、このモデルの正否がわかるでしょう。
宇宙は本質的にどこもそしていつでも同じ姿をしていると考えます(完全宇宙原理)。 クエーサーについては、主流の方々はそれらが示す高赤方偏移より、10億光年以上の遠く(10億年以上前)にしか存在せず時間的な偏りがあると考えています。 しかし、私はクエーサーの赤方偏移はおそらく個々のクエーサーが持つ固有の赤方偏移とそれと先に示した宇宙の湾曲による宇宙論的赤方偏移を足したもので、この宇宙に空間的にも時間的にも偏りなく存在していると考えています。 宇宙が時間的には定常を保ち変化しない理由として、4章(熱力学第2法則について)で書いたように宇宙では物質が熱的平衡にある部分と、重力的に物質が凝集している部分とが混在しながら、違いに姿を変え、そのような状態の変化を恒久的なものとし存在し続けると考えています。 局所的には進化していますが、それは一方的な進化ではなくまた還元しうる進化であり、大局的には定常状態を保っていることになります。 実際的には宇宙は重力によって目に見えるような銀河を形成し周囲に光を放射し、その中心核は重力的に崩落し高密度となっています。 しかしそれらの重力で崩落する中心核や天体は決して、「どこまでも収縮し続けて光も脱出できないブラックホールを形成し二度と元には戻らない」、と考えるべきではありません。 銀河の中心核は非常に高密度に収縮しますが、決して事象の地平線は形成されず、それどころかその回転面と垂直方向にジェットをつくり、銀河間空間に物質を噴出し最終的に消失するか、もしくは新たに別の銀河と融合し質量を補給され再度活発化する、と私は考えています。 皆さんがブラックホールになっていると思ってしまうほどの重力の作用によって、重い元素はバラバラにされ、ジェットから噴出される物質は陽子や電子に還元されているでしょう。 つまり活動銀河核などの高密度な状態に崩落していく天体は、重力を利用した宇宙のリサイクルセンターであり、銀河間宇宙空間に物質を還元しているのです。 つまりこれらブラックホールモドキは定常宇宙にとってなくてはならない存在なのです。 事象の地平線を形成しそこに入ったものは光でさえ脱出できないという考えからはかけ離れたものです。 一般相対性理論から導くことができるというのは間違いである、というのが私のブラックホール否定の直接的理由ですが、間接的な理由がここにあるのです。 ホーキングが最近になり理由は少し違いますが、決して物質がそこから脱出することができないというブラックホールを否定しています。私の考えに歩みよってきたように思えます。 
 
「相対論」はやはり間違っていた

 

この文章は、『「相対論」はやはり間違っていた』(著者は8人いますので、個別に書きます)の間違いを指摘することを目的に書かれている。長いタイトルなので、以下『相や間』と略させて戴く。この本は『アインシュタインの相対性理論は間違っていた』(以下、『ア相論』)という超科学本の続編だ。こんどの『相や間』は前回の『ア相論』の著者を含む8人による、8篇の論文の論文集になっている。 
1 森野正春・『常識をもって相対論を考え直す』
森野氏は「常識から相対論を考える会」というのを設立して会報を発行している、と著者紹介にはある。この文章もその会報からの転載である。
前半部はこの会の設立趣意書が転載されている。その主旨は「私たちは物理学者に、解説書を理解できるように書いて欲しいと要求してもよいのではないでしょうか」という、実にもっともな事だ。相対論がわかりにくいという事を述べ、分析しているだけで、だから間違っている、などとは言っていない。
ところが、その後半部になると突然、相対論は間違いだ、と言い始めるのである。森野氏は、いわゆるウラシマ効果、「時計のおくれ」をとりあげて、こう言う。
『二一世紀の人々は、なぜ二〇世紀の人々がおくれて狂った時計を正常な時計として認めたのか不思議に思うであろう。おくれて狂った時計は、時間がおくれたから指針がおくれたのではなくて、時計が狂って指針の回転速度がおくれたものに過ぎないからである。』 というような調子。
批判するのはいいけれど、なぜウラシマ効果(森野氏はこの言葉を使っていないが)が、単なる時計の(機械的?)狂いだと考えられるのか、と言う点を全く(少なくともこの文章の中では)明らかにしていないのはどういう訳だ?
時計がおくれるのは常識に反するから、とにかく間違いで、二一世紀になったらわかるだろう、の一点張りでは、にせもん予言者の典型的パターンと変わらんではないか。*1
さらに森野氏は内山龍雄氏の『相対性理論』という本(私も持っています)の序文の終わりに、『本書は力学(変分原理を含む)と電磁気学の基礎知識さえあれば、必ず理解できる。もし本書を読んでも、これが理解できないようなら、もはや相対性理論を学ぶことをあきらめるべきであろう』と書いてある事をあげ、『この記述は、物理学生の一部はこの本を読んでも理解することが出来ないとし、したがって相対論を理解できないと、はじめから決めてかかっている』と言う。
ちょっと待ってちょうだいな。
内山氏は「これを読めば絶対理解できる」と言いたいのであって、「できない奴はあきらめろ」というのは修辞であろうに。これをもって、相対論は理解できないものとされている、と考えるのはあんまりではないか。森野氏は『もし、このような異例の記述が他の本の序文に書かれたならば、その本の著者の精神状態が危ぶまれ、人格が疑われるのではないか』とまで書いているが、この程度のあおり文句は、受験参考書などではおなじみなんだが…。
どうも、森野氏は相対論は理解できなくて当たり前、と思っているようだ。こんな事も書いている。『この研究会で、私はまだ相対性理論を理解している人に会ったことがない。(中略)この研究会ばかりでなく、私はまだ相対性理論をよく理解したとまじめに言った人に会ったことはないし、またいろいろな本や雑誌で理解したという人の記述を見た事がないのである。』とまで書いているのである。*2
まじめに言おう。私は相対論を理解している。そして、相対論を理解している人にもたくさん会った。理解していると書いている本や雑誌も見たことがある!
さらに言えば、高校生程度の数学と理科の素養があって、何より学ぶ気のある人になら、特殊相対論の初歩の部分ならちゃんと理解できるよう説明する自信もある。*3
おめーさんの研究会におらんからというて、世間に相対論を理解している人がおらんと、思い込んでええんか、ええ、おっさん。
しかし、森野氏にとっては、内山氏のような発言は、相対論に関する質問をタブーにしようとしているからだ、という事になるらしく、これでは常識人は疑問を持っても質問することはできないではないか、と言うのだ。
ひねくれた事言わんと、質問したかったら質問したらええやんけ。
さっき、“学ぶ気のある人になら”と付帯条件をつけたが、「質問することはタブーなんだろう」と思っている人はやはり、“学ぶ気のある人”とは言いがたい。
この後、さらに爆笑な事を森野氏は書いている。
『二〇世紀もあと残すところ十余年、私は二〇世紀の常識人の中に「おくれて狂った時計」の正体を見破った者がおり、そのような非常識を断固拒否したことの証拠を記述しているつもりである。』
森野氏の“悲壮”な想いはとどまるところを知らない。相対論やその帰結である「時計のおくれ」が信じられているのは二〇世紀最大の喜劇であり、『この喜劇の滑稽さ、ばかばかしさが並外れて大きいものであるために、その他の面白おかしい話はすっかり影がうすくなって、人々に見向きもされなくなるであろう』とまで言っている。
こんなところで二一世紀のお笑い芸人の心配してどーすんだ。 
2 窪田登司・『相対論は崩壊する』
この人は『ア相論』の著者である。そのため、最初に前著に対する反応が書かれている。
結果は−なんと!賛成7割、反対3割。しかも反対のほとんどが「天才アインシュタインが間違っているはずがない」という手合いだった、ということだ。う〜む。これがほんとだったら憂うべきことである。*4
例によって、「物理学会の非情なまでの保守的な派閥争いによって、有益な論文も潰し合いが行われているという事実」がある、なんて話が出てくるが…ほんとに有益な論文ならきれいさっぱり消え去る事なんてないと思うぞ。
さて、作者の意見は前の本と同様で、相変わらず、光速は見る人の立場によって変化するのは当然だ、という説をとっている。
いろいろ、面白いロジックを使って話をしている部分がありますので紹介しよう。
「光を見る」
アインシュタインの思考実験の一つに、『光と一緒に光の速度で運動したら、光が止まって見えるか』という問いがある。これにたいし、窪田氏はこう批判する。『光はいかなる意味でも見えません。私たち人間は光が見えるようにできていません。上の命題を次のように言い直せば少しは考察できるレベルになります。
たとえば、いまここに鋭い指向性を持つレーザー光線発射装置があるとします。1ナノセコンドだけ電流を流して光に向けてレーザー光を発生させたとすると、約三〇センチの長さの光束が光速で飛んでいきます。このレーザー光が地上から見えますか? スペースシャトルの窓から見えますか? まして、光速で月に向かっているロケットの中から、この光束が見えますか? いずれの場合も絶対に見えません。』
それは確かに、人間の目は飛んでいる光を横から見ることはできんが…思考実験というのはそんなものではないでしょうが。
アインシュタインの疑問をアインシュタイン自身の意図した形で言い替えるならば、
『電場や磁場の測定機を持って、光速で走りながら光を構成している電磁場を測定すると、それは動いていないように見えるのか?』
となる。アインシュタインは「波の形をして、静止した静電場と静磁場があるとは考えがたい」と思って、相対論を作ったのである。
確かに、電磁気の本なんかに書いてある電磁波の絵の形の電場と磁場が止まっていたら気持ち悪い。マックスウェル方程式満たさないし。
「同時刻、同時点の相対性?」
同時の相対性(ある人から見ると同時に見える現象が、その人とは相対的に運動している人から見ると、同時ではなくなる)というのは、相対論の重要な結果であるが、これはあくまで、「違う場所の同時刻」が別の立場から見ると、「違う場所の違う時刻」になる、という現象である。窪田氏はこれを「同じ場所の同じ時刻」が「同じ場所の違う時刻」になる、という現象だと誤解した上で、非難しています。なんぼ相対論でも、「同じ場所の同じ時刻」が「同じ場所の違う時刻」に変わるはずがない。*5
実は、これと同じ間違いをNHKの「アインシュタイン・ロマン」でやっていた。恐ろしい事である。
「光行差では絶対空間はわかるか?」
SFファンには星虹(スターボー)の原理として有名な光行差であるが、窪田氏はこれがあるということは光の速度が運動状態によって変わって見える事の証拠だ、と言っている。しかし、光行差の実験で測定しているのは角度だけだから、「光のやってくる角度が運動状態によって変わる」ことを示しているだけである。そして、実験で測られた角度は相対論の予言と矛盾しない。
「太陽の近くで光は曲がるか?」
一般相対論の証拠として、太陽の近くを通る光が曲げられる、という観測事実があるが、窪田氏はこれが重力のせいでなく、太陽の付近にある粒子などによる屈折のせいだ、と言っている。
だから、おまえ、計算したのかよー。太陽の付近にどんなふうな粒子があるのか、そういう事調べてから言ってよー。
ところで面白いのは、ここで窪田氏が『私は空間は「無」で、何もないものだと思っています。曲がったりする「何か」ですと、それは何?ということになるからです』と言っていることである。なぜ面白いかというと、これはコンノケンイチ氏の理論とまっこうから対立するのである。しかもコンノ氏は窪田氏を最近の著書『ビックバン理論は間違っていた』で持ち上げている…。
「加速しても光速にならない?」
電子をいくら加速しても光速よりは速くはならない。ちなみに、電子がニュートン力学に従うとした場合、電子を光速まで加速するのに必要な電圧はたったの(“たったの”と言っていいんか?)25万ボルトほどである。もちろん、実際にはこれで光速になったりはしない。
この事実に対し、窪田氏はこう反論する。
『加速するのは電磁場によります。電磁場の伝播速度は地球上ではほぼ上限は光速です。そういうもので加速するのですから光速以上にならないのは当然なのです。』
電子を加速するための電磁場は、電子と一緒に走らんとあかんのか?
当然、そんな事はない。もっとも単純なメカニズムとしては、電子の通り道に沿って、静電場をかけておけばよい。何も電子が動き出してから「それっ」とばかりに電磁場を動かし回す必要なんてないのである。
他にもこの人の言ってる事に関して、言いたいことは山ほど(本一冊書けるな。向こうも本一冊分言ってるんだから当然か)ありますが、ここではこの程度にしておこう。 
3 早坂秀雄・『エーテルと新しい非対称重力理論』
3、4年前に、右回転のコマの重さが軽くなる、という論文が出て、世間を騒がせた。いくつか行われた追試は、残念ながら否定的結果に終わった。*6
まず最初に、早坂氏による真空に対する考え方が述べられている。早坂氏は真空を「無」とは考えていない。場の量子論などでは真空は『ダークマターか背景輻射か何か分からないが、いわゆる真空のエネルギー』で充満している、と言っているのであるが…。
多少表現がおかしい(こんなところでなぜダークマターが出てくるのであろうか)のは割り引いて考えたとしても、その真空のエネルギーとやらをすぐにエーテルに結び付けて考えているのは、ちょっと困る。*7
真空にエネルギーが充満している事と、絶対静止空間がある事は全く別の命題だと思うのだが。
早坂氏は『素粒子論への特殊相対論の応用には二つの難点がある。一つは素粒子の崩壊実験は、エーテルの存在によってその影響を受けるかもしれないことである。(中略)もう一つは(私は素粒子物理学者ではないので素粒子の寿命をどうやって測ったか詳しいことは知らないが)、素粒子世界は物凄い衝突、分裂、崩壊の世界であるから、等速直線運動の慣性系の変換則であるローレンツ変換ないし、特殊相対論を持ち出すのは間違っていると思われることである。』と述べている。
先の窪田氏も似たような事を言っていて、よくあるパターンの間違いなのだが、素粒子なり何なりが加速していたとしても、その物体に乗っている人(素粒子には人は乗れない、というつっこみはなし)が測った時間をローレンツ変換の式からしても、別に悪いことは何もない。もちろん、速度が変わっているのであるから、瞬間瞬間で別のローレンツ変換をする事になるのだが。
この後、これまた「またか」の論旨が出てきます。アスペの実験(早坂氏はアスペクトの実験と読み間違えている。こんなところまでコンノケンイチと同じである)を例にあげて、量子論では超光速は当たり前の現象だ、と言っているのである。
アスペの実験はいわゆるEPR相関の実験で、量子力学で言う「波束の収縮」が超光速で起こる事を示したものであるが、この超光速は情報を運ばないので、相対論がそれで破れるわけではない。こーゆー事は、そのアスペの実験に関する本を読めば、たいてい書いてあるんだけどなぁ。
さて、その後、早坂氏自身の重力の実験についての話が出てくる。まず例の実験について、『私は論文にも反重力という言葉は一度も使用したことがない』と言っている。これは確かにそうだ。コマが回って軽くなった(正確に言えばコマが秤に及ぼす力が弱くなった)からと言って、反重力とは限らず、何か別の力が働いているだけの事かもしれないのであるから。
早坂氏は自分の実験の結果は対称場を使う一般相対論では出てこない、と言い、カルタンの非対称場を使えば、出てくるかも、と言っていますが、カルタンの非対称場は名前は非対称だが、パリティは保存される筈だと思うのであるが。もっとも、早坂氏自身も、純粋に理論から導き出すことはできない、と言っている(実験でわかる筈だ、というわけか。しかしその実験が追試で否定されていては…)。
否定的結果に終わった追試実験について何かコメントがあるか、と期待したのですが、それはなかった。今度は落下実験で非対称を測定する、という事が最後に述べてあります。実験する事自体はどんどんやってほしい、と私も思いますが…あっさり相対論は否定される、と言うのは勘弁願いたいところだ。
そういえば、矢追純一氏が右回りに回ってから喧嘩すると勝てる、とか言っていたのは、この実験と関係があるのだろうか。 
4 高守・『相対論を打ち砕くシルバーハンマー』
著者の日高氏は、相対論の数学がおかしい、と文句をつけている。『なぜ物理学者までもが小学生でもわかる数学トリックに騙されてしまうのでしょうか』という具合だ。
その数学トリックは、「関数である物を関数である事を忘れている」という事らしいのである。そして、その“本来関数であるもの”を相対論を打ち砕く物、という意味で「シルバーハンマー」と呼んでいる。(なぜシルバーなんでしょう?アインシュタインを狼男かなんかと間違えている…なんておことはないわな。)
では、日高氏の主張を見ていこう。
まず一つ目は E=MC2 について、『一般に知られているような重要な意味を持っていない』と主張しています。
まずアインシュタインの論文『質量とエネルギーの等価性の初等的証明』という論文に関し、『実験データを一切用いずに、仮想実験だけで E=MC2 を導き出しています。常識的に考えてデータを見ないで関係式を導き出せるはずがありません』と主張しています。
ところが、このアインシュタインの論文(日高氏は1905年の論文と書いていますが)は、1945年の論文なのである。1945年と言えば、もう相対論ができて40年。つまり、相対論に関する実験データなどが揃いに揃った後で「 E=MC2だけど、こんな簡単な証明もあるよ」と補足するために書かれた論文なのである。「実験データもなしに」という批判はまずこの点で的外れだ。
また、理論だけから式を作る事自体は、別に不思議でもなければルール違反でもない。日高氏は「こうだとするとこなる。実際にそうなるかどうかは実験で確かめよう」という論文には存在価値がない、とでも言うのであろうか。
計算についてのコメントの後、日高氏はこんな事を言っている。
「E=MC2 は仮定した物理的意味を記述しただけの理論式にすぎません。量的要素をまったく含んでいないので、単位や数値を入れて使う事はできないのです。(中略)論文のどこにも単位や量を設定している箇所はありません。(中略)この点に気をつけて E=MC2 の意味を説明すれば、『質量の単位と C2 倍大きいエネルギーの単位 E でエネルギーと質量の等価性を仮定すれば E=MC2 となる』なんとあたりまえなんでしょうか。」
そら、あたりまえでしょうけれど。
物理の論文で単位が省略されているのは、組み立て単位を使っていると思ってくれ、という意味なのである。
例えば、Mに[kg]、Cに[m/s]を使ったのならエネルギーの単位は[Kg・m2/s2](これはMKS単位なので、ジュールに等しい)になるし、Mに[貫目]、Cに[ヤード/時]を使ったのならエネルギーの単位に[貫目・ヤード2/時2](こんな変な単位はもちろんないが、作ろうと思えば作れる)を使う、というだけのことだ。どの単位を使っても E=MC2 は成立する。
そもそも、 E=MC2 自体、核分裂の際のエネルギーなどで実証を得ている、という事実をこの人はどう考えているのであろう?
次に日高氏が文句を言っているのが、アインシュタインの「運動している物体の電気力学について」という論文について。
日高氏は、アインシュタインの論文の数式の中で、・・・と変形されているのを見て(両辺をx'で微分して、x'を0と置いただけなのに)、上の式ではτは()のついた“関数”だったのに、下の式では“関数”でなくなっている!と批判しているのだ。
『ここで何が行われたかというと、「関数の括弧と倍数に付ける括弧とを間違って中身を計算してしまった」または「未知関数τを一次関数の求め方で出してしまった」のです。』
ほんとにアインシュタインがこんな事をやったのなら、小学生にも笑われるだろう。しかし、ここでは単に省略しただけで、τが関数であることをアインシュタインが忘れたわけではない。そんなことは普通の人なら明らかだと思う。
日高氏は下の式のτに微分記号がついていることをどう考えているのだろう?アインシュタインは関数でない物を微分するほど数学ができないと思っているのであろうか(思っているかもしれないなぁ)。
さて、この後、例によって「光速度不変の法則」に文句を言い始める。いわく、
「ある特別なカメの歩く速度が誰から見ても一定と仮定します。『カメ速度一定の法則です。ここであなたは世の中の物理法則をこのカメに引きずられるように習性しなければならないと結論するでしょうか』」
光速度は実験で一定とわかっているが、そんな変なカメは誰も見つけてないぞぉ〜。見方によって速度が変わって見えるカメならいくらでもいるけれど。
相対論の本はたいてい、光速度一定の話から入るので、光速度一定だけが相対論の前提だと思っている人はけっこう多いかもしれないが…実際には、電磁気の基本法則であるマックスウェル方程式が動きながら観測する人にとっては(相対論なしには)成立しない、という事も大きいのである。つまり、電磁気学の諸現象はすべて、相対論の証拠なのだが…。
この後、マイケルソン・モーレーの実験について、「動きながら実験しているのなら、鏡を傾けなくてはいけない筈だ」というよくわからない論拠の後で、式の計算を完全に誤解していますが、長くなってきたのでこの項はここまで。 
5 竹内薫・『一般相対論と量子力学の概念的矛盾』
はっきり言いまして、この論文はまともだ!(びっくりしたなぁ、もう)
内容は、アインシュタインの一般相対論が量子力学とうまく合致しない、という、最近の素粒子物理屋を悩ませている話題についてのレビューになっています。
「時空の量子化と赤方変位の量子化に関係があるのではないか」という予想が勇み足にすぎる、という点を除けば、ちょっとエキセントリックかな(既成の学会の在り方に文句言うところもきっちりあったりする)、程度の文章で、他の人のあからさまに「ちょ〜」なのと全然違います。
というわけで、この文自体にはこれ以上言うことは特にない。
「この文自体には」と注釈を付けたのは、著者紹介のところでぶったまゲーションしてしまったからである。
なんと、最後の処にこう書いてあるのだ。
「現在、ビックバンを越える未来領域を扱った『宇宙フラクタル構造の謎』(仮題)やヴェリコフスキー「衝突する宇宙」の再評価を企図した本の出版を準備中」
ヴェリコフスキー〜〜〜。「衝突する宇宙」と言えば、天下に名だたる「ちょ〜」な本ではないか。内容は、聖書の時代に木星から彗星がなぜか飛びだし、それが地球のそばを通り、金星になった、というもの。金星が地球のそばを通る時には地球の自転が一旦止まるわ、また動き出すわ(聖書の中で地球の自転が止まる話がある)、その時に金星の重力の影響で海は割れるわ(モーゼだな)、金星から食い物は降ってくるわ(聖書の“マナ”)、とエドモンド・ハミルトンもJ.P.ホーガンも真っ青、な本である。
こう聞くと、「おお、まるでSFみたい。面白そうな本だな」と思う人もいるかもしれない。いや、私もそう思ってた。読むまでは。
読んでみると、この本、あまりに論理がむちゃくちゃで、読んでいると腹の立つこと腹の立つこと。ハミルトンやホーガンのような、一種壮快なめちゃくちゃさなら私もこんな事は言わないのだが…。
たとえばこの本、都合の悪い事(歴史の記述と合わない事など)が出てくるとすぐ、「この事実は集団健忘症のため忘れられたのだ」で片付けてしまう。聖書の時代には集団健忘症が流行したのでしょうか。
とにかく、こんな本を再評価してしまおう、というのだから、なまなかな事ではすみますまい。どうなるもんか、楽しみだ。竹内氏自身が「ちょ〜」なのかどうかは、その時まで判断を待つと致しましょう。
同じ著者が『宇宙フラクタル構造の謎』という本を徳間書店から出していますが(例によって、この本自体はまともである。しかし、“ビックバンを越える未来領域”は誇大広告であろう)、これにもヴェリコフスキーを擁護する部分がありまして…うーむ。この後が楽しみだ。 
6 石井均・『時間と時刻を混同している相対論』
「時間とはある時刻とある時刻の差の大きさであり、時刻は座標系の取り方で変化するものではない。ある時刻t1というのは、地球上であろうと、月世界であろうと変わるものではない。また、ある時刻t2というのも座標系の取り方で変わるものではない。ということは、その差である時間 t=t1-t2 という大きさも変化するはずない。」というのが石井氏の主張だが、こうなにもかも“はずがない”で済ませてしまっては議論にもなんにもなりゃせんがな。
表題からすると、“時間は縮むが時刻は縮まない”みたいな話なのかと思ったが、この論拠からすると、時間も時刻も縮まないようでんな。
電車の中でボールを投げた時の軌道の長さの違いは見方による速度の違いで説明できる、だから光だってそうなのだ、という言い方で光速度不変の原理を否定します。
たしかに、ボールの場合はそうなのだが…光の場合は速度が変わらないという実験事実があるんだというのに、なんでわからんのじゃあ。
この人の文章はどうも論理を通り越して「そんなはずがないんだからそんなはずがない」という感じになっているので、はっきり言って読んでも身がない。
一般相対論についても、特に「空間が曲がる」という言葉に強く反応しているようである。例えばこんな具合。
「オレゴン州に異常に強い重力を感じる場所がある。観光地化されている有名な場所であるが、これは図6のように、地下に非常に質量密度の高い物質があるからGが大きくなっているのだと考えられる。一般相対論によれば、ここの空間が異常に曲がっているとされているが、空間が曲がっているのではなく地下の引力の強さの違いと言える」
一般相対論は、「ここの空間が異常に曲がっているから、引力が強い」と考えている。だから、「そうではなくて引力が強い」では反論にならんってば。 
7 馬場駿羣・『世界線の屈折と光速度不変の原理の見直し』
この人も例によってローレンツ短縮に文句をつけるところから話を始めている(そろそろあきたぞ、このパターン)。
まず、「パウリのような一部の学者はローレンツ短縮は原理的に観測可能な現象であるという見解を強く主張し」「一方で、ローレンツ短縮は数学上の見かけに過ぎないという意見もある。」といかにも、物理学者の間でも見解が分かれていると思わせるような書き方をしている。これはちょ〜な人の常套手段である。騙されてはいけない。
後者の主張の例としてジューコフとランダウの「運動している物体の長さが縮むのは、物体そのものに起こる何らかの変化ではなく、単に物体がそれを測定する器具に対して運動しているからなのである」と述べているという事を出して来ているのであるが、なるほど、ぼやーーーっと読んでいるとパウリの意見とジューコフ&ランダウの意見が対立しているように見えるかもしれない。
しかし、パウリは“観測可能”と言っていて、ジューコフ&ランダウは“測定する器具に対して運動していると短縮が測定できる”という意味の事を言っているのだから、何も対立していない(どっちも観測できると言っているではないか)。
スコベルツインという人が「同じ直線コースを飛んでいる二つの宇宙船を考え、この両者が同じ速度で飛んでいる場合に、一本のロープでつながれているとすると、もしこの両者がともに速度を増していくと、両者の距離は縮まないが、ロープにはローレンツ短縮が起きるのでロープは切れる、と説明している」と述べ、「思考の産物とはいえ、大胆な考えを発表するものだと思う」と、まるでスコベルツインが間違っているかのように言う。
しかし、ロープが切れる、という事は間違っていない。たぶん、スコベルツインは「ロープにはローレンツ短縮が起きる」とは言わなかったと思うが。このパラドックスはブルーバックス「銀河旅行と特殊相対論」(古くはSFマガジンの連載)で石原藤夫氏が紹介していた、“アナログのパラドックス”とほぼ同じものなので、興味のある人は参照して欲しい。
次にいわゆる双子のパラドックス(ウラシマ効果)について述べているが、馬場氏は「一般相対論の範囲内だからパラドックスではない」と言っているようだ。一般相対論を認めているわけでもなさそうなのにこういう言い方をするのはなんだか不思議だ。
同時に相対性の話について、もともとローレンツがローレンツ変換を作った時に、「この時間は見かけの時間である」と言ったことをとりあげ、アインシュタインはこれを無視しているのでよくない、という意味の事を言っている。ローレンツ自身もアインシュタインの考え方には後に賛成した、という事は都合よく忘れていらっしゃるようで。
光速度不変の原理に対してだが、馬場氏は「速度 v で動いている光源から出る光の速度は実験観測しなければ c+v で走っているのだが、実験観測すると c なる速度として測定される』でもいいじゃないか、と言い出します。馬場氏はこの考え方で光速度不変の原理を見直した本を書いているらしいが、『相や間』の中ではどのような理論か、具体的には触れていないので論評は避けます。
しかし、この人はいったい、『光速度の測定』をどのように行うと思っているのでしょうか? 謎である。 
8 後藤学・『相対性理論のどこがおかしいか』
後藤氏が最初に指摘するのは、例によって『光速度不変の原理』。
後藤氏の批判の論点はいくつかあります。まず第1の点は、
(1)相対論が、光速度不変から、四次元的距離の不変性を持ち出していることが正しくない。
ちょっと詳しく説明します。
座標(x,y,z)で表される場所と座標(x',y',z')で表される場所の間の三次元的な距離をlとすると、・・・と表されます。この距離lは、座標軸を回転させても変わらない。
相対論においては、これが四次元的に拡張されます。つまり、・・・のようになります。
後藤氏は、光速度不変性から導かれるのは、・・・という式である筈だ、と指摘します(これは、lという距離を速度cの光がt-t'の時間をかけて進む、という式である。
これを勝手にl*が不変だとするのは間違いだ、と後藤氏は言っているわけである。
確かに、「何かが0になる」という式を見て、「0にならない場合でもこの“何か”は不変である」と結論するのは論理の飛躍のように見えるかもしれない。
しかし、この点に関しては、アインシュタインの論文なり、詳しく書いてある相対論の本なりを読めば理由がちゃんと書いてある。
実は、ローレンツ変換が一次式であることから、l*が不変になってくれなければ成立しない事が言える。後藤氏は相対論の勉強をする時、その点を読み落としたのであろう。
なお、このl*の不変性を認めると、相対論の結果が全て導き出されます。後藤氏もその点はわかっているらしく、『これを認めると、「アインシュタインの相対性理論は常識では理解できない様々な奇妙なあるいは神秘的な現象を生み出す」ことが必然の帰結となるのです。』と述べています。この人は、その点はよくわかっているので、この前提を崩そうとしたのであろうが…。
さて、この後、後藤氏はマックスウェル方程式の不変性について議論しています。後藤氏はローレンツ変換のように時間や距離を伸び縮みさせたり、同時の相対性がどうこう、といういう事を言わなくても、光速が変化する、と思いさえすればマックスウェル方程式は不変になる、と言う。つまり、ローレンツ変換ではなくガリレオ変換すればよい、と言っている。
ところが、この計算が間違っているのである。
後藤氏は
1 静止状態でのマックスウェル方程式の解の一つとして、ある方向に進んでいる光を表す解を書く。
2 その解をガリレイ変換して見せる(当然、光速は変わってしまう)。
3 そのガリレイ変換した解を出すような方程式を出し、それが光速が変化した場合のマックスウェル方程式になることを示す。
という順で計算しているのだが、これでは、今考えた解ならうまくいっても、どんな場合でも大丈夫、というわけにはいかない。
実際、「マックスウェル方程式をそのままガリレイ変換する」という上の(1)〜(3)より単純な方法で計算すると、マックスウェル方程式は元の式とは違った形(光速を書き替えたくらいでは直らないほど違う式)になってしまう。
ここでも後藤氏は、自分の計算方法((1)〜(3))が間違っているために、合っている計算を間違いだと断じてしまっています。ちょ〜本にはよくある話です。
後藤氏は次に「静止座標系は設定できないか」というタイトルの章で、『アインシュタインの相対性理論は間違っていた』の作者である窪田氏の意見とアインシュタインの意見の比較をしている。
アインシュタイン: 静止座標系の設定はできない。
窪田: 光が発射された、その位置そのものが絶対的静止点、つまり絶対的な光速cを測る基準点になる。
ここで後藤氏は、『しかし、この考え(いろもの註:窪田氏の考え)にも弱点があると思います。というのは、その種の基準点は、実際に測定しようとしても、具体的に定めようがないのです。地球上で測定しようと思っても、地球は動いているし、大きく見れば太陽系自体も動いているし、さらに銀河系だって動いているので,基準点はまさに思考上の産物としてしか意味をなさないと思われるのです』と窪田氏の意見を正しく批判している(がんばれ、後藤さん!)。
では、後藤氏はどう考えているのかというと、「光速がその絶対的な値 c と等しい値で測定されるような座標系が絶対静止系である」という考え方をしています。
これはもし実験事実に合うのなら、理屈はあった考え方である。しかし、残念ながら実験に合わない。
また、後藤氏は密閉空間内で音速を測った場合と同様、密閉された空間内で光速を測ってもうまくいかない、という考え方をし、地球は電離層などで宇宙から電磁波的に遮断されているので、解放系ではないので、地球上の光速がどちらむきにも一定であるように思われるのでは、と言っている。
しかし、だとすると、電離層の上下で、光速が(静止系が?)変化する事になります。となると、この為に“光が流される”というような現象が起こりそうです。だとすると目に見える星空は歪んで見える筈。やっぱり、実験にあいません。
さて、次の章の題名は「アインシュタインの相対性理論が導く神秘的で奇怪な現象」というもの。これまでの著者同様、ウラシマ効果やローレンツ短縮などに対し「そんな事はありえない」と反論しています。
これまでの著者に比べると、「ありえないからありえない」式の循環論法は少ないが、それでもやはり、考え方を誤っている点、相対論自体を誤解している点などがよく見られます。
まず相対的な速さについて述べています。ざっと要約するとこんな具合です。
元の座標系に対し、速度 v1、v2 で動く二つの座標系を考える。すると、座標系1の原点の位置は元の座標系でみると x1=v1t 座標系2の原点は x2=v2t となる。
すると、この二つの原点の距離は (v1-v2)t となる。つまり、この2点の離れる速度は単純な引き算でいいことになる。
一方、アインシュタインの相対論では速度の差は ・・・になっているので、これはおかしいではないか。
しかし、実は後藤氏自身も述べているが、相対論での相対速度というのは、「速度 v2 で動くから見た、速度 v1 で動く人の速度」です。一方、v1-v2 になるのは「静止している人から見た、速度 v1 の人と速度 v2 の人の距離の変化する割合」です。
この二つは見る立場が違います。相対論的な現象(ウラシマ効果なりローレンツ短縮など)を無視すればどちらも同じになりますが、相対論的な場合にはそうではない。
だから、違っているのは当たり前。後藤氏が「こうした明確な形での指摘は、歴史上も本書が初めてです」と言っているような“大発見”では全くない。
平たく言うと、“誰もあんたのような間違いを本に書かなかった”ということ。
次に後藤氏が指摘しているのが、「流体による光のひきずり」現象です。これは、流れている水の中では、光の速度がその流れにひきずられる、という現象で、相対論を使うと非常にわかりやすい説明ができます。
まず、アインシュタインによる説明を簡潔に説明します。
1 まず、止まっている水の中では、光の速度が(c)ではなく、(c÷屈折率)になる。
2 そこで、その水が速度vで流れているような座標系に移る。別の言い方をすれば(1)の現象を動きながら見る、ということ。相対論にしたがえば、水が動こうが観測者が動こうが、どっちの立場をとっても構わない。
3 その座標系から見ると(1)で出した(c÷屈折率)という速度がどのように見えるかを計算する(ここでは相対論的な速度の足し算の方法を使う)。その答えが「水にひきずられた光の速度」となる。
止まった水の中で光が遅くなること、およびその屈折率がいくらか、はわかっていますから、動いている水の中でどうなるかは、水を動かすのではなく、観測者を動かせばわかる、という事になります。
これに反する後藤氏の反論はこうです。
「(f・v) の項は動流体による光の“ひきずり”の効果のはずなのに、アインシュタインはこの効果のことは全く考えず、単に相対速さの考えから式を導いています。光速が流体によって減速される事は事実であり、見方を変えれば、動流体による光の“ひきずり”効果は存在する、と考えるのは自然でしょう」
自然ではない。なぜならアインシュタインは上で(1)のようにして、いったん水が止まっていると考えて、それから相対速度の式を使っているからである。止まっている水に“ひきずり”がないのは当然ではないか。
後藤氏はアインシュタインがどういう事を言っているのかをよく理解もせずに反論する、という“またか”な事をやっているのである。
さて、この後、縮む棒の話と双子のパラドックスの話が続いているが、これまた相対論をよくわかっていない人が感じる、以下の疑問が述べられているだけである。
疑問(A)「x’軸上の棒をx系で測ると収縮するならば、x軸上の棒をx’系で測れば伸びるはずなのに、やはり収縮する事になっているのです。」
疑問(B)「AはA’が自分に対して速さvで動くので自分より・・・倍だけ歳をとるのが遅いと主張(または推量)するでしょう。ところが、A’はAが自分に対してvで動いているので、自分より・・・倍だけ歳を取るのが遅いと主張(または推量)します。この二つの主張は明らかに矛盾していますね」
どちらも、“x系の同時とx’系の同時が違う意味になっている”という事で説明できる。疑問(A)に関して言うと、“x系の時間で同時に、x’系の棒の両端を測る”という操作と“x’系の時間で同時に、x系の棒の両端を測る”とでは意味が違う、というだけの事なのである。
こういうこと、ちょっと気のきいた相対論の本なら載っている(残念なことに、気のきいていない本には載っていないが、それはしかたがない。科学解説書にもスタージョンの法則は有効なのである)。
こういう、じっくり見ればわかるはずの間違いを堂々と犯して、かつ平気で本にまで書けるというのは、後藤氏が「相対論は間違っている」という前提を置き、その前提にあった計算結果が(たまたま何かの間違いで)出た時には検算しない(少なくとも、まじめにしない)せいではないか、と思われます。
これって他人事じゃなくて…。私も自分の論文に「2回間違えて結局は正しい答えになっている」という式を載せた事がある。こういう、“気づかない方が有り難い事”もしくは“気がつかない方が精神の健康にいい事”には気がつかない、という人間心理の罠には落ちないように気をつけなくては(いやこれはマジメな話)。
さて、次の話はマイケルソン・モーレーの実験なのだが、ここでも後藤氏は苦しい事を言っています。まず後藤氏は、窪田氏の計算(マイケルソン・モーレーの実験に解析ミスがある、とするもの)の不備をつきます(がんばれ、後藤さん!!)。
しかし、窪田氏の計算に間違いがあるからと言ってマイケルソン・モーレーの実験が正しいと思っているわけではもちろん、ない。
なんと、後藤氏は実験装置自体がおかしい、と述べているのだ。
マイケルソン・モーレーの実験では、次の図のような装置を使います。
光源から M1 に反射してからハーフミラーに反射する光と、ハーフミラーに反射してから M2で反射する光が干渉する、というのがマイケルソン・モーレーの実験装置である。
ところが、後藤氏は P2 の部分にもハーフミラーがないと干渉が起きない、という。これは全く理解できない。光の干渉は2つの位相差(行路差)のある光がぶつかれば起こり得るのであって、ハーフミラーを置かなくても干渉はちゃんと起きます。
実際にこのハーフミラー P2 が必要な理由は、光が鏡の中を通り抜ける距離を双方で同じにするためである。ところが…図を見ていただきたい。これでは、一方の光ばかりが、鏡を通る図になっているのである!
図の間違い自体は小さなこととしても。後藤氏は「最新のオプト技術を使って再実験する必要があります。」と述べている。この大事な実験がマイケルソン・モーレー以来一度も再実験されていない、と思っているのであろうか(この思い違いは、たくさんのちょ〜科学者に共通のものであるが)。
後藤氏が次に取り上げるのは横ドップラー効果について。横ドップラー効果というのは、光の進行方向に対して真横に進む光源の起こすドップラー効果で、相対論的でないドップラー効果の場合、波の進行方向と波源の進行方向が直角であればドップラー効果は起こらない。しかし、相対論的な場合、ウラシマ効果による時間の遅れの分、真横の場合でも赤方偏移が起きる。これを横ドップラー効果と呼んでいる。
後藤氏はこの横ドップラー効果の式をちゃんと出していながら、光源が観測者に近づく場合でも赤方偏移になる、という事を示してみせた後、「これは信じられない事です。相対論が間違っているとしか言いようがないでしょう。この指摘も本書が歴史上はじめてです」と、わざわざゴチック体で言っています。
どうもこの人は「光源が近づいてくる時は絶対に赤方偏移ではないのだ」という“常識”があり、相対論はその“常識”にあわないから間違いだ、と言っているようなのである。相対論は光源が近づいてくる時でも赤方偏移する可能性がある、と主張しているにもかかわらず、である。
この“常識”が実験に裏打ちされたものならば、後藤氏の姿勢には何の問題もない。ところが、後藤氏は自ら「どちらが正しいか格好の実験材料になるでしょう」と述べているのである。つまり、そんな実験や観測はまだないのだ、と思っているのだ。
ところが、横ドップラー効果は観測で確認されているのである。たとえば天体から噴き出すガスである宇宙ジェットの赤方偏移から、真横に噴き出すガスから来る光も赤方偏移する(もちろん、相対論の予言どおりに)ことがわかっているのである。
後藤氏の“常識”はもはや常識たりえない。
この後、電磁場による加速で電子の早さが光速を超えられないのは電磁波が光速で進むからだ、と、窪田氏と同じ事を言っていたり、ローレンツ短縮と実際の見え方についていろいろと書いていますが、これに関しては省略させていただきます。
後藤氏の文はこの「相や間」の中では式でちゃんと計算している部分も多く、まだ文句のつけ甲斐のあるものでしたが、最後の方になると、もうほとんどただのイチャモンと化している。
何より自分の“常識”を後生大事に保ち、それに反する事は一慮もなく「信じられない」と片付けているのは話にもなんにもなりゃしない、というレベルである。
この本の帯には「屈辱的沈黙を破り、思考の家畜化に歯止めをかける快著」とあります。何が屈辱的沈黙だか、思考の家畜化だか知らんが、“怪著”である事は間違いない。
自分の勝手に作りあげた“常識”から一歩も出ようとしないこの本の作者たちの一体何が、思考の家畜化とやらに歯止めをかけてくれると言うのか。
しかも、ちょ〜科学は今もまた、次から次へと出版されているのである・・・。 

*1 ノストラダムスの大予言を信じている人たちは、果たして2000年になったら何と言うだろうか?
*2 なんでも、この研究会、物理学者の中村誠太郎氏が出席した事があるのだそうだ。しかし、一言も発言しなかったとか。やっぱり、あきれてしまったんでしょうかねぇ。
*3 この前は中学生になぜ時間がおくれるか説明したが、何人かはわかってくれた(全員に、は無理だけどね)。
*4 実際には痛い処をついた丁寧な批判があったのに、無視している、という可能性も高い。
*5 なんでこうわざわざ誤解した上で批判しておいて得意げになっている連中が多いんだ…。
*6 「殺人ライセンス・牙」という漫画の中で、主人公と悪人が対決する時、主人公は右回りにジャンプしたので、悪人より高く飛ぶことができて勝てる、というシーンがあった。早坂氏の実験結果を認めたとしても、ジャンプの高さが変わるほどの重力減少はおきない筈だが。
*7 場の量子論などに書いている真空の説明や、電子と陽電子がγ線で対発生する、などの話を見て、「見よ、真空にはエネルギーが充満している。このエネルギーを汲み出せばエネルギー問題は解決だぁ」と叫んでいる“ちょ〜”の人がしばしばいる(早坂氏はさすがにそこまでは言っていないが)。こういう事を書く人に是非聞いてみたいのが「真空は定義によりエネルギー最低の状態ですが、そこからエネルギーを汲み出すと、その後には何が残るんですか?」という事である。これが『マッカンドルー航宙記』みたいにSFならば、「おもろいっ!」ですむんだけど。
 
相対性理論と実用性

 

特殊相対性理論が擬似科学者達の餌食となっているのは前述した通りです。 しかしまた、必ずしも特殊相対性理論が絶対的に正しい、とも言い切れません。
それを確認する証拠は多数ありますし、否定する証拠も未だ見付かっていませんが、例えばニュートン力学もまたそうであったのです。
殆どのケースにおいて、ニュートン力学は十分に検証されており、19世紀の科学者達は、これで殆ど世の中の全ての現象を科学的に検証しうると思い込んでいたのです。
しかしながら、特殊相対性理論の発表に伴い、光と比較した相対速度が無視できない領域では、ニュートン力学が崩壊する事を知ったのです。
これと同様に、相対性理論もまた、ある特殊な条件下では崩壊する事もありえます。
v/c→0 の極限として特殊相対論がニュートン力学を含むように、極限として特殊相対論を含んだ形での新たな理論が生まれる事も十分にありえるでしょう。
但し、この事と、擬似科学者がしばしば唱える、特殊相対論誤り説は、全く別の次元の話です。
これは声を大にして言います。はっきり両者は区別して下さい。
例えば、擬似科学者が相対論の反証として指摘する論文に、ディッケ/ブランスの論文があります。
これは、一般相対論に対抗して出された物ですが、その極限として特殊相対論を含んでいます。一般相対論が特殊相対論を含むのと同様に。
ですから、これが正しくて特殊相対論が誤りである可能性は無いのです。
さらに言うなら、極端な話、仮にアインシュタインの原論文の誤りを見つけたとしても、特殊相対論自体は揺るがないでしょうね。
その仮定である光速度一定の実験は勿論のこと、特殊相対論も実験的検証も理論的な検証、発展もいろいろな人によってなされてきているのですから。
事実、現在の相対論の記述はアインシュタインの示したそれとは表現が異なります。
この事を物理学者は良く知っているから、今頃 「特殊相対論の誤りを見つけた」と言って騒ぎ立てる人達の本なんか、まともに相手にはしないのです。
擬似科学者連中には残念でしょうが、特殊相対性理論が根本的に覆される可能性は、検証された証拠から言っても、限りなくゼロに近いと言えるでしょう。
もう一つ、相対論の反証として疑似科学本に出てくるものにアスペの実験論文があります。これは上の例とは少し意味が違いますが、やはり相対論の反証とはなり得ません。
(そもそも、この論文はEPR論文といわれるアインシュタインの量子論に対する考えに基づいています。詳しくはありませんがここに少しだけ。)
相対性理論を既に実用の域としているものには下記の例があげられます。 
1.
既にカーナビは多くの車に搭載されていますが、これがどんな原理で動作しているのかご存知でしょうか? GPS人工衛星から来る電波をキャッチしている・・・だけでは十分ではありません。
位置を明確に知るためには、いわゆる三角測量に拠る必要があります。そして、その為には少なくとも三つ以上の衛星からの電波を受信する必要があります。
ここで注意すべきは人工衛星は移動しており、車と衛星の距離は受信した電波と送られてきた時間とから計算するしかない、という点です。
GPS衛星の時計は原子時計なので狂いませんが、カーナビ自体の時計は水晶発振子なので、がんばっても50〜100ppmぐらいです。その補正が必要であるため、もう一つ別の衛星電波を受信する必要があります。つまり都合四つが必要です。
つまり、人工衛星は時計を積んでいる必要があり、各衛星の時計は同期していなければなりません。
その同期された時計でナビ自体の時計を修正するのです。
当然ながら、高々度かつ高速度で移動する衛星の時計は相対論的な補正を必要とします。
そして、事実そうしてあるのです。
また、言うまでもありませんがGPS衛星とナビの速度差が相当ありますし、地球は自転しています。だからこれは光速度一定でなければ話になりません。(GPS衛星は移動衛星で、地球上には24機あります。公転周期0.5恒日。)
第一、先ほど述べたように移動しているものからの距離の測量に電波を使うため、光速度(電波も同じ)が一定でなければ、距離なんか測れるわけがありません。
つまり、今更マイケルソン/モーリーの実験を持ち出す必要など無く、間違いなく光速度(電磁波)は一定なのです。
異なる慣性系、異なる時空での相対論的な時間の変化は、もはや科学者の考える理論だけの話ではなく、実践的な技術として応用されている一例です。
(実を言えば、人工衛星は地球から受け取る重力も小さいので、一般相対論も使われています。だから、人工衛星の時計は一般相対論の進み分と特殊相対論の遅れ分とで、差し引きされてトータルでは進みます。)
実は私の以前いた会社ではカーナビを作っており、隣に座ってたマニアックなおじさんがやってました。 
2.
シンクロトロン / これは、我々の実生活との係わりが深い訳ではありませんが、実用されている物であるには違いありません。 シンクロトロンは陽子などを加速するための装置です。
これは、陽子を76GeV(ギガ・エレクトロン・ボルト:ギガは109)とかにまで加速しますから、当然ながらニュートン力学では合わなくなります。
いや、「合わなくなる」なんてモンじゃありません。質量は80倍ぐらいになります。
これは当然、相対論で計算するしかありません。
これが間違いなく動作するのは、特殊相対論での計算結果が、実際の結果と矛盾しないと言う事です。それも、極めて正確に、です。
実際の加速器への磁場はマイクロ波(超高周波)を用い、その周波数を加速する粒子の速度に同期(シンクロ)して変化させますから、これが間違いなくシンクロすると言うことは、その周波数の半波長以下の精度で正しい、ということです。
(因みに、この加速器の高周波発振にはマグネトロンという真空管が使われています。そのパルサー電源にはクライストロンという真空管を使います。やった、ここで趣味がつながった!^^;)
シンクロトロンは円形ですから、これは内部で高速移動する粒子に対して向心力が働いています。
だからこれは加速度運動であり、特殊相対論では記述できないなどと書いた擬似科学本があります。
これは明らかな誤解、というか、加速度運動である事は正しいのですが、特殊相対論でそれが記述できないというのは誤っています。
特殊相対論が極限としてニュートン力学を含むのは前述のとおりですから、特殊相対論が加速度運動を記述できないというなら、ニュートン力学だってできない事になってしまいます。そんなアホな事は無いでしょう? 
3.
現代の物理学では、「場の量子論」というものが発展してきています。(元はと言えば、かの有名なディラックです。)
これは、量子論と特殊相対論が合体してきてできた物です。
無論、実験事実をも含めてうまく説明できる事から主流となった訳で、そうおいそれとは否定できるものではありません。
ところで、QED:量子電磁気学を肯定して特殊相対論を否定する例を見たことがあります。
ところが、そのQEDは、そもそも相対論的な量子力学であり、これも場の量子論の流れです。
いったい、何を考えているんでしょうねぇ?
相対論的量子論を肯定して、相対論を否定するのはギャグとしか思えません(w
さらに、知っておいて欲しいのは、現在隆盛を極める半導体工学が拠って立つ理論は量子論であるという事です。
まだ実用化までいってませんが、近年では「量子ディバイス」と呼ばれる超超 LSI のアイデアもあります。
特殊相対論を認めずには LSI も作りづらくなってきている、今日この頃。  
4.
もはや明らかだと思いますが、一部の科学者が数式をいじっている話じゃなくて、既に世界中の技術者が相対論(特に特殊相対論ですが)を絶対的な基準にしています。
そして、特に電波系(「電波ゆんゆん」じゃねぇゾ、工学の電波 (^^;;/)では、それ無しでは巧く行かない所まで来ています。
実は私も最近知ったのですが、その一番決定的な例を最後にあげます。これは電波系ばかりじゃなく、機械系も関係します。
子供の頃読んだ本には、パリに「メートル原器」があって、これが長さの基準だ、と書いてありました。
今の基準は、『1[m] は、光が真空中で1/299792458[s] の間に進む距離である(1983年)』と定義されています。
つまり、相対論の前提である「光速度一定の原理」は、今やあらゆる長さの基準です。 
 
相対性理論は間違っている

 

■一 相対性理論は誤っている 
(一) 始めに

 

「相対性理論は間違っている」とか「おかしい」とか色んな方が異論を唱えていますが、未だに専門家の先生方はビクともしていません。それは何故なのか。本質を突いていないからです。
思いつきやSFまがいの空想的宇宙論をぶち上げて見ても、プロの先生方はビクともしません。
相対論のおかしな所の原因は式にあるのです。
ここに踏(ふ)み込まない限り、先生方はハナもひっ掛けないでしょう。
式の結論から出て来る所の不可思議な理屈を、いくらつついた所で
「そうなってるのだから仕方がない。君ら凡人には解(わ)からないだろうけど」とやられるのが落ちです。
誤りを質(ただ) すには、どうしても式の問題に踏み込まなければなりません。
そこで、ここでは、相対論の式を使って相対論の問題点を説明する事にします。
とは申しましても、最初から難しい式を並べたてては、誰も見向きもしなくなるでしょうから、先ずはやさしい所から始め、ボチボチと高度な所に移って行く事にします。

最初は、やさしい話からです
よく相対論では“ ロケットなどで宇宙旅行をして来ると浦島太郎になる ”と申します。
ロケットの中では数年しか経(た)っていないのに、地球の方では何百年も経っていると言う話です。
これに対し、相対論に疑問を持っている人は 「どっちが動いているかは相対的な問題だ。
“ ロケットの方が静止していて、地球の方が動いている ”と考えてもおかしくはない。
その場合、地球の方が数年しか経っていないのに、ロケットの中では何百年も経っている事になる。
これをどうする ?」と反論します。
これに対しては、相対論側から有効な回答は出ていません。
私も、この辺から話を進めてみようと思います。
今ここに、地球から飛び立つ巨大な宇宙船があるとします。この宇宙船は、秒速29万kmの速さで地球から遠ざかっています。
この宇宙船は巨大ですので、中にいる人にとっては、ほとんど静止しているのと変わりありません。
唯一の違いは、地球の人が四歳年をとる間に、宇宙船の中の人が一歳しか年をとらないという事だけです。この宇宙船は、秒速29万kmの速さで飛んでいますので、相対論の計算式によりそうなるのです。
地球を飛びたってから約一年、地球はもう見えません。宇宙船はエンジンを止め、慣性飛行を続けています。慣性飛行ですから、中にいる人にとって宇宙船は停止しているのと全く同じ状態です。
ある時、この宇宙船から地球の方向に向けて、ロケットを秒速29万kmの速度で発射したとしましょう。
このロケットは静止している宇宙船に対して、秒速29万kmの速さで動いていますから、ロケットの中の時間は宇宙船の中よりも遅れて1/4しか進みません。
それは、地球から見て1/16の速さでしか時間が進まない事を意味します。
ところが、ここで問題が発生します。
このロケットは、宇宙船から見れば確かに動いているのですが、地球から見れば、実は、停止しているのです。
宇宙船は、地球から秒速29万kmの速さで遠ざかっていますが、ロケットはその宇宙船に対して反対方向に秒速29万kmの速さで飛んでいますので、差し引き0で、ロケットは地球から見ると停止している事になります。
地球から見れば、ロケットの方が発射された地点に停止し、宇宙船の方がそのまま飛行を続けている事になるのです。
そうすると、このロケットの中の時間の進み具合は地球と同じでなければなりません。
それなのに、ロケットの中の時間が地球の1/16しか進まないでは矛盾します。
「さあ どうする!」
大抵の反対論は、ここで終わっています。ここで止めては駄目なのです。本当の問題は式にあるのですから。そこに踏み込まない限り専門家の先生方はビクともしません。そして、かなり不利な状態でもガリレオ張りに「それでも相対論は正しい」と主張する事でしょう。
だから、その為にも式の問題を明らかにする必要があるのです。

ところで、この設定に対して「宇宙船は止まっているわけではない。動いているではないか。それを止まっているとするのはインチキだ。」と仰しゃられる方があるかも知れません。
もっともな話です。しかし、それを言ってしまうと、地球の方も動いていますので、地球が静止していると仮定しての議論も成り立たなくなります。
仮に、地球の進行方向と逆の方向に、地球と同じ速度でロケットを発射したとしてみましょう。
その場合、ロケットの方が静止していて、地球の方が動いている事になります。
そうすると、地球にいる人は年をとらずに、ロケットの中の人が年をとるという事になるのです。
しかしながら相対論では、そういう見方をしていません。
あくまでも地球が静止しているという前提で話をしています。
だとしたら、先の、宇宙船が静止しているとした仮定も問題なしとすべきでしょう。
それが駄目だと言うのなら、地球は動いているという前提で、理論を立てなければなりません。
逆に、動いている地球を静止している、と仮定できるのなら、エンジンを止めて慣性飛行をしている宇宙船も、静止していると仮定できる筈です。
つまり、そういう事なのです。
どっちにしても同じ事なのです。それに動いているのは地球だけではありません。太陽系、恒星系、銀河系、みんな動いていますから、一体、どこを以って“静止している”としたら良いのか分からなくなります。
私たちは、無意識に“動いている地球”を静止していると仮定して議論を進めています。
だとしたら“宇宙空間でエンジンを停めている宇宙船”は宇宙船の立場から見て“停止している”としても問題はないでしょう。
全ては相対的な問題ですから。
そういうわけですから先の設定をご了承願います。
それでは、次は舞台を列車の中に移し、中学校程度のやさしい式で以て、この問題について考えてみましょう。 
(二) 列車の中の時間の矛盾

 

(a) 動いている列車の中では時間が遅れる(定説)
右図は、列車の中の様子を示した物です。A,Bは座席の位置です。列車は速度 で右方向に動いている物とします。ここで、Aの座席の人が煙草を吸う為に、ライターで火を点けたとしましょう。そうすると、その光はBの人には、まっすぐA→Bの方向へ来た様に見えます。ところが、これを外から見ていた人には、光はA→B′の方向へ来た様に見えます。光がいくら速いとは言え、AからBに届く間に列車も少しは前に動いているからです。そうすると、列車の外から見た光の走行距離は、列車の中で見た光の走行距離よりも長くなります。
これは、相対論以前の考え方でしたなら、「列車が動いているのだから当たり前ではないか、列車の外から見た光の速度は、列車の中で見た光の速度に列車の速度が加算されている。だからその分、距離が伸びて当然」となるのですが、相対論では、《光の速度は列車の中から見ても、外から見ても同じ》となっていますので、そうは行きません。
相対論では、従来当たり前だった事が、当たり前では通らないのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。この場合には、時間の方を変えるのです。
まずは、速度の式を ・・・ として、距離と時間の関係を見てみましょう。
列車内で見た光の走行時間を t / 列車外から見た光の走行時間を t′/ 列車内で見た光の走行距離を AB / 列車外から見た光の走行距離を AB′とすると
列車内での光の速度は ・・・ 列車外から見た光の速度は ・・・ となります。そこで、この二つの式を合わせますと ・・・ となりますが、図 では  AB < AB′ですから、それを 式に当てはめてみますと
t < t′ となります。
この結果は《同じ光の伝わる現象でも、列車内での方が、外から見るよりも光の伝播時間が短い》という事を表わしています。それは、列車の中の方が外よりも時計の進み方が少ない、という事で《動いている列車の中では、外に比べて時間が遅れる》という事になるわけです。
これが、相対論で良く言われる所の「動いている系では静止系よりも時間が遅れる」という理論のやさしい説明の一つです。ここまでは定説通りです。(注 : これは私独自の考えではなく、『現代物理の世界‐T 相対性理論と量子力学の誕生』第七章「時計のパラドックス」のやり方を真似たものです。)
さて次からが問題です。 
(b) 動いている列車の中では時間が進む?
右の図をごらん下さい。これも列車内の様子ですが、AとBの人は対角線上に向かい合って座っています。
今、ここで、Aの座席の人が煙草を吸う為に、ライターで火を点けたとしましょう。そうすると、その光はBの人には、まっすぐA→Bの方向へ来た様に見えます。ところが、この光景を外から見ていた人には、光はA→B′の方向へ来た様に見えます。光がいくら速いとは言え、AからBに届く間に列車も少しは前に動いているからです。
図 ではABよりもAB′の方が距離が短いので、列車の外から見た光の走行距離の方が、列車の中で見た光の走行距離よりも短くなります。これは前と反対の結果です。
前と同様にして距離と時間の関係を求めてみますと ・・・ となります。 図 では AB > AB′ですから t > t′となります。
そうすると、今度は光の走行時間は、列車の中の方が外よりも余分に掛かる事になりまです。これは、言い換えれば、列車の中の方が外よりも時計が多く進む、つまり時間が進むという事になるわけです。
前と同じやり方でやったのに、今度は、列車の中の方が外よりも時間が進む事になりました。
図 の状態では、列車内の時間は外より遅れたのですが、図 の状態では逆に進む事になるのです。これは一体どういう事でしょうか。同じ列車内での光の実験なのに、相反する結果が出て来ました。
この二つの状態は一体どこが違うのでしょうか。それは、実は、光の進む方向なのです。そこで、この部分を、もう少し一般化して調べて見ましょう。 
(c) 光の進む方向によって時間の遅れ進み具合が異なる?
図を見て下さい。円が二つ描いてあり、右側の円には矢印が描いてあります。まず、左側の円ですが、これは、列車内の一点0を発した光が、一定の時間に到達する位置(列車内から見た)です。そして、右側の円は、その位置を列車の外から見た場合の位置です。
列車は動いていますので、円は右側に移動します。従って、左側の円の中心0を発した光は、右側の円に到達する事になります。列車の中では、光は一定の時間に一定の距離を進むのですが、これを外から見ていると、その距離は、進む方向によってマチマチになります。 これに相対論の理屈を当てはめ、無理に解釈しようとすれば、時間の遅れ進み具合はみな異なって来ます。
前のやり方では、外から見た所の光の距離の長い方が、列車内の時間が遅れていましたので、それを応用しますと、円の半径より矢印の長い方 (基本的に前方に発射) が時間が遅れ、短い方 (基本的に後方に発射) が時間が進む事になります。
ただ二箇所od方向とod′方向のみ時間は遅れも進みもしませんが。
その他の方向では、矢印の長さが皆違いますので、時間の遅れ進み具合は全部異なって来ます。
同じ光源から発した光なのに、どの方向に向かう光を基準に採るかで、そこの時間の進み遅れぐあいが異なって来るのです。
全く馬鹿げた事ですが、実は、全体はこうなっていたのです。相対論で、よく使われる所の例は、この無数にある光の方向のほんの一方向を採ったに過ぎません。 
(d) 時間は遅れもしなければ進みもしない
次に多方向から来る光で考えてみましょう。
今までのは、単一光源での話でしたが、実際の場合、光源は沢山あります。光は前からも後ろからも同時に来ます。そういう場合どうなるのでしょうか。静止している時は、ともかく、動いている列車に乗っている場合、進行方向に対して前から来る光を基準にして“光速度不変の原理”で考えれば時間は進み、後ろから来る光で考えれば時間は遅れる事になります。これは、全く、滅茶苦茶な話です
光が、どっちから来ようと、その瞬間のその場所の時間は同じでしょう。こういう場合、《時間は遅れもしなければ進みもしない》と考えるのが妥当(だとう)です。ここで、相対論に詳しい方は、「アインシュタインは『時間が遅れる』とは言ったが、『進む』とは言っていない、だから、お前の理屈は成り立たない」とおっしゃるかも知れません。ところが、式を調べていくと、この矛盾が出てくるのです。それは、おいおい、紹介していきます。
その前に、簡単な所から当たっていきましょう。
まず、この馬鹿げた結果になった原因からです。なぜ、そうなったのか?それは、アインシュタインが《光の速度は絶対だ》としたからです。《動いている系から見ても、静止している系から見ても光速は同じ》としてしまったから、こういう矛盾が生じてしまったのです。問題はそこにあります。 
(三) 光速度不変の原理に根拠は無い

 

(1) 光速度絶対は本当に正しいのか? 
アインシュタインは光速度は絶対で、いかなるものも光速を超えられないとしました。これは本当に正しいのでしょうか。それを調べるために、宇宙空間に A、B、C という三つの地点を設定しましょう。
A と B の距離は 29万km あり、B と C の距離も 29万km あるとします。A、B、C の三つの地点は直線状に並んでいます。A からロケットを秒速 29万km の速さで、B の方向に向けて発射し、同時刻に C からもロケットを秒速 29万km の速さで、B の方向に向けて発射したとしましょう。この二つのロケットは一秒後には B 地点で出会います。
普通の感覚で言えば、この二つのロケットの相対速度は 秒速 58万Km のはずです。ところが、アインシュタインは、二つのロケットの相対速度は 秒速 30万Km を超えないとしました。 式より、そうなるからです。でも、その式の結果は、道理に合いません。相対論では、どちらが動いているかは、相対的なはずです。
A のロケットが停まっていて、B 地点と C ロケットが、A ロケットの所に、やって来たと解釈してもいいわけです。そこで、そう解釈したら、どうなるでしょうか。
B 地点は、1秒間に 29万km の距離を移動して、A ロケットのところにやってきます。つまり秒速 29万km の速さで移動して来たことになるわけです。これは問題ありません。
次に、C のロケットは 29 + 29 = 58万km の距離を 1秒間で A ロケットのところまでやってきた事になります。これが、秒速 58万km でなくて何でしょうか。1秒で 58万km の差を縮めたら、それは秒速 58万km でしょう。相対論の理屈は道理を無視しています。
そこで、これからこの問題の原因について解明していく事にします。が、その前に、もうすこし、基本的なことからあたっていきましょう。 
(2) アインシュタインの早合点

 

(a) マイケルソン・モーレーの実験
アインシュタインの出した相対性理論の根拠は“光速度不変の原理”にあります。
では、この“光速度不変の原理”は一体どこから生まれたのでしょうか。それは、マイケルソン・モーレーの実験からです。マイケルソンとモーレーの二人は、光を伝える媒体としてのエーテルが存在するのかどうかを調べる為に実験をしました。宇宙にエーテルが充満しているのなら、地球はエーテルの海の中を泳ぎ回っているようなものです。もし、そうであるなら、エーテルは地球の動きと反対の方向に流れている事になります。
そこで、彼らは考えました。エーテルの流れと平行に光を往復させた場合と、直角に往復させた場合とでは、光の走行時間が違うのではないか、と。
これは、舟を川に渡す場合の理屈から類推されます。舟を川の対岸に渡す場合、舟は流れに流されますので、あらかじめ上流に向けて斜めに進まなければなりません。そうすると、この場合、舟は実際の直線距離よりも長く航行する事になります。もっとも、接岸のために船を川岸に並行に付ける場合は、航行方法が多少異なりますが、これは、単純化した議論ですから、細かい事は問わないでください。また、川に平行に進む場合でも、上流に向う場合と下流に向う場合とでは所要時間が違って来ます。上流に向う場合、舟は流れによって減速されますので、到着時間は遅れますが、帰りは加速されて短い時間で着いてしまいます。
この様に流れに平行に進む場合でも、上りと下りとでは航行時間が違うのです。同様の事が光についても言える筈です。
もし、エーテルが実在するのなら、一つの光を、エーテルの流れと直角な方向と平行な方向とに分けて等距離を往復させた場合、光は同時には戻って来ないと考えられます。
そこで彼らは、図の様な実験装置を考案しました。
この装置に光を通し、エーテルの流れに平行な方向と直角な方向とに分けて等距離を往復させたなら、多分、この光は、同時には戻って来ないでしょうから、そこには、きっと干渉縞が出るだろうと。エーテルの流れの正確な方向は判(わか)らなくても、この装置を回転台の上に乗せて回せば、適切な位置に来た時、干渉縞が出る筈だと。そう考えて実験したのですが、結局、干渉縞は出ませんでした。
この実験結果を見て、アインシュタインは《 動いている系から見ても、静止している系から見ても光の速度は同じ 》と勝手に決めつけたのです。しかし、これは、余りにも早計でした。
この実験で判(わか)った事は、「それまで考えられていた様なタイプの、光の媒体としてのエーテルは存在しない」という事だけだったのです。それ以上でもなければ、それ以下でもありません。
光の動きが、その発生源の系の運動に付随していると考えれば、この実験結果は何でもなくなります。
同一慣性系で、しかも静止系内だけでの実験ですから。
地球上だけで観察する限り、東西や南北に光を反射させても無駄でしょう。これは、言わば、列車の中で進行方向と、その進行方向と直角な方向とに光を反射させて調べてみる様な物だからです。
これでは意味ありません。
本当に調べたければ地球の外から観察しなければなりません。そうしなければ“列車の外から見ると”とは言えないでしょう。
彼らは地球の外から観察しましたか? やっていないでしょう。
にも関わらず“列車の外から見ると”と、やっているのが相対論なのです。
“光速度不変の原理”に根拠など有りません。誰も実験していないのですから。
これは、アインシュタインの早合点から生まれた物です。 
(b) マイケルソン・モーレーの実験は果たして成功しているのか?
次に“この実験が本当に成功しているのかどうか”という事が問題になります。と言うのは、マイケルソンとモーレーの二人は地球の運動を公転で考えていたからです。
「公転で何が悪い!」と言われそうですが、実は、公転には問題が有るのです。それは自転とのからみからです。自転で考えれば、エーテルは東から西へ流れるだけですが、公転ではそうは行きません。公転の場合エーテルの流れは、朝・昼・夕・夜で変わって来ます。
夜は東から西へと流れ、昼は西から東へと流れていきます。そして、朝方には頭上から降り注ぎ、夕方には天空へと昇って行きます。
その様に流れが変転して定まらないのです。回転台を使っているのだから、多少、方向が変わっても対応出来そうな気がしないでもありませんが、事はそう簡単では有りません。
『現代物理の世界‐T 相対性理論と量子力学の誕生』 によりますと、結論を出した「最後の実験は1887年の8月の8,9,10,11日及び12日の朝と夕方に行われた」とあります。
ここで問題なのは、朝と夕方です。公転では、エーテルは朝方には頭上から降り注ぎ、夕方には四方から集まって天空に昇って行きます。これでは、回転台をどっちに回しても無駄でしょう。唯一の可能性は、自転によるエーテルの流れだけです。「実験の結果は、自転によるエーテルの流れをも否定した事になるのだから、別に問題無いではないか。」と言われそうですが、そうも行きません。
地球の動きは自転と公転だけではないからです。太陽系その物が、動いているのですから、その影響によるエーテルの流れをも加味しなければなりません。太陽系は秒速 20kmで近くの恒星系を動き回っています。そして、その恒星系も秒速 320kmで銀河系の中を動いています。その次に、その銀河系もまた秒速 160kmで他の銀河系に対して動いているのです。
そうすると、エーテルの流れと言っても、本当の所、どっちの方向から流れているのか、かいもく見当もつかなくなります。複雑多岐な流れとなる筈です。地球の自転によるエーテルの流れも、他の運動の流れによって相殺(そうさい)されていないとも言い切れません。
静止しているエーテルの中を地球が泳ぎ回っていると仮定するのなら、宇宙のどこかに絶対的に静止している点を見つけ出さなければならないのです。そして、そこを基点として、地球の運動の方向を割り出さなければなりません。そうしなければ、エーテルの本当の流れはつかめないでしょう。しかしそれは不可能な事です。
第一それは、絶対静止点を認める事になり、相対性の原則をも否定する事になります。
それは、即、相対論をも否定する事につながるのです。そんな事は相対論信奉者には絶対に認められない事でしょう。
従って、この実験が果たして成功しているのかどうか、何とも言えなくなります。そういう事ですから、この実験結果から「光速度不変の原理」を即断するなど、もっての外なのです。
「光速度不変の原理」に根拠など有りません。これはアインシュタインの空想より生まれた物ですから。 
(四) 数式の問題

 

第二節の「列車の中の時間の矛盾」の所では、光の方向によって時間が遅れたり進んだりする事を指摘しましたが、この程度の事では相対論の先生方はビクともしないでしょう。
「あの“時間の式”は、お前が勝手にデッチ上げた物ではないか。本物の相対論では、そんな幼稚な事はしていない。もっと高度な式が使われているのだ。あんな物でどんな結果を出した所で、こっちの知った事ではない。相対論とは関係ない。」とやられるのが落ちでしょう。
もっとも、あのやり方は私の独自の案ではなく、講談社発行「現代物理の世界−T 相対性理論と量子力学の誕生」の中にある第七章「時計のパラドックス」のやり方を、そっくりそのまま真似て、反対の結果を導き出しただけなのですけど。
それはまあ、ともかく、こうなる可能性が大ですので、相対論の誤りを指摘するには、本物の式は欠かせません。
相対論の誤りは、数式の意味の勘違いから来ているのです。 が、何をどの様に勘違いしたのか、それを解(わか)ってもらうには、数式の意味を知っていただく必要があります。
ここにこそ、真の原因があるからです。
そこで、ここでは、相対論の式を導く過程を通して、何が問題であるのかを説明して行く事にします。
取り敢えずは、私が大学で習った所の式の建て方に従い、ごく単純な式だけを用いて説明する事にしましょう。 
(a) ローレンツ変換の誘導
まず、図の様な直交座標系を考えます。この座標系のある点 P( ) に原点 Oより光が走ったとしましょう。
その距離 R は光速を 、所要時間を として ・・・ で求まります。
次に、O P 間の距離 R の二乗をピタゴラスの定理より求めますと ・・・ となります。
(注:何でこうなるのかは、今は、考えないで下さい。「二、式の誤りの続き」の所で出てきますから)。
そこで (1-4-1),(1-4-2) の二式よりRを消去して ・・・ と置きます。が、これをちょっと細工して ・・・ として置きましょう。
次に、ここに新しい座標系 (運動undouの頭文字)を考えます。
前の系は、静止していたので S系(静止seishiの頭文字)とします。
注;S系・U系は私が勝手に付けた名で、相対論本来の呼び名ではありません。
本来はK系・K´系となっていたのですが見分けがつきにくいので、勝手に変えました系 は S系 に対して、速度 で 軸方向を右に動いている物とします。
その上で、 系 でも S系 と同様にして光の走った所の距離と時間の関係式を求めてみましょう、そうすると、それは ・・・ となるはずです。
ところで、 系の原点 O′を発した光が 系のP′点まで走る様子を、S系より見たらどう見えるでしょうか。
それは、図の様になり、その式は ・・・ となります。
そうすると、一見、無関係の様に見えていた二式も、実は、同じ光の動きを S系・ 系という異なる立場で見た物だという事が解って来ます。
だとしたら、この二つの式を並べて連立方程式 ・・・ にし、これを解いても誰にも文句は言われないでしょう。
そこで、これを解くわけですが、このままでは解けませんので条件に ・・・ をつけて解く事にします。
なぜ、こういう条件をつけるのかという事は、問わないで下さい。教科書にあるのをそのまま写しているだけですから。結果 ・・・ が得られます。
これが世に言うローレンツ変換です。
ところで、ここで、よく問題とされるのが、このローレンツ変換の分母の √ ̄ ̄ の中です。系の速度 が光速 と同じになると分母が 0 になり や が無限大になります。そして が を超えると √ ̄ ̄ の中がマイナスになり や が虚数になってしまいます。そこで「それは困る、現実に存在する距離や時間が無限大になったり虚数になったりしては困る。これは、いかなる物も光速を超えられないという事なのだ」という解釈が生まれて来たわけです。しかし、ちょっと待って下さい。ここには重大な見落としが有るのです。 
(b) U系の移動速度が光速を超えると相対論が崩壊する
系 の速度が光速を超えるとどうなるのか、図をよく見て下さい。系 の速度  が光速 を超えると、 系の原点 を発した光が 系 のP′点に届いたとしても、それをS系から見る事はできません。なぜなら 系 そのものが光速以上の速さで遠ざかっているからです。見方を変えれば、それは、S系 の観測者が 系 から光速以上の速さで遠ざかっているのと同じ事になります。
この状態では 系 より発したいかなる光も S系 には届きません。従って、S系 の観測者には 系 は見えません。 つまり、この状態では 系 は存在しないも同然となるのです。 この状態では、相対論を導く為の前提がなくなります。
次に見方を変えて、S系 の原点 O を発した光が、 系 に向かっているという状況で考えてみましょう。
系 の速度が光速を超えていたなら、S系 の原点 O を発した光は 系 の P′点には永久に届きません。追いつかないからです。追いつかなければ(1-4-7) の連立方程式は成立しません。連立方程式が成立しなければ、相対論も成り立たなくなります。つまり、これより先では相対論は無効となるのです。要するに相対論が成り立つ為には、系の速度が光速以下である事が“絶対必要条件”だったわけです。
「いかなる物も光速を超えられない」のではなく「超えたら、連立方程式が成り立たなくなり、相対論が崩壊する」というのが真の意味だったのです。
S系 の O 点を発した光が 系 の P′点に永遠に届かなければ、距離の や時間の ・・・ が無限大になるというのは当然でしょう。永遠に届かない(つまり無限の遠方にある)のですから。また、速度  が光速を超えた時点で  や が虚数になるというのも当然でしょう。この連立方程式を満足させる実数解が無いのですから。
これは高校一年程度の数学の知識があればわかる事です。二次方程式  のグラフを書いてみれば、すぐにわかります。グラフは永久に 軸には到達しません。従って の時の実数解など存在しません。これを数学で無理に解くと ・・・ となり √ ̄ の中がマイナスになり、虚数が出て来ます。数式が虚数になるとは、こういう事でしょう。相対論の虚数の問題とは、実は、こういう程度の事だったのです。
なお、ここで、図1‐4‐6から見て や が虚数や無限大になっても、 や が虚数や無限大にならなければ、関係ないではないかと、思われる方があるかも知れませんので、つけ加えておきます。
ローレンツ変換には、逆変換というものもあります。それは ・・・ というものでして、分母に関しては、正変換と全く同じ形です。
したがって、運動系の速度  が光速 と同じになれば、分母は無限大になり、距離の や時間の も無限大になります。そして、速度 が光速 を超えれば、分母は虚数になります。ゆえに、 や も虚数や無限大になります。 
(c) 光速度不変の原理が“いかなる物も光速を超えられない”を規定していた。
上の方で“動いている系の速度が光速を超えると連立方程式が成り立たなくなり、相対論が崩壊する”と述べました。そして“相対論が成り立つには、系の速度が光速以下である事が絶対必要条件である”とも述べました。
多くの人は、式を解いた結果「いかなる物も光速を超えられないのだ」と判断したのですが、実は、そうではなかったのです。
これは、式を設定した段階で、そうなる事が義務づけられていたのです。
アインシュタインは“光速度不変の原理”という説を建てました。
それは“動いている系から見ても、静止している系から見ても、光の速度は同じ”という物です。
従来の考え方なら、動いている物から発された光の速度は「光の速度」+「物の速度」で
; 動いている物から発された光を外から見た時の光速のベクトル表示
; 動いている物から見た光の速度のベクトル表示
; 動いている物の速度のベクトル表示
だったのですが、アインシュタインは、これを ||=|| としました。
その結果  の合成速度の大きさが となり、上限が光速に抑えられてしまったのです。光と物の合成速度ですら光速止まりなのですから、況んや他の物の速度をや、単独の速度が光速を超えられないのは当然でしょう。
超えてはならないのです。最初から、そうなる様に条件をつけて式を建てているのですから。結果がそうなって当然だったのです。決して式を解いた結果、そうなったわけではありません。
また、合成速度の式にしても、難しい式をこねまわして ・・・ などという難しい式を導き出す必要は有りませんでした。最初から、「光速度不変の原理」で合成速度の上限を光速に抑えていたのですから。つまり“単独の速度も合成速度も光速を超えてはならない”というのは、最初からそう決められていたからなのです。
そして、それを義務づけたのが「光速度不変の原理」でした。しかして「光速度不変の原理」には何の根拠も有りません。誰も実験していないのですから。 
 
■二 式の誤りの続き

 

(一) 式の説明 
前章では、相対論の誤りについて「光速度不変の原理」には根拠が無い事と、「光速度絶対」は式を解いた結果そうなったのではなく、最初から、そういう前提で式が建てられていたのだという事を説明しました。しかし、この程度の事では相対論の専門家は納得しないでしょう。そこで、これらの事は良しとしても、なおかつ、他に、多くの問題や間違いの有る事を紹介します。
相対論の中には各論として
*「静止系の二カ所で同時に起こった出来事でも、それを動いている系から見ると、同時とは見えない」とか
*「動いている物体の寸法は、それを静止系から見ると縮んで見える」とか
*「動いている系の時間は静止系に比べて遅れる」等という珍妙な説が沢山あります。
ところが、これらは全て間違っているのです。
その原因は、アインシュタインが式の意味を間違って解釈した事にありました。彼は自分が作った式の意味を正しく理解していません。その為、話がトンチンカンな事になり奇想天外・摩訶不思議な方向へと行ってしまったのです。
一体、何が間違っているのか、どこがおかしいのか、それを解(わ)かってもらうには、その前に、式の意味を知ってもらう必要があります。そこで、ここでは、ローレンツ変換の誘導過程を復習しながら、前章よりもう少し詳しく説明して行く事にします。 
(a) ローレンツ変換誘導の復習
まず、図な直交座標系を考えます。この座標系のある点 P( ) に原点 より光が進んだとしましょう。そうすると、その距離 R は光速を 、走行時間を として ・・・ で求まります。ここで、既に が任意の時刻ではなく、光の走行時間である事が、はっきりして来ます。 次に光が走った所の P 間の距離 R を、P点 の座標より求めて見ましょう。
ピタゴラスの定理より R の二乗は ・・・ ですので、これを開平しますと ・・・ になります。この部分は計算上必要なかったので前章では省きました。ここで「 はともかく、距離 R を P点の座標より求めたのなら  は座標ではないか」と言われる方があるかも知れませんので説明します。
まずは、ピタゴラスの定理からです。
図の様な場合、ピタゴラスの定理は ・・・ です。ここでは ・・・ も ・・・ も ・・・ も辺の長さですから距離です。座標でない事は言うまでもありません。では三次元の場合はどうなるのでしょうか。図 の様な場合、OP 間の距離を R としますと、ピタゴラスの定理は ・・・ となります。そして ・・・ ですから ・・・ となります。
この場合  は辺の長さですから全て距離です。 元は座標だったとしても 式の中では距離となるのです。式は本当は ・・・ と書くべき所ですが、面倒なので 0 が省かれているだけです。座標は、カッコの中の  と 0,  と 0,  と0 に当たります。
式より0 を省けば ・・・ となりますが、これはあくまでも距離の式です。
次に ・・・ もまた距離の関係式です。 ・・・ ですから。そういうわけで、この二式を合成して出来た式 ・・・ は、当然のことながら、距離の関係式となります。故に ・・・ もまた、距離の関係式となるのです。
次に、この式は距離と時間の関係式でもありますから、これらの式より導かれたところのローレンツ変換 ・・・ は、当然のことながら、距離と時間の関係式という事になります。
従って、ローレンツ変換の ・・・ , ・・・ は距離であり , ・・・ は時間なのです。 
(b) ローレンツ変換の意味
ローレンツ変換が 図 2‐1‐4 の中の関係式であり、距離と時間の関係式である事は既に説明しました。そこで、ここでは細かい所を説明して行きましょう。
ローレンツ変換の ・・・ とは 図の中の距離の ・・・ の事です。これは光が 系の原点 O′からP′点まで走った所の距離の 軸方向のベクトル成分です。かつP′点の 座標でもあります。
次に ですが、これは 図 2‐1‐4 の中の距離の の事です。これは光が S系の原点 OよりU系 のP′(S系のP)点まで走った時の距離の 軸方向のベクトル成分です。かつP点の 座標でもあります。その次に、 とは 系において、光がO′点よりP′点まで進むのに掛かる時間ですし、とはS系において、光がO点からP点まで進むのに掛かる時間です。
これを解かりやすくする為に一覧表の様な形にまとめてみましょう。 ・・・ ここより、式の意味を説明しますと ・・・ とは、 系での光の走行距離の 軸方向成分をS系での光の走行距離の 軸方向成分とS系での光の走行時間 とで以って表わした物で、 ・・・ とは、 系での光の走行時間 をS系での光の走行時間 とS系での光の走行距離の 軸方向成分とで以って表わした物という事になります。
つまりローレンツ変換とは、S系の ・・・ や ・・・ を変数に使って、 系の ・・・ や ・・・ を表わした物という事になるのです。なお、ローレンツ変換 ・・・ は、このままでは繁雑ですので ・・・ を γ に、  を β に置き換えて ・・・ という形で用いられています。
次に、ローレンツ変換には逆変換として ・・・ というのもあります。これは、動いている系の や を変数に使って、静止系の や を表わした物です。この式は、各論の証明の時に頻繁に出て来ます。 
(二) 各論の誤りの証明

 

準備段階が終わりましたので、次よりは各論の問題点に入ります。各論のテーマは「同時刻の相対性」、「ローレンツ収縮」、「時間の遅れ」についてです。これらについては、何が問題なのかをはっきりさせる為に、教科書の記述をそのまま紹介します。しかしながら、学校の教科書というのは、えてして、解かりにくく書いてある物でして、そのままでは、何を言ってるのかよく解かりません。そこで、原文の後に解説した文章をつけ、その後で、問題を論評する事にします。なお、教科書では静止系は K系、動いている系はK′系となっていたのですが、これは私の文章の都合上、S系・ 系 と変え、式の番号も私の文章の番号にそろえる事にします。それ以外は手を加えません。 
(1) 同時性(同時刻の相対性) 
これは「静止系の二カ所で同時に何かが起こったとしても、それを動いている系から見ると、同時とは見えない」という話です。 
(a) 教科書ではS系の と という二つの点で同時刻に起きた出来事は、系 では一般に同時ではなくなり ・・・ で時刻 ・・・ に ・・・ で時刻 ・・・ に起きたと観測される。 変換から ・・・ となるから ・・・ となって = でない限り =  とはならない。すなわち S系 で ・・・ の異なる二つの場所で同時に起こったと観測される現象が、 系 では同時とは観測されないのである。 (原文) ・・・ この文章では、はっきり言って、何を言ってるのか良く解かりませんので解説します。 
(b) 解説
まず、静止系の中に P1 点 と P2 点という二つの場所を置きます。そして、この二つの場所で同時に何かが起こったと仮定します。その時の時刻を としましょう。次に、この現象を動いている系から目撃したとします。その時の 系 での時刻を
P1 点 については ・・・ P2 点 については  ・・・ と仮に置いてみます。
そうしておいて、ここに、ローレンツ変換 ・・・ を持って来、これに S系 での時刻 とS系での二カ所の座標  と   とを代入して 系 での時刻 ・・・ と ・・・ とを求めて見ましょう。 そうすると、それは ・・・ となります。
ここでもし、 系 の二カ所の時刻が同じであるならば  −  =0 になる筈です。
そこで、 より を引いてみます。 ところが、結果は ・・・ となりまして、必ずしも   −  = 0 とはなっていません。この式で  −  が 0 となるのは  =  の時だけです。
そこより「 = でない限り = とはならない」となり、「同じ場所でない限り、 系 では同じ時刻とはならない」という考え方が生まれて来たわけです。それは言い換えれば「静止系の の異なる二カ所で同時に何かが起こったとしても、それを動いている系から見れば同時とは観測されない」という事になるわけです。これが「同時性」の理屈です。
言われてみれば、「確かに」、「なるほど」、と思えて来ます。しかしながら、これは間違っています。 
(c) 誤りの証明
まず第一に、ここではローレンツ変換の ・・・ にS系での時刻 とS系での二カ所の座標 と とを代入して、 系 での時刻 ・・・ と ・・・ とを求めていますが、誰が、この式をそんな風に使えると決めたのでしょうか。この式は、そんな事の為の式ではありません。ローレンツ変換は光が走った所の距離と時間の関係式なのです。これから、その間違いを具体的に説明していきます。
教科書の設定では , ,  は任意の時刻となっています。しかしながら、これを代入する所のローレンツ変換の , は任意の時刻ではありません。これは、光の走行時間です。 ・・・ は S系 において、光が O点から P点 まで走るのに掛かる時間ですし ・・・ は 系 において、光が O′点から P′点まで走るのに掛かる時間です。
次に , , , ですが、これも教科書の設定では任意の点の座標となっていますが、これを当てはめる所のローレンツ変換の は任意の点の座標ではありません。これは、図の中の距離の ・・・ です。これは、S系において光が走った所の距離 OPの 軸方向成分です。座標と解釈しても P点の 座標に限られます。決して任意の点の座標などではありません。
従って、ローレンツ変換を教科書の様な設定で使う事は出来ません。これは間違いです。
とこう申しますと、こういう異論に対しましては
「 “光が、時刻=0の瞬間に原点Oを発し、時刻 の時にP点に届いた”と解釈すれば を時刻とみなしても良いのではないか?図の中では、P点は自由にとれるのだから、ここで設定している所の点を図の中にP点として置けば問題は無かろう」とおっしゃる方があるかも知れませんので、そうやったら、どうなるのかをやってみましょう。
まず設定では、二つの点 と とがありますので、これを P1, P2 点として 図 2-2-2 の中に任意に置きます。そうすると、それは、図 2-2-3 の様になります。ところが、ここで問題が生じます。設定では  は静止系全体の時刻の筈です。従って P1 点 でも P2 点 でも時刻は同じでなければなりません。ところが、図で明らかな様に ・・・ とはなっていません。
ローレンツ変換の ・・・ は、元々、光の走行時間ですから、これを光の到達時刻と置き換えても、系全体の時刻とはならないのです。P1 点 と P2 点 の位置が違えば、光の走行距離が違いますから、到達時刻も違って来ます。従って ・・・ とはなりません。ローレンツ変換の を時刻とみなせば、静止系の中ですら異なる位置の時刻は異なる事になって困った事になります。
そういうわけで、ローレンツ変換の ・・・ を時刻に ・・・ を座標とみなしても、うまく行かないのです。では全く駄目なのかと言うとそうでもありません。 
(d) 式の意味の勘違い
実は、このやり方でも“同時刻の相対性”の理屈を成り立たせる方法があるのです。
それには、どうすれば良いのか。それには、まず、静止系の時刻が一致する所、つまり ・・・ となる所を探し出し、そこに P1点 と P2点とを置く事です。その位置は静止系の原点Oから同一半径の球面上です。ここにP1点とP2点とを置けば、静止系での光の到達時刻は皆同じになります。距離が同じですから。かつ、動いている系での光の到達時刻は一致しません。
従って、ここでなら式の ・・・ は成り立ちます。そして、ここでなら「静止系の の異なる二カ所で同時に何かが起こったとしても、それを動いている系から見れば同時とは観測されない」という理屈はこじつけられます。「同時性(同時刻の相対性)」とは、実は、こういう特殊な条件下で成り立つ式の意味を間違って解釈した物だったのです。
確かに、こういう限定条件下でなら、そういう理屈も成り立つでしょう。しかしながら、これは、この球面上でのみ成り立つ理屈ですから正しくはありません。球面を一歩でも外に出たら最後、静止系ですら同一時刻は存在しません。そうなると、任意の場所に自由に座標を設定する事も出来なくなります。
つまり、この様に矛盾を生じてしまうのです。これでは、一般性を持ちません。従って、同時性の理論は誤りとなります。 
(2) ローレンツ収縮(動いている系の寸法は縮む)

 

これは「動いている物体の寸法は、静止系から見ると実際より縮んで見える」という説です。 
(a) 教科書ではS系 ・・・ で静止している長さ ・・・ の棒を考える。棒は 軸に平行に置かれている物とする。
棒の両端のS系 の座標を ・・・ , ・・・ とすると ・・・ であって、これは に無関係である。この棒を速度 で動いている 系 から見たらその長さはどうなるであろうか。系 から見ると棒は速度 − で動いており、その長さは 系 で同時刻 に観測した棒の 座標の差により与えられる筈である。 系 での長さを とすると ・・・ であるが、変換により ・・・ である事から ・・・ という関係が得られ ・・・ となる。従って 系 から見た棒の長さは の割合いで収縮して見える。同様に 系 で静止している 軸に平行な棒の長さは、S系 から見ると の割合いだけ収縮して見える。となっています。
これも、良く解からないと思われますので補足して説明します。 
(b) 補足説明
まず、S系 に置いてある長さ の棒を考えます。この棒は 軸に平行に置かれてある物とします。
棒の両端の座標を ・・・ , ・・・ とすれば、その長さは ・・・ で表わされます。ところで、この棒を速度 で動いている 系 から見たら、どう見えるでしょうか。 ・・・ 系 から見ると、棒の方が速度 −  で、つまり反対方向に動いている事になります。そして、その長さは 系 で同時刻 に観測した所の棒の  座標の差により与えられる筈です。そこで、棒の両端の座標を ,  と置いてみましょう。そうすると、その長さは ・・・ で与えられる事になります。
次に、ここに、ローレンツ逆変換の ・・・ を持って来て、これに 系 より観測した所の棒の両端の座標 ・・・ , ・・・ と時刻の ・・・ とを代入 ・・・ して、S系での棒の両端の座標 と を求めてみましょう。
そうすると ・・・ が得られます。そこで、この得られた座標  ,   よりS系 に於ける棒の長さを求めてみます。
棒の長さ は − ですから、 ・・・ となります。ところで、この式の最後を良く見て下さい。最後の  は 系 より見た所の棒の長さ ・・・ です。従って、この結果より《 S系 での棒の長さ》と《 系 より見た所の棒の長さ》との間には ・・・ という関係のある事がわかります。
そこで、この式を素人にも解かる様に言葉に置き換えてみましょう。そうすると、それは ・・・ となります。
ところで相対論では ・・・ は常に1より小ですので、この結果は ・・・ という事になるのです。 そうすると、これは《 静止している棒を、動いている系から眺めた場合、その長さは、静止系で見るのに比べて ・・・ の割合で縮んで見える 》という事になり、それはまた逆の見方として《動いている棒を静止系から眺めても、同様に縮んで見える》という理屈にもなるわけです。そして、ここより《動いている物体の寸法は、これを静止系から眺めると、本来の寸法より縮んで見える》という結論が得られるのです。
これが、ローレンツ収縮の理屈です。
これも、何の気なしに読むと、数式の解る人なら「なるほど!」と思わせられます。しかし、これも間違っています。 
(c) 誤りの証明
まず第一の間違いはローレンツ逆変換の ・・・ に 系 での棒の両端の座標  , と時刻の とを代入すれば、S系 での棒の両端の座標 ・・・ , ・・・ が求まると勘違いしている事です。この式は、そんな事のための式ではありません。これは、光の走った距離と時間の関係式ですから。
次に教科書が設定している所の , , ,  は棒の両端の座標ですが、これを代入する所のローレンツ逆変換の , は棒の両端の座標ではありません。
これは、光の到達点の , 座標です。しかして、その実体は光の走行距離の , 軸方向成分なのです。
具体的に申しますと、 は静止系に於いて光が走った所の距離 OP の 軸方向成分ですし、 は動いている系に於いて光が走った所の距離 O′ P′の  軸方向成分です。これを座標と解釈しても図の中の P,P′点の , 座標に限られます。けっして、棒の両端の座標などではありません。
次に、ローレンツ逆変換の , もまた光の走行時間でして、任意の時刻ではありません。そういうわけですから、ローレンツ逆変換をこのような設定に用いる事は出来ません。これは、間違っています。
そうは言いましても、こういう意見に対しましては「棒の両端の位置を図 2-3-4 の中に P1点, P2点として置けば問題無いのでは」とおっしゃる方があるかも知れませんので、そうすればどうなるかを、やってみましょう。
棒の両端の位置を静止系の P1 点 、P2 点の位置に置きます。
そして、棒は 軸に平行ですから ・・・ とします。そうして図を作りますと、それは、図の様になります。ところが困った事に、ここでも ・・・ とはなりません。これは前項と同じ問題です。
設定では「これは に無関係で」とありましたが、ローレンツ変換を用いる限り無関係とはなりません。
設定の は系全体の時刻ですが、ローレンツ変換の は光の走行時間です。
場所が違えば光の到達時刻も違ってきます。当然、時刻は一致しません。
故に、 1 = 2, =  とはなりません。
そうするとβ ′の項が消えませんから、式は ・・・ ではなく ・・・ としなければならなくなります。
ところが、そうすると、結論の が出て来ませんから、ローレンツ収縮の理論も生まれて来なくなります。
それでは不都合ですので β ′の項が消える様に 系での時刻が一致する所、 系 の原点 O′より同一半径の球面上に P1点 と P2点 とを置いて見ましょう。
図のようにすれば 系 での光の走行距離は一定ですから、光の到達時刻は P1点でも P2点でも同じになります。従って、動いている系での時刻も一致します。ところが今度は、棒の方が 軸に平行ではなくなってしまいます。その上、S系 の時刻も一致しません。つまり、この様に矛盾を生じてしまうのです。かつ、ここの問題は前項の“同時性”の理屈に抵触して来ます。 
(3) ローレンツ収縮の矛盾

 

(a) ローレンツ収縮の理論の誘導は同時性の理屈と矛盾する
前項の“同時性”では《静止系の の異なる二つの場所で 同時に起こったと観測される現象は、動いている系では 同時とは観測されない》とあった筈です。
ところが、ここ“ローレンツ収縮”のところでは、棒の両端の位置を測定した時の時刻を、静止系だけでなく動いている系でまで同じにしています。これは同時性の理屈に反する事です。
同時性の理屈に照らすなら《静止系に置いてある棒の両端の位置を、動いている系から 同時に観測したとしても、その位置は静止系時間では 同時刻の時の位置ではない》となる筈です。
「それがどうした、時刻が違っても棒の位置が同じなら関係無いではないか!」と言われそうですが、そうは行きません。なぜなら観測者が動いているからです。それは立場を引っ繰り返せば、棒が動いているのと同じ事になります。これが動いていなければ問題無いのですが、 動いているから問題になるのです。
位置が動きますから。 動いている棒の両端の座標を別々の時刻に測ったなら、正しい寸法は出ないでしょう。 同時性の理屈に照らすなら《動いている棒の両端の位置を、静止系から同時に観測したとしても、その時見えている位置は、棒の系の時刻で左端が の時の位置・右端が の時の位置》となる筈です。それが同時に見えているだけです。
その状態を図示すれば図の様になるでしょう。 ・・・ 
この図でもって、静止系での位置に対応する位置を、動いている系より見ようとするならば、左端を ( ) 右端を ( )  としなければなりません。そうすると、棒の長さは系の進行方向によっては、長く見えたり短く見えたりするかも知れません。この場合、時刻は重要な要素となります。 関係無いなどと勝手に外せません。つまり相対論とは、この様に、自説の中にすら矛盾を含んでいる物だったのです。と言っても、相対論信者の方がこの程度の事で納得される筈もないでしょうし、ローレンツ変換を導いた時の図から想像して、「それでも長さは縮む」とガリレオ張りの主張をされるでしょうから、その事についても触れておきましょう。 
(b) 光が前に進めば寸法は縮み、光が後ろに進めば寸法は伸びる
図を見て下さい。光が発される直前には S系 の O 点と 系 の O′点は重なっています。そして O,O′点を発した光が 系 のP′点に届いた時、 系 は距離にして だけ右に移動していますので、S系の距離 は 系 の距離  に比べて  だけ長くなります。これは、見方を変えれば 系 の寸法が S 系 に比べ、縮んだという事にもなるわけです。そこから考えて“動いている物体の寸法は縮む”という理屈も成り立ちそうな気がしないでもありませんが、事はそう単純ではありません。物事には裏表があるのです。逆も言えます。
光を系の進行方向と逆向きに発したらどうなるでしょうか。
図を見て下さい。光が発される直前 O点と O′点は重なっています。そして、光が発されてS系 のP点に届いた時、 系 は だけ右に移動していますので 系の距離 は S系の距離 に比べて だけ長くなります。そうすると今度は、動いている系の寸法の方が静止系より伸びた事になるのです。光を前に発した時の図では、動いている系の寸法は縮んで見えたのですが、後ろに光を発した時の図では、逆に伸びて見えるのです。
これは、私が第一章・第二節の「列車の中の時間の矛盾」の所で述べたのと似た現象でしょう。前に進む光を基準にして考えれば寸法は縮み、後ろに進む光を基準にして考えれば寸法は伸びる。しかして、一点より発された光は同時に前にも後ろにも進むもの。こういう場合、寸法は縮みもしなければ伸びもしないと考えるのが妥当でしょう。
これはアインシュタインが変な操作(光速度不変の原理の導入)をしたから、“光が前に進む部分”で寸法が縮み、その反動として“光が後ろに進む部分”で寸法が伸びて、おかしな事になってしまったのです。
ローレンツ収縮は、この誤った操作により生じた所のしわ寄せの“光が前に進む部分”だけを捕らえた物ですから正しくはありません。全くナンセンスな物となります。
ところで、この「光を後方に発した時の図」は「ローレンツ逆変換」とも関連がありますので、この事についても触れておきましょう。 
(c) 光を前方に発した時と、後方に発した時とでは
静止系と動いている系の立場が逆転する。
図の様に後ろ向きに光を発すると、P点、P′点の ・・・ , ・・・ 座標は (− ), (− ) となりますので、これをローレンツ変換 ・・・ に代入してみましょう。 そうすると ・・・ となりまして、ローレンツ逆変換 ・・・ とよく似た形が出て来ます。ただ と 、 と が入れ替わっているだけですけど。
そしてまた、これは、光の方向は元のままで、系の進行方向を逆にしても同様の結果が得られます。進行方向を逆にするという事は、速度  を (− ) にするという事ですから、これをローレンツ変換に代入してみます。
すると ・・・ となりまして、これもやはり同じ結果が得られます。ここでちょっと、逆変換の式と正変換で光の方向と系の方向とを逆にした時の式を並べてみましょう。
 ・・・ 
この様に二式は似ています。違うのは と 、 と が入れ替わっている事だけです。これは一体何を意味しているのでしょうか。式1は、光を前方に発した時のS系の と を表しており、式2は光を後方に発した時の 系 の と を表していますので、これを図にして並べてみましょう。そうすると ・・・ 図 の様になりまして、両方とも光の経路の長い方を指している事が判ります。つまり ・・・ などの様に、( )の中の記号がプラスになってる式は、図では光の経路の長い方を示し、逆に ・・・ などの様に、( )の中の記号がマイナスになってる式は、図では光の経路の短い方を示していたのです。
ここより、光が前方に発せられた時と、後方に発せられた時とでは、S系と 系 の立場が逆転する事が判ります。図で明らかな様に、
* 光が後方に発せられた時の 系 の光の経路は、光が前方に発せられた時の S系 の光の経路と相似しており、
* 光が後方に発せられた時の S系 の光の経路は、光が前方に発せられた時の 系 の光の経路に相似しています。
* 光を後方に発した時の 系 は、一般に相対論で言う所の“静止系”と同じ状態にあり、
* 光を後方に発した時の S系 は、一般に相対論で言う所の“動いている系”と同じ状態にあります。
本来はS系が“静止系”で、 系が“動いている系”ですから、ここではS系と 系のあるべき状態が逆転した事になります。つまり、系の進行方向と逆向きに光を発すると、静止系と動いている系の立場が入れ替わってしまうのです。そういうわけですから“静止系”だの“動いている系”だのと言っても意味ありません。光の方向一つで引っ繰り返りますから。
尚、教科書の理論の誘導の仕方は、それをそっくりそのまま使って、全く逆の結果をも導き出す事が出来ますので、それも紹介しておきましょう。 
(d) 動いている棒の寸法は静止系に比べて伸びる。
ここでは、 系 に置いてある棒をS系より観察するという形で、教科書に書いてある手順をそっくりそのまま使って、逆の結果を導き出してみましょう。「 系 で静止している長さ の棒を考える。棒は 軸に平行に置かれているものとする。
棒の両端の 系 での座標を , とすると ・・・ であって、これは に無関係である。この棒をS系 から見たら、その長さはどうなるであろうか。S系 から見ると棒は速度  で動いており、その長さは、S系 で同時刻 に観測した棒の両端の座標の差により与えられる筈である。S系での長さを とすると ・・・ であるが変換より ・・・ である事から ・・・ という関係が得られ ・・・ となる。ところで ・・・ であるから ・・・ となり《U系にある棒の長さはS系より見ると伸びて見える》事になる」となります。
ごまかしていると思われてはいけませんので、これを表の様な形にし、教科書のやり方と併記して比べてみましょう。この通り何のごまかしもありません。この様なやり方ではどっちでも成り立つのです。
以上の論証により「ローレンツ収縮」は誤りとなります。 そしてまた、ここより、第一章の「列車の中の時間の矛盾」で述べた事が、私の単なる思いつきではなく、相対論の本質に由来する物である事がお解りになると思います。 
(4) 動く時計の遅れ(時間の遅れ)

 

この項に関しましては、前の二つの項とは別の本を採用しています。 その理由は、説の誘導の仕方に納得し難い物が多く、解説がしづらかったからです。 問題は山程あったのですが、それをつついた所で所詮は、執筆者のミスとされるだけで相対論のミスでは無いとされるのが落ちだったので外しました。
ここでは、別の本(原島鮮著『力学』裳華房)に在った分を採用しています。ただ、この本の原文は、専門書特有の非常に解りづらい書き方がしてありまして(内容は大した事ないのですが)解説すると不必要にややこしくなりますので、最初から翻訳して紹介する事にしました。なお原文は、静止系は 系、動いている系は 系となっていたのですが、これも、私の文章と合わせる為に S 系・ 系 とします。 
(a) 教科書の内容
教科書では「 系 の 軸上のある点  という所に時計が置いてあるとする。
この時計は 系 から見ると静止しているのであるが、S 系から見ると速度 で動いている事になる。さて、この  という所で二つの事件が起こったとしよう。そして、その二つの事件の起こった時刻を  , ・・・ とおこう。
次に、ここに、ローレンツ逆変換 ・・・ を持って来て、これに 系 での時刻  , と座標の とを代入して、その時の S 系 での時刻 1 と 2 とを求めてみよう。そうすると ・・・ が得られる。 この得られた 1,2 よりS系 から見た所の両事件の間の時間間隔を求めてみよう。それは ・・・ となる。
ところで、この式の右辺の  は 系 で見た所の両事件の間の時間間隔であるから、系 をメインにする為に、これを左側に出して ・・・ とおき、この式を言葉で表わして見れば ・・・ となる。そして  は常に1より小であったから、それをも考慮に入れるとこの式は ・・・ という事になるのである。
これは『同じ出来事の経過時間でも、U系 で測る方が S系 で測るよりも時間が短い』早い話が『動いている系での方が静止系でよりも時間の進み方が少ない。つまり、時間が遅れる』」と言ってるわけです。
確かに、これも文章の流れだけを何の気なしに読むと、そう思わせられます。しかし、これも間違っています。 
(b) 誤りの証明
まず第一に、これも前項と同じ事ですが、ローレンツ逆変換 ・・・ に 系 での二つの時刻  , と時計の位置の座標の とを代入すれば、S 系 での時刻( 系 での  , に対応する)が求まると勘違いしている事です。この式は、そんな式ではありません。これは、光の走った所の距離と時間の関係式ですから。ここの誤りについても詳しく説明していきます。教科書では 1 , 2 , , を時刻として設定していますが、それを代入する所のローレンツ逆変換の  , は時刻ではありません。これは光の走行時間です。
ローレンツ逆変換の は 図の S 系 に於いて光が O点 から P点 まで走るのに掛かる時間ですし、  は 系 に於いて光が O′点から P′点まで走るのに掛かる時間です。けっして任意の時刻ではありません。
次に、教科書では を時計の置いてある位置として、 軸上の任意の点の座標に設定していますが、ローレンツ逆変換の  は任意の点の座標ではありません。これは 図 2‐4‐2 の中の距離の です。これは 系 に於いて光が O′点から P′点まで走った所の距離の 軸方向成分です。座標と見なしても P′点の 座標に限られます。けっして任意の点の座標などではありません。
その次に、アインシュタインや相対論の専門家が見落としている事に 《ローレンツ変換の は時間と共に変動する》 という事があります。
ローレンツ変換の  は、  = 0 の時は 0 ですが時間と共に大きくなり = ∞(無限大)では無限大になります。一定ではありません。
これは 軸上の距離だろうと、P′点の 座標だろうと同じ事です。
一方、設定の は時計の位置ですから動きません。これは不変です。こういう点からも、時計の位置の をローレンツ変換の に代入する事は間違いなのです。

とは言いましても、言ってる事の意味がわからないといけませんので、これを図でもって説明する事にします。
動きの(参照図) ・・・ 最初 0時の時には、S系 の原点 O と 系 の原点 O′は重なっています。この時は、まだ光は発されていません。 従って P点・P′点は原点の中にあります。
故に  = 0です。
次に光が 0 時に発射され1時間経った(つまり1時の)時の 図を 図1とします。時間がたつにつれ光の走行距離は伸びて行き、2時の時では1時の時のちょうど倍になります。それが 図2です。図でわかります様に、1時の時のP1,P1′点と2時の時のP2,P2′点とでは位置が違います。当然1時の時の と2時の時の も位置が違います。これがローレンツ変換の です。
それに対して時計の位置というのは動きませんから、1時であろうと2時であろうと同じ場所です。この様に時計の位置の とローレンツ変換の とでは意味が違うのです。
あー、それから、「光が一時間走ったら、とんでもない距離で、こんな比較なぞ出来ないぞ」という、厳密な議論はやめて下さいね。これはあくまでも、単純化した話ですから。
というわけで、同じ位置での時間経過を云々する問題にローレンツ変換を使う事は出来ません。ローレンツ変換は光の走った距離と時間の関係式ですから。光の到達時刻が変われば到達位置も異なって来ます。時刻は進んでいるのに、位置をそのままというわけには行きません。
そこの所の違いに気づかず混同して使うとおかしな事になります。もっとも、そうは言いましても、このローレンツ変換の と時計の位置の とを一致させる方法が無いわけでもありません。
そこで、次はそれをやってみて、相対論の式が本当は何を言っているのかを調べてみましょう。 
(c) 式の意味する所
それには、まず U 系 の原点 O′より 軸に垂直に光を発し、それを S系から観測する事です。そうすると、その図は 図の様になります。この場合、光の到達点の 座標 は、いかなる時でも O′ですから一定となり、教科書の設定と合致する事になります。
つまりこういう場合でなら  を時計の位置と見なしても差し支えなくなるのです。そしてこういう状態でなら“時間の遅れ論”の元となった 式 ・・・ は成り立ちます。そこで、次は、この式の意味について考えて見ましょう。
まずは 図に着目して下さい。光の発される時を0時、1 を1時、2 を2時とすれば ・・・ ということは (2‐4‐3) の式は ・・・ で置き換えても同じという事です。これは 図で考えても同じという事になります。
次は ・・・ を書き換えると ・・・ になりますので これを 図に当てはめて考えてみましょう。
まづP,P′点の所の角度をθ、S系に於ける光速を 、U系の移動速度を とすれば U 系 内での光の速度は便宜上(数学上) になります。そうすると ・・・ は cosθ ともなるのです ・・・ そこで、これを式 に戻せば ・・・ となります。そこから、これは、図の中の三角関数を表わしているのだという事が判ってきます。 つまり ・・・ とは、図の中の三角関数の事だったのです。当然 ・・・ の元の式である ・・・ もまた 図 の三角関数の式という事になります。
つまり「時間の遅れ」論の元となった式は、本当は、図 2‐4‐11 の中の三角関数を表わしていたわけです。

「ちょっと待て、それなら『動いている系の時間は静止系に比べて遅れる』という理屈も成り立つではないか」と言われそうですが、そうは行きません。なぜなら、この式は 軸に垂直に発された光のみで考えられているからです。他の方向の光は一切考慮されていません。他の方向の光で考えたなら、この式は成り立ちません。
次に立場を変えて、S系の原点 Oより 軸に垂直に発された光を基準にして考えて見ましょう。
そうすると、図より式は ・・・ となり、全く正反対の結果が生じてしまいます。この場合、U 系 の方が S系 より時間が進む事になるのです。そして、第三に系の進行方向と逆向きに光を発すれば図の様に  >  となりまして、U 系 の時間の方が確実に S系 より進む事になります。
というわけで「時間の遅れ」論の理屈は成り立ちません。
尚、図だけの説明では承服しかねるという方の為に、教科書と同じやり方で、正反対の結果を導き出し、この理論が誤りである事も証明しておきましょう。 
(d) 逆も成り立つ
 ・・・ と、この様になります。こういう導き方では、やり方次第で、どっちの結果でも得られるのです。従って「動いている系の時間は遅れる」という理論も誤りとなります。尚、私が《動いている系での光の速度》を便宜上  とした事は、ここでは深く考えないで下さい。これは次章の「アインシュタインの論文批判」や第四章の「四次元時空」の所でも出て来ますから。そして、その時、意味がはっきりして来ます。 
(三) 各論の誤りのまとめ

 

今までの論証で明らかな様に「同時性」「ローレンツ収縮」「時間の遅れ」等の説は全て間違っています。これらの説には何の根拠も有りません。そして、その間違いの元はローレンツ変換の使用に有ったのです。アインシュタインは、ローレンツ変換を任意の座標や任意の時刻の変換公式と思い込んで使用しました。これがそもそもの間違いの元でした。ローレンツ変換は 図に於ける光の走行距離と走行時間の関係式だったのです。決して任意の座標や任意の時刻などの変換式では有りません。
では、どうして、この様な間違いを生じたのでしょうか。それはアインシュタインが「距離」と「座標」,「時間」と「時刻」とを混同していたからです。
ここで、「距離」と「座標」の違いについて説明しておきましょう。
「座標」とは  特定の点の位置であり、「距離」とは  ある座標から別の座標までの間の長さです。そして、「時刻」とは  時間軸上の特定の位置であり、「時間」とは  ある時刻から別の時刻までの間の長さです。アインシュインはこれらに区別をつけず混同していました。
その為、後から追随される先生方も気づかず混同されたのでしょう。
ではなぜ混同してしまったのかというと、それは文字と用法に原因が有ります。文字で書けば、距離も座標も同じ の文字で表されます。そして0を基点にすれば、距離は座標の数値で代用されます。だから混同をしてしまうわけです。
次に、時刻と時間も同じ ・・・ の文字で表わされます。そして 0 を始点とすれば、時間は時刻の数値で代用されます。従って混同はされます。その上、もっと始末の悪い事に「時間」という言葉は「時刻」と「経過時間」の両方の意味を兼ね備えています。これは日本語だけでなく英語の time でもドイツ語の Stunde でも同じようです。本来、人は、その時々に応じて使い別けているのですが、どうもアインシュタインは論文を書く時、気づかず混同してしまった様です。
その結果、本来、光の走行時間である が光の到達時刻に置き換えられ(ここまでは良いのですが)、それが空間の任意の時刻にまで拡大解釈されてしまったのです。
次に、光の走った距離 OPの 軸方向成分である も、光の到達点(P点)の 座標と解釈される所までは良いのですが、これが、任意の点の 座標と拡大解釈されてしまう所に問題があるわけです。
本当は ・・・ だったのです。
それぞれの項目は、皆、別の物ですが隣接する項目に特定の条件をつければ = が成立します。だからと言って離れた項目まで = になるわけではありません。
そこの所の区別・たて別けに気づかず三段論法でやると ・・・ とやってしまい、間違いを生じてしまいます。似た物をくっつけて、安易に、同じとしてしまうのは問題でしょう。というわけで、ローレンツ変換と教科書の設定とは何の関係もありません。設定と式とが無関係ですから。
この様な設定にローレンツ変換を使おうというのは、バスの燃費を計算する式でもって亀の寿命を計算したり、体脂肪を計算する式でもって生徒の偏差値を計算する様なものです。その様な事をすれば滅茶苦茶になります。
しかして、その滅茶苦茶をやっているのが相対論というわけです。従って、相対論は全くの誤りなのです。
と、ここまで申しますと専門家の先生方は、たぶん「お前が指摘しているのは教科書の執筆者のミスであって、アインシュタインのミスではない。アインシュタインはその様な導き方はしていない。だから、相対論が間違ってるとは言えない。」と仰られるでしょう。
そこで、次は、アインシュタインの論文について論評することにします。 
 
■三 アインシュタインの論文への批判

 

これまでの論証は、私が大学で習った所の教科書に沿っての物でした。ところがアインシュタインの原文(翻訳物)は、こうはなっていませんでした。やり方が全く違っていたのです。余りにも式が少なく、ほとんどが「‥‥と仮定しよう」「‥‥となる筈だ」という言葉の羅列で、仮定と推測あるいは決めつけで成り立っている様に見えました。式が余りにも少ない為、式と式との続がりがよく見えず、理解に苦しむ面も多かったのですが、後ろの補注や解説を参考にしながら読んでいく内に、この論文にも誤りのある事が見えて来ました。
これは前に、教科書の間違いに気づいていなかったら判らなかった事です。
この論文を翻訳された先生は
「中学生でもわかる初等数学を使って、相対性理論の根幹とも言える重要な公式を導いている。その説明は、出発点となる前提から目指す結論に至るまで、両者を結ぶ最短コースをたどって、実に平明な、しかし説得力あふれる論旨で、読者をゴールまで引きずっていく。この論文は物理学の模範として、それを志す者は必ず一読すべきである。」とほめちぎっておられます。
しかし私には、そうは見えません。非常に杜撰な論文に見えます。問題は「最短コースをたどって、平明な説明」をしている所です。この時、思いつきや似た物との混同で読者を勘違いの世界に引きずり込んでいます。またこの論文では、ローレンツ変換の誘導の所で、式が省略されすぎていて、なぜ、これがこうなるのか解からない所がありました。
私の頭が悪いと言ってしまえばそれまでですが、この先生自身「難解な所がある」と断って、後ろに補注や解説をつけておられるくらいです。ところが、その解説ですら本文の式の流れとは全く無関係に書かれてあり、その先生独自のやり方で後半を導き出しておられるのです。
そうなると「なんで、これが、こうなるのか?」という私の疑問は解けません。
その先生も、もしかしたら、式の途中をつなぐ事が出来なかったので、やむを得ず、自分流のやり方で結論を導かれたのではないかと疑ってしまいます。
もっともこれは、ゲスの勘繰りという物で、先生自身は解かっておられたのだが、我々下々の者に解かる様なレベルの式では表せないので、やむを得ず別の方法をとられたのかも知れません。
その様な不十分な論文を多くの先生方が寄ってたかって、解かりやすく且(か)つ論理的で整合性のあるキチンとした形に仕上げ直していったのでしょう。
もちろん、その改良の大部分は、アインシュタインの生きている内に行われたでしょうから、アインシュタインの承認の下で行われた事は、間違いないと思われます。
私が大学で習った所の相対論は、その様にして改良され体系立てられたものだったのでしょう。だから原文とは違うのだと思います。アインシュタインの論文は、はっきり言って解かりにくい、そこで論文をそのまま紹介するのはヤメにして、私の解かる範囲で問題のある所を抜粋し、それを解説してから論評する事にします。 
(一) 論文の説明と問題

 

(1) 同時刻の定義 
アインシュタインは、最初に《同時刻についての定義》を定めました。これは“二箇所の時刻が同時刻であるかどうかをどうやって判定するか”というものです。一般に時刻は時計で計られます。しかし遠く離れた場所では、その時計同士が合っているという保証は有りません。そこでアインシュタインは、次の様な方法で時計が合っているかどうかを判定する事にしました。
まず A点 と B点 とに一個づつ時計を置き、A点 より B点 に向けて光を発射し、B点 で反射させて A点に戻します。
図 ・・・ 
その時に A点 での発射時刻 A と B点 での反射時刻 B と A点 に光が戻って来た時の時刻 とを測定しておきます。そうしておいて、これらのデータより、光の往きの走行時間 と還りの走行時間 とを算出します。
そうすると、それは ・・・ となります。これは同じ距離を往き来しただけですから、本来 と は同じ値の筈です。
従って、A,Bの時計が合っていれば ・・・ とならなければなりません。もしならなかったら時計が合っていないという事です。そういう事からアインシュタインは ・・・ を以て、二つの時計が合っている事の根拠としました。 ここまでは、問題ありません。 
(2) 長さと時間の相対性

 

(a) 時刻の相対性
次にアインシュタインは、動いている棒の上でも同様の思考実験をしました。
(イ) 本の原文では
「長さ A B の棒があり、その両端を A,B とする。そして棒の両端に、それぞれ一個の時計をとりつける。この時計は静止系でキチンと合わせてある物とする。時刻 A に A から光線が発射され、時刻 B に 点B で反射され、時刻  にこの光はA に立ち戻ったとする。これに光速度不変の原理を用いれば次の関係が成立する。
(これは静止系から見た場合の関係式である) ・・・ 上の関係式を見ると、棒と一緒に走っている観測者から見るときA,B二つの時計は合っていない。  そこで、ある座標系から見たとき、二つの事件が同時刻であったとしても、動いている他の座標系からそれを見れば、同時刻に起こったと見なすわけには行かない。」
とやっています。この部分は「同時刻の相対性」の最初の論文ですが、必要事項が抜けていて解かりにくいので、補って説明します。
(ロ) 論文の解説
長さ A B の棒があり、その両端をA,Bとします。この棒は速度 で 軸方向をAからBの方向へ動いている物とします。次に、棒の両端にそれぞれ一個の時計を取り付けます。この時計は静止系でキチンと合わせてある物とします
A端での時刻 A の時に A端より光が発射され、
B端での時刻 B の時に B端で反射されて、
A端での時刻 の時に光が A端に戻って来たとします。
この様子を静止系から見ると図の様になります。これは、棒の動きと光と時刻との関係を示した物です。
この図より、静止系から見た場合の光の走行距離を求めますと ・・・ ですが ・・・ 光の往きの走行時間 ・・・ 光の還りの走行時間 ・・・ ですから、それを考慮に入れますと、二式は ・・・ となります。
この式より、往路・復路の光の走行時間を求めますと ・・・ となるわけです。これがアインシュタインの式です。
ところが、ここで問題が生じます。この結果は ・・・ とはなっていません。そこで、アインシュタインは自分の作った《同時刻の定義》に照らし合わせて「静止系で同時刻を示していた二箇所の時計でも、動いている系にあれば同じ時刻を示さない」
即ち《静止系の二箇所で同時に起こった出来事でも、これを動いている系から見ると同時とは見えない》と断じたわけです。しかし、これは間違っています。
(ハ) 「時刻の相対性」の誤りの証明
アインシュタインはとんでもない勘違いをしています。 前項に於いて《静止系》で ・・・ が成り立ったのは、光が往きも還りも同じ距離を走ったからです。同じ距離を同じ速度で走れば所要時間が同じになるのは当然でしょう。ところが、今回の《動いている系》では、光の往きと還りの走行距離は同じではありません。距離が違えば走行時間が違ってきても仕方がないでしょう。 ・・・ が成り立たないのはそのせいです。  時計のせいではありません。図でわかる様に、光は往路は棒の長さよりも長く走り、復路は棒の長さよりも短く走っています。それでいて光の速度を往きも還りも同じとしたら、往きと還りの走行時間が違って来ても仕方がないでしょう。
往きは、B点が逃げるので光が追いつくのに時間が掛かり、還りはA点が近寄って来たので結果として短い時間で戻ってしまった。ただそれだけの事です。これはアインシュタインのやり方が間違っているのです。アインシュタインは「静止系でも動いている系でも光の速度は同じ」としました。その結果「動いている棒上で発された光」でも「往きと還りの速度を同じ」とせざるを得なくなったのです。
ところが、そうすると、棒の上では光は往きも還りも同じ時間で往復しているのに、これを外から見ると、光は往きは棒の上よりも長い時間を掛けて走り、還りは棒の上よりも短い時間で戻る事になってしまいます。
 ・・・ 
これは非常に不自然な事です。これでは不都合ですので、やり方を変えて、棒の外の時間 を絶対とし 棒の上の時間 が変化する様にして見ましょう。そうすると今度は、棒の上の時間は、光が往きの時は外よりも遅れ、戻りの時は外よりも進む事になってしまいます。
これも不都合ですが、これは私が第一章の「列車の中の時間の矛盾」の所で示した「光を前方に発すれば動いている系の時間は遅れ、後方に発すれば進む」というのと似た現象でしょう。
ここより第一章の所で私が示した問題は、単なる私のデッチ上げではなく、その根がアインシュタインに有った事が判って来ます。それは、ともかく、こういう原因で光の往きの走行時間と還りの走行時間とが異なってしまい ・・・ とは、ならなくなってしまったのです。決して、時計のせいではありません。これは、単に、アインシュタインのやり方が間違っているだけの話です。ここで、アインシュタインのやり方の間違いを理解して頂く為に、次の様な例で説明して行く事にしましょう。
A地点にライトを設置し、そこより東に光を発射させB地点で反射させて戻って来させるとします。その間、観測者(本来、静止系の観測者であった)が西の方へ一定の速度で移動しているものとします。これは静止系と動いている系の立場を入れ替えただけの話です。
光がA地点を発した時刻 A に、たまたま観測者がそこにいて、この光景を目撃したとします。そして光がB地点に届いた時刻 B には観測者は tB 地点の所に移動しています。その次に、光がA地点に戻って来た時観測者は更に移動して 地点の所にいます
 ・・・ 
さて、この場合、動いている観測者は、光が tB 地点や 地点より発されたと言うでしょうか。絶対に言わないでしょう。この人は、あくまでも、光はA地点より発されたと言う筈です。しかるに、観測者に、光は tB  地点や 地点から発されたと言わせているのが相対論なのです。
相対論では、光の発生原点は観測者と共に動いているかのようです。これが何の目印もない宇宙空間でしたなら、そういう錯覚をするかも知れません。が、しかし、目印の多い地上ではそうは行きません。
次に、観測者が静止していて、棒の方が動いている状況で考えて見ましょう。A地点に観測者が立っていて、動いている棒のA端がA地点に差し掛かった時、たまたま、棒のA端より光が発せられたなら、観測者はA地点で光が発せられたと思い込むでしょう。
しかし、これは勘違いというものです。
本当は、光は棒のA端から発せられたのであって、A地点から発せられたわけではありません。棒の方が静止していて、大地の方が動いていると考えたなら、棒のA端が光を発した時、たまたまA地点が、そこを通り掛かっただけという事になります。
次の瞬間には、A地点は別の所に移動しているわけです。従って「A地点から光を発して」と言うわけには行きません。
さて、そこで《光の往路と復路とで走行距離と走行時間とが異なる》という問題を“棒が動かず、観測者が動いている”という状況に置き換えて考えてみましょう。
棒が静止していると考えるのなら光の移動は単にAB間の往復だけです。問題は動いている観測者の方にあります。広い宇宙空間に棒と観測者だけがあり、観測者は自分が動いているとは知らず、棒が動いていると勘違いしているものとします。
棒のA端から光が発せられた時、観測者は、たまたま、A地点にいてこれを目撃します。(注;この時、棒のA端はA地点に在ったとする)。
そして光が棒のB端に届いた時、観測者は ・・・ だけ移動して tB 地点の所にいるのですが、この人は、自分が動いているとはつゆ程も知りませんから、光は tB 地点から発せられて、B地点で棒のB端に届いたと錯覚しています。
そこで光の進んだ距離は ・・・ と計算します。
次に、光がA端に戻って来た時、観測者は、更に、 だけ左に移動しているのですが、この人は、自分が動いているとは全く知りませんから、棒の方が、更に ・・・ だけ右に移動したと勘違いをします。そこで、光が反射された時、棒のB端はB′地点の所に在って、光はその位置より反射されてA端に戻って来たと思い違いをするわけです。そうすると、光の復路の走行距離は ・・・ になってしまいます。
そこで観測者は、往路は光の走行距離が伸び、復路は短縮されてしまったと考え込むわけです。しかしながら、これは、観測者が、自分が動いているとは知らず、棒が動いていると錯覚しているからこうなるだけです。
実際には、光は棒の両端を一定の時間で往復したに過ぎません。光は tB 地点で発せられたわけでもなければ、B′地点で反射されたわけでもないのです。これは観測者の勘違いから来る物です。
こういう状況では観測者は、自分の動いた距離さえも、光の走行距離に加えてしまいます。その結果、光の走行距離が伸びたり縮んだりして見えるわけです。
そこの所の勘違いが解かれば《 観測者が静止していて、棒の方が動いている 》という状況でも《 棒が静止していて、観測者が動いている 》という状況に置き換えてみる事により、矛盾なく説明する事が出来ます。
例えば、図の様に《 速度 で右方向に動いている棒のA端より発された光がB端に届いた 》場合でも、A地点に静止している観測者の見た、光の“みかけの走行距離”は《 棒が動かず、観測者が速度 で反対方向に動いている 》と置き換えてみる事により「棒の上を光が走った距離 」と「観測者が動いた距離 」との合計で表わす事が出来ます。それを式で表わせば ・・・ です。が、これはまた ・・・ でもありますから、この式は ・・・ 
(棒の外から見た光の速度)=(光速)+(棒の速度)
をも表わしている事になります。
これは、旧来の考え方による速度の合成と一致します。これが正しいあり方なのです。
アインシュタインは《静止系から見た光のみかけの移動距離》を《棒上での光の移動距離》に《棒の移動距離》を加えた物としました。その為、光の《往きの走行距離》が伸び《還りの走行距離》が縮んでしまったわけですが、一方で彼は《静止系より見た所の光のみかけの速度》を《往き》も《還り》も同じにしています。これは不自然な事です。そんな事をしたら、《静止系より見た所の光の往きの走行時間》は《棒上での時間》よりも長くなり、《還りの時間》は《棒上での時間》よりも短くなって、混乱を来します。これは無茶苦茶なやり方です。
静止系より見た「光のみかけの移動距離」を「棒上での光の移動距離」+「棒の移動距離」としたのなら、「光のみかけの速度」も「棒の上での光速」+「棒の移動速度」としなければなりません。
ですから。そうしなければ、数式的に辻褄が合わないでしょう。そうしないから《静止系より見た所の光の往きの走行時間》が《棒上での時間》よりも長くなり、ひるがえって《還りの走行時間》が《棒上での時間》よりも短くなって、不自然な状態になってしまったのです。
往きと還りの時間が一致しないのは時計のせいではありません。単に、アインシュタインのやり方が間違っているだけの話です。アインシュタインの「同時刻の定義」は静止系では成り立ちますが、動いている系では成り立ちません。そういうわけで、ここより導かれた所の 《静止系の二箇所で同時に何かが起こったとしても、これを動いている系から見ると同時刻とは見えない》という「時刻の相対性」の理屈も間違いとなります。 
(b) ローレンツ変換の誘導
次にアインシュタインは “光を往復させる思考実験” を “動く座標軸上” に移して行い、ローレンツ変換を誘導する事にしました。
この実験は、前項でも指摘しました通り間違っていますので「ここより先の理論は全て誤っている」と切って捨てる事も出来るのですが、他にも問題が有りますので、このまま行く事にします。
とは言いましても、ここの部分に関しましては非常に高度な数学 (微分方程式) が使われていまして、一般向けに解説するには、ちょっと困難なものがあります。
そこで、式の誘導過程全部を紹介するのは止めにして、おおざっぱに流しながら、問題のある所だけを論評していく事にします。ですから、難しい式が出てきても、無理に考えず流して下さい。
(イ) 座標と座標系の定義
まず最初にアインシュタインは、座標系について定義をしました。静止している系を静止系とし、これを K 系で表わし、動いている座標系を運動系として、これを k 系で表わしました。もっとも、これでは、どっちがとっちだか判らなくなりますので、ここでは、私の S系・ 系 に統一する事にします。
次にアインシュタインは、各座標系の座標軸を図の様に定めました。
 ・・・ 
動いている系の 軸を Ξ(クサイ)軸に、 軸を Η(イータ)軸に、 軸を Ζ(ツェータ)軸にしています。
そして、その座標系に於ける、ある点の位置と時刻を座標形式で 静止系については とし 運動系については ( , , , ) としました。その上で、彼は、《これら二組の数値を結び付ける関係式を発見するのが、ここの課題だ》と言っています。確かに、その通りに行けば、出来上がった関係式(ローレンツ変換)は、座標と時刻の関係式になっている筈です。 実際には 距離と時間の関係式になっているのですけど。
だから勘違いをしたわけです。この後、彼は《  を と書く事にすれば、 系 に静止している任意の点 ( , , ) は     という3個の数値の組によって位置が規定される。》としました。
何を言いたいのかと言うと、要するに、 系 の座標をS系 の数値でもって表わしたいという事のようです。動いているのは、 軸方向だけですから 軸方向・ 軸方向の座標に変化はありません。
従って、 と置き換えても差し支えなくなります。問題は 軸方向だけです。この方向は動いていますので関係式が必要となります。それは 図より与えられます。この図より、 ・・・ が成り立ちますので、これを使おうというわけです。ここで 系のΞ 座標の に相当する部分を距離 でもって代用すれば、《 系の任意の点の座標 ( , , ) は という3個の数値に置き換えられる》と言ってるわけです。
そして は ですから、これは事実上“ 系 の数値を S系 の数値でもって表わした”事になります。
こうしておいてアインシュタインは、《動く座標軸上で光を往復させる思考実験》に移りました。
(ロ) 光の往復実験 (ローレンツ変換の誘導)
系 の時刻で の時に、 系 の原点 Oより光が 軸方向に向けて発され、固定点で時刻 に反射されて、時刻 に戻ったとする。 そうすると 系 では ・・・ が成り立つ。
これを静止系で見、独立変数 を用いて、 を () の形で書けば上式は ・・・ となるが、 を無限少量とすればこの関係式は ・・・ という微分方程式で表わせる。そして、これは ・・・ とも書き換えられる。
とやっています。この辺は難しいので解説はしません。続けてアインシュタインは、 今まで述べた議論と同じ事を Η軸 及び Ζ軸 方向に適用すれば に関して ・・・ が得られる。この式を導くに当たり注意すべき点は、S系 から眺めた時 Η 或いは Ζ 軸方向への光の伝播速度が であるという事である。 ・・・ と言っています。
難しい所は無視して下線部分 (光の伝播速度が である) に着目して下さい。これは彼の言う「光速度不変の原理」に反しないのでしょうか。それが通るのなら、動いている物体より発された光の速度は、それを静止系より見た場合 でなくても良い事になります。
と言っても「何の事か良く解からない」と思われる方も多いでしょうから説明します。
前の話は、Ξ(クサイ)軸(つまり 軸)方向に光を走らせての話でしたが、今度は Η(イータ)軸(つまり 軸)及び Ζ(ツェータ)軸 方向に光を走らせての話です。これは 系 の Η軸 または Ζ軸 方向に光を走らせた場合、それを S系 から見るとどう見えるかという話です。両方書くと、判りづらいので Ζ軸 方向だけで話を進めてみましょう。
時刻 に光が発され、時刻 にΖ軸の座標 の所で反射されて、時刻 に光が原点O′に戻って来たとします。
これを 系 で見れば図の様になりますが、S系 から見れば図の様になります。 ・・・ 
U系 は動いていますので、S系 より見た所の各時刻での光の位置は図 3‐3‐8の様になり、その軌跡は三角形になります。この状態で、S系 より見た所の光速を としたなら、 系 に於ける光速は三角関数により ・・・ になるということです。
しかし、こういう事をする位なら、 系 での光速を のままにしておいて、S系 より見た所の光速を にした方が、よほど解かりやすいのでは、と思うのですが、アインシュタインは、そうはしません。彼は、光速 を絶対とし、これを超える速度は無いとしていますので、S系 より見た所の光速をより大きく出来ないのです。しかし、それなら、S系 より見た所のΖ軸方向の光速を とするのも変でしょう。これでは光速は より小さくなってしまいます。これは光速度不変の原理に反しないのでしょうか。
何ともウサン臭い気がします。こういう所は、どうも恣意(しい)的というか、いい加減に行われている様です。
それは、ともかく、これは私が、前章の第三節「時間の遅れ」の所で《 系内で原点 O′より 軸に垂直に光を発し、それをS系より観測した場合の光速を とすれば、 系内での光速は三角関数により、便宜上   になる》としたのと同じ事でしょう。
私は「動いている系での光速」と「それを静止系から見た場合の光速」とは違うという前提でやっていたのですが、同じ事をアインシュタインですらやっていたのなら、私が非難される筋合いはないと思われます。
またアインシュタインは、別の所では《一方、S(K)系から見れば、(k)系の原点に対する光の先端の相対速度は − である》ともしています。
彼は、一方では光速は絶対不変としながら、他方ではこの様に好き勝手に変化させているのです。
かなりの御都合主義でしょう。
その次にアインシュタインは《以上三個の方程式から ・・・ が導かれる》としています。多分、微分方程式を解けばこうなるという事でしょう ・・・ この後《 =0の瞬間に、 の増加する方向に向けて光が 系の原点から発射されたとしよう。
この光に対しては ・・・ が成立する》としています。しかし、これも問題です。 ・・・ は確か、 系 の任意の点のΞ 座標だった筈です。( , , , )でしたから。それに対して  は光の走行距離です。こんな事をすると は光の走行距離になってしまいます。
座標と見なしても、光が 時間掛けて到達した所のΞ 軸上の位置にしかなりません。これより後の は、任意の座標ではなくなってしまうのです。
次に ですが、これも光の走行時間です。もっとも《 =0の瞬間に光が発射され》とありましたので、これを光の到達時刻と見なす事は出来ます。がしかし、任意の時刻とまでは見なせません。
はっきり言える事は は光の走行距離と走行時間の関係式だという事です。これを光の到達位置と到達時刻の関係式と見なす事は出来ますが、その代わり と は、任意の座標や任意の時刻ではなくなってしまいます。
これ以後の と は《光が走った所の距離と時間》または《到達位置と到達時刻》になってしまうのです。
次にアインシュタインは、 に式を代入して ・・・ としました。そして複雑な計算をした後でローレンツ変換を導き出しています。ここでのローレンツ変換の誘導は、ちょっと見には、私が学校で習ったやり方と全く違っている様に見えたのですが、本質的には同じ事だったのです。《光の走った距離と時間》とから関係式を導き出していますから。

この式の誘導過程では、一見、勘違いを招く様なやり方がしてあります。例えば、この節の最初の光の往復の所にと言うのがありました。ここでは も も も時刻です。従ってこの式は誰が見ても時刻の式です。ところがこの式は、本当は時間の式と言うべき物なのです。なぜなら後で、微分方程式にしているからです。 この式は次に ・・・ とややこしく展開されています。
式が何で、こうなるのかについては、私は説明出来ません。ただ高等数学では良く使われる手法だという事だけは言えます。 この式の細部は次の様になっています。 ・・・ 
具体的には ・・・ です。 ここで ( 0,0,0,t ) を分解しますと ・・・ となります。従ってここの は誰が見ても時刻です。ところが次の の所では ・・・ となっていて、時刻の所に や   が入っています。この   は、前節の「時刻の相対性」の所で出て来た様に《光の往きの走行時間》です。そして は《光の還りの走行時間》です。もちろん 時刻 + 時間 = 時刻 になりますけど。では、次はどうでしょう。
その次に では ・・・ となっていて、 座標の所に距離の が堂々と入っています。 は《光の走行距離》です。ここでは《座標》の位置に《光の走行距離》が堂々と入っていたり、《時刻》の位置に《光の走行時間》が入っていたりしているのです。
その次にアインシュタインは、 を無限小量とすれば、この関係式は ・・・ という微分方程式になる としました。
これも何故 式からこうなるのか説明できません。かつ、あの様に象徴的に書いただけの座標形式の式を、そのまま微分方程式にして良いのかどうかも、良く解かりません。ただ、無限小量という言葉自体長さを持っている事の証拠だと言う事は出来ます。時間にしろ距離にしろ、長さを持っているから微分出来るのです。長さを持たない「時刻」や「座標」では微分出来ません。
そう言うと「実際の物理では、時刻や座標を微分しているではないか」と言われそうですが、それは勘違いという物です。その「時刻」や「座標」の近傍には0と見なしても良い程の微小な幅が有るとして微分しているのです。従って本当は「時刻」や「座標」で微分しているのではなく、「時間」や「距離」で微分しているのです。
微分方程式の前までは時刻や座標の関係式と見なしても構いませんが、微分方程式より後では、光の走行時間と走行距離の関係式になってしまいます。
従って、これを解いて出て来た式 ・・・ は、当然、光の走行距離と走行時間の関係式ということになります。その上、 も光の走行距離と時間の関係式ですから、これを (3-3-6)式 に代入して出来た式 ・・・ もまた、当然の事ながら、光の走行距離と時間の関係式ということになります。この後、ややこしい計算をして ・・・ を出し、段々とローレンツ変換に近づけて行き、最終的に ・・・ という形(ローレンツ変換)に仕上げて行きますが、 これらの過程を見て行きますと、難解な所やウサン臭い所は無視しても、ローレンツ変換が光の走行距離と走行時間の関係式である事は明白となります。
従って、ローレンツ変換は光の走行距離と走行時間の関係式なのです。これは、任意の座標や任意の時刻を求める式等ではありません。 その基本に立ち返れば、私が学校で習ったローレンツ変換の求め方も基本的に同じだった事が判ってきます。
アインシュタインは、Ξ軸、H軸、Ζ軸 バラバラに光を走らせましたが、教科書は最初から斜めに光を走らせて ・・・ としました。そこで、三方向は同時に計算出来ます。そしてアインシュタインは、ここでは紹介しませんでしたが、球面波として ・・・ という式を挙げています。これを連立方程式に用いれば、一挙にローレンツ変換が作れます。
私が学校で習ったやり方は、一見、アインシュタインのやり方と違っている様に見えたのですが、本質的には同じ事だったのです。ただ、アインシュタインの時より、スマートで、合理的で、簡単なやり方に進化していただけです。アインシュタインのやり方は、杜撰な所が多くて解かりにくいので、多くの先生方が寄ってたかって改良し、今のような形に仕上げ直していったのでしょう。 
(c) 動いている物体は長さが縮む
次にアインシュタインは、“動いている物体の長さが縮む”という説を次の様にして導き出しました。
(イ) 原文では
「半径Rの剛体の球を考えよう。この球は“運動している系”に対しては静止しており、球の中心は“運動している系”の座標原点に固定されている。これは静止系に対しては、速度 で動いている。その表面を表す方程式は ・・・ 静止系の時刻  = 0 の瞬間に、この方程式を静止系から見れば ・・・ この式を見れば分かる様に、静止状態では球の形をしている剛体でも、走っている状態では −(静止系から眺めれば)− 3軸の長さが ・・・ という回転楕円体の形になる。従って 軸方向の長さは 1:  の割合で縮んで見える。」 ・・・ となっています。
これも、何を言っているのか、さっぱり解からないと思われますので補足して説明します。
(ロ) 説明
これは、剛体の球が動いている時、それを静止系から見ればどう見えるかと言う話です ・・・ 半径Rの剛体の球の表面を表わす式は ・・・ ですが、これが ・・・ とギリシャ文字になっている理由は、アインシュタインが運動系の座標をギリシャ文字で表わしたからです。これは同じ球の表面の式でも、運動系にある球の表面の式だという意味なのです。
式を教科書風の相対論の式で書き直せば ・・・ となります。この式の にローレンツ変換 ・・・ を代入すれば、式は ・・・ となりますが、これに t =0を代入すれば ・・・ となり、本文の式 が出て来るというわけです。
次は、この式より 軸方向、 軸方向、 軸方向の、球の中心から表面までの長さを求めて見ましょう。
まず、 軸方向ですが、その為には 式 (3-4-2) に =0, =0を代入します。{ 理由;原点 O を中心とする球を x 軸が横切る所の座標は (x, 0,0) だから }
 ・・・ そうすると、式は ・・・ になりますので、ここより ・・・ が得られます。同様にして 軸方向、 軸方向は共に半径 R が得られます。その結果、三軸の長さは ・・・ となり「動いている球は静止系から見ると 軸方向の長さが 1: の割会で縮んで見え、回転楕円体の形になる。」と言ってるわけです。
これは「動いている物体は、その進行方向の長さが縮んで見える」という説の元の論文です。これも何の気無しに読むと、うっかり信じさせられます。しかし、これも間違っています。
(ハ) 長さが縮む説の誤りの証明
まず第一の誤りは、動いている球の表面の式を ・・・ と運動系の座標で表した後、これにローレンツ変換を代入した事です。ローレンツ変換の  は剛体の球の表面の座標などではありません。これは、光の球面波の到達点の座標です。正しくは、光の走行距離の 軸方向成分、 軸方向成分、 軸方向成分なのです。ローレンツ変換は、光の到達時刻や到達点の座標の関係式ではあっても、任意の時刻や任意の座標の関係式等ではありません。従って、この様な応用は出来ません。間違いです。
次に、ここでは 式 ・・・ に =0を代入して ・・・ としていますが、なぜ =0を代入しなければならないのでしょうか。本文には 静止系の時刻 =0 の瞬間に、この方程式を静止系から見れば とあるだけで、その理由や必然性が示されていません。では別の時刻だったらどうなるのでしょうか。 これを、代入する前のローレンツ変換で考えてみましょう。
ローレンツ変換は ・・・ でした。これに、  を入れてみましょう。そうすると は0になります。次に、  を代入すると はマイナスになります。この式では の値次第で が変動してしまうのです。これでは、剛体の球の半径( 方向のみ)は時間によっても変動する事になってしまいます。これは不都合でしょう。《剛体の球の 軸方向の長さが時間によって変動する》なんて話は聞いた事がありません。
それが正しいのなら =0 を勝手に代入するなど出来ません。代入するには、明確な条件が必要となります。条件無しで0を代入できるのは、 がどんな値であろうと径の長さが影響を受けない時だけでしょう。
こういうやり方では「動いている球の 軸方向の寸法が縮む」という理論を創り出す前に「 軸方向の寸法が時間によって変動する」という別の理論を生じてしまいます。それでは不都合ですので、 に0を代入して の項を消し、問題を消してしまおうと考えたのでしょうが、実に、無責任です。その前に「 の文字の入った式」を代入した事自体に問題があると気づくべきでした。
本当の問題は代入したローレンツ変換にあるのですから。図 で明らかな様に、ローレンツ変換の  は時間と共に大きくなります。 ・・・ 「動く剛体の球の 軸方向の寸法が縮む」という理論も、この様なローレンツ変換を使った事から生じる誤りである事は明白でしょう。
次は、この問題を球面波という観点から見直して見ましょう。アインシュタインは球面波と剛体の球とを混同しています。光の球面波の式とは ・・・ という物でローレンツ変換を作る時の土台となる式です。光が球面波で伝わる時、その波面の任意の点をP( ) とすれば、上式が成り立つというものです。そして剛体の球の表面の式は ・・・ です。これは球面波の式の一歩手前の式で、光が走る所のO点からP点までの距離の式 ・・・ と全く同じ形をしています。従って混同はします。剛体の球の表面を表わす式も、光の球面波の式もどちらも球面の式です。その上、ローレンツ変換の  は光の球面波の です。だから混同してしまいます。しかしながら、両者は基本的に別物です。
球面波は時間と共に大きくなり最後は無限大になります。それに比べて剛体の球は剛体ですから、時間では径は変動しません。そういう事ですから、剛体の球の式にローレンツ変換を代入する事は間違いなのです。そんな事をして《半径が縮む》などという結論を得ても自慢にはなりません。単に、間違っているだけですから。
ここで話を元に戻し、 =0を代入する問題に戻りましょう。アインシュタインは、 に0 を代入すれば不都合な 項が消えるとして、安易に0 を代入しました。しかしこれは、彼が自分の創った式の意味を理解していない事を暴露しています。 =0 という事は、ローレンツ変換では、まだ光が発されていない状態を意味しているのです。 この時、光はまだ原点の中にあります。従って球面波 (光の到達点) の各座標は =0,  =0,  =0,  =0,  =0,  =0です。そうすると、本文の様に「静止系の時刻  =0 の瞬間に、この方程式を静止系から見れば」等とやっても意味なくなります。
=0 の瞬間に式 ・・・ をS系より見れば ・・・ となって、全ての座標が0になり計算不能になってしまいます。
この状態では3軸の長さを求める式等出て来ません。当然の事ながらS系とU系との長さの比も出て来ません。 「それでは、まずい」と ≠0 にすれば、今度は  が時間と共に変動してしまい、剛体の球の半径が時間と共に膨張して困った事になります。どっちにしてもアインシュタインの計算は成り立ちません。そういう事ですから「静止系から見れば、動いている剛体の球の 軸方向の長さが縮む」という理論も誤りになります。 
(d) 時間の遅れ
(イ) 原文には
「次に静止系では時間 を示し、運動系では時間 を与える時計を考えよう。静止系の時刻が の時、運動系の原点に固定されている時計が時刻 を示し、その場所を とすれば、変換公式により ・・・ また、 と との間には ・・・ という関係がある。 ・・・ となる。それ故に静止系で考えると、静止系の時間の一秒毎に、走っている時計は ・・・ とあります。これも言葉が省略されすぎて解かりにくいので、言葉を補って説明します。
(ロ) 補足説明
「運動系の原点 O′に時計が固定されているとします。そして静止系の時刻が の時に、運動系の時計が時刻 を示しているとしましょう。この時運動系の原点 O′は、静止系の 軸上の或る点 の所に在ったとします。ローレンツ変換より と の間には ・・・ という関係のある事が分かっています。そして と との間には、静止系と運動系の位置を示す 図 より ・・・ という関係のある事も分かっています。
そこで、この  の を式に代入してみますと ・・・ となります。ここでこの結果を少し細工して ・・・ とおいて見ましょう。そうすると、この結果より運動系にある時計は、静止系時間の一秒毎に ・・・ 秒づつ遅れる事になる。」と言ってるわけです。
この論文も数式の流れだけを見ていると、うっかりその気にさせられます。しかし、これも間違っています。
(ハ) 誤りの証明
まず第一の不自然な事は ・・・ という結論の式を出してから、これを小細工して ・・・ とし、この結果で以て、運動系の時間は静止系の時間の一秒毎に  秒づつ遅れるとした事です。
しかしながらアインシュタインは、最初 と を任意の時刻としていた筈です。 ・・・ だったら  は時刻の関係式でしょう。ところが、次には、これを細工して一秒毎に 秒づつ遅れるとしました。でも、そうすると  は経過時間いう事になってしまいます。つまり、ここでは と を経過時間として取り扱っているのです。時刻が、いつ、経過時間にすり替わったのでしょうか。 この式でもって経過時間を求めたいのなら  −  という形にしなければなりません。そうではなく、ただ小細工しただけの式なら、まだ時刻の関係式のままでしょう。 ・・・ と を時刻として設定したのなら ・・・ は、あくまでも時刻の関係式でなければなりません。そうすると、ここでの と の違いはU系の時刻とS系の時刻の違いという事になります。それは、東京の時刻が の時にロンドンの時刻が であるという程度の違いにしかなりません。日本が12時の時、イギリスは3時ですから、アインシュタイン流のやり方で行けば、イギリスの時間は日本に比べて1日に9時間の割合で遅れている事になります。
別に間違いではありません。ただ、これは、時間の遅れと言うより時差ですけど。イギリスの時計が日本に比べて9時間遅れで時を刻んでいるのは確かです。しかし、別にイギリスの時計の時を刻む速度が、日本に比べて1日に9時間の割合で遅れているわけではありません。
アインシュタインのやっている間違いとは、実は、こういう間違いなのです。アインシュタインは時刻のずれと、時間の進行速度の違いとを混同しています。アインシュタインは時刻と時間を混同しているから、こういう間違いを犯すのです。 ・・・ をローレンツ変換本来の意味で用いれば、 と は光の走行時間ですから、この式は問題なく《時間の遅れ》の式になります。
そうしないのは、アインシュタインが と を時刻と思い込んでいたからでしょう。
次に、本文では「 と との間には、 という関係がある」というくだりがありましたが、これも問題です。前にも申しました様に、この節で最初に設定された は、S系空間に於ける任意の時刻です。それに対して の とは U系の原点 O′がS 系の原点 O の所から 軸上を移動して座標 の所まで行くのに掛かる時間です。
最初の設定の は、S系空間の任意の時刻ですが、  の は U系の移動時間なのです。この二つの は何の関係もありません。全くの別物です。それなのにアインシュタインは、両者がまるで同一の物であるかのように扱っています。これも、彼が時刻と時間とを混同している事から起こる事でしょう。本来なら、この二つの は別々の記号で表わさなければなりません。S系空間の時刻を で表わすのなら、U 系の移動時間は T で表わすとか。そうしないから、区別がつかず混同してしまうわけです。
もっとも、「S系の時刻で =0 の時に U系 の原点と S系 の原点とが重なっていた」という条件でも付ければ話は別ですが。 ・・・ その時は、U 系の移動時間 T をS系の時刻 でもって代用する事が出来ますので T と を同じ物と見なす事が出来ます。
しかしながら、ここには、その様な条件は何もついていません。従って、 の とローレンツ変換の とが同じ物であるという保証はどこにも有りません。もっとも、それを言ってしまうと話がここで終わってしまい、他の問題を追窮できなくなりますので、アインシュタインが忘れたという事にして話を進めます。
次にアインシュタインは ・・・ の に の を代入しようとしていますが、なぜ、そうしなければならないのでしようか。その必然性と根拠が示されていません。本来、この二つの は別物で代入できる様なしろ物ではありません。ローレンツ変換 ・・・  の とは 図の中の距離の の事です。これは、光が静止系の原点 O からP点まで走った時の距離の 軸方向成分です。座標と見なしてもP点の 座標に限られます。 ・・・ それに対して、 の とは 図 3‐5‐5 の中の距離の です。これは、U 系の原点 O′が S系の 軸上を 時間掛けて移動した時の距離です。座標と見なしても U 系原点の S系 軸上に於ける位置にしかなりません。この二つの は何の関係もありません。どうして代入出来るのでしょうか。それともアインシュタインは  の を時計の位置と見、これを ・・・ に代入すれば、U系での時刻が出て来るとでも考えていたのでしょうか。もしそうだとしたら、これは、とんでもない勘違いです。この式は、そういう式ではありませんから。
ローレンツ変換は、光の到達位置と到達時刻の関係式なのです。時計の位置や空間の時刻を求める式などではありません。また、仮に、百歩譲ってそうだったとしても、ここに新たな問題が生じて来ます。それは「同時性」との絡みからです。
同時性の理屈では「静止系の二箇所で同時に何かが起こったとしても、それを動いている系から見ると同時とは見えない」となっていた筈です。静止系では同時刻であっても、動いている系から見ると原点とその他の場所とでは時刻が異なっている事になっています。
そして、この式は最初の設定により運動系の原点を基準にして作られています。そうすると、原点を基準にして「時間の遅れ」の式を作ったとしても、それを、原点以外の場所には適用できません。ありとあらゆる場所で時刻体系が異なっていますから、一つとして共通の式は創れなくなります。
この様に矛盾を生じて来るのです。
もっとも、そうは言っても、アインシュタインのやり方で理屈の成り立つ所が無いわけでもありませんので、次は、そこの所を検討してみましょう。まずは前に戻って ・・・ の に  の を代入する件を座標と言う観点から見直してみましょう。 ・・・ の とは静止系で光が到達した所の点Pの 座標です。 ・・・ そして、 の とは、U 系 原点のS系 軸上に於ける位置です。 ・・・ の に  の を代入するという事は、この二つの を一致させるという事です。
それには、どうすればよいのか。それには、光の到達点であるP点を、U 系 原点 O′より軸に垂直に引いた線上に持って来る事です。そうすれば要求された状態になります。そしてそれを図で表わせば 図 3-5-8 の様になります。これは、前章(教科書)の“時計の遅れ”の所で示した「U 系 に於いて、原点O′より 軸に垂直に光を発し、それをS系から眺めた時の 図 と同じでしょう。U 系 の原点 O′より光を 軸に垂直に発し、それをS系より眺めれば、光の到達点の 座標は常に U 系 原点の在る場所と同じになります。
従って、この時に限り、アインシュタインの設定は成り立ち、結論の式 ・・・ も成り立ちます。当然アインシュタインの理論も成り立ちます。しかしながら、これは、 軸に垂直に発された光のみで考えられている事であって、他の方向の光は一切考慮されていませんから、正しくは有りません。他の方向の光で考えたなら、この式は成り立たなくなります。それどころか、光を系の進行方向と逆向きにでも発すれば ・・・ となって、運動系の時間が静止系より進んでしまいます。尚、これより先は、前章の「時間の遅れ」と同じになりますので、論証は省略します。
ともかく、そういうわけで、「動いている時計の遅れ」説も間違いとなるのです。
この項に関する限り、教科書のやり方とアインシュタインのやり方は、それ程、違っていません。文章の表面だけを見ていると、全く、違っている様に見えたのですが、本質的には同じ事だったのです。
ここまでの論証で明らかな様に、一見、教科書の執筆者の間違いに見える様な事でも、突きつめて行けば、その根がアインシュタインにあった事が判ってきます。アインシュタインがそういう間違いをしていたから、他の先生方も、気づかず追随してしまったと言うべきです。 
(二) アインシュタイン論文問題のまとめ

 

アインシュタインは、色んな間違いをしています。
(2)(a)の“時刻の相対性”の所では、動いている棒のA端と静止系のA地点とを混同していました。厳密に言えば、彼の論文には「静止系のA地点」という言葉すら有りません。ただ単に「Aから光線が発射され、点Bで反射されて、Aに戻って来た」とあるだけです。最初から区別をつけていないのですから、混同に気づき様のある筈が有りません。実際に、彼の数式の意味を理解しようとすれば、静止系にA地点という場所を設定し、そこに観測者を置かなければなりません。そうして始めて意味が通るのですが、その時には、同時に、問題にも気づく事になります。ところが頭の良い先生方は、そんな事をしなくても式を理解されますので、混同に気づくチャンスを失います。
こういう事は、私の様に頭の悪い者が、自分の頭でも解かる様にと、式をかみ砕いて並べ直した時に、初めて判る事です。翻訳された先生は、“簡潔にして明瞭”とほめちぎっておられますが、その簡潔さこそが曲者だったのです。
これだけ簡略化されていると、棒のA端と静止系のA地点とを混同していても、誰も気づきません。新宿あたりで列車より光が発せられた所を、列車の中の人が目撃したとして、この人は、列車が池袋に着いた時「光は池袋より発された」と言うでしょうか? 絶対に言わないでしょう。
にも関わらず、それを言わせているのが相対論なのです。
棒のA端と静止系のA地点とを混同するというのは、新宿と列車と池袋とを同じと見なすに等しい行為です。
次の(2)(b)の「ローレンツ変換の誘導」の所では、アインシュタインはローレンツ変換を光の走行距離と走行時間とから導き出していながら、出来上がったローレンツ変換の や を任意の座標や任意の時刻と勘違いしていました。
その事が相対論を奇想天外な方向へと導いて行った原因です。
これは、彼が「距離と座標」、「時間と時刻」を混同していたからそうなったと思われます。
次の(2)(c)「動いている物体は長さが縮む」の所では、光の球面波と剛体の球の式とを混同していました。
どちらも球の式ですから、式の形は似ています。だから混同はします。
しかしながら、両者は基本的に別物なのです。
球面波は時間と共に拡大しますが、剛体の球の径は時間では変動しません。
そこの所の違いに気づかず混同してしまうと、ある時は剛体の球の理屈で考え、ある時は球面波の理屈で考え、両者の理屈が途中で入れ替わっても気がつかなくなります。その結果として「 軸方向の寸法が縮む」との結論でも得れば、新発見でもしたかの様な気分になり有頂天になります。本当は単に間違っているだけの話ですが。
それでも の項があると剛体の球が無限に拡大してしまうので、これでは不都合と に0を入れての項を消去しようとします。ところが、そんな事をすると、“光が原点のなかに収束( = 0 では光はまだ発されていないから)し  = 0,   = 0,   = 0,   = 0,   = 0 ,   = 0 となって計算不能になる”事に気づいていません。
アインシュタインは、そんな事には無頓着だったのです。
(2)(d)の「時間の遅れ」の所では「S系での時刻」と「 系 の移動時間」の混同や「S系に於ける光の到達点の 座標」と「S系 軸上に於ける 系 原点の位置」との混同をしていました。
「混同ではない。それが両立する所を求めているのだ」とした場合、それは“ 系 の原点より 軸に垂直に発された光”についてのみ考える事となり、他の方向の光は一切考慮されなくなりますので、そこより生まれるところの理論は普遍性を持たなくなります。
この様に相対論とは、あらゆる所に矛盾を含んでいる物だったのです。これはアインシュタインが、思い込みや勘違い・似た物との混同で式を創ったから、こうなったのでしょう。アインシュタインのやってる事は、数式だけを見ているとスゴいのですが、良くよく見てみると出たらめなのです。多くの先生方が、この間違いに気づかなかったのは、余りにも式が簡潔にまとめられていたからでしょう。
ここまで来れば反証も完璧の様ですが、実は、まだ不十分なのです。というのは、書店に並んでいる相対論の本では「同時性」や「ローレンツ収縮」・「時間の遅れ」などを説明するのに「四次元時空」を使っているからです。これでは、私が、いくら間違っていると言っても「お前の理屈は三次元の理屈だ、これは四次元なのだから話にならん」と一蹴されかねません。
その四次元の理屈も本当は間違っているのですが、それを説明しない事には話は終わりません。 
 
■四 四次元時空論の誤り

 

相対性理論では、この世界を三次元空間の他に時間を加えて四次元としています。多くの人は、これについては「何か変だなー」とは思いながらも、偉い人が言うのだからそうかも知れない、と思っておられるかも知れません。
ところで、相対論では、物の速度が光速を超える事は御法度となっています。ところが、同じ相対論でも ブラックホール論では「ブラックホールの入り口で物の落下速度は光速、それより奥では光速を超えてしまい、光すらも外に出られない」とやっています。これは矛盾する理屈です。
その為、相対論では「ブラックホールに入ると、時間と空間とが入れ替わってしまう」等と言う、とんでもない理屈を創り出して、矛盾をごまかしました。これは滅茶苦茶な理屈です。
イメージして見て下さい。ロケットの進んでいる方向が突然時間に変わり、今まで時を刻んでいた時間が空間に変わるという事を。イメージ出来ますか。無理でしょう。時間がどうやって空間に変われるのです?
ここで、イメージしやすいように仮の話をしてみましょう。進行方向の空間が突然、時間に変ったとします。さて、そうすると、今まで、前方にあった星は何時に変るのでしょうか?進行方向の空間が時間に変わると言いますが、左右上下方向の空間は元のままなのです。なぜなら、左右上下方向は速度が 0 だからです。 速度 0 では時間と空間の交代はできません。時間と空間が交代するには速度が光速を超える必要があるのです。相対論の式でも、時間と入れ替わるのは 座標 つまり進行方向の空間だけとなっています。
さて、そうすると、どういう事になるのでしょうか?
ロケットの左右上下の窓から見る景色は連続しています。光速突破以前に斜め前に見えていた星は、光速突破後にも窓の外を横切ります。時間に変った筈の空間 (星) が、左右上下から見ると元のままなのです。これをどうしますか?そうすると、進行方向の空間と、左右上下方向の空間との整合性はどうなるのでしょうか?このように、おかしな事になるのです。
相対論では、空間と時間とは入れ替え可能の物としています。
しかしながら、これは誤った式からつくられた理屈であって、正しくはありません。
そもそも、空間と時間とは全く異質の物で、同列に論じられるものではありません。空間の次元は、縦・横・高さ 自由に移動出来ます。進む事も、戻る事も出来ます。また、その場に留まる事も出来ます。それに対して、時間は戻る事も止まる事も出来ません。只、一方的に前に流れるだけです。それも、こちらの自由にはなりません。我々に自由度はないのです。我々が時間軸の中を進んでいるのではなく、時間と言うベルトコンベアーの上に乗っかっている様な物ですから。
空間の次元と時間の次元とでは質が違います。そういう事ですから空間の次元と時間の次元とを同列に扱う事は出来ません。
これは、それこそ別次元の話です。そこで、ここでは、その誤りについて説明します。まずは、この様な理論が、どの様にして出来たのかから説明して行きましょう。 
(一) 四次元時空の理論の誘導

 

(1) 四次元座標の誘導  
(これは途中まではローレンツ変換の誘導と同じです) まずは、図の様な直交座標を考えます。そして、この座標系のある点 P( ) に原点 O より光が走ったとしましょう。そうすると、その距離は光速を 、走行時間を として ・・・ で求まります。次にピタゴラスの定理より、その距離の二乗は ・・・ で求まります。この二式よりRを消去して ・・・ と置きましょう。そして次に、右辺を左辺に移項して ・・・ とおきます。ここまでは、ローレンツ変換の誘導と同じです。次からが違います。
この後、式を ・・・ と言う風に書き換えるのです。そうしておいて、座標の形態を今までの  という方式から  ・・・・ という形にやり換えます。 ・・・ と言う様にです。それから (4-1-5) 式の4番目の項  をも座標に組み入れて とします。そうすると、新しい座標は ・・・ という形に置き換えられます。これが相対論の四次元座標です。これを用いますと 式は ・・・ という形に置き換わります。次に、座標の回転というものを考えましょう。  
(2) 座標の回転  
三次元空間では、原点 O から P 点までの距離をRとしますと  は座標の回転に対して、その値は変わりません。いま Z軸 のまわりに θ だけ回転した座標系 を考えます。そうすると、同じP点の座標は新しい座標系では で表されます。それを示したのが 図 です。図より、前の座標と新しい座標との間には ・・・ という関係が成立します。これは、高等学校の数学の教科書に載っている事なので証明はしません。
この場合、P点の座標は変わりますが、OP 間の距離は変わりません。  
(3) ローレンツ変換は四次元空間に於ける座標の回転の様な物  
四次元座標 ・・・ は既に求まっていますので、次はここに、ローレンツ変換 ・・・ を持って来て、これに四次元座標を当てはめてみましょう。そうすると (2-1-8-1)は ・・・ という形に置き換わります。
これが四次元座標を用いたローレンツ変換です。ところで、ちょっと の項と の項を比べてみて下さい。何か似ている事に気づかれませんか。そこで、もっとはっきり判るように抜き出して並べて見ましょう。そうすると  ・・・ となりまして、何か、対照的な形である事が判かります。実は、これは座標の回転の式に似ているのです。
ここで、仮に、  と置いて見ましょう。そうすると式は ・・・ となりまして座標の回転の式 ・・・ とそっくりになります。そこから《ローレンツ変換は、四次元空間に於ける座標の回転の様な物だ》と見なされる様になったのです。また、この事から《 の座標と の座標とが、等価な物として交換可能》との解釈も出て来ます。
ところで四番目の座標の は で実質的変数が時間の のみですから、四番目の座標軸を時間軸と見なせます。そしてまた の座標は  軸で、系の進行方向の座標です。そこから、系の進行方向の空間次元と時間の次元とが同列に扱え、等価な物として交換可能という解釈が出て来たわけです。
そして、ここより、四次元時空という概念が生まれ、ブラックホールに突入すると、時間と空間とが入れ替わってしまう等という、とんでもない発想へと発展して行ったのです。 しかしながら、この理論は間違っています。  
(二) 四次元時空論の誤りの証明

 

(1) 座標の回転・時空の転換は無い。三角関数の誤り  
ローレンツ変換に四次元座標を組み込んで出来た式 ・・・ の γ を cosθ に iγβ を sinθ に置き換えてみたら ・・・ となって、座標の回転の式とそっくりになった。「だから、ローレンツ変換は四次元空間に於ける座標の回転の様な物だ。」という事ですが、果たして、そうなのでしょうか。
仮に置いた γ = cosθ, iγβ = sinθ に問題は無いのでしょうか。実は、あるのです。
γ = cosθ  は、まあよいとしましょう。しかし iγβ = sinθ には問題があります。 iγβ  の中には γ が入っているのです。という事は sinθ の中には cosθ が入っているという事になります。 それは sinθ = iγβ = iβcosθ という事で sinθ は cosθ に比例するという事になるのですが、それでも良いのでしょうか。
そもそも  sinθ と cosθ とは逆の関係にあります。cosθ が大きくなれば  sinθ は小さくなり、 cosθ が小さくなれば sinθ は大きくなります。
cosθ = 1 のとき   sinθ= 0
cosθ = 0 のとき   sinθ= 1
です。
どうして、 sinθ が cosθ  に比例出来るのでしょうか。このこじつけには無理があります。それだけではありません。この三角関数の間違いには、まだ奥があるのです。そこで、この三角関数の問題について、もっと詳しく調べてみましょう。
まずは、 γ = cosθ からです。
γ の元の式は  でした。これを整理して単純化してみましょう。 ・・・ そうすると  になります。従って、cosθ =   です。ところで、この式をよく見て下さい。分子より分母の方が小さいのです。分子より分母の小さい cosθ があるでしょうか。これでは cosθ>1 になってしまいます。
本来 cosθ  は 0 ≦|cosθ|≦ 1 なのです。
次に sinθ の式も同様に単純化してみましょう。
そうすると sin θ =    になります。 ・・・ 単純化された cosθ  と sinθ  が求まりましたので、これを並べてみます。cosθ =  ,   sin θ =    そして、これを元にして三角形を描いてみましょう。そうすると、それは、図の様になります。図をよく見てください。何か変ではありませんか。斜辺(イーハ)の寸法   の方が辺(イーロ)の寸法 c より短いのです。これは論理的に矛盾します。直角三角形では、斜辺は他の二辺より長くなければなりません。これでは直角三角形は成り立ちません。(注 : 虚数の記号 i  は実数と方向が 90°違う事を差し示すだけなので、無視して数値のみで扱っております。)
もっとも、辺(イーハ)の寸法と辺(イーロ)の寸法とを入れ替えれば、直角三角形は成り立ちます。が、しかしそれでは、相対論が望む方向への理論誘導はできません。従って、この三角関数のこじつけは全くの誤りとなります。こんな物をこじつけられて、「座標の回転の式とそっくりになった」と言われても、苦笑せざるを得ません。
直角三角形の成り立たない三角関数では、座標の回転に適用のしようがありませんから。
座標の回転の角度 θ は直角三角形の角度 θ なのです。
本を書かれている人の中には、これを指摘されるのを警戒されてか、 cosθ、 sinθ とせず、ハイパー cosθ、ハイパー sinθ  とされておられる方がいます。しかし、どうごまかそうとも、座標の回転は直角三角形で成り立つ話ですから、直角三角形の理屈が成り立たなければ、この理論も成り立ちようがありません。
従って、教科書の言う“ローレンツ変換は四次元空間に於ける座標の回転の様な物だ”という“考え”は全くの誤りとなります。
同じこじつけるにしても、もう少し、つじつまを合わせてからこじつけて欲しい物です。
三角関数がでたらめなのですから、座標の回転も時空の転換もありません。
四次元時空などまったくの絵空事となります。
ところで、図を良く見て下さい。この図は、動いている系の速度と光速との関係を表している様にも、見えませんか? 実は、この三角関数は、そこにこそ本当の意味が有ったのです。座標の回転などではありません。 次は、その説明です。  
(2) 三角関数の本当の意味  
(a) 列車内で見た光と外から見た光との関係
ここでは、まず、第一章で使った「列車の中の時間の矛盾」の話を引用します。
右図は、列車の中の様子を示した物です。A,Bは座席の位置です。列車は速度 で右方向に動いている物とします。ここで、Aの座席の人が煙草を吸う為に、ライターで火を点けたとしましょう、そうすると、その光はBの人には、まっすぐA→Bの方向へ来た様に見えます。ところが、この光景を外から見ていた人には、光はA→B′の方向へ来た様に見えます。
光がいくら速いとは言え、AからBに届く間に列車も少しは前に動いているからです。その様子は、図の三角形で表されます。これは列車の中で見た光の行跡と、それを列車の外から見た場合の光の行跡と、列車の移動との関係を表した物です。 この三角形を速度の関係で見直してみましょう。
そうすると、それは、図 の様になります。相対論では、列車の中の光の速度も なのですがそれを無視して三角形だけで考えてみますと  になります。この図は何となく 図 4‐2‐2 に似ているでしょう。あちらの方は、間違っていたのだから、こっちの方が本物という事になります。  
(b) こじつけた  cosθ は本当は   で sinθ は本当は i だった
ここで、図 より , を求めてみましょう。そうすると ・・・ となりまして、座標変換の時にこじつけた物と、何かしら似た物が出て来ます。同じではありませんが。次に、これを 式  ・・・ に代入してみましょう。 そうすると ・・・ となりまして、これも何かしら座標の回転の式と似た形になります。しかし同じではありません。
ここで、この式の を COSθ に i   を SINθ に置き換えてみましょう。そうすると ・・・ となりまして座標の回転の式や(4-1-11) 式とそっくりになります。しかしながら、これは を COSθ に i を SINθ に置き換えた物ですから、正しくはありません。次は、このCOSθとSINθを、 (4-2-2) 式を作ったのと同じやり方で、簡単な式に直してみましょう。そうすると ・・・ となりまして(4-2-2)式と全く同じ結果になります。
つまり、座標の回転の所でこじつけた cosθ・ sinθ とは、実は 式の COSθ・SINθ の事だったのです。cosθ にこじつけた (4-1-10) 式の γ とは、実は図4‐2‐4 の中の  の事であり、sinθ にこじつけた iγβ とは、実は図4‐2‐4の中の i  の事だったのです。
座標の回転の所で、γ や iγβを三角関数としてこじつけたとしても、曲がりなりにも成り立っていたのは、こういった裏付けが有ったからです。
それを、アインシュタインかミンコフスキーかは知りませんが、早とちりして座標の回転だとか・時空の転換などと、とんでもない方向へと発展させて行ったのです。これは、そんな大層な物ではありません。単に、「《動いている系の速度》と《動いている系内で見た光の速度》と、《それを外から見た場合の光の速度》との関係」を表しているだけですから。  
(c) γ は相対論の矛盾を調整する係数
図では、列車の外から見た光の速度を ,列車の速度を としている為、直角三角形を作る便宜上、列車の中での光の速度を としましたが、これは、第二章第二節(4)の「動く時計の遅れ」や第三章第一節(2)の(b)の「アインシュタインのローレンツ変換の誘導」の所でも懸案として残しておいた事です。そこで、ここでは、これについて、考えてみる事にしましょう。
まずは、列車の中で見た光の速度と、それを外から見た場合の光の速度の比を取ってみます。そうすると ・・・ になります。これは何かと言うと、言わずと知れたローレンツ変換の分母です。そして、これをひっくり返しますと ・・・ となりまして、ローレンツ変換の γ になります。さて、ここでちょっと 図 を見て下さい。これはローレンツ変換を求める時に使う図で、動いている系と静止している系の関係を表している物です。
系 は S系 に対して速度 で 軸方向を右に動いている物とします。(注; t = t′= 0 のとき、O と O′は重なっている物とする)
この図から単純に の距離を求めますと ・・・ になります。ところが、ローレンツ変換では ・・・ となっていまして、ここには ・・・ という、わけの分からない係数がついていました。最初は、これが何を意味するのか良く判りませんでした。 しかし、これが ・・・ いう事でしたなら、何となく、その意味する所が解る様な気がします。
つまり、これは、相対論の矛盾を調整する係数だからです。相対論以前の考え方でしたなら、列車の中で発した光の速度を 、列車の速度を としますと、外から見た光の速度は  となります。 (注;  、  はベクトル)
ところが、相対論では列車の中で見た光速も外から見た光速も同じですから ・・・ としなければなりません。しかし、これは、論理的に矛盾します。こういう矛盾を調整する為に、式はどういう手段を採ったか、 それは ・・・ となるようにした事でしょう。こうすれば問題は消せますところで ・・・ ですから ・・・ となり  は γ と同じ意味になります。 
そういう事から、ローレンツ変換の ・・・ は、相対論の無理・矛盾を調整する係数とみなせるわけです。式は多分こういう係数を掛ける事によって矛盾を調整していたのでしょう。その事から、逆に“列車の中で見る光の速度と、それを、外から見た場合の光の速度とは、本来、違うのだ”という事が判って来ます。
アイシュタインは、原則的に「静止系から見ても、運動系から見ても光速は同じ」としながら、理論誘導の所では「運動系の 軸に垂直に発した光を静止系から見ると、その速度は  になる」等とやっていました。
我々、素人から見れば「何それ、そんなの有り!?」ですが、本人は、無頓着というか、融通無碍というか、相反する事を平気でやっていました。そんな事をすれば、どんな奇想天外な理論でも創れるでしょう。 
(3) 四次元座標は存在しない

 

時空の転換の間違いは、はっきりしましたが、実は、それ以前の問題として、四次元座標の間違いがあります。 話の流れ上、回転座標の方を先にやりましたが、実は、こっちの方が、より基本的な問題だったのです。  
(a)  ,  は距離であって座標ではない。
相対論では 式 ・・・ の ,  を勝手に座標と見なし、 ・・・ と置き換えて四次元座標にしていますが、これは間違っています。 ・・・ の元の式は ・・・ でした。これは、ローレンツ変換の説明の所でも詳しく述べました様に、距離の式です。 ・・・ ですから。この式の ,  は全て距離なのです。座標などではありません。もちろん、 については座標と見なす事も出来ますが、は、そうは行きません。これは明白に距離ですから。 ・・・  図 の中で光が走った所の O P 間の距離です。
この式の本当の意味は、距離 OPの 軸方向成分の二乗と 距離 OPの 軸方向成分の二乗と 距離 OPの 軸方向成分の二乗とを加えた物は、光が速度 で 時間掛けて走った所の距離 OP の二乗に等しいという事だけです。
これは、単なる距離の関係式です。この式は、「右辺も左辺も距離という点で等価だ」と言ってるだけでして、けっして「左辺が座標で右辺が時刻、そして両者が等価」等と、たわけた事を言っているわけではありません。
それを、何を勘違いしたのか  を座標、 を時刻と思い込んで ・・・ と置き ・・・ と変化させて、無理やり四次元座標に持って行きました。その結果、《空間次元と時間次元とが等価で交換可能》という、とんでもない勘違いの世界へと、引っぱって行ったのです。本当は、単に《右辺も左辺も距離という点で等価》という事だけだったのですが。
この式は ・・・ までに留めるべきです。これを ・・・ とすれば間違いになります。 この場合は ・・・ とおくのが正しいのです。この  の前のマイナス記号まで  の範囲に入れて  とするのは、数学上のテクニックでは可能でも、こんな所で使ってよいわけはありません。これは、道理を無視した滅茶苦茶なやり方です。そんな事をすると、物事の本質を見誤る事になります。
これを国語の文章問題に例えるなら「僕は、知らない」とする所を、句読点を一つずらして、「僕、 走らない」とする様な物です。 また「木  柱  無い」とする事も出来ます。 そして、これを「木  柱  無い」と読み換える事も出来ましょう。言葉遊びならともかく、大事な文章でこんな事は許されません。外交文書なら、戦争になりかねません。
しかるに相対論では、こういう滅茶苦茶を随所でやっているのです。「同時性」や「ローレンツ収縮」・「時間の遅れ」・「時空の転換」等も、所詮はパソコンの変換ミスみたいな物でしょう。人々は、変換ミスの結果出来上がった文章を、「奇想天外だ!」、「不可解だ」、「素晴らしい」、「馬鹿げている」等と議論し合っているようなものです。 
(b) 四番目の座標は存在しない
式 ・・・ の中の  は座標ではなく距離である事は、はっきりしました。しかし、それにも関わらず  が 三次元空間の基本座標でもあり基本次元でもある事に変わりはありません。また一方で座標は原点からの距離で表わされます。その事から 「座標」=「距離」と思い込んでおられる方も多いでしょう。その為、距離 もまた座標に出来るのではと、お思いの方があるかも知れません。
相対論はその思いをそのまま式にしました。しかし、その思いつきは余りにも安易でした。 ・・・ を座標にしようと思えば出来ないことはありません。が、しかし、それは三次元空間内の座標になるだけでして  軸や 軸・ 軸から独立した第四の座標軸を持つ座標や次元になるわけではありません。ここからは その説明です
その為には、まず、 式の ・・・ と図 を用いる事にします。 そして次には、これをベクトルに置き換えます。
そうすると、式 は ・・・ となり、図 は図2 の様な形に置き換えられます。
四番目の座標に相当する はベクトルでは です。図と式から明らかな様に は  の合成です。 ・・・ は、それぞれ独自の座標軸を持ち、独自の方向次元を持っています。従って、他の座標軸からも独立しています。
ところが は、これら  の合成ですから、 軸・ 軸・ 軸から独立していません。故に、第四の座標・次元たり得ません。
そもそも、独立した座標・次元というものは、他の座標・次元に関係なく独自の値をとれるものです。例えば、 は  や がどんな値であろうと関係なく、 軸上に自由に値がとれます。 , も同様です。
ところが、 はそうは行きません。  は  の値に拘束されます。 ・・・ の値が決まれば、 の値は一つに固定されます。そして  のどれか が動けば、連動して も動かされます。従って、 に自由度は有りません。
「そうは言うが、  の方を変える事だって出来るではないか。そうすれば に自由度はある事になる」とおっしゃる方があるかも知れません。ところが、  を変えると OP 間の距離が動きますので、 も連動して動かされます。
従って、 に自由度はありません。 は から独立していないのです。
故に、第四の座標・次元たり得ません。そういうわけで、四番目の座標・次元は存在しません。
だけなら時間次元として空間次元とは別個に次元が考えられますが、 となれば距離ですから話は別です。
これは時間の次元ではありません。距離の次元なのです。
それでも、まだ、御不満の方もあろうかと思われますので、今度は を座標にして勘違いの世界から目をさまして頂こうと思います。
 ・・・ の  を座標にする場合、これまでの先端の座標を座標にしていました。従って、そのやり方で行けば の座標は の先端の座標、つまりP点の座標という事になります。そうすると、 の座標は () という事になるのです。 もっとも、これでは、他の座標とのつりあいが取れませんので、他の座標も修正して ・・・ として置きましょう。そうすると、バランスがとれて ・・・ としても、おかしく無くなります。ですから
この時、始めて、距離の式やベクトルの式との間に整合性が取れて来ます。 ・・・ という様に
そして、それぞれの式が関連性を持ち、式の間に一貫性が出て来ます。 ・・・  を座標にするとは、実は、こういう事だったのです。
別に“四次元空間になる”等と言う、大それた物ではありませんでした。というわけで、  ことは 軸・ 軸・ 軸から独立した第4の座標・次元とはなりません。  
(c) 四次元座標を想定しても不都合を生じる
四次元座標では = 等として、虚数を用いる事により、あたかも、 軸,  軸,  軸に直交する第四の座標軸でも存在するかの如く錯覚させていますが、これは間違いです。
読み物的相対論の本では、四次元時空は図 4‐2‐9 の様な形で表わされ、物理学の本では図 の様な形で表わされます。どちらも空間軸に直交する形で時間軸が示されています。図 では空間軸が 軸しか書いてありませんが、これは、四次元全部を図で表わす事が出来ないので、 軸で代表してあるだけです。
ちなみに、私が大学で講義を受けた時の図は図‐‐でした。ここでは、あくまでも、 軸は 軸,  軸,  軸に直交する軸として考えられています。しかしながら、式の成立過程に立ち戻れば、そうでない事は明白となるでしょう。それにもし、仮に、空間が図4‐2‐11の様な座標空間でしたなら、OP間の距離  を求める場合、不都合を生じます。 ・・・ となるからです。これでは距離 は 0 になってしまいます。ここ四次元時空の所では、相対論を創った時の元の式が ・・・ だった事を忘れているかの様です。
それどころか、相対論 (教科書『物理学への道 下』)181頁では、上記の道理を無視して ・・・ 等とやり、これを展開して、「固有時」や、「四元速度」、「四元加速度」、「相対論的運動量」、「静止質量」、「E=mc2」 、「一般相対論」等、馬鹿げた理論を続々と創り出しています。
間違いに間違いを重ねた理論の創出は、この後も延々続いているのですが、これより先は、難しい式の羅列・展開となりまして、一般向け解説にはちょっと無理がありますので、やめます。
ただ、こういった誤った式の展開も全ては  が 0 である事を無視しようとする事から来るものです。
そして、もっと始末の悪い事には、この  が相対論の一番最初に出て来て、何にも予備知識の無い学生に誤った先入観を植え付けている事です。
教科書( 『力学』 原島鮮著 ) では「光速度不変の原理 ・・・ とおこう。  , は慣性系でどちらから見ても他方は一定の速度で動くから、 に対して一様な直線運動は、 に対しても一様な直線運動でなければならない。
光速度不変の原理により、 ・・・ ならば   でその逆も成り立つ。従って  と  との関係は ・・・ の形でなければならない。
相対性原理によれば に対して成り立つ事は に対しても成り立たなければならないから ・・・ でなければならない。二式から ・・・ つまり、k は・・・・定数で +1をとるか、−1をとるかである事がわかる。 v =0 の場合を考えれば  =  であるから k =1でなければならない。・・・」等とやっています。
「何をやっているのか、良く解からない」と思われる方も多いでしょうが、少なくとも「 と が必ずしも 0 とは限らない」という前提で話を進めている事だけはお解かりになると思います。
 と が 0 なら、この様な小難しい、いかにも厳密そうな論証は、最初から必要ありません。実際 と は 0 なのですからこの様な論証は意味ありません。しかしながら、これをやる事によって何も知らない学生達は、最初に ・・・ は 0 とは限らない、という先入観を与えられ、後に、四次元時空の所に来た時、が 0 である事を無意識に否定し「これは四次元なのだ、三次元とは違う」などというトンチンカンな事をやってしまいます。
実際、教科書や市販の本でも、この手の疑問を持ちそうな所では「これは三次元とは違うのだ」と釘を刺し、それ以上疑問を差し挟まない様にしている物を多々見うけます。
そうなると、相対論の誤りは永久に正せません。「何か、おかしい?」と思っても、「いや、自分が間違っているに違いない」と軌道修正してしまいます。
相対論の誤りは、低レベルの次元で見直さなければ判りません。基本に立ち帰り、素人にも解かる様にと式をかみ砕いて見直した時、始めて判る事です。相対論とは、実は、かくも、いい加減なものだったのです。殆どが、アインシュタインの早とちりと勘違い、似た物との混同、或いは思い込みから成り立っています。
高度な数学が使われている為、多くの人は、それに惑わされ、あたかも素晴らしい理論であるかの如く錯覚させられていますが、実は、とんでもない代物だったのです。
おまけにアインシュタインは、出来上がった式の意味を正しく理解していません。間違って解釈していますから、そこから導かれる所の理論は、ことごとく、とんでもない方向へと行ってしまいます。
相対論とは、言わば、SF映画の様な物です。映像の中では人は自由に空を飛べますし、過去の世界へも行けます。映像の中では、地上の物理法則や時間の順序を無視した何でもありの世界が創れるのです。
これと同じで、ちょっと似ているだけで無関係の式を用い、ルール無視でやれば何でも出来るでしょう。
しかし、それは現実の世界とは関係ありません。ヴァーチャル・リアリティーの世界の話です。相対論とは、実は、仮想現実の世界の話だったのです。
なお、私が言ってる事は“相対論の数式の解釈が間違っている”という事だけでして、別に“相対論が予想しているような現象”まで存在しない、と断言しているわけではありません。宇宙は広いですから、何があるか判りません。もし、仮に、相対論の予想する様な現象が存在したとしても、相対論が正しかったとは思わない方が良いでしょう。これは、間違っていますから。その時はその時で、その現象を観測し分析して、そこから法則を見つけ出せばよいだけです。それが科学という物でしょう。 
 
■五 “実験が証明した相対論の正しさ”への異論

 

(一) 電子をいくら加速しても光速を超えられない 
「いかなる物も光速を超えられない」という説の正しさを証明する例として、よく、電子の加速実験の話が挙げられます。これは、“電子を高電圧で加速しても、光速に近づくにつれ、速度は横ばいとなり、いくら電圧を上げても加速が利(き)かなくなる”という話です。この実験により“相対性理論の正しさが証明された”とよく言われています。
しかし、これについては、私は異論があります。電子加速装置の仕組みがどうなっているのかは、知りませんが、電圧で加速する限り利かなくて当然と思います。相対論は関係ないでしょう。
ヨットは風より速く走れません(動力の保有や潮の流れ等は無視します)電子は電圧によって加速されます。しかして、電磁力の伝播速度は光速です。電極から出る電圧の波も光速で伝わります。もし、電子が光速で走っていたなら、その電子にとって電圧の波(風)は存在しないも同然となります。
風と同じ速度で走っている者には、風が存在しないのと同じ理屈です。従って、電圧の波は電子には何の影響も与えられません。速度に落差があって、始めて力は伝わるのです。落差が大きければ大きいほど、大きな力が伝わります。というわけで、電子が光速に近づくにつれて加速が利かなくなるのは当然です。
そう言うと「電圧の波とは何事だ。電位(電圧)の場だ。波など無い」と言われそうですので説明します。
波という表現が不適切なら《川の流れ》の様な物と考えて下さい。電極に電気が来る前には、電極の周囲に電位(電圧)の場は存在していません。電極に電気が入ると、電極の周りに電位(電圧)の場が発生し、A→B→C→Dの順で拡がって行きます。それは光速で無限の彼方へと拡がって行きます。この後、電気を切ると、電極から電圧が消え、電位の無い状態がA→B→C→Dの順で拡がって行きます。
その次に、また電気を入れると、周囲に電位の有る状態が拡がって行き、切ると電位の無い状態が拡がって行きます。
これが波です。電気を入れっぱなしの状態では、電位の有る無しの変動は有りません。がしかし、同じ電位の流れは、川の様に、続々と電極より空間に流れ出しているのです。これを電圧の波と申し上げたのです。
電位の場(電場)などと言うと、空間その物が電気を帯びていて、それが固定されているかの如く感じがちですが、そうではありません。場の電位を規定している波は常に移動しているのです。常に新しい波が電極から流れ出て、無限の彼方へと移動しています。丁度、川の流れの様に。そう「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず」と言う、あれです。そして、この波動の伝播速度が光速なのです。
仮に、ここで、電圧の波の流れを、粒子の流れに見立ててみましょう。実際には、電場は物質ではありませんので、こういう見立ては問題ですが、目をつぶって下さい。電子が静止している時に、電極から流れ出て電子に当たる粒子の量は、一秒間に 30万km の幅の量があります。ところで、もし、電子が秒速 29万km の速度で走っていたらどうなるでしょうか。この場合、電子と電圧の波との相対速度は秒速 1万km ですから、電子に当たる粒子の量は、一秒間に 1万km の幅の量しかありません。これは、静止している時の 30 分の1です。
つまり、電子が秒速 29万km で走れば、場より受け取るエネルギーは、静止している時の 30 分の1に減るわけです。電子が光速に近づけば近づく程、電子に当たる粒子の量は減り、光速では0になります。この粒子という概念を、エネルギーという概念に置き換えれば、言わんとする事はお解かりになると思います。要するに、電子が光速に近づけば近づく程、電子から見た所の電圧の波は間延びしてしまい、その持っているエネルギーも薄まって来るのです。
従って、電子が場より受け取るエネルギーも減ってしまい、光速では0になります。だから、電子は光速に近づくにつれ加速が利かなくなるわけです。いくら電圧を上げようと無駄な事です。
ここでもう一度、電子の加速の話に戻りましょう。
もし、電子が光速で飛んでいたなら、電磁力は電子に作用する事は出来ません。電子から見ると、場には、電圧の波など存在しないからです。風と同じ速度で走っている者には、風が存在しないのと同じ理屈です。風と同じ速度でヨットが走ったなら、風はヨットに力を与えられません。速度に落差があってこそ、力は伝わるのです。電子は速度が光速に近づくにつれ、電圧の波から受け取るエネルギーが減り、光速では0になります。
従って、電子は光速以上には絶対に加速出来ません。いくら電圧を上げようと無駄な事です。また逆に、電圧の波の中に、電子が光速以上の速さで突っ込んで行ったなら、電圧の波の流れは、逆流(ブレーキ)となりますので、電子は流れと同じ速さ、つまり、光速まで減速させられるでしょう。
従って、電子は、電圧による加速装置を使う限り、絶対に光速を超えられません。もっとも、電極が電子を高速で追いかける様な装置でも出来れば話は別ですが。
ともかく、そういうわけで、この話は相対論の正しさを証明するのには役立ちません。 
(二) 光は重力で曲がるのか?

 

(1) 光は重力で曲がるという説に対する異論 
次に“相対論の正しさを証明する材料”として“重力レンズ”というものがあります。これは、星の後ろに在る別の星の光が、前の星の重力によって曲げられ、リング状に見えるという話です。天体写真の本には、時々、そういうのが載っています。その写真の解釈が正しいのかどうか、私には判(わか)りませんが、“光が重力によって曲がる”という考えには賛成できかねます。
重力というのは物質間に働く力です。正確には、質量と質量の間に働く力です。光は質量を持っていません。どうやって、重力の影響を受けられるのでしょうか。と言っても、ピンと来られない方も多いでしょう。まずは電気力や磁気力を参考にして考えて見ましょう。電気には + と − があります。電気力とは + や− などの電気を帯びたもの同士の間で働く力です。正確には電荷間に働く力です。
+ と + そして − と − など同極の電気を帯びた粒子は反発し、+ と − など反対の電気を帯びた粒子は引き合います。
次に磁力ですが、これも磁気を帯びているもの同士の間で働く力です。磁気がなければ力は働きません。
電気力は電荷間に働く力ですが、磁力は磁荷間に働く力です。これらの力は、他のものには作用しません。
同様にして考えると、重力は質量間に働く力ですから、この力は質量以外のものには働きません。
さて、ここで本題に戻ります。《光が重力で曲がる》という事ですが、困った事に光は質量を持っていません。物質ではないからです。
光は重力に呼応する成分を持っていません。どうやって、重力の影響を受けられるのでしょうか。
重力の式は ・・・ という物です。ここでMを星の質量とし、mを星の引力にひかれる小物体の質量として考えてみましょう。光は質量を持っていませんから m = 0 です。そうすると計算式より F = 0 となり、両者の間には何の力も働かなくなります。つまり重力の影響など受け様が無くなるのです。
もっとも「この式は古い時代に作られた物で、完全とは限らない。何か大事な事を見落としているかも知れない」と考えられる方もあるでしょう。 もし、仮にそうだったとしても、尚、別に問題が存在します。
それは、作用の方向です。
重力は常に物質の中心に向かって働き、光は発生源から常に外に向かって発散して行きます。これは重力とは正反対の方向です。 ・・・ この様に作用の方向が反対なのに、どうして《光が重力によって曲がる》等と言えるのでしょうか。光にもし、重力に呼応する成分が有るのなら、その成分どうしが作用して、光が凝縮し固化してもよさそうな物ですが、私は、まだ、その様な光を見た事がありません。また、光が地面に降り積もってもよさそうな物ですが、それも見た事はありません。私の知っている光は、常に外に向かって発散していくだけです。もっとも、物質に向かって来た光が、その物質に取り込まれエネルギーに変換されることはありますが、それは重力とは別の話です。
ところで、《光が重力によって曲がる》等という考え方は、一体どこから生まれたのでしょうか。相対論では《光が重力によって曲がる》という考え方の説明として、よくエレベーターの話が使われています。だから、たぶん、エレベーターからなのでしょう。そこで、ここでは、その話を利用しながら、これについての異論を述べてみる事にします。
エレベーターが高い所から落下すると、中にいる人は無重力の宇宙空間にいる様な錯覚を受けます。ペンや鍵束を外に出しても床に落ちません。なぜならエレベーターも人もペンも鍵束も同じ速度で落下しているからです。逆に、無重力の宇宙空間に浮いているエレベーターが加速度で以て引き揚げられたなら、中にいる人は、足はしっかりと床に引きつけられ、まるで大地の上にでも立っているかの様な錯覚を受ける事でしょう。
いくら床をけって飛び上がっても、床がそれを上回る速度で追いかけて来て足を捕捉するので、中にいる人は引力によって引き戻されたかの様な錯覚を受けます。この時、エレベーターの片方の壁の穴から一瞬光が差し込んで、反対側の壁に当たったとしましよう。
光はもの凄く速いのですが、それでもエレベーターも、ほんの少しは上昇していますから、光はほんの少しですが下がった位置に当たります。この時、中にいた人には、一瞬、光が重力で曲がった様に見えるでしょう。エレベーターの中にいる人には、重力と加速度の区別はつきません。
一応、大概の本は、そういう説明がなされています。確かに、この場合、重力と加速度の区別はつきません。でも、だからと言って、重力と加速度が百パーセント同じだと、どうして言えるのでしょうか。見かけが似ているだけで違う物は沢山あります。加速度でもって上昇するエレベーターの中に差し込んだ光が、中にいる人から見て、曲がった様に見えたとしても、それだけで《光が重力で曲がる》とは断言できません。
そこで次は、そうとは限らないという例を挙げます。 
(2) 別な例

 

(a) 宇宙ステーションに差し込む光
ここに、宇宙空間に浮かび、自転によって重力を作りだしている宇宙ステーションがあるとします。宇宙ステーションは自転していますので、中にいる人は遠心力によって外壁に押しつけられ、重力を感じています。ある時、宇宙ステーションの天井の穴から一瞬、光が差し込んで来たとしましょう。光はものすごく速いのですが、それでも、宇宙ステーションも少しは動いていますから、光は、ほんの少しですが、回転方向と反対の方向にずれた位置に当たります。
この時、中にいる人には、光が一瞬曲がった様に見えるでしょう。しかしながら、この曲がった方向は重力の方向とは何の関係もありません。回転方向と反対の方向にずれただけです。と言っても、図 では“光が曲がるのか斜めに行くだけなのか、よく判らない”でしょう。そこで 図 で具体的に示します。
 ・・・ この様に曲がります。 
(b) 人工衛星の場合
次に、人工衛星の中に差し込む光で考えてみましょう。人工衛星の中は無重力です。ある時、人工衛星の窓から、一瞬、光が差し込んで、反対側の壁に当たったとしましょう。光は、ものすごく速いのですが、それでも、衛星も少しは動いていますので、光は図5‐12の様に、進行方向と反対の方向にずれた位置に当たります。この時、中にいる人には、光が一瞬曲がった様に見えます。しかし、衛星の中は無重力です。
この場合、光は無重力でも曲がる事になります。 
(3) 重力と加速度は同じか? 
次に、ここで、もう一度エレベーターの話に戻りましょう。「重力と加速度とは区別がつかない」との事ですが、果して、そうなのでしょうか。そこで、このエレベーターの話を再検討してみましょう。
《加速度で以て引き揚げられるエレベーターの中では、人は飛び上がっても、床がそれを上回る速度で追いかけて来るので、足はすぐ床に捕まり、引力で引き戻された様な錯覚を受ける》との事ですが、果してこの時、本当に重力による落下の様な感覚を受けているのでしょうか。飛び上がった人間は、慣性の法則でまっすぐ飛んでいます。そこをエレベーターの床が、もっと速い速度で追いつくだけです。もしかしたら、単に、追突されているだけの感覚ではないでしょうか。
そこで次は、こういう思考実験をしてみましょう。ここにドーム球場程の巨大なエレベーターがあるとします。このエレベーターは無重力の宇宙空間に浮かんでいます。そして、このエレベーターを加速度で以て引き揚げたとしましょう。中では重力を感じていると仮定します。次に、このエレベーターの中で矢を射る実験をしてみましょう。エレベーターは天井は高いし壁も遠いので、矢は天井にも壁にも当たらずに落ちて来ます。ところで、この矢は、地上で射た時と同じような落ち方をするでしょうか。たぶん しないでしょう。
地上の場合、射た矢は途中から方向転換をして、矢の先端を下に向けて落ちて来ます。ところが、エレベーターの中で射た矢は方向転換をする事なく、羽根が下のまま落ちて来る筈です。なぜなら、矢はまっすぐ飛んでいるだけで、別に落ちているわけではないからです。矢がまっすぐ飛んでいるところを、エレベーターの床が矢を上回る速度で追いかけて来て、矢の羽根に追いつくだけです。従って矢の先端が下になって落ちて来る事はありません。このエレベーターの中での矢は、重力によって落ちているのではなく、単に、床に追いつかれているだけですから。重力のある中で射られた矢は、途中で方向転換をして先端を下に向けて落ちて来ますが、重力のないエレベーターの中では、矢は方向転換する事なく羽根が下のまま、床に捕捉されます。
《地上で射られた矢が重力により落下する事》と《加速度で以て引き揚げられるエレベーターの中で射られた矢が、エレベーターの床に捕捉される事》との間には、この様な違いがあるのです。地上から射出された矢は、引力によって引き戻されます。この時、矢の重心に近い先端が下になって落ちて来ます。重力の場合、射出力と引力との力関係でこういう現象が起きますが、力関係のないエレベーターの中では、この様な現象は起きないでしょう。単に、エレベーターの床に、矢が追いつかれるだけですから。従って、ここより、重力と加速度とは似ているようで違うのだという事が判って来ます。
見かけが似ているからと言って、同じとは限りません。 
(4) まとめ 
これらの例ではっきりする事は、光の曲がりは“見かけの重力”の方向とは何の関係も無いという事です。
光がまっすぐ進んでいる所を、物体が加速度または円運動でもって横切った、その為、物体の中にいる人には、光が曲がった様に見えた、ただ、それだけの事です。別に、重力で曲がったわけではありません。 エレベーターの場合、“見かけの重力”と“光の曲がり”の方向が一致していますから、見分けがつかないだけです。だから混同するのです。
そういうわけで、《光が重力で曲がる》という説も証拠不十分となります。 
■六 終わりに 
この様に、相対論とは、非常に誤りの多い説なのです、誤りに誤りを重ねた理論を創っています。ほとんどは、アインシュタインの思い込みと混同・早合点から成り立っています。 
 
特殊相対性理論のミス

 

特殊相対性理論のミスの出発点
アインシュタインの考えたことを図で示して、特殊相対性理論のミスを指摘しましょう。
上図のFig.1は物体の場合で、Fig.2は光の場合です。
いずれも共通の事象として、架台ACは図で右方向に速度vで等速直線運動しています。t秒後にA’Dの位置にきます。
いま、物体をAからCに投げると、架台の上に居る観測者は「AからCに物体は飛んでいった」と報告します。これが20世紀物理学および相対論の言う「等速直線運動は絶対静止と区別出来ない」ということです。
一方、これを紙面上から観測すると、物体はAからDに飛んで行きます。これがガリレオの相対性原理です。t 秒後の位置を書いてあるので、この三角形はどの長さもt 秒後となっていて、何の矛盾もありません。
問題はFig.2です。
1 AからCに向けてレーザーパルスを発射すると、Cには到達しません。なぜなら架台ACは動いているからです。しかし、アインシュタインは「等速直線運動は絶対静止と区別できない」としているので、「Cに行く」としています。ここですでにアインシュタインは間違っています。
2 しかも、紙面上から観測すると、「AからDに行く」としています。アインシュタインは「すべての物理法則は同等である」と考えたからです。これを「アインシュタインの特殊相対性原理」と言います。ガリレオの相対性原理を光にまで拡張したものです。しかし、レーザー光はAからDには飛んで行きません。
3 マイケルソン・モーレーの実験で使った光は球面波です。したがって、その光はDに届きます。しかし、Cに届く光と、Dに届く光は異なる情報を持つものです。当然時間的にも異なるものです。
ところがアインシュタインは、「t秒後に光はDに届く」としました。これが有名な「光速度不変の原理」と呼ばれるものです。vがいかなる大きさであろうとも関係なく、AD=ct だ としています。
以上でお分かりのように、Fig.1とFig.2は異なる物理現象であるにも関わらず、これを「同じ」として数式展開して、さまざまの矛盾をすべて「時間」を変えたり、「長さ」を変えたりして辻褄を合わせていくものが特殊相対性理論なのです。
特殊相対性理論の内容は近似的にはニュートン力学ですので、正しいような錯覚をしていますが、そのじつ本当は間違った理論です。
光速cによって「時間」を変えたり、「長さ」を変えたりするのは物理学ではないことを21世紀の人々に伝えませんか。

「あのアインシュタインがまさか間違っていただなんて信じられない。 ・・・ 」 じっくりと拝読しますと、やはり根本的な部分、すなわち「等速直線運動は絶対静止と区別できない」という20世紀物理学の根幹をなす考えに固執していることがよく分かりました。20世紀エレクトロニクスでは「区別できる」となっているので、この辺をもう一度詳しく説明いたします。

まず上図Fig.1物体の場合をじっくり考えてください。
AからCに向けて物体を投げた場合、投げた場所はAですね。 t秒後に受け取った場所はどこですか?
架台上の観測者は「Cだ」と答えます。基準系(ここでは紙面)を定義した観測者は「Dだ」と答えます。
すなわち、ACという架台上の観測者は自分たちが動いているか動いてないかは無関係に「物体はAからCに飛んでいった」と報告します。
このことは(ここが重要です)、A’からDに行ったことと等価的に同じです。
なぜなら“Aという場所”はt秒後はA’にあるのだから。また“Cという場所”はt秒後にはDにあるのだから。
これが20世紀物理学の「等速直線運動は絶対静止と区別出来ない」ということです。
Aで物体を投げたことは事実なのですが、A’で投げてDで受け取ったことと何ら変わらない事象です。これが何度も述べている「等速直線運動は絶対静止と区別出来ない」ということなのです。
“物体”の場合は“等速直線運動は絶対静止と区別出来ない”ですから、これは正しいです。20世紀物理学はこのようになっています。これがガリレオの相対性原理です。
これをそっくり光にまで拡張したのが「アインシュタインの特殊相対性理論」です。
次のFig.3光の場合Uをご覧になると、特殊相対性理論の間違いが一目瞭然だと思います。
Aポイントで球面波を発射して、t秒後の(もう一度言いましょう、“t秒後の”)波面はどこですか? 波面1ですか?波面3ですか? t秒後に“光源という物体”がA’にあるからと言って波面は「波面3」になるのですか?「そうだ。波面3だ」としているのが、アインシュタインの特殊相対性原理と呼ばれる仮設です。なぜアインシュタインがそう考えたかは、何度も述べているように「等速直線運動は絶対静止と区別出来ない」としているからです。“物体”と“光”を同じように扱っているのです。
さらに「架台AC系も光速度はc」、「定義した基準系(ここでは紙面)でも光速度はc」としています。これが有名な光速度不変の原理と呼ばれる仮設です。
だから、(もう一度言いましょう、“だから”)、AC=A’D=ctであると同時に、光速度cで球面波がAから“D”にt秒後に届いていることになってしまうわけです(トップページの有名なFig.1「L、vt、ct、光の直角三角形」参照)。“届きもしないものが届いていることになっている”のです。
この矛盾を逃れるためには、どうしても「時間」を変えなければなりません。「架台AC系と定義した基準系では時間が違うんだ」と。勝手に t とt’に時間の流れを変えて“届きもしない光を届いていることにした”のです。
または「運動系の空間は縮むのだ」と。
これが「アインシュタインの特殊相対性理論」です。
20世紀エレクトロニクスでは、波面1,波面2,波面3の区別が出来ます。「区別出来ない」などと言うと、エレクトロニクス技術者に怒られます。
根本的に間違った発想を正しいことにして、“時間”を変えたり“長さ”を変えたりして辻褄を合わせてニュートン力学を書き換えてきたのが特殊相対性理論です。  
「時間」はどの系も同じで、「相対光速度」が受光系の動きで変わるというのが、正しい物理学でしょう。 
ハンス・ライヘンバッハ
上記説明で、“実際には届いてないものが届いていることになっている”ことがお分かりになったでしょうか。
こういうミスから光速度が世の中で一番早い速度であることになってしまうのです。1ナノ秒でたったの30cmしか進まないスピードが世の中の最高速度だと規定することになるのです。
ここで、『相対性理論の誕生』(ハンス・ライヘンバッハ著)の中から、興味ある記述をご紹介しておきましょう。このハンス・ライヘンバッハはアインシュタインに教わった受講生5人のうちの1人だったそうです。ご存じかも知れませんが、事務員であったアインシュタインは学校の先生になりたい一心で、例の一般相対性理論を作ったそうですね。
『二つの異なった地点A、Bがあるとする。光信号が12:00にAから発射されるとする。この信号はBで反射されて、Aに12:10に戻ってくるとする。この場合、いつBに光信号は届いたのか。アインシュタインによれば、これは実験では決められない。定義によってしか決めることができない。アインシュタインによれば、Bに光が到達するのは12:00から12:10までの時刻であれば、どの数字を選んでも良いのである。
そこで、光がBに届いた時刻を12:02だとしよう。いま、距離ABを進むのに、光より3分少なくてよい信号 X があると仮定しよう。そうすると、光がBに12:02に到着するとき、もう一つの信号 X は、それより3分早いから11:59に届くことになる。両方の信号はちょうど12:00にA地点から送り出されたのに、これは奇妙である。信号 X はAを出る前にBに届いていることになる。同時性を規定すると矛盾に陥る。しかし、それは「光より早い信号 X が存在する」という仮定を設けたからである。アインシュタインによれば、こうして光より早い信号は存在しないのである。』
こういう説明を読んで、「おかしい」と思ったのは世界中で私だけだったようです。何が「おかしい」かと言うと、前半は物理学ではないのでお話になりませんし、後半は「光が X より先に12:02にBに到達していることを先に決めてから“論理的”」に話を進めているのです。分かりますか?私の言っていること。
アインシュタインという人は、こういう論理展開つまり、先に「こうなる」と断定してから、巧みに話を持っていく、あるいは巧みに数式展開をすることの上手な人だったようです。人々がハマリ易い論法です。
相対性理論の教科書には、こういう論法がよく見受けられます。たとえば、有名な E=mc2 を導出する部分ですが、最もポピュラーなやり方はローレンツ変換を使ってニュートン力学を書き換えて、近似式から適当に項を捨てて、「これが静止エネルギーだ。」とするものですが、そうではない計算では、E/c=運動量というのがあります。
ある相対論の教科書の一部をご紹介しますと、 『E/c=Mv ここで、・・・・途中略・・・M=m(L−x)/x、・・・途中略・・・x=vt=L−ctを代入して、 E=mc2  を得る。』 というのがあります。
または、別の相対論の教科書では 『E/c=mc ゆえにE=mc2 である。』 というのもあります。
私も30年以上、こういった計算を正しいと信じていましたが、注意深く考えると「おかしい」ことに気が付きます。
それは「光のエネルギーをEとする。光には運動量がある。ゆえにE/cは運動量である。」とする論法です。
「光には運動量がある」というくだりは実験から確かめられているので正しいです。しかし、「E/cは運動量である」は正しいですか?
光のエネルギーには熱エネルギーや運動エネルギー、網膜を刺激する量子エネルギーE=hν(ハー・ニュー)などがあります。それを光速cで割ったら、なぜ運動量なの?
話を飛躍させて、しかもその根拠のない飛躍した部分を「正しい」と決め込んで計算をすれば、目的の式に容易に持っていけるのは当然です。上述した「ハンス・ライヘンバッハの論法」となんら変わらないです。
相対性理論の恐ろしさは、こういった屈曲した論法を「正しい」と人々に植え付ける魔力にあるように思われてなりません。 
追想
私は少年の頃、アインシュタインに憧れ、畏敬の念を持ってアインシュタインを尊敬していました。15,16歳の頃です。その頃、私はアインシュタインの言うように「光のスピード以上にはならない」と考えました。なぜそのように考えたかは、少年ながら次のようなことでした。
もし、2機のロケットA、Bがあり、互いに反対方向に光速に近い速度で飛んでいった場合、ロケットAとBは光速以上のスピードで離れるため、互いに通信は出来ないからだ、と思ったのです。
光のスピードつまり電波のスピード以上の早さで離れて行くのだから通信は不可能だと思ったわけですね。通信が不可能ということは、そういうものは無いということと同じです。互いに相手のロケットの存在を確認するためには、どうしても光速以下のスピードでなければ不可能ですね。そのように、たかし少年は考えたわけです。
こうしてアインシュタインの速度の加法則つまり光速以上にはなり得ない式を正しいとして、長年の間、相対性理論を信じてきたのです。
しかし1993年に(c−Vcosθ)を発見したとき、「それはちょっとおかしい」ということに気が付きました。ロケットA、Bがたとえ光速以上の早さで離れて行っても、たとえば1.5cのスピードで離れて行っても、「通信は出来る」と気が付いたのです。なぜかと言うと「光速は一定」だからです。片方のロケットのスピードが光速以下であれば、信号(光/電波)は届きます。もう片方のロケットも同様です。光速以下のスピードであれば信号は届きます。つまりAとBの相対速度がたとえ1.5cであっても通信は可能です。
もし光速がロケットの運動に依存するのでしたら、たかし少年の考えたことは正しいでしょう。でも、マイケルソン・モーレーの実験をじっくり研究すると、光速は一定であることが分かったし、さらに20世紀エレクトロニクスで“光速は光源の運動には依存しない”(つまりベクトル合成されるべき性質のものではない)ことがはっきりと証明されているので、もはや
たかし少年の考えは通らないです。
これは言うまでもなく、アインシュタインの速度の加法則は破綻していることであり、相対論の崩壊を意味します。
もしロケットAが(またはロケットBが)、光速以上で飛ぶと、光を(電波を)使った通信は不可能です。なぜなら光(電波)は届かないからです。しかし、そういう事態を経験するのは困難だと思います。というのはロケットは光速になった瞬間に大爆発する可能性があるからです。この件は小生のホームページ別項で述べました。
もし仮に500年後、1000年後に人類が何らかの方法で、光速を越える瞬間を克服できれば、光速以上のスピードで宇宙旅行できるようになるやも知れませんが、それは夢として21世紀の私たちとしては心の奥にとどめておくことにしましょう。
いずれにしろ、ロケットAとBの相対速度が光速を超えても何ら不都合はないことが(c−Vcosθ)によって明らかになったと思います。いかがでしょうか。 
「L、vt、ct、光の直角三角形が元凶」
一般の人々には難しい数式ですが、専門に相対論を勉強した方には、ご理解できる特殊相対性理論の出発点になった式を、ここでご紹介しておきます。
何度も述べていますトップページFig.1「L、vt、ct、光の直角三角形」については、こういう三角形は数学的にも物理的にも存在しないわけで、その図形証明を上記Fig.2やFig.3で示しました。
この存在し得ない三角形(数式でいうと、L2+v2t2−c2t2 =0 は不変であるというアインシュタインの考え)から、特殊相対性理論の基礎になった次の方程式が考え出されました。
ds2=dx2+dy2+dz2−c2dt2 を不変とする。ここで、4次元座標(x、y、z、ict)軸のうち、dy=0、dz=0とすれば、  ・・・ を不変とする。 (ただし、この式そのものはアインシュタインが考え出したものではなく、エディントン卿の著書「THE MATHEMATICAL THEORY OF RELATIVITY」(CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS 1923)から引用したものです。)
こうしてルーツを探れば、直角三角形の三平方の定理からローレンツ変換が導き出され、徹底的にニュートン力学を書き換えて行くことになったのですが、物理学として正しいことをやってきたのか、真剣に考え直してください。
もう一点、重要な事は、1905年のアインシュタインの論文を今一度じっくりと注意深く読み直すことです。現代のハイテク時代から見ると、「それは間違っているよ」と指摘できる部分が至る所に見受けられます。
特に見逃さないで読みたいのは、当時25歳のアインシュタインが数学や物理学にうとかった事実です。たとえば「電磁過程の起こる真空の一点に1つの速度ベクトルを仮定しなくてもよい」という記述があることです。これは数学と物理学の破棄を意味します。ニールス・ボーアが相対論に反対していた理由が私にはよく分かります。 
物理法則の不変性
アインシュタインの特殊相対性理論のもとになっている「特殊相対性原理」という仮設は、光も物体と同様の運動法則に従うべきだという要請ですが、これはもう一つの相反する要請「光速度不変の原理」という仮設とともに、数学的には「あらゆる物理法則は、あらゆる慣性系に対して不変形式に保たれるべきである。そのためにはガリレー変換は破棄してローレンツ変換を採用せよ。」とするものです。
こういう言葉の説明ないし要請は、一見妥当性のあるように聞こえますが、注意深く勉強すると、「光速度だけは絶対に相対的なものではなく、一定不変値cであることを前提に数学展開せよ。」という要請に他なりません。
例えば、1次元表示された2つの座標(慣性系)がある場合、
x=ct    x’=ct’
であることを絶対的な前提とし、「絶対に光速度はc一定」であり、「時間が変わるのだ」として数学展開せよとしているわけです。
しかし「あらゆる物理法則は、あらゆる慣性系に対して不変形式に保たれるべきである。」という要請はガリレー変換で成り立っていることを理解する必要があります。
例えば上の例で、相対光速度が変化する式
x=ct    x’=c’t
でも、きちっと物理法則として不変形式に保たれています。相対光速度が c’=c−v になったら、物理法則ではないとは言えないのです。
1例を示しますと、マックスウェル電磁方程式を解くと、波動解の一つ、
E=Asin{(2π/λ)・(x−ct)} が得られますが、これをx’軸にガリレー変換して、
x=x’+vt’    t=t’
を代入すると、 E’=Asin{(2π/λ)・[x’−(c−v)t’]} ですから、(c−v)=c’ とおけば、
E’=Asin{(2π/λ)・(x’−c’t’)}
となり、物理法則は不変形式に保たれているのです。これを波動解に持つ方程式は、  ・・・ であり、きちっと物理法則の不変性を保っています。
したがって、「光速度はいかなる座標系も絶対にcでなければならない。」という理由にはならないのです。
よく知られているようにニュートン力学はガリレー変換に対して不変形式です。同時にマックスウェル電磁力学もまた
相対光速度(c−Vcosθ)によってガリレー変換に対して不変形式を保つことをご理解ください。 
余計な追伸
“相対性理論”というと、“相対性”という言葉の魔力によって、どういう構造をした理論なのかを全く知らなくても、「正しい理論だ」と人々の脳裏に簡単に入り込みます。
なぜかというと、“相対性”というのは人々にとって非常に美しい響きを持つ言葉だからです。私たちは常に“相対的”に生きています。“相対的”に生きていかなければとてもやってられないからです。
「私は貧乏だ。でも世の中にはもっと貧乏な人もいる。我慢しよう。」これ、すなわち“相対的”です。
「私の家は小さい。でも世の中にはもっと小さな家に住んでいる人もいる。これで幸せだと考えよう。」これ、すなわち“相対的”です。
こうやって、私たちは常に“相対的”に生きています。そうしないと「とてもやってられない」からです。
街の通行人に「こんなに携帯電話が普及することは、すでに100年も前にアインシュタインの“相対性理論”によって予言されていたんだよ。」と言ってご覧。ほぼ全員が「えー、凄いね。アインシュタインは。」と答えます。
美しい響きを持つ “相対性理論”。言葉に惑わされないようにしましょう。 
 
GPSは特殊相対性理論や一般相対性理論の墓穴を掘ったのか

 

GPSが相対性理論の正しさを検証する実例になっているらしいということは、リサ・ランドールの本を読んで知った。「ワープする宇宙」という本である。この中に、「第5章 相対性理論――アインシュタインが発展させた重力理論」という部分がある。
この問題は、アインシュタインの特殊相対性理論の論旨に、本質的な誤りを見出した者にとっては、目の上のたんこぶのようなものだった。理論的に「ああだ、こうだ」と反論しても、その理論が正しいという証拠のようなものを見せつけられたら、何も言えなくなってしまう。ところで、この問題には、一つ盲点があるかもしれない。これまで誰もが見落としていた視点というようなものだ。私は、これを調べてみようと考えた。
リサ・ランドールの本の第5章の、「最後に」という節では、「一般相対性理論」という言葉のほかには、「そのほかの一般相対論効果によるずれ」という言葉や、「相対性理論」という言葉しか表れていない。これでは、はっきりしない。
私は図書館に行って、GPSのことを取り上げている、相対性理論の本を探して、何冊かを借り出した。しかし、これらの本の中には、私が知りたいと思っていたことの情報は書かれていなかった。私が知りたいと思っているのは、GPSの時計の補正に、一般相対性理論ではなく、特殊相対性理論がどのように利用されているかということである。どこかで、これらが共に利用されているというようなことを読んだ気がするのだが、その出典を思い出すことができないのだった。
ふと、「インターネットで検索してみれば、何か出てくるかもしれない」という考えが思い浮かんだ。検索のためのキーワードは「GPS」と「Special Relativity」でよいはずだ。こうして、いくつかの英文による資料ページを見つけ出した。それらの中で、もっとも影響力のありそうな資料について、厳密な内容を理解するために、日本語へと翻訳することにした。それは、私のホームページにある、「現実世界の相対性理論 GPSナビゲーションシステム」というものである。ここには、私の知りたかった情報が、はっきりと述べられている。
まずは、「現実世界の相対性理論 GPSナビゲーションシステム」の中の、要点をまとめよう。それは、特殊相対性理論の予測により、「1日につき7マイクロ秒遅れ」、一般相対性理論の予測により、「一日に45マイクロ秒だけ先に進む」から、「こうした二つの相対論的効果の組み合わせ」によって、一日につき「およそ38マイクロ秒だけ (45−7=38)、より速く時を刻む」ということである。
このことについて何も知らないで聞いていると、なるほど、と納得してしまいそうな説明である。しかし、これはおかしい。何がおかしいのかというと、一般相対性理論の予測値と、特殊相対性理論の予測値とが、それぞれ別々の方程式で計算されて、その結果としての数値を、単純に加算して補正値を求めているという点だ。
アインシュタインは特殊相対性理論と一般相対性理論のネーミングを採用するとき、区別する要因として、考えようとする対象や座標系の、運動状態を考えている。特殊相対性理論では、互いに「ある速度」をもっている対象や座標系のことだけを考えており、一般相対性理論では、互いに「ある加速度」をもっている対象や座標系のことを考えている。そして、特殊相対性理論に組み込まれている「速度の項」にゼロを入れると、この理論がニュートン力学へと収束するように、アインシュタインは、一般相対性理論に組み込まれている「加速度の項」にゼロを入れると、特殊相対性理論へと収束するという条件を考えている。はたして、そのようになっているのかどうかということは、私には、よく分からないが、これらのプランニング図式は論理的であり、分かりやすい。
ニュートン力学 (NM)と特殊相対性理論 (SR)の関係を考えると分かりやすい。特殊相対性理論に現れるローレンツ変換の式には、γ (もしくは、アインシュタインの原論文ではβ) の記号であらわされる項に、互いの移動速度v が含まれている。ここでv = 0 とおくと、γ=1 となって、これが掛けられている数式が、ニュートン力学のものとなる。このような関係にある式を利用して、意味を解釈するときは、v が0 の値か、0 でない値かということに注意して、場合分けをする必要がある。相対性理論の式として、v に0 ではない何らかの値を入れて計算したときは、それを適用した対象の現象に対して、もう一度、v に0 を入れたニュートン力学の式を用いて、それらの結果を、単純に加算するなどということは、決してできないはずである。
ニュートン力学 (NM)と特殊相対性理論 (SR)について考えた、この関係を、特殊相対性理論 (SR)と一般相対性理論 (GR)の関係について考えることができる。このとき、そのような論理関係を条件づけるのは、速度v ではなく、加速度a である。一般相対性理論では、重力加速度g のことが主に考えられてゆく。何らかの加速度をもっている座標系どうしのことを、特殊相対性理論では取り扱うことができないという懸念を、アインシュタインは何年も思いつづけて、一般相対性理論を生み出そうとした。一般相対性理論について論じられた文章を読んでくと、アインシュタインは一般相対性理論 (GR)の加速度が0 になったとき特殊相対性理論 (SR)に収束すると、条件づけているところがあるが、この条件が、どのように組み込まれているのか、私には、よく分からない。アインシュタインは、これらの表現とは別のところで、「あまりに複雑になるので、しばらく特殊相対性理論を無視しよう」と述べている。一般相対性理論の原論文には「特殊相対性理論の」という言葉が何度も現れるのだが、それについての「式」が利用されている痕跡がない。アンイシュタインは、「ニュートン力学の世界」のことを、「特殊相対性理論の世界」と呼び変えて同一視しているように思える。すると、一般相対性理論は a = 0 のときに特殊相対性理論を含んでいるのではなく(SR 含む●— GR)、直接ニュートン力学を含んでいる (NM 含む— GR) ということになる。確か、一般相対性理論の式を導くときに、何らかの未定係数を決めるため、ニュートン力学に所属する式 (ポアッソンの式だったか) を利用していたようだ。一般相対性理論という理論式の集合は、内部にニュートン力学系の式を含んでいるのである。しかし、特殊相対性理論の式を含んでいるのかどうかは、よく分からない。
一般相対性理論が、完全な整合性を持っているのかどうかということは、ここでは深く追求しないでおこう。一般相対性理論 (GR)が特殊相対性理論 (SR)を含み、その特殊相対性理論 (SR)がニュートン力学 (NM)を含んでいる (NM 含む—- SR 含む—GR)、とするか、一般相対性理論 (GR)は特殊相対性理論 (SR)を含んでいないが、ニュートン力学 (NM)を含んでおり、特殊相対性理論 (SR)もニュートン力学 (NM)を含んでいる (GR—-含む NM 含む— SR) とするか、いずれにしても、これらの力学系は、ひとつの集合体となっているのである。
すると、このとき、一つの外部対象 x について、この力学系の集合体の中の、どこかの要素点に対応する式 g を適用し g(x) を得たとすると、この同じ外部対象 x について、この力学系の集合体にある、他の式 s を適用して s(x) とすることはできないはずである。仮想の場合分けをして、最後にどれか正しいものを選ぶために、g(x) と s(x) を別々に計算することはできるだろう。異なる外部対象 y があったとして、g(x) と s(y) を求めることもできるだろう。しかし、たった一つの外部対象 x に対して、異なる式 gと s を想定して、これらの計算を行って g(x) と s(x) を求め、そして、これらの値をg(x) + s(x) のように加え合わせて利用するというのは、どう考えても、論理的ではない。これは数学的には成立しない式なのである。
GPSの原子時計において、一般相対性理論 (GR)の予測値と特殊相対性理論 (SR)の予測値を求めて、それらの和を計算して利用しているという状況は、上記の数学的な説明の、g(x)+ s(x) に対応している。このときの x とは、軌道上にあるGPS衛星の原子時計である。これは、数学的な矛盾である。双子のパラドックスとかのような、混乱のもとに生まれた矛盾というものではなく、非常にシンプルな、基礎的な論理における矛盾なのである。
GPS人工衛星に装備された原子時計が、地上局の同じ原子時計に対して、何らかの補正が必要だということは、事実として存在するのだろう。しかし、このようなわけであるから、GPSの時計の補正に関して、一般相対性理論と特殊相対性理論の、それぞれの予測値を加算して利用するということは、これらの相対性理論の検証になるどころか、逆に、これらの相対性理論のどこかに、片方か、それとも双方に、何らかの、決して論理的ではない、謎のメカニズムが潜んでいるということなのだ。これは、ひょっとすると「墓穴 (grave)」になるかもしれない。おそらく、特殊相対性理論のほうは確実に。
追記。図書館で借りた本を学習して、一般相対性理論のアインシュタイン方程式の解の一つである、シュヴァルトシルト計量を使って、GPS衛星の原子時計の補正値を計算する方法を学んだ。これにならって、自ら計算を行うことにより、仮に相対性理論の予測値による補正を行わなかった場合について調べた。そして、GPS衛星の時計が一日にずれる値を求めて、それを距離に換算した。「現実世界の相対性理論 GPSナビゲーションシステム」では、その値が10kmを上回ると書いている。しかし、私が一つずつ段階を踏んで計算すると、その値は、わずか3cmに過ぎないことが分かった。どうやら、一日の秒数である86400という数字を、うっかり二度掛けてしまって、10kmを超える値になってしまったようだ。リサ・ランドールも、著書の中で、この10km値を引用している。はたして、この値が10kmなのか3cmなのか、できれば、ランドール教授にも追計算してほしいものである。
 
GPSの原子時計は特殊相対性理論と一般相対性理論で補正できるか?

 

このページのタイトルは、すこし控え目なものであるが、英文で記したタイトルのほうは、かなり過激なものである。直訳してみると、「GPSは特殊相対性理論か一般相対性理論の、あるいは両方の、墓穴を掘ったかもしれない」ということになる。実は、先に、こちらのタイトルができて、これを意訳して、上記の日本語のタイトルとした。
GPSが相対性理論の正しさを検証する実例になっている (らしい) ということは、リサ・ランドールの本を読んで知った。「ワープする宇宙」という本である。リサ・ランドールは、このような知識の本であるにもかかわらず、数式というものを、まったく使っていない。完全な自然言語文だ。このような話術の内容で、大学の講義における導入部分が語られ、それから具体的な数式などが出されて説明されれば、きっと学生たちは興味をもって学んでゆくことだろう。このような、自然言語だけで理論物理学の最先端の知識が語られた、600ページ以上もある本の中に、「第5章 相対性理論――アインシュタインが発展させた重力理論」という部分がある。
その「特殊相対性理論」の節では、他の高名な科学者たちと同じように、アインシュタインの特殊相対性理論における「二つの仮定 (あるいは要請もしくは仮説)」のことが、間違って、書かれている。こうである。「物理法則はあらゆる慣性系において等しい」と「光の速さ (c) はどの慣性系においても等しい。」まあ、よくここまで簡略化したものだ。これでは「仮定」てはなく「結果」である。アインシュタインの特殊相対性理論における「二つの仮定」は、アインシュタイン以前の、ローレンツやポアンカレに代表される科学者たちの研究と、アインシュタインの研究とを区別する、重要な要因であるのだけれど、現代物理学の最先端にいる科学者たちが、このような表現を信じてしまうのだ。これでは、物理学における論理性が疑われてもしかたがない。
特に光速度不変の仮定のほうは、本来もっと微妙な表現になっていて、そこでは、光速度が計測される参照系としての「定常系」という言葉が組み込まれて、光が出るときの発光体が、その定常系で静止していても、運動していても、それらから出た光の速度は、同じ値となるという仮定が語られている。発行体が所属する座標系を、定常系 (静止系) と運動系と考えて、これらをまとめて慣性系と呼びたいのだろうが、このような簡略化によって、問題の本質的な部分 (光速度を測定する参照系をどこにとるかということ) が落ちてしまうということに、誰も気づいていないらしい。
それは、アインシュタインにも言えることである。アインシュタインの特殊相対性理論が、誤って世界中の科学者に受けいれられてしまったのは、この仮定の理解が不十分であったということに、ひとつの原因がある。アインシュタインも自分で混乱させてゆくのだが、光を生み出す物体が所属している座標系というものと、光の速度を測定する参照系としての座標系が、いつのまにか、誰によってか分からない間に、まったく区別されなくなってしまうのである。アインシュタインは、特殊相対性原理の原論文で記した、§2にある「光速度不変の要請」の定義に、きちんと書いているが、ここでは、光速度は「定常系」で測定されると仮定されているのである。ずいぶん、このページの論旨を、別のところへと流してしまった。この問題については、もっと資料を整理してから、詳しく語ることにしたい。これも、かなり重要な問題である。
「物理法則はあらゆる慣性系において等しい」という、「相対性原理の要請」の表現にも、いくらか問題がある。おそらく、まだ確実な論証の骨子をまとめていないが、ここにも「その物理法則を記述する観測者の視点もしくは座表系」という要素が落ちてしまっている。これについても、いくつか説明のためのアイディアがあるが、詳しく説明しようとすると、このページの論旨から離れてしまうので、このあたりで切り上げておくことにしよう。
リサ・ランドールの本の「第5章 相対性理論――アインシュタインが発展させた重力理論」へと戻る。この章の最後の節「最後に」のところに、GPSのエピソードが語られている。これらのエピソードは、この章の導入部分でも使われており、最後のところでも触れることによって、修辞的な調和を図ろうとしているようだ。本論へと戻ろう。
リサ・ランドールの考えを簡単に要約すると、GPSで使われている時計を、相対性理論の予測に基づいて補正しないと、GPSの精度を、現代のレベルにまで引き上げることはできなかったということであろう。この問題は、アインシュタインの特殊相対性理論の論旨に、本質的な誤りを見出した者にとっては、目の上のたんこぶのようなものだった。理論的に「ああだ、こうだ」と反論しても、その理論が正しいという証拠のようなものを見せつけられたら、何も言えなくなってしまう。
最近、水だけをエネルギー源として走る車が開発されて、それに対して、ある物理学者たちが、そのようなことは理論上ありえないと反論していたが、実際に、そのような車ができていて、実際に水だけで走っているのだから、間違っているのは、明らかに物理学者たちのほうである。そのような車のエンジンにあるメカニズムには、永久磁石が用いられているというところが盲点の一つになっている。詳しいことは企業秘密ということになっているが、この永久磁石による、わずかなエネルギー源を利用して、何らかの触媒の作用も組み込んで、水を酸素と水素に分解して、その水素を利用するというのだから、これはこれまでの意味による「永久機関」ではない。とうとう、このような技術が開発されて、世の中に出てくるようになったのだ。この世界は大きく変わってゆくに違いない。
このことの、逆のこと (あるいは同じこと) が、「特殊相対性理論や一般相対性理論」と「GPSの時間補正」で成り立つかもしれない。理論の予測と、それの検証実験とが、うまく整合したら、その理論は確かなものになってゆく。
ところで、この問題には、一つ盲点があるかもしれない。これまで誰もが見落としていた視点というようなものだ。アインシュタインの特殊相対性理論の論旨には、このような盲点が見つかった。まだ公式に認められていないが、それは確かな「誤り」のように見えている。それは、難しい理論式のところにあるのではなくて、ごくごくあたりまえのような、初歩的な式の用い方という、一見すると「易しく見えるところ」にあった。このGPSについての盲点も、よく似た状況のところに隠れているようだ。
リサ・ランドールの本の第5章の、「最後に」という節では、「一般相対性理論」という言葉のほかには、「そのほかの一般相対論効果によるずれ」という言葉や、「相対性理論」という言葉しか表れていない。ここでも、言葉の抽象化が組み込まれていて、問題のありかが隠されてしまっている。おそらく意図的なものではなく、この問題について知らないか気づいていないので、そうしているのだろう。
私は図書館に行って、GPSのことを取り上げている、相対性理論の本を探して、何冊かを借り出した。その一つは「時空の力学」 (細谷暁夫著/岩波書店刊/2002.04.15) という本であり、他に「一般相対性理論入門 ブラックホール探査」(Edwin F. Taylor・John Archibald Wheeler 著/牧野伸義訳/株式会社ピアソン・エデュケーション刊/2004.12.25) も借りた。これらの本から、アインシュタインの一般相対性理論の結論でもある、アインシュタイン方程式というテンソル形式の微分方程式の解の一つである、シュヴァルツシルト (Schwarzschild) 解という式が、GPSの時計の補正に利用されていることを知った。これらの本を読むと、このような式を使っての計算というものが具体的に分かるようになる。なかなか良い本だ。自然言語での説明だけでは、ものごとの本質部分が見えてこないことがある。数式を使って発展してきた分野のことを理解しようとしたら、やはり、それらの数式についても知らなければならないのである。
しかし、これらの本の中には、私が知りたいと思っていたことの情報は書かれていなかった。私が知りたいと思っているのは、GPSの時計の補正に、一般相対性理論ではなく、特殊相対性理論がどのように利用されているかということである。どこかで、これらが共に利用されているというようなことを読んだ気がするのだが、その出典を思い出すことができない。それで、その出典を探しているのであるが、これらの本には、肝心なところが記されていないのだ。
マクスウェルの電磁方程式が、特殊相対性理論へと及ぼした影響のことを、いろいろな本を探し出して、ベクトル記号なども使って、数式を理解しながらノートにまとめていたときに、ふと、「インターネットで検索してみれば、何か出てくるかもしれない」という考えが思い浮かんだ。検索のためのキーワードは「GPS」と「Special Relativity」でよいはずだ。こうして、いくつかの英文による資料ページを見つけ出し、プリントアウトして、それらを読むことにした。そして、それらの中でも、もっとも影響力のありそうな資料について、いつものことだが、厳密な内容を理解するために、日本語へと翻訳することにした。
それが、私のホームページにある、「現実世界の相対性理論 GPSナビゲーションシステム」というものである。このようなページだけを見ると、私がアインシュタインの相対性理論を信奉する人間のように思えるかもしれないが、そうではない。それはそれで、中立的な資料として、日本語訳を公開することにしているのである。これらの情報を、勝手に切り貼りするのではなく、オリジナルの情報の全体像を見た上で、論旨に必要な部分を取り出しているだけだということを、はっきりと示しておきたいからだ。
この「現実世界の相対性理論 GPSナビゲーションシステム」には、私の知りたかった情報が、はっきりと述べられている。このウェブサイトのページに書かれていることが本当のことだとしたら、アインシュタインの特殊相対性理論か一般相対性理論のどちらか、あるいは、その両方が、まてよ、もう少し控えに言うと、特殊相対性理論の式と、シュヴァルツシルト解の式の、どちらか、あるいは、両方が間違っていることになるのである。そのことを象徴したのが、このページのタイトルの、「GPSの原子時計は特殊相対性理論と一般相対性理論で補正できるか?」(GPS might dig a grave of Special Relativity or of General Relativity perhaps of both) ということになる。もっと詳しく、さらに具体的に説明することにしよう。
まずは、「現実世界の相対性理論 GPSナビゲーションシステム」の中の、このページの論理的な展開のために必要な部分について説明しよう。わずかな量であるので、まず、その部分を、ここに引用しよう (下記の色違い文字の部分)。ただし、原文にあった ( ) の注釈は削り取った。
地上にいる一人の観測者は、人工衛星群が、それらに対する相対的な動きの状態にあるのを見ることになるので、特殊相対性理論は、それらの時計群がより遅く時を刻むと見るべきだと、予測している。特殊相対性理論は、人工衛星に乗っている原子時計が、地上の時計群より、それらの相対的な動きの、時間遅延効果のために、より遅く時を刻む割合というものがあるので、1日につき7マイクロ秒遅れるだろうと予測している。
さらに、人工衛星群は地球の上の軌道高度にあり、そこでは、地球の質量に由来する時空の曲率は、地球表面での曲率より、小さい。一般相対性理論は、質量のある物体に、より近い時計が、より遠くの位置に離れている時計に対して、より遅く時を刻むようにみえるだろうと予測している。そのようなことなので、地球の表面から見たとき、人工衛星にある時計群は、地上にある同じ時計群に対して、より速く時を刻むように現れる。一般相対性理論を使った計算は、それぞれのGPS衛星の中にある時計群が、地上に置かれている時計群より、一日に45マイクロ秒だけ先に進むだろうと、予測している。
こうした二つの相対論的効果の組み合わせは、それぞれの人工衛星に取り付けられた時計群が、地上にある同じ時計群に対して、およそ38マイクロ秒だけ (45−7=38)、より速く時を刻むだろうということを、意味している。
要点だけをまとめると、特殊相対性理論の予測により、「1日につき7マイクロ秒遅れ」、一般相対性理論の予測により、「一日に45マイクロ秒だけ先に進む」から、「こうした二つの相対論的効果の組み合わせ」によって、一日につき「およそ38マイクロ秒だけ (45−7=38)、より速く時を刻む」ということである。
これが「墓穴 (grave)」の部分である。これが相対性理論の「検証」ではなく「命取り」であると、私が主張するのは、これらの数字のことではない。そのような数字をチェックできるような状況に、私がいるわけがない。問題は、それらの数字の値にあるのではなく、「相対性理論の予測値」と「一般相対性理論の予測値」とが、加算されて、一つの補正値というものが求められて、それが実際に役立っているという点にある。だとしたら、このような操作は、完全に正しくない。どこかに何らかの誤解があるか、何らかのトリックが潜んでいる。なぜなら、「一般相対性理論」と「特殊相対性理論」は、同時に一つの対象 (ここではGPS衛星の原子時計群) に適用することができないものだからだ。
もっと簡単に言うと、一般相対性理論は、加速度をもって運動する座標系の間での理論であり、特殊相対性理論は、加速度をもたない慣性系と総称される座標系の間での理論なのである。仮に一般相対性理論が、加速度をもたない座標系間の法則を含んでいたとしても、それが適用できるのは、ただ一回きりなのである。GPSに装備されている原子時計の状況が、一般相対性理論の適用を受けるとしたら、それは、特殊相対性理論の適用外のことになる。逆に、それに特殊相対性理論が適用されたら、一般相対性理論の適用はできないはずだ。ひょっとすると、重力加速度に関してだけ一般相対性理論のシュヴァルツシルト解を適用して、軌道を移動する速度に対しては特殊相対性理論を適用したというのだろうか。そんなことができるという理論がどこかにあって、それが保障しているというのだろうか。たとえ、そこまで譲歩しても、軌道を回る人工衛星は、円運動もしくは楕円運動を行っているので、慣性系ではなく、明らかに加速度系であるから、特殊相対性理論は、完全に適用できない。この視点に関しても、上記ウェブサイトの記述内容は間違っている。
GPS人工衛星に装備された原子時計が、地上局の同じ原子時計に対して、何らかの補正が必要だということは、事実として存在するのだろう。しかし、その原因を、一般相対性理論だけで説明することができなくて、特殊相対性理論も加えて説明しなければならないというのなら、少なくとも特殊相対性理論は正しくないし、一般相対性理論も正しくないという可能性が生じる。あるいは、仮に一般相対性理論が正しいとしても、そのシュヴァルツシルト解では不十分であるということなのかもしれない。
このようなわけであるから、GPSの時計の補正に関して、一般相対性理論と特殊相対性理論の、それぞれの予測値を加算して利用するということは、これらの相対性理論の検証になるどころか、逆に、これらの相対性理論のどこかに、片方か、それとも双方に、何らかの、決して論理的ではない、謎のメカニズムが潜んでいるということを示している。
はたして、GPSの原子時計は、本当に特殊相対性理論の予測と一般相対性理論の予測で、補正できるのだろうか? 
 
重力場

 

日常的な経験に限れば、力を伝達するものが何も無いのに作用が及ぶという事は、もちろんあり得ません。しかし、太陽や惑星などの天体は、見たところ何も存在していないと思われる空虚な空間の中で、互いに遠く離れて存在しているにもかかわらず、明らかに互いに影響を及ぼし合っています。天才ニュートンにも分からなかった、この引力作用のメカニズムは、可視的世界に存在する物理学最大の謎と言っても良いでしょう。
特殊相対性理論の一般化としての『一般相対性理論』については、前『等価原理』の節で、理論が正しくないことを指摘しました。ここでは重力理論としての『アインシュタインの一般相対性理論』について簡単に触れておきましょう。 
1 統一理論
現在物理学の分野には、巨視的な世界(重力)を説明する“一般相対性理論”と極微の世界(電磁力と、二つの核力)を説明する量子論という、それぞれ独立した二つの有力な理論が存在するとされています。統一理論というのは、簡単に言えばこの二つの理論を一つに統一することで、言い換えれば“四つの力”のすべてを、一つの理論で説明しようという試みです。
原理的に異なっている、別の表現をすれば、相容れない部分を持った二つの理論が存在するのはおかしいわけですから、両者は統一されるか一方が否定あるいは大きく修正されなければなりません。
統一理論への挑戦は、当然アインシュタインも試みていたようですが、成果を上げることはできませんでした。その後も様々な研究がなされていますが、いずれも成功の見通しはたっていません。
最大の原因は、巨視的な世界(重力)を説明する“一般相対性理論”に誤りがあるからです。と言うより、そもそも理論の構想(理論が述べるメカニズムのイメージ)が良くありません。 
2 近接作用と場
ファラデーは、一種の遠隔作用的な働きを示す電磁相互作用を近接作用に置き換える方途として、空間内に何かが“励起”された状態としての“電磁場”という概念を導入しました。
アインシュタインが提示した重力作用の説明は、基本的にはこのファラディのアイデアにそのまま倣ったものです。すなわち、引力作用の作用原理について、アインシュタインは、《質量の存在が、周囲の空間に何か物理的な実在物を励起した状態を“重力場”と名付ける、その重力場が場の中にある質量体に働きかける》作用が“重力作用(=引力)”であると説明しました。
《質量の存在が直接周囲の空間を歪ませる》という表現に変えて説明している場合もありますが、いずれにしても、そういった状態の存在が直接確認できないという意味では、エーテル仮説と大差ありません。
《質量の存在が、周囲の空間に物理的な実在物を励起した》あるいは《質量の存在が、周囲の空間を歪ませた》状態が“重力場”であるというイメージは、逆に言えば、そこ(重力場)から質量を取り除いたとき、後にいわゆる“慣性空間”が残るということになります。すなわち、質量の存在が周りの空間に何かを励起する、あるいは空間を歪ませるという発想は、何かを収納し得る容器としての機能だけを持った“純粋空間”というものが、質量体や時間とは独立して存在することを前提にした概念だと言えるでしょう。
“純粋空間”は、私たちが古から慣れ親しんだ空間イメージそのものです。そこに〈励起された物理的な何か〉が存在すると述べることは、正体のよくわからない存在物(エーテル)の存在を認めることと本質的には同じです。 
3 万有引力の法則式との矛盾
重力の作用というのは、対等な二つの質量の間で起きるのですから、仮にアインシュタインの説明のように《質量の存在が周りに物理的な何かを励起し、それが他の質量体に働きかける》のだとした場合、その作用は二重に起きることになります。
すなわち、地球(質量m1)によって生じた重力場が、質量m2 の物体に働きかけるなら、地球も、質量m2 の物体が生じさせる重力場の働きを受けるはずです。そのことと
F = G(m1/r)×(m2/r) (G =万有引力定数)
という万有引力の法則式を考え合わせれば、各質量が励起する重力場の強さは、それぞれm1/r、m2/rで与えられると言うことになります。
これは実は“場”の概念との相性が余り良くないのです。つまり、均質に広がる三次元空間内に、一点から拡散する“影響力”(=空間内のある一点に存在するものによって生じる周囲の空間の各位置における作用の強さ(質量体が励起する物理的な何かの働き)が、存在物からの距離の二乗にではなく、距離に反比例することになるという図式、というか仕組みはいかにも不自然です。
一点を起源にして3 次元空間に拡散する、あるいは励起する何かがあれば、その何かの濃度は、たとえば点光源から発した光の拡散の場合のように、起源からの距離の二乗に反比例して薄まっていくと考えるのが自然でしょう。 
4 エネルギー保存則の観点から
地球表面の近くでは、自由落下する物体は、時間の経過と共に落下の速度を増していきます。つまりその物体が持つ運動エネルギーは時間の経過とともに増加します。
次の式は、その落下運動を記述した法則式です。
E =1/2(mv2)+mgh(1)
[ 但し、g は重力加速度、h は、速度0 の状態から落下を始めた物体の速度が に達した時点までに落下した距離、を表します。]
通常、物体の加速には、いわゆる“外力”が働く必要がありますが、重力による落下運動は、物体自身と地球の間の引力の働きによって起きていて、地球及び物体自身以外からの力(外力)は関与していません。しかもこの現象には、エネルギーの一形態である質量(この場合、地球及び物体自身の質量)の、変化は伴わないと考えられています。従って、物体が獲得する運動エネルギーがどこから、どのように供給されているかを明らかにする必要があります。
現在の物理学では、この問題については(1)式の第2 項に、mgh という形で記述された、いわゆる“ポテンシャル(位置のエネルギー)”という概念を用いて説明しています。
確かに地上にあるものを一定の高さまで持ち上げるためには、力を加えて仕事をする必要があり、そこで消費されたエネルギーは、対象物に対して高度を与えるためだけに消費されたように見えます。このことも、二つの物体間に働く引力の作用も、二つの物体の間に存在する空間的な隔たりも一種のエネルギーであると考えれば、スムーズに納得できます。
この解釈も《場》の理論同様、メカニズムを直接明らかにするものではありませんが、アインシュタインのアプローチより有効かも知れないので触れておきました。次章でさらに検討を進めます。 
 
相対性原理側面観 / 寺田寅彦

 


世間ではもちろん、専門の学生の間でもまたどうかすると理学者の間ですら「相対性原理は理解しにくいものだ」という事に相場がきまっているようである。理解しにくいと聞いてそのためにかえって興味を刺激される人ももとよりたくさんあるだろうし、また謙遜《けんそん》ないしは聞きおじしてあえて近寄らない人もあるだろうし、自分の仕事に忙しくて実際暇のない人もあるだろうし、また徹底的専門主義の門戸に閉じこもって純潔を保つ人もあるだろうし、世はさまざまである。アインシュタイン自身も「自分の一般原理を理解しうる人は世界に一ダースとはいないだろう」というような意味の事を公言したと伝えられている。そしてこの言葉もまた人さまざまにいろいろに解釈されもてはやされている。
しかしこの「理解」という文字の意味がはっきりしない以上は「理解しにくい」という言詞の意味もきわめて漠然《ばくぜん》としたものである。とりようによっては、どうにでも取られる。
もっとも科学上の理論に限らず理解という事はいつでも容易なことでない。たとえばわれわれの子供がわれわれに向かって言う事でも、それからその子供のほんとうの心持ちをくみ取る程度まで理解するのは必ずしも容易な事ではない。これを充分に理解するためには、その子供をしてそういう言辞を言わしむるようになった必然な沿革や環境や与件を知悉《ちしつ》しなければならない。それを知らなければ畢竟《ひっきょう》無理解|没分暁《ぼつぶんぎょう》の親爺《おやじ》たる事を免れ難いかもしれない。ましてや内部生活の疎隔した他人はなおさらの事である。
科学上の、一見簡単|明瞭《めいりょう》なように見える命題でもやはりほんとうの理解は存外困難である。たとえばニュートンの運動の方則というものがある。これは中学校の教科書にでも載せられていて、年のゆかない中学生はともかくもすでにこれを「理解」する事を要求されている。高等学校ではさらに詳しく繰り返して第二段の「理解」を授けられる。大学にはいって物理学を専攻する人はさらに深き第三段第四段の「理解」に進むべき手はずになっている。マッハの「力学《メヒャニーク》」一巻でも読破して多少自分の批評的な目を働かせてみて始めていくらか「理解」らしい理解が芽を吹いて来る。しかしよくよく考えてみるとそれではまだ充分だろうとは思われない。
科学上の知識の真価を知るには科学だけを知ったのでは不充分である事はもちろんである。外国へ出てみなければ祖国の事がわからないように、あらゆる非科学ことに形而上学《けいじじょうがく》のようなものと対照し、また認識論というような鏡に照らして批評的に見た上でなければ科学はほんとうには「理解」されるはずがない。しかしそういう一般的な問題は別として、ここで例にとったニュートンの方則の場合について物理学の範囲内だけで考えてみても、結局ニュートン自身が彼自身の方則を理解していなかったというパラドックスに逢着《ほうちゃく》する。なんとなれば彼の方則がいかなるものかを了解する事は、相対性理論というものの出現によって始めて可能になったからである。こういう意味で言えば、ニュートン以来彼の方則を理解し得たと自信していた人はことごとく「理解していなかった」人であって、かえってこの方則に不満を感じ理解の困難に悩んでいたきわめて少数の人たちが実は比較的よく理解しているほうの側に属していたのかもしれない。アインシュタインに至って始めてこの難点が明らかにされたとすれば、彼は少なくもニュートンの方則を理解する事において第一人者であると言わなければならない。これと同じ論法で押して行くと結局アインシュタイン自身もまだ徹底的には相対性原理を理解し得ないのかもしれないという事になる。
こういうふうに考えて来ると私には冒頭に掲げたアインシュタインの言詞がなんとなく一種風刺的な意味のニュアンスを帯びて耳に響く。
思うに一般相対性原理の長所と同時にまたいくらかの短所があるとすれば、いちばん痛切にそれを感じているのはアインシュタイン自身ではあるまいか。おそらく聡明《そうめい》な彼の目には、なお飽き足らない点、補充を要する点がいくらもありはしないかという事は浅学な後輩のわれわれにも想像されない事はない。
自己批評の鋭いこの人自身に不満足と感ぜらるる点があると仮定する。そしてそれらの点までもなんらの批評なしに一般多数に承認され賛美される事があると仮定した時に、それにことごとく満足して少しもくすぐったさを感じないほどに冷静を欠いた人とはどうしても私には思われない。
それゆえに私は彼の言葉から一種の風刺的な意味のニュアンスを感じる。私にはそれが自負の言葉だとはどうしても思われなくて、かえってくすぐったさに悩む余りの愚痴のようにも聞きなされる。これはあまりの曲解かもしれない。しかしそういう解釈も可能ではある。 

科学上の学説、ことに一人の生きているアダムとイヴの後裔《こうえい》たる学者の仕事としての学説に、絶対的「完全」という事が厳密な意味で望まれうる事であるかどうか。これもほとんど問題にならないほど明白に不可能な事である。ただ学者自身の自己批評能力の程度に応じて、自ら認めて完全と「思う」事はもちろん可能で、そして尋常一般に行なわれている事である。そう思いうる幸運な学者は、その仕事が自分で見て完全になるのを待って安心してこれを発表する事ができる。しかし厳密な意味の完全が不可能事である事を痛切にリアライズし得た不幸なる学者は相対的完全以上の完全を期図する事の不可能で無意義な事を知っていると同時に、自分の仕事の「完全の程度」に対してやや判然たる自覚を持つ事が可能である。私の見るところでニュートンやアインシュタインは明らかにこの後の部類に属する学者である。
私は、ボルツマンやドルーデの自殺の原因が何であるかを知らない。しかし彼らの死を思うたびに真摯《しんし》な学者の煩悶《はんもん》という事を考えない事はない。
学説を学ぶものにとってもそれの完全の程度を批判し不完全な点を認識するは、その学説を理解するためにまさに努むべき必要条件の一つである。
しかしここに誤解してならない事で、そしてややもすれば誤解されやすい事がある。すなわちそういう「不完全」があるという事は、すべての人間の構成した学説に共通なほとんど本質的な事であって、しかもそれがあるために直ちにその学説が全滅するというような簡単なものとは限らないし、むしろそういう点を認める事がその学説の補填《ほてん》に対する階段と見なすべき場合の多い事である。そういう場合に、若干の欠点を指摘して残る大部分の長所までも葬り去らんとするがごとき態度を取る人もない事はない。アインシュタインの場合にもそういう人がないとは限らないようである。しかしそれはいわゆる「揚げ足取り」の態度であって、まじめな学者の態度とは受け取られない。
「完全」でない事をもって学説の創設者を責めるのは、完全でない事をもって人間に生まれた事を人間に責めるに等しい。
人間を理解し人間を向上させるためには、盲目的に嘆美してはならないし、没分暁に非難してもならないと同様に、一つの学説を理解するためには、その短所を認める事が必要であると同時に、そのためにせっかくの長所を見のがしてはならない。これはあまりに自明的な事であるにかかわらず、最も冷静なるべき科学者自身すら往々にして忘れがちな事である。
少なくも相対性原理はたとえいかなる不備の点が今後発見され、またたとえいかなる実験的事実がこの説に不利なように見えても、それがために根本的に否定されうべき性質のものではないと私は信じている。 

相対性原理の比較的に深い理解を得るためにはその数学的系統を理解する事はおそらく必要である。しかしそれは必要であるが、それだけではまだ「必要かつ充分な条件」にならない事も明白である。数学だけは理解しても、少なくもアインシュタインの把握《はあく》しているごとくこの原理を「つかむ」事は必ずしも可能でない。
また一方において、数学の複雑な式の開展を充分に理解しないでしかも、アインシュタインがこの理論を構成する際に歩んで来た思考上の道程を、かなりに誤らずに通覧する事も必ずしも不可能ではないのである。不可能でないのみならずある程度までのある意味での理解はかえってきわめて容易な事かもしれない。少なくもアインシュタイン以前の力学や電気学における基礎的概念の発展沿革の骨子を歴史的に追跡し玩味《がんみ》した後にまず特別相対性理論に耳を傾けるならば、その人の頭がはなはだしく先入中毒にかかっていない限り、この原理の根本仮定の余儀なさあるいはむしろ無理なさをさえ感じないわけには行くまいと思う。ある人はコロンバスの卵を想起するであろう。卵を直立させるには殻《から》を破らなければならない。アインシュタインはそこで余儀なく絶対空間とエーテルの殻を砕いたまでである。
殻を砕いて新たに立てた根本仮定から出発して、それから推論される結果までの論理的道行きは数学者に信頼すればそれでよい。そして結果として出現した整然たる系統の美しさを多少でも認め味わう事ができて、そうして客観的実在の一つの相をここに認める事ができたとすれば、その人は少なくとも非専門家としてすでにこの原理をある度まで「理解」したものと言っても決して不倫ではない。
特別論の一般を知った後にそれが等速運動のみに関するという点に一種の物足りなさあるいは不安を感じる人は、すでに立派に一般論の門戸に導かれるべき資格を備えている。そしてそこに再び第二のコロンバスの卵に逢着《ほうちゃく》するだろう。
本論にはいってからのやや複雑を免れない道筋でも専門家以外には味わわれないようなものばかりであるとは思われない。もしどうしてもわからないものであったら、アインシュタイン自身がその通俗講義を書くような事はおそらくなかったに相違ない。私はどんなむつかしい理論でもそれが「物理学」に関したものである限り、素人《しろうと》にどうしてもなんらの説明をもする事もできないほどにむつかしいものがあるとは信じられない。もしあったらそれは少なくも物理でないといったような心持ちがする。
少なくもわれわれ素人がベートーヴェンの曲を味わうと類した程度に、相対性原理を味わう事はだれにも不可能ではなく、またそういう程度に味わう事がそれほど悪い事でもないと思う。 

この原理を物理学上の一原理として見た時の「妙趣」あるいは「価値」が主としてどこにあるか。それが数式にあるか、考えの運び方にあるか。これもほとんど問題にならないほど明らかであるように私は思う。数式は彼の考えを進めるものに使われた必要な道具であった。その道具を彼は遠慮なく昔の数学者や友人のところから借りて来た。これはまさに人の知るとおりである。その道具の使い方がどこまで成効しているかはおそらく未決の問題ではあるまいか。それを決定するのは専門家の仕事である、そしてそれは必ずしも第二のアインシュタインを要しない仕事である。しかし一人のアインシュタインを必要とした仕事の中核真髄は、この道具を必要とするような羽目に陥るような思考の道筋に探りあてた事、それからどうしてもこの道具を必要とするという事を看破した事である。これだけの功績はどう考えても否む事はできないと思う。たとえ彼の理論の運命が今後どうあろうとも、これだけは確かな事である。そこに彼の頭脳の偉大さを認めぬわけには行くまいと思う。
ナポレオンが運命の夕べに南大西洋の孤島にさびしく終わってもその偉大さに変わりはなかった。しかしアインシュタインのような仕事にそのような夕べがあろうとは想像されない。科学上の仕事は砂上の家のような征服者の栄華の夢とは比較ができない。
しかしまた考えてみると一般相対性理論の実験的証左という事は厳密に言えば至難な事業である。たとえ遊星運動の説明に関する従来の困難がかなりまで除却され、日蝕《にっしょく》観測の結果がかなりまで彼の説に有利であっても、それはこの理論の確実性を増しこそすれ、厳密な意味でその絶対唯一性を決定するに充分なものであるとはにわかには信じられない。スペクトル線の変位のごときはなおさら決定的証左としての価値にかなりの疑問があるように見える。
私は科学の進歩に究極があり、学説に絶対唯一のものが有限な将来に設定されようとは信じ得ないものの一人である。それで無終無限の道程をたどり行く旅人として見た時にプトレミーもコペルニクスもガリレーもニュートンも今のアインシュタインも結局はただ同じ旅人の異なる時の姿として目に映る。この果てなく見える旅路が偶然にもわれわれの現代に終結して、これでいよいよ彼岸に到達したのだと信じうるだけの根拠を見いだすのは私には困難である。
それで私は現在あるがままの相対性理論がどこまで保存されるかという事は一つの疑問になりうると思う。しかしこれに反して、どうしても疑問にならない唯一の確実な事実は、アインシュタインの相対性原理というものが現われ、研究され、少なくも大部分の当代の学界に明白な存在を認められたという事実である。これだけの事実はいかなる疑い深い人でも認めないわけにはいかないだろうと思う。
これはしかし大きな事実ではあるまいか。科学の学説としてこれ以上を望む事がはたして可能であるかどうか、少なくも従来の歴史は明らかにそういう期待を否定している。
こういうわけで私はアインシュタインの出現が少しもニュートンの仕事の偉大さを傷つけないと同様に、アインシュタインの後にきたるべきXやYのために彼の仕事の立派さがそこなわれるべきものでないと思っている。
もしこういう学説が一朝にしてくつがえされ、またそのために創設者の偉さが一時に消滅するような事が可能だと思う人があれば、それはおそらく科学というものの本質に対する根本的の誤解から生じた誤りであろう。
いかなる場合にもアインシュタインの相対性原理は、波打ちぎわに子供の築いた砂の城郭のような物ではない。狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚《いちりづか》である。 

相対性原理に対する反対論というものが往々に見受けられる。しかし私の知り得た限りの範囲では、この原理の存在を危うくするほどに有力なものはないように思われる。
反対論者の反対のおもなる「動機」は、だんだんせんじつめると結局この原理の基礎的な仮定や概念があまりはなはだしく吾人の常識にそむくという一事に帰着するように見える。
科学と常識との交渉は、これは科学の問題ではなくてむしろ認識論上の問題である。従って科学上の問題に比べてむつかしさの程度が一段上にある。
しかし少なくも歴史的に見た時に従来の物理的科学ではいわゆる常識なるものは、論理的系統の整合のためには、惜しげなくとは言われないまでも、少なくもやむを得ず犠牲として棄却されあるいは改造されて来た。
太陽が動かないで地球が運行しているという事、地球が球形で対蹠点《たいせきてん》の住民が逆《さか》さにぶら下がっているという事、こういう事がいかに当時の常識に反していたかは想像するに難くない。
非ユークリッド幾何学の出発点がいかに常識的におかしく思われても、これを否定すべき論理は見つからない。こういう場合にわれわれのとるべき道は二つある。すなわち常識を捨てるか、論理を捨てるかである。数学者はなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく常識を投げ出して論理を取る。物理学者はたとえいやいやながらでもこの例にならわなければならない。
物理学の対象は客観的実在である。そういうものの存在はもちろん仮定であろうが、それを出発点として成立した物理学の学説は畢竟《ひっきょう》比較的少数の仮定から論理的|演繹《えんえき》によって「観測されうる事象」を「説明」する系統である。この目的が達せられうる程度によって学説の相対的価値が定まる。この目的がかなり立派に達せられて、しかも根本仮定が非常識だという場合に常識を捨てるか学説を捨てるかが問題である。現在あるところの物理学は後者を選んで進んで来た一つの系統である。
私は常識に重きを置く別種の系統の成立不可能を確実に証明するだけの根拠を持たない。しかしもしそれが成立したと仮定したらどうだろう。それは少なくも今日のいわゆる物理学とは全然別種のものである。そうしてそれが成立したとしても、それが現在物理学の存在を否定する事にはなり得ないと思う。そして最後に二者の優劣を批判するものがあれば、それは科学以外の世界に求めなければならない。 

自然の森羅万象《しんらばんしょう》がただ四個の座標の幾何学にせんじつめられるという事はあまりに堪え難いさびしさであると嘆じる詩人があるかもしれない。しかしこれは明らかに誤解である。相対性理論がどこまで徹底しても、やっぱり花は笑い、鳥は歌う事をやめない。もしこの人と同じように考えるならば、ただ一人の全能の神が宇宙を支配しているという考えもいかにさびしく荒涼なものであろう。
今のところ私は、すべての世人が科学系統の真美を理解して、そこに人生究極の帰趣を認めなければならないのだと信ずるほどに徹底した科学者になり得ない不幸な懐疑者である。それで時には人並みに花を見て喜び月に対しては歌う。しかしそうしている間にどうかすると突然な不安を感じる。それは花や月その他いっさいの具象世界のあまりに取り止めどころのないたよりなさである。どこをつかまえるようもない泡沫《ほうまつ》の海におぼれんとする時に私の手に触れるものが理学の論理的系統である。絶対的安住の世界が得られないまでも、せめて相対的の確かさを科学の世界に求めたい。
こういう意味で私は、同じような不安と要求をもっている多くの人に、理学の系統の中でもことにアインシュタインの理論のごときすぐれたものの研究をすすめたい。多くの人は一見乾燥なように見える抽象的系統の中に花鳥風月の美しさとは、少し種類のちがった、もう少し歯ごたえのある美しさを、把握《はあく》しないまでも少なくも瞥見《べっけん》する事ができるだろうと思う。(大正十一年十二月) 
 
特殊相対性理論に潜む論理的な誤りについて

 

On Logical Errors Underlying the Special Theory of Relativity
テムール Z. カラノフ (Temur Z. Kalanov)
特殊相対性理論の力学的な基盤が批判的に解析される。その基盤が本質的な論理エラーを含んでいることが示される。それらは、一般的に受け入れられる理論が正しくないことの反駁できない証明である。
科学は世界の知識の帰納的な方法である。けっきょく、(実験事実と理論のシステムとしての) 科学的な真実は、弁証法的な発展の原理に従う。真実の弁証法的な発展 (すなわち、簡単な形式から複雑な形式への上昇方向での量と質の変化) は、ある理論群の「誕生と絶滅」、理論の変換と統合を含む。理論群の選択は、妥当性という基準を基礎としてなされる。アインシュタインによれば、そこには二つの基準が存在する。すなわち、「外的な正当性の」基準 (すなわち、実験データとの一致) と、「内的な整合性の」基準 (すなわち、調和と美しさの感覚を伴った、論理法則に従うこと) である。これらの基準を満たさない理論は、明らかに正しくない。しかし、それらは無駄な理論というわけではない。正しくない理論は、人間の意識の境界を乗り越えるという、心理的な意味をもっている。私の考えでは、20 世紀における、そのような正しくない理論の一つが、レーマー-ローレンツ-ポアンカレ-アインシュタインによる、特殊相対性理論である。今日、すべての物理学者たちが、この理論を知っており、それを継続して批判的に解析するものも多いが、その理論の基礎の不安定さに気がついているものは、わずかである。
私は、特殊相対性理論の力学的な基礎を批判的に解析してきた[1-9]。つまり、マイケルソン-モーリーの干渉実験と、その計算や、収縮仮説とローレンツ変換式である。その解析の結果は、次のようになっている。 
(1) マイケルソン-モーリーの実験データと計算データの間に矛盾が存在するという考えが、レーマー-ローレンツ-ポアンカレ-アインシュタインの特殊相対性理論における開始点である。後にあるデータの基礎に関する、この矛盾の原因に気づくことができる。地球と太陽は相対的な動きの状態にある (Vが相対的な動きの速度である)。これは、地球が、太陽の参照系Sの中の、地球運動系Eであり、太陽が、地球参照系Eの中の、太陽運動系Sであるということである。マイケルソン-モーリーの干渉計と (測定と計算を行う) 観測者は、地球参照系の中にある。けっきょく、干渉計と観測者は静止系Eの中にある。論理的な法則によれば、実験データと計算データを互いに比較することは、静止系Eにおいて行われなければならない。 
(2) マイケルソン-モーリーの、実験データと計算データの矛盾は、それらの基礎的な比較が間違ってなされたことに基づいている。事実、実験データと計算データは、異なる参照系に属している。すなわち、実験データは、地球に固定された参照系E に所属しており、地球の運動速度V を含む計算データは、太陽に固定された参照系S に所属している。よって、これらのデータを互いに比較することは、最初で主要な論理エラーである。このエラーは必然的に、収縮仮説とその数学的な表現であるローレンツ変換式を導く。 
(3) マイケルソン-モーリーの実験データと計算データは、もし、地球に固定された、一つの同じ参照系E に属するものであれば、完全に一致したものとなる。論理の観点からは、このことは、収縮仮説とローレンツ変換式がマイケルソン-モーリーの実験と式とは一致しないということを意味している (すなわち、収縮仮説とローレンツ変換式が正しくないことが、実験データによって証明される)。 
(4) ローレンツ変換式の物理的な意味は、理論的な解析の開始点が、次のように表されるとき、明らかになる。
(i) ローレンツの式の推論の標準的な方法、すなわち、光の波面の方程式への、ガリレイ変換の導入 (挿入) という方法。
(ii) 座標の、存在と変換の原理。つまり、一般に、座標の変換とか座標が存在せず、物体のみの座標の、変換と座標が存在する。実際に、そのことは、次のようにして明らかにされる。
(a) (例えば、マイケルソン-モーリーの干渉計において) 光線の波面 (すなわち、その点) は、物理的な対象物L である。座標系S (すなわち太陽) における光線の波面に対する方程式は、次の表現で与えられる。
   xL=ct
ここでc は真空での光速度 (光はOx 軸の正の方向へと伝播される) であり、t は時間である。
(b) 物質的な点 (例えば、マイケルソンモーリーの干渉計の鏡であり、これは地球を意味するE の、座標系E にある) は、物体M である。ガリレイ変換は、S 系とE 系における、点M の座標に関係している。
   xM = Vt + x′M
ここで、V は、Ox 軸の正の方向における、S 系に対する、E 系の運動速度である(V<c)。
(c) 光線の波面にたいする方程式への、ガリレイ変換の導入 (挿入) は、座標間の同等性を意味する。
   xM(t) = xL(t)
物体M とL の座標間の同等性とは、物体M とL の、互いの交差 (一致) を意味している。かくして、そのような導入 (挿入) の物理的な意味は、物体M とL の、互いの交差 (一致) を意味している。
(d) 仮に、xM(t) = xL(t)がt にたいする式であれば、マイケルソン-モーリーの次式によって、解が与えられる。
   t = D/(c−V) (S系において)
   t = D/c (E系において)
ここでDは、干渉計の肩の長さである。
(e) xM = xL (S系において) と x′M = x′L (E系において)の同等性が、任意の時間の瞬間において、変わるということは、ローレンツ変換 (式) における、次のような結果となる。
   xM = γ(x′M + βx′L), xL = γ(x′L + βx′M)
   xL = ct, x′L = ct′, β ≡ V/c
   γ ≡ (1 – β2)1/2 (収縮因子)
(f) ローレンツ変換式により、任意の瞬間において、xM = xL と x′M = x′Lの同等性が変わるということが従う。かくして、ローレンツ変換の物理的な意味は、物体MとLが、任意の瞬間に、互いに交差 (一致) することを、ローレンツ変換式が意味するということになる。 
(5) マイケルソン-モーリーの式は、個々の光の点Lが、ある瞬間に、干渉計の鏡Mと同じところにあるという条件を表わしている。よって、一致 (交差) 点の空間座標と、一致の時間は、これらの式において定数値となる。 
(6) 二つ目の論理エラーは、一致 (交差) 点の空間的な座標と一致時間が、ローレンツ変換式における変数であることである。マイケルソン-モーリー実験の観点によれば、このエラーは、個々の光点Lが、任意の瞬間において、鏡Mと同じところにあるということを意味している。その結果として、空間座標と、その時間の関係が現れる。しかし、そのような関係の存在は、次のことと、対立する。(i) 光速度不変の原理 (なぜなら、鏡は常に、光の源あるいは受け手として考えられるからである)。(ii) 時間の本質[4,8]。 
(7) 三つ目の論理エラーは、ローレンツ変式が収縮因子γを含んでいるということである。収縮因子γは、太陽に対しての鏡M (すなわち、光の源と受け手として) の動きと、光Lの動きという、相互の独立な動きを、依存した動きへと変える。そのことにより、光の速度cの上で、鏡の速度Vの依存性が現れ、V/c <1の形式となる。さらに、空間と時間の間隔は、Vに依存するようになる。結果的に、収縮因子は光速度不変の原理と対立する。 
(8) 光速度不変の原理は、任意の参照系で変わる。実際、真空での光速度が光の源や受け手の速度と独立しているとすると、それはまた、光の源や受け手の速度の変化と独立していることになる。 
(9) 光速度の不変性は、光が古典力学の物質点ではなく、量子の多くの一つである光子であるという事実によって説明される。ある参照系に対する、任意の量子 (特に、光子) の動きは、絶対的な動きである[6,9]。絶対的な動きは、参照系の選択にはよらない (このことは、速度加算理論が変えられないことを意味している)。 
(10) アインシュタインの式E = mc2 (ここでmは物質点の質量) は正しくないが、なぜかというと、1と、その同じ (1単位) 対象ではなく、異なる (相互に独立の) 対象群を、特徴づける量の乗法が論理的な誤りであるからである[6,9]。よって、これは四つ目の論理エラーである。 
上記のことから、次のことが言える。
(a) 特殊相対性理論は絶対に正しくない。
(b) 光速度不変の原理は、新しい量子論の参照点である[6,9]。 
参照文献
[1] T.Z. Kalanov. マイケルソン-モーリー実験群の正しい理論解析 (Correct theoretical analysis of the Michelson-Morley experiments). Doklady Akademii Nauk Respubliki Uzbekistan, No. 11-12 (1995) p. 22.
[2] T.Z. Kalanov. ローレンツ変換の非正当性の証明 (Proof of non-correctness of the Lorentz transformation). Doklady Akademii Nauk Respubliki Uzbekistan, No. 1-2 (1996) p. 32.
[3] T.Z. Kalanov. 相対運動の理論のために (For the theory of relative motion). Doklady Akademii Nauk Respubliki Uzbekistan, No. 12 (1997) p. 15.
[4] T.Z. Kalanov. 時間の理論のために (For the theory of time). Doklady Akademii Nauk Respubliki Uzbekistan, No. 5 (1998) p. 24.
[5] T.Z. Kalanov. 物質点の力学:現代解析 (Kinematics of material point: modern analysis). Doklady Akademii Nauk Respubliki Uzbekistan, No. 7 (1999) p. 9.
[6] T.Z. Kalanov. E ≠ mc2 : 私たちの時間の最も差し迫った問題 (E ≠ mc2 : The most urgent problem of our time). Doklady Akademii Nauk Respubliki Uzbekistan, No. 5 (1999) p. 9.
[7] T.Z. Kalanov. 相対性理論の基礎に横たわる論理的な数々の誤りについて (On logical errors lying in the base of special theory of relativity). Bull. Am. Phys. Soc., V. 46, No. 2 (2001) p. 99.
[8] T.Z. Kalanov. 時間の本質について (On the essence of time). Bull. Am. Phys. Soc., V. 47, No. 2 (2002) p. 164.
[9] T.Z. Kalanov. 量子論の新しい基礎について (On a new basis of quantum theory). Bull. Am. Phys. Soc., V. 47, No. 2 (2002) p. 164.  
 

 

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