演劇・演芸

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雑学の世界・補考   

歌舞伎1

歌舞伎(かぶき)を全く知らない人はいないであろう。歌舞伎特有の化粧である「隈取(くまどり)」をし、派手な衣装に身を包んだ役者の姿や浮世絵などが思い浮かぶのではないだろうか。歌舞伎のシンボルにもなっている、黒・柿・萌葱(もえぎ)3色の「定式幕(じょうしきまく)」などもよく知られているし、海外公演などの成果もあって今では国際的知名度も高い、日本の代表的な伝統芸能となっている。国の重要無形文化財の指定を受け、2009年9月、第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財として保護・継承するため、UNESCO(ユネスコ)が登録する予定の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されているもので、リストに掲載された芸能は、「無形文化遺産保護条約」の枠の中に編入される仕組みのものである。
大衆娯楽として誕生した芸能が、名脚本・名役者・名音楽などに囲まれて大成した、現在の歌舞伎の世界を創り上げるまでの変遷を追ってみたい。  
歌舞伎は、江戸時代に大成した舞台演劇であり、他の伝統芸能に比べると歴史はそれほど長い方ではないのだが、既存の芸能の土台はあるにしろ、それまでにない新しい要素を生み出したことで独自のジャンルを築いている。教科書などにも掲載されている定説としては、出雲阿国(いずものおくに)が「かぶき踊り(阿国かぶき)」を生み出したのが原点であるという。「日本舞踊−歌舞伎舞踊」や「日本舞踊−新舞踊・歌謡舞踊」の項も参照していただければ幸いである。阿国が土台とした芸能は、室町時代から近世にかけて一般庶民の間に流行した風流(ふりゅう)であったが、更に民間神楽・念仏踊りなどを融合して生み出した「かぶき踊り」は当時斬新で、京都で大変な人気を博したという。阿国は出雲大社に仕える巫女と自称していたが、河原者であったともいわれ、明確には判っていない。当初「ややこ踊」「かか踊」「念仏踊」などと呼ばれる、当時の流行歌に合わせた踊りを披露していたが、やがてそれらを一変させて「かぶき踊り」を踊り始め、歌舞伎の始祖となった。かぶき踊りは、当時最先端の「かぶき者」の格好、簡単に言えば大きな刀を持つなど男装の派手な服装をし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる「茶屋あそびの踊り」を考案して、阿国自ら踊ったものである。それまでの踊り主体の芸能に、演劇的要素を加えた点が歌舞伎の始祖と言われる由縁である。
1603年に北野天満宮興行を行って以来、京都を中心に評判となった阿国の踊りを真似た芝居風の舞踊が、遊女らにより盛んに演じられるようになり、「女歌舞伎(遊女歌舞伎とも)」が誕生する。女歌舞伎は江戸時代、1615年〜1630年頃が最盛期の、遊女や女芸人による歌舞伎のことで、京都の四条河原や江戸の吉原には常設舞台が設置され、30人余りの男装の遊女が、艶やかで贅を凝らした多様な群舞(総踊り)を披露した。阿国の歌舞伎との違いは、当時最新の楽器であった三味線が用いられたことであるが、阿国はあえて三味線を使わなかったのではなく、高級品で手が出せなかったというのが通説である。風俗営業を伴っていたため公序良俗に反するという理由により禁令が出されて以来、公認の舞台から女性の姿が消え、女歌舞伎も次第に消滅したという。女歌舞伎に次いで人気となったのは「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」で、これは女歌舞伎誕生前から存在し、前髪のある成人前の少年が女装して演じるものだったが、これも男色を売り物としており風紀を乱すとして禁令が出され、若衆のシンボルである前髪を剃り落とし野郎頭になることと、舞台演目は物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件として興行が許可された。これ以後、現代の歌舞伎の原型である「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」が成立し、売色的要素を廃し、本格的に歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(技芸・物真似)を売り物とする芸能としての本道を歩み出した。女人禁制の芸能となったがために「女形(おんながた・おやま)」という役割が確立し、舞踊(所作事)は女方の担当となり、登場人物の心理描写として、仕草や情念などの内面的な「振(ふり)」が盛り込まれるようになった。演技や筋書きが重視され、劇芸術の体裁を整えた元禄歌舞伎において所作事は「狂言の花」といわれ(この狂言は歌舞伎の演目を指す「歌舞伎狂言」のこと)、数多くの名手が現れ、歌舞伎劇の中核を形成する華麗な舞踊劇に成長していった。
この「元禄歌舞伎(げんろくかぶき)」とは、歌舞伎が飛躍的な発展を遂げた隆盛期の江戸・元禄年間(1688〜1704年)の歌舞伎のことで、歌舞伎役者として著名な2者、江戸の初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)によって「荒事」が、上方(京阪神)の初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始された。
「荒事(あらごと)」は、歴史的主題を中心とした荒唐無稽の活劇作品で演じられる、力強く大らかな立廻り(演技)のことで、主人公は隈取(くまどり)という化粧や誇張された衣裳を着け、強いヒーロー役で、見得や六方などの独特の演技を持つ。
「和事(わごと)」は、現実的主題、特に恋愛などを主題とした作品で演じられる、柔らかく優美な仕草や台詞回しのことで、高貴な人物が何らの事情で身をやつしているという「やつし芸」が特徴的で、傾城(遊女)と恋仲になり、勘当され苦労する物語が多い。主役の男性は若くてハンサムで上品な、やさ男が典型であり、荒事とは対照的な、写実的な芸風である。  
また女方の名優として有名な、初代・芳沢あやめ(よしざわあやめ)が誕生し、女方の芸を確立させた。それまで俳優が歌舞伎狂言作者を兼ねていたが、この時代に近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)を代表とする独立専業職としての狂言作者が登場し、数多くの名作が誕生した。また江戸の荒事、上方の和事という芸風はこの後明治期まで続くことになるのだが、近松門左衛門が大坂・竹本座の座付作者として人形浄瑠璃界に戻ってから、享保〜宝暦年間(1716〜1764年)は上方を中心に人形浄瑠璃の全盛期に入り、逆に歌舞伎は低迷期に入った。当時、芸能においてその筋書きを担当する作者は、社会的地位と知名度を得始めたためであり、人気作者の作品というジャンルが出来上がりつつあった。人形浄瑠璃で上演された人気作は次々と歌舞伎化され、義太夫狂言の3大名作「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」が誕生した。また独特の舞台装置「回り舞台」が考案され、再び江戸歌舞伎の全盛期が到来することになる。
江戸時代末期の文化・文政期の頃、4世・鶴屋南北(つるやなんぼく、大南北とも)が世に出たことで、下層階級の世相・人情を生々しく写実的に描き、泥棒などを主人公とした「生世話(きぜわ)物」が確立され、美男の悪人である「色悪」、好きな男性のために悪事を働く中年女性「悪婆」の役が確立し、歌舞伎界は再び勢力を盛り返す。また一人が何役も踊ってみせる趣向の「変化舞踊」も全盛を迎え、引き抜き・早替わりなどケレン味ある演出が多くなった。その後の幕末期、作者として河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)、役者としては7世・市川團十郎が活躍し、また演目では、頽廃した世相を映し、盗賊を主人公にした「白浪物(しらなみもの)」が多く上演された。
明治維新が起きると、西洋化の大きな流れに飲み込まれて大混乱期に入り、西洋の演劇文化に関する情報が次々に入ってくると、歌舞伎の荒唐無稽な筋立て・奇抜な演出(ケレンなど)・興行の近代的でない慣習などを批判する声が上がり、学識者が中心となって見直しがなされ、「演劇改良運動」が展開される。これは、より日本文化を芸術的に高めようとする気運に呼応し、近代社会に相応しい内容に改めるべく提唱された運動である。一般庶民のみならず身分の高い者や外国人が歌舞伎舞台を見物するようになるので、みだらな筋立てを改め、これまで主君忠誠を誓う武士道的精神が尊重されていたものを、天皇中心の尊皇思想に変え、史実を重んぜよというのである。この影響を受け、演劇界に新派(劇)が誕生し、歌舞伎に高尚な要素が望まれた結果、能・狂言に題材を得た「松羽目物(まつばめもの)」や、正確な時代考証を志した「活歴物」が多く誕生し、新しい風俗を描いた「散切物」などの試みも始められた。天皇の観劇を実現させ、明治時代中期の1889年には「歌舞伎座」が開設されるなど歌舞伎の新時代の幕開けとなったのだが、観衆には逆に奇異な印象を与えたためか度々興行に失敗し、結局のところ従来の時代物の修正に留まる程度の変容であった。主眼であった舞台演出(演目・様式など)における成果は少なかったものの、担い手である舞踊家達の「振付」と「演じる」役割が確立し、役者・振付師などの師匠らが独自に公演するようになるなど、9世・市川團十郎の努力により役者の地位向上が図られた。そうした中で「団菊左」と呼ばれる9世・市川團十郎(劇聖)、5世・尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初世・市川左団次(いちかわさだんじ)の3名優が活躍する。正岡子規の句にも登場する一世を風靡した名優たちだが、この時代は「歌舞伎の黄金時代」とも呼ばれ、団菊左を軸に多くの名優を輩出した。明治時代後期から昭和の大戦前まで、演劇改良運動の影響下において「新歌舞伎」と呼ばれる多くの作品が文学者の手により生まれた。代表作は、岡本綺堂「修善寺物語」「鳥辺山心中」、坪内逍遥「桐一葉」「沓手鳥孤城落月」、小山内薫「息子」などであるが、大衆の支持は得られず、今日もあまり上演されていない。
戦後、GHQ(連合国総司令部)による芸能規制の中、親日家フォービアン・バワーズの尽力で歌舞伎は保護を受けたが、人々の生活に余裕が生じ始めると娯楽の多様化が起こり、歌舞伎は娯楽の中心から次第に外れてゆく。社会変動と共に歌舞伎も変動の時代に入るのだが、大阪松竹座・福岡博多座の開場、60年途絶えていた11代・市川團十郎の襲名披露、初の海外公演、日本最古の芝居小屋・香川県琴平町金丸座「こんぴら歌舞伎」の公演開始、3代・市川猿之助の「スーパー歌舞伎」など、様々な試みが始まる。近年は18代・中村勘三郎の「コクーン歌舞伎」、平成中村座の公演、4代・坂田藤十郎の関西歌舞伎の復興のプロジェクトなど、従来の枠組みを越え、時代に相応しい現代的な演劇を模索する活動が現在も活発であるが、受け継がれてきた大胆な手法や舞台などは、歌舞伎以外の芸術にも多くの影響を及ぼしている。  
歌舞伎の成立と歴史を振り返ってみたので、次に芸能としての歌舞伎の概要に触れてみる。
歌舞伎の作品や演目を「狂言」と呼ぶのだが、元来は脚本を指す言葉だったものが転用され、伝統芸能の一つである狂言と紛らわしいので「歌舞伎狂言」とも呼ばれている。成り立ちと内容はバラエティーに富んでおり、上演される作品数は400本余りといわれている。曲の成立から分類すると、現在伝承されている演目は、人形浄瑠璃(文楽)の演目を移植した「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」と、はじめから歌舞伎のために創作された「純歌舞伎狂言(じゅんかぶききょうげん)」とがある。人形浄瑠璃と歌舞伎は同じ時代の演劇で、相互に影響を及ぼし合い発展した足跡として、作品の大半は「義太夫狂言」であり、歌舞伎十八番に代表される「純歌舞伎狂言」には、能・狂言を題材にした舞踊作品「松羽目物」や、前述の「生世話物」「白浪物」などがある。なお義太夫狂言には「丸本物(まるほんもの)」「院本物(いんぽんもの)」「竹本劇(たけもとげき)」など、別称が多く存在する。
歌舞伎舞台は昼の部・夜の部とも3本建ての構成が多く、大抵は「時代物」、所作事(舞踊物)、「世話物」という順で披露される。また公演様式により、複数の演目の有名で人気のある名場面や舞踊などを抜粋し、組み合せて一日の興行にした「見取り(みどり)狂言」と、一日で一つの長編狂言を全編上演する「通し狂言」とがある。なお見取り狂言とは「選り取り見取り(よりどりみどり)」から採った語とされる。
また最も一般的なジャンル分けとして、登場人物の身分階級での分類によると、公家や武家階級(社会)を描き、歴史的事実を演劇化した「時代物」、現代のテレビドラマのような当時の江戸の市井の風俗、町人社会を描写した「世話物」に分けられる。時代物は、飛鳥・奈良・平安の王朝時代を扱った作品を特に「王朝物」と呼び、武家社会の中でお家騒動を扱ったものを「お家物」と呼ぶ。また世話物の中でも江戸末期の文化・文政の頃成立し、下層階級の世相・人情をリアルに生々しく描写したものを特に「生世話(きぜわ)物」と呼び、江戸時代末期、二つ以上の異なる筋を絡み合わせて生じた「時代物」「世話物」の区別ができない作品は「綯い交ぜ(ないまぜ)」と呼ばれている。江戸時代、歌舞伎公演は日出から日没までで全部公演するという幕府統制下にあり、当時創作された演目は比較的長大なものが多く、観客側にしても歌舞伎観劇は一日掛かりの行楽であった。集まった観客の様々なニーズに応え、楽しませることが歌舞伎公演に求められ、複雑な場面展開をみせる「綯い交ぜ」や、良いとこ取りの「見取り狂言」が誕生したという。観客を飽きさせず好奇心を満たすため新作を創作し、また視覚・聴覚を駆使させる奥行き・高さを利用した「花道」「セリ」「宙乗り」などの舞台装置は、歌舞伎を高度な演劇へと進化させ、引き幕を利用し時間を区切る演出は、時間の流れを物語の中に自然に導入する効果を得、複雑な展開を可能にした。もう1つ、明治維新以前の歌舞伎と人形浄瑠璃における特殊な作劇法として「世界」に則って狂言を作るという約束事があり、「平家物語の世界」「曾我物の世界」などがある。「世界」とは、演目の背景にある物語の土台となる基本的な枠のことで、既存の名高い伝説・物語・歴史上の事件などを題材にした演目(世界)の中に、物語の展開、当世風の人物や風俗を織り込むなどの戯作者による工夫・趣向などを観客が楽しむ構造が出来上がった。当時の為政者である江戸幕府の統制に配慮して実名を伏せ、別の人物として演じられたことから生じたものだが、初心者には理解し難い設定・展開のものに発展し、荒唐無稽の域に入るような、良く言えば超時代的な趣を現出するものとなった。現在創作される歌舞伎狂言は世界を持たないため、世界が現出していたミステリアスな魅力は無くなったが、逆に初心者にとって話の筋を理解し易くなったとも言える。  
次に、演者(役者)を離れ、舞台を支える別の要素について、角度を変えて見てゆくことにする。
歌舞伎は字面通り、歌・舞・伎の3つの要素が相まって出来ている。すなわち歌あり・踊あり・芝居(芸)ありの舞台であり、踊は「歌舞伎舞踊」の項を参照していただくとして、まず「歌」の部分に入る。
先述の通り、歌舞伎用に作られた演目・人形浄瑠璃から転用した演目・舞踊(所作事)とあるため、各分野に各々適した音楽を持ち、音楽も多彩になっている。大別すると、歌い物である「長唄」、語り物である「浄瑠璃」になる。以下それぞれの特徴を並べてみる。
長唄(ながうた)江戸時代初期の17世紀前半に上方から江戸に伝わり、歌舞伎専用の音楽として江戸で発達した三味線音楽で、「江戸長唄」とも呼ばれる。「細棹」という三味線を用い、高い音色で繊細な音を出すため「勧進帳」「連獅子」など、舞踊要素の強い演目で演奏されることが多い。BGM・伴奏・効果音を担当し、黒御簾(舞台上の専用の場所)で情景や情緒描写を行う重要な役割を持つため「黒御簾音楽」「下座音楽」と呼ばれている。歌舞伎舞台・演目への深い理解、役者の所作(演技)や舞踊の型などの熟知を要するため重要無形文化財に指定される「人間国宝」と呼ばれる奏者も存在する。
義太夫節(ぎだゆうぶし)三大義太夫狂言である「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」をはじめ、人形浄瑠璃から移入した「義太夫狂言」で演奏される。上方で発展した音楽で、「太棹」という三味線を用いるが、通常より音色が太く・低めで重厚な感じが特徴である。歌舞伎の義太夫節の太夫は状況説明を語るのみなので、浄瑠璃と区別して「竹本」(チョボ)と呼ぶ。主に義太夫には舞台上手の専用の場所「床」で演奏するが、舞台に置かれた台に座って演奏する「出語り」「出囃子」という形式も場合ある。
常磐津節(ときわずぶし)義太夫同様、浄瑠璃の一つで、語り物である義太夫に近いが、セリフ回しを要する。「豊後節(ぶんごぶし)」から発生し、江戸で発展したため「江戸浄瑠璃」と呼ばれる。舞踊劇や舞踊の伴奏として「出語り」形式を採り、「中棹」という三味線を用いるが、義太夫節に比べると軽妙な音色が特徴。「関の扉」「将門」「身替座禅」など。
清元節(きよもとぶし)常磐津節と同様、豊後節系浄瑠璃であり成立は最後だったが、極めて粋で軽妙な音楽として愛好され、舞踊劇や舞踊の伴奏として「出語り」形式を採る。浄瑠璃の中でも歌い物に近く、常磐津節と同じ「中棹」という三味線を用いるが、より繊細な持ち味を備える。江戸浄瑠璃の精髄とも言われ、大変高い音域で、技巧的に語るのが特徴。「隅田川」「落人」「保名」など。
上記の他にも河東節・新内節・大薩摩節などが使われる演目があり、また流派単独の演奏のみならず、1演目で各流派が順に演奏・合奏をするものもある。長唄・義太夫節・常磐津節が合奏するものは「三方掛合い」と呼ばれている。  
次に歌舞伎の特徴的なものを挙げるなら、派手な衣装(扮装)と化粧だろう。特に隈取(くまどり)は歌舞伎独特の化粧法で、元々は顔の血管・筋・筋肉を誇張して表現したものである。江戸・元禄時代の頃から俳優達により工夫され、大別して50種類位あるといわれる。紅隈は善・勇敢・若々しさを表し、藍隈・墨隈・代赭隈(茶)は陰気な凄み・邪悪さを表し、悪役や妖怪に用いられる。古来、化粧や刺青が呪術的意味を持っていたことは知られているが、めでたい字・図柄を描いた隈取もあり、これには招福・厄除祈願があるようだ。役者によりアレンジされたり、同じ役でも場面での感情変化により、隈取が変わることもあり、役者は見なくても隈をとる(描く)ことができると言われている。
また衣装もかなり豪華絢爛であり、能装束などと同様、ほとんど絹で作られている。特にスーパーヒーローなど超人役に用いられる、誇張されたデザインの衣装・髪型などは異様に大きかったり、尋常でなく奇抜なものだったりするので、素人目にも役柄が比較的判り易い。人物が変身する際の衣装変化も舞台上で行われるので視覚的に面白く、上半分の衣装をひっくり返す「ぶっ返り」や、瞬時にして他の役・扮装に替わる「早替り」など、「外連(ケレン)」とともに見どころの1つとなっている。
一般的にいう歌舞伎として歌舞伎舞台上のものを主体に挙げてきたが、それ以外に日本各地の農山漁村に伝承されている、祭礼の奉納行事などで地域住民が行ってきた「地芝居(じしばい)」「村芝居」「農村歌舞伎」などと呼ばれるものがある。この発祥は古く、義太夫狂言が成立する以前の、江戸時代の18世紀初頭には行われており、当時専門芸人が地方に巡業して来る「旅芝居」「買芝居」などの影響を強く受けて誕生したとされ、演目や形式などにその影響の跡が見られる。幕府統制下、素人が歌舞伎を行うことは大義名分が必要で、多くは「法楽芝居」として祭礼の奉納目的で行われたり、雨乞祈願などの名目で行われたため、為政者側も黙認出来たようだ。現在、歌舞伎保存会などを称する地芝居は全国に少なくとも130以上あると言われ、地域独自の演目や、ほとんど見られなくなった古い演目、珍しい型(演出)なども継承されている。  
さて最後になるが、歌舞伎独特の世界を理解するために、役者に対する基礎知識は必要不可欠だろう。現在活動中の主な役者の中でも名跡と呼ばれる有名なものを幾つか挙げてみたいと思うが、その前に、役者の屋号について少し触れておく。
屋号の由来は様々あるのだが、何故屋号が用いられるようになったかを探ると、江戸時代の身分制度下、役者達は階級外の河原乞食であり、芸が認められ商人身分が与えられると、経済力もあったため挙って表通りに住み、○○屋と名の付いた商いを始めたことから、役者の間で屋号で呼ぶことが流行したことに因るとされる。歌舞伎観劇中、見せ場で観客から飛ぶ「○○屋!」という「大向う」と呼ばれる掛け声に用いられる屋号を知っていれば、観客側の反応が理解し易くなるかもしれない。
「大向う(おおむこう)」とは、元来3階席の後ろの席を指す言葉であったが、席代が安くて天井に近い分声が通るとされ、常連の芝居通が座ることから、掛け声と、掛け声を入れる者も含めて「大向う」と呼ばれるようになった。掛け声は屋号以外にも様々あり、場面に即した言葉を、役者の合いの手のように絶妙のタイミングで入れるのは至難の業である。誰でも掛け声を掛けるのは可能であるが、しっかり気合を入れた声で、演目や役者についてそれなりに知識を持って声を入れないと、舞台の間や雰囲気を乱すことにもなり兼ねない。大向こうが絶対必要な演目があったり、大向うでも会に属して力がある者などは「木戸御免」という無料で観劇できる特権を持つなど、その果たす役割は意外に大きい。
以下、役者を列挙してみたが、これ以外にも数多くある。全て挙げられず申し訳ない気もするのだが、興味のある役者に関してはお調べいただければ幸いである。
市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)家屋号は成田家(なりたや)、定紋は三升で、市川宗家とも呼ばれる歌舞伎界最高の名跡であり、江戸歌舞伎の指導者的存在として君臨してきた。歴代の名優のうち、「荒事」を創始した初代、「劇聖」「団菊左」と呼ばれた9世が特に有名である。
尾上菊五郎(おのえきくごろう)家屋号は音羽屋(おとわや)、定紋は重ね扇に抱き柏で、市川宗家と同様、250年以上の歴史を誇る名門である。9世・市川團十郎と共に「団菊左」と呼ばれ、「散切物」のジャンルを拓いた5世が特に有名である。
中村歌右衛門(なかむらうたえもん)家屋号は成駒屋(なりこまや)、定紋は祇園守(中村歌右衛門)、イ菱(中村鴈治郎)で、4世から江戸に出た中村歌右衛門家と、大阪の中村鴈治郎(なかむらがんじろう)家に分かれる。3世・中村鴈治郎は、「和事」を拓いた上方の名優・4世・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)の名跡(屋号は山城屋、定紋は星梅鉢)を200年ぶりに継ぎ、人間国宝である。
坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)家屋号は大和屋(やまとや)、定紋は三ツ大(坂東三津五郎)、花かつみ(坂東玉三郎)。人気の女形である5世・坂東玉三郎(現)が特に有名。
片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)家屋号は松嶋屋(まつしまや)、定紋は七つ割り丸に二引きで、京都を本拠とする歌舞伎界の名門であり、15世(現)は坂東玉三郎との「孝玉」コンビで有名である。10代目以降は「我童家」と「我當家」が交互に名跡を継ぐ慣わしである。
松本幸四郎(まつもとこうしろう)家屋号は高麗屋(こうらいや)、定紋は四つ花菱で、日本舞踊松本流の宗家でもある。市川團十郎家の弟子筋にあたり、市川宗家に子が無い場合、養子を出した。
市川段四郎(いちかわだんしろう)家屋号は沢瀉屋(おもだかや)、定紋は三つ猿で、早変り・宙乗りなどケレンを得意とする。4世・市川段四郎の兄である3世・市川猿之助(現)は、「スーパー歌舞伎」で現在有名である。
中村歌六(なかむらかろく)家屋号は萬屋(よろずや)、定紋は桐蝶で、大正・昭和の名優と謳われた初世・中村吉右衛門(播磨屋)や17世・中村勘三郎(中村座)この家系から出ている。4世・中村歌六(現)は市川猿之助劇団で活躍中である。
沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)家屋号は紀伊国屋(きのくにや)、定紋は丸にいの字で、元禄時代から続く歌舞伎界の名門であり、退廃的和事が芸風である。幕末の天才的な女形として有名な、脱疽で手足切断に遭いつつも舞台に立ち、発狂して死んだという3世・沢村田之助は特に有名である。
 
歌舞伎2

徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603年)5月6日に新上東門院(後陽成天皇の母)の御所で、阿国が「かぶきおどり」を踊りました。
このときの踊りは出雲大社の巫女と称した彼女が、出雲大社本殿修復のための勧進として京の北野神社境内や五条河原で踊っていたものでした。念仏踊りの一種と言いわれますが宗教性は乏しく、伴奏楽器に笛・大鼓・小鼓・太鼓を用いて能舞台で演じるなど能の様式を踏襲した雑芸で、歌舞的要素の強いものでした。
「当代記」は「異風なる男のまねをして、刀脇差殊異相、彼の男茶屋の女と戯る体、有難くしたり」と記しており、彼女はキリシタンの風俗を取り入れ、ズボンのようなものを穿いて首に十字架を下げ、刀を腰に差し、男装をして「かぶき者の茶屋通い」を演じました。
阿国のこの踊りが歌舞伎の始まりとされているのはご存知の通りですが、「ややこおどり」に巫女舞などを交えたものをアレンジし、風俗的な流行唄を取り入れた即興的な歌舞でした。
阿国の歌舞は「かぶきおどり」や「阿国かぶき」などと呼ばれました。「かぶき」は、尋常でないもの、つまりは流行の先端を行くような異様な姿を表現する動詞を名詞のように用いて、当初は仮名で「かぶき」と書き、漢字で表記する場合は「傾奇(かぶき)」と書いていました。それを朱子学者の林羅山(1583〜1657)が「歌舞妓」(芸妓の「妓」)と当て字したといい、江戸期を通じてこれが用いられたのです。今日のような、文字通りの歌(音楽)と舞(舞踊)と伎(伎芸)を意味する「歌舞伎」と表記されるようになったのは明治になってからのことです。
この「異風異装」の「阿国かぶき」はたちまち評判となりましたが、このころの阿国は30歳を過ぎていたと思われ、当時としては女の盛りを過ぎていましたから、同じころ北野神社の境内で能を演じていた遊女浮舟にパトロンを奪われ、「遊女歌舞伎」の人気に押されて京を離れることになってしまいます。慶長12年(1607年)には江戸に現れて城中で勧進歌舞伎を演じ、慶長17年(1612年)に再び京に登場して、希代の色男だった名古屋山三が幽霊になって登場する「新しきかぶき」を演じますが人気の挽回はならず、既に40歳をも越えていたと推定される阿国のその後の足取りを伝える資料は残っていません。
遊女歌舞伎
「阿国かぶき」が評判を呼ぶと、六条三筋町の遊郭の楼主たちは阿国一座の人気にあやかろうと遊女に男装させ、伴奏楽器に伝来して間のない三味線を用い、五条の河原に替わって新しい遊興地となった四条河原で贅を凝らした艶やかな「かぶき」を演じさせました。
阿国一座の「かぶき」は数人で演じられたと思われますが、「遊女歌舞伎」では、「慶長見聞集」によれば「形たぐひなふとやさしきかほばせ、あひあひしく、こものこびをなし、花の色衣をひきかさね」て二三十人が群舞したといい、「孝亮宿禰日次記」は「向四条女歌舞妓令見物、数万人群衆、驚目者也」と記しています。「数万人」は大勢を表す慣用的な表現としても、その人気が異常なほどであったことが窺えます。
遊女が白粉の匂いをさせてかぶき踊りを演じていたころ、同じ四条河原で少年たちに女装させた「若衆歌舞伎」も行われていました。
古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」という名で括られて演じられていました。この延年は、稚児(ちご)が出るのが特色で、少年が芸能を演じることは珍しいことではありませんでした。しかも延年(鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた)の児舞(ちごまい)を舞った少年が僧侶と同衾することも行われていたといい、女性の芸と同様に少年による芸も、女色・男色の売色を伴って中世から引き続いて行われていたのです。
寛永6年(1629年)の「女芸の禁」によって伴奏を担当する地方(ぢかた)を含むいっさいの女性が舞台に上がることが禁じられ、これ以降、明治24年(1891年)に新派が「男女合同改良演劇」を行うまでの260年余の間、公認の舞台からは女性の姿が消えることになりました。とは言っても女芸が絶えたわけではなく、あくまで公には禁止されたということに過ぎません。
遊郭を公許として遊女を囲い込み、女芸を禁じたことで、楼主が座元になった「遊女歌舞伎」は姿を消しましたが、化粧をして女と見紛うばかりに艶やかとなった若衆たちの間に女が混じる「男女打交り狂言」が行われるようになり、客の求めに応じて若衆が、或は遊女が酒席に侍り、枕を共にしたのです。寛永17年(1640)になっても幕府から「先年申渡候、男女打交り狂言尽し停止候処、又々相始候趣相聞、不埒に付き、以後は厳重に申付候旨触渡さる」(伊原敏郎著「歌舞伎年表」)との触書が出されています。たぶん、実際には、幕府がたびたび触書を出さなければならないほど女芸は行われていたのでしょう。お上が発した一つの禁令で消えてしまうほど、庶民の芸能(或は文化)はひ弱ではありませんでした。
当初の歌舞伎は芸能であると同時に、今日言うところの風俗産業でもあったのであり、江戸期を通じて歌舞伎と遊郭は二大娯楽であり続けました。
風俗産業といえば、明暦3年(1657年)に湯女風呂が禁止されています。
既に見たように、これに先立って遊女歌舞伎や若衆歌舞伎の禁令が出されていて、幕府は一連の性風俗の取り締まりを行っているかに見えますが、元和3年(1617年)には元吉原遊廓(現在の地下鉄人形町駅あたり)が公許されていて、規制の見返りに遊郭の楼主に特権が与えられ、幕府は禁止するのではなくて管理支配することを目的としていることがわかります。公許遊郭を設けることで「隠し売女(かくしばいじょ)」を名目的には禁止しましたが、実情は野放しと言ってよく、江戸深川、京都祇園、大坂島之内などの私娼街が江戸期を通じて拡大したのも、ご存知の通りです。
歌舞伎は「たかき御身、老翁、墨染の身」、つまりは公家・武士・僧侶などにも受容されていた芸能文化でした。当初吉原で認めていた遊女歌舞伎を禁止し、また若衆歌舞伎をも禁止したのは、広範な階層の人たちの間に浸透していた歌舞伎が関わる場(空間)は、遊郭や湯女風呂と同様に、管理されるべき悪所だったからです。
若衆歌舞伎
女芸の禁令を繰り返していた幕府は、三代将軍家光の死去で本格的に「悪所」の統制に乗り出します。遊女を公許遊郭に閉じ込めて後に遊女歌舞伎を禁止して廓文化を統御し、若衆歌舞伎を禁止して、武士が衆道(男色)に関して「不穏な輩」と交わる機会を消そうとしました。
たとえどのように規制されようと加えられた圧力を生命力に転化して強かに生き延びようとするのが民衆の文化です。若衆歌舞伎が禁止された翌年の承応2年(1653年)には、「前髪を剃ること」と「歌舞を控えて物真似狂言尽くしとすること」を条件に歌舞伎は「再御免」となっています。
1657年(明暦3年)に幕府の膝元を焼け野原にする明暦の大火(俗にいう「振袖火事」)が起こり、一説には死者10万人余という空前の被害を出して江戸は灰燼に帰しました。しかし、これを機会に江戸の大改造が行われ、治安の維持に配慮した町づくりがなされて、徳川幕府の下で、世情も安定を見せるようになりました。民間芸能にも変化は避けられないものとなり、「悪所」の歌舞伎は演劇的に成長することでその悩ましく艶やか魅力を留めながら生き残ろうとしました。1624年に猿若座(中村座)、1642年に山村座、1660年に森田座、1671年に村山座が開場して延宝年間(1673〜1681)には公許四座が確立し、堺町・葺屋町・木挽町が芝居町に指定されて規制と特権の中で「野郎歌舞伎」は「物真似狂言尽くし」への転換を見せつつ元禄期を迎えていったのです。
江戸が明暦の大火からの復興を急いでいたころ、上方の歌舞伎の規制は江戸ほどではありませんでした。既に公家や朝廷に対する統制が完了していて、幕府は世情への警戒を強める必要がなかったからではないかと見られていますが、依然若衆歌舞伎が演じられていたばかりか「男女打交り狂言」も行われていました。ところが、理由は定かではありませんが(江戸の規制に倣った?)、寛文元年(1661年)に一切の歌舞伎が禁止され、同9年までは演じることができなくなりました。
野郎歌舞伎となって再開されると「傾城買狂言」とか「島原狂言」と呼ばれている、島原遊郭(西新屋敷1641年に六条三筋町より移転)に傾城(遊女)を買いに行く、郭案内のような話が演じられました。内容は、名前を若衆から野郎に変えただけの、相変わらず若男の容色を売り物にした衆道(男色)狂言でしたが、それも年号が寛文から延宝へと変わるころになると変化が見られるようになり、容色だけの若男よりも女方が人気を得るように、つまりは女よりも女らしく演じる芸が評価されるようになっていきました。
そして延宝6年(1678年)2月に坂田藤十郎(1647〜1709)が「夕霧名残正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)」という、この年の正月に病没した大阪新町の遊女夕霧を悼む狂言で藤屋伊左衛門役を演じて「和事(わごと)」の基礎を作り、上方の歌舞伎も元禄期の賑わいを迎えていったのです。  
女方
「女形」「女方」と、両方書きますが両方とも誤りではないようです。歴史的には、「男方」と対になる「女方」の方が古く、女性を模倣する演技者としての職能意識が強まった延宝以降「女形」とも記すようになりました。女形と書いて「おやま」と読むのは立女形とか若女形とか前に形容する詞が付いた時に限られ、単に女形と書く時は「おんながた」と呼ぶのが正しい様です。この「おやま」は、承応年間に江戸の人形遣い「おやま次郎三郎」という人が。女形の人形を巧みに使いこなした名手であった所から、人形遣いの苗字の「おやま」からこの名前が伝えられるようになったということのようです。
肩書きに「男方」「女方」と区別をつけたのは、京阪の地から起こっていますが、その女方の始めは糸縷(いとより)権三郎という役者であったといいます。また、江戸では、京都の村山左近という役者が、境町の村山座の舞台へ現れたのが始めとされ、練絹の衣装を着けて、頭には染色の手拭いようの長い物を冠り、造花に短冊のついた枝を持って踊ったと書かれています。
初期歌舞伎は、男装のかぶき者と男性芸人が女装して演ずる遊女とによる「茶屋あそびのまなび」が中心でした。
「さてもふしきのよのなかにて、おんなはおとこのまなひをし、おとこはおんなのまねをしてちやのかかにみをなして、はつかしかほにうちそはめものあんししたるていさてもさてもとおもはておもしろしともなかなかに、こころこともなかりけり」(かぶき草子)
というように、現実の性と舞台の性を完全に逆転させての濃厚な性愛的内容でした。その後、女性が舞台に上がることを禁じられた結果、男が女を演ずるという事実そのものには変わりはなかったのですが、性愛的表現の対象となる女によって演じられていた男は、男が演ずる男となり、男に対して男が自己を異性化するという世界を創らなければならなくなったのです。
元禄前後の女方役者は、舞台の上の起居振舞はもとより平素の生活にも女性の行いを学んで、すべてを女に成りきることに心がけました。岩井左源太、早川初瀬、澤村小伝次は女方の三幅対と呼ばれ、更に後になっては、水木辰之助、芳澤あやめ、荻原澤之丞、袖崎歌流などが女方の四天王と呼ばれて女方の完成期が訪れました。
芳澤あやめ(1673〜1729)は、道頓堀の色子の出身で、元禄期の若女方の芸の基礎を築いた名優です。男である自分を自覚して、男が舞台に女を表現することこそ女方の務めであると考えました。
「あやめ草」に、女方の芸事の秘事口伝を伝えています。
「女形はけいせいさへよくすれば、外の事は皆致しやすし。其のわけはもとが男なる故。きつとしたることは生まれ付いて持てゐるなり。男の身にて傾情(けいせい)のあどめもなく、ぼんじゃりとしたる事は、よくよくの心がけなくてはならず。さればけいせいにての稽古を、第一にせらるべしとぞ」(あやめ草)
傾城は、日常的ないっさいの生活臭を感じさせない、風流で、鷹揚で、様良き非現実的な、男の目が作り上げた女の理想像です。つまり、男心をそそるように、作為的に作り上げられた女です。
あやめは、女方は男であるという自覚のうえで、男が女になるための目標を、日常を超越した傾城の「あどめもなく、ぼんじゃりとしたる」在り方としたのです。
「女方は色がもとなり、元より生れ付てうつくしき女形にても、取廻しをりつはにせんとすれば色がさむべし又心を付て品やかにせんとせばいやみつくべし。それゆへ平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし。ぶたいへ出て爰(ここ)はをなごのかなめの所と思ふ心がつくほど男になる物なり。常が大事と在るよし、さいさい申されしなり」(あやめ草)
性転換では、男であることを拒否した一人の女の肉体を作るのみで、それだけで女を成り立たせることはできません。女方は、平生を女の心で暮すこと、女の情を知り、それを体得して、自分の心を女の心に同化させることです。ここが要というところで意識しなければ女の情が表せないようでは、「上手の女形とはいはれがたし」なのです。
役柄
花車方/ベテラン女方の務める役で、初期の歌舞伎の廓通いの演出から発展した役。恋の仲立ちやもめごとをうまく解決する役柄。芝居の重要な部分を担う。「菅原」の覚寿、「盛綱陣屋」の微妙(みみょう)、「ひらかな盛衰記」の延寿など。この三人を「三婆」と呼ぶ難しい役。
娘方/いわゆる若い女性の役。
赤姫(あかひめ)/武家のお姫さま。お姫様は華やかな赤い振袖を着るためこう呼ばれる。また恋焦がれる情熱的な内面も表す。緋綸子の振袖、打掛も縫い取りの赤、吹き輪という鬘に銀の花櫛。「本朝二十四孝」の八重垣姫、「鎌倉三代記」の時姫、「祇園祭礼信仰記」の雪姫は三姫と呼ばれる。「桜姫東文章」の桜姫は赤姫だが、後に風鈴お姫というあばずれ女となる。
町娘/商家の娘。黄八丈に黒襟なども町娘の拵えのひとつ。「髪結新三」のお熊など。
田舎娘/都会の若衆に恋する田舎の純朴な娘。浅葱色や納戸色などの中振袖。「妹背山」のお三輪、「千本桜」のお里、「野崎村」お光、「神霊矢口渡」お舟など。
傾城(けいせい)/吉原など遊郭の女たち。太夫など位の高い遊女のことを指す。江戸時代の傾城は洗練され教育も受けたハイレベルな女であるため、色気、品位が必要となる。伊達兵庫(立て兵庫)とよばれる鬘に櫛笄を何本も差し、豪華な打掛に俎板帯(まないたおび)をつける。花道などで花魁道中を見せることもあり、三枚歯の木履で八文字を描くような歩き方が特徴。「助六」の揚巻、「籠釣瓶花街酔醒」の八ツ橋、「曾我の対面」の大磯の虎など。
女房役/武家や商家の女房。
片はずし/武家の奥方や局、武家に仕える奥女中や乳人。立役に匹敵する立女方(たておやま)の役どころ。鬘は片はずしというもので、堅実で誠実な、辛抱立役にも似た分別わきまえた大人の女性。「先代萩」政岡、「鏡山旧錦絵」の尾上など。
世話物の女房/貞淑な武家の女房で、夫や親に誠を尽くす。石持(こくもち)という衣裳が特徴。世話物では丸髷に小紋などの商家の女房役が多い。納戸、栗梅などの無地の着物に黒襟、丸帯という地味めの衣裳。「菅原」の戸浪、「傾城反魂香」のおとく、「心中天網島」おさんなど。
悪婆(あくば)/といっても年寄りではない。男を破壊させるような独特の魅力をもった女性。いわゆる毒婦。ゆすりたかりなお手の物で殺しまでやるときも。主家のためではなく、好きな男のためというかわいいところもある。伝法でちょっとべらんめえ、男と対等に渡り歩くたくましい女でもある。ポニーテールにも似た馬の尻尾という鬘に茶、藍の弁慶格子の着物、半纏などひっかけていたらこの役。「お染の七役」土手のお六、「切られお富」など。
女武道/女性で武道を得意とする男まさりの役。男なみに力のある、動きの激しい役。「彦山権現誓助剣」のおその、「和田合戦女舞鶴」の板額、「鏡山」のお初など。  
あやめ艸/女形
よし沢氏は古今女形の上手なる故、あれ是へはなされしことを聞伝へ、又は自分にも尋ねて書置ける事三十ケ条に成ぬるまゝあやめくさと名づけ此道のしるべとしふかく秘して人にもらさず其ケ条左のことし
一 或女形よし沢氏に聞けるは、女形はいかゞ心得たるがよく候や。よし沢氏のいはく、女形はけいせいさへよくすれば、外の事は皆致やすし、其わけはもとが男なる故、きつとしたることは生れ付て持てゐるなり、男の身にて傾情(けいせい)のあどめもなく、ぽんじやりとしたる事は、よくよくの心がけなくてはならず、さればけいせいにての稽古を、第一にせらるべしとぞ。
一 歌流(かりう)もとは香龍と書たるを、女形の名にはつよすぎたる龍の字と、よし沢ゐけんにて歌流と書替られたり。歌流あるとき狂言の仕様を尋られしに、よし沢氏日、家老の空席にて敵役をきめる時、武士の妻なればとおもふ心あるゆへ、刀のそりを打事かならずりつはなるものなり。武士の女房なればとて、常に刀をさす物にあらねば、刀の取まはしりゝし過たるは下手の仕内なり、刀をおそれぬといふ斗が仕内なり、何としてかとしてとゝいふてぶたいをたゝいてつかに手をかくるは、ぽうしかけたる立役なるべしと、度々申されしとなん。
一 吉沢氏の日、女形の仕様かたちをいたづらに、心を貞女にすべし、但し武士のつまなればとて、ぎごつなるは見ぐるし、きつとしたる女のていをする時は、こゝろをやはらかにすべしとぞ。
一 中の嵐三右衛門吉沢氏と夜ばなしの時、とろゝ汁を出されければ、吉沢氏箸を取かねられたり、三右衛門いはく女形は此たしなみなくてはさてさてわれらあやまり入たり、昼夜心易く致すゆへとの存ちがへとわびことをせられしよし、後に片岡氏に三右衛門あひて、あやめは名人なりと申されしは、かゝることまでに、たしなみふかかりしゆへなり。
一 十次郎申されけるは、女は右の膝をたて男は左の膝を立る、あゆみ出しもおなじ事とぞ、弟子へおしへられしもその通りなるを、吉沢氏ひそかにゐけんせられけるはそれは其通りなれども、見物衆の方へむかふ方のひざをたてず、又見へによるべし理屈ばかりにては歌舞妓にあらず、とかく実とかぶきと半分半分にするがよからんとぞ十次郎もそれより見へしだいにせられしなり。
一 武士の女房に成て刀を取廻す事、大勢に取こめられ、たとへばお姫さまをかばふての仕内には、いかにも男まさりに刀をさばくべし、こゝを大事と忠義の心せまるときは、さすがものゝふの妻なり、座敷にて敵役をきめるは、いまだせんのつまりにあらず、刀さばきおだやかなれかしと、さいさい玉柏への咄なるを聞たり、これは玉がしは大勢に取こめられたる仕内、かひなき故の異見とみへたり。
一 女形は色がもとなり、元より生れ付てうつくしき女形にても、取廻しをりつはにせんとすれば色がさむべし又心を付て品やかにせんとせばいやみつくべし、それゆへ平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし、ぶたいへ出て爰はをなごのかなめの所と、思ふ心がつくほど男になる物なり、常が大事と存るよし、さいさい申されしなり。
一 敵役をきめつけることは、まづは女形の役にはめいわくなる事と思へども、狂言の仕組によりていやといはれぬばあれば、其役を請取る事なり、かたき役をきめて勝(かち)をとれば、見物衆はさてもよいぞと、その女形を誉るものなり、これにくしにくしと思ふ敵役を、よはかるべき女がきめるゆへ、うれしがるはづにてはあれども、これに乗て見物へのあたりをこのみ、又してもまたしても此格な事をしたがるは女形の魔道なり、つゐには筋道へゆかぬ役者に成べしとぞ。
一 あやめ十次郎へ申されしを聞てゐたるに、さりとは新物のうけもよくてめでたし、しかしおかしがらする心持を止め給へ、仕内にてしぜんとおかしがるはよし、おかしがらせんとするは女の情にあらずとなん、十次郎少シはらをたてられたる躰(てい)なるが、其のちわれらにあふて、あやめは此道のまほり神と存ると申されしなり。
一 女形にて居ながら、立役になつたらばよからふといはるゝは恥のはぢなり、女形より立役へなをつて、立役にてともかくもよいといはるゝは、女形の時はわるかるべし、立役に直つてあしきは、女形の時よかるべしと、常に申されしが、あやめ立役になられてはたしてわるかりしなり、女にも男にもならるゝ身は、もとになき事故とかんじ侍りぬ。
一 女形にて大殿の前へ出、夫に成かはつて、事をさばくといふやうなる、女家老の役あり、いかにもしつかりとせぬ様にすべし、しつかりとしては男の家老がぼうしを着たるに成べし、申ても大勢立合の所へ、いかに家老の女房なればとて、心おくせぬ理はなし、身もふるふほどにあぶなあぶなかゝり、敵役がどつとつゝこんだ悪言をいふた跡にて、それよりきつとすべし、女は其場に成てはおとこよりいひ度ことをいふものなり、但、少は上気したるていにて、狂言をすべしと申されし。
一 女形は貞女をみださぬといふが本体なり、是を以てほんの女とおなじ道理を合点すべし、いかやうに当りの来べき狂言にても断いふべし、女形より役をいぢるといふは此場が第一なるよし、若き衆へ咄されしなり。
一 藤十郎と狂言する時は、ゆつたりとして大船に乗たるやうなり、京右衛門と狂言する時は、気がはつて精出さねばならず、三右衛門と狂言する時は、ひつはつてせねば間がぬけたがるといふ事、さいさい申されしなり。
一 人の金をかへさずはらひもせず家をかい、けつこうなる道具を求め、ゆるゆると暮す人と、相手のそこねる事をかまはず我ひとり当りさへすればよいと、思ふ役者が同し事なり、金をかしたる人何ほどか腹をたつべし、相手になる役者、みぢんに成ことなれば、つゐには身上のさまたげともなるなりと申されし。
一 左馬之助申さるゝは、まりをけるやうに、相手へのわたし方を専(せん)にするがよしと、あやめ申さるゝは、鞠を蹴る様に渡し方を専にはしがたし、相手をそこなはぬやうにするといふは、我が当りをと心がけぬことなり、上手に成るやうに精さへ出さば、一場のあたりはなくとも、全躰の人がらにあたりあるべしとなん。
一 あやめ申されしは、我身幼少より、道頓堀にそだち、綾之助と申せし時り、橘屋五郎左衛門さまの世話に成たり五郎左衛門さまと申は、丹州亀山近所の郷士にて有徳なる御人、いかふ筋目ある人なりしが、能をよく被成たり、親方は三味線方にてありしゆへ、さみせんに精出せと申さるゝあいあいに、五郎左衛門さまを客にするこそ幸なれ、何とぞ能をならひおけと申されし故、二三度も頼たれども、五郎左衛門さまとくしんなく、女形の仕内に精出すべし、大概人に知らるゝ迄は、外の事むようなり、それに心があれば本体の仕内の心がけが外に成べし、其上能といふものは、なまなかに覚ては狂言の為あしかるべし、なぜになれば、仕内はぬらりと成、又しても所作事が仕たく成らんか、かぶき方の舞をもよくこなしたるうへに、能もして見たくば、かつて次第とてをしへ給はらざりしなり、其のち五郎左衛門さま世話にて、親方を出、三右衛門どの取たてにて、吉田あやめと、我身よし沢あやめにて、一度に出、吉田に仕まけぬる事度々なりしが、吉田は北国屋さまといふ御方に、能事を少シ習ひしゆへ、能仕立の所作をもつて、さいさい当りをとらんとせられしに、わが身は又地の仕内にのみ骨を折て勤し、いつとなくわが身名をしられ、吉田はとりあへぬる人もなく成て、今は役者もやめたり、さてこそ五郎左衛門さまの言葉思ひ当りたり、此心わすれがたく、我身家名を橘やとつき、五郎左衛門さまのかへ名をもらひ権七とつきたるよし、ひそかにはなし申されし。
一 下手を相手に取たる時、その下手を上手に見する様にするが、藝者のたしなみなり。
一 仁左衛門方へふるまひに行しに三八わが身に向ひ、申はいかゝなれども、ちと新町へ御出候て、太夫のてい御らんあるべし五年まへとは大きにもやう替りたりきさまのなさるゝは五年まへの太夫の躰(てい)なり、只今はよほどそれよりはおちたる風なれども諸見物それを見てゐる故、風があふのあはぬのと申よしとのこたへに、御ゐけん添ししかし太夫は高上なるがよし、たつた五年の間にそれほど風俗が替りたらば二十年まへはとつとうんしやうなるべし、よき御異見にて心つきたり、五年まへをのりこし、二十年まへの風に致度候けいせいは古風にてだてなるがよし茶やふろやは当世過てするがよし、此心得より外はなしと申たれば、仁左衛門どの茶やふろやは当世過たるとある、過たるの言葉かんしんと申されしとあやめのものかたりなり。
一 仕内が三度つゞいてあたると、その役者は下手に成ものなりと、若き衆へ申されし、当りたるかくをはづすまいとするゆへ、仕内に古びがつくと見えたり。
一 女形はがく屋にても、女形といふ心を持べし、弁当なども人の見ぬかたへむきて用意すべし、色事師の立役とならびて、むさむさと物をくひ、やがてぶたいへ出て、色事をする時、その立役しんじつから思ひつく心おこらぬゆへたがひに不出来なるべし。
一 女形は女房ある事をかくし、もしお内義様がと人のいふ時は顔をあかむる心なくてはつとまらず立身もせぬなり子はいくたり有ても我も子供心なるは、上手の自然といふものなりとぞ。
一 あやめ申されしは、頃日(このごろ)天王寺へ花の会を見に行しにいろいろのめづらしき花共あり、したが今は梅のさかりなり、梅はめづらしからずとて、ゑもしれぬ珍花共ありて見物の衆手を打てめづらしがりぬるに、我身は梅花をよく立たるにのみ心とまりたりありふれたる花にて仕立の上手なるをかんじぬ、仕内もその様な物にて、女形は女の情をはづさぬやうにするが根本なりめづらしくせんとて、おかしみをたてとし、つよい事を柱とせば花は珍き花なれども、いつみてもよき花とはいはれまじきなり。
一 玉川半太夫は上手ではなけれども、ずぐ成仕内にて名を取たる人なり、岩井平次郎は上手なれども曲が過て後には、見おとされしなり、心得置べき事とぞ。
一 小勘太郎次くせに、左の手にて膝をたゝく癖あり、去とは見苦敷と人々ゐけんせしに、尤なりとて心を付てたゝかぬやうにせしに、仕内にはり合がぬけて、俄(にわか)に七ぶぎりも仕内下りたるやうなり、それより又膝をたゝいてすればいき返りたる様にはり合が出来たり、しかれば癖といふものあしき事なれ共、無理直しはならず、無理に直せば、いきほひのぬける事ありとぞ。
一 沢村小伝次若衆形にて、藤田孫十郎芝居へすみ、わが身は都万太夫へ住たる年、小伝次何か腹をたてゝわが身方へきたり、涙をながし、同座若衆形鈴木平七と、鑓(やり)の仕合の所へ、女形浪江小勘わけ入て、なだめる事あり、其所へ敵役笠屋五郎四郎来りヤアヤアわけまいわけまい、すでつちめらがほでてんがう、互にてこねさせたがよいとの口上、いかに狂言なればとて、色をたてる我々を、すでつちめとはわるきせりふ、もはや明日より座本へ断いふて、出まじきとの儀思ひ出せば久しき事なり、狂言のせりふにすでつちめといふが、色の障(さはり)に成るとある心入、今時の若衆思ひもよらず。
一 ひとゝせ早雲座にて、座本は大和や甚兵衛なりしが立役藤十郎京右衛門いまだ半左衛門と申せし時なり、一所に住べきはづを、夷屋座へ取たてゝ座本にせんとの事ゆへ半左衛門は別になる相談より、辰之介とわが身両人早雲座へすみたり、辰之助は夷屋座のやくそくなれども、半左衛門と入れ替わりの心にてのこと成しが、辰之助をとりはなしてはと夷屋座へは、荻野左馬之丞岡田左馬之介を抱へ、其詰に十次郎かもんをかゝへたり、時に藤十郎申されしは、今京都の芝居三軒の内、夷屋座には半左衛門といふつはものに左馬之丞左馬之介あり、藤川武左衛門若けれども長十郎あり、此方芝居には座もと甚兵衛われら次郎左衛門にそなたと辰之介あり、か様に牛角(ごかく)なれば、二軒ははり合ふこゝろ出来る物なり万太夫座には、中村四郎五郎を立役のかしらにして生嶋新五郎古今新左衛門三笠城右衛門女形は霧波千寿浅尾十次郎、よほどしばゐがら落たり、此芝居こわものなり、二軒ははり合まけになり、万太夫座は脇ひらみずに精を出すなるべし、座がすぎると外を直下に見るゆへ、あやうきことあり、これ狂言の仕内第一の心得とのはなし、果してその年万太夫座は大入にて二軒ははきとなかりしゆへ、座本せきが来て、いろいろ狂言の相談有を、藤十郎いふはいやいやこゝをせくはあしゝとて、長十郎を山形おりべの助に仕立、新よめかゞみを出されけるに、打て返すほどの大入、長十郎初て地の舞台へ出られしときにて、沢村小伝次おとゝの由ひろうし、新役者へ大役をさせて入をとる工夫、はたして仕当てられしを思へば、こゝろへ置べき事と、あやめの物がたりなり。
一 女形といふもの、たとへ四十すぎても若女形といふ名有、たゞ女形とばかりもいふべきを、若といふ字のそはりたるにて、花やかなる心のぬけぬやうにすべし、わづかなる事ながら此若といふ字、女形の大事の文字と心得よと稽古の人へ申されしを聞侍りし。  
初期の女方
西鶴の「男色大鑑」に名のみえる初期の女方です。
荒木与次兵衛/初代。荒木系祖。寛永14(1637)年生れ。父は大阪道化方の祖といわれる斎藤与五郎(ふんとく与五郎)という。花車方(かしゃがた老女役)で名作者の福井弥五左衛門に師事し、寛文4(1664)年に「非人敵討(ひにんかたきうち)」を演じて名声を得た。初代嵐三右衛門・藤田小平次とともに、延宝期の上方劇壇の重鎮となった。大阪堀江芝居の座元を勤め、立役としては武道・実事(じつごと)の妙手であった。元禄13(1700)年12月没。64歳。
嵐門三郎/初代嵐三右衛門の子。初名勘太郎。延宝末から女方として舞台に立ったが、天和にはいると父三右衛門が座元である道頓堀嵐座の若衆方となった。元禄3年11月、父の死とともに二代目三右衛門となり、立役と座元を兼ねた。元禄14(1701)年11月7日没。41歳。
市川かをる/貞享3(1686)年、京都大和大路芝居に若女方として登場。京都万太夫座の若女方として評判の美貌で売り出した色若衆。生没未詳。「女がたの美しきは下におかれぬ物、此君の美しさ、漠の李夫人そとをり姫も袖をおおふてにげたまふべし」(野郎立役舞台大鏡) 「前廉京にふと出られしより、いちはやく太夫となりて日々に繁昌し給ふ事、もとあいきやうよき生れつきゆへ成べし」(野郎関相撲)
伊藤小太夫/二代目。万治年間に二代目を襲名した京都の女方で、小大夫鹿子の創始者。寛文元(1661)年、上方から江戸に下り、古日向大夫座に属した。寛文末年にはまた上方に帰り、当時の名女方の上村吉弥(大吉弥)と並称され、お山小太夫と呼ばれた。濡・愁嘆をよくし、傾城役を得意とした。延宝6年春、京都北側芝居で、「吉野身受」の吉野太夫を演じ、半年余りの大入りをとった。元禄初年没という。
岩井歌之介/承応以前の若衆歌舞伎時代の女方。塩屋九郎右衛門座で美貌をもって鳴る。生没未詳。
上村吉弥(大吉弥)/初代。寛文・延宝期(1661〜81)を盛時とする上方の名女方。俗に大吉弥といい、吉弥結び(女帯)の創始者。もと大阪の道化方斎藤与五郎の抱えで、京都四条中の島芝居で売り出した。延宝8年刊の「役者八景」に女方として記載、天性の美貌で、舞所作に優れていた。天和元(1681)役者をやめて上文字屋吉左衛門と名を改め京都四条通りで白粉屋を開業した。享保9(1724)年6月没。「上村吉弥は平転を自由になせり。平は面体手足、力身なくやわらかに舞ふ。転は安らかなる所に悦として気を転ずる也。吉弥是をよく考へ、安らかにすらりと舞ふ中に、早く気をかへ心をあらため、行雲の夙にひらめき、秋の菓の日にかがやくがごとく所作をなせり」(舞曲扇林)
上村吉弥(二代目)/初代荒木与次兵衛の門弟で上村辰弥の兄。天和初年(1681)年頃二代目を襲名。貞享年間には若女方として、二代目伊藤小太夫につぐ位置をしめ、上村今吉弥として大阪嵐座・鈴木座の若女方、京都村山座の立女方を勤めた。踊りや愁嘆事、怨霊事を得意とした。「一、しうたんのせりふ上手にて人を泣かす事えもの。一、舞ぶり扇の手上手にてとりまはしりかうなり。一、怨霊となつて、地赤にうろこがたの箔装束きてかるわざのはたらき、随縁ふしぎの妙をえ給ふ……。一、人の奥様となつて、りんきに身をもやし、腹たつるふぜい、よくうつりて上手」(野郎立役舞台大鏡)
上村辰弥/天和・貞享期の大阪の若女方。二代目上村吉弥の弟。初名は上村辰之助。嵐座の若女方として評判。元禄4(1691)年頃自殺。「面体うつくしく、見かけからりはつのあまる芸ぶりなり。……一、舞上手にて扇こうしや也。手ばしかなる舞ぶり、姉のお吉(上村吉弥)に似たる所あり」(野郎立役舞台大鏡) 「今年給金百三十両、二十歳、居宅三津寺筋真斎橋東へ半丁北側」(難波立開音語)
右近源左衛門/若衆歌舞伎時代から初期の野郎歌舞伎時代にかけての上方の名女方。一説に元和8(1622)年生れ。振付師の始祖といわれる、歌舞伎伝助(日本伝助)の門弟。承応元(1652)年江戸に下り、「海道下り」や「山崎通い」などの道行を舞って好評を博した。万治・寛文頃は老女役を演じている。俗に女方の祖といわれ、前髪を剃らされた野郎歌舞伎時代の初期、鬘があらわれるまで、彼独得の置手拭を考案して月代をかくし、鬘が登場するまでの女方芸を守った(昔々物語)。
岡田左馬之助/貞享・元禄期の上方の若女方。貞享元(1684)年、大阪荒木与次兵衛座の立女方となり、同三年には京都岡村座の若女方となり評判をとる。元禄9(1696)年、江戸山村座に下る。生没未詳。「ぼつとりとしたるむまれ付なるゆへ、諸人ともにすきけるなり。……一、長刀つかふ事名人。一、舞ぶり扇の手上手也。一、ぬれのせりふしっぽりとして、上村よりましじやと都にてのとりざた」(野郎立役舞台大鏡)。
小桜千之助/初代。初代上村吉弥の門弟。京都村山座の開祖村山又兵衛の養子または縁者という。延宝・天和・貞享期の若女方の名手。大阪荒木与次兵衛座の若女方として評判。「女のぬれに三国一、またと類なし」(野郎立役舞台大鏡) 二代目は貞享四(1687)年に、大阪荒木座の若衆方小桜小太夫が、京都の村山座で襲名している。同時に千之助は立役となって村山九郎右衛門と名乗り、さらに元禄五(1692)年には、村山平右衛門と改名している。生没未詳。
袖岡今政之助/今政之助とは、今の二代目政之助の意。初代は延宝・天和を盛りとした若女方。俳書「道頓堀花みち」(延宝七年刊)に、袖岡由衣の名で入集している。元禄七(1694)年十二月三日没。四十四歳。二代は寛文六年生れで、初代の実子、または養子という。若女方で、貞享三(1686)年に大阪で二代目を襲名した。大阪荒木座の若女方、袖岡今政之助として評判をとった。元禄四年、江戸に下り、若女方として活躍した。正徳元(1711)年花車方(老女役)として舞台に立ち、江戸花車方の随一と称された。享保九(1724)年没。濡と愁嘆にすぐれ、花車方としては老母役を得意とした。
袖島市弥/上方役者。天和・貞享期の若女方。天和初年、大阪の大和屋甚兵衛座に若女方として登場。同三(1683)年冬、同じく大和屋座で太夫号を得、大和屋座の若女方として評判、文弥節の浄瑠璃・小唄を得意とした。貞享四(1687)年に江戸に下り、江戸中村勘三郎座の役者四天王の一人にあげられている。生没未詳。
滝井山三郎/寛文初年、京都で若女方として舞台をふみ、寛文三(1663)年には江戸に下って評判をとり、同五年十月には、市村座の「梅が妻」で大当りをとってまもなく、十二月には京都へ引き上げた。寛文七年、再び江戸へ下って中村勘三郎(二代目)座に属したが、当年より町奉行となった島田出雲守に寵されたので、山三郎は江戸四座のほかに一座を立てる事を願ったが成就しなかった。同年八月勘三郎が急死したので、その死は山三郎がその跡に代わらんための毒殺であったと「久夢日記」が伝えている。延宝三、四年頃に没。「此君人にこへ、おすがた心ばせ又有べきともおもはれず。ぬれ狂言のしなせぶり、うたふ小歌のひとふし、かりやうびんがともいふべし」(新野郎花垣)
竹中吉三郎/延宝・元禄期の上方役者。仕方舞の名手の戎屋吉郎兵衛の子。延宝期は竹中初之丞といい、京都戎屋の舞太夫であったが、天和・貞享期は若女方竹中吉三郎となり、京都岩本権三郎座に属して、藤田吉三郎と並称された。女方として京都一番の高給取り、といわれた。元禄元(1688)年九月から、立役竹中藤三郎となって大阪に下り、大阪荒木座の立役として評判。生没未詳。「一、舞ぶり扇の手上手なり。それはどうり、ゑびすやの吉郎兵衛といふ名人の親仁めが、存生の内によく仕入たもの。一、せりふもの言ひもそそらず、打ついてよし」(野郎立役舞台大鏡)
玉井浅之丞/寛文・延宝期(1661〜81)の江戸の玉川主膳座に属した若女方。玉川主膳とならんで評判、すぐれて美貌であった。「をうなかとみれば玉井の浅之丞今やうきひの花の面影」(垣下徒然草)。
玉川主膳/野郎歌舞伎の初期、万治・寛文期(1658〜73)の女方。寛文元(1661)年、京都から江戸に下り、新伝内座で若女方を勤め、扇舞・道行舞をよくしたが、「よわひふけ過ておもはしからず。たけたかくは反りてあしし。小うたわたりなみ也」とあり、すでに二十歳を過ぎていたらしい。同二年、玉川主膳座をおこして座元となり、翌三年には、市村竹之丞と相座元を勤めた。延宝初年、出家して可見と号し、法名を頼信といった
玉川千之丞/若衆歌舞伎末期から野郎歌舞伎初期(1650〜60)にかけて活躍した若女方。万治三年刊の「野郎虫」の京都村山座、玉川千之丞の評判に、「面体芸いづくを、難ずべきやうなし。…されども年の齢二十日ばかりの月を見る如くなれば、野郎の齢も今少しにて、一入(ひとしほ)惜しく思はる」とある。まだ歌舞本位の時代の舞の名手である。寛文元(1661)年江戸に下り、堺町の中村勘三郎座で、「河内通」の狂言で名声を博した。寛文五年、上方に帰ったが、翌六年にはまた江戸市村座に出演している。まもなく上方に帰り、寛文十年また江戸に下って中村座に出勤、翌十一年五月十四日、三十五、六歳で没した。「千之丞は虚曲の二つを得たり。虚は何心なくかろくして陽也。体ゆるやかに舞なせり。曲は風流なり。千之丞曲をつくるに、姿見の鏡を立てて我とその品を鏡に写し、人のみるさま心の移るやうを考て、女性の姿をよく分別せしゆへに、見物の心をときめかしける。是虚曲の二つを分別せしゆへ也」(舞曲扇林)
玉村吉弥/万治・寛文期(1658〜73)に活躍した若女方。はじめ、京都の夷屋吉郎兵衛座に属し、玄宗皇帝花軍の狂言で楊貴妃に扮して当りをとった(野郎虫)。寛文元年、江戸に下って、いにしえ座に属し、若女方として売り出したが、延宝初年には姿を消している。生没未詳。「いにしへ座玉村吉弥。いふばかりなくあでやかにして、此世の人ともおもほへず。…かかる人後の世にもいできなんや。芸の思ひいれ上手なり」(剥野老)
出来島小曝/寛文・延宝期の江戸役者。初代。伝説に女歌舞伎の頭目の一人の出来島長門守の門人という。寛文初年、若衆方として登場。のち若女方に転じ、美貌と舞所作・小唄で人気を博したが、背丈が延び過ぎて、延宝玉(完七七)年頃には姿を消している。「此君又たぐひなき白ぼたんとやいはん、きりやうずい一にして、こゑあざやかなり。……ただしたくましくのび過たるほいやか」(新野郎花垣)
外山千之助/貞享・元禄期の女方。はじめ京都で滝井沢之丞の芸名で若女方を勤め、まもなく外山千之助と改名し、貞享四(1687)年か元禄元(1688)年江戸に下った。生没未詳。「外山千之助住所ふきや町小見せ物うら。此君京四条の下り、今市村の座に出給ひ、女方をまなび給ふ。面体うつくしく、ぽつとりとしてやさしく見ゆる。諸芸たをやかに露こばれかかれる御よそほひ、誠に京女郎の風俗なり」(野郎役者風流鑑)
浪江小勘/はじめ京都宮川町山里文左衛門の抱え子で、陰子名を滝井浪江といったが、ある客に引かされて大阪に下ったのを、また母親が難題を吹っかけて取り戻し、再び陰子小島梅之助となった。延宝八年、道頓堀初舞台の際、浪江小勘と改め、天和元(1681)年、嵐座の若女方となり、嵐三右衛門の相手役として好評を博した。元禄初年には引退もしくは病死。「今年給金七十五両、二十八歳、居宅畳屋町東側、南より一丁目、柿無地のうれん」(難波立聞音語) 「此君ゆかりあつてなみ江小勘の名跡をつぎたまふにや。むかしの小かん大坂にて名を発したまふこと、たれしらぬものなし。中にも小野の小町になり、死んだあらし三右衛門を四位の少将にして大内のぬれ狂言おもひ出せば心ゆかし」(役者大鑑)
野川吉十郎/寛文・延宝期(1661〜81)の若女方。はじめ京都で上村吉十郎と称し、音曲と六方をよくした。事情あって野川吉十郎と名を改め、寛文六年頃江戸に下り、中村勘三郎座に属した。
藤田鶴松/天和・貞享期の大阪の若女方。天和二(1682)年十月、大和屋甚兵衛座の若女方として登場。色若衆のまま終わったらしい。
藤田皆之丞/延宝・天和・貞享期の京都の若女方。初代嵐三右衛門と並称された名立役、初代藤田小平次の養子。延宝二(1674)年京都夷屋吉郎兵衛座で十八歳の若女方として評判。下って貞享四(1687)年京都岩本座の若女方として評判。その後姿を消している。
藤村半太夫/万治年間(1658〜61)、京都長右衛門抱えで、村山又兵衛座の立女方として売り出し、その頃元服して輪鼓と称した。延宝三(1675)年頃、江戸に下り、森田座に出勤したが、すでに衰えていた。美貌で舞をよくした。
松島半弥/初代。延宝・貞享期(1673〜88)の大阪の若女方。延宝末年には道頓堀で松島半弥座の座元を勤めたが、貞享三(1686)年中に二十歳で元服し、七左衛門と改名して、畳屋町で井筒星という扇屋を開業した。同年刊の「難波立開音語」荒木座の条に、松島半弥、小歌喜兵衛抱え。給金三十両、二十歳、宅畳屋町、とある。
三枝歌仙/天和・貞享・元禄初年の上方の若女方。大阪荒木座の若女方として評判。元禄元(1688)年、京都の万太夫座の狂言に、若女方として出演している。「諸芸こうしやなる所多し。腰元子娘になり、それそれのぬれ事すぐれたるとはいはれねども、大方にあぢつくさるる也」(野郎立役舞台大鏡)
村山左近/若衆歌舞伎時代(寛永〜承応)の女方。堺の出身で、京芝居の祖村山又八の五男、江戸村山座の座元の村山又三郎の実弟。寛永十七(1640)年、一説に同十九年、江戸村山座に下り、染手拭をかぶり、はじめて女装して舞台を勤めたのが、江戸における女方のはじまりと伝えられている。右近源左衛門とともに、女方舞踊の代表的存在である。
吉川多門/延宝末年より道頓堀に若女方として登場。荒木座の若女方として評判。貞享元(1684)年の荒木座の役者給金付に、同じ若女方の浪江小勘の九十両に対し、歌二十両分を加えて、百十両とある。貞享三年十一月の顔見世狂言から、京都岡村座の若女方となった。のち花車方に転じ、元禄末年に消息を絶っている。「一、かれうびんなる御小歌、あれでも世界に人だねはあるか。一、諸芸こうしやにして打ついたる所あれば、大名高家のおくさま方に用てよし」(野郎立役舞台大鏡)  
陰間
歌舞伎が野郎歌舞伎となってからは、どうしても女役専任の俳優、すなわち女方(おんながた、おやま)が必要となります。そのころは、まだ鬘が開発されていなかったため、紫の袱紗で月代を隠す紫帽子(または野郎帽子)というものが開発され、女方のシンボルともなりました。
女方が専任になるにつれて、舞台に立つまでにはある程度の修行期間が必要になってきます。女方の養成として、幼少の男児を預かることは上方から始まったようです。
男児たちは、役者の候補生として種々の芸を仕込まれ、芸が未熟な内は「新部子」と呼ばれ、舞台に登り始めた若衆は「舞台子」と呼ばれました。「陰間(かげま)」または「陰子(かげこ)」は舞台子に至らず、陰に置いておく者の称でした。この陰間は別に「色子」とも呼ばれ、また舞台子でも、まだ一人前の役者になれない者も色子と称していました。その養成所で芸を仕込まれて、本舞台に登る以前に、田舎廻りで芸の修業に行くものを「飛子」と言いました。
女方にとっては、男に抱かれる、性的関係を持つ、というのは必須の修行であると考えられるようになりました。修行中の女方はむしろ積極的に酒宴の席などに招かれ、客に身を売るということが普通に行われるようになり、客の求めに応じるための性技をも修業させられ、舞台の芸と共に、閨の技法も仕込まれていたのです。
そのうち「陰間茶屋」というものが生まれてきました。陰間を抱えた料理屋、居酒屋、あるいは傾城屋(売色目的の茶屋)の類のことです。
最初は芝居小屋と併設され、歌舞伎役者になるために、芸の修業をするかたわら、座敷をも勤めるために男色の道にも励む「舞台子」などが、贔屓の客に招かれて行くのが陰間茶屋でした。しだいに芝居小屋とは分化して、役者の卵ではない、舞台には立つことのない陰間を抱えた茶屋が多くなっていき、時代の進むにつれ、色だけを売る陰間が養成されるようになって行きます。
陰間茶屋のあった場所として、本郷の湯島天神門前町、日本橋の芳町などが有名でした。湯島は上野寛永寺の所轄の土地であり、土地柄から寛永寺の僧侶たちがなじみの客となっていました。日本橋芳町の方は、最盛期には150人以上の男娼がいたといわれています。こちらは、日本橋に中村座,市村座などの芝居小屋が多かったためでしょう。大坂の陰間茶屋は道頓堀が中心でした。
陰間として男に色を売る盛りは短く、25歳でもう陰間としての価値は終わりだとされていたようです。「男色実語教」(元禄13年)には、衆道における春は、11歳より14歳までは「蕾める花」であり、15歳から18歳までは「盛りの花」であり、19歳から22歳までは「散る花」だとされています。
通常、陰間は13、4歳から客を取り始め、20歳前後には男の客の相手をすることは引退します。20歳過ぎの陰間は、もっぱら女性客を相手にするように転向するわけです。陰間は男の客に抱かれるばかりではなく、女の客も相手にしたわけです。
女の客は、後家と御殿女中が双璧と言われます。
江戸時代の商家では、旦那が死ぬとそのお内儀が店を継ぐことが多かったようです。また武家では、当主が死ぬと跡取り息子が幼くても、形式上家を継がせました。いずれも、夫に死なれた女性は簡単には再婚できませんでした。女盛りに後家となった奥方は、男妾を囲うか、陰間茶屋通いをすることになります。
御殿女中とは、大名屋敷に奉公する女性です。彼女らが屋敷から外出できたのは、芝居見物などを口実とした「宿さがり」の時だけでした。外出時間は申の刻(午後4時ごろ)までと決まっていたので、御殿女中の陰間遊びはあわただしいものでした。
陰間茶屋での遊興は、泊まりは別にして、「一切れ」を単位としていました。「一切れ」とは、線香一本の燃え尽きる時間のことです。線香の太さや長さで燃え尽きるまでの時間は違いますが、約1時間前後ではないかと思われます。
明和元年(1764)に発行された「菊の園」や同5年(1768)に発行された「三之朝」という男色細見(プレイガイドのようなもの)を見ると、陰間遊びの料金は昼の時間を6つ切り、夜を6つ切りにして、一切りが金一分。仕舞(一日買切り)が金三両。片仕舞(半日買切り)が金一両二分。ほかに小花(チップ)が金一部となっています。金一両は金四分です。
陰間を外に連れ出して遊ぶ場合には、片仕舞で一両三分から二両。ただし半日単位なのでほんの一刻でも同料金です。
これは吉原遊郭の高級女郎並で、陰間遊びができるのは、やはりかなり金持ちの武家,商人,僧侶に限られていたようです。
江戸の陰間は、多くは上方の出身者であったそうです。江戸者ですとどうしても言葉使いや態度が荒々しくなるので、おっとりした上方者が好まれたとのことです。
陰間として身を立てるには年少の頃から訓練が必要でした。
「男色十寸鏡」(貞亨4年)に、若衆は匂いのあるものは食べてはならない。焼いた魚や鳥、貝類、汁物などは悪しきものなり、などなど列挙されています。食べ方や、お酌の仕方などうんざりするほど事細かく述べられています。
また、「女大楽宝開」(安永頃)は、「女大学」の注釈本「女大学宝箱」をもじって色事本に仕立てたものですが、このなかの「若衆仕立様の事」では、15枚の画とともに、陰間の訓練のようすが描かれています。
若衆仕立様の事
一、衆道を仕立つるに、不束(ふつつか)なるはいでを子がいよりかかえとりて、たとえば、みめよき生れ付きにても、すぐさまつきだしにはならず。あるいは顔に色気あり、また眼本風俗卑しからずとも、そのままにてはしようつらず不束なり。これを仕立つるには、幼少より顔手足尋常、きめ美しくすること第一なり。この薬の仕様は、ざくろの皮をなまのあいだに採りて、白水に一夜つけ、明くる日いかきなどにあげ、その日一日かげほしをして、またその夜白水につけ、右の通りにして三日晒し、その跡に随分ほしあげ、細かく紛にして袋にいれ、これにて洗えばきめ美しくして、手足尋常になること妙なり。また歯を磨くには、はっちく(淡竹)の笹の葉を、灰にしてみがくべし。多くは消炭にてみがけどもあしし。また鼻筋の低きは十、十一、十二の時分、毎夜ねしなに檜木の二、三寸くらいなるにてこのごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面(めん)きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の暮より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分も入れ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門沾(うるお)いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩棒薬をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(たんばん:硫酸鋼)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえは野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一・事?)のことなり。
一、一分のりというは、ふのりをよくたき、きぬのすいのうにてこし、杉原紙に流しほし付け、これを一分なりに切りて、印籠に入れてもつなり。また酒綿とて酒を綿にて浸しもつなり。これはねまにて客の持ち物、あまり太きがあれば、右の酒をわが手にぬり、その手にて向うのへのこをひたものいらえば、自然とできざるものなり。客もあわずにかえる術なり。得あいませぬといえば、客の手前すまざるゆえ、これにて、両方共にたつしほう、それゆえ野郎はねまへ入ると、早速しなだるる体にて客の一物を引き出しいらうなり。ことさら女とちがい、色少なき物ゆえ、ずいぶんとぴったりとゆくがよしとす。
一、若衆の仕様は仰のけにしてするがよし。若衆はいやがるものなり。そのいやがるゆえは、客の案内にて行なうゆえなり。この仕様は初め後より入れ、肛門の湿う時分、一度抜きて、両方共によくふきて、それよりあおのけにして、またつけなおし、いるれば、くっつりとはいるものなり。はじめより仰のけてすれば上へすべり下へすべり、思うようにはいらざるゆえに、ひたもの唾をつけつけ、ひまをいれるゆえ、けつほとびてびりびりとするゆえ、けがすること多し。それゆえ一げんにてはできぬことなり。若衆のねまにも、多くしなありて、ねまへ入る前に裏(厠)へ行くもあり。これ若衆は体の弱きものゆえのことなり。かようの若衆は客の方にその心得すべし。裏へ行きてすぐにさせばよくはいれども沾いなし。また、しばらくまちてすれば肛門よく沾いたる時、初め記せし通りよくはいるものなり。一義しまい跡にて裏へ行くが大法なり。客もしばらくけつにてよくなやし抜くべし、若衆も跡のしまりよし。(女大楽宝開)
先ず、女の子のように顔形を器量よくすることから始めます。その第一は顔や手足を色白く、きれいに、きめ細かい肌にかえて美しく育てて行くのです。それには次のような化粧水を作って常日頃使わせます。先ず、ざくろの皮を生の間にはがし、水に一晩つけておきます。このようにして三日間さらしておき、その後はずっと長い間乾し上げ、これを細くくだいて粉にします。この粉を袋に入れ、これで洗えばきめ美しくなり、不思議に手足がきれいになって行きます。
次に歯をみがくには、はっちく(淡竹)の笹の葉を焼いて灰にし、これをつけてみがかせるようにします。消しずみを使って歯をみがいているのが多いようですが、これはよくありません。
鼻すじが通らなくて低い鼻のときは、鼻を高くするためにひの木の長さ二三寸の板を二枚用意し、その一端はひもで結びつけて自由に動くようにし、他の端の所にもひもをつけて結べるようにしたはさみ板をこしらえておきます。子供が九歳から十乃至十一歳の年頃になると、毎晩寝るとき鼻に綿を巻き、その上からはさみ板で鼻をはさんで、はさみ板の左右のひもを頭の後ろにまわして、面をつけたようにして結びつけて寝させます。こうして毎晩はさみ寝をさせれば、どんな低い鼻でも鼻すじが通り、高くなって行きます。
さて、陰間は遊女と同じように結局は売色を職業とするものです。しかし遊女による女色に対して陰間は男色ですから売色の方法が違います。そのために、子供のときから女としてしつけると共に、十一歳の終り頃から十二歳の年頃になると売色の仕方も仕込んでいったのです。
いちぶのりといって、ふのりをよく煮き込み、絹のみずこしで濾し、こうぞから作ったすぎ原の紙にながし出し、よくほして乾かし、これを一寸位の幅に切ったものがありますが、これを印寵に入れておきます。必要のときこれを取り出して、口の中に入れてよく解き、男の子を横に寝させて後門の穴の所にぬってやり、その晩は少しだけ一物を入れてやり、これでおしまいにします。二日目も同じように少しだけ入れてやり、三日目は半分位入れ、四日日より五日間は毎日三四回全部入れてやります。但しこの間は仕立専門の者が気分を出して気負い込んではよくありません。このようにゆっくり仕立てて行くと後門がうるおってよくなってきます。
遊女の水揚に村して、男の陰間は水下げといわれていますが「その用心にとく布海苔」という句があります。陰間を仕込んで行く時、木製の一物にふのりを塗りつけて、毎日数回入れならして行く方法もあったようですが、場合によって後門が切れてただれてくるようなことになると、そこに灸をすえてなおすなどして、一通りの仕込を終えるに一ケ月以上を必要としたという伝えもあります。
このようにして仕立てて行くのですが、初めからひどく乱暴に扱いますと直腸の裏膜をあらして痛がることが多くなります。これが十三、四歳から上の年頃になりますと痛がっても後門の所ばかりで内部に入ることはありません。この理由は、この年頃になってくると男の子も段々と色ごとを覚えてきますので、客とやる時自分の一物が固くなってくると自然に後門の方もしまってくるので、客の方は気持がよくなって荒く腰を使って抜きさし操作を繰返しますと、後門のふちをすってすじを切ることがあるのです。このときはすっぼんの頭を黒焼きにしたものを髪油でとき、これをつけてやるとよく効くとあります。
また棒薬を使って仕込む方法も書いてあります。先ず仕込み専門の者が男の子に一物を入れ、射精しないようにして毎晩幾日も続けて、ゆるやかに抜きさしができるようにするのですが、抜いた後に、二寸五分位に切った木の棒に綿を巻きつけ、太さを一物位の大きさにして、胆ばん(硫酸鋼)をごま油でといたものをこの棒に塗りつけ、寝しなに腰湯に入れて温めてやった後、この棒を肛門に差し込んで寝させます。あるいは棒薬というのは胆ばんをこよりにひねりこめたものや、山椒の粉をこよりに入れたもので、はじめ胆ばんを肛門に入れてやりますと、硫酸鋼のために直腸の裏膜が偏食して感覚が鈍くなってきます。これに山しょの粉を入れてやりますと直腸の膜が痒くなって、何か入れてなでてもらえば気持ちがよくなるようになってきます。このような腐食鈍感剤と起痒剤とを棒薬というのです。
さて、陰間が客をとって遅く帰ってくる時などは、その子のねどこに誰かが寝ておき、子供が帰ってきたときその人はねどこから出て、人はだにぬくもった後に直ぐに寝さすようにしてやります。このようにして育てて行けば病気になることはありません。とかく冷えることの多い仕事ですが、冬などこたつを与えるのはよくありません。遅く帰ってくる時など、このように扱ってやる心がけが必要です。
このようにして容貌や外見の習練を行い、髪や結髪の心得、歌を詠む素養、歩き方、客から酒を汲み貰う姿勢などを仕込まれた陰間は、はじめて化粧し、まゆをかき、歌や踊りの稽古をさせられ、やがて客をとることになります。
「若道の床入りといつは、床にいり給ひて、男の気をすゑさせ、平世になるまでは、たがひに真向にふして、わざとならぬはなし有べし。其咄も何がなと、ことうきたるような、木に竹つぎたるごとくの、そぐはぬ咄はつたなし。男おほかたくせものなれば、此はなししかけたまふうちに、心おちつくなり。其うちに、まくらもとに香などくゆらし給ふべし。わすれがたきやさしさなんめり。やうやくしめやかになりたるとき、そとみづからの帯をとき給ふべし。我つまを男にうちかけ、夜物などおおい給ふべし。其とき男もようよう帯をときぬべし。男気ざしたるていにみえば、かくありて後肌をあはせて、水もらざしと、ひたひたといだき給へば、何ほどよはき男も、これにいさめられて、だきしめる也。此ときしつほりとかかって、口すはせ給ふべし。思ひにしづんだ男、今のうれしき心のうち、たとへていはんかたなかるべし。此とき、やぼ成若衆は、とやかくとして、男の道具をにぎりてみたがる也。是ぎやうさんひけたる事なり。弓削道鏡はしらず、何程おほきなるとて、大かたしれたるもの也。若衆のうけやうにて、大分いれさせぬしかけも有事也。夢々いらひ給ふべからず。さて、男のきざしあらはるれば、よきじぶんに、いつとなくうしろむき給ふべし。我足のしたへなりたるあしくびを、男のかたえふみながし、上に成たる方を前へふみいだし給ふべし。かやうにあれば、男いれよくして、若衆のためもよし。おほかた入たる此、あしくびを一所にそろへ、ふみながし給べし。このしかけにては、後台谷ふかくなりて、男のだうくをはさむ心あれば、あまり深いりせずして、しかも感精をもよほし侍る也。是若道の極秘、敦盛の一枚起請にみえたり。此門に入たまはば、先此通路をひらき給ふべし。夫、菊座のひだは、四十二重なりと、むかしよりいひつたへたり。とをりかねるは、其皮こはくしまりたるゆへに、いるるにきのどくなり。さいさいあついゆにてあらひやはらげて、ねり木の汁をぬり、又は、蜜をぬりてとをし侍れば、やはらぐなり。いらんとするとき、うちよりはりかけ、すこしひらくやうに気をはり給ふべし。やすらかにとをる也」(男色十寸鏡)  
 
人形浄瑠璃

「人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)」より「文楽(ぶんらく)」の方が身近な名称かもしれない。古来より人形浄瑠璃と呼ばれていたものが、植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)という人物が興行した人形浄瑠璃と、彼が上演する劇場「文楽座」が誕生した19世紀初め以降、文楽と呼ばれるようになり定着した。人形浄瑠璃とは要するに、浄瑠璃の語り・演奏に操り人形が融合して誕生した人形劇であり、人形浄瑠璃と呼ぶ方が内容を理解し易いように思われる。ただ人形劇と言っても物語の筋立ては歌舞伎同様、時代物(歴史物語)と世話物(義理人情)であり、最初から完全に大人を対象に考案された伝統舞台芸術である。現在では国の重要無形文化財の指定を受け、また2009年9月、UNESCO(ユネスコ)による第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財を保護・継承するため「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されるもので、リストに掲載された芸能は「無形文化遺産保護条約」の枠中に編入される仕組みである。日本では文楽・能楽・歌舞伎がリストアップされており、いずれも国際的知名度が高く、伝統芸能として高く評価されているものであるが、本項ではこの大人向け人形劇が何故これほど流行し、伝承され、芸術の域に達し得たのかを探るため、その起源から順に追ってみることにする。  
人形浄瑠璃は、大夫(たゆう、浄瑠璃語り)・三味線弾き・人形遣いの「三業」で成り立っている三位一体の演芸であり、人形も一体につき三人掛かりで操られる。まずは「三業」を解体し、融合される以前の芸能の起源を追わねばならないだろう。各々の芸能の起源を年代順にすると、人形・大夫・三味線となるので、まずは人形遣いの起源から追ってみる。
人形(ひとかた)、形代(かたしろ)と呼ばれている、人の形に紙を切り、病・災厄・穢れを紙人形に移すという身代わり信仰が古くから存在したが、大元の母胎は、奈良時代(8世紀)に中国から伝来した「散楽」という芸能の中の、操り人形を使ったものと考えられている。平安時代の頃には「人形まわし」「傀儡(くぐつ)まわし」「木偶(でく)まわし」などと呼ばれ、漂泊の芸人・傀儡子(くぐつし)らが諸地方を巡廻興行し、社寺・宿駅の付近で生計を立てるため今様などを謡いながら人形劇を演じたが、徐々に定住を見せ、室町時代には兵庫県西宮市夷神社に雑用として奉仕しつつ芸能をする「夷(えびす)まわし」「夷(えびす)かき」と称される傀儡子舞が現れる。名の由来は、恵比寿神の神徳や縁起をテーマにしていたためとも、格好が七福神の恵比須様のようだからとも言われ、また江戸では「山猫」「山猫廻し」と呼ばれ、その様子から「首掛芝居」とも名が付いている。厳密に言うと夷まわし・山猫廻し・首掛芝居には違いがあるようだが、人形を操った芸能であることには違いがなく、これらの芸能が後の人形浄瑠璃のルーツになっていることも間違いないようだ。そうして江戸時代初期(17世紀)に、現在の人形浄瑠璃の演劇形態に近いものとして、それまでの人形劇と浄瑠璃が融合した芸能が出現したという。人形劇は猿楽などと同様、1400年にも及ぶ長い歴史を持ち、日本で愛好され、継承されてきたものなのである。  
次に大夫(浄瑠璃語り)の起源を見てみよう。
古くからある声楽は「謡い物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」の2つに分けられ、そのうち語り物は、物語に節を付けて語り聞かせるものであり、最古のものは琵琶法師が琵琶の伴奏に合わせて平家物語を物語る「平曲(へいきょく)」だとされる。平曲は非常に流行し、徐々に題材を増やしてバラエティに富む語りになったが、特に人気を博したのは室町時代中期(15世紀末)の「浄瑠璃」であった。浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を題材とした御伽草子の一種「浄瑠璃姫十二段草子」から出たものであるが、曲節が愛好され、物語が違っても、その節回しは「浄瑠璃節」と呼ばれた。この頃は扇・鼓での拍子取りや、琵琶の伴奏で語られていたようであるが、この後の16世紀中期、三味線が誕生して流行すると、琵琶法師たちは琵琶から三味線に持ち替え、浄瑠璃に使用し定着するのだが、浄瑠璃語りを「○○大夫」という芸名で呼ぶようになったのは、三味線と結び付いてからのようである。流行音楽は大衆の耳に留まり易かったため、この浄瑠璃が人形劇の地の音楽として用いられたのは自然の流れであった。この「操り浄瑠璃(人形浄瑠璃)」の誕生が江戸時代初期のことであり、江戸中期になると大変盛んになり、数十もの流派が現れ、その中に語りの天才とも称される「竹本義太夫(たけもとぎだゆう、筑後掾・ちくごのじょう)」が現れた。大阪人形浄瑠璃の劇場として「竹本座」を起こし、戯曲作者「近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)」を座附作者として迎え、「曾根崎心中」などの名作を多く生みつつ絶大な人気を博した。浄瑠璃史上記念すべき1686年、「出世景C」の竹本座上演を境に、浄瑠璃と言えば「義太夫節(ぎだゆうぶし)」と言われるほど一世を風靡し、それ以前の各派浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれるようになったほどである。歌舞伎を凌ぐほどの人気を博し、また歌舞伎に与えた影響は大きく、歌舞伎演目の多くが人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を「丸本」と称したため、移入された歌舞伎演目を「丸本物(まるほんもの)」と呼んでいる。時代物と世話物という歌舞伎にも転用されている2つの分類体系も出来、その後「福内鬼外(ふくうちきがい、平賀源内)」が江戸で初めて人形浄瑠璃を上演して以来、「江戸浄瑠璃」が起こる。また19世紀後半、「文楽」の名の由来となった「文楽座」が人形浄瑠璃の中心的劇場であった時代、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、それから遅れて昭和期の1953年以降「太夫」としていた表記を「大夫」に改め、現在に至るわけだが、最高位の大夫「櫓下(やぐらした、紋下とも)」は、歌舞伎役者の第一人者・市川団十郎よりも芸事的地位は高いものとされる。最後の櫓下は、近代の名人と謳われ1967年に没した豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)で、人間国宝(重要無形文化財保持者)で文化功労者でもある。浄瑠璃語りが「太夫」から「大夫」となったのは彼の意図によるとされ、古典資料・故事の研究にも努力した人としても知られている。  
次に三味線の歴史を追ってみる。
三味線(しゃみせん)と言えば江戸時代の町人文化が閃くほど、その関係は密接であり、当時の文化を代表する楽器である。確かに三味線の日本における歴史はそれほど古くなく、14世紀に入り中国から琉球(沖縄)に「三弦」が伝来し、織田信長の時代、琉球から「三線(さんしん、蛇皮線とも)」が本土・大坂堺に移入され、そこで改良されて16世紀中期に三味線が誕生した。更に海外での起源を遡ると、三弦の起源は中国北方のトルコ系遊牧民(キルギス)の古代弦楽器「火不思(クーブーズ)」だと言われ、中国・元代に三弦(唐三線)として漢民族の間に広まったという。
当時、平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達(琵琶法師ら)は新しい楽器に飛びつき、琵琶を三味線に持ち替え、撥で弾く三味線を考案し、瞬く間に流行した。その最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りし、研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線を浄瑠璃に用いるようになったのは「沢住検校(さわずみけんぎょう)」が最初ともいわれ、爪弾きでなく撥を使ったため技法・奏法が飛躍的に進歩し、浄瑠璃は音楽的にも大きく発展したという。三味線は短期間のうちに発達し、非常に技巧を要するものとなった訳だが、海外でも三味線同様「リュート」に属する楽器は古くから数多く存在しており、各々独自の発展をしつつ、各国の文化を支えている。  
次に、人形劇と浄瑠璃が融合し、義太夫節が誕生した後の人形浄瑠璃から、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、現代に至るまでの歴史を追ってみることにする。
近松門左衛門や竹本義太夫が世に出る17世紀半ば頃、人気のあった人形浄瑠璃・歌舞伎のために常設小屋が多く設置されたが、人形浄瑠璃の人形は当時「一人遣い」であり、複雑な動きが無いものだった。その頃から次第に顔の細部・手足まで複雑な動きを持つようになり、1734年に「三人遣い」が始まると人形も大きくなり、現在の人形・人形遣いの形態がほぼ完成し、18世紀半ば頃までに独自の舞台様式を確立した。しかし歌舞伎人気に火がつき人形浄瑠璃は翳りを見せるのだが、18世紀末〜19世紀初頭(寛政年間)、前述した初世・植村文楽軒が大阪に人形浄瑠璃の座を再興させた。1872年、3世・植村文楽軒(文楽翁)がこれを移転させ「文楽座」と名付け、後の明治末期まで文楽座のみが人形浄瑠璃専門の劇場であったため、人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれて親しまれ、また文楽座は文楽の中心的存在として君臨した。1909年、松竹が文楽座の経営・興行を行うこととなり再度移転となるのだが、当時は地の利を生かす為、政策的に度々移転が行われ、新築・移転・復興などを繰り返していた。1949年、松竹との待遇改善を巡って因会・三和会に分裂し、内紛もあり興行低迷期にあったのだが、1963年には因会・三和会両者が合同し財団法人文楽協会が発足、松竹が撤退して経営は国・公共団体・大型メディア企業の後援を受け、文楽界は統一された。1984年、大阪に国立文楽劇場が完成し、それまで文楽興行を行ってきた朝日座(旧文楽座)の歴史は幕を閉じたのだが、今日では国立文楽劇場以外でも一座が東京・地方劇場で公演を行っている。かつて六幕建てで一日掛かりであった公演も、二・三幕建てに短縮されるなど興行に係る全てが整備され、1955年には国の重要無形文化財の指定を受けている。幅広い大衆により理解を促すため、劇場での実演は録画され、興行数は増され、また「重要無形文化財保持者(人間国宝)」として演者の公的認定も進められ、今のところ深刻な消滅の危機は無いという。一時は他の伝統芸能同様、人材(後継者)不足に悩まされたものの、1973年に研修生制度が作られて以来、家柄などに関係なく若者が文楽に携わることが可能になり、新しい世代の演者の養成に努めることが出来たことは文楽にとって非常に幸運であり、また途切れてもすぐ復興し、中絶することなく文楽興行が続けられたのも、観衆の人気を得続け、また経営においても大きな後ろ盾を得て行われた賜物とも言える。芸事に携わる人にとって経営・興行企画などに労力と時間を費やし、本業である技能鍛錬に専念できないというのは大変残念なことに思う。
江戸時代には約700余りあった人形浄瑠璃の演目のうち、現在約160演目が継承されているが、上述のようにしっかりとした土台がある上、大衆的舞台芸術として完成度の高さと魅力を保っているため、現在の姿が欠けることなく伝承され続けて欲しいと思う。  
ここまで歴史を振り返ってきたので、次に人形浄瑠璃という芸能の概要に入りたい。まず前述した三業について触れてゆくことにする。
人形浄瑠璃が、古来より男性のみによって培われてきたものであるのは歌舞伎や能楽と同じである。舞台上では、大夫一人が全ての役を演じ分け、義太夫節の語りにより物語が展開し、三味線が舞台の進行役として大夫と人形遣いに合図を送りつつ、大夫と共に情景や心情を表し、基本的に人形遣いが3人で1体の人形を操ることで成り立っている。大夫と三味線弾きが演ずる場所を「床」と呼ぶのだが、円形で回転式になっているため「文楽廻し」とも呼ばれているのだが、衝立の裏に二人が座して準備し、回転させると舞台に現れる仕組みとなっている。大夫の手前には、大夫自身が書き写した「床本(ゆかほん、浄瑠璃台本)」が「見台」に置かれ、大夫がこれを恭しく頂いて語り始める。大夫は、老若男女・士農工商を問わず全ての登場人物の台詞に加え、場面の情景・事件の背景説明・心情などを独りで語り分け、長いもので一時間半余り(長い作品は別の大夫と交代で務め、掛け合いの場合は複数が並ぶ)、登場人物は多くて十数人になる。義太夫節を大別すると、三味線無しで会話を表す「詞(ことば)」、三味線を付して情景描写する「地合(じあい)」、三味線と共に唄う「節(ふし)」となり、3つが混然一体となり物語が表現される。義太夫節は、上方(京阪神)で生まれ育ったものであるため関西訛りで語られ、その語り・演奏は、初めて接する人には誇張された、おおげさな感じを受けるかもしれないのだが、それは義太夫節独特の表現法で、各登場人物の性格・心情の機微を語り分けるための手段であり、見る者に強く印象付けるものである。古めかしい昔話が題材であったとしても心の描写が主眼にあるため、年代を問わず共感を呼び、幅広い世代に愛好されている。  
三味線は、義太夫節には「太棹(ふとざお)」という、その名のとおり棹や糸も太く、胴や撥、音も大きい三味線が用いられ、重厚で力強く響きのある音色で、人間の感情をストレートに表現する。「日本舞踊−歌舞伎」「日本舞踊−歌舞伎舞踊」も参照していただけると三味線の違いが分かるかと思う。大夫の語りにおいて音楽性より物語の内容表現に重点が置かれるのと同様、三味線もまた大夫の語りの助けとなるべく、曲の心・人間心情を表現することが大切とされ、三味線と大夫とが一心同体となるのが理想と言われている。回転床になっている「文楽廻し」に乗り、大夫と共に正座で舞台に現れ、隣の大夫と呼吸を合わせて2人で舞台を作る。基本は2人だが、三味線方として複数人数が舞台に上がり、他の楽器を担当することもある。「細棹(三味線)」数挺が、高音で立ち回りなど複数の登場人物の様子を描写したり、余情ある情景の描写や登場人物が琴を奏でる時に「琴」が用いられたり、また「胡弓(こきゅう)」が切ない場面で用いられたりする。三味線方以外に、歌舞伎と同じく御簾(みす)の内で下座音楽(囃子・鳴物)を担当する「御簾内(みすうち)」と呼ばれるものがあるが、これも舞台構成上大切な要素となっている。  
文楽人形の最大の特徴は、一体の人形を3人で操るという世界的に見ても独特な様式にある。人形遣いは黒衣姿で、一体3人の役割分担を見ると、頭・首(胴)と右手を担当する「主遣い(おもづかい)」、左手担当の「左遣い」、両足担当の「足遣い」に分かれている。左手で人形の首の胴串を握り、等身大に近い背丈の、10キロ以上の人形を片手で支えつつ、人形の背骨となって全身を操る主遣いが最も重要であり、重要な場面では特に主遣いだけ顔を晒し、紋付袴で操る「出遣い(でづかい)」と呼ばれるものがある。この顔見せは観客に対するサービスの類で、更に派手な演出の際には肩衣を着る場合もある。主遣いは、3人の呼吸を合わせ三位一体となり、人形を生きているかのようにリアルに演出するために、「頭(ず)」と呼ばれる合図を出している。「頭」は音声を用いず、主遣いの操る人形の動きの中に表され、左遣いと足遣いは常に人形の首周辺に注目し、頭を察知するのだが、人形の動きには一定の様式があり、その流れを完全に理解した上で、次を予測しながら操るものだという。人形遣いの修業は、足遣い、左遣い、主遣いの順で始められ、その鍛錬は「足十年、左十年」「主遣い」を務めるには40年かかる、と言われるほど長く厳しい修練を要する。中腰を強いられる足遣いの姿勢が楽になるよう、主遣いだけは高く作られた特殊な「舞台下駄」を履き、人形遣いの配役は都合で変わるので、誰とでも呼吸が合うように鍛錬を要するという。人形遣いの職掌はなかなか想像・理解し難いので、人形について触れてみることにする。
人形の構造は実に簡単に出来ており、首(かしら)の下に胴串が付き、それを一本の肩板の穴に十字に通し、肩板から紐で手足がぶら下がっているだけの檜製の人形である。基本的に女の人形は足が無いのだが、足遣いが自分の手の関節や衣裳の動きを使い、足があるかのように見せている。人形の顔の表情は主遣いの担当であり、「仕掛け」「うなづき糸」などにより表情を豊かにするよう工夫され、また人形の左手には長い針金状の「さし金」が付けられ、左遣いによる綿密な動作の手助けとなるよう工夫が施されている。人形の衣裳は公演のたびに着せ替えられ、首と別々に保管されるため、人形遣いは自分が遣う人形に衣裳を着ける「人形拵え(にんぎょうこしらえ)」を要する。文楽人形の衣裳は人間用の呉服がそのまま使えぬため、染め・刺繍は特注で作られ、国立文楽劇場の衣裳部屋の倉庫に整頓され保管されている。衣裳部屋の一角に裁縫所が設けてあり、公演の配役決定後、倉庫から帯・襦袢・衿・上衣裳など必要な衣裳全部をまとめて選び出し、専任の縫い子が公演の前に首と衣裳を合わせ、後でばらす作業を行う。縫い子は衣裳の修繕・洗濯・新調などの管理全般の役目も負っている。基本となる人形の首は50種余りしかなく、肌の色を塗り替えたり、床山(髪結い)・鬘(かつら)担当者が、老若男女約120種類の基本型となる鬘と部分鬘を組み合わせて多彩な人物に作り替えるという。文楽人形の髪型は、千種類余りある部分鬘から、役に合う鬘を選び出して合わせる作業「鬘割り」が最も難しく、床山は首を汚さぬよう、ほぼ水で整形しながら役に合った形に結い上げる「結髪(けっぱつ)」という作業を要し、公演時には毎度整髪作業を行っている。銅板に植毛して鬘を作る技術も必要となる。唯一、名越昭司氏が文楽の床山師として無形文化財選定保存技術保持者の認定を受けており、現在のところ、ほぼ一手に床山を引き受けているというが、1公演で50〜80個余りの首が必要だというから大変な作業である。
印象的・個性的な表情を持つ文楽人形は、熟練の人形作者により丹念に手作りされ、その衣裳もまたリアルに見えるように柄・模様等を人形のサイズに合わせて特注し、人間の呉服と同じ素材で作られる。人形・衣裳の美術的・技巧的な素晴らしさと、人形遣いの鍛錬の上にある高度な技術とが相まって調和し、格調高く、希有な伝統芸能に昇華させているといえる。  
次に舞台構造と、舞台に要する道具類について触れる。
江戸時代より人形が工夫され、仕掛も進化すると、舞台機構も次第に進化して複雑になり、現在の文楽の舞台である「国立文楽劇場」の舞台様式として完成した。客席に最も近い上手(右)の位置に、大夫と三味線が位置する「床」が設けられ、人形が演じられる舞台は中央に位置する。舞台下部の大道具で、人形にとっての地面・床・海面となり、瞬時に変わる変幻自在な前景「手摺り(てすり)」、野山など風景を描いた舞台背景画「遠見(とおみ)」、舞台屋根部分にあり、風景や街並みを描き雰囲気を盛上げる「美術」などが客席から見える舞台装飾である。「手摺り」は人形遣いの下半身を隠すため50センチ余りの高さがあるが、観客の目線も上がってしまうため、舞台の床を掘り下げて「舟底(ふなぞこ)」にする。人形遣い等黒衣にとっては賞味85センチ程度の高さまで舞台空間が拡充され、遠近感を出したり、黒衣が控えたりする。公演に必要な大道具類(舞台装飾)は全て、舞台稽古の前に「道具調べ」として人形遣い立会いの下でチェックが行われるという。
「御簾内(みすうち)」という舞台2階の左右にある簾の掛かった場所は、前述したが囃子方・鳴り物方が音楽・効果音を担当し、通常姿は見えない。舞台両端の御簾内の下にある「小幕(こまく)」は、竹本義太夫と豊竹若大夫の2つの紋を染め抜いた黒幕で、人形・人形遣い(黒衣)が舞台に出入りする場所である。幕の開閉は若手人形遣いの役目で、舞台で演じられている演目の間を掴む修行にもなっている。
次に小道具だが、人形に合わせて7割程度に縮小された日用品の数々が、数万点余り数カ所の倉庫に眠っている。キツネ・犬など動物の類、人形の手に持たせる「持道具(もちどうぐ)」、家具など舞台に設置する「出道具(でどうぐ)」、手紙など公演毎に破ったり捨てられたりする類の「消え物」など、様々である。公演前に選び出した小道具類は、舞台裏にある棚に整理して保管され、公演中は黒衣姿の若手人形遣いが、棚から舞台にいる左遣いまで小道具を運ぶ。
目に見える舞台の要素を挙げてきたが、華やかな表舞台の円滑な遂行とその成功に欠かせないのが黒衣達の存在である。「文楽廻し」一つとっても自動回転式ではないので黒衣達が裏で働いており、彼らは「床世話(ゆかせわ)」と呼ばれ、公演中、演目ごとに文楽廻しを回転させ、太夫と三味線方の座布団・白湯の準備をしたり、地方公演の時には荷物の運送を担当したりする。  
最後になるが人形浄瑠璃文楽の演目について少し触れることにする。歌舞伎演目と関わりが深いことは前に述べたが、大別すると「時代物(じだいもの)」「世話物(せわもの)」「景事(けいごと)」に分けられる。
歴史的物語である時代物と、当時の義理人情などの人間心情を描いた世話物という2つの分類については歌舞伎と同様で、登場人物の身分階級での分類によると、公家や武家階級(社会)を描き、歴史的事実を演劇化したのが「時代物」、現代のテレビドラマのような当時の江戸の市井の風俗、町人社会を描写したのが「世話物」とされる。「景事」は、能・狂言・歌舞伎・人形浄瑠璃本体などから取材・独立した音楽・舞踊的要素が強い演目で、歌舞伎の「所作事(舞踊物)」に近い類である。
演目のうちでも「大曲」「難曲」とされる「仮名手本忠臣蔵−山科閑居」は神格化された演目であり「櫓下(やぐらした)」「紋下」という大夫・三味線・人形遣いの最高位である頭領格・一座の代表者が代々勤めるものであった。どう演出するか先人の口伝も残され、大半の大夫はこの演目を遣らずに終えてしまうものだという。最後の櫓下・豊竹山城少掾が1967年に没後、現在は櫓下不在の状態である。
 
浪曲・浪花節

「浪曲(ろうきょく)」と聞いてもピンと来ないが、「浪花節(なにわぶし)」と聞けば何であるかイメージできるかも知れない。浪曲と浪花節は同じもので、当初、浪花節の名称で親しまれていたものを蔑称としても使われた経緯を嫌い、浪曲として公表し始めたことで2つの名称を持つこととなった。「浪花節にでも出てきそうな」「浪花節的な」などの日本語表現も使われているし、内容的に義理人情の世界を扱うことが多いため、「浪花節」という語も、義理人情の代名詞のように使われている。まずはこの芸能の系統と成立から追ってゆくことにする。
浪曲は、その上演形態の共通性から落語・漫才・講談などと共に「演芸」の1つとして現在は扱われているが、大衆芸能としての本質は、落語・講談・漫才などの話芸と異なり、「曲」と付く通り音楽の1系統に含まれる。邦楽の中の「声楽」の2大系統として「歌い物」「語り物」があり、浪曲は語り物の1系統になるのだが、更に遡ると、声楽の源流は「声明(しょうみょう)」にあるとされる。以下、声明から浪曲成立までの流れを年代順に追ってみることにするが、声明は日本音楽の源にあり、言い換えれば日本声楽史に相当するものとも言えるので、興味のある方はじっくり読んで頂ければ幸いである。  
古代インドの学問分野に「五明(ごみょう)」というものがあり、その1つに音韻学・文法学として「声明(しょうみょう)」があった。日本へは仏教伝来と共に中国から「声明梵唄(しょうみゅうぼんばい)」として移入され、定着・発展してきたと見られている。声明とは仏教儀礼・法要の際、経文に一定の旋律を付して朗唱する声楽の一種で、「梵讃(ぼんさん・サンスクリット語)」「漢讃(かんさん・中国語)」「和讃(わさん・日本語)」など、3つの言語により書かれ、日本語で書かれた和文声明だけでも10種類余りあるというが、いずれも諸仏讃嘆・祈願を目的としたものである。奈良時代の752年、東大寺大仏開眼供養会が行われた際、法要で声明が盛大に唱えられたという記録が史実上初めて登場し、当時、既に声明が盛んに行われていたと見られている。中国・朝鮮で「梵唄(ぼんばい)」「唄匿(ばいのく)」と呼ばれていたことから、梵唄の名称も用いられている。平安時代初期、最澄・空海により中国から密教系の「天台声明」「真言声明」両派が主流派となって広められ、その後、平安時代後期の僧で融通念仏の祖でもある「良忍」が、京都・大原で日本各地の声明をほぼ全て吸収・大成したといわれる。「日本舞踊−念仏踊り」の項を参照頂ければ融通念仏の流れも解るかと思う。京都・大原は魚山(ぎょざん)流声明の本拠地として今日でも有名であり、この後、鎌倉時代の「平曲」(平家琵琶)や室町時代中期の「浄瑠璃」「謡曲」など、語り物において大きな影響を与えた。
さて本筋の声明の流れに戻るが、仏の教えを広めるため、一般の人々にも判り易いように、僧が経文を因果応報の話として仏事の席で語る「説経」が起こり、より馴染みやすく声明の音曲的要素(曲節)を加え、室町時代初期には「説経節(せっきょうぶし)」と呼ばれる芸能が誕生する。説経節は、仏教経典の解説・神仏の霊験・各地の伝説・寺社縁起などを題材とした庶民向けの説話が文学的に進展した、いわゆる唱導文学が更に発展したもので、江戸時代前期には伴奏楽器として浄瑠璃の三味線を取り入れ、「説経浄瑠璃」「歌浄瑠璃」という形式を生み出し、一般的な音楽として人々に受け入れられ全盛期を迎えたが、この頃は義太夫の浄瑠璃・文楽・歌舞伎の全盛期にあたり、その絶大な人気に押されて消滅していった。
方で、和讃を元として成立した山伏(修験者)祭文(さいもん)に音曲的要素を加え俗化した「祭文節(さいもんぶし)」から、更に芸能化した「歌祭文(うたさいもん)」という芸能が庶民の間で流行する。祭文とは本来、山伏修験者が錫杖を振り鳴らし、ほら貝を吹きながら、祭礼で神に捧げる祝詞(のりと)を唱え歩くものであるが、歌祭文は近世俗曲の1つで、門付芸人が死刑・情死など話題性のある事件や当時の風俗を綴った文句を、三味線などの伴奏で歌いながら巡業するもので、庶民が求める題材、例えば芸能ニュースのようなタイムリーな話題を題材に、アップテンポで面白く聴かせるものに変容した結果出来上がった芸能である。更に江戸時代末期には、説教節などを基調として江戸で「弔歌連(ちょんがれ)」「チョボクレ」、上方で「阿呆蛇羅教(あほだらきょう)」と呼ばれる都市部の大道芸に変化し、祭文節の別系統の流れとして歌説経・説経浄瑠璃を取り入れ「デロレン祭文」という流行芸が誕生した。関東での浪曲の直接的なルーツは、これら弔歌連・チョボクレにあると言われているが、上方(関西)での浪曲のルーツはもう一段階加わる。
江戸時代末期・文化文政期の上方で、弔歌連を改良しデロレン祭文を統合し、更に節の間に語りの部分を加えた「浮連節(うかれぶし)」という上方浪曲の前身にあたる芸能が誕生した。「京山恭安斎(きょうやまきょうあんさい)」が義太夫節・琵琶などの長所を採用し、三味線を伴奏とした新しい一人芝居として興行し、関西で大いに歓迎され、大衆芸能の名物となった。大道芸ではない大衆向け芝居芸としての自負から、地方巡業を多く行ったと言われる。明治時代初期、浮連節の人気を脇目に江戸へ上り「浪花節(なにわぶし)」として売り出し、人気を博したのが「浪花伊助(なにわいすけ)」である。古くから伝わる浄瑠璃・説経節・祭文語りを基礎として、大道芸として始められ、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。弔歌連の節回し、チョボクレの語り口上、デロレン祭文の発声、阿呆蛇羅教の音調子など様々な門付芸の要素に「河内音頭」「江州音頭」のリズム、講談の会話運びなど、大衆芸能の要素を融合・吸収して作られたと言われる。明治時代半ば頃まで、「ヒラキ」と呼ばれるヨシズ張りの掛け小屋で興行することが多く、大道芸人として軽視されていたものの、浪曲草創期の立役者として浪花伊助・京山恭安斎の名は伝説的に語り継がれている。
成立までの流れを見てきたが、その後、現在に至るまでの歴史も併せて紹介したい。
その後、東京で浪花節は勢力を増し、地位の高い寄席でも上演されるようになり、一方関西では浮連節専門の寄席が徐々に数を増していった。明治中期頃、浪曲の黄金時代を築いた桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が東京での27日間興行で大入りの成功を収めた時、壮士の演説会を真似て金屏風・立机が置かれ、羽織袴で演じるという現在の口演スタイルが誕生したと言われている。屏風裏で曲師が演奏するという演出の裏には、美しい妻である曲師を観客の目に触れぬよう隠したとの説もある。因みに、以前は浄瑠璃と同様、演台を前に置き、座り高座に曲師と並んで演じていたという。演題も、従前の講談などを元にした庶民的なものから、武士道鼓吹を名目とした「義士伝」など、この頃から現在の「金襖物(きんぶすまもの)」が中心に据えられ、大衆に熱狂的に歓迎された。特に桃中軒雲右衛門(東京)と二代目・吉田奈良丸(関西)は、政治活動家・思想家などの後援で初めて文士の手によるオリジナル脚本を創作し、確固たる思想に基づく主張のある格調高い演目となり、その芸術的価値が一挙に高められ、またこれに触発されて多くの浪曲師が義士伝を中心にオリジナル脚本の創作・整備を進め、浪曲全体の水準が高まることになった。その後、レコードの全国的な普及により地方巡業も華々しく持て囃され、歓迎された。その後の昭和期、戦前は民放ラジオ局が続々と開局し、浪曲番組は聴取率が高く、番組への採用も多かったため全国的な浪曲ブームが起き、隆盛を極めた。2代目・広沢虎造の登場により「清水次郎長伝」の虎造節が戦前から戦後にかけて一世を風靡した。戦後のテレビメディアの台頭に乗り遅れ、また大衆娯楽も多様化により、浪曲は次第に衰退してゆき、現在、古臭い芸と思われがちではあるが、若手育成や新しい試みとして海外活動なども始まり、今後どのように変遷してゆくか楽しみな芸能と言える。  
ここで浪曲の名称の変遷について少し触れておくことにする。前述のとおり、浪花節と浪曲は同じものであり、正式名称は現在「浪曲」となっている。関東・関西で、ほぼ同時に誕生した浪曲だが、上方ではしばらく「浮連節」と称され続け、江戸では「浪花節」の呼称が広まり始めた。明冶時代に入ると政府による芸人取締令発布により、興行のための鑑札の下附を受けるため、1872年「東京浪花節組合」が東京で結成され、新政府教務省の指示で由来書を提出し、「浪花節」という呼称が初めて公のものとなった。しかし1900年代初頭までは、弔歌連節・チョボクレ・浮連節など、全国的に共通した名称は持たない状態であった。東西の交流が始まり、全国的に人気を博するにつれ「浪花節」の名称で統一され始め、また大正時代半ば頃から「浪曲」という名称も一部で使われ始め、昭和期に入り「浪曲」の名が次第に一般化したのだが、昭和30年代に入り、日本浪曲協会は「浪花節」が蔑称としても使われた経緯を嫌い、「浪曲」として公表し始めたことで2つの名称を持つこととなった。現在は、偏見なく双方使用されているような状態である。  
次に浪曲の概要に移りたい。浪曲は、太棹(ふとざお)の三味線を伴奏として、浪曲師が1つの物語を「節(ふし)」と「啖呵(たんか)」で語る大衆芸能であり、この構成が浪曲特有の魅力を生んでいる。節は、物語の情景や登場人物の心情を歌詞として歌うものであり、啖呵は、登場人物を演じて台詞を話すものである。成立当初は「啖呵」がなく、平曲・謡曲・浄瑠璃などと同様、物語を謡い語るものであったが、内容・構成・演出などにおいて他の様々な芸能を自由に取り入れ、演劇的性格と話芸の性格とを併せ持った複合芸術となった。
浪曲専門の舞台として現在残っているのは、大正時代に開業した東京都台東区浅草の演芸場「木馬亭」のみであるが、大阪市天王寺区の一心寺では毎月1回「一心寺門前浪曲寄席」が開かれるなど、舞台装置として特別に必要となるものがないため、全国各地のホール等でも上演されている。ラジオでヒットした浪曲であるが、現在はラジオ番組も少なくなり、NHKラジオ第1放送「浪曲十八番」と朝日放送「おはよう浪曲」が根強く生き残っている。
舞台は、舞台中央の浪曲師(語り)の背後に金屏風、やや前方に屏風又は衝立を立て、三味線などの伴奏(曲師)がその裏の姿が見えない位置で演奏する。その後ろの中央演台の下手側横には演台より一段高い湯呑み台を置き、演者のすぐ後の背の高い椅子には流派の家紋を付した布がかかり、両袖の屏風前にも小さな台を置き、演台には様々な絵柄の布地が掛けられる。このテーブル掛けは厚地で、裾が左右に山型に広がるものであるが、相撲界の化粧回しと同じくファンが贔屓の浪曲師に送るもので、下部に金糸で贈主の名前が記され、湯呑み台の方に浪曲師の名が記されることが多い。布地は主に羽二重や塩瀬が用いられ、以上の一舞台用の布地が揃いで最低50万円以上するというから驚きである。売れない浪曲師が一体どんな布地を被せるのか見てみたいものだ。さて、浪曲師一人が中央の演台の前で、男性は紋付袴、女性は袴を付ける・付けない両方あるが、いずれも和服姿で上がり、椅子はあっても立って演じるのが基本とされる。この芸能の自由性のためか昨今の若手浪曲師はカジュアルな服装だったり、伴奏として三味線に替えてギター・ピアノなども用いられるようだ。
浪曲は、成立当時から義理・人情・情愛など、人間的な物語を題材として演じられることが多く、歌舞伎・講談・文芸・浄瑠璃・ニュースなど幅広いジャンルから物語が作られる。浪曲の演目(外題)は、一話完結のものから連続ドラマのように長編のものまであるが、大体30分程度の話となっている。演目内容は、講談と同系統の分類を持つが、その分類方法は公には定まっておらず、筆者もどの分類が正しいのか判らないのだが、おおよそ次のようになる。
「金襖物(きんぶすまもの)」お家騒動物・出世物などとも呼ばれ、武士の忠勇美談を題材とし、他の演目より格があるとされる。「赤穂義士銘々伝」「乃木将軍伝」などが有名である。
「端物(はもの)」世話物(悲恋・ニュースなど)・白浪物(泥棒物)など、他のジャンルに含まれないものを題材とし、「佐渡情話」「八百屋お七」「滝の白糸」「番町皿屋敷」などが有名である。
「三尺物(さんじゃくもの)」任侠物・侠客物とも呼ばれ、任侠、侠客、やくざ物を題材とした「清水次郎長伝」「国定忠治」「天保水滸伝」「瞼の母」などが有名である。
「ケレン物」歌舞伎の外連(けれん)から来た滑稽物、いわゆる「お笑い」のことで「ケレン読み」とも呼ばれる。「甚五郎小田原の巻」などが有名である。
浪曲の代表的な演目(外題)は通常、口演した浪曲師の名と共に有名となり、ヒットした演目は、ヒットさせた浪曲師の専売特許となり、断り無く他者が演じることはできなくなる。講談・浄瑠璃など著名な作品を原典とするものが多いため、同じ物語を複数の浪曲家が演じることはあっても、脚本は別物として扱われる。これは浪曲の特質として創造・個性を尊び、各々の浪曲師が自由に節付け・表現・演出するため、例えば2代目・広沢虎造の十八番「清水次郎長伝」と玉川勝太郎の「清水次郎長伝」は全く別の作品として扱われる。ヒット作は同流派の門人や後継者に優先的に受け継がれ、人気の名跡もまた同様に襲名されるが、そのまま受け継いで演じても、観衆からは受け入れられないのだという。浪曲には多くの伝統芸能に見られるような家元制度がなく、人気を勝ち得た者がトップに立つ訳で、その家の芸風が伝承過程で洗練されてゆく側面もあるが、個々の演者に個々の芸風が求められるし、同じ家系でも先代以上の独自性・創造性が求められる世界なのであり、現在は伝統の継承と個性の兼ね合いが求められている。
次に浪曲の節について触れるが、関東節・関西節・中京節(合いの子節)と大きく3つの地方で分けられている。
浪曲は東京と大阪でほぼ同時期に生まれ、交流しつつも各々特有の芸風が形成された。現在用いられている「関東節」「関西節」の分類によると、浪曲師の語り口調と三味線の調子により、速いテンポで高調子の関東節と、ゆっくりしたテンポで低音に特徴がある関西節とに大別される。ただし両者の違いは、浪曲師の本拠地が関東・関西かに縁らず、亭号にも縁らず、区分が明確ではないが、関西の浪曲師で関東節の者はおらず、昨今は、生粋の関東節の浪曲師が少ないと言われている。元来、両者の明確な違いは三味線の調子にあり、高調子が関東節、低調子が関西節とされたが、現在は三味線の響きが良く、伴奏が派手に聞こえ、また演者が調子を取り易いため、関西節の演者も高調子の三味線に変えてしまったので差異の説明は難しくなったが、各々の成立の背景から違いを見てみることにする。  
「関東節」は、基本的には明るく・高調子で・速いテンポが特徴とされ、関西から伝わった歌浄瑠璃をデロレン祭文に採り入れることで出来上がったもので、発声法(声質)は祭文語りの流れにより、高く張り上げるような、絞り出すような硬い高音域の寂声(さびごえ)が基本となる。よって変化に乏しく一本調子の節調が多いので、他の芸能の様々な節回しを取り入れることで変化を付けた。最も特徴的な節は「約節(やくぶし)」と呼ばれるもので、義太夫・説経節などから転用した「セメ」などの節を織り込むものである。古来より主流は、浪花亭駒吉が演じたことから起きた「浪花亭派」であり、浪花亭派から独立した「木村派」(木村重友)、上州祭文に瞽女歌を融合させた「東家派」(東家浦太郎)、デロレン祭文語りを発展させた「玉川派」(青木勝之助)などがある。
「関西節」は、逆に単調で・低調子で・遅めのテンポが特徴とされ、説経節からの流れを汲んだ軽く柔らかみのある寂声が基本となっている。よって変化に富み、表情豊かな節調による表現が可能だった。関西節では仏教説話の如く、柔らかな節回しの変化とともに強い説得力を持つものであり、逆に「滑稽節(ケレン節)」のような軽妙洒脱な表現・演出が生まれたのも関西節なればこそである。主流は京山恭安斎の祖とする「京山派」、吉田奈良丸を祖とする「吉田派」である。
「中京節」は、関西節の滑らかさに関東節の切れ味を取り込み、2つをうまく融合させたもので、「合いの子節」とも呼ばれる。独特の伊勢祭文語りの流れを汲んだ鼈甲斎虎丸の節がある。「清水次郎長伝」で大ヒットした2代目・広沢虎造が生んだ「虎造節」は、木村重松の関東節と鼈甲斎虎丸の中京節を融合させたものである。また歯切れの良い啖呵で知られ、任侠物「河内十人斬り」、ケレン物(お笑い)「左甚五郎」を演じて浪曲界を支えた初代・京山幸枝若が生んだ「幸枝若節」は、低く暗いイメージの関西節を、高音でノリのよいテンポに変え、新しいイメージを生み出した。他に、美空ひばりの十八番だった「唄入り観音経」を演じ、新内節を融合して「三門節」を作った三門博などがいる。  
最後に、演者である浪曲師について紹介してみることにする。
他の芸能と比べて伝統の継承に縛られることもなく、演者にとってかなり自由のある創造的な芸能であり、成立当初から女性に門戸が開かれ、男女全く同列で覇を競ってきたという、日本では稀な芸能である。浪曲の評価基準は古来より「一に声、二に節、三に啖呵」と言われており、浪曲界の実力は、その人気と等しく、よって大衆の嗜好如何に掛かっている。よって一般的に人気を博する浪曲師は、一に声の良い者、二に魅力的な節調(節回し)の者、三に話芸が巧みで啖呵に優れる者とされ、概ねこの法則は浪曲史上実証されてきた。しかし「節(ふし)で三年啖呵(タンカ)で五年」と言われるように、浪曲を学ぶ際は、節より啖呵が難しいとされる。不条理ながら、芸が不出来でも美声と名調で名を成した浪曲師は大勢おり、修行だけでは大成できず、天賦の才能が必要な訳である。この点が、話芸である講談や落語と並び称される演芸のうちでも、浪曲が声楽である所以である。
第一に評価される声であるが、声楽ではあれど清澄な美声が必要な訳ではなく、祭文から続いてきた発声である「寂声(さびごえ)」という閑寂・枯淡で、修練を経て老熟し、枯れて渋みの増した趣のある声が評価される。寂声による独特の声使いにより表現される登場人物の感情・心理の起伏は、観衆に本能的に伝達して感性に訴え、理屈抜きでストレートに感情伝達されるところが浪曲の特質であり醍醐味とされる。プロの浪曲師とアマチュアでは語りの上手・下手という技術上の問題以前に、声質差が歴然としており、アマチュアは物真似・節真似ができたとしても、歌唱力−寂声は簡単には育ち得ないものなのである。
第二に評価される節調(節回し)であるが、浪曲師が各々独自に創り出すものであり、奈良丸節、幸枝節など創作した浪曲師の名を冠して称され、独自の曲節を持って初めて一流と呼ばれる。だが昨今では新しい曲節を生み出すより、歴代の先人の芸から節の音程変化・呼吸・間等を写し取ることで舞台を演出する方が多く、また先に触れた寂声で物語を語るものとはいえど、啖呵の部分は自然会話の話芸として、自然発声で語られることが多いという。
第三に評価される啖呵であるが、簡単に言えば話術であり、これは技術的な要素が高く、修業を要するものである。一人ミュージカルと例えられるように浪曲師一人で何役をもこなすため、表現力も発声も多彩に用意できなければならない。しかし、浪曲は話すのではなく「唸る(うなる)」と表現されるように、ただ啖呵(台詞)を登場人物になりきって言えば良い訳ではないところが修業どころのようである。  
 
落語

「落語(らくご)」は「寄席」「笑点」などの語とともによく知られており、世代によっては、落語と共に人生・青春を歩んだなどと言い切ってしまう人もいるほどの人気がある。講談・漫才・浪曲(浪花節)などと共に「演芸」の1つとして、伝統的な話芸として扱われているが、これらの話芸の中でも特に落語は不動の人気を誇り、カラーテレビ時代から45年余り続いている落語番組「笑点」は、歴代3位の長寿番組だという。笑いの芸能として娯楽の王道を歩んできた落語を本項で紐解いてゆくが、落語愛好者でも読める内容になるよう掘り下げて進めてみたい。
まず「落語」という語の成立であるが、成立当初、本来は落語家が行う演目(ネタ)のうち滑稽物を中心として落ち(サゲ)を持つものを「落し咄(おとしばなし)」と呼び、それ以外は「話・噺・咄(はなし)」などと呼ばれていた。落語の表記は、江戸時代の18世紀後半に刊行された「新作落語徳治伝」で初見され、落語(らくご)と呼ばれるようになるのは明治期以降のことである。必ず落ちがあることから落し咄と名が付き、落語に転化したというが、落語演目には落ちのない人情噺・芝居噺などもあり、現在は全ての演目の総称となっている。ちなみに演者は「落語家」とも「噺家」とも呼ばれており、落語が幅広く浸透していた江戸時代当時の名称の名残が見られる。
落語家(噺家)は、各々の落語家のテーマソングである「出囃子(でばやし)」という三味線・太鼓などの下座音楽に乗って着物姿で舞台に登場し、「高座(こうざ)」と呼ばれる落語舞台の、真中の座布団に座って話を始める。座ったまま、基本的には身振り(仕草)と語り(言葉)の技巧のみで、様々な登場人物(子供・町人・武士など)を演じ分けるシンプルな芸で、衣装・道具・音曲を極力用いずに披露する素の芸であり、それゆえに観衆を魅了する高度な技芸を要すると言われている。同じく笑いを主眼とし、演者が聴衆に語りかける形式の「漫談」との違いは、登場人物同士の対話を中心として話が進行する点にある。通常「枕(前振りとして語られる小話)」の次に「地」と呼ばれる場面設定や心理・状況描写などを説明する部分が入り、続いて本筋として大半を占める対話部分で話が構成される。少し解かりづらいので、落語の話の構成要素について少し触れておくことにする。  
「枕(マクラ)」とは、導入部で語られる世間噺・時事問題や、本題と接点のある面白い小話のことで、当時の風習・言葉を予備知識として事前に説明するなどして本筋を解かり易くしたり、落ちへの伏線をはるなど演者側が話を進め易くする効果がある。この小話で笑わせてリラックスさせ、話に惹きつけるなどの効果もあり、演目や噺家によっては一定の様式の枕もあるため、通になると枕で本題が分かるという。絶対に語らねばならないものではないので、いきなり本題に入る噺家もいるし、古くから有名な「まくら噺」というものもあり、この部分だけで一席分の語りになるものもある。
「地」とは、場面設定・心理描写・状況描写などを必要最小限で説明する部分のことであり、登場人物の会話でない部分のこと。会話調の対話部分の語りより地の部分が多く、講談に近い語り口調の地で話が展開してゆくものを特に「地噺」と呼ぶ。「人情噺」などに多い。
「擽り(クスグリ)」とは、本来の話の筋にある笑いではなく、演者によって入れ込まれる笑いのことで、地口(駄洒落)・内輪ネタなどで観客の笑いを取ること。特に歌舞伎や古典落語などの伝統芸能では時折見られるものであるが、挿入する場合には、一般的に話の筋から大きく外れないものが好まれる。
「落ち(サゲ)」とは、落語の締めくくりの一言であり、落し噺で特に重要なもの。よく考えないと理解できない落ち・発音が似ている地口(駄洒落)の落ちなど多様な種類があるが、いずれもこの常套句による笑いで結びとなる。「考え―」「逆さ―」「仕草―」「地口―」「仕込み―」「途端―」「ぶっつけ―」「間抜け―」「見立て―」「にわか―」「とんとん―」「梯子―」「回り―」などに分類されるが、十分な分類法がなく、現在では従来の分類で当てはまらないものや別の分類に入れた方が良いものも出てきたという。口演時間の制約や、通じない落ちが出て来たことなどにより、最近は落ちまで披露せず終わることも多く、人情噺・芝居噺などの大半は落ちがない。  
話の構成要素を挙げてみたが、次に物理的な、目に見える要素も挙げてみることにする。演出の代表的なものは小道具であるが、手拭い・扇子のみで全てを表現し、例えば、扇子はきせる・箸・筆・杯・刀・釣竿・手紙等、手拭いは本・財布・証文などに見立てられる。扇子は「かぜ」、手拭いは「まんだら」、羽織は「だるま」と、符牒(隠語)を使って呼ばれている。二つ目昇進後、自分の名前入りの手拭いを作ることができ、真打昇進後は、更に自分の名前入りの扇子を作ることができる。江戸落語と上方落語では小道具や慣習に違いがあり、上方落語では見台・張り扇・小拍子など、講談の演出と同じような小道具も用いられる。小道具以外の演出要素として衣装・照明・効果音などが挙げられるが、基本的に噺家は比較的シンプルな柄、又は無地の和服を着用して舞台に挙がり、照明や効果音は用いない。落語は素の話芸であり、観衆に対しても芸に集中して貰えるよう、話以外の余計な音や物を極力避けるものであるが、地域・演目などにより最中に音曲や効果音が使用される場合がある。上方落語に用いられる下座音楽である「はめもの」がそれである。芝居噺に用いられる「書割」「ツケ」などは例外として慣習的に使用されている。元来、江戸落語には名ビラ(演者の名を記したもの)やメクリ(名ビラを掲げる台)、出囃子も無かったが、後になって上方落語から移入され常用されるようになった。元はかなり簡素な舞台構成・演出であったと思われ、現在も同じ流れを継ぎシンプルであることには変わりなく、しかし各々最小限の所作に様々な意味を持たせているので、素人目に解りづらい演出も多い。例えば二つ目昇進以後は紋付羽織の着用が許されるが、一瞬で羽織を脱ぐ脱ぎ方・タイミング等にも約束事があり、枕から本題に移行する合図・次の演者(噺家)の準備が出来た合図を担ったり、羽織があれば大名や殿様、羽織が無ければ商人役であるなど何らの意味合いを有するとされる。  
そもそも落語という芸の根幹を成す要素は、先に述べたように言葉(口頭語)と仕草(座って行われる最小限)の2つしかないので、この2つを少し掘り下げてみたい。
言葉古典落語の場合は、大半が口伝で継承されてきた特定の口演台本があり、噺家はこれを元に稽古し口演する。先に述べたが説明的な「地」の部分と会話文で構成される本題は、主にテンポの良い会話で話を進め、最小限の地で表現できない描写(細かい心理描写など)は仕草で補われる。登場人物を全て一人で演じねばならないため、声の調子・言葉遣い・話し振りなどの工夫により演じ分けられ、これらが綯い交ぜの状態であっても聴衆は不自然に感じないという。
仕草言葉の全てに仕草が伴われるのではなく、言葉で表現しきれない部分にだけ次のような仕草が付される。
小道具を箸に見立て、何かを「食べる」動作は落語の代表的な仕草である。同様に飲む・書く・歩く・走る・着るなど人物の行動を座ったまま表現する。要所で人物の「表情」を強調したり真似たりするもの、登場人物を解り易く分けるため上位・下位の人物の会話を上手・下手への「視線」「目振り」で表すもの、また「視線」「指差し」で虚空に場所・物を演出する場合もある。いずれにしろ落語舞台で小道具や演者の有する空間に制限があり、演者の話術と、座布団上の制限された動きだけでは観衆の想像力に負う部分も大きいが、それを促す臨場感を有する演出が非常に重要であるといわれる。  
ここで、何度か話に出てきた「江戸落語」「上方落語」の違いについて触れておこうと思うが、いずれも素人の筆者なので、一般的に言われる違いを挙げてみることにする。語の通り「江戸落語」は江戸で誕生・発展したお座敷芸を起源とし、「上方落語」は上方(京阪神)で誕生・発展した大道芸を起源とすると言われている。端的に言えば、じっくりと名人芸を聞かせる粋で静的な話芸が「江戸落語」、派手で目立つ仕草を伴って笑いを追求する動的な話芸が「上方落語」と言えるかもしれない。近年では、2007年にNHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」で上方落語を採り上げたので、違いについてご存知の方も多いかもしれない。
上方落語の特徴は、上方弁(関西弁)でコッテリとして言葉数も多く、上方落語独特の「ハメモノ」という音楽が入り、賑やかで入念な演出とともに可笑しさを追求する。戸外で観衆を集め、惹きつけるために小道具・鳴り物も用いられ、笑いで観衆を喜ばせることを重視するサービス満点の内容で継承されてきた。観衆とのスタンスも江戸落語と比べて対話中心であり、観衆の反応を大切にする芸能として育まれてきた。故に江戸落語に見られるような芝居噺や人情噺などのジャンルが存在せず、寄席の雰囲気やお客様のウケなど、江戸落語とは今でも違うという。上方落語の方が演目数が多く、江戸に移入された演目も多く、起源も、時期的には上方の方が早かったという。
江戸落語の特徴は、歯切れ良い江戸弁で、無駄な言葉を省いた洗練された話芸としての面白さを追求する、軽妙洒脱な芸である。上方にはない人情噺が特徴的であるため、人情噺の感動・感銘を呼ぶ系統と、笑いを追求する系統との2つが混在しているが、上方に比べて一方通行で、観衆とのスタンスは舞台の上と下ではっきりとした境界線を有する。東京落語とも呼ばれ、座布団と湯呑みのみが舞台装置であり、特に囃子が用いられるものは「音曲噺」という1つのジャンルになっている。上方から移入された演目が多いが、そのまま同じ内容・演目名・オチではなく、江戸の寄席の雰囲気に合わせて変えられたものが多い。  
次に、落語という話芸の起源について触れてみたい。落語成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」のいずれも「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接であり、また「話芸」という語の成立自体も明治時代に入ってからのことで、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。これは他の話芸でも同じであるが、話芸を生業とした職掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「風土記」の頃、各地の説話を口伝した語部(かたりべ)に始まり、室町時代に誕生した近侍の雑役・芸能僧である同朋衆(どうぼうしゅう)を経て、戦国時代の武士役職である御伽衆(おとぎしゅう)・御咄衆(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として見るならば、高座に座して巧妙な話の演出をする現在の形式は、平安時代、仏教の説教(説経)師が創造し、継承・発展させたものとされているが、今の落語の直接的な起源は、一般的に戦国時代から江戸末期、主君に近侍して話し相手となった武士役職である「御伽衆(おとぎしゅう)」「御咄衆(おはなししゅう)」にあると言われ、多くの戦国大名が御伽衆を置き、当初は戦陣の合間の慰め役として武辺話などを面白く語るものであった。次第に領国経営など役立つ知識を有する古老・浪人などの任務となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇間のような存在になった。武家出身の御伽衆の流れが講談師となり、町人出身の御伽衆の流れが落語家になったとも言われている。その中に「頓知者」と呼ばれる人々がおり、その代表的人物としては、1628年に最古の噺本である「醒睡笑」を著した、誓願寺の安楽庵策伝が挙げられ、彼らの滑稽話が落語の祖型であると言われている。この著書には「子ほめ」「牛ほめ」など現在でも演じられている原話も収められており、全部で千以上の小咄が収録されているという。
その後17世紀後半、ほぼ同時期に3人の人物が落語の祖として名を残している。京都では、露の五郎兵衛が四条河原・北野天満宮などで「辻談義(辻説法)」を行い活躍し、職業落語家の祖と言われている。大坂では米沢彦八が出て人気を博し、生玉社境内を本拠地として辻噺を盛んに行い、名古屋でも公演をするなど広く知れ渡った。「軽口」「軽口噺」と呼ばれ、「仕形物真似(しかたものまね)」を得意として派手な演出で有名で、また初代の彦八が「寿限無」の原話を作ったと言われ、大阪落語の祖と呼ばれている。次の2代目・米沢彦八も名高く、落語界に名を残している。同時期に大坂出身の鹿野武左衛門が、江戸の芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄(ざしきしかたばなし)」を始め、身振り・手振り・表情を交えて口演する現在の落語の祖形を作ったことから、江戸落語の祖とも呼ばれている。
更に18世紀後半、狂詩・狂文が盛んとなり、上方では雑俳・仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始め、白鯉館卯雲という狂歌師が江戸に伝えて江戸小咄が誕生、「小咄」「落とし咄」と呼ばれる時代である。上方で1770年代、江戸で1786年に烏亭焉馬(うていえんば)らにより「咄の会」が始められ、初代三笑亭可楽・初代三遊亭円生が登場する基盤を築いた。1798年、岡本万作と初代三笑亭可楽が江戸で各々の寄席を開いた後に寄席の数が急増し、天保の改革によって一時は寄席の数が120軒から15軒に衰微するも、直ぐに再興し、落語の興隆期を迎える。そんな中、幕末〜明治期に活躍した「三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)」は「芝居噺」で大人気を博し、歴史的名人として現在でも知られ、中興の祖とも呼ばれている。圓朝は時代に即した落語を口演し、自作自演の「怪談噺」や、取材に基いた「実録人情噺」など独自の題材を創出し、落語の新たな道を開拓した。この頃、日本語速記術が誕生し、圓朝の高座の速記本は当時の文学や新聞で大人気となり、特に文芸における言文一致の台頭を促すなど大きな影響を与えたという。1917年、柳派・三遊派が合併し、「東京寄席演芸株式会社」「三遊柳連睦会(睦会)」を設立し、更に1923年には「睦会」と「会社」が合併し「東京落語協会(現・落語協会)」を設立した。大学サークルの落語研究会である「落研(おちけん)」が東京大学・早稲田大学などで誕生するのは昭和20年代の頃のことである。  
こうして落語の歴史を振り返ると、創始から何百年もの間、男性だけの専売特許職であり、女性の参入が皆無であった。日本の伝統芸能では、同じように男性によって培われてきたものが多いのだが、20年位前から、女性落語入門者も見られるようになり、現在では東京・大阪で10名余りの女性落語家が活躍しているというから喜ばしい限りである。
寄席や演芸場(ホールともいう)の興行で演じるプロの落語家(職業的噺家)として名が挙がる人は大勢おり、現在、プロの落語家は東西合わせ600人以上いるのだが、落語家プロ第1号は、現・JR上野駅近辺で寄席興行を行った三笑亭可楽とされている。昭和初期に誕生した「東京落語協会(現・落語協会)」から組織が分化しており、落語協会(三遊亭円歌会長)、落語芸術協会(桂歌丸会長)、立川流、三遊亭円楽一門、上方落語協会(桂三枝会長)と所属組織が幾つも並立しているのが現状である。またプロでも興行収入の歩合(割)だけでは生計が成り立たず、旦那・お旦などスポンサーからの小遣い、妻の賃労働収入、座敷(酒席)での余興収入などにも頼る状態であり、副業・内職・アルバイトなど収入源・額に相場は無く、個々により様々のようである。
さて、前述の歴史の項にもいくつか名が挙がっているが、落語の種類について最後に触れることにしたい。
「古典落語」江戸〜明治期頃までに原型が成立し、戦前までに演出が確立した演目のこと。更に以下のように分類される。
「落とし噺」面白可笑しい滑稽噺を中心とし、噺の最後に洒落や語呂合わせなどの落ちで面白く終わるもの。「牛ほめ」「饅頭こわい」「代り目」など。
「人情噺」登場人物の心理、世情、人情の機微ををリアルに描くことを目的とし、親子愛・夫婦の情愛・師弟愛・男女悲恋などの情愛を描いたもので、涙を誘う場面はあっても落ちはなく、笑いが主体ではない類。多くは長編作品で続きものとなり、かつては主任(トリ)の噺家が10日間興行で連続して口演したそうだが、区切りのいい一部を取り出して現在は演じられている。「芝浜」「文七元結」「子別れ」など。
「怪談噺」簡単に言えば幽霊やお化けが出てくる類で、主に夏に演じられ、幽霊の面や鳴り物などの演出をすることもある。「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」等が有名で、人情噺同様、長編なので数日掛けて口演される。途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。
「芝居噺」芝居(歌舞伎)と同様に書割・音曲を用い、演者が立って見得を切ったりするもの。芝居を題材にし、役者の声色などを真似したり、パロディにしたりする類で、全体として「落とし噺」と同じ構成で、要所に芝居風の台詞廻しが混じる。
「廓噺」遊郭の遊女と男たちが繰り広げる悲喜劇を取り扱った一連の噺。上方では「茶屋噺」と呼ばれている。「明烏」「居残り佐平次」「品川心中」など。
「音曲噺」芝居噺に含められるが、大げさな所作は用いず、音曲を利用して話が展開されるもの。上方落語では噺の途中に「はめもの」という下座音楽が用いられるので、音曲噺という演目を立てるのは江戸落語に限られる。
「新作落語」世情に機敏に応じた時事的作品、風刺性の濃い作品が多い。多くの演者によって演じられる(桂米朝作「一文笛」など)作品も少なくないが、作者・初演者のみのネタとして扱われ、斯界全体の共通財産と呼べぬものが多い。
「前座噺」単純で短く、基礎的技術を養うのに適した演目で、前座が最初に習い覚えたり、前座が口慣らし・口捌きに口演するもの。二つ目・真打が口演することもあるが、比較的簡単な軽い話とみなされ、通常トリの演目として披露されることはない。しかし上方では前座噺として長編の「旅ネタ」を行うことが多く、どこで区切っても別の演者が続けられるようにできているためだとされる。
「大ネタ」大作や人情噺などの中で特に難易度の高い作品の俗称。「らくだ」「地獄八景亡者戯」など。  
 
漫才・萬歳・万才

漫才を知らない人はまず、いないだろう。1980年代に漫才が一大ブームを迎え、マスメディアで「お笑い」と呼ばれるジャンルが確立して以来、現在漫才・コントなどの「お笑い芸人」が多くのテレビ番組で活躍し、芸能人としてタレントと大差無く、様々なバラエティ番組に登場し、芸より顔が売れて人気を得ているような状態である。「漫才=お笑い」ではないので、漫談・コントなどとの違いも含め、漫才の成立や伝統芸能としての中身について触れてゆこうと思う。
漫才とは、簡単に言えばボケ・ツッコミ役の2人の漫才師が掛け合いで滑稽な話をする演芸であり、成立初期の頃「二人漫談」と呼ばれていたように、主に2人で行われる漫談芸であるとされる。漫才の語源である「万歳(まんざい)」は平安時代の頃に始まった芸能で、万年も栄えるようにと宮中・寺社で祝言を述べ、歌舞を披露する「千秋万歳(せんしゅうまんざい・せんずまんざい)」が原型であると言われている。これが後には「太夫」と「才蔵」の2人1組が素襖・風折烏帽子に腰鼓を着けて家々を訪れ、祝言を述べた後に1人が鼓・1人が滑稽な舞を舞う門付け芸に変容してゆき、大正中期、関西でこれを舞台で演じたことから娯楽・大衆芸能としての道を歩み出すことになる。当初、鼓・三味線・唄に軽口で構成される音曲漫才が主流であったものが、徐々に歌舞より2人の掛け合いの話芸の色合いが濃くなり、現在の漫才の形にほぼ定着するのは昭和に入り、漫才の祖「エンタツ・アチャコ」が登場してからのことである。大正末期に起こった「漫談」にちなんで、吉本興業宣伝部により「漫才」と名付けられた昭和初期以来、漫才の語が定着し、また元来関西圏で発展してきた漫才が全国規模の人気を博し始めると、特に関西圏のものを「上方漫才(かみがたまんざい)」と呼ぶようになった。
少し注釈を加えるなら、他の話芸でも同じであるが上方と江戸(東京)ではウケ方が違うため、全国規模で人気を博する漫才師はなかなか誕生し難かった。また落語・浪曲などの伝統芸能の間をつなぐ色物扱いであり、歌舞を披露し、つなぎにしゃべる程度の、下品で低俗な内容のものと考えられていたことも全国区の人気を博するには課題が多く残されていた。その「万才」を、全国規模で誰でも理解できる大衆芸能「漫才」に大変身させたのが「エンタツ・アチャコ」である。昭和期の「お笑い革命」に成功した背景として、放送を始めたばかりのラジオという新しい全国メディアの普及や、新たな娯楽を求める都市部の大衆のニーズがあり、そうした時代の潮流を好機に変えて奮闘・努力しつつ一番の波に乗った訳である。そして現代の漫才の原型「しゃべくり漫才」を誕生させた功績は大きく、ゆえに現在の漫才の祖と言われている。
現在の漫才の型とは、本来は雑談が主体となる漫談芸であるため、コント的要素(小道具・衣装など)が用いられたとしても必要最低限であり、舞台装置・照明・音響などを用いることもほとんどない純粋な話芸である。伝統的に、男性の場合はペアかそれに近いスーツを着用するコンビが多く、スーツも原色・ラメなど派手なものが多かったが、漫才ブームで登場したタレント兼漫才師の若手達により、ファッショナブル又はカジュアル系の衣装が普及し、以前よりは舞台衣装がよりラフなものに変化している。
コントは大正時代に欧米から伝播し、場面転換とショーの彩りとして日本で定着したもので、2人又は数人で扮装・化粧し、小道具等も用いつつ演劇の延長として演じられたので「寸劇」と呼ばれていた。漫才とコントとの違いは扮装・化粧・小道具の有無にあるとされるが、衣装・小道具類に関しての制約は少ない。近年は以前ほど観客・演者側にこだわりが無く、同じ「お笑い」という1つのジャンルとして捉えられているようである。
他方で漫談は、大正期に創設された演芸であり、漫談家が世間話・批評・雑談などジャンルを問わず一人で舞台に立ってトークするものである。音声付き映画が主流になり失業した無声映画の弁士が、寄席の高座等に出演して巧みな話術を披露したのが起源であるという。漫才との違いは「一人で口演」する点にあるが、近年では掛け合いを一人で演じる「一人漫才」もあるので、漫才・コント・漫談の違いは一般的に問われなくなってきているようだ。近年の人気漫才師に「やすし・きよし」がいるが、この2人はコントの色合いの濃いものの代表格と言える。喜劇役者の弟子として芝居経験がある西川きよし氏と、奔放な発想の横山やすし氏が組み、漫才と芝居の長所を融合させた「やすきよ漫才」と呼ばれる新たな漫才を生み出した。先に述べた漫才ブームの立役者であり、当時絶大な人気を誇り、漫才界の頂点に君臨した。彼らのように人気を博したコンビの話術・スタイルが漫才の種類として広がっていくのが現状であるが、最初に始めたコンビの専売特許になる訳ではなく、真似もある程度柔軟に受け入れられる芸能、と言えるだろう。  
漫才という芸能の名前の起源と話芸の中での位置付けについて少し触れたので、次は内容について掘り下げてみたいと思う。
漫才は、どのような内容の話でもアドリブで口演するものではなく、事前に用意された台本が必要になる。「観客を笑わせる」という単純明快な目的のみが存在し、それが最大の特徴とも言える。そして演者である2人は、大抵はボケ役・ツッコミ役の二手に分かれるが、双方ボケ・双方ツッコミを特色とするコンビも数少ないが存在する。とにかく2人の会話の掛け合いが面白く、笑いを誘えればよい訳で、絶対にボケ・ツッコミの双方が必要な訳ではないのだが、話の進行役は必要不可欠とされている。従来は、ツッコミが主に話の進行役とされていたが、ボケ役が話の進行役を担当するコンビも少なくないし、この役割分担も固定ではなく流動的にこなすコンビもいる。流れによりボケ・ツッコミが自然に交代し、話を展開できるような、いわゆる達人とされるコンビほどこれが可能になるようだ。
基本的にボケ役は、面白い事を言ったりしたりする役割であり、相方のツッコミ役が、ボケ役のボケを素早く指摘し(ツッコミを入れ)、笑いどころを観衆に示す役割を担う。よって各々が発する言葉には役割が明快に定まっており、話芸の中でも演者の発話のテンポが良く、大体速いペースとなり、ツッコミを入れるタイミングの取り方で対話が大きく変化すると言われている。大抵は2人コンビで登場するが、3人以上のグループの場合もあるし、BGMが使用されたり、演者自身が楽器を演奏する「ギター漫才」「ウクレレ漫才」などもある。
要するに漫才は、伝統芸能としての一定の型が元より存在せず、大衆に合わせて進化し続けねばならない芸能であり、将来は現在の「漫才」の姿は微塵も見られないほど変容しているかもしれない。漫才には絶対不可欠の、笑わせる対象である観衆は気まぐれで流動的で、そのニーズがどのように変容してゆくのか誰にも分からない。  
次に漫才の起源と現在に至るまでの歴史について触れてみようと思う。
漫才の起源は、平安時代の頃に始まった「千秋万歳(せんしゅうまんざい・せんずまんざい)」が原型となっていると先に触れたが、現在でも千秋万歳の語は祝言の中に残っているように、極めて一般的な祝福芸であったらしい。祝言を述べて扇を手に舞う太夫と、鼓を打ち鳴らしながら合いの手を入れる才蔵が歌舞を披露する芸能であったが、公家から庶民の家まで身分を問わず訪れ、新春に芸を披露する門付芸になり、一般に広く浸透していった。しかし万歳師は災いを祓う不思議な力を有することで畏れられ、貶まれ、差別を受けることもあり、次第に公家の庇護を求めて貢納金を納め、普及活動の後ろ盾となることを期待したが、江戸時代には公家も失脚し、万歳は神道と結びついたり、旅芸人になるなどして芸を続けていた。そんな中、江戸時代に尾張萬歳、三河萬歳、大和萬歳、秋田・加賀・越前など各地で地名を冠した萬歳が興り、歌舞に言葉の掛け合い噺・謎かけ問答などを加えて滑稽味を増し、工夫を重ね、個性的な芸を創り上げつつ発展していった。明治・大正時代、新春(正月)の門付け萬歳とは別に夏祭や盆の演芸として村々の公民館・芝居小屋で舞台興行を行う萬歳が盛んに行われるようになり、庶民の娯楽となった。そのうち伊勢派の市川順若が大阪の芝居小屋などで芸を磨きつつ頭角を現し、三味線・鼓・胡弓などの楽器を使う「三曲萬歳」を成功させて評判になった。明治時代から行われた大阪の寄席演芸である「万才(まんざい)」は、この三曲萬歳をベースにしたと言われており、初期の万才はこれに倣って楽器伴奏を伴うものだったという。
第二次大戦後、萬歳はほとんど行われなくなり、今では保存会などが復興・継承している。各地の萬歳は継承者を捜し出して復興したものが多いが、成立が古いとされる三河萬歳(愛知県安城市・西尾市など)と越前萬歳(福井県越前市)が1995年に、尾張萬歳(愛知県知多市)が1996年に、各々国の重要無形民俗文化財に指定されている。
大阪の万才のパイオニアとして玉子屋円辰、砂川捨丸・中村春代コンビなどの名が挙げられるが、当時の寄席演芸は落語が中心であり、万才はまだ添物的立場に置かれていたという。その後、2人で落語を演じる形式の軽口噺、浪曲の要素が混ざり合って今の形式になり、大正末期、前述した吉本興業の芸人コンビ「横山エンタツ・花菱アチャコ」が登場し、「萬歳」から「万才」を経て、「漫才」の名が定着し始め、東京へも進出していった。
エンタツ・アチャコの登場後、漫才は全国に急速に普及し、スター漫才師を次々に生み出した。今日の東京漫才の祖と言われている「リーガル千太・万吉」などもこの時期に誕生している。
第二次大戦後、漫才師たちは、戦死・消息不明などで相方不在の状況に見舞われ、特に吉本興業に専属契約が無い漫才師達は大阪に集まり、仕事の受注・管理を統括する「団之助芸能社」を創立した。交通の便も良く、芸人を集結する場所であった大阪市西成区山王は、「芸人横丁」と呼ばれ、交通機関の復旧・発達により営業活動が容易になったため、芸人達はその後は吉本興業や松竹芸能と契約するようになった。
漫才は寄席演芸として発達してきたが、マスメディアとの親和性に優れていたため、ラジオ・テレビ番組で多く披露され、メディアの発達と共に歴史を築いてきたと言える。1960年代後半から1980年初頭は「演芸(お笑い)ブーム」であったのも、カラーテレビが一般家庭に普及し、娯楽ニーズが変容し、テレビ局が競って漫才番組を編成した結晶であると言える。「漫才ブーム(まんざいブーム)」と言えば、演芸界において1980年代初期の短い期間に、漫才が様々なメディアを席巻した一大ブームであり、「テレビ漫才ブーム」と言い換えることができる。漫才ブームに火をつけたテレビ番組として「花王名人劇場(関西テレビ)」、「THEMANZAI(フジテレビ)」などが挙げられるが、このブームが引き金となって「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などのバラエティ番組で活躍する芸人たちが台頭することになる。1960年代の最初の演芸ブームで世に出た芸人を「お笑い第一世代」、この漫才ブームで活躍した芸人を「お笑い第二世代」と呼んだりもする。 
 
器楽 / 管弦・筝・尺八・三味線

本項のお題は少々解し難いのだが、一般に「器楽(きがく)」とは声楽の対語であり、西洋音楽分野での楽器演奏による音楽を指す。よって本来は管弦・筝・尺八・三味線のみならず全ての楽器を含める語であるが、本項では邦楽器の中でも特に伝統楽器として名の上がる「管弦・筝・尺八・三味線」を主体に触れてゆこうと思う。
まず日本の音楽全般である純邦楽の起源を振り返ると、日本が独立国家らしい姿となる大和政権あたりから、中国・朝鮮半島等から外来音楽が輸入された影響が大きい。最初に朝鮮の音楽「新羅楽(しらぎがく)」「高麗楽(こまがく)」「百済楽(くだらがく)」が渡来し、次に中国の音楽「唐楽(とうがく)」が渡来し、更に7世紀、推古天皇の頃には今日の能楽・歌舞伎等の土台となった「伎楽(ぎがく)」が伝来した。8世紀半ばにはヴェトナム南部地方の音楽「林邑楽(りんゆうがく)」と仏教の「声明(しょうみょう)」が伝えられた。最後に平安時代初期、中国・満州から「渤海楽(ぼっかいがく)」が伝来した。渤海楽は現在高麗楽に含まれている。「日本物語−雅楽」を参照していただけると詳細が分かるかと思うが、鎌倉時代に消滅した伎楽以外、主に宮中・貴族・有力社寺等で「雅楽(ががく)」となって伝承され、今も宮内庁式部職楽部に継承されている。日本の伝統音楽としての「雅楽」の存在は大変重要で、現存の楽曲が限られているものの1200年以上も前から演奏されてきた古い形態を留めて保存され、当時の姿のまま歴史的・音楽的価値を現在に伝えているという。以下、管弦から順に、その楽器と楽曲について触れてゆこうと思う。
今日「管弦楽」と言えばオーケストラを指すが、日本の伝統音楽「雅楽」における「管弦(かんげん)」は、大陸(中国・唐)系の雅楽器である管楽器・絃楽器・打楽器による器楽合奏、いわゆる「三管両弦三鼓」の楽器編成での演奏を指す。「三管」は笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の3種の管楽器を各2人、「両弦」は琵琶(びわ)・筝(そう)の2種の弦楽器を各1人、「三鼓」は鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)の3種の打楽器を各1人が担当し、これら8種類の楽器を計16人で演奏するのが基本のようだ。管弦以外の雅楽曲では、高麗笛(こまぶえ)・神楽笛(かぐらぶえ)・大太鼓(だだいこ)、大鉦鼓(だいしょうこ)・三ノ鼓(さんのつづみ)・笏拍子(しゃくびょうし)・和琴(わごん)等の雅楽器も用いられている。分類方法は色々あるようだが、起源系統によって雅楽を大別すると「国風歌舞(くにぶりうたまい)」「大陸系の楽舞(がくぶ)」「歌物(うたいもの)」の3つに分けられ、演奏形態により楽舞は「管弦(かんげん)」「舞楽(ぶがく)」とに分けられる。今日は主に「管弦」が演奏されているため、使用される楽器も管弦のものが主体であるが、歌物である「催馬楽(さいばら)」「朗詠(ろうえい)」が管弦演目の中に含まれて演奏されることもあるという。
管弦の音楽的構成を見ると、人数的にも一番多い管楽器が主役となって主旋律を担当し、打楽器・弦楽器がリズムを取ることで、力強い舞楽曲に対して管弦曲はゆったりと奏される。すなわち篳篥が主旋律を奏で、龍笛が主旋律を少し装飾的に奏でて彩り、笙が和音を付して幅を出し、打楽器・弦楽器が主にリズムを担当して、全体のバランスを整える。
演奏の構成で言うと、演奏会等の形式は第一に「音取(ねとり)」と呼ばれている、1分程度の短いチューニングを目的とした曲で始まる。各楽器の主奏者(各1人)と鞨鼓のみで演奏され、主に絃楽器との調音・調律と演奏する曲の調子を観客に提示する目的で行われるという。ちなみに管楽器の主奏者は「音頭(おんど)」、絃楽器の主奏者は「面琵琶(おもびわ)」「面箏(おもごと)」と呼ばれ、指揮者がいない代わりに曲全体を統率する役目を鞨鼓の奏者が担うことになっている。音取の次に、プログラム楽曲である「当曲(とうきょく)」の演奏が始まる訳だが、龍笛のソロに始まり、笙・篳篥・琵琶・箏の順に参加してゆく。当曲は「序(じょ)」「破(は)」「急(きゅう)」を有し、各々が西洋音楽でいう楽章のような役目を持ち、序・破・急を通して演奏されることを「一具」と呼ぶが、通常は1つの調子の曲のみ(序破急のうちの1つ)が演奏され、2つ以上の調子の曲が演奏されることはあまりないという。
以下、管弦に登場する楽器について触れてみたいと思うが、先に提示した管楽器・絃楽器・打楽器順に、雅楽等で使用される管弦以外のものも併せて触れてみることにする。  
「吹奏楽器」の呼び名が現在一般的である管楽器は、雅楽においては「吹物(ふきもの)」と呼ばれ、その音色から天地を表現し、各々の響きを重なり合わせ、また相互に補い合って旋律を作り出す。管の側面に吹口を有し、水平に持って奏する「横笛」と、管の上端に吹口を有し垂直に持って奏する「縦笛」の2種類があり、横笛は「龍笛」「神楽笛」「高麗笛」「能管」「篠笛」等、「縦笛」は「篳篥」等である。
「篳篥(ひちりき)」その音色は大地に響く人の声を表すと言われるように特有の非常に存在感のある音色で、小さい管から想像できない程の大きな音を奏でる。長さ18センチ程度、表7穴・裏2穴の指孔を有するやや楕円形の竹製の縦笛で、オーボエ等の仲間であるダブルリード類だが、廬舌(リード)は葦(あし)を潰し、「責(せめ)」と呼ばれる竹製の輪をはめ込み、反対側は図紙(ずがみ、和紙)を巻いて管に差し込むという独特のリードを使用する。廬舌が大きいため、息の吹き込み具合・廬舌の咥え方により、同じ指遣いでオクターブ異なる高さの音を出す「塩梅(えんばい)」という独特の奏法がある。塩梅は音程が非常に不安定であるため高い技術を要するが、旋律を表情豊かに滑らかにすることができる。演奏前に舌(リード)を茶(シブのあるもの)で湿らせて吹きやすくする等、管理が難しく初心者には悩ましい楽器だが熟練者の音色は聴く人の芯に響く音色となる。主旋律を担当する最も使用遜度が高い雅楽器で、誄歌を除く全ての楽曲に用いられるが、楽器の位は最下位で、平安時代中期以降は地下の楽人が奏する楽器として扱われたが、古くより名器としてその名を残すものも多い。
「笙(しょう)」鳳凰を模した姿と音色に由来する「鳳笙(ほうしょう)」という美しい別名を有し、その音色は天から射し込む光を表すと言われる。通常長さが50センチ程度、17本の竹管を束ねた形状の管楽器で、竹管の指孔を塞ぎ、数本の簧(リード)にまとめて息を通すことで「合竹(あいたけ)」と呼ばれる様々な和音を奏でることが出来る。吹奏楽器でも和音を奏することができ、吸う・吐く双方で音が出せるというハーモニカに似た発音原理を有するアコーディオン等の仲間(フリーリード類)で、パイプオルガンの原型とも言われている。雅楽では主に管絃と左方(唐楽の舞楽)に用いられ、演奏時は主に伴奏楽器として主旋律に彩りを添える装飾部分を担当する。催馬楽・朗詠では単音で主旋律を奏する「一竹(いっちく:一本吹き)」と呼ばれる演奏法を用いる。和音を変化させる時は数音ずつ音を変化させる「手移り」と呼ばれる決まりがあり、この楽器の音色の特徴でもある。現在17本中の2本にはリードがなく音が鳴らない構造になっているのは、継承の間に使用されなくなり退化したものとみられている。内部の水滴付着による不良(調律・音源)を防ぐため、演奏の前後に炭火で焙って温める必要があるという繊細な楽器である。
「龍笛(りゅうてき)」その音色は天地を自在に行き来する龍を表すと言われており、主に管弦の中の唐楽に用いられ、歌謡や国風歌舞の数曲にも用いられる。通常長さが40センチ程度、指孔が7穴ある竹製の横笛で、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。フルートの原型となった古くから存在する笛であり、運指もフルートと大差がない。平安時代まではほぼ龍笛が用いられていたが、後に2種の管楽器「能笛」「篠笛」に分化するので、雅楽器の横笛の源流である。尺八と同じエアリード(ノンリード)なので音を発するだけでも熟練を要し、音の安定感に欠けるというが、吹き方を変えることで2オクターブ出すができる音域の広い管楽器である。雅楽では龍笛の主管奏者の演奏から始められ、曲中では通常は副旋律を担当して篳篥が奏する主旋律に絡み、補うように旋律を奏でるのだが、主旋律を奏すこともある。古くは単に「横笛」(おうてき)と呼ばれており、龍の声に喩えられる透き通った音色は古くから上流階級に好まれ、雅楽器の中でも群を抜く人気度だったという。武将等に愛好され大切に扱われたこともあって「大水竜」「小水竜」「青葉」等の名器が多く生まれており、中でも平家物語で有名な「青葉の笛(小枝)」は伝説が全国に残り、現在は正倉院宝物殿にあるとも言われている。文部省唱歌にもなっている。
「神楽笛(かぐらぶえ)」通常長さが45センチ程度、指孔が6穴ある竹製の笛で、「太笛」「大和笛」とも呼ばれている。邦楽器の笛の中で最も長く、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。古い組曲「神楽歌(かぐらうた)」等の演奏に用いられ、親である龍笛より管が長く、1音低いのが特徴である。龍笛と同じく2オクターブ出すができる音域の広い管楽器で、静かで落ち着いた太い音色を有する。雅楽の神楽笛は地方の祭囃子等で用いられているものとは違うらしい。
「高麗笛(こまぶえ)」通常長さ37センチ程度、指孔が6穴ある竹製の笛で、「狛笛」「細笛」とも呼ばれている。神楽笛と構造が似ているが管が細く、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。新羅楽・高麗楽・百済楽と共に朝鮮半島から伝来した楽器で、雅楽の右方(高麗楽の舞楽)や東遊等の演奏に用いられる。管が細い分だけ音が高く、鋭くはっきりとした音色を奏でることができ、他の横笛と同様に息の違いでオクターブ違う音を出すことができる。古くは東遊用の「歌笛(東遊笛)」「中管」が存在していたが廃れ、高麗笛で代用するようになったと考えられている。
「能管(のうかん)」能笛(のうてき)とも呼ばれ、観阿弥・世阿弥父子の時代以降、前述の龍笛から派生して生まれた竹製の横笛の1つで、主に能楽で「笛」と呼ばれて用いられる他、歌舞伎の長唄伴奏等に用いられる。能管の長さは出所等で個差があるが、大体龍笛と同じ程度、見た目は龍笛と見分けが付かないほど似ているのも龍笛を改造して誕生した背景から分かる。歌管(歌口と第一指孔の間)に「喉(のど)」と呼ばれる細い竹筒が仕込まれたことで、他の横笛のような息の違いでオクターブ違う音が出ず、「ひしぎ」と呼ばれる高音が出やすくしてある。「ひしぎ」は西洋音楽にはない特殊な甲高い、叫び声のような音で、これにより能管特有の雰囲気を醸し出し、また能の幽玄・日本的音楽性を表現することを可能にした。
「篠笛(しのぶえ)」大陸から「伎楽」と共に日本に伝来した竹製の横笛が、製法等が簡単なことから一般庶民にも広がり、大衆芸能の笛として確立したものと言われている。「竹笛」「里笛」とも呼ばれ、篠竹(女竹)で作られ、樺巻きせず竹のまま漆塗りが施される程度の素朴な姿のもので、指孔は6孔・7孔があるが原型は6孔で、7孔に変化して後に主に7孔の歌用篠笛が使用されるようになったと考えられている。主旋律として歌舞伎の囃子・黒御簾、里神楽・獅子舞・祭囃子・長唄・民謡等、幅広く用いられ、雅楽器の中でも特に清澄な美しく上品な音色を持つと言われる。音域は約2オクターブ半程度と広く、しかし歌・三味線等に合わせて演奏する為に低い音階を持つ「一本調子」から高い音階を持つ「十三本調子」まで合計13種類の笛があり、曲により笛を使い分けるという。一般的に、六〜八本調子が多いようである。  
弦楽器(絃楽器)は雅楽では「弾物(ひきもの)」と呼ばれ、琴・琵琶等の総称である。旋律を奏でる他の弦楽器とは異なり、雅楽ではリズム楽器としての役割を果たす。管弦で用いられるのは主に「琵琶」「筝」の2種の弦楽器である。
「楽琵琶(がくびわ)」主に管弦に使用される雅楽の琵琶は、他の琵琶と区別するために楽琵琶と呼ばれており、ペルシャを起源とし、西域から中国を経由して伎楽と共に日本へ伝来したと言われる。現在の楽筝は大体110センチ程度が標準的な大きさで、絹糸でできた弦が4本、小型で低い柱が4つ付され、撥(ばち)で撫でるようにして音を奏でる。槽(胴)の材質は花櫚・紫檀・桑等、槽の上端の「海老尾(かいろうび)」は黄楊・白檀、「鹿頸(ししくび)」と呼ばれる槽の頸の部分は唐木・桑、腹板は沢栗、長さ20センチ程度の薄い撥は黄楊、と全体に様々な木材が使用されている。他の楽器と同様に多くの逸話を持ち、美しい絵が描かれた「銘」があるものや、「玄上(玄象)」「青山」等は名器として有名である。
「楽筝(がくそう)」古くから「箏の琴」の名で表される雅楽の筝は、他の俗箏と区別して特に楽筝と呼ばれている。全長は標準1.9メートルあり、絹糸でできた13本の太い弦、高さ4、5センチの象牙の琴柱(駒)、竹の爪を用いる点で近代の琴(こと)とは音色も大きく異なるという。間をとる為の打楽器に近い役割を持ち、主に演奏の流れを作る役割を果たす。胴は桐材、頭部・尾部・足・駒は唐木を使い、その上に象牙の細長い筋を付けてある。しっとりとリズムを刻んでいく役割のみで、楽琵琶と同様に旋律は奏でない。古くは左手で柱の左側を押さえる奏法があったようだが現在の奏法に伝わっていないという。
「和琴(わごん)」古墳時代の埴輪に和琴を演奏する人を象ったものが出土しているほど起源の古い、純日本製の楽器であり、中国から伝わった箏(そう)とは構造・奏法等が全く異なる。長さ約1.9メートルの桐製の胴は表面全体を火で焼き焦がし、絹糸の6本の弦を「葦津緒」と呼ばれる太い紐で止めて張り、琴柱(ことじ)には楓の二股の小枝を自然のまま利用する。右手で「琴軋(ことさぎ)」と呼ばれる水牛の角でできた細長いピックを用いるか、左手の指で弾いてゆっくり奏する。古来は天皇の楽器と呼ばれるほど楽器の位が高く、現在は主に宮中での神楽歌・東遊・久米歌等の古の純日本歌曲である「国風歌舞」にしか用いられないが、古くは管絃にも用いられていたようだ。純日本製楽器として古くから存在したことから別名が非常に多く、「六絃琴」「倭琴(やまとごと)」「御琴(みこと)」「神琴」「天詔琴」「鵄尾琴(とびおごと)」「東琴(あづまごと)」「むつのを」等があり、古くから祭祀儀礼において重要な楽器であったと考えられている。  
琵琶は大衆的な楽器ではなく、歴史を辿っても庶民に愛された「平曲」の盲僧琵琶が、史上最も有名ではないだろうか。分類するなら、インド伝来の「五弦琵琶」・雅楽で用いる前述の「楽琵琶」・盲僧語りの「盲僧琵琶」・平曲語りの「平家琵琶」・盲僧琵琶から派生した「筑前琵琶」「薩摩琵琶」等がある。
「筑前琵琶(ちくぜんびわ)」琵琶は専ら盲僧達が担い手であり、彼らの手作りであったため当初は様々な形態の琵琶が用いられていたというが、奈良時代末〜平安時代初期、福岡県博多の「玄清」という筑前盲僧が北九州各地に筑前琵琶を広めたのが始まりともいう。しかし今日のものは明治時代中期に筑前盲僧・琵琶奏者の橘智定(たちばなちじょう)が薩摩琵琶を改良して新しく琵琶音楽を創始したとされ、四絃五柱と五絃五柱があるという。五絃は薩摩琵琶に一絃高い音を加えたもので、四絃は小型なので音も繊細であり、女流演奏者に人気があるという。
「薩摩琵琶(さつまびわ)」室町時代末期、島津忠良が「淵脇了公」に命じ、古くから薩摩にあった盲僧琵琶を改良し、琵琶音楽を作らせたのが起源と言われる。四絃四柱の大形のもので、大形の撥で自由闊達に勢い良く奏するものであったが、現在では筑前琵琶と同様の五絃五柱と、旧来の四絃四柱の双方が並立している。人気が高く町人に広まった江戸時代の合戦語りは「町風(まちふう)琵琶」、武士に広まったものは「士風(しふう)琵琶」とも呼ばれ、明治時代には全国に広がりをみせるほどの人気を呼んだ。  
打楽器は雅楽では「打物(うちもの)」と呼ばれている。大半が中国大陸からの由来のものであるが、日本に伝来して独自の進化を遂げたものも多いという。雅楽では太鼓・鞨鼓・鉦鼓が用いられる。
「楽太鼓(がくだいこ)」「釣太鼓」とも呼ばれるように、大型の木製の円形の枠に直径50センチ以上もの大型の平太鼓を釣るし、2本の桴で打つもの。桴で打つ革面には色彩も豊かな三つ巴・唐獅子・鳳凰等の模様が描かれており、また太鼓の中では薄い類なので、一見するとドラのように見える。バスドラムと同様、低く響く音色で基本のリズムを担当し、演奏全体を底から支える。楽太鼓は管弦の合奏に用いられる。下記の大太鼓の他に、「船楽用太鼓」「荷太鼓」等も用いられるという。
「大太鼓(だだいこ)」「火炎太鼓」とも呼ばれる、火炎の装飾を施された非常に大きくて派手な太鼓であり、舞楽で用いられる。高舞台を組んでの正式の舞楽の場合、大太鼓が左右一対になるよう設置される。奏法は楽太鼓と全く同じ、また用途も同じく演奏全体を支える役割を担う。通常は直径55センチ程度、薄くて非常に大きい太鼓であり、楽太鼓同様、桴で打つ革面にも色彩も豊かな模様が施されている。最大のものは大阪・四天王寺に重要文化財として保存されているもので、直径2.48mもあるという。
「鞨鼓(かっこ)」雅楽では統率楽器として演奏全体のペースの管理を担う重要な役割を担当するので、熟練者が奏するものだという。直径20センチ強の牛革張りの両面の太鼓を、「調緒(しらべお)」という牛皮の紐で締め、装飾が施され、木の桴(ばち)2本を用いて演奏する。唐楽の中でも「新楽」を奏する時に用いられており、古く「古楽」を奏する時は「壱鼓(いっこ)」という楽器を用いたが、現在は鞨鼓を用いるようになったという。
「鉦鼓(しょうこ)」雅楽では唯一の金属製楽器、かつ体鳴楽器であり、シンバルに近い。直径15センチ程度の青銅製の皿を、長さ42センチ程の2本の桴(ばち)で擦るように叩いて硬い音を鳴らす。管絃の演奏には「釣鉦鼓(つりしょうこ)」を用い、他の演奏には「大鉦鼓(おおしょうこ)」「荷鉦鼓(にないしょうこ)」等が用いられるようだ。釣鉦鼓は木製の枠に鉦鼓を下げて鳴らすもので、宮内庁のものは漆や金箔で木枠が装飾され、楽太鼓と対の文様や装飾が施されているという。祭囃子等で用いられる簡素なものは単に「鉦(かね)」と呼ばれている。  
以下、「打物」以外の和太鼓について触れておく。
「締太鼓(しめだいこ)」古くは「猿楽太鼓」と呼ばれていたもので、和太鼓の1つに挙げられ、現在は主として能楽・長唄・民謡・神楽等を始め、広く用いられている。推古天皇の時代、百済から伝わった伎楽で「腰鼓(ようこ)」として使用されていたものであり、後の田楽・猿楽、室町時代には能楽に用いられて改良され、能の囃子である「四拍子」の1つとして発達してきた。木製の胴は中央がやや膨らんだ円筒形で、革面の直径は35センチ、革面の周りに8個の孔があり、調べ緒でかがって締め上げて張りを整える。古くは別の者に持たせて打ったともいわれるが、現在は「挟台」に固定して用いる。
「大鼓(おおつづみ)・大皷(おおかわ)」能楽・長唄の囃子に用いられ、古く存在した「壱鼓」に似た鼓(つづみ)であり、小鼓(こつづみ)と対になって用いられる。木製の胴の長さは28センチ程度、革面は直径23センチ程度、奏者は和紙の指袋を着用し、右手の人差し指と中指で打つ。良い音を出すためには演奏前に革面を1時間半程度火で焙り、乾燥させておく必要があるそうだ。
「小鼓(こつづみ)」一般に「鼓(つづみ)」と言われるもので、能楽・長唄囃子・歌舞伎の下座音楽・郷土芸能等、広い用途に用いられている。古く「壱鼓」から変化した鼓であり、平安時代末期には「白拍子」、室町時代の「猿楽」に用いられ、「能楽」の「四拍子」の1つとして「大鼓」と同様に発達してきた。木製の胴の長さは26センチ程度、「乳袋」と呼ばれる両端の椀形の端に直径20cm程度の馬皮の革が張ってある。胴に黒い漆を塗り、蒔絵等の美しい装飾を施したような美術品としても貴重な鼓や、小鼓各流儀の宝と言われるような名器も数多く存在する。奏者は、鼓を右肩の上に構え右手で皮面を打ち、左手で調べ緒の握り方を変えて音を操作するのだが、演奏前は大鼓とは逆に革に湿気を含ませて音の調子を整えて用いるという。打面の皮は50年未満は新皮と呼ばれ、製作してすぐ柔らかい良い音が出るものではなく、また現在の舞台で用いられる小鼓の胴の大半は室町〜江戸時代に製作されたものであり、江戸期以降は名胴がほとんどないという。
「三ノ鼓(さんのつづみ)」「三鼓」とも呼ばれる鼓で、雅楽の右方(高麗楽の舞楽)の演奏に用いられるもので、長さ45センチ程度で形は鞨鼓と似ており、また全体をリードする役割を担うのも鞨鼓と同様であるが、演奏は片面だけを用い、右手に太い桴、左手は楽器の調緒を持って奏する。大きさにより「壱鼓」「二ノ鼓」「三ノ鼓」「四ノ鼓」と名が付けられた「古楽鼓」は奈良時代に日本に伝わったらしいが、二ノ鼓と四ノ鼓は雅楽に用いられず、現在は残っていないという。軽い音色の鞨鼓に比べるとやや鈍く重い音で、鞨鼓のように連打することはなく、単調なリズムである。雅楽に使われる三ノ鼓は胴に漆・金箔で華やかな文様を描いた装飾が特徴として上げられるのは他の鼓と同様である。
「笏拍子(しゃくびょうし)」雅楽器の中では作りが最も簡素な、長さ35センチ程度の木製の打楽器で、平安貴族の束帯という装束や神社の神官が持つ「笏(しゃく)」を縦2つに割ったような形で、独唱者が歌いながら打ち鳴らすことで拍子を定める。拍子木と似た類のもので、両手に1つずつ持ち、左手は切り口を手前向き、右手は切り口を左向き持ち、扇を閉じる要領で強く打ち鳴らすことで乾いた音を鳴らす。雅楽の謡物である「国風歌舞」や御神楽で用いられる。  
雅楽の管弦はここまでとして、次に「筝(そう)」に入る。既に管弦の弦楽器のところで少し触れたが、雅楽器の楽筝とは形も歴史も全く異なっている。
「筝(そう)」奈良時代、中国・唐から伝来した弦楽器であり、長胴チター属撥絃楽器に分類される十三絃の琴で、「筝の琴(そうのこと)」とも呼ばれている。雅楽の管弦で用いられている「楽筝」を原型として継承され、嵯峨天皇の頃に全長約197センチと規定されて以来、現代の筝(いわゆる「お琴」)までほとんど同じ形状で継承されてきた。日本では今日も変化なく使われているのに対し、本家・中国では弦数が増加、今では21本程度のものが用いられるという。一般に「琴」とも表記されるなど混同しがちであるが、元来は筝(そう)と琴(きん)は全く別のものであった。木製の本体に絹糸を撚った太さが同じ13本の弦を張り、可動式の「琴柱(ことじ)」の位置を変えることで調弦し、調弦にない音は左手で弦を押さえ、音を変化させつつ象牙等でできた爪を着けた右手3本の指で奏する。江戸時代には室内用の独奏楽器として発達し、現行の生田流・山田流を始め、八橋流、筑紫筝(つくしごと)等の音楽が誕生した。他にも宮城道雄が考案した低音用の「十七絃」や「八十弦」、中能島欣一の考案した「十五弦」、初代・宮下秀列の「三十弦」、野坂恵子の「二十五弦」等も後の時代に考案されている。
筝曲が発達する中で時代・流派の変化に伴って筝本体・柱・爪等がサイズ・形状・構造・素材等において様々な改良が行われた結果、「十三弦筝」が定着し、今日広く普及している。また洋楽の要素を取り入れた斬新な筝曲の創作が増大するにつれ、本家・中国と同様に高低両面へと筝の多弦化傾向が生じているという。
「筝曲(そうきょく)」とは、筝を主奏楽器とする音楽全般を指す用語であるが、一般には狭義の、近代に始まった八橋検校以降の箏曲「俗箏(ぞくそう)」による音楽を指す。その歴史の発祥は筑紫流筝曲(筑紫筝)にあると言われ、室町時代末期、「越天楽歌もの箏曲」など箏が歌謡の伴奏に用いられるようになり、戦国時代末期〜江戸時代初頭には九州・久留米の僧侶・賢順が雅楽と琴曲(きんきょく)の影響を受けて筑紫筝の組歌「賢順十曲」を生み出すなど筑紫流筝曲を大成させ、始祖となったという。その後の江戸時代初期に登場する「八橋検校(やつはしけんぎょう)」が八橋流筝曲を興こし、改革・発展させつつ当道座へと伝えて当道箏曲を誕生させたことで近世筝曲の礎を確立し、三味線同様に色々な流派が誕生することとなったので「近世筝曲の開祖」と呼ばれている。更に八橋門下の北島検校の門人の「生田検校(いくたけんぎょう)」が、筝曲と地歌(じうた)を合流させ筝と三味線の合奏を加えた生田流筝曲を創始した。三味線の伴奏として用いられていた箏を、江戸中期の箏曲家で生田流の長谷富検校の弟子「山田検校(やまだけんぎょう)」が江戸浄瑠璃の曲風を取り入れつつ独奏楽器としての箏曲を作り、山田流箏曲の始祖となった。彼は類稀な美声の持ち主で江戸で人気を博したと言われ、同時に琴師・重元房吉(しげもとふさきち)が山田流に合わせて爪・箏本体の改良を行い、現在の「山田琴」の原形を作ったという。彼の製作技術は今日まで伝承され、流派を問わず広く用いられている。
江戸浄瑠璃を取り入れた歌本位の江戸の山田流、地歌を基盤にした器楽的筝曲の上方(関西)の生田流と、2大流派の流れが現在まで続いており、今日もこの二流のみとなっている。  
「尺八(しゃくはち)」尺八の渋い音色から純日本製楽器のような錯覚を起こすが、その起源は古代エジプトまで遡るという輸入楽器である。エジプトからペルシャ、インドを経て中国に入り、中国で長さ一尺八寸となり、最初は6孔(前5・背1)のものが日本に伝来したという。尺八の名で呼ばれる楽器として「雅楽尺八」「普化尺八」「一節切」「多孔尺八」「天吹」等があるが、そもそも尺八の名の由来は楽器の長さを表しており、長さ54センチ程度(一尺八寸)、真竹という大型の竹の根に近い部分を利用した縦笛である。4〜5年以上経過した硬くて古い竹を火で焙って油分を抜き、天日乾燥して更に数年保存してから製作され、管の中は防水のため漆塗りが施されている。他に練習用の木製・プラスチック製等があり、竹製のものは製造直後は白いが、年月を経て茶色が濃くなってゆくという。現在一般的な尺八には、中継ぎという中央のジョイント部分があり、上管・下管に分解することができるという。標準54センチの「八寸」以外に色々な長さがあり、短いものは33センチ程度の「一尺一寸」、長いものは75センチ程の「二尺五寸」があるという。現在使用されている尺八の起源は、中世の頃中国から伝来した「普化尺八」で、江戸時代、仏教の一派である普化宗の虚無僧(こむそう)が托鉢して吹奏していた楽曲が尺八楽の起源だという。楽器自体もその製法も普化尺八と同じものが伝承されており、竹の節7つをそのまま生かした竹管に前面4つ・背面1つの孔を設け、舌(リード)が付いていない歌口に直接息を吹くことで音を出す。5つの孔を半開・微開等の4通りの細かな押さえ方で音程を調節し、更に唇の開き具合や顎の角度(メリ・カリ)等で律・音色を調整するなど、顎を楽器の一部と見なして使用しなければならないため「首振り3年、コロ8年」と俗に言われているほどに奥が深く、演奏が非常に難しいという。
「雅楽尺八(ががくしゃくはち)」現在の雅楽には使われていないが、正倉院には最古の尺八が残っているらしい。平安時代初期まで使用されていた「古代尺八」とも呼ばれるもので、中国・唐で作られ奈良時代に日本に伝来したが、平安時代末期頃には消滅したという。中国でも同様に宋の時代には消失してしまったようだ。後の江戸時代、管絃合奏用の雅楽曲の尺八譜を作らせたが、既に雅楽尺八は全滅していたため当時存在した普化尺八で代用したと考えられている。
「普化尺八(ふけしゃくはち)」鎌倉時代の禅僧・覚心が中国・宗で尺八曲を学び、日本に伝えたのが起源とされる。普化宗(ふけしゅう)が盛んになるのは江戸時代に入ってからのことで、江戸時代初期、多く世に生じた浪人に組織された普化宗(禅宗の一派)が読経の代わりに法器として普化尺八を使用し、瞑想の手段としたことによる。今日の尺八の直接の起源となっており、標準寸法は54センチ程度、指孔は前面4孔・背面4孔の計5孔である。普化宗の徒は虚無僧と称したことから「虚無僧尺八」とも呼ばれる。京都・明暗寺を総本山に定め、普化宗寺には武士以外の入門を禁じていたが、庶民への尺八指南は古くから行われていたようだ。江戸時代中期、普化宗が公認の宗教となり虚無僧の地位が「普化宗徒」として安定した後、琴古流の源となる虚無僧・黒澤琴古(くろさわきんこ)等の名手も出て日本各地に伝わる尺八曲を集めて集大成させたという。琴古流・明暗流の2派が存在したが、明治初頭の普化宗の廃止により一般大衆も普化尺八を手にすることができるようになるのと同時に「尺八」として一般楽器の仲間入りを果たした。古典尺八曲は大半が独奏曲だったが、明治中期に中尾都山(なかおとざん)達により本曲という新しい分野を開拓し、芸術的音楽として発展させ「都山流(とざんりゅう)」を大阪に誕生させた。なお尺八のために作曲された尺八の独奏曲を「本曲」と呼び、それ以外は「外曲」と呼ばれ、箏・三絃(三味線)と合奏する曲は外曲に相当する。今日は琴古流・都山流の2派が現存し、流派により「歌口(うたくち)」に埋め込んである物の形状が異なるという。近年では更に改良・工夫された7孔以上の尺八もあるようだ。
「一節切(ひとよぎり)」一節分の長さ(一尺一寸一分)の竹で作られているのが名前の由来であり「一節切尺八」「短笛」等とも呼ばれていた。室町時代中期頃、一節切という尺八が南方中国人の廬安(ろあん・芦安)によりもたらされ、吹奏行脚をして歩いたことが薦憎(こもそう=虚無僧)の起源となり、江戸時代中期頃まで一般大衆に愛好されたという。一節切は文字通り節が1つしか無い真直な竹で作られ、指孔は前面4孔・背面1孔、他の尺八とは逆に根に近い方が歌口になっている33センチ程度の短い尺八である。江戸時代には三味線や琴と合奏されたり唄の伴奏にも使われていたが、明治時代以降衰退して現在は使用されていないという。
ちなみに虚無僧という名は、薦僧(菰僧・虚妄僧)という前述の廬安の様子から出たもので、室町以前は「徒然草」に登場するように「ぼろぼろ」「暮露」等と呼ばれていた乞食僧を指す言葉である。なお天蓋(頭を覆う笠のようなもの)で顔を覆い隠す風習は徳川4代目将軍の治世以降の事であるようだ。
「天吹(てんぷく)」細く短い尺八であり指孔は一節切と同じ、一節切のように根竹は用いられず、節は中間に3つ、歌口は尺八に似た切り方になっている。一節切と尺八の中間のようなものであり、研究が進むと尺八の伝播・発展の解明に繋がるかもしれないが、現在は滅亡寸前である。鹿児島県にのみ現存する薩摩地方の郷土楽器である。  
さて最後に三味線(三弦)について触れることにする。三味線の起源等は「日本物語−地唄・長唄・端唄・小唄・都々逸」でも紹介しているので参照していただければ幸いである。
三味線の起源は安土桃山時代の永禄年間(1558〜1569年)、中国の三弦(さんげん、三絃とも)が本土に伝わり、琵琶法師がそれを改良して三味線が誕生したとする説が一般的である。具体的に誰が三味線を誕生させたかは定かではないが、石村検校(いしむらけんぎょう)が三味線音楽興隆の祖と称されているように、三味線の考案・改良のみならず三味線音楽を芸術的に高めるべく楽曲を作成し、弟子へと伝授したことにより三味線が世に広まったため、地歌を始めとする三味線音楽の誕生に大きく貢献したものと考えられている。江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」を生んだ功績も大きく、「当道座」の盲人音楽専門家である検校らに非常に尊重され、この組歌を基本として「地唄」が大成された。
この「三味線組歌」は現在「本手(ほんで)」「本曲(ほんきょく)」等の通称で呼ばれ、本手組(7曲)と破手組(端手組)の総称となっている。本手組7曲は石村・虎沢検校の手により作られ、破手組14曲は虎沢・柳川検校により作られたと言われているが、現在の野川流三味線組歌の全32曲に定まるまでの伝承過程において、京都の柳川流・大阪の野川流の2つの三味線流派に分かれた。本手は、免許皆伝でも伝授されない秘曲とされ、かつて職格取得(プロ)のための必修曲であったが、音源として全曲残されているものの、生きた継承者は非常に少ないという。明治期の「当道座」の解体に伴って遠い存在となっていたが、秘曲としての格式を保ちつつ伝承され、現在は本手奨励会を組織して正確な伝承と普及のための活動を行っているという。
ちなみに古典であった本手組に対する新風であった破手組の奏法・テンポの緩急の自在さ等から「派手」という言葉が生まれたとも言われている。
三味線は歌舞伎音楽と共に発達してきた。中でも「長唄(ながうた)」は江戸で歌舞伎舞踊(所作事)専用の伴奏音楽(地謡)として誕生、発展した三味線音楽であり、歌舞伎の初期の頃に存在した「踊歌」、元禄期(1688〜1704年)頃に江戸に伝わった「上方長唄」の2つを母体として各種の音曲の曲節を摂取しつつ、享保年間(1716〜1736年)、長編で物語性を有する「長唄」が誕生したという。17世紀初頭に起こった「お国歌舞伎」の頃は踊歌の伴奏音楽は能楽の4拍子のみであり、三味線が使用されるようになったのは1615年〜1630年頃に最盛期となった「女歌舞伎(遊女歌舞伎)」の時である。1629年の遊女歌舞伎の禁止に続いて起こった「若衆歌舞伎」の時代、三味線の地位が主奏楽器として確立されるのに伴って今日と同じような基礎形態に整えられたというので、長唄は歌舞伎の歴史と密接に関わりつつ発展してきたと言える。上方の元禄歌舞伎の第一人者である初代・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始され流行したことを背景に、18世紀前半の享保年間、上方の初代・瀬川菊之丞、初代・中村富十郎らの名女形と長唄演奏者が江戸に進出し、和事特有の女性的な長唄三味線が江戸にもたらされ、流行した。18世紀後半には、長唄に浄瑠璃を取り入れた「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」が作曲家・唄方として名高い初世・富士田吉次によって創案された。唄浄瑠璃とは歌物(うたいもの)的傾向の強い浄瑠璃流派のことであり「座敷浄瑠璃」の別称の通り、室内音楽として三味線歌を楽しむものである。長唄三味線は分化・多様化しつつ人気を博すると共に曲風も多彩になって定着してゆき、19世紀前半辺りに全盛期となる。文化・文政期(1804〜1829年)、早替わり等ケレン味ある演出に合わせた「変化物(へんげもの)」や豊後節浄瑠璃との「掛合物(かけあいもの)」が歌舞伎界に流行して全盛期になると、長唄三味線も各々の舞踊に合わせた伴奏音楽として目立って内容の多様化が起こり、高い音楽的完成度を持つものとして大成し始めた。幕末〜明治期にかけて、歌舞伎そのものを芸術的に高めようとの指向を反映して能・狂言の歌舞伎化が活発になるにつれ、長唄三味線の守備範囲は益々広がり、また浄瑠璃流派の1つであった「大薩摩節」を吸収し、舞踊音楽として首位を占めるに至った。
同時に、歌舞伎や舞踊から離れ、大名屋敷・料亭等で演奏する「鑑賞用長唄(お座敷長唄)」が創始され、長唄三味線は新しい局面への場が開かれることになり、本来は舞踊曲であり派手な芝居唄であったものが、庶民の習い事として浸透して劇場を離れ、室内楽として音楽の1ジャンルの地位を得た。20世紀初頭、四世・吉住小三郎と三世・杵屋六四郎(きねやろくしろう)が「長唄研精会」を創設し、定期的な演奏会を開催することで「鑑賞用長唄」を一般庶民に普及する働きかけを行い始めた。そうして長唄三味線の長い歴史の中で謡曲・狂言・浄瑠璃・地歌・流行歌・民謡等の様々な種目が有する旋律・題材・曲節を吸収して発展した為、極めて多様性に富んでおり、現代、純邦楽の中で最も親しまれている音楽となった。
次に三味線の構造を見てみることにする。三味線は「棹」と「胴」の部分に分けられる。「棹」は上から海老尾(転軫)、棹、それに棹の下の棒状部分は胴内部分の中子(中木)、胴の下に突き出る部分の中子先で構成される。材質は、紅木が最高級、次に紫檀、樫・桑の木等も使用される。棹の長さは62センチ程度で、太さは細棹・中棹・太棹がある。持ち歩きに便利なように「継ぎ棹」と呼ばれる「二つ折」「三つ折」になるものや、5箇所も継ぎ目のある「六つ折」という珍しい棹もあり、逆に継ぎ目の無い棹は「延べ棹」と呼ばれている。「胴」は四面の四角形の箱型で、材質は花梨・桑・欅等があり、胴の枠の上には蓋状の胴掛を付け、皮は胴の両面に張り、猫・犬の皮が使用されるが、最近では合成ビニール等も使用されている。「弦」は絹糸を撚り合せて作られるが最近はナイロン製の糸もあるようだ。単に糸と呼ばれており、「一の糸」は太く、「二の糸」は中間、「三の糸」は最も細い。「駒」は糸の振動を直接皮面に伝えるので三味線の音質を決める大事な部分であり、材質は象牙・水牛角・鯨の骨・竹・紫檀・黒檀等、様々である。義太夫・地唄三味線では水牛が多く、長唄三味線では象牙が使用されるという。中には「忍び駒」と呼ばれている、音量を抑える目的の竹製のものがあり、江戸時代中期から用いられ始めたそうだ。当時、皇室・将軍御三家等の凶事の際には長いと一年間も鳴物が禁止されたため、その間は内密で三味線を弾くために用いられていたことからこの名が付いたという。
「撥」は少し開いた扇のような形状で、上は「ひらき」、下は「才尻」と呼び、間の握り部分を「手の内」と呼ぶ。材質は地唄三味線では水牛角、長唄三味線は象牙、義太夫三味線では双方使用されている。
三味線演奏者は正座し、胴を右膝に乗せて棹を左手で握り、左の人差し指・中指・薬指の主に爪で「勘所(かんどころ・ツボ)」を押さえ、右手の撥を糸に当てて弾く。撥は皮に当てる程度に強く叩かないように弾くもので、様々な奏法があり、左手の押さえも「はじき」「こき」「すりあげ」「すりおろし」等があり、各々の音楽に特有の世界を生み出している。この他にも「小唄」のように撥を用いず、右手の人差し指で「爪弾き(つめびき)」する奏法もある。 
 
地唄・長唄・端唄・小唄・都々逸

本項の表題に「唄」が並んでいることからも予想できると思うが、唄の付かない「都々逸」も唄の一種であり、「歌」ではなく「唄」が付いていることから察せられるとおり、最近誕生したものではなく、近代邦楽に含まれるので「声楽」の項も参照して頂けると流れが分かりやすいかと思う。大体表題の並びのままで年代順になっているため、先に全体の流れを追った後に各々の詳細に触れてゆこうと思う。※注「歌」「唄」双方の標記があるが、表題の名称に対しては統一して「唄」を用いた。
まず邦楽の中の「声楽」の2大系統として「歌物・謡物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」があり、「歌物」は一般に流行歌・民謡・童謡・俗謡などの総称を指し、「語り物」は音楽性を伴う韻文形式の作品かつ歌詞と曲とが一体のものと定義されている。「歌物」と呼ばれるものには古くは神楽歌・催馬楽・今様・宴曲、近代は長唄・端唄・地唄・うた沢・小唄・都々逸などがあり、本項の5つは全てこちらに含まれ、かつ近世、江戸時代に日本で誕生したものである。これらの土台となる地唄は三味線の伝来とほぼ同じ時期、当初は三弦音楽として始まったと考えられているので、戦国時代末期頃から歴史が始まると言えるだろう。地唄は当道座の検校らにより作曲・伝承され続け、江戸・元禄年間(1688〜1703年)には一貫した内容を持つ「長歌」を誕生させた。それに伴い、短いものを「端歌(はうた)」と呼ぶようになったが、端唄の流行は天保年間(1830〜1843年)以降と言われている。長唄は上方から江戸へ伝わり、歌舞伎専用の劇場音楽として江戸で発達したことから「江戸長唄」とも呼ばれるが、19世紀初頭には観賞用長唄(お座敷長唄)も誕生し、庶民にも愛好されるようになる。一方端唄は一般庶民の娯楽の流行歌でしかなく、家元制がなかったため衰退してゆく。端唄をゆったり渋く上品に歌う「歌沢」「うた沢」が安政期(1854〜1859年)頃に誕生した後、端唄が撥を使うのに対し、爪弾き(つめびき)で三味線を弾き、端唄のテンポを早くし、すっきり・粋にした小唄が派生するが、当初は「端唄」と呼ばれていた。いわゆる現在の小唄「江戸小唄」の流行の先駆は清元と密接で、幕末〜明治期にかけて発達し、大正時代には流派が数多く現れ、現在は100以上にも上るという。最後に「都々逸」は江戸末期に一世を風靡した寄席芸人・都々逸坊扇歌が始めたもので、三味線音楽でも俗曲に属する。天保年間(1830〜1844年)に寄席で都々逸を披露し始め、節回しが単純で馴染みやすかったことにより庶民に大流行したという。
現在最も人気があるのは小唄ではないだろうか。昭和初期、小唄の歌い手であった芸者達が多数レコードデビューしたことで国民的人気を集め、更に戦後、民放テレビ・ラジオの開局を背景に、「小唄ブーム」と呼ばれるほど人気が高まったようだ。  
さて各々の話へと入ろうと思うが、近代邦楽において重要なものとして三味線の普及がある。三味線が誕生しなければ表題の声楽ジャンルは一つも起こり得なかったとも言える。よって少し三味線の話に触れておこうと思う。
三味線の起源はと言えば、安土桃山時代の永禄年間(1558〜1569年)、中国の三弦(さんげん、三絃とも)が本土に伝わり、琵琶法師がそれを改良して三味線が誕生したとする説が一般的である。具体的に誰が三味線を誕生させたかは定かではないが、石村検校(いしむらけんぎょう)が三味線音楽興隆の祖と称されているように、三味線の考案・改良のみならず三味線音楽を芸術的に高めるべく楽曲を作成し、弟子へと伝授したことにより三味線が世に広まったため、地歌を始めとする三味線音楽の誕生に大きく貢献したものと考えられている。江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」を生んだ功績も大きく、「当道座」の盲人音楽専門家である検校らに非常に尊重され、この組歌を基本として「地唄」が大成された。
この「三味線組歌」は現在「本手(ほんで)」「本曲(ほんきょく)」等の通称で呼ばれ、本手組(7曲)と破手組(端手組)の総称となっている。本手組7曲は石村・虎沢検校の手により作られ、破手組14曲は虎沢・柳川検校により作られたと言われているが、現在の野川流三味線組歌の全32曲に定まるまでの伝承過程において、京都の柳川流・大阪の野川流の2つの三味線流派に分かれた。本手は、免許皆伝でも伝授されない秘曲とされ、かつて職格取得(プロ)のための必修曲であったが、音源として全曲残されているものの、生きた継承者は非常に少ないという。明治期の「当道座」の解体に伴って遠い存在となっていたが、秘曲としての格式を保ちつつ伝承され、現在は本手奨励会を組織して正確な伝承と普及のための活動を行っているという。
ちなみに古典であった本手組に対する新風であった破手組の奏法・テンポの緩急の自在さ等から「派手」という言葉が生まれたとも言われている。  
さて話は地唄に入ろう。「地唄(じうた)」は近年「地歌」の表記が増えてきたようだが、意味が2つあり、俗謡や土地の伝承歌の意と、上で触れた江戸初期に発生した三味線声楽曲で、三味線の弾き歌いの形式を原則とする歌曲様式で上方歌・法師歌・京歌等の別称を持つ類のものである。これは江戸に対する上方(地元)の歌なので地唄と呼ばれて上方(関西)で愛好されたためで、江戸では上方唄(かみがたうた)と呼ばれていたことによる。地唄の発生は前述したように上方で三味線の誕生に伴って起こり、江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」が誕生した後はこれに倣い、盲人の琵琶法師達、主に職業盲人演奏家・当道座の検校らの手により独自の発達を遂げ、作曲・伝承され続けた。その中で能楽の題材・詞章を取り入れた「謡物(うたいもの)」、浄瑠璃の移入、滑稽な内容の「作物(さくもの)」等も作られ、江戸後期には地歌を代表する楽曲形式である、歌と歌の間に三味線のみの間奏部分を有する「手事物(てごともの)」という形式も生まれた。現在の分類によると前述の組歌・謡物・作物・手事物の他、新しい工夫を加えた「端唄物(はうたもの、本項端唄とは別)」・「語物(かたりもの)」・京物(きょうもの)等の多彩な内容となっており、上方舞の伴奏としても知られている(「日本物語−上方舞」参照)。
その後発生した箏曲(そうきょく)の中でも生田流と主に密接に関わりつつ座敷・家庭音楽などの室内音楽として発達し、一般庶民の間にも普及する。地唄から派生して歌舞伎等と結びついた長唄とは異なり劇場音楽の伴奏等の場所の制約もなく、純音楽的芸能として繊細かつ叙情的な美しさを有する芸術的側面を発展させ、三味線・声楽共に独特の芸を育んできた。元禄期(1688〜1704年)頃から三味線と筝の合奏が盛んに行われるようになり多様な曲種を生む等、筝曲と地唄が次第入り混じり、結合した結果、今日にあっては筝の流派において地唄(三味線)はほぼ兼業する形になっているという。
江戸時代中期あたりから地唄三味線・筝曲・胡弓楽の総称として、又は3種の楽器の総称として「三曲(さんきょく)」という名称が用いられ始めたようで、主に地歌や筝曲が演奏されていた。江戸時代末期から尺八が参入し、現在三曲と呼ぶ場合は地唄三味線・箏曲・胡弓楽・尺八楽を総合した名称となっているようだ。地唄三味線と表記したが、三曲・箏曲・胡弓楽・尺八楽において地唄の三味線は「三弦(三絃)」と呼ばれている。これらの4種の楽器のうち、三種の楽器の合奏形態を「三曲(さんきょく)合奏」と呼んでいるが、近年尺八との合奏が多く行われるようになったためか、現在は三味線・筝・尺八の3種の楽器の合奏が一般的になっている。また現在は三味線・尺八等の合奏曲であっても「筝曲」と呼ぶことが多くなった。
地唄の三味線について少し触れておこうと思う。一口に三味線と言っても色々な大きさ・種類があり、「地唄三味線」と呼ばれるものは、中棹で一分五厘大の胴が多く用いられている。地唄駒・糸巻き・大きめの撥・犬皮張り等の説明に入ると止まらなくなってしまうので、おおまかな特徴だけ挙げておく。技巧が繊細で、左指を使って弦を複雑に奏でることにより繊細でデリケートなしっとりとした音色が特徴的である。琴と共に発展してきたことにより、当初は細棹も使用していたようだが音量を合わせて「中棹」で定着した。代表曲に「ゆき(雪)」「八千代獅子」「黒髪」「袖の露」等がある。
最後に、地唄の人間国宝について触れて次に移ろうと思う。人間国宝とは、国が指定する重要無形文化財のうち、ある技術を個人が有するもので、地唄の場合は人間国宝不在の状態である。生田流地歌箏曲で宮城道雄に学んだ「藤井久仁江(ふじいくにえ)」氏が2006年、地歌箏曲の第一人者で富筋流「富山清翁(とみやませいおう)」氏が2008年に亡くなって以来である。  
「長唄(ながうた)」は江戸で歌舞伎舞踊(所作事)専用の伴奏音楽(地謡)として誕生し、発展した三味線音楽で、歌舞伎の初期の頃に存在した「踊歌」、元禄期(1688〜1704年)頃に江戸に伝わった「上方長唄」の2つを母体として各種の音曲の曲節を摂取しつつ、享保年間(1716〜1736年)、長編で物語性を有する「長唄」が誕生したという。17世紀初頭に起こった「お国歌舞伎」の頃は踊歌の伴奏音楽は能楽の4拍子のみであり、三味線が使用されるようになったのは1615年〜1630年頃に最盛期となった「女歌舞伎(遊女歌舞伎)」の時である。1629年の遊女歌舞伎の禁止に続いて起こった「若衆歌舞伎」の時代、三味線の地位が主奏楽器として確立されるのに伴って今日と同じような基礎形態に整えられたというので、長唄は歌舞伎の歴史と密接に関わりつつ発展してきたと言える。「長唄」の名称が初めて登場するのは18世紀初頭のことで、それまで存在した上方長唄に対して「江戸長唄」とも呼ばれるが、本来的にはこれが正式名称である。上方の元禄歌舞伎の第一人者である初代・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始され流行したことを背景として、18世紀前半の享保年間、上方の初代・瀬川菊之丞、初代・中村富十郎らの名女形と長唄演奏者が江戸に進出し、和事特有の女性的な長唄が江戸にもたらされ、流行した。18世紀後半には、長唄に浄瑠璃を取り入れた「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」が作曲家・唄方として名高い初世・富士田吉次によって創案された。唄浄瑠璃とは歌物(うたいもの)的傾向の強い浄瑠璃流派のことであり「座敷浄瑠璃」の別称の通り、室内音楽として楽しむものである。一中節の出であった富士田吉次により創始されたものであるが、河東節・一中節・宮薗節・新内節・常磐津節・清元節等、現存する義太夫節以外の諸流の総称となっている。明和期(1764〜1771年)頃には豊後節系統での常磐津・富本の歌舞伎浄瑠璃(舞踊劇)が誕生し、それまで舞踊は女形の独断場であったが立役(男役)のための舞踊曲が数多く作られ、天明期には初代・中村仲蔵等の立役の名優が舞踊を演じるようになった。
長唄は分化・多様化しつつ人気を博すると共に曲風も多彩になって定着してゆき、19世紀前半辺りに全盛期となる。文化・文政期(1804〜1829年)、早替わり等ケレン味ある演出に合わせた「変化物(へんげもの)」や豊後節浄瑠璃との「掛合物(かけあいもの)」が歌舞伎界に流行して全盛期になると、長唄も各々の舞踊に合わせた伴奏音楽として目立って内容の多様化が起こり、高い音楽的完成度を持つものとして大成し始めた。幕末〜明治期にかけて、歌舞伎そのものを芸術的に高めようとの指向を反映して能・狂言の歌舞伎化が活発になるにつれ、長唄の守備範囲は益々広がり、また浄瑠璃流派の1つであった「大薩摩節」を吸収し、舞踊音楽として首位を占めるに至った。
同時に、歌舞伎や舞踊から離れ、大名屋敷・料亭等で演奏する「鑑賞用長唄(お座敷長唄)」が創始され、長唄は新しい局面への場が開かれることになり、本来は舞踊曲であり派手な芝居唄であったものが、庶民の習い事として浸透して劇場を離れ、室内楽として音楽の1ジャンルの地位を得た。20世紀初頭、四世・吉住小三郎と三世・杵屋六四郎(きねやろくしろう)が「長唄研精会」を創設し、定期的な演奏会を開催することで「鑑賞用長唄」を一般庶民に普及する働きかけを行い始めた。そうして長唄の長い歴史の中で謡曲・狂言・浄瑠璃・地歌・流行歌・民謡等の様々な種目が有する旋律・題材・曲節を吸収して発展した為、極めて多様性に富んでおり、現代、純邦楽の中で最も親しまれている音楽となっている。
次に長唄の音楽様式に触れておこう。
唄と三味線が同数で構成されるのが基本にあり、独吟から十挺十枚以上まで規模は変幻自在であり、小鼓・大鼓・太鼓・笛等の囃子を伴う場合もあるが、4挺(丁)4枚(三味線4人・唄4人)が定番である。一番小さくて軽い「細棹」三味線を用い、左指の技巧は他に比べると単純であるものの、右手(撥)の技巧は非常にテンポが速いのが特徴で、総じて淡泊で歯切れが良い。歌舞伎伴奏としては細棹は高い音色で繊細な音を出すため「勧進帳」「連獅子」等の舞踊要素の強い演目で演奏されることが多く、また囃子を伴うと賑やかで派手である。出囃子の場合、端にいる三味線は別の旋律である「替手(かえで)」、高く調律した「上調子(うわぢょうし)」を担当することもある。長唄は歌舞伎のBGM・伴奏・効果音を担当するので、黒御簾(くろみす、舞台上の専用の場所)で情景や情緒描写を行う重要な役割を持つため「黒御簾音楽」「下座音楽」と呼ばれている。歌舞伎舞台・演目への深い理解、役者の所作(演技)や舞踊の型などの熟知を要するため、鳴物・唄・三味線別々に「人間国宝」と呼ばれる国の重要無形文化財に指定される奏者が存在する。  
「端唄(はうた)」は地歌(じうた)とも呼ばれる三味線小歌曲の1つで、小唄・うた沢・俗曲との区別が以前は明確でなかったため混同されることもあるが、現在、端唄は小唄・うた沢・俗曲に属さない「江戸端唄(えどはうた、江戸期の小曲)」のことと定義されている。端唄には「上方端唄」「江戸端唄」の2種類があり、一般にいう端唄は、「江戸端唄(えどはうた)」と呼ばれるもので、京阪地方で流行した「上方小唄(かみがたこうた)」が江戸に移入され、その影響下、江戸時代末期に江戸で流行した短篇の三味線歌曲、いわゆる江戸の流行唄のことである。上方・江戸いずれの端唄も、小唄との違いは三味線の弾き方にあり、小唄が爪弾き(つめびき)であるのに対し、端唄は撥を用いて華やかに演奏するものである。内容的には家庭音楽として伝承されたものと、酒宴席など外部で広く演奏された娯楽性の強いものとの2つに大別できる。江戸時代、流行歌として小曲が数多く歌われ、地方民謡の他に端物の唄が多く作られて流行したのだが、江戸末期の安政年間(1854〜1859年)、それまでの端唄に品位を与え芸術的な歌曲として整えた「うた沢」が確立され、幕末から明治にかけて、うた沢の発生に続いて「江戸小唄」が誕生する。江戸小唄は清元の浄瑠璃(文楽)の新曲に多く挿入された端唄を、流行しやすいアップテンポで粋な曲調に改編したものであるが、後に単に「小唄」と呼ぶようになり、明治中期以後、一般庶民に流行したことは後に各々の項で触れることにする。一方の「上方端唄(かみがたはうた)」は地唄の中の端唄であり、平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達の最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りするのが本来の姿で、彼らの研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線の爆発的流行とともに、身近な芸能として武家・町人階級を中心に一般に広く受け入れられるようになり、江戸にも移入されて上方唄と呼ばれ流行を見せるが、男性的な武家文化を尊ぶ江戸では次第に消滅したようだ。端唄は、小唄と同様に「中棹(ちゅうざお)」三味線を用い、曲調には特別な傾向・味を持たない素朴な素直さがあることが特徴とされ、主な曲目に「紀伊の国」「夕暮れ」「びんほつ」「さつまさ」等がある。  
「小唄(こうた)」は江戸時代末期の安政年間(1854〜1859年)、「うた沢」に続いて端歌から派生した三味線音楽の1つであり、現在小唄と言うと一般には室町小歌に対する「江戸小唄(えどこうた)」、早いテンポの「早間小唄(はやまこうた)」を指す。歌舞伎・日本舞踊の伴奏に用いられる長唄・義太夫節等に比べるとテンポが良く短い曲であることに特徴があり、三味線の伴奏に合わせて洒落・風刺・皮肉の効いた粋な歌が歌われる。誕生の背景としては、江戸末期の安政年間(1854〜1859年)、前述の「江戸端唄」の愛好者であった旗本隠居・笹本笹丸らが、端唄に品格を付して芸術的歌曲として整えた「うた沢」を確立した頃、清元の浄瑠璃(文楽)の新曲に多く挿入された端唄を、流行しやすいアップテンポで粋な曲調に改編・洗練させた「江戸小唄」を誕生させた。当時の浄瑠璃は、家元しか曲を作ることが許されず、家元以外が作った場合、正式な作曲者名義は家元のものとされた為、作曲の才のある者は小唄を作るようになった。幕末〜明治期、最初の動きが清元で起こり、後には単に「小唄」と呼ばれ、明治中期以後は一般庶民に流行し、明治時代後期に今日のような形になった。
小唄は「中棹(ちゅうざお)」三味線を用い、三味線のリードに合わせ、間に唄をはめ込むように歌うものであるが、声を極端に抑制する歌唱法には熟練の技術を要すと言われる。小唄の三味線は「撥(ばち)」を用いず爪弾き(つめびき)と呼ばれる指で直に演奏する手法のため、サビのある柔らかい音色が特徴であり、通人好みの渋味を持つ。
演奏形態は1人で弾き唄い(独吟)、又は「1丁1枚」「2丁1枚」と少人数であり、「2丁1枚」の場合は一人は「替手(かえで)」と呼ばれる別の旋律を演奏する。
次第に小唄人口は増加して、戦後小唄の愛好者が急増して盛んになり「小唄ブーム」と言われるほどにもなり、今日なお甚だ盛況であり現在では家元が数多く存在する人気ぶりである。しかし、手軽に披露できる宴会芸としても庶民的人気を誇る小唄の流行に押されて端唄・うた沢・都々逸などの俗曲が下火となってしまった背景には、家元制度が無かったため、芸の伝承がスムーズに行われなかったことなどが挙げられる。  
「都々逸(どどいつ)」は江戸末期の天保年間(1830〜1844年)、寄席音曲師・都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が江戸の寄席で流行させた7・7・7・5の4句を重ねる26文字の定型詩で「俗曲」の1つとされている。俗曲とは庶民的な唄を指す言葉で、端唄との明確な区分はないのだが、観賞用というより寄席芸能として扱う場合は「俗曲」の名称を用いるようだ。都々逸は主に寄席・座敷等で演じられ、風刺・粋・艶を有し、男女の恋情・四季・心境などを題材とした町人文芸であり、雅語を用いず口語で歌われるのだが、都々逸坊扇歌のお題頂戴の即興謎解き歌が大人気となったことで一般に知れ渡った。その後の都々逸はお題を与え、客が当意即妙に答えるという方式で普及したようだ。「度々逸」「都々一」等の表記もされており、その起源は文献によると、1800年に名古屋・熱田神宮の門前にある神戸(ごうど)町の宿場遊里の女中が歌い始めた調子の良い囃し詞の歌「神戸節(ごうどぶし)」が流行したものとされる。江戸・明和期(1764〜1772年)頃に江戸で流行した「潮来節(いたこぶし)」を母体とした「よしこの節」に似た曲調のもので、地元で廃れた後に江戸・上方に流れて「名古屋節」と呼ばれたようだ。人情の機微に触れるような庶民感情を表現する内容が多いことで庶民に愛好され大きな支持を受け、また酒席での座興として歌われることも多かったという。古典都々逸は三味線に合わせて唄う流行歌の側面を有しており、戦前までは都々逸といえば芸者が座敷で三味線を弾き唄う余興の芸というのが主な認識で、明治期以降になって純粋に「文芸」「詩」の形態となったようだ。その背景として明治末期、「二十六文字詩運動」が新聞記者により起こり、彼らを撰者とした新聞の都々逸欄が評判となり、一時は「都々逸披露会」に毎回4、500人の来会者があるほど盛んであったという。その後、26文字の定型詩を「俚謡正調」「街歌(がいか)」と呼ぶ動きも出、結局のところ江戸調・明治調・都調・街歌調などの分類体系に収まった。有名なところで「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」等があるのだが、都々逸だとは知らずにも、意外と知られている唄が結構多い。都々逸の面白さを説明するよりも手っ取り早いと思うので、もう2、3紹介して終わろうと思う。「信州信濃の新そぱよりもあたしゃあなたのそばがいい」「嫌いなお方の親切よりも好きなお方の無理がよい」「わしとお前は羽織の紐よ固く結んで胸に置く」「君は吉野の千本桜色香よいけどきが多い」  
 
浄瑠璃節 / 義太夫節・常磐津節・清元節  

○○節と名が付くものがずらっと並んでいるが、浄瑠璃節以下いずれも浄瑠璃系統の流派の名前である。浄瑠璃系統の音曲とは日本の伝統音楽の1ジャンルであり、三味線を伴奏として語り手である浄瑠璃語り(太夫)が詞章を語り、人形を加えない流儀も多いが本来は操り人形が加わる、いわゆる人形浄瑠璃(文楽)の音楽である。その詞章は単なる歌ではなく、登場人物の台詞・仕草・演技の描写をも含むために語り口が叙事的な力強さを持っているため、浄瑠璃の口演は「歌う」ではなく「語る」という用語を用いており、一般的に浄瑠璃系統の音曲は「語り物(かたりもの)」と呼ばれている。太夫により節(ふし)の語り口が違ったため、演者の名前を付けて「○○節」と呼ばれるようになった。その起源から浄瑠璃の歴史を追ってゆこうと思う。
日本の声楽は「歌い物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」の2つに分けられ、そのうち語り物は、物語に節を付けて語り聞かせるものであり、最古のものは琵琶法師が琵琶の伴奏に合わせて平家物語を物語る「平曲(へいきょく)」だとされる。平曲は「雅楽」「声明」と琵琶を弾く盲目の僧体(僧門の出ではなく寺社に所属する賎民)が担った天台声明系の「盲僧琵琶」の影響を受けて成立したのち非常に流行し、徐々に題材を増やしてバラエティに富む語りになった。中でも特に人気を博したのは室町時代中期(15世紀末)に三河地方で誕生した「浄瑠璃」であり、本項の題目となっているものである。浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を題材とした御伽草子の一種「浄瑠璃姫十二段草子」から出たものであるが、曲節が愛好され、物語が違っても、その節回しは「浄瑠璃節」と呼ばれた。史実上初めて「浄瑠璃」の名が登場するのは1531年、小座頭に浄瑠璃を歌わせたと連歌師・宗長の日記に書いてあるそうなので、人形浄瑠璃として昇華するまでにはまだ百年ほど熟成期間があった訳である。この頃は扇・鼓での拍子取りや、琵琶の伴奏で語られていたようであるが、この後の16世紀中期、三味線が誕生して流行すると、琵琶法師たちは琵琶から三味線に持ち替え、浄瑠璃に使用し定着するのだが、浄瑠璃語りを「○○大夫」という芸名で呼ぶようになったのは、三味線と結び付いてからのようである。流行音楽は大衆の耳に留まり易かったため、この浄瑠璃が人形劇の地の音楽(地歌)となったのは自然の流れであったようだ。
三味線を浄瑠璃に用いるようになったのは慶長年間(1596〜1614年)、沢住検校(さわずみけんぎょう)が最初だといわれる。沢住検校は室町末期〜江戸初期、京都で活躍した琵琶法師であった。ちなみに検校とは中世・近世の盲官の最高位であり、音楽家として優れた者が多く、近世の邦楽の発展において大きな原動力となったという。琵琶に準じて撥を用いることが出来たために細かい技法が可能となり、三味線の演奏術は長足の進歩を遂げた。  
「操り浄瑠璃(人形浄瑠璃)」の誕生は江戸時代初期のことであり、上方(京都)での上演は慶長19年(1614年)、京都御所で夷かきが「阿弥陀胸切」という浄瑠璃を見せたのが史実上初めてであると言われている。元々浄瑠璃は始めは京都、後に三都(江戸・京都・大阪)に流行した芸能である。江戸幕府の開府と共に江戸に流れ、その後の江戸中期にもなると大変盛んになり、数十もの江戸浄瑠璃の流派があったとの記録があるという。浄瑠璃節の開祖・滝野検校に弟子入りして節付けを修得し、繊細かつ柔らかい伝統的な京風の語り口の「杉山丹後掾(すぎやまたんごのじょう)」、と豪放な芸風の薩摩節の始祖・「薩摩浄雲(さつまじょううん)」が江戸浄瑠璃の開祖と言われている。江戸を中心に流行・発達した「金平浄瑠璃」と呼ばれる作品群は、歌舞伎の荒事(隈取・見得・六方等を特色とする豪快な演出)に大きな影響を与えた。
人気が高まると名人・上手が数多く誕生し、互いに芸を競うことで益々人気が集中するのは、いかなる芸能でも同様に起こるもので、浄瑠璃も例外ではなく江戸時代には多くの名手を排出し、各々が一派を興して派を競った。初期の頃は、江戸の金平節・土佐節、京都の加賀節、大阪の播磨節等、いわゆる古浄瑠璃が興隆したが、後に義太夫節が誕生すると浄瑠璃の異名とされるほどの大盛況となり、豊後節系統の常磐津節・清元節等の歌舞伎浄瑠璃や一中節・新内節等の唄浄瑠璃(座敷浄瑠璃)等の諸浄瑠璃流派が誕生する。浄瑠璃最盛期となる義太夫の興隆について少し掘り下げて見てゆくことにする。  
江戸で流行中の金平物を得意とした大坂の播磨節の始祖・井上播磨掾の門下に清水理太夫と名乗る弟子がおり、理太夫は農家の出であったが播磨節を修得した後に京都の加賀節の始祖で当世の名人であった宇治嘉太夫(宇治加賀掾)に弟子入りし、硬軟両様の浄瑠璃語り(大夫)となった。大坂・道頓堀に竹本座が櫓揚げしたのを機に竹本義太夫と名を改め、「初代・竹本義太夫(たけもとぎだゆう)」が誕生した。生来の声質の豊かさと播磨節の豪快・明快な語り口に加え、三味線の竹沢権右衛門と組んだことで義太夫節を確立し、浄瑠璃史上記念すべき1686年、売れっこ作家・近松門左衛門作の「出世景C」の竹本座上演を境に、浄瑠璃と言えば「義太夫節(ぎだゆうぶし)」と言われるほど一世を風靡し、それ以前の各派浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれるようになったほどである。1701年、竹本筑後掾を名乗ることで名実ともに「義太夫節」の始祖となった。その後「曽根崎心中」の大成功と続き、没するまでの10年余りは近松門左衛門を座附作者に迎えることで人形浄瑠璃を舞台芸能として発展させ、浄瑠璃全盛期を第一人者として支えた。義太夫節は播磨節の語りを基本としつつ、他派の長所のみならず平曲・謡曲・説経節・祭文等を幅広く取り込んだことから表現が多彩であった。義太夫は自らの浄瑠璃を「当流」と呼び、語りの天才とも称され、現在も親しまれている名作を多く生みつつ絶大な人気を博した。近松門左衛門、竹本義太夫らが演劇の一様式として人形浄瑠璃を確立して以来、「文楽」として現在伝承されているのはこの流れである。歌舞伎を凌ぐほどの人気を博し、また歌舞伎に与えた影響は大きく、歌舞伎演目の多くが人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を「丸本」と称したため、移入された歌舞伎演目を「丸本物(まるほんもの)」と呼んでいる。  
「時代物」と「世話物」という歌舞伎にも転用されている2つの分類体系も出来、その後「福内鬼外(ふくうちきがい、平賀源内)」が江戸で初めて人形浄瑠璃を上演して以来、「江戸浄瑠璃」が起こる。また19世紀後半、「文楽」の名の由来となった大阪「文楽座」が人形浄瑠璃の中心的劇場であった時代、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、それから遅れて昭和期の1953年以降「太夫」としていた表記を「大夫」に改め、現在に至るわけだが、最高位の大夫「櫓下(やぐらした、紋下とも)」は、歌舞伎役者の第一人者・市川団十郎よりも芸事的地位は高いものとされる。最後の櫓下は、近代の名人と謳われ1967年に没した豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)で、人間国宝(重要無形文化財保持者)で文化功労者でもある。浄瑠璃語りが「太夫」から「大夫」となったのは彼の意図によるとされ、古典資料・故事の研究にも努力した人としても知られている。現在「文楽」は世界無形遺産・国の重要無形文化財に指定されている一派であり、人形浄瑠璃の代名詞ともなっている。  
さて、ここから個々の浄瑠璃流派に触れてみようと思う。表題の義太夫節と常磐津節以外にも数多くの流派が存在し、あるいは存在していたので、それらも併せて触れて見ようと思うが、主として誕生地・派生流派等で分類されるようだ。
まず義太夫が誕生するまでの「古浄瑠璃(こじょうるり)」の流派をかいつまんでみることにする。杉山丹後掾と薩摩浄雲が興した江戸浄瑠璃は、その弟子達により多くの流派に分化し、江戸半太夫(半太夫節)・十寸見河東(河東節)・薩摩外記太夫(外記節)・大薩摩主膳太夫(大薩摩節)・都太夫一中(一中節)・竹本筑後掾(義太夫節)等を生んだ。以上のうち義太夫節以外の総称として「古浄瑠璃」と称する。
「金平節(きんぴらぶし)」江戸で流行した「金平浄瑠璃」を指し、金平浄瑠璃の主人公である超人的な勇者「金平(公平)」から付いた名称で、大夫の名ではない。1655年頃から薩摩浄雲の高弟の江戸の和泉太夫(桜井丹波少掾)が作者・岡清兵衛と組んで金平の武勇談を豪快な曲風で語り出し、頂点に立ち、江戸を中心に爆発的ヒットとなった。特に技芸に優れ、人気があった者として大阪・井上播磨掾(播磨節)がいる。
「肥前節(ひぜんぶし)」古浄瑠璃の一。杉山丹後掾(たんごのじょう)の子の杉山肥前掾(江戸肥前掾)が江戸で語ったもので、1665年頃に流行した。父・丹後掾を継いで堺町で興行して名人となるが、どんな曲節だったのかは明確ではない。門弟に半太夫節の祖・江戸半太夫(はんだゆう)がいる。
「半太夫節(はんだゆうぶし)」江戸半太夫が始め、肥前節から続く江戸浄瑠璃を河東節へ繋ぐ役割を果たしたが、河東節の流行で衰え、現在ほとんど残っておらず、また初代〜七代までの代々の半太夫についても動向が明確でない。説経節・歌祭文(うたさいもん)の名手であったが、江戸肥前掾(ひぜんのじょう)に弟子入りし、半太夫節の祖となり、座敷浄瑠璃で主として活躍した。門下に河東節の祖・江戸太夫河東(十寸見河東)がいる。
「播磨節(はりまぶし)」1660年頃に井上播磨掾が語り始め、大阪で盛行した。江戸で流行していた「金平浄瑠璃」(金平節)を取り入れ、大阪で金平節の名人と言われたほどである。音声を使い分けた巧みな節回しと豪快・明快な語り口で、愁いと修羅を得意としており、初期の義太夫節の基礎ともなり浄瑠璃界に大きな影響を与えた。
「永閑節(えいかんぶし)」江戸古浄瑠璃の1つで、虎屋永閑(とらやえいかん)が創始した。1670年頃から江戸・堺町で興行・活躍し、金平風の豪快な芸風であったようだが曲節は明確ではない。1680年には将軍の上覧にも供しているが、現在「寛闊一休」のみ地唄に伝えられている。
「文弥節(ぶんやぶし)」大阪・難波浄瑠璃の1つで、1675年頃、岡本文弥が始めたもので「泣き節」といわれ、哀調を帯びた語りは京阪で流行したが間もなく衰えた。悲哀に満ちた節付けが上手く、霊験物・因果物等を多く語り、聴衆が大いに涙したという。義太夫・一中・豊後節の中にその節付けが僅かに残っていると言われる。
「外記節(げきぶし)」江戸古浄瑠璃の1つで、薩摩外記(藤原直政)が1650年頃に語り始めたとされる。荒事風の豪快・痛快な語り口で人気を呼び、人形浄瑠璃、歌舞伎の荒事の双方に用いられ、正徳年間(1711〜1716年)まで流行したという。衰滅してしまったため、現在は河東節・長唄の数曲中にその面影が伝わるのみである。
「角太夫節(かくたゆうぶし)」京都の古浄瑠璃の1つで、山本角太夫(土佐掾)が語り出すが、哀婉な曲風で「うれい節」と呼ばれた。伊藤出羽掾の「出羽座」で修業し、文弥節にも学び、京都に出て虎屋(とらや)源太夫らにも学び、1670年代に京都で口演を始めた。からくりや糸操りを多用した芸風は、名人・宇治加賀掾(かがのじょう)と人気を分かつほどの盛況ぶりであったという。門弟に「治太夫節」の松本治太夫、「一中節」の都一中らがおり、曲節の一部は義太夫に取り入れられた。
「加賀節(かがぶし)」京都の古浄瑠璃の1つで、「嘉太夫節(かだゆうぶし)」とも呼ばれる。1670年代に宇治嘉太夫が語り出したもので、謡曲・流行唄(はやりうた)の曲節を取り入れ、繊細で多彩な節を考案して人気を博した。芸論や節事に関する著述も多く、また義太夫節への影響が大きい。
以上は古浄瑠璃に入り、義太夫節成立以降は在来の各派浄瑠璃(古浄瑠璃)はすっかり衰退してしまったという。また全ての大夫が人形浄瑠璃舞台で活躍していた訳ではなく、今日の「素浄瑠璃」の形でお座敷芸として展開したり寄席で演奏したりする者もあったようだ。特に大阪では有力な町人衆の教養として浄瑠璃が定着していた時代が長く、また素人上がりの太夫も多くいたようで、いわゆるプロの大夫が素人の大夫に稽古を付けてもらう事もあったようだ。
現在、浄瑠璃音楽として残っているのは、義太夫・常磐津・清元、河東・一中・宮薗・荻江・新内・富本節の8つであり、全て国の重要無形文化財に認定されている。  
「義太夫節(ぎだゆうぶし)」浄瑠璃の代名詞であり、義太夫本人に「当流」と言わしめたほど最も大成した流派である。京阪では現存の浄瑠璃流派は義太夫節だけなので、浄瑠璃を義太夫節と呼ぶようだ。初代・竹本義太夫(別名・清水理太夫)が創始・大成させた。江戸時代後期、人形浄瑠璃から離れ、日本の伝統音楽の1つとして座敷・寄席などで純粋に音楽として盛んに演奏されるようになった。太棹三味線を用いた重厚で迫力ある演奏と併せて各場面の情景・雰囲気・登場人物の言葉・喜怒哀楽の心情等を語り、表現するものとなっている。歌舞伎では三大義太夫狂言「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」をはじめ、人形浄瑠璃から移入した「義太夫狂言」の音楽となっている。
「一中節(いっちゅうぶし)」都太夫(みやこだゆう)一中を始祖とする浄瑠璃の1流派で、1690年頃に京都に始まり、先行諸浄瑠璃(古浄瑠璃)の妙を取り込みながら大成した。曲風は温雅な語り口で繊細な情感を表現する優雅なもので、常磐津・富本・清元・新内節等、諸浄瑠璃の母体となっている。歌舞伎にも用いられたが、同系統から分派した豊後節系統の流派に押され、舞台を離れ「素浄瑠璃」専門の芸態となった。初代の没後、京都で早くに廃れたため主に江戸で伝承され、江戸時代末期に再興して現在に至る。
「豊後節(ぶんごぶし)」1720年代、一中節から分派した京都の国太夫節の始祖・都国太夫半中が宮古路豊後(豊後掾)と改名して興る。江戸に進出して「心中もの」で大流行したが、風紀上の理由で弾圧を受けたことより、狭義には一代で途絶えた。しかし他派への影響は大きく、常磐津節・富本節・清元節・新内節・薗八節・繁太夫節などの諸派が派生し、広義には総称して豊後節(「豊後諸流」とも)と呼ばれる。豊後節の子・孫・曾孫に当たる常磐津・富本・清元は「豊後三流」と呼ばれている。
「常磐津節(ときわずぶし)」豊後節の分派として1747年に初代・常磐津文字太夫が江戸で開流したことに始まる江戸浄瑠璃の1つで、語り物である義太夫に近いが、歌い物の要素を加味した曲風で、中棹三味線を用いた重厚・軽妙を兼ね備えた音色である。艶麗さの反面、古浄瑠璃の名残の素朴で豪放な部分を持ち、更に歯切れの良い語り口を兼備え、主に江戸歌舞伎の舞踊劇の伴奏音楽として現在まで盛行している。成立当初は豊後節の芸風を残していたものの歌舞伎に相応しいものに変化・発展し、現在では歌舞伎の付随音楽として重要な位置を占める。
「清元節(きよもとぶし)」江戸浄瑠璃の1つで、江戸時代後期の清元延寿太夫(豊後路清海太夫)を祖とし、常磐津節と同様に豊後節系の流派であり、成立は最後だったが江戸浄瑠璃の精髄とも言われている。裏声による大変高い音域を多用した繊細で情緒的・技巧的な語りは極めて派手・粋・軽妙で、洗練され過ぎた故に美しさと脆さを併せ持つ。富本と長唄から生じたことにより最も歌い物に近く、常磐津節と同じ中棹三味線を用いるが、豪壮さが全くなく、「歌」の要素が濃厚である。主に歌舞伎の伴奏音楽として発展したが、純粋な音楽として「素浄瑠璃」の作品もある。
「新内節(しんないぶし)」江戸浄瑠璃の1つで、江戸中期の1755年頃、鶴賀若狭掾(鶴賀新内)が創始した常磐津節と同じ豊後節系の流派である。クドキ・ウレイと呼ばれる哀婉な曲節と、美声で人気を博した鶴賀新内(つるがしんない)から名が付いており、心中物を得意とし、独特の情緒を有する流派である。座敷で語る「素浄瑠璃」として発展した後、遊郭の流し芸「新内流し(夏の夜、新内を語って町を流して歩く)」も発生した。
「河東節(かとうぶし)」代表的な江戸浄瑠璃の1つで、江戸中期の享保年間(1716〜1736年)、江戸半太夫(えどはんだゆう)門下の江戸太夫河東が「十寸見河東(ますみかとう)」を名乗り、半太夫節から分派して創始した。三味線音楽の1つ「古曲」に含まれ、曲風は優美な反面渋さを持ち、生粋の江戸風であり、細棹三味線を用いた語り口は豪快でさっぱりしている。初期には歌舞伎音楽として庶民に広く愛されたが、後に歌舞伎の人気浄瑠璃に押されて地位を奪われ、主に座敷での「素浄瑠璃」として人気となり庶民に浸透した。「助六由縁江戸桜」は現在も歌舞伎で演奏される名曲だが、基本的に演奏時間が短い「端物」が中心である。河東節の曲想は、後に江戸の山田流箏曲に影響を与えている。
「荻江節(おぎえぶし)」江戸中期、市村座の長唄唄方であった初代・荻江露友(おぎえろゆう)が、劇場引退後に遊郭で演奏活動を再開し、長唄を座敷唄風に歌い始めたのが始まりとされる。長唄をベースに生まれ、座敷唄として工夫・洗練され独自のものとして確立し、吉原の男芸者によって継承され、幕末には地唄をも取り入れた。明治中期以降は女流により今日まで継承されている。長唄が派手で囃子を伴うのに対し、荻江節は控え目で、囃子を用いないのが原則であり、三味線も複雑な技巧を避けて唄の伴奏として存在する。大正時代以降は一中節・河東節・宮薗節と合わせて古曲と呼ばれる三味線音楽である。
「宮薗節(みやぞのぶし)」江戸中期、京都で初代・宮古路薗八(みやこじそのはち)が語り始めたものを2世・薗八が1766年に初世・宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぼうけん)と名を改めて継承・大成させた。上方では劇場での出語り等で活躍していたが、2世薗八没後は衰亡し、江戸では3世薗八・宮薗春太夫が広め、三味線方であった初世・宮薗千之が継承した。同系の常磐津節等と比べると中棹三味線は重厚で渋く地歌のような音色、語りは情緒纏綿で艶麗な曲節が特にしめやかであるという。後に千之派と千寿派に分かれたが、いずれも古曲を基本に伝承して現在に至っているものの、現在わずか10曲伝えられるのみである。
「富本節(とみもとぶし)」常磐津文字太夫の門弟・富本豊前掾が創始した流派で、常盤津・清元の中間として艶麗・古雅を共存させ、当時大流行を見たが、やはり中間的であるが故に独自性が発揮できず、現代ほぼ滅亡寸前の状態である。寂びた風情は捨て難く再興の動きもあるが、全盛を極めた頃の富本は再現できないと言われている。豊後系浄瑠璃の中でも常盤津・富本・清元の三浄瑠璃は血のつながりの最も濃い間柄であり、豊後三流とも呼ばれる。  
 
日本舞踊 / 歌舞伎舞踊

歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)をご存知だろうか。読んで字の如く、歌舞伎劇で見られる舞踊の部分と言えば分かるだろう。日本舞踊の大部分が歌舞伎舞踊であり、その母体とも言えるので、日本舞踊をイメージしても良いだろう。一般的に日本舞踊は歌舞伎舞踊と上方舞とに大別されるので、上方舞の項を参照して頂けたらこの2つがどのように違うか明確になると思う。
歌舞伎舞踊の成立は江戸時代初頭、歌舞伎が演劇・舞踊・音楽とまだ未分類の頃から、約半世紀かけて演劇として成立するまでの段階で、舞踊としての要素だけを抽出し、独立させて発展したものとされる。よって必然的に歌舞伎の題材から採った演目が多い。更にその土台となる芸能を遡ると、室町時代から近世にかけ、一般庶民の興隆と共に風流(ふりゅう)という中世芸能が流行し、その踊から派生した「かぶき踊り(阿国かぶき)」を、出雲阿国(いずものおくに)が生み出したのが原点であるという。阿国は、出雲大社に仕える巫女と自称していたというが、「ややこ踊」「かか踊」「念仏踊」などと呼ばれる踊りをし、やがてそれらを一変させて「かぶき踊り」を踊り始め、歌舞伎の始祖となった。当時最先端の「かぶき者」の格好、簡単に言えば大きな刀を持つなど男装の派手な服装をし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる「茶屋あそびの踊り」を考案して自ら踊ったところ、京都で大変な人気を博したという。これを真似た芝居風の舞踊が、遊女らにより盛んに演じられるようになり、「女歌舞伎(遊女歌舞伎とも)」が誕生する。女歌舞伎は江戸時代、1615年〜1630年頃が最盛期の、遊女や女芸人による歌舞伎のことで、京都の四条河原や江戸の吉原には常設舞台が設置され、30人余りの男装の遊女が、艶やかで贅を凝らした多様な群舞(総踊り)を披露した。阿国の歌舞伎との違いは、当時最新の楽器であった三味線が用いられたことであるが、阿国はあえて三味線を使わなかったのではなく、高級品で手が出せなかったというのが通説である。風俗営業を伴っていたため公序良俗に反するという理由により禁令が出されて以来、公認の舞台から女性の姿が消え、女歌舞伎も次第に消滅したという。女歌舞伎に次いで人気となったのは「若衆歌舞伎」で、これは前髪のある成人前の少年が女装して演じるものだったが、これも男色を売り物としており風紀を乱すとして禁令が出され、若衆のシンボルである前髪を剃り落とし野郎頭になることと、舞台演目を物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件として興行が許可された。これ以後、現代の歌舞伎の原型である「野郎歌舞伎」が成立し、売色的要素を廃し、本格的に歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(技芸・物真似)を売り物とする芸能としての本道を歩み出した。女人禁制の芸能となったがために女形(おんながた・おやま)という役割が確立し、舞台上の歌舞伎舞踊は女方の担当となり、登場人物の心理描写として、仕草や情念などの内面的な「振(ふり)」が盛り込まれるようになった。劇芸術の体裁を整えた元禄歌舞伎において舞踊(所作事)は「狂言の花」といわれ、数多くの名手が現れ、歌舞伎劇の中核を形成する華麗な舞踊劇に成長していった。
舞踊が歌舞伎の1要素と認識されると、歌舞伎の振付師達が独立し、舞台の仕事の合間に町で稽古場を設け、一般民衆向けに舞踊を教え始め、この時から舞台上の舞踊とは別に、庶民のための歌舞伎舞踊が誕生する。この歌舞伎舞踊は「かぶき踊り」の系統を継いで、主に女性によって完成されてゆき、その進展途上で先行して存在した「舞」の要素を採り入れ、更に舞台同様、「振」と呼ばれる物真似的要素を加えた。表舞台に出ることは無かったが、歌舞伎と並行して発展し、後の流派に繋がってゆく。明治時代までは組織化された流儀単位というより、個々の師匠の実力により社会的地位・知名度を得て活動していたが、社会全体が近代化した明治時代以降は、家元を中心とする流派としての組織化が行なわれ、数多くの流派が生まれた。  
こうした背景から、歌舞伎舞踊とは、1つ目は歌舞伎の「わざ」の1つである所作事(しょさごと)系の舞踊を指し、各々流派をもって組織・活動しているもの、2つ目はこうした舞踊を含む歌舞伎演目、そして3つ目は歌舞伎劇の中の舞踊の部分であり、これらを総称して歌舞伎舞踊と呼ぶ。その動きの中に、演劇的要素として日常生活の写実的な動きを抽象化して見せる部分や、舞台劇として誇大化して見せる様式美の部分もあり、純粋に培われた舞踊に、様々な要素が加わって現在の姿となっている。日本舞踊においても、新舞踊や創作舞踊が作られ、歌舞伎もオペラやバレエなど西洋舞踊を融合した、いわゆる古典ではない所作もあり、歌舞伎舞踊においても同様の傾向がある。歌舞伎は元来、庶民の娯楽的要素の強い芸能であるから、時世を反映し、常に新しいものを生み出してきた。舞踊の総監督ともいえる振付師が各々の時代の人間であるから、それは当然のことかもしれない。以下、歌舞伎舞踊の内容的分類として、上述した歌舞伎の所作事と、そのジャンルについて触れる。
所作事(しょさごと)は、振事、拍子事、景事などとも呼ばれ、「やつし事」という演技から始まった。「やつし」とは、元々高貴な身分の人が零落し、又は身分を隠し、下賤の姿となり演技するもので、職人・商人に扮して多彩な滑稽味を伴う演技であった。それが後に歌舞伎演目中の舞踊全般を指すようになった。伴奏が主に長唄による舞踊そのものと、伴奏が常磐津(ときわず)・清元などの浄瑠璃による舞踊劇とに大別され、特に浄瑠璃による所作事を「浄瑠璃所作事」と呼ぶ。現在は所作事と浄瑠璃所作事、振事、拍子事などの境界が曖昧になっているが、元来、浄瑠璃所作事は数段形式である歌舞伎狂言(当時の歌舞伎演目の呼称)のうちの一段として作られたもので、その源流は丸本歌舞伎・文楽にあるとされる。後にこの形式が歌舞伎の中で消化されるに従い、元来は演目全体であったものが1つの舞踊・舞踊劇として作られるものが出現した。歌舞伎演目の一部分としてではなく、独立の舞踊として歌舞伎の演目になっているものがこれである。女形の芸として洗練され、後には立役も踊るようになり、文化文政時代には、一人の俳優が役柄を続けて演じ分ける「変化物(へんげもの)」が生まれて流行し、多くの小品舞踊が創造された。明治期には、能・狂言から題材を取った「松羽目物(まつばめもの)」というジャンルが誕生し、芸事としても伝承されている。以下、所作事のジャンルを追ってみる。  
変化物(へんげもの)一人の踊り手が早替りで次々と異なる役柄に扮して踊るもので、江戸時代後期に大流行した。役柄ごとに独立した一曲となっている。曲数により、○○五変化、○○七変化などと呼んでおり、一曲ごとに衣装・背景・伴奏音楽の種類など舞台装置が変わるので、分かりやすく、見ていて面白い。変化物の誕生に伴い、役者に振りをつけて教える振付師も誕生した。「藤娘」「汐汲み」「喜撰(きせん)」「鷺娘」「越後獅子」「供奴)」「年増」などが有名。
松羽目物(まつばめもの)明治時代の演劇改良運動により、接触を禁じられてきた能・狂言と交流を持てるようになり、新たに創作された能楽や狂言の題・内容・様式を借用した舞踊劇のこと。能舞台を模倣して、大きな松を1本、背景に描くものが多い。「勧進帳」「船弁慶」「素襖落し」「身替り座禅」「茨木」「土蜘」などが有名。
三番叟物(さんばそうもの)能の「翁」は正月・記念日・開場などの祝儀に演じられる非常に儀式的な演目であるが、江戸時代中期の宝永年間、「翁」を拝借して舞台を清める意味も込め、歌舞伎においても儀式性の強い演目が創造されたが、より陽気かつ開放的で、見た目の面白さ、軽快さなどを中心とし、様々な種類の曲が生まれた。「寿式三番叟」「舌出し三番叟」糸操りの人形が動く趣向の「操り三番叟」「廓三番叟」「二人三番叟」群舞形式の「五人三番叟」などがある。
道成寺物(どうじょうじもの)能の「道成寺」が原典のもので、鐘供養に訪れた女性が舞を披露し、恨みの表情で鐘に飛び込むという枠組みを取り入れ、多くのバリエーションがある。1753年、初代・中村富十郎(なかむらとみじゅうろう)が集大成して最も有名な「京鹿子娘道成寺」や「双面道成寺」「奴道成寺」などがある。
石橋物(しゃっきょうもの)「獅子物」とも呼ばれる。「道成寺物」から枝分かれし、女性の狂おしい恋心のイメージが獅子の「狂い」と重なり、謡曲「石橋」の枠組みを借りて女形舞踊として独立したものと考えられている。「連獅子」「英執着獅子」「鏡獅子」「枕獅子」「風流相生獅子」などが有名。
道行物(みちゆきもの)世話狂言(二番目物)の筋を引いたもので、男女が情愛をもって目的地へ急ぐ旅路の、せつない情緒を舞踊で表現するもの。「落人」「道行初音の旅」「道行旅路の嫁入り」「道行恋苧環」「蝶の道行」「梅川」などが有名。
狂乱物物に狂った様を踊るので「物狂い」とも呼ばれる。離別・嫉妬・悲恋・偽狂乱(本心を気取られないための計画的狂乱)など、多様な狂乱がある。「保名」「お夏狂乱」「隅田川」「高野物狂」「賤機帯」「仲蔵狂乱」など。
椀久物(わんきゅうもの)大阪に実在した豪商・椀屋久右衛門と、新町の傾城(遊女)・松山とのラブロマンスを扱ったもので、後世歌や芝居の題材として盛んに取り上げられた。「陸奥弓勢源氏」「二人椀久」など。
浅間物(あさまもの)、祝儀物、丹前物(たんぜんもの)、双面物(ふたおもてもの)等々、他にも数多くあるが、次に所作事に欠かせない音楽について少し触れることにする。  
歌舞伎舞踊の舞台の出来・不出来を左右するのも音楽次第といわれるほど重要とされ、色々な流派があるが、よく登場するのが「長唄(ながうた)」「常磐津(ときわず)」「清元(きよもと)」である。
「長唄」は、舞台中央に雛壇を設け、唄・三味線・囃子がズラリと居並ぶ形で演奏される最も多い人数編成のもので、囃子連中が舞台へ出て演奏するのは長唄だけであり、特に「出囃子(でばやし)」と呼ばれている。派手でリズミカルで、軽快な囃子が特徴。「京鹿子娘道成寺」「勧進帳」などが有名。
「常磐津」は、1747年、初代・常磐津文字太夫(ときわずもじだゆう)に始まる江戸浄瑠璃で、上方で大流行した豊後節(ぶんごぶし)の系統に属する。演者は柿茶色の肩衣(裃)を着て、舞台下手の山台の上で演奏するのが原則とされる。歌舞伎の所作に合うよう、時代物には重厚な節、世話物には情緒豊かな節を付けるよう工夫がされている。「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」「戻駕(もどりかご)」などが有名。
「清元」は、常磐津同様、豊後節を源流とする富本節(とみもとぶし)から分岐した江戸浄瑠璃で、1814年、初代・清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)が樹立したといわれる。最も新しい流派で、舞台では、深緑色の肩衣を着、常磐津と反対の、上手山台の上で演奏するのが原則とされる。情緒ある詞章を高音域で、技巧的に語るのが特徴で、軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)な粋で派手な曲調といわれる。「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」「隅田川」「落人(おちうど)」などが有名。  
最後に演じ手側について触れ、その流れより流派に移ろうと思う。
江戸時代まで、歌舞伎は被差別階級の仕事という考えが強くあり、差別も根強く残っていた。いずれの芸能も同様なのだが、当時の芸能人は現在と違い、階級的に言うと階級外に置かれる、最下層民が担っていた。しかし幕府や武家の庇護を受け、また式楽としての社会的地位を得、歌舞伎の担い手達もその人気と供に地位が向上した。現在歌舞伎舞踊を演じるのは、歌舞伎役者と日本舞踊家であり、重要無形文化財の認定を各個で受け、また技能保持者は人間国宝と称され、芸能同様、保護・伝承の動きがある。
また現在、歌舞伎舞踊は(社)日本舞踊協会所属のもので120流派余り、正確な数は把握されていないが全体で200流派余り存在するといわれ、中でも花柳流(はなやぎりゅう)・藤間流・若柳流(わかやぎりゅう)・西川流・坂東流は5大流派と呼ばれ、知名度も高い。以下、これら流派の概要を述べるが、どの流派も男性社会の歌舞伎と違い、多くの女性が活躍しており、また稽古次第で名取・師範免許が得られる仕組みになっているが、師範免許取得はかなり厳しいようだ。
花柳流(はなやぎりゅう)1849年、花柳壽輔が創始。花柳壽輔は4世・西川扇藏に学び、歌舞伎舞踊の振付師として重きをなした。最初は家庭の子女の舞踊として浸透したが、現在は組織力の強さで最大の流派(名取数約15,000名)となっている。小間(こまかい間のリズム)をとても大切にし、それが全体の大きなうねりを形成し、華やかな踊りを演出するのが踊りの特徴とされる。
藤間流(ふじまりゅう)藤間勘兵衛が宝永年間に創始。のち茅場町の勘十郎家・浜町の勘右衛門家が分派し3系統で隆盛を極めたが、1906年に直系・勘兵衞派が断絶した後は勘右衞門家と勘十郎家の2派になった。歌舞伎役者には、藤間姓が多いことが知られている。3世・藤間勘右衛門が松本流を派生させた。
若柳流(わかやぎりゅう)1893年、初世・花柳壽輔の門から出た花柳芳松が、歌舞伎界の振付師として才能を発揮し若柳吉松(寿童)と改名して創始した。花柳界で発展したため手振りが多く、品のある舞踊である。1944年、2世・若柳吉蔵没後、若柳流は2派に別れ、直派若柳流・正派若柳流になった。
西川流(にしかわりゅう)元禄時代に始まり、2世・西川扇藏が確立した。江戸の正派と、西川鯉三郎を祖とする名古屋派とがあり、花柳流七扇流などを分派した。三百年の歴史を有し、当代は10代目である。
坂東流(ばんどうりゅう)3代目・坂東三津五郎を祖とする。3代は初代の子で、舞踊の名手として化政期の代表的歌舞伎俳優だった。
最後に流派の簡単な概要を記したが、いずれの流派に所属するにしても、一般的に免状を受けるには時間とお金が必要だと思われている。実際、免許に係る費用や発表会費用、盆・暮れの付け届けなど、伝統的な流派では確かに多くの費用が掛かってしまうのが現状のようだ。「家元制度」は、一般には分かり難い仕組が存在し、日本文化・芸能に興味を抱き、覗いて見たい初心者にとって敷居が高いイメージが依然として存在し、思い切って入りづらいものである。
こうした壁が伝統芸能伝承のネックになっているとするなら残念でならない。習い事としてバレエなどの西洋舞踊だって当然お金は掛かる。日本人としてその心に根ざした伝統文化を伝承することの意義を再認識し、金銭的にも開かれた世界になり、幼年者のせっかくの興味をそぐことのないよう配慮されることを筆者は祈っている。
 
日本舞踊 / 上方舞

上方舞(かみがたまい)がどのようなものかをイメージするため、まず舞踊の初歩的なウンチクに触れておこうと思う。日本の諸芸能と密接に発展してきた舞踊は、明治時代に坪内逍遥が舞と踊を一語にした造語で、元来舞と踊という2種類のものを含んでいる。「舞」は能に代表されるように静的で優雅な動作、「踊」は身体を解放してリズムに合わせ、動的で跳躍的な動作のものである。上方舞を含む神楽・舞楽・白拍子・曲舞・延年舞などは前者、田楽・念仏踊・盆踊・歌舞伎などは後者に分別される。更に、日本舞踊というと、広義には日本の舞踊全般とも言えるが、一般的に使用される狭義の日本舞踊は、舞台芸術として江戸を中心に誕生した歌舞伎舞踊と、座敷で舞えるよう工夫され、京阪中心に誕生した上方舞のことを指す。劇場舞踊である歌舞伎舞踊が躍動的であるのに対し、室内舞踊として発達した上方舞は静的で、摺り足で旋回する動きが主体になり、人間の内面・幽玄の世界を表現されるのが特徴である。これらを踏まえた上で上方舞に触れてゆこうと思う。  
上方舞は、江戸時代中期〜末期に京阪地域(上方)で誕生・発達した舞の総称で、その中でも京で成立したものは、特に京舞と呼ばれる。商人らをもてなすため、交流の場であった座敷で広く舞われたため「座敷舞(ざしきまい)」、地唄の短い曲(端唄)に舞を付されたことから「地唄舞(じうたまい)」などとも呼ばれている。その成立の背景として、歌舞伎や能楽の観客層であった町民階級が力を持ち始め、それらを鑑賞するだけでなく、自分で唄・音曲・踊をやりたいという欲求が生まれる。同じ頃、能楽の座から独立した振付師が、町に稽古場を設けて一般子女に踊を教え始めたことで、日本舞踊の流派が誕生し始める。19世紀に入ると、上方で、京都御所に出仕した狂言師が始めた舞を源流とし、武家の婦女が舞っていた御殿舞(ごてんまい)、能の仕舞に、江戸の歌舞伎舞踊・人形浄瑠璃などの要素を採り入れ、柔らかく崩して上方舞が完成した。舞台芸術として発達した江戸の「踊」と異なり、埃を立てぬよう、半畳間でも舞えるよう工夫されて生まれた座敷のための「舞」であり、原則として演者は1人、舞台装置は後ろに屏風、上手と下手に燭台の灯を置き、衣装は着流しという素に近い、簡素なスタイルのものである。その舞の目指すところは、舞により起居動作の基準を整えることが第一にあり、歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きであるが、更に深く掘り下げ、繊細な動きの中から内面を色濃く浮かび上がらせ、しっとりと深い風情の芸の完成を理想とし、間合いを長く保った趣深い余韻の中、風情を唄い、間の玄妙な静寂を舞うものである、とされる。何のことだか著者には意味不明だが、要するに、移動もなく狭い空間で、決まった所作で劇中の人間心情を、しっとりと表現するもの…などと独断で略すと非難を受けそうなので、解釈は各々にお任せする。
さて、上方舞はその流れとして能から多大な影響を受けているが、男性のみが築き上げた能と異なり、女性が中心となって作り上げられ、遊里(遊郭)の座敷芸として、町家の子女の嗜み・芸事として、座敷で舞い継がれてきた女舞が本流である。近年は劇場舞台でも演じられ、舞台では前述の整えられた動きに劇的な要素が加えられている。東洋的なワビ・サビの風情をよく反映させているため、日本贔屓の外国人の関心を引くようだが、上方から東京に流儀が伝わり、舞われるようになったのは昭和に入ってからのことである。舞の伴奏として地唄の中の端唄という言葉を前述したが、一般に端唄と言うと、江戸端唄を指すので、以下、舞の伴奏部分について触れる。  
主に上方舞の伴奏となる地唄(じうた)は地歌とも書かれ、三味線伝来の戦国時代末期頃から日本で起こったとされる、日本最古の三味線歌曲である。江戸に対する上方(地元)の歌なので地唄と呼ばれ、上方で愛好された。近年は他に義太夫節や江戸歌などを用いることもあるが、これらも元々は地唄から派生したと考えられている。当時、能楽は男性の専業であり婦女子は習うことも許されず、そのため謡物(うたいもの)と呼ばれる地唄が誕生した。謡物は雅楽の1ジャンルにも同名のものがあるが、それとは全く別物で、能曲の題材(物語)や詞章(歌詞)を取り入れた三味線音楽であり、これが後の「本行物」という上方舞のジャンルになる。
端唄(はうた)とは、長唄に対して短い曲を指し、特に地唄の端唄は「上方端唄(かみがたはうた)」とも呼ばれている。平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達の最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りするのが本来の姿で、彼らの研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線の爆発的流行とともに、身近な芸能として武家・町人階級を中心に一般に広く受け入れられるようになり、江戸にも移入されて上方唄と呼ばれ流行を見せるが、男性的な武家文化を尊ぶ江戸では次第に消滅したようだ。
一般にいう端唄は、前述の上方端唄に対して「江戸端唄(えどはうた)」とも呼ばれ、京阪地方で流行した上方小唄(かみがたこうた)が江戸に移入され、その影響下、江戸時代末期に江戸で流行した短篇の三味線歌曲、いわゆる江戸の流行唄のことである。上方・江戸いずれの端唄も、小唄との違いは三味線の弾き方にあり、小唄が爪弾きであるのに対し、端唄は撥を用いて華やかに演奏するものである。内容的には家庭音楽として伝承されたものと、酒宴席など外部で広く演奏された娯楽性の強いものとの2つに大別できるのだが、上方舞から逸れてしまったので、話は戻って上方舞の種類に入りたいと思う。  
上方舞のジャンルは、内容的に大別すると以下に述べる本行物・艶物・芝居物・作物の4種類に分けられる。
本行物(ほんぎょうもの)とは、前述した能を題材に作られた能採物とも呼ばれるもので、大阪を訪れる武士をもてなすため、武士の嗜みであった能を女性の舞に取り入れ、座敷で披露されたのが始まりである。当時の大阪は天下の台所と呼ばれるが如く、米の供給を広く行っていたため、各藩から多くの武士が訪れた。本行物には格調高く重厚な作品が多く、上方舞の中でも特に重い格付けで扱われている。「葵の上」「八島」など。
艶物(つやもの)とは、名前の通り色っぽく情緒的で、女性の心の動きを女性美として追求した女舞である。男女の恋愛的内容を詠み、主に廓の女性の切ない恋心や情念を詠んだものが多く、座敷舞の長所を活かした作品群といえる。「雪」「ぐち」「茶音頭」など。
芝居物(しばいもの)とは、歌舞伎舞踊を上方舞に取り入れたもの。道成寺からの転用「鐘が岬」、「江戸土産」など。逆に歌舞伎の中で、上方の雰囲気を要する時、上方舞の地歌が用いられている。「廓文章」の「ゆかりの月」、「忠臣蔵」の「花の旅」など。
作物(さくもの)とは、事物を面白おかしく滑稽に詠い、軽妙で洒落た味があるため滑稽物・おどけ物とも呼ばれる。検校や勾当の暮らしが豊かになり、彼らが余興として技術を競って詠うことで発達し、滑稽な調子の作品を多く生み出した。公式の場で演奏される類のものではないので、多くは作者不詳となっている。「忘れ唱歌」「三国一」など。  
以上、ジャンル別に採り上げてみたが、流派・舞人により得意とするジャンルや曲があったようだ。日本舞踊の流派というと、今日200流派余りが存在し、そのうち上方舞は山村・井上・楳茂都・吉村という4流儀が主流派とされ、分派を含め20流派余りあるようだ。以下、その流派について触れてみたい。
山村流(やまむらりゅう)上方舞踊界を当時席巻した歌舞伎の振付師・山村友五郎が流祖。江戸時代後期の1806年、大坂で中村歌右衛門が上方歌舞伎役者・山村友五郎の才能を認めて振付師に抜擢し、友五郎が後に山村舞扇斎吾斗(ぶせんさいごとう)を名乗って山村流を起こした。友五郎の養子の代で「新町山村」「九山村」「島山村」に3分裂し、宗家格は2代目友五郎の新町山村であったが、現在は島山村から出た3代目山村若が宗家となっている。島山村に学んだ武原はん、九山村の芸を受けた神崎ひでが東京で活躍し、技量と美貌で上方舞を全国に印象付けた。上方四流の中でも最古の流儀で、上方舞の世界では、分家も多く、古くから連綿と続いている名家である。山村流から神崎流・川口流・雲井流・上方流・坂本流などが分化した。能から出た舞の上品さから商家の子女の行儀見習い・教養として隆盛を極め、山村流の名取札が嫁入り道具に欠かせぬものと言われるまでになった。
楳茂都流(うめもとりゅう)幕末の1841年、大坂の振付師・鷲谷将曹が流祖。将曹の父・正蔵は御所に出入りし舞楽乱舞・今様風流の奥義を伝授された人で、それを受けた将曹が、他にない舞の創始を念頭に置き今様風流舞・楳茂都流を起こした。後に将曹は楳茂都扇性(せんしょう)と名乗り、能・歌舞伎・舞の要素を併せ持つ「てには狂言」で人気を博した。2代目扇性は、楳茂都流独自の舞踊譜や三弦譜を考案したり、大阪新町の「浪花踊り」の演出担当として広範囲に活動した。3代目陸平は、宝塚歌劇団・松竹歌劇団で作舞したり、渡欧して邦舞と別世界にある洋舞の研究をするなど新しい試みをし、多彩に活躍した。
吉村流(よしむらりゅう)京舞・山之内流の山之内ふくの門弟であった吉村ふじが流祖で、明治初期、大坂南地で吉村流を起こした。2代目以降弟子が家元を継ぎ、世襲制でない点が特徴。4代目・吉村雄輝は吉村流初の男性の家元となり、東京に進出して活躍が目覚しく、人間国宝・文化功労者となった。吉村流は座敷舞の良さを生かし、艶物のまったりとした女舞の伝統を育んだ。
井上流(いのうえりゅう)井上サトが流祖。江戸時代末期の1800年頃、近衛家の舞指南役を勤めていたサトが宮廷文化を基盤に起こした祇園甲部の正式唯一の流派、芸妓・舞妓の流派であり、祇園では井上流以外は禁じられている。サトが近衛家を去る際、井菱の紋と供に「玉椿の八千代にかけて忘れぬ」という言葉を受け、後に井上八千代と名乗り、井菱を定紋として井上流を起こした。その後の2代・3代目八千代が人形振り・能を採り入れ、井上流の舞を大成し、また3代目八千代は京都の有名な「都をどり」の創始者となった。4代目井上八千代は舞の名手で、井上流の保存と発展に努め、人間国宝となった。「京舞」と言えば井上流を指し、今日の京都の年中行事となった「都をどり」を支えている。
篠塚流(しのづかりゅう)江戸時代後期の1830年頃、上方歌舞伎所作事の振付師・篠塚文三郎が創流した京舞最古の流派。鴨川をどりを支えるなど興隆期もあったが、明治期末になって衰退し、戦後には後継者不在で途絶えたが、昭和に入り復興している。  
以上、成立から流派まで、なるべく流れが見えるように触れてきたつもりだが、上方舞が身近に感じられるような、著名人を取り上げるべく調べてみたところ、上方舞は知らなくてもこの人は知っているというような一般に広く知れ渡る著名人はいなかった。よって最後になるが、全国的に活躍した上方舞の名手について少し触れてみる。
上方舞の舞踊家・武原はんは、上方舞を東京で定着させるべく、上方舞を劇場公演が可能なまでに舞台芸術として完成させた。舞踊家を貫くため離婚し、一生独身で通したという。その舞姿は「動く錦絵」と言われたほどである。
1903年、徳島県徳島市に生まれ、一家を支えるため12歳の時に大和屋芸妓学校に入学し、舞踊・三味線・鼓・太鼓を習って芸者となった。上方舞は山村千代・吉村ゆうから学び、結婚して東京に移るが、舞を極める人生を選んで離婚し、舞踊家としての道に入った。写経・「なだ万」女将・舞踊・俳句などを始め、地唄舞一筋の人生を送るが、死ぬまで写経・俳句・御嶽山参りは辞めなかった。昭和には「武原はん舞の会」を起こして東京で上方舞の普及・定着に努め、天性の美貌のみならず浮世絵美人画・文楽人形の体のラインを芸に取り入れ、独特の美しさを生み出した舞台が評判となった。本来座敷舞である上方舞を、劇場舞台でも演じられる芸術にまで高めた功績は大きく、日本芸術院会員・文化功労者となった。高浜虚子に師事し、俳人・はん女としての一面もあり、著書も残している。個人舞踊家として流派に属さず、弟子を持たず、「芸は一代限り」と潔く、舞のみで人々を魅了し続けた。現在、彼女の舞姿はビデオで見ることができるが、典雅なワビ・サビ世界の表出は、直接自分の目で舞台を見た者にしか味わえないようだ。
最後に上方舞のまとめとして、その芸術性から人間の内面表現について筆者が思うところを述べてみる。上方舞は動きをできるだけ省き、心の内面を見せる芸能であるというが、上述の武原はんの生き様そのものが、上方舞の真骨頂であるように筆者は思う。事物に真向から向き合う強さ・素直さを持ち、人生の一瞬を切り取っても彼女らしく全力で生きた姿が美しい。演舞中の彼女は隙間無くどの舞姿も美しいと賞賛された中に、人生(時間)に対する彼女のひたむきな姿勢が見えるように思う。上方舞も伝統の維持・継承の必要性が唱えられているが、この芸能を担う次世代の人々には、そんな武原はんの人生論を学んで欲しいと思う。
 
棒の手・剣舞

「剣舞」は想像できると思うが、「棒の手」と聞いてどんなものがイメージされるだろう。正直なところ、耳にしたことも無かったので、どのように資料を集めたら良いのかも解らなかった。どうやら棒の手と剣舞の二つは伝承経路が異なり、分布が地域的に分かれているので、棒の手から順に採り上げるが、その実体を紐解く前に、武術について軽く触れておくことにする。
武術は明治時代末期、武道と名称変更したため、現在この2つはほぼ同義になり、相撲・柔道・空手道・合気道・水術・馬術・忍術など武器を使わないものも含めて40余り挙げられる。武術と区別するため、名称変更前のものは古武道・古武術・古流などと呼ばれ、現在のものは現代武道と呼ばれている。古武道は、武士が修得すべき武器・武術として中国から伝わった語「武芸十八般」により主に区分されており、弓術、(騎)馬術、槍術、剣術、柔術・和術、手裏剣、薙刀、棒術、杖術、鎖鎌術、組討術、水術(泳法)、十手術、鉄扇術、鉄鞭術、分銅鎖、居合・抜刀術、砲術、刺又術などがある。江戸時代以降の太平の世になり、実践から離れ、術として多くの流派が誕生し、武家の嗜み・一般市民の自警手段・捕り物道具(後に警視庁の正式科目に採用)として発展するなど、様々な伝播経路をとった。その中でも、農村・漁村で自警手段として用いられ、民俗芸能化して各地に伝承されているものが「棒の手」に代表される棒術の類である。
「棒の手(ぼうのて)」とは、剣術・棒術・薙刀術などの古武道から派生し、芸能化したものの一つと考えられ、祭礼の際に地域住民などにより披露されている。同様に古武道から派生したものが全国に散在しているのだが、「棒の手」の呼称を用いるのは愛知県周辺だけであり、他地域では(太)刀踊り・棒踊り・花取り踊り・太刀振りなど、全く別の名称になっている。よってこれらを総合的にまとめる呼称が確立していないため、「棒の手」としてまとめられるようだ。棒の手の系統の特徴は、基本的に6尺棒(182センチ)が用いられることであるが、3尺棒・槍・真剣・鎌を用いたり、扇を代用する地域もある。目的に多少の差異があるにしろ、いずれも祭礼での奉納踊りとして地域の住民・子供が踊る。以下にこの芸能の系統に入るものについて採り上げてみる。
「太刀踊り(たちおどり)」高知県の無形民俗文化財に指定されており、保存会も組織され、主に高知県西部から南予地方(愛媛県南部)に分布・伝承している。明確な起源は不明だが、平安時代頃、平家落人らが昔の栄華を偲びつつ、源平和平の祈願として踊ったのが始まりと伝えられるが、五穀豊穣・家内安全を祈り、秋の風物詩として定着している。
「棒踊り(ぼうおどり)」鹿児島を中心に、宮崎・熊本・沖縄及び諸島部に広く見られる民俗芸能で、六尺棒・三尺棒・尺棒(刀)・長刀・槍・鎌などを小道具として用いる場合もある。この地域のものは鹿児島から伝授されたとする記録が多い。護身術の1つであった武術が、江戸時代頃から五穀豊穣を願う伝統芸能として、唄に合わせて勇壮に踊るのが特徴で、田楽に近い。集落の事情により年齢は異なるが、男性のみで踊る。ホラ貝・ドラ・太鼓を連打するのは、音響効果を狙うものではなく、元来は悪霊を追い払うためだという。悪霊を払い、跳躍によって地霊を鎮めることで、大地を清めることが主な目的とされる。
「刀踊り(かたなおどり)・太刀振り(たちふり)・花取り踊り(はなとりおどり)」特定の地域独特の芸能というより、地域により名称の差異が生じて前述の太刀踊り・棒踊りが伝承されたようで、兵庫・京都辺りを中心として、広島・島根・富山・福井・和歌山・岡山などに広がり、飛んで青森などにも同様の名称が見られる。内容・主目的は前述の太刀踊り・棒踊りと同様のようだが、同じ地域に太刀踊りと花取り踊りが伝承されているものを見ると、踊り手の格好が華やかで、風流味がある。念仏踊りなどから派生したという見方もあることから、古武道の型は残しつつも、他芸能と融合し、より芸能化されたものであるといえる。
以上、太刀踊り・棒踊り・刀踊り・太刀振り・花取り踊りについて簡単に触れたが、各々地域性があるにしろ、流れとしては同じく古武道を元に、芸能化・祭礼化したものであるといえる。いずれも時期の前後などはあるにしても、経緯は近いものがあるので、以下、一つの流れとして「棒の手」の成立とそれに関わる神事について触れる。  
「棒の手」の原型である棒術は古武道の一つであり、その起源は棒という単純な武器である故によく解かっていないが、宗教祭礼で用いられた記録は古くからあるようだ。山伏修験の護身術・呪術あたりから発生し、中世期に実戦で槍先、薙刀先を折られた時、残りの柄で戦った事が発端となって術が編み出されたとのいわれが多い。こうして武技・戦技化した農民の自衛手段としての武術が、近世以降に五穀豊穣祈願のための寺社への奉納演技として神事芸能化し、発展したものと考えられている。古くから神社や寺の節句祭りに馬を奉納する祭礼「馬の塔(おまんと)」を警固する棒の手部隊がおり、奉納式典では棒の手の組み手が披露されたという記録がある。棒の手は馬の塔と併せて愛知県を代表する民俗芸能となり、流派と供に県内60カ所以上に継承されており、昔はそれ以上の非常に多くの地域に伝播していたと考えられている。その型は「表」「裏」併せて34手あるようだが、10数手のみを伝承している所が多いのは、巻物などの説明があっても、現在演技できなくなっている型なども多いからである。「裏」の型として鎖鎌などを伝える所もあるが、防衛のための型が多いのは、武器を禁じられた農民らの自衛として伝承されたこと、馬の塔の警固として発展した経緯によるものと考えられている。馬の塔という祭礼と密接であるため、以下に触れてみる。
馬の塔(おまんと)とは、「馬の頭」「御馬の塔」とも書き、江戸時代から五穀豊穣・雨乞いなどのお礼として、標具(だし)と呼ばれる札・御幣などの造り物を立て、美しい馬具で飾られた馬を1日だけ寺社に奉納するもので、尾張・西三河・東美濃地方の代表的な祭礼習俗の1つである。広義には、馬の塔・棒の手・鉄砲隊を合わせてオマントと呼ぶ。かつては、村内の神社に献馬する「郷祭」と、村々が連合し大きな社寺に献馬する「合宿」の2種類あり、合宿は5〜10年に一度、豊作の年に行われ、熱田・大須観音・尾張四観音(荒子・竜泉寺・笠寺・甚目寺)・猿投神社が有名だったが、現在はほとんど行われておらず、馬が山車に替えられたり、飾り物をつけた馬が走る馬駆け神事に変わるなど、地域により変容している。室町時代の1493年に行われた猿投山(豊田市宮口)の献馬の記録が史実上最古と考えられているから、500年もの間、連綿と受け継がれた歴史を持つ神事である。
馬の塔神事の時、献馬の護衛に当たったのが「棒の手」という警護隊だった。担い手は各々の村内の若者衆で、棒の手の流派の師匠に弟子入りし、棒から習い、一定のレベル・年齢になると「キレモノ」と呼ばれる槍・薙刀・鎌などを習う。武術として習得し、3〜6年位で、年齢・技量・人格が備わった者に奥義の口伝と、免許目録である免許皆伝の巻物を授与される。巻物と口伝を受け継ぐと「巻取衆」と呼ばれ、次代の師匠となるのだが、この巻物は門外不出とされ、寺社や堂宇に奉納されたりした。献馬奉納を行う者は心身を清潔にすべく清めを行い、奉納場所は塩で清めたり、汚れや邪気を祓う呪法を行った。近年の神事そのものの衰退により、昭和30年頃から各地で棒の手保存会が組織されている。
棒の手の流派はかつては尾張、三河、美濃一帯に数十余りあったといわれ、現在も10種以上の流派が伝承されており、著名な武家・武士を伝承上の創始者としている場合が多く、よって日本武術から発生したものとされている。大正・昭和時代の初めまで武術として稽古され、芸能化せず、ほぼ武術の流派そのままで伝わっているものもある。現在活動中のもので多い流派としては、鎌田流(かまだりゅう)・起倒流(きとうりゅう)・見当流(けんとうりゅう)・東軍流(とうぐんりゅう)・神影流・真影流(しんかげりゅう)・源氏天流(げんじてんりゅう)・検藤流(けんとうりゅう)などがあり、愛知県指定の14の保存会に入る代表的なものであり、集落の祭事・公の慶祝の日に棒の手を披露し続けている。  
さて棒の手はこの辺りで留め、もう一つの古武道の流れである剣舞(けんばい・けんぶ)について触れてゆくことにする。剣舞には2種類あり、1つは「棒の手」同様、郷土芸能になっている「鬼剣舞(おにけんばい)」と呼ばれるもので、もう一方は日本舞踊の1ジャンルになり、「吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)」「剣詩舞(けんしぶ)」と正式には呼ばれているものである。まずは本項の日本舞踊の流れに近い「剣詩舞」から触れてゆくことにする。
剣詩舞(けんしぶ)とは剣舞(けんぶ)と詩舞(しぶ)の総称である。漢詩・和歌などに節(旋律)を付けて詠う「吟詠・詩吟(ぎんえい・しぎん)」に合わせ、武士が詩情・詩心を剣を用いた舞で表現するものが「剣舞」で、刀の代わりに扇を用い、花鳥風月や人情を詩情豊かに舞うものが「詩舞」である。これら3つを日本伝統芸能の1ジャンルとして確立・発展させるため創立された流派連盟が、これらを総称して「吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)」と呼ぶようになった。剣を伴う舞は、奈良・平安時代からあったが、現代剣舞とは異なるものであったと考えられており、吟詠に合わせて舞う現代剣舞の歴史はまだ比較的浅く、明治維新の頃とされる。榊原健吉が「撃剣興行」を行った時の余興として「剣舞」を演じたことが始まりとされるが、現在は、「舞」である認識から舞台芸術として優れたものを目指すことが主眼となっている。主に日本刀を用いて舞うが、元来古武道から派生しているため、舞の中の刀法は居合道・古武道に従っており、真剣を使うこともあったが、現在は模擬刀を使用する。模擬刀は居合刀とも呼ばれ、刃金は入っていないが真剣と同じ造り・重量であるという。昨今はアルミ製の軽い模擬刀もあるようだ。剣舞の源である日本武術の鍛錬も重要視され、訓練する武術の流儀に拘りはなく、剣舞流派により異なる。大抵の場合、衣装は男性の着物、いわゆる紋付・袴であるが、詩吟の内容により、色目の違い、小道具である扇・日本刀・槍・薙刀などの違い、武装した格好(鉢巻・襷など)などと変化する。
演じられる舞台は、元来は様式美云々より、上方舞のような個人技としての「舞」に重点があり、無伴奏で吟じられた。吟詠の発祥に由来している故だが、吟詠が音楽として確立・発展するに伴い、必然的に楽器が求められ、尺八・筝・琵琶などの邦楽器による伴奏が付けられるようになった。今日は、洋楽器も含む多彩な楽器、シンセサイザーなども使用されている。近年になり、吟詠・剣舞・詩舞の総合的な舞台が多く企画され、台本を創り、演出を考え、音楽・照明・美術・衣装などのスタッフが付いた、いわゆるミュージカル仕立ての舞台が行われている。それにより群舞(ぐんぶ)による剣詩舞が多用されるようになった。剣詩舞はジャンルとして長い歴史を持たない分自由であり、発展性の高い芸能であるといえる。  
次に剣舞の郷土芸能としての流れである「剣舞(けんばい)」に入るが、同じ漢字を当てながら別の読み方をすることにより区別される。こちらは修験(山伏)場の中心であった東北の、岩手県から宮城県にかけて分布・発展したもので、前述の剣詩舞とは全く趣の異なるものであり、どちらかといえば先に述べた「棒の手」に近い芸能である。修験者が身を清めるために踊ったのがはじまりとされており、現在は国の重要無形民俗文化財の指定を受けるなど、芸能として保存・継承の動きがある。岩手県北上市周辺に伝えられる民俗芸能の一つ「鬼剣舞(おにけんばい)」は、剣舞のうち最も知名度が高く解かりやすいため、まずこれを取り上げる。
「鬼剣舞(おにけんばい)」岩手県北上市・胆沢郡胆沢町・胆沢郡衣川村に伝わり、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている民俗芸能で、鬼のような忿怒の形相の仮面を着けて踊ることからこの名が付いたが、角は無く、悪鬼を鎮める仏の化身だという。主として盆に新仏の家・墓・寺などで踊られてきたもので、亡魂鎮送を目的とする念仏踊りの一種とされ、衆生済度の念仏思想の影響を受けていることが解かるが、他に悪霊を踏み鎮める呪法の手として、宗教史・芸能史研究で注目されている地面を踏む所作「反閇(へんばい)」と関係するのではないかとの説や、芸能の徒の招宴の座敷での献盃からきたものとする説などもある。悪魔退散・衆生済度、五穀豊穣、祈願成就など、様々な目的で踊られてきたが、確かな史実は江戸時代の18世紀に行われていたことを示すものしか見つかっておらず、起源はそれ以上に時代を遡るものと考えられている。鳥獣の被毛などの頭飾りに忿怒面を着けた踊り手が、太鼓・笛・鉦などの囃子方・念仏歌に合わせて扇・アヤ竹・刀の採り物を手に踊るものである。演目は、全員での群舞、少人数での群舞、アクロバティックな演技を見せる余興的なものなど多彩であり、踊り・振りは極めて勇壮で力強く、激しい。伝承地により曲目・名称・演じ方などに特徴があるので、以下、北上市以外の剣舞の伝承について触れてみる。
「永井の大念仏剣舞(ながいのだいねんぶつけんばい)」岩手県紫波郡都南村永井に伝わる剣舞で、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。剣舞は芸態により、鬼剣舞・雛子剣舞・念仏剣舞・大念仏などと呼ばれているが、永井に伝承されているのは供養念仏の一種である大念仏剣舞である。大きな円形の台の中央に塔を付けた大笠を振るのが特色で、「南無阿弥陀仏」の名号を歌にして唱えるなど、風流芸としての念仏の特色が色濃く残り、念仏唄としても優れたものを継承しているため、資料価値が高い芸能とされる。
「川西の念仏剣舞(かわにしのねんぶつけんばい)」岩手県胆沢郡衣川村下衣川に伝わるもので、国の選択無形民俗文化財に指定されており、亡魂済度の色合いの濃い演出をとっている。毎年8月24日、中尊寺本堂前の施餓鬼で行われ、「大念仏」の演目の終末部で、念仏の功力によって亡者を成仏させる演技を見せる。「朴ノ木沢剣舞」にも「大念仏」の演目があるが、こちらでは讃め歌が歌われるのみである。「和賀地方の鬼剣舞」にはこの色合いが薄く、余興の曲芸的な演目が盛んである。「岩崎鬼剣舞」は、この地方の鬼剣舞の元祖であり、「滑田剣舞」は岩崎剣舞の指導を受けたものであるが、岩崎にはない神楽系の演目をもっている。
以上、主要なところを挙げてみたが、岩手県内には120余りの剣舞の伝承があり、岩手県の代表的な民俗芸能であることが確認できる。一様に当てはまる特徴を敢えて挙げるなら、ほとんど剣舞と名が付いていることと、催される時期として盂蘭盆会の時期が多いため、供養念仏の類が多いことであろう。また芸能祭の演目として各地域の剣舞が多く参加していることから、地域性の高さも伺える。
「北上みちのく芸能まつり」は岩手県北上市で催される東北最大規模の芸能の祭典で、岩手を中心に、東北地方各地の100以上の民俗芸能が集約され、3日間で堪能できるものである。鬼剣舞はメイン演目として数多く取り上げられ、現在伝承されている18演目全てが披露される。  
棒の手・剣舞について概要を並べてみたが、他の民俗芸能と異なる部分のキーワードは「風流化」である。観衆が集まるからこそ芸能の伝承が成り立つことは別の項でも述べたが、日本舞踊の様々なジャンルの中で、囃子方、いわゆる音楽を伴わないものは「棒の手」だけであるように思う。踊りの要素を持たないものが日本舞踊のジャンルに入ること自体がおかしいとも言えるのだが、棒の手と同じ系統の棒踊りなどは囃子方として唄が入る、いわゆる踊りであるのに対し、棒の手のほとんどは演技・実技と称されるように、型の披露である。芸能の風流化には派手な音楽や見た目上の華やかさが伴うものであるので、棒の手は風流化と無縁であったとも言えるが、観衆を魅了する別の要素があるからこそ、これまで存続してきたものとも思われる。
現代でも男の子はチャンバラごっこが好きであるが、剣詩舞などで女性の姿が目立つのを見ると、昔から女の子だってチャンバラが好きだったのではないかと思う。「棒の手」「鬼剣舞」は今のところ男性のみが継承できる芸能であるが、そのうち女性の姿も見られるようになるかも知れないとも思うのだが、男臭い古武道の流れを継いだ芸能であり続けて欲しいと筆者は願う。
 
講談

日本芸能の「講談(こうだん)」がどんなものかご存知だろうか?昨今では、触れたことがある人の方が珍しいかも知れない。落語・漫才などと共に「演芸」の1つとして扱われているが、これらの同じ話芸の中でも比較的影の薄い芸能となってしまったし、落語家志望者は耳にしても、講談師を目指す人の話はあまり聞かない。講談に関するものとして現在でも有名なのは、講談が大道芸として人気を博した頃に講談本が大流行した名残として、講談本の出版事業を中心に拡大・発展した日本最大の出版社「講談社」がある。前身は「大日本雄弁会」といい、東京帝国大学の弁論部の講演の演説集「雄弁」、講談を読物にした「講談倶楽部」を創刊したのが始まりだという。大衆小説の起源とも言われ、時の話題をいち早くキャッチし、講釈して興隆を極めた「講談」という芸能の栄枯盛衰を追ってみたい。  
「講談」を簡単に言い表すと、リズミカルな七五調で、語呂の良い言葉の羅列の合間に、張り扇(はりせん・はりおうぎ)で釈台をパンパンと調子良く叩き、武勇伝や人情物語などを語り聞かせる寄席演芸である。現代でも用いられる慣用句として「講釈師見てきたような嘘をつき」「講釈師扇で嘘を叩き出し」」「講釈師つかえた時に三つうつ」などもあり、嘘でも実しやかに本当のことと思わせるその話芸は、現代版スポーツ新聞の感覚に近い。そうは言っても魅力的…というのが講談であり、大衆メディアであるテレビ・ラジオの無かった時代には、各々の町に講釈の為の専用の場である「釈場」が設けられ、興隆を極めたという。まず講談の歴史として、芸能の成立期から入ってゆこうと思う。
講談成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」いずれの場合も「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接で、話芸という語の成立自体も明治時代に入ってからであり、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。話芸を生業とした職掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「風土記」の頃、各地の説話を口伝した語部(かたりべ)に始まり、室町時代に誕生した近侍の雑役・芸能僧である同朋衆(どうぼうしゅう)を経て、戦国時代の武士役職である御伽衆(おとぎしゅう)・御咄衆(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として見るならば、高座に座して巧妙な話の演出をする現在の形式は、仏教の説教(説経)師が創造し、継承・発展させたものとされている。できるだけ年代順に追いつつ、曖昧な部分は系統別に流れを見てゆくことにする。  
講談の前身である「講釈」と「講談」という名称は、日本の仏教界においては中世期頃から「説経(唱導)」の別称として盛んに用いられ、経典講釈を用いた説教教化の方法は、平安時代から鎌倉時代にかけて興隆したと言われる。その後、経典講釈系の「説経」と節談「説教」系が並行して進展するのだが、講談は「説経」の流れを汲み、他の話芸、落語や漫才などは「説教」の流れを汲んでいると言われる。いずれも目的は仏教の教えを一般民衆に解り易く説話形式にしたもので、僧体のみならず門付芸人なども普及の一手を担った。
同じく中世期、盲目の琵琶法師と同様「平家物語」「源平盛衰記」などを話して聞かせる「物語僧」と呼ばれる説経法師が登場し、後に南北朝の動乱を描いた「太平記」などの軍記物(戦記物語・軍談とも)を読む「太平記読み」が誕生する。太平記読みは江戸時代初期・慶長年間に、赤松法印が徳川家康の前で「太平記」などを読み聞かせたことが始まりと言われ、元禄年間の頃には庶民を相手に「町講釈」が誕生し、今日の講談に続いているという。
また戦国時代から江戸末期、主君に近侍して話し相手となった、武士役職である「御伽衆(おとぎしゅう)」が講談に繋がるとも言われている。「御咄衆(おはなししゅう)」とも呼ばれ、多くの戦国大名が御伽衆を置き、当初は戦陣の合間の慰め役として武辺話などを面白く語るものであったが、次第に領国経営など役立つ知識を有する古老・浪人などの任務となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇間のような存在になった。この武家出身の御伽衆の流れが講談師となり、町人出身の御伽衆の系列が落語家になったとも言われている。  
これらの流れを経て、江戸時代初期の大道芸の1つである「辻講釈(つじこうしゃく)」が誕生するが、これが寄席演芸としての講談の直接の原型と言われている。辻講釈は生活に窮する軍事学者・浪人らが「太平記読み」などを行い、流浪しつつ門付をして投銭を得たことが始まりだと言われているのだが、前述の「太平記読み」の流れを継承しており、軍記物・物語などを講義・解釈しつつ調子を付けて語るものなので、この「軍談読み」が登場したのは、新しい試みで生じたものではなく、旧来より存在した説経が変形・発展したものと考える方が自然の流れであると見られている。浅草に太平記場を設けた名和清左衛門や、堺町で軍談を講釈した赤松青竜軒などが江戸の講釈師として活躍していたとされ、名和清左衛門は辻講釈の祖ともいわれている。
江戸時代中期には、口演場所を固定した「町講釈(まちこうしゃく)」が登場し、宝永年間には公許の常設小屋で上演され「講釈」と呼ばれるようになるが、町講釈・辻講釈・野天講釈・夜講釈・座敷講釈など口演の場により名称を違えていた。文政年間には独りで口演する話芸として寄席演芸の1系統を確立し、台本を釈台に置き、張り扇を叩きつつ話す現在の形式が完成する。江戸・大坂などの中心街に設けられた釈場では、多くの講釈師を輩出し、宝井・貞山・神田・松林(しょうりん)・伊東・桃川・田辺などの流派が誕生した。話芸として登場人物の口調や読み分けなどの演出にも工夫がなされ、浪人出自の芸能であるため武勇伝・仇討ち・お家騒動・政談の類を得意としていたものが、庶民の生活を描いた、受けの良い「世話物」や巷のニュースを講釈するなど、題材的に多様化していった。文化・文政期から天保期の間は、「世話物」の全盛期となり、この流れを作った馬場文耕の功績は大きいのだが、彼は金森騒動(岐阜県郡上の百姓一揆・お家騒動)を「珍説森の雫」と題して講釈したため幕府の反逆者として処刑された。大塩平八郎の乱の後すぐに「大塩事件」を読んだ塚田太琉や、狂講を行った霊全や深井志道軒など、この時代には学識を持ち世情を批判するような、社会評論家とも言えるより庶民向けの講談師が多く登場した。入場料を取る「木戸銭」と呼ばれる制度を始めたのも講釈の寄席が最初だという。天保の改革で衰微を見せたが、江戸末期から明治時代にかけて講談は全盛期を迎え、話芸の中心的存在となって人気を博した。巷の事件・噂をいち早く採り入れて講釈したので、講釈の人気演目を参考に多くの歌舞伎・浄瑠璃などの作品が作られるなど他の芸能にも多大な影響を与えた。
明治時代以後、他の芸能との交流も進み、講釈は現在の名称である「講談」と呼ばれるようになった。明治維新の世相を反映した開化講談が行われたり、2代目・松林伯円と初代・桃川如燕(じょえん)は明治天皇の御前口演を行うなど、講談は更に興隆を見せる。講談速記本が大流行し、貸し本屋での人気商品に挙がるほどであったため、新聞・雑誌などにも連載されるようになった。速記本は後の大衆小説の起源ともなっているのだが、明治末期に立川文庫から出版された書き講談である「講談本」が多数世に出されたため、逆に講演の講談の方は蔭りを見せ始め、浪曲・漫才など人気大衆芸能の登場や大衆メディアの発達などの影響を受け、日陰を歩むことになった。いつの時代にあっても時に応じた題材が加えられ、そこから新しい演目が作られるという芸質は変わらないのだが、昨今のインターネットやサテライト放送などが持つ情報伝達の驚異的なスピードと伝達手段の手軽さに太刀打ちできる芸能は無いのかもしれない。
日本伝統芸能の流れとして、江戸時代頃までに成立したものは上方(京阪)を中心に誕生・発展したものが多いのだが、講談は江戸(東京)のイメージが強く、江戸で誕生・進展したものではあるが、担い手である講談師は江戸以外から移ってきた者が多い。明治時代の上方には講談師が大勢おり「釈場」も多数あったが、内容的には同じだが節が付された「浪曲」の登場や「講談本」(書き講談)が多数出版されるなど江戸と同様、急速に衰退し、戦前には3代目・旭堂南陵1人しかいない時期もあったようだ。講談の普及・理解への尽力により、現在では数十名の講談師が関西で活躍している。  
次に、講談の演目について触れてみる。多彩な題材から何でもありの話芸のように見えるかも知れないのだが、「軍談」「御記録物」「世話物」の3つに大別される。
軍談(ぐんだん)合戦など戦を題材にしたもので、軍記物から取材した「源平盛衰記」「太閤記」「三方ヶ原戦記」「太平記」等がある。
御記録物(おきろくもの)将軍家・大名家に伝わる記録・伝記を題材としたもの。講釈師は「俺は天下の御記録読みだ」と昔は威張っていたらしい。この変化形が「御家騒動物(おいえそうどうもの)」であり、「赤穂義士伝」「慶安太平記」「伊達評定」等がある。
世話物(せわもの)「生世話(きぜわ)」「準世話(じゅんせわ)」と2大別されるが、更に細分類すると以下のようになる。
白浪物(しらなみもの)泥棒物を題材としたもの。「石川五右衛門」「鼠小僧」等がある。
怪談物(かいぶつもの)お化け・幽霊の類が登場するもの。「四ツ谷怪談」が代表的である。。「四ツ谷怪談」が代表的である。
名人譚・出世譚(めいじんたん・しゅっせたん)世話物の王道で、浪曲では出世物と呼ばれる。「左甚五郎」「紀之国屋文左衛門」等がある。
侠客物(きょうかくもの)任侠・侠客・やくざ物を題材としたもの。「清水次郎長」「木津勘助」等がよく演じられ人気がある。
武芸物(ぶげいもの)連戦連勝・負け知らずの剣豪が主人公のもの。「宮本武藏」「荒木又右衛門」等がある。
お裁き物(おさばきもの)現在、時代劇として人気があるジャンルで「政談」とも呼ばれる。「大岡越前守」「水戸黄門漫遊記」が有名で、TVの長寿番組も元は講談種である。  
実際には上述の分類に全て区分される訳ではなく、2つのジャンルにかかる演目もあるし、「探偵講談」のように明治時代に作られた新しいジャンルや、現代の新作物の多くは上述のジャンルに当てはまらないものが多い。また講談は浪曲と同様の分類体系と言われているが、浪曲にある「ケレン物」と呼ばれる、滑稽物・お笑いのジャンルは無かったようだ。話芸として相互に影響し合ってきた講談・浪曲・落語・漫才などに共通して言えるのは、他芸のヒット作を移入し、自分の芸能舞台に作り変えてヒットを生む類が多いことである。しかし日本の伝統芸能として代表的な歌舞伎・能楽・文楽の間でも同様の移入作業が多く存在するので、大衆の要望・時流を汲み取り互いに凌ぎを削り合う大衆芸能にあっては、当然なのかもしれない。
次に、少し掘り下げて講談の内容と本質的な部分に入ることにする。
本来、講談は歴史的事件を中心とした題材に注釈を付け、一般民衆に読み語る話芸であり、創作性が濃い落語と違い、講談は史実に基づいた内容が中心であり、オチも付けない。しかし全体的に笑いを含んで演出し、講釈や講談の語のイメージよりは柔らかく、伝統芸能ではあるが旧態墨守でなく、基本を継承しながら時代に対応して変化するような、近年の新作物では特にそうした傾向がある。講釈の時代から続く「軍談」は、講談師が作り上げた特有のリズムを持ち、特に朗々と読み上げる合戦の場面は「修羅場(しゅらば)」と呼ばれており、その名の通りクライマックスを演出するため、講談師の呼吸・調子と張り扇の間合い・響きで全体を盛り上げる。修羅場は序・破・急の3つの呼吸があり、江戸時代中期の滋野瑞竜軒(しげのずいりゅうけん)が修羅場の名人として有名である。馬場文耕の弟子・森川馬谷が、定打ち(定席)の釈場を設けるとともに軍談・御家騒動物・世話物での3部立てを確立して以来、前座・中座(二つ目)・後座(真打ち)の順位が定まり、寄席演芸としての基礎ができ上がった。
講談が「前座見習い」「前座」「二つ目」「真打ち」と昇進していく序列社会があるのは落語などの寄席芸能に共通であり、舞台に立つのは前座から、高座に上がる時、入場テーマ曲である「出囃子」を持つことが出来るのは二つ目以上、トリの高座を務めることが出来るのは真打ちからと、制約がある。
前座名(名前)を師匠から貰い、楽屋入りするまでは「前座見習い」呼ばれ、講談師の卵として師匠宅に通って修業に励みつつ雑用をこなす。楽屋入り後は「前座」と呼ばれ、師匠の舞台の世話を担当したり、寄席の最初の一席を受け持ち舞台に上がることもある。近年は自動的に3〜5年程度すると二つ目に昇進し、二つ目になると番組表に名前が掲載され、独演会を開くことも出来る。次に真打昇進の際には真打披露目が行われ口上が述べられ、寄席では主任(トリ)を務めることが出来る資格を有するのだが、落語界同様、真打昇進が容易く、流派内の真打人数による優遇や競争があるなど、真打昇進制度に問題があるとの声もある。しかしながら女流や若手の開拓はどの流派においても講談という芸能を幅広く披露する上での客層開拓のためにも重要課題であることは事実であり、現在は女流講談師の割合も増え、明るい着物姿で華を添え、若手女流による新しいジャンルの新作講談など、新たな試みも目にするようになった。また題材を解り易く解説し、一般大衆の理解を深めるという講談ならではの芸質が再評価され、世界情勢・国際的事件・経営理論などの歴史以外の題材を採り上げ、社会評論的な講談の試みもなされている。  
前述のように、講談と落語は諸々似ている点が多く、相互に比較の対象となっているので、より馴染みやすい「落語」にも焦点を当て、違いがどこにあるのか探ってみることにする。
よく言われる簡単な違いは、「落語」が会話中心で成立する噺す・語る話芸であるのに対し、「講談」は情景描写が中心の、物語を読む話芸であるということである。「読む」と表現されるが単に朗読するのではなく、先に述べてきたような独特の語り調子と張り扇の音の響きとの調和で生まれるリズム感が醍醐味のものであり、この特色も含めて講談は落語より歴史が古いと言われている。また落語には特徴的な落ち(サゲ)があるが、講談には存在せず、落語では無名の登場人物(老若男女・動物)になりきって演じるが、講談にはそれがなく、登場人物は必ず固有名詞を持ち、ある程度有名な人物を採り上げる点に違いがある。演目を落語では出し物と呼び、講談では読み物と言うことや、落語では先輩のことを師匠と呼び、講談では先生と呼ぶことなど、まだ小さな違いは存在するだろうが、大体以上の点に要約できると思うのだが、これらに沿わないものも存在するので、昨今は分類が更に難しくなっているようだ。  
ここで観衆の目線からの講談について、少し触れておきたいと思う。基本的に講談は、大きな場所を要さず、座布団・釈台が置ければどこでも出来るし、寄席以外での講談の会など、料亭や小会場で行われる場合には、釈台・張り扇無しで口演することもあるようだ。基本的には、高座に置かれた「釈台」と称する小机の前に座り、張り扇で机をババンバンバンと叩いて調子を取りつつ、メリハリのある独特の調子で、語る(読む)芸能である。単純なものほど難しいとはよく言われるが、張り扇一つ取っても「張り扇三年」と言われるほど、上手く叩けるようになるには時間がかかるというし、張り扇は各々の講談師が扇を真ん中から二つ割りにして和紙で包む手作りだという。また右手に持つ張り扇以外に、左手にも扇を所持することになっているが、落語の見立てのように用途があって所持される訳ではない。とにかく講談はリズムが何より大切で、リズミカルな話芸の妙味で真実を語っているかのように思わせるものだが、「講釈師見てきたような嘘をつき」と言われるのは、語る内容は歴史的事実に基づいており、「あたかもその場で見ていたかのような」真に迫った表現をすることから、このような慣用句が生まれたものと思われる。現在、永谷演芸ホール・上野広小路亭、日本橋亭などで公演が行われているようだが、一番身近なのは、NHK子供向け教育TV番組「にほんごであそぼ」とか、「笑っていいとも!」ではないだろうか。いずれもレギュラーとして活躍中の講談師・3代目神田山陽さんの話芸が見られるので、興味があれば子供がいなくても見てみたらどうだろう。ちなみに「にほんごであそぼ」では、狂言師・浪曲師(浪花節)・浄瑠璃太夫なども出演し、独自の伝統芸能を判りやすく紹介している。
また講談の内容で言えば、「この紋所が目に入らぬか〜」のTVドラマ「水戸黄門」が身近であることは前述したが、水戸黄門の始まりは、江戸時代に「黄門漫遊記」の講談演目で人気を得たのが起源とされる。黄門様がスーパースター道を歩んでいるのと同様、大岡越前・国定忠治・柳生十兵衛・清水次郎長などの映画・TVのヒーロー達も講談から生まれた。講談が大衆娯楽として一世を風靡し、人々が歴史・物語の基礎的な教養を講談から形成した時代の名残であり、また今も昔も大衆のヒーロー観があまり変わっていないということだろう。  
最後に、講談界から初めて排出した重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝について触れる。講談自体も重要無形文化財の指定を受けているが、2002年、一龍斎貞水氏が講談師としては初の認定を受け、寄席の世界でも故・柳家小さん師・桂米朝師に次ぎ3人目の認定となった。「講談師夏はお化け冬は義士で飯を食い」という慣用句の通り、怪談物と軍談は講談の中でも重要と言われている演目だが、一龍斎貞水氏は怪談を演じさせたら当代随一とも言われているほど怪談話に秀で、「怪談の貞水」と呼ばれる。特に、特殊演出の効果を駆使し、高座もかなり飾り込む「立体怪談」は有名で、舞台から幽霊が客席に降りてくるなど、客席の恐怖は計り知れないものだ。講談高座発祥の地と言われる湯島天神で、彼が主催する「講談・湯島道場」という定期公演や、暑い夏に立体怪談が楽しめる「納涼ほらー演芸会」などが行われているそうなので、怪談話の最高峰に興味がある方は是非足を運んで体感して頂きたい。  
 
「舞う神」考 / 日韓民俗芸能比較研究(論文概要)

1 問題の所在
日本には八百万の神、韓国では八万八千の神がいるといわれている。もちろん、算術的な数ではなく、あらゆる物事には精霊が宿っているというアニミズムの思想から生じたことはいうまでもない。多神的な神観念をあらわしている。それらの神々は祭場でいかに表象されるのか。顕現される方式はあるだろう。もし決まった方式があるとしたら、如何なる方式であろうか。また、すべての神々は同じ顕現方式であらわれるのか。または神々によって異なるのか。
民俗芸能は民俗と芸能という二つの不相応な語が結合された用語である。民俗という用語に内在されている保守性と芸能と言う語が持つ瞬時性が不協和音的に出来た用語である。民俗芸能という用語が用い始まったのはそれ程古くないが、現在は根を降ろしつつある。民俗芸能の用語に内包されている矛盾こそ、民俗芸能の本質に迫るに違いないだろう。
民俗芸能の研究は国文学、歴史学、民俗学、宗教学、芸術学、などさまざまな分野の関心の対象になっているが、それを一つの学問としてとらえることが可能であろうか。本稿はその一つの方法として演劇学として捉えようとしている。言い換えれば演劇人類学とでもいえるだろう。演劇の概念を捉える場合、大きく二つの方向がある。一つは、演劇は西洋の演劇の概念として、二つの物事の戦い、即ち葛藤の構造で捉えようとする概念である。二人の人物が戦い、葛藤する人間を描き出すのが演劇の本質とも言われている。近現代に入るとそれが心理的な葛藤の方に移される傾向が見られる。もう一つの演劇の捉え方は内容というよりは、役者がある役柄に扮するというところに焦点を当てた概念である。アフリカなどの祭りや、東洋における祭儀などにおいて、扮するという行為を演劇として捉えようとする流れである。祭儀を司る者が神霊に扮して、神霊の役割を演じることを広義の演劇として捉えようとする動きである。勿論、祭儀に行われる善神と悪神の戦いを見せる部面も少なくないが、むしろ、その善神、悪神に扮するところに演劇としての性格が強調されるのである。演劇という近代以後の用語をもってその以前のものを定義および位置づけようとする自体は、無理が生じる可能性を排除できないし、それほど意義あるとは思えない。しかし、そのよう作業は、日本と韓国をはじめアジア諸国の芸能研究において新たな展開が期待されるのも否定できない。
日本と韓国の民俗事情(芸能)を同一線上に置き、演劇という概念で捉えようとするのが本稿の趣旨である。民俗芸能研究が事例報告の枠を超えにくい側面があったためか、今日においてもその傾向からそれほど脱していないのも事実であろう。演劇の方面から民俗芸能へのアプローチ、即ち、日本の神楽と韓国の巫俗儀礼のなかで見られる芸能的な要素を取り上げ、それを演劇学の方面からアプローチし、芸能の本質論を試みるのが本稿の狙いである。 
2 研究方法
芸能は瞬間に消えてゆく時空間的に制限されるので、実際具体的な芸態を文献から掘り出すには限界がある。そこで芸能史は民俗学にならなければいけないという考え方が生れてくるのである。
芸能史研究では、芸態に関する文献が少ない分野に民俗芸能を説得力ある資料として採用している。また逆に、地方伝承に関する研究では、中央に残された文献資料を使ってその伝播や変容の歴史を具体的に明らかにする方法がとられている。しかし、芸能の研究は芸態から始まらないとその姿がみえない。単なる並列式の記述に過ぎなくなる。民俗芸能研究は現在生きている共時的な民俗事象を歴史の通時的なものとして捉えることにして、文献資料をそれに補う方法が最も望ましい。しかし、筆者にとっては、多く報告されている資料を読み、理解することが限界にあるということを認めざるをえない。
本稿は今までに報告された資料を中心にして、確認が必要な場合のみ、フィールドワークという方法を選ぶことにした。本稿で、使われている資料は殆ど、先学が既に整理したものを利用する。韓国の資料についても、多少のフィールドワークしたものを加えたが、基本的にはすでに調査された報告を利用することにとどめている。筆者の能力の限界もあるが、既存の報告を利用することによってより客観性を求める狙いがあったからである。
ここで、一つ断っておきたいのは、日本と韓国の民俗芸能資料を区分しないで使うことである。民俗というコンテキストのなかで育まれた多種多様な芸能は深い信仰を背景にしている。芸能というのは常により新しく、より珍しいものを取り入れ、見物人に見せるという行為に他ならない。しかし、信仰を基底にしている点で、民俗芸能はそれ程変わりなく、保守性を保ってきたといえる。日本と同じように、韓国も西洋の風にさらされて、伝統文化が崩れ落ちて、わずかにその形骸がのこされている状況に置かれている。韓国の民俗、韓国の文化を探るには、日本のそれが大変参考になるに違いない。日本においてもその事情は変わりがないと思われる。拙稿は以上のような理由で、日本の民俗芸能と韓国の民俗芸能を同一線上で扱うことにしたのである。勿論、両国は歴史が異なり、地理的な環境も異なるので、民俗というコンテキストの中でも詳細な部分に入ると相異面も多い。拙稿は文化の源流を求めるための比較ではなく、両国の民俗事象から共通の思想を探りだし、両国の民俗芸能に見られる共通性を求めることによって、今まで曖昧、不明になっている民俗芸能の事象がよりはっきり見えるのではないかという意味での比較研究である。
民俗芸能は長い年月の流れの中でさまざまな要素が積み重なって成立されている。その本来の姿をさぐるのは相当至難である。民俗芸能が信仰を基礎にして伝承されているので、その信仰性の働きによって、出来る限り過去のままを伝承しなければいけないという保守的な思想が込められている。しかし、世の中のすべてが時代によって変わってきたように民俗芸能も変遷してきたことは言うまでもない。しかし、何処まで変わって何処が昔のまま伝承されているかを穿鑿するのは大変難しい。同一の芸能のなかでも、たやすく変わる部分と、そうではなく根強く生き残っている部分がある。しかし、時代的、社会政治的変化、伝承者の思想等の様々な要因によって、さらには偶然によって変わることも多い。必ずしも、規則的な変化の基準があるわけではないので、民俗芸能の時代的穿鑿が推測、あるいは直感がはさまれる余地が生じる。その働きが重要な役割を果たすのも、時代と時代の繋ぎを償う有効な手がかりになることは否めない。また、民俗芸能は人間が作り上げた所産であり、時代の積み重ねで出来あがったものなので、ある時は物理的な資料よりは、人間の直感あるいは、想像力が大きな働きを果たしてきたことも無視できないだろう。本稿ではその直感あるいは、想像力に頼る部分も少なくない。それらの実証的な裏付は今後の課題にしたい。本論に入る前にタイトルの「舞う神考」の「舞」について一言断って置く。本稿での「舞う」ということは、舞、踊、ダンス等の「舞」ではなく、見えない存在が具体的に表現されるあらゆる所作を「舞」という言葉で捉えている。
祭りに登場する多種多様な神々の中では、舞う神と舞わぬ神が並存する。祭儀と芸能が混合している民俗芸能を「舞う」という行為をもって分析する。それを土台にして、日韓の民俗芸能をはじめ、アジア諸国の芸能(演劇)への拡がりを期待したい。 
3 本論 
第一章 芸能から祭儀へ
本稿で用いる用語の概念を整理した上で、「祭儀から芸能へ」と言説を裏付ける事例として、「言霊信仰から祝詞へ」、「翁から神へ」について述べてから、最後には近代になって制作され広まった「浦安の舞」の民俗芸能化への路を辿ってみた。
祭儀から芸能へとう言説に対して芸能の祭儀化という過程を想定することができる。祭儀には複雑多様な所作が使われている。その構成要素が祭儀に効果を発揮するためには、それなりの意味付与が前提される。人間が普段用いている言葉を祭儀にも使われているが、普段の言葉そのままではない。その言葉に祭儀の要素として相応しい意味や価値を付与することによって、初めて力を発揮する祭儀の言葉になる。その一つが祝詞である。言霊信仰というのも、言葉が生まれる以前に言霊信仰があったわけではなく、言葉に価値や意味(力)を付与することによってこそ、はじめて言霊という思想が生じたと考えられる。
祭儀という複雑な様式が生まれる前には心理的な祈りがあり、単なる祈りに芸能的な要素が加わることによって祭儀へ発展していくという過程が想定できる。
その思想を最もよく現われているのが日本の能楽である。能勢朝次、林屋辰三郎などの先学は猿楽の根本を呪師の芸から捉えている。宗教的な祭儀から芸能への変遷という進化論的な立場をとっている。猿楽(さるごう)は散楽(さんがく)から由来したと云われている。散楽というのは周知のとおり、中国の散楽百戯に根拠をもつのである。中国の散楽百戯は滑稽的な物まねや、曲芸的なものを見せる所謂、見世物風の芸能であったのである。散楽は宗教性よりはむしろ娯楽的、見世物的なものであったが、日本に入って、日本の社会に応じて貴族社会から武士社会に変わりつつあった時代に沿って儀式化になるのである。日本の全国津々浦々に行なわれている所謂民俗芸能には古風な翁芸が見られる。一律的に言えないほどバリエーションが富む。又、人形浄瑠璃や、歌舞伎に採り入れて娯楽性を強調しながらも、初舞台や顔見世狂言などには儀式めいた三番叟が登場するのである。それを祭儀とは言えないとしても、儀式性が強調されているのは否定できない。そのような要素が取り込んだのは芸能の担い手(座)の思惑も働いたと思われるが、興行毎に繰り返すことによって、儀式化への道を歩んできたのである。地方の祭儀になると、翁三番叟が取り込まれ、祭儀の一部にもなってくる。祭儀と儀式を混同してはいけないが、単なる娯楽性のみを追求したわけではないのは確かである。
各芸能に式三番という仕組みが取り込まれている場合が多い。式三番は芸能の一部を儀式化させたものである。式三番は能の式三番に限らないが、芸能と祭儀、儀式という本質的なものを問われるに最も相応しい対象になると思われる。「祭儀から芸能へ」ではなく、その逆の「芸能から祭儀へ」という言説が成り立つのである。小論の最後には近代に入ったから制作された創作舞が民俗芸能化への過程を辿ってみた。「浦安の舞」は昭和一五年「紀元二千六百年奉祝式典」の一環として、当時内閣から依頼された多忠朝が作曲、振付して作った雅楽風の「女舞」である。雅楽というのも本来は中国大陸から伝えられたもので、最初から日本の試楽として定着したわけではない。それに試楽として、価値を付与し、それに相応しく編成したと思われる。また、周期的に反復することによって、儀式として定着されるようになったに違いない。「浦安の舞」は最初から儀式用として作られたが、激変する時代とともに一時は中止、廃止され、再び儀式化、祭儀化の路を歩みつつある。今日日本全国で多く見られる民俗芸能、神事芸能と称されるものには、時代的な偏差があるものの、「浦安の舞」が神事舞に定着する経路から、神事芸能の本質的な側面を照らし出してくれるだろう。 
第二章 韓国巫覡儀礼から見た宮廷の御神楽―園・韓神祭と鎮魂祭を中心に―
神楽の原型といわれる宮廷の御神楽の成立に重要な影響を与えたという園韓神祭と鎮魂祭を韓国の巫俗儀礼の視点から儀礼の次第の意味を再解釈してみた。宮廷の御神楽は大嘗祭における清署堂の御神楽(琴歌神宴)、賀茂臨時祭の還立の御神楽、鎮魂祭、平安宮の中に祭られる園韓神を祭る園韓神祭など、さまざまな要素が統合整理され、今日にいたっている。恒例化される(承保年間(一〇七四〜七七)以前には琴歌神宴や還立の御神楽の言葉が示すように、祭儀の後に行われる宴の性格があることから「宴から祭儀へ」という意味で第一部に位置付けた。
日本全国各地に行なわれる神楽の原型といわれる宮廷の御神楽は先行神事からさまざまな要素が取り入れられて成立した。
御神楽の先行神事として園韓神祭と鎮魂祭がある。いままで文献資料を通して神事個々については多くの研究がなされているが、それを統合的に研究する見方はあまり見えない。新嘗祭(大嘗祭)を中心にその前後に行なわれる神事を大きな枠組みのなかで捉えてみると、新たな側面が浮かびあがってくると思われる。即ち、一一月一一月中の丑の日には園并韓神祭が、翌日の寅の日は鎮魂祭が、新嘗祭は卯の日に、それから直会の性格をもつ清暑堂の琴歌神宴は 辰(巳)の日に行なわれたのである。そのなかで、園韓神祭は地主神である土地神への祭りであり、鎮魂祭は天皇の祖先祭の性格が強い。とくに園韓神祭は渡来人(特に秦氏)が祀ったといわれることと絡んで韓国の巫俗儀礼と『儀式』に記されている園韓神祭の様子を対照してみた。
園韓神祭は祭場清めをはじめ、土地神を祀る祭儀である。鎮魂祭はいままで、タマフリ説、タマシズメ説がなされているが、鎮魂祭はタマフリ説よりはタマシズメの説がより説得力あることを天皇の祖先祭的な特性から捉えた。鎮魂の対象である魂は天皇の魂ではなく、他者の魂、即ち、天皇の祖先霊であることである。鎮魂祭で最も注目すべき点は、御巫(みかむなぎ)が手にして振る御衣のことである。その御衣は今まで天皇の御衣とされてきたが、御衣が天皇の衣服ではなく、天皇の祖先の装束として解釈すると鎮魂祭の真意がよりはっきり見える。
韓国の東海岸別神グッの構造をみると、まず村の守護神であるゴルメゲ神に告げる次第があり、次には必ず、祖先神を祭る祭儀がある。それから、最後に宴のようににぎやかな踊りが行なわれる。韓国の巫俗儀礼では、地主神祭、祖先祭などは独立されることなく、村祭りの中で一つの次第(演目)として位置づけられているに対して、日本の園韓神祭、鎮魂祭などは、国家的な行事であるだけに、園韓神祭、鎮魂祭のように独立された名称で行なわれたとも考えられる。 
第三章 神霊の顕現の方式 ―神がかりを中心に―
神がかりを「巫者による神がかり」、「修験道の神がかり」、それから「神楽の神がかり」に分けて神がかりの諸相を述べた。いままで、神がかりを言及するときは巫女の本領として扱われ、巫女の神がかりだけが注目されてきた傾向があり、修験道や神楽の神がかりを扱うときは巫女の神がかりを抜きにする傾向がある。小論ではそれらの神がかり現象を出来る限り多く取り上げ、神がかり(憑依)する神を「舞わぬ神」として分類した。神がかりは託宣を得るのが主な目的ではあろうが、必ずしも託宣が行なわれたわけではない。見えない存在を認識させるための様々な工夫がなされる。その一つがカミミチである。神がかりに伴う「舞」は神の舞ではなく、神がかり前段階としての人間の舞である。尊位神に対しては、具体的表現すること自体を控える趣旨があり、表象されると神の尊貴さがなくなると考えたのである。尊位神の姿を直接見せる代わりに、降臨するカミミチという装置が考案されたのである。
現在、神がかりという現象はほとんど見られなくなった。それは明治時代に出された神職演舞禁止令や神がかり禁止令による影響が多いと思われるが、わずかながら神がかりの名を残している。祭儀を行なう根本的な目的は、人間の能力では及ばないことを神に願いたてることにほかならない。神霊の意向をうかがうもっとも具体的方法は神がかりという方法であろう。祭儀には善神、悪神関係なく、さまざまな神霊が登場する。祭儀の目的によって祀られる主神も異なる。神が祭儀に登場して見せかけるというシステムには、祭儀における神の職能や高低によって異なる。神がかり・託宣は祭儀において、もっとも重視
される重大な役割を果たしている。多種多様な神霊のなかでも、神がかりという方法で表象される神は、祭儀の目的にもっとも相応しい、しかももっとも中心的な存在である。
イタコの口寄せは仏降ろしの口寄せが中心になっている。すなわち、口寄せを神がかりの一種として考える場合、死者の霊を呼び出し、託宣(口寄せ)を得るのが目的である。依頼者がもっとも願いたがる託宣(口寄せ)の主体は、依頼者と深い関わりを持つ親近者の霊である。すなわち、明確に特定された存在である。
集団的な儀礼でイザイホウにおいては、神がかりの主体である神が個人儀礼のように明確ではない。いかなる神であったかはっきりしない。イザイホウにおける神がかりは特定の神というより、神がかり自体が重要な意味を持つと思われる。七つ橋という装置は日常世界と異なる非日常的な空間を醸し出すために必要な装置である。
修験道の神がかりにおいても、個人儀礼である「引座」では託宣の内容などで、特定の神霊であることが示されているが、集団祭儀である護法祭りでは走り回る護法実の行動によって、祭り参加した集団全体に神の存在を確認させる装置にほかならない。
神楽の神がかりにおいても蛇綱、天蓋、布舞など、カミミチともいえる具体的な装置が重要な機能を果たしている。すなわち、見えない存在である神霊が降臨する装置を通してより具体的に表象する必要があったと思われる。その装置の一つがカミミチである。
東北のイタコの口寄せ(死口)や、修験者の「引座」などは個人的な儀礼であるので、具体的に明確な存在が神がかりの対象になる。一方、護法祭や神楽などの共同祭の場合、多種多様な神霊が祭りの対象にはなるが、神がかりになると、当行事のもっとも中心的な神がその対象になる。神がかりは対象になる神霊が尊位の神でもあり、特殊な緊張感があるので、厳格なタブーとともに厳かに行なわれるが常である。滑稽や物まねなど、笑いが伴う芸能とは程遠いという事実も確かである。 
第四章 葬送儀礼における芸能の諸相
日韓両国の神観念を探る方法として、また神楽の鎮魂の問題と絡んでいる神格化の前段階ともいえる死霊と関わる芸能について言及する。鎮魂の概念をより明らかにするつもりで葬送儀礼とそれと関わる芸能をとりあげた。韓国の巫俗儀礼、特に死霊祭を中心に神々の顕現方式を捉え、さらに神楽と葬送儀礼の関連性を用いられる小道具をとおして述べた。
不安定な死霊を安定した霊界に送る儀式が葬送儀礼であると思われる。葬式が終わった後でも、三年忌、七年忌、一三年忌などのように安定装置を用意するのである。その安定装置の効果を高めるために、さまざまな行事を行ない、芸能が披露されるのである。死霊も神霊も人間と同じく、人間が楽しむ歌や舞を好むと考えられたからであろう。
死霊に対して行なわれる神楽を葬式神楽と霊祭神楽に仮に分けて整理してみた。死後三年、五年など年忌に行なわれる霊祭神楽はいうまでもなく、死の直後、即ち、埋葬の前に行なわれる葬式神楽にも、死者を再生させようとする神楽は殆ど見られない。死霊に様々な供物や芸能をもって和らげ鎮魂させるとこに主な目的があったと思われる。葬送儀礼における芸能の機能を考えると、葬儀そのものは勿論、それに添える芸能(神楽など)の機能もはっきり見えてくると思われる。 
第五章 神の表象―カミミチを中心に―
神の顕現方式のなかで、特に神が外から訪れる神の降臨がいかに具体的に表象されているかを人類学的用語である境界の概念を持ち出して、「演じる」というシステムを境界として捉え、祭場で見られるカミミチの境界性について述べた。第三章でカミミチの形を幾つかの例を取り上げてみてきたが、見えない神霊の存在を感知するためには神霊の顕現を示す仕組みが必要になってくる。神霊が降臨するカミミチによって間接的に神霊の存在を認識したのである。カミミチは神霊そのものではなく、顕現の過程に相当する。神面を付けることを神への変身として捉えた場合、カミミチは仮面を付ける過程に相当する。カミミチは神霊の仮面を付ける過程を見せる仕組みと同一な発想に違いない。
能において翁面を観客が見ている舞台の上でつけること以外にも、境界的、二重的構造は日本芸能に於いて甚だ多い。仮面劇の登場人物は仮面を被って登場するのが一般的であるが、能の場合同じ舞台に仮面を被った役者と直面で登場する役者が同時に登場することも両世界の境界的な領域をみせる一つの例である。歌舞伎に於いても役者が派手な化粧や衣装をつけて花道から登場すると、客席から叫び声が飛ぶ。その叫び声は役柄の名前ではなく、役者の屋号である。則ち観客は役柄を観るのではなく、役者を観ていることになる。歌舞伎の内容よりは役者が如何に役柄を見せてくれるかに関心を高めているのである。文楽で出語りといって、語り手が顔を見せること、そして、人形の主遣いが顔を観客に見せることも境界がいかに重要視されてきたかを垣間見ることができる。このような発想は劇の世界と日常の世界を同時にみせる、またはその境界領域を見せるところに要点が置かれている。変身というのはさまざまの形で行なわれるが、その変身の結果よりは変身の過程をみせるところに日本芸能の本領がある。道行のみならず、神事芸能に見られるカミミチは「どっちつかず」の境界的な領域で、不安定な緊張感が生じる。「演じる」という変身のシステム、則ち役者の身体と役柄の身体との境界領域を観せることによって、西洋のリアルリズムの演技とは異なる日本演劇の独特な緊張感をもたらす演技になってきたのではないだろうか。カミミチは神霊の顕現を見せる装置でありながら、日本演劇において「演じる」というシステムから境界性を見出すことができる。 
第六章 殺される神考―三番叟の思想的背景を探る―
能の翁三番叟のなかで、特に民俗的な広がりを見せてくれる三番叟の一側面を述べる。鈴を持って激しい舞を披露するところから巫女の面影を見ることができる。多少大胆な発想であるが、三番叟に纏わる様々な側面の中で幾つかを整理してみる。
第一、農耕儀礼的要素を田植、田の神と山の神などが直接には関係ないにしても、なんらかの形で三番叟という芸能を生み、育ててきたことである。第二、三番叟は勿論、農耕儀礼には神の死、特に女神の死の思想が潜んでいることである。死は豊饒をもたらす契機になる。ハイヌヴェレ神話群と呼ばれる死体化成型説話は『記紀』の倉稲魂命や保食命の神話にも見られる。
関東一帯の神楽(里神楽)に黒尉面の三番叟面を保食命と名づけているのは単なる偶然ではないだろう。第三、三番叟にまつわる醜いイメージである。白の翁に比べて三番叟は黒であり、今日の左右均衡の三番叟面に定まる前には滑稽的な歪んだ仮面が多い。歪んだ仮面は神がかりした瞬間の表情を表すという。神がかりする巫女の性格がうかがわれる。また、醜いというイメージのなかでは、身体障害者として一生を送った人々の死霊、精霊の属性がある。正式的に迎えられた尊い神とは違って、祭りの最後について来た招かれない精霊のイメージである。その精霊達が自ら訪れて祭り場で遊ぶのである。厳格な神事とはほど遠い、笑いを伴う遊び戯れる精霊こそ、祭儀に芸能が芽生える契機になる。精霊を遊ばせることは一種の鎮魂作法でもあったと思われる。以上のような側面を持った三番叟だからこそ、翁に比して歌舞伎や人形浄瑠璃、民俗芸能で贔屓を受けたに違いないだろう。 
第七章 尻振り舞考
具体的に表象される神霊の姿を「尻振り舞」という芸態をとりあげた。「尻振り舞」は民俗芸能の現場でそのような名称があるのではなく、尻を振る所作が見られる舞をさす。「尻振り舞」が見られる民俗芸能として、まず韓国の仮面戯の最終場で登場するミヤル(姥)の所作があげられる。日本では新野雪祭りの「神婆」、佐渡の「つぶろさし」、岩手県宮古の黒森神楽の「三番叟」などがある。それ程多くはない。「尻振り舞」は尻を振る卑猥な動作と考え、精緻な報告の中でも、省いたり漏れたりする場合が多かったと思われる。むしろこのようなささやかな所作こそ、薄れつつも途絶えることなく続けられてきたのではなかろうか。
韓国の仮面戯のミヤル(姥)の場面が単純に零落れた人間とその社会を描いた社会劇として扱われてきたものが、「尻振り舞」という芸態を通して日本のそれと比較してみると、鎮魂という信仰と深く結びついていることが新たに見えてくる。さらに、韓国仮面戯の起源と歴史についても考え直さなければならない。両国の尻振り舞がどのような過程を辿って今日に至ったのか。まだ報告されてない、または報告から抜かれた可能性も排除できない現時点で両国の「尻振り舞」を直接結びつけるのは危うい。しかし、歴史的、文化的隣接する両国の民俗事象を考え合わせた上で、共時的、通時的に比較研究することによって、両国の民俗芸能において新たな事実が明らかになることが期待される。 
第八章 舞う神と舞わぬ神
日本の霜月神楽と韓国の巫俗儀礼の二元的な構造を検討し、神がかりに登場する尊位神よりは、悪霊、精霊、デモンなど、いわゆる招かれぬ神がむしろ、芸能の中心的な存在であることを指摘した。即ち、祭儀の主な対象になる尊位的な神は具体的に表現されない傾向がある反面、その眷属神、職能神など下級神は仮面や寸劇などを通して具体的に表象される傾向が見られる。三信遠地方の霜月神楽である遠山祭りと坂部冬祭りの神霊は、祭り前半部の湯立ての対象である神々と、後半部の仮面(面形)の霊に分類することが出来る。前者は「舞わぬ神」、後者は「舞う神」である。そのような構造は韓国の巫俗儀礼も同様である。前半部の尊位神に対する神事と、後半部は神霊が自ら登場して遊ぶという、所謂祭儀と芸能の二元性を見ることができる。 
第九章 舞う者と舞わせる者―韓国の巫俗儀礼の男巫(ファレンイ)を中心に―
尊貴な神々は神がかりやそれに準じる方式で厳かに行われるが、それは主に、専門的な宗教者(神主、巫女)などによって執行される。一方、眷属神、下級神、または招かれぬ神々は、主神に比べて非専門職の役目になる。祭儀の主神は神がかり、または、人間側からの一方的な祈りで、人間の手が届かない所に存在するという傾向と一致している。下級神は人間の世界におりて、人間とのやり取りが行われるなど、人間臭い、人間に親しい存在として登場するのである。特に韓国の法者ともいえる男巫(ファレンイ(花郎)、法師)の個人的なライフストーリーを含めて、実際、巫儀の現場での役割について述べ、祭場における芸能は主に彼らによって行われる傾向を指摘した。 
第十章 モドキと両部制
日本芸能の原理とも言われるモドキ論についてのべた。日本の民俗芸能に見られる対照的な両部体制を、主役とモドキの構造と対比検討した。民俗芸能で見られるモドキを真似するモドキ、道化役としてのモドキ、ワキとしてのモドキに分け、その諸相を概観し、韓国の巫俗儀礼に見られるモドキ的な要素と比較検討してみた。モドキは日本芸能に限らず、より普遍性を獲得する可能性が予測される。
祭儀を分かりやすく再解釈するモドキの役割を、滑稽な笑いを伴う道化役が、規範(本物:シテ)の高貴性に対して狂言風のワキが担ってきた。祭儀において最も肝心な部分はシテに任せて、それを批判したり、新たに解説したりするワキとしてのモドキは舞う者(シテ)に対する舞わせる者(ワキ)として捉えることができる。最後には新野雪祭りや、西浦田楽などに見られるモドキを舞楽の番舞体制と対比させ、民俗芸能に見られる対立的な両部体制は民俗的な左右の優劣の思想とともに、番舞との相互影響可能性について問題提起した。 
4 結論
日本の神霊は山の神、田の神、雷神、雨神、風神などの自然の神をはじめ、家には家の神、台所には竈の神、または三宝荒神、道には道祖神、歴史的な人物が神化された人格神、など、人間の生活に関わる様々な神霊が存在する。韓国の場合も水の神(竜神)、山神、雷神、雨神、風神などの自然神、林慶業、崔蛍、などの歴史的な人物が神格化された人格神がおり、殆ど日本の神霊の分類と変わらない。そのように様々な神霊の世界にも位の高低があって、尊い神がある反面、そうでもない霊が存在する。善の神は神として、悪の神は神ではなく悪霊として扱われているのも周知のとおりである。両国の神霊はキリスト教の絶対的な能力を持つ全知全能の唯一神ではない。「八百万の神」、「八万八千の神」というように多神的な神観を示している。神霊の世界においても霊力の高低があり、尊い神と低い神が存在し、その扱いもさまざまである。それが多種多様な祭りの方法が生んだ原因になるのである。その意味で祭りは極めて文化的であり、信仰や思想の鏡とも言えるだろう。
民俗芸能を行為の主催によって分類することができる。人間の立場で神に奉納する人間側の芸と、神霊の立場で神霊の行為として行なわれる芸に分けられる。
神霊を類型化してみると、神がかりする神と、舞う神とは対照的である。即ち、神がかりする神は、本祭の中心的な存在であるが、舞う神は主神の従属された職能神や眷属神、または、祭りに招かれぬ神、すなわち、精霊たちである。それは日本の神楽においても、韓国のグッにおいても同じ現象が見られる。
神がかりが行なわれる神は祭儀において中心的な神霊たちであり、尊い存在である。しかし、その一方、仮面が登場して、具体的に神の行動を見せるのは中心的な神霊ではなく、周辺的な神霊であり、神霊の世界の中で低級な神霊たちである。それには神事と芸能という大きな枠組と関わっている。
また、神霊によって、祭る担い手が異なる傾向が見られる。韓国の別神グッにおいて、神がかりする尊い神は巫儀に主な担い手である巫女によって行なわれるが、鎮めるべき存在などにおいては巫女というよりは、巫女の補助者でもある助巫、または法師たちである。別神グッではファレンイ(ヤンズンとも)と称される男巫である。
尊位神に対しては神がかりとともに、人間側から一方的な拝み、舞(芸能)を奉納することになるが、眷属神や職能神は自ら登場して人間側に働きかけるのである。さらに、怨念を持った死霊や、招かれぬ精霊達はただ追い払われるのではなく、精霊たち自らが登場して遊ぶことによって鎮魂されるのである。以上のような基本的な民俗的な思想を背景にして祭りの場に様々な芸能が披露されたと思われる。神霊が自ら遊ぶという思想が具体的に表象されるところで、祭儀と芸能のアンバランス的な造語である民俗芸能の姿を捉えることができる。「舞う神、舞わぬ神」の「舞う」と「舞う者と舞わせる者」の「舞う」は釣り合わない矛盾性がある。その矛盾性こそ民俗芸能の本質があるのではないだろうか。
 
尻振り舞

民俗芸能は身体表現として、他の芸能と同じょうに時空間的な制限という性格により、行なわれた瞬間に消え去る。しかし、民俗芸能が身体表現のもつ這性という属性をもっているにも拘らず、長らく伝承され続けてきたのは信仰が伴っていることに深く関わっているからであろう。民俗芸能の名目で行なわれている身体的表現は時間無き空間、或いは空間の時間化とも言える特性を持っている。
過去の芸能の資料が残っているとしても、細かい芸管で記されているのは稀少である。映像記録の手段がかなり進んだ今日においても、芸能を完壁に記録するということはある柔では最初から無理かも知れない。同時多発的に行なわれる身体表現としての芸能を、いかに記録するかの技術にも関わるが、その制限を認めざるをえない。
本稿では日本の民俗芸能の中で、尻を振るという芸態がいかなる位置を示しているかを考えて見たい。これまでの民俗芸能の調査報告は相当な量に及び、細かい所まで精緻に報告されているが、尻を振るという所作まで記録されている例はあまり見かけない。民俗芸能の中で類感呪術として性的なものは広く見ることも可能であり、研究対象として取り扱われている(注1)が、尻(腰)を振るというささやかな所作はそれほど多くはないようである。尻を振る芸態の蓑を探りつつ、その嘉で三番叟の関連性を考えてみたい。
三番叟のモドキである(注2)と指摘したのは折口信夫である。折口学派の一人として知られている池田弥三郎は三蔓の読みがサンバンソウではなく、サンバソウであることに注目して、民俗芸能のサンバ、カンパなどから、サンバソウもそのなごりではなかろうかと疑問を持ちつつそれらとの関連性を暗示している。さらに、葦五流能の五番辛構成がモドキの原理によって成り立っているという。即ち、箕の根本曲といわれる式三番から脇能物が、そして脇能から修羅能に、さらに三菅物(撃能)、四番目物(女物狂い能)、五番目物(切能)が各々モドキの原理によって派生したという。もしその原理が籍するなら、箕の中でも最も重要な曲とされる嘗物、女物狂物、所謂女物が生される元がなければならない。即ち根本曲とされる「式三番」に女物の元になる要素がなければならない。それが「翁」の三番叟であるのではないか、三番叟には本来女性的な要素があったのではないかと暗示している(注3)。勿論五番立と分類される全ての能が翁のモドキによって派生されたということに対しては疑問があるが、式三番に女性的な要素があっても不思議ではない。本田安次(注4)は「対面の翁」の例を民俗芸能のなかから幅広く取り上げて、その源流を舞楽の「二の舞」にあるのではないかと言う。金両基は「白い神と黒い神」という論稿で、翁と三番叟の仮面の色に着目して、韓国の仮面戯に登場する白面の爺と黒面の姥との関連性を言及、さらにシベリアシャーマンの白神、黒神に其の源流を探っている(注5)。本稿は三番叟に女性的な要素があるのではないかという先学の教示を念頭に置きつつ、三番叟と類似性が窺われる韓国の仮面戯の一演目であるミヤル(姥)と比較検討しながら、尻を振るという所作に焦点をあてて考えてみたい。乏しい資料と浅いフィールドワークを頼りにしつつ、一つの試論として提案したい次第である。ここで一つ付け加えたいのは、「尻振り舞」というのは民俗芸能の現場でそのような名称があるのではなく、尻を振る動作が見られる舞、または踊りを本稿で便宜上「尻振り舞」と命名していることを断っておく。 
韓国仮面戯の尻振り舞
韓国の仮面戯の最後に爺と姥が登場する場面がある。その姥の舞に尻振り舞が見られる。仮面戯は全国に広く分布しているが、大体二つの系統に大別される。一つは山台系統の仮面戯で三つの地域に分布している。現在はソウル地域で活動しているが、朝鮮戦争の時南の方に移った人たちによって伝承されている海西仮面戯(朝鮮半島の西北部)、ソウルを中心に山台仮面戯、そして、東南地域(嶺南地域)で五広大(オゴアンデエ)、野遊(ヤリユウ、デゥルノルム)がそれである。もう一つの系統は部落祭とともに行なわれる城隕祭仮面戯である。仮面戯は地域によって差はあるが、その内容は概ね大同小異である。そのなかで仮面戯の終盤に「ミヤル姥」或いは「ミヤル姥」(注6)と呼ばれる姥が登場する場面がある。
姥の場面もほかの演目と同様、内容上地域的大きな差はない。地域によって、ある部分がなかったり、或いは特定の部分が強調されたりする程度である。尻振り舞について言及する前に姥場面の概要を述べることにする。
舞台は広場があれば十分で、特別な舞台装置はない。舞手と嚇子方の仕度が撃つと楽器を鳴らしながら町を練り歩く。見物人たちは行列の後尾について演者と一緒にまわる。指定された広場に到着し、集まった見物人達が公演の舞台になる広場を取り囲むと本公演が始まる。用いる仮面や、供え物を供えて神様に告げる神事(告祀)から始め、舞台を清める払いの舞(上佐舞)、破戒僧やその小僧の戯れ、両班(貴族)を諷刺する場面、庶民の生活像を描いた幾つかの演目があって、最後に姥爺の場面になる。姥は最後に死んで、巫女により葬儀(或いは野辺送り)が行なわれる。
ここでは少し趣が異なる「駕山五広大」を紹介する。即ち、他の地域の仮面戯では必ず姥が死ぬことになっているが、「駕山五広大」の場合は姥の旦那(ヨンガム‥爺)が死ぬことになっている。「駕山五広大」だけが姥ではなく爺が死ぬことになっている理由については諸説があるが、その一説に姥の巫女説がある。その他に爺が死ぬことになっているのは東海岸一帯で行なわれる巫現たちによる別神グッの仮面戯である。別神グッの仮面戯は男巫が別神グッの最後に素朴な仮面を被って、集まった雑神を遊ばせる場面である。そこには爺が死ぬと巫女の霊験力で爺を再生させることになっている。「駕山五広大」の爺姥場面も別神グッ仮面戯の変形であるともいわれる。
「駕山五広大」は慶尚南道油川郡紐洞面駕山里に伝承されている仮面戯である。五広大(オクアンデ)の広大は俳優、仮面、巫女、巫親、侃儲子などの意味があるが、一般的には芸人の差別的な名称として使われている。五広大は朝鮮半島南東部地域に伝承られている仮面戯の通称でもある。五広大の玉は五つの仮面、五つの演目、または五人の登場人物などから由来していると思われるが、陰陽五行説の五行に因んだ名称であろう。
「駕山五広大」(注7)は毎年小正月(旧正月一五日)に村の安全祈願として行なわれる。「駕山五広大」の関連説話が口伝されている。それによれば、川に箱が流れてくるのをある村人がそれを拾い、蓋を開けてみると、箱の中に五広大(仮面戯)の台本が入っていた。その当時、都(漠陽‥ソウル)から配流されていた両班(貴族)にその台本を見せた。その人は都で仮面戯を見たことがあったので、その台本を読んで仮面戯を村人に教えた。それがこの地域の仮面戯の始まりであるという。仮面の箱が流されてきたものを拾って仮面戯が始まったという伝説は他の地域にもある。仮面と洪水伝説との関わりを思わせる。
全体の構成演目は五方神将舞、ヨンノ(獅子)舞、ムンデゥンイ(ハンセン病患者)の場面、両班場面、破戒僧場面、姥爺場面の順に行なわれるが、各場面は独立している。登場人物は合わせて二五名であるが、仮面は兼用する場合があるので二〇個が用いられている。ここでは姥爺場面を全体の流れに沿ってその概要を記す。
@姥が杖をもってお尻を左右に振りつつ登場する。息子であるマダンソイが後について姥のお尻を掴むやいなやふざけたりしながら登場する。二人は広場(舞台)を一回りして適当な所に座る。
A年寄のため息をだし、煙草を吸う。尿を出したいからお廓を持ってこいというと息子は楽器である鉦を持ってくる。裳を捲って鉦の上に跨って尿をしようとすると息子が裳の下を覗く。姥が息子を諌める。息子は姥の陰部をみて裳の下に子犬が付いているとふざける。姥は子犬ではなく、お前が出た穴だという。尿が入った鉦(実際は水が入っている)を息子に渡すと、息子はお廊(尿)の旬をかいで牛の尿の匂いがすると言い、それを見物席に振り撒く。
Bオン生員(草履商人)登場‥近所に住んでいる草履商人が登場して姥に近づく。息子がどこかへ行なったかと尋ねながら姥のお尻を触ったりして戯れる。姥が拒むと草履代を支払えと口実を出す。息子が登場して姥と商人のやりとりの中に入って妨害する。この前の市の日に草履を二足持ってきたがお金が足りなくて帳付して沓を買ったので、その代金を貰いにきたと姥は息子に弁明する。姥は息子に糸撚り車を持ってこいという。息子は糸撚り車を持ってきて姥に渡して退場。
C草履商人は再び草履代金の話を口実に姥を誘惑する。姥はお尻(売春)で草履代金を支払ったという。
D二人が戯れる間、息子が出てきて邪魔する。塾(書堂)に行って来るといって出かける。
E息子が出かけたのを確認した商人は露骨に姥に近付く。
F息子がまた出て来て塾(書堂)に行ってきたといい、塾で学んだことを自慢気に姥に話すが、真面目な内容ではなく、面白い遊び言葉をする。見物席には笑いが飛ぶ。姥は息子に銭を渡して息子を外に出掛けさせる。息子が退場すると草履商人と姥は戯れる。
G息子はお腹が痛いと叫びながら登場。姥は医者を呼んでくれと草履商人に頼む。草履商人は姥との行為が順調に行く途中で息子に妨げられたので不満を持ちながら医者を連れてくる。飴玉を食べて喉に詰まったからといって医者(医口塁は針を打って治す。
H医者が退場すると草履商人はまた姥に近づき戯れる。
I旦那と都の遊女が登場して、息子を呼ぶ。都の遊女が姥に挨拶をする。姥は若い遊女を妬んで挨拶さえも拒むが、ようやく挨拶をうける。遊女は息子に似合う年齢である。草履商人は悔しがり、逃げるように退場する。
J旦那と姥の対面‥家が騒がしいので別れようと旦那が言い出す。財産分配で争いになる。旦那は怒って家財を杖でこわす。姥がやめさせるが、旦那は持っている杖で神棚(祖先壷‥神の宿る壷、中には祖先の名前を書いた紙とお米が入っている)を打って砕く。旦那は祖先壷をこわした罰で、祖先神の崇りで倒れて死んでしまう。
Kオン生員登場=先の草履商人と同じオン生員であるが、今度は盲目として鼓を担いで登場。オン生員が占ってみると、お経を唱えないといけないという。丘の向こうに住む盲目のお経師(法師)を呼んでくる。お経師が死んだ旦那の前でお経を唱える。竹の枝(デエザビ‥神憑り役で笹を持ち立てて側で呪文を唱えるとその笹が震える)で旦那の死んだ原因を占う。否定のときは横に揺れ、肯定の場合は縦に揺れる。即ち神託を窺う行為である。旦那の死因が祖先の崇りと判明し、死霊祭(オググッ‥巫の葬儀)を行なうことにする。
L息子が巫女を連れてくる。巫女五人が登場して四人の助巫女が木綿の端を持って引っ張ると主巫女が神龍を木綿の上に載せ行き来しながら黄泉への道を準える。回心歌という仏歌を唱える。皆退場して終る。最後に観衆も皆出て一緒に躍る。(*番号は所作の区分のために便宜的につけくわえた)
以上が駕山仮面戯の大概の粗筋である。場面の設定としては姥の家になっているが、他の仮面戯には旅の途中で仮面戯の見物に来たと設定されている。また姥は好色の人物として登場する。姥が尿をだして見物人に振り撒くということは、ただ笑いを誘う意味のみではなく、愛知県の花祭りなどで道化役が杓子や男根で味噌を見物人の顔に塗り付けることと同じ発想と思われる。
それに塗り付けられると健康に良いとか、風邪に引かないという考え方も同じである。即ち見物人に渡される一種の宝である。姥爺場面は庶民の悲惨な日常生活を強調して描いて、神を祭る巫女の性格が薄くなっているが、本来は神を祭る巫女としてその役割があったに違いない。その例は他の同 一系統の仮面戯を見るとよくわかる。姥が巫女であることは爺(旦那)と嚇子方(杖鼓)の問答のなかで二姥はいつもグッ壷の祭祀)しに出かけた」(鳳山)、「姥は占いに出かけた」などの台詞からも、鈴が付いている杖と扇を持っていることからも巫女の姿であることがわかる。最後には姥と爺の夫婦喧嘩で爺は祖先霊とされる祖先壷(ゾサンダンジ)をこわしてしまう。その崇りで死んでしまう。他地域の仮面戯には爺が死ぬまではいたらないが、祖先嚢をこわして、気絶して倒れる場面はある。祖先嚢は女性の部屋の棚に置いて家の守護神として祭る聾である。祖先嚢を祭るのは主に女性の役目である。祖先聾をさわってはいけないという禁忌を無視して罰にあたった爺に対して、その禁忌を必死に守ろうとする姥の態度からも巫女のなごりがうかがわれる。
姥のもうーつの性格は色好で、性的に開放的で、乱れた性格の持ち主である。「駕山五広大」の場合、草履商人であるオン生員にぉ尻で草履代金を払ったという台詞もあるし、表面的には性的な誘いを断るが、実際は求めているのがわかる。草履商人と姥の間に息子が邪魔になるから、飴玉を買いに出掛けさせるのである。
性的に開放的で乱れた性格の持ち主であるといっても、すぐさま遊女のような忘であるとは言いきれないが、儒教的社会で性には厳しい時代であった朝鮮時代には、一般人には考え難い一面であるに違いない。
姥の仮面が表に示された如く署に白、赤、褐色などの斑点がついてある。鼻や口は曲がったりして歪んでいるのが多い。顔が歪んだのは梅毒患者、或いはアサ風患者だからという口伝(注8)がある。アサ風という病名がいかなる病気かさだかでないが、性病の一種であろう。その真否を確かめることはできないが、性病を遊女の特権(?)の】つとして考えるなら分かるような気もする。あるいは、姥の乱れた性格が歪んだ顔にさせたのかも知れない。しかし性病で姥の顔が歪んだというのは姥の卑猥な生活やその性格により、後から付け加えられた理由で、本来は異常な出生、または身体障害者として生まれた人の死霊を慰める意味の鎮魂祭であったに違いない。身体的障害による差別された人間の死霊、または束縛された人生の恨みを晴らすことなく死んだ霊魂、いわゆる成仏できてない死霊たちが仮面戯の場で自由に遊んだりして、その鬱憤を晴らすのである。
尻を左右に激しく振りながら活発に動く韓国仮面戯の姥の姿から巫女と遊女のおもかげが浮かんでくる。そして、仮面戯の最後には必ず葬送儀礼で終るという構成から考えると、仮面戯は本来鎮魂祭に ほかならない。
その以外、爺姥の演目から、歪んだ黒い顔の姥と白い顔の爺、祭り場に訪れる旅姿などの特徴は日本の祭り場に訪れるマレビトの姿がかさなるのである。もう一つ注目されるのは姥の出で立ちである。それについては後述するが、裳が腰の部分にかかっていて、上着が短いので臍の部分が裸になっているのを覚えて頂きたい。表で示したように姥の舞は他地域の仮面戯にも尻振り舞になっている。韓国仮面戯において姥の尻振り舞が如何なる意味を持っているかを日本の民俗芸能から穿整してみよう。 
「君の舞」の尻振り舞
長野県下伊那郡阿南町新野の正月一四日から一五日にかけて行なわれる祭がある。古くは「田楽祭り」「二善寺のお祭り」「正月御神事」などと呼ばれてきたが折口信夫が「雪祭り」と命名した以来、現在は「雪祭り」の名称をもって呼ばれるようになっている(注9)。新野雪祭りは折口信夫の学問的な源としてよく知られており、それ以来先学によって細かいところまで報告され、研究されている。(注10)詳しいことはそれに譲るが、その中で、祭りの終り頃に「翁」、「松かげ」「ショウジツキリ」、「海道下り」に続いて行なわれる「神婆」という演目に注目して考えてみたい。神婆が庁屋から登場して拝殿の正面まで出る。その際神婆は腰を左右に振りながら少しずつ前に進む。拝殿の正面に着いては腰(尻)を振るのを止めて両腕を前後に振りながら走るような形の舞を舞う。庁屋から拝殿まで数回往来してから、庁屋の前に杖によりつつ座っている爺を手招きする。すると爺は起きて姥の方に走り出る。二人は抱き合って喜ぶ。その時右手には鈴を、左手に小鼓を抱えた若女面を被った者が走り出て、抱き合っている爺と姥のまわりを廻りながら「伊勢国度会郡禰宜の娘神婆舞ったり舞ったり」と唱える。若女面はすぐ走って庁屋に入る。抱き合っていた爺と姥は肩を組んで仲良く嬉しそうな足取りで庁屋に入る。
神婆とは如何なるものなのか。言葉通りいうなら神の婆、もしくは婆の神、即ち婆の姿で顕れる神のことであろう。なぜ婆なのか。「神婆」をほかに「君の舞」とも呼ばれる。神婆、或いは君の舞の主体は誰なのか。「神婆」という演目に登場人物は三人であるが、舞らしい舞は姥面の者しかいない。爺は姥が舞う問庁屋の入口の前で座っている。姥の手招きによってようやく走り出て、姥と抱え口つて喜ぶ所作をする。舞らしい舞という動作はない。若女面を被った者の舞は爺姥が抱き合っているところを走り出て廻る所作のみで、婆面の者に比べれば、君の舞の主体とは言えないと思われる。君の舞というのは登場する三人のなかで誰の舞であろうか。地元の人に聞いてみても「君の舞」が誰の舞か具体的な答えは出てこない。ただ演目としての「神婆」を「君の舞」ともいうのみである。
「君の舞」については後藤敵の論及(注11)がある。それによると、「君の舞」が現在伝承されているのは西浦田楽しかないが、かつては、愛知県北設楽郡東栄町古戸の「君はやし」があり、吉備津神社の「君田楽」の記事、そして、『三会定一記』にみえる「君達田楽」などの「君」も「君の舞」と関係があるという。そのなかで柳田国男の『巫女考』と滝川政次郎の『遊女の歴史』を引用して「君は遊女化された巫女」であるといっている。柳田国男は「キミは遊女の雅名にして、兼ねて又巫女の総称の一つであった」(注12)という。滝川政次郎は「琉球の聞徳大王、熊野の巫女である熊野比丘尼の尼君などは遊君とは区別すべきである」といいつつ、君が遊女或いは巫女をさす用語として用いられたことはみとめている。(注13)もし、君が遊女化された巫女であるというなら、「神婆」に登場する「君」は誰であろうか。即ち、姐面の姥であるか、若女面の者であるかの問題が出てくる。後藤敵は前稿で神婆の演目に出る若い女面をつけた娘を君といっている(注14)。しかし、「神婆」の全体の文脈からは若い女面の娘を「君」であると言い切るのは多少躊躇される部分がある。尻を激しく振る所作が女性の舞で、更に性的な意味合いが含まれていることから考えると、尻振り舞を舞う姥からも遊女の特性がうかがわれるのである。「神婆」で君が誰かは保留しておいて、西浦田楽の「君の舞」の様子を見ることにする。
静岡県磐田郡水窪町の所能にある観音堂に旧暦正旦八日から一九日(平成二年は三月五日から六日)にかけて行なわれる。西浦田楽は地能三三番、はね能二一番(閏年二二番)で構成されているが、「君の舞」は夜中三時頃から約二五分程度かかる。
「君の舞」が始まる前に、細長い腰掛けを出す。花笠を被り、扇を手にし、白上衣を着けた二人(君の舞の子)が出て腰掛けを中心に両側で左回りの舞を舞って、位置を入れ変えて左回りの舞いを舞う三度繰り返してから二人は背中を合わせ腰掛けに腰を掛け坐る。
そこへ「君の舞の親」という者が上衣を頭まですっぽり被って、手には鼓形の物に白紙を包んだもの(シツテリ‥鼓)を持って登場する。腰掛けに坐っている「君の舞の子」のまわりを舞回る。二〇回くらい両側を行き来してから、持っているシツテリと腰掛けに坐っている者の一人の持つ扇を取り替えて、扇を持って一回り舞う。ここで君の親と嚇子方である別当の問答(注15)が行なわれる。問答が終ると、再びシツテリを取り替えて、両側を一〇数回行き来して舞う。腰掛けを取り去り、「君の舞の親」を中心にして三人が立ち舞う。庭を何回か回り舞ってから「君の舞の子」二人は退場する、烏帽子姿の二人がスリササラを持って出て舞う。スリササラを持った二人は「君の舞の親」を中心にして三人が立ち舞う。舞が暫く続いた後、スリササラの二人が退場すると、親一人残って腰を屈伸しながら大振りの舞を舞う。舞が終ると楽堂(楽屋)に向かって礼をしてから退場する。
ここで登場する五人の中で、中心は「君の舞の親」であろう。親は上布を頭まですっぽり被った姿で鼓(シツテリ)を持って派手な振りの舞である。尻を振るという所作はないが、腰を屈伸させたり、腰を屈めたりする動作はある。仮面は被らないので顔からの性別は分からないが、上布を頭にすっぽり被っていることから女性の姿であることは違いないだろう。西浦田楽の「君の舞」の君は「君の舞の親」のことであろう。君の舞の親とは、即ち、白上布を頭からすっぽり被って鼓を持って舞を舞う者である。鼓を持って舞うことから「神婆」の若女面の者に該当すると思われる。後藤敵が新野雪祭りでの君の舞の君が若い娘であるというのも、西浦田楽の「君の舞」で鼓(シツテリ)を採って舞う君の親と同じように、鼓を採って舞うところからの指摘であろう。
新野雪祭りと西浦田楽は同じ系統のものであるといわれている。後藤敵は前稿で古戸の「君はやし」をふくめて、曲名が同じであること、田楽と関係をもっていること、三信遠の国境地帯という同一芸能圏の中で行なわれていること、芸能の内容的に共通したところが多いことなどから相互に関係がある(注16)という。
雪祭りの「神婆」では、姥面の者が中心になっているのに対して、西浦田楽の「君の舞」は「神婆」の若女面の者(娘)に該当する「君の舞の親」が中心になっている違いがある。本来は同系統のものが伝承の過程で変化したと考えられる。いずれにしても、両方とも「君の舞」の主体は年老いた女性であることは変わらない。
姥面の者と若女面の者との二人の関係から考えても、姥には遊女化された巫女の姿をうかがわれるからである。若い女面の者を娘というが、誰の娘なのか。「神婆」の文脈からは何とも言えない。若女面の者の「伊勢国度会郡禰宜の 娘神婆舞ったり舞ったり」という「神婆」の中での唯一の台詞から、神婆が姥面の者にしろ、若女面の者にしろ、度会郡の出身の巫女であることは考えられる。敢えて神婆が実際度会郡の出身ではなくても、伊勢信仰が流行なった時代の背景から伊勢の度会という地名を借りて度会郡の禰宜の娘であるといったかも知れない。「神婆」で姥と爺が抱き合って跳ね回るところで若女面のものが出て、そのまわりを廻る行為が若女の嫉妬の気持ちを顕わすという見方もある。いずれにしても、神に使われる意味での娘、神娘であることだけは間違いないと思われる。
「神婆」の所作は大きく二つ部分で構成されている。庁屋から出て拝殿の正面までの部分と拝殿正面向きになってからの部分である。庁屋から拝殿正面までは添い人が腰を抱えているし、尻振りが激しい舞であるが、拝殿の正面向きになってからは、添い人も手を離し、また握合っていた両手も解いて腰振りというよりは走る動作に変わる。所作からは如何なる意味かは分からないが、画然と動きが異なる。もし、前者を尻振り舞であるとしたら、後者は走り舞とも言える。前者が尻振りで庁屋の前で坐っている爺に向けての舞で、姥の本来の日常的な性格を顕わす「俗の舞」というなら、それに対して、後者は拝殿向きの「聖の舞」とも言えるのではなかろうか。「君」が遊女化された巫女であるという説から考えると、前者は遊女の舞で、後者は巫女の舞とも言えるだろう。「君」という者が持つ両義性を顕わす舞であろう。 
尻振り舞の系譜
姥面の者が尻振りの舞があった後、爺と抱き合う場面になる。確かに性的行為を顕わす所作である。仲藤増造の記録(注17)はもつと露骨で、爺が姥の手招きに走りでて、取り付き、その後変な腰付きをして抱き合ったまま重なってころぶという。腰を捻る、或いは尻を振るという動作は性的行為と関連があることは違いない。腰を振るのが性的な行為をあらわす例としては佐渡で伝えられている「つぶろさし」をあげることができる。「つぶろさし」は大神楽の獅子につく一つの風流である。
「つぶろさし」は新潟県佐渡郡羽茂町寺田の菅原神社と同町村山の草刈神社で行なわれる。そのなかでささやかな動きであるが女面の者が尻を振る動作がうかがわれる。両神社の「つぶろさし」は似ているが、菅原神社のほうは先ず烏帽子に直衣姿で幣を持った男が眠っている獅子の頭に向かって、呪文を唱える。すると、獅子は目を覚まして欠伸をして退く。そこへ笛、太鼓、チヤビラ鉦、拍子木の合奏にのって「つぶろ」という木製の男根を模したものをもって男神と「シヤギリ」という解を持った女神と「ゼl哀鼓」という女神が登場して、男根をさすりながら踊る男神にエロチックな腰つきの女神が絡まる(注19)。草刈神社の方は先ず赤鬼、青鬼がでて鍼と棒を持って踊る。鬼の踊りが済むと、長さ二尺五寸位の「つぶろ」を肩にして男が出てくる。白い脚絆と白足袋、赤い腰巻をした女が解をすりながら登場する。穀は入った姥面を被り、やや腰を曲げている。男は股から「つぶろ」を出してさする。女面の者が折々解をすりながらお尻を軽く振る。男面の者は眉間に太い毅が四、五本ある尉面である。女面はかすかな笑いの中に、喜びを持ち、歯のない姥の顔である。
男根を振りまわす男面と尻を振る女面はたしかに性的な踊りである。「つぶろ」は木製でてっぺんに穴が一つあり、根元に毛が付けられている。「つぶろさし」は一種のマラ振り舞であるが、女性の尻振り舞とセットとなっている。
桑山太市によると、羽茂町の隣村である柏崎ではふっくら円いものを「饅頭」といい、壷をツブと発音している。その壷と饅頭は隠語として陰門を顕わす(注21)という。この「つぶろさし」は伎楽の系統のものと言われている。
『教訓抄』伎欒条の島寓、力士の場面によると、二人の女が舞を舞っているところに畠寓が扇を持って出て卑猥なマラフリ舞を舞うと、力士が登場して、良禽のマラ(マラタカ)に縄を付けて引き、そのマラを打ち折り舞う。もし「つぶろさし」が伎楽と同じ系統と認めるなら、『教訓抄』には記されてないが、二人女が舞う舞に尻を振る動作があったかも知れない。尻を振るというのは一種の性的な行為と関連があり、性的な行為は稲作文化のなかで豊穣祈願の類感呪術として、田遊び、田植蹄などの中で見られる性的な振りの芸能と脈を一つにしていると思われる。例えば、岩手県紫波郡見前村の田植蹄の中にヒョツトコ面を被った一八という道化が一人出て、苗代打の真似をしながら、太鼓打ち方と問答する。そして最後に尻振桐式(注23)の踊りを踊って入る。尻振踊式が如何なる動作かは確認していないからさだかではないが、性的行為、又は性的行為を誘う動作であると思われる。
その意味で、東京板橋区の諏訪神社、北野神社の「田遊び」で行なわれるヤスメと太郎爺の抱き合い場面、奈良明日香の「御田祭」の種付け式、茨城県新治郡島村中度の鹿島神社で行なわれる「へイサンボウ」なども豊穣を顕わすカマケワザの一種であるといわれる。
今日は尻を振り所作は見られないが、かつてはあったかもしれない。 
三番叟の尻振り舞
尻振り舞が翁三番叟に見られるのは岩手県宮古の黒森神楽の三番叟である。黒森神楽の三番叟は他の地域の三番叟とは異なり、独立した演目としてではなく、「三番叟神楽」と呼ばれる演目の中で出てくる。黒森神楽については、本田安次と神田より子の報告がある。
「黒森神楽の三番叟は、一般に尻坂の三番、根ぶり三番、或はイドオミ三番などと呼ばれている。これは足拍子を踏み、お尻を振りつつ舞う故である。大抵が叙烏帽子に黒尉面、千早、袴の仕度で出る」
尻振りの三番は三番叟の所作に尻振り動作があるからつけられた名称であろう。根ぶり三番の根も女性の陰部のこと、あるいは男根のことであろう。疑問になるのはイドオミ三番のイドオミである。イドオミが如何なる意味なのかは定かでないが。イドあるいはオイドのことではなかろうか。方言俗語語源辞典によると、イドがお尻、又は穴(陰門)であることがわかる。
イドーオイド。@尻。しり。岡山、広島、島根、香川、徳島、愛媛、大分、A肛門香川県伊吹島、山口県豊浦郡、対馬、考】高知、大分県西国東郡で穴を、大分、四国、兵庫県飾磨郡家島、東北地方で洞穴をウドというのと、このイトとは同源の語で、イドの原義は穴、それから肛門、尻の穴、尻と転義したのであろう。
なぜ三番叟が尻振り舞を舞うようになったのだろうか。黒森神楽の三番叟が岩戸開きの役をするということは記紀の天鈿女命の役を果たすことになる三番叟が岩戸開きの天鈿女命の役を担うようになったのは、三番叟に巫女としての面影があるからではなかろうか。そして、三番叟の面は醜い顔をしている。三番叟に関わる説話(注27)にも醜い存在として登場する。現在五流能の三番叟面は左右対称で、形としては翁面とあまり変わらないように整っているが、古面とされる三番叟面には顔の形が歪んだり、口許が片方に吊り上がったり、鼻が曲がったりするものが多い。例えば昭和五五年京都国立博物館における展覧会の図録(注28)によると、岐阜県久瀬村小津白山神社の三番叟面、福井県今庄町宇津尾八幡神社の三番叟、京都の個人蔵の三番叟面は歪んだ顔になっている三番叟とは名づけてないが岩手県中尊寺の姥面も鼻が右方に曲がり、口も歪んでいる。この面も歪んだ三番叟面と類似性が指摘されている。
三番叟の詞章のなかでも、翁に比べて三番叟は背も小さく、色も黒であることを語っている。岩手県の早池峰神楽(岳・大償)の場合、三番叟と胴前(太鼓方)の問答の形式で行なわれる。(三番叟の分は幕内(楽屋)の別の人が語る。)
楽屋:イヨウヨ、以前に参らせる翁と申すは(岳−「参りたる翁と申すは」色も白く背も大きく(岳−「背も大きくおんにんにまします」)、この代を百王百代、千代五万歳はその間(岳−「五万歳がその間」)めいすすとりと踏み鎮めんがための翁なり。(岳−「礼しと と踏み鎮めんが其ためなり」)(舞出で、幕の根に立つ)
楽屋‥イヨウヨ、ただ今参ったる三番太郎と申すは(岳−「参った三番猿王と申すは、」)色も黒く背も小さく、おん身にまします。(岳−「おんにんにまします。」)とくさ色のかるめんとつて(岳 −「十種色の狩衣に」)あいるめんうつたる(岳−「あい打ったる、」)きの面とって顔にあて。(岳−「木の面取て顔にあて給ふ。」)(舞ひ、幕の根に立つ)
他にも、「我等と申すは色黒々、目わるぐ、背はちんと低くけれども」(秋田県仙北郡角館町大字酉長野の番楽の三番叟)(注30)などの詞章がある。背が低く色が黒であることは醜いイメージを示しているといえるだろう。背が低いことから女性的であると断定するのは危うい側面もあるが、背の高い翁とは対になるとは言えるだろう。しかし、なぜ三番叟は背も小さく、鼻や口が歪んだ顔をしなければならないのかという疑問は残る。
黒森神楽の「三番叟」がほかに「イドオミ三番」とも呼ばれるというが、そのイドオミとは異なるが「イド」という演目が翁系統のものがある。住吉神社の「翁舞」がそれである。
兵庫県加東郡社町上鴨川住吉神社の翁舞は一〇月四日・五日の宮座行事にともなう芸能のひとつとして演じられる。宮座行事の中の芸能は王の舞(リヨンサン)・獅子・田楽躍・高足・翁舞・相撲などがある。翁舞はその中の一つで、イド、寓歳楽、六ぶん、翁、宝物、冠者、父尉の演目で構成されている。イドは一種の露払いといわれている。しかし、露払い役をなぜ「イド」というかについては説明されていない。住吉神社のイドが祭りの前後で文脈から考えて露払いの役であるとしても、なぜイドというのだろうか。このイドが黒森神楽の三番叟が別称であるイドオミと何らかの関係があるのではなかろうか。しかし、住吉神社の翁舞のイドでは尻を振るという所作は見当たらない。
翁三番叟に尻振り舞が窺われるのは、上に述べた黒森神楽の三番叟の外には管見にはない。資料として信憑性が薄いが、敢えて挙げるなら、戸板康二が『能』の「松と老人と」という記事で腰振り舞に触れているところである。三番叟ではなく翁が尻振りの舞を舞ったという。
「前に折口信夫先生のお伴をして、埼玉県浦和の在でみた「翁」には、腰を異様に振る奇妙で卑猥な印象が残っている。翁が「白尉」、三番叟が「黒尉」であり、三番叟こそ卑猥な動作を演じさうなものであるが、ごく素朴な考え方からいふと、本体の神が恰も「生殖」といふ行為を身を以って示すことの方により多く「力」を感じたのであたらう」
しかし、埼玉県浦和の在で見たという「翁」が何処の何を見たのか確認できない。埼玉県浦和には現在「翁三番叟」が行なわれるところがないからである。もしかすると、昭和二五年頃にあったものがその後、滅びたか、或いは、ある芸能集団が訪れて浦和のところで「翁三番叟」を披露したのをみたかのどちらかであろう。いずれにせよ、翁三番叟に尻振り(腰振り)舞があったことは違いない。乏しい資料で結論というものを出せないが、尻振り舞は遊女化された巫女の舞であり、性的な意味が含まれていること、そして、その主体が女性であることは言えると思う。 
尻振り舞の出で立ち
韓国仮面戯の姥の出立ちについては前述したが、姥はスカートと短い1着を着て腰と臍まる出した姿である。現在は姥の役を女性が担う場合が多いが、本来は男性が務めたのである。
衣裳をわざとそのように短い物にしたかはよく分からない。女性の役を男性がつとめるから、女性の衣服が男性の体に合わなくて、腰の部分が裸になったとも言えるかも知れない。しかし、衣裳の大きさの問題ではないことは確かである。腰をまる出しているのは姥の他に陽州別山台仮面劇と松坂山台窓劇の倭将女である。倭将女は「遊女(エサダン)の法鼓遊び」で登場する老妓で、遊女と墨僧の間の仲介(遣り手婆、香車)役をする。墨僧からお金を貰って遊女を墨僧に紹介するのである。倭将女も姥の如くまるまる腰の部分を露出している。倭将女は当て字で体が大きく、恥を知らない女性で、爵後期に商業の発達と共に市場が盛んになり、市場に遊郭が出来、その遊郭の売春の仲介役として朝鮮時代後期に仮面戯に加えた人物であるという説もあるが、その出立ちから考えるとその歴史は更に遡れるのではないかと思われる。それに該当するものが日本の祭りに見られるからである。愛知県北設楽郡東栄町古戸の花祭り(正月二日・三日)の終り頃「おちりはり」というのがある。ヒノ、葺と神子、翁に続いて「おちりはり」が行なわれる。「おちりはり」は飯粒が付いた杓子(しゃもじ)と味噌を塗った摺古木(すりごき)を各々手にした鼻垂らしと潮吹が登場して見物人に飯粒と味噌を塗り付ける。それからオカメ面をつけた親子が登場する。姥の役は太って腹が出た人が務めるのが慣わしであるようである。姥は辛み女で衰脱いで裸になっている。背中には草履をぶら下げ、布に包んだ荷物をかけた旅姿である。手には娘と同じく扇と鈴を持って頭には手拭を被っている。四人は二人ずつペアになって舞を舞う。同所の 古戸田楽に「宮ならし」という次第に潮吹面と女郎面を被った二人が背中合わせで尻の辺で結い中腰で五方を舞うのがある。韓国仮面戯の爺姥の場面と古戸の「おちりはり」は舞や形は変わってもその内面に流れている思想はまったく一致しているのである。
倭将女のいでたちが姥のそれとよく似ている。頭に大きな髪飾り(緩り束ねた髪を丸めたもの)を頭につける。倭将女が仮面戯のなかでは遣り手姥の役として登場するが、倭将女が若かった頃は遊女であって、歳をとって遊女を引退してから遣り手姥、即ち遊女を取り締まる人物、紹介役になったのではないかとも想定できる。倭将女の仮面は姥場面で娘(ドキヌイ=斧姉)にも用いられる。倭将女の面が兼用されるのである。姥場面での娘は好色な人物で、何回も結婚したが、夫が逃げてしまい、独身の身になっている。姥が死んでから呼ばれて登場する。娘は姥の葬儀壷の祭祀)を担う巫女の役をはたすのである(「楊州別山台ノリ」)。
爺姥の娘が倭将女の面を兼用することからも、そしてその面を被った娘が巫女の役割をするところからも、倭将女は巫女、又は遊女の面影が見られるのである。ともかく、臍或いは腰の部分を裸に出して登場することは卑猥な性的行為と関連性がうかがわれる。姥はその出で立ちからみて確かに巫女の姿である。そして性的行為を好んでいる人物として登場する。前述した神婆の二重的な性格に似ている。姥の出で立ち、即ち、上衣が短くて、裳を尻にかけているような姿は、彼女の激しい尻振り舞によって胸が見える程である。かつては仮面戯のすべての役を男性が務めたが、現行では女性が多く加わっている。姥の役も女性が務
める場合が多くなっていると前述したが、姥の役を女性が担っている現行では、腰の裸代わりに肌色の下着をなかに着るようになっている。鈴と杖、又は扇を手にして、頭には大きな髪飾りを被っている姥の姿は、まるで『古事記』、日本書紀に登場するアメノウズメノミコトの姿を彷彿させるのである。天照大神が速須佐之男の横暴に天の岩屋に篭ったとき天細女命(天宇受売命)が神懸り為て、胸乳を掛き出で裳緒を香登に忍し垂れき。爾に高天の原動みて、八百寓の神が大笑いしたということである。
日本書紀では天鈿女命の採り物には古事記と変わりがないが、胸乳を出して、裳紐をホトまで垂らしたという表現はない。しかし、古事記の天鈿女命の姿と同じ描写が日本童晃には天孫降臨のところで、天の八衛にいた猿田彦を和らげて道案内させたところの天 鈿女命の姿が見える。
芸わむなちあらはも官ほそしもおしたあざわらむた天細女、乃ち其の胸乳を露にかきいでて、裳帯を臍の下に抑れて、咲嘘ひて向きて立つ。
西郷信綱(注33)は天鈿女命の胸を出して、裳紐を垂らして陰部をあらわすのは神がかりして、激しい動きにより自然に垂れたのではないという。即ち、陰部を顕わしたのは単に自然発生のふるまいではないこともほぼ確実であると言う。天釦女命の出した女陰、そしてそれによって生された笑いには邪魔除去する呪力(注34)があると信じたのだろう。『古語拾遺』にはアメノウズメノミコトの事跡が猿女君の奉仕する鎮魂祭の起源であるとする。上記したように韓国仮面戯に登場する姥が巫女の性格や、笑いを誘う動作、など、それから仮面戯の最後として鎮魂祭であることからもアメノウズメノミコトと姥(ミヤル準との類似性を見出すことができると思われる。天の岩戸の前で俳優(わざおぎ)したアメノウズメノミコトの動作に尻振り舞があっても不思議ではなかろう。 
結び
今まで、尻振り舞というささやかな所作に焦点をあてて、漠然としながら述べてみた。「尻振り舞」は尻を振る卑猥な動作と考え、精緻な報告の中でも、省いたり漏れたりする場合が多かったと思われる。むしろこのようなささやかな所作こそ、薄れつつも途絶えることなく続けられてきたのではなかろうか。民俗芸能に登場する様々な翁三番叟は猿楽能の式三番との同一の系統ものもあり、または現行の五流能とは別の系統のものが入り混じっているものも想定できるので、一律的にはいえない。しかし翁三番叟の様々な要素のなかで「対面の翁」の系統の一つとして韓国仮面戯の姥(ミヤル 姥)の場面を取り上げることは可能であろう。
民俗芸能においては翁よりは三番叟が受け入れられる傾向がある。三番叟が持っている軽快性、道化的な、笑いを誘う庶民的な要素があったからではなかろうか。
三番叟は能の式三番の一つ演目として、そして、民俗芸能の式舞として、相当な研究がなされているが、未だに解決されてない謎が多いのも事実である。冒頭に述べたように民俗芸能は時間の空間化、時間の重なりによって成立していることから考えると、韓国の仮面戯の一演目であるミヤル姥場面との関連性も想定できないことでもない。勿論、そのミヤル姥場面から一つの手がかりは成りうるとしても、裏付ける根拠になる資料が見当たらない現時点で、直接結び付けるのは問題点が多い。徹底的に分析しなければならない課題である。
両国の異なる歴史的、文化的背景で育てられた芸能からそれほど類似性が見られるのは偶然とは思えない。両国の文化を共時的、通時的に見ることによって、今まで謎にされてきた各々要素を比較することによって新たな事実が現れるのではなかろうか。
韓国の仮面戯のミヤル(姥)の場面が単純に零落れた人間とその社会を描いた社会劇として研究されてきたものが、日本の芸能と比較することによって、鎮魂という信仰と深く結びついているのがわかる。それから韓国仮面戯の起源と歴史についても考え直さなければならない。両国の尻振り舞がどのような過程を辿って今日に至ったのか。類似している両国民の性向が各地で別々に生まれてきたか疑問は益々増える。直接的関連があったとはいえないものの、比較することによって両国の芸能研究に新たな側面が見えてくるのは言えるだろう。本稿では芸能の現場から芸態の比較という視点で述べたが、憶測である面が多いと思いながらも、諸賢のご指導を賜りたく、一つの試論として提示したのである。 
 
現代舞踊の始まり / 川上貞奴

1
日本における西洋舞踊の歴史を調べていくと、奇妙な事に気付かされる。記録に残っていない時代は別にして、初期の西洋舞踊(註1)がオペラやオペレッタに必要な技術として日本で成長をとげて来た事は周知の事実であろう。
それが関東大震災以降のムーラン・ルージュやカジノ・フォーリーあるいは宝塚・松竹両歌劇団が隆盛を極める昭和ともなると、オペレッタのみならず風刺的寸劇(バーレスク)やレビューやボードヴィルの要素も含み、舞踊史ともオペラ史とも演劇史ともつかぬ、芸能全般を俯瞰(ふかん)した視点からでないと、その全体像はつかみがたい。つまり当時の軽演劇の喜劇俳優であるボードヴィリアンは、俳優のみならず歌手であり寄席芸人であり、その多くはダンサーでもあった。
また大正期の歌舞伎の舞踊技術には、ロシア・バレエの影響が見られるし、同時代の藤蔭静枝(初代)や花柳寿美などの、いわゆる新舞踊には、ロシア・バレエのみならず未来派・ダダイズム・構成派、そしてモダン・ダンスの影響が色濃く表れる。これを日本舞踊つまり邦舞の特異例とのみ片付けるわけにはいくまい。
それだけならまだよい。大正中期の浅草オペラ全盛期ともなると、俳優個々の前歴が古くは壮士(そうし)芝居に始まり、新劇・新国劇・新派・曽我廼家(そがのや)劇(現在の松竹新喜劇の前身)・小芝居(こしばい 註2)等を次々と経ている場合が大多数なのである。この他に、当時の人気が松井須磨子をも凌(しの)いだ《魔術の女王》松旭斎(しょうきょくさい)天勝一座を加えてもよい。それぞれが俳優の個人史的関係で結ばれているのみならず、現在考えられがちな接触の無い別ジャンルのものではなく、時には商売敵やライバルでありながら、親しい交流もあったのである。たとえば天勝一座のダンス指導は高田雅夫(高田せい子の夫)であったし、浅草芸能人のボスであった曽我廼家五九郎の一座には歌劇部があった。また五九郎の師匠の曽我廼家五郎はヨーロッパ外遊の際に、同行した愛妾をパブロワのダンス・スクールに留学させて帰国している。そう考えると新喜劇の世界にも、オペラやダンスの流行があったとしか思えない。天勝の『サロメ』を演技指導したのは小山内薫であるし、その小山内が常連であった日本で最初のカフェー『プランタン』に女王然としていたのが、まだ新橋の文学芸者であった頃の初代藤蔭静枝である。小山内は常連で親友の吉井勇と語らい、文学の先輩であり同じく常連客の永井荷風をたきつける一方、藤蔭の方へも煽(あお)りを入れて、まんまと二人を結びつけ、後に荷風は親の意向でもらった妻と離縁して藤蔭と夫婦になる。永井荷風は米・仏で本場のオペラをあびるほど観てきた明治時代きってのオペラ通・洋楽通であり、荷風の終生の夢は彼の地で観たオペラを日本で、しかも自分の手で作りあげる事であった。
ここで小山内の家系についても触れておこう。妹の岡田八千代は黒田清輝の片腕であった洋画家の岡田三郎助夫人。この八千代が長谷川時雨(しぐれ 劇作家。夫は『雪之丞変化(ゆきのうじょうへんげ)』の作者三上於菟吉(おときち))とともに主宰したのが雑誌『女人芸術』であり、大正末から昭和初期のフェミニズムの牙城となる。この『女人芸術』のサロンには女流文学者のみならず、日本オペラ界の最高のプリマであった原信子(帝劇歌劇部の音楽教師。石井漠・伊藤道郎(みちお)・高田雅夫・高田せい子も彼女の弟子。特に高田せい子は妹のように可愛がられ雅夫が亡くなるまで原せい子を名のる。)も常連であった。
長谷川時雨は大正元年に六世尾上菊五郎と舞踊研究会を始め、大正三年小山内をゲストにスライド映写によるロシア・バレエの紹介『露西亜舞踊講話』を開催。この時雨の『歌舞伎草子』(大正三年)を改題再演したのが藤蔭の新舞踊作品『出雲の阿国』(大正六年)であった。小山内薫・八千代の兄妹の従弟が洋画家の藤田嗣治(つぐじ)。嗣治の長姉の息子がダンスや洋楽の評論家であった葦原英了(あしはらえいりょう)。この三人は同じ家に同居した時代もある親しい血縁者であり、英了は二人の叔父と小父(おじ、英了の表記に従う)に溺愛されて、その影響下で育つ。
以上のべて来た事は、日本の西洋舞踊史の周辺のささいな問題かも知れない。しかし舞踊史だけの研究では観えて来ない謎の解答も、こうした迂回を経る事で全体像がはっきりと見えて来る可能性がある。まだまだ語るべき事は多く、今回の概略的にのべたエピソードも、舞踊史を解きあかす手がかりの氷山の一角にすぎない。次回は日本で最初の女流ダンサー(ダンサー傍点)であった川上貞奴について──あたりから始めよう。
 
註1 この場合、鹿鳴館などでの娯楽やコミュニケーションのための社交ダンスではなく、観客を前提とした芸術表現の舞踊。
註2 自前の劇場を持つ大歌舞伎(おおかぶき)に対して、大多数の劇場を持たない歌舞伎や大衆演劇を演目とする一座の総称。つまり現在の梅沢富美男などの一座も、もとをただせば小芝居の歌舞伎であった。 
2
ここに一冊の書物がある。外題(げだい)を角書き(つのがき)に『異国遍路』と田の字型に四文字刻んで、本題を『旅藝人始末書』と記されている。著者は別府亀の井ホテルの経営者で宮岡謙二という人である。当初『異国遍歴死面列伝』として昭和二十九年に私家版が少部数刊行され、昭和三十四年に修道社より公刊されたこの本は、幕末から大正末年に至る、有名無名を問わない旅芸人を中心とした日本人の海外渡航列伝である。後に中公文庫に収められ、現代では手軽に読むことが可能になった。好事家の書物にありがちな資料の杜撰(ずさん)さや偏屈さは見られず、アカデミズムがとうてい及ばぬ造詣の深さと、現在では誰も書けなくなった軽妙にして洒楽(しゃらく)な戯作文に裏打ちされた、痛快きわまりない日本人列伝である。海外渡航に関する三千巻にものぼる書物からの知識の集積であるが、それだけに終らず痛切な庶民論や日本と東洋・西洋の関係を深く考察した卓抜な日本人論にも成っている。この手の本としてはおそらく空前絶後のもので、私には神か悪魔でもなければこれほどの本は著せないとすら思われる編年記である。登場する曲芸団つまり現在のサーカスの芸人達、手妻使いつまり手品師、相撲取りなどのスポーツマン、主として邦楽を中心とする音楽家達、講談・浪花節語りなどの寄席芸人、大道芸などを含めた雑芸人、そして万国博などのコンパニオンとして派遣されるの多かった芸者達……。
場合によっては、それらが渾然一体となって海を渡っているのだ。そのサワリを少し引用すると、<慶応二年の秋、西へ向けて日本を出たもの、すなわち異国を遍路する旅芸人の先頭を切ったのは、アメリカのベンコツに年千両、二年の拘束で買われた独楽(こま)廻し、軽業師、手品師などの男女十四名である。そのなかに、「曲独楽」の十三代松井源水と女房、娘、「自動人形」の隅田川浪五郎、女房の小まん、浪七、「浮かれ蝶」の手品をやる柳川蝶十郎(本名は青木治三郎、初代一蝶斎の弟で二十歳)蝶吉のほか、山本亀吉、同小滝、太郎吉、矢奈川嘉七の名が拾える。八っつと七つの少年もまじる。その道中双六(すごろく)の上りは、もちろんパリの万国博だ。ところが、おもしろいことには、この旅芸人の一行は、幕府がはじめてイギリスに送った留学生十四名──中村敬輔、外山正一、菊地大麓、林薫たち──と、おなじ人数が、しかもおなじ船で、でかけている。あとでは、わすれはてられる旅芸人と、明治文化史に大きくクローズ・アップされる留学生が、下等上等船室の区別こそあれ、たまたま乗合船でいっしょにゆられながら、ヨーロッパに渡っている。これは、まことに奇縁である。《中略》 松井源水は、まずお手のものの「曲独楽」をあれこれと十一種も用意してきている。ヒモとともに目方が七貫二百匁もあるという三尺五寸の大コマを、かるがるとまわす。フィナーレには、そのコマが、まんなかから二つにわれて、娘のおつねがキモノ姿でキョトンととびだす。隅田川浪五郎の連中は、唐子、三番叟などのカラクリ人形を十ばかり、器用にうごかして東洋のエキゾチズムをただよわす。手品の蝶十郎は「バタフライ・トリック」でつくりものの蝶を自由自在に、空中であやつったあげく、最後にほんものの蝶を舞わす。「天地八声蒸籠」では、底抜けの箱から、いろんなもの、とくに、西洋人にはめずらしいウルシ塗りの椀や、タケ細工のかごなどを、それからそれへととりだす。見物はでて来る不思議さより、でてきたものに骨董としての価値をたたえ、目をみひらく、といった具合である。」
──少し解説を加えるならば、柳川蝶十郎の「浮かれ蝶」の「バタフライ・トリック」というのは、最近は誰もやらなくなったものだが、私の幼時の記憶によれば、舞台上で薄紙を指先で千切り取るか紙切り細工で瞬時に蝶をしつらえ、扇子の風でまさに本物のように飛ばせるという、かなりポピュラーな伝統芸である。佳境に至ると扇子ふたつで五六匹の蝶を舞わせていたと思うが、明治期にはもっと凄い名人が居た事だろう。ラストには紙細工が本物の蝶になって消え去るというトリックがあった筈だ。風に舞う紙が蝶に変わるというとオカルトじみてくるが、あるいは途中で本物の蝶にすりかえるか、冬眠させた凍蝶(いてちょう)を使って、風で舞わせた後で眠りを覚醒させたのかも知れない。いずれにせよ、見事な技芸であった。  話をもとに戻すと、幕末以来多くの日本人が海を渡った。大半は西洋文明移入のための政府高官や役人あるいは留学生であったが、その中でも特異なものに旅芸人がおり、大正末期までの六十年間には膨大な人数となる。その多くは目的地で好評のばあい当初の計画より長旅となり、渡航先での滞在数年のものも少なくない。ほとんどが無名の人々だが、その中で後世に名を残すほどのスパースターが天勝と貞奴であった。天勝については章を改めて記すので、まずは貞奴である。 
3
無鉄砲にも程がある──という言葉に従うならば、程度をわきまえないケタはずれの無鉄砲は川上音二郎と女房の貞奴であった。やりくり算段の結果、猿や熊や狸まで居る小動物園を併置した洋風建築の川上座を建てたまではよいが、高利貸しに追われるのみならず、座員は給金が低額のための不満から大半が離れてしまう。川上座を抵当にまたしても金を借り入れ国会議員に立候補して起死回生をはかるが、これも落選。せっかく手に入れた川上座ばかりか新居の洋館までも差押さえられてしまった。ここまでなら特別の話ではない。問題はここからだ。門下達の劇団との合同公演の失敗もあって捨鉢になった音二郎は、貞奴をともない商船学校から払下げの十三尺(四メートル)の短艇(ボート)『日本丸』に乗って、あろう事か、海外脱出を成そうとする。音二郎は海外渡航経験が無いわけではないから、正気の沙汰とは思えない。
面舵(おもかじ)と取舵(とりかじ)の区別もつかないズブの素人の、しかも行先も決めてもいない旅である。明治三十一年九月十日に築地河岸から漕ぎ出したまではよいが、外海に出てからは荒海にもまれ、おりから二百十日の強風もあって小船は膝までの浸水。死を覚悟したあたりで、軍艦『富士』の灯を港と錯覚して横須賀軍港に迷い込み一難を逃れた。軍港部長の説諭(せつゆ)のかいも有らばこそ、猪突猛進(ちょとつもうしん)の二人は密かに『日本丸』に乗り込んで港を脱出。やっと辿り着いた先は伊豆の下田港。音二郎は豆と打撲傷で血だらけの満身創痍、貞奴は腰が抜けた上に差込み襲われる有様。九月十五日の『時事新報』は紙面に、<一葉の扁舟に棹して/川上音二郎米国へ押渡る算段/狂気か暴か判断つかず>──と見出しを掲げ、なかば呆(あき)れ口調で二人の粋狂を論じている。
それでも二人はその後も航海を続けて、天竜川の河原に打上げられたり、アシカの群に転覆させられそうになったりしながらも、船が神戸港に辿り着いたのは翌年の一月二日。着くや否(いな)や音二郎は大量の吐血をして病院に担(かつ)ぎこまれてしまった。暴挙としか言いようの無い海外脱出計画が、あわや水泡に帰するかと思われたやさき、療養先に国際興行師の櫛引弓人(くしびきゆみんど)から米国巡業の話が持ち込まれる……。
音二郎・貞奴の伝記を読んでいると、強烈な個性のブツカリ合いのせいも有るのだけれど、絶えずハラハラ・ドキドキの連続で飽きる事がない。急転直下に天と地が入れ替わるジェットコースターなみの人生遍歴である。しかも双六で遊ぶかのように屈託が無く、欧米へのコンプレックスがほとんど感じられず、どんな悲惨な状況でも、妙に陽気で賑やかでドライである。これは天勝・天一のコンビにも共通する芸人独自の気質と言えようか。抱月・須磨子とは正反対である。
それはさておき、明治期において巡業を含め四度も欧米を視察し、本場仕込みの海外演劇の息吹を最も直接に大衆に伝達したのは、壮士芝居の開祖である川上音二郎をもって嚆矢(こうし)とする。坪内逍遥をはじめほとんどすべての演劇人は本場の舞台を観た事もなく、洋書だけをたよりに沙翁(シェイクスピア)を論じオペラを語り、演劇改革をいまだ画策していた時代の事である。
旧劇(歌舞伎)に対する新劇(現代演劇)の父でありながら音二郎への歴史的評価は、キワ物めいた山師的側面ばかりが強調されがちであった。音二郎の演劇改革については後で記すとして、出たとこ勝負の腹芸と強運、眼から鼻に抜けるような頭の回転の良さ、わけても貞奴というジャジャ馬を乗りこなす名伯楽(はくらく)ぶりは音二郎一流のものだが、海外での成功の大半はゲイシャ貞奴のアイドル性に負う所が大きい。各国王族・大統領・舞台人・芸術家等々をむこうにまわして国賓なみの歓待と賞賛を受け「ヤッコ・ドレス」まで発売されるまでのブームともなると、単なるジャポニズムだけの興味とは言いがたい。
海外には<女優>があるのに川上一座に女形しか居ない事を指摘された音二郎は、事のなりゆきから嫌がる女房の貞奴を説き伏せて女優に仕立てあげる。こうして冗談のように海外の地で近代日本演劇史の女優第一号が誕生するのだ。寛永六(一六二九)年将軍家光時代、風紀を乱すとして女舞(おんなまい)・女歌舞伎が禁圧されて二百七十年間、日本演劇に登場する女性はすべて女形が演じてきた──とされるのがアカデミズムの演劇史の定説である(歴史書にはほとんど記されていない貞奴以前の明治期の女歌舞伎については後に別項で記す)。
日本での貞奴の初舞台はそれから二年後、明治三十六年の明治座公演のシェイクスピアの翻案劇『オセロ』である。ゆくりなくも女優になってしまった貞奴は、明治四十四年音二郎の死とその後七年ばかりの引退興行(大正六年明治座公演『アイーダ』)まで、女優業にいそしむ事となる。 
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川上貞奴は日本橋両替町で書籍商と両替商を兼業し、町役人もつとめる小山久次郎・タカ夫妻の十二番目の子として、明治四年七月十八日に生まれた。本名は貞である(以下しばらく「貞」と記す)。貞は七歳の時に家が没落したために、口減(くちべらし)として日本橋住吉町で芸者置屋『浜田屋』を経営する浜田可免(かめ)の養女になった。可免は二十九から後家を通して来たしっかり者で、置屋の女主(おんなあるじ)になる前は亀吉という強情とお侠(きゃん)でならした木遣(きゃり)のうまい芳町(よしまち)芸者であった。貞は養女としての期待もあって、幼時からあらゆる稽古事を厳しく仕込まれ、十二歳で雛妓(おしゃく 半玉)に出て子奴(こやっこ)、十六歳で一本立ちとなって奴(やっこ)を名乗った。
ここで断っておかなければならないのは、貞は芸者であって遊女ではない。生家の家庭事情で置屋の養女になったとは言いながら、また、生家に幾ばくかの金銭が支払われた事は確かだと思われながらも、借金のカタとして売買され、返金が終わるまでの年季奉公(ねんきぼうこう)をしているわけではない。芸者にも売淫(ばいいん)は付物だが、遊郭の花魁(おいらん)を含めた娼妓(しょうぎ)(註1)のように廓(くるわ 土や石のかこい)の中に幽閉されている《性の奴隷》ではない。あくまで芸が建前(たてまえ)であり、仕事さえ熟(こな)されておれば自由のきく立場で、一般人と何ら変わりない《芸者》という職業にすぎない。わけても芳町の「奴」という名前は新橋の「ぽんた」とならんで、花柳界(芸者の世界)でもキワメツケの芸者にしか与えられない名跡(みょうせき)である。初代の奴は、論客であった福地桜痴(ふくちおうち)(註2)に愛されたが、結核のために早逝(そうせい)している。名妓(めいぎ)の名はヤスヤスと後継者には継がせないのが花柳界の慣習(しきたり)だった。その名を襲名するに当たっては名跡を恥ずかしめぬ容貌と芸の技量の他に、しかるべき後盾(うしろだて)を必要とした。そのため養母の可免は、贔屓筋(ひいきすじ)の政財界の御歴々(ごれきれき)の中から時の総理伊藤博文を選び出す。
当時は現代と違い、政財界人の色事に関するゴシップは新聞を賑(にぎわ)す日常茶飯の記事(スクープされるほどの事件ではない)であり、御用新聞ではない赤新聞(註3)の政治批判の好餌(こうじ)ではあったが、それは現在のように秘密を暴露するスキャンダルではなく、週刊誌の芸能記事のように、いたって公然のものであった。わけても当時の伊藤博文は北里柴三郎と並んで、花柳界の漁色家の代表であった。この二人ともに相手の容貌には一切無頓着の質より量の豪傑で、芸者を総揚げしたら、順ぐりにブルドーザーなみの総浚(そうざら)いで、まだ生娘(きむすめ)の半玉(はんぎょく)などは蒲団部屋に隠れなければならないような乱痴気騒ぎの常習犯であったというから、今風に言えば少し困った明るい助平親父(すけべおやじ)であったわけである。むろん、これらの事はとりたてて新聞種にもならないし、伊藤側でも隠そうとしない、誰もが巷(ちまた)の噂で公然と知っている、当時の普通の政治家らしい不行状(ふぎょうじょう)であった。明治という時代は、酒乱のイキオイで理由なしに妻を斬殺してしまった黒田清隆(註4)くらいでないと《事件》にならないような、いたってルーズな時代であったのだ。政治家は政治面は別として私事に関しては、芸能人と同じようにプライバシーの存在しない、毀誉褒貶さまざまな人気稼業であった。
こうして雛妓であった子奴は水あげ(註5)された伊藤を後盾として奴となり、わがままいっぱいの芳町芸者として育っていく。その自由奔放さは留まる事を知らず、馬車屋から馬を借りて乗り廻す、役者狂いはする(註6)、玉突き・花札賭博(とばく)はアタリマエ。隅田川で女だてらに「水泳ぎ」までする御転婆(おてんば)ぶり。しかも当時は日本製の水着など存在せず、白昼堂々と裸に晒(さらし)を巻いたような姿(なり)で貞奴は平気だが、周囲はあわてざるをえない。伊藤はなかば面白がっていたのだろうが、「下ばきに、長袖つきのワンピースを組み合わせたような、舶来物の水着」を買い与え、欧米渡りのハイカラな避暑法であり健康法として有閑階級で流行のきざしが見えてきた海水浴を貞奴に提案し、別荘のあった大磯の濤竜館に連れて行く事が多くなった。韓国統監を決めるような、国家の一大事の決議の席にも芸者をはべらせるのが当時の通だったようだから、これは批難するほどでもないかも知れないが、大日本帝国憲法草案作成のおり(明治二十年夏)にも、伊藤は神奈川県夏島の別荘に貞奴をともなっている。

註1 売淫を公許された公娼(こうしょう)。無許可のモグリは私娼(ししょう)であり、「娼妓」とも「遊女」とも呼ばない。一般に後者は「売笑婦」と呼ばれた。公娼の廓(くるわ)のある地域を赤線、私娼窟のある地域を青線と呼んだのは、この時代より光年の事である。
註2 本名は源一郎。明治初期から末期にかけての小説家・劇作家・ジャーナリスト。衆院議員など肩書き多数。十五歳より蘭学を学び江戸へ出て英学を修得。幕府に出仕して通訳・翻訳に従事。明治元年佐幕派(さばくは)の新聞『江湖(こうこ)新聞』発刊。新政府から逮捕されて発禁。三年に渋澤栄一の紹介で伊藤博文に会い意気投合。伊藤の渡米に随行。四年の岩倉具視の米欧巡遊にも書記官として参加。七年東京新聞主筆となり自由民権派批判の筆をふるう。御用新聞という悪評の反面、社説は好評。十五年立憲帝政党を組織。以降の政財界活動は省略。二十二年歌舞伎改良を提唱し歌舞伎座を建築し座主となる。九代目団十郎と意気投合し、改良史劇を続々発表。明治三十九年没。
註3 マルクス主義とは直接の関係はない。新聞購読料を低廉(ていれん)にするために、各新聞が競って安価販売合戦を繰り返した結果、だんだん紙質が悪くなり紙面の地色(ぢいろ)が赤かったのが名前の由来。日本の探偵小説の開祖のひとりである黒岩涙香(るいこう)(※)が社主であった萬朝報(まんちょうほう)(ヨロズ重宝のシャレ)などが代表的。通称「マンチョー」の主筆は涙香であったが、涙香の他に多くの論説を執筆したのは幸徳秋水である。
 ※ 明治を代表するジャーナリスト。本名は周六。「まむしの周六」と呼ばれるほど、その筆鋒は鋭く、政財界から恐れられた。『噫無情(ああむじょう)』『巌窟王』を代表作として、『死美人』『白髪鬼』『幽霊塔』などの翻案探偵小説、SF小説の魁(さきがけ)である『暗黒星』などの他、『天人論』『小野小町論』など著作多数。都々逸(どどいつ)や連珠(れんじゅ)(五目ならべ)の大衆普及にも貢献した。音二郎の選挙落選を「河原者のぶんざいで‥‥」と涙香がクサしたため、逆上した音二郎がピストルで涙香を暗殺しようとつけ狙った事件もあったが、伊藤博文の金庫番の金子堅太郎男爵(音二郎・貞奴の仲人)の説諭で事なきを得ている。
註4 戊辰・西南戦争の官軍参謀。北海道・樺太の開拓長官を経て、農相・逓相・首相・枢密院議長を歴任。黒田を含めて、井上馨・井上毅・西園寺公望や若き日の牧野伸顕なども貞奴の贔屓客であった。
註5 花柳界の伝統で《処女》を売買する経済制度。買手は多額の水あげ料を支払い、多くの場合、いわゆる芸者の旦那(だんな)になる。
註6 芸者はパトロンの独占ではないから、貞奴の場合も伊藤の体面を損ねないかぎり、かなり寛大に見られた。中村芝翫(しかん)(後の歌右衛門)、尾上栄三郎(後の梅幸)や横綱小錦などと、浮名を流す。 
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貞奴の御乱交には実のところ理由があった。気位の高いワガママはもとよりだが、少々捨鉢気味に見えるのには、ある経緯(いきさつ)が有ったのだ。
貞奴がまだ半玉の頃、成田詣での帰途、野犬の群れに襲われ、騎乗した馬から振落とされそうになった事があった。それを救ってくれたのが慶應義塾の学生・岩崎桃介(ももすけ)であった。この桃介に貞奴は商売ぬきでゾッコンになってしまう。ところがこの桃介、貞奴を憎からず思っていた事は確かだが、遊びはともあれ芸者を女房にしようという気はさらさらない。
埼玉県荒子村で農業と荒物商を営む家に明治元年生まれた桃介は、将来、大実業家になることを夢見ていた。頭脳明晰・容姿端麗・加うるに実用を重んじ、他の塾生を違って常に洋服を着用していた桃介は、当時の最も進歩的で合理的な学生であった。これは師である福沢諭吉の影響もあるのだが、ある面、非情で功利的あることを意味する。桃介の考えからすれば当然に、妻帯するにあたっても、自身の将来的地位をオトシメぬ然るべき処から‥‥という思いがあった。博文をはじめとする明治の元勲(げんくん)の多くのように、芸者を女房にする時代ではないと考えていた。幸いというべきか、桃介の策謀も有ったのだか、塾長の諭吉の娘ふさ子が桃介に夢中になった。そして暫くジラした後で桃介は、当然のように養子縁組をし、結婚を前提として諭吉を後盾にアメリカ留学をしてしまう。
渡米した桃介は福沢家の財産を浪費して、女性関係も華やかに遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)。その噂も諭吉の耳に入るが、御乱交を隠そうとしない婿養子の度胸に、かえって新時代人の頼もしさを感じたのが実情のようだ。門閥(もんばつ)を持たないがための功利的な理由で福沢桃介になったにしても、その功利主義は諭吉直伝のものであった。一般の父親のように娘への溺愛から状況判断を誤る諭吉ではなかった。また桃介も、遊びは派手であったが福沢家の体面を損なうような男ではなく、万事落度(そつ)無く熟(こな)した。帰国後は諭吉の紹介で北海道炭礦鉄道会社に就職。結婚したふさ子を伴って札幌に就任。その後の桃介は結核などによる人生の浮沈さまざまあれど、さすがに諭吉が見込んだ男だけあって、自力で結核すらも克服。知力と胆力をモトデに明治の戦勝景気の波に乗り、日本屈指の相場師に成り上がる。王子製紙の重役をはじめ数々の要職についたが、特に電力界の雄として斯界(しかい)に君臨する大実業家になった。ついでながら、その膨大な事業のホンの一端が帝国劇場の経営であり、帝劇会長であった事もあった。
話をもとに戻そう。桃介に袖にされた貞奴は役者狂いも激しくなるばかり。パトロンの博文にしても、貞奴が〈浮気〉の間は大目に見ても居られるのだが、桃介の場合は〈本気〉であり、しかも貞奴が蔑(ないがし)ろにされたこともあっては、後盾としての沽券(こけん)にかかわる事であった。しかも相手は社会的地位もない二十(はたち)にも満たない学生であり、断りの理由が、芸者を妻には出来ぬ──とあっては、芸者を妻にしている博文にとって面白くある筈もなかった。  また私見ではあるが、明治十四年の国会開設に関する政変以降には博文と袂(たもと)を分かった大隈重信一派の参謀と目されたために、博文が政府新聞を、当初予定だった諭吉に任せなかった事情から考えても、桃介に対する博文の思いには、義父である諭吉の裏切りに対する反感も二重になっていたと考えられる。また、かなり込み入った話だが、この政変時に博文一派であった福地桜痴が自由民権派に担ぎ上げられて、民権派の旗手にされてされてしまい、中途で人気絶頂にもかかわらず博文の意向から慌てて矛(ほこ)を納め、もとより反意は無かったために博文の同調者(シンパ)に舞戻る経緯があるのだが、この桜痴の諭吉に対するライバル意識が、少なからず貞奴の一件に関しても影響を与えていると私には考えられる。  貞奴が音二郎と出会ったのは『明治を駆けぬけた女たち』(中村彰彦編著)によれば、失恋の痛手から芝居通いが始まり、貞奴が音二郎を見染めた事になっている。また杉本苑子の小説『マダム貞奴』では、大川で水泳中に溺れかかった貞奴を音二郎が救い出す、きわめて魅力的なトップシーンから幕を開ける。しかし杉本苑子・渡辺淳一対談によれば、この場面は創作であるという。つまり『旅芸人始末書』をはじめ類書にあたっても、二人の初対面が何時何処(いつどこ)であったか記されていないのである。
ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。
私の憶測によれば、貞奴を中に挟んだ桃介と音二郎の一件は、政党以来対立する伊藤を大隈、幕末以来ライバル関係にある福地と福沢の、プライドを懸けた代理戦争であったと思われる。文久元年(一八六一年)遣欧使節で同行以来、福地源一郎(桜痴)と福沢諭吉の二人は翻記官や通訳官として、明治五年頃までに洋行三四回の日本屈指の西洋通であった。その先鞭は万延元年(一八六○年)の威臨丸で渡米の諭吉が一年はやいが、回数なら桜痴が勝る。共に幕臣であり、階級としては七歳下の桜痴の方が上であった。明治十一年に桜痴東京府会議長時代、副議長を辞退したのは諭吉である。しかも諭吉の自伝や著作には、接触の多かったはずの桜痴の名が、タダの一度も登場しない。明らかに眼の上のコブであったのだ。洋行以来の芝居通であった桜痴が演劇改良会を起こすのが明治十九年。諭吉年譜には二十年の項目に、〈新富座で初の芝居見物〉──とあるのは、ただの偶然とは思えない。明治二十二年桜痴は歌舞伎座創設。対するに諭吉の養子桃介は、後年帝劇会長に納まっている。桜痴・諭吉ともに没後であるが、欧化主義者で脱亜論者の諭吉の面目を、実業家の養子である桃介は、こうした形で果たしたのである。 
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芝居通いをするうちに、いつしか音二郎一座の楽屋にも出入りするようになった貞奴は、ある夜音二郎をともなって向島にある大倉喜八郎の別邸に行き、三日間籠(こも)って相互の気持を確認。以下、中村彰彦の著作に従えば、「奴は養母・可免に音二郎と結婚する、と告げた。可免は伊藤の承諾を得た上で、その秘書官・金子堅太郎に晩酌の労を取ってもらった」──という。場所まで明確だから会合の一件は確かだろうが、それ以前に貞奴が楽屋に出入りするほど音二郎と親しかったかどうかは、いずれの評伝においえも推測の域を出ないと私は考えている。
大倉喜八郎は財閥解体までの日本屈指の政商で、後の帝劇創設時の役員でもある。その息子の喜七郎(七に傍点)が日本オペラ界のパトロンになるのは、もう少し後の事。いずれにせよ大倉の別邸は、一般人が通常に軽々しく利用できる所ではない。伊藤博文その他の政治家が、しばしば密談に利用していたような場所である。音二郎と夫婦になる事は、貞奴ひとりの対面を繕(つくろ)う私事というより、博文を巻込み、特に勝気な可免のプライドをかけた、桃介へのシッペ返しであったと考える方が、より正確であろう。この頃の桃介は福沢の後盾がありながらも、まだ頭角をあらわす以前の青二才にすぎない。芸人といえども音二郎は、東京きっての人気者に成っていた。おそらく、音二郎が古くからの(古く〜 傍点)馴染であった──という《物語》を捏造しないかぎり、貞奴はもとより、芳町の置屋の女将としての可免の対面は保てなかったのではないかと、私は考える。そうでなければ会合に、なぜ三日も手間取るのかわからないのである。
以降は音二郎の死に到るまで、桃介の運が向いてくると音二郎が零落し、音二郎が隆盛を極めると桃介の結核が再発する……といった、シーソーゲームのような関係を維持していく。勝気で気位の高い貞奴にしてみれば、心中深くに桃介への未練があるだけに、桃介への対抗意識が後々まで残されるが、音二郎の方のライバル意識は希薄で、人間万事塞翁(さいおう)が馬と慌てず騒がず鷹揚(おうよう)に過ごしている。それがイザ窮地におちいると、無類の勘の良さで方向転換し、明治の荒波を乗越えていく。
川上音二郎は明治元年(一八六四)に博多で生まれた。十三才で出郷後、寺の小僧、慶應義塾の学僕、裁判所給仕、洋傘直し、巡査などの職を転々として、明治十六年頃に帝政党員となる。ところが政談演説で官憲を謗(そし)ったため入獄。その間に帝政党は解散。出獄した音二郎は、あらためて自由党に入党し、滑稽政談を得意とする「演舌つかい」として自由童子を名乗る。またも懲りずに壇上から「官史」を「官ちゃん」呼ばわりする等、官吏侮辱罪その他で検挙される事百七十数回。実刑二十数回におよび、あらゆる政治活動を禁じられてしまう。明治十九年に大阪の監獄を出た時には、桜井典獄の説諭に従い、丸坊主になり自由童子の名を捨てている。当時の人気がどれほどであったかは、後に、浪速小僧・明治浪人自由童子・国洗坊自由童子・自由浪人・自由狂子などの亜流を多数生み出した事からも想像できよう。
さて、これからだ。政治活動を禁じられた音二郎は、一般的に蔑(さげす)まれていた芸人の世界に身を投じ、芸能をカクレミノにして世相の憂さを晴らそうとする。明治二十年京都阪井座で歌舞伎役者の中村駒之介座に加入し『東洋のロビンソン 南洋嫁ケ島』を上演。詳細は不明だが、「川上しきりに弁じ」たらしいから、かなりアジ・プロ色の強い芝居(あるいは政談?)であったろう。これが音二郎の芸人としての初舞台である。つづいて神戸の戎(えびす)座で『改良演劇西洋美談 斎武義士自由の旗揚』を上演し、大当たりをとる。音二郎は政談演説のときと同じく、収益のすべてを白米にかえ、京都でも大阪でも生活に苦しむ人々に分け与えた。この後、明治二十二年には岡山市の常盤座で、朝鮮の改革を図ろうとした大井憲太郎らの大阪事件に取材した『美人一滴の血涙』を上演し、その事件に連座した福田英子の自伝『妾(わらわ)の半生涯』によれば、「此芝居見ざれば、人に非ずとまで思はしめ、場内毎日立錐の余地なき盛況」という有様(註1)。
ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。
さて、音二郎と言えば『オッペケペ』だが、これが登場するのは明治二十二年の京都であるらしい。一種の時局風刺の替歌で、明治二十四年から日清戦争にかけて新作も数多く、後年の東京公演でも大評判であった。他の替歌と区別されて、特別に『川上節』とも呼ばれた『オッペケペ』は、単独での上演は無く、かならず人情噺や演劇のあとに付け加えられたもので、観客をリラックスさせ、芝居や噺の印象を際立たせるための、いわばオマケであった。そのオマケの方で名声を博するあたりが芸能の面白いトコロである。
この頃の音二郎は、人気は鰻登りながらも、いまひとつ腰が座らない。政談・講談・落語・にわか・歌舞伎(註2)の間を転々としている。京都・新京極の笑福亭を本拠に浮世亭○○(まるまる)を名乗り、明治二十三年『時世情談』として『自由艶舌鯉之活作(てまえりょうりこいのいきづくり)』を上演。当時の実在の壮士を主人公に、市民社会の規範や明治青年の心意気を折込み、民主主義の根本理念を語った《話芸》のようである。これが当りに当った。京都市民を沸かせて昼夜の満席状態。席亭は黒字を一万何千円もモウケたというから尋常ではない。現在の一億円以上に相当するであろう。大不況の最中「夷谷(えびすや)座女芝居(註3)と笑福亭川上音二郎一座の落語」だけが大入り(『日出新聞』明治二十三年五月十七日)となり、京都芸人の頂点に音二郎は立った。
次に目指すは関東制覇である。

註1 彼女自身の批評としては、「一見の値ひなきもの」──と記している。
註2 いまだ新劇としても形にならない状態のものだったため、仮に旧劇の歌舞伎に分類しておく。
註3 年代を見てわかるとおり、ほとんどの演劇史で、この時代には女優が居ない事になっている。すべて女形が演じていたというマコトシヤカな説が常識になっている。ところが大衆に愛されて女芝居つまり女歌舞伎が、大威張りで大衆芸能の王座に君臨していたのである。同時代では西洋魔術のみが女歌舞伎と張合った位であるという。ちなみに再説すれば、貞奴の日本での初舞台はこれより十三年後の明治三十六年である。 
7
〜権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
堅い上下(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車、いきな束髪ボンネット。貴女(きじょ)に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポーポー。
米価騰貴の今日に、細民困窮見返らず、目深(まぶか)にかぶった高帽子、金の指輪に金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には米を蔵に積み、同胞兄妹見殺しか、幾ら慈悲なき欲心を、余り非道な薄情な、但し冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使こうて極楽へ、行けるかい、行けないよ。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
ままになるなら自由の水で国の汚れを落したい。オッペケペ、オッペケ。(中略)
散切(ざんぎり)頭に白鉢巻、陣羽織を着て日の丸を片手に、軽快な七五調でリズミカルに弁じたてるのが『オッペケペ』(『オッペケペ節』とも呼ばれた)である。まずはスタンダードを記したが、時局に合わせて作詞が変わるのはモチロン、おそらくその場の状況で、かなりのアドリブも有ったと考えられる。風刺や煽動にとどまらず、ヒョイと観客に突込みを入れるあたりが音二郎の芸人らしさで、話芸ではないが役者が芝居の中で観客にイキナリ語りかける手口は、歌舞伎の口上にも通じる常套手段であった。(註1)
このオノマトペともつかぬ『オッペケペ』には、実は前史があり、笑福亭時代には「ヘラヘラ、ハラハラ」という合の手を、音二郎は巧みに使って大受けしたらしい。当時の芸人のヘラヘラ坊万橘の囃(はやし)言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラへ、オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」──を単純化し、言わば盗作したものだが、当時は著作権というものは存在しなかった。「鼻下長のお利口連は勿論、丁稚に下婢に番頭に旦那に奥さんに僧侶神主まで、ヘラヘラハラハラといいだす様になって、大流行」(『日出新聞』明治十九年四月十六日)──で、それに改作を加え出来たのが『オッペケペ』らしい。
こうした時局風刺の話芸は、元禄期前後(十七世紀末)に心中ものの芝居が流行し、それをもとにした絵草紙を売るのに、筋書きを謡や小唄に節をつけて売り歩いたのや、それと同時期に、世間の出来事などを報じた絵入りの『瓦版』(註2)の売り子が、事件のサワリを唄のように節を付けて売歩き『読売』を呼ばれたのを起源する。香具師(やし)の売り口上などもその発展形態だが、『オッペケペ』以降の、壮士くずれが流行歌の歌詞やアジ・プロ的創作歌曲の歌詞を口演しながら売歩いたのも、その系譜に連なるものである。大正期の演歌師・添田唖蝉坊(あぜんぼう)の『ラッパ節』『ノンキ節』などが、その流れと言ってよい。発達史としては『瓦版』以前からある説教師の説教話芸や、特にそれが通俗化した阿呆陀羅経を唱える願人(がんじん)坊主の祭文(さいもん)・ちょんがれ・浪花節などが混入して展開されたものと考えられ、いずれも芸能と商売と政治宗教思想宣伝(プロパガンダ)が混在した、ジャンルとして規定できない行為をともなった話芸(パフォーマンス)であった。
さて、音二郎一座の関東初見参は、明治二十三年八月横浜蔦座公演『明治二十三年国事犯顛末』と『松田道之名誉裁判』の二本立て。もちろん『オッペケペ』も演じて十五日間満員。『国民新聞』『東京日々』『東京朝日』などが、「書生芝居(註3)・滑稽演劇家川上音二郎大人気」──と、盛況ぶりを報じている。そこを振出しに九月は東京・芝の開盛座・「書生芝居、太鼓を叩きまわる、一行凡そ三十二、三人」(「国民新聞」九月十二日)「芝開盛座、再び停止を喰わば荒事の活劇を覚悟」(同九月二十三日)──と、新聞が過激な記事を掲載。少し注釈を加えれば、前の記事は、公演に際してデモンストレーションとして行った仮装(コス・プレ)によるパレードを報じたもの。当時は相撲巡業の他は《触(ふ)れ太鼓》による到来を告げる公演がなかったため、芝の住民は時ならぬ太鼓の音に、イッセイに大通りに飛び出したらしい。「川上音二郎一座」や「開盛座」などの幟旗(のぼりばた)を押し立て、人力車三十数台に壮士風の一団を連ね、役者名の小旗のはためく中、音二郎は白の毛皮を座席に敷いて、紺のカスリに鳥打帽のイデタチで、自信満々の様子であったという。後の記事は、警視庁の脚本検閲でひともめ有った一件を報じたもの。たとえ《芸能》に名を借りても、政治的主張への官憲の追求はキビしかったのである。
この開盛座でも十日間の大入りを記録。イキオイをかりて浅草文楽座での演説会も立錐の余地が無い有様。徳富蘇峰(そほう)の『国民の友』は、「演説壇上、滑稽を弄して笑を博し、竹刀を振りて興を添ゆ、講釈師? 演説家? 忽ちにして俳優、忽ちにして鳴物入りの演説家、知らず俳優? 演説家?」──と、驚きの色を隠せない。型破りの新人種(パフォーマー)の出現に、それを発火源として壮士の芸人化がワレモワレモと始まった。壮士伊藤仁太郎転じて政治講談師・伊藤痴遊(ちゆう)などがこうして生まれて来る。四年前のナニワの自由童子の復活である。サア、これからだ。

註1 メイエルホリドなどの二十世紀初頭の前衛劇が、おそらく書物からの知識によって、日本の歌舞伎や雑芸から採り入れたのは、西洋演劇の発想にはない、舞台から垂直に伸びた花道や客席からのカケ声などの、演者と観客の壁を取払う、こうした方法論であった。郡司正勝が『演劇の様式』(昭和二六)の中で言うように、西洋の「頭脳の演劇」と違って日本の歌舞伎は「感覚の演劇」であり、漱石の歌舞伎観(※)を踏まえ、新劇の立場からすれば「きわめて低級な芝居というほかない」──としながらも、その伝統的な手法にある、西洋演劇の発想を越えた歌舞伎の、むしろ古めかしさの中に混在する前衛性を主張するのは、こうした点からであろう。
 ※ 「極めて低級に属する頭脳を有った人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応えるために作ったもの。」
註2 粘土板やツゲの版木、あるいは餅やコンニャクなどに文字を彫り、墨を塗って印刷した新聞や宣伝ビラの原型。語源は素焼き粘土板のカワラからという説と、四条河原での芝居を知らせる摺り物に、こうしたものが多かったからという説。また売り歩く多くの者が、役者等の《河原者》であったからという説などがある。
註3 いまだ新劇が成立していない時期のため、書生あがり・壮士くずれが演じる素人芝居を書生芝居・壮士芝居と呼んだ。自称・他称の場合がそれぞれにあるが、画然とした相違が有るわけではなく、新聞表記などでも同じ公演に二つの名称が各誌バラバラの無手勝流で記されることが多い。一般的には両者を壮士芝居と総称する。評伝『女優貞奴』の著者・山口玲子は、音二郎が《自称》したとしているが、根拠とするデータが新聞記事だけのため確証とは言えない。ただし書生あがりの壮士くずれである音二郎の自称とすれば、旧時代人の「くずれ」より新時代人の「あがり」の好印象の方を、ネーミングとして採用したことであろう事は確かである。 
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壮士芝居の歴史は明治二十一年十二月角藤定憲(すどうさだのり)が、中江兆民などを顧問とし《日本改良演劇》と銘打って旗揚げしたのが最初とされている。劇団名も《大日本芸劇矯風会》と大変イカメしい。演目は『耐忍之書生貞操の佳人』『勤王美談上野曙』の二作品。翌年の京都公演の頃にはユニフォームも揃いの黒紋附に白縮緬の兵児帯、白布のうしろ鉢巻という壮士風のスタイルに定着する。以来角藤は《新演劇元祖》や《元祖大日本壮士改良演劇会》を名乗りつづける。
ズブの素人が演じる芝居だから、かねて角藤が写実の巧者と私淑する中村宗十郎に演技の教えを乞うたが、「堅気の人間は毛をたてて恐がって居る転(ごろ)つき壮士だから」と最初は断られる。しかし弟子の中村丸昇が演技指導を代行する事になった。明治の市井の出来事をリアルに活写するのが角藤の意図だったから、車夫役は三日も市中で俥(くるま)を引廻し、按摩役・乞食役それぞれ実地体験していく演技収得法であったらしい。官憲の圧迫を逃れ芝居に仕組んだ政治宣伝を意図とし、いっぽうで無職の青年壮士に職を与え救済するという涙ぐましい目的もあった。ところが関西ではかなりの成功を収めた角藤の壮士芝居も、関東での公演まぎわに政治的圧力でお流れになり、初東上の二十七年には、すでに音二郎一座が地盤を固め、それを追い抜く力を持たなくなっていた。そうした角藤を音二郎はツブサに観察し、観客の反応を研究して来た筈である。
私見によれば角藤の関西での成功は、土佐を中心とする自由民権思想の普及が関西以西では根強かった事、演技の未熟さにくらべリアルな生真面目さが好意的(場合によっては滑稽)に受けとめられた事があげられると思う。それがすぐさま関東で受け入れられなかったのは、地元贔屓(びいき)が得られない事と、自由民権思想の普及力の違い。壮士劇の未熟なギコチ無さが洗練を要求する東京の排他的な庶民文化の中でヤボったく見えた事。壮士劇の強面(こわもて)な体質が女性客を集めなかった事。そして最大の原因は、演技力とは別に要求される、或時(あるとき)は高圧的に或時は謙(へりくだ)る芸能的センスと、バラエティーに富んだエンターティメント性の欠如であったと思われる。
角藤の持ちえなかったそうした技量を、音二郎は確かに持っていた。明治二十四年、音二郎は浅草の大劇場中村座で『板垣君遭難実記』を上演する。当然オッペケペも唄い、清元もうなり、大切りでは役者連総出のステテコ踊りの賑やかさ。観客に芸者衆なども交えて、東京中の話題となるほどの大盛況。演目は中幕に『監獄写真鏡』をはさんで二番狂言『勧懲美談児手柏(かんちょうびだんこのでかしわ』大切り『花柳噂存廃(はなやなぎうわさのあるなし』で全幕。歌舞伎と同じ配列だがすべて新狂言である。「さあさあ、板垣君遭難実記、岐阜中教院玄関の場がはじまるよッ、板垣退助に扮するは、いま売り出しの青柳捨三郎、刺客相原が川上音二郎ッ、板垣死すとも自由は死せず、手に汗にぎる殺し場だあ、さあ幕があくよッ、はいったはいったァ」----呼び込みの声に従って、当時の中村座を覗いてみよう。引用は杉本苑子の『マダム貞奴』から、改行無しの大車輪(はやおくり)。
川上扮するところの刺客相原は、おどりかかって板垣を刺す。ここで例の、/「板垣死すとも自由は死せず」/をやるのかと思うと、そうではない。組んでは倒れ、起きあがってはまた組みつき、五度も六度も格闘をくり返すあいまあいまに、自由民権思想について両人が、泡をとばして論じ合うのである。(中略)相原が板垣の髪の毛をひっつかむ、それを下から板垣が二間も先へはねとばす。ドシーンと舞台の板が鳴る。様式化した歌舞伎の立ち廻りにくらべると写実そのものだ。(中略)----ところへ珍事が突発した。板垣が、/「ろうぜき者ッ、出あえ」と声をあげるのを聞いて、中教院の中からばらばら人がとび出し、相原と大乱闘のさなか、巡査二人をしたがえて警部が花道を駆け出してきたのだ。そのまたあとを、中村座の頭取があわてふためいて追ってくる‥‥。(中略)平土間の見物は床板をふみ鳴らし、/「官憲横暴ッ」/と絶叫しながら、花道めがけて殺到しようとした。/舞台番が、泡をくってとび出してきた。/「頭取さん、ちがうよッ、ちがう。そのお巡りは役者だ。狂言だよッ」
杉山誠の論文(註1)では開場初日のハプニングらしいが、杉本の小説では頭取と舞台番まで含めた全員がグルの《演出》になっている。あるいは初日の客の反応から、音二郎によって新しく書き加えられた趣向かも知れない。他にも『マダム貞奴』には役者の扮した巡査が、刺客相原の公判場面で平土間の観客(実はサクラ)に、「こらッ、公判傍聴中に、帽子をかぶるちゅうことがあるのかッ」----と叱り、「へい、ごめんなさい」-----と帽子を脱いで、場内の割れんばかりの拍手喝采もあったらしいから、これを杉本の創作でないとすれば、こうした演出は意外さをねらった物ではあっても、日本の芸能では前衛的というより従来よりの常套手段であった気配が読みとられる。前出の杉山論文『新派劇』には、「頭の床を打つ音、ドンゴツンと遠き桟敷にまで聞ゆる程(中略)実地活歴もここまで遣って見せて貰えば見物も確かに合点するなり」----という、出典記載の無い文章があり、おそらく生傷の耐えないリアルな舞台であった事が想像される。そうした雰囲気をデータの集積の上に空想を交えて、場合によっては事実以上に本当らしく杉本の『マダム貞奴』は伝えている。それが大変に面白い。
いずれにせよ音二郎の成功によって、演劇といえば歌舞伎に限られ、役者の一族が特別のコネでも無ければ役者になれないと考えられて来たのが一変し、素人でも役者になれる時代が到来した。数多くの俳優志願者が音二郎の下に集まって来る。その中には後の新派の名優になる伊井蓉峰も居た。

註1 『演劇の様式』昭和二十六年河出書房刊所収『新派劇』 
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壮士芝居について、もう少し触れておこう。
その開祖である角藤(すどう)定憲は慶応三年(一八六四年)岡山県で生まれた。元冶元年生まれの音二郎より三才若い。京都府巡査の後、中江兆民の演説に感動し、大阪で兆民が社主の≪東雲(しののめ)新聞≫の記者となった。その角藤に兆民が、寺の境内で政談演説するより舞台上の方が効果的と、思想性を盛り込んだ演説活動をすすめ、これが壮士芝居の先駆けとなった。兆民は反政府的言動から、尾崎行雄や星亨(とおる)とともに明治二十年の保安条例で東京四里以内退去を命じられていた。そのために官憲の眼をかいくぐって関東にまで波及するほどの強力なアジテーターを必要としていたのである。角藤は女形と立役の両方をこなし、女形姿も美しかったらしい《註1》が、そこは素人の悲しさ。裾さばきが上手く出来ず、裾を踏んでひっくり返る事もしばしば。毛脛(ずね)を曝(さら)してバタつくので桟敷の客はドッと笑うが、芝居は滅茶苦茶。パッと裾をまくって、これを愛敬と居直ってしまい、楽屋に引込むのが、まだ素人芝居だからと許された壮士芝居の黎明期であった。角藤は何事にも大雑把で無頓着だが打算的でないサッパリした気性であったらしく、それが角藤の人望にもつながっていた。この角藤一座も名古屋公演で官憲とぶつかり、関東上陸を阻(はば)まれて関西各地で低迷状態であったが、音二郎の関東での人気に刺激され、浪花座で息を吹きかえす。川上音二郎何するものぞ、角藤定憲は壮士劇元祖である――というのが彼の自負(プライド)であった。
もうひとり特筆すべきは、二十五年七月に浅草市村座で『明治裁判弁護誉』を上演した山口定雄である。四国の徳島市かごや町の小間物屋出身の山口は、大阪へ丁稚奉公の後に歌舞伎界に入り、十一代片岡仁左衛門≪当時我当(がとう)≫の弟子として我若(がじゃく)を名乗る元女形であった。門閥が無ければ出世できない歌舞伎界を逃れて壮士芝居に転じたものである。それだけに基礎も確かで、立役、女形、かたき役、老役(ふけやく)と何でも達者にこなした。泥酔を装い交番の前で立小便をして巡査と大ゲンカを始め、ヤジ馬が集まった頃合を見計らって、「諸君、我が山口演劇は民衆教化の運動を目的とした芝居で、即ち営利のみを考えていない」――と一席ぶつような、奇抜な前宣伝を常套としたらしい。また歌舞伎界出身だけに現代劇に限らず歌舞伎も上演したが、『伽藍先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の愁嘆場(しゅうたんば)で観客は涙をしぼっている最中(さなか)、劇中の息子千松(せんまつ)を死なせてしまい悲しむ母の政岡(まさおか)がイキナリ、「諸君よ、即ち諸君よ。わが山口演劇は」――と芝居をそっちのけにしてしまう珍妙な演説癖が有ったらしい。ほかにも豆電球がカラダに巻いて宙乗りするような外連(けれん)《註2》を得意とし、「ハア、パッパッ」の合図の声で光を点滅させながら空中を闊歩(かっぽ)して消えていたらしいから何とも愉快である。もっとも電気の導線の不首尾から感電して肉まで焼く生傷が絶えない、かなり危険な荒事(あらごと)でもあった。
現在では猿之助の専売のようになった宙乗りも、当時の小芝居(こしばい)ではかなりポピュラーな演出である。大歌舞伎(おおかぶき)でも品の良いものとして評価はされていなかったが五代目菊五郎も宙乗りをしたし、上方歌舞伎《註3》の市川右団次(うだんじ)や父の斎入が最も得意としたのも宙返りや早替りであった。こうした外連は幕末以前からのものだが、歌舞伎を伝統技能として≪高級に≫認知させていくなかで、宙乗りは明治以降じょじょに下手(げこ)な演出として大歌舞伎では敬遠されて来た。猿しかやらぬサーカス歌舞伎と陰口を囁(ささや)かれもしてきた。しかし宙乗りに代表される外連は、それが本質でないにしても、歌舞伎が歌舞伎本来の活力を持った猥雑で如何(いかがわ)しいものであるための重大な要素であった。明治以来、猥雑であるからこそ歌舞伎であったパワフルな芸能が洗練された芸術を目差したのである。
話をもとに戻すと、以上の角藤に山口と音二郎を加えた三人が壮士芝居三羽鴉である。ほとんどの新生劇団は、歌舞伎からの派生をのぞき、この三劇団から分化して生まれてくる。他にも後の≪新派≫の原形のようなものが出来つつあった。二十四年に漢学者で劇作家の依田学海(よだがっかい)の提唱で改良演劇の実践として男女合同による劇団≪済美館≫を結成する。後に音二郎門下にもなる伊井蓉峰はこの劇団が初舞台であった。女優は千歳米坡(ちとせよねは)≪芳町(よしちょう)の芸者米八≫が務めたが、こうした男女混合の≪実験演劇≫は、いまだ時機尚早で、二、三回の公演のみで自然解散し、そこに出演していた伊井や水野好美は川上一座に合流する。
いっぽう『板垣君遭難実記』を音二郎の煽(おだ)てに乗って中村座へプロデュースした浅草の芝居茶屋≪丸鉄≫の息子福井茂兵衛が、あそらく借金を棒引きにさせるための音二郎の煽てに乗せられ、生来の芝居好きもあって川上一座に参加。後、貸した大金を音二郎が返済しなかったため音二郎から離れ一座を結成。四番目の旗頭になる。福井は万延元年(一八六〇年)生まれで音二郎より四才上。十二、三才で落語家の弟子となり、五明楼玉若を名乗って十六才で真打ち。ひっぱりだこのかけもちで忙しく、人力車で走りまわっていたのを人力車ごとひっくり返され、片足を骨折。後遺症で正座が出来ず引退。≪自由新聞≫の記者となり星亨の知遇を得る。横浜で星の秘密通信員になった後に壮士集団≪住民苦楽部≫を組織して政治活動に活躍。後に役者に転じた。足の不自由なのは桟敷からでもわかるのだが、粋な所作や敏捷さがそれをカバーし、歯切れの良い口跡(こうせき)が観客を魅了するほど粒立ちの良い発声であったらしい。元壮士ながら壮士ぶりを売り物にせず、渋い芸風で面白い芝居をする事が好まれ、初期新派の名優となる。
また伊井や水野も佐藤歳三と川上一座を離脱し≪伊佐水(いさみ)演劇≫を結成。後に分かれ三者三様に活躍。水野は劇団≪奨励会≫を名乗り浅草常盤座を本拠に三十年代に全盛を迎える。一座の女形は山口門下出身の河合武雄であった。河合は歌舞伎役者大谷馬十の息子である。伊井の親しい後輩に山口門下の喜多村緑郎(ろくろう)がおり、伊井・喜多村に河合を加えた三人が、現在≪新派≫と言われているものの原形を作っていく。いずれも女形を得意とする名優で、後に喜多村門下から花柳章太郎が生まれて来る。

註1 容貌魁偉(かいい)であったという異説もある。『浅草喜劇事始』≪丸川賀世子≫では角藤の容貌は次のように記される。「眼と眉のせまった彼の顔は、見るからに利かん気な志士風だが、色白のふっくらした頬のあたりには、若衆の色気が漂っていた。」
註2 江戸時代からある宙乗りや早替りなどの、客を驚かせる派手な演出。宙乗りは縦移動の宙吊りではなく横移動も含み、空中を歩いたり浮遊したりする状態をロープやピアノ線で吊って表現するもの。
註3 東京の荒事を芸風とする江戸歌舞伎に対して関西の和事を芸風とする歌舞伎。片岡仁左衛門・中村鴈二郎(がんじろう)・市村右団次・中村梅玉(ばいぎょく)・中村福助などが大名跡(だいみょうせき)。中村福助は江戸と上方に東西二人居た。上方の福助が梅玉を襲名するのは通例だが、江戸歌舞伎の福助が梅玉になる事はありえない。あるとするなら簒奪(さんだつ)以外の何物でもない。右団次は仁左衛門の名相方で屋号は高島屋。父の斎入は気むずかしやで名高い先々代仁左衛門も、一目置くほどの名優であったらしい。 
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音二郎の悪戦苦闘のこの時代が、前にも記したように貞奴が博文の愛妾時代である。博文は明治十八年に初代首相に就任。同年の《今日新聞》が公募した人気投票『現今日本十傑』で一位が諭吉、二位が桜痴、三位が博文の、人気も上(のぼ)り調子の時期である。貞奴は十九年の一五才の時に十八才の桃介に袖にされ、二十年に囲い者としてでなく現役芸者のまま博文の愛人となった。博文は四十六才、鹿鳴館(明治十六年落成)のトップ・スターだった夫人の梅子は三十九才。長女の生子が十八才で、貞奴の方が娘より若かった。
博文は施した貞奴の経済面での待遇は不明だが、後に愛妾となった貞奴より七才若い大阪北の新地の芸者小吉について。高群逸枝の『女性の歴史』は、月手当が三百円で二年間の寵愛を受け、夫人梅子にも可愛がられ、私邸出入も自由であったと伝えている。梅子は元芸者だけに、非常にサバけた面倒見の良い賢夫人であったらしい。おそらく貞奴も同様の待遇であったと想像される。ちなみに明治二十四年の官報に従えば首相の年俸九千六百円、各省大臣六千円、枢密院議長五千円、次官四千円であるから、次官なみの収入が保証されていた事になる。当時の独身官吏が二十円位の月給であり、現在の通貨価値で一万倍前後と想像される。単純計算だと博文の収入の半分近くを貞奴が貰っていた事になるが、当然政治家の収入は年俸のみではない。つまり政治的裏金が莫大に有った。貞奴にしても芸者を続けているから、その上に芸者の花代が加算される。
当時の芸者の等級は新橋が一等で花代一円。貞奴等の芳町芸者は、日本橋・新富町・数寄屋橋と並んで二等の八十銭から三等の五十銭。烏森・吉原が三等で五十銭。深川・神楽坂が四等の三十銭。赤坂が五等であったという。雛妓(おしゃく)はその各半分の料金であった。誤解されるとイケナイので断っておくと、これは《売春》のための料金ではない。揚屋(あげや)や芝居茶屋等の宴席に置屋から芸者を呼んだりした場合の、一定時間の基本料金である。一日何席かの掛持のうえ、当然気前のよい御祝儀もあり、そこから芸者置屋への紹介料を差引いても、かなりの収入(みいり)だったと思われる。演劇界は昭和二十二年四月号の安部豊の一文によれば、貞奴の一日に稼ぎは御祝儀を含めて二円四、五十銭だったという。おそらく日に二、三席をこなしていたのであろう。
当時の一般庶民は事業主でないかぎり高額所得者であっても、紳士録に載せて参政権を得たいと思う者以外は税を納めていなかった。そのため宵越しの金は持たない江戸っ子気質(かたぎ)の芸人や芸者などは、有れば有るだけ湯水のごとくその収入を使っていた。堅気(かたぎ)と違って金銭感覚が麻痺しているために《氷(アイス)》と呼ばれた高利貸しの好餌(カモ)にされる場合もあったが、売れっ子芸者のあるかぎり、身を持崩す事も無かったらしい。貞奴も御多分に漏れず、小奴時代の御転婆(おてんば)に拍車がかかり柔道・玉突き・花札・コップ酒と、とどまるところを知らない。ただし貞奴には一途な面があって、乗馬や水泳にしても熱中するだけでなく、自分の技術としてキッチリ修得する手堅さが有った。いわゆる三日ボウズではない。馬術の腕前は、十メートルの白布を地面に着かないように靡(なび)かせ走る古風な馬術《母衣引(ぼろびき)》・競技会に出場するほどの技量であった。水練(すいれん)も得意で、海水浴も富岡海岸で博文と井上毅(こわし)が手をとって教えたという。幕末期に白刃(はくじん)をくぐって来た刀傷だらけの無骨な裸の男二人にはさまれて、バチャバチャやっている十六才の貞奴を想像すると、ほほえましい気がしないでもない。大磯の旅館涛龍館(とうりゅうかん)の浴室で、当時まだ珍しかった石鹸をふんだんに使い、あたりかまわず泡だらけにして、他の泊まり客から羨望含みの顰蹙(ひんしゅく)を買う傍若無人ぶりも、貞奴の無邪気から来る子供らしさと言えるであろう。
十代頃の貞奴について明治四十四年十一月十四日の《国民新聞》は、「鼻筋の通った顔立ち、やや赤みを持った髪の毛、腰下の長い体格、男のする様な荒っぽいことを好む性質、誰いうとなく、混血児(あいのこ)だという噂がパッと立って、変り者の奴の評判がねんねん愈々高く、お歴々の座敷数が増えだした。我儘が却って面白いとあって人気が高まる」──と記している。貞奴の子供じみたワガママを通せば通すほど人気が出るという《花柳界》とは不思議な世界であった。
意外な点は、西洋人の混血と間違われ、《女西郷》と腕白ぶりから呼ばれた貞奴が、写真の均整のとれた体躯(たいく)から想像するよりはるかに小柄な百四十八センチの身長だった事である。比較のために活躍期が重なる貞奴より十三才年少の奇術師天勝が、女性としては大柄な百六十センチ弱。博文が当時の男性の中肉中背で百五十八センチであった。貞奴の小柄な点も、特に後年のヨーロッパでのアイドル的な人気に大きく貢献したと思われる。
貞奴は二十三年頃まで博文の寵愛を受け、以降は自由の身になった。前年に憲法が発布され、二十三年に国会が開設される時期に当たる。この音二郎に出会う以前、見落とされがちな記録だが、早くも貞奴は役者として舞台に立っている。素人芝居という自覚のために《女優》として貞奴には認識されていないが、五代目菊五郎に教えを請うたほどだから、演劇史の上で見逃すわけにはいくまい。
事の起りは明治十九年、博文の娘生子の夫・末松謙澄が主唱し、外山正一・福地桜痴・森有礼・渋沢栄一らが発起人となって設立された《演劇改良会》に端を発する。詳細を記すイトマは無いが、末松の、諸外国を参考にした洋風建築の大劇場の新設、興業時間の短縮、花道の不要、チョボ(浄瑠璃)の廃止、装置改良などを主眼とする『演劇改良意見』(明治十九年刊)に、外山の、茶屋制度(註1)・女形・黒衣の廃止と俳優の品行是正、狂言の上品化などの意見を付加した『演劇改良論私考』(明治十九年刊)を中心課題とする、当時の歌舞伎しか無い日本の演劇界にとって驚天動地の急進的意見が、その運動目的であった。しかもこれは個人的結社の意見ではなく、明治政府の鹿鳴館に代表される欧化政策の、ゼガヒでも成しとげねばならぬ意向を背景とした運動体であった。特筆すべきは欧米に倣(なら)い、日本では地位の低かった劇作家の重用を強調している点で、演出家すら居なかった旧劇の世界では画期的な事であった。この演劇改良会の運動に、芸者芝居が関わっているのである。
この演劇改革は数々の反発と無理もあり、修正を重ねて、民間の協力も仰ぎ、ひとまず目的を達するのに四半世紀を用している。歌舞伎座・帝国劇場の新設なども、その一連の成果であった。音二郎の演劇改革も、これを基盤としているが後述するのでここでは触れない。いずれにしても近代国家日本を誇示し、欧米人に観せて恥かしくない日本の代表的演劇と劇場を造りあげる事が急務とされ、歌舞伎という芸能からエロ(男色趣味・嗜虐趣味・芝居茶屋の遊廓的要素)・グロ(女形・黒衣の異様さ)・ゲテ(花道・外連や怪奇趣味・勧善懲悪のバカバカしさ)を排除し、飲食しながら参観できる古代の饗宴的空間の猥雑さを除去する事が意図された。それらは皮肉な事に、ロシアやヨーロッパの前衛劇が二十世紀初頭に歌舞伎から窃取(せっしゅ)したほぼすべてであった。

註1 大劇場での芝居の升席や、そこでの弁当・酒(当時は飲食しながら観劇していた)の手配、幕間や芝居前後の休憩、早朝から深夜まで(朝六時から夜十時頃までの事もあった。そのため欧米なみの時間帯導入が、改革の目的とされた)の公演のための宿泊、贔屓役者との連絡や饗宴の手配等々、芝居に関るすべての事は芝居茶屋を通さねば出来なかった。一週間日替わりの通し狂言などでは、その期間泊まり込むのが当然だった。《戯場》を「しばい」と読ませたように、役者はもとより芸者や幇間も呼んで遊べる劇場と合体した《遊廓》と考えればテットリ早い。有名役者と接触するためには、下足番から風呂番・売子にいたる五十近い《職種》の劇場および芝居茶屋関係者=《芝居者(しばいもの)》にチップをはずむのが常識だったから、大変な散財であり、《役者買い》(※1)ともなると資産が傾くほどの高額を要した。茶屋制度の廃止は、こうした淫靡で猥雑な影の部分を分離する事も目論まれたと考えられる。
 ※1 金銭で金満家の有閑夫人が役者や芸人を愛人とするシステム。有夫の場合には法的には姦通罪(※2)該当するが、《役者》は社会的地位として《人間以下》と考えられていたため、相手を《間男》として起訴する事は《役者ふぜい》と対等にはり合う事であり、それは《間男された事》よりも恥かしい事であった。そのため起訴によって成立する姦通罪は、芸人や役者にはほとんど適用されないに等しかった。《役者買い》は芸者などの玄人をはじめ政財界や資産家の夫人・令嬢などによってなかば公然と行われ、そのために芝居茶屋が文字通り遊廓として機能した。むろん歌舞伎の裏面である江戸伝来の陰間(かげま)茶屋として利用されたのは申すまでもない。営業の一端は、こうした裏面にまつわる少なからぬ収入によって成立していたのである。
 ※2 妻を夫の所有する《物》として財産と見なす法律によって出来た犯罪。窃盗罪と同様に起訴によって成立し、重罪であった。北原白秋の例に従えば、白秋は二年間《入獄》している。有島武郎の心中原因も、愛人の夫から姦通罪をチラつかされたためで、もし起訴されれば有島個人の《入獄》と爵位の放棄にとどまらず、累(るい)が一族全体に及ぶ可能性が有った。相手が藤原義江のような《芸人》のドン・ファンならば、婦人の夫が華族であっても、マッタク問題にされない《罪》だったのである。 
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話を芸者芝居に戻せば、演劇改良会の運動の一環として、渋沢栄一・大倉喜八郎・福地桜痴などと地元有力者の協力で、貞奴の住む浜田家に近い蠣殻町に有楽館という演芸場が新設されたのが明治二十二年六月。その落成式に慈善芝居が企画され、女形の廃止を主張する会の趣旨に従い芸者達に出演が求められた。貞奴十八才の時である。演目は『曽我討入(そがうちいり)』貞奴は五郎役であった。
この公演は恒例となり歳末公演が定着し、貞奴は芸者芝居に熱中する。『菊畑』の鬼一法眼、『寿曽我対面』の五郎と敵(かたき)役の工藤祐経、『八幡太郎伝授鼓』の源義家、『川連館(かわつらやかた)』(『義経千本桜』四段目)の狐忠信、『廓文章』の藤屋伊左衛門など、男役の、しかも主役ばかりを貞奴が演じている。五代目菊五郎に教えを受けたのは『菊畑』であるらしい。明治四十四年二月号の『演芸画報』の貞奴の回想によれば、「立役が好きで、いつも他人(ひと)さんが厭がる立役は背負い込んで納っていたものです」──という。どうやら当時は男装が、羞恥につながるかなりエロティックなニュアンスが有った事を感じさせる発言である。同時代の大女優サラ・ベルナールの男装癖などと比較しても、大変に興味ぶかい。「千円位の切符は引受けて、自腹を切って芝居に出て嬉しがって居たものです」──という発言もあり、かなりの入れ込みようが窺える。千円のリスクは当時の中級官吏の約三年分の収入に相当するが、その金額も貞奴には痛手にならない額であったようだ。有楽館は明治二十七年に経営難で閉館しているから、五年間に六公演の芸者衆による≪女歌舞伎≫が演じられていた事になる。確証は無いが、貞奴と同じ芳町芸者の米八が千歳米坡(ちとせよねは)として、二十四年に最初の男女混合劇を企てた≪済美館≫に出演している事から、後に女役者になった米坡が、この芸者芝居に参加している可能性は充分に考えられる。≪済美館≫結成にあたり脚本家の依田学海(よだがっかい)が、舞台経験の無いズブの素人を≪女優≫に仕立てあげたとは考えられないのである。
また芸者芝居の時代は、貞奴が歌舞伎役者を浮名を流した頃と重なっている。五代目中村歌右衛門の回想に、「あの女は我まま者で、気に入らぬことがあると。どんな名士のお座敷でもサッサと引上げて帰りました。あの女は私と遊ぶ時、いざ勘定となると算盤を取寄せて自分ではじき、必ず割勘にしておりました。人におごって貰いたくないのです」──とあり、ある種の金銭に細かい律儀さに閉口している口吻(くちぶり)だが、俗に言う≪役者買い≫の、芸者の側が役者に貢ぐという間柄でなかった事が読みとれる。歌右衛門が福助時代には貞奴との結婚話もあったらしい。六代目梅幸とも親密だったから、貞奴が仮にどちらかと所帯を持っていたら女優貞奴は誕生しないが、百年以上を経た今日では、歌舞伎界の大名跡(ビッグネーム)のかなりの人々が貞奴の末裔(ちすじ)に成っていたであろう。
それはさておき、戦後に帝劇で秦豊吉(はたとよきち)(註1)が上演した『マダム貞奴』(註2)では待合で歌右衛門と逢引していた貞奴が、音二郎の部屋に間違って入ったのが初対面という筋書きらしい。いかにも有りそうな話だが、これはフィクション。『旅芸人始末書』では大倉邸の一件をナレソメとしているが、データーが不充分。しかも、どの研究書に当っても、この一件が何年なのかがわからない。『女優貞奴』(山口玲子著)で幾つかの証言をもとに、関東へ進出して来た音二郎一座をタマタマ見た貞奴が、音二郎に興味を持ち、宴席でも顔を合わせるようになり、そのうち貞奴の方が音二郎に夢中になったという論旨だが、事実関係がかなりアイマイで想像の域を出ない。音二郎と貞奴の回想の齟齬(そご)のみならず、数種の貞奴自身の証言にも食い違いや不明瞭な点が多いためだが、その理由が、気恥しさやモノ忘れといった通俗な事に起因するのでなく、何か無理に帳尻を合わせている感じが証言の中にするのである。それが山口著にも波及し、二人の初対面あるいはその後のイキサツについて歯切れの悪さを感じさせる。憶測を最小限度に押さえなければならない評伝のツライところである。
ただし同著には、川上一座の筆頭幹部であった藤沢浅二郎の、「音二郎が芸者遊びの妙味をたのしみながらも、貞と契りを交わしたのは、中村座の三の替りのあと、宇都宮の大川座へ巡業した時」──という証言があり、少くとも、この時期以前から二人が親しかった事がわかる。時期が確定できる最も古い証言が、この記述なのである。中村座公演が二十四年十月まで二の替り、三の替りを立て続けに上演しているから、現代風に言うと二人の初エッチは二十四年の暮れあたりと考えてよかろう。大倉邸に三日間立籠(たてもこ)る一件は、それ以降と考えるのが、まず順当な推測と思われる(註3)。なぜこうもアリバイ崩しめいた瑣末事(さまつじ)にこだわるかと言えば、同じ頃に貞奴は、五年ぶり東京支店に転勤となった桃介と会っている。愛憎交々(こもごも)の桃介への感情と、音二郎に傾いていく貞奴の心理を解析するのは残された資料のみでは不充分だが、資料を自分なりに秩序だて仮説を立てる事は可能である。そうしないと、何が貞奴をひきつけたかという音二郎の魅力とともに、音二郎が選んだ貞奴とう気丈な女の決意は希薄になると考えるからなのだ。貞奴が《野合(やごう)》でないと強調し抗弁するように──という事は一般的に野合と見られた事を意味するが、捨鉢な済崩(なしくずし)で音二郎と一緒になったわけではないのである。
貞奴は「満二十歳になったある日」、御座敷で桃介の名前を小耳にはさむ。桃介は二十二年に米国から帰国し、結婚後に北海道に赴任。二十四年一月に長男が生まれ、東京へ転勤になっていた。貞奴は七月十八日生まれのため「満二十歳」なら二十四年七月以降にあたる。「そんな折」(山口著の表記に従う。二十四年七月以降と考えられる)上野池之端で催された母衣引(ほろびき)の競技会で、貞奴の騎乗する馬が引く布製の母衣(ほろ)が池畔の柳にからまり、煽(あお)りをくらって貞奴は落馬してしまう。幸い怪我は無く脳震盪(のうしんとう)だけであったが、そこに居合わせたのが桃介であったらしい。『女優貞奴』ではこの場面のみ出典が明記されず、しかも、「思いがけない再会に、貞は痛みを忘れた。目を閉じた貞の耳に、近くのテントまで静かに運ぶように指図する桃介の声がきこえ、暫く休むと自力で歩けた」──という風に内的心理まで描かれる小説風の表現になっている。山口の評伝としての認識に疑問を感じるし、「初恋の桃介は、貞が当面する結婚問題の相談相手になりかわった」──という結論にも、客観性が感じられず疑問が残るが、桃介との邂逅(かいこう)は事実であるらしい。
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註1 明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。
註2 越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3 「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。 
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『演芸画報』明治四十一年一○月号掲載『名家真相録』の貞奴の談話によれば、「私も一風変って居りましたので、殊に書生肌の人が好きでもありましたし、川上ならば生涯役者をしても居まいと思いましたのです、又私の身分で真面目な所へ行こうと言った所が、先き様で貰って下さりますまいから、一層何だかわけの分らないような人の所へ行きたいと言う決心もありました」──と語っている。また同じ発言中で、音二郎を知ったのは『板垣君遭難実記』(明治二四年)を養母と見に行ってから──とする一方で、音二郎と《いっしょになってしまった》のは明治二三年だとも言っている。二三年なら横浜と芝開盛座公演で別演目である。「女優貞奴」の著者山口玲子はわずかに《疑念》をさしはさみながらも、「その折に知り合った可能性もあるけれども、これは多分貞の記憶違いであろう」──とし、そして「音二郎という存在を知るなり、殆ど間髪をおかず、恰も電光石火の如く「いっしょになってしまった」」──と続けている。その理由を、芸者という職業を環境から、政府高官や実業界の名士あるいは梨園(歌舞伎界)の御曹司達のような名声も地位もある人間よりも「素寒貧の名もなき『書生』といっしょになって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった」──とし、その理想像にピッタリだったとする音二郎の「荒けずりで硬骨漢」の未完成な魅力を強調する一方で、「けれども貞が音二郎に惹かれたのは、そうした後から考える理由づけ以上に、直感と無分別に衝き動かされてのことだったかもしれない。とにかく貞は音二郎を見るや、たちまちにして、その魅力のとりこになってしまった。音二郎のどこにに惹かれたのでもなく、まして新演劇の『板垣君遭難実記』や『オッペケペ』を認めたのでもなく、音二郎という年限の出来合いに、絶大な関心を持って、体当たりしていった。強いて言えば、音二郎の標榜しちゃ『書生演劇』の書生という自称に、多少引っかかった気味がないでもなかった」──という、どう読んでも破綻した結論を導き出す。しかし情報を鵜呑にして二人の経緯を追っていくと、どうしても矛盾やはじょう破綻が生じて来るのだ。これは山口のせいばかりではない。貞奴の発言に従うならば、書生上りの地位も財産も無い、ほとんどの青年が魅力的な対象となってしまう。しかも貞奴は生娘ならね一流の芸者なのである。その貞奴が急に音二郎に夢中になったのだから、下世話な理由からだとは思えない。他に無い魅力か、あるいは、その急変に、別サイドの理由付けが必要となって来る。
劇作家の長谷川時雨は、貞奴が福助(後の歌右衛門)から音二郎に乗り替えたという下卑た巷説を打ち消すように、讃仰おしみない貞女として貞奴を謳(うた)いあげた『近代美人伝』(昭和十一年)で、「金子男(だん)が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上に快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応(きょうおう)したことがある。それが縁で浜田家へも出入するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛に仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏(まとま)った仲である。」──と、面識も有った貞奴が読む事を意識した上で、破綻なく二人の経緯を書き記す。時雨の文面の表層を読むかぎりは、いささかの彼女の疑念も感じとれない。しかし穿(うが)った見方をすれば、むしろ理路整然としすぎている。あるいは時雨が文章の表層を裏腹に、読者の裏目読みを期待して表(おもて)の平仄(ひょうそく)を合わせているかに思えてくるほどである。
金子堅太郎男爵(註1)は音二郎と同郷の福岡出身で、おそらく以前から音二郎の後援者であったと思われる。注意すべきはこの経緯を鵜呑にするにしても、音二郎・貞奴の出会いが金子の御膳立によるもので、背後に伊藤の意向がうかがえる。秘書であった金子が伊藤に相談なしに単独行動をとっているとは思えない。明らかに、ある計画性が感じられる。その事に気付かない時雨では無いし、裏目読みをするとキッチリ無駄なくそのように書いてある。
さて、これより以前に桃介との再会があったと仮定し、焼けぼっくりに火がついた場合を想定して、私の仮説をおし進めてみよう。桃介は計算高くはあるが物事に淡泊で、それでいて冷血漢でもなく、貞奴に対する愛情も男性中心的見解をのぞいては嘘ではない。ただしその場合、愛人としての限界が、《正妻》ではなく妾宅に囲われる身である事は明らかであり、前途は有望ながらもまだ二十二、三才の桃介は、貞奴を囲い者にするには経済的に無理が有った。一方、愛人の契約が終ったとは言いながら、博文が貞奴の後盾であるには違いなく、少々諭吉に怨みの有る伊藤としては、自分の傘下の貞奴を諭吉の養子の桃介に取られ、巷の話題となる事は、何としても防ぎたかった筈である。養母の可免にしても、もうすぐ適齢期を過ぎようとしている貞奴だけは《妾》でなく《正妻》にして、ゆくゆくは花柳界の外へ出したい考えが強く有った。数年前に貞奴を袖にされた母親としての恨み辛(つら)みも累積されており、気丈で気位の高い可免が、桃介と貞奴の関係の再燃を許すとは考えられない。博文を可免の利害はすべての面で一致していた。そして貞奴の愛情の対象を桃介からそらすために夫の候補者として立てられたのが、かつての桜痴の帝政党の党員の音二郎であったと考えられる。音二郎は寺の小僧から諭吉に引きとられ福沢家に寄宿する慶應義塾の学生となった経歴もあるが、門限破りに加担して方遂された事も有って、諭吉との関係は切れていた。桃介よりも四才年長の音二郎は、役者ながら演劇を《手段》と考え、役者で終るつもりは毛頭なく血気盛んである。政財界の老獪(ろうかい)で捕え所のない老人達や、趣味は洗練されながらも芸者には見慣れた歌舞伎役者達には無い、荒けずりながら明快な音二郎の気質を、貞奴には新鮮な驚きであり魅力であった。他に、後年音二郎の劇作も書いた桜痴の後押しが有った事も考えられる。この計画をうまく誂(あつら)え浦で演出したのが金子男爵であった。そして貞奴の桃介への思いを断たせるために、金子・可免・音二郎・貞奴の膝詰談判で立籠(たてもこも)ったのが大倉の別邸の一件だったと考えられる(註2)。そこでは金子・可免による貞奴の説得はもとより、今後の音二郎の展望や、伊藤・金子人脈による援助の相談、歌舞伎役者等との浮名の精算も含めた、以前から音二郎と親しい関係が有ったとする、偽のアリバイ作りめいた口裏合わせ等が成されたと私は考えている。何度かの行き来が有ったにせよ、二人の婚約が急転直下であった事に間違いは無い。音二郎・貞奴ともに赤新聞のゴシップ記事の好餌であったから、現代のアイドルと同じで世間の眼を逃れて交際が有ったとは考えられないし、隠す必要も無かったのだから、交際期間も短く、逢瀬も数少なかったのが本当であろう。このように仮説を立てると、実証は不可能だが、ほとんどの矛盾は解けて来る。残る疑問は、貞奴が入れ揚げるまでになってしまう音二郎の魅力である。

註1 明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。
註2 越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3 「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。 
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「あの人は性来非常に陽気な質です。非常に嘘つきで恰度狐を馬に乗せたような人、いまここで嘘を言ったかと思うと又向うで嘘を言うという調子でした。だがあの人は女にかけては一種の魔力とでも言うのですか、それは色男ですよ」──明治四四年十一月十一日『東京日日新聞』掲載の烏森《浜の家》女将の談話による音二郎評である。また劇評家の水谷幻花は、「ヤニを嘗(な)めた青大将の様な顔はしているが、川上もあれで一寸色男」(『演劇風雲録』大正十一年刊)──と評している。
ところで音二郎は、写真を見てもいわゆる美男子というタイプではない。いつもどこか笑っているような顔は、相手をなごませる愛嬌を感じさせるが、アメリカで日本のプリンスではないかと誤解されたという桃介の俗事から超然としたような気品のある容貌と比べると、メンクイの女性連からは何故に貞奴が夢中になったのかと疑問になって来るであろう。ただし、美男子というなら桃介に限らず貞奴の贔屓(ひいき)客であった歌舞伎役者なども該当するに違いなく、幻花や浜の家女将の言う「色男」ぶりは、それとは別の魅力となって来る。
ところで一般的な音二郎の評価は現在でも、場当たり的なケレン味と即興の妙味だけの、主に《オッペケペ》だけが当たった、山師でホラ吹きの人物のように考えられて来た。倉田喜弘の『明治大正の民衆娯楽』をのぞいては、本当は時代風潮を先どりし、そうした状況を作りあげたのが音二郎であるにもかかわらず、時代に便乗し歴史に残ったダケのように記述されることが多い。まるで雑芸人のような評価も少なくない。音二郎から十年前後を経て始まる坪内の歌舞伎改革や小山内の新劇運動に比べて、理論的な裏付けが明確でないために、アカデミズムの世界では先駆者として《仕方無く》名を記しても、芸術的評価としては無内容の娯楽、あるいは肯定的見解でも社会風刺の芸能として《処理》される場合がほとんどである。しかし山師もホラ吹きも同時代に数々居ながら、理論より先に行動に移し時代を先どりし、蜘蛛の子を散らすように拡がっていく明治を舞台にした現代劇としての大衆劇を、運動として拡大させる駆動力であり起爆剤であり続けたのは、毀誉褒貶(きよほうへん)ありながらも、やはり音二郎だった。また《オッペケペ》で芸者や権妻(ごんさい)(妾)などの観客を揶揄(やゆ)しながら、そのカラカイの相手からも愛されるような愛嬌のある魅力を、多くの芸人達は持たなかった。それのみならず演劇界を変革するために、劇場そのものから変え、環境を変える事で観客の意識のありようを変え、そこでやっと新たな演劇を作る事が可能になると考えていたのは、当時の日本に数人にすぎない。しかもそれを、最も早く実践したのは音二郎であった。チョンマゲでない断髪の劇を、一般大衆が違和感なく観る基盤を全国に波及させ、音二郎自身にも本邦初演が数あるが、西洋演劇の一般普及に貢献した、言わば音二郎は、そのパイオニアであった。むろん時代状況による限界もあり、時期尚早であったり経済力の面で失敗もあったが、そこを持ちまえのタダでは転ばぬ向上心と、失敗をも次へのステップとする楽天的な陽気さで、音二郎は明治の演劇界をリードしていく。この現状に甘んじないで利害を離れて現実変革を成そうとする新精神は、周囲からホラ吹きや山師と叩かれもしたが、確実に同時代の誰も考ええないような、他の人が持っていない音二郎の魅力であった。また、その大風呂敷のホラも、弁舌さわやかで軽快かつユーモラスな音二郎の話術にかかると、妙に現実的な迫真力を帯びて来る。そうした意味で、金子堅太郎が言うように、まさしく音二郎は「快男児」であった。それらの魅力に、貞奴はコロリと参ったのであろう。
二人が正式に結婚するのは明治二八年だが、これから貞奴は音二郎の所に通いつめ、芸者勤めを続けながら、一座ぐるみの面倒をみて、晴れて音二郎と結ばれる日を心待ちにする。いっぽう人気者になった音二郎は、堅物と思いきや、後年(明治四三年三月『俳優鑑』)のアンケートに「娯楽──芸者買い」と返答するように、日本橋の小かね、新橋のとん子や清香など、現代で言うとアイドルであった花柳界の名妓と浮名を流し、そのゴシップは新聞を賑す事しきり。貞奴も気がかりであったろうが、藤沢浅二郎(音二郎の片腕)の回想によれば、「奴は世間の嘲笑の的となり、座敷へ出ても冷やかされる。可愛い男を一人前に仕上げなければ私の一分(いちぶ)が立たないと力んで」、浮気については眼をつぶり、音二郎の男気を見込んで身代一切つぎこみ、この何に成るかわからぬ男の野心達成のために、縁の下の力持ちとなって協力する事になる。
この頃の貞奴は、後に自分が女優になろうとなどとは露ほども考えていない。 
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音二郎たちが開始した演劇は《書生芝居》《壮士芝居》と呼ばれながら、新演劇の基盤となるメソッドがいまだ無いまま、歌舞伎を批判しながら、その見よう見まねから素人が自己流で始めたものであった。そのため、リアルな立廻りや現代物には手本が無いだけにかえって新味がありながら、発声・セリフ廻し・義太夫・囃などなど、すべて旧劇である歌舞伎を踏襲せざるをえなかった。つまり新しもの好きの一般観客からは好評であったが、伝統芸としては技術がともなわず、拙い(つたな)模倣である部分が目立ち、伝統的技術を重んじる劇評家・歌舞伎愛好家からの評価は、かなり手きびしいものだった。明治二六年から舞台評を始めた当時二一才岡鬼太郎(おにたろう)(註1)は、後年の三六年に、川上一座に喝采する手合いは「酸豆腐通(すどうふつう)」と評し、演劇として歯牙にもかけなかったが、鬼太郎と同じく明治五年生まれの岡本綺堂(きどう)(註2)はやや好意的な評価をよせている。
『明治劇談ランプの下にて』(昭和十年刊)の中で、明治二四年の依田学海作『拾遺後日連枝楠(しゅいごじつのれんじのくすのくき)』を綺堂は、「大勢のなかには顔のこしらえのまずい者や、烏帽子の着用のつん曲がった者や、正面を切って台詞の言えない者や、男か女かわからない者や、種々さまざまな欠点が見出だされないではなかったが、(中略)壮士と名の付いている俳優たちがいわゆるチョボ(浄瑠璃)に乗って芝居をする──それがさのみおかしいとも思われないばかりか、弁の内侍の千代野との別れなどは、チョボを十分に使って一部の観客を泣かせたのである。わたしもさすがに偉いと思った。」──と評している。ただ、この綺堂も二五年公演の熊本神風連騒動を題材とした『ダンナハイケナイワタシハテキズ』には難色を示し、「狂言といい演技といい、俗受け専門、場当たり専門、実にお話しにもならないもので、わたしは苦々しいものを通り越して腹立たしくなった。」──と回想している。当時二十才の綺堂は観劇の翌日、東京日々新聞に出社するとすぐさま劇評にとりかかり、題もわざと『市村座激評』として川上攻撃をしたらしい。温厚な劇評家であった綺堂にしてからサヨウであったから、他の批評家はおおむね否定的であった。ただし綺堂も、「年の若いわたしは、それは却(かえ)って彼等の逆宣伝になることに気がつかなかった」──と回想するように、悪評もかえって大衆心理をアオるあたりが面白い。そんなにヒドい芝居なら、ひとつ話のタネに観ておこうというわけである。
誹謗(ひぼう)・中傷もはげしく、二四年九月一日の新聞『日本』は、壮士は「天下の一大至毒物」であるとして、座員十七人の経歴をあげ人身攻撃をしかける。座員の動揺もあったが、この時期音二郎は反撃に出ず、ひたすら公演活動に邁進し、じっと耐え抜いた。演劇界に味方は少なかったが、五十八才の演劇改良論者依田学海や『歌舞伎新報』編集者で黙阿弥門下(註3)の久保田彦作も支持者になってくれた。また川上ビイキの弁護士・森肇(後の帝劇女優森律子の父)が、「殺身為仁」の四文字とドクロの絵入りの引幕を送ってくれた事も心の支えとなった。そして二四年の『佐賀暴動記』土方宮内大臣・後藤逓信大臣・有栖川宮の観覧を経て、二五年に金子堅太郎の案内で東京慈恵病院に皇后を観客に迎え『平野次郎』を上演し、《皇后宮台覧》によって、川上演劇の観客を低劣視する批評を一挙に封じこめる。つまり劇評に、音二郎の芝居を批判は出来ても、その観客を「低劣視」した書き方が、まかりまちがえば皇室に対して《不敬》にあたるため、矛先をゆるめねばならなくなったのである。
倉田喜弘は「明治大衆の民衆娯楽」のなかで、一八八○年を中心に前後十年に明治天皇の地方巡幸がしばしばあり、一八九○年前後数年に芸能の天覧が続出する意図を、次のように分析している。
かねがね政府は、芸人社会から卑猥性を追放するために躍起となってきた。それにもまして、体制批判や皇室の冒涜に眼を光らせてきた。しかし、どれほど取締りを強化しても、根絶することができない。そこで一転して、天覧という懐柔策を用いたのではないだろうか。
地方巡幸の場合、各地の有力者に金銀を与え、その徳行(とっこう)を賞揚した。それと同様、芸能各種目のリーダーを選んで、天皇が親しく彼らの芸を謁見する。芸人たちは狂懼(きょうし)感激して一身の光栄にむせび、簡単に体制のわく組みに組み込まれる。しかも芸人たちは、観客の前で天覧をひけらかすから、民衆教化の役にも立つであろう。そうした図式が、天皇制国家の形成期に用意されたと考えられる。
相撲や歌舞伎や、倉田がこの分析をしている手品の松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)などの天覧がその例だが、皇族による観覧もそれに準じたものであったろう。いわば貴賎の相互補完を権力構造としてより強化する志向だが、音二郎の場合、確かに、その構造にダキ込まれもされながら、シタタカに自分の戦略に利用しているのである。
伊藤博文の片腕であった金子の明治国民を啓蒙する意図にそいながら、音二郎の立場は彼等と異なり、その啓蒙性も上からの視点と言うより、芸能という芸能当事者からも観客からも文化価値として自覚も認識されていない底辺から意識を覚醒させようとするものであった。つまり娯楽として消費されるのではなく、自覚的表現に向上させ、それによって芸能としての演劇文化マルガカエに音二郎という《芝居者》も社会的に浮上しようとしたのである。そのためには音二郎が海外を、まず自分の眼で観て来る事が必要とされた。
 
註1 劇作家・劇評家。岡鹿之助(洋画家)の父。本人はいたって親切で面倒見のよい好人物であったが、その劇評は名前どおり《鬼》のように辛辣をきわめた。歌舞伎の名題役者(なだいやくしゃ=看板スター)に対しても、針の筵(むしろ)に座らせるような、生きた心地もない批評で恐れられ、「まずまずの出来」──と評価(傍点)されようものなら、鬼の首を取ったような《大金星》であったらしい。明治後期から昭和十年代までの歌舞伎役者は、鬼太郎の批評に《叩かれないため》に、必死の研鑽を積み、人気に慢心する事を免れた。つまり閻魔大王のように恐れられながら演劇界の御意見番として最大の功労者であった。
註2 劇作家・劇評家。『半七捕物帖』の作者で、日本の捕物帖の開祖。歌舞伎・新派の戯曲の他、多数の怪談や怪奇小説の著作がある。二代目左団次と提携して歌舞伎改革に乗出し、『修善寺物語』などによって、従来の歌舞伎と違い西洋近代劇の影響を受けた登場人物の心理に重きを置く脚本で、明治後期以降を代表する劇作家となる。福地桜痴門下。
註3 河竹黙阿弥は幕末から明治期にかけての歌舞伎脚本家。誤解防止に、没年は明治二六年で、代表作の大半は明治期に書かれた懐古的江戸趣味の歌舞伎であり、五代目菊五郎・初代左団次・九代目団十郎とともに、新時代に見合った《明治の歌舞伎》を作りあげた第一人者であった。 
 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

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