■ロジャー・ベーコンの光学思想 | |
■中世の「視覚」?
中世はよく音が優位の世界だなどといわれる(*)。これはつまり、史料として残る視覚的なものの貧しさ、表現の貧弱さなどから、また一方で音楽的な豊かさなどから、視覚よりも聴覚の方が大きな影響力をもっていたのだという考え方だ。なるほど、確かに写本に描かれた人物像など、現代人の目から見れば「貧相な」ものにすぎないかもしれない。後代の遠近法もまだなければ、写実的描写も、ディテールの細やかさもない。中世の「芸術作品」はルネサンスに比べればはるかに見劣りがする……けれども、そう考えた時点で、すでに進歩史観の虜になってしまっているのではないか。直線的な、右肩上がりの歴史認識は、否定されたはずだったにもかかわらず、こういう中世の聴覚を重んじる立場に、すかし絵のように刷り込まれていたりするから厄介だ。 * これは例えばW-J. オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)などが触発した立場だ。そこでは音声と文字との関係において、前者が圧倒的優位に立つとされている。しかしながら、それはあくまで文字をのみ比した場合であって、他の視覚的な文化の豊かさは考慮されていない。 視覚に対する聴覚の優位、という話にはもう一つの「刷り込み」がある。視覚的な史料は乏しいながらも存在するのに対して、聴覚的史料というものは存在しない。あるのは聴覚に関連づけられるような史料だけだが(ネウマ譜などの写本、楽師らの図像など)、それもまた乏しいものでしかない。この点からすると、視覚に対する聴覚の優位は単純に云々できないことになる。とはいえその一方で、言語による情報伝達という観点を取り出してみれば、文字を目で追うよりも、口承されるものを耳から聞く方が一般的だった。それはその通りだろう。けれども、当然ながら情報伝達というのは言語だけに限定されない。非識字者といえど聞くだけでものごとを捉えていたわけではない。実際、教会は「貧者の聖書」として、一般の信徒に対して視覚による聖書の内容の教育をなすものだったといわれている。目と耳はいつの時代でも使われていたのだし、当たり前だが今でもそうだ。人は書物を読むが、同時に学校では口頭で授業が行われるではないか。相互に補完的な関係にあるものを分離して、どちらが優位かと比較するのは、すでにして近代的な「分業」的発想、「専門化」的発想、あるいは抽象的単位を仮構した「量的比較」という発想の虜になってしまっている。現代人のそういう発想が、認識に刷り込まれているというわけだ。 問題は視覚と聴覚のどちらが優位だった云々ではなく、それらがどのように用いられ、世界をどう切り出していたか、ということだ。視覚と聴覚はもちろん質的にはまったく異なるけれど、いずれも「世界の切り出し」に向けて動員され、そのために用いられていくことは確かだ。それは現代人の用い方とは別の用い方だったりもする。そうした部分に焦点を当てていくこと、それがここでの課題になる。それはつまり、中世の「世界観」の成立・変遷などを概観していきたい、ということだ。いずれにしても、ここでの「世界の切り出し」のプロセスとは、外部世界のカオスの中からなんらかの像・印象が浮上することをいうのであって、そこには視覚・聴覚の優劣などは存在しない。 このシリーズでは視覚についてそうした作用を考えていきたいと思っているのだが、それは視覚が優位だからでも劣位だからでもない。単にそれを先に扱ってみる、というだけのことだ。世界を認識する際の重要な要素としての視覚。その後には聴覚(あるいは嗅覚、触覚も)をめぐる考察も続けなくてはならないかもしれない。いずれにしても、ここで眺めてみたいのは、「視覚」の周辺から見えてくる風景だ。このシリーズは、いわば中世の視覚をめぐる一種の散策でありたいと考えている。視覚が切り出す世界像、視覚そのものの認識、古代の光学論の継承と遊離など、そこでは様々な風景が開けそうだ。そんなわけで、毎回なんらかの著者ないしテーマで、そうした風景に遊んでみることにする。 |
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■ロジャー・ベーコンから始めよう
今回はまずロジャー・ベーコンを取り上げよう(後のフランシス・ベーコンではない)。ロジャー・ベーコンは13世紀のイングランドのスコラ哲学者だ。生年や没年も詳しいことは不明のようで、生まれは1210年とか1214年とか諸説あり、また出身地に関しても諸説ある。パリで神学を修め、当時盛んに教えられていたアリストテレスの自然学を講じるようになるが、後にはスコラ哲学に異を唱え、実践的な学問へと学問全体の改革を訴えるようになる。1266年から68年にかけて、教皇クレメンス4世のために『大著作(Opus majus)』『小著作(Opus minus)』『第三著作』(Opus tertiumu)』『形象の増殖について(De multiplicatione specierum)』などを執筆する。一般に、ロジャー・ベーコンが重要なのはその学問的な改革指向のためだといわれている(*)。神学の豊かさのためには、異教の学問を取り込むことをも辞さない(ヘブライ、ギリシア、アラブの言語を学び、西欧の知的向上に努めるべきだとした)という立場は、なかなか画期的なものだった。また数学を(それまでの論理学ではなく)重視する立場を取り、自身はとりわけ光学の研究に打ち込んだ点も特徴的だ。もちろん光学研究には先駆者たちもいるが、彼の光学は独自の自然哲学となしているとされる。こういうわけで、ベーコンはまさに本シリーズの冒頭を飾るに相応しい。 そんなわけで、ここではべーコンの光学の核心部分を『形象の増殖について』(『形象増殖論』と言われたりもする)で眺めてみることにする。この形象の増殖こそが、ベーコン自然学の核心的な部分だとされている。参照するのは羅英対訳本("Roger Bacon's Philosophy of Nature", trans. by David C. Lindberg, St. Augustine's Press, 1998, Indiana)だ。 この対訳本の訳出にあたっているリンドバーグは、冒頭の解説文で、ベーコンの光学にまでいたる知の流れを振り返っている(pp.xxxv - liii)。光のメタファー(とりわけそれを神と同一視する考え)はプラトンや聖書から始まって、アレキサンドリアのフィロン、プロティノスのネオプラトニズムを経ていく。さらにはアウグスティヌス、5世紀の偽ディオニシウス・アレオパギタを通じ、中世にまで継承され、オーベルニュのギヨーム、ボナベントゥラ(ベーコンが属していたフランチェスコ会の代表的知識人だ)などへと引き継がれていく。さらにプロティノスの系譜はイスラム世界をも経由し、ベーコンが盛んに引用するイスラム世界の哲学者アル=キンディのほか、アヴィケンナ、ユダヤ系のアヴィケブロンなどを経、それらの翻訳を通じて中世世界にも大きな影響を及ぼすことになる。そこには、ベーコンの師でもあるグロステストなども連なる。こうした見取り図の先に、ベーコンの光学思想が位置づけられる。ではさっそく、その思想のエッセンスがまとめられている第一部を中心に、同書を見ていくことにする。 |
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■形象の成り立ち
そもそも形象(species)とは何か。それは自然の作用素(agens)がもたらす効果(effectus)のことだ。「例えば、大気中の太陽の明かり(lumen)は、太陽がその本体にもつ光(lux)の形象だ(dicimus lumen solis in aere esse speicem lucis solaris que est in copore suo)」(p.2)。この場合、太陽の光が作用素で、それが媒質(medium)である大気を媒介することで、結果的に(その効果として)明かりが存在する。ここで重要な原則がある。上に挙げたアヴィケブロン(当時のフランチェスコ会に多大な影響を及ぼしていたとされる)の説では、発出したものは、その発出の元になったものの似姿となるとされる(p.xlvii)。もともとはアリストテレスから来るこの説を用い、ベーコンは、作用を受ける受容体は、最初は作用素とは似ていないのだが、作用が働くことによって作用素に似るのだと述べる(p.6)。受容体は作用素の効果を受けて変容するのだ。こうして大気中の「明かり」は、もとの太陽の「光」に似たものとなる。 さらに媒質を介することによって、様々な特性も形作られる。「彩色と輝きは、色と明かりから媒質と視覚とに生じるが、彩色は色が存在しなければありえないし、輝きは光がなければありえない((...)a colore et luce advenit medio et visui coloratio et illuminatio. Sed coloratio non est nisi per coloris, nec illuminatio nisi per esse lucis)」(p.8)。光だけが問題なのではないことは、すでにこの「色」への言及からも読みとれる。あらゆる形象は、作用素(ここでは色もまた作用素をなしている)から媒質(大気)への効果として生じる。その際、作用素がもたらす第一の効果(最初の効果)は常に同じだ(p.18)。しかも形象は偶然によって生じるのでもない。それは認識や判断にも関与することから(「羊は狼の複合的な形象を感受し、その形象は類推力を司る器官にまで浸透する、そのため羊は一目見て逃げ出す(p.24)」)、「実質」(認識や判断に関わる部分だ)によって生じるのだ。 さて、上に言及した山本義隆は、師グロステストに対してベーコンが異なる点として、光の捉え方と、近接作用のモデルを上げている。まず光の捉え方については、グロステストが光をすべての作用の原質とするのに対し、ベーコンにとっての光は様々な作用の一例にすぎないのだという(『磁力と重力の発見 1』、p.256)。さらに近接作用のモデルは、作用素と受容体とが近接する際に「第一の効果」が生じ、それが「第二」「第三」などの効果を近接的に、また連続的に生じさせるというもので、あくまで光が瞬時に球面上に広がるとするグロステストに対して、ベーコンが時間的な伝播を論じている点が独創的なのだという(同、p.258)。なるほど、ベーコンの形象の考え方では「いかに作用するか」が重要なのだ。それは順次、時間的に(ごく短い時間だが)波及する。音の場合を除き(音の場合には、衝撃によって本来の場から動かされることによる振動が問題であって、第一の効果に関する限り作用素と媒質の関係ではないとされる。ただし第一の効果から第二の効果(共振動など)は形象と考えられている(テキスト、p.20))、自然の一般的現象としての形象はあらゆる細部にまで及んでいく。人間の感覚もまた形象を作り出すが、それはごく一部の特殊な形象にすぎないのだ。ここから導かれる人間観は、認知の及ばないもの(形象が得られないもの)にも取り囲まれているという意味で、人間は実に限定的な存在でしかない、ということになるだろう。 |
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■視覚と世界
数ある形象の作用には、人間の感覚が作り出す形象も含まれる。色、匂い、味、様々な感触など、各感覚器官がそれぞれに形象を作り上げる(p.32)。視覚はその中の一つにすぎない。しかもその視覚についての認識は、少なくとも11世紀以前の伝統的な視覚の認識とも異なっている。サビーヌ・メルシオール=ボネ『鏡の文化史』(竹中のぞみ訳、法政大学出版局)によれば、古代から中世まで継承されていた「視覚」の考え方には、プトレマイオスに準拠する説と、デモクリトス、ルクレティウスに準拠する説があった。前者は、目から直線状の視覚光線が発せられ、その光線が物体に到達して形や色を目に伝えるという考え方で、後者は、物体の側から粒子が発せられ、それが目に達するという考え方だ。プラトンがそれを総合し、目からの光線と日の光との流れが出会うのだとしていた。10世紀後半から11世紀前半に活躍したイスラムの数学者アル・ハーゼンが網膜の残像を指摘するまで、それは修正されなかったのだという(『鏡の文化史』、pp116-117)。アル・ハーゼンの著作が翻訳されてヨーロッパに伝わるのは11世紀中のようで、ベーコンもアル・ハーゼンを盛んに引用しており、当然ながら、目から光線が発せられるという見解は明確に否定している(p.32)。 ベーコンの場合、対象物のもつ形や色は、媒質(この場合は空気がその役割を担う)を経て視覚において形象を形作る。そのためには、対象物がなんらかの密度(媒質とは異なる密度)をもっているだけで十分なのだ((...) sufficit visui quod color et lux sint in denso aliquali, scilicet, ut terminetur visus, non enim terminateur nisi per densum.)(p.38)。人間は対象物の形象を対象物そのものとして受け取るが、形象の生成とは、受容体の実質に潜んでいる能動的な潜在性を引き出す形で行われる(per veram immutationem et eductionem de potentia activa materie patientis)(p.46)。作用を受け取る側にあらかじめ存在している潜在性を、その作用が顕在化させるのだ。色ガラスを例に取ると、その色の形象は最初大気中に作られるのだが、それだけでは発色しない。空気が色の潜在力に乏しいからで、その空気が不透明な混合物に接した時の方が強く色の形象が生じる。そちらの方が実質として、より色に適切な潜在力をもっているからだ((...) quando venit ad corpus mixtum, quod magis aptum est ad colorem, potest species in aere existens educere de potentia materie speciem pleniorem)(p.54)。 作用素の効果は常に同じであっても、このように受容体が異なれば作用も異なる場合がある。また逆に、例えば太陽と月のように(ベーコンの時代にはいずれも光源と考えられている)、光の作用の大きさや速度は同じだとしても、光源の強度が異なる場合もある。ベーコンはこの場合は大きさが異なるからだとし、プトレマイオスの『アルマゲスト』をもとに、太陽は地球の170倍、月は地球の39分の1という数字を挙げている(p.64)。数字は現代において知られている実際のものとは相当違うものの、地上世界が限定的なものであるという認識はここに明確に見て取れる。さらに、作用素の効果には漸減性もありうる。作用素は第一の効果を及ぼし、近接作用によって第二次、第三次の効果が生まれ、作用が及ぶ限りの末端にまで達するわけだが、その過程において効果の完全性が受容体の性質などによって漸減していくのだ(p.68)。 ベーコンはプトレマイオス的世界観(地動説、周転円説)に即して、世界は球形であるとし、その理由の一つは、天空が球であることによって、天空の力が中心、つまり地上という創造の場にすべて流れ込み集まるからだ、としている((...) sperice figure esse debet ut undique a partibus spere confluant virtutes celorum in centrum huius spere, quod est locus generationis.)(p.78)。作用は上から下へともたらされる。効果が完全になるには、作用素が受容体より力が強く、また両方に共通の実質が存在することが条件なのだ(Stat igitur ratio generationis effectus completi in duobus, scilicet quod agens habeat potentiam maiorem quam patiens ut vincat, et quod materia sit communis agenti et patienti (...))(p.82)。したがって、条件がうまく揃わなければ、効果の完全性は漸減しうるのだ(ここから、屈折などの現象が想定される)。ここには強から弱へという力の階層関係が見て取れる。神を頂点とした天空から地上への階層、それに連なる地上の物質の階層だ。それなくして形象の作用は生じえない。また、上の二つめの条件から、諸階層にはなにがしかの実質の共通性が前提とされていなければならない。ベーコンの考える世界は、このようにきわめて階層的であるとともに均質的だ。 |
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■幾何学的認識へ
さて、ここまでが『形象の増殖について』の第一部のアウトラインだ。ベーコンの自然学のエッセンスは基本的にここまでで出尽くしていると思われる。これに続く第二部から第六部では、形象の増殖という動きに関して、より具体的な問題についての説明がなされる。例えば屈折の考え方だ。形象が媒質を通過する際に、その媒質からの抵抗を受けて屈折するわけだが、これをめぐっては入射角と反射角の等号や、物質による屈折率の差、形状による反射の違い、天体の蝕の問題などが言及される。また、移動する物体の形象の問題もある(形象それ自体は移動するのではなく、その都度作られる)。さらに複数の作用素から複合的な形象を受け取る場合の統合という問題もあり、垂直方向(直線的ということ:階層性、つまり上下関係があるため垂直という言い方になっている)の形象が、受容体に優位に働くと説明されている。これらの細かな問題については今後触れることもあるだろうから、ここではこれ以上取り上げない。 とはいえ、いずれにしても興味深いのは、それが幾何学的図形を駆使して説明される点だ。それはまさに客観的な記述を指向していることの証しだ。図形そのものは概略的なものではあっても、視覚に訴えることが理解を助けることをベーコンは承知している。一方でそれは、当然ながら抽象的な思考の全面的開花を示している。これはまさに、13世紀のスコラ学の「言語論的転回」(論理学的展開)とパラレルだ。両者は同じ抽象的な認識の上に成り立っているように思われる。観察・言説といった一次的なものをベースに抽象思考を練り上げる動きは、まさに中世盛期からの特徴点をなしている。そしてそれはより広い社会的なコンテキストにも開かれているはずだ。 |
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■モンテスキュー『法の精神』における「シヴィルcivil」概念の二重性
ハリントン『オシアナ共和国』との対比において |
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■I 序 | |
これまで共和主義の歴史は、思想史の文脈において、古代ギリシャ、ローマの古典的哲学の伝統を継承し、権威を付与された書物の歴史として主に分析されてきた。この共和主義の歴史的系譜を描き出した代表的な研究者としては、J・G・A・ポーコックが挙げられる。ポーコックは、自らの提示した「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定の下、古代ギリシャ、ローマの古典学問の復興を通じて共和主義思想を近世に復活させた代表としてルネサンス期フィレンツェの思想家、ニッコロ・マキァヴェッリ(1469-1527)を位置づけ、以降、その思想は、ジェームズ・ハリントン(1611-77)によって1640年代から1650年代にかけての市民戦争期にイングランドに移入され、さらにアメリカ合衆国創設においてその展開を見たとする。このなかでもポーコックの描き出す共和主義の歴史において、近代社会における「シヴィック・ヒューマニズム」の原型を提示した思想家としてハリントンには重要な位置付けが与えられることになる。ハリントンは、土地所有と武器携行を条件に「公民」全員が「徳」を維持する古代ギリシャ、ローマの「共和政」を模範とし、現実に適用すべき「共和政」の理論として『オシアナ共和国』(1656)を著した。そして、このハリントンに代表される「マキァヴェリアン・モーメント」の問題枠組と対比したとき、モンテスキューの共和主義思想の特徴が明らかになると思われるのである。
モンテスキュー(1689-1755)は『法の精神』(1748)において、商業活動の普及した近代社会では全ての「公民」による「徳」の維持が困難になるため、古代の「共和政」を再現することは不可能であることを認識した。そこで彼が新たな「共和政的統治」の模範であるイングランドの「政治制度systeme」の由来として認めたのが、封建法の起源として位置づけられることになる「ゲルマンの森」なのであった(cf. EL11-6,al.67;30-2)。このようなモンテスキューの観点は、現実に適用するための「共和政」に関する抽象的理論の探究にではなく、むしろイングランドとフランス君主政とが共有する封建法の遺産の歴史学的探求へと彼を導く。モンテスキューの提示する共和主義の歴史は、古代ギリシャ、ローマという哲学的書物の歴史的系譜を単純に看過することはないが、そこからは異質なゲルマン社会、および封建制に由来する諸制度の歴史的変遷の過程をも同時に考慮することを可能にする。そこで共和主義に関する、これら二つの伝統の関係性を解く手掛かりとなるのが『法の精神』における「シヴィル」概念の位置付けなのである。 モンテスキューは『法の精神』の中で、「国制の法droit politique」と「公民の法droit civil」を区別するに際して次のように書いている。 「維持されるべき社会の中に生きる者として考えられるかぎり、彼らは治める者が治められる者に対してもつ関係において法律(lois)をもつ。これが『国制の法』である。さらに、彼らは全公民(tous les citoyens)が相互でもつ関係において法律をもつ。これが『公民法』である」(EL 1-3)。さらに、グラヴィーナを参照することで「国制的状態E ́ TAT POLITIQUE」を「個々のすべての力(forces)の結合」として、「公民的状態E ́ TAT CIVIL」を「意思(volontes)の結合」として規定し、「すべての意思が結合することなしには、個別的な力は結合しえない」(ibid.)ことを確認する 。こうして「ポリティック」の領域として「統治者の被治者に対する関係」が、「シヴィル」の領域として「被治者間相互の関係」が、『法の精神』の問題枠組として区別されることになる。本論文の目的は、モンテスキューが、この著作全体を通じて、これら二つの領域が、特にイングランドとフランス君主政の各々に固有の歴史的文脈において分離する過程を描き出したことを明らかにすることにある。 これまでのモンテスキュー研究において、イングランドとフランス君主政とにおける「シヴィル」の領域それ自体の歴史的生成過程の相違、あるいはその具体的内実が分析されることはなかった。その結果として、モンテスキュー自身が『法の精神』の中で、これら二つの国を同時に扱うことで、いかなる問題系を導き出し、あるいは「ヨーロッパ」の形成に関するいかなる歴史認識を有していたのかが、未だ十分には明らかにされていないのである。これらの問いは、ポーコックが提起した、イタリア、イングランド、そしてアメリカ合衆国へと、その系譜が辿られる「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定に疑問を投じることになる。 ポーコック自身が認めて次のように書くように、この問題枠組では、それ自体において、イタリアから見た際の「アルプス以北の君主政」、つまりフランス君主政の問題が除外されていたのである。 「マキァヴェッリの時代に十分なまでに発展していたアルプス以北の君主政は、古来の慣行(usage)のみによる以上に、自らを法的に基礎づけることができたことは強調されなければならない。この君主政は、道徳的かつ神聖、そして理性的な普遍的秩序を体現するものとして自らを主張しえたのである。人民が古来よりその統治(rule)に馴染んでいたのに加え、この君主政は自らの正統性を、その支配権において運用していた古来の慣習法(ancient customary law)の総体から汲み出していた。[…]私たちは、マキァヴェッリが、彼自身のフランス君主政に関する観察から、その特徴の多くに親しんでいたことを知っているが、彼は、その統治の最高度に合法化されたシステムを、その深みに至るまで描き出すことはなかった。」(Pocock 1975,159) このような、フランス君主政を考慮した際に立ち現われる「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定の限界を明らかにするためにも、古代ギリシャ、ローマの伝統に対してハリントンとモンテスキュー各々の有する関係が重要な意味をもつ。そこで本論文では、まず、この二人の思想家に関して、その各々が生きた時代、つまりは名誉革命の以前と以降とにおいてのイングランドに可能な統治形態に関する認識を比較する。この分析を通じて、この国の「共和政的統治」に認められた「統治者」の役割、さらには土地と動産という財産所有の形態と密接に結び付いた「公民」の位置付け等に関して二人の認識の相違が確認されることになるだろう。その次に、『法の精神』で扱われるイングランドとフランス君主政の各々の歴史的文脈における「シヴィル」の領域の担い手を具体的に明らかにする。この著作における両国に関して、「統治者」たる「君主」との関係で規定される、「被治者」の領域、つまりは「シヴィル」の領域の指し示す内容は異なる。まず、イングランドで「シヴィル」の領域の担い手の主要部分を構成し、封建制の崩壊過程を通じて歴史的にその社会集団としての「独立性」を獲得したのは、「商業国民」として認められる「中間層」であった(定森2005)。これに対し、フランス君主政において「君主」に対する「独立性」を歴史的に獲得したのは「貴族」である。この「貴族」は、むしろ封建制の確立過程を通じて土地の世襲化を認められ、さらには領主裁判権を獲得することで独自の法的秩序の担い手となる。このようにモンテスキューの思想においては、単に「ポリティック」と「シヴィル」の概念が分離しただけでなく、「シヴィル」の概念によって、イングランドの歴史的文脈では「商業」の発展により出現した「ブルジョア市民社会」の側面が、フランス君主政の歴史的文脈では「封建的身分社会」の側面が重視されていたことを含意する。このことは、モンテスキューが「シヴィル」の領域の形成過程を、いかなる歴史的観点から描き出したかの問題に関わるのである。 |
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■II 『オシアナ共和国』と『法の精神』における共和主義の伝統の異質性 | |
■1. ハリントンにおける古代ギリシャ、ローマの共和主義の伝統
ハリントンは、1640年代から1650年代にかけての市民戦争期のイングランドに、古代ギリシャ、ローマの共和主義を近代社会に復活させたマキァヴェッリの思想を輸入した。そこで、ハリントンは、マキァヴェッリが十分に考慮するに至らなかったヴェネツィアの政治制度に対する評価を併せる形で、自らの共和主義思想を再構成したのである。ハリントンは、その主著『オシアナ共和国』(1656)において、独自の仕方で「古代の慎慮ancient prudence」と「近代の慎慮modern prudence」を区別する。そこで彼は、「古代の慎慮」に基づく統治を評価し、土地所有と武器携行に基づく古代のイスラエルやギリシャ、ローマの共和政における政治参加の形態を理想化する。ハリントンが土地所有を重視するのは、それが軍隊の維持に不可欠であり、また共和国と民兵制が不可分の関係にあることを認めたからなのである。この「古代の慎慮」を前提に、彼は、イングランドに「オシアナ」という仮想の名を与えた上で、審議する「元老院senate」と議決する「民会peuple」に分かれた「二院制立法府」、「官職輪番制rotation」、「秘密投票」、一定程度以上の財産所有を相続法により制限する「農地法agrarian」などを兼ね備えた理想的共和国像を描き出す。これに対して「近代の慎慮」に基づく統治は、ハリントンに従えば、カエサルの統治以降、古代ローマ共和政が帝政に転化し、このローマ帝国が崩壊する過程で、ゴート、ヴァンダル、ロンバルド、サクソン等のゲルマン諸民族の侵入によって導入され、17世紀半ばの内乱に至るまで存続した。彼は、この「近代の慎慮」に由来し、封建的な庇護従属関係の歴史的帰結として生じた、「王」、「貴族」、「人民」の各々が政治的権限を配分する「ゴシック・バランス」を「ゲルマン人の君主政Monarchy of Teutons」の産物として認め、それを内乱の原因として批判したのである。このような「古代の慎慮」と「近代の慎慮」を対比して、ハリントンは次のように書く。 「ここで統治(government)というものを[『そのあるべき姿においてde jure』、あるいは古代の慎慮に従って] 定義しておくと、統治とは、それにより人々のシヴィル・ソサエティ(civil society)が共通の権利や利益の基礎の下に構成され、維持される技術であり、また、[アリストテレスやリヴィウスに従えば] それは、法の支配であり、人の支配ではない。/また、[『事実上de facto』、また近代の慎慮に従って定義するならば] 統治とは、それによって、ある一人または少数の人間が都市ないし国家を服従させ、自分たちの私的な利害によって、それを支配する技術であ。そのような場合に、もろもろの法律は、一人の人間や少数の門閥に従って作られるため、こうした統治は、人の支配であって、法の支配ではない。」(Harrington[1656]1992,8-9/訳233) ハリントンにおいて、「シヴィル・ソサエティ」は「共通の権利や利益」に基づいて統治する技術である「古代の慎慮」に従うことで成立し、この統治は「法の支配empire of laws」として定義される。これに対してゲルマン諸民族、および中世の都市や国家に認められる「近代の慎慮」による統治は、「私的な利害」に基づく堕落した「人の支配empire of men」として定義される。「近代の慎慮」による統治は、「王」、「貴族」、「人民」の党派対立に政体の均衡を依存させるため、そこから生み出された「ゴシック政体」は自らの安定を維持できず、内乱の原因として考えられたのである。したがって、ハリントンの政治思想において、「近代の慎慮」による統治に「シヴィル・ソサエティ」の存在が認められることはない。その例外として認められたヴェネツィアは、ローマ帝国の崩壊によって世界に統治の害悪が蔓延して以降も「難攻不落の地の利によって蛮民の侵攻をまぬがれ、古代の慎慮に絶えず眼をそそぎ、古代の判例をも凌ぐほどの完全さにまで到達」(ibid.,8/訳233)した国として評価されたのであった。 ハリントンは「土地財産(estates)の不平等のあるところでは、権力(power)の不平等があるに違いなく、権力の不平等のあるところでは、コモンウェルスはありえない」(ibid., 57/訳278)とするように、土地所有の均衡が権力関係の均衡を規定するという名な定式を提示し、この観点から「オシアナ」、つまりはイングランドにおいて「共和政」が出現する歴史的過程を描き出す。ハリントンに従えば、ヘンリー7世(在位1485-1509)の治世以前のイングランドは、スペイン、フランス、あるいはドイツの君主政と同様に「貴族による君主政monarchyby a nobility」として認められる。そこでは「貴族が、その従者や領民によって反乱を起こし、持続的な莫大な流血を招来するまでの戦争を開始する利益を頻繁にもち、かつまたそのための権力を常に有していたのであった」(ibid., 31/訳255)。これに対して、ヘンリー7世は、「定住法」、「家臣・領民に関する法律」、「土地譲渡法」等を通じて貴族の権力を抑制することで、その権力が人民の手中に落ちる原因を作った。特に「定住法」は「この王国の力に重大な影響を与え、事実、土地の大部分をヨーマン層、すなわち中間層(middle people)の手中に引き渡すことになり、彼らは、隷属も窮乏もしていなかったため、領主への依存からは解放されており、自由に豊かに暮らしていたから、それだけ優れた歩兵となったのである」(ibid., 55/訳277)。その治世を継いだヘンリー8世(在位1509-49)は、修道院を解体し「貴族階級の衰退と並んで、勤勉な人民に莫大な獲物を提供することになり、コモンウェルスの均衡は、極めて明白に人民の側に傾くことになる」(ibid., 55-56/訳277)。こうして、主に土地財産の移転の歴史的帰結として「下院(house of commons)は徐々に台頭し、それ以来、王侯たちにとって極めて重要でかつ恐るべき存在」となるに至った(ibid.,55-56/訳277)。ハリントンの歴史解釈に従えば「貴族階級を失った王国は、もはや天の下で軍隊以外に頼みになるものをもたなかった。それゆえ、わが国の統治の崩壊が内乱を引き起こしたのであって、内乱が統治の崩壊を引き起こしたのではなかった」(ibid., 56/訳278)。この内乱を平定して登場した立法者である虚構上のクロムウェルに、ハリントンは、実際のこの人物、および、この著作が出版される約3年前にあたる1653年に成立した護国卿体制の独裁に対する批判も含めて、「オシアナ共和国」の構想を託すべく、この書物を執筆したものと考えられるのである。 そこで問われるのが、ハリントンの構想する「オシアナ共和国」における政治制度、および、その担い手たる政治的指導者の位置付けである。歴史的にも自らを「平等なコモンウェルス」として実現した「オシアナ」は、護国卿体制以前のランプ議会に見られたように「国王と貴族を除外した人民の単一の評議会(one single council)」から成り立っていたが、そこにはなおも「審議」と「議決」の過程が統合されるという「寡頭制」の弊害が残っていた(cf.ibid.,64-66/訳286-87)。「単一の評議会からなるコモンウェルスにおいては、分割〔審議〕を行った者以外に選択〔議決〕する者はないことになる。それ故、そのような評議会は争奪の場となり、党派を生ずる(factious)ことは必死である」(ibid.,24/訳248)。この弊害の回避のためにも、ハリントンは、この国の「単一の評議会」の解散をクロムウェルに促し、実際の歴史上の護国卿体制とは異なって、「代表制」の原理に基づく「二院制立法府」や「官職輪番制」の導入を含めた諸々の制度改革を提案したものと考えられるのである(cf.ibid.,164-66)。さらに、この政治制度の担い手に関して、ハリントンは「学問なしに、あるいはその学問のための余暇をもつこともなく、政治学(politics)が習得しうると考えることは無益な想像に過ぎない」(ibid., 136)として、「政治学」の教養を兼ね備えた政治指導者階層という意味で「アリストクラシー」という言葉を用いて次のように書く。 「人民も、なおまた聖職者も、そして弁護士(lawyers)も、国民の中のアリストクラシーたりえないのであるから、残るのはただ貴族(nobility)のみである。その名称で、これ以後繰り返しを避けるために、私は、フランス人が貴族(noblesse)という語で理解するように、ジェントリを理解することにしよう。」(ibid., 137) ハリントンは、「オシアナ共和国」の「ジェントリ」とフランスの「貴族」を共に政治指導者階層たる「アリストクラシー」として位置づけ、それを「人民」に対比させる。「オシアナ共和国」では、優れた能力に基づいて選ばれる「審議する元老院」は「ジェントリ」からなる「アリストクラシー」により、「議決する民会」は「人民」により構成される。「コモンウェルスの知恵」は「アリストクラシー」に、「コモンウェルスの利益」は「人民全体」の中に見出されるからである。そして「コモンウェルスが国民全体からなっている場合には、あまりにも大きすぎて、一つの集会に集まることができないので、この評議会は、平等であって、全国民の利益以外の利益と決して手を結ぶことがないように作られた代議体(representative)から構成されるべきである」(cf. ibid., 24/訳248)。しかし「平等なコモンウェルス」である「オシアナ共和国」では、「ジェントリ」と「人民」は階級的に対立するわけではない。なおも「不平等なコモンウェルス」として認められた古代ローマ共和政とは異なり、「オシアナ共和国」の「元老院」は「世襲の権利によるのでもなければ、土地財産の大きさのみを考慮して承認されるのでもなく、[…]人民を導く彼らの徳や権威の影響を増大させる、その優れた才覚によって選ばれるのである」(ibid., 23/訳247)。 ハリントンは「古代の慎慮」が弱体化し、「近代の慎慮」が強化・促進された契機として「カエサルの武力から生じたローマ歴代皇帝のいまわしき支配」を挙げた(cf.43/訳266)。そもそも古代ローマにおける「不平等な共和政」は「農地法を粗末にしたことによって奢侈をはびこらせ、彼ら自身と後世に対して、無限に貴重な自由というものを失ってしまったのである」(ibid., 43/訳266)。こうした不平等の蔓延した国家においてこそ、「代表制」の原理も含めて「党派対立」は流血を伴う内乱の原因として認められたのである。これに対してヴェネツィアを例とする「平等なコモンウェルス」では、「党派」が内乱の原因になることはない(cf. ibid.,33/訳257)。「オシアナ共和国」においても、この統治参加の平等の維持のために、一定程度の「人民」の土地財産の平等が「農地法」によって維持されなければならない。さらに政治制度に関しては、「立法府」が「審議する元老院」と「議決する民会」に分割され、「執行する行政府」をも含めた、これら全ての機関の構成員は「統治における平等な交代」を保障する「人民の投票札による投票での平等な官職輪番制」によって選ばれなければならなかったのである(ibid.,33-34/訳257-58)。「平等なコモンウェルスとは、基礎となっている〔所有の〕均衡においても、その上部構造、つまりはその農地法においても官職輪番制においても平等なコモンウェルスのことである」(ibid.,33/訳257)。このように、ハリントンが構想する「シヴィル・ソサエティ」、すなわちその「公民」が平等に統治に参加する国家には「統治者」と「被治者」の区別は認められていなかったのである。ポーコックも主張するように、ハリントンの課題は、古代ギリシャ、ローマの「共和政」に見出され、土地所有の一定程度の平等を条件とする政治参加と軍事的奉仕、および、それに伴う公的献身としての「徳virtue」を重視する「シヴィック・ヒューマニズム」の観点から、近代のイングランドに「公民資格citizenship」を復活させることにあった。そうであるが故に、ハリントンは、この「徳」を妨げ、「私的利益」の追求を一般化する「商業取引trade」に積極的役割を認めることはなかったのである(cf. Pocock 1975,383-86)。 |
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■2. ハリントンにおける理論的探求とモンテスキューにおける歴史学的探求
モンテスキューに従えば「一群の著述家は、王冠が見えない至るところに無秩序を見出していたのに、ハリントンには、イングランドの共和国しか目に入らなかった」(EL 29-19)。ハリントンは、近代社会イングランドに土地所有に基礎づけられた古代ギリシャ、ローマを模範とする「共和政」の復活を模索した。その結果として、ハリントンの歴史叙述においては、動産、あるいは金銭的財産に関して、それらが「支配権empire」の均衡に影響を与えることが認められながらも、そこには周縁的な位置付けしか与えられることはなかったのである。「なぜならば、支配権を生み出すような財産に対しては、それがなんらかの根元ないし足場をもつことが必要であるが、そうした足場は土地財産の形でしかもつことはできず、その他の形では、いわば宙に浮いたようなものだからである」(cf. Harrington[1656]1992, 13/訳237)。これに対して、モンテスキューは1688年の名誉革命以降のイングランドを「共和政が君主政の形式のもとに隠されている国」(EL 5-19)として認め、その新たな「共和政的統治」の基礎を近代的な商業社会に求めた。そこでは、かつて「徳」の内実を成した「祖国への愛」(EL 5-2)や「平等への愛」(EL 5-3)といった厳格な「習俗」を要請する「古代の共和政」は、もはや実現不可能な過去の遺物として認められたのである(EL 3-3)。近代の商業社会では、「古代的共和政」のように土地所有に基づく政治参加と軍事的奉仕を条件とする「公民資格」の発想が前提とされることはない。この意味においてモンテスキューは、マキァヴェッリやハリントンに見出された古代ギリシャ、ローマを模範とする共和主義の伝統からは明確に異質な議論を展開する。モンテスキューは、第11編第6章「イングランドの国制について」の末尾で、ハリントンを、「資産が平等でない共和国において、それを平等にする仕方を考案」していたカルケドンの立法者、パレアス(EL 5-5)と重ね合わせるかのように次のように書く。 「ハリントンもまた、彼の『オシアナ』において、ある国家の国制が到達しうる最高度の自由がいかなるものであるかを検討した。しかし、彼はこの自由を見逃した後になって探し求め、ビザンティオンの岸を眼の前にしてカルケドンを建設したといえよう。」(EL 11-6,al. 71) マキァヴェッリ、ハリントンが想定した古代ギリシャ、ローマ以来の共和主義の伝統において「徳」の問題は重要性をもち、その「腐敗」を回避するために民兵制や宗教に関する政策を通じて、その回復が追及された。そうであるがゆえに、彼らにおいて、人民に良き秩序を与え、その「徳」を鼓吹する役割は立法者に委ねられたのである。ハリントンは、ヴェネツィアを「完全に平等なコモンウェルス」に最も近い例として認めながらも、「それは自己保存のためのコモンウェルスであって、そのようなコモンウェルスでは統治に参与する市民の数が少なく、統治に参与しない人々の数が多いという点を考えてみれば、属州をも含めれば不平等である」として、いまだ「完全な平等」を達成するには至っていないと考えた(Harrington[1656]1992, 34/訳258)。 これに対して、ハリントンは同時代のイングランドにおいてこそ、土地財産の理想的な均衡が実現する時代が到来したことを認めたのである。こうした歴史的背景を前提に、「完全に平等な共和国」の最初の例として、理論的構築物たる「オシアナ共和国」は、実在のイングランドに適用されるべく構想されたのである。ハリントンに従えば「著書や建築物は、それが唯一人の著者や建築家を持つのでなければ、完成の域に達することができないように、コモンウェルスも、その構造に関しては同様な性質を持つ」(ibid., 67/訳289)。そこで、ハリントンは「オシアナ」の立法者たるクロムエルを、「もっとも勝利に輝く軍隊の長であり、無比の愛国者」として理想化し、この立法者に自らの構想の実現を託したのである。この虚構上の人物に、約800年にわたり存続したスパルタの基礎を築いた立法者であるリュクルゴスに関してマキァヴェッリが書いた評価を参照させ、その偉大なる栄光に感嘆する場面を描き、この「オシアナ」の立法者が次のような決意に到達したとする。すなわち「その決意とは、まず第一に立法者は一人でなければならないということ、第二に統治制度は一気に、かつ即刻作られるべきであるということであった」(ibid., 66-67/訳288)。なにより『オシアナ共和国』は、「立法者」に捧げられた、実際的適用のための理論的書物に他ならなかったのである。 モンテスキュー自身も、『法の精神』の第2編から第8編にかけて議論する三政体論において「共和政」、「君主政」、「専制」を分類し、その各々に「政体を動かす人間の情念」である「原理principe」を「徳」、「名誉」、「恐怖」として対応させる際には同様の問題枠組を踏襲している(cf.EL 3-1)。そこでは、各々の政体の存立は、主に「立法者」の能力に依拠し、それに固有の「原理」を維持することで栄え、それを失うことで「腐敗corruption」へ至るとする循環論が想定されている。しかし、そうであるが故に先の三政体の分類には収まらず、第11編の「国制」の議論における「統治者」の観点、そして第19編の「習俗moeurs」、「生活様式manieres」、国民的「性格」の議論における「被治者」たる「公民」の観点、これら両者の観点から描かれるイングランドの議論は、「立法者」の観点を中心に描かれた政体循環論には収まらない側面を含意する。モンテスキューは言う。「自由をそれが存在するところで見ることができるとすれば、そして、それをすでに見出したとすれば、なにゆえにそれを探し求める必要があろうか」(EL11-5)。「イングランドの国制」は、モンテスキューが、その「原理」において「立法者」が追求するために提示した理論的構築物だったのではなく、むしろ、この国の諸社会勢力が経てきた抗争の歴史の具体的帰結として、彼が見出した対象だったのである(cf. Manent 1994,20-25)。 モンテスキューは、『法の精神』の中で、イングランドにおける「共和政的統治」の担い手となったこの国の「公民」を「商業国民」として積極的に評価した。商業社会において、「公民」同士は、その経済的関係において相互依存的でありながらも、彼らは封建制の崩壊過程を通じた動産所有の拡大を通じて、「統治者」たる「君主」に対して社会的勢力としての「独立性」を漸次的に獲得し、「自由の精神」を共有する「中間層」を形成したのである(定森2005)。この国では、その歴史的帰結として生まれた「国制」を媒介に、「王」、「貴族」、「人民」の「権力抑制」が実現されたのである。モンテスキューも言うように、「国民の精神が政体の諸原理に反していないとき、それに従うべきなのは立法者の方である。なぜならわれわれは、自由に、しかもわれわれの生来の天分に従って作り上げたもの以上によいものを作り出すことはできないからである」(EL 19-5)。彼は、この国の「国制」の議論を通じて、「統治者」の政策が「被治者」たる「公民」の「習俗」により制限を受ける時代が到来したことを肯定したのである(cf. EL21-20)。モンテスキューは「イングランドの国制」それ自体を商業社会における「習俗」の歴史的産物として認め、ハリントンが内乱の原因として批判した対象である「ゴシック政体」(EL 11-8)を逆に評価した。こうして、第11編第6章の「イングランドの国制」に関する議論の末尾近くで、階級的不平等の下に権力を各々の社会勢力に配分する「政治制度」の由来が、古代ローマの歴史家、タキトゥス(55頃-120頃)によって描き出された「ゲルマン人の習俗」に求められることになる(EL 11-6,al.67)。さらに、モンテスキューによる政治制度に関する評価は、ハリントンが十分には議論を展開しなかった、イングランド、そしてフランス君主政における司法機関の問題にも繫がる。マキァヴェッリの眼にも、特にフランス君主政における法律の整備は、その共和主義思想の問題枠組では説明しきれない異質な要素に留まっていた。マキァヴェッリ自身も、その『ディスコルシ』において、彼自身の同時代である16世紀前半のフランス君主政を次のように評価していたのである。 「王国の場合も、同じように革新を断行し、その王国創設当時の法律に復帰するようにしなければならない。フランス王国では、これが好結果をおさめていることが認められる。この王国では他の王国にも増して厳格にその法律、および諸々の制度を遵守して生活している。その法律や諸制度の遵奉者をもって任ずるのは高等法院(parlamenti)で、特にパリ高等法院がそうである。フランスの法律、諸制度は、この機関によってたえず革新されており、王国内の領主に対しても拘束力をもち、ときには王自身に対しても有罪の宣告をする。」(Machiavelli[1531]1954, 313/訳289)これまでの分析を踏まえることで、古典的共和主義の近代社会における復活という「マキァヴェリアン・モーメント」の問題枠組を越え、新たな観点から「アルプス以北の君主国政」、およびその法律と諸制度を評価することが可能になる。以降、モンテスキューが、イングランドとフランス君主政の共有する遺産として認める封建法の歴史的位置付けを明らかにすべく試みることになるだろう。 |
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■III イングランドとフランス君主政が共有する封建法の遺産 | |
■1. イングランドにおける「ゲルマン諸民族」の制度的遺産
モンテスキューは、『法の精神』の第11編第8章で、古代ギリシャ、ローマ等の「共和政」を取り上げ「古代人は貴族団体に基礎をおく政体を知らなかったし、国民の代表によって構成された立法府に基礎をおく政体はなおのこと知らなかった」(EL 11-8)ことを確認し、再びタキトゥスを参照することで「代表制」の由来をゲルマン社会に求めることになる。そこで、モンテスキューは「ローマ帝国を征服したゲルマン諸民族は、人の知るように極めて自由であった」として、イングランドとフランス君主政を含めた「われわれが知っている諸君主政の見取り図」を描き出す。「ゲルマン諸民族」は農村に定住し、占領地に分散する過程で、それまでに維持していた人民全体による集会が不可能になった。「しかし、征服前に行なっていたように事案を討議することが必要となり、この人民はそれを代表者によって行なった。これがわれわれの間のゴシック政体の起源である」(EL11-8)。モンテスキューは、イングランドを「共和政が君主政の形式のもとに隠されている国」(EL 5-19)として認め、階級的不平等の存在するこの国で、「代表制」を媒介に「公民」の間接的な統治参加を可能にする「共和政的統治」の由来を「ゴシック政体」の歴史の中に見出したのである。 モンテスキューは、ハリントンと同様に、イングランドにおける「共和政的統治」の出現の背景に封建制の崩壊過程を認める。ハリントンは、この過程を土地財産の歴史的移転の観点を中心に分析した。これに対して、モンテスキューは動産の移転を重視し、商業社会の歴史的発展とそれに伴う「中間層」の形成の側面からこの過程を描いた。しかし、モンテスキューは、単に、諸々の社会勢力が有する財産の均衡が権力の均衡を規定するという側面だけではなく、それに対応する「裁判権」の歴史的移転という側面からも、この同じ過程を描き出している。モンテスキューは『随想録』で次のように書く。 「議会の諸法令によって、イングランドの全ての土壌は、農業奉仕保有(socage)であることが決定された。この決定は、封建法に対して非常に大きな打撃を与えたのである。あらゆる世襲的裁判所は取り除かれ、すべての土地貴族、土地に基づく依存の紐帯(dependancede fonds)もまた取り除かれた。今や、一方には国王裁判所が、他方では、平民保有地(roture)が全てなのである。」(MP 1645)ハリントンの議論に関しても見たように、イングランドにおいては、ヘンリー7世によるヨーク派貴族の所領没収とそれに伴う王領地の拡大、封建貴族に対する圧力、そしてヘンリー8世の教会改革に伴う修道院の解体等によって土地貴族は著しく弱体化した。そこで、モンテスキューが封建貴族の弱体化の帰結として主張するのが、その「世襲的裁判権」の剥奪と「国王裁判所」への「裁判権」の集中であった。モンテスキューに従えば、「イングランドの議会」は「領主のすべての裁判権」を廃止したが「ある君主国において、領主、聖職者、貴族および都市の特権を廃止してみるならば、ほどなく民衆国家か、さもなければ専制国家が出現することになる」(EL 2-4)。さらに、「イングランドで貴族に商業を許している慣行は、この国において君主政体を弱めるのに最も寄与したことの一つである」(EL 20-21)とも認められるように、血統や戦士的資質に基づく「貴族」の内実も次第に失われる。この「貴族」の衰退に代わって勃興したのが「ジェントリ」を含め、「商業国民」として認められる「中間層」であった。モンテスキューの思想においては、彼らこそが、「貴族」によって担われた法秩序の衰退にもかかわらず、「統治者」に対する「被治者」の領域、つまりは「君主」に対して「独立性」を維持し、「自由の精神」を共有する「シヴィル」の領域の担い手として、自らの社会的勢力を形成したのである。 イングランドの「商業国民」は「君主」に対抗しうる「中間層」として自らの社会的勢力を形成しながらも、彼らはフランス君主政において「法服貴族」が担う特権に基づく「裁判権」をもたない。しかし、彼らは「貴族」の特権に支えられた、この法的秩序を放棄しながらも、その政治制度に関しては、先に見た「代表制」と同様に封建制の遺産の全てを失ったわけではない。ここに「イングランドの国制」の議論において、「国制」の領域に関わる「立法権」と「執行権」の二権力に対し、「公民」の領域に関わる「裁判権」の「権力の分離separation despouvoirs」が提示されたことの意味がある。この国の「国制」に関して述べられるように、「裁判権が立法権や執行権と分離(separee)されていなければ、自由は存在しない」(EL 11-6, al.5)。この国では、特定の個人や集団による「権力の濫用」を防ぐという意味での「国制との関係における政治的自由」は、「代表制」を媒介にして、「執行権力」としての「君主」、「立法権力」内部の「人民の立法院」と「貴族の立法院」、これら社会的諸勢力が「権力抑制」を実現することで保障される。これに対して、「裁判権力」は「公民法に属する事項の執行権力」として認められる(EL 11-6 al. 1)。そして「国制」に関わる「ポリティック」の領域が「公民」に関わる「シヴィル」の領域とは異質であることに対応するように、「立法権」と「執行権」からの、「裁判権」の「権力の分離」が認められたのであった(定森2005)。法的秩序の担い手であった特権に基づく「貴族」の没落したイングランドにおいて、この「裁判権力」は、主に「宗教」、「習俗」、「平穏」、「公民の安全」を対象とする「刑事の法律」(EL 12-4)を媒介に、なおも「公民との関係における政治的自由」を保障する政治制度として認められたのである。この国に特有の「裁判権」の形態、特には「陪審員jures」(EL 6-3)の制度も、「代表制」と同様に「ゲルマンの森」から封建法を媒介にもたらされたものと考えられるのである。 |
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■2. フランス君主政の歴史における「貴族」の誕生
モンテスキューも認めるように、フランス君主政は、イングランドのように「自由」を直接の目的とすることはない。この政体は「公民や国家や君公などの栄光(gloire)」のみを目的とする。「この栄光の結果として自由の精神(esprit de liberte)が生じ、この精神は、これらの国家において自由そのものと同じくらい偉大なことをなし、おそらく同じくらい幸福に貢献することができる」(EL 11-7)。モンテスキューは、同時代におけるフランス君主政の「貴族」を、「最も自然的な従属的中間権力」(EL 2-4)として認めた。この「貴族」こそが、18世紀に至って、なおも「統治者」たる「君主」との関係において規定される「シヴィル」の領域の担い手として認められたのであった。つまり、彼ら「貴族」は「君主」の対抗的社会勢力として相対的な「独立性」を維持し、また、「高等法院parlement」を中心とする「裁判権力」の担い手だったのである。モンテスキューが「立法権」、「執行権」、「裁判権」の三権力に関して言うように、「ヨーロッパの大部分の王国において、政体は制限的(modere)である。なぜなら、君主は最初の二つの権力〔立法権と執行権〕をもつが、第三の権力〔裁判権〕の行使はその臣民に委ねるからである」(EL 11-6,al.7)。この「裁判権力」の担い手である「貴族」の起源が封建法の歴史の中に求められることになる。 モンテスキューは、イングランドとフランス君主政を含む「全ヨーロッパ」の共有する遺産として封建法を位置づけ、第30編と第31編で扱われる、この封建法とフランス君主政の確立過程の関係について議論を開始するに当たり次のように書く。 「もし私が世界に一度は発生し、おそらく今後は発生しないであろう一つの事件を黙過したならば、また、それまでに知られていた法律に由来したのではなく、全ヨーロッパ(toute l’Europe)に一瞬のうちに出現したこれらの法律〔封建法〕について語らないとしたならば、私の著作には不完全さが残るであろうと思う」(EL 30-1)。 モンテスキューは、ローマ帝国を征服した「ゲルマニア」出自の諸民族の「習俗」に関して書き残した著述家として、『ガリア戦記』の著者であるカエサル、およびタキトゥスの二人を挙げ、彼らの著作の至るところに「蛮民の法律」の細部が描かれていることを見出す(EL30-2)。さらに、これら二人の著作の中に、後の封建法を特徴づける「従士制vasselage」の原型が見出されることから、この「蛮民の法律」が、イングランドとフランス君主政を包含する枠組みとしての「全ヨーロッパ」の封建法の歴史の出発点に位置づけられたのであった(EL 30-3,30-4)。「ゲルマン諸民族」は「ゲルマニアにおいては、ほとんど土地を耕作していなかった。 タキトゥスおよびカエサルによれば、彼らは大いに牧畜生活に身を入れていたらしい。だから、蛮民の法典の諸規定のほとんどすべては、家畜を基礎としている」(EL 30-6)。この「遊牧民族」が定住し、「農耕」、そして「商業」へと生産活動を展開していく過程が、そのままフランス君主政の歴史として辿られるのである 。 そこで、モンテスキューが「ゲルマン人の習俗」に由来するものとして認めた政治制度の遺産としては、「ポリティック」の領域で諸身分間の「権力抑制」を可能にする「代表制」と同様に、諸々の判決の蓄積を通じて「シヴィル」の領域の秩序を生み出し、それを維持する「裁判権」の形態が重要な意味をもつ。 「裁判権(juridiction)をもつものが誰であっても、国王、伯、グラヴィオン、百人官、領主、聖職者は、決して一人では裁判しなかった。この慣行(usage)は、ゲルマンの森に起源をもつが、封地が新しい形態をとったときにもなお維持された」(EL 30-18)。 モンテスキューに従えば、封建法が効力を有したフランス君主政の成立の歴史を通じて「すべての従士(vassal)の領主に対する義務は、武器を持ち、その同輩を領主の法廷で裁判することであったのをわれわれは見ている」(EL30-18)。そこでは「誰かの軍事的権力(puissancemilitaire)の下にある者は、またその民事裁判権(juridiction civile)の下にもあるということは君主政の基本原理なのであった」(EL30-18)。また「裁判権は、古い封地においても新しい封地においても、封地そのものに内在する権利であり、その一部をなす利得的権利(droit lucratif)であった」(EL 30-20)。こうして「ゲルマン諸民族、およびそれから出た諸民族」は「家産的裁判権を確立した唯一の民族」として認められることになる。つまり「その〔領主裁判権の〕起源を探究すべきであったのは、ゲルマン人の慣行と慣習法(coutumes)の奥底においてなのであった」(EL 30-20)。この「ゲルマンの森」に由来する「慣行」や「慣習法」が、封建制確立の歴史を通じて「君主」が「貴族」に対して封地と「領主裁判権」とを委託することを可能にし、彼ら「貴族」は「君主」に全面的に依存することのない独自の法的秩序を形成するに至ったものと考えられるのである。 モンテスキューは「この大きな特典〔封地への託身〕を享受し、貴族の階層に入ることを許された自由人」の歴史的出現に関する議論を第31編で展開することを予告し(EL 30-25)、さらに、この編の結論部であり、『法の精神』全体を通じての結末にも当たる第31編第34章では、「国制の法律lois politiques」と「公民の法律lois civiles」の関係性という観点を明示するように次のように書く。 「封地が取り上げ可能か一代限りかであったときは、封地はほとんど国制の法律のみに属していた。[…]しかし、封地は世襲的になり、贈与されることも売却されることも遺贈されることもできるようになったとき、国制の法律にも公民の法律にも属した。封地は、軍事的奉仕の義務と見られることによって国制の法律に属し、取引される財産の一種と見られることによって公民の法律に属した。このことは封地に関する公民の法律を生み出したのである」(EL 31-34)。 このように封建制の確立の歴史を通じて「貴族」は土地の世襲化を認められ、「領主裁判権」を獲得することで自らの社会的勢力を確立する。彼ら、中世のフランス君主政における「貴族」は、一方の「統治者の被治者に対する関係」として規定される「ポリティック」の領域では、「君主」に対する軍事的奉仕という形で庇護従属の関係にありながら、同時に、その武器所有を基に対抗権力を形成し「権力の濫用」を回避することで「法律」に基づく統治としての「政治的自由」の条件を形成する。他方の「被治者間相互の関係」として規定される「シヴィル」の領域において、この「貴族」は「領主裁判権」の担い手として、未だ共同体内の全人民を保護するには不十分で、極めて原初的な形態ではありながらも「所有権propriete」を保護する「公民の法律」の枠組を形作ったものと考えられるのである。「国制の法律は彼らに自由を得させ、公民の法律は所有権を得させたのである」(EL26-15)。こうして「裁判権力」の担い手である「貴族」は、その「慣行」の歴史的帰結として、「君主」の権力に対して一定の独立性を獲得し、フランス君主政に固有の法的秩序を形成するに至ったのである。モンテスキューは、この「シヴィル」の領域の担い手である「貴族」の誕生の過程を、ローマ帝国を征服して以降の「ゲルマン諸民族」に由来する「ゴシック政体」の歴史に見出したのであった(cf. EL 11-8)。 これまで見てきた封建制の確立過程とは対照的に、13世紀以降、18世紀前半に至る歴史は、この封建制が崩壊し、フランス君主政が次第に絶対王政へと転化していく過程になる。この過程で、まず、貧困化した「貴族」の「領主裁判権」は直属上級領主に移転し、かつて結合していた封地と「裁判権」とは分離する(EL 28-27)。ルイ9世(在位1226-70)は、旧来の封建貴族の慣習であった「決闘裁判」をその所領内部で廃止した(EL 28-29)。「裁判上の決闘の慣行が廃止され始め、新しい控訴の慣行が導入され始めると、自由な人々(personnes franches)がその領主の法廷の不正に対する救済手段をもち、平民(vilains)がそれをもたないのは不合理であると考えられた。そして高等法院は平民の控訴を自由な人々の控訴と同様に受理した」(EL 28-31)。以降、王権の中央集権化が進展し、「高等法院」は常設の裁判所となることで、その統治機構に統合され「遂には、あらゆる事件に対応できるように多くの高等法院が創設された」(EL 28-39)。この「決闘の慣行」の廃止に伴う「新たな控訴の慣行」の導入に対応するように、12世紀にヨーロッパに再生した「ローマ法」は、その後に「文官職(emplois civils)を志すすべての人々の知識の対象」(EL 28-45)として学習されることになる。「領主たちに自分自身で法廷を開くのを禁じたのは法律ではなかった。[…]ローマ法、諸法廷の判決、新たに成文化された慣習法の集成の認識には、無教養な貴族や人民には全くできない研究が必要だったのである」(EL 28-43)。そこで、フィリップ4世(在位1285-1314)の治世における1287年の王令は、この国家機構の官僚的役割の担い手を、聖職者を除き、「貴族」に限定されない「世俗人の階層ordre des laics」の中から選ぶことを義務づける(EL 28-43)。彼らが、「法律の保管所」(EL 2-4)としての「高等法院」の担い手となる「法服貴族」に昇進していったものと考えられるのである。そもそも、この「法律の保管所」は「貴族身分に生来のものである無知やその不注意、国家的統治に対するその軽蔑のために、ある団体、すなわち法律をその埋められている埃の中からたえず引き出してくる団体」(EL 2-4)として必要とされていたのであった。 この「法服貴族」の国家機構への統合の過程は、商業社会の勃興、そして「売官制」の拡充に伴い階級間の流動性が高まる過程にも重なる。モンテスキューは、商業社会の発展を時代の不可逆な流れとして認め、この「売官制」に関しては「金銭を対価として貴族身分を獲得しうるようになっていると、大商人は、これに達しうる地位に自分をおくために大いに努力する」(EL 20-22)として、その社会的有用性を認める。しかし他方で、授爵されて以降の「貴族」の商業従事に関しては、「それは商業にはなんの利益にもならず、貴族階層を破壊する手段となる」(EL 20-22)として厳しく批判する。つまり「売官制」は「徳のためには行なおうとしない事を家業としてなさしめ、各人をその義務に向かわせしめ、国家の諸身分をより永続的にする」(EL 5-19)という側面で肯定されたのであり、そこではなおも階級としての「貴族」の維持が重視されていたのである。だからこそ「君主政」の存続を維持するためにも「法律は貴族身分を世襲にしなければならない。それを君公の権力と人民の無力との間の境界とするためではなく、両者の紐帯とするために」(EL 5-9)。 モンテスキューは、宮廷社会の例に見られるように、近代の「君主政」における「名誉」が、実際には私的利益の追求に他ならない「偽りの名誉」として機能し、この「名誉」が逆説的にも「君主政」の維持にとって有益になったことを認めた(EL 3-7)。しかし、たとえ「貴族身分」が再編成され、その内実が変質したとしても、イングランドとは異なり、フランス君主政では「法服貴族」を含め、彼らは、なおも世襲の特権をもつ(EL 20-22)。この政体で「自由の精神」(EL 11-7)の担い手と成り得る「貴族」の没落、および、ルイ14世(在位1638-1715)に典型的に見られた、王権の絶対化から生じる「専制」の脅威という問題に向き合うなかで、モンテスキューは、フランス君主政における軍事的・司法的役割の担い手の原型として、中世封建社会の「貴族」を再評価したものと考えられるのである。旧来の「戦士貴族」(EL 20-22)の残存は、近代において「名誉」の内実が失われるなかで、なおもその階級の本質を担保する最後の砦となった。彼らは、「君主」に対抗してでも自らの命を賭して「名誉」を守り、「貴族身分」としての最終的な存在理由を固守する点で重視されたのである(EL 4-2)。「君主なくして貴族なし、貴族なくして君主なし。貴族がいなければ、君主は専制者でしかない」(EL 2-4)。「貴族」は「君主政の本質」に含まれていたのである。モンテスキューは『法の精神』を締め括るに当たり、ローマ建国の神話を扱った叙事詩、ヴェルギリウスの『アエネーイス』第3巻第523行、破壊されたトロイアの地を逃れ、アエネーイスの一行が新たな建国の地イタリアを発見した際の一同の歓喜の声を引用する。「『イタリア、イタリア…。』私〔モンテスキュー〕は、大部分の著者が封地の研究を始めたところで終わることにする」(EL 31-34)。ハリントンを含め、多くの著者たちは、封建制の崩壊過程とそれに伴う新たな社会の勃興を重視した。これに対して、モンテスキューは、フランス君主政の歴史的文脈の中で、その「専制」への転化に抗いうる「中間権力」、そして「シヴィル」の領域における「所有権」の法的担い手として中世の「貴族」を評価する。彼は封地と世襲の特権に基礎づけられた、この「貴族」の誕生の歴史という観点から封建制の確立過程を評価したものと考えられるのである。 |
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■IV 結びに | |
これまでの分析を経ることで、初めて、ポーコックが提示した「マキァヴェリアン・モーメント」の問題設定を越え、『法の精神』における「シヴィル」の領域の歴史的形成という観点から、イングランドとフランス君主政とを同時に評価することが可能になる。まず、ハリントンは、古代ギリシャ、ローマの共和主義を模範とし、さらにはヴェネツィアの政治制度から発想を得ることで、土地所有と武器携行に基礎づけられ、「公民」が平等に「統治者」の役割を担う「共和政」を探求した。彼は『オシアナ共和国』を、現実に適用できる理論的構築物として「立法者」の観点から提示したのである。そうであるが故に、ハリントンの考える「シヴィル・ソサエティ」に「統治者」と「被治者」の区別はなく、それは古典古代の「共和国」、すなわち国家と同一視されたのであった。これに対して、モンテスキューは『法の精神』において「統治者」と「被治者」の対比に基づいて「ポリティック」の領域と「シヴィル」の領域を区別する。
この尺度に照らしたとき、一方のイングランドの歴史的文脈で「シヴィル」の領域の担い手となったのは、主に15世紀後半から17世紀後半にかけて、封建制の崩壊過程で没落しゆく「貴族」に代わり、その商業活動を通じて勃興した「中間層」であった。他方のフランス君主政に関しては、18世紀に至って、なおも「貴族」が、その内実の変質を伴いながらも「シヴィル」の領域の担い手として認められた。彼ら「貴族」は「君主政」の「専制」への転化に対抗しうる「中間権力」の基盤であり、同時に法的秩序の担い手でもあったのである。だからこそ、この国に関しては、「土地を耕作しない遊牧民」である「ゲルマン諸民族」が定住して後、フランク王国の建国からカロリング朝を経て、10世紀末のカペー朝の設立に至る封建制の確立過程が、「貴族」の誕生の歴史として評価されたのである。 こうして、『法の精神』における「シヴィル」の領域に関し、イングランドでは封建制の崩壊過程が、これに対してフランス君主政ではその確立過程が重視されたことが明らかになり、その歴史的形成過程の二重性が理解されることになる。モンテスキューは『法の精神』執筆後に書かれた『随想録』の断片に次のように書き残していたのであった。「私は国制の法律が、公民の法律ともつ関係を扱うが、私は、私以前に、この関係を扱った人間を誰も知らない」(MP 1770)。 モンテスキューは「命令法の言葉遣い」により特徴づけられ、理論の実践的な適用を旨とする「立法者legislateur」(EL28-38,29-19)の学問、つまりは古代ギリシャ、ローマ以来の哲学的書物の伝統を単純に放棄することはない。しかし、他方で「シヴィル」の領域の歴史的生成の問題に関しては「法学者jurisconsulte」(EL 28-38)の学問として、封建法の研究を通じ、「ゲルマン諸民族」の「習俗」、「慣習」に由来し、「統治者」の権力に対して抑制機能を果たしうる政治的・法的諸制度の遺産の歴史的探求に向かったものと考えられるのである。そしてカペー朝以降の封建法の変遷は、この「蛮民」に由来する「古来のフランスの法慣例」、そして12世紀に再生し国家官僚化的役割を担う「文官職」の「知識の対象」として学習された「ローマ法」とが法典の編纂過程で混交し、フランス君主政の中央集権化が進展する過程となる(EL 28-38)。こうして『法の精神』の対象とする「ヨーロッパ」が、古代ローマ、あるいはゲルマン社会にその起源を求める思想的・法制度的遺産の複合性を具体的に分析する観点が与えられることになる。 モンテスキューの思想を受容したデヴィッド・ヒューム、アダム・ファーガソン、アダム・スミス等、いわゆるスコットランド啓蒙の思想家たちは「シヴィル・ソサエティ」に関して、主に同時代のイングランドの商業社会を想定し、「野蛮」から「技芸」の発達や「生活様式」の洗練への移行によって特徴づけられる「物質的に開明化された社会civilized society」の発展の側面を思想的に重視した。モンテスキュー自身も、確かに「商業は野蛮な習俗を磨き、これを緩和なものにする」(EL 20-1)ことを認めるが、彼は「商業」によって、生産活動の発展段階から見た際の歴史の一部をしか説明してはいない(cf.EL 21-5,21-6,21-20)。むしろ、モンテスキューは「法律によって歴史を、そして歴史によって法律を明らかにすることが必要である」(EL31-2)とも言うように、イングランド、およびフランス君主政の双方の歴史を、「野蛮な人民」から「法的に開明化された人民peuplespolices」(EL22-3)へと至る「シヴィル」の領域の形成史の観点から描き出したのである。 モンテキューは、「シヴィル」の領域の歴史的形成の問題に関して、「物質的開明化」の観点から、近代における商業社会の勃興の過程を重視するスコットランド啓蒙の思想家たちとは対照的に、その歴史を「法的開明化」の観点から、封建制の確立過程に遡って描き出したものと考えられるのである。 |
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■注 | |
1) 以下、『法の精神』(EL と略す)からの引用は、Montesquieu(1951)による。その際には慣例に従い編と章を記すが(例。EL 1-3『法の精神』第1編第3章)、必要に応じて段落番号を併記する(例。EL 11-6,al.71『法の精神』第11編第6章71段落)。『随想録(Mes)Pensees』(MPと略す)は、Montesquieu(1991)から引用し、その断片番号を記す。その他の著作からの引用は、著者名の後に出版年、ページ数を記すこととする。(例。Pocock 1975,159)訳文に関しては翻訳がある場合にはそれを参照したが、必要に応じて筆者が訳し直している。なお、[ ]内の引用は原著者、〔〕内の補足は全て筆者による。
2) フィリップ・ペティットの『共和主義― 自由と統治の理論』に従えば、マキァヴェッリ、ハリントン、モンテスキュー、そして『カトーの手紙』や『フェデラリスト』の著者たちは、人民における「非支配としての自由freedom as non-domination」を守るための最良の制度を模索した点に特徴があるが、現代に至る、これまでの政治理論、政治哲学の伝統は、制度の構想よりも、合意の意味や正義の本性、政治的義務の基礎等の形而上学的な問いに専心することで、長きに亘り制度に関する分析を看過してきた(Pettit 1997, 240)。こうして、ペティットは、この著作の副題が含意するように、実際的適用の観点から立法、行政、司法の制度的在り方を問うことで「自由と統治の理論A Theory of Freedom and Government」を探求する。これに対して本論文は、『法の精神』で扱われる代表制と司法機関の由来を歴史的観点から明らかにすることを通じ、ペティット自身も含めた政治哲学全般が前提する古代ギリシャ、ローマの伝統からは異質な「共和主義」の系譜を『法の精神』から汲み出すべく試みる。なお、ペティットの理論的観点から成される「非支配としての自由」の分析と異なり、『法の精神』における「統治者」からの「独立性independance」の問題を、「習俗」の中に見出される「自由の精神」との関係で解釈し、この「習俗」が、「法律の許すすべてをなす権利」(EL 11-3)としての「政治的自由」の条件それ自体を生み出す過程を歴史的観点から評価したものとしては、定森(2005)を参照。 3) マンフレート・リーデルは、「市民社会」の概念史を議論するなかで、ドイツの自然法学者、プーフェンドルフ(1632-94)を取り上げ、そのラテン語の「キウィタスcivitas」、あるいは形容詞形の「キウィリスcivilis」の概念使用において、政治的機構形式としての「国家」と臣民団体としての「社会」とが未分化であったことを確認する。さらにリーデルは、同じくドイツの思想家、ライプニッツ(1646-1716)における「ソキエタス・キウィリスsocietas civilis」の概念の理解に関して次のように書く。「19世紀の法哲学や国家哲学が『封建社会』の典型的な現象形式として強調することになるもの―― すなわち貴族によって統治されるラントの支配層とそれを支える人的な従属者の層―― は、この『市民社会』概念の中に含まれている。こうしてソキエタス・キウィリスが、17世紀から18世紀にかけての政治理論において繰り返し好意的に受け入れられている封建的諸身分社会の本来的呼称であることが説明される」(Riedel 1975, 739-40/訳40-41)。こうしてリーデルは、「キウィリス」と「ポリティクス」が概念として分離される歴史的契機にイタリアの思想家、グラヴィーナ(1664-1718)とモンテスキューを位置づける(cf. ibid., 746/訳48)。 4) リーデルに依拠しながら「市民社会」の概念史を描くファニア・オズ=ザルツバーガーは、本論文の主張とは反対に、ここで言われる「国制的状態」と「公民的状態」の区別が『法の精神』全体を通じて重要性をもつことはないとする。(Oz-Salzberger 2001) 5) なお、「シヴィル」の領域それ自体の歴史的生成の問題とは異なり、近代社会に限定した意味での「市民社会societecivile」の形成の観点からイングランドとフランス君主政を比較した研究としてはSpector(2004)が挙げられる。スペクトールの観点と本論文で展開される「シヴィル」の観点との相違に関しては、定森(2005)の註21を参照。 6) なお、サヴォナローラ、マキァヴェッリ、フォーテスキュー等において、ラテン語の「ポリティクスpoliticus」の概念がその歴史的文脈に応じて「共和政」と「君主政」の双方を意味したとする概念史研究に関しては、Rubinstein(1987)を参照。 7) エリック・ネルソンは共和主義に関して、農地法、あるいは相続法による財産制限の発想の源になった「ギリシャの伝統」と、これらの法律が所有権を侵害するものと見做した「ローマの伝統」を区別し、前者の「ギリシャの伝統」に、トマス・モア、マキァヴェッリ、ハリントン、モンテスキュー、アメリカ合衆国の創設者たちを位置づける(cf.Nelson 2004,esp.chap.4)。しかし、ネルソンの解釈とは異なり、モンテスキューにおいて、その共和主義思想の由来は必ずしも古代ギリシャ、ローマの伝統に限定されず、特に、西ローマ帝国崩壊以降、封建法の導入を媒介する近代ヨーロッパの相続法の歴史に関しては、古代ローマと古代ゲルマン社会の双方に由来する諸々の法律の混交の過程が描かれている。 8) 福田有広に従えば、ホッブズにおいて臣民の服従は、絶対的権力による征服や命令によって実現すると考えられたが、ハリントンは、ホッブズを批判する過程で、この服従の内実を変容させた。つまり、ホッブズにおいては「万人の戦争状態」における恐怖や貧困が主権者に対する臣民の服従の源として考えられたが、ハリントンにおいては平等の実現それ自体が内乱や抵抗の必要性を無くし、臣民の利益の実現から得られる権威が服従の基礎になる。この平等という条件を前提に、初めて権力の問題は後景に退き、代わって利益の調整のための政治機構が構想されうるものになった、とされる(Fukuda1997, 91-96)。 9) デヴィッド・W・カリザーズに従えば、モンテスキューは『法の精神』第8編第5章においてヴェネツィアの「貴族政」を、「貴族」が世襲となり、その権力が「節度moderation」を失うことから生じる「腐敗」を最もよく回避した政体として肯定した。しかし、第11編第6章でイングランドの政体と比較される段階になるとヴェネツィアでの「立法権」、「執行権」、「裁判権」の「貴族」への集中は「専制的」であるとして、その評価を一転させる。こうしてカリザーズは、ヴェネツィアの「貴族政」という同一の対象に関して互いに両立しない異なる評価が『法の精神』内部に並存することを確認する(Carrithers 1991)。しかし、カリザーズが説明しない、第8編と第11編のヴェネツィアに対する評価の相違の原因は、「ポリティック」と「シヴィル」の観点の相違、つまり「統治者」と「被治者」の観点の相違として理解できる。モンテスキューは、1733年には書かれていたとされる『随想録』で次のように書く。「ヴェネツィアにおいて元老院議員は、統治者としては(politiquement)自由であるが、公民としては(civilement)自由ではない」(MP 751)。 10) モンテスキューは「共和政体においては、裁判役が法律の文字に従うのがその国制の本性である」として、イングランドの陪審制度を評価し次のように書く。「イングランドでも陪審員は、彼らの前に示された事実について、被告人が有罪であるか無罪であるかを決定する。被告が有罪と宣言されると、その事実に対して法律の科する刑罰を裁判役(juge)が言い渡す。そのために裁判役に必要なのは眼だけである」(EL 6-3)。 11) モンテスキューは「法律はさまざまな人民がその生活必需品を調達する仕方と非常に深い関係をもっている」として、「狩猟」、「牧畜」、「農耕」、「商業」へと生産段階が発展するに応じ「より大規模な法典」が必要になるとする四段階論を提示する(EL 18-8)。しかし「野蛮barbarie」としての牧畜段階により、その歴史が開始される「ヨーロッパ」の概念の具体的な内実に関しては、この概念の外部に放逐され、アメリカ大陸北部等に発見された「未開sauvage」としての狩猟、採集段階の位置付けも含め改めて議論されなければならない。 12) ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』に従えば、「礼儀civilite」という概念は、16世紀前半、特にはフランスの宮廷社会の出現に対応して用いられ始め、後に、この言葉は「文明化civilisation」の概念へ発展したとされる。エリアスは、この概念の個別的な起源をエラスムスの1530年刊行の著作『少年礼儀作法』に求めて次のように言う。「言葉の歴史によく見られることだが、後に再び『礼儀』という概念が『文明化』という概念に進んで行く際に見られるように、ただ一人の人物がその原動力を与えたのである。エラスムスは彼の著作を通じて、古くからよく知られよく用いられた『キウィリタスcivilitas』という言葉の意味を新たに極端化し、新たな働きをこの言葉に与えた」(Elias1969, vol.1. 67/訳上巻141)。エリアスが同著作の第3部で議論するように、この「文明化の過程」は、13世紀初頭に始まる自然経済から貨幣経済への長期的な発展に伴い、フランス君主政が中央集権化し、市民階層の国家官僚化が漸進する過程に対応する。しかし、本論文の主題である『法の精神』における「シヴィル」の領域の形成過程は、エリアスの述べる「キウィリタス」の系譜によりも、むしろ「キウィタス」の系譜に属し、そこでは「習俗」や「生活様式」の洗練よりも、封建制を通じた法的秩序の形成の側面が重視されることになる。 13) 近代のフランス君主政における「貴族」の「名誉」と商業社会の関係を、その同時代の思想史的文脈を踏まえて詳細に分析した代表的研究として川出(1996)が挙げられる。なお、近代のフランス君主政に関して、「自由」の概念の内実を含めた多岐に亘る主題は「ポリティック」と「シヴィル」の関係性の観点から改めて議論されなければならないだろう。 14) マルク・ブロックは、その『封建社会』の序文で、「封建制feodalite」、あるいは「封建的feodal」という言葉を「ある文明の状態unetat de civilisation」を指し示すものとして用いた最も初期の人物としてアンリ・ド・ブーランヴィリエ(1658-1722)、そしてその読者であり批判者でもあったモンテスキューを挙げることで自らの問題を設定し、さらに、彼らを参照することで、その分析対象を、9世紀半ばから13世紀初頭の西部および中部ヨーロッパに位置づけている(Bloch 994,Introduction)。 15) モンテスキューは、第29編第19章「立法者について」で、その例としてプラトン、アリストテレス、マキァヴェッリ、トマス・モア、そしてハリントンといった、まさにポーコックが描き出す「マキァヴェリアン・モーメント」の系譜に重なる思想家たちを取り上げて次のように書く。「法律は、常に立法者の情念と先入観に出会っている。法律は、あるときにはそこを通り抜けながらもその色に染まり、あるときにはそこに留まってそれと一体化する」(EL29-19)。 16) ドナルド・R・ケリーは、14世紀以来の封建法の起源に関する法学者間の議論の延長上に位置づけられる論争、つまりは、宗教戦争に巻き込まれた16世紀のフランス君主政の文脈の中で、カトリシズムの側に立ち成文法を重視する「ローマ起源の命題」と、プロテスタンティズム、あるいはガリカニズムの側に立ち慣習法を重視する「ゲルマン起源の命題」とが対立し、両者が妥協し合うに至る論争を通じて「近代歴史学の基礎」が次第に形成されていった模様を描き出している(cf.Kelley1970,esp.chap.7)。 17) ファーガスンは、その『市民社会史』(1767)において「開明的polished」という概念の二重性を意識して次のように書く。「開明的(polished)という言葉は、その語源より判断すれば、元来は法律や統治(government)に関する民族の状態に関連して言われたもので、[開明化された人々(men civilized)とは、市民の義務を実践する人々のことだったのである。] 後に至って、この言葉は単に民族の状態だけではなく、文芸、機械的技術、文学、商業に関連して用いられるようになり、[開明化された人々(men civilized)とは、学者、流行を追いかける人々、そして商人のことを指すようになった]。」(Ferguson[1767]1995, 195/訳38;[ ]内は、1768年の第3版でのファーガソンによる加筆)。ファーガソン自身は、この著作において、むしろ後者の「文芸、機械的技術、文学、商業」という「物質的開明化」の歴史を強調し、その発展がもたらす「腐敗」に対抗する意味で、「市民的徳」の復興を肯定したものと解釈できる。なお、アダム・スミスは1756年に『エディンバラ評論』に寄せた論稿の中で、その前年に出版されたルソーの『人間不平等起源論』の一部を翻訳し紹介する際に、フランス語の「未開の人間homme sauvage」の対概念である「開明化された人間homme police」を、英語の「文明化された状態にある人間man in his civilized state」と翻訳した(Smith 1980,251-56/訳330-33)。スミスとモンテスキューにおける「開明化」の概念の内実の相違を分析することは、法学から分離する経済学の対象の固有性を明らかにすることに繫がる。この問題は、イングランドの封建制崩壊の過程に関して、特にはスミスの『法学講義』とモンテスキューの『法の精神』の各々が与える説明の比較を通じて明らかにする必要があるだろう。 |
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■「捨てる」と「拾う」との共時的社会の中のルソーの「子捨て」と『エミール』 | |
■はじめに
J.J.ルソー『エミール』は教育界で必読書とされている。同書によって拓かれた教育事実がおびただしいものであることからも、そして教育を考えるものならばその開拓事実をさらに継承発展させていく義務を負うことからも、必読書である地位は揺るぎないものである。ただ、そうした開拓・継承・発展過程を持ちつつ、その一方で『エミール』にルソー自身がかなりの「制約」(舞台設定)を与えていることも事実であり、その事実を看過することができない立場からすると批判的にならざるを得ないわけである。私は『エミール』をあげつらって批判する立場ではないことを前置きしておき、とりあえず「制約」の問題について箇条書き的に整理してみたい。 |
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■制約の中の『エミール』 | |
(1) 男子教育と女子教育とを歴然と区分しており、女子は男子に従順で奉仕するように育てられなければならない。標語的に言えば「女子差別の書がなぜ人間解放の書なのだ」と言うことになるだろう。この問題についてはもっともよく知られていることである。男性に従順な女子の教育を説く書という読み方もできるし、そこで描かれる男性とは女子を従順なものとしてみなし、実践できる主体という意味において、この従属関係の中で生きる男性もまた人間としては十分な存在としてあるはずはないという、ともに不完全で差別的な人間の形成の書である、という批判にも行きつく。
(2) 「私は、病弱な子どもなら、・・・引き受けはしないだろう。いつになっても彼自身にも他の人間にとっても無用の長物であり、・・」とあるように、病弱者や障害者は教育の対象から除外している。標語的には同じく「障害者差別の書がなぜ人間解放の書なのだ」ということになる。この問題も性差に続く重要な「制約」である。今日で言うところの健常者のみを教育対象としているという点で、『エミール』は発達を論じている書だというにもかかわらず、教育の対象たる「発達」主体から障害者が除かれているという点で、障害者差別教育の書である、という批判にも行きつく。 (3) 「エミール」というのは貴族もしくは台頭しつつあったブルジョアジーの子どもであり[1]、ルソー自身がその子どもの家庭教師を引き受ける、というストーリーで描かれる。家庭教師は、できるなら、子どもが生まれる前から雇った方がいいという。このことから『エミール』が教育一般書ではないことが指摘される。つまり、彼は、当時なされていた組織的教育(学校)に対する創造的提言をしているわけではなく、あくまでも家庭教育論なのである。彼は寄宿学校(コレージュ)、修道院、学院といった当時の、貴族やブルジョアジー子弟の組織的教育に対してきわめて批判的であった。貴族やブルジョアジーの家庭教育のあり方に問題を感じたからこそ「貧乏人には教育は不必要である」と言い家庭教育改革のための提言を書くとしたなら、その一方で貴族やブルジョアジーの子弟が通っていた寄宿学校など組織的な教育に対する改革提言を書いても良さそうなものだと思ってしまう。とにかく彼には組織的教育は罵倒するものでしかなかった。標語的には「社会的営みとしての組織的教育を否定する教育論がなぜ近代教育の開拓の書なのか」となる。 (4) 「子どもが生まれたその時から教育が始まる」とルソーは言う。もちろんここには父親が子どもを「養育」する義務も含まれるのだが[2]、具体的直接的には「新生児には乳母が必要である」ことからルソーは教育を論じている。彼の言う「乳母」とは二通り考えられ、一つは「もし母親がその義務を果たすことに同意するならば、結構なことだ」、二つは「もし母親とは別の乳母が私たちに必要なのであれば、まず第一に善い乳母を選ぶことにしよう」ということである。「乳母」に関することは後に触れるので、ここでは「母親」がその母乳をその乳児に与える、ということに限って、問題とされたことを挙げておこう。「まさに、女性を家庭に閉じこめることこそ近代ブルジョア社会への道を開くものであり、全人類の解放から遠のくことになった」のだ。『エミール』が、焚書事件などがあったにもかかわらず、貴族やブルジョア達の間で読まれ、それまで「乳母」に預けていたそれらの階級の間で、直接我が母乳を与えること、すなわち母親による育児が大流行したという。この「家庭教育」説[3]はフランス社会に大きな影響を与える。というのも、ようやく女性の社会進出が芽生え始めていた時期であったことに対して「歯止め」をかけるような政治が誕生するようになる。フランス大革命期の恐怖政治下で多くの人がギロチンにかけられたり投獄されたりしているが、その中に女性の社会進出を自らが勧めたり、暗躍したり、論説を張ったりしたことを理由とされているものがある。「女性と女性市民のための権利宣言」を執筆したオランプ・ドゥ・グージュはギロチン台に消えたし、女性の政治参加を認めたコンドルセは投獄され獄中で自死した。つまり、女性による家庭での子育ての主張は女性の人間としての自立とは真っ向から矛盾するものとして捉えられたわけである。近代国家システムを強固にしたナポレオンI世もまた『エミール』をこよなく愛読し、女性の社会参加の道を究めて細くした。つまり、近代化の始まりと同時に女性は家庭の中に閉じこめられたわけである。ルソーは近代化の思想的理論的な端緒を拓いたと評価されるが、その一方で、女性を社会から遠ざける論として『エミール』が読まれたわけである。 (5) ルソーが自らの子どもを捨てたことが『エミール』を執筆させた動機だと言われている。この説に従えば、同書は、自らの「子捨て」行為に対する懺悔の書としての性格も有している。確かにルソーは『エミール』の中で「長いあいだ自分の過失の上に苦い涙を注ぎ、だからと言ってけっして慰められることはないだろう」と、「父親の義務」を果たせない者に「予言」しているが、明らかにこれは自責の言葉である。ルソーの論敵ヴォルテールはルソーと同じようにフランス近代の魁であるが、彼は『エミール』を「子捨てをした者が子育ての書を書いた!」とスキャンダラスに揶揄している。ヴォルテールに限らず、そして今度はスキャンダラスにではなく、私の目の前の物知り顔の女子学生達がヴォルテールと同じことを言う。200年変わることのない「子捨て」攻撃である。 |
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■『エミール』を共時的社会の中で読む、ということ | |
J.J.ルソーは偉大な思想家であり文筆家である。また音楽家(作曲家)でもある。だが、それ以外に彼には何があったろうか?
たとえば、「エミール」の家庭教師は作者であるルソーである。彼は家庭教師をして日銭を稼いだこともある。だが、その家庭教師であった実在のルソーは自らの家庭教師ぶりをうまくいったと捉えていたのだろうか?これはむしろ否定的であった。つまり、実在の家庭教師・ルソーは描かれず、仮想現実の家庭教師・ルソーが描かれたのである。この比喩的表現の中に私のすべてのルソー像があるのだが、これでは不十分きわまりない。そこで、「共時的社会」という概念を登場させて考えてみたい。つまり、生活者ルソー像である。 私たちは、いや私は、いつしか『エミール』を「すばらしい教育の書、原典である」という形容の中にルソーの人間像をステレオ・タイプ視してしまっている。すなわち、フランス革命を起爆させた(この時のフランス革命というのも絶対視してしまっているのだが)、かのパンテオンに合祀されている偉大な人物(この時のパンテオンというのも絶対視してしまっているのだが)などなど、確かにそれは事実であろうが、ルソーが生きていた時代のことではない。ルソーが生きている時代の中でルソーを見ず、「後の時代」から、その「後の時代」を説明するためにルソーの言説を借用しているのである。今やこの説明の仕方は、ルソーの全的批判(むしろ否定)をも呼んでいる。 ルソーは大変上昇志向の強い貧乏インテリゲンチャであった。近代入り口前後のフランス社会の青年で、上昇志向が強い者の「生き方」とはどのようなものであったのか、少なくとも、その「平均像」だけでも知った上でないと、ルソーを理解することはできないだろう。ルソーが恋愛をした、あるいは好意を寄せた、あるいは「世話を受けた」対象は、「○○夫人」とついているのが多い。そしてその「夫人」は貴族ないしは貴族的生活をしている人たちだ。そして、その一方で、ルソーはどちらかというと下層階級に属するテレーズと同衾生活をする。結婚する意思は毛頭ない。・・・何ともはや、今日の我々からすると、その女性関係において、<とんでもないくわせ者>・ルソーである。しかし、これが、上昇志向を満たそうとした若者達の、平均像だったとしたら、ルソーも「時代の人」であることが証明されるわけである。つまり、社会総体がそうした「意志」を持ち「実践」をしていた、それに支えられてルソーはいのちと思想とを紡いでいた。その時代をくぐり抜けて一気に今日的な意味での倫理観と道徳とを身につけている人がいたならば、お目にかかりたい。いや、ご教示願いたい。ルソーも、彼のすべてが後の時代を「予言」したのではなく、彼のごく一部が「予言」したにしか過ぎない。そのような構え(「制限」)で『エミール』を読むと、前述の「制約」はルソーに固有のものではなく、フランス社会の「制約」であることが分かるのである。つまり、ルソーは共時的社会の中の一人として、いのちを育み思想を錬磨していた、ということである。そのことがルソーの歴史的存在意義を少しも低めることにはならないのだ。いや、低めることがあってはならないと、私は思う。 一時的に「遺産」を手にすることがあったにせよ、ルソーは、概して貧困者であった。借金をこしらえ、「夫人」達に援助を得ることによって、いのちを保ち、思想を膨らませていた。それ以外に彼は何の能力もなかったといえば、言い過ぎだろうか。そのようなルソーの同衾相手テレーズが懐妊した。結婚する気はないが子どもを作った。このことを責めるのか?今の私たちの感覚で。もちろん結婚制度があるわけだし、ルソーもテレーズも未婚者であるわけだから、結婚することが望ましいという声もあるだろう。ただ、それがその時代の絶対的倫理観であったのかどうなのかという検証も必要だろう。厳格なカトリック社会であるにもかかわらず(あるいはそのせいかもしれないが)、婚姻外で生まれる子どもの数はかなり多い。避妊・中絶が許されない教義の中で、「性に激しい」(ルソー『エミール』の青年期論による)若者たちの間で、あるいは貧困故に文化・文明に接することが十分でなかった男女の間で、婚姻外妊娠・出産があること自体、何ら不思議なことではない。さらには、上昇志向の青年と、「愛人」を持つことを一種のステータスと考えていた上流社会の女性−そのこと自体は「姦通罪」という名で制度的には厳しく罰せられたのであるが−との間でもそうだろう。そうした、まだまだ近代的に整備されていない社会の中の一人の青年・ルソー、生活者ルソーを捉えることは、けっしてルソーの思想の偉大さをゆがめるものでもない。ルソーに同化するのではなく、いかにルソーを批判的に継承・発展していくか、それが先哲に対する敬愛の証しである。 |
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■ルソーの「子捨て」について | |
ルソーの「子捨て」は次のようである。
1746年 第1子誕生 産婆が直ちに孤児院に預ける。ルソー不在中 1748年 第2子誕生。孤児院に預ける。 1751年 第3子誕生。孤児院に預ける。 1752年 この年から55年にかけて第4子、第5子誕生。孤児院に預けられたという。 ルソーの「子捨て」はルソー自身が『告白』で述べているのであり、その時々に彼が記録に残しているのでもなければ、公式な記録簿に掲載されているわけではない。従って、『告白』に述べられていることを「事実」とする、という仮説のもとに論理が出発する。 この「孤児院」とはどこのことだろう。「孤児院」とは、「保護」と「養護」との機能を備えているところ、という意味だろう。「保護」に関して言えば、18世紀中葉のパリに限定すると、ノートルダム広場の棄児院とトルソー広場の棄児院とが存在していた。当時「捨て子」は「棄児院」に直接「持ち込まれる」ばかりではなく、教会の階段であったり(かの「百科全書」のタランベールは教会の階段に「捨て」られた子どもであった)、街中であった。「捨て子」は習俗化されていたとはいえ、やはり、「棄児院」に直接持ち込むことははばかられたとみえる。19世紀に入って棄児院(「施療院」という総合救済施設の一部門)の入り口に子どもを「捨てる」ための回転戸棚式窓口が取り付けられる。これは、教会の階段や路上の「捨て子」は新生児にとってはあまりにも危険すぎることからの配慮でもあろうし、「棄児院」の役人との直接の接触を避けることの配慮でもあろう。パリのような大都市ではこうした施設が整っていたが、そうではない田舎ではどうだったのだろうか。今の私にそれを解読する能力は整っていないが、それでも一枚のリトグラフがヒントを与えてくれる。町はずれ(宗教的共同体=パロワスの入り口)にはたいてい十字架が立てられていた。その十字架のふもとは芝生の小山になっている。私が所持するリトグラフは、その芝生の小山に、一人の女が幼児を捨てているところを描いている。頭からすっぽり黒服を被っている様は宗教者を装っているものと思われる。目は人目を怖れているように描かれている。それは「罪の意識」からかどうかは分からない。地方都市の教会には「施療院」施設のようなものが具備されていたと思われる。病人が出ない地域はないし、棄民をしない地域もないからである。十字架の下に「捨て」ること=教会の階段に捨てること、に、通じはしないだろうか? ルソーが我が子を「捨て」た当時、どれほどの「捨て子」があったのだろうか。18世紀という時代、フランスは近代を準備する時代でもあり、道徳や倫理の移行期の雰囲気を醸し出していたと言われる。「捨て子」が前世紀に比べて飛躍的に多くなるが、それは、先に述べたような非婚出産が急増したことと無関係ではない。あとで述べるが、乳母制度との絡みで「捨て」られた子どもに加えて、望まれずして生まれた子どもが登場し始めるのである。ルソー研究者ジャン・ゲーノは、1745年から1766年まで捨て子は3,233人から5,604人、という数字を紹介している。パリでは、全出生児中捨て子の割合が三分の一を超えていた、という驚くべき事実を示している。これを見ても分かるように、ルソーの「捨て子」は彼に固有の問題ではなかったのだ。フランス社会の「習俗」と言ってもいいほどであり、今日の目から見れば、まさに「恥部」である。 「捨て」られた子どもはどうなるのだろう?サルペトリエール施療院は捨て子を4歳まで預かっている(育てている)。それから先は具体性に乏しい「調査」段階なので充分に確信を持って言えないが、保護施設(棄児院)から出た(出された)子どもは養護施設に預けられた。養護施設は数多かったようである。ただ、養護施設は5、6歳の子どもを預かったと言われる。7歳になったら子どもたちは手仕事の見習に出されたのである。なお、この児童労働に対する保護政策がとられはじめるのは、じつに19世紀中葉、1841年のことである。「子どもの労働に関する法律」によって、7歳以下の子どもの労働が禁止され、8歳から12歳までが8時間、12歳から16歳までが12時間の労働時間の制限が設けられた。13歳以下の夜間労働(夜9時から朝5時まで)が禁止された。これでさえ過酷な状況下に置かれているわけだから、制限が設けられる以前の子どもの労働実態がどれほどに過酷であったかは、推測にかたくない。 このように見ると、一口にルソーが「捨て子をした」と言い、その先が「孤児院」(あくまでも訳語だが)と言われているが、フランス社会の当時の「決まり」では「棄児院」であったことが分かる。そして、第1子の場合について見れば、産婆が直接そこの役人に預けたというから、異例な「捨て子」であったということも付言しておかなければならない。もっともこのことはルソーがあずかり知らぬことであり、彼はただ、見ざる・聞かざる・言わざるを決め込んでいた。つまり「子捨て」の意志決定には直接関わらずにいた、ということである。おそらく、これもまた、当時の「夫」「父親」の常態であったのだろう。つまり、「子捨て」は「女の仕事」のうちであったし、ルソーはそれを受け入れていた、ということである。 |
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■「乳母制度」について | |
先に触れたように、ルソーは『エミール』の中で、自身が「父親の義務」を果たさなかったことを悔いている。このことを念頭に置くと、「子ども」にとって最低必要な保育・養育者は、父そして母あるいは乳母、そして家庭教師だと、ルソーは考えていたということになる。母親による授乳にウェイトが置かれていることによって、当時、夫の社会活動の舞台裏を支えていた妻たちがそうした社交界から姿を消すようにしむけるというベクトルが働くこととなる。革命期の恐怖政治でギロチン台に上らされた幾人かの女性が、社交界で活躍していたことに対し、良序・秩序に反する、という理由がつけられたことに繋がる問題である。すなわち、「女よ、家庭に帰れ」ということである。
さて、子どもに「母乳」を授けるのは必ずしも母親に限らない。「善い母乳」を出す「乳母」も、ルソーは勧めている。これこそ、フランス社会の伝統的、習慣的な子育てのシステムである。ルソーがそこに矛盾を感じていたとは思われない。だから、「乳母」システムについて考えてみる必要があるだろう。 「乳母」には二種類ある。「乳母を雇う」のと「乳母に預ける」のとだ。「エミール」の場合には「雇われ乳母」が考えられている。この場合だと、「エミール」の両親は、誕生からのプロセスに寄り添うことになる。それに対して「乳母に預ける」場合には、両親の手許から一定期間(授乳期間)子どもを手放すことになる。ルソーはこのことは認めていないと見るべきだろう。習慣・風俗のうちその一端を、彼は採り入れなかったということである。結局、子どもは両親のもとで養育されるべきである、というルソーの子育て観を見ることができる。文学『ヴォバリー夫人』には夫人が「乳母に預けた我が子」に会いに行く場面が描かれているが、ルソーに言わせれば、このような子育ては認められないというわけである。「母親よ、我が家で、子どもを育てなさい。」と。 「乳母」がフランス社会の習慣・風俗であった、と述べた。一体どれぐらいの子どもが「乳母」によって育てられていたのだろうか。どのような階層が「乳母」制度を利用していたのだろうか。18世紀の資料を所有していないので、後の時代のことから推測するしかない。『エミール』が教養階層の間で大流行し、なおかつ政策的に「母親よ、家庭に帰れ」とされた時代を経た19世紀中葉での統計で、パリの場合、出生した子ども53,000人のうち20,000人から25,000人が乳母によって「母乳」を与えられていた、とある(ファニー・ファイ=サロアの研究による)。驚くべき数字ではないか。この子どもの数を見ても、その親の階級が元貴族やブルジョアジーといった上流階級に限られていたのではないことは容易に推察される。端的に言って、「乳母を雇う、乳母に預けるのは当たり前」なのである。授乳を「放棄する」母親たちは、多くの場合、それぞれ労働に与していた(社会参加していた)のであって、けっして、階級的見栄や欲望から来る「子育て放棄」ではなかったということを、押さえておかなければならない。母親が授乳をするということは、その期間は、社会参加の機会が奪われる、もしくはきわめて減少することに繋がる。『エミール』は女性の社会参加の機会を奪った、ということも、あながち虚言ではないのである。同書には、母親の労働の間に、子どもが紐で結わえられ、動きを不自由にさせられていることを、責めている場面がある。しかし、現実は、女性の労働力をあてにする(たとえそれが搾取対象であり、あるいは夫を「支える」脇役的なものであるにせよ)社会の中にあっては、「女性よ、家庭に帰れ」とはいかなかったのが実態であった。 「乳母」そのものに目線を当ててみることにしよう。 私など凡俗は、左の乳房に我が子を、右の乳房にはご主人様のお子様を、などとイメージしてしまう。果たしてそうなのだろうか。 乳母はれっきとした職業である。乳母斡旋所という仲介機関も存在する。中世に遡って確認することができる機関である。もちろん、仲介機関を通さないプライベートな乳母もいたが、それはもっぱら「雇われ乳母」(住み込み乳母)であった。いずれにしても左右両方の乳房を違った子どもにあてがうということは忌避されていた。つまり、乳母はその両の乳房をただ一人の乳児のためにしか、捧げることができなかったのだ。この事実はしっかりと確認しておかなければならない。というのは、それでは、その乳母の子どもは一体誰が授乳したのか?という問いを引き出すことに繋がるからである。そして、乳母はわが子と頻繁に会うことができたのだろうか、という問いにも繋がっていく。つまり、『エミール』に即して、「善い母乳」を出す「乳母」を選択したとしたら、その乳母は当然住み込みである。「エミール」家には「乳母」の子どもも同居することになるのだろうか?同居しないとしたら「乳母」はわが子に会うためにしばしば「エミール」のもとから離れたのだろうか?それはいずれもノーという回答を用意しなければならない。ルソーがそれを描いていないから、という理由ではない。それでは「乳母」の意味がないからである。 「乳母」は、自分の子どもを自らの母乳で育てることができなかった。乳母がわが子に会いたくなってしばしば雇い主の下から姿を消す、という事態も想定されるから、それを避けるために、乳母の子どもは、はるか遠くの地方に「預け」られた。その預け先は、やはり「乳母」であることが多かったようだが・・・・・。「子捨て」はこうして存在し続けるわけである。 残念ながら、ルソーは自らの父親の義務を果たすことができなかったことを悔いてはいるが、乳母システムの持つ「子捨て」の必然性についてまでは言及することができなかった。ルソーの意識内にある共時性がそうさせたのだろう。 |
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■「捨てる」と「拾う」の共時的社会 | |
いとも簡単に子捨てをする社会。フランスは文明社会として私たちには強く印象づけられているが、なかなかどうして、少なくとも「子捨て」という行動の側面からだけ見ると、失礼ながら、じつに野蛮な社会だと言っても過言ではない実態である。もちろん、人類社会ある限り、その社会構造から「棄児」は生み出されてきたし、生み出されている。冷めたいい方であるが、人間社会である限り、「個人」を社会の基礎単位をしないところでは、「棄児」は社会的必然である。我が国では「間引き」という言葉でそれが語られてきた。ルソーに倣って「告白」をするならば、私は、幼児期には、つねに「間引き」の「候補」として縁者から見られていたそうだ。「おしでつんぼでいざり」という「差別用語」のオンパレードで語られる育ちであった私は、棄児ならぬ「間引き」という生命抹消による不在証明の危機に晒されていた。「間引き」は生命再生の可能性をほとんど感じることができない棄児行為である。果たして、フランス社会の伝統的な「子捨て」は「間引き」のような棄児行為であったのだろうか?「乳母」は、自身の子どもを「間引き」することによって、母乳をお金に換えた、それしか「家族」が生きる道はなかったのだろうか?
すでにお分かりのように、「教会」や「施療院」などの施設が「捨て子」を「拾う」そして「養う」ことをするのが、フランス社会の伝統である。「捨て子」行為に伴う事故(たとえば、野犬に襲われるなど)はあっただろうけれど、原則は、社会の意志で「拾い」「育てる」ところにあった。ルソーの時代も、もちろん、そうである。我が手から子どもを離すけれども、社会の手からは子どもは離さない、そういう社会システムが存在していたことを、私たちは何よりも理解しなければならないだろう。「日本社会は共同体で子育てをした」という。それと同時に語られなければならないのは「日本社会は共同体で間引きをした」ということも語られなければならない。フランス社会に置き換えてみると、「フランス社会は親が子捨てをした」、そして「フランス社会は共同体が子どもを拾い、育てた」のである。それぞれの社会の「習俗」は、事実として、受け止めなければならない。 ルソーはその習俗の人でもあった、ということも語られなければならないだろう。時代を超越した生き方はしていなかったのがルソーの実像である。『エミール』にはそういった「制限」が色濃く反映されている。 ただ、補足的に、述べておかなければならないことがある。それは6歳までは「共同体が子どもを拾い、育てた」としても、先に児童労働のことで示したように、6歳を超えると、子どもは自力で日常生活を生きていかなければならなかった。キリスト教世界に共通であったであろう「共同体による子育て」は、7歳以上の子どもには適用されていない。このことは、ペスタロッチのシュタンツの孤児院の実践で、私たち教育界の者は、常識的につかみ得ている。7歳以上の子どもの「子捨て」の方が、本当は、問題が多いのかもしれない。あらゆる庇護から見放された「孤児」の問題は、キリスト教世界の長い間の桎梏となっていたはずである。先に「子捨て」されたダランベールの例を挙げたが、そのことによって私は、「子捨て」を擁護したつもりはない。むしろ、ルソーの5人の棄てられた子どもの行方が遙として知れないことの方が、大きな歴史的課題を投げかけている。私の近年の研究課題パリ・コミューンからこの問題事例を紹介してこの項を結びたい。パリ・コミューンによって政府に逮捕され裁判にかけられた子どもが651人いる。年齢は7歳から16歳までである。当時の「常識的な」子どもの年齢は14歳までであるので、その数を数えたら、全体の三分の一に及ぶ。また、全体のうち128人が孤児または浮浪児であったこと、全体のうち教育をまったく受けていない子どもが224名に及んでいたことが政府に報告されている(『1871年3月18日の反乱に関する調査報告書』1872年、より)。普仏戦争下にあったことも数字を大きくしているけれども、共同体の子育て機能が充分ではないことの証しでもあろう。 つまり、乳幼児に対する共同体の「子育て」機能は不十分であったにせよ整えられていたけれども、少年期の「子育て」機能は、不十分であったし、そのことが少年期の大きな不幸を招いていたという事実があることを、看過できないのである。 |
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■『エミール』が共時的社会から突き抜けたもの | |
この項のテーマに関して、前述したことで言えば、母親による授乳を基軸とすることによって生まれる「近代家族形態」を生み出したことが挙げられるだろう。我が日本では福沢諭吉もそうである。ルソーに即して言えば、父親も子どもの養育に参加する義務があるが、それは「人類に対しては人間を、社会に対しては社会的人間を、国家に対しては市民を育てる義務」であり、母親はその義務を持たない。父親が義務を果たすことを容易にする「援助者」である。封建的な性差別から近代的な性差別が生まれるゆえんである。
ところで、ルソーは、『エミール』の序の冒頭で、「この本は、さまざまの省察や観察を、秩序もまたほとんど脈略もなしに集めたもの」と書いている。私が注目したいのは「観察」という言葉なのである。教育に関する架空小説、と学生時代に教わったことが心の奥深くに住みついていたためだろうか、私はこの言葉の存在を重要視することはなかった。しかし、ルソーを共時的社会でとらえ直すようになってから、この言葉の重みを強く感じている。「教育に関する架空小説」という言葉からは「この本に書かれていることがらは事実ではない、もしくは実在しない」という印象を強くさせられ、「観察」という言葉からは「事実もしくは実在を対象化している」という印象を強くさせられる。二つの印象の間には深い溝がある。この溝を埋めることが、私の、近年の『エミール』理解の課題となっていた。共時性についての記述は、この溝を埋める作業の一つの未熟な到達である。 ルソーが「観察」した共時性で、それこそ薄皮を剥ぐように知ることになる事実に、たじろぐ私がいる。それは、たとえば、ルソーが障害者は教育の対象でないとしていることに関わることである。フランス社会は、ほぼ近代の入り口まで、教育の対象をきわめて限定していた、という事実がある。つまり、障害者の多くはフランス社会が教育のらち外に置いていたのである。「施療」はするけれども「教育」はしない。そのことは、教育が社会化・文化化の営みであると規定する私からすれば、障害者の多くは社会化・文化化の対象とされていなかったというフランス社会の習俗下に置かれていた、ということである。だから、習俗的共時性に生きる側面のルソーが障害者を教育の対象から外すとしたことは、前述の論理からすれば、何ら不思議ではない。 それでは、彼は、彼が描いた教育は、どのような「観察」の結果生まれたのであろうか。全くの絵空事であったのだろうか。 ルソーの時代、障害者のうちでも、聾唖者に対する教育可能性が追究され、成果をあげ、そして「施療院」ではなく「学校」が設立されていた、という事実がある。偶然か必然かまでは私は理解していないけれども、ルソーは聾唖教育の開拓者ヤコブ・ロドリゲス・ペレールと親しく交流をしている。ペレールの伝記を書いたエドアール・セガンが次のように書いている。 「ペレールはこれらの問題を聾唖者に対して、すべてのわれわれの感覚がどこかで一致していることを実証することによって余すところなく解決しようとしていた頃、彼はJ.J.ルソーと交際していたのである。二人はルウ・ドゥ・ラ・ブラティエール[4]で互いに近くに住んでいたのであり、・・・。ペレールはその通りに10人ないし15人の聾唖者を収容する学校を開設していた。そしてルソーはいつも親しく、隣人らしい態度で入ってきたものである。」(『障害児の教育と治療』より) また、“MAGASIN PITTORESQUE”誌の1876年版ではヤコブ・ロドリゲス・ペレールの聾唖教育に関する百科全書派の強い関心ぶりが示された記述が次のようになされている。 「聾唖者をしゃべらせるこの(ペレールの)技術は非常に新しいものであった。・・・(中略)・・・J.-J.ルソー、ラ・コンダマン、ダランベール、ディドロは強い関心を持ってペレールの授業を参観した。」 間違いなくルソーは、聾唖者という障害者に対する「教育」の様子を見、教育の可能性を、すなわち社会化・文化化の可能性を観察していた。ちなみにディドロは『百科全書』に「ペレール、スペイン生まれ。彼の方法はまさに天分によるものだ。彼の成功は科学アカデミーの歴史の中に位置づけられなければならない」と書き記している。このことに関しては、すでに障害児教育史関係者によって、詳細な検討がなされているはずであるので、私のような門外漢はこのあたりで留め置くのが礼儀であろうと思う。 今私が言えることは、ルソーに見る「感覚教育」の重視は、間違いなく、ペレールの教育の「観察」の結果を「省察」したところから生まれたものである、ということである。一人の男の子に詳細な感覚形成の過程を描き出したことは、たとえそれが、「男性」像形成のためだというストーリーであったにせよ、後の教育者達が、自らの目の前の子どもたちに対象化させて、すなわち「一人の子ども」に対象化させて、教育の営みの重要な武器としたことによって、次第に「差別」化された部分をそぎ落としていった。その最初の人が、ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチであろう。ペスタロッチはシュタンツの孤児院の孤児達(男女ともである!)の一人ひとりの記録を残している(モルフ『ペスタロッチー傳』第1巻より)。それは後世の教育者の、その「今」から見れば、未成熟なものであるけれども、ペスタロッチの記録から学び、さらに不必要なものをそぎ落とし、そして必要なものを付記していく。・・・・ |
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■おわりに | |
私たちが「古典から学ぶ」という時に忘れてはならないことは、共時性への着目であろう。多くの共時性の中から突き出ているものを探り出すことが、その次の課題となる。そうして探り出されたものは、今という共時性の中で共鳴するもの、あるいはさらに突き出るものという事実と「架空」とを生み出す。もちろん、ここで言う「架空」とは、実現可能性に繋がるものであり、絵空事ではない。
私は『エミール』をこういう読み方をする。共時性を無視して、対象を「ヒーロー」や「逆ヒーロー」扱いすることは、歴史を冒涜することだろう。 ■ [1] ルソーはエミールを「孤児」としているが、誕生前から家庭教師を雇うことを勧める記述や母親による授乳を勧める記述、父親による養育に関する記述があり、エミールは「孤児」であるとしても、『エミール』が読者の手に渡った時には「孤児」としては読まれないだろうとの私の理解から、敢えてこのように記述した。「エミール」と括弧書きしたゆえんでもある。 [2] 「父親は、生ませた子どもを養ったとしても、それだけでは任務の三分の一しか果たしたことにならない。彼は、人類に対しては人間を、社会に対しては社会的人間を、国家に対しては市民を与える義務がある。」と、父親の三大義務を述べている。 [3] 敢えて「家庭教育」説としたのは、ルソーは「母親の母乳による育児」を絶対視していたのではない、と私は『エミール』を読んでいるからである。このことは、先に挙げた二つの条件をよく読めば自明のことである。 [4] 現ジャン・ジャック・ルソー通り |
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■ルソーという病 | |
ルソーの言葉遣いは注意深く研究するだけの価値があるだろう。それは教育について奇妙にひねくった表現とともにのべられているけれども、またそれだけ根本的な真理も含んでいるのである。デューイ『民主主義と教育』
■はじめに ルソーとは病である。病は不幸を生み出し、幸いを求めてさまよう。今、ルソーの病に伝染した私たちは幸いを求めている。ルソーという病にかかったことを知らぬままに。ルソーの『エミール』が発刊されたのは1762 年。これに先立つこと約70 年前、ロックは1693 年に『教育に関する考察』を出版している。「健全な身体に健全な精神が宿る」という今の学校の学校目標のような台詞で始まる本書は、のちにルソーにも読まれ、『エミール』にも繰り返し登場している。ほとんども場合、否定するために、であるが。 ルソーは、ロックが子どもが遊んで暑くなったとき、水を飲むのを止めさせようとしてパンを食べさせる*1 というと、「奇妙なことだ。私はむしろおなかがすいているときに飲みものをやることにしたい」と言う。ロックが子どもとは論理を立てて話をせよ、と言えばルソーは議論好きな反抗児を生み出すだけだ、と反論する。ロックが人にものを与えるものがいちばん恵まれることだということを経験的に教え、気前を良くする習慣を身につけさせよ、と言えばルソーはそれではギブアンドテイクの習慣を教えるだけで、ほんとうに与えることを教えることにはならない、と批判する。 ロックの教育論に通底するのは、子どもは甘やかすと好き放題になって持って生まれた自分の能力もだめにしてしまうから、しつけは厳しくなければならないという考え方である。我々は自然状態にあっては白紙(タブラ・ラサ)であり、経験によって観念が生まれるという啓蒙主義をとるロック立場からすれば、このような教育に対する考え方は当然である*2。ロックの教育に対する考え方は「現在も生きており、パブリック・スクールに於ける鍛錬主義、全寮制による人間的接触においた教育方針にも、またオックスフォード、ケンブリッジ両大学における個人指導にもその根拠が見られる」(訳者解説p.351)が、ルソーほど人口に膾炙してもおらず、多数の支持者も得ていない。まして、ルソー「教育論」のように、その後のヨーロッパの思想に、アメリカの思想に、そして日本の思想に大きな影響を与えてもいない。それはなぜなのか。 *1 ロック『教育に関する考察』服部知文訳岩波文庫p.31 ただし、詳細に読むと、ロックは(季節が)暑いときは食中りにかかることがおおいため、パンかなり食べさせ、その間に「ビール」を温めればよい、と述べている。 *2 とはいえ、本書ではむち打ちなどの懲罰や、報酬を与えて機嫌をとることも避けるべきであるとしており、畏敬の念を持たせるようにすれば目配せ程度で十分に注意しうるものとも述べ、バランスをとっている。現在もイギリスの寄宿学校などでは採用されているというのも頷ける。 |
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■ルソーのパースペクティヴ | |
ルソーの驚くべきパースペクティヴは、彼の出世作となった『学問芸術論』においていかんなく発揮されている。
芸術がわれわれのもったいぶった態度を作りあげ、飾った言葉で話すことをわれわれの情念に教えるまでは、われわれの習俗は粗野ではありましたが、自然なものでした。そして態度の相違が一目で性格の相異を示していました。人間の性質が根本的に今日よりよかったわけではありませんが、ひとびとはお互いをたやすく見抜くことができたので、安心していたのです。そのような利益−もはやその価値を、われわれは感じなくなっていますが−によって、彼らは多くの悪徳をおかさないですんだのです。ルソー『学問芸術論』 ルソーが行ったことを一言でいえば、「学問芸術」の相対化である。ルソーを「早すぎたポストモダニスト」と称したものがいるが、まことに正当な呼称であろう。しかし、そこには当然の疑問が生じる。いったいなぜ、ルソーにこのようなパースペクティヴが可能であったのかということだ。私見によれば、それを可能にしたのは、驚いたことに「学問芸術」に対するルソーの怨念とも言える呪詛があったからなのである。 ルソーは生後すぐに母親を亡くした。父親は時計職人としては腕がよく、ルソーの面倒も見たが、ルソー10 歳のときには警察に厄介になるような人物であった。そのような父親をもった子どもの宿命として、その後、ルソーは母方の叔父に寄宿したり、徒弟奉公に出されたりして不幸な幼年時代を過ごすことになるのは不自然ではない。学校を知らずに育ったルソーは独学で学ぶしかなく、本を読んで孤独に過ごした。 奉公先を飛び出したルソーは青年期、青年期以降を通じて放浪を繰り返し、寄食をくりかえす。ヴァラン婦人のもとで屈折した寄宿生活をしたり、家庭教師として住み込んでは盗みを働いて追い出されるなど、まとも学問や芸術に打ち込む時など無かった。けれども、独特な才能で独学したルソーは、音符の表記法のアイデアで一儲けを企んだり、知識人と交友して仲間ができるなど、独学の才能で学問や芸術分野に足を踏み入れていた。とはいえ、社会に認められることなく長い時間を過ごし、アカデミーに対する鬱屈した思い=不幸感は想像を絶するほど強かった。そもそも不幸な生い立ちで、金銭的にも恵まれないルソーにとって、華やかな彼らの生活は、どれほど憧れ、同化しようとしても、根本的に彼とは相容れない世界のものあったのだ。 38 歳のとき、「学問と芸術の進歩は風俗の向上に貢献したか、それとも堕落させたか」というアカデミーの懸賞論文の募集広告を見たときに、ルソーは雷光で打たれたように、思いついた。自分を苦しめているのはアカデミーをつくっているもの、学問芸術、ひいては文化そのもであると。つまりは、文化こそが人間を堕落させた張本人であるのだ、と。 当時は啓蒙主義まっさかりである。単純に言えば、科学で解決できないものはない、とう思いが支配的であった。そこに、そもそも文化的解釈という装置を持ったこと自体が、システム人間の不幸なのである、とぶちあげたのである。周囲が驚嘆しない訳はない。しかし、驚嘆こそすれ、この時点ではだれもルソーが意識的無意識的にもっていた裏技には気づいてはいなかったと私は確信している。ルソーが行ったことは、それほどまでに常軌を逸したものだった。ルソーがこの論文で行ったのは、学問芸術にたいする「自分の不幸」をテコに、文化という「そもそもの装置」を見つけ、ひっくり返すという奇妙な離れ業だったのシステムだ。 この論文は賛否の嵐を−もちろん否定する声の方が大きかったのだが−、巻き起こし、ルソーは一躍注目の人となる。ルソーは自信をつけた。名声を得たこともそうだが、何よりも「自分の不幸」をテコに「そもそもの装置」をひっくり返す裏技を発見したことに、である。 続いてルソーは、『人間不平等起原論』において、自然状態における平等と人間的価値の芽生えによる不平等について語る。ここでは、「自分が長い間注目されなかった」という不幸をテコに、「平等という装置」をひっくり返す。当時は身分や階級は自然ののものとして見られ、当然のこととして受け止められていた。 観念や感情がつぎつぎに続き、精神と心情とが動かされるにしたがって、人類は従順になっていく。結合は広がり、絆は強められる。人々は小屋の前や大きな木のまわりに集まることに慣れた。そして恋愛と余暇から生まれた真の子供である歌と踊りが、暇になって集まった男女の楽しみ、というよりはむしろ仕事となった。おのおのが他人をながめ、また自分もながめられたいと思いはじめ、そこで公の尊敬ということが一つの価値をもつようになった。最もじょうずに歌い、または踊るもの、もっとも美しいもの、最も強いもの、最も巧みなもの、あるいは最も雄弁なものが、最も尊敬される人になった。そしてこれが不平等への、そして同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑が、また他方では恥辱と羨望とが生まれた。そしてこれらの新しい酵母から引き起こされた発酵が、ついには幸福と無垢にとっては不吉な合成物を生み出したのである。 人間たちがお互いに相手を評価しはじめ、尊敬という観念が彼らの精神の中に形成されはじめるやいなや、だれもがその権利を主張した。ルソー『人間不平等起原論』 「ながめる−ながめられたい」(「見る−見られたい」)という欲望が、「尊敬する−尊敬されたい」欲望を生み出し、これが不吉な合成物、すなわち不平等の原初となったとルソーは言う。ルソーの奇妙な離れ業はこれでは終わらない。今度は「孤独であった」という自分不幸をテコに、「平等という装置」をひっくりかえしてみせるのである。未開人たちについてルソーはこういう。 彼らがたった一人だけでできる仕事、数人の手の協力を必要としない技術だけに専念しているかぎり、彼らはその本性によって可能な範囲で自由に、健康に、善良に、幸福に行き、そしてお互いに独立した状態での交際の心地よさを享受しつづけたのである。しかし、一人の人間が他の人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分のたくわえをもつのは有効だと気づくやいなや、平等は消え去り、私有地がはいり込み、労働が必要となった。 ルソーに言わせれば、「不平等の装置」を発動させているのは「二人以上であること」なのである。これほどの裏技はないだろう。ルソーによれば、不平等を生み出さないためには、孤独であることが正当なのである。孤独はルソーの生き方である。孤独である自分の不幸を正当化するために、平等の価値そのものを相対化してみせた。奇妙な、あまりにも奇妙な離れ業は、奇妙すぎるゆえに、だれもルソーの本当の意図を見抜くことができな かったのである*1。 *1 『人間不平等起原論』の注釈から書き始めた『言語起原論』では、言語そのものを相対化する。 |
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■『エミール』へ | |
今日、教育において子どもの自由は尊重されなければならないと考えられている。空気のようにそう思っているので、私たちのほとんどは、人はこれまでずっとそのようにしてきたかのように錯覚をしている。けれども、子どもを発見したのはルソーであり、それまでの社会において、子どもは大人によって長い間慈しみ養育されるべきものではなく、赤ん坊の時期を終えれば、小さな大人として扱われ、育てられるものであった。ルソーが子どもの側から事物をとらえ、教育について語ったのは文字通り「コペルニクス的転回」であり、画期的なことであった。ルソーの『エミール』が評判となったとき、それまでの抑制的制限的な教育を反省し、子どもを自然状態に置いて育てようとした読者が続出した。そのくらいルソーの子どもの育ちに関する考え方は衝撃的であり、人に行動を起こさせるほど力を持ったものだったのだ。カントに日課の散歩を忘れさせたほどである。一般社会に与えた衝撃は想像に難くない。
さて、私はルソーの「コペルニクス的転回」について再び述べようとしているのではない。問題とすべきは、なぜルソーに「コペルニクス的転回」が可能であったのか、ということだと考えている。その前に、ロックとルソーの関係について少々触れておきたい。 |
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■ロックの後継者としてのルソー? | |
先にロックの教育論に対するルソーの反応のいくつかを紹介した。ロックが子どもの教育は原則的に大人がコントロールすべきと考えたのに対して、ルソーは自然状態、すなわち大人のコントロールは最小限にすべきだとした。なぜなら「万物をつくるものの手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」からである。このパースペクティヴは『学問芸術論』と同じである。そもそも文化という装置がイケナイのである。
ではルソーは、子どもを「人間の手にうつらないように」すべきだと主張したのだろうか。もちろんそうではない。私たちは弱く、そんなことはできない。それはルソーもよく分かっている。むしろ、ルソーは「植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる」と述べている通り、教育の価値についてよく認めている。「人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない」とさえも述べている。ロックを否定し、自然の状態を称揚しているルソーの言葉?と思ってしまうが、ルソーはさらにこう続ける。「そういうことがなければすべてはもっと悪くなるのであって、私たちは中途半端にされることを望まない」つまり、ルソーは意図的教育の必要を十分に認めているのである。ルソーは教育の担い手として、自然、人間、事物を挙げた。ルソーは作為的に「自然状態に近づける」ことで理想の教育を生み出そうとしているのだ。これを現在でも私たちのほとんどは誤解している。「万物は造物主の手を離れる時は全てが善いものであるが、人間の手にかかるとそれらがみな例外なく悪いものになる」などというルソー解釈は、文字通りルソーの表面しか見ていない。 ルソーの裏技に気づかなければルソーの真の姿には迫ることができない。 赤子の産衣を否定し、その理由を「自然に反した習慣」だからという。「エミールがけがをしないように注意するようなことはしまい」という。8 歳までに子どもが死ぬのは自然の規則であり、いくらかの危険はためらってはならないからである。誤解してはいけないが、これは、ルソーが子どもを「自然に反しない」で育てることを目論んでいると受け取ってはいけない。「自然に反しない習慣」に近づけるよう、意図的作為的に自然に反しない習慣で育てることの必要を述べたものなのだ。ルソーはロックの純粋な継承者である*1。「手法が違う」だけなのである。それは、例えばルソーが次のように述べていることから分かる。 エミールを銃の音になれさせるとしたら、まず、ピストルの口火を燃やしてみる。あのパッと燃えあがって消える炎が、稲妻のようなものが、彼を喜ばせる火薬の量を増して同じ事をくりかえす。すこしずつ、おくりをもちいないで、ピストルに少量の弾薬をこめる。そのあとで、銃の音、花火の音、大砲の音、このうえなく恐ろしい爆発音になれさせる。 ルソーは、啓蒙主義者と同じように、人間は教育によっていかようにも育てられると信じている。では、エミールはルソーによってどのように育てられたのだろうか。 ロックらの啓蒙主義者は、人間はタブラ・ラサの状態で生まれ、人間の手で科学や論理によって啓蒙されることを必要していると考えた。ルソーはタブララサであることを善とし、人間の手で啓蒙されなければならないことが運命的な悪であるとした。しかし、それはルソーの教育が消極的であることを意味しない。エミールがルソーから受けた教育は、エミールがルソーの教育を意図的作為的であると感じないように仕組まれた、恐ろしく手の込んだ教育だったのである。それは、のちに受け止められたような消極教育とはまったく異なる考えである。それどころか、恐ろしく念入りに準備された計画的教育なのであったのだ。ルソーは家庭教師で預かった、気まぐれな子どもの指導経験について次のように言っている。 彼の気まぐれをなおしてやらなければならなくなったとき、私は違ったやり方をすることにした。 まず最初に彼に落ち度があるようにする必要があったが、それはむずかしいことではなかった。子どもというのは目先のことしか考えないということを承知しているわたしは、容易に先のことが見透せるという有利な立場をかれにたいして利用した。私は彼の好みにひじょうによくあっていることがわかっている、家のなかでの楽しみごとをさせるようにした。そして、彼がそれに夢中になっていることがわかっているときに、ひとまわり散歩をしてこようと言いに行った。かれは全然うけつけなかった。わたしはひきさがらなかった。そしてかれは、私が降参した様子を見て、それを貴重な勝利と考えた。 子どもは、これが周到に計画された彼の教師による布石であるとは知るよしもない。 あくる日になると、こんどはわたしの番だった。かれは退屈した。わたしが退屈するようにしたのだ。そしてはんたいに、わたしはひどくいそがしそうな様子を見せた。彼に決心させるにはそれほどにする必要もなかった。 何という手の込んだ環境づくりであろうか。 思っていたとおり、彼は仕事をやめてすぐに散歩に連れて行ってくれと言いにきた。私はことわった。かれは言いはった。「だめです」と私は言ってやった。 「あなたは自分の思い通りにして、私にも自分の思い通りにすることを教えたのです。私は外出したくありません。」「それじゃ」とかれは勢いこんで言った。「ぼくは一人で外出します。」「お好きなように。」そう言って、私はまた仕事にとりかかった。 この子どもは、「なにかあったら家庭教師のせい」と少し威勢をはりながら外出するが、ルソーは父親とこの件については事前に同意を得ていて落ち着き払っている。さらには子どもの外出中には、子どもの知らないルソーの友人である見張りを用意し、見ず知らずの大人として一人で散歩する子どもにちょうどいいくらいの後悔をもたらすよう、「演技」するよう依頼してある。そして、帰ってきた子どもをいかめしい態度で迎えたルソーは、「そうしたことがすべて芝居にすぎなかったのではないかと、かれに疑惑をもたせないためにに、その日は散歩に連れていかないことにした」のである。 なぜこれほど手の込んだ教育をしなければならないのか。それは、「自然の指導にまかされたたえまない訓練」を仕組むためである。気づかれないように、演技に囲まれながら「自然の指導」を受けることにより、子供は「善」を極力残した状態で成長することができる。ルソーはそのように考えたのである。 このような指導を受けながらエミールは育ち、理想の女性とするソフィアと結婚する。 ソフィーは美人ではないが、他においては非の打ち所のない、快活な女性である。理想の女性と結婚することは、ルソーにとっては無上の幸せである。『エミール』の最後でその褒美をエミールに与え、自分に感謝させる。さて、エミールとは誰なのか。 *1 ロックらの啓蒙主義者が、人間はタブララサの状態で生まれ、人間の手で科学的論理によって啓蒙されることを必要していると考えるのに対し、ルソーはタブララサであることを善とし、人間の手で啓蒙されなければならないことを運命的な悪であるとした。しかし、子どもを人間の手から離して育てることができないことから、極力自然の状態に近づけて育てることを述べたわけである。 |
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■ルソーの不幸と『エミール』とみんなの不幸 | |
エミールは誰なのか。そもそもエミールはなぜ書かれたのか。
のち、『告白』を書いて自伝としている気質からして、みなしごエミールは、かつてのルソーであろう。母無く、父無く、教育もされず不幸なルソーは、盗みを働き、嘘をつく少年時代を過ごした。そして認められることなく成人し、貧しいなかで5 人の子どもを孤児院に捨てることになる。妻を愛しておらず、愛に焦がれて不全感に打ちのめされる。そういう自分を恨まないわけがない。自分は救われなければならない。一体なぜ、自分はかくも孤独でかくも不幸であるのか。『エミール』書かれた動機はここにある。もっとちゃんと教育されれば、こんな不幸な自分にはならなかったのだ。 エミールに恐ろしく手の込んだ教育を受けさせ、その教育を成功させているのは、ルソーが教育的に恵まれなかった自分の幼少期から青年期の不幸な思い出をテコとして、「善なる子どもという装置」を発動させるためである。すべては不幸な環境が問題なのであり、真の自分は善であるという、幼少期の自分を救い出すためのストーリーであった。 このことが『エミール』をして、読者を夢中にさせた要因である。すなわち読者は切実にこう思うのだ。「ああ、私は間違えた教育論で育てられた。だからことあるごとにものごとにおびえてしまったり、根気がなかったり、虚栄心が強かったり、人をうらやんだりしてしまうのだ。エミールにおけるルソーのような教師に、私が育ててもらったならば!」その先を続けるまでもないがこのように続くだろう。「こんな自分じゃ無くて済んだのに!」という嘆息である。ルソーの不幸はみんなの不幸として伝染した。「こんな私に誰がした」これが「ルソーという病」である。 |
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■『エミール』とわれわれ | |
さて、私たちはルソーの呪縛から逃れていない。むしろ呪縛はますます強く私たちを規制しようと力を強めているといってもいい。
私たちを取り巻く教育論のほとんどは、自分自身のルサンチマンを昇華させようとするストーリーで構成されている。 わたしはまともな教員というのに出会ったことがない。どれもこれも権威を笠に着て押しつけようとする無能な教師ばかりだった。もしも、私がほんとうに生徒のことを考え、親身になって教師という仕事に取り組もうとする人間と出会っていたならば、と思う。(Aさん二八歳会社員) ○○のような学校経験(教育)を受けなければ今のような自分にはならなかったのに、という他律的な感覚である。もしもこの御仁が「ほんとうに生徒のことを考え、親身になって教師という仕事に取り組もうとする人間」と出会ったいたならば、果たしてほんとうに人生の苦しみ(一部かもしれないが)から、逃れることができたのだろうか。そんなことは実証できないし、今後もすることはできない。不可能な夢を追うという意味では、幼少期あるいは青春前期に対する淡いロマンチシズムにすぎないともいえる。上記のAさんの投書は私の創作だが、むろんこのような感覚は珍しいものではない。『国民の教育』の中で渡辺昇一はこういう。 (戦前の学校においては=引用者注)先生もまた熱心で、非常にできるのに貧乏で進学ができない生徒には、身銭を切って面倒をみるとか、豊かな人を口説いて金を出させるなどということまでやっていたのである。野口英世もそのようにして、周囲のおかげでどんどん大きくなっていった優秀な日本の子どもの一人であった。 あのとき彼が、そのような熱心な先生に出会わなかったならば、高校はおろか中学校にさえ行けていなかったはずだ。それが教育に熱心であるばかりか、できる生徒の生活面まで心配をし、進学のためにあらゆる手当をするという先生に恵まれたおかげで、ノーベル賞に何度もノミネートされ、いまもなお欧米の百科事典にも大きく名を残す野口英世が、誕生したのである。 野口英世が、その何とかいう教師と出会っていなかったらノーベル賞を取れなかったかどうかなんてだれにわかるのだろう。あるいは野口が「つまらない教師が多くて腹が立つ」というルサンチマンをバネに、大きく羽ばたいたかもしれないじゃないか。とくにこの手の言説のまずいのは、「だから今の教育がうまくないのは熱心な教師が足りないからなのだ」とか「熱心な教師が増えれば戦前のように優秀な人材が生まれてくることになるのだ」という安直な処方箋を引き出してしまうことだ。ごく普通に考えて間違いのないことだが、熱心に生徒のことを考え行動する教師が多数出現したら、ノーベル賞を受賞する日本人が続々と輩出されるというのは滑稽な錯覚である。 とはいえ、○○のような出会いがあったら今の自分は違った形になっていたかもしれない、というような「もしも」の感覚は、われわれが一般的に持っているものである。たぶんほとんどの人間は、今を不全感とともに生きているのであって、その責を過去の自分を育てた環境に帰したくなることは強い誘惑である。しかし個人的な学校体験におけるルサンチマンを拠り所として教育全般に言を渡そうとした場合、「熱心な教師が増えれば、ノーベル賞を受賞する優秀な人材が生まれてくるのだ」というような粗雑な意見表明にしかなり得ないことを抑えておく必要がある。私たちが学校・教育校を取りまく言説について考えていくにあたっては、自己の経験が自分の思想のどの位置に、どのように有効に働いているのかを慎重に見極めなければならない。 ルソーの病は近代人の病である。私たちはルソーの呪縛にあまりにも深くとらわれてしまっている。現在私たちが依拠している考え方のほとんどにルソーの呪縛は潜り込んでしまい、逃れることは不可能に近い。しかし、ルソーそのものをを相対化する作業をすすめることが、近代からの呪縛を放つことであるという信念のもとに、思考をすすめることこそが、ポストモダンの突破口になるのではないかと私は考えている。 |
■フィジオクラシーとフランス革命 | |
革命前夜のエコノミスト F. ケネーの個人史をめぐって | |
■T はしがき | |
革命史学における視座の転換をふまえて
1989年は、フランス革命200年、イギリス名誉革命300年にあたり、とくにフランスでは、近代フランスの生誕と人権の世界史的成立を祝う行事が年初から年末に至るまで続いた。クオリティー・ペーパーで知られる『ル・モンド』は、毎月特別号を出し、200年前の同月に起こった諸事件を日ごとに記録し、200年前を追想する素材を広く提供した。また、現時点において進行しつつある記念行事を報道し、歴史家や政治学者等の論稿を掲載するなどして、近代フランスの出発点となったこの革命を現代の地平において評価する場合の問題点の開示に努めた。 同紙が、共和国レベルでの公式行事の1つとされた国際学会(「フラソス革命像をめぐる世界会議」)の組織責任者に任じられたM.ヴォベル(パリ第1大学革命史講座担任教授)の"正統派的"見解に対して、『フランス革命批判辞典』の編集者F.フユレの見解を記事として並列させたのは、革命200年祭典の是非をめぐる諸種の見解の相違を象徴的に示すものであった(拙稿「脱神話化に向かうフラソス革命」『クライシス』第38号、参照)。 この時点において、フラソソワ・ケネーの政治経済論が、在来のフラソス革命史論とは異なる色調において再評価されているのはs経済学史や社会思想史に関心を持つものにとっては注目すべき一つのことであった。 それは、とくに「所有」がフラソス革命史においてもった意義を見直そうとするものであり、その執筆者は日本で『自主管理の時代』の著者として知られるローザンバロソであることも人目を引く。 自由・平等と所有との関係。この関係は、人類史における"ブルジョア時代"に固有のものなのだろうか。 少なくとも(マルクス主義を含めて)在来の社会認識ないし歴史感覚においては、それは"ブルジョア的"なものとされ、その是非の両論とも階級的な性格を持つとされてきた。 "ブルジョア的"という形容詞が即「資本主義的」という意味合いを持つに至るのは、他ならぬ資本主義的な社会経済的諸関係が支配的になって以降のことである。しかしこの語は、西欧大陸諸国では、中世以来の社会的存在であるブルジョア(bourgeois)の生存様式を固有の属性とするものであり、それ自体が単に経済的なものの一義性に浸されるものでもなく、根底的に社会的であり、特殊には文化的であるところの人間の歴史的な存在を意味している。 本稿は、西欧でのrブルジョアジー」の歴史的実存形態を時代と地域ごとに検討することを固有の課題とするのではなく、それがどのようなものを基礎概念とする社会的存在であったかをあらかじめ示しておいて、主題の展開をこころみるものである。 ここで「ブルジョア」とは、私的所有の相互的承認による自覚的な社会形成を行なう作用主体であり、そのかぎりで、相互に自由かつ平等な人格を法的に享受する諸個人である。 200年前のフランス革命がどのようなものとして再評価されるかという点で学問上の論争が行なわれるとき、ごく一般の諸個人や諸家族の間で個人史や家族史が語られ論述され、アカデミーでの革命史論に資料的かつ歴史観的な反省を迫っている。フラソス社会党政府が、自由・平等・人権・民主主義をフランス革命の提起した世界史的価値と称揚し、自由・平等と並記されてきた友愛について語らず、また所有についても語らなかったのは、現時点の社民党政府の政治的判断の在りようを物語っている。 「友愛」はこれまで政治的民主主義を越えた社会主義ないし共産主義への橋渡しとなる標語とされてきたが、それが平等と一体となって独走するとき、遠くはバブーフの「陰謀」、近くは19世紀社会主義ないし20世紀共産主義への架橋ともなった。またジャコバソ独裁はロシア革命でのプロレタリア独裁の先駆形態とされてきた。いま、このことへの警戒心が強く政論家たちの間に働いている。他方、自由・平等は、所有と結びつけられずに、人権→民主主義に直結され、優れて政治的なものへと昇華している。 ところがフランスの地方各地では、政府主導の行事とは別個に、その地方の近世史上の画期となった時期として革命史をとらえ、その見地からする諸種の行事が進められていた。 私は、ブルゴーニュ地方やペリゴール地帯の諸都市で、町をあげて行なう時代祭りに招待され、その地域の歴史における一時期として革命期をとらえることの意味に改めて気づかされた。 フラソス革命は優れてフラソスの革命であって、それ自体としてはなにも世界革命であるわけではなく、むしろフラソスにおける国民国家の完成過程の一局面である。私はこう押さえることの自然さをそこにおいて痛感した。 このことはまた、社会的基礎原理としての所有が自由・平等と不可分であるということの具体的姿態がどうあるか、あるいはどうあるべきか、という問題が近世以降絶えることなく問い続けられきている、ということを思い起させて止まないのであった。 1989年の夏以降、東欧諸国に、円卓・フォーラム型市民革命が連動し、そこでは自由・平等・人権・民主主義が、既存の国家社会主義的な全体主義の否定のうえに、原理的に確認され制度的に法制化されつつある。そのなかで、まさしく所有が改めて問い直されるに至っている。 あたかも1989年がようやく暮れようとするとき、フランス人はもはや革命200年祭の祝賀をめぐる是非の議論に時間を割く心の余裕を保ちえなかった。めくるまうぽかりの激動が、東欧から伝わってくるからであり、それが、まさしく世界的な激動だからである。 それは、世界システムの形成が現に、いかに進行しているかについてのグローバルな把握を不可避な知的営為としている。と同時にそれは、よりリージョナルな課題の発見と解決の模索を不可避なものたらしめている。 "東欧"としての中部ヨmッパ諸国で、強制されたソ連型"社会主義"が崩壊するとき、それは、ソ連邦そのものに反作用してソ連邦における「社会主義」と「ソビエト」との国名からの正式除去をまねきよせ、一方でソ連邦の再編様式をめぐって、他方で私的所有の承認をめぐって、国民投票が大統領によって提起されるに至った。私的所有の承認が、社会主義に対立するものとされてきた以上、これはごく当然な措置であろう。 ここでは、「所有」が、どのような形態においてありうるか、また、どのような社会的規定性の法的表現として、ありうるかが問題なのである。 私たちは今ここで、所有を私的所有の一義性に於いてのみ把握する、まさしく資本主義的に私的な見地の持つ一時代的性格を、批判的に受けとめると同時に、所有の社会的所有としての在り方とは、どのようなものなのであるかを、歴史的に検討し直す必要の前にたっている。 このような問題視角から経済学史におけるフラソス革命というものを考察してみるとき、F..ケネーの所有論のもった歴史的意義を再確認する必要に迫られる。まさしく、このゆえにこそ、フユレの『フラソス革命批判辞典』では、ローザンバロンがフィジオクラートの所有論を現代の問題意識のなかに蘇えらせているのであった。 本稿で私は、1989〜90年における三度の東西ヨーロッパ視察を通じてえた問題意識と資料発掘の帰結を、提示していこうと思う。それが、1994年に予定されているケネー生誕300年を記念する行事へと連動することを念ずるものである。なお新資料の発掘は、年来の友人ジャックおよびイレエヌ・ピオジェ夫妻JacquesetIrenePiogerの積極的な努力にひとえに負うものであり、ここに改めてその友誼に深謝したい。 |
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■II F.ケネーの個人史をつうじて | |
ケネーは重農主義の創始者であり、フラソス古典経済学の創建者と評され、その名はよく知られているが、その実像はあまり知られていない。
日本では、戦前に一、二の簡単な評伝が出された以外には、固有の研究にもとつくケネー伝は存在しない。欧米では、戦前におけるグスタフ・シェル『ドクトル・ケネー』(1907)が刊行されたほか、固有の評伝は存在しない。しかしそれ以前に、ケネーの理論的研究者であるA.オンケンが『フランソワ・ケネーの経済的政治的著作集』(1888)を刊行するにあたって、伝記的記述をそれに付している。また第二次大戦後、ジャクリーヌ・エヒトが『経済表』200年を記念して出版した『フランソワ・ケネーとフィジオクラシー』(1958)と題するケネー著作集において、その冒頭にケネーの評伝を付している。 後者は、著作集として前者の不備を補っており、またその評伝もオンケソとシェルのそれに比べて、各地の古文書館ないし市町村役場に保存された公的資料の探索にもとついて記述された出色の作品である。 1989年私は、革命記念行事さなかのフランスに滞在して諸種の現地調査を行なうなかでこのことを確認した。 一般の読者には知られなかったが、ケネーに関心を持つものの間で流布された、伝記にありがちな神話的物語が、このエヒトの研究によって多く問い直され、訂正されている。それぼかりか、ケネー家が系譜的に探求され、ケネー研究のうえで大きな文献史的寄与がもたらされた。 しかし、エヒトの論述は、エクゾースティヴな文献探索の処理に迫われていて、そこから滲みでる論点の積極的な開示をあえて控えているためか、学説史研究のうえにこれまであまり活用されなかった。 だが、このエヒトによる評伝は、新たな文献史的研究のなかで、しかも革命期および革命前夜の社会的文化的状況認識に関する視座の転換のなかで、今日、以前とは異なる地平での意義を持ちうるに至っている。 以下に私は、ケネー個人史の諸画期について私なりに知見し入手しえたことがらや原資料を紹介しつつ、本稿の主題に迫っていきたいと思う。 それに入る前に、ケネーの生涯(1694-1774)は、問題史的にみて、次の4期に区別することができることを指i摘しておく。 第1期 幼少年時代 / パリ近郊農村メレ 第2期 修業一外科医時代 / パリ・マソト 第3期 侍医、エコノミスト時代 / ヴェルサイユ宮中二階 第4期 エコノミスト / ヴェルサイユ市グラン・コマソ(→ 墓地) これら諸画期での特徴的なことを、以下に項別編成して読者に示していく。 |
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■1.ケネーの出生地と生年月日 | |
■(a)出生地
ケネーの生地は、パリ南西約30キロにある都市モンフォール・ラモーリとマントに近接したメレ村(現在のイヴリーヌ県一かつてのセーヌ・エ・オワズ県)であり、中世以来肥沃な農村である。13世紀以来フランス王がモンフォール・ラモーリに君臨するパリ・サγ マグロワー一ル修道院との間でその帰属を争ったところとして知られる。 その争いはとくに、その地の上級裁判権droit de haute justiceがどこに帰属するのかをめぐってであった。もっともよく知られる事件としては、1306年ジャソ・ジャグランという一住民が首を吊って自殺を遂げたのであるが、当時の習慣では、自殺者は教区内に埋葬されxず、改めて死刑宣告が行なわれて絞首台に移される。それを執行する権利が、フラソス王かモンフォール・ラモーリ領主か、と争われたのである。事件は、パリ高等法院に持ち込まれたが容易に決審せず、結局1310年9月4日判決が下され、モソフォール・ラモーリ領主がその権利を持たぬものとされた。しかし結審後もなお、この領主はこれに従わず、死体をさらって別の場所に吊した。 メレの歴史として顕著なことといえぽ、このあと17〜8世紀における最も著名な学者・医師の列に挙げられるフラソソワ・ケネーの出生である。 メレ市役所に備え付けられたパンフレットによると、ケネーはこの村で「ラブルール」ニコラ・ケネーの子として生まれた。父は農夫であり、時に商人でもあって、サンマグロワール寺院の収税吏を務めたこともある。この記述に従うかぎり、のちにフランソワ・ケネーの娘婿エバンが言いたてるニコラ=弁護士説は、ケネーの生地ではすでにシェル以前に、否定されていたことになる。 父ニコラとその妻ルイズ・ジルは13人の子供をもったが、我hのフランソワは第8子である。 ■(b)生年月日 フランソワは、1694年6月4日木曜日に生まれた、とされてきた。 この点は、80年後にかのミラボー公爵が「6月4日という彼の誕生日は、後世の人にとって祝日となるだろう」と述べたことにもとついて主張されるものらしく、これまでほとんどの伝記・評伝等で6月4日説が採用されている。しかし、それを公的に証明するものはない。 当時、新生児は洗礼を受けることが義務づけられており、その日付が教会保存の洗礼簿に記載されている。ときに出生日がそこに追記されることもある。ケネーの洗礼簿ではどうなっていたのか。 次ページに掲げる資料は、その原簿である。 この300年前の司祭のペン書きを判読したものが、資料である。 この古文書の中葉にスタンプが押されている部分に目をこらしていただきたい。そして次のタイプ文第1行目に`cinquieme jour de juin'とある記述が、`vingtieme'と訂正されていることに注意されたい。 原簿第1行目の第3語を`cinqui6me'と読むか`vingtieme'と読むか、が問題になるのである。 これが、`cinqui6me'と読まれるのであれば、出生日はその前日、4日ということになる。そしてこの日が、19世紀以来すべての文献において出生日とされてきたのであった。しかし、ヴェルサイユ市庁舎古文書館のル・メイヨソ氏の判読では、`vingtieme'つまり20日のほうが、判読されるかぎりでは正確だろう、とのことである。本稿がこれまで取り上げてきたエヒトも、これを20日と読み、洗礼日が15日も遅れている、と指摘している。 出生と洗礼とが、そのようにずれることがありえたことは否定できない。しかし、ケネーの父祖ニコラがサソマグロワール寺院の収税吏だと自ら名乗りながら、そのような遅延をあえてするということは、果たして自然なことだろうか。 中世のオルトグラフとしては比較的判読しやすい方ではあるが、最終の決め手は私たちの手に余る。 私はそのことをただ指i摘するだけで、それ以上の推論を行なわないことにする。 そして、ただ、次の一事を付け加える。 300年前のこの洗礼簿が教会に保存され、フラソス革命中にコミaソ(市町村)役場に移管されて今日に至っており、たまさかに尋ねてきた外国人の要請によっても、ただちに閲覧されうる状態になっている、ということこれである。 ケネーは、なにはともあれ経済学史のうえでは一学説の創設者であるが、フランス革命期においては一般に知られぬ外科医であり、エコノミストであった。そのような人物の出生が、公文書によって論じられうるというところに、300年という月日を通じてのetatcivilの公共性と持続性が生きている。そして、このことはそれ自体societe civileが王政期以来、全革命期をつうじて生成、持続、発展してきている、ということの一証左であると言}よう。 |
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■2.ケネーはどこで死んだか | |
ケネーが死んだのは1774年12月16日であることは、これまで多くの論者が採用してきた見地であり、それを積極的に肯定する古文書がある。したがって、18日とする!、2の論者の記述は決定的に誤謬であることが確認される。
ヴェルサイユ市図書館に保存されていたケネーの埋葬書に、この点、次のように明記されている。 「1774年12月17日、Ecuier Conseiller du Roy(王顧問官候補)、medecin ordinaire et consultant de sa Majest6(国王陛下付き常侍医)フランソワ・ケネーが、80歳半の年齢で昨日死亡したので、以下に署名する司祭たる私の手によって、臨席する下記の者の面前で、当教区の旧教会〔ノートルダムの教会区所属の旧教会"vieille eglise"〕に埋葬された」。 次ページに掲げる原簿とそのタイプ文にここで注目されたい。 この古文書は、かつてA.オソケンが『ケネー著作集』において、ケネーがパリとヴェルサイユのどこで死んだかが不明であると書き残していることに対する最終的な回答である。かつてオンケソが、ケネー死亡の地につき明記するのをあえて避けたのは、ケネーの門弟たちの書き残した文書では、パリのミラボー侯爵邸での門弟葬に関する記述は多いが、ベルサイユで行なわれた葬儀については誰も論じていないからである。革命前夜の思想状況のなかで、このミラボー邸での弔辞または賛辞についての賛否の論がかまびすしかったのに対して、ヴェルサイユでは近親者と聖職者だけで葬儀がごくひめやかに行なわれたのであろう。 12月17日に埋葬された旧教会とは、"旧サソ・ジュリアソ教会"であり、ヴェルサイユ宮正面に向かっての手前右側に存在していた。 ヴェルサイユ宮とその周辺の地図を参照されたい。 この旧サソリアソ教会は、実はノートルダム教会よりも古い教会であり、20名以上の著名人が埋葬されていたことが「ヴェルサイユの歴史」(ヴェルサイユ市立古文書館発行)に記載されている、一種の聖地である。しかし、革命期をつうじて放置され破損するがままにおかれて、今日ではその姿を地上に止めていない。その土地が、地図上の区画として明記されているため、今日そこを推定することができる。 今日では、数件の民家の庭地となっている。 |
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■3.最後の居所グラン・コマン | |
彼が死んだのは、ヴェルサイユ宮殿正面玄関を一歩前にでた右側の建物、グラン・コマソにおいてであった。そこは、王族の賄い方のために作られた建物であった。のちに陸軍病院、今日では普通の公立病院となっている。
ケネーは、そこに、医者の資格で最後まで居住した。言い換えれば、宮殿内では医者としての最高に近い地位を失ったが、まったく無役で宮殿から放り出されたわけではなかった。 1764年、彼を庇護したポソバドゥール夫人が死去して以来、彼は、医師間の陰湿な競争関係にからまった政治的対立のなかで、かつての勢威を失ったが、ルイ15世が生存するかぎりTたとえ医師最高の地位たる侍医長就任への道は閉ざされていたとはいえ、既得の地位を失わないでいた。 しかし、1774年5月10日におけるルイ15世の急死は、この凋落傾向に最後の止めをさした。新しい王ルイ16世は、ケネーがポンパドゥール夫人の信任した侍医であることをとくに忌避した。また小麦騒擾guerredebleへと傾斜する穀物事情の悪化のなかで、ケネー一がフィジオクラートたちの"セクト的自由化活動"の機関誌Ephemeridesの庇護者であったことを嫌ったのであった。 ケネーは、この時から宮殿を離れてグラソ・コマンに移り、その二階にあてがわれたアパルトマンに住んだ。寝室と食堂と書斎がある比較的広いアパートであった。ケネーはそこで、弟子たちと接見のひとときをもった。 1774年8月25日、チュルゴーの総理大臣就任をケネーが知ったのは、このグラソ・コマンにおいてであった。9月13日チュルゴーが穀物取引の自由を宣言するのを聞いたのも、この部屋であった。ボードーの編集したNouvelles Ephemeridesの第1巻の見本刷りをケネーが見たのもここであった。彼はそこにおいて自分の執筆した、かの「マクシム(農業王国の経済統治の一般準則とそれら準則に関する注)」が新しい姿であらわれるのを見たのであった。 しかし、12月に入り、若いときからの持病K痛風"が昂進し、彼を不眠状態に陥らせた。 病状悪化の報せがパリに伝わり、ボードーが馬で駆けつけた。ケネーはそのころ、数日来誰とも会わず、誰とも話をしたことがなかったのであるが、ボードーを見るや元気がで、「学派」と「新聞」の噂についてのニュースを求めた。 ボードーが去るや、急に気力が衰えていった。幸い14日に、かねてケネーが関与してきた新しい外科医学校(現在の医学部)の創設儀式が行なわれたという報せが届いた。それを伝えたのは、彼の二人の孫、Quesnay de BeauvoirとQuesnay de SaintGermainであった。この二人は、常備近衛兵gendarmes de la garde ordinaire du royの任にあった。自分の推挙によって公務職に就いた近親者から、門弟たちの政治的勝利(一時的でしかないのだが)と、医学教育上の成功とを、ともに知ることができたのは、彼の生涯にとって最後の喜びであったに違いない。 |
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■4.ヴェルサイユ宮の中二階 | |
ケネーは、マントの医師としてその知的ならびに技術的な能力をかわれて、その地域の領主duc de Villeroyに召しだされていたが、たまたまポソバドゥール侯爵夫人付き女官エストラード伯爵夫人が大公と行をともにするなかで、癩痛を起こしたのを治療したことが縁となり、ポソバドゥール夫人付侍医として1749年春、ヴェルサイユ宮に入った。
エヒトの評伝によれぽ、ポンパドゥール夫人は、はじめ、かつてのシャトルー夫人の部屋に居住していたが、そこからパソチェヴル大公夫人の部屋に移っていた。そして、ケネー博士に、新しく彼女の部屋になった場所の中二階に1つの部屋をあてがった。 1989年ピオジェ夫妻と私どもの調査依頼に応じてヴェルサイユ宮博物館保存官補佐マダム・ウッグのもとで、"中二階rの調査が進められた結果、次のことが判明した。それは、ヴェルサイユ宮正面にむかって、中央部が右翼と接合する地点に存在した侍医部屋であり、1830年代におけるシャルル10世の宮殿改造によって取り除かれ、今日では存在しない。ただし、中央部反対側に同一構造のものが現在も残されていて、これを見ることができる。内庭に面しており、王の私室にすぐ近接する。 1989年9月20日、未公開部分に属するこの部屋を含めて、ポソバドゥール夫人関係の部屋を見学することができた。ケネーの"中二階"とは、伝えられる通り、ポソバドゥールの住む1階の部屋のすぐ上に造られた高級召使部屋である。高さは2メートルに達せず、広さも6畳間に満たない。 どのような資料をもとにしてエヒトが描いたのか不明であるが、中二階の部屋は、数歩あるけぽ反対側の壁についてしまうほど狭く、暖炉だけが唯一の遺物となっている、とされているが、おそらく真実に近いだろう。デェポンやマルモンテルが書き残しているように、「とても狭い部屋で、それを彼は書斎にして使っていた」。狭く暗い部屋、それは想像以上であった。 資料は、所狭しと並ぶ図書や書類に囲まれ、机の片隅で本を読み物を書くケネーを画くものである。ただし、この絵の作者は不明である。この絵は、1891年7月7日という日付の入ったモンフォー一ル・ラモー一リ郡人民協会総会議事録の冒頭に掲げられたものである。 ポソバドゥールが最初に居住した部屋は、資料の地図最上部にある部屋であって、そこには、王や寵姫の通う狭い秘密通路があり、1階と3階の間には、cagevolant(吊り籠)と呼ぽれる手動のエレベーターが備えてあった。 ケネーは、この王宮の中二階に住んだだけでなく、ポンパドゥールの行くところは必ず随行した。フォンテソブロー、シュワジ、パリ等がそれである。それらの地の城館に残る家具台帳のなかに彼にあてられた部屋の名が記載されている。パリでは、ポンパドゥールの館(HoteDに彼は居住した。それは、もとのエブルー館であり、今日のエリゼ宮である。ポソバドゥールの死後には、ルクセンブルグ宮殿にあった彼女の娘婿の部屋にケネーが居住したこともある。 ポンパドゥールの在世中、ケネーがどれほど深く宮中の内密な人事交流に通じていたか、これらの居住場所をたどれぽ一目瞭然である。 彼は、1749年にベルサイユに入って以降、わずか3年にして常侍医頭となったが、最高の地位たる侍医頭に就任するには至らなかった。ただし1761年には、グラソ・コマン付医師の地位を兼ねた。 ポンパドゥールの死(1764年)後も彼は、中二階にあり、ルイ15世が死去(1774年初頭)するに及んで、中二階を去りグラン・コマンに移る。 |
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■5.ケネーの家族 | |
■(a)先祖
ケネー家は、15世紀にモンフォールのラテン語教師を務めた司祭ジャン・デュ・ケネーという名を最初に記録にとどめている。16世紀には織物業を営んでいたらしい。16世紀の末、ケネーの曾祖父がラプルールとして生活し、また商業を行ない、しかもタイユの収税吏をかねていた。その子つまりケネーの父親は、ラブルールとして農業を営み、かつ小規模の商業を行なっていた。この父親の時代、ケネー家は比較的に裕福な状態にあり、メレのサン・グロワール街に居を構えていた。その住居には、2つの寝室、1つの穀物倉と地下倉、そして1つの納屋があった。《家全体が屋根瓦で覆われて》いて、中庭の奥には、馬小屋と牛小屋があり、通りに面して店舗があった。ケネーの両親は、この家屋に住み、中庭先の店で雑貨や食品類の小売りをしていたらしい。同家は、牛と馬を数頭ずつもち、37ペルシュと25ペルシュの土地を耕していた。 〈付論〉 父ニコル・ケネーの耕作していた土地は37ペルシェと25ペルシュであるとエヒトが算出した根拠は明らかではない。いま、もしこれが実態だと仮定して、これを『プチ・ラルース』に記載されている換算値で表示すれぽ、以下のとおりとなる。37ペルシュと25ペルシュはそれぞれ、7.4アルパンと5アルパンであり、合計12.4アルパンとなる(1ペルシュ=1/5アルパン)。これをさらに、1アルパン=25〜50アールで換算すると、310〜620アールとなる。 父祖以来のラブルールで、教会前で小売業を営んでいた父ニコラは、男女それぞれ1人の召使を雇い、教会、より正確にはサングロワール修道院の収税吏の役についていた。 以下に掲げる資料は、ケネーの生家と伝fられる家を写したものである(ただし、実際のケネー家は、数軒離れたところにあったという伝えもある)。 このニコルは、子供たちの教育にあまり関心をもたず、少年フランソワは、11歳になっても読み書きができなかった。たまたま日雇いで庭仕事にきていた者から『農業と農家』と題する当時有名な内科医シャルル・エチエソヌ・ジャン・リエボーの本を教えられ、爾来、学問への関心を強め、メレの司祭やモソフォールの司教に教えを乞い、パリに足をのばして書物を求めた、と伝えられる。 13歳のとき父ニコラが急死したので、勉強はますます困難になった。しかし彼は母親の許しをえ、パリで彫版師の資格をえて生計をたてようとした。努力してこの資格を得、それで生活しながら、ケネーは医学部やサソコーム外科医校の講義に登録して勉強を続けた。植物学・薬学・化学・生理学・数学・哲学が習得された。 1716年、彫版師の仕事をやめて、モソフォー一ルに近いオルジュビュスQrgebeusで外科医の実務を開始した。同時に彼は植物学に関心をひかれ、その勉学に努めた。 ■(b)妻と子 1713年1月8日、パリの商人の娘ジャソヌ・カトリーヌ・ドゥファンと結婚し、マソトで外科医としての生活を送った。 この妻との間に、彼は4人の子供をもうけた。 長男プレーズ・ギョームは、1717年11月18日に出生。サソマクル教会区で洗礼を受ける。 この第1子は長じてsカトリーヌ・デギュヨンと結婚し、ケネーにとっての5人の孫を残す。この孫の世代が、フランス革命期の怒濤を迎えることになる。 1719年、長女マリジャンヌ出生。サントクロワ教会区で洗礼。その洗礼証書が資料である。幼児にして死亡。 ついで、次女マリ・ジャンヌ・ニコル、1723年10月13日出生。姉と同様に、サントクロワで。 当時、サソトクロワ教会区は、サソマクルより位格が高く、町の知名人を受け入れていた。ケネーのマントでの地位が上昇していることの証である。この娘はのちに、外科医プリューダソ・エヴァソと結婚し、子孫を残す。 第4子は男であり、フランソワ・ピエールと名付けられ、1728年1月10日、コレジアル教会で洗礼を受ける。 妻ジャンヌ・カトリーヌは第4子の出生にあたって病をえ、出産後一月にして死亡。 当時の洗礼証書には、カトリックの習慣として名付け親の姓名が、その職業ないし地位とともに記されている。その記載から推して、洗礼を受けた子供の両親の社会的地位をうかがい知ることができる。 マントで死んだ妻は、コレジァル・ノートルダムに葬られているが、その残した子供の名付け親を見れば、この家族の縁者の地位はいたって低い。第4子の名付け父はラシャ商人であり、名付け母は雑貨屋商の妻である。第3子、第2子、第1子のいずれも、ごく普通の庶民であり、教会の収税吏ないし助任司祭の域をこえていない。 この点、ケネーにとっての孫の洗礼簿に出てくる名付けの父と母が、のちに示すように当代最高位に列する貴人であることと対照的である。 これらの点を確認するために、早世した二人の子マリ・ジャンヌとフラソソワ・ピエールの洗礼証書および妻ジャソヌ・カトリーヌ・ドウファソの埋葬書を比較されたい。 ■(c)孫一一革命期をはさんでのケネー家 ケネーは、メレ村の外科医からヴェルサイユ宮に入り、ポンパドゥール夫人付侍医、ついで国王付侍医として社会的な階梯をのぼっていくのであるが、(同時にエコノミストとしての活動も始めるのだが)この点はひとまずおいてsここでは、ヴェルサイユのケネーが、早世しなかった二人の子つまり長男ブレーズ・ギョームと次女マリ・ジャソヌ・ニコルに対して、親としてどのように配慮したかを見てみよう。 一言でいって、娘には同じ外科医とめあわせ、医師一家としての社会的昇進の道をひらき、長男およびその子つまり孫に対しては、徴税請負人等の有利な金融的活動に入らず、堅固な土地耕作地主としての道を歩ませた。また適当と見られる場合には、宮廷の公職に就ける道を開いた。 長男ブレーズ・ギョームの洗礼簿にのっている名付親は、教会の収税吏クラスの者である。 この慎ましやかな医者の子は、結婚するときには、勅命フランドル馬糧総督の公職にあり、その結婚相手は、元国王枢機官アソドレ・ジャック・デギヨンの娘マリアソヌ・キャトリーヌ・ロベルティエソヌ・ジョゼフ・デギョンである。 デギョソ家といえぽ、後年の大革命期における封建的権利放棄の一提唱者を生み出す開明的大貴族である。この名門と縁を結ぶことになる長子プレーズ・ギョームのためにケネーは、ニベルネ地方で一つの地所を購入する。 そのころ彼はすでに、王太子の天然痘治癒と医学に関する数多の著作を称されて、貴族の地位に列せられていた。アノブリル(anoblir)されたものは「高貴な土地を購入する権利」を有していたので、ケネーはニベルネー地方において、ボーヴォワールという土地を購入した。この土地は、サンジュルマソ領主権、サンルー領主権、グルウェおよびボールペールの領主権を備えたもの(この意味で高貴な土地)であり、元国王枢機官ルイ・ボフイル・ボンフィルの未亡人マドレーヌ・オリビエ・シモソに帰属するものであった。 1754年、ケネーは4万リーブルを払って、この土地をブレーズ・ギョームに供与し、息子は毎年2000リー・ブルずつ返済した。翌1755年1月、この契約が完了した土地のうち、サンルー領主権は、これを他人に譲渡する。 この土地は、ヌベールから6リュゥー離れたサンジュルマン・アン・ビリ教区に所在し、そこの所有者が居住する城シャトーには、7つの部屋と広間、書斎、納屋、馬・牛小屋、菜園、流水路、噴水等が備わっていた。ブレーズ・ギョームは、このドメース(館)に妻と居住し、その義母であるデギヨン家のキャトリーヌ・ドーファンの財産を相続することを放棄してまでして農業経営に専念し、よき成果をあげた。この意味で、父ケネー以上に彼はフィジオクラートであった。父ケネーはといえば、自分で耕作地主になったことはなかった。 のちに「マブリがケネー攻撃を行なった際に、ケネー博士は、自分の地所の収入増加をはかるために良価説を唱えた、というのはまったく基礎がない」とエヒトが証言しているのは興味深い。 このブレーズ・ギョームには、5人の子供があり、第1子ジャソ・マルクは、ヴェルサイユで1750年1月20日に生まれ、同月24日ヴェルサイユ・サンルイ教会区で洗礼を受けた。その名付け父は、軍事大臣ダルジャンソソ伯爵であり、その名付け母は、なんとポンパドゥール侯爵夫人である。これが、ケネー・ド・ボーヴォワールと称していく。 このジャン。マルク。ケネー・ド。ボーヴォワールは、革命期にサソジェルマソの市長となり、立法議会ではニエブル選出の議員となった。妻との間に子供がなく、1803年二人とも相次いで病死(妻10月30日、夫11月1日)。ケネーのこの孫夫妻がジャコバン独裁の狂気の時期を生き、ナポレオンの皇帝即位直前期まで生存していることは確認されてよいだろう。 第2子ロベール・フランソワ・ジョゼフは、その父がまだ公務についていた時期、つまり食糧・馬糧官だったころ、バレソチエソヌで1751年1月23日に生まれた。この子は長じて、ケネー・ド・サンジェルマソとなる。 このロベール。フランソワ。サンジェルマンは、コレージュ・ド・ヌーベルで農家経営に関する優れた学業を修め、祖父ケネーによってヴェルサイユに呼び出される。のちポーランド大使マサロスキーに同行して、ポーランドで農業指導にあたる。帰国してテェルゴーによって抜擢、デュポン・ド・ムールの統括する部局CourdesAidesの長とる。しかし、恐らく、テユルゴーの失脚にともなって、その地位を失ったのであろう。ソミュール近辺のパサソジュに引退。 そこでは1783年にCour Souverainede Saumurの長官に任じられ、のち立法議会にメーヌ・エ・ロワル選出議員として加わり、"穏健派"として活躍。1792年8月、パリでの政争から身をさけてバサンジュに帰り、判事に選出され、またソミュール地区裁判所長となり、ナポレオンの皇帝戴冠式に列席したのち1805年4月8日バサソジュで死去した。 この人物は、父祖ケネーの原理(フィジオクラシー)を、スミスから借りた表現で変容させた。 一説には、イギリスから伝って来たフリーメーソソに加わっていたといわれる。 ブレーズ・ギョームの第3子フィリップ・ジェルヴェス・マリー・ケネーは早世。第4子アレキサソドル・マリ・ケネーは、1776年、科学絵画アカデミーならびに国王にメモアールを提出。翌1789年、パリ市やヴェルサイユでの騒乱に立会い、のち軍務についてデュムリェ将軍とともにアルゴソヌに出陣。歩兵大尉として、かのバルミーの戦いに参加。1794年、軍職を引く。ただし、パリ地区徴税監督官の地位についたことがある。ナポレオソ帝国の崩壊する1815年2月、セーヌ県のサソモーリスで死去。 最後にケネーの血縁をたどってエヒトが作成した家系図を掲げておこう。 〈付論〉ケネーの娘婿 娘マリ・ジャンヌ・ニコルは、1740年、すでにメトル・シルルジアンとなっていた若きプリューダソ・エヴァソと結婚。ケネーは、自分の就任していた外科医アカデミー書記の地位をこの娘婿に譲った。ついで皇太子付侍医の地位を得させる。 マリ・ジャンヌ・ニコルは、今やエヴァソ夫人としてヴェルサイユで3人の子供を生むが、それぞれの子の名付親には、各界の名士がそろっている。第1子の場合は、サソフロラソタン伯爵とエストラード伯爵夫人。第2子の場合は、マショダソヴィルとポンパドゥール夫人令嬢ジャソヌ・アレキサンドリーヌ。第3子の場合は、デギヨン侯爵ルイ・ド・ノワイユと、なんとポンパドゥール夫人その人である。 エヴァン夫人洗礼簿には、名付親の職として教会収税吏の名があがっていたことにかさねて注意。 革命前夜の絶対王政期において、1ないし2世代の間に社会的な昇進(と没落)がいかに急速であるかの一証左がここにある。 エヴァン夫人は、1761年4月4日、第4子出生にあたって、お産の床で死ぬ。 この娘婿は、その後再婚するのであるが、ケネーは、その最後の地位グラン・コマソ付き医師の地位を彼に贈った。 このエヴァンはs死の床にあるケネーの側にあり、埋葬に立会う。医師としての同業者意識も手伝ってか、岳父の生涯を神話化するような賛辞や伝記的記述を残している。 |
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■III societe civilとsociete politiqueとの接点としてのpropriete | |
■1.革命の所有史的展開 | |
ケネー家が、その前夜と終末を身を以て体験したスランス革命とは、どのようなものであったのか。これは言うまでもなくsいつフランス革命が始まり、それがいつ終わったかという一般的問題の説き方にかかるものである。
フランス革命とは結局、所有の形態の変革だ、と指摘したテーヌの有名なテーゼは、革命史学の左翼的傾向のなかで、きわめてブルジョア的に一面的なものと解されてきたが、これは、通俗的に解釈されたマルクス的陛級史観とどこかで通底している。テーヌのテー一ゼがいまもし、ブルジョア的なシニズムであるとすれぽ、フランス革命を封建制と近代資本主義社会との分節=連節の過程とみる歴史観は、所有のもつ経済的・社会的・政治的な意味内容の不十分な把握に立脚している。 私たちはここで、フランス革命にきわめて深い関心を抱き自らの革命史論として取り上げるべき諸論点を草稿に書き残したマルクスのことをここで思い起してよい。彼は、経済学研究を通じて、所有のもつ上記三義的意義を検出し、それを1 自然に対する対象的自己活動による自己自身の獲得approprier、2 そのような対象的に自己獲得する主体が帰属する種族Gattungswesenの自己産出、3 その種族内での独自的な相互意識ないし相互承認である、と分析したのであるが、そのぽあい1は、総じて生産活動であり、2 は、社会関係の形成過程であり、3 は、法関係の原基的措定であるのであった(拙稿「循環=蓄積論と歴史認識」『経済学と歴史認識』岩波書店、所収)。 所有が、もっぱら権利として意識されるのは、ブルジョア的社会諸関係が資本主義的な経済関係として独走的に成熟し、ブルジョア的に歴史的な法関係が超歴史的な自然法として物象化している場合である。このことは、所有が上記の三義中の最終規定に一義化するということである。そして、この意味での所有が日常的意識のなかで自明化されていると批判的に自己了解されるのは、資本主義的諸関係が動揺する社会的・政治的な危機においてである。そして、そのような自己了解それ自身が、すでにイデオロギー的自己変革に他ならないのである。ブルジョア的所有関係が絶対王政のなかで成長してゆき、この王政の制約を乗り越えようとするとき、それはそれ自体の内包するイデオロギー的形態をほとんどマニケイスムに等しいまでに絶対化しがちである。そして自らに立ちはだかるものを暴力的にさえ払いのけようとする。 その前に立ちはだかるものとはとくに、在来の社会関係であり、政治形態である。そしてまた、その三者に関連する財政ないし租税形態である。フラソス革命はいつ始まり、いつ終わったかという問いを立てるとき、その前には、仔細にえぐりだせぽつきることのない多数の歴史的事実がある。しかし、それらの全てを通じて、所有の三義性が最もドラスティックに問題化されたことをもって革命の発端とし、この三義性が最もラディカルにその形態を転換させて安定していくことに革命の終焉を見いだしえて初めて、革命の始期と終期を確定しうるのであると思われる。 そのような観点に立つとき私たちは、1788年の時点におけるカロソヌとブリエソヌによる財政改革と社会的特権廃止ならびに高等法院に代わる名士会の開催、その国民議会への脱皮をもって革命の発端とみることができる。そしてその終期としては、ナポレオソによるかのブリュメール18日、すなわち軍事独裁による総裁政府の消滅、ナポレオソ民法典の制定、第1帝政の成立をもって革命の最終過程の終了と見ることができるだろう。 ここで私たちはf革命の端緒をなしたカロソヌとブリエンヌの改革とその挫折をほんの少しく顧みてみよう。 カロソヌが財務総監として国王に提示した改革案は、1 財政上の貴族・聖職者の特権廃止、2 国内関税を含む消費税の廃止、そして何よりも土地単一税の創設、3 穀物流通の対内的対外的自由の実現であった。これは、ケネーのフィジオクラシーを政策化したものである。ほぼ10年前のテユルゴーの政策を、より追い詰められた経済的・政治的・社会的条件のなかで、再実施しようとするものであった。しかしそれだけに、テユルゴーの時代とは異なる政治的抵抗がより深刻な形で出現していた。 改革案は在来の社会関係の基本に触れざるをえない。それだけに、それが国王の法令として行政官僚から提示されてもパリの高等法院によって法令としての登録を拒否される惧れが多分にあった。土地単一税の創設と国内穀物関税の廃止も、各地方の高等法院において承認される必要があった。 案の定カロソヌ案は高等法院の反対にあった。これに対抗するためカロンヌは、名士会を開催することにし、その構成員を政府で任命したのであるが、その名士会がなんとカロンヌ案を否決したのであった。国王ルイ16世は、カロソヌを罷免して、代わりに名士会での反対派指導者トゥールーズ大司教ロメニー・ド・ブリエソヌを財務総監に任命した。しかし、この新宰相が提示しえたものは、ほとんどカロソヌと等しい方策であった。つまり、土地単一税の徴収、貴族特権廃止、穀物流通の自由、コミュソ(市町村)およびプロバソス(州)での議会創設がそれであった。 なぜ、代替案がなかったのだろうか。 それは、絶対王政の危機が、そしておよそ封建制の危機が行き着くところまで行き、特権階級出自のものであれ、およそ行政の責任者である以上なさねぽならぬことは、なさざるをえず、見なけれぽならないものは目を背けてはならないのであった。つまり、租税を負担して国家を養うものは社会的物質的剰余でしかなく、人間生活の必要物資は、自由に生産され自由に売買され自由に消費されるほかない、そして個人間の社会的政治的な合意は、議会での決議という形式をとらざるをえないのであった。 ブリエンヌがsコミュンとプロヴァソスでの議会の創設を提示したとき、高等法院はこれに抵抗した。同時に、従来の名士会に代わる全国三部会の召集が、そのころ出版されはじめたパソフレットや新聞において;声高に要望されるようになった。アメリカ革命の英雄ラファイエットは、その人格的化身として振る舞った。もはや国王の高等法院への親臨による強制的な登録も無効だと高等法院によって宣言される事態が出現していた。それは同時に地方各地の高等法院のパリへの連帯表明を呼び起こしていた。しかもそれは全国的な騒乱状態と軌を一にしていた。ブリエソヌの罷免とネッケルの大臣職への復権。そしてネッケルの再度の失脚。 ここに見られるものは、財政問題を解決するための方策は単に経済問題であるだけでなく、社会的にして政治的な諸エレメソトを包摂しているのであり、それは一方で、領主裁判権・封建的諸特権の廃絶→能力の不平等を認識したうえでの所有の権利としての平等性の相互承認→ 地方自治体および国民共同体の自覚的形成の過程である。また他方では、高等法院→全国三部会→ 国民議会という合意形成機関の全国民化の過程である。この二つの過程は相互に関連しあい、対外的な紛争によってその対内的な危機の深さが倍加されていった。逆にまた、この対内的な解体過程は、新しい国民的再編過程に転換しつつ新たな対外的関係の創造に向かっていく過程でもあった。国内における革命の絶頂期において、対外的関係は最悪化し、対内的な革命終結期は同時に、世界帝国の形成期に連動する。そしてこの帝国の解体は、対内的に王政復古へと反転する。すなわち革命そのものの否定に帰着する。 私たちは、1789年に先んじたカロソヌ・ブリエンヌの施策とその挫折において象徴されるアソシャン・レジームの内部崩壊は、1789年7月における人民によるアンヴリッドの武器奪取と、それによるバスチーユ攻撃によってドラマ化され、さらに8月4日の国民議会におけるノワイユ子爵とデギョン公爵の自発的行為としての封建的権利の放棄、そして市民権と人権の宣言という革命詩に開花していく。 そこには、かつてフィジオクラシーとして理論化された社会e歴史認識のロゴスが垣間見られる。今日ローザンパロソが、フユレの『革命批判辞典』において、フィジオクラシーと立憲議会との関係の深さを再確認するのは至当である。「18世紀の巨大な自由主義的諸潮流のなかで、とくにフィジオクラートの寄与、中でも普遍的な土地単一税論が、ボアギsベールやヴォーバン以来、交易と経済発展を阻害する消費税に対する批判・論難に結びついた」(前掲書、p.804)。そして、財政改革が市民権要求へと展開していくことこそ、イギリスでもアメリカでも、その市民革命期に見られたことであるが、それがここでまさしくフラソス的形態をとって現われ出たのである。いま私たちは、カール・マルクスが次のように指摘していたことを、改めて確認してよいだろう。「フランス人は、租税体系についての真に歴史的な民族である。しかもフラソス人は、あらゆる場合に物事を一般的観点から法制化し、単純化し、しかも伝統を打破した民族である」(「エミール・ド・ジラルダソ著『社会主義と租税』によせて」)。「土地所有の外見的賛美が、実践的には急変して、リカードォ学派の急進分子の思想と全く同様に、租税はもっぱら地代に賦課せよということになるのであh、その意味するところは、国家による土地所有の潜在的没収である。フランス革命は、レーデレルその他の抗議にもかかわらず、この租税理論を採用した」(『剰余価値学説史』)。 |
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■2.ケネーの所有論 | |
フィジオクラシーの始祖ケネーにとっては「各人が自分の利害関心や財力ならびに土地の資質に見合った生産物を、自分の畑で、自由に耕作する」自由を確保されてこそ、そこに産出されたものを、「対内・対外の両面で自由に交易しうる」のであり、そのような生産圏と流通圏において「所有権の安全」が確保されることこそ、「統治の要諦」にほかならないのであった。このケネー原則は、所有の三義性をまさしく言いあてたものであるといえる。
このことを確認したうえで、ケネーの所有論が、まさしくフラソス的なある特質を備えていることに注意せねばならない。 その1。彼にあっては、「土地の所有者と耕作の前払いの所有者とが、双方ともに等しく所有者でありsこの点において、格式が平等である」(「マクシム」第15の註)ことが、積極的に語りだされている。つまり、動産(事実上の生産資本)の所有者が不動産の所有者と全く対等とされており、所有は社会の経済的秩序の本質的基礎とみなされている。これは、ブルジョア的平等性に宿りうる資本主義的性格を積極的に評価し、それを原則化することに他ならない。 その2。ケネーにあっては、「土地の生産物は、三種の所有者すなわち国家と土地の所有老と十分の一税徴収者とに分配される」(「マクシム」第5の註)のであって、この三者間はco--proprietaire共同所有老の関係にある。このことは、ケネーにおける私的所有権概念の未成熟を示すものではない。そうではなく、土地の産出する剰余こそ、政治社会を、市民社会とともに、しかもそれとは異なって、成立させるものだ、とそこでは主張されているのである。したがって、ケネーにあっては、土地所有者が純生産物の自己の取得分以外のものを国家の必要とする租税として収納し、また聖職老への祭費として収納するのは、当然なのである。個人所有者として、教区として、また国民国家として全所有老が、その帰属する種族Gattungswesenとその天地を維持しえてこそ、全てのことが成り立ちうるのである。 上記二つのことを主張する点で、ケネー所有論は、まさしくフラソス的であり、同時に、それゆえにこそ、フラソス革命前夜の危機を照射する理論的基準になりえている。 このような理論的基準を理論体系上の原理としているからこそ、彼は、一見、土地所有者の擁護者のように見えながら、逆に現実の土地所有者への厳しい批判家として理論的に立ち現われていたのであった。彼が次のように書き残していることを、私たちは忘れてはならないだろう。 「租税が土地の収入からのみ取得されるべきことを、地主たちは、自らの無知な貧欲のために認めることができなかった。貴族と聖職者とは、制限負担や無際限の免税を要求した。しかもそのような措置が彼らの財産や身分からして当然であると抗議していたのである。主権者の方もまた、特権階級の官職保有者や政府のあらゆる行政諸部門で、職務や役職についている全ての人々に全面的な免税を行なうことが適切であると考えた。このような措置のため、国家収入はきわめて貧弱な水準に陥り、ついに主権者が諸種の間接税に助けを求めるようになった。… … ところがこの間接税の発達と、その不幸な結果のため、国庫の欠乏を満たすために間接税と直接税の双方が次から次へと増徴されねばならなくなった。」(「第2経済問題」)。 革命の発端は、単に王権に対する貴族の反乱として起こったのではない。法服貴族と帯剣貴族、国王と貴族、貴族とブルジョアとの間における全対立が、アンシャン・レジームの末期を彩っていた。1780年代における行政官僚の代表者が、法服官僚の抵抗によってその支配力を消滅させられ、この後者がまた、国民議会に転生した全身分会構成者たる市民citoyenによって乗り越えられるのは、その政治的ドラマトゥルギーである。 ケネーは、国家論としては何よりもまず、「市民諸階級間の分裂が恣意的な専制君主の成立を許すようなことがあってはならない」と主張し、同時に、大地主が支配する「アリストクラシー」も、無知な下層民が支配する「デモクラシー」も、アナルシーと無秩序を引き起こすものとして、これを否定した。さらに、アリストクラシーとモナルシーとの混合形態も、さらにまた、アリストクラシーとデモクラシーとモナルシーの混合形態も否定したのであった。前者はおそらく、ブルボン絶対王政の混乱を示唆し、後者はイギリス議院内閣君主制の自己欺隔を示唆するものである。「支那専制政治論」において彼が展開したデスポティズム・レガルのテーゼは、絶対権力の空洞化を見通す理論装置であり、その理論の根底として彼が措定した自然権論は、能力の不平等の認容のうえで権利としての所有の平等性を積極的に主張するものであった。フィジオクラシーにおいては、自由主義は、平等主義の無際限の独走を予防する理論装置を備えていた。だが逆に、経済的リベラリズムが一面印に政策化される余地を残していた。 ケネーの直接の弟子たちは、デュポンを始めとして、穀物取引の自由を、時と場所を顧みずに、原則的に振りかざす傾向があった。いわぽ、市場原理の導入を一面的に主張したのであった。しかも、土地単一税については、理論として語るに止め、政策的提言を行なわなかった。 危機の深まった80年代においては、単一土地税制の実現こそ緊急不可避であることが、貴族階級出身の行政官僚によってさえ自覚された、そして実現されようとした。しかもこのことがまた、市民権要求を最も直接的で原理的な闘争主題としていくのであった。 そのような過程のなかで顧みるとき、ケネーとルソーとの意外なまでの近さを確認してよいだろう。この両者にあっては、社会形成が富者と貧者との間の形式的平等性のうえでの実質的な支配隷従関係の進展として進められるものと認識されているのであった(拙著『経済科学の創造』岩波書店を参照されたい)。この点マルクスが、『資本論』中の蓄積論においてあえて注記して、これを示すところである。なお、革命期のソルボンヌ教授J .B.モグラは、他ならぬルソーが「所有権は市民社会の真の基礎であり、市民の政治参加の真の保障である」と述べていたことを指摘し、ルソーを所有権の否定者と見る平等主義老マブリの言説を否定していた。さらに同時代に11ルソー主義老"を自認していたロベスピエールやマラーの言説を批判していた。今日の私たちは革命期における彼の言明を真面目に受けとめてよいだろう。 |
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■3.生誕200年祭におけるケネー評価 | |
いまからちょうど100年前の1891年、数年後に控えたケネー生誕200年の記念行事を行なう組織が形成され、そのイニシアティヴでメレ村の中心広場にケネーの胸像が建てられることになった。また、それに前後して諸種の集会が催され出版物が刊行された。そのうちの一つとして、1892年7月10日メレ村の所属するMonfort1'Amaury郡の学校祭がメレで行なわれた。そこで発言した数人のなかに、ケネーの4代目の子孫が二人招待されていた。そのうちの一人、M.J.ケネー・ド・ボールペールは、比較的長い講演のなかで、次のように述べている。
「この思慮ぶかい精神の持ち主にとって、統治に心を砕かない市民citoyenというものは考えられませんでした。彼は、モナルシーという統治形態についてあえて言及することはしませんでした。彼の時代には、そのようなことを考える者はだれもいなかったのです。彼は絶対王政を断罪しました。しかし、これに対抗する自由主義的な予防措置を提案していました。一方で、彼はまた、この絶対王政に抗すべくf大部分の国民に教育と自治の手段を与えるよう努めました。これは、政治的な世論という対抗装置を創造することに他なりません。他方、彼は全国民的な自律性を保障する"必然の法"の網のなかに王政を封じこめました。彼にあっては、国王はまだ君臨するのではありますが、もはや統治するのではなかったのです。まさしくそこには、近代の到来があります。…… この法は、権利義務の同等性のうえに立つ自由の法であり、他面、所有の法であります。… …ここにケネーが所有と名付けるものは、蓄積された賃金にほかなりません。… …その安全を、国家は責任を持たねぽならないのです。…… このようなことをアンシャソレジームの最中で言う人を見いだしうるのは、また絶対君主の宮殿の中でそのようなことを言い、かつ書くだけの自律した精神の持ち主を見いだすのは、歴史を知るものにとってまことに驚くべきことでしょう。… … ケネーのこのような思想は、彼の世紀に固有な闘争のなかでは注目すべき事象であるでしょう。そして、その意図するところが破壊することではなく、改造し新たに築きあげることであったのは注目されるべきでありましょう。この点からして、多くの人hにとって彼が、フィロゾーフと呼ぽれていた人よりも優れているとされるのはもっともなことであります。革命史の初期において彼がとくに選ばれ、その著作から多くのものが学びとられたのは、以上の理由によるのです。彼の原理的な諸定言が、人権宣言のなかに取り入れられたのも同様です。近代社会の産業的憲章たるこの宣言に取り入れられて当然なのであります」("Assemblee Generale Annuelle de la Societe populaire")。 この曾孫の言は、必ずしも身びいきな誇張ではないだろう。19世紀末の第3共和制下ではフィジオクラシーが世に広く受け入れられていたのではない反面、熱狂的なルソー主義は、ひどく忌避されていた。このことは、1896年8月23日メレでのケネー彫像儀式における教育文芸省の代表者の講演からもうかがい知られる。そこでは、「ケネーの定言はフランス革命の出発点をなしていたのであります。8月4日の夜に封建的特権の放棄が自然発生的になされたのは、課税の不平等によって利益をえていた者でさx..、『経済表』の作者の格言の正しさを知っていたからでありました。この8月4日の夜、フラソソワ・ケネーの願いの実現にむかって、大きな歩みが一歩すすめられたのです」("L'inauguration du Buste de Francois Quesnay" dans Bulletin de la societe populaire du canton de Montfort l'Amanry)。 上に掲げた一文は、100年前に一地方で行なわれた記念行事での言葉にすぎないが、今日、視座の転換が迫られているフラソス革命史の再検討にあたって、その資とするのに吝かであってはならないものであるだろう。少なくとも私にとって、インパクトに満ちた時代の証言として受けとめられる。 ケネー生誕300年を数年後に控えている私たちは今日、ロシア革命が再審に付せられているのを目のあたりにしている。新資料の発掘が一面的強調へと落ち込むこのとを自戒しながら、視座の転換そのものを不断に自己吟味する必要の前にいま私たちは立たされている。それをどう果たしうるか、自らに向かいつつ、古典と現代との間の往復運動を試みていかねぽならないと、自らに言い聞かせつつ、ここに筆をおくこととしたい。 |
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■経済と倫理 / アダム・スミスから学ぶ | |
経済学の祖アダム・スミスが『道徳感情論』において論じた人間観と社会観を考察し、その考察にもとづいて『国富論』を検討する。それによって、スミスが『国富論』で用いた有名な言葉「見えざる手」の真意を問い直すとともに、自由放任主義者のイメージとは異なったスミスのイメージを示す。また、二つの著作を通じてスミスが発信するメッセージは何かを探り、その現代的意義を考える。 | |
■ご紹介にかえて | |
本日、ご講演いただきます大阪大学大学院経済学研究科の堂目卓生教授をご紹介いたします。
ロータリーの職業奉仕の会合で突然アダム・スミスの名前が出てきて多少とまどっておられる方もあると思います。 殆んど全てのロータリアンの皆さんは企業や事業の経営者でおられます。昨年10月以降、突然、経済恐慌寸前のような状態に陥り、今日まで続いております。本日お集まりの皆さんも毎日の事業の経営に苦労されていることと思います。今日のテーマは「経済と倫理」でありまして、近代経済学の祖と言われるアダム・スミスからその人間理解と経済学の関係について学ぶことが必要であるとの観点からロータリーでこれを取り上げることといたしました。 堂目先生が最近お書きになりました「アダム・スミス」が大変評判となっていることはご存知と思います。私も一読して感動を覚えましたので、同じ大阪大学出身でロータリアンの畑田先生にご紹介を頂き、今日の運びとなったことを感謝いたしております。 アダム・スミスは250年程前のイギリス、スコットランドで活躍され、母校のグラスゴー大学で倫理学、心理学、道徳哲学の専門家でありました。近代の経済学はそもそも倫理、道徳から始まったものであります。 また、ロータリークラブが誕生する1年前に発刊された「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いたマックス・ウェーバーも実は倫理学の先生でありました。経済と倫理はその始めから密接につながった概念であります。ロータリーの100年の歴史も、その葛藤の中で様々な変化を遂げてきた実績があります。「経済と倫理」は今、最も新しいテーマであると考えまして、堂目先生に御出場をお願いした次第です。 そもそも経済とは人間が幸せに暮らすための方法であって、その基本は倫理、道徳に根拠をおくものであります。アメリカ発の金融資本主義の行き過ぎが世界を混乱に陥れています。アメリカの投資銀行を始め、大会社の経営者が数億、数十億円の年間給与、ボーナス、退職金を受け取っていると報道されています。片方で地球人口67億5000万人の40%が一日で2米ドル、その半数は1米ドル以下で生活しているとのことです。これは正に資本主義の堕落であると思います。 |
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■経済と倫理 / アダム・スミスから学ぶ | |
ご紹介にあずかりました堂目でございます。国際ロータリー第2660地区職業奉仕委員長の皆様、このたびは私を地区協議会の講師としてお招きくださり、まことにありがとうございます。
私は、現在、大阪大学で経済学の歴史、主としてイギリスの経済学の歴史及び経済思想を教えております。今日は、私が昨年出版いたしました「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界」に基づいて、経済学の祖として有名なアダム・スミスが、社会と経済、あるいは人間というものについて、どのような考え方を持っていたかをお話したいと思います。 お話しは、次のような構成で進めていきたいと思います。 まず、第1に、スミスが生きた時代と、その後のスミスのイメージについてお話しし、2番目に、スミスの道徳哲学の中心概念である「同感」(シンパシー)の仕組みを中心に、スミスの人間観と社会観を明らかにし、第3に、それらの人間観・社会観に基づいて、スミスが市場というものをどのよう3 にとらえていたか、そして4番目に、経済成長の真の目的は何だと考えていたかをお話ししたいと思います。さらに5番目に、スミスが当時のヨーロッパの経済体制、すなわち重商主義体制と呼ばれるものに対して、どのような批判的意見を持っていたか、特に、当時起こったアメリカ植民地問題、アメリカ独立戦争の問題に対してどのような対応策を考えていたかということをお話します。そして6番目に、上記のスミスの思想から、現代の私たちは何をメッセージとして受け取ることができるかを検討してお話を終わりたいと思っています。 |
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■アダム・スミスが生きた時代―アメリカ独立戦争とフランス革命前夜 | |
先ず、スミスの生涯と彼が大体どのような時代の人かということを、お話しします。
1707年、スミスが生まれたスコットランドは、イギリスに統合されました。その原因は、それよりも19年前の1688年にあります。すなわち、名誉革命によって、イギリスはプロテスタント系の王朝を中心に、新しい政府をつくりました。そのために、カソリック教徒のルイ14世、すなわちフランスと戦争状態になりました。もちろん、植民地の獲得も戦争の原因になっていました。 地理的関係を思い浮かべていただければ分かるように、北からスコットランド、イングランド、フランスとあるわけで、スコットランドの中には、かなり多くのカソリック教徒もいるわけです。それで、イギリスは、南のフランスと北のスコットランドが手を結んでイングランドを挟み打ちにすることを恐れ、そうなる前に早目にスコットランドを統合することにしたのです。アイルランドは1801年に統合されて、イギリスはUK(United Kingdom)になるわけですけれども、それもやはりフランスとのナポレオン戦争中に、カソリック教徒が多くいるアイルランドから側面攻撃を受けるのではないかという恐れを抱いたためです。 さて、スコットランドの人々は、この統合をどのようにとらえたかというと、当然、民族自決を訴えて、統合に反対する人がおりました。主としてハイランドと呼ばれる北の方の人々、牧畜や農業を中心に生計を立てていた人々が、民族意識が非常に高くて、この統合を屈辱的なものとして反対しました。彼らの中の急進派は、ジャコバイト(ジェームズ派)と呼ばれ、名誉革命で追放されたジェームズ2世、およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を求めて、スコットランド国内あるいはイギリス国内で何回か反乱を起こしております。では、統合に反対する人ばかりだったかというと、そうではなくて、ローランド(エディンバラやグラスゴーなどが含まれます)の人々、港町周辺の商人や製造業者たちはむしろ、イギリスが大西洋に持っている貿易権に、スコットランド人も自由に参加できるようになるわけですから、この統合に賛成しました。 したがって、スコットランドは、民族自決をとるのか、それとも経済的利益をとるのかということをめぐって、二つに割れた時代であります。経済的繁栄、あるいは商業社会の拡大が、社会における諸個人の間のきずなを切ってしまわないかという、現代にも通じる問題が、既にこのころ、知識人の間で議論の的になっていたのです。 |
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■イギリスの国債、国の借金の増大がもたらしたもの | |
スコットランドを統合したイギリスといいますか、統合しましたからグレート・ブリテンになるわけですが、イギリスがその後どのような運命をたどったかというと、18世紀に入ってからフランスと三度、戦争をしております。一つ目がスペイン継承戦争、二つ目がオーストリア継承戦争、そして三つ目が英仏七年戦争です。当時、フランスはヨーロッパ随一の軍事大国であったわけですが、イギリスは運よく三度とも戦争に勝利して、その結果、北アメリカからフランス勢力を一掃し、北アメリカをほぼ手中におさめることができました。
しかし、イギリスには大きな問題がありました。それは、戦争のために国債を発行し、国債残高が増加し始めたことです。18世紀及び19世紀におけるイギリスの名目国債残高の推移をみますと、18世紀の後半に、国債の残高が増えていることがわかります。しかも、その増え方は直線的ではなくて、階段的にふえているのです。なぜ階段状になるのかというと、それは戦争のために、あるいは戦争のたびに国債を発行したからです。 一つ目の階段状増加は、今言いました三つ目の戦争、すなわち英仏七年戦争のためにイギリスが発行した国債の額に相当し、二つ目の、それよりもやや大きな階段は、今日の後半お話ししますアメリカ独立戦争のために、イギリスが発行しなければならなかった国債をあらわしています。 3番目の階段状増加は、崖のようになっておりまして、フランス革命後の対仏戦争、あるいはナポレオン戦争のために、イギリスが発行した国債をあらわしています。その崖の頂点、すなわち1815年における国債残高は、推定で当時のイギリスの国民所得、あるいはGDPの約3倍、現在の日本の国債残高がGDPの1.7倍で、これも財政破綻するのではないかというぐらいの大きなものですけども、それに比べても、さらに大きな国債を発行していました。 今日は19世紀の話をするわけではないのですが、19世紀に入ってもその国債残高は、増えはしなかったものの、余り減りませんでした。減り始めるのは1870年以降です。これはどうしてかというと、国債を有期年金や終身年金に切り変るということを行ったからです。国債は売買したり相続したりすることができますが、それができないような個人年金に利率を少し上げて変えてもらうという政策で、国債の見掛け上の額を減らしたのですが、財政負担はそれほど減ることはありませんでした。 したがいまして、一度発行した国債というのは、なかなか償還したり削減したりすることは難しい。にもかかわらず、イギリスが財政破綻しなかったのは、1820年ごろから約50年間にわたって、年率2%から4%の経済成長を続けることができたからです。財政破綻しなかった唯一の理由は、経済成長です。意図的なインフレ政策はとっておりません。 さて、このような19世紀初頭の破滅的な状態に比べれば、1750年代、スミスの時代というのは、財政悪化といっても、未だましであったといえます。しかしながら、財政難の道が始まっていたことに変わりはありません。イギリス政府はもう財政難が始まっている、あるいは将来、より大きな財政難になっていくだろうと考えました。そこで、政府は、これまで税金をまともに払っていないイギリス人、すなわち、アメリカに移住したアメリカ植民地の人々に課税しようとしました。これに反発した植民地の人々は、1775年に独立戦争を起こし、そして、1783年にイギリスはアメリカの独立を承認しなければならなくなりました。これは、よく考えると大変皮肉な結果です。植民地を獲得し、植民地を防衛するために戦争をしてきて、財政難になった。植民地の人にその費用の一部を負担してくれと言ったら、その植民地が逃げていってしまった、いったい何のための戦争してきたのかという、悔やまれる結果になったわけです。 一方、フランスの方はどうかというと、フランスも同じように国債を発行しておりまして、次第に財政難になっていきました。フランスは植民地を失いましたから、植民地に課税するということができませんので、国内の人々、平民にもう少し税金を納めてくれと頼まなければならなくなりました。そこで、フランス国内の三つの身分の代表者が重要議題を議論する場であった三部会を招集したのですが、三部会における投票の比率をめぐって物別れになってしまい、フランス革命が勃発します。1789年の出来事です。 この二つの出来事から、我々は、財政赤字というのは、その時の政治家が考えてもみないような政治的帰結を将来にもたらしかねないということを教訓として学ぶことができるのではないかと思います。 以上が、簡単ではありますが、スミスが生きた時代の雰囲気です。恐らく、スミスが見たものは、1707年の統合以後、民族自決か経済的繁栄かをめぐって言い争う、故郷スコットランドの人々の姿であり、また、植民地獲得をめぐってフランスと戦争を繰り返し、だんだんと財政難に陥っていくイギリスの姿であっただろうと思います。 |
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■見えざる手、個人の利己心が社会の繁栄をもたらす | |
このような中で、スミスは二つの書物を著しました。一つが『道徳感情論』、1759年英仏七年戦争中に書かれた本です。もう一つが1776年の有名な『国富論』、これはアメリカ独立宣言の年、アメリカ独立戦争が起こった翌年に出版されております。『道徳感情論』は倫理学の本であり、『国富論』は経済学の本だと言われております。これら二つの著作によって、スミスは当時としても大変有名になりました。しかしながら、後世までスミスの名前を残すことに貢献したのは、何と言っても『国富論』の方であっただろうと思います。
『国富論』の中で最も有名な言葉は何ですかと聞くと、大抵の人は「分業」または「見えざる手」と答えるのではないかと思います。皆さんも、「見えざる手」という言葉をどこかで聞いたことがあると思います。しかしながら、実は、スミスがこの「見えざる手」という言葉を『国富論』の中で使ったのは、たった1回です。それは、労働者を雇うための資本を持っている資本家が、どの産業、あるいはどの事業に自分の資本を投資するかを考えている場面に出てきます。これは有名な箇所ですので、次に掲げます。 「どの個人も、できるだけ自分の資本を国内の労働を支えることに努め、その生産物が最大の価値を持つように労働を方向づけることにも努めるのであるから、必然的に社会の年間の収入をできるだけ大きくしようと努めることになる。確かに個人は、一般に公共の利益を推進しようと意図してもいないし、どれほど推進しているかを知っているわけでもない。(中略)個人はこの場合にも、他の多くの場合と同様に、見えざる手・・・・・に導かれて、自分の意図の中には全くなかった目的を推進するのである。それが個人の意図にまったくなかったということは必ずしも社会にとって悪いわけではない。自分自身の利益を追求することによって、個人はしばしば、社会の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進するのである」(『国富論』第二巻、303−304頁:傍点は引用者による) これが、「見えざる手」という言葉が1回だけ出てくる箇所です。スミスの死後、この「見えざる手」の記述は、スミスについての通俗的なイメージをつくり上げることに貢献しました。その通俗的なイメージとは、次のようなものだと思われます。すなわち、利己心に基づいた個人の利益追求行動が、市場における競争を通じて、社会の繁栄を促進するというものです。そして、競争的な市場における価格調整メカニズムのことを、スミスは「見えざる手」と呼んだのだとされました。スミスの名前を知っておられる方は、このようなイメージをもっておられるのではないかと思います。このようなイメージによって、スミスは人間を利己的な存在であると想定した経済学者として、そして、競争を重視する経済学者として解釈されてきました。 しかしながら、私は、このスミスの通俗的なイメージには二つの問題があると思います。一つ目は、果たしてスミスは、利益追求行動を行う個人は社会から切り離された孤立した存在であると考えていたのかどうか、二つ目は、果たしてスミスは、個人の利己心に基づいた行動が、市場を通じて社会の繁栄を促進すると無条件に考えていたのかどうかです。実は、これらの問題に対しては、スミスが書いたもう一冊の書物『道徳感情論』で展開される彼の人間観を検討することによって、明確な答えが得られるのです。 以下では、このような問題意識に立って、スミスの人間観、特に同感について説明いたします。 |
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■道徳感情論・同感のしくみ | |
『道徳感情論』は次のような文章で始まっております。
「人間がどんなに利己的なものと想定され得るにしても、あきらかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心を持ち、他人の幸福を―それを見る喜びのほかには何も引き出さないにもかかわらず―自分にとって必要なものだと感じるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であり、それは、われわれが他の人々の悲惨な様子を見たり、生々しく心に描いたりしたときに感じる情動である。われわれが、他の人々の悲しみを想像することによって自分も悲しくなることがしばしばあることは明白であり、証明するのに何も例を挙げる必要はないであろう。」(『道徳感情論』上巻、23頁) この文章から明らかなように、スミスは、私たち人間は利己的なところもあるけれども、それだけではない。利害関係がなくても、他人の感情や行為に関心を持ち、それを見て、自分も一緒に喜んだり、悲しんだり、あるいは憤慨したりする、そういう能力を備えているのだと述べています。 このような能力のことを、スミスは「同感」、シンパシーと呼びました。シンパシーというと、日本語では共感の方がふさわしいかもしれませんが、私は同感と言った方がいいかと思います。なぜなら、スミスの言うシンパシーは、他人の感情を自分の心の中に写しとり、それと同じ感情を引き起こそうとする、あるいは引き起こせるかどうかを検討する能力だからです。ですから、以下では、シンパシーのことを同感と訳すことにいたします。 スミスの同感について、例をあげて詳しく説明しましょう。今、ある他人が当事者として、何かの対象に対して感受作用、感情作用、何かの感情を引き起こしている、あるいは何か行為を行っているとします。そして、私は観察者としてそれを見ているとしましょう。例えば、これはいかにも学生用の例ですけれども、ある人が、就職が決まり、就職が決まったということを対象にして、喜ぶという感受作用を起こしている。あるいは喜びのために笑うという行為を行っている。それを私は見ているとしましょう。あるいは、ある人が身内を亡くすという事実を対象に、悲しむという感受作用を引き起こしている。あるいは悲しみのために泣く、涙を流すという行為を行っている。それを私が見ているとしましょう。二人の間には特別な利害関係はないとします。 私はまず利害関係がなくても、笑っている人、泣いている人を見たら、どうしたのだろうと思って関心を示す。そしてその事情を知った後、次に、私もこの対象と同じ関係を結んでみる、つまり、私もその相手と同じ立場に立ってみて、自分の立場を相手の立場と置きかえてみます。私であれば、就職が決まったらどのような気持ちになるだろう、あるいはどのような喜び方をするだろうかと考える。私であれば、身内を失ったらどのような気持ちになるだろうか、どのような悲しみ方をするかということを、想像力を使って考えてみる。そしてその次に、想像された自分の感受作用や行為と、現に相手があらわしている感受作用や行為とを比較して、それが一致するかしないかを検討する。もしも一致するならば、私は、相手があらわしている感受作用や行為を是認し、一致しなければ否認する。私が認めたことがもしも相手に伝われば、相手は自分の感受作用や行為が認められたことに対して、快感を持つ。認めることができた私も快い気持ちになる。もしも私の否認が当事者に伝われば、当事者は不快な思いをし、私も認められなかったことに対して不快感を持つ。 先ほどの例で説明しますと、お葬式などで、身内を亡くした人が悲しんでいる。私もその人の立場に立ってみる。自分も悲しい気持ちになる、同じように泣くだろうと思えば、その相手の感受作用・行為を是認する。そして私も一緒に涙を流すかもしれない。そうすると、私が泣いている姿によって、私の是認が相手に伝わり、悲しみの中にある相手は、悲しみを和らげることができます。私も、悲しみをもつこと自体は、ある意味で苦痛であるわけですが、その人の悲しみを是認できたことに対しては、ある種の快感、満足感を得ることになります。 逆に、就職が決まって大喜びをしている人を見て、私であれば、もう少し周りに気を使ってそんな喜び方はしない、どうも喜び方がみっともないと思われるような場合には、私はその人の喜びを否認します。その否認がもしも相手に伝われば、喜んでいる人は自分の喜びが周りの人に認められなかったことを知って、喜びの中において、水を差されたような気持ちになる。私も他人の喜びを認められなかったことをうれしく思うかというと、決してそうは思わなくて、むしろある種のいら立ちを覚える。以上がスミスのいう同感の基本的な仕組です。 |
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■心の中の公平な観察者 | |
このようにして、他人の感受作用や行為が適切かどうかを判断しながら社会生活を営むうちに、自分がこのようなことをするのであれば、他人も自分があらわしている感受作用や行為に対して、是認・否認をしているに違いないと、私たちは感じるようになります。今度は、自分が当事者になって、他人が観察者になります。他人は恐らく想像力を使い、立場を置きかえて、自分だったらどんな感受作用や行為をするかということを想像して、私が引き起こしている感受作用や行為の適切性を判断し、そこで是認あるいは否認をします。他人の是認・否認は、たまに、私に伝わってくる。私は当然、多くの人から、あるいはすべての人から、自分が起こしている感情や行為を是認されたいと願います。
しかしながら、日常生活、現実の生活においては、実は、多かれ少なかれお互いに利害関係、あるいは、人柄の好き嫌いというものがあって、私たちは、自分の周りのすべての人から、是認を受けることはできません。それは皆様が日頃経験されている通りです。ある人から是認されると、別の人たちからは否認される。ある人たちからは適切だと判断されるけれども、別の人たちからは不適切だと判断される。私たちは、一体、だれの判断を基準に、自分の感受作用や行為が適切かどうかを判断したらいいのかに迷うようになります。 そこで、私たちは、それまでの自分の経験をもとにして、心の中に公平な観察者、つまり何の利害関係も持たない第三者的な観察者を、心の中に形成します。つまりそのコミュニティなり社会で共通の公平な判断基準を持った人を、心の中にもう一人つくるのです。そして、自分が何かの対象に感受作用を起こすか、行為を行ったときに、自分の中にいるもう一人の自分、公平な判断をすると思われるもう一人の自分であれば、その同じ状況でどのような感受作用を起こすか、どんな行為を行うかを想像してみるのです。判断が一致していれば、心の中の観察者は、自分の今の感受作用や行為を是認していることになるし、そうでなければ否認していることになります。是認されれば快いし、否認されれば不快です。自分としては何とか今の自分の感受作用や行為に納得しようとするのです。もう一人の自分、胸中の公平な観察者に是認されれば、私たちは安心しますが、否認されれば、何か気持ちが落ちつきません。 このように、私たちには、一方で、自分に対する他人の評価、すなわち生きた観察者の評価が実際の声として聞こえてくる。他方で、私たちは、自分の心の中にいる公平な観察者、胸中の公平な観察者の是認・否認という、内なる声にもさらされます。 注意すべき点は、胸中の公平な観察者は最初からいるのではなくて、他人との交際を通じて、経験的に形成されるものなのですが、形成された後は、世間の評価とは異なった評価を与えることもあるという点です。これらの評価は、もちろん一致するときもあるが、違うときもある。なぜ違うときもあるのかというと、世間や生きた観察者は外から私を見ている。外から見ているので、実は私がどうしてそのような感受作用を引き起こしているのか、どうしてそのような行為に至ったのかという動機やプロセスを正確に知ることはできない。したがって、どちらかと言えば、目に見える結果の影響を受けて、私の感受作用や行為に対する是認・否認をする傾向がある。ところが、胸中の公平な観察者は、実は私自身なので、私がどうしてそのような感受作用を起こしているのか、どうしてそういう行為を行っているのかという動機やプロセスを他人よりはよく知っている。だから、判断のための情報量がより多く、結果に余り左右されず、動機やプロセスを考慮して判断することが出来るからです。 スミスは、世間の評価を常に気にする人のことを弱い人、ウィークマンと呼んでいました。そして、世間の声よりも胸中の公平な観察者の声を重視する人のことを賢人、ワイズマンといいました。実際は、私たちには弱いところと賢いところの両方があるわけで、二つの評価にさらされながら、時には内なる声に立ち返り、時にはそれを無視して、世間の声を重視してしまう、私たちはそういう矛盾した存在であるとスミスはとらえていたと思います。賢明さと弱さを両方備えている、それが現実の人間なのです。 |
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■毎日のニュースをどう見るか、生身の私と公平な観察者 | |
さて、私たちが、胸中の公平な観察者を形成する前と後とでは、他人の行為に対する判断の仕方は変わります。胸中の公平な観察者が形成されていないときには、私たちは生身の自分を他人の立場に置きかえて、自分であったらどのような感受作用や行為を起こすかを考えるわけですけれども、成長して、胸中の公平な観察者を形成した後には、生身の自分ではなくて、胸中の公平な観察者であれば、同じ状況の中でどのような感受作用や行為を引き起こすだろうかということを想像して一致性を検討し、是認・否認するということになるのです。私たちは毎日、ニュースで詐欺・窃盗・傷害・殺人などさまざまな犯罪のニュースを見たり、聞いたりします。それを見たときに、私たちは、皆さんがそう思われるかどうかわかりませんが、自分もひょっとしたら、何か魔がさして同じことを行うかもしれない、こういう恐れを私たちは心のどこかに持っています。しかしながら、それは生身の自分、いろいろな思いを持っている自分であれば、同じことを起こすかもしれないでしょうが、自分の中の極めて公平な部分、胸中の公平な観察者であれば、そのような行為は行わないということを知っています。ですから、私たちは、犯罪を見聞きしたときに、それらが不適切であると否認をするわけです。したがって、私たちは成熟すると、いわば、自分のことは部分的に棚に上げて、他人の行為を評価するようになると、スミスは考えます。
行為の対象が人間になった場合には、問題はもう少し複雑です。今、ある人が別の人、他人に対して何らかの行為(A)を行っているとします。この行為が、行為を受ける人にとって有益であれば、行為を受ける人は感謝という感情を行為者に向けます。その行為(A)が有害であれば、憤慨、怒るという感情が行為者に起きます。私はそれを観察する立場にあるとしましょう。 こういった行為(A)を私はどのように評価するでしょうか。スミスは、ツーステップの評価をすると言っています。まず私は、自分といいますか、正確には私の中にある胸中の公平な観察者が、行為者の立場に立って、同じ状況にあったらそのような行為をするかどうかを検討します。その行為を(A´)としましょう。そして、(A)と(A´)を比較することによって、その行為が適切性を持つかどうか、すなわち動機において適切かどうかを判断します。これが第1ステップです。第2ステップでは、今度は行為を受ける側に立って、そのような行為を受けた場合、自然にわいてくる感情は何かということを想像します。この感情を(B´)とします。それは、感謝であったり、憤慨であったりするわけです。これらを組み合わせて、最終的に、この行為(A)に対してある判断を下すことになります。どのようにして最終判断を下すかというと、(A)と(A´)が一致し、要するに、胸中の公平な観察者であっても、同じような行為をするだろうということがわかって、かつ(B´)、すなわち、そのような行為を受けた場合の感情が感謝である場合には、行為(A)は報償に値する、あるいは、称賛に値する行為だと私たちは判断します。そうではなくて、(A)と(A´)が一致しなくて、つまり胸中の公平な観察者であれば、そのような行為は行わないだろうということが分って、かつ(B´)、すなわち、そのような行為を受けた場合に、自然にわいてくる感情というのが憤慨だとわかる場合、その行為(A)は処罰に値する、あるいは非難に値する行為だと判断するわけです。 例えば、経済的に困っている人を友人が助けるという行為をしたとします。私はそれを見ているとしましょう。私は、私の中の公平な観察者であれば、そのような経済的に困っている友人を見たときに同じような行為をするかどうかを想像してみる。いろいろ事情によって判断は違うとは思いますが、一般的には恐らく同じような行為をするだろう、あるいは、しようとするだろうと判断します。そして、今度は行為を受ける側の立場に立って、自分が非常に困っているときに、友人が経済的に助けてくれたならば、自然にわいてくる感情は何かというと、感謝でしょう。したがって、(A)と(A´)が一致し、なおかつ(B´)が感謝であるので、この経済的に困っている友人を助けるという行為は報償に値する、あるいは称賛に値する行為だと私たちは判断します。もちろん、二人の関係が過去どういうものであったかとか、それぞれの経済状況がどれほどのものなのかというようなことが考慮されると、この判断は修正されるかもしれませんが、基本的にこれは何か褒められるべき行為だと私たちは判断するのです。 二つ目の例、こちらの方が大事なのですが、金品を奪うために他人を殺害する行為を考えてみます。行為者は、この人からお金を取るために殺す。それを私が見る。私は、どう判断するかというと、まず、私の中の公平な観察者が同じような行為をするかというと、大抵の場合それはしない。先ほど言いましたように、生身の私なら、何かの拍子でするかもしれないけれども、私の中の公平な観察者であればそのようなことはしない。したがって、動機に適切性がないと私たちは判断します。次に、行為を受ける側に立って、私が何か物をとられるために、殺されるという場合は、殺されてしまったら実は感情は起きないわけですが、想像の中で、どんな感情が起こってくるかというと、当然憤慨です。自分が侮辱されたと感じて憤慨する筈です。したがって、(A)と(A´)が一致しなくて、なおかつ、自然にわいてくる感情が憤慨であるので、金品を取るために他人を殺害する行為は、処罰に値する行為、非難に値する行為だと私たちは判断するわけです。 スミスはこのような議論をもとにして、刑法の基礎は感情であると考えました。何故、あらゆる社会に歴史上、刑法があるのかというと、今の例を使って言えば、人々が金品を奪うために他人を殺害した行為者に対して、行為を受けた人にかわって憤慨を引き起こす。行為を受けて死んでしまった人は何もできないわけですから、この人にかわって、この人の憤慨は晴らされなければならないと感じるのです。要するに、復讐されなければならないという感情が、あらゆる社会が刑法を作った動機であり、根本原理なのだというわけです。決して、刑法があると、犯罪が少なくなって、人々が平和に暮らせるからという、合理的理由にもとづいて刑法が作られたのではなく、そういった有害な行為を受けた人の憤慨に同感し、それを晴らしたいという感情的な理由から、刑法が古代から作られてきたというわけです。スミスにとっては、法は復讐の感情から始まるということが、人間の本性を考えれば当然のことでした。 さて、立場を置きかえて、私が行為者である場合には、私は胸中の公平な観察者から処罰に値すると思われたくない、あるいは、報償に値する行為をしたと思われたいと考えるでしょう。このことから、大抵の人は次のような一般的諸規則を自身の中につくるとスミスは考えます。 どういう規則かというと、(1)胸中の公平な観察者が、処罰(または非難)に値すると判断するすべての行為は回避されなければならない、(2)胸中の公平な観察者が、報償(または称賛)に値すると判断するすべての行為をするためのあらゆる機会が求められなければならないということです。スミスは、一般的諸規則の(1)が正義にかなった行為を私たちに勧め、一般的諸規則の(2)が慈恵的な行為を私たちに勧めると考えました。正義とは、他人の生命・身体・財産・名誉を傷つけないことであり、慈恵とは、他人の利益を進んで促進することです。もしも、私たち一人一人がこれらの一般的諸規則を守るならば、それによって秩序だった心地よい社会が形成されるでしょう。特に、人類は、正義の一般的諸規則については、法という強制力を伴った形でこれを制度化し、その結果、どの社会も完全ではないにしろ、秩序を形成することが歴史上できてきたとスミスは考えます。 以上ちょっと難しい議論だったかもしれませんが、要するに『道徳感情論』は、他人に関心を持つという想定から出発して、いかにして法がつくられ、人々がそれを守り、社会秩序が保たれるかということを説明しているのです。 |
■繁栄は何によってもたらされるか、野心について | |
次に、社会の繁栄について、つまり、経済の発展について考えてみたいと思います。
スミスは、私たちは他人に関心を持つし、同感しようとするのだけれども、他人の悲哀に対してよりも歓喜に対して、すなわち、悲しみよりも喜びに対して同感しやすいと考えます。つまり、嫉妬がない場合には、他人の喜びには進んで同感したいと思うけれども、悲しみにはできるだけ同感したくないと思うというわけです。どうでしょうか。これを大学で学生に聞くと、「いや、先生、それは違います」、「私は他人の喜びを見ると余り気持ちがよくない」、「同じ同級生が、就職が決まったりすると悔しい」、「何か、他人が失敗したり悲しんだりすると、かわいそうにも思うけれど、心のどこかで喜んでいるところもあるんですよ」などと正直に言う人がいるわけですが、そういうときに私は次のように聞き返します。「じゃ、皆さんは結婚式とお葬式とどっちに行きたいですか」と。結婚式では新郎新婦が互いに愛を誓い合い、両親や世話になった人に感謝の言葉を述べ、そして周りの人が祝福の言葉を述べる、そういう人びとの喜びを見ることが予想されます。このとき、私たちの気持や足取りも軽くなるでしょう。他方、お葬式はどうかというと、もちろん自分の大切な人が亡くなったときには、本当に駆けつけたいと思うけれども、一般的には、お葬式で見るものは他人の悲しみであり、涙であり、無念です。私たちは、そういうものを進んで見たいとは思わないので、結婚式のときに比べれば、気持ちは非常に重く沈んだ心持ちで行かなければならないでしょう。 したがって、私たちはやはり、いろいろな利害関係の中で嫉妬も起こるでしょうけれども、一般的に、他人の喜ぶところを見たいのであって、悲しむところはできれば見たくないといってよいと思います。ここが非常に大事なところです。なぜなら、その結果、私たちは他人の喜びの原因になるものに好感を持つようになるからです。つまり、美しいもの、豪華なもの、富んだもの、地位の高いものには自然と好感を持つようになる。反対に、悲しみの原因になるもの、醜いもの、貧しいもの、地位の低いものには何となく嫌悪感を持つようになるのです。自分が他人から好感や嫌悪感を受ける側に立ってみるならば、他人から好感を得ようと思えばどうしたらいいかというと、より美しいものを身にまとい、より豪華な家に住み、より高尚な趣味を持つ必要がある、このように私たちは考えるようになります。 スミスは、ここに、私たちの財産形成の野心の起源があるというのです。私たちは、日常生活にとって必要なものがすべてそろったとしても、何故、財産をさらに大きくしようとするのか、なぜ自分の富を大きくしようとするのかというと、それは野心によるものです。他人からの好感を得続けよう、他人からの同感を得続けようとする、そういう野心を私たちは持っているのです。これを虚栄心と呼んでもいいかもしれません。野心とか虚栄心というと、何か悪いもののように考えられるかもしれませんが、スミスは、必ずしも野心や虚栄心を悪いものだとは考えておりません。むしろ、個人が勤勉に働き、技能を磨き、収入として得たお金を節約するためには、ある程度の野心、あるいは虚栄心がなくてはならないと考えています。ここが大事なところです。人類全体として見ても、人類が未開の状態から出発して、今日のような文明化された繁栄した社会を築いてきた背後には、多かれ少なかれ、人間の中に野心や虚栄心があったからだとスミスは述べています。 諸個人が財産形成の野心に基づいて利益追求行動を行えば、必然的に競争が生まれます。資源は限られているので、財産形成の野心が無限に起これば、当然競争というものが起こるでしょう。スミスはここでも競争を否定しませんが、次のような非常に重要な留保条件をつけています。 「富と名誉と出世を目指す競争において、彼はすべての競争者を追い抜くために、できるかぎり力走していいし、あらゆる神経、あらゆる筋肉を緊張させていい。しかし、彼がもし、彼らのうちのだれかをおしのけるか、投げ倒すか、するならば、観察者たちの寛容は完全に終了する。それは、フェア・プレイの侵犯であって、観察者たちが許しえないことなのである。」(『道徳感情論』上巻、217−218頁) これは1759年に書かれた言葉です。もうこの時代にフェア・プレイという言葉をスミスは使っていたのです。スミスが競争に対して設けた条件は、フェア・プレイの条件です。フェア・プレイとは、今までの説明から明らかなように、公平な観察者が認めない行為を控えることです。つまり、競争する人が先ほど示した一般的諸規則、特に正義の規則を守らなくてはならないということです。 重要なのは、実際に、存在する法律やルールを守ってさえいればフェア・プレイなのかというと、そうではないということです。まだルールになっていなくても、法律化されていなくても、その社会である程度成立している公平な観察者の基準に見合わないもの、公平な観察者であれば是認しないような行為は慎まなければならないということです。 こうして、利益追求行動が正義感覚によって制御されて、はじめて社会の繁栄が実現するとスミスは考えました。 このように社会の秩序も、そして社会の繁栄も、他人に関心を持つという人間の本性、つまり社会的存在としての人間の性質が出発点にあると言えます。 以上が、簡単ではありますが、『道徳感情論』で示されたスミスの人間観と社会観です。 |
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■見えざる手、スミスの考える市場 | |
さて、ここでもう一度、『国富論』の中で述べられた、「見えざる手」について考えてみましょう。スミスは、確かに、個人が自分の利益を求めて経済活動を行うことは、結果として社会の繁栄を促進すると述べました。
しかし、今やこの議論の背後には、重要な留保条件があることがわかります。まず、利益追求行動を行う個人は、決して孤立した個人ではなく、社会的個人だということです。つまり、個人が利益を追求することの背後には、他人からの称賛や同感を求めるという社会的存在としての動機があるということです。 もう一つの留保条件、より重要な留保条件ですが、それは、市場が機能するためには、個人の利己心が正義感覚によって制御されなければならないという条件です。正義感覚も、人間が社会的存在であることから導かれます。個人の利己心が正義感覚による制御を受けることによって、はじめて、市場における「見えざる手」が機能し、社会の繁栄をもたらすことができるのです。この場合、市場は、もちろん競争も起こるのですが、その本来の機能、つまり、見知らぬ人同士が必要なものを交換して助け合う互恵の機能を果たすでしょう。スミスにとって市場は本来、互恵の場であって、決して競争する場ではありませんでした。市場はアリーナやリングのように、そこで勝つことを目的にした場ではないのです。相手が必要としている物、こちらが必要としている物を、相手の感情に同感しながら正直に物を交換するという、それだけの場なのです。非常にシンプルなものですが、これが本来の市場の目的なのです。正義感覚があれば、互恵の場としての市場が十分機能し、その結果、お互いが自分ではつくれないものを他人から調達して、よりよい状態を実現することができるということになります。 正義感覚と利己心のバランスが崩れることは往々にして起こります。私たちの中には弱さと賢明さの両方があって、そのバランスが崩れれば、市場は不正と独占をもたらし、社会の繁栄を妨げるだけでなく、社会秩序も乱しかねないとスミスは考えました。後で述べるように、ヨーロッパ諸国が重商主義を採っていたスミスの時代はそのバランスが失われていた時代でした。 |
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■スミスの考える幸福 | |
さて、次に、経済成長についてお話しすることにしましょう。個人の利益追求行動は市場を形成するだけではありません。資本蓄積を促し、経済成長を実現します。
では、スミスは、経済成長の真の目的はどこにあると考えていたでしょうか。このことを明らかにするため、スミスの「幸福論」をまず検討しておきたいと思います。スミスが幸福の意味をどのようにとらえていたかを検討しておきたいと思うのです。 スミスは道徳感情論、上巻、432頁で、幸福をはっきりと次のように定義しております。「幸福は、平静と享楽にある。平静なしには享楽はあり得ないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。」このように、スミスは、幸福は心の平静にあると考えていたのです。 では、心の平静を保つためには何が必要であるとスミスは考えていたでしょうか。道徳感情論、上巻、116頁に次のように書かれています。 「健康で負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何をつけ加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の追加はすべて余計なものだというべきだろう。そして、もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮き立っているとすれば、それは最もつまらぬ軽はずみの結果であるに違いない。」 このように、スミスは、人が心の平静を保つためには、健康で負債がなく、良心にやましいところがない状態であればいい、ただ、その状態を実現するための富は必要だと考えていました。私はこれを「最低水準の富」と呼んでおりますが、最低水準の富は必要であり、また、それさえあれば十分であるとスミスは考えていたのです。 一方、スミスは、最低水準の富さえ持つことができない人々、すなわち貧困の状態にある人々は、大変悲惨な状態にあると考えていました。なぜ、貧困の状態にあるのが悲惨なのか。それは、もちろん、不便な生活を送らなければならないからです。しかし、それだけではありません。貧困の状態にある人の持つ本当の苦しみとは何かについて、スミスは次のように述べています。 「貧乏な人は、(中略)彼の貧困を恥じる。彼は、それが自分を人類の視野の外に置くこと、あるいは、他の人々がいくらか彼に注意したとしても、自分が耐え忍んでいる悲惨と困苦について、彼らが、幾らかでも同胞感情を持つことはめったにないということを知っている。彼は、貧困と無視という、双方の理由で無念に思う。無視されることと、否認されることは、全く別のものごとなのではあるが、それでもなお、無名であることが名誉と明確な是認という日の光を遮るように、自分が少しも注意を払われていないと感じることは、必然的に人間本性の最も快適な希望をくじき、最も熱心な意欲を喪失させる。」(『道徳感情論』、上巻、130頁) このように、貧困の状態にある人の本当の苦しみは、自分の苦しみを他人に同感してもらえないことなのです。私たちは悲惨なものを見たいとは思わない。他人の悲しみを、大きな悲しみであればあるほど、それを本当に見たいとは思わない。だから、なるべく見ないようにする。ということは、貧困の状態にある人は、私は他人の目に映らない方がいい存在、いない方がいい存在だと自分で思い込むことになり、そのことが一番悲惨なのだと、スミスは考えます。 このような幸福に関するスミスの議論を、横軸に富を、縦軸に幸福の度合いをとって図に描いてみます。胸中の公平な観察者の判断、是認・否認を重視する賢人の場合は、最低水準の富、つまりその社会において健康で、負債がなく、良心にやましいところがない状態で生活できる富の水準に到るまでは幸福の度合いは非常に低く、富が最低水準値をこえたところで幸福の度合いは縦軸に平行な直線関係で急上昇し、その後は、富の増大は賢人の幸福をそれほど高めることはない、すなわち、幸福と富の関係は横軸にほぼ平行な直線になるはずです(下図の線分ABCD)。 弱い人は、世間の評価、実際に聞こえてくる声を重視するので、賢人と違って、最低水準の富を超えた後も、富が増大すればするほど自分はさらに幸福になれるだろうと考えるのです(線分ABCE)。このように、最低水準の富の水準を超えた後で、賢人と弱い人では、想定する富の増加と幸福の増加の関係が違っています。 賢人と弱い人に共通しているところは、その富の水準が最低水準に達していない場合の、富と幸福の関係で、賢人も弱い人も同様に、富の大小にかかわらず幸福の度合いが非常に低いという点です。 |
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■スミスの賢人とストア派の賢人 | |
スミスが影響を受けたストア派という古代ギリシャの哲学においては、賢人は、あらゆる場合に、富の量が変わっても幸福の度合いは変わらないと予想します。ストア派では、富が全くないゼロの状態で、もう今日か明日死んでしまうような状態であっても、あるいは最高の富がある王様のような状態であっても、自分の幸福、自分の心の内は全く変わらないと考えるのです。全く富がなくても、使い切れないほどの富があっても、どちらも運命として受け入れて、全く動じない人、これがストア派の想定する賢人なのです。スミスは、富はやはり、ある程度ないとだめで、ある程度以下になると幸福感が急激に下がってしまうと考えました。けれども、ある程度以上の富があれば、それ以上の富の増加は大した意味はないと考える人が賢人で、富はあればあるほどいいと考える人は、世間の声と評価というものを気にする弱い人だと考えています。
この幸福を保つための最低水準の富は、その社会で人間らしく生きていくことができる富で、それを得るためには、何かの仕事を持って、最低限の収入、賃金を得て暮らしていなければならないとスミスは考えました。そうした仕事を持たないで、最低水準を下回る富しか得られない人、失業者・浮浪者として暮らさなければならない人たちは、他人の施しによって生きていくか、あるいは犯罪によって身を立てていかなければならないことになります(線分ABの状態)。 |
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■貧困は偶然か必然か | |
個人が貧困を避けることができるかどうかは、偶然によるところが大きいとスミスは考えます。もちろん、勤勉や節約など個人の努力にも依存するわけですが、ある人が貧困な状態にあるか、そうでないのか、その人の富が最低水準より多いか少ないかというのは、偶然によると考えるのです。どんな家庭に生まれたのか、裕福な家庭に生まれたのか、それとも貧乏な家庭に生まれたのか、どんな能力を持って生まれてきたのか、健康で生まれてきたのか、あるいは、何か大きな障害を持って生まれてきたのか、こうした個人にとっては偶然の出来事によって、その人の富が最低水準より多いか少ないかが大きな影響を受けてしまう。
個人にとっての偶然の出来事の中には、彼が、あるいは彼女が所属する社会の経済が、全体として発展しているのか、あるいは全体として衰退しているのかということも、個人の力によっては何ともしがたい偶然の出来事でしかありません。経済が発展している社会、あるいは発展している時代には、雇用も増大し、恐らく多くの人々が最低水準以上の富を手にすることができるでしょう。反対に、今のように経済が衰退している時代や社会では、失業がふえ、最低水準の富を手にできない人の数がふえるでしょう。このように、経済の発展は、貧困の状態(線分ABの状態)にある人々の数を減らすという重要な意味を持っているわけであり、実は、これこそが、スミスが考える経済成長の真の目的なのです。 |
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■地主・資本家・労働者そしてブリティッシュ・ドリーム | |
では、スミスは、当時の社会において経済成長はどのような人々によって担われ、実現できると考えていたのでしょうか。18世紀的の階級社会は、地主・資本家・労働者の三つの階級によって構成されていました。地主は上流階級で大きな富と高い地位を持つとともに、政治的な支配階級であって、社会のほかの階級にとってのあこがれの的でありました。資本家階級は、中流階級であり、地主に比べて富は大きくはなく、社会的地位も高くありませんが、資本を所有し、社会の生産を組織する役割を持っています。資本家は地主から土地を借りて地代を払い、労働者からは労働サービスの提供を受けて、賃金を払います。資本家自身は資本を持っていて、利潤という収入を得ます。資本家は野心を持っています。それは、自分の資本を有効に活用し、利潤をさらに蓄積することによって、より大きな財産を形成し、いつかは上流階級、すなわち地主階級の仲間入りをしようという野心です。実際、18世紀当時のイギリスの事業家は、成功すると、郊外に移って大地主になる。ジェントルマンになるというのが、ブリティッシュ・ドリームであったわけです。
労働階級は、就業者と失業者ないしは浮浪者に分かれます。就業者はなすべき仕事を持ち、少なくとも最低水準の収入を得て、人並みの生活をすることができる人々です。一方、失業者や浮浪者はなすべき仕事がなく、最低水準の収入すら得られない人々であり、他人からの施し、または犯罪によって生計を立てていかなければならない人々です。そして、その労働者階級のうち、どれだけの割合を就業者にすることができるかは、専ら資本家による資本蓄積にかかっているとスミスは考えました。 先ほどお話した富と幸福の関係で考えますと、失業者・浮浪者の富は最低水準の値に到達していなくて、幸福の度合いは非常に低い状態です。一方、労働者のうち、最下層の業務の就業者は、何とか最低水準の富を獲得して平静な生活を送ることができる状態です。資本家は野心を持っていて、富はあればあるほど幸福の度合いが上がると考え、世間の声と評価とを気にする弱い人ということになります。 |
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■格差と再配分政策と職業 | |
資本家は、いつかは地主になるという野望を持っていて資本を蓄積します。資本家が資本を蓄積し、事業を拡大することによって、経済は成長し、労働に対する需要が増えます。その結果、下層階級の中の失業者・浮浪者の一部が雇用され、彼らの富は増大して最低水準を超え、幸福の度合いが上がります。社会の幸福を最大にするという点では、最低水準以上の富の格差はそれほど大きな問題ではなく、貧困の人々の数をいかに少なくするかがの方が大事です。問題は、格差一般ではなくて、貧困なのです。最低水準の富を得ることの出来ない状態にある人の数をどれだけ少なくするかということが問題だと言えます。しかも、貧困の状態にある人びとは、世間の軽べつと無視からも救われなければなりません。彼らが最低水準の富を手にしさえすれば問題が解決するというのであれば、再分配政策をすればすみます。すなわち、富んだ人に課税をして、貧しい人に給付すれば、貧しい人は何とか生活できるようになるわけです。
しかし、スミスは、貧しい人びとは、富とともに独立心ないしは自尊心も回復しなければならないと考えました。そのために、彼らに与えられるべきものは、施しではなくて仕事だとスミスは言います。そして、それを継続的に達成することができるのは、政府ではなくて資本家であると彼は考えます。資本家はいわば、「見えざる手」に導かれて経済成長の真の目的を果たすのだというわけです。 このように、スミスの目は、主として下層階級、特に失業者・浮浪者の境遇改善に向けられていたと言えます。スミスはこのような視点に立った資本蓄積、あるいは経済成長が必要だと考えたのであり、それらの妨げになるものはすべて社会的害悪だと考えました。そして、そのような害悪の中で、個人と政府の浪費、特に政府の浪費が資本蓄積を妨げる要因になると言っています。 |
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■スミスの規制緩和論と重商主義批判 | |
スミスは市場の取引規制も資本蓄積の妨げになると考えます。なぜなら、規制は資本の効率的な運用を妨げ、利潤率を全般的に引き下げるからです。国内取引に対して課せられる規制と同様、外国との取引、すなわち貿易に課せられる規制も有害です。
しかしながら、当時のヨーロッパ諸国では、貿易を中心にさまざまな規制が設けられていました。15世紀の大航海時代以来、ヨーロッパ各国の政府は、貿易こそが国家存続のかなめであると考え、貿易の決済手段である金や銀を確保しようとしました。ヨーロッパ諸国は、最初アメリカ大陸に金鉱山を求めて植民地を建設したのですが、発掘に値する金鉱山がないことがわかると、今度は植民地貿易を独占するとともに、関税・奨励金などの貿易黒字を人為的につくり出す政策を進め、その結果として金の保有量を増大させようとしました。金を掘って、とってくることができないのであれば、ヨーロッパにある金をひとり占めしようという政策です。つまり、植民地からの安い原材料を自分の国だけが輸入して安い製品をつくり、それを他のヨーロッパ諸国に売って、貿易黒字をふやそうというわけです。 スミスは、このような、独占と規制を用いて金の保有量を増大し、それによって国力を高めようとする政策を重商主義と呼びました。スミスによれば、重商主義政策は実際には、一部の特権商人や大製造業者の利益を守るだけで、国民全体の生活にとっては不利なものです。各国は、外国から安い製品が入ってこないように高い関税を設けます。そのため、各国の国民は高い関税がかかった外国製品、あるいは関税によって保護された高い自国製品を買わされることになるわけです。そのうえ、敵対的な高関税はヨーロッパ諸国の関係を悪化させ、さらに植民地の獲得をめぐって戦争が起きます。実際、イギリスはフランスと戦争を繰り返していました。植民地の獲得と防衛のために莫大な軍事費がかかります。それを国債で賄ったとしても、いずれは税金によって支払わなければなりませんし、国債の利払いは税金によって払わなければなりません。 植民地が防衛費の負担をしない場合は、本国国民が負担することになります。したがって、国民は高い製品を買わされるだけでなく、重い税金を払わされることにもなるわけです。むしろ、高い製品を買うために、重い税金を払うことになるといった方がいいかもしれません。 重商主義政策は、このように、一部の特権商人や大製造業者の利益にはなったとしても、あるいは、植民地を持っているという威信が、政府の虚栄心を満たすことになったとしても、国民全体の真の利益にはなりません。それは、効率的でも公平でもない経済体制だといえます。このような理由で、スミスは重商主義政策に強く反対し、規制は撤廃されるべきだと強く訴えました。スミスが規制緩和論者だとされるのはこのような理由によるものです。 しかしながら、実際には、スミスは、規制の緩和は、緩和によって損害をこうむる人々の感情も考慮して、ゆっくりと時間をかけて慎重に進めなければならないと考えました。なぜなら、社会秩序というのは、人々の感情をベースにしてつくられているからです。 したがって、スミスにとって、規制をどの順序で廃止していくかは、今すぐに決めるべきことではありませんでした。スミスは、穏健で現実的な規制緩和論者であったのです。 |
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■植民地の統合か分離か、国富論の結論 | |
1770年当時、イギリスには、正しい判断を、すぐに行わなければならない問題がありました。それは、アメリカ植民地の反乱という問題です。『国富論』において、スミスは、アメリカ植民地問題に対する二つの対応策を示しました。第1の案は、アメリカ植民地を1707年のスコットランドのように、イギリス帝国の中に正式に統合するというものでした。この統合案では、貿易は、一部の特権商人や大製造業者によって独占されるのではなく、すべての諸国民に解放されます。すなわち、規制がとり払われて自由に貿易ができるようになります。また、植民地は防衛サービスを提供する本国に対して、これまでは、税金を払ってなかったわけですが、スミスの統合案では、防衛に見合う税金を払うことになっています。
スミスは、植民地貿易の自由化は、一気に行われるべきではなく、徐々に行われるべきものだと考えていたわけですから、当面は植民地貿易にかかわる諸規制をある程度は残しながら、植民地に対して、本国国民に課しているのと同じ税を課すことを提案したといえます。 スミスは、イギリス政府が植民地に税金の支払いを求めたことに関しては、それは妥当である、当然であるという判断を下しています。スミスにとって、イギリスの税制度を植民地に拡大することは、制度的に可能でありましたし、また正当なことでありました。ただし、課税の正当性は、各植民地が納税額に比例した数の代表者、すなわち議員をイギリス議会に送ることが条件でした。これは、イギリスの国体の問題であって、議会は納税者の代表機関ですから、王が税を課すことに対しては、納税者の代表がそれを承認しなければならない。税を課すのであれば、アメリカから納税額に見合う比率の代表議員が出ていって、どこにどれだけの税金をかけるかということを決めるべきです。ベンジャミン・フランクリンが言った、「代表なくして課税なし」というのも当然なのです。防衛をするのだから税を払えというのも、妥当、正当であるけれども、税金を払うのであれば、代表を送らせてくれというのも、イギリスの国体上、正当なことなのです。 しかしながら、この条件には、イギリス本国にとって受け入れがたい困難が含まれていました。スミスは、アメリカ植民地が広大な土地と豊富な天然資源を背景に、将来、急速な経済発展を遂げるだろうと予想していました。そうなると、アメリカの納税額がふえて、それに比例してイギリス議会におけるアメリカ代表者の議席の数、あるいは割合もふえることになります。将来、アメリカの納税額がイギリスの納税額を上回れば、イギリス議会の主導権はアメリカ選出の議員たちに握られ、その結果、イギリス帝国の首都が、ロンドンからアメリカの政治的中心地、多分フィラデルフィアに移ることが予想されたのです。そうなれば、イギリスが「大英帝国(ブリティッシュエンパイア)」という名称を使い続けたとしても、実質は「アメリカ帝国(アメリカンエンパイア)」となって、イギリスがアメリカ帝国の一属州になる日が来るだろうと、スミスは述べております。 イギリス政府や国民はこのような結末を招くような統合を受け入れることは恐らくできないだろうとスミスは考えました。したがって、おそらく政府の指導者にとって、とるべき戦略は、武力によって植民地を制圧し、代表権を与えることなく、植民地に課税することになるでしょう。そうなると、植民地側の指導者に残された選択は徹底抗戦しかないでしょう。スミスは、アメリカ植民地とイギリス本国との関係は、もはや修復不可能なところまで来ていることを直観的に洞察していました。 スミスが示したもう一つの案は、分離案と呼ぶべきもので、イギリスが、アメリカ植民地を自発的に分離し、独立国として承認することでした。統合案では、植民地は本国政府に防衛を委託し、それに見合った税を納めることが示されたのに対し、分離案では、植民地は独立国となり、自国政府によって防衛を行うことが示されました。統合案が植民地の人々を本国国民と同等に扱うことを意味したのに対して、分離案では、植民地の人々を諸外国の人々と同等に扱うことを提案していると言えます。 ただし、スミスによれば、独立した植民地と本国との間には、自由貿易に関する通商条約とともに、安全保障条約が結ばれ、集団的自衛体制がとられることになっていました。要するに、植民地は本国の同盟国になるわけです。 また、統合案においては、植民地貿易にかかわる諸規制と諸権益は、当分の間は残されるかもしれないのに対し、分離案では別の国になるわけですから、両国の間にあった権益は、アメリカが独立したその日から消えることになります。このことは、植民地貿易に従事する特権商人や大製造業者には受け入れがたいことでしょう。また、政治家や国民にとっても、今まで維持してきた植民地を手放すことは大変不名誉なことでしょう。 このように、統合案も分離案も、理論的には実行は可能でしたが、現実的にはどちらも大きな困難を伴うものでした。 では、スミスは最終的にイギリス政府に対して、どちらの案を提案したのでしょうか。スミスは次の文章で、『国富論』を締めくくっております。 「ブリテンの支配者たちは、過去一世紀以上の間、大西洋の西側に大きな帝国を持っているという想像で国民を楽しませてきた。しかしながら、この帝国は、これまで想像の中にしか存在しなかった。これまでのところ、それは帝国ではなく、帝国に関する計画であり、金鉱山ではなく、金鉱山に関する計画であった。それは、何の利益ももたらさないのに巨大な経費がかかってきたし、現在かかり続けている。また、今までどおりのやり方で追求されるならば、これからもかかりそうな計画である。なぜなら、すでに示したように、植民地貿易の独占の結果は、国民の大多数にとって、利益ではなく、単なる損失だからである。今こそ、我々の支配者たちが―そして、恐らく国民も―ふけってきた、この黄金の夢を実現するか、さもなければ、その夢から目覚め、また国民を目覚めさせるよう努めるべきときである。もしこの計画を実現できないのであれば、計画を断念すべきである。もし帝国のどの植民地も帝国全体の財政を支えることに貢献させられないのであれば、今こそ、グレート・ブリテンが、戦時にそれらの領域を防衛する費用、平時にその民事的・軍事的施設を維持する費用からみずからを解放し、将来の展望と計画を、自分の身の丈に合ったものにするよう努めるべきときである。」(国富論、第四巻、358−359頁) このように、スミスが最終的に支持したのは分離案でした。スミスにとって、植民地貿易の独占によって金の保有量を増加させ、国力を高めようとするイギリスの計画は、幻想でしかありませんでした。その姿は、アメリカ大陸に金鉱山を探し求めた、かつてのポルトガルやスペインの姿と同じでした。スミスは、今こそイギリスはこの黄金の夢から目覚めなければならないと考え、夢の原因となっているアメリカをむしろ自発的に放棄することを『国富論』の結論としたわけです。この結論は、イギリスの政府と国民に対し、弱さにとらわれることをやめ、賢明さに基づいた行動をとるように呼びかけたものだと思います。 |
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■スミスの私たちへのメッセージ | |
最後に、スミスが現代の私たちに与えてくれるメッセージは何かということについて、お話ししましょう。それは4つあると思います。
第1に、スミスは、私たち人間を、社会的存在としてとらえることの重要さを教えてくれているように思います。今日お話ししましたように、人間が正義感を持つのも、利益を追求するのも、他人に関心を持ち、他人の同感を求め、そして反感を避けようとするからだといえます。社会秩序が形成されるのも、社会が繁栄するのも、すべては人間の中にある同感のおかげです。一方、利益の追求が行き過ぎて、独占をもたらしたり、場合によっては秩序を乱したりするのも、人間が他人の目を意識する社会的存在であるからです。いずれにしても、スミスの人間観に従えば、個人を社会から切り離された存在と想定し、その想定から経済や社会を分析するのは誤りだということになります。 第2番目として、スミスは、私たちに富の役割を教えてくれているように思います。富の役割は当然、私たちの生存を確かなものにすることであり、私たちの生活を便利なものにすることです。しかしながら、スミスは、富の役割をそれ以上のものとみなしていました。スミスは、富の重要な役割は、人と人をつなぐことであると考えていました。市場は、まさしく、富と富を交換することによって、見知らぬ人同士がつながり合い、助け合う互恵の場です。また、経済成長は、富が増大することだけではなく、富んだ人と貧しい人の間のつながりを広げることを意味しました。さらに、貿易は、外国の人々、言葉も文化も異なっていて通常はコミュニケーションしにくい人々たちとの交流を深め、相互依存関係を築くことによって、互いの安全をより確かなものにするという役割を持っています。このように考えると、経済活動の役割の一つは、人と人とのつながりを広げるところにあると言えます。 スミスが教えていると思われることの3番目は、人と人をつなぐ富の役割を十分生かせる経済社会を目指すべきだということです。スミスは、市場社会がこの理想に一番近いと考えていました。ただし、市場社会が本当に人と人、あるいは国と国をつなぐ富の役割を十分に生かすためには、独占や結託、不正や偽装などがあってはなりません。また、経済が、他国よりも優位に立とうとする国家の戦略の手段になってもいけません。したがって、市場はこのような意味で、公正かつ自由でなくてはならないと言えます。 4番目に、スミスは、今できることとそうでないことを見きわめ、今できることの中に真の希望を見出すことを教えているように思います。私たちは、社会の将来について、理想を持たなくてはなりません。しかしながら、同時に、理想に向かって今できることとそうでないことを見きわめなければならないと思います。実現できないような理想を強く推し進めようとするのは、単なる熱狂でしかありません。 スミスが『道徳感情論』や『国富論』において戦った相手は、実は、社会を根底から覆そうとする、急進的改革主義者でした。独占利潤や既得権益にしがみつく人々を、スミスはもちろん批判はしていますが、本当の敵はそこには見ていなかった。どこに敵を見ていたかというと、後にフランス革命を起こしたような人々、あるいは、当時でいえば、トマス・ペインのようなアメリカ独立戦争に熱狂しているような人々で、むしろ、そういう人たちによって社会がひっくり返される前に、きちんと手を打たなくてはならないというのが、スミスの立場だったと思います。 スミス自身は、世界が自由な市場によって結ばれることを理想としましたが、だからと言って、イギリスが設けている規制をすぐに全廃すべきだと主張したわけではありません。一方、アメリカ植民地問題に対しては、植民地を放棄するという大胆な提案を行いました。スミスは、植民地の分離によって、イギリスは理想に向かって一歩前進できるのだと考えたのであり、それがイギリスの今できることであると考えたのです。そして、結果はそのとおりになりました。 以上が、スミスが私たちに与えてくれているメッセージです。これらのメッセージによってつくられるスミスのイメージは、従来のイメージ、すなわち自由放任主義者、市場原理主義者のイメージとは随分異なったものではないでしょうか。 スミスは、市場は有用であると考えていましたが、万能だとは考えていませんでした。経済成長は必要だと考えていましたが、それ自体が目的だとは考えていませんでした。個人にとって、富はある程度必要だと考えていましたが、あればあるだけ幸福になれるとは考えていませんでした。スミスは、個人にとっても、社会にとっても、最も必要なのは心の平静だと考えていたのです。 |
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■今、私達に求められているもの | |
1970年代のオイルショックを乗り切ってから30年、私達はIT化やグローバル化に伴う市場の拡大、あるいはそれがもたらすビジネスチャンスに目を奪われて、公平な観察者の視点を失っていたのではないでしょうか。このことが原因の一つになって起こったと言える、昨年の金融危機およびこれから深刻化すると予想される世界的な不況は、私たちの心の平静を乱し、市場経済への信頼を揺るがせるものだと言えましょう。
今後、市場に対する規制は強化されるかもしれません。しかし、規制の強化だけで、市場に対する信頼が取り戻せるとは思えません。また、安易な規制や政府の介入は景気の回復をかえって遅らせるかもしれません。市場が本来の機能、互恵の場としての機能を十分に発揮するためには、ルールや規制だけでは十分とは言えず、むしろ、市場参加者が自分の行動を公平な観察者の目で見て、その判断に従う習慣をつけていかなくてはなりません。そのような習慣は、生きた人間同士の日常的な、顔の見えるつき合いの中で、長い時間をかけて形成されるものだと言えます。 世界経済や日本経済が動揺する中で、私たちは先ずスミスの社会観、すなわち社会の秩序も繁栄も同感によって、すなわち他人の感情を自分の心の中に写しとり、それと同じ感情を引き起こす能力によって、支えられるものなのだという社会観を再確認し、共有すべきだと思います。それがたとえ遠回りのように見えたとしても、日本経済や世界経済、そして私たち一人一人が心の平静を取り戻すために、今なすべきことだと思います。 したがって、企業経営に携わる皆様が、このようにして定期的に集まり、企業が守るべき倫理、スミスの言葉で言えば、公平な観察者の判断基準とは何かということについて、あるいは職業を通じての社会奉仕のあり方について考え、語り合う場を持っておられるということは、大変重要なことであり、有意義なことだと思います。私の今日の話が、ここにお集まりの皆様方一人一人に何かのお役に立てば幸いです。 |
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■人は幸福か | |
■はじめに | |
よく「人生は短い」という。「長い人生にはいろいろなことがあるさ」というのはむしろ例外で、洋の東西を問わず人生の短さはかなさを嘆くことばは多い。「芸術は長く、人生は短し」Ars longa, vita brevis (ヒポクラテス)、「少年老い易く、学成り難し」(朱熹「偶成」)、あるいは織田信長が本能寺で非業の最期をとげたときに舞った伝える「人間五十年、下天(げてん)のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり、一度生をうけ滅せぬもののあるべきか」(幸若「敦盛」)。これだけ寿命がのびた現代でも人生はまだ短いという印象は強い。
しかし、私はローマの哲人政治家セネカ(前4 –後65)のことばにはいつも勇気づけられる。 「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費(ついや)されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」 良く生きれば人生は十分に長い。したがって、長い、短いをきめるのは、どれだけ良い人生を生きられるかということになろう。「良い人生」を「幸福な人生」といいかえてみよう。では「幸福」とは何か、われわれは幸福なのか、どのようにすればわれわれは幸福になれるのか。これについて、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「幸福」の条件をいくつかに分類しているが、ここはドイツの哲学者ショーペンハウアー(1788-1860)の『幸福について-人生論』の整理のしかたを借りてみる。ショーペンハウアーによれば、人生の財宝には三つの部類がある。第1は人のありかた(人品、人柄、人物。これには健康、力、美、気質、道徳的性格、知性とその完成が含まれる)、第2は人の有するもの(あらゆる意味での所有物)、第3は人の印象の与え方(他人のいだく印象に映じた人のあり方と思惑。名誉、位階、名声に分けられる)である。人のありかたは、人の有するものや人の印象の与え方よりも、人の幸福に寄与するところが大きい。人のありかたとは人の本来有するものである。 どのようにして人は幸福になれるのだろうか。この答えはまさに千差万別だが、やはり一つのやりかたは、やや遠回りだが、「学ぶ」ことである。学ぶことは人の幸福にふさわしい。なぜなら、人は学ぶことによってまさにその人のありかたを良く変えることができるからである。もちろん、私がここにおいて「学ぶ」と言っているのは、大学に入らなければとか、大学を出ていなければ、とかを指すためではない。すべての人はいつどこにおいても学ぶことができるのでなくてはならない。なぜならすべての人は幸福を求めるからである。 しかしながら、すでに述べたショーペンハウアーの分類には「人のありかた」のほかに、第2の「人の有するもの」、第3の「人の印象のあたえ方」があった。たとえば、お金や財産、そして地位や出世がこれに当たるが、これらをまとめて「実利」とあらわそう。「学び」が「人のあり方」を変えるのでなく、この「実利」に結びつく場合は、幸福との関係はどうなるだろうか。最近は仕事の評価に能力主義が取り入れられてくると、「学ぶ」ことの意味も変わってくるのではないか、と考える人も少なくないかも知れない。このかかわりで、話は遡って、明治5年「学制」の発布、つまり日本における学校制度の始まりのことに思い当たる。「学制」は、時期的にも国家主義色の強い「教育勅語」(明治23年)のはるか以前であり、内容もこれと対照的に教育は人のため(身を立てるため)というなかなか開明的内容をもっている。いわく「サレハ(だから)学問ハ身ヲ立ルノ財本トモ云ヘキ者ニシテ人タルモノ誰カ学ハスシテ可ナランヤ。」 ここで「身を立てる」とは何かをくわしく論じる余裕はないが、それはとにかくも、「学び」の目的が何であれ、「学び」である以上さしあたりは打算や実利を超越し人の内側にはたらきかけ、考えさせる要素は大きい。その意味では「人のありかた」を向上させる。たとえばお金をもうけるために経済学を学ぶのであっても、人は何のために労働するのか、どういう意味においてお金は必要なのか、人は何のために生きるのか、という問いと無関係に経済学を学ぶことはできない。学ぶこと自体、人を思慮深くするのである。『論語』の「為政」篇に「学びて思わざればすなわち罔(くら)く、思いて学ばざればすなわち殆(あや)うし」という有名なくだりがあるが、これも学ぶことが人の内側に働きかけることを簡潔にあらわしたことばである。 「学ぶ」こととその学んだ結果のまとまりをあわせて「学問」という。広辞苑には「学問」とは「勉学すること、またそうして得られた知識」とある。固いイメージを思い浮かべるが、それでも学生の間で「天才柳沢教授の生活」というコミックの主人公が妙に人間的で人気があるらしい。この私も何十年も学問を職業とし大学を職場としてきたので、「学び」を通じて人の「幸福」とは何か考えさせられるチャンスも多い。学ぶことは人の幸福のありかたや人のあり方とどうつながるか、そこで、体験や感想を材料に自省してみた。ところで、あたりまえだが大学(職業)を離れたひとりの「私」もいるはずで、ついで「私」としての「幸福論」を考えてみた。そうしてみると、日頃は考えなかった私なりの「人は幸福か:現況報告書」のようなラフ・スケッチが手元に残ったのは、われながら意外でむしろこのほうが面白かった。ここにもうひとつの大きな課題が浮かび上がるからである。 「幸福」ははたして学んだり教えたりできる対象だろうか。たしかに、人は悩むとよく哲学書を読んで考える。また経済学、社会学、政治学、法学、文化人類学などの見地からさまざまに科学的に分析してゆく人もいる。これらはある程度有効である。たとえば、人間が完全に幸福でないとすれば--そして、それはほとんどたしかだが--何がそれを妨げているのか、と。ここでわれわれは、まずは、「国家」や「社会」など人間が作った目に見えない外側にわれわれが囲まれていることに気づく。しかしこのことは、正確な分析はあるにしても、あまりにありきたりで新味がない。では、外側を除けて「われわれだけ」なら幸福になれるのか。が残念ながら、なかなかなれないだろう。なぜか。答はむずかしいが、思い切って「しっと」(ジェラシー)をとりあげてみた。「しっと」をとりあげることが格別に妙とはいえないのは、すでに人のもう一つの性質「エゴイズム」はとりあげられているからである。つまり、「市場」とは形を変えた、というよりは形を見えなくした「エゴイズム」が、期せずしてうまく働いているシステムであり、この法則を見出したのが経済学者アダム・スミス(1723−1790)である。 けれども、幸福は学んだり教えたりされるよりは、むしろみずから感じあるいは親しいものたちと共感するものではないか。幸福は学問以前、いや「哲学以前」でさえあるのではないか。そう思えてしまう。われわれの学びもその方向をさしてゆくのがいいのではないか。まずは本文を読んでください。 |
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■学者の快楽主義と禁欲主義 | |
大学の先生は「学者」といわれている。学者は学問を職業としている人のことである。といっても、学問は学者だけのものではない。反対にいうと、職業ともなると別物になり、かえってほんとうのことがみえなくなる部分もある。家庭菜園で楽しまれる野菜作りも、農業ともなればお金の要素が入る。車もマイカーなら大切に手入れするが、タクシー・ドライバーの車なら営業的配慮も働く。大学教授も毎週、毎日の講義になぜか情熱がわいてこない日もある。
そこで、そもそも学問をするとは何だろうか。これには2つの大きな要素があるように思う。まず、一つは「好きなこと」をするという面である。自分の関心事、知識欲、達成欲を満たすことは基本的には楽しく、人生を充実させるからである。アリストテレスは「すべて人間は本来知ることを欲する」と云っている。学問することは人だけにそなわった喜びであって、人以外の動物にはそれはない。学ぶことは人の重要な快楽の一つである。「快楽」というとやや奇異かもしれないが、少なくとも正しい意味での快楽主義に合致する。私がここで「正しい」とかいったのは、むかしエピクロス(前342−271)という哲学者が提唱した快楽主義はまじめなものなのに、誤解を受け続けているからである。快楽主義を信じている人々はよく「エピキュリアン」(エピクロス主義者)と呼ばれているが、快楽主義とは「快を自然に従わせること」をいう。肉体的享楽にふけることとは全く別である。度を過ごす、無理をすることは自然に反するのである。ここでいう「自然」とはふつうの自然環境だけをさすのではなく、天地万物の道理といった意味である。この言い方をすると、人が学ぶことによって喜びを得るということは、すごく自然なのである。つまりはイヤイヤながら学ぶということはもともとあり得ない、というよりそれでは「学ぶ」ことにはなっていない。 もう一つはこれとは反対の「禁欲主義」の要素である。学問には「勉強」がつきものであるが、この勉強は「強いて勉める」、つまりずばり禁欲主義そのものである。もともと禁欲主義は、感性的、肉体的欲望を理性や意志によって抑え、道徳的な理想を達成しようとする生活態度のことで、そのもっとも徹底した例では、お寺の修行僧の苦行や修道院のシスターズの隠遁生活がある。しかしわれわれの日常生活でも禁欲主義的な面は実に多くある。たとえば、皆が遊んでいるときでも自分は勉強する、働く、あるいは正しいルールや義務をきちんと実行する。これでわかるように、禁欲主義は世間の動きに惑わされず、精神の独立、最近の言葉でいえば「自己決定」を大切にする。いきおい、浮世離れをした生活をしているように見られる。私の体験でも、今になっておもえば、少年時代には虚弱体質の反動で禁欲主義に親近感をおぼえたものである。それが他人がいやがる勉強の苦痛をむしろ歓迎し、大学の教師を職業として選ばせたのだとおもう。多くの他の職業でも似た体験を持つ人も少なくないはずだ。 禁欲主義は誰にでもある行動のパターンだが、歴史でみるとその精神面の一つに「ストア主義」がある。禁欲主義を信奉する人をよく「あの人はストイックな人だ」などというが、そのストア主義である。さきにのべた快楽主義とならんでこういう考え方のルーツも古く、紀元前2、3世紀のギリシアにさかのぼる。「ストア」とはこの学説が述べられたアテネの柱廊(ストア)にちなんでいるのだが、これらの人々の一人で哲学者セネカ(前4 –後65)は、人間の幸福は自然に適合し、無理なく心安らかに平静に生きることであると説く。では「自然」とは何か?これは先にも述べたが、われわれが天地万物の道理、神の摂理などというときの「理」、それによって森羅万象が生み出される源をさす。歴史的に見ると、それまでの自然哲学を元にして倫理学を展開したアリストテレスはそのルーツといえるが、ストア学派はそれをうけたゼノン(前336/5 – 264/3)をもって開祖とする。その後、キケロ(前106−43)、暴君ネロをいさめたといわれるセネカ、ローマの「賢帝」の一人といわれたマルクス・アウレリウス(121−180)など高い位にいた人、エピクテートス(55頃−135頃)のように奴隷の身分から身を起した人など、さすがにストア主義の個人主義にふさわしく、階級の別なくそれぞれ、欲望を恐れず理に基づいた人生(セネカ)の幸福を説いている。 ところで、そうなると学問をすることには快楽主義の面と、禁欲主義の両面があることになるが、そもそも快楽主義と禁欲主義は矛盾しないのだろうか。ほんとうのところを知ればこれらは矛盾しない。ストア主義者セネカも、仲間(ストア主義者)には悪いがエピクロスの言っていることは相当に正しい部分がある、と述べているように、ほんとうの快楽主義と禁欲主義は基本としては同じ内容をめざしている。実際、ストア主義者は「心を自然に従わせる」こと、エピクロス主義者は「快を自然に従わせる」ことを説いている。というのも、エピクロスの教えによれば、自然の最も重要部分を占める快はそれ自体としては悪いものではない、しかしある種の快は行き過ぎれば何倍もの心の煩いをわれわれにもたらすからである。わかりやすくいえば、セックスやグルメの快も行きすぎれば必ず弊害(苦痛)をもたらすのである。もっとも、ここまで来れば、これらは学問のことだけでなく、すべての人にとって人生をすごすための教訓となるのであろうが。 |
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■学ぶことの幸福は金銭的な幸福と逆の面がある | |
学問はすべての人に開かれている。学びの目的は、知的な関心であったり、視野や考え方を広げる、あらたな能力の得ることのためなどで、ひとくちでいえばその人の内面が充実することあるいは発展することである。それが達成されることには大きな精神的喜びがある。したがって、学問は直接にお金をめざすものではない。となると、学問に限らず、快楽主義も禁欲主義もしかるべき経済的条件がないと成り立たない。最低収入がしかも安定した流れとして入ってこない状況では、好きなことをやって世の中を生きていくことも、また結果的には浮世離れした生活を実行することもなかなかむずかしい。学者は職業として学問に従事するが、よく「好きなことをやってお金をもらえていいですね」といわれる。しかし、それは事実とちがう面がある。大学を卒業してすぐに職に就く人はこの条件が成り立つが、学者をめざそうとすると、駆け出しのころは、食うや食わずのスレスレの生活を最初のハードルとして覚悟しなければならない。学者の経済生活は一応の生活水準には達しているが、決して世間が想像するほど裕福というほどではない。好きでそういう道を選んだのでは、という面はたしかにある。といっても、学ぶことは何も学者だけではないはずで、すべての人に学ぶ喜びを知る権利があるとすると、人が学ぶのに経済的負担が重いことはいいことではない。それでも、学ぶことの本質は精神的幸福であって、物質的・金銭的なものではないことは肝に銘じておこう。 | |
■人間の幸福 | |
すべての人は幸福になるために生まれて来る。学ぶこともそのためである。ところで、このごろ学ぶことをひとりひとりの人生との関わりで考えてゆくことがめっきりすくなくなった。だから、私はまずは、入学式やオリエンテーションで「皆さん、学問は人生のためにあるのですよ、学問のために人生があるわけではない」とよびかけ、人生は一回しかない、敷かれたレールの上を行くよりは一度は自分の生き方から広くながめてみるようにと、アドバイスしている。
私はもとは理科系の出身であるから、学ぶにしたがって、自然や宇宙にある真理や法則がだんだんと自分の前に姿をあらわしてくることにスリルと喜びを感じたものである。ところで、ずっと以前から次のような非常に気になっていることがある。フランスの思想家アルベール・カミュ(1913−1960)は以前から人気ある思想家、哲学者であるが、その代表作品『シジフォスの神話』で、有名なガリレオ・ガリレイの地動説に対する宗教裁判にふれ、ガリレイが裁判の中で自説を曲げ地球が動くことを取り消すことで命が助かった-----その際「それでも地球は動く」とつぶやいたとか、つぶやかなかったとか-----のは、むしろ全く当然だという。なぜならば、地球が太陽の周りを回るのか、太陽が地球の周りを回るのか、それはどうでもよく、命を賭けるような大問題ではないのであって、人生最大の問題とははたして人生に生きる価値があるのかどうかなのだ、と。カミュはいい過ぎの感があるにしても、ガリレイや自然科学を低く見るためにそう云ったのではなく、むしろ彼のことばを借りれば、「死亡理由が立派に生存理由になるのだ」。そのために命をかけてもよい理由こそ、その人が生きる目的である。それでは、家族は?仕事は?学問は?恋愛は?将来の進路は?こう考えてゆくと、すべての人にとって共通のテーマ「人生の幸福とは何か」という問題に行きつくのである。 |
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■幸福は学びうるか | |
人の「幸福」は学んだり教えたりえきるものだろうか。多くの人は、それは感じるものではないか、というだろう。できるとすればどのように? できないなら何が問題か。
そこで、哲学は人の「幸福」について今までどう語っているだろうか。まずは、おなじみのギリシアの哲学で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスのアカデメイア派。ソクラテス(前470 -399)は、人の生きがいは「ただ生きることでなく、善く生きること」に求められるとし、そのことの大切さを自分の死を以って証明した。ここで私はカミュが「死亡理由が立派に生存理由になるのだ」と云ったのを思い出す。プラトン(前427 -347)においては「善」は「イデア」(理想)にまで高められる。人間の魂が高められ心身の要求が満足された理想的境地を考えれば、それが幸福である。ここで「プラトニック」(プラトン的)ということばを思い出そう。よくわれわれは「プラトニック」を肉体的に対し精神的というように使うが、それは正確ではなく、「プラトニック」とは、理想として高められたとか、純化された、という意味である。ここで「理想」というのは語感としては「目的」に近く、プラトンの「さまざまなものを大切にしているように見えても、じつは、そのときほんとうに大切にしているものは他の何かであって」(『リュシス』)という言い方をかりると、この「他の何か」が幸福に当たる。プラトンの弟子アリストテレス(前384-22 )になると、「幸福」がすべて人間の行いがそのために、あるいはそれに向けてなされる最高(というよりは最終、終局)の善ときちんと定義され、さまざまにその幸福の根源が整理されているのは、幸福について考える後世の人々にとってはありがたい。 しかしながら、幸福の中心は幸福感覚であり「哲学以前」ではないだろうか。「哲学」も「学」だが、人の「幸福」を哲学でとらえきれるものだろうか。幸福につきどれだけ深く考えたところで、理解は進むが(それはいいことであるが)、「幸福」になれるわけではない。ギリシアの哲学にしても、幸福についてほんとうにその深みをつかんでいるとはいえない。わたしに云わせれば、何といってもギリシアの哲学に感じる最大の問題は、「他人」「他者」(私以外の人)がいないこと。つまり、それぞれの「私」については、深くよく語られているが、「私A」と「私B」の「関係」については、ほとんど何の関心も寄せられていない点は、人の幸福については相当気になる。現代風にいえば、人と人との「触れあい」のことといえようか。ものを根源から考えるのが哲学であるのに、その哲学の目がここに届かなかったのはなぜかと考えてみると、うまくいえないが、これと根底で関係ありそうなこととして浮かんでくるのは、現在とは異なった奴隷制社会であったことであろう。「私」と私の奴隷は、生れながらにして命令し命令される関係である。私は彼(彼女)を売っても、生かしても殺してもよい。「君は奴隷に生まれてきたのだからね」とか「奴隷であることは君の運命なのだから」で通ってしまう社会は、いまとは相当に異なる想像もできないものだと思えてしまう。 もう一つ、ソクラテスは「ただ生きるのでなく、善く生きよ」という。これは感動的であり宗教的福音の芳香さえただよっている。しかし、宗教とは異なるのは、救い(救済)を伝えてない点。つまり善く生きられない人はどうするのだろうか。いいかえれば、「先生、凡人はどうすればいいのでしょう?」。無視されるのか、放り出されるのか、亡き者にされてしまうのか、凡人は生きる資格はないなどというわけにはいかない。ではどうするのか。もっとも、ソクラテスを批判する資格は今日のわれわれにはなく、これについては、哲学の旧く新しい課題として再挑戦が待っているのだろう。これに答えられないと、哲学に対する信頼は大きく揺らぐことになるだろう。 アリストテレスをはじまりとする幸福論は、その後に(ヘレニズムの時代といわれる)、エピクロス派、ストア派の幸福論を生んだ。これらはいま読んでも、われわれの心に安らぎと自省を与えてくれる。たとえば、こんなに寿命が伸びている今日でも「人生は短い」といわれるが、しかし、セネカもいうように、「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費(ついや)されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている」。まことに至言である。ただ、ここでは幸福は個人の内心に限られていて、その意味では自己中心的である(利己主義と混同しないこと)。とはいえ、これらの幸福論(ことにエピクロスの快楽主義)は、近代に入って「功利主義」を生みだし、さまざまなよき社会のモデルを与え、たとえば、今日では人は幸福を求めるのみならずそれを求める「権利」もある、ということはあたりまえになっている。エピクロス派、ストア派の幸福論の影響は今でも大きいのである。 |
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■「国家」と「社会」のクローズ・アップ | |
数百年前のヨーロッパ近代の入口(16世紀後半から17世紀にあたり、日本では江戸時代の始めと同時代)では、「国家」の成立とともに、人(個人)に対する「国家」や「社会」の暴力がクローズ・アップされ、国家や社会は悪事ばかり働いているとの批判がだんだんと高まってきた。フランス革命の基の理念を作った思想家・文学者ルソー(1712−1778)は、国家や社会は要らない、「自然(の)状態」でこそ人は本来の人であるが、
しかしおそらくいっそう力強い学問、文学、芸術は、人々がつながれている鉄鎖の上に花飾りをひろげ、彼らがそのためにこそ生まれたと思われるあの根源的自由の感情を押し殺し、彼らにその奴隷状態を好ませ、彼らをもって文明国民と称されるものをつくりあげる(『学問・芸術論』) として、人間的な基本次元から痛烈に現社会を批判した。よって、人間の教育をまずゼロから考えなおすべきである。『社会契約論』とならんでよく知られる『エミール』も われわれは自分の知識によって幸福になりうる以上に、自分の無知によって幸福になることだろう(『エミール』) 最も普遍的に人間を構成しているものから研究するとよい(『同』) と述べているが、その影響力には非常に大きいものがあり、ルソーは現体制をゆるがす危険思想家と見なされるようになった。実際、まもなく起こるフランス革命の指導者の一人ロベスピエール(1758-1794)はルソーの強い影響下にあったくらいである。やはりルソーの影響をうけたイタリアのベッカリーア(1738−1794)も、『犯罪と刑罰』で、最近、人の幸福に対する最大の脅威は国家、ことににその残虐な刑罰であり、あきらかに理屈に反していると批判した。もともと刑罰権は国家の存立の基礎的必要条件であり、刑罰権のない国家はなくそれは国家の証でもある。ただ、それは一般的な話で、刑罰の濫用と残虐な刑罰は人類の幸福の敵である。わが国にも残酷な刑罰はあったが、ヨーロッパでもそれはひどいもので、多くの心ある者の良心を揺さぶったことは想像に難くない。今日でも、ヨーロッパには刑罰博物館があり、そこを訪れる人はあまりの凄惨さに胸を痛めて出てくるくらいである。 ベッカリーアを受けてイギリスの哲学者ベンサム(1748−1832)は、『道徳および立法の諸原理序説』で司法改革を提唱、その基礎として国民の幸福は「最大多数の最大幸福」(これは、ベンサムのオリジナルではない)でなくてはならず、国家の立法政策はこれに基づいて改革されねばならないとし、当時としては相当思い切った改革案を提案した。この「最大多数の最大幸福」の原理は哲学的急進主義と呼ばれたが、それでもフランスで進行していたフランス革命とりわけジャコバン党独裁の恐怖政治とは対照的で、議会制に基づくだけ穏健であった。しかし、とにもかくにも、このフランス革命と相まって、人類は歴史上はじめて人民の幸福のための国家の良き政策という考え方を打ち出すことになったが、これを広く「功利主義」という。 もともと「功利主義」の「功利」は「効用」ともいい、英語では「ユーティリティー」つまり「役立つこと」を意味するが、人々の幸福にいかに役立つかに価値の中心をおく考え方が正確な意味での「功利主義」である。「最大多数の最大幸福」はその合い言葉の一つである。その根拠として、ベンサムが『道徳および立法の諸原理序説』第1章第1行目で 自然は人類を苦痛と幸福という、二つの主権者の支配のもとにおいてきた と言っているのは有名だが、この考えには以前に思い当たるふしがある。エピクロスの快楽主義である。つまり、功利主義は千数百年前の幸福の教え(エピクロス主義とストア主義)を近代において実行しようというももくろみであると考えられよう。もっとも功利主義は幅広い考え方でいろいろなバリエーションがある。ベンサムの後、哲学者経済学者ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)は、説教臭いが有名なことば 満足した豚よりも不満足なソクラテスの方が幸福である(『功利主義論』) とのべて、幸福は比較しうること(ただし、幸福の比較は今日では否定的に考えられている)、人間には尊厳があることを言い表しているが、全体としてミルの功利主義は倫理的色彩が強い点が特色である。また、人間の尊厳は人生を自らの考えでを選択できるところにある(『自由論』)とするのはいいとしても、中国伝統社会の重苦しさを多数の横暴の例にとるなど、説得力を欠く折衷が目立つところは賛否の分かれるところであう。 人類の幸福という次元からみれば、フランス革命(広く「市民革命」といわれる)の成果は歴史的に非常に大きかったが、その方法は急進的暴力的であったため反動も大きく、革命の主導権は保守勢力の手に落ちざるをえなかった。革命後の社会の混乱と人々の英雄待望の心理は、結局はナポレオンというカリスマの出現と独裁に道を開けることとなった。このような状況がその後もうち続くなかで、社会の矛盾、国家の悪しき政策によって、堕(お)ちて行く人々の数は止るところを知らなかった。マルクス(1818-1883)らの社会主義思想が本格的に生れてきたのもこの頃で、「共産主義のマニフェスト」(いわゆる『共産党宣言』)は1848年のことである。また、これとは別の流れではあるが、市民革命が挫折し人々が人間の自由や幸福のあり方に対して大きな幻滅を味わうなかで、人間のあり方に対する見方考え方を根本的に見直そうという思想的な機運も生まれてきた。これがキェルケゴール(1613-1856)の「実存主義」(実存=人間の自己としてのあり方)である。この考え方は最初はキリスト教の弁証論であったが、20世紀に入ってハイデガー(1899-1976)、サルトル(1905-1980)の実存主義の哲学を生むことになるが、話がやや難しくなるのでここではこれ以上ふれないこととしよう。 「いやいや、その燭台は盗まれたのではなく、彼にあげたのです」こう言ってミリエル司教はジャン・バルジャンを助ける。司教の人類愛に赦され改心したジャンは人のために働き人々の信望を得て名市長にまで上り、その社会悪と闘う姿は世で尊敬を集める。最近も映画になり、劇にもなってよく知られるビクトル・ユーゴー(1802−1885)の永遠の名作『レ・ミゼラブル』のテーマだが、やはり、人の幸福と不幸をリアルに描き出しすべての人に感動を与える点は、文学者や作家が他の追随を許さないところである。私は9歳の頃、当時は『ああ無情』とムズカシク訳された少年少女文学全集の一冊をクリスマスの(サンタクロースの!)プレゼントとして贈られ、子供ながらに心に深く刻まれるものがあった。「なさけぶかい」ということばを両親から教えられたのもこのときである。 このユーゴーはマルクスと同時代人で、マルクスによる当時の市民社会(ブルジョア社会)の秀逸な分析『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』にも触れられて登場する。もっとも、ここではユーゴーは高い評価にはなっていない。にもかかわらず、文学者は人間社会の状況分析のリアリティではやはりプロである。こういうと同僚には悪いが、社会科学者はいわば社会の病理解剖をする専門家であり、社会科学の分析は科学として正確で緻密ではあるが、どこか血が通っていない感も否定しきれない。それに対して文学者はいわばカウンセラーとして人の心に触れる。社会科学者は、勝手にカウンセリングしてもらっても病状はよくならない、正確な病状分析がまず必要というだろうが、それでも『レ・ミゼラブル』はフィクションとはいえ社会分析としてのリアリティには社会科学者も脱帽ではないだろうか。 |
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■トルストイに見る現代人の不幸論 | |
人間の幸福と不幸について、次の一文以上に古今東西によく知られたものはそうない。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(トルストイ、1817−1875)。 作家のよく知られた大作『アンナ・カレーニナ』の最初の書き出しである。もっとも、これは作家のはじめの構想にはなく、もともとは次に続く「オブロンスキー家では何もかもめちゃくちゃだった」から小説はスタートするはずであったという。もしそうだったら、NHKの連続ドラマかアメリカのソープ・オペラふうの家庭小説になっていただろうか。実際のところ、『アンナ・カレーニナ』も、見方によっては、美貌の人妻の不貞と転落、そして鉄道自殺という破局をむかえるまでを長々と描いた小説にすぎないとすることもできないわけではない。 ただ、私は人の幸福や不幸を考えてみると、そうは思いたくはないのである。ヒロインのカレーニナの夫はいったいどんな人だったかといえば、今日われわれの周囲にじつによく見るタイプなのである。彼の名をカレーニンという。(ロシアでは夫の名に「ア」aや「アヤ」ayaをつけて○○夫人とする。たとえば、チャイコフスキー夫人はチャイコフスカヤとするなど)。カレーニンは成功した高級官吏であった。格別に彼が冷たい性格であったわけではない。むしろ、謹厳、実直、誠実であって、芸術にも理解のある人であった。ただ、彼はたかだか謹厳、たかだか実直、たかだか誠実であったにすぎない。彼には情熱や心からの愛は感ぜられず、誠実というより、いわば不誠実な誠実・冷淡な誠実がどっかり腰をすえていた。彼は妻アンナを愛していると自分では思っていた。そしてまた、アンナ自身、彼を立派な人だとは思っていた。ここは長く引用した方が実感が伝わるであろう。 −わしはこういうことを言うつもりなのだが、−と彼は冷静に、落ちついて言葉をつづけた、−お前にもとくと聞いてもらいたい。嫉妬心というものは恥ずべく、卑しむべき感情だとわしが認めていることはお前も知ってのとおりで、わしは、決してそんな感情に左右されることは自分にはゆるさないつもりだ。だが、世間には、礼儀というある一定のおきてがあって、これを踏み越えれば、罰を受けないではすまない。今夜、わしは自分で気づいたわけではないが、社交界の連中に与えた印象から察して、お前の態度ふるまいは、あまり望ましいものではなかったようだ。 −お前の感情のこまかい点にまで残らず立ち入るなどという権利はわしにはないし、だいたい、そんなことは無益なばかりか、有害だとさえ考えているよ、−とアレクセイ〔カレーニンのこと〕は話しはじめた。−心の中をほじくっていると、よく、そっとしておけばいいようなものを掘りおこしてしまうことがあるものだ。お前の感情は−お前の良心の間題だ。だが、お前の義務をはっきり示してやることは、お前に対しても、わし自身に対しても、さらに神に対しても、わしとしてはしなければならないことなのだ。われわれの生活は、人々の手によってではなく、神によって結ばれているんだからね。この関係を破り得るものは犯罪しかない。そして、この種の犯罪は必ず重い罰を伴うものなのだ。 −アンナ、お願いだ、そんな言いかたはしないでおくれ、−とおとなしく彼は言った。−そりゃ、わしのまちがいということもあるかもしれないが、こんなことを言うのも、自分のためであると同時に、お前を思っての上だということは信じておくれ。わしはお前の良人であり、お前を愛しているのだから。 高貴である。だがひどく冷たい。また他人行儀で妻に対する愛情はほとんど感じられない。嫉妬は人間としてみにくい感情である、ゆえに私には(彼には)関係がない、などと本気で言える人だったのである。 愛しているですって?このひとに愛することなんか出来るのだろうか?愛などというものがあるともし人から聞かされなかったら、このひとは決してこんな言葉を使いはしなかったでしょうよ。愛がどんなものか、このひとには分ってはいないのだもの。(アンナ) では、アンナの内縁の良人ウロンスキーの方はどんな人だったか。彼が正しい人であることはアンナもよく承知していた。ただ、彼女は彼に正しくあってほしいと願ったわけではない。そうでなく、彼女は愛され満たされたかったのだ。どのように?ウロンスキーにはどう頭で考えてもそれがわからなかったし、どうすればよいのかも思いつかなかった。アンナは非常に感受性の鋭い女性であった。彼女の行動は行動としては愚かだったが、しかし、一つの真実を指そうとしていた。つまり、トルストイは、カレーニンやウロンスキーの上に、実は現代人の中にある人間性に対する鈍感さを見たのである。 ここで、話題はややずれるが、大学時代の私の第二外国語はロシア語だった(よく使う外国語は社会に出てから独習すればよい、と思ったのである)。ところで、面白いことに、ロシア語に「カレーニン」Kaleninという語が固有名詞としても普通名詞としてもないのだ。トルストイの純朴さと正義感の強さに共感と尊敬をもっていた作家ロマン・ローランの『トルストイの生涯』によれば、往年のトルストイは夫人からたしなめられるくらいにギリシア語学習に熱中していたが(ロシア語の起源はギリシア語)、実は「カレーニン」はギリシアの古典中の古典『ホメロス』にある「カレノン」(頭)からとった造語なのである。それでわかった。トルストイは「カレーニン」に、頭だけで考える人々がいかに人間の真実から遠いかをこめたのである。 |
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■他人(ひと)の幸福を知って、自分は幸福か不幸か | |
人の心には緑色の目をした怪物が棲(す)むという。英語では「グリーン・アイド・モンスター」(green-eyed-monster)。これが暴れ出すと心はそれにのみこまれズタズタになってしまう。抑えこむのは容易ではない。何だろう。答えは「嫉妬(しっと)」「やきもち」「ジェラシー」。他人(ひと)の幸福に心が平静でなくそれを憎む気持ち、あるいは愛する者の気持ちが他の者へ向くことに対して心が乱される気持ち。「グリーン・アイ」といえば嫉妬のこと。この語源はシェークスピアの『オセロ』で、ヴェニスの名将オセロは、自分の美貌の妻が部下とあやしいとの讒(ざん)言を信じて嫉妬に狂い殺してしまう。しかし讒言はウソとわかり、オセロも自殺する。「オセロ」とはそれ以来、嫉妬、やきもちの代名詞になっている。そのほか、『ヴェニスの商人』にも「緑色の目」は登場する。
人の幸福の敵はその心中にある。人がたった2人でさえ、そこにはもう2人の幸福を妨げる要素がある。まさに社会や国家以前、人類の始まりとともにある。嫉妬に狂うと心は平静でなく、平静であろうとするもう一つの心と大格闘になる。心臓の鼓動は高まり顔は青ざめる。英語大辞典には「グリーン」とは「青白い」と訳すと書いてある。他人(ひと)の幸福をどう評価するかという問いは、「幸福論」から不当に排除され、幸福論はもっぱら自らの幸福だけを扱うものであってきた。しかし、人の心の奥にあるもう一人の自分が闘いをいどむのであれば無視できるどころの話ではなく、それこそ大問題である。古今東西の哲学者が人間の嫉妬心に正当な扱いをしなかったのはうかつというほかない。 すこし理屈っぽくいおう。Aさんの幸福の判断をAさんがすることはきわめて順当だが、Aさんの幸福をBさんがどうやってどのように判断するかとなると、Aさんの幸福を直接にBさんが感じているわけではないので評価は相当にむずかしい。意外なことだが、この問題を正面からとり上げた数少ない一人は、あの『国富論』(あるいは『諸国民の富』)の経済学者アダム・スミスであった。スミスは最初の経済学者とされているから、スミスが学者になったとき、彼が経済学の専門でなかったことは当然である。専門は「モラル・フィロソフィ」、つまり道徳哲学。人は他人に対してどれだけその人(他人)の立場で考えることができるか、どれだけ心を同じにできるか、これがテーマであった。上の言い方では、BさんがBとしての気持ちでなく、Aさんの気持ちをもつ。こんなことが可能であろうか、無私の神にのみ可能ではないか。それはとにかくも、これを「シンパシー」(sympathy)という。これはスミスのいいたいことからは「同感」「共感」と訳され、「同情」とは訳されない。この議論は『道徳感情論』という、スミスの玄人向けの本に縷縷(るる)書きしたためてあるが、つまり人が自分の幸福だけを考えたら「社会」は成り立たないだろうとスミスは当初心配したのである。 後年、スミスは、(経済学で云う)「市場」のことなら心配ご無用、人とは自分の利益をまず考えて行動するものと想定しても格別に問題はない、と考えるにいたった。これを「経済人(ホモ・エコノミクス)」の仮定ということは知っている人も多いだろう。スミスのメジャーの著書『諸国民の富』の「分業について」では、「われわれが食事をとれるのも、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのでなくて、自分自身の利益に対するかれらの関心によるのである」と述べているが、それではたしてうまく行くのかといえば、そこは「神の見えない手」が働いて、市場という社会は、バランスしうまく行くとスミスはいう。じっさい、「個人の私利をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する。………見えざる手に導かれて、みずからは意図もしていなかった一目的を促進することになる。」今日「市場メカニズム」といわれるものはまさにこれに言い尽くされる。これによって、スミスといえば、『諸国民の富』、そして「市場メカニズム」の元祖という公式が出来上がった。『道徳感情論』は相対的にマイナーになり、他人(ひと)の幸福という重要問題に関する議論も関心を引かなくなってしまった。ここは意外と大きな歴史の曲がり角だったかもしれない。 私の仮説であるが、現代では他人(ひと)の幸福とか嫉妬はわれわれのなかでは思いのほか無視できない存在である。たとえば、政治学者はあまり考慮しないようだが、国政選挙では政策だけでなく候補者たちへの嫉妬で投票行動が左右されているのではないか、と思えるふしがある。それはとにかくも、ひとつ確かなことはもし嫉妬が心のふつうの働きだとすると、すべての人が幸福になるという理想状態は理屈の上ではありえないことである。ある人の幸福が必ずや他の人の心をかき乱すであろうから。ショーペンハウアーが『幸福について』でいうごとく、嫉妬はなかなか打ち勝ち難い、なぜなら相手の持物でなく、相手その人に対するものだから。けれども、嫉妬を野放しにするのでなく、それを心にとどめ、かつ美しいものに対するあこがれや愛を優しさで包むという心のバランスは重要だ。 私の専門は統計学や数学である。親が小学生の私に代数学と英語の家庭教師をつけたからかも知れない。たしかに数学のとぎすまされた簡潔な真理は永遠のものでありすばらしい。だが、昔から習いたかったのはむしろ音楽や絵の方である。美しいもの、すばらしいもの、感動的なものに対する人の愛、あこがれ、場合によっては独占欲というものは、心の中にたとえ道徳に反してでも、存在しようとする。こういう「生」の世界は芸術の世界を作る。道徳的に正しく生きる「生」も人間の「生」なら、これに対する反道徳的な反「生」もそれ自体「生」である。こういったのはニーチェ(1844-1900)である。嫉妬はみにくく反道徳的かも知れないが、それは美しい愛の反映像でもある。 イタリア系イギリスの画家ガブリエル・ロセッティ(1828−1882)の「プロセルピナ」という妖艶な絵は以前から愛好家が多く、文学者や作家が多数批評を書いている。わが国でも蒲原有明(文学者)の詳しい批評がある。「プロセルピナ」はギリシア神話中の女性の名で、彼女は不幸な結婚に閉じこめられたが、約束に反して禁断の実を食べたためにそれから逃れることができない。「ざくろ」は閉ざされた結婚、左から下がる「蔦」(つた)は忘れられぬ思い、そして蔦の流線に乗るプロセルピナの緑(!)の衣、ロセッティが好んだといわれる衣のひだ。モデルの名はジェイン・モリス(Jane Morris)という。ロセッティの友人で有名な社会主義思想家でまた工芸家、それで商会を設立したウィリアム・モリス(1834−1896)の妻である。モリスの結婚生活は不幸であったため、画家の心は自然にこの不幸な女性に向かうが、しかし彼女は他人の妻である。不遇な結婚に閉ざされた女性の心を象徴的にイメージさせるこの絵ほど、愛と嫉妬、そして画家の優しさを表すものはない。 |
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■幸福はファンタジー | |
ショーペンハウアーは幸福についてるる述べたあとそれは、心の迷いだという。だからこそ救いが必要であるともいう。私にとっては「幸福」は救いのファンタジーである。サン・テグジュペリの童話『星の王子さま』には、やがて大人になる子供にたいへん大切なメッセージがある。「こころで見なければ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは目に見えない」。目には見えないが存在する。だから「ファンタジー」といっても空想ではない。サン・テグジュペリは飛行士であり、空を飛びながら地上の「救い」を想う。その意味でも空想ではない。同じく飛行士であるリチャード・バックの『かもめのジョナサン』もまさしく人の「救い」と人への愛を想い飛び続ける。ここには霊的(スピリチュアル)な優しささえこめられている。訳者五木寛之の解説によれば、訳者自身この「スピリチュアル」にどうしてもついていけないようだが、作品中にくりかえし述べられているように『かもめのジョナサン』は「神」ではない。逆にいうと、それくらいそこここに宗教的信仰が感じられるのである。
幸福のファンタジーとして世界中に知られ決して忘れられないのは、ベルギーの詩人、劇作家、哲学者メーテルリンク(Maeterlink 1862-1948)の『青い鳥』、あのチルチル、ミチルという男の子と女の子を主人公とするクリスマスの夜のファンタジーである。「青い鳥」とは「幸福」ので象徴であり、メーテルリンクのメッセージは、青い鳥はあなたのすぐそばにいるというものである。幸福は「いつだってあなたのまわりにいる」。だから、チルチルが「会った覚えがない」というと、「幸福たち」からゲラゲラ笑われる。まず家の中から幸福を探すと、意外なことにわれわれのまわりには多くの「幸福たち」がいて、十人も二十人も登場して来る。「大きな喜び」(主な喜び?)として「正義である喜び」「善良である喜び」「ものを考える喜び」「仕事を仕上げる喜び」「もののわかる喜び」、最後に「母の愛」が登場する。たしかに、母の愛はまさに「哲学以前」である。そして劇最後の登場のトリは待たれるもの(救世主=メシア)としての「光」である。 面白いのはおいしいものを食べる「幸福」である。一瞬「?」という気がする。テレビのコマーシャルで「私、しあわせ!」という「飽食」の時代だから、食べることの幸福もある程度訳がある、と思えてしまう。心の広い哲学者メーテルリンクが「『太りかえった幸福たち』、この人々は品が悪いが悪い人ではない」というところに、幸福を求める者の心の優しさがある。人が幸福を求めるなら、やはり幸福にあれやこれやの差をつけず(先に述べたジョン・スチュアート・ミルを思わせる)、すべてを優しく包み受け入れることが必要である。幸福を求めること自体が周囲に不幸をもたらしてはいけない。幸福を求めること自体、幸福と心の温かさと優しさをもたらすものだからである。 |
■近代によみがえる快楽主義 | |
市場と功利主義 / 「金利生活者」の幸福論か | |
■心の平静 | |
すべて人は幸福をもとめる。「幸福」とは何かについて考えるとき、富、名誉、力、健康、長命であれ、何であれ、すべてのひとが答をもっている。幸福は哲学者のものではなく哲学以前であり、幸福論はきわめて古い歴史をもっている。西洋でみれば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学よりも古い。自然哲学者デモクリトスは、ふつう、世界の根源として「原子」の概念を立てた人として近代において有名であるが、体系化されていないものの、多くの倫理説を格言や体験として残している。その幸福論は独特な風格があるもので、高貴な自己中心主義に人の魂の安らぎがある、という。何はともあれ、幸福は何らかの快楽にあるという定義に照準が合ってきている。これは、後世のストア哲学者セネカも『心の平静について』で引用している。
しかし、やはり、幸福についての最初の本格的な哲学的論議は、プラトンとアリストテレスによってはじめられる。プラトンの幸福は、哲学的に最高にして真なるもの(イデアの世界)の追求と認識の生活にある。感性的なものから自我や人格がはっきりと区別されて切り取られ、その全体的完成がめざされているのは、最初の理想主義者ともいうべきプラトンにふさわしい。この幸福の定義は、新プラトン主義(3−6世紀)、およびそれと形影相伴うキリスト教の教義の形成と発展につれて、次第に超越的かつ宗教的になってゆく。 プラトンと異なり、本質の観想(テオリア)だけでなく実践(プラクシス)をも重視したアリストテトレスは、幸福(エウダイモニア)を倫理の究極目的、行動の基準とし、まさに「幸福主義」倫理学の体系をうちたてた。その中心的著作『ニコマコス倫理学』第七章では、幸福の定義が与えられている。 幸福は、人間の人生の目的として最高善であり、神から与えられるものでなく人間として求めることのできるものである。人間は運命からも自由である。幸福ははっきりと此岸(こちらがわ、われわれの生きているこの世)の「徳」なのであり、その意味では近代の功利主義に通じるが、相異点は、近代功利主義は感覚に基礎をおくのに対しアリストテレスの幸福は人生の最高善の追求に基礎がある、という点である。19世紀思想家ジョン・スチュアート・ミルによれば、アリストテレスは「公正な功利主義者」なのである。 |
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■ストア主義はキリスト教へ | |
つぎに、われわれは、ストア派の禁欲主義の幸福論について語らねばならない。ストア派はヘラクレイトス(万物は火であり、流動転変する、しかしそのなかに本質があるとした)のロゴス説に発し、古くはキプロスのゼノンによって派をなし、中期にはプラトン、アリストテレスの説を容れ、後期にはローマ帝政期に入って、皇帝ネロの宰相となった後に死を命じられるセネカ、解放奴隷から哲学者となったエピクテートス、賢帝マルクス・アウレリウスを輩出した。ストア派も、それと対照して考えられるエピクロス派も、著しい特徴はその個人主義的傾向である。それは、アレキサンダーという一人の人が来て(ヘーゲル)、そのために良きポリス共同体が滅び去った後、人間がヘレニズムの広い世界にひとりひとりとなって投げ出されたという体験に照応している。
ストア派の幸福は、唯一者に従い世界の秩序を従容として受入れ、その服従によって自由を得る人生の徳にある。個人の理性に対する静かで強い信頼、意志の独立がそこに見出される。後世ヘーゲルもこの理性の卓越性を称賛した。それはセネカの『幸福な人生について』に述べられている。 ストア主義は近代においてショーペンハウアーという表現を見出した。それは消極的な幸福追求であるが、積極が美徳、消極が悪徳というわけではない。世の「快楽主義者」はいわゆるエピキュリヌン(エピクロス主義者)で通している。「もし単に快楽の追求が幸福なら、むしろ私が求めるのは人間の善であって、胃袋の善ではない。胃袋は家畜や野獣の方が大きいではないか。」(セネカ)。エピクロスが『メノイケウスあての手紙』でいうように、本当の快楽主義(ヘドニズム)は、もちろんそのようなものではない。「平静」ということが大切なのである。ストア派のセネカにもこれはわかっていたので、エピクロスを崇高であるとさえいっている。それはセネカ『幸福な人生について』を読むとよい。 これは尊敬できるものである。また、明るい。だが、いかなるものであれ、キリスト教はエピクロスの快楽主義を拒否した。キリスト教の幸福は、「山上の垂訓」に示され、アウグスチヌス(初代キリスト教会最大の教父)によって決定的とされたように、原理的には此岸の拒否、彼岸(むこう岸、超越的なもの、永遠の神)の追求に魂のやすらぎを求めるものであり、快楽主義がどのように洗練されていても、いや、洗練されているがゆえに、人を永遠の生命から遠ざけるものとするのである。これに対し、後世ニーチェが『悲劇の誕生』などでキリスト教のこの傾向を論難したのは、人の知るところであろう。 哲学的には、あるいは社会科学的には、エピクロスの快楽主義は、個人の感覚的要求の充足という意味で近代功利主義の原型である。いまだ国家や市場が出現はしてはいないけれども、これらがそなわれば、快楽主義は、経済学的には、功利主義の理論的表現である「限界効用」の概念を通じて、現代社会の計画主義の哲学的一規準を与えたものといってよい。 われわれは中世を割愛しよう。 |
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■近代の幸福 =「不確かな」財産 | |
幸福は哲学以前であるといっても、古代が終わるころにはすでに、幸福についてひととおりの哲学的確信が得られていた、とはいえるであろう。「幸福」とは富や名声の中にあるのではなく、魂やその姿勢の内に基礎づけられる。理性的な洞察のない名声や富は「不確かな」財産である、と。
そうだとすると、「近代」それ自体が幸福と矛盾している。現代、人は、公的組織(国家)や私的組織(企業)のなかで生きざるを得ないし、名声は役割と紙一重であって、それが不確かでも逃れるわけにはゆかない。また、われわれは、市場の経済行為で生活の糧を得ざるを得ないから、不確かな富のゆえに市場を離れるわけにもゆかない。もちろん、必要と必要以上を区別せよという論は可能である。しかし、その差は、人間の生き方としてはきわめて相対的であって定まらず、問題はもとの幸福をめぐる哲学問題に戻ってしまうのである。 フランス革命は、人類史的に巨大な思想実験であったとともに、諸幸福学説のテスト場であった。とにかく、旧制度の証拠は刑罰制度ひとつ見れば具体的に明らかであった。かつて、ベッカリアが「犯罪と刑罰」で警告した不正な刑罰、ひどい野蛮が、いぜん支配していた。これは正真正銘の不正な法制度である。かれは幸福の分配について嘆いた。 「社会の利益はその全ての成員に普遍的に分たれなければならぬ。然るに、事実、人間の社会に於ては、この利益は最少数者の上に止まり、あらゆる権力と幸福とを少数者に、あらゆる貧弱と不幸とを残る多数者に集中せずにはおかない傾向が優勢なのである。」 フランス革命はまぎれもなくそれ自体一つの偉大な幸福の成就であった。「進もう、祖国の子らよ、栄光の日は来たれり」(ラ・マルセイエーズ)。革命の推進力ジャコバン派の青年雄弁家サン・ジュストのいうように、「幸福とは、ヨーロッパにおけるひとつの新しい観念」なのであった。もっとも、幸福はおびただしい革命のモットーの一つなのであって、フランス革命自体が新しい幸福の観念を生み出したことはない。むしろ成就した幸福の落着き先がはなから不確かであった。 マラー 「助けてくれ、いとしいもの!」 ロベスピエール 「いかなる道徳的観念とも縁のなかった男が、どうして自由の擁護者たりえようか。彼は悪徳に対して寛容を公言していたが、これによって、世界じゅうのありとあらゆる腐敗した人間どもを、味方として手に入れたのだ。」 ダントン 「ロベスピエールよ、お前もおれのあとからついてくるのだ………。」 このように、ひとえにこの「幸福」のために、フランス「人民の友」マラーは、確信犯人の見本ともいうべきジロンド派の少女シャルロット・コルデーの剣に倒れたのであり、ジャン・ジャック・ルソーの体現者にして、献身的な革命の使徒ロベスピエールも、自己の目的の高潔な道徳性を信じて、革命の僚友ダントンさえ断頭台に送った。かれはとみに妥協的になってきていた。そのダントンの最期の言葉どおり、ロベスピエールも革命の過激化を恐れたジロンド派を中心とする国民公会「中間派」によって失脚、同じく断頭台に送られる。後世、反動の代名詞となった「テルミドール(熱月)の反動」(1794年熱月9日)である。サン・ジュストもこのロベスピエールと同じ運命をたどる。 いかに自由が至高に道徳的でも、革命の課題はほどほどに成就しさらに血を流す政治は必要なく、その遂行者ジャコバン派の存在はいまや有害、危険である。これがかれら中間派(テルミドール派、テルミドリアンとよばれた)の共通の認識ないしは雰囲気であった。多くの変革、革命に共通な力学である。変革の敵はつねに内部にいるのであった。 |
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■ああ、痛ましき19世紀 | |
今世紀の伝記作者ステファン・ツワイクは「ジョセフ・フーシェ」ある政治的人間の肖像」のなかで、中間派を支えた中産市民階級(プティ・ブルジョワ)について言っている。
「テロルは終わったが、革命の熱烈火のごとき精神もまた消えてしまい、英雄時代は去ったのである。いまや後継者の時代がきた。山師と利得者、掠奪者と二股膏薬、将軍と富豪の時代、新しい組合の時代がきたのだ。」 「熱月9日という日に世界史的意義を与えたのは、ロベスピエールの処刑ではなくして、その後継者たちのこのような卑怯な欺瞞的な態度にある。なぜならこの日まで革命はいっさいの正義正道を革命自体のために要求するとともに、いっさいの責任を平然とみずから負うてきた。しかしこの日以来革命は不正非道を犯すことをもおそるおそる許容し、こうしてその指導者たちは革命を否定しはじめたからである。しかしながらあらゆる精神的信仰、あらゆる世界観は、みずからの絶対的に正しいこと、みずからの過誤なきことを否定するやいなや、その最も内部的な力がすでにすでに罅(ひび)がはいってしまうものなのだ。こうして悲しき勝利者タリアンとバラーが、その偉大な先駆者ダントンやロベスピエールの屍に鞭打って殺人者の残骸とののしり、右翼派の椅子、すなわち穏健党、共和国の秘密の敵の側におずおずと席を占めるにいたって、彼らは革命の歴史と精神を裏切ったのみならず、自分みずからを裏切ったのである。」 多数派テルミドリアンの頭目の一人になるはずだったフーシェは、最も政治的に慧眼であった。彼は、昨日までの政敵彼をあすにも断頭台へ送ろうとしていた―ロベスピエールたちの後継へ回った。 「答えは簡単だ、彼[フーシェ]の考えはほかの連中よりも賢明であり、先見の明があったからであり、彼のすぐれた政治的悟牲が、自体を達観することにかけては、危険が迫ったために息の短いエネルギーを発揮したにすぎないタリアンやバラーのような鈍物に比し深奥なものがあったからのことである。かつて物理学の教師をやっていた彼は、およそ波というものが空間に静止するを得ないという動力の法則を知っていた。波は前進するか後退するかしなければならぬものであることを彼は知っていたのだ。だから今、後退がはじまり反動がはじまれば、これもまた前の革命と同様、衝撃を中止することはないであろう。ちょうど革命と同じように極端まで最極限まで、すなわち暴力に走るであろう。しかしそうなればにわか細工のこの同盟は必ず破れるに相違なく、そして反動が勝つとなれば、その時には革命の前衛闘士はすべて滅びてしまうのだ。なぜなら新しいイデーとともに昨日の行為に対する尺度もまた物騒なほどに変わってしまうからである。昨日までは共和主義的義務および道徳と見なされたことも………そうなれば必然的に犯罪と見なされるであろうし、昨日の原告は明日の被告となるであろう。」 いまでもよく読まれるミシュレの『フランス革命史』も描写する。 パリはふたたび陽気になった。なるほど飢饉はあった。しかし、ペロン小路は光を放ち、パレ・ロワイヤルには人が満ちあふれ、劇場は満員だった。………この道を通って、われらは巨大な墓場へとおもむいたのである。この墓場にフランスは五百万人の人々を葬った。 この「墓場」が総裁政府(テルミドール派権力)を、「ブリューメル(霧月)18日のクーデター」で転覆したナポレオン・ボナパルトの軍人独裁、「ナポレオン体制」であることはいうまでもない。以後、フランスはナポレオンの第一帝政、ついで王政復古、七月王政(七月革命)、第二共和政(二月革命)、第二帝政、第三共和政、………と、バスティーユが陥落した1789年から第三共和政成立の1870年まで実に80年間、栄光と転落の目まぐるしい変化と混乱を演出した。この演出者こそ「市民階級」(ブルジョワ)であり、19世紀は「ブルジョワの世紀」であった。このブルジョワがフランス革命自体の子であり、テルミドール派に端的に表現された醜悪さを内部に抱えているにせよ、「幸福」という「新しい観念」、そしてツワイクのいう「新しいイデー」がはらみ落した子であることは、まちがいなかった。 この世紀はまた功利主義にとっては手におえない時代であった。なぜなら、はじめ「情熱」が歴史を推進しその持ち主はみな確信犯であった。彼らは功利主義とは全く縁のない世界に生きていた。情熱が引いた後は、退屈と日和見主義が支配した。スタンダールは『赤と黒』で、「自己の情熱のために身を犠牲にする、それなら文句はない。しかしありもしない情熱のためにとは!ああ!いたましき19世紀よ!」と、王政復古期のフランスを形容している。ここでも功利主義の道徳性はむしろ愚昧、こっけいと見られた。むしろ、ブルジョワの世紀が提起した問題に対し、社会主義(マルクス)、実存主義(キェルケゴール)、実証主義(コント)は、それぞれの立脚点から幸福学説を形成することとなった。 人間はあやうい不確かな位置にいるのであって、それは過去も今日も、したがって未来も変わることはない。これは哲学的にもそうなのである。古く、プラトンは民主主義を低く評価したが、アリストテレスは哲人政治を望むべくもないものとして、民主主義の方を高く評価した。現代アメリカの経済学者アロウは、いくつかの自然な公理をもとにして、民主主義は内部に矛盾を含むことを証明したが、これはいつにかわらぬ人間の困難の数学的表現の一つである。 |
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■「幸福」の政治哲学と市場哲学 | |
そもそも、エピクロスの感覚的な幸福論は、近代においてその近代版というべき「功利主義」をうみだした。「最大多数の最大幸福」(ベンサム)であらわされるように、これはそれ自体ひとつの幸福学説である。
もともと、感覚や経験は「人間」の自覚の確かな出発点と考えられ、その確信から「近代」の印をおびた経験主義の大きな歴史的流れが流れ出た。そのなかで、功利主義が、近代の二つの巨大なもの、一方で「国家」を他方で「市場」を作りだす思想的原動力となった意味は大きい。すなわち、今日のわれわれは、みな近代功利主義の子なのである。 功利主義はイギリスの古典的経験論に乗って展開してゆく。その一番手フランシス・ベーコンは、人間の先入見である「幻像」(イドラ)を除去し、「形相」(フォルマ)の把握によって自然を解明し、それを支配、利用することを夢みた。その思想にふさわしく、雪の防腐作用の実験中に病を得て没したが、その実験精神は近代を象徴している。 トーマス・ホッブスはこのフランシス・ベーコンの助手であった。このホッブスこそ、生々しい、赤裸々な近代の国家像の創始者である。かれは、まず、単に抽象的ではなく、人間に「権利」という所有物を認めた。この権利の所有者たちが糾合し、「社会契約」によって「コモンウェルス」(国家)をつくる。すべてが糾合されているので、このコモンウェルスは原理上、契約されている範囲では、できないことがなかった。その意味で権能において万能であり、かつて人間はこのようなものに会ったことがなかった。いうなれば巨大な怪獣(旧約聖書にある「リバイアサン」になぞらえた)が出現したのである。怪獣であるというのも、それはいわば機能的な生命体と考えられるからである。 これで、人間が自然状態(無政府状態)で暮らしている矛盾は克服される。ホッブスには、17世紀のイギリス革命前の絶えまない内乱はまさに実感であった。この契約により、人間は平和に幸福にこの地上で暮らせることになるが、人間に秩序を命じることのできるのは、本来、神だけであるから、このコモンウェルスはそれ自体「地上の神」である。その意味でホッブスの国家は中世を脱け出ていた。総じて、ホッブスは、「権利」、「契約」、「国家」を近代の人間に贈った偉大な天才的思想家である。 ベーコンの助手だけあって、「国家」の構成法も論理的科学的な色彩が濃く、また人間論は心理的生理的で、感覚と記憶が重視されている。哲学構想も、「物体論」、「人間論」、「市民論」の三部構成になっているが、「神」ぬきのものであって、もはや中世のアリストテレス的体系をみることはできない。ことに、ここにのべたような唯物主義にホッブスの大胆な近代性が表現されていると、一般には考えられている。しかし、アリストテレスの体系との関係、キリスト教との関係、教会論などは、未知の分野も多く、『リバイアサン』の最後の教会論は、それほど反教会的ではない。ホッブスの評価はややステレオタイプになっており、再評価はわれわれ近代に新しい展開を与えよう。 ジョン・ロックはホッブスと異なり、人間の「自然状態」を「自然法」のみが支配する、「自由」かつ「平等」な理想的な幸福状態ととらえたうえで、それのもつ矛盾、弱さを克服するため必要で最小限の、しかしその限りにおいては最高の権力を構想し、それを「立法権」として定義した。『市民政府(二)論』がそれである。それは君主権の気ままな行使から人民を守り、他方、立憲君主制度を理論的に擁護するという、実践的要請に貫かれており、構成は常識的に見える反面きわめて周到であり、人民を守るいわゆる「抵抗権」も社会契約の内容から導かれる。『市民政府論』は、これ自体一つの正統的教義であり、アメリカ合衆国独立宣言にはほぼ同旨の原理が採用されている一方、名誉革命を遂行した新興市民階級の利益を反映して、所有権の不可侵性が強く打ちだされている。 ジョン・ロック自身は、ピューリタンではなかったが、その生活や思想はピューリタン的であった。もっとも、その著作には「神」は強くだされず、自然法を後見する神がいた。また、『市民政府論』の構成も、親子関係の理念から出発し、目的論によって論を運んでいる。ホッブスのような原子論はとられていない。ジョン・ロックにおいて、近代秩序と古代中世的秩序が交錯しているのは、興味深い。 「国家」のつぎは「市場」である。市場の哲学者、アダム・スミスは道徳哲学者として功利主義者、そしてその上に国民経済学をきずいた。その議論の基本はこうである。まず分業を前提とする。労働そのものは「苦痛」(トイル、骨折り)であるから、商品はそれの生産に費やした苦痛に見合う分の価値をもつと考えられ、その苦痛の計算値(労働時間)が等しくなるとき、商品交換が成立する。そうでなければ苦痛は補償されないからである。スミスはこの「労働価値説」の最初の体系的樹立者であったが、分業形態の出現を前提としている。つまり、価値を実体的なものにするのが分業である。スミスの『諸国民の富』は、このように成立する「市場」メカニズムにつき、次のように述べる。 |
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■「分業について」では、道徳哲学の一大命題 | |
われわれが食事をとれるのも、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのでなくて、自分自身の利益に対するかれらの関心によるのである、
「国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について」では、政治経済学の一大命題;個人の私利をめざす投資が、見えざる手に導かれて、社会の利益を促進する。………見えざる手に導かれて、みずからは意図もしていなかった一目的を促進することになる、 とのべる。利己心が無政府(アナーキー)ではなく社会的善をもたらすことは、常識にとって驚きである。スミスはグラスゴー大学の道徳哲学の教授として『諸国民の富』に先立って『道徳感情論』を著したが、この2書が、政治経済学(ポリティカル・エコノミー)、道徳哲学(モラル・フィロソフィー)として、経済学の両輪をなすのである。経済学とは、市民的幸福のための市場哲学であった。 だから、「市場メカニズム」がどのような気ままな私利追求も免責するということではない。スミスは人間の利他的本能をより高次の「正義の法」としてとらえ、良い行為と悪い行為、それに対する報償と制裁をくわしく論じる。正義の法は、直接に個人の私利追求に介入することなく、全体として正義が損なわれぬ形で、個人の利己心が社会の利益を達成するよう後見すべきである。このように、スミスは「諸国民の富」の追求を、人間の高い「道徳感情」の上に載せたうえで、自由放任(レッセ・フェール、レッセ・パッセ)という神の手に任せたのである。スミスは1790年、前年のパリ・バスティーユの陥落の報と入れかわりに没したが、かれが思った新興市民階級が大陸でどのような革命を成就し、どのような反動を引き起こし、矛盾と醜悪さを抱え込みながらも次の世紀の力強い担い手に成長したか、それを知らなかった。 |
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■近代のエピクロス主義者 | |
フランス市民革命が近代最大の政治的事件であるとすると、同時代人としてこれに立ちあったイギリス経験主義者は、いうまでもなく、ジェレミイ・ベンサムである。功利主義のモットー「最大多数の最大幸福論」でよく知られるこの近代エピクロス主義者の原点は、『道徳および立法の諸原理序説』の始まり
「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが口をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が、地方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている」(第一章 功利性の原理について) でよく理解できるが、市民(ブルジョワ)の時代にあって、このエピクロスの説も公共性をもっていた。ベンサムの念頭にあったのは、ベッカリーアと同じく、何はともあれ刑罰法を中心とする司法改革、そして憲法改革(成文憲法典)、極度に不正な選挙法の改革、経済上の制限立法の改革などであった。大陸で起っていた急激な政治的革命と比べれば地道で、今でいえば政策科学であったが、実際には結果は失意と絶望の連続であった。選挙法改革、制限立法の改革が至難であることは、今日を見れば想像に難くない。(彼の思想を受け入れたのは若々しい革命フランスであって、ミラボーはベンサムの著作中に演説の材料を求めている。) ベンサムにつぐジョン・スチュアート・ミルに至って、ベンサムの感覚的快楽原理は精神的のものへ拡大され、また、量的にしたがって異なった個人間で、功利(効用)は比較できないものとされた。『功利主義論』には、有名な豚とソクラテスの比喩がある。ミルは、とうの昔に廃れてしまったアリストテレスの使徒であった。 イギリス経験論の精神的な傾向はその静けさにある。フランス革命の奔放な理性信仰は、すでにジャコバン独裁のころからベンサムを困惑させていた。1789年のフランス人権宣言の「平等」、「自由」の暴力性、無政府性、全体的な形而上学性を彼は批判したが、逆に、後年、このベンサムをマルクスは「俗物の元祖」と呼んでいる。ここには、この世紀における、功利主義者の不安と役割の後退があらわれている。その意味では、ミル(1806−1873)の生きた時代はまさに象徴的であった。1806年にはナポレオン帝政が既に始まっており、1873年に第二帝政が倒れて第三共和政が成立、世界が帝国主義の時代へ入ってゆくまで、まさにフランス革命の生んだ市民社会の典型期に一致する。これは、この自由主義的功利主義者の不安をさらにつのらせた。一世紀ほど後に、ドイツの政治哲学者のカール・シュミットが『現代議会主義の精神史的地位』において 「ミルは、民主主義と自由との対立の可能性、少数者の否定を、絶望的な憂慮をもってみていた。ただひとりの人間であれ自分の意見を表明する可能性をうばわれるかもしれないと考えただけでも、この実証主義者は、説明しがたい不安のなかにおかれるのであった。なぜなら彼は、ひょっとするとそのひとりの人間が真理にいちばん近づいているかもしれないと心に思うからである。」 と言ったのは、ミルが、その『自由論』でのべたように、市民社会が自由によって生まれながらその自由を否定する矛盾をこの目で一部始終を見た同時代人として、皮膚で感じていた不安を、指しているのである。シュミットの口調にはやや皮肉が感じられる。「議会制−民主主義」の「−」は到底両立できない。二概念を強引に文言上つないでいる単なる符号と見破っていた自負があったからであろうか。 一方、マルクスの方からの批判はもっときつい。『資本論』第二版へのあとがきは、ミルの経済学へ批判の矢をむける。 「1848年の大陸の革命は、イギリスにも反作用をおよぼした。なおも科学的立場を要求して、支配階級のたんなる詣弁家や追従者以上の者であろうと欲した人々は、資本の経済学を、いまやこれ以上無視しえなくなったプロレタリアートの要求と調和させようとした。それゆえに、ジョン・スチュアート・ミルによって最もよく代表されるような、無気力な折衷主義があらわれたのである。これこそ『ブルジョア』経済学の破産宣言であって、………」 そのミルも、自由主義的功利主義者として、『経済学原理』で逆に社会主義的国家の存在を自由への脅威と考えていた。 シュミットがミルを「実証主義者」とよび、マルクスが「折衷主義者」と呼んだのは、興味深い。ミルのこの功利主義は、すでに体系に発展しつつある経済学、そして、転変きわまりないフランス社会の現実に何らかの経験的説明を与えようとする試みとしてのコントの実証主義、さらには、本筋のベンサム功利主義の「最大多数の最大幸福」原理に対する「自由」の原理からする懸念の立論、こういった諸傾向をまとめ上げる一つの受け皿の性格をもっていた。思想としての「功利主義」も、イギリス、フランス諸国の立法改革の思想原動力となって一定の成果をあげ、いわゆる「哲学的急進派」はベンサム、ミルにおいてその役割を終えた。ミルにおけるように、いわば「功利主義的」発想法として近代人の発想法の中へ拡散し発展的に解消したと思われる。マルクスの批判も考えあわせると、ミルはまさに次の時代への過渡期の思想家であった。 |
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■「近代経済学」とは何なのか | |
一つの大きな動きは、1870年代初頭の経済学における「限界革命」である。カール・メンガー(ウィーン)、スタンリー・ジェヴォンズ(ケンブリッジ)、レオン・ワルラス(ローザンヌ)は、独立に、すでにミルが指摘していた「限界効用逓減の法則」に注目、スミス以来の労働価値説に替えて「限界効用」を価値の基礎におき、生産、分配をも統合的に包む経済学理論をうち立てた。これが、今日のいわゆる「近代経済学」とりわけミクロ経済学(価格理論)の原型である。「限界効用」は財そのものを原子論的、微視的に価値づけし、経済学の課題の中に個人(方法論的個人)の主体的、主観的、心理的選択の考え方を積極的に導入、経済主体(とくに消費主体)の行動を陽表的に捉えることに成功した。
これに対しても、ソ連の経済学者ブハーリンが、この近代経済学の傾向を、「金利生活者」の経済学としてきびしく批判している。個人(主観)主義的、非歴史的、消費的傾向をさしている。マルクス経済学それ自体にも問題があるものの、「金利生活者」の幸福とは今の日本の幸福状況をしめしてはいまいか。 |
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■カント「純粋理性批判」序論 | |
■T 純粋な知識と経験による知識の違い | |
我々のあらゆる知識が経験から始まることは疑いがない。なぜなら、我々の認識能力は、対象となるものに出会わないで、どうして働き出すだろうか。対象が我々の感覚に働きかけて、一方でそのイメージを作らせ、一方で知性の活動を喚起してその様々なイメージを比べさせたり、組み合わさせたり、分離させたりして、その結果、感覚の印象から来た生の素材を知識に作り変えるのである。この知識こそは経験と呼ばれるものである。
したがって、時間的な順序で考える限りは、経験に先立つ知識などあり得ないことになる。つまり、経験によって全ての知識は始まるのである。しかし、全ての知識が経験によって始まるといっても、我々の全ての知識が経験の中から生まれてくるわけではない。 なぜなら、我々の経験による知識は、外から受け取る印象と、(その感覚的印象によって喚起された)我々の認識能力がもともと自分自身で用意しているものが合わさって、はじめて生まれてくるものである可能性が高いのである。 この我々の認識能力が用意しているものと元の素材との違いは、そう簡単には見分けられず、そこに注目してその違いが分かるようになるには長年の訓練が必要だろう。 これが本当にそうなのかはよく調べてみないと分からないし、とても簡単に答えられないことである。いったい、経験にも感覚的印象にも依存しないような知識が存在するのだろうか。そのような知識は、経験によって後天的に生まれた知識である経験的知識とは区別して、先天的知識と呼ばれている。 しかし、先天的知識というだけでは、我々の問題が意味することを充分正確に表しているとは言えない。なぜなら、我々は経験から得た知識であっても、その時には直接経験せずに常識で考えて分かったことを、「そんなことははじめから分かっていた」と言いがちだからである。しかし、常識は経験から手に入れたものにすぎない。 例えば、家の土台の下に穴をあけたために家が倒れた人がいると、そんなことはあらかじめ分かるはずだ、つまり、家が実際に倒れるという経験がなくても分かるはずだと言うだろう。しかし、その人が前もってそのことを知らなかった可能性はある。なぜなら、そのことを前もって知っているためには、少なくとも、物体には重さがあって、支えがなくなると落下するということを経験を通じて知っていなければならないからである。 したがって、我々が以降において先天的知識と言う場合は、特定の経験に依存しない知識ということではなく、どんな経験にも依存しない知識を意味するものとする。その反対が経験的知識であり、経験を通じて後天的にしか手に入れることのできない知識を意味する。そして、先天的知識のうちでも、経験に依存する要素が少しも混じっていないものを、純粋な知識と呼ぶことにする。 たとえば、「あらゆる変化には原因がある」という命題は、先天的ではあるが純粋ではない。なぜなら、この命題の中の「変化」という概念は経験によらなければ手に入らないからである。 |
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■II 我々はある種の先天的知識を持ってる 常識さえもこれを欠いては成立しない |
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次に問題なのは、純粋な知識と経験による知識を明確に区別する基準は何かという問題である。経験によって我々が知ることができるのは、あるものがこれこれであるということだけである。それが必然的にそうであるということは経験によって知ることはできない。
したがって、第一に、もし我々に必然的にそうであると思われるような内容の命題があれば、それは先天的な判断を表していることになる。そして、その命題がさらに先天的な判断を内容とする命題から引き出されたものだとすれば、それは完全に先天的な判断を表していることになる。 第二に、経験から引き出された判断(帰納法)は、例外のない普遍性を備えていない。それは比較的多くの場合に当てはまるだけである。つまり、これまで観察した範囲では、これこれの法則には例外が見つからなかったと言うことしかできない。したがって、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その内容は経験から引き出されたものではなく、完全に先天的だということになる。 経験的な普遍性を持つ命題は、多くの場合に当てはまることを全てに当てはまるように言っているだけである。例えば「全ての物体は重さを持っている」という命題がそうである。それに対して、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その判断は先天的認識能力という特殊な源泉から引き出されたものである。つまり、その内容が必然性と例外のない普遍性を備えていることが、先天的知識の基準であって、この二つの基準は互いに密接に結び付いているのである。 しかしながら、ある判断が必然的でないことを示すより、例外のない普遍性を持たないことを示す方が簡単であるし、ある判断の必然性を示すより例外のない普遍性を示す方が分かりやすかったりする。だから、これらの二つの基準は別々に使うのが望ましい。片方だけで充分正確だからである。 さて、ここまでくれば実際に人間の認識の中に、必然的で例外のない普遍性を持つような判断、すなわち、純粋で先天的な判断があるかどうかを示すことは簡単である。 学問から例を求めるなら、数学の様々な命題を思い浮かべればよい。また、常識的な頭の働きから例を引くなら、「全ての変化には原因がある」という命題をあげれば充分だろう。 後者について言うなら、「原因」という概念そのものの中に、原因と結果の結びつきという必然的な概念と、原因結果の法則の持つ例外のない普遍性が含まれているのは明らかである。したがって、もし原因の概念が(ヒュームの言うように)ある出来事とそれに先立つ出来事を何度もいっしょにして、その二つを結びつけて考える習慣から引き出されたもので、主観的な必然性しか持たないものだとしたら、それはもはや原因とは言えなくなるだろう。 いや、このような例に頼らなくても、我々の認識能力には経験によらない純粋な原則(Grundsätze)が存在することを証明できるし、人間の認識が可能となるには経験によらない原則がなければならないことを示すことができる。 なぜなら、人間の認識が従うべき原則(Regeln)がことごとく経験から引き出され、何の必然性も備えていないとしたら、人間の認識はどこで確実さを手に入れられるだろう。そのような原則はとても原則(Grundsätze)としては扱えないだろう。 とは言え、今のところは、我々の認識能力に純粋な用法があることを確認し、そのような用法の特徴を示すだけにとどめておこう。 しかし、判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのものが消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。 このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、(実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象がなんらかの実体に属していると考えさせるような性質を取り除くことはできない。 諸君は何についてであれその本質について考えざるを得ないのである。そのために、諸君は本質という概念が諸君の先天的な認識能力のなかに存在することを認めざるをえない。 |
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■III あらゆる先天的認識の可能性、 その原則と範囲を明らかにする学問が哲学には必要である |
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これまで述べたことよりもさらに重要なことは、ある種の認識が、経験の領域に留まっていずに、経験の世界に対応するものがないような概念を使って、経験の領域を越えて我々の判断の範囲を拡大しているように見えることである。
我々の理性は、現象の世界で知ることができるどんな事よりもはるかに重要ではるかに高級な問題を探求し続けているが、この探求はまさにそのような認識に属しており、経験を手がかりに真実を探求する感覚の世界を越えたところで行われている。 実際、我々は、どれほど疑いの目で見られようと、どれほど軽蔑され無視されようと、あらゆる誤謬の危険を冒してまで、この重要な問題の探求を止めようとはしない。この純粋理性にとって避けることのできない問題とは、神と自由と、霊魂の不死の問題である。 そして、形而上学とは、これらの問題を解決することにあらゆる精力を注ぎ込んできた学問である。この学問は最初から、独断的に、つまり理性の能力を前もって見極めることなしに、これほど重大な問題に自信満々で取り組んできた。 しかしながら、経験という土台を離れる以上は、我々がこれからうち立てようとする建物の土台が大丈夫なのかどうかをよく調べておくのが自然である。どのような知識でも、それがどこから来たかを確かめずには使えないし、どんな原則(Grundsätze)でもそれがどんな起源を持つものかを知らずに信用するわけにはいかないからである。 つまり、我々の知性はどうやって上記の先天的な認識能力を手に入れるのか、そして、先天的な認識能力はどの程度のもので、どれほど有効で、どんな値打ちがあるのかという問題を、前もって考えるのは自然なことである。もし「自然」という言葉が、「ふさわしくて合理的に起こるべきこと」を意味するなら、実際これ以上に自然なことはない。 しかし、もし「自然」という言葉が「普通に起きること」を意味するなら、逆に理性の能力に対する検査がこれまでずっとなおざりにされてきたことほど、自然で分かりやすいことはない。なぜなら、先天的な認識の一つである数学的認識の信頼性はずっと昔から確立されているので、数学とはまったく性格を異にするかもしれない他の先天的な認識も数学と同じようなものだと思われてきたからである。 しかも、いったん経験の世界の外に出てしまうと、もはや経験と矛盾する心配はなくなってしまうし、認識を拡大する魅力は抗しがたいものなので、明らかな矛盾に直面しない限り、拡大の歩みは止まりようがない。しかも、この明白な矛盾は虚構の世界を念入りに組み立てることによって避けられるのである。しかし、虚構は虚構でしかない。 数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもどんな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によらなくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。 こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。 このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出していったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはできなかった。しかし、自分ではそれには気づかなかったのである。 理論によって何らかの構築物をうち立てようとするとき、人々はできるだけ急いでそれを完成して、その基礎がしっかりしているかは後から調べようとする。それが思索の場での人間の理性のいつものやり方である。しかも、その基礎が大丈夫だと得心するために、あるいは手遅れの危なっかしい検査を無しで済ませるために、あらゆる言い訳を探し求めるのである。 建築の途中では基礎について何の疑問も不安も抱かず、しっかりした基礎の上に建てていると思い込んでしまうのは、我々の理性が行うことの大部分が、対象についてすでに我々が持っている概念を分析することだからである。 概念の分析というものは非常に多くの知識を我々にもたらしてくれる。しかし、分析は、実際には既存の概念の中ですでに(混乱した形ではあるが)考えられていたことを明るみに出したり明確にしたりするだけである。ところが、少なくとも形の上からは、それらは新たな知識のように思われがちである。しかし、その内容や素材に関する限り、既存の概念を拡大したわけではなく、それをただ分析しただけなのである。 しかし、この分析というものは実際に先天的な認識(分析的判断)をもたらしてくれるし、その認識は確かなもので役立ちもする。この見せかけにだまされて、人々はいつの間にか、概念の分析だけで元の概念とはまったく別の認識、つまり、既存の概念にそれとは違う先天的な概念を付け加えるような認識(総合的判断)を生み出せると思い込んでしまった。ところが、どうすれば総合的判断を生み出せるかは誰も知らないし、そんな疑問を抱いた人さえもいないのである。 そこで、次にこの二つの判断の違いを論じることにする。 |
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■IV 分析的判断と総合的判断の違い | |
主語と述語の組み合わせで表現される判断(ここで扱うのは肯定判断だけだが、以下に述べることは否定判断にも容易に応用できる)には、二つの種類が可能である。その一つは、主語Aと述語Bがあるとして、Bの概念がAの概念に(隠れて)含まれている場合。もう一つは、二つの概念の間につながりはあるが、Bの概念がAの概念とは別にある場合である。
最初の場合をわたしは分析的判断と呼び、あとの場合を総合的判断と呼ぶ。分析的判断では(肯定の場合)、同一性によって主語と述語が結びつけられている。それに対して総合的判断では、同一性なしに主語と述語が結びつけられる。 前者の場合は、述語は主語の概念に何も付け加えることはない。それは、主語の概念の中に(混乱した形ではあるが)すでに存在すると思われる部分的な概念に分解するだけである。したがって、これは注釈的な判断と呼ぶことができる。 それに対して、後者の場合、述語は、主語の中にはけっして存在しない概念、主語の概念をいくら分析しても引き出せない概念を主語の概念に付け加える。したがって、これは拡張的な判断と呼ぶことができる。 たとえば、もしわたしが「全ての物体には大きさがある」と言えば、それは分析的判断である。なぜなら、わたしは「大きさ」が「物体」と結び付いていることを発見するには、「物体」と結びつけて考えられる概念を越える必要はなく、「物体」の概念を分析していき、わたしがいつも「物体」の概念の中にあると思っている様々なものを想起すれば、この述語を見つけ出すことができる。したがって、これは分析的判断である。 それに対して、もしわたしが「全ての物体には重さがある」と言えば、この述語はわたしが一般的に「物体」という概念の中にあると思っているのとは全く違う概念である。そこで、このような述語を付け加えるのは総合的判断だということになる。 ところで、経験に基づくあらゆる判断は、本質的に総合的判断である。なぜなら、分析的判断の根拠を経験におくのは無意味だからである。わたしが分析的判断をする場合には、自分の持っている概念の外に出る必要はないし、その判断の正しさを経験によって証明する必要もないからである。 「物体には大きさがある」というのは、先天的に成立する命題であり、経験に基づく判断ではない。なぜなら、経験するまでもなく、「物体」の概念の中を探せば、この判断を下すのに必要なものは全て揃っているからである。だから、わたしは「物体」の概念から、矛盾律(「AがBであると同時にBでないことはあり得ない」という法則)にしたがって述語を引き出せばよいのである。そうすれば同時に、この判断は、決して経験から得ることのできない必然性を備えたものとなる。 一方、わたしは「重さがある」という述語を「物体」の概念に含めて考えることはないが、「物体」の概念は経験の一部となることによって経験の対象となる。すると、わたしは経験の一部となった物体の概念に、同じ経験の他の一部(重さ)を付け加えることができるようになる。こうして、重さの概念は物体の概念に結びつけられる。 わたしはその前に、「物体」の概念を「大きさ」や「不可侵性」や「形態」などどれも「物体」の概念の中に存在すると思われる特徴によって分析的に認識することができる。しかし、今わたしは、自分の認識を拡大しようとしている。 つまり、わたしは物体の概念を引き出した際の経験を想起して、上記の様々な特徴に「重さ」という特徴が結びついていることに気づいたとき、この「重さを持つ」という述語を「物体」の概念に付け加えるのである。 このように、「物体」という概念と「重さ」という述語を総合的に組み合わせることができるかどうかは、経験に依存している。一方の概念は他方の概念に含まれてはいないが、両者はそれぞれ、たとえ偶然であっても、経験という全体の中の一部として互いに結び付いている。経験とはそれ自体様々な直観を総合的に組み合わせたものだからである。 しかし、総合的判断の中でも先天的なものの場合には、この経験の助けを全く得ることができない。では、わたしはAという概念の外へ出て、Bという概念がAという概念と結び付いていることを知るには、何を頼りにすればよいだろうか。何によって総合的な結合は可能となるのだろうか。なぜなら、この頼りとすべきものを経験の領域の中で探すことはできないからである。 例えば、「全ての出来事には原因がある」という命題を考えてみよう。「出来事」という概念には、ある存在とそれが存在する前になにがしかの時間が経過していることなどを考えることができる。そして、この「出来事」という概念から分析的判断を引き出すことはできる。しかしながら、「原因」という概念は「出来事」という概念とは完全に別のところにあって、「出来事」という概念とは全く異なるものであり、「出来事」という概念には決して含まれてはいない。 では、どうして、わたしは「出来事」について、それとは全く異なる述語を加えて、「原因」の概念が「出来事」の概念に含まれていないにもかかわらず、それが「出来事」の概念に必然的に結びついていると認識するのだろうか。 我々が、概念Aの外側に、それとは異なるが、同時にそれと結び付いていると思われる述語Bを発見できたと思うとき、その裏付けとなる未知のXとは何だろうか。それは経験ではあり得ない。なぜなら、ここで問題にしている命題は、前の概念に後の概念を、例外のない普遍性と必然性をもって結びつけるものであり、概念だけに基づいており、完全に経験から独立した命題だからである。 つまり、我々の経験に依存しない理論的な認識の最終的な目標は、このような総合的命題、つまり、拡大的な命題である。なぜなら、確かに、分析的命題は非常に重要で無くてはならないものだが、それは総合的結合を確実かつ広範囲に行って新たな知識を手に入れるためには概念の明確化が欠かせず、そのためには分析的命題が役立つというだけのことだからである。 |
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■X 経験に依存しない総合的判断は、 理性がたずさわる全ての理論的な学問の原理となる |
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1. 数学上の判断はすべて総合的判断である。この事実は議論の余地のないほど確かであり、それがもたらす結果から見ても非常に重要である。にもかかわらず、これまでのところ、理性の分析に携わる人たちはこの事実を知らないでいる。いやそれどころか、彼らはこれとは全く反対の考え方をしているのである。
なぜなら、彼らは全ての数学者の推論が(例外のない必然性を確保するために)矛盾律によって行われることを発見したので、数学の原理(Grundsätze)もまた矛盾律によって導かれる(分析的判断)と考えているからである。しかし、これは間違っている。 確かに、総合的命題を矛盾律によって説明することができる場合もある。しかし、それは、その命題が引き出された元の総合的命題が別にある場合に限られていて、総合的命題が単独で矛盾律によって説明されるわけではない。 まず第一に、厳密な意味での数学的命題はつねに先天的な判断であって経験による判断ではないことに注目しなければならない。なぜなら、数学的命題は経験からは引き出せない高いレベルの必然性を備えているからである。これに異議を唱える人がいるなら、この特徴を純粋数学に限ってもよい。ということは、純粋で先天的な知識だけを含み、経験的な知識を含まない数学(代数や幾何など)ということである。 例えば、7+5=12 という命題は分析的命題で、7と5の合計という概念から矛盾律にしたがって引き出されると考える人がいるかもしれない。しかし、よく見ると7と5の合計という概念は、二つの数を結びつけて一つにすること以外には何も含んでいないことが分かる。 二つの数を合わせた一つの数が何であるかという情報は、その中には含まれていないのである。わたしは7と5を結びつけることを考えるだけでは、決して 12という概念を導き出すことはできない。わたしはそのようなありうべき合計という概念をどれだけ分析してみても、そこに12という数を見つけることはできないのである。 そのために我々は7と5の合計という概念の外に出て、直観の助けを借りなければならない。その直観とは例えば二つの数の一方に対応する五本の指や、ゼンガーがその『算数』の中で示したような五つの点である。そして、この直観によって与えられた5の一つ一つを順番に7の概念に加えていくのである。 つまり、わたしは7から出発して、5という概念の代わりに手の五本の指を直観として使って、取りのけておいた一つ一つを5になるまで、このイメージにしたがって、7に対して順番に足していくのである。そうして12という数字が出来上がるのを目にするのである。 7に5を足すということは、「7と5の合計」という概念の中に見つけることができるが、その合計が12という数に等しいということは、その概念の中にはない。つまり、数学的命題はつねに総合的なのである。これはもっと大きな数を扱うならさらにいっそう明らかになるだろう。その場合には、どれだけ手元にある概念をひねくり回してみても、直観の助けなしにそれらを分析するだけでは、けっして合計の数を発見できないことが明白だからである。 同様に、純粋な幾何の原理(Grundsatz)はどれもけっして分析的命題ではない。「二点間を結ぶまっすぐな線は最短の線である」というのもまた総合的命題である。なぜなら、わたしの中の「まっすぐな」という概念には、質に関する内容は含まれていても、量(長短)に関する内容は含まれてはいないからである。「最短」という概念は、完全によそから付け加えられたものであって、「まっすぐな線」という概念をどう分析しても、そこから引き出すことはできない。 したがって、ここでも直観の助けが必要である。この助けがあってはじめて総合は可能となるのである。 幾何学者が前提としている原理(Grundsätze)のなかには、確かに分析的なものがあって、それらは矛盾律に基づいている。しかし、そのような命題は、同一律(A=B)と同じく、演繹法や帰納法でつなぎの役割をしているだけで、単独で原理(Prinzipien)として機能しているわけではない。 たとえば、A=A、つまり「全体はそれ自身に等しい」とか、(A+B)>A、つまり「全体はその部分より大きい」などがそうである。確かにこれらの命題は直観なしに概念だけで有効であるが、それらが数学のなかに含まれているのは、直観で捉えられるからにほかならない。 数学の場合、このような例外のない必然性を備えた命題の述語は、我々の概念の中にすでに含まれており、その命題は分析的なものだと一般的に信じられているとすれば、その原因はひとえにこのような命題の表現方法の曖昧さにある。 というのは、我々は数学の命題においては一つの与えられた概念に何か一つの述語を付け加えて考えるべきなのであるが、この結び付きの必然性はすでにその概念に付随しているからである。しかしながら、問題とすべきは、与えられた概念に何を付け加えて考えるべきかではなく、その概念の中に、たとえかすかではあっても、実際に何があると考えるかである(訳注:数学の命題の場合には、概念の中には何も考えてはいない)。 そうすれば、その述語は、与えられた概念自身の中にあると考えられたものとしてではなく、その概念に付け加えられるべき直観をつうじで、その概念と必然的に結び付いていることが明らになる。 2. 自然科学(物理学)の法則の中には、経験によらない総合的判断が含まれている。そのうちから二つだけ挙げてみよう。「物質の世界の変化においては物質の量は不変である」と「動きの伝達においては作用と反作用は常に大きさが等しい」である。これらの法則が両方とも、必然性と先天的起源を持っているだけでなく、総合的命題であることは明らかである。 なぜなら、わたしは物質という概念の中では不変ということを考えたりはしない。物質が空間を占めていることから、わたしはそれが空間の中に存在するということだけを考える。そこで、わたしは物質の概念の外側に行って、その概念の中では考えることのできない先天的な何かをその概念に付け加えて考える。したがって、この命題は分析的ではなく総合的であって、しかも経験に依存しないものである。自然科学の他の純粋な分野の命題もこれと同様である。 3.形而上学は、これまで単に試みとしてなされただけの学問であるとはいえ、人間理性の特性のおかげで、無くてはならない学問であり、その中には経験によらない総合的な認識が含まれているはずである。なぜなら、その役割は、物事に対して我々が先天的に自ら持っている概念を分析して明らかにするだけでなく、我々の先天的な認識を拡大することでもあるからである。 そして、そのためには、我々は与えられた概念に、その概念に含まれていない何かを付け加えるような原理(Grundsätze)を使わねばならない。そして、先天的かつ総合的な判断を通じて、もはや経験によっては確認できない世界の探求に乗り出すのである。それは、例えば「世界には最初の始まりがある」というような命題を探求することである。このように、形而上学とは、完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。少なくとも、形而上学の目的とはそういうものである。 |
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■VI 純粋理性についての一般的な問題 | |
多くの問題を一つの問題の形にすることができれば、それだけですでに大きな収穫だろう。そうすれば、問題が正確に定義されて、仕事がやりやすくなるだけでなく、我々の意図が実際に達成されているかどうか確かめようとする人たちにとっても、判断がつけやすくなる。
ところで、純粋理性の問題は 「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」 という問題の形に集約できる。この問題はこれまで一度も検討されずにきている。そのために、形而上学はこれまでずっと矛盾と混乱の間を行ったり来たりしてきた。いやそれどころか、分析的判断と総合的判断の違いさえもよく検討されずにきたのである。 この問題がもし解明されるなら、形而上学は着実な進歩を始めるだろう。しかし逆に、総合的な判断は経験によらなければ不可能であることが充分に証明されれば、形而上学は存在できないことになる。 多くの哲学者たちの中でもデビッド・ヒュームはこの問題に最も近づいた人である。しかし、彼は充分明確にしかも普遍的なやり方でこの問題を考察したとは言えない。彼はひたすら原因と結果の関係という総合的命題(因果律)に取り組んだ。そして、彼はそのような命題は経験によらなければ全く不可能であるということを明らかにしたと信じた。 彼の結論によれば、我々が形而上学と呼んでいるものは全くの妄想でしかない。つまり、実際には経験から借りてきたものが習慣によって必然性を持っているように見えるだけのものを、我々は理性による認識だと思い込んでいるのである。 彼がもし我々の問題を普遍的な観点から考察していたら、あらゆる純粋哲学を破壊するこのような結論に陥ることはなかっただろうし、自分の説に従えば、総合的命題を経験によらずに扱う純粋数学が不可能になることに彼も気づいていただろう。頭のいい彼が純粋数学が不可能だと言うはずはないからである。 上記の問題を解くことは、すなわち、対象に対する経験によらない理論的知識を含むようなあらゆる学問を純粋理性を使用することによって創設し完成させることは可能であるかどうかを問うことである。要するにそれは、次の問に答えることである。 「純粋数学はどのようにして可能か」 「純粋な自然科学はどのようにして可能か」 これらの学問が実際に存在する以上、このように問うてみることは決して間違ってはいない。なぜなら、そもそもこれらの学問が可能であること自体はそれらが存在することによってすでに証明されているからである。(原注) 原注 / それでもなお純粋な自然科学の存在を疑う人がたくさんいるかもしれない。しかしながら、経験に基づく物理学についても、その初期の頃に発見された様々な法則、質量保存の法則や慣性の法則や作用反作用の法則などのことを考えてみればよい。すると、これらの法則が実は純粋な物理学を構成するものであることが容易に分かるはずだ。このような理性に基づく純粋な物理学は、たとえそれが扱う範囲は狭くても、独立した学問として扱うに値する。 いっぽう、形而上学のこれまでの歩みは遅々としており、また、これまでに提案された形而上学はどれ一つとってみても、この学問の本質的な目的に照らせば、それが実際に存在するとは言えないものである以上、この学問がそもそも可能かどうかを疑ってもよいのである。 しかし、ある意味では、この学問が標榜するような知識は、すでに誰にも与えられていると考えるべきでもある。つまり、形而上学は現実に存在しており、それはたとえ学問とは言えないとしても、人間の本質的な傾向なのである(metephysica naturalis)。 なぜなら、人間の理性は、単なる虚栄心に満ちた博識の欲求に駆られることはなくても、内面の欲求に駆られて、ある問い──理性の能力を経験の世界に働かせても、経験から得た原則(Prinzipien)を使用しても答えられないような問──に向かって、ひたすら突き進むものだからである。そのために、どんな人間も、理性が成熟して物を考えるようになると、心の中に何らかの形而上学がいつも存在するようになり、決して消えることがない。そこで 「人間の本質的な傾向としての形而上学はどのようにして可能か」 という問いが生まれる。それは言い換えると「どのようにして、一般的な理性の本質的傾向として、あの問い──純粋な理性が自らに問いかけ、何とかして答えようと必至になるあの問い──は生まれてくるのか」ということである。 これまでのところ、このような問い──例えば、世界には始まりがあるのか、それとも昔からずっと存在するのかという問い──に答えようとするどのような試みも、矛盾に直面せずにはいられなかった。そのために、我々は形而上学をめざす本質的傾向には満足できないでいる。それはとりもなおさず、何らかの形而上学(その成否は問わず)を常に生み出してきた純粋理性の能力に不満を感じているということである。 しかし、我々はそもそも形而上学の対象となるものを認識できるかどうかなら、我々の理性によって確かめることができるにちがいない。つまり、形而上学は何を研究対象とすべきか、あるいはその研究対象に関して判断を下す能力が理性にはあるのかどうか、あるいは我々は安心して純粋理性の扱う領域を拡大してよいのか、それともちゃんとした境界線を引くべきかどうかを明確にすることなら、我々の理性にもできるにちがいない。 したがって、上記の漠然とした問題「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能なのか」から始まった我々の問いは、次のように言い換えることができる、 「学問としての形而上学はどのようにして可能か」。 要するに、理性の能力を批判的に検討することこそ学問としての形而上学への道であり、それに対して、理性を批判せず、根拠のない主張に基づいてそれを独断的に使用することは、別の同じく根拠のないな反対意見を生み出すだけであり、結局それは懐疑主義に至る道である。 学問としての形而上学は驚くほど膨大なものとなることはない。なぜなら、この学問は、無限に複雑多岐にわたる理性の対象を扱うのではなく、理性自身を扱うのであって、理性の内側だけから発生する問題、理性とは異なるものの本質ゆえにではなく、理性の本質ゆえに自分に課せられる問題を扱うからである。 しかも、経験の世界に現れる対象についての理性の能力を批判を通じて前もって完全に理解しておけば、形而上学という経験の世界の境界線を越えたところで理性の使用を試すときにも、その使用範囲と限界を誤りなく決定するのはたやすいに違いない。 したがって、形而上学を独断的に実現しようとしたこれまでの試みは全てなかったものと見なすことができるし、また見なさねばならない。なぜなら、これまでの試みの中に見られる分析的な部分は、我々の理性に先天的に宿っている概念を単に分析しただけで、それは本来の形而上学の目標ではなく、その準備に過ぎないからである。本来の形而上学とは先天的認識を総合によって拡大することだからである。 この目的にとっては、概念の分析は役に立たない。それは概念の中に何が含まれているかを明らかにするだけで、どのようにして概念を手に入れたかを明らかにはしないからである。ある概念をどのようにして手に入れたかが分かれば、そのような概念をあらゆる認識の対象について有効に活用することができるのである。 形而上学を独断的に実現する要求の全てを放棄することはたいした忍耐を必要としない。これまでの形而上学は、理性が独断的に使用されたために理性が自己矛盾に陥らざるを得ず、ずっと昔にどれも権威を失ってしまっている。 しかしながら、この学問は人間にとって無くてはならないものである。それは、次々に生えてくる幹を切り取っても、根っ子まで破壊することのできない植物に似ている。この学問を知的困難にも外的抵抗にもめげずにこれまでとは違うやり方で成長させて実を実らせるまでには、過去の形而上学を放棄するよりももっと大きな忍耐を必要とするだろう。 |
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■VII 『純粋理性批判』という名の特別な学問の構想とその内容 | |
そして、まさにこの形而上学の再生のために、『純粋理性批判』という名の特別な学問の構想が生まれたのである。
つまり、理性は経験によらない認識原理(Prinzipien)を提供する能力であり、純粋理性は全く経験によらない認識原理を提供する能力である。すると純粋理性はオルガノン(学問研究の道具)となり、あらゆる純粋な知識を経験によらずに手に入れる原理の総体ということになる。そして、そのような万能の道具を網羅的に適用すれば、純粋理性の一個の体系を作れるかもしれない。 しかし、それは過大な要求であり、そもそもそれで我々の認識は拡大するのか、またそれはどういう場合に可能なのかはまだ分からない。したがって、純粋理性の体系を作る前段階として、純粋理性に評価を下して、純粋理性の源と限界を明らかにするためだけの学問が必要なのである。 純粋理性についてのこの学問は、理論ではなく批判と呼ぶべきものであり、思索の場におけるその役割も実際には消極的なものとならざるを得ない。この学問は理性の能力を拡大するのではなく、それをはっきりさせて、過ちを犯さないようにするためにだけ存在する。しかし、それだけでも大きな収穫となるだろう。 わたしは、知識は知識でも対象についての知識ではなく、対象を経験によらずに知る方法についての知識のことを「超越的」と呼んでいる。 そして、そのような知識を集めて体系化したものが「超越的哲学」と呼ばれることになるだろう。しかし、そのような哲学は最初の間は荷が重すぎる。なぜなら、そのような学問は総合的認識と分析的認識の両方の先天的認識を完全に含まねばならないため、我々の目的からは、あまりにも遠すぎるからである。 というのは、我々が分析を行うのは、経験によらない総合的認識の原理の全体像を把握するためにどうしても必要な場合だけに限らねばならないからである。我々にとって重要なのはこの原理をつかむことだけなのである。 我々のこの研究は理論ではなく、単に超越的な批判と呼ばれるべきなのである。なぜなら、この研究の目的は、我々の認識を拡大することではなく、我々の認識を修正することであり、我々が持っているあらゆる先天的な認識の価値を見極める手段を提供することだからである。 したがって、この批判は、もし可能ならば、オルガノン(上記)の準備をすることであり、もしそれができないなら、あらゆる先天的認識の規準の準備をすることである。そして、その基準に従えば、純粋理性哲学の方法の全体像を──この哲学が、純粋理性の認識領域を拡大することになるか、限定することになるかは分からないが──総合的かつ分析的に描くことができるはずである。 このような批判のシステムを構築することが可能なこと、そしてそれがとても完成できないほど巨大なものではないことは、あらかじめ次の事実から容易に推測できる。つまり、我々がここで扱うのは物の本質ではなく──それなら膨大な量になる──物の本質について判断を下す知性(悟性)、しかもただ先天的な認識について判断を下す知性だけを扱うのである。 しかもその知性の武器庫(=原理と方法)は我々の内側を探せばよいのだから、それはきっと見つかるはずである。また、どう考えてもそんなにたくさんあるはずはないから、それらを完璧に理解してその価値を正しく評価することができるにちがいない。読者はこの本の中に純粋理性に関する書物に対する批判やその理論に対する批判が書かれていると思わないでもらいたい。ここにあるのは、純粋理性の能力に対する批判だけである。 我々は、この批判に基礎を置くことによってはじめて、この分野における古今の著作を評価する確かな方法を手にすることができる。それがない現状は、資格のない歴史家や批評家が、根拠のない他人の主張を、これまた根拠のない自分の主張によって評価しているだけである。 そして「超越的哲学」という学問があるとすれば、それは『純粋理性批判』を通じて、原理(Prinzipien)に基づいて構成していくべきものである。つまり、この哲学のあらゆる部分が完璧で確実な構造をもつことは、『純粋理性批判』によって保証されねばならない。この哲学は純粋理性の全ての原理からなる体系なのである。 この『批判』には人間のあらゆる先天的認識に対する詳細な分析が含まれていないため、一個の完全な体系とはならない。まさにそれゆえに『批判』は「超越的哲学」と呼ばれることはない。我々は『批判』において、上記の先天的認識に含まれる基本概念の全てを数え上げるつもりである。しかし、これらの概念の詳細な分析も、それらの概念から引き出される概念を完全に検討することもしないのがよいのである。 というのは、この『批判』の全体の目的は本来「総合」にあり、この場合に見られる問題は、分析の場合には存在しないので、そのような分析や検討は我々の目的とは関係がないからである。また、そのような派生的なことや分析にまで責任を負うことは、我々の計画の一貫性を損なうことにもなる。我々の目的から言って、そんなことは省略してよいのである。 本論の中で示される先天的概念とそこから派生する概念に対する完全な分析は、先天的概念が充分な「総合の原理(Prinzipien)」として存在し、それが本質的な目的を達成するために必要かつ充分なものなら、あとからでも簡単にできることである。 したがって、『純粋理性批判』には「超越的哲学」の基本的な部分は全て含まれることになる。しかし、『純粋理性批判』は「超越的哲学」の完璧な理念を示すものであっても「超越的哲学」そのものではない。なぜなら、『純粋理性批判』においては、経験に依存しない総合的な認識を完全に調べるのに必要なだけしか分析は行われないからである。 この「超越的哲学」という学問の内容に関して注意すべき点は、経験に基づく要素を含むような概念はその中に入らないということである。つまり、この学問は完全に純粋な先天的認識だけで構成されねばならない。したがって、道徳の最高原則(Grundsätze)や基本概念は先天的な認識ではあるが、「超越的哲学」の中に入ることはできない。 なぜなら、確かに、経験に基づく快不快の概念や好き嫌いの概念が道徳的な教訓の基礎となることはないが、純粋な道徳の体系を構成するときには、これらの経験に基づく概念が、義務を妨げるもの、克服すべきもの、あるいは、払いのけるべき誘惑として,義務の概念を構成する際にどうしても必要となるからである。 したがって、「超越的哲学」とは純粋な理論理性だけの哲学である。実践的なものは全て動機を含むために、感情と関係している。つまり、感情は認識の経験的な源なのである。 この『純粋理性批判』を一般的な哲学書のやり方にならって構成するなら、我々がこれから提示する『純粋理性批判』は、最初に純粋理性の原理論 (Elementar-Lehre)が、二番目に方法論が来る。この二つの大きな部分は、それぞれたくさんの小さな部分に分かれている。その分け方までここで述べるつもりはないが、序論あるいは前置きとしてここで言っておくべきことは、人間の認識には感性と知性という二つの幹があって、この二つは我々には分からない共通の根から出ているということである。 そして、感性を通じて対象が我々に与えられ、知性を通じて我々はそれを考えるのである。感性のうちでも、対象が我々に与えられる条件となる先天的概念を含むものは「超越的哲学」の中に含まれる。また、認識の対象を考えるためには、何よりもまずその対象が人間に与えられねばならないから、超越的感性論が原理論の最初に来る。 |
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■化学の歴史 (history of chemistry) | |
長く曲折に富んでいる。火の発見を契機にまず金属の精錬と合金製造が可能な冶金術がはじまり、次いで錬金術で物質の本質を追求することを試みた。アラビアにおいても錬金術を研究したジャービル・イブン=ハイヤーンは多くの業績を残したが、やがて複数のアラビア人学者は錬金術 (alchemy) を批判するようになっていった。近代化学は化学と錬金術を弁別したときはじまった。たとえばロバート・ボイルが著書『懐疑的化学者』(The Sceptical Chymist、1661年)などである。そしてアントワーヌ・ラヴォアジエが質量保存の法則(1774年発見)を打ち立て化学現象において細心な測定と定量的観察を要求したのを境に、化学は一人前の科学になった。錬金術と化学がいずれも物質の性質とその変化を研究するものではあっても、科学的方法を適用するのは化学者だけである。化学の歴史はウィラード・ギブズの業績などを通じて熱力学の歴史と絡み合っている。 | |
■前史 | |
■火と原子論の発見
化学の起源は燃焼という現象に遡ることができる。火は、ある物質を別のものに変容させる神秘的な力であり、それゆえ驚きと迷信の出所となった。食品の調理による食習慣の変化や、陶器、それぞれの用途に特化した道具類の製作など、火は古代社会にさまざまな側面で影響を与えてきた。 原子論は古代ギリシアと古代インドに起源をもつ。ギリシアの原子論は、ローマのルクレティウスが紀元前50年に著した『万物の本性について』(De Rerum Natura)のなかで指摘した紀元前440年まで遡ることができる。その記述では、この考え方は原子(アトム)が物質の最少の単位であると提唱したデモクリトスやレウキッポスに始まるとしている。偶然にも同時代のインドの哲学者カナーダ (Kanada) は、そのヴァイシェーシカ (Vaisheshika)・スートラ (sutra) の中で類似の提言をしている。カシュヤパが彼のスートラに表れたのは瞑想の産物であったようだ。同様の手法でガス(気体)の存在も論じられた。カナーダがスートラで提唱したことは、デモクリトスが哲学的黙想から提唱したものでもあった。いずれも経験的データを欠いていたので、科学的証明のない原子存在は容易に否定された。紀元前330年にアリストテレスは原子の存在に異を唱え、ヴァイシェーシカ学派の原子論も長い間反論に晒された。 ヨーロッパでは、キリスト教会がアリストテレスの著作を一種の経典のように扱い、原子論関連は異端視された。アリストテレスの著作はアラビア語に訳されてイスラム世界で保存され、13世紀になるとトマス・アクィナスとロジャー・ベーコンがこれをラテン語に翻訳して再びヨーロッパに紹介した。 |
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■冶金術の起こり
のちの冶金術に道を拓くガラスの発見と金属の精錬を導いたのは火であった。冶金術の初期には金属精錬の方法が認められ、紀元前2600年頃の古代エジプトでは金が貴金属になっていたことが知られる。合金の発見は青銅器時代の幕開けを告げた。青銅器時代ののち、軍がより高度な武器を求めたことで冶金術の歴史は新しい段階を迎えた。ユーラシアの諸国は高性能の合金を造り、これを使った甲冑や武器を製作すると全盛期を迎えた。これはしばしば戦闘の結果を決定付けた。 |
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■インドの冶金術と錬金術
古代インドでは冶金術と錬金術にめざましい進歩がみられた。ウィル・デュラント (Will Durant) はThe Story of Civilization 1: Our Oriental Heritage(『文明の物語1:東洋の遺産』)の中で次のように記す。 古代インドの鋳鉄は化学成分が素晴らしく、グプタ朝時代は工業開発がめざましく、帝政ローマなどとの比較でも染色、製革、せっけん製造、ガラス、セメント、・・・などの化学工業分野では最も高度な技術を擁していたとみられる。6世紀までヒンドゥー教徒は化学工業の分野でヨーロッパよりはるかに先行しており、V焼 (calcination)、蒸留、昇華、蒸気加熱、不揮発性化 (fixation)、熱を伴わぬ発光、麻酔薬や催眠剤の調合、金属塩・化合物・合金の調製などに熟達していた。鋼の焼鈍しは古代インドに持ち込まれて完成したが、現代までにどのようにヨーロッパに伝わったのかは不明である。ポロスの王はアレキサンダーからの高価な贈り物として金や銀ではなく30ポンドの鉄を選んだと伝えられる。イスラム教徒はこのヒンドゥー教徒の化学と化学産業のほとんどを近東やヨーロッパに伝えた。たとえば『ダマスカス剣』製造の秘密はアラブ人がペルシア人から、ペルシア人はインドから手に入れたものであった。 |
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■賢者の石と錬金術の起こり
古代エジプトなど、古くから錬金術と呼ばれる前科学が興った。錬金術師はエリクサー、賢者の石などを追い求めた。錬金術は歴史上多くの文化圏で実践され、哲学、神秘主義、前科学が混淆する体裁がよくみられ、また多くの人間が安価な金属をどうすれば金に転換できるかに関心をもった。 錬金術は卑金属を金に変える目的ばかりか、ペストに見舞われたヨーロッパなどでは人々の健康に役立つ医薬の開発でも期待された。ただ、不老不死の霊薬発見のための試行したものの霊薬も賢者の石も発見された事例はない。また、生物に生命を吹き込む『エーテル』が空気中に存在すると信じることも錬金術師の特徴としてあげられる。錬金術の実践者としては、生涯を錬金術に捧げたアイザック・ニュートンなどがいる。 |
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■錬金術に立ちはだかる壁
新しい化合物についての系統的な命名法がなく、また言葉が難解・秘儀的かつ曖昧で用語の意味が使用者により異なっているなど、現代の立脚点からみると、錬金術には複数の問題点がある。具体的に The Fontana History of Chemistry(Brock、1992年)によれば: 錬金術の言語は十分な経験なく得た情報を秘匿するため秘儀的な聖なる術語を創り出した。この言語は現代のわれわれにはよくわけがわからないが、ジェフリー・チョーサーの『錬金術師の徒弟の話』 (The Canon's Yeoman's Prologue and Tale) (『カンタベリー物語』の一部)やベン・ジョンソンの『錬金術師』 (The Alchemist) の読者ならこれなど笑い飛ばすに値すると解釈できよう。 チョーサーの物語は安価な物質から贋の金を造るなど錬金術のいかがわしい一面をあらわにした。チョーサーのすぐのち、ダンテ・アリギエーリもこの詐欺への関心を行動に移し、著作中で錬金術師全員を地獄へ送り込んでいる。その後1317年にアヴィニョン捕囚の教皇ヨハネス22世は、贋金作りの錬金術師全員をフランスから追放した。また、『金属を増殖』した場合は死罪に処するという法律が、1403年にイングランドで成立した。この他にもいろいろ強硬な手段を講じたものの、錬金術は絶えることがなかった。王侯貴族や特権階級は依然として賢者の石や不老不死の霊薬を自分用に探し求めていた。 また、再現実験のための科学的方法についてはまだ合意がなかった。当然のように多くの錬金術師は潮汐の時刻や月齢など無関係な情報を彼らの手法に取り込んでいた。錬金術の秘儀的性格や難解な用語は、錬金術師が実は半可通であるという事実を隠蔽するのに好適だった。14世紀のはじめには錬金術に危機が訪れた。つまり人々が懐疑的になったのである。実験を他者が再現しうること、かつ結果について何が明らかになり何が不明であるのかを明晰な言語で報告するという科学的方法が必要なのは、誰の目にも明らかとなった。 |
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■錬金術から化学へ | |
■初期の化学者
近代の科学的方法の発達は遅々としてなかなか前進をみなかったが、化学に関する科学的方法の萌芽は中世イスラム教徒の化学者の間に現れ始め、これを先導したのが「多くのものが化学の父とみなす」9世紀の化学者ジャービル・イブン=ハイヤーン(ゲベルス)であった。彼はランビキ(蒸留器)を発明・命名、数多くの化学物質を化学的に分析、宝石職人 (lapidary) を集め、アルカリと酸を弁別、数多くの薬を製造した。 その他有力なイスラム教徒の化学者には、アリストテレスの四元素説を批判したジャアファル・サーディク とラーズィー (Muhammad ibn Zakarīya Rāzi)、また錬金術の実践と金属変性の理論で名声を博したキンディー 、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー 、イブン・スィーナー 、イブン=ハルドゥーン、および物質本体は変化しうるが消滅し得ないとして質量保存の原型を記述したナスィールッディーン・トゥースィーらがいる。 ヨーロッパの比較的正直な医者にとって錬金術とは知的営為であり、時を経て熟達した。一例としてパラケルスス(1493年 - 1541年)は化学と医療の理解が曖昧ながらも四元素説を斥け、イアトロ化学(医療化学)(iatrochemistry) と呼ばれる錬金術と科学のハイブリッドを形成した。ところで、パラケルススによる実験が真に科学的であったとはいい難い。たとえば、新しい化合物が水銀と硫黄の組み合わせでできうるという自身の説の延長として、彼は『硫黄油』なるものを作り出したが、これは実はジメチルエーテルであり、水銀でも硫黄でもない。 ロバート・ボイル(1627年 - 1691年)は錬金術用の近代科学的方法を見直し、錬金術と化学の距離を広げたとみられている。ロバート・ボイルは原子論者だったが、原子の呼称として "atom" よりも "corpuscle" という語を好んだ。物質がその特性を維持しうる最小部分は原子(corpuscles)のレベルであると彼は述べている。 ボイルはボイルの法則で特記される。彼はまた記念碑的出版物『懐疑的化学者』(The Sceptical Chymist)でも特記され、ここで彼は物質の原子説を発展させようとしたものの成功には至らなかった。これらの前進にもかかわらず、『近代化学の父』と賞賛されるのは1789年に質量保存の法則(またはラボアジエの法則)を発見したアントワーヌ・ラヴォアジエである。これにより化学は定量的性質をもち信頼できる予測が立てられるようになった。 |
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■アントワーヌ・ラヴォアジエ
化学研究の文献で古代バビロニア、エジプト、その他イスラム化後のアラブ人やペルシア人の成果を引用できるにもかかわらず、近代化学が花を咲かせたのは質量保存の法則の発見と燃焼におけるフロギストン説(1783年)に対する反論により『近代化学の父』とみなされたアントワーヌ・ラヴォアジエ以来である。(フロギストンは燃焼時に可燃物から放出される不可量物であると想定された。)ミハイル・ロモノーソフは18世紀ロシアで化学の伝統を独自に確立した。ロモノーソフもフロギストン説に異を唱え、ガスの分子運動論で先駆けとなった。彼は熱を運動の形態とみなし、物質保存の考え方を提唱した。 |
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■生気論議と有機化学
燃焼の性質(酸素を参照)が明らかになったのち、生気論および有機物と無機物の識別という別の論争は、フリードリヒ・ヴェーラーが偶然無機物から尿素を合成した1828年から革命的に展開した。これ以前に無機物から有機物が合成された事例はなかった。この発見は異性論にも大きく貢献した。これで化学の新しい研究領域が開かれ、19世紀末までに科学者は数多くの有機化合物を合成できるようになった。そのうちきわめて重要なものは、モーブ、マゼンタ、およびその他合成染料、そして広く使われている医薬のアスピリンである。 |
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■ラヴォアジエ後の原子論をめぐる論争
19世紀を通じて化学の世界は、ジョン・ドルトンが提唱する原子説の支持者と、これに反対するヴィルヘルム・オストヴァルトやエルンスト・マッハ らに二分されていた。原子説派ではアメデオ・アヴォガドロやルートヴィッヒ・ボルツマンがガスの振舞をうまく説明したものの、この論争の決着は20世紀はじめにブラウン運動を原子論的に説明したアインシュタインの説をジャン・ペランが実験で検証するのを待たねばならなかった。 論争が決着するまで長い時間を要したが、この間すでに多くのものが原子論の概念を化学に応用していた。20世紀になるまで十分発達していなかった原子の構造に関する予測となるスヴァンテ・アレニウスのイオン説などはこの好例である。マイケル・ファラデーもこの分野の先駆者で、彼の化学における貢献は電気化学の分野だったが、そのなかで金属の電気分解または電着 (electrodeposition) の過程における電気量は元素の量および、特定の比をもつ元素同士の固定量と密接に関係していることを明らかにした。これらの発見はドルトンによる結合比の発見同様、物質の原子論的性質に関する最初の手がかりとなった。 |
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■周期表 | |
長い時間をかけて、存在が判明した化学元素の数は着実に増加してきた。この長大な一覧表(またその結果、以下に述べる原子の内部構造の理解も)を地に着いたものにする一大突破口となったのは、ドミトリ・メンデレーエフとロータル・マイヤーが作成した周期表だった。さらにメンデレーエフはこれを用いてゲルマニウム、ガリウム、スカンジウムの存在と性質を予測した。この3元素を当時メンデレーエフはそれぞれエカシリコン、エカアルミニウム、エカボロンと命名した。メンデレーエフはこれを1870年に予言したが、1875年にガリウムが発見され、しかもメンデレーエフの予想に近い性質を有していた。 | |
■化学の現代的定義 | |
20世紀以前には伝統的に、化学は物質の性質とその変化についての科学と定義されていた。そのような物質の劇的変化を対象としない物理学とは明確な一線が引かれていた。さらに物理学とは対照的に、化学は数学を多用しなかった。化学の領域で数学を使用することにはっきり後ろ向きの姿勢をみせる者さえいた。たとえば、オーギュスト・コントは1830年に次のように記している。化学的疑問の研究に数学的手法を導入しようなど、まったくもって不合理であり化学の精神に反すると断ぜざるを得ない…、はたして数学的分析は化学の領域で主流の手法となるべきであろうか・・・、幸いながらほぼ不可能な心得違いというもの・・・、これはその種の科学で急速かつ広汎な質の劣化をひきおこすだろう。しかし同じ19世紀でも後半には見方が変わり、アウグスト・ケクレは1867年に次のように記している。私たちが原子と呼んでいるものの数理力学的説明に至り、その特質を記述する日が来ることを私は待望している。
アーネスト・ラザフォードとニールス・ボーアが1912年に原子構造を発見し、マリー・キュリーとピエール・キュリーが放射性物質を発見してのち、科学者は物質の性質に関する視点を劇的に変化させる必要に迫られた。化学者が獲得してきた経験は、もはや物質の性質全体の研究とは関連を失い、原子核を取り巻く電子雲と、電子雲の誘導で発生する電場における原子核の振舞だけが研究対象となった(ボルン-オッペンハイマー近似を参照)。化学の守備範囲は常温常圧に近い条件下でわれわれを取り巻く物質の性質に限定され、電磁波への曝露は地上における自然条件下のマイクロ波、可視光、紫外線などとあまり変わらないものに限られた。化学はそこで、物質の構成・構造・特性・変化を扱う物質科学と再定義された。しかし、ここで使われる物質の意味は原子と分子がつくる物質とはっきり関係付けられ、原子核内部の内容物、核反応、イオン化したプラズマ内の物質は対象としない。とはいえ人類の尺度からいえば化学の領域は依然広大であり、化学がすべてを包括するといってもあながち外れてはいない。 |
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■量子化学 | |
量子化学はその誕生を、シュレジンガー方程式の発見とこれを水素原子に応用した1926年とする見方がある。一方、ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンによる1927年の論文を量子力学の第一歩とする見方もある。これは2原子の水素分子かつ化学結合へ量子力学を応用した初の事例となった。後年これを引き継いだエドワード・テラー、ロバート・マリケン、マックス・ボルン、ロバート・オッペンハイマー、ライナス・ポーリング、エーリヒ・ヒュッケル、ダグラス・ハートリー (Douglas Hartree)、ウラジミール・フォック、その他多数により研究は飛躍的に進んだ。
しかし、複雑な化学系へも応用して量子力学を一般化することについては懐疑的な見方も残っていた。1930年頃の状況をポール・ディラックは次のように記している。 物理学の主要部分と化学全体に適用する数学理論のために必要となる物理法則はすっかりわかっており、この先困難となるのはこれら法則を厳格に適用する結果、複雑すぎて解読できない方程式を作り出してしまうことだけだ。量子力学に適用する近似的実践的方法を開発すべきであり、それにより膨大な計算をせずに複雑な原子系の重要事項を説明できるようになるのが望ましい。1930年代と1940年代に開発された量子力学の方法は、化学や分光学に量子力学を応用したものの、化学的疑問への解答としては不十分という実態を裏書する理論分子・原子物理学として引き合いに出されている。 1940年代には物理学者の多く(オッペンハイマーやテラーなど)が分子・原子物理学から核物理学に転向した。1951年、ルーターン法 (Roothaan equations) に関するクレメンス・ルーターン (Clemens C. J. Roothaan) の画期的論文は、量子化学の分野でエポックとなった。これにより水素や窒素のような小さな分子用の自己無撞着場方程式という解決法への道が開けた。そのような計算は、当時最先端のコンピュータ上で計算した積分表の支援を得て実施された。 |
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■分子生物学と生化学 | |
20世紀半ばまでに原理上物理と化学の統合は進み、化学的特性は原子の電子構造の産物として説明されるようになった。ライナス・ポーリングの著作 The Nature of the Chemical Bond (『化学結合の性質』)では、量子力学の原理を一層複雑な分子における結合角の推算に使用している。しかし、量子力学から援用した原理は、生物学的意味のある分子の定性的化学特性を予測することができても、20世紀末まで厳密なコンピュータ計算による定量的方法ではなく、規則性・観察・処方箋の集積と化している。
ジェームズ・ワトソンやフランシス・クリックらは、DNAの二重らせん構造に関する該当分野の化学の知識のほか、ロザリンド・フランクリンが得たX線回折像を情報源としてその制約の中でモデルを構築し、この発見的アプローチを援用し予測を立てて1953年に勝利を収めた。この発見により生命の生化学分野での研究が爆発的に増加した。 同年、ユーリー-ミラーの実験が実施され、タンパク質の基本構成要素である単純なアミノ酸がより単純な分子から生成されうることを、地球表面の原始的プロセスの再現実験によって実証した。生命の起源の本質については多くの疑問が残るものの、これは化学者が管理下の実験室で仮想の反応を研究することに踏み出した第一歩となった。 1983年にキャリー・マリスはDNAの試験管内増幅法を創案した。これはポリメラーゼ連鎖反応(PCR)と呼ばれ、実験室でこれを操作する際に使う化学反応に革命が起こった。PCRはDNAの特定の部分を合成するために使われ、また生物のDNAの塩基配列決定を可能にして大規模なヒトゲノム計画をも完結させた。 |
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■化学工業 | |
19世紀の後半には地中からの石油採掘が大幅に増加して多種の化学薬品を生産し、またそれまで使用されてきた鯨油、コールタール、船用需品 (en:naval stores) に置き換わった。石油の大規模な生産と精製でできる加工原料から、ガソリンや軽油などの液体燃料、溶剤、潤滑油、アスファルト、ワックス、そのほか合成繊維、プラスチック、塗料、界面活性剤、医薬、接着剤、肥料その他向けのアンモニアなど、現代世界で普及している各種材料が生産されている。これらの多くは高効率生産を実現するため新しい触媒や化学工学の援用を必要としている。
20世紀の中頃には、シリコンとゲルマニウムの超高純度単一結晶で大きなインゴットを造り、ここから半導体用素材上の電子回路構造を自由に精密に製作できるようになった。他の元素を添加して化学組成を正確に制御して、1951年にはソリッドステートトランジスタの生産が始まり、さらに小さな集積回路の生産も可能となり、これを使用した電子機器殊にコンピュータは世界を大きく変えた。 |
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■原子論 (atomism) | |
“すべての物質は非常に小さな、分割不可能な粒子(Atom、原子)で構成されている”、とする仮説、理論、主義などのこと。
■古代ギリシャの原子論 古代ギリシアでは、(師弟関係にある)レウキッポス、デモクリトス、エピクロスらが、不可分の粒子である原子が物質を構成する最小単位であるという原子論を唱えた。古代ギリシャの原子論は、広く人々に受け入れられたとは言い難く、その後2000年ほどの間、大半の人々からは忘れ去られた考え方となっていた。 ■イスラームの原子論 イスラーム理論神学(kalam)では、一部の例外を除き、存在論の基礎を原子論においている、とされる。Jawhar fardというのが、Juz' la yatajazza'u(=もはやそれ以上分割できない部分)とされ、原子に相当する。 ただし、存在のもうひとつの単位として「偶有(arad)」があり、原子はつねに偶有と結びついており、偶有と原子は神によって創られた次の瞬間には消滅する、とする。Jawhar fardが結合して、いわゆる物体を構成しており、物体(原子)の変化はすべて神が作る偶有によって説明され、物体相互の関係は否定されている。 イスラームの原子論では(西洋の原子論のように世界を機械論的に説明しようとはしておらず)、世界に生成性(muhdath)があり、世界を生成させているのは神であり、神が世界を直接支配している、と説明している。 ただし、その説明のしかたには様々なタイプがあり、アシュリー派は、偶有性の持続を一切認めず、全ての原子の結合や分離、生成、変化は神の創造行為と結び付けられている、と説明するのに対し、ムータジラ派は例外的にいくらか偶有性が持続するとすることで、人間の行為の選択可能性や、自然界の秩序を認めた。 空間の構造については、それが連続的であるのか、あるいは原子のような最小単位があるのか議論があったが、後者のほうが優勢であった。また、真空については、存在を認める議論と認めない議論の両方があった。 イスラームの原子論の起源については、古代ギリシャ起源説、インド起源説、独立の発生だという説などがあり、はっきりとしたことはわかっていない。 ■西欧近代の原子論 デカルトなどは、"原子"などという概念を採用した場合、それがなぜ不可分なのかという問いに答えることは不可能と判断し、粒子はすべて分割可能だとした(原子論の否定)。 16世紀以降、化学が進歩し、ラボアジェ、ドルトンなどにより物質の構成要素として元素概念が提唱された。かれらの論が近代原子論の源流とされている。 だが、20世紀初頭になっても、科学者の主流派・多数派は、物質に(中間単位としてであれ)構成単位が存在するという説は疑わしいものだと見なしており、一般の人々も含めて、Atomという単位が存在するとは思っていなかった。 例えば、エルンスト・マッハやオストヴァルトなども、実証主義の立場から、"原子"なるものは観測不能であることなどを理由に"原子"なるものが実在するという原子論には反対し、エネルギー論を主張していた。そして、原子論の考え方に基づいて熱現象を試みに計算してみたものなどを論文類で発表しはじめた若者ボルツマンと激しい論争を繰り広げた。この論争に関しては、アインシュタインの1905年の論文によるブラウン運動に関する理論(仮説)の提出、および1909年のペランによる実験的検証(左記アインシュタインの理論の検証を含む研究)により、ただの理屈や理論ではなく何らかの粒子が存在すると認知されることによって一旦決着がついた。 それまで反対派のほうが多かった「何らかの粒子的な単位」の存在が自然科学者一般に認められるようになったことで、それは自然科学分野で理論を構築するために使える便利な概念的道具となった。 ■現代の自然科学における原子論の後退、他の説明体系 何らかの粒子的な単位の存在が認められ道具として用いられるようになるのと平行して、「分割不可能」という概念のほうは後退してゆくことになった。 原子の存在自体がまだ広くは認められていなかった20世紀初頭においても、つまり、物質がのっぺりとしておらず何かしらの単位がある、と自然科学者によってようやく考えられるようになりそれが「Atom」と呼ばれるようになった20世紀初頭においても、既に原子が「負の電荷を持った電子」と「正の電荷を持った何か」でできているという議論が行われており(つまり下部構造についての議論が始まっており)それは電子と原子核からなることも、ほぼ確実視されていた。皮肉なことに、Atom「原子」という言葉がようやく科学的なものとして用いられ始めたころには、原義の「分割不可能な最小単位」どおりのものではなくなっていたのである。さらに「原子核の内部構造として「陽子」と「中性子」が存在する」と考えられるようになり、さらにAtomという概念からは遠のいた。さらに、その後のさまざまな研究により、その陽子や中性子も「分割不可能」ではなく「内部構造(下部構造)を持つ」とされるようになった。 また、古代原子論や近代の原子論のように「ある大きさを持つ粒子」が物質の基本単位になっている、とする考え方とは異なった、「大きさを持たない点」によって物質が成立している、とする考え方も生まれた。 また、プランクは粒子説による困難を回避するために、空間の側に最小単位があるとする考え方(プランク長)を発表した。 現在では、“原子”の内部構造のことは、世界的には、「subatomic particles」などと呼ばれている。つまり、“分割できない”という、根拠が不確かな概念は用いることを慎重に避けている。 subatomic particlesには、いくつかのタイプがあるとされ、陽子や中性子はハドロンとしてひとくくりにされている。今のところ(2009年現在)、レプトンとクォークが、発見されている中では最小の構成要素であるともされている。また、現代においても、場についての理論や仮説を説明するのに、相手が一般人の場合に「場」という用語を避けて、科学としてはあまり適切ではないと知りつつも「粒子」という用語を使う例もある。だが、いずれにせよもはや世界の自然科学者は、科学的に正式な言明としては、「これが最小単位だ」などと根拠も無しに断言するようなことは行わない。レプトンやクォークも、さらに内部構造が発見される可能性がある、と考えている。 また、超ひも理論においてはすでに、全てのsubatomic particlesは有限な大きさを持つ「ひもの振動状態」であるとされている。もっとも、物質についてひもで説明するとしても、例えば「ひもの組成は何か。ひもの内部構造はあるのか?」という疑問は残っている、と考え、一般に科学者は正式の論文で「最小単位だと検証された」などとは断言したりしない。 |
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■「光・波動」の歴史と科学者 | |
■スネル(Willebrord Snell von Rpoken 1591-1626)
オランダのライデン大学力学教授であった。はじめ法律を学んだが数学、天文に非常に興味を持った。1615 スネルの法則(1620年の説もある)スネルは、水中の物体の浮かび上がりを観察し、空気中の長さと水中の長さの比が見る方向に関係なく一定ということを見出した。スネルは一度もその発見を公表しなかったが、ホイヘンスとイサーク・フォス(オランダの古典語学者)らによって発表された。 スネルの述べる法則は「同一媒質については、入射角と反射角余割(cosecant=sinの逆数)の割合は、常に同一値である」としている。スネルはこの法則を実験的に確認した。現在広く知られている屈折の法則は、デカルトが1637年に著した<屈折光学>の中で示したものだが、デカルトはスネルについては言及していないので、デカルトが独自に発見したと思われる。 ただ、デカルトは実験から求めておらず、光の粒子説に立っていたデカルトは高速が密度の濃い媒質中で大きいという誤りの仮説に基づいて論じている。 1617 三角測量の方法を考案した。 1741 彼の死後、モーペルチュイ(P.L.Maupertuis 仏)は「最小作用の法則」を著し、最小作用の法則に、「作用量」:質量×速度×径路を導入。光の粒子説をとっていたので、光にも粒子にも成立するとし、非弾性衝突、スネルの法則を説明した。 |
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■ホイヘンス (Christian Huygens (1629-1695)
オランダのハーグで生まれた物理学者・天文学者・数学者である。ホイヘンスは、父の友人のデカルトの教育を受けて育った。父コンスタンチンは、ガリレオの友人で、資産家、国会議員であり、恵まれた環境で教育を受けた。最初はライデン大学で数学と法律を 学んだが後に数学、物理学をはじめ多くの領域の研究をした。フランスのルイ14世に説得されて1666〜1681年にパリに滞在した。 ニ ュートン、ライプニッツと同じく生涯結婚しなかった。ホイヘンスは「光論」の前書きで、仮説と演繹の重要性を明確に強調した。 1650 「流体静力学」 1651 「数学的曲線の求積法」 1655 製作した望遠鏡で、土星の輪と衛星タイタンの発見 1656 「物体の運動について」 1657 振り子時計を発明、特許を得る。ゼンマイを使用。当時の時計は太陽の動きにあわせて係りが時計の針を修正していたので30分位のくるいがあった。ホイヘンスが発表した振り子時計の論文により時計の精度は飛躍的に進歩した。 1673 「振り子時計」を著す。遠心力の公式、複振り子、重力加速度等を論じる。 1678 著書に『振子時計』(1673年)、『光についての論考』(1690年)などがある。振り子や光、土星などの研究にも力を注いだ。ホイヘンスは、光が進むのに時間を要すること、光は縦波の性質を持ち、エーテル粒子の弾性衝突によって進むことなどを提唱し、ニュートンの光の粒子説と対立した。ホイヘンスの原理で光の波動説(縦波説)、素元波の考え方を示めした。またエーテルの存在を主張。部分波の伝播は述べられていたが、周期性、干渉性などには及んでいなかった。したがって、ニュートンの説明した色の成因を説明することができず、1世紀の間、ニュートン説が優勢であった。波動説の根拠は、光の速度が有限であること(レーマーの計算)、交差した光が何の影響もおよぼさないことであった。エーテルは「衝突振り子」が瞬時に振動を伝達するように硬く、「調和振動」をして振幅に周期が依存しないような弾性体であるとした。また複屈折の起因を粒子が楕円であるためとし、物質の屈折率も求めた。 1690 方解石を重ねた偏光実験をし、「光論(Traite de la lumiere)」出版。最初書かれたのは1678年で以後追記されて刊行された。前書きで、仮説と演繹の重要性を明確に強調した。ホイヘンスはエーテル内の振動が音と同様に縦波であると仮定していたので偏光現象を説明できなかった。論文「重さの原因について(Discours sur la cause de la pesancur)」で、重力の成因を微小粒子による渦運動の反作用であるとした。 1703 「衝突による物体の運動について(De motu corporum ex percussione)」が死後出版された。この中で慣性の法則、相対性、弾性衝突を公理として衝突の理論を展開した。現在の運動エネルギー、運動量保存の概念に相当するものに到達していた。書かれたのは1669年であった。 |
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■マリュス(Etienne Louis Malus 1775-1812)
パリに生まれ、陸軍技師としての教育を受け、ナポレオン戦争に従軍した。その後アントワープとストラスブルグで進められていたフランス軍の監督時代に、複屈折に関するフランス協会の懸賞問題の研究を始めた。偶然1個の結晶をリュクサンブール宮殿(ルネッサンス様式)の窓から、自分の住んでいたダンフェール街の家に反射されてくる太陽の像を見ていたら、結晶がある特定の位置で2重像の一つが消えてしまうことを発見した。はじめ、光が大気中を通過する際に何らかの作用を受けるためと考えたが、夜になって水平に36度の角度で入射するロウソクの光が同様な結果をもたらした。しかも方解石から出た2本の光が36度の角度で同時に水面に入射し、そのさい通常の光線の方の一部が反射されたとすると、異常な光線の方は少しも反射されなかったことを確かめた(1808)。 「偏光(polarisation)」という名称を使用した。 この頃の波動説では偏光について説明がなされなかった。光が波動であることを実験で示したトーマス・ヤングは1811年、マリュスへの書簡で次のように語っている(ヤングは光の微粒子説派であった)。 「貴下の実験は、私が採用した(干渉の)理論の不備こそ示していますが、この理論が”偽り”だということを証明するものではありません」 さらに1817年ヤングはアラゴ(*1)への書簡で次のように書いている。 「すべての波動が音の波動と同じく、同心球面を作って均質の媒質の中を単純に伝播され、半径方向に沿った球面粒子波の前進後退運動と、それに伴う凝縮と希薄化とができているというのがこの理論の原理です。しかもこの理論が横振動を説明することも可能なのです。それは球面粒子波の運動が、その半径に関して、ある一定の方向に向いているからです。この横振動が、その半径に関して、ある一定の方向に向いているからです。この横振動こそ’偏光’なのです」。 *1 アラゴ(フランスの天文学者、物理学者。1805年経度局の一員としてJ.B.ビオとともに子午線測量に従事。1809年エコール・ポリテクニク教授、1830年パリ天文台長。フレネルとともに偏光の実験から光の波動説を実証(1816年)、電流による鉄の磁化の実験(1820年)、アラゴーの円板の実験など光学、電磁気学に貢献もある。 |
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■ブリュースター(David Brewster 1781−1868)
エジンバラ大学で宗門にはいるための教育を受けたが一度も宗門の仕事をしなかった。英国科学振興協会の指導的立場だった。 万華鏡(日本には江戸時代末期に伝来した)を発明、複屈折を研究。英米両国で一時万華鏡を求める数が供給限度を遙かに超えたという。 1815 偏光角の法則を発見。偏光の数値化した。偏光角をα、屈折率n のとき、tanα=n 1818 光学的に2軸性な結晶を発見 1834 バンドスペクトルの発見。発煙硝酸を通した太陽スペクトル中に暗線とバンドを見出し、化学分析応用を模索した。 ヤング、アラゴ、フレネルらが光の波動説の研究を成し遂げた後に至っても、ブリュースターは波動説から離れることはなかった。 「光の波動説に対する私の一番大きな反対は、造物主が光を作り出すためにエーテルで空間を満たすというような、そんな拙劣な仕掛けをする罪を犯したなどとは、とても考えられないことにある」と自説を曲げようとはしなかった。 |
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■ユークリッド(エウクレイデス、エウクリデス、Eukleides)BC323〜285
反射の法則はユークリッド、ヘロンらによって紀元前から発見されている。 ユークリッド幾何学「原論」と、幾何光学の創始。 「光学」「反射の光学」などを著す。平面・曲面における反射の法則。 「optics=光学」の語源は彼の視覚論「Optica」に由来する。 ユークリッドの個人的生活に関してほとんど知られていない。また、推論されるほとんどのものは5世紀に書かれ、プロクロス(412−484 新プラトン派最大の体系思想家)による。プロクロスによれば、ユークリッドは、アレキサンドリアでプトレマイオス1世Soter (BC323〜285)に数学を教えていた。 ユークリッドについて短い2つの逸話がある。1つは、ユークリッドが、若いエジプトの王であるプトレマイオスを教えていた時、彼は「原論」によらずに幾何学の熟達へのより短い道があるかどうか尋ねられましたとき、ユークリッドは「幾何学に王道はない」と返答したと言う。第2の話は、幾何学を学んでいた一人の学生に、幾何学の新しい概念の学習のために、彼が何を得るだろうかと問われた。ユークリッドは、「彼は学習したら得をしなければならない」のだそうだからと、彼にコインを授けるように彼の助手に命じた、という。 |
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■フェルマー(Pierre de Fermat 1601-1665)
フランスのモントーバンに生まれた数学者。法律を学び弁護士を開業。 1629 フェルマーの定理。「極大・極小研究のための方法」を著す。また、フェルマーは微積分に非常に長けていた。 1643 「平面および立体軌跡入門」(死後1679年出版) アポロニウスの円錐曲線論を復活、解析幾何学の方法を用いる方程式と図形(座標の軌跡)の関係を明確化もした。放物線の接線の方程式、解析幾何学の創始、デカルトと並んで解析幾何学の発見者とされる。1658 光線の通路を経過時間の最小値とするというフェルマーの原理を発表した。 1661 地方議員になり、余暇に数学を研究。整数論、確率、曲線の極限などを研究した。屈折の法則を導き出した。フェルマーの原理、による光の直進、反射、屈折の説明。光線逆進の原理の説明。フェルマーの原理は「光がある媒質の1点から他の1点へと’最も少ない時間’で進み、また濃密な媒質内では速度はより小さい」というもので屈折の法則を証明するものである。 |
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■ニュートン(Isaac Newton 1642-1727)
分光学の創始・光学の研究。 1664 かなり初期から反射・屈折の法則の知識があり反射望遠鏡の開発に着手。光についての最初の観測は、太陽のコロナに関するものであった。 1666 非球面レンズの製作に挑戦しプリズムを製作。 1666〜7 プリズムによる分散現象(1672年「色と光についての新理論」で公表)2重プリズムの実験から白色光(太陽光)が色の集まりであること、色が光の固有の性質であること、物理学と視覚の生理学の関連の明確化。光が「実体性」粒子であると主張。 1668 色収差、球面収差の除去法を考え反射望遠鏡を開発した。 1672 「色と光についての新理論」著す。光の粒子説を唱えホイヘンス、フックと4年越の論争が続いた。 フックの薄膜の干渉色による反論として「エーテル」の振動説。ニュートンはエーテルと粒子との相互作用という折衷案を提示した。 1675 ニュートンリングの干渉色は光の粒子が「周期性」を持つと考えた。「光学」の中で、光の透過性、反射性の「発作(fits)」により進行距離に依存した部分反射・透過がおきるとした。つまり、『光が透明物質に進むときに、反射と屈折のいずれも存在するということは微粒子説によると説明がつかない。このことを説明するためにニュートンは、容易な反射と容易な伝播(屈折)の’発作’が普遍的なエーテルによって微粒子に伝えられると提唱した。飛翔する微粒子の進行は、表面付近のエーテルを刺激し、その結果エーテルの続く圧縮と希薄化が生ずる。このエーテル圧縮の瞬間に、表面に到達した飛翔微粒子ははね返される。逆に、もし微粒子が希薄化の瞬間に到達すると、その進路は妨害されることが少なく、通過することになる。』 これがガラスなり水の表面がどのように飛翔する微粒子からなる光線を一部を反射し、一部は屈折するかのニュートンの説明である。 また、複屈折を光の粒子が微小磁石のような性質から説明しようとし、「polarization」という言葉を用いた。また、「スペクトル」という用語も「光学」の中で名づけられた。 |
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■オーギュスト・フレネル(Augustin Jean Fresnel 1788-1827)
フランスブローイ生まれの物理学者。幼いときは物覚えが遅く、8歳になってもほとんど読むことができなかった。トーマス・ヤングと対照的である。13歳にカン市(北仏の港町)の中学に入学。16歳にパリ理工科大学および土木学校に学び、土木技師になった。1823年フランス学士院、1825年イギリス王立協会会員。 1815 王統派であったフレネルは、100日天下の時、投獄された牢屋の中に差し込む光で回折理論を考えたという。回折を波の集まりとしてとらえ、半波長帯を考えた。フレネルはヤングを敬愛していた。この時点ではヤングの理論を知らなかった。 1816 アンペールがフレネルに光が進行方向と直角に振動していることを示唆。 1816〜18 アラゴーと共同で、偏光の実験し、常光線と異常光線が干渉しないこと。また偏光の異なる光は干渉しないことを確認し、横波説を考えたが、力学的に説明できなかった。アラゴーは光が横波だと、エーテルが剛性を持たなくてはならないため観測事実に反すると反対した。 1818 光の波動論の確立:回折と偏光の理論光の回折に関する研究、ヤングの実験の理論的正当化。横波としての光の数学的理解。偏光・複屈折の説明(アラゴーと共同)した。フレネルの静止エーテル理論は、地球がエーテルに対して動いていなければ、光行差は生じず恒星は静止していると考えた。「フレネルの半波長帯」、光路差がλ/2ごとに異なる同心円状の帯を考えて回折を説明した。 1821 偏光について実験を行い、全反射が横波でなければ説明つかないことに自信を持った。 |
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■トーマス・ヤング(Thomas Young 1773-1829)
イギリスサマセットシャー州ミルバートンに生まれた。 2歳にはすらすらと本を読みこなし、4歳には聖書を2度も読み、6歳にはゴールドスミスの長詩<廃墟の村>を暗唱したという。 13才の時には、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語が読め、博物学や自然科学の勉強を始め、14才には彼は独学で、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、エチオピア語など多数の中近東の古代、近代語の勉強も始めた。このことは後年、シャンポリオンとは独立に行われたロゼッタ・ストーンのエジプト象形文字の解読研究や、エジプトの研究において優れた業績を上げるもとになった。 16歳頃、奴隷貿易に反対し、砂糖を口にしなかった。19歳で医学教育を受けケンブリッジ大学で学び、ロンドンで開業。熟達したラテン、ギリシャ学者であり、同時にニュートンの「プリンキピア」や「光学」、ラヴォアジェの「化学要論」等多くの自然化学の主要著作に親しんでいた。王立研究所(前年ラムフォードが開設)の自然哲学(物理学)教授になる。1802年王立協会の外事書記に任命され終身この職にあった。 1793 乱視と目の構造に注目し、以降光学の研究を続けた。 1801 王立協会で薄いガラス板の色についての論文で光の波動説を主張。 『起源の違う2つの波動が、その方向を完全にかあるいはほぼ完全に一致させたときは、その2つを合わせた効果は、そのおのおのの波動に固有の運動を組み合わせたものにほかならない』と、干渉の法則を示唆したフックの’微小物体学’にあるが、ヤングも独自にこの考えに至った。ヤングはこの法則を音と光に徹底的に適応した。この干渉の論文はブルーム卿らに攻撃を受け、ティンダルが言うように「20年間もこの天才の火は消された」。彼の権利回復に尽力したのはフレネル、アラゴの二人である。 1802 論文「色と光の理論について」により、エーテル媒体説、色は波長によることを仮定。干渉、回折についてのべ、回折をエーテルの密度差より説明。1807 「自然哲学講義」を著す。この書物には、王立協会でヤングが行った講演のすべてを収録している。これにはジョセフ・スケルトンの手になる美しい版画が入りで、この書物に収められているヤングの講演の内容は、乱視について初めて記述したこと、「エネルギー」(ギリシア語の「活動:エネルゲイア」が、語源)を物体の質量に速度の二乗を乗じた積(F=mv2)として初めて用いたこと、ホイヘンスの学説に賛成して光の波動理論を作り上げたこと、(いわゆる「ヤングの複スリットの実験」)潮汐のヤング理論など、電気に関しては二つの講演が入っていて、その一つは磁気に関するものヤングがいわゆる「ヤング率」を導入し、現在でも一般に用いられている定義を確立した弾性に関する講演など、ヤングの研究の主要なものについての研究経過とその成果である。 これらの講演は当時における最も完全、最も正確な物理学の研究であると現在でも考えられている。チェルニンがヤングを称して「(色の知覚についての)生理光学の父」といい、後になってヤングと同じ光の波動を研究したヘルムホルツは「この世に生を受けた最も明晰な人」であると考えていた。 いわゆる「ヤングの複スリットの実験」での結果、光の波動説によって説明できる現象である(当初は光を縦波と考えた)、求めた光の波長はニュートンリングより求めた値と一致した。光の色により、干渉の径路の差が異なる事は、波長=色であるということであり、赤色=0.7μm、青色=0.4μmであることが分かった。フレネルの干渉実験の結果を受けて、偏光どうしが干渉しないことより、光は横波であると指摘した。 1814 ビオらの粒子説による複屈折の説明を批判、しかし論破できなかった。 |
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■グリマルディ(Francesco Maria Grimaldi 1618-1663)
父が絹を販売し経済的に豊かな家に育った。イタリアの物理学、数学者、イエズス会神父。ボローニャの教授職にあった。1640〜 1650年の間自由落下を研究した。時間は振り子を使用し、落下距離が時間の2乗に比例することを確認している。1665年に暗室に一条の光を導き、光が物体の影に回り込む事を観察し()、回折現象をはじめて発見(レオナルド・ダビンチは 早くに注目していた)。 回折という用語を使った。「光に関する物理・数学」を著す。光の波動性を示唆した。 天文学では月面の暗部を詳細に観察し月面図()を作成した。 グルマルディの研究はフレネル。フック、ホイヘンス、ニュートンらの多大な影響を与えた。 |
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■ドップラー(Christian Andreas Doppler 1803-1858)
ザルツブルグの石工の家に生まれたオーストリアの物理学者、数学者。幼い頃は虚弱であったという。 1835 プラハ工科大学教授。 1842 二重星に関する研究から光に関するドップラー効果を発見。つまり、発光体の色が、発音対の音の高低と同様に、発光体が観測者の方へ近づいたり遠ざかったりする運動で変化するはずと考えた。音については、バロート(1817-1890オランダの気象学者)が、列車で実験した。駅を急速に通過する列車上の人は、駅で鳴 っている鐘の音が、列車の近づくときは実際より高く、遠ざかるときは低く聞こえることに気づいた。 1850 ウィーン大学物理学教授、物理学研究所長。収差、色彩論、光学距離計の改良を行った。49歳で肺結核で亡くなる。 キーラー(1857-1900アメリカ)は二重星、星の運動についてドップラー効果を使って成功し、1895年には土星の内側の明るい環の中側のふちが21Km/s動くうちに外側の環のふちが16.1km/sしか動かないことを明らかにし、全体として一つの固体でないことを発見した。 1859 化学者ロバート・ウィリアム・ブンゼン(1811-1899)およびガスタブ・ロバート・キルヒホッフ(1824-1887)が、炎、プリズムによる生じる光を広がること、および特定にイオン化された要素としてのスペクトル内の特殊な可視線のスペクトル分析を開発した。星の典型的なスペクトル線中にドップラー効果による波長のずれが観測された。 |
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■レーマー(Christensen Roemer 1644-1710)
レーマーはデンマークの商人の息子だった。彼はコペンハーゲン大学に学んだ。そこで彼はErasmus Bartholin(アイスランドの氷晶石の複屈折の発見で知られている医学教授)に認められTycho Brahe の原稿の編集の仕事を任された(1664 年〜1670)。 1672 レーマーはピカールとともにパリ王立観測所で働き始め、すぐ後にルイ14世Dauphin の天文学の個人教師、科学のフランスアカデミーの観測所での研究を任命された。 しかし最も大きい業績は1676 年、最初の比較的正確な光速の測定だった。木星のいくつかの衛星の蝕を観測した。 これらの衛星がその軌道を公転する周期は、年間のすべての時期で同じでなく、木星の見かけ上の大きさが減っていくときにはその値が平均値より大きいことに気づいた。観測された不規則性が光速が有限であるという仮定の下に成り立つと確信していた。 1676 フランス科学アカデミーへの発表では「その11月に起こる木星の第1衛星イオの食が、8月の観測に基づく計算による 時間より約10分遅れる、と予言し、この食い違いは光が木星から地球までに届くのにかかる時間によると仮定すれば説明できる」とした。 11月9日、この食は5時35分45秒に起こったが、計算では5時25分45秒に起こる予定だった。11月22日、レーマーは自分の理論を詳しく説明。光が地球の軌道を通過するのに22分かかると述べた(現在は正確には16分36秒であることがわかっている)。ピカールは賛同したが科学アカデミーやカッシーニは彼の理論を受け入れなかった。 レーマーは木星の第1衛星に計算の基礎を置いたが、それ以外の他の3つの衛星による同様な計算では、成功しなかったと述べている。その後フランス皇太子の牧師になり、後にクリスチャン5世によってデンマークに呼び戻され王立天文台長になったが、パリでの名声は薄らいだ。 第1衛星以外に対する疑問をどのように解決したかについては分かっていない。レーマーは多くの天文学的観測結果を残したが、その殆どが1728年コペンハーゲンの大火で消失した。レーマーの理論は英国のハレー(ハレー彗星で知られる)に支持され、ブラッドレーによる新しい方法で検証されることになる。 1728年の光速測定 / 木星(公転周期11.86年)の衛星(ioイオ;英語ではアィオ)の食の周期(約42時間28分36秒)が、地球と木星の太陽に対する相対位置によって異なることにより光速を測定した。左図の地球E1、木星J1が太陽Sと同じ側にあって太陽と同一直線上にあるときにはじめの食があった(緑色の点が衛星)とする。これから地球E2と木星J2が太陽Sの反対側にあって一直線上になるまで113回の食がある。レーマーはこの113回の食が計算結果より遅れるのは、光が地球の軌道直径を通過する時間が原因と考え光速を計算した。この113回の食の時間t は食の回数をN、イオの木星に対する公転周期をT、地球の公転直径をL、光速をc とするとの関係がある。 L=2.986×1011m、時間ずれを16分36秒=996秒とすると、c=2.998×108m/sである。 |
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■ブラッドリー(James Bradley 1693-1762)
ブラッドリーは、光行差の発見で知られる英国の天文学者。発見は地球が太陽のまわりで移動したというコペルニクスの理論を立証する重要な証拠、光の速度を推定する方法を与えた。 経済的理由でブラッドリーは聖職者になりBridstowで生活したが、彼の科学的な努力およびエドモンド・ハレーとの友情により1718年に英国学士院に選ばれた。オクスフォードの教授を1721年までつとめた。ブラッドリーは1728年に英国学士院に彼の発見を発表した。 ブラッドレーは恒星の視差の決定に苦心していたが、その変位が予想より全くかけ離れていることを発見。ほとんどこのことについて諦めかけていたが、思いかけないことがひらめいた。「1728年9月のある日、テームズ川の帆船の周遊会に同行したとき、船が方向を変えるごとに風向きが変わるように思われることに気づいた。船員にわけを聞いてみると、帆柱の上端にある風見の方向が変わるのは、ただ船の進路が変わることだけによるもので、その間風向き自体は変わらず一定だったということだった。これが手がかりになり、光の伝播に地球が軌道上を進むことが加わって、天体が見える方向に(光速度と地球の公転速度という)2つの速度の比による分量だけ、年間のずれができるに違いないとすぐに悟った」。 光行差(下注参照)の値から太陽光線が地球に到達するのに8分13秒(現在は約8分20秒)かかると推定した。ブラッドレーはニュートンの光の微粒子説に基づくと、光行差が簡単に説明できることを発見した。ブラッドリーによる測定で光速は295、000Km/sだった。 ブラッドリーによる発見は地球の軸の章動の発見だった。視差に関する研究を行なっていた時、最初に変動に気づいたが、章動が月の引力によって引き起こされると信じていた。1747年に彼の研究を終えて、1748年に英国学士院で発表した。ハレーが1742年が死亡の後グリニッジ観測所の後継者となった。彼の観察の大部分は死後に公表されるが、非常に正確な星図を研究し続けた。 ブラッドレーによる竜座γ星の視差の測定(右図) ブラッドレーは6月から12月にかけて天球上でS'からS''へと見かけ上の動きを示し、3月と9月ではその中間を占めると予想した。しかし、実際はこの恒星の位置は、6月と12月には同一だった。視差の影響は何一つ見いだせなかった。しかも、奇妙なことに3月と9月にはこの恒星は同一位置にあるようには見えなかった。 (注) 光行差と光速測定 風のないときに、動く電車中から雨の動きを見ると、斜め手前に降って見えるように、動く観測者には光速度が実際の向きと異なって見える。地球は公転軌道上を29.8Km/sの速度で動いているので、観測している恒星の位置は実際の位置と異なることになる。この現象を光行差という(地球の公転によるものを年周光行差、自転によるものを日周光行差という。ここでは前者である)。左図のように地球の公転軌道面にあって公転速度に対して直角方向にある恒星Pから届く光が距離ABを通過する間に観測者がABに直角にBCだけ動くと、恒星はBAの方向にあるように観測される。見かけの角度は、で与えられるから、年間を通すとP1、P2と左右にずれて円軌道ないし楕円軌道を描くようにずれて見える。 実際の観測によるとα=20.47秒(角度1秒は1度の1/3600)=9.9267×10-5rad≒tanαから、 光速度 c=29.8×103/9.9267×10-5=2.9966×108m/s |
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■フィゾー(Armand Fizeau 1819-1896)
フィゾーは、地球上の光速度を決定する方法を開発したことで知られているフランスの物理学者。以前に、光速度は天文学の現象に基づいて測定された(レーマー、ブラッドレーなど)。 フィゾーは1819年9月23日にパリで生まれた。彼の父親は王政復古期間中の医学の有名な内科医および教授だった。フィゾーは経済的に潤沢で、自分の好きな研究手段の大半を私財でまかなった。 彼は、パリのStanislas大学で医学を志したが、病気のために進路変更した。代わりに、フィゾーは、パリ観測所でフランソワAragoとともに研究した。 1839 フィゾーは新しいダゲレオタイプ(銀板写真)写真術に夢中になった。1845年に太陽の表面の詳細な写真をとることにより天文学の観察のためのダゲレオタイプ写真術を開発した。さらに1847年太陽からの熱線が波動として作用することを発見した。初期の頃フィゾーはフーコーと研究をともにしていた。 フィゾーは歯車をつけた車輪を回した。車輪が規則正しい間隔で光を遮り、断続する閃光は遠方に置かれた固定鏡で反射させた。この実験は、パリ郊外のシュレンヌとモンマルトル間8633mの距離で行われ、論文は1849年に発表された。彼の計算は、313300Km/sであった。 フィゾーは、さらに光の別の重要な現象を研究した。光が通り抜けている媒質の運動にかかわらず、光の速度が定数であることを実証した実験を行なった。光が異なる媒質を通って異なる割合で移動したことは以前に確証されたが、もし媒質が動いていれば、光速度の速度が増加させられるだろうと信じられていた。フィゾーは、彼が液体を流すことによって光速度を測定した研究を行なった。驚いたことに、液体の移動によって光の速度が増加しないことを発見した。彼の観察は、光の特性に関してニュートンの古典的力学の法則に矛盾していた。これは後にマイケルソン、モーリーによって確認された。 1866 ロンドンの英国学士院が彼にランフォード・メダルを与えた。偉大な科学者および共同者は長年彼の努力を継続したが、大多数の彼の重要な仕事は彼の初期の研究に行なわれた。 光速度の測定はレーマーによる1676年の突破口となる努力で始まって、光速度は、種々様々の異なる技術を利用する100人を越える少なくとも163回測定された。はじめての測定から300年以上後に、1983年光速度は毎秒299、792.458キロメーターであることとして定義された。したがって、光が1/299、792、458秒の時間に真空中を移動する距離を1mと定義される。 図のように歯車H(コマ数N=720、回転数n=12.6回/s)、凸レンズL1〜L4を配置する。 Sから出された光はレンズL1を通り、半透明鏡で反射され歯車を通って左側のレンズL2(この焦点位置歯車があるので平行光になるに)を経て、L3を通りこの焦点位置に鏡M1が配置されているのでM1での反射光も平行光になる。歯車とM1間での距離L は8633Kmである。反射光が再び歯車Hの歯の間を通ることができると、M2を通りレンズL4から観測者の達する。 歯車をゆっくり回転させ歯車の歯の間を通った光が反射され再び歯を通り抜ければ明るく見えるが、反射された光が歯に遮られると見えなくなる。このときの歯の回転数から光速c を測定する。光が距離L往復する時間t はt=2L/c、回転による、歯の隙間から歯までの時間t'は である。t=t ' からc=4NnL の式から光速が計算できる。歯車の回転数nが12.6ではじめて暗く見え、このことから、それぞれ数値を代入し c=313300Km/sが求められた。 |
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■フーコー(Jean Bernard Leon Foucault 1819-1868)
フーコーはフランス・パリの出版社の息子として生まれた物理学者。彼は光学と力学の実験で有名で、極端な精度と光速度とを比較する方法を開発した。フーコーは、地球がその軸を中心に回転することをフーコー振り子で証明した。 フィゾーに会い、太陽の表面の詳細な写真を撮り、1849年に光速度を正確に測定する方法を開発した。フーコーは、空気中の光速度が、それが水の中にあるより大きいことを証明し、ニュートンの微粒子説を否定した。 フーコーは1851年、振り子を使って地球の自転を証明した。実験は4カ所で行われた。最初の実験はダッサ街の彼の別荘の地下で行われた。5kgの重さの真鍮球が鋼鉄線でつり下げられた。球は傍らに寄せられ、糸が完全な静止状態になるまで、その位置に留められ糸を焼き切って放された。この振り子は一定の垂直面内を振動し始め、地球の自転を実験で明らかにした。人間の目には振動面が回転し、地球が静止状態にあるように見えたが、この見かけ上の運動の角度は地球が同一時間内に回転した角度に実験場所の正弦を乗じたものと等しいことが分かった。第2回目はもっと好条件が必要としてアラゴに勧められ天文台の建物を使った。天文台で11mの長さの振り子を使って正確に検証した。第3回目はナポレオン3世の好意によりパンテオンが選ばれ、28kgの球が厚さ1.4mm、長さ67mの針金でつり下げられた。パンテオンは見物客で一杯になった。第4回目は万国博覧会で行われた。 また、フーコーは軸線のまわりで地球の動きを示すためにジャイロスコープを発明した。1855年に磁界(それらは時々フーコーの流れと呼ばれる)によって生成された渦電流の存在を実証した。彼は麻痺の突然の発作に苦しみつつ48歳で亡くなった。 フーコーによる光速測定法 / フーコーは回転する鏡の反射を利用して、光の速さを測定した。その原理は次のようである。図に示すように、光源Sから出た光はスリットを通り、半透明鏡Hを通り抜けて平面鏡Rにより反射され、凹面鏡Mに達する。Mで光はもと来た道をたどり、Rが静止していれば回転平面鏡で反射し、さらに半透明鏡上のQ点で反射してPを通る。いま回転平面鏡RのOを中心として一定の回転数n(回/s)で回転させる。OM 間の距離を l、光の速さを c とすると、光がOM 間を往復する時間はt=2l/c となる。この間に平面鏡Rは角θだけ回転している。そのため光は半透明鏡のQ' で反射されPを通らず、Pよりごくわずか離れたP' を通る。この際、角度∠QOQ' をθで表すと右図により、鏡がθだけ回転すると反射光は ∠QOQ'=∠QOR'−∠Q'OR'=(α+θ)−(α−θ)=2θ だけずれる。 鏡は1(s)間に2πn (rad)回転するので、θ(rad)回転に要する時間t (s)間はだから が成り立つ。よって光速は で得られる。フーコーはn=800、l=20mとしてc=298600Km/sを得た。 |
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■マイケルソン(Albert Abraham Michelson 1852-1931)
1880 ベルリン大ヘルムホルツの研究室で「マイケルソン干渉計」の雛形開発。その後、グラハム・ベルの資金援助によりベルリン機械製作所で高精度版製作。 1881 ベルの援助の下、マクスウェルが提案した干渉計を製作。ベルリン、ポツダムの天体物理観測所で最初の実験。ベルリンでは交通により、ポツダムでも干渉計の回転軸のブレにより測定できなかったが、マイケルソンは、エーテルの相対速度はないと発表してしまった。ケルビン卿やレイリー卿の関心は呼んだが、学会には認められず、失意のうちに光速度測定の研究にもどる。クリーブランドのケイス応用科学学校(現ケイス工科大)の物理教授に近くのウエスタン・リザーヴ大のモーレーと知り合う。 1887 光速度の等方性干渉実験「エーテルの風」の痕跡がないことをモーリーとともに実験。これでエーテルの存在を否定した。 1926 フーコーやフィゾーの装置を改良し、ウイルソン山とサンアントニオ山の間の35km の距離を用いて c=2.99796 ×108m/sの値を得た。 左下図の装置で、スリットSを出た光は正八角形の回転鏡Rの一面a、平面鏡M1、M2で反射され凹面鏡C1での反射によって平行光になり、遠方の凹面鏡C2に達し、その焦点にある平面鏡M3で反射されて、再び凹面鏡C1に至り、平面鏡M4、M5、回転鏡Rの一面bでの反射の後プリズムPを経て望遠鏡Tで観察される。回転鏡aから入った光がbに達するときb面に鏡面がなければ望遠鏡で光を観測できない。b面からの光が見えるようにRの回転数を調整し、35.385Km先にC2を置き、528回/sの回転数で調べた。 |
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■クインケ(Georg Hermann Quincke 1834-1924)
ハイデルブルグ、フランクフルトの物理学者。ヴュルツブルク(1872)、ハイデルブルグ(1875-1907)の教授だった。金属の光学特性、液体の分子力、毛細管現象を研究。音波干渉計であるクインケ管を1866年考案し、音波の波長の測定を可能にした。弟子に陰極線発見者Philipp Lenard (1862-1947)とMax wolf (1863-1932)がいる。 |
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■中世の動力 / 水車と風車の発展 | |
■1.中世の水車
中世において、産業の色々な過程に水力が適用されたことが、イギリスの産業革命期の高度に機械化された綿紡績工場へとつながったとされる。 古代から中世の初期にかけては、落下する水の力が利用される仕事はほぼ小麦の製粉のみであったが、16世紀には製粉水車に加えて、金属の溶解、鍛造、切削、圧延、切断、研磨、粉砕、打ち抜き用などの水車が出現した。第1図は1660年頃の刃物製造業に利用した水車の図でGが研削砥石である。また第2図は中ぐり盤に用いた水車の例で、上部にそのスケッチが描かれている。 東ドイツでは鉱山の坑道の排水用にボロ玉つき鎖ポンプが使用されていた(第3図参照)。軍事需要は、冶金工程での水力利用の拡大に貢献し、例えば1500年〜1750年の時期に初めてマスケット銃の銃身や大砲の中ぐり(第4図)、大砲の砲身を旋削する金属旋盤用の動力として水車が用いられた。第4図では4本の水平ドリルが横に並べて置かれ、水力で回転させられる。奥の壁際には研削砥石があり、銃身の外面研磨に使用された。 中国でも、1637年発刊の「天工開物」に第5図に示すような田への揚水用水車が記されている。 |
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■2.風車の歴史
風車は現代でも使われている翼車型風速計のルーツである。またヨーロッパに行くと各地に古い風車が見られる。 風車は水車のようにその歴史と地理的分布が明らかでないようである。10世紀の初頭ペルシャの写本の中に、水平型風車が644年に始めて使われたという記録が残っているが、モーゼの時代に既にエジプトには存在していたと考えられる。 4世紀から15世紀にわたる東西ローマ帝国から、ルネッサンスまでの時代においては、流体機械の進歩は水車と風車の数量の増加となって現れた。 特に10世紀までは、ペルシャでは水平型風車が灌漑の揚水などに使用された。写真1はその復元模型である。 これは製粉用に使われたもので、羽根としてすのこ状の帆があり、下方には石臼が見える。左側に風除けがあり、風車に一方向の風のみが当たる工夫がなされている。現在でもアフガニスタンなどに遺跡が残っている。 この水平型水車は未だにどのようにして、現在の垂直型風車の先駆者と思われる地中海の風車に結びついたかは分かっていない(写真2参照)。 今でもクレタ島には6,000台もの揚水風車が回っているという。実際に、ヨーロッパで使われている垂直型風車はペルシャの風車からのものでなく、穀物用水車からアレンジメントされたものに由来する全く独自の革新であったようである。 この風車の技術を広めたのは十字軍であり、アラビアの風車の技術を西のヨーロッパに伝えた。一方モンゴルのイスラム侵攻により、東の中国にも伝えられ、特に10世紀から13世紀に至る宋代は風車文明が開化し、その後も各地で相当数が用いられている。英国では1200年より少し前に風車があった。しかしポープ・セレスチン3世が風車に十分の一課税を課したため、13世紀の終わりまでに、北欧で発達するようになった。 オランダ(Netherlands)は中世の初めから海面下に位置していた。国は引き続く洪水にみまわれ、特に1421年11月18〜19日のものは最悪で、72もの村が破壊された。そこで海水の洪水を防ぐための防壁が建築され、土地が海岸堤防の間のスペースを排水することによって形成された。残った水溜りや湖は空のまま残った。この目的のために揚水風車が使われたのである。 当初の風車は、羽根の方向は固定であったが、風の向きによって風車方向が変えられるように改善されてきた。オランダの風車は1850年ころに最盛期を迎え当時1万台あったという。 写真3はオランダを旅行すると誰でもが訪れるザーンセスカンスの古典的風車群4台のうちの3台を写したもので、粉挽き、排水、製材、マスタードの攪拌などを実演しているそうである。 |
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■3.日本の風車と水車の歴史
「東風(こち)吹かば、にほひおこせよ梅の花、あるじなしとて春を忘るな」(1006年)に代表されるように、我が国には古来より風をテーマにした歌や小説が多くある。日本の文化は古くは中国、中世に入ってオランダ、ポルトガルから伝来している。隣国中国では相当の数の風車が利用されたという事実もあり、風車大国のオランダあたりからも技術が伝わってきてもよさそうであるが、おもちゃとしての「かざぐるま」以外には実用風車が用いられた形跡はない。日本は山地が多く雨も多いため、水利に恵まれ水車が発達した。風は歌の題材にはなったにせよ、台風のように災害をもたらすものとして嫌われたようである。また風車を作ったとしても度重なる台風で破壊されてしまうのも、主な理由であったであろう。時代は先に飛んでしまうが、我が国の風車の歴史はというと、明治の文明開化とともに始まったようである。写真4は明治時代中期に「赤い風車の学校」として知られていた横浜のフェリス女学校の揚水用風車が描かれた絵である。 それでは水車についてはどうであったのでろうか? 日本の水車の歴史は「日本書記」による推古天皇18 年(610)3月、高句麗の僧曇微が碾磑(てんがい)を伝えたときにはじまったとされている。以来日本の風土に同化しながら、揚水用や動力用として江戸時代中期の1700年代には全国に普及した。第6図は水車絵として日本最古のもので鎌倉時代1290年代の伏見天皇宸翰「源氏物語抜書」の料紙下絵に描かれている宇治の揚水水車である。 第7図は捨遺都の水車を描写した絵である。 「井堤里玉川の流れを以って水車をめぐらし、昼夜碓(うす)を踏ませて米を精白にし、舂(しょう)をまはせて菜種を挽きわり、あるはもろもろの粉を震はせけり。その車の工他に異なり。」と記されている。大型の1台の水車によって杵を働かせ、さらに歯車(羽車)によって運動を変換することで薬種をひき、さらにまで回転させている。こうした運動装置は日本では珍しい仕掛けであった。 次に示すのは第8図の都の淀水車である。 「淀の水車はむかしよりありて耕作のためにす。秀吉公の室淀殿、これに住したまひしより城中の用となす也。」と記してあることから、秀吉が日本を統一した1590年ころのことである。図は右上方に揚水車として有名な淀の水車を描くが水車の描写は正確ではない。手前は大阪へ通ずるいわゆる三十石舟である。この揚水車は829年に発せられた太政官符によって全国的にその利用が勧められたが実現しなかった。しかし京都付近にはかなり設置されたらしく、「宇治の河瀬の水車」(夫木抄)「大井川の水車」(徒然草)などに記録されているので、1350年頃には日本にも水車が存在していたことになる。ヨーロッパでも水車が普及したのは中世であるから、規模を別にすればさほど遅れはとっていないといえる。 これらの絵を発見したときには、大和の国もなかなかやるものだと我ながらにいたく感激した。 |
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■産業革命からフランス大革命へ | |
■1.ニュートンとフック及びライプニッツとの確執
アイザック・ニュートン(Isaac Newton[英]、1642〜1727)は20世紀にアインシュタインが出現するまでの最高の物理学者とされている。彼はエジソンやアインシュタインがそうであったように、少年時代にはさほど才能の際立ったところのない、普通の少年であったという。21歳のときヨーロッパではペストが大流行し、彼は一時故郷に避難していた。このときリンゴ畑でリンゴが落ちるのを見てかの有名な「万有引力」を発見したといわれている。しかしこれについては、「フックの法則」で有名なフック(Robert Hooke[英]、1635〜1703)から「自分が先に発見してニュートンに手紙を書いたではないか、貴殿はこれにヒントを得たのであるからこの事実を認めて著作に発表せよ」とクレームがついた。またライプニッツ(G.Wilhelm Leibniz[独]、1646〜1716)からも微積分は自分が先であるという丁重な手紙が届いたが、ニュートンはこれを無視したため、これより彼らの後継者も含め100年以上も訴訟が続いた。これはイギリスとドイツの国際紛争であり、両国の学術交流がストップしてしまったという。微積分に関してはニュートンには物的証拠がなくどうも不利であった。しかし争っていたフックの方はニュートンの実力を認めていたのであろうか、王立協会の重鎮であるフックの応援もあってニュートンは1687年に「プリンキピア」を発表したのである。プリンキピアは、 第1巻 ニュートンの力学体系、万有引力からケプラーの3法則の誘導 第2巻 粘性媒体内における物体の運動と流体力学 第3巻 宇宙体系の議論で、太陽や惑星の質量決定、月の運動に見られる不規則性 の3巻から成っていた。 第1巻には万有引力の他にニュートン力学でも最も有名な第1法則の「外部からの影響を受けない場合は、質点は静止又は等速運動を持続する」と、第2法則の「質点の加速度は外力に比例し、外力の方向に起こる。」が述べられている。第1法則で最もよい例は、人工衛星が一定の速度で地球の周りを回り続けることである。第2法則は外力をF、質点の質量をm、加速度をαで表すと、かの有名な式が導かれる。F=ma である。 また第2巻では流体力学において、顕著な功績を残している。それは「粘性のために生ずるせん断応力は流れの速度勾配に正比例する」という、いわゆる「ニュートンの粘性法則」であり流体力学の基本事項の一つとなっている。従ってこの法則に従う流体を「ニュートン流体」というようになった。我々が日常生活で慣れ親しんでいる水、空気あるいは石油はこれに属する流体であり、流体力学を研究する学者や技術者は、ニュートン流体が相似則が成り立つために、例えば船や飛行機の実験に、小さな模型を作り水又は空気を用いて研究することが出来るのである。フック自身も「流れの計測」には有意義な業績を残しており、第1図の風速計、水銀気圧計がそれである。また、Dr E.A. Spencerは開渠流量計についても彼が1683年に発表したとしている。この他にも自在継ぎ手とかレンズみがき器など特殊な計器や器具を考案している。このため工学系の技術者に分類されていると思いきや、生物の研究で最も功績が大きい生物学者であったのである。17世紀後半にしてやっと、流体計測に携わる技術者が待望の流れを計測する計器「風速計」が出現したのである。フックの風速計は、流速が増えるとターゲット板が上がり風圧を受ける面積が小さくなるので、風速表示は当然等間隔目盛りではなかったのであろう。またニュートンにより粘性という概念が生み出された のも流体計測に携わる人にとって特記すべきことである。でも残念ながらニュートンは発明の先陣争いに疲れ果てたのか、人嫌いになり、晩年は錬金技術に凝ったそうである。 |
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■2.中国・清時代の治水
この頃の中国に目を転じると、1662年に永明王が没して明が滅び、康煕帝が中国最後の朝廷である清朝の初代帝位に着いた。康煕、雍正、乾隆時代には農業生産を非常に重要視し、この百年余りの間に、河の治水は無論、水利の開発、利用に関して見るべき効果を挙げた。この方面で突出した貢献者は康煕帝(1662〜1722)に仕えた陳であった。彼は洪水を的確に制御するために、「測水法」を発明した。即ち河水の横断面積に流速を乗じて、水の流量を計算した。 陳の言によれば「その法とは、まず水門の広さを測り、1秒で如何ほど流れるかを測り、一昼夜分を累積すれば、流量が計算できる」と述べているのである。「流量計測の歴史1」で述べたように、流量の概念を最初に導き出したのは、150年頃に古代ギリシャのヘロンであったが、歴史を紐解いてみると、実際に流量の概念を社会に役立てたのは、陳が最初であったといえよう。私は思うのである。何故この時代にヨーロッパで発展してきた水車の回転数から水の流量に結びつける概念が生まれなかったのであろうかと。多分「今日は水車の回転が速いから水量が多い。」くらいのアバウトな概念に終っていたのであろうかと。流量計発明の機会はいくらでもあったはずである。 |
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■3.産業革命時代へ
さて17世紀後半から18世紀前半に入るとニューコメンからワットまでの蒸気機関の改良により、ヨーロッパは英国を中心とした産業革命の時代へと急速に進展していくわけである。蒸気機関を完成して産業革命の直接の引き金になった人こそ、ジェームス・ワット(James Watt[英]、1736〜1819)である。ここで蒸気機関のルーツを遡ってみると、これもやはり「流量計測の歴史1」の第7図に記したヘロンの蒸気反動タービンなのである。小泉袈裟勝氏が述べたように、ヘロンは時代を1,700年も先取りしたまさに稀有の天才だったのである。さて蒸気機関もれっきとした流体機械ではあるが、きりがないので熱機関あるいは熱力学の問題として「流れの計測の歴史」では深入りしないことにする。ご存知のように、蒸気機関は急速に前号で述べた水車及び風車などによる古典動力に取って変わっていく。 流体力学は、スイスのバーゼルのベルヌーイ学派によってその基礎が築かれた。ダニエル・ベルヌーイは(Daniel Bernoulli[スイス]、1700〜1782)は「ベルヌーイの定理」という流体力学で重要な定理のもととなるエネルギー原理を1738年に提示した。これに基づき1758年にオイラーは「流体の位置エネルギー、運動エネルギー、及び圧力エネルギーの3項の和が一定」という関係式を確立した。 ピトー(Henri de Pitot、仏、1695〜1771)はベルヌーイの定理に先立つこと6年前の1732年に「ピトー管」の名で有名な流速計を開発し、この年にセーヌ河で流速の計測を行っている。これはベルヌーイの定理に基づいて流速を検出する方式のもので、今でも流体力学の研究に大学や研究所で使われているものである。 |
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■4.フランス大革命時代へ
時代が18世紀後半に入ると、イギリスの産業革命のあとに続いて、アメリカ独立宣言(1776年)、フランス大革命(1789年)と激しく変化する世の中へと推移していく。科学界でも、窒素、酸素の発見に続き、ラヴォアジェが1789年に出版した「化学要論」は近代化学の基礎を系統的に述べるものとして、ニュートンの「プリンシキア」、ダーウインの「種の起源」に匹敵するものであり、彼が近代化学の父と讃えられる所以である。この中において元素概念の明確な規定と科学的元素表が提示された。1780年にガルバーニが動物電気を発見し、1799年にヴォルタによる電池の発見がありここにきてやっと電気の息吹が始まる。フランス大革命は1789年7月14日に専制主義と封建制を象徴するといわれた牢獄バスティーユが民衆によって占領され破壊されたときに始まる。1792年にはフランス共和制が公布されルイ16世が処刑され、その後ギロチン断頭台による処刑が次々に行われる恐怖時代へと突入していく。ヴェルサイユ宮殿を訪れると、マリー・アントワネットの美しい肖像画に魅せられるが、その王女は、哀れにも1793年10月14日に断頭台にのぼり処刑されるのである。読者は薄気味悪い断頭台の話が何故出てくるのか不思議に思われるであろう。しかし恐怖政治は科学者の身にも及ぶのである。フランスで主に用いられていた長さの単位は、メートル法成立まではピエ・ド・ロワ(Pied de Roi、約0.325m)であった。1790年にタレーランは新しい単位系を作ることを国民議会に提案した。パリ科学学士院もこの計画に賛同し、委員会を設けて検討を開始した。その委員は前出のラヴォアジェ(Antonine Laurent Lavoisier[仏]、1743〜1794)、ラグランジュ、ラプラスなど後世に名を残す錚々たるメンバーで構成されていた。ラヴォアジェは水の密度測定を担当していた。その大部分の仕事は1793年8月に終わっていたが、彼は徴税請負人であったがゆえに、同年11月に投獄されたのち、1794年5月8日に断頭台で露と消えてしまうのである。 ラヴォアジェは獄中から護衛つきで実験室に通い、実験が完了するや処刑された。ラグランジュは「この首を落とすのには一瞬で足りるが、百年かかってもこんな首はできまい。」と友人に嘆いていたという。ラヴォアジェの後継者が発表した4℃の水の密度は現在最も正確とされている1dm3の水の質量0.999972kgに非常に近い値であった。 写真は仲睦まじいラヴォアジェ夫妻の絵であるが、マリー夫人は金髪青眼で非常な美貌の持ち主であり、「陽気で賢明で科学的な貴婦人」として実験室にサロンに終生かわらぬ内助の妻として、夫の仕事を助けた。しかし無残にもギロチン台はそれを絶ってしまったのである。この時期、シャール(仏)は1787年に気体膨脹に関するシャールの法則を示した。現在「ボイル・シャールの法則」といわれているものである。彼は1783年に水素気球を発明している。8月24日彼は市民の見守るなかで水素気球を飛ばしたが空中爆発をおこし失敗した。そこで失敗の原因を究明し、気球が上空に行って膨張し過ぎるときにガスが逃げるように改良し、再度12月1日にヴェルサイユ広場で気球を飛ばし大成功をおさめている。さてフランスのギロチン断頭台による恐怖時代はロベス・ピエールの刺殺とともに去り、英雄ナポレオンに引継がれて行く。先にも述べたヴォルタによる電池の発明は電気の世界に初めて灯をつけたといえよう。現代の科学工学をリードする電気電子技術の幕開けとなる。ナポレオンは1796年にイタリア遠征より凱旋し、ヴォルタの電池の実験を供覧して彼に伯爵の栄誉と年金を与えたのである。第3図はナポレオンが計画した19世紀はじめの英国との戦いに、空からはフランスで発達した気球、海上からは船、地下はトンネルを掘って、海峡を渡ろうとする英国上陸作戦であるが実現せず、トランファルガルの戦いでネルソン率いる英国海軍に完敗する運命となる。湯浅光朝氏はナポレオン時代を次のように評している。「18世紀後半から19世紀初頭にかけてのナポレオン時代は、科学史上最も生彩に富んだ浪漫的時代であった。ニュートン物理学の完成によって絶頂に達した機械的世界観の展開は18世紀啓蒙時代を生んだが、既知の理知、伝統の領域をはるかに越えた未知の広大な世界があることが分かってきた。即ち機械的自然観から脱皮、前進を意味し、ニュートンの原理をもってしても解釈し得ない新現象が次々と発見されていった。18世紀末を境として、社会機構は高度資本主義時代に移行し、自然科学は前代未聞の発展をとげていく。」と。 |
■人口論 / AN ESSAY ON THE PRINCIPLE OF POPULATION | |||||||||||||||||||
■訳序
マルサス『人口論』の第一版と第二版との間に大きな差異があることは、どの本にも書いてあり誰でも知っている。しかしその第二版以後がどうかということになると、余りはっきりしていないようである。しかし実際は、『人口論』はマルサスの生きている間に六版を重ねており、その各々にはいずれも訂正または増補が行われているのであって、同一の版本は一つもないのである。もちろん第二版の訂正増補が最大であるが、これに次いでは第三版及び第五版のそれである。そして第四版及び第六版はその各々の前の版の再刻と普通には称せられているが、それでさえ実は修正が加えられているのである。 これらの訂正ないし増補の跡を辿ることは、単にペダンティックな趣味のためであるならば、実に下らないことである。しかしながら実は、マルサスの『人口論』は、経済学に関する理論的著述であるよりはむしろ階級的利益の代弁書である。そしてこのことは、代弁せらるべき利益の情勢の変化につれて代弁理論が刻々と前後撞着的に変化してゆくことに最もよく露呈されるのである。この意味で、『人口論』こそは、そのある版本だけを読了しそれだけで理解の行く本ではなく、ぜひともその各版本を比較読了しなければならぬのである。 しかしながら、それだからと云って、六種の版本について格別に六種の訳本を出すことは無用の業である。したがって私は、ただ一つの訳本でしかも前後六版の変化が辿れるような飜訳をしてみたいと、前から考えていた。しかし各版の文句を噛み合せるという形(私がマルサスの『経済学原理』の岩波文庫版で試みた形)ではこれは到底行い難い。けだし各版の差異が大である上に、本が六種にも及ぶので、無理にこれを実行してみたところで煩わしくて読めるものではないからである。 そこで今囘再建春秋社によって機会が与えられたので、とにかく本文については一応第六版を基礎とし、これになるべく読む邪魔にならぬような形で細字で訳者註を加えて、各版の差異を現すこととした。読み方については別記『凡例』を参照せられたく、また『人口論』の階級的本質その他については『解説』を参照せられたい。 最後に一言すれば、私はかつてこの試みを少しやりかけたのであるが、それは戦争のために抛棄せざるを得なくなった。従って今囘はこれを改めてはじめからやり直したのであるが、それにもかかわらず当時の試みに関する御配慮につき堀經夫博士にここに謝意を表したい。また今日の試みに当っては美濃口時次郎教授及び東京商大図書館の御配慮によって希覯図書を接見するの便宜を与えられた。併せて感謝の意を表する。なお春秋社の瀬藤五郎及び鷲尾貢の両氏、並びに原稿整理その他各般の事務につき多大の便宜と助力とを与えられた高橋元治郎氏及び高橋一子君にも厚く謝意を表したい。一九四八年六月 ■凡例 一、本訳書はマルサス『人口論』の第六版を全訳し、これに加えて、第一―第五版にこれと異る記述がある場合、その他関連的記述のある場合、その重要なものを対照附記したものである。 二、第六版の本文の全文は大きな文字で印刷し、その他の部分は訳註として小さな文字で印刷されている。 三、従って、第六版を通読しようと思う人は、訳註を飛ばして、大きな文字で印刷されているところだけを通読されたい。 四、第一―第六版のいずれをとっても同一の版本は一つもない。しかしその差異の全部を表わすことは、いたずらに煩わしくなるだけであるから、重要と思われるもののみを表すこととした。 五、なお各版の出版年次は次の通りである。 第一版一七九八年 / 第二版一八〇三年 / 第三版一八〇六年 / 第四版一八〇七年 / 第五版一八一七年 / 第六版一八二六年 右の各版相互の関係については、詳しくは巻頭の『解説』を参照せられたい。 |
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■マルサス『人口論』解説 | |||||||||||||||||||
■一 | |||||||||||||||||||
トマス・ロバト・マルサスの『人口論』(Thomas Robert Malthus, An Essay on the Principle of Population.)が匿名の下にはじめて世に現れたのは、一七九八年である。
それはフランス大革命とそれに続くナポレオン戦争の時代であった。そして『人口論』はまさしく一つのフランス革命の子であると云うことが出来る。しかしそれは革命の側に立ってこれを鼓舞する書ではなく、革命の情熱に冷水を浴びせる書であった。 由来フランスは、一七八九年の大革命に至るまでは、絶対王制によって統治されていた。しかし実際上の権力は貴族及び僧侶の手にあった。これらの権力者は、貨幣を代償として、種々の特権を大貨幣地主に売渡していた。これらの諸階級は、商人資本及び高利貸資本による封建的農業関係の分解によって生じた農民の貧困や、形成されつつある近代都市に溢れている汚辱的貧困と対照的に、極度の奢侈生活を営んでいた。殊に豪奢の競争において大貨幣地主との助力結合を得て終ついに封建貴族を威圧するに至ったところの国王の宮廷における奢侈は、言語に絶するものがあった。ために公債は激増し租税は加重された。しかも対外的には、アメリカにおける植民地は失われ、そこにおける艦隊は無に帰し、またドイツにおいては屈辱的大敗をなめなければならなかった。このことはまたも公債租税の累進に著しい拍車をかけ、フランスの財政は破産に瀕した。かくて特権を享受し得なかった所の小生産者、農民、中小商人資本家は、国王に対し叛旗を飜ひるがえして立った。一七八九年に革命が勃発するや、バスティユは開かれ土地は地主から奪われた。九二年には権力は小資本家及びパリの労働者の手におち、王制は廃止され、九三年には革命はその絶頂に達したのである。 実にこの革命は封建制度の晩鐘であり資本制制度の暁鐘であった。それは英国にも大きな影響を与えずにはおかなかった。けだし英国は既に数度の革命によって一応立憲的政治形態をとるに至っていたとはいえ、しかもそこには沈淪の状態にある無数の破滅せる農民や小生産者や労働貧民が溢れていたからである。彼らはフランスの『国民』がその貧困の状態を打破せんがために、その貧困の原因と考えられるいわゆる『デスポティスム』に対して立ち上ったのを見た。そして彼ら自身また立って、自己の貧困を打開せんがために、現存する社会制度特に政治制度を打破せんとしたのである。すなわちそれは一方においては、実践的に、いわゆる『通信協会』の運動を、イングランド、スコットランド、及びアイルランドの全英国にわたって、燎原の火の如くに進展せしめると共に、また他方においては、理論的に、リチャアド・プライスのフランス革命謳歌に端を発するエドモンド・バアク対ラディカルズの論争となって現れた。ラディカルズにして論争に参加し革命を讃美し英国の状態を批判したものは、プライスを別としても、メアリ・ウォルストウンクラフト、ジョウジフ・プリイストリ、ジェイムズ・マッキントッシュ、トマス・ペイン、ウィリアム・ゴドウィンをはじめ数十人に上り1)、他方これに反対せるものは、バアクを別としても、ジョン・ホロウェイ、エドワド・セイア、ウィリアム・コックス等多数に上った2)。更にまた『通信協会』も、トマス・ハアディ、トマス・ホルクロフト、ホオン・トゥック、トマス・ペイン等によって代表される『ロンドン通信協会』を中心として、その影響は急速に、全英の小生産者、小資本家、労働者の階級の間に拡がって行った。大都市においては『通信協会』は必ずしも破壊的ではなかったけれども、地方、特にアイルランドにおいては、既に騒擾の兆が現れて来た。かくて革命の当初にはなお平静を持していた英国特権階級も、ようやく事の急なるにその度を失って来た。その最初の現れは、メアリ以下の駁論を誘発したエドモンド・バアクのプライス批判であったが、一七九二年にフランスの王制が廃止された時に、『通信協会』が、権力を掌握したパリの労働者及び小資本家と手を握ったことを見たピット政府は、この英国特権階級の希望を実行に移す口実を得た。すなわちここに英国史上稀に見る一大弾圧が全英にわたってラディカルズの上に加えられ、その著書は発売禁止処分を受け、その代表者は十分の訊問も取調もなくして相次いで処刑され、英国における最初の――もっとも上記の如く純粋なものではないが――労働者運動は根こそぎに破壊され、一八〇〇年の結社禁止法に至ってそれはようやく終りを告げた。これいわゆる『英国におけるフランス革命』であるが、マルサス『人口論』は実にこの闘争における輝ける特権階級擁護の書なのであり、フランス革命に関する論争に終止符を打ったものと称せられているのである。 1) 例えば次を参照、―― Richard Price ; Discourse on the Love of our Country, delivered on Nov. 4, 1789, etc. 1789. Mary Wollstonecraft ; A Vindication of the Rights of Men, etc. London 1790. Joseph Priestley ; Letters to the Right Honourable Edmund Burke, etc. Birmingham 1791. James Mackintosh ; Vindiciae Gallicae. etc. Dublin 1791. Thomas Paine ; Rights of Man etc. 1791. Do. ; Rights of Man. Part Second, etc. 1792. William Godwin ; An Enquiry concerning Political Justice etc. London 1793. Do. ; The Enquirer. etc. London 1797. 2) 例えば次を参照、―― Edmund Burke ; Reflections on the Revolution in France, etc. London 1790. John Holloway ; A Letter to the Rev. Dr. Price. etc. London 1789. Edward Sayer ; Observations on Doctor Price's Revolution Sermon. London 1790. William Coxe ; A Letter to the Rev. Richard Price, etc. London 1790. この論争の口火を切ったものはリチャアド・プライスである。彼はそれまで英国に関する人口論争に参加し、英国の人口減退を主張し、貧困に関する世論を喚起せんとしていたのであった1)。しかるに彼は今やフランス革命を見、それが名誉革命の精神と相通ずることはなはだ多きを感じた。しかし彼によれば、名誉革命は大事業ではあったが決して完全な事業ではなかった。そこで彼は、フランス革命に倣い、名誉革命の精神に復帰して、英国の社会的並びに政治的の改革を行わんことを、主張したのである。すなわち彼は一七八九年の『名誉革命記念協会』の集会において一場の説教を試み、愛国心を論じ、我国を愛するがためにはそれをして愛せられるに値するものたらしめる必要のあることを説き、今や自由の光はアメリカに始まってフランスに達し、終に全ヨオロッパを覚醒せしめんとしている、と主張して、フランス革命を擁護し英国の改革を支持した。続いてプライス一派は更にこれに次いで、フランス国民議会に祝辞を送ったが、これは国民議会からの感謝文によって応えられた。これが問題の発端である。 1) Richard Price ; Observations on Reversionary Payments ; etc. London 1st ed., 1771 ; 2nd ed., 1772 ; 3rd ed., 1773 ; 4th ed., 1783. Do. ; An Essay on the Population of England, etc. London 1780. 以上のようないきさつは英国特権階級に驚愕の念を与えた。彼らの一部はなお平静を持したが、他の一部はこれに対して何事かがなさるべきことを希望した。かくて、ホロウェイ、セイア、コックス等のプライス批判が現れたが、なかんずく最も重要なのはエドモンド・バアクのそれである。 バアクの所説の中心点は次の如くである、――およそ英国における一切の改革は過去の先蹤せんしょうを典拠として行われたのであり、またそうあるのが当然である。しかるに英国には世襲の王位や世襲の貴族をはじめ、また英国流の自由が遠い祖先から伝えられて来ている。従って真に改革が必要であるならばこれに従って改革を行えばよいのであって、フランスに学ぶような必要は少しもない。かくの如くフランス革命は、啻ただに英国の先例たらしむべき資格を欠くばかりでなく、更にただ革命としてのみ見ても最悪の性質のものである。他の革命においては、その犠牲となったものは常に悪虐極まりない人物であった。しかるにフランス国王が穏和な合法的な国王であることは疑問の余地がないのに、フランス人はかかる模範的統治者に対して革命を起したのである。従って単にフランスから何物も学ぶべきではないというに止らず、更に進んで英国をしてフランスの模範たらしめるべきである、と。 なおバアクはかかるプライス批判の外に、積極的にフランスにおける反革命運動を組織し支持するに至ったので、ラディカルズは彼に対して著しい怒りの念を懐くこととなった。かくて前述の如くウォルストウンクラフトをはじめ、プリイストリ、マッキントッシュ等数十名のものは一斉に立って、バアクの所論を覆えそうとしたのであるが、その代表的なものはペインの『人権論』である。 ペインによれば、バアクの所論は彼自身の述べる所そのものによって否定される。けだし改革は過去の先蹤によるべきであるとすれば、その先蹤はまたそれ自身の先蹤を有もつであろう故に、結局創造の時まで遡るの外はなく、そして創造の際には人間は人間であるのみであり、それ以外の何ものでもあり得ないのである。しかるに生殖は単に創造の延長に過ぎぬ故に、人間は人間として、創造の際におけると同様に、その生存の権利を有つはずである。しかるにかかる権利すなわち彼れのいわゆる自然的権利の中には、なるほど個人において権利としては完全であるが、その行使において不完全なものがある。それは安固及び保護に関する権利である。かくて各個人はかかる権利を社会の共通貯蔵に持込み、必要の場合には共通貯蔵からその保護を受けることとなる。これいわゆる市民的権利である。ひるがえって政府の起源を見るに、それは迷信か、力か、この市民的権利かであり、フランスにおいて形成されつつあるものはこの第三のものであるが、英国の政府はウィリアム征服王以来その第二に属する。従って英国もまた一つの『フランス革命』を必要とする、というのである。 バアクはこれに対し正面からは答えなかったが、しかしその政治的態度の故にホイグ党から離脱するに当って若干ペインに触れ、更に実践的には法律によるペインの処刑を大いに運動したが、しかしこれは成功しなかった。一方ペインは更に続いて『人権論』第二部を公けにし、国王及び貴族を大いに罵倒するかたわら、貧困問題の重要性を強調し、貧民法を廃止して貧民に権利としての生存を保証せんことを主張した。この書については終にバアクの運動は効を奏し、ペインは起訴され終に有罪の判決を受けたが、彼は既に身はパリにあり、その処刑を免れることが出来た。 ペインの『人権論』は、バアクの書と並んで多大の反響を惹き起したが、これに続いて現れたゴドウィンの『政治的正義』の反響も、これに劣るものではなかった。しかしこの書は、ペインのそれとは異ってもはや論争の書ではなく、積極的理論の展開がその主題である。積極的理論とは、空想的思弁的な無政府共産生義である。すなわちゴドウィンによれば、政府の目的は単に暴力の行使にあるにすぎない。従ってそれは悟性または意思の働きたる服従とは何らの適法的関係をも有ち得ない。されば、あるべきものは『政府なき簡単な社会形態』でなければならない。更に彼れの共産主義は如何というに、有用物の所有ないし消費を決定するものは正義でなければならない。換言すればそれは必要ないし欲望によって決定されなければならない。他方労働もまた万人の共通に担当するところでなければならない。従って、もし一方では奢侈に耽り得る人がいるのに、他方健康や生命を破壊してまでかかる奢侈に必要な物資の生産に従事するものがいるのは、正義に反することである。結局生産及び消費の全分野において共産主義が導入せらるべきである、というのである。ただここに注意すべきは、彼が、人口の増加によるかかる理想社会の終局的困難を予想していたことである。しかし彼によれば、その時は遠いのであるから、かかる遠い将来の困難が予想されるからといって、現在の実質的進歩に躊躇すべきではない、というのである。 彼はなおこれに続いて『研究者』を著している。これはマルサス父子の論争を誘発し、その結果として子マルサスが『人口論』第一版を著すこととなったものであるが、しかし理論的興味は多からぬものである。 かかる時に、また、人類の『不定限の可完全化性』を主張するコンドルセエの楽観的思想1)が、フランスから海を越えて渡って来た。彼れの思想は一種の歴史観を基調とするものである。すなわち彼によれば、人類の歴史は将来をも含めて十段階に分たれ得るものであり、この第九段階と第十段階とを分つものがフランス共和囲の成立である。しからばこの時から始まる第十段階においてはいかなる見通しがなされるかというに、国民間の不平等の消滅、同一国民内の不平等の消滅、及び人類の真の完成、の三つがそれである。そして科学や文明の進歩を見、人類の精神とその能力とを検討するならば、この三つは果てしなく実現されるであろうと考えられる。――しかしながら、その際には、ゴドウィンの頭にも浮かんだところの、人口の増加による終局的困難が生じないであろうか、という疑問は、また彼れの頭にも浮かんだものであった。これに対して彼もまた、時は遠いと答える。しかし彼もまた、これではその時が到着した時に対する真の解答にはならぬことに気附いて、その時には産児調節の手段に出ずべきことを説いている。かくて彼は、かくの如き完全化の進行によって、終に人類は不死になるに至るものとさえ、考えているのである。 1) Marie Jean Antoine Nicolas Caritat, Marquis de Condorcet ; Esquisse d'un Tableau Historique des Progrs de l'Esprit Humaine. L'An III de la Rpublique. かくの如き社会の将来に関して相次いで現れた楽観的見解を否定し、よってもってフランス革命により生じた一種の狂熱状態を沈静せしめるの役割を演じたのが、外ならぬマルサス『人口論』第一版である。 |
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■二 | |||||||||||||||||||
マルサスの『人口論』第一版は、匿名の下に、一七九八年に現れたのであるが、これに先立って一七九六年、彼は公刊の目的をもって、フランス革命に影響されて混沌たる状態にある時勢を論じた一つのパンフレット1)を書いた。これは終に公刊されずに終ったが、しかし吾々はエンプスンが後に試みた引用と紹介2)とによってその大略を知ることが出来る。
1) これは次の如く名附けられるはずであった、―― The Crisis, a View of the Present Interesting State of Great Britain, by a Friend to the Consitution. 2) Edinburgh Review for Jan., 1837. "Art. IX. Principles of Political Economy considered with a View to their Practical Application. …… etc." by Empson. エンプスンによれば、このパンフレットは、政治論、宗教論、及び経済論の三部分に分たれているのであるが、これを一読すれば、マルサスがこれによって擁護せんとしたものが、いわゆる地主階級及び中流階級であり、すなわちラディカルズによって最も攻撃されたところの政治組織の担当者たる特権階級であったことが、わかるのである。 このパンフレットは出版書肆の拒絶によって日の眼を見ないでしまったが、それに次いで彼が一七九八年に著した『人口論』こそは、彼を一躍時代の寵児たらしめたものである。 『人口論』を誘発するに至った直接的動機は、その序言に明かな如くに、ゴドウィンの著『研究者』の中に収められた『貪慾と浪費』なる論文について、彼がその一友――実はその父ダニエル・マルサス――と交わした会話にある。しかるにこの会話は社会の将来の改善に関する一般的問題へと移行して行った。そしてこの一般的問題に関するマルサスの見解をまとめたものが、『人口論』第一版なのである。 ここにマルサスのいわゆる一般的問題とは、人類はこれから加速度的に限りなき進歩をなして行くものであるか、または幸福に達すれば再び窮乏に沈淪しこの窮乏がまたも次の幸福の出発点となるというふうに永久の擺動はいどう(オシレイション――マルサスはこの語そのものもその観念もこれをコンドルセエから得て来たもののように思われる)に運命づけられていなければならぬのであるか、ということである。そしてマルサスは後の方を肯定することによってこの問題に答えんとしたのである。 マルサスの論述の仕方において極めて特徴的なことは、それが一種の唯物論的色彩を非常に濃くもっていることである。このことは、彼が繰返して、経験の重視を強調し、単なる臆測を排撃していることから、容易に知ることが出来る。実は彼れのこの卑俗な一種の唯物論が、空想的思弁的なゴドウィン、コンドルセエ流の思想に対して、一つの大きな強味と見えたであろうことは、容易に想像し得るところである。 すなわち彼は本来の問題に立入るに先立ってまずその基礎理論を展開する。まず食物が人間の生存に必要であるということ、及び両性間の情欲は必然的でありかつほとんどその現状に止まるであろうということは、何らの証明を必要としないこと、すなわち『公準』とせられ得よう。そこでひるがえって見るに、人口増加力は、人口を支持すべき生活資料の増加力よりも、不定限により大である。しかるに人間の生存には食物が必要なのであるから、この不等の二つの力の結果は勢い平等に保たれなければならず、換言すれば人口増加力はいかに大であろうとも、現実の人口増加は生活資料の増加の範囲に限られてしまうこととなる。この関係はしかし人類のみに限られたことではなく、一切の生物界に見られるところである。そしてこの不等の二つの力の結果が平等ならしめられざるを得ないことの結果として、動植物界においては種子の濫費や疾病や早死が起り、人類においては窮乏及び罪悪が生ずる。すなわち窮乏及び罪悪は人口に対する『妨げ』であり、これあるによって人口は生活資料と均衡を維持し得るのである1)。 1) Malthus, Essay on Population, 1st ed., ch. I. しからば、フランス革命が暗示すると考えられている社会の一般的永続的改善は、この事実によって完全に否定されなければならない。ゴドウィンの想像するような社会はこれあるによって初めから不可能なのであるが、今仮りにこれが成立したとしても、一方においては家族を支持する上での危惧が全く消滅するために人口増加は著しくなり、他方においては自利の発条が除かれるので、生活資料の生産は減少するので、まもなく人口と生活資料との均衡は破壊され、三十年も経たない内にゴドウィンの社会は全滅してしまうことであろう。ゴドウィンの説はかくて、必然の法則から発する罪悪及び窮乏を社会制度に由来するものと考えた点にある、と云わなければならない1)。 1) Ibid., ch. X. さればまた当然に単なる人口増加の擁護は誤りでなければならない1)。それと同時に、食物を増加せしめずに単に人口のみを増加せしめ、かつ社会の最良部分とは称し得ないものに食物を強制的に分与しようとする貧民法もまた、誤れる法律であると云わなければならない2)。 1) Ibid., ch. VII. 2) Ibid., ch. V. これと共にまた、前述の人口は過去と現在とではいずれが多いかという人口論争についても、そのいずれが正しいかは容易に決定せられ得る。それは単に出生数または死亡数のみを取扱っていたのでは明かにされ得ない。人口は生活資料によって終局的並びに総括的に規定されるのであるから、この生活資料の増減に着眼すれば、人口の増加は同時に明かにされるであろう。そして生活資料の増加を考えるならば、人口が減退して来ているとは決して云い得ないのである1)。 1) Ibid., ch. IV. さてひるがえって考えるに、人口にかくの如き秩序があるとすれば、それは一切の改善の努力を無に帰せしめるものであり、従ってこれは人間に絶望を教えるものではないであろうか。しかしこれは事実ではない。反対にこのことはかえって人間を覚醒せしめるものである。怠惰なものは生存し得ず勤勉と努力に対してのみ報いが与えられるということは、かえって人に大きな希望を与える。しかも必要は発明の母であり、従ってこれによって人類はますます進歩して行くこととなるのである1)。 1) Ibid., chs. XIIX & XIX. 以上の如きものが『人口論』第一版の主たる主張であるが、その基礎理論たる人口理論の中で最も中心的な命題は、人口増加力は食物増加力よりも『不定限に』より大である、ということである。ここに『不定限に』とは、マルサスによれば、限度は存在することは確実であるけれども、しかしこれを明瞭に指示し得ない、という意味である。マルサスは人口及び食物の増加力を示すに当って有名な幾何級数及び算術級数の語を用いたけれども、それは直ちに両増加力を明確に限定するものと解してはならない。むしろ彼においては両増加力は幾何の大きさを有つかを明確に云い得ないのであり、従って両者を明確に比較することは不可能なのである。しかしこれらを、事実しかる大きさから離して具体的に云い現せば、人口は少くとも二十五年を一期として倍加し、食物はせいぜいの所二十五年を一期として同量附加をなす如き力しか有たない。しかしこの二つの級数は、事実しかる大きさからは離されているのであり、両者の真の大きさは従って不明である。すなわち人口増加力は食物増加力よりも大であるということだけはわかるが、その真実の開きは不定限であるというのである。――これが彼れの根本命題の真の意義である。さて、しかるに食物は人間の生存に必要なのであった。しからば結論は当然に、人口は必然的に生活資料によって制限される、ということにならざるを得ない。かかるものが彼れの基礎理論なのである1)。 1) Ibid., chs. I, II & IX. 以上の基礎理論は生物界一般につき自然法則として樹立されたものであるが、彼は次に一転して、この理論によって社会の問題を解こうとし、平等主義や貧民法や人口論争の問題を論ずるに至ったことは、右に述べた如くである。しかし彼は社会を説くに当って、当時の時事問題のみを論じたのではない。彼は歴史を論じ、人類はまず狩猟状態から始まり、次いで牧畜状態に進み、最後に農牧併行状態に進むものと考え、これらの時代における重要な歴史事実を以上の如き基礎理論によって解釈せんとしているのである1)。 1) Ibid., chs. II & III. かくの如き内容を有つ『人口論』の第一版はすさまじい反響を喚び起した。ゴドウィン等の平等主義はまもなくこれによって圧倒されてしまった。『英国におけるフランス革命』は、『人口論』第一版と、ピット政府の弾圧とによって、全く克服されてしまった。マルサスの匿名はまもなく破られた。そして彼れの名は一躍論壇の寵児となったのである。 かくてマルサス『人口論』は一世の名著と称せられるに至り、それは連綿として今日にまで至っているのであるが、この名声の根拠が何に帰せらるべきかは余りにも明かであると云わなければならない。 そこで彼れの思想の理論的背景を振返ってみるに、まずこれをヨオロッパ全体の問題として見る時は、そこには一方では人口をもって富なりとしまたは富に達する唯一または最大の手段なりとする見解(マアカンティリズム及びカメラリスティクの如き)が広く行われており、国家の政策が人口増加を擁護すべきはむしろ自明の理であるとされていた。しかるにまた他方では人口は単に国の繁栄の結果であり、かつ徴標であるにすぎず、従って単に人口を増加せしめんことを企図するよりも、まずその基礎たる国の物質的一般的幸福を企図する必要があると説くものが少なからず存在した。しかも彼らの中の多くによれば、人口増加力は極めて大なるものであり、この人口を支持すべき資料は、これと同一の速度をもっては増加し得ない故に、そこに必然的に戦争や流行病や不節制や不道徳がかかる優勢な力の実現を阻止するために現れることとなる、と説いていた。しかもある者は、この事実をもって社会の一般的永続的改善を不可能ならしめる要因をなすものである、と考えてすらいた。かかる時に一七八九年にフランス革命は勃発した。それは貧困と悪辱、不正義と不公正を一挙にして絶滅するものであるかの如く見えた。社会の一般的永続的改善はこの日よりその緒についたかの如く見えた。さればここに政治的社会的のまた思想的の一大混乱時代が出現したのである。 更にマルサスの理論的背景を特殊的に英国について見るに、常識的世論が人口増加の擁護にあったことはヨオロッパ一般と同一であるが、マルサス的思想においてもまた欠けるところはなかった。なかんずくジェイムズ・スチュワアトはこれをいわゆる学問的に1)、ジョウジフ・タウンスエンドはこれを試論的に2)、論じて余すところがなかった。しかるにフランスにおいてその端を開いた3)人口減少の危惧は、英国に渡って極めて広汎にわたる人口論争を惹き起しており4)、またフランス革命勃発後はいわゆる『英国におけるフランス革命』と呼ばれる英国史上空前のの社会的混乱が経験されていた。この後の問題は特に緊急なものであった。従って『英国におけるフランス革命』に対する鎮静剤たる理論は一つの必然であり、かつそれがマルサス的内容を有することは可能であったのである。 1) 彼は人口と食物との両増加力の関係をその全経済理論の出発点としている。James Steuart ; An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy : etc. London 1767. 2) 彼がフアン・フェルナンデスの山羊と犬との例を引いて貧困を論じたことは、極めて有名である。Joseph Townsend ; A Dissertation on the Poor Laws. London 1786. Do. ; A Journey through Spain etc. 2nd ed., London 1792. 3) Charles de Secondat, Baron de La Brde et de Montesquieu ; Lettres Persanes. 1721. Do. ; De l'Esprit des Lois. 1748. 4) 英国においてはこの論争は二つの形で行われた。その一は英国自身に関するものであり、人口減退を主張するものは前掲のリチャアド・プライス、その反対者は、Arthur Young (A six Months Tour through the North of England : etc. Vol. IV. 1771. Do. ; The Farmer's Tour through the East of England. etc. London 1771.), John Campbell (A Political Survey of Britain. etc. 1774.), William Eden (Four Letters to the Earl of Carlisle, etc. London 1779. Do. ; A Fifth Letter etc. London 1780.), William Wales (An Inquiry into the present State of Population etc. London 1781.), John Howlett (An Examination of Dr. Price's Essay), George Chalmers (An Estimate of the Comparative Strength of Great-Britain, etc. 1782.) 等である。 もう一つは、マルサスが『人口論』でかなり詳しく触れているところの、古代世界と当時とに関する Hume-Wallace Controversy である、―― Robert Wallace ; A Dissertation on the Numbers of Mankind etc. Edinburgh 1753. David Hume ; Political Discourses. Edinburgh 1752 : Discourse X. Of the Populousness of Antient Nations. いわゆるマルサス的理論が単に識者の口にするに過ぎないところであり、常識的世論が人口増加の擁護であった時において、マルサスがこの常識論を正面から排撃する立場に立ったことは、なるほど世人を驚かしたことであろう。しかし単にこの事実をもって吾々はマルサスのすさまじい反響を説明することは出来ない。実に彼れの『人口論』の第一版は社会思想史上において完全に比類なきほどの反響を惹き起した。悪罵と賞讃とは共にそれに雨と注いだ。しからばそれは右の如き俗論の徹底的排撃によるものであろうか。それが事実でないことを知るためには、単にタウンスエンドを振返るだけで十分である。けだし彼は既にこのことをマルサス以上に徹底的に行っていたのであるから。ではそれは何によって説明せらるべきであろうか。上述の如くにそれがこの内在的理論の故をもって説明し得ないとすれば、勢いそれは外部的事情すなわち社会的役割によって説明せられる外はない。しかるにマルサスはその基礎理論の上に立って二つのことを解決せんとしたのであった。人口論争における人口減退の問題がその一であり、『英国におけるフランス革命』における社会の一般的永続的改善の可能性の問題――貧民法の問題を含めて――がその二である。しかるに人口論争においては勝敗の数は既に明かであったのであり、しかもフランス革命に関する論争が起って後はそれはかなりに世間の視聴から隠れてしまっていた。従って『人口論』第一版の出版の年たる一七九八年の遅きに至ってマルサスが現代の人口のより多きを立証せんとしたところで、それは世間の視聴を惹くべくもなかったのである。結局彼れの反響の基礎は、フランス革命によって惹き起された英国特権階級の不安を最も適時にかつ俗耳に入り易い形で排除した点にある、と云うべきである。もちろん平等の社会への憧れを抹殺し去ったのはマルサスをもって最初とはしない。しかしながらフランス革命の主動勢力が一七九二年を境としてジャコバンの手に落ち、英国における『通信協会』がジャコバンと手を結ぶに至って後、英国の社会情勢が著しく逼迫を告げるに至って後に、人口原理を根拠として平等主義を正面から克服せんとしたのは、マルサスをもって最初とする。ここにマルサスの名声の真の根拠が存在するのである。 |
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■三 | |||||||||||||||||||
この絶大な『人口論』のポピュラリティに最も驚愕したものは、おそらく著者マルサスその人であったかもしれない。ところがこの書は時事問題を論ずるいわゆる試論であり、学究的なまたは philosophical な論究ではない。そこで第一版の望外な成功に自ら驚いたマルサスは、海外旅行と多大な読書とによって多数の資料を蒐集した上、一八〇三年の第二版においては、第一版の試論的性質を捨ててこれに代えてそれを一つの論究の書とするにつとめた。かくて努力の主観的目標は、時論の追及から原理の歴史的証明へと転向した。すなわち第一版においては若干の頁を割かれたに止った人口原理を実証する歴史的記述の部分は著しく拡張され、それは尨大ぼうだいな第二版の約二分の一を占めることとなった。彼れの主観的意図のこの変更は、両版の書名の比較によって知ることが出来る。すなわち、――
第一版―― An Essay on the Principle of Population, as its affects the future Improvements of Society, with Remarks on the Speculations of Mr. Godwin, M. Condorcet, and other Writers. 第二版―― An Essay on the Principle of Population ; or, A View of its past and present Effects on Human Happiness ; with an Inquiry into our Prospect respecting the future Removal or Mitigation of the Evils which it occasions. A new Edition, very much enlarged. かくて『人口論』第二版は第一版に比して著しく尨大なものとなったが、なお彼れの主観においては極めて重大なもう一つの変更がある。それは第三の妨げとしての『道徳的抑制』の導入である。第一版においては、より大なる力たる人口の力は、罪悪及び窮乏の二つの妨げのみによって、食物の水準にまで圧縮されるというのであったが、第二版においてはこの二つの妨げに加えて、『道徳的抑制』すなわち結婚し得る境遇に至るまで結婚を差控えその間道徳的生活を送ることを挙げている。この変更は論敵ゴドウィン自身の示唆によるものと想像されるが1)、マルサスはこの修正を極めて重視している。これについては『人口論』第二版の序言、その他その本文の関係箇所における彼自身の記述に詳しい。 1) William Godwin ; Thoughts occasioned by the Perusal of Dr. Parr's Spital Sermon, etc. London 1801, pp. 72-75. Malthus ; Essay, Bk. III., Ch. III. : Observations on the Reply of Mr. Godwin. 『人口論』はその後しばしば版を重ねている。すなわち一八〇三年の第二版に続いて、一八〇六年には第三版、一八〇七年には第四版、一八一七年には第五版、一八二六年には第六版が現れている。これらはいずれも訂正増補を含むが、その中特に第二、第三、及び第五の諸版が甚だしい。今それら諸版の相照応する諸章を対照してみると次の如くである。 ( 中略 ) 以上の対照は章別のみに関するものであるが、これによって既に各版の間に大きな差異の存することが知られる。そして通常は、各版の間の差異は、第一版と第二版との間に限られるようなことが云われているが、これが決して事実でないことがわかる。しかも各版の間の差異は決して単に章別のみに関するものではなく、更に同じ章の中でもまた各版の間に大なり小なりの差異が存するのである。従って『人口論』各版の差異なるものは、普通に想像されているよりも遥かに大きいものであることがわかるのである。 ではかかる各版の外形的差異によって、理論的内容の上にいかなる変化がもたらされたかというに、その詳細は以下の本文自身が物語るであろうから、ここでは敢えて取り上げないが、ただその理論的差異を解釈する上でのいわゆる『導きの糸』をここに与えておくことは決して無用ではなかろう。 吾々は既に『人口論』第一版の社会的意義が、『英国におけるフランス革命』に対する英国特権階級擁護にあることを見た。この特権階級は、国王、貴族、僧侶、大地主、大資本家等の雑多な要素を含むものであり、ラディカリズムの階級的支持者たる小資本家、小生産者、労働者、無産無職者等に対する意味においてのみ一体をなしていたものである。しかるに『英国におけるフランス革命』が彼らにとり勝利的に終るにつれ、今度はナポレオン戦争の進行に伴って、特権階級の内部における封建的要素とブルジョア的要素との対立が激化して来た。これは主として穀物価格の騰貴による地主利益と資本家利益との対立によるものである。この対立は経済学の範囲においてはマルサス対リカアドウの対立となって現れた。すなわち前者は封建利益なかんずく地主利益の擁護者となり、後者は資本家利益の擁護者となった。すなわち『人口論』は版が進むにつれて、資本家利益に対する封建利益の擁護者としてのマルサスの役割がますます明瞭に露呈されて行くのが見られるのである。 『人口論』各版の進むにつれて見られるもう一つの顕著な点は、その反労働者性である。時の進行につれ地主階級と資本家階級の対立は鮮明になって行ったが、これと共にまた、資本家階級と労働者階級との対立も激化して行った。そして、地主利益の関する限りにおいては反資本家階級的であったマルサスも、事が資本家対労働者の関係に関するものであり、しかも地主階級利益がそれと関しない限りにおいては、今度は反労働者階級的な資本家階級擁護者としてますます明かに現れるのである。 以上二つの観点に立って『人口論』各版の差異を見る時に、その真価は最もよく理解せられ得るのである。 |
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■四 | |||||||||||||||||||
既に述べた如くに、マルサスの『人口論』はその出現の時以来、実に異常の反響を喚び起し、悪罵と賞讃は雨の如くにこれに注いだ。すなわちそれに対しては善意悪意の無数の反撃が行われているが、それにもかかわらず、それはまたその出現後まもなく経済学の名著の一つとなり、それは連綿として今日に及んでいる。従って経済学または社会思想を論ずる著書でこれを紹介しまたは批評しないものはほとんどない状態である。だからマルサス批判の書は真に汗牛充棟も啻ならざるものがあるのである。しかしここでは到底その全部を紹介することは出来ないから、極めて簡単な一瞥いちべつを与えてみることとする。
マルサス『人口論』に対する諸批判は、肯定的批判と否定的批判とに分って見るのが便利であろう。前者はマルサス説の大綱はこれを認め、それに若干の加工を加えることによって、これを『発展』せしめんとするものであり、後者はマルサス説の誤謬を指摘してこれを否定せんとするものである。吾々はまず肯定的批判を瞥見べっけんして後、否定的批判を見よう。 吾々は右に、マルサスが既に『人口論』の後版において反労働者的な資本家擁護論を説きはじめていることを述べた。しかしこれは、地主階級の利益に触れない限りにおいて、という条件附きのことであって、彼れの理論の主たる擁護利益はどこまでも地主階級利益にあったのである。そこで、肯定的批判の第一歩は、マルサスの理論から地主的色彩を払拭し、これを純然たる資本家階級理論とすることによって行われた。これはいわばマルサスの手を離れて後のマルサス説の第十九世紀的存在状態なのであり、私がマルサス説の第二期と仮称するところのものである。 このマルサス説の第二期は前後二段に分たれる。すなわちその前半はいわゆる収穫逓減の法則の人口理論への採用と労賃基金説の成立とに至るまでの時期であり、その後半はこれが卑俗化され俗流化された後に労働運動無効論=反社会主義の形で大衆の中に宣伝され浸透して行く時期である。そしてこの前後二段の時期を境するものは、ジョン・スチュワアト・ミルである。 マルサス説の第一期から第二期への転換を成就し、前者における地主階級的色彩の一掃に理論的に寄与したもの、すなわちそれの第二期の前半を代表するものは、ジェイムズ・ミル、ナソオ・ウィリアム・シイニョア、ジョン・ラムゼイ・マカロック、及びジョン・スチュワアト・ミルである1)。そしてかくして成立した純資本家理論としてのマルサス説こそが、いわゆる労賃基金説である。 1) James Mill ; Elements of Political Economy. London 1821. Nassau William Senior ; Two Lectures on Populations, etc. London 1829. John Ramsay McCulloch ; The Principles of Political Economy : etc. Edinburgh 1825. Do. ; A Treatise on the Circumstances which determine the Rate of Wages and the Condition of the labouring Classes, etc. London (2nd ed.) 1854. J. S. Mill ; Principles of Political Economy etc. 1848. マルサス説の第二期においては、主題は当然に労働者階級の労賃である。すなわち労賃基金説においては、総労賃は労働者に分たるべきところの生産された既与の食物量なのであり、これが労働者に分たれて労賃となる、というのである。これを有名な用語をもってすれば、分子は総労賃=食物量であり、分母は労働者数であり、商は労賃である。従って労賃基金説によれば、重大な結論が随伴することとなる。分子は既に生産された既与のものであるから、商すなわち労賃を大ならしめるためには、分母すなわち労働者数を減少する以外にない、ということになる。換言すれば、労働者数の減少を企てずして労賃の引上を行えば、その結果は失業の増加となって現れざるを得ない。かくて労賃の引上を目的とする労働運動は労働者階級全体にとっては自殺的行為となることとなる。――労賃基金説はかくて有力な反労働運動論、反社会主義論となった。 労賃基金説はジョン・ミルによって理論的に完成され、同時に彼によって抛棄された。すなわち彼は、フランシス・ロンジ及びウィリアム・トマス・ソオントンの批判を受けて、この説を淡白に抛棄した1)。しかし、この説は、経済学史上抛棄されたこの日から、大衆の中へ下向して俗流化し、反社会主義論、産児調節論として大きな実践的結果を挙げることとなるのである。 1) Francis D. Longe ; A Refutation of the Wage-Fund Theory etc. London 1866. William Thomas Thornton ; On Labour, Its wrongful Claims and rightful Dues etc. (2nd ed.) London 1870. J. S. Mill ; Thornton on Labour and its Claims. Fortnightly Review, for May, 1869. 俗流化常識化された労賃基金説の宣伝用特別版の作者は、一八七七年に設立された『マルサス主義連盟』に集まったもの、なかんずくC・R・ドライスデイル及びアンニ・ベサント夫人である。彼らはこの国際的組織に拠って、反社会主義と産児調節の宣伝のために倦むことを知らぬ活動を続けた。そしてそのために、多数の集会や講演会を催し、各種の印刷物を無数に印刷配付し、社会主義者と果敢執拗な闘争を行い、また法廷事件を利用してその勢力を増大することを忘れなかった1)。 1) 『連盟』の出版物中で最も有名なのは、その機関誌 The Malthusian 及びパンフレット Annie Besant, The Law of Population etc. であり、また法廷事件として最も有名なものは "Fruits of Philosophy" case 及び Dr. Allbutt case. である。 マルサス説は再転してその第三期に入る。それはすなわち第二十世紀におけるマルサス主義であり、または帝国主義時代におけるそれである。 第二十世紀は恐慌と窮乏の時代であり、侵略的戦争の時代である。それはかくて『持てる国と持たざる国』の理論を作り上げ、過剰人口の圧迫による侵略戦争の合理化を試み、戦争準備のために労働運動圧伏のために新装の労賃基金説を発明する。それは今日の吾々としては詳細に縷説るせつする必要がないほど生々しい事実である。ここではただ、その理論的代表者として例えばルウドウィヒ・ミイゼス1)、実践的代表者として第二次大戦終了に至るまでの日・独・伊の政策の如きを、挙げるだけで十分であろう。 1) Ludwig Mises ; Ursachen der Wirtschaftskrise. 1931. 次に、マルサス人口理論の否定的批判に至っては真に無数に存在すると云い得るように思われる。けだし上述の如くに、マルサス以後の経済学または社会思想に関する著書にしてこれに触れぬものはほとんどないと云っても差支えなく、しかもそれは一言なりとも批評的な言辞を弄しないものはまずないからである。 しかしながら、よく考えてみると、それに対する否定的批判は実は思ったほど多くは存在しないのであることがわかる。けだし否定的批判が真に否定的批判であり得るのは、問題の論者が単にこれを否定せんとする意図を有ったというだけでは足りないのであって、真にその批判がこの否定を全面的にまたは部分的に行ったという事実によるのであるからである。 そもそもマルサス人口理論における根本的致命的誤謬は二つの点にある。その第一は、いわゆる人口原理なるものを樹立するに当って採用されている孤立化という方法であり、その第二はかかる普遍的自然的原理が直ちにもって歴史的人類に対しその特殊な段階に関係なく無条件に適用され得ると考える点にある。そして真の否定的批判と称せらるべきものはこれらの点に関して行われた批判のみに限られるのである。 まず第一の点から見るならば、マルサスにおける人口はそれ自身としての人口であり、また食物はそれ自身としての食物である。それらは絶対化され孤立化されている。しかし実は、食物を食う人口なるものも、これを食う人口に対しては食物である。例えば鰯はそれ自身の食物を有ちながら同時にそれを食うものに対しては食物である。しかるにマルサスにあっては、鰯の人口は鰯の人口であって鰯たる食物となることのないものである。実は生物のある種はマルサスにおけるが如くにそれ自身として存在するものではなく、自然界における密接不可離の相互関連と複雑多様な交互作用の中ではじめて自己自身たることを得るのである。従ってはじめから個別化された種そのものはあり得ない。反対に、存在するものは全生物界における存在の生産及び再生産であり、全体の種における総連関である。むしろ特定の種は、かかる総連関の中においてのみ特定の種であり得るに過ぎぬ。かくて探究は当然に全体から出発しなければならぬ。そしてここに、個別化され絶対化された部分から出発するマルサス人口理論の根本的誤謬が存在するのである。 孤立化された部分ではなく、全体から出発するならば、全自然界における人口と食物とは一つの均衡を形成している。すなわち全自然界における生命は、全体としては、食うものと食われるものとに分たるべきであって、この二つの均衡がない限り生命の持続は不可能である。もとよりこの均衡は内的及び外的の原因によって絶えず破壊される。しかしこの均衡破壊の運動と同時に、均衡再建の、または新らしい均衡形成の、反作用が働く。従ってここに云う食うものと食われるものとの均衡は、一つの動的均衡であるということになる。そして特定の種の増殖の秩序は、全体としてのこの動的均衡の中においてかつこれに対してのみ決定されるのである。 例えば鰯をとろう。マルサスによれば、鰯はその食物以上に増殖するので、過剰のものは他の餌食になる。しかし全体的観察によれば、鰯は過剰に増殖するのではなく、その一部は残存し一部は餌食となることが、全生物界の均衡調和なのである。そしてこの均衡がくずれ、鰯が食われ過ぎる事態が新たに生ずるならば、かかる事態は新らしい一つの均衡の完成によって落着くことになる。またマルサスによれば、松の木が無数の花粉を飛ばし多数の種子を散らすのは、その増加力がより大である証拠である。しかし全体的観察によるならば、かくも無数の花粉を飛ばしかくも多数の種子を散らさなければその種の維持が出来ぬほど松の増殖の可能性は限られているのである。 したがって、たとえ文字の上では、マルサスとダアウィンは同じことを云っているように見えるとはいえ、実はマルサスの場合は、この個別化から社会の貧困へと論断して行く独断論なのであり、ダアウィンの場合は、一つの動的均衡、すなわち均衡の破壊と再建の中における、特定の種の、及び特定の種の間の、闘争と淘汰とに関する、科学的理論なのである。 この分野に関するマルサス人口理論の否定的批判に部分的または全面的に成功せるものとしては、マイクル・トマス・サドラア、トマス・ダブルデイ、ヘンリ・チャアルズ・ケアリ、ハアバアト・スペンサア、及び一連の唯物論的弁証法論者を挙げることが出来るであろう1)。 1) Michael Thomas Sadler ; The Law of Population : etc. London 1830. Thomas Doubleday ; The true Law of Population etc. London 1841. Henry Charles Carey ; Principles of Social Science. Philadelphia 1858-1859. Herbert Spencer ; A System of Synthetic Philosophy. Vol. III. : The Principles of Biology. Vol. II. N. Y. 1884. Friedrich Engels ; Dialektik und Natur, Marx-Engels Archiv, II. Karl Kautsky ; Vermehrung und Entwicklung in Natur und Gesellschaft. K. III. Do. ; Malthusianismus und Sozialismus, I. Das abstrakte Bevlkerungsgesetz, Neue Zeit, 29 Jhrg., I. Do. ; Materialistische Geschichtsauffassung, I. Bd. 次にその第二の点、すなわち自然法則の社会への直訳的適用について云えば、これまたマルサスの致命的誤謬の一つをなすものである。云うまでもなく社会もまた自然である。しかしながら、社会は社会たる限りにおいて、それ自身自然ではないから、同時に自然との対立物であり、従って自然界とは相容れぬ特殊の歴史的法則の支配するところとなっている。しかもこの社会は、その経済の発展程度に応じて、当該時に特殊なる生産方法の上に立つのであり、従ってその各々における歴史的法則は、形式的規定として以外には共通性を有たぬものである。たとえば封建社会に特殊なる歴史的法則は、資本制社会とは何らの関係をも有ち得ない、等。かくて資本制社会における労働者階級の労賃現象の説明は、これを超越的な自然法則に求むべきではなく、または社会一般に通ずる形式的法則に求むべきでもなく、実に資本制社会に特有な資本の法則の中に求めらるべきものである。 かかる線に沿ってのマルサス批判は、まずジョン・ウェイランド、アーチボオルド・アリスン、ジョオジ・エンサア、シモンド・ド・シスモンディ等を通って発展して来たのであるが、それは終に総括的最終的にカアル・マルクスによってその完成点に達したのである1)。 1) John Weyland ; The Principles of Population and Production, etc. London 1816. Archibald Alison ; The Principles of Population, etc. Edinburgh & London 1840. George Ensor ; An Inquiry concerning the Population of Nations : etc. London 1818. Simonde de Sismondi ; Nouveaux Principes d'Economie Politique, etc. 1819. Karl Marx ; Das Kapital. I. Bd. Do. ; Zur Kritik der Politischen konomie, Vorwort. 否定的批判はかくの如くして発展し完成したのであるが、しかしながらこのことは、社会的存在物としてのマルサス人口論が克服されたことを意味するものでは決してない。それが色食二欲という極めて常識的な根拠に立つ限り、大衆の無批判的受容を得ることは極めて容易であり、しかもそれが新装の労賃基金説の形をとる限り、資本制社会の存続する間は、社会的には決して克服せられ得ない、と云わなければならぬ。 かくて今日マルサス『人口論』を研究することは、なかんずくその各版に現れた思想の変化を辿ることは、それが一つの階級的利益理論であることを闡明せんめいする上に極めて重要なことと考えられるのである。 |
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■五 | |||||||||||||||||||
最後にごく簡単にマルサスの伝記を附記しておこう。
トマス・ロバト・マルサスはダニエル・マルサスの次男として、一七六六年二月十四日に生まれた。一七七九年に彼は教育のためにリチャアド・グレイヴズのもとに遣られ、一七八二年には更にギルバアト・ウェイクフィールドのもとに遣られた。そして一七八四年には彼はケインブリジのジイザス・コレジに入学し、一七八八年に、このコレジ唯一の第九数学優等生として卒業した。一七九六年にはサリのオールベリの副牧師をしていたが、この時前述の『危機』なるパンフレットを書いた。しかしこれは出版書肆の拒絶によって日の眼を見なかったこと前述の通りである。 父ダニエルはヴォルテールと文通を交わし、またルウソオの遺稿保管人であったと云われているほどの、進歩的思想の所有者であった。そこでこの父子の間には、『人口論』の序言に書いてあるように、フランス革命の思想的内容をなす進歩的思想に関して、なかんずくゴドウィンの『研究者』等に表れた思想に関して、口頭の討論が行われ、その結果として『人口論』第一版が現れることとなったのである。 第一版の成功にむしろ驚愕したマルサスは、一七九九年に、学友のオタア、クラアク、及びクリップスと共に海外旅行に出かけ、ドイツ、スウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、及びロシアを訪問して、その第二版のための材料を蒐集した。更にまた彼は別にフランス及びスイスにも赴いた。その結果として一八〇三年に第二版が現れたことは、前述の通りである。そしてこの時に至って、彼ははじめて匿名を捨てたのである。(彼はこの間に一八〇〇年に『食料品の高き価格』なるパンフレットを書いているが、これもまた匿名であった。) 一八〇四年四月十二日に、道徳的抑制の提唱者マルサスは――従って確かに『婚資をたくわえて』――ハリエット・エカアソオルと結婚した。彼らの人口増加力はアメリカの植民地におけるほど大でなかったと見えて、子供はわずかに三名に止った。 一八〇五年に、東印度会社の現地向職員教育の目的を有つ東印度大学が、ヘイリベリに設置され、マルサスは招かれて歴史及び経済学の教授に就任した。彼はこの職に死ぬまで止った。なお彼は世界最初の経済学教授である。 彼は一八三四年十二月二十九日に心臓病で死んだが、それまでに実に多数の著書及びパンフレットを書いている。これを列記すると次の如くである。 1. The Crisis, a View of the present interesting State of Great Britain, by a Friend to the Constitution. Written in 1796. ――公刊されずに終る。 2. An Essay on the Principle of Population, etc. 1st ed., 1798. 3. Do. 2nd ed., 1803. 4. Do. 3rd ed., 1806. 5. Reply to the chief Objections which have been urged against the Essay on the Principle of Population. Published in an Appendix to the third Edition. 1806. 6. Essay on Population. 4th ed., 1807. 7. Do. 5th ed., 1817. 8. Additions to the fourth and former Editions of an Essay on the Principle of Population, &c. &c. 1817. 9. Essay on Population. 6th ed., 1826. 10. An Investigation on the Cause of the present high Price of Provisions, By the Author of the Essay on the Principle of Population. 1800. 11. A Letter to Samuel Whitbread, Esq. M. P. on his proposed Bill for the Amendment of the Poor Laws. 1807. 12. A Letter to the Rt. Hon. Lord Grenville, occasioned by some Observations of his Lordship on the East Indea Company's Establishment for the Education of their civil Servants. 1813. 13. Observations on the Effects of the Corn Laws, and of a Rise or Fall in the Price of Corn on the Agriculture and General Wealth of the Country. 1814. 14. An Inquiry into the Nature and Progress of Rent, and the Principles by which it is regulated. 1815. 15. The Grounds of an Opinion on the Policy of restricting the Importation of foreign Corn ; intended as an Appendix to "Observations on the Corn Laws." 1815. 16. Statement respecting the East-Indea College, with an Appeal to Facts, in Refutation of the Charges lately brought against it, in the Court of Proprietors. 1817. 17. Principles of Political Economy considered with a View to their practical Application. 1820. 18. Do. Second Edition with considerable Additions from the Author's own Manuscript and an original Memoir. 1836. ――死後に出版せらる。 19. The Measure of Value stated and illustrated, with an Application of it to the Alterations in the Value of the English Currency since 1790. 1823. 20. Art. "Poor-Laws," Supplement to the 4th, 5th, and 6th Editions of the Encyclopaedia Britannica, vol. vi. 1824. 21. Art. "Population," ibid. 1824. 22. On the Measure of the Conditions necessary to the Supply of Commodities. Read on May 4, 1825. (Transactions of Royal Society of Literature of the United Kingdom. Vol. I., Pt. 1. 1826.) 23. On the Meaning which is most usually and most correctly attached to the Term "Value of a Commodity." Read on November 7th, 1827. (Ibid., Vol. I., Pt. 2. 1829.) 24. Definitions in Political Economy, preceded by an Inquiry into the Rules which ought to guide Political Economists in the Definition and Use of their Terms ; with Remarks on the Deviation from these Rules in their Writings. 1827. 25. A Summary View of the Principle of Population. 1830. 右の中の若干に説明を加えれば、五及び八はその各々の以前の版の購買者の便宜のために、増補修正せる部分を別刷としたものである。一二及び一六は、彼が職を奉じた東印度大学の状態につき非難の声の起った時に、これを駁して著したものである。一三、一四、及び一五はいわゆる穀物論争または地代論争に関するものであり、その論敵は主としてデイヴィッド・リカアドウであった。その中うち特に一四は、これあるが故に、マルサスは差額地代説の創説者の一人と称せられるのであり、これは元来東印度大学における彼れの講義に由来するものであって、後にそれは拡大されて一七の中に包含された。なお彼は一七を訂正増補する意図をもって加筆していたが、それは生前には出版されず、死後に至ってようやく出版された。それが一八である。彼はこの一七において既にリカアドウと価値について大いに争っているが、一九は端的にこのリカアドウとの価値論争の産物であり、一七において支配労働と穀物価格との中項をもって価値の尺度となした見解をここで改め、支配労働こそが価値の不変的尺度であると主張している。二〇及び二一は云うまでもなく百科辞典への寄稿であり、二一の内容は二五において再現されているが、しかし二五は彼自身の手になる出版ではないように思われる。 右によって知られる如くに、マルサスはリカアドウと多年にわたって地代や価値やその他多くの問題について論争した。それは著書やパンフレットだけではなく、長年月にわたる多数の手紙の交換によっても行われた。ただしマルサスの手紙はリカアドウのものほどは残っていない。 なお右に挙げた著書及びパンフレットのほかに、マルサスの書いた手紙や雑誌論文もかなり残っている。手紙は、残っているものとしては、リカアドウとの論争のものよりは、むしろ、人口理論に関するものの方がより重要である。 後記――この解説では、頁の制限があるので、ただ書き放しにしたに止り、立証引用が行われていないので、無責任な独断的記述と取られる虞おそれがないでもないが、しかし次の拙著では私はこれらのことを立証すべく努めているから、神経質の読者には一応参照を願いたい、―― マルサス人口論各版の差異(昭和七年、東北帝大)――経済学説研究、マルサスの人口・歴史・経済理論(昭和七年、第百書房)――マルサス批判の発展(昭和八年、弘文堂)――黎明期の経済学(昭和十一年、巌松堂)――新マルサス主義研究(昭和十五年、大同書院) |
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■序言 (訳註――第一版のみに掲載) | |||||||||||||||||||
以下の論文は、もと、ゴドウィン氏の著『研究者』中の論文の問題すなわち貪慾と浪費(訳註)について、一友と交わした会話に由来するものである。この討論は、社会の将来の改善に関する一般的問題を提起した。そこで著者は、最初は、その友人に、会話で出来ると思われるよりもはっきりと自分の思想を紙上に述べてみるというだけの考えで、机に向かったのである。しかるにこの問題は、著者をして、従来考えてみもしなかった色々な考えに面せしめ、そして、かくも一般に興味ある問題に関しては、いかに微かな光でも、それはすべて公平に迎えられるに違いないと考えられたので、著者はこれを著作の形とすることに決心したのである。
〔訳註〕次を指す、―― William Godwin, The Enquirer. Reflections on Education, Manners and Literature. In a Series of Essays. London 1797 : ―― Part II., Essay II. : Of Avarice and Profusion. 議論全体を明かにするためにもっとたくさんの事実を集めたならば、この論文は疑いもなくもっと遥かに完全になったことであろう。しかし非常に面倒な仕事に長い間かつほとんど全く妨げられたのに加えて、出版期を著者が最初に申し出た時期以上にあまりおくらせまいという(おそらくは不謹慎な)希望をもったので、著者はこの問題に専心することが出来なかった。しかしながら著者はその蒐集した事実は、人類の将来の改善に関する著者の意見の真理なることを証する、少なからず有力な証拠をなすものなることが、わかるであろうと考える。著者が現在この意見につき思っているところによれば、これを確立するためには、社会に関する最も大雑把な観察に加えて、事実を平明に述べさえすればよいのであって、それ以上はほとんど必要はないようである。 人口は常に生活資料の水準に抑止されなければならぬということは、既に多くの著者が気づいていた明白な真理であるが、しかし著者の想起する限りでは、いかなる著者も、特別に、この水準が実現される仕方を研究したものはない。そしてこの仕方を考えるからこそ、著者にとっては、社会の将来の非常に大きな改善の途上には最も強い障害があると考えられるのである。著者は、この興味ある問題を論ずるに当って、著者が動かされているのは真理の愛好の念のみであり、ある特定の人々や意見に対抗せんとする偏見ではないことが、わかってもらいたいと思う。著者は、社会の将来の改善に関する若干の見解を、それが幻想であればよいがという気持とはおよそ遠い気持で読んでみたが、しかし、著者をして、自分の希望するものは証拠がなくとも信じ、または好ましくないものは証拠があっても賛成を拒否し得せしめるほどの、悟性の支配力を得はしなかったということを、告白せざるを得ない。 著者の人生観は陰鬱な色をもっている。しかし著者は、かかる暗い色を画いたのはそれが絵画の真実であると確信するからなのであり、色眼鏡や持ち前の気まぐれによるものではないことを、意識している。著者が最後の二章で素描した精神説は、人生の多くの害悪の存在に対する説明として、自ら満足に思うものである。しかしそれが他の者にも同じ効果を有つか否かは、これを読者の判断に委ねなければならない。 もしも著者が、社会の改善の途上に横たわる主たる困難と考えるところのものに、より有能な人々の注意を惹くことが出来、その結果として、この困難が、たとえ理論上だけでも、除去されたことを見得たならば、著者は喜んで現に懐いている意見を撤囘し、そしてその誤謬を知って歓喜するであろう。一七九八年六月七日 |
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■第二版序言 (訳註――第二―六版の全部に掲載) | |||||||||||||||||||
私が一七九八年に著した『人口原理論』は、序言に断っておいたように、ゴドウィン氏の『研究者』の中にある一論に示唆されて出来たものである。それは、時興にうながされて書かれたものであり、当時辺鄙なところにいて手に入れ得た少数の資料によって書かれたものである。私が該書の主論点をなす原理を演繹して来た著作の著者は、ヒュウム、ウォレイス、アダム・スミス及びプライス博士(訳註)だけであり、そして私の目的は、これを適用し、そして、当時公衆の注意をかなり刺戟していた人類及び社会の可完全化性に関する諸々の推論が本当かどうかを検討してみるにあった。
〔訳註〕これはおそらく次を指すものであろう。 David Hume, Of the Populousness of ancient Nations. (Political Discourses. Edinburgh 1752: ---- Discourse X.) Robert Wallace, Various Prospects of Mankind, Nature, and Providence. 1761. Adam Smith, An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations. 1776. Richard Price, Observations on Reversionary Payments, etc. London 1771 ; 2nd ed., 1772 ; 3rd ed., 1773 ; 4th ed., 1783 ; etc. 論議を進めていく中うちに、私は当然に、この原理が現存社会状態に及ぼしている影響を、いささか検討してみるようになった。あらゆる国民の下層階級に見られる貧困と窮乏と、及び上流階級が何度彼らを救済しようと努力しても失敗する事実とは、これによるもののように思われた。こういう風に私がこの問題を考えれば考えるほど、それはいよいよ重大性を帯びるように見えた。そしてかかる考察は、『人口論』がかなり公衆の注意を刺戟した事実と相俟って、私をして、この問題をもっと一般的に例証し、かつそれを現実の事態に適用して経験上誤りないと思われる推論をそれから下すことによって、これにもっと実際的な永久的な興味を与えることが出来ようという気持で、私の暇の際の読書を、人口原理が過去及び現在の社会状態に対して及ぼした影響を歴史的に検討することに、向ける決心をさせたのである。 この研究をしている中に、私には、『人口論』をはじめて著した時に知っていたよりも遥かに多くのことが、今までになされていることが、わかった。既に早くプラトン及びアリストテレエスの時代に、人口の過急の増加から生ずる貧困と窮乏とは明確に認められ、また最も乱暴な救治策が提案されていた。そして近年では、、この問題は、それがもっと公衆の注意を刺戟しなかったのが、当然に変だと思われるくらいに十分に、フランスのエコノミストのある者や、時にはモンテスキウや、また我国の著者の中では、フランクリン博士、サア・ジェイムズ・スチュワアト、アーサ・ヤング氏、及びタウンスエンド氏によって、取扱われているのである(訳註)。 〔訳註〕これ等は次を指す。(なおエコノミストとはフィジオクラアトの義である。) Franois Quesnay, Maximes Gnrales du Gouvernement Economique d'un Royaume Agricole et Notes sur ces Maximes. Do., Analyse du Tableau Economique ; Observations Importantes. Charles de Secondat, Baron de la Brde et de Montesquieu, Lettres Persanes. 1721. Do., De l'Esprit des Lois. 1748. Benjamin Franklin, Observations concerning the Increase of Mankind, peopling of Countries, &c. Written in Pensylvania. 1751. James Steuart, An Inquiry into the Principles of Political Economy : being an Essay on the Science of Domestic Policy in free Nations. In which are particularly considered Population, Agriculture, Trade, Industry, Money, Coin, Interest, Circulation, Banks Exchange, Public Credit, and Taxes. London 1767. Arthur Young, A six Months Tour through the North of England : etc. London 1771. Do., The Farmer's Tour through the East of England. etc. London 1771. Do., Political Aruthmetic. Containing Observations on the present State of Great Britain ; and the Principles of her Policy in the Encouragement of Agriculture. Addressed to the conomical Societies established in Europe. To which is added, A Memoir on the Corn Trade : drawn up and laid before the Commissioners of the Treasury. By Governor Pownall. London 1774. Do., Travels, during the Years 1787, 1788, and 1789. Undertaken more paticularly with a View of ascertaining the Cultivation, Wealth, Resources, and National Prosperity, of the Kingdom of France. Bury St. Edmunds 1792. Joseph Townsend, A Dissertation on the Poor Laws, by a Well-Wisher to Mankind. London 1786. Do., A Journey through Spain in the Years of 1786 and 1787 ; with particular Attention to the Agriculture, Manufactures, Commerce, Population, Taxes, and Revenue of that Country ; and Remarks in passing through a Part of France. London 1792. しかしながら、なすべきことはなおたくさんある。人口と食物との増加の比較という、今まではおそらく十分力強くまた正確には述べられていない問題を別としても、この問題の中最も特異な興味ある部分のあるものは、全然手がつけられていないか、またはほんのちょっと論じてあるだけである。人口が常に生活資料の水準に抑止されなければならぬということは、明確に述べてあるけれども、しかしこの水準が実現される色々な仕方を研究したものはほとんどなく、そしてこの原理は十分にその帰結まで追及されたこともなければ、それが社会に及ぼす影響を厳重に検討すればわかって来ると思われる実際的推論を、それから引き出してもいないのである(訳註)。 〔訳註〕同様なことは、既に第一版序言中の第三パラグラフにおいて、ただしもっと強硬な形で、述べられている。 従ってかかる点が、私が以下の『人口論』において最も詳細に取扱った点である。現在の形ではこれは新著と考えてよく、そしてまた私はおそらく、本書に残っている旧著の若干部分を除いてしまって新著として出版してもよかったのであるが、絶えず他の書を参照するの不便を思い、むしろ全一体として纒まとめることを考えて、この形としたのである。だから私は第一版の購買者に何もわびる必要はないと信じている。 この問題をかねて理解していたか、または第一版を熟読してそれがはっきりわかった人々にとっては、私がそのある部分を余りにも縷説し過ぎ、また不必要な反覆の罪を犯しているように見えることを、恐れる。こうした欠陥は一部分は不手ぎわから起ったものであるが、また一部分は意識的なものである。多数の国の社会状態から類似の推論を導くに当って、私にはある程度反覆を避けるのが非常に困難であった。またこの研究の中、吾々の通常の思考習慣とは異る結論に導くでは、私には、確信を生み出そうというわずかでもの希望をもって、異る時、異る機会にこれを読者の心に提示するのが必要であるように思われた。私は、より広汎な読者に印象を与えるためには、文体を飾ろうなどということは一切喜んで犠牲にしようと思った。 ここに展開された原理は議論の余地なきものであるから、従って、もし単に概観だけに論点を限ったならば、私は難攻不落の城塞に身を固めることが出来たであろうし、そして本書は、そうした形の方が、おそらく遥かに堂に入ったらしい外貌を有ったことであろう。しかしかかる概観は、抽象的真理を進めるには役立つであろうが、何等かの実際的善を促進する傾向はほとんどないのである。そして私が、それから必然的に生ずると思われる帰結――かかる帰結なるものが何であろうとも――のいずれかを考察することを拒否するならば、私はこの問題を正当に取扱わず、またそれを正しく論議したことにはならぬ、と考えたのである。しかしながら、この案をとったので、私は多くの反対論と、またおそらくは極めて激しい批判とに、門戸を開くことになったのに、気がついている。しかし私は、私が犯しているかもしれぬ誤謬ですら、議論の手がかりとより以上の検討の刺戟とを与えるであろうから、社会の幸福とこれほど密接な関係を有つ問題をより以上一般の注目をひくようにするという、重要な目的に役立つであろうと考えて、ひそかになぐさめているのである。 本書の全体を通じて私は、原理において、前著とは、罪悪と窮乏のいずれの部類にも入らない人口に対するもう一つの妨げの作用を想定する点で、意見を異にした。そして本書の終りの部分で、私は、『人口論』第一版の最も苛酷な結論のあるものを緩和せんと努めた。このことをなすに当って、私は、正しい推理の原理を破らず、また過去の経験によって確証されない蓋然的社会進歩に関する何らかの意見を表明しはしなかったと、希望する。人口に対する妨げはそれがいかなるものであろうと、それはそれが除去せんとする害悪よりも悪いものだと、なお考えるものには、前版『人口論』の結論が依然十全の力を有つであろう。そしてもし吾々がこの意見を採用するならば、吾々は、社会の下層階級の間に広く存在する貧困と窮乏とは絶対的に救治し難いものであると、認めざるを得ないであろう。 私は本書の中に掲げてある事実や計算については誤りを避けるよう、出来るだけの努力をした。それでもなおそのあるものが誤りであることがわかったとしても、読者はそれが一般的論述に本質的には影響を及ぼすものではないことを、認めるであろう。 問題の第一部門を例証するに当って現れた山なす資料の中から、私は最良のものを選んだとか、またはそれを最も明晰な方法で配列したとか云って、誇る気は少しもない。道徳的政治的問題に興味を有つ人々には、この問題の新奇さと重要性とが、その取扱の不完全を補ってくれることを、希望する。一八〇三年六月八日 |
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■第三版前書 (訳註――第三、四両版のみに掲載) | |||||||||||||||||||
この版の主たる変更は次の如くである。
第二篇の第四章及び第六章となっていた章は、記録簿の資料から結婚の出産性と結婚まで生存する産児の数とを測定せんとする際に著者が誤りを犯していたので、ほとんど書き改めた。そこでこれらの章はその内容が前版ではそのすぐ前の諸章と続いていたが今度はそうではなくなったので、この篇の後ろの方に移すこととし、第九章と第十章とにすることとした。 同篇の中『英蘭における人口に対する妨げ』を取扱う章には、前世紀を通じて出生の比例はほとんど均一であったと考えることが正しくなく、従ってかかる論拠に基いて異る時期の人口を測定するのが正しくないことを証示するために、一記述を加えてある。 第三篇第五章には、一時的の困窮期には貧民を扶助するのが得策でもあれば義務でもあることを論じた一文を挿入した。また同篇の第七、八、九、十の諸章では章句を削除したり挿入したりした。これは穀物輸出奨励金を取扱う第十章において特に甚だしいが、けだしこの問題は現在重要性を有し、最近大いに論ぜられているからのことである。 第四篇第六章では一章句を削除し、善政が貧困を減少するの結果を論じた一章句を加えた。 同篇の第七章では一章句が削除された。また第八章では既婚者と未婚者との比較を論じたかなりに長い章句を削除し、そして吾々は道徳的抑制の義務を説いてはいるものの結婚が望ましいものなることを軽視してはならぬことを述べた一文を加えた。 最も顕著なる変更は以上の如くである。その他は単に誤解を防ぐために少数の用語上の訂正を試み、ここかしこに短い章句や説明用の註を加えただけである。この種の小さな訂正は主として最初の二箇章に行われている。 上述の変更は本書の原理に影響を及ぼすものではなく、従って四折版(訳註)の価値を本質的に減ずるものではないことを、読者は見るであろう。 〔訳註〕第二版を指す。 附録には『人口論』に対する主要反対論への答弁が収められている。そして前版の購買者の便宜上これは四折で印刷の上別個に手に入れることが出来る(訳註)。本書の全体を読了する余暇や気持のない人々は、この附録を見れば、本書の中心的な論点を知り得てもって全体の目的と傾向とをほぼ知ることが出来るであろう。 〔訳註〕これは次の形で出版された。 Malthus, Reply to the chief Objections which have been urged against the Essay on the Principle of Population. Published in an Appendix to the third Edition. London 1806. 上下両巻をなるべく同じ大きさにするために印刷者の方で両巻の『索引』を第一巻の終りの方に附することとした。『附録』と『索引』とがこんなに長くなろうとは初めは分らなかったが、もし分っていたら両巻をもっと都合よく分割したことであろう。 |
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■第五版序言 (訳註――第五、六両版に掲載) | |||||||||||||||||||
この『人口論』は、大戦争があり同時に特殊の事情によって外国貿易が極めて栄えた時期に、はじめて公刊された。
従って本書は人間に対し異常な需要があり、人口過剰から何等かの害悪が生ずる可能があるとはほとんど考えられない時に、公衆の前に現れた訳である。こういう不利益があったのであるから、その成功は合理的に期待され得べかりし程度以上のものであった。従って、その次の時期はこれと種類を異にして最も著しくその原理を例証しその結論を確証した時期となったが、この時期には本書はその興味を失わないものと考えられ得よう。 従って、問題の性質は永久的興味を有し将来それには多くの注意を払われるであろうと考えらるべきものであるから、私としては、その後の経験と知識とによって私が知り得た本書の誤りを正し、かつ本書を改善しその有用性を一層大ならしめる如き増補や変更を加えざるを得ないのである。 この問題の前半についてもっと多くの歴史的例証を加えるということならば容易なことであったであろう。しかし私が前に述べた如くに、各特定の妨げが自然増加力を各々どれだけ破壊するかを確証すべき十分正確な記述はやはり得ることが出来ないので、手に入れ得る唯一種類の極めて豊富にある証拠から私が前に得た結論は、全く同じ種類の証拠をもっと集めてみた所でその力を加えるものではないように私には思われた。 従って最初の二篇では増補はフランスに関する新らしい一章と英蘭に関する一章とだけであり、これは主として前版の公刊後に生じた事実に関するものである。 第三篇では『貧民法』に関する一章を加えた。そして『農業及び商業主義』を論ずる章と『富の増加が貧民に及ぼす結果』を論ずる章とは適当に整えられてもいなければまた主題にすぐ適用することも出来ないように思われ、その上私は『輸出奨励金』を論ずる章で若干の変更を試み、『輸入禁止』の問題に関して若干附加しようと思ったので、これ等の章を書き改めることとした。これ等はこの版では第八、九、十、十一、十二、十三の諸章となっている。更に同篇の最後の第十四章には新らしい名前を附して二三の章句を附加した。 第四篇では私は『貧困の主要原因に関する知識が政治的自由に及ぼす諸影響』と題する章に新らしい一章を加え、また『貧民を改善する種々なる企劃』を論ずる章にも一章を加えた。また私は『附録』にもかなりの増補を試み、前版以後に現れた『人口原理』を論ずる二、三の論者の論作に答弁を与えた。 この版で行われた主たる増補と変更とは以上の如くである。これは大部分『人口論』の一般諸原理を現在の事態に適用したものである。 前の諸版の購買者の便宜のために、以上の増補と変更は別冊で公刊することとする(訳註)。一八一七年六月七日 〔訳註〕これは次の形で出版された。 Malthus, Additions to the fourth and former Editions of an Essay on the Principle of Population, &c. &c. London 1817. |
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■第六版前書 / 一八二六年一月二日 | |||||||||||||||||||
この版で行った増補は主として、一八一七年にこの前の版が現れて以後新らしい人口調査や出生、死亡及び結婚の記録簿が現れた国の人口の状態に関し、記録や推論を若干加えた点にある。それは主として英蘭、フランス、スウェーデン、ロシア、プロシア、及びアメリカに関するものであり、従ってこれら諸国の人口を取扱う章に現れている。『結婚の出産性』を論ずる章では表を一つ加えたが(第一巻四九八頁)(訳註1)、これは現在若干の国で行われている十年ごとの人口調査の中間期の人口増加百分比率からその倍加期間またはその増加率を示すものである。『附録』の終りには私がゴドウィン氏の最近の著書(訳註2)に答えない理由を簡単に述べてある。本書の他の部分では小さな変更や訂正が行われているが、これはいちいち指摘する必要はない。また若干の註を加えたが、その中うち主要なるものは、自由貿易下のオランダにおける穀物の変動を論じ、一国の食物の不足はある他国のその豊富なることによって一般に相殺されると考えるのが誤りなることを述べたものである(第二巻二〇七頁――訳註、原書の頁である)。
〔訳註1〕第二篇第十一章最後の表を指す。 〔訳註2〕Godwin, Of Population. An Enquiry concerning the Power of Increase in the Numbers of Mankind, being an Answer to Mr. Malthus's Essay on that Subject. London 1820. ――これは、マルサス『人口論』によって全く忘却の中に陥しいれられたゴドウィンが、デイヴィド・ブウス David Booth の助力を得て著した最後の必死のマルサス反駁書である。 |
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■経済学および課税の原理 1 | |||||||||||||||||||
序文 / 第1章 価値について / 第2章 地代について / 第3章 鉱山の地代について / 第4章 自然価格と市場価格について / 第5章 賃金について / 第6章 利潤について / 第7章 海外貿易について
[解説] |
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■序文
大地の生産物―労働と機械と資本を一つにまとめて投下することによって地表から得られるものは全て、社会の3つの階級に分けられる。即ち、土地の所有者、貯え、即ち土地の耕作に必要な資本の所有者、そしてその人々の勤労によって土地が耕作される労働者たちである。 しかし、社会の発展段階が異なると、これらの階級のそれぞれに地代、利潤、賃金という名の下に割り当てられる大地の全生産物の割合は本質的に異なってくる。土壌の実際の肥沃度、資本の蓄積と人口の増加、そして農業に用いられる技術、創意工夫、及び道具に主に依存するのである。 この分配を規定する法則を確定するのが、政治経済学の主要課題である。チュルゴー、スチュアート、スミス、セー、シスモンディ、そしてそれ以外の者たちの著作物によって学問として多くが改良されてきたが、彼らは、地代、利潤、及び賃金の自然の行く末について満足の行く情報を殆ど与えない。 1815年、マルサス氏はその「地代の性質と進歩に関する研究」のなかで、そしてオックスフォード大学の一研究員はその「土地投資に関する小論文」のなかで、殆ど同時に真実の地代の教義を世に示した。そうした知識なしでは富の進歩が利潤と賃金に及ぼす影響について理解することは不可能であり、また、社会の異なった階級に及ぼす課税の影響を満足の行くまで追跡することも不可能である。課税される商品が、大地の表面から直接取られる生産物である場合には特にそうである。アダムスミスと、私がほのめかした他の有能な著述家たちは地代の原理を正しく認識しなかったために、多くの重要な事実を見逃したように私には思える。そうした事実は、地代というテーマを完全に理解した上で初めて見つけることができるのである。 この欠陥を補うには、本書の作家の有する何がしかの能力よりも遥かに優れた役者の能力が必要とされる。それでも、彼がこの問題について最大限に検討を行った後において―上記の傑出した著述家たちの書物からその作家が支援を得た後において―多くの出来事のあった最近の数年間が現在の世代に貴重な経験をもたらした後において、利潤と賃金に関する意見や課税の作用に関する意見を述べても、彼が自信過剰になっているとはみなされないと彼は信じる。もし、彼が正しいとみなした原理が、そのとおりであると判明したら、それらの原理をその重要な結果に至るまで追跡するのは、彼よりも有能な他の人々の 仕事になるであろう。 この作家は、広く受け入れられている意見と闘うなかで、特にアダムスミスの著作中の、自分としては意見が違うことに理由があると考える文章に多くの注意を向ける必要があることに気がついた。しかし、彼はそうするからといって、政治経済学という学問の重要性を認める全ての人々とともに、この高名な著者の意義深い書物が正当にも掻き立てる称賛の輪に参加することを拒むのではないのか、と疑われることのないように願う。 同じことはセー氏の優れた書物にも言えるであろう。彼は、スミスの原理を正当に評価し、それを適用した大陸で最初の人、或いは最初の人の1人であった。また、彼は、啓蒙され利益の多いその制度の原理をヨーロッパの国々に推薦するために大陸の他の著述家たちが行った全てのこと以上のことを行った。それだけではなく、彼はこの学問をより論理的でより教訓的なものに整えることに成功した。そして、独創的で正確で深遠な議論を幾つか重ねることによりそれをより豊かなものにした。(注)しかし、この紳士の著作に対して著者が抱く尊敬の念は、彼が「政治経済学」のなかの彼自身の考えとは相容れないように見える文章について自由にコメントすることを妨げることはなかった。そうした自由は、学問のために求められるのだと彼は思う。 (注)「販路について」の第15章第1節には、特に重要な原理が含まれている。それはこの傑出した著述家によって初めて解説されたものであると私は思う。 3訂版のお知らせ 私は、この改訂版で前回の改定以上に、「価値」という難解なテーマに関する私の意見を十分に解説しようと試みた。そして、そのために、第1章に幾つかの追加を行っている。また、「機械」に関する新たな章も挿入した。それは、国の異なった階級の利益に及ぼす機械の改良の効果に関する章である。「価値と富、その性質の違い」の章で、私は、その重要な問題に関するセー氏の教義、それは彼の書物の最終版でもある第4版で修正されているが、その教義について検討した。私は最後の章において、貨幣で納める追加の税を支払う国の能力についての教義を今までよりも理解しやすくするように努めた。もっとも、農耕技術の向上よって国内で穀物を生産するのに必要とされる労働量が減少するか、或いはその国の製造品を輸出することによってその国が必要とする穀物の一部を海外から安い価格で手に入れるかのいずれかの結果として、その国の全商品の総貨幣価値は低下することになるのではあるが。この検討は非常に重要である。というのは、海外の穀物の輸入に規制をかけないままにしておくという政策に関係するからである。巨額な国の債務の結果として、重くて固定的な貨幣で納める税の負担に喘ぐ国では特に重要である。私は、税を支払う能力は、全商品の粗貨幣価値に依存するものでもなければ、資本家と地主の収入の純貨幣価値に依存するものでもなく、各人が通常消費する商品の貨幣価値と比較した、各人の収入の貨幣価値に依存するものであるということを示そうと努めた。 1821年3月26日 |
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■第1章 価値について | |||||||||||||||||||
■第1節 | |||||||||||||||||||
商品の価値、即ち、その商品と交換される他の商品の量は、その生産に必要とされる労働の相対量に依存し、その労働に対し与えられる補償が大きいか小さいかに依存するのではない。
【使用価値と交換価値】 アダムスミスによって次のように言われてきた。「価値という言葉は2つの異なった意味を有し、それは、あるときは特定の対象物の効用を示し、またあるときはその対象物を保有することが伝える他の商品を購入する力を示す。一方は使用価値と呼ばれ、他方は交換価値と呼ばれるだろう」彼は続ける。「最大の使用価値を有するものがしばしば殆ど或いは全く交換価値を有しない。それとは反対に、最大の交換価値を有するものが殆ど或いは全く使用価値を有しない」空気と水は大変に有益である。それらは実際生きるために欠かせないものである。それでも通常の場合には、それらと引き換えに何も得ることはできない。それとは反対に、金は空気や水と比べて殆ど役に立たないが、他の商品の多くと交換されるであろう。 それでは、効用は交換価値の尺度ではない、もっとも、効用は交換価値にとって絶対に必要なものであるが。もし、ある商品が何の役にも立たなかったならば、他の言い方をすれば、それが我々に有難味を感じさせることができなければ、それがどんなに稀少であっても、またそれを調達するためにどれだけの労働が必要であろうとも、交換価値を有することはないであろう。 【価値の源】 商品は、効用を有すれば2つの源からその交換価値を生みだす。商品が稀少であることと、商品を手に入れるために必要とされる労働量から。 その価値が稀少性によってのみ決定される商品がある。そうした商品は、労働によってその量を増やすことはできない。従って、供給量を増やすことによってそれらの商品の価値を低下させることはできない。珍しい彫像や絵画、稀少な書物や硬貨、そして特殊な土壌で栽培されるぶどうからしか造ることのできない非常に量の限られた特殊なワインが、こうしたものの例である。そうした商品の価値は、それらを当初生産するのに必要とした労働量とは全く無関係であり、そうした商品を手に入れたいと欲する人々の富と好みに応じて変動する。 しかし、こうした商品は、市場で毎日交換される商品全体のなかのほんの一部に過ぎない。欲しいと思う商品の大部分は、労働によって手に入れられる。そして、そうした商品は、もし我々がそれを調達するために必要な労働を幾らでも投入する用意があれば、一つの国だけでなく多くの国において殆ど際限なく増大させることができる。それでは、商品について、或いは商品の交換価値について、或いはまた商品の相対価格を規定する法則について論ずるとき、我々は、人間の勤労の発揮によってどれだけでも量を増やすことのできる商品、そしてその生産に当たって何の制約もなく競争が行われる商品のことだけを常に想定する。 |
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【解説】
「珍しい彫像や絵画、稀少な書物や硬貨、そして、特殊な土壌で栽培されるぶどうからしか造ることのできない非常に量の限られた特殊なワインが、こうしたものの例である」に相当する原文は次のとおり。 Some rare statues and pictures, scarce books and coins, wines of a peculiar quality,which can be made only from grapes grown on a particular soil, of which there is a very limited quantity are all of this description. この英文は、従来、例えば次のように訳されてきた。 「いくつかの珍しい彫像や絵画、稀観の書物や鋳貨、広さがきわめて限られている特殊な土壌で栽培されるぶどうからだけしか醸造できない特別な品質のぶどう酒、これらの物はすべてこの種類に属している」(羽鳥・吉澤訳、「経済学および課税の原理」岩波文庫。以下「羽鳥・吉澤訳」と言うときには同じ書物を指す) この訳は、of which以下の文章がa particular soilを修飾すると解釈しているのだが、そうではなくwhichはwines of a peculiar qualityを指すものと理解すべきである。こうした理解が正しいことを裏付けるように、第17章には次のような表現が出てくる。 Those peculiar wines which are produced in very limited quantity, and‥ |
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【投下労働量と価値】
社会の初期の段階では、こうした商品の交換価値、即ち、他の商品と引き換えにある商品がどれだけ与えられなければならないかを決定する規則は、殆んど各商品に費やされた相対的労働量だけに依存する。「全ての物の真実の価格は」とアダムスミスは言う。「全ての物が、それを手に入れたいと思う人に本当にかける費用は、それを手に入れるための苦労と面倒なのである。それを手に入れた人、そしてそれを処分したいと思うか他の何かと交換したいと思う人にとって全ての物が実際に有する価値は、彼が被らなくて済む、そして他の人に押し付けることのできる苦労と面倒なのである」「労働は最初の代価であった。全ての物に対して支払われた最初の購入通貨であった」もう一度。「資本の蓄積と土地の私有化の双方に先立つ社会の初期の未開な状態においては、異なった物を手に入れるために必要なそれぞれの労働量の割合が、それぞれの商品を交換する際の何らかの規則を与えることのできる唯一の事情のように見える。例えば、もし狩猟民族の間で、1匹のビーバーを仕留めるのに1匹の鹿を仕留める場合の2倍の労働がかかるのが普通であれば、1匹のビーバーは自然に2頭の鹿と交換されるであろうし、2頭の鹿の価値があることになろう。通常2日間の或いは2時間の労働よって生産されるものが、通常1日の或いは1時間の労働によって生産されるものの2倍の価値があるのは自然なことである」(第1巻、第5章) これが実際、人間の勤労によって増やすことができない物を除く全ての商品の交換価値の基礎であるということは、政治経済学における最も重要な教義である。 価値という言葉にまつわる漠然とした概念と同じほど、この学問において、多くの誤りや多くの意見の相違が発生する原因はない。 もし、商品に現実化された労働量が商品の交換価値を規定するのであれば、労働量が増える度にその労働が投入された商品の価値を高めるに違いない、労働量が減る度に商品の価値を低下させるに違いないように。 【アダムスミスの考え方】 交換価値が発生するそもそもの源についてそれほど正確に明らかにし、そして、全ての物は、それらの生産に投下される労働量が多いか少ないかに比例して価値が大きくなったり小さくなったりすると一貫して主張すべきであったアダムスミスは、彼自らもう一つの価値の標準尺度を樹立した。そして、商品が多くのこの標準尺度と交換されるか、少ない標準尺度と交換されるかに比例してそれらの商品の価値が大きくなったり小さくなったりするかのように話をする。 彼は、時には穀物を標準尺度とし、また時には労働を標準尺度とする。何らかの商品の生産に投入された労働量ではなく、その商品が市場で支配することのできる労働量なのである。あたかもこの2つのものが同じことを表現しているかのように話をし、あたかも人間の労働が2倍効率的になったから、従って人が2倍の量の商品を生産することができるようになったから、人は必ずやそれ(【注】労働)と引き換えに以前の量の2倍の商品を受け取るであろうと、言うのである。 もし、これが本当に真実であったとすれば、そして労働者の報酬は常に彼が生産したものに比例するとすれば、ある商品に投下された労働量とその商品が購入することのできる労働の量は等しくなるであろう。そして、どちらによっても他の品々の価値の変動を正確に計測するかもしれない。しかし、それらは等しくない。最初のものは多くの状況において一つの不変の価値と言える。従って、他の品々の価値の変動を正しく示す。後者は、それと比較される他の商品の価値の変動と同じように変動を被る。アダムスミスは、金と銀などの価値が変動する仲介物は、他の品々の変動する価値を決定するには十分な資格がないことを見事に解明した後、彼自身、穀物や労働に決めることによって、価値が変化しない訳ではないものを仲介物に選んだのである。 |
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【解説】
リカードが何故アダムスミスを批判しているか、その理由がお分かりだろうか。 今、例えば、10時間の労働を投入してある商品が1単位生産され、同様に10時間の労働を投入して穀物が1単位生産されるとすれば、その商品1単位の価値は、穀物1単位の価値と等しくなるであろう。では、次に、穀物の生産が容易になって、10時間の労働を投入することによって2単位の穀物が生産できるようになったと仮定すれば、その商品の価値はどのように変化するであろうか?恐らく、その商品の1単位の価値は、2単位の穀物と等しくなるであろう。では、そのときに、その商品は何時間分の労働を支配することができるであろうか?投下労働量が商品の価値を決定すると考えれば、その商品は10時間分の労働を支配することになろうが、リカードはそうはならないと言う。何故ならば、労働者の賃金は、労働者の穀物生産能力に比例して変化することはないからだ、と。つまり、労働者は自らが投入した労働量に応じた穀物(=労働量)を常に手に入れるのではなく、あるときはそれを上回る穀物を、そしてあるときはそれを下回る穀物を手に入れるというのである。何故ならば、仮に穀物の生産能力が大きく落ち込むようなことが起きても、最低限度の穀物を労働者に与える必要がある(その半面幾ら穀物の生産能力が上がっても、労働者不足にならない限り労働者に必要以上の穀物を与える必要ないと思われる)からだ、と。従って、リカードは、下に示すようにその商品は、10時間分の労働を支配する(Aのケース)というよりも、20時間分の労働を支配するケース(Bのケース)に近づくのではないのかと考え、このため「支配労働量=投下労働量」の関係は認められず、支配労働量が商品の価値基準になることはないと言うのである。 1単位のある商品―――1単位の穀物―――1単位の労働 (10時間の労働を投入)(10時間の労働を投入)(10時間の労働) <穀物の生産が容易になると> ↓↓↓A ある商品―――2単位の穀物―――1単位の労働 (10時間の労働を投入)(10時間の労働を投入)(10時間の労働) B ―――2単位の労働 (20時間の労働) |
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【価値尺度としての金と穀物】
金と銀は、新しい、より豊かな鉱山の発見から生じる価値の変動を間違いなく受ける。しかし、そうした発見は珍しいことであり、その影響は大きいとはいっても比較的短い期間に限られたことである。それらはまた、鉱山を稼働させる技術や機械の改良によって生ずる価値の変動を被るであろう。というのも、そうした結果、同じ量の労働でより多くの金と銀が手に入るかもしれないからだ。それらはまた、鉱山が永年に亘り世界に金と銀を供給し続けた結果、鉱山の生産量が落ちることによる価値の変動を被るであろう。 しかし、穀物はそうした価値の変動原因のどれから影響を免れるのか?一方では、農業の改良から、また農耕に用いられる機械や道具の改良から価値が変動することはないのか?他の国ならば耕作に供されるかもしれない新しい肥沃な地域、そしてまた、穀物の輸入が自由である全ての市場における穀物の価値に影響を及ぼすような新しい肥沃な地域の発見から価値が変動するのと同じように。 他方では、穀物の輸入の禁止から、或いは人口や富が増えることから、さらに質の劣った土地を耕作せざるを得ないために追加の労働が必要になることから、穀物の価値が高くなる影響を受けないのか? 【労働の価値の変動】 労働の価値も同じように変動するのではないのか?他の全ての品々と同じように、社会の状態の変化が起こる度に常に変動する供給と需要の割合によって影響を受けるだけではなく、労働の賃金が支出される食料や必需品の価格が 変動することによっても影響を受けるのではないのか? 同じ国においてあるとき、ある一定量の食料と必需品を生産するために、別の相当前の時期に必要とされた労働量の2倍が必要になるかもしれない。しかしそれでも、労働者の報酬は殆ど減らないかもしれない。もし、以前の労働者の賃金が、一定量の食料と必需品であったとしたら、仮にその量が減らされたら、彼は恐らく生存していけなかったであろう。この場合、食料と必需品は、その生産に必要な労働量によって計測すれば100%上昇しているであろう。一方、それらが交換される労働量で計測すれば、その価値は殆ど上がっていないであろう。 |
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【解説】
ここでリカードは、食料という商品の価値について考える。1単位の食料の生産に必要な労働量が2倍になる。つまり、投下労働量は2倍になる。しかし、その1単位の食料が購入できる(支配できる)労働量は変わらない。従って、食料の価値は、投下労働量で計測すれば2倍になっている筈なのに、支配労働量で計測した現実の価値は変わっていない、と。 |
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同じことが、2つ以上の国について言えるかもしれない。アメリカとポーランドでは、最後に耕作に供された土地において、一定数の人間の1年間の労働が、同様の環境にある英国の土地に比べ、遥かに多くの穀物を生産するであろう。それでは、これら3つの国では、他の全ての必需品は同じように安いと仮定するとき、各国で労働者に与えられる穀物の量は、生産の容易さに比例するであろうと結論付けるのは、大きな間違いでないのだろうか?
【支配労働量】 もし、労働者の靴と衣類が、機械の改良によってそれらを今生産するのに必要な労働の1/4で生産することができたとしたら、それらの価値は恐らく75%低下するであろう。しかし、労働者が1着の上着でなく4着の上着を永久に消費したり、或いは1足ではなく4足の靴を永久に消費したりすることができるようになるどころか、恐らく労働者の賃金は、長い時間をかけなくても競争や人口に対する刺激の効果によって、賃金が支出される必需品の新たな価値に応じたものに調整されるであろう。もし、こうした改良が労働者の消費の対象となる全ての商品に及んだ場合、僅か数年もすれば、享楽品の所有量を増したとしても、その増加量は小さなものでしかない労働者に我々は気がつくであろう。もっとも、そうした商品は、製造面で技術改良が全然起こっていない他の商品と比べ、交換価値が大きく減少しているのではあるが。また、それらの商品は、 大きく減少した労働によって生産されたものであるが。 【結論】 それでは、アダムスミスとともに「労働は、時には大量の商品を購入し、時には少量の商品を購入するから、変化したのはそれらの商品の価値なのであって、それらの商品を購入する労働の価値ではない」と言うことが正しい筈がない。従って、「労働だけがそれ自身の価値を変えることがないものであり、それだけが、それによって全ての商品の価値が全てのときところで計測され比較されることのできる究極の、そして真実の標準である」と言うことが正しい筈がない。しかし、以前アダムスミスが言ったように、「異なった物を手に入れるために必要なそれぞれの労働量の割合が、それぞれの商品を交換する際の何らかの規則を与えることのできる唯一の事情なのである」と言うことは正しい。他の言い方をすれば、それらの商品の現在或いは過去の相対価値を決定するのは、労働が生み出す商品の相対量であって、彼の労働と交換にその労働者に与えられる商品の相対量ではない。 【価値変動の確認方法】 2つの商品の相対価値が変動する。そして、我々は変動がどちらの商品に実際に起こったのかを知りたいと願う。もし、我々が現在の一方の商品の価値を靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、そしてそれ以外の全ての商品と比較すれば、その商品がこれら全ての商品の以前と正確に同じ量と交換されることが分かる。もう一方の商品をこれらの同じ商品と比較すれば、それらの商品全てに対してその価値が変動していることが分かる。そうなれば、我々は、大きな蓋然性をもって変動はこの商品に起きたと推測するであろう、その商品と比べられた多くの商品の方に変動が起きたのではなく。もし、こうした様々な商品の生産に関係する事情をさらに吟味した結果、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖などの生産のために同じ量の労働と資本が必要とされることが分かれば、そして、その一方で相対価値の変動が起きたその商品を生産するのに以前と同じ量の労働が必要でないことが分かれば、蓋然性は確実性に変化する。価値の変動は、その一つの商品に起きたことが確信される。そこで我々は、その価値の変動の原因についても知るのである。 |
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【解説】
(以前)穀物布 1人の労働/日―――10単位―――10単位 (現在) 1人の労働/日―――20単位―――10単位 以前、1人の1日の労働が穀物10単位と交換されていたのに、現在では穀物20単位と交換されるようになったと仮定しよう。この場合、労働の価値が上がったのであろうか、それとも穀物の価値が下がったのであろうか?答えは何とも言えない。しかし、仮に観察の対象を布にまで広げたところ、労働と布の交換比率に変化が生じていないことが分かると、穀物の価値が低下したのではないかと推測するであろう。そして、さらに観察の対象を広げることによって、価値が変化したものが確定できるようになるであろう。 |
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【穀物と労働の価値の変動】
もし、1オンスの金が、上に列挙した商品やそれ以外の多くの商品のより少ない量としか交換されないことを我々が知ったら、そしてまた、新しい豊かな鉱山の発見によって、或いは機械を有利に使うことによって今までよりも少ない労働量で一定量の金を手に入れることが可能になったことを私が知ったら、他の商品と比べた金の価値の変動の原因は、金の生産が容易になったこと、即ち金を手に入れるのに必要な労働量が少なくなったことであると言うことが正当化されるであろう。同様にして、もし労働の価値が他の全ての商品と比べて大きく低下したら、そして、もしその労働の価値の低下が、穀物や労働者の他の必需品の生産が大いに容易になったことによって引き起こされた豊富な供給量の結果であることが分かったら、穀物と必需品の価値はそれらを生産するために必要な労働量が減少した結果低下したと言うことは正しいと思う。そして、労働者の支援物の供給が容易になったことで、それに伴って労働の価値の低下が起きたと言うことは正しいと思う。 【注】1オンスの金とは1トロイオンスの金のことであり、これは31.1035gの金を意味する。 |
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【解説】
リカードは、商品の価値(相対価値)は投下労働量によって決定されると言う。しかし同時に、その労働の価値は、他の商品と同じように価値の変動を免れないと言う。と言うことは、商品の価値は何時になっても確定できないことになる。いずれにしても、では何故労働の価値は変動するとリカードは考えるのであろうか?それは、労働に与えられる穀物の量は変動しない傾向があるからだ、と。リカードは、もし、穀物の生産に必要な労働の量に変化が起きるときに、労働に対していつもと同じ量の穀物しか与えられなければ、労働が支配できる労働が変化することになると考える。従って、リカードは、労働の価値が変動すると考えるのである。しかし、リカードが、労働の価値が変動すると言った途端、アダムスミスのように支配労働説を認めたことになるのではないだろうか? |
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アダムスミスとマルサス氏は違うという。金のケースの場合には、貴方が、その価値の変動を金の価値の低下と呼んだのは正しかった、と。何故ならば、穀物と労働の価値は変動していなかったから。そして、金は、以前に比べ他の全ての品々だけではなく、それら(【注】穀物と労働)のより少ない量しか支配できないのだから、全ての物の価値は変わっておらず、金だけが変わったと言うのは正しかった、と。しかし、穀物と労働の価値が低下するときには、それらは、我々が価値の標準尺度として選んだものであるから、それらも価値の変動を被ることを我々は認めながらも、そのように言うことは極めて不適切であろう。彼らによれば、正しい言い方は、穀物と労働は価値が変わらないままで、他の全ての品々の価値が上昇したということになろう。
【リカードの異議】 私が異議を申し立てるのは、この言い方に対してである。私は、金のケースの場合と全く同じように、穀物と他の品々との間の価値の変動の原因は、穀物を生産するのに必要な労働量が減少したことにあることを知っている。従って、正しい論理に従えば、穀物と労働の価値の変動を私は、それらの価値の低下と呼ばなければならない。それらが比較される品々の価値の上昇と呼んではいけない。 もし、私が労働者を1週間雇わなければならないとして、そして10シリングではなく8シリングを払うとして、お金の価値に何の変化も起きていなければ、その労働者は多分彼が以前10シリングで手に入れた以上の食料や必需品を手に入れることができるであろう。しかし、これは、アダムスミスが言ったように、そして最近ではマルサス氏も言っているように、彼の賃金の真実の価値が上がったからだというのではなく、彼の賃金が支出される品々の価値が低下したせいである。これらの事態は全く違う。それでも、私がこの現象を賃金の真実の価値の低下と呼んだという理由で、私は、新たな風変りな表現を用いると言われている。この学問の真実の原理と折り合いをつけることができない表現だ、と。私にしてみれば、風変りでそして事実一貫性のない言い方をしているのは、私の論敵の方であるように見える。 |
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【解説】
(以前)賃金10シリング―――10単位の食料を購入 (現在)賃金8シリング―――20単位の食料を購入 上の場合、次のようなことが言えるかもしれない。 (a) お金の価値が上がった。従って、賃金は実質的に上がった。 (b) 食料の価値が下がった。賃金は下がった。 アダムスミスやマルサスは(a)の考え方を採用し、リカードは(b)の考え方を採用した。リカードは、もし食料の生産が容易になっているのであれば、食料の価値が下がっていると考える。それに対し、アダムスミスは、食料の価値は不変であるので、賃金が下がったとは考えない。なお、当時は、1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンスであった。 |
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【具体例】
穀物の価格がクォーター当たり80シリングのときに、1人の労働者に1週間の労働の対価として1ブッシェルの穀物を支払うと仮定しよう。そして穀物の価格が40シリングに低下したとき、その労働者は1.25ブッシェルの穀物が支払われると仮定しよう。さらに、その労働者が家族のために1週間に0.5ブッシェルの穀物を消費し、そして残りを燃料、石鹸、ロウソク、お茶、砂糖、塩等の品々と交換すると仮定しよう。もし、一方のケースで彼に残る0.75ブッシェルの穀物が、他のケースで彼に残った0.5ブッシェルの穀物が調達したのと同じ量の上記の品々を調達できなければ―そして、調達しないであろうが―労働の価値は上がっているのであろうか、それとも下がっているのであろうか? |
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【賃金の変化】
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【解説】
1ブッシェル=36.36872リットル。1クォーター=8ブッシェル。従って、1クォーターは291リットル。 |
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上がっている、とアダムスミスは言わなければならない。何故ならば、彼の標準は穀物であり、そして、その労働者は1週間の労働に対してより多くの穀物を受け取るからである。下がっている、とアダムスミスは言わなければならない。「何故ならば、物の価値は、それを保有することによって示される、他の商品を購入する力にかかっているからである」そして、労働は、そうした他の商品を購入する力が落ちているのである。 | |||||||||||||||||||
■第2節 | |||||||||||||||||||
違った質の労働には違った報酬が与えられる。これは、商品の相対価値の変動を引き起こす原因ではない。
【労働の質の相違】 しかし、労働を、全ての価値の基礎になるものだと言い、そして殆ど相対的労働量だけによって商品の相対価値が決められると言うからといって、労働の質の相違や、ある仕事の1時間や1日の労働を他の仕事の1時間や1日の労働と比較することが難しいという事実に私が無頓着であると思ってはいけない。異なった質の労働が含まれている場合の労働の評価は、直ちに市場において全ての実践的な目的のために十分な正確さを持って調整されることになるし、そしてそれは、労働者の相対的な技能や遂行された労働の集中力に依存する。一旦そういった価値の目盛りが形成されたら殆ど変化することはないであろう。もし、宝石職人の1日の労働が通常の労働者の1日の労働よりも価値があれば、そのことはずっと以前に調整され、価値の目盛りの適切な場所に刻まれたであろう。 |
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(注)「しかし、労働は全ての商品の交換価値の真実の尺度であるが、普通労働によってそれらの価値が評価されるということではない。多くの場合、2つの違った量の労働の割合を確認するのは困難である。2つの違った種類の仕事に費やされた時間だけが常にこの割合を決定するのでもない。耐え抜かれた困難さと発揮された才能が同様に考慮されなければならない。1時間の辛い仕事には2時間の気楽な事務以上の労働が含まれているかもしれない。或いは、学ぶのに10年間の労働がかかった仕事に1時間の労働を充てることには、通常の仕事の1カ月分の勤労以上の労働が含まれているかもしれない。しかし、困難さや才能のいずれについても、それらを正確に計測する尺度を見つけるのは容易ではない。実際、違った種類の労働の違った生産物を交換するに当たっては、双方に対しある程度の糊代が通常認められる。しかし、正確な尺度で調整されるのではなく、日常生活の仕事を続けていく上で十分と思われる大まかな等しさ(正確に等しいとは言えないまでも)に従って、市場において値切ったり安売りしたりして調整されるのである」国富論第1編第10章 | |||||||||||||||||||
従って、違った時期における同じ商品の価値を比べる際には、その特別な商品に求められる相対的な技能と相対的な労働の集中度を考慮することは殆ど必要とされない。そうしたことは、両方の時期に等しく作用するからである。あ
る時期のある種類の労働が、別の時期のその同じ種類の労働と比べられる。もし、1/10、1/5、或いは1/4が加えられたり引き去られたりしているのであれば、その原因に応じた結果が、その商品の相対価値に生じるであろう。もし、1枚のウールの布地が現在、2枚の亜麻布の価値を有しており、そしてもし、10年後に1枚のウールの布地の通常の価値が4枚の亜麻布に等しいものになるとすれば、ウールの布地を作るのにより多くの労働が必要になったのか、或いは亜麻布を作るのに必要な労働が少なくなったのかのいずれかであるか、それともその2つの原因が同時に作用したと判断して構わない。 【商品の相対価値の変動】 私が読者の注意を引こうと思う研究は、商品の相対価値の変動の効果に関するものであって、商品の絶対価値の変動の効果に関するものではないので、違った種類の労働が如何に評価されたか、その程度を吟味することは余り意味がないことになる。それらの労働が当初どれほど異なっていようと、或いはある手先の器用さを習得するために他の労働を上回る多くの才能と技能と時間が必要であろうと、その違いは世代が変わっても殆ど同じであり続けると判断して構わない。少なくても、1年毎の変動は僅かであり、従って短期間では商品の相対価値に影響を与えることは殆どないと判断して構わない。 「労働と資本の異なった投下先における、賃金率と利潤率双方の異なる比率の割合は、既に見てきたように社会の富や貧困、つまり社会の状態が進歩しているか、変わらないか、或いは後退しているかによって大きく影響を受けるようには見えない。そうした社会厚生の変革は、それらは賃金にしても利潤にしてもそれらの一般率に影響を及ぼすものではあるが、最終的には全ての投下部門において等しく影響を与えるに違いない。従ってそれらの割合は同じであるに違いない。そして、少なくてもある程度の期間に亘って、如何なるそうした変革によっても大きく変えられることはあり得ない」(国富論、第1分冊第10章) |
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【解説】
The proportion between them therefore must remain the same, andcannot well be altered, at least for any considerable time, by any such revolutions. この文章は、国富論からの引用であるが、and 以下に与えられた2つの訳を紹介する。 「国状のかかる激変によっても、少なくとも相当永い間、容易には変わらないものである」(竹内謙二訳。「経済学及び課税の原理」(東京大学出版会) 「少なくともかなりの長期間については、容易に変更されることはありえない」(羽鳥・吉澤訳) 両方の訳とも理解するのがやや難しいが、前者は、「少なくとも相当永い間、容易には変わらない」と言っているので、もっと長い時間が経過すれば変わるように思われる。他方、後者は、「かなりの長期間については、容易に変更されることはありえない」と言っているのであるから、短い期間であれば変更されることがあるということになる。となると、両者は違ったことを言っていることになる。どちらが正しいのか?正解は後者であると思われる。つまり、アダムスミスは、一時的にはバランスが崩れるようなことがあっても、ある程度の期間が経てばバランスが調整されると考えるのである。 |
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■第3節 | |||||||||||||||||||
商品に直接充てられた労働が商品の価値に影響を与えるだけではなく、労働の助けになる道具と建物に投下される労働もまた影響を与える。
【道具の使用】 アダムスミスが言及する初期の状態においてさえも何らかの資本―それらは恐らく狩猟者自身によって作られ蓄積されるのであろうが―が、獲物を仕留めるために必要であろう。そうした道具がなければビーバーも鹿も仕留めることはできないであろう。従って、こうした動物の価値はそれらを仕留めるのに必要な時間と労働だけではなく、狩猟者の資本、即ちそれらを仕留める際の助けとなった道具を供給するために必要とされる時間と労働によっても規定されるであろう。 ビーバーを仕留めるのに必要な道具が、鹿を仕留める道具を作るのに必要な労働より多くの労働を用いて作られたと仮定しよう。それは、前者の動物に近づくことは大変に困難であり、その結果その獲物により正確に照準を合わせる必要があるからである。そうなれば、1匹のビーバーが2頭の鹿以上の価値があっても自然なことであろう。そして、まさにこの理由によって全体としてはより多くの労働がビーバーを仕留めるために必要になるであろう。 【道具の耐久性】 次に、その両方の道具を作るのに同じ量の労働が必要であったが、しかし、それらの道具の耐久性が全く違ったと仮定しよう。耐久性のある道具からは、その道具の価値のほんの一部分しかそれによって生産されたその商品に移転されないであろう。そして、耐久性が低い道具からは、その価値のより大きな部分がその商品に現実化されるであろう。 ビーバーと鹿を仕留めるために必要な道具は全て一つの階級の人々に属するかもしれない。そして、それらを仕留めるために用いられる労働はもう一つの階級によって提供されるかもしれない。ただそれでもそれらの相対価格は、その資本の形成とそれらの動物を仕留めることの双方に投下された実際の労働量に比例するであろう。 |
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【解説】
リカードは、ビーバーと鹿の相対価値は、道具の製作に費やされた労働量とそれを仕留めるために直接費やされた労働量の合計に比例すると言うが、実際にはそうはならないであろう。何故ならば、リカード自身が直前で、「耐久性のある道具からは、その道具の価値のほんの一部分しかそれによって生産されたその商品に移転されないであろう」と言っているからである。 |
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【資本家の取り分と商品の価格】
労働と比較して資本が豊富にあったり僅かしかなかったりする様々な状況下で、そして、人々を養うために欠かすことのできない食料と必需品が豊富にあったり僅かしかなかったりする状況下で、あれやこれやの部門に同じ量の資本を投下した者は、得られた生産物のうちの半分、1/4、或いは1/8を受け取り、そして残りが労働を提供した者たちの賃金として支払われるかもしれない。しかし、こうした分配がこうした商品の相対価値に影響を与えることはあり得ないであろう。というのは、資本の利潤が大きかったり小さかったりしても、つまり利潤率が50%、20%、或いは10%だったとしても、或いは賃金が高かかったり低かったりしても、利潤と賃金は両方の部門に等しく作用するからである。 社会の職業が発展して、漁業に必要なカヌーや釣りざおを供給する者もいれば、種や農業に最初に用いられた粗末な機械を供給する者もいるとしよう。しかしそれでも同じ原理が通用するであろう。生産された商品の交換価値は、それらの生産に投下された労働量に比例するであろう、と。生産に直接用いられた労働だけではなく、特定の労働を実現させるために必要な道具や機械の生産に用いられた労働も含めて、である。 【商品の価値を構成する労働の具体例】 もし、我々が、改良がなされ技術や商業が発達した社会に注意を向けてみれば、そのときにもなお商品の価値がこの原理に素直に従って変動することに気がつくであろう。例えば靴下の交換価値を計測してみると、我々は他の品々と比べたその靴下の価値が、それを製造し市場に持ち込むのに必要な労働量に依存することが分かるであろう。第一に、綿花が栽培される土地を耕作するのに必要な労働がある。第二に、その綿花を靴下が製造される国に運搬する労働がある。その労働には綿花が運ばれる船を製造する労働の一部が含まれ、その賃金はその商品の運賃に上乗せされる。第三に、紡績工と織り手の労働がある。第四に、靴下の製造に貢献する建物や機械を作った技師や鍛冶屋や大工の労働の一部がある。第五に、小売人の労働やそれ以外の多くの、もういちいち挙げるまでもないが、そうした人たちの労働がある。こうした様々な労働の総合計が、この靴下と交換される他の品々の量を決定する。一方、そうした品々に投下されている様々な労働に対しても同じような考慮がなされ、その靴下に与えられるそうした品々の量を等しく決定することとなる。 【省力化と交換価値の低下】これが交換価値の真実の基礎であるということを確信するために、製造された靴下が他の品々と交換されるために市場に来る前に、綿花が通らなければならない様々な過程の一つを省略できる何らかの改善がなされたと仮定しよう。そしてまたその結果を見てみよう。もし、綿花の栽培に必要とされる人の数が少なくなったり、或いは航海に用いられる船員の数が少なくなったり、或いは綿花を我々の下に運ぶ船の建造に必要な船大工の数が少なくなったり、或いはまた建物の建設や機械の製造に必要な人手が少なくなったり、或いはこれらの機械が建造されたときにもっと能率を上げたりするならば、靴下の価値は不可避的に低下するであろう。そしてその結果、他の品々を支配する量は減少するであろう。靴下の価値は落ちるであろう。何故ならばその製造に必要な労働量が減ったからである。従って、そうした労働の省力化が起きていない他の商品のより少ない量としか交換されないであろう。 労働使用の節約は、商品の相対価値を必ず引き下げる。その労働の節約が、商品の製造そのものに必要な労働であろうと、生産に貢献する資本の形成に必要な労働であろうとも、である。いずれの場合にも靴下の価格は低下するであろう。靴下の製造に直接必要な漂白工、紡績工、織り手などとして雇われる人たちの数が少なくなろうと、或いは、間接的に関係する船員、運搬人、技師、鍛冶屋などとして雇われる者の数が少なくなろうとも、である。一方のケースでは、労働の節約分の全てが靴下の価格に反映されるであろう。何故ならば、そうした労働は全て靴下の製造に向けられたからである。他方のケースでは、労働の節約分の一部しか靴下の価格には反映されないであろう。残りの労働は、その生産に建物、機械、及び車が貢献した他の全ての商品に充てられるからである。 【具体例】 社会の初期の状態において、狩猟者の弓及び矢が、漁業者のカヌー及び釣りざおと同じ価値で同じ耐久性を有していたと仮定しよう。双方とも同じ労働量の産物であるからだ。そうした環境では、狩猟者の1日の労働の成果である鹿の価値は、漁業者の1日の労働の成果である魚の価値と全く等しいであろう。魚と獲物の相対価値は、それぞれに現実化された労働量によって全てが規定されるであろう。生産量がどれだけであろうと、或いは一般的な賃金水準、或いは一般的な利潤率がどれほど高かろうと低かろうと、である。 例えば、漁業者のカヌーと釣りざおが100ポンドの価値があり、そしてそれらは10年間持つとみられ、そして年間の賃金が100ポンドの10人を雇い、それらの人々が1日の労働で20匹の鮭を獲ったと仮定しよう。狩猟者の用いる道具も100ポンドの価値があり、そして10年間持つとみられ、そして年間の賃金が100ポンドの10人を雇い、そしてそれらの人々が1日で10頭の鹿を獲ったと仮定しよう。そうなれば1頭の鹿の自然価格は2匹の鮭になろう。それを獲った人々に与えられる全生産物のうちの割合が大きかろうと小さかろうと、である。 |
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【漁業者と狩猟者の比較】
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【利潤と賃金の関係】
利潤の問題に関しては、賃金として与えられる割合が最も重要である。というのも、利潤は、賃金が低いか高いかにきっちり比例して高いか低いかになるということが直ちに分るに違いないからである。しかし、そのことは、魚と鹿の相対価値には少しも影響を与えることはできないであろう。というのは、賃金は、両方の仕事において同時に高いか低いかになるからである。もし、狩猟者が、彼の獲物と引き換えにより多くの魚を自分に与えるように漁業者に仕向けるために、彼の獲物の大きな割合、つまり大きな割合の価値を賃金として支払ったという言い訳を強調したならば、後者もまた、同じ原因によって同様に影響を受けていると述べるであろう。従って、どのように賃金と利潤が変動しようと、そして資本の蓄積の効果がどれほど大きかろうと、全ての状況において、彼らが引き続き1日の労働によって同じ量の魚と獲物を手に入れる限り、自然な交換率は1匹の鹿に対して2匹の鮭ということになろう。 もし、同じ量の労働でより少ない魚やより多い獲物が手に入ったならば、魚の価値は獲物の価値に対して上がるであろう。その反対に、同じ量の労働でより少ない量の獲物しか手に入らないか、より多くの魚が手に入ったならば、魚に比べ獲物の価値は上がるであろう。 【価値尺度があれば】 仮に、それ自身の価値が変わることのない何らか別の商品があったとすれば、我々は魚と獲物をこの商品と比べることによって、どれだけの変動分が魚の価値に影響を及ぼした原因に起因するものなのか、そしてどれだけの変動分が獲物の価値に影響を及びした原因に起因するものなのかを確認することができるであろう。 お金がそうした商品であると仮定しよう。もし、1匹の鮭が1ポンドの価値があり、1頭の鹿が2ポンドの価値があるとしたら、1頭の鹿は2匹の鮭の価値があるであろう。しかし、1頭の鹿は3匹の鮭の価値を有するようになるかもしれない。というのも、鹿を手に入れるためにより多くの労働が必要となるかもしれず、また、鮭を手に入れるための労働が少なくなるかもしれず、或いは、両方の原因が同時に働くかもしれないからである。 仮に、我々が、価値が変動することのないこの標準物を持っていたとすれば、我々はこうした原因のいずれがどの程度作用しているのかを簡単に確認するかもしれない。もし、鹿が3ポンドに上昇する一方で、鮭が引き続き1ポンドで売られたら、我々、鹿を手に入れるために必要な労働が増えたと判断するかもしれない。もし、鹿が引き続き2ポンドという同じ価格で売られ、同時に鮭が13シリング4ペンスで売られたとすれば、そのときには我々は、鮭を手に入れるために必要な労働が少なくなったと確信するかもしれない。そしてもし、鹿が2ポンド10シリングに上昇し、そして鮭が16シリング8ペンスに下がったら、我々は、両方の原因がこれらの商品の相対価値の変動に作用したと確信するであろう。 【賃金の変動と商品の相対価値】 労働の賃金が変動しても、こうした商品の相対価値には如何なる変更ももたらすことはできないであろう。というのも、賃金が上昇したとしても、どのような仕事においても、より多くの労働量が必要になることはないからである。しかし、高い賃金が支払われるであろう。そして、狩猟者と漁業者に獲物と魚の価格を引き上げさせようとする同じ理由が、鉱山の所有者に対しても金の価値を引き上げさせようとするであろう。こうした誘因はこれら3つの仕事に同じような力で作用するので、また、賃金の上昇の前でも後でもそれらの仕事に従事する者の相対的な地位に変更はないので、獲物と魚と金の相対価値は変わらない状態が続くであろう。賃金は20%上がるかもしれない。その結果、利潤がその割合を上回って低下するかもしれず、或いはそれほどは低下しないかもしれないが、いずれにしても、こうした商品の相対価値には少しも変更を引き起こさないであろう。 【商品の相対価値の変化】 さて、同じ量の労働と固定資本を用いてより多くの魚を産出することができるようになったが、金と獲物の産出量は増えることがないと仮定すれば、魚の相対価値は金と獲物に比較して低下するであろう。仮に、20匹の鮭ではなく25匹の鮭が1日の労働の産物であったとすれば、鮭の価格は1ポンドではなく16シリングに低下するであろう。そして、2匹の鮭ではなく2匹半の鮭が1頭の鹿に与えられるであろう。しかし、鹿の価格は以前と同じく2ポンドのままであり続けるであろう。同様に、仮に同じ量の資本と労働を用いより少ない量の魚しか手に入れることができなくなったとしたら、魚の相対価値は上昇するであろう。それでは、魚の交換価値は一定量の魚を手に入れるのに必要な労働量が多くなったか少なくなったかという理由によってのみ上がったり下がったりするであろう。そして、必要とされる労働量の増減割合を超えて魚の価値が上がったり下がったりすることはあり得ないであろう。 |
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【解説】
ポンドとシリングとペンスの関係は次のとおり。1ポンド=20シリング。1シリング=12ペンス。従って、1匹の鮭が1ポンドのときに20匹獲れるとするならば、25匹獲れると、1匹の鮭の価格は0.8ポンドになる。そして、0.8ポンドは16シリングになる。 |
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それでは仮に、我々が他の商品の価値の変動を計測することのできる、価値が変動することのない標準物を有していたとすれば、そうした商品が恒久的に上昇することのできる最高限度というものは、もし、想定される状況の下で生産されたとすれば、生産に必要な追加労働量の割合に応じたものになることが分かるであろう。そして、生産にそれ以上の労働が必要とされない限り、そうした商品の価値は少しも上がることはあり得ないであろう、と。
賃金の上昇は、商品の貨幣価値を引き上げないであろうし、生産のために追加の労働が必要とされない商品であって、固定資本と流動資本の割合が同じであり、かつ同じ耐久性の固定資本を用いて生産した他の商品に対する相対価値を引き上げることもないであろう。もし、他の商品の生産のために必要とされる労働が多くなったり少なくなったりしたら、我々が既に述べたように、それは直ちにその商品の相対価値に変動をもたらすであろう。しかし、そのような変動は、必要とされる労働量に変化が起こったためであり、賃金が上がったからではない。 |
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■第4節 | |||||||||||||||||||
商品の生産に用いられた労働量が商品の相対価値を規定するという原理は、機械や固定的で耐久性のある資本の使用によって大きく修正される。
【資本の耐久性と資本の組み合わせ】 前の節で、我々は、鹿と鮭を仕留めるのに必要な道具は、同じような耐久性を有し、かつ同じ量の労働の成果であると仮定した。そして、鹿と鮭の相対価値の変動は、それらを手に入れるのに必要な労働量の変化にのみ依存することを見てきた。しかし、社会の全ての状態において、様々な仕事に用いられる道具、建物、及び機械の耐久性の程度は区々であり、それらを生産するための労働の量も区々であろう。 労働を養う資本と道具、機械、及び建物に投じられる資本の割合もまた、様々であるかもしれない。この固定資本の耐久性の相違と、二つの種類の資本が組み合わされる割合の相違が、商品の生産に必要な労働量が多いか少ないかということ以外の、商品の相対価値の変動に対するもう一つの原因を持ちこむのである。この原因とは、労働の価値の上昇或いは低下である。 【固定資本と流動資本】 労働者によって消費される食料と衣類、労働者が働く建物、そして労働の助けになる道具は、全て消耗する性格を有している。しかし、こうしたいろいろな資本が長持ちする期間は大変に区々である。蒸気機関は船よりも長持ちするであろう。船は労働者の衣類よりも長持ちするであろう。そして、労働者の衣類は、彼が消費する食料よりも長持ちするであろう。 資本が急速に消耗するかどうかに応じて、また何度も再生されることが必要とされるかどうかに応じて、つまり消耗が緩やかであるかどうかに応じて流動資本か固定資本の名の下に分類される。 (注)この区別は本質的なものではなく、区分けの線を正確に引くことはできない。 その保有する建物と機械が、価値が高く耐久性のあるビールの醸造業者は、より大きな固定資本を用いると言われる。その反対に、資本が主に賃金の支払いに費やされ、そしてその賃金が食料と衣類、つまり建物と機械よりも消耗度が高いものに支出される靴屋は、資本の大部分を流動資本として用いると言われる。 流動資本は回転する、即ち資本家の下に戻ってくるが、還流する期間は一様 ではないとも言うべきである。農業者が種を撒くために購入する小麦は、パン屋がパンを作るために購入する小麦に比べれば、より固定的な資本である。一方は、小麦を土の中に放置し、1年間は収益を得ることがない。他方は、それを臼で挽いて小麦粉にし、彼の顧客に対してパンにして売ることができる。そして、1週間のうちに資本を再び元通りにするか、或いは他の事業を始めることができる。 |
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【解説】
固定資本とか流動資本という言い方は、聞き慣れないかもしれないが、経済学で言う資本とは、貸借対照表上の「資本」を指すのではなく、生産された者のうち、消費されずに残った将来の生産に役立つ生産物を指す。つまり、アダムスミスやリカードが言う流動資産や固定資産は、我々が流動資産や固定資産と呼ぶものと同じであると考えてよかろう。 |
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【固定資本と流動資本の組み合わせの影響】
それでは、2つの業種が同じ量の資本を用いるかもしれない。しかし、その資本は、固定資本と流動資本という点でみれば、非常に異なった配分になっているかもしれない。ある業種では流動資本として用いられるものが非常に少ないかもしれない。即ち、労働を養う資本が少ないということだ。機械、道具、及び建物など比較的に固定的で耐久性を有する資本に主に投下されているかもしれない。また、ある業種では同じ量の資本が用いられているかもしれないが、それは主に労働者を養うために用いられ、道具、機械、及び建物に投じられる資本は非常に少ないかもしれない。労働の賃金の上昇は、そうした異なった状況で生産された商品に対し必ず不均一な影響を与えるであろう。 もう一度。2人の製造業者が、同じ量の固定資本と同じ量の流動資本を用いるかもしれない。しかし、それらの固定資本の耐久性は全く違っているかもしれない。ある製造業者は1万ポンドの蒸気機関を保有するかもしれないし、またある製造業者は同じ価値の船舶を保有するかもしれない。 もし、人々が機械を生産に用いることはなく、専ら労働だけを用いたとしたら、そしてそれらの商品を市場に持ち込むのにかかる期間が同じ長さであったとしたら、そうした商品の交換価値は、用いられた労働の量に正確に比例するであろう。 もし、人々が同じ価値を有し同じ耐久性を有する固定資本を用いたとしたら、そのときも、生産された商品の価値は同じになり、それらの商品は生産に用いた労働量が多いか少ないかに応じて変動するであろう。 【賃金上昇の影響】 しかし、同様の状況で生産される商品は、それらの商品の生産に必要とされる労働が増加するか或いは減少するかということ以外の原因では変動することはないであろうが、それでも、同じ割合の固定資本を用いて生産されてはいない他の商品と比べるときには、私が以前述べた他の原因、つまり労働の価値の上昇からも変動するであろう。例えそれらの商品の生産に用いられる労働量が増えたり減ったりしていなかったとしても、である。 大麦とカラス麦は、如何に賃金が変動しようと、互いに同じような関係を維持するであろう。綿製品とウールの布地も、もしそれらが同じような条件で生産されたのであれば、同じような関係を維持するであろう。しかし、賃金が上がったり下がったりすると、大麦は綿製品と比べて価値が大きくなったり小さくなったりするであろう。また、カラス麦のウールの布地に対する関係も同じであろう。 【具体例】 2人の男がいて、それぞれが100人の人間を1年間、2つの機械を作るために雇い、そしてもう1人の男がいて、同数の人間を穀物の栽培のために雇うと仮定しよう。その年の終わりの時点で、各機械の価値は穀物の価値と同じであろう。というのも、それぞれが同じ量の労働により生産されるからだ。それらの機械の所有者の1人が、次の年に100人の労働の助けを得て布地の生産にその機械を用いると仮定しよう。そして、もう1人の機械の所有者も同じように次の年に100人の労働の助けを得て綿製品の生産に機械を用いると仮定しよう。その一方で、農業者は今までと同じように穀物の耕作に100人の労働者を用いると仮定しよう。 2年目の年に彼らは全て同じ数の労働者を雇っているだろう。しかし、毛織物業者の商品とその機械を合わせたものは、また綿製造業者の商品とその機械を合わせたものは、200人の人間を1年間用いた労働の結果となろう。或いはむしろ、100人の人間を2年間用いた労働の結果となろう。その一方、穀物は100人の人間の1年間の労働の結果となるであろう。その結果、もし穀物の価値が500ポンドであれば、毛織物業者の機械と布地を合計したものは1000ポンドの価値にならねばならないし、綿製造業者の機械と綿製品を合計したものも穀物の価値の2倍にならなければならない。 |
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【条件設定】
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しかし、それらの価値は、穀物の価値の2倍を超えるものとなろう。というのは、毛織物業者と綿製造業者の資本の1年目の利潤が彼らの資本に加えられているからである。一方、農業者の利潤は支出され、使用されている。それでは、彼らの資本の耐久性の程度の違いによって、或いは同じことであるが、そうした商品の1組が市場のもたらされることができるまでに経過しなければならない期間のためにそれらの商品の価値は上がるであろう。それらの商品に投じられた労働の量にきっちり比例することはなくなるであろう。それらの価値は、最も価値あるものを市場に持ち込むことができるようにするためにより長い時間が経過する必要があり、それに対する補償をするために、1に対する2ではなくそれより幾分大きくなるであろう。
【時間に対する補償】 各労働者の労働に対して年間50ポンドが支払われたと仮定しよう。つまり5000ポンドの資本が用いられ、利潤率は10%だったとしよう。穀物と同様、2つの機械の価値は1年目の終わりには、5500ポンドになるであろう。2年目には製造業者たちと農業者は再び5000ポンドを用いて労働者を雇うであろう。従って、彼らは再びそれぞれの商品を5500ポンドで売るだろう。しかし、機械を使う者たちは、その農業者と同じ立場になるために、労働者のために用いた5000ポンドの資本に対し5500ポンドを手に入れなければならないだけではなく、5500ポンドの利潤としてさらに550ポンドを手に入れなければならない。その5500ポンドというのは、彼らが機械に投資しているお金の額である。この結果、彼らの商品は6050ポンドで売られなければならない。 |
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【解説】
ここでは機械の耐久性は永久であると想定されているように思われる。仮に耐用期間が短いとすれば、その機械を用いて作られた商品の価格は相当高くなる。例えば、耐用期間が1年だとすれば、(5000+500)×1.1+5000×1.1=11550ポンドとなるであろう。 |
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それでは、ここにそれぞれの商品の生産のために毎年正確に同じ量の労働を用いる資本家たちがいるが、それでもそれぞれが用いた固定資本の量、つまり累積された労働量が異なるために、彼らの生産する商品の価値は異なるのである。
布地と綿製品の価値は同じであろう。何故ならば、それらは、同じ量の労働と同じ量の固定資本の生産物であるからだ。しかし、穀物の価値はこうした商品の価値と同じではない。何故ならば、固定資本に関する限り、それらは違った環境の下で生産されるからだ。 【賃金上昇の影響】 しかし、それらの相対価値は、労働の価値の上昇によってどのような影響を受けるのであろうか。布地と綿製品の相対価値に何の変化も表れないのは明らかである。というのも、想定されている環境では、一方に作用する影響は同じようにもう一方にも作用するに違いないからだ。また、小麦と大麦の相対価値も如何なる変更も被らないであろう。というのも、固定資本と流動資本に関する限り、2つとも同じ条件で生産されるからだ。しかし、布地に対する穀物、或いは綿製品に対する穀物の相対価値は、労働の価値の上昇によって変更されるに違いない。 【賃金の上昇と利潤】 利潤の低下を引き起こさない労働の価値の上昇はあり得ない。もし、穀物が農業者と労働者に分配されることになっているのであれば、後者に与えられる割合が大きくなればなるほど前者に残される割合は小さくなるであろう。そこで、もし布地或いは綿製品が作業者とその雇い主の間で分配されるのであれば、前者に渡される割合が大きければ大きいほど、後者に残される割合が小さくなるであろう。 【具体例】 それでは、賃金の上昇のために、利潤が10%から9%に落ちると仮定しよう。彼らの共通の商品価格(5500ポンド)に固定資本への利潤として550ポンドを加えるのではなく、それらの製造業者たちはその額に対し9%を加えるに過ぎないであろう。即ち、495ポンドである。この結果、価格は6050ポンドになるのではなく5995ポンドになるであろう。 穀物は5500ポンドで売れ続けると思われるので、より多くの固定資本が用いられた製造品は、穀物や他のより少ない固定資本しか入っていない商品と比べて価値が低下するであろう。労働の価値が上昇したり低下したりすることを原因とする商品の相対価値の変動の程度は、全体の資本に対する固定資本の割合に依存するであろう。非常に高価な機械によって、或いは非常に高価な建物のなかで生産された商品や、或いは市場に持ち込むまでに長い時間のかかる商品、これらは全て、相対価値が低下するであろう。一方、主に労働によって生産された商品、或いは速やかに市場に持ち込むことのできる商品は、相対価値が上昇するであろう。 |
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【解説】
製造業の一般利潤率が10%から9%に落ちるとき、何故農業の利潤率は変化しないのであろうか?ここで、リカードは「利潤が10%から9%に落ちると仮定しよう」といっているが、むしろ、「利潤が現実化するまでに必要とされる時間に対する報酬率が10%から9%に低下したと仮定しよう」と言うべきではなかったのかと思われる。そうすれば、「穀物は5500ポンドで売れ続ける‥」ということにも無理がなくなる。 |
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【商品の価値を変動させる2つの原因】
しかし、読者は、この商品の価値の変動の原因がもたらす効果が比較的軽微であることに気がつくであろう。利潤率を1%低下させるほどの賃金の上昇があっても、私が想定した状況で生産された商品の相対価値はたった1%しか変動しない。それほど大きな利潤の低下が起きるのに、それらの商品の価格は6050ポンドから5995ポンドに落ちるだけである。賃金の上昇によってこれらの商品の相対価格に起き得る最大の効果といっても、6、7%を超えることは起き得ないであろう。というのも、恐らく利潤は如何なる状況においても、それを超えるような価格の全般的な、そして恒久的な低下を認めることができないからである。 商品の相対的価値の変動を引き起こすもう一つの大きな原因、即ち商品を生産するのに必要な労働量の増加や減少が起きる場合にはそうではない。もし、穀物を生産するのに100人ではなく80人が必要とされるのであれば、穀物の価値は20%低下するであろう。つまり、価格が5500ポンドから4400ポンドに低下するであろう。もし布地を生産するのに100人ではなく80人で十分になれば、布地の価格は6050ポンドから4950ポンドに低下するであろう。 恒常的な利潤率の変動は、如何なる大きさのものであっても、年数が経たないと作用しない原因の結果であるが、一方、商品を生産するために必要となる労働量の変化については、日常の出来事である。 機械、道具、建物の改良、及び原材料を生産する面での改良がある度に労働が節約され、そして我々は、そうした改良が適用になる商品について、容易に生産を行うことができるようになり、その結果、商品の価値が変わる。それでは、商品の価値の変動の原因を計測するに当たって、労働の価値が上がったり 下がったりすることによる効果を全く考慮しないということは間違っているが、だからといってそれを重要視し過ぎるのも間違いであろう。この結果、この書物のこの後の部分では、私はこの変動の原因について場合によっては言及しようが、商品の相対価値に起きる全ての大きな変動は、商品を生産するためにそのときどきに必要とされる労働量が多くなったり少なくなったりすることによって引き起こされると考えることにする。 |
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【解説】
恒常的な利潤率の変動は何年かを経て起こるのに対し、商品の生産に必要な労働量が変化することは日々起こり得るとリカードは言うが、これは何を意味するのだろうか?リカードは、一般的利潤率を決定する最大の要因は、土地の生産力であると考える。つまり、国が発展するに従って、新たに耕作可能な肥沃な農地が限られるようになると、穀物の輸入の自由化を認めない限り、一般的利潤率の低下は避けられなくなる。こうして、一般的利潤率は、永い期間を経てゆっくりと変化するとリカードは考える。他方、個々の産業においては、機械化や技術の進歩が起こる度に、生産に必要な労働量が少なくなる傾向があり、従って商品の価値を引き下げる力が働く。しかし、個々の産業で労働の省力化が起きても、それは必ずしも利潤率を引き上げることにはならない。何故ならば、もしある特定の業種の利潤率だけが上昇しようとすると、他の業種から資本の流入が起こるからである。そして、労働の節約が起きても、他の業種から資本の流入が起きるのであれば商品の価値を低下させるだけであろう。 |
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【市場に持ち込むまでの時間と価値との関係】
もし、それらの生産に同じ量の労働が投じられた幾つかの商品が、同じ時間で市場に持ち込むことができないのであれば、それらの交換価値に違いが生じることは言うまでもないであろう。私が、ある商品の生産のために1000ポンドの費用で20人の人間を1年間雇うと仮定しよう。そして、その年の終わりに、商品を完成させるためにさらに1000ポンドを用い、再び20人を1年間雇い、そしてその商品を2年後に市場に持ち込むと仮定しよう。もし、利潤率が10%であれば、私の商品は2310ポンドで売れなければならない。というのも、私は1年間に1000ポンドを用い、そしてさらに1年間に亘り2100ポンドを用いたからだ。もう一人男がいて、全く同じ量の労働者を雇うが、彼の場合には全て1年目だけに雇う。彼は2000ポンドの経費で40人を雇う。そして1年目の終わりに10%の利潤を伴って売る。つまり2200ポンドで売る。それではここに、同じ量の労働を投じた2つの種類の商品があるが、一方は2310ポンドで売られ、他方は2200ポンドで売られる。 このケースはさきほどのケースとは異なって見えるが、実際には同じことである。両方のケースとも、一方の商品の価格が高いのは、その商品を市場に持ち込むのにより長い時間がかかるからである。前のケースでは、機械と布地の合計した価格が穀物の価格の2倍を上回っていた。もっとも、それらには2倍の量の労働しか投じられなかったが。第二のケースについては、一方の商品は他の商品よりも価値が大きい。もっとも、その生産により多くの労働が用いられた訳ではなかったが。両方のケースにおいて、価値の違いは利潤が資本として蓄積されることから生じる。そして、利潤の発生が保留される期間に対する正当な補償に過ぎない。 【結論】 それでは、異なった業種において用いられる資本を、固定資本と流動資本とに違った割合で配分することによって、そのルールに対し大きな修正が加えられるように見える。そのルールとは、ほぼ労働だけが生産に用いられるときに遍く適用されるものであって、商品の価値はその生産に必要な労働の量が増えたり減ったりしない限り変わることはないというものである。こうして、そのルールに大きな修正が加えられるように見えるのは、労働の価値が上昇すればただそれだけで、労働量に変化がないのに、その生産に固定資本を用いる商品の交換価値を引き下げることがこの節で示されているからである。そして、固定資本の量が大きくなればなるほど価格の低下は大きくなるであろう。 |
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■第5節 | |||||||||||||||||||
賃金の上昇や低下によって価値は変動しないという原理は、資本の耐久性が一様ではないことと、資本が資本家の下に戻ってくるまでの速さが一様でないことによっても修正を受ける。 | |||||||||||||||||||
【解説】
The principle that value does not vary with the rise or fall of wages~ この英文をどう訳すべきか?一見難しい英文には見えない。「価値は賃金の騰落とともに変動するものではないという原理」(羽鳥・吉澤訳)のように訳してしまいがちだ。しかし、そのように訳してしまうと、どうもしっくりこない。賃金が変化することと商品の価値の変化が同時に起きることがあり得るからだ。例えば、農業技術の進歩などによって穀物の生産力が増大し、その結果賃金が低下することと、ある商品について、その商品を生産するのに必要な労働量が変化することによってその商品の価値が変動することが同時に起きることがあり得る。 このwithを「〜とともに」と訳すから、文意が納得できなくなるのである。withを原因を表す前置詞と理解し、「〜によって」と訳したらどうであろうか?そうなれば、賃金が上がったり下がったりしても、商品の価値が上がったり下がったりすることにはならず、単に利潤が下がったり上がったりするだけだというリカードの主張が明瞭になる。 |
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【資本の耐久性と価値の関係】
前節で我々は、2つの異なった業種の2つの等しい資本の、固定資本と流動資本の割合が等しくないと仮定した。そこで今度は、割合は同じであるが、耐久性が同じではないと仮定しよう。固定資本は、その耐久性が弱まるにつれ流動資本の性格に近づく。製造業者の資本を維持するために、より短い期間で消耗され、その価値が再生産されることとなる。 我々は、ある製造業部門において固定資本の比重が大きくなるのに比例して、そしてそのとき賃金が上がると、その製造業部門で生産された商品の価値は、流動資本の比重が大きい製造業部門で生産された商品の価値よりも相対的に低くなることを見たばかりだ。固定資本の耐久性が低くなり、流動資本の性格に近づくのに比例して、同じような結果が同じ原因によって引き起こされることとなる。 |
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【解説】
「同じような結果が同じ原因によって引き起こされることとなる」これをそのまま理解すると、固定資本の割合が小さくなるのに比例して、その商品の価値は相対的に低下するように読めてしまう。しかし、それではリカードの言いたいことの反対になるのではないか?リカードは、固定資本の割合が小さくなると、そしてそのときに賃金が上昇すれば、それに比例して商品の価値は相対的に上昇すると言いたかったのではないのか? |
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もし、固定資本が耐久性を有しないとすれば、それを元の状態のままに維持するために毎年大量の労働を必要とすることとなる。しかし、そうして投下された労働は、その製造された商品に実際に支出されたものとみなされるかもしれず、そうなればそうした商品は、その投じられた労働に比例した価値を有するに違いない。もし、私が殆ど労働を用いずに商品の生産が可能な2万ポンドの価値がある機械を保有していたならば、そしてそうした機械の減耗の程度が極めて僅かであったならば、そして一般的な利潤率が10%であったならば、私は私の機械を用いたために、2000ポンドを大きく上回る価格をその商品に付ける必要はないであろう。しかし、もし機械の減耗の程度が大きく、そのためにその機械を効率的な状態に維持するために必要とされる労働者の数が年間50人であったとしたら、私は、私の商品に価格を上乗せすることが必要となるであろう。そして、その上乗せ額は、他の商品の製造に50人を投じ、かつ機械を全く使用しなかった他の如何なる製造業者によっても得られるであろうと思われる金額に等しい額であろう。
【賃金上昇の影響】 しかし、労働の賃金の上昇は、急速に消耗される機械を用いて生産された商品と、ゆっくりとしか消耗されない機械を用いて生産された商品とでは、一様な影響を与えることはないであろう。一方の商品の生産に当たっては、より大量の労働が、生産される商品に継続的に移転されるであろうが、もう一方の商品については、そのように移転される労働量は僅かなものでしかないであろう。従って、賃金が上がる度に、同じことであるが利潤が低下する度に、耐久性のある資本を用いて生産された商品の相対価値を引き下げることになるであろう。そして、それに比例して、より消耗度が高い資本を用いて生産された商品の相対価値を引き上げるであろう。賃金の低下は、これと正反対の効果を生むであろう。 |
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【解説】
リカードは、賃金が上がる度に耐久性のある資本(機械)を用いて生産された商品の相対価値を引き下げると言うが、その理由は必ずしも明確ではない。 例えば、次のようなケースを考えてみよう。 10人の労働者でA、B、Cという機械を作る。それらの機械の耐用年数は、それぞれ、1年、5年、10年とする。これらの3つの機械が、その後自動的に商品を生産すると仮定すれば、その価値は次のとおりとなろう。 <毎年生産される商品の価値> 1年、2年、3年、4年、5年、6年、7年、8年、9年、10年 A―10 B―2、2、2、2、2 C―1、1、1、1、1、1、1、1、1、1 耐用年数が10年の機械の維持更新には毎年1人の労働が必要であり、耐用年数が5年の機械には毎年2人の労働が必要である。従って、賃金の上昇が起きても同じように影響を受けると思われるが、そうなればリカードの言うようにはならない。但し、耐用年数が短い機械は毎年維持更新をする一方で、耐用年数の長い機械については維持更新をしないと言うのであれば、耐用年数の長い機械が生産する商品の価値は相対的に低下するかもしれない。 |
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【具体例】
既に言ったことであるが、固定資本の耐久性の程度は非常に区々である。それでは、どのような業種でも使うことのできる機械が、100人の1年間分の仕事をすると仮定しよう。そして、その機械は1年間だけ持つとしよう。さらに、その機械が5000ポンドであるとし、100人の人間に毎年支払う賃金が5000ポンドであるとしよう。そうなれば、その製造業者にとってはその機械を買おうが、人々を雇用しようが、どちらでもいいことは明らかだ。しかし、労働の価値が上がり、その結果100人を1年間雇うのに合計5500ポンドかかるようになると仮定すれば、その製造業者はもはや何の躊躇もなくなり、5000ポンドでその機械を購入して仕事をさせることが彼の利益になることは明らかだ。しかし、その機械の価格が上昇することにはならないのか?労働の価値が上がった結果、その機械も5500ポンドにならないのか? 【機械の価格が上がる可能性】 もし、その機械の製作に用いる資本がなかったとしたら、そして機械を作る者に対する利潤が発生することもないというのであれば、その機械の価格は上がるであろう。例えば、もしその機械が、各人の賃金が50ポンドである労働者100人が1年間働いた成果であって、その結果その機械の価格が5000ポンドで あったとしたら、仮に賃金が55ポンドに上がれば、その価格は5500ポンドとなろう。しかし、そんなことはあり得ない。100人未満の人しか用いられていないのだ。さもなければ、その機械を5000ポンドで売りに出すことはできないであろう。というのも、その5000ポンドの中から労働者を雇った資本の利潤が支払われなければならないからだ。それでは、1人当たり50ポンドの賃金で85人の人間しか雇われなかったと仮定しよう。つまり、年間4250ポンドになる、と。そして、その機械を売った代金が労働者に支払う賃金を上回る750ポンドが、その技師の資本の利潤となったと仮定しよう。賃金が10%上昇したならば、彼は425ポンドの追加の資本を用いることを余儀なくされるであろう。従って、4250ポンドではなく4675ポンドを用いることになるであろう。そして、その資本に対し、彼が彼の機械を5000ポンドで売り続けたとすれば、彼は325ポンドの利潤しか得ることはないであろう。しかし、これが正に全ての製造業者や資本家の現実なのである。 賃金の上昇は彼らの全てに影響を与える。もし、その機械のメーカーが、賃金が上がった結果その機械の価格を引き上げるのであれば、尋常ではない量の資本がそうした機械の生産に投下されることになり、ついにはその機械の価格は通常の利潤を与えるだけの水準にまで低下するであろう。 |
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(注)我々はここで、古い国々は機械の使用に駆り立てられ、そして新しい国々は労働の使用に駆り立てられるのは何故か、という理由を知る。人々を養うための食料の供給が困難になる度に労働は必ず上がるであろうし、労働の価格が上がる度に機械を使用する新たな誘いが起きるであろう。人々を養うための食料の供給が困難になるということは、古い国では、常に起こっている。一方、新しい国々では、労働の賃金が少しも上がらないのに人口が大きく増えることがあり得る。700万人目、800万人目、そして900万人目の人に食料を供給することが、200万人目、300万人目、そして400万人目の人に対するのと同じように容易に行うことがあり得る。 | |||||||||||||||||||
それでは、我々は、賃金上昇の結果としては、機械の価格は上がらないであろうということが分かる。
しかし、一般的な賃金の上昇の中で、彼の商品の生産に必要な経費を増やすことがない機械に頼ることできるその製造業者は、もし彼が自分の商品に今までと同じ価格を付け続けることができるのなら、特別な利益を享受することになろう。しかし、既に見てきたように、彼は商品の価格を引き下げることが余儀なくされるであろう。即ち、彼の利潤が一般的水準に下がるまで資本が彼と同じ商売に流入し続けるであろう。 |
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【解説】
「その機械の価格は通常の利潤を与えるだけの水準にまで低下するであろう。それでは、我々は、賃金上昇の結果としては、機械の価格は上がらないであろうということが分かる」という理由は、次のとおり。 ・機械製造業者の利潤率:5000÷4250=1.176517.65% ・労働者100人を用いて生産した商品の価格:5000×1.1765=5882.5 5882.5ポンド ・賃金上昇後の、労働者を用いる場合の利潤率:5882.5÷5500=1.0695 6.95% ・賃金上昇後に、機械の価格が上がらない場合の利潤率:5000÷4675=1.0695 6.95% 従って、賃金上昇後、機械の価格が5000ポンドであれば、一般的利潤率に一致する。 「彼は商品の価格を引き下げることが余儀なくされるであろう」と言うが、具体的に商品の価格が幾らにまで下がるかと言えば、一般的利潤率は6.95%に下がるので、価格は、5000×1.0695=5347.5、即ち、5882.5ポンドから5347.5ポンドへ低下する。但し、事態はこのままでは終息しない。何故ならば、一つの商品に2つの価格が存在することになるからである。恐らく、労働者に対する需要が減少し、賃金の低下がこの後起きるであろう。 |
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それでは、このようにして一般国民は機械の恩恵を被るのである。
こうしたもの言わぬ機械は、それらが取って代わる労働よりも常に遥かに少ない労働の産物なのである、それらのものが同じ貨幣価値を有しているときでさえ。そうした影響を通して、賃金を引き上げる食料価格の上昇が影響を与える人々の数は少なくなるであろう。上の例のように、100人ではなく85人に影響が及ぶだけであろう。そして、その結果の節約は、製造された商品の価格の低下として現れる。機械も、またその機械によって生産される商品も真実の価値が上がることはない。そうではなく、機械によって作られる全ての商品の価格が低下する。機械の耐久性に比例して低下する。 【結論】 それでは、次のことが分かるであろう。多くの機械や耐久性のある資本が使用される以前の社会の初期の段階においては、同じ量の資本で生産された商品はほぼ同じ価値を有するであろう。そして、そうした商品の生産に必要とされる労働量が多いか少ないかということによってのみ、商品の価値は相対的に高 くなったり低くなったりするであろう。しかし、これらの高価で耐久性のある道具の導入以降は、同じ量の資本を用いて生産した商品が、非常に違う価値を持つであろう。ただ、そういった商品の生産に必要な労働量が多くなったり少なくなったりするのに応じて、それらの相対価値はなお上がったり下がったりしがちではあるが、それらはもう一つの変動を被るであろう。もう一つの変動とは、小さな変動ではあるが、賃金や利潤が上昇したり低下したりすることからも生じる変動である。 5000ポンドで売られる商品は、10000ポンドで売られる他の商品を生産した資本と同じ大きさの資本で生産されるかもしれないので、そうであればそれらの製造業者の利潤は同じになるであろう。しかし、もし、それらの商品の価格が、利潤率の上昇や低下によって変わることがなかったなら、彼らの利潤は同じではなくなるであろう。 如何なる種類の生産であっても、そこで用いられる資本の耐久度に応じて、そうした耐久性のある資本が用いられるそうした商品の相対価格は、賃金とは反比例して変動するようにも見える。そうした商品の相対価格は、賃金が上がれば下がり、賃金が下がれば上がるであろう。これとは反対に、固定資本を余り用いず主に労働によって生産された商品や、価格が評価される仲介物に比べてより耐久性のない固定資本を用いて生産された商品の相対価格は、賃金が上がれば上がり、賃金が下がれば下がるであろう。 |
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■第6節 | |||||||||||||||||||
価値の変化しない価値尺度について
【不変の価値尺度】 商品の相対価値が変動したとき、いずれの商品の真実の価値が低下し、いずれの商品が上昇したのかを確認する手段を有することが望まれるであろう。そして、それは、他の商品が晒されている如何なる変動の影響もそれ自身は受けることのない、価値の変わることのない何らかの価値の標準尺度と一つ一つ比較することによってのみ可能であろう。しかし、そうした尺度を持つことは不可能である。何故ならば、価値が確認されようとする対象物が晒される同じ変動にそれ自身が晒されることのない商品など存在しないからである。つまり、その生産のために必要な労働量が多くなったり少なくなったりすることのないものはない。 【次善の策】 しかし、もしこの仲介物の価値の変動の原因が除去されることができれば―例えばもし、我々のお金の生産には常に同じ量の労働が必要とされるということがあり得るとしたら―しかし、それでもなおそれは、完全な価値の標準物、即ち価値が変わることのない価値の尺度になることはないであろう。何故ならば、既に説明に努めてきたように、その生産に必要な固定資本と、我々が価値の変動について確かめたいと思う商品の生産に必要な固定資本の割合が違うために、それも賃金の上昇や低下による相対価値の変動を被ると思われるからである。それはまた同じ理由から、つまり、それを生産するために用いられる固定資本と、それと比べられる商品の生産のために用いられる固定資本の耐久性の程度が違うために、或いは一方のものを市場に持ち込むのに必要な時間が、その価値の変動が確かめられようとする他の商品を市場に持ち込むのに必要な時間と比べて長いか短いかということのために、それは変動を被るかもしれない。そうした事情があるために、考えることのできる如何なる商品であっても、完全に正確な価値の尺度になることはできない。 【金と標準物】 例えば、仮に我々が金を標準物として決めたとしても、それは他の商品と同じように偶発的な出来事の下で手に入れられる、そしてそれを生産するには労働と固定資本を必要とする商品に過ぎないことは明らかである。他の全ての商品と同様、労働の節約がその生産にも起こるかもしれないので、その結果それを生産することが容易になったというそれだけの理由で、他の品々と比べた相 対価値の低下が起こるかもしれない。 仮に、この変動の原因が取り除かれたとし、同じ量の金を手に入れるのには常に同じ量の労働が必要であると我々が仮定しても、それでも金は、他の全ての品々の価値の変動を正確に測定する完全な価値の尺度になることはないであろう。何故ならば、金は他の品々と全く同じような固定資本と流動資本の組み合わせによって生産されることもなければ、同じ耐久度の固定資本によって生産されることもないであろうし、金を市場に持ち込むのに必要な時間の長さも全く同じという訳でもないからだ。 それは、それ自身と全く同じ条件で生産された品々に対しては完全な価値尺度であろうが、それ以外のものに対してはそうではないであろう。例えば、もしそれが、布地と綿製品を生産するのに必要であると我々が仮定した同じ条件で生産されたとしたら、それらの品々に対しては完全な尺度になるであろうが、しかし、穀物、石炭、及び他のより少ない固定資本を用いて生産される品々やより多い固定資本を用いて生産される品々に対しては完全な尺度にはならないであろう。何故ならば、既に示したように恒久的な利潤率に変動が起きる度に、これらの商品の生産に必要な労働量とは関係なく、これらの商品の全ての相対価値に何らかの影響を及ぼすと思われるからである。 |
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【価値の標準尺度に近似するもの】
仮に金が穀物と同じ条件で生産されたとしたら、そしてそうした条件が決して変わらなかったとしても、金は同じ理由によって常に布地と綿製品の完全な価値尺度ではないであろう。それでは、金も、またそれ以外の如何なる商品も、全ての品々に対する完全な価値尺度にはなり得ない。しかし、利潤率の変動の商品の相対価値に与える影響は、比較的軽微であることは既に述べたところである。また、最も大きい影響は、生産に必要な労働量が変動することによって引き起こされることも既に述べたところである。従って、この価値変動の重大な原因が金の生産から取り除かれると仮定すれば、我々は恐らく理論的に考え得る、価値の標準尺度に最も近いものを保有することになろう。 金は、たいていの商品の生産に用いられた平均的な資本の量に最も近い、2つの種類の資本の組み合わせによって生産される商品であるとみなすことは許されないのか?こうした資本の組み合わせは、2つの極端なケース、一方は殆ど固定資本を用いないもの、そしてもう一方は殆ど労働を用いないものとほぼ等距離の関係にあって、それらの中間値とみなすことは許されないのか? それでは、もし私が不変の標準物にほぼ近いある標準物を保有していると仮定してよければ、それによるメリットは、どんな場合であっても価格や価値がそれによって評価される仲介物の価値の変動の可能性について煩わされることなく、他の品々の価値の変動について話ができるようになることである。 それでは、私は、金によってできているお金が、他の品々のたいていの価値の変動を被ることを十分認めるところであるが、この研究の目的を促進するために、金は価値が不変のものであって、従って全ての価格の変動は、私が話をしている商品の価値に変動が起きたことによって引き起こされたものであると私は仮定することとする。 【賃金の上昇の影響】 この主題を終える前に、アダムスミスと彼に従った全ての著述家たちが、私の知る限りでは1人の例外もなく、労働の価格の上昇は、常に全ての商品価格の上昇を伴うこととなると主張したと述べておくことが適切であろう。そのような意見は何の根拠もないことを証明できたと私は思う。また、賃金が上昇したときには、価格を評価する仲介物に比べ少ない固定資本を用いて生産された商品しか価格が上がらないであろうということ、そして固定資本を多く用いて生産された商品は、価格が確実に下がるであろうということを証明できたと思う。それとは反対に、賃金が低下したら、価格を評価する仲介物に比べ少ない固定資本を用いて生産された商品しか価格が下がらないであろう。より多くの固定資本を用いた商品は全て、確実に価格が上がるであろう。 【絶対的労働量と価格の関係】 一方の商品は、その費用が1000ポンドになるほどの労働をそれに投じ、そして他方の商品は、その費用が2000ポンドになるほどの労働を投じたからと言って、その結果一方の商品の価値が1000ポンドになり、他の商品の価値が2000ポンドになると私が言っているのではないことについても一言言っておくことが必要であろう。そうではなく、私が言ったのは、それらの商品の価値は互いに1対2になるであろう、そして、それらの商品はその比率で交換されるであろうということである。こうした商品の一方が1100ポンドで売られ、他方が2200ポンドで売られること、或いは一方が1500ポンドであり、他方が3000ポンドであることは、この教義の真実性にとっては何の重要性もない。その問題に対しては、ここでは立ち入らない。それらの相対価値は、それらの生産に投じられた相対的労働量によって規定されるとだけ確認しておこう。 |
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(注)この教義に関してマルサス氏は、次のようにコメントする。「我々は実際、商品に用いられた労働を、思いのとおりにその真実の価値であると呼ぶことができる。しかし、そうすることで我々は、通常使われている意味とは違った意味で言葉を使うことになる。我々は直ぐに、費用と価値の非常に重要な違いについて混同してしまう。そして、富の生産に対する主要な刺激策について明快に説明することがほぼ不可能になってしまう。その刺激策は、まさにこの相違にかかっているのだ」
マルサス氏は、物の費用と物の価値が同じものである筈だというのが私の教義の一部であると考えているように見える。彼の言う費用というのが、利潤を含んだ「生産コスト」であれば、それはそのとおりである。しかし、上の一節では、これは彼の意味するところではない。従って、彼は私のことを明確に理解している訳ではない。 |
■第7節 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
価格が常にそれによって表現される、仲介物であるお金の価値の変動から生じる結果と、お金が購入する商品の価値の変動から生じる結果の違い
【お金の価値の変動】 既に説明したように、私は、他の品々の価値の相対的変動の原因をはっきりと指摘するために、お金を価値が不変のものであるとみなす必要があるが、私が既に注意を向けた原因、つまりそれらを生産するために必要な労働量の変化によって引き起こされる商品の価格の変動と、お金それ自体の価値の変動によって引き起こされる商品の価格の変動とのそれぞれから生じる異なる結果に言及することは有益であろう。 お金は価値が変動する商品であるので、貨幣賃金の上昇はしばしばお金の価値の低下によって引き起こされるであろう。この原因によって生じる賃金の上昇は、実際常に商品の価格の上昇を伴うであろう。しかし、そうしたケースにおいては、労働と全ての商品の関係が変わることはなく、変動はお金に限られていることが分かるであろう。 【お金の価値の変動原因】 お金は、外国から手に入れられる商品であるので、そして全ての文明国家において一般的な交換の仲介物となっているので、そしてまた商業と機械の改良が起こる度に、或いは増え行く人口に対する食料と必需品の入手が困難になる度に、異なった比率でそれらの国々に分配されるものでもあるので、絶えず変動を被る。交換価値と価格を規定する原理について述べる際、商品それ自体に属する変動と、価値や価格がそれによって表現される仲介物の変動によって引き起こされる変動の違いを注意深く区別すべきであろう。 【お金の価値の変動の影響】 お金の価値の変動から生じる賃金の上昇は、価格に対し一般的な効果を生み出す。そして、その同じ理由による賃金の上昇は、利潤に対しては真実の効果を何も生み出さない。その反対に、労働者の報酬がより多く支払われるという状況にあること、或いは賃金によって購入される必需品の調達が困難になることから生じる賃金の上昇は、ある場合を除いて価格の上昇という結果を生まない。そうではなく利潤を大きく低下させる効果を有する。一方のケースでは、その国の年間の労働のより大きな割合が、労働者の支援に対し振り向けられる訳ではない。他方のケースでは、より大きな割合が振り向けられる。 |
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【地代、利潤、および賃金の上昇】
我々が、地代、利潤、そして賃金の上昇や低下を判断するのは、何らかの特定の農場の土地の全生産物が地主、資本家、そして労働者という3つの階級にどのように分割されるかによってであり、明らかに価値が変動する仲介物によって評価される生産物の価値に応じて判断されるのではない。我々が利潤率、地代率、そして賃金率を正確に判断することができるのは、どの階級によって手に入れられる生産物の絶対量によってでもなく、その生産物を手に入れるのに必要な労働量によってである。 【具体例】 機械や農業技術の改良によって生産総額が倍増するかもしれない。しかし、もし賃金、地代、そして利潤も倍増すれば、これら3つは以前と同じようにお互いに同じ関係を保つであろう。そして、どれも相対的に変化したと言うことはできないであろう。しかし、賃金が、この増加分の全てについて分かち合うことがなかったならば、つまり賃金が2倍になるのではなく5割しか伸びなかったとしたら、そして地代が2倍になるのではなく7割5分しか伸びなかったとしたら、残りの増加分は全て利潤になっているので、私は、利潤は上昇する一方、地代と賃金は低下したと言うのが正しいと考える。というのも、もし我々がこの生産物の価値を計測する価値の変動しない標準物を持っていたとしたら、労働者と地主の階級に舞い込んできた価値は以前と比べ少なくなり、その一方で資本家階級に舞い込んできた価値は以前よりも多くなったことを知ることになるからである。 例えば、商品の絶対量が2倍になったが、それらは以前と全く同じ量の労働の生産物であると知るかも知れない。生産された100の帽子と上着と穀物が、もし次のように分配されたら‥ ・労働者が以前得た量25 ・地主が以前得た量25 ・資本家が以前得た量50 合計100 そして、これらの商品の量が2倍になった後、100毎に次のように分配されたら‥ ・労働者が得た割合22 ・地主が得た割合22 ・資本家が得た割合56 合計100 そのケースについて、私は賃金と地代は落ちて利潤は上がったと言うであろう。もっとも、商品の量が多くなった結果、労働者と地主に支払われた量は25から44への割合で増えているであろう。賃金は、それらの真実の価値、即ちそれらの商品を生産するのに用いられる労働と資本の量によって計測されるべきであり、上着にしろ、帽子にしろ、お金にしろ、或いは穀物にしろ、名目的価値によって計測されるべきではない。 私が正に想定したこうした状況では、商品の価値は以前の半分にまで低下しているだろう。そして、もしお金の価値が変わっていなければ、以前の価格の半分にまで低下していることにもなろう。それでは、もしこの価値の変わることのなかった仲介物によって労働者の賃金が低下していることが判明したら、それらの賃金は、かつての賃金以上に安い商品のより多くを労働者に供給することができるとしても、それでもなお賃金の真実の低下が起こったことになろう。 |
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【お金の価値の変動と利潤率】
お金の価値の変動は、その変動が如何に大きくても利潤率には何の違いも引き起こさない。というのも、製造業者の商品が1000ポンドから2000ポンドに、即ち100%上昇する場合、そして、もしお金の価値の変動が生産物の価値に与えたのと同じ大きさの影響をその価値に対しても与えられた資本が、つまり、彼の機械、建物、及び商売の在庫品も100%上昇するならば、彼の利潤率は同じになるからである。そして、彼はこの国の労働の生産物の同じ量を、そして同じ量だけを支配することになろう。 もし、一定の価値を有する資本を用いて、彼が労働の節約により生産量を2倍にすることができ、そしてその生産物が以前の半分の価格にまで下がる場合、生産物を生みだした資本に対するその生産物の価値は、以前と同じ割合を有するであろう。その結果、利潤はなお同じ率であろう。 もし、彼が同じ量の資本を用いて生産物の量を2倍にすると同時に、お金の価値が何らかの偶然により半分に低下したとすれば、その生産物はそれまでの2倍の貨幣価値で売られるであろう。しかし、それを生産するために用いられた資本もまた以前の貨幣価値の2倍となろう。従って、このケースにおいても生産物の価値は資本の価値に対して以前と同じ割合を有するであろう。そして、生産物は2倍になっても、地代、賃金、そして利潤は、この2倍になった生産物がそれを共有し合う3つの階級に分配される割合に応じて変動するだけであろう。 |
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■第2章 地代について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【地代と商品の価値の関係】
しかし、土地の私有化及びその結果としての地代の創造が、商品の生産に必要とされる労働量とは無関係に商品の相対価値に何からの変動をもたらすのかどうか、ということが残された検討課題となる。その主題(【注】価値)のこの部分(【注】地代の及ぼす影響)を理解するためには、我々は地代の性格、及び地代の上昇や低下を規定する法則について調べてみることが必要である。 【地代とは】 地代とは、大地の生産物の一部であって、土壌の本源的で不滅の力の使用に対し地主に支払われる分け前である。しかし、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同される。分かり易い言葉で言えば、農業者が彼の地主に対し毎年支払うものであればどんなものであってもその用語が適用される。もし、同じ広さで、同じ自然の肥沃度を持った2つの隣接する土地のうち、一方の土地が納屋の有する全ての利点を享受できる他に、排水や施肥が適切になされ、さらに垣根や柵や壁で利点が生まれるように区分されているのに、他方の土地にはこうした利点が何もなかったならば、一方の土地の使用に対しては他の土地の使用に比べて自然に多くの報酬が支払われるであろう。しかし、それでも両方のケースにおいてこの報酬は地代と呼ばれるであろう。 しかし、改良された農地に毎年支払われるお金の一部分だけが土壌の本源的で不滅の力に対して与えられるということは明らかである。それ以外の部分は土地の質の改良に用いられたり、土地の生産物の保管に必要な建物を建設するために用いられたりした資本の使用に対して支払われるであろう。 【森林の地代】 アダムスミスは、地代について私がその意味を限定したいと願うような厳密な意味で地代について論ずることもあるが、その用語が通常用いられる一般的な意味合いで使うことがさらに多い。彼は、南ヨーロッパ諸国の木材の需要、そしてその結果木材の価格が高くなったことが、かつては地代を支払う余裕のなかったノルウェーの森林に対しても地代を支払わせる原因となったと、我々に言う。 しかし、彼がこうして地代と呼ぶものを支払った人がその土地にそのときに立っていた価値ある商品のことを考えて、地代を支払ったことは明らかではないのか?また、彼はその木材を販売することによって、利潤をともなって実 際にそれに対する支払いを自分自身に対して行ったことは明らかではないのか?もし、実際木材が取り去られた後で、将来の需要に応えようとして樹木や他の物を植えるために、そのための土地の使用に対しその地主に何らかの補償が支払われたとすれば、そうした補償を正当にも地代と呼んでよかった。何故ならば、それは土地の生産力に対して支払われるものであるからだ。しかし、アダムスミスが述べたケースにおいては、補償は木材を取って販売する権利に対して支払われたのであって、木をそこに植える権利に対して支払われたのではない。彼はまた、石炭鉱山の地代と採石場の地代についても話をする。そして、それらに対しても同じ意見が当てはまる。即ち、鉱山や採石場に対して支払われる補償は、それらの場所から取り去ることのできる石炭や石の価値に対して支払われるのであって、土地の本源的で不滅の力とは関係がないのである。 【地代と利潤】 このことは、地代と利潤を考察する上での非常に重要な違いである。というのは、地代の先行きを規定する法則は、利潤の先行きを規定する法則とは大きく異なり、同じ方向に作用することは滅多にないことが分かっているからである。全ての進歩を遂げた国家においては、毎年地主に支払われるものは地代と利潤の双方の性格を帯びているから、反対に作用する原因の効果によって変わらない状態が続くことも多い。また、あるときにはこうした原因の一方が、或いは他方がより重みを増すことによって前進したり後退したりする。そこで、この書物のこれから先において私が土地の地代について話をするときには、土地の本源的で不滅の力の使用に対して地主に支払われる補償のことについて私は話していると理解して欲しい。 【地代の発生】 豊かで肥えた土地が豊富に存在する国に最初に入植するときには、実際の人口を養うために耕作する必要のある土地は、それらのほんの一部に過ぎないであろう。或いは、実際そうした人々の有する資本を用いて耕作することのできる土地はほんの一部であろう。このために地代は存在しないであろう。というのも、まだ私有化されていない土地が豊富に存在し、従って誰もが耕作する土地を自由に選ぶことができるときには、土地の使用に対しお金を支払おうとする者など誰もいないからである。 供給と需要の共通の原理によって、そうした土地に対して地代が支払われることはあり得ないだろう。その理由は、何故空気と水の使用に対し、或いは無限に存在する自然の恵みに対して何も支払われないのかという理由と同じである。一定量の原料があり、そして大気の圧力や蒸気の力の助けがあればエンジ ンは仕事をするであろうし、そうすれば人間の労働を大幅に削減するだろう。しかし、こうした自然の助けに対して課金がなされることはない。何故なれば、それらは無尽蔵にあり、全ての人の自由になるからだ。同様にして、ビール醸造業者や蒸留酒業者及び染め物業者は、彼らの商品の生産のために絶え間なく空気と水を使用している。しかし、水と空気の供給は限りがなく、価格はない。 |
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(注)「我々が既にみてきたように、大地は、それだけが生産力を有する自然の力ではない。しかし、大地は、一団の人間たちがそれを排他的に自分たちのものにすることできる唯一の、或いはほぼ唯一の力である。その結果、その者たちは大地の利益を自分たちのものにすることができる。川の水及び海の水は我々の機械を動かし、我々の船を運搬し、そして我々の魚を養う力を有することによって、生産する力も有しているのである。風車を回す風、或いは太陽の熱でさえ我々のために働いてくれる。しかし、幸いなことに『風と太陽は私のものであり、それらが提供するサービスに対してはお金を支払わなければならない』と言うことのできる者はまだいない」「政治経済学」J.B.セー第2巻P.124 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
もし、全ての土地が同じ性質を有していたとしたら、もし量に限りがなかったとしたら、そして土地の質が全て均一であったとしたら、それが特に有利な場所に存在するのでない限り、土地の使用に対し料金を請求することはできないであろう。それでは、土地の使用に対して地代が支払われるのは、ただ土地の量に限りがあるからであり、また土地の質が均一ではないからである。そしてまた、ただ人口の増加に伴いより質の劣った土地、或いはより不便な場所にある土地が耕作に供されるからである。
社会が進歩するなかで2番目に肥沃な土地が耕作に供されるとき、1番目の土地に直ちに地代が発生する。そして、地代の額はこれらの2つの土地の質の違いに依存することとなる。 3番目の質の土地が耕作に供されると、2番目の土地に直ちに地代が発生する。そして、以前と同様にこうした土地の生産力の違いによって地代は規定される。同時に、1番目の質の土地の地代は上昇するであろう。というのは、1番目の質の土地の地代は、一定量の資本と労働を用いて産出した生産物の差額の分だけ常に2番目の土地の地代を上回らなければならないからである。人口が増加する度に国は食料の供給量を増やすことができるようにするため、より質の劣る土地に頼らなければならないようになり、より肥沃な全ての土地の地代が上昇するであろう。 |
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【具体例】
そこで、No.1、2、3の土地が同じ量の資本と労働を用いて、純生産物として100、90、そして80クォーターの穀物を生産すると仮定しよう。人口に比べ肥沃な土地が豊富に存在し、従ってNo.1の土地しか耕作する必要のない新しい国では、全ての純生産物はその耕作者に帰属するであろう。そして、それは彼が前払いした資本の利潤となるであろう。 No2を耕作する必要が生じるほど人口が増加するや否や―No2からは、労働者に賃金を支払った後、90クォーターの穀物しか得ることができないが―地代はNo.1に直ちに発生するであろう。というのも、そうでなければ農業の資本に2つの利潤率が存在しなければならなくなるか、または10クォーター、或いは10クォーターの価値がNo.1の生産物から他の何らかの目的のために引き抜かれなければならないかのいずれかになるからである。土地の所有者がNo.1の土地を耕作しようと、或いはそれ以外の誰かがそれを耕作しようと、この10クォーターは等しく地代を構成するであろう。というのも、No.2の耕作者は同じ資本を用いて、10クォーターの地代を支払ってNo.1を耕作しようと、或いは地代を支払わないでNo.2を耕作し続けようと、同じ結果を得ることになるからである。同様に、No.3が耕作に供されるときには、No.2の地代は10クォーター、即ち10クォーターの価値でなければならないことが示されるであろう。その一方で、No.1の地代は20クォーターに上がるであろう。というのも、No.3の耕作者は彼がNo.1の地代に20クォーターを支払おうと、或いはNo.2の地代に10クォーターを支払おうと、或いはまた地代を支払わずにNo.3を耕作しようと、同じ利潤を得ることになるからである。 |
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【解説】
ここで言われている、100、90、80クォーターの生産物は、純生産物としてのものである。従って、労働者に賃金(生産物)を支払った後に残った生産物を意味する。 <図> (賃金)(利潤)(地代) No.1■■■■■■■■■■□□□□□□□□■■純生産物100 No.2■■■■■■■■■■□□□□□□□□■純生産物90 No.3■■■■■■■■■■□□□□□□□□純生産物80 |
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【同じ土地への資本の追加】
No.2、3、4、5という、即ち質の悪い土地が耕作される前に、資本は、既に耕作がなされている土地でより生産的に用いることができるということがしばしば、そして事実普通に起こる。No.1に当初用いられた資本を2倍にすることによって生産物が2倍にならなくても、つまり生産物が100クォーター増えなくても、しかし生産物は85クォーター増えるかもしれないということが多分分かるであろう。また、この生産量は同じ資本をNo.3に投下することによって得ることのできる生産量を上回るということが分かるだろう。 そのような場合、資本は好んで古い土地の用いられることになり、そして、等しく地代を創造するであろう。というのも、地代は常に2つの等しい量の資本と労働を用いて得られる生産物の差額であるからだ。もし、ある借地人が1000ポンドの資本を用いてその土地から100クォーターの小麦を得、また彼が第2番目の1000ポンドの資本を用いて85クォーターの小麦を得るならば、彼の地主は借地期間の満了時に借地人に対し15クォーター、或いはそれに等しい価値を追加の地代として支払わせる権利を有するであろう。というのも、利潤率が2つあるということはあり得ないからである。もし、彼が2番目の1000ポンドの資本に対する収益が15クォーター減少することを我慢するとすれば、それは、それを上回る利潤を挙げることのできる投資先がないからである。共通の利潤率はそうした割合になるであろう。そして、もし当初の借地人が拒否したとすれば、他の誰かがその土地の所有者に対し、その利潤率を上回る部分の全てを喜んで支払うことが分かるであろう。 他のケースと同じようにこのケースにおいても、最後に用いられた資本は地代を支払うことはない。最初の1000ポンドの資本のより大きな生産力に対して地代として15クォーターが支払われ、そして2番目の1000ポンドの資本に対しては如何なる地代も支払われない。もし、3番目の1000ポンドの資本が同じ土地に投下され、そして75クォーターの収益があれば、そのときには2番目の1000ポンドに対し地代が支払われるであろう。そして、その地代はこれらの2つの生産物の差額に等しい、つまり10クォーターになるであろう。同時に最初の1000ポンドの資本にかかる地代は15クォーターから25クォーターに上昇するであろう。一方、最後の1000ポンドは如何なる地代も支払わないであろう。 |
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【解説】
我々が地代を想像するときには、殆どの人が一定の面積に対する地代を想像すると思う。それは、土地の価格について、1坪とか1平米当たりの価格を考えるのと同じようなものである。しかし、リカードが地代というときには、それは一定面積当たりの地代を言うのではなく、一定の資本を用いた場合の地代を指している。従って、比較の対象となる土地の面積がどれほど違っても構わないのである。さらに言えば、同じ土地に資本を追加投資した場合についても、土地の賃貸期間が更新される場合には、新たな地代が発生すると考えるのである。 |
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【肥沃な土地が豊富に存在する場合】
それでは、もし良質の土地が、増大する人口を支えるための食料の生産が必要とするものより豊富に存在したとすれば、或いは収益を低下させることなく古い土地に限りなく資本を投下し続けることができたとすれば、地代が上がるということはあり得ないであろう。というのも、地代は、労働を追加することによってそれに応じて収益が少なくなることから常に発生するからである。 最も肥沃で、最も立地条件がいい土地が最初に耕作されるであろう。そして、その生産物の交換価値は、他の全ての商品の交換価値と同じように、それを生産して市場に持ち込むのに必要な、最初から最後までの様々な形での労働の総合計量によって調整されるであろう。質の劣る土地が耕作に供されると、原生産物の交換価値は上がるであろう。何故ならばそれを生産するためにより多くの労働が必要となるからである。 【商品の交換価値を決めるもの】 全ての商品の交換価値は、それらが製造品であろうと、或いは鉱山の生産物であろうと、或いはまた土地の生産物であろうと、非常に好ましい、かつ専ら特殊な生産能力を有する人々が享受する条件の下での生産にとって十分な、少ない労働量によって規定されるのではなく、そうではなくそうした能力を何も有しない人々によって生産に必ず投じられるより多い労働量によって常に規定されるのである。最も不利な条件下でそれらを生産し続ける人々によって投入されるより大量の労働量によって規定される。ここで最も不利な条件ということが意味するのは、必要とされる生産量が、生産の続行を必然のものとする最も不利な条件ということである。 【慈善制度】 こうして、貧乏な人たちが慈善家の基金によって仕事を与えられるという慈善金の制度においては、そうした仕事の生産物である商品の一般的価格は、こうした労働者に対して与えられた特別の便宜によって規定されるのではなく、他の全ての製造業者たちが遭遇する普通の、そして自然な困難さによって規定されるであろう。こうした便宜を何も享受することのない製造業者たちは、仮にこうして援助を受けた労働者たちによって提供される供給物がその社会の全 ての不足分に等しいとすれば、市場から全く追い出されてしまうかもしれない。しかし、もし、その人が商売を続けたとすれば、それは、ただ彼がその商売から資本の通常の、そして一般的利潤率を得ている場合だけであろう。そして、そうした状態になるのは、生産に用いられた労働量に比例した価格で彼の商品が売れるときだけである。 |
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(注)セー氏は次の一節において、究極的に価格を規定するのは、生産コストであるということを忘れているのではないのか?「土地に用いられた労働の生産物はこの特別な性格を有する。つまり、量が少なくなるからと言ってその生産物が高くなる訳ではない。何故ならば、食料が少なくなると同時に人口が常に減少するので、その結果要求されるこうした生産物の量は、供給量が減少するのと同時に減少するからである。その他に、穀物の価格は土地が完全に耕作されている国に比べ、沢山の未耕作地が残っている所において高いということは観察されていない。英国とフランスは、今と比べれば中世時代においては遥かに不完全にしか耕作されていなかった。人々はそのときには今より遥かに少ない量の原生産物しか生産していなかった。しかし、それにも拘らず、他の品物の価値と比較すれば穀物は高い価格で売られてはいなかったと判断できる。もし、生産物の量が少なかったとすれば、人口も少なかったのである。需要の弱さが供給力の弱さを補っていたのである」(第2巻、338)商品の価格は労働の価格により規定されるという意見に感銘を受け、そして全ての種類の慈善金の制度は、そうした制度がない場合よりも人口を増やす傾向があり、従って賃金を引き下げる傾向があると正当にも想定しているセー氏は次のように言う。「英国から来る商品の価格の安さは、その国に存在する無数の慈善金の制度によって一部はもたらされたのではないか、と思う」(第2巻、277)これは、賃金が価格を規定すると主張する人々の一貫した意見である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【最も肥沃な土地で起きること】
最良の土地では、確かに以前と同じ量の労働を用いて、なお以前と同じ量の生産物が得られるであろう。しかし、その生産物の価値は、新たな労働と資本をより肥沃でない土地に投じた者たちが得る収益が減少する結果、引き上げられるであろう。それでは、肥沃な土地が有する劣った土地に対する優位性は決して失われはしないし、その優位性は耕作者や消費者から地主に移転されるだけであるが、それにも拘わらず、質の劣った土地にはより多くの労働が必要となるので、また我々が原生産物を我々に追加供給できるのは、そうした劣った土地からだけであるので、その生産物の相対価値は以前の水準よりも恒久的に上回り続けるであろう。そしてまた、生産のための追加の労働が必要とはなっていない帽子、布地、及び靴などのより多くと交換されるであろう。 【原生産物の相対価値が上がる理由】 それでは、原生産物の相対価値が上がる理由は、獲得された最後の生産物の生産により多くの労働が用いられるからであり、地主に地代が支払われるからではない。穀物の価値は、生産のために地代を支払わない質の土地に投入される労働の量、或いは地代を支払わない資本部分とともに投入される労働の量によって規定される。穀物の価格は、地代を支払うから高いのではなく、穀物の価格が高いから地代が支払われるのである。仮に地主たちが地代の全てを放棄したとしても、穀物の価格は下がらないであろうと正当にも言われてきた。そうした措置を講じても、何人かの農業者を紳士のように生活させることができるだけであって、耕作されている土地のなかで最も生産力のない土地において原生産物を生産するのに必要とされる労働量を減少させることはないであろう。 【土地の優位性と地代】 土地という生産源が、有益な商品を生産する他の全ての生産源に比べて有する優越性について聞くことほどありふれたことはない。土地が地代という形で生みだす余剰物のためだ、というのである。しかし、土地が最も豊富に存在し、最も生産力を有し、そして最も肥沃であるとき、土地は地代を生まない。より肥沃な土地の最初の生産物の一部分が地代として切り離されるのは、土地の生産力が落ち、労働に対する報酬として生産されるものが少なくなるときにのみ起きるのである。製造業者たちが助けられる自然の作用に比べれば全く不完全なものであることに気が付くべきであったこの土地の性質が、特別に優れた点として指摘されてきていることは奇妙なことである。 【自然の恵みと土地】 仮に、空気、水、蒸気の弾性、そして大気の圧力が、その質において大きな違いがあったとし、そして、それらが誰かの手に渡ることがあったとし、かつそれぞれの質のものが控え目な量だけ存在したとしたら、それらは連続する質のものが次々に利用に供されるに従い、土地と同じように地代を生むであろう。より質の劣るものが用いられる度にそうしたものを使って作られる製造品の価値は上昇するであろう。何故ならば、同じ量の労働の生産力は落ちていくからである。人は額に汗してより働くようになり、自然はより働かなくなるであろう。そして、土地は、生産力が限られているということで、もはや傑出したものではなくなるであろう。 【土地と機械】 もし、土地が地代という形で与える余剰物が優れたものであるというのであれば、毎年新たに建造される機械は、古い機械よりも能率を悪くすることが望まれる。というのも、そうなれば、製造された商品にその機械だけではなく王国中の他の全ての機械によってより大きな交換価値が間違いなく与えられるからである。そうなれば、最も生産力の高い機械を保有する者たち全てに対しレントが支払われるであろう。 |
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(注)アダムスミスは言う。「農業においても、自然は人と一緒に働く。そして、自然の労働には経費はかからないが、その生産物は、賃金が最も高い熟練工の生産物と同じように価値を有する」自然の労働は、自然がなすことが多いからではなく自然がなすことが少ないから対価が支払われる。自然が贈り物に対してけちになるのに比例して、その仕事に対してより大きな代価を課す。自然は寛大で恵み深いときには常に無償で働く。「農業に用いられる役牛は、製造業に用いられる労働者と同様に、自ら消費するもの、即ちそれらを用いた資本と等しい価値の再生産を、その資本の所有者の利潤を伴って引き起こすだけでなく、それ以上の価値の再生産を引き起こす。牛たちは、農業者の資本とその全ての利潤に加えて、規則正しく地主の地代の再生産を引き起こす。この地代は、地主がその農業者に使用権を貸与した自然の生産力の産物とみなされるかもしれない。地代は、そうした想定される生産力の大きさに応じて大きかったり小さかったりする。換言すれば、想定される土地の自然の、或いは改良された肥沃度に応じて、ということになる。人間が行ったとみなされる仕事に対する補償がなされた後に残るものは、自然が行?た成果なのである。それは全体の1/4よりも少ないことは滅多になく、1/3を超えることがしばしばである。製造業に同じ量の生産的労働を投入しても、これほどの再生産を引き起こすことができるものはない。製造業では自然は何もせず人が全てを行う。そして、再生産の量は、それを引き起こす自然の作用の力の大きさに常に比例するに違いない。従って、農業に用いられる資本は、製造業に用いられる同じ量の如何なる資本に比べても、生産に関わるより多くの労働を稼働させるだけでなく、それが雇用する生産に関わる労働の量に比例して、その国の土地と労働の年間の生産物に対しより大きな価値も追加し、さらに、住民たちの真実の富と収入に対しより大きな価値を追加する。資本の全ての用いられ方のなかで、それが社会にとって最も有利な用いられ方なのである」第2編第5章P.15
製造業においては、自然は人間のために何もしないのか?我々の機械を動かし、航海の助けになる風と水の力は、何でもないのか?最も目を見張るべきエンジンを我々が作動させることができるようにする大気の圧力と水蒸気の弾性は、自然の恵みではないのか?金属を柔らかくしたり溶かしたりする熱の効果や染色や発酵の過程における大気の分解の作用の効果については言うまでもない。自然が人間の支援をしない、しかも気前よく、無償で支援をしないと言うことができる製造業など存在しない。 アダムスミスの書物から私が写し取った一節に対し、意見を述べる形でビュキャナン氏は次のように言う。「第4編に収められた生産に関わる労働と生産に関わらない労働に関する見解のなかで、私は、農業が他の種類の産業以上に、国の資本を増大させることはないということを示そうと努めてきた。スミス博士は、地代の再生産が社会にとってそれほど有利であると長々と話すなかで、地代が、価格が高いことの結果であるとは考えない、また地主がこうして手に入れるものは、社会全体の犠牲の上に手に入れられるとも考えない。地代の再生産によって社会が得る絶対的な利益など何もない。他の階級の犠牲の上に、ある階級だけが利益を得るのである。自然が人間の勤労とともに一致して耕作に取り組むので、農業は生産物を生み出すとともにその結果として地代を生み出す、という考えは単なる空想に過ぎない。地代が生み出されるのは、生産物からではなくその生産物が売られる価格からである。そして、この価格は、自然がその生産を助けるからそうした価格がつくのではなく、その価格で消費を供給と一致させるから付くのである」 |
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【地代の上昇】
地代の上昇は、常にその国の富が増加する結果であり、またその増大した人口に対し食料を供給することが困難になる結果である。地代の上昇は富の兆候ではあるが、決して富の原因ではない。というのも、富はしばしば、地代が変わらないか低下してさえいるときにも急速に増加するからである。自由に使うことのできる土地の生産力が低下するとき、地代は急上昇する。自由に使える土地が最も肥沃であり、そして輸入が最も制限されておらず、そして農業技術の進歩により生産量をそれに見合って労働を増やすことなしに何倍にでも増やすことができ、その結果地代の上昇が緩やかである国々において富は最も急速に増加する。 もし、穀物の価格が高いことが地代の結果であり、地代の原因でなかったとすれば、地代が高いか低いかに応じて価格は影響を受けるであろう。そして、地代は価格の構成要素となろう。しかし、最大の量の労働によって生産された穀物が、穀物の価格の規定者となる。そして、地代は、穀物の価格の構成要素として少しも入り込むことはないし、入り込めない。 (注)この原理を明確に理解することが、政治経済学という学問にとって最も重要なことであると、私は確信している。 |
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【結論】
従って、アダムスミスが、商品の交換価値を規定した元々の尺度、つまりそれらの商品が生産されるために用いられる相対的労働量が、土地の私有化と地代の支払いによって全く変更されることがあり得ると想定することが正しい筈がない。原料は、殆どの商品の構成物として入り込んでいるが、穀物と同じように原生産物の価値は、土地に最後に投下され、そして地代を支払うことのない資本の生産性により規定される。従って、地代は商品の価格の構成要素ではない。 我々はここまで、そこに存在する土地が様々な生産力を持つ国の、富と人口の自然な増加が地代に及ぼす効果について検討してきた。そして、我々は、収穫量の少ない土地に対し追加の資本を投下することが必要となる度に、地代が上昇することを知った。その同じ原理から次のようなことが言える。土地に対し同じ量の資本を投下する必要性をなくし、従って最後に投下された資本の生産力を引き上げるような如何なる社会状況の変化も、地代を引き下げるであろう。 |
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【解説】
we have seen that with every portion of additional capital which it becomes necessary to employ on the land with a less productive return rent would rise. この英文に次の訳が与えられた。「吾々は土地に追加資本を投ずることが必要となって来ると、この投下される追加資本の追加分毎に生産収益が逓減するので、地代が上騰するであろうということを見た」(竹内謙二訳) 訳者の言いたいことも分からないではないが、原文以上のことを言っているのではないだろうか?つまり、土地に追加資本を投ずることが必要になったときに、必ず収穫の減少が起きるかのように訳者は言うが、リカードはそこまで言ってはいない。リカードは「収穫量の少ない土地に追加の資本を投下することが必要となる度に‥」と言っているだけなのである。 |
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【資本の増減と人口】
労働維持のための基金を大きく減少させる国の資本の大きな減少も、当然この効果を有するであろう。人口は、人々を雇用する基金によって自らを規定する。従って、資本の増加及び減少によって常に増加したり或いは減少したりする。従って、資本の減少が起きる度に必ず穀物に対する有効需要が少なくなり、価格も下がり、そして耕作地も減少する。資本の蓄積が地代を引き上げるのとは反対の理屈で、資本の減少は地代を引き下げるものである。より生産力の乏しい土地が次々に手放され、生産物の交換価値は低下するであろう。そして、優れた質の土地が最後に耕作される土地になり、その土地はそのときに地代を支払わないであろう。 【農業の進歩と地代】 しかし、一国の富と人口が増加するときに、もしそうした増加が起きても、より痩せた土地を耕作したり、或いはもっと肥沃な土地の耕作に対し同じ額の資本を支出したりする必要性を少なくする顕著な農業技術の改良が伴えば、同じ結果が生まれるかもしれない。 仮に、ある一定の人口を養うために百万クォーターの穀物が必要であり、そしてその穀物がNo.1、2、3の質の農地で生産されるなら、また仮に、その後No.3を用いることなくNo.1とNo.2の土地だけでその必要な穀物が生産できる技術が発見されるとしたら、直ちに地代の低下が起こるに違いない。というのも、そのときにはNo.3ではなくNo.2が地代を支払うことなく耕作されることになるからだ。そして、No.1の地代は、No.3とNo.1の生産物の差額ではなくNo.2とNo.1の生産物の差額にしかならないであろう。人口が同じであり、増えることがないのであれば、穀物に対する追加の需要が起こる筈がない。No.3に投下されていた資本と労働は、社会にとって望まれる他の商品の生産に向けられるであろう。そして、そうした商品の原材料が、より不利な条件で資本を土地に投下することなしには手に入れることができないということがない限り、地代を引き上げる効果はあり得ない。原材料がより不利な条件でしか手に入れることができない場合には、再びNo.3が耕作されなければならない。 【資本の蓄積】 農業技術の改良の結果、或いはむしろ生産のために投入する労働量が減少する結果と言うべきかもしれないが、そうした結果原生産物の相対価格の低下が起こるならば、自然に資本の蓄積量が増加するというのは疑いもなく正しい。というのも、資本の利潤が大いに増大することになるからである。この資本の蓄積は労働に対する需要の増加を引き起こし、賃金を引き上げ、そして人口を増加させ、さらに原生産物に対する需要を増やし耕作地を増加させる。しかし、地代がかつてと同じ高さになるのは、人口の増加があってからのことである。即ち、No.3が耕作に供された後のことである。相当の時間が経過しているであろうし、地代も確実に減少しているであろう。 【農業の進歩】 しかし、農業の改良には2つの種類がある。土地の生産力を増加させるものと、機械を改良してより少ない労働で我々がその生産物を手に入れることを可能にさせるものとである。それらは2つとも原生産物の価格を低下させる。それらは2つとも地代に影響を与えるが、その影響は同じようなものではない。もし、それらが原生産物の価格を低下させなかったならば、それは改良にはならないであろう。というのも、かつて商品の生産に必要とされた労働量を減らすことが、改良と呼ばれるための必要不可欠の特長であるからだ。そして、こうした労働量の減少は、その商品の価格、或いは相対価値を低下させずに起こることはあり得ない。 【生産力を引き上げる改良】 土地の生産力を引き上げる改良とは、例えばより上手な輪作や、上手な肥料の選択などである。こうした改良が起これば、今までと同じ量の生産物をより狭い農地から得ることが絶対にできるようになる。もしカブを使用した農法の導入によって私が穀物を生産する他に羊の飼育ができるのであれば、かつて羊が飼われていた土地は不要になり、より少量の農地で同じ量の原生産物が生産されることになる。もし、1枚の農地で20%多い穀物の生産を可能にする肥料を私が発見するならば、私は、私の農場の最も生産力が乏しい農地から少なくても資本の一部を引き上げるだろう。 【資本の引き抜き】 しかし、既に述べたとおり地代を減少させるためには、土地が耕作されなくなることが必要な訳ではない。この結果を生むためには、同じ土地に連続して資本が投下され、それらが違う結果を生み、そして最も収穫が少ない資本をそこから引き抜くだけで十分である。もし、カブ栽培法の導入により、或いはもっと強力な肥料を使用することにより、より少ない資本で同じ結果を得ることができるのであれば、そして連続して投入された資本の生産力の差額を攪乱させることがないのであれば、私は地代を引き下げるであろう。というのも、今までと違ったより生産力の高い資本部分が、他の全てのものが評価される新しい基準になるからである。 |
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【具体例】
例えば、もし連続する資本が100、90、80、70を生産したのであれば、私が、これら4つの資本を用いる限り、私の地代は60となるであろう。それは、次の差額になるからだ。 ・70と100の差額=30その生産物100 ・70と90の差額=20その生産物90 ・70と80の差額=10その生産物80 ・ その生産物70 合計60合計340 (地代は60である一方、生産高は340となろう) そして、私がこうした資本を投下する限り、それぞれの資本の生産物が等しい額だけ増加しても地代は同じであり続けるであろう。もし、100、90、80、70の代わりに生産量が125、115、105、95に増加したとしても、地代はなお60のままであろう。それは次のような差額になるからだ。 ・95と125の差額=30その生産物125 ・95と115の差額=20その生産物115 ・95と105の差額=10その生産物105 ・ その生産物95 合計60合計440 (地代は60である一方、生産高は440に増えるであろう) しかし、そのように生産物が増加しても、需要が増加しなければ、それほど多くの資本を土地に投下する動機はあり得ないであろう。 |
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(注)私は、農業におけるあらゆる種類の改良の、地主にとっての重要性を私が過小に評価していると思われたくない。それらが直ちに引き起こす効果は、地代を引き下げることである。しかし、そうした改良は人口に対し大いに刺激を与え、同時により少ない労働でより痩せた土地を耕作することを可能にするので、究極的には地主にとって大変な利益となる。しかし、そうなるまでには一定の期間が経過する必要があり、それまでの間地主には確かに痛手となる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
それらの資本のうちある部分が引き抜かれるであろう。その結果、最後の資本は、95ではなく105を生産することになろう。そして、地代は30に低下するであろう。それは次のような差額になるからだ。
・105と125の差額=20その生産額125 ・105と115の差額=10その生産額115 ・ その採算額105 合計30合計345 (地代は30である一方、生産額は人口の欲する量に対してなお十分であろう。生産量は345クォーターになるのであるから。) 需要は、たった340クォーターであるのだから。 【価格を引き下げる改良】 しかし、穀物地代を引き下げることなしに、生産物の相対価値を引き下げる農業の改良がある。もっとも、土地の貨幣地代を引き下げることにはなるが。そのような農業の改良は、土地の生産力を増大させることはないが、より少ない労働で生産物を得ることを可能にする。そうした改良は、土地の耕作そのものに向けられるのではなく、土地に対して用いられる資本の形成に向けられる。鋤や脱穀機等の農具の改良や、農耕に用いられる馬の使用の節約、或いは獣医学の専門知識の獲得がこの種のものである。 資本が少ないということは、労働が少ないということと同じ意味であるが、土地に投下される資本は少なくなるであろう。しかし、同じ量の生産物を得るのに、耕作する土地を少なくすることはできない。しかし、この種の改良が穀物地代に影響を与えるかどうかは、異なった部分の資本を投下して得られる生産物の差額が増えるか、変わらないか、或いは減少するかという質問に依存するに違いない。仮に、4つの部分の資本、例えば、50、60、70、80が土地に投下されて、そしてその結果同じ結果がもたらされるとし、そしてそうした資本の形成に何らかの改良がなされ、それぞれの資本から5を私が差し引くことが可能になり、その結果それまでの資本が45、55、65、75になったとしても、穀物地代に何の変化も生じないであろう。しかし、改良の内容が、最も生産力の低い資本を全て節約することを可能にするものであったとしたら、穀物地代は直ちに低下するであろう。何故ならば、最も生産力の高い資本と最も生産力の低い資本の差額が縮小することになるからである。そして、この差額こそが地代を構成するものなのである。 |
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【解説】
50、60、70、80の資本を土地に投下し、同一量の生産物を手に入れる場合と、何からの改良によってその同一量の生産物を手に入れるために必要な資本の量が45、55、65、75に減少した場合の穀物地代が同じままであることはない。何故ならば、50の資本が80の資本と同一量の生産物をもたらすということは、生産力に1.6倍の違いがあることになるが、45の資本が75の資本と同一量の生産物をもたらすときの生産力の違いは1.666倍になっているからである。 |
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【結論】
これ以上例示を増やさなくても、次のことを証明するには十分であろう。同じ或いは新たな土地に連続して投下される資本から得られる生産物の差額を縮小させるものは何であっても地代を低下させる傾向を有し、逆に、その差額を拡大させるものは何であっても必ず反対の結果を生じさせる。即ち、地代を上昇させる傾向を有する。 【地主にとっての二重の利益】 地主の地代について話をするとき、我々は地代を、何らかの一定の農場に投下された一定の資本によって獲得された生産物に対する割合とみなしてきた。そして、そのときに、その交換価値について考慮することはしなかった。しかし、その同じ原因つまり生産の困難さが、原生産物の交換価値を引き上げ、また地主に対し地代として支払われる原生産物の割合も引き上げるのであるから、地主は、生産の困難さから二重の意味で利益を得ることが明らかである。第一に、地主が受け取る割合はより大きくなる。第二に、地主に支払われる商品の価値はより大きくなる。 |
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(注)このことを明らかにするために、そして穀物地代と貨幣地代がどの程度違ってくるかを示すために、10人の労働が、ある質の土地において180クォーターの小麦を手に入れ、そしてその価値は、クォーター当たり4ポンドで、全部で720ポンドになると仮定しよう。そして次に、同じか違う土地に追加された10人の労働が170クォーターしか追加的に生産できないとしよう。そのとき、小麦の価格は4ポンドから4ポンド4シリング8ペンスに上昇するであろう。というのは、170:180というのは4ポンド:4ポンド4シリング8ペンスということだからである。或いは、170クォーターの生産に一方では10人の労働を必要とし、他方では9.44人の労働しか必要としないのであるから、上昇率は9.44:10となり、それは4ポンドと4ポンド4シリング8ペンスの関係と同じになろう。さらに10人が用いられれば、その収益は次のようになろう。
・160価格は4ポンド10シリングに上昇 ・150価格は4ポンド16シリングに上昇 ・140価格は5ポンド2シリング10ペンスに上昇 さて、穀物の価格がクォーター当たり4ポンドのとき、180クォーターを産出した土地に地代が支払われなかったとしたら、170クォーターしか産出することができないときには、10クォーターが地代として支払われるであろう。そして、穀物の価格は4ポンド4シリング8ペンスであるので、42ポンド7シリング6ペンス(注2)になるであろう。 (注2)42ポンド6シリング8ペンスの間違いであろう。 4ポンド4シリング8ペンス=(4+4/20+8/12/20)ポンド=4.2333ポンド 4.2333ポンド×10=42.333ポンド=42ポンド6シリング8ペンス |
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穀物地代は100、200、300、400と増加することになるが、貨幣地代は100、212、340、485と増加することになる。
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■第3章 鉱山の地代について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【鉱山の地代】
金属は、他の品々と同じように労働によって獲得される。確かに自然がそれらを生み出す。しかし、地球の内臓からそれらを取り出し、そして、我々の役に立つように整えるのは人間の労働である。 鉱山は、土地と同様に、通常その所有者に地代を支払う。そして、この地代は、土地の地代と同様に、その生産物の価格が高いことの結果であって、決して原因ではない。仮に、誰でもが自分のものにして構わない、等しく豊かな鉱山が豊富にあったとしたら、そうした鉱山は地代を生むことができないであろう。それらの生産物の価値は、鉱山からその金属を抽出し、そして市場に持ち込むのに必要な労働量に依存するであろう。 しかし、等しい量の労働を用いたとしても、非常に異なった結果を生み出す、様々な質の鉱山が存在する。稼働させられている鉱山のなかで最も痩せている鉱山、その鉱山から生産される金属は、その鉱山を稼働させるために用いられ、そしてその生産物を市場に持ち込むために用いられる労働者が消費する全ての衣類、食料、及びその他の必需品を調達するに足る交換価値だけではなく、その事業を遂行するために必要な資本を前払いした人に対し通常の利潤をも支給するに足る交換価値を有するものでなくてはならない。 地代を支払わない最も痩せた鉱山から得られる資本の収益は、それよりも生産力のあるそれ以外の全ての鉱山の地代を規定するであろう。この鉱山は、資本の通常の利潤を生みだすとされている。他の鉱山がこの鉱山以上に生産するものは全て必ずや地代としてその所有者に支払われるであろう。この原理は、我々が土地に関し樹立したものと全く同じものであるから、それについてこれ以上述べる必要はないであろう。 【金属の価値】 原生産物及び製造品の価値を規定するのと同じ一般規則が、その金属にもまた適用されると述べておけば十分であろう。それらの金属の価値は、利潤率にも賃金率にも、そしてまたその鉱山に対して支払われる地代にも依存することはなく、その金属を手に入れ、そして市場に持ち込むのに必要な労働の総量に依存するからである。 他の全ての商品と同様に、その金属の価値は変動を被る。鉱山業に用いられる道具と機械類の改善があるかもしれず、その結果、相当の労働の節約が起こるかもしれない。新たな、そしてより生産力のある鉱山が発見されるかもしれない。そうした鉱山では、同じ量の労働でより多くの金属が手に入れられるかもしれない。或いは、市場へその金属を運ぶことが容易になるかもしれない。こうしたケースのいずれにおいても、それらの金属の価値は低下するであろう。従って、より少ない量の他の品々と交換されることになろう。他方、より深く掘ることが必要になったり、水が溜まったり、或いは他の偶発的な出来事が起こったりし、その金属を手に入れることが困難になることによって、他と比べてその金属の価値が大きく上昇するかもしれない。 従って、一国の硬貨がどれほど誠実にその標準値に従うことがあろうとも、金と銀でできたお金は、なお価値の変動を被るであろうと正当にも言われてきた。また、他の商品と同じように、偶発的で一時的な変動だけではなく、恒久的で自然な変動も被るであろう、と。 【鉱山の発見】 アメリカの発見によって、そしてそこに豊富に存在する豊かな鉱山の発見によって、それらの貴金属の自然価格に大きな影響がもたらされた。この効果はまだ終わっていないと多くの人々は考えている。しかし、アメリカの発見によって生み出されたそれらの金属の価値に及ぼす影響は、恐らく長い間止んでいるであろう。そして、もし最近、これらの金属の価値が少しでも低下しているとしても、それは、鉱山の稼働方法が改良されたことに原因を求めなければならない。 【金の優位性】 これらの金属の価値の低下がどのような原因から生じたものであるにせよ、その効果はスピードが遅く緩やかであるので、金と銀が他の全ての品々の価値を計測する一般的仲介物であるということから、実際の不便さが感じられることは殆んどない。価値が変動する価値の尺度であるということは疑いのないところではあるが、これよりも価値の変動が少ない商品は恐らくないであろう。この利点と、この金属が有する硬さ、可鍛性、分割可能性などの他の多くの利点が、どこにおいてもそれらの金属が文明国家のお金の標準物として選ばれることを正当にも保証する。 もし、同じ量の労働が、常に同じ量の固定資本を用いて、地代を支払わない鉱山から同じ量の金を手に入れることができるのであれば、金は、我々がものごとの自然の成り行きのなかで有することのできる、価値変動を被ることのない価値尺度に最も近いものになるであろう。確かに需要に従ってその量は増えるであろうが、その価値は不変であろう。そして、他の全ての物の変動する価値を計測するものとして高く評価されるであろう。 私は、この書物の前の部分で既に、金にはこの不変性が付与されているものとみなしたが、この後の章においてもこの仮定を維持する。従って、価格の変動について論ずる際には、変動は常に商品の側に起きているとみなされ、決してそれを計測する仲介物の側に起きているものとはみなされないであろう。 |
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■第4章 自然価格と市場価格について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【市場価格】
我々が労働を商品の価値の基礎にし、そしてそうした商品の生産に必要な相対的労働量を、互いに与えられる商品の量を決定する基準にするからと言って、我々は、商品の実際の価格、即ち市場価格がこの第一の自然の価格から偶発的に、或いは一時的に乖離することを否定するものであると思ってはいけない。 ものごとの通常の成り行きに任せるならば、人類の欲求や要望が求める量にぴったりと一致して、ある程度の期間に亘って供給され続ける商品はない。従って、価格の偶発的で一時的な変動を被らないような商品はない。 |
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【解説】
there is no commodity which continues for any length of time to be supplied precisely in that degree of abundance which the wants and wishes of mankind require. この英文に対して次の訳が与えられた。「どれだけかの期間にわたって、まさに人類の欲求願望が要求するほど豊富に供給され続けるような商品は、全くない」(羽鳥・吉澤訳) この訳を読むと、どのような商品であっても、人々が満足するほど十分に供給されるものは何もないように読めてしまう。しかし、現実はそうではない。リカードは、人類の要望する数量にいつもぴったり一致して供給される商品はないと言っているのだ。 |
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【市場価格の調整機能】
資本が、偶々需要のある様々な商品の生産に対して、まさに必要とされる量だけが正確に割り当てられるのは、そうした変動が起きる結果に過ぎない。価格が上がったり下がったりするので、利潤はその一般水準を上回ったり下回ったりする。そして、資本はそうした変動が起きた特定の投下先に参入することが奨励されるか、或いはそうした投下先から撤退することを警告されるかのいずれかである。 【利潤の最大化】 全ての人間が自分の望む先に自由に資本を用いることができる限り、人は当然最も有利な資本の投下先を探し求めるものである。人は、自分の資本を移動することによって15%の利潤を得ることができるのであれば、10%の利潤に満足することは当然ないであろう。全ての資本家の、より利潤の少ない事業を止め、より利潤の多い事業を求めるという、この止むことのない欲求が全ての利潤率を均一化させる強い傾向を持つ。或いは、ある事業が他の事業に比べて有しているか、有しているように見える有利性を当該関係者の見積もりによって補償する分だけ利潤率を調整する強い傾向を持つ。 【資本移動】 この変更がどのように起こるか、その手順を観察することは恐らく大変に困難であろう。こうした変化は、ある製造業者がその資本の投下先を全く変更させることによって引き起こされるのではなく、多分当該投下先の資本の量を減少させることによってのみ引き起こされるであろう。全ての豊かな国にはお金持ち階級と呼ばれる階級を構成する多くの人々がいる。こうした人々はどんな仕事にも従事しない。そうではなく、手形を割引いたり、社会のより勤勉な人々に融資を行ったりすることに彼らのお金を用い、そのお金が生みだす利子によって生活する。銀行家たちも同じ目的に多くの資本を用いる。そうして用いられた資本は巨額な流動資本を構成する。そして、一国の全ての様々な業種によってその大きな割合か、或いは小さな割合が用いられる。 恐らくどんなお金持ちの製造業者であっても、その事業を自分の資本が許す範囲に限る者などいないであろう。彼は、彼の商品の需要動向に応じて増えたり減ったりするこの浮動資本の幾らかを常に保有する。絹製品の需要が増加しそしてウールの布地に対する需要が減少するとき、毛織物業者は彼の資本を携えて絹の事業に移動することはしない。そうではなく、彼は労働者を幾らか解雇し、そして銀行家や資産家からのお金の借入を止める。絹製造業者の場合は、これと反対である。彼は多くの労働者を雇いたいと思うし、こうして借入を増やす動機が大きくなる。彼はより多く借り入れ、こうして資本は、製造業者に彼の常日頃の仕事を停止させる必要もなく、ある投資先から他の投資先に移動される。 【資本の最適配分】 我々が大きな町の市場を注意して眺め、そして、如何に規則正しく市場に国産の商品と海外の商品が供給されているかを観察するとき―流行の変化や人口の変化のために需要が如何に変動しても、豊富過ぎる供給による供給過剰や、供給不足による価格の異常な高騰をしばしば引き起こすことなく、必要とされる量が規則正しく供給されていることを観察するとき―我々は、まさに必要とされるだけの量の資本をそれぞれの業種に割り当てる原理が、一般に思われている以上に有効に機能していると認めない訳にはいかない。 【利潤率に差をつける理由】 資本家は利潤が上がる資金の用い方を考える中で、当然のことながらある仕事が有する、他の仕事にはない全ての有利性を考慮に入れるものである。従って、彼は安全性、清潔さ、気安さ、或いはその仕事が有する他の仕事にはないそれ以外の現実の有利性、或いは想像上の有利性を考慮に入れた結果、彼の貨幣利潤の一部を喜んで放棄するかもしれない。 もし、こうした状況を考慮に入れた結果、資本の利潤がある部門では20%、そして他の部門では25%、また別の部門では30%になるように調整されたとしたら、恐らく恒久的にそのような相対的な相違を維持するであろうし、また、利潤率の差がそれ以外のものになることもないであろう。というのも、もし何かの原因によってこれらの部門のうちの一つの利潤が10%引き上げられるのであれば、この利潤は一時的なものであり、直ぐに通常の利潤状態に復帰するか、或いは他の部門の利潤もまた同じ割合で引き上げられるか、のいずれかになるからである。 現在の状況は、この意見の正当性に対する一つの例外を示すものであるように見える。戦争の終結によって、かつてヨーロッパにおいて存在していた資本投下先の配分状態は混乱させられ、全ての資本家は、今必要とされる新たな資本の配分体制における立ち位置を未だ見つけていないのである。 【利潤率の変動】 全ての商品がそれぞれ自然価格にあると仮定しよう。その結果、全ての投下先の資本の利潤は、全く同じ利潤率であるか、或いは、関係者の見積もりによってそうした資本の用い方が有している、或いは有していないと思われる現実の或いは想像上の有利性に相当する分だけ異なるであろう、と。では、流行の変化によって絹製品の需要が増加し、そして毛織物製品の需要が減少すると仮定しよう。それらの自然価格、即ちそれらの生産に必要な労働量は変わらないであろう。しかし、絹製品の市場価格は上昇し、毛織物製品の市場価格は低下するであろう。その結果、絹製造業者の利潤は一般的なかつ調整された利潤率を上回るであろうが、その一方毛織物御者の利潤はそれを下回るであろう。 こうした部門では利潤だけではなく、労働者の賃金も影響を受けるであろう。しかし、この絹製品に対する需要の増加は、毛織物業から絹製造業へ資本と労働が移転することによって直ちに満たされるであろう。そのとき、絹製品と毛織物製品の市場価格が再びその自然価格に近づき、そして、それらの商品の製造業者たちはいつもの利潤を得るであろう。 【市場価格の調整機能】 それでは、商品の市場価格がある程度の期間以上に亘りその自然価格を上回ったり下回ったりすることを回避させるものは、資本をより不利な投下先からより有利な投下先に振り向けようとさせる、全ての資本家が有する欲求である。それらの商品を生産するための労働に対し賃金を支払い、そして、投資された資本を元の状態に戻すための経費を支払った後に、それぞれの事業に残る価値、即ち超過分が投下された資本に比例するように商品の交換価値を調整するのはこうした競争なのである。 【自然価格を論じることの重要性】 国富論の第7章(【注】第1編)において、この疑問に関する全てが大変に説得力を持って論じられる。特定の資本の投下先において、労働の賃金と資本の利潤だけでなく、商品の価格に対しても偶発的な原因によって一時的な効果が及ぼされることを十分に認めながらも―但し、こうした効果は社会の全段階で等しく作用するものであるから、商品の一般的価格や一般的賃金、及び一般的利潤には影響を及ぼすことはない―我々はこうした偶発的な原因からは全く影響を受けることのない自然価格、自然賃金、及び自然利潤を規定する法則を扱う限り、こうした一時的な効果は全く考慮に入れないことにする。 それでは、商品の交換価値、即ち、何か一つの商品が保有する購買力について論じる際、私は、その購買力とは、如何なる一時的或いは偶発的原因によっても攪乱されることのない商品の購買力であって、かつその自然価格である購買力を意味する。 |
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■第5章 賃金について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【労働の自然価格】
労働は、買われたり売られたりし、かつその量が増やされたり減らされたりする他の全ての商品と同じく、それに対する自然価格と市場価格を有する。労働の自然価格とは、労働者たちを全体として増やすことも減らすこともせず生存させ、そしてその種族を永続させることを可能にするのに必要な価格である。 労働者の、自分自身とその家族―労働者の数を維持するために必要であると思われる家族―を養う力は、彼が賃金として受け取るお金の量に依存するのではなく、そのお金で購入する食料、必需品、そして習慣により彼にとって必要不可欠となっている便宜品の量に依存する。従って、労働の自然価格は、労働者とその家族を養うのに必要な食料、必需品、そして便宜品の価格にかかっている。食料品と必需品の価格が上がれば労働の自然価格は上がることになり、それらの価格が下がれば労働の自然価格も下がることになる。 |
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【解説】
商品の価値(相対価値)を規定するものは、その商品に投入された労働量であるとリカードは言う。しかし、同時に彼は、ここでも言っているように、その労働の価値は、食料品や必需品の価値が変動すればそれ自身も変動すると言う。しかし、労働の価値をそのように定義してしまうと、労働は不変の価値尺度ではあり得なくなってしまう。従って、労働を価値の基準に据える以上、労働の価値を議論すべきではなく、また逆に、労働の価値を議論するのであれば、労働を価値の基準に据えることは適当でないことになる。 |
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【労働の自然価格の傾向】
社会の進歩にともない労働の自然価格は常に上がる傾向がある。何故ならば、労働の自然価格を規定する主要な商品の一つの価格が、それを生産するための困難度が上がることによって高くなる傾向があるからだ。しかし、農業の改良やそこから食料が輸入される新市場の発見が、必需品の価格が上昇する傾向を一時の間弱めるかもしれないし、或いは必需品の自然価格を低下させることさえあるかもしれないので、その同じ原因が労働の自然価格に対し、それに相応する影響を及ぼすであろう。 【製造品の自然価格の傾向】 原生産物と労働を除く全ての商品の自然価格は、富と人口の発展のなかで低下する傾向がある。というのも、一方では、それらの商品が作られる原材料の自然価格が上がることから、それらの真実の価格が上がるが、この効果は、機械の改良や労働の配分方法の改善、或いは生産者たちの科学及び技術双方の能力の向上により相殺されてなお余りがあるからである。 【労働の市場価格】 労働の市場価格は、供給の需要に対する比率が自然に作用することによって労働に対し実際に支払われる価格である。労働は、その量が少ないときに高く、その量が多いときに安い。労働の市場価格は、それがどんなにその自然価格からかけ離れようとも、一般の商品と同じようにその自然価格に一致する傾向がある。 労働者が元気で幸せでいるのは、労働の市場価格が自然価格を上回るときである。彼が所有することのできる必需品や享楽品の割合が増えるのも、従って健康で大きな家族を養う力を持つのもそのときである。しかし、賃金が高いことによって人口の増加が促されると、賃金は再び自然価格にまで下がり、時には反動により確かに自然価格を下回るであろう。 労働の市場価格が自然価格を下回るとき、労働者の状況は最も惨めになる。そのとき、貧困は、習慣によって絶対に必要なものになっている安楽品を労働者から奪い去る。労働の市場価格が自然価格にまで上昇するのは、そして労働者が、自然賃金率が与える控え目な快適品を保有するようになるのは、そうした欠乏状態が労働者の数を減少させた後か、或いは労働に対する需要が増大した後になってからのことである。 【市場賃金率】 市場賃金率は、賃金がその自然率に一致しようとする傾向にも拘わらず、発展する社会にあっては、期間の定めもなく常にそれ(【注】自然賃金率)を上回ることがあるかもしれない。というのも、増大した資本が新たな労働需要に対し与える刺激の効果が発揮されるや否や、また新たな資本の増加が起こり同じような効果が発揮されるかもしれないからである。こうして、もし資本の増加が緩やかであり、かつ絶えることなく続けば、労働需要は、人口の増加に対して継続的な刺激を与えるかもしれない。 【資本の定義】 資本とは、一国の富のうち生産に用いられる部分であり、食料、衣類、原材料、機械等の労働を実行させるために必要なものから構成される。 【資本の増加】 資本は、その価値が上がると同時に量が増えるかもしれない。一国の食料と衣類を追加するために以前よりも多くの労働が必要となると同時に、それらの追加がなされるかもしれない。その場合には、資本の量だけではなくその価値も増加するであろう。或いは、資本は、その価値が上がることなく、場合によっては、その価値が実際に低下するなかで、増加するかもしれない。一国の食料と衣類の追加がなされるかもしれないだけではなく、そうした追加が機械の力を借りて、それらを生産するために必要とされる比例的労働量を増加することなく、場合によっては比例的労働量の絶対的な減少をともないつつ、なされるかもしれない。資本の全体が、或いはその一部が単独で以前よりも大きな価値を有することなく、否、多分実際以前よりも価値が低下する一方で、資本の量が増加するかもしれない。 【労働の市場価格の変化】 最初のケースでは、食料、衣類、その他の必需品の価格に常に依存する労働の自然価格は上がるであろう。第二のケースでは、労働の自然価格は変わらないか、下がるであろう。しかし、どちらのケースにおいても、賃金の市場率は上がるであろう。というのも、資本の増加に比例して労働需要が増加し、なすべき仕事量に比例してその仕事を行う者に対する需要が発生するからである。 どちらのケースにおいても、労働の市場価格は自然価格を上回ることになろう。そして、どちらのケースにおいても自然価格に一致する傾向があるであろう。しかし、最初のケースではその一致が速やかにみられるであろう。労働者の状況は改善されるであろうが、大きく改善されることはないであろう。というのも、食料と必需品の価格の上昇が、上昇した賃金の大部分を吸いつくしてしまうからである。この結果、労働の供給が少し増加しただけでも、或いは人口が僅かに増加しただけでも、労働の市場価格を、その引き上げられた労働の自然価格にまで直ぐに押し下げてしまうであろう。 第二のケースでは労働者の状況は大いに改善するであろう。彼の受け取る貨幣賃金は増加するであろうが、彼は如何なる追加価格も支払う必要がなく、また、恐らく彼とその家族が消費する商品の価格は低下しているとさえ思われる。労働の市場価格が再びそのときの低い、引き下げられた自然価格にまで低下するのは、人口が大きく増加した後のことであろう。 それでは、社会が改善する度に、そして社会の資本が増加する度に、労働の市場賃金は上昇するであろう。しかし、その上昇が永続きするものかどうかは、労働の自然価格も上がっているかどうかにかかるであろう。そして、これは、労働の賃金が支出される必需品の自然価格の上昇に再びかかるであろう。 |
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【労働の自然価格の曖昧性】
労働の自然価格は、食料や必需品で計測されてさえも、絶対的に固定され、そして常に一定であると考えてはならない。同じ国でも時代によって異なるし、国が違えば大変に違うものである。 (注)ある国では必要不可欠な住まいや衣類が、他の国では必要ないかもしれない。インドの労働者は、ロシアの労働者を死から救うには十分とは言えないような覆いの支給しか自然賃金として受け取らないとしても、全く元気よく働き続けるかもしれない。同じような気候状態にある国々においてさえも、生活習慣の違いが、自然の原因が引き起こすほどの大きな違いをしばしば労働の自然価格に引き起こすであろう。―トレンズ様の「穀物貿易に関する一論文」のP.68 この主題の全てが、トレンズ大佐によって見事に解明される。 【労働の自然価格と習慣】 労働の自然価格は、本質的に人々の習慣に依存する。英国の労働者は、もし、彼が自分の賃金でジャガイモ以外の食料を買うことができず、また、泥で塗り固められた小屋以上のものに住むことができないのであれば、そのような賃金は自然賃金率を下回るものであり、家族を養うには余りにも少なすぎると考えるであろう。しかし、「人間の生活費」が安く、人の必要品が直ぐに満たされるような国では、こうしたつつましやかな自然の要求物でもしばしば十分なものであるとみなされる。現在、英国の小さな家で使われている多くの便宜品でさえ、我々の歴史の初期の頃には贅沢品とみなされていたであろう。 社会の進歩とともに製造品の価格は常に低下し、そして原生産物の価格は常に上昇するので、豊かな国の労働者は自分の食料を僅かばかり犠牲にするだけで、他の全ての足りないものを十分に調達することができるほどの、そうした商品の相対価値の不均衡が最後には作り出される。 【賃金の変動要因】 貨幣賃金に必ず影響を与える貨幣価値の変動については、我々はお金が常に一定の価値を有するものとみなしているので、ここではそのような作用がないものと仮定しているが、そうした貨幣価値の変動は別にして、賃金は2つの原因による上昇及び低下を被るように見える。 第一は、労働者の供給と需要。 第二は、労働者の賃金が支出される商品の価格。 社会の発展段階の違いに応じて、資本、即ち労働を雇い入れる手段の蓄積は、そのスピードが速くなったり遅くなったりする。そして全てのケースにおいて、労働の生産力に依存するに違いない。労働の生産力は、一般的に言って肥沃な土地が豊富にあるときに最大となる。そのような期間においては、資本の蓄積のスピードは余りにも急速であり、資本の蓄積と同じ速さで労働者を供給することができないことがよくある。 【人口増加のスピード】 好ましい環境の下では、人口は25年間で2倍になるだろうと計算されている。しかし、その同じ好ましい環境の下で、一国の全資本がより短い期間で2倍になるかもしれない。そのようなケースでは、賃金は全期間に亘って上がる傾向があるであろう。何故ならば、労働に対する需要が供給よりもさらに速いスピードで拡大することになるからである。 文明が大変に進歩した国々の技術や専門知識が導入される新しい入植地では、資本は人間の数よりも速いスピードで増加する傾向があるであろう。そして、この労働者の欠乏が、仮により人口の多い国々によって満たされなかったとしたら、そうした傾向があることから労働の価格を大いに引き上げるであろう。こうした国々の人口が増え、そして質の劣った土地が耕作に供せられるのに比例して、資本を増加させる傾向が弱まる。というのも、実在する人々の要望を満たした後に残る余剰生産物は、必ずや生産の容易さ、つまり生産に用いられる人々の数の少なさに比例するに違いないからである。 それでは、最も好ましい環境下では恐らく生産を増やす力は人口を増やす力よりなお一層大きいであろうが、そうした状態は長く続くものではない。というのも、土地は量が限られ、かつ質の違いがあるために、追加の資本が土地に投入される度に生産性は低下するからである。一方、人口を増やす力は同じであり続ける。 【飢餓からの回避手段】 肥沃な土地が豊富に存在するが、そこに住む人々は無知、怠惰、そして野蛮さから欠乏と飢饉に晒され、かつ、人口が生計手段を圧迫していると言われている国々では、長い間人々が住み続けている国々―それらの国々では、原生産物の供給力が低下することから、過大な人口の全害悪が経験される―で必要とされるものとは大変に異なった救済策が適用されなければならない。一方のケースでは、害悪は政治の拙さ、財産権の不安定さ、そして全ての階級の国民の無教育から発する。彼らが幸せになるためには、政治を良くし、よく教育するだけでよい。というのも、人口の増加を上回る資本の増加が必然の結果として生じるからである。如何に人口が増えようとも、人口が多過ぎるということはあり得ない。というのも生産力がなお一層大きいからである。もう一方のケースでは、人口は、人々を養うために必要とされる基金よりも速いスピードで増加する。人口の増加率を引き下げない限り、勤労に励めば励むほど害悪は増すことになる。生産が人口の増加に歩調を合わせることができないからである。 人口が生計の手段を圧迫しているとすれば、残された救済策は人口を減らすか、或いは資本の蓄積をさらに速めるかのいずれかである。全ての肥沃な土地が既に耕作に供されている豊かな国では、後者の救済策は大変に実践的なことでもなければ大変に望ましいことでもない。何故ならば、努力をし過ぎれば全ての階級を等しく貧しくしてしまうからである。しかし、肥沃な土地がまだ耕作に供されていないことから使われていない生産の手段が豊富に温存されている貧しい国では、それ(【注】資本の蓄積)が害悪を取り除く唯一の安全で効果的な方法なのである。というのも、特にその効果は全ての階級の人々を向上させるからである。 【安楽品に対する嗜好】 人類の友は、全ての国において労働者階級は安楽品と享楽品に対する嗜好を持ち、そしてまた、彼らは全ての法的手段によってそうした品々を手に入れる努力が奨励されることを願わずにはいられない。人口が過剰になることを防ぐには、それよりも安全な策はあり得ない。労働者階級が欲しいと思うものは殆どなく、そして最も安い食べ物で満足する国では、国民は大変に大きい浮き沈みと惨めさに晒される。彼らにはその災難から逃れる場所がない。彼らはそれよりも低い生活状態に安全を求めることができない。彼らは既に余りにも低い状態にあり、それよりも低くなりようがないのである。彼らの最低限度の生活を支える主たる品目が僅かでも欠乏する場合には、彼らが利用できるそれに代わるものが殆どない。そして、そうした不足が生じると飢饉の持つ殆ど全ての害悪を伴うのである。 |
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【賃金の傾向】
社会が自然に発展する過程では、労働の賃金はそれが供給と需要によって規定される限り、低下する傾向を有するであろう。というのは、労働者の供給は同じペースで増加し続けるであろうが、労働者に対する需要はそれよりも緩やかなペースでしか増加しないからである。例えば、もし賃金が年間2%の資本の増加によって規定されたとしたら、資本の蓄積が1.5%しか増加しなかったときには、賃金は低下するであろう。そしてもし1%とか0.5%しか増加しなかったというのであれば、さらに低下するであろう。そして資本の額が変わらなくなるまで、賃金は下がり続けるであろう。そのときは、賃金も変わらなくなるであろうし、実際の人口を維持することができるだけになるであろう。こうした状況では、仮に賃金が労働者の供給と需要だけによって規定されたとしたならば、賃金は低下することになる、と私は言う。しかし、賃金は、それが支出される商品の価格によっても規定されることを我々は忘れてはならない。 人口が増えるにつれ、こうした必需品の価格は常に上がり続けるであろう。何故ならば、そうした物を生産するのにより多くの労働者が必要になるからである。それでは、もし労働の賃金が支出される全ての商品の価格が上がる一方で、労働の貨幣賃金が低下するのであれば、労働者は二重に影響を受けるであろう。そして、直ちに生計手段を全く奪い取られてしまうであろう。従って、労働の貨幣賃金は低下しないで上昇するであろう。しかし、上がるとは言っても、安楽品と必需品の価格が上がる以前に労働者がそれらを購入したのと同じ量を買うことができるほど上がることはないであろう。 【具体例】 もし、彼の年間賃金が24ポンドであったとして、即ち、穀物の価格がクォーター当たり4ポンドのときの穀物6クォーター分であったとしたら、彼は、穀物の価格がクォーター当たり5ポンドに上昇したときには、穀物5クォーター分の価値しか恐らく受け取らないであろう。しかし、5クォーターの穀物の価格は25ポンドであろう。従って、彼の貨幣賃金は追加されるであろうが、彼はその追加された賃金では、彼が以前家族で消費したのと同じ量の穀物や他の商品を自分に与えることはできないであろう。 【賃金と利潤】 それでは、労働者の賃金の支給額はこうして実際には悪化するが、それにも拘らずこの賃金の上昇が製造業者の利潤を必ず減少させるであろう。というのは、彼の商品が今までよりも高く売られることはないからであり、しかも、それらの商品を生産する経費は上がるからである。しかし、このことは、利潤を規定する原理を検討するところで考察されることになる。 |
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【賃金の長期的傾向】
それでは、地代を引き上げるのと同じ原因、即ち同じ割合の労働量を用いて追加の食料を供給することの困難さが増すことが、賃金も引き上げることになると思われる。従って、もしお金が不変の価値を有するものであれば、富と人口の増加にともない、地代と賃金の双方は、上がる傾向を有するであろう。 しかし、地代の上昇と賃金の上昇の間には、本質的な違いがある。地代の貨幣価値の上昇には、生産物に対する取り分の増加が伴う。地主の貨幣地代が大きくなるだけではなく、穀物地代も大きくなる。地主はより多くの穀物を保有するようになり、そして、1単位の穀物は、価値が上昇していない他の全ての商品のより多くと交換されるであろう。労働者の運命は、それほど幸せなものではないであろう。労働者はより多くの貨幣賃金を受け取るであろう。それは確かである。しかし、彼の穀物賃金は減少するであろう。彼の穀物に対する支配力だけでなく、彼の全般的な生活水準が悪化するであろう。というのも、市場賃金率を自然賃金率以上の水準に維持することがより困難になったことが分かるからである。 穀物の価格が10%上がる一方で、賃金の上がる率は常に10%を下回るであろう。しかし、地代は常にそれを上回る率で上昇するであろう。労働者の状況は全般的に低下し、地主の状況は常に改善されるであろう。 【具体例】 小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであったときに、労働者の賃金が年間24ポンド、即ち小麦6クォーター分の価値であったと仮定しよう。そして、彼の賃金の半分が小麦に支出され、残りの半分、つまり12ポンドが他の商品に支出されると仮定しよう。彼の受け取る額は次のようになるであろう。 |
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彼は、以前ときっちり同じ暮らしを送ることができる賃金を受け取るであろう。というのも、小麦と他の商品に支出するお金は次のようになるからである。
・小麦が£4のときに3クォーターの小麦の価格£12 他の商品の価格£12 合計£24 ・小麦が£4、4s. 8dのときに3クォーターの小麦の価格£12、14s. 他の商品の価格£12 合計£24、14s. ・小麦が£4、10s. のときに3クォーターの小麦の価格£13、10s. 他の商品の価格£12 合計£25、10s. ・小麦が£4、16s. のときに3クォーターの小麦の価格£14、8s. 他の商品の価格£12 合計£26、8s. ・小麦が£5、2s. 10dのときに3クォーターの小麦の価格£15、8s. 6d. 他の商品の価格£12 合計£27、8s. 6d 穀物が高くなるのに応じて、労働者の受け取る穀物賃金は少なくなるであろう。しかし、彼の貨幣賃金は常に増加するであろう。一方、以上の仮定から、彼の享楽品の量は正確に同じものとなるであろう。しかし、他の商品は、原生産物がその構成要素として入り込んでいるのに比例して価格が上がるので、彼はそれらの幾つかに対しより多くを支払うことになろう。彼が消費するお茶、砂糖、石鹸、ロウソク、そして家賃は恐らく高くはならないであろうが、ベーコン、チーズ、バター、亜麻布、靴、布地に対して支払う額は多くなるであろう。従って、上に示したように賃金が上がる場合であっても、彼の状況は相対的に悪化するであろう。 【お金が海外から輸入されるという現実】 しかし、私は、金即ちお金が作られる金属が、賃金が変化した国の産物であると仮定した上で、賃金の価格に及ぼす影響を検討してきた、と言われるかもしれない。しかも、私が推論した結果は現実とは殆ど一致していない、何故ならば金は海外の産物であるからだ、と言われるかもしれない。しかし、金が海外の産物であるとしても、この議論の真実性を少しも否定することにはならない。何故ならば、それが国内で見つかったものにしろ、海外から輸入されたものにしろ、賃金が上がることの効果は、究極的にもそして直ちに起こる効果としても、同じものであることが証明されると思われるからである。 |
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【賃金の上昇と金の移動】
賃金が上がるときの一般的な理由は、富と資本の増加が労働に対する新たな需要を生みだし、そしてそれが間違いなく商品の生産量の増大をもたらすということだ。こうして追加された商品を流通させるためには、商品の価格が以前と同じであるとしても、それまで以上のお金が必要となる。それによってお金が作られ、かつ海外から輸入しなければ手に入れることのできないこの商品がもっと必要になる。ある商品が今までよりも多く求められるときにはいつも、その商品の相対価値は、それが購入される商品と比べて上昇する。仮に、より多くの帽子が求められたとしたら、その価格は上がりより多くの金が帽子に対し与えられるであろう。より多くの金が求められたとしたら、金の価格は上がり帽子の価格は落ちるであろう。そのときには、同じ量の金を購入するためにより多くの帽子とより多くの他の商品が必要となるからである。 【商品の価格と金の流入】 しかし、想定されたケースにおいて、賃金が上がるから商品の価格が上がるであろうと言うことは、全く矛盾したことを肯定することになる。というのも、我々は第一に、金は需要が増えた結果その相対価値が上がることになると言いながら、第二に、商品の価格が上がるから金の相対価値は下がることになると言うが、この2つの結果は、全く両立不可能なものだからである。商品の価格が上がると言うことは、お金の相対的価値が低下すると言うことと同じである。というのも、金の相対価値が計測されるのは商品によってであるからである。 それでは、もし全ての商品の価格が上がったら、そうした高くなった商品を購入するために、海外から金がやってくることはできないであろう。そうではなく、金は国内から海外に向かい、相対的に安くなった海外の商品を購入することに有利に用いられるであろう。それでは、お金が作られる金属が国内で産出されようと、或いは海外で産出されようと、賃金の上昇は商品の価格を引き上げることはないように見える。お金の量を追加することなくして、全ての商品が同時に上がるということはあり得ない。 【金を流入させる要因】 我々が既に示したように、このお金の追加は、国内で調達されることもできないし、また海外から輸入されることもできないであろう。海外から追加の金を幾らかでも購入するためには、国内において商品の価格が高くではなく、安くなければならない。金の輸入と、それによって金が購入されるもの、つまり金に対し支払われる全ての国産の商品の価格の上昇は、絶対に両立することが不可能な結果である。紙幣を幅広く使用するとしても、この問題を変えることにはならない。というのも、紙幣は、金の価値に一致する、或いは一致しなければならないからである。従って、紙幣の価値は、その金属の価値に影響を与える原因によってしか影響を受けない。 【結論】 それでは、これらのことが、賃金が規定される法則であり、全ての社会における圧倒的大部分の人々の幸福度を規定する法則である。他の全ての契約と同じように、賃金は公正で自由な市場の競争に委ねられるべきであり、立法府の介入によってコントロールされるようなことは、決してあってはならない。 |
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【救貧法】
救貧法の明確で直接的な傾向は、こうした明確な原理とは正反対のものである。それは、立法府が慈悲深く望んだように貧しい人々の生活状態を良くすることはなく、貧しい人々と豊かな人々の双方の生活状態を悪化させてしまう。救貧法は、貧しい人々を豊かにする代わりに、豊かな人々を貧しくするように仕組まれている。現在の法律が施行される限り、貧しい人々を養う基金は益々増加し続け、ついには国の純収入を全て吸い尽くしてしまうか、或いは公共の支出のための決してなくなることのない需要を満たした後に、国家が我々に残すものと同じ大きさの収入を少なくても吸い尽くしてしまうということは自然の成り行きである。 (注)次の一節で、それが一時的な惨めさを意味するのであれば、私はビュキャナン氏にそこまでは同意する。「労働者の状況で最大の不運と言うべきものは、食料の少なさか仕事の少なさのいずれかから発生する貧困である。そして、全ての国において無数の法律が労働者の救済のために作られてきた。しかし、社会には立法によっては救済することができない惨めさがある。従って、実行不可能なことを目標にすることによって、実際には我々の力の及ぶ良い結果を達成し損なうことのないように、立法の限界を知ることが有益である」―ビュキャナン、P.61 |
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【救貧法廃止の必要性】
こうした法律の致命的な傾向は、もはや不思議なことではない。というのは、マルサス氏の手によって十分に議論が展開されてきたからである。そこで、貧しい人々の友であれば全ての者が、そうした法律の廃止を熱心に願わなければならない。しかし、不幸なことにそうした法律が作られてから長い年月が経過し、そして、貧しい人々の生活習慣もそうした法律の上に成り立っているので、我々の社会システムから救貧法を安全に根絶するには、最大の注意深さと巧いやり方が必要となる。こうした法律の廃止に最も賛成する者は全て、もしそうした法律―それは間違って作られているのであるが―が対象とする人々に対し、大きな苦痛を与えないようにすることが望まれるのであれば、そうした 法律の廃止は、極めて緩やかな手順を踏んで行わなければならないということに合意している。 貧しい人々の安楽と福祉は、彼らの数の増加を規制し、そして早過ぎであって将来のことを考えない結婚が余り起こらないようにするための彼ら自身の相当の注意、或いは立法府側の相当の努力なくしては、恒久的には保証されることはあり得ないということは疑うことのできない真実である。救貧法の制度はこれとは正反対であった。救貧法は、我慢することを余計なことにし、そして、賢明さと勤勉の代償である賃金の一部を軽率さに与えることによって軽率さを招いてきた。 (注)1796年以降、下院で明らかとなったこの主題に関する知識の進歩は、救貧法に関する委員会の最新の報告書とピット氏がその年に表明した次の考え方を比べてみれば明らかなように、幸いにも小さなものではなかった。彼は言った。「多くの子どもがいる場合には、非難や軽蔑の理由とするのではなく、権利と名誉として、我々に救済をさせて頂きたい。こうなれば、大家族であるということは呪いではなく恵みになる。そしてまた、自らの労働で自らに必要なものを供給できる者たちと、自らの国を多くの子どもたちで豊かにした後に、生活のための支援を求める権利を有する者たちの間に適当な線を引くことになるであろう」―ハンサードの「議会史」第32巻P.710 |
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【解説】
They have rendered restraint superfluous, and have invited imprudence,by offering it a portion of the wages of prudence and industry. これに次のような訳が与えられた。「救貧法は、慎重で勤勉な人々の賃金の一部をその施行に提供することによって、抑制を不必要にし、無分別を招いたのである」(羽鳥・吉澤訳) この訳は、by offering it のitを「その施行」と理解しているが、そうではなく、itはimprudenceを指すと理解すべきである。 |
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不幸の本性が救済策を指摘する。救貧法の対象を徐々に縮小すること。貧しい人々に独立することの価値を植え付けること。貧しい人々に制度としての慈善事業や偶然の慈善事業に頼るのではなく、生活のためには自分で努力することが必要であることを教えること。思慮深さと先見性が不必要な美徳でもなければ、利益を生まない美徳でもないことを教えること。そうしたことによって我々は次第により堅実で健全な状態に近づくであろう。
最終的にその廃止を目的としないような救貧法の改正は全く注目に値しない。 この目的がどうしたら安全に、そして同時に最も暴力を用いないで達成できるかを指摘できる人こそが、貧しい人々の最良の友であり、そして人道主義の味方である。 不幸を緩和することができるのは、貧しい人々の暮らしがそれによって支えられる基金を現在とは違った方法で集めることによってではない。もし、その基金の額が増やされたり、或いは最近提案されたような方法に従って、国家全体から一般基金として課せられたりしたならば、事態は改善しないどころか、我々が除去したいと望んでいる苦痛が却って深刻化してしまうであろう。 【教区毎のお金の徴収】 現在のような基金の集め方や使い方は、その致命的な効果を弱めるのに役立ってきた。各教区が、それぞれの教区の貧しい人々の生活支援のための独立した基金を集める。そのため、仮にこの王国全体の貧しい人々の救済のために一つの一般基金としてお金が集められた場合に比べ、救貧税を低く抑えることが自分たちの更なる利益目標にもなり、実行目標にもなる。各教区は、その全ての節約が自分たちの利益になるのであるから、他の何百もある教区が一般基金に参加する場合に比べ、この税を経済的に徴収することと、この救済資金を倹約して配分することに大いに関心を持つ。 我々は、救貧法がまだ国の純収入の全てを吸い尽くしていないということの原因は、ここにあると考えなければならない。救貧法が大変な負担にならずに済んでいるのは、救貧法の適用が厳格であるからだ。もし、法律によって、支援が欠けている全ての人間が確実に支援を受けることができ、しかも、それによってそれなりの生活が送ることができるのであれば、理屈の上からは、他の全ての税を全部集めたとしても、そのたった一つの救貧税に比べれば軽いものにしかならないと我々は予想するであろう。 【結論】 重力の原理であっても、そうした法律が富と力を惨めさと弱さに変えてしまう傾向があることほど確かなことではない。単に生活手段を供与するために努力することを除いては如何なることに対しても勤労しなくなる。才能の違いを混同してしまうようになる。頭の中がいつも身体の欲するものを与えることばかりになってしまう。そして、ついには全ての階級が普遍的な貧困という病に罹ってしまうであろう。 幸いなことに、こうした法律は、労働維持のための基金が規則正しく増加し、そして人口の増加が自然に要請されるような繁栄の時代に施行されてきた。しかし、もし進歩のスピードがもう少し遅くなり、もし我々の状態が静止状態に至るのであれば―そうした状態から我々はなお遠く離れていると私は信じているが―そのときには、こうした法律の致命的な性格がもっと明白になり、また警戒すべきものになろう。そのときにはまた、多くの困難が追加されることによって、そうした法律の廃止が邪魔されるであろう。 |
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■第6章 利潤について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【課題】
異なる投下部門の資本の利潤は、お互いに一定の割合を保つ傾向があり、かつ全てが同じ程度、同じ方向に動く傾向があるということが示されたので、我々に残された検討課題は、何が利潤率を恒常的に変動させ、そしてその結果何が利子率を恒常的に変動させるのか、その原因を探ることである。 【利潤と賃金】 我々は、穀物の価格は、地代を支払わない部分の資本を用いた場合の、穀物を生産するのに必要となる労働量によって規定されることを見てきた。 (注)読者は、この主題を明確にする目的で私が、お金を価値の不変なものとみなし、従って全ての価格の変動は、商品の価値の変動が原因であるとみなしていることに留意することが望まれる。 我々はまた、全ての製造品の価格は、それを生産するのに必要な労働量が多くなるか少なくなるかに比例して上がったり下がったりすることも見てきた。価格を規定する量(注)の土地を耕作する農業者も、或いは商品を製造する製造業者も、いずれも地代のためにその生産物の如何なる部分も犠牲にすることはない。彼らの商品の全ての価値は2つの部分にのみ分けられる。一方は資本の利潤を構成し、もう一方は労働の賃金を構成する。 (注)「価格を規定する量の土地を耕作する農業者も」に相当する原文は次のとおりである。Neither the farmer who cultivates that quantity of land which regulates price,~お気づきのとおり、これでは意味が通じない。「量」と言っているが、「質」の間違いであろう。このquantityは、第1版と第2版では、quality となっていたのが、第3版でquantityになったと言われている。誤植であると思われる。 穀物と製造品が常に同じ価格で売られると仮定すれば、利潤は賃金が低いか高いかに応じて高いか低いかになろう。しかし、穀物の生産により多くの労働が必要となるために穀物の価格が上がると仮定しよう。その原因は、生産のために追加の労働が必要とされない製造品の価格を引き上げることはないであろう。それでは、もし賃金が同じであり続けたなら、製造業者の利潤は同じままであろう。しかし、これは絶対に確かなことであるが、もし賃金が穀物の価格の上昇によって上がれば、そのときには利潤は必ずや低下するであろう。 仮に、製造業者が常にその商品を同じ価格、例えば1000ポンドで売ったとならば、彼の利潤は、それらの商品を製造するのに必要な労働の価格に依存するであろう。賃金が800ポンドのときには、彼が賃金を600ポンドしか払わなかったときに比べ彼の利潤は少なくなるであろう。それでは、賃金が上がるのに比例して利潤は低下するであろう。 【原生産物の価格上昇】 しかし、原生産物の価格が上がれば、農業者は賃金に対し追加額を支払うであろうが、少なくても農業者は同じ利潤率を確保することになるのではないのか、と聞かれるかもしれない。しかし、決してそのようなことはない。というのも、農業者は、製造業者たちと同じように彼が雇う各労働者に対し賃金の追加分を支払う必要があるだけではなく、その同じ量の生産物を得るために地代を支払うか、或いは追加の労働者を雇うかのいずれかを余儀なくされるからである。そして、原生産物の価格の上昇は、その地代、或いは追加の労働者に見合ったものにしかならず、農業者に対し賃金の上昇分を補償することはないからである。 |
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【解説】
it may be asked whether the farmer at least wouldnot have the same rate of profits,~ この英文に対し、次の訳が与えられた。「農業者は、(賃金に対する追加額を支払わねばならないとしても、)少なくとも同一率の利潤を得ないだろうか、と」(羽鳥・吉澤訳) この訳は、at least がthe same rate of profitsを修飾する者と考えているが、そうではない。農業者を修飾しているのだ。 |
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【具体例】
もし、製造業者と農業者の双方が10人の労働者を雇い、そしてその賃金が1人につき24ポンドから25ポンドに上がった場合には、それぞれが支払う総額は240ポンドではなく250ポンドになるであろう。しかし、これは、同じ量の商品を手に入れるために製造業者によって追加的に支払われることになる全額である。しかし、新しい土地の農業者は多分追加の労働者を1人雇うことが余儀なくされるであろう。従って賃金として25ポンドの追加額を支払うことが余儀なくされるであろう。そして、古い土地の農業者は、地代として25ポンドという全く同じ追加額を支払うことが余儀なくされるであろう。そうした追加の労働が発生しなかったならば、穀物の価格が上がることもなければ、地代が上がることもなかったであろう。従って、一方は賃金だけに275ポンドを支払う必要があり、もう一方は賃金と地代の合計として275ポンドを支払う必要があろう。ともに製造業者よりも25ポンド多く支払うことになろう。この後者の25ポンドに対しては、農業者は原生産物の価格の上昇によって補償を受ける。従って、彼の利潤は製造業者の利潤となお一致する。この命題は重要であるのでさらに解説をしよう。 |
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【解説】
穀物の生産が困難になり、その結果、賃金の上昇が起きるとともに一定量の穀物を生産するのに労働者を1人追加することが必要になれば、さらに25ポンドが賃金か地代として必要になるとリカードは言うが、錯覚ではないのだろうか? (資本)(生産物) <優等地>250ポンドXポンド <限界地>275ポンドXポンド このままでは、地代が算出できないので、同額の資本が用いられるとすれば、次のとおりになる。 (資本)(生産物) <優等地>275ポンド1.1・Xポンド <限界地>275ポンドXポンド 以上から、生産物の差は、0.1・Xになるので、それが地代になる訳であるが、 0.1・Xが25ポンドになるのは、生産物が250ポンドの場合だけであり、また、その場合には利潤がゼロになるということであるので、地代が25ポンドであることはあり得ない。仮に生産物が500ポンドであったとすれば、地代は50ポンドになるだろう。 従って、リカードが言うような、「追加労働者に支払う賃金=地代」の関係が成立することはない。 |
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【社会の進歩と分配の変化】
我々は、社会の初期の段階では、大地の生産物の価値に対する地主と労働者の取り分の割合は、ともに小さなものに過ぎないであろうということを示してきた。そして、それが富の進歩と食料調達の困難さが増すのに比例してその割合が増加するであろうということを示してきた。我々はまた、労働者の分け前の価値は、食料の価値が高いことによって増加されるが、労働者の真実の取り分は減少することになるということも示してきた。その一方、地主の分け前は、価値が上がるだけでなく量においても増加することになる、と。 地主と労働者に支払った後に残る土地の生産物は必ず農業者に帰属し、彼の資本の利潤を構成する。社会が進歩するにつれて全体の生産物に対する彼の取り分は減少することになるが、それでもその価値は上昇するので彼は地主や労働者と同じようにより大きな価値を手にするだろうと、主張されるかもしれない。 【利潤の具体例】 例えば、次のように言われるかもしれない。穀物の価格が4ポンドから10ポンドに上がったとき、最も良い土地から得られた180クォーターは、720ポンドではなく1800ポンドで売られるであろう。従って、地主と労働者は、地代と賃金としてより大きな価値を確保することが証明されるとしても、それでも、農業者の利潤も多くなるかもしれない、と。しかし、これは不可能である、私が今から証明するように。 先ず、穀物の価格は、最も質の悪い土地で穀物を生産する場合の生産の困難さが増すことに比例してのみ上がるであろう。もし、ある質の土地で10人の労働が180クォーターの小麦を手に入れ、そして小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであれば、全部で720ポンドになることは既に言ってきたとおりだ。そして、もし追加の10人の労働が同じ土地、或いは別の土地で追加として170クォーターの小麦しか生産しなければ、小麦は4ポンドから4ポンド4シリング8ペンスに上昇するであろう。というのも、170対180ということは、4ポンド対4ポンド4シリング8ペンスになるからだ。別の言い方をすれば、170クォーターの小麦の生産に一方の場合には10人が必要であり、もう一方の場合には9.44人しか必要としないので、増加率は9.44対10であり、それは4ポンド対4ポンド4シリング8ペンスになる。同様にして、もし追加の10人が160クォーターの小麦しか生産しないのであれば、価格はさらに4ポンド10シリングまで上がることが示されるであろう。もし150クォーターであれば、4ポンド16シリングまで上がるであろう。その後も同じように続くであろう。 |
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もし、農業者が、これらの等しい価値のなかからあるときは4ポンドという小麦の価格で、またあるときにはそれより高い小麦の価格で規定された賃金を支払うことを余儀なくされるのであれば、彼の利潤率は穀物価格の上昇に比例して減少することになるのは明らかである。
従って、このケースにおいて、労働者の貨幣賃金を上昇させる穀物の価格の上昇は、農業者の利潤の貨幣価値を減少させることがはっきりと証明されたと思う。 しかし、古くて質の良い土地の農業者のケースも全く異なることはないであろう。彼もまた、支払うべき賃金を増加させているであろう。そして、どんなに穀物の価格が上がることがあっても、彼と彼の常に等しい数の労働者との間で配分される720ポンドを上回る生産物の価値を彼が保持するということは決してないであろう。従って、労働者が多く取るのに比例して、農業者の取り分は少なくなるに違いない。 【地代の負担者】 穀物の価格が4ポンドであったとき、180クォーターの全ては耕作者のものであり、それを彼は720ポンドで売った。穀物の価格が4ポンド4シリング8ペンスに上がったとき、彼はその180クォーターから10クォーターの価値を地代として支払うことを余儀なくされ、その結果残った170クォーターは720ポンドを上回る価値は生まなかった。穀物の価格が4ポンド10シリングにさらに上がったとき、彼は20クォーターを、或いはその価値を地代として払い、その結果160クォーターしか残らず、それが720ポンドという同じ額を生み出した。 それでは、穀物の価格がどれほど上がろうとも、一定量の追加生産物を得るためにより多くの労働と資本を用いることが必要になる結果、そうした価格の上昇は常に追加の地代、或いは追加の労働の価値に等しいものにされるであろう、ということが分かるであろう。その結果、穀物が4ポンドで売れようと、或いは4ポンド10シリングで売れようと、或いはまた5ポンド2シリング10ペンスで売れようと、農業者は、地代を支払った後に彼に残されたものによって同額の真実の価値を手に入れるであろう。こうして我々は、農業者に帰属する生産物が180、170、160、或いは150クォーターであろうと、彼は常にそこから720ポンドという同じ総額を手に入れるであろうということを知るのである。穀物の価格が、その量に反比例して上昇するからである。 それでは、地代は常に消費者に降りかかり、農業者には決して降りかからないように見える。というのは、もし彼の農場の生産物が常に180クォーターであるとすれば、価格の上昇が起きれば彼は自分のためにはより少ない量の生産物の価値を保持し、そして地主にはより大きな量の生産物の価値が与えられるであろうが、しかし差し引かれる額は、彼に常に720ポンドの総額を残すようなものになるからである。 全てのケースにおいて、720ポンドが、賃金と利潤に分けられなければならないことも分かるであろう。もし、土地から採れた原生産物の価値がこの価値を上回れば、それがどれほどの額であってもこの価値は地代に帰属する。もし上回るものがなければ、地代はないであろう。賃金や利潤が上がろうと下がろうと、それらが支払われなければならないのは、常にこの720ポンドからである。一方では、利潤は、労働者に絶対に必要なものを支給するのに十分なものが残らないほど多くのものをこの720ポンドのうちから吸い上げてしまうほど上がることはあり得ない。他方では、賃金は、利潤としてこの総額の如何なる部分も残さないほど上がることはあり得ない。 こうして全てのケースにおいて、もし原生産物の上昇に賃金の上昇が伴えば、製造業の利潤と同様農業の利潤も、原生産物の価格の上昇によって引き下げられる。 (注)読者は、不作だったり豊作だったりすることから生じる、或いは人口に影響を及ぼす何らかの突然の効果によって需要が増加したり減少したりすることから生じる偶発的な変動を我々が考慮に入れていないことに気が付いている。我々は、自然でかつ一定の穀物の価格について話をしているのであって、偶発的でかつ変動する穀物価格について話をしているのではない。 |
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【農業者の立場】
もし、農業者が地代を支払った後に残る穀物に対し何の追加の価値も得ることがなければ、そして、製造業者が彼の製造する商品に対し何の追加の価値も得ることがなければ、そしてさらに、双方が賃金に対しより多くの価値を支払うことを余儀なくされるのであれば、利潤は賃金の上昇によって低下するに違いないということ以上にはっきりと証明できるものがあるであろうか。 それでは、地代は常に生産物の価値によって規定され、かつ常に消費者に降りかかるものであるから、農業者は地主の地代の如何なる部分も支払わないが、地代を低く保つことに、或いはむしろ生産物の自然価格を低く保つことに決定的な利害関係を有している。 原生産物の、或いは原生産物が構成要素となっている商品の一消費者として、農業者は他の多くの消費者と同じように、その価格が低いことに利害関係を有するものである。しかし、彼は穀物の価格が高いことを大変心配する、それが賃金に影響を及ぼすからである。穀物の価格が上がる度に彼は、同じ額であって変わることのない720ポンドから彼が常に雇うとみなされている10人の労働者に対する追加の賃金を支払うことが必要になる。賃金を扱ったところで我々は、賃金は原生産物の価格が上がると必ず上がることを見た。58ページの計算のために仮定したケースを基にすれば、もし小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであるときは、賃金は年間24ポンドになることが分かるであろう。 |
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変わることのない720ポンドの基金は、労働者と農業者の間で次のように分配される。
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貨幣で計測した地代、賃金、利潤は次のとおり。
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そして、農業者の元々の資本が3000ポンドであったと仮定すれば、彼の最初のケースの資本の利潤は480ポンドであるので、利潤率は16%となろう。彼の利潤が473ポンドに落ちたとき、利潤率は15.7%になるであろう。
465ポンドに落ちれば、利潤率は15.5% 456ポンドに落ちれば、利潤率は15.2% 445ポンドに落ちれば、利潤率は14.8% しかし、利潤率はなお一層落ちるであろう。何故ならば、これは思い出さなければいけないことだが、農業者の資本は、穀物と干し草、脱穀されていない小麦と大麦、馬と牛のような原生産物で大部分は構成されており、それらは皆、生産物の価格上昇の結果価格が上昇することになるからだ。彼の利潤の絶対額は、480ポンドから445ポンド15シリングに落ちるであろう。しかし、私が今述べた理由により、もし彼の資本が3000ポンドから3200ポンドに増えるのであれば、穀物の価格が5ポンド2シリング10ペンスのとき、彼の利潤率は14%を下回ってしまうであろう。 【製造業者の利潤】 仮に、製造業者もまた、彼の事業に3000ポンドを投下したとすれば、賃金の上昇の結果、同じ事業を継続することを可能にするために彼は資本を増加させることが余儀なくされるであろう。もし、彼の商品が以前720ポンドで売れたとすれば、それらは同じ価格で売られ続けるであろう。しかし、かつて240ポンドであった労働の賃金は、穀物の価格が5ポンド2シリング10ペンスのときには274ポンド5シリングに上がるであろう。最初のケースでは、彼は3000 ポンドに対し利潤として480ポンドを残すだろうが、2番目のケースでは、彼は増加した資本に対し、445ポンド15シリングの利潤しか得ないであろう。従って、彼の利潤は、変更させられた農業者の利潤率と一致するであろう。 【商品の価格上昇の原因】 原生産物の価格の上昇によって多少なりともその価格が影響を受けることのない商品は殆どない。何故ならば、土地から採れる原生産物が、ある程度は殆どの商品に構成要素として入っているからである。綿製品、亜麻布、及び布地は全て、小麦の価格の上昇とともに上がるであろう。しかし、それらの価格が上がるのは、それらの原料となっている原生産物の生産に対しより多くの量の労働が投入されたからであり、それらの商品の生産のために用いられた労働者たちにその製造業者からより多くが支払われたからではない。 全てのケースにおいて、商品の価格は、それにより多くの労働が投入されるために価格が上がり、それらの生産に投下される労働の価値が高くなるからではない。宝石や鉄、金の延べ板、銅でできた商品の価格は上がらないであろう。何故ならば、地表から採られる原生産物は、そうした商品の構成要素とはなっていないからである。 |
【解説】
リカードは、「綿製品、亜麻布、及び布地は全て、小麦価格の上昇とともに上がるであろう」と言うが、例えば、綿製品の原料である綿花の生産に必要な労働量が、小麦の生産に必要な労働量と同じように変化すると、どうして言うことができるのであろうか。もし、そう言えないとすれば、綿製品は小麦の価格の上昇とともに上がることはない。 |
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【貨幣賃金が上がる原因】
私は、貨幣賃金が原生産物の価格の上昇によって上がるということを当然視している、しかし、これは決して必然の結果ではない、というのも労働者は少ない享楽品であってもそれで満足するかもしれないからだ、と言われるかもしれない。労働の賃金がかつて高い水準にあったかもしれないというのはそのとおりであり、また労働者たちが幾らかの賃金の引き下げには耐えるかもしれないということはそのとおりだ。もし、そうであれば、利潤の低下は阻止されることになる。しかし、必需品の価格が少しずつ上がるのに、貨幣賃金が低下するという事態や、或いは変わらないままであるという事態を想定することは不可能である。従って、通常の状況では、賃金を引き上げることなしには、或いは賃金の上昇が先行することなしには、必需品の価格の恒久的な上昇が起こる ことがないのは当然であると考えられるであろう。 仮に、労働者の賃金が支出される食料品以外の必需品の価格が幾らか上がったとしても、利潤に及ぼす影響は同じであったか、殆ど同じであったであろう。そうした必需品に対し労働者は追加の価格を支払うことが必要になることから、労働者は賃金の引き上げを求めざるを得なくなるであろう。そして、賃金を上昇させるものは何であっても、必ずや利潤を引き下げる。しかし、絹、ビロード、家具、そしてそれ以外の労働者が必要としない商品の価格が、それらを生産するためにより多くの労働が投下される結果、上がると仮定するならば、そのとき、そうしたものの価格の上昇は利潤に影響しないのであろうか?決して影響しない。というのも、賃金の上昇以外に利潤に影響を及ぼし得るものはないからだ。絹とビロードは、労働者が消費するものではない。従って、賃金が上がることはあり得ない。 【一般的利潤率】 私は、利潤率について、一般論を述べているということが理解されなければならない。ある商品の市場価格は、その商品に対する新たな需要が求めるほどの量が生産されないために、その自然価格即ち必然の価格を上回ることがあり得ることは、私が既に述べたところである。しかし、これは一時的な効果に過ぎない。その商品を生産することに用いられる資本は高い利潤を生み出すので、自然にその商売に資本を引きつけるものである。必要な資金が供給され、かつその商品の量が十分に増加させられるや否や、価格は低下するであろう。そして、その商売の利潤は一般の水準に一致するであろう。 一般的な利潤率の低下は、特定の資本の投下先に限られた利潤の上昇と両立しないというものでは決してない。資本がある投下先から他の投下先に移動していくのは、利潤が不均衡であるからである。それでは、賃金上昇の結果、そして増加する人口に対して必需品を供給することが難しくなる結果、一般的な利潤が低下し、そして徐々により低い水準に落ち着こうとする間、農業者の利潤は、ほんの少しの間、以前の水準を上回ることがあるかもしれない。 海外貿易と植民地貿易の特定の部門に対して、異常な刺激が一定期間与えられるかもしれない。しかし、このことを認めたとしても、その理論、つまり利潤は賃金が高いか低いかに依存し、そして賃金は必需品の価格に依存し、そして必需品の価格は主に食料の価格に依存する、何故ならば他の全ての必要な品々は、殆ど制限なく増加させられる可能性があるからだ、という理論を否定することには決してならない。 |
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【解説】
「必需品の価格は主に食料の価格に依存する、何故ならば他の全ての必要な品々は、殆ど制限なく増加させられる可能性があるからだ」ということの意味が理解しづらいかもしれない。これは、殆ど制限なく数量を増大させることのできる物は、食料とは違って供給量を増しても価格の上昇を招くことがないので、従って必需品の価格の変動の最大の原因は、食料の価格の変動であると言っているのである。 |
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【需給関係と資本の移動】
価格は常に市場で変動する、そして先ず、需要と供給の相対的な関係を通して変動するということを思い出さなければならない。布地を1ヤード40シリングで供給することができ、そして、それで通常の利潤を与えることができるとしても、流行が変わることによって、或いは突然思いもかけず需要を増やし或いは供給を減らす何らかの原因によって、布地の価格が60シリングまで或いは80シリングまで上がるかもしれない。布地の生産者は暫くの間、尋常ではない利潤を享受するであろう。しかし、資本が自然にその製造業に流れることとなる。そして、ついに供給と需要の関係が再び適正な水準を回復し、そしてそのときに布地の価格は再びその自然価格、つまり必然の価格である40シリングに落ちつくこととなる。 【利潤の自然的傾向】 同様にして、穀物に対する需要が増える度に、農業者に対し一般的利潤を上回る利潤を与えるほど穀物の価格が上がるかもしれない。もし、肥沃な土地が豊富にあれば、穀物の生産に必要とされる資本が投下された後、穀物の価格は再び以前の水準に低下するであろう。そして、利潤は、以前と同じこととなる。しかし、もし肥沃な土地が豊富にないのであれば、そしてもしこの追加の穀物を生産するために通常以上の資本と労働が必要とされるのであれば、穀物の価格は、かつての水準まで落ちることはないであろう。穀物の自然価格は引き上げられることとなる。そして、農業者はより大きな利潤を恒久的に享受するのではなく、必需品の価格の上昇によって生み出される賃金上昇の不可避的な結果である利潤率の低下に我慢せざるを得ない自分を発見することとなる。 そこで、利潤は、その自然の傾向として低下する。というのも、社会の進歩と富の発展のなかで、必要とされる食料の追加分は、益々多くの労働を犠牲にして手に入れられるからである。この傾向、いわば利潤の重力とでも言うべきものは、かつて必要とされた労働の一部を不要にすることができ、従って労働者の第一の必需品の価格を引き下げることができる、農業科学上の発明と同様、必需品の生産に関係する機械の改良によって、幸運にも何度も時間の間隔をおいて制止させられるのである。 【賃金上昇の上限】 しかし、必需品の価格の上昇及び労働の賃金の上昇は限られている。というのも、賃金が、農業者が受け取る全額である720ポンドに達するや否や(既に述べたケースのように)、そこで資本の蓄積は終るに違いないからである。というのも、そうなれば資本は何の利潤も生むことができなくなり、それ以上の労働が求められることはあり得ず、その結果人口は最大点に達しているからである。本当はこの時点に至る遥か前に、利潤率が非常に低くなることによって資本の蓄積が行われなくなっているであろう。そして、労働者に賃金を支払った後のその国の全生産物の殆どが、土地の所有者と十分の一税及び税の受領者の財産となるであろう。 こうして、以前使用した不完全なケースを私の計算のベースとすれば、穀物の価格がクォーター当たり20ポンドのときに、その国の全ての純所得は地主に帰属するように見える。というのも、そのときには、当初180クォーターを生産するのに必要とされた労働量が、36クォーターしか生産する必要がなくなるからである。それは、20ポンド対4ポンドは、180対36になるからである。それでは、180クォーターを生産した農業者(仮にそのような180クォーターの量を生産したという農業者がいたとしての話であるが。というのも、その土地には投下された古い資本と新しい資本が入り混じっていて区別することができないのであるから)は、次のように販売するであろう。 ・180クォーターを、クォーター当たり20ポンドで売ると‥‥3600ポンド ・144クォーター(地主の地代:180と36の差)の価値‥‥‥2880ポンド ・差額の36クォーターの価値‥‥‥720ポンド ・36クォーターの価値が10人の労働者へ‥‥‥720ポンド ・利潤は、ゼロ 以上の計算において、私は、次のように仮定した。 ・穀物の価格が20ポンドになったとき、労働者たちは、引き続き年間3クォーターの穀物を消費する(60ポンド)。 ・そして、それ以外の商品に対し労働者たちが引き続き12ポンド支出する。 ・この結果、各労働者は年間72ポンドを支出する。 ・従って、10人の労働者には年間720ポンドがかかるであろう。 これらの全ての計算において、私は、ただその原理を明らかにすることだけを望んできた。そのため、計算の基礎は無作為なものであり、単に例示することを目的としたということは殆ど言う必要がないであろう。結果として出てくるものは、人口の増加により次々と必要になる穀物の量を手に入れるのに必要な労働者の数、或いは労働者の家族により消費される穀物の量などの違いについて、私が如何に正確に述べたとしても、程度の差はあろうが原理としては同じものになっているであろう。 |
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【解説】
it is scarcely necessary to observe that my whole basis is assumed at random, and merely for the purpose of exemplification. この文章にat random という用語が出てくるが、この英文に対して次の訳が与えられた。「私の基準全体が恣意的に、また単に例証のために仮定されているということは、ほとんど言う必要もない」(羽鳥・吉澤訳) お気づきのように、この訳ではat randomを「恣意的に」としている。竹内謙二訳では「勝手に」としている。これらの訳は適切ではないのではなかろうか?しかし、このケースに出てくる数値は特定の目的のために選ばれたものであるから、そもそもat random、つまり「無作為に」想定したと言うことがおかしいのである。 |
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私の目的は問題を単純化することであり、従って食料以外の労働者の必需品の価格が上がることは考慮に入れていない。必需品の価格の上昇は、それらが作られている原材料の価格が上がった結果であろうし、またそれが勿論、さらに賃金を引き上げ、利潤を引き下げるであろう。
【資本蓄積の動機】 私は、価格のこのような状態が恒久的なものにならないうちに、資本の蓄積に対する動機がなくなるであろうということを既に述べた。というのも、蓄積された資本に生産をさせるという目的を持たないで資本を蓄積する者はいないからである。そして、蓄積された資本が利潤に作用するのは、生産のために用いられるときだけである。動機がないのであれば、資本の蓄積は起こり得ないであろうし、その結果、そうした価格の状態は決して起こり得ないであろう。農業者と製造業者は、労働者が賃金なしでは生きていけないのと同じように利潤がなければ生きていけない。彼らが資本を蓄積しようとする動機は、利潤が減少する度に少なくなるであろう。そして、彼らの苦労や、彼らが資本を生産的に用いようとするときに必ず遭遇するに違いないリスクに対し十分な補償を与えることがなくなるほど利潤が低くなるとき、資本蓄積の動機は全く止まってしまうであろう。 【利潤率の低下】 私は、利潤率は、私の計算で見積もったよりももっと急速に低下するであろうと再び述べなければならない。というのも、生産物の価値は、想定された状況の下で私が述べたようなものであるので、農業者の資本は必ずや価値の上がった多くの商品によって構成されることから、農業者の資本の価値は大きく増大するからである。 穀物が4ポンドから12ポンドに上がる前に、彼の資本は多分その交換価値が2倍になり、恐らく3000ポンドではなく6000ポンドになるであろう。もし、彼の利潤が180ポンドであったとしたら、即ち彼の元々の資本の6%であったとしたら、利潤はそのとき3%よりも高くなることはないであろう。というのも、3%で6000ポンドだということは、180ポンドを与えることになるからだ。そうした条件でしか、懐に6000ポンドを所持した新たな農業者は、農業という事業に参入することができないであろう。 多くの商売がこの同じ原因から多少なりとも何らかのメリットを受けるであろう。ビール醸造業者、蒸留酒製造業者、毛織物業者、及び亜麻布の製造業者は、原料と完成品からなる資本の価値の上昇によって利潤の減少の一部が補償されるであろう。しかし、金物類、宝石類、及びその他の多くの商品の製造業者は、その資本が一律にお金により構成されている人々と同様に、何の補償もなしに利潤率低下の効果を全て被るであろう。 【利潤の減少】 しかし、我々はまた、土地に対する資本の蓄積と賃金上昇の結果、資本の利潤率は低下するかもしれないが、それでもなお利潤の合計額は増加するであろうと予想するであろう。10万ポンドが繰り返し蓄積される度に、利潤率が20%から19、18、17%へと逓減率で低下すると仮定すれば、我々は、そうした連続する資本の所有者たちによって受け取られる利潤の総計は、常に増加すると予想するであろう。資本の量が20万ポンドであったときには、10万ポンドのときよりも利潤は大きいであろう。30万ポンドのときには更に大きいであろう。それから以降も資本の増加が起こる度に、率は落ちるであろうが利潤は増え続けるであろう、と。 |
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【解説】
We should also expect that, however the rate of the profits of stock might diminish in consequence of theaccumulation of capital on the land, and the rise of wages, yet that the aggregate amount of profits would increase. この英文のWe should also expect that~は、どのように訳すべきなのか? 2つの例を挙げる。「われわれはまた、〜と予想すべきである」(羽鳥・吉澤訳) 「吾々はまた〜を期待すべきである」(竹内謙二訳) それらのようにshouldを義務を表すものとして訳してしまうと、どうも文章のつながりが悪くなってしまう。何故ならば、このshould にはalsoが付いているが、それ以前の文章には、我々が予想すべきようなことは何も述べられていないからである。このshouldは推量を表すもので、「〜であろう」と訳すべきである。 |
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しかし、この増加は一定の期間においてのみ真実である。例えば、20万ポンドの19%は10万ポンドの20%を上回る。さらに、30万ポンドの18%は20万の19%を上回る。しかし、資本が巨大な額になるまで積み上り、かつ利潤が落ちた後にさらに資本が蓄積されると、利潤の総額を減少させる。資本の蓄積額が100万ポンドであり、利潤率が7%だと仮定すれば、利潤の総額は7万ポンドになるであろう。ではもし、その100万ポンドの資本に10万ポンドが追加され、そして利潤率が6%に低下すれば、資本の総額は100万ポンドから110万ポンドに増加することになるが、資本の所有者によって6万6千ポンドが、つまり4千ポンド減少した額が受け取られることとなる。
しかし、資本が何らかの利潤を生む限り、生産物の量の増加だけでなく価値の増加を生みださない資本蓄積などあり得ない。追加の10万ポンドを用いることによって、以前の如何なる部分の資本も生産力を落とすことにはならない。その国の土地と労働の生産物は増加するに違いない。そして、その価値は引き上げられるであろう。以前の生産物の総量に対して追加される生産物の価値によって資本の価値は引き上げられるだけでなく、生産物の最後の部分を生産する困難度が増すことによって、土地の全ての生産物に対して与えられる新しい価値によっても引き上げられることになる。 【利潤の侵食】 しかし、資本の蓄積が非常に大きくなるときには、この増加した価値にも拘わらず、増加した価値は、以前よりも小さい価値が利潤には充てられ、その一方で地代と賃金に充てられるものは増加するように分配されるであろう。こうして、連続して10万ポンドの資本が追加される度に、例えば利潤率が20%から19%、18%、17%へと低下する度に、年間得られる生産物は量において増加するであろうし、その価値は、追加の資本が生みだすと見られる追加の全価値を上回るものとなろう。 それは、2万ポンドから3万9千ポンドを上回るものに増加するであろう。そして、それから5万7千ポンドを上回るものに増加するであろう。そして、私たちが前に想定したように用いられた資本が100万ポンドになるとき、もしそれにさらに10万ポンドが加えられ、かつ利潤の総額が実際に以前より低いとしても、それでもなお6千ポンドを上回るものが国の収入に加えられるであろう。しかし、それは地主と労働者たちに対する収入となろう。彼らは、追加の生産物を上回るものを得るであろう。そして、彼らは、その状況から資本家の以前の取り分さえも侵食することができるようになるであろう。 それでは、穀物の価格が4ポンドであり、従って我々が以前計算したように、地代を支払った後に農業者に残る720ポンドのうち、480ポンドを農業者が保持し、240ポンドが労働者たちに支払われたと仮定しよう。価格がクォーター当たり6ポンドに上がったとき、農業者は労働者に300ポンドを支払うことが余儀なくされ、彼の利潤として420ポンドしか保持できなくなるであろう。農業者は、労働者たちが、以前と同じ量であって、それ以上ではない量の必需品を消費することが可能になるように、労働者たちに300ポンドを支払うことが余儀なくされるであろう。 では、仮に投下された資本が720ポンドの10万倍、即ち7200万ポンドを生みだすほど大きかったとしたら、小麦の価格がクォーター当たり4ポンドであったときには利潤の総合計は4800万ポンドとなろう。そして、それよりも大きい資本を用いることによって、小麦の価格が6ポンドであったときに720ポンドの10万5千倍、即ち7560万ポンドが得られたとすれば、その場合には利潤は実際に4800万ポンドから4410万ポンド、即ち420ポンドの10万5千倍に低下し、賃金は、2400万ポンドから3150万ポンドに増加するであろう。 |
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【解説】
7560万ポンドの生産物が獲得されたときに、利潤が4410万ポンドになり、賃金が3150万ポンドになる理由は、小麦の価格がそれまでのクォーター当たり4ポンドから6ポンドへ上昇するためである。即ち、小麦の価格がそれまでの4ポンドであったときには、720ポンドの小麦が480:240(2:1)の割合で利潤と賃金に分配されていたのが、価格が6ポンドになると、420:300(1.4:1)の割合で分配されるようになるからである。 利潤は、7560×1.4/2.4=4410で、4410万ポンドとなり、賃金は、7560× 1/2.4=3150で、3150万ポンドになる。 |
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【労働者と地主】
賃金は上昇するであろう。何故ならば、資本に比例するものを上回る労働者が用いられることになるからである。そして、各労働者は、より多くの貨幣賃金を受け取るであろう。しかし、我々が既に示したように、労働者の状況は、 彼がその国の生産物のより少ない量しか支配できない限り悪化するであろう。唯一の真実の利得者は、地主であろう。彼らはより高い地代を得るであろう。何故ならば、第一に、生産物がより高い価値を有するからである。第二に、彼らはそうした生産物のうちのより大きな割合を確保するからである。 |
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【解説】
「賃金は上昇するであろう。何故ならば、資本に比例するものを上回る労働者が用いられることになるからである」 資本が増加する割合を上回って労働者数が増えると、何故賃金は上昇するのだろうか?賃金はむしろ低下すると考えるのが普通ではないのか? リカードが考えることはこうである。社会が発展し人口が増加すると、肥沃な土地が相対的に少なくなる。そうすると土地の生産性が落ち、一定量の穀物を生産するのに必要な労働者の数が増加する。しかし、その一方で、労働者には、労働者の生存を確保するものが与えられなければならないので、人口の増加に従い全生産物に占める労働者側の取り分が増大し、資本家の取り分は減少する。 つまり、労働者の数が増え、食料の生産が困難になるのに比例して、全生産物中に占める労働者の取り分が増えるので、賃金が上昇するとリカードは言うのである。 |
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【資本家と労働者】
より大きな価値が生産されるのであるが、地代を支払った後に残る価値のより大きな割合が生産者(【注】ここでは労働者のことを指している)たちによって消費される。そして、これが、これだけが利潤を規定するのである。土地が豊富に生産する間、賃金は一時的に上がることがあるかもしれず、そして生産者たちはいつもの割合以上のものを消費するかもしれない。しかし、人口に対して与えられる刺激が速やかに労働者たちの消費を通常の水準にまで引き下げるであろう。 しかし、痩せた土地が耕作に供されるとき、或いはより多くの資本と労働が古い土地に投下されるとき、より少ない生産物の収益しか得られず、その効果は恒久的なものになるに違いない。資本の所有者と労働者たちに分配される、地代を支払った後に残るもののより大きな割合が、後者に充てられることとなる。各自は、より少ない絶対量しか得られないかもしれないし、また多分そうなるものである。しかし、農業者が保持する全生産物に比例するものを上回る労働者が用いられるのであるから、全生産物のうちより大きな価値が賃金として吸収されることになる。その結果、より少ない割合の価値が利潤に充てられることになる。これは土地の生産力を制限している自然の法則によって、必ずや恒久的なものにさせられるであろう。 【利潤を規定するもの】 こうして、我々は、我々がかつて立証しようと試みた同じ結論に再び到着する。全ての国、全てのときにおいて、利潤は、地代を生まない土地に対して、或いは地代を生まない資本とともに投下される労働者たちに、必需品を供給するのに必要とされる労働量に依存する。それでは、資本の蓄積の効果は、国によって異なるであろう。そして、主に土地の肥沃度に依存するであろう。ある国が如何に広大であっても、その土地がやせた土地ばかりであり、かつ食料の輸入が禁止されているのであれば、少々の資本の蓄積でさえも利潤率の大きな低下を起こし、地代が急速に上昇するであろう。その反対に、小さいけれども肥沃な国は、そして特に食料の自由な輸入を認めるのであれば、利潤率の大きな低下を招くことなく、或いは地代の大きな上昇を招くことなく大きな資本を蓄積するかもしれない。 【賃金上昇の影響】 賃金に関する章で、我々は商品の貨幣価格は、賃金の上昇によって引き上げられるものではないことを示そうとした。お金の標準である金がこの国の産物であったとしても、或いはそれが海外から輸入されたものであったとしても、いずれの想定の下においても、である。しかし、仮にそうでなかったとしても、つまり、もし商品の価格が高い賃金によって恒久的に引き上げられたとしても、高い賃金は労働の雇用主から彼らの真実の利潤の一部を奪うことによって常に彼らに影響を与えるという命題が、真実でないということにはならないであろう。 帽子屋、靴下屋、及び靴屋は、各自特定量の彼らの商品を生産するために10ポンドの賃金を支払ったとし、帽子と靴下と靴の価格が、それぞれの製造業者にその10ポンドを払い戻すのに十分なだけ上がったと仮定しよう。彼らの状況は、そうした値上がりが起こらなかった場合と比べ少しもよくならないであろう。もし、靴下屋が靴下を100ポンドではなく110ポンドで売ったとしたら、彼の利潤は以前と正確に同じ貨幣額となるであろう。しかし、彼はこの同じ額のお金と交換に手に入れる帽子、靴下、及びその他の製品の量は1/10少なくなるため、そしてまた、以前の金額の貯蓄で彼が雇うことのできる労働者は、賃金が上がったので少なくなるため、さらに彼が購入することのできる原材料は価格が上がったので少なくなるため、彼の貨幣利潤が実際に減少し、かつ全てのものが以前の価格のままであった場合と比べ、少しも改善することはないであろう。 それでは、こうして私は第一に、賃金の上昇は商品の価格を引き上げることはなく、そうではなく、常に利潤を引き下げることになること、を証明しようとしたことになる。第二に、もし全ての商品の価格を引き上げられることができたとしても、なお利潤に対する効果は同じになること、そして実は、価格と利潤が計測される仲介物の価値だけが引き下げられることになるということを証明しようとしたことになる。 |
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■第7章 海外貿易について | |||||||||||||
【海外貿易と価値】
海外貿易の拡大は、一国の商品の総量を増大させ、従って享楽品の総量を増大させることに大変力強く貢献するものであるが、一国の価値の総量を直接に増加させることにはならない。全ての海外産の商品の価値は、それらと引き換えに与えられる我々の土地と労働の生産物の量によって計られるので、仮に我々が、新しい市場の発見によって我々の商品の一定量と引き換えに2倍の量の海外産の商品を手に入れたとしても、我々は今までより大きい価値を得ることはないであろう。 【具体例】 もし、ある商人が、英国産の商品を1000ポンド分購入することによって、英国の市場において1200ポンドで売ることのできるある量の海外産の商品を手に入れることができれば、彼はそうして資本を用いることによって20%の利潤を得ることになる。しかし、彼の利益も、また輸入される商品の価値も、そうして得られる海外産の商品の量が多かったり少なかったりするからといって増加することもなければ減少することもないであろう。例えば、彼が25樽のワインを輸入しようと、或いは50樽のワインを輸入しようと、もしあるときには25樽が、またあるときには50樽が同じように1200ポンドで売れるのであれば、彼の利益は影響を受けることはあり得ない。いずれの場合においても、彼の利潤は200ポンド、即ち資本の20%に限定されることになる。そして、いずれの場合にも、同じ価値が英国に輸入されることになる。 【海外貿易と利潤】 もし、50樽が1200ポンドを上回る価格で売れたとしたら、この商人の利潤は一般的な利潤率を上回るであろう。そして、資本は、ワインの価格が低下し全てを以前の水準に引き戻すまで、自然にこの有利な商売に流れ込むであろう。 海外貿易において特殊な商人が時々挙げる大きな利潤が、その国の一般的利潤率を引き上げると確かに主張されてきた。そして、その新しい有利な海外取引に参加するために他の投資先から資本を引き抜くことが、全般的に価格を引き上げ、それによって利潤を引き上げると主張されてきた。 穀物の生産に充てられる資本、そして布地、帽子、靴などの製造に充てられる資本が必ず少なくなるので、それらに対する需要が変わらない限り、これらの商品の価格は大きく引き上げられ、その結果農業者、帽子屋、毛織物業者、 そして靴屋は、その海外の商人と同じように利潤を増加させるであろうと権威者によって言われてきた。 (注)アダムスミスの第1編9章を参照 |
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【解説】
当時、アダムスミスなどは、海外貿易は次のようにして国内産業の利潤率を引き上げると考えた。 海外貿易でビジネスチャンスが拡大→儲かる部門へ資本が移動→既存部門の資本不足→供給不足の発生→価格の上昇→利潤率の全般的な上昇 |
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【リカードの批判】
こうした考えを持つ人々は、私と同じように、異なった投資先の利潤はお互いに一致する傾向があること、そして、ともに上昇しともに低下する傾向があることを認める。我々の違いはここにある。彼らは、利潤率の均一化は、利潤の全般的上昇によってもたらされる、と主張する。私は、その有利な事業の利潤は、速やかに一般的水準にまで低下することになるという意見である。 というのも第一に、こうした商品の需要が減ることがない限り、穀物の生産や、布地、帽子、靴などの製造に充てられる資本が必ず少なくなるということを私は否定する。そして、仮にそうであれば(【注】同じ量の資本が用いられるのであれば)、それらの価格が上がることはないであろう。 【資本不足が起こらない理由】 海外の商品の購入には、英国の土地と労働の生産物の同じ量か、より多い量か、或いはより少ない量が用いられるであろう。 もし海外商品の購入に同じ量の生産物が用いられるとすれば、そのときには、布地、靴、穀物、そして帽子に対し以前と同じ需要が存在することになり、そして、同じ量の資本がそれらの生産に充てられることになる。 もし、海外産の商品の価格が安い結果、英国の土地と労働の年間生産物のうちのより少ないものが海外の商品を購入するために用いられるとすれば、他の商品(【注】国産商品)を買うためにより多くのものが残ることになる。仮に、海外商品の消費者の自由に使える収入が追加されるために、帽子、靴、穀物などに対し以前よりも大きな需要があるというのであれば―より大きな需要があるであろうが―かつて、より大きな価値の海外の商品を購入した資本も、また自由に使えるのである。その結果、穀物、靴などに対する需要が増加しても、増大した供給を調達する手段もまた存在する。従って、価格、或いは利潤もまた、永久に上がるということはない。 もし、英国の土地と労働の生産物のうち今までより多くものが、海外の商品の購入のために用いられるとすれば、他の商品の購入のためにはより少ないものしか用いることができない。従って、帽子、靴などは、より少ない量が求められるであろう。資本が、靴、帽子などの生産から解放されると同時に、海外の商品を購入するために用いる他の商品の製造にはより多くの資本が用いられるに違いない。 その結果、全てのケースにおいて、海外の商品と国産の商品の合計に対する需要は、価値に関する限り、その国の収入と資本により制限される。 【具体例】 もし、一方が増えれば、もう一方は減らなければならない。もし、同じ量の英国の商品と引き換えに輸入されるワインの量が倍になれば、英国の人々は、今までの2倍の量のワインを消費するか、或いは同じ量のワインとより大量の英国の商品を消費するか、のいずれかが可能になる。仮に、私の収入が1000ポンドで、そしてそれで毎年100ポンドのワイン1樽と900ポンドの英国の商品の一定量を購入していたならば、ワインが1樽50ポンドに低下したときには、私は、その節約された50ポンドを追加のワインの購入か、或いはそれまで以上の英国産の商品の購入か、のいずれかに当てるかもしれない。仮に、私がさらにワインを購入し、そして全てのワイン呑みが同じような行動に出たら、海外貿易は少しも攪乱されることはないであろう。ワインと引き換えに、これまでと同じ量の英国産の商品が輸出されるであろう。そして、我々は2倍の量のワインを受け取るであろうが、その価値は2倍ではないであろう。 しかし、仮に私と他の者たちが、今までと同じ量のワインで満足したとすれば、より少ない英国産商品が輸出され、そしてワイン呑みは、以前は輸出されていた商品を消費するか、或いは彼らが好きな何か他のものを消費するか、のいずれかになるかもしれない。それらの生産に必要とされる資本は、海外貿易から解放された資本によって供給されるであろう。 【資本蓄積の2つの方法】 資本が蓄積されるには2つの方法がある。収入の増加か消費の減少のいずれかの結果、資本は貯蓄されるであろう。もし、私の支出が同じ額であり続ける一方で、利潤が1000ポンドから1200ポンドに増えれば、私は以前よりも200ポンド多く毎年貯蓄する。もし、私の利潤が同じ額であり続ける一方で、支出を200ポンド節約すれば、同じ結果が生み出されることになる。年間200ポンドが私の資本に追加されることになる。 【具体例】 利潤が20%から40%に上がった後にワインを輸入した商人は、英国産の商品を1000ポンドで買うのではなく、857ポンド2シリング10ペンスで買わなければならない、依然として、それらの商品の見返りとして輸入したワインを1200ポンドで売り続けながら。そうではなく、もし彼が1000ポンドで英国産の商品を購入し続けたとすれば、ワインの価格を1400ポンドに引き上げなければならない。彼はそうして自分の資本に対し20%ではなく40%の利潤を得るであろう。 |
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【解説】
857ポンド2シリング10ペンスで買ったものを1200ポンドで売れば、40%の利潤を得ることになる理由は次のとおりである。 857ポンド2シリング10ペンス=(857+2/20+10/12/20)ポンド =(857+0.1+0.04166)ポンド =857.14166ポンド 1200÷857.14166=1.40000従って、40%の利潤となる。 |
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しかし、もし彼の収入が支出される全ての商品が安くなる結果、彼とその他の全ての消費者が、彼らが以前支出していた1000ポンドのうち200ポンドを節約することができるのであれば、彼らはもっと効果的に国家の真実の富を増やすであろう。一方のケースでは、収入の増加の結果貯蓄がなされ、もう一方のケースでは、支出が減少した結果貯蓄がなされるであろう。
【結論】 もし、機械の導入によって、収入が費やされる商品の大部分の価値が20%低下したならば、私は、収入が20%増加した場合と同じように効果的に貯蓄することができるであろう。しかし、一方のケースでは利潤率は変わらないのに、もう一方のケースでは20%上がる。もし、安い海外製品の流入で、私が支出から20%を節約することができるのであれば、その効果は、機械の導入でそれらの生産費用を引き下げた場合と正に同じになる。しかし、利潤は引き上げられないであろう。 従って、市場拡大の結果、利潤率が引き上げられるということはない。但し、市場拡大によって、商品の総量を増加させることには同様に効果があり、そして、それによって労働維持のための基金と労働が投下される原材料を増大させることが可能になるかもしれない。 労働配分を改良することによって、また、その位置、気候、或いはその他の自然の有利性や人為的な有利性から、その国にとって最も相応しい商品を各国が生産することによって、さらにまたそうした商品を他の国々の商品と交換することによって、我々の享楽品を増大させるということは、そうした享楽品が利潤率の上昇によって増大されることと同じように人類の幸せにとって重要なことである。 【海外貿易と利潤率】 この書物のなかで一貫して私は、利潤率は、賃金が低下することでしか引き上げることができないということを示そうとしてきた。そして、賃金が支出される必需品の価格が低下する結果としてでしか、賃金の恒久的な低下はあり得ないことを示そうとしてきた。従って、もし海外貿易の拡張によって、或いは機械の改良によって、労働者の食料と必需品を安い価格で市場に持ち込むことができるのであれば、利潤は上がることとなる。もし、我々が消費する穀物を栽培する代わりに、或いは、労働者の衣類やその他の必需品を製造する代わりに、こうした商品を安い価格で我々に供給することができる新しい市場を我々が発見すれば、賃金は低下し利潤は上がることとなる。しかし、もし海外貿易の拡大や機械の改良によって安い価格で得られる商品が、専ら金持ちが消費するような商品であれば、利潤率の変更は起こらないであろう。ワイン、ビロード製品、絹製品、そしてその他の高価な商品が50%低下しても、賃金に変更はないであろう。その結果、利潤も同じままであろう。 それでは、海外貿易は、収入が支出される目的物の量や種類を増加させるので、そしてまた、商品が豊富で安くなることによって貯蓄や資本の蓄積に誘因を与えるので、ある国にとって大変有利になるが、輸入される商品が労働者の賃金が支出されものでないのであれば、資本の利潤を引き上げる傾向はない。 【労働省力化と利潤】 海外貿易に関して言ってきたことは、国内の取引にも等しく当てはまる。利潤率は、労働配分の改良、機械の発明、道路と運河の開通、或いは製造か流通のいずれかにおける何らかの労働省力化手段によって引き上げられることは決してない。こうしたことは価格に作用する原因であって、消費者にとって必ず大変にためになる。というのは、そうしたことによって彼らは、同じ労働、或いは同じ労働の生産物の価値と交換に、そうした改良が適用される商品を大量に入手することができるようになるからである。しかし、それらは利潤には何の影響も与えない。他方、労働の賃金が低下する度に利潤は上がる。しかし、それは商品の価格には何の影響も及ぼさない。一方は、全ての階級にとってためになる。というのも、全ての階級が消費者だからである。もう一方の場合には、生産者にとってのみ利益となる。彼らの利益は多くなるが、全ては以前の価格のままである。最初のケースでは、彼らは以前と同じものを得る。しかし、彼らの利益が費やされる全てのものは、交換価値が低下している。 |
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【解説】
一般の人々一般の人々は、機械の発明などがなされると利潤が上がると考えるであろう。そそれは次のような発想をするからである。 械の発明、機械の発明、道路と運河の開通、労働の省力化→生産コストの削減→ 利潤の増加 それに対して、リカードは、機械が発明されても利潤率は上がらないと考える。それは、生産コストが低下しても、仮に価格が低下しないとすれば、一般的な利潤率に比べ当該業種の利潤率が高くなり、その結果資本の流入が起こり、生産量が増加するので、結局、価格は低下すると考えるからである。但し、少し前のところでリカード自身「もし海外貿易の拡張によって、或いは機械の改良によって、労働者の食料と必需品を安い価格で市場に持ち込むことができるのであれば、利潤は上がることとなる」と言っていることに注意すべきである。即ち、機械の発明や、道路や運河の開通等も、それらが食料等の価格低下につながるものであれば、利潤率を引き下げる要因になるのである。 では、賃金が低下した場合には、生産コストが削減されるから、価格が低下することはないのであろうか?リカードは、そうはならないと考える。何故ならば、賃金が低下するということは、全ての産業において賃金が下がるということを意味するので、賃金の低下が起こっても資本の移動は起こり得ず、従って価格が変わることはないというのである。 |
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【個々の利益の追求】
一つの国の商品の相対価値を規定する正にその同じルールが、2カ国以上の国の間で交換される商品の相対価値を規定することはない。完全に自由な貿易体制の下においては、各国は、その資本と労働を各自にとって最も有利な投下先に自然に振り向ける。この個々の利益の追求が、全体の普遍的な利益と見事に結合する。勤労を刺激することによって、才能に対して報酬を与えることによって、そして自然によって授けられた特殊な能力を最も有効に用いることによって、労働を最も効果的にそして最も経済的に配分するのである。一方、生産物の総量を増大させることによって全体の恩恵を広め、そして利益と付き合いという一つの共通の絆で、文明化した世界中の国々からなる共通の社会を結び付けるのである。 ワインはフランスとポルトガルで作られ、そして、穀物はアメリカとポーランドで作られ、そしてまた、金物類と他の商品は英国で製造されると決めるのは、この原理なのである。 【利潤率均一化と国境】 同一の国では、一般的に言って利潤は常に同じ水準にある。さもなければ、資本の用いられ方が安全なものかどうか、或いは好みに合うものかどうかで違うだけである。しかし、国が異なればそうではない。仮に、ヨークシャーで用いられる資本の利潤がロンドンで用いられる資本の利潤を上回れば、資本は速やかにロンドンからヨークシャーへ移動するであろう。そして、利潤率の均一化がもたらされるであろう。しかし、資本の増加と人口の増加から英国の土地の生産率が低下した結果賃金が上がり利潤が下がる場合、資本と人口は、英国から、利潤が高いかもしれないオランダやスペインやロシアへ必ず移動するということにはならないであろう。 【ポルトガルのケース】 仮に、ポルトガルが他の国々と何の商業的つながりも持たなかったとしたら、その資本と労働の大部分をワインの生産に用いる代わりに―そのワインでポルトガルは自国で使用する他国製の布地と金物類を購入するのであるが―ポルトガルは、その資本の一部をそうした商品の製造のために振り向けることが余儀なくされるであろう。そして、ポルトガルがそうして得る商品は、多分量だけではなく質も劣るであろう。 【比較優位の原理】 ポルトガルが英国の布地と引き換えに与えることになるワインの量は、仮にそれらの両方の商品が英国で、或いはポルトガルで製造されたとした場合の、それぞれの商品の生産に充てられた労働量によって決定されるのではない。 英国は、布地を生産するためには1年間に100人の労働を必要とし、そして仮に英国がワインを生産することを試みたとしたら、同じく1年間に120人の労働を必要とする、という状態にあるかもしれない。そのような場合には、英国はワインを輸入し、そして布地の輸出によってワインを購入することが、英国の利益になることが分かるであろう。 |
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【解説】
これだけのリカードの説明では、何故英国がワインを輸入し、かつ布地を輸出することが利益になるのか、分かりにくいであろう。ここでは、1単位の布地と1単位のワインが、国際市場では同じ価値がついているとの前提で考えると分かり易い。つまり、1単位のワインと1単位の布地の相対価格は、国際市場では1:1であり、他方、英国では1:1.2であるのであれば、英国の立場で考えれば、価値の低い布地を引き渡し、その代わりに価値の高いワインを手に入れた方が得になるのである。 |
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ポルトガルでワインを生産するのには、1年間に80人の労働しか必要としないかもしれない。そして、同国で布地を生産するのには1年間に90人の労働を必要とするかもしれない。そのような場合には、ポルトガルにとっては、布地と引き換えにワインを輸出した方が有利になるであろう。この交換は、ポルトガルが輸入する商品が、英国よりも少ない労働でポルトガルにおいて生産することができるにも拘わらず、それでもなお起きるかもしれない。
ポルトガルは90人の労働で布地を作ることができるであろうが、それを作るのに100人の労働を必要とする国から輸入するであろう。何故ならば、ポルトガルにとっては、むしろワインの生産に資本を用いた方が有利だからである。ポルトガルは、仮に自国の資本の一部をブドウの栽培から布地の製造に切り替えた場合に生産することのできる量より多くの布地を、ワインと引き換えに英国から手に入れることになる。 |
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【表】布地とワインを、それぞれ1単位生産するのに必要な労働量
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こうして、英国は80の労働の生産物を得るために、100の労働の生産物を与えるであろう。そうした交換は、同じ国のなかの個人間では起こり得ないであろう。100人の英国人の労働が、80人の英国人の労働に対し与えられることはない。しかし、100人の英国人の労働の生産物が、80人のポルトガル人の労働、60人のロシア人の労働、或いは120人の東インド人の労働の生産物に対し与えられることはあり得る。
【海外取引の特異性】 この点に関する単一国と多くの国との違いは、資本が利潤のより多い投資先を求めて国から国へ移動することの困難さと、そしてまた、国内であれば地方から地方へと常に移動することを考えれば容易に説明が付くことである。 (注)それでは、機械や技術などの面で相当な優位性を有し、従って隣国よりもより少ない労働を用いて商品を製造することができる国は、そうした商品と引き換えに、自国の消費のために必要な穀物の一部を輸入することもあり得ると思われる。仮に、自国の土地がもっと肥沃であったとし、そして穀物の輸入先の国よりも少ない労働を用いて穀物を生産することができたとしても、である。 2人の男が、両方とも靴と帽子を作ることができる。一方はもう一方に比べ、両方の仕事で優っている。しかし、帽子を作ることについては、彼は1/5、即ち20%しか競争相手に対し優位に立つことができない。そして、靴を作ることについては、彼は1/3、即ち33%優位に立つことができる。力量の優っている男が靴を作ることに専念し、そして、劣っている男の方が帽子を作ることに専念した方が、この双方にとって利益とならないのだろうか? |
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【表】2人の男が生産することのできる靴と帽子の量
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そうした状況では、ワインと布地は両方ともポルトガルで作られることが、従って、布地の生産に用いられる英国の資本と労働が、布地を作るためにポルトガルに移されることが、英国の資本家と両国の消費者にとって間違いなく有利であろう。そのケースでは、こうした商品の相対価値は、一方はヨークシャーの産物であって、もう一方はロンドンの産物であった場合と同じ原理で規定されるであろう。仮に、資本が、最も利潤が上がる用い方が可能な国に自由に移動したとすれば、全てのケースにおいて利潤率が相違することはあり得ないだろうし、また、商品の真実の価格、即ち労働価格(【注】労働によって計測した価格)の相違は、それらの商品が売られる様々な市場にそれらを運搬するために必要とされる追加労働量の分以外にはあり得ないだろう。
【資本が海外に移動しにくい事情】 しかし、資本がその所有者の直接の支配下に置かれないときの、想像される或いは現実の資本の不安定さが、自分の生まれ故郷や親類たちに別れを告げ、自分の習慣は凝り固まっているのに、今さら見ず知らずの政府と新しい法律に身を委ねることに対する、全ての人が有する嫌気と相まって、資本の移動をストップさせることが経験によって示される。こうした感情―残念なことに弱まっているようであるが―が、たいていの資産家に、外国において彼らの富のより有利な投資先を求めるよりも、自国内の低い利潤率で満足させるのである。 【金銀の配分と貿易】 金と銀は、流通する一般的な仲介物として選ばれているので、それらは、もしそのような金属が存在せず、そして外国との取引が純粋に物々交換であった場合に起きると思われる自然な取引量に応じる割合で、商業の競争によって世界の異なった国々に配分される。 こうして、布地は、輸入元の国における価格を上回る金と引き換えにポルトガルで売れない限り、ポルトガルに輸入されることはない。ワインは、ポルトガルにおける価格を上回る価格で英国において売れない限り英国に輸入されることはない。もし、その取引が純粋に物々交換であったとしたら、その取引は、英国が一定の労働を用いて、ブドウを栽培するよりも布地を製造することによって、より多くのワインを手に入れることができるほど布地を安く作ることができる場合にだけ、そしてまた、ポルトガルの勤労が、逆の結果を伴う場合にだけ、続くことができるであろう。 |
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【解説】
Gold and silver having been chosen for the general mediumof circulation, この英文には次の訳が与えられた。「金と銀が流通の一般的媒介物に選ばれているので」(羽鳥・吉澤訳) 「流通の一般的媒介物」とは何を意味するのか?特に、「流通の」の「の」は何を意味するのか?つまり、この訳はここのofの意味をよく理解していないのだ。このofは、名詞を伴うことによって形容詞的な意味を持たせるofなのである。つまり、「(それ自身が)流通する一般的な仲介物」と訳すべきなのである。 |
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【英国側の事情の変更】
さて、英国がワインのある製造法を発見し、英国にとっては、ワインを輸入するよりも生産する方が利益になると仮定しよう。英国は、その資本の一部を海外貿易から国内取引に自然に振り向けるようになるであろう。英国は輸出のための布地の製造を止めるであろう。そして、ワインを自ら生産するであろう。こうした商品の貨幣価格は、それに従って調整されるであろう。当地では布地の価格は変わらぬままであろうが、ワインの価格は低下するであろう。そして、ポルトガルでは、いずれの商品の価格も変化はないであろう。布地は、暫くの間、この国から輸出され続けるであろう。何故ならば、布地の価格は、当地よりもポルトガルの方が高い状態が続くことになるからである。しかし、ワインの代わりにお金が布地に対して与えられるであろう。そしてついには、当地におけるお金の蓄積と海外におけるお金の減少が、二つの国の布地の相対価値に作用し、その結果、布地を輸出することが利益にならないようにするであろう。 |
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【解説】
She would cease to manufacture cloth for exportation,and growwine for herself. この英文に次の訳が与えられた。「輸出用毛織物の製造をやめて、自国用ぶどう酒を生産するであろう」(羽鳥・吉澤訳) 何となく違和感を覚える。for herself は、「自国用」と訳すべきなのか?その前に「輸出用」が出てくるので、そう訳したい気持ちも分からないではないが、ここは「自ら」と訳すべきであろう。 |
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【仕事の交換が起きる前提】
もし、ワイン製造の改良が非常に重要な種類のものであったならば、仕事を交換することが両国にとって利益になるかもしれない。英国が、彼ら(【注】英国とポルトガル)が消費する全てのワインを作り、ポルトガルが、同じく彼らが消費する全ての布地を作るのである。しかし、これは英国における布地の価格を引き上げ、そしてポルトガルにおける布地の価格を引き下げるような貴金属の新しい配分によってのみ実現することが可能なのである。英国におけるワインの相対価格は、その製造技術の改良により本当に有利になる結果低下するであろう。即ち、その自然価格は低下するであろう。布地の相対価格は、お金の蓄積によって上がるであろう。 【具体例】 そこで、英国でワイン製造技術の改良が起こる前に、当地ではワインの価格が1樽当たり50ポンドであり、ある量の布地が45ポンドだったと仮定しよう。一方、ポルトガルでは、その同じ量のワインが45ポンドであり、また同じ量の布地が50ポンドであったとしよう。ワインはポルトガルから輸出され、5ポンドの利潤を挙げるであろうし、布地は英国から輸出され同じ額の利潤を挙げるであろう。 その改良のあった後、英国ではワインが45ポンドに低下し、布地は同じ価格のままであると仮定しよう。商売上の全ての取引は、独立した取引である。ある商人が、英国において45ポンドで布地を買うことができ、そして、それをポルトガルにおいて販売し通常の利潤を得ることができる限り、彼はそれを英国から輸出し続けるであろう。彼の仕事は単に英国産の布地を購入し、そして、その代金を為替手形で支払うことである。その為替手形は、彼はポルトガルのお金で購入する。彼にとっては、このお金がどうなろうと全く重要ではない。彼は、為替手形を送付することによって彼の債務を支払っているのである。彼の取引は疑いなく、彼がこの為替手形を手に入れる条件によって規定される。しかし、その条件をそのとき彼は知っている。為替手形の市場価格、即ち為替レートに対し影響を与える原因は、彼にとって考慮の外にある。 【為替手形の売買】 もし、市場の状況が、ポルトガルから英国へのワインの輸出にとって好ましいものであれば、ワインの輸出業者は為替手形の売り手になるであろう。そして、その為替手形は布地の輸入業者か、或いは、彼(【注】布地の輸入業者)に自分の保有する為替手形を売った者のいずれかによって購入されるであろう。こうして、お金が何れの国からも移動する必要もなく、各国の輸出業者は、彼らが売った商品に対して支払いを受けるであろう。各人が直接のやり取りを何もすることなく、布地の輸入業者によってポルトガルで支払われたお金は、ポルトガルのワインの輸出業者に支払われるであろう。そして、英国では、その同じ為替手形の譲渡によって、布地の輸出業者はワインの輸入業者からの価値を受け取る権利が与えられるであろう。 |
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【解説】
商品と為替手形とお金の流れを図示すれば次のとおり。 <英国><ポルトガル> ワインの輸入業者←ワイン←ワインの輸出業者 ↑↓→手形→↓↑ 手形↑↓お金手形↓↑お金 ↑↓↓↑ 布地の輸出業者→布地→布地の輸入業者 ←手形← 輸出や輸入にかかる決済は、実際にお金を送付するようなことをせず、為替手形の送付によって行うことが多い。何故ならば、金や銀といったお金の輸送には、経費と危険が伴うからである。そして、銀行の決済のシステムを通じて、相反する同額の為替手形を相殺した後に残る分だけの現金を送付することによって、全体の輸出入の決済は完了する。 なお、上にいう「彼に自分の保有する為替手形を売った者」とは、ワインの輸出業者のことではなく、例えば、為替手形の売買を業とする銀行家などである。 <為替手形の売買例> ・ワイン輸出業者→布地の輸入業者 ・ワイン輸出業者→為替業者→布地の輸入業者 「彼に自分の有する為替手形を売った者」と過去形になっているのは、誰かから為替手形を購入する前に、手持ちの為替手形を顧客に売っただけの話である、と思われる。 |
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【為替手形の価格変動】
しかし、もしワインの価格が、英国へのワインの輸出など行えないような価格であったとしても、布地の輸入業者は同様に為替手形を購入するであろう。しかし、その為替手形の価格は高くなるであろう。それは、その為替手形の売り手が、最終的にそれによって2国間の取引を清算する見合いとなる手形が存在しないことを知っているからである。彼は、為替手形と引き換えに得た金貨や銀貨を、英国の彼の取引相手に実際に輸送しなければならないことを知っているかもしれない。彼が金貨や銀貨を送るのは、彼の取引相手が、自分(【注】彼の取引先)に対して請求することを認めている要求に対して応じることを可能にするためであり、従って、彼は正当な通常の利潤とともに、全ての経費をその為替手形の価格に盛り込むかもしれない。 【為替手形のプレミアム】 それでは、もしこの英国宛ての為替手形のプレミアムが布地を輸入することによる利潤と同じ大きさであれば、輸入は当然のことながら止まってしまうであろう。しかし、もし、為替手形のプレミアムが2%でしかなかったら、もし英国における100ポンドの債務を支払うことができるようにするためにポルトガルで102ポンドが支払われるのであれば、そして、その一方で45ポンドの布地が50ポンドで売れ、布地が輸入される限り、為替手形は購入され、お金が送られるであろう。そしてついには、ポルトガルにおけるお金の減少と英国におけるお金の蓄積が、もはやこうした取引を続けることが利益にならないような価格の状況を生み出すであろう。 しかし、ある国におけるお金の減少と他の国におけるお金の増加は、一つの 商品の価格だけに作用するものではない。そうではなく、全ての商品の価格に作用し、従ってワインと布地の価格は両方とも英国で上がり、両方ともポルトガルで低下するであろう。一方の国では45ポンドであり、もう一方の国では50ポンドである布地の価格は、恐らくポルトガルでは49ポンドか48ポンドに落ち、英国では46ポンドか47ポンドに上がるであろう。そして、為替手形にプレミアムを支払った後では、そうした布地の価格では、如何なる商人に対しても、その商品を輸入する気にさせるほどの利潤を与えることはないであろう。 【英国とポルトガルで起こること】 こうして、各国のお金は、採算の合う物々交換を調整するのに必要な量だけが、各国に対して割り当てられる。英国はワインと引き換えに布地を輸出した。何故ならば、そうすることによって英国の勤労は自分たちにとってより生産的になったからだ。英国は、布地とワインの両方を自分で作るときと比べ、より多くの布地とワインを手に入れた。そして、ポルトガルは布地を輸入してワインを輸出した。何故ならば、ポルトガルの勤労は、ワインの生産に用いる方が、双方の国にとってより有利に用いることができたからである。 英国で布地を生産するのが困難になり、或いはポルトガルでワインを生産するのが困難になると仮定しよう。或いはまた、英国でワインを生産するのが容易になり、或いはポルトガルで布地を生産するのが容易になるとしよう。両国間の取引は直ちに止むに違いない。 |
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【解説】
少し前に出てきたfor herself がここにも出てくる。 she had more cloth and wine than if she had manufactured both for herself. 「織物とブドウ酒二つ共自国用に造る」(竹内謙二訳)というように訳すのではなく、「自ら」とか「自分で」と訳すべきである。 |
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【お金の移動の効果】
ポルトガルの状況にはどんな変化も起こらない。しかし、英国は、ワインの生産にもっと生産的に労働を用いることができることを発見する。そうなれば、その2国間の物々交換の取引は直ちに変化する。ポルトガルからのワインの輸出が止むだけではなく、貴金属の新しい配分が起こり、ポルトガルの布地の輸入もまた妨げられる。 双方の国が恐らく自分自身のワインと自分自身の布地を作ることが自分たちの利益になることを知るだろう。しかし、こんな奇妙な結果が起こるであろう。 英国ではワインが安くなるだろうが、布地の価格は上がるだろう。より多くが消費者によってそれ(【注】布地)に対し支払われるであろう。一方、ポルトガルでは、布地とワインの消費者はそうした商品をより安く購入することができるであろう。改善がなされた国では価格は上がるであろう。何の変化も起こらなかったが、利潤の上がる海外貿易部門を奪われた国では、価格は低下するであろう。 しかし、このことは、ポルトガルにとって見た目の有利さに過ぎない。というのも、その国で生産された布地とワインの合計の量は減少するであろうし、その一方で、英国で生産された量は増加することになるからである。これら2つの国では、お金の価値がある程度変化したであろう。英国では低下し、ポルトガルでは上昇するであろう。お金で計測すれば、ポルトガルの全収入は減少するであろう。同じ仲介物で計測すれば、英国の全収入は増加するであろう。 こうして、如何なる国で製造業が改良しても、世界の国々に対する貴金属の配分を変える傾向があるように見える。改良が見られた国の物価を引き上げると同時に、商品の量を増加させる傾向がある。 問題を簡略化するために、私は、2国間の取引が2つの商品、ワインと布地に限られると仮定してきている。しかし、多くの様々な商品が輸出及び輸入の品目リストに入っていることはよく知られていることだ。ある国からお金を取り去り、かつ他の国にお金を蓄積することによって、全ての商品の価格は影響を受け、その結果お金の他に多くの商品の輸出が奨励され、そうなれば、そうでない場合に予想されるような大きな結果が2つの国のお金の価値に起きることを妨げるであろう。 【お金の配分の攪乱】 技術や機械の改良の他に、貿易の自然の成り行きに絶えず作用する、そしてお金の均衡とお金の相対価値に影響を与える様々な原因がある。輸出奨励金や輸入奨励金、そして商品に対する新しい税は、ときには直接的にそしてときには間接的に作用することによって自然な物々交換を攪乱する。そして、価格を自然な商売の成り行きに相応しいものにさせるために、結果的にお金を輸入することや輸出することを必要とさせるであろう。この結果は、攪乱の原因が発生した国だけではなく、商業世界の全ての国で多かれ少なかれ起こる。 これは、異なった国における異なったお金の価値をある程度説明するものである。それは、国産の商品の価格、そして価値は比較的小さいが量がかさばる商品の価格が、他の原因とは関係なく製造業が盛んな国では何故より高いのかということについて我々に説明するであろう。正確に同じ数の人口を有し、同じ肥沃度の同じ広さの耕作地を有し、そして有する農業知識も同じ2つの国の うちでは、輸出向け商品の製造により多くの技術とより優れた機械を投入している国の方が、原生産物の価格が高くなるであろう。利潤率は多分ほんの少ししか違わないであろう。というのも、賃金、即ち労働者の真実の報酬は両方において同じであると思われるからだ。しかし、労働者の賃金は、原生産物の価格と同様その国の技術や機械に伴う有利性のために、その国の商品を求めて多くのお金が流入してくる国の方が、貨幣で評価すれば高くなるものである。 もしこれらの2カ国のうち、一方の国が、ある品質の商品を製造するのに優れていたら、そしてもう一方の国が、違う品質の商品を製造するのに優れていたら、どちらの側にも貴金属の明らかな流入が起こることはないであろう。しかし、優越性がいずれかの方に非常に偏っているとすれば、そうした結果は不可避のものとなろう。 【お金の価値と利潤】 この書物の前の部分で我々は、議論のためにお金は常に同じ価値を持ち続ける、と仮定した。しかし、今や我々は、お金の価値の通常の変動や商業世界全体に共通するお金の価値の変動の他に、特定の国においてお金が被る部分的な価値の変動もあることを示そうと思う。また、お金の価値は、実際そうであるように、相対的課税、製造業の技術、気候の有利性、自然の生産物、及びその他の多くの原因に依存するので、如何なる2つの国においても決して同じであることはないということを示そうと思う。 しかし、お金はそうした恒久的な変動を被り、その結果、たいていの国にとって共通である商品の価格も相当の相違が生じるが、それでも、お金の流入か流出のいずれかよっても、利潤率に影響が及ぼされることはないであろう。資本は流通する仲介物が増加するからといって、増えることはないであろう。もし、農業者が地主に支払う地代と労働者に支払う賃金が、ある国では他の国よりも20%高ければ、そして同時に、その農業者の資本の名目価値が20%高ければ、彼は原生産物を20%高い価格で売るだろうが、彼は全く同じ利潤率を得るであろう。 |
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【解説】
Capital will not be increased because the circulating medium is augmented. 「資本は流通する仲介物が増加するからといって、増えることはないであろう」 何故、この英文を私が示すのか?それは、少し前にthe general medium of circulation が「流通する一般的な仲介物」と訳すべきだと説明したが、そのことがこの原文で実証されているからである。つまり、ここではthe medium of circulation をthe circulating medium と言い換えているのである。 |
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利潤は賃金に依存する。利潤は、名目賃金に依存するのではなく真実の賃金に依存する。労働者に年間支払われるのが何ポンドであるかではなく、その賃金を得るために必要とされるのが、何日分の労働日数であるのかに依存する。以上の事は、何度言っても言い過ぎるということはない。従って、賃金は2つの国において全く同じであるかもしれない。賃金の地代に対する割合や、賃金の土地から得られる全生産物に対する割合も同じになるかもしれない。もっとも、労働者は、一方の国では10シリングを受け取り、もう一方の国では12シリングを受け取ることがあろうが。
【金鉱山からの距離】 製造業が殆ど発展しておらず、かつ全ての国の生産物が殆ど同じもの、つまりあの量のかさばるそして最も役に立つ商品で構成される、社会の初期の状況では、異なった国におけるお金の価値は、その貴金属を供給する鉱山からの距離によって主に規定されるであろう。しかし、社会の技術や改良が進むと、そしてまた特定の産業に秀でた国が現われると、鉱山からの距離は依然として計算に入るであろうが、貴金属の価値はそうした製造業の優位性によって主に規定されるであろう。 全ての国が穀物、牛、及び粗末な衣類のみを生産すると仮定し、また、金を生産した国からか、或いは産金国を征服した国から金を手に入れることができるのは、そうした商品の輸出によってであると仮定しよう。金は英国よりポーランドにおいて、当然大きな交換価値を有するであろう。穀物のようなかさばる商品を運送するには、遠くの航海になればなるほどより多くの費用がかかるからであり、また、ポーランドまで金を運送するのにも多くの費用がかかるからである。 2つの国における金の価値の相違、同じことであるが、2つの国における穀物価格の相違は、英国における穀物の生産能力が、その土地の肥沃度と労働者の技術及び道具の優秀さから、仮にポーランドに比べ遥かに優っているにしても、生じるであろう。 しかし、もしポーランドが真っ先に製造業の改良を行い、量はかさばらないが大きな価値を有する商品を含め、広く望まれる商品を作りだすことに成功するとすれば、或いはもし、ポーランドだけが、広く望まれ他の国は保有しないある天然の産物に恵まれるとすれば、ポーランドはこの商品と引き換えに追加の金を手に入れるであろう。そして、その金は、ポーランドの穀物、牛、粗末な衣類の価格に影響を及ぼすであろう。 距離が離れているという不利は、価値の大きい輸出可能な商品を有しているという有利さによって補償されて余りがあるであろう。そして、お金の価値は、英国よりもポーランドの方が永久に低くなるであろう。その反対に、もし技術と機械の有利さを保有するのが英国の方であったとしたら、金の価値は何故英国の方でポーランドよりも低いのか、そして、穀物、牛、及び粗末な衣類は何故前者の国(【注】英国)でより高いのかということについての以前から存在している理由に、もう一つの理由が加わえられるであろう。 |
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【解説】
製造業の発展により「大きな価値を有する商品」を生産するようになると言えば、価値が投下労働量によって規定されると考える限り、矛盾するように聞こえるであろう。確かに、その国に限って考えればそのとおりである。しかし、製造業の発展している国は、価値の低い(=投下労働量の少ない)商品の生産に成功したからこそ、安い価格で海外に輸出することが可能になる。そして、製造業が発展していない国からすれば、それらの商品は、自分たちにしてみれば価値が高いのであり、その価値が高い筈の商品を安く買うことができるので、輸入したくなるのである。従って、ここでいう「大きな価値を有する商品」というのは、その商品の輸入国から見た場合、と理解すべきであろう。 |
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【結論】
これらだけが、世界中の異なった国におけるお金の相対価値を規定する2つの原因だ、と私は信じる。というのも、課税によってお金の均衡は攪乱されるが、税を課せられた国から、熟練、勤労、及び気候に伴う何らかの有利さを奪い取ることによって、お金の均衡が攪乱されるからだ。 |
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【解説】
リカードは、お金の相対価値を規定するものは、(@)金鉱山までの距離、と(A)製造業の発展度合い、の2つだけであると言う。つまり、関税や輸入規制は、お金の相対価値を規定する原因から除くのである。しかし、リカードは、関税や輸入規制によってお金の均衡が攪乱されることは認める。では何故、関税などはお金の相対価値を規定する原因から除くのか?これは関税などを課すことによって確かにお金の均衡が攪乱されるとしても、それは単なるきっかけであって、本当の理由は関税を課すことによって(A)の製造業が発展していることの有利性が制限されると考えるからであろう。 |
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【穀物の価値】
お金の低い価値と穀物の高い価値、或いはお金の低い価値とお金が比較される他の何らかの商品の高い価値を注意深く区別しようと、私は努めてきた。これらは、一般的に同じことを意味するものとみなされてきた。しかし、穀物がブッシェル当たり5シリングから10シリングへ上がるとき、それは、お金の価値が下がったためか、或いは穀物の価値が上がったためか、いずれかの理由によるものであろう、ということは明らかだ。こういう訳で、我々は増大する人口を養うために益々質の劣った土地に続けて頼らざるを得ないことから、穀物は、他の品々に比べ相対価値が上がるに違いないということを知ったのである。従って、お金が永久に同じ価値を持ち続けるのであれば、穀物はそうしたお金のより多くと交換されるであろう。即ち、穀物の価格は上がるであろう。 |
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【解説】
アダムスミスは、お金の価値が高いということは穀物の価値が低いということであり、一方、お金の価値が低いということは穀物の価値が高いということである、と考えていた。従って、そこからは、お金の価値の変動と穀物の価値の変動は同時に起きることになるが、リカードは、お金の価値の変動と穀物の価値の変動は、分けて考えるべきだと主張した。 |
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同様の穀物価格の上昇は、我々が特別有利に商品を製造することができるような、製造業における機械の改良によって引き起こされるであろう。というのも、お金の流入がその結果起こるからだ。お金の価値が低下するであろう。従って、より少ない穀物としか交換されないであろう。しかし、穀物の価格が高いことから発生する効果といっても、穀物の価格が高いことが、穀物の価値の上昇によって生み出される場合と、お金の価値の低下によって生み出される場合とでは、全く違うのである。
両方のケースとも、賃金の貨幣価格は上がるであろうが、それがお金の価値の低下の結果であれば、賃金と穀物が上がるだけではなくそれ以外の全ての商品の価格も上がるであろう。もし、製造業者が賃金に多くを支払えば、彼は自分の商品に対して多くを受け取るであろう。そして、利潤率は変わらないであろう。しかし、穀物の価格の上昇が、生産の困難さが増した結果であれば、利潤率は落ちるであろう。というのも、製造業者はより多くの賃金を支払うことを余儀なくされるであろうが、彼の製造品の価格を引き上げることによって自分自身に補償することができるようにはならないからである。 【お金の価値】 鉱山を稼働させる能力に何らかの改善がなされ、それによってより少ない量の労働で貴金属の生産が可能になれば、お金の価値を一般的に引き下げるであろう。そうなれば、全ての国においてより少ない商品と交換されるであろう。しかし、如何なる国であってもある特定の国が、その国にお金の流入をもたらすほど製造業に秀でるとき、お金の価値は低下するであろう。そして、穀物と労働の価格は、他の如何なる国と比べてもその国では相対的に高くなるであろう。 お金の価値が高くなるということは、為替によって示されることはないであろう。穀物と労働の価格がある国では他の国に比べ10%、20%、或いは30%高いにも拘わらず、為替手形はパーで譲渡され続けるかもしれない。想定される環境では、そうして価格に差が生じることも自然の成り行きであって、そして外国為替は、穀物と労働の価格を引き上げることができるほど十分な量のお金が製造業に優れた国に流入する場合にだけパーであり得るのである。 |
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【解説】
ある国宛ての外国為替がパー(平価)で取引されるかどうかは、その国の金の移動が制限されているかどうかにかかっている。もし、完全に金の移動が自由であるのであれば、その国宛ての外国為替はパーで取引される。もし、金の移動が制限されており、本来あるべき量よりも多くの金を保有しているのであれば、その場合の金の価値は落ちてしまう。つまり、国際間での金の移動が自由であれば、A国における金1gはB国の金1gと交換される筈であるが、仮にA国の金の海外への流出が制限されており、A国が本来有する以上の金を保有しているとすれば、A国の金は、本来有すべき購買力を有しなくなっているために、A国の金1gはB国の金1gと同じ価値を有することはなくなってしまうのである。 |
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もし、海外の国々がお金の輸出を禁止し、そしてそうした法律を順守させることができたとしたら、確かにその製造業国家の穀物と労働の価格の上昇を起こさせないかもしれない。というのも、紙幣が使用されていないと仮定すれば、そうした価格の上昇は貴金属の流入があった後においてのみ起こり得るからである。しかし、彼ら(【注】海外の国々)は、外国為替が自分たちにとって非常に不利になることを回避することはできないであろう。もし、英国がその製造業国家だったとして、そして、お金の輸入を妨げることが可能だとしたら、フランス、オランダ、そしてスペインとの関係の外国為替は、それらの国にとって5%、10%、そして20%不利になるかもしれない。
【外国為替の変動】 お金の流通が強制的に止められ、そしてお金がその正当な水準に落ち着くことを妨げられるときにはいつも、外国為替の変動幅に上限はなくなる。その効果は、その保有者の意思によって正貨と交換することができない紙幣が、無理に流通させられたときに起きる効果と似ている。そうした通貨は、必ずやそれを発行した国になかに留められる。大量に発行され過ぎたからといって、他の国に拡散することはあり得ない。流通量の水準は破壊され、外国為替は、その量が過剰になった国にとって不可避的に不利になるであろう。貿易の流れはお金を他の国々に押し出そうとしているのに、仮に、強制し得る手段、或いは回避することのできない法律で強制することによって、お金がある国のうちに留められることになれば、金属のお金に関しても同じ結果が起きるであろう。 【お金の価値と外国為替】 各国が、本来保有すべき量のお金を正に保有するとき、各国のお金は、多くの商品との関係で5%、10%、或いは20%も違うこともあり得るので、確かにそれぞれが同じ価値を有することはないであろうが、しかし、外国為替はパーであろう。英国の100ポンドは、或いは100ポンドに含まれる銀は、フランス、スペイン、オランダの100ポンドの為替手形を、或いは同じ量の銀を購入するであろう。 【各国通貨の相対価値】 異なった国々の外国為替とお金の相対価値について話をするとき、我々は、いずれの国の商品によって計測されたものであっても、商品によって計測されたお金を決して意味してはいけない。外国為替は、穀物、布地、或いはそれ以外の商品―如何なる商品でも構わない―によってお金の相対価値を計測しようとしても、それによって確かめることはできない。そうではなく、ある国の通貨の価値を別の国の通貨の価値で計測することによって確かめられるのである。 【外国為替の相場】 外国為替は、両国にとって共通の何らかの標準物と比較することによって確かめられるかもしれない。もし100ポンドの英国宛ての為替手形が同じ額のハンブルグ宛ての為替手形が購入するのと同じ量の商品をフランスやスペインで購入するならば、ハンブルグと英国の外国為替はパーであろう。しかし、もし英国宛ての130ポンドの為替手形が、ハンブルク当ての100ポンドの為替手形が買うものを上回るものを買うことがなければ、外国為替は英国にとって30%不利になる。 英国において100ポンドは、為替手形、つまりオランダで101ポンド、フランスで102ポンド、そしてスペインで105ポンドを受け取る権利を購入することができるかもしれない。そのケースでは、英国との関係では、オランダは1%、フランスは2%、そしてスペインは5%不利であると言われる。そのことは、それらの国の通貨の量があるべき水準より高いということを示している。そして、それらの通貨の相対価値及び英国の通貨の相対価値は、それらの国から通貨を引き抜くか、或いはそれを英国の流通量に加えることによって直ちにパーに回復されるであろう。 【通貨価値の減価】 外国為替が20%から30%この国に不利に変動した最近の10年間に我が国の通貨は減価した、と主張する人々は、次のように主張したと非難されるのであるが、そのように主張することは決してなかった。どのような主張かといえば、お金は様々な商品との比較において、ある国では他の国より、価値が大きくなるということはあり得ない、と。そうではなく、彼らが主張したのは、こうである。英国の130ポンドが、ハンブルクやオランダのお金の価値で計測して、100ポンドの金の地金を上回る価値がないときには、お金の価値を減価させなければその130ポンドを英国内に留め置くことはできないだろう、と。 【具体例】 130ポンドの良質な英国の正貨をハンブルグに送ることによって、5ポンドの経費はかかるとしても、私はハンブルグで125ポンドを保有するであろう。それでは、私が送ったポンドが良質な英国の正貨でないという理由以外に、ハンブルグで100ポンドを与える為替手形に対して130ポンドも支払うことを、何が私に同意させることができるのであろう?それらは劣化しており、ハンブルグの正貨に比べ本源的価値が低下していたのである。だから、もし、5ポンドの経費をかけて実際にそこに送ったとしても、100ポンドでしか売れないであろう。金属のポンドの正貨に関しては、私の130ポンドがハンブルグで125ポンドを調達するであろうということは、否定できない。しかし、紙幣の正貨では、私は100ポンドしか手に入れることができない。しかし、それでも紙幣の130ポンドは、銀や金の130ポンドと同じ価値があると主張されていた。 |
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【解説】
By sending 130 good English pounds sterling to Hamburgh, even at an expense of £5, I should be possessed there of £125; この英文の後半部分に対して、次の訳が与えられた。「なお私はその地で125ポンドを入手するはずである」(羽鳥・吉澤訳) 前にもshouldの訳が問題になったが、このshouldも推量のshouldと理解すべきである。 |
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【紙幣の価値】
紙幣の130ポンドは、金属のお金の130ポンドと同じ価値があるのではないと、より合理的に主張した者も確かにいた。しかし、彼らは、価値を変えたのは金属のお金の方であって紙幣の方ではないと言った。彼らは、減価という言葉の意味を実際の価値の低下に限定したかったのだ。そして、お金の価値と、法律に従いそれによってお金の価値が規定される標準物との相対的な相違額にその言葉の意味を限定したくはなかったのだ。 【法律が決めるお金の価値】 英国の100ポンドのお金は、以前はハンブルグの100ポンドのお金と同じ価値を有し、ハンブルグの100ポンドを購入することができた。他の如何なる国においても、英国宛て或いはハンブルグ宛ての100ポンドの為替手形は、まさに同じ量の商品を購入することができた。その同じ品物を手に入れるために、私は最近130ポンドの英国のお金を与えることを余儀なくされた。ハンブルグの方は、100ポンドのハンブルグ貨幣でその同じ品物を手に入れることができるのに、である。もし、英国のお金が以前と同じ価値であったとしたら、ハンブルグのお金の価値が上がっていたに違いない。しかし、その証拠はどこにあるのか?英国のお金の価値が落ち、ハンブルグのお金の価値が上がったということをどうやって確認することができるのか?これを決定する基準などないのだ。それは証拠を認めない訴えなのだ。全く肯定することもできなければ、全く否定することもできない。世界の国々は早くから、正確に参照することができる価値の標準などないことを確信していたに違いない。従って、一般的に他の如何なる商品に比べても価値の変動が少ないと彼らに見えたものを仲介物に選んだのだ。 法律が変わるまでは、そして、それを使用することによって、我々が確立しているものよりもさらに完璧な標準物を手に入れることができる商品が発見されるまでは、この標準に我々は従わなければならない。この国において金が専ら標準である限り、お金は、1ポンドの正貨が5ペニーウェイト3グレインの標準となる金の価値を有しないときに減価するであろう。そして、それは金の一般的な価値が上がるか下がるかには関係がないのである。 |
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【解説】
1トロイオンス=20ペニーウェイト。そして、1ペニーウェイト=24グレイン。従って、5ペニーウェイト3グレインの金とは、(5+3/24)ペニーウェイトの金となり、それをトロイオンスに直すと、0.25625トロイオンスの金になる。なお、1トロイオンスは、31.1035gであるので、0.25625トロイオンスの金とは7.97gの金ということになる。 |
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■経済学および課税の諸原理 2 | |||||||||||||
PRINCIPLES OF POLITICAL ECONOMY AND TAXATION
■訳序 本書はデイヴィド・リカアドウ David Ricardo の主著『経済学及び課税の諸原理』"Principles of Political Economy and Taxation." の全訳である。 リカアドウはユダヤ系の英国人である。彼は、一七七三年、富裕な株式仲買人エイブラハム・リカアドウの第三子として生まれ、幼少にして実際的教育をうけた後、勉学のためアムステルダムに送られ二年の後帰英し、ロンドンで一年間学校教育をうけて、齢よわいわずかに十四才にして父を援たすけて実業界に入った。二十一才の時クエイカア教徒の女と結婚し、自らもクリスト教徒に改宗したために、父との間は不和になり、ために彼は父から独立して、一時苦難の時を送ったが、まもなく彼も物質的成功を得ることが出来た。そしてこのことは彼に勉学の余裕を与えることとなった。勉学の対象は初めは自然科学に限られていたが、たまたま妻の病中、バアスにおいて巡囘文庫中のアダム・スミスの『諸国民の富』を見るに及んで、ここに経済学に対する興味を覚えることとなったのである。 かくて彼れの富が次第に増加し、実業界における彼れの地位がますます重きをなすに至るとともに、また彼れの経済学研究が進むにつれ、彼はまず通貨及び銀行に関する諸論文をもって論壇に登場し、次いでナポレオン戦争にともなう穀物関税に関する論争には一八一五年に『低い穀物価格』を書いて参加し、穀物保護貿易論者たるマルサスの所見を痛烈に批判した。一八一七年の『経済学及び課税の諸原理』の第一版は、以上の諸論の総決算たるものである。 一八一九年には彼はポオトアーリントンから代議士に選出された。それ以後彼れの諸論文は主として彼れの議会生活と関係あるものであるが、一八二二年の『農業保護について』だけは他と趣を異にし、彼に他の一切の著作なくともこれのみにても彼は一流の経済学者たり得るとマカロックが評したほどの、傑出した独立論文である。 リカアドウは、一言もっていうならば、古典派経済学の完成者である。古典派経済学は、ブルジョア的埒内において最高の発展をとげた経済学であり、ウィリアム・ペティ及びボアギュイベールにはじまって、リカアドウ及びシスモンディをもって終るものである。この派の経済学は二つの段階を経て発展している。すなわちその前期はマニュファクチュア期のそれであり、その後期は機械工場制期のそれであって前者を代表するものがアダム・スミスであり、後者を代表するものがリカアドウである。かくの如くにリカアドウは、古典派経済学の最後の最高の総括的発展者であるため、この派経済学の根本的基礎理論たる労働価値論は、彼においてそのブルジョア的埒内において許される限りの発展をしたのであるが、同時にまたブルジョア的生産の矛盾はこの学派の固有の歴史的限界に制限されて、生産方法そのものの矛盾としてではなく、理論的構造内部における解決しがたい矛盾として顕現していることが、彼れの体系にとって特徴的となっている。このことは、例えば本書巻頭における労働価値論における平均利潤の問題――またはいわゆる価値と生産価格との矛盾の問題――に最もよく露呈している。しかもそれにかかわらず、彼がこの問題を黙殺して進まずこれが解決に正面から取組んだこと、更にまた本書の第三版に至って改めて『機械について』の諸問題を真剣に取りあげたことは、その歴史的限界性にもかかわらず、彼れの偉大さをよく物語るものといわなければならない。彼れの全理論が後にマルクスによって最も正しい意味において発展的に止揚されたことは、人のよく知るところである。 本訳書は、底本をその第三版にとり、更にゴナア教授の傍註をもたぶんにとり入れ、その上にかなりの訳者註を加えて、出来上ったものである。私はかつて昭和七年に本書を同じく春秋社から出版したことがある。当時すでに本書については、堀經夫博士及び小泉信三博士による二種の訳本が行われていた。前者は正確、後者は流暢、いずれも好個の訳本である。それにもかかわらず私が当時本書を更に訳出したのは、それが『世界大思想全集』の一巻として包含されており、従って先覚二著の学者的訳書に比して学生用として普及の機会が多かろうと考えたからである。従って飜訳の態度は、どこまでも学生用参考書を作るということを第一義とした。今度再建春秋社が改めて古典経済書の一つとして本書の出版を企図されたについて、私はやはり学生用参考書としての本書の必要を感じ、同じく学生大衆用普及版を作る目的をもって、改めて全巻に亙って厳密に改訳の筆をとると共に、また戦後の傾向として用語の現代化をはかることとした。その結果意外の労を払わなければならなかったが、かくしてとにかく出来上ったのが本書である。 かくて本書は普及を中心とする大衆版であるが、さればといって本書は過度の読み易さを追求すべき性質の内容のものではない。もともと内容は経済学の理論であるから読物的な軽さを欠いているのであるが、これに加えてリカアドウは決していわゆる名文家ではない。この意味では彼は論敵マルサスの闊達な文調にまさに百歩を譲るものである。時に彼は英語にそれほど練達ではなかったとさえ評されているくらいである。更に、こうした理由よりもよりいっそう、訳者の不敏にして、本書はなお大衆的普及版としては排除すべき生硬さが多々あることと思われる。これらの点は、読者諸賢の叱正を得て、適当な機会に訂正をしたいと思う。 なお本書のなるについて春秋社の瀬藤及び鷲尾の両氏、ならびに高橋君の配慮と助力とを得たこと多大なるものがある。記して感謝の語としたい。一九四八年二月 |
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■原著者序言
土地の生産物――すなわち地表から、労働、機械、及び資本の結合使用によって、得られるすべてのものは、社会の三階級の間に、すなわち土地の所有者、その耕作に必要な蓄財すなわち資本の所有者、及びその勤労によってこれを耕作する労働者の間に、分たれる。 しかし、社会の異なる諸階級においては、地代、利潤、及び労賃の名の下に、これらの諸階級の各々に割当てられるであろう所の土地の全生産物の比例は、全く異るであろうが、それは主として、土壌の現実の肥沃度に、資本の蓄積や人口に、そして農業において用いられる熟練や創意や器具に、依存するのである。 この分配を左右する諸法則を決定することが、経済学における主要問題である。この科学は、テュルゴオ、スチュワアト、スミス、セイ、シスモンディ、及び他の人々の著作によって、大いに進歩してはきているけれども、それらは、地代、利潤、及び労賃の自然的径路に関する満足なる叙述は、ほとんど与えていないのである。 一八一五年に、マルサス氏は、その『地代の性質及び増進に関する研究』において、またオクスフォド・ユニヴァシティ・カレヂ一校友は、その『土地への資本投下に関する試論』において、ほとんど同時に、地代に関する真実の学説を世に提供したが、この知識なくしては、富の増進が利潤及び労賃に及ぼす結果を理解し、または租税が社会の種々なる階級に及ぼす影響を十分に追究することは、不可能である。それは、課税された貨物が、地表から直接に得られた生産物である場合には、特にそうである。アダム・スミス、その他前述の有能な学者は、地代に関する諸原理を正しく観察しなかったため、思うに、地代の問題が徹底的に理解された後においてのみ発見され得る所の、多くの重要な真理を、看過してしまったようである。 この欠陥を補うには、本著者の有するよりも遥かに優れた諸能力が必要である。しかしながら、この問題に対しその全力を費した後に、――上記の優れた諸学者の著作から援助を得て後に、――そして、豊富な事実を有つ最近の数年が現代人に与えた価値多き経験を得て後に、利潤及び労賃の諸法則、並びに租税の作用に関する、著者の意見を述べることは、思うに彼において僣越であるとは考えられないであろう。もし著者が正しいと考える諸原理が、事実正しいものであることが見出されるならば、それを追究してあらゆるその重要な帰結を明かならしめることは、著者自身よりもより有能な他の人々のなすべきことであろう。 著者は、一般に受容されている所見を反駁するに当って、著者がその理由あって所見を異にする所のアダム・スミスの著書中の章句により詳細に論及するの必要なることを、見出した。しかし著者は、その故をもって、経済学なる科学の重要なるを認めるすべての人と共通に、この有名な学者の深遠な著作が正当に喚起する賞讃に参与するものではない、と疑われないであろうことを、希望する。 同じことが、セイ氏の優秀な著作に当てはめ得ようが、彼は啻ただに、大陸の諸学者中で、スミスの諸原理を正当に評価しかつこれを適用した最初の人、または最初の人々の一人であり、かつその啓蒙的にして有益な体系の諸原理を、ヨオロッパ諸国民に推奨するに、他の大陸の諸学者を全部合せたよりもなす所多かったのみならず、更にまたこの学問をより論理的なかつより教導的な順序に置くことに成功し、そして、独創的な正確なかつ深遠な二三の討論によって、斯学を富ましめたのである(註)。しかしながら、著者がこの紳士の著作に対して懐く尊敬は、著者が学問の利益のために必要であると考える自由をもって、著者自身の見解と異る所の『経済学』中の諸章句に対し批評を加えることを妨げなかったのである。 (註)第十五章、第一部、『市場論』は、特に、この優れた学者によってはじめて説明されたものと信ずる所の、二三の極めて重要な諸原理を含んでいる。 第三版に対する原著者の注意 本版においては、私は前版におけるよりも、価値に関する困難な題目についての私の所見を、いっそう十分に説明せんと努力し、そしてその目的のために、第一章に二三の附加をなした。私はまた、機械の問題につき、またその改良が国家の各種の階級の利害に及ぼす諸結果についての、新しい一章を挿入した。価値と富との特性に関する章においては、私はこの重大な問題に関するセイ氏の学説――その著書の最終第四版において修正されたもの――を検討した。最終の章において私は、その農法の改良により、国内においてその穀物を生産するに必要な労働量が減少するか、または、その製造貨物の輸出により、外国からより低廉な価格でその穀物の一部分を取得するかの結果として、たとえその貨物総量の全貨幣価値は下落するとしても、一国は附加的貨幣租税を支払う能力があるという学説をいっそう有力なる見地からして、打ち立てようと努力した。この考察は極めて重要であるが、それはけだしこの考察は、特に、莫大な国債の結果たる、重い固定貨幣租税を負担している国において、外国穀物の輸入を無制限のままに放置する政策の問題に、関係するからである。私は、租税支払能力は、大量の貨物の総貨幣価値にも、また資本家及び地主の収入の総貨幣価値にも、依存するものではなくして、各人が通常消費する貨物の貨幣価値と比較しての彼れの収入の貨幣価値に依存するものであることを、示さんと努めたのである。一八二一年三月二十六日 |
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■目次 | |||||||||||||
訳序 / 原著者序言 /第三版に対する原著者の注意 | |||||||||||||
■第一章 価値について
■第一節 (一)価値なる語の曖昧さ。使用上の価値と交換上の価値 (二)価値を有する物品における効用の必然的存在 (三)分量上の価値の原因。稀少性従って大抵の場合において労働 (四)稀少性 (五)(六)生産費及び交換価値の根拠としての労働。このことはスミスによって裏書きさる (七)しかしながら彼は後に、穀物及びそれ自身交換される物品たる労働その他の価値標準を樹立している (八)穀物に関しての誤謬。それはそれ自身多くの原因よりして可変的である (九)労働もまた可変的である (一〇)それに関するスミスの誤謬 (一一)このことを更に例証す (一二)あらゆる物の真実価値は、その生産に、または労働それ自身の場合にはその維持に、必要な労働量によって評価さるべきである ■第二節 (一三)労働は疑いもなく種類を異にするけれども、かかる種類の相違はまもなく調整され引続き永久的なものとなるから、前掲の法則は覆くつがえされない ■第三節 (一四)更にすべての企業においては資本が必要であり、従って貨物に直接に適用される労働がその価値に影響を及ぼすのみならず、更に最終工程を便ならしめるための為めの器具を準備するために用いられる労働もまた然しかする (一五)このことは、貨物はその生産に投ぜられた各々の労働量によって交換されるという法則に、影響を及ぼさない。労働とは直接的なものと間接的なものとであると考えなければならない (一六)このことは、不変的価値標準があるならばそれによって証明されるであろう ■第四節 (一七)貨物はその生産に費された各々の労働量によって交換されるという法則は、次によって修正される (一八)イ、かかる労働が直接でありまたは間接である相対的程度、すなわち機械その他の耐久的資本の比例的分量の相違、若干の貨物はそれによって、労働の価値の騰落により、他のもの以上に影響を蒙るから ■第五節 (一九)ロ、資本の耐久力の不等は、生産に用いられる時間の比較的不等 (二〇)以上の要約 ■第六節 (二一)不変的価値尺度。その存在とその使用に必要な条件 ■第七節 (二二)貨幣はかかる不変的標準ではない (二三)その価値の変動より起る相違 |
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■第二章 地代について
(二四)地代の性質及び定義。それに対し地代が支払われるもの (二五)歴史的起源。存在原因、それは種々なる耕地によって産出される収穫の相違から生ずる (二六)またはむしろ種々なる資本投下分に対しなされる収穫の相違から生ずる (二七)交換価値は、存在する事情の内最も有利なそれの下において費された労働量によってではなく、最も不利なそれの下において費された労働量によって、決定される (二八)地代の存在は農業の有利なことを証明するものではない (二九)地代は富の増加の結果であって原因ではない (三〇)地代全額は生産物に対する需要の減少によって減少する (三一)同じことは、土壌の肥沃度の増加、またはその耕作様式の改良、によって齎もたらされる |
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■第三章 鉱山の地代について
(三二)鉱山の経済的地代は、土地の地代を支配すると同一の法則によって決定される。従って貴金属の価値は地代の存在によって影響を蒙らない |
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■第四章 自然価格及び市場価格について
(三三)市場価格はしばしば貨物の自然価格から変動する。かかる変動は資本の投資を左右する (三四)異る職業における率のある相違はこれらの各々の職業における真実のまたは想像上の便益の存在によって説明される |
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■第五章 労賃について
(三五)労働の自然(名目)価格は必要貨物の価格に依存する (三六)労働の市場価格 (三七)市場価格は資本の蓄積によって自然価格以上に騰貴し、自然価格自身は必要貨物の価格騰貴または愉楽の標準の変動によって騰貴する (三八)資本の増加と労働の増加との関係 (三九)資本の増加率の減少は、貨物によって現わされる労賃の市場率の下落を惹起ひきおこさないであろう、もっとも貨幣労賃は、耕作の進行につれて必要貨物の価格が騰貴しなければならぬから、騰貴しなければならないが (四〇)このことは金が外国から輸入されるという事実によって影響を蒙らない。労賃の騰貴は価格の騰貴を惹起さない (四一)救貧法の悪影響 |
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■第六章 利潤について
(四二)必要品の価格の変動は製造業者の利潤に影響を及ぼすが、製造品の価格には影響を及ぼさないであろう (四三)その結果をかくの如く考えれば、その永久的結果は (四四)利潤下落の傾向。ある最低限が蓄積を奨励するに必要である (四五)より以上の考察 |
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■第七章 外国貿易について
(四六)外国貿易による市場の拡張は、価値を増加せしめず、「利潤率」に影響を及ぼさない (四七)しかしながら異る国において生産された貨物は、一国から他国へ生産要素を移動せしめ得ないために、生産費によっては交換されない。各国は最大の便益を有つ貨物を生産している (四八)このことは貨幣の介入によって変更を受けない。外国貿易によって貨幣は種々なる国の間にその必要に応じて分配される (四九)手形の使用 (五〇)交換に参加する二国中の一国における産業の進歩の結果 (五一)種々なる国における貨幣価値の変動を惹起している他の原因 (五二)貨幣の価格及び価値のかかる変化は利潤には何らの影響をも及ぼさないであろう 価格の地方的変化の二つの主たる原因――鉱山からの距離及び産業上の地位 (五三)為替相場の変化 |
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■第八章 租税について
(五四)租税は資本か収入かから支払われねばならぬ (五五)後者からのその徴収を奨励するのが正しい政策である。このことは、一、死亡に関する税において、二、財産の移転に対する租税において、無視されている。しかのみならず、この後者は最も有利な産業の分配を害する |
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■第九章 粗生生産物に対する租税
(五六)粗生生産物に対する租税は消費者の負担する所となる、けだしそれは土地の場合において耕作の限界に影響を及ぼすから (五七)それに加うるにまたその結果として、問題の粗生生産物は労働者の消費に入り込むものと仮定されているから、それは労働の労賃を騰貴せしめかつ利潤を下落せしめる傾向がある。このことの結果として四つの反対論がかかる租税に対して主張されている (五八)イ、固定的所得を享受している者は影響を受けない。これを反駁す (五九)ロ、労賃は必要品の価格騰貴に単に徐々として随伴するに過ぎない。その結果として貧窮。このことを、価格騰貴が、一、供給の不足、二、需要の増加、三、貨幣価値の下落、四、必要品に対する租税、によって惹起されるものとして考察す (六〇)ハ、蓄積が阻害される (六一)ニ、外国の競争の場合における不利益 |
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■第十章 地代に対する租税
(六二)地代に対する租税は地代と同様に価格に影響を及ぼさない (六三)しかし地代として支払われているものは二つの部分、すなわち地代そのものと支出に対する利潤とからなる。従って地代として支払われているものは価格に影響を及ぼし得よう |
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■第十一章 十分一税
(六四)十分一税は消費者の負担する所となる (六五)しかしそれは、外国からの輸入に対する奨励金の性質を有っているから、地主にとって不利である |
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■第十二章 地租
(六六)地代と共に変動する地租は地代に対する租税であり、従って価格に影響を及ぼさない (六七)しかし固定的地租は価格に影響を及ぼし、かつ最悪の土地を耕作している者にとり不公平であり、そして結局消費者の負担する所となる。従ってそれは労賃利潤間の関係に影響を及ぼし得よう。 (六八)しかしながら土地及び生産物に対するすべての租税は、供給需要間の関係を変更するから、生産を阻害する。アダム・スミス及びジー・ベー・セイの意見 |
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■第十三章 金に対する租税
(六九)金はそれに租税が課せられたからといって価格において急速に騰貴する傾きはない、けだし第一に、金の存在量は単に徐々として減少され得るに過ぎぬから (七〇)第二に、金に対する需要は、ある確定量に対するというよりはむしろある交換能力に対するのであるから (七一)従ってある事情の下においては租税が金に課せられてしかも何人によっても支払われないことがあり得よう。スペインの場合 |
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■第十四章 家屋に対する租税
(七二)同様に家屋に対する租税は、家屋数が急速に減少され得ないために、地主の負担する傾向となる (七三)建築物家賃と敷地地代としての地代の分別 |
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■第十五章 利潤に対する租税
(七四)利潤に対する租税は、価格に影響を及ぼして、消費者の負担する所となるであろう。従って利潤に対する一般的租税は、貨幣価値が変動しない限り、価格の一般的騰貴を意味するであろう (七五)しかしながらこの騰貴は、固定資本または流動資本への資本の分割され方の相違によって、すべての場合においては同一ででないであろう。英蘭イングランド銀行兌換停止条例に関する、このことからしての結論 (七六)利潤に対する租税が地主階級に与える格別の影響 (七七)消費者としての株主に対するそれ (七八)利潤に対する租税による物価の影響され方 |
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■第十六章 労賃に対する租税
(七九)労賃に対する租税は、労賃の「名目」率の存在する故に、利潤の負担する所となるであろう。この率はアダム・スミスによって主張されたが、ビウキャナンによって反対された、後者は次のことを否定する (八〇)第一、貨幣労賃は食物の価格によって左右されるということ (八一)第二、租税は労働の価格を騰貴せしめるであろうということ (八二)かかる租税は結局、アダム・スミスの考えるが如くに消費者の負担する所とはならず、利潤の負担する所とならなければならぬ (八三)彼れの結論が正確であるとしても、それは彼れの想像している如くに外国貿易におけるその国の力を破壊しはしないであろう (八四)必要品及び労賃の課税に関する彼れの見解を更に検討す (八五)課税の一般的影響 |
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■第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税
(八六)貨物に対する租税はかかる貨物の価格を騰貴せしめる。もしすべての貨物が課税されるなら、貨幣が依然課税されずかつその供給が変動しないというだけの条件で、すべての価格は騰貴するであろう (八七)生産的企業に対する課税の影響に関する枝話。債務の利子に対し課せられた課税は、一人から他のもう一人へのある富の移転に過ぎない (八八)貨物が独占価格にある時には、それに課せられた課税は、価格に影響を及ぼさず地代に影響を及ぼすであろう (八九)しかしながら粗生生産物に関しては事情はこれと異る。スミス、ビウキャナン、及びセイのこの点に関する理論を、特に麦芽に対する租税の問題に関聯して考察す |
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■第十八章 救貧税
(九〇)救貧税の負担は異るであろう。すべての利潤に対する租税の場合には労働の雇傭者によって負担される。特別に農業利潤に対する租税である場合には消費者によって負担される。地代に対する場合には地主によって負担される (九一)かかる救貧税は通常製造業よりも農業のより重く負担する所となるという事実によって、それは全部労働の雇傭者によって支払われることなく、一部分価格騰貴を通じて消費者によって支払われるであろう |
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■第十九章 貿易路の急変について
(九二)急変が特定産業に及ぼす影響 (九三)国民の繁栄について。二つの結果の相違。国民は常に結局利得する。産業は永久的にすら害されるかもしれぬ (九四)戦争終結時の英国におけるが如き、農業の特殊の場合 |
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■第二十章 価値及び富、両者の特性
(九五) 価値と富との本質的相違、前者は生産の困難な点に依存し、後者はその便宜に依存す (九六) 従って価値の標準は富の標準ではない。かくて富は価値に依存しない (九七) 一国の富は二つの方法で増加され得よう、一、国の労働能力の増加により、従って生産された貨物の量と共にその全価値の増加によって、二、新しい生産の便宜によって、従ってこれは必ずしも価値の増加を伴わない (九八) 不幸にして価値と富との区別は余りにもしばしば無視されている。特にセイによって |
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■第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響
(九九)労賃騰貴のある永久的原因がない限り、いかなる資本蓄積も永久的に利潤を下落せしめないであろう (一〇〇)生産とは需要の物質的表現である (一〇一)外国貿易への資本の利用は、国内で用いられて利潤を齎し得る資本額に絶対的限界のあることを示すものではない。しかしながらかかる使用は利潤がより大であると期待されるから起るのである (一〇二)利潤と利子との関係 (一〇三)利子率は、他の原因による一時的変動を蒙るとはいえ、終局的かつ永久的には、利潤の作用によって支配される |
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■第二十二章 輸出奨励金及び輸入禁止
(一〇四)輸出奨励金は国内市場において必ずしも価格を(永久的に)変動せしめるものではない。生産の増加の結果より不利な条件の下に耕作をなすに至る時を除けば、穀物に対する奨励金についてはこれは事実である (一〇五)アダム・スミスの第一の誤謬、穀物の貨幣価格の騰貴は生産の増加に導くものと信じている (一〇六)第二の誤謬、穀物の貨幣価格がすべての他の貨物の価格を左右するという命題 (一〇七)第三の誤謬、奨励金の結果は貨幣価値の永久的低落を惹起すとす (一〇八)第四の誤謬、農業者及び地方紳士は穀物の輸出奨励金によって利益は受けず他方製造業者はその生産品の輸出奨励金によって利益を受けるとす。さて製造業者及び農業者は同一の地位にありかつ利益を受けない。地方紳士は地代が存在するために利益を受けるであろう (一〇九)問題全部をビウキャナン及びセイの意見に関聯して更に論ず |
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■第二十三章 生産奨励金について
(一一〇)孤立国における穀物の生産奨励金を支払うべき基金が製造貨物に対し課せられた課税によって徴収される時における、その奨励金の影響。かかる事情の下においては資本の分配には何らの直接的変動も起らないであろう (一一一)労働の労賃及び雇傭資本家に対する影響 (一一二)その生産に必要な労働量の変化を通じての穀物の価値の変動によって資本家の地位に齎される影響と、課税または奨励金の理由によるその価値の変動によるそれとの相違 (一一三)穀物等に対する租税によって賄われた基金より支払われる所の製造業に対する奨励金の影響――第一の場合の反対 |
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■第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説
(一一四)穀物を生産している土地は常に地代を産出しなければならぬというアダム・スミスの見解を批判し否定す (一一五)これと反対に穀物を生産している土地の地代はスミスが鉱山地代が決定されるとなしている仕方で決定されることが主張されている、もっとも双方の場合においてリカアドウは、価格は用いられている最も肥沃ならざる資源よりの生産によって左右されるという事実に注意を惹いているが (一一六)従って地主の利益は、スミスの見解とは反対に、土地の生産力の増加によって害され得よう (一一七)地主の利益は常に消費者のそれと対立す。スミスは低い貨幣価値と高い穀物価値とを弁別していない |
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■第二十五章 植民地貿易について
(一一八)アダム・スミスのなしたる如くに自由貿易の不変的利益を主張するのは正しい (一一九)しかし植民地に課せられた禁止は母国を大いに利するであろう (一二〇)相互に貿易しているある二国の貿易に課せられた禁止というより一般的な場合によってこのことを例証す (一二一)高い利潤は価格に影響を及ぼさないということ |
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■第二十六章 総収入及び純収入について
(一二二)一国の力は、その力が富またはそれから租税が支払われる基金に依存する限り、純所得に依存し総所得には依存しない。アダム・スミスはこのことを理解しない (一二三)内国商業及び外国貿易の各々の利益についてスミスに更に誤れる点。一方が他方より有利であるということはない |
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■第二十七章 通貨及び銀行について
(一二四)貨幣鋳造を左右すべき諸原則。量に依存する価値 (一二五)紙幣 (一二六)発行過剰を妨げる必要 (一二七)紙幣を一定の条件の下に金と兌換し得るものたらしめることによって、金属貨幣に代えて紙幣を用いる利益 (一二八)それは政府によって発行せらるべし (一二九)これに関する種々なる意見 (一三〇)単本位または複本位の使用 |
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■第二十八章 富国及び貧国における、金、穀物及び労働の比較価値について
(一三一)アダム・スミスの主張する如くに、穀物で測られた金は、富国においては、高い価値よりはむしろ低い価値を有つ (一三二)繁栄せる国が衰える時には、穀物で測られた金等の価値はその結果として騰貴するものではない (一三三)金は必ずしも鉱山を所有する国において価値がより低いわけではない |
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■第二十九章 生産者によって支払われる租税
(一三四)製造業における後期よりもむしろ初期の租税の支払に関する二つの誤謬の訂正 イ、消費者は、彼れの租税支払期を遅延せしめ得ることによって、前払に対する利子の支払を補償される (一三五)ロ、もし一〇%が課せられるならば、それは一年につき一〇%であり、各転嫁につきそうであるのではないであろう |
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■第三十章 需要及び供給の価格に及ぼす影響について
(一三六)需要及び供給は価格を決定するとは言い得ない、次のことが顧慮されざる限り (一三七)イ、貨幣の変動 (一三八)ロ、生産費の規制的影響 |
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■第三十一章 機械について
(一三九)一見したところ機械の導入は、生産に従事する種々なる階級に、単にそれが産業路に変化を惹起す限りにおいてのみ、影響を及ぼすように思われる (一四〇)しかし労働に対する直接の需要は、流動資本より固定資本への資本の変化によって、著しく減少するであろう (一四一)この減少はおそらく救治されるであろう、もっともそれは必ずしも直ちにではない (一四二)労働の利益は、更に、流動資本の用い方の相違によって、著しく影響を被るであろう (一四三)しかしながら機械の導入は一般に徐々として起るであろうから、有害な結果は予見する必要はない |
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■第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見
(一四四)地代を取扱うにあたってのマルサスの誤謬。第一の誤謬、地代をもって富の創造なりと考う (一四五)マルサス氏の地代の三原則 (一四六)第二の誤謬、地代は土地の肥沃度によるとす (一四七)第三の誤謬、労賃の下落は地代の一原因なりとす (一四八)第四の誤謬、肥沃度の増加は地代の増加に導き、その反対も真なり、とす (一四九)穀物と関聯しての「真実価格」なる語のマルサスによる矛盾せる使用 (一五〇)穀価の下落は必ずしもすべての他の貨物の価格の下落を齎すものではないこと (一五一)公債所有者の地位を取扱うにあたって、マルサスは前述の如くこの原理を無視している (訳者註)項への分類、及びその名称は、ゴナア教授のほどこせるものである。 |
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■第一章 価値について | |||||||||||||
■第一節 一貨物の価値、すなわちそれと交換されるある他の貨物の分量は、その生産に必要な労働の相対的分量に依存し、その労働に対して支払われる報酬の多少に依存しない。 | |||||||||||||
(一)アダム・スミスは次の如く述べている、『価値という言葉は、二つの異った意味を有もっており、ある時にはある特定物の効用を言い表わし、またある時にはその物の所有が齎もたらす所の他の財貨を購買する力を言い表わす。前者は使用上の価値、後者は交換上の価値と呼ばれ得るであろう。』彼は続けて言う、『最大の使用上の価値を有つ物が、しばしば、ほとんどまたは全く交換上の価値を有たず、また反対に、最大の交換上の価値を有つものが、ほとんどまたは全く使用上の価値を有たない。』(訳者註)水や空気は極めて有用であり、それらは実に生存に不可欠のものであるが、しかも普通の事情の下では、これらと交換して何物も得ることは出来ない。反対に金は、空気や水と比較すればいくらも有用ではないが、多量の他の財貨と交換されるであろう。
(訳者註)アダム・スミス著『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三〇頁。 |
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(二)しからば効用は、交換価値にとって絶対的に不可欠ではあるが、その尺度ではない。もし一貨物がどうしても役に立たないならば、――換言すれば、もしそれがどうしても吾々の満足に貢献し得ないならば、――いかにそれが稀少であろうとも、またどれだけの労働の分量がそれを獲得するに必要であろうとも、それは交換価値を欠くであろう。 | |||||||||||||
(三)効用を有つならば、諸貨物は、次の二つの源泉からその交換価値を得る、すなわちその稀少性からと、それを獲得するに必要な労働の分量からとである。 | |||||||||||||
(四)その価値がその稀少性のみによって決定される若干の貨物がある。いかなる労働もかかる財貨の分量を増加することを得ず、従ってその価値は供給の増加によって低下せしめられ得ない。珍しいある彫像や絵画、稀少な書籍や貨幣、極めて狭い範囲の、特別な土壌で栽培される葡萄からのみ造られ得るに過ぎない、特殊な性質を有つ葡萄酒の如きは、すべてこの種のものである。それらのものの価値は、それを生産するに最初必要とした労働の分量とは全く無関係であり、そしてそれを所有せんと欲する者の富と嗜好との変化するにつれて変化するのである。
しかしながらこれらの貨物は、市場において日々交換される貨物の総量の中、極めて小なる部分をなすにすぎない。欲望の対象物たる財貨の遥かに最大の部分は、労働によって得られるのであり、そして、もし吾々が、それを獲得するに必要な労働を投ずる気になりさえするならば、啻ただに一国においてのみならず更にまた多くの国において、ほとんど限りなく増加せられ得よう。 |
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(五)しからば、貨物について、その交換価値について、かつその相対価格を左右する所の法則について、語る際には、吾々は常に、人間の勤労の発揮によって分量を増加することが出来、かつその生産には競争が制限なく働く如き貨物のみを意味するのである。 | |||||||||||||
(六)社会の初期においては、これらの貨物の交換価値、すなわち一貨物のどれだけが他の貨物と交換せられるであろうかを決定する規則は、ほとんど全く、各貨物に費された比較的労働量に依存するのである。
アダム・スミスは曰く、『あらゆる物の真実価格、すなわちあらゆる物がそれを獲得せんと欲する者に真に値するのは、それを獲得するの骨折と煩苦とである。あらゆる物が、それを獲得し、かつそれを処分せんと、すなわちそれを他の何物かと交換せんと欲している者に、真に値する所は、それが彼自身をしてこれから免れしめることが出来、かつこれを他人に課することが出来る所の、骨折と煩苦とである。』(訳者註)『労働は、すべてのものに対して支払われた所の、最初の価格――本来的の購買貨幣であった。』(訳者註)また曰く、『資本の蓄積及び土地の占有の両者に先だつ所の、社会初期の未開状態においては、種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることの出来る唯一の事情であるように思われる。例えば、もし狩猟民族の間で通例一匹の海狸を殺すには、一匹の鹿を殺す労働の二倍を要するとすれば、一匹の海狸は当然に二匹の鹿と交換せらるべきであり、換言すれば、二匹に等しい価がある。通例二日の、または二時間の労働の生産物たるものは、通例一日の、または一時間の労働の生産物たるものの二倍に価する、というのは当然である。』(註) (訳者註)『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三二頁。 (註)第一篇、第五章(これは誤りである。正しくは第六章。この句は、キャナン版、同上、四九頁――訳者註)。 人間の勤労によって増加し得ないものを除けば、これが真にすべての物の交換価値の基礎であるということは、経済学における最も重要な一学説である、けだし、価値なる語に附せられた曖昧な観念から生ずるほどの、かくも多くの誤謬と、かくも多くの所見の相違が起る源泉は、他にないからである。 もし、貨物に実現された労働の分量が、その交換価値を左右するとするならば、労働の分量のあらゆる増加は、それに労働が加えられる貨物の価値を増加せしめなければならず、またそのあらゆる減少はそれを下落せしめなければならない。 |
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(七)かくも正確に交換価値の源泉を定義し、そして論理を一貫させるためには、すべての物はその生産に投ぜられた労働の多いか少いかに比例してその価値が多くなるか少くなると主張すべきであったアダム・スミスは、彼自身もう一つの価値の標準尺度を立て、そして物は、この標準尺度の多くまたは少くと交換されるに比例して、価値が多くまたは少いと言っている。時に彼は標準尺度として穀物を挙げ、また他の時には労働を挙げている。そしてここに労働というのは、ある物の生産に投ぜられた労働の分量ではなくて、市場においてそれが支配し得る労働の分量なのである。すなわちこれらは同一事の異る二つの表現であるかの如くに、そして、人の労働の能率が二倍になり、従って一貨物の二倍の分量を生産し得るの故をもって、必然的にそれと交換して以前の分量の二倍を受取るであろう、というように言っている。
もしこれが実際真実であり、すなわちもし労働者の報酬が常に彼の生産した所に比例するならば、一貨物に投ぜられた労働の分量と、その貨物が購買する労働の分量とは等しく、そしてそのいずれも他の物の変動を正確に測るであろう、しかしこの両者は等しくない、前者は多くの事情の下において、他の物の変動を正確に示す不変の尺度であるが、後者はそれと比較される貨物と同じく多くの変動を被るものである。アダム・スミスは最も巧妙に、他の物の価値の変動を決定するためには、金や銀の如き可変的媒介物が不十分なことを、示した後に、彼自身穀物または労働に定めることによって、それらにも劣らず可変的な媒介物を選んだのである。 |
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(八)金や銀は、疑いもなく、新しいかつより豊富な鉱山の発見によって変動を被る。しかし、かかる発見は稀であり、かつその結果は、有力ではあるが、比較的短い期間に限られている。それもまた、鉱山採掘の熟練及び機械の進歩からも変動を被るが、それはけだしかかる進歩の結果、同一労働でより多くの分量が得られるであろうからである。それはまた更にそれが長年の間世界に供給をなした後に、鉱山の生産額が減少しつつあるということからも変動を被る。しかしこれらの変動の諸原因中のいずれから穀物は免れているであろうか? 一方において、それは農業の進歩により、耕作に使用される機械器具の進歩により、並びに、他国において耕作せらるべく、かつ輸入の自由なすべての市場における穀物の価値に影響を及ぼすべき所の肥沃な新地の発見によって、変動しないであろうか? 他方において、それは輸入禁止により、人口と富との増加により、及び劣等地の耕作が必要とする労働量増加によっての供給増加の困難の増大によって、価値の騰貴を被らないであろうか? | |||||||||||||
(九)労働の価値も等しく可変的ではないか、啻に他のすべての物と同じく、社会の状態のあらゆる変化につれて必ず変動する所の、需要と供給との間の比例によって影響を受けるばかりでなく、更にまた労働の労賃がそれに費される所の、食物その他の必要品の価格の変動によって、影響を受けて?
同一国において、ある時に、食物及び必要品の一定量を生産するために、他の離れた時に必要なそれの二倍の労働量が必要とされるかもしれない、しかも労働者の報酬は、おそらくほとんど減少しないであろう。もし以前の労働の労賃が食物及び必要品の一定量であるとすれば、彼はおそらくその分量が減少されたならば、生存し得なかったであろう。食物及び必要品はこの場合、その生産に必要な労働の分量によって評価するならば、一〇〇%騰貴しているはずであるが、しかるにこれらの物と交換される労働の分量によって測るならば、それはほとんど価値が増加していないはずである。 同じことが二つ以上の国についても言い得よう。アメリカやポウランドにおいては、最後に耕作された土地において、一定数の人間の一年の労働は、英国において同じ事情の下に在る土地におけるよりも、遥かにより多くの穀物を生産するであろう。さて、すべての他の必要品が、それらの三国において同様に低廉であると想像するならば、労働者に報酬として与えられる穀物の分量は、各国において生産の難易に比例するであろうと結論するのは、大なる誤りではないであろうか? もし労働者の靴や衣服が、機械の進歩によって、今日その生産に必要な労働の四分の一で生産され得るに至るならば、それはおそらく七五%下落するであろう。しかし、労働者がそれによって、一着または一足の代りに永久に四着の上衣または四足の靴を消費し得るに至るであろう、ということは決して真実でないから、おそらく、彼の労働は近いうちに、競争の及び人口に対する刺戟の結果によって、その労賃の費される必要品の新価値に適合せしめられるであろう。もしかかる改良が労働者の消費するすべての物にまで及ぶならば、吾々は、それらの貨物の交換価値が、その製造においてかかる改良が行われなかったあらゆる他の貨物に比較して、極めて著しい低落を受けたにもかかわらず、またそれが極めて著しく減少した労働量の生産物であるにもかかわらず、おそらく数年ならずして労働者は、たとえ増加したとしてもわずかしか増加しなかった享楽品を所有しているに過ぎないことを、見出すであろう。 |
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(一〇)しからばアダム・スミスと共に、『労働は時により多くの、また時により少い財貨を、購買し得るであろうから、変化するのは財貨の価値であり、財貨を購買する所の労働の価値ではない、』(訳者註)したがって『それのみがそれ自身の価値において決して変化しないものである所の労働が、それによってすべての貨物の価値が、すべての時及び処において評価されかつ比較され得る所の、窮極のかつ真実の標準である。』(訳者註)と言うのは、正しくない、――しかし、アダム・スミスが前に言った如くに、『種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることが出来る唯一の事情であるように思われる、』換言すれば、貨物の現在または過去の相対価値を決定するものは、労働が生産するであろう所の貨物の比較的分量であって、労働者にその労働と交換して与えられる貨物の比較的分量でないと言うのは、正しいのである。
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、同上、三五頁。 |
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(一一)(編者註)もし現在及びあらゆる時においてそれを生産するために正確に同一の労働を必要とするある一貨物が見出され得るならば、その貨物は不変的価値を有つものであり、そして他の物の変動を測り得る標準として極めて有用であろう。かかる財貨については吾々は何ら知る所なく、従ってある価値標準を定めることは出来ない。しかしながら、吾々が貨物の相対価値の変動の諸原因を知り得るために、またそれらの原因が作用する如く思われる程度を算定し得るに至らんがために、価値標準の本質は何であるかを確かめるのは、正しい理論を得るために、極めて有用なことである。
(編者註)第一版及び第二版にあったこの章句は、第三版から除かれた。ここではそれを旧に復しておく。 |
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(一二)二つの貨物が相対価値において変動する、そして吾々は、そのいずれに変動が実際起ったのであるか、を知りたいと思う。もし吾々がその一方の現在の価値を、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、その他すべての貨物と比較するならば、吾々は、それがすべてのこれらの物の正確に以前と同一の分量と交換されるであろうことを見出す。もし吾々がその他方を同一の諸貨物と比較するならば、吾々は、それがこれらのすべての財貨に対する関係において変動しているのを見出す、かくて吾々は、たぶんの蓋然性をもって、変化はこの後の貨物にあったのであり、それと吾々が比較した諸貨物にあったのではないということを、推断し得るであろう。もしこれらの種々なる貨物の生産に関連せるすべての事情をより詳細に検討して、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖等の生産は正確に同一量の労働及び資本が必要であるが、しかしその相対価値が変動した一個の貨物の生産には、以前と同一量の労働が必要ではないことを吾々が見出すならば、蓋然性は確実性に変じ、そして吾々は変動はこの一個の貨物にあることを確知し、かくてその変化の原因をもまた発見するのである。
もし私が、一オンスの金が、上掲のすべての貨物及びその他の多くの貨物のより少い分量と交換されることを見出し、更にもし私が、新しいより肥沃な鉱山の発見により、または機械の極めて有利な使用によって、一定量の金がより少い労働量によって獲得され得ることを、見出すならば、他の貨物に比較して金の価値の変動の原因は、その生産がより便利となったこと、すなわちそれを獲得するに必要な労働の分量の減少である、と正当に言い得るはずである。同様に、もし労働があらゆる他の物に比較して価値において大いに下落し、そしてもしその下落が、労働者の穀物及びその他の必要品の生産が大いに便利になったことによって助勢された豊富な供給の結果であることを見出すならば、思うに私が、穀物及び必要品はその生産に必要な労働の分量が減少した結果価値において下落したのであり、かつかくの如く労働者を養うための資料の供給が容易になったことが、続いて労働の価値における下落を伴ったのであると言うのは、私としては正確であろう。否、とアダム・スミスやマルサス氏は言う、金の場合にはその変動をその価値の下落と呼ぶのは正当であったろう、けだしこの際穀物及び労働は変動しなかったからである。そして金は、これらのもの並びにすべての他の物の以前よりもより少い分量を支配するであろうから、すべての物は静止しており、金のみが変動したというのも正しかった。しかし吾々が価値の標準尺度たるものとして選んだ所の穀物及び労働が下落した時は、それらが蒙ることを吾々が認める所のすべての変動にもかかわらず、かくの如く言うのは極めて不当である。正しい言葉としては、穀物及び労働は静止しており、そして他のすべてのものは価値において騰貴したと、言うべきであろう、と。 さて、私が抗議するのはこの言葉に対してである。金の場合におけるが如く、穀物と他の物との間の変動の原因は、正しく、穀物を生産するに必要な労働の分量の減少であることを、私は発見する、従ってあらゆる正当な推理によって、私は、穀物及び労働の変動をもってそれらの価値における下落と呼び、そしてそれらが比較される物の価値における騰貴ではないと言わざるを得ない。もし私が一週間の間、一人の労働者を雇わねばならず、そして私が彼に十シリングではなく八シリング支払うとしても、貨幣の価値に何らの変動も起らなければ、この労働はおそらくその八シリングをもって彼が前に十シリングで得たよりもより多くの食物及び必要品を獲得し得よう。しかしこれは、アダム・スミスによって述べられ、更に近くはマルサス氏によって述べられた如く、彼れの労賃の真実価値における騰貴によるものではなく、彼れの労賃が費される物の価値における下落によるのであり、この二つは全く異なるのである。しかもなお私がこれをもって労賃の真実価値の下落と呼ぶのに対し、経済学の真実の原理と相容れない所の新しいかつ異常の言葉を用いるものといわれている。私にとっては異常なそして実に矛盾した言葉とは、私の反対論者によって使用されているものこそそれであるように思われる。 穀物が一クヲタア八〇シリングの時、一労働者が一週間の仕事に対し穀物一ブッシェルの支払を受け、かつ価格が四〇シリングに下落した時、彼が一ブッシェル四分の一の支払を受けるとせよ。更に、彼は、彼自身の家庭内において一週間に半ブッシェルの穀物を消費し、その残りを、燃料、石鹸、蝋燭、茶、砂糖、塩、等々のごとき他の物と交換するとせよ。もし後の場合に彼れの手許に残るべき四分の三ブッシェルが、前の場合に半ブッシェルが彼に齎したと同じだけの上記の貨物を齎し得なければ、――それは実際齎さないであろうが――労働は価値において騰貴したのであろうか、または下落したのであろうか? 騰貴した、とアダム・スミスは言わなければならぬ、けだし彼れの標準は穀物であり、そして労働は一週間の労働に対してより多くの穀物を受取るからである。下落した、とこの同じアダム・スミスは言わなければならぬ、『けだし一物の価値は、その物の所有が齎す所の、他の財貨を購買する力に依存し、』そして労働はかかる他の財貨を購買するよりわずかな力しか有っていないからである。 |
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■第二節 異る質の労働は異った報酬を受ける。 このことは貨物の相対価値における変動の原因ではない。 |
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(一三)しかしながら労働をもってすべての価値の基礎であると論じ、かつ労働の相対的分量をもってほとんど全く貨物の相対価値を決定するものであると論ずるに当って、私は、労働の異る質を、また一つの事業における一時間または一日の労働を他の事業における同時間の労働と比較する困難を、考慮に入れぬものと考えられてはならない。異る質の労働の評価は、すべての実際的目的のためには十分正確に、市場において速かに調整され、そして労働者の比較的熟練、及びなされたる労働の強度に依存するものである。この準尺は、一度形成されれば、ほとんど変化を蒙らない。もし宝石工の一日の労働が、普通労働者の一日の労働よりも価値がより大であるならば、それは久しい以前から調整されているのであり、価値の準尺における適当の位置に置かれているのである(註)。
(註)『しかし、労働がすべての貨物の交換価値の真実の尺度であるとはいえ、それらの貨物の価値が普通これによって測られるのではない。二つの異る労働量の間の比例を確めることはしばしば困難である。二つの異る種類の仕事に費された時間は、単独では、常にこの比例を決定するものとはきまらないであろう。忍ばれた困難や発揮された才能の異れる諸程度が、同様に斟酌されなければならない。二時間の容易な仕事によりも、一時間の困難な仕事に、より多くの労働があるかもしれない。あるいは通常の誰も知っている事業における一月の勤労に従事するよりも、それを習得するに十年の労働を要する職業に一時間従事する方に、より多くの労働があるかもしれない。しかし、困難にしろ才能にしろ、それの正確な尺度を見出すことは容易ではない。実際異る種類の労働の異る生産物を相互に交換する際には、ある酌量が普通両者に対してなされている。しかしながらそれは正確な尺度によって調整されているのではなくて、正確ではないが、日常生活の仕事を行うに十分であるという種類の、大ざっぱな平等に従って、市場の駈引によって調節されているのである。』――『諸国民の富』第一篇、第十章(これは誤りである。正しくは第五章である。――訳者註) 従って、異る時期に同一の貨物の価値を比較する際には、その特定貨物の生産に要した労働の比較的熟練及び強度についての考慮は、ほとんど必要がない、けだし労働は両方の時期において同様に作用しているからである。ある時におけるある種類の労働が、他の時における同じ種類の労働に比較されているのである。もし十分の一、五分の一、または四分の一が附加されまたは減少されたならば、この原因に比例せる結果がその貨物の相対価値の上に生み出されるであろう。 もし今毛織布一片がリンネル二片の価値に等しく、そしてもし十年後に毛織布一片の通常の価値がリンネル四片に等しくなるとするならば、吾々は毛織布を作るにより多くの労働が必要であるか、またはリンネルを作るに労働がより少くて足るか、または両方の原因が作用した、のいずれかである、と安全に結論し得るであろう。 私が読者の注意をひこうと欲する研究は、貨物の相対価値における変動の結果に関するものであって、その絶対価値におけるそれに関するものではないから、種々なる種類の人間労働の評価されるその比較的程度を検討することはさして重要ではないであろう。吾々は、種々なる種類の労働の間に本来いかなる不平等があろうと、またある種の手先の技術を習得するに必要な才能、熟練、または時間が、他の種のもの以上にどれだけであろうと、それは一時代より次の時代に引続きほとんど同様であるか、または少くともその変動は、年々に亙って、極めて小なるものであり、従って短期間内では、貨物の相対価値に対しほとんど影響を及ぼし得ないものであると、正当に結論し得るであろう。『労働及び資本の種々なる用途における労賃及び利潤の両者の種々なる率の比例は、既に述べた如くに、社会の貧富、社会の進歩的、停止的、または退歩的状態によって、多くの影響を蒙るものではないように思われる。公共の福祉のかかる変革は、労賃及び利潤の両者の一般率には影響を及ぼすけれども、結局はすべての異れる職業において両者の率に一様に影響しなければならない。従ってそれらの間の比例は引続き同一でなければならず、そして少くともあるかなりの長期間に亙ってかかる変革によってよく変更され得ないものである。』(註) (註)『諸国民の富』第一篇、第十章(キャナン版、一四四頁――訳者註) |
■第三節 啻に貨物に直接に加えられた労働が その価値に影響を及ぼすばかりでなく、かかる労働を補助する所の、 器具、道具、及び建物に投ぜられた労働もまた、そうである。 |
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(一四)アダム・スミスが述べている初期の状態においてすら、狩猟者をしてその鳥獣を殺すことを得しめるためには、おそらく彼自身によって作られかつ蓄積されたものであろうとはいえ、ある資本が必要であろう。ある武器がなければ、海狸も鹿も殺され得なかったであろう、従ってこれらの動物の価値は、それを殺すに必要な時間と労働とだけによってではなく、狩猟者の資本、すなわちその助力によってそれを殺す所の武器を、作るに必要な時間と労働とによってもまた、左右されるであろう。
海狸を殺すに必要な武器は、それに近づくことが鹿に近づくよりもより困難であり、従って標準がより正確であることが必要であるために、鹿を殺すに必要な武器よりも遥かにより多くの労働をもって作られたと仮定せよ。一匹の海狸は当然に二頭の鹿よりも価値がより多いであろう。そしてそれはまさに全体としてより以上の労働がそれを殺すために必要であるという理由の故である。または両方の武器を作るに同一の分量の労働が必要であるが、しかし両者は非常に耐久力が異ると仮定せよ。耐久的な器具からはその価値のわずか一小部分が貨物に移転されるであろうが、より耐久的ならざる器具からは、それがその生産に寄与する所の貨物に、その価値の遥かにより大なる一部分が実現されるであろう。 海狸及び鹿を殺すに必要なすべての器具は一階級の人々に属し、そしてそれを殺すために用いられる労働は他の階級によって提供されることもあろう。しかも両者の比較価格は、資本の形成と動物の捕殺との両者に投ぜられた現実の労働に比例するであろう。資本が労働に比して豊富でありまたは稀少であるという、事情の異る場合においては、人間の生活に欠くべからざる食物及び必要品が豊富でありまたは稀少であるという事情の異れる場合においては、同一の価値の資本を一つのまたは他の事業に提供した者は、取得された生産物の半分、四分の一、または八分の一を得、残りは労賃として労働を提供した者に支払われるであろう、しかしこの分割は、これらの貨物の相対価値には少しも影響を及ぼし得ないであろうが、それはけだし資本の利潤が多かろうと少かろうと、それが五〇%であろうと、二〇%であろうと、一〇%であろうと、または労働の労賃が高かろうと低かろうと、これらは両方の事業に一様に作用するであろうからである。 |
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(一五)もし吾々が、社会の職業の範囲が拡張し、ある者は漁撈に必要な独木舟及び船具を作り、また他の者は種子及び始めて農業に用いられる粗末な機械を作ると仮定しても、しかもなお生産された貨物の交換価値は、その生産に――啻にその直接の生産にばかりではなく、更に器具または機械がそれに用いられる特定労働を有効ならしめるに必要なすべての器具または機械の生産に――投ぜられた労働に比例するであろう、という同一の原理は依然真実であろう。
たとえ吾々が、より以上の進歩がなされ、かつ技術と商業の繁栄せる社会状態を見ても、吾々はなお、貨物がこの原理に従って価値において変動するのを見出すであろう。すなわち例えば、靴下の交換価値を測るに当って、吾々は、他の物と比較してのその価値が、それを製造しかつそれを市場に齎すに必要な全労働量に依存することを見出すであろう。第一に、原棉が栽培される土地の耕作に必要な労働がある。第二に、靴下が製造されるべき国に綿を運搬する労働があるが、それは綿を運搬する船舶の建造に投ぜられた労働の一部分を含み、そしてそれはこの財の運賃に算入されている。第三に、紡績工及び機械工の労働がある。第四に、その生産を助ける建物及び機械を作った所の機械工、鍛冶屋、及び大工の労働の一部分がある。第五に、小売商人その他これ以上特記する必要のない多くの者の労働がある。これら種々なる種類の労働の総額が、これらの靴下と交換せらるべき他の物の分量を決定するのである。他方投ぜられた種々なる分量の労働に関する同一の考察が、同様に、靴下に対し与えらるべきそれらのものの分量を支配するであろう。 これが交換価値の真の基礎であることを確信するために、製造された靴下が他の物と交換されるために市場に来るまでに、原棉が通過しなければならぬ種々なる行程のいずれか一つにおいて、労働を節約する手段中においてある改良がなされたと仮定し、そしてそれに随伴する諸結果を観察しよう。もし原棉を栽培するに必要な人間が減少するか、または航海に従事する船員、または原棉をわが国に運搬する船舶を建造する造船工が減少するならば、またもし建物及び機械を作るに人手が減少するか、またはそれが作られた時に能率を増加せしめられたならば、靴下は必然的に価値において下落し、従ってより少量の他の物を支配するであろう。それが下落するのは、けだしより少量の労働がその生産に必要であり、従ってかかる労働の節約のなされなかった物のより少い分量と交換されるからである。 労働の使用を節約すれば、その節約が貨物そのものの製造に必要な労働で行われようと、またはその生産を援助する資本の形成に必要な労働で行われようと、必ず貨物の相対価値は下落する。いずれの場合においても靴下の製造に直接必要な人々たる漂白工、紡績工及び機械工として用いられる者が減少したにしろ、またはより間接に関係している人々たる船員、運搬夫、機械工、及び鍛冶工として用いられるものが減少したにしろ、靴下の価格は下落するであろう。一方の場合には一部分のみに靴下が帰属し、残りはその生産のために建物、機械、及び車輛が役立つ所の、すべての他の貨物に帰するであろう。 社会の初期の段階において、狩猟者の弓及び矢と漁夫の独木舟及び器具は共に同一の分量の労働の生産物であって、等しい価値を有ち等しい耐久力を有つものと仮定せよ。かかる事情の下においては、狩猟者の一日の労働の生産物たる鹿の価値は、漁夫の一日の労働の生産物たる魚の価値と、正確に等しいであろう。魚と獣との比較価値は、生産物の量がどれだけであろうと、または一般的労賃または利潤が高かろうと低かろうと、全然その各々に実現された労働の分量によって左右されるのである。もし例えば、漁夫の独木舟及び器具は一〇〇磅ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼は十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅ポンドであり、また彼らは一日にその労働によって二十匹の鮭を得るとすれば、またもし狩猟家が使用する武器もまた一〇〇磅ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼もまた十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅ポンドであり、また彼らは一日に彼に十頭の鹿を獲得するとすれば、一頭の鹿の自然価格は、全生産物がそれを獲得した人々に与えられる比例は大であろうと小であろうと、それには関係なく、二匹の鮭であろう。労賃として支払われる比例は利潤の問題においては最も重要なものである、けだし労賃が低いか高いかに比例して、利潤は高くまたは低いであろうということは、直ちに判るべきことであるからである。しかし労賃は同時に高くも低くもあるであろうから、それは決して魚及び獣の相対価値に影響を及ぼし得ないであろう。もし狩猟者が労賃として、彼れの獲物の大部分をまたはその大部分の価値を、支払うという口実をもって、彼れの獲物と交換してより多くの魚を与えるように漁夫に誘うならば、漁夫は、彼も等しく同一の原因によって影響を蒙ったと述べるであろう。従って労賃及び利潤の変動がどうあろうと、資本蓄積の結果がどうあろうと、彼ら各々一日の労働によって同一量の魚と同一量の獣を捕獲し続けている限り、自然的交換率は、鹿一頭対鮭二匹である。 もし同一量の労働をもってより少い分量の魚またはより多い分量の獣が捕獲されるならば、魚の価値は獣のそれに比較して騰貴するであろう。もし反対に、同一量の労働をもってより少い分量の獣またはより多い分量の魚が捕獲されるならば、獣は魚に比較して騰貴するであろう。 |
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(一六)もしその価値が不変なある他の貨物があるとするならば、吾々は、魚及び獣の価値をこの貨物と比較することによって、この変動のうちどれだけが魚の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべく、またそのうちどれだけが獣の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべきかを、確かめ得るであろう。
貨幣がかかる貨物であると仮定しよう。もし一匹の鮭が一磅ポンドに値し、一頭の鹿が二磅ポンドに値するならば、一頭の鹿は二匹の鮭に値するであろう。しかし鹿を捕獲するにより多くの労働が必要になり、または鮭を得るにより少い労働が必要になり、あるいはまたこれらの原因が同時に作用したために、一頭の鹿が三匹の鮭の価値を有つようになることもあろう。もし吾々がこの不変的標準を有つならば、吾々は容易に、これの諸原因のいずれがいかなる程度に作用したかを確め得るであろう。もし鹿が三磅ポンドに騰貴したのに鮭が引続き一磅ポンドで売れるならば、吾々は、鹿を捕獲するのにより多くの労働が必要になったのである、と結論し得よう。もし鹿は二磅ポンドという同一の価格を続け、そして鮭は十三シリング四ペンスで売れたならば、吾々は、鮭を得るのにより少い労働で足るものと確信し得よう。またもし鹿は二磅ポンド一〇シリングに騰貴し、鮭は一六シリング八ペンスに下落したならば、吾々は、これらの貨物の相対価値の変動を生ずるに両方の原因が働いたものと信ずるであろう。 労働の労賃におけるいかなる変動も、これらの貨物の相対価値の変動を生み出し得ないであろう、けだし、それが騰貴したと仮定しても、これらの職業のいずれにおいてもより大なる労働量が必要になったのではなく、労働がより高い価格で支払を受けるのに過ぎず、そして狩猟者及び漁夫をしてその獣及び魚の価値を引上げんと努力せしめると同一の理由が、鉱山の所有者をしてその金の価値を引上げようとさせるであろうから。かかる誘引はすべてのこれら三つの職業において同一の力をもって働き、そしてそれに従事する者の相対的地位は、労賃の騰貴の前と後とで同一であるから獣と魚と金との相対価値は引続き変らないであろう。労賃は二〇%騰貴し、利潤はその結果それ以上または以下の割合で下落するであろうが、これらの貨物の相対価値には少しも変動が起らないのである。 さて、同一の労働と固定資本とをもって生産し得る魚は増加するが、しかし金または獣は増加しないと仮定するならば、魚の相対価値は金または獣に比較して下落するであろう。もし、二十匹の鮭ではなく二十五匹が一日の労働の生産物であるならば、一匹の鮭の価格は一磅ポンドではなく十六シリングとなり、そして、二匹の鮭ではなくて二匹半の鮭が一頭の鹿と交換して与えられるであろうが、しかし鹿の価格は以前と同様に引続き二磅ポンドであろう。同様に同一の資本及び労働をもって獲得し得る魚が減少するならば、魚は比較価値において騰貴するであろう。かくて魚は、その一定量を得るのにより多くのまたはより少い労働が必要とされるという理由のみによって、交換価値において騰落するであろう。そしてそれは、必要な労働量の増加または減少の比例以上には決して騰落し得ないであろう。 かくてもし吾々がそれによって他の貨物における変動を測り得る不変の標準を有っているとするならば、貨物が、仮定にあるような事情の下において生産されるとした時に、それらの貨物が永続的に騰貴し得る最高限度は、その生産に必要とされる附加的労働量に比例し、かつより以上の労働がその生産に必要とされない限り、それはいかなる程度にも騰貴し得ないことを、見出すであろう。労賃の騰貴は、貨物を、貨幣価値においても、またその生産に何らの附加的労働量を必要とせず、かつ同一比例の固定資本及び流動資本を、また同一耐久力の固定資本を、使用した所の、ある他の貨物との比較においても、その価値を騰貴せしめないであろう。もし他の貨物の生産により多くのまたはより少い労働が必要とされるならば、吾々の既に述べた如く、このことは直ちにその相対価値に変動を惹起すであろうが、しかしかかる変動は必要労働量の変動によるものであって、労賃の騰貴によるものではないのである。 |
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■第四節 貨物の生産に投ぜられた労働の分量が その相対価値を左右するという原理は、 機械その他の固定的かつ耐久的な資本の使用によって著しく修正される。 |
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(一七)前節においては、吾々は、鹿及び鮭を殺すに必要な器具及び武器の耐久力は等しく、かつ同一労働量の結果であると仮定し、そして鹿及び鮭の相対価値における変動は、一にそれを獲得するに必要な労働量の変動に依存するものであることを見た、――しかし社会のあらゆる状態においては、種々なる事業に用いられる道具や器具や建物や機械は、耐久力の程度を異にし、そしてそれを生産するに種々異った労働量を必要とするであろう。労働を支持すべき資本と、道具や機械や建物に投下される資本との比例もまた、種々異って組合わされるであろう。固定資本の耐久度におけるかかる相違、及び二種類の資本が組合わされる比例のこの差異は、貨物の生産に必要な労働量の大小ということの他に、その相対価値を変動せしめる他の一原因を導入する、――この原因とは労働の価値における騰貴及び下落である。
労働者によって消費される食物及び衣服、その中で彼が働く建物、彼れの労働を助ける器具は、すべて、消耗すべき性質を有っている。しかしながらこれらの種々なる資本がもちこたえる時間には莫大な差異がある、すなわち蒸気機関は船舶よりも、船舶は労働者の衣服よりも、労働者の衣服は彼が消費する食物よりも、より長く保つであろう。 資本が速かに消耗ししばしば再生産される必要があるか、またはゆっくりと消費されるものであるかによって、それは流動資本または固定資本の部類に種別される(註)。高価な耐久的な建物や機械を有つ醸造業者は多量の固定資本を使用するといわれる。反対に、その資本が主として労賃の支払に用いられ、その労賃は建物及び機械よりもより消耗的な貨物たる食物及び衣服に費される所の、製靴業者は、その資本の大部分を流動資本として使用するといわれている。 (註)本質的ではなく、かつ境界線を正確に引き得ない所の、区別である。 流動資本は、極めて時を異にして循環すること、すなわちその使用者に囘収されるということもまた、観察されるべきである。播種のために農業者が購入した小麦は、パンを焼くためにパン焼業者が買い入れた小麦に対しては、比較的に固定資本である。一方はそれを地中に遺し、一年の間は何らの報酬も獲得し得ないが、他方は麦粉に挽かせパンとしてそれをその顧客に売り、そして彼は一週間の後には、同一の事を繰返すか、またはある他の仕事を始めるために、彼の資本を解放し得るのである。 かくて、二つの事業が同一量の資本を使用するかもしれぬが、しかし固定した部分と流動する部分とについては極めて種々に異って分割されもしよう。 一つの事業においては極めてわずかな資本が流動資本として、換言すれば労働を支持するために、用いられるにすぎず――すなわち資本は主として機械、器具、建物等に、すなわち比較的に固定的かつ耐久的な性質の資本に投ぜられるであろう。他の事業においては、同一量の資本が用いられるであろうが、しかしそれは主として労働の支持に用いられ、そして極めてわずかが、器具、機械、及び建物に投ぜられるであろう。労働の労賃の騰貴がかかる異った事情の下において生産される貨物に対して及ぼす影響は、異らざるを得ない。 更に、二人の製造業者が同一量の固定資本と同一量の流動資本とを用いるが、しかし彼らの固定資本の耐久力は極めて不等であることがあろう。一方は一〇、〇〇〇磅ポンドの価値の蒸気機関を有ち、他方は同じ価値の船舶を有つこともあろう。 もし人々が生産に何ら機械を用いずただ労働のみを用い、そしてその貨物を市場に齎すまでにすべて同一時間を要するとすれば、彼らの財貨の交換価値は用いられた労働の分量に正確に比例するであろう。 もし彼らが同一の価値を有ちかつ同一の耐久力を有つ固定資本を使用するならば、その時にもまた、生産された貨物の価値は同一であり、そしてそれはその生産に使用された労働量の大小に応じて変動するであろう。 |
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(一八)しかしたとえ、同様の事情の下において生産された貨物は、その一または他を生産するに必要な労働の分量の増加または減少を除くいかなる原因によっても、相互に対して変動しないであろうとはいえ、しかも同一の比例の量の固定資本をもって生産されない所の他のものに比較するならば、たとえそのいずれの貨物の生産に必要な労働量には増減がなくとも、私が先きに述べた他の原因、すなわち労働の価値の騰貴によってもまた変動するであろう。大麦及び燕麦は労賃がいかに変動するとも、相互に引続き同一の関係を維持するであろう。綿製品及び毛織布も、それがもし相互に正確に同様な事情の下において生産されるならば、前の場合と同様であろう、しかしながら労賃の騰貴または下落と共に、大麦は綿製品に比較して、また燕麦は毛織布に比較して、価値がより多くもまたはより少くもなるであろう。
二人の人が各々百名の人間を二台の機械の建造に一年間用い、そしてもう一人の人が同一数の人間を穀物の耕作に用いると仮定すれば、各々の機械は、その年の終りに、穀物と同一の価値を有つであろうが、それは、それらが各々同一の労働量によって生産されるであろうからである。この機械の一つの所有者が、翌年、百名の人間の助力によって、それを毛織布の製造に使用し、そしてもう一つの機械を所有する人もまた、同様に百名の人間の助力によって、彼れの機械を綿製品の製造に使用し、他方農業者は引続き以前と同様に百名の人間を穀物の耕作に雇っていると仮定せよ。第二年目中に、彼らはすべて同一の分量の労働を使用するであろう。しかし、毛織物業者並びにまた綿織物業者の有する財貨と機械との合計は、二百名の人間を一年間使用した労働の結果であり、またはむしろ百名の人々の二年間の労働の結果であろう。しかるに穀物は百名の人間の一年間の労働によって生産されるであろう、従ってもし穀物が五〇〇磅ポンドの価値であるとすれば、毛織物業者の機械と毛織布との合計は一、〇〇〇磅ポンドの価値でなければならず、そして綿織物業者の機械と綿製品もまた、穀物の価値の二倍でなければならない。しかしながらこれらのものは穀物の価値の二倍以上であろう、何故なれば、第一年目の毛織物業者及び綿織物業者の資本に対する利潤がその資本に附加されているが、しかるに農業者の利潤は費消されかつ享楽されてしまっているからである。かくして彼らの資本の耐久力の程度の異るがために、または同じことであるが、一群の貨物が市場に齎され得るまでに経過すべき時間のために、それらの価値は、正確にそれに投ぜられた労働の分量に比例しないであろう――すなわちそれらは二対一ではなく、最も価値の多いものが市場に齎され得るまでに経過しなければならぬより長い時間を償うために、幾らかそれよりもより多くなるであろう。 各労働者の労働に対し一年に五〇磅ポンドが支払われ、または五、〇〇〇磅ポンドの資本が使用され、そして利潤は一〇%であるとすれば、機械の各々並びに穀物の価値は、第一年目の終りに、五、五〇〇磅ポンドであろう。第二年目には、製造業者及び農業者は再び各々労働を支持するために五、〇〇〇磅ポンドを用い、従って再び彼らの財貨を五、五〇〇磅ポンドで売るであろうが、しかし機械を用いる者は、農業者と均衡を保つためには、啻に労働に使用された五、〇〇〇磅ポンドなる同額の資本に対して五、五〇〇磅ポンドを得なければならぬばかりでなく、更に機械に投ぜられた五、五〇〇磅ポンドに対する利潤として、より以上に五五〇磅ポンドの額を得なければならず、従って彼らの財貨は六、〇五〇磅ポンドで売れなければならない。しからばここに、年々彼らの貨物の生産に正確に同一の分量の労働を使用する資本家達があるが、しかも彼らの生産する財貨の価値は、その各々によって用いられる固定資本すなわち蓄積労働の分量の異るために、異っているのである。毛織布と綿製品との価値は同一であるが、それはこれらが同一の分量の労働と同一の分量の固定資本との生産物であるからである。しかし穀物の価値はこれらの貨物と同一ではないが、それは固定資本に関する限りにおいて、異る事情の下で生産されるからである。 しかし、それらの相対価値は、いかにして労働の価値における騰貴によって影響を蒙るであろうか? 毛織布及び綿製品の相対価値が何らの変化をも蒙らないであろうことは明かである、けだし仮定された事情の下においては、一方に影響を及ぼすものは他方にも等しく影響を及ぼさなければならぬからである。小麦及び大麦の相対価値もまた何らの変化も蒙らないであろう、けだしそれらは、固定資本及び流動資本の関係する限りにおいて同一の事情の下で生産されるからである。しかし毛織布または綿製品に対するその相対価値は、労働の騰貴によって変更されなければならない。 利潤の下落なくしては、労働の価値における騰貴はあり得ない。もし穀物が農業者と労働者との間に分たるべきであるとするならば、後者に与えられる割合が大きければ大きいほど、前者に残る所はわずかであろう。同様に、もし毛織布または綿製品が労働者とその雇傭者との間に分たれるとするならば、前者に与えられる比例が大きければ大きいほど、後者に残る所はわずかである。そこで労賃の騰貴により利潤が一〇%から九%に下落すると仮定すれば、製造業者は、その固定資本に対する利潤として、その財貨の共通の価格に(すなわち五、五〇〇磅ポンドに)五五磅ポンドを附加せずに、その額に九%すなわち四九五磅ポンドしか附加せず、従って価格は六、〇五〇磅ポンドではなくて五、九九五磅ポンドとなるであろう。穀物は引続き五、五〇〇磅ポンドで売れるであろうから、より以上の固定資本が使用された製造財貨は、穀物またはその他のより少い分量の固定資本が入込んでいる財貨に比較して、下落するであろう。労働の騰落による財貨の相対価値の変動の程度は、固定資本が使用された全資本に対して有つ比例に依存するであろう。極めて高価な機械により、または極めて高価な建物の中で、生産される所の、またはそれが市場に齎され得るまでに長い時間を必要とする所の、すべての貨物は、相対価値において下落するであろうが、しかるに、主として労働によって生産され、または速かに市場に齎されるであろう所の、すべてのものは、相対価値において騰貴するであろう。 しかしながら、読者は、貨物のこの変動原因は、その結果において比較的軽微であることを注意すべきである。利潤において一%の下落を惹起す如き労賃の騰貴があれば、私が仮定した事情の下で生産された財貨の相対価値は、わずか一%だけ変動する。それは利潤のかかる大下落があるのに、六、〇五〇磅ポンドから五、九九五磅ポンドに下落するに止る。労賃の騰貴によりこれらの財貨の相対価値に対し生み出され得る最大の影響といえども、六%または七%を超過し得ないであろう。けだし利潤はおそらくいかなる事情の下においてもかかる額以上の一般的なかつ永続的な下落を許し得ないであろうからである。 貨物の価値の変動の他の大原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の増減は、これと異る。もし穀物を生産するに百名ではなく八十名が必要とされるならば、穀物の価値は二〇%、すなわち五、五〇〇磅ポンドから四、四〇〇磅ポンドに下落するであろう。もし毛織布を生産するに、百名ではなく八十名の労働で十分であるならば、毛織布は六、〇五〇磅ポンドから四、九五〇磅ポンドに下落するであろう。大なる程度における永久的利潤率の変動は、多年の間においてのみ作用する原因の結果である。しかるに貨物を生産するに必要な労働の分量の変動は、日々起るものである。機械や道具や建物や原料の生産におけるあらゆる改良は、労働を節約し、吾々をしてかかる改良の加えられた貨物をより容易に生産することを得せしめ、従ってその価値が変更するのである。しからば貨物の価値の変動の原因を測定するに当って、労働の騰落によって生み出される結果を全く度外視するのは正しくないであろうが、それに多くの重要さを附するのも同等に正しくないであろう。従って本書の以下の部分においては、時に私はこの変化の原因にも触れはしようが、私は、貨物の相対価値に起るすべての大なる変化をもって、その時にそれを生産するために必要とされる労働の分量の大小によって生み出されたものと、考えるであろう。 その生産に投ぜられた労働の同一な諸貨物は、もしそれらが同一の時間で市場に齎され得ないならば、交換価値において異るであろうということは、ほとんどいうをまたない所である。 私が一貨物の生産に一年間一、〇〇〇磅ポンドの費用で二十名を雇い、そしてその年の終りに、再び翌年度のために更に一、〇〇〇磅ポンドの費用を出して、同じ貨物の仕上または完成に、二十名を雇い、そして私はそれを二年の終りに市場に齎すと仮定すれば、もし利潤が一〇%であるならば、私の貨物は二、三一〇磅ポンドで売れなければならない、けだし私は一年間一、〇〇〇磅ポンドの資本を用い、更に一年間二、一〇〇磅ポンドの資本を使用したからである。もう一人の人は、正確に同一の分量の労働を雇うけれども、しかし彼はそれをすべて第一年目に雇うのであり、すなわち彼は二、〇〇〇磅ポンドの費用で四十名を雇うのであって、第一年目の終りには彼はそれを一〇%の利潤を得て、すなわち二、二〇〇磅ポンドで売るのである。しからばここに、正確に同一の分量の労働が投ぜられていて、その一つは二、三一〇磅ポンドに売れ――他は二、二〇〇磅ポンドに売れる所の、二つの貨物があるわけである。 この場合は前の場合と異るようであるが、実際は同一である。双方の場合において、一方の貨物の価格がより高いのは、それが市場に齎され得るまでに経過しなければならない時がより長いのによる。前の場合においては、機械及び毛織布は、それらにわずか二倍の労働量が投ぜられているに過ぎないにもかかわらず、穀物の価値の二倍以上であった。第二の場合においては、一方の貨物はその生産により以上の労働が用いられていないにもかかわらず、他方よりも価値がより多い。この価値の相違は、双方の場合において、利潤が資本として蓄積されるのによるのであり、そして単に、利潤が留保された時間に対する正当な報償に過ぎないものである。 しからば、異る事業に用いられる資本が、固定資本と流動資本との種々な割合に分たれることは、労働がほとんどもっぱら生産に使用される際に普遍的に適用される所の法則、すなわち貨物は、その生産に投ぜられる労働の分量の増減がなければ、決して価値において変動しない、という法則に、かなりの修正を齎すように思われる。それは本節において、労働の分量に何らの変動なくとも、単にその価値の騰貴は、それらの生産に固定資本が用いられる所の財貨の交換価値の下落を惹起すであろうし、固定資本の量が多ければ多いほど、下落は大である、ということが示されているからである。 |
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■第五節 価値は労賃の騰落と共に変動しないという原理は、 資本の不等な耐久力、及び資本がその使用者に囘収される 速度の不等なこと、によってもまた修正される。 |
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(一九)前節において吾々は、二つの異れる職業における二つの相等しい資本について、固定資本及び流動資本の比例を不等なものと仮定したが、今度はそれらは同一の比例にあるが耐久力が不等である、と仮定しよう。固定資本の耐久力がより小となるに比例して、それは流動資本の性質に接近する。製造業者の資本を維持するためには、それはより短時間に消費され、かつその価値は再生産されるであろう。吾々はいま、一製造業において固定資本が重きをなすに比例して、労賃が騰貴する時には、その製造業において生産される貨物の価値は、流動資本が重きをなす製造業において生産される貨物の価値よりも、相対的により低い、ということを見た。固定資本の耐久力がより小となり、流動資本の性質に接近するに比例して、同一の結果が同一の原因によって生み出されるであろう。
もし固定資本が耐久的性質のものでないならば、それをその本来の能率状態を維持するためには、年々多量の労働を必要とするであろう、しかしそのために投ぜられた労働は、かかる労働に比例して一つの価値を有たねばならぬ製造物に真に費されたものと考え得るであろう。もし私が二〇、〇〇〇磅ポンドに値する一台の機械を有ち、それは極めてわずかの労働で貨物の生産をなし得るとし、かつもしかかる機械の損耗磨滅は僅少量であり、一般的利潤率は一〇%であるとするならば、私はその機械を使用したという理由で、遥かに二、〇〇〇磅ポンド以上の財貨の価格に附加されるべきことを、要求しないであろう。しかしもし機械の損耗磨滅が大きく、それを有効の状態に保っておくに必要な労働の分量が年々に五十名の労働に当るとすれば、私は、他の財貨の生産に五十名を使用し、かつ機械を全然使用しない所の、他の製造業者によって得られると等しい附加的価格を、私の財貨に対して要求するであろう。 しかし労働の労賃の騰貴は、急速に消費される機械によって生産される貨物と、遅々として消費される機械によって生産される貨物とに、等しくは影響を及ぼさないであろう。一方の生産においては、生産された貨物に多量の労働が引続き移転されるであろう。――他方においては、極めてわずかがかく移転されるに過ぎないであろう。労賃のあらゆる騰貴、または同じことであるが、利潤のあらゆる下落は、耐久的性質を有つ資本をもって生産された貨物の相対価値を下落せしめ、そして消耗的な資本をもって生産された貨物の相対価値を比例的に高めるであろう。 私は既に、固定資本は種々なる程度の耐久力を有つことを述べた、――今、ある特定の事業において用いられ得る一台の機械は一年間に百名の人間の仕事をなし、かつ一年間だけ持続するものと仮定せよ。また機械は、五、〇〇〇磅ポンドに値し、かつ年々百名の人間に支払われる労賃は五、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、製造業者にとってはこの機械を買うか人間を雇い入れるかは無関心事であろうことは、明かである。しかし労働が騰貴し従って一年間百人の労賃が五、五〇〇磅ポンドに上ると仮定すれば、製造業者は今や躊躇しないであろうことは明かである。機械を買いそして彼れの仕事を五、〇〇〇磅ポンドで済ませるのが彼れの利益であろう。しかし、労働が騰貴せる結果、機械は価格において騰貴し、すなわちそれもまた五、五〇〇磅ポンドに値しないであろうか? それは、もしいかなる資本もその製造に使用されず、そしてその製造者に支払われるべきいかなる利潤も無いならば、価格において騰貴するであろう。例えばもしこの機械が、各々五〇磅ポンドの労賃で一年間その製造に働く所の百名の人間の労働の生産物であり、従ってその価格は五、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、それらの労賃が五五磅ポンドに騰貴するならば、その価格は五、五〇〇磅ポンドになるであろうが、しかしこれはあり得ないことである。用いられるのは百名以下の人間である、しからざれば、五、〇〇〇磅ポンドの中から人間を雇傭した資本の利潤が支払われなければならぬから、それは五、〇〇〇磅ポンドで売れないはずである。そこで単に八十五名の人間が各々五〇磅ポンドすなわち一年につき、四、二五〇磅ポンドの費用で雇われ、そしてこの機械を売ったためにこれらの人々に前払された労賃以上に生ずる七五〇磅ポンドが、機械製造者の資本の利潤を構成していると仮定せよ。労賃が一〇%騰貴した時には、彼は四二五磅ポンドの附加的資本を用いるを余儀なくされ、従って彼は四、二五〇磅ポンドではなく四、六七五磅ポンドを用いるであろう。この資本に対して彼は、もし引続き彼れの機械を五、〇〇〇磅ポンドで売るならば、単に三二五磅ポンドの利潤を得るに過ぎないであろう。しかしこれがまさに、すべての製造業者及び資本家にとって事実である。労賃の騰貴は彼らすべてに影響を及ぼすのである。従ってもし機械の製造者が労賃の騰貴せる結果機械の価格を引上げるならば、異常な分量の資本がかかる機械の製造に用いられることとなり、ついにその価格は単に普通の利潤率を与えるに過ぎなくなるであろう(註)。かくて吾々は、労賃の騰貴せる結果、機械は価格において騰貴しないであろうということを、知るのである。 (註)吾々はここになぜ旧国は機械の使用を常に余儀なくされ、かつ新国は労働の使用を余儀なくされているかの理由を、知るのである。人間の生活資料を供給することが困難になるごとに労働は必然的に騰貴し、そして、労働の価格が騰貴するごとに機械の使用への新しい誘因が与えられる。人間の生活資料を供給することのこの困難は旧国においては常に作用しているが、新国においては、労賃が少しも騰貴せずに人口の極めて大なる増加が起り得よう。七百万、八百万、及び九百万の人間に食物を供給することは、二百万、三百万、及び四百万に食物を供給するのと同様に容易であろう。 しかしながら労賃の一般的騰貴の際に、彼れの貨物の生産費を増加せざるべき機械に頼り得る製造業者は、もし彼れが引続きその財貨に対して同一の価格を要求することが出来るならば、特殊の利益を享受するであろう。しかし吾々の既にみた如くに、彼はその貨物の価格を低下するを余儀なくされるであろう、しからざれば資本が彼れの事業に流入して来、ついに彼れの利潤は一般水準にまで下落するであろう。しからばかくの如くして公衆は機械によって利益を受けるのである、けだしこの沈黙せる作業者は、それが代位する労働と同一の貨幣価値を有っている時ですら、常にそれよりも遥かにより少い労働の生産物である。機械のはたらきによって、労賃を騰貴せしめる食料品の価格の騰貴は、より少数の人々にしか影響を及ぼさないであろう。それは、上例におけるが如く、百名ではなく八十五名に及び、そしてその結果たる節約は製造貨物の価格低減となって現われる。彼らによって製造された機械も貨物も真実価値において騰貴することはないが、しかし機械によって製造されるあらゆる貨物は下落し、そして機械の耐久力に比例して下落するのである。 |
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(二〇)しからば、次の如くわかるであろう、すなわち、未だ多くの機械や耐久的資本が用いられない社会の初期においては、等しい資本によって生産される貨物はほとんど等しい価値を有ち、そしてその生産に必要とされる労働の増減によってのみ、貨物は相互に相対的に騰落するであろう。しかしこれらの高価なかつ耐久的な器具が導入されて後は、等しい資本の使用によって生産された貨物は極めて不等な価値を有つであろう。そしてその生産に必要な労働の増減に従って、それらはなお相互に騰落を蒙るであろうけれども、それらは労賃及び利潤の騰落によってもまた、一つの他の変動――小さな変動ではあるが、――を蒙るであろう。五、〇〇〇磅ポンドに売れる財貨が、一〇、〇〇〇磅ポンドに売れる他の財貨が生産される所の資本と同一量の資本の、生産物であることもあろうから、その製造に対する利潤は同一であろう。しかしもし利潤率の騰落と共に財貨の価格が変動しなかったならば、それらの利潤は不等であろう。
次のこともまた明かであろう、すなわちある種の生産に用いられる資本の耐久力に比例して、その生産にかかる耐久的資本が用いられる貨物の相対価格は労賃と反比例して変動するであろう。労賃の騰貴する時にはそれは下落し、そして労賃の下落する時には騰貴するであろう。これに反し価格を測る媒介物よりも少い固定資本をもって、またはそれよりも耐久力の少い固定資本をもって、主として労働により生産されるものは、労賃の騰貴する時には騰貴し、そして労賃の下落する時に下落するであろう。 |
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■第六節 価値の不変的尺度について | |
(二一)貨物が相対価値において変動した時には、そのいずれが真実価値において下落しまたいずれが騰貴したのかを確かめる手段を有つことが、望ましいであろう。そしてこのことは、それを順次に、それ自身他の貨物が蒙る変動を全く蒙らざるべきある不変的の価値の標準尺度に比較することによってのみなされ得るものである。かかる尺度を有つことは不可能であるが、それはけだし、それ自身、その価値を確かめようとする物と同一の変化を蒙らない貨物は、ないからである、換言すれば、その生産に要する労働の増減しないものはないからである。しかしこの媒介物の価値の変動の原因が除去されたとしても、――例えば吾々の貨幣の生産において、同一量の労働があらゆる時に必要とせらるべきであるということが、可能であるとしても、それはなお価値の完全な標準または不変的尺度ではないであろう、けだし私が既に説明せんと努めた如くに、貨幣を生産するに必要であろう所の固定資本と、その価値の変動を吾々が確かめようとする貨物を生産するに必要な固定資本との比例が異るがために、貨幣は労賃の騰落による相対的変動を蒙るであろうからである。それはまたその生産に用いられる固定資本と、それと比較さるべき貨物の生産に用いられる固定資本との耐久力の程度が異るがために、――すなわち一方を市場に齎すに必要な時間がその変動を決定しようとする他の貨物を市場に齎すに必要な時間よりも、より長くまたはより短いがために、労賃の騰落という同一の原因によって変動を蒙るであろう。あらゆるかかる事情は、考え得られるいかなる貨物をも、完全に正確な価値の尺度たるの資格を喪失せしめるのである。
例えばもし吾々が金を一標準と定めるとしても、それがあらゆる他の貨物と同一の事情の下で獲得され、従ってそれを生産するに労働と固定資本とを必要とする所の、一貨物たるに過ぎないことは、明かである。あらゆる他の貨物と同様に、労働の節約における改良はその生産に適用され、従って、その生産がいっそう増せるがためのみによって、それは他の物に対する相対価値において下落するであろう。 もし吾々がこの変動原因が除去されそして同一の分量の金を獲得するに同一の分量の労働が常に必要とせられるとしても、しかもなお金は、それによって吾々が正確にあらゆる他の物の変動を確め得る完全な価値の尺度では、あり得ないであろう。けだしそれはあらゆる他の物と正確に同一の固定資本及び流動資本の組合せをもってしても、または同一の耐久力を有つ固定資本をもってしても、生産されないであろうし、またそれが市場に齎され得るまでに、正確に同一の時間を必要としないであろうからである。それは、それ自身と正確に同一の事情の下で生産されるすべての物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしその他の物に対してはそうではない。例えばもし、吾々が毛織布及び綿製品を生産するに必要であると仮定したと同一の事情の下でそれが生産せられるならば、それはこれらの物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしより少いかより多いかの比例の固定資本をもって生産された穀物や石炭やその他の貨物に対してはそうではない、けだし吾々が示した如くに、永久的利潤率のあらゆる変動は、その生産に用いられる労働の分量の変動とは無関係に、あらゆるこれらの財貨の相対価値に、幾らかの影響を及ぼすであろうからである。もし金が穀物と同一の事情の下で生産されるとしても、その事情は決して変化しなくとも、それは、同一の理由によって、あらゆる時において毛織布及び綿製品の価値の完全な尺度ではないであろう。しからば、金にしても他のいかなる貨物にしても、あらゆる物に対する完全な価値尺度では決してあり得ない、しかし私は既に、利潤の変動による物の相対価格への影響は比較的軽微であり、最も重要な影響は生産に必要とされた労働の分量の変動によって生み出されることを、述べた。従ってもし吾々が、この重要な変動原因が金の生産から除去されたと仮定するならば、吾々はおそらく、理論上考え得る価値の標準尺度に最も近いものを所有することになろう。金は、大部分の貨物の生産に用いられる平均的分量に最も近接せる如き二種の資本の比例をもって生産された所の貨物と、考えられ得ないであろうか? これらの比例は、一はほとんど固定資本が用いられず、他はほとんど労働の用いられないという、二つの極端からほぼ等しい距離にあって、これらのものの正しい中項をなしてはいないであろうか? しからばもし私自身が、不変的標準にかくも近い一標準を有つとするならば、その利益は、それで価格及び価値が測定される所の媒介物の価値におけるあり得べき変動を考えてあらゆる場合に当惑することなしに、他の物の変動について語り得るであろう、という点である。 しからば、本研究の目的を容易ならしめんがために、金で作られた貨幣は他の物の変動の大部分を同じく蒙ることは十分に認めはするけれども、――私は、それは不変であり、従って価格のすべての変動は、それにつき私が論じている貨物の価値のある変動によって惹起されたものと、仮定するであろう。 この問題を終る前に、アダム・スミス及び彼を祖述せるすべての学者は、私の知る所では一人の例外もなく、労働の価格の騰貴は一様にあらゆる貨物の価格の騰貴を随伴するであろうと主張したことを、述べるのが正当であろう。私は、かかる意見には何らの根拠もなく、労賃が騰貴する時には、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い固定資本をその生産に用いた貨物のみが騰貴し、またそれ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が下落するであろう、ということを、示すに成功したと考える。これに反し、もし労賃が下落すれば、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い比例の固定資本をその生産に用いた貨物のみは下落し、それ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が騰貴するであろう。 私にとってまた、一貨物はそれに一、〇〇〇磅ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられ、そして他の貨物はそれに二、〇〇〇磅ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられているという故をもって、従って一方は一、〇〇〇磅ポンドの価値を有ち、他方は二、〇〇〇磅ポンドの価値を有つであろう、と私は言ったのではなく、それらの価値は、相互に一に対する二であり、そしてかかる比例でそれは交換されるであろう、と言ったのであることも、注意しておく必要がある。これらの貨物の一方が一、一〇〇磅ポンドに売れ、そして他方が二、二〇〇磅ポンドに売れようと、または一方が一、五〇〇磅ポンドに売れ、そして他方が三、〇〇〇磅ポンドに売れようと、それはこの学説の真理に対しては少しも重要ではない。この問題は今これを研究しない。私は単に、それらの相対価値は、その生産に投ぜられた労働の相対的分量によって支配されるであろうということを、注意するだけである(註)。 (註)マルサス氏はこの学説について次の如く述べている、『実際吾々は勝手に、一貨物に用いられた労働をその真実価値と呼ぶことが出来る。しかしかくすることによって、吾々は、この言葉を、それが慣習的に用いられると異った意味に用いていることになる。吾々は、直ちに費用と価値という極めて重要な区別を混同することになり、そして実際上この区別に依存する所の富の生産に対する主たる刺戟を明かに説明することを、ほとんど不可能ならしめている。』(『経済学の諸原理』、一八二〇年、第二章第二節、六一頁――編者註) マルサス氏は、一物の費用と価値とは同一でなければならぬというのが、私の学説の一部であると考えているように思われる――もしも彼が費用というのが、利潤を含む『生産費』の意味であるならば、その通りである。しかし右の章句においては、これは彼れの意味しない所であり、従って彼は明かには私を理解していないのである。 |
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■第七節 それによって価格が常に表現される 媒介物たる貨幣の価値における変動による、 または貨幣が購買する貨物の価値における変動による、種々なる結果。 |
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(二二)既に述べた如くに、他の物の価値の相対的変化の原因をより明かに指摘せんがために、私は、貨幣は価値において不変であると考える場合があろうけれども、財貨の価格が、私の既に言及した原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の異るによって変動することに伴う結果と、それが貨幣そのものの価値の変動によって変動することに伴う結果との相違を、注意することは有用であろう。
貨幣は、一つの可変的貨物であるから、貨幣労賃の騰貴はしばしば、貨幣価値の下落によって惹起されるであろう。この原因による労賃の騰貴は普あまねく、貨幣の貨物の価格の騰貴を伴うであろう、しかしかかる場合には、労働とすべての貨物とが相互の関係において変動しておらず、かつ変動が貨幣に限られていたことが、見出されるであろう。 貨幣は、外国から取得される貨物であり、あらゆる文明諸国間の交換の一般的媒介物であり、更に商業と機械とのあらゆる進歩と共に、また増加しつつある人口に対して食物及び必要品を獲得することがますます困難となるごとに、これらの諸国の間に分配される割合が絶えず変ることからして、不断の変化を蒙るのである。交換価値及び価格を左右する諸原理を述べるに当り、吾々は貨物自身に属する変動と、それによって価値が測られまたは価格が表現される所の媒介物の変動によって齎される変動とを、注意して区別しなければならぬ。 |
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(二三)貨幣の価値の変動による労賃の騰貴は、価格の上に一般的影響を生み出し、かつその理由によって、利潤の上には何らの真実の影響をも生み出さない。これに反し、労働者の報酬がより豊かになったとか、または労賃がそれに費される必要品の獲得が困難になったとかによる所の、労賃の騰貴は、若干の場合を除けば、価格を騰貴せしめるという結果は生じないが、利潤を低めるという大きな結果を有っている。一方の場合には、その国の年々の労働のより多くの部分が労働者の支持に向けられるのではないが、他方の場合にはより多くの部分がそれに向けられるのである。
吾々が地代、利潤、及び労賃の騰落について判断するのは、ある特定農場の土地の全生産物の、地主、資本家、及び労働者の三階級への分割によるべきであって、明かに可変的な媒介物で測られた生産物の価値によるべきではない。 吾々が正確に利潤、地代、及び労賃の率について判断し得るのは、各階級の獲得する生産物の絶対的分量によるのではなく、その生産物を獲得するに必要な労働量によるのである。機械や農業における諸改良によって全生産物は倍加されるかもしれないが、しかしもし労賃、地代、及び利潤もまた倍加されるならば、これらの三つは相互に以前と同一の比例を保ち、そのいずれも相対的に変化したとは言い得ないであろう。しかしもし労賃がこの増加の全部に与らず、それが倍加されずして単に半分増加されるに過ぎず、地代は倍加されずして単に四分の三増加されるに過ぎず、そして残りの増加が利潤に帰属したとすれば、思うに、地代と労賃とは下落したが利潤は騰貴したと言うのは私にとって正しいであろう。けだし、もし吾々が、それによってこの生産物の価値を測る所の不変的標準を有つとするならば、吾々は以前に与えられていたよりもより少い価値が労働者と地主との階級に帰属しより多くの価値が資本家階級に帰属したことを見出すべきであろうからである。例えば吾々は、貨物の絶対量は倍加したにもかかわらず、それが正確に以前と同一量の労働の生産物であることを見出すであろう。生産された百宛オンスの帽子、上衣、及び百クヲタアの穀物のうち、 労働者が以前に得た所は…………………………二五 地主は………………………………………………二五 そして資本家は……………………………………五〇 ―――――― 一〇〇 であり、そしてもしこれらの貨物の分量が二倍となった後に、各一〇〇のうち、 労働者の得る所はわずかに………………………二二 地主は………………………………………………二二 そして資本家は……………………………………五六 ―――――― 一〇〇 であるとすれば、その場合に私は、貨物が豊富な結果労働者及び地主に支払われる分量は二五対四四の比例で増加したであろうけれども、労賃及び地代は下落し利潤は騰貴したと言うべきである。労賃は、その真実価値によって、すなわちその生産に用いられる労働及び資本の分量によって、測られるべきであり、上衣か帽子か貨幣か穀物かの形におけるその名目価値によって測られるべきではない。私が今仮定した事情の下においては、貨物はその以前の価値の半分に下落したであろうし、そしてもし貨幣が変動しなかったならば、その以前の価格の半分にも下落したであろう。しからばもし、価値において変化しなかったこの媒介物で労働者の労賃が下落したことが見出されるならば、彼れの以前の労賃よりもより多くの廉価な貨物を与えるであろうからといって、それはやはり真実の下落であろう。 貨幣の価値の変動は、いかにそれが大であろうとも、利潤の率には何らの異動も生じない、けだし製造業者の財が一、〇〇〇磅ポンド磅ポンドから二、〇〇〇磅ポンドに、すなわち一〇〇%騰貴すると仮定しても、もし彼れの資本、――貨幣の変動は生産物の価値に及ぼすと同じだけの影響をそれに及ぼすが、――すなわち彼れの機械、建物、及び在庫品もまた一〇〇%騰貴するならば彼れの利潤率は同一であり、彼はその国の労働の生産物の同一の分量を支配し得べく、それ以上は支配し得ないであろう。 もし一定の価値の資本をもって、彼が、労働の節約によって、生産物の分量を倍加し得、そしてそれがその以前の価格の半分に下落しても、それは、それを生産した資本に対し以前と同一の比例を保ち、従って利潤は依然同一率にあるであろう。 もし、彼が同一の資本を用いて生産物の分量を倍加すると同時に、貨幣の価値が何らかの出来事によって半分に下落するならば、生産物は以前の二倍で売れるであろう。しかしその生産に用いられる資本もまた、その以前の貨幣価値の二倍となるであろう。従ってこの場合においてもまた、生産物の価値は、資本の価値に対し以前と同一の比例を保つであろう。そして生産物が倍加されたにもかかわらず、地代、労賃及び利潤はただ、この二倍の生産物がこれを分つ三階級の間に分割される比例が変動するにつれて、変動するに過ぎないであろう。 |
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■第二章 地代について | |
(二四)しかしながら、土地の占有とその結果たる地代の発生とが、生産に必要な労働量とは無関係に、貨物の相対価値に変動を惹起すか否か、の問題が残っている。問題のこの部分を理解せんがためには、吾々は、地代の性質、及びその騰落を左右する法則を、研究しなければならない。
地代とは、土地の生産物の中、土壌の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して地主に支払われる所の部分である。 しかしながら、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同されている。そして、通俗の用語では、この言葉は、農業者によってその地主に年々支払われるものには、その何たるを問わず適用されている。もし、同一の面積を有ちかつ同一の自然的肥沃度を有つ二つの相隣れる農場のうち、一方は、農耕用建物について一切の利便を有ち、更にその上に適当に灌漑され、施肥され、そして都合よく籬まがきや柵や壁で区分されているが、しかるに他方は、これらの利便は何も有たないとすれば、一方の使用に対しては、他方の使用に対してよりも、より多くの報酬が当然支払われるであろう。しかも双方の場合にこの報酬は地代と呼ばれるであろう。しかし次のことは明かである、すなわち改良された農場に対して年々支払わるべき貨幣の一部分のみが、土壌の本来的なかつ不可壊的な力に対して与えられたものであり、その他の部分は、地質の改良のためにまた生産物を保全し貯蔵するに必要な建物の建造のために用いられた資本の使用に対して支払われたものであろう。アダム・スミスは時に私がそれに限定せんと欲する厳格な意味における地代について論じているが、しかしこの言葉が通常使用されている通俗の意味におけるそれを論ずることがより多い。彼は吾々に、ヨオロッパの南方諸国における木材に対する需要とその結果たる高き価格が、以前には地代を生じ得なかったノルウェイにおける森林に対して支払わるべき地代を齎した、と語っている。しかしながら、彼がかくの如く地代と呼ぶ所のものを支払った人は、その時地上に生長しているこの価値多い貨物を考慮してそれを支払ったのであり、そして彼は木材の売却によって、現実に利潤と共にそれを囘収したことは、明白ではないか? もし実際木材が伐り去られた後に、未来の需要を考えて木材またはその他の生産物を栽培する目的をもって、土地の使用に対してある報償が地主に支払われるならば、かかる報償は、土地の生産力に対して支払われるのであるから、正当に地代と呼ばれ得よう。しかし、アダム・スミスによって述べられている場合においては、報償は木材を伐り去りかつ売却する自由に対して支払われたのであって、それを栽培するの自由に対して支払われたのではない。彼は炭鉱の地代及び採石場の地代についても論じているが、これに対しても同一の議論が当てはまる、――すなわち鉱山または採石場に対し与えられる報償は、それから採掘され得る石炭または石材の価値に対して支払われるのであって、土地の本来的なかつ不可壊的な力とは何らの関係もない。これは、地代及び利潤に関する研究において極めて重要な区別である。けだし地代の増進を左右する所の法則は、利潤の増進を左右する法則とは大いに異っており、同一の方向に作用することは稀であることが、見出されるからである。あらゆる進歩せる国においては、地主に年々支払われるものは、地代及び利潤という両性質を兼ね有しているから、時には対立する原因の結果によって静止しており、また他の時には、これらの原因の一方または他方が優勢を占めるに従って増進または減退する。かくて本書の以下において、私が土地の地代を論ずる時は常に、土地の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して土地の所有者に支払われる報償について論じているものと、了解されんことを希望する。 |
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(二五)そこには豊饒にして肥沃な土地が豊富にあり、現実の人口を支えるためにはその極めて小部分が耕作される必要があるに過ぎぬか、または実にそれがその人口の自由にし得る資本で耕作され得るという所の、一国の最初の植民の際には、地代は無いであろう。けだし未だ占有されておらず、従って、それを耕さんと欲する何人もこれを自由に処分し得る所の、土地が豊富な量にある時には、土地の使用に対して何人も支払をしないであろうからである。
供給及び需要の普通の原理によって、空気や水の使用に対し、または無限に存在するある他の自然の賜物に対し、何物も支払われない訳を説明したと同一の理由で、かかる土地に対しては地代は支払われ得ないであろう。一定量の原料と、気圧や蒸気の伸縮力の助けによって、機関は仕事をし、そして極めて大きな程度に人間の労働を節約するであろう。しかしこれらの自然的補助物の使用に対してはいかなる料金も課せられない、それはけだしそれらが無尽蔵でありかつ万人の自由に為し得る所であるからである。同様に、醸造家や蒸酒家や染物屋は、彼らの貨物の生産のために、空気や水を不断に使用している。しかしその供給が無限であるから、それらのものは何らの価格も有たない(註)。もしすべての土地が同一の性質を有つならば、もしその量が無限であり、地質が一様であるならば、それが特殊な位置の利便を有たない限り、その使用に対しては、何らの料金も課せられ得ないであろう。しからば、地代がその使用に対し常に支払われるのは、ただ、土地の量が無限でなくそして地質が一様でないからであり、そして人口の増加につれて劣等の質または利便のより少い土地が耕作されるようになるからに他ならない。社会の進歩につれて、第二等の肥沃度の土地が耕作されるに至る時は、地代は直ちに第一等地に発生し、そしてその地代の額は、これら二つの土地部分の質の差違に依存するであろう。 (註)『土地は、吾々の既に見た如く、生産力を有つ唯一の自然的因子ではない。しかしそれは一群の人が他人を排して我が物とすることが出来、その結果として、彼らがその利益を占有することが出来る、唯一のまたはほとんど唯一の、自然的因子である。川や海の水もまた、吾々の機械を運転せしめ、吾々の船舶を浮べ、吾々の魚を養う力によって、生産力を有っている。吾々の風車を廻転させる風やまた太陽の熱でさえ、吾々のために働くものである。しかし幸にして、何人も「風と太陽とは私の物であり、従ってそれらが与える仕事に対して支払を得なければならない、」と言い得る者は未だなかった。』――ジー・セイ著、経済学、第二巻、一二四頁。 第三等地が耕作されるに至る時には、地代は直ちに第二等地に発生し、そしてそれは以前の如くにそれらの生産力によって左右される。同時に第一等地の地代は騰貴するであろう、けだしそれは常に、一定量の資本及び労働をもって両者が産出する生産物の差違だけ、第二等地の地代よりもより多くなければならぬからである。人口が増加するごとに、――これは一国をして、その食物の供給を増加し得しめるためにより劣等の土地に頼らざるを得ざらしめるであろうが、――地代はすべてのより肥沃な土地において騰貴するであろう。 かくて、土地――第一等地、第二等地、第三等地――が、等しい資本及び労働を用いて、小麦一〇〇、九〇、及び八〇クヲタアの純生産物を生産すると仮定せよ。人口に比較して肥沃な土地が豊富にあり、従って、第一等地の耕作を必要とするのみで足る所の、新しい国においては、総純生産物は耕作者に帰属し、そしてそれは彼が前払した資本の利潤たるものであろう。人口が、第二等地――それからは、労働者を支持した後に九〇クヲタアが獲得され得るに過ぎぬ、――の耕作を必要ならしめるほどに大いに増加するや否や、地代は第一等地に発生するであろう。けだしそうならなければ農業資本に対し二つの利潤率がなければならぬことになるか、あるいはある他の目的のために十クヲタアがまたは十クヲタアの価値が、第一等地の生産物から引去られなければならぬことになるからである。第一等地を、土地所有者が耕作しようとまたはある他の人が耕作しようと、この十クヲタアは等しく地代を形造るであろう。けだし第二等地の耕作者は地代として十クヲタアを支払って第一等地を耕作しようと、または何ら地代を支払わず引続き第二等地を耕作しようと、その資本をもって同一の結果を得るであろうからである。同様にして第三等地が耕作されるに至る時には第二等地の地代は十クヲタアで、または十クヲタアの価値で、なければならないが、しかるに第一等地の地代は二十クヲタアに騰貴するであろう、ということが証明され得よう。けだし第三等地のの耕作者は、第一等地の地代として二十クヲタアを支払おうと、第二等地の地代として十クヲタアを支払おうと、または全く地代を支払わずに第三等地を耕作しようと、同一の利潤を得るであろうからである。 |
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(二六)第二等地、第三等地、第四等地、または第五等地、または更に劣等な土地が耕作されるに先だって、資本が既に耕作されている土地の上により生産的に用いられ得るということは、しばしば、そして実に通常、起ることである。第一等地に用いられる最初の資本を倍加することにより、生産物は倍加されず、すなわち一〇〇クヲタアだけは増加されないであろうが、それは八十五クヲタアだけ増加され得、そしてこの量は同一の資本を第三等地に用いて獲得され得る量を超過することが、おそらく見出されるであろう。
かかる場合には資本はむしろ旧地に用いられ、そして等しく地代を作り出すであろう。けだし地代は常に、等量の二つの資本及び労働の使用によって得られた生産物の差額であるからである。もし一、〇〇〇磅ポンドの資本をもって一借地人が一〇〇クヲタアの小麦をその土地から得、そして第二の一、〇〇〇磅ポンドの資本の使用によって更に八十五クヲタアを、またはそれと等しい価値を、支払わしめる力を有つであろうが、それはけだし二つの利潤率は有り得ないからである。もしこの借地人が彼れの第二の一、〇〇〇磅ポンドに対する報酬における十五クヲタアの減少に満足するとするならば、それはより有利な用途がそれに対し見出され得ないからである。通常の利潤率はその比例にあるのであり、そして元の借地人が、この利潤率を超過するすべてを、彼がそれからそのものを得た所の土地の所有者に与えることを拒むとしても、ある他の者がこれを喜んで与えることが、見出されるであろう。 この場合にも他の場合にも、最後に用いられたる資本は何らの地代も支払わない。第一の一、〇〇〇磅ポンドのより大なる生産力に対しては、十五クヲタアが地代として支払われ、第二の一、〇〇〇磅ポンドの使用に対してはいかなる地代も全く支払われない。もし第三の一、〇〇〇磅ポンドが同一の土地に用いられ、七十五クヲタアの報酬を齎すならば、地代は第二の一、〇〇〇磅ポンドに対して支払われ、そしてそれはこれら両者の生産物の差違に、すなわち十クヲタアに等しいであろう。そして同時に、第一の一、〇〇〇磅ポンドに対する地代は十五クヲタアから二十五クヲタアに騰貴するであろう。しかるに最後の一、〇〇〇磅ポンドはいかなる地代も全く支払わないであろう。 しからば、もし良い土地が、増加しつつある人口に対する食物の生産が必要とするよりも遥かにより豊富な量において存在するならば、またはもし資本が報酬の減少を齎すことなくしてして旧地に無限に用いられ得るならば、地代の騰貴はあり得ないであろう。けだし、地代はあまねく、比例的な報酬の減少を伴う附加的労働量の使用から発生するものであるからである。 |
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(二七)最も肥沃にしてかつ最も位置の便利の良い土地が、第一に耕作されるであろう。そしてその生産物の交換価値は、あらゆる他の貨物の交換価値と同様に、それを生産し、それを市場に齎すに必要な、最初から最後までに種々なる形をとる所の、労働の全量によって、調整されるであろう。劣等の質の土地が耕作されるに至る時には、粗生生産物の交換価値は、それを生産するためにより多くの労働が必要であるために、騰貴するであろう。
すべての貨物の交換価値は、それが製造品であろうと、または鉱山の生産物であろうと、または土地の生産物であろうとに論なく、常に、極めて有利な、かつ生産の特殊便益を有つ者が独占的に享受している所の事情の下において、その生産に足りるであろう所の、比較的少量の、労働によって左右されるのではなく、かかる便益を有たず、引続き最も不利な事情――ここに最も不利な事情とは、必要とされる生産物量を供給するためにその下でなお生産を行うことの必要な、その最も不利な事情を意味する――の下においてそれを生産する者によって、その生産に対し必然的に投下される所の比較的多量の労働によって左右されるのである。 かくて、貧民が慈善家の基金で仕事に従事させられている慈善的施設においても、かかる仕事の生産物たる貨物の一般的価格は、これらの労働者に与えられた特殊便益によっては支配されずに、あらゆる他の製造業者が遭遇しなければならぬ一般的の通常のかつ自然的の困難によって支配されるであろう。もしこれらのめぐまれた労働者によってなされる供給が社会のすべての欲求する所と等しいならば、これらの便益を一つも享有しない製造業者は実際、全然市場から駆逐されるであろう。しかしもし彼が事業を継続するとするならば、それは、彼がそれから資本に対する通常のかつ一般的の利潤率を取得する、という条件の下においてのみであろう。そしてこのことは、彼れの貨物がその生産に投ぜられた労働量に比例する価格で売られる時にのみ、起り得ることであろう(註)。 (註)セイ氏は次の章句において、終局的に価格を左右する所のものは生産費であることを、忘れていないであろうか? 『土地に用いられる労働の生産物はこういう特性を有っている、すなわち、それはより稀少になったからとて、より高価にはならない、けだし人口は常に食物が減少すると同時に減少するからである。しかのみならず、穀物は、完全に耕作されている国よりも、未耕地の多い地方において、より高価であるとは、されていない。英国及びフランスは、現在よりも中世の方がより不完全に耕作されていた。両国は遥かにより少い粗生生産物を生産していた。それにもかかわらず、吾々が他の諸物の価値との比較によって判断し得るすべてから推せば、穀物はより高い価格では売られていなかった。生産物がより少なかったとしても、人口もまたそうであった。需要の弱小が供給の微弱を償っていた。』第二巻、三三八頁(編者註一)。セイ氏は、貨物の価格は労働の価格によって左右されるという意見に感銘し、そして正当に、すべての種類の慈善的施設は、人口をしからざればそうあるべき以上に増加せしめ、従って、労賃を低下せしめる所の、傾向を有つと推測しつつ、次の如く言う、『私は、英国から来る財貨の低廉なのは、一部分は、その国に存在する多くの慈善的施設に起因するものではないかと考える。』第二巻、二七七頁(編者註二)、これは、労賃が価格を左右すると主張する者にあっては、論理一貫せる意見である。 (編者註一)正確には、三三七頁、註二。 (編者註二)同頁、註一。 なるほど、最良の土地では、以前と同一の労働をもってなお以前と同一の生産物が得られるであろうが、しかしその価値は、肥沃度のより劣る土地に新しい労働及び資本を用いた者の得る報酬が減少した結果、高められるであろう。しからば、肥沃度が劣等地以上に有つ利益は決して失われず、単に耕作者または消費者から地主に移転されるに過ぎぬにもかかわらず、しかも劣等地にはより多くの労働が必要であり、そして吾々が粗生生産物の附加的供給を得ることが出来るのはただかかる土地からのみであるために、その生産物の比較価値は引続き永久的にその以前の水準以上にあり、かつそれをして、その生産にかかる附加的労働量を必要としない所の帽子、毛織布、靴、等々の、より多くと、交換せしめるであろう。 しからば粗生生産物が比較価値において騰貴する理由は、より多くの労働が、獲得される最後の部分の生産に用いられるからであって、地代が地主に支払われるからではない。穀物の価値は、何ら地代を支払わない所の、その等級の土地の上で、またはその部分の資本をもって、その生産に投ぜられた労働量によって左右されるのである。地代が支払われるから穀物が高いのではなくて、穀物が高いから地代が支払われるのである。従って、地主が彼らの地代の全部を抛棄しても穀価には何らの下落も起らないであろうと云われているのは、正当である。かかる方策は単にある農業者をして紳士の様な生活をすることを得しめるに過ぎず、最も生産力の少い耕作地で粗生生産物を生産するに必要な労働量を減少せしめないであろう。 |
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(二八)地代の形で土地が剰余を産出するという故をもってする、有用なる生産物のあらゆる他の源泉以上に、土地が有つ所の、得点ほど、普通に耳にするものはない。しかも土地が最も豊富であり、最も生産的であり、かつ最も肥沃である時には、それは何らの地代も生み出さない。そしてより肥沃な部分の本来的生産物の一部分が地代として分離されるのは、その力が衰え、そして労働に対する報酬としてより少ししか産出しなくなった時においてのみである。製造業者がそれによって援助される自然力に比較すれば欠点と云わるべき所の、土地のこの性質が、その特殊なる優越をなすものとして指摘され来っているのは、奇妙なことである。もし空気や水や蒸気の弾力性や気圧が種々なる品質を有っているならば、もしそれらは占有され得、かつ各品質は単に相当の分量に存在するに過ぎないならば、それらは、土地と同じく、逐次劣等の品質のものが使用されるに至るにつれて、賃料を与えるであろう。より劣れる品質のものが用いられるごとに、その製造にそれらが用いられた貨物の価値は、等量の労働の生産力がより小になるから、騰貴するであろう。人間は額に汗してより多くをなし、自然はより少ししかなさないであろう。そして土地は、その力が限られているという点について他に優越しはしなくなるであろう。
もし土地が地代という形で与える所の剰余生産物が一長所であるならば、年々、新しく造られた機械が旧いものよりも能率がより小になることが望ましい訳である。けだし、それは疑いもなく、啻にその機械のみならず更に王国内のあらゆる他の機械によって製造される財貨に、より大なる交換価値を与え、そして最も生産的な機械を所有するすべての者に賃料レントが支払われるであろうからである(註)。 (註)アダム・スミスは曰く、『農業においてもまた自然は人間と共に労働する。そしてその労働は何らの出費を要しないけれども、しかしその生産物は最も高価な労働者の生産物と同様にその価値を有つものである。』自然の労働が支払を受けるのはそれが多くをなすからではなく、それが少ししかしないからである。自然がその賜物を惜しむに比例して、それはその仕事に対してより大なる価格を要求する。それが寛大に多くを与える場合には、それは常に無償で働く。『農業において使用される労働家畜は、啻に、製造業における労働者の如く、彼ら自身の消費する所に、または彼らを用いる資本に、等しい価値を、その所有者の利潤と共に、再生産するのみならず、更に遥かにより大なる価値を再生産する。農業者の資本とそのすべての利潤以上に、彼らは規則正しく地主の地代の再生産を齎す。この地代は、その使用を地主が農業者に貸与する所の自然の力の生産物と考えられ得よう。その大小は、かかる力の想定された大いさにより、または土地の想定された自然のまたは改良された肥沃度による。人間のなせる所と看做され得るすべての物を控除または補償した後に残るものが、自然のなせる所である。それは総生産物の四分の一以下であることは稀でありしばしばその三分の一以上である。製造業において用いられる等量の生産的労働は、決してかくも大なる再生産を齎すことは出来ない。製造業においては自然は何事もなさず、人間がすべてをなす。そして再生産は常に、それを齎す因子の力に比例しなければならない。従って農業において用いられる資本は啻に製造業において用いられるいかなる等量の資本よりもより大なる生産的労働の分量を動かすのみならず、更にまたそれが用いる生産的労働の分量に比例して、それはその国の土地及び労働の年々の生産物に、その住民の真実の富及び収入に、遥かにより大なる価値を附加する。資本が使用され得るすべての方法の中で、それは社会にとり遥かに最も有利なものである。』第二編、第五頁。(訳者註――キャナン版、第一巻、三四三――三四四頁、傍点はリカアドウの施せるもの。) 自然は製造業においては人間に対して何事もなさないであろうか? 吾々の機械を動かし、かつ航海を助ける所の風や水の力は、何物でもないか? 吾々をして最も巨大な機関を動かし得せしめる気圧や蒸気の弾力性――それは自然の賜物ではないか? 金属を軟かにしまた熔解する際の可燃焼物の有つ諸結果や、染色及び醗酵の過程における大気の分解力の有つ諸結果については言わぬとしても。製造業において自然が人間にその補助を与えず、かつまたそれを寛大に無償で与えないという製造業は、これを挙げることが出来ない。 私が右にアダム・スミスから写し取った章句を論評するに当って、ビウキャナン氏は次の如く云う、『私は、第四巻に含まれている生産的労働及び不生産的労働に関する諸観察において、農業は他のいかなる種類の産業よりも国民的貯財に対し附加する所より大なるものではないことを、証明せんと努力した。地代の再生産をもって社会に対する極めて大なる利益であると論ずるに当って、スミス博士は、地代は高き価格の結果であり、かつ地主がかくの如くして利得する所は彼が社会全体を犠牲にして利得しているのであることを、考えていない。地代の再生産によって社会が絶対的に利得する所は何もない。一階級が他の階級を犠牲にして利得しているに過ぎない。自然は耕作過程において人間の勤労と協力する故に、農業は生産物を、従って地代を、生むという提議は、単なる空想である。地代が得られるのは、生産物からではなくて、その生産物が売られる価格からである。そしてこの価格が得られるのは、自然が生産において援助するからではなく、それが消費を生産に適合せしめる所の価格であるからである。』(編者註――ビウキャナン版『諸国民の富』第二巻、五五頁。) |
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(二九)地代の騰貴は常に、増加しつつある国富の結果であり、その増加せる人口に対する食物供給の困難の結果である。それは富の徴候ではあるが、しかし決してその原因ではない。けだし富はしばしば、地代が静止的であるかまたは低下しつつある間にも、最も速かに増加するからである。地代は、自由に処分し得る土地の生産力が減退する際に、最も速かに増加する。富は、自由に処分し得る土地が最も肥沃であり、輸入が制限されること最も少く、かつ農業上の改良によって労働量の比較的増加なくして生産物が増加され得、従って地代の増進が遅々たる所の、国において、最も速かに増加するのである。
もし穀物の高き価格が、地代の結果であって原因でないとするならば、価格は地代の高低に従って比例的に影響され、そして地代は価格の一構成部分となるであろう。しかし、最大量の労働をもって生産された穀物が穀物の価格の支配者であり、そして地代は、毫もその価格の一構成部分として入り込まず、また入り込み得ないのである(註)。従ってアダム・スミスが、貨物の交換価値を左右した本来的規則、すなわち、それによって貨物が生産された比較的労働量が、土地の占有と地代の支払とによって、いやしくも変更され得る、と想像したのは、正確であり得ない。粗生原料品は大抵の貨物の構成に参加するが、しかし、その粗生原料品の価値は、穀物と同様に、最後に土地に使用されかつ地代を支払わない所の資本部分の生産性によって、左右され、従って地代は貨物の価格の一構成部分ではないのである。 (註)この原理を明瞭に理解することは、私の信ずる所によれば、経済学にとって最も重要なことである。 |
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(三〇)吾々は今まで、その土地が種々なる生産力を有っている国において、富及び人口の自然的増進が地代に及ぼす結果を、考察し来った。そして吾々は、より少い生産上の報酬をもって土地上に用いられることが必要となる所の、附加的資本部分が投ぜられるごとに、地代は騰貴するであろうということを見た。同一の原理よりして、土地に同一額の資本を用いることを不必要ならしめるべき、従って最後に用いられる部分をより生産的ならしめるべき、社会における何らかの事情は、地代を低めるであろう、ということになる。労働の支持に向けられた基金を大いに減少すべき一国の資本の大減少は、当然この結果を有つであろう。人口は、それを雇うべき基金によって自らを調整し、従って常に資本の増減と共に増減する。従って資本のあらゆる減少は必然的に、穀物に対する有効需要の減少、価格の下落、及び耕作の減少を伴う。資本の蓄積が地代を引上げるのとは反対の順序において、その減少は地代を低めるであろう。より生産的ならざる質の土地は順次に抛棄され、生産物の交換価値は下落し、そしてより優良な質の土地が最後に耕作される土地となり、かつ地代を支払わない土地となるであろう。 | |
(三一)しかしながら、一国の富及び人口が増加される時にも、もしその増加が、より痩せた土地を耕作するの必要を減少するか、またはより肥沃な部分の耕作に同一量の資本を投下する必要を減少するという、前と同一の結果を齎す如き、かかる顕著な農業上の進歩を伴うならば、同一の結果が生み出されるであろう。
もし一定の人口を支持するに一百万クヲタアの穀物が必要であり、そしてそれは第一等地、第二等地、第三等地において得られるとし、またもし後に一改良が発見され、それによってそれが、第三等地を用いずに第一等地及び第二等地で得られ得るに至ったとすれば、その直接の結果が地代の下落でなければならぬことは明かである。けだしこの際には、第三等地ではなく第二等地が、何らの地代をも支払わずに耕作されるであろうし、そして第一等地の地代は、第三等地と第一等地との生産物の差違ではなくして、単に第二等地と第一等地との差違に過ぎないであろうからである。人口が同一でありそしてそれが増加しなければ、より以上の穀物量に対する需要はあり得ない。第三等地に用いられていた資本及び労働は、社会にとり好ましい他の貨物の生産に向けられるであろうし、そして他の貨物を造る粗生原料品が、資本を地上により不利に用いるにあらざれば獲得され得ない場合の他は、――この場合には、第三等地が再び耕作されなければならぬ――地代を引上げるという結果を有ち得ないのである。 農業上の改良の結果、またはむしろその生産により少い労働が投ぜられるに至った結果たる、粗生生産物の相対価格における下落は、当然に蓄積の増加に導くべきことは、疑いもなく真実である、けだし資本の利潤は大いに増加されるであろうから。この蓄積は、労働に対する需要の増加に、労賃の騰貴に、人口の増加に、粗生生産物に対する需要の増大に、そして耕作の拡張に、導くであろう。しかしながら、地代が以前の高さになるのは、人口の増加の後のことであり、換言すれば第三等地が耕作されるに至って後のことである。それまでには、地代の積極的減少を伴う所の長い時期が経過していることであろう。 しかし、農業上の改良には二種ある、すなわち、土地の生産力を増加するものと、吾々をして機械の改良によってより少い労働でその生産物を獲得し得しめるものとである。これら両者は、共に粗生生産物の価格の下落に導く、これら両者は共に地代に影響を及ぼさない。もしそれらが粗生生産物の価格の下落を惹起さないならばそれは改良ではないであろう、けだし、以前に一貨物を生産するに要した労働量を減少することが、改良の本質であり、そしてこの減少はその価格または相対価値の下落なくしては起り得ないからである。 土地の生産力を増加した改良とは、より巧妙な輪作、あるいは肥料のより良き選択というが如きものである。これらの改良は、絶対的に吾々をして、より少量の土地から同一の生産物を獲得し得せしめる。もし蕪菁かぶらの栽培法の導入によって、私が、私の穀物の生産と並んで私の羊を飼い得るならば、羊が以前に飼われていた土地は不要に帰し、そして同一量の粗生生産物がより少量の土地を用いて得られることになる。もし私が、それによって私が一片の土地をして二〇%だけより多くの穀物を生産せしめ得るようにさせる所の、肥料を発見するならば、私は資本の少くとも一部分を、私の農場の最も不生産的な部分から引去り得よう。しかし私が前に観察したるが如くに、この際地代を低減するために土地の耕作を止める必要はない。この結果を齎すためには、同一の土地に、その齎す所の異る資本の諸部分が、逐次投ぜられており、そしてその齎す所の最小なる部分が引去られるだけで、十分である。もし蕪菁耕作の導入により、またはより有効な肥料の使用によって、私が、より少量の資本をもって、また逐次投ぜられる資本の諸部分の生産力の間の差違を紊みだすことなくして、同一の生産物を獲得し得るならば、私は地代を低めるであろう。けだし別のより生産的な部分が、その点からあらゆる他の部分が計算されるであろう所の、標準たるべき部分となるであろうからである。もし例えば、逐次投下される資本が、一〇〇、九〇、八〇、七〇を生産するならば、私がこれらの四部分を用いる間は、私の地代は六〇であり、すなわち、 七〇と一〇〇との差===三〇 七〇と九〇との差 ===二〇 七〇と八〇との差 ===一〇 ――――― 六〇 }に等しく、他方生産物は三四〇、すなわち、 一〇〇 九〇 八〇 七〇 ―――― 三四〇 }であろう、 そして私がこれらの部分を用いている間は、その各部分の生産物が等しい増加をなしても、地代は依然として同一であろう。もし生産物が、一〇〇、九〇、八〇、七〇ではなく、一二五、一一五、一〇五、九五に増加されたとしても、地代は依然として六〇であり、すなわち、 九五と一二五との差===三〇 九五と一一五との差===二〇 九五と一〇五との差===一〇 ――――― 六〇 }に等しく、他方生産物は四四〇に、すなわち、 一二五 一一五 一〇五 九五 ―――― 四四〇 }に増加されるであろう。 しかし、生産物のかかる増加があっても、需要の増加がなければ(註)、これだけの資本を土地に用いる動機は存在し得ないであろう。一部分は引去られ、従って資本の最後の部分は、九五ではなく一〇五を生産し、そして地代は三〇に、すなわち、 一〇五と一二五との差===二〇 一〇五と一一五との差===一〇 ――――― 三〇 }に下落するであろう、 他方生産物はなお人口の欲求する所を満たすに足るであろう、けだし需要は単に三四〇クヲタアに過ぎないのに、それは三四五クヲタア、すなわち、 一二五 一一五 一〇五 ―――― 三四五 }であろうから。 しかし、土地の貨幣地代は低めるであろうが、穀物地代は低めることなくして、生産物の相対価値を低める所の改良がある。かかる改良は土地の生産力を増加しないが、しかしそれは吾々をしてより少ない労働をもってその生産物を獲得し得せしめるものである。それは土地自身の耕作に向けられるよりはむしろ、土地に充用される資本の構成に向けられる。鍬や打穀機の如き農業器具の改良、耕作に用いられる馬の使用上の節約、及び獣医術の知識の進歩は、かかる性質のものである。より少い資本――それはより少い労働と同じことであるが――が土地に用いられるであろう。しかし同一の生産物を得るためには、より少い土地が耕作されるのでは足りない。しかしながら、この種の改良が穀物地代に影響を及ぼすか否かは、資本の種々なる部分の使用によって得られる生産物の差違が、増加したか、停止的であるか、または減少したかの問題に、依存しなければならない。もし同一の結果を各々与える所の五〇、六〇、七〇、八〇という資本の四部分が土地に使用され、そしてかかる資本の構成におけるある改良が私をして、その各々から、五を引去ることを得しめ、それがためにそれらが四五、五五、六五、及び七五となるならば、穀物地代には何らの変動も起らないであろう。しかしもしその改良が私をして、最も不生産的に使用されている資本部分の全部の節約をなし得せしめるというが如きものであるならば、穀物地代は直ちに下落するであろうが、それはけだし最も生産的な資本と最も不生産的な資本との差違が減少せしめられるからであり、そして地代を形造るものはこの差違であるからである。 (註)私は、農業におけるあらゆる種類の改良が地主に対して有する重要性を過少評価するものと、理解されざらんことを希望する、――その直接の結果は地代を低めることである。しかしそれは人口に対して大なる刺戟を与え、かつそれと同時に吾々をしてより少い労働でより貧弱な土地を耕作し得せしめるから、それは終局的には地主に対し大いに有利なものである。しかしながらそれまでには、この改良が彼に対し積極的に不利な時期が経過しなければならない。 これ以上例を列挙しなくとも、私は、同一のまたは新しい土地に、逐次用いられる資本部分から得られる生産物の不平等を減少せしめるものは何でも、地代を低下せしめる傾向があり、そしてこの不平等を増加せしめるものは何でも、必然的に反対の結果を生み、そして地代を引上げる傾向があることを、証明するに足るだけのことを、述べたと考える。 地主の地代について論ずるに当り、吾々はむしろそれを、ある一定の農場に投ぜられた一定の資本によって得られた生産物の一部分と看做し、その交換価値には少しも触れなかった。しかし生産の困難という同一の原因が、粗生生産物の交換価値を引上げ、かつまた地主に地代として支払われる粗生生産物のその部分をも引上げるのであるから、地主は生産の困難によって二重に利益を受けることは明かである。第一に、彼はより大なる分け前を得、そして第二にそれによって彼が支払を受ける貨物の価値が騰貴するのである(註)。 (註)このことを明瞭ならしめ、かつ穀物地代と貨幣地代とが変動する程度を示すために、次の如く仮定しよう。すなわち十名の人間の労働が一定の地質の土地において一八〇クヲタアの小麦を得、そしてその価値は一クヲタアにつき四磅ポンドすなわち七二〇磅ポンドであり、そして十名の附加された人間の労働は同一のまたは異る土地において、単に一七〇クヲタアしか余計に生産するに過ぎないとしよう。小麦は四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンスに、騰貴するであろう、けだし、170:180::£4:£4 4s. 8d. であるから、または一七〇クヲタアの生産において、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、他方の場合には単に九・四四名の労働が必要であるに過ぎぬのであるから、その騰貴は九・四四から一〇に、すなわち四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンスになるであろう。もし十名の人間が更に用いられ、そして収穫が 一六〇であるならば、価格は四磅ポンド一〇シリング〇ペンスに騰貴し、 一五〇であるならば、価格は四磅ポンド一六シリング〇ペンス、 一四〇であるならば、価格は五磅ポンド二シリング〇ペンスに騰貴するであろう。 さてもし、穀物が一クヲタアにつき四磅ポンドである時に、一八〇クヲタアを産出する土地に対し何らの地代も支払われないならば、単に一七〇が得られるに過ぎない時には、一〇クヲタアの価値が支払われるであろうが、それは四磅ポンド四シリング八ペンスならば四二磅ポンド七シリング六ペンスであろう。 一六〇が生産される時には、二〇クヲタア、すなわち四磅ポンド一〇シリングならば九〇磅ポンド。 一五〇が生産される時には、三〇クヲタア、すなわち四磅ポンド一六シリングならば一四四磅ポンド。 一四〇が生産される時には、四〇クヲタア、すなわち五磅ポンド二シリング一〇ペンスならば二〇五磅ポンド一三シリング四ペンス。 穀物地代は{一〇〇/二〇〇/三〇〇/四〇〇}の比例において、かつ貨幣地代は{一〇〇/二一二/三四〇/四八五}の比例において増加するであろう。 |
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■第三章 鉱山の地代について | |
(三二)金属は、他の物と同様に、労働によって得られる。もちろん、自然がそれを生産するのではあるが、しかしそれを地球の内部から採掘し、そして吾々の使用に備えるのは、人間の労働である。
土地と同じく鉱山も一般にその所有者に地代を支払う、そして土地の地代と同じく、この地代は、その生産物の高き価格の結果であって決してその原因ではない。 もし、何人も占有し得る所の、等しく肥沃な鉱山が豊富にあるとすれば、それは地代を生じ得ないであろう。その生産物の価値は、鉱山から金属を採掘しそれを市場に齎すに必要な労働の分量に依存するであろう。 しかし等しい分量の労働をもって極めて異れる産物を与える所の、種々なる等級の鉱山がある。採掘されている最劣等の鉱山から生産された金属も、少くとも、啻にそれを採掘しその生産物を市場に齎すことに従事する者によって消費される所のあらゆる衣服、食物、その他の必要品を取得するに足るばかりではなく、更にまたこの企業を経営するに必要な資本を前貸する人に、一般通常の利潤を与えるに足る所の、交換価値を有たなければならぬ。何ら地代を支払わない最劣等の鉱山からの資本への報酬が、他のより生産的なすべての鉱山の地代を左右するであろう。この鉱山は通常の資本の利潤を生むものと仮定されている。この鉱山以上に他の鉱山が生産する所のすべては必然的に地代として所有者に支払われるであろう。この原理は、吾々が土地について既に述べた所と正確に同一であるから、それを更に敷衍する必要はなかろう。 粗生生産物及び製造貨物の価値を、左右すると同一の一般的規則が、金属にもまた適用され得るものであり、その価値は、利潤率にも労賃率にも、また鉱山に対して支払われる地代にも依存せず、金属を獲得し、それを市場に齎らすに必要な労働の全量によって定まるのであることを、注意すれば足るであろう。 あらゆる他の貨物と同様に、金属の価値は変化を蒙る。採鉱に用いられる器具及び機械に、改良がなされ、これによって等しく労働が節約されるかもしれず、新しいより生産的な鉱山が発見され、そこでは同一の労働をもって、より多くの金属が得られるかもしれず、またはそれを市場に齎す利便が増すかもしれない。これらの場合のいずれにおいても、金属は価値において下落し、従って他のより少い分量と交換されるであろう。他方において鉱山が採掘されなければならぬ深度の増大や、溜水や、その他の出来事によって惹起される所の、金属獲得の困難の増大のために、他の物と比較してその価値は、著しく騰貴することもあろう。 従って、いかに正直に一国の鋳貨がその本位に一致していようとも、金及び銀で造られた貨幣はなお価値における変動を蒙り、他の貨物と同様に、啻に偶然的な一時的な変動のみならず、更にまた永続的な自然的な変動をも蒙る、といわれているが、それは正当である。 アメリカの発見と、そこに多くある豊富な鉱山の発見によって、貴金属の自然価格に対し、極めて大きな影響が生み出された。この影響は、多くの者によって、未だ終っていないと想像されている。しかしながらおそらく、アメリカ発見の結果生じた所の、金属の価値に対するあらゆる影響は、疾とうに終ってしまっているであろう。そしてもし近年その価値において下落が起ったとすれば、それは鉱山採掘法における諸改良に帰せらるべきものである。 いかなる原因からそれが起ったにしろ、その影響は極めて緩慢でかつ徐々たるものであったために、金及び銀がすべての他の物の価値を評価する一般的媒介物であることには、ほとんど実際上の不便は感ぜられなかった。それは疑いもなく価値の可変的尺度ではあるが、おそらくこれよりも変動を蒙ることの少い貨物はないであろう。これらの金属が有つこの得点、及びその他の例えばその硬性、その展性、その可分性、その他多くの得点の故に、それは正当にも文明国の貨幣の標準として到る処で使用され来ったのである。 もし等しい分量の労働が、相等しい分量の固定資本をもって、あらゆる時において、地代を支払わない鉱山から等しい分量の金を取得し得るならば、金は事の性質上吾々が有ち得る限りでのほとんど不変的な価値尺度であろう。分量は実際需要につれて増加するであろうがしかしその価値は不変であろう。そしてそれはあらゆる他の物の価値の変動を測定するに、優れて良く適するであろう。私は既に本書の前の部分において、金はこの不変性を有つものと仮定したが、次の章においても私はこの仮定を続けるであろう。従って価格の変動について論ずる際には、その変動は常に貨物にあるものであり、決してそれが評価される所の媒介物には無いものであると、看做されるであろう。 |
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■第四章 自然価格及び市場価格について | |
(三三)労働をもって貨物の価値の基礎となし、かつその生産に必要な労働の比較的分量をもって、相互の交換において与えらるべき財貨の各々の分量を決定する規則となすに際して、吾々は、貨物の実際価格、すなわち市場価格が、この、それらのものの第一次的かつ自然価格から、偶然的なかつ一時的な偏倚をすることを否定するものと、想像されてはならない。
通常の事態においては、かなり久しく、人類の欲望及び願望が要求する正確にその程度に、豊富に、引続き供給される貨物はなく、従って偶然的なかつ一時的な価格の変動を蒙らないものはない。 資本が、たまたま需要されている種々なる貨物の生産に対し、過不足なきちょうどその必要な分量において、正確に割当てられるのは、ただかかる変動の結果たるに過ぎない。価格の騰落と共に、利潤はその一般的水準以上に騰貴しまたはそれ以下に下落する、そして資本は、そこで変動が起った所の特定の職業に入り込むように刺戟されるか、またはそれから退去するように警告されるのである。 あらゆる者がその資本をその好む所に自由に用い得る間は、彼は当然に最も有利な職業をそのために求めるであろう。彼は当然に、彼れの資本を移せば一五%の利潤を獲得し得るならば、一〇%の利潤をもって満足しないであろう。より有利な事業に向わんがためにより不利益なものを棄てんとする、あらゆる資本使用者の側のこの不断の願望は、すべてのものの利潤率を均等ならしめ、もしくは、一人が他人に優れて有つべき、または有つと思わるべき所の、得点に対し、当事者の評価の上で補償するが如き比例に、利潤率を固定する、強い傾向を有っている。この変化が行われる過程を辿ることはおそらく極めて困難であろう。それはおそらく製造業者がその職業を絶対的には変更しないがただその職業に彼が投じている資本の分量を減少するということによって、行われるであろう。すべての富める国においては、金持階級と呼ばれるものを構成しているある数の人がいる。これらの人はいかなる事業にも従事せず、手形の割引や、または社会のより勤勉な部分に対する貸金に用いられている所の、彼らの貨幣の利子で生活している。銀行業者もまた同一の目的物に大資本を用いている。かくの如く用いられた資本は多額の流動資本を形造り、そしてその比例には大小があるが、一国のあらゆる種々なる事業によって用いられている。おそらくいかに富んでいても、その事業を彼自身の資本だけでなし得る範囲内にのみ限る製造業者はないであろう、彼は常にこの流動資本のある部分を有し、それは彼れの貨物に対する需要の活溌かっぱつ性に応じ増減しつつある。絹布に対する需要が増加し、毛織布に対するそれが減少する時には、毛織布業者は、彼れの資本と共に絹織業には移らずに、彼れの労働者の若干を解雇し、銀行業者や金持からの貸金に対する需要を止める。他方絹布製造業者の場合は反対である。彼はより多くの労働者を使用せんと欲し、かくて借入に対する彼れの動機は増加する。彼はより多くを借入れ、かくて資本は、一製造業者がその常職業を止める必要なしに、一職業から他のそれに移転される。吾々が大都市の市場に注目し、そしていかに規則正しく、それが、趣味の変遷や人口数の変化から起るあらゆる事情の下において、国内のまたは外国の貨物の必要な分量の供給を受け、しかも余りに豊富な供給による滞貨や供給が需要に等しくないことから起る著しく高い価格という諸結果をしばしば生ずることのないのを観察する時には、吾々は、資本を事業に、そのまさに必要とする分量において割当てる所の原理が、一般に想像されているよりもより活溌に働いていることを、認めなければならないのである。 |
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(三四)一資本家は、その資金に対して有利な用途を探し求めるに当り、一つの職業が他の職業以上に有つ所のすべての得点を、当然考慮に入れるであろう。従って彼は、一つの職業が他の職業以上に有つ所の、安固や清潔や容易やその他の実際のまたは想像上の得点を考慮して、その貨幣利潤の一部分を喜んで抛棄することもあろう。
もし、かかる事情についての考慮によって、資本の利潤が調整され、その結果一つの事業においては利潤は二〇%、ある他の事業においては二五%、またある他の事業においては三〇%となるならば、これらはおそらく引続き永久的に、この相対的差異を、そしてこの差異のみを、維持するであろう。けだしもし何らかの原因がこれらの事業の一つにおける利潤を一〇%だけ引上げたとしても、しかもかかる利潤は一時的であってまもなく再びその通常の地位に復帰するか、または他の職業の利潤が同一の比例において引上げられるであろうからである。 現在はこの記述の正当性に対する例外の一つであるように思われる。戦争の終結が、以前に存在したヨオロッパにおける職業の分割を大いに狂わしたために、あらゆる資本家は、なお未だ、現在必要になっている新しい分割において占むべき彼れの地位を発見していないのである。 すべての貨物がその自然価格にあり、従ってすべての職業における資本の利潤が正確に同一の率にあり、または当事者が所有しあるいは抛棄するある真実のまたは想像上の得点に、彼らの評価において、等しい額だけ、異なるに過ぎない、と仮定しよう。今、流行の変化が、絹布に対する需要を増加し、そして毛織物に対するそれを減少した、と仮定せよ。それらの自然価格すなわちその生産に必要な労働量は引続き不変であろうが、しかし絹布の市場価格は騰貴し、毛織物のそれは下落するであろう。従って絹布製造業者の利潤は一般的のかつ調整された利潤以上に、他方毛織物製造業者のそれはそれ以下に、なるであろう。啻に利潤のみならず労働者の労賃もまた、これらの職業において、影響を蒙るであろう。しかしながら、絹布に対するこの需要増加は、毛織物製造から絹布製造へ資本と労働とが移転することによって、直ちに供給されるであろう。その時には絹布及び毛織物の市場価格は再びその市場価格に接近し、かくて通常の利潤がこれらの貨物の各々の製造業者によって取得されるであろう。 かくして、貨物の市場価格が引続きある期間に亙ってその自然価格の遥か上または遥か下にあることを妨げるものは、あらゆる資本家がその資金をより不利な職業からより有利なそれに転じようとする願望である。貨物の生産に必要な労働に対する労賃と、用いられた資本をその本来的能率状態に置くために必要なすべての他の費用とを、支払った後に、残余の価値すなわち余剰があらゆる事業において使用された資本の価値に比例するように、貨物の可変的価値を調整するのは、この競争である。 『諸国民の富』の第七章(編者註一)において、この問題に関するすべてが最も巧みに取扱われている。資本の特定の用途において、偶発的原因によって、諸貨物の価格、並びに労働の労賃及び資本の利潤、の上に生み出されるが、貨物の一般的価格、一般的労賃、または一般的利潤には、――社会のあらゆる段階において平等に作用するから、――影響することのない、一時的諸結果を十分認めたのであるから、吾々は、これらの偶発的原因とは全然無関係な諸結果たる、自然価格、自然労賃及び自然利潤を左右する法則を取扱う間は、それを全然度外視するであろう(編者註二)。しからば貨物の交換価値すなわちある一貨物が有つ購買力について論ずるに当っては、私は常に、ある一時的なまたは偶発的な原因によって妨げられないならばそれが有するであろう所のその力を意味するのであり、そしてそれはその自然価格である。 (編者註一)第一巻。 (編者註二)『あなたは常に特定の変化の直接のかつ一時的の諸結果を心に画えがいているが、しかるに私はこれらの直接のかつ一時的の諸結果を全然度外視し、そして私の全注意を、それから結果するであろう所の永久的な事物の状態に固着させている。おそらくあなたはこれらの一時的諸結果を余りに高く評価し過ぎているが、しかるに私は余りにそれらを過少評価せんとする気になっているのである。』――マルサスへのリカアドウの書簡、一八一七年一月二十四日。書簡集、一二七頁。 |
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■第五章 労賃について | |
(三五)労働は、売買され、かつ量において増減され得るすべての他の物と同じく、その自然価格とその市場価格とを有っている。労働の自然価格とは、労働者をして共に生存しかつその種族を増加も減少もせずに永続し得せしめるに必要な価格である。
労働者が、彼自身、及び労働者の数を維持するに必要であろう所の家族を、支持する力は、彼が労賃として受取る貨幣量には依存するものではなくて、その貨幣が購買するであろう所の、慣習により彼に不可欠となってなっている食物、必要品、及び便利品の量に依存するものである。従って労働の自然価格は、労働者及び彼れの家族の支持に必要とされる食物、必要品、及び便利品の価格に依存する。食物及び必要品の価格の騰貴と共に労働の自然価格は騰貴し、その価格の下落と共に、労働の自然価格は下落するであろう。 社会の進歩と共に、労働の自然価格は常に騰貴する傾向を有っているが、けだしそれによってその自然価格が左右される主たる貨物の一つが、その生産の困難の増大によって、より高くなる傾向を有つからである。しかしながら、農業における改良そこから食物が輸入される新市場の発見は、必要品の価格の騰貴への傾向を一時妨げ、そしてその自然価格を下落せしめることさえあるから、この同一の原因は労働の自然価格の上にそれに相応ずる結果を生み出すであろう。 粗生生産物及び労働を除くすべての貨物の自然価格は、富と人口との増進につれて、下落する傾向を有っている、けだし、一方においてそれは、それをもって造られる所の粗生原料の自然価格の騰貴によって、真実価格が騰貴しはするけれども、これは、機械の改良により、労働のより良き分割及び分配により、及び生産者の知識と技術と両者における熟練の増加によって、相殺されて余りあるからである。 |
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(三六)労働の市場価格とは、需要に対する供給の比例の自然的作用によって、労働に対して実際支払われる価格である。労働はそれが稀少な時に高く、そしてそれが豊富な時に低廉である。労働の市場価格がその自然価格からいかに離れようとも、それは、諸貨物と同様に、これに一致せんとする傾向を有っているのである。
労働者の境遇が繁栄なかつ幸福なものであり、彼が生活の必要品及び享楽品のより多くの分量をその力の中に支配し、従って健康なかつ数多き家族を養う力を有つのは、労働の市場価格がその自然価格に超過している時においてである。しかしながら、高き労賃が人口の増加に対し与える奨励によって、労働者数が増加される時には、労賃は再びその自然価格にまで下落し、そして事実反動によって、時にはそれ以下に下落するのである。 |
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(三七)労働の市場価格がその自然価格以下にある時には、労働者の境遇は最も悲惨である。その時には、貧困が彼らから、慣習が絶対必要品たらしめている慰楽物を奪ってしまう。労働の市場価格がその自然価格にまで騰貴し、そして労働者が労賃の自然率の与える相当の慰楽品を手に入れるようになるのは、彼らの窮乏が彼らの数を減じ、または労働に対する需要が増加した後のことでしかない。
その自然率に一致せんとする労賃の傾向にもかかわらず、その市場率は、進歩しつつある社会においては、不定の時期の間、絶えずそれ以上にあるであろう。けだし、増加資本が労働に対する新しい需要に与える刺戟が満たされるや否や、直ちに他の資本増加が同一の結果を生み出すからである。かくて資本の増加が漸次かつ不断であるならば、労働に対する需要は、人口の増加に対して連続的の刺戟を与えるであろう。 資本はその価値の騰貴と同時に分量において増加し得よう。以前よりもより多くの労働が附加的分量を生産するに必要とされると同じ時に、一国の食物及び衣服に附加がなされ得よう。その場合には啻に資本の分量のみならず更にその価値もまた増大するであろう。 または資本は、その価値が増加することなしに、、かつその価値が実際減少しつつある間にすら、増加し得よう。啻に一国の食物及び衣服に附加がなされ得るのみならず、更にその附加は、機械の援助によって、それを生産するに必要な労働の比例的分量の増加なくして、かつその絶対的の減少をすら伴って、なされ得よう。資本の量は増加するであろうが、しかるに、その全部の合計にしろ、またはその一部分単独にしろ、以前よりもより大なる価値を有たず、実際により少い価値を有つであろう。 第一の場合においては、常に食物、衣服、その他の必要品の価格に依存する労働の自然価格は、騰貴するであろう。第二の場合においては、それは引続き静止的であるかまたは下落するであろう。しかし双方の場合において、資本の増加に比例して労働に対する需要の増加があるであろうし、なさるべき仕事に比例してそれをなすべき人々に対する需要があるであろうから、労賃の市場率は騰貴するであろう。 双方の場合においてまた、労働の市場価格はその自然価格以上に騰貴するであろう。そして双方の場合において、それはその自然価格に一致せんとする傾向を有つであろうが、しかしそれは多くは改善されないであろう。けだし食物及び必要品の価格の騰貴は、彼れの労賃の騰貴の大部分を吸収してしまうであろうから。従って、労働の少しの供給は、または人口の僅少の増加は、市場価格をその時の騰貴した労働の自然価格にまでまもなく低下せしめるであろう。 第二の場合においては、労働者の境遇は極めて著しく改善せられるであろう。彼は、自分とその家族とが消費する貨物に対して、騰貴せる価格を支払うの必要なくして、かつおそらく下落せる価格をさえ支払って、騰貴せる貨幣労賃をば受取るであろう。そして労働の市場価格が再びその時の低きかつ下落せるその自然価格にまで下落するのは、人口に大なる増加が起って後のことであろう。 かくてしからば、社会の進歩ごとに、その資本の増加ごとに、労働の市場労賃は騰貴するであろう。しかしその騰貴が永続するか否かは、労働の自然価格もまた騰貴したか否かの問題に依存するであろう。そしてこの問題はまたも、それに労働の労賃が費される所の必要品の自然価格の騰貴に依存するであろう。 労働の自然価格は、食物及び必要品でもって測られた時ですら、絶対的に固定的であり恒久的であると考えてはならない。それは、同一国においても異なる時には変動し、そして異なる国においては極めて著しく異なっている(註)。それは本質的に人民の習癖及び慣習に依存する。英国の労働者は、もしその労賃が彼をして、馬鈴薯以外の食物を購買し得しめず、また土小屋よりも良い住宅に住み得しめないならば、それはその自然率以下にあり、そして少きに過ぎて家族を支持し得ない、と考えるであろう。しかもこれは、しばしば、十分であると看做されているのである。英国の小屋で今日享受されている便利品の多くは、吾々の歴史の初期においては贅沢品と考えられたことであろう(編者註)。 (註)『一国において不可欠な家屋及び衣服も、他の国においては決して必要ではないこともあろう。そしてヒンドスタンの労働者は、彼れの自然労賃として、ロシアの労働者を死から免れしめるに足らぬような被服の供給を受けているに過ぎぬとはいえ、元気一杯に働き続け得よう。同一の気候に位置する国においてさえ、異る生活習慣は、しばしば、自然的原因によって生み出されるものと同様に顕著な労働の自然価格における変動を惹起するであろう。』――アール・トランズ殿著『外国穀物貿易に関する一論』、六八頁。 この問題の全体はカアネル・トランズによって最もよく例証されている。 (編者註)この章句及びこれに類する他の章句は、常にまたはほとんど常に、彼らがリカアドウの労賃鉄則と名づけているものと嫌忌をもって語る人々によっては、忘れられている。しかしながらそれは最も重要なものである。 社会の進歩につれて、製造貨物は常に下落しそして粗生生産物は常に騰貴することによって、富める国においては、労働者は彼れの食物のわずかに少量を犠牲にすれば、彼れのすべての他の欲する所を豊富に備えることが出来る、というような、両者の価値の不釣合が遂に作られるのである。 貨幣価値の変動――それは必然的に貨幣労賃に影響を及ぼすが、しかし吾々は、貨幣は常に同一の価値を有つものと考えて来たから、ここでは何らの作用もないものと仮定して来た――を別とすれば、労賃は二つの原因によって騰落を蒙るように思われる、すなわち、 第一、労働者の供給及び需要。 第二、それに労働の労賃が費される貨物の価格。 |
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(三八)社会の異る段階においては、資本または労働を雇傭する手段の蓄積は、その速度の速いことも遅いこともあり、そしてそれはあらゆる場合において労働の生産力に依存しなければならない。労働の生産力は、肥沃な土地が豊富にある時に、一般に最大である。かかる時期においては蓄積はしばしば極めて速かであるために、労働者は資本と同一の速度で供給され得ないのである。
好都合な事情の下においては人口は二十五年で倍加し得ると計算されている。しかし、同様の好都合な事情の下においては、一国の全資本はおそらくより短い時期に倍加され得よう。その場合には、労賃は全期を通じて、騰貴する傾向を有つであろうが、けだし労働に対する需要が供給よりもなおより速かに増加するであろうからである。 遥かに文明の進んだ国の技術及び知識が導入された新植民地においては、資本はおそらく人間よりもより速かに増加する傾向を有つであろう。そしてもし労働者の欠乏がより人口稠密な国によって供給されないならば、この傾向は極めて著しく労働の価格を騰貴せしめるであろう。これらの国が人口稠密となり、そしてより悪い質の土地が耕作されるに至るに比例して、資本の増加への傾向は減少する、けだし現存の人口の欲望を満した後に残る剰余生産物は、必然的に、生産の容易さに、すなわち生産に使用される人数のより小なるに、比例しなければならぬからである。しからば、たとえ最も有利な事情の下においてはおそらく生産力は人口の増加力よりもなおより大であろうとはいえ、それは久しくそうではないであろう。けだし土地はその量が限られておりかつその質が異っているから、その上に用いられる資本全部が増加するごとに、生産率は減少するであろうが、しかし人口増加力は常に引続き同一であるからである。 肥沃な土地は豊富であるが、しかし、住民の無智、怠惰、及び野蛮のために彼らが欠乏及び饑饉のあらゆる害悪に曝されており、かつ人口が生活資料を圧迫しているといわれている所の国においては、粗生生産物の供給率が逓減するために過剰人口のあらゆる害悪が経験されている旧開国において必要なそれとは、極めて異る救治策が用いられなければならない。一方の場合においては、悪政、財産の不安固、及び人民のあらゆる階級における教育の欠乏から、害悪が発生するのである。より幸福にされんがためには、人口増加以上の資本の増加が不可避な結果であろうから、人民はただ、より良く統治されかつ教育される必要があるのみである。いかなる人口増加も多過ぎることは有り得ないが、それは生産力が更により大であるからである。他方の場合においては、人口はその支持に必要とされる基金よりもより速かに増加する。あらゆる勤労の努力も、人口増加率の減少を伴わぬ限り、生産が人口と歩調を共にし得ないから害悪を増加するであろう。 人口が生活資料を圧迫している時には、唯一の救治策は、人口の減少かまたは資本のより速かな蓄積かである。すべての肥沃な土地が既に耕作されている富める国においては、後者の救治策は極めて行いやすいわけでもなくまた極めて望ましいわけでもない、けだしその結果は、それが行われ過ぎるならば、すべての階級を等しく貧しくすることであろうからである。しかし肥沃な土地がなお未だ耕作されていないために豊富な生産手段が貯えられてある貧しい国においては、特にその結果は人民のすべての階級を向上せしめることにあるから、それは唯一の安全なかつ有効な害悪除去の方法である。 人道の友は、すべての国において、労働階級が愉楽品及び享楽品に対して嗜好を有ち、かつ彼らが、あらゆる法律上の手段によって、それらを獲得せんと努力するのを奨励されることを、希望せざるを得ない。これ以上の保証は過剰人口に対して有り得ない。労働階級が最少の欲望を有ちかつ最も低廉な食物で満足している国においては、人民は最大の不安と窮乏とに曝されている。彼らは災害から逃れる避難所を有たない。彼らはより低い地位に安全を求めることは出来ない。彼らの地位は既に極めて低いのでより低く落ちることもできない。彼らの主たる生存資料が少しでも欠乏する場合には、彼らが手にし得る代用品はほとんどなく、そしてその欠除は饑饉の害悪のほとんどすべてを伴うのである。 |
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(三九)社会の自然的進歩につれて、労働の労賃は、それが供給と需要とによって左右される限り、下落する傾向を有つであろう。けだし、労働者の供給は引続き同一率で増加するであろうが、他方彼らに対する需要はより遅い率で増加するであろうからである。例えばもし労賃が、二%の率における資本の年々の増加によって左右されているとするならば、それが単に一・二分の一%の率において蓄積されるに過ぎない時には、労賃は下落するであろう。それが単に一%または二分の一%の率において増加するに過ぎない時には労賃はより低く下落し、そして資本が停止的になるまで引続き下落するであろうが、その時には労賃もまた停止的となり、そしてわずかに現実の人口数を維持するに足るに過ぎないであろう。かかる事情の下においては、もし労賃が単に労働者の供給及び需要によって左右されるに過ぎなければ、それは下落するであろう、と私はいう。しかし吾々は、労賃は、それに労賃が費される貨物の価格によってもまた左右されることを忘れてはならない。
人口が増加するにつれて、かかる必要品はその生産により多くの労働が必要となるから、絶えず価格において騰貴しつつあるであろう。しからば、もし労働の貨幣労賃が下落し、他方それに労働の労賃が費されるあらゆる貨物が騰貴するならば、労働者は二重に影響を蒙り、そしてまもなく全然生存を奪われるであろう。従って労働の貨幣労賃は下落せずして騰貴するであろう、しかしそれは、労働者をして、慰楽品及び必要品の価格騰貴の前に彼が購入したと同一のそれらの貨物をば買い得しめるほど十分には騰貴しないであろう。もし彼れの年々の労賃が、以前には、二四磅ポンド、すなわち価格が一クヲタアにつき四磅ポンドの時に六クヲタアの穀物であったならば、穀物が一クヲタアにつき五磅ポンドに騰貴した時には、彼はおそらく単に五クヲタアの価値を受取るに過ぎないであろう。しかし五クヲタアは二五磅ポンドを要費するであろうし、従って彼は、その貨幣労賃においてある附加を受取るであろう。もっともこの附加をもってしても、彼は以前にその家庭において消費していたと同一量の穀物その他の貨物を手に入れることは出来ないであろうが。 しからば労働者は実際により悪い支払を受けるであろうにもかかわらず、しかも彼れの労賃のこの増加は必然的に製造業者の利潤を減少せしめるであろう。けだし彼れの財貨は決してより高い価格で売れはしないであろうが、しかもなおそれを生産する費用は増加されるであろうからである。しかしながら、このことは、吾々が利潤を左右する諸原理を検討する際に、考察するであろう。 しからば、地代を高めると同一の原因すなわち食物の同一量を同一比例の労働量をもって供給する困難の増加がまた、労賃をも高めることがわかる。従って、もし貨幣が不変的価値を有つならば、地代と労賃との両者は、富と人口との増進につれて騰貴する傾向を持つであろう。 しかし地代の騰貴と労賃の騰貴との間には、こういう本質的の差異がある。地代の貨幣価値における騰貴は生産物の分前の増加を伴う。啻に地主の貨幣地代がより大となるばかりでなく、更に彼れの穀物地代もまたより大となる。彼はより多くの穀物を得、かつその穀物の各一定分量は、価値が騰貴しなかったすべての他の財のより大なる分量と、交換されるであろう。労働者の運命は地主よりも不幸であろう。なるほど彼はより多くの貨幣労賃を受取るであろうが、しかし、彼れの穀物労賃は減少するであろう。そして啻に穀物に対する彼れの支配が減ずるばかりでなく、更に彼れの一般的境遇も、労賃の市場率をその自然率以上に支持することのより困難なことを見出すであろうから、また悪化するであろう。穀物の価格が一〇%騰貴するとしても、労賃は常に一〇%以下しか騰貴しないであろうが、しかし地代は常により以上騰貴するであろう。労働者の境遇は一般的に下落し、そして地主のそれは常に改善されるであろう。 小麦が一クヲタアについて四磅ポンドの時、労働者の労賃は一年二四磅ポンドまたは小麦六クヲタアの価値であると仮定し、また彼れの労賃の半ばは小麦に費され、そして他の半ば、すなわち一二磅ポンドは他の物に費されると仮定しよう。彼は、 小麦が{四磅ポンド四シリング/四磅ポンド一〇シリング/四磅ポンド一六シリング/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時に{二四磅ポンド一四シリング/二五磅ポンド一〇シリング/二六磅ポンド八シリング/二七磅ポンド八シリング六ペンス}を、または{五・八三クヲタア/五・六六クヲタア/五・五〇クヲタア/五・三三クヲタア}の価値を、受取るであろう。 彼はこれらの労賃を得ても、以前とちょうど同じに生活することは出来るが、より良くは生活し得ないであろう。けだし穀物が一クヲタアにつき四磅ポンドの時には、彼は穀物三クヲタアに対して、一クヲタアにつき四磅ポンドで …………一二磅ポンド そして他の物に …………一二磅ポンド ――― 二四磅ポンドを費すであろう。 小麦が四磅ポンド四シリング八ペンスの時には、彼と彼れの家族とが消費する三クヲタアは、彼に …………一二磅ポンド一四シリング 価格の変動しない他の物は …………一二磅ポンド〇シリング ――――――――― 二四磅ポンド一四シリング費さしめるであろう。 四磅ポンド一〇シリングの時には、三クヲタアの小麦は …………一三磅ポンド一〇シリング そして他の物は …………一二磅ポンド〇シリング ――――――――― 二五磅ポンド一〇シリング費さしめるであろう。 四磅ポンド一六シリングの時には、三クヲタアの小麦は …………一四磅ポンド八シリング そして他の物は …………一二磅ポンド〇シリング ―――――――― 二六磅ポンド八シリング 五磅ポンド二シリング一〇ペンスの時には、三クヲタアの小麦は …………一五磅ポンド八シリング六ペンス そして他の物は …………一二磅ポンド〇シリング〇ペンス ―――――――――――― 二七磅ポンド八シリング六ペンス費さしめるであろう。 穀物が高くなるに比例して、彼はより少い穀物労賃を受取るであろうが、しかし彼れの貨幣労賃は常に増加するであろう。他方彼れの享楽品は上の仮定によれば正確に同一であろう。しかし、粗生生産物が他の貨物の構成に参加するに比例してそれは価格において引上げられるであろうから、彼はそのあるものに対しより多くを支払わなければならぬであろう。彼れの茶や砂糖や石鹸や蝋燭や家賃はおそらく決してより高くはならないであろうけれども、彼はそのベイコンやチイズやバタや亜麻布や靴や毛織布に対して、より多くを支払うであろう。従って右の如き労賃の騰貴をもってしても、彼れの境遇は比較的にはより悪くなるであろう。 |
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(四〇)しかし私は、金すなわち貨幣の材料たる金属は労賃の変動した国の生産物である、という仮定の上で、価格に及ぼす労賃の影響を考察しつつあったし、また金は外国で生産された金属であるから、私が演繹した結論は事物の実情とほとんど一致しない、といわれるかもしれない。しかしながら、金が外国の生産物であるという事情は、議論の真理を無効ならしめることはないであろう、けだしそれが国内において見出されようともまた外国から輸入されようとも、結果は窮極的にしかも実に直接的にも同一であろうということが、証明され得ようからである。
労賃が騰貴する時には、それは一般に、富及び資本の増加が確実に貨物の生産増加を伴うべき労働に対する新需要を齎したからなのである。これらの増加せる貨物を流通させるためには、以前と同一の価格においてですら、より多くの貨幣が貨幣の材料であり、そして輸入によってのみ取得され得る所のこの外国貨物のより多くが、必要とされる。一貨物が以前よりもより多くの分量において必要とされる時には常に、その相対価値は、それでこの貨物の購買がなされる他の貨物に比較して騰貴する。もしより多くの帽子が求められる時には、その価格は騰貴し、そしてより多くの金が、それに対して与えられるであろう。もしより多くの金が必要とされるならば、金は価格において騰貴し、そして帽子は下落するであろうが、それは、その時には、帽子及び他のすべての物のより大なる分量が同一量の金を購買するために必要であろうからである。しかし仮定された場合において、労賃が騰貴するから貨物が騰貴するであろうというのは、明かな矛盾を肯定することになる。けだし吾々は第一に、金は需要の結果相対価値において騰貴するであろうと言い、そして第二に、それは物価が騰貴するから相対価値において下落するであろうと言っているが、これは互に全然両立し得ない二つの結果であるからである。価格において貨物が騰貴すると言うのは、相対価値において貨幣が下落すると言うのと同一である。けだし金の相対価値が測られるのは貨物によってであるから。しからばもしすべての貨物が価格において騰貴するならば、金は、これらの高価なる貨物を購買するために、外国から来ることは出来ないが、しかしそれは比較的により低廉な外国貨物の購買に用いるのが有利であるから、それに用いるために国内から出て行くであろう。しからば労賃の騰貴は、貨幣の材料たる金属が国内で生産されようとまたは外国で生産されようと、貨物の価格を引上げはしないであろうと思われる。すべての貨物は、貨幣の分量の附加なくしては同時に騰貴し得ない。この附加は、既に示した如くに、内国においても取得され得ず、また外国からも輸入され得ない。金のある附加量を外国から購買するためには、内国の貨物が高価でなく低廉でなければならぬ。金の輸入と、それで金が購買されまたは支払われるあらゆる国産貨物の価格騰貴とは、絶対的に両立し得ない二結果である。紙幣の広汎なる使用もこの問題を変更しはしない、けだし、紙幣は金の価値に一致するかまたは一致すべきであり、従ってその価値はこの金属の価値に影響する原因によってのみ影響されるからである。 しからばかかるものが、労賃を左右し、かつあらゆる社会の最大部分の幸福を支配する所の、法則である。あらゆる他の契約と同様に、労賃は市場の公正なかつ自由な競争に委ねらるべく、決して立法の干渉によって支配されてはならない。 |
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(四一)救貧法の明白なかつ直接的な傾向は、かかる明白な諸原理に全く反するものである。それは、立法者が慈悲深くも意図したが如くに、貧民の境遇を改善すべきものではなくして、富者と貧者との双方の境遇を悪化せしむべきものである。貧民を富ましめることはなくして、それは富者を貧しくせんとするものである。そして現在の法律の施行中は、貧民を維持するための基金は逓増的に増加して、ついにそれは国の純収入のすべてを、または少くとも公共の支出に対する国家自身の欠くべからざる必要を満たした後に国家が吾々に残す純収入のすべてを、吸収するのは、全く事理の当然である(註)。
(註)次のビウキャナン氏の章句に、私は、もしそれが窮乏の一時的状態を指すものであるならば、その限りにおいて同意する、すなわち、『労働者の境遇の大なる害悪は、食物の不足かまたは仕事の不足から起る貧困である。そしてあらゆる国において無数の法律が彼れの救済のために施行され来った。しかし立法が救済し得ない窮乏が社会状態にある。従って、行い得ないことを目指すがために真に吾々がなし得る善を見失わないために、その限界を知ることが有用である。』ビウキャナン、六一頁。 かかる法律の有害なる傾向は、マルサス氏の有為な手によって十分に展開されているから、もはや神秘ではない(編者註)。そしてあらゆる貧民の友は熱心にその廃止を希望しなければならない。しかしながら不幸にして、それは極めて古くから行われ来っており、かつ貧民の慣習はその作用に基いて形造られ来っているから、吾々の政治組織から安全にそれを取除くことは、最も注意深くかつ巧妙な処理を必要とする。この法律の廃止に最も賛成な人々は、その利益のためにこの法律が誤って設けられた所の者に対する、最も恐るべき惨苦を妨げるのが望ましいならば、その廃止は最も徐々たる順序によってなさるべきであることに、すべて一致している。 (編者註)『人口論』第三篇、第五、六、七章、第四篇、第八章。 貧民の慰楽と福祉とは、彼らの数の増加を規制し、かつ早婚や不用意な結婚を彼らの間で減少せしめるために、彼らの側での幾らかの注意か、立法者の側での幾らかの努力がなければ、永久に確保され得ないことは、疑を容れない真理である。救貧法の制度の作用はこれに正反対であった。それは抑制を余計のものとし、そして慎慮と勤労とによって得た労賃の一部分をそれに与えることによって、不慎慮を招いたのである(註)。 (註)この題目に関し、一七九六年以来下院において表明された知識の進歩は、救貧法に関する委員会の最近の報告と、一七九六年におけるピット氏の次の如き意見とを、対照することによって見られる如く、幸にして少からざるものがあった。 彼は曰く、『恥辱と軽蔑との理由ではなくして、正義と名誉との事柄たる、子だくさんの場合に、救済をしよう。このことは、大家族を呪詛たらしめずして祝福たらしめるであろう。そしてこのことは、自らの労働によって自らを養いうる人々と、多くの子供でその国を富ましめた後に生活維持に対する国家の援助を請求し得る人々との間に、適当な分界線を劃するであろう。』ハンサアド議会史、第三二巻、七一〇頁。 この害悪の性質が救治法を指示している。救貧法の範囲を漸次に縮小することによって、貧民に独立なる者の価値を印象づけることによって、彼らに、生活のためには組織的のまたは偶然の慈善に頼らずに彼ら自身の努力に頼らねばならぬこと、また慎慮と先見とは不必要な徳性でもなければ不利益な徳性でもないことを、教えることによって、吾々は順次により健全なより健康的な状態に接近するであろう。 救貧法の廃止をその終極目的としない救貧法修正案は、全然注意に値しない。そしていかにしてこの目的が最も安全にかつ同時に最少の暴力をもって達せられ得るかを指示し得る者こそが、貧民に対しかつ人道に対する最良の友である。害悪が軽減され得るのは、現在と異る方法で貧民が支持される基金を、徴収することによってではない。それは、啻に改良ではないのみならず、もしこの基金の額が増加せしめられるかまたはある最近の提議によってこの国全般から一般基金として賦課されるならば、吾々が除去されんことを望む所の災害の加重であろう。現在のその徴収方法及び使用方法は、その有害な結果を軽減するに役立って来た。各教区はそれ自身の貧民の支持のために別々の基金を徴収している。従って一般基金が全王国の貧民救済のために徴収される場合よりも、税金を低くしておくことがより有利でありかつより行いやすいこととなっている。一教区は、数百の他の教区がそれに参加している場合よりもはるかに、この税金の経済的な徴収をより利益あることとし、かつ節約の全部がそれ自身の利益になるであろうから救助を少ししか分配しないことをより利益あることとしているのである。 吾々は、救貧法が未だこの国の全純収入を吸収してしまっていないという事実を、この原因に帰しなければならぬ。それが驚くべく圧制的になっていないことの理由は、その適用が厳正であることにある。もし法律によって、生計に困っているあらゆる者に確実に生計を得しめ、しかも生活を相当に愉楽ならしめる程度に生計を得しめることが出来るならば、理論は吾々を導いて、他の租税を全部合せてもこの救貧税という単一の租税と比較して軽微なものであろうと、期待せしめるであろう。かかる法律が、富と力とを貧と弱とに変え、労働の努力を単なる生活資料供給の目的以外のあらゆる目的から引離し、すべての知的優越を無にし、精神を絶えず肉体的欲求物の供給に忙殺せしめ、ついに一切の階級を一般的貧困という悪疫にかからせる、という傾向のあることは、重力の原理と同様に確実である。幸にしてかかる法律は、労働維持のための基金が規則正しく増加し、かつ人口の増加が自然的に必要とされた所の、進歩的繁栄期に、行われ来った。しかしもし吾々の進歩がより遅くなるならば、もし吾々が静止的状態――吾々はかかる状態からはなお未だ遠く隔っていると私は信ずるが――に達するならば、その時にこの法律の有害な性質はより明かにかつ脅威的になり、またその時にはこの法律の廃止は多くのより以上の困難によって妨害されるであろう。 |
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■第六章 利潤について | |
(四二)資本の利潤は、種々なる職業において、相互に一つの比例を保ち、かつすべて同一の程度にかつ同一の方向に変動する傾向を有つことが、説明されたから、利潤率の永続的変動、及びそれに従って起る利子率における永続的変動の原因は何であるか、を考察することが、吾々にとって残っていることになる。
吾々は、穀物の価格(註)が資本のうち地代を何ら支払わない部分をもってそれを生産するに必要な労働量、によって左右されることを、見た。吾々はまた、すべての製造貨物は、その生産に必要となる労働の大小に比例して、価格において騰落することも、見た。価格を左右する質(訳者註)の土地を耕作する農業者も財貨を製造する製造業者も、生産物の何らの部分をも地代として犠牲にしない。彼らの貨物の全価値は単に二つの部分に分たれるに過ぎない、すなわちその一は資本の利潤を成し、他は労働の労賃を成すのである。 (註)読者は、この主題をより明かならしめんがために、私が、貨幣をもって価値において不変なものと看做し、従って価格のあらゆる変動は貨物の価値における変動に帰せらるべきものと看做していることを、記憶せられんことを乞う。 (訳者註)『地質なる語は、原本第一版及び第二版の quality の訳語であるが、原本第三版には、これが quantity となっている。』――堀經夫博士訳書、一一〇頁。 穀物及び製造財貨が常に同一の価格で売れると仮定すれば、利潤は、労賃が低いか高いかに比例して高くあるいは低いであろう。しかし穀物が、それを生産するにより多くの労働が必要であるために、価格において騰貴したと仮定せよ。この原因は、その生産において何ら附加的労働量も必要とされない所の製造財貨の価格を騰貴せしめないであろう。しからば、もし労賃が引続き同一であるならば、製造業者の利潤は依然として同一であろう。しかし、もし労賃が穀物の騰貴と共に騰貴するならば、――このことは絶対に確実であるが――彼らの利潤は必然的に下落するであろう。 もし、製造業者が常に彼れの財貨を同一の貨幣額、例えば一、〇〇〇磅ポンドに対して、売るとするならば、彼れの利潤はそれらの財貨を製造するに必要な労働の価格に依存するであろう。彼が六〇〇磅ポンドを支払うに過ぎなかった時よりも、労賃が八〇〇磅ポンドに達した時の方が、彼れの利潤はより少いであろう。かくて労賃が騰貴するに比例して、利潤は下落するであろう。しかしもし粗生生産物の価格が騰貴するならば、農業者は労賃として追加額を支払わなければならなくとも、少くとも同一の利潤率を得ないであろうか? と問われるかもしれない。確かにそれは得られない、けだし彼は啻に製造業者と共に、彼が雇傭する各労働者に労賃の増加を支払わなければならないであろうのみならず、更に彼は地代を支払うか、または同一生産物を獲得するために労働者の附加数を雇傭するのいずれかを余儀なくされるであろうし、また粗生生産物の価格における騰貴は、この地代またはこの附加数に比例するに過ぎぬものであって、従って労賃の騰貴に対して彼に償いをしないであろうからである。 もし製造業者及び農業者の両者が十名の人間を用いるとすれば、労賃が一人当り一年間二四磅ポンドから二五磅ポンドに騰貴する場合には、その各々によって支払われる全額は二四〇磅ポンドではなく二五〇磅ポンドであろう。しかしながら、これが製造業者が同一分量の貨物を得るために支払うであろう所の附加の全部である。しかし新しい土地における農業者はおそらく、一名の附加的労働者を使用し、従って労賃として二五磅ポンドの附加額を支払うを余儀なくされるであろう。そして旧い土地における農業者は地代として二五磅ポンドという正確に同一の附加額の支払を余儀なくされるであろう。この附加的労働がなければ、穀物も騰貴しなかったであろうし、また地代も増加しなかったであろう。従って一方は労賃のためのみに二七五磅ポンドを支払わなければならず、他方は労賃と地代との合計のためにこの額を支払わなければならないであろう。各々は製造業者よりも二五磅ポンドだけより多く支払わなければならない。この後の二五磅ポンドを、農業者は粗生生産物の価格の附加によって償われ、従って彼れの利潤はなお製造業者の利潤と一致する。この命題は重要であるから、私はなお更に、その説明に努めるであろう。 吾々は既に、社会の初期においては、土地生産物の価値に対する地主及び労働者の両方の分前は僅少に過ぎないであろうし、かつそれは富の増進及び食物獲得の困難に比例して増加するであろうということを、証明した。吾々はまた、労働者の収得する価値は食物の高い価値によって増加されるであろうけれども、彼れの真実の分前は減少するであろうが、しかるに地主のそれは啻に価値において増加されるばかりでなく、更に分量においても増加されるであろう、ということを証明した。 地主及び労働者が支払を受けた後に残る土地の生産物の残りの分量は、必然的に農業者に帰属し、そして彼れの資本の利潤をなすものである。しかし、社会が進歩するにつれ全生産物に対する彼れの分前は減少するであろうけれども、しかもそれは価値において騰貴するであろうから、地主及び労働者と同様に彼もまた、それにもかかわらず、より多くの価値を受けるであろう、と主張されるかもしれない。 例えば、穀物が四磅ポンドから一〇磅ポンドに騰貴した時には、最良の土地から得られる一八〇クヲタアは七二〇磅ポンドではなく、一、八〇〇磅ポンドで売れ、従って地主及び労働者は地代及び労賃としてより多くの価値を得るということが証明されたとしても、しかも農業者の利潤の価値もまた増大されるであろう、といわれるかもしれない。しかしながらかかることは、私がいま次に説明を試みる如く、不可能なことである。 第一に、穀物の価格はただ、より劣等な品質の土地においてそれを栽培する困難の増加に比例して騰貴するに過ぎないであろう。 次のことは既に述べた所である、すなわち、もし十名の人間の労働が、一定の品質の土地において、一八〇クヲタアの小麦を獲得し、その価値が一クヲタアにつき四磅ポンド、すなわち七二〇磅ポンドであるとし、かつもし十名の附加された人間の労働が同一のまたはある他の土地において、更に加うるに一七〇クヲタアを生産するに過ぎないならば、170:180:£4:£4 4s. 8d. であるから小麦は四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンス(編者註)に騰貴するであろう。換言すれば、一七〇クヲタアの生産に対して、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、そして他方の場合には九・四四名のそれが必要であるに過ぎないから、騰貴は九・四四対一〇であり、または四磅ポンド対四磅ポンド四シリング八ペンスであろう。同様にして、もし十名の附加された人間の労働が一六〇クヲタアを生産するに過ぎなければ、価格は更に四磅ポンド一〇シリングに騰貴するであろうし、一五〇クヲタアならば、四磅ポンド一六シリングに騰貴するであろう、等々、ということが証明され得よう。 (編者註)概算すれば四磅ポンド四シリング八ペンス二分の一により近い。 しかし、地代を支払わない土地において一八〇クヲタアが生産され、かつその価格が一クヲタアについて四磅ポンドの時には、それは次の価格で売られる、 …………七二〇磅ポンド そして地代を支払わない土地において一七〇クヲタアが生産され、かつ価格が四磅ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、それはなお次の価格で売られる、 …………七二〇磅ポンド かくて四磅ポンド一〇シリングで一六〇クヲタアは次を生む、 …………七二〇磅ポンド そして四磅ポンド一六シリングで一五〇クヲタアは同一の額を生む、 …………七二〇磅ポンド さて、もしこれらの相等しい価値から、農業者がある時には四磅ポンドの小麦の価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされ、そして他の時にはより高い価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされるならば、彼れの利潤率は穀価の騰貴に比例して減少するであろう、ということは明かである。 従ってこの場合において、労働者の貨幣労賃を騰貴せしめる穀価の騰貴は農業者の利潤の貨幣価値を減少する、ということが明かに証明されている、と私は考えるのである。 しかし旧いかつより良い土地の農業者の場合も決してこれと少しも異る所はないであろう。彼もまた騰貴した労賃を支払わなければならず、かつ、その労賃はいかに高くとも、彼自身及び常に同数なる彼れの労働者の間に分割されるべき生産物の価値は、七二〇磅ポンド以上を保有しないであろう。従って彼らがより多くを得るに比例して彼はより少しを保有しなければならぬのである。 穀価が四磅ポンドであった時には全一八〇クヲタアは耕作者に帰属し、そして彼はそれを七二〇磅ポンドで売った。穀物が四磅ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、彼は地代としてその一八〇クヲタアから一〇クヲタアの価値を支払うを余儀なくされ、従って残りの一七〇クヲタアは彼に七二〇磅ポンドを与えるに過ぎなかった。それが更に四磅ポンド一〇シリングに騰貴した時には、彼は地代として二〇クヲタアを、あるいはその価値を支払い、従って一六〇クヲタアを保有したに過ぎず、それは七二〇磅ポンドという同一の額を与えたのである。 しからば次のことがわかるであろう、すなわち生産物の一定の附加量を得るためにより以上の労働と資本とを用いることが必要である結果として穀価がいかに騰貴しようとも、かかる騰貴は、附加的地代により、あるいは用いられる附加的労働により、価値において常に相殺されてしまうであろうから、従って、穀物が四磅ポンドに売れても四磅ポンド一〇シリングに売れてもまたは五磅ポンド二シリング一〇ペンスに売れても、農業者は、地代を支払った後彼れの手に残るものとしては、同一の真実価値を得るであろう。かくて吾々は、農業者に帰属する生産物が一八〇クヲタアであっても一七〇クヲタアであっても一六〇クヲタアであってもまたは一五〇クヲタアであっても、彼はそれに対し常に七二〇磅ポンドという同一額を得ることを知るが、それは価格が分量に反比例して騰貴するからである。 かくて地代は、思うに、常に消費者の負担となり決して農業者の負担にはならない、けだしもし彼れの農場の生産物が一様に一八〇クヲタアであるならば、価格の騰貴と共に、彼は自分自身に対しより少い分量の価値を保有し、彼れの地主にはより大なる分量の価値を与えるけれども、しかしこの控除は彼に常に七二〇磅ポンドという同一額を残すように行われるからである。 すべての場合において、七二〇磅ポンドという同一額が労賃と利潤とに分割されなければならぬこともまた、わかるであろう。もし土地からの粗生生産物の価値がこの価値を超過するならば、その額が幾何いくばくであろうと、それは地代に属する。もし何ら超過がないならば、地代はないであろう。労賃または利潤が騰貴しようと下落しようと、この両者が与えられなければならない原本はこの七二〇磅ポンドという額である。一方において利潤は労働者に絶対必要品を与えるに十分な額が残されないくらいにこの七二〇磅ポンドの中の多くを吸収してしまうほど騰貴することは出来ない。他方において労賃は、この額のうち利潤には何物も残さないというほどに騰貴することは出来ない。 かくて、あらゆる場合において、農業利潤並びに製造業利潤は、粗生生産物の価格の騰貴――もしそれが労賃の騰貴を伴うならば、――によって低下せしめられる(註)。もし農業者が、地代を支払った後彼れの手に残る穀物に対し何らの附加的価値をも得ず、もし製造業者が、彼が製造する財貨に対して何らの附加的価値をも得ず、またもし両者が労賃により大なる価値を支払うを余儀なくされるならば、労賃の騰貴と共に利潤は下落しなければならぬということ以上に明瞭に確証され得る事柄があろうか? (註)読者は、季節の良否から、または人口の状態に対する突然の影響のために起る需要の増減から、発生する所の、偶然の変動は、吾々はこれを考慮外に置いていることを知っている。吾々は、穀物の自然的な恒常的な価格について論じているのであって、その偶然的な動揺的な価格について論じているのではない。 かくて農業者は、その地主の地代――それは常に生産物の価格によって左右され、そして常に消費者の負担に帰するものであるが――のいかなる部分をも支払いはしないけれども、しかも地代を低く保つことに、またはむしろ生産物の自然価格を低く保つことに、極めて明かな利害を有っているものである。粗生生産物の、及び粗生生産物が一構成部分として入り込んでいる物の、消費者として、彼は、あらゆる他の消費者と共通に価格を低く保つことに利害を有つであろう。しかし彼は、穀物の高い価格は労賃に影響を及ぼすが故に、それに最も重大な関係を有っているのである。穀価のあらゆる騰貴と共に、彼は、七二〇磅ポンドという等しくかつ変動しない額から、附加的額を労賃として、彼が常に用いるものと仮定されている十名の人間に支払わねばならぬであろう。吾々は労賃を論ずる際に、それは常に粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴することを見た。一一三頁において、計算のために仮定された基礎によれば、もし小麦が一クヲタアにつき四磅ポンドである時に、労賃が一年につき二四磅ポンドであるならば、次のことがわかるであろう。 小麦が{四磅ポンド四シリング八ペンス/四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四磅ポンド一六シリング〇ペンス/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労賃は{二四磅ポンド一四シリング〇ペンス/二五磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二六磅ポンド八シリング〇ペンス/二七磅ポンド八シリング六ペンス}であろう。 さて労働者と農業者との間に分配せらるべき七二〇磅ポンドなる不変の基金のうち、 小麦の価格が{四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四磅ポンド四シリング八ペンス/四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四磅ポンド一六シリング〇ペンス/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労働者は{二四〇磅ポンド〇シリング/二四七磅ポンド〇シリング/二五五磅ポンド〇シリング/二六四磅ポンド〇シリング/二七四磅ポンド五シリング}農業者は{四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/四四五磅ポンド一五シリング〇ペンス}を受取るであろう(註)。 そして農業者の最初の資本が三、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、彼れの資本の利潤は第一の場合には四八〇磅ポンドであるから、一六%の率にあろう。彼れの利潤が四七三磅ポンドに下落した時にはそれは一五・七%の率(編者註一)。 四六五磅ポンド………………………………………………一五・五% 四五六磅ポンド………………………………………………一五・二% 四五五磅ポンド………………………………………………一四・八% であろう。 (註)一八〇クヲタアの穀物は、上記の価格の変動と共に、次の比例において、地主、農業者、及び労働者の間に分たれるであろう。 一クヲタアの価格/地代小麦で/利潤小麦で/労賃小麦で/合計 四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇クヲタア/六〇クヲタア}一八〇 四磅ポンド四シリング八ペンス/一〇クヲタア/一一一・七/五八・三 四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六 四磅ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五 五磅ポンド二シリング一〇ペンス/四〇/八六・七/五三・三 そして同一の事情の下において、貨幣地代、貨幣労賃、及び貨幣利潤は次の如くであろう。 一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計 四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇磅ポンド〇シリング〇ペンス 四磅ポンド四シリング八ペンス/四二磅ポンド七シリング六ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四七磅ポンド〇シリング〇ペンス/七六二磅ポンド七シリング六ペンス 四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/二五五磅ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇磅ポンド〇シリング〇ペンス 四磅ポンド一六シリング〇ペンス/一四四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/二六四磅ポンド〇シリング〇ペンス/八六四磅ポンド〇シリング〇ペンス 五磅ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五磅ポンド一三シリング四ペンス/四四五磅ポンド一五シリング〇ペンス/二七四磅ポンド五シリング〇ペンス/九二五磅ポンド一三シリング四ペンス(編者註二) (編者註一)これは一五・八%であるべきである。それは正確には一五・七六である。 (編者註二)以上の表は一見そう見えるほど精密に正確なわけではない。与えられた二表の中の第二表では、合計は第二行と第五行とで不正確である。一クヲタアにつき四磅ポンド四シリング八ペンスでの一〇クヲタアの価格は、四二磅ポンド七シリング六ペンスではなく、四二磅ポンド六シリング八ペンスである。更に、クヲタア当り同価格で一八〇クヲタアは七六二磅ポンド七シリング六ペンスでは売れず、七六二磅ポンドに売れる。また、五磅ポンド二シリング一〇ペンスでの一八〇は九二五磅ポンド一〇シリングであって、九二五磅ポンド一三シリング四ペンスではない。修正し概数で現わせば表は次の如くである。―― 一クヲタアの価格/小麦地代/小麦利潤/小麦労賃/合計 四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇/六〇/一八〇 四磅ポンド四シリング八ペンス/九・九二/一一一・七三/五八・三五/一八〇 四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六/一八〇 四磅ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五/一八〇 五磅ポンド二シリング一〇ペンス/一〇/三九・九七/八六・六九/五三・三四/一八〇 そしてもし貨幣で測られるならば。―― 一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計 四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇磅ポンド〇シリング〇ペンス 四磅ポンド四シリング八ペンス/四二磅ポンド〇シリング〇ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四七磅ポンド〇シリング〇ペンス/七六二磅ポンド〇シリング〇ペンス 四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/二五五磅ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇磅ポンド〇シリング〇ペンス 四磅ポンド一六シリング〇ペンス/一四四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/二六四磅ポンド〇シリング〇ペンス/八六四磅ポンド〇シリング〇ペンス 五磅ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四四五磅ポンド一四シリング〇ペンス/二七四磅ポンド五シリング〇ペンス/九二五磅ポンド一〇シリング〇ペンス しかし、利潤の率はなおより以上下落するであろうが、けだし農業者の資本は、――想起さるべきであるが――生産物の騰貴の結果すべて価格が騰貴するであろう所の、彼れの穀物や乾草堆、彼れの打穀しない小麦や大麦、彼れの馬や牛の如き粗生生産物から、大部分成っているからである。彼れの絶対利潤は、四八〇磅ポンドから四四五磅ポンド一五シリングに下落するであろう。しかしもし私が今述べた原因によって彼れの資本が三、〇〇〇磅ポンドから三、二〇〇に騰貴するならば、彼れの利潤の率は、穀物が五磅ポンド二シリング一〇ペンスである時には、一四%以下になるであろう。 もし製造業者もまたその業務に三、〇〇〇磅ポンドを使用していたとすれば、彼は、労賃の騰貴の結果、同一の業務を営んで行くことが出来るためには、その資本を増加するを余儀なくされるであろう。もし彼れの貨物が以前には七二〇磅ポンドで売れたとすれば、それは引続き同一の価格で売れるであろうが、しかし以前には二四〇磅ポンドであった労働の労賃は、穀物が五磅ポンド二シリング一〇ペンスの時には二七四磅ポンド五シリングに騰貴するであろう。第一の場合には、彼は、三〇〇〇磅ポンドに対する利潤として四八〇磅ポンドの残額を得るであろうが、第二の場合には、彼は、増加された資本に対し単に四四五磅ポンド一五シリングの利潤を得るに過ぎず、従って彼れの利潤は、農業者の変更された利潤率に一致するであろう。 粗生生産物の騰貴によってその価格が多かれ少かれ影響を蒙らない貨物はほとんどない、けだし土地からのある粗生原料品が大部分の貨物の構成に入り込むからである。綿製品や亜麻布や毛織布は、すべて小麦の騰貴と共に価格において騰貴するであろう。しかしそれらが騰貴したのは、それでそれらの物が作られる粗生原料品により多くの労働量が投ぜられたためであって、製造業者がこれらの貨物の製造に用いた労働者に対して彼がより多くを支払ったためではない。 あらゆる場合において、貨物が騰貴するのはそれにより多くの労働が投ぜられるからであって、それに投ぜられる労働がより高い価値にあるからではない。宝石や鉄や銀や銅の品物は、地表から得られる粗生生産物が何らその構成に入り込まないから騰貴しないであろう。 |
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(四三)私は貨幣労賃は粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴すべきことを異論のないことと認めているが、しかし、労働者はより少い享楽物で満足するかもしれないから、これは決して必然的帰結ではない、と言われるかもしれない。なるほど労賃は以前には高い水準にあったが、それは若干の低減に耐えることもあろう。もしそうであるならば利潤の下落は妨げられるであろう。しかし必要品の価格が徐々と騰貴しているのに労賃の貨幣価格は下落しまたは静止している、と考えることは不可能である。従って通常の事情の下においては、労賃の騰貴を惹起さずに、またはそれに先行されずに、必要品の価格が永久的に騰貴することはないということを、異論のないことと認め得よう。
もし、それに労働の労賃が費される所の、食物以外の他の必要品の価格に、騰貴が起ったとすれば、利潤の上に生み出される影響は、同一であるかまたはほとんど同一であったであろう。かかる必要品に対し騰貴せる価格を支払わねばならぬという労働者の必要は、彼をしてより多くの労賃を要求するを余儀なからしめるであろう。そして労賃を騰貴せしめるものはいかなるものも必然的に利潤を低減する。しかし、労働者が必要としない所の絹や天鵞絨ビロードや什器やその他の貨物が、それにより多くの労働が投ぜられる結果騰貴すると仮定すれば、このことは利潤に影響を及ぼさないであろうか? 確かに及ぼさない。けだし労賃の騰貴以外に何物も利潤に影響を及ぼし得ないが、絹や天鵞絨ビロードは労働者によって消費されず、従って労賃を騰貴せしめ得ないからである。 私は利潤に関し一般的に論じているのであることを了解してもらいたい。私は既に、貨物の市場価格は、その貨物に対する新しい需要が要求するよりもより少い分量において生産されることがあろうから、その自然価格または必要価格を超過することがあろう、と述べた、しかしながら、このことは単に一時的結果に過ぎない。その貨物の生産に用いられる資本に対する高い利潤は当然に資本をその事業に吸引するであろう。そして必要な資金が供給され、かつその貨物の分量が適当に増加されるや否や、その価格は下落し、そしてその事業の利潤は一般水準に一致するであろう。一般利潤率の下落は、特定職業の利潤の部分的騰貴と決して両立し得ないものではない。資本が一職業から他の職業に移転されるのは、利潤の不平等によってである。かくて、一般利潤が、労賃の騰貴と増加しつつある人口に必要品を供給する困難の増加との結果として、下落しつつあり、そして徐々により低い水準に落着きつつある間は、農業者の利潤は、ある短い時期の間、前の水準以上にあり得よう。外国貿易及び植民地貿易の特定の部門にもまた、ある時期の間、異常の奨励が与えられ得よう。しかしこの事実の認容は決して、利潤は労賃の高低に依存し、労賃は必要品の価格に、そして必要品の価格は主として食物の価格に依存する――けだしすべての他の必要品はほとんど限り無く増加され得ようから――という理論を、無効ならしめるものではない。 価格は常に、市場において変化し、そして第一に、需要と供給との比較的状態によって変動することを、想起せらるべきである。たとえ毛織布が一ヤアルにつき四〇シリングで供給され、かつ資本の日常利潤を与えることが出来るとしても、流行の一般的変化によりまたは突然に予想外にその需要を増加しまたはその供給を減少するある他の原因によって、それは六〇シリングまたは八〇シリングに騰貴するであろう。毛織布の製造者は一時の間異常の利潤を得るであろうが、しかし、資本は当然にその製造業に流入し、ついに供給と需要とは再びその正当な水準にあるようになり、その時には毛織布の価格は再びその自然価格または必要価格たる四〇シリングに下落するであろう。同様にして、穀物に対する需要の増加するごとに、それは農業者に一般利潤よりより以上を与えるほどに騰貴するであろう。もし豊富な沃土があるならば、必要な資本量がその生産に用いられた後は、穀物の価格は再びその以前の標準に下落し、そして利潤は依然の如くなるであろうが、しかしもし、豊富な沃土がなく、もしこの附加的分量を生産するに普通の分量以上の資本と労働とが必要とされるならば、穀物はその以前の水準にまで下落しないであろう。その自然価値は騰貴するであろう。そして農業者は、永続的により大なる利潤を取得することなく、必要品の騰貴により齎される労賃の騰貴の不可避的結果たる、減少せる率に満足するの余儀なき立場に立つであろう。 |
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(四四)しからば、利潤の自然的傾向は下落することである。けだし、社会及び富の進歩につれて、必要とされる食物の附加的分量はますますより多くの労働の犠牲によって得られるからである。利潤のこの傾向、すなわちいわばこの重力は、幸にして、しばしば、必要品の生産と関連せる機械の改良により、並びに吾々をして以前に必要とされた労働の一部分を不要にし得しめ、従って労働者の第一次的必要品の価格を引下げ得せしめる農学上の発見によって、妨げられている。しかしながら、必要品の価格と労働の労賃との騰貴は限られている。けだし労賃が(前に述べた場合における如く)農業者の全受取額たる七二〇磅ポンドに等しくなるや否や、蓄積は終らねばならず、またけだしいかなる資本もかかる時には何らの利潤をも生出し得ず、そして何らの附加的労働も需要され得ず、従って人口はその頂点に到達しているであろうからである。実際この時期の遥か以前に極めて低い利潤率がすべての蓄積を制止しているであろう、そして一国のほとんど全部の生産物は、労働者に支払った後に、土地の所有者及び十分の一税と租税との受取人の財産となるであろう。
かくて、前の極めて不完全な基礎を私の計算の根拠とするならば、次のことがわかるであろう。すなわち穀物が一クヲタアにつき二〇磅ポンドの時には国の全純所得は地主に帰属するであろうが、それはけだしその時には、本来一八〇クヲタアを生産するために必要であったと同一量の労働が三六クヲタアを生産するために必要となるであろう、何となれば、£20:£4::180:36 であるから。しからば一八〇クヲタアを生産する農業者は(もしかかる者がいるといると仮定すれば――というわけは、土地に用いられる旧資本と新資本とは、決して区別され得ないように混合されるであろうから)、 一八〇クヲタアを一クヲタア二〇磅ポンドで売るであろう、すなわち……三、六〇〇磅ポンド 一四四クヲタアの価値を地代として地主に、これは三六クヲタアと 一八〇クヲタアとの差である……………………………二、八八〇 ――――――――――― 三六クヲタア七二〇 三六クヲタアの価値を十名の労働者に、……………………………………七二〇 ――――― かくて利潤としては何物も残さないであろう。 私はこの二磅ポンドなる価格において労働者は引続き毎年三クヲタアを消費すると仮定し……六〇磅ポンド かつ他の貨物に彼らは次を費すと仮定した、…………………………………………………………………一二 ――――――――― 各労働者に対し七二 従って十名の労働者は一年につき七二〇磅ポンドに値するであろう。 すべてのこれらの計算において、私は、単に原理を闡明せんめいしようと希望しているのであって、私の全基礎が勝手に仮定されているのであり、しかも単に例証のために過ぎないことを述べる必要はほとんどない。増加しつつある人口によって必要とされる穀物逐次の分量を獲得するに必要な労働者数の差違を説明する際に、労働者の家族が消費する分量、等々を、述べることで、私がいかに正確に叙述を始めようとも、その結果は、程度こそ異ろうが、原理においては同一であったであろう。私の目的は問題を簡単にすることであった、だから私は、労働者の食物以外の他の必要品の価格騰貴を考慮に入れなかったが、この増加は、それによってそれらが造られる粗生原料品の価値騰貴の結果であり、またもちろん労賃を更に騰貴せしめ利潤を低下せしめるものであろう。 私は既に、この価格の状態が永久的ならしめられる遥か前に、蓄積に対する動因はなくなるであろうが、それはけだし何人も、彼れの蓄積を生産的ならしめんと考えることなくして蓄積する者はなく、また蓄積が利潤に影響を及ぼすのは、それが生産的に用いられる時に限るからである、と述べた。動因がなければ蓄積はあり得ず、従ってかかる価格の状態は決して起り得ないであろう。農業者も、製造業者も、労働者が労賃なくしては生活し得ないと同様に、利潤なくしては生活し得ない。彼らの蓄積に対する動因は利潤が減ずるごとに減少し、そして、彼らの利潤が、彼らの労苦と彼らがその資本を生産的に用いるに当って必然的に遭遇しなければならぬ危険とに対して、彼らに適当な報償を与えない時には、全然止んでしまうであろう。 私は再び、私の計算において測ったよりも利潤率は遥かにより速かに下落するであろうが、それはけだし、生産物の価値が、仮定された事情の下において、私の述べた如くであるとするならば、農業者の資本の価値は、それが必然的に価値において騰貴した貨物の多くから成っていることによって、大いに増加せしめられているであろうからである、ということを、述べなければならない。穀物が四磅ポンドから一二磅ポンドに騰貴し得る前に、彼れの資本はおそらく交換価値において倍加され、そして、三、〇〇〇磅ポンドではなく六、〇〇〇磅ポンドに値するであろう。かくてもし彼れの利潤が、一八〇磅ポンド、または彼れの元の資本に対し六%であるならば、利潤はその時には実際三%よりもより高い率にはないであろう。けだし、六、〇〇〇磅ポンドに対する三%は一八〇磅ポンドであるから。そしてかかる条件においてのみ六、〇〇〇磅ポンドの貨幣をその懐中に有っている新農業者は農業に入り得るであろう。 多くの事業は同じ源泉から多かれ少かれある利益を得るであろう。醸造業者、酒類蒸溜業者、毛織物業者、亜麻布製造業者は、粗生原料品及び精製原料品の貯財の価値騰貴によって、その利潤の減少を一部分償われるであろう。しかし、金物や宝石やその他多くの貨物の製造業者、並びにその資本が一様に貨幣から成る者は、何らの補償もなくして、利潤率の全下落を蒙るであろう。 吾々はまた、土地に対する資本の蓄積と労賃の騰貴との結果、いかに資本の利潤率が減少しても、しかも利潤の総額は増加するであろうと、期待しなければならぬ。かくて、一〇〇、〇〇〇磅ポンドの蓄積が繰返されるたびに、利潤率は、二〇%から一九%に、一八%に、一七%にと、絶えず逓減する率で、下落すると仮定するならば、吾々は、かかる逐次の資本所有者が受取る利潤の全額は常に逓増して行き、すなわちそれは、資本が一〇〇、〇〇〇磅ポンドの時よりも二〇〇、〇〇〇磅ポンドの時の方がより大であり、三〇〇、〇〇〇磅ポンドの時は更により大である、等々、資本が増加するごとに、逓減的率においてではあるが、しかも増加して行くことと、期待しなければならぬ。しかしながら、この逓増は一定の期間だけ真実であるに過ぎぬ。かくて二〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%は、一〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%よりもより大である。しかし資本が多額にまで蓄積され、そして利潤が下落して後はより以上の蓄積は利潤の総額を減少する。かくて蓄積が一、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドであり、そして利潤が七%であると仮定すれば、利潤の全量は七〇、〇〇〇磅ポンドであろう。さてもし一〇〇、〇〇〇磅ポンドの資本の附加がこの一百万に対してなされ、そして利潤が六%に下落するならば、資本の全額は一、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから一、一〇〇、〇〇〇磅ポンドに増加されるであろうけれども、資本の所有者は、六六、〇〇〇磅ポンドすなわち四、〇〇〇磅ポンドだけ減少せるものを受取るであろう。 |
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(四五)しかしながら、資本がいやしくも何らかの利潤を生む限り、資本の蓄積があり得るからには、必ずそれは啻に生産物の増加のみならず価値の増加をも生むものである。一〇〇、〇〇〇磅ポンドの附加的資本を用いることによって、以前の資本のいかなる部分もより不生産的にはせしめられないであろう。国の土地と労働との生産物は増加しなければならず、そしてその価値は、以前の生産物量に対してなされた附加の価値だけ引上げられるのみならず、更にその最後の部分を生産する困難の増大によって土地の全生産物に与えられる新しい価値だけ引上げられるであろう。しかしながら、資本の蓄積が極めて大になる時には、この価値の騰貴にもかかわらず、それは、それは、以前よりも小なる価値が利潤に当てられ、他方地代及び労賃に向けられるものは増加されるというように、分配されるであろう。かくて資本に対して一〇〇、〇〇〇磅ポンドの附加がなされるごとに、二〇%から一九%に、一八%に、一七%に、一六%に、等と利潤率が下落するにつれて、年々得られた生産物は、量において増加し、それは二〇、〇〇〇磅ポンドから三九、〇〇〇磅ポンド以上に騰貴し、そして更に五七、〇〇〇磅ポンド以上に騰貴するであろう。そして、吾々が前に仮定した如くに、用いられる資本が一百万磅ポンドの時に、もし更に一〇〇、〇〇〇磅ポンドがそれに附加されかつ利潤の総額は以前よりも実際より低いとしても、それにもかかわらず六、〇〇〇以上が国の収入に附加されるであろうが、しかしそれが附加されるのは地主及び労働者の収入に対してであろう。彼らは附加的生産物よりもより多くを取得しそして彼らの地位によって、資本家の以前の利得をさえ侵し得るであろう。かくて、穀物の価格が一クヲタアにつき四磅ポンドであり、従って吾々の以前に計算した如くに、農業者が地代を支払った後彼れの手に残る七二〇磅ポンドごとにつき四八〇磅ポンドが彼れの手に留まり、そして二四〇磅ポンドが彼れの労働者に支払われるとせよ。価格が一クヲタアにつき六磅ポンドに騰貴する時には、彼はその労働者に三〇〇磅ポンドを支払いそして利潤としては単に四二〇磅ポンドをその手に留めるを余儀なくされるであろう。すなわち彼は、彼らをして以前とまさに同一量の必要品を消費し得せしめるために、彼らに三〇〇磅ポンドを支払うのを余儀なくされるであろう。さてもし用いられる資本が七二〇磅ポンドの十万倍七二、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドを生むほど大であるならば、小麦が一クヲタアにつき四磅ポンドである時は、利潤の総額は四八、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドであろう。そしてもしより大なる資本を用いることによって、小麦が六磅ポンドである時に、七二〇磅ポンドの一〇五、〇〇〇倍すなわち七五、六〇〇、〇〇〇磅ポンドが獲得されるならば、利潤は四八、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから四四、一〇〇、〇〇〇すなわち四二〇磅ポンドの一〇五、〇〇〇倍に下落し、そして労賃は二四、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから三一、五〇〇、〇〇〇磅ポンドに騰貴するであろう。労賃は資本に比例してより多くの労働者が用いられるであろうから騰貴するであろう。そして各労働者はより多くの貨幣労賃を受取るであろう。しかし労働者の境遇は、吾々の既に示した如くに、国の生産物のより少い分量しか彼が支配しない限り、より悪くなるであろう。唯一の真実の利得者は地主であろう。彼らはより高い地代を受取るであろうが、それはけだし第一に、生産物がより高い価値を有つであろうからであり、また第二に、彼らはその生産物の大いに増加された比例を得るであろうからである。
たとえより大なる価値が生産されたとしても、その価値の中から地代を支払って後に残るもののより大なる割合が生産者によって消費され、そして利潤を左右するものは、これでありかつこれのみである。土地が豊富に産出する間は、労賃は一時的に騰貴し、そして生産者は彼らの習慣となっている比例以上のものを消費し得よう。しかしかくて人口に対し与えらるべき刺戟は、急速に労働者を彼らの日常の消費にまで引下げるであろう。しかし貧弱な土地が耕作されるに至った時には、またはより以上の資本と労働とが旧い土地の上に投ぜられ、より少い生産物の報酬を齎す時には、その結果は永続的でなければならない。地代を支払った後に資本の所有者と労働者との間に分割されるべく残っている生産物部分のより大なる比例は後者に割当てられるであろう。各人はより少い絶対量を得るかもしれず、またおそらく得るであろう。しかし農業者の手に残る全生産物に比例してより多くの労働者が雇傭されるのであるから、全生産物のうちでより大なる部分の価値が労賃に吸収され、従ってより小なる部分の価値が利潤に向けられるであろう。このことは必然的に、土地の生産力を制限した自然の法則によって、永続的たらしめられるであろう。 かくて吾々はまたも、以前に吾々が樹立せんと企てたと同一の結論に到達する、――すなわち、すべての国及びすべての時において、利潤は、地代を生まないその土地においてまたはその資本をもって労働者に必要品を供給するに必要な労働量に依存する、ということこれである。しからば蓄積の結果は異る国においては異り、かつ主として土地の肥沃度に依存するであろう。その土地が貧しい質でありかつそこでは食物の輸入が禁止されている国が、いかに広大な面積を有とうとも、資本の最も適度な蓄積でさえ、利潤率の著しい減退と地代の急速な増加とを伴うであろう。そして反対に、小国ではあるが肥沃な国は、殊にもしそれが食物の輸入を自由に許すならば、利潤率の著しい減少も土地の著しい増加をも伴わずして、大なる資本を蓄積し得よう。労賃に関する章において吾々は、貨幣の本位たる金が我国の生産物であると仮定しても、またはそれが外国から輸入されると仮定しても、貨物の貨幣価格は労賃の騰貴によって騰貴せしめられないことを示さんと努めた。しかしもしそれがそうでないとしても、もし貨物の価格が永続的に高い労賃によって騰貴せしめられるとしても、高い労賃は常に、労働の雇傭者からその真実利潤の一部分を奪うことによって、彼らに影響を及ぼすと主張するこの命題は、その真実なることを害されないであろう。帽子製造業者と靴下製造業者と靴製造業者とが、彼らの貨物の特定分量の製造において各々一〇磅ポンドだけより多くの労賃を支払い、また帽子と靴下と靴との価格がこの製造業者に一〇磅ポンドを償うに足る額だけ騰貴したと仮定しても、彼らの境遇はかかる騰貴が何ら起らなかった場合よりもよりよいことは少しもないであろう。もしこの靴下製造業者が、彼れの靴下を一〇〇磅ポンドではなく一一〇磅ポンドで売ったとしても彼れの利潤は以前と正確に同一の貨幣額であろう。しかしながら彼はこの等しい額と交換に帽子や靴やその他のあらゆる貨物の十分の一だけより少い量を得、そして彼れの以前の貯蓄額をもっては騰貴せる労賃でより少い労働者しか用い得ずまた騰貴せる価格でより少い粗生原料品しか購買し得ないのであるから、彼はその貨幣利潤が実際額において減少し、そしてあらゆる物がその以前に留まっている場合よりもよりよい境遇にはいないであろう。かくて私は、第一に労賃の騰貴は貨物の価格を騰貴せしめないであろうが、しかし常に利潤を下落せしめるであろうということ、及び第二に、もしすべての貨物の価格が騰貴せしめられ得るとしても、しかも利潤に対する影響は同一であろうし、そして事実上、価格及び利潤を測定する媒介物の価値のみが下落せしめられるであろう、ということを、示さんと努めたのである。 |
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■第七章 外国貿易について | |
(四六)いかなる外国貿易の拡張も、それは極めて有力に貨物量従って享楽品の数量を増加するに寄与するとはいえ、直ちに一国の価値額を増加することはないであろう(編者註)。すべての外国財貨の価値は、それと交換に与えられる我国の土地と労働との生産量の分量によって測られるのであるから、もし新市場の発見によって吾々が我国の財貨の一定量と交換して外国財貨の二倍の量を獲得するとしても、吾々は決してより大なる価値を有たないであろう。もし一、〇〇〇磅ポンドに当る英国財貨の販売によって、一商人が、英国市場において一、二〇〇磅ポンドで売ることが出来る外国財貨のある分量を獲得することが出来たとするならば、彼はその資本をかくの如く用いることによって二〇%の利潤を得るであろう。しかし彼れの利得にしろまたは輸入貨物の価値にしろ、取得される外国財貨の量が大なるか小なるかによって増減はされはしないであろう。例えば彼が二十五樽の葡萄酒を輸入しようとまたは五十樽を輸入しようと、もしある時には二十五樽が、また他の時には五十樽が、等しく一、二〇〇磅ポンドで売れるとしても、彼れの利益は何らの影響も蒙り得ないであろう。そのいずれの場合においても、同一の価値が英国に輸入されるであろう。もし五十樽が一、二〇〇磅ポンド以上に売れるならば、この商人個人の利潤は一般利潤率を超過するであろう、そして資本は当然にこの有利な事業に流入し、ついに葡萄酒の価格の下落が万事を以前の水準にまで齎すことであろう。
(編者註)この区別を十分に理解するためには、第二十章を参照せよ。 実に、外国貿易において特定商人が時に上げる大なる利潤は、その国における一般利潤率を高め、そして新しいかつ有利な外国貿易に携わるために資本を他の職業から引去ることは、一般に価格を高めかつそれによって利潤を増加するであろう、と主張され来っている。有力な権威者によって、より少い資本が、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴、等の製造に、必然的に向けられているならば、需要が引続き同一である間は、これらの貨物の価格は、農業者、帽子製造業者、織布業者、及び靴製造業者が外国商人と同様に利潤の増加を受けるに至るように、増加されるであろう、と云われている(註)。 (註)アダム・スミス、第一篇、第九章を見よ(訳者註――キャナン版第一巻九五頁)。 この議論を主張している者は、種々なる職業の利潤は相互に一致せんとする傾向があり、相共に増減する傾向がある、ということでは、私の云う所に一致する。吾々の相違点は次の一点に存する、すなわち彼らは、利潤の平等は利潤の一般的騰貴によって齎されるであろうと主張し、そして私は、有利な事業の利潤は急速に一般的水準に下降するであろうという意見なのである。 けだし第一に、私は、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴等の製造に、それらの貨物に対する需要が減少しない限り――そしてもし減少するならばその価格は騰貴しないであろう、――より少い資本が必然的に向けられるに至るべきことを、否定するからである。外国貨物の購買において、英国の土地及び労働の生産物の、同一の、より大なる、またはより小なる部分が、用いられるであろう。もし同一の分量がそれに用いられるならば、毛織布や靴や穀物や帽子に対しては以前と同一の需要が存在し、そして同一の資本部分がその生産に向けられるであろう。もし、外国貨物の価格がより低廉である結果として、英国の土地及び労働の年々の生産物より小なる部分が外国貨物の購買に当って用いられるならば、他の物の購買に対してはより多くが残るであろう。もし帽子、靴、穀物、等に対して以前よりもより大なる需要があるならば、――これは、外国貨物の消費者は彼らの自由に処分し得る収入の附加的部分を有つのであるから、あり得ることであろう、――それをもってより大なる価値の外国貨物が以前購買された所の資本もまた自由に処分し得ることとなる。従って穀物、靴、等に対する需要の増加と共に、供給の増加を達する手段もまた存在し、従って価格も利潤も永続的に騰貴することは出来ない。もし英国の土地及び労働の生産物のより多くが外国貨物の購買に用いられるならば、より少い額が他の物の購買に用いられ得るに過ぎず、従ってより少い帽子、靴、等が必要とされるであろう。資本が靴、帽子、等の生産から解放されると同時に、より多くが、それで外国貨物が購買される貨物の製造に用いられなければならない。従ってあらゆる場合において、外国及び内国の貨物に対する需要の合計は、価値に関する限りにおいて、国の収入及び資本によって限定される。もし一方が増加すれば他方は減少しなければならぬ。もし英国貨物の同一量と交換して輸入される葡萄酒の量が倍加されるならば、英国人は、彼らが以前に消費した二倍の量の葡萄酒を消費し得るか、または葡萄酒の同一量と英国貨物のより大なる分量とを消費し得る。もし私の収入が一、〇〇〇磅ポンドであり、それをもって私が年々一〇〇磅ポンドで葡萄酒一樽を、そして九〇〇磅ポンドで一定量の英国貨物を購買していたとするならば、葡萄酒が一樽につき五〇磅ポンドに下落した時には、私は支出しなかった五〇磅ポンドを、もう一樽の葡萄酒の購買に支出するかまたはより多くの英国貨物の購買に支出するであろう。もし私がより多くの葡萄酒を購買し、かつあらゆる葡萄酒飲用者が同様にしたならば、外国貿易は少しも乱されないであろう。英国貨物の同一分量が葡萄酒と交換に輸出され、そして吾々は葡萄酒の二倍の価値ではないが二倍の分量を受取るであろう。しかしもし私と他の者とが、以前と同一量の葡萄酒で満足するならば、より少い英国貨物が輸出され、そして葡萄酒飲用者は、以前に輸出されていた貨物を消費するか、または彼らが嗜好を有つある他のものを消費するであろう。その生産に必要とされる資本は、外国貿易から解放された資本によって供給されるであろう。 資本が蓄積される方法には、二つある、すなわち、それは収入の増加の結果として、または消費の減少の結果として貯蓄され得よう。もし私の利潤が一、〇〇〇磅ポンドから一、二〇〇磅ポンドに引上げられたが、私の支出は引続き同一であるならば、私は以前になしたよりも年々二〇〇磅ポンドだけより多く蓄積する、もし私が二〇〇磅ポンドを私の支出から節約するが、私の利潤は引続き同一であるならば、同一の結果が生み出され、すなわち一年につき二〇〇磅ポンドが私の資本に附加されるであろう。利潤が二〇%から四〇%に騰貴した後に葡萄酒を輸入した商人は、一、〇〇〇磅ポンドで彼れの英国財貨を購買せずして八五七磅ポンド二シリング一〇ペンスで購買しなければならぬが、これらの財貨と交換に輸入する葡萄酒は依然一、二〇〇磅ポンドで売っているのである。またはもし彼が引続きその英国財貨を一、〇〇〇磅ポンドで購買するならば彼れの葡萄酒の価格を一、四〇〇磅ポンドに引上げなければならない。彼はかくてその資本に対して二〇%ではなく四〇%の利潤を取得するであろう。もし、それに彼れの収入が費されるすべての貨物が低廉である結果、彼及びすべての他の消費者が、以前に費した一、〇〇〇磅ポンドごとに二〇〇磅ポンドの価値を節約し得るならば、彼らは国の真実の富をより有効に増加するであろう。一方の場合においては貯蓄は収入の増加の結果なされたものであり、他方の場合において支出の減少の結果なされたものであろう。 もし機械の導入により、収入がそれに費される貨物の大部分が価値において二〇%下落するならば、私は、私の収入が二〇%だけ増加したと同様に有効に貯蓄し得るであろう。しかし一方の場合においては利潤率は静止的であり、他方の場合においてはそれは二〇%騰貴せしめられているのである――もし低廉な外国財貨の導入により、私が二〇%だけ私の支出から節約し得るならば、その結果は、機会がその生産費を引下げた場合と正確に同一であろうが、しかし利潤は騰貴しないであろう。 従って、利潤率が騰貴するのは市場の拡張の結果ではない、たとえかかる拡張は貨物量を増加するには等しく有効であり、かつそれによって、吾々をして、労働の維持に向けられる基金、及びそれに労働が用いられる原料を増加し得しめるであろうとはいえ。吾々の享楽品が、労働のより良き分配により、また各国がその位置やその気候やその他の自然的なまたは人工的な利便のためにその生産に適当する貨物を生産することにより、かつそれを各国が他国の貨物と交換することにより、増加されることは、この享楽品が利潤率の騰貴によって増加されるのと同様に、人類の幸福にとり重要なことである。 利潤率は労賃の下落によってにあらずんば決して騰貴し得ず、かつそれに労賃が費される必要品の下落の結果としてにあらずんば労賃の永続的下落はあり得ないということを、本書全巻を通じて証明しようというのが、私の努力であった。従ってもし、外国貿易の拡張によりまたは機械の改良によって、労働者の食物及び必要品が低減せる価格で市場に齎され得るならば、利潤は騰貴するであろう。もし、吾々自身の穀物を栽培しまたは労働者の衣服その他の必要品を製造する代りに、吾々が、そこからより低廉な価格でそれを得ることの出来る新市場を発見するならば、労賃は下落しそして利潤は騰貴するであろう。しかしもし、外国商業の拡張によりまたは機械の改良によって、より低廉な率で取得される貨物が、もっぱら富者によって消費される貨物であるならば、利潤率には何らの変動も起らないであろう。葡萄酒や天鵞絨ビロードや絹やその他の高価な貨物が五〇%下落しても、労賃率は影響を受けず、従って利潤は引続き変動しないであろう。 かくて外国貿易は、それに収入が費される物の分量と種類とを増加し、そして貨物の豊富と低廉とによって、節約並びに資本の蓄積に対して刺戟を与えるから、一国にとり極めて有利ではあるが、輸入貨物がそれに労働の労賃が費される種類のものでない限り、資本の利潤を引上げる傾向を有たないであろう。 外国貿易についてなされた叙述は内国商業にも同様に妥当する。利潤率は、労働のより良き分配により、機械の発明により、道路及び運河の建設により、または財貨の製造か運搬かにおける労働を節約する手段によっては、決して増加されない。これらのものは価格に作用を及ぼす原因ではあり、そして必ずや消費者に極めて有利なものである、けだしそれは彼らをして、同一の労働をもって、または同一の労働の生産物の価値をもって、それに改良が加えられた貨物のより大なる分量を交換して取得し得せしめるからである。しかしそれは利潤に対しては何らの影響も及ぼさない。他方において、労働の労賃のあらゆる減少は利潤を高めるが、しかし貨物の価格に対しては何らの影響をも生み出さない。一方はすべての階級にとり有利であるが、それはすべての階級は消費者であるからである。他方は生産者にとり有利であるのみである。彼らはより多く利得する、しかしあらゆる物は引続きその以前の価格にあるのである。第一の場合においては彼らは以前と同じものを得る、しかしそれに彼らの利得が費されるあらゆる物は、交換価値において減少しているのである。 |
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(四七)一国における貨物の相対価値を左右すると同一の規則は、二つまたはそれ以上の国の間に交換される貨物の相対価値を左右しはしない。
完全な自由貿易の制度の下においては、各国は当然にその資本及び労働を各々にとり最も有利な職業に向ける。この個人的利益の追求は全体の普遍的幸福と驚嘆すべきほどに結びついている。勤労を刺戟し、器用さに報酬を与え、かつ自然の与える力を最も有効に使用することによって、それは最も有効にかつ最も経済的に労働を分配し、他方、生産物総量を増加することによって、それは一般的便益を公布し、そして利益と交通という一つの共通の紐帯によって、文明世界を通じて諸国民の普遍的社会を結成する。葡萄酒はフランス及びポルトガルにおいて造らるべく、穀物はアメリカ及びポウランドにおいて栽培さるべく、かつ金物その他の財貨は英国において製造せらるべきである、ということを決定する所のものは、この原理である。 同一国内においては、利潤は、一般的に言えば、常に同一の水準にあり、または資本の用途の安固と快適との大小に従って異るのみである。異れる国の間ではそうではない。 もしヨオクシアにおいて用いられている資本の利潤が、ロンドンにおいて用いられている資本のそれを超過するならば、資本は急速にロンドンからヨオクシアに移動し、そして利潤の平等が達せられるであろう。しかしもし資本及び人口の増加によって英国の土地における生産率の減少せる結果、労賃が騰貴しそして利潤が下落しても、資本及び人口が必然的に英国から、利潤のより高いオランダやスペインやロシアへ移動するということには、ならないであろう。 もしポルトガルが他国と何らの商業関係をも有たないならば、この国は、その資本及び勤労の大部分を、葡萄酒――それをもってこの国は他国の毛織布や金物を自国自身の使用のために購買するのであるが、――の生産に用いずに、その資本の一部をかかる貨物のの製造に向けざるを得ないであろうが、かくてこの国はおそらく質並びに量において劣れるものを取得することになろう。 この国が英国の毛織布と交換に与えるであろう葡萄酒の分量は、もし双方の貨物が英国において製造されるかまたは双方がポルトガルにおいて製造される場合の、その各々の生産に投ぜられる労働の各分量によっては、決定されない。 英国は、毛織布を生産するに一年間に一〇〇名の人間の労働を必要とする状態にあるであろう。そしてもしこの国が葡萄酒を造ろうと企てるならば、同一期間に一二〇名の人間の労働を必要とするであろう。英国は従って、葡萄酒を輸入し、そしてそれを毛織布の輸出によって購買するのが、その利益であることを見出すであろう。 ポルトガルにおいて葡萄酒を生産するには一年間に単に八〇名の労働を必要とするのに過ぎぬであろうし、また同一国において毛織布を生産するには、同一期間に九〇名の労働を必要とするであろう。従ってこの国にとっては、毛織布と交換に、葡萄酒を輸出するのが有利であろう。ポルトガルが輸入する貨物が、英国におけるよりそこでより少い労働をもって生産され得るにもかかわらず、この交換はなお行われるであろう。この国が九〇名の労働をもって毛織布を製造し得ても、この国はそれを生産するに一〇〇名の労働を必要とする国から、それを輸入するであろう、けだしこの国にとって、その資本の一部分を葡萄の栽培から毛織布の製造に移すことによって生産し得るよりもより多くの毛織布を英国から取得するであろうところの、葡萄酒の生産に、その資本を用いる方が、むしろ有利であるからである。 かくて英国は、八〇名の労働の生産物に対して、一〇〇名の労働の生産物を与えるであろう。かかる交換は同一国の個人の間では起り得ないであろう。一〇〇名の英国人の労働は、八〇名の英国人のそれに対して与えられ得ない、しかし一〇〇名の英国人の労働の生産物は、八〇名のポルトガル人の、六〇名のロシア人の、または一二〇名の東印度人の労働の生産物に対して、与えられ得よう。一国と多くの国との間のこの点に関する相違は、資本がより有利な職業を求めて一国から他国に移動する困難と、同一国において資本が常に一つの地方から他の地方に移る敏速さとを考慮すれば、容易に説明されるのである(註)。 (註)しからば、機械及び技術に極めて著しい便益を有し、従ってその隣国よりも極めてより少い労働をもって貨物を製造し得る国は、たとえその土地がより肥沃であり、そしてそこから穀物を輸入する国におけるよりも、より少い労働をもって穀物が栽培され得るとしても、その消費のために必要とされる穀物の一部分を製造貨物と引換に輸入するであろう。二名の人が共に靴と帽子とを造ることが出来、そして一方はこの両職業において他方に優越しているとし、ただし帽子を造る上では、彼はその競争者に単に五分の一すなわち二〇%優れているに過ぎず、そして靴を造る上では、彼は競争者に三三%優れているとする、――優越せる人はもっぱら靴の製造に従事し、そして劣れる人は帽子の製造に従事するというのが、双方の利益ではないであろうか? 英国の資本家と両国の消費者にとっては、かかる事情の下においては、葡萄酒と毛織布との双方がポルトガルにおいて造られ、従って毛織布の製造に用いられている英国の資本と労働とがその目的のためにポルトガルへ移されるのが、疑いもなく有利であろう。その場合には、これらの貨物の相対価値は、一方がヨオクシアの産物であり他方がロンドンの産物である場合と、同一の原理によって左右されるであろう。そしてあらゆる他の場合において、もし資本が最も有利に用いられ得る国へ自由に流入するならば、利潤率の差違はあり得ず、また貨物が売却されるべき種々なる市場へそれを運搬するに必要な労働量の附加以外の、貨物の真実価格すなわち労働価格の差違はあり得ないであろう。 しかしながら経験は、その所有者の直接的統制下にない時の資本の想像上のまたは真実の不安固と、並びにあらゆる人が自ら生れかつ諸関係を有っている国を棄てて彼れの固定せる習慣の一切を持ちながら異る政府と新しい法律とに身を委ねることを嫌う自然的性情は、資本の移出を妨げるものであることを、示している。かかる感情は、私はそれが弱められるのは遺憾なことと思うが大部分の財産家をして、外国民の間で彼らの富に対するより有利な用途を求めるよりもむしろ、自国内で低い利潤率に満足せしめるのである。 |
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(四八)金と銀は流通の一般的媒介物に選ばれているから、それらは商業上の競争によって、もしかかる金属が存在せずかつ諸国間の貿易が純粋に物々交換である場合に発生すべき自然的交易に適応する如き比例において、世界の種々なる国々の間に分配されている。
かくて毛織布は、ポルトガルにおいてはその輸出国において値するよりもより多くの金に対して売れない限り、ポルトガルに輸入され得ない。そして葡萄酒は、英国においてはそれがポルトガルにおいて値するよりもより多くに対して売れない限り、英国には輸入され得ない。もし貿易が純粋に物々交換であるならば、英国が葡萄を栽培するよりも毛織布を製造することによって、一定量の労働をもってより大なる分量の葡萄酒を取得するほどに毛織布を低廉に製造し得る間だけ、そしてまたポルトガルの産業が反対の結果を伴う間だけ、それは継続し得るであろう。さて英国が葡萄酒製造の一行程を発見し、そのためにそれを輸入するよりもそれを造った方がその利益となったと仮定しよう。この国は当然その資本の一部分を外国貿易から内国商業に移すであろう。この国は輸出のための毛織布の製造を止め、自ら葡萄酒を造るであろう。これらの貨物の貨幣価格はこれにつれて左右されるであろう。我国においては葡萄酒は下落するであろうが、毛織布はその以前の価格に止っているであろうし、またポルトガルにおいてはいずれの貨物の価格にも何らの変動も起らないであろう。毛織布は引続きある時期の間我国から輸出されるであろうが、それはけだしその価格が、我国よりもポルトガルにおいて引続きより高いからである。しかし葡萄酒の代りに貨幣がそれと交換に与えられついに我国における貨幣の蓄積と外国におけるその減少とが、両国における毛織布の相対価値に影響を及ぼし、ためにその輸出がもはや有利ではなくなるに至るであろう。もしも葡萄酒製造上の改良が極めて重要なる種類のものであるならば、両国にとり職業を交換することが有利となり、英国にとっては両国が消費するすべての葡萄酒を、ポルトガルにとっては両国が消費するすべての毛織布を、製造することが有利となるであろう。しかしこのことは、英国においては毛織布の価格を引上げポルトガルにおいてはそれを引下げるべき貴金属の新たな分配、によってのみなされるであろう。葡萄酒の相対価格はその製造上の改良から起る真実の利益の結果として英国において下落するであろう。換言すればその自然価格は下落するであろう。毛織布の相対価格は貨幣の蓄積により英国において騰貴するであろう。 かくて、英国における葡萄酒製造の改良の前に、葡萄酒の価格が我国において一樽につき五〇磅ポンドであり、そして一定分量の毛織布の価格が四五磅ポンドであり、他方ポルトガルにおいては、同一量の葡萄酒の価格は四五磅ポンドであり、そして同一量の毛織布のそれは五〇磅ポンドであると仮定すれば、葡萄酒は五磅ポンドの利潤をもってポルトガルから輸出され、そして毛織布は同一額の利潤をもって英国から輸出されるであろう。 |
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(四九)改良の後に、葡萄酒は英国において四五磅ポンドに下落し、毛織布は引続き同一の価格にあると仮定せよ。商業におけるあらゆる取引は独立の取引である。一商人が英国において毛織布を四五磅ポンドで買いかつポルトガルにおいてそれを通常の利潤をもって売ることが出来る間は、彼れは引続き英国からそれを輸出するであろう。彼れの営業は単に、英国の毛織布を購買し、そして彼がポルトガルの貨幣をもって買入れる為替手形でそれに対し支払をなすことである。彼れの取引は疑いもなく、彼がそれによってこの手形を取得し得る条件によって左右されるが、しかしその条件はその時彼に判っている。そして手形の市場価格、すなわち為替相場に影響を及ぼすべき原因は、彼れの関せぬ所である。
もし市場がポルトガルから英国への葡萄酒の輸出にとり有利であるならば、葡萄酒の輸出業者は手形の売手となり、その手形は毛織布の輸入業者かまたは、彼にその手形を売った人かによって、買われるであろう。かくして貨幣がそのいずれの国からも移動する必要なしに、各国の輸出業者はその財貨に対して支払を受けるであろう。相互に何らの直接的取引関係をも有たないのに、毛織布の輸入業者がポルトガルにおいて支払う貨幣は、ポルトガルの葡萄酒輸出業者に支払われるであろう。そして英国においては同一の手形の授受によって、毛織布の輸出業者は葡萄酒の輸入業者からその価値を受取る権限を与えられるであろう。 しかしもし葡萄酒の価格が、葡萄酒が全然英国に輸出され得ないという程度であっても、毛織布の輸入業者は等しく手形を買うであろう。しかしその手形の売手が、それによって彼が終局的に二国間の取引を決済し得る所の出合手形が市場に無いことを知っているから、その手形の価格はより高くなるであろう。彼は、英国の取引先をして自己が彼に権能を与えた支払の要求に対し支払し得せしめるために、取引先に実際に輸出しなければならないことを、知っているであろう、従って彼は、彼れの手形の価格の中に、彼れの正当にして普通なる利潤と共に、一切の諸掛を請求するであろう。 かくてもし英国宛手形に対するこの打歩が毛織布の輸入に対する利潤に等しいならば、この輸入はもちろん止むであろう。しかしもしこの手形に対する打歩が二%に過ぎず、英国における一〇〇磅ポンドの債務を支払い得るためにポルトガルにおいて一〇二磅ポンドを支払わなければならぬけれども、四五磅ポンドを費した毛織布が五〇磅ポンドで売れるならば、毛織布は輸入され、手形は買われ、そして貨幣は輸出され、ついにポルトガルにおける貨幣の減少と英国におけるその蓄積とがかかる取引を続けるのがもはや有利でなくなるような価格の状態を生み出すに至るであろう。 しかし一国における貨幣の減少と及び他国におけるその増加とは、一貨物の価格に影響するばかりでなく、すべての貨物の価格に影響を及ぼし、従って、葡萄酒と毛織布との双方の価格は英国において高められ、そして双方はポルトガルにおいて低下せしめられるであろう。毛織布の価格は、一方の国においては四五磅ポンド他方の国においては五〇磅ポンドであるのが、おそらくポルトガルにおいては四九磅ポンドまたは四八磅ポンドに下落し、また英国においては四六磅ポンドまたは四七磅ポンドに騰貴し、そして手形に対する打歩を支払った後にはその貨物の輸入を商人に誘うに足るほどの利潤を与えないであろう。 各国の貨幣が、有利な物々貿易を左右するに必要である如きかかる分量においてのみ、それに割当てられるのはかくの如くにしてである。英国は葡萄酒と交換に毛織布を輸出したが、それはかくすることによってその産業が英国にとりより生産的にされたからである。そしてポルトガルは毛織布を輸入し、そして葡萄酒を輸出したが、それはポルトガルの産業は葡萄酒を生産することによって両国にとってより有利に用いられ得たからである。 |
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(五〇)英国において毛織布を生産するに、またはポルトガルにおいて葡萄酒を生産するに、より多くの困難があるとせよ、あるいは英国において葡萄酒を生産するに、またはポルトガルにおいて毛織布を生産するに、より多くの利便があるとせよ、しかる時は貿易は直ちに止むであろう。
ポルトガルの事情には何らの変化も起らないが、しかし英国は、葡萄酒の製造にその労働をより生産的に用い得ることを見出したとすれば、直ちに二国間の物々貿易は変化する。啻にポルトガルからの葡萄酒の輸出が停止されるばかりでなく、更に貴金属の新しい分配が起り、そして英国の毛織布の輸入もまた妨げられる。 両国はおそらく、それ自身の葡萄酒とそれ自身の毛織布とを造るのが彼らの利益であることを見出すであろう、だが次の奇妙な結果が起ることであろう、すなわち英国においては、葡萄酒はより低廉になるであろうが毛織布は価格騰貴し、それに対し消費者はより多くを支払うであろう、しかるにポルトガルにおいては、毛織布と葡萄酒との両者の消費者はそれらの貨物をより低廉に購買し得るであろう。改良のなされた国においては価格は騰貴するであろう。何らの変化も起らなかったがしかし外国貿易の有利な部門を奪われた国においては価格は下落するであろう。 しかしながらこのことはポルトガルにとり単に見かけの上での利益に過ぎない、けだしその国において生産される毛織布と葡萄酒との分量の合計は減少されるであろうが、英国において生産される分量は増加されるであろうからである。貨幣は二国においてある程度においてその価値を変化するであろう。それは英国においては低められ、ポルトガルにおいては高められるであろう。貨幣で測ればポルトガルの全収入は減少し、同じ媒介物で測れば英国の全収入は増加するであろう。 かくて、ある国における製造業の改良は、世界の諸国民間の貴金属の分配を変更する傾向があるように思われる。それは、改良が行われる国における一般物価を引上げると同時に、貨物の分量を増加する傾向があるのである。 |
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(五一)問題を簡単にするために、私は、二国間の貿易は二つの貨物――葡萄酒と毛織布――に限られるものと仮定して来た。しかし多くのかつ種々なる財貨が輸出入品表にあることは、人の知る所である。一国から貨幣を引去りそれを他国において蓄積することによって、あらゆる貨物は価格において影響を蒙り、従って貨幣の他の遥かにより多くの貨物の輸出に奨励が与えられ、従ってこのことは、しからざれば起るものと期待すべきほどの大なる結果が二国における貨幣価値に起るのを、妨げるであろう。
技術及び機械における改良の他に、貿易の自然的通路に常に作用しており、かつ均衡及び貨幣の相対価値を乱す所の、種々なる他の原因がある。輸出奨励金または輸入奨励金、貨物に対する新しい租税は、時にはその直接のまた他の時にはその間接の作用によって、自然的物々貿易を紊みだし、かつその結果として、物価を商業の自然的通路に適応させるために貨幣を輸入しまたは輸出することを必要ならしめる。そしてこの結果は、啻に混乱原因が起った国においてのみならず、更にまたその程度は多かれ少かれ、商業界のあらゆる国においても、生み出されるのである。 このことはある程度において、異れる国において貨幣価値の異ることを説明するであろう。それは、内国貨物及び比較的小なる価値を有つものではあるが嵩高かさだかの貨物の価格が、他の原因とは無関係に、製造業の栄えている国においてより高い理由を吾々に説明するであろう。正確に同一の人口と等しい肥沃度の耕地の同一量とを有ち、また同一の農業知識を有つ、二国の中で、輸出貨物の製造により大なる熟練とより良い機械とが用いられている国においては粗生生産物の価格が最高であろう。利潤率はおそらくほとんど異らないであろう。けだし労働者の労賃または真実の報酬は両国において同一であろうからである。しかしこの労賃は粗生生産物と同様に、その技術と機械とに伴う利益によって豊富な貨幣がその財貨と交換して輸入される国においては、貨幣においてはより高く測られるであろう。 これら二国の中、もし一方はある質の財貨の製造に得点を有ち、そして他方はある他の質の財貨の製造に得点を有つとすれば、そのいずれにも多くの貴金属流入はないであろう。しかしもしそのいずれかの有つ得点が他方に甚しく優越するならば、この結果は避け得ないであろう。 本書の前の部分において吾々は、議論の便宜上、貨幣は常に引続き同一の価値を有つものと仮定した。吾々は今や貨幣の価値の通常の変動と全商業界に共通な変動との以外に、貨幣が特定の国において蒙る部分的変動もあることを説明しそして実際(編者註)、貨幣価値はそれが現在しかるが如くに、相対的課税に製造上の熟練に、気候や自然的産物やその他多くの原因に関する利便に、依存するものであるから、ある二国において決して同一ではないことを、説明しようと努めているのである。 (編者註)原書に to fact とあるのは in fact の誤植であろう。 |
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(五二)しかしながら、貨幣はかかる不断の変動を蒙り、従って大部分の国に共通な貨物の価格もまたかなりの相違を免れないであろうけれども、しかも貨幣の流入によっても流出によっても、利潤率には何らの結果も生み出されないであろう。資本は、流通の媒介物が増加されたからとて、増加されないであろう。もし農業者がその地主に支払う地代とその労働者に支払う労賃とが、ある国においては他国よりも二〇%だけより高く、またもし同時に、農業者の資本の名目価値が二〇%だけより多くなったとすれば、彼がその粗生生産物を二〇%だけ高く売っても、彼は正確に同一の利潤率を受取るであろう。
利潤は――これはいくら繰返しても繰返し過ぎるということはないが――労賃に、名目労賃でなく真実労賃に、労働者に年々支払われる貨幣量ではなくこの貨幣量を得るに必要な日労働数に依存する(訳者註)。従って労賃は二国において正確に同一であろう。これらの国の一方においては労働者は一週につき十シリングを受取り、他方において十二シリングを受取るとも、それは地代及び土地から得られる全生産物に対して同一の比例を有つであろう。 (訳者註)傍点は編者の施せる所である。 製造業がほとんど進歩しておらず、そしてすべての国の生産物がほとんど類似していて、嵩高なかつ最も有用な貨物から成っている所の、社会の初期の段階においては、異れる国における貨幣価値は、主として貴金属を供給する鉱山からのその距離によって左右されるであろう。しかし、社会の技術と改良とが進歩し、そして異る国民が特定の製造業において優越するに従って、距離はなお計算には入るであろうけれども、貴金属の価値は主としてそれらの製造業の優越によって左右されるであろう。 あらゆる国民が単に穀物や家畜や粗布のみを生産し、そして金がそれらの貨物を生産する国またはかかる国を征服している国から取得され得るのは、かかる貨物の輸出によってのみであると仮定するならば、金は当然に、英国におけるよりもポウランドにおいてより大なる交換価値を有つであろうが、それは穀物の如き嵩高な貨物をより遠い航海で送ることの費用のより大なるためであり、また金を金をポウランドへ送ることに伴う費用のより大なるためである。 金の価値のこの相違は、――または同じことであるが――この二国における穀価のこの相違は、英国において穀物を生産する便益が、土地のより大なる肥沃度と労働者の熟練及び器具における優越によって、ポウランドのそれよりも遥かにより以上であっても、なお存在するであろう。 しかしながらもしポウランドが最初にその製造業を改良するならば、もしこの国が、小なる容積中に大なる価値を含む所の一般に欲求される貨物を製造することに成功するならば、またはもしこの国のみが、一般に欲求されかつ他国が所有せぬある自然的生産物に恵まれているならば、この国は、この貨物と交換に金の附加的分量を取得するであろうが、それはこの国の穀物や家畜や粗布の価格に影響を及ぼすであろう。遠距離という不利益は、おそらく、大なる価値を有つ輸出貨物を有つという利益によって相殺されて余りあるであろう、そして貨幣は英国におけるよりもポウランドにおいて永続的により低い価値を有つであろう。もし反対に、技術及び機械の利益が英国によって所有されるならば、何故なにゆえに金がポウランドにおけるよりも英国においてより少い価値を有ち、かつ何故なにゆえに穀物や家畜や衣服が英国においてより高い価格にあるのかについての、もう一つの理由が、以前に存在した理由に附加されるであろう。 以上が世界の異る国における比較的貨幣価値を左右するただ二つの原因であると私は信ずる。けだし、課税は貨幣の平衡を攪乱するけれども、それは課税されている国から、熟練、勤労、及び気候に伴う利益のあるものを奪うことによって、攪乱するのであるからである。 貨幣の低き価値と、穀物その他の貨幣がそれと比較される貨物の高き価値とを、注意深く区別しようというのが、私の努力であった。この両者は、一般的には、同じことを意味するものと考えられ来った。しかし、穀物が一ブッシェルにつき五シリングから十シリングに騰貴する時には、それは貨幣価値の下落かまたは穀物の価値の騰貴かによるものであろうことは、明かである。かくて吾々は、増加しつつある人口を養わんがために逐次ますますより劣れる質の土地に頼らねばならぬ必要によって、穀物は他の物に対する相対価値において騰貴しなければならない、ということを見た。従ってもし引続き永続的に同一の価値を有つならば、穀物はかかる貨幣のより多くと交換され、換言すればそれは価格において騰貴するであろう。同一の穀価の騰貴は、吾々をして特殊の利便をもって貨物を造るを得せしめるべきような製造業の機械の改良によっても、惹起されるであろうが、それはけだし、貨幣の流入がその結果として起るであろうからである。それは価値において下落し、従ってより少い穀物と交換されるであろう。しかし穀物の高き価格の結果起る諸結果は、それが穀価の騰貴によって惹起された場合と貨幣価値の下落によって惹起された場合とでは、全然異っている。双方の場合において労賃の貨幣価格は騰貴するであろうが、しかしもしそれが貨幣価値の下落の結果であるならば、単に労賃及び穀物のみならず、更にすべての他の貨物も騰貴するであろう。製造業者は労賃としてより多くを支払わなければならぬとしても、彼れの製造財貨に対し彼はより多くを受取り、そして利潤率は依然影響を受けないであろう。しかし穀価の騰貴が生産の困難の結果である時には、利潤は下落するであろう、けだし製造業はより多くの労賃を支払うを余儀なくされ、そして彼れの製造貨物の価格の引上げによって補償を得ることが出来ないであろうから。 |
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(五三)鉱山採掘の便宜における進歩によって貴金属類がより少い労働をもって生産され得るに至るならば、貨幣価値は一般に下落するであろう。その時にはそれはすべての国においてより少い貨物と交換されるであろう。しかしある特定の国が製造業において優越し、そのためその国への貨幣の流入が惹起される時には、その国においては他の国におけるよりも貨幣はより低く、そして穀物及び労働の価格は相対的により高いであろう。
このより高い貨幣価値は為替相場によっては表示されないであろう。手形は、一つの国においては他国よりも穀物及び労働の価格が一〇%、二〇%、または三〇%だけより高くあっても、引続き額面で授受されるであろう。仮定された事情の下においてはかかる価格の差異は事理の当然であり、そして為替相場は、製造業に優越する国に十分な分量の貨幣が導入され、ためにその国の穀物及び労働の価格が引上げられる時においてのみ、平価にあり得るのである。もし外国が貨幣の輸出を禁止し、そしてかかる法律の遵守を強制することに成功するならば、その国は実際は、製造業国の穀物及び労働の価格騰貴を妨げ得るであろう。けだし、紙幣が用いられていないと仮定すれば、かくの如き騰貴は、貴金属の流入の後にのみ起り得るからである。しかしそれは為替相場がその国に著しく逆となるのを防ぎ得ないであろう。もし英国がこの製造業国であり、そして貨幣の輸入を妨げ得るとすれば、フランス、オランダ、及びスペインとの為替相場は、これらの国々に対して五%、一〇%、または二〇%逆になるであろう。 貨幣の流通が強制的に停止され、そして貨幣がその正当な水準に落着くことを妨げられる時には、いつでも、為替相場の起り得べき変動には限りがない。その結果は持参人の要求に応じて正金と兌換され得ない紙幣が強制的に流通せしめられる時に随伴するものと同様である。かかる通貨は必然的に、それが発行される国に限定される。すなわちそれは過多の時といえども、一般に他国へは普及され得ない。流通の水準が破壊され、そして為替相場は不可避的に、紙幣量が過剰なる国に対し逆となるであろう。貿易の流れが貨幣に国外流出の動因を与えた時に、もし強制的な手段により遁のがれ得ざる法律によって貨幣が一国に留置かれるならば、金属貨幣流通の結果も右の紙幣の場合と同様であろう。 各国がその当然有つべき貨幣量を正確に有っている時においても、多くの貨物についてそれは五%か一〇%かまたは二〇%も異っていようから、貨幣は実際その各々において同一の価値を有たないであろうが、しかし為替相場は平価であろう。英国における一〇〇磅ポンド、または一〇〇磅ポンドに含まれている銀は、フランスやスペインやオランダにおいて、一〇〇磅ポンドの手形、または同一量の銀を購買するであろう。 為替相場及び異る国における貨幣の比較価値を論ずるに当って、吾々は決して、その各国において貨物において評価された貨幣の価値に関説してはならない。為替相場は、穀物、毛織布、またはいかなる貨物において貨幣の比較価値を評価しても、確かめられるものではなく、それは一国の通貨の価値を他国の通貨において評価することによって確かめられるものである。 それはまた、それと両国に共通なある標準に比較することによっても、確かめられ得よう。もし一〇〇磅ポンドの英国宛手形がフランスかスペインにおいて、同額のハムブルグ宛手形が購買すると同一量の財貨を購買するならばハムブルグと英国との間の為替相場は平価である。しかしもし一三〇磅ポンドの英国宛手形が、一〇〇磅ポンドのハムブルグ宛手形と同じだけを購買するに過ぎないならば、為替相場は英国に対し三〇%逆である。 英国において一〇〇磅ポンドは、オランダにおいて一〇一磅ポンド、フランスにおいて一〇二磅ポンド、及びスペインにおいて一〇五磅ポンドを受取る権利、すなわち手形を購買し得よう。その場合には英国との為替相場は、オランダにとり一%逆、フランスにとり二%逆、そしてスペインにとり五%逆、と言われる。それは、これらの国においては通貨の水準が当然あるべきよりもより高いことを示すものであり、そして英国のそれは、これらの国から通貨を引出すかまたは英国の通貨を増加せしめることによって、直ちに平価に囘復されるであろう。 我国の通貨が最近十年間減価し、その間に為替相場は我国に二〇ないし三〇%逆となった、と主張した人々も、貨幣は一国において、種々なる貨物との比較において、他国におけるよりもより大なる価値を有ち得ないとは――彼らはかく主張したと非難されているが、――主張したのでは決してない。彼らは、一三〇磅ポンドが、ハムブルグまたはオランダの貨幣で評価して、一〇〇磅ポンドに含まれる地金よりもより多くの価値を有たない時には、それが減価せられざる限り、それは英国に留置され得ない、と主張したのである。 一三〇磅ポンドの純良な英国磅ポンド貨幣をハムブルグへ送ることによって、五磅ポンドの費用を要しても、私はハムブルグで一二五磅ポンドを得るであろう。しからばハムブルグにおいて一〇〇磅ポンドを私に与える手形に対し一三〇磅ポンドを支払うことを私に承諾せしめるものは、私の磅ポンドが純良な磅ポンド貨幣でないということ以外の理由で有り得ようか? ――私の磅ポンドは減価せられたのであり、その内在価値においてハムブルグの磅ポンド貨幣以下に低下せしめられたのであり、そしてもし実際五磅ポンドの費用でその地へ送られるならば一〇〇磅ポンドにしか売れぬであろう。金属磅ポンド貨幣をもってすれば私の一三〇磅ポンドはハムブルグにおいて私に一二五磅ポンドを与えるであろうが、しかし磅ポンド貨幣をもってすれば私は単に一〇〇磅ポンドを取得し得るに過ぎないということは、否定されていないが、しかし紙幣での一三〇磅ポンドは銀または金での一三〇磅ポンドと等しい価値を有つ、と主張されたのである。 ある人々は実際紙幣での一三〇磅ポンドは金属貨幣での一三〇磅ポンドと等しい価値を有たないと主張したが、それはより正当である。しかし彼らはその価値を変じたのは金属貨幣であって紙幣ではないと云った。彼らは、減価なる語の意味を実際の価格下落の場合に限定しようと欲し、そして貨幣の価値と法律によってそれを定める本位との比較的差違に限定しようとは欲しなかった。英国貨幣の一〇〇磅ポンドは以前にはハムブルグ貨幣の一〇〇磅ポンドと等しい価値を有ち、そしてこれを購買することが出来た。他のいかなる国においても、英国宛またはハムブルグ宛の一〇〇磅ポンド手形は、正確に同一量の貨物を購買することが出来た。近頃は同一の物を取得するために、ハムブルグはハムブルグ貨幣の一〇〇磅ポンドでそれを取得することが出来たのに、私は英国貨幣の一三〇磅ポンドを支払うを余儀なくされた。かくてもし英国の貨幣は以前と同一の価値を有つならば、ハムブルグの貨幣が価値において騰貴したのに相違ない。しかしどこにこのことの証拠があるか? 英国の貨幣が下落したのかまたはハムブルグの貨幣が騰貴したのかは、いかにして確かめらるべきであるか? このことを決定し得る標準は無い。それは証拠を許さない推測であり、そして積極的に肯定することもまた積極的に否定することも出来ない。世界の諸国民は、夙つとに早くから、誤りなくそれに頼り得る価値の標準は本来ないことを確信しているに相違なく、従って彼らは、大体において他のいかなる貨物よりも変動しないように彼らに思われた媒介物を、選んだのである。 法律が変更されるまで、そしてある他の貨物――その使用によって吾々が樹立した標準よりもより完全な標準を取得すべき所の貨物――が発見されるまで、吾々はこの標準に従わなければならない。金が我国においてもっぱら標準である間は、金が一般価値において騰貴すると下落するとにかかわらず、磅ポンド貨幣が本位たる金の五ペニウェイト三グレインと等しい価値を有たない時には、貨幣は減価されていることになるであろう。 |
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■第八章 租税について | |
(五四)租税とは、一国の土地及び労働の生産物の中、政府の処分に委ねられた所の一部分であり、そして常に終局においては、一国の資本かまたは収入かから支払われるものである。
吾々は既にいかにして一国の資本が、その耐久性の多少に従って、固定資本かまたは流動資本かになることを示した。流動資本と固定資本との区別がどこから始まるかを、厳密に定義するのは困難であるが、それはけだし資本の耐久力にはほとんど無限の各程度があるからである。一国の食物は少くとも毎年一度は消費されかつ再生産される。労働者の衣服は、おそらく二年以内に消費されかつ再生産されはしないであろう。しかるに彼れの家屋や什器は十年または二十年の間耐えるものと計算されている。 一国の年々の生産がその年々の消費を代置して余りある時には、それはその資本を増加せしめると言われる。その年々の消費が少くともその年々の生産によって代置されない時には、それはその資本を減少すると言われる。従って資本は、生産の増加によりまたは不生産的消費の減少によって、増加され得よう。 もし政府の消費が附加的税の賦課によって増加された時に、人民の側における生産の増加かまたは消費の減少かがあるならば、租税は収入の負担する所となり、そして国民資本は何らの害を蒙らないであろう。しかしもし人民の側において生産の増加または不生産的消費の減少がないならば、租税は必然的に資本の負担する所となり、換言すれば、それは生産的消費に当てられた資金を害するであろう(註)。 (註)一国のすべての生産物は消費されるが、しかしそれが、再生産する者によって消費されるか、または他の価値を再生産しない者によって消費されるかは、想像し得る最大の相違をなすものであることを、理解しなければならない。吾々が、収入が貯えられそして資本に附加される、と言う時には、吾々の意味する所は、資本に附加されると言われる収入の部分が、不生産的労働者ではなく生産的労働者によって消費される、ということである。資本は非消費によって増加されると想像するよりもより大なる誤謬はあり得ない。もしも労働の価格が、資本の増加にもかかわらず、より多くの労働を雇い得ないほど騰貴したならば、私は、かかる資本の増加はなお不生産的に消費されるであろう、と言わなければならない。 一国の資本が減少するに比例して、その生産物は必然的に減少するであろう。従って、もし人民の側と政府の側とにおける同一の不生産的支出が続くのに、年々の再生産が不断に減少して行くならば、人民と国家との資源は加速度的に失われ、そして惨苦と破滅とがそれに随伴するであろう。 過去二十年間(編者註)における英国政府の莫大な支出にもかかわらず、人民の側における生産の増加がこれを償って余りあったことは、ほとんど疑い得ない。国民資本が啻に害されなかったのみならず、それはまた大いに増加され、そして人民の年々の収入は、その租税を支払った後にすら、おそらく、現在においては吾々の歴史のいかなる以前の時代におけるよりもより大であろう。 (編者註)一七九三――一八一五年。 この証拠として吾々は、人口の増加や、――農業の拡張や、――航海業及び製造業の増加や、――船渠の建造や、――多数の運河の開設や、並びに多くの他の費用を多く要する企業を、挙げ得ようが、そのすべては、資本及び年々の生産の両者の増加を示すものである。 しかしながらそれでもなお、租税がなければこの資本増加が遥かにより大であったであろうことは確実である。蓄積の力を減少せしめる傾向を有たない租税はない。すべての租税は資本か収入かの負担する所とならねばならない。もしそれが資本を蚕食するならば、それは、その程度に応じて国の生産的産業の範囲が常に左右されねばならぬ所の資金を比例的に減少しなければならない。そしてもしそれが収入の負担する所となるならば、それは蓄積を減少せしめるか、または、納税者をして、彼らの以前の生活の必要品及び奢侈品の不生産的消費をその租税の額だけ減少せしめることによって、この額を貯蓄せしめるか、でなければならない。ある租税は、かかる結果を、他の租税よりも、遥かにより大なる程度において産み出すであろう。しかし課税の大なる害悪は、その目的物の選択にあるよりは、全体としてのその結果の総額にあることが見出さるべきである。 租税は資本に課せられたという故をもって必然的に資本に対する租税であるわけではなく、また所得に課せられたという故をもって所得に対する租税であるわけでもない。もし私の一年一、〇〇〇磅ポンドの所得から、私が一〇〇磅ポンドを支払わせられても、私が残りの九〇〇磅ポンドの支出で満足するならば、それは真実に私の所得に対する租税であろうが、しかしもし私が引続き一、〇〇〇磅ポンドを支出するならば、それは資本に対する租税であろう。 そこから私の一、〇〇〇磅ポンドの所得が得られる資本が一〇、〇〇〇磅ポンドの価値を有つとすれば、資本に対する一%の租税は一〇〇磅ポンドであろう。しかしもし私が、この租税を支払った後に同様に、九〇〇磅ポンドの支出をもって満足するならば、私の資本は影響を受けないであろう。 生活上のその地位を維持し、かつその富を一度達せられた高さに維持せんとする、あらゆる人の有つ願望は、大抵資本に課せられたものでも所得に課せられたものでもその大抵の租税を、所得から支払わせるようにする。従って租税が増進するにつれまたは政府がその増加するにつれて、人民の年々の享楽は、彼らが比例的にその資本との所得とを増加し得ない限り、減少せしめられなければならない。 |
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(五五)人民の間にこのことをなさんとする志向を奨励し、そして常に資本の負担に帰すべき租税を決して賦課しないというのが、政府の政策でなければならない。けだしかくすることによって、それは労働の支持のための基金を害し、それによって国の将来の生産を減少せしめるからである。
英国においては、遺言検認税、遺贈税、及び死者より生者への財産の移転に影響を及ぼすあらゆる租税を課して、この政策を無視している。もし一、〇〇〇磅ポンドの遺産が一〇〇磅ポンドの租税を負担するならば、遺産相続人はその遺産を単に九〇〇磅ポンドと考えるに過ぎず、そして彼れの支出の中から、一〇〇磅ポンドの税を節約しようとする何らの特定の動機をも感ぜず、かくて国の資本は減少せしめられる。しかしもし彼が真実に一、〇〇〇磅ポンドを受取り、そして所得や葡萄酒や馬や僕婢に対する租税として、一〇〇磅ポンドを支払わしめられるならば、彼はおそらくその額だけ、その支出を減じまたはむしろ増加せしめなかったであろうし、そして国の資本は害されなかったであろう。 アダム・スミスは曰く、『死者から生者への財産の移転に対する租税は、終局的にかつ直接的に、財産が移転せられる人の負担する所となる。土地の売却に対する租税は全然売手の負担する所となる。売手はほとんど常に売却せねばならぬ地位にあるのであり、従って彼が得ることの出来るどんな価格でも受取らなければならない。買手はほとんど購買せねばならぬ地位にあるのではなく、従って彼は単に自己の好む価格を与えるに過ぎないであろう。彼は租税と価格とを合計して土地が幾干いくばくに値するかを考慮する。租税の方に多くを支払うを余儀なくされるほど、彼は価格の方により少く与える気になるであろう。従ってかかる租税はほとんど常に必要に迫られている人の負担する所となり、従って極めて惨酷にして圧制的でなければならない。』(編者註一)『印紙税及び借金証書と借金契約との登記に対する租税は、全然借手の負担する所となり、そして事実上常に彼によって支払われる。訴訟に対する同種の租税は原告の負担する所となる。それは両者にとって係争物の資本価値を減少せしめる。ある財産を獲得するに費用が多くかかればかかるほど、それが得られた時の純価値は少くなければならない。あらゆる種類の財産の移転に対するすべての租税は、それがその財産の資本価値を減少する限り、労働の支持に向けられた資金を減少する傾向がある。それらはすべて主権者の収入を増加せしめる多かれ少かれ浪費的な租税であるが、それは生産的労働者以外のものを支持しない国民資本を犠牲として、不生産的労働者以外の者を支持することの稀なものである。』(編者註二) (編者註一)『諸国民の富』第五篇第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三四六頁)。 (編者註二)同上(訳者註――三四六――三四七頁)。 しかしこれは財産の移転に対する租税への唯一の反対論ではない。それは国民資本が社会に最も有利に分配されることを妨げるものである。一般的繁栄のためには、あらゆる種類の財産の移転及び交換にいかに便宜が与えられても多過ぎるということは無い、けだしあらゆる種類の資本が、国の生産を増加するためにそれを最もよく使用する者の手に入るようになるのは、かかる手段によるものであるからである。セイ氏は問う、『何故なにゆえに一個人はその土地を売らんと欲するのであるか? それは彼が、その資金がより生産的となるべき他の用途を考えているからである。何故に他の人はこの同じ土地を買わんと欲するのであるか? それは、彼に余りにわずかしか齎さず、または用途がなく、または彼がその使用を改善し得ると考える、ある資本を用いんがためである。この交換は一般所得を増加せしめるであろうが、それはけだしこれらの当事者の所得を増加せしめるからである。しかしもし、賦課がこの交換を妨げるほどに過大であるならば、それは一般所得のこの増加に対する障害である。』(編者註)しかしながらこれらの租税は容易に徴収される、そしてこのことは多くの人々によって、その有害な結果に対する幾らかの補償を与えるものと考えられるであろう。 (編者註)経済学、第三篇、第八章、三〇九頁。 |
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■第九章 粗生生産物に対する租税 | |
(五六)本書の前の部分において、私は、穀価は何ら地代を支払わない土地のみにおける、またはむしろ何ら地代を支払わない資本のみをもってする穀物の生産費によって左右される、という原則を、望むらくは満足に、樹立したから、生産費を増加せしめるものはいかなるものも価格を騰貴せしめるであろうし、それを減少せしめるものはいかなるものも価格を下落せしめるであろう、ということになるであろう。より貧弱な土地を耕作し、または既耕地へ一定の附加的資本を用いてより少い収穫を取得する必要は、粗生生産物の交換価値を不可避的に高めるであろう。耕作者をしてより少い生産費をもってその穀物を取得し得せしめるべき機械の発明は、その交換価値を必然的に低めるであろう。地租の形においてであろうと十分一税の形においてであろうとまたは取得された時に生産物に課せられる租税の形においてであろうと、とにかく耕作者に課せられるあらゆる租税は、粗生生産物の生産費を増加せしめ、従ってその価格を高めるであろう。
もし粗生生産物の価格が耕作者にその租税を補償するほど騰貴しないならば、彼は当然に、彼れの利潤が利潤の一般水準以下に低減せしめられた職業を、中止するであろう。このことは供給の減少を惹起し、ついに、以前通りの需要は、粗生生産物の耕作をして他の職業への資本投下と同様に有利ならしめる如くに、その価格を騰貴せしめるであろう。 価格の騰貴ということが、彼が租税を支払い、かつ彼れの資本をこのように用いることより通常のかつ一般の利潤を引続き得ることが出来る、唯一の手段である。彼は租税を彼れの地代から差引き、そして彼れの地主をしてそれを支払わしめることは出来ないであろうが、それはけだし彼は何ら地代を支払っていないからである。彼はそれを彼れの利潤から差引かないであろうが、それは、あらゆる他の職業がより大なる利潤を産出している時に彼が引続き小なる利潤を産出す職業に従事すべき理由はないからである。かくて、彼は租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げる力を有つであろうということは、疑問のあり得ぬ所である。 粗生生産物に対する租税は地主によって支払われることはないであろう。それは農業者によって支払われることはないであろう。それは消費者によって価格の騰貴により支払われるであろう。 地代は、同一のまたは異る質の土地に用いられた等量の労働と資本とによって取得せられた生産物の間の差違である、ということを想起してもらいたい。土地の貨幣地代と土地の穀物地代とは同一の比例において変動するものではない、ということもまた想起してもらいたい。 粗生生産物に対する租税、地租、または十分一税の場合には、土地の穀物地代は変動するであろうが、他方貨幣地代は引続き以前と同一であろう。 吾々が前に仮定した如くに、耕地は、三つの質を有ち、そして等しい額の資本をもって、 第一等地からは一八〇クヲタアの穀物が取得され、 第二等地からは一七〇クヲタアの穀物が取得され、 第三等地からは一六〇クヲタアの穀物が取得されるならば、 第一等地の地代は、第三等地と第一等地とのそれの差額たる二〇クヲタアであり、そして第二等地の地代は、第三等地と第二等地とのそれの差額たる一〇クヲタアであろうが、しかるに第三等地は何らの地代をも支払わないであろう。 さてもし穀価が一クヲタアにつき四磅ポンドであるならば、第一等地の貨幣地代は八〇磅ポンドであり、また第二等地のそれは四〇磅ポンドであろう。 一クヲタアにつき八シリングの租税が穀物に対し課せられたと仮定せよ。しかる時は価格は四磅ポンド八シリングに騰貴するであろう。そしてもし地主が以前と同一の穀物地代を取得するならば、第一等地の地代は八八磅ポンド、第二等地のそれは四四磅ポンドとなるであろう。しかし彼らは同一の穀物地代を取得しないであろう。租税は第二等地より第一等地の負担となる事より重く、また第三等地よりも第二等地の負担となる事より重いであろうが、けだしそれはより大なる分量の穀物に課せられるであろうから。価格を左右するのは第三等地における生産の困難である。そして穀物は第三等地に用いられる資本の利潤が資本の一般利潤と同一水準になるように四磅ポンド八シリングに騰貴するのである。 この三つの質の土地における生産物及び租税は次の如くであろう。 第一等地、一クヲタア四磅ポンド八シリングで一八〇クヲタアを産す……………………七九二磅ポンド 差引{一六・三の価値、 すなわち一八〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………七二磅ポンド 純穀物生産物一六三・七純貨幣生産物七二〇磅ポンド 第二等地、一クヲタア四磅ポンド八シリングで一七〇クヲタアを産す……………………七四八磅ポンド 差引{四磅ポンド八シリングで一五・四クヲタアの価値、 すなわち一七〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六八磅ポンド 純穀物生産物一五四・六純貨幣生産物六八〇磅ポンド 第三等地、四磅ポンド八シリングで一六〇クヲタアを産す…………………………………七〇四磅ポンド 差引{四磅ポンド八シリングで一四・五クヲタアの価値、 すなわち一六〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六四磅ポンド 純穀物生産物一四五・五純貨幣生産物六四〇磅ポンド 第一等地の貨幣地代は引続き八〇磅ポンドすなわち六四〇磅ポンドと七二〇磅ポンドとの差額であり、また第二等地のそれは四〇磅ポンドすなわち六四〇磅ポンドと六八〇磅ポンドとの差額であって、以前と正確に同一である。しかし穀物地代は、第一等地においては二〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一六三・七クヲタアとの差額たる一八・二クヲタアに、そして第二等地においてはそれは一〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一五四・六クヲタアとの差額たる九・一クヲタアに、減少されるであろう。 しからば穀物に対する租税は穀物の消費者の負担する所となり、そして租税に比例する程度だけその価値を他のすべての貨物に比較して高めるであろう。粗生生産物が他の貨物の構成に入り込むに比例して、それらの価値もまた、租税が他の原因によって相殺されない限り、高められるであろう。それらは事実間接に課税されることとなり、そしてその価値は租税に比例して騰貴するであろう。 しかしながら、粗生生産物及び労働者の必要品に対する租税は、もう一つの結果を有つであろう、――すなわちそれは労賃を高めるであろう。人口の原理の人類の増加に及ぼす結果によって、最下級の労賃は決して引続き、自然と習慣によって労働者の支持上必要となっている率の遥か上にあることはない。この階級は決して多額の課税を負担し得ない。従ってもし彼らが小麦に対して一クヲタアにつき更に八シリング支払わねばならず、そして他の必要品に対してあるより少い比例だけ更に支払わなければならないとすれば、彼らは以前と同一の労賃で生存しそして労働者の種族を維持することは出来ないであろう。労賃は不可避的にかつ必然的に騰貴するであろう。そしてそれが騰貴するに比例して利潤は下落するであろう。政府は、国内において消費されるすべての穀物に対し一クヲタアにつき八シリングの租税を受取るであろうが、その一部分は直接に穀物の消費者によって支払われ、他の部分は間接に労働を使用する人々によって支払われ、そして、労働に対する需要がその供給に比して増加したために、または労働者の必要とする食物及び必要品の獲得の困難が増加して行くために、労賃が騰貴した場合と同様に、利潤に影響を及ぼすであろう。 |
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(五七)租税が消費者に影響を及ぼす限りにおいて、それは平等な租税であるが、しかしそれが利潤に影響を及ぼす限りにおいて、それは偏頗へんぱな租税であろう。けだし、それは地主に対しても株主に対しても影響を及ぼさないであろうからであるが、その理由は、彼らは引続き、一方は以前と同一の貨幣地代を、また他方は以前と同一の貨幣配当を、受取るであろうからである。しからば土地の生産物に対する租税は、次の如く作用するであろう。
第一、それは租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げ、従って各消費者の消費に比例して彼れの負担する所となるであろう。 第二、それは労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げるであろう。 しからばかかる租税に対しては次の如き反対がなされ得よう。 第一、労働の労賃を引上げそして利潤を引下げることによって、それは不平等な租税であるが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を享受する者の所得を課税されぬままにしておくからである、ということ。 第二、穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に労働者は多くの惨苦を経験するであろうということ。 第三、労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠ひせきと同様の作用をすること。 第四、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って吾々は一般市場において外国製造業者に平等な条件で対抗し得ないであろうということ。 |
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(五八)労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げることによって、それは不平等な作用をするが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を課税されぬままにしておくからである、という第一の反対論に関しては、もしも租税の作用が不平等であるならば、立法府にとっては、土地の地代及び株式からの配当に直接に課税することによってそれを平等ならしめるべきである、と答え得よう。かくすることによって、所得税のすべての目的は、各人の私事に立入りかつ官吏に自由国の慣習と感情とに矛盾する権力を賦与するという忌わしい手段に頼るの不便なしに、達せられるであろう。 | |
(五九)穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に下層階級は多くの惨苦を経験するであろう、という第二の反対論に関しては、異る事情の下においては、労賃は極めて異る程度の速力をもって粗生生産物の価格に追従し、ある場合においては穀物の騰貴によっては労賃には何らの結果も起らず、他の場合においては労賃の騰貴は穀価の騰貴に先行し、更にある場合においては労賃に対する結果は遅く、また他の場合においては速い、と私は答える。
常に社会の進歩の特定状態を斟酌して、労働の価格を左右するものは必要品の価格である、と主張する人々は、必要品の価格の騰貴及び下落は、極めて徐々として労賃の騰貴及び下落を伴うであろうということを、余りに即座に同意してしまっているように思われる。食料品の高き価格は、各種各様の原因から起るであろうし、またそれに従って各種各様の結果を生み出すであろう。それは次の如き原因から起るであろう。 第一、供給の不足。 第二、結局においては生産費の増加を伴うべき徐々たる需要の増加から。 第三、貨幣価値の下落から。 第四、必要品に対する租税から。 これら四つの原因は、必要品の高き価格が労賃に及ぼす影響を研究した人々によっては、十分に弁別され分離されていない。吾々はこれらを各別に検討するであろう。 不作は食料の高き価格を齎すであろう、そしてこの高き価格は、それによって消費が供給の状態に一致せざるを得ざらしめられる唯一の手段である。もしすべての穀物購買者が富んでいるならば、価格は、いかなる程度にまでも騰貴し得ようが、しかしその結果には変りがないであろう。すなわち価格はついに、富める程度の最も少い者がその通常の消費量の一部分の使用を止めざるを得なくなるほど高くなるであろう。けだし消費の減少によってのみ、需要は供給の限界にまで引下げられ得るからである。かかる事情の下においては、救貧法の誤用によってしばしばなされているように貨幣労賃を食物の価格によって強制的に左右するという政策以上に、不合理な政策はあり得ない。かかる方策は労働者に対し何らの真実の救済をも与えるものではないが、けだし、その結果は穀価を更により以上騰貴せしめることであり、そしてついに彼はその消費を限られた供給に比例して制限せざるを得なくなるに相違ないからである。条理上不作による供給の不足は、有害かつ不賢明な干渉がなければ、労賃の騰貴を伴わないであろう。労賃の騰貴はそれを受取る者によっては単に名目的であるに過ぎない。それは穀物市場における競争を増加せしめ、そしてその終局的政策は穀物の栽培者と商人の利潤を高めることである。労働の労賃は実際は、必要品の供給と需要、及び労働の供給と需要との間の比例によって左右される。そして貨幣は単に労賃を言表わす媒介物または尺度であるに過ぎない。しからばこの場合においては、附加的食物の輸入によるかまたは最も有用な代用品の採用による他は、労働者の困厄は不可避的であり、そしていかなる立法も救済を与え得ないのである。 穀物の高き価格が需要増加の結果である時には、それは常に労賃の騰貴によって先行される、けだし需要は、その欲する物に対して支払うべき人民の資力の増加なくしては、増加し得ないからである。資本の蓄積は当然に、労働の雇傭者の間の競争を増加せしめ、そしてその結果たる労働の騰貴を惹起す。労賃の騰貴は、常に必ずしも直ちに食物に費されるとは限らず、最初には労働者の他の享楽に寄与せしめられる。しかしながら、彼れの境遇の改善は、彼を誘って結婚せしめ、またそれを可能ならしめる。しかる時は彼れの家族の支持のための食物に対する需要は当然に、彼れの労賃が一時費された他の享楽品に対する需要を排除する。かくて穀物は、それに対する支払の資力をより多く有つ者が社会にあるためそれに対する需要が増加するから、騰貴する。そして農業者の資本の利潤は一般水準以上に高められ、ついに必要な資本量がその生産に用いられるに至るであろう。このことが起った後に穀物が再びその以前の価格にまで下落するか、または引続き永続的により高くあるかは、それより穀物の分量増加が供給された土地の質に依存するであろう。もし、それが、最後に耕作された土地と同一の肥沃度を有つ土地から、またより大なる労働の支出なしに、得られるならば、価格はその以前の状態にまで下落するであろう。もしより貧しい土地からであるならば、それは引続き永続的により高いであろう。第一の場合の高き労賃は労働に対する需要の増加から起ったものである。それが結婚を奨励し子供を支持したが故にそれは労働の供給を増加するの結果を生み出したのである。しかしこの供給が得られた時には、もし穀物がその以前の価格まで下落したならば、労賃は再びその以前の価格にまで下落し、もし穀物の供給の増加が、より劣等の質の土地から生産せられたならば以前の価格よりより高い価格にまで下落するであろう。高き価格は決して豊富な供給と両立し得ないものではない。価格が永続的に高いのは、分量が不足であるからではなく、その生産費が増加したからである。人口に刺戟が与えられた時には、その場合に必要とされる以上の結果が生み出されるということは、実際一般に起る所である。人口は、労働に対する需要の増加にかかわらず、労働者を支持するための基金に対して資本の増加の前よりもより大なる比例を有つほどに増加され得ようし、また事実一般に増加されたのである。この場合には反動が起り、労賃はその自然的水準以下となり、そして供給と需要との間の通常の比例が囘復されるまでは引続きそれ以下にあるであろう。しからばこの場合においては、穀価の騰貴は労賃の騰貴によって先行され、従ってそれは労働者に何らの困厄をも蒙らせないのである。 鉱山からの貴金属の流入の結果たる、または銀行の特権の濫用による、貨幣価値の下落は、食物の価値騰貴に対するもう一つの原因である。しかしそれは生産される分量には何らの変動をも起さないであろう。それは労働者の数も彼らに対する需要も同一にしておく。けだし資本の増加も減少もないであろうからである。労働者に割当てられるべき必要品の分量は、労働の比較的需給に対する必要品の比較的需給に依存する。貨幣はそれによってこの分量が現わされる媒介に過ぎない。そしてこれらの両者のいずれもが変動していないから、労働者の真実の報酬は変動しないであろう。貨幣労賃は騰貴するであろうが、しかしそれは単に彼をして以前と同一の必要品量を手に入れることを得さしめるに過ぎないであろう。この原理を論難しようとする者は、何故なにゆえに、貨幣の増加は、分量の増加しなかった労働の価格をを騰貴せしめるという同一の結果を有たないかということを、説明すべきである、けだし彼らは、もし靴や帽子や穀物の分量が増加しなかったならば、それらの貨物の価格に対し、それは同一の結果を有つであろうということを、認めているからである。帽子と靴との相対的市場価値は、靴の需給と比較しての帽子の需給によって左右され、そして貨幣はこれらの貨物の価値を言い現わす媒介に過ぎない。もし靴が価格において二倍となるならば、帽子もまた価格において二倍となるであろう、そして両者は同一の相対価値を保持するであろう。同様に、もし穀物及び労働者のすべての必要品が価格において二倍となるならば、労働もまた価格において二倍となるであろう、そして必要品及び労働の通常の需給に対し何らの妨げも存しない間は、それらがその相対価値を保持しないという理由はあり得ないのである。 貨幣価値の下落も粗生生産物に対する租税も、その各々は価格を引上げるであろうが、粗生生産物の分量を、またはそれを購買することが出来、かつそれを消費せんと欲する者の数を、必然的に妨げるわけではないであろう。何故なにゆえに、一国の資本が不規則に増加する時に、労賃は騰貴するがしかるに穀価は静止しまたはより少い比例で騰貴するかを、そして何故なにゆえに、一国の資本が減少する時に、労賃は下落するがしかるに穀価は静止しまたは遥かにより少い比例で下落し、しかもこのことがかなりの期間そうであるかを、了解することは、極めて容易である。その理由は、労働は随意に増減し得ない貨物であるからである。もし需要に対し市場に余りに少い帽子しかないならば、価格は騰貴するであろうが、しかしそれは単に短い期間に過ぎない。けだし一年経てば、より多くの資本をその職業に用いることによって、帽子の分量がある適当な量だけ増加され、従ってその市場価格は久しくその自然価格を極めて甚しく超過し得ないからである。しかし人間の場合はこれと異る。人は彼らの数を、資本の増加がある時に一二年で増加することは出来ず、またその数を、資本が退歩的状態にある時に急速に減少することも出来ない。従って、人間の数は遅々として増加するが労働維持のための基金は速かに増減するのであるから、労働の価格が穀物及び必要品の価格によって正確に規制されるまでにはかなりの時の隔りがなければならない。しかし貨幣の下落、または穀物に対する租税の場合には、必ずしも労働の供給の超過もなく、需要の減退もなく、従って労働者が労賃の真実の減少を受けるという理由はあり得ぬのである。 穀物に対する租税は必ずしも穀物の分量を減少せしめず、ただその貨幣価格を騰貴せしめるに過ぎない。それは必ずしも労働の供給と比較しての需要を減少せしめない。しからば何故なにゆえにそれは労働者に支払われる分前を減少せしめなければならないか? それが労働者に与えられる分量を減少せしめるということを、換言すれば、租税が彼れの消費する穀物の価格を騰貴せしめると同一の比例においてそれは彼れの貨幣労賃を騰貴せしめるものではないということを、真実なりと仮定しよう。穀物の供給は需要を超過しないであろうか?――それは価格において下落しないであろうか? またかくて労働者は彼れの通常の分前を取得しないであろうか? かかる場合には実際、資本は農業から引き去られるであろう、けだしもし価格が租税の金額だけ騰貴しないならば、農業利潤は利潤の一般水準よりもより低くなるであろうし、そして資本はより有利な用途を探求するであろうからである。かくて問題の点たる粗生生産物に対する租税に関しては、粗生生産物の価格の騰貴と労働者の労賃の騰貴との間には、労働者に対して圧迫する時期はなく、従ってこの階級がある他の課税方法によって蒙る不便、換言すれば、租税が労働の支持のために向けられた基金を害し従って労働に対する需要を妨げまたは減少するかもしれぬという危険の他には、彼らは何らの不便をも蒙らないであろうと、私には思われるのである。 |
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(六〇)粗生生産物に対して課せられる租税に対する第三の反対論、すなわち労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠と同様の作用をする、という反対論に関しては、私は、本書の他の部分において、貯蓄は、生産からと同様に有効に支出から、利潤率の騰貴からと同様に有効に貨物の価値の下落から、なされ得ようことを、示さんと努めた。物価が引続き同一である時に私の利潤を一、〇〇〇磅ポンドから一、二〇〇磅ポンドに増加せしめることによって、私が貯蓄によって資本を増加する力は増加されるけれども、しかしこの力は、私の利潤は引続き以前と同一であるが貨物が価格において下落したために以前には一、〇〇〇磅ポンドで購買しただけの分量を八〇〇磅ポンドで取得し得るに至った場合ほどには、増加されないであろう。
さて、租税によって要求される額は徴収されなければならない、そこで問題は単にこの額は個人の利潤を減少せしめることによって個人から徴収せらるべきであるか、または彼らの利潤がそれに支出される貨物の価格を引上げることによって徴収せらるべきであるか、ということである。 課税はいずれの形においても諸害悪についての一選択であるに過ぎない。もしそれが利潤その他の所得の源泉に影響を及ぼさなければ、それは支出に影響を及ぼすに相違ない。そして負荷が平等に負担されかつ再生産を圧迫しない限り、それはいずれに賦課されても構わない。生産に対する租税または資本の利潤に対する租税は、直接に利潤に対し課せられようと、または土地あるいは土地の生産物に対して課税することにより、間接に課せられようとに論なく、他の租税以上にこの得点を有っている、すなわちすべての他の所得が課税されぬ限り、社会のいかなる階級もそれを免れ得ず、そして各人はその資力に応じて納税するのである。 支出に対する租税は吝嗇家りんしょくかが遁のがれるであろう。彼は毎年一〇、〇〇〇磅ポンドの所得を有ち、そして単に三〇〇磅ポンドを費すに過ぎないであろう。しかし直接的のものであろうと間接的のものであろうと利潤に対する租税からは、彼は遁れ得ない。彼は、その生産物の一部分、またはその一部分の価値を、抛棄して、納税することになるであろう、しからざれば生産に欠くべからざる必要品の価格の騰貴によって、彼は以前と同一の率で蓄積を続け得なくなるであろう。もちろん彼は同一の価値を有つ所得を得るであろうが、しかし彼は、労働に対する同一の支配力も有たず、またはそれにかかる労働が用いられ得る原料品の等しい分量に対する同一の支配力をも有たないであろう。 もし一国がすべての他国より孤立し、その隣国のいずれとも商業をしないならば、それは決してその租税のいかなる部分をも他国に転嫁し得ない。その土地と労働との生産物の一部分は、国家の用に供せられるであろう。そして私は、それが蓄積しかつ貯蓄する階級に対し不平等の圧迫を加えぬ限り、租税が利潤に課せられようと、農業貨物に課せられようと、または製造貨物に課せられようと、それはほとんどどうでもよいと考えざるを得ない。もし私の収入が一年につき一、〇〇〇磅ポンドであり、そして私は一〇〇磅ポンドに当る額の租税を支払わなければならぬとすれば、私がそれを私の収入から支払って九〇〇磅ポンドを手許に残そうと、または私の農業貨物または私の製造財貨に対し一〇〇磅ポンドだけより多く支払おうと、それはほとんどどうでもよいことである。もし一〇〇磅ポンドが国家の経費に対する私の正当なる割当であるならば、課税のなすべきことは、私をしてそれ以上でもそれ以下でもなくまさに一〇〇磅ポンドを確実に支払わしめることである。そしてそれは労賃か利潤かまたは粗生生産物に対する租税によって最も確実に行われ得るのである。 |
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(六一)第四のそして注意すべき最後の反対論は、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って、吾々は一般市場において外国製造業に平等な条件で対抗し得ないであろう、というのである。
第一に、穀物及びすべての内国貨物は、貴金属の流入なくしては価格において著しく高められ得ないであろう、けだし同一量の貨幣は高い価格においても低い価格の場合と同様に同一量の貨物を流通せしめ得ず、そして貴金属は決して高価な貨物をもっては購買され得ないであろうからである。より多くの金が必要とされる時には、それはそれと交換してより少い貨物ではなくより多くの貨物を与えることによって、取得されなければならない。貨幣の不足は紙幣によっても満みたされ得ないであろう、けだし貨物としての金の価値を左右するものは紙幣ではなく、紙幣の価値を左右するものは金であるからである。しかる時は金の価値が引下げられ得ない限り、減価されずして紙幣は流通に加えられ得ないであろう。そして金の価値が引下げられ得ないであろうことは、吾々が一貨物としての金の価値は、それと交換に外国人に与えられねばならぬ財貨の分量によって左右されなければならぬことを考える時に明かになる。金が低廉である時には貨物は高く、そして金が高い時には貨物は低廉であり、価格において下落する。さて外国人が彼らの金を通常よりもより安く売るべき原因は何ら示されていないのであるから、少しでも金の流入が起ろうとは思われない。かかる流入なくしては、その量の増加は、その価値の下落は、財貨の一般価格の騰貴は、あり得ないのである(註)。 (註)単に租税のみによって価格が騰貴した貨物が、その流通のためあるより多くの貨幣を必要とするか否かは、疑い得よう。私はそれを必要としないであろうと信ずる。 粗生生産物に対する租税の蓋然的結果は、粗生生産物の及び粗生生産物が入り込めるすべての貨物の価格を騰貴せしめることであろうが、しかしその程度は決して租税に比例しない。しかるに金属や土で造った物の如き何らの粗生生産物も入り込まぬ他の貨物は価値において下落するであろう。従って以前と同一量の貨幣が全流通に対し適当であるであろう。 すべての内国生産物の価格を高める結果を有つべき租税は、はなはだ短い期間を除けば輸出を阻害しないであろう。もしそれが国内で価格において高められるならばそれは実際直ちに有利に輸出されることを得ないであろう、けだしそれは国内において外国では免れている負担を蒙るからである。この租税はすべての国に一般でありかつ共通であるものではなくして、ある一単独国に限られている所の貨幣価値の変動と、同一の結果を生み出すであろう。もしも英国がその国であるとするならば、英国は売却することは出来ないかもしれぬが、購買することは出来るであろう、けだし輸入される貨物は価格において騰貴しないであろうからである。かかる事情の下においては、貨幣以外に何物も外国貨物と引換えに輸出され得ないであろうが、しかしこれは久しく続き得ない取引である。一国民はその貨幣を消尽してしまうことは出来ない、けだし一定量がその国民を去った後にはその残りのものの価値は騰貴し、そしてその結果として貨物の価格は、それが再び有利に輸出され得るように変動するであろうからである。従って貨幣が騰貴した時には吾々はもはや財貨と引換えにそれを輸出せずして、吾々はまずその原料たる粗生生産物の価格の騰貴によって価格が騰貴し次いで再び貨幣の輸出によって下落した所の製造品を、輸出するであろう。 しかし、貨幣が価値においてかくの如く騰貴した時には、それは内国貨物に関してと同様に外国貨物に関しても騰貴するであろうし、従って、外国財貨の輸入に対するあらゆる奨励が停止するであろう、という反対がなされるかもしれない。かくて吾々が外国において一〇〇磅ポンドを費しそして我国において一二〇磅ポンドに売れる財貨を輸入したと仮定するならば、貨幣価値が英国において騰貴せる結果それが単に一〇〇磅ポンドに売れるに過ぎなくなった時には、吾々はそれを輸入することを止めるであろう。しかしながらこのことは決して起り得ないであろう。一貨物を輸入することを吾々に決心せしめた動機はそれが外国においては相対的に低廉であることを発見したにある。それは外国でのその価格と内国でのその価格との比較である。もし一国が帽子を輸出し毛織布を輸入するとすれば、そうする理由は帽子を造ってそれを毛織布と交換することにより、毛織布を自国で造る場合よりもより多くの毛織布を取得することが出来るからである。もし粗生生産物の騰貴が帽子の製造における生産費の増加を齎すならば、それは毛織布の製造における費用の増加をも齎すであろう。従って、もし双方の貨物が国内において造られるならば、それらは双方共に騰貴するであろう。しかしながら一方は、吾々が輸入する貨物であるから、貨幣価値が騰貴した時にも、騰貴もしなければ下落もしないであろう。けだし下落せざることによって、それは輸出貨物に対するその自然的関係を恢復するであろうからである。粗生生産物の騰貴は帽子をして三〇シリングから三三シリングに、または一〇%騰貴せしめる。同一の原因はもし吾々が毛織布を製造していたならば、それを一ヤアルにつき二〇シリングから二二シリングに騰貴せしめるであろう。この騰貴は毛織布と帽子との関係を破壊するものではない。一箇の帽子は一ヤアル半の毛織布に値したし、また引続きそれに値する。しかしもし吾々が毛織布を輸入するならば、その価格はまず貨幣価値の下落によって影響を蒙らず、次いでその騰貴によって影響を蒙らずして、引続き一様に一ヤアルにつき二〇シリングであろう。しかるに三〇シリングから三三シリングに騰貴している帽子は再び三三シリングから三〇シリングに下落するであろう、そしてこの点において毛織布と帽子との間の関係は恢復されるであろう。 この問題の考察を簡単にするために、私は、粗生原料品の価値の騰貴は、すべての内国貨物に等しい割合で影響を及ぼすものであり、すなわちもし一貨物に対して及ぼす影響がそれを一〇%騰貴せしめることであるならば、それはすべての貨物を一〇%騰貴せしめるであろうと、仮定して来たが、しかし貨物の価値が粗生原料品及び労働から出来上っている割合は極めて異っており、またある貨物例えば金属から造られているすべてのものは、地表からの粗生生産物の騰貴によって影響を受けないであろうから、粗生生産物に対する租税によって貨物の価値に対し及ぼされる影響には各種各様の最大の種類があることは明かである。この影響が生み出される限り、それは特定貨物の輸出を奨励したり阻害したりし、そして疑いもなく、貨物の課税に伴うと同一の不便を伴うであろう。それは各々の価値の間の自然的関係を破壊するであろう。かくて一箇の帽子の自然価格は、一ヤアル半の毛織布と同一ではなくして、単に一ヤアル四分の一の価値を有つに過ぎないか、または一ヤアル四分の三の価値を有つことになり、従ってむしろ異る方向が外国貿易に対して与えられるであろう。すべてのこれらの不便はおそらく輸出品及び輸入品の価値に影響を及ぼさないであろう。それは単に全世界の資本の最上の分配を妨げるに過ぎないであろうが、かかる分配は、あらゆる貨物が人為的制限によって束縛されずに自由にその自然価格に落着くに委ねられる時に最も適宜に調整されるのである。 しからばたとえ我国自身の貨物の大抵のものの騰貴が、一時の間一般に輸出を妨げ、そして永続的に若干の貨物の輸出を妨げるとしても、それは外国貿易を大いに妨げることは出来ず、そして外国市場における競争に関する限りにおいては吾々を他に比較して不利益な地位に置くことはないであろう。 |
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■第十章 地代に対する租税 | |
(六二)地代に対する租税は地代にのみ影響を及ぼすであろう。それは全然地主の負担する所となり、そしていかなる消費者階級へも転嫁され得ないであろう。地主は、最も不生産的な耕地から得られる生産物とあらゆる他の質の土地とから得られるそれとの間の差違を不変にしておくであろうから、その地代を高め得ないであろう。第一、第二、及び第三の三種の土地が耕作されており、そして各々同一の労働をもって、一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアの小麦を産出する。しかし第三等地は何ら地代を支払わず、従って課税されない。かくて第二等地の地代は十クヲタアの価値を、また第一等地のそれは二十クヲタアの価値を、超過せしめられ得ない。かかる租税は粗生生産物の価格を高め得ないが、それは、第三等地の耕作者は地代もまた租税も支払わないから、彼は決して生産された貨物の価格を高め得ないからである。地代に対する租税は新しい土地の耕作を阻害しないであろう、けだしかかる土地は地代を支払わず、かつ課税されないであろうから。もし第四等地が耕作されるに至り、そして一五〇クヲタアを産出するとしても、いかなる租税もかかる土地に対して支払われないであろうが、しかしそれは第三等地に十クヲタアの地代を発生せしめ、かくて第三等地は租税を支払い始めるであろう。 | |
(六三)地代が構成されるにつれて地代に課せられる租税は、耕作を阻害するであろうが、けだしそれは地主の利潤に対する一租税となるであろうからである。土地の地代なる言葉は、私が他の場所で論じた如くに、農業者がその地主に支払う価値の全額に適用されているが、その一部のみが厳密には地代なのである。建物や造作、及び地主の支払うその他の費用は、厳密には農場の資本の一部をなし、そして地主によって供給されなければ借地人によって備えられねばならなかったものである。地代とは土地の使用に対しそして土地の使用に対してのみ、地主に支払われる額である。地代の名の下に支払われるより以上の額は建物等の使用に対するものであり、そして実際は地主の資本の利潤である。地代に課税する際には土地の使用に対し支払われる部分と、地主の資本の使用に対し支払われるそれとの間には、何らの区別もされないであろうから、租税の一部分は地主の利潤の負担する所となり、従って、粗生生産物の価格が騰貴しない限り、耕作を阻害するであろう。その使用に対しては何らの地代も支払われない土地においては、地主に対し彼れの建物の使用に対して、その名の下にある補償が与えられるであろう。粗生生産物が売られる価格が、啻にすべての通常の支出を支払うのみならず、更に租税というこの附加的支出を支払うまでは、これらの建物が建てられることもないであろうし、また粗生生産物がかかる土地に栽培されることもないであろう。租税のこの部分は地主の負担にも農業者の負担にも帰せず、粗生生産物の消費者の負担する所となる。
もしも租税が地代に課せられるならば、地主は直ちに、土地の使用に対して彼らに支払われるものと、建物の使用及び地主の資本によってなされた改良に対して支払われるものとを、弁別する方法を発見するであろうことは、ほとんど疑いはあり得ない。後者が家屋及び建物の賃料と呼ばれるに至るか、または耕作されるに至ったすべての新しい土地においては、地主によってではなく借地人によって、かかる建物が建てられかつ改良がなされるに至るかであろう。地主の資本が実に実際にはその目的のために用いられるであろう。名目上はそれは借地人によって費され、地主は、貸金の形かまたは借地期間に亘る年金の購買で、彼にその資を支給するのである。区別されていてもいなくとも、地主がこれらの種々なる目的物に対して受取る所の補償の性質の間に真実の差違がある。そして、土地の真実地代に対する租税は全然地主の負担する所となるが、地主が農場に投ぜられたその資本の使用に対して受取る補償に対する租税は、進歩的国家においては、粗生生産物の消費者の負担する所となることは、全く確実である。もし租税が地代に賦課され、そして現在借地人が地代の名の下に地主に支払う報償を区分する何らの方法も採用されないとしても、租税は、それが建物その他の造作に対する地代に関する限り、決してどんな短い間でも地主の負担する所とはならず、消費者の負担する所となるであろう。これらの建物等に投ぜられた資本は、資本の通常利潤を与えなければならない。しかしもしそれらの建物の費用が借地人の負担する所とならなければ、それは最後に耕作される土地においてこの利潤を与えないであろう。そしてもしそれが借地人の負担する所となるならば、借地人はそれを消費者に転嫁しない限り、彼れの資本の通常利潤を得なくなるであろう。 |
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■第十一章 十分一税 | |
(六四)十分一税は土地の総生産物に対する租税であり、そして粗生生産物に対する租税と同様に、全然消費者の負担する所となる。それは地代に対する租税が達しない土地に影響を及ぼす限りにおいてそれと異り、そしてこの地代に対する租税が変動せしめないであろう所の、粗生生産物の価格を引上げる。最も劣等の土地も、最良の土地と同様に、十分一税を、しかもそれらの土地から得られる生産物量に正確に比例して、支払う。従って十分一税は平等な租税である。
もしも最後の質の土地、すなわち何らの地代も支払わず穀価を左右するそれが、農業者に資本の通常利潤を与えるに足る分量を産出し、その時に小麦の価格が一クヲタアにつき四磅ポンドであるならば、価格は、十分一税が賦課された後に同一の利潤が取得され得る以前に、四磅ポンド八シリングに騰貴しなければならない、けだし小麦一クヲタアごとに耕作者は教会に八シリングを支払わなければならず、そしてもし彼が同一の利潤を得ないとすれば、彼が他の事業においてかかる利潤を得ることが出来る時にその職業を中止しないという理由はないからである。 十分一税と粗生生産物に対する租税との間の唯一の差違は、一方は可変的貨幣租税であり他方は定額貨幣租税であることである。穀物を生産する便宜が増加もせず減少もしない所の、社会の停止的状態においては、それらはその結果において正確に同一であろう、けだしかかる状態においては、穀物は不変的価格にあり、従って租税もまた不変であろうからである。退歩的状態か、または農業において大改良がなされ従って粗生生産物が他の物に比較して価値において下落するであろう所の状態かにおいては、十分一税は永続的貨幣租税よりもより軽い租税であろう。けだしもし穀価が四磅ポンドから三磅ポンドに下落するならば、租税は八シリングから六シリングに下落するであろうからである。社会の進歩的状態――しかも農業における何らの著しい改良もない状態――においては、穀価は騰貴し、そして十分一税は永続的貨幣租税よりもより重い租税となろう。もし穀物が四磅ポンドから五磅ポンドに騰貴するならば、同一の土地に対する十分一税は八シリングから十シリングに騰貴するであろう。 十分一税も貨幣租税も地主の貨幣地代には影響を及ぼさないであろうが、しかし両者は穀物地代には著しく影響を及ぼすであろう。吾々は既に、貨幣租税が穀物地代に影響する仕方を論じたが、同様な結果が十分一税によっても生み出さるべきことは等しく明かである。もし第一、第二、第三等地が各々一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアを生産するならば、地主は第一等地に対しては、二十クヲタア、また第二等地に対しては十クヲタアであろう。しかしそれらは十分一税を支払った後には、もはやこの比例を維持しないであろう。けだしもしその各々から十分の一が徴収されるならば、残りの生産物は一六二クヲタア、一四四クヲタアとなり、従って第一等地の穀物地代は一八クヲタアに、また第二等地のそれは九クヲタアに、減少させられるであろうからである。しかし穀価は四磅ポンドから四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに騰貴するであろう。けだし一四四クヲタアが四磅ポンドに対する割合は、一六〇クヲタアが四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに対する割合であるからである、従って貨幣地代は第一等地に対しては八〇磅ポンドであり(註一)、また第二等地に対して四〇磅ポンドであろうから(註二)、貨幣地代は引続き不変であろう。 (註一)四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで一八クヲタア (註二)四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで九クヲタア 十分一税に対する主たる反対論は、それは永続的なかつ固定的な租税ではなくて、穀物を生産する困難が増加するに比例して価値において増加する、ということである。もしかかる困難が穀価を四磅ポンドならしめるならば租税は八シリングとなり、もしそれが穀価を五磅ポンドに増加するならば租税は一〇シリングとなり、そして六磅ポンドの時にはそれは一二シリングとなる。それは啻に価値において騰貴するのみならず、更にまた額において増加する。かくして第一等地が耕作された時には、租税は単に一八〇クヲタアに対して課せられるに過ぎず、第二等地が耕作された時には、それは 180+170 すなわち三五〇クヲタアに対して課せられ、そして第三等地が耕作された時には、180+170+160=510 クヲタアに対して課せられた。生産物が一百万クヲタアから二百万クヲタアに増加される時には、租税の額が一〇〇、〇〇〇クヲタアから二〇〇、〇〇〇に附加されるのみならず、更に第二の一百万を生産するに必要な労働の増加によって、粗生生産物の相対価値は増進せしめられ、その結果二〇〇、〇〇〇クヲタアは、量においては単に以前に支払われた一〇〇、〇〇〇クヲタアのそれの二倍に過ぎないが、しかも価値においては三倍であるであろう。 もし等しい価値が、教会のために、十分一税の増加と同様に耕作の困難に比例して増加する所のある他の手段によって、徴収されるならば、その結果は同一であろう、従って、それは土地から徴収される故に、ある他の方法によって徴収された場合の同額よりも、耕作をより多く阻害する、と想像するのは、誤りである。教会は双方の場合において、国の土地及び労働の純生産物の増加せる部分を不断に取得しつつあるであろう。社会の進歩しつつある状態においては、土地の純生産物は常にその総生産物に比例して逓減しつつある。しかし進歩的な国においても静止的な国においても、すべての租税が終局的に支払われるのは、国の総収入からである。総収入と共に増加しかつ純収入の負担とする所となる租税は、必然的に、極めて重荷的なかつ極めて堪え難い租税でなければならない。十分一税は、土地の総生産物の十分の一であり、その純生産物の十分の一ではなく、従って社会が富において進歩するにつれて、それは、総生産物については同一比例であるが、純生産物についてはますますより大なる比例とならなければならない。 |
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(六五)しかしながら、十分一税は、外国穀物の輸入が妨害されていない間は、内国穀物の栽培に課税することによって、それが輸入に対する奨励金として作用する限りにおいて、地主によって有害である、と考えられるであろう。そしてもし、地主を、かかる奨励金が促進するはずの土地に対する需要の減少の結果から、救済するために、輸入穀物もまた、国内で栽培される穀物と等しい程度において課税され、そして生産物が国家に支払われるならば、いかなる方策もより正当かつ公平ではあり得ないであろう。けだしこの租税によって国家に支払われるものはいかなるものも、政府の経費が必要ならしめる他の租税を減少せしめるに至るであろうからである。しかしもしかかる租税が単に教会に支払われる資金を増加することに向けられるならば、それは実際全体としては生産の全量を増加することは出来ようが、しかしそれは生産階級に割当てられた額の部分を減少するであろう。
もし毛織布の貿易が完全に自由に委ねられているならば、我国の製造業者達は、吾々が毛織物を輸入し得るよりもより低廉にそれを売却し得よう。もし租税が国内の毛織物製造業者に賦課され、そしてその輸入業者には賦課されないならば、資本は害を受けて毛織布の製造からある他の貨物の製造に追いやられるであろうが、それはけだし毛織布はその際には国内で製造され得るよりもより低廉に輸入され得ようからである。もし輸入毛織布もまた課税されるならば毛織布は再び国内において製造されるであろう。消費者は最初は国内において毛織布を買ったが、けだしそれが外国毛織布よりもより低廉であったからである。彼は次いで外国毛織布を買ったが、けだし課税された国内毛織布よりもそれは課税されずしてより低廉であったからである。彼は最後にそれを国内で買ったが、けだし内国及び外国の毛織布の双方が課税された時には内国のものがより低廉であったからである。彼がその毛織布に対し最大の価格を支払うのは最後の場合であるが、しかしすべての彼れの附加的支払は国家の利得となるのである。第二の場合においては、彼は第一の場合よりもより多く支払うが、しかし彼が附加的に支払うすべては、国家の受取る所とはならない、彼に課せられるのは生産の困難により惹起される増加価格である、けだし最も容易な生産の手段が、租税の束縛を受けて吾々から遠ざけられているからである。 |
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■第十二章 地租 | |
(六六)土地の地代に比例して賦課され、かつ地代の変動ごとに変動する地租は、結果において地代に対する課税である。そしてかかる租税は、何らの地代をも生じない土地には、または単に利潤のみを目的として土地の上に使用されかつ決して地代を支払わない所の資本の生産物にも、適用されないから、それは決して粗生生産物の価格に影響を及ぼさないであろうが、しかし全く地主の負担する所となるであろう。いかなる点においてもかかる租税は地代に対する租税と異らないであろう。しかしもし地租がすべての耕地に対して課せられるならば、それがいかに適当であろうとも、それは生産物に対する租税であり、従って生産物の価格を高めるであろう。もし第三等地が最後に耕作される土地であるならば、たとえそれは何らの地代をも支払わなくとも、それは、課税された後は、生産物の価格が租税の支払に応ずるために騰貴せざる限り、耕作され得ずかつ利潤の一般率を与え得ない。資本がその職業から抑留されて、ついに需要の結果、穀物価格が通常利潤を与えるに足るほど騰貴するに至るか、またはもし既にかかる土地に用いられているならば、それは、より有利な職業を求めてこの土地を去るか、であろう。この租税は地主には転嫁され得ない、けだし仮定によれば彼は何らの地代をも受取らないからである。かかる租税は、土地の質及びその生産物量に比例せしめられるべく、しかる時にはそれはいかなる点においても、十分一税と異らない。あるいはそれはあらゆる耕地――その地質がいかなるものであろうとも――に対するエーカア当りの固定的租税であろう。 | |
(六七)この最後の種類の地租は極めて不平等な租税であり、そしてアダム・スミス(編者註)によればすべての租税がそれに一致しなければならない租税一般に関する四公理の一つに反するであろう。この四公理は次の如くである。
一、『あらゆる国家の臣民は彼らの各々の能力に出来得る限り比例して政府の支持に寄与すべきである。 二、『各個人が支払わざるべからざる租税は確定的であるべく、恣意的であってはならない。 三、『あらゆる租税は、納税者にとりそれを支払うに最も便利なように思われる時または方法において、賦課せらるべきである。 四、『あらゆる租税は、それが国庫に齎す以上には出来るだけ少く人民の懐中から取り去りかつ出来るだけ少く人民の懐中以外にあらしめるように、工夫せらるべきである。』 (編者註)第五篇、第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三一〇――三一一頁)。 無差別的にかつその地質の区別を無視してあらゆる耕地に課せられる平等な地租は、最も悪質の土地の耕作者によって支払われる租税に比例して穀価を騰貴せしめるであろう。質を異にする土地は、同一の資本を用いて、極めて異る分量の粗生生産物を産出するであろう。もし、一定の資本をもって一千クヲタアの穀物を産する土地に、一〇〇磅ポンドの租税が課せられるならば、穀物は、農業者にこの租税を補償するために、一クヲタアにつき二シリング騰貴するであろう。しかし、より良き質の土地に同一の資本を用いれば、二、〇〇〇クヲタアが生産され得ようが、それは一クヲタアにつき二シリング騰貴した時には、二〇〇磅ポンドを与えるであろう。しかしながら、租税は双方の土地に平等に課せられるからより良い土地に対しても劣等の土地に対すると同様に一〇〇磅ポンドであろう、従って穀物の消費者は、啻に国家の必要費を支払うためにのみならず、更にまたその借地期限の間より良い土地の耕作者に一年につき一〇〇磅ポンドを与え、またその以後には地主の地代をその額だけ高めるために課税されるであろう。かくてこの種の租税はアダム・スミスの第四の公理に反するであろう、すなわち、それは、それが国庫に齎した額以上を人民の懐中以外にあらしめるであろう。革命前のフランスにおけるタイユはこの種の租税であった。平民の保有地のみが課税され、粗生生産物の価格は租税に比例して騰貴し、従ってその所有地の課税されなかった人々は彼らの地代の増加によって利益を受けた。粗生生産物に対する租税並びに十分一税は、この反対論から免れる。それらは、粗生生産物の価格を騰貴せしめるが、しかしそれらは、各々の質の土地に、その実際の生産物に比例して納税させ、そして生産力の最小なるものの生産物に比例しては納税させないのである。 アダム・スミスが地代についてとった特殊な見解からして、すなわち、あらゆる国において、何らの地代もそれに対して支払われない土地に多くの資本が投ぜられていることを、彼が観察しなかったことからして、彼は、土地に対するすべての租税は、それが地租または十分一税の形において土地そのものに対して賦課せられようと、または農業者の利潤から徴収されようと、すべて常に地主によって支払われるものであり、そして租税は一般に名目上借地人によって前払されてはいるが、すべての場合において地主が真実の納税者である、と結論した。彼は曰く、『土地の生産物に対する租税は実際においては地代に対する租税である。そしてそれは初めは農業者によって前払されるかもしれぬが、終局的には地主によって支払われる。生産物の一定部分が租税として払い出さるべき時には、農業者は出来るだけ詳しくこの部分の価値が年々幾何いくばくに上りそうであるかを計算し、そして彼が地主に対して支払うことを同意している地代をそれに比例して減額する。この種の地租たる教会十分一税が年々幾何に上りそうであるかをあらかじめ計算しない農業者はない。』(訳者註)農業者が彼れの農場の地代について彼れの地主と約定する時にあらゆる種類の蓋然的支出を計算することは疑いもなく真実である。そしてもし教会に支払われる十分一税に対し、または土地の生産物に対する租税に対して、彼がその農場の生産物の相対価値の騰貴によって補償されないならば、彼は当然にそれを彼れの地代から控除せんと努めるであろう。しかしまさにこれが、すなわち、彼は結局それを彼れの地代から控除するであろうか、または生産物の価格騰貴によって補償されるであろうか、ということが、論争のある問題なのである。既に述べた理由により、私は彼らが生産物の価格を引上げるであろうことを、従ってアダム・スミスはこの重要な問題について誤れる見解をとっていたことを、少しも疑い得ないのである。 (訳者註)キャナン版、第二巻、三二一頁。 スミス博士のこの主題に関する見解がおそらく彼をして次の如く述べしめた理由である、すなわち、『十分一税、及びこの種のあらゆる他の地租は、完全な平等の外観を有ちながら極めて不平等な租税であり、それは、生産物の一定分量も、事情の異る場合には、はなはだ異る分量の地代に相当するからである。』(訳者註)かかる租税は重さを異にして農業者または地主の異る階級の負担する所とはならないが、けだし彼らは共に粗生生産物の騰貴によって補償され、そして単に彼らが粗生生産物の消費者たるに比例してこの租税を納付するに過ぎないからである、ということを、私は説明せんと努力し来った。実に労賃が、そして労賃を通じて利潤率が、影響を蒙る故に、地主はかかる租税に対し彼らの十分な分前を納付せず特に免除された階級なのである。その基金が不十分なために租税を支払い得ない所の労働者の負担に課せられる租税部分が引き出されるのは、資本の利潤からである。この部分は資本の使用によりその所得を得るすべての者のもっぱら負担する所であり、従ってそれは毫も地主に影響を及ぼさない。 (訳者註)キャナン版、同上。 |
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(六八)十分一税及び土地と生産物とに対する租税に関するこの見解からして、それらは耕作を阻害しないと推論してはならぬ。極めて一般的に需要されているいかなる種類でもの貨物の交換価値を騰貴せしめるあらゆるものは、耕作及び生産の両者を阻害する傾向がある。しかしこれはあらゆる課税から免れ得ぬ害悪であり、そして吾々が今論じている特定の租税に限られるものではない。
このことはもちろん国家によって受領されかつ支出されるすべての租税に伴う不可避的な不利益と考え得よう。あらゆる新労働の一部分は今や国家の自由になし得る所となり、従って生産的に使用され得ない。この部分が極めて大となり、そのために、通常彼らの貯蓄によって国家の資本を増大する者の努力を刺戟するに足る剰余生産物が、残されなくなるであろう。課税は幸さいわいにして、未だいかなる自由国家においても、不断に年々その資本を減少せしめるほどに行われたことはない。かかる課税状態は久しく耐えられ得ないであろう。またはもし耐えられたとしても、それは極めて多くの国の年々の生産物を吸収し、ために最も広大なる範囲の窮乏、飢饉、及び人口減少を惹起すに至るであろう。 アダム・スミスは曰く、『大英国の地租の如くに、各地方において一定不変の標準によって課せられる地租は、その最初の設定の時には平等であっても、時を経るにつれ国の種々なる地方の耕作の改良または等閑の程度の不平等なのに従って、必然的に不平等になる。英国においては、種々なる州及び教区がウィリアム及メアリの第四年の法律によって地租の課せられた基準となった評価は、その最初の設定の時ですら、極めて不平等であった。従ってこの租税はそれだけ上述の四公理の第一のものに反するものである。それは他の三つには完全に合致する。それは完全に確実である。その租税の支払期が地代の支払期と同一であることは、納税者にとり最も便利である。地主がすべての場合において真実の納税者ではあるけれども、この租税は普通借地人によって前払され、地主は彼に対して地代の支払においてそれを差引かなければならないのである。』(訳者註) (訳者註)キャナン版、三一三頁。 もし借地人によって租税が地主にではなく消費者に転嫁されるならば、しかる時は、もしそれが最初に不平等でないならば、それは決して不平等にはなり得ない。けだし生産物の価格は租税に比例して直ちに引上げられたのであり、そしてその故をもってその以後にもはや変化することはないであろうからである。もし不平等であるならば、私はそうであろうことを証明せんと試みたのであり、それは上述の第四の公理に反するであろうが、しかし第一の公理には反しないであろう。それは国庫に齎す額以上を人民の懐中から取り去るであろうが、しかしそれは不平等に納税者のある特定階級の負担する所とはならないであろう。セイ氏は、次の如く言う時に、英国の地租の性質及び結果を誤解しているように私には思われる、『多くの人は英国農業の大繁栄をこの固定的評価に帰している。それがこれにはなはだ多く寄与したことには、疑いは有り得ない。しかし小商人に向って次の如く云う政府には、吾々は何と云うべきであろうか、すなわち、「小さな資本をもって君は小さな商売を営んでいる、そしてその結果君の直接納税は極めて小である。資本を借り入れかつ蓄積せよ。君の商売が巨大な利潤を君に齎すように、それを拡張せよ、しかも君にはより多くの納税はさせないであろう。しかのみならず君の相続者が君の利潤を相続し、かつそれを更に増加せしめる時に、君の場合よりも彼らの場合にその評価をより高くはしないであろう。そして君の相続者はより多額の公の負担を負わせはしないであろう」と。 『疑いもなく、これは製造業及び取引に対して与えられる大なる奨励であろう。しかしそれは正当であろうか? それらの進歩はある他の代価によって得ることを得ないであろうか? 英国自身において、製造業及び商業はこの時期以来、かくも多くの差別待遇を受けることなくて、かえってより大なる進歩をすらなしはしなかったか? 一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加するとする。もし国家が彼からその増加された所得の五分の一を請求するとしても、彼れのより以上の努力を刺戟すべく四、〇〇〇フランの増加が残らないであろうか?』(編者註) セイ氏は、『一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加する』(編者註)と想像している。しかし一地主は彼がそれを自身耕作せざる限り、彼れの勤勉や節倹や熟練を彼れの土地に用うべき何らの手段をも有たない。そしてその場合には彼が改良をなすのは資本家及び農業者たる資格においてであって、地主たる資格においてではない。まず彼れの農場に用いられる資本の分量を増加することなくして、彼が彼として有つ任意の特殊な熟練によってその生産物をかく増加し得ようとは考えられない。もし彼が資本を増加したとしても、彼れのより大なる収入は彼れの増加された資本に対して、あらゆる他の農業者の収入が彼らの資本に対すると同一な比例を保つであろう。 (編者註)『経済学』第三篇、第八章、三五三――四頁。 もし、セイ氏の教える所に従い、そして国家は農業者の増加せる所得の五分の一を請求すべきであるとするならば、それは農業者に対する局部的租税となり、彼らの利潤には影響を及ぼすけれども、他の職業の者の利潤には影響を及ぼさないであろう。この租税は、あらゆる土地によって、すなわち産出額の乏しい土地によっても産出額の多い土地によっても、支払われるであろう。そしてある土地においては、何らの地代も支払われていないのであるから、地代の低減によってのそれに対する補償はあり得ないであろう。利潤に対する局部的な租税は決してそれが課せられた事業の負担する所とはならない、けだし事業者は彼れの職業を中止するか、またはその租税に対して補償を受けるか、であろうからである。さて何らの地代をも支払わない者は、生産物の価格騰貴によってのみ補償され得る、かくてセイ氏の提議せる租税は消費者の負担する所となり、そして地主の負担にも農業者の負担にもならないであろう。 もしこの提議された租税が、土地から得られた総生産物の分量または価値の増加に比例して増加されるならば、それは十分一税と何ら異る所なく、そして等しく消費者に転嫁されるであろう。しからばそれが土地の総生産物の負担する所となろうとまたはその純生産物の負担する所となろうと、それは等しく消費に対する租税であり、そして単に粗生生産物に対する他の租税と同様な仕方で地主及び農業者に影響を及ぼすに過ぎないであろう。 もしいかなる種類の租税も土地に対して賦課されず、そして同一額がある他の手段によって徴収されたとしても、農業は少くとも実際に同じほど繁栄したであろう。けだし、土地に対するいかなる租税も農業に対する奨励であり得ることは不可能であるからである。適度な租税は大いに生産を妨げ得ないであろうし、またおそらく妨げないが、しかしそれは生産を奨励することは出来ない。英国政府はセイ氏が想像したような言葉は用いなかった。それは農業階級とその相続者とをあらゆる将来の課税から除外し、そして国家が必要とすべきそれ以上の資は他の社会階級から徴収するとは、約束しなかった。それは単に次の如く云ったに過ぎない、すなわち、『かくの如くして、吾々は、土地にこれ以上の負担をかけないであろう。しかし吾々は、君らをしてある他の形において国家の将来の必要費に対する君らの十分な割当額を支払わしめる最も完全なる自由を保留する』と。 物納租税または十分一税と正確に同一なる生産物の一定の比例の租税について、セイ氏は曰く、『この課税方法は最も公平であるように思われる。しかしながらこれよりも不公平なものはない。すなわちそれは全然生産者によってなされる前払を考慮せず、それは総収入に比例せしめられ、純収入には比例せしめられない。二人の農業者が異る種類の粗生生産物を耕作する。一人は中等の土地で穀物を耕作し、その支出は年々平均して八、〇〇〇フランに当る。彼れの土地から得られる粗生生産物は一二、〇〇〇フランで売れる。しかる時は彼は四、〇〇〇フランの純収入を得る。 『彼の隣人は牧場または森林地を有し、それは毎年同額の一二、〇〇〇フランを齎すが、しかし彼れの支出は単に二、〇〇〇フランに当るに過ぎない。従って彼は平均して一〇、〇〇〇フランの純収入を得る。 『一法律が、すべての土壌の果実の生産物の十二分の一を、それが何であろうとに論なく、実物で徴収すべきことを命ずるとする。第一の者からはこの法律の結果として一、〇〇〇フランの価値の穀物が徴収され、また第二の者からは同じく一、〇〇〇フランの価値を有つ枯草や家畜や木材が徴収される。そこで何事が起ったか? 一方からは、彼れの純所得、四、〇〇〇フランの、四分の一が徴収され、その所得が一〇、〇〇〇になる他方からは、わずかに十分の一が徴収されたに過ぎない。所得とは資本を正確にその以前の状態に囘復した後に残る純利潤である。一商人は、彼が一年の間になすすべての販売に等しい所得を得るか? 確かにそうではない。彼れの所得は単に、彼れの販売が彼れの前払を超過する額に当るに過ぎず、そして所得税を負担すべきものはこの超過額のみである。』(編者註) (編者註)前掲書、三四四頁、三五〇頁。 上記の章句におけるセイ氏の誤謬は、これらの二つの農場の一方の生産物の価値が、資本を囘収した後に、他方の生産物の価値よりもより大であるから、その故に、耕作者の純所得はこの額だけ異るであろう、と想像していることにある。森林地の地主と借地人との純所得の合計は、穀物地の地主と借地人との純所得よりも遥かにより大であるかもしれない。しかしそれは地代の相違の故であって、利潤率の相違の故ではない。セイ氏は、これらの耕作者が支払わなければならぬ地代の量の異ることに関する考察を、全然省略したのである。同一の職業には二つの利潤率はあり得ず、従って、生産物の価値が資本に対し異る比例にある時には、異るべきものは地代であって利潤ではない。いかなる口実によって、八、〇〇〇フランの資本を有する他の人が四、〇〇〇フランを取得するに過ぎないのに二、〇〇〇フランの資本を有する人は、そ |