演劇・演芸

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雑学の世界・補考   

歌舞伎1

歌舞伎(かぶき)を全く知らない人はいないであろう。歌舞伎特有の化粧である「隈取(くまどり)」をし、派手な衣装に身を包んだ役者の姿や浮世絵などが思い浮かぶのではないだろうか。歌舞伎のシンボルにもなっている、黒・柿・萌葱(もえぎ)3色の「定式幕(じょうしきまく)」などもよく知られているし、海外公演などの成果もあって今では国際的知名度も高い、日本の代表的な伝統芸能となっている。国の重要無形文化財の指定を受け、2009年9月、第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財として保護・継承するため、UNESCO(ユネスコ)が登録する予定の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されているもので、リストに掲載された芸能は、「無形文化遺産保護条約」の枠の中に編入される仕組みのものである。
大衆娯楽として誕生した芸能が、名脚本・名役者・名音楽などに囲まれて大成した、現在の歌舞伎の世界を創り上げるまでの変遷を追ってみたい。  
歌舞伎は、江戸時代に大成した舞台演劇であり、他の伝統芸能に比べると歴史はそれほど長い方ではないのだが、既存の芸能の土台はあるにしろ、それまでにない新しい要素を生み出したことで独自のジャンルを築いている。教科書などにも掲載されている定説としては、出雲阿国(いずものおくに)が「かぶき踊り(阿国かぶき)」を生み出したのが原点であるという。「日本舞踊−歌舞伎舞踊」や「日本舞踊−新舞踊・歌謡舞踊」の項も参照していただければ幸いである。阿国が土台とした芸能は、室町時代から近世にかけて一般庶民の間に流行した風流(ふりゅう)であったが、更に民間神楽・念仏踊りなどを融合して生み出した「かぶき踊り」は当時斬新で、京都で大変な人気を博したという。阿国は出雲大社に仕える巫女と自称していたが、河原者であったともいわれ、明確には判っていない。当初「ややこ踊」「かか踊」「念仏踊」などと呼ばれる、当時の流行歌に合わせた踊りを披露していたが、やがてそれらを一変させて「かぶき踊り」を踊り始め、歌舞伎の始祖となった。かぶき踊りは、当時最先端の「かぶき者」の格好、簡単に言えば大きな刀を持つなど男装の派手な服装をし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる「茶屋あそびの踊り」を考案して、阿国自ら踊ったものである。それまでの踊り主体の芸能に、演劇的要素を加えた点が歌舞伎の始祖と言われる由縁である。
1603年に北野天満宮興行を行って以来、京都を中心に評判となった阿国の踊りを真似た芝居風の舞踊が、遊女らにより盛んに演じられるようになり、「女歌舞伎(遊女歌舞伎とも)」が誕生する。女歌舞伎は江戸時代、1615年〜1630年頃が最盛期の、遊女や女芸人による歌舞伎のことで、京都の四条河原や江戸の吉原には常設舞台が設置され、30人余りの男装の遊女が、艶やかで贅を凝らした多様な群舞(総踊り)を披露した。阿国の歌舞伎との違いは、当時最新の楽器であった三味線が用いられたことであるが、阿国はあえて三味線を使わなかったのではなく、高級品で手が出せなかったというのが通説である。風俗営業を伴っていたため公序良俗に反するという理由により禁令が出されて以来、公認の舞台から女性の姿が消え、女歌舞伎も次第に消滅したという。女歌舞伎に次いで人気となったのは「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」で、これは女歌舞伎誕生前から存在し、前髪のある成人前の少年が女装して演じるものだったが、これも男色を売り物としており風紀を乱すとして禁令が出され、若衆のシンボルである前髪を剃り落とし野郎頭になることと、舞台演目は物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件として興行が許可された。これ以後、現代の歌舞伎の原型である「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」が成立し、売色的要素を廃し、本格的に歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(技芸・物真似)を売り物とする芸能としての本道を歩み出した。女人禁制の芸能となったがために「女形(おんながた・おやま)」という役割が確立し、舞踊(所作事)は女方の担当となり、登場人物の心理描写として、仕草や情念などの内面的な「振(ふり)」が盛り込まれるようになった。演技や筋書きが重視され、劇芸術の体裁を整えた元禄歌舞伎において所作事は「狂言の花」といわれ(この狂言は歌舞伎の演目を指す「歌舞伎狂言」のこと)、数多くの名手が現れ、歌舞伎劇の中核を形成する華麗な舞踊劇に成長していった。
この「元禄歌舞伎(げんろくかぶき)」とは、歌舞伎が飛躍的な発展を遂げた隆盛期の江戸・元禄年間(1688〜1704年)の歌舞伎のことで、歌舞伎役者として著名な2者、江戸の初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)によって「荒事」が、上方(京阪神)の初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始された。
「荒事(あらごと)」は、歴史的主題を中心とした荒唐無稽の活劇作品で演じられる、力強く大らかな立廻り(演技)のことで、主人公は隈取(くまどり)という化粧や誇張された衣裳を着け、強いヒーロー役で、見得や六方などの独特の演技を持つ。
「和事(わごと)」は、現実的主題、特に恋愛などを主題とした作品で演じられる、柔らかく優美な仕草や台詞回しのことで、高貴な人物が何らの事情で身をやつしているという「やつし芸」が特徴的で、傾城(遊女)と恋仲になり、勘当され苦労する物語が多い。主役の男性は若くてハンサムで上品な、やさ男が典型であり、荒事とは対照的な、写実的な芸風である。  
また女方の名優として有名な、初代・芳沢あやめ(よしざわあやめ)が誕生し、女方の芸を確立させた。それまで俳優が歌舞伎狂言作者を兼ねていたが、この時代に近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)を代表とする独立専業職としての狂言作者が登場し、数多くの名作が誕生した。また江戸の荒事、上方の和事という芸風はこの後明治期まで続くことになるのだが、近松門左衛門が大坂・竹本座の座付作者として人形浄瑠璃界に戻ってから、享保〜宝暦年間(1716〜1764年)は上方を中心に人形浄瑠璃の全盛期に入り、逆に歌舞伎は低迷期に入った。当時、芸能においてその筋書きを担当する作者は、社会的地位と知名度を得始めたためであり、人気作者の作品というジャンルが出来上がりつつあった。人形浄瑠璃で上演された人気作は次々と歌舞伎化され、義太夫狂言の3大名作「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」が誕生した。また独特の舞台装置「回り舞台」が考案され、再び江戸歌舞伎の全盛期が到来することになる。
江戸時代末期の文化・文政期の頃、4世・鶴屋南北(つるやなんぼく、大南北とも)が世に出たことで、下層階級の世相・人情を生々しく写実的に描き、泥棒などを主人公とした「生世話(きぜわ)物」が確立され、美男の悪人である「色悪」、好きな男性のために悪事を働く中年女性「悪婆」の役が確立し、歌舞伎界は再び勢力を盛り返す。また一人が何役も踊ってみせる趣向の「変化舞踊」も全盛を迎え、引き抜き・早替わりなどケレン味ある演出が多くなった。その後の幕末期、作者として河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)、役者としては7世・市川團十郎が活躍し、また演目では、頽廃した世相を映し、盗賊を主人公にした「白浪物(しらなみもの)」が多く上演された。
明治維新が起きると、西洋化の大きな流れに飲み込まれて大混乱期に入り、西洋の演劇文化に関する情報が次々に入ってくると、歌舞伎の荒唐無稽な筋立て・奇抜な演出(ケレンなど)・興行の近代的でない慣習などを批判する声が上がり、学識者が中心となって見直しがなされ、「演劇改良運動」が展開される。これは、より日本文化を芸術的に高めようとする気運に呼応し、近代社会に相応しい内容に改めるべく提唱された運動である。一般庶民のみならず身分の高い者や外国人が歌舞伎舞台を見物するようになるので、みだらな筋立てを改め、これまで主君忠誠を誓う武士道的精神が尊重されていたものを、天皇中心の尊皇思想に変え、史実を重んぜよというのである。この影響を受け、演劇界に新派(劇)が誕生し、歌舞伎に高尚な要素が望まれた結果、能・狂言に題材を得た「松羽目物(まつばめもの)」や、正確な時代考証を志した「活歴物」が多く誕生し、新しい風俗を描いた「散切物」などの試みも始められた。天皇の観劇を実現させ、明治時代中期の1889年には「歌舞伎座」が開設されるなど歌舞伎の新時代の幕開けとなったのだが、観衆には逆に奇異な印象を与えたためか度々興行に失敗し、結局のところ従来の時代物の修正に留まる程度の変容であった。主眼であった舞台演出(演目・様式など)における成果は少なかったものの、担い手である舞踊家達の「振付」と「演じる」役割が確立し、役者・振付師などの師匠らが独自に公演するようになるなど、9世・市川團十郎の努力により役者の地位向上が図られた。そうした中で「団菊左」と呼ばれる9世・市川團十郎(劇聖)、5世・尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初世・市川左団次(いちかわさだんじ)の3名優が活躍する。正岡子規の句にも登場する一世を風靡した名優たちだが、この時代は「歌舞伎の黄金時代」とも呼ばれ、団菊左を軸に多くの名優を輩出した。明治時代後期から昭和の大戦前まで、演劇改良運動の影響下において「新歌舞伎」と呼ばれる多くの作品が文学者の手により生まれた。代表作は、岡本綺堂「修善寺物語」「鳥辺山心中」、坪内逍遥「桐一葉」「沓手鳥孤城落月」、小山内薫「息子」などであるが、大衆の支持は得られず、今日もあまり上演されていない。
戦後、GHQ(連合国総司令部)による芸能規制の中、親日家フォービアン・バワーズの尽力で歌舞伎は保護を受けたが、人々の生活に余裕が生じ始めると娯楽の多様化が起こり、歌舞伎は娯楽の中心から次第に外れてゆく。社会変動と共に歌舞伎も変動の時代に入るのだが、大阪松竹座・福岡博多座の開場、60年途絶えていた11代・市川團十郎の襲名披露、初の海外公演、日本最古の芝居小屋・香川県琴平町金丸座「こんぴら歌舞伎」の公演開始、3代・市川猿之助の「スーパー歌舞伎」など、様々な試みが始まる。近年は18代・中村勘三郎の「コクーン歌舞伎」、平成中村座の公演、4代・坂田藤十郎の関西歌舞伎の復興のプロジェクトなど、従来の枠組みを越え、時代に相応しい現代的な演劇を模索する活動が現在も活発であるが、受け継がれてきた大胆な手法や舞台などは、歌舞伎以外の芸術にも多くの影響を及ぼしている。  
歌舞伎の成立と歴史を振り返ってみたので、次に芸能としての歌舞伎の概要に触れてみる。
歌舞伎の作品や演目を「狂言」と呼ぶのだが、元来は脚本を指す言葉だったものが転用され、伝統芸能の一つである狂言と紛らわしいので「歌舞伎狂言」とも呼ばれている。成り立ちと内容はバラエティーに富んでおり、上演される作品数は400本余りといわれている。曲の成立から分類すると、現在伝承されている演目は、人形浄瑠璃(文楽)の演目を移植した「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」と、はじめから歌舞伎のために創作された「純歌舞伎狂言(じゅんかぶききょうげん)」とがある。人形浄瑠璃と歌舞伎は同じ時代の演劇で、相互に影響を及ぼし合い発展した足跡として、作品の大半は「義太夫狂言」であり、歌舞伎十八番に代表される「純歌舞伎狂言」には、能・狂言を題材にした舞踊作品「松羽目物」や、前述の「生世話物」「白浪物」などがある。なお義太夫狂言には「丸本物(まるほんもの)」「院本物(いんぽんもの)」「竹本劇(たけもとげき)」など、別称が多く存在する。
歌舞伎舞台は昼の部・夜の部とも3本建ての構成が多く、大抵は「時代物」、所作事(舞踊物)、「世話物」という順で披露される。また公演様式により、複数の演目の有名で人気のある名場面や舞踊などを抜粋し、組み合せて一日の興行にした「見取り(みどり)狂言」と、一日で一つの長編狂言を全編上演する「通し狂言」とがある。なお見取り狂言とは「選り取り見取り(よりどりみどり)」から採った語とされる。
また最も一般的なジャンル分けとして、登場人物の身分階級での分類によると、公家や武家階級(社会)を描き、歴史的事実を演劇化した「時代物」、現代のテレビドラマのような当時の江戸の市井の風俗、町人社会を描写した「世話物」に分けられる。時代物は、飛鳥・奈良・平安の王朝時代を扱った作品を特に「王朝物」と呼び、武家社会の中でお家騒動を扱ったものを「お家物」と呼ぶ。また世話物の中でも江戸末期の文化・文政の頃成立し、下層階級の世相・人情をリアルに生々しく描写したものを特に「生世話(きぜわ)物」と呼び、江戸時代末期、二つ以上の異なる筋を絡み合わせて生じた「時代物」「世話物」の区別ができない作品は「綯い交ぜ(ないまぜ)」と呼ばれている。江戸時代、歌舞伎公演は日出から日没までで全部公演するという幕府統制下にあり、当時創作された演目は比較的長大なものが多く、観客側にしても歌舞伎観劇は一日掛かりの行楽であった。集まった観客の様々なニーズに応え、楽しませることが歌舞伎公演に求められ、複雑な場面展開をみせる「綯い交ぜ」や、良いとこ取りの「見取り狂言」が誕生したという。観客を飽きさせず好奇心を満たすため新作を創作し、また視覚・聴覚を駆使させる奥行き・高さを利用した「花道」「セリ」「宙乗り」などの舞台装置は、歌舞伎を高度な演劇へと進化させ、引き幕を利用し時間を区切る演出は、時間の流れを物語の中に自然に導入する効果を得、複雑な展開を可能にした。もう1つ、明治維新以前の歌舞伎と人形浄瑠璃における特殊な作劇法として「世界」に則って狂言を作るという約束事があり、「平家物語の世界」「曾我物の世界」などがある。「世界」とは、演目の背景にある物語の土台となる基本的な枠のことで、既存の名高い伝説・物語・歴史上の事件などを題材にした演目(世界)の中に、物語の展開、当世風の人物や風俗を織り込むなどの戯作者による工夫・趣向などを観客が楽しむ構造が出来上がった。当時の為政者である江戸幕府の統制に配慮して実名を伏せ、別の人物として演じられたことから生じたものだが、初心者には理解し難い設定・展開のものに発展し、荒唐無稽の域に入るような、良く言えば超時代的な趣を現出するものとなった。現在創作される歌舞伎狂言は世界を持たないため、世界が現出していたミステリアスな魅力は無くなったが、逆に初心者にとって話の筋を理解し易くなったとも言える。  
次に、演者(役者)を離れ、舞台を支える別の要素について、角度を変えて見てゆくことにする。
歌舞伎は字面通り、歌・舞・伎の3つの要素が相まって出来ている。すなわち歌あり・踊あり・芝居(芸)ありの舞台であり、踊は「歌舞伎舞踊」の項を参照していただくとして、まず「歌」の部分に入る。
先述の通り、歌舞伎用に作られた演目・人形浄瑠璃から転用した演目・舞踊(所作事)とあるため、各分野に各々適した音楽を持ち、音楽も多彩になっている。大別すると、歌い物である「長唄」、語り物である「浄瑠璃」になる。以下それぞれの特徴を並べてみる。
長唄(ながうた)江戸時代初期の17世紀前半に上方から江戸に伝わり、歌舞伎専用の音楽として江戸で発達した三味線音楽で、「江戸長唄」とも呼ばれる。「細棹」という三味線を用い、高い音色で繊細な音を出すため「勧進帳」「連獅子」など、舞踊要素の強い演目で演奏されることが多い。BGM・伴奏・効果音を担当し、黒御簾(舞台上の専用の場所)で情景や情緒描写を行う重要な役割を持つため「黒御簾音楽」「下座音楽」と呼ばれている。歌舞伎舞台・演目への深い理解、役者の所作(演技)や舞踊の型などの熟知を要するため重要無形文化財に指定される「人間国宝」と呼ばれる奏者も存在する。
義太夫節(ぎだゆうぶし)三大義太夫狂言である「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」をはじめ、人形浄瑠璃から移入した「義太夫狂言」で演奏される。上方で発展した音楽で、「太棹」という三味線を用いるが、通常より音色が太く・低めで重厚な感じが特徴である。歌舞伎の義太夫節の太夫は状況説明を語るのみなので、浄瑠璃と区別して「竹本」(チョボ)と呼ぶ。主に義太夫には舞台上手の専用の場所「床」で演奏するが、舞台に置かれた台に座って演奏する「出語り」「出囃子」という形式も場合ある。
常磐津節(ときわずぶし)義太夫同様、浄瑠璃の一つで、語り物である義太夫に近いが、セリフ回しを要する。「豊後節(ぶんごぶし)」から発生し、江戸で発展したため「江戸浄瑠璃」と呼ばれる。舞踊劇や舞踊の伴奏として「出語り」形式を採り、「中棹」という三味線を用いるが、義太夫節に比べると軽妙な音色が特徴。「関の扉」「将門」「身替座禅」など。
清元節(きよもとぶし)常磐津節と同様、豊後節系浄瑠璃であり成立は最後だったが、極めて粋で軽妙な音楽として愛好され、舞踊劇や舞踊の伴奏として「出語り」形式を採る。浄瑠璃の中でも歌い物に近く、常磐津節と同じ「中棹」という三味線を用いるが、より繊細な持ち味を備える。江戸浄瑠璃の精髄とも言われ、大変高い音域で、技巧的に語るのが特徴。「隅田川」「落人」「保名」など。
上記の他にも河東節・新内節・大薩摩節などが使われる演目があり、また流派単独の演奏のみならず、1演目で各流派が順に演奏・合奏をするものもある。長唄・義太夫節・常磐津節が合奏するものは「三方掛合い」と呼ばれている。  
次に歌舞伎の特徴的なものを挙げるなら、派手な衣装(扮装)と化粧だろう。特に隈取(くまどり)は歌舞伎独特の化粧法で、元々は顔の血管・筋・筋肉を誇張して表現したものである。江戸・元禄時代の頃から俳優達により工夫され、大別して50種類位あるといわれる。紅隈は善・勇敢・若々しさを表し、藍隈・墨隈・代赭隈(茶)は陰気な凄み・邪悪さを表し、悪役や妖怪に用いられる。古来、化粧や刺青が呪術的意味を持っていたことは知られているが、めでたい字・図柄を描いた隈取もあり、これには招福・厄除祈願があるようだ。役者によりアレンジされたり、同じ役でも場面での感情変化により、隈取が変わることもあり、役者は見なくても隈をとる(描く)ことができると言われている。
また衣装もかなり豪華絢爛であり、能装束などと同様、ほとんど絹で作られている。特にスーパーヒーローなど超人役に用いられる、誇張されたデザインの衣装・髪型などは異様に大きかったり、尋常でなく奇抜なものだったりするので、素人目にも役柄が比較的判り易い。人物が変身する際の衣装変化も舞台上で行われるので視覚的に面白く、上半分の衣装をひっくり返す「ぶっ返り」や、瞬時にして他の役・扮装に替わる「早替り」など、「外連(ケレン)」とともに見どころの1つとなっている。
一般的にいう歌舞伎として歌舞伎舞台上のものを主体に挙げてきたが、それ以外に日本各地の農山漁村に伝承されている、祭礼の奉納行事などで地域住民が行ってきた「地芝居(じしばい)」「村芝居」「農村歌舞伎」などと呼ばれるものがある。この発祥は古く、義太夫狂言が成立する以前の、江戸時代の18世紀初頭には行われており、当時専門芸人が地方に巡業して来る「旅芝居」「買芝居」などの影響を強く受けて誕生したとされ、演目や形式などにその影響の跡が見られる。幕府統制下、素人が歌舞伎を行うことは大義名分が必要で、多くは「法楽芝居」として祭礼の奉納目的で行われたり、雨乞祈願などの名目で行われたため、為政者側も黙認出来たようだ。現在、歌舞伎保存会などを称する地芝居は全国に少なくとも130以上あると言われ、地域独自の演目や、ほとんど見られなくなった古い演目、珍しい型(演出)なども継承されている。  
さて最後になるが、歌舞伎独特の世界を理解するために、役者に対する基礎知識は必要不可欠だろう。現在活動中の主な役者の中でも名跡と呼ばれる有名なものを幾つか挙げてみたいと思うが、その前に、役者の屋号について少し触れておく。
屋号の由来は様々あるのだが、何故屋号が用いられるようになったかを探ると、江戸時代の身分制度下、役者達は階級外の河原乞食であり、芸が認められ商人身分が与えられると、経済力もあったため挙って表通りに住み、○○屋と名の付いた商いを始めたことから、役者の間で屋号で呼ぶことが流行したことに因るとされる。歌舞伎観劇中、見せ場で観客から飛ぶ「○○屋!」という「大向う」と呼ばれる掛け声に用いられる屋号を知っていれば、観客側の反応が理解し易くなるかもしれない。
「大向う(おおむこう)」とは、元来3階席の後ろの席を指す言葉であったが、席代が安くて天井に近い分声が通るとされ、常連の芝居通が座ることから、掛け声と、掛け声を入れる者も含めて「大向う」と呼ばれるようになった。掛け声は屋号以外にも様々あり、場面に即した言葉を、役者の合いの手のように絶妙のタイミングで入れるのは至難の業である。誰でも掛け声を掛けるのは可能であるが、しっかり気合を入れた声で、演目や役者についてそれなりに知識を持って声を入れないと、舞台の間や雰囲気を乱すことにもなり兼ねない。大向こうが絶対必要な演目があったり、大向うでも会に属して力がある者などは「木戸御免」という無料で観劇できる特権を持つなど、その果たす役割は意外に大きい。
以下、役者を列挙してみたが、これ以外にも数多くある。全て挙げられず申し訳ない気もするのだが、興味のある役者に関してはお調べいただければ幸いである。
市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)家屋号は成田家(なりたや)、定紋は三升で、市川宗家とも呼ばれる歌舞伎界最高の名跡であり、江戸歌舞伎の指導者的存在として君臨してきた。歴代の名優のうち、「荒事」を創始した初代、「劇聖」「団菊左」と呼ばれた9世が特に有名である。
尾上菊五郎(おのえきくごろう)家屋号は音羽屋(おとわや)、定紋は重ね扇に抱き柏で、市川宗家と同様、250年以上の歴史を誇る名門である。9世・市川團十郎と共に「団菊左」と呼ばれ、「散切物」のジャンルを拓いた5世が特に有名である。
中村歌右衛門(なかむらうたえもん)家屋号は成駒屋(なりこまや)、定紋は祇園守(中村歌右衛門)、イ菱(中村鴈治郎)で、4世から江戸に出た中村歌右衛門家と、大阪の中村鴈治郎(なかむらがんじろう)家に分かれる。3世・中村鴈治郎は、「和事」を拓いた上方の名優・4世・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)の名跡(屋号は山城屋、定紋は星梅鉢)を200年ぶりに継ぎ、人間国宝である。
坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)家屋号は大和屋(やまとや)、定紋は三ツ大(坂東三津五郎)、花かつみ(坂東玉三郎)。人気の女形である5世・坂東玉三郎(現)が特に有名。
片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)家屋号は松嶋屋(まつしまや)、定紋は七つ割り丸に二引きで、京都を本拠とする歌舞伎界の名門であり、15世(現)は坂東玉三郎との「孝玉」コンビで有名である。10代目以降は「我童家」と「我當家」が交互に名跡を継ぐ慣わしである。
松本幸四郎(まつもとこうしろう)家屋号は高麗屋(こうらいや)、定紋は四つ花菱で、日本舞踊松本流の宗家でもある。市川團十郎家の弟子筋にあたり、市川宗家に子が無い場合、養子を出した。
市川段四郎(いちかわだんしろう)家屋号は沢瀉屋(おもだかや)、定紋は三つ猿で、早変り・宙乗りなどケレンを得意とする。4世・市川段四郎の兄である3世・市川猿之助(現)は、「スーパー歌舞伎」で現在有名である。
中村歌六(なかむらかろく)家屋号は萬屋(よろずや)、定紋は桐蝶で、大正・昭和の名優と謳われた初世・中村吉右衛門(播磨屋)や17世・中村勘三郎(中村座)この家系から出ている。4世・中村歌六(現)は市川猿之助劇団で活躍中である。
沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)家屋号は紀伊国屋(きのくにや)、定紋は丸にいの字で、元禄時代から続く歌舞伎界の名門であり、退廃的和事が芸風である。幕末の天才的な女形として有名な、脱疽で手足切断に遭いつつも舞台に立ち、発狂して死んだという3世・沢村田之助は特に有名である。
 
歌舞伎2

徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603年)5月6日に新上東門院(後陽成天皇の母)の御所で、阿国が「かぶきおどり」を踊りました。
このときの踊りは出雲大社の巫女と称した彼女が、出雲大社本殿修復のための勧進として京の北野神社境内や五条河原で踊っていたものでした。念仏踊りの一種と言いわれますが宗教性は乏しく、伴奏楽器に笛・大鼓・小鼓・太鼓を用いて能舞台で演じるなど能の様式を踏襲した雑芸で、歌舞的要素の強いものでした。
「当代記」は「異風なる男のまねをして、刀脇差殊異相、彼の男茶屋の女と戯る体、有難くしたり」と記しており、彼女はキリシタンの風俗を取り入れ、ズボンのようなものを穿いて首に十字架を下げ、刀を腰に差し、男装をして「かぶき者の茶屋通い」を演じました。
阿国のこの踊りが歌舞伎の始まりとされているのはご存知の通りですが、「ややこおどり」に巫女舞などを交えたものをアレンジし、風俗的な流行唄を取り入れた即興的な歌舞でした。
阿国の歌舞は「かぶきおどり」や「阿国かぶき」などと呼ばれました。「かぶき」は、尋常でないもの、つまりは流行の先端を行くような異様な姿を表現する動詞を名詞のように用いて、当初は仮名で「かぶき」と書き、漢字で表記する場合は「傾奇(かぶき)」と書いていました。それを朱子学者の林羅山(1583〜1657)が「歌舞妓」(芸妓の「妓」)と当て字したといい、江戸期を通じてこれが用いられたのです。今日のような、文字通りの歌(音楽)と舞(舞踊)と伎(伎芸)を意味する「歌舞伎」と表記されるようになったのは明治になってからのことです。
この「異風異装」の「阿国かぶき」はたちまち評判となりましたが、このころの阿国は30歳を過ぎていたと思われ、当時としては女の盛りを過ぎていましたから、同じころ北野神社の境内で能を演じていた遊女浮舟にパトロンを奪われ、「遊女歌舞伎」の人気に押されて京を離れることになってしまいます。慶長12年(1607年)には江戸に現れて城中で勧進歌舞伎を演じ、慶長17年(1612年)に再び京に登場して、希代の色男だった名古屋山三が幽霊になって登場する「新しきかぶき」を演じますが人気の挽回はならず、既に40歳をも越えていたと推定される阿国のその後の足取りを伝える資料は残っていません。
遊女歌舞伎
「阿国かぶき」が評判を呼ぶと、六条三筋町の遊郭の楼主たちは阿国一座の人気にあやかろうと遊女に男装させ、伴奏楽器に伝来して間のない三味線を用い、五条の河原に替わって新しい遊興地となった四条河原で贅を凝らした艶やかな「かぶき」を演じさせました。
阿国一座の「かぶき」は数人で演じられたと思われますが、「遊女歌舞伎」では、「慶長見聞集」によれば「形たぐひなふとやさしきかほばせ、あひあひしく、こものこびをなし、花の色衣をひきかさね」て二三十人が群舞したといい、「孝亮宿禰日次記」は「向四条女歌舞妓令見物、数万人群衆、驚目者也」と記しています。「数万人」は大勢を表す慣用的な表現としても、その人気が異常なほどであったことが窺えます。
遊女が白粉の匂いをさせてかぶき踊りを演じていたころ、同じ四条河原で少年たちに女装させた「若衆歌舞伎」も行われていました。
古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」という名で括られて演じられていました。この延年は、稚児(ちご)が出るのが特色で、少年が芸能を演じることは珍しいことではありませんでした。しかも延年(鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた)の児舞(ちごまい)を舞った少年が僧侶と同衾することも行われていたといい、女性の芸と同様に少年による芸も、女色・男色の売色を伴って中世から引き続いて行われていたのです。
寛永6年(1629年)の「女芸の禁」によって伴奏を担当する地方(ぢかた)を含むいっさいの女性が舞台に上がることが禁じられ、これ以降、明治24年(1891年)に新派が「男女合同改良演劇」を行うまでの260年余の間、公認の舞台からは女性の姿が消えることになりました。とは言っても女芸が絶えたわけではなく、あくまで公には禁止されたということに過ぎません。
遊郭を公許として遊女を囲い込み、女芸を禁じたことで、楼主が座元になった「遊女歌舞伎」は姿を消しましたが、化粧をして女と見紛うばかりに艶やかとなった若衆たちの間に女が混じる「男女打交り狂言」が行われるようになり、客の求めに応じて若衆が、或は遊女が酒席に侍り、枕を共にしたのです。寛永17年(1640)になっても幕府から「先年申渡候、男女打交り狂言尽し停止候処、又々相始候趣相聞、不埒に付き、以後は厳重に申付候旨触渡さる」(伊原敏郎著「歌舞伎年表」)との触書が出されています。たぶん、実際には、幕府がたびたび触書を出さなければならないほど女芸は行われていたのでしょう。お上が発した一つの禁令で消えてしまうほど、庶民の芸能(或は文化)はひ弱ではありませんでした。
当初の歌舞伎は芸能であると同時に、今日言うところの風俗産業でもあったのであり、江戸期を通じて歌舞伎と遊郭は二大娯楽であり続けました。
風俗産業といえば、明暦3年(1657年)に湯女風呂が禁止されています。
既に見たように、これに先立って遊女歌舞伎や若衆歌舞伎の禁令が出されていて、幕府は一連の性風俗の取り締まりを行っているかに見えますが、元和3年(1617年)には元吉原遊廓(現在の地下鉄人形町駅あたり)が公許されていて、規制の見返りに遊郭の楼主に特権が与えられ、幕府は禁止するのではなくて管理支配することを目的としていることがわかります。公許遊郭を設けることで「隠し売女(かくしばいじょ)」を名目的には禁止しましたが、実情は野放しと言ってよく、江戸深川、京都祇園、大坂島之内などの私娼街が江戸期を通じて拡大したのも、ご存知の通りです。
歌舞伎は「たかき御身、老翁、墨染の身」、つまりは公家・武士・僧侶などにも受容されていた芸能文化でした。当初吉原で認めていた遊女歌舞伎を禁止し、また若衆歌舞伎をも禁止したのは、広範な階層の人たちの間に浸透していた歌舞伎が関わる場(空間)は、遊郭や湯女風呂と同様に、管理されるべき悪所だったからです。
若衆歌舞伎
女芸の禁令を繰り返していた幕府は、三代将軍家光の死去で本格的に「悪所」の統制に乗り出します。遊女を公許遊郭に閉じ込めて後に遊女歌舞伎を禁止して廓文化を統御し、若衆歌舞伎を禁止して、武士が衆道(男色)に関して「不穏な輩」と交わる機会を消そうとしました。
たとえどのように規制されようと加えられた圧力を生命力に転化して強かに生き延びようとするのが民衆の文化です。若衆歌舞伎が禁止された翌年の承応2年(1653年)には、「前髪を剃ること」と「歌舞を控えて物真似狂言尽くしとすること」を条件に歌舞伎は「再御免」となっています。
1657年(明暦3年)に幕府の膝元を焼け野原にする明暦の大火(俗にいう「振袖火事」)が起こり、一説には死者10万人余という空前の被害を出して江戸は灰燼に帰しました。しかし、これを機会に江戸の大改造が行われ、治安の維持に配慮した町づくりがなされて、徳川幕府の下で、世情も安定を見せるようになりました。民間芸能にも変化は避けられないものとなり、「悪所」の歌舞伎は演劇的に成長することでその悩ましく艶やか魅力を留めながら生き残ろうとしました。1624年に猿若座(中村座)、1642年に山村座、1660年に森田座、1671年に村山座が開場して延宝年間(1673〜1681)には公許四座が確立し、堺町・葺屋町・木挽町が芝居町に指定されて規制と特権の中で「野郎歌舞伎」は「物真似狂言尽くし」への転換を見せつつ元禄期を迎えていったのです。
江戸が明暦の大火からの復興を急いでいたころ、上方の歌舞伎の規制は江戸ほどではありませんでした。既に公家や朝廷に対する統制が完了していて、幕府は世情への警戒を強める必要がなかったからではないかと見られていますが、依然若衆歌舞伎が演じられていたばかりか「男女打交り狂言」も行われていました。ところが、理由は定かではありませんが(江戸の規制に倣った?)、寛文元年(1661年)に一切の歌舞伎が禁止され、同9年までは演じることができなくなりました。
野郎歌舞伎となって再開されると「傾城買狂言」とか「島原狂言」と呼ばれている、島原遊郭(西新屋敷1641年に六条三筋町より移転)に傾城(遊女)を買いに行く、郭案内のような話が演じられました。内容は、名前を若衆から野郎に変えただけの、相変わらず若男の容色を売り物にした衆道(男色)狂言でしたが、それも年号が寛文から延宝へと変わるころになると変化が見られるようになり、容色だけの若男よりも女方が人気を得るように、つまりは女よりも女らしく演じる芸が評価されるようになっていきました。
そして延宝6年(1678年)2月に坂田藤十郎(1647〜1709)が「夕霧名残正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)」という、この年の正月に病没した大阪新町の遊女夕霧を悼む狂言で藤屋伊左衛門役を演じて「和事(わごと)」の基礎を作り、上方の歌舞伎も元禄期の賑わいを迎えていったのです。  
女方
「女形」「女方」と、両方書きますが両方とも誤りではないようです。歴史的には、「男方」と対になる「女方」の方が古く、女性を模倣する演技者としての職能意識が強まった延宝以降「女形」とも記すようになりました。女形と書いて「おやま」と読むのは立女形とか若女形とか前に形容する詞が付いた時に限られ、単に女形と書く時は「おんながた」と呼ぶのが正しい様です。この「おやま」は、承応年間に江戸の人形遣い「おやま次郎三郎」という人が。女形の人形を巧みに使いこなした名手であった所から、人形遣いの苗字の「おやま」からこの名前が伝えられるようになったということのようです。
肩書きに「男方」「女方」と区別をつけたのは、京阪の地から起こっていますが、その女方の始めは糸縷(いとより)権三郎という役者であったといいます。また、江戸では、京都の村山左近という役者が、境町の村山座の舞台へ現れたのが始めとされ、練絹の衣装を着けて、頭には染色の手拭いようの長い物を冠り、造花に短冊のついた枝を持って踊ったと書かれています。
初期歌舞伎は、男装のかぶき者と男性芸人が女装して演ずる遊女とによる「茶屋あそびのまなび」が中心でした。
「さてもふしきのよのなかにて、おんなはおとこのまなひをし、おとこはおんなのまねをしてちやのかかにみをなして、はつかしかほにうちそはめものあんししたるていさてもさてもとおもはておもしろしともなかなかに、こころこともなかりけり」(かぶき草子)
というように、現実の性と舞台の性を完全に逆転させての濃厚な性愛的内容でした。その後、女性が舞台に上がることを禁じられた結果、男が女を演ずるという事実そのものには変わりはなかったのですが、性愛的表現の対象となる女によって演じられていた男は、男が演ずる男となり、男に対して男が自己を異性化するという世界を創らなければならなくなったのです。
元禄前後の女方役者は、舞台の上の起居振舞はもとより平素の生活にも女性の行いを学んで、すべてを女に成りきることに心がけました。岩井左源太、早川初瀬、澤村小伝次は女方の三幅対と呼ばれ、更に後になっては、水木辰之助、芳澤あやめ、荻原澤之丞、袖崎歌流などが女方の四天王と呼ばれて女方の完成期が訪れました。
芳澤あやめ(1673〜1729)は、道頓堀の色子の出身で、元禄期の若女方の芸の基礎を築いた名優です。男である自分を自覚して、男が舞台に女を表現することこそ女方の務めであると考えました。
「あやめ草」に、女方の芸事の秘事口伝を伝えています。
「女形はけいせいさへよくすれば、外の事は皆致しやすし。其のわけはもとが男なる故。きつとしたることは生まれ付いて持てゐるなり。男の身にて傾情(けいせい)のあどめもなく、ぼんじゃりとしたる事は、よくよくの心がけなくてはならず。さればけいせいにての稽古を、第一にせらるべしとぞ」(あやめ草)
傾城は、日常的ないっさいの生活臭を感じさせない、風流で、鷹揚で、様良き非現実的な、男の目が作り上げた女の理想像です。つまり、男心をそそるように、作為的に作り上げられた女です。
あやめは、女方は男であるという自覚のうえで、男が女になるための目標を、日常を超越した傾城の「あどめもなく、ぼんじゃりとしたる」在り方としたのです。
「女方は色がもとなり、元より生れ付てうつくしき女形にても、取廻しをりつはにせんとすれば色がさむべし又心を付て品やかにせんとせばいやみつくべし。それゆへ平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし。ぶたいへ出て爰(ここ)はをなごのかなめの所と思ふ心がつくほど男になる物なり。常が大事と在るよし、さいさい申されしなり」(あやめ草)
性転換では、男であることを拒否した一人の女の肉体を作るのみで、それだけで女を成り立たせることはできません。女方は、平生を女の心で暮すこと、女の情を知り、それを体得して、自分の心を女の心に同化させることです。ここが要というところで意識しなければ女の情が表せないようでは、「上手の女形とはいはれがたし」なのです。
役柄
花車方/ベテラン女方の務める役で、初期の歌舞伎の廓通いの演出から発展した役。恋の仲立ちやもめごとをうまく解決する役柄。芝居の重要な部分を担う。「菅原」の覚寿、「盛綱陣屋」の微妙(みみょう)、「ひらかな盛衰記」の延寿など。この三人を「三婆」と呼ぶ難しい役。
娘方/いわゆる若い女性の役。
赤姫(あかひめ)/武家のお姫さま。お姫様は華やかな赤い振袖を着るためこう呼ばれる。また恋焦がれる情熱的な内面も表す。緋綸子の振袖、打掛も縫い取りの赤、吹き輪という鬘に銀の花櫛。「本朝二十四孝」の八重垣姫、「鎌倉三代記」の時姫、「祇園祭礼信仰記」の雪姫は三姫と呼ばれる。「桜姫東文章」の桜姫は赤姫だが、後に風鈴お姫というあばずれ女となる。
町娘/商家の娘。黄八丈に黒襟なども町娘の拵えのひとつ。「髪結新三」のお熊など。
田舎娘/都会の若衆に恋する田舎の純朴な娘。浅葱色や納戸色などの中振袖。「妹背山」のお三輪、「千本桜」のお里、「野崎村」お光、「神霊矢口渡」お舟など。
傾城(けいせい)/吉原など遊郭の女たち。太夫など位の高い遊女のことを指す。江戸時代の傾城は洗練され教育も受けたハイレベルな女であるため、色気、品位が必要となる。伊達兵庫(立て兵庫)とよばれる鬘に櫛笄を何本も差し、豪華な打掛に俎板帯(まないたおび)をつける。花道などで花魁道中を見せることもあり、三枚歯の木履で八文字を描くような歩き方が特徴。「助六」の揚巻、「籠釣瓶花街酔醒」の八ツ橋、「曾我の対面」の大磯の虎など。
女房役/武家や商家の女房。
片はずし/武家の奥方や局、武家に仕える奥女中や乳人。立役に匹敵する立女方(たておやま)の役どころ。鬘は片はずしというもので、堅実で誠実な、辛抱立役にも似た分別わきまえた大人の女性。「先代萩」政岡、「鏡山旧錦絵」の尾上など。
世話物の女房/貞淑な武家の女房で、夫や親に誠を尽くす。石持(こくもち)という衣裳が特徴。世話物では丸髷に小紋などの商家の女房役が多い。納戸、栗梅などの無地の着物に黒襟、丸帯という地味めの衣裳。「菅原」の戸浪、「傾城反魂香」のおとく、「心中天網島」おさんなど。
悪婆(あくば)/といっても年寄りではない。男を破壊させるような独特の魅力をもった女性。いわゆる毒婦。ゆすりたかりなお手の物で殺しまでやるときも。主家のためではなく、好きな男のためというかわいいところもある。伝法でちょっとべらんめえ、男と対等に渡り歩くたくましい女でもある。ポニーテールにも似た馬の尻尾という鬘に茶、藍の弁慶格子の着物、半纏などひっかけていたらこの役。「お染の七役」土手のお六、「切られお富」など。
女武道/女性で武道を得意とする男まさりの役。男なみに力のある、動きの激しい役。「彦山権現誓助剣」のおその、「和田合戦女舞鶴」の板額、「鏡山」のお初など。  
あやめ艸/女形
よし沢氏は古今女形の上手なる故、あれ是へはなされしことを聞伝へ、又は自分にも尋ねて書置ける事三十ケ条に成ぬるまゝあやめくさと名づけ此道のしるべとしふかく秘して人にもらさず其ケ条左のことし
一 或女形よし沢氏に聞けるは、女形はいかゞ心得たるがよく候や。よし沢氏のいはく、女形はけいせいさへよくすれば、外の事は皆致やすし、其わけはもとが男なる故、きつとしたることは生れ付て持てゐるなり、男の身にて傾情(けいせい)のあどめもなく、ぽんじやりとしたる事は、よくよくの心がけなくてはならず、さればけいせいにての稽古を、第一にせらるべしとぞ。
一 歌流(かりう)もとは香龍と書たるを、女形の名にはつよすぎたる龍の字と、よし沢ゐけんにて歌流と書替られたり。歌流あるとき狂言の仕様を尋られしに、よし沢氏日、家老の空席にて敵役をきめる時、武士の妻なればとおもふ心あるゆへ、刀のそりを打事かならずりつはなるものなり。武士の女房なればとて、常に刀をさす物にあらねば、刀の取まはしりゝし過たるは下手の仕内なり、刀をおそれぬといふ斗が仕内なり、何としてかとしてとゝいふてぶたいをたゝいてつかに手をかくるは、ぽうしかけたる立役なるべしと、度々申されしとなん。
一 吉沢氏の日、女形の仕様かたちをいたづらに、心を貞女にすべし、但し武士のつまなればとて、ぎごつなるは見ぐるし、きつとしたる女のていをする時は、こゝろをやはらかにすべしとぞ。
一 中の嵐三右衛門吉沢氏と夜ばなしの時、とろゝ汁を出されければ、吉沢氏箸を取かねられたり、三右衛門いはく女形は此たしなみなくてはさてさてわれらあやまり入たり、昼夜心易く致すゆへとの存ちがへとわびことをせられしよし、後に片岡氏に三右衛門あひて、あやめは名人なりと申されしは、かゝることまでに、たしなみふかかりしゆへなり。
一 十次郎申されけるは、女は右の膝をたて男は左の膝を立る、あゆみ出しもおなじ事とぞ、弟子へおしへられしもその通りなるを、吉沢氏ひそかにゐけんせられけるはそれは其通りなれども、見物衆の方へむかふ方のひざをたてず、又見へによるべし理屈ばかりにては歌舞妓にあらず、とかく実とかぶきと半分半分にするがよからんとぞ十次郎もそれより見へしだいにせられしなり。
一 武士の女房に成て刀を取廻す事、大勢に取こめられ、たとへばお姫さまをかばふての仕内には、いかにも男まさりに刀をさばくべし、こゝを大事と忠義の心せまるときは、さすがものゝふの妻なり、座敷にて敵役をきめるは、いまだせんのつまりにあらず、刀さばきおだやかなれかしと、さいさい玉柏への咄なるを聞たり、これは玉がしは大勢に取こめられたる仕内、かひなき故の異見とみへたり。
一 女形は色がもとなり、元より生れ付てうつくしき女形にても、取廻しをりつはにせんとすれば色がさむべし又心を付て品やかにせんとせばいやみつくべし、それゆへ平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし、ぶたいへ出て爰はをなごのかなめの所と、思ふ心がつくほど男になる物なり、常が大事と存るよし、さいさい申されしなり。
一 敵役をきめつけることは、まづは女形の役にはめいわくなる事と思へども、狂言の仕組によりていやといはれぬばあれば、其役を請取る事なり、かたき役をきめて勝(かち)をとれば、見物衆はさてもよいぞと、その女形を誉るものなり、これにくしにくしと思ふ敵役を、よはかるべき女がきめるゆへ、うれしがるはづにてはあれども、これに乗て見物へのあたりをこのみ、又してもまたしても此格な事をしたがるは女形の魔道なり、つゐには筋道へゆかぬ役者に成べしとぞ。
一 あやめ十次郎へ申されしを聞てゐたるに、さりとは新物のうけもよくてめでたし、しかしおかしがらする心持を止め給へ、仕内にてしぜんとおかしがるはよし、おかしがらせんとするは女の情にあらずとなん、十次郎少シはらをたてられたる躰(てい)なるが、其のちわれらにあふて、あやめは此道のまほり神と存ると申されしなり。
一 女形にて居ながら、立役になつたらばよからふといはるゝは恥のはぢなり、女形より立役へなをつて、立役にてともかくもよいといはるゝは、女形の時はわるかるべし、立役に直つてあしきは、女形の時よかるべしと、常に申されしが、あやめ立役になられてはたしてわるかりしなり、女にも男にもならるゝ身は、もとになき事故とかんじ侍りぬ。
一 女形にて大殿の前へ出、夫に成かはつて、事をさばくといふやうなる、女家老の役あり、いかにもしつかりとせぬ様にすべし、しつかりとしては男の家老がぼうしを着たるに成べし、申ても大勢立合の所へ、いかに家老の女房なればとて、心おくせぬ理はなし、身もふるふほどにあぶなあぶなかゝり、敵役がどつとつゝこんだ悪言をいふた跡にて、それよりきつとすべし、女は其場に成てはおとこよりいひ度ことをいふものなり、但、少は上気したるていにて、狂言をすべしと申されし。
一 女形は貞女をみださぬといふが本体なり、是を以てほんの女とおなじ道理を合点すべし、いかやうに当りの来べき狂言にても断いふべし、女形より役をいぢるといふは此場が第一なるよし、若き衆へ咄されしなり。
一 藤十郎と狂言する時は、ゆつたりとして大船に乗たるやうなり、京右衛門と狂言する時は、気がはつて精出さねばならず、三右衛門と狂言する時は、ひつはつてせねば間がぬけたがるといふ事、さいさい申されしなり。
一 人の金をかへさずはらひもせず家をかい、けつこうなる道具を求め、ゆるゆると暮す人と、相手のそこねる事をかまはず我ひとり当りさへすればよいと、思ふ役者が同し事なり、金をかしたる人何ほどか腹をたつべし、相手になる役者、みぢんに成ことなれば、つゐには身上のさまたげともなるなりと申されし。
一 左馬之助申さるゝは、まりをけるやうに、相手へのわたし方を専(せん)にするがよしと、あやめ申さるゝは、鞠を蹴る様に渡し方を専にはしがたし、相手をそこなはぬやうにするといふは、我が当りをと心がけぬことなり、上手に成るやうに精さへ出さば、一場のあたりはなくとも、全躰の人がらにあたりあるべしとなん。
一 あやめ申されしは、我身幼少より、道頓堀にそだち、綾之助と申せし時り、橘屋五郎左衛門さまの世話に成たり五郎左衛門さまと申は、丹州亀山近所の郷士にて有徳なる御人、いかふ筋目ある人なりしが、能をよく被成たり、親方は三味線方にてありしゆへ、さみせんに精出せと申さるゝあいあいに、五郎左衛門さまを客にするこそ幸なれ、何とぞ能をならひおけと申されし故、二三度も頼たれども、五郎左衛門さまとくしんなく、女形の仕内に精出すべし、大概人に知らるゝ迄は、外の事むようなり、それに心があれば本体の仕内の心がけが外に成べし、其上能といふものは、なまなかに覚ては狂言の為あしかるべし、なぜになれば、仕内はぬらりと成、又しても所作事が仕たく成らんか、かぶき方の舞をもよくこなしたるうへに、能もして見たくば、かつて次第とてをしへ給はらざりしなり、其のち五郎左衛門さま世話にて、親方を出、三右衛門どの取たてにて、吉田あやめと、我身よし沢あやめにて、一度に出、吉田に仕まけぬる事度々なりしが、吉田は北国屋さまといふ御方に、能事を少シ習ひしゆへ、能仕立の所作をもつて、さいさい当りをとらんとせられしに、わが身は又地の仕内にのみ骨を折て勤し、いつとなくわが身名をしられ、吉田はとりあへぬる人もなく成て、今は役者もやめたり、さてこそ五郎左衛門さまの言葉思ひ当りたり、此心わすれがたく、我身家名を橘やとつき、五郎左衛門さまのかへ名をもらひ権七とつきたるよし、ひそかにはなし申されし。
一 下手を相手に取たる時、その下手を上手に見する様にするが、藝者のたしなみなり。
一 仁左衛門方へふるまひに行しに三八わが身に向ひ、申はいかゝなれども、ちと新町へ御出候て、太夫のてい御らんあるべし五年まへとは大きにもやう替りたりきさまのなさるゝは五年まへの太夫の躰(てい)なり、只今はよほどそれよりはおちたる風なれども諸見物それを見てゐる故、風があふのあはぬのと申よしとのこたへに、御ゐけん添ししかし太夫は高上なるがよし、たつた五年の間にそれほど風俗が替りたらば二十年まへはとつとうんしやうなるべし、よき御異見にて心つきたり、五年まへをのりこし、二十年まへの風に致度候けいせいは古風にてだてなるがよし茶やふろやは当世過てするがよし、此心得より外はなしと申たれば、仁左衛門どの茶やふろやは当世過たるとある、過たるの言葉かんしんと申されしとあやめのものかたりなり。
一 仕内が三度つゞいてあたると、その役者は下手に成ものなりと、若き衆へ申されし、当りたるかくをはづすまいとするゆへ、仕内に古びがつくと見えたり。
一 女形はがく屋にても、女形といふ心を持べし、弁当なども人の見ぬかたへむきて用意すべし、色事師の立役とならびて、むさむさと物をくひ、やがてぶたいへ出て、色事をする時、その立役しんじつから思ひつく心おこらぬゆへたがひに不出来なるべし。
一 女形は女房ある事をかくし、もしお内義様がと人のいふ時は顔をあかむる心なくてはつとまらず立身もせぬなり子はいくたり有ても我も子供心なるは、上手の自然といふものなりとぞ。
一 あやめ申されしは、頃日(このごろ)天王寺へ花の会を見に行しにいろいろのめづらしき花共あり、したが今は梅のさかりなり、梅はめづらしからずとて、ゑもしれぬ珍花共ありて見物の衆手を打てめづらしがりぬるに、我身は梅花をよく立たるにのみ心とまりたりありふれたる花にて仕立の上手なるをかんじぬ、仕内もその様な物にて、女形は女の情をはづさぬやうにするが根本なりめづらしくせんとて、おかしみをたてとし、つよい事を柱とせば花は珍き花なれども、いつみてもよき花とはいはれまじきなり。
一 玉川半太夫は上手ではなけれども、ずぐ成仕内にて名を取たる人なり、岩井平次郎は上手なれども曲が過て後には、見おとされしなり、心得置べき事とぞ。
一 小勘太郎次くせに、左の手にて膝をたゝく癖あり、去とは見苦敷と人々ゐけんせしに、尤なりとて心を付てたゝかぬやうにせしに、仕内にはり合がぬけて、俄(にわか)に七ぶぎりも仕内下りたるやうなり、それより又膝をたゝいてすればいき返りたる様にはり合が出来たり、しかれば癖といふものあしき事なれ共、無理直しはならず、無理に直せば、いきほひのぬける事ありとぞ。
一 沢村小伝次若衆形にて、藤田孫十郎芝居へすみ、わが身は都万太夫へ住たる年、小伝次何か腹をたてゝわが身方へきたり、涙をながし、同座若衆形鈴木平七と、鑓(やり)の仕合の所へ、女形浪江小勘わけ入て、なだめる事あり、其所へ敵役笠屋五郎四郎来りヤアヤアわけまいわけまい、すでつちめらがほでてんがう、互にてこねさせたがよいとの口上、いかに狂言なればとて、色をたてる我々を、すでつちめとはわるきせりふ、もはや明日より座本へ断いふて、出まじきとの儀思ひ出せば久しき事なり、狂言のせりふにすでつちめといふが、色の障(さはり)に成るとある心入、今時の若衆思ひもよらず。
一 ひとゝせ早雲座にて、座本は大和や甚兵衛なりしが立役藤十郎京右衛門いまだ半左衛門と申せし時なり、一所に住べきはづを、夷屋座へ取たてゝ座本にせんとの事ゆへ半左衛門は別になる相談より、辰之介とわが身両人早雲座へすみたり、辰之助は夷屋座のやくそくなれども、半左衛門と入れ替わりの心にてのこと成しが、辰之助をとりはなしてはと夷屋座へは、荻野左馬之丞岡田左馬之介を抱へ、其詰に十次郎かもんをかゝへたり、時に藤十郎申されしは、今京都の芝居三軒の内、夷屋座には半左衛門といふつはものに左馬之丞左馬之介あり、藤川武左衛門若けれども長十郎あり、此方芝居には座もと甚兵衛われら次郎左衛門にそなたと辰之介あり、か様に牛角(ごかく)なれば、二軒ははり合ふこゝろ出来る物なり万太夫座には、中村四郎五郎を立役のかしらにして生嶋新五郎古今新左衛門三笠城右衛門女形は霧波千寿浅尾十次郎、よほどしばゐがら落たり、此芝居こわものなり、二軒ははり合まけになり、万太夫座は脇ひらみずに精を出すなるべし、座がすぎると外を直下に見るゆへ、あやうきことあり、これ狂言の仕内第一の心得とのはなし、果してその年万太夫座は大入にて二軒ははきとなかりしゆへ、座本せきが来て、いろいろ狂言の相談有を、藤十郎いふはいやいやこゝをせくはあしゝとて、長十郎を山形おりべの助に仕立、新よめかゞみを出されけるに、打て返すほどの大入、長十郎初て地の舞台へ出られしときにて、沢村小伝次おとゝの由ひろうし、新役者へ大役をさせて入をとる工夫、はたして仕当てられしを思へば、こゝろへ置べき事と、あやめの物がたりなり。
一 女形といふもの、たとへ四十すぎても若女形といふ名有、たゞ女形とばかりもいふべきを、若といふ字のそはりたるにて、花やかなる心のぬけぬやうにすべし、わづかなる事ながら此若といふ字、女形の大事の文字と心得よと稽古の人へ申されしを聞侍りし。  
初期の女方
西鶴の「男色大鑑」に名のみえる初期の女方です。
荒木与次兵衛/初代。荒木系祖。寛永14(1637)年生れ。父は大阪道化方の祖といわれる斎藤与五郎(ふんとく与五郎)という。花車方(かしゃがた老女役)で名作者の福井弥五左衛門に師事し、寛文4(1664)年に「非人敵討(ひにんかたきうち)」を演じて名声を得た。初代嵐三右衛門・藤田小平次とともに、延宝期の上方劇壇の重鎮となった。大阪堀江芝居の座元を勤め、立役としては武道・実事(じつごと)の妙手であった。元禄13(1700)年12月没。64歳。
嵐門三郎/初代嵐三右衛門の子。初名勘太郎。延宝末から女方として舞台に立ったが、天和にはいると父三右衛門が座元である道頓堀嵐座の若衆方となった。元禄3年11月、父の死とともに二代目三右衛門となり、立役と座元を兼ねた。元禄14(1701)年11月7日没。41歳。
市川かをる/貞享3(1686)年、京都大和大路芝居に若女方として登場。京都万太夫座の若女方として評判の美貌で売り出した色若衆。生没未詳。「女がたの美しきは下におかれぬ物、此君の美しさ、漠の李夫人そとをり姫も袖をおおふてにげたまふべし」(野郎立役舞台大鏡) 「前廉京にふと出られしより、いちはやく太夫となりて日々に繁昌し給ふ事、もとあいきやうよき生れつきゆへ成べし」(野郎関相撲)
伊藤小太夫/二代目。万治年間に二代目を襲名した京都の女方で、小大夫鹿子の創始者。寛文元(1661)年、上方から江戸に下り、古日向大夫座に属した。寛文末年にはまた上方に帰り、当時の名女方の上村吉弥(大吉弥)と並称され、お山小太夫と呼ばれた。濡・愁嘆をよくし、傾城役を得意とした。延宝6年春、京都北側芝居で、「吉野身受」の吉野太夫を演じ、半年余りの大入りをとった。元禄初年没という。
岩井歌之介/承応以前の若衆歌舞伎時代の女方。塩屋九郎右衛門座で美貌をもって鳴る。生没未詳。
上村吉弥(大吉弥)/初代。寛文・延宝期(1661〜81)を盛時とする上方の名女方。俗に大吉弥といい、吉弥結び(女帯)の創始者。もと大阪の道化方斎藤与五郎の抱えで、京都四条中の島芝居で売り出した。延宝8年刊の「役者八景」に女方として記載、天性の美貌で、舞所作に優れていた。天和元(1681)役者をやめて上文字屋吉左衛門と名を改め京都四条通りで白粉屋を開業した。享保9(1724)年6月没。「上村吉弥は平転を自由になせり。平は面体手足、力身なくやわらかに舞ふ。転は安らかなる所に悦として気を転ずる也。吉弥是をよく考へ、安らかにすらりと舞ふ中に、早く気をかへ心をあらため、行雲の夙にひらめき、秋の菓の日にかがやくがごとく所作をなせり」(舞曲扇林)
上村吉弥(二代目)/初代荒木与次兵衛の門弟で上村辰弥の兄。天和初年(1681)年頃二代目を襲名。貞享年間には若女方として、二代目伊藤小太夫につぐ位置をしめ、上村今吉弥として大阪嵐座・鈴木座の若女方、京都村山座の立女方を勤めた。踊りや愁嘆事、怨霊事を得意とした。「一、しうたんのせりふ上手にて人を泣かす事えもの。一、舞ぶり扇の手上手にてとりまはしりかうなり。一、怨霊となつて、地赤にうろこがたの箔装束きてかるわざのはたらき、随縁ふしぎの妙をえ給ふ……。一、人の奥様となつて、りんきに身をもやし、腹たつるふぜい、よくうつりて上手」(野郎立役舞台大鏡)
上村辰弥/天和・貞享期の大阪の若女方。二代目上村吉弥の弟。初名は上村辰之助。嵐座の若女方として評判。元禄4(1691)年頃自殺。「面体うつくしく、見かけからりはつのあまる芸ぶりなり。……一、舞上手にて扇こうしや也。手ばしかなる舞ぶり、姉のお吉(上村吉弥)に似たる所あり」(野郎立役舞台大鏡) 「今年給金百三十両、二十歳、居宅三津寺筋真斎橋東へ半丁北側」(難波立開音語)
右近源左衛門/若衆歌舞伎時代から初期の野郎歌舞伎時代にかけての上方の名女方。一説に元和8(1622)年生れ。振付師の始祖といわれる、歌舞伎伝助(日本伝助)の門弟。承応元(1652)年江戸に下り、「海道下り」や「山崎通い」などの道行を舞って好評を博した。万治・寛文頃は老女役を演じている。俗に女方の祖といわれ、前髪を剃らされた野郎歌舞伎時代の初期、鬘があらわれるまで、彼独得の置手拭を考案して月代をかくし、鬘が登場するまでの女方芸を守った(昔々物語)。
岡田左馬之助/貞享・元禄期の上方の若女方。貞享元(1684)年、大阪荒木与次兵衛座の立女方となり、同三年には京都岡村座の若女方となり評判をとる。元禄9(1696)年、江戸山村座に下る。生没未詳。「ぼつとりとしたるむまれ付なるゆへ、諸人ともにすきけるなり。……一、長刀つかふ事名人。一、舞ぶり扇の手上手也。一、ぬれのせりふしっぽりとして、上村よりましじやと都にてのとりざた」(野郎立役舞台大鏡)。
小桜千之助/初代。初代上村吉弥の門弟。京都村山座の開祖村山又兵衛の養子または縁者という。延宝・天和・貞享期の若女方の名手。大阪荒木与次兵衛座の若女方として評判。「女のぬれに三国一、またと類なし」(野郎立役舞台大鏡) 二代目は貞享四(1687)年に、大阪荒木座の若衆方小桜小太夫が、京都の村山座で襲名している。同時に千之助は立役となって村山九郎右衛門と名乗り、さらに元禄五(1692)年には、村山平右衛門と改名している。生没未詳。
袖岡今政之助/今政之助とは、今の二代目政之助の意。初代は延宝・天和を盛りとした若女方。俳書「道頓堀花みち」(延宝七年刊)に、袖岡由衣の名で入集している。元禄七(1694)年十二月三日没。四十四歳。二代は寛文六年生れで、初代の実子、または養子という。若女方で、貞享三(1686)年に大阪で二代目を襲名した。大阪荒木座の若女方、袖岡今政之助として評判をとった。元禄四年、江戸に下り、若女方として活躍した。正徳元(1711)年花車方(老女役)として舞台に立ち、江戸花車方の随一と称された。享保九(1724)年没。濡と愁嘆にすぐれ、花車方としては老母役を得意とした。
袖島市弥/上方役者。天和・貞享期の若女方。天和初年、大阪の大和屋甚兵衛座に若女方として登場。同三(1683)年冬、同じく大和屋座で太夫号を得、大和屋座の若女方として評判、文弥節の浄瑠璃・小唄を得意とした。貞享四(1687)年に江戸に下り、江戸中村勘三郎座の役者四天王の一人にあげられている。生没未詳。
滝井山三郎/寛文初年、京都で若女方として舞台をふみ、寛文三(1663)年には江戸に下って評判をとり、同五年十月には、市村座の「梅が妻」で大当りをとってまもなく、十二月には京都へ引き上げた。寛文七年、再び江戸へ下って中村勘三郎(二代目)座に属したが、当年より町奉行となった島田出雲守に寵されたので、山三郎は江戸四座のほかに一座を立てる事を願ったが成就しなかった。同年八月勘三郎が急死したので、その死は山三郎がその跡に代わらんための毒殺であったと「久夢日記」が伝えている。延宝三、四年頃に没。「此君人にこへ、おすがた心ばせ又有べきともおもはれず。ぬれ狂言のしなせぶり、うたふ小歌のひとふし、かりやうびんがともいふべし」(新野郎花垣)
竹中吉三郎/延宝・元禄期の上方役者。仕方舞の名手の戎屋吉郎兵衛の子。延宝期は竹中初之丞といい、京都戎屋の舞太夫であったが、天和・貞享期は若女方竹中吉三郎となり、京都岩本権三郎座に属して、藤田吉三郎と並称された。女方として京都一番の高給取り、といわれた。元禄元(1688)年九月から、立役竹中藤三郎となって大阪に下り、大阪荒木座の立役として評判。生没未詳。「一、舞ぶり扇の手上手なり。それはどうり、ゑびすやの吉郎兵衛といふ名人の親仁めが、存生の内によく仕入たもの。一、せりふもの言ひもそそらず、打ついてよし」(野郎立役舞台大鏡)
玉井浅之丞/寛文・延宝期(1661〜81)の江戸の玉川主膳座に属した若女方。玉川主膳とならんで評判、すぐれて美貌であった。「をうなかとみれば玉井の浅之丞今やうきひの花の面影」(垣下徒然草)。
玉川主膳/野郎歌舞伎の初期、万治・寛文期(1658〜73)の女方。寛文元(1661)年、京都から江戸に下り、新伝内座で若女方を勤め、扇舞・道行舞をよくしたが、「よわひふけ過ておもはしからず。たけたかくは反りてあしし。小うたわたりなみ也」とあり、すでに二十歳を過ぎていたらしい。同二年、玉川主膳座をおこして座元となり、翌三年には、市村竹之丞と相座元を勤めた。延宝初年、出家して可見と号し、法名を頼信といった
玉川千之丞/若衆歌舞伎末期から野郎歌舞伎初期(1650〜60)にかけて活躍した若女方。万治三年刊の「野郎虫」の京都村山座、玉川千之丞の評判に、「面体芸いづくを、難ずべきやうなし。…されども年の齢二十日ばかりの月を見る如くなれば、野郎の齢も今少しにて、一入(ひとしほ)惜しく思はる」とある。まだ歌舞本位の時代の舞の名手である。寛文元(1661)年江戸に下り、堺町の中村勘三郎座で、「河内通」の狂言で名声を博した。寛文五年、上方に帰ったが、翌六年にはまた江戸市村座に出演している。まもなく上方に帰り、寛文十年また江戸に下って中村座に出勤、翌十一年五月十四日、三十五、六歳で没した。「千之丞は虚曲の二つを得たり。虚は何心なくかろくして陽也。体ゆるやかに舞なせり。曲は風流なり。千之丞曲をつくるに、姿見の鏡を立てて我とその品を鏡に写し、人のみるさま心の移るやうを考て、女性の姿をよく分別せしゆへに、見物の心をときめかしける。是虚曲の二つを分別せしゆへ也」(舞曲扇林)
玉村吉弥/万治・寛文期(1658〜73)に活躍した若女方。はじめ、京都の夷屋吉郎兵衛座に属し、玄宗皇帝花軍の狂言で楊貴妃に扮して当りをとった(野郎虫)。寛文元年、江戸に下って、いにしえ座に属し、若女方として売り出したが、延宝初年には姿を消している。生没未詳。「いにしへ座玉村吉弥。いふばかりなくあでやかにして、此世の人ともおもほへず。…かかる人後の世にもいできなんや。芸の思ひいれ上手なり」(剥野老)
出来島小曝/寛文・延宝期の江戸役者。初代。伝説に女歌舞伎の頭目の一人の出来島長門守の門人という。寛文初年、若衆方として登場。のち若女方に転じ、美貌と舞所作・小唄で人気を博したが、背丈が延び過ぎて、延宝玉(完七七)年頃には姿を消している。「此君又たぐひなき白ぼたんとやいはん、きりやうずい一にして、こゑあざやかなり。……ただしたくましくのび過たるほいやか」(新野郎花垣)
外山千之助/貞享・元禄期の女方。はじめ京都で滝井沢之丞の芸名で若女方を勤め、まもなく外山千之助と改名し、貞享四(1687)年か元禄元(1688)年江戸に下った。生没未詳。「外山千之助住所ふきや町小見せ物うら。此君京四条の下り、今市村の座に出給ひ、女方をまなび給ふ。面体うつくしく、ぽつとりとしてやさしく見ゆる。諸芸たをやかに露こばれかかれる御よそほひ、誠に京女郎の風俗なり」(野郎役者風流鑑)
浪江小勘/はじめ京都宮川町山里文左衛門の抱え子で、陰子名を滝井浪江といったが、ある客に引かされて大阪に下ったのを、また母親が難題を吹っかけて取り戻し、再び陰子小島梅之助となった。延宝八年、道頓堀初舞台の際、浪江小勘と改め、天和元(1681)年、嵐座の若女方となり、嵐三右衛門の相手役として好評を博した。元禄初年には引退もしくは病死。「今年給金七十五両、二十八歳、居宅畳屋町東側、南より一丁目、柿無地のうれん」(難波立聞音語) 「此君ゆかりあつてなみ江小勘の名跡をつぎたまふにや。むかしの小かん大坂にて名を発したまふこと、たれしらぬものなし。中にも小野の小町になり、死んだあらし三右衛門を四位の少将にして大内のぬれ狂言おもひ出せば心ゆかし」(役者大鑑)
野川吉十郎/寛文・延宝期(1661〜81)の若女方。はじめ京都で上村吉十郎と称し、音曲と六方をよくした。事情あって野川吉十郎と名を改め、寛文六年頃江戸に下り、中村勘三郎座に属した。
藤田鶴松/天和・貞享期の大阪の若女方。天和二(1682)年十月、大和屋甚兵衛座の若女方として登場。色若衆のまま終わったらしい。
藤田皆之丞/延宝・天和・貞享期の京都の若女方。初代嵐三右衛門と並称された名立役、初代藤田小平次の養子。延宝二(1674)年京都夷屋吉郎兵衛座で十八歳の若女方として評判。下って貞享四(1687)年京都岩本座の若女方として評判。その後姿を消している。
藤村半太夫/万治年間(1658〜61)、京都長右衛門抱えで、村山又兵衛座の立女方として売り出し、その頃元服して輪鼓と称した。延宝三(1675)年頃、江戸に下り、森田座に出勤したが、すでに衰えていた。美貌で舞をよくした。
松島半弥/初代。延宝・貞享期(1673〜88)の大阪の若女方。延宝末年には道頓堀で松島半弥座の座元を勤めたが、貞享三(1686)年中に二十歳で元服し、七左衛門と改名して、畳屋町で井筒星という扇屋を開業した。同年刊の「難波立開音語」荒木座の条に、松島半弥、小歌喜兵衛抱え。給金三十両、二十歳、宅畳屋町、とある。
三枝歌仙/天和・貞享・元禄初年の上方の若女方。大阪荒木座の若女方として評判。元禄元(1688)年、京都の万太夫座の狂言に、若女方として出演している。「諸芸こうしやなる所多し。腰元子娘になり、それそれのぬれ事すぐれたるとはいはれねども、大方にあぢつくさるる也」(野郎立役舞台大鏡)
村山左近/若衆歌舞伎時代(寛永〜承応)の女方。堺の出身で、京芝居の祖村山又八の五男、江戸村山座の座元の村山又三郎の実弟。寛永十七(1640)年、一説に同十九年、江戸村山座に下り、染手拭をかぶり、はじめて女装して舞台を勤めたのが、江戸における女方のはじまりと伝えられている。右近源左衛門とともに、女方舞踊の代表的存在である。
吉川多門/延宝末年より道頓堀に若女方として登場。荒木座の若女方として評判。貞享元(1684)年の荒木座の役者給金付に、同じ若女方の浪江小勘の九十両に対し、歌二十両分を加えて、百十両とある。貞享三年十一月の顔見世狂言から、京都岡村座の若女方となった。のち花車方に転じ、元禄末年に消息を絶っている。「一、かれうびんなる御小歌、あれでも世界に人だねはあるか。一、諸芸こうしやにして打ついたる所あれば、大名高家のおくさま方に用てよし」(野郎立役舞台大鏡)  
陰間
歌舞伎が野郎歌舞伎となってからは、どうしても女役専任の俳優、すなわち女方(おんながた、おやま)が必要となります。そのころは、まだ鬘が開発されていなかったため、紫の袱紗で月代を隠す紫帽子(または野郎帽子)というものが開発され、女方のシンボルともなりました。
女方が専任になるにつれて、舞台に立つまでにはある程度の修行期間が必要になってきます。女方の養成として、幼少の男児を預かることは上方から始まったようです。
男児たちは、役者の候補生として種々の芸を仕込まれ、芸が未熟な内は「新部子」と呼ばれ、舞台に登り始めた若衆は「舞台子」と呼ばれました。「陰間(かげま)」または「陰子(かげこ)」は舞台子に至らず、陰に置いておく者の称でした。この陰間は別に「色子」とも呼ばれ、また舞台子でも、まだ一人前の役者になれない者も色子と称していました。その養成所で芸を仕込まれて、本舞台に登る以前に、田舎廻りで芸の修業に行くものを「飛子」と言いました。
女方にとっては、男に抱かれる、性的関係を持つ、というのは必須の修行であると考えられるようになりました。修行中の女方はむしろ積極的に酒宴の席などに招かれ、客に身を売るということが普通に行われるようになり、客の求めに応じるための性技をも修業させられ、舞台の芸と共に、閨の技法も仕込まれていたのです。
そのうち「陰間茶屋」というものが生まれてきました。陰間を抱えた料理屋、居酒屋、あるいは傾城屋(売色目的の茶屋)の類のことです。
最初は芝居小屋と併設され、歌舞伎役者になるために、芸の修業をするかたわら、座敷をも勤めるために男色の道にも励む「舞台子」などが、贔屓の客に招かれて行くのが陰間茶屋でした。しだいに芝居小屋とは分化して、役者の卵ではない、舞台には立つことのない陰間を抱えた茶屋が多くなっていき、時代の進むにつれ、色だけを売る陰間が養成されるようになって行きます。
陰間茶屋のあった場所として、本郷の湯島天神門前町、日本橋の芳町などが有名でした。湯島は上野寛永寺の所轄の土地であり、土地柄から寛永寺の僧侶たちがなじみの客となっていました。日本橋芳町の方は、最盛期には150人以上の男娼がいたといわれています。こちらは、日本橋に中村座,市村座などの芝居小屋が多かったためでしょう。大坂の陰間茶屋は道頓堀が中心でした。
陰間として男に色を売る盛りは短く、25歳でもう陰間としての価値は終わりだとされていたようです。「男色実語教」(元禄13年)には、衆道における春は、11歳より14歳までは「蕾める花」であり、15歳から18歳までは「盛りの花」であり、19歳から22歳までは「散る花」だとされています。
通常、陰間は13、4歳から客を取り始め、20歳前後には男の客の相手をすることは引退します。20歳過ぎの陰間は、もっぱら女性客を相手にするように転向するわけです。陰間は男の客に抱かれるばかりではなく、女の客も相手にしたわけです。
女の客は、後家と御殿女中が双璧と言われます。
江戸時代の商家では、旦那が死ぬとそのお内儀が店を継ぐことが多かったようです。また武家では、当主が死ぬと跡取り息子が幼くても、形式上家を継がせました。いずれも、夫に死なれた女性は簡単には再婚できませんでした。女盛りに後家となった奥方は、男妾を囲うか、陰間茶屋通いをすることになります。
御殿女中とは、大名屋敷に奉公する女性です。彼女らが屋敷から外出できたのは、芝居見物などを口実とした「宿さがり」の時だけでした。外出時間は申の刻(午後4時ごろ)までと決まっていたので、御殿女中の陰間遊びはあわただしいものでした。
陰間茶屋での遊興は、泊まりは別にして、「一切れ」を単位としていました。「一切れ」とは、線香一本の燃え尽きる時間のことです。線香の太さや長さで燃え尽きるまでの時間は違いますが、約1時間前後ではないかと思われます。
明和元年(1764)に発行された「菊の園」や同5年(1768)に発行された「三之朝」という男色細見(プレイガイドのようなもの)を見ると、陰間遊びの料金は昼の時間を6つ切り、夜を6つ切りにして、一切りが金一分。仕舞(一日買切り)が金三両。片仕舞(半日買切り)が金一両二分。ほかに小花(チップ)が金一部となっています。金一両は金四分です。
陰間を外に連れ出して遊ぶ場合には、片仕舞で一両三分から二両。ただし半日単位なのでほんの一刻でも同料金です。
これは吉原遊郭の高級女郎並で、陰間遊びができるのは、やはりかなり金持ちの武家,商人,僧侶に限られていたようです。
江戸の陰間は、多くは上方の出身者であったそうです。江戸者ですとどうしても言葉使いや態度が荒々しくなるので、おっとりした上方者が好まれたとのことです。
陰間として身を立てるには年少の頃から訓練が必要でした。
「男色十寸鏡」(貞亨4年)に、若衆は匂いのあるものは食べてはならない。焼いた魚や鳥、貝類、汁物などは悪しきものなり、などなど列挙されています。食べ方や、お酌の仕方などうんざりするほど事細かく述べられています。
また、「女大楽宝開」(安永頃)は、「女大学」の注釈本「女大学宝箱」をもじって色事本に仕立てたものですが、このなかの「若衆仕立様の事」では、15枚の画とともに、陰間の訓練のようすが描かれています。
若衆仕立様の事
一、衆道を仕立つるに、不束(ふつつか)なるはいでを子がいよりかかえとりて、たとえば、みめよき生れ付きにても、すぐさまつきだしにはならず。あるいは顔に色気あり、また眼本風俗卑しからずとも、そのままにてはしようつらず不束なり。これを仕立つるには、幼少より顔手足尋常、きめ美しくすること第一なり。この薬の仕様は、ざくろの皮をなまのあいだに採りて、白水に一夜つけ、明くる日いかきなどにあげ、その日一日かげほしをして、またその夜白水につけ、右の通りにして三日晒し、その跡に随分ほしあげ、細かく紛にして袋にいれ、これにて洗えばきめ美しくして、手足尋常になること妙なり。また歯を磨くには、はっちく(淡竹)の笹の葉を、灰にしてみがくべし。多くは消炭にてみがけどもあしし。また鼻筋の低きは十、十一、十二の時分、毎夜ねしなに檜木の二、三寸くらいなるにてこのごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面(めん)きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の暮より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分も入れ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門沾(うるお)いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩棒薬をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(たんばん:硫酸鋼)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえは野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一・事?)のことなり。
一、一分のりというは、ふのりをよくたき、きぬのすいのうにてこし、杉原紙に流しほし付け、これを一分なりに切りて、印籠に入れてもつなり。また酒綿とて酒を綿にて浸しもつなり。これはねまにて客の持ち物、あまり太きがあれば、右の酒をわが手にぬり、その手にて向うのへのこをひたものいらえば、自然とできざるものなり。客もあわずにかえる術なり。得あいませぬといえば、客の手前すまざるゆえ、これにて、両方共にたつしほう、それゆえ野郎はねまへ入ると、早速しなだるる体にて客の一物を引き出しいらうなり。ことさら女とちがい、色少なき物ゆえ、ずいぶんとぴったりとゆくがよしとす。
一、若衆の仕様は仰のけにしてするがよし。若衆はいやがるものなり。そのいやがるゆえは、客の案内にて行なうゆえなり。この仕様は初め後より入れ、肛門の湿う時分、一度抜きて、両方共によくふきて、それよりあおのけにして、またつけなおし、いるれば、くっつりとはいるものなり。はじめより仰のけてすれば上へすべり下へすべり、思うようにはいらざるゆえに、ひたもの唾をつけつけ、ひまをいれるゆえ、けつほとびてびりびりとするゆえ、けがすること多し。それゆえ一げんにてはできぬことなり。若衆のねまにも、多くしなありて、ねまへ入る前に裏(厠)へ行くもあり。これ若衆は体の弱きものゆえのことなり。かようの若衆は客の方にその心得すべし。裏へ行きてすぐにさせばよくはいれども沾いなし。また、しばらくまちてすれば肛門よく沾いたる時、初め記せし通りよくはいるものなり。一義しまい跡にて裏へ行くが大法なり。客もしばらくけつにてよくなやし抜くべし、若衆も跡のしまりよし。(女大楽宝開)
先ず、女の子のように顔形を器量よくすることから始めます。その第一は顔や手足を色白く、きれいに、きめ細かい肌にかえて美しく育てて行くのです。それには次のような化粧水を作って常日頃使わせます。先ず、ざくろの皮を生の間にはがし、水に一晩つけておきます。このようにして三日間さらしておき、その後はずっと長い間乾し上げ、これを細くくだいて粉にします。この粉を袋に入れ、これで洗えばきめ美しくなり、不思議に手足がきれいになって行きます。
次に歯をみがくには、はっちく(淡竹)の笹の葉を焼いて灰にし、これをつけてみがかせるようにします。消しずみを使って歯をみがいているのが多いようですが、これはよくありません。
鼻すじが通らなくて低い鼻のときは、鼻を高くするためにひの木の長さ二三寸の板を二枚用意し、その一端はひもで結びつけて自由に動くようにし、他の端の所にもひもをつけて結べるようにしたはさみ板をこしらえておきます。子供が九歳から十乃至十一歳の年頃になると、毎晩寝るとき鼻に綿を巻き、その上からはさみ板で鼻をはさんで、はさみ板の左右のひもを頭の後ろにまわして、面をつけたようにして結びつけて寝させます。こうして毎晩はさみ寝をさせれば、どんな低い鼻でも鼻すじが通り、高くなって行きます。
さて、陰間は遊女と同じように結局は売色を職業とするものです。しかし遊女による女色に対して陰間は男色ですから売色の方法が違います。そのために、子供のときから女としてしつけると共に、十一歳の終り頃から十二歳の年頃になると売色の仕方も仕込んでいったのです。
いちぶのりといって、ふのりをよく煮き込み、絹のみずこしで濾し、こうぞから作ったすぎ原の紙にながし出し、よくほして乾かし、これを一寸位の幅に切ったものがありますが、これを印寵に入れておきます。必要のときこれを取り出して、口の中に入れてよく解き、男の子を横に寝させて後門の穴の所にぬってやり、その晩は少しだけ一物を入れてやり、これでおしまいにします。二日目も同じように少しだけ入れてやり、三日目は半分位入れ、四日日より五日間は毎日三四回全部入れてやります。但しこの間は仕立専門の者が気分を出して気負い込んではよくありません。このようにゆっくり仕立てて行くと後門がうるおってよくなってきます。
遊女の水揚に村して、男の陰間は水下げといわれていますが「その用心にとく布海苔」という句があります。陰間を仕込んで行く時、木製の一物にふのりを塗りつけて、毎日数回入れならして行く方法もあったようですが、場合によって後門が切れてただれてくるようなことになると、そこに灸をすえてなおすなどして、一通りの仕込を終えるに一ケ月以上を必要としたという伝えもあります。
このようにして仕立てて行くのですが、初めからひどく乱暴に扱いますと直腸の裏膜をあらして痛がることが多くなります。これが十三、四歳から上の年頃になりますと痛がっても後門の所ばかりで内部に入ることはありません。この理由は、この年頃になってくると男の子も段々と色ごとを覚えてきますので、客とやる時自分の一物が固くなってくると自然に後門の方もしまってくるので、客の方は気持がよくなって荒く腰を使って抜きさし操作を繰返しますと、後門のふちをすってすじを切ることがあるのです。このときはすっぼんの頭を黒焼きにしたものを髪油でとき、これをつけてやるとよく効くとあります。
また棒薬を使って仕込む方法も書いてあります。先ず仕込み専門の者が男の子に一物を入れ、射精しないようにして毎晩幾日も続けて、ゆるやかに抜きさしができるようにするのですが、抜いた後に、二寸五分位に切った木の棒に綿を巻きつけ、太さを一物位の大きさにして、胆ばん(硫酸鋼)をごま油でといたものをこの棒に塗りつけ、寝しなに腰湯に入れて温めてやった後、この棒を肛門に差し込んで寝させます。あるいは棒薬というのは胆ばんをこよりにひねりこめたものや、山椒の粉をこよりに入れたもので、はじめ胆ばんを肛門に入れてやりますと、硫酸鋼のために直腸の裏膜が偏食して感覚が鈍くなってきます。これに山しょの粉を入れてやりますと直腸の膜が痒くなって、何か入れてなでてもらえば気持ちがよくなるようになってきます。このような腐食鈍感剤と起痒剤とを棒薬というのです。
さて、陰間が客をとって遅く帰ってくる時などは、その子のねどこに誰かが寝ておき、子供が帰ってきたときその人はねどこから出て、人はだにぬくもった後に直ぐに寝さすようにしてやります。このようにして育てて行けば病気になることはありません。とかく冷えることの多い仕事ですが、冬などこたつを与えるのはよくありません。遅く帰ってくる時など、このように扱ってやる心がけが必要です。
このようにして容貌や外見の習練を行い、髪や結髪の心得、歌を詠む素養、歩き方、客から酒を汲み貰う姿勢などを仕込まれた陰間は、はじめて化粧し、まゆをかき、歌や踊りの稽古をさせられ、やがて客をとることになります。
「若道の床入りといつは、床にいり給ひて、男の気をすゑさせ、平世になるまでは、たがひに真向にふして、わざとならぬはなし有べし。其咄も何がなと、ことうきたるような、木に竹つぎたるごとくの、そぐはぬ咄はつたなし。男おほかたくせものなれば、此はなししかけたまふうちに、心おちつくなり。其うちに、まくらもとに香などくゆらし給ふべし。わすれがたきやさしさなんめり。やうやくしめやかになりたるとき、そとみづからの帯をとき給ふべし。我つまを男にうちかけ、夜物などおおい給ふべし。其とき男もようよう帯をときぬべし。男気ざしたるていにみえば、かくありて後肌をあはせて、水もらざしと、ひたひたといだき給へば、何ほどよはき男も、これにいさめられて、だきしめる也。此ときしつほりとかかって、口すはせ給ふべし。思ひにしづんだ男、今のうれしき心のうち、たとへていはんかたなかるべし。此とき、やぼ成若衆は、とやかくとして、男の道具をにぎりてみたがる也。是ぎやうさんひけたる事なり。弓削道鏡はしらず、何程おほきなるとて、大かたしれたるもの也。若衆のうけやうにて、大分いれさせぬしかけも有事也。夢々いらひ給ふべからず。さて、男のきざしあらはるれば、よきじぶんに、いつとなくうしろむき給ふべし。我足のしたへなりたるあしくびを、男のかたえふみながし、上に成たる方を前へふみいだし給ふべし。かやうにあれば、男いれよくして、若衆のためもよし。おほかた入たる此、あしくびを一所にそろへ、ふみながし給べし。このしかけにては、後台谷ふかくなりて、男のだうくをはさむ心あれば、あまり深いりせずして、しかも感精をもよほし侍る也。是若道の極秘、敦盛の一枚起請にみえたり。此門に入たまはば、先此通路をひらき給ふべし。夫、菊座のひだは、四十二重なりと、むかしよりいひつたへたり。とをりかねるは、其皮こはくしまりたるゆへに、いるるにきのどくなり。さいさいあついゆにてあらひやはらげて、ねり木の汁をぬり、又は、蜜をぬりてとをし侍れば、やはらぐなり。いらんとするとき、うちよりはりかけ、すこしひらくやうに気をはり給ふべし。やすらかにとをる也」(男色十寸鏡)  
 
人形浄瑠璃

「人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)」より「文楽(ぶんらく)」の方が身近な名称かもしれない。古来より人形浄瑠璃と呼ばれていたものが、植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)という人物が興行した人形浄瑠璃と、彼が上演する劇場「文楽座」が誕生した19世紀初め以降、文楽と呼ばれるようになり定着した。人形浄瑠璃とは要するに、浄瑠璃の語り・演奏に操り人形が融合して誕生した人形劇であり、人形浄瑠璃と呼ぶ方が内容を理解し易いように思われる。ただ人形劇と言っても物語の筋立ては歌舞伎同様、時代物(歴史物語)と世話物(義理人情)であり、最初から完全に大人を対象に考案された伝統舞台芸術である。現在では国の重要無形文化財の指定を受け、また2009年9月、UNESCO(ユネスコ)による第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財を保護・継承するため「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されるもので、リストに掲載された芸能は「無形文化遺産保護条約」の枠中に編入される仕組みである。日本では文楽・能楽・歌舞伎がリストアップされており、いずれも国際的知名度が高く、伝統芸能として高く評価されているものであるが、本項ではこの大人向け人形劇が何故これほど流行し、伝承され、芸術の域に達し得たのかを探るため、その起源から順に追ってみることにする。  
人形浄瑠璃は、大夫(たゆう、浄瑠璃語り)・三味線弾き・人形遣いの「三業」で成り立っている三位一体の演芸であり、人形も一体につき三人掛かりで操られる。まずは「三業」を解体し、融合される以前の芸能の起源を追わねばならないだろう。各々の芸能の起源を年代順にすると、人形・大夫・三味線となるので、まずは人形遣いの起源から追ってみる。
人形(ひとかた)、形代(かたしろ)と呼ばれている、人の形に紙を切り、病・災厄・穢れを紙人形に移すという身代わり信仰が古くから存在したが、大元の母胎は、奈良時代(8世紀)に中国から伝来した「散楽」という芸能の中の、操り人形を使ったものと考えられている。平安時代の頃には「人形まわし」「傀儡(くぐつ)まわし」「木偶(でく)まわし」などと呼ばれ、漂泊の芸人・傀儡子(くぐつし)らが諸地方を巡廻興行し、社寺・宿駅の付近で生計を立てるため今様などを謡いながら人形劇を演じたが、徐々に定住を見せ、室町時代には兵庫県西宮市夷神社に雑用として奉仕しつつ芸能をする「夷(えびす)まわし」「夷(えびす)かき」と称される傀儡子舞が現れる。名の由来は、恵比寿神の神徳や縁起をテーマにしていたためとも、格好が七福神の恵比須様のようだからとも言われ、また江戸では「山猫」「山猫廻し」と呼ばれ、その様子から「首掛芝居」とも名が付いている。厳密に言うと夷まわし・山猫廻し・首掛芝居には違いがあるようだが、人形を操った芸能であることには違いがなく、これらの芸能が後の人形浄瑠璃のルーツになっていることも間違いないようだ。そうして江戸時代初期(17世紀)に、現在の人形浄瑠璃の演劇形態に近いものとして、それまでの人形劇と浄瑠璃が融合した芸能が出現したという。人形劇は猿楽などと同様、1400年にも及ぶ長い歴史を持ち、日本で愛好され、継承されてきたものなのである。  
次に大夫(浄瑠璃語り)の起源を見てみよう。
古くからある声楽は「謡い物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」の2つに分けられ、そのうち語り物は、物語に節を付けて語り聞かせるものであり、最古のものは琵琶法師が琵琶の伴奏に合わせて平家物語を物語る「平曲(へいきょく)」だとされる。平曲は非常に流行し、徐々に題材を増やしてバラエティに富む語りになったが、特に人気を博したのは室町時代中期(15世紀末)の「浄瑠璃」であった。浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を題材とした御伽草子の一種「浄瑠璃姫十二段草子」から出たものであるが、曲節が愛好され、物語が違っても、その節回しは「浄瑠璃節」と呼ばれた。この頃は扇・鼓での拍子取りや、琵琶の伴奏で語られていたようであるが、この後の16世紀中期、三味線が誕生して流行すると、琵琶法師たちは琵琶から三味線に持ち替え、浄瑠璃に使用し定着するのだが、浄瑠璃語りを「○○大夫」という芸名で呼ぶようになったのは、三味線と結び付いてからのようである。流行音楽は大衆の耳に留まり易かったため、この浄瑠璃が人形劇の地の音楽として用いられたのは自然の流れであった。この「操り浄瑠璃(人形浄瑠璃)」の誕生が江戸時代初期のことであり、江戸中期になると大変盛んになり、数十もの流派が現れ、その中に語りの天才とも称される「竹本義太夫(たけもとぎだゆう、筑後掾・ちくごのじょう)」が現れた。大阪人形浄瑠璃の劇場として「竹本座」を起こし、戯曲作者「近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)」を座附作者として迎え、「曾根崎心中」などの名作を多く生みつつ絶大な人気を博した。浄瑠璃史上記念すべき1686年、「出世景C」の竹本座上演を境に、浄瑠璃と言えば「義太夫節(ぎだゆうぶし)」と言われるほど一世を風靡し、それ以前の各派浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれるようになったほどである。歌舞伎を凌ぐほどの人気を博し、また歌舞伎に与えた影響は大きく、歌舞伎演目の多くが人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を「丸本」と称したため、移入された歌舞伎演目を「丸本物(まるほんもの)」と呼んでいる。時代物と世話物という歌舞伎にも転用されている2つの分類体系も出来、その後「福内鬼外(ふくうちきがい、平賀源内)」が江戸で初めて人形浄瑠璃を上演して以来、「江戸浄瑠璃」が起こる。また19世紀後半、「文楽」の名の由来となった「文楽座」が人形浄瑠璃の中心的劇場であった時代、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、それから遅れて昭和期の1953年以降「太夫」としていた表記を「大夫」に改め、現在に至るわけだが、最高位の大夫「櫓下(やぐらした、紋下とも)」は、歌舞伎役者の第一人者・市川団十郎よりも芸事的地位は高いものとされる。最後の櫓下は、近代の名人と謳われ1967年に没した豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)で、人間国宝(重要無形文化財保持者)で文化功労者でもある。浄瑠璃語りが「太夫」から「大夫」となったのは彼の意図によるとされ、古典資料・故事の研究にも努力した人としても知られている。  
次に三味線の歴史を追ってみる。
三味線(しゃみせん)と言えば江戸時代の町人文化が閃くほど、その関係は密接であり、当時の文化を代表する楽器である。確かに三味線の日本における歴史はそれほど古くなく、14世紀に入り中国から琉球(沖縄)に「三弦」が伝来し、織田信長の時代、琉球から「三線(さんしん、蛇皮線とも)」が本土・大坂堺に移入され、そこで改良されて16世紀中期に三味線が誕生した。更に海外での起源を遡ると、三弦の起源は中国北方のトルコ系遊牧民(キルギス)の古代弦楽器「火不思(クーブーズ)」だと言われ、中国・元代に三弦(唐三線)として漢民族の間に広まったという。
当時、平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達(琵琶法師ら)は新しい楽器に飛びつき、琵琶を三味線に持ち替え、撥で弾く三味線を考案し、瞬く間に流行した。その最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りし、研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線を浄瑠璃に用いるようになったのは「沢住検校(さわずみけんぎょう)」が最初ともいわれ、爪弾きでなく撥を使ったため技法・奏法が飛躍的に進歩し、浄瑠璃は音楽的にも大きく発展したという。三味線は短期間のうちに発達し、非常に技巧を要するものとなった訳だが、海外でも三味線同様「リュート」に属する楽器は古くから数多く存在しており、各々独自の発展をしつつ、各国の文化を支えている。  
次に、人形劇と浄瑠璃が融合し、義太夫節が誕生した後の人形浄瑠璃から、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、現代に至るまでの歴史を追ってみることにする。
近松門左衛門や竹本義太夫が世に出る17世紀半ば頃、人気のあった人形浄瑠璃・歌舞伎のために常設小屋が多く設置されたが、人形浄瑠璃の人形は当時「一人遣い」であり、複雑な動きが無いものだった。その頃から次第に顔の細部・手足まで複雑な動きを持つようになり、1734年に「三人遣い」が始まると人形も大きくなり、現在の人形・人形遣いの形態がほぼ完成し、18世紀半ば頃までに独自の舞台様式を確立した。しかし歌舞伎人気に火がつき人形浄瑠璃は翳りを見せるのだが、18世紀末〜19世紀初頭(寛政年間)、前述した初世・植村文楽軒が大阪に人形浄瑠璃の座を再興させた。1872年、3世・植村文楽軒(文楽翁)がこれを移転させ「文楽座」と名付け、後の明治末期まで文楽座のみが人形浄瑠璃専門の劇場であったため、人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれて親しまれ、また文楽座は文楽の中心的存在として君臨した。1909年、松竹が文楽座の経営・興行を行うこととなり再度移転となるのだが、当時は地の利を生かす為、政策的に度々移転が行われ、新築・移転・復興などを繰り返していた。1949年、松竹との待遇改善を巡って因会・三和会に分裂し、内紛もあり興行低迷期にあったのだが、1963年には因会・三和会両者が合同し財団法人文楽協会が発足、松竹が撤退して経営は国・公共団体・大型メディア企業の後援を受け、文楽界は統一された。1984年、大阪に国立文楽劇場が完成し、それまで文楽興行を行ってきた朝日座(旧文楽座)の歴史は幕を閉じたのだが、今日では国立文楽劇場以外でも一座が東京・地方劇場で公演を行っている。かつて六幕建てで一日掛かりであった公演も、二・三幕建てに短縮されるなど興行に係る全てが整備され、1955年には国の重要無形文化財の指定を受けている。幅広い大衆により理解を促すため、劇場での実演は録画され、興行数は増され、また「重要無形文化財保持者(人間国宝)」として演者の公的認定も進められ、今のところ深刻な消滅の危機は無いという。一時は他の伝統芸能同様、人材(後継者)不足に悩まされたものの、1973年に研修生制度が作られて以来、家柄などに関係なく若者が文楽に携わることが可能になり、新しい世代の演者の養成に努めることが出来たことは文楽にとって非常に幸運であり、また途切れてもすぐ復興し、中絶することなく文楽興行が続けられたのも、観衆の人気を得続け、また経営においても大きな後ろ盾を得て行われた賜物とも言える。芸事に携わる人にとって経営・興行企画などに労力と時間を費やし、本業である技能鍛錬に専念できないというのは大変残念なことに思う。
江戸時代には約700余りあった人形浄瑠璃の演目のうち、現在約160演目が継承されているが、上述のようにしっかりとした土台がある上、大衆的舞台芸術として完成度の高さと魅力を保っているため、現在の姿が欠けることなく伝承され続けて欲しいと思う。  
ここまで歴史を振り返ってきたので、次に人形浄瑠璃という芸能の概要に入りたい。まず前述した三業について触れてゆくことにする。
人形浄瑠璃が、古来より男性のみによって培われてきたものであるのは歌舞伎や能楽と同じである。舞台上では、大夫一人が全ての役を演じ分け、義太夫節の語りにより物語が展開し、三味線が舞台の進行役として大夫と人形遣いに合図を送りつつ、大夫と共に情景や心情を表し、基本的に人形遣いが3人で1体の人形を操ることで成り立っている。大夫と三味線弾きが演ずる場所を「床」と呼ぶのだが、円形で回転式になっているため「文楽廻し」とも呼ばれているのだが、衝立の裏に二人が座して準備し、回転させると舞台に現れる仕組みとなっている。大夫の手前には、大夫自身が書き写した「床本(ゆかほん、浄瑠璃台本)」が「見台」に置かれ、大夫がこれを恭しく頂いて語り始める。大夫は、老若男女・士農工商を問わず全ての登場人物の台詞に加え、場面の情景・事件の背景説明・心情などを独りで語り分け、長いもので一時間半余り(長い作品は別の大夫と交代で務め、掛け合いの場合は複数が並ぶ)、登場人物は多くて十数人になる。義太夫節を大別すると、三味線無しで会話を表す「詞(ことば)」、三味線を付して情景描写する「地合(じあい)」、三味線と共に唄う「節(ふし)」となり、3つが混然一体となり物語が表現される。義太夫節は、上方(京阪神)で生まれ育ったものであるため関西訛りで語られ、その語り・演奏は、初めて接する人には誇張された、おおげさな感じを受けるかもしれないのだが、それは義太夫節独特の表現法で、各登場人物の性格・心情の機微を語り分けるための手段であり、見る者に強く印象付けるものである。古めかしい昔話が題材であったとしても心の描写が主眼にあるため、年代を問わず共感を呼び、幅広い世代に愛好されている。  
三味線は、義太夫節には「太棹(ふとざお)」という、その名のとおり棹や糸も太く、胴や撥、音も大きい三味線が用いられ、重厚で力強く響きのある音色で、人間の感情をストレートに表現する。「日本舞踊−歌舞伎」「日本舞踊−歌舞伎舞踊」も参照していただけると三味線の違いが分かるかと思う。大夫の語りにおいて音楽性より物語の内容表現に重点が置かれるのと同様、三味線もまた大夫の語りの助けとなるべく、曲の心・人間心情を表現することが大切とされ、三味線と大夫とが一心同体となるのが理想と言われている。回転床になっている「文楽廻し」に乗り、大夫と共に正座で舞台に現れ、隣の大夫と呼吸を合わせて2人で舞台を作る。基本は2人だが、三味線方として複数人数が舞台に上がり、他の楽器を担当することもある。「細棹(三味線)」数挺が、高音で立ち回りなど複数の登場人物の様子を描写したり、余情ある情景の描写や登場人物が琴を奏でる時に「琴」が用いられたり、また「胡弓(こきゅう)」が切ない場面で用いられたりする。三味線方以外に、歌舞伎と同じく御簾(みす)の内で下座音楽(囃子・鳴物)を担当する「御簾内(みすうち)」と呼ばれるものがあるが、これも舞台構成上大切な要素となっている。  
文楽人形の最大の特徴は、一体の人形を3人で操るという世界的に見ても独特な様式にある。人形遣いは黒衣姿で、一体3人の役割分担を見ると、頭・首(胴)と右手を担当する「主遣い(おもづかい)」、左手担当の「左遣い」、両足担当の「足遣い」に分かれている。左手で人形の首の胴串を握り、等身大に近い背丈の、10キロ以上の人形を片手で支えつつ、人形の背骨となって全身を操る主遣いが最も重要であり、重要な場面では特に主遣いだけ顔を晒し、紋付袴で操る「出遣い(でづかい)」と呼ばれるものがある。この顔見せは観客に対するサービスの類で、更に派手な演出の際には肩衣を着る場合もある。主遣いは、3人の呼吸を合わせ三位一体となり、人形を生きているかのようにリアルに演出するために、「頭(ず)」と呼ばれる合図を出している。「頭」は音声を用いず、主遣いの操る人形の動きの中に表され、左遣いと足遣いは常に人形の首周辺に注目し、頭を察知するのだが、人形の動きには一定の様式があり、その流れを完全に理解した上で、次を予測しながら操るものだという。人形遣いの修業は、足遣い、左遣い、主遣いの順で始められ、その鍛錬は「足十年、左十年」「主遣い」を務めるには40年かかる、と言われるほど長く厳しい修練を要する。中腰を強いられる足遣いの姿勢が楽になるよう、主遣いだけは高く作られた特殊な「舞台下駄」を履き、人形遣いの配役は都合で変わるので、誰とでも呼吸が合うように鍛錬を要するという。人形遣いの職掌はなかなか想像・理解し難いので、人形について触れてみることにする。
人形の構造は実に簡単に出来ており、首(かしら)の下に胴串が付き、それを一本の肩板の穴に十字に通し、肩板から紐で手足がぶら下がっているだけの檜製の人形である。基本的に女の人形は足が無いのだが、足遣いが自分の手の関節や衣裳の動きを使い、足があるかのように見せている。人形の顔の表情は主遣いの担当であり、「仕掛け」「うなづき糸」などにより表情を豊かにするよう工夫され、また人形の左手には長い針金状の「さし金」が付けられ、左遣いによる綿密な動作の手助けとなるよう工夫が施されている。人形の衣裳は公演のたびに着せ替えられ、首と別々に保管されるため、人形遣いは自分が遣う人形に衣裳を着ける「人形拵え(にんぎょうこしらえ)」を要する。文楽人形の衣裳は人間用の呉服がそのまま使えぬため、染め・刺繍は特注で作られ、国立文楽劇場の衣裳部屋の倉庫に整頓され保管されている。衣裳部屋の一角に裁縫所が設けてあり、公演の配役決定後、倉庫から帯・襦袢・衿・上衣裳など必要な衣裳全部をまとめて選び出し、専任の縫い子が公演の前に首と衣裳を合わせ、後でばらす作業を行う。縫い子は衣裳の修繕・洗濯・新調などの管理全般の役目も負っている。基本となる人形の首は50種余りしかなく、肌の色を塗り替えたり、床山(髪結い)・鬘(かつら)担当者が、老若男女約120種類の基本型となる鬘と部分鬘を組み合わせて多彩な人物に作り替えるという。文楽人形の髪型は、千種類余りある部分鬘から、役に合う鬘を選び出して合わせる作業「鬘割り」が最も難しく、床山は首を汚さぬよう、ほぼ水で整形しながら役に合った形に結い上げる「結髪(けっぱつ)」という作業を要し、公演時には毎度整髪作業を行っている。銅板に植毛して鬘を作る技術も必要となる。唯一、名越昭司氏が文楽の床山師として無形文化財選定保存技術保持者の認定を受けており、現在のところ、ほぼ一手に床山を引き受けているというが、1公演で50〜80個余りの首が必要だというから大変な作業である。
印象的・個性的な表情を持つ文楽人形は、熟練の人形作者により丹念に手作りされ、その衣裳もまたリアルに見えるように柄・模様等を人形のサイズに合わせて特注し、人間の呉服と同じ素材で作られる。人形・衣裳の美術的・技巧的な素晴らしさと、人形遣いの鍛錬の上にある高度な技術とが相まって調和し、格調高く、希有な伝統芸能に昇華させているといえる。  
次に舞台構造と、舞台に要する道具類について触れる。
江戸時代より人形が工夫され、仕掛も進化すると、舞台機構も次第に進化して複雑になり、現在の文楽の舞台である「国立文楽劇場」の舞台様式として完成した。客席に最も近い上手(右)の位置に、大夫と三味線が位置する「床」が設けられ、人形が演じられる舞台は中央に位置する。舞台下部の大道具で、人形にとっての地面・床・海面となり、瞬時に変わる変幻自在な前景「手摺り(てすり)」、野山など風景を描いた舞台背景画「遠見(とおみ)」、舞台屋根部分にあり、風景や街並みを描き雰囲気を盛上げる「美術」などが客席から見える舞台装飾である。「手摺り」は人形遣いの下半身を隠すため50センチ余りの高さがあるが、観客の目線も上がってしまうため、舞台の床を掘り下げて「舟底(ふなぞこ)」にする。人形遣い等黒衣にとっては賞味85センチ程度の高さまで舞台空間が拡充され、遠近感を出したり、黒衣が控えたりする。公演に必要な大道具類(舞台装飾)は全て、舞台稽古の前に「道具調べ」として人形遣い立会いの下でチェックが行われるという。
「御簾内(みすうち)」という舞台2階の左右にある簾の掛かった場所は、前述したが囃子方・鳴り物方が音楽・効果音を担当し、通常姿は見えない。舞台両端の御簾内の下にある「小幕(こまく)」は、竹本義太夫と豊竹若大夫の2つの紋を染め抜いた黒幕で、人形・人形遣い(黒衣)が舞台に出入りする場所である。幕の開閉は若手人形遣いの役目で、舞台で演じられている演目の間を掴む修行にもなっている。
次に小道具だが、人形に合わせて7割程度に縮小された日用品の数々が、数万点余り数カ所の倉庫に眠っている。キツネ・犬など動物の類、人形の手に持たせる「持道具(もちどうぐ)」、家具など舞台に設置する「出道具(でどうぐ)」、手紙など公演毎に破ったり捨てられたりする類の「消え物」など、様々である。公演前に選び出した小道具類は、舞台裏にある棚に整理して保管され、公演中は黒衣姿の若手人形遣いが、棚から舞台にいる左遣いまで小道具を運ぶ。
目に見える舞台の要素を挙げてきたが、華やかな表舞台の円滑な遂行とその成功に欠かせないのが黒衣達の存在である。「文楽廻し」一つとっても自動回転式ではないので黒衣達が裏で働いており、彼らは「床世話(ゆかせわ)」と呼ばれ、公演中、演目ごとに文楽廻しを回転させ、太夫と三味線方の座布団・白湯の準備をしたり、地方公演の時には荷物の運送を担当したりする。  
最後になるが人形浄瑠璃文楽の演目について少し触れることにする。歌舞伎演目と関わりが深いことは前に述べたが、大別すると「時代物(じだいもの)」「世話物(せわもの)」「景事(けいごと)」に分けられる。
歴史的物語である時代物と、当時の義理人情などの人間心情を描いた世話物という2つの分類については歌舞伎と同様で、登場人物の身分階級での分類によると、公家や武家階級(社会)を描き、歴史的事実を演劇化したのが「時代物」、現代のテレビドラマのような当時の江戸の市井の風俗、町人社会を描写したのが「世話物」とされる。「景事」は、能・狂言・歌舞伎・人形浄瑠璃本体などから取材・独立した音楽・舞踊的要素が強い演目で、歌舞伎の「所作事(舞踊物)」に近い類である。
演目のうちでも「大曲」「難曲」とされる「仮名手本忠臣蔵−山科閑居」は神格化された演目であり「櫓下(やぐらした)」「紋下」という大夫・三味線・人形遣いの最高位である頭領格・一座の代表者が代々勤めるものであった。どう演出するか先人の口伝も残され、大半の大夫はこの演目を遣らずに終えてしまうものだという。最後の櫓下・豊竹山城少掾が1967年に没後、現在は櫓下不在の状態である。
 
浪曲・浪花節

「浪曲(ろうきょく)」と聞いてもピンと来ないが、「浪花節(なにわぶし)」と聞けば何であるかイメージできるかも知れない。浪曲と浪花節は同じもので、当初、浪花節の名称で親しまれていたものを蔑称としても使われた経緯を嫌い、浪曲として公表し始めたことで2つの名称を持つこととなった。「浪花節にでも出てきそうな」「浪花節的な」などの日本語表現も使われているし、内容的に義理人情の世界を扱うことが多いため、「浪花節」という語も、義理人情の代名詞のように使われている。まずはこの芸能の系統と成立から追ってゆくことにする。
浪曲は、その上演形態の共通性から落語・漫才・講談などと共に「演芸」の1つとして現在は扱われているが、大衆芸能としての本質は、落語・講談・漫才などの話芸と異なり、「曲」と付く通り音楽の1系統に含まれる。邦楽の中の「声楽」の2大系統として「歌い物」「語り物」があり、浪曲は語り物の1系統になるのだが、更に遡ると、声楽の源流は「声明(しょうみょう)」にあるとされる。以下、声明から浪曲成立までの流れを年代順に追ってみることにするが、声明は日本音楽の源にあり、言い換えれば日本声楽史に相当するものとも言えるので、興味のある方はじっくり読んで頂ければ幸いである。  
古代インドの学問分野に「五明(ごみょう)」というものがあり、その1つに音韻学・文法学として「声明(しょうみょう)」があった。日本へは仏教伝来と共に中国から「声明梵唄(しょうみゅうぼんばい)」として移入され、定着・発展してきたと見られている。声明とは仏教儀礼・法要の際、経文に一定の旋律を付して朗唱する声楽の一種で、「梵讃(ぼんさん・サンスクリット語)」「漢讃(かんさん・中国語)」「和讃(わさん・日本語)」など、3つの言語により書かれ、日本語で書かれた和文声明だけでも10種類余りあるというが、いずれも諸仏讃嘆・祈願を目的としたものである。奈良時代の752年、東大寺大仏開眼供養会が行われた際、法要で声明が盛大に唱えられたという記録が史実上初めて登場し、当時、既に声明が盛んに行われていたと見られている。中国・朝鮮で「梵唄(ぼんばい)」「唄匿(ばいのく)」と呼ばれていたことから、梵唄の名称も用いられている。平安時代初期、最澄・空海により中国から密教系の「天台声明」「真言声明」両派が主流派となって広められ、その後、平安時代後期の僧で融通念仏の祖でもある「良忍」が、京都・大原で日本各地の声明をほぼ全て吸収・大成したといわれる。「日本舞踊−念仏踊り」の項を参照頂ければ融通念仏の流れも解るかと思う。京都・大原は魚山(ぎょざん)流声明の本拠地として今日でも有名であり、この後、鎌倉時代の「平曲」(平家琵琶)や室町時代中期の「浄瑠璃」「謡曲」など、語り物において大きな影響を与えた。
さて本筋の声明の流れに戻るが、仏の教えを広めるため、一般の人々にも判り易いように、僧が経文を因果応報の話として仏事の席で語る「説経」が起こり、より馴染みやすく声明の音曲的要素(曲節)を加え、室町時代初期には「説経節(せっきょうぶし)」と呼ばれる芸能が誕生する。説経節は、仏教経典の解説・神仏の霊験・各地の伝説・寺社縁起などを題材とした庶民向けの説話が文学的に進展した、いわゆる唱導文学が更に発展したもので、江戸時代前期には伴奏楽器として浄瑠璃の三味線を取り入れ、「説経浄瑠璃」「歌浄瑠璃」という形式を生み出し、一般的な音楽として人々に受け入れられ全盛期を迎えたが、この頃は義太夫の浄瑠璃・文楽・歌舞伎の全盛期にあたり、その絶大な人気に押されて消滅していった。
方で、和讃を元として成立した山伏(修験者)祭文(さいもん)に音曲的要素を加え俗化した「祭文節(さいもんぶし)」から、更に芸能化した「歌祭文(うたさいもん)」という芸能が庶民の間で流行する。祭文とは本来、山伏修験者が錫杖を振り鳴らし、ほら貝を吹きながら、祭礼で神に捧げる祝詞(のりと)を唱え歩くものであるが、歌祭文は近世俗曲の1つで、門付芸人が死刑・情死など話題性のある事件や当時の風俗を綴った文句を、三味線などの伴奏で歌いながら巡業するもので、庶民が求める題材、例えば芸能ニュースのようなタイムリーな話題を題材に、アップテンポで面白く聴かせるものに変容した結果出来上がった芸能である。更に江戸時代末期には、説教節などを基調として江戸で「弔歌連(ちょんがれ)」「チョボクレ」、上方で「阿呆蛇羅教(あほだらきょう)」と呼ばれる都市部の大道芸に変化し、祭文節の別系統の流れとして歌説経・説経浄瑠璃を取り入れ「デロレン祭文」という流行芸が誕生した。関東での浪曲の直接的なルーツは、これら弔歌連・チョボクレにあると言われているが、上方(関西)での浪曲のルーツはもう一段階加わる。
江戸時代末期・文化文政期の上方で、弔歌連を改良しデロレン祭文を統合し、更に節の間に語りの部分を加えた「浮連節(うかれぶし)」という上方浪曲の前身にあたる芸能が誕生した。「京山恭安斎(きょうやまきょうあんさい)」が義太夫節・琵琶などの長所を採用し、三味線を伴奏とした新しい一人芝居として興行し、関西で大いに歓迎され、大衆芸能の名物となった。大道芸ではない大衆向け芝居芸としての自負から、地方巡業を多く行ったと言われる。明治時代初期、浮連節の人気を脇目に江戸へ上り「浪花節(なにわぶし)」として売り出し、人気を博したのが「浪花伊助(なにわいすけ)」である。古くから伝わる浄瑠璃・説経節・祭文語りを基礎として、大道芸として始められ、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。弔歌連の節回し、チョボクレの語り口上、デロレン祭文の発声、阿呆蛇羅教の音調子など様々な門付芸の要素に「河内音頭」「江州音頭」のリズム、講談の会話運びなど、大衆芸能の要素を融合・吸収して作られたと言われる。明治時代半ば頃まで、「ヒラキ」と呼ばれるヨシズ張りの掛け小屋で興行することが多く、大道芸人として軽視されていたものの、浪曲草創期の立役者として浪花伊助・京山恭安斎の名は伝説的に語り継がれている。
成立までの流れを見てきたが、その後、現在に至るまでの歴史も併せて紹介したい。
その後、東京で浪花節は勢力を増し、地位の高い寄席でも上演されるようになり、一方関西では浮連節専門の寄席が徐々に数を増していった。明治中期頃、浪曲の黄金時代を築いた桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が東京での27日間興行で大入りの成功を収めた時、壮士の演説会を真似て金屏風・立机が置かれ、羽織袴で演じるという現在の口演スタイルが誕生したと言われている。屏風裏で曲師が演奏するという演出の裏には、美しい妻である曲師を観客の目に触れぬよう隠したとの説もある。因みに、以前は浄瑠璃と同様、演台を前に置き、座り高座に曲師と並んで演じていたという。演題も、従前の講談などを元にした庶民的なものから、武士道鼓吹を名目とした「義士伝」など、この頃から現在の「金襖物(きんぶすまもの)」が中心に据えられ、大衆に熱狂的に歓迎された。特に桃中軒雲右衛門(東京)と二代目・吉田奈良丸(関西)は、政治活動家・思想家などの後援で初めて文士の手によるオリジナル脚本を創作し、確固たる思想に基づく主張のある格調高い演目となり、その芸術的価値が一挙に高められ、またこれに触発されて多くの浪曲師が義士伝を中心にオリジナル脚本の創作・整備を進め、浪曲全体の水準が高まることになった。その後、レコードの全国的な普及により地方巡業も華々しく持て囃され、歓迎された。その後の昭和期、戦前は民放ラジオ局が続々と開局し、浪曲番組は聴取率が高く、番組への採用も多かったため全国的な浪曲ブームが起き、隆盛を極めた。2代目・広沢虎造の登場により「清水次郎長伝」の虎造節が戦前から戦後にかけて一世を風靡した。戦後のテレビメディアの台頭に乗り遅れ、また大衆娯楽も多様化により、浪曲は次第に衰退してゆき、現在、古臭い芸と思われがちではあるが、若手育成や新しい試みとして海外活動なども始まり、今後どのように変遷してゆくか楽しみな芸能と言える。  
ここで浪曲の名称の変遷について少し触れておくことにする。前述のとおり、浪花節と浪曲は同じものであり、正式名称は現在「浪曲」となっている。関東・関西で、ほぼ同時に誕生した浪曲だが、上方ではしばらく「浮連節」と称され続け、江戸では「浪花節」の呼称が広まり始めた。明冶時代に入ると政府による芸人取締令発布により、興行のための鑑札の下附を受けるため、1872年「東京浪花節組合」が東京で結成され、新政府教務省の指示で由来書を提出し、「浪花節」という呼称が初めて公のものとなった。しかし1900年代初頭までは、弔歌連節・チョボクレ・浮連節など、全国的に共通した名称は持たない状態であった。東西の交流が始まり、全国的に人気を博するにつれ「浪花節」の名称で統一され始め、また大正時代半ば頃から「浪曲」という名称も一部で使われ始め、昭和期に入り「浪曲」の名が次第に一般化したのだが、昭和30年代に入り、日本浪曲協会は「浪花節」が蔑称としても使われた経緯を嫌い、「浪曲」として公表し始めたことで2つの名称を持つこととなった。現在は、偏見なく双方使用されているような状態である。  
次に浪曲の概要に移りたい。浪曲は、太棹(ふとざお)の三味線を伴奏として、浪曲師が1つの物語を「節(ふし)」と「啖呵(たんか)」で語る大衆芸能であり、この構成が浪曲特有の魅力を生んでいる。節は、物語の情景や登場人物の心情を歌詞として歌うものであり、啖呵は、登場人物を演じて台詞を話すものである。成立当初は「啖呵」がなく、平曲・謡曲・浄瑠璃などと同様、物語を謡い語るものであったが、内容・構成・演出などにおいて他の様々な芸能を自由に取り入れ、演劇的性格と話芸の性格とを併せ持った複合芸術となった。
浪曲専門の舞台として現在残っているのは、大正時代に開業した東京都台東区浅草の演芸場「木馬亭」のみであるが、大阪市天王寺区の一心寺では毎月1回「一心寺門前浪曲寄席」が開かれるなど、舞台装置として特別に必要となるものがないため、全国各地のホール等でも上演されている。ラジオでヒットした浪曲であるが、現在はラジオ番組も少なくなり、NHKラジオ第1放送「浪曲十八番」と朝日放送「おはよう浪曲」が根強く生き残っている。
舞台は、舞台中央の浪曲師(語り)の背後に金屏風、やや前方に屏風又は衝立を立て、三味線などの伴奏(曲師)がその裏の姿が見えない位置で演奏する。その後ろの中央演台の下手側横には演台より一段高い湯呑み台を置き、演者のすぐ後の背の高い椅子には流派の家紋を付した布がかかり、両袖の屏風前にも小さな台を置き、演台には様々な絵柄の布地が掛けられる。このテーブル掛けは厚地で、裾が左右に山型に広がるものであるが、相撲界の化粧回しと同じくファンが贔屓の浪曲師に送るもので、下部に金糸で贈主の名前が記され、湯呑み台の方に浪曲師の名が記されることが多い。布地は主に羽二重や塩瀬が用いられ、以上の一舞台用の布地が揃いで最低50万円以上するというから驚きである。売れない浪曲師が一体どんな布地を被せるのか見てみたいものだ。さて、浪曲師一人が中央の演台の前で、男性は紋付袴、女性は袴を付ける・付けない両方あるが、いずれも和服姿で上がり、椅子はあっても立って演じるのが基本とされる。この芸能の自由性のためか昨今の若手浪曲師はカジュアルな服装だったり、伴奏として三味線に替えてギター・ピアノなども用いられるようだ。
浪曲は、成立当時から義理・人情・情愛など、人間的な物語を題材として演じられることが多く、歌舞伎・講談・文芸・浄瑠璃・ニュースなど幅広いジャンルから物語が作られる。浪曲の演目(外題)は、一話完結のものから連続ドラマのように長編のものまであるが、大体30分程度の話となっている。演目内容は、講談と同系統の分類を持つが、その分類方法は公には定まっておらず、筆者もどの分類が正しいのか判らないのだが、おおよそ次のようになる。
「金襖物(きんぶすまもの)」お家騒動物・出世物などとも呼ばれ、武士の忠勇美談を題材とし、他の演目より格があるとされる。「赤穂義士銘々伝」「乃木将軍伝」などが有名である。
「端物(はもの)」世話物(悲恋・ニュースなど)・白浪物(泥棒物)など、他のジャンルに含まれないものを題材とし、「佐渡情話」「八百屋お七」「滝の白糸」「番町皿屋敷」などが有名である。
「三尺物(さんじゃくもの)」任侠物・侠客物とも呼ばれ、任侠、侠客、やくざ物を題材とした「清水次郎長伝」「国定忠治」「天保水滸伝」「瞼の母」などが有名である。
「ケレン物」歌舞伎の外連(けれん)から来た滑稽物、いわゆる「お笑い」のことで「ケレン読み」とも呼ばれる。「甚五郎小田原の巻」などが有名である。
浪曲の代表的な演目(外題)は通常、口演した浪曲師の名と共に有名となり、ヒットした演目は、ヒットさせた浪曲師の専売特許となり、断り無く他者が演じることはできなくなる。講談・浄瑠璃など著名な作品を原典とするものが多いため、同じ物語を複数の浪曲家が演じることはあっても、脚本は別物として扱われる。これは浪曲の特質として創造・個性を尊び、各々の浪曲師が自由に節付け・表現・演出するため、例えば2代目・広沢虎造の十八番「清水次郎長伝」と玉川勝太郎の「清水次郎長伝」は全く別の作品として扱われる。ヒット作は同流派の門人や後継者に優先的に受け継がれ、人気の名跡もまた同様に襲名されるが、そのまま受け継いで演じても、観衆からは受け入れられないのだという。浪曲には多くの伝統芸能に見られるような家元制度がなく、人気を勝ち得た者がトップに立つ訳で、その家の芸風が伝承過程で洗練されてゆく側面もあるが、個々の演者に個々の芸風が求められるし、同じ家系でも先代以上の独自性・創造性が求められる世界なのであり、現在は伝統の継承と個性の兼ね合いが求められている。
次に浪曲の節について触れるが、関東節・関西節・中京節(合いの子節)と大きく3つの地方で分けられている。
浪曲は東京と大阪でほぼ同時期に生まれ、交流しつつも各々特有の芸風が形成された。現在用いられている「関東節」「関西節」の分類によると、浪曲師の語り口調と三味線の調子により、速いテンポで高調子の関東節と、ゆっくりしたテンポで低音に特徴がある関西節とに大別される。ただし両者の違いは、浪曲師の本拠地が関東・関西かに縁らず、亭号にも縁らず、区分が明確ではないが、関西の浪曲師で関東節の者はおらず、昨今は、生粋の関東節の浪曲師が少ないと言われている。元来、両者の明確な違いは三味線の調子にあり、高調子が関東節、低調子が関西節とされたが、現在は三味線の響きが良く、伴奏が派手に聞こえ、また演者が調子を取り易いため、関西節の演者も高調子の三味線に変えてしまったので差異の説明は難しくなったが、各々の成立の背景から違いを見てみることにする。  
「関東節」は、基本的には明るく・高調子で・速いテンポが特徴とされ、関西から伝わった歌浄瑠璃をデロレン祭文に採り入れることで出来上がったもので、発声法(声質)は祭文語りの流れにより、高く張り上げるような、絞り出すような硬い高音域の寂声(さびごえ)が基本となる。よって変化に乏しく一本調子の節調が多いので、他の芸能の様々な節回しを取り入れることで変化を付けた。最も特徴的な節は「約節(やくぶし)」と呼ばれるもので、義太夫・説経節などから転用した「セメ」などの節を織り込むものである。古来より主流は、浪花亭駒吉が演じたことから起きた「浪花亭派」であり、浪花亭派から独立した「木村派」(木村重友)、上州祭文に瞽女歌を融合させた「東家派」(東家浦太郎)、デロレン祭文語りを発展させた「玉川派」(青木勝之助)などがある。
「関西節」は、逆に単調で・低調子で・遅めのテンポが特徴とされ、説経節からの流れを汲んだ軽く柔らかみのある寂声が基本となっている。よって変化に富み、表情豊かな節調による表現が可能だった。関西節では仏教説話の如く、柔らかな節回しの変化とともに強い説得力を持つものであり、逆に「滑稽節(ケレン節)」のような軽妙洒脱な表現・演出が生まれたのも関西節なればこそである。主流は京山恭安斎の祖とする「京山派」、吉田奈良丸を祖とする「吉田派」である。
「中京節」は、関西節の滑らかさに関東節の切れ味を取り込み、2つをうまく融合させたもので、「合いの子節」とも呼ばれる。独特の伊勢祭文語りの流れを汲んだ鼈甲斎虎丸の節がある。「清水次郎長伝」で大ヒットした2代目・広沢虎造が生んだ「虎造節」は、木村重松の関東節と鼈甲斎虎丸の中京節を融合させたものである。また歯切れの良い啖呵で知られ、任侠物「河内十人斬り」、ケレン物(お笑い)「左甚五郎」を演じて浪曲界を支えた初代・京山幸枝若が生んだ「幸枝若節」は、低く暗いイメージの関西節を、高音でノリのよいテンポに変え、新しいイメージを生み出した。他に、美空ひばりの十八番だった「唄入り観音経」を演じ、新内節を融合して「三門節」を作った三門博などがいる。  
最後に、演者である浪曲師について紹介してみることにする。
他の芸能と比べて伝統の継承に縛られることもなく、演者にとってかなり自由のある創造的な芸能であり、成立当初から女性に門戸が開かれ、男女全く同列で覇を競ってきたという、日本では稀な芸能である。浪曲の評価基準は古来より「一に声、二に節、三に啖呵」と言われており、浪曲界の実力は、その人気と等しく、よって大衆の嗜好如何に掛かっている。よって一般的に人気を博する浪曲師は、一に声の良い者、二に魅力的な節調(節回し)の者、三に話芸が巧みで啖呵に優れる者とされ、概ねこの法則は浪曲史上実証されてきた。しかし「節(ふし)で三年啖呵(タンカ)で五年」と言われるように、浪曲を学ぶ際は、節より啖呵が難しいとされる。不条理ながら、芸が不出来でも美声と名調で名を成した浪曲師は大勢おり、修行だけでは大成できず、天賦の才能が必要な訳である。この点が、話芸である講談や落語と並び称される演芸のうちでも、浪曲が声楽である所以である。
第一に評価される声であるが、声楽ではあれど清澄な美声が必要な訳ではなく、祭文から続いてきた発声である「寂声(さびごえ)」という閑寂・枯淡で、修練を経て老熟し、枯れて渋みの増した趣のある声が評価される。寂声による独特の声使いにより表現される登場人物の感情・心理の起伏は、観衆に本能的に伝達して感性に訴え、理屈抜きでストレートに感情伝達されるところが浪曲の特質であり醍醐味とされる。プロの浪曲師とアマチュアでは語りの上手・下手という技術上の問題以前に、声質差が歴然としており、アマチュアは物真似・節真似ができたとしても、歌唱力−寂声は簡単には育ち得ないものなのである。
第二に評価される節調(節回し)であるが、浪曲師が各々独自に創り出すものであり、奈良丸節、幸枝節など創作した浪曲師の名を冠して称され、独自の曲節を持って初めて一流と呼ばれる。だが昨今では新しい曲節を生み出すより、歴代の先人の芸から節の音程変化・呼吸・間等を写し取ることで舞台を演出する方が多く、また先に触れた寂声で物語を語るものとはいえど、啖呵の部分は自然会話の話芸として、自然発声で語られることが多いという。
第三に評価される啖呵であるが、簡単に言えば話術であり、これは技術的な要素が高く、修業を要するものである。一人ミュージカルと例えられるように浪曲師一人で何役をもこなすため、表現力も発声も多彩に用意できなければならない。しかし、浪曲は話すのではなく「唸る(うなる)」と表現されるように、ただ啖呵(台詞)を登場人物になりきって言えば良い訳ではないところが修業どころのようである。  
 
落語

「落語(らくご)」は「寄席」「笑点」などの語とともによく知られており、世代によっては、落語と共に人生・青春を歩んだなどと言い切ってしまう人もいるほどの人気がある。講談・漫才・浪曲(浪花節)などと共に「演芸」の1つとして、伝統的な話芸として扱われているが、これらの話芸の中でも特に落語は不動の人気を誇り、カラーテレビ時代から45年余り続いている落語番組「笑点」は、歴代3位の長寿番組だという。笑いの芸能として娯楽の王道を歩んできた落語を本項で紐解いてゆくが、落語愛好者でも読める内容になるよう掘り下げて進めてみたい。
まず「落語」という語の成立であるが、成立当初、本来は落語家が行う演目(ネタ)のうち滑稽物を中心として落ち(サゲ)を持つものを「落し咄(おとしばなし)」と呼び、それ以外は「話・噺・咄(はなし)」などと呼ばれていた。落語の表記は、江戸時代の18世紀後半に刊行された「新作落語徳治伝」で初見され、落語(らくご)と呼ばれるようになるのは明治期以降のことである。必ず落ちがあることから落し咄と名が付き、落語に転化したというが、落語演目には落ちのない人情噺・芝居噺などもあり、現在は全ての演目の総称となっている。ちなみに演者は「落語家」とも「噺家」とも呼ばれており、落語が幅広く浸透していた江戸時代当時の名称の名残が見られる。
落語家(噺家)は、各々の落語家のテーマソングである「出囃子(でばやし)」という三味線・太鼓などの下座音楽に乗って着物姿で舞台に登場し、「高座(こうざ)」と呼ばれる落語舞台の、真中の座布団に座って話を始める。座ったまま、基本的には身振り(仕草)と語り(言葉)の技巧のみで、様々な登場人物(子供・町人・武士など)を演じ分けるシンプルな芸で、衣装・道具・音曲を極力用いずに披露する素の芸であり、それゆえに観衆を魅了する高度な技芸を要すると言われている。同じく笑いを主眼とし、演者が聴衆に語りかける形式の「漫談」との違いは、登場人物同士の対話を中心として話が進行する点にある。通常「枕(前振りとして語られる小話)」の次に「地」と呼ばれる場面設定や心理・状況描写などを説明する部分が入り、続いて本筋として大半を占める対話部分で話が構成される。少し解かりづらいので、落語の話の構成要素について少し触れておくことにする。  
「枕(マクラ)」とは、導入部で語られる世間噺・時事問題や、本題と接点のある面白い小話のことで、当時の風習・言葉を予備知識として事前に説明するなどして本筋を解かり易くしたり、落ちへの伏線をはるなど演者側が話を進め易くする効果がある。この小話で笑わせてリラックスさせ、話に惹きつけるなどの効果もあり、演目や噺家によっては一定の様式の枕もあるため、通になると枕で本題が分かるという。絶対に語らねばならないものではないので、いきなり本題に入る噺家もいるし、古くから有名な「まくら噺」というものもあり、この部分だけで一席分の語りになるものもある。
「地」とは、場面設定・心理描写・状況描写などを必要最小限で説明する部分のことであり、登場人物の会話でない部分のこと。会話調の対話部分の語りより地の部分が多く、講談に近い語り口調の地で話が展開してゆくものを特に「地噺」と呼ぶ。「人情噺」などに多い。
「擽り(クスグリ)」とは、本来の話の筋にある笑いではなく、演者によって入れ込まれる笑いのことで、地口(駄洒落)・内輪ネタなどで観客の笑いを取ること。特に歌舞伎や古典落語などの伝統芸能では時折見られるものであるが、挿入する場合には、一般的に話の筋から大きく外れないものが好まれる。
「落ち(サゲ)」とは、落語の締めくくりの一言であり、落し噺で特に重要なもの。よく考えないと理解できない落ち・発音が似ている地口(駄洒落)の落ちなど多様な種類があるが、いずれもこの常套句による笑いで結びとなる。「考え―」「逆さ―」「仕草―」「地口―」「仕込み―」「途端―」「ぶっつけ―」「間抜け―」「見立て―」「にわか―」「とんとん―」「梯子―」「回り―」などに分類されるが、十分な分類法がなく、現在では従来の分類で当てはまらないものや別の分類に入れた方が良いものも出てきたという。口演時間の制約や、通じない落ちが出て来たことなどにより、最近は落ちまで披露せず終わることも多く、人情噺・芝居噺などの大半は落ちがない。  
話の構成要素を挙げてみたが、次に物理的な、目に見える要素も挙げてみることにする。演出の代表的なものは小道具であるが、手拭い・扇子のみで全てを表現し、例えば、扇子はきせる・箸・筆・杯・刀・釣竿・手紙等、手拭いは本・財布・証文などに見立てられる。扇子は「かぜ」、手拭いは「まんだら」、羽織は「だるま」と、符牒(隠語)を使って呼ばれている。二つ目昇進後、自分の名前入りの手拭いを作ることができ、真打昇進後は、更に自分の名前入りの扇子を作ることができる。江戸落語と上方落語では小道具や慣習に違いがあり、上方落語では見台・張り扇・小拍子など、講談の演出と同じような小道具も用いられる。小道具以外の演出要素として衣装・照明・効果音などが挙げられるが、基本的に噺家は比較的シンプルな柄、又は無地の和服を着用して舞台に挙がり、照明や効果音は用いない。落語は素の話芸であり、観衆に対しても芸に集中して貰えるよう、話以外の余計な音や物を極力避けるものであるが、地域・演目などにより最中に音曲や効果音が使用される場合がある。上方落語に用いられる下座音楽である「はめもの」がそれである。芝居噺に用いられる「書割」「ツケ」などは例外として慣習的に使用されている。元来、江戸落語には名ビラ(演者の名を記したもの)やメクリ(名ビラを掲げる台)、出囃子も無かったが、後になって上方落語から移入され常用されるようになった。元はかなり簡素な舞台構成・演出であったと思われ、現在も同じ流れを継ぎシンプルであることには変わりなく、しかし各々最小限の所作に様々な意味を持たせているので、素人目に解りづらい演出も多い。例えば二つ目昇進以後は紋付羽織の着用が許されるが、一瞬で羽織を脱ぐ脱ぎ方・タイミング等にも約束事があり、枕から本題に移行する合図・次の演者(噺家)の準備が出来た合図を担ったり、羽織があれば大名や殿様、羽織が無ければ商人役であるなど何らの意味合いを有するとされる。  
そもそも落語という芸の根幹を成す要素は、先に述べたように言葉(口頭語)と仕草(座って行われる最小限)の2つしかないので、この2つを少し掘り下げてみたい。
言葉古典落語の場合は、大半が口伝で継承されてきた特定の口演台本があり、噺家はこれを元に稽古し口演する。先に述べたが説明的な「地」の部分と会話文で構成される本題は、主にテンポの良い会話で話を進め、最小限の地で表現できない描写(細かい心理描写など)は仕草で補われる。登場人物を全て一人で演じねばならないため、声の調子・言葉遣い・話し振りなどの工夫により演じ分けられ、これらが綯い交ぜの状態であっても聴衆は不自然に感じないという。
仕草言葉の全てに仕草が伴われるのではなく、言葉で表現しきれない部分にだけ次のような仕草が付される。
小道具を箸に見立て、何かを「食べる」動作は落語の代表的な仕草である。同様に飲む・書く・歩く・走る・着るなど人物の行動を座ったまま表現する。要所で人物の「表情」を強調したり真似たりするもの、登場人物を解り易く分けるため上位・下位の人物の会話を上手・下手への「視線」「目振り」で表すもの、また「視線」「指差し」で虚空に場所・物を演出する場合もある。いずれにしろ落語舞台で小道具や演者の有する空間に制限があり、演者の話術と、座布団上の制限された動きだけでは観衆の想像力に負う部分も大きいが、それを促す臨場感を有する演出が非常に重要であるといわれる。  
ここで、何度か話に出てきた「江戸落語」「上方落語」の違いについて触れておこうと思うが、いずれも素人の筆者なので、一般的に言われる違いを挙げてみることにする。語の通り「江戸落語」は江戸で誕生・発展したお座敷芸を起源とし、「上方落語」は上方(京阪神)で誕生・発展した大道芸を起源とすると言われている。端的に言えば、じっくりと名人芸を聞かせる粋で静的な話芸が「江戸落語」、派手で目立つ仕草を伴って笑いを追求する動的な話芸が「上方落語」と言えるかもしれない。近年では、2007年にNHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」で上方落語を採り上げたので、違いについてご存知の方も多いかもしれない。
上方落語の特徴は、上方弁(関西弁)でコッテリとして言葉数も多く、上方落語独特の「ハメモノ」という音楽が入り、賑やかで入念な演出とともに可笑しさを追求する。戸外で観衆を集め、惹きつけるために小道具・鳴り物も用いられ、笑いで観衆を喜ばせることを重視するサービス満点の内容で継承されてきた。観衆とのスタンスも江戸落語と比べて対話中心であり、観衆の反応を大切にする芸能として育まれてきた。故に江戸落語に見られるような芝居噺や人情噺などのジャンルが存在せず、寄席の雰囲気やお客様のウケなど、江戸落語とは今でも違うという。上方落語の方が演目数が多く、江戸に移入された演目も多く、起源も、時期的には上方の方が早かったという。
江戸落語の特徴は、歯切れ良い江戸弁で、無駄な言葉を省いた洗練された話芸としての面白さを追求する、軽妙洒脱な芸である。上方にはない人情噺が特徴的であるため、人情噺の感動・感銘を呼ぶ系統と、笑いを追求する系統との2つが混在しているが、上方に比べて一方通行で、観衆とのスタンスは舞台の上と下ではっきりとした境界線を有する。東京落語とも呼ばれ、座布団と湯呑みのみが舞台装置であり、特に囃子が用いられるものは「音曲噺」という1つのジャンルになっている。上方から移入された演目が多いが、そのまま同じ内容・演目名・オチではなく、江戸の寄席の雰囲気に合わせて変えられたものが多い。  
次に、落語という話芸の起源について触れてみたい。落語成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」のいずれも「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接であり、また「話芸」という語の成立自体も明治時代に入ってからのことで、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。これは他の話芸でも同じであるが、話芸を生業とした職掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「風土記」の頃、各地の説話を口伝した語部(かたりべ)に始まり、室町時代に誕生した近侍の雑役・芸能僧である同朋衆(どうぼうしゅう)を経て、戦国時代の武士役職である御伽衆(おとぎしゅう)・御咄衆(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として見るならば、高座に座して巧妙な話の演出をする現在の形式は、平安時代、仏教の説教(説経)師が創造し、継承・発展させたものとされているが、今の落語の直接的な起源は、一般的に戦国時代から江戸末期、主君に近侍して話し相手となった武士役職である「御伽衆(おとぎしゅう)」「御咄衆(おはなししゅう)」にあると言われ、多くの戦国大名が御伽衆を置き、当初は戦陣の合間の慰め役として武辺話などを面白く語るものであった。次第に領国経営など役立つ知識を有する古老・浪人などの任務となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇間のような存在になった。武家出身の御伽衆の流れが講談師となり、町人出身の御伽衆の流れが落語家になったとも言われている。その中に「頓知者」と呼ばれる人々がおり、その代表的人物としては、1628年に最古の噺本である「醒睡笑」を著した、誓願寺の安楽庵策伝が挙げられ、彼らの滑稽話が落語の祖型であると言われている。この著書には「子ほめ」「牛ほめ」など現在でも演じられている原話も収められており、全部で千以上の小咄が収録されているという。
その後17世紀後半、ほぼ同時期に3人の人物が落語の祖として名を残している。京都では、露の五郎兵衛が四条河原・北野天満宮などで「辻談義(辻説法)」を行い活躍し、職業落語家の祖と言われている。大坂では米沢彦八が出て人気を博し、生玉社境内を本拠地として辻噺を盛んに行い、名古屋でも公演をするなど広く知れ渡った。「軽口」「軽口噺」と呼ばれ、「仕形物真似(しかたものまね)」を得意として派手な演出で有名で、また初代の彦八が「寿限無」の原話を作ったと言われ、大阪落語の祖と呼ばれている。次の2代目・米沢彦八も名高く、落語界に名を残している。同時期に大坂出身の鹿野武左衛門が、江戸の芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄(ざしきしかたばなし)」を始め、身振り・手振り・表情を交えて口演する現在の落語の祖形を作ったことから、江戸落語の祖とも呼ばれている。
更に18世紀後半、狂詩・狂文が盛んとなり、上方では雑俳・仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始め、白鯉館卯雲という狂歌師が江戸に伝えて江戸小咄が誕生、「小咄」「落とし咄」と呼ばれる時代である。上方で1770年代、江戸で1786年に烏亭焉馬(うていえんば)らにより「咄の会」が始められ、初代三笑亭可楽・初代三遊亭円生が登場する基盤を築いた。1798年、岡本万作と初代三笑亭可楽が江戸で各々の寄席を開いた後に寄席の数が急増し、天保の改革によって一時は寄席の数が120軒から15軒に衰微するも、直ぐに再興し、落語の興隆期を迎える。そんな中、幕末〜明治期に活躍した「三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)」は「芝居噺」で大人気を博し、歴史的名人として現在でも知られ、中興の祖とも呼ばれている。圓朝は時代に即した落語を口演し、自作自演の「怪談噺」や、取材に基いた「実録人情噺」など独自の題材を創出し、落語の新たな道を開拓した。この頃、日本語速記術が誕生し、圓朝の高座の速記本は当時の文学や新聞で大人気となり、特に文芸における言文一致の台頭を促すなど大きな影響を与えたという。1917年、柳派・三遊派が合併し、「東京寄席演芸株式会社」「三遊柳連睦会(睦会)」を設立し、更に1923年には「睦会」と「会社」が合併し「東京落語協会(現・落語協会)」を設立した。大学サークルの落語研究会である「落研(おちけん)」が東京大学・早稲田大学などで誕生するのは昭和20年代の頃のことである。  
こうして落語の歴史を振り返ると、創始から何百年もの間、男性だけの専売特許職であり、女性の参入が皆無であった。日本の伝統芸能では、同じように男性によって培われてきたものが多いのだが、20年位前から、女性落語入門者も見られるようになり、現在では東京・大阪で10名余りの女性落語家が活躍しているというから喜ばしい限りである。
寄席や演芸場(ホールともいう)の興行で演じるプロの落語家(職業的噺家)として名が挙がる人は大勢おり、現在、プロの落語家は東西合わせ600人以上いるのだが、落語家プロ第1号は、現・JR上野駅近辺で寄席興行を行った三笑亭可楽とされている。昭和初期に誕生した「東京落語協会(現・落語協会)」から組織が分化しており、落語協会(三遊亭円歌会長)、落語芸術協会(桂歌丸会長)、立川流、三遊亭円楽一門、上方落語協会(桂三枝会長)と所属組織が幾つも並立しているのが現状である。またプロでも興行収入の歩合(割)だけでは生計が成り立たず、旦那・お旦などスポンサーからの小遣い、妻の賃労働収入、座敷(酒席)での余興収入などにも頼る状態であり、副業・内職・アルバイトなど収入源・額に相場は無く、個々により様々のようである。
さて、前述の歴史の項にもいくつか名が挙がっているが、落語の種類について最後に触れることにしたい。
「古典落語」江戸〜明治期頃までに原型が成立し、戦前までに演出が確立した演目のこと。更に以下のように分類される。
「落とし噺」面白可笑しい滑稽噺を中心とし、噺の最後に洒落や語呂合わせなどの落ちで面白く終わるもの。「牛ほめ」「饅頭こわい」「代り目」など。
「人情噺」登場人物の心理、世情、人情の機微ををリアルに描くことを目的とし、親子愛・夫婦の情愛・師弟愛・男女悲恋などの情愛を描いたもので、涙を誘う場面はあっても落ちはなく、笑いが主体ではない類。多くは長編作品で続きものとなり、かつては主任(トリ)の噺家が10日間興行で連続して口演したそうだが、区切りのいい一部を取り出して現在は演じられている。「芝浜」「文七元結」「子別れ」など。
「怪談噺」簡単に言えば幽霊やお化けが出てくる類で、主に夏に演じられ、幽霊の面や鳴り物などの演出をすることもある。「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」等が有名で、人情噺同様、長編なので数日掛けて口演される。途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。
「芝居噺」芝居(歌舞伎)と同様に書割・音曲を用い、演者が立って見得を切ったりするもの。芝居を題材にし、役者の声色などを真似したり、パロディにしたりする類で、全体として「落とし噺」と同じ構成で、要所に芝居風の台詞廻しが混じる。
「廓噺」遊郭の遊女と男たちが繰り広げる悲喜劇を取り扱った一連の噺。上方では「茶屋噺」と呼ばれている。「明烏」「居残り佐平次」「品川心中」など。
「音曲噺」芝居噺に含められるが、大げさな所作は用いず、音曲を利用して話が展開されるもの。上方落語では噺の途中に「はめもの」という下座音楽が用いられるので、音曲噺という演目を立てるのは江戸落語に限られる。
「新作落語」世情に機敏に応じた時事的作品、風刺性の濃い作品が多い。多くの演者によって演じられる(桂米朝作「一文笛」など)作品も少なくないが、作者・初演者のみのネタとして扱われ、斯界全体の共通財産と呼べぬものが多い。
「前座噺」単純で短く、基礎的技術を養うのに適した演目で、前座が最初に習い覚えたり、前座が口慣らし・口捌きに口演するもの。二つ目・真打が口演することもあるが、比較的簡単な軽い話とみなされ、通常トリの演目として披露されることはない。しかし上方では前座噺として長編の「旅ネタ」を行うことが多く、どこで区切っても別の演者が続けられるようにできているためだとされる。
「大ネタ」大作や人情噺などの中で特に難易度の高い作品の俗称。「らくだ」「地獄八景亡者戯」など。  
 
漫才・萬歳・万才

漫才を知らない人はまず、いないだろう。1980年代に漫才が一大ブームを迎え、マスメディアで「お笑い」と呼ばれるジャンルが確立して以来、現在漫才・コントなどの「お笑い芸人」が多くのテレビ番組で活躍し、芸能人としてタレントと大差無く、様々なバラエティ番組に登場し、芸より顔が売れて人気を得ているような状態である。「漫才=お笑い」ではないので、漫談・コントなどとの違いも含め、漫才の成立や伝統芸能としての中身について触れてゆこうと思う。
漫才とは、簡単に言えばボケ・ツッコミ役の2人の漫才師が掛け合いで滑稽な話をする演芸であり、成立初期の頃「二人漫談」と呼ばれていたように、主に2人で行われる漫談芸であるとされる。漫才の語源である「万歳(まんざい)」は平安時代の頃に始まった芸能で、万年も栄えるようにと宮中・寺社で祝言を述べ、歌舞を披露する「千秋万歳(せんしゅうまんざい・せんずまんざい)」が原型であると言われている。これが後には「太夫」と「才蔵」の2人1組が素襖・風折烏帽子に腰鼓を着けて家々を訪れ、祝言を述べた後に1人が鼓・1人が滑稽な舞を舞う門付け芸に変容してゆき、大正中期、関西でこれを舞台で演じたことから娯楽・大衆芸能としての道を歩み出すことになる。当初、鼓・三味線・唄に軽口で構成される音曲漫才が主流であったものが、徐々に歌舞より2人の掛け合いの話芸の色合いが濃くなり、現在の漫才の形にほぼ定着するのは昭和に入り、漫才の祖「エンタツ・アチャコ」が登場してからのことである。大正末期に起こった「漫談」にちなんで、吉本興業宣伝部により「漫才」と名付けられた昭和初期以来、漫才の語が定着し、また元来関西圏で発展してきた漫才が全国規模の人気を博し始めると、特に関西圏のものを「上方漫才(かみがたまんざい)」と呼ぶようになった。
少し注釈を加えるなら、他の話芸でも同じであるが上方と江戸(東京)ではウケ方が違うため、全国規模で人気を博する漫才師はなかなか誕生し難かった。また落語・浪曲などの伝統芸能の間をつなぐ色物扱いであり、歌舞を披露し、つなぎにしゃべる程度の、下品で低俗な内容のものと考えられていたことも全国区の人気を博するには課題が多く残されていた。その「万才」を、全国規模で誰でも理解できる大衆芸能「漫才」に大変身させたのが「エンタツ・アチャコ」である。昭和期の「お笑い革命」に成功した背景として、放送を始めたばかりのラジオという新しい全国メディアの普及や、新たな娯楽を求める都市部の大衆のニーズがあり、そうした時代の潮流を好機に変えて奮闘・努力しつつ一番の波に乗った訳である。そして現代の漫才の原型「しゃべくり漫才」を誕生させた功績は大きく、ゆえに現在の漫才の祖と言われている。
現在の漫才の型とは、本来は雑談が主体となる漫談芸であるため、コント的要素(小道具・衣装など)が用いられたとしても必要最低限であり、舞台装置・照明・音響などを用いることもほとんどない純粋な話芸である。伝統的に、男性の場合はペアかそれに近いスーツを着用するコンビが多く、スーツも原色・ラメなど派手なものが多かったが、漫才ブームで登場したタレント兼漫才師の若手達により、ファッショナブル又はカジュアル系の衣装が普及し、以前よりは舞台衣装がよりラフなものに変化している。
コントは大正時代に欧米から伝播し、場面転換とショーの彩りとして日本で定着したもので、2人又は数人で扮装・化粧し、小道具等も用いつつ演劇の延長として演じられたので「寸劇」と呼ばれていた。漫才とコントとの違いは扮装・化粧・小道具の有無にあるとされるが、衣装・小道具類に関しての制約は少ない。近年は以前ほど観客・演者側にこだわりが無く、同じ「お笑い」という1つのジャンルとして捉えられているようである。
他方で漫談は、大正期に創設された演芸であり、漫談家が世間話・批評・雑談などジャンルを問わず一人で舞台に立ってトークするものである。音声付き映画が主流になり失業した無声映画の弁士が、寄席の高座等に出演して巧みな話術を披露したのが起源であるという。漫才との違いは「一人で口演」する点にあるが、近年では掛け合いを一人で演じる「一人漫才」もあるので、漫才・コント・漫談の違いは一般的に問われなくなってきているようだ。近年の人気漫才師に「やすし・きよし」がいるが、この2人はコントの色合いの濃いものの代表格と言える。喜劇役者の弟子として芝居経験がある西川きよし氏と、奔放な発想の横山やすし氏が組み、漫才と芝居の長所を融合させた「やすきよ漫才」と呼ばれる新たな漫才を生み出した。先に述べた漫才ブームの立役者であり、当時絶大な人気を誇り、漫才界の頂点に君臨した。彼らのように人気を博したコンビの話術・スタイルが漫才の種類として広がっていくのが現状であるが、最初に始めたコンビの専売特許になる訳ではなく、真似もある程度柔軟に受け入れられる芸能、と言えるだろう。  
漫才という芸能の名前の起源と話芸の中での位置付けについて少し触れたので、次は内容について掘り下げてみたいと思う。
漫才は、どのような内容の話でもアドリブで口演するものではなく、事前に用意された台本が必要になる。「観客を笑わせる」という単純明快な目的のみが存在し、それが最大の特徴とも言える。そして演者である2人は、大抵はボケ役・ツッコミ役の二手に分かれるが、双方ボケ・双方ツッコミを特色とするコンビも数少ないが存在する。とにかく2人の会話の掛け合いが面白く、笑いを誘えればよい訳で、絶対にボケ・ツッコミの双方が必要な訳ではないのだが、話の進行役は必要不可欠とされている。従来は、ツッコミが主に話の進行役とされていたが、ボケ役が話の進行役を担当するコンビも少なくないし、この役割分担も固定ではなく流動的にこなすコンビもいる。流れによりボケ・ツッコミが自然に交代し、話を展開できるような、いわゆる達人とされるコンビほどこれが可能になるようだ。
基本的にボケ役は、面白い事を言ったりしたりする役割であり、相方のツッコミ役が、ボケ役のボケを素早く指摘し(ツッコミを入れ)、笑いどころを観衆に示す役割を担う。よって各々が発する言葉には役割が明快に定まっており、話芸の中でも演者の発話のテンポが良く、大体速いペースとなり、ツッコミを入れるタイミングの取り方で対話が大きく変化すると言われている。大抵は2人コンビで登場するが、3人以上のグループの場合もあるし、BGMが使用されたり、演者自身が楽器を演奏する「ギター漫才」「ウクレレ漫才」などもある。
要するに漫才は、伝統芸能としての一定の型が元より存在せず、大衆に合わせて進化し続けねばならない芸能であり、将来は現在の「漫才」の姿は微塵も見られないほど変容しているかもしれない。漫才には絶対不可欠の、笑わせる対象である観衆は気まぐれで流動的で、そのニーズがどのように変容してゆくのか誰にも分からない。  
次に漫才の起源と現在に至るまでの歴史について触れてみようと思う。
漫才の起源は、平安時代の頃に始まった「千秋万歳(せんしゅうまんざい・せんずまんざい)」が原型となっていると先に触れたが、現在でも千秋万歳の語は祝言の中に残っているように、極めて一般的な祝福芸であったらしい。祝言を述べて扇を手に舞う太夫と、鼓を打ち鳴らしながら合いの手を入れる才蔵が歌舞を披露する芸能であったが、公家から庶民の家まで身分を問わず訪れ、新春に芸を披露する門付芸になり、一般に広く浸透していった。しかし万歳師は災いを祓う不思議な力を有することで畏れられ、貶まれ、差別を受けることもあり、次第に公家の庇護を求めて貢納金を納め、普及活動の後ろ盾となることを期待したが、江戸時代には公家も失脚し、万歳は神道と結びついたり、旅芸人になるなどして芸を続けていた。そんな中、江戸時代に尾張萬歳、三河萬歳、大和萬歳、秋田・加賀・越前など各地で地名を冠した萬歳が興り、歌舞に言葉の掛け合い噺・謎かけ問答などを加えて滑稽味を増し、工夫を重ね、個性的な芸を創り上げつつ発展していった。明治・大正時代、新春(正月)の門付け萬歳とは別に夏祭や盆の演芸として村々の公民館・芝居小屋で舞台興行を行う萬歳が盛んに行われるようになり、庶民の娯楽となった。そのうち伊勢派の市川順若が大阪の芝居小屋などで芸を磨きつつ頭角を現し、三味線・鼓・胡弓などの楽器を使う「三曲萬歳」を成功させて評判になった。明治時代から行われた大阪の寄席演芸である「万才(まんざい)」は、この三曲萬歳をベースにしたと言われており、初期の万才はこれに倣って楽器伴奏を伴うものだったという。
第二次大戦後、萬歳はほとんど行われなくなり、今では保存会などが復興・継承している。各地の萬歳は継承者を捜し出して復興したものが多いが、成立が古いとされる三河萬歳(愛知県安城市・西尾市など)と越前萬歳(福井県越前市)が1995年に、尾張萬歳(愛知県知多市)が1996年に、各々国の重要無形民俗文化財に指定されている。
大阪の万才のパイオニアとして玉子屋円辰、砂川捨丸・中村春代コンビなどの名が挙げられるが、当時の寄席演芸は落語が中心であり、万才はまだ添物的立場に置かれていたという。その後、2人で落語を演じる形式の軽口噺、浪曲の要素が混ざり合って今の形式になり、大正末期、前述した吉本興業の芸人コンビ「横山エンタツ・花菱アチャコ」が登場し、「萬歳」から「万才」を経て、「漫才」の名が定着し始め、東京へも進出していった。
エンタツ・アチャコの登場後、漫才は全国に急速に普及し、スター漫才師を次々に生み出した。今日の東京漫才の祖と言われている「リーガル千太・万吉」などもこの時期に誕生している。
第二次大戦後、漫才師たちは、戦死・消息不明などで相方不在の状況に見舞われ、特に吉本興業に専属契約が無い漫才師達は大阪に集まり、仕事の受注・管理を統括する「団之助芸能社」を創立した。交通の便も良く、芸人を集結する場所であった大阪市西成区山王は、「芸人横丁」と呼ばれ、交通機関の復旧・発達により営業活動が容易になったため、芸人達はその後は吉本興業や松竹芸能と契約するようになった。
漫才は寄席演芸として発達してきたが、マスメディアとの親和性に優れていたため、ラジオ・テレビ番組で多く披露され、メディアの発達と共に歴史を築いてきたと言える。1960年代後半から1980年初頭は「演芸(お笑い)ブーム」であったのも、カラーテレビが一般家庭に普及し、娯楽ニーズが変容し、テレビ局が競って漫才番組を編成した結晶であると言える。「漫才ブーム(まんざいブーム)」と言えば、演芸界において1980年代初期の短い期間に、漫才が様々なメディアを席巻した一大ブームであり、「テレビ漫才ブーム」と言い換えることができる。漫才ブームに火をつけたテレビ番組として「花王名人劇場(関西テレビ)」、「THEMANZAI(フジテレビ)」などが挙げられるが、このブームが引き金となって「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などのバラエティ番組で活躍する芸人たちが台頭することになる。1960年代の最初の演芸ブームで世に出た芸人を「お笑い第一世代」、この漫才ブームで活躍した芸人を「お笑い第二世代」と呼んだりもする。 
 
器楽 / 管弦・筝・尺八・三味線

本項のお題は少々解し難いのだが、一般に「器楽(きがく)」とは声楽の対語であり、西洋音楽分野での楽器演奏による音楽を指す。よって本来は管弦・筝・尺八・三味線のみならず全ての楽器を含める語であるが、本項では邦楽器の中でも特に伝統楽器として名の上がる「管弦・筝・尺八・三味線」を主体に触れてゆこうと思う。
まず日本の音楽全般である純邦楽の起源を振り返ると、日本が独立国家らしい姿となる大和政権あたりから、中国・朝鮮半島等から外来音楽が輸入された影響が大きい。最初に朝鮮の音楽「新羅楽(しらぎがく)」「高麗楽(こまがく)」「百済楽(くだらがく)」が渡来し、次に中国の音楽「唐楽(とうがく)」が渡来し、更に7世紀、推古天皇の頃には今日の能楽・歌舞伎等の土台となった「伎楽(ぎがく)」が伝来した。8世紀半ばにはヴェトナム南部地方の音楽「林邑楽(りんゆうがく)」と仏教の「声明(しょうみょう)」が伝えられた。最後に平安時代初期、中国・満州から「渤海楽(ぼっかいがく)」が伝来した。渤海楽は現在高麗楽に含まれている。「日本物語−雅楽」を参照していただけると詳細が分かるかと思うが、鎌倉時代に消滅した伎楽以外、主に宮中・貴族・有力社寺等で「雅楽(ががく)」となって伝承され、今も宮内庁式部職楽部に継承されている。日本の伝統音楽としての「雅楽」の存在は大変重要で、現存の楽曲が限られているものの1200年以上も前から演奏されてきた古い形態を留めて保存され、当時の姿のまま歴史的・音楽的価値を現在に伝えているという。以下、管弦から順に、その楽器と楽曲について触れてゆこうと思う。
今日「管弦楽」と言えばオーケストラを指すが、日本の伝統音楽「雅楽」における「管弦(かんげん)」は、大陸(中国・唐)系の雅楽器である管楽器・絃楽器・打楽器による器楽合奏、いわゆる「三管両弦三鼓」の楽器編成での演奏を指す。「三管」は笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の3種の管楽器を各2人、「両弦」は琵琶(びわ)・筝(そう)の2種の弦楽器を各1人、「三鼓」は鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)の3種の打楽器を各1人が担当し、これら8種類の楽器を計16人で演奏するのが基本のようだ。管弦以外の雅楽曲では、高麗笛(こまぶえ)・神楽笛(かぐらぶえ)・大太鼓(だだいこ)、大鉦鼓(だいしょうこ)・三ノ鼓(さんのつづみ)・笏拍子(しゃくびょうし)・和琴(わごん)等の雅楽器も用いられている。分類方法は色々あるようだが、起源系統によって雅楽を大別すると「国風歌舞(くにぶりうたまい)」「大陸系の楽舞(がくぶ)」「歌物(うたいもの)」の3つに分けられ、演奏形態により楽舞は「管弦(かんげん)」「舞楽(ぶがく)」とに分けられる。今日は主に「管弦」が演奏されているため、使用される楽器も管弦のものが主体であるが、歌物である「催馬楽(さいばら)」「朗詠(ろうえい)」が管弦演目の中に含まれて演奏されることもあるという。
管弦の音楽的構成を見ると、人数的にも一番多い管楽器が主役となって主旋律を担当し、打楽器・弦楽器がリズムを取ることで、力強い舞楽曲に対して管弦曲はゆったりと奏される。すなわち篳篥が主旋律を奏で、龍笛が主旋律を少し装飾的に奏でて彩り、笙が和音を付して幅を出し、打楽器・弦楽器が主にリズムを担当して、全体のバランスを整える。
演奏の構成で言うと、演奏会等の形式は第一に「音取(ねとり)」と呼ばれている、1分程度の短いチューニングを目的とした曲で始まる。各楽器の主奏者(各1人)と鞨鼓のみで演奏され、主に絃楽器との調音・調律と演奏する曲の調子を観客に提示する目的で行われるという。ちなみに管楽器の主奏者は「音頭(おんど)」、絃楽器の主奏者は「面琵琶(おもびわ)」「面箏(おもごと)」と呼ばれ、指揮者がいない代わりに曲全体を統率する役目を鞨鼓の奏者が担うことになっている。音取の次に、プログラム楽曲である「当曲(とうきょく)」の演奏が始まる訳だが、龍笛のソロに始まり、笙・篳篥・琵琶・箏の順に参加してゆく。当曲は「序(じょ)」「破(は)」「急(きゅう)」を有し、各々が西洋音楽でいう楽章のような役目を持ち、序・破・急を通して演奏されることを「一具」と呼ぶが、通常は1つの調子の曲のみ(序破急のうちの1つ)が演奏され、2つ以上の調子の曲が演奏されることはあまりないという。
以下、管弦に登場する楽器について触れてみたいと思うが、先に提示した管楽器・絃楽器・打楽器順に、雅楽等で使用される管弦以外のものも併せて触れてみることにする。  
「吹奏楽器」の呼び名が現在一般的である管楽器は、雅楽においては「吹物(ふきもの)」と呼ばれ、その音色から天地を表現し、各々の響きを重なり合わせ、また相互に補い合って旋律を作り出す。管の側面に吹口を有し、水平に持って奏する「横笛」と、管の上端に吹口を有し垂直に持って奏する「縦笛」の2種類があり、横笛は「龍笛」「神楽笛」「高麗笛」「能管」「篠笛」等、「縦笛」は「篳篥」等である。
「篳篥(ひちりき)」その音色は大地に響く人の声を表すと言われるように特有の非常に存在感のある音色で、小さい管から想像できない程の大きな音を奏でる。長さ18センチ程度、表7穴・裏2穴の指孔を有するやや楕円形の竹製の縦笛で、オーボエ等の仲間であるダブルリード類だが、廬舌(リード)は葦(あし)を潰し、「責(せめ)」と呼ばれる竹製の輪をはめ込み、反対側は図紙(ずがみ、和紙)を巻いて管に差し込むという独特のリードを使用する。廬舌が大きいため、息の吹き込み具合・廬舌の咥え方により、同じ指遣いでオクターブ異なる高さの音を出す「塩梅(えんばい)」という独特の奏法がある。塩梅は音程が非常に不安定であるため高い技術を要するが、旋律を表情豊かに滑らかにすることができる。演奏前に舌(リード)を茶(シブのあるもの)で湿らせて吹きやすくする等、管理が難しく初心者には悩ましい楽器だが熟練者の音色は聴く人の芯に響く音色となる。主旋律を担当する最も使用遜度が高い雅楽器で、誄歌を除く全ての楽曲に用いられるが、楽器の位は最下位で、平安時代中期以降は地下の楽人が奏する楽器として扱われたが、古くより名器としてその名を残すものも多い。
「笙(しょう)」鳳凰を模した姿と音色に由来する「鳳笙(ほうしょう)」という美しい別名を有し、その音色は天から射し込む光を表すと言われる。通常長さが50センチ程度、17本の竹管を束ねた形状の管楽器で、竹管の指孔を塞ぎ、数本の簧(リード)にまとめて息を通すことで「合竹(あいたけ)」と呼ばれる様々な和音を奏でることが出来る。吹奏楽器でも和音を奏することができ、吸う・吐く双方で音が出せるというハーモニカに似た発音原理を有するアコーディオン等の仲間(フリーリード類)で、パイプオルガンの原型とも言われている。雅楽では主に管絃と左方(唐楽の舞楽)に用いられ、演奏時は主に伴奏楽器として主旋律に彩りを添える装飾部分を担当する。催馬楽・朗詠では単音で主旋律を奏する「一竹(いっちく:一本吹き)」と呼ばれる演奏法を用いる。和音を変化させる時は数音ずつ音を変化させる「手移り」と呼ばれる決まりがあり、この楽器の音色の特徴でもある。現在17本中の2本にはリードがなく音が鳴らない構造になっているのは、継承の間に使用されなくなり退化したものとみられている。内部の水滴付着による不良(調律・音源)を防ぐため、演奏の前後に炭火で焙って温める必要があるという繊細な楽器である。
「龍笛(りゅうてき)」その音色は天地を自在に行き来する龍を表すと言われており、主に管弦の中の唐楽に用いられ、歌謡や国風歌舞の数曲にも用いられる。通常長さが40センチ程度、指孔が7穴ある竹製の横笛で、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。フルートの原型となった古くから存在する笛であり、運指もフルートと大差がない。平安時代まではほぼ龍笛が用いられていたが、後に2種の管楽器「能笛」「篠笛」に分化するので、雅楽器の横笛の源流である。尺八と同じエアリード(ノンリード)なので音を発するだけでも熟練を要し、音の安定感に欠けるというが、吹き方を変えることで2オクターブ出すができる音域の広い管楽器である。雅楽では龍笛の主管奏者の演奏から始められ、曲中では通常は副旋律を担当して篳篥が奏する主旋律に絡み、補うように旋律を奏でるのだが、主旋律を奏すこともある。古くは単に「横笛」(おうてき)と呼ばれており、龍の声に喩えられる透き通った音色は古くから上流階級に好まれ、雅楽器の中でも群を抜く人気度だったという。武将等に愛好され大切に扱われたこともあって「大水竜」「小水竜」「青葉」等の名器が多く生まれており、中でも平家物語で有名な「青葉の笛(小枝)」は伝説が全国に残り、現在は正倉院宝物殿にあるとも言われている。文部省唱歌にもなっている。
「神楽笛(かぐらぶえ)」通常長さが45センチ程度、指孔が6穴ある竹製の笛で、「太笛」「大和笛」とも呼ばれている。邦楽器の笛の中で最も長く、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。古い組曲「神楽歌(かぐらうた)」等の演奏に用いられ、親である龍笛より管が長く、1音低いのが特徴である。龍笛と同じく2オクターブ出すができる音域の広い管楽器で、静かで落ち着いた太い音色を有する。雅楽の神楽笛は地方の祭囃子等で用いられているものとは違うらしい。
「高麗笛(こまぶえ)」通常長さ37センチ程度、指孔が6穴ある竹製の笛で、「狛笛」「細笛」とも呼ばれている。神楽笛と構造が似ているが管が細く、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。新羅楽・高麗楽・百済楽と共に朝鮮半島から伝来した楽器で、雅楽の右方(高麗楽の舞楽)や東遊等の演奏に用いられる。管が細い分だけ音が高く、鋭くはっきりとした音色を奏でることができ、他の横笛と同様に息の違いでオクターブ違う音を出すことができる。古くは東遊用の「歌笛(東遊笛)」「中管」が存在していたが廃れ、高麗笛で代用するようになったと考えられている。
「能管(のうかん)」能笛(のうてき)とも呼ばれ、観阿弥・世阿弥父子の時代以降、前述の龍笛から派生して生まれた竹製の横笛の1つで、主に能楽で「笛」と呼ばれて用いられる他、歌舞伎の長唄伴奏等に用いられる。能管の長さは出所等で個差があるが、大体龍笛と同じ程度、見た目は龍笛と見分けが付かないほど似ているのも龍笛を改造して誕生した背景から分かる。歌管(歌口と第一指孔の間)に「喉(のど)」と呼ばれる細い竹筒が仕込まれたことで、他の横笛のような息の違いでオクターブ違う音が出ず、「ひしぎ」と呼ばれる高音が出やすくしてある。「ひしぎ」は西洋音楽にはない特殊な甲高い、叫び声のような音で、これにより能管特有の雰囲気を醸し出し、また能の幽玄・日本的音楽性を表現することを可能にした。
「篠笛(しのぶえ)」大陸から「伎楽」と共に日本に伝来した竹製の横笛が、製法等が簡単なことから一般庶民にも広がり、大衆芸能の笛として確立したものと言われている。「竹笛」「里笛」とも呼ばれ、篠竹(女竹)で作られ、樺巻きせず竹のまま漆塗りが施される程度の素朴な姿のもので、指孔は6孔・7孔があるが原型は6孔で、7孔に変化して後に主に7孔の歌用篠笛が使用されるようになったと考えられている。主旋律として歌舞伎の囃子・黒御簾、里神楽・獅子舞・祭囃子・長唄・民謡等、幅広く用いられ、雅楽器の中でも特に清澄な美しく上品な音色を持つと言われる。音域は約2オクターブ半程度と広く、しかし歌・三味線等に合わせて演奏する為に低い音階を持つ「一本調子」から高い音階を持つ「十三本調子」まで合計13種類の笛があり、曲により笛を使い分けるという。一般的に、六〜八本調子が多いようである。  
弦楽器(絃楽器)は雅楽では「弾物(ひきもの)」と呼ばれ、琴・琵琶等の総称である。旋律を奏でる他の弦楽器とは異なり、雅楽ではリズム楽器としての役割を果たす。管弦で用いられるのは主に「琵琶」「筝」の2種の弦楽器である。
「楽琵琶(がくびわ)」主に管弦に使用される雅楽の琵琶は、他の琵琶と区別するために楽琵琶と呼ばれており、ペルシャを起源とし、西域から中国を経由して伎楽と共に日本へ伝来したと言われる。現在の楽筝は大体110センチ程度が標準的な大きさで、絹糸でできた弦が4本、小型で低い柱が4つ付され、撥(ばち)で撫でるようにして音を奏でる。槽(胴)の材質は花櫚・紫檀・桑等、槽の上端の「海老尾(かいろうび)」は黄楊・白檀、「鹿頸(ししくび)」と呼ばれる槽の頸の部分は唐木・桑、腹板は沢栗、長さ20センチ程度の薄い撥は黄楊、と全体に様々な木材が使用されている。他の楽器と同様に多くの逸話を持ち、美しい絵が描かれた「銘」があるものや、「玄上(玄象)」「青山」等は名器として有名である。
「楽筝(がくそう)」古くから「箏の琴」の名で表される雅楽の筝は、他の俗箏と区別して特に楽筝と呼ばれている。全長は標準1.9メートルあり、絹糸でできた13本の太い弦、高さ4、5センチの象牙の琴柱(駒)、竹の爪を用いる点で近代の琴(こと)とは音色も大きく異なるという。間をとる為の打楽器に近い役割を持ち、主に演奏の流れを作る役割を果たす。胴は桐材、頭部・尾部・足・駒は唐木を使い、その上に象牙の細長い筋を付けてある。しっとりとリズムを刻んでいく役割のみで、楽琵琶と同様に旋律は奏でない。古くは左手で柱の左側を押さえる奏法があったようだが現在の奏法に伝わっていないという。
「和琴(わごん)」古墳時代の埴輪に和琴を演奏する人を象ったものが出土しているほど起源の古い、純日本製の楽器であり、中国から伝わった箏(そう)とは構造・奏法等が全く異なる。長さ約1.9メートルの桐製の胴は表面全体を火で焼き焦がし、絹糸の6本の弦を「葦津緒」と呼ばれる太い紐で止めて張り、琴柱(ことじ)には楓の二股の小枝を自然のまま利用する。右手で「琴軋(ことさぎ)」と呼ばれる水牛の角でできた細長いピックを用いるか、左手の指で弾いてゆっくり奏する。古来は天皇の楽器と呼ばれるほど楽器の位が高く、現在は主に宮中での神楽歌・東遊・久米歌等の古の純日本歌曲である「国風歌舞」にしか用いられないが、古くは管絃にも用いられていたようだ。純日本製楽器として古くから存在したことから別名が非常に多く、「六絃琴」「倭琴(やまとごと)」「御琴(みこと)」「神琴」「天詔琴」「鵄尾琴(とびおごと)」「東琴(あづまごと)」「むつのを」等があり、古くから祭祀儀礼において重要な楽器であったと考えられている。  
琵琶は大衆的な楽器ではなく、歴史を辿っても庶民に愛された「平曲」の盲僧琵琶が、史上最も有名ではないだろうか。分類するなら、インド伝来の「五弦琵琶」・雅楽で用いる前述の「楽琵琶」・盲僧語りの「盲僧琵琶」・平曲語りの「平家琵琶」・盲僧琵琶から派生した「筑前琵琶」「薩摩琵琶」等がある。
「筑前琵琶(ちくぜんびわ)」琵琶は専ら盲僧達が担い手であり、彼らの手作りであったため当初は様々な形態の琵琶が用いられていたというが、奈良時代末〜平安時代初期、福岡県博多の「玄清」という筑前盲僧が北九州各地に筑前琵琶を広めたのが始まりともいう。しかし今日のものは明治時代中期に筑前盲僧・琵琶奏者の橘智定(たちばなちじょう)が薩摩琵琶を改良して新しく琵琶音楽を創始したとされ、四絃五柱と五絃五柱があるという。五絃は薩摩琵琶に一絃高い音を加えたもので、四絃は小型なので音も繊細であり、女流演奏者に人気があるという。
「薩摩琵琶(さつまびわ)」室町時代末期、島津忠良が「淵脇了公」に命じ、古くから薩摩にあった盲僧琵琶を改良し、琵琶音楽を作らせたのが起源と言われる。四絃四柱の大形のもので、大形の撥で自由闊達に勢い良く奏するものであったが、現在では筑前琵琶と同様の五絃五柱と、旧来の四絃四柱の双方が並立している。人気が高く町人に広まった江戸時代の合戦語りは「町風(まちふう)琵琶」、武士に広まったものは「士風(しふう)琵琶」とも呼ばれ、明治時代には全国に広がりをみせるほどの人気を呼んだ。  
打楽器は雅楽では「打物(うちもの)」と呼ばれている。大半が中国大陸からの由来のものであるが、日本に伝来して独自の進化を遂げたものも多いという。雅楽では太鼓・鞨鼓・鉦鼓が用いられる。
「楽太鼓(がくだいこ)」「釣太鼓」とも呼ばれるように、大型の木製の円形の枠に直径50センチ以上もの大型の平太鼓を釣るし、2本の桴で打つもの。桴で打つ革面には色彩も豊かな三つ巴・唐獅子・鳳凰等の模様が描かれており、また太鼓の中では薄い類なので、一見するとドラのように見える。バスドラムと同様、低く響く音色で基本のリズムを担当し、演奏全体を底から支える。楽太鼓は管弦の合奏に用いられる。下記の大太鼓の他に、「船楽用太鼓」「荷太鼓」等も用いられるという。
「大太鼓(だだいこ)」「火炎太鼓」とも呼ばれる、火炎の装飾を施された非常に大きくて派手な太鼓であり、舞楽で用いられる。高舞台を組んでの正式の舞楽の場合、大太鼓が左右一対になるよう設置される。奏法は楽太鼓と全く同じ、また用途も同じく演奏全体を支える役割を担う。通常は直径55センチ程度、薄くて非常に大きい太鼓であり、楽太鼓同様、桴で打つ革面にも色彩も豊かな模様が施されている。最大のものは大阪・四天王寺に重要文化財として保存されているもので、直径2.48mもあるという。
「鞨鼓(かっこ)」雅楽では統率楽器として演奏全体のペースの管理を担う重要な役割を担当するので、熟練者が奏するものだという。直径20センチ強の牛革張りの両面の太鼓を、「調緒(しらべお)」という牛皮の紐で締め、装飾が施され、木の桴(ばち)2本を用いて演奏する。唐楽の中でも「新楽」を奏する時に用いられており、古く「古楽」を奏する時は「壱鼓(いっこ)」という楽器を用いたが、現在は鞨鼓を用いるようになったという。
「鉦鼓(しょうこ)」雅楽では唯一の金属製楽器、かつ体鳴楽器であり、シンバルに近い。直径15センチ程度の青銅製の皿を、長さ42センチ程の2本の桴(ばち)で擦るように叩いて硬い音を鳴らす。管絃の演奏には「釣鉦鼓(つりしょうこ)」を用い、他の演奏には「大鉦鼓(おおしょうこ)」「荷鉦鼓(にないしょうこ)」等が用いられるようだ。釣鉦鼓は木製の枠に鉦鼓を下げて鳴らすもので、宮内庁のものは漆や金箔で木枠が装飾され、楽太鼓と対の文様や装飾が施されているという。祭囃子等で用いられる簡素なものは単に「鉦(かね)」と呼ばれている。  
以下、「打物」以外の和太鼓について触れておく。
「締太鼓(しめだいこ)」古くは「猿楽太鼓」と呼ばれていたもので、和太鼓の1つに挙げられ、現在は主として能楽・長唄・民謡・神楽等を始め、広く用いられている。推古天皇の時代、百済から伝わった伎楽で「腰鼓(ようこ)」として使用されていたものであり、後の田楽・猿楽、室町時代には能楽に用いられて改良され、能の囃子である「四拍子」の1つとして発達してきた。木製の胴は中央がやや膨らんだ円筒形で、革面の直径は35センチ、革面の周りに8個の孔があり、調べ緒でかがって締め上げて張りを整える。古くは別の者に持たせて打ったともいわれるが、現在は「挟台」に固定して用いる。
「大鼓(おおつづみ)・大皷(おおかわ)」能楽・長唄の囃子に用いられ、古く存在した「壱鼓」に似た鼓(つづみ)であり、小鼓(こつづみ)と対になって用いられる。木製の胴の長さは28センチ程度、革面は直径23センチ程度、奏者は和紙の指袋を着用し、右手の人差し指と中指で打つ。良い音を出すためには演奏前に革面を1時間半程度火で焙り、乾燥させておく必要があるそうだ。
「小鼓(こつづみ)」一般に「鼓(つづみ)」と言われるもので、能楽・長唄囃子・歌舞伎の下座音楽・郷土芸能等、広い用途に用いられている。古く「壱鼓」から変化した鼓であり、平安時代末期には「白拍子」、室町時代の「猿楽」に用いられ、「能楽」の「四拍子」の1つとして「大鼓」と同様に発達してきた。木製の胴の長さは26センチ程度、「乳袋」と呼ばれる両端の椀形の端に直径20cm程度の馬皮の革が張ってある。胴に黒い漆を塗り、蒔絵等の美しい装飾を施したような美術品としても貴重な鼓や、小鼓各流儀の宝と言われるような名器も数多く存在する。奏者は、鼓を右肩の上に構え右手で皮面を打ち、左手で調べ緒の握り方を変えて音を操作するのだが、演奏前は大鼓とは逆に革に湿気を含ませて音の調子を整えて用いるという。打面の皮は50年未満は新皮と呼ばれ、製作してすぐ柔らかい良い音が出るものではなく、また現在の舞台で用いられる小鼓の胴の大半は室町〜江戸時代に製作されたものであり、江戸期以降は名胴がほとんどないという。
「三ノ鼓(さんのつづみ)」「三鼓」とも呼ばれる鼓で、雅楽の右方(高麗楽の舞楽)の演奏に用いられるもので、長さ45センチ程度で形は鞨鼓と似ており、また全体をリードする役割を担うのも鞨鼓と同様であるが、演奏は片面だけを用い、右手に太い桴、左手は楽器の調緒を持って奏する。大きさにより「壱鼓」「二ノ鼓」「三ノ鼓」「四ノ鼓」と名が付けられた「古楽鼓」は奈良時代に日本に伝わったらしいが、二ノ鼓と四ノ鼓は雅楽に用いられず、現在は残っていないという。軽い音色の鞨鼓に比べるとやや鈍く重い音で、鞨鼓のように連打することはなく、単調なリズムである。雅楽に使われる三ノ鼓は胴に漆・金箔で華やかな文様を描いた装飾が特徴として上げられるのは他の鼓と同様である。
「笏拍子(しゃくびょうし)」雅楽器の中では作りが最も簡素な、長さ35センチ程度の木製の打楽器で、平安貴族の束帯という装束や神社の神官が持つ「笏(しゃく)」を縦2つに割ったような形で、独唱者が歌いながら打ち鳴らすことで拍子を定める。拍子木と似た類のもので、両手に1つずつ持ち、左手は切り口を手前向き、右手は切り口を左向き持ち、扇を閉じる要領で強く打ち鳴らすことで乾いた音を鳴らす。雅楽の謡物である「国風歌舞」や御神楽で用いられる。  
雅楽の管弦はここまでとして、次に「筝(そう)」に入る。既に管弦の弦楽器のところで少し触れたが、雅楽器の楽筝とは形も歴史も全く異なっている。
「筝(そう)」奈良時代、中国・唐から伝来した弦楽器であり、長胴チター属撥絃楽器に分類される十三絃の琴で、「筝の琴(そうのこと)」とも呼ばれている。雅楽の管弦で用いられている「楽筝」を原型として継承され、嵯峨天皇の頃に全長約197センチと規定されて以来、現代の筝(いわゆる「お琴」)までほとんど同じ形状で継承されてきた。日本では今日も変化なく使われているのに対し、本家・中国では弦数が増加、今では21本程度のものが用いられるという。一般に「琴」とも表記されるなど混同しがちであるが、元来は筝(そう)と琴(きん)は全く別のものであった。木製の本体に絹糸を撚った太さが同じ13本の弦を張り、可動式の「琴柱(ことじ)」の位置を変えることで調弦し、調弦にない音は左手で弦を押さえ、音を変化させつつ象牙等でできた爪を着けた右手3本の指で奏する。江戸時代には室内用の独奏楽器として発達し、現行の生田流・山田流を始め、八橋流、筑紫筝(つくしごと)等の音楽が誕生した。他にも宮城道雄が考案した低音用の「十七絃」や「八十弦」、中能島欣一の考案した「十五弦」、初代・宮下秀列の「三十弦」、野坂恵子の「二十五弦」等も後の時代に考案されている。
筝曲が発達する中で時代・流派の変化に伴って筝本体・柱・爪等がサイズ・形状・構造・素材等において様々な改良が行われた結果、「十三弦筝」が定着し、今日広く普及している。また洋楽の要素を取り入れた斬新な筝曲の創作が増大するにつれ、本家・中国と同様に高低両面へと筝の多弦化傾向が生じているという。
「筝曲(そうきょく)」とは、筝を主奏楽器とする音楽全般を指す用語であるが、一般には狭義の、近代に始まった八橋検校以降の箏曲「俗箏(ぞくそう)」による音楽を指す。その歴史の発祥は筑紫流筝曲(筑紫筝)にあると言われ、室町時代末期、「越天楽歌もの箏曲」など箏が歌謡の伴奏に用いられるようになり、戦国時代末期〜江戸時代初頭には九州・久留米の僧侶・賢順が雅楽と琴曲(きんきょく)の影響を受けて筑紫筝の組歌「賢順十曲」を生み出すなど筑紫流筝曲を大成させ、始祖となったという。その後の江戸時代初期に登場する「八橋検校(やつはしけんぎょう)」が八橋流筝曲を興こし、改革・発展させつつ当道座へと伝えて当道箏曲を誕生させたことで近世筝曲の礎を確立し、三味線同様に色々な流派が誕生することとなったので「近世筝曲の開祖」と呼ばれている。更に八橋門下の北島検校の門人の「生田検校(いくたけんぎょう)」が、筝曲と地歌(じうた)を合流させ筝と三味線の合奏を加えた生田流筝曲を創始した。三味線の伴奏として用いられていた箏を、江戸中期の箏曲家で生田流の長谷富検校の弟子「山田検校(やまだけんぎょう)」が江戸浄瑠璃の曲風を取り入れつつ独奏楽器としての箏曲を作り、山田流箏曲の始祖となった。彼は類稀な美声の持ち主で江戸で人気を博したと言われ、同時に琴師・重元房吉(しげもとふさきち)が山田流に合わせて爪・箏本体の改良を行い、現在の「山田琴」の原形を作ったという。彼の製作技術は今日まで伝承され、流派を問わず広く用いられている。
江戸浄瑠璃を取り入れた歌本位の江戸の山田流、地歌を基盤にした器楽的筝曲の上方(関西)の生田流と、2大流派の流れが現在まで続いており、今日もこの二流のみとなっている。  
「尺八(しゃくはち)」尺八の渋い音色から純日本製楽器のような錯覚を起こすが、その起源は古代エジプトまで遡るという輸入楽器である。エジプトからペルシャ、インドを経て中国に入り、中国で長さ一尺八寸となり、最初は6孔(前5・背1)のものが日本に伝来したという。尺八の名で呼ばれる楽器として「雅楽尺八」「普化尺八」「一節切」「多孔尺八」「天吹」等があるが、そもそも尺八の名の由来は楽器の長さを表しており、長さ54センチ程度(一尺八寸)、真竹という大型の竹の根に近い部分を利用した縦笛である。4〜5年以上経過した硬くて古い竹を火で焙って油分を抜き、天日乾燥して更に数年保存してから製作され、管の中は防水のため漆塗りが施されている。他に練習用の木製・プラスチック製等があり、竹製のものは製造直後は白いが、年月を経て茶色が濃くなってゆくという。現在一般的な尺八には、中継ぎという中央のジョイント部分があり、上管・下管に分解することができるという。標準54センチの「八寸」以外に色々な長さがあり、短いものは33センチ程度の「一尺一寸」、長いものは75センチ程の「二尺五寸」があるという。現在使用されている尺八の起源は、中世の頃中国から伝来した「普化尺八」で、江戸時代、仏教の一派である普化宗の虚無僧(こむそう)が托鉢して吹奏していた楽曲が尺八楽の起源だという。楽器自体もその製法も普化尺八と同じものが伝承されており、竹の節7つをそのまま生かした竹管に前面4つ・背面1つの孔を設け、舌(リード)が付いていない歌口に直接息を吹くことで音を出す。5つの孔を半開・微開等の4通りの細かな押さえ方で音程を調節し、更に唇の開き具合や顎の角度(メリ・カリ)等で律・音色を調整するなど、顎を楽器の一部と見なして使用しなければならないため「首振り3年、コロ8年」と俗に言われているほどに奥が深く、演奏が非常に難しいという。
「雅楽尺八(ががくしゃくはち)」現在の雅楽には使われていないが、正倉院には最古の尺八が残っているらしい。平安時代初期まで使用されていた「古代尺八」とも呼ばれるもので、中国・唐で作られ奈良時代に日本に伝来したが、平安時代末期頃には消滅したという。中国でも同様に宋の時代には消失してしまったようだ。後の江戸時代、管絃合奏用の雅楽曲の尺八譜を作らせたが、既に雅楽尺八は全滅していたため当時存在した普化尺八で代用したと考えられている。
「普化尺八(ふけしゃくはち)」鎌倉時代の禅僧・覚心が中国・宗で尺八曲を学び、日本に伝えたのが起源とされる。普化宗(ふけしゅう)が盛んになるのは江戸時代に入ってからのことで、江戸時代初期、多く世に生じた浪人に組織された普化宗(禅宗の一派)が読経の代わりに法器として普化尺八を使用し、瞑想の手段としたことによる。今日の尺八の直接の起源となっており、標準寸法は54センチ程度、指孔は前面4孔・背面4孔の計5孔である。普化宗の徒は虚無僧と称したことから「虚無僧尺八」とも呼ばれる。京都・明暗寺を総本山に定め、普化宗寺には武士以外の入門を禁じていたが、庶民への尺八指南は古くから行われていたようだ。江戸時代中期、普化宗が公認の宗教となり虚無僧の地位が「普化宗徒」として安定した後、琴古流の源となる虚無僧・黒澤琴古(くろさわきんこ)等の名手も出て日本各地に伝わる尺八曲を集めて集大成させたという。琴古流・明暗流の2派が存在したが、明治初頭の普化宗の廃止により一般大衆も普化尺八を手にすることができるようになるのと同時に「尺八」として一般楽器の仲間入りを果たした。古典尺八曲は大半が独奏曲だったが、明治中期に中尾都山(なかおとざん)達により本曲という新しい分野を開拓し、芸術的音楽として発展させ「都山流(とざんりゅう)」を大阪に誕生させた。なお尺八のために作曲された尺八の独奏曲を「本曲」と呼び、それ以外は「外曲」と呼ばれ、箏・三絃(三味線)と合奏する曲は外曲に相当する。今日は琴古流・都山流の2派が現存し、流派により「歌口(うたくち)」に埋め込んである物の形状が異なるという。近年では更に改良・工夫された7孔以上の尺八もあるようだ。
「一節切(ひとよぎり)」一節分の長さ(一尺一寸一分)の竹で作られているのが名前の由来であり「一節切尺八」「短笛」等とも呼ばれていた。室町時代中期頃、一節切という尺八が南方中国人の廬安(ろあん・芦安)によりもたらされ、吹奏行脚をして歩いたことが薦憎(こもそう=虚無僧)の起源となり、江戸時代中期頃まで一般大衆に愛好されたという。一節切は文字通り節が1つしか無い真直な竹で作られ、指孔は前面4孔・背面1孔、他の尺八とは逆に根に近い方が歌口になっている33センチ程度の短い尺八である。江戸時代には三味線や琴と合奏されたり唄の伴奏にも使われていたが、明治時代以降衰退して現在は使用されていないという。
ちなみに虚無僧という名は、薦僧(菰僧・虚妄僧)という前述の廬安の様子から出たもので、室町以前は「徒然草」に登場するように「ぼろぼろ」「暮露」等と呼ばれていた乞食僧を指す言葉である。なお天蓋(頭を覆う笠のようなもの)で顔を覆い隠す風習は徳川4代目将軍の治世以降の事であるようだ。
「天吹(てんぷく)」細く短い尺八であり指孔は一節切と同じ、一節切のように根竹は用いられず、節は中間に3つ、歌口は尺八に似た切り方になっている。一節切と尺八の中間のようなものであり、研究が進むと尺八の伝播・発展の解明に繋がるかもしれないが、現在は滅亡寸前である。鹿児島県にのみ現存する薩摩地方の郷土楽器である。  
さて最後に三味線(三弦)について触れることにする。三味線の起源等は「日本物語−地唄・長唄・端唄・小唄・都々逸」でも紹介しているので参照していただければ幸いである。
三味線の起源は安土桃山時代の永禄年間(1558〜1569年)、中国の三弦(さんげん、三絃とも)が本土に伝わり、琵琶法師がそれを改良して三味線が誕生したとする説が一般的である。具体的に誰が三味線を誕生させたかは定かではないが、石村検校(いしむらけんぎょう)が三味線音楽興隆の祖と称されているように、三味線の考案・改良のみならず三味線音楽を芸術的に高めるべく楽曲を作成し、弟子へと伝授したことにより三味線が世に広まったため、地歌を始めとする三味線音楽の誕生に大きく貢献したものと考えられている。江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」を生んだ功績も大きく、「当道座」の盲人音楽専門家である検校らに非常に尊重され、この組歌を基本として「地唄」が大成された。
この「三味線組歌」は現在「本手(ほんで)」「本曲(ほんきょく)」等の通称で呼ばれ、本手組(7曲)と破手組(端手組)の総称となっている。本手組7曲は石村・虎沢検校の手により作られ、破手組14曲は虎沢・柳川検校により作られたと言われているが、現在の野川流三味線組歌の全32曲に定まるまでの伝承過程において、京都の柳川流・大阪の野川流の2つの三味線流派に分かれた。本手は、免許皆伝でも伝授されない秘曲とされ、かつて職格取得(プロ)のための必修曲であったが、音源として全曲残されているものの、生きた継承者は非常に少ないという。明治期の「当道座」の解体に伴って遠い存在となっていたが、秘曲としての格式を保ちつつ伝承され、現在は本手奨励会を組織して正確な伝承と普及のための活動を行っているという。
ちなみに古典であった本手組に対する新風であった破手組の奏法・テンポの緩急の自在さ等から「派手」という言葉が生まれたとも言われている。
三味線は歌舞伎音楽と共に発達してきた。中でも「長唄(ながうた)」は江戸で歌舞伎舞踊(所作事)専用の伴奏音楽(地謡)として誕生、発展した三味線音楽であり、歌舞伎の初期の頃に存在した「踊歌」、元禄期(1688〜1704年)頃に江戸に伝わった「上方長唄」の2つを母体として各種の音曲の曲節を摂取しつつ、享保年間(1716〜1736年)、長編で物語性を有する「長唄」が誕生したという。17世紀初頭に起こった「お国歌舞伎」の頃は踊歌の伴奏音楽は能楽の4拍子のみであり、三味線が使用されるようになったのは1615年〜1630年頃に最盛期となった「女歌舞伎(遊女歌舞伎)」の時である。1629年の遊女歌舞伎の禁止に続いて起こった「若衆歌舞伎」の時代、三味線の地位が主奏楽器として確立されるのに伴って今日と同じような基礎形態に整えられたというので、長唄は歌舞伎の歴史と密接に関わりつつ発展してきたと言える。上方の元禄歌舞伎の第一人者である初代・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始され流行したことを背景に、18世紀前半の享保年間、上方の初代・瀬川菊之丞、初代・中村富十郎らの名女形と長唄演奏者が江戸に進出し、和事特有の女性的な長唄三味線が江戸にもたらされ、流行した。18世紀後半には、長唄に浄瑠璃を取り入れた「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」が作曲家・唄方として名高い初世・富士田吉次によって創案された。唄浄瑠璃とは歌物(うたいもの)的傾向の強い浄瑠璃流派のことであり「座敷浄瑠璃」の別称の通り、室内音楽として三味線歌を楽しむものである。長唄三味線は分化・多様化しつつ人気を博すると共に曲風も多彩になって定着してゆき、19世紀前半辺りに全盛期となる。文化・文政期(1804〜1829年)、早替わり等ケレン味ある演出に合わせた「変化物(へんげもの)」や豊後節浄瑠璃との「掛合物(かけあいもの)」が歌舞伎界に流行して全盛期になると、長唄三味線も各々の舞踊に合わせた伴奏音楽として目立って内容の多様化が起こり、高い音楽的完成度を持つものとして大成し始めた。幕末〜明治期にかけて、歌舞伎そのものを芸術的に高めようとの指向を反映して能・狂言の歌舞伎化が活発になるにつれ、長唄三味線の守備範囲は益々広がり、また浄瑠璃流派の1つであった「大薩摩節」を吸収し、舞踊音楽として首位を占めるに至った。
同時に、歌舞伎や舞踊から離れ、大名屋敷・料亭等で演奏する「鑑賞用長唄(お座敷長唄)」が創始され、長唄三味線は新しい局面への場が開かれることになり、本来は舞踊曲であり派手な芝居唄であったものが、庶民の習い事として浸透して劇場を離れ、室内楽として音楽の1ジャンルの地位を得た。20世紀初頭、四世・吉住小三郎と三世・杵屋六四郎(きねやろくしろう)が「長唄研精会」を創設し、定期的な演奏会を開催することで「鑑賞用長唄」を一般庶民に普及する働きかけを行い始めた。そうして長唄三味線の長い歴史の中で謡曲・狂言・浄瑠璃・地歌・流行歌・民謡等の様々な種目が有する旋律・題材・曲節を吸収して発展した為、極めて多様性に富んでおり、現代、純邦楽の中で最も親しまれている音楽となった。
次に三味線の構造を見てみることにする。三味線は「棹」と「胴」の部分に分けられる。「棹」は上から海老尾(転軫)、棹、それに棹の下の棒状部分は胴内部分の中子(中木)、胴の下に突き出る部分の中子先で構成される。材質は、紅木が最高級、次に紫檀、樫・桑の木等も使用される。棹の長さは62センチ程度で、太さは細棹・中棹・太棹がある。持ち歩きに便利なように「継ぎ棹」と呼ばれる「二つ折」「三つ折」になるものや、5箇所も継ぎ目のある「六つ折」という珍しい棹もあり、逆に継ぎ目の無い棹は「延べ棹」と呼ばれている。「胴」は四面の四角形の箱型で、材質は花梨・桑・欅等があり、胴の枠の上には蓋状の胴掛を付け、皮は胴の両面に張り、猫・犬の皮が使用されるが、最近では合成ビニール等も使用されている。「弦」は絹糸を撚り合せて作られるが最近はナイロン製の糸もあるようだ。単に糸と呼ばれており、「一の糸」は太く、「二の糸」は中間、「三の糸」は最も細い。「駒」は糸の振動を直接皮面に伝えるので三味線の音質を決める大事な部分であり、材質は象牙・水牛角・鯨の骨・竹・紫檀・黒檀等、様々である。義太夫・地唄三味線では水牛が多く、長唄三味線では象牙が使用されるという。中には「忍び駒」と呼ばれている、音量を抑える目的の竹製のものがあり、江戸時代中期から用いられ始めたそうだ。当時、皇室・将軍御三家等の凶事の際には長いと一年間も鳴物が禁止されたため、その間は内密で三味線を弾くために用いられていたことからこの名が付いたという。
「撥」は少し開いた扇のような形状で、上は「ひらき」、下は「才尻」と呼び、間の握り部分を「手の内」と呼ぶ。材質は地唄三味線では水牛角、長唄三味線は象牙、義太夫三味線では双方使用されている。
三味線演奏者は正座し、胴を右膝に乗せて棹を左手で握り、左の人差し指・中指・薬指の主に爪で「勘所(かんどころ・ツボ)」を押さえ、右手の撥を糸に当てて弾く。撥は皮に当てる程度に強く叩かないように弾くもので、様々な奏法があり、左手の押さえも「はじき」「こき」「すりあげ」「すりおろし」等があり、各々の音楽に特有の世界を生み出している。この他にも「小唄」のように撥を用いず、右手の人差し指で「爪弾き(つめびき)」する奏法もある。 
 
地唄・長唄・端唄・小唄・都々逸

本項の表題に「唄」が並んでいることからも予想できると思うが、唄の付かない「都々逸」も唄の一種であり、「歌」ではなく「唄」が付いていることから察せられるとおり、最近誕生したものではなく、近代邦楽に含まれるので「声楽」の項も参照して頂けると流れが分かりやすいかと思う。大体表題の並びのままで年代順になっているため、先に全体の流れを追った後に各々の詳細に触れてゆこうと思う。※注「歌」「唄」双方の標記があるが、表題の名称に対しては統一して「唄」を用いた。
まず邦楽の中の「声楽」の2大系統として「歌物・謡物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」があり、「歌物」は一般に流行歌・民謡・童謡・俗謡などの総称を指し、「語り物」は音楽性を伴う韻文形式の作品かつ歌詞と曲とが一体のものと定義されている。「歌物」と呼ばれるものには古くは神楽歌・催馬楽・今様・宴曲、近代は長唄・端唄・地唄・うた沢・小唄・都々逸などがあり、本項の5つは全てこちらに含まれ、かつ近世、江戸時代に日本で誕生したものである。これらの土台となる地唄は三味線の伝来とほぼ同じ時期、当初は三弦音楽として始まったと考えられているので、戦国時代末期頃から歴史が始まると言えるだろう。地唄は当道座の検校らにより作曲・伝承され続け、江戸・元禄年間(1688〜1703年)には一貫した内容を持つ「長歌」を誕生させた。それに伴い、短いものを「端歌(はうた)」と呼ぶようになったが、端唄の流行は天保年間(1830〜1843年)以降と言われている。長唄は上方から江戸へ伝わり、歌舞伎専用の劇場音楽として江戸で発達したことから「江戸長唄」とも呼ばれるが、19世紀初頭には観賞用長唄(お座敷長唄)も誕生し、庶民にも愛好されるようになる。一方端唄は一般庶民の娯楽の流行歌でしかなく、家元制がなかったため衰退してゆく。端唄をゆったり渋く上品に歌う「歌沢」「うた沢」が安政期(1854〜1859年)頃に誕生した後、端唄が撥を使うのに対し、爪弾き(つめびき)で三味線を弾き、端唄のテンポを早くし、すっきり・粋にした小唄が派生するが、当初は「端唄」と呼ばれていた。いわゆる現在の小唄「江戸小唄」の流行の先駆は清元と密接で、幕末〜明治期にかけて発達し、大正時代には流派が数多く現れ、現在は100以上にも上るという。最後に「都々逸」は江戸末期に一世を風靡した寄席芸人・都々逸坊扇歌が始めたもので、三味線音楽でも俗曲に属する。天保年間(1830〜1844年)に寄席で都々逸を披露し始め、節回しが単純で馴染みやすかったことにより庶民に大流行したという。
現在最も人気があるのは小唄ではないだろうか。昭和初期、小唄の歌い手であった芸者達が多数レコードデビューしたことで国民的人気を集め、更に戦後、民放テレビ・ラジオの開局を背景に、「小唄ブーム」と呼ばれるほど人気が高まったようだ。  
さて各々の話へと入ろうと思うが、近代邦楽において重要なものとして三味線の普及がある。三味線が誕生しなければ表題の声楽ジャンルは一つも起こり得なかったとも言える。よって少し三味線の話に触れておこうと思う。
三味線の起源はと言えば、安土桃山時代の永禄年間(1558〜1569年)、中国の三弦(さんげん、三絃とも)が本土に伝わり、琵琶法師がそれを改良して三味線が誕生したとする説が一般的である。具体的に誰が三味線を誕生させたかは定かではないが、石村検校(いしむらけんぎょう)が三味線音楽興隆の祖と称されているように、三味線の考案・改良のみならず三味線音楽を芸術的に高めるべく楽曲を作成し、弟子へと伝授したことにより三味線が世に広まったため、地歌を始めとする三味線音楽の誕生に大きく貢献したものと考えられている。江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」を生んだ功績も大きく、「当道座」の盲人音楽専門家である検校らに非常に尊重され、この組歌を基本として「地唄」が大成された。
この「三味線組歌」は現在「本手(ほんで)」「本曲(ほんきょく)」等の通称で呼ばれ、本手組(7曲)と破手組(端手組)の総称となっている。本手組7曲は石村・虎沢検校の手により作られ、破手組14曲は虎沢・柳川検校により作られたと言われているが、現在の野川流三味線組歌の全32曲に定まるまでの伝承過程において、京都の柳川流・大阪の野川流の2つの三味線流派に分かれた。本手は、免許皆伝でも伝授されない秘曲とされ、かつて職格取得(プロ)のための必修曲であったが、音源として全曲残されているものの、生きた継承者は非常に少ないという。明治期の「当道座」の解体に伴って遠い存在となっていたが、秘曲としての格式を保ちつつ伝承され、現在は本手奨励会を組織して正確な伝承と普及のための活動を行っているという。
ちなみに古典であった本手組に対する新風であった破手組の奏法・テンポの緩急の自在さ等から「派手」という言葉が生まれたとも言われている。  
さて話は地唄に入ろう。「地唄(じうた)」は近年「地歌」の表記が増えてきたようだが、意味が2つあり、俗謡や土地の伝承歌の意と、上で触れた江戸初期に発生した三味線声楽曲で、三味線の弾き歌いの形式を原則とする歌曲様式で上方歌・法師歌・京歌等の別称を持つ類のものである。これは江戸に対する上方(地元)の歌なので地唄と呼ばれて上方(関西)で愛好されたためで、江戸では上方唄(かみがたうた)と呼ばれていたことによる。地唄の発生は前述したように上方で三味線の誕生に伴って起こり、江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」が誕生した後はこれに倣い、盲人の琵琶法師達、主に職業盲人演奏家・当道座の検校らの手により独自の発達を遂げ、作曲・伝承され続けた。その中で能楽の題材・詞章を取り入れた「謡物(うたいもの)」、浄瑠璃の移入、滑稽な内容の「作物(さくもの)」等も作られ、江戸後期には地歌を代表する楽曲形式である、歌と歌の間に三味線のみの間奏部分を有する「手事物(てごともの)」という形式も生まれた。現在の分類によると前述の組歌・謡物・作物・手事物の他、新しい工夫を加えた「端唄物(はうたもの、本項端唄とは別)」・「語物(かたりもの)」・京物(きょうもの)等の多彩な内容となっており、上方舞の伴奏としても知られている(「日本物語−上方舞」参照)。
その後発生した箏曲(そうきょく)の中でも生田流と主に密接に関わりつつ座敷・家庭音楽などの室内音楽として発達し、一般庶民の間にも普及する。地唄から派生して歌舞伎等と結びついた長唄とは異なり劇場音楽の伴奏等の場所の制約もなく、純音楽的芸能として繊細かつ叙情的な美しさを有する芸術的側面を発展させ、三味線・声楽共に独特の芸を育んできた。元禄期(1688〜1704年)頃から三味線と筝の合奏が盛んに行われるようになり多様な曲種を生む等、筝曲と地唄が次第入り混じり、結合した結果、今日にあっては筝の流派において地唄(三味線)はほぼ兼業する形になっているという。
江戸時代中期あたりから地唄三味線・筝曲・胡弓楽の総称として、又は3種の楽器の総称として「三曲(さんきょく)」という名称が用いられ始めたようで、主に地歌や筝曲が演奏されていた。江戸時代末期から尺八が参入し、現在三曲と呼ぶ場合は地唄三味線・箏曲・胡弓楽・尺八楽を総合した名称となっているようだ。地唄三味線と表記したが、三曲・箏曲・胡弓楽・尺八楽において地唄の三味線は「三弦(三絃)」と呼ばれている。これらの4種の楽器のうち、三種の楽器の合奏形態を「三曲(さんきょく)合奏」と呼んでいるが、近年尺八との合奏が多く行われるようになったためか、現在は三味線・筝・尺八の3種の楽器の合奏が一般的になっている。また現在は三味線・尺八等の合奏曲であっても「筝曲」と呼ぶことが多くなった。
地唄の三味線について少し触れておこうと思う。一口に三味線と言っても色々な大きさ・種類があり、「地唄三味線」と呼ばれるものは、中棹で一分五厘大の胴が多く用いられている。地唄駒・糸巻き・大きめの撥・犬皮張り等の説明に入ると止まらなくなってしまうので、おおまかな特徴だけ挙げておく。技巧が繊細で、左指を使って弦を複雑に奏でることにより繊細でデリケートなしっとりとした音色が特徴的である。琴と共に発展してきたことにより、当初は細棹も使用していたようだが音量を合わせて「中棹」で定着した。代表曲に「ゆき(雪)」「八千代獅子」「黒髪」「袖の露」等がある。
最後に、地唄の人間国宝について触れて次に移ろうと思う。人間国宝とは、国が指定する重要無形文化財のうち、ある技術を個人が有するもので、地唄の場合は人間国宝不在の状態である。生田流地歌箏曲で宮城道雄に学んだ「藤井久仁江(ふじいくにえ)」氏が2006年、地歌箏曲の第一人者で富筋流「富山清翁(とみやませいおう)」氏が2008年に亡くなって以来である。  
「長唄(ながうた)」は江戸で歌舞伎舞踊(所作事)専用の伴奏音楽(地謡)として誕生し、発展した三味線音楽で、歌舞伎の初期の頃に存在した「踊歌」、元禄期(1688〜1704年)頃に江戸に伝わった「上方長唄」の2つを母体として各種の音曲の曲節を摂取しつつ、享保年間(1716〜1736年)、長編で物語性を有する「長唄」が誕生したという。17世紀初頭に起こった「お国歌舞伎」の頃は踊歌の伴奏音楽は能楽の4拍子のみであり、三味線が使用されるようになったのは1615年〜1630年頃に最盛期となった「女歌舞伎(遊女歌舞伎)」の時である。1629年の遊女歌舞伎の禁止に続いて起こった「若衆歌舞伎」の時代、三味線の地位が主奏楽器として確立されるのに伴って今日と同じような基礎形態に整えられたというので、長唄は歌舞伎の歴史と密接に関わりつつ発展してきたと言える。「長唄」の名称が初めて登場するのは18世紀初頭のことで、それまで存在した上方長唄に対して「江戸長唄」とも呼ばれるが、本来的にはこれが正式名称である。上方の元禄歌舞伎の第一人者である初代・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始され流行したことを背景として、18世紀前半の享保年間、上方の初代・瀬川菊之丞、初代・中村富十郎らの名女形と長唄演奏者が江戸に進出し、和事特有の女性的な長唄が江戸にもたらされ、流行した。18世紀後半には、長唄に浄瑠璃を取り入れた「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」が作曲家・唄方として名高い初世・富士田吉次によって創案された。唄浄瑠璃とは歌物(うたいもの)的傾向の強い浄瑠璃流派のことであり「座敷浄瑠璃」の別称の通り、室内音楽として楽しむものである。一中節の出であった富士田吉次により創始されたものであるが、河東節・一中節・宮薗節・新内節・常磐津節・清元節等、現存する義太夫節以外の諸流の総称となっている。明和期(1764〜1771年)頃には豊後節系統での常磐津・富本の歌舞伎浄瑠璃(舞踊劇)が誕生し、それまで舞踊は女形の独断場であったが立役(男役)のための舞踊曲が数多く作られ、天明期には初代・中村仲蔵等の立役の名優が舞踊を演じるようになった。
長唄は分化・多様化しつつ人気を博すると共に曲風も多彩になって定着してゆき、19世紀前半辺りに全盛期となる。文化・文政期(1804〜1829年)、早替わり等ケレン味ある演出に合わせた「変化物(へんげもの)」や豊後節浄瑠璃との「掛合物(かけあいもの)」が歌舞伎界に流行して全盛期になると、長唄も各々の舞踊に合わせた伴奏音楽として目立って内容の多様化が起こり、高い音楽的完成度を持つものとして大成し始めた。幕末〜明治期にかけて、歌舞伎そのものを芸術的に高めようとの指向を反映して能・狂言の歌舞伎化が活発になるにつれ、長唄の守備範囲は益々広がり、また浄瑠璃流派の1つであった「大薩摩節」を吸収し、舞踊音楽として首位を占めるに至った。
同時に、歌舞伎や舞踊から離れ、大名屋敷・料亭等で演奏する「鑑賞用長唄(お座敷長唄)」が創始され、長唄は新しい局面への場が開かれることになり、本来は舞踊曲であり派手な芝居唄であったものが、庶民の習い事として浸透して劇場を離れ、室内楽として音楽の1ジャンルの地位を得た。20世紀初頭、四世・吉住小三郎と三世・杵屋六四郎(きねやろくしろう)が「長唄研精会」を創設し、定期的な演奏会を開催することで「鑑賞用長唄」を一般庶民に普及する働きかけを行い始めた。そうして長唄の長い歴史の中で謡曲・狂言・浄瑠璃・地歌・流行歌・民謡等の様々な種目が有する旋律・題材・曲節を吸収して発展した為、極めて多様性に富んでおり、現代、純邦楽の中で最も親しまれている音楽となっている。
次に長唄の音楽様式に触れておこう。
唄と三味線が同数で構成されるのが基本にあり、独吟から十挺十枚以上まで規模は変幻自在であり、小鼓・大鼓・太鼓・笛等の囃子を伴う場合もあるが、4挺(丁)4枚(三味線4人・唄4人)が定番である。一番小さくて軽い「細棹」三味線を用い、左指の技巧は他に比べると単純であるものの、右手(撥)の技巧は非常にテンポが速いのが特徴で、総じて淡泊で歯切れが良い。歌舞伎伴奏としては細棹は高い音色で繊細な音を出すため「勧進帳」「連獅子」等の舞踊要素の強い演目で演奏されることが多く、また囃子を伴うと賑やかで派手である。出囃子の場合、端にいる三味線は別の旋律である「替手(かえで)」、高く調律した「上調子(うわぢょうし)」を担当することもある。長唄は歌舞伎のBGM・伴奏・効果音を担当するので、黒御簾(くろみす、舞台上の専用の場所)で情景や情緒描写を行う重要な役割を持つため「黒御簾音楽」「下座音楽」と呼ばれている。歌舞伎舞台・演目への深い理解、役者の所作(演技)や舞踊の型などの熟知を要するため、鳴物・唄・三味線別々に「人間国宝」と呼ばれる国の重要無形文化財に指定される奏者が存在する。  
「端唄(はうた)」は地歌(じうた)とも呼ばれる三味線小歌曲の1つで、小唄・うた沢・俗曲との区別が以前は明確でなかったため混同されることもあるが、現在、端唄は小唄・うた沢・俗曲に属さない「江戸端唄(えどはうた、江戸期の小曲)」のことと定義されている。端唄には「上方端唄」「江戸端唄」の2種類があり、一般にいう端唄は、「江戸端唄(えどはうた)」と呼ばれるもので、京阪地方で流行した「上方小唄(かみがたこうた)」が江戸に移入され、その影響下、江戸時代末期に江戸で流行した短篇の三味線歌曲、いわゆる江戸の流行唄のことである。上方・江戸いずれの端唄も、小唄との違いは三味線の弾き方にあり、小唄が爪弾き(つめびき)であるのに対し、端唄は撥を用いて華やかに演奏するものである。内容的には家庭音楽として伝承されたものと、酒宴席など外部で広く演奏された娯楽性の強いものとの2つに大別できる。江戸時代、流行歌として小曲が数多く歌われ、地方民謡の他に端物の唄が多く作られて流行したのだが、江戸末期の安政年間(1854〜1859年)、それまでの端唄に品位を与え芸術的な歌曲として整えた「うた沢」が確立され、幕末から明治にかけて、うた沢の発生に続いて「江戸小唄」が誕生する。江戸小唄は清元の浄瑠璃(文楽)の新曲に多く挿入された端唄を、流行しやすいアップテンポで粋な曲調に改編したものであるが、後に単に「小唄」と呼ぶようになり、明治中期以後、一般庶民に流行したことは後に各々の項で触れることにする。一方の「上方端唄(かみがたはうた)」は地唄の中の端唄であり、平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達の最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りするのが本来の姿で、彼らの研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線の爆発的流行とともに、身近な芸能として武家・町人階級を中心に一般に広く受け入れられるようになり、江戸にも移入されて上方唄と呼ばれ流行を見せるが、男性的な武家文化を尊ぶ江戸では次第に消滅したようだ。端唄は、小唄と同様に「中棹(ちゅうざお)」三味線を用い、曲調には特別な傾向・味を持たない素朴な素直さがあることが特徴とされ、主な曲目に「紀伊の国」「夕暮れ」「びんほつ」「さつまさ」等がある。  
「小唄(こうた)」は江戸時代末期の安政年間(1854〜1859年)、「うた沢」に続いて端歌から派生した三味線音楽の1つであり、現在小唄と言うと一般には室町小歌に対する「江戸小唄(えどこうた)」、早いテンポの「早間小唄(はやまこうた)」を指す。歌舞伎・日本舞踊の伴奏に用いられる長唄・義太夫節等に比べるとテンポが良く短い曲であることに特徴があり、三味線の伴奏に合わせて洒落・風刺・皮肉の効いた粋な歌が歌われる。誕生の背景としては、江戸末期の安政年間(1854〜1859年)、前述の「江戸端唄」の愛好者であった旗本隠居・笹本笹丸らが、端唄に品格を付して芸術的歌曲として整えた「うた沢」を確立した頃、清元の浄瑠璃(文楽)の新曲に多く挿入された端唄を、流行しやすいアップテンポで粋な曲調に改編・洗練させた「江戸小唄」を誕生させた。当時の浄瑠璃は、家元しか曲を作ることが許されず、家元以外が作った場合、正式な作曲者名義は家元のものとされた為、作曲の才のある者は小唄を作るようになった。幕末〜明治期、最初の動きが清元で起こり、後には単に「小唄」と呼ばれ、明治中期以後は一般庶民に流行し、明治時代後期に今日のような形になった。
小唄は「中棹(ちゅうざお)」三味線を用い、三味線のリードに合わせ、間に唄をはめ込むように歌うものであるが、声を極端に抑制する歌唱法には熟練の技術を要すと言われる。小唄の三味線は「撥(ばち)」を用いず爪弾き(つめびき)と呼ばれる指で直に演奏する手法のため、サビのある柔らかい音色が特徴であり、通人好みの渋味を持つ。
演奏形態は1人で弾き唄い(独吟)、又は「1丁1枚」「2丁1枚」と少人数であり、「2丁1枚」の場合は一人は「替手(かえで)」と呼ばれる別の旋律を演奏する。
次第に小唄人口は増加して、戦後小唄の愛好者が急増して盛んになり「小唄ブーム」と言われるほどにもなり、今日なお甚だ盛況であり現在では家元が数多く存在する人気ぶりである。しかし、手軽に披露できる宴会芸としても庶民的人気を誇る小唄の流行に押されて端唄・うた沢・都々逸などの俗曲が下火となってしまった背景には、家元制度が無かったため、芸の伝承がスムーズに行われなかったことなどが挙げられる。  
「都々逸(どどいつ)」は江戸末期の天保年間(1830〜1844年)、寄席音曲師・都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が江戸の寄席で流行させた7・7・7・5の4句を重ねる26文字の定型詩で「俗曲」の1つとされている。俗曲とは庶民的な唄を指す言葉で、端唄との明確な区分はないのだが、観賞用というより寄席芸能として扱う場合は「俗曲」の名称を用いるようだ。都々逸は主に寄席・座敷等で演じられ、風刺・粋・艶を有し、男女の恋情・四季・心境などを題材とした町人文芸であり、雅語を用いず口語で歌われるのだが、都々逸坊扇歌のお題頂戴の即興謎解き歌が大人気となったことで一般に知れ渡った。その後の都々逸はお題を与え、客が当意即妙に答えるという方式で普及したようだ。「度々逸」「都々一」等の表記もされており、その起源は文献によると、1800年に名古屋・熱田神宮の門前にある神戸(ごうど)町の宿場遊里の女中が歌い始めた調子の良い囃し詞の歌「神戸節(ごうどぶし)」が流行したものとされる。江戸・明和期(1764〜1772年)頃に江戸で流行した「潮来節(いたこぶし)」を母体とした「よしこの節」に似た曲調のもので、地元で廃れた後に江戸・上方に流れて「名古屋節」と呼ばれたようだ。人情の機微に触れるような庶民感情を表現する内容が多いことで庶民に愛好され大きな支持を受け、また酒席での座興として歌われることも多かったという。古典都々逸は三味線に合わせて唄う流行歌の側面を有しており、戦前までは都々逸といえば芸者が座敷で三味線を弾き唄う余興の芸というのが主な認識で、明治期以降になって純粋に「文芸」「詩」の形態となったようだ。その背景として明治末期、「二十六文字詩運動」が新聞記者により起こり、彼らを撰者とした新聞の都々逸欄が評判となり、一時は「都々逸披露会」に毎回4、500人の来会者があるほど盛んであったという。その後、26文字の定型詩を「俚謡正調」「街歌(がいか)」と呼ぶ動きも出、結局のところ江戸調・明治調・都調・街歌調などの分類体系に収まった。有名なところで「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」等があるのだが、都々逸だとは知らずにも、意外と知られている唄が結構多い。都々逸の面白さを説明するよりも手っ取り早いと思うので、もう2、3紹介して終わろうと思う。「信州信濃の新そぱよりもあたしゃあなたのそばがいい」「嫌いなお方の親切よりも好きなお方の無理がよい」「わしとお前は羽織の紐よ固く結んで胸に置く」「君は吉野の千本桜色香よいけどきが多い」  
 
浄瑠璃節 / 義太夫節・常磐津節・清元節  

○○節と名が付くものがずらっと並んでいるが、浄瑠璃節以下いずれも浄瑠璃系統の流派の名前である。浄瑠璃系統の音曲とは日本の伝統音楽の1ジャンルであり、三味線を伴奏として語り手である浄瑠璃語り(太夫)が詞章を語り、人形を加えない流儀も多いが本来は操り人形が加わる、いわゆる人形浄瑠璃(文楽)の音楽である。その詞章は単なる歌ではなく、登場人物の台詞・仕草・演技の描写をも含むために語り口が叙事的な力強さを持っているため、浄瑠璃の口演は「歌う」ではなく「語る」という用語を用いており、一般的に浄瑠璃系統の音曲は「語り物(かたりもの)」と呼ばれている。太夫により節(ふし)の語り口が違ったため、演者の名前を付けて「○○節」と呼ばれるようになった。その起源から浄瑠璃の歴史を追ってゆこうと思う。
日本の声楽は「歌い物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」の2つに分けられ、そのうち語り物は、物語に節を付けて語り聞かせるものであり、最古のものは琵琶法師が琵琶の伴奏に合わせて平家物語を物語る「平曲(へいきょく)」だとされる。平曲は「雅楽」「声明」と琵琶を弾く盲目の僧体(僧門の出ではなく寺社に所属する賎民)が担った天台声明系の「盲僧琵琶」の影響を受けて成立したのち非常に流行し、徐々に題材を増やしてバラエティに富む語りになった。中でも特に人気を博したのは室町時代中期(15世紀末)に三河地方で誕生した「浄瑠璃」であり、本項の題目となっているものである。浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を題材とした御伽草子の一種「浄瑠璃姫十二段草子」から出たものであるが、曲節が愛好され、物語が違っても、その節回しは「浄瑠璃節」と呼ばれた。史実上初めて「浄瑠璃」の名が登場するのは1531年、小座頭に浄瑠璃を歌わせたと連歌師・宗長の日記に書いてあるそうなので、人形浄瑠璃として昇華するまでにはまだ百年ほど熟成期間があった訳である。この頃は扇・鼓での拍子取りや、琵琶の伴奏で語られていたようであるが、この後の16世紀中期、三味線が誕生して流行すると、琵琶法師たちは琵琶から三味線に持ち替え、浄瑠璃に使用し定着するのだが、浄瑠璃語りを「○○大夫」という芸名で呼ぶようになったのは、三味線と結び付いてからのようである。流行音楽は大衆の耳に留まり易かったため、この浄瑠璃が人形劇の地の音楽(地歌)となったのは自然の流れであったようだ。
三味線を浄瑠璃に用いるようになったのは慶長年間(1596〜1614年)、沢住検校(さわずみけんぎょう)が最初だといわれる。沢住検校は室町末期〜江戸初期、京都で活躍した琵琶法師であった。ちなみに検校とは中世・近世の盲官の最高位であり、音楽家として優れた者が多く、近世の邦楽の発展において大きな原動力となったという。琵琶に準じて撥を用いることが出来たために細かい技法が可能となり、三味線の演奏術は長足の進歩を遂げた。  
「操り浄瑠璃(人形浄瑠璃)」の誕生は江戸時代初期のことであり、上方(京都)での上演は慶長19年(1614年)、京都御所で夷かきが「阿弥陀胸切」という浄瑠璃を見せたのが史実上初めてであると言われている。元々浄瑠璃は始めは京都、後に三都(江戸・京都・大阪)に流行した芸能である。江戸幕府の開府と共に江戸に流れ、その後の江戸中期にもなると大変盛んになり、数十もの江戸浄瑠璃の流派があったとの記録があるという。浄瑠璃節の開祖・滝野検校に弟子入りして節付けを修得し、繊細かつ柔らかい伝統的な京風の語り口の「杉山丹後掾(すぎやまたんごのじょう)」、と豪放な芸風の薩摩節の始祖・「薩摩浄雲(さつまじょううん)」が江戸浄瑠璃の開祖と言われている。江戸を中心に流行・発達した「金平浄瑠璃」と呼ばれる作品群は、歌舞伎の荒事(隈取・見得・六方等を特色とする豪快な演出)に大きな影響を与えた。
人気が高まると名人・上手が数多く誕生し、互いに芸を競うことで益々人気が集中するのは、いかなる芸能でも同様に起こるもので、浄瑠璃も例外ではなく江戸時代には多くの名手を排出し、各々が一派を興して派を競った。初期の頃は、江戸の金平節・土佐節、京都の加賀節、大阪の播磨節等、いわゆる古浄瑠璃が興隆したが、後に義太夫節が誕生すると浄瑠璃の異名とされるほどの大盛況となり、豊後節系統の常磐津節・清元節等の歌舞伎浄瑠璃や一中節・新内節等の唄浄瑠璃(座敷浄瑠璃)等の諸浄瑠璃流派が誕生する。浄瑠璃最盛期となる義太夫の興隆について少し掘り下げて見てゆくことにする。  
江戸で流行中の金平物を得意とした大坂の播磨節の始祖・井上播磨掾の門下に清水理太夫と名乗る弟子がおり、理太夫は農家の出であったが播磨節を修得した後に京都の加賀節の始祖で当世の名人であった宇治嘉太夫(宇治加賀掾)に弟子入りし、硬軟両様の浄瑠璃語り(大夫)となった。大坂・道頓堀に竹本座が櫓揚げしたのを機に竹本義太夫と名を改め、「初代・竹本義太夫(たけもとぎだゆう)」が誕生した。生来の声質の豊かさと播磨節の豪快・明快な語り口に加え、三味線の竹沢権右衛門と組んだことで義太夫節を確立し、浄瑠璃史上記念すべき1686年、売れっこ作家・近松門左衛門作の「出世景C」の竹本座上演を境に、浄瑠璃と言えば「義太夫節(ぎだゆうぶし)」と言われるほど一世を風靡し、それ以前の各派浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれるようになったほどである。1701年、竹本筑後掾を名乗ることで名実ともに「義太夫節」の始祖となった。その後「曽根崎心中」の大成功と続き、没するまでの10年余りは近松門左衛門を座附作者に迎えることで人形浄瑠璃を舞台芸能として発展させ、浄瑠璃全盛期を第一人者として支えた。義太夫節は播磨節の語りを基本としつつ、他派の長所のみならず平曲・謡曲・説経節・祭文等を幅広く取り込んだことから表現が多彩であった。義太夫は自らの浄瑠璃を「当流」と呼び、語りの天才とも称され、現在も親しまれている名作を多く生みつつ絶大な人気を博した。近松門左衛門、竹本義太夫らが演劇の一様式として人形浄瑠璃を確立して以来、「文楽」として現在伝承されているのはこの流れである。歌舞伎を凌ぐほどの人気を博し、また歌舞伎に与えた影響は大きく、歌舞伎演目の多くが人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を「丸本」と称したため、移入された歌舞伎演目を「丸本物(まるほんもの)」と呼んでいる。  
「時代物」と「世話物」という歌舞伎にも転用されている2つの分類体系も出来、その後「福内鬼外(ふくうちきがい、平賀源内)」が江戸で初めて人形浄瑠璃を上演して以来、「江戸浄瑠璃」が起こる。また19世紀後半、「文楽」の名の由来となった大阪「文楽座」が人形浄瑠璃の中心的劇場であった時代、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、それから遅れて昭和期の1953年以降「太夫」としていた表記を「大夫」に改め、現在に至るわけだが、最高位の大夫「櫓下(やぐらした、紋下とも)」は、歌舞伎役者の第一人者・市川団十郎よりも芸事的地位は高いものとされる。最後の櫓下は、近代の名人と謳われ1967年に没した豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)で、人間国宝(重要無形文化財保持者)で文化功労者でもある。浄瑠璃語りが「太夫」から「大夫」となったのは彼の意図によるとされ、古典資料・故事の研究にも努力した人としても知られている。現在「文楽」は世界無形遺産・国の重要無形文化財に指定されている一派であり、人形浄瑠璃の代名詞ともなっている。  
さて、ここから個々の浄瑠璃流派に触れてみようと思う。表題の義太夫節と常磐津節以外にも数多くの流派が存在し、あるいは存在していたので、それらも併せて触れて見ようと思うが、主として誕生地・派生流派等で分類されるようだ。
まず義太夫が誕生するまでの「古浄瑠璃(こじょうるり)」の流派をかいつまんでみることにする。杉山丹後掾と薩摩浄雲が興した江戸浄瑠璃は、その弟子達により多くの流派に分化し、江戸半太夫(半太夫節)・十寸見河東(河東節)・薩摩外記太夫(外記節)・大薩摩主膳太夫(大薩摩節)・都太夫一中(一中節)・竹本筑後掾(義太夫節)等を生んだ。以上のうち義太夫節以外の総称として「古浄瑠璃」と称する。
「金平節(きんぴらぶし)」江戸で流行した「金平浄瑠璃」を指し、金平浄瑠璃の主人公である超人的な勇者「金平(公平)」から付いた名称で、大夫の名ではない。1655年頃から薩摩浄雲の高弟の江戸の和泉太夫(桜井丹波少掾)が作者・岡清兵衛と組んで金平の武勇談を豪快な曲風で語り出し、頂点に立ち、江戸を中心に爆発的ヒットとなった。特に技芸に優れ、人気があった者として大阪・井上播磨掾(播磨節)がいる。
「肥前節(ひぜんぶし)」古浄瑠璃の一。杉山丹後掾(たんごのじょう)の子の杉山肥前掾(江戸肥前掾)が江戸で語ったもので、1665年頃に流行した。父・丹後掾を継いで堺町で興行して名人となるが、どんな曲節だったのかは明確ではない。門弟に半太夫節の祖・江戸半太夫(はんだゆう)がいる。
「半太夫節(はんだゆうぶし)」江戸半太夫が始め、肥前節から続く江戸浄瑠璃を河東節へ繋ぐ役割を果たしたが、河東節の流行で衰え、現在ほとんど残っておらず、また初代〜七代までの代々の半太夫についても動向が明確でない。説経節・歌祭文(うたさいもん)の名手であったが、江戸肥前掾(ひぜんのじょう)に弟子入りし、半太夫節の祖となり、座敷浄瑠璃で主として活躍した。門下に河東節の祖・江戸太夫河東(十寸見河東)がいる。
「播磨節(はりまぶし)」1660年頃に井上播磨掾が語り始め、大阪で盛行した。江戸で流行していた「金平浄瑠璃」(金平節)を取り入れ、大阪で金平節の名人と言われたほどである。音声を使い分けた巧みな節回しと豪快・明快な語り口で、愁いと修羅を得意としており、初期の義太夫節の基礎ともなり浄瑠璃界に大きな影響を与えた。
「永閑節(えいかんぶし)」江戸古浄瑠璃の1つで、虎屋永閑(とらやえいかん)が創始した。1670年頃から江戸・堺町で興行・活躍し、金平風の豪快な芸風であったようだが曲節は明確ではない。1680年には将軍の上覧にも供しているが、現在「寛闊一休」のみ地唄に伝えられている。
「文弥節(ぶんやぶし)」大阪・難波浄瑠璃の1つで、1675年頃、岡本文弥が始めたもので「泣き節」といわれ、哀調を帯びた語りは京阪で流行したが間もなく衰えた。悲哀に満ちた節付けが上手く、霊験物・因果物等を多く語り、聴衆が大いに涙したという。義太夫・一中・豊後節の中にその節付けが僅かに残っていると言われる。
「外記節(げきぶし)」江戸古浄瑠璃の1つで、薩摩外記(藤原直政)が1650年頃に語り始めたとされる。荒事風の豪快・痛快な語り口で人気を呼び、人形浄瑠璃、歌舞伎の荒事の双方に用いられ、正徳年間(1711〜1716年)まで流行したという。衰滅してしまったため、現在は河東節・長唄の数曲中にその面影が伝わるのみである。
「角太夫節(かくたゆうぶし)」京都の古浄瑠璃の1つで、山本角太夫(土佐掾)が語り出すが、哀婉な曲風で「うれい節」と呼ばれた。伊藤出羽掾の「出羽座」で修業し、文弥節にも学び、京都に出て虎屋(とらや)源太夫らにも学び、1670年代に京都で口演を始めた。からくりや糸操りを多用した芸風は、名人・宇治加賀掾(かがのじょう)と人気を分かつほどの盛況ぶりであったという。門弟に「治太夫節」の松本治太夫、「一中節」の都一中らがおり、曲節の一部は義太夫に取り入れられた。
「加賀節(かがぶし)」京都の古浄瑠璃の1つで、「嘉太夫節(かだゆうぶし)」とも呼ばれる。1670年代に宇治嘉太夫が語り出したもので、謡曲・流行唄(はやりうた)の曲節を取り入れ、繊細で多彩な節を考案して人気を博した。芸論や節事に関する著述も多く、また義太夫節への影響が大きい。
以上は古浄瑠璃に入り、義太夫節成立以降は在来の各派浄瑠璃(古浄瑠璃)はすっかり衰退してしまったという。また全ての大夫が人形浄瑠璃舞台で活躍していた訳ではなく、今日の「素浄瑠璃」の形でお座敷芸として展開したり寄席で演奏したりする者もあったようだ。特に大阪では有力な町人衆の教養として浄瑠璃が定着していた時代が長く、また素人上がりの太夫も多くいたようで、いわゆるプロの大夫が素人の大夫に稽古を付けてもらう事もあったようだ。
現在、浄瑠璃音楽として残っているのは、義太夫・常磐津・清元、河東・一中・宮薗・荻江・新内・富本節の8つであり、全て国の重要無形文化財に認定されている。  
「義太夫節(ぎだゆうぶし)」浄瑠璃の代名詞であり、義太夫本人に「当流」と言わしめたほど最も大成した流派である。京阪では現存の浄瑠璃流派は義太夫節だけなので、浄瑠璃を義太夫節と呼ぶようだ。初代・竹本義太夫(別名・清水理太夫)が創始・大成させた。江戸時代後期、人形浄瑠璃から離れ、日本の伝統音楽の1つとして座敷・寄席などで純粋に音楽として盛んに演奏されるようになった。太棹三味線を用いた重厚で迫力ある演奏と併せて各場面の情景・雰囲気・登場人物の言葉・喜怒哀楽の心情等を語り、表現するものとなっている。歌舞伎では三大義太夫狂言「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」をはじめ、人形浄瑠璃から移入した「義太夫狂言」の音楽となっている。
「一中節(いっちゅうぶし)」都太夫(みやこだゆう)一中を始祖とする浄瑠璃の1流派で、1690年頃に京都に始まり、先行諸浄瑠璃(古浄瑠璃)の妙を取り込みながら大成した。曲風は温雅な語り口で繊細な情感を表現する優雅なもので、常磐津・富本・清元・新内節等、諸浄瑠璃の母体となっている。歌舞伎にも用いられたが、同系統から分派した豊後節系統の流派に押され、舞台を離れ「素浄瑠璃」専門の芸態となった。初代の没後、京都で早くに廃れたため主に江戸で伝承され、江戸時代末期に再興して現在に至る。
「豊後節(ぶんごぶし)」1720年代、一中節から分派した京都の国太夫節の始祖・都国太夫半中が宮古路豊後(豊後掾)と改名して興る。江戸に進出して「心中もの」で大流行したが、風紀上の理由で弾圧を受けたことより、狭義には一代で途絶えた。しかし他派への影響は大きく、常磐津節・富本節・清元節・新内節・薗八節・繁太夫節などの諸派が派生し、広義には総称して豊後節(「豊後諸流」とも)と呼ばれる。豊後節の子・孫・曾孫に当たる常磐津・富本・清元は「豊後三流」と呼ばれている。
「常磐津節(ときわずぶし)」豊後節の分派として1747年に初代・常磐津文字太夫が江戸で開流したことに始まる江戸浄瑠璃の1つで、語り物である義太夫に近いが、歌い物の要素を加味した曲風で、中棹三味線を用いた重厚・軽妙を兼ね備えた音色である。艶麗さの反面、古浄瑠璃の名残の素朴で豪放な部分を持ち、更に歯切れの良い語り口を兼備え、主に江戸歌舞伎の舞踊劇の伴奏音楽として現在まで盛行している。成立当初は豊後節の芸風を残していたものの歌舞伎に相応しいものに変化・発展し、現在では歌舞伎の付随音楽として重要な位置を占める。
「清元節(きよもとぶし)」江戸浄瑠璃の1つで、江戸時代後期の清元延寿太夫(豊後路清海太夫)を祖とし、常磐津節と同様に豊後節系の流派であり、成立は最後だったが江戸浄瑠璃の精髄とも言われている。裏声による大変高い音域を多用した繊細で情緒的・技巧的な語りは極めて派手・粋・軽妙で、洗練され過ぎた故に美しさと脆さを併せ持つ。富本と長唄から生じたことにより最も歌い物に近く、常磐津節と同じ中棹三味線を用いるが、豪壮さが全くなく、「歌」の要素が濃厚である。主に歌舞伎の伴奏音楽として発展したが、純粋な音楽として「素浄瑠璃」の作品もある。
「新内節(しんないぶし)」江戸浄瑠璃の1つで、江戸中期の1755年頃、鶴賀若狭掾(鶴賀新内)が創始した常磐津節と同じ豊後節系の流派である。クドキ・ウレイと呼ばれる哀婉な曲節と、美声で人気を博した鶴賀新内(つるがしんない)から名が付いており、心中物を得意とし、独特の情緒を有する流派である。座敷で語る「素浄瑠璃」として発展した後、遊郭の流し芸「新内流し(夏の夜、新内を語って町を流して歩く)」も発生した。
「河東節(かとうぶし)」代表的な江戸浄瑠璃の1つで、江戸中期の享保年間(1716〜1736年)、江戸半太夫(えどはんだゆう)門下の江戸太夫河東が「十寸見河東(ますみかとう)」を名乗り、半太夫節から分派して創始した。三味線音楽の1つ「古曲」に含まれ、曲風は優美な反面渋さを持ち、生粋の江戸風であり、細棹三味線を用いた語り口は豪快でさっぱりしている。初期には歌舞伎音楽として庶民に広く愛されたが、後に歌舞伎の人気浄瑠璃に押されて地位を奪われ、主に座敷での「素浄瑠璃」として人気となり庶民に浸透した。「助六由縁江戸桜」は現在も歌舞伎で演奏される名曲だが、基本的に演奏時間が短い「端物」が中心である。河東節の曲想は、後に江戸の山田流箏曲に影響を与えている。
「荻江節(おぎえぶし)」江戸中期、市村座の長唄唄方であった初代・荻江露友(おぎえろゆう)が、劇場引退後に遊郭で演奏活動を再開し、長唄を座敷唄風に歌い始めたのが始まりとされる。長唄をベースに生まれ、座敷唄として工夫・洗練され独自のものとして確立し、吉原の男芸者によって継承され、幕末には地唄をも取り入れた。明治中期以降は女流により今日まで継承されている。長唄が派手で囃子を伴うのに対し、荻江節は控え目で、囃子を用いないのが原則であり、三味線も複雑な技巧を避けて唄の伴奏として存在する。大正時代以降は一中節・河東節・宮薗節と合わせて古曲と呼ばれる三味線音楽である。
「宮薗節(みやぞのぶし)」江戸中期、京都で初代・宮古路薗八(みやこじそのはち)が語り始めたものを2世・薗八が1766年に初世・宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぼうけん)と名を改めて継承・大成させた。上方では劇場での出語り等で活躍していたが、2世薗八没後は衰亡し、江戸では3世薗八・宮薗春太夫が広め、三味線方であった初世・宮薗千之が継承した。同系の常磐津節等と比べると中棹三味線は重厚で渋く地歌のような音色、語りは情緒纏綿で艶麗な曲節が特にしめやかであるという。後に千之派と千寿派に分かれたが、いずれも古曲を基本に伝承して現在に至っているものの、現在わずか10曲伝えられるのみである。
「富本節(とみもとぶし)」常磐津文字太夫の門弟・富本豊前掾が創始した流派で、常盤津・清元の中間として艶麗・古雅を共存させ、当時大流行を見たが、やはり中間的であるが故に独自性が発揮できず、現代ほぼ滅亡寸前の状態である。寂びた風情は捨て難く再興の動きもあるが、全盛を極めた頃の富本は再現できないと言われている。豊後系浄瑠璃の中でも常盤津・富本・清元の三浄瑠璃は血のつながりの最も濃い間柄であり、豊後三流とも呼ばれる。  
 
日本舞踊 / 歌舞伎舞踊

歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)をご存知だろうか。読んで字の如く、歌舞伎劇で見られる舞踊の部分と言えば分かるだろう。日本舞踊の大部分が歌舞伎舞踊であり、その母体とも言えるので、日本舞踊をイメージしても良いだろう。一般的に日本舞踊は歌舞伎舞踊と上方舞とに大別されるので、上方舞の項を参照して頂けたらこの2つがどのように違うか明確になると思う。
歌舞伎舞踊の成立は江戸時代初頭、歌舞伎が演劇・舞踊・音楽とまだ未分類の頃から、約半世紀かけて演劇として成立するまでの段階で、舞踊としての要素だけを抽出し、独立させて発展したものとされる。よって必然的に歌舞伎の題材から採った演目が多い。更にその土台となる芸能を遡ると、室町時代から近世にかけ、一般庶民の興隆と共に風流(ふりゅう)という中世芸能が流行し、その踊から派生した「かぶき踊り(阿国かぶき)」を、出雲阿国(いずものおくに)が生み出したのが原点であるという。阿国は、出雲大社に仕える巫女と自称していたというが、「ややこ踊」「かか踊」「念仏踊」などと呼ばれる踊りをし、やがてそれらを一変させて「かぶき踊り」を踊り始め、歌舞伎の始祖となった。当時最先端の「かぶき者」の格好、簡単に言えば大きな刀を持つなど男装の派手な服装をし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる「茶屋あそびの踊り」を考案して自ら踊ったところ、京都で大変な人気を博したという。これを真似た芝居風の舞踊が、遊女らにより盛んに演じられるようになり、「女歌舞伎(遊女歌舞伎とも)」が誕生する。女歌舞伎は江戸時代、1615年〜1630年頃が最盛期の、遊女や女芸人による歌舞伎のことで、京都の四条河原や江戸の吉原には常設舞台が設置され、30人余りの男装の遊女が、艶やかで贅を凝らした多様な群舞(総踊り)を披露した。阿国の歌舞伎との違いは、当時最新の楽器であった三味線が用いられたことであるが、阿国はあえて三味線を使わなかったのではなく、高級品で手が出せなかったというのが通説である。風俗営業を伴っていたため公序良俗に反するという理由により禁令が出されて以来、公認の舞台から女性の姿が消え、女歌舞伎も次第に消滅したという。女歌舞伎に次いで人気となったのは「若衆歌舞伎」で、これは前髪のある成人前の少年が女装して演じるものだったが、これも男色を売り物としており風紀を乱すとして禁令が出され、若衆のシンボルである前髪を剃り落とし野郎頭になることと、舞台演目を物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件として興行が許可された。これ以後、現代の歌舞伎の原型である「野郎歌舞伎」が成立し、売色的要素を廃し、本格的に歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(技芸・物真似)を売り物とする芸能としての本道を歩み出した。女人禁制の芸能となったがために女形(おんながた・おやま)という役割が確立し、舞台上の歌舞伎舞踊は女方の担当となり、登場人物の心理描写として、仕草や情念などの内面的な「振(ふり)」が盛り込まれるようになった。劇芸術の体裁を整えた元禄歌舞伎において舞踊(所作事)は「狂言の花」といわれ、数多くの名手が現れ、歌舞伎劇の中核を形成する華麗な舞踊劇に成長していった。
舞踊が歌舞伎の1要素と認識されると、歌舞伎の振付師達が独立し、舞台の仕事の合間に町で稽古場を設け、一般民衆向けに舞踊を教え始め、この時から舞台上の舞踊とは別に、庶民のための歌舞伎舞踊が誕生する。この歌舞伎舞踊は「かぶき踊り」の系統を継いで、主に女性によって完成されてゆき、その進展途上で先行して存在した「舞」の要素を採り入れ、更に舞台同様、「振」と呼ばれる物真似的要素を加えた。表舞台に出ることは無かったが、歌舞伎と並行して発展し、後の流派に繋がってゆく。明治時代までは組織化された流儀単位というより、個々の師匠の実力により社会的地位・知名度を得て活動していたが、社会全体が近代化した明治時代以降は、家元を中心とする流派としての組織化が行なわれ、数多くの流派が生まれた。  
こうした背景から、歌舞伎舞踊とは、1つ目は歌舞伎の「わざ」の1つである所作事(しょさごと)系の舞踊を指し、各々流派をもって組織・活動しているもの、2つ目はこうした舞踊を含む歌舞伎演目、そして3つ目は歌舞伎劇の中の舞踊の部分であり、これらを総称して歌舞伎舞踊と呼ぶ。その動きの中に、演劇的要素として日常生活の写実的な動きを抽象化して見せる部分や、舞台劇として誇大化して見せる様式美の部分もあり、純粋に培われた舞踊に、様々な要素が加わって現在の姿となっている。日本舞踊においても、新舞踊や創作舞踊が作られ、歌舞伎もオペラやバレエなど西洋舞踊を融合した、いわゆる古典ではない所作もあり、歌舞伎舞踊においても同様の傾向がある。歌舞伎は元来、庶民の娯楽的要素の強い芸能であるから、時世を反映し、常に新しいものを生み出してきた。舞踊の総監督ともいえる振付師が各々の時代の人間であるから、それは当然のことかもしれない。以下、歌舞伎舞踊の内容的分類として、上述した歌舞伎の所作事と、そのジャンルについて触れる。
所作事(しょさごと)は、振事、拍子事、景事などとも呼ばれ、「やつし事」という演技から始まった。「やつし」とは、元々高貴な身分の人が零落し、又は身分を隠し、下賤の姿となり演技するもので、職人・商人に扮して多彩な滑稽味を伴う演技であった。それが後に歌舞伎演目中の舞踊全般を指すようになった。伴奏が主に長唄による舞踊そのものと、伴奏が常磐津(ときわず)・清元などの浄瑠璃による舞踊劇とに大別され、特に浄瑠璃による所作事を「浄瑠璃所作事」と呼ぶ。現在は所作事と浄瑠璃所作事、振事、拍子事などの境界が曖昧になっているが、元来、浄瑠璃所作事は数段形式である歌舞伎狂言(当時の歌舞伎演目の呼称)のうちの一段として作られたもので、その源流は丸本歌舞伎・文楽にあるとされる。後にこの形式が歌舞伎の中で消化されるに従い、元来は演目全体であったものが1つの舞踊・舞踊劇として作られるものが出現した。歌舞伎演目の一部分としてではなく、独立の舞踊として歌舞伎の演目になっているものがこれである。女形の芸として洗練され、後には立役も踊るようになり、文化文政時代には、一人の俳優が役柄を続けて演じ分ける「変化物(へんげもの)」が生まれて流行し、多くの小品舞踊が創造された。明治期には、能・狂言から題材を取った「松羽目物(まつばめもの)」というジャンルが誕生し、芸事としても伝承されている。以下、所作事のジャンルを追ってみる。  
変化物(へんげもの)一人の踊り手が早替りで次々と異なる役柄に扮して踊るもので、江戸時代後期に大流行した。役柄ごとに独立した一曲となっている。曲数により、○○五変化、○○七変化などと呼んでおり、一曲ごとに衣装・背景・伴奏音楽の種類など舞台装置が変わるので、分かりやすく、見ていて面白い。変化物の誕生に伴い、役者に振りをつけて教える振付師も誕生した。「藤娘」「汐汲み」「喜撰(きせん)」「鷺娘」「越後獅子」「供奴)」「年増」などが有名。
松羽目物(まつばめもの)明治時代の演劇改良運動により、接触を禁じられてきた能・狂言と交流を持てるようになり、新たに創作された能楽や狂言の題・内容・様式を借用した舞踊劇のこと。能舞台を模倣して、大きな松を1本、背景に描くものが多い。「勧進帳」「船弁慶」「素襖落し」「身替り座禅」「茨木」「土蜘」などが有名。
三番叟物(さんばそうもの)能の「翁」は正月・記念日・開場などの祝儀に演じられる非常に儀式的な演目であるが、江戸時代中期の宝永年間、「翁」を拝借して舞台を清める意味も込め、歌舞伎においても儀式性の強い演目が創造されたが、より陽気かつ開放的で、見た目の面白さ、軽快さなどを中心とし、様々な種類の曲が生まれた。「寿式三番叟」「舌出し三番叟」糸操りの人形が動く趣向の「操り三番叟」「廓三番叟」「二人三番叟」群舞形式の「五人三番叟」などがある。
道成寺物(どうじょうじもの)能の「道成寺」が原典のもので、鐘供養に訪れた女性が舞を披露し、恨みの表情で鐘に飛び込むという枠組みを取り入れ、多くのバリエーションがある。1753年、初代・中村富十郎(なかむらとみじゅうろう)が集大成して最も有名な「京鹿子娘道成寺」や「双面道成寺」「奴道成寺」などがある。
石橋物(しゃっきょうもの)「獅子物」とも呼ばれる。「道成寺物」から枝分かれし、女性の狂おしい恋心のイメージが獅子の「狂い」と重なり、謡曲「石橋」の枠組みを借りて女形舞踊として独立したものと考えられている。「連獅子」「英執着獅子」「鏡獅子」「枕獅子」「風流相生獅子」などが有名。
道行物(みちゆきもの)世話狂言(二番目物)の筋を引いたもので、男女が情愛をもって目的地へ急ぐ旅路の、せつない情緒を舞踊で表現するもの。「落人」「道行初音の旅」「道行旅路の嫁入り」「道行恋苧環」「蝶の道行」「梅川」などが有名。
狂乱物物に狂った様を踊るので「物狂い」とも呼ばれる。離別・嫉妬・悲恋・偽狂乱(本心を気取られないための計画的狂乱)など、多様な狂乱がある。「保名」「お夏狂乱」「隅田川」「高野物狂」「賤機帯」「仲蔵狂乱」など。
椀久物(わんきゅうもの)大阪に実在した豪商・椀屋久右衛門と、新町の傾城(遊女)・松山とのラブロマンスを扱ったもので、後世歌や芝居の題材として盛んに取り上げられた。「陸奥弓勢源氏」「二人椀久」など。
浅間物(あさまもの)、祝儀物、丹前物(たんぜんもの)、双面物(ふたおもてもの)等々、他にも数多くあるが、次に所作事に欠かせない音楽について少し触れることにする。  
歌舞伎舞踊の舞台の出来・不出来を左右するのも音楽次第といわれるほど重要とされ、色々な流派があるが、よく登場するのが「長唄(ながうた)」「常磐津(ときわず)」「清元(きよもと)」である。
「長唄」は、舞台中央に雛壇を設け、唄・三味線・囃子がズラリと居並ぶ形で演奏される最も多い人数編成のもので、囃子連中が舞台へ出て演奏するのは長唄だけであり、特に「出囃子(でばやし)」と呼ばれている。派手でリズミカルで、軽快な囃子が特徴。「京鹿子娘道成寺」「勧進帳」などが有名。
「常磐津」は、1747年、初代・常磐津文字太夫(ときわずもじだゆう)に始まる江戸浄瑠璃で、上方で大流行した豊後節(ぶんごぶし)の系統に属する。演者は柿茶色の肩衣(裃)を着て、舞台下手の山台の上で演奏するのが原則とされる。歌舞伎の所作に合うよう、時代物には重厚な節、世話物には情緒豊かな節を付けるよう工夫がされている。「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」「戻駕(もどりかご)」などが有名。
「清元」は、常磐津同様、豊後節を源流とする富本節(とみもとぶし)から分岐した江戸浄瑠璃で、1814年、初代・清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)が樹立したといわれる。最も新しい流派で、舞台では、深緑色の肩衣を着、常磐津と反対の、上手山台の上で演奏するのが原則とされる。情緒ある詞章を高音域で、技巧的に語るのが特徴で、軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)な粋で派手な曲調といわれる。「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」「隅田川」「落人(おちうど)」などが有名。  
最後に演じ手側について触れ、その流れより流派に移ろうと思う。
江戸時代まで、歌舞伎は被差別階級の仕事という考えが強くあり、差別も根強く残っていた。いずれの芸能も同様なのだが、当時の芸能人は現在と違い、階級的に言うと階級外に置かれる、最下層民が担っていた。しかし幕府や武家の庇護を受け、また式楽としての社会的地位を得、歌舞伎の担い手達もその人気と供に地位が向上した。現在歌舞伎舞踊を演じるのは、歌舞伎役者と日本舞踊家であり、重要無形文化財の認定を各個で受け、また技能保持者は人間国宝と称され、芸能同様、保護・伝承の動きがある。
また現在、歌舞伎舞踊は(社)日本舞踊協会所属のもので120流派余り、正確な数は把握されていないが全体で200流派余り存在するといわれ、中でも花柳流(はなやぎりゅう)・藤間流・若柳流(わかやぎりゅう)・西川流・坂東流は5大流派と呼ばれ、知名度も高い。以下、これら流派の概要を述べるが、どの流派も男性社会の歌舞伎と違い、多くの女性が活躍しており、また稽古次第で名取・師範免許が得られる仕組みになっているが、師範免許取得はかなり厳しいようだ。
花柳流(はなやぎりゅう)1849年、花柳壽輔が創始。花柳壽輔は4世・西川扇藏に学び、歌舞伎舞踊の振付師として重きをなした。最初は家庭の子女の舞踊として浸透したが、現在は組織力の強さで最大の流派(名取数約15,000名)となっている。小間(こまかい間のリズム)をとても大切にし、それが全体の大きなうねりを形成し、華やかな踊りを演出するのが踊りの特徴とされる。
藤間流(ふじまりゅう)藤間勘兵衛が宝永年間に創始。のち茅場町の勘十郎家・浜町の勘右衛門家が分派し3系統で隆盛を極めたが、1906年に直系・勘兵衞派が断絶した後は勘右衞門家と勘十郎家の2派になった。歌舞伎役者には、藤間姓が多いことが知られている。3世・藤間勘右衛門が松本流を派生させた。
若柳流(わかやぎりゅう)1893年、初世・花柳壽輔の門から出た花柳芳松が、歌舞伎界の振付師として才能を発揮し若柳吉松(寿童)と改名して創始した。花柳界で発展したため手振りが多く、品のある舞踊である。1944年、2世・若柳吉蔵没後、若柳流は2派に別れ、直派若柳流・正派若柳流になった。
西川流(にしかわりゅう)元禄時代に始まり、2世・西川扇藏が確立した。江戸の正派と、西川鯉三郎を祖とする名古屋派とがあり、花柳流七扇流などを分派した。三百年の歴史を有し、当代は10代目である。
坂東流(ばんどうりゅう)3代目・坂東三津五郎を祖とする。3代は初代の子で、舞踊の名手として化政期の代表的歌舞伎俳優だった。
最後に流派の簡単な概要を記したが、いずれの流派に所属するにしても、一般的に免状を受けるには時間とお金が必要だと思われている。実際、免許に係る費用や発表会費用、盆・暮れの付け届けなど、伝統的な流派では確かに多くの費用が掛かってしまうのが現状のようだ。「家元制度」は、一般には分かり難い仕組が存在し、日本文化・芸能に興味を抱き、覗いて見たい初心者にとって敷居が高いイメージが依然として存在し、思い切って入りづらいものである。
こうした壁が伝統芸能伝承のネックになっているとするなら残念でならない。習い事としてバレエなどの西洋舞踊だって当然お金は掛かる。日本人としてその心に根ざした伝統文化を伝承することの意義を再認識し、金銭的にも開かれた世界になり、幼年者のせっかくの興味をそぐことのないよう配慮されることを筆者は祈っている。
 
日本舞踊 / 上方舞

上方舞(かみがたまい)がどのようなものかをイメージするため、まず舞踊の初歩的なウンチクに触れておこうと思う。日本の諸芸能と密接に発展してきた舞踊は、明治時代に坪内逍遥が舞と踊を一語にした造語で、元来舞と踊という2種類のものを含んでいる。「舞」は能に代表されるように静的で優雅な動作、「踊」は身体を解放してリズムに合わせ、動的で跳躍的な動作のものである。上方舞を含む神楽・舞楽・白拍子・曲舞・延年舞などは前者、田楽・念仏踊・盆踊・歌舞伎などは後者に分別される。更に、日本舞踊というと、広義には日本の舞踊全般とも言えるが、一般的に使用される狭義の日本舞踊は、舞台芸術として江戸を中心に誕生した歌舞伎舞踊と、座敷で舞えるよう工夫され、京阪中心に誕生した上方舞のことを指す。劇場舞踊である歌舞伎舞踊が躍動的であるのに対し、室内舞踊として発達した上方舞は静的で、摺り足で旋回する動きが主体になり、人間の内面・幽玄の世界を表現されるのが特徴である。これらを踏まえた上で上方舞に触れてゆこうと思う。  
上方舞は、江戸時代中期〜末期に京阪地域(上方)で誕生・発達した舞の総称で、その中でも京で成立したものは、特に京舞と呼ばれる。商人らをもてなすため、交流の場であった座敷で広く舞われたため「座敷舞(ざしきまい)」、地唄の短い曲(端唄)に舞を付されたことから「地唄舞(じうたまい)」などとも呼ばれている。その成立の背景として、歌舞伎や能楽の観客層であった町民階級が力を持ち始め、それらを鑑賞するだけでなく、自分で唄・音曲・踊をやりたいという欲求が生まれる。同じ頃、能楽の座から独立した振付師が、町に稽古場を設けて一般子女に踊を教え始めたことで、日本舞踊の流派が誕生し始める。19世紀に入ると、上方で、京都御所に出仕した狂言師が始めた舞を源流とし、武家の婦女が舞っていた御殿舞(ごてんまい)、能の仕舞に、江戸の歌舞伎舞踊・人形浄瑠璃などの要素を採り入れ、柔らかく崩して上方舞が完成した。舞台芸術として発達した江戸の「踊」と異なり、埃を立てぬよう、半畳間でも舞えるよう工夫されて生まれた座敷のための「舞」であり、原則として演者は1人、舞台装置は後ろに屏風、上手と下手に燭台の灯を置き、衣装は着流しという素に近い、簡素なスタイルのものである。その舞の目指すところは、舞により起居動作の基準を整えることが第一にあり、歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きであるが、更に深く掘り下げ、繊細な動きの中から内面を色濃く浮かび上がらせ、しっとりと深い風情の芸の完成を理想とし、間合いを長く保った趣深い余韻の中、風情を唄い、間の玄妙な静寂を舞うものである、とされる。何のことだか著者には意味不明だが、要するに、移動もなく狭い空間で、決まった所作で劇中の人間心情を、しっとりと表現するもの…などと独断で略すと非難を受けそうなので、解釈は各々にお任せする。
さて、上方舞はその流れとして能から多大な影響を受けているが、男性のみが築き上げた能と異なり、女性が中心となって作り上げられ、遊里(遊郭)の座敷芸として、町家の子女の嗜み・芸事として、座敷で舞い継がれてきた女舞が本流である。近年は劇場舞台でも演じられ、舞台では前述の整えられた動きに劇的な要素が加えられている。東洋的なワビ・サビの風情をよく反映させているため、日本贔屓の外国人の関心を引くようだが、上方から東京に流儀が伝わり、舞われるようになったのは昭和に入ってからのことである。舞の伴奏として地唄の中の端唄という言葉を前述したが、一般に端唄と言うと、江戸端唄を指すので、以下、舞の伴奏部分について触れる。  
主に上方舞の伴奏となる地唄(じうた)は地歌とも書かれ、三味線伝来の戦国時代末期頃から日本で起こったとされる、日本最古の三味線歌曲である。江戸に対する上方(地元)の歌なので地唄と呼ばれ、上方で愛好された。近年は他に義太夫節や江戸歌などを用いることもあるが、これらも元々は地唄から派生したと考えられている。当時、能楽は男性の専業であり婦女子は習うことも許されず、そのため謡物(うたいもの)と呼ばれる地唄が誕生した。謡物は雅楽の1ジャンルにも同名のものがあるが、それとは全く別物で、能曲の題材(物語)や詞章(歌詞)を取り入れた三味線音楽であり、これが後の「本行物」という上方舞のジャンルになる。
端唄(はうた)とは、長唄に対して短い曲を指し、特に地唄の端唄は「上方端唄(かみがたはうた)」とも呼ばれている。平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達の最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りするのが本来の姿で、彼らの研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線の爆発的流行とともに、身近な芸能として武家・町人階級を中心に一般に広く受け入れられるようになり、江戸にも移入されて上方唄と呼ばれ流行を見せるが、男性的な武家文化を尊ぶ江戸では次第に消滅したようだ。
一般にいう端唄は、前述の上方端唄に対して「江戸端唄(えどはうた)」とも呼ばれ、京阪地方で流行した上方小唄(かみがたこうた)が江戸に移入され、その影響下、江戸時代末期に江戸で流行した短篇の三味線歌曲、いわゆる江戸の流行唄のことである。上方・江戸いずれの端唄も、小唄との違いは三味線の弾き方にあり、小唄が爪弾きであるのに対し、端唄は撥を用いて華やかに演奏するものである。内容的には家庭音楽として伝承されたものと、酒宴席など外部で広く演奏された娯楽性の強いものとの2つに大別できるのだが、上方舞から逸れてしまったので、話は戻って上方舞の種類に入りたいと思う。  
上方舞のジャンルは、内容的に大別すると以下に述べる本行物・艶物・芝居物・作物の4種類に分けられる。
本行物(ほんぎょうもの)とは、前述した能を題材に作られた能採物とも呼ばれるもので、大阪を訪れる武士をもてなすため、武士の嗜みであった能を女性の舞に取り入れ、座敷で披露されたのが始まりである。当時の大阪は天下の台所と呼ばれるが如く、米の供給を広く行っていたため、各藩から多くの武士が訪れた。本行物には格調高く重厚な作品が多く、上方舞の中でも特に重い格付けで扱われている。「葵の上」「八島」など。
艶物(つやもの)とは、名前の通り色っぽく情緒的で、女性の心の動きを女性美として追求した女舞である。男女の恋愛的内容を詠み、主に廓の女性の切ない恋心や情念を詠んだものが多く、座敷舞の長所を活かした作品群といえる。「雪」「ぐち」「茶音頭」など。
芝居物(しばいもの)とは、歌舞伎舞踊を上方舞に取り入れたもの。道成寺からの転用「鐘が岬」、「江戸土産」など。逆に歌舞伎の中で、上方の雰囲気を要する時、上方舞の地歌が用いられている。「廓文章」の「ゆかりの月」、「忠臣蔵」の「花の旅」など。
作物(さくもの)とは、事物を面白おかしく滑稽に詠い、軽妙で洒落た味があるため滑稽物・おどけ物とも呼ばれる。検校や勾当の暮らしが豊かになり、彼らが余興として技術を競って詠うことで発達し、滑稽な調子の作品を多く生み出した。公式の場で演奏される類のものではないので、多くは作者不詳となっている。「忘れ唱歌」「三国一」など。  
以上、ジャンル別に採り上げてみたが、流派・舞人により得意とするジャンルや曲があったようだ。日本舞踊の流派というと、今日200流派余りが存在し、そのうち上方舞は山村・井上・楳茂都・吉村という4流儀が主流派とされ、分派を含め20流派余りあるようだ。以下、その流派について触れてみたい。
山村流(やまむらりゅう)上方舞踊界を当時席巻した歌舞伎の振付師・山村友五郎が流祖。江戸時代後期の1806年、大坂で中村歌右衛門が上方歌舞伎役者・山村友五郎の才能を認めて振付師に抜擢し、友五郎が後に山村舞扇斎吾斗(ぶせんさいごとう)を名乗って山村流を起こした。友五郎の養子の代で「新町山村」「九山村」「島山村」に3分裂し、宗家格は2代目友五郎の新町山村であったが、現在は島山村から出た3代目山村若が宗家となっている。島山村に学んだ武原はん、九山村の芸を受けた神崎ひでが東京で活躍し、技量と美貌で上方舞を全国に印象付けた。上方四流の中でも最古の流儀で、上方舞の世界では、分家も多く、古くから連綿と続いている名家である。山村流から神崎流・川口流・雲井流・上方流・坂本流などが分化した。能から出た舞の上品さから商家の子女の行儀見習い・教養として隆盛を極め、山村流の名取札が嫁入り道具に欠かせぬものと言われるまでになった。
楳茂都流(うめもとりゅう)幕末の1841年、大坂の振付師・鷲谷将曹が流祖。将曹の父・正蔵は御所に出入りし舞楽乱舞・今様風流の奥義を伝授された人で、それを受けた将曹が、他にない舞の創始を念頭に置き今様風流舞・楳茂都流を起こした。後に将曹は楳茂都扇性(せんしょう)と名乗り、能・歌舞伎・舞の要素を併せ持つ「てには狂言」で人気を博した。2代目扇性は、楳茂都流独自の舞踊譜や三弦譜を考案したり、大阪新町の「浪花踊り」の演出担当として広範囲に活動した。3代目陸平は、宝塚歌劇団・松竹歌劇団で作舞したり、渡欧して邦舞と別世界にある洋舞の研究をするなど新しい試みをし、多彩に活躍した。
吉村流(よしむらりゅう)京舞・山之内流の山之内ふくの門弟であった吉村ふじが流祖で、明治初期、大坂南地で吉村流を起こした。2代目以降弟子が家元を継ぎ、世襲制でない点が特徴。4代目・吉村雄輝は吉村流初の男性の家元となり、東京に進出して活躍が目覚しく、人間国宝・文化功労者となった。吉村流は座敷舞の良さを生かし、艶物のまったりとした女舞の伝統を育んだ。
井上流(いのうえりゅう)井上サトが流祖。江戸時代末期の1800年頃、近衛家の舞指南役を勤めていたサトが宮廷文化を基盤に起こした祇園甲部の正式唯一の流派、芸妓・舞妓の流派であり、祇園では井上流以外は禁じられている。サトが近衛家を去る際、井菱の紋と供に「玉椿の八千代にかけて忘れぬ」という言葉を受け、後に井上八千代と名乗り、井菱を定紋として井上流を起こした。その後の2代・3代目八千代が人形振り・能を採り入れ、井上流の舞を大成し、また3代目八千代は京都の有名な「都をどり」の創始者となった。4代目井上八千代は舞の名手で、井上流の保存と発展に努め、人間国宝となった。「京舞」と言えば井上流を指し、今日の京都の年中行事となった「都をどり」を支えている。
篠塚流(しのづかりゅう)江戸時代後期の1830年頃、上方歌舞伎所作事の振付師・篠塚文三郎が創流した京舞最古の流派。鴨川をどりを支えるなど興隆期もあったが、明治期末になって衰退し、戦後には後継者不在で途絶えたが、昭和に入り復興している。  
以上、成立から流派まで、なるべく流れが見えるように触れてきたつもりだが、上方舞が身近に感じられるような、著名人を取り上げるべく調べてみたところ、上方舞は知らなくてもこの人は知っているというような一般に広く知れ渡る著名人はいなかった。よって最後になるが、全国的に活躍した上方舞の名手について少し触れてみる。
上方舞の舞踊家・武原はんは、上方舞を東京で定着させるべく、上方舞を劇場公演が可能なまでに舞台芸術として完成させた。舞踊家を貫くため離婚し、一生独身で通したという。その舞姿は「動く錦絵」と言われたほどである。
1903年、徳島県徳島市に生まれ、一家を支えるため12歳の時に大和屋芸妓学校に入学し、舞踊・三味線・鼓・太鼓を習って芸者となった。上方舞は山村千代・吉村ゆうから学び、結婚して東京に移るが、舞を極める人生を選んで離婚し、舞踊家としての道に入った。写経・「なだ万」女将・舞踊・俳句などを始め、地唄舞一筋の人生を送るが、死ぬまで写経・俳句・御嶽山参りは辞めなかった。昭和には「武原はん舞の会」を起こして東京で上方舞の普及・定着に努め、天性の美貌のみならず浮世絵美人画・文楽人形の体のラインを芸に取り入れ、独特の美しさを生み出した舞台が評判となった。本来座敷舞である上方舞を、劇場舞台でも演じられる芸術にまで高めた功績は大きく、日本芸術院会員・文化功労者となった。高浜虚子に師事し、俳人・はん女としての一面もあり、著書も残している。個人舞踊家として流派に属さず、弟子を持たず、「芸は一代限り」と潔く、舞のみで人々を魅了し続けた。現在、彼女の舞姿はビデオで見ることができるが、典雅なワビ・サビ世界の表出は、直接自分の目で舞台を見た者にしか味わえないようだ。
最後に上方舞のまとめとして、その芸術性から人間の内面表現について筆者が思うところを述べてみる。上方舞は動きをできるだけ省き、心の内面を見せる芸能であるというが、上述の武原はんの生き様そのものが、上方舞の真骨頂であるように筆者は思う。事物に真向から向き合う強さ・素直さを持ち、人生の一瞬を切り取っても彼女らしく全力で生きた姿が美しい。演舞中の彼女は隙間無くどの舞姿も美しいと賞賛された中に、人生(時間)に対する彼女のひたむきな姿勢が見えるように思う。上方舞も伝統の維持・継承の必要性が唱えられているが、この芸能を担う次世代の人々には、そんな武原はんの人生論を学んで欲しいと思う。
 
棒の手・剣舞

「剣舞」は想像できると思うが、「棒の手」と聞いてどんなものがイメージされるだろう。正直なところ、耳にしたことも無かったので、どのように資料を集めたら良いのかも解らなかった。どうやら棒の手と剣舞の二つは伝承経路が異なり、分布が地域的に分かれているので、棒の手から順に採り上げるが、その実体を紐解く前に、武術について軽く触れておくことにする。
武術は明治時代末期、武道と名称変更したため、現在この2つはほぼ同義になり、相撲・柔道・空手道・合気道・水術・馬術・忍術など武器を使わないものも含めて40余り挙げられる。武術と区別するため、名称変更前のものは古武道・古武術・古流などと呼ばれ、現在のものは現代武道と呼ばれている。古武道は、武士が修得すべき武器・武術として中国から伝わった語「武芸十八般」により主に区分されており、弓術、(騎)馬術、槍術、剣術、柔術・和術、手裏剣、薙刀、棒術、杖術、鎖鎌術、組討術、水術(泳法)、十手術、鉄扇術、鉄鞭術、分銅鎖、居合・抜刀術、砲術、刺又術などがある。江戸時代以降の太平の世になり、実践から離れ、術として多くの流派が誕生し、武家の嗜み・一般市民の自警手段・捕り物道具(後に警視庁の正式科目に採用)として発展するなど、様々な伝播経路をとった。その中でも、農村・漁村で自警手段として用いられ、民俗芸能化して各地に伝承されているものが「棒の手」に代表される棒術の類である。
「棒の手(ぼうのて)」とは、剣術・棒術・薙刀術などの古武道から派生し、芸能化したものの一つと考えられ、祭礼の際に地域住民などにより披露されている。同様に古武道から派生したものが全国に散在しているのだが、「棒の手」の呼称を用いるのは愛知県周辺だけであり、他地域では(太)刀踊り・棒踊り・花取り踊り・太刀振りなど、全く別の名称になっている。よってこれらを総合的にまとめる呼称が確立していないため、「棒の手」としてまとめられるようだ。棒の手の系統の特徴は、基本的に6尺棒(182センチ)が用いられることであるが、3尺棒・槍・真剣・鎌を用いたり、扇を代用する地域もある。目的に多少の差異があるにしろ、いずれも祭礼での奉納踊りとして地域の住民・子供が踊る。以下にこの芸能の系統に入るものについて採り上げてみる。
「太刀踊り(たちおどり)」高知県の無形民俗文化財に指定されており、保存会も組織され、主に高知県西部から南予地方(愛媛県南部)に分布・伝承している。明確な起源は不明だが、平安時代頃、平家落人らが昔の栄華を偲びつつ、源平和平の祈願として踊ったのが始まりと伝えられるが、五穀豊穣・家内安全を祈り、秋の風物詩として定着している。
「棒踊り(ぼうおどり)」鹿児島を中心に、宮崎・熊本・沖縄及び諸島部に広く見られる民俗芸能で、六尺棒・三尺棒・尺棒(刀)・長刀・槍・鎌などを小道具として用いる場合もある。この地域のものは鹿児島から伝授されたとする記録が多い。護身術の1つであった武術が、江戸時代頃から五穀豊穣を願う伝統芸能として、唄に合わせて勇壮に踊るのが特徴で、田楽に近い。集落の事情により年齢は異なるが、男性のみで踊る。ホラ貝・ドラ・太鼓を連打するのは、音響効果を狙うものではなく、元来は悪霊を追い払うためだという。悪霊を払い、跳躍によって地霊を鎮めることで、大地を清めることが主な目的とされる。
「刀踊り(かたなおどり)・太刀振り(たちふり)・花取り踊り(はなとりおどり)」特定の地域独特の芸能というより、地域により名称の差異が生じて前述の太刀踊り・棒踊りが伝承されたようで、兵庫・京都辺りを中心として、広島・島根・富山・福井・和歌山・岡山などに広がり、飛んで青森などにも同様の名称が見られる。内容・主目的は前述の太刀踊り・棒踊りと同様のようだが、同じ地域に太刀踊りと花取り踊りが伝承されているものを見ると、踊り手の格好が華やかで、風流味がある。念仏踊りなどから派生したという見方もあることから、古武道の型は残しつつも、他芸能と融合し、より芸能化されたものであるといえる。
以上、太刀踊り・棒踊り・刀踊り・太刀振り・花取り踊りについて簡単に触れたが、各々地域性があるにしろ、流れとしては同じく古武道を元に、芸能化・祭礼化したものであるといえる。いずれも時期の前後などはあるにしても、経緯は近いものがあるので、以下、一つの流れとして「棒の手」の成立とそれに関わる神事について触れる。  
「棒の手」の原型である棒術は古武道の一つであり、その起源は棒という単純な武器である故によく解かっていないが、宗教祭礼で用いられた記録は古くからあるようだ。山伏修験の護身術・呪術あたりから発生し、中世期に実戦で槍先、薙刀先を折られた時、残りの柄で戦った事が発端となって術が編み出されたとのいわれが多い。こうして武技・戦技化した農民の自衛手段としての武術が、近世以降に五穀豊穣祈願のための寺社への奉納演技として神事芸能化し、発展したものと考えられている。古くから神社や寺の節句祭りに馬を奉納する祭礼「馬の塔(おまんと)」を警固する棒の手部隊がおり、奉納式典では棒の手の組み手が披露されたという記録がある。棒の手は馬の塔と併せて愛知県を代表する民俗芸能となり、流派と供に県内60カ所以上に継承されており、昔はそれ以上の非常に多くの地域に伝播していたと考えられている。その型は「表」「裏」併せて34手あるようだが、10数手のみを伝承している所が多いのは、巻物などの説明があっても、現在演技できなくなっている型なども多いからである。「裏」の型として鎖鎌などを伝える所もあるが、防衛のための型が多いのは、武器を禁じられた農民らの自衛として伝承されたこと、馬の塔の警固として発展した経緯によるものと考えられている。馬の塔という祭礼と密接であるため、以下に触れてみる。
馬の塔(おまんと)とは、「馬の頭」「御馬の塔」とも書き、江戸時代から五穀豊穣・雨乞いなどのお礼として、標具(だし)と呼ばれる札・御幣などの造り物を立て、美しい馬具で飾られた馬を1日だけ寺社に奉納するもので、尾張・西三河・東美濃地方の代表的な祭礼習俗の1つである。広義には、馬の塔・棒の手・鉄砲隊を合わせてオマントと呼ぶ。かつては、村内の神社に献馬する「郷祭」と、村々が連合し大きな社寺に献馬する「合宿」の2種類あり、合宿は5〜10年に一度、豊作の年に行われ、熱田・大須観音・尾張四観音(荒子・竜泉寺・笠寺・甚目寺)・猿投神社が有名だったが、現在はほとんど行われておらず、馬が山車に替えられたり、飾り物をつけた馬が走る馬駆け神事に変わるなど、地域により変容している。室町時代の1493年に行われた猿投山(豊田市宮口)の献馬の記録が史実上最古と考えられているから、500年もの間、連綿と受け継がれた歴史を持つ神事である。
馬の塔神事の時、献馬の護衛に当たったのが「棒の手」という警護隊だった。担い手は各々の村内の若者衆で、棒の手の流派の師匠に弟子入りし、棒から習い、一定のレベル・年齢になると「キレモノ」と呼ばれる槍・薙刀・鎌などを習う。武術として習得し、3〜6年位で、年齢・技量・人格が備わった者に奥義の口伝と、免許目録である免許皆伝の巻物を授与される。巻物と口伝を受け継ぐと「巻取衆」と呼ばれ、次代の師匠となるのだが、この巻物は門外不出とされ、寺社や堂宇に奉納されたりした。献馬奉納を行う者は心身を清潔にすべく清めを行い、奉納場所は塩で清めたり、汚れや邪気を祓う呪法を行った。近年の神事そのものの衰退により、昭和30年頃から各地で棒の手保存会が組織されている。
棒の手の流派はかつては尾張、三河、美濃一帯に数十余りあったといわれ、現在も10種以上の流派が伝承されており、著名な武家・武士を伝承上の創始者としている場合が多く、よって日本武術から発生したものとされている。大正・昭和時代の初めまで武術として稽古され、芸能化せず、ほぼ武術の流派そのままで伝わっているものもある。現在活動中のもので多い流派としては、鎌田流(かまだりゅう)・起倒流(きとうりゅう)・見当流(けんとうりゅう)・東軍流(とうぐんりゅう)・神影流・真影流(しんかげりゅう)・源氏天流(げんじてんりゅう)・検藤流(けんとうりゅう)などがあり、愛知県指定の14の保存会に入る代表的なものであり、集落の祭事・公の慶祝の日に棒の手を披露し続けている。  
さて棒の手はこの辺りで留め、もう一つの古武道の流れである剣舞(けんばい・けんぶ)について触れてゆくことにする。剣舞には2種類あり、1つは「棒の手」同様、郷土芸能になっている「鬼剣舞(おにけんばい)」と呼ばれるもので、もう一方は日本舞踊の1ジャンルになり、「吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)」「剣詩舞(けんしぶ)」と正式には呼ばれているものである。まずは本項の日本舞踊の流れに近い「剣詩舞」から触れてゆくことにする。
剣詩舞(けんしぶ)とは剣舞(けんぶ)と詩舞(しぶ)の総称である。漢詩・和歌などに節(旋律)を付けて詠う「吟詠・詩吟(ぎんえい・しぎん)」に合わせ、武士が詩情・詩心を剣を用いた舞で表現するものが「剣舞」で、刀の代わりに扇を用い、花鳥風月や人情を詩情豊かに舞うものが「詩舞」である。これら3つを日本伝統芸能の1ジャンルとして確立・発展させるため創立された流派連盟が、これらを総称して「吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)」と呼ぶようになった。剣を伴う舞は、奈良・平安時代からあったが、現代剣舞とは異なるものであったと考えられており、吟詠に合わせて舞う現代剣舞の歴史はまだ比較的浅く、明治維新の頃とされる。榊原健吉が「撃剣興行」を行った時の余興として「剣舞」を演じたことが始まりとされるが、現在は、「舞」である認識から舞台芸術として優れたものを目指すことが主眼となっている。主に日本刀を用いて舞うが、元来古武道から派生しているため、舞の中の刀法は居合道・古武道に従っており、真剣を使うこともあったが、現在は模擬刀を使用する。模擬刀は居合刀とも呼ばれ、刃金は入っていないが真剣と同じ造り・重量であるという。昨今はアルミ製の軽い模擬刀もあるようだ。剣舞の源である日本武術の鍛錬も重要視され、訓練する武術の流儀に拘りはなく、剣舞流派により異なる。大抵の場合、衣装は男性の着物、いわゆる紋付・袴であるが、詩吟の内容により、色目の違い、小道具である扇・日本刀・槍・薙刀などの違い、武装した格好(鉢巻・襷など)などと変化する。
演じられる舞台は、元来は様式美云々より、上方舞のような個人技としての「舞」に重点があり、無伴奏で吟じられた。吟詠の発祥に由来している故だが、吟詠が音楽として確立・発展するに伴い、必然的に楽器が求められ、尺八・筝・琵琶などの邦楽器による伴奏が付けられるようになった。今日は、洋楽器も含む多彩な楽器、シンセサイザーなども使用されている。近年になり、吟詠・剣舞・詩舞の総合的な舞台が多く企画され、台本を創り、演出を考え、音楽・照明・美術・衣装などのスタッフが付いた、いわゆるミュージカル仕立ての舞台が行われている。それにより群舞(ぐんぶ)による剣詩舞が多用されるようになった。剣詩舞はジャンルとして長い歴史を持たない分自由であり、発展性の高い芸能であるといえる。  
次に剣舞の郷土芸能としての流れである「剣舞(けんばい)」に入るが、同じ漢字を当てながら別の読み方をすることにより区別される。こちらは修験(山伏)場の中心であった東北の、岩手県から宮城県にかけて分布・発展したもので、前述の剣詩舞とは全く趣の異なるものであり、どちらかといえば先に述べた「棒の手」に近い芸能である。修験者が身を清めるために踊ったのがはじまりとされており、現在は国の重要無形民俗文化財の指定を受けるなど、芸能として保存・継承の動きがある。岩手県北上市周辺に伝えられる民俗芸能の一つ「鬼剣舞(おにけんばい)」は、剣舞のうち最も知名度が高く解かりやすいため、まずこれを取り上げる。
「鬼剣舞(おにけんばい)」岩手県北上市・胆沢郡胆沢町・胆沢郡衣川村に伝わり、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている民俗芸能で、鬼のような忿怒の形相の仮面を着けて踊ることからこの名が付いたが、角は無く、悪鬼を鎮める仏の化身だという。主として盆に新仏の家・墓・寺などで踊られてきたもので、亡魂鎮送を目的とする念仏踊りの一種とされ、衆生済度の念仏思想の影響を受けていることが解かるが、他に悪霊を踏み鎮める呪法の手として、宗教史・芸能史研究で注目されている地面を踏む所作「反閇(へんばい)」と関係するのではないかとの説や、芸能の徒の招宴の座敷での献盃からきたものとする説などもある。悪魔退散・衆生済度、五穀豊穣、祈願成就など、様々な目的で踊られてきたが、確かな史実は江戸時代の18世紀に行われていたことを示すものしか見つかっておらず、起源はそれ以上に時代を遡るものと考えられている。鳥獣の被毛などの頭飾りに忿怒面を着けた踊り手が、太鼓・笛・鉦などの囃子方・念仏歌に合わせて扇・アヤ竹・刀の採り物を手に踊るものである。演目は、全員での群舞、少人数での群舞、アクロバティックな演技を見せる余興的なものなど多彩であり、踊り・振りは極めて勇壮で力強く、激しい。伝承地により曲目・名称・演じ方などに特徴があるので、以下、北上市以外の剣舞の伝承について触れてみる。
「永井の大念仏剣舞(ながいのだいねんぶつけんばい)」岩手県紫波郡都南村永井に伝わる剣舞で、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。剣舞は芸態により、鬼剣舞・雛子剣舞・念仏剣舞・大念仏などと呼ばれているが、永井に伝承されているのは供養念仏の一種である大念仏剣舞である。大きな円形の台の中央に塔を付けた大笠を振るのが特色で、「南無阿弥陀仏」の名号を歌にして唱えるなど、風流芸としての念仏の特色が色濃く残り、念仏唄としても優れたものを継承しているため、資料価値が高い芸能とされる。
「川西の念仏剣舞(かわにしのねんぶつけんばい)」岩手県胆沢郡衣川村下衣川に伝わるもので、国の選択無形民俗文化財に指定されており、亡魂済度の色合いの濃い演出をとっている。毎年8月24日、中尊寺本堂前の施餓鬼で行われ、「大念仏」の演目の終末部で、念仏の功力によって亡者を成仏させる演技を見せる。「朴ノ木沢剣舞」にも「大念仏」の演目があるが、こちらでは讃め歌が歌われるのみである。「和賀地方の鬼剣舞」にはこの色合いが薄く、余興の曲芸的な演目が盛んである。「岩崎鬼剣舞」は、この地方の鬼剣舞の元祖であり、「滑田剣舞」は岩崎剣舞の指導を受けたものであるが、岩崎にはない神楽系の演目をもっている。
以上、主要なところを挙げてみたが、岩手県内には120余りの剣舞の伝承があり、岩手県の代表的な民俗芸能であることが確認できる。一様に当てはまる特徴を敢えて挙げるなら、ほとんど剣舞と名が付いていることと、催される時期として盂蘭盆会の時期が多いため、供養念仏の類が多いことであろう。また芸能祭の演目として各地域の剣舞が多く参加していることから、地域性の高さも伺える。
「北上みちのく芸能まつり」は岩手県北上市で催される東北最大規模の芸能の祭典で、岩手を中心に、東北地方各地の100以上の民俗芸能が集約され、3日間で堪能できるものである。鬼剣舞はメイン演目として数多く取り上げられ、現在伝承されている18演目全てが披露される。  
棒の手・剣舞について概要を並べてみたが、他の民俗芸能と異なる部分のキーワードは「風流化」である。観衆が集まるからこそ芸能の伝承が成り立つことは別の項でも述べたが、日本舞踊の様々なジャンルの中で、囃子方、いわゆる音楽を伴わないものは「棒の手」だけであるように思う。踊りの要素を持たないものが日本舞踊のジャンルに入ること自体がおかしいとも言えるのだが、棒の手と同じ系統の棒踊りなどは囃子方として唄が入る、いわゆる踊りであるのに対し、棒の手のほとんどは演技・実技と称されるように、型の披露である。芸能の風流化には派手な音楽や見た目上の華やかさが伴うものであるので、棒の手は風流化と無縁であったとも言えるが、観衆を魅了する別の要素があるからこそ、これまで存続してきたものとも思われる。
現代でも男の子はチャンバラごっこが好きであるが、剣詩舞などで女性の姿が目立つのを見ると、昔から女の子だってチャンバラが好きだったのではないかと思う。「棒の手」「鬼剣舞」は今のところ男性のみが継承できる芸能であるが、そのうち女性の姿も見られるようになるかも知れないとも思うのだが、男臭い古武道の流れを継いだ芸能であり続けて欲しいと筆者は願う。
 
講談

日本芸能の「講談(こうだん)」がどんなものかご存知だろうか?昨今では、触れたことがある人の方が珍しいかも知れない。落語・漫才などと共に「演芸」の1つとして扱われているが、これらの同じ話芸の中でも比較的影の薄い芸能となってしまったし、落語家志望者は耳にしても、講談師を目指す人の話はあまり聞かない。講談に関するものとして現在でも有名なのは、講談が大道芸として人気を博した頃に講談本が大流行した名残として、講談本の出版事業を中心に拡大・発展した日本最大の出版社「講談社」がある。前身は「大日本雄弁会」といい、東京帝国大学の弁論部の講演の演説集「雄弁」、講談を読物にした「講談倶楽部」を創刊したのが始まりだという。大衆小説の起源とも言われ、時の話題をいち早くキャッチし、講釈して興隆を極めた「講談」という芸能の栄枯盛衰を追ってみたい。  
「講談」を簡単に言い表すと、リズミカルな七五調で、語呂の良い言葉の羅列の合間に、張り扇(はりせん・はりおうぎ)で釈台をパンパンと調子良く叩き、武勇伝や人情物語などを語り聞かせる寄席演芸である。現代でも用いられる慣用句として「講釈師見てきたような嘘をつき」「講釈師扇で嘘を叩き出し」」「講釈師つかえた時に三つうつ」などもあり、嘘でも実しやかに本当のことと思わせるその話芸は、現代版スポーツ新聞の感覚に近い。そうは言っても魅力的…というのが講談であり、大衆メディアであるテレビ・ラジオの無かった時代には、各々の町に講釈の為の専用の場である「釈場」が設けられ、興隆を極めたという。まず講談の歴史として、芸能の成立期から入ってゆこうと思う。
講談成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」いずれの場合も「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接で、話芸という語の成立自体も明治時代に入ってからであり、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。話芸を生業とした職掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「風土記」の頃、各地の説話を口伝した語部(かたりべ)に始まり、室町時代に誕生した近侍の雑役・芸能僧である同朋衆(どうぼうしゅう)を経て、戦国時代の武士役職である御伽衆(おとぎしゅう)・御咄衆(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として見るならば、高座に座して巧妙な話の演出をする現在の形式は、仏教の説教(説経)師が創造し、継承・発展させたものとされている。できるだけ年代順に追いつつ、曖昧な部分は系統別に流れを見てゆくことにする。  
講談の前身である「講釈」と「講談」という名称は、日本の仏教界においては中世期頃から「説経(唱導)」の別称として盛んに用いられ、経典講釈を用いた説教教化の方法は、平安時代から鎌倉時代にかけて興隆したと言われる。その後、経典講釈系の「説経」と節談「説教」系が並行して進展するのだが、講談は「説経」の流れを汲み、他の話芸、落語や漫才などは「説教」の流れを汲んでいると言われる。いずれも目的は仏教の教えを一般民衆に解り易く説話形式にしたもので、僧体のみならず門付芸人なども普及の一手を担った。
同じく中世期、盲目の琵琶法師と同様「平家物語」「源平盛衰記」などを話して聞かせる「物語僧」と呼ばれる説経法師が登場し、後に南北朝の動乱を描いた「太平記」などの軍記物(戦記物語・軍談とも)を読む「太平記読み」が誕生する。太平記読みは江戸時代初期・慶長年間に、赤松法印が徳川家康の前で「太平記」などを読み聞かせたことが始まりと言われ、元禄年間の頃には庶民を相手に「町講釈」が誕生し、今日の講談に続いているという。
また戦国時代から江戸末期、主君に近侍して話し相手となった、武士役職である「御伽衆(おとぎしゅう)」が講談に繋がるとも言われている。「御咄衆(おはなししゅう)」とも呼ばれ、多くの戦国大名が御伽衆を置き、当初は戦陣の合間の慰め役として武辺話などを面白く語るものであったが、次第に領国経営など役立つ知識を有する古老・浪人などの任務となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇間のような存在になった。この武家出身の御伽衆の流れが講談師となり、町人出身の御伽衆の系列が落語家になったとも言われている。  
これらの流れを経て、江戸時代初期の大道芸の1つである「辻講釈(つじこうしゃく)」が誕生するが、これが寄席演芸としての講談の直接の原型と言われている。辻講釈は生活に窮する軍事学者・浪人らが「太平記読み」などを行い、流浪しつつ門付をして投銭を得たことが始まりだと言われているのだが、前述の「太平記読み」の流れを継承しており、軍記物・物語などを講義・解釈しつつ調子を付けて語るものなので、この「軍談読み」が登場したのは、新しい試みで生じたものではなく、旧来より存在した説経が変形・発展したものと考える方が自然の流れであると見られている。浅草に太平記場を設けた名和清左衛門や、堺町で軍談を講釈した赤松青竜軒などが江戸の講釈師として活躍していたとされ、名和清左衛門は辻講釈の祖ともいわれている。
江戸時代中期には、口演場所を固定した「町講釈(まちこうしゃく)」が登場し、宝永年間には公許の常設小屋で上演され「講釈」と呼ばれるようになるが、町講釈・辻講釈・野天講釈・夜講釈・座敷講釈など口演の場により名称を違えていた。文政年間には独りで口演する話芸として寄席演芸の1系統を確立し、台本を釈台に置き、張り扇を叩きつつ話す現在の形式が完成する。江戸・大坂などの中心街に設けられた釈場では、多くの講釈師を輩出し、宝井・貞山・神田・松林(しょうりん)・伊東・桃川・田辺などの流派が誕生した。話芸として登場人物の口調や読み分けなどの演出にも工夫がなされ、浪人出自の芸能であるため武勇伝・仇討ち・お家騒動・政談の類を得意としていたものが、庶民の生活を描いた、受けの良い「世話物」や巷のニュースを講釈するなど、題材的に多様化していった。文化・文政期から天保期の間は、「世話物」の全盛期となり、この流れを作った馬場文耕の功績は大きいのだが、彼は金森騒動(岐阜県郡上の百姓一揆・お家騒動)を「珍説森の雫」と題して講釈したため幕府の反逆者として処刑された。大塩平八郎の乱の後すぐに「大塩事件」を読んだ塚田太琉や、狂講を行った霊全や深井志道軒など、この時代には学識を持ち世情を批判するような、社会評論家とも言えるより庶民向けの講談師が多く登場した。入場料を取る「木戸銭」と呼ばれる制度を始めたのも講釈の寄席が最初だという。天保の改革で衰微を見せたが、江戸末期から明治時代にかけて講談は全盛期を迎え、話芸の中心的存在となって人気を博した。巷の事件・噂をいち早く採り入れて講釈したので、講釈の人気演目を参考に多くの歌舞伎・浄瑠璃などの作品が作られるなど他の芸能にも多大な影響を与えた。
明治時代以後、他の芸能との交流も進み、講釈は現在の名称である「講談」と呼ばれるようになった。明治維新の世相を反映した開化講談が行われたり、2代目・松林伯円と初代・桃川如燕(じょえん)は明治天皇の御前口演を行うなど、講談は更に興隆を見せる。講談速記本が大流行し、貸し本屋での人気商品に挙がるほどであったため、新聞・雑誌などにも連載されるようになった。速記本は後の大衆小説の起源ともなっているのだが、明治末期に立川文庫から出版された書き講談である「講談本」が多数世に出されたため、逆に講演の講談の方は蔭りを見せ始め、浪曲・漫才など人気大衆芸能の登場や大衆メディアの発達などの影響を受け、日陰を歩むことになった。いつの時代にあっても時に応じた題材が加えられ、そこから新しい演目が作られるという芸質は変わらないのだが、昨今のインターネットやサテライト放送などが持つ情報伝達の驚異的なスピードと伝達手段の手軽さに太刀打ちできる芸能は無いのかもしれない。
日本伝統芸能の流れとして、江戸時代頃までに成立したものは上方(京阪)を中心に誕生・発展したものが多いのだが、講談は江戸(東京)のイメージが強く、江戸で誕生・進展したものではあるが、担い手である講談師は江戸以外から移ってきた者が多い。明治時代の上方には講談師が大勢おり「釈場」も多数あったが、内容的には同じだが節が付された「浪曲」の登場や「講談本」(書き講談)が多数出版されるなど江戸と同様、急速に衰退し、戦前には3代目・旭堂南陵1人しかいない時期もあったようだ。講談の普及・理解への尽力により、現在では数十名の講談師が関西で活躍している。  
次に、講談の演目について触れてみる。多彩な題材から何でもありの話芸のように見えるかも知れないのだが、「軍談」「御記録物」「世話物」の3つに大別される。
軍談(ぐんだん)合戦など戦を題材にしたもので、軍記物から取材した「源平盛衰記」「太閤記」「三方ヶ原戦記」「太平記」等がある。
御記録物(おきろくもの)将軍家・大名家に伝わる記録・伝記を題材としたもの。講釈師は「俺は天下の御記録読みだ」と昔は威張っていたらしい。この変化形が「御家騒動物(おいえそうどうもの)」であり、「赤穂義士伝」「慶安太平記」「伊達評定」等がある。
世話物(せわもの)「生世話(きぜわ)」「準世話(じゅんせわ)」と2大別されるが、更に細分類すると以下のようになる。
白浪物(しらなみもの)泥棒物を題材としたもの。「石川五右衛門」「鼠小僧」等がある。
怪談物(かいぶつもの)お化け・幽霊の類が登場するもの。「四ツ谷怪談」が代表的である。。「四ツ谷怪談」が代表的である。
名人譚・出世譚(めいじんたん・しゅっせたん)世話物の王道で、浪曲では出世物と呼ばれる。「左甚五郎」「紀之国屋文左衛門」等がある。
侠客物(きょうかくもの)任侠・侠客・やくざ物を題材としたもの。「清水次郎長」「木津勘助」等がよく演じられ人気がある。
武芸物(ぶげいもの)連戦連勝・負け知らずの剣豪が主人公のもの。「宮本武藏」「荒木又右衛門」等がある。
お裁き物(おさばきもの)現在、時代劇として人気があるジャンルで「政談」とも呼ばれる。「大岡越前守」「水戸黄門漫遊記」が有名で、TVの長寿番組も元は講談種である。  
実際には上述の分類に全て区分される訳ではなく、2つのジャンルにかかる演目もあるし、「探偵講談」のように明治時代に作られた新しいジャンルや、現代の新作物の多くは上述のジャンルに当てはまらないものが多い。また講談は浪曲と同様の分類体系と言われているが、浪曲にある「ケレン物」と呼ばれる、滑稽物・お笑いのジャンルは無かったようだ。話芸として相互に影響し合ってきた講談・浪曲・落語・漫才などに共通して言えるのは、他芸のヒット作を移入し、自分の芸能舞台に作り変えてヒットを生む類が多いことである。しかし日本の伝統芸能として代表的な歌舞伎・能楽・文楽の間でも同様の移入作業が多く存在するので、大衆の要望・時流を汲み取り互いに凌ぎを削り合う大衆芸能にあっては、当然なのかもしれない。
次に、少し掘り下げて講談の内容と本質的な部分に入ることにする。
本来、講談は歴史的事件を中心とした題材に注釈を付け、一般民衆に読み語る話芸であり、創作性が濃い落語と違い、講談は史実に基づいた内容が中心であり、オチも付けない。しかし全体的に笑いを含んで演出し、講釈や講談の語のイメージよりは柔らかく、伝統芸能ではあるが旧態墨守でなく、基本を継承しながら時代に対応して変化するような、近年の新作物では特にそうした傾向がある。講釈の時代から続く「軍談」は、講談師が作り上げた特有のリズムを持ち、特に朗々と読み上げる合戦の場面は「修羅場(しゅらば)」と呼ばれており、その名の通りクライマックスを演出するため、講談師の呼吸・調子と張り扇の間合い・響きで全体を盛り上げる。修羅場は序・破・急の3つの呼吸があり、江戸時代中期の滋野瑞竜軒(しげのずいりゅうけん)が修羅場の名人として有名である。馬場文耕の弟子・森川馬谷が、定打ち(定席)の釈場を設けるとともに軍談・御家騒動物・世話物での3部立てを確立して以来、前座・中座(二つ目)・後座(真打ち)の順位が定まり、寄席演芸としての基礎ができ上がった。
講談が「前座見習い」「前座」「二つ目」「真打ち」と昇進していく序列社会があるのは落語などの寄席芸能に共通であり、舞台に立つのは前座から、高座に上がる時、入場テーマ曲である「出囃子」を持つことが出来るのは二つ目以上、トリの高座を務めることが出来るのは真打ちからと、制約がある。
前座名(名前)を師匠から貰い、楽屋入りするまでは「前座見習い」呼ばれ、講談師の卵として師匠宅に通って修業に励みつつ雑用をこなす。楽屋入り後は「前座」と呼ばれ、師匠の舞台の世話を担当したり、寄席の最初の一席を受け持ち舞台に上がることもある。近年は自動的に3〜5年程度すると二つ目に昇進し、二つ目になると番組表に名前が掲載され、独演会を開くことも出来る。次に真打昇進の際には真打披露目が行われ口上が述べられ、寄席では主任(トリ)を務めることが出来る資格を有するのだが、落語界同様、真打昇進が容易く、流派内の真打人数による優遇や競争があるなど、真打昇進制度に問題があるとの声もある。しかしながら女流や若手の開拓はどの流派においても講談という芸能を幅広く披露する上での客層開拓のためにも重要課題であることは事実であり、現在は女流講談師の割合も増え、明るい着物姿で華を添え、若手女流による新しいジャンルの新作講談など、新たな試みも目にするようになった。また題材を解り易く解説し、一般大衆の理解を深めるという講談ならではの芸質が再評価され、世界情勢・国際的事件・経営理論などの歴史以外の題材を採り上げ、社会評論的な講談の試みもなされている。  
前述のように、講談と落語は諸々似ている点が多く、相互に比較の対象となっているので、より馴染みやすい「落語」にも焦点を当て、違いがどこにあるのか探ってみることにする。
よく言われる簡単な違いは、「落語」が会話中心で成立する噺す・語る話芸であるのに対し、「講談」は情景描写が中心の、物語を読む話芸であるということである。「読む」と表現されるが単に朗読するのではなく、先に述べてきたような独特の語り調子と張り扇の音の響きとの調和で生まれるリズム感が醍醐味のものであり、この特色も含めて講談は落語より歴史が古いと言われている。また落語には特徴的な落ち(サゲ)があるが、講談には存在せず、落語では無名の登場人物(老若男女・動物)になりきって演じるが、講談にはそれがなく、登場人物は必ず固有名詞を持ち、ある程度有名な人物を採り上げる点に違いがある。演目を落語では出し物と呼び、講談では読み物と言うことや、落語では先輩のことを師匠と呼び、講談では先生と呼ぶことなど、まだ小さな違いは存在するだろうが、大体以上の点に要約できると思うのだが、これらに沿わないものも存在するので、昨今は分類が更に難しくなっているようだ。  
ここで観衆の目線からの講談について、少し触れておきたいと思う。基本的に講談は、大きな場所を要さず、座布団・釈台が置ければどこでも出来るし、寄席以外での講談の会など、料亭や小会場で行われる場合には、釈台・張り扇無しで口演することもあるようだ。基本的には、高座に置かれた「釈台」と称する小机の前に座り、張り扇で机をババンバンバンと叩いて調子を取りつつ、メリハリのある独特の調子で、語る(読む)芸能である。単純なものほど難しいとはよく言われるが、張り扇一つ取っても「張り扇三年」と言われるほど、上手く叩けるようになるには時間がかかるというし、張り扇は各々の講談師が扇を真ん中から二つ割りにして和紙で包む手作りだという。また右手に持つ張り扇以外に、左手にも扇を所持することになっているが、落語の見立てのように用途があって所持される訳ではない。とにかく講談はリズムが何より大切で、リズミカルな話芸の妙味で真実を語っているかのように思わせるものだが、「講釈師見てきたような嘘をつき」と言われるのは、語る内容は歴史的事実に基づいており、「あたかもその場で見ていたかのような」真に迫った表現をすることから、このような慣用句が生まれたものと思われる。現在、永谷演芸ホール・上野広小路亭、日本橋亭などで公演が行われているようだが、一番身近なのは、NHK子供向け教育TV番組「にほんごであそぼ」とか、「笑っていいとも!」ではないだろうか。いずれもレギュラーとして活躍中の講談師・3代目神田山陽さんの話芸が見られるので、興味があれば子供がいなくても見てみたらどうだろう。ちなみに「にほんごであそぼ」では、狂言師・浪曲師(浪花節)・浄瑠璃太夫なども出演し、独自の伝統芸能を判りやすく紹介している。
また講談の内容で言えば、「この紋所が目に入らぬか〜」のTVドラマ「水戸黄門」が身近であることは前述したが、水戸黄門の始まりは、江戸時代に「黄門漫遊記」の講談演目で人気を得たのが起源とされる。黄門様がスーパースター道を歩んでいるのと同様、大岡越前・国定忠治・柳生十兵衛・清水次郎長などの映画・TVのヒーロー達も講談から生まれた。講談が大衆娯楽として一世を風靡し、人々が歴史・物語の基礎的な教養を講談から形成した時代の名残であり、また今も昔も大衆のヒーロー観があまり変わっていないということだろう。  
最後に、講談界から初めて排出した重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝について触れる。講談自体も重要無形文化財の指定を受けているが、2002年、一龍斎貞水氏が講談師としては初の認定を受け、寄席の世界でも故・柳家小さん師・桂米朝師に次ぎ3人目の認定となった。「講談師夏はお化け冬は義士で飯を食い」という慣用句の通り、怪談物と軍談は講談の中でも重要と言われている演目だが、一龍斎貞水氏は怪談を演じさせたら当代随一とも言われているほど怪談話に秀で、「怪談の貞水」と呼ばれる。特に、特殊演出の効果を駆使し、高座もかなり飾り込む「立体怪談」は有名で、舞台から幽霊が客席に降りてくるなど、客席の恐怖は計り知れないものだ。講談高座発祥の地と言われる湯島天神で、彼が主催する「講談・湯島道場」という定期公演や、暑い夏に立体怪談が楽しめる「納涼ほらー演芸会」などが行われているそうなので、怪談話の最高峰に興味がある方は是非足を運んで体感して頂きたい。  
 
「舞う神」考 / 日韓民俗芸能比較研究(論文概要)

1 問題の所在
日本には八百万の神、韓国では八万八千の神がいるといわれている。もちろん、算術的な数ではなく、あらゆる物事には精霊が宿っているというアニミズムの思想から生じたことはいうまでもない。多神的な神観念をあらわしている。それらの神々は祭場でいかに表象されるのか。顕現される方式はあるだろう。もし決まった方式があるとしたら、如何なる方式であろうか。また、すべての神々は同じ顕現方式であらわれるのか。または神々によって異なるのか。
民俗芸能は民俗と芸能という二つの不相応な語が結合された用語である。民俗という用語に内在されている保守性と芸能と言う語が持つ瞬時性が不協和音的に出来た用語である。民俗芸能という用語が用い始まったのはそれ程古くないが、現在は根を降ろしつつある。民俗芸能の用語に内包されている矛盾こそ、民俗芸能の本質に迫るに違いないだろう。
民俗芸能の研究は国文学、歴史学、民俗学、宗教学、芸術学、などさまざまな分野の関心の対象になっているが、それを一つの学問としてとらえることが可能であろうか。本稿はその一つの方法として演劇学として捉えようとしている。言い換えれば演劇人類学とでもいえるだろう。演劇の概念を捉える場合、大きく二つの方向がある。一つは、演劇は西洋の演劇の概念として、二つの物事の戦い、即ち葛藤の構造で捉えようとする概念である。二人の人物が戦い、葛藤する人間を描き出すのが演劇の本質とも言われている。近現代に入るとそれが心理的な葛藤の方に移される傾向が見られる。もう一つの演劇の捉え方は内容というよりは、役者がある役柄に扮するというところに焦点を当てた概念である。アフリカなどの祭りや、東洋における祭儀などにおいて、扮するという行為を演劇として捉えようとする流れである。祭儀を司る者が神霊に扮して、神霊の役割を演じることを広義の演劇として捉えようとする動きである。勿論、祭儀に行われる善神と悪神の戦いを見せる部面も少なくないが、むしろ、その善神、悪神に扮するところに演劇としての性格が強調されるのである。演劇という近代以後の用語をもってその以前のものを定義および位置づけようとする自体は、無理が生じる可能性を排除できないし、それほど意義あるとは思えない。しかし、そのよう作業は、日本と韓国をはじめアジア諸国の芸能研究において新たな展開が期待されるのも否定できない。
日本と韓国の民俗事情(芸能)を同一線上に置き、演劇という概念で捉えようとするのが本稿の趣旨である。民俗芸能研究が事例報告の枠を超えにくい側面があったためか、今日においてもその傾向からそれほど脱していないのも事実であろう。演劇の方面から民俗芸能へのアプローチ、即ち、日本の神楽と韓国の巫俗儀礼のなかで見られる芸能的な要素を取り上げ、それを演劇学の方面からアプローチし、芸能の本質論を試みるのが本稿の狙いである。 
2 研究方法
芸能は瞬間に消えてゆく時空間的に制限されるので、実際具体的な芸態を文献から掘り出すには限界がある。そこで芸能史は民俗学にならなければいけないという考え方が生れてくるのである。
芸能史研究では、芸態に関する文献が少ない分野に民俗芸能を説得力ある資料として採用している。また逆に、地方伝承に関する研究では、中央に残された文献資料を使ってその伝播や変容の歴史を具体的に明らかにする方法がとられている。しかし、芸能の研究は芸態から始まらないとその姿がみえない。単なる並列式の記述に過ぎなくなる。民俗芸能研究は現在生きている共時的な民俗事象を歴史の通時的なものとして捉えることにして、文献資料をそれに補う方法が最も望ましい。しかし、筆者にとっては、多く報告されている資料を読み、理解することが限界にあるということを認めざるをえない。
本稿は今までに報告された資料を中心にして、確認が必要な場合のみ、フィールドワークという方法を選ぶことにした。本稿で、使われている資料は殆ど、先学が既に整理したものを利用する。韓国の資料についても、多少のフィールドワークしたものを加えたが、基本的にはすでに調査された報告を利用することにとどめている。筆者の能力の限界もあるが、既存の報告を利用することによってより客観性を求める狙いがあったからである。
ここで、一つ断っておきたいのは、日本と韓国の民俗芸能資料を区分しないで使うことである。民俗というコンテキストのなかで育まれた多種多様な芸能は深い信仰を背景にしている。芸能というのは常により新しく、より珍しいものを取り入れ、見物人に見せるという行為に他ならない。しかし、信仰を基底にしている点で、民俗芸能はそれ程変わりなく、保守性を保ってきたといえる。日本と同じように、韓国も西洋の風にさらされて、伝統文化が崩れ落ちて、わずかにその形骸がのこされている状況に置かれている。韓国の民俗、韓国の文化を探るには、日本のそれが大変参考になるに違いない。日本においてもその事情は変わりがないと思われる。拙稿は以上のような理由で、日本の民俗芸能と韓国の民俗芸能を同一線上で扱うことにしたのである。勿論、両国は歴史が異なり、地理的な環境も異なるので、民俗というコンテキストの中でも詳細な部分に入ると相異面も多い。拙稿は文化の源流を求めるための比較ではなく、両国の民俗事象から共通の思想を探りだし、両国の民俗芸能に見られる共通性を求めることによって、今まで曖昧、不明になっている民俗芸能の事象がよりはっきり見えるのではないかという意味での比較研究である。
民俗芸能は長い年月の流れの中でさまざまな要素が積み重なって成立されている。その本来の姿をさぐるのは相当至難である。民俗芸能が信仰を基礎にして伝承されているので、その信仰性の働きによって、出来る限り過去のままを伝承しなければいけないという保守的な思想が込められている。しかし、世の中のすべてが時代によって変わってきたように民俗芸能も変遷してきたことは言うまでもない。しかし、何処まで変わって何処が昔のまま伝承されているかを穿鑿するのは大変難しい。同一の芸能のなかでも、たやすく変わる部分と、そうではなく根強く生き残っている部分がある。しかし、時代的、社会政治的変化、伝承者の思想等の様々な要因によって、さらには偶然によって変わることも多い。必ずしも、規則的な変化の基準があるわけではないので、民俗芸能の時代的穿鑿が推測、あるいは直感がはさまれる余地が生じる。その働きが重要な役割を果たすのも、時代と時代の繋ぎを償う有効な手がかりになることは否めない。また、民俗芸能は人間が作り上げた所産であり、時代の積み重ねで出来あがったものなので、ある時は物理的な資料よりは、人間の直感あるいは、想像力が大きな働きを果たしてきたことも無視できないだろう。本稿ではその直感あるいは、想像力に頼る部分も少なくない。それらの実証的な裏付は今後の課題にしたい。本論に入る前にタイトルの「舞う神考」の「舞」について一言断って置く。本稿での「舞う」ということは、舞、踊、ダンス等の「舞」ではなく、見えない存在が具体的に表現されるあらゆる所作を「舞」という言葉で捉えている。
祭りに登場する多種多様な神々の中では、舞う神と舞わぬ神が並存する。祭儀と芸能が混合している民俗芸能を「舞う」という行為をもって分析する。それを土台にして、日韓の民俗芸能をはじめ、アジア諸国の芸能(演劇)への拡がりを期待したい。 
3 本論 
第一章 芸能から祭儀へ
本稿で用いる用語の概念を整理した上で、「祭儀から芸能へ」と言説を裏付ける事例として、「言霊信仰から祝詞へ」、「翁から神へ」について述べてから、最後には近代になって制作され広まった「浦安の舞」の民俗芸能化への路を辿ってみた。
祭儀から芸能へとう言説に対して芸能の祭儀化という過程を想定することができる。祭儀には複雑多様な所作が使われている。その構成要素が祭儀に効果を発揮するためには、それなりの意味付与が前提される。人間が普段用いている言葉を祭儀にも使われているが、普段の言葉そのままではない。その言葉に祭儀の要素として相応しい意味や価値を付与することによって、初めて力を発揮する祭儀の言葉になる。その一つが祝詞である。言霊信仰というのも、言葉が生まれる以前に言霊信仰があったわけではなく、言葉に価値や意味(力)を付与することによってこそ、はじめて言霊という思想が生じたと考えられる。
祭儀という複雑な様式が生まれる前には心理的な祈りがあり、単なる祈りに芸能的な要素が加わることによって祭儀へ発展していくという過程が想定できる。
その思想を最もよく現われているのが日本の能楽である。能勢朝次、林屋辰三郎などの先学は猿楽の根本を呪師の芸から捉えている。宗教的な祭儀から芸能への変遷という進化論的な立場をとっている。猿楽(さるごう)は散楽(さんがく)から由来したと云われている。散楽というのは周知のとおり、中国の散楽百戯に根拠をもつのである。中国の散楽百戯は滑稽的な物まねや、曲芸的なものを見せる所謂、見世物風の芸能であったのである。散楽は宗教性よりはむしろ娯楽的、見世物的なものであったが、日本に入って、日本の社会に応じて貴族社会から武士社会に変わりつつあった時代に沿って儀式化になるのである。日本の全国津々浦々に行なわれている所謂民俗芸能には古風な翁芸が見られる。一律的に言えないほどバリエーションが富む。又、人形浄瑠璃や、歌舞伎に採り入れて娯楽性を強調しながらも、初舞台や顔見世狂言などには儀式めいた三番叟が登場するのである。それを祭儀とは言えないとしても、儀式性が強調されているのは否定できない。そのような要素が取り込んだのは芸能の担い手(座)の思惑も働いたと思われるが、興行毎に繰り返すことによって、儀式化への道を歩んできたのである。地方の祭儀になると、翁三番叟が取り込まれ、祭儀の一部にもなってくる。祭儀と儀式を混同してはいけないが、単なる娯楽性のみを追求したわけではないのは確かである。
各芸能に式三番という仕組みが取り込まれている場合が多い。式三番は芸能の一部を儀式化させたものである。式三番は能の式三番に限らないが、芸能と祭儀、儀式という本質的なものを問われるに最も相応しい対象になると思われる。「祭儀から芸能へ」ではなく、その逆の「芸能から祭儀へ」という言説が成り立つのである。小論の最後には近代に入ったから制作された創作舞が民俗芸能化への過程を辿ってみた。「浦安の舞」は昭和一五年「紀元二千六百年奉祝式典」の一環として、当時内閣から依頼された多忠朝が作曲、振付して作った雅楽風の「女舞」である。雅楽というのも本来は中国大陸から伝えられたもので、最初から日本の試楽として定着したわけではない。それに試楽として、価値を付与し、それに相応しく編成したと思われる。また、周期的に反復することによって、儀式として定着されるようになったに違いない。「浦安の舞」は最初から儀式用として作られたが、激変する時代とともに一時は中止、廃止され、再び儀式化、祭儀化の路を歩みつつある。今日日本全国で多く見られる民俗芸能、神事芸能と称されるものには、時代的な偏差があるものの、「浦安の舞」が神事舞に定着する経路から、神事芸能の本質的な側面を照らし出してくれるだろう。 
第二章 韓国巫覡儀礼から見た宮廷の御神楽―園・韓神祭と鎮魂祭を中心に―
神楽の原型といわれる宮廷の御神楽の成立に重要な影響を与えたという園韓神祭と鎮魂祭を韓国の巫俗儀礼の視点から儀礼の次第の意味を再解釈してみた。宮廷の御神楽は大嘗祭における清署堂の御神楽(琴歌神宴)、賀茂臨時祭の還立の御神楽、鎮魂祭、平安宮の中に祭られる園韓神を祭る園韓神祭など、さまざまな要素が統合整理され、今日にいたっている。恒例化される(承保年間(一〇七四〜七七)以前には琴歌神宴や還立の御神楽の言葉が示すように、祭儀の後に行われる宴の性格があることから「宴から祭儀へ」という意味で第一部に位置付けた。
日本全国各地に行なわれる神楽の原型といわれる宮廷の御神楽は先行神事からさまざまな要素が取り入れられて成立した。
御神楽の先行神事として園韓神祭と鎮魂祭がある。いままで文献資料を通して神事個々については多くの研究がなされているが、それを統合的に研究する見方はあまり見えない。新嘗祭(大嘗祭)を中心にその前後に行なわれる神事を大きな枠組みのなかで捉えてみると、新たな側面が浮かびあがってくると思われる。即ち、一一月一一月中の丑の日には園并韓神祭が、翌日の寅の日は鎮魂祭が、新嘗祭は卯の日に、それから直会の性格をもつ清暑堂の琴歌神宴は 辰(巳)の日に行なわれたのである。そのなかで、園韓神祭は地主神である土地神への祭りであり、鎮魂祭は天皇の祖先祭の性格が強い。とくに園韓神祭は渡来人(特に秦氏)が祀ったといわれることと絡んで韓国の巫俗儀礼と『儀式』に記されている園韓神祭の様子を対照してみた。
園韓神祭は祭場清めをはじめ、土地神を祀る祭儀である。鎮魂祭はいままで、タマフリ説、タマシズメ説がなされているが、鎮魂祭はタマフリ説よりはタマシズメの説がより説得力あることを天皇の祖先祭的な特性から捉えた。鎮魂の対象である魂は天皇の魂ではなく、他者の魂、即ち、天皇の祖先霊であることである。鎮魂祭で最も注目すべき点は、御巫(みかむなぎ)が手にして振る御衣のことである。その御衣は今まで天皇の御衣とされてきたが、御衣が天皇の衣服ではなく、天皇の祖先の装束として解釈すると鎮魂祭の真意がよりはっきり見える。
韓国の東海岸別神グッの構造をみると、まず村の守護神であるゴルメゲ神に告げる次第があり、次には必ず、祖先神を祭る祭儀がある。それから、最後に宴のようににぎやかな踊りが行なわれる。韓国の巫俗儀礼では、地主神祭、祖先祭などは独立されることなく、村祭りの中で一つの次第(演目)として位置づけられているに対して、日本の園韓神祭、鎮魂祭などは、国家的な行事であるだけに、園韓神祭、鎮魂祭のように独立された名称で行なわれたとも考えられる。 
第三章 神霊の顕現の方式 ―神がかりを中心に―
神がかりを「巫者による神がかり」、「修験道の神がかり」、それから「神楽の神がかり」に分けて神がかりの諸相を述べた。いままで、神がかりを言及するときは巫女の本領として扱われ、巫女の神がかりだけが注目されてきた傾向があり、修験道や神楽の神がかりを扱うときは巫女の神がかりを抜きにする傾向がある。小論ではそれらの神がかり現象を出来る限り多く取り上げ、神がかり(憑依)する神を「舞わぬ神」として分類した。神がかりは託宣を得るのが主な目的ではあろうが、必ずしも託宣が行なわれたわけではない。見えない存在を認識させるための様々な工夫がなされる。その一つがカミミチである。神がかりに伴う「舞」は神の舞ではなく、神がかり前段階としての人間の舞である。尊位神に対しては、具体的表現すること自体を控える趣旨があり、表象されると神の尊貴さがなくなると考えたのである。尊位神の姿を直接見せる代わりに、降臨するカミミチという装置が考案されたのである。
現在、神がかりという現象はほとんど見られなくなった。それは明治時代に出された神職演舞禁止令や神がかり禁止令による影響が多いと思われるが、わずかながら神がかりの名を残している。祭儀を行なう根本的な目的は、人間の能力では及ばないことを神に願いたてることにほかならない。神霊の意向をうかがうもっとも具体的方法は神がかりという方法であろう。祭儀には善神、悪神関係なく、さまざまな神霊が登場する。祭儀の目的によって祀られる主神も異なる。神が祭儀に登場して見せかけるというシステムには、祭儀における神の職能や高低によって異なる。神がかり・託宣は祭儀において、もっとも重視
される重大な役割を果たしている。多種多様な神霊のなかでも、神がかりという方法で表象される神は、祭儀の目的にもっとも相応しい、しかももっとも中心的な存在である。
イタコの口寄せは仏降ろしの口寄せが中心になっている。すなわち、口寄せを神がかりの一種として考える場合、死者の霊を呼び出し、託宣(口寄せ)を得るのが目的である。依頼者がもっとも願いたがる託宣(口寄せ)の主体は、依頼者と深い関わりを持つ親近者の霊である。すなわち、明確に特定された存在である。
集団的な儀礼でイザイホウにおいては、神がかりの主体である神が個人儀礼のように明確ではない。いかなる神であったかはっきりしない。イザイホウにおける神がかりは特定の神というより、神がかり自体が重要な意味を持つと思われる。七つ橋という装置は日常世界と異なる非日常的な空間を醸し出すために必要な装置である。
修験道の神がかりにおいても、個人儀礼である「引座」では託宣の内容などで、特定の神霊であることが示されているが、集団祭儀である護法祭りでは走り回る護法実の行動によって、祭り参加した集団全体に神の存在を確認させる装置にほかならない。
神楽の神がかりにおいても蛇綱、天蓋、布舞など、カミミチともいえる具体的な装置が重要な機能を果たしている。すなわち、見えない存在である神霊が降臨する装置を通してより具体的に表象する必要があったと思われる。その装置の一つがカミミチである。
東北のイタコの口寄せ(死口)や、修験者の「引座」などは個人的な儀礼であるので、具体的に明確な存在が神がかりの対象になる。一方、護法祭や神楽などの共同祭の場合、多種多様な神霊が祭りの対象にはなるが、神がかりになると、当行事のもっとも中心的な神がその対象になる。神がかりは対象になる神霊が尊位の神でもあり、特殊な緊張感があるので、厳格なタブーとともに厳かに行なわれるが常である。滑稽や物まねなど、笑いが伴う芸能とは程遠いという事実も確かである。 
第四章 葬送儀礼における芸能の諸相
日韓両国の神観念を探る方法として、また神楽の鎮魂の問題と絡んでいる神格化の前段階ともいえる死霊と関わる芸能について言及する。鎮魂の概念をより明らかにするつもりで葬送儀礼とそれと関わる芸能をとりあげた。韓国の巫俗儀礼、特に死霊祭を中心に神々の顕現方式を捉え、さらに神楽と葬送儀礼の関連性を用いられる小道具をとおして述べた。
不安定な死霊を安定した霊界に送る儀式が葬送儀礼であると思われる。葬式が終わった後でも、三年忌、七年忌、一三年忌などのように安定装置を用意するのである。その安定装置の効果を高めるために、さまざまな行事を行ない、芸能が披露されるのである。死霊も神霊も人間と同じく、人間が楽しむ歌や舞を好むと考えられたからであろう。
死霊に対して行なわれる神楽を葬式神楽と霊祭神楽に仮に分けて整理してみた。死後三年、五年など年忌に行なわれる霊祭神楽はいうまでもなく、死の直後、即ち、埋葬の前に行なわれる葬式神楽にも、死者を再生させようとする神楽は殆ど見られない。死霊に様々な供物や芸能をもって和らげ鎮魂させるとこに主な目的があったと思われる。葬送儀礼における芸能の機能を考えると、葬儀そのものは勿論、それに添える芸能(神楽など)の機能もはっきり見えてくると思われる。 
第五章 神の表象―カミミチを中心に―
神の顕現方式のなかで、特に神が外から訪れる神の降臨がいかに具体的に表象されているかを人類学的用語である境界の概念を持ち出して、「演じる」というシステムを境界として捉え、祭場で見られるカミミチの境界性について述べた。第三章でカミミチの形を幾つかの例を取り上げてみてきたが、見えない神霊の存在を感知するためには神霊の顕現を示す仕組みが必要になってくる。神霊が降臨するカミミチによって間接的に神霊の存在を認識したのである。カミミチは神霊そのものではなく、顕現の過程に相当する。神面を付けることを神への変身として捉えた場合、カミミチは仮面を付ける過程に相当する。カミミチは神霊の仮面を付ける過程を見せる仕組みと同一な発想に違いない。
能において翁面を観客が見ている舞台の上でつけること以外にも、境界的、二重的構造は日本芸能に於いて甚だ多い。仮面劇の登場人物は仮面を被って登場するのが一般的であるが、能の場合同じ舞台に仮面を被った役者と直面で登場する役者が同時に登場することも両世界の境界的な領域をみせる一つの例である。歌舞伎に於いても役者が派手な化粧や衣装をつけて花道から登場すると、客席から叫び声が飛ぶ。その叫び声は役柄の名前ではなく、役者の屋号である。則ち観客は役柄を観るのではなく、役者を観ていることになる。歌舞伎の内容よりは役者が如何に役柄を見せてくれるかに関心を高めているのである。文楽で出語りといって、語り手が顔を見せること、そして、人形の主遣いが顔を観客に見せることも境界がいかに重要視されてきたかを垣間見ることができる。このような発想は劇の世界と日常の世界を同時にみせる、またはその境界領域を見せるところに要点が置かれている。変身というのはさまざまの形で行なわれるが、その変身の結果よりは変身の過程をみせるところに日本芸能の本領がある。道行のみならず、神事芸能に見られるカミミチは「どっちつかず」の境界的な領域で、不安定な緊張感が生じる。「演じる」という変身のシステム、則ち役者の身体と役柄の身体との境界領域を観せることによって、西洋のリアルリズムの演技とは異なる日本演劇の独特な緊張感をもたらす演技になってきたのではないだろうか。カミミチは神霊の顕現を見せる装置でありながら、日本演劇において「演じる」というシステムから境界性を見出すことができる。 
第六章 殺される神考―三番叟の思想的背景を探る―
能の翁三番叟のなかで、特に民俗的な広がりを見せてくれる三番叟の一側面を述べる。鈴を持って激しい舞を披露するところから巫女の面影を見ることができる。多少大胆な発想であるが、三番叟に纏わる様々な側面の中で幾つかを整理してみる。
第一、農耕儀礼的要素を田植、田の神と山の神などが直接には関係ないにしても、なんらかの形で三番叟という芸能を生み、育ててきたことである。第二、三番叟は勿論、農耕儀礼には神の死、特に女神の死の思想が潜んでいることである。死は豊饒をもたらす契機になる。ハイヌヴェレ神話群と呼ばれる死体化成型説話は『記紀』の倉稲魂命や保食命の神話にも見られる。
関東一帯の神楽(里神楽)に黒尉面の三番叟面を保食命と名づけているのは単なる偶然ではないだろう。第三、三番叟にまつわる醜いイメージである。白の翁に比べて三番叟は黒であり、今日の左右均衡の三番叟面に定まる前には滑稽的な歪んだ仮面が多い。歪んだ仮面は神がかりした瞬間の表情を表すという。神がかりする巫女の性格がうかがわれる。また、醜いというイメージのなかでは、身体障害者として一生を送った人々の死霊、精霊の属性がある。正式的に迎えられた尊い神とは違って、祭りの最後について来た招かれない精霊のイメージである。その精霊達が自ら訪れて祭り場で遊ぶのである。厳格な神事とはほど遠い、笑いを伴う遊び戯れる精霊こそ、祭儀に芸能が芽生える契機になる。精霊を遊ばせることは一種の鎮魂作法でもあったと思われる。以上のような側面を持った三番叟だからこそ、翁に比して歌舞伎や人形浄瑠璃、民俗芸能で贔屓を受けたに違いないだろう。 
第七章 尻振り舞考
具体的に表象される神霊の姿を「尻振り舞」という芸態をとりあげた。「尻振り舞」は民俗芸能の現場でそのような名称があるのではなく、尻を振る所作が見られる舞をさす。「尻振り舞」が見られる民俗芸能として、まず韓国の仮面戯の最終場で登場するミヤル(姥)の所作があげられる。日本では新野雪祭りの「神婆」、佐渡の「つぶろさし」、岩手県宮古の黒森神楽の「三番叟」などがある。それ程多くはない。「尻振り舞」は尻を振る卑猥な動作と考え、精緻な報告の中でも、省いたり漏れたりする場合が多かったと思われる。むしろこのようなささやかな所作こそ、薄れつつも途絶えることなく続けられてきたのではなかろうか。
韓国の仮面戯のミヤル(姥)の場面が単純に零落れた人間とその社会を描いた社会劇として扱われてきたものが、「尻振り舞」という芸態を通して日本のそれと比較してみると、鎮魂という信仰と深く結びついていることが新たに見えてくる。さらに、韓国仮面戯の起源と歴史についても考え直さなければならない。両国の尻振り舞がどのような過程を辿って今日に至ったのか。まだ報告されてない、または報告から抜かれた可能性も排除できない現時点で両国の「尻振り舞」を直接結びつけるのは危うい。しかし、歴史的、文化的隣接する両国の民俗事象を考え合わせた上で、共時的、通時的に比較研究することによって、両国の民俗芸能において新たな事実が明らかになることが期待される。 
第八章 舞う神と舞わぬ神
日本の霜月神楽と韓国の巫俗儀礼の二元的な構造を検討し、神がかりに登場する尊位神よりは、悪霊、精霊、デモンなど、いわゆる招かれぬ神がむしろ、芸能の中心的な存在であることを指摘した。即ち、祭儀の主な対象になる尊位的な神は具体的に表現されない傾向がある反面、その眷属神、職能神など下級神は仮面や寸劇などを通して具体的に表象される傾向が見られる。三信遠地方の霜月神楽である遠山祭りと坂部冬祭りの神霊は、祭り前半部の湯立ての対象である神々と、後半部の仮面(面形)の霊に分類することが出来る。前者は「舞わぬ神」、後者は「舞う神」である。そのような構造は韓国の巫俗儀礼も同様である。前半部の尊位神に対する神事と、後半部は神霊が自ら登場して遊ぶという、所謂祭儀と芸能の二元性を見ることができる。 
第九章 舞う者と舞わせる者―韓国の巫俗儀礼の男巫(ファレンイ)を中心に―
尊貴な神々は神がかりやそれに準じる方式で厳かに行われるが、それは主に、専門的な宗教者(神主、巫女)などによって執行される。一方、眷属神、下級神、または招かれぬ神々は、主神に比べて非専門職の役目になる。祭儀の主神は神がかり、または、人間側からの一方的な祈りで、人間の手が届かない所に存在するという傾向と一致している。下級神は人間の世界におりて、人間とのやり取りが行われるなど、人間臭い、人間に親しい存在として登場するのである。特に韓国の法者ともいえる男巫(ファレンイ(花郎)、法師)の個人的なライフストーリーを含めて、実際、巫儀の現場での役割について述べ、祭場における芸能は主に彼らによって行われる傾向を指摘した。 
第十章 モドキと両部制
日本芸能の原理とも言われるモドキ論についてのべた。日本の民俗芸能に見られる対照的な両部体制を、主役とモドキの構造と対比検討した。民俗芸能で見られるモドキを真似するモドキ、道化役としてのモドキ、ワキとしてのモドキに分け、その諸相を概観し、韓国の巫俗儀礼に見られるモドキ的な要素と比較検討してみた。モドキは日本芸能に限らず、より普遍性を獲得する可能性が予測される。
祭儀を分かりやすく再解釈するモドキの役割を、滑稽な笑いを伴う道化役が、規範(本物:シテ)の高貴性に対して狂言風のワキが担ってきた。祭儀において最も肝心な部分はシテに任せて、それを批判したり、新たに解説したりするワキとしてのモドキは舞う者(シテ)に対する舞わせる者(ワキ)として捉えることができる。最後には新野雪祭りや、西浦田楽などに見られるモドキを舞楽の番舞体制と対比させ、民俗芸能に見られる対立的な両部体制は民俗的な左右の優劣の思想とともに、番舞との相互影響可能性について問題提起した。 
4 結論
日本の神霊は山の神、田の神、雷神、雨神、風神などの自然の神をはじめ、家には家の神、台所には竈の神、または三宝荒神、道には道祖神、歴史的な人物が神化された人格神、など、人間の生活に関わる様々な神霊が存在する。韓国の場合も水の神(竜神)、山神、雷神、雨神、風神などの自然神、林慶業、崔蛍、などの歴史的な人物が神格化された人格神がおり、殆ど日本の神霊の分類と変わらない。そのように様々な神霊の世界にも位の高低があって、尊い神がある反面、そうでもない霊が存在する。善の神は神として、悪の神は神ではなく悪霊として扱われているのも周知のとおりである。両国の神霊はキリスト教の絶対的な能力を持つ全知全能の唯一神ではない。「八百万の神」、「八万八千の神」というように多神的な神観を示している。神霊の世界においても霊力の高低があり、尊い神と低い神が存在し、その扱いもさまざまである。それが多種多様な祭りの方法が生んだ原因になるのである。その意味で祭りは極めて文化的であり、信仰や思想の鏡とも言えるだろう。
民俗芸能を行為の主催によって分類することができる。人間の立場で神に奉納する人間側の芸と、神霊の立場で神霊の行為として行なわれる芸に分けられる。
神霊を類型化してみると、神がかりする神と、舞う神とは対照的である。即ち、神がかりする神は、本祭の中心的な存在であるが、舞う神は主神の従属された職能神や眷属神、または、祭りに招かれぬ神、すなわち、精霊たちである。それは日本の神楽においても、韓国のグッにおいても同じ現象が見られる。
神がかりが行なわれる神は祭儀において中心的な神霊たちであり、尊い存在である。しかし、その一方、仮面が登場して、具体的に神の行動を見せるのは中心的な神霊ではなく、周辺的な神霊であり、神霊の世界の中で低級な神霊たちである。それには神事と芸能という大きな枠組と関わっている。
また、神霊によって、祭る担い手が異なる傾向が見られる。韓国の別神グッにおいて、神がかりする尊い神は巫儀に主な担い手である巫女によって行なわれるが、鎮めるべき存在などにおいては巫女というよりは、巫女の補助者でもある助巫、または法師たちである。別神グッではファレンイ(ヤンズンとも)と称される男巫である。
尊位神に対しては神がかりとともに、人間側から一方的な拝み、舞(芸能)を奉納することになるが、眷属神や職能神は自ら登場して人間側に働きかけるのである。さらに、怨念を持った死霊や、招かれぬ精霊達はただ追い払われるのではなく、精霊たち自らが登場して遊ぶことによって鎮魂されるのである。以上のような基本的な民俗的な思想を背景にして祭りの場に様々な芸能が披露されたと思われる。神霊が自ら遊ぶという思想が具体的に表象されるところで、祭儀と芸能のアンバランス的な造語である民俗芸能の姿を捉えることができる。「舞う神、舞わぬ神」の「舞う」と「舞う者と舞わせる者」の「舞う」は釣り合わない矛盾性がある。その矛盾性こそ民俗芸能の本質があるのではないだろうか。
 
尻振り舞

民俗芸能は身体表現として、他の芸能と同じょうに時空間的な制限という性格により、行なわれた瞬間に消え去る。しかし、民俗芸能が身体表現のもつ這性という属性をもっているにも拘らず、長らく伝承され続けてきたのは信仰が伴っていることに深く関わっているからであろう。民俗芸能の名目で行なわれている身体的表現は時間無き空間、或いは空間の時間化とも言える特性を持っている。
過去の芸能の資料が残っているとしても、細かい芸管で記されているのは稀少である。映像記録の手段がかなり進んだ今日においても、芸能を完壁に記録するということはある柔では最初から無理かも知れない。同時多発的に行なわれる身体表現としての芸能を、いかに記録するかの技術にも関わるが、その制限を認めざるをえない。
本稿では日本の民俗芸能の中で、尻を振るという芸態がいかなる位置を示しているかを考えて見たい。これまでの民俗芸能の調査報告は相当な量に及び、細かい所まで精緻に報告されているが、尻を振るという所作まで記録されている例はあまり見かけない。民俗芸能の中で類感呪術として性的なものは広く見ることも可能であり、研究対象として取り扱われている(注1)が、尻(腰)を振るというささやかな所作はそれほど多くはないようである。尻を振る芸態の蓑を探りつつ、その嘉で三番叟の関連性を考えてみたい。
三番叟のモドキである(注2)と指摘したのは折口信夫である。折口学派の一人として知られている池田弥三郎は三蔓の読みがサンバンソウではなく、サンバソウであることに注目して、民俗芸能のサンバ、カンパなどから、サンバソウもそのなごりではなかろうかと疑問を持ちつつそれらとの関連性を暗示している。さらに、葦五流能の五番辛構成がモドキの原理によって成り立っているという。即ち、箕の根本曲といわれる式三番から脇能物が、そして脇能から修羅能に、さらに三菅物(撃能)、四番目物(女物狂い能)、五番目物(切能)が各々モドキの原理によって派生したという。もしその原理が籍するなら、箕の中でも最も重要な曲とされる嘗物、女物狂物、所謂女物が生される元がなければならない。即ち根本曲とされる「式三番」に女物の元になる要素がなければならない。それが「翁」の三番叟であるのではないか、三番叟には本来女性的な要素があったのではないかと暗示している(注3)。勿論五番立と分類される全ての能が翁のモドキによって派生されたということに対しては疑問があるが、式三番に女性的な要素があっても不思議ではない。本田安次(注4)は「対面の翁」の例を民俗芸能のなかから幅広く取り上げて、その源流を舞楽の「二の舞」にあるのではないかと言う。金両基は「白い神と黒い神」という論稿で、翁と三番叟の仮面の色に着目して、韓国の仮面戯に登場する白面の爺と黒面の姥との関連性を言及、さらにシベリアシャーマンの白神、黒神に其の源流を探っている(注5)。本稿は三番叟に女性的な要素があるのではないかという先学の教示を念頭に置きつつ、三番叟と類似性が窺われる韓国の仮面戯の一演目であるミヤル(姥)と比較検討しながら、尻を振るという所作に焦点をあてて考えてみたい。乏しい資料と浅いフィールドワークを頼りにしつつ、一つの試論として提案したい次第である。ここで一つ付け加えたいのは、「尻振り舞」というのは民俗芸能の現場でそのような名称があるのではなく、尻を振る動作が見られる舞、または踊りを本稿で便宜上「尻振り舞」と命名していることを断っておく。 
韓国仮面戯の尻振り舞
韓国の仮面戯の最後に爺と姥が登場する場面がある。その姥の舞に尻振り舞が見られる。仮面戯は全国に広く分布しているが、大体二つの系統に大別される。一つは山台系統の仮面戯で三つの地域に分布している。現在はソウル地域で活動しているが、朝鮮戦争の時南の方に移った人たちによって伝承されている海西仮面戯(朝鮮半島の西北部)、ソウルを中心に山台仮面戯、そして、東南地域(嶺南地域)で五広大(オゴアンデエ)、野遊(ヤリユウ、デゥルノルム)がそれである。もう一つの系統は部落祭とともに行なわれる城隕祭仮面戯である。仮面戯は地域によって差はあるが、その内容は概ね大同小異である。そのなかで仮面戯の終盤に「ミヤル姥」或いは「ミヤル姥」(注6)と呼ばれる姥が登場する場面がある。
姥の場面もほかの演目と同様、内容上地域的大きな差はない。地域によって、ある部分がなかったり、或いは特定の部分が強調されたりする程度である。尻振り舞について言及する前に姥場面の概要を述べることにする。
舞台は広場があれば十分で、特別な舞台装置はない。舞手と嚇子方の仕度が撃つと楽器を鳴らしながら町を練り歩く。見物人たちは行列の後尾について演者と一緒にまわる。指定された広場に到着し、集まった見物人達が公演の舞台になる広場を取り囲むと本公演が始まる。用いる仮面や、供え物を供えて神様に告げる神事(告祀)から始め、舞台を清める払いの舞(上佐舞)、破戒僧やその小僧の戯れ、両班(貴族)を諷刺する場面、庶民の生活像を描いた幾つかの演目があって、最後に姥爺の場面になる。姥は最後に死んで、巫女により葬儀(或いは野辺送り)が行なわれる。
ここでは少し趣が異なる「駕山五広大」を紹介する。即ち、他の地域の仮面戯では必ず姥が死ぬことになっているが、「駕山五広大」の場合は姥の旦那(ヨンガム‥爺)が死ぬことになっている。「駕山五広大」だけが姥ではなく爺が死ぬことになっている理由については諸説があるが、その一説に姥の巫女説がある。その他に爺が死ぬことになっているのは東海岸一帯で行なわれる巫現たちによる別神グッの仮面戯である。別神グッの仮面戯は男巫が別神グッの最後に素朴な仮面を被って、集まった雑神を遊ばせる場面である。そこには爺が死ぬと巫女の霊験力で爺を再生させることになっている。「駕山五広大」の爺姥場面も別神グッ仮面戯の変形であるともいわれる。
「駕山五広大」は慶尚南道油川郡紐洞面駕山里に伝承されている仮面戯である。五広大(オクアンデ)の広大は俳優、仮面、巫女、巫親、侃儲子などの意味があるが、一般的には芸人の差別的な名称として使われている。五広大は朝鮮半島南東部地域に伝承られている仮面戯の通称でもある。五広大の玉は五つの仮面、五つの演目、または五人の登場人物などから由来していると思われるが、陰陽五行説の五行に因んだ名称であろう。
「駕山五広大」(注7)は毎年小正月(旧正月一五日)に村の安全祈願として行なわれる。「駕山五広大」の関連説話が口伝されている。それによれば、川に箱が流れてくるのをある村人がそれを拾い、蓋を開けてみると、箱の中に五広大(仮面戯)の台本が入っていた。その当時、都(漠陽‥ソウル)から配流されていた両班(貴族)にその台本を見せた。その人は都で仮面戯を見たことがあったので、その台本を読んで仮面戯を村人に教えた。それがこの地域の仮面戯の始まりであるという。仮面の箱が流されてきたものを拾って仮面戯が始まったという伝説は他の地域にもある。仮面と洪水伝説との関わりを思わせる。
全体の構成演目は五方神将舞、ヨンノ(獅子)舞、ムンデゥンイ(ハンセン病患者)の場面、両班場面、破戒僧場面、姥爺場面の順に行なわれるが、各場面は独立している。登場人物は合わせて二五名であるが、仮面は兼用する場合があるので二〇個が用いられている。ここでは姥爺場面を全体の流れに沿ってその概要を記す。
@姥が杖をもってお尻を左右に振りつつ登場する。息子であるマダンソイが後について姥のお尻を掴むやいなやふざけたりしながら登場する。二人は広場(舞台)を一回りして適当な所に座る。
A年寄のため息をだし、煙草を吸う。尿を出したいからお廓を持ってこいというと息子は楽器である鉦を持ってくる。裳を捲って鉦の上に跨って尿をしようとすると息子が裳の下を覗く。姥が息子を諌める。息子は姥の陰部をみて裳の下に子犬が付いているとふざける。姥は子犬ではなく、お前が出た穴だという。尿が入った鉦(実際は水が入っている)を息子に渡すと、息子はお廊(尿)の旬をかいで牛の尿の匂いがすると言い、それを見物席に振り撒く。
Bオン生員(草履商人)登場‥近所に住んでいる草履商人が登場して姥に近づく。息子がどこかへ行なったかと尋ねながら姥のお尻を触ったりして戯れる。姥が拒むと草履代を支払えと口実を出す。息子が登場して姥と商人のやりとりの中に入って妨害する。この前の市の日に草履を二足持ってきたがお金が足りなくて帳付して沓を買ったので、その代金を貰いにきたと姥は息子に弁明する。姥は息子に糸撚り車を持ってこいという。息子は糸撚り車を持ってきて姥に渡して退場。
C草履商人は再び草履代金の話を口実に姥を誘惑する。姥はお尻(売春)で草履代金を支払ったという。
D二人が戯れる間、息子が出てきて邪魔する。塾(書堂)に行って来るといって出かける。
E息子が出かけたのを確認した商人は露骨に姥に近付く。
F息子がまた出て来て塾(書堂)に行ってきたといい、塾で学んだことを自慢気に姥に話すが、真面目な内容ではなく、面白い遊び言葉をする。見物席には笑いが飛ぶ。姥は息子に銭を渡して息子を外に出掛けさせる。息子が退場すると草履商人と姥は戯れる。
G息子はお腹が痛いと叫びながら登場。姥は医者を呼んでくれと草履商人に頼む。草履商人は姥との行為が順調に行く途中で息子に妨げられたので不満を持ちながら医者を連れてくる。飴玉を食べて喉に詰まったからといって医者(医口塁は針を打って治す。
H医者が退場すると草履商人はまた姥に近づき戯れる。
I旦那と都の遊女が登場して、息子を呼ぶ。都の遊女が姥に挨拶をする。姥は若い遊女を妬んで挨拶さえも拒むが、ようやく挨拶をうける。遊女は息子に似合う年齢である。草履商人は悔しがり、逃げるように退場する。
J旦那と姥の対面‥家が騒がしいので別れようと旦那が言い出す。財産分配で争いになる。旦那は怒って家財を杖でこわす。姥がやめさせるが、旦那は持っている杖で神棚(祖先壷‥神の宿る壷、中には祖先の名前を書いた紙とお米が入っている)を打って砕く。旦那は祖先壷をこわした罰で、祖先神の崇りで倒れて死んでしまう。
Kオン生員登場=先の草履商人と同じオン生員であるが、今度は盲目として鼓を担いで登場。オン生員が占ってみると、お経を唱えないといけないという。丘の向こうに住む盲目のお経師(法師)を呼んでくる。お経師が死んだ旦那の前でお経を唱える。竹の枝(デエザビ‥神憑り役で笹を持ち立てて側で呪文を唱えるとその笹が震える)で旦那の死んだ原因を占う。否定のときは横に揺れ、肯定の場合は縦に揺れる。即ち神託を窺う行為である。旦那の死因が祖先の崇りと判明し、死霊祭(オググッ‥巫の葬儀)を行なうことにする。
L息子が巫女を連れてくる。巫女五人が登場して四人の助巫女が木綿の端を持って引っ張ると主巫女が神龍を木綿の上に載せ行き来しながら黄泉への道を準える。回心歌という仏歌を唱える。皆退場して終る。最後に観衆も皆出て一緒に躍る。(*番号は所作の区分のために便宜的につけくわえた)
以上が駕山仮面戯の大概の粗筋である。場面の設定としては姥の家になっているが、他の仮面戯には旅の途中で仮面戯の見物に来たと設定されている。また姥は好色の人物として登場する。姥が尿をだして見物人に振り撒くということは、ただ笑いを誘う意味のみではなく、愛知県の花祭りなどで道化役が杓子や男根で味噌を見物人の顔に塗り付けることと同じ発想と思われる。
それに塗り付けられると健康に良いとか、風邪に引かないという考え方も同じである。即ち見物人に渡される一種の宝である。姥爺場面は庶民の悲惨な日常生活を強調して描いて、神を祭る巫女の性格が薄くなっているが、本来は神を祭る巫女としてその役割があったに違いない。その例は他の同 一系統の仮面戯を見るとよくわかる。姥が巫女であることは爺(旦那)と嚇子方(杖鼓)の問答のなかで二姥はいつもグッ壷の祭祀)しに出かけた」(鳳山)、「姥は占いに出かけた」などの台詞からも、鈴が付いている杖と扇を持っていることからも巫女の姿であることがわかる。最後には姥と爺の夫婦喧嘩で爺は祖先霊とされる祖先壷(ゾサンダンジ)をこわしてしまう。その崇りで死んでしまう。他地域の仮面戯には爺が死ぬまではいたらないが、祖先嚢をこわして、気絶して倒れる場面はある。祖先嚢は女性の部屋の棚に置いて家の守護神として祭る聾である。祖先嚢を祭るのは主に女性の役目である。祖先聾をさわってはいけないという禁忌を無視して罰にあたった爺に対して、その禁忌を必死に守ろうとする姥の態度からも巫女のなごりがうかがわれる。
姥のもうーつの性格は色好で、性的に開放的で、乱れた性格の持ち主である。「駕山五広大」の場合、草履商人であるオン生員にぉ尻で草履代金を払ったという台詞もあるし、表面的には性的な誘いを断るが、実際は求めているのがわかる。草履商人と姥の間に息子が邪魔になるから、飴玉を買いに出掛けさせるのである。
性的に開放的で乱れた性格の持ち主であるといっても、すぐさま遊女のような忘であるとは言いきれないが、儒教的社会で性には厳しい時代であった朝鮮時代には、一般人には考え難い一面であるに違いない。
姥の仮面が表に示された如く署に白、赤、褐色などの斑点がついてある。鼻や口は曲がったりして歪んでいるのが多い。顔が歪んだのは梅毒患者、或いはアサ風患者だからという口伝(注8)がある。アサ風という病名がいかなる病気かさだかでないが、性病の一種であろう。その真否を確かめることはできないが、性病を遊女の特権(?)の】つとして考えるなら分かるような気もする。あるいは、姥の乱れた性格が歪んだ顔にさせたのかも知れない。しかし性病で姥の顔が歪んだというのは姥の卑猥な生活やその性格により、後から付け加えられた理由で、本来は異常な出生、または身体障害者として生まれた人の死霊を慰める意味の鎮魂祭であったに違いない。身体的障害による差別された人間の死霊、または束縛された人生の恨みを晴らすことなく死んだ霊魂、いわゆる成仏できてない死霊たちが仮面戯の場で自由に遊んだりして、その鬱憤を晴らすのである。
尻を左右に激しく振りながら活発に動く韓国仮面戯の姥の姿から巫女と遊女のおもかげが浮かんでくる。そして、仮面戯の最後には必ず葬送儀礼で終るという構成から考えると、仮面戯は本来鎮魂祭に ほかならない。
その以外、爺姥の演目から、歪んだ黒い顔の姥と白い顔の爺、祭り場に訪れる旅姿などの特徴は日本の祭り場に訪れるマレビトの姿がかさなるのである。もう一つ注目されるのは姥の出で立ちである。それについては後述するが、裳が腰の部分にかかっていて、上着が短いので臍の部分が裸になっているのを覚えて頂きたい。表で示したように姥の舞は他地域の仮面戯にも尻振り舞になっている。韓国仮面戯において姥の尻振り舞が如何なる意味を持っているかを日本の民俗芸能から穿整してみよう。 
「君の舞」の尻振り舞
長野県下伊那郡阿南町新野の正月一四日から一五日にかけて行なわれる祭がある。古くは「田楽祭り」「二善寺のお祭り」「正月御神事」などと呼ばれてきたが折口信夫が「雪祭り」と命名した以来、現在は「雪祭り」の名称をもって呼ばれるようになっている(注9)。新野雪祭りは折口信夫の学問的な源としてよく知られており、それ以来先学によって細かいところまで報告され、研究されている。(注10)詳しいことはそれに譲るが、その中で、祭りの終り頃に「翁」、「松かげ」「ショウジツキリ」、「海道下り」に続いて行なわれる「神婆」という演目に注目して考えてみたい。神婆が庁屋から登場して拝殿の正面まで出る。その際神婆は腰を左右に振りながら少しずつ前に進む。拝殿の正面に着いては腰(尻)を振るのを止めて両腕を前後に振りながら走るような形の舞を舞う。庁屋から拝殿まで数回往来してから、庁屋の前に杖によりつつ座っている爺を手招きする。すると爺は起きて姥の方に走り出る。二人は抱き合って喜ぶ。その時右手には鈴を、左手に小鼓を抱えた若女面を被った者が走り出て、抱き合っている爺と姥のまわりを廻りながら「伊勢国度会郡禰宜の娘神婆舞ったり舞ったり」と唱える。若女面はすぐ走って庁屋に入る。抱き合っていた爺と姥は肩を組んで仲良く嬉しそうな足取りで庁屋に入る。
神婆とは如何なるものなのか。言葉通りいうなら神の婆、もしくは婆の神、即ち婆の姿で顕れる神のことであろう。なぜ婆なのか。「神婆」をほかに「君の舞」とも呼ばれる。神婆、或いは君の舞の主体は誰なのか。「神婆」という演目に登場人物は三人であるが、舞らしい舞は姥面の者しかいない。爺は姥が舞う問庁屋の入口の前で座っている。姥の手招きによってようやく走り出て、姥と抱え口つて喜ぶ所作をする。舞らしい舞という動作はない。若女面を被った者の舞は爺姥が抱き合っているところを走り出て廻る所作のみで、婆面の者に比べれば、君の舞の主体とは言えないと思われる。君の舞というのは登場する三人のなかで誰の舞であろうか。地元の人に聞いてみても「君の舞」が誰の舞か具体的な答えは出てこない。ただ演目としての「神婆」を「君の舞」ともいうのみである。
「君の舞」については後藤敵の論及(注11)がある。それによると、「君の舞」が現在伝承されているのは西浦田楽しかないが、かつては、愛知県北設楽郡東栄町古戸の「君はやし」があり、吉備津神社の「君田楽」の記事、そして、『三会定一記』にみえる「君達田楽」などの「君」も「君の舞」と関係があるという。そのなかで柳田国男の『巫女考』と滝川政次郎の『遊女の歴史』を引用して「君は遊女化された巫女」であるといっている。柳田国男は「キミは遊女の雅名にして、兼ねて又巫女の総称の一つであった」(注12)という。滝川政次郎は「琉球の聞徳大王、熊野の巫女である熊野比丘尼の尼君などは遊君とは区別すべきである」といいつつ、君が遊女或いは巫女をさす用語として用いられたことはみとめている。(注13)もし、君が遊女化された巫女であるというなら、「神婆」に登場する「君」は誰であろうか。即ち、姐面の姥であるか、若女面の者であるかの問題が出てくる。後藤敵は前稿で神婆の演目に出る若い女面をつけた娘を君といっている(注14)。しかし、「神婆」の全体の文脈からは若い女面の娘を「君」であると言い切るのは多少躊躇される部分がある。尻を激しく振る所作が女性の舞で、更に性的な意味合いが含まれていることから考えると、尻振り舞を舞う姥からも遊女の特性がうかがわれるのである。「神婆」で君が誰かは保留しておいて、西浦田楽の「君の舞」の様子を見ることにする。
静岡県磐田郡水窪町の所能にある観音堂に旧暦正旦八日から一九日(平成二年は三月五日から六日)にかけて行なわれる。西浦田楽は地能三三番、はね能二一番(閏年二二番)で構成されているが、「君の舞」は夜中三時頃から約二五分程度かかる。
「君の舞」が始まる前に、細長い腰掛けを出す。花笠を被り、扇を手にし、白上衣を着けた二人(君の舞の子)が出て腰掛けを中心に両側で左回りの舞を舞って、位置を入れ変えて左回りの舞いを舞う三度繰り返してから二人は背中を合わせ腰掛けに腰を掛け坐る。
そこへ「君の舞の親」という者が上衣を頭まですっぽり被って、手には鼓形の物に白紙を包んだもの(シツテリ‥鼓)を持って登場する。腰掛けに坐っている「君の舞の子」のまわりを舞回る。二〇回くらい両側を行き来してから、持っているシツテリと腰掛けに坐っている者の一人の持つ扇を取り替えて、扇を持って一回り舞う。ここで君の親と嚇子方である別当の問答(注15)が行なわれる。問答が終ると、再びシツテリを取り替えて、両側を一〇数回行き来して舞う。腰掛けを取り去り、「君の舞の親」を中心にして三人が立ち舞う。庭を何回か回り舞ってから「君の舞の子」二人は退場する、烏帽子姿の二人がスリササラを持って出て舞う。スリササラを持った二人は「君の舞の親」を中心にして三人が立ち舞う。舞が暫く続いた後、スリササラの二人が退場すると、親一人残って腰を屈伸しながら大振りの舞を舞う。舞が終ると楽堂(楽屋)に向かって礼をしてから退場する。
ここで登場する五人の中で、中心は「君の舞の親」であろう。親は上布を頭まですっぽり被った姿で鼓(シツテリ)を持って派手な振りの舞である。尻を振るという所作はないが、腰を屈伸させたり、腰を屈めたりする動作はある。仮面は被らないので顔からの性別は分からないが、上布を頭にすっぽり被っていることから女性の姿であることは違いないだろう。西浦田楽の「君の舞」の君は「君の舞の親」のことであろう。君の舞の親とは、即ち、白上布を頭からすっぽり被って鼓を持って舞を舞う者である。鼓を持って舞うことから「神婆」の若女面の者に該当すると思われる。後藤敵が新野雪祭りでの君の舞の君が若い娘であるというのも、西浦田楽の「君の舞」で鼓(シツテリ)を採って舞う君の親と同じように、鼓を採って舞うところからの指摘であろう。
新野雪祭りと西浦田楽は同じ系統のものであるといわれている。後藤敵は前稿で古戸の「君はやし」をふくめて、曲名が同じであること、田楽と関係をもっていること、三信遠の国境地帯という同一芸能圏の中で行なわれていること、芸能の内容的に共通したところが多いことなどから相互に関係がある(注16)という。
雪祭りの「神婆」では、姥面の者が中心になっているのに対して、西浦田楽の「君の舞」は「神婆」の若女面の者(娘)に該当する「君の舞の親」が中心になっている違いがある。本来は同系統のものが伝承の過程で変化したと考えられる。いずれにしても、両方とも「君の舞」の主体は年老いた女性であることは変わらない。
姥面の者と若女面の者との二人の関係から考えても、姥には遊女化された巫女の姿をうかがわれるからである。若い女面の者を娘というが、誰の娘なのか。「神婆」の文脈からは何とも言えない。若女面の者の「伊勢国度会郡禰宜の 娘神婆舞ったり舞ったり」という「神婆」の中での唯一の台詞から、神婆が姥面の者にしろ、若女面の者にしろ、度会郡の出身の巫女であることは考えられる。敢えて神婆が実際度会郡の出身ではなくても、伊勢信仰が流行なった時代の背景から伊勢の度会という地名を借りて度会郡の禰宜の娘であるといったかも知れない。「神婆」で姥と爺が抱き合って跳ね回るところで若女面のものが出て、そのまわりを廻る行為が若女の嫉妬の気持ちを顕わすという見方もある。いずれにしても、神に使われる意味での娘、神娘であることだけは間違いないと思われる。
「神婆」の所作は大きく二つ部分で構成されている。庁屋から出て拝殿の正面までの部分と拝殿正面向きになってからの部分である。庁屋から拝殿正面までは添い人が腰を抱えているし、尻振りが激しい舞であるが、拝殿の正面向きになってからは、添い人も手を離し、また握合っていた両手も解いて腰振りというよりは走る動作に変わる。所作からは如何なる意味かは分からないが、画然と動きが異なる。もし、前者を尻振り舞であるとしたら、後者は走り舞とも言える。前者が尻振りで庁屋の前で坐っている爺に向けての舞で、姥の本来の日常的な性格を顕わす「俗の舞」というなら、それに対して、後者は拝殿向きの「聖の舞」とも言えるのではなかろうか。「君」が遊女化された巫女であるという説から考えると、前者は遊女の舞で、後者は巫女の舞とも言えるだろう。「君」という者が持つ両義性を顕わす舞であろう。 
尻振り舞の系譜
姥面の者が尻振りの舞があった後、爺と抱き合う場面になる。確かに性的行為を顕わす所作である。仲藤増造の記録(注17)はもつと露骨で、爺が姥の手招きに走りでて、取り付き、その後変な腰付きをして抱き合ったまま重なってころぶという。腰を捻る、或いは尻を振るという動作は性的行為と関連があることは違いない。腰を振るのが性的な行為をあらわす例としては佐渡で伝えられている「つぶろさし」をあげることができる。「つぶろさし」は大神楽の獅子につく一つの風流である。
「つぶろさし」は新潟県佐渡郡羽茂町寺田の菅原神社と同町村山の草刈神社で行なわれる。そのなかでささやかな動きであるが女面の者が尻を振る動作がうかがわれる。両神社の「つぶろさし」は似ているが、菅原神社のほうは先ず烏帽子に直衣姿で幣を持った男が眠っている獅子の頭に向かって、呪文を唱える。すると、獅子は目を覚まして欠伸をして退く。そこへ笛、太鼓、チヤビラ鉦、拍子木の合奏にのって「つぶろ」という木製の男根を模したものをもって男神と「シヤギリ」という解を持った女神と「ゼl哀鼓」という女神が登場して、男根をさすりながら踊る男神にエロチックな腰つきの女神が絡まる(注19)。草刈神社の方は先ず赤鬼、青鬼がでて鍼と棒を持って踊る。鬼の踊りが済むと、長さ二尺五寸位の「つぶろ」を肩にして男が出てくる。白い脚絆と白足袋、赤い腰巻をした女が解をすりながら登場する。穀は入った姥面を被り、やや腰を曲げている。男は股から「つぶろ」を出してさする。女面の者が折々解をすりながらお尻を軽く振る。男面の者は眉間に太い毅が四、五本ある尉面である。女面はかすかな笑いの中に、喜びを持ち、歯のない姥の顔である。
男根を振りまわす男面と尻を振る女面はたしかに性的な踊りである。「つぶろ」は木製でてっぺんに穴が一つあり、根元に毛が付けられている。「つぶろさし」は一種のマラ振り舞であるが、女性の尻振り舞とセットとなっている。
桑山太市によると、羽茂町の隣村である柏崎ではふっくら円いものを「饅頭」といい、壷をツブと発音している。その壷と饅頭は隠語として陰門を顕わす(注21)という。この「つぶろさし」は伎楽の系統のものと言われている。
『教訓抄』伎欒条の島寓、力士の場面によると、二人の女が舞を舞っているところに畠寓が扇を持って出て卑猥なマラフリ舞を舞うと、力士が登場して、良禽のマラ(マラタカ)に縄を付けて引き、そのマラを打ち折り舞う。もし「つぶろさし」が伎楽と同じ系統と認めるなら、『教訓抄』には記されてないが、二人女が舞う舞に尻を振る動作があったかも知れない。尻を振るというのは一種の性的な行為と関連があり、性的な行為は稲作文化のなかで豊穣祈願の類感呪術として、田遊び、田植蹄などの中で見られる性的な振りの芸能と脈を一つにしていると思われる。例えば、岩手県紫波郡見前村の田植蹄の中にヒョツトコ面を被った一八という道化が一人出て、苗代打の真似をしながら、太鼓打ち方と問答する。そして最後に尻振桐式(注23)の踊りを踊って入る。尻振踊式が如何なる動作かは確認していないからさだかではないが、性的行為、又は性的行為を誘う動作であると思われる。
その意味で、東京板橋区の諏訪神社、北野神社の「田遊び」で行なわれるヤスメと太郎爺の抱き合い場面、奈良明日香の「御田祭」の種付け式、茨城県新治郡島村中度の鹿島神社で行なわれる「へイサンボウ」なども豊穣を顕わすカマケワザの一種であるといわれる。
今日は尻を振り所作は見られないが、かつてはあったかもしれない。 
三番叟の尻振り舞
尻振り舞が翁三番叟に見られるのは岩手県宮古の黒森神楽の三番叟である。黒森神楽の三番叟は他の地域の三番叟とは異なり、独立した演目としてではなく、「三番叟神楽」と呼ばれる演目の中で出てくる。黒森神楽については、本田安次と神田より子の報告がある。
「黒森神楽の三番叟は、一般に尻坂の三番、根ぶり三番、或はイドオミ三番などと呼ばれている。これは足拍子を踏み、お尻を振りつつ舞う故である。大抵が叙烏帽子に黒尉面、千早、袴の仕度で出る」
尻振りの三番は三番叟の所作に尻振り動作があるからつけられた名称であろう。根ぶり三番の根も女性の陰部のこと、あるいは男根のことであろう。疑問になるのはイドオミ三番のイドオミである。イドオミが如何なる意味なのかは定かでないが。イドあるいはオイドのことではなかろうか。方言俗語語源辞典によると、イドがお尻、又は穴(陰門)であることがわかる。
イドーオイド。@尻。しり。岡山、広島、島根、香川、徳島、愛媛、大分、A肛門香川県伊吹島、山口県豊浦郡、対馬、考】高知、大分県西国東郡で穴を、大分、四国、兵庫県飾磨郡家島、東北地方で洞穴をウドというのと、このイトとは同源の語で、イドの原義は穴、それから肛門、尻の穴、尻と転義したのであろう。
なぜ三番叟が尻振り舞を舞うようになったのだろうか。黒森神楽の三番叟が岩戸開きの役をするということは記紀の天鈿女命の役を果たすことになる三番叟が岩戸開きの天鈿女命の役を担うようになったのは、三番叟に巫女としての面影があるからではなかろうか。そして、三番叟の面は醜い顔をしている。三番叟に関わる説話(注27)にも醜い存在として登場する。現在五流能の三番叟面は左右対称で、形としては翁面とあまり変わらないように整っているが、古面とされる三番叟面には顔の形が歪んだり、口許が片方に吊り上がったり、鼻が曲がったりするものが多い。例えば昭和五五年京都国立博物館における展覧会の図録(注28)によると、岐阜県久瀬村小津白山神社の三番叟面、福井県今庄町宇津尾八幡神社の三番叟、京都の個人蔵の三番叟面は歪んだ顔になっている三番叟とは名づけてないが岩手県中尊寺の姥面も鼻が右方に曲がり、口も歪んでいる。この面も歪んだ三番叟面と類似性が指摘されている。
三番叟の詞章のなかでも、翁に比べて三番叟は背も小さく、色も黒であることを語っている。岩手県の早池峰神楽(岳・大償)の場合、三番叟と胴前(太鼓方)の問答の形式で行なわれる。(三番叟の分は幕内(楽屋)の別の人が語る。)
楽屋:イヨウヨ、以前に参らせる翁と申すは(岳−「参りたる翁と申すは」色も白く背も大きく(岳−「背も大きくおんにんにまします」)、この代を百王百代、千代五万歳はその間(岳−「五万歳がその間」)めいすすとりと踏み鎮めんがための翁なり。(岳−「礼しと と踏み鎮めんが其ためなり」)(舞出で、幕の根に立つ)
楽屋‥イヨウヨ、ただ今参ったる三番太郎と申すは(岳−「参った三番猿王と申すは、」)色も黒く背も小さく、おん身にまします。(岳−「おんにんにまします。」)とくさ色のかるめんとつて(岳 −「十種色の狩衣に」)あいるめんうつたる(岳−「あい打ったる、」)きの面とって顔にあて。(岳−「木の面取て顔にあて給ふ。」)(舞ひ、幕の根に立つ)
他にも、「我等と申すは色黒々、目わるぐ、背はちんと低くけれども」(秋田県仙北郡角館町大字酉長野の番楽の三番叟)(注30)などの詞章がある。背が低く色が黒であることは醜いイメージを示しているといえるだろう。背が低いことから女性的であると断定するのは危うい側面もあるが、背の高い翁とは対になるとは言えるだろう。しかし、なぜ三番叟は背も小さく、鼻や口が歪んだ顔をしなければならないのかという疑問は残る。
黒森神楽の「三番叟」がほかに「イドオミ三番」とも呼ばれるというが、そのイドオミとは異なるが「イド」という演目が翁系統のものがある。住吉神社の「翁舞」がそれである。
兵庫県加東郡社町上鴨川住吉神社の翁舞は一〇月四日・五日の宮座行事にともなう芸能のひとつとして演じられる。宮座行事の中の芸能は王の舞(リヨンサン)・獅子・田楽躍・高足・翁舞・相撲などがある。翁舞はその中の一つで、イド、寓歳楽、六ぶん、翁、宝物、冠者、父尉の演目で構成されている。イドは一種の露払いといわれている。しかし、露払い役をなぜ「イド」というかについては説明されていない。住吉神社のイドが祭りの前後で文脈から考えて露払いの役であるとしても、なぜイドというのだろうか。このイドが黒森神楽の三番叟が別称であるイドオミと何らかの関係があるのではなかろうか。しかし、住吉神社の翁舞のイドでは尻を振るという所作は見当たらない。
翁三番叟に尻振り舞が窺われるのは、上に述べた黒森神楽の三番叟の外には管見にはない。資料として信憑性が薄いが、敢えて挙げるなら、戸板康二が『能』の「松と老人と」という記事で腰振り舞に触れているところである。三番叟ではなく翁が尻振りの舞を舞ったという。
「前に折口信夫先生のお伴をして、埼玉県浦和の在でみた「翁」には、腰を異様に振る奇妙で卑猥な印象が残っている。翁が「白尉」、三番叟が「黒尉」であり、三番叟こそ卑猥な動作を演じさうなものであるが、ごく素朴な考え方からいふと、本体の神が恰も「生殖」といふ行為を身を以って示すことの方により多く「力」を感じたのであたらう」
しかし、埼玉県浦和の在で見たという「翁」が何処の何を見たのか確認できない。埼玉県浦和には現在「翁三番叟」が行なわれるところがないからである。もしかすると、昭和二五年頃にあったものがその後、滅びたか、或いは、ある芸能集団が訪れて浦和のところで「翁三番叟」を披露したのをみたかのどちらかであろう。いずれにせよ、翁三番叟に尻振り(腰振り)舞があったことは違いない。乏しい資料で結論というものを出せないが、尻振り舞は遊女化された巫女の舞であり、性的な意味が含まれていること、そして、その主体が女性であることは言えると思う。 
尻振り舞の出で立ち
韓国仮面戯の姥の出立ちについては前述したが、姥はスカートと短い1着を着て腰と臍まる出した姿である。現在は姥の役を女性が担う場合が多いが、本来は男性が務めたのである。
衣裳をわざとそのように短い物にしたかはよく分からない。女性の役を男性がつとめるから、女性の衣服が男性の体に合わなくて、腰の部分が裸になったとも言えるかも知れない。しかし、衣裳の大きさの問題ではないことは確かである。腰をまる出しているのは姥の他に陽州別山台仮面劇と松坂山台窓劇の倭将女である。倭将女は「遊女(エサダン)の法鼓遊び」で登場する老妓で、遊女と墨僧の間の仲介(遣り手婆、香車)役をする。墨僧からお金を貰って遊女を墨僧に紹介するのである。倭将女も姥の如くまるまる腰の部分を露出している。倭将女は当て字で体が大きく、恥を知らない女性で、爵後期に商業の発達と共に市場が盛んになり、市場に遊郭が出来、その遊郭の売春の仲介役として朝鮮時代後期に仮面戯に加えた人物であるという説もあるが、その出立ちから考えるとその歴史は更に遡れるのではないかと思われる。それに該当するものが日本の祭りに見られるからである。愛知県北設楽郡東栄町古戸の花祭り(正月二日・三日)の終り頃「おちりはり」というのがある。ヒノ、葺と神子、翁に続いて「おちりはり」が行なわれる。「おちりはり」は飯粒が付いた杓子(しゃもじ)と味噌を塗った摺古木(すりごき)を各々手にした鼻垂らしと潮吹が登場して見物人に飯粒と味噌を塗り付ける。それからオカメ面をつけた親子が登場する。姥の役は太って腹が出た人が務めるのが慣わしであるようである。姥は辛み女で衰脱いで裸になっている。背中には草履をぶら下げ、布に包んだ荷物をかけた旅姿である。手には娘と同じく扇と鈴を持って頭には手拭を被っている。四人は二人ずつペアになって舞を舞う。同所の 古戸田楽に「宮ならし」という次第に潮吹面と女郎面を被った二人が背中合わせで尻の辺で結い中腰で五方を舞うのがある。韓国仮面戯の爺姥の場面と古戸の「おちりはり」は舞や形は変わってもその内面に流れている思想はまったく一致しているのである。
倭将女のいでたちが姥のそれとよく似ている。頭に大きな髪飾り(緩り束ねた髪を丸めたもの)を頭につける。倭将女が仮面戯のなかでは遣り手姥の役として登場するが、倭将女が若かった頃は遊女であって、歳をとって遊女を引退してから遣り手姥、即ち遊女を取り締まる人物、紹介役になったのではないかとも想定できる。倭将女の仮面は姥場面で娘(ドキヌイ=斧姉)にも用いられる。倭将女の面が兼用されるのである。姥場面での娘は好色な人物で、何回も結婚したが、夫が逃げてしまい、独身の身になっている。姥が死んでから呼ばれて登場する。娘は姥の葬儀壷の祭祀)を担う巫女の役をはたすのである(「楊州別山台ノリ」)。
爺姥の娘が倭将女の面を兼用することからも、そしてその面を被った娘が巫女の役割をするところからも、倭将女は巫女、又は遊女の面影が見られるのである。ともかく、臍或いは腰の部分を裸に出して登場することは卑猥な性的行為と関連性がうかがわれる。姥はその出で立ちからみて確かに巫女の姿である。そして性的行為を好んでいる人物として登場する。前述した神婆の二重的な性格に似ている。姥の出で立ち、即ち、上衣が短くて、裳を尻にかけているような姿は、彼女の激しい尻振り舞によって胸が見える程である。かつては仮面戯のすべての役を男性が務めたが、現行では女性が多く加わっている。姥の役も女性が務
める場合が多くなっていると前述したが、姥の役を女性が担っている現行では、腰の裸代わりに肌色の下着をなかに着るようになっている。鈴と杖、又は扇を手にして、頭には大きな髪飾りを被っている姥の姿は、まるで『古事記』、日本書紀に登場するアメノウズメノミコトの姿を彷彿させるのである。天照大神が速須佐之男の横暴に天の岩屋に篭ったとき天細女命(天宇受売命)が神懸り為て、胸乳を掛き出で裳緒を香登に忍し垂れき。爾に高天の原動みて、八百寓の神が大笑いしたということである。
日本書紀では天鈿女命の採り物には古事記と変わりがないが、胸乳を出して、裳紐をホトまで垂らしたという表現はない。しかし、古事記の天鈿女命の姿と同じ描写が日本童晃には天孫降臨のところで、天の八衛にいた猿田彦を和らげて道案内させたところの天 鈿女命の姿が見える。
芸わむなちあらはも官ほそしもおしたあざわらむた天細女、乃ち其の胸乳を露にかきいでて、裳帯を臍の下に抑れて、咲嘘ひて向きて立つ。
西郷信綱(注33)は天鈿女命の胸を出して、裳紐を垂らして陰部をあらわすのは神がかりして、激しい動きにより自然に垂れたのではないという。即ち、陰部を顕わしたのは単に自然発生のふるまいではないこともほぼ確実であると言う。天釦女命の出した女陰、そしてそれによって生された笑いには邪魔除去する呪力(注34)があると信じたのだろう。『古語拾遺』にはアメノウズメノミコトの事跡が猿女君の奉仕する鎮魂祭の起源であるとする。上記したように韓国仮面戯に登場する姥が巫女の性格や、笑いを誘う動作、など、それから仮面戯の最後として鎮魂祭であることからもアメノウズメノミコトと姥(ミヤル準との類似性を見出すことができると思われる。天の岩戸の前で俳優(わざおぎ)したアメノウズメノミコトの動作に尻振り舞があっても不思議ではなかろう。 
結び
今まで、尻振り舞というささやかな所作に焦点をあてて、漠然としながら述べてみた。「尻振り舞」は尻を振る卑猥な動作と考え、精緻な報告の中でも、省いたり漏れたりする場合が多かったと思われる。むしろこのようなささやかな所作こそ、薄れつつも途絶えることなく続けられてきたのではなかろうか。民俗芸能に登場する様々な翁三番叟は猿楽能の式三番との同一の系統ものもあり、または現行の五流能とは別の系統のものが入り混じっているものも想定できるので、一律的にはいえない。しかし翁三番叟の様々な要素のなかで「対面の翁」の系統の一つとして韓国仮面戯の姥(ミヤル 姥)の場面を取り上げることは可能であろう。
民俗芸能においては翁よりは三番叟が受け入れられる傾向がある。三番叟が持っている軽快性、道化的な、笑いを誘う庶民的な要素があったからではなかろうか。
三番叟は能の式三番の一つ演目として、そして、民俗芸能の式舞として、相当な研究がなされているが、未だに解決されてない謎が多いのも事実である。冒頭に述べたように民俗芸能は時間の空間化、時間の重なりによって成立していることから考えると、韓国の仮面戯の一演目であるミヤル姥場面との関連性も想定できないことでもない。勿論、そのミヤル姥場面から一つの手がかりは成りうるとしても、裏付ける根拠になる資料が見当たらない現時点で、直接結び付けるのは問題点が多い。徹底的に分析しなければならない課題である。
両国の異なる歴史的、文化的背景で育てられた芸能からそれほど類似性が見られるのは偶然とは思えない。両国の文化を共時的、通時的に見ることによって、今まで謎にされてきた各々要素を比較することによって新たな事実が現れるのではなかろうか。
韓国の仮面戯のミヤル(姥)の場面が単純に零落れた人間とその社会を描いた社会劇として研究されてきたものが、日本の芸能と比較することによって、鎮魂という信仰と深く結びついているのがわかる。それから韓国仮面戯の起源と歴史についても考え直さなければならない。両国の尻振り舞がどのような過程を辿って今日に至ったのか。類似している両国民の性向が各地で別々に生まれてきたか疑問は益々増える。直接的関連があったとはいえないものの、比較することによって両国の芸能研究に新たな側面が見えてくるのは言えるだろう。本稿では芸能の現場から芸態の比較という視点で述べたが、憶測である面が多いと思いながらも、諸賢のご指導を賜りたく、一つの試論として提示したのである。 
 
現代舞踊の始まり / 川上貞奴

1
日本における西洋舞踊の歴史を調べていくと、奇妙な事に気付かされる。記録に残っていない時代は別にして、初期の西洋舞踊(註1)がオペラやオペレッタに必要な技術として日本で成長をとげて来た事は周知の事実であろう。
それが関東大震災以降のムーラン・ルージュやカジノ・フォーリーあるいは宝塚・松竹両歌劇団が隆盛を極める昭和ともなると、オペレッタのみならず風刺的寸劇(バーレスク)やレビューやボードヴィルの要素も含み、舞踊史ともオペラ史とも演劇史ともつかぬ、芸能全般を俯瞰(ふかん)した視点からでないと、その全体像はつかみがたい。つまり当時の軽演劇の喜劇俳優であるボードヴィリアンは、俳優のみならず歌手であり寄席芸人であり、その多くはダンサーでもあった。
また大正期の歌舞伎の舞踊技術には、ロシア・バレエの影響が見られるし、同時代の藤蔭静枝(初代)や花柳寿美などの、いわゆる新舞踊には、ロシア・バレエのみならず未来派・ダダイズム・構成派、そしてモダン・ダンスの影響が色濃く表れる。これを日本舞踊つまり邦舞の特異例とのみ片付けるわけにはいくまい。
それだけならまだよい。大正中期の浅草オペラ全盛期ともなると、俳優個々の前歴が古くは壮士(そうし)芝居に始まり、新劇・新国劇・新派・曽我廼家(そがのや)劇(現在の松竹新喜劇の前身)・小芝居(こしばい 註2)等を次々と経ている場合が大多数なのである。この他に、当時の人気が松井須磨子をも凌(しの)いだ《魔術の女王》松旭斎(しょうきょくさい)天勝一座を加えてもよい。それぞれが俳優の個人史的関係で結ばれているのみならず、現在考えられがちな接触の無い別ジャンルのものではなく、時には商売敵やライバルでありながら、親しい交流もあったのである。たとえば天勝一座のダンス指導は高田雅夫(高田せい子の夫)であったし、浅草芸能人のボスであった曽我廼家五九郎の一座には歌劇部があった。また五九郎の師匠の曽我廼家五郎はヨーロッパ外遊の際に、同行した愛妾をパブロワのダンス・スクールに留学させて帰国している。そう考えると新喜劇の世界にも、オペラやダンスの流行があったとしか思えない。天勝の『サロメ』を演技指導したのは小山内薫であるし、その小山内が常連であった日本で最初のカフェー『プランタン』に女王然としていたのが、まだ新橋の文学芸者であった頃の初代藤蔭静枝である。小山内は常連で親友の吉井勇と語らい、文学の先輩であり同じく常連客の永井荷風をたきつける一方、藤蔭の方へも煽(あお)りを入れて、まんまと二人を結びつけ、後に荷風は親の意向でもらった妻と離縁して藤蔭と夫婦になる。永井荷風は米・仏で本場のオペラをあびるほど観てきた明治時代きってのオペラ通・洋楽通であり、荷風の終生の夢は彼の地で観たオペラを日本で、しかも自分の手で作りあげる事であった。
ここで小山内の家系についても触れておこう。妹の岡田八千代は黒田清輝の片腕であった洋画家の岡田三郎助夫人。この八千代が長谷川時雨(しぐれ 劇作家。夫は『雪之丞変化(ゆきのうじょうへんげ)』の作者三上於菟吉(おときち))とともに主宰したのが雑誌『女人芸術』であり、大正末から昭和初期のフェミニズムの牙城となる。この『女人芸術』のサロンには女流文学者のみならず、日本オペラ界の最高のプリマであった原信子(帝劇歌劇部の音楽教師。石井漠・伊藤道郎(みちお)・高田雅夫・高田せい子も彼女の弟子。特に高田せい子は妹のように可愛がられ雅夫が亡くなるまで原せい子を名のる。)も常連であった。
長谷川時雨は大正元年に六世尾上菊五郎と舞踊研究会を始め、大正三年小山内をゲストにスライド映写によるロシア・バレエの紹介『露西亜舞踊講話』を開催。この時雨の『歌舞伎草子』(大正三年)を改題再演したのが藤蔭の新舞踊作品『出雲の阿国』(大正六年)であった。小山内薫・八千代の兄妹の従弟が洋画家の藤田嗣治(つぐじ)。嗣治の長姉の息子がダンスや洋楽の評論家であった葦原英了(あしはらえいりょう)。この三人は同じ家に同居した時代もある親しい血縁者であり、英了は二人の叔父と小父(おじ、英了の表記に従う)に溺愛されて、その影響下で育つ。
以上のべて来た事は、日本の西洋舞踊史の周辺のささいな問題かも知れない。しかし舞踊史だけの研究では観えて来ない謎の解答も、こうした迂回を経る事で全体像がはっきりと見えて来る可能性がある。まだまだ語るべき事は多く、今回の概略的にのべたエピソードも、舞踊史を解きあかす手がかりの氷山の一角にすぎない。次回は日本で最初の女流ダンサー(ダンサー傍点)であった川上貞奴について──あたりから始めよう。
 
註1 この場合、鹿鳴館などでの娯楽やコミュニケーションのための社交ダンスではなく、観客を前提とした芸術表現の舞踊。
註2 自前の劇場を持つ大歌舞伎(おおかぶき)に対して、大多数の劇場を持たない歌舞伎や大衆演劇を演目とする一座の総称。つまり現在の梅沢富美男などの一座も、もとをただせば小芝居の歌舞伎であった。 
2
ここに一冊の書物がある。外題(げだい)を角書き(つのがき)に『異国遍路』と田の字型に四文字刻んで、本題を『旅藝人始末書』と記されている。著者は別府亀の井ホテルの経営者で宮岡謙二という人である。当初『異国遍歴死面列伝』として昭和二十九年に私家版が少部数刊行され、昭和三十四年に修道社より公刊されたこの本は、幕末から大正末年に至る、有名無名を問わない旅芸人を中心とした日本人の海外渡航列伝である。後に中公文庫に収められ、現代では手軽に読むことが可能になった。好事家の書物にありがちな資料の杜撰(ずさん)さや偏屈さは見られず、アカデミズムがとうてい及ばぬ造詣の深さと、現在では誰も書けなくなった軽妙にして洒楽(しゃらく)な戯作文に裏打ちされた、痛快きわまりない日本人列伝である。海外渡航に関する三千巻にものぼる書物からの知識の集積であるが、それだけに終らず痛切な庶民論や日本と東洋・西洋の関係を深く考察した卓抜な日本人論にも成っている。この手の本としてはおそらく空前絶後のもので、私には神か悪魔でもなければこれほどの本は著せないとすら思われる編年記である。登場する曲芸団つまり現在のサーカスの芸人達、手妻使いつまり手品師、相撲取りなどのスポーツマン、主として邦楽を中心とする音楽家達、講談・浪花節語りなどの寄席芸人、大道芸などを含めた雑芸人、そして万国博などのコンパニオンとして派遣されるの多かった芸者達……。
場合によっては、それらが渾然一体となって海を渡っているのだ。そのサワリを少し引用すると、<慶応二年の秋、西へ向けて日本を出たもの、すなわち異国を遍路する旅芸人の先頭を切ったのは、アメリカのベンコツに年千両、二年の拘束で買われた独楽(こま)廻し、軽業師、手品師などの男女十四名である。そのなかに、「曲独楽」の十三代松井源水と女房、娘、「自動人形」の隅田川浪五郎、女房の小まん、浪七、「浮かれ蝶」の手品をやる柳川蝶十郎(本名は青木治三郎、初代一蝶斎の弟で二十歳)蝶吉のほか、山本亀吉、同小滝、太郎吉、矢奈川嘉七の名が拾える。八っつと七つの少年もまじる。その道中双六(すごろく)の上りは、もちろんパリの万国博だ。ところが、おもしろいことには、この旅芸人の一行は、幕府がはじめてイギリスに送った留学生十四名──中村敬輔、外山正一、菊地大麓、林薫たち──と、おなじ人数が、しかもおなじ船で、でかけている。あとでは、わすれはてられる旅芸人と、明治文化史に大きくクローズ・アップされる留学生が、下等上等船室の区別こそあれ、たまたま乗合船でいっしょにゆられながら、ヨーロッパに渡っている。これは、まことに奇縁である。《中略》 松井源水は、まずお手のものの「曲独楽」をあれこれと十一種も用意してきている。ヒモとともに目方が七貫二百匁もあるという三尺五寸の大コマを、かるがるとまわす。フィナーレには、そのコマが、まんなかから二つにわれて、娘のおつねがキモノ姿でキョトンととびだす。隅田川浪五郎の連中は、唐子、三番叟などのカラクリ人形を十ばかり、器用にうごかして東洋のエキゾチズムをただよわす。手品の蝶十郎は「バタフライ・トリック」でつくりものの蝶を自由自在に、空中であやつったあげく、最後にほんものの蝶を舞わす。「天地八声蒸籠」では、底抜けの箱から、いろんなもの、とくに、西洋人にはめずらしいウルシ塗りの椀や、タケ細工のかごなどを、それからそれへととりだす。見物はでて来る不思議さより、でてきたものに骨董としての価値をたたえ、目をみひらく、といった具合である。」
──少し解説を加えるならば、柳川蝶十郎の「浮かれ蝶」の「バタフライ・トリック」というのは、最近は誰もやらなくなったものだが、私の幼時の記憶によれば、舞台上で薄紙を指先で千切り取るか紙切り細工で瞬時に蝶をしつらえ、扇子の風でまさに本物のように飛ばせるという、かなりポピュラーな伝統芸である。佳境に至ると扇子ふたつで五六匹の蝶を舞わせていたと思うが、明治期にはもっと凄い名人が居た事だろう。ラストには紙細工が本物の蝶になって消え去るというトリックがあった筈だ。風に舞う紙が蝶に変わるというとオカルトじみてくるが、あるいは途中で本物の蝶にすりかえるか、冬眠させた凍蝶(いてちょう)を使って、風で舞わせた後で眠りを覚醒させたのかも知れない。いずれにせよ、見事な技芸であった。  話をもとに戻すと、幕末以来多くの日本人が海を渡った。大半は西洋文明移入のための政府高官や役人あるいは留学生であったが、その中でも特異なものに旅芸人がおり、大正末期までの六十年間には膨大な人数となる。その多くは目的地で好評のばあい当初の計画より長旅となり、渡航先での滞在数年のものも少なくない。ほとんどが無名の人々だが、その中で後世に名を残すほどのスパースターが天勝と貞奴であった。天勝については章を改めて記すので、まずは貞奴である。 
3
無鉄砲にも程がある──という言葉に従うならば、程度をわきまえないケタはずれの無鉄砲は川上音二郎と女房の貞奴であった。やりくり算段の結果、猿や熊や狸まで居る小動物園を併置した洋風建築の川上座を建てたまではよいが、高利貸しに追われるのみならず、座員は給金が低額のための不満から大半が離れてしまう。川上座を抵当にまたしても金を借り入れ国会議員に立候補して起死回生をはかるが、これも落選。せっかく手に入れた川上座ばかりか新居の洋館までも差押さえられてしまった。ここまでなら特別の話ではない。問題はここからだ。門下達の劇団との合同公演の失敗もあって捨鉢になった音二郎は、貞奴をともない商船学校から払下げの十三尺(四メートル)の短艇(ボート)『日本丸』に乗って、あろう事か、海外脱出を成そうとする。音二郎は海外渡航経験が無いわけではないから、正気の沙汰とは思えない。
面舵(おもかじ)と取舵(とりかじ)の区別もつかないズブの素人の、しかも行先も決めてもいない旅である。明治三十一年九月十日に築地河岸から漕ぎ出したまではよいが、外海に出てからは荒海にもまれ、おりから二百十日の強風もあって小船は膝までの浸水。死を覚悟したあたりで、軍艦『富士』の灯を港と錯覚して横須賀軍港に迷い込み一難を逃れた。軍港部長の説諭(せつゆ)のかいも有らばこそ、猪突猛進(ちょとつもうしん)の二人は密かに『日本丸』に乗り込んで港を脱出。やっと辿り着いた先は伊豆の下田港。音二郎は豆と打撲傷で血だらけの満身創痍、貞奴は腰が抜けた上に差込み襲われる有様。九月十五日の『時事新報』は紙面に、<一葉の扁舟に棹して/川上音二郎米国へ押渡る算段/狂気か暴か判断つかず>──と見出しを掲げ、なかば呆(あき)れ口調で二人の粋狂を論じている。
それでも二人はその後も航海を続けて、天竜川の河原に打上げられたり、アシカの群に転覆させられそうになったりしながらも、船が神戸港に辿り着いたのは翌年の一月二日。着くや否(いな)や音二郎は大量の吐血をして病院に担(かつ)ぎこまれてしまった。暴挙としか言いようの無い海外脱出計画が、あわや水泡に帰するかと思われたやさき、療養先に国際興行師の櫛引弓人(くしびきゆみんど)から米国巡業の話が持ち込まれる……。
音二郎・貞奴の伝記を読んでいると、強烈な個性のブツカリ合いのせいも有るのだけれど、絶えずハラハラ・ドキドキの連続で飽きる事がない。急転直下に天と地が入れ替わるジェットコースターなみの人生遍歴である。しかも双六で遊ぶかのように屈託が無く、欧米へのコンプレックスがほとんど感じられず、どんな悲惨な状況でも、妙に陽気で賑やかでドライである。これは天勝・天一のコンビにも共通する芸人独自の気質と言えようか。抱月・須磨子とは正反対である。
それはさておき、明治期において巡業を含め四度も欧米を視察し、本場仕込みの海外演劇の息吹を最も直接に大衆に伝達したのは、壮士芝居の開祖である川上音二郎をもって嚆矢(こうし)とする。坪内逍遥をはじめほとんどすべての演劇人は本場の舞台を観た事もなく、洋書だけをたよりに沙翁(シェイクスピア)を論じオペラを語り、演劇改革をいまだ画策していた時代の事である。
旧劇(歌舞伎)に対する新劇(現代演劇)の父でありながら音二郎への歴史的評価は、キワ物めいた山師的側面ばかりが強調されがちであった。音二郎の演劇改革については後で記すとして、出たとこ勝負の腹芸と強運、眼から鼻に抜けるような頭の回転の良さ、わけても貞奴というジャジャ馬を乗りこなす名伯楽(はくらく)ぶりは音二郎一流のものだが、海外での成功の大半はゲイシャ貞奴のアイドル性に負う所が大きい。各国王族・大統領・舞台人・芸術家等々をむこうにまわして国賓なみの歓待と賞賛を受け「ヤッコ・ドレス」まで発売されるまでのブームともなると、単なるジャポニズムだけの興味とは言いがたい。
海外には<女優>があるのに川上一座に女形しか居ない事を指摘された音二郎は、事のなりゆきから嫌がる女房の貞奴を説き伏せて女優に仕立てあげる。こうして冗談のように海外の地で近代日本演劇史の女優第一号が誕生するのだ。寛永六(一六二九)年将軍家光時代、風紀を乱すとして女舞(おんなまい)・女歌舞伎が禁圧されて二百七十年間、日本演劇に登場する女性はすべて女形が演じてきた──とされるのがアカデミズムの演劇史の定説である(歴史書にはほとんど記されていない貞奴以前の明治期の女歌舞伎については後に別項で記す)。
日本での貞奴の初舞台はそれから二年後、明治三十六年の明治座公演のシェイクスピアの翻案劇『オセロ』である。ゆくりなくも女優になってしまった貞奴は、明治四十四年音二郎の死とその後七年ばかりの引退興行(大正六年明治座公演『アイーダ』)まで、女優業にいそしむ事となる。 
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川上貞奴は日本橋両替町で書籍商と両替商を兼業し、町役人もつとめる小山久次郎・タカ夫妻の十二番目の子として、明治四年七月十八日に生まれた。本名は貞である(以下しばらく「貞」と記す)。貞は七歳の時に家が没落したために、口減(くちべらし)として日本橋住吉町で芸者置屋『浜田屋』を経営する浜田可免(かめ)の養女になった。可免は二十九から後家を通して来たしっかり者で、置屋の女主(おんなあるじ)になる前は亀吉という強情とお侠(きゃん)でならした木遣(きゃり)のうまい芳町(よしまち)芸者であった。貞は養女としての期待もあって、幼時からあらゆる稽古事を厳しく仕込まれ、十二歳で雛妓(おしゃく 半玉)に出て子奴(こやっこ)、十六歳で一本立ちとなって奴(やっこ)を名乗った。
ここで断っておかなければならないのは、貞は芸者であって遊女ではない。生家の家庭事情で置屋の養女になったとは言いながら、また、生家に幾ばくかの金銭が支払われた事は確かだと思われながらも、借金のカタとして売買され、返金が終わるまでの年季奉公(ねんきぼうこう)をしているわけではない。芸者にも売淫(ばいいん)は付物だが、遊郭の花魁(おいらん)を含めた娼妓(しょうぎ)(註1)のように廓(くるわ 土や石のかこい)の中に幽閉されている《性の奴隷》ではない。あくまで芸が建前(たてまえ)であり、仕事さえ熟(こな)されておれば自由のきく立場で、一般人と何ら変わりない《芸者》という職業にすぎない。わけても芳町の「奴」という名前は新橋の「ぽんた」とならんで、花柳界(芸者の世界)でもキワメツケの芸者にしか与えられない名跡(みょうせき)である。初代の奴は、論客であった福地桜痴(ふくちおうち)(註2)に愛されたが、結核のために早逝(そうせい)している。名妓(めいぎ)の名はヤスヤスと後継者には継がせないのが花柳界の慣習(しきたり)だった。その名を襲名するに当たっては名跡を恥ずかしめぬ容貌と芸の技量の他に、しかるべき後盾(うしろだて)を必要とした。そのため養母の可免は、贔屓筋(ひいきすじ)の政財界の御歴々(ごれきれき)の中から時の総理伊藤博文を選び出す。
当時は現代と違い、政財界人の色事に関するゴシップは新聞を賑(にぎわ)す日常茶飯の記事(スクープされるほどの事件ではない)であり、御用新聞ではない赤新聞(註3)の政治批判の好餌(こうじ)ではあったが、それは現在のように秘密を暴露するスキャンダルではなく、週刊誌の芸能記事のように、いたって公然のものであった。わけても当時の伊藤博文は北里柴三郎と並んで、花柳界の漁色家の代表であった。この二人ともに相手の容貌には一切無頓着の質より量の豪傑で、芸者を総揚げしたら、順ぐりにブルドーザーなみの総浚(そうざら)いで、まだ生娘(きむすめ)の半玉(はんぎょく)などは蒲団部屋に隠れなければならないような乱痴気騒ぎの常習犯であったというから、今風に言えば少し困った明るい助平親父(すけべおやじ)であったわけである。むろん、これらの事はとりたてて新聞種にもならないし、伊藤側でも隠そうとしない、誰もが巷(ちまた)の噂で公然と知っている、当時の普通の政治家らしい不行状(ふぎょうじょう)であった。明治という時代は、酒乱のイキオイで理由なしに妻を斬殺してしまった黒田清隆(註4)くらいでないと《事件》にならないような、いたってルーズな時代であったのだ。政治家は政治面は別として私事に関しては、芸能人と同じようにプライバシーの存在しない、毀誉褒貶さまざまな人気稼業であった。
こうして雛妓であった子奴は水あげ(註5)された伊藤を後盾として奴となり、わがままいっぱいの芳町芸者として育っていく。その自由奔放さは留まる事を知らず、馬車屋から馬を借りて乗り廻す、役者狂いはする(註6)、玉突き・花札賭博(とばく)はアタリマエ。隅田川で女だてらに「水泳ぎ」までする御転婆(おてんば)ぶり。しかも当時は日本製の水着など存在せず、白昼堂々と裸に晒(さらし)を巻いたような姿(なり)で貞奴は平気だが、周囲はあわてざるをえない。伊藤はなかば面白がっていたのだろうが、「下ばきに、長袖つきのワンピースを組み合わせたような、舶来物の水着」を買い与え、欧米渡りのハイカラな避暑法であり健康法として有閑階級で流行のきざしが見えてきた海水浴を貞奴に提案し、別荘のあった大磯の濤竜館に連れて行く事が多くなった。韓国統監を決めるような、国家の一大事の決議の席にも芸者をはべらせるのが当時の通だったようだから、これは批難するほどでもないかも知れないが、大日本帝国憲法草案作成のおり(明治二十年夏)にも、伊藤は神奈川県夏島の別荘に貞奴をともなっている。

註1 売淫を公許された公娼(こうしょう)。無許可のモグリは私娼(ししょう)であり、「娼妓」とも「遊女」とも呼ばない。一般に後者は「売笑婦」と呼ばれた。公娼の廓(くるわ)のある地域を赤線、私娼窟のある地域を青線と呼んだのは、この時代より光年の事である。
註2 本名は源一郎。明治初期から末期にかけての小説家・劇作家・ジャーナリスト。衆院議員など肩書き多数。十五歳より蘭学を学び江戸へ出て英学を修得。幕府に出仕して通訳・翻訳に従事。明治元年佐幕派(さばくは)の新聞『江湖(こうこ)新聞』発刊。新政府から逮捕されて発禁。三年に渋澤栄一の紹介で伊藤博文に会い意気投合。伊藤の渡米に随行。四年の岩倉具視の米欧巡遊にも書記官として参加。七年東京新聞主筆となり自由民権派批判の筆をふるう。御用新聞という悪評の反面、社説は好評。十五年立憲帝政党を組織。以降の政財界活動は省略。二十二年歌舞伎改良を提唱し歌舞伎座を建築し座主となる。九代目団十郎と意気投合し、改良史劇を続々発表。明治三十九年没。
註3 マルクス主義とは直接の関係はない。新聞購読料を低廉(ていれん)にするために、各新聞が競って安価販売合戦を繰り返した結果、だんだん紙質が悪くなり紙面の地色(ぢいろ)が赤かったのが名前の由来。日本の探偵小説の開祖のひとりである黒岩涙香(るいこう)(※)が社主であった萬朝報(まんちょうほう)(ヨロズ重宝のシャレ)などが代表的。通称「マンチョー」の主筆は涙香であったが、涙香の他に多くの論説を執筆したのは幸徳秋水である。
 ※ 明治を代表するジャーナリスト。本名は周六。「まむしの周六」と呼ばれるほど、その筆鋒は鋭く、政財界から恐れられた。『噫無情(ああむじょう)』『巌窟王』を代表作として、『死美人』『白髪鬼』『幽霊塔』などの翻案探偵小説、SF小説の魁(さきがけ)である『暗黒星』などの他、『天人論』『小野小町論』など著作多数。都々逸(どどいつ)や連珠(れんじゅ)(五目ならべ)の大衆普及にも貢献した。音二郎の選挙落選を「河原者のぶんざいで‥‥」と涙香がクサしたため、逆上した音二郎がピストルで涙香を暗殺しようとつけ狙った事件もあったが、伊藤博文の金庫番の金子堅太郎男爵(音二郎・貞奴の仲人)の説諭で事なきを得ている。
註4 戊辰・西南戦争の官軍参謀。北海道・樺太の開拓長官を経て、農相・逓相・首相・枢密院議長を歴任。黒田を含めて、井上馨・井上毅・西園寺公望や若き日の牧野伸顕なども貞奴の贔屓客であった。
註5 花柳界の伝統で《処女》を売買する経済制度。買手は多額の水あげ料を支払い、多くの場合、いわゆる芸者の旦那(だんな)になる。
註6 芸者はパトロンの独占ではないから、貞奴の場合も伊藤の体面を損ねないかぎり、かなり寛大に見られた。中村芝翫(しかん)(後の歌右衛門)、尾上栄三郎(後の梅幸)や横綱小錦などと、浮名を流す。 
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貞奴の御乱交には実のところ理由があった。気位の高いワガママはもとよりだが、少々捨鉢気味に見えるのには、ある経緯(いきさつ)が有ったのだ。
貞奴がまだ半玉の頃、成田詣での帰途、野犬の群れに襲われ、騎乗した馬から振落とされそうになった事があった。それを救ってくれたのが慶應義塾の学生・岩崎桃介(ももすけ)であった。この桃介に貞奴は商売ぬきでゾッコンになってしまう。ところがこの桃介、貞奴を憎からず思っていた事は確かだが、遊びはともあれ芸者を女房にしようという気はさらさらない。
埼玉県荒子村で農業と荒物商を営む家に明治元年生まれた桃介は、将来、大実業家になることを夢見ていた。頭脳明晰・容姿端麗・加うるに実用を重んじ、他の塾生を違って常に洋服を着用していた桃介は、当時の最も進歩的で合理的な学生であった。これは師である福沢諭吉の影響もあるのだが、ある面、非情で功利的あることを意味する。桃介の考えからすれば当然に、妻帯するにあたっても、自身の将来的地位をオトシメぬ然るべき処から‥‥という思いがあった。博文をはじめとする明治の元勲(げんくん)の多くのように、芸者を女房にする時代ではないと考えていた。幸いというべきか、桃介の策謀も有ったのだか、塾長の諭吉の娘ふさ子が桃介に夢中になった。そして暫くジラした後で桃介は、当然のように養子縁組をし、結婚を前提として諭吉を後盾にアメリカ留学をしてしまう。
渡米した桃介は福沢家の財産を浪費して、女性関係も華やかに遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)。その噂も諭吉の耳に入るが、御乱交を隠そうとしない婿養子の度胸に、かえって新時代人の頼もしさを感じたのが実情のようだ。門閥(もんばつ)を持たないがための功利的な理由で福沢桃介になったにしても、その功利主義は諭吉直伝のものであった。一般の父親のように娘への溺愛から状況判断を誤る諭吉ではなかった。また桃介も、遊びは派手であったが福沢家の体面を損なうような男ではなく、万事落度(そつ)無く熟(こな)した。帰国後は諭吉の紹介で北海道炭礦鉄道会社に就職。結婚したふさ子を伴って札幌に就任。その後の桃介は結核などによる人生の浮沈さまざまあれど、さすがに諭吉が見込んだ男だけあって、自力で結核すらも克服。知力と胆力をモトデに明治の戦勝景気の波に乗り、日本屈指の相場師に成り上がる。王子製紙の重役をはじめ数々の要職についたが、特に電力界の雄として斯界(しかい)に君臨する大実業家になった。ついでながら、その膨大な事業のホンの一端が帝国劇場の経営であり、帝劇会長であった事もあった。
話をもとに戻そう。桃介に袖にされた貞奴は役者狂いも激しくなるばかり。パトロンの博文にしても、貞奴が〈浮気〉の間は大目に見ても居られるのだが、桃介の場合は〈本気〉であり、しかも貞奴が蔑(ないがし)ろにされたこともあっては、後盾としての沽券(こけん)にかかわる事であった。しかも相手は社会的地位もない二十(はたち)にも満たない学生であり、断りの理由が、芸者を妻には出来ぬ──とあっては、芸者を妻にしている博文にとって面白くある筈もなかった。  また私見ではあるが、明治十四年の国会開設に関する政変以降には博文と袂(たもと)を分かった大隈重信一派の参謀と目されたために、博文が政府新聞を、当初予定だった諭吉に任せなかった事情から考えても、桃介に対する博文の思いには、義父である諭吉の裏切りに対する反感も二重になっていたと考えられる。また、かなり込み入った話だが、この政変時に博文一派であった福地桜痴が自由民権派に担ぎ上げられて、民権派の旗手にされてされてしまい、中途で人気絶頂にもかかわらず博文の意向から慌てて矛(ほこ)を納め、もとより反意は無かったために博文の同調者(シンパ)に舞戻る経緯があるのだが、この桜痴の諭吉に対するライバル意識が、少なからず貞奴の一件に関しても影響を与えていると私には考えられる。  貞奴が音二郎と出会ったのは『明治を駆けぬけた女たち』(中村彰彦編著)によれば、失恋の痛手から芝居通いが始まり、貞奴が音二郎を見染めた事になっている。また杉本苑子の小説『マダム貞奴』では、大川で水泳中に溺れかかった貞奴を音二郎が救い出す、きわめて魅力的なトップシーンから幕を開ける。しかし杉本苑子・渡辺淳一対談によれば、この場面は創作であるという。つまり『旅芸人始末書』をはじめ類書にあたっても、二人の初対面が何時何処(いつどこ)であったか記されていないのである。
ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。
私の憶測によれば、貞奴を中に挟んだ桃介と音二郎の一件は、政党以来対立する伊藤を大隈、幕末以来ライバル関係にある福地と福沢の、プライドを懸けた代理戦争であったと思われる。文久元年(一八六一年)遣欧使節で同行以来、福地源一郎(桜痴)と福沢諭吉の二人は翻記官や通訳官として、明治五年頃までに洋行三四回の日本屈指の西洋通であった。その先鞭は万延元年(一八六○年)の威臨丸で渡米の諭吉が一年はやいが、回数なら桜痴が勝る。共に幕臣であり、階級としては七歳下の桜痴の方が上であった。明治十一年に桜痴東京府会議長時代、副議長を辞退したのは諭吉である。しかも諭吉の自伝や著作には、接触の多かったはずの桜痴の名が、タダの一度も登場しない。明らかに眼の上のコブであったのだ。洋行以来の芝居通であった桜痴が演劇改良会を起こすのが明治十九年。諭吉年譜には二十年の項目に、〈新富座で初の芝居見物〉──とあるのは、ただの偶然とは思えない。明治二十二年桜痴は歌舞伎座創設。対するに諭吉の養子桃介は、後年帝劇会長に納まっている。桜痴・諭吉ともに没後であるが、欧化主義者で脱亜論者の諭吉の面目を、実業家の養子である桃介は、こうした形で果たしたのである。 
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芝居通いをするうちに、いつしか音二郎一座の楽屋にも出入りするようになった貞奴は、ある夜音二郎をともなって向島にある大倉喜八郎の別邸に行き、三日間籠(こも)って相互の気持を確認。以下、中村彰彦の著作に従えば、「奴は養母・可免に音二郎と結婚する、と告げた。可免は伊藤の承諾を得た上で、その秘書官・金子堅太郎に晩酌の労を取ってもらった」──という。場所まで明確だから会合の一件は確かだろうが、それ以前に貞奴が楽屋に出入りするほど音二郎と親しかったかどうかは、いずれの評伝においえも推測の域を出ないと私は考えている。
大倉喜八郎は財閥解体までの日本屈指の政商で、後の帝劇創設時の役員でもある。その息子の喜七郎(七に傍点)が日本オペラ界のパトロンになるのは、もう少し後の事。いずれにせよ大倉の別邸は、一般人が通常に軽々しく利用できる所ではない。伊藤博文その他の政治家が、しばしば密談に利用していたような場所である。音二郎と夫婦になる事は、貞奴ひとりの対面を繕(つくろ)う私事というより、博文を巻込み、特に勝気な可免のプライドをかけた、桃介へのシッペ返しであったと考える方が、より正確であろう。この頃の桃介は福沢の後盾がありながらも、まだ頭角をあらわす以前の青二才にすぎない。芸人といえども音二郎は、東京きっての人気者に成っていた。おそらく、音二郎が古くからの(古く〜 傍点)馴染であった──という《物語》を捏造しないかぎり、貞奴はもとより、芳町の置屋の女将としての可免の対面は保てなかったのではないかと、私は考える。そうでなければ会合に、なぜ三日も手間取るのかわからないのである。
以降は音二郎の死に到るまで、桃介の運が向いてくると音二郎が零落し、音二郎が隆盛を極めると桃介の結核が再発する……といった、シーソーゲームのような関係を維持していく。勝気で気位の高い貞奴にしてみれば、心中深くに桃介への未練があるだけに、桃介への対抗意識が後々まで残されるが、音二郎の方のライバル意識は希薄で、人間万事塞翁(さいおう)が馬と慌てず騒がず鷹揚(おうよう)に過ごしている。それがイザ窮地におちいると、無類の勘の良さで方向転換し、明治の荒波を乗越えていく。
川上音二郎は明治元年(一八六四)に博多で生まれた。十三才で出郷後、寺の小僧、慶應義塾の学僕、裁判所給仕、洋傘直し、巡査などの職を転々として、明治十六年頃に帝政党員となる。ところが政談演説で官憲を謗(そし)ったため入獄。その間に帝政党は解散。出獄した音二郎は、あらためて自由党に入党し、滑稽政談を得意とする「演舌つかい」として自由童子を名乗る。またも懲りずに壇上から「官史」を「官ちゃん」呼ばわりする等、官吏侮辱罪その他で検挙される事百七十数回。実刑二十数回におよび、あらゆる政治活動を禁じられてしまう。明治十九年に大阪の監獄を出た時には、桜井典獄の説諭に従い、丸坊主になり自由童子の名を捨てている。当時の人気がどれほどであったかは、後に、浪速小僧・明治浪人自由童子・国洗坊自由童子・自由浪人・自由狂子などの亜流を多数生み出した事からも想像できよう。
さて、これからだ。政治活動を禁じられた音二郎は、一般的に蔑(さげす)まれていた芸人の世界に身を投じ、芸能をカクレミノにして世相の憂さを晴らそうとする。明治二十年京都阪井座で歌舞伎役者の中村駒之介座に加入し『東洋のロビンソン 南洋嫁ケ島』を上演。詳細は不明だが、「川上しきりに弁じ」たらしいから、かなりアジ・プロ色の強い芝居(あるいは政談?)であったろう。これが音二郎の芸人としての初舞台である。つづいて神戸の戎(えびす)座で『改良演劇西洋美談 斎武義士自由の旗揚』を上演し、大当たりをとる。音二郎は政談演説のときと同じく、収益のすべてを白米にかえ、京都でも大阪でも生活に苦しむ人々に分け与えた。この後、明治二十二年には岡山市の常盤座で、朝鮮の改革を図ろうとした大井憲太郎らの大阪事件に取材した『美人一滴の血涙』を上演し、その事件に連座した福田英子の自伝『妾(わらわ)の半生涯』によれば、「此芝居見ざれば、人に非ずとまで思はしめ、場内毎日立錐の余地なき盛況」という有様(註1)。
ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。
さて、音二郎と言えば『オッペケペ』だが、これが登場するのは明治二十二年の京都であるらしい。一種の時局風刺の替歌で、明治二十四年から日清戦争にかけて新作も数多く、後年の東京公演でも大評判であった。他の替歌と区別されて、特別に『川上節』とも呼ばれた『オッペケペ』は、単独での上演は無く、かならず人情噺や演劇のあとに付け加えられたもので、観客をリラックスさせ、芝居や噺の印象を際立たせるための、いわばオマケであった。そのオマケの方で名声を博するあたりが芸能の面白いトコロである。
この頃の音二郎は、人気は鰻登りながらも、いまひとつ腰が座らない。政談・講談・落語・にわか・歌舞伎(註2)の間を転々としている。京都・新京極の笑福亭を本拠に浮世亭○○(まるまる)を名乗り、明治二十三年『時世情談』として『自由艶舌鯉之活作(てまえりょうりこいのいきづくり)』を上演。当時の実在の壮士を主人公に、市民社会の規範や明治青年の心意気を折込み、民主主義の根本理念を語った《話芸》のようである。これが当りに当った。京都市民を沸かせて昼夜の満席状態。席亭は黒字を一万何千円もモウケたというから尋常ではない。現在の一億円以上に相当するであろう。大不況の最中「夷谷(えびすや)座女芝居(註3)と笑福亭川上音二郎一座の落語」だけが大入り(『日出新聞』明治二十三年五月十七日)となり、京都芸人の頂点に音二郎は立った。
次に目指すは関東制覇である。

註1 彼女自身の批評としては、「一見の値ひなきもの」──と記している。
註2 いまだ新劇としても形にならない状態のものだったため、仮に旧劇の歌舞伎に分類しておく。
註3 年代を見てわかるとおり、ほとんどの演劇史で、この時代には女優が居ない事になっている。すべて女形が演じていたというマコトシヤカな説が常識になっている。ところが大衆に愛されて女芝居つまり女歌舞伎が、大威張りで大衆芸能の王座に君臨していたのである。同時代では西洋魔術のみが女歌舞伎と張合った位であるという。ちなみに再説すれば、貞奴の日本での初舞台はこれより十三年後の明治三十六年である。 
7
〜権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
堅い上下(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車、いきな束髪ボンネット。貴女(きじょ)に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポーポー。
米価騰貴の今日に、細民困窮見返らず、目深(まぶか)にかぶった高帽子、金の指輪に金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には米を蔵に積み、同胞兄妹見殺しか、幾ら慈悲なき欲心を、余り非道な薄情な、但し冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使こうて極楽へ、行けるかい、行けないよ。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
ままになるなら自由の水で国の汚れを落したい。オッペケペ、オッペケ。(中略)
散切(ざんぎり)頭に白鉢巻、陣羽織を着て日の丸を片手に、軽快な七五調でリズミカルに弁じたてるのが『オッペケペ』(『オッペケペ節』とも呼ばれた)である。まずはスタンダードを記したが、時局に合わせて作詞が変わるのはモチロン、おそらくその場の状況で、かなりのアドリブも有ったと考えられる。風刺や煽動にとどまらず、ヒョイと観客に突込みを入れるあたりが音二郎の芸人らしさで、話芸ではないが役者が芝居の中で観客にイキナリ語りかける手口は、歌舞伎の口上にも通じる常套手段であった。(註1)
このオノマトペともつかぬ『オッペケペ』には、実は前史があり、笑福亭時代には「ヘラヘラ、ハラハラ」という合の手を、音二郎は巧みに使って大受けしたらしい。当時の芸人のヘラヘラ坊万橘の囃(はやし)言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラへ、オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」──を単純化し、言わば盗作したものだが、当時は著作権というものは存在しなかった。「鼻下長のお利口連は勿論、丁稚に下婢に番頭に旦那に奥さんに僧侶神主まで、ヘラヘラハラハラといいだす様になって、大流行」(『日出新聞』明治十九年四月十六日)──で、それに改作を加え出来たのが『オッペケペ』らしい。
こうした時局風刺の話芸は、元禄期前後(十七世紀末)に心中ものの芝居が流行し、それをもとにした絵草紙を売るのに、筋書きを謡や小唄に節をつけて売り歩いたのや、それと同時期に、世間の出来事などを報じた絵入りの『瓦版』(註2)の売り子が、事件のサワリを唄のように節を付けて売歩き『読売』を呼ばれたのを起源する。香具師(やし)の売り口上などもその発展形態だが、『オッペケペ』以降の、壮士くずれが流行歌の歌詞やアジ・プロ的創作歌曲の歌詞を口演しながら売歩いたのも、その系譜に連なるものである。大正期の演歌師・添田唖蝉坊(あぜんぼう)の『ラッパ節』『ノンキ節』などが、その流れと言ってよい。発達史としては『瓦版』以前からある説教師の説教話芸や、特にそれが通俗化した阿呆陀羅経を唱える願人(がんじん)坊主の祭文(さいもん)・ちょんがれ・浪花節などが混入して展開されたものと考えられ、いずれも芸能と商売と政治宗教思想宣伝(プロパガンダ)が混在した、ジャンルとして規定できない行為をともなった話芸(パフォーマンス)であった。
さて、音二郎一座の関東初見参は、明治二十三年八月横浜蔦座公演『明治二十三年国事犯顛末』と『松田道之名誉裁判』の二本立て。もちろん『オッペケペ』も演じて十五日間満員。『国民新聞』『東京日々』『東京朝日』などが、「書生芝居(註3)・滑稽演劇家川上音二郎大人気」──と、盛況ぶりを報じている。そこを振出しに九月は東京・芝の開盛座・「書生芝居、太鼓を叩きまわる、一行凡そ三十二、三人」(「国民新聞」九月十二日)「芝開盛座、再び停止を喰わば荒事の活劇を覚悟」(同九月二十三日)──と、新聞が過激な記事を掲載。少し注釈を加えれば、前の記事は、公演に際してデモンストレーションとして行った仮装(コス・プレ)によるパレードを報じたもの。当時は相撲巡業の他は《触(ふ)れ太鼓》による到来を告げる公演がなかったため、芝の住民は時ならぬ太鼓の音に、イッセイに大通りに飛び出したらしい。「川上音二郎一座」や「開盛座」などの幟旗(のぼりばた)を押し立て、人力車三十数台に壮士風の一団を連ね、役者名の小旗のはためく中、音二郎は白の毛皮を座席に敷いて、紺のカスリに鳥打帽のイデタチで、自信満々の様子であったという。後の記事は、警視庁の脚本検閲でひともめ有った一件を報じたもの。たとえ《芸能》に名を借りても、政治的主張への官憲の追求はキビしかったのである。
この開盛座でも十日間の大入りを記録。イキオイをかりて浅草文楽座での演説会も立錐の余地が無い有様。徳富蘇峰(そほう)の『国民の友』は、「演説壇上、滑稽を弄して笑を博し、竹刀を振りて興を添ゆ、講釈師? 演説家? 忽ちにして俳優、忽ちにして鳴物入りの演説家、知らず俳優? 演説家?」──と、驚きの色を隠せない。型破りの新人種(パフォーマー)の出現に、それを発火源として壮士の芸人化がワレモワレモと始まった。壮士伊藤仁太郎転じて政治講談師・伊藤痴遊(ちゆう)などがこうして生まれて来る。四年前のナニワの自由童子の復活である。サア、これからだ。

註1 メイエルホリドなどの二十世紀初頭の前衛劇が、おそらく書物からの知識によって、日本の歌舞伎や雑芸から採り入れたのは、西洋演劇の発想にはない、舞台から垂直に伸びた花道や客席からのカケ声などの、演者と観客の壁を取払う、こうした方法論であった。郡司正勝が『演劇の様式』(昭和二六)の中で言うように、西洋の「頭脳の演劇」と違って日本の歌舞伎は「感覚の演劇」であり、漱石の歌舞伎観(※)を踏まえ、新劇の立場からすれば「きわめて低級な芝居というほかない」──としながらも、その伝統的な手法にある、西洋演劇の発想を越えた歌舞伎の、むしろ古めかしさの中に混在する前衛性を主張するのは、こうした点からであろう。
 ※ 「極めて低級に属する頭脳を有った人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応えるために作ったもの。」
註2 粘土板やツゲの版木、あるいは餅やコンニャクなどに文字を彫り、墨を塗って印刷した新聞や宣伝ビラの原型。語源は素焼き粘土板のカワラからという説と、四条河原での芝居を知らせる摺り物に、こうしたものが多かったからという説。また売り歩く多くの者が、役者等の《河原者》であったからという説などがある。
註3 いまだ新劇が成立していない時期のため、書生あがり・壮士くずれが演じる素人芝居を書生芝居・壮士芝居と呼んだ。自称・他称の場合がそれぞれにあるが、画然とした相違が有るわけではなく、新聞表記などでも同じ公演に二つの名称が各誌バラバラの無手勝流で記されることが多い。一般的には両者を壮士芝居と総称する。評伝『女優貞奴』の著者・山口玲子は、音二郎が《自称》したとしているが、根拠とするデータが新聞記事だけのため確証とは言えない。ただし書生あがりの壮士くずれである音二郎の自称とすれば、旧時代人の「くずれ」より新時代人の「あがり」の好印象の方を、ネーミングとして採用したことであろう事は確かである。 
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壮士芝居の歴史は明治二十一年十二月角藤定憲(すどうさだのり)が、中江兆民などを顧問とし《日本改良演劇》と銘打って旗揚げしたのが最初とされている。劇団名も《大日本芸劇矯風会》と大変イカメしい。演目は『耐忍之書生貞操の佳人』『勤王美談上野曙』の二作品。翌年の京都公演の頃にはユニフォームも揃いの黒紋附に白縮緬の兵児帯、白布のうしろ鉢巻という壮士風のスタイルに定着する。以来角藤は《新演劇元祖》や《元祖大日本壮士改良演劇会》を名乗りつづける。
ズブの素人が演じる芝居だから、かねて角藤が写実の巧者と私淑する中村宗十郎に演技の教えを乞うたが、「堅気の人間は毛をたてて恐がって居る転(ごろ)つき壮士だから」と最初は断られる。しかし弟子の中村丸昇が演技指導を代行する事になった。明治の市井の出来事をリアルに活写するのが角藤の意図だったから、車夫役は三日も市中で俥(くるま)を引廻し、按摩役・乞食役それぞれ実地体験していく演技収得法であったらしい。官憲の圧迫を逃れ芝居に仕組んだ政治宣伝を意図とし、いっぽうで無職の青年壮士に職を与え救済するという涙ぐましい目的もあった。ところが関西ではかなりの成功を収めた角藤の壮士芝居も、関東での公演まぎわに政治的圧力でお流れになり、初東上の二十七年には、すでに音二郎一座が地盤を固め、それを追い抜く力を持たなくなっていた。そうした角藤を音二郎はツブサに観察し、観客の反応を研究して来た筈である。
私見によれば角藤の関西での成功は、土佐を中心とする自由民権思想の普及が関西以西では根強かった事、演技の未熟さにくらべリアルな生真面目さが好意的(場合によっては滑稽)に受けとめられた事があげられると思う。それがすぐさま関東で受け入れられなかったのは、地元贔屓(びいき)が得られない事と、自由民権思想の普及力の違い。壮士劇の未熟なギコチ無さが洗練を要求する東京の排他的な庶民文化の中でヤボったく見えた事。壮士劇の強面(こわもて)な体質が女性客を集めなかった事。そして最大の原因は、演技力とは別に要求される、或時(あるとき)は高圧的に或時は謙(へりくだ)る芸能的センスと、バラエティーに富んだエンターティメント性の欠如であったと思われる。
角藤の持ちえなかったそうした技量を、音二郎は確かに持っていた。明治二十四年、音二郎は浅草の大劇場中村座で『板垣君遭難実記』を上演する。当然オッペケペも唄い、清元もうなり、大切りでは役者連総出のステテコ踊りの賑やかさ。観客に芸者衆なども交えて、東京中の話題となるほどの大盛況。演目は中幕に『監獄写真鏡』をはさんで二番狂言『勧懲美談児手柏(かんちょうびだんこのでかしわ』大切り『花柳噂存廃(はなやなぎうわさのあるなし』で全幕。歌舞伎と同じ配列だがすべて新狂言である。「さあさあ、板垣君遭難実記、岐阜中教院玄関の場がはじまるよッ、板垣退助に扮するは、いま売り出しの青柳捨三郎、刺客相原が川上音二郎ッ、板垣死すとも自由は死せず、手に汗にぎる殺し場だあ、さあ幕があくよッ、はいったはいったァ」----呼び込みの声に従って、当時の中村座を覗いてみよう。引用は杉本苑子の『マダム貞奴』から、改行無しの大車輪(はやおくり)。
川上扮するところの刺客相原は、おどりかかって板垣を刺す。ここで例の、/「板垣死すとも自由は死せず」/をやるのかと思うと、そうではない。組んでは倒れ、起きあがってはまた組みつき、五度も六度も格闘をくり返すあいまあいまに、自由民権思想について両人が、泡をとばして論じ合うのである。(中略)相原が板垣の髪の毛をひっつかむ、それを下から板垣が二間も先へはねとばす。ドシーンと舞台の板が鳴る。様式化した歌舞伎の立ち廻りにくらべると写実そのものだ。(中略)----ところへ珍事が突発した。板垣が、/「ろうぜき者ッ、出あえ」と声をあげるのを聞いて、中教院の中からばらばら人がとび出し、相原と大乱闘のさなか、巡査二人をしたがえて警部が花道を駆け出してきたのだ。そのまたあとを、中村座の頭取があわてふためいて追ってくる‥‥。(中略)平土間の見物は床板をふみ鳴らし、/「官憲横暴ッ」/と絶叫しながら、花道めがけて殺到しようとした。/舞台番が、泡をくってとび出してきた。/「頭取さん、ちがうよッ、ちがう。そのお巡りは役者だ。狂言だよッ」
杉山誠の論文(註1)では開場初日のハプニングらしいが、杉本の小説では頭取と舞台番まで含めた全員がグルの《演出》になっている。あるいは初日の客の反応から、音二郎によって新しく書き加えられた趣向かも知れない。他にも『マダム貞奴』には役者の扮した巡査が、刺客相原の公判場面で平土間の観客(実はサクラ)に、「こらッ、公判傍聴中に、帽子をかぶるちゅうことがあるのかッ」----と叱り、「へい、ごめんなさい」-----と帽子を脱いで、場内の割れんばかりの拍手喝采もあったらしいから、これを杉本の創作でないとすれば、こうした演出は意外さをねらった物ではあっても、日本の芸能では前衛的というより従来よりの常套手段であった気配が読みとられる。前出の杉山論文『新派劇』には、「頭の床を打つ音、ドンゴツンと遠き桟敷にまで聞ゆる程(中略)実地活歴もここまで遣って見せて貰えば見物も確かに合点するなり」----という、出典記載の無い文章があり、おそらく生傷の耐えないリアルな舞台であった事が想像される。そうした雰囲気をデータの集積の上に空想を交えて、場合によっては事実以上に本当らしく杉本の『マダム貞奴』は伝えている。それが大変に面白い。
いずれにせよ音二郎の成功によって、演劇といえば歌舞伎に限られ、役者の一族が特別のコネでも無ければ役者になれないと考えられて来たのが一変し、素人でも役者になれる時代が到来した。数多くの俳優志願者が音二郎の下に集まって来る。その中には後の新派の名優になる伊井蓉峰も居た。

註1 『演劇の様式』昭和二十六年河出書房刊所収『新派劇』 
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壮士芝居について、もう少し触れておこう。
その開祖である角藤(すどう)定憲は慶応三年(一八六四年)岡山県で生まれた。元冶元年生まれの音二郎より三才若い。京都府巡査の後、中江兆民の演説に感動し、大阪で兆民が社主の≪東雲(しののめ)新聞≫の記者となった。その角藤に兆民が、寺の境内で政談演説するより舞台上の方が効果的と、思想性を盛り込んだ演説活動をすすめ、これが壮士芝居の先駆けとなった。兆民は反政府的言動から、尾崎行雄や星亨(とおる)とともに明治二十年の保安条例で東京四里以内退去を命じられていた。そのために官憲の眼をかいくぐって関東にまで波及するほどの強力なアジテーターを必要としていたのである。角藤は女形と立役の両方をこなし、女形姿も美しかったらしい《註1》が、そこは素人の悲しさ。裾さばきが上手く出来ず、裾を踏んでひっくり返る事もしばしば。毛脛(ずね)を曝(さら)してバタつくので桟敷の客はドッと笑うが、芝居は滅茶苦茶。パッと裾をまくって、これを愛敬と居直ってしまい、楽屋に引込むのが、まだ素人芝居だからと許された壮士芝居の黎明期であった。角藤は何事にも大雑把で無頓着だが打算的でないサッパリした気性であったらしく、それが角藤の人望にもつながっていた。この角藤一座も名古屋公演で官憲とぶつかり、関東上陸を阻(はば)まれて関西各地で低迷状態であったが、音二郎の関東での人気に刺激され、浪花座で息を吹きかえす。川上音二郎何するものぞ、角藤定憲は壮士劇元祖である――というのが彼の自負(プライド)であった。
もうひとり特筆すべきは、二十五年七月に浅草市村座で『明治裁判弁護誉』を上演した山口定雄である。四国の徳島市かごや町の小間物屋出身の山口は、大阪へ丁稚奉公の後に歌舞伎界に入り、十一代片岡仁左衛門≪当時我当(がとう)≫の弟子として我若(がじゃく)を名乗る元女形であった。門閥が無ければ出世できない歌舞伎界を逃れて壮士芝居に転じたものである。それだけに基礎も確かで、立役、女形、かたき役、老役(ふけやく)と何でも達者にこなした。泥酔を装い交番の前で立小便をして巡査と大ゲンカを始め、ヤジ馬が集まった頃合を見計らって、「諸君、我が山口演劇は民衆教化の運動を目的とした芝居で、即ち営利のみを考えていない」――と一席ぶつような、奇抜な前宣伝を常套としたらしい。また歌舞伎界出身だけに現代劇に限らず歌舞伎も上演したが、『伽藍先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の愁嘆場(しゅうたんば)で観客は涙をしぼっている最中(さなか)、劇中の息子千松(せんまつ)を死なせてしまい悲しむ母の政岡(まさおか)がイキナリ、「諸君よ、即ち諸君よ。わが山口演劇は」――と芝居をそっちのけにしてしまう珍妙な演説癖が有ったらしい。ほかにも豆電球がカラダに巻いて宙乗りするような外連(けれん)《註2》を得意とし、「ハア、パッパッ」の合図の声で光を点滅させながら空中を闊歩(かっぽ)して消えていたらしいから何とも愉快である。もっとも電気の導線の不首尾から感電して肉まで焼く生傷が絶えない、かなり危険な荒事(あらごと)でもあった。
現在では猿之助の専売のようになった宙乗りも、当時の小芝居(こしばい)ではかなりポピュラーな演出である。大歌舞伎(おおかぶき)でも品の良いものとして評価はされていなかったが五代目菊五郎も宙乗りをしたし、上方歌舞伎《註3》の市川右団次(うだんじ)や父の斎入が最も得意としたのも宙返りや早替りであった。こうした外連は幕末以前からのものだが、歌舞伎を伝統技能として≪高級に≫認知させていくなかで、宙乗りは明治以降じょじょに下手(げこ)な演出として大歌舞伎では敬遠されて来た。猿しかやらぬサーカス歌舞伎と陰口を囁(ささや)かれもしてきた。しかし宙乗りに代表される外連は、それが本質でないにしても、歌舞伎が歌舞伎本来の活力を持った猥雑で如何(いかがわ)しいものであるための重大な要素であった。明治以来、猥雑であるからこそ歌舞伎であったパワフルな芸能が洗練された芸術を目差したのである。
話をもとに戻すと、以上の角藤に山口と音二郎を加えた三人が壮士芝居三羽鴉である。ほとんどの新生劇団は、歌舞伎からの派生をのぞき、この三劇団から分化して生まれてくる。他にも後の≪新派≫の原形のようなものが出来つつあった。二十四年に漢学者で劇作家の依田学海(よだがっかい)の提唱で改良演劇の実践として男女合同による劇団≪済美館≫を結成する。後に音二郎門下にもなる伊井蓉峰はこの劇団が初舞台であった。女優は千歳米坡(ちとせよねは)≪芳町(よしちょう)の芸者米八≫が務めたが、こうした男女混合の≪実験演劇≫は、いまだ時機尚早で、二、三回の公演のみで自然解散し、そこに出演していた伊井や水野好美は川上一座に合流する。
いっぽう『板垣君遭難実記』を音二郎の煽(おだ)てに乗って中村座へプロデュースした浅草の芝居茶屋≪丸鉄≫の息子福井茂兵衛が、あそらく借金を棒引きにさせるための音二郎の煽てに乗せられ、生来の芝居好きもあって川上一座に参加。後、貸した大金を音二郎が返済しなかったため音二郎から離れ一座を結成。四番目の旗頭になる。福井は万延元年(一八六〇年)生まれで音二郎より四才上。十二、三才で落語家の弟子となり、五明楼玉若を名乗って十六才で真打ち。ひっぱりだこのかけもちで忙しく、人力車で走りまわっていたのを人力車ごとひっくり返され、片足を骨折。後遺症で正座が出来ず引退。≪自由新聞≫の記者となり星亨の知遇を得る。横浜で星の秘密通信員になった後に壮士集団≪住民苦楽部≫を組織して政治活動に活躍。後に役者に転じた。足の不自由なのは桟敷からでもわかるのだが、粋な所作や敏捷さがそれをカバーし、歯切れの良い口跡(こうせき)が観客を魅了するほど粒立ちの良い発声であったらしい。元壮士ながら壮士ぶりを売り物にせず、渋い芸風で面白い芝居をする事が好まれ、初期新派の名優となる。
また伊井や水野も佐藤歳三と川上一座を離脱し≪伊佐水(いさみ)演劇≫を結成。後に分かれ三者三様に活躍。水野は劇団≪奨励会≫を名乗り浅草常盤座を本拠に三十年代に全盛を迎える。一座の女形は山口門下出身の河合武雄であった。河合は歌舞伎役者大谷馬十の息子である。伊井の親しい後輩に山口門下の喜多村緑郎(ろくろう)がおり、伊井・喜多村に河合を加えた三人が、現在≪新派≫と言われているものの原形を作っていく。いずれも女形を得意とする名優で、後に喜多村門下から花柳章太郎が生まれて来る。

註1 容貌魁偉(かいい)であったという異説もある。『浅草喜劇事始』≪丸川賀世子≫では角藤の容貌は次のように記される。「眼と眉のせまった彼の顔は、見るからに利かん気な志士風だが、色白のふっくらした頬のあたりには、若衆の色気が漂っていた。」
註2 江戸時代からある宙乗りや早替りなどの、客を驚かせる派手な演出。宙乗りは縦移動の宙吊りではなく横移動も含み、空中を歩いたり浮遊したりする状態をロープやピアノ線で吊って表現するもの。
註3 東京の荒事を芸風とする江戸歌舞伎に対して関西の和事を芸風とする歌舞伎。片岡仁左衛門・中村鴈二郎(がんじろう)・市村右団次・中村梅玉(ばいぎょく)・中村福助などが大名跡(だいみょうせき)。中村福助は江戸と上方に東西二人居た。上方の福助が梅玉を襲名するのは通例だが、江戸歌舞伎の福助が梅玉になる事はありえない。あるとするなら簒奪(さんだつ)以外の何物でもない。右団次は仁左衛門の名相方で屋号は高島屋。父の斎入は気むずかしやで名高い先々代仁左衛門も、一目置くほどの名優であったらしい。 
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音二郎の悪戦苦闘のこの時代が、前にも記したように貞奴が博文の愛妾時代である。博文は明治十八年に初代首相に就任。同年の《今日新聞》が公募した人気投票『現今日本十傑』で一位が諭吉、二位が桜痴、三位が博文の、人気も上(のぼ)り調子の時期である。貞奴は十九年の一五才の時に十八才の桃介に袖にされ、二十年に囲い者としてでなく現役芸者のまま博文の愛人となった。博文は四十六才、鹿鳴館(明治十六年落成)のトップ・スターだった夫人の梅子は三十九才。長女の生子が十八才で、貞奴の方が娘より若かった。
博文は施した貞奴の経済面での待遇は不明だが、後に愛妾となった貞奴より七才若い大阪北の新地の芸者小吉について。高群逸枝の『女性の歴史』は、月手当が三百円で二年間の寵愛を受け、夫人梅子にも可愛がられ、私邸出入も自由であったと伝えている。梅子は元芸者だけに、非常にサバけた面倒見の良い賢夫人であったらしい。おそらく貞奴も同様の待遇であったと想像される。ちなみに明治二十四年の官報に従えば首相の年俸九千六百円、各省大臣六千円、枢密院議長五千円、次官四千円であるから、次官なみの収入が保証されていた事になる。当時の独身官吏が二十円位の月給であり、現在の通貨価値で一万倍前後と想像される。単純計算だと博文の収入の半分近くを貞奴が貰っていた事になるが、当然政治家の収入は年俸のみではない。つまり政治的裏金が莫大に有った。貞奴にしても芸者を続けているから、その上に芸者の花代が加算される。
当時の芸者の等級は新橋が一等で花代一円。貞奴等の芳町芸者は、日本橋・新富町・数寄屋橋と並んで二等の八十銭から三等の五十銭。烏森・吉原が三等で五十銭。深川・神楽坂が四等の三十銭。赤坂が五等であったという。雛妓(おしゃく)はその各半分の料金であった。誤解されるとイケナイので断っておくと、これは《売春》のための料金ではない。揚屋(あげや)や芝居茶屋等の宴席に置屋から芸者を呼んだりした場合の、一定時間の基本料金である。一日何席かの掛持のうえ、当然気前のよい御祝儀もあり、そこから芸者置屋への紹介料を差引いても、かなりの収入(みいり)だったと思われる。演劇界は昭和二十二年四月号の安部豊の一文によれば、貞奴の一日に稼ぎは御祝儀を含めて二円四、五十銭だったという。おそらく日に二、三席をこなしていたのであろう。
当時の一般庶民は事業主でないかぎり高額所得者であっても、紳士録に載せて参政権を得たいと思う者以外は税を納めていなかった。そのため宵越しの金は持たない江戸っ子気質(かたぎ)の芸人や芸者などは、有れば有るだけ湯水のごとくその収入を使っていた。堅気(かたぎ)と違って金銭感覚が麻痺しているために《氷(アイス)》と呼ばれた高利貸しの好餌(カモ)にされる場合もあったが、売れっ子芸者のあるかぎり、身を持崩す事も無かったらしい。貞奴も御多分に漏れず、小奴時代の御転婆(おてんば)に拍車がかかり柔道・玉突き・花札・コップ酒と、とどまるところを知らない。ただし貞奴には一途な面があって、乗馬や水泳にしても熱中するだけでなく、自分の技術としてキッチリ修得する手堅さが有った。いわゆる三日ボウズではない。馬術の腕前は、十メートルの白布を地面に着かないように靡(なび)かせ走る古風な馬術《母衣引(ぼろびき)》・競技会に出場するほどの技量であった。水練(すいれん)も得意で、海水浴も富岡海岸で博文と井上毅(こわし)が手をとって教えたという。幕末期に白刃(はくじん)をくぐって来た刀傷だらけの無骨な裸の男二人にはさまれて、バチャバチャやっている十六才の貞奴を想像すると、ほほえましい気がしないでもない。大磯の旅館涛龍館(とうりゅうかん)の浴室で、当時まだ珍しかった石鹸をふんだんに使い、あたりかまわず泡だらけにして、他の泊まり客から羨望含みの顰蹙(ひんしゅく)を買う傍若無人ぶりも、貞奴の無邪気から来る子供らしさと言えるであろう。
十代頃の貞奴について明治四十四年十一月十四日の《国民新聞》は、「鼻筋の通った顔立ち、やや赤みを持った髪の毛、腰下の長い体格、男のする様な荒っぽいことを好む性質、誰いうとなく、混血児(あいのこ)だという噂がパッと立って、変り者の奴の評判がねんねん愈々高く、お歴々の座敷数が増えだした。我儘が却って面白いとあって人気が高まる」──と記している。貞奴の子供じみたワガママを通せば通すほど人気が出るという《花柳界》とは不思議な世界であった。
意外な点は、西洋人の混血と間違われ、《女西郷》と腕白ぶりから呼ばれた貞奴が、写真の均整のとれた体躯(たいく)から想像するよりはるかに小柄な百四十八センチの身長だった事である。比較のために活躍期が重なる貞奴より十三才年少の奇術師天勝が、女性としては大柄な百六十センチ弱。博文が当時の男性の中肉中背で百五十八センチであった。貞奴の小柄な点も、特に後年のヨーロッパでのアイドル的な人気に大きく貢献したと思われる。
貞奴は二十三年頃まで博文の寵愛を受け、以降は自由の身になった。前年に憲法が発布され、二十三年に国会が開設される時期に当たる。この音二郎に出会う以前、見落とされがちな記録だが、早くも貞奴は役者として舞台に立っている。素人芝居という自覚のために《女優》として貞奴には認識されていないが、五代目菊五郎に教えを請うたほどだから、演劇史の上で見逃すわけにはいくまい。
事の起りは明治十九年、博文の娘生子の夫・末松謙澄が主唱し、外山正一・福地桜痴・森有礼・渋沢栄一らが発起人となって設立された《演劇改良会》に端を発する。詳細を記すイトマは無いが、末松の、諸外国を参考にした洋風建築の大劇場の新設、興業時間の短縮、花道の不要、チョボ(浄瑠璃)の廃止、装置改良などを主眼とする『演劇改良意見』(明治十九年刊)に、外山の、茶屋制度(註1)・女形・黒衣の廃止と俳優の品行是正、狂言の上品化などの意見を付加した『演劇改良論私考』(明治十九年刊)を中心課題とする、当時の歌舞伎しか無い日本の演劇界にとって驚天動地の急進的意見が、その運動目的であった。しかもこれは個人的結社の意見ではなく、明治政府の鹿鳴館に代表される欧化政策の、ゼガヒでも成しとげねばならぬ意向を背景とした運動体であった。特筆すべきは欧米に倣(なら)い、日本では地位の低かった劇作家の重用を強調している点で、演出家すら居なかった旧劇の世界では画期的な事であった。この演劇改良会の運動に、芸者芝居が関わっているのである。
この演劇改革は数々の反発と無理もあり、修正を重ねて、民間の協力も仰ぎ、ひとまず目的を達するのに四半世紀を用している。歌舞伎座・帝国劇場の新設なども、その一連の成果であった。音二郎の演劇改革も、これを基盤としているが後述するのでここでは触れない。いずれにしても近代国家日本を誇示し、欧米人に観せて恥かしくない日本の代表的演劇と劇場を造りあげる事が急務とされ、歌舞伎という芸能からエロ(男色趣味・嗜虐趣味・芝居茶屋の遊廓的要素)・グロ(女形・黒衣の異様さ)・ゲテ(花道・外連や怪奇趣味・勧善懲悪のバカバカしさ)を排除し、飲食しながら参観できる古代の饗宴的空間の猥雑さを除去する事が意図された。それらは皮肉な事に、ロシアやヨーロッパの前衛劇が二十世紀初頭に歌舞伎から窃取(せっしゅ)したほぼすべてであった。

註1 大劇場での芝居の升席や、そこでの弁当・酒(当時は飲食しながら観劇していた)の手配、幕間や芝居前後の休憩、早朝から深夜まで(朝六時から夜十時頃までの事もあった。そのため欧米なみの時間帯導入が、改革の目的とされた)の公演のための宿泊、贔屓役者との連絡や饗宴の手配等々、芝居に関るすべての事は芝居茶屋を通さねば出来なかった。一週間日替わりの通し狂言などでは、その期間泊まり込むのが当然だった。《戯場》を「しばい」と読ませたように、役者はもとより芸者や幇間も呼んで遊べる劇場と合体した《遊廓》と考えればテットリ早い。有名役者と接触するためには、下足番から風呂番・売子にいたる五十近い《職種》の劇場および芝居茶屋関係者=《芝居者(しばいもの)》にチップをはずむのが常識だったから、大変な散財であり、《役者買い》(※1)ともなると資産が傾くほどの高額を要した。茶屋制度の廃止は、こうした淫靡で猥雑な影の部分を分離する事も目論まれたと考えられる。
 ※1 金銭で金満家の有閑夫人が役者や芸人を愛人とするシステム。有夫の場合には法的には姦通罪(※2)該当するが、《役者》は社会的地位として《人間以下》と考えられていたため、相手を《間男》として起訴する事は《役者ふぜい》と対等にはり合う事であり、それは《間男された事》よりも恥かしい事であった。そのため起訴によって成立する姦通罪は、芸人や役者にはほとんど適用されないに等しかった。《役者買い》は芸者などの玄人をはじめ政財界や資産家の夫人・令嬢などによってなかば公然と行われ、そのために芝居茶屋が文字通り遊廓として機能した。むろん歌舞伎の裏面である江戸伝来の陰間(かげま)茶屋として利用されたのは申すまでもない。営業の一端は、こうした裏面にまつわる少なからぬ収入によって成立していたのである。
 ※2 妻を夫の所有する《物》として財産と見なす法律によって出来た犯罪。窃盗罪と同様に起訴によって成立し、重罪であった。北原白秋の例に従えば、白秋は二年間《入獄》している。有島武郎の心中原因も、愛人の夫から姦通罪をチラつかされたためで、もし起訴されれば有島個人の《入獄》と爵位の放棄にとどまらず、累(るい)が一族全体に及ぶ可能性が有った。相手が藤原義江のような《芸人》のドン・ファンならば、婦人の夫が華族であっても、マッタク問題にされない《罪》だったのである。 
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話を芸者芝居に戻せば、演劇改良会の運動の一環として、渋沢栄一・大倉喜八郎・福地桜痴などと地元有力者の協力で、貞奴の住む浜田家に近い蠣殻町に有楽館という演芸場が新設されたのが明治二十二年六月。その落成式に慈善芝居が企画され、女形の廃止を主張する会の趣旨に従い芸者達に出演が求められた。貞奴十八才の時である。演目は『曽我討入(そがうちいり)』貞奴は五郎役であった。
この公演は恒例となり歳末公演が定着し、貞奴は芸者芝居に熱中する。『菊畑』の鬼一法眼、『寿曽我対面』の五郎と敵(かたき)役の工藤祐経、『八幡太郎伝授鼓』の源義家、『川連館(かわつらやかた)』(『義経千本桜』四段目)の狐忠信、『廓文章』の藤屋伊左衛門など、男役の、しかも主役ばかりを貞奴が演じている。五代目菊五郎に教えを受けたのは『菊畑』であるらしい。明治四十四年二月号の『演芸画報』の貞奴の回想によれば、「立役が好きで、いつも他人(ひと)さんが厭がる立役は背負い込んで納っていたものです」──という。どうやら当時は男装が、羞恥につながるかなりエロティックなニュアンスが有った事を感じさせる発言である。同時代の大女優サラ・ベルナールの男装癖などと比較しても、大変に興味ぶかい。「千円位の切符は引受けて、自腹を切って芝居に出て嬉しがって居たものです」──という発言もあり、かなりの入れ込みようが窺える。千円のリスクは当時の中級官吏の約三年分の収入に相当するが、その金額も貞奴には痛手にならない額であったようだ。有楽館は明治二十七年に経営難で閉館しているから、五年間に六公演の芸者衆による≪女歌舞伎≫が演じられていた事になる。確証は無いが、貞奴と同じ芳町芸者の米八が千歳米坡(ちとせよねは)として、二十四年に最初の男女混合劇を企てた≪済美館≫に出演している事から、後に女役者になった米坡が、この芸者芝居に参加している可能性は充分に考えられる。≪済美館≫結成にあたり脚本家の依田学海(よだがっかい)が、舞台経験の無いズブの素人を≪女優≫に仕立てあげたとは考えられないのである。
また芸者芝居の時代は、貞奴が歌舞伎役者を浮名を流した頃と重なっている。五代目中村歌右衛門の回想に、「あの女は我まま者で、気に入らぬことがあると。どんな名士のお座敷でもサッサと引上げて帰りました。あの女は私と遊ぶ時、いざ勘定となると算盤を取寄せて自分ではじき、必ず割勘にしておりました。人におごって貰いたくないのです」──とあり、ある種の金銭に細かい律儀さに閉口している口吻(くちぶり)だが、俗に言う≪役者買い≫の、芸者の側が役者に貢ぐという間柄でなかった事が読みとれる。歌右衛門が福助時代には貞奴との結婚話もあったらしい。六代目梅幸とも親密だったから、貞奴が仮にどちらかと所帯を持っていたら女優貞奴は誕生しないが、百年以上を経た今日では、歌舞伎界の大名跡(ビッグネーム)のかなりの人々が貞奴の末裔(ちすじ)に成っていたであろう。
それはさておき、戦後に帝劇で秦豊吉(はたとよきち)(註1)が上演した『マダム貞奴』(註2)では待合で歌右衛門と逢引していた貞奴が、音二郎の部屋に間違って入ったのが初対面という筋書きらしい。いかにも有りそうな話だが、これはフィクション。『旅芸人始末書』では大倉邸の一件をナレソメとしているが、データーが不充分。しかも、どの研究書に当っても、この一件が何年なのかがわからない。『女優貞奴』(山口玲子著)で幾つかの証言をもとに、関東へ進出して来た音二郎一座をタマタマ見た貞奴が、音二郎に興味を持ち、宴席でも顔を合わせるようになり、そのうち貞奴の方が音二郎に夢中になったという論旨だが、事実関係がかなりアイマイで想像の域を出ない。音二郎と貞奴の回想の齟齬(そご)のみならず、数種の貞奴自身の証言にも食い違いや不明瞭な点が多いためだが、その理由が、気恥しさやモノ忘れといった通俗な事に起因するのでなく、何か無理に帳尻を合わせている感じが証言の中にするのである。それが山口著にも波及し、二人の初対面あるいはその後のイキサツについて歯切れの悪さを感じさせる。憶測を最小限度に押さえなければならない評伝のツライところである。
ただし同著には、川上一座の筆頭幹部であった藤沢浅二郎の、「音二郎が芸者遊びの妙味をたのしみながらも、貞と契りを交わしたのは、中村座の三の替りのあと、宇都宮の大川座へ巡業した時」──という証言があり、少くとも、この時期以前から二人が親しかった事がわかる。時期が確定できる最も古い証言が、この記述なのである。中村座公演が二十四年十月まで二の替り、三の替りを立て続けに上演しているから、現代風に言うと二人の初エッチは二十四年の暮れあたりと考えてよかろう。大倉邸に三日間立籠(たてもこ)る一件は、それ以降と考えるのが、まず順当な推測と思われる(註3)。なぜこうもアリバイ崩しめいた瑣末事(さまつじ)にこだわるかと言えば、同じ頃に貞奴は、五年ぶり東京支店に転勤となった桃介と会っている。愛憎交々(こもごも)の桃介への感情と、音二郎に傾いていく貞奴の心理を解析するのは残された資料のみでは不充分だが、資料を自分なりに秩序だて仮説を立てる事は可能である。そうしないと、何が貞奴をひきつけたかという音二郎の魅力とともに、音二郎が選んだ貞奴とう気丈な女の決意は希薄になると考えるからなのだ。貞奴が《野合(やごう)》でないと強調し抗弁するように──という事は一般的に野合と見られた事を意味するが、捨鉢な済崩(なしくずし)で音二郎と一緒になったわけではないのである。
貞奴は「満二十歳になったある日」、御座敷で桃介の名前を小耳にはさむ。桃介は二十二年に米国から帰国し、結婚後に北海道に赴任。二十四年一月に長男が生まれ、東京へ転勤になっていた。貞奴は七月十八日生まれのため「満二十歳」なら二十四年七月以降にあたる。「そんな折」(山口著の表記に従う。二十四年七月以降と考えられる)上野池之端で催された母衣引(ほろびき)の競技会で、貞奴の騎乗する馬が引く布製の母衣(ほろ)が池畔の柳にからまり、煽(あお)りをくらって貞奴は落馬してしまう。幸い怪我は無く脳震盪(のうしんとう)だけであったが、そこに居合わせたのが桃介であったらしい。『女優貞奴』ではこの場面のみ出典が明記されず、しかも、「思いがけない再会に、貞は痛みを忘れた。目を閉じた貞の耳に、近くのテントまで静かに運ぶように指図する桃介の声がきこえ、暫く休むと自力で歩けた」──という風に内的心理まで描かれる小説風の表現になっている。山口の評伝としての認識に疑問を感じるし、「初恋の桃介は、貞が当面する結婚問題の相談相手になりかわった」──という結論にも、客観性が感じられず疑問が残るが、桃介との邂逅(かいこう)は事実であるらしい。
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註1 明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。
註2 越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3 「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。 
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『演芸画報』明治四十一年一○月号掲載『名家真相録』の貞奴の談話によれば、「私も一風変って居りましたので、殊に書生肌の人が好きでもありましたし、川上ならば生涯役者をしても居まいと思いましたのです、又私の身分で真面目な所へ行こうと言った所が、先き様で貰って下さりますまいから、一層何だかわけの分らないような人の所へ行きたいと言う決心もありました」──と語っている。また同じ発言中で、音二郎を知ったのは『板垣君遭難実記』(明治二四年)を養母と見に行ってから──とする一方で、音二郎と《いっしょになってしまった》のは明治二三年だとも言っている。二三年なら横浜と芝開盛座公演で別演目である。「女優貞奴」の著者山口玲子はわずかに《疑念》をさしはさみながらも、「その折に知り合った可能性もあるけれども、これは多分貞の記憶違いであろう」──とし、そして「音二郎という存在を知るなり、殆ど間髪をおかず、恰も電光石火の如く「いっしょになってしまった」」──と続けている。その理由を、芸者という職業を環境から、政府高官や実業界の名士あるいは梨園(歌舞伎界)の御曹司達のような名声も地位もある人間よりも「素寒貧の名もなき『書生』といっしょになって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった」──とし、その理想像にピッタリだったとする音二郎の「荒けずりで硬骨漢」の未完成な魅力を強調する一方で、「けれども貞が音二郎に惹かれたのは、そうした後から考える理由づけ以上に、直感と無分別に衝き動かされてのことだったかもしれない。とにかく貞は音二郎を見るや、たちまちにして、その魅力のとりこになってしまった。音二郎のどこにに惹かれたのでもなく、まして新演劇の『板垣君遭難実記』や『オッペケペ』を認めたのでもなく、音二郎という年限の出来合いに、絶大な関心を持って、体当たりしていった。強いて言えば、音二郎の標榜しちゃ『書生演劇』の書生という自称に、多少引っかかった気味がないでもなかった」──という、どう読んでも破綻した結論を導き出す。しかし情報を鵜呑にして二人の経緯を追っていくと、どうしても矛盾やはじょう破綻が生じて来るのだ。これは山口のせいばかりではない。貞奴の発言に従うならば、書生上りの地位も財産も無い、ほとんどの青年が魅力的な対象となってしまう。しかも貞奴は生娘ならね一流の芸者なのである。その貞奴が急に音二郎に夢中になったのだから、下世話な理由からだとは思えない。他に無い魅力か、あるいは、その急変に、別サイドの理由付けが必要となって来る。
劇作家の長谷川時雨は、貞奴が福助(後の歌右衛門)から音二郎に乗り替えたという下卑た巷説を打ち消すように、讃仰おしみない貞女として貞奴を謳(うた)いあげた『近代美人伝』(昭和十一年)で、「金子男(だん)が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上に快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応(きょうおう)したことがある。それが縁で浜田家へも出入するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛に仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏(まとま)った仲である。」──と、面識も有った貞奴が読む事を意識した上で、破綻なく二人の経緯を書き記す。時雨の文面の表層を読むかぎりは、いささかの彼女の疑念も感じとれない。しかし穿(うが)った見方をすれば、むしろ理路整然としすぎている。あるいは時雨が文章の表層を裏腹に、読者の裏目読みを期待して表(おもて)の平仄(ひょうそく)を合わせているかに思えてくるほどである。
金子堅太郎男爵(註1)は音二郎と同郷の福岡出身で、おそらく以前から音二郎の後援者であったと思われる。注意すべきはこの経緯を鵜呑にするにしても、音二郎・貞奴の出会いが金子の御膳立によるもので、背後に伊藤の意向がうかがえる。秘書であった金子が伊藤に相談なしに単独行動をとっているとは思えない。明らかに、ある計画性が感じられる。その事に気付かない時雨では無いし、裏目読みをするとキッチリ無駄なくそのように書いてある。
さて、これより以前に桃介との再会があったと仮定し、焼けぼっくりに火がついた場合を想定して、私の仮説をおし進めてみよう。桃介は計算高くはあるが物事に淡泊で、それでいて冷血漢でもなく、貞奴に対する愛情も男性中心的見解をのぞいては嘘ではない。ただしその場合、愛人としての限界が、《正妻》ではなく妾宅に囲われる身である事は明らかであり、前途は有望ながらもまだ二十二、三才の桃介は、貞奴を囲い者にするには経済的に無理が有った。一方、愛人の契約が終ったとは言いながら、博文が貞奴の後盾であるには違いなく、少々諭吉に怨みの有る伊藤としては、自分の傘下の貞奴を諭吉の養子の桃介に取られ、巷の話題となる事は、何としても防ぎたかった筈である。養母の可免にしても、もうすぐ適齢期を過ぎようとしている貞奴だけは《妾》でなく《正妻》にして、ゆくゆくは花柳界の外へ出したい考えが強く有った。数年前に貞奴を袖にされた母親としての恨み辛(つら)みも累積されており、気丈で気位の高い可免が、桃介と貞奴の関係の再燃を許すとは考えられない。博文を可免の利害はすべての面で一致していた。そして貞奴の愛情の対象を桃介からそらすために夫の候補者として立てられたのが、かつての桜痴の帝政党の党員の音二郎であったと考えられる。音二郎は寺の小僧から諭吉に引きとられ福沢家に寄宿する慶應義塾の学生となった経歴もあるが、門限破りに加担して方遂された事も有って、諭吉との関係は切れていた。桃介よりも四才年長の音二郎は、役者ながら演劇を《手段》と考え、役者で終るつもりは毛頭なく血気盛んである。政財界の老獪(ろうかい)で捕え所のない老人達や、趣味は洗練されながらも芸者には見慣れた歌舞伎役者達には無い、荒けずりながら明快な音二郎の気質を、貞奴には新鮮な驚きであり魅力であった。他に、後年音二郎の劇作も書いた桜痴の後押しが有った事も考えられる。この計画をうまく誂(あつら)え浦で演出したのが金子男爵であった。そして貞奴の桃介への思いを断たせるために、金子・可免・音二郎・貞奴の膝詰談判で立籠(たてもこも)ったのが大倉の別邸の一件だったと考えられる(註2)。そこでは金子・可免による貞奴の説得はもとより、今後の音二郎の展望や、伊藤・金子人脈による援助の相談、歌舞伎役者等との浮名の精算も含めた、以前から音二郎と親しい関係が有ったとする、偽のアリバイ作りめいた口裏合わせ等が成されたと私は考えている。何度かの行き来が有ったにせよ、二人の婚約が急転直下であった事に間違いは無い。音二郎・貞奴ともに赤新聞のゴシップ記事の好餌であったから、現代のアイドルと同じで世間の眼を逃れて交際が有ったとは考えられないし、隠す必要も無かったのだから、交際期間も短く、逢瀬も数少なかったのが本当であろう。このように仮説を立てると、実証は不可能だが、ほとんどの矛盾は解けて来る。残る疑問は、貞奴が入れ揚げるまでになってしまう音二郎の魅力である。

註1 明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。
註2 越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3 「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。 
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「あの人は性来非常に陽気な質です。非常に嘘つきで恰度狐を馬に乗せたような人、いまここで嘘を言ったかと思うと又向うで嘘を言うという調子でした。だがあの人は女にかけては一種の魔力とでも言うのですか、それは色男ですよ」──明治四四年十一月十一日『東京日日新聞』掲載の烏森《浜の家》女将の談話による音二郎評である。また劇評家の水谷幻花は、「ヤニを嘗(な)めた青大将の様な顔はしているが、川上もあれで一寸色男」(『演劇風雲録』大正十一年刊)──と評している。
ところで音二郎は、写真を見てもいわゆる美男子というタイプではない。いつもどこか笑っているような顔は、相手をなごませる愛嬌を感じさせるが、アメリカで日本のプリンスではないかと誤解されたという桃介の俗事から超然としたような気品のある容貌と比べると、メンクイの女性連からは何故に貞奴が夢中になったのかと疑問になって来るであろう。ただし、美男子というなら桃介に限らず貞奴の贔屓(ひいき)客であった歌舞伎役者なども該当するに違いなく、幻花や浜の家女将の言う「色男」ぶりは、それとは別の魅力となって来る。
ところで一般的な音二郎の評価は現在でも、場当たり的なケレン味と即興の妙味だけの、主に《オッペケペ》だけが当たった、山師でホラ吹きの人物のように考えられて来た。倉田喜弘の『明治大正の民衆娯楽』をのぞいては、本当は時代風潮を先どりし、そうした状況を作りあげたのが音二郎であるにもかかわらず、時代に便乗し歴史に残ったダケのように記述されることが多い。まるで雑芸人のような評価も少なくない。音二郎から十年前後を経て始まる坪内の歌舞伎改革や小山内の新劇運動に比べて、理論的な裏付けが明確でないために、アカデミズムの世界では先駆者として《仕方無く》名を記しても、芸術的評価としては無内容の娯楽、あるいは肯定的見解でも社会風刺の芸能として《処理》される場合がほとんどである。しかし山師もホラ吹きも同時代に数々居ながら、理論より先に行動に移し時代を先どりし、蜘蛛の子を散らすように拡がっていく明治を舞台にした現代劇としての大衆劇を、運動として拡大させる駆動力であり起爆剤であり続けたのは、毀誉褒貶(きよほうへん)ありながらも、やはり音二郎だった。また《オッペケペ》で芸者や権妻(ごんさい)(妾)などの観客を揶揄(やゆ)しながら、そのカラカイの相手からも愛されるような愛嬌のある魅力を、多くの芸人達は持たなかった。それのみならず演劇界を変革するために、劇場そのものから変え、環境を変える事で観客の意識のありようを変え、そこでやっと新たな演劇を作る事が可能になると考えていたのは、当時の日本に数人にすぎない。しかもそれを、最も早く実践したのは音二郎であった。チョンマゲでない断髪の劇を、一般大衆が違和感なく観る基盤を全国に波及させ、音二郎自身にも本邦初演が数あるが、西洋演劇の一般普及に貢献した、言わば音二郎は、そのパイオニアであった。むろん時代状況による限界もあり、時期尚早であったり経済力の面で失敗もあったが、そこを持ちまえのタダでは転ばぬ向上心と、失敗をも次へのステップとする楽天的な陽気さで、音二郎は明治の演劇界をリードしていく。この現状に甘んじないで利害を離れて現実変革を成そうとする新精神は、周囲からホラ吹きや山師と叩かれもしたが、確実に同時代の誰も考ええないような、他の人が持っていない音二郎の魅力であった。また、その大風呂敷のホラも、弁舌さわやかで軽快かつユーモラスな音二郎の話術にかかると、妙に現実的な迫真力を帯びて来る。そうした意味で、金子堅太郎が言うように、まさしく音二郎は「快男児」であった。それらの魅力に、貞奴はコロリと参ったのであろう。
二人が正式に結婚するのは明治二八年だが、これから貞奴は音二郎の所に通いつめ、芸者勤めを続けながら、一座ぐるみの面倒をみて、晴れて音二郎と結ばれる日を心待ちにする。いっぽう人気者になった音二郎は、堅物と思いきや、後年(明治四三年三月『俳優鑑』)のアンケートに「娯楽──芸者買い」と返答するように、日本橋の小かね、新橋のとん子や清香など、現代で言うとアイドルであった花柳界の名妓と浮名を流し、そのゴシップは新聞を賑す事しきり。貞奴も気がかりであったろうが、藤沢浅二郎(音二郎の片腕)の回想によれば、「奴は世間の嘲笑の的となり、座敷へ出ても冷やかされる。可愛い男を一人前に仕上げなければ私の一分(いちぶ)が立たないと力んで」、浮気については眼をつぶり、音二郎の男気を見込んで身代一切つぎこみ、この何に成るかわからぬ男の野心達成のために、縁の下の力持ちとなって協力する事になる。
この頃の貞奴は、後に自分が女優になろうとなどとは露ほども考えていない。 
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音二郎たちが開始した演劇は《書生芝居》《壮士芝居》と呼ばれながら、新演劇の基盤となるメソッドがいまだ無いまま、歌舞伎を批判しながら、その見よう見まねから素人が自己流で始めたものであった。そのため、リアルな立廻りや現代物には手本が無いだけにかえって新味がありながら、発声・セリフ廻し・義太夫・囃などなど、すべて旧劇である歌舞伎を踏襲せざるをえなかった。つまり新しもの好きの一般観客からは好評であったが、伝統芸としては技術がともなわず、拙い(つたな)模倣である部分が目立ち、伝統的技術を重んじる劇評家・歌舞伎愛好家からの評価は、かなり手きびしいものだった。明治二六年から舞台評を始めた当時二一才岡鬼太郎(おにたろう)(註1)は、後年の三六年に、川上一座に喝采する手合いは「酸豆腐通(すどうふつう)」と評し、演劇として歯牙にもかけなかったが、鬼太郎と同じく明治五年生まれの岡本綺堂(きどう)(註2)はやや好意的な評価をよせている。
『明治劇談ランプの下にて』(昭和十年刊)の中で、明治二四年の依田学海作『拾遺後日連枝楠(しゅいごじつのれんじのくすのくき)』を綺堂は、「大勢のなかには顔のこしらえのまずい者や、烏帽子の着用のつん曲がった者や、正面を切って台詞の言えない者や、男か女かわからない者や、種々さまざまな欠点が見出だされないではなかったが、(中略)壮士と名の付いている俳優たちがいわゆるチョボ(浄瑠璃)に乗って芝居をする──それがさのみおかしいとも思われないばかりか、弁の内侍の千代野との別れなどは、チョボを十分に使って一部の観客を泣かせたのである。わたしもさすがに偉いと思った。」──と評している。ただ、この綺堂も二五年公演の熊本神風連騒動を題材とした『ダンナハイケナイワタシハテキズ』には難色を示し、「狂言といい演技といい、俗受け専門、場当たり専門、実にお話しにもならないもので、わたしは苦々しいものを通り越して腹立たしくなった。」──と回想している。当時二十才の綺堂は観劇の翌日、東京日々新聞に出社するとすぐさま劇評にとりかかり、題もわざと『市村座激評』として川上攻撃をしたらしい。温厚な劇評家であった綺堂にしてからサヨウであったから、他の批評家はおおむね否定的であった。ただし綺堂も、「年の若いわたしは、それは却(かえ)って彼等の逆宣伝になることに気がつかなかった」──と回想するように、悪評もかえって大衆心理をアオるあたりが面白い。そんなにヒドい芝居なら、ひとつ話のタネに観ておこうというわけである。
誹謗(ひぼう)・中傷もはげしく、二四年九月一日の新聞『日本』は、壮士は「天下の一大至毒物」であるとして、座員十七人の経歴をあげ人身攻撃をしかける。座員の動揺もあったが、この時期音二郎は反撃に出ず、ひたすら公演活動に邁進し、じっと耐え抜いた。演劇界に味方は少なかったが、五十八才の演劇改良論者依田学海や『歌舞伎新報』編集者で黙阿弥門下(註3)の久保田彦作も支持者になってくれた。また川上ビイキの弁護士・森肇(後の帝劇女優森律子の父)が、「殺身為仁」の四文字とドクロの絵入りの引幕を送ってくれた事も心の支えとなった。そして二四年の『佐賀暴動記』土方宮内大臣・後藤逓信大臣・有栖川宮の観覧を経て、二五年に金子堅太郎の案内で東京慈恵病院に皇后を観客に迎え『平野次郎』を上演し、《皇后宮台覧》によって、川上演劇の観客を低劣視する批評を一挙に封じこめる。つまり劇評に、音二郎の芝居を批判は出来ても、その観客を「低劣視」した書き方が、まかりまちがえば皇室に対して《不敬》にあたるため、矛先をゆるめねばならなくなったのである。
倉田喜弘は「明治大衆の民衆娯楽」のなかで、一八八○年を中心に前後十年に明治天皇の地方巡幸がしばしばあり、一八九○年前後数年に芸能の天覧が続出する意図を、次のように分析している。
かねがね政府は、芸人社会から卑猥性を追放するために躍起となってきた。それにもまして、体制批判や皇室の冒涜に眼を光らせてきた。しかし、どれほど取締りを強化しても、根絶することができない。そこで一転して、天覧という懐柔策を用いたのではないだろうか。
地方巡幸の場合、各地の有力者に金銀を与え、その徳行(とっこう)を賞揚した。それと同様、芸能各種目のリーダーを選んで、天皇が親しく彼らの芸を謁見する。芸人たちは狂懼(きょうし)感激して一身の光栄にむせび、簡単に体制のわく組みに組み込まれる。しかも芸人たちは、観客の前で天覧をひけらかすから、民衆教化の役にも立つであろう。そうした図式が、天皇制国家の形成期に用意されたと考えられる。
相撲や歌舞伎や、倉田がこの分析をしている手品の松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)などの天覧がその例だが、皇族による観覧もそれに準じたものであったろう。いわば貴賎の相互補完を権力構造としてより強化する志向だが、音二郎の場合、確かに、その構造にダキ込まれもされながら、シタタカに自分の戦略に利用しているのである。
伊藤博文の片腕であった金子の明治国民を啓蒙する意図にそいながら、音二郎の立場は彼等と異なり、その啓蒙性も上からの視点と言うより、芸能という芸能当事者からも観客からも文化価値として自覚も認識されていない底辺から意識を覚醒させようとするものであった。つまり娯楽として消費されるのではなく、自覚的表現に向上させ、それによって芸能としての演劇文化マルガカエに音二郎という《芝居者》も社会的に浮上しようとしたのである。そのためには音二郎が海外を、まず自分の眼で観て来る事が必要とされた。
 
註1 劇作家・劇評家。岡鹿之助(洋画家)の父。本人はいたって親切で面倒見のよい好人物であったが、その劇評は名前どおり《鬼》のように辛辣をきわめた。歌舞伎の名題役者(なだいやくしゃ=看板スター)に対しても、針の筵(むしろ)に座らせるような、生きた心地もない批評で恐れられ、「まずまずの出来」──と評価(傍点)されようものなら、鬼の首を取ったような《大金星》であったらしい。明治後期から昭和十年代までの歌舞伎役者は、鬼太郎の批評に《叩かれないため》に、必死の研鑽を積み、人気に慢心する事を免れた。つまり閻魔大王のように恐れられながら演劇界の御意見番として最大の功労者であった。
註2 劇作家・劇評家。『半七捕物帖』の作者で、日本の捕物帖の開祖。歌舞伎・新派の戯曲の他、多数の怪談や怪奇小説の著作がある。二代目左団次と提携して歌舞伎改革に乗出し、『修善寺物語』などによって、従来の歌舞伎と違い西洋近代劇の影響を受けた登場人物の心理に重きを置く脚本で、明治後期以降を代表する劇作家となる。福地桜痴門下。
註3 河竹黙阿弥は幕末から明治期にかけての歌舞伎脚本家。誤解防止に、没年は明治二六年で、代表作の大半は明治期に書かれた懐古的江戸趣味の歌舞伎であり、五代目菊五郎・初代左団次・九代目団十郎とともに、新時代に見合った《明治の歌舞伎》を作りあげた第一人者であった。 
 
流行歌1

ある時期に庶民が愛好した歌曲。流行した時代や地域は、商品の流通機構、交通網の発達、映画、レコード、ラジオ、テレビジョンなどマスメディアの浸透状況によって異なる。なお、1910年代(大正中期)までは「流行唄」と表記されることが多く、「はやりうた」と読まれていた。「流行歌」の文字がレコードのレーベルに現れるのは23年(大正12)、そして30年代(昭和初期)には「りゅうこうか」という呼称が定着するが、33年(昭和8)から「歌謡曲」ともいわれた。
奈良時代の童謡(わざうた)をはじめ、古代や中世の流行唄(はやりうた)は数多く残っているが、色里町中(いろざとまちじゅう)はやり歌として著名なものは、1650年代(明暦・万治)から流行した京都・島原の「投(なげ)ぶし」、大坂・新町の「籬(まがき)ぶし」、江戸・吉原の「つぎぶし」である。しかし広範囲に及ぶのは、1770年代(明和)の「おかげまいりの歌」や「潮来(いたこ)節」からであろう。1840年代(弘化・嘉永)の「伊予(いよ)節」「よしこの」「大津絵節」、1850年代(安政)以降の端唄(はうた)などがこれに続くが、同時期から流行し始めた「都々逸」(どどいつ)は、昭和初期まで長い生命を保った。
明治における最初の大流行歌は、「オッペケペー」である。1889年(明治22)川上音二郎が京都・新京極の高座で歌いだし、数年を経ずして全国に広まった。この曲に刺激されて生まれたのが「ヤッツケロ節」や「欽慕(きんぼ)節」で、とりわけ日清(にっしん)戦争の最中には「日清談判破裂して」がもてはやされた。こうした歌を街頭で歌ったのが壮士や書生であったから、「壮士歌」とか「書生節」とよばれたが、やがて月琴(げっきん)を用いた 「法界節」や、花柳界からおこった「さのさ」「東雲(しののめ)節」が全国で愛唱される。「鉄道唱歌」「戦友」「ラッパ節」も大流行。1910年代(大正)になると、浪花節(なにわぶし)の影響を受けた「奈良丸(ならまる)くずし」「どんどん節」が、そして14年(大正3)から「カチューシャの唄」が日本列島を風靡(ふうび)する。この歌によって、松井須磨子(すまこ)の人気は急上昇した。「鴨緑江(おうりょくこう)節」や「磯(いそ)節」のあと、22年の「枯れすすき」と24年の「籠(かご)の鳥」によって、映画が流行歌の強力な媒体となることが証明された。
映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多く製作され、「東京行進曲」や「女給の唄」が大きな話題となる。しかもこれらの歌は、電気吹き込みで音色が一段と改良されたレコードにより、家庭内に浸透した。その結果、三つの問題が派生してくる。第一は教育問題である。幼い子供たちが無意識に口ずさむため、人間形成に悪影響を与えるときめつけられ、その防止策が真剣に検討された。次に、1930年(昭和5)を境としてレコードの売上げは飛躍的に伸びだしたので、レコード・メーカーは流行歌の製作に重点を置き、音楽産業への傾斜を深めていく。そして、流行を予測し、最初から「流行歌」と銘打った曲が発売される。従来は庶民が愛好したので「流行歌」となったが、その性格は一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜好(しこう)を左右する原動力となる。その次は、著作権意識の高揚とも絡むが、作詞や作曲の専業者が現れ、歌手がスターの座につくようになり、従来にない新しい職業が誕生したことである。さま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオや新聞、雑誌も参加してくる。
「島の娘」や「東京音頭(おんど)」などの芸者唄にあこがれる者が現れる反面、それを拒否する声も大きくなった。その矢先に、「忘れちゃいやヨ」が大ヒットした。軍歌やラジオ歌謡からも流行曲が現れてくる。また映画は、 「愛染かつら」や「誰(たれ)か故郷を想(おも)はざる」によって、主題歌の強さを誇示した。1930年代は、日本調が一つの頂点に達したときである。
このころから外国楽曲の愛好者が増え、「ダイナ」や「雨のブルース」が歌われる。この流れは第二次世界大戦後になってますます顕著となり、ブギ、マンボ、サンバなど、さまざまなリズムの曲が生まれてくる。メロディーに終始していた日本人が、豊かな音楽性を身につけ始めた。美空ひばりから山口百恵(ももえ)や松田聖子(せいこ)に至る十代歌手の出現は、その実証となろう。さらに1951年(昭和26)から始まった民間放送や、53年に放送が開始されたテレビジョンは、流行歌の普及に拍車をかけた。65年のグループ・サウンズの登場、66年のフォーク・ブームなども幸いし、テープ・レコーダーの需要はうなぎ上りとなり、弱電産業は好業績を続ける。が、73年の石油ショック以後にニューミュージックが台頭してからというもの、それまで「歌謡曲」とよばれていた流行歌に、「演歌」という名称が与えられるようになった。しかしニューミュージックも10年とは続かなかった。ピンク・レディーの驚異的な流行を最後に、日本の流行歌は80年代には曲がり角にさしかかった。カラオケ・ブームとも相まって、レコードの生産枚数や放送の視聴率は頭打ちとなった。とくに演歌は不振で、当時のレコード売上げで100万枚を超えたのは 「矢切の渡し」と「命くれない」のわずか2曲にすぎなかった。また、年末恒例のNHK「紅白歌合戦」では、60-70年代に80%を上回る視聴率を確保していたものが、86年以降は50%前後と低迷している。
かつて流行歌は庶民の生活を反映し、「涙」とか「悲しい」という歌詞を多用してきたが、高度成長のころからテーマは「愛」や「恋」に変わった。そして大量生産、大量消費を繰り返しているうちに、1990年代を迎え、様相は一変する。CD(コンパクトディスク)ではミリオンセラーが続出しはじめ、流行歌は若い世代の生を謳歌(おうか)する力強い歌声になった。ニューミュージックはロックやジャズをも取り込む。若者の生活と強く結び付き、「音楽人間」とささやかれるほどである。もっとも、嗜好(しこう)の多様化や、イヤホンの普及によって流行の実態は把握しにくいが、カラオケの凋落(ちょうらく)と反比例するかのように、変質した流行歌は若い世代の支持を得ていくであろう。  
 
流行歌2

一時期広く世間に流布し、多くの人に好まれ歌われた歌。
1.最広義には有史以来流行した歌のこと。流行歌を「流行(はやり)の歌」として概念的に捉えた場合の考え方で、その系譜は文献上でもおよそ平安時代にまで遡ることができる。今様などがその代表例。その観点から考えると、本項目でも本来的には江戸時代以前のものについても歴史的に検証されるべきであるが、通常「流行歌」といった場合この意味で使われることはきわめて稀であるため、ここでは言及を避ける。
2.広義には日本の大衆歌謡一般のうちレコードが発売されるようになってからの、商業的に「流行」つまりヒットさせることを目的に作られた、独唱または重唱の演奏時間が数分以内の歌曲のこと。どの世代にも愛好される「国民的歌謡」を指すイメージが強い言葉である。日本国外の大衆歌謡についても、同様の傾向を持つものを「流行歌」と呼ぶことがある。
ただし大衆歌謡の分野が多様化して久しい現在では、そもそも総括して述べようとすると極めて広範多岐にわたってしまう上、世代間での断絶が著しくなって「国民的歌謡」という概念が崩壊、子供向けテレビ番組のテーマソングなど一部の例外を除いて成り立たなくなっていることから、実質死語と化してしまっている。
3.狭義には日本の商業制作による大衆歌謡のうち、欧米のフォークソングなど新しい音楽が流入して分野が多岐に分かれる以前、昭和初期-30年代初頭までのもののこと。
「流行歌」の名称は現在の音楽分野名と違い、2の総称的な意味からの派生によるもので、最初から「流行歌」という分野が存在したわけではない。当時のレコードなどに「流行歌」と書いてあるのもすべて2の意味である。3の意味で使われ始めた時期については詳らかでないが、戦後「流行歌」の時代が終焉を迎え分野が多岐に分かれた後、この時代の大衆歌謡にも分野名をつける必要性が出て来たことから便宜的に使われていたものが定着したと考えられる。
また流行歌と同義で使われることがある言葉に「懐メロ」(仮名で「ナツメロ」「なつめろ」とも)がある。しかし「懐かしい歌」という曖昧な定義があだとなって年々指す範囲が広くなっていること、レコード会社が異なる定義の「懐メロ」を安易に乱発したりしていることから、定義が人によってばらばらの状態になっている。このため現在では、流行歌同好会の名称などの限られた用途以外では、多くの場合敬遠される傾向がある。
特徴
流行歌は日本のポピュラー音楽の嚆矢をなす存在である。明治以降の西洋音楽の浸透とレコード技術の移入、そして大正時代から昭和初期にかけての大衆文化の発達に伴い、庶民の娯楽として登場した。
流行歌の「流行」たるゆえん、あるいはこの現象に先鞭もしくは弾みをつけた背景には、それまでの口伝えによる歌の伝播から飛躍して、録音再生技術の定着と共にラジオ放送の開始(大正14年・東京放送局本放送-15年・日本放送協会設立)という新しいメディアの作用が大きく影響していると考えられる。
「流行歌」の特徴を述べると以下のようになる。
音楽性
クラシック音楽を基礎とし、極めて器楽的である。使用楽器も室内楽のものに準じることが多い。ギターが使用されることもあるが、クラシックギターである。譜割りも現在のポピュラー音楽と違い一定の規則を守っており、その中で個性を出すことに作曲家の才能が試されていた。 後世からは「演歌」と混同されることが多いが、音楽性の面から見ても大きな誤りである。流行歌の音楽性は現在の演歌・歌謡曲に加え、クラシックの声楽曲などさまざまな分野の要素が渾然一体となった様相を呈しており、演歌以前の独立的な音楽性が認められるからである。
制作
現在のように固定した1人のプロデューサーや制作集団がいるわけではなく、レコード会社の「文芸部」と呼ばれる部署が制作指揮を執った。これに応えて作詞家・作曲家が曲を作り、歌手が歌うという体制であった。 なお当時は作詞家・作曲家・歌手の地位や権利を保護する仕組みがなかったこともあり、「専属契約」という形でレコード会社の「社員」として扱われていた。このため作詞家・作曲家・歌手が移籍する際には「入社」「退社」と表現することが多い。
発表
全てSPレコードによる。音声は当時まだステレオ録音がなかったためモノーラルである。SPレコードの録音可能時間が4分程度と短いため、アルバム形式での発表はなく、すべてシングルでの発表であった(アンソロジー形式のものもあるが途中で曲が切られる)。
また両面で歌手が異なる場合がほとんどである(映画の主題歌や企画盤ではこの限りではない)。ただし組み合わせについては全く不規則というわけではなく、この歌手の裏にはこの歌手、という規則性がある程度成り立っている。
なお、発表に当たっては変名を使うのが普通であった。後述するように流行歌の地位は低いものであり、歌うことに対し体裁が悪いという思いがあったためである。特に新人歌手は会社を掛け持ちすることが多かったため、掛け持ちが露見しないようさまざまな名前を使うことが多かった。楠木繁夫が本名の「黒田進」も含めて55個もの名前を使用していたのは有名である。いずれにせよ正体を隠すための習慣であり、「芸名」ではなく「変名」と称するゆえんである。
地位
発生以来、庶民の娯楽として圧倒的な支持を受け、「唄は世に連れ、世は唄に連れ」ということわざまででき、流行歌はその時代の世相を映す鑑として、多くの人々に愛され口ずさまれるようになった。
しかし一方で音楽愛好家の間にはクラシック音楽を至上として考え、大衆の中から生まれて来た流行歌を卑俗なものとして蔑む傾向が強くあり、時に過剰な排斥や誹謗中傷が行われることもあった。だが、電気吹込み時代の昭和流行歌はクラシック・洋楽系演奏家による歌唱が主流となり、当時の中間層の娯楽である歓楽街、家庭でも聴けるような流行歌も作られている。ただし、音楽学校出身者やオペラ歌手が流行歌をレコードに吹込む時代とはいえ、音楽学校卒業前に流行歌をレコードに吹込むことは禁止された。特に音楽学校は流行歌でのアルバイトを禁じ、事実東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に通っていた藤山一郎は一時活動休止を余儀なくされ、彼の後輩である松平晃は同様のアルバイト発覚により退学している。
それ以外にも安易に身を売る女性などをテーマにした唄もあることから、風紀上好ましくないと言う意見も多かった。このため学校などで児童・生徒が唄うことは禁止されていた。 戦後もその傾向は続き、昭和24(1949)年にまだ12歳にすぎない美空ひばりがデビューしたとき、あんなに幼い少女に流行歌を歌わせるとは何事かという批判も少なからずあったという。 流行歌がその価値を正当に認められるようになるのは、流行歌の時代が終わってから10年ほど経ち、テレビが家庭に普及して「懐メロ番組」が組まれ、ブームとなって以降のことである。
歴史
流行歌以前
近現代日本での大衆歌謡の発祥は、明治維新直後までさかのぼることが出来る。
江戸時代の節をつけた瓦版売り「読売」の伝統が、自由民権運動の政治批判・宣伝に用いられ、川上音二郎の「オッペケペー節」をきっかけに壮士演歌として発展、社会問題を扱った「ダイナマイト節」「東雲節」、条約改正問題の「ノルマントン号沈没」、社会風刺の「のんき節」、文芸物の「不如帰」などが添田唖蝉坊らによって作られた。日露戦争前後から、庶民の心情がテーマになり、演歌が艶歌とも言われるようになった。これらの歌はすべて自然発生的なもので、「商業性」を旨とする昭和流行歌の性質には程遠いものであったが、神長瞭月ら演歌師と呼ばれる人々がバイオリンの伴奏で歌って人気を集め、書生節の隆盛による大衆歌謡の基礎が作られていった。
大正期には中山晋平が西洋音楽の手法で劇中歌とはいえ、流行歌を作ったことは画期的であった。「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などの洋風の旋律は新鮮なイメージをあたえ、インテリ層に受けた。また「船頭小唄」はヨナ抜き短音階で作られ、昭和演歌の基本になっている。これらの歌は「流行り唄」として、演歌師たちが歌い広めた。ヨーロッパのオペラはすでに明治時代から紹介されており、帝劇歌劇部が誕生している。同歌劇部からは、原信子、清水金太郎らがイタリア人音楽家ヴィットリオ・ローシーの下でオペラ活動に従事した。それが、浅草オペラとして花が咲き、田谷力三・藤原義江ら声楽家が育った、東京の浅草を拠点にした浅草オペラが人気を集めた。人々は「カルメン」の「闘牛士の唄」、「リゴレット」の「女心の唄」などを歌い、演歌師もアメリカの軍歌から「パイノパイ節」、インド民謡から「ジンジロゲ」などを創作、陸海軍軍楽隊や「ジンタ」と呼ばれる宣伝用の音楽隊の活動、ピアノ、ハーモニカの普及などの動きで、日本に海外の音楽が根付き流行歌の母体が生まれていく。また1925(大正14)年のラジオ放送も、音楽普及のメディアとして大きな役割を果たした。
一方、1890年代に録音媒体としてレコード技術が移入され、音楽の録音とその発売という商業活動が始まることになったが、それをもってしてもまだ商業性に乗じた歌は生まれなかった。この頃のレコード吹き込みの内容が講談・落語・浪曲・邦楽などそもそも音楽以外のものが圧倒的であったこと、大正時代に入ると、「流行り唄」は書生節レコードとして、オリエント、帝国蓄音器(後のテイチクとは異なる)ニットーレコードなどから、演歌師たちのレコードが発売されている。また大衆歌謡のレコード制作の態度そのものも「あくまで流行している歌を吹き込んだだけ」、つまりは演歌師たちの歌を聞きつけてレコードにするというもので、レコード会社が能動的に歌を企画・製作するわけではなかった。大正初期、松井須磨子による「カチューシャの唄」や、鳥取春陽の「籠の鳥」「船頭小唄」などは映画主題歌として商業的に成功した例外的な存在であった。
なお、この時期の大衆歌謡を流行歌と区別して「流行り唄」「はやり唄」と呼ぶことが多い。
二村定一と佐藤千夜子
「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3(1928)年のことである。外資系レコード産業の成立によって、電気吹込みによるレコード歌謡が誕生し、その中で浅草オペラの出身の二村定一が流行歌への先鞭を付けたのである。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、ナンセンスなコミックソングを歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在のイージーリスニングにあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「あお空」「アラビアの唄」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。
一方、声楽家であった佐藤千夜子は、ビクターで昭和3年発売の「波浮の港」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4(1929)年に「東京行進曲」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。
この2人の画期的なところは佐藤千夜子はオペラ調、二村は日本語の明瞭度に定評があった。それまで歌手といえば、書生節の街頭演歌師であった。洋楽系歌手の登場は昭和の新しい流行歌手の誕生でもある。その後、佐藤千夜子に刺激を受け、声楽家が流行歌やレコード歌謡に進出した。通常、母音に響だけのビブラートを使って声を張り上げることが多く、事実多くの歌手がそのように歌っている。しかし、この唱法は日本語が不明瞭であり、感情表現を示す大衆歌謡では大げさに過ぎそぐわないことが多い。 二村は歌唱力に限界があったこと、佐藤は歌劇を歌うように無理をした歌唱になってしまったことから、結果的にこれらの試みは充分な結果をもたらすことは出来なかったが、のちに藤山一郎が藤原義江のオペラのベルカントとは違う、リートのベルカントを付し、レガートな共鳴の響きで歌う声楽技術の歌唱法を研究し、正統派美声系流行歌を生み出す基本となった。のち二村は舞台に専念し佐藤はイタリアへ留学してそれぞれ流行歌の世界から身を引いてしまう。
これにより2人のレコードを制作していたビクターは、作曲家に中山晋平・佐々紅華。作詞家には時雨音羽・堀内敬三を擁し、他社を押さえて大きく躍進することになった。
藤山一郎の登場と第一世代
佐藤のヒットから2年後の昭和6(1931)年、コロムビアでアルバイトとして流行歌の制作に携わっていた古賀政男は、同じくアルバイトであった東京音楽学校の学生・藤山一郎と組んで「酒は涙か溜息か」を発表した。ごく短い歌であったが、それまでの大衆歌謡と全く異なる音楽性、そして電気マイクの特質を利用した「クルーン唱法」による情感あふれる歌唱に人々は魅了され、同曲は大きなヒットを飛ばした。藤山は本名増永丈夫といって音楽学校が将来を期待するクラシック音楽生だった。声楽技術の正統な解釈による歌唱は日本語の質感を高め、古賀政男のギター曲の魅力を広めることになった。
これがきっかけとなり、同様の手法による歌が各レコード会社で制作されるようになり、歌手も次々とデビューした。当初「流行小唄」と言われたが一時的なもので、やがて「流行歌」の名称が定着、世間に瞬く間に広がることとなった。
初期の頃は新興分野ということもありレコード会社の勢力も歌手の人気もはっきりしなかったが、昭和11年頃になると大体の勢力範囲が決まり始め、以下の3社が大手の中でも特に大きな勢力として天下を三分することになる。
コロムビア / 松平晃、中野忠晴、伊藤久男、関種子、ミス・コロムビア、淡谷のり子
テイチク / 藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫
ポリドール / 東海林太郎
この他にも大手といえる規模の会社として、ビクターとキングがあった。しかしビクターはかつて主力としていた作曲家の中山晋平が流行歌向きでなかったために時流に乗り遅れたこと、昭和8(1933)年ビクターに入社した藤山一郎は流行歌も歌うが本名の増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、徳山l、四家文子らもクラシックの声楽家としての活動が主体であり、「涙の渡り鳥」「島の娘」「無情の夢」を作曲した佐々木俊一の台頭、日本調の小唄勝太郎らがビクターを支えていた。昭和15年以後は灰田勝彦の人気が全国的となり、戦前のビクターの看板歌手を代表した。
キングは既に流行歌手として実績を持っていた東海林太郎と専属契約をしたものの、ポリドールに借り出した際に「赤城の子守唄」でヒットを飛ばされ、そのままポリドールと二重契約を認めざるを得なくなったばかりか、相手方でばかりヒットを飛ばされるという目に遭い、結局戦前は中堅以上になれないまま終わった。
またこれにともない、流行歌の作詞・作曲を専門とする作詞家や作曲家が多数出現した。作曲家では古賀政男・江口夜詩・古関裕而・服部良一らを筆頭に、竹岡信幸、阿部武雄などが、作詞家では西條八十・佐藤惣之助を筆頭に、サトウ・ハチロー、藤田まさとらが活躍するようになった。
このような状況の中で、流行歌は庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた。まず、当時の第一の娯楽であった映画とリンクしたことが、普及に大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「旅の夜風」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込みや人気歌手の映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作が好例である。
また「赤城の子守唄」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派の演歌も多く作られ現在も歌い継がれている名曲が多い。
さらに「天国に結ぶ恋」・「肉弾三勇士」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「波浮の港」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブーム、スキーブームといった流行を取り入れた作品も発表された。
「祇園小唄」・「茶切節」・「東京音頭」といった「新民謡」という形で地方の風物を歌ったり、時には小唄勝太郎・市丸・美ち奴・新橋喜代三など芸者を歌手として起用して(芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽の要素を強く持った曲を打ち出した。また、ディックミネ・淡谷のり子らによる「ダイナ」・「酒が飲みたい」・「別れのブルース」など欧米のポピュラー音楽をベースにした作品は、戦後、笠置シヅ子、江利チエミ、雪村いづみらに受け継がれポップス歌謡の源流を生み出した。
時代が満州事変から日中戦争へと軍国主義化に進むと、それに呼応して、当時「新天地」とされた満州や中国大陸への憧れを「上海の花売娘」・「満州娘」など「大陸歌謡」という一ジャンルに仕立て上げたりと、さまざまな側面からその世界を拡大し、各々の個性を競い合ったのである。
第二世代の出現・台頭
流行歌の繁栄に伴い、新人歌手の起用も次第に増加してきた。特に昭和10(1935)年以降、それまでのスターダムに続く歌手が相次いで起用され、「第二世代」とでも呼ぶべき一団を作り出した。この時期は藤山一郎・東海林太郎を頂点にし、ディック・ミネ、伊藤久男、灰田勝彦、霧島昇、淡谷のり子、渡辺はま子、二葉あき子らが外国ポピュラーソング、映画主題歌、軍国歌謡などを歌ってヒットを飛ばし戦前の流行歌を豊かにしている。デビューした歌手としてコロムビアの霧島昇、ポリドールの上原敏、田端義夫、キングの岡晴夫などがいる。この時代から登場する歌手は、音楽学校出身者が多かった時代、それとは無縁なところから出てきたことになる。これが演歌系歌謡曲歌手の基本となる。彼らはクラシック・洋楽系の先輩歌手たちと共存、もしくは先輩歌手にとって代わり、流行歌の戦前における最盛期を盛り立てることに貢献した。
この時期の3社の陣容を以下に示す。
コロムビア / 霧島昇、松平晃、中野忠晴、伊藤久男、ミス・コロムビア、二葉あき子、淡谷のり子、渡辺はま子、李香蘭(山口淑子)
テイチク / 藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫 (藤山一郎は昭和14年コロムビアへ移籍、楠木繁夫はビクターへ移籍)
ポリドール / 東海林太郎、上原敏、関種子、青葉笙子、田端義夫
この時は戦前で最も流行歌が栄えた時期であった。政治的には日中戦争の勃発、治安維持法制定や検閲基準の改訂を初めとする国民統制の強化など暗い話題が相次いでいるが、社会自体にはまだ余裕があり、庶民は華やかな生活を謳歌することが出来た。
戦時中の暗黒時代
しかし戦争の影は否応なく流行歌の世界にも影を落とし始めた。軍歌は兵士を鼓舞させるために軍隊が作ったものや兵士の間で歌われたものをさす。軍国歌謡は新聞社やレコード会社が企画し、国民の戦意高揚を図ったものである。戦時歌謡は、戦争の時期の流行歌と軍国歌謡を合わせた意味をもつジャンルの名称である。。昭和12(1937)年の「露営の歌」の成功に伴い、このような戦争賛美・国威発揚を目的とした歌が徐々に増え、流行歌の音楽世界を蚕食し始めたのである。「忘れちゃいやよ」・「裏町人生」などのヒット曲が発売禁止になり統制が厳しくなった。昭和15年の「皇紀二千六百年記念」による国を挙げた記念事業も、それに拍車をかけ、人気歌手は戦地に慰問に行くことが多くなった。
戦時歌謡の優勢が決定的となったのが、昭和16(1941)年の太平洋戦争勃発である。これにより国内は戦争一色の状態となり、流行歌も戦時歌謡だらけとなって、それまで何の問題もなかった抒情歌が「女々しい」と発禁処分になる状況となった。昭和18(1943)年頃になると、戦況の厳しさに比例するかのように戦時歌謡も凄惨な内容のものに変わって行き、完全に音楽性が崩壊することになる。そんな状態であったが、「新雪」・「高原の月」・「勘太郎月夜唄」など名曲がわずかながらも作られ、戦時歌謡よりも支持を得た。
レコード産業自体にも統制の手が及び、敵性語追放の名の下にレーベル名や社名を強制変更されたり(「コロムビア」→「ニッチク」、「キングレコード」→「富士音盤」など)、強制合併させられたり、挙句の果てには「不要不急産業」として工場を無理矢理軍需工場に転換されたりと、事実上まともな活動の出来る状態ではなくなってしまった。昭和19(1944)年には「月夜船」以外流行歌は発表されなくなり、この年の7月には人気歌手であった上原敏がニューギニアで戦没、戦前の流行歌はさまざまな形で戦争の被害を受けた。
そして昭和20(1945)年になり、東京大空襲によって東京が壊滅的な打撃を受けると、4月新譜をもってレコードの製造も停止し、完全に休眠状態になった。
戦後の躍進と第三世代
昭和20(1945)年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を決定した。これにより戦争という桎梏のなくなったレコード業界は、さっそく復活の狼煙を上げ、各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始めた。そして翌年から早くも活動を再開したのである。
この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、美空ひばりや並木路子など、「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と霧島昇がデュエットした「リンゴの唄」は戦後の自由な雰囲気を謳歌する曲として有名である。
だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは藤山一郎などごくわずかな歌手のみである。
一方、第二世代の歌手には逆に好機となった。昭和10年代中盤デビューの彼らは、まだ若い上に充分に活躍する前に戦争に突入しており、力が有り余っていた。これが正の方向に働き、新時代でも活躍が可能になったのである。
また、レコード会社の陣容も変化した。コロムビア・テイチクの強さは変わらなかったが、ポリドールが東海林太郎の移籍と上原敏の戦病死により大きな柱を失い沈下してしまう。代わりに岡晴夫など第二世代の歌手を多く擁していたキングが台頭し始めた。この時期の3社の陣容は以下の通りである。
コロムビア / 藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、近江俊郎、美空ひばり、二葉あき子、山口淑子(旧李香蘭) (渡辺はま子はビクターへ移籍)
テイチク / 田端義夫、ディック・ミネ、淡谷のり子、菅原都々子
キング / 岡晴夫、小畑実、津村謙、松島詩子
この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と奈良光枝のデュエットによる「青い山脈」など、戦後流行歌の名曲が数多く生まれた。
藤山一郎のレコード歌手引退
このように当初は比較的融和的であった戦前派と戦後派であったが、次第に若い戦後派の勢力が増し、音楽性も戦後の明るさを強調する目的から戦前とは違う発展を遂げ始めた。
これに戸惑ったのが戦前派の歌手である。彼らの多くは昭和28(1953)年を過ぎる頃からヒットが出にくくなってきた。
特に流行歌界に衝撃を与えたのが、藤山一郎のレコード専属歌手としての引退宣言である。初期デビューの歌手の中で唯一最前線に立っていた藤山も、昭和28年以降なかなか目立ったヒットが出づらくなっていた。さらに彼自身、今の流行歌界の現状に強い不信感をおぼえ「今の唄はパチンコ・ソングが多い」と批判していた。このようなことから昭和29(1954)年に引退を決意し、23年間のレコード専属歌手生活に終止符を打ったのである。そして、本来の藤山一郎の音楽に戻り、NHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した。
これにより戦前派の歌手は昭和30年代半ばまで紅白歌合戦に出場していたとはいえ、ヒットの表舞台からほぼ去り、流行歌界は演歌系歌手の戦後派の天下となった。
音楽性の変容
戦前派の撤退を横目に、新人歌手の開拓は続いていた。ビクターは鶴田浩二、三浦洸一、テイチクは三波春夫、コロムビアは島倉千代子、村田英雄がそれぞれデビュー。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎や三橋美智也をデビューさせ、戦前とは比べ物にならない勢いを誇った。また石原裕次郎やザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場した。
このように戦後派が天下を取る状況となったことにより、流行歌の音楽性は大きく変容した。器楽的な部分はなりを潜め、のちの「演歌」や「歌謡曲」に通じるような曲が多く生まれた。このため、この時期の「第四世代」ともいうべき歌手を「流行歌歌手」として認めない意見も多い。
演歌の分離と終焉
流行歌の変容は昭和35(1960)年頃に差しかかると完全に歯止めが利かなくなり、なし崩し的に解体が始まった。そして昭和38(1963)年、コロムビアの一レーベルであったクラウンが「日本クラウン」として分離独立し、「演歌」を専門とするようになる。流行歌が分裂した瞬間であった。
またその前年、昭和37(1962)年にはSPレコードの生産が打ち切られた。昭和30年代に入って急激に生産量が増えたLPレコードにSPレコードは圧倒されていたが、ここに至ってついに駆逐されるに至ったのである。現象としては新旧技術の交替であり偶然時期が一致したにすぎないが、SPレコードは長らく流行歌の担い手であっただけに、流行歌の命脈が尽きかけていることを暗示する出来事となった。
そして分裂と媒体消滅に追い打ちをかけるように、それと同時進行的に英米からザ・ビートルズに代表される新しい音楽が大量に流入し、音楽界は一気に多様化することになる。このようなことからもはや日本の大衆音楽は流行歌時代のようにひとくくりに出来るものではなくなり、事実上「流行歌」は終焉を迎えたのであった。
そして流行歌にたずさわった歌手や作詞家・作曲家たちも、演歌歌手に転向したり歌謡曲と違う分野に転身したりと散り散りになり、やがて多様化する音楽分野の波の中に埋没して行ったのであった。
戦時歌謡
流行歌に特徴的なこととして、上述した通り太平洋戦争の時代を通ったために、戦争と密接に関わり合ったということがある。その具体的な産物が戦争自体や軍の進撃を讃美したり、戦時体制などのプロパガンダを歌ったりして、士気高揚を狙う「戦時歌謡」である。昭和12(1937)年頃から姿を現し、16年の太平洋戦争開戦後一気に流行歌の世界を乗っ取った。
「士気高揚」ということで極めて勇ましいイメージがあるが、その一方で開戦前までは上原敏の「上海だより」「声なき凱旋」・近衛八郎の「ああ我が戦友」・音丸の「皇国の母」など兵士の望郷の念や戦友への思い、留守家族の気持ちを歌った叙情的な曲も多かった。また塩まさるの「九段の母」のように、一見すると戦時体制を讃美する内容であるが実は違う、というギミックが入っている歌もあった。
しかし昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦後、このような叙情的な戦時歌謡は「女々しい」と歌唱が禁止された。さらに当時流行歌の大半が戦時歌謡と化していたため、流行歌の世界に「前線の戦い」と「銃後の守り」、そしてプロパガンダを叫ぶ歌ばかりがあふれることになる。末期になると残酷な歌詞も平気で使われるようになり、結果的に音楽としての価値を損なう結果となった。
戦時歌謡は戦争の産物であるため戦中の作がほとんどであるが、戦後もシベリア抑留に遭い境遇と生還の思いを現地で歌った「異国の丘」やシベリア抑留からの復員の喜びを描いた「ハバロフスク小唄」、異国の戦犯裁判の悲劇を歌った「ああモンテンルパの世は更けて」、引き上げ船を歌った「かえり船」など少数ながら作例がある。また、ジャワの民謡「ブンガワンソロ」が戦後藤山一郎、松田トシによって歌われるなど、日本軍占領地の唄が逆輸入されたことも見逃せない。
これらの戦時歌謡はほとんどの場合、他の流行歌と共通の作詞家・作曲家によって作られている。ただし誰でもよいわけではなく、勇ましい作風を持つ作曲家が選ばれ、古関裕而や江口夜詩がその代表格となった。一方、服部良一のようにモダンな作風の作曲家は不遇な目に遭わされることになった。
しかし戦後、これらの作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。たとえば、古関裕而は大戦末期に作曲した「比島決戦の唄」について、「……私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」と証言している(古関裕而 「鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝」主婦の友社 1980年)。
戦時歌謡はメディアによる制作も行われた。1936年6月1日「国民歌謡」がNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットした。それには、「朝」・「椰子の実」・「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「愛国の花」・「隣組の唄」・「めんこい仔馬」・「国民進軍歌」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多い。
「大陸歌謡」との関係
戦後一時期、「大陸歌謡」と呼ばれる歌謡群が戦時歌謡と同一視されていたことがある。大陸歌謡とは、日本が戦争中に直接もしくは間接的に占領した満州や上海など中国大陸を舞台にした歌で、地名や文物を交えながら、新天地を求めてさすらう旅人の哀愁や望郷の念、また男女の別れや慕情を歌った叙情歌である。舞台から「満州物」「上海物」、この分野を打ち立てた松平晃の「急げ幌馬車」の影響でよく幌馬車がアイテムとして使われたため「幌馬車物」とも呼ばれる。
この大陸歌謡は戦争で日本が大陸進出をしなければ、およそ作られることもなかった歌であることも確かであるが、戦時歌謡と違って戦争に関する明確な描写が存在せず、またそれが歌の目的でもないことに留意すべきであろう。ただ単に舞台が日本の占領地であるというだけで、本質的には純粋な叙情歌・恋愛歌なのである。
事実昭和9(1934)年の発生時から一定の数を保って来た大陸歌謡は、開戦で戦時歌謡が優勢となる16年前後から急激に数を減らし、敗戦を待たずに消滅している。このことは当時から大陸歌謡が戦時歌謡と別物と見なされていたことを物語っている。
また大陸歌謡の叙情は、戦後発生した演歌の大きな主題の一つである「北へのさすらい」の原形であるとも言われる。この点も戦後その痕跡を残さなかった(残せなかった)戦時歌謡と大きく異なる。
「軍歌」
戦時歌謡は一般的に「軍歌」とも呼ばれることが多い。しかし「軍歌」の定義は本来は「軍隊の中で作られて歌われた歌」のことなので、商業的に外部で作られた戦時歌謡は本来的にはあてはまらず、単に戦争関係だからと十把一からげにして呼ばれているだけに過ぎない。 この「軍歌」呼ばわりにより、流行歌の知識が不足している人よりあらぬ誤解を受けることも多いことから不快感を示すファンも多く、歌手でも東海林太郎は自分の「麦と兵隊」が「軍歌」呼ばわりされるのを嫌い「あれは戦時歌謡で軍歌ではない」とわざわざコメントしたほどである。
 
流行歌3 藤山一郎

日本の演歌は、明治時代の自由民権運動の産物でした。壮士演歌ともいって、藩閥政府に対する批判、政治宣伝のために歌われました。歌は一過性ですから、歌ってしまえば終わりです。弾圧、処罰を逃れられるということで政治主張を歌で表現したのです。添田唖蝉坊(あぜんぼう)(1872-1944)などが有名です。
やがて、壮士演歌から書生節に変わっていき、内容も政治批判だけではなくなってきます。特に日露戦争前後になってきますと、政治的なメッセージよりもニュース的なもの、恋愛事件や心情的なものを主題とした艶歌に変わってくるのです。
艶歌の「艶」というのは、心情、情緒的なものをあらわしています。このころの艶歌は、音楽的には確立しておらず、メロディーは日本の俗謡、教会の賛美歌や外国の行進曲などから借りた代用の時代です。
艶歌は、当時のいわゆる流行歌ですが、その流行歌を、大正時代に入って、中山晋平(1887-1952)が近代化します。この場合の近代化とは洋楽の手法で作曲することです。中山晋平は現在の東京芸術大学ピアノ科の卒業生で、島村抱月の書生をしながら苦学しました。芸術座公演の劇中歌・「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などを作曲し、人気を博します。西洋音楽の技法で日本人の心情を旋律にしたことは画期的でした。
その後、野口雨情とコンビで「あの町この町」「雨降りお月さん」など数々の童謡を作曲しますが、「船頭小唄」(大正10年)で歌謡曲の原型を作りました。さらに、「波浮の港」(大正13年)などを次々と発表し、「東京行進曲」(昭和4年)は佐藤千夜子((1897-1968 東京芸大声楽科中退)が歌って25万枚と大ヒットします。昭和流行歌は中山晋平の「新民謡」や流行歌で幕を開けたのです。
中山は、日本各地に残っていた民謡、俗謡などを調査し、日本人がもっている郷愁、その音律を洋風のメロディーにしました。ですから「新民謡」といわれたのです。中山晋平以後、日本人が西洋音楽を咀嚼して日本の大衆歌を作曲したことを皮相な和洋折衷と批判せずに積極的に評価すべきだと思います。
「船頭小唄」は、西洋音階の四度(ファ)と七度(シ)を抜いたヨナ抜き五音短音階でつくられています。日本人がファとシの音を出しにくいので、学校唱歌を作る時などにはヨナ抜き音階が多く使われました。中山晋平以後、その手法で流行歌を作るようになると、和音とハーモニーが薄くなるという批判もでました。
西洋音階は平均律ですから、例えば、ドとレの間は、半音が上がるか半音下がるかの音があるだけで、表現できる音は一つしかありません。鍵盤で示せば白と黒で決まっているわけです。ところが、邦楽などに使われる日本の音階は西洋音階と違って、たとえば、ドとレの間に無数の音があります。ですから、日本の音は、ピアノなどはっきりと平均律で決められた楽器では表現しにくいところがあるわけです。日本の民謡を正確に五線譜に書けない場合があるのはそのような理由があるからです。
中山晋平は、クラッシク音楽の教育を受け、日本人の根底にある心情を洋風のメロディーで表現しましたが、街頭演歌手の立場から洋風の艶歌を確立したのは、「籠の鳥」(大正11年)を作曲した鳥取春陽(1900-1932)です。鳥取は添田唖蝉坊に師事し、街頭演歌師として活動を始め、独学で作曲を修得しました。
鳥取は昭和に入るとジャズのリズムなどを取り入れて、斬新なメロディーを作り、たとえば、「籠の鳥」は古賀政男より早く、3拍子のリズムを使いました。この人が残した楽譜から大村能章、江口夜詩など、多くの作曲家が影響を受けました。
大正時代の流行歌は、街頭演歌手が歌っている歌をレコード会社の人が聴いてレコードに吹込ませるという形をとっていました。早速、レコード会社は、洋風の街頭演歌を作って歌う鳥取春陽に眼をつけたのです。その意味でも鳥取の「籠の鳥」は画期的でした。
中山晋平作曲の「船頭小唄」も、鳥取の歌で広まりました。鳥取がヒコーキ印の帝国蓄音器で吹込んだレコードでは新しい伴奏形式も試みています。大正11年から13年の頃に「船頭小唄」は各レコード会社でいろいろな演歌師によってレコードに吹込まれましたが、鳥取春陽のレコードは、それまでのバイオリン1本の録音ではなくて、昭和に入ってからの完全なオーケストラ伴奏ではありませんが、小編成のオーケストラ伴奏をつけたのです。

大正から昭和にかけて、「新作小唄」「流行小唄」「新作歌謡」「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、その内、言葉としては演歌、艶歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。
歌謡曲という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。たとえば、藤山一郎(1911-1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で歌謡曲という言葉が使われています。歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。
NHKがラジオ放送を始めて間もなく昭和2年頃に、歌謡曲が流行歌を指す放送用語として、便宜上、使ったのが最初だといわれています。「ちゃっきり節」の作曲者で日本民謡研究家の町田佳声(嘉章)が命名しました。流行歌という概念で歌謡曲という言葉を使ったのは昭和に入ってからです。昭和10年代に入ると歌謡曲という名称は一般的になっていきました。
昭和に入って、流行歌の世界は大きく変わります。米国ビクターが日本ビクターを設立、日本蓄音器商会が英米コロムビアと資本提携し日本コロムビアを作ります。流行歌の作られ方も、レコード会社が企画・製作し、新聞メディアなどの宣伝によって、大衆に選択させるという仕組みになりました。
また、録音システムも従来のラッパ吹込み(アコースティック録音)からマイクロフォンを使った電気吹込みに変わります。流行歌をレコードで聴く時代になり、街頭の歌は、ほとんどすたれてきます。クラシックの赤盤、青盤、ジャズレコードなどがカフェー、ダンスホール、街頭などで蓄音器から流れ、アメリカニズムの影響を受けた昭和モダンの消費文化に酔う大衆が流行歌に魅了される時代になりました。
マイクロフォン使った電気吹込みでは、ヴォーカル革命といわれた藤山一郎の果たした役割は大きいと思います。藤山は昭和6年、古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」を、マイクロフォンに効果的な録音するために、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で古賀政男のギター曲の魅力を伝えました。ホールの隅にまで届く美しい弱声の響き(メッツァヴォーチェ)をマイクロフォンにのせたのでした。「影を慕いて」ではファルセット(透明感のある声)とポルタメント(高さの異なる音へ滑らかに移す唱・奏法)を巧みに使って聴く人に感銘をあたえています。
藤山は、本名増永丈夫、当時、まだ現在の東京芸術大学声楽科在校中で、声楽をドイツのヘルマン・ヴーハーペーニッヒ、音楽理論・指揮法をクラウス・プリングスハイムに師事し将来を嘱望されていました。しかし、昭和の恐慌で傾いた生家の借財返済のためにアルバイトで歌いコロムビアからデビューしています。
同じ年(昭和6年)に発売された「丘を越えて」は「酒は涙が溜息か」とうってかわって、マイクから離れてレジェーロ(軽やかな)テノールの音色をいかし声量豊かに古賀メロディーの青春を歌いました。
少し専門的になりますが、口蓋の上から直接鼻腔に抜き頭声に連動させたり、軟口蓋の後ろから突き抜けるように発声するなど、ここにも声楽技術がみられ、つまり、声量・響きの増幅が自由自在にコントロールされていたのです。
流行歌、歌謡曲の流れる場所は、遊郭、カフェーなどになりますが、歌謡曲の歌手には、藤原義江のようなオペラ歌手、芸大出身者の声楽家が数多くいました。しかし、オペラ歌手が、オペラの歌い方で歌うため日本語が不明瞭でした。そこに藤山一郎が声楽の基本である共鳴の美しい響きで歌うベルカントの本質を歌謡曲に付し、明瞭な日本語でその美しさを伝えました。その点においては音楽理論・規則・楽典に忠実に歌う、まさに正格歌手・藤山一郎の登場は革命的だったのです。ベルカントという表現には「美しく歌う」という意味があります。リート(歌曲)やオペラのアリアの歌唱法の基本になっています。
藤山一郎は昭和8年に芸大を卒業すると、ビクター専属となり、本格的なクラシックは本名の増永丈夫で独唱し、同時に、美しいテナーの音色を生かして、流行歌はもちろん、外国民謡、ジャズ・タンゴなどのポピュラーソング、内外の歌曲を歌っています。
後にテイチク、さらにコロムビアに転じ、「東京ラプソディー」(昭和11年)「青い背広で」(昭和12年)「青い山脈」(昭和24年)「長崎の鐘」(昭和24年)などのヒットを飛ばしますが、その後の活躍は御承知のとおりです。
昭和初期の歓楽街で一番人気のあったのは藤山と、独特の髪型、直立不動で知られる東海林太郎(1898-1972)であったといわれています。どこへ行っても、藤山と東海林のレコードがかかっていました。
東海林は早稲田大学から「満鉄(南満州鉄道株式会社)」に進みましたが、音楽の途を捨てがたくエリートサラリーマンを辞め歌手になりました。戦前の東海林の最大のヒットは「赤城の子守唄」、「国境の町」などがお馴染みです。また、ヤクザ小唄、股旅歌謡などの日本調歌謡が人気でした。都市文化の讃歌を歌う藤山一郎と日本調歌謡の東海林太郎は日本の歌謡界の「団菊時代」を形成し、流行歌など見向きもしなかったクラシック愛好家にその魅力を伝えた功績があります。

「酒は涙か溜息か」で作曲家として名を成した古賀政男(1904-1978)は流行歌以前、クラシックのマンドリン、ギターの演奏家で、マンドリンギターのオーケストラを率いていました。ですから佐藤千夜子が最初に歌った古賀作曲の「文のかおり」(昭和4年12月ビクター吹込み)は、マンドリンのオーケストラ伴奏で吹込んだものです。
同じく佐藤が歌った「影を慕いて」(昭和5年10月ビクター吹込み)も、ギター歌曲です。「影を慕いて」は昭和4年6月にギター合奏で初演されています。その後、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビアの演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かいました。
もう一つ、初期の歌謡曲にはジャズの影響があります。当時は、ジャズという言葉は舶来の音楽を表していて、シャンソン、タンゴなどを含めてポピュラーソングの総称としてジャズ・ソングといっていました。その初期は「アラビアの唄」(昭和3年)「青空」(昭和3年)「君恋し」(昭和4年)を歌った二村定一が人気を博します。
昭和6年前後の、藤山一郎、古賀政男の登場あたりから、ジャズバンドの演奏力も上がってきます。昭和10年代になると淡谷のり子(1907-1999 東京音大卒)、日本最高のジャズシンガー・ディックミネ、灰田勝彦らが活躍します。ジャズバンドの水準も高く、トランペッターの南里文雄などが出てきます。喜劇王のエノケンもジャズバンドを率いて舞台で歌っていました。この時代の歌謡曲は、日本の心情的なもの、情緒的なものをある程度残しつつ、形式は洋楽で、戦前の古賀政男もジャズを随分取り入れています。
昭和10年代になると、大阪ジャズで腕を磨いた服部良一(1907-1993)は、淡谷のり子とのコンビで、ジャズ、ブルース、ルンバ、タンゴなどいろいろな要素が入った歌謡曲をつくります。 また、ポピュラー音楽の外国レコードも大量に入ってきます。そうした外国のポピュラーソングを日本人の歌手がカバーしたレコードもかなり発売されています。
淡谷のり子は「十年に一人のソプラノ」と絶賛された人で、その素養を活かし、外国のポピュラーソングをかなり歌っています。また、中国の情景を主題にしたチャイナ・メロディーでは渡辺はま子が人気を博しました。
この頃、日本の大衆音楽は、多彩で豊かです。日本系流行歌は東西の混合曲(古賀・服部メロディー)、ヨナ抜き五音階歌謡・日本調歌謡(艶歌唱法・浪花節系歌謡)、外国系流行歌は外国ポピュラー曲(タンゴ・ジャズ・ブルース)、ホームソング系歌曲と、その脈系も複雑になってきます。レコードも相当発売されていますので、戦前、この時期の大衆音楽の水準は高かったといえます。
服部は、今、JPOPの元祖としてその斬新なリズムにばかり注目されていますが、「懐かしのボレロ」、「別れのブルース」、チャイナ・メロディーの「蘇州夜曲」、戦後の「青い山脈」などメロディーも豊かで、こちらにも目を向けてほしいものです。
太平洋戦争中は、大衆音楽にとっても受難の時代でした。藤山一郎は戦争慰問で南方の激戦地を回ります。昭和20年にジャワ島(スラバヤ)で捕虜になり、収容所での慰問演奏で自分の歌の力、大衆音楽の力を認識し、大衆音楽の演奏家として進むことを決意するのです。
藤山は「増永丈夫は、南方で死んだ」といっています。藤山は、それまで、クラシックと歌謡曲と二刀流で歌っていましたが、戦後は、大衆音楽の世界で、歌唱のみならず、指揮・作曲など、自分の音楽個性を築き国民栄誉賞を受賞することになります。
終戦直後は各レコード会社が戦災のために思うように新譜レコードを発売できず、戦前の歌謡曲が再発売されましたが、それでも昭和21年には並木路子の明るい歌声で「リンゴの唄」岡晴夫が歌う「東京の花売り娘」「憧れのハワイ航路」(昭和23年)が一世を風靡します。
また、服部良一作曲で、笠置シズ子が虚脱感を吹き飛ばすかのように歌った「東京ブギウギ」、古賀政男作曲の近江俊郎「湯の町エレジー」の大ヒット、藤山一郎が格調高く溌剌と復興の息吹を呼ぶかのように歌った「青い山脈」などもヒットします。
私は、戦後の昭和20年代までの歌謡曲の作曲も演奏も、日本のクラシック音楽の成果だと思います。とくにクラシックの品格をもって作曲した古関裕而の「長崎の鐘」などの歌謡曲はその代表でしょう。
ラジオ歌謡にもクラシック歌曲にしてもおかしくない格調のある歌があります。伊藤久男が抒情的なバリトンで歌う「あざみの歌」などはまさにそのような曲です。歌謡曲では高木東六作曲の「水色のワルツ」なども人々に潤いをあたえました。特需景気によって、お座敷ソングも流行しましたが、伊藤久男がダイナミックに歌う「イヨマンテの夜」、ラジオ歌謡の名曲「白い花の咲く頃」など清らかな抒情歌も人々に好まれました。

対日講和と独立が近づくと、歌詞に「アイラブユー」という言葉が入る「星影の小径」、帰らぬ人を想う哀愁も相まってアメリカナイズされた若者にも好評だった「上海帰りのリル」などが流行しました。
いろいろな歌謡史では、昭和26、7年頃は戦後のジャズブームによって流行歌は低調の時代と書かれていますが、名曲が多いですね。「アルプスの牧場」「ニコライの鐘」「高原の駅よさようなら」等々。
ラジオ歌謡から流れるクラッシク的な抒情歌や、フィリピンの戦犯釈放のきっかけを作った「あゝモンテンルパの夜は更けて」(昭和27年)、織井茂子が歌った「君の名は」(昭和28年)、そして、高度経済成長の前夜にふさわしい春日八郎が歌った「お富さん」(昭和29年)の大ヒットなどがありました。
歌謡曲は昭和30年代になって大きく変わってきます。経済白書で「もはや戦後ではない」といわれたように、高度経済成長の到来は、日本の社会を大きく変えました。大衆も生活文化が充実し、娯楽である歌謡曲においてもクラシック的な優等生の歌い方では、もう満足しないわけです。
藤山一郎のような声楽家、淡谷のり子、二葉あき子、渡辺はま子、伊藤久男のよう戦前の音楽学校出身の歌い手は、ヒットチャートの上位から姿を消します。また、小畑実、津村謙などの美声も飽きられます。戦後歌謡界のスター美空ひばり、春日八郎の望郷演歌、民謡調の演歌・故郷演歌の三橋美智也、泣き節の島倉千代子などなどが人気を得て、味のある個性的な声が求められました。
歌い方は旋律を美しく歌うレガート唱法はかげをひそめ、こぶしを巧みに回し、「ずり上げ」が主流になります。この頃、三浦洸一などはまだ戦前の正統派の歌い方のなごりがありますが、青木光一あたりになると演歌調になるわけです。もっとも、こぶしを巧みに回した歌い方は、戦前の上原敏、田端義夫あたりから始まっていますが、昭和30年代はもっと泥臭く歌うようになります。ですからこの時代になってきますと、あれほど昭和20年代、一世を風靡した岡晴夫のような声も飽きられてきます。
昭和30年代の歌謡界の作曲家の勢力地図も大きく変わります。演歌路線では、船村徹、遠藤実、都会派ムード歌謡・吉田正、ジャズの中村八大が勢力図の中心になります。とくに船村徹は、古賀メロディーよりもっと濃い情念を抉り、土俗的で大衆の心をとらえた現代演歌の基本路線をしきます。集団就職で都会に出てきた青年たちの望郷の念や心情に応えた名曲を創作しています。春日八郎が歌った「別れの一本杉」は船村演歌の代表曲です。
船村、遠藤実らの現代演歌の音楽的な特徴は、洋楽の要素をなるべく薄め、江戸三味線俗謡の肌合い、浪花節調の流行歌、民謡のメロディーなど日本の伝統的な音楽要素を取り入れたことです。当然、作風にも流れるようなメロディーラインなどクラシック的な楽想・格調がなくなります。いろいろな形でクラシックの影響があった日本の流行歌の音楽そのものが変わってきました。また、古賀政男も美空ひばりに接近して現代演歌の源流のスタンスをとります。古賀は初期の洋楽調の音楽個性や戦前の遺産を捨て、現代演歌路線に切り替えました。
昭和30年代の豊富なメロディーメイカーは古賀政男に代わってビクターの吉田正が活躍しました。フランク永井がジャズのフィーリングで歌った「有楽町で会いましょう」など高度経済成長期の都会のムード、洋酒を飲みながら聴ける都会派ムード歌謡というジャンルを作ります。また、その一方で、日本人のセンチメンタリズムを盛り込んだ歌謡曲や、橋幸夫・吉永小百合が歌った「いつでも夢」などの青春歌謡、エレキブームを反映したリズム歌謡など多彩な作品を世に送りました。
また、昭和30年代に入って、日本の大衆音楽に大きな影響を及ぼすアメリカの歌手が登場します。エルヴィス・プレスリー(1935-1977)です。それまで日本で人気があったアメリカの歌手といえば、ビング・クロスビー、フランク・シナトラなどの正統派の歌手でしたが、「ハートブレイクホテル」などで日本でも多くのファンを獲得するのです。そして、日劇ウエスタンカーニバルが昭和33年から始まります。日本のロカビリー、ロックンロールの始まりです。水原弘、坂本九などロカビリー出身歌手が歌謡曲に新生面を切り開きました。
そのロカビリーに対して、橋幸夫が10代の演歌歌手として登場します。それまでの演歌歌手は、三橋、春日のような大人の歌手と相場が決まっていました。ところが、橋幸夫の登場はその常識を破り、やがて、舟木一夫らの10代歌手が活躍する青春歌謡というジャンルもつくられていきます。

1966年、日本のポップス界に黒船が到来します。それは、ビートルズの来日でした。日本のポップスが大きく変わります。タイトに刻まれるエイトビートは衝撃的でした。これによって、日本のポップス歌謡はエイトビートにのって歌えるかどうかがポイントになりました。
1960年代の後半(昭和40年以降)から盛り場演歌、現代演歌が隆盛すると、歌謡曲は演歌が中心になってきました。そして、政治メッセージだったフォークソングは歌謡曲を媒体に商業フォークになり、歌謡曲からは独立していきます。
70年代に入ると、歌謡曲はポップス系のアイドル歌謡、現代演歌、なつかしの名曲、その一方では歌謡曲を媒体にしたフォークソングが台頭します。吉田拓郎、井上陽水らが商業ベースに乗って自作自演のスタイルでフォークギターを奏でヒットソングを歌いました。ポップス系アイドル歌謡は、ルックスが重視され、エイトビートに乗れなかった60年代後半のアイドル系歌手とはうって変わって、アクションも入り、アイドル全盛時代を迎えます。
当時の中高年者は、60年代後半から70年代にかけて、このような歌謡曲の時流に馴染めず、なつかしの歌声ブーム、名曲の復活を待望しました。これは非常に大きなブームを呼び、藤山一郎、東海林太郎、淡谷のり子らは、アイドル歌手なみにテレビで歌うようになります。
レコード大賞の特別賞を受賞したりしますから、アイドル歌手、人気演歌歌手らと一緒に大晦日にテレビに出演することもあったわけです。また、歌謡番組でなつかしの名曲のコーナーも設けられたりしたので、天地真理の「ひとりじゃないの」の後に藤山一郎が「青い山脈」を歌うというようなこともありました。歌謡曲の最後の豊かな時代でした。
しかし、東海林太郎の逝去(昭和47年)以後は、「なつかしの歌声」が「日本の名曲」という広い意味になり、戦前の歌が中心だったブームの内容も変化しました。70年代後半ぐらいから、歌謡曲はほとんど現代演歌に矮小化されていきます。80年代に入ってくると、歌謡曲はほとんど演歌のイメージになってきます。
そして、フォークソングがニューフォークからニューミュージックとなり、演歌中心の歌謡曲から完全に独立して、現在のJポップにつながっていきます。この変化に、音楽的に大きな影響を与えたのはやはり、ビートルズです。日本のポップスは、すでにのべましたが、ビートルズの影響からエイトビートが中心になりました。ビートは日本語と相容れるものではないので、リズムセクションが中心になり、ロックが歌謡曲に接近すると、日本の心情を歌う歌詞や情緒的なメロディーは大きく後退します。
やがて80年後半からコンピュータによる音楽テクノロジーの時代になりますと、それが楽曲の作曲や演奏の中心になります。そうなると、伝統的な広い意味での歌謡曲とはまったく別世界になります。また、80年代はロック系スタジオミュージシャンが演奏するアイドル歌謡も歌謡曲の範疇でなくなるわけです。
80年後半から90年代にかけては極端にいうと歌謡曲は消滅していきます。その原因の一つは、ビートルズ以後に日本ポップスが発展し、歌謡曲=演歌・艶歌になったことにあります。「Jポップ」は日本的な情緒を感じさせないジャパニーズ洋楽ですから歌謡曲でないことは当然なわけですが。演歌は、感傷(センチメンタリズム)だけが強調され、日本的情緒・抒情が希薄になってきたように思えてなりません。
従来は、中年になると日本人は演歌好きになるといわれていましたが、その演歌も、70年代にみられた演歌に登場する女性像(男に捨てられた女の未練・ため息・涙)と90年代の女性の時代(自立・強い女性)と、女性観のズレが生じ、中年を迎えた世代が弱い女や男の背中をテーマにした演歌を聴くことが少なくなりました。
それと並行して、正統派歌謡の往年の戦前の歌い手・作曲家の人たちがどんどん亡くなっていきました。79年に古賀政男、89年に古関裕而、93年に藤山一郎、服部良一など、戦前の歌謡曲の豊かな時代を創ってきた人たちが亡くなり、歌謡曲は完全に終わるのです。
もっとも戦後の歌謡界を象徴する美空ひばりの死(1989年)をもって歌謡曲の終焉という人もいますが、どちらにしても、歌謡曲の豊かさはなくなりました。
歌は世につれ世は歌につれということはわかりますが、外国ポピュラー音楽やクラッシック音楽から派生した歌謡曲を古典的鑑賞曲にすべきだったと思います。それは、音楽産業の構造上難しいと思いますが。
ヨーロッパのクラシック音楽は19世紀市民社会の成立によって聴衆が誕生して、市場が成立します。そして、20世紀になると、ポピュラー音楽の世紀が始まります。日本でも昭和に入り歌謡曲の成立によって大衆音楽が確立すると、クラシック音楽が高級で、大衆音楽が低級という、二項対立がはじまっていきます。人材が大衆音楽に流れる傾向がありましたから、クラシック側からの大衆音楽への誹謗・中傷はかなりあったようです。
しかし、東西を問わず、クラシックの演奏家・作曲家のトップレベルの人たちが大衆音楽を発展させた歴史があります。その後は、水は低きところに流れますから、商業ベースに乗って裾野が広がっていくのは当然でしょう。その二項対立のなかで、クラシックの演奏家でもあった藤山一郎は、歌謡曲でも大スターになり、「負の世界」と見られた歌謡曲に、実は人々の励ましとなるような「陽の世界」があるということを、知らしめたのです。感傷、悲しみに埋没しがちな歌謡曲の世界に、生きる希望と励ましを与えるクラシック音楽の持っている力を示したのが藤山一郎です。
歌謡曲は、クラシックのように古典を何百年も聴くというものではありませんから、流行歌の市場は、常に拡大していかなければなりなりません。歌は世につれて、どんどん新しい人を作っていかないと、業界そのものが発展していかないところが、大衆音楽、歌謡曲の難しさです。
もし藤山一郎が存在せず、増永丈夫のままで、クラシックの世界で歌っていたら、声楽がオペラ一辺倒ではなくて、もっと広く大衆に聴いてもらう愛唱歌、ポピュラーな歌曲が広まっていたでしょう。とはいえ、藤山一郎の登場がなければ、品格と気品のある大衆音楽の時代は存在しなかったかもしれません。その後の音楽学校出身者が生涯現役で歌謡曲を歌うということもなかったでしょう。
21世紀の今日、もはや、クラシック=高級、大衆音楽=低級という枠組みは存在しなくなったように思えます。親しみやすいクラシックの曲が聴かれ、また、クラシックの影響を受けた歌謡曲が古典的鑑賞曲としてメディアから流れる時代が来るのかもしれません。そうなれば、もっと豊かな流行歌の世界が広がって行くのではないかと思います。  
 
流行歌の源流

伊予節(いよぶし)
江戸末期の流行唄(はやりうた)。文化(ぶんか)(1804-18)のころ伊予国(愛媛県)松山地方の染物が江戸でもてはやされ、その影響で「伊予節」も大流行した。本歌(もとうた)は松山の名物や名所を歌ったものであるが、弘化(こうか)・嘉永(かえい)(1844-54)には各地で替え歌がつくられた。たとえば江戸では「花は上野」、大坂では「堺住吉(さかいすみよし)」といった歌い出しの歌詞がそのまま曲名となり、「伊予節」という名が忘れられた時期もある。なお最盛期には、 「はうたいよぶし」という書名の歌本が数多く出版されているから、「はうた」(端唄)の名称は伊予節によって広まったといえよう。今日、東京では端唄、地元松山では民謡として歌い継がれている。
大津絵節(おおつえぶし)
江戸末期の流行唄(はやりうた)。大津と京都を結ぶ逢坂関(おうさかのせき)には、大津絵を売る店が立ち並んでいた。これに題材を求めたのが、1700年代初頭の「大津おひわけゑ踊」(「松の落葉 」収載)である。しかし現代に伝わっているのは、嘉永(かえい)年間(1848-54)から明治にかけて流行した曲節で、梅川忠兵衛の物語を歌った「大阪を立ち退(の)いて」が一般に知られている。各地で数多くの替え歌がつくられたが、たとえばペリー来航時の民衆の反応、幕末文化人の作品づくし、文明開化による生活環境の変化など、世相や人情の一端をうかがうことができる。明治時代には寄席(よせ)でも盛んに歌われた。
潮来節(いたこぶし)
江戸中期の流行唄(はやりうた)。江戸時代の水郷潮来(茨城県)は、東北地方の米を江戸へ送る集積地であり、また鹿島(かしま)、香取(かとり)両神宮への参拝客でにぎわった。そのため、舟唄とも遊女の舟遊び唄ともいわれるこの歌は、明和(めいわ)(1764-72)の末にはお座敷化して江戸へ伝わり、文化(ぶんか)(1804-18)にかけて大流行した。7775の26文字からなるこの詞型は、日本全域で愛唱された初めての民衆歌謡といえよう。やがて江戸では新内や祭文(さいもん)の旋律が加えられ、大坂では「よしこの」の母胎になるなど、歌い崩されて本来の旋律は失われてしまい、現代では端唄(はうた)「潮来出島 」、民謡「潮来音頭」「潮来甚句(じんく)」として残っているにすぎない。
オッペケペー
明治中期に壮士芝居の川上音二郎が演じた一種の流行歌。後ろ鉢巻に緋(ひ)の陣羽織、滝縞(たきじま)の木綿の袴(はかま)という衣装をつけ、日の丸の軍扇をかざして威勢よく歌ったという。1888年(明治21)末に神戸の楠公(なんこう)神社付近の寄席(よせ)で大切(おおぎり)に演じたのが最初といわれるが確かではない。川上が90年、91年に上京して興行した際には中幕に演じて人気を博し、以来、彼の名はオッペケペー節とともに劇界に定着した。歌詞のほとんどは若宮万次郎の作といわれる。「権利幸福嫌ひな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい」とか、「洋語を習ふて開化ぶり、パン喰(く)ふばかりが改良でない」というような文句のあとに、「オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポッポー」とつけてある。ほかに「米価騰貴(とうき)の今日に、……芸者幇間(たいこ)に金を蒔(ま)き、内には米を倉に積み、同胞兄弟見殺しか」などの時局を風刺するものが多かったが、「国会ひらけた暁に、役者がのろけちゃいられない。……目玉をむくのがお好きなら、狸と添ひ寝をするがよい」という旧劇批判もあった。
さのさ
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。一節の最後で「サノサ」と歌うのが曲名のいわれ。明治日本人の悲願であった条約改正が調印されたころ、すなわち1899年(明治32)から歌い出され、またたくまに日本全国を席巻(せっけん)して、10年近くも流行歌の王座を占めた。これ以前に愛唱されていた 「法界節」とは異なり、純日本的な哀調を帯びた旋律が庶民の心をとらえたものと思われる。替え歌は無数にあり、大半は市井の人情を折り込んでいるが、なかには国家への忠誠を歌うなど、流行した時代背景が如実にうかがえる。
東雲節(しののめぶし)
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。歌詞のなかで「東雲のストライキ」と歌うため、「ストライキ節」ともいう。1900年(明治33)に救世軍による廃娼(はいしょう)運動が盛り上がり、大審院の判決や内務省の取締規則によって、娼妓(しょうぎ)の自由廃業は支持された。そのころ、東雲と名のる名古屋の娼妓がアメリカ人宣教師モルフィの援助により、楼主に勝って自由解放の身となった。この一件が歌に託されたといわれている。「何をくよくよ川端柳」と歌い出す歌詞は、都々逸(どどいつ)でも周知のポピュラーなもので、 「鉄道唱歌」の後を受け、1900年から日本各地で流行した。
都々逸(どどいつ)
俗曲の一種。都々一、都度逸、独度逸、百度一などとも記す。歌詞から受ける印象によって「情歌」(じょうか)ともいう。江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七七七五の26文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。現今のものは、初世都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっていると伝わっている。江戸で歌い出されたのは1790年代(寛政期)のことで、「逢(あ)うてまもなく早や東雲(しののめ)を、憎くやからすが告げ渡る」などが残っている。人情の機微を歌ったものが多いが、最盛期に入る1850年代(安政期)以降は、さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、あるいは江戸名所といったテーマ別の歌も現れてくる。
1870年代(明治期)になると、硬軟の二傾向が明確になる。文明開化を例にとると、「ジャンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」「文明開化で規則が変わる、変わらないのは恋の道」などである。このうち、硬派の路線が自由民権運動と結び付き、思想の浸透に一役買っている。すなわち、高知の安岡道太郎は「よしや憂き目のあらびや海も、わたしゃ自由を喜望峰」といった歌をつくり、 「よしや武士」と題する小冊子にした。立志社の活動に用いられたのは、いうまでもない。大阪でも「南海謡集」(なんかいようしゅう)が出版され、「君が無ければ私(わた)しの権も、鯰(なま)づ社会の餌(えさ)となる」と、板垣退助を称賛している。とにかく、都々逸は全日本人の間に行き渡っていたので、1904年(明治37)、黒岩涙香(くろいわるいこう)は歌詞の質を高めようと、「俚謡正調」(りようせいちょう)の運動を提唱した。おりから旅順攻撃の真っ最中で、涙香が経営する 「萬朝報」(よろずちょうほう)に発表された第一作は、「戟(ほこ)を枕(まくら)に露営の夢を、心ないぞや玉あられ」であったが、都々逸の衰退とともに、この運動も30年代(昭和初期)に消滅した。なお、名古屋の熱田(あつた)で歌われた 「神戸節」(ごうどぶし)を都々逸の起源であるとみなす説もある。
粋な都々逸
都々逸とは、江戸末期、都々逸坊扇歌によって大成された定型詩で七・七・七・五の音数律に従ったもの。主として男女の仲の機微を題材としており、色っぽいものが多い。  ところが昨今の都々逸は野暮な内容が多くなったように感じられる。都々逸に関する書籍をみても、心を動かされるような文句が載っていない。そこで私がこれまでに集めた「とっておきの都々逸」を紹介する。本当は教えたくないのだけれども、歳のせいか伝承しなければ絶えてしまうとの想いが強くなったのである。
膝枕(ひざまくら)貸してうれしく しびれた足をじっとこらえてのぞく顔 
いいねぇ、粋だねぇ、ラジオから聞こえる柳や三亀松師匠の名調子にしびれていた小生は中学生であった。師匠の「いやぁーん、うっふーん、ばっかぁー」は絶品であった。
外は雨 酔いも回ってもうこれからは あなたの度胸を待つばかり 
謡曲「松風」の松風、村雨の姉妹、溝口健二の映画「雨月物語」の田舎に残してきた女房等々、古来日本女性の美は恋しき人の訪れを待つ風情の中にありました。「少しくらいの音は雨が消してくれるのに、えぇ、じれったいねぇ、このひと」と女がつぶやく。
お名は申さぬ一座のうちに 命あげたい方がいる 
都々逸の醍醐味は「あっ」と驚くどんでん返しが待っていることだ。この歌の場合、「命」までを『刺客が「お命頂戴」とでも言うのかいな』と思わせるようなドスの利いた声でうたい、「あげたい方がいる」を一転、ぐっとなまめかしく初々しく締めくくらねばならない。
親がすすめる私も惚れる 粋(いき)で律義(りちぎ)なひとはない 
作家阿川弘之氏令嬢阿川佐和子さんは三十数回お見合いをしたが、ついに理想の伴侶にめぐり合えなかった。その経緯を「お見合い放浪記」に記されている。拝読したが「そりゃあ無理だ」と思ったものだ。見合いで大恋愛できる相手を見つけようというのである。粋な男は見合いなんぞしなくても女には不自由しないし、親が安心して薦める堅実な男は恋愛の対象とはなりにくい野暮天ばかりである。「粋で律儀な男なんざぁ、いるわけないわさ」とこの歌をおしえてやりたいね、まったく。
おまはんの心一つでこの剃刀(かみそり)が 喉(のど)へいくやら眉(まゆ)へやら
諦(あきら)め切れない女の最後の手段はかみそり。「畜生、死んでやるう、」「おまえ待ちなよ 短気おこすんじゃあないよ、分かったよ 女房にすりゃあいいんだろ 女房に」てな具合に晴れて眉を落としたご新造(若奥様)さんの誕生とあいなる。
きれてみやがれただ置くものか 藁(わら)の人形に五寸釘 
冷たくなった男への捨てぜりふ。荒々しい息使いの裏から狂おしい胸のうちが切々と伝わってくる。 しかし私の知人の「恨み言はそれだけか」の名文句にあった日にゃあ、五寸釘も蟷螂の斧(かまきりのおの)と化してしまうのです。でもね、近頃の娘ときたひにゃあ、藁人形の意味さえ知りゃしねぇ。困ったもんでがす。しょうがねぇ、うちの娘にも正しい作法を教えてやりましたよ、『まずは白装束に身を包み、頭に五徳(ごとく:火鉢に据えてヤカンをのせる三本足のついた鉄の輪)を戴いて、馬手(めて・右手)には木槌、弓手(ゆんで・左手)に人形、櫛をしっかとくわえもち、草木も眠る丑三つ時(午前二時すぎ)、所は京都貴船神社、三本ろうそく頼りにて、にっくき敵(かたき)の心の臓へ「死ねや、死ねや」と声はげまして打つは鐵(くろがね)五寸釘、打たれし敵は七転八倒、苦悶のうちに息絶えようぞ、ゆめゆめ疑うことなかれ』とね。
間口三寸奥行きゃ四寸 家、蔵、地面を捨てる穴 
わかっちゃいるけどやめられない、道楽息子なりの心意気と解したい。小生が妻帯後、ものした句も御披露する。「これがまあ ついのすみかか ゆき五寸」
いっそ聞こうかいや聞くまいか たたむ羽織に紅のあと 
江戸時代には満員電車もなければ混み合ったエレベーターもない。口紅がそう簡単につく訳が無いのです。 どう申し開きをするのか、聞いてみたいもの。
何処で借りたと心も蛇の目 傘の出どこをきいてみる
柴田錬三郎氏の眠狂四郎シリーズの中で「草のよう 傘の出どこを 根堀り葉堀り 鎌をかけては 聞いてみる」というのがあった。男は蛇のように、ぬらりくらりと生返事をするしかない。(注)「蛇の目」とは「じゃのめ傘」のことでの和傘の丸い模様が蛇の目のように見えたことから。
一人でさしたる唐傘(からかさ)なれば 肩袖(かたそで)濡れようはずがない 
女房の観察眼は時として銭形平次や人形佐七の親分にも劣らないことを証明する唄。あなどっちゃあいけませんぜ。
酒も博打(ばくち)も女も知らず 百まで生きてる馬鹿なやつ 
百歳近くでなくなった森繁久弥氏は「酒、歌、女、我にあり」の極楽トンボ人生。せめて地獄へでも行ってくれなきゃあ、あまりにも不公平というもんじゃあ、ござんせんか、皆の衆。
ぼうふらは 人を刺すよな蚊になるまでは 泥水飲みのみ浮き沈み 
森繁久弥氏が勝新太郎に教え、勝が好んで歌ったという。浮き沈みの激しかった勝新の心に強く響いたのだろう。勝新太郎は「花の白虎隊」で市川雷蔵とともに華やかにデビューしたが二枚目としては中途半端で、鳴かず飛ばずの時代が長かった。それが「座頭市」という当たり役に出会い一躍人気者に浮き上がったが映画産業の不況、大映の倒産と、また不遇に沈んだ。死んだ時、奥さんの中村玉緒があの世でも不自由しないようにと棺桶に三百万円入れたそうな。豪気だねぇ、泣かせるねぇ。
主は二十一わしゃ十九 始終仲良く暮らしたい
始終と四十を掛けている。初々しい若夫婦、うらやましい。よく似た、人生の理想を歌った歌詞は以下のとおり「いつも三月春の頃 お前十八わしゃ二十 使って減らぬ金百両 息子三人皆孝行 死んでも命がありますように」
会うた夢みてわろうて覚めて あたり見回し涙ぐむ 
せつないねぇ 笑わなければ覚めなかったろうに、覚めなければ忘れてたかもしれないのにねぇ
白鷺は 小首(こくび)傾(かし)げて二の足踏んで やつれ姿を水鏡
高知のよさこい節では「白鷺は小首傾げて二の足踏んで一足、一足深くなるよ そーだ、そーだ、まったくだよ」となる。どちらも、恋の重荷を感じさせる名文句である。この歌を知って白鷺を見ると、「恋わずらいをしているのか」とふと思うことがある。
夢で見るよじゃ惚れよが足りぬ 真に惚れたら眠られぬ
謡曲「松風」のなかに、「あとより恋いの攻め来れば」と言う一節があって長い間意味がわからなかったが、「枕より 脚(あと)より恋の攻め来れば せんかたなみぞ床中におる」の一部とわかりようやく納得できた。「頭上からも足先からも恋の思いが攻め来るので。やむを得ず寝床の真ん中に座って眠らないでいる。苦しいことだ。」という意味。げに、恋は曲者。
丁とはりんせもし半ならば わしを売りんせ吉原へ
この歌の作者は男に決まっている。こんなにきっぷのいい女が居る訳ない。あまりにも勝手すぎるのでありえないとは思うが、もしいたら教えておくんなさい。
惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ
身につまされるねぇ。大事にしなきゃあと、あらためて思われるのでごぜえます。
亭主死んだら教えておくれ 今でも惚れてるこの俺に
ソウラン節に「わたし恥ずかしおじちゃんにほれた 早くおばちゃんが死ねばよいチョイ」というのがある。奥方連が聞いたら角か牙がでそうな歌である。
会いたく無いわさ ただあのひとの住んでるおうちを見たいだけ
小浜に出張した折り、聞いた話からつくったもの。男は京都の壬生に住んでいるそうな。若狭女の深くてつつましい心根を哀れと思え京男 コラ!
夕立恋しやあの南禅寺 山門隠れのあついキス
小生が学生の頃、ものした歌。事実に基づくものか、はたまた希望的創作か、ご想像にお任せする
人に言えない仏があって 秋の彼岸の回り道 
私の好きな歌で、森繁久弥氏もこの句が好きと見えて著作のあちらこちらに出てくる。「粋」「侘び」「無常感」など、日本文化の真髄をひとまとめにしている。都都逸の最高傑作に認定する。
端唄(はうた)
日本音楽の一種目。1分ないし3分程度の小歌曲。大半は作詞・作曲者未詳であるが、江戸末期の名ある文化人の手になったものが多いという。日本全国で愛唱され、幕末から明治期にかけて非常に流行した。だれもが知っていたという点では、義太夫(ぎだゆう)節とともに双璧(そうへき)をなす。ことに、他の種目のように劇場や花柳界が背景ではなく、家庭音楽としてもてはやされただけに、江戸庶民の健康的な精神構造や、格調の高い音楽性がうかがえる。「はうた」という 言葉は、17世紀末の 「吉原はやり小歌そうまくり」や「松の葉」にみられるが、どのような音楽か明らかでない。時代が下って1842年(天保13)天保(てんぽう)の改革における禁令の一つとして、「浄瑠璃(じょうるり)、はうた、稽古(けいこ)いたすまじきこと」という御触れが出た。通達の指摘する「はうた」とは、「桜見よとて」「夜ざくら」「紀伊の国」「わしが国さ」などである。その後は、京都の歌「京の四季」「御所のお庭」、大坂の歌「淀(よど)の川瀬」「ぐち」などが、江戸の歌「秋の夜」「わがもの」「春雨」「綱は上意」などとともに人気を博した。稽古屋も江戸や大坂では各町内に誕生し、たとえば二見勢連(ふたみせれん)や轟連(とどろきれん)といった名前を、それぞれが名のっている。その一つ歌沢連(うたざわれん)が端唄のなかで一大勢力を形成し、劇場や花柳界へ進出したため、端唄の体質が変えられてしまう。また1880年代(明治初期)新しくおこってきた明清楽(みんしんがく)や唱歌の影響で庶民の歌声は急速に変質し、端唄は明治中期に至って衰微した。尾崎紅葉(こうよう)や幸田露伴(ろはん)がその再興を願ったこともある。
大正以降はレコードや放送などの大資本が、端唄、俗曲、民謡などの概念規定をなおざりにし、さらに芸妓(げいぎ)や一部の芸能人が歌い崩したため、早くも昭和初期には端唄の実態が不分明になってしまった。ことに、現代とは違って庶民文化が軽視される風潮下、端唄には一顧すら与えられなかった。そして「端唄」という 言葉も、世間はほとんど忘れてしまった。ところが、明治百年といわれた1968年(昭和43)根岸登喜子(ときこ)(1927―2000)は「端唄の会」を開催して、江戸庶民の息吹を再現した。以来、毎年1回ずつ催されるこの会によって端唄の価値は再認識され、端唄に注目する層が着実に増え始めている。端唄は新しくよみがえり、現代の文化として定着した。
なお、地唄(じうた)や琵琶(びわ)にも「端唄」という呼び名はあるが、いずれも曲目の分類名にすぎないのでここでは割愛した。
鉄道唱歌(てつどうしょうか)
唱歌の曲名。大和田建樹(おおわだたけき)作詞。上真行(うえさねみち)と多梅稚(おおのうめわか)の作曲した2種類あり、多の曲が大流行した。大阪・三木佐助版の歌集は全五冊で、「汽笛一声新橋を」と歌い出す「地理教育鉄道唱歌」第一集(東海道)は1900年(明治33)5月刊。同年中に〔2〕山陽・九州、〔3〕東北・北関東、〔4〕信越・北陸、〔5〕関西の各編も出版されたが、地理教育や交通知識の普及に役だつところから非常に歓迎された。 同類の唱歌は各地に生まれ、1911年の 「山陰線鉄道唱歌」に至るまで、全国の鉄道が歌い上げられた。交通網の充実をみた1928年(昭和3)、鉄道省は東京日日新聞と大阪毎日新聞の共催で「新鉄道唱歌」を懸賞募集したことがある。また37-38年には日本放送協会が「新鉄道唱歌」を制作し、国民歌謡として放送した。
法界節(ほうかいぶし)
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。江戸末期に長崎へ伝わった明清楽(みんしんがく)は、1870年代の後半から日本各地へ広まった。月琴(げっきん)や明笛(みんてき)は若者の間にもてはやされ、これらを伴奏に新しい歌が生まれてくる。なかでも「ホウカイ」を囃子詞(はやしことば)とする曲は、1890年代の初めに 「法界節」と名づけられ、大流行した。2、3人ずつが一組となった若者は、月琴や胡弓(こきゅう)を奏でながら流して歩くので、いつのほどにか法界屋とよばれた。日清戦争を境に、明清楽は敵国の音楽だという理由で衰退に向かうが、剣舞をも取り入れた流しは増加する一方で、法界屋は婦女子のあこがれの的となり、流しのあとを追う者が長い列をなしたという。そのため1900年(明治33)のころには、風俗問題や交通妨害が起こってくる。さらに、芸能を愛好する若者が厳しく指弾されたため、法界屋はしだいに姿を消し、 「法界節」も運命をともにした。
よしこの
江戸末期から明治初年にかけての流行歌であるが、基本的な旋律は不明。「守貞漫稿」(もりさだまんこう)には「よしこの一変してどゞいつ節(ぶし)となる」とあり、両者のふしは似通っていたという。元歌は「ままよ三度笠(さんどがさ)よこちょにかむり、たびは道づれ世はなさけ」で、1820、21年(文政3、4)ごろから江戸、京都、大坂で歌われた。名古屋の歌を記録した 「小歌志彙集」(こうたしいしゅう)によると、22年流行の「三千世界」や30年(天保1)の歌「わが恋」も「よしこの」だという。しかし両曲の詞型は、元歌とは違って七七七五調ではない。ことに前者は端唄(はうた)の名曲としていまも歌われ、後者は花街のお座付(ざつき)唄として残っているが、旋律に類似性はない。阿波(あわ)踊の歌も「よしこの」というが、この曲節もまったく異なる。時代を経たとはいえ、このように詞型も曲節も相違する歌が「よしこの」と総称されたのは、民衆歌謡の種類が少なかったころだけに、はやり歌の代名詞として「よしこの」の名が用いられたのではないかという推測を可能にさせる。
ラッパ節
明治の流行歌。作詞・作曲者未詳。囃子詞(はやしことば)にちなんで「トコトット節」ともいう。日露戦争が終結した1905年(明治38)から歌い出され、数年にわたって大流行した。「倒れし兵士を抱き起し」や「今鳴る時計は8時半」といった歌詞に、時代相がうかがえる。替え歌は数多く、たとえば「紳士の妾(めかけ)の指先に、ピカピカするのは何じゃいな、ダイヤモンドか違います、可愛(かわい)い労働者の汗の玉、トコトットット」などは、官憲の目を盗んで街頭で歌われた。また足尾銅山の過酷な労働を歌い込むなど、社会の矛盾を指摘する歌詞も現れた。  
 
演歌1

日本の大衆音楽のジャンルの一つであり、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類であるとされている。歌手独自の歌唱法や歌詞の性向から、同じ音韻である「艶歌」や「怨歌」の字を当てることもある。
演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた音階を平均律に置き換えた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法である。この音階法は古賀正男、後の古賀政男による古賀メロディとして定着した、以降演歌独特の音階となる(ただし、ヨナ抜き音階そのものは演歌以外の歌謡曲などでもよく使われる音階である)。古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の藤山一郎(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、1960年代に美空ひばりを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。
歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法が多用される。又、必ずと言ってよいほど、「ビブラート」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。 演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時に和服を着用することが多い。
歌詞の内容は「海・酒・涙・女・雨・北国・雪・別れ」がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に男女間の切ない愛や悲恋などを歌ったものが多い(美空ひばり「悲しい酒」 都はるみ「大阪しぐれ」大川栄策「さざんかの宿」吉幾三「雪國」など)。
上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。 また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なムード歌謡というものがある。
とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。たとえばジャズピアニストの山下洋輔は、音楽理論的に両者を分類することができないの意で「演歌もアイドル歌謡も同じにしか聞こえない」と述べていたといわれる。
男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、
幸せ夫婦物 / 村田英雄「夫婦春秋」三笠優子「夫婦舟」川中美幸「二輪草」
母物 / 菊池章子・二葉百合子「岸壁の母」金田たつえ「花街の母」
その他家族物 / 鳥羽一郎「兄弟船」芦屋雁之助「娘よ」大泉逸郎「孫」
人生物、心意気物 / 村田英雄「人生劇場」「花と竜」北島三郎「山」「川」中村美律子「河内おとこ節」
股旅物 / ディック・ミネ「旅姿三人男」橋幸夫「潮来笠」氷川きよし「箱根八里の半次郎」
任侠物 / 北島三郎「兄弟仁義」高倉健「唐獅子牡丹」(股旅物に近いが、股旅物は軽快、任侠物は重厚な曲調が多い)。
歌謡浪曲物 / 三波春夫「俵星玄蕃」「紀伊国屋文左衛門」
劇場型ドラマチック物 / 山口瑠美「山内一豊と妻千代」「至高の王将」「白虎隊」
望郷物 / 北島三郎「帰ろかな」千昌夫「北国の春」「望郷酒場」
その他 / 細川たかし「北酒場」。作詞家が見た北の酒場通の様子がポンと描かれただけで、演歌特有の情景が全く入っていないのが新鮮に受け取られレコード大賞を受賞した。
演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言し「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。作曲家のすぎやまこういちも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。
歴史/創生期
もともと「演歌」と称される歌は、演説歌の略語であり、自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称のはじまりといわれる。この頃流行ったのが「オッペケペー節」を筆頭に「ヤッツケロー節」「ゲンコツ節」等である。他にも政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。
大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。鳥取春陽の登場である。彼の作曲である「籠の鳥」は一世を風靡した。ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。
流行歌の時代へ
昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され新しい時代を迎えた。しかし、昭和3年(1928)佐藤千夜子や二村定一、昭和6年の藤山一郎の登場により「流行歌」と呼ばれる一大分野が大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することになる。
なおこの時期の大衆音楽をも「演歌」扱いすることがあるが、本来的には演歌・歌謡曲・声楽曲全ての音楽性が渾然一体となった独特の音楽性を持っており、同一視出来ない。ただし上述した古賀政男の作品「吉良の仁吉」、あるいは「こぶし」を利かせた唱法を使った人気歌手上原敏などは、広沢虎造ら浪曲師の影響を受けている。これらの例からも、作者や歌手が一部重複しているのは事実であり、この「流行歌」時代に育まれた音楽性や技巧を基にして現在の「演歌」が生まれているので、演歌を語る上で無視は出来ない時代である。
1950年代(復興期)
戦後も日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、新世代の台頭と昭和28年(1953)藤山一郎の引退により音楽性が揺らぎ始め、次第に今の演歌に近い曲が出現し始めた。この時期既にブギウギで流行歌歌手としてデビューしていた美空ひばりも音楽性をシフトさせ、キングレコードから望郷歌謡の春日八郎、三橋美智也、ビクターレコードから任侠路線のスター鶴田浩二、テイチクレコードから浪曲出身の三波春夫、戦後の大スター石原裕次郎、コロムビアレコードからは三波と同じく浪曲界より村田英雄がデビュー。更に泣き節の島倉千代子、マイトガイ小林旭らが登場。民謡や浪曲などをベースにし、それまでの「流行歌」とはかなり質の異なる現在の演歌に近い作風となった。この時期のヒット曲に「お富さん」「別れの一本杉」「哀愁列車」「おんな船頭歌」「古城」「チャンチキおけさ」「船方さんよ」「からたち日記」「人生劇場」など。
1960年代
昭和38年(1963)演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立とさまざまな音楽の流入により「流行歌」が消滅し、多数の音楽分野が成立した。その中で、ヨナ抜き音階や小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになったのである。昭和戦前に途絶した「演歌」分野の再来であるが、演説歌を起源とする旧来の演歌は、フォークソングに引き継がれ、社会風刺的要素は全くなく、名称だけの復活となる。(演説歌が「フォーク」と呼称されるようになり、演歌と呼ばれなくなったことで、ヨナ抜き音階や小節を用いた歌謡曲が「演歌」と呼称されるようになったとの見方もある。)
この時期映画スターの高倉健も歌手デビュー、北島三郎、橋幸夫、都はるみ、青江三奈、水前寺清子、千昌夫、森進一、藤圭子、小林幸子(わずか10歳でデビュー)コミックバンド派生の宮史郎とぴんからトリオ、殿さまキングスなどが登場した。
作曲家は流行歌から転身した古賀政男にくわえ、吉田正、猪俣公章、船村徹、市川昭介、流しから転身した遠藤実、ロカビリー歌手から転身した平尾昌晃が登場、作詞家ではなかにし礼、星野哲郎、岩谷時子、山口洋子、川内康範らが登場、「王将」「皆の衆」「潮来笠」「三百六十五歩のマーチ」「北帰行」「港町ブルース」「池袋の夜」「柔」「悲しい酒」「函館の女」「兄弟仁義」「帰ろかな」「柳ヶ瀬ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「星影のワルツ」などがヒットし、老若男女から支持され演歌は空前の全盛期を迎える。(ナベプロ所属の歌手に代表される)洋楽指向の歌謡曲と人気を二分した。
ただし演歌と歌謡曲との間に明確な分岐ラインが存在するわけではなく、むしろ歌手(およびレコード会社など)が「自分は演歌歌手」と称するかどうかが分かれ目と見る向きもある。例えばグループサウンズ時代、ど演歌節の旅がらすロックを歌った井上宗孝とシャープファイブは演歌歌手には含まれないと見る向きが多い。
1970年代
1970年代に入ると五木ひろし、八代亜紀、森昌子、石川さゆり、細川たかしなどが登場。「なみだの操」「夫婦鏡」「女のみち」「女のねがい」「おやじの海」「よこはま・たそがれ」「傷だらけの人生」「くちなしの花」「ふるさと」「喝采」「せんせい」「心のこり」「与作」「舟唄」「昔の名前で出ています」「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」「おもいで酒」「北国の春」「夢追い酒」など多くのヒット曲が生まれ、フォーク、ニューミュージック、アイドル歌謡などと競い合いながら安定した発展を見せていた。一方で1974年には森進一がフォーク歌手の吉田拓郎作の「襟裳岬」でレコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまり、以後演歌かその他の音楽ジャンルか分別の難しい曲も登場することとなる。
1980-1990年代
1970年代後半から80年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようにカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭した。カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。若者のポップス志向がより強くなり演歌離れが進む。
1980年代半ば以降、若者と中高年の聞く歌がさらに乖離していく傾向が強まっていった。テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法をもつ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。
1980年代から1990年代前半にかけて伍代夏子、坂本冬美、香西かおり、藤あや子など、この時期にデビューしヒットを出した中堅歌手も存在する。また島倉千代子の「人生いろいろ」、美空ひばり「川の流れのように」など大御所歌手も健在ぶりをアピールしている。
吉幾三や長山洋子など他ジャンルからの演歌転向者や、ニューミュージックから演歌に転向した堀内孝雄や、ポップス寄りの演歌を歌う桂銀淑のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。
主なヒット曲には「雨の慕情」「おまえとふたり」「大阪しぐれ」「みちのくひとり旅」「奥飛騨慕情」「さざんかの宿」「兄弟船」「氷雨」「娘よ」「北酒場」「矢切の渡し」「長良川艶歌」「つぐない」「時の流れに身をまかせ」「すずめの涙」「夢おんな」「雪國」「酒よ」「雪椿」「命くれない」「恋歌綴り」「麦畑」「むらさき雨情」「こころ酒」「夜桜お七」「蜩」「珍島物語」など。
緩やかな衰退の中で分化し、演歌の中に新ジャンルが発展しつつあった。しかし1990年代も半ばを過ぎると演歌の衰退は激化し、1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。
2000年代
2000年に大泉逸郎の「孫」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」が大ヒットし、一時的ではあったが、久しぶりの大ブームが起こった。ただし「孫」は大泉と同年代かそれ以上の中高年層の間でのヒットであり、10代、20代にも人気を博した氷川きよしの場合は演歌歌手としては規格外のルックスにより若者受けした部分が大きく、歌そのものへの評価は以前とそれほど変わらなかった。
一方で前川清の「ひまわり」(2002年ヒット/福山雅治プロデュース)のように演歌歌手がポップスを意識した楽曲を発表するような動きも増えている。そのため、これまでのジャンルとしての演歌の枠に納まらない楽曲も多くなり、ジャンル名としての呼び名が演歌から演歌・歌謡曲と呼ぶようにもなりつつある。
一時期1人、または2-3人だった大型新人演歌歌手のデビューも毎年4-5人まで増えている。また、ランキング上位を占めていたJ-POP全体の売り上げが停滞するにつれ、相対的にランキングでも上位に顔を出すことが多くなっている。
また、2008年にデビュー曲「海雪」がヒットしたジェロは初の黒人演歌歌手として注目され、ヒップホップスタイルのファッションでの演歌歌唱も話題となりヒットとなっている。
更に、鼠先輩、美月優など半ば芸人のようなスタイルの歌手も出現。 ジェロの活躍ぶりに感化され、かつてインド人演歌歌手として活躍していたチャダも再来日し、音楽活動を再開した。
現在の浸透性
現在、50-60代以上の高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンが圧倒的に少ない。個性と実力を兼ね備え、演歌という新ジャンルの土台を築いた、春日八郎・三橋美智也・三波春夫・村田英雄らの男性歌手や、演歌の女王と称された美空ひばり(「歌謡界の女王」とも呼ばれる)等がすでに亡くなっており、その後に続いた北島三郎や五木ひろし、森進一などの大御所歌手も実力を発揮し切れていない状況である。大泉逸郎 「孫」、氷川きよし「箱根八里の半次郎」以来大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージック、アイドル歌謡などを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック・フォークなどを聴き続けている者が多いことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。
カラオケブームの時期に少年、思春期から青年期を過ごした30代-50代前半の中、壮年層の中では親の影響も手伝い比較的認知度は高い。しかし、認知はしているが、聴く或いは唄う対象にはされず、敬遠される傾向が強い。
10代、20代の若者の中には代表的なヒット曲や、歌手の存在自体をも認知していない者も少なくない。ただし、若者の中にも一部には熱烈な演歌ファンが存在することも事実である。(テレビ番組に出演し話題を呼び、北島三郎のもとに弟子入りし、プロデビューを果たした大江裕はこの典型といえる。)
2007年、ブラジルのサンパウロにて行われた、日本人の移民100周年を記念したイベントでは日本の音楽としてJポップ等ではなく演歌が流された。(大城バネサや南かなこのような南米出身の日系演歌歌手もいる。)海外では 「日本の歌といえば演歌」というイメージが強い一例とも言えよう。
そのほかの演歌の他国における受容を見てみると、アフリカのエチオピアにおける国歌やポップスがヨナ抜き音階や歌唱法などの点で日本の演歌に酷似しているという事実があげられる。これは朝鮮戦争時に日本にやってきたエチオピア兵が演歌に感動してその特徴を研究し、それを自らの音楽に取り入れたためである。エチオピアでは細川たかし、都はるみなどの日本の演歌歌手も広く受け入れられている。
これらの例は、演歌が日本独特の情念を歌っているという一般に流布しているイメージとは異なり、ヨナ抜き音階が世界各地にみられるということともあわせ、演歌が普遍的な通俗音楽であるという傍証になるだろう。
韓国の演歌(トロット)
韓国にも日本の演歌の影響を強く受けたトロットと呼ばれる(昭和に入って民衆歌謡に変節して以降の)大衆歌謡分野が存在する。戦後朴正煕政権時代までは、トロットを指す言葉として「演歌」の韓国語読みである「ヨンガ」が用いられることも少なくなかったが、後の倭色追放運動によって日本語由来である演歌(ヨンガ)という呼称は使えなくなり、もっぱらトロットと呼ばれるようになった。
 
演歌2

日本の流行歌の一種。歌によって意見を述べるという意味で、「演説」に対応する言葉として明治中期から使用された。思想を歌に託して表明することは古くから行われてきたが、植木枝盛(えもり)作「民権田舎歌(いなかうた)」や安岡道太郎作 「よしや武士(ぶし)」のように、「数え歌」や「どどいつ」の旋律に頼るものは演歌とよばない。したがって演歌の嚆矢(こうし)は川上音二郎作「オッペケペー」となる。明治22年(1889)の暮れにつくられたこの歌は、京都・新京極の寄席(よせ)で公開されるや、たちまち京都市民の心をとらえた。政府の施策を非難することなく、自由と民権の伸張を平易に説く 「オッペケペー」は、多年にわたる川上の反権力闘争の成果といえるが、翌年に壮士芝居を率いて東上した川上一座の公演によって、横浜や東京でも流行し始めた。絶頂に達するのは91年6月以降である。歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたないこの歌は、音楽的にはデクラメーションdeclamationという。端唄(はうた)や俗曲以外、はやり歌が皆無に近かった当時の民衆にとって、だれもが容易に口ずさめる 「オッペケペー」は、民衆娯楽の新分野を形成することになった。
東京にたむろする壮士のなかには、川上をまねて街頭で放歌高吟するかたわら、この歌本を売って生活の糧(かて)を得る者が現れる。
「ヤッツケロ節」「欽慕節(きんぼぶし)」「ダイナマイトドン」など同類の歌もつくられたが、政府を弾劾する歌詞もあって、しばしば官憲の弾圧を受けた。こうした壮士の歌に「演歌」の名を冠する一団もあったが、世間では一般に「読売」とか「壮士歌(うた)」とよんだ。ところが壮士の大半は書生であり、 「法界節(ほうかいぶし)」や「日清(にっしん)談判破裂して」を月琴(げっきん)で流したので、壮士歌はむしろ「書生節」という名称で親しまれるようになった。そのころ、黒地の着物に編笠(あみがさ)をかぶり、薄化粧を施して娘たちの歓心を買おうとする書生たちの行為は、社会問題として大きな波紋をよんだ。添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が、社会主義的な歌をつくったのもこの時代である。
1910年代になると、東京の神長瞭月(かみながりょうげつ)と大阪の中林武雄の歌がもてはやされ、「残月一声」「松の声」「不如帰(ほととぎす)」などが好まれた。やがてバイオリンが用いられると、目新しいこの楽器にひかれ、書生節の周辺を聴衆が取り巻くことになる。大正中期、 「一かけ節」や「七里ヶ浜の仇浪(あだなみ)」(真白き富士の嶺(ね))が全国に浸透するころ、書生節の歌手は「演歌師」といわれ始め、映画の力とも相まって「船頭小唄(こうた)」や「籠(かご)の鳥」が一世を風靡(ふうび)した。
1930年代になってレコード歌謡に人気が集まると、書生節は消滅して「歌謡曲」が台頭し、東海林太郎、音丸(おとまる)、上原敏(びん)らが「流行歌手」として誕生してくる。またレコード会社専属の作詞家として西条八十(やそ)、佐伯孝夫(さえきたかお)、藤田まさと、作曲者として古賀政男(まさお)、古関裕而(こせきゆうじ)、大村能章(のうしょう)ほか多士済々。
昭和35年(1960)前後に「艶歌(えんか)」という言葉とともに「演歌」が復活する。美空ひばりをはじめ、島倉千代子、春日(かすが)八郎、三波春夫ら、枚挙にいとまがないほど多数の歌手が出現し、その歌声は民衆の魂を揺さぶって黄金時代を形成した。外国のポップスの流行につれて、こぶしのきいた日本調の歌謡曲を演歌とよんだわけであるが、第一次石油ショック(1973)を境に歌謡曲は演歌とニューミュージックに二分された。こうした用語の変遷や歌詞ないしは歌い方に注目するとき、今日の演歌は、日本的な土壌に立脚した歌声だと定義づけることができよう。70年代以降も、北島三郎、森進一、五木ひろし、細川たかし、都はるみ、水前寺清子、八代亜紀、小林幸子、石川さゆりらの歌手が活躍し演歌を支えているが、歌謡曲のさらなる多様化、演歌ファン層の高齢化などにより、歌謡曲分野に占める演歌の位置付けは相対的に低下している。  
 
演歌3

日本の「演歌」の第一号作品は、いちおう大正10年に発表された中山晋平の「船頭小唄」(「枯れすすき」)である、と言っていいだろうと思います。「船頭小唄」の大ヒットが、昭和に入ってからの同じ中山晋平の「波浮の港」(昭和3年)や「東京行進曲」(同4年)、そして古賀政男の「酒は涙か溜息か」(同6年)や「影を慕いて」(同7年)の爆発的ヒットへとつながって行き、こうして戦前の演歌全盛時代が幕を開けたわけです。演歌全盛時代は同時に江口夜詞の「秋の銀座」(同8年)や服部良一の「別れのブルース」(同12年)のような、よりバタ臭いブルース=ジャズ的な流行歌の全盛時代でもありました。前者が「船頭小唄」に端を発しているとすると、後者はこれも中山晋平の「カチューシャの唄」(大正3年)や「ゴンドラの唄」(同4年)を源流にしていると言えるだろうと思います。
こんにち的な感覚からすれば、前者後者ともに「演歌」に分類される音楽と言えます(因みに後者はその後、青江三奈やクール・ファイブが得意としたジャンルです)。しかしこれらの歌を歌って大ヒットさせたのは、藤原義江、佐藤千夜子、藤山一郎、ミス・コロムビア(松原操)、淡谷のり子といったクラシック畑出身の歌手たちであったことは、ここで是非とも強調しておきたいと思います。そもそもこれら一連のヒット曲を産み出す音楽的新地平を拓いた第一弾作品となった中山晋平の「カチューシャの唄」は、島村抱月の芸術座での公演、トルストイ原作「復活」の挿入歌として書かれたものでした。そしてそれは「小学唱歌でも(なく)・・・西洋の賛美歌でもない、日本的な俗謡とリート(西洋歌曲)の中間的な旋律」という、抱月が晋平に出した注文に基づいて作られたものでした(藍川由美「中山晋平作品集」(カメラータ)曲目解説より)。つまり、より広い文脈では「船頭小唄」ではなく「カチューシャの唄」を「演歌」の第一号作品としてもまったく差しつかえないわけです。
「カチューシャの唄」がどれほど衝撃的で画期的な作品であったかは、それまでのヒット曲というものが、「義太夫」「浪花節」「書生節」「小学唱歌」「端唄」「小唄」といった、(「浪花節」と「唱歌」を除けば)こんにちわれわれが日常的にはまず耳にすることのない、「前時代の音楽」しか存在しなかった、ということから想像できるだろうと思います。「唱歌」(と「書生節」?)を除く当時(明治-大正期)のこれらのヒット曲こそ、「本来の邦楽」であったろうと考えられるわけです。そういった音楽風土の中に「カチューシャの唄」や「ゴンドラの唄」を置いてみれば、その音楽がもたらした衝撃度というものが分かろうというものです。
一連の中山晋平の作品は、まずは非常に奇妙な音楽として、次いで強烈に新鮮な音楽として、最後に近代化の進んだ大正期日本人の現実にフィットした実に魅力的な音楽として、当時に人々に熱狂的に迎え入れられただろう、と考えられるわけです。同じようなことは、昭和に入ってからの古賀政男、江口夜詞、服部良一らの音楽にも言えるだろうと思います。実際、いま聴いてもこれらの作品は充分過ぎるくらい奇妙で新鮮で衝撃的です。この衝撃力に匹敵する音楽としては、1960年代のビートルズのそれくらいしか思い浮かばないほどです。
「演歌」は、歴史的文脈から言っても、それ自身の意識(意図)から言っても、日本人の音楽性によって捉えられ、更にそれを日本的にモディファイした「洋楽」(クラシック、ジャズ等)であったということです。当事者(島村抱月や中山晋平)の意図から言っても、そう言って構わないだろうと思います。もちろんそれは、こんにち音楽のジャンルとして「邦楽」から区別して言われるところの「洋楽」とは別次元のことで、要するにそれは「近代」と言いかえられるようなことです。「近代化」され「洋楽化」された「はやり歌」と言っても同じことです。
「演歌」の発生と生成は以上のようあったにしても、それがカッコのとれた演歌、つまりいまで言う演歌になったになったのは比較的最近のことです。春日八郎、村田英雄、コロムビア・ローズ(初代)、松山恵子、畠山みどりといった人たちは、いまで言う典型的な演歌を歌う歌手でしたが、当時(昭和20-30年代)そのような言い方はなかったと思います。「演歌」が演歌になったのは、森進一、青江三奈、クール・ファイブらの歌う「艶歌」、更には藤圭子の「怨歌」の登場をまって、それらの総称として「演歌」という言い方が定着した昭和45年(1970)頃だったように思います。
大正から戦前昭和にかけての都市化の進展が日本化された「洋楽」としての「演歌」を生み、更にそれが都市化の爛熟とともにいまで言う演歌になった、という風に言ってもいいのはないかと思うわけです。昭和45年という年は日本社会の大転換を画した年でもあったわけですが、実際 、藤圭子(あの宇多田ヒカルのお母さん)の登場は、新たな演歌黄金時代をもたらしました。彼女の登場に続いてこんにちに至るまで実に多くの名曲が生み出されましたが、時代の底に達するような不朽の名作だけでも、二葉百合子「岸壁の母」(昭和51年)、金田たつえ「花街の母」(同52年)、小林幸子「おもいで酒」(同54年)、美空ひばり「裏町酒場」(同57年)、坂本冬美「祝い酒」(同63年)、門倉有希「鴎」(平成6年)などが挙げられます。
話は飛びますが、日本社会の大転換はまた松任谷由実(ユーミン。もちろんデビュー当時は荒井由実)という特別の才能を世に送り出しました。彼女の音楽は将来おそらく中山晋平や古賀政男らの音楽と並び称されることになるだろうと思います。理由は中山晋平らと同様の「創造性」にあります。また彼女の歌は藤圭子らの歌とは逆のベクトルながら、「時代の新しさ」を見事に体現しております。ユーミンの登場によって、こんにち「J-POP」と呼ばれる音楽への流れが生まれたわけです 。
 
演歌から「演歌」へ

「演歌」の源流は、明治時代の自由民権運動にまで遡ることができるそうです。自由民権運動弾圧で演説が禁止されたために、自分たちの思想を歌で普及させようとした壮士達による「演説の歌(演歌)」(例えば明治22年頃に大流行した「オッペケペ」)が語源と言われています。
その後、演歌から政治性が失われていき、明治末期には伴奏楽器としてバイオリンが登場し、叙情性がでてくるようになります。さらに大正後期には、「艶歌」という言葉が登場し、演歌の内容が変わってきました。昭和の初めにはバイオリンがギターに替わり、「流しの演歌」の時代に入ります。ところが、戦後、「演歌」は死語ではないものの、日常語ではなくなってしまいました。それが復活したのは、1969年に藤圭子(宇多田ヒカルのお母さん)がギターをかかえてデビューしてからだそうです。彼女の演歌は「恨歌」とも呼ばれました。
このように時代によって「演歌」が指す音楽が変わってきたわけですが、演歌とは一体どういうものなのでしょうか。一般的に「歌謡曲」と言われるものがありますが、それは「演歌」とどのように違うのでしょうか。
まず、「歌謡曲」というのは、歌詞の意味内容が歌い方に反映することはなく、ひたすら耳に快感を与えることを目的とします。したがって、同じ曲中に、「暑い」と「寒い」という言葉があるような場合でも、「歌謡曲」では歌い方は変わりません。ところが、「暑い」という言葉は暑く歌い、「寒い」の時は寒く歌うのが「演歌」で、歌詞の意味内容によって歌い方が変わる、「演劇的世界を現出する、演じる歌」が演歌なのです。
この説明の後に、浜圭介が歌う「心凍らせて」や都はるみの「惚れちゃったんだヨ」を解説して頂きましたが、かれらの「息つぎによる感情表現」を知ると、同じ歌がまったく別物にきこえて感動しました。吉田先生による20世紀の三大歌手(全員が鳥系=マリア・カラス、エディット・ピアフ(すずめ)、美空ひばり)の一人である、美空ひばりが「うまい」のは、感情移入をしつつも、それにおぼれて歌が破綻することがないからというのも、 「悲しい酒」を聴いてみると非常に納得がいきます。  
 
歌謡曲1

音楽の分類用語。
大正12年2月(1923)大阪の東亜蓄音器が宮城道雄らの新箏曲(しんそうきょく)のレコードにつけた種目名。数年を経ずして同社は解散したため、この用語は定着しなかったが、昭和2年9月以降は日本放送協会の使用するところとなり、新箏曲ばかりでなく、新しい三弦歌曲の総称として、ラジオで使用された。
1930年代までは、西洋の芸術的歌曲の訳語としても用いられた。
昭和8年(1933)夏ごろから、日本放送協会は日本人の作曲した「流行歌」にもこの名称を転用し、以来、大衆音楽の種目名となった。この使用法が現代にまで受け継がれたが、 昭和48年ごろから「ニューミュージック」と「演歌」に二分され、歌謡曲という名称は廃れた。
 
歌謡曲2
日本のポピュラー音楽の1つのジャンル。ケースにより、いくつかの意味で使われるが、おおむね以下の意味である。
1 ヨーロッパなどを含めた外国のポピュラー音楽のうち、ジャズやロックの影響の薄い古い時代の物を歌謡曲と呼ぶことがある。シャンソンは日本では主にこの意味で使われる事が多い。
2 広義では、日本のポピュラー音楽全般のうち、歌詞のあるものを指す。この意味では、日本の歌詞のあるポピュラー音楽のほとんど全て(演歌もJ-POPも)が含まれる。
3 狭義では、上の分類からさらにロック、フォーク、ジャズ、フュージョンなど欧米のポピュラー音楽の影響が薄い、「歌詞」に重点を置いた音楽を指す。具体的には演歌やムード歌謡、戦前から昭和20年代の歌謡曲が含まれる。これらの楽曲は、クラシック的な歌曲、欧米の舶来のポピュラー音楽のカヴァー曲など、広いカテゴリーを持っている。演歌とみられがちな古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲が多かった。
4 最狭義の歌謡曲としては、狭義の歌謡曲から更に演歌等を除外し、演歌とポップスとの中間的な曲調の大衆音楽の歌を歌謡曲と呼ぶこともある。
歌謡曲とは本来1の意味で用いられていたものである。それを昭和初期に2の意味でNHKが使いだし、欧米から新しい音楽が流入してきた後に3の意味で用いだした。さらに歌謡曲の時代が終わったと言われている平成に入り、歌謡曲は、J-POPと演歌の間のジャンル名として4の意味で用いられるようになった。
1990年代以降における歌謡曲の分類においては1960年代後半以降に隆盛した感傷的な側面の目立つ演歌に矮小化される傾向が強いが、本来はあくまで西欧のクラシックやポピュラー音楽の日本における派生形である。逆に演歌サイドから見た場合には「ひたすら耳に快感を与える」音楽といった説明がなされることもある。
戦後においては歌謡曲という言葉を生み出したとされるNHKの歌の系譜が不当に軽視される傾向が強いが、その理由について藍川由美は「NHKが戦後、戦時中の音楽をタブー視し、「國民歌謠」から「國民合唱」の歴史を回顧しようとしないことが大きいだろう」と述べている。 近年では商業的な理由により、歌謡曲と演歌を一括する「演歌・歌謡曲」というジャンルが考案された。その結果、演歌と歌謡曲が同一視され、歌謡曲が演歌と同義に捉えられてしまう弊害を生んでいる。

元々は「歌謡曲」はいわゆるクラシック音楽の歌曲を指す。藤山一郎、淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である国民歌謡は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があったが、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれ、現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。戦後になって当初の目的の再現のためラジオ歌謡として再開する。
戦後「歌謡曲」という用語は一般的に使われ続けるが、特にジャンルとして「歌謡曲」といった場合は昭和30年代の日本が高度経済成長にあった時の音楽を指すことが多い。これは即ち藤山一郎の引退(1954年)以降に流行歌から春日八郎の 「お富さん」(1954年)及び「別れの一本杉」(1955年)のヒットなどが発生し後に演歌と呼ばれる流れの源流が生まれた時期である。
この際、一方では曲調からは演歌ともいえず、むしろラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせたような、フランク永井や石原裕次郎のムード歌謡が一世を風靡した。これらの音楽は現在「昭和歌謡」などと呼ばれたりする。
また、1960年代に入るとカラーテレビに媒体が変わりテレビにおけるプロモーションを重視した「テレビ歌謡」が発展していくことにもなるが、この頃には演歌の歌唱法と比較した場合に感情表現が少なめな音楽として歌謡曲という用語が用いられている。1972年頃からはニューミュージックがテレビ出演を拒みながら歌謡曲と一線を画しながら発展していく一方、アイドル歌謡曲の流行も始まる。
1970年代も後半になると、山口百恵など歌謡曲の中からも英語歌詞の影響を受けたような本来の歌謡曲にはなかった発音の音楽が生まれ出し、1980年代になると徐々に音楽的には歌謡曲からアイドル系の音楽は外れていく。また、1989年に歌謡番組であった「ザ・ベストテン」が終了し、その頃を境に媒体の消滅により歌謡曲という用語自体が使用されなくなっていく。
1990年代初めにビーイングブームが発生し歌番組における露出が控えめな歌手でも売上が伸びる現象が発生し「J-POP」などの言葉が流布された結果「歌謡曲」という言葉はあまり使われなくなった。それゆえ、昭和の終わりとともに歌謡曲というジャンルが無くなったという俗説も存在する。  
 
トロット(트로트)

韓国における大衆楽曲のジャンルのひとつである。日本の演歌と酷似した性格を持つため、しばしば韓国演歌と呼ばれることがある。
韓国の旧来型大衆楽曲のうち、「ズンチャッチャ、ズンチャッチャ…」の3拍子ないし「ズンチャチャチャッチャ、ズンチャチャチャッチャ…」の4拍子を基本とするものを「トロット」、「ンチャ、ンチャ…」の早い2拍子を基本とするものを「ポンチャック(뽕짝)」と呼ぶ。 「トロット」は曲調のテンポを表す英語である「フォックストロット(Foxtrot )」の一部をとったものであり、「ポンチャック」は曲の伴奏のリズムを表す韓国語の擬音語を語源とするやや下世話な音楽とする蔑称である。
トロットの曲構成においては、朝鮮民謡を由来とする3拍子5音階を用いることが多く、その音階法は、西洋音楽が7音階を基本とするのに対して5音階を取っているために第4音と第7音は存在せず、4と7を抜いているとするいわゆるヨナ抜き音階(ペンタトニック・スケール)と呼ばれる。
トロットの歌詞テーマにおいては、別離や薄幸などに対する「ハン(한、恨)」「男女間や家族間の情愛」「大自然や日常風景の人生観への投影」などが好んで取り上げられる。「ハン」とは、漢字で表記すれば「恨」であるものの仏教用語でいう「煩悩」や日本語で言う「怨恨」・「恨み」とは異なる概念であり、自分の理想・なりたい境遇・やり遂げたい事・成就させたい恋愛などに関して、自分なりの努力にもかかわらずなかなか叶えられないことに対する不満・嘆き・嫉妬などと、それでもあきらめ切れない夢と羨望の念が入り混じった、韓国人特有とされる情念のことを指す。
その唱法においても、小節廻しを用いた独特の歌唱法が多用される。男性トロット歌手は洋装での出演が多いものの、女性トロット歌手は韓国のイメージを出すためにチマチョゴリで出演することが多く、日本の演歌シーンにおいて女性演歌歌手が日本のイメージを大切にする目的で歌唱時に和装を多用することに似ている。
また、歌詞の言いまわしひとつにしても、例えば男女間の情念をテーマとする曲で相手を二人称で呼称する場面において、「カヨ(가요、歌謡、日本で言ういわゆるK-POP)」ではクデ(日本語でいう「君」・「あなた」に相当)を多用するのに対し、トロットではタンシン(當身/日本語において、婚歴の長い夫婦や付き合いの長い恋人同士で、あるいは親友同士で、また喧嘩相手に対して用いられる「おまえ」「あんた」に相当する。韓国語でも全く同様の用法をとる)を好んで用いるところなど、日本のJ-POPと演歌の歌詞の言い回しの違いにそっくりである。
その他、前述の音階法を始めとするコード進行やメロディー構成やアレンジ、歌詞に好んで取り上げられるテーマ素材や歌詞表現の言い回し、プロ歌手の歌唱法やふるまい、ファン層が中高年層中心であること、近年はポップス楽曲に押されて相対的に売り上げが低迷しているが細く長くヒットする曲が多いこと、根強くテレビ放送に独自枠を持つことなど、完全に日本の演歌と酷似した性格をもつ。
歴史/草創期
朝鮮で初めて発表されたトロットのレコードは1908年の李東伯(イ・ドンベク)の「赤壁歌」である。1926年には尹心悳(ユン・シムドク)の「死의 贊美 」(死の賛美)がヒットした。尹心悳は大阪での同レコードの吹き込み後に、劇作家の金祐鎭(キム・ウジン)と共に関釜航路に就航していた徳寿丸から投身自殺をし、朝鮮全土に一大センセーションを巻き起こしたことでも知られており、皮肉なことにその話題先行によりレコード発売前から大ヒットは約束されていたようなものであった。
日本のレコード会社は大正時代より、日本蓄音器商会(現在のコロムビア)・大阪の日東蓄音器などが朝鮮市場向けに小規模に朝鮮盤(韓国語版レコード)を発売していたが、昭和になってから本格的に進出を開始し、1928年にビクター、1929年にコロムビア、1931年にポリドール・タイヘイレコードの順で進出した。また1931年には現地資本のシエロンレコードが設立され、1933年にはテイチクが現地資本との合弁でオーケーレコードを設立した。当時の日本のメジャーレーベルの中では唯一、キングレコード(講談社)のみが朝鮮盤の生産を行わなかった。
第二次世界大戦までの動向
1932年、10-14世紀の朝鮮半島の王朝国家で、コリアの語源にもなった高麗の首都・開城を舞台に歌い上げた李愛利秀(イ・エリス)の「荒城의跡 」(荒城の跡)が、韓国語版レコードによる初の全国的ヒットとなった。また、同年に蔡奎Y(チェ・ギュヨプ)が日本のヒット曲を韓国語に訳して歌った 「酒は涙か溜息か」などで人気を博した。また、日本の人気歌手であったディック・ミネが三又悦(サムヨル=サミュエル)名義で韓国語を用いてジャズナンバーを発表するなど、相互通行的な動きも見られた。さらに、本来は韓国の伝統芸術的な歌曲であった 「鳳仙花」をソプラノ歌手金天愛(キム・チョネ)が歌い大ヒットとなった。
1934年には「노들 江邊」(ノドル河辺)に代表されるいわゆる新民謡(創作民謡)がヒットする傾向を見せ、鮮于一扇(ソヌ・イルソン)などの妓生歌手が数多く誕生した。さらに、同年には高福壽(コ・ボクス)の「他ク살이」(他郷ぐらし)、1935年には李蘭影(イ・ナニョン)の「木浦의 눈몰」(木浦の涙)、1937年には張世貞(チャン・セジョン)の「連絡船은 떠난다」(連絡船の歌)が、日本による統治への反発を抱く大衆の思いを代弁する形となり大ヒットした。
1938年には歌謡皇帝こと南仁樹(ナム・インス)の「哀愁의 小夜曲」(哀愁のセレナーデ)がヒットし、南仁樹は作曲家の朴是春(パク・シチュン)と組んで後の韓国歌謡界に不動の地位を築くこととなった。この頃、民謡の女王として李花子(イ・ファジャ)も人気を博している。金貞九(キム・ジョング)の「눈물 젖은 豆滿江 」(涙の豆満江)が世に出たのも同時期だが、この歌はむしろこの時よりも、朝鮮動乱後にリバイバルヒットした事で知られている。1940年には白年雪(ペン・ニョンソル)の「나그네 설움」(旅人の悲しみ)が、また秦芳男(チン・バンナム)の「不孝者은 읍니다」(不孝者は泣きます)が大ヒットとなった。
その後の第二次世界大戦の戦局悪化にともない、朝鮮においても内地と同じように軍部が士気高揚のために利用した戦時歌謡が量産されるようになった。朝鮮人志願兵第一号として軍当局の言ういわゆる名誉の戦死をした李仁錫(イ・インソク)一等兵の最期を美談に作り上げて大々的に喧伝し、「内鮮一体」のスローガンの気運を盛り上げようと謀る当局の介入に、朝鮮における歌謡界の自由性も次第に萎縮していった。
戦後の動向
1945年の日本の敗戦により朝鮮は開放され、1948年に大韓民国樹立によって米軍による占領統治が解除されても、依然として在韓米軍は数多く駐留したままであった。米国への留学経験を持つことから反日親米主義者である韓国初代大統領李承晩が1948-1960年まで韓国で軍事独裁政権を掌握し、トロット界においても 「酒は涙か溜息か」などの日本をルーツにした楽曲は事実上の発禁処分とされる事になった。1947年には玄仁(ヒョン・イン)の「新羅의 달밤」(新羅の月夜)が大ヒットしている。米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場している。
1950-53年にかけて勃発した北朝鮮の南侵による朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。 朝鮮戦争中は軍歌が流行したが、停戦後に北朝鮮へ渡った作曲家・作詞家などは「越北作家」のレッテルを貼られ、彼らの作による 「断髪令」「有情千里」など多くの歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。
1954年李海燕(イ・へヨン)による「斷腸의 彌阿里고개」(断腸のミアリ峠)が大ヒットした。1957年エレジーの女王・李美子(イ・ミジャ)がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。
1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。 1961年韓明淑(ハン・ミョンスク)の「노란 샤쓰의 사나이」(黄色いシャツの男)が大ヒットして、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込んだり、日本においても一部韓国語の歌詞を残したまま日本語訳詞が付けられてヒットするなど、社会現象を引き起こした。またこの頃、反共ラジオドラマによって 「涙の豆満江」がリバイバルヒットしている。
1962年就任した朴正煕大統領は文化界に強い圧力を加えて来たし, 1975年にはビートルズなどの曲が共産主義色彩をたたえるという理由で総 222曲が発行禁止処分が酔われたりした 。また李美子の歌が倭色と言って多数禁止曲に指定されたりした。 1967年南珍(ナム・ジン)による「가슴 아프게」(カスマプゲ)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児(ナ・フナ)もデビューを果たしている。1971年フォークデュオのラナエロスポによる 「사랑해」(サランヘ)が、1973年にはパティ・キムによる「離別」が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤(キロギュン)の名を高めた。特に「離別」は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。
1976年趙容弼(チョー・ヨンピル)による「돌아와요 釜山港에」(釜山港へ帰れ)が大ヒットする。1977年には李成愛(イ・ソンエ)が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による「連絡船の歌」のヒットや、平壌出身の歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李成愛が初めてであった。李成愛の成功は、趙容弼や羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的でないにせよ、第一次韓国ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後に金蓮子(キム・ヨンジャ)や桂銀淑(ケー・ウンスク)などの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。
「黄色いシャツ」「離別」「カスマプゲ」「釜山港へ帰れ」などの数々のトロット名曲を日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。
近年の動向
その後、一旦トロットの人気は下火となり、1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。
1990年代以降は、ソテジワアイドゥル(「ソテジと子供たち」の意)などに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆるK-POPが若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。
また、日本において電気グルーヴによって李博士(イ・パクサ)が紹介されると一気にテクノファンに浸透し、ポンチャック・ブームを巻き起こした。
2004年には張允貞(チャン・ユンジョン)が「オモナ」をヒットさせ、純トロット曲の久々のヒットとなった。
 
NHKラジオから生まれた歌

学校教育においては、国語や音楽の教材を分析して一つの解釈を提示したり、唯一の正解を定めることが当たり前のように行なわれている。だが、作品のイメージを固定することに、どんな意味があるというのだろうか。いかなる作品であれ、受け取り方には個人差があるし、解釈は時代によって変化する。戦争中の音楽作品に取り組んだことで、私はそう考えるようになった。世間には、戦時下の作品はすべて好戦的だとする論調があるが、それはいささか感情的で根拠に乏しい。実際に作品を掘り下げてみれば、誰もが作風の多様性に気付くだろう。
最初は、NHKの「國民歌謠」で頭角を顕わした作曲家・大中寅二の「椰子の實」である。彼の作風は大海原を彷彿とさせるフレーズ感と、教会のオルガニストとして培った和声感に特徴があり、これはその後の「靖國神社の頌」でも変わっていない。それにしても、クリスチャンとしての大中は、どんな気持ちで靖國神社の歌を作曲したのだろうか。キリスト教の教会音楽風に仕上げられた音楽と、日本の神道のミスマッチからは、反戦主義のにおいすら嗅ぎ取れるのだが。
なお、靖國神社関係の歌は、「國民歌謠」では5曲発表されている。昭和12年4月26日初放送の「靖國神社の歌」(渋谷俊作詞・小松耕輔作曲)、翌27日の「靖國神社の歌」(田巻秋虹作詞・陸軍戸山学校軍楽隊作曲)、翌28日の「靖國神社招魂祭の歌」(岩本平太郎作詞・海軍軍楽隊作曲)、そして昭和15年10月14日の「靖國神社の頌」と、10月21日の「靖國神社の歌」(細渕國造作詞・海軍軍楽隊作曲)である。
次の「春の唄」は西宮駅近くの北口市場の様子を描いた作品で、「椰子の實」同様、戦後の「ラジオ歌謡」でも取り上げられた。
「母の歌」は、昭和9-12年欧米留学した橋本國彦がNHKの委嘱に応じて作曲した子守歌だが、戦後の出版譜では日の丸・君が代を歌った3番の歌詞が削除されるようになった。 天性のメロディストだった橋本は、日本にまだ管弦楽曲を書ける作曲家が数えるほどしかいなかった時代に、フランス印象派ばりの洗練された和声法を身につけていた。そのため、皇紀二千六百年の記念式典のための祝典曲(オーケストラ作品)を委嘱されたり、指揮を任されたりしたが、この活躍によって、戦後は苦境に追い込まれた。その死は、彼自身にとっても、日本の作曲界にとっても、早すぎた。 歌曲作曲家としての橋本はすでに昭和3,4年頃に名声を確立していたが、戦中・戦後にかけてのNHKでの仕事も、時代と音楽家の関わりを考える上で重要である。彼は「國民歌謠」において、「總選擧の歌」(土井晩翠/S.12.4.19初放送)、「母の歌」「黎明東亞曲」(佐藤春夫/S.13.1.6初放送)「國民協和の歌」(中央協和会・大政翼賛会/S.15.12.16初放送)を「橋本國彦」名で作曲した他、少なくとも「東京音楽学校作曲」として「大日本の歌」を書いており、それ以外の「東京音楽学校作曲」作品の中にも橋本の作品が含まれている可能性は高い。
彼は、専門家ではない大衆が歌うための作品は難しく書いてはならないと考え、最小の仕掛けで最大限の演奏効果をあげようとしたようだ。歌いやすい旋律線に対し、伴奏部にはスタッカートやレガートを細かく付けて演奏効果を狙っている。「大日本の歌」にせよ、「勝ちぬく僕等少國民」などの「國民合唱」にせよ、その特徴は、強弱や、テヌートとスタッカートの対比によるメリハリにあった。
敗戦後、NHKは昭和21年5月に歌番組の放送を再開した。橋本はその2回目の放送で「朝はどこから」を発表している。森まさるによる歌詞はまるで標語か何かのように味気ないが、作曲者はスタッカートを随所に用いることで、退屈さを避けた。橋本は結局8曲の「ラジオ歌謡」を書き、昭和24年5月6日に44歳で他界した。中でもタンゴとして書かれた「乙女雲」には、ビクターの専属でもあった橋本の流行作曲家としての一面が強く出ている。
古関裕而については改めて語る必要もないが、山田耕筰、信時潔、橋本國彦といった留学組と違って、独学でオーケストラ曲を書き、日本人作曲家として初めて国際的な作曲コンクールで入賞を果たしている。メロディーだけ書いて伴奏部を編曲者に任せることの多い流行歌の世界でも、彼は自らオーケストラ・スコアを書いていた。「國民歌謠」では「愛國の花」や「南進男兒の歌」(若杉雄三郎/S.15.9.2初放送)「われらのうた」では「海の進軍」(海老沼正男/S.16.5.9初放送)「國民合唱」では「突撃喇叭鳴り渡る」(勝承夫/S.19.5.1初放送)などの器楽パートが印象的だ。
「ラジオ歌謡」は昭和21年8月18日初放送の「三日月娘」から、昭和36年8月14日の「山の男は雲と友達」(薩摩忠)まで実に41曲を書いている。「並木の街の時計台」 は、鐘の音を彷彿とさせるピアノ・パートには、古関お得意の不協和音が効果的に生かされている。
橋本と同じく東京音楽学校教授をつとめた信時潔も、この時代を代表する重要な作曲家である。当時の前衛音楽であったシェーンベルクらの十二音音楽を研究しながらも、決して自作には取り入れず、終生、ドイツ・ロマン派的なスタイルを崩さなかったその作風は「海ゆかば」の重厚な和声に象徴されている。昭和12年10月13日のNHK「國民唱歌」の時間に放送後、11月22日に「國民歌謠」として再放送されたこの歌を、文部省と大政翼賛会は、昭和18年2月より儀式に用いることを決めた。ちなみに信時はそれ以前には「國民歌謠」を作曲していない。初めて「國民歌謠」として書いた作品は「國こぞる」(金子基子/S.13.10.3初放送)で、「海ゆかば」のスタイルを継承している。
「われらのうた」の時代、信時は「僕等の團結」と「伊勢神宮にて」(北白川宮永久王/S.16.10.27初放送)を書き、「國民合唱」では「此の一戰」(大政翼賛会標語/S.17.2.8初放送)ほか4曲を作曲。ところが「ラジオ歌謡」は「われらの日本」(土岐善麿/S.22.5.8初放送)と「吹雪の道」(白鳥省吾/S.26.1.2初放送)しかない。戦時中、準国歌的役割を果たした「海ゆかば」の作曲者をNHKが使いづらくなったということだろうか。
これに対し、高木東六は33曲もの「ラジオ歌謡」を作曲している。「空の神兵」(S.17発売)の作曲者として知られる高木だが、「國民歌謠」は「空軍の花」(相馬御風/S.12.9.12初放送)と「ヒュッテの夜」、「國民合唱」は「征くぞ空の決戰場」(井上康文/S.18.9.14初放送)、「怒濤を越えて」(佐伯孝夫/S.20.7.15初放送)と、2曲ずつしか書いていない。興味深いのは、「ヒュッテの夜」といういかにもブルジョア的な題材が、昭和14年1月にはまだ問題にされていなかった点だ。
ところで、戦後の「ラジオ歌謡」は、始まった当初こそ妙に健康的で明るい題材が目立ったものの、新作が追いつかなかったのか、昭和22年の後半には21曲もの「國民歌謠」を再放送している。初放送でも、同年10月の「山小舎の灯」は、米山正夫が戦前のポリドール専属時代に書いたものだった。
「ラジオ歌謡」で世に出た作曲家に、寺尾智沙との作品「白い花の咲く頃」「リラの花咲く頃」で知られる田村しげるが居る。彼は5曲の「ラジオ歌謡」を発表しており、その第1作目が「たそがれの夢」だった。
同じ日本人でも、戦禍をくぐり抜けた世代と、戦争を知らない世代との感性の違いは甚だしく、現代の若者は、抒情的な田村の作風や、感傷的とさえいえる八洲秀章の歌には共感しにくいかも知れない。だが、人々が敗戦で傷つき、疲れ果てていたあの時代、彼らの歌で癒された人は少なくなかった。「さくら貝の歌」(土屋花情/S.24.7.4初放送)で世に出た八洲は、「あざみの歌」(横井弘/S.24.8.8初放送)、「山の煙」「うるわしの虹」など、19曲の「ラジオ歌謡」を書いている。
NHKラジオから生まれた一連の作品は、愛唱歌としても、時代の証言者としても重要な意味を持っている。ただ残念ながら、これらの作品の楽譜は必ずしも出版されておらず、出版された楽譜も現在は絶版になるなど、入手はきわめて困難だ。そんな情況で全体像を語ることはできないが、少なくとも「月夜の笛」は日本の伝統的な陰旋(都節音階)で作曲されたという点で特殊な一曲といえるだろう。
歌を味わう上では、時代背景や個人的な思い出も大切な要素となる。しかし、いつまでも懐古趣味にとどめておいては、時代とともに忘れ去られかねない。近代日本の歌が我が国の音楽文化の一翼を担うためにも、この時代の作品をきちんと検証し、伝承してゆくことが必要なのではないだろうか。  
 
昭和歌謡

戦後の焼け野原に軽やかな「リンゴの唄」が流れた時、敗戦に打ちひしがれた人々の心がパッと明るくなりました。
歌は時として、生きる勇気を与えてくれます。あるいは、つらい時や悲しい時、うれしい時や楽しい時、人生の節目節目に、必ず心に刻み込まれる歌がありました。
思えば、私が最初に覚えた歌謡曲は鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」です。3歳の時でした。といっても私自身はほとんど記憶がなく、「あなたは小さい頃にいつも歌ってたのよ、サンドイッチマ-ン、サンドイッチマンて」と母が苦笑しながら話してくれたので自覚したのですが…。
やがて、これこ-れい-しの地蔵さ-ん、と歌いながら小学校に通い、中学校の校庭ではうす紫の藤棚で女学生に恋をし、そよ風が僕にくれた可愛い恋を、木枯しが奪っていったのは16の夏でした。真っ赤なエレキを小脇に抱え、アイドル気取りで女の子を追っかけ回したのもつかの間、あっという間にブームは去り、いつしか私も大人になっていました。
人はオトナになり歳を重ねるにつれて、いろんな情報や経験がくっついてきます。それに思い込みや先入観が混じり合ったデコボコ頭では物事を素直にとらえることは難しくなる。自分が辿ってきた時代は生きた証でもあり、人生の原型がそこにあるはずです。豊かな感受性を持って感銘を受け、感動した自分が……。しかし、過ぎた日々は帰らない。だからこそノスタルジーなのでしょう。
私の生きた「昭和」。遠い日の純粋だった自分と時間・空間・空気がそこにはある。ただ懐かしむだけではなく決して忘れたくはない。原点だから。
時は流れ、だんだんと遠ざかっていく「昭和」。その時代を共有した輝くばかりのスター達とその歌。そして彼等に送られた人々の拍手喝采が私の耳に鳴り続ける限り、エネルギーがいっぱい詰まったこの昭和という時代と、そしていつも庶民とともにあった「歌謡曲・流行歌」を語り継いでいきたいと思っています。
「歌は世につれ、世は歌につれ」けだし名言である。
もともと流行歌だけを指して言った言葉ではなく、短歌・俳句なども含めた、いわゆる「うた」全般に対することわざであった。広く一般に知られるようになったのは、演出家の長田幹彦氏が自分の台本に記してからであるが、どん欲に時代を吸収し、世相を映しとってきた昭和の歌謡曲・流行歌を表現するのにこれほどの名言はない。
御三家がいて、三人娘がいて、 もっと言えばスパーク三人娘に新三人娘。 花の三羽がらす、ロカビリー三人男と、 まあ、燦々と輝いていたし、 「歌う映画スター」なあ-んていって、 タフガイにマイトガイに若大将。 低音の魅力に高音も負けてはいない。 グループサウンズあり、フォークあり、 演歌あり、クロード・チアリ。 そりゃぁもう大騒ぎさ。
昭和における大衆歌謡・流行歌は、生活の中の泣き、笑い、喜びをそのメロディと詞に織りこみ、それゆえに世代を越えて愛されました。田舎の祭ばやし、高原の白樺林、赤い夕陽の校舎、霧の波止場にマドロス、路地裏の酒場。列車に郵便船。人々は理屈ではなく、感性でその歌の世界に思いをはせ、想像力をかきたてていったのです。それを歌や映画で演じ、夢や憧れを一身に集めてくれたのがスターでありました。まだテレビは普及途中、ビジュアルの中心は映画であり、平凡、明星などの雑誌、あるいはプロマイドでした。情報の乏しい中、人々は必死でスターを追ったのです。
おびただしい紙テープと花束に埋もれて、あなたは微笑んでいました。総天然色のスクリーンの中であなたは話してくれました。そんなあなたをファンは親しみと尊敬を込めて応援したのです。そして今でも・・・・
だから、昭和の歌謡スターはいつまでも大衆の中で生き、輝き続けるでしょう。  
 
藤圭子

阿部純子の父親、阿部壮は、芸名を松平国二郎といい、地方回りの浪曲師であった。母親澄子もまた寿々木澄子という芸名で浪曲師をやっていたことがある。その日その日の生活費を求めて東北や北海道の村々を流して歩く。お祭り、工事現場の飯場、老人ホームの慰安会、お寺の境内などが主な舞台であった。純子が生れたのはそんなさなかの昭和27年7月5日(1952)岩手県一関においてだった。
姉の富美恵、兄の博を含めて一家5人は、永く続いた旅から旅への生活からようやく北海道旭川に居を構える。子供達が学校に上がる年齢になったからであるが、しかし両親は相変らず地方回りで生計を立てなければならない。旅先から仕送りをしながらの生活が続いた。
純子が小学校5年生の時に北海道の巡業について行った。そこで間をつなぐ為に急遽舞台に上がり、畠山みどりの「出世街道」や美空ひばりの「柔」などを歌って拍手喝采を浴びる。それ以来、純子は一家の看板娘、大事な稼ぎ頭となった。時は流れて中学三年生で岩見沢の娯楽センター「喜楽園」の専属歌手に迎えられる。そして、昭和41年(1966)中学校の卒業式を間近に控えた2月、岩見沢の「雪祭ショー」に予定していた歌手が辞退し、代役で出演した。この時に居合せた作曲家の八洲秀章に認められ、東京に出ることを奨められる。
上京、そして、石坂まさお(澤ノ井千江児)との出逢い。
一家は真剣に思慮した結果、旭川を引き払って上京することを決意する。大きな賭けであった。だが、東京で出てきたからと言ってすぐに生活が変るわけではなく、両親は相変らずの「流し」で日銭を稼いでいた。そのうち父親の壮が永年のムリがたたって体調を崩し、働けなくなってしまった。純子は昼間は八洲秀章のレッスンを受けながら、夜は母親と錦糸町や浅草方面を流して歩いた。島純子の芸名でファッションモデルもやった。しかし、生活はいっこうによくならない。合間を縫ってレコード会社も回ったがどこも相手にしてくれない。
純子は八洲秀章のもとを離れ、作曲家上条たけしの門を叩いた。そこで同じくレッスンを受けていた品川芳輝と出会う。東芝レコードへの売込みに失敗して意気消沈している純子に品川は声をかけた。折しも今、歌謡界はGSやガールズ・ポップの全盛時代。阿部純子の背負っている人生や生活から滲み出てくる雰囲気はあまりにも暗すぎた。「純ちゃんの個性を生かすなら澤ノ井先生の所へ行ったほうがいいよ」。
澤ノ井千江児もまた、愛人の子として生れ、本妻に育てられたというドラマチックな幼少期を過し、作詞家としても長い下積みを経験している。品川は阿部純子と澤ノ井千江児に共通する「痛み」「臭い」を感じていたのかも知れない。あるいは、澤ノ井が東芝の専属ということもあり、そっちの面でもアプローチしやすいと踏んだのだろう。とにかく、純子は澤ノ井の家に入りびたるようになった。
澤ノ井はまず、純子の歌声に驚いた。幼い頃から両親と一緒に厳しい気候風土の東北・北海道を巡業してまわり、鍛えられたノドからしぼり出される「情念」とその背景にある「境遇」や「宿命」。わずか17歳で、しかも日本人形のような美少女とは似つかわしくない、そのアンバランスさに「作られたモノではない」本物の「凄味」を感じた。
それと、純子の置かれた今の境遇だ。父親が倒れ、そして母親もまた、実は純子がまだ幼い頃から、過労と栄養失調のために視力をほとんど失っていた。聞けば、このまま放っておけばやがて失明するという。普通の家庭の主婦ならば、かすかな視力でも「慣れ」で普段の生活はなんとかなるだろう。しかし、純子の母親澄子の場合は、そんな状態で旅から旅の「流し」生活を続けていたのだ。
「一家を楽にしてあげたい その為に金の稼げる歌手になりたい」
純子の歌には、世間に裸でぶつかり、跳ね返され、生きのびてきたものだけが知る人間の命の哀しみが自然に備わっている。「レコード歌手ではない、どちらかというと芸人的」。澤ノ井は純子の生い立ちを聞きながら、漠然とではあるが、自分に相通じるものを感じ取っていた。育った環境は異なるが、社会の底辺で通じ合うような生活感。同じ体臭のようなものが染みついている。と、品川の予感通りであった。
「この子には何かがある、きっとうまくいく」澤ノ井は確信をもった。「この子は生き様そのものが歌なんだ。」一人でも多くの人間に純子の歌を聴かせたい。澤ノ井は自分で育て、売出すことを決意し、純子は澤ノ井の家に住込み、レッスンを受けることになった。
澤ノ井は思い立ったら行動は早い。さっそく、自分の所属する東芝レコードのディレクターに引合わせた。そこで歌った歌は津村謙の「上海帰りのリル」。ディレクターは興味は示したが、しかし、「一度、上条先生で断っているから義理が立たない」との理由で断られた。それならば、と澤ノ井は東芝と専属契約を打ちきり、フリーの立場で活動することにした。この世にゴマンといる、まだどうなるかわかりもしない歌手志望の少女。だが、澤ノ井は純子に感じた自分の直感と、持ち前の負けん気とチャレンジ精神が頭をもたげ、もう後戻りはできないところまで燃え上がっていた。
次に澤ノ井と純子が向った先は日本コロムビアだった。芸能プロダクション「芸映」の紹介だが、しかし、ここは老舗中の老舗。そうそうたるスター群と専属作家が名を連ね、きっちりとラインが組まれている。そこに入り込むのは容易ではない。そこで、澤ノ井は新しく発足した外資系の「コロムビアデノン」に目をつけた。ここは、既成のスターや作家にとらわれない新しい志向を目指していて、わりとオープンな雰囲気である。純子は担当ディレクターの前で竹越ひろ子の「東京流れ者」を歌った。ディレクターも純子に何かを感じ、快く迎えいれてくれた。
だが、「コロムビアデノン」はもともとポップス色の強いレーベルである。歌謡ポップス路線で勝負したいと考えていた「コロムビアデノン」と、純子のドラマ性を引出したい澤ノ井の思惑とはかなりの温度差があった。それに、プロデュースとマネージメントに徹するためと様々な兼合いから、デビュー曲の作詞をなかにし礼、作曲を猪俣公章でいくことになっていたのだが、こちらもなかなか思うようにははかどらない。「コロムビアデノン」そのものが立ち上げたばっかりで、一人の歌手にかまっていられないという事情もあったのだが、澤ノ井の苛立ちはつのるばかりであった。そして、ようやく出来上ってきた曲はタイトルが「鍵」(作詞:なかにし礼/作曲:猪俣公章)洗練された都会的な歌謡ポップスだ。「これは違う・・」。曲が悪いのではない。やり方が違うのだ。野良犬には野良犬のやり方がある。澤ノ井は「コロムビアデノン」を後にした。
先輩作詞家である星野哲郎の助言もあり、デビュー曲は自分で作ることにした。「やはり純子を一番よく知る君でなければ書けないよ」澤ノ井は原点に戻り、自分をみつめ直す。まずペンネームを変えた。「石坂まさお」これは実在した人物の名前で、先輩作詞家宮川哲夫とシナリオ作家の井出雅人と共に詩人の三羽がらすと呼ばれていたが、太平洋戦争で戦死していた。
澤ノ井は「石坂まさお」として再出発することを心に誓い旅に出た。さて、自分で作ろうと思ったものの、なかなか思うような詞が作れない。いわゆる生みの苦しみである。そんな折り、名古屋で旧友でもある作詞家みずの稔と会う。そこで見せられた一遍の詞が、まさに求めていた言葉だった。「バカだな バカだな だまされちゃって・・」みずのにこの詞を使用することを承諾してもらうと、後は一気呵成に出来上った。「新宿の女」の誕生である。(クレジットの作詞者にみずの稔氏の名前があるのはこういう事情から)
思えば「新宿は俺の故郷ではないか・・」新宿は人間の吹き溜りのような街。純子の持つドラマ性を引出すインスピレーションには事欠かない。まさに原点に返ったところからはっきりと進むべき道が見えてきた。
だが、デビュー曲だけではだめだ。2曲目、3曲目と続かなくては・・、石坂は新宿の雑踏の中を歩きながら案を練った。そして「女のブルース」「生命ぎりぎり」が出来上った。あとはレコード会社だ。
実は、石坂まさおは「コロムビアデノン」の話が消えかかった頃に「日本ビクター」の事業部のひとつである「RCA」に挨拶をすませていた。「RCA」はクラシックや洋楽ポップス中心のレーベルであるが、昭和43年頃からは邦楽にも進出していた。ここで応対に出たディレクターの榎本襄が、その後の純子のデビューの大きな推進力となっていく。
ついにデビューが決る。
石坂に純子を紹介された榎本もまた「何か」を感じた。出来上ったばかりの「新宿の女」はまさに純子の生き様そのものが歌になったようなものだ。端正な顔立ちの17歳の少女はギターを抱え、思いも寄らぬハスキーで凄味のある声で歌った。「これはスゴイ!」まさに新宿の街の呻きが迫ってくるような「情念」がある。それに「美少女の流し」というキャラクターも新鮮だ。「RCA」からのレコード・デビューが決まった。
となると次は芸名だ。石坂は純子を本格的にプロモートするために「日本音楽放送(有線)」などの資金協力を得て自ら「藤プロダクション」を設立した。(社長は日本音楽放送の工藤宏氏)そこで工藤氏の「藤」と、工藤氏の妹である桂子にちなんで「藤圭子」に決まった。
「これからはテレビを始めとするマスメディア的なイメージ戦略が必要だ。」石坂と榎本は協議を重ね、藤圭子の端正な顔立ちのわりに、痩せすぎの体型と大人の歌を歌うには色気が足りないことを補う為に、黒のベルベットのパンタロンスーツと対照的なコントラストの真っ白なギターを持たせて売り出すことにした。キャッチ・フレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女」。こうして、藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の発売日は9月25日に決まった。昭和44年の夏のことである。 だが、「RCA」は新興のレーベル。思うような宣伝予算が確保できない。「それなら自分でやるだけさ」「野良犬には野良犬のやり方がある」。
新宿の女(昭和44年9月)作詞 みずの稔・石坂まさを 作曲 石坂まさを
  B面/「生命ぎりぎり」
女のブルース(昭和45年2月)作詞 石坂まさを 作曲 猪俣公章
  B面/「あなた任せのブルース」
圭子の夢は夜ひらく(昭和45年4月)作詞 石坂まさを 作曲 曽根幸明
  B面/「東京流れ者」  
「圭子の夢は夜ひらく」 昭和45年(1970)4月25日にリリース。 10週連続オリコン1位にランクされ、77万枚を売り上げました。昭和41年(1966)に園まり、緑川アコなどにより競作された『夢は夜ひらく』のカヴァーですが、恋の歌だったこれらのヴァージョンとはまったく違う怨み節系のトーンになっています。
陶器の日本人形のような整った顔立ちで、アングラっぽいスロー・バラードをかすれ声で歌うというミスマッチな感じが、人びとを惹きつけました。
藤圭子が『新宿の女』でデビューしたのは昭和44年(1969)ですが、その前年あたりから数年間は"学生反乱の時代"と重なります。
1968年5月には、フランス・ナンテール大学の学生"赤毛のダニー"ことダニエル・コーン=ベンディットらが大学民主化やベトナム反戦を叫び、全国の労働者も巻き込んでゼネスト行い、ド=ゴール大統領の第五共和政を崩壊寸前まで追い詰めました(五月革命)。
この運動はイタリア、ドイツ、アメリカなど先進各国の大学に飛び火しました。
わが国では、昭和40年代初め頃から、早稲田、慶応、中央、明治、法政などで学費値上げ反対や大学民主化をテーマとした学園闘争が頻発、それらは昭和43年(1968)の日大全共闘(議長=秋田明大)と東大全共闘(議長=山本義隆)による大学建物のバリケード封鎖と大学当局との大衆団交(大学管理者側にとってはつるし上げ)によって頂点に達しました。
両方とも翌昭和44年(1969)春には、機動隊によるバリケード封鎖の強行解除によって収束しました。この年、東大入試が中止されたことは多くの人の記憶に残っていると思います。
学園紛争以外では、安保条約延長反対をめぐって、昭和43年以降、羽田闘争、新宿騒乱事件、国際反戦デー闘争、佐藤首相訪米阻止闘争など、相次いで紛争が起こりました。
この「70年安保闘争」は、ベトナム反戦運動や成田空港反対運動、沖縄返還運動と結びつきましたが、佐藤政権による徹底的な取り締まりと学生運動の内部分裂や内ゲバによって、次第に力を失っていきました。
こうした流れのなかで挫折感や敗北感に襲われた学生たちの胸に沁みたのが、『圭子の夢は夜ひらく』でした。
第一次安保闘争(60年安保)のとき、同じような状況に追い込まれた学生・青年たちが愛唱した『アカシアの雨がやむとき』と同じような役割を果たしたわけです。
この時期に学生生活ないし青春期を送った人たちには、忘れられない歌の1つでしょう。
藤圭子は、娘・宇多田ヒカルがまだ子どもの時代に心の病を発症したようで、奇矯な言動がいくつか伝えられています。平成25年(2013)8月22日、西新宿で自死。62歳。
多くの人たちの胸に響いた歌をいくつも遺したこと、天才的な歌唱力が娘に受け継がれたことをもって瞑すべし、でしょう。  
 
唱歌系の歌と演歌系の歌

流行歌というのはいろんなジャンルがあり、さまざまな分類の仕方があると思うが、このページでは発声法やこぶしの有無、などを基準にして唱歌系と演歌系との二種類に分けて考えてみたいと思う。そしてそれらを歌う歌手もまたこの二種類に分けて考えてみたい。(唱歌系の歌は今日でいうJ-POPとほぼ同じといってよい。文部省唱歌のようなものとJ-POPとが同じ分類に入ることに異論のある方もおられかもしれないが、下記のように発声法その他で歌を分類すればJ-POPと唱歌とは同じ範疇に入るのである。) 
なぜこんなことを書こうかと思ったかというと、よくNHKなどで「なつかしの歌謡曲」だの何だのといった番組が企画され、そんな時に出場歌手が他の歌手の持ち歌を歌うことがあるが、そうしたものを見ているとどうみてもミスキャストではないか、と思うことが多々あるからである。
たとえばだいぶ前のことではあるが、藤山一郎の「長崎の鐘」を北島三郎が歌ったことがあった。 美声で鳴らした藤山一郎の声は、楽譜どおりの音程を正確に取っていく西洋的な発声方法であり、(そのために楷書的な歌と言われていた)したがって「長崎の鐘」はその藤山の声に合うように作られている。これに対し北島三郎の声は典型的な演歌歌手の声で(行書的な声とでも呼ぶべきか)、声自体は美声ではない。こぶしはあまり回さないが独特の節回しがあり、与えらた楽譜にとらわれずに独特の歌い方で聴衆を魅了するものである。
この北島三郎が「長崎の鐘」を歌ったもんだから(歌わされた?)たまったもんじゃない。「長崎の鐘」は演歌に変身してしまった。北島もまた歌いにくそうだった。「白樺-」とか歌わせれば天下一品なさぶちゃんもちょっと勝手が違うなあ、と思ったのではないか。
せっかくの名曲が演出の拙劣さによりあたらヘンテコリンなものになってしまったのである。あれじゃあ北島三郎も「長崎の鐘」もかわいそうだなあ、と思ったものである。いったいあの演出をした人は何を考えていたんだろうか。
二種類の歌(歌手)
日本の歌は唱歌系の歌と演歌系の歌に分けられる。歌手もまたその声質、歌い方、こぶしの有無などから唱歌系の歌に合う人と、演歌系の歌に合う人に分けられる。世界の事情までは詳しくわからないが、こうした状況はおそらく日本だけなのではないかと思う。
なぜこのような二種類の歌(歌手)に分けられるか。おそらくそれは明治初年に民謡や浪花節などの歌の素地があった日本に強引に西洋音楽が取り入れられたためではないかと思われる。(この政策を推し進めた伊沢修二などは明らかに西洋音楽の方が日本古来の音楽よりも優れている、という価値観を持っていた)
そもそも西洋の歌と日本民謡や浪花節とは発声法がまったく異なる。前者は主としてイタリアのベルカントの流れから、口を大きく開け、声門をよく開くように歌うが、後者は逆にむしろ喉をしめるような歌い方をする。戦後になってマイクロフォンを使用することを前提とした歌い方が新たに生まれると、両者ともに電子機器による増幅を前提として軽やかな歌い方に変化していくが、発声法自体はそれぞれ変化していない。西洋優先の掛け声のもとで明治になって洋楽のみが正式な音楽と認知されたが、喉をしめる日本的発声もまたしぶとく生き残り、現在のような二系列の歌を生んだものであろう。
それではここで両者をやや詳しくみていきたい。
まず唱歌系の歌。明治になってから情操教育の一環として小学唱歌というものが作られた。西洋の歌に範を取り、西洋的発声で歌う曲が多数作られた。20世紀に入りこのジャンルは「文部省唱歌」という風に言われるようになり、おそらく戦前までは歌といえばこの唱歌系のものしかなかったであろう。そして戦後になりこの流れに棹差したのが藤山一郎である。 彼の声はまさにドイツリートを歌うのに適しており、その美声、正確な音程でもって敗戦後の日本の一世を風靡した。その後この唱歌系の発声は舟木一夫、尾崎紀代彦、さだまさし、布施明といった人たちに受け継がれていく。一時はやったグループサウンズやフォークソングなども基本的にはこの流れである。グループサウンズなどは実は唱歌系の歌にプレスリーやビートルズ的な歌い方がミックスしたものである。またフォークソングの隆盛時にはそれまでの歌謡曲では看過されてきたハーモニーの概念が取りいれられた。文部省唱歌とグループサウンズなどが同類というのは意外に思われるかもしれないが、発声法や歌いまわしなどを基準に考えれば同じ範疇に入るのである。
次は演歌系。演歌というのはいかにも日本的で古くからあるような感じがするが、意外に歴史が浅い。演歌の起源ははっきりしていないらしいが、「演歌」なる言葉がはっきりと出てきたのは昭和30年代あたりからだそうである。「演歌」の範疇に入る歌の類は戦前からもあったことであろうが、しかしとにかく明治初年からあった唱歌よりははるかに新しい概念であることはまちがいない。(NHK番組の「お江戸でござる」のあとは必ず演歌歌手が着物姿で演歌を歌い、お江戸の雰囲気をうまく醸し出しているが、江戸時代にはあのような形の演歌など本当は陰も形もなかったのである。)
演歌系の歌が世間に広く認知されたのはやはり美空ひばりからではないかと思う。昭和24年に12歳でデビューした彼女はたちまちスターになった。昭和24年といえば前述の「長崎の鐘」が発表された年である。くしくも昭和24年という年は唱歌系歌手と演歌系歌手とのぶつかり合いとなったのである。
演歌の特徴はこぶしと独特の節回しである。ともに楽譜には記せないものであり、歌手の個性にゆだねられる。うまい演歌歌手かどうかというのは声がきれいであることは必須条件ではなく、こぶしがうまく回り、歌いまわしに個性があるかどうかである。たとえば森進一なんか声からすればおよそ西洋的発声には向いていない。しかし彼独特の歌いまわしはやはりうまい、と思う。そしてその歌にはどこか日本人の心を打つものがある。
私は演歌の起源は前述した日本民謡や浪花節なのではないかと思っている。民謡や浪花節の歌いまわしは発声法やこぶしの使い方など、演歌と似通っているからである。前述の如く、明治に入ってから政府はなんでも西洋優先で、音楽の世界も例外ではなく、西洋音楽ばかりがもてはやされるようになった。しかし古くからある民謡は廃れることなく脈々と地下水のようにその命をつないできた。その流れが昭和30年代になって演歌となって泉のごとく噴き出してきたのではないか。
戦後の唱歌系の歌(歌手)と演歌系の歌(歌手)のせめぎ合い
それではその後の日本歌謡の歴史はどうか。(この頁では日本の歌を唱歌系の歌(歌手)と演歌系の歌(歌手)とに分けて考えてきたが、ここではとりあえず前者の始祖を藤山一郎、後者の始祖を美空ひばりと考えておきたい。両者ともそれぞれの分野の巨人であり、年齢は若干違うが、戦後の混乱期の歌謡界を支えた存在であるので、この二人を始祖として考えると二系統の歌の歴史というのがわかりやすいからである。)
総体的にみれば唱歌系の歌は浮き沈みがはげしく、演歌系の歌はそれほど浮き沈みすることなく地道に歌われてきたといえる。昭和20-30年代はまだまだ演歌系の歌は揺籃期であったといえよう。しかし昭和30年代より村田英雄、北島三郎、都はるみ、水前寺清子と大物演歌歌手がデビュー、さらに昭和40年代に入ってから青江三奈、森進一とデビューしてくるにおよび演歌も次第に隆盛となっていく。
唱歌系もしかし負けてはいない。昭和30年代までは演歌系の歌よりやや優位な状態程度であったが、昭和40年代に入るとグループサウンズという名のもとにあらたなよそおいでもって発展をする。グループサウンズは昭和40年代前半には演歌系の歌を圧倒する勢いを誇ったが、その衰えは早く、昭和46年には下火になった。しかしこの頃から唱歌系は新たなる巻き返しを図る。吉田拓郎、泉谷しげる、ガロ、チューリップなどフォークソング歌手の台頭である。彼らの場合、グループサウンズほどはうるさくはないしっとり系でハーモニーの要素なども取り入れ、グループサウンズの末期に離れていった若者の関心をつかんだ。(最近はやりの”癒し系”のはしりだったのだろう)当時中学生だった私もフォークソングに熱中していた記憶がある。その間、演歌系の歌も着実にヒット曲は出てはいたが、やはり昭和40年代はグループサウンズやフォークソングを中心とする唱歌系の歌(歌手)が演歌系を圧倒していたといえよう。
しかし昭和51年の都はるみの「北の宿から」の大ヒット、翌年の石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の大ヒットあたりから歌謡界の流れは大きく変わる。主役の逆転がこの頃より始まるのである。(石川さゆりなどは当初はアイドル歌手として唱歌系の歌でデビューしていたが、同期の山口百恵、桜田淳子などに押され、いまいちパッとしなかった。彼女は本質的に演歌系の歌手であったのだが、最初のプロデューサーに眼がなかったのだろう。演歌を歌わせたら俄然磨かれざる玉が光りだしたのである)
さしものフォークソングブームも結局はグループサウンズと同じく、5年ほどで去った。そして演歌の時代が来たのである。これはまたこの頃より全国の飲み屋に普及し始めたカラオケの力が大きい。飲み屋さんでは日本人はフォークを歌わなかった。やはり酒には演歌が似合っていたのである。
では唱歌系の方はどうかというとこの時期はフォークソングはニューミュージックとその名を変え、新たなる巻き返しを図っていた。しかしかつての勢いの回復までには至らず、昭和50年代はやはり演歌系の歌の方が優勢だったといえるだろう。
ところが好事魔多し。演歌系の歌を全国に広めるのに一役買ったカラオケが演歌の首をしめるようになったのである。カラオケの普及とともに、歌というものはただ単に聴くものから素人でもなんでもみんなが歌うものとなった。音程もろくすっぽつかないようなおっさんでも歌えるようにするために、演歌のメロディーはどんどん簡略化されていった。
人は得意分野で足をすくわれるのページでも書いたが、カラオケの世界で圧倒的な人気を誇っていた演歌がまず大衆に迎合するようになったのである。演歌のメロディーが簡略化されることにより、演歌は確かに大衆にはカラオケなどで歌いやすくなった。しかしそのことによって演歌のレベルが低下してしまったのである。それゆえ、演歌はカラオケの隆盛とともに長期低落傾向を示すこととなる。カラオケで広まった演歌がそのカラオケのためにその人気が落ちていったのは皮肉なことであった。
昭和60年代から平成に入るとニューミュージックと名を変えた唱歌系の歌の方がやや優勢となる。こちらも以前のような圧倒的な人気はなかったが、演歌系の歌がカラオケに迎合してその人気を落としたために相対的に優位になったわけである。しかし数年前より氷川きよしが現れ、今年になり元ちとせが現れ(元ちとせは発声法やこぶし回しなど私の分類からすれば演歌系の歌手である)現在は演歌系の歌(歌手)の方が断然優勢である。それは歌番組などを見ているとよくわかる。
やっぱり日本人は演歌が好き
「選挙は演歌である」と言った人がいる。選挙というのは住民の多数派の支持を受けなければ勝てないから、どうしても日本人の最大公約数的な要素を打ち出していかなければならない。田中角栄が浪花節をうなったのはまさにその好例である。日本人の、特に年配者は浪花節が好きである。彼は浪花節をうなることによって地方で影響力のある年配者に「カクエイは自分達の仲間だ」と思わせることに成功したのである。逆に「ボクはサラサーテやパガニーニが好きでねえ」などと言っていたら選挙には勝てない。(したがってオペラが好きだという小泉さんが首相になれたことは不思議でならない)
以上のような唱歌系の歌と演歌系の歌の歴史を見てみると、やはり何と言っても演歌系の歌というのは安定した人気を保ってきたことがわかる。日本人というのは何と言ってもやっぱり演歌が好きなのである。グループサウンズやフォークソングなどは一時的にはブームになってもすぐにその熱がさめてしまった。特にフォークソングなどは一時、歌にハーモニーを入れようとずいぶん努力したようであるが、日本人というのは所詮ハーモニーは苦手なのである。男と女のデュエットといえば西洋では二人が同時に美しくハモるように歌うが、日本の場合は男女が交互に歌っていくという形態になってしまう。これもまた演歌にはぴったりの歌い方である。演歌では絶対にハモれないからである。(音程をわざとくずして歌う演歌ではハーモニーという概念はありえない。ただし「昭和枯れすすき」などは例外的に男女のハーモニーとなっている。この曲がはやったのは昭和50年で、あの頃はまだフォークの時代であったため、こうした折衷的な曲がはやる余地があったのであろう)
新しい演歌系の実力派歌手の登場で、当分歌謡界は演歌優勢の時代が続くであろう。NHKのプロデューサーも歌手に他人の歌を歌わせるときは演歌歌手に唱歌系の歌を歌わすような愚はさけてほしいものだ。  
 
デカンショ節

私が、デカンショ節に深いかかわりをもつようになってから、50余年の年月がたった。今日にいたるまで、ひたすらその保存、振興につとめてきた。
その間民謡、民踊については、自分なりに研究してきたつもりであるが地方の民俗行事で、特に一般庶民が唄い、踊っていた盆踊および、労作唄等に関する文献等はそれぞれの土地においてもパンフレット程度で皆無に等しく、それがあっても、つじつまがあわないもの、年代的にありえないことなど、矛盾も多い。その学的考証は類推のほかはないのだが、実はそれが、色々な多くの問題を生んだ原因の一つでもある。
現実に、曲調の異なる二つのデカンショ節が存在する。
現在、今篠山で唄われているデカンショ節と、今一つはその元歌であるみつ節の流れのなかにあるデカンショ節(別名を篠山節と呼ばれている)である。後者については1990(平成2)年に民謡家北村法志津氏が元唄を編曲し、篠山町推薦、篠山デカンショ節保存会推薦とした正調デカンショ節の名で今のデカンショ節と組み合わせて唄われているもの(大阪の成世昌平氏吹き込みのテープ)がクラウンから発売され認定されている。その元唄は、本来の意味の元唄ではなく、今のデカンショ節なり踊りのプロローグ的なものであることを、知っていなければならない。
この国で唄われている二つのデカンショ節をよく理解して頂くには、今篠山で唄われているデカンショ節の生まれた背景をよく知っていなければならないため、多くの紙面を割くことを了承願いたい。  
伝統文化の変遷
半世紀以上を直接デカンショにかかわりつづけてきたものが、関係書籍、文献等を参考にしながら、デカンショ節、踊り、その背景、周辺を考証するのと、ほとんど直接のかかわりのない人が、それらの文書類を主に考証するのとは何か一味違うものがあると考えた結果である。その成果の一つが、篠山近辺で踊られていたデコンショ踊り(みつ節踊り)のほぼ完全な発掘複元と、元唄としての(デッコンショ節)の篠山での再現であることを最初に報告しておく。
まず述べておかなければならないことがある。特殊な例を除いて労作唄、祝い唄、盆踊唄、俗謡、三味線唄など民謡というものは、その歌詞や曲調もそれぞれの土地の社会的背景や生活様式など歳月の流れとともに、多少の差はあれ変化していくものであるということである。言いかえれば、それはそこで生活する人たちとともに生きているということである。そしてその土地の郷土色を完全に失えば、それは民謡といえないものになり、民謡という名の「はやり歌」にすぎなくなるということである。しかし、すぐれた「はやり歌」が、何処かの土地に定着しそこに住む人たちに愛され、その人々のものとして唄われつづけられるとき、その土地の立派な民謡になることもある。これは私の持論の一つでもある。
1898(明治31)年旧制一高生の水泳部の生徒たちにはじめてうたわれたデッコンショと篠山のデッコンショの問題を考証していく上で、避けて通れない人は亘理章三郎氏である。明治20年後半、篠山近辺の盆踊歌デコンショ節は、遊芸志向の強かった城下の庶民たちにより、その節回しはかなり技巧的になっていたと思われる。特に歌舞音曲等が盛であったこともあり、当然影響を受けていたことは十分考えられることである。私自身も母方の祖父(文久3年生まれで昭和23年没)が当時の唄を中学生一年のころ唄ってくれたのを覚えている。その唄は今東京で篠山節(デカンショ節)として唄われている歌同様にかなり技巧的なものであったのを記憶している。今にして思えば前川澄夫氏の採譜されたほかの二つのみつ節と比較すれば、随分あかぬけのした歌だったのを記憶している。そして篠山城下近辺のみつ節のはやし言葉は「ヨーオイヤレコノ(またはヤレコリャ、ヤレコラ)デッコンショ」だったことは間違いのないことである。
なぜその歌が、千葉県の館山市で、亘理氏たちにより伝えられ旧制一高の生徒たちにより、わずか一日か二日で覚え、後日ストームに唄われるような蛮カラな学生歌風デコンショ節にかわったのかが理解できず行きづまったこともあった。
そしてある日、亘理氏が多紀通信会雑誌九号(明治30年)に「郷歌の解」と題し雲渓野生の名で投稿されている文書をみる機会があり、それが答えを引き出してくれるきっかけとなった。ことわっておくがこの多紀通信会雑誌は非売品であり、会員のみに配布され読まれていた本である。明治30年度の会員は発表されていないので同29年の会員数を参考にするが223名で多紀郡在住の人は153名である。郡外は70名であった。篠山町(現在の小学校区)にかぎれば56名、そのほとんどが氏名は省くが町長助役、教育関係者、旧藩士を含む各町内の有力者で一般庶民は手にすることはできなかったものである。各村も同じような傾向であった。
亘理氏がそれを利用したのは当然のことといえる。特に附言としてその理由を述べている
「盆のお月さんまるこてまるいまるてまるこてまだまるい、盆の十六日ゃお寺の施餓鬼蝉がお経読む木の空で等の二三は悪しからずといえども旧来の歌の中には感興の益なきのみならず却って風教に害ある者あり故に昨夏試みに(デッコンショ)の曲に合して二十六字歌十数編を作りて今日はその觧を試みぬ唯非才なる野暮漢の作且郷里に関して歌うへき者の十の一たに盡くさずまた以って我郷特有の歌となすに足らずといえども敢えて之を本誌に投するは請ふ隗より始めよとの微意に外ならず歌も曲も賢材の制作を得て我郷里の歌曲を確定し独盆踊のみならず集会にても宴席にても郷里にても他国にても凡て我郷人の興楽するところには必ずこれをうたい且舞ふに至らむことを切望す」
とある。
この文書を読むと次のような解釈が成り立つのではなかろうか。氏はこの時点で自分が昨夏つくった歌詞のように、教育上よくないものはやめて歌をかえ、より良い識者の手で、篠山のデコンショをそれにあう曲に改作すべきだと故郷のデコンショを改変するよう要望しものとだと言える。そのように考えればその後のことは理解できる。氏の書かれた「隗より始めよとの微意・・・」の通り、賢材の制作を待たず、自分自身が曲調を氏の作詞した歌詞にあうような唄いやすい節回しに変えたのだろうと考えられる。
考えれば、一級の優れた指導者の多くを幕末から明治維新(明治革命とも言える)で失ってしまい、その筋の専門家ではよく話題にのぼるようだが、色々な分野で多くの相応しくない指導者に日本の行く先を任せなければならなかったのが、この国の色々な面での悲劇の発端ともいえる。たとえば文化の範疇でいえば、歌曲にかかわる明治政府の欧米偏重音楽教育のコンセプトを背景にした、氏をとりまく環境、および社会的身分がさせたのだろうが、氏の作詞された歌詞等を、拝見する限りでは、他のことは知らず氏の歌舞音曲等に関する理解度には疑問を感じる。氏のつくられた十七詩のうち唄われているのは、わずか三.四詩程度に過ぎず無い。そして盆踊は舞うものでなく踊るものであるし歌曲(里謡)については、盆踊唄、労作唄、俗謡、騒ぎ唄、三味線唄等々を混同されて居たようだ。
そこに翌1898(明治31)年8月館山市江戸屋での塩谷氏との出会いが重なった。そして改作された亘理風デコンショ節が一高生をはじめ学生、生徒間で、「はやり歌」として唄われだしたのである。しかし素朴な唄になっていたとしても音楽的知識がなければ一日程度で覚えられる歌ではない。いい加減にまねたのだといえる。それは予想されないことではあっただろうが、やがて氏が思いもしなかった、あのバンカラな一過性の「はやり歌」学生歌デカンショ節の誕生になったのである。
しかしその唄は一高の生徒だけで唄い広められたものではない。他多くの学校の生徒、学生たちも含めてである。そして篠山出身者に持ち帰らせた歌は亘理風デコンショ節であり、はやり歌の学生歌デカンショ節ではなかったことである。しかも私の調査した範囲では日本の各地の城下町に残る盆踊唄がこのような形で移入され入れかえられた事例は皆無である。こうして篠山地方の祖先が残してくれた文化遺産としてのデッコンショと、デコンショ踊りは90年以上追い出される結果になったのは事実である。  
デカンショ節の歩んだまわり道
昭和初期には篠山であまり唄われなっかたデカンショ節
はやり歌としての学生歌デカンショ節は大正の半ばには、殆どその姿を消しつつあった。それにしても寿命のながいはやり歌ではあった。
一方篠山の民謡としてのデカンショ節は、1929(昭和4)年頃から1940(昭和15)年前後生まれの篠山に住む人で小学校、中学校を通じて、不思議なことに学校でも家でも、それ以外のところでも「デカンショ節」を唄った覚えのない人が大半であるのは、どう解釈すればよいのだろうか。大正末期それも篠山で生まれ変わった今の曲調に近いデカンショ節が酒席等で唄われた形跡はたしかに残っているし、そのレコードもあり、ラジオ放送された事実もあるが、一般庶民に好んで盛んに唄われたことはなかった。しかしそれは戦争中であり、その生活環境が影響しているとはいえ、唄った事のない人が多いということの意味を、考えねばならない。もともと盆踊唄だったデコンショ節が、踊りを無視し改作され、ただの俗謡になった。この種の民謡は曲調の良し悪しが命である。唄うことの楽しみさえ無くしたような歌を、好んで唄う人が多くいるはずもない。唄われなくなるのは当然のことで、この件については以後の各項の記述を参考にされたい。
しかし、である、唄を忘れたカナリヤではないが、踊りを失ったデコンショ節がそれでも篠山の地で静かに生きつづけていたのを否定はできない。
デカンショ節と崎山健之助氏
氏は三曲万歳師であり、盆踊の音頭とりでもあった。しかし氏が音頭をとるころにはデコンショ節は踊りとともに、当地方から姿を消していた。かつて崎山氏に聞いたところによれば氏は1925(大正10)年以前から亘理風デカンショ節の改作を試みていたという。そしてレコードに吹き込んでいる。
この崎山氏のレコードはORIENT(京都、大正元年7月から昭和七年まで営業)であり、その間の録音には違いないが、氏が片面の祭文音頭にはじめて「篠山音頭」と名づけ、1925(大正14)年に吹き込んだと話していた。また、次に吹き込んだのはTAIHEIレコード(西宮)で、1924(大正13)年8月から昭和17年までなのでその間には間違いはないが、三味線ほか、地方連中が同じなので大正十五年から昭和の初期と考えて間違いない。またスタンダードレコード(奈良)にも吹き込んでいる。これは昭和七年から十七年までの営業なので、十年前後と考えられる。その節回しは今のデカンショに酷似しているが、三味線伴奏や太鼓の打ち方などは三者三様であり定式化していなかったようである。(昭和20年代TEICHIKU吹き込みの唄の囃子詞は、ヨイショコラからヨイヨイにかわっている)
このころには亘理風デカンショは、後述のラジオ放送と合わせ考えると、篠山地方から完全に姿を消していたのではないだろうか。残念なのは亘理風デカンショ節の譜面がないため曲調がわからないことである。多紀郡でその唄を知っている人が一人もいないという、不思議なことではある。
しかし、かつて亘理氏が館山市で唄ったデコンショ節は、決してバンカラな唄でなく篠山の歌を唄いやすくした素朴なものであったと、語られていたことを私は伝え聞いているし、前川澄夫氏も調べられている。これは私の推測だが、昔のデコンショの、小節をとり、ドレミ音階で抑揚をつけずに唄えば、亘理風デカンショ節になる。後述の前川悦太郎氏の唄に少しはにたものだったと思われる。1937(昭和12)年から1939(14)年にかけて、いまのNHKの大阪放送局に勤務されていた、八上上の故後藤庫太郎氏のお世話で三回デカンショ節を大阪の馬場町から放送した事実がある。私の父、木下楽器店社長の亡父、故小村佳一郎、故尾川婦美他四名であった。生存者は父だけであるがそのことを知っている人も数名おられる。その唄の曲調は今の唄に近かったという。そして崎山氏が1946(昭和21)年8月の盆踊に、自信をもって自分が改作した歌を唄ったのであろう。
篠山地方の盆踊について
空也上人に始まる踊念仏から一遍上人の念仏踊りを経て、宗教的な行事としての盆踊は江戸初期にはすでにその形式だけは残ったが宗教からはなれ、民衆の娯楽としての盆踊となった。そしてそれぞれの土地で唄われ、親しまれていた歌が、労作唄が、小唄(今でいう小唄ではない)、口説き節、はやり歌などが盆踊の唄になり、色々な変化を経て今日にいたっている。
この篠山盆地の村落で多少は異なっていただろうが、みつ節踊りが踊られていたといわれる元禄以前には、どのような踊りが踊られていたのかは、現時点ではまったく不明であるが、みつ節もふくめ異なった複数の唄による踊りがあったと、考えてよいのではないだろうか。盆踊は今もそうだが、昔もすぐれた音頭取の唄う歌が(または語りが)、他のそれらを駆逐淘汰し唄い踊られた例は、日本各地でみられる。今は二つほどしか見聞することはできないが、古くは村落ごとに歌も踊りも異なった盆踊があった大阪の中河内地区の例もある。そして、唄(音頭)それが同系統のものであっても、多少の曲調に違がありその囃子言葉や踊りは地区によって異なることが多くみられる。それは前述の複数説を裏付けるものの一つではないだろうか。
しかしこの篠山盆地は北、東は同じ丹波に接し、南は摂津、西は播州に接している。したがってそれら隣接した地方の盆踊歌の影響を受けるのはごく自然だったと考えられる。たとえば今田の四斗谷みつ節の囃子言葉の「ヨーイヤセーまたはヨーイヤナー」は吉川音頭(播州音頭)で語りの区切り区切りで踊子たちが、はやしていたはやし言葉と同じである(現在はほとんどドッコイセであるが)、日置、福住、村雲方面のみつ節で、はやされていたという「ヤットコセ」は一山越えた、京都丹波の船井郡一帯で唄われていた祭文系で浄瑠璃を取り入れた口説き節だがそのはやし言葉は「ヤットコセ」である。籠坊、原のみつ節のはやし言葉は、お隣の能勢地区の盆踊唄浄瑠璃音頭で一時期はやされていた「ヨイトマカセ」と同じである。
明治末期からの盆踊
それら隣接の土地の音頭が篠山盆地の各地域に影響を及ぼし始めたのは、幕末か、明治初期だろうと思われる。明治30年代の亘理風デコンショ節の里帰りがそれに拍車をかけ、デコンショ踊りを庶民から奪い取り、まず兵庫口説きである吉川音頭、続いてその祭文音頭が、それぞれ明治40年頃より篠山盆地の盆踊音頭の主役を次々と昭和26年までつとめてきたわけである。
昭和42年、明治35〜387年頃よりこの地方の盆踊から年毎にデコンショ踊りが姿を消していった事情等を調べてみたいと思い、色々な古老にその辺の事情を聞いてまわった。当地方で毎年、一番早く踊りが始まる北村薬師の祭の監物川原での盆踊について、北村の渋谷さん当時85歳過ぎの人で、なぜデコンショが踊られ無くなったのかを聞いたところ、「音頭が何時の間にやら今までの節と違うようになってしもうて、なんや音頭も(歌詞のこと)おもろう(面白く)ないし、踊りとはあわんし、踊りの始めにちょっと踊り、吉川(播州音頭の一つ)をながいこと踊って、音頭取りがとりくたぶれたら(疲れたら)、休んでの間誰かがちょっとの間デコンショを唄い踊たんですわ。連隊ができたころからそればっかり踊とった。」また「音頭取が調子にのってくると、ときたま(時々)みつ節の音頭のあいさに(途中、中に)おもろい文句を(面白い歌詞やはやし)あんこ(中に入れて)にして唄ってたこともあった」と教えてもらった。後の話しは当時なんのことかと気に止めていなかった。このころの囃子言葉はまだデコンショだった。野中の酒井さん、新庄の北村さん達の古老から聞いたことを記憶しているが、理由は同じであった。年代については明治35年ころより明治43年頃までの間であった。それは強引に里帰りさせられたデカンショ節が篠山の盆踊に影響を及ぼし始めた時期と重なる。大正14年と思われる16ミリの無声映画で(五月五日から五月十日の間と思われる)連隊の広場で兵隊が踊っている盆踊が吉川音頭の振りであったことなど、考え合わせるとそれらの話は理解できる。明治40年頃には、唄い祭文(江州音頭と曲調は異なるが同系統の唄い祭文)が唄われだしたが、吉川音頭の良さに押されてか、昭和の初期まで盆踊の音頭の主役にはなれなかった。その後、篠山近辺からなぜか吉川音頭は其の姿を消していった。
最近明治40年の多紀郡誌編纂材料に書かれた俚謡の盆踊の欄をみて、はっと前述の渋谷さんの話を思い出し、このことだったのではなかろうかと気付いたわけである。どの地区でとられていた音頭かは不明だが祭文音頭系の語りの一区切りのあとのはやし言葉のあとに、みつ節の歌詞十一詞がつづき(七七七五調)、みつ節の歌詞だが「ぼんにゃおどろかヤレコラセねはんにゃねよかのーみなさんうずき八日にゃどしたてこしたて花おろかササヨーイトナ」「きれたきれたはヤレコラセせけんのうわさヨーイトナみずにうきぐさ根はきれぬササヨーイトナ」とつづき(附線の部分が現時点では、断言できないが、多分丁度みつ節踊りが消え去ろうとしていた時期他の音頭との中継ぎに唄われ、音頭取や踊子が当時のはやり歌か何かのはやし言葉を即興的にはやしたのではないかとも考えられる)、再びみつ節の歌詞がつづき、祭文音頭らしい歌詞「一つのこんたんここにまたハードッコイひろいせかいはくにぐにのハードッコイちんだいかからぬとこはないヨイトヨヤマカドッコイショ二つのこんたんここにまた……」とつづく。この類の資料の記載順が正しければ、他の音頭の間に入れられ、消え去る寸前のみつ節(デコンショ節)なのかもしれない。しかし「デコンショデコンショで半年暮らす後の半年泣き暮らす」とあり、明治末期までは篠山では寝て暮らすではなかったようである。その後ハンヤ節等の寝て暮らすをだれかが取り入れたものという説が一般的なようである。
昭和十年頃より戦時中盆踊は禁止され、戦後は翌年から祭文音頭と黒井音頭が昭和26年まで、盆踊唄の主役をつとめたが黒井音頭はそれ以後一度も唄われることはなかった。
南氏が「郷友」100周年記念号に明治末期篠山町やその近辺では、江州音頭、河内音頭、福知山音頭のような派手な面白い音頭にとってかわられ、みつ節のような単調な…と書かれていたが、デコンショ(みつ節)の変わりに河内音頭、福知山音頭が篠山町近辺で踊られた事実は全くない。そして昭和28年のデカンショ祭とつながっていくのである。
デカンショ祭が育て上げたデカンショ節
当時デカンショ節にかかわりをもつ人たちの努力により、それぞれの立場で、篠山の民謡として育て上げたのが実をむすび今唄われているデカンショ節になったのは疑う余地はない。言い換えればデカンショ祭が育てたのが現在篠山で唄われているデカンショ節である。当然篠山の行政、商工会、観光協会等が、バックアップしてきたのはいうまでもないことである。旧制一高生をはじめ他の多くの学生たちが唄った学生歌デカンショ節は、他の土地で唄われていたのを聞かれたことはあるかもしれないが、この地方の庶民に唄われた痕跡は不思議に残っていない。今のデカンショ節の元唄は、それはこの地に生きつづけていたのである。本来民謡というものはそういうものなのだと思う。
民謡だけではないが、歌舞音曲は祖先帰りという現象を起こすことがよくある。それは人間がその様式のなかを生きつづけてきた証拠である。デカンショ節の明治中期への祖先がえりは、南氏の提案されたデカンショ100年が引き金になった。南氏は自分の故郷でもないのに篠山のため色々なことでご協力いただいている。デカンショ節の研究にも力を入れていただいている、なかなかできることではないが、亘理氏と塩谷氏の出会いがなければ今のデカンショ節はなかったとの言葉は、如何なものとしか、デカンショ節を愛する我々篠山人には思えない、また、440余年前の一氏属の係累とデカンショ節との関連付けは全くナンセンスとしか言い様のないものである。ただ篠山と関わりのない土地の学生たちや一般の人達の間で、流行歌としてただ唄われただけのものである。
一例が多紀郡東部の音頭取の名手として知られていた、村雲の脇田太助氏(大正2年生まれ)はいう、バンカラな学生歌デカンショなど子供の頃から耳にしたこともない、聞いたのは崎山さんのデカンショだったが唄った事は殆どなかったが、戦後デカンショ祭の一.二.年前から崎山さんのデカンショをうたったという。そして篠山の人達(ひとたち)により50余年の年月をかけ育て上げられ変化したのである。崎山氏が土地の民謡にするため改作を試みてから80余年である。  
みつ節(みつ節踊り)考証への一歩
前述の母方の祖父がデッコンショは、昔はドッコイショといっていたらしいと聞かされていたのを覚えているが、デッコンショはドッコイショの変化とみるのがまず正しいのではなかろうか。そのドッコイショ説を1958(昭和33)年私が言い出したのがはじめてでないかと思う。そして私が祖父から聞いた歌詞後半の繰り返しのついた、デコンショ節こそ、それはデコンショ節の曲調そのものだったと確信している。
明治政府が文部省音楽取調掛編の小学唱歌制定の翌1885(明治18)年、国の俚謠(まだ民謡という言葉は使われていなかった)調査による丹波篠山地方の歌で八上村から提出された歌詞のなかに「デコンショデコンショで半年暮らす後の半年泣いて暮らす」が記載されていた書籍を、故桐山宗吉氏(元県観光連盟専務理事)が所有されていた。
そこで私は、1958(昭和33)年から、北海道から沖縄までの各地の唄、踊り、その背景等を自分自身で見聞し勉強し研究することで、民謡、民踊とは何かに取り組んだ。たとえば民謡大会で一緒に出演したひとたちに、踊りを教えてもらいその由来など歌の背景を聞き研究したり、その踊りや歌の現地を訪れ、またはその土地の人を招いての講習等、何時かそれが篠山のデカンショをはじめ土地の唄や踊りの研究に役立つことを願ってであった。ながい年月と費用はかかったが、得たものはそれにかえられないものがあった。それは各地に多くの知人、友人をもつことができたこと、その知識、技術、背景などこの身体で覚えることができたことである。私が、社団法人日本FD連盟、全日本民踊指導者連盟、全日本民俗舞踊連盟等に所属している理由の一つは、その会の友人から、色々な情報を得ることである。日本列島の北から南までのその土地に残る民謡、民踊の研究をしていて色々気付いてきたことが多い。
平成10年は正確には旧制一校生が篠山のデコンショではない亘理風デコンショ節を、はじめてまねて唄った時より100年、そして全国の学生たちも加わり学生歌として,書生歌として唄われ流行しだしたのはその数年後である。デカンショ節について篠山の文化、伝統芸能を大切にし、愛するものの一人として、その立場から考証してみたい。
デカンショ節のルーツについて
今篠山で唄われているデカンショ節については多くのことが解明されてはいる。もう一つの盆踊唄としてのデカンショ節は実在し、しかも全国的に唄いつづけられているのは事実であるが、その波及の経路には諸説があり定かでない。当然のことながら、その元であるみつ節が、何時頃、この土地でうまれたものか、それとも何処かの歌が、その何処かの人達により伝えられ、変化したものか、異論もあるが牛深ハイヤ節が佐渡おけさになったような答えはでない。不明なのである。私はどちらかといえば後者の説をとりたい。
確証はないがこのみつ節が、江戸中期に存在していたことは、まず間違いのないことといえる。みつ節の歌詞のなかに「新庄久左衛門さん箒はいらぬ娘小袖のすそで掃く」というのがあるが(ほかにも三曲ほどある)、これはみつ節踊りが盛んであった城北新庄の庄屋さんの裕福な生活を唄った歌で、この庄屋が栄えたのは元禄年間であると、かって、その新庄在住の日本城郭研究の権威者として知られる朽木史郎氏に聞いたことがある。そして江戸後期に没落したその庄屋を唄った歌も幕末から明治にかけて唄われ残っていることから考えると、元禄年間にすでに唄われていた盆踊唄と考えて間違いはないであろう。その当時の節回しは、幕末から明治にかけてのものとは似ていただろうがもっと、本来の日本の旋律による素朴ながらもすぐれたよい盆踊唄であったと想像できる。でなければ明治30年代までのながい年月を、当地方で唄い継がれ、今もなお日本各地で唄われ、民謡集などのしかも最近のものにいたるまで、そのほとんどに篠山節(デカンショ節)が記載されることはないのではなかろうか。
実在する二つのデカンショ節
前述のとおり曲調の異なる、二つのデカンショ節が全国に広く伝えられ、流行しているのを、篠山の若い世代では知らない人が多い。一つは今篠山で唄われているデカンショ節、もう一つはデコンショ節として篠山から東京へ、東京から全国へ一般の民謡愛好者、民謡界を通じて流行している盆踊唄デカンショ節(篠山節)、この二つのデカンショ節が現実に存在する。後者はすでに、前述のとおりすでに、他の篠山の唄とともに、認知されテープが販売されている。この実在する二つのデカンショ節は、当然のことながら二つ以上の経路を辿ってきたことをまず知っておかなければならない。そしてこの問題についてなぜか今まで、論議もされずにきたのか不思議なことではある。前者は知名人による、デカンショ節にかかわる文書の類もあり、よく宣伝されているが、後者はどうして広まったかは口伝えのみでそのたぐいは皆無に等しいし、ために論議を控えた人もあったかもしれない。だが何時の世にもそれに疑問を抱き考証を試みるものはいる。
幸いなことに、1960(昭和35)年9月5日、町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」が岩波書店から発売されている。篠山で唄われていたデコンショが採譜されている。町田氏は「本に掲載した曲譜は昭和十二年頃から編者町田が日本全国を遍歴して採取した録音盤(町田式写音機で録音したもの)を基礎として楽譜化したもので、更にこれを単純化したものである。楽譜は一般に広く知られている通俗的な唄を主に選んで載せたが、中略歌詞、囃子詞等の表記法が本文と若干相違する場合のあることを諒とされたいと」、書かれている。それも本物の民謡の採集で知られた氏の採譜である。
1939(昭和14)年5月町田佳聲(嘉章改め)52歳丹波、丹後の両丹地方に採集旅行と、氏の略年譜に記されている。これは、もう一つのデカンショ節存在の証明でもある。その説明は、浅野氏の担当であり多分一般デカンショ節の解説を転載されたものと考えられ間違いが所々にみられる。また、昭和53年7月秋田県の藤尾隆造氏著の民謡おさらい教本にデコンショ節のうたいかたの譜面(五線譜ではない)、また1998(平成10)年発行の長田暁二・千藤幸蔵両氏の編著に、前述の町田氏の採譜とほぼ同じ曲調の篠山節(デカンショ節)の譜面が記載されており、明治中期より現在まで同じ節回しで唄われている証明の一つでもある。
デコンショ踊りとともにデコンショ節の復元それは篠山地方の民俗文化にとって特筆すべき出来事なのではないだろうか。それは偶然のかさなりのなかでの奇跡的な復元であるが、祖先の残した伝統文化の魂が呼び起こしてくれたものと信じたい。
みつ節に関しては、最近版として前川澄夫氏の著書デカンショ節考がある。色々と参考にさせていただいている。本当によく調査、研究されている。とかく私見が多く入りやすいため、反論のでやすい類の著書ではあるが、私の所見として述べたいところも多々あるが後日に譲る。しかしこれにも、前述のように後者のデカンショ節についての記述はなぜかまったくない。他のどの書物、文献にもその件に関するものはなにもない。当然のことながら南氏のそれにもまったくない。唯一昭和56年6月発刊の日本民謡全集の近畿・中国・四国編に、後者は(みつ節)東京中心に一般の人々に、民謡界に、また花柳界によってうたい拡げられていっており、この唄が篠山の歌であるところから篠山節と呼ばれたが、こちらはみつ節の曲調を保っている、と記載されている。そしてこの唄は、東京でうたわれようと、秋田でうたわれようと、九州地方でうたわれようと幾分の節回しの違いはあっても、それぞれの地方特有の味付けはなく関西のしかも篠山の歌らしい形で唄い保たれているのが嬉しいことである。篠山でほとんど無視されつづけ100年あまり、頬かぶりで100年あまり、どうもすっきりしない不思議な事象ではある。
もう一つのデカンショ節(篠山節)の波及経路
東京で篠山出身者の唄う歌が、唄上手な人達により、一般人、民謡愛好家、民謡界に広く唄われたもう一つのデカンショ節。篠山人は硬ぐるしく、やぼな人ばかりではなかった、篠山出身の人々や私学の学生たちが唄っていたという故郷のデコンショ節が多少の節回しの変化はあったと考えられるが、歌詞は殆どが篠山のものである民謡が、同じ東京ではやり、明治後期にはよく唄われていたのは事実である。このことを証明した人達がいる。
その一人は篠山町長をつとめた経歴のある斎藤幸之助氏である。氏が在京中の1898(明治31)年偶然篠山のデコンショを聞き驚きと懐かしさとで、なにもいえなかったと帰郷後家族や友人に話しをしている。そして唄の名前は篠山節であった。
篠山の歌だから、または学生歌デカンショ節と区別するために、篠山節と呼んだという。デカンショ節の別名である。東京から全国に、二つのデコンショ節の流行が同時進行したという日本で珍しい民謡の一つである。そしてはやし言葉は紛れもなく当初はデッコンショであったが大正の始めには、現在と同様デカンショとはやすようになったが、今でもこの歌は唄う人により、幾分の節回しの違いはみられるが、全国の民謡界、その愛好者に唄われている。現在現地録音以外の正調デカンショ節または篠山節というタイトルのCD、ミュージックテープの歌の殆どがこの歌である。伝え聞く二.三.の説を紹介する。東京の下町の料理店で篠山の人が唄っていたのを聞き、仲居さん達が唄いだしたのが元という説、篠山の私学の学生が下宿の近くの酒場で唄うのを聞いた歌好きの女将が唄い、それが流行するきっかけをつくったという説、三味線、尺八等にたんのうな歌の好きな人が大阪の飲み屋で、デコンショを聞き東京に持ち帰り、唄の上手な弟子に唄わしたのが元になり、はやりだし色々な民謡歌手によって唄われるようになったという説。なぜか酒がどの説にも関係しているのも不思議ではある、飲み屋、風呂屋、髪結床は色々な話題の発信所でもあった、その伝達の速さはかなりなものといわれ、如何にも庶民的な感じである。そして一般庶民による、それらの説のどれもがデコンショの波及のもとだったのかもしれない。
しかしそれを立証する文書もなにもない。だれが、何時、何処で、何故は解明されないと思う。そもそも民謡とはそういうものなのである。逆にいえば、だから民謡なのである。新しい作詞、作曲者がはっきりしている民謡は別にして、古来からある民謡にそれらの全てが正確に解明されたものは皆無で、ほとんどの書籍にはそうである可能性は高いが、今後のより詳細な調査が必要であるなどと記されている。そして後者のデコンショのほうが日本民謡界では知られよく唄われているのも事実である。当然篠山でも、近辺でも唄う人が急増している。
付け加えるがデコンショ時代には唄の後半を音頭取と踊子がくり返し唄っていたところも篠山には北村、新庄、奥畑地区、後川地区等にあった。音頭取と踊子が繰り返しを唄うのは、七七七五調の盆踊唄ではごく当たり前のことであるし、他所では繰り返しのないものは長囃を入れて唄ったものもある。丹波与作で有名な後藤節を当地で篠山節と呼ぶようになったのは昭和二十三年以後前川悦太郎氏の提言によるものであることを附記しておく。これが民謠界でいう篠山節(デカンショ節)と地元でいう篠山節(後藤節)を混同させる原因であった。後藤節に戻すべきである。  
学生歌デカンショ節(はやりうた流行歌としての)
1956(昭和31)年から全国民謡踊り大会、国体のマスゲーム等により一躍脚光を受けたこともあり、1958(昭和33)年3月突然千葉の館山市が、デカンショ節の本家はこちらであると抗議し、週間サンケイにその理由を載せた。当方もそれを否定し抗議した。それは数回に及んだが解決せず、館山市は証拠を得るため同年8月11日問題の塩谷氏を招き産経新聞等の記者も呼び色々と当時のことを話されたのが、テープにとられていて、内容はその年の九月の週刊サンケイに詳しく記載されていた。それらの週刊誌は当時の篠山町産業課の担当者を通じ保管を依頼しておいたが、その他の書類、参考品等見当たらないものが多い現在、現存するかどうかは不明である。
1898(明治31)年は館山ではデコンショであったことも明白になり、一応本家争いから身を引かれたのである。デカンショとコとカがいれ替わったのは学生間で唄われているうちにただデカンショのほうが語呂がよいために訛ったもので、三哲人、デカルト、カント、ショペンハウエルの頭文字ととって付けたと言うのは、後のこじつけである。館山でも明治30何年からデカンショに変化したという記録はない。
たしかに百余年前千葉の館山でうたわれたデッコンショ節を旧制一高生が借用し唄ったのがきっかけとなり、全国の学生たちに広がつたものである。丹波が頭についた篠山、田舎の代名詞としての篠山であったが知名度の高いものにしたことも事実である。
その碑が建っているのだから学生歌デカンショ節発詳の地館山でよいといえる。その唄は篠山で唄われたことのない学生歌だからである。それに亘理氏が直接かかわっていられたかどうかは不明である。前川氏のデカンショ節考に採譜されている明治末期から大正初期のデコンショ節にさえその何処に、バンカラな、豪快な節回しがあるというのか、この一例をみても明らかである。
明治30年代の押し付けに近い亘理風デカンショの里帰りを(当時の状況から考えると可能性は無かったと思われるが)拒否し、その元唄が篠山で、伝承されていたら、篠山の人達により、この篠山に今とは比較にもならない素晴らしい唄と踊りが、育っていたかもしれない。そして近い将来篠山のひとたちにより、祖先が残してくれた元歌としてのデカンショ節を表舞台に載せることができると信じたい。すでに篠山町でも推薦、認知されているのだから。篠山の伝統文化は自分たちで守り育てるべきである。
昨今の民謡ついて思うこと
民謡について記述し始めると、膨大な紙面が必要になる。したがって今回は主にデカンショ節についての問題の考証であるため、民謡に関してはその専門書を参考にしていただきたい。
しかし、まずこれだけは知っておかなければならないことがある。日本の民謡は今、大きく分けて二つの流れにのって動いている。一つはその歌がながい歳月をかけはぐくまれその土地の人たちや関係者により育って生きつづけている本物の民謡、それはその曲調に日本古来の旋律(素晴らしいことに日本には66音階あるといわれる)をもつものが多いのは当然のことである。近年できた民謡は別としてもう一つの流れは、民謡歌手と呼ばれるなかの一部の人たちにより、そのうまれ、あるいは育った歌の土地の香りなど考えず、しかも自分勝手に手を加え唄われている本物でない民謡、そしてそれは西洋のドレミの十二音階を基調にしたもの。これは民謡ブームが始まった昭和30年前後より、NHKを始めとする、マスメディアによる影響が大きい。いやそれによってつくられたといっても過言でない。日本の各地の歌を全国の人達が知る機会を提供した功績は認めるとして、一方では本物の歌の陰を薄くし本物でないものが本物のように振舞うようにしてしまった罪もある。この根源に明治政府の音楽教育に関する西洋崇拝の概念がある。日本古来の旋律の蔑視と軽視の性急な西洋のドレミ十二音階導入と指導教育がある。ドレミで楽しんでいるのは地球上で三分の一しかない、あとはそれぞれ自国の旋律を大切に残している。日本にもあまり手をつけられていない労作唄、祝い唄、盆踊唄等の民謡に日本の旋律が残っている。篠山節というデカンショにはまだそれが少しだが残っているのは、盆踊唄として大きい意味をもつ。郡上踊りのかわさきにはないが,古調かわさきには残っている。前述の亘理氏の改作したデコンショは学生歌デカンショ節との関連からみて、ドレミ音階であったことに間違いはないといえる。
60年ほど前には、デカンショ節は日本民謡界では、民謡としてではなく学生のはやり歌、運動会の応援歌程度の認識しかもたれなかったものである。これは事実である。民謡として認められていたのは篠山節という名のデカンショ節であった。わたしたちがお世話になった民謡界では知られた初代谷井法童師もそういわれていた。
沖縄を除くと意外なところに、デカンショにかぎらず古くから伝わる盆踊唄、作業唄、お座敷唄などにも、よく似た節回しの唄および踊りがあることに気付く、当然歌詞もそうである。とにかく狭いこの国、船、車馬、駕篭(かご)、徒歩その移動の手段を問わず仕事なり、遊山、社寺参り等の人々により持ち込まれ、またはもち帰られその風土にあったものは土地の歌や踊りにとり入れられたものと考えるのが自然だろう。一例だが伊勢音頭の節回し、同じ歌詞が兵庫県、大阪府、京都府、岡山県、山口県、静岡県、岐阜県、神奈川県等々多くの府県に存在する事実をみても、デカンショ節に類似した歌詞が数多くあるのは不思議なことではない。
デカンショ節について思うこと
デカンショ節と踊りが、デカンショ祭として復興する前から、崎山風デカンショ節に背を向けていた一人の歌い手があった。前述の前川悦太郎氏である。その曲調は、いまのデカンショ節とは一味違う唄であった。悦太郎氏が1947(昭和22)年、自分の唄が明治末期唄われていたデカンショ節だと私に話されたことがあった。そして崎山氏とのデカンショ節にかかわる確執が、10年以上つづいたわけである。私見だが悦太郎氏の唄が亘理改作デコンショに近い唄であったと思う。大正末期から戦後までいちずに研究を続けてきた専門の崎山氏に対し、前川氏が勤めをもつ人で、第一線での活躍が常時できなかった等の事情もあり、崎山氏が音頭とりの第一人者として、多数の支持を得ていたこともあって、今の曲調になってしまったわけである。もしも、当時その二人の立場が逆で、前川氏に音頭取としての実力がよりすぐれ、デカンショ祭りや盆踊りの音頭をとっていたとすれば、今とは一味違ったデカンショ節が唄われていただろう。時として土地の民謡は、その時期それを唄う人たちの立場や、それぞれ歌い手として、芸人としての実力の差が、その歌の運命を左右することがあるのは仕方のないことである。
しかし崎山氏にもその20数年の研究のなかで大きなミスがあった。それは盆踊唄として当然踊りがつくことをあまり考えない曲調の手直しであった。それが踊りの振り付けに多くの支障をもたらした原因の一つでもあった。盆踊唄は踊りと一体のもの、それを忘れ改作した盆踊唄は、越中おわら、郡上踊り、等々に見られるように、当地の人にも、各地から踊りに来られる人達にも、盆踊りだけで一人歩き出来ない宿命を当初からもっていたともいえる。
故人になられたが、たんば田園交響ホールに関係されていたある人物(篠山町民ではない)が篠山のデカンショ節をもっと蛮カラ、豪放にすればよいと篠山の関係者に進言され、かって西宮市民祭りで、出演した中の、心ない一部の会員グループに飛び上がる踊りを踊らせ観衆の嘲笑を受けた記憶はまだ新しく心に残る。篠山だけではなく県内外の各地で、同じ言動をされている。まさに各地の伝統芸能を汚しまわった人の代表者だと言って過言ではないと言える。デカンショ節はもともとバンカラ、豪放な歌でないといっておきたい。
盆踊唄、作業唄等は働く庶民の唄、何の娯楽もなかった人達が、生活環境と感情をそれらの唄に読み込み鬱憤を晴らしたり、楽しんだり、今でいう情報を伝え合ったり語り掛けていたのである。たしかに卑猥(ひわい)な唄が数多かった。それは日本の盆踊唄、作業唄に共通する。例え下品な歌といわれる歌詞でも、さらっと唄われると、嫌らしさもないしユーモアさえ感じ微笑ましい。それに生活の知恵さえ唄いこんでいる。後藤節にも唄われている「白いところにしょんぼり黒い雪に茶かすを捨てたよな」卑猥で嫌らしく思われますか?「盆のぼたもちゃ三日おきゃすえるおばん此れみよ毛が生えた」おいしいものはケチらず早く食べよという意味とおばん(おばばー姑、当地方ではおばばとはいわない)嫁にもおいしいうちに食べさせなさいという意味を掛け合わせた生活の知恵ともいう唄なのである。塩谷氏や亘理氏がこれはいけません、というような唄と思われるだろうか。
しかし亘理氏の作詞した二.三の歌詞は残って今でもうたわれている。これは氏の歌の里帰りがあった証でもある。旧幕時代のある西国の外様大名の士族の子孫である一人の旧制一高生がつくったという(亘理氏作というのは間違いである)「丹波篠山山家の猿が花のお江戸で芝居する」という歌詞は幕末から明治維新、そして明治末期頃までの、篠山自体と、その出身者の一部の人々を、現在篠山の人達が理解している意味とは全く違った意味の歌詞なのである。篠山でよく唄われているこの歌詞がデカンショ節の代表歌詞(パロディ?)とは、また皮肉な話ではある。90年余り唄われてきた歌詞だから、とやかくはいえないだろうが、真実は真実として認めておくべきである。考えようでは篠山人はおおらかなのかもしれない。この話は確かなことである。昭和43年春、滋賀県八幡の国民休暇村の宿でそれを語った方の氏名は事情があり、故人ではあるが今は残念ながら記載することが出来ないのを諒とされたい(その方はかっての篠山藩重職の子孫である)。いまさら死んだ子の年を数える愚はしたくないが、一高の水泳部の委員だった塩谷、篠山出身の亘理両氏の出会いが、文化遺産としての篠山本来のデコンショ節を篠山の里から追い出した大きな要因の一つであることに間違いはない。逆にいえば出会いがなかったら、もっとよい唄や踊りに育っていただろう。  
みつ節(みつ節踊り)考証への一歩
ようやくできたデコンショ踊り(みつ節踊り)の発掘 / 昭和のはじめ、篠山実業協会(篠山商工会の前身)が新民謠ブームにのり、篠山小唄の制作を検討していたころ、当時の古川町長は盆踊をデカンショに統一するため、みつ節の由来、踊りの振りを、城北村寺内の尾川誠一氏に其の探索を依頼されたことがあり、同じ村の古屋元吉氏がみつ節はこの辺りではデッコンショ節と呼ばれ、この土地特有の盆踊であった説明と、踊りを披露した事実がある。しかし町長の期待していた豪快な唄でも踊りでもなかったため、この件は打ち切りになった。何故当時の為政者はデカンショが豪快でなければならなかったのか。古川町長は旧陸軍少将であり、学生たちの唄った学生歌デカンショと混同されていたと思う。同席した尾川氏が弟の栄三郎に伝えた踊りの振りは、体を細かく揺りながら足を交互に踏出し手を交互に下からかつぐように肩の上方に上げること、それから両手でなにかしてから手を胸の前で三つ叩きながら歩いたという程度のものだったと1959(昭和34)年教えてくれた。そのときはそれが後で大変な意味をもつことに気付かず聞き流し20数年がたった。
1997(昭和62)年の3月、戦後の盆踊の凄いばかりの盛況について話がでたとき、1946(昭和21)年の8月呉服町の日の出すし前の通で盛大な盆踊があり、すでに黒井音頭が唄われていた。みようみまねで踊っていると、突然デカンショが唄いだされ、わずか数分だったが私はかなり年配の人の後からついて踊った。そして何と素朴な、土の匂いのする、簡単ながら良い踊りだなぁと思ったものだ。其の人が「こんな唄やったら踊れんわぃ」といったのを今でもはっきり覚えている。そして不思議にその踊りの振りが私の身体に焼き付いていたのだった。
そして、その踊りの振りを思い出したとき、伯父尾川栄三郎の20数年前のみつ節踊りの振りの話しを思い出し強い衝撃を受けた。1946(昭和21)年どこの人か知らない人と踊った踊り、それは紛れもないデコンショ踊りだったのだ。私が子供のころから伯母が舞踊の師匠だった関係で、自分の生活のなかに多少だが踊りがあったから、その踊りの振りを覚えていたと思う。しかし今のデカンショ節にはあわない踊りであることには間違いはない。これは篠山のデコンショが表舞台にでるときまで、そっとしておこうと心に決めていた。幸いにも、2001(平成12)年その姿を見せ息を吹き返した。これから上手に育てていく責任がある。歌い手、踊り子の個人的な好き嫌いの次元ではない。これは篠山の文化にかかわる問題なのである。そして祖先から残された文化遺産としてのデカンショ節(デコンショ)が唄い踊られた日こそ本当に記念すべき日ではないだろうか。  
デカンショ節と踊りの保存振興のために
デカンショ祭の振興のためにも / まず、デカンショ節をみつ節を元とする盆踊唄としての民謡と位置付けなければならない。半世紀近くつづいた、デカンショ祭がそれを証明し、全国的にすでに公認されている。単なる俗謡、三味線唄ではない。
したがって、好むと否にかかわらず今となっては実在する二つはどちらも、本物の盆踊唄デカンショ節というほかはない。本物同士、目くそ鼻くそを笑うようなことをしていたら、本当の意味でのデカンショの保存振興は望めない。うまく両者を生かせることは可能である。たとえば当地では、篠山さわぎのよしこのと後藤何某の唄った、本調子甚句がうまく合体して後藤節(篠山でいう篠山節)が誕生しているではないか。その方式は、郡上八幡の古調かわさきと、かわさきの様な組み合わせる方法も考えられる。それはデカンショ祭りの聡踊りのはじめに、(郡上踊りのように)三〜四分間その古来の歌と踊りで総踊りの始まりを告げ続く総踊りにより以上の盛り上がりを呼び、そして今の踊りと前の稲刈りの輪踊りを上手くジョイントさせることで、より踊りに楽しみを加えことが出来る。そして終わりを告げ、余韻を残すため、少しの間デッコンショを唄い踊るのである。まずは篠山の民謡家の決意と努力と質がとわれるが、私の知る限りではうまくできると思う。この際、篠山人は、篠山人自身で考えることである。篠山の民謡はそこからうまれ育つものなのである。
一日も早く取り掛かるべきことといえる。
たとえば木曽節はだれでも歌えるが、その本場にいけばその歌に日本の旋律が残っているためその曲調は驚くほど違う。そしてテンポもゆっくりし若者向きでもないのに、遅くまで楽しそうに踊っている。唄と踊りがいいからだと木曽福島の人は誇らしげにいう。私がいいたいのはまず盆踊も当然郷土色をもつものでなければならないが、唄がよくなければ駄目だということである。前出の木曽節、佐渡おけさ、などその適例で特に越中おわら節等は歌のよいのが身上である。このおわら節が今の曲調に改良(当然八尾の人だが)されたのは、1913(大正2)年のことで、その後土地の人たちにより改良され今日にいたっている。
明治のおわりから大正のはじめにかけ一時不振だった阿波踊りが、ハイヤ系の踊りは残し、唄だけ流行した、よしこの節を移入し定着し成功した例もある。
その土地の人が唄う歌でも人によって微妙に節回しが違うのに気付くことが多い。踊りも踊る人により微妙に異なる。それが民謡であり民踊なのである。その土地の人が唄う歌が、踊る踊りが本物だということを忘れないことである。しかしそれは、その土地で唄い踊られている基本的な約束事を守った上でのことであるのを忘れてはならない。
洋楽演奏によるデカンショ節のアレンジで一つの催しをよく知られた民謡で、色々なリズムで編曲、演奏されているCDやテープも売られているが、そのなかでまず見つからないベストテンの一つにデカンショがある。
本物の曲は本物の曲として、本物の踊りは本物の踊りとして認め、デカンショ踊りの終わった後、サンバ、ルンバ、マンボ等々、デカンショをうまくアレンジした曲にのって自分なりに、仲間と楽しむのもよいではないか。テープでもMDでもよいのである。ただしそれは、祭の一つの催しとして行うという決まりのなかでである。
不思議に、サンバ、ルンバ、マンボ等でも同時に両足で地を蹴り飛び上がることはない。今の踊りをうまくアレンジすればよい。若者ならそれに挑戦し、がんばれといいたい。今年のデカンショ祭にはその様な祭の姿をみたいと思うのは、私だけでもなさそうである。ただしルールは守ること。ある知り合いの民謡団体が記念大会で伝統民謡を洋楽にアレンジしアレンジした踊りを賛助出演で披露されていたの思い出す。たしか網のし唄だったと思う。しかしそれはデカンショには似合わないモダンバレーだったと記憶する。
伝統文化とそれの保存、振興を目指す新しい何かを模索するのも、無駄ではないように思える。伝統文化も消滅してしまえばその復活は難しいのだから。デカンショ節を色々なリズム、テンポに編曲し、町の商店街にその音を流したりすることが、ただちに伝統的なデカンショが衰退していることを意味するものではない。色々な生活、芸能文化がボーダーレス化しつつある様に見えるが、それは意識しているか否かは問わず夫々の国の夫々の文化を理解しそれらの共有を目指しているのだといえるのではないだろうか。新しいものと、伝統ある古いものとの相互理解を強めていこうとしているものと信じている。ただし、それぞれの土地の(例えばよさこいソーラン等の)伝統文化を傷つけるようなパフォマンスは全く範疇を事にするものである。バンドのグループによる色々なリズムによるデカンショ節のコンクール等考えてみれば面白い催しになる可能性がある。観光客だけでなく、そして老若男女をとわず篠山に住む人達がもっと楽しめる祭のあり方を真摯に模索しなければならない時期にきている。
そして、デカンショ節とその踊りが、デカンショ祭りの名の下での催しものの一つでは無く、堂々と一人歩きできる様に、為らなければ、と思うのは私だけでないはずである。  
おわりに
篠山近辺のみつ節踊り発掘復元は、偶然の重なりがもたらした奇跡に近い。もしかって古川篠山町長のみつ節とその踊りの探求調査がなければ、恐らく発掘復元はできなかったと思う。だれが、何時、何処で唄にあわせて踊りだしたかも判らない踊り、此れが本来の盆踊である。1997(昭和62)年の変更した踊りにみつ節の一手の一部のみ取り入れている。
デカンショ節の盆踊をはじめ、この土地に残る労作唄、お座敷歌等一般の農民や、商人たちの唄い踊るという生活様式一つの範疇の考証でさえ、大変なことである。いえば理解出来ない不思議なことが多すぎる。なぜ、なぜが多すぎる。
また亘理氏本人のデコンショ節についての記述えの批判さえまったくなされず当然のごとく受け取られていたのか、今日においてもそれをしたのは私一人かもしれない。無関心だったのか、ながいものには巻かれよの諺に従い無関心を装っていたのか、どちらかだろうと考えられる。
私が、好きなのは祖父が歌てくれたデコンショである。今のデカンショ節は篠山の情緒、人情風土も何一つ感じさせない曲調だと思うのは私一人ではないはずと思う。
そして過去の過ちをくり返さないよう、祖先の残してくれた盆踊や民謡やその踊りは文化遺産として、大切に育てていかなければいけないと身にしみて思うこのころである。
なお理解しておいていただきたいことの一つとして、よく対比される阿波踊りや三原ヤッサ、そのイメージで作り上げたよさこい鳴子踊り等騒ぎ歌やハイヤ節から移入された踊りとは、デカンショ踊り、福知山音頭、祭文音頭、播州音頭、郡上踊り、木曽節、越中おわら節等とはその踊りの属する範疇が異なることである。
私のデカンショ節に関する研究、考証は一歩を踏み出したばかり、したがって未完のものである。また事情により記載できなかったこともあるのを諒とされたい。
 
替歌こそ本質なのだ

こんどURCレコードから「関西フォークの歴史」ということで、その第一集は去年の暮れに出て、京都のほんやら洞などではあっという間に売りきれてしまって、第二集は、「現代詩手帖」1974年3月号が出るころには出ているはずだけど、これは去年いっぱい、いや、それ以上かかって、秦政明と中山容とぼくが、むかしのテープを発掘したり、まぼろしのテープをさがしてあるいたり、さげつけない頭をさげたりして編集できたもので、このなかには名前だけは音にきこえていたが、演奏は音できくことができなかった阪大ニグロとか西尾志真子、東野人志とか日立ブルースが 入っているのだ。それから今は有名になってすましているけれど、そういうシンガーたちの旧悪をばらすようなものとか、とにかくこのレコードを聞かずして70年安保前後の歴史はかたらないべきなのだ。
それで、これを機会にひとつの総括をしようとシンガーたち、小林隆二郎、西岡たかし、東野人志、古川豪などに集まってもらったんだが、フォークとはふつうのひと、つまり非専門家で歌では食わないべきだ。とくに今みたいに悪い世の中では、歌で食おうとしたら、レコード協会のレコード制作基準とか、民放連の要注意指定歌謡曲とかいろいろあるので、とにかく自分のうたいたいことを 歌っていたら食えるはずがないだろう、と小林隆二郎がいった。だから食うことはほかでやれ。
それに対して古川豪は、おれは歌というものを知ったおかげで、もしかしたらそれはほかのなにかでも良かったのかもしれないが、中学・高校と何もない空しいところで、これだけは確実にオレのもんやと言えるものを歌に見出した。そのおかげでもうネクタイしめることはぜったいできないようになってしもうた。歌以外では食いとうないが、おれの歌では食えへんが、板前などしてなんとか食うとる。だから、こんどのレコードから自分のわけまえはダンコとして取る。
それに対して隆二郎は、著作権法が若いひとたちがフォークソングやる場合にどんなに障害になっているか、コンサートやるたびにJASRACからひとが調べにきていて、他人の歌うたったら、どんどんその分を取っていくじゃないか。
さらにぼくが補えば、いまの著作権法では、ひとの歌を曲でも言葉でも何小節以上つかえば、印税をはらわなくてはならない。ということは替歌をうたったら、すごく金がかかるということだ。これは替歌を兵糧攻めにして公衆の面前では 歌えなくすることだ。ところが、あとでのべるように、替歌こそは民謡、いやフォークソングの本質は替歌にあると思うのだ。
古川豪のようなひとは、限界芸術としての歌から出発して、いまや芸術家としての歌というキビシイ道をあるきはじめてしまったのだ。シューベルトのように貧乏しながら、がんばるのだ。西欧音楽の歴史と、楽譜の印刷・出版の歴史とは切っても切りはなせないものだが、大ざっぱにいって、ベートーベンになって作曲家の著作権が確立した。ということは作曲家は演奏活動から金が 入らなくてもよくなった─分業の確立ということだ。金がからんでくるから、盗んだとか盗まれたとかいってややこしくなる。ところがフォークソングは、作詞/作曲/唄/伴奏/プロデュースが分業でないところが、フォークソングたる ゆえんのものであった。だから、その延長線上で、中川五郎が編集者のひとりであった季刊「フォークリポート」1970年冬の号では、五郎自身が小説とマンガをかき、そのほか雑誌全体にわたって著作権を無視した盗品で満ち満ちていて、あきらかに、しろうとの 仕事だとわかる。しかし、著作権に敏感な玄人がやったら、あれほどおもしろくはならなかっただろう。そして、それほども売れもせず、高校生のあいだで評判にもならず、警察も補導の先生方も知らずにおわり、五郎がわいせつ罪で起訴されることもなかっただろう。著作権の件でうったえられなかったことは不幸中の幸であった。この裁判はいま進行中であり、前回検察側は500以上の証拠を提出したが、それらはほとんどすべて販売の事実しか立証しえないようなものであり、 猥褻性を証明するには「フォークリポート」1970年冬の号一冊さえあればこれですべてたります、と検事はいったので、検事側証人はひとりもいりませんネ、ハイ、という妙なことになってきた。次回は3月5日大阪地裁できっとおもしろいことになる。  
ところで問題の中川五郎のフォーク小説「ふたりのラブジュース」に対する評価も、たいていのひとは「純粋または大衆芸術」としてしか見ない。鶴見俊輔をえらいと思うひとでも、なかなか限界芸術の立場からフォーク小説なりフォークソングを見ようとしない。たしかにベートーベンやシューベルトのようなキビシイ純粋芸術の道や、親が死んでも恋人にふられても涙ひとつみせず、自分をお笑いの対象にさせる喜劇役者の大衆芸能の道とか、そういうものにはコンジョーがあるみたいで、遠くに眺めて憧れる見本としてはよいものなのだろう。しかし、ふつうのひとに必要なのは、ちかくにマネできるモデルがあることだ。
関西フォークソングの歴史は1966年に高石友也の登場で始まるといえると思うが、彼ははじめのうちは、とてもたどたどしいみたいだが、とても一生懸命に歌った。あれならおれにもできる、と多くのひとが 思ってギターを手に歌いだした。岡林はFのコードがちゃんとおさえられないとか、五郎は音程がくるうとか。だけど、こういうひとたちが、マスコミによってスターとして雲の上にあがらされてしまうと、おくれてきたひとたちにとっては身近なところにモデルがいなかった。人間とアミーバだけ見ていては進化論は出てこなかったとおなじく、ジャリとスターだけではどうしようもない。そのあいだにサカナとかサルとか恐竜とか、とくにガラパゴス島にいたような個性的なトカゲとか、そういうものがいないと運動は 続かない。
そういう意味で世の中一般はスターとか個人崇拝とか─そして批評家たちも高根の花にしか気がつかなくて─まさにそれは、防空壕のなかでヒトラーのまわりにうれしそうな顔してあつまってくる(または体育館のなかでディランのまわりにうれしそうな顔をしてあつまってくる)すべてのファシストを犯罪者でサディストとみなしつづけたところで、革命はあらわれない。われわれがしなければならないことは、彼らの主観的な高揚と、どんな客観的な問題もとけないという彼らの無能とのあいだの、コントラストを 浮彫りにすることだ、とウィルヘルム・ライヒがいった状況だ。
岡林信康の 私たちの望むものは…をきいて高揚した二人の高校生は、その晩は家へかえらずに連れこみホテルにとまるということで、自分自身の無能から、高揚にむかって、客観的に一歩をふみだしたのだ。そしたら、たちまち、刑法175条でやられてしまった。そのご、この 「フォーク小説」を読むひとは、興奮しないといい、つまらないという。彼らはどうやら、自身の無能を棚上げしたまま、無責任に高揚だけをもとめているようだ。それがポルノというものだ。
普通のひとが、いかにして、表現手段を獲得し、無能から一歩ふみだせるキッカケになるか。
たとえば、このあいだの関西フォークの歴史の総括の座談会で隆二郎は、基本的な三つのコードだけのかんたんな作曲法で、おれのいいたいことはなんでもいえる、といった。これは芸術ぶった奴らからはバカにされながら、このいわゆるスリー・コードで歌がつくれるという常識の普及は、フォークソングのひとつの柱だと 思う。「いつまでもスリー・コードだけで音楽的に進歩せず、ドギツイ言葉ばかりでうたいつづけたから、関西フォークはすぐにあきられた」と、まことしやかにいいふらすひとがいても、それはウソなのだ。いつかCBCテレビの司会者はフォークソングを話題にして、 最近このての歌ははやりませんね、といったが、みずから民放連の要注意指定歌謡曲をまもって放送しないでおいて、よくもヌケヌケと、はやりませんね、だと。1969年7月12日新宿地下広場の標識を「地下通路」と変更。19日新宿西口のフォーク集会に機動隊が実力行使。フォークゲリラ小黒弘逮捕。8月27日付で「機動隊ブルース」「かっこよくはないけれど」「栄ちゃんのバラード」「くそくらえ節」「がいこつの歌」が民放連の要注意歌謡曲に指定され、放送できなくなる。この月かぎりでラジオ関西のフォーク番組「若さでアタック」消える。10月文部省通達「高校生の政治集会/デモへの参加禁止」1971年2月、「フォークリポート」1970年冬の号発禁。これでもプロテストソングの衰退の理由に芸術性をうんぬんするのですか、アンタは?  
歌というものを、詩と、音楽の、中間のジャンルと考える。両極をとって、詩は言葉100%の音響効果0%と考える。音楽は音響効果100%の、言葉0%と考える。すると、たとえば吉田拓郎の「人間なんてラララララララララ」というような歌は 言葉の量がすくなく、人間についての感情をララララであらわすには、音響的に非常にこらなくてはならない。しかし、これを、「人間なんて、どうせ死んだらガイコツになっちまうんだ」というふうに 言葉でいったとしたら、その分だけ、音響は手をぬいても、心を伝えることができる。逆に、曲とか伴奏がぜんぜんなしで、言葉だけで、ひとを感動させようとしたら、とても慎重に 選ばなくてはならず、たいへんに言語感覚がよくなくてはならない。ということは、歌という表現のジャンルは、そんなに言葉がうまくなくても、そんなに音楽がうまくなくても、 言葉と音響の相乗効果で、かなりの表現力をもつという意味で、とても非専門家むきだと思う。
それからもうひとつ、歌というとすぐにレコードを思ったりするが、本人をまえにしての直接コミュニケーションだと、とてもつたわりやすい。しかし聴衆が多くなり、遠くからステージを見るようになると、いくらマイクがあっても、かなりうまくないと 伝わりにくい。それがレコード、ラジオなど姿が見えなくなると、音だけしか手がかりがないから、とても音にこらなくてはならなくなる。そういうふうに場から独立することで、活字時代の芸術は、本、レコードなど、すすんできて、これらは本人がその場に存在するコミュニケーションの代用品であることが 忘れられ、本やレコードのほうが本物であるような錯覚がうまれ、本物をさておいて、コピーだけのできばえをきそうような傾向が生まれた。しかしマクルーハンは、テレビはかえって本物に接したい欲求を 強めるといった。フォークソングや詩の朗読会、アンダーグラウンドの芝居やデモや座りこみなどは、本人がそこに存在することによるコミュニケーションの復活である。 
さて、はなしを詩のほうへ戻すと、パロディというのはひとの作品の特徴をまねて笑いものにすることだ。ところが「替歌」というと、元歌の曲節に 言葉をつけかえたもので、べつに不まじめでなくてもいいはずだ。この広い意味でも替歌は、特に才能のない普通のひとが詩とか歌をつくるときに、とても大切な方法なのだ。いまの世の中では、ロマン派や個性主義がのこっていて、替歌ということは一段低く見られているが、一方では純粋芸術家たちは昔から海外のものをなんとかマネしようということばかりしてきた。
ひろい意味で替歌をかんがえると、替歌にはいろいろなレベルがある。たとえば
吉田通れば二階から招く  しかも鹿の子の振り袖が 
という歌が近世にはやったそうだが
吉田通れば雪隠から招く  しかも片手に藁さげて
駿河屋通れば饅頭屋が招く  饅頭食いたい金がない
(紀州子守唄)などは笑わせることをねらった、せまい意味のパロディだろうが
鞆の沖通りゃ二階から招く  しかも鹿の子の振り袖が
(鞆節)となると、べつに笑わない、替歌である。民謡のいちばん基本的な方法のひとつは、地名だけを入れかえて、自分の土地のものにしてしまうことだ。
伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ  尾張名古屋は城でもつ(伊勢音頭)
有馬湯でもつ湯は湯女でもつ  とかく山口紙でもつ
坂は照る照る鈴鹿は曇る  あいの土山雨が降る(鈴鹿馬子唄)
坂城照る照る追分曇る  花の松代雨が降る(信濃追分)
江差照る照る函館曇る  間の福山雨が降る(江差追分)
三島照る照る小田原曇る  間の関所は雨が降る(箱根駕籠昇唄)
これらと近いところに木更津甚句の
木更津照るともお江戸は曇れ…そうなると、田原坂の
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂は、鈴鹿馬子唄と箱根馬子唄の両方から来た?というよりは、日本民謡のもうちょっと深層のところが、こういうかたちであらわれた?
箱根八里は馬でも越すが
越すに越されぬ大井川民謡の「きまり文句」とか「くちぐせ」とかの問題になってくるので、いまは深入りをさけて、次にアメリカ民謡の「ジェッシー・ジェームズ」は列車強盗だったが、民衆の味方で
He took from the rich and he gave to the poor
持てる者から取り 貧しき者に与えたということになっているが、味方にうらぎられて不運な最後をとげた。ウディ・ガスリーはこれとおなじ曲にのせて「ジーザス・クライスト」のことをうたった。彼もまた民衆の味方で、金持ちや権力者をやっつけたが、さいごには身内のユダが裏切り、
...laid Jesus Christ in his grave.  (そして)墓にうめられてしまった
...laid poor Jesse in his grave.というくりかえしまで、ジェッシーとジーザスはおなじだ。
そして高田渡は1968年12月の三億円事件をジェッシー・ジェームズの曲をかりて歌にした。じつにユカイに銀行会社警察をだしぬいたので、貧しい者に金をくれなくても、この白バイのおまわりに化けたひとは民衆の英雄なのだ。こうなってくると逐語的には替歌ではないかもしれないが、発想がとても近いのだ。民衆の英雄というかフォーク・ヒーローの運命は、いくつかの型がきまってしまったようなものか。アーキタイプというべきか。太閤伝説でさえも、五大説教節のひとつ「愛護若」との共通点が林屋辰三郎たちにより指摘され、貴種流離譚という民族的発想形式のなかに、秀吉の流浪のすべてがかたりこまれているらしい。
つぎに、ガスリーが得意としたのは、むしろ、ジェッシーとジーザスのような似たような発想をおなじ曲でやるのではなくて、ワイルドウッド・フラワーの曲で、駆逐艦ルーベン・ジェームズ号の乗組員の名まえひとりひとりをあげてドイツの潜水艦はけしからんと 歌ったり、グッドナイト・アイリーンの曲でコロンビア河にダムができたことをよろこぶ歌をつくったり、とっぴょうしもない詞と曲をくみあわせることだ。高田渡がワバッシュ・キャノンボールの曲に、添田唖蝉坊のノミの歌をくっつけたりすると、あまりに遠いものの組み合わせなので、もとの曲をおもいだすのに頭をムリにうごかさなくてはならない。  
聞け万国の労働者というメーデーの歌が、もとは軍歌
バンダの桜 衿の色だったということなども、指摘されるまで気がつかなかった。
それからイギリス・アメリカ民謡などの研究者によって指摘されるfloating verse というものがある。これはたとえば有名なバラド「バーバラ・アレン」でいうと、 最後には恋人はふたりとも死んでしまって、
One was buried in the high churchyard、
The other in the choir:
On one there grew a red red rose
On the other there grew a brier.
They grew and grew up the old church wall
Till they could grow no higher;
And there they locked in a true-lover’s knot、
The red rose and the brier.
ひとりは教会の墓地に
もうひとりは教会の中に埋められた
ひとつの墓からは赤い赤いバラが
もうひとつからは緑の茨がはえてきた
それらはのびてのびて壁のてっぺんまで
とどいてそれ以上はいかれなくなった
そしてそこで恋結びにむすばれた
赤いバラと緑の茨だけどこれらの詩節は花粉や種のように空中をただよって、「アール・ブランド」「ロード・トマスとうるわしのアネット」「ロード・ラベル」のような悲恋のバラッドのおわりに根をおろす。
日本の民謡研究には floating verse にあたる言葉がないのではないかとおもっていたが、現象としては
めでためでたの若松さまよのように、すごくたくさんある。これは各地の祝宴の席で欠かさずうたわれるばかりでなく、 「長持唄」「地形唄(地搗唄、胴搗唄)」「餅搗唄」「田植唄」「苗取唄」「代かき唄」「木挽唄」「臼摺唄」「臼搗唄」「麦打唄」「たたら踏唄」「味噌搗唄」「豆腐すり唄」「船頭唄」「護岸工事唄」「馬子唄」等々の作業関係の唄の中でもさかんに 歌われ、その他、盆踊や田植踊、獅子舞などの踊唄としてもしきりに用いられている」と「日本民謡辞典」にはある。そうしてこの辞典には類型歌詞ということで一応次の37項目を見出しにあげてある。
朝の出がけに・朝水汲めば・あすはおたちか・碗はいらぬ・伊勢は津でもつ・伊勢へ七度・男後生楽・音ばかり・踊おどらば・おまえ百まで・及びもないが・おらが若い時や・笠を忘れた ・鎌倉の・今日の誇らしや・ここのおうちは・ことし豊年・こんど来る時や・坂は照る照る・十五七・正月様・大黒様という人は・高い山から・唐土の鳥は・涙で出たが・なりそか切りそか ・なるかならぬか・主の来る夜は・程のよさ・本町二丁目の・〜舞を見さいな・前は海後は山・向こう通るは・胸に煙が・めでためでたの・吉田通れば・淀の川瀬の水車  
こうなると、きまり文句とか、詩における口ぐせ、というようなことになる。きまり文句というのは、叙事詩などを口がたりするときに、頭のなかにある話の筋を、韻律にあわせて、その場で、いわば即興演奏するときに、きまり文句にあてはめていえば、韻律にのれる。このことはバルカン半島やギリシアで活躍中の吟遊詩人のうたいぶりを研究しているうちにミルマン・パリー教授たちによって 明らかにされたことで、ホメロスもきっとこうだったにちがいないということだ。コサックやトルコの詩人たちもそうらしい。日本でも平家物語などそうじゃないかと思ったが、現平家物語はちがうが、ゴゼの 歌とか、そういうところから山本吉左右が「説教節の語りと構造」ということで、東洋文庫「説経節」の解説にかいている。
とくに語りがはじまるところは、しきたり的に
ただいま語り申す御物語、国を申せばナントカの国…というようなぐあいにきまっているが、アメリカ民謡でも、
Come gather ’round friends
And I’ll tell you a tale
おいでみなさん
聞いとくれというような出だしは多い。ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」は、民謡調でこうはじまる。ボロこと真崎義博の訳によれば
おいでみなさん聞いとくれ
はり紙だらけの炭坑町
年寄りだけしか残らない
こんな話を聞いとくれそれをつかって中川五郎は「受験生のブルース」
おいでみなさん聞いとくれ
おいらは悲しい受験生
地獄のような毎日を
どうかみなさん聞いとくれしかしディランの曲はマイナーで暗すぎるからといって、高石友也にC調で別の曲をつけさせてレコード化したのがヒットした「受験生ブルース」(しかしこんどの「関西フォークの歴史」では五郎がもとのでうたっている)。そして、それには無数のナントカのブルースという替歌がうまれたが、いちばん有名なのは、なんといってもフォークゲリラのレパートリー「機動隊のブルース」
おいでみなさん聞いとくれ
ぼくはかなしい機動隊
砂をかむよな あじけない
ぼくのはなしをきいとくれこれはせまい意味でのパロディだ。それから五郎の「主婦のブルース」はアイルランド民謡"House-Wife's Lament"の曲をつかっていて、発想の暗示をうけているので、ジェッシー・ジーザス型だ。 じっさい関西フォークの最盛期はまた同時に替歌の最盛期でもあって、「かわら版」1969年2月号は特集をしている。  
最後に、柳田国男は、民謡が生きているか死んでいるかの見わけ方は
現実に今でも群によつて歌はれて居る民謡は、同時に又成長しつつある民謡とも言へる。去年の踊の夜にはあゝは言はなかつたといふ場合もあらうし、あすが日来て聴けばもう文句が少しちがふといふ場合もあり得る。
と「民謡覚書(一)」でいっている。そして、民謡は古くなれば、廃止せられる方がむしろ普通で、だから民謡が生きているということは
民謡はいつの世にも必ず現代語にうたひかへられ、少しでも意味が不明になれば改刪され又は廃棄せられる。たとへ誤解にもせよ歌ふ者はよくわかった積りで居り、子供か子供に似た者で無いと、わかりもせぬのに口真似だけはしない。
ということは、いつも替歌しているということだ。たとえば
おまえ百まで わしゃ九十九まで
ともに白髪のはえるまでという唄も、地域的分布の広さからいっても代表的なものだし、分類上のあらゆる種類の民謡にはいりこんでいる類型歌詞だが、むかしの「山家鳥虫歌」の採録では“おまえ”が“こなた”という時代方言であらわされている。
こなた百まで わしゃ九十九まで
髪に白髪の生ゆるまで大阪府の旧九個荘村では「あんた百まで…」というふうに、同じ言葉が地域方言になっているそうだ。また
高い山から谷底見れば
おまんかわいや布さらすでは、おまんは固有名詞と感じているようだが、元来は鹿児島あたりでつかう“おまはん(お前さん)”という二人称の代名詞である。鹿児島ではさらに“おはん”ともいう例があるが、そのうちにだんだんと実在の人物とかんがえられるようになってきた、と「日本民謡辞典」は説明している。ムカシムカシではじまり、きちんとおわりの 言葉で結ぶという形式をもち、一言一句変えたりしないようにおもわれていた昔話も、稲田浩二「昔話は生きている」によれば聞き手や時と場合によって、ふくらんだり、そっけなくなったり、それが伝承が生きているということで、はなしにしろ、うたにしろ、聞き手も、やる方も、たえず変えることで、生かしているのだ。替歌はもっとも本質なのだ。  
 
創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史

第一部 レコード歌謡の歴史と明治・大正期の演歌 
第一章 近代日本大衆音楽史を三つに分ける
  第一期 レコード会社専属制度の時代
そもそも「歌謡曲」という呼称自体、レコード歌謡を放送するにあたって「流行歌」の卑属的な含意を嫌った日本放送協会が使い始めたものです。
  第二期 フリーランス職業作家の時代
  第三期 「J-POP」以降
「演歌」という言葉を安易に使ってしまうと、レコード歌謡史の全体的な動きが見えなくなってしまう。
GS以後のフリーランス作家の時代に入り、それ以前のスタイルが「時代遅れ」で「年寄り向け」のように思われはじめたときに、そのような「古いタイプの歌」と目されたものを新たにジャンル化したのが「演歌」なのです。
第二章 明治・大正期の「演歌」
「演歌」という言葉自体の出現[は]明治時代に遡る……。一方、現在の意味での大衆的なレコード歌謡ジャンルとしての「演歌」の用法は、1960年代後半に現れ、1970年前後に定着
第二部 「演歌」には、様々な要素が流れ込んでいる
第三章 「演歌」イコール「日本調」ではない
誤解とは「日本のレコード歌謡は、元々の日本的なものから、徐々に西洋風(アメリカ風)になっていった」というものです。……これは端的に申し上げて、誤りです。
股旅物を過去から連綿と受け継がれた「伝統」とすべきではない。
昭和30年代から40年代を通じて流行歌手に必要な素養が、旧来の西洋芸術音楽に基盤をおいたものから決定的に変質してきた。
現在の「演歌」を特徴づける「こぶし」や「唸り」の利いた歌い方は、少なくとも昭和20年代までは殆ど見当たらない。
三橋は、民謡に由来する歌唱技法を初めて直接的にレコード歌謡に取り入れた男性歌手であるという点で特筆に値します。
高野・船村がレコード歌謡に持ち込んだ土着志向・地方志向は、古賀政男の都市インテリ的な感傷性や花柳文化的な日本志向と区別しうるものです。
「田舎調」における「田舎」とは、「都会に出てきた人」によって「故郷」として理念化された「農村」でしたが、「都会調」が歌った「都会」も同様に、「田舎から都会に出てきた人」あるいは「田舎から都会に憧れる人」の視線に媒介された、ファンタジーとしての「都会」でした。
畠山みどりが、パロディないしコミックとしてレコード歌謡に取り込んだ浪曲的な意匠を、「唸り」という歌唱技法によってさらに極端に推し進めたのが都はるみです。
第四章 昭和30年代の「流し」と「艶歌」
昭和30年代において「流し」は一種の「やくざ」ないし「アウトロー」として一般に理解されていた……そこにあって、アイ・ジョージという歌手が「進歩派」で「洋風」の「流し」という1960年代初頭でしかおそらくあり得ないイメージの接合によって、大きな成功を収めた。
サブちゃんこそ、「流し」という意味での「艶歌」と、現在のレコード歌謡ジャンルとしての「演歌/艶歌」をつなぐ、最も重要な人物であるといえます。
エレキ/GSやフォークが台頭する昭和40年代、あるいは1960年代を境に、日本の大衆音楽に関する認識の枠組みが大きく変動している。
第五章 「作者不詳と競作」のヒット――1960年代前半の「艶歌」
夜の巷で歌われていた作者不詳の歌謡が、一種の新曲としてレコード会社の垣根を越えた競作の形でレコード化され、大きなヒットとなっていく。
「アウトロー系」の「流し歌」の代表格といえるのが《網走番外地》です。
第六章 ご当地ソング、盛り場歌謡、ナツメロ
地方都市の盛り場を「都会風歌謡」に準ずるやや洋風のスタイルで歌うヒット曲あ、昭和40年代以降爆発的に増加しています。
高度成長期以降の「日本化した洋風盛り場」のイメージを最も理想的に体現する歌手が、青江三奈と森進一です。
《恍惚のブルース》と《バラが咲いた》と《夕陽が泣いている》が同じ1966年に同じ作家によって作られていることは、「西洋風のポップス」と「日本風の演歌」という二文法を根本的に疑わせる決定的な事実です。
第七章 昭和40年前後の「艶歌」「演歌」の用法
「民謡調」や「浪曲調」、夜の巷の「流し歌」「やくざ歌」「ムード歌謡」「ナツメロ」といった要素を寄せ集めた総和が現在の「演歌」である、という理解は必ずしも誤りではありませんが、それだけでは不十分です。
むしろ重要なのは、別々の文脈に属していた個々の要素がいかにして寄せ集められ、しかもそれらの総称として「演歌」ないし「艶歌」という語が冠され、具体的な意味が付与されるに至ったかを解明することです。
第三部 「演歌」の誕生
第八章 対抗文化としてのレコード歌謡
60年代半ばのレコード歌謡論者はまずもって、昭和20〜30年代の知的な領域における大衆音楽理解と、そこにおけるレコード歌謡への非難及び蔑視に対抗していた……若い知識人が既存の知識人・文化人を打倒し否定しようとする動きの中で、彼らの「敵」が忌避したレコード歌謡の中でも、とりわけ軽蔑されていた側面を殊更に称揚する傾向が現れたのです。
寺山修司は「歌謡曲」を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と規定し、「みんなで歌う」ことによる「連帯」を価値とする「うたごえ」と明示的に対比させています。
森[秀人]にとって「大衆芸術」の真正な担い手は、「股旅やくざ」と「遊女」、そしてその現代版としての「チンピラ」と「バーの女」であり、それらのアウトロー的人物像は市民社会からの「疎外」と「性的逸脱」によって特徴付けられています。
第九章 五木寛之による「艶歌」の観念化
日本のレコード歌謡の肯定的な特徴とみなされた(すなわち旧来の知識人が最も軽蔑した)側面を強調して「艶歌」という新たな呼称を与え、一種の概念規定を行ったのは、1966年にデビューし70年代にかけて若者を中心に圧倒的な人気を誇った小説家の五木寛之です。
「こぶし」や「唸り」を「エンカ」の中心的な特徴と見る視点は、現在では全く常識的なものですが、しかしながら、これらは実際のところ、昭和30年代後半に至ってようやくレコード歌謡に取り入れられた音楽的要素です。
第十章 藤圭子と「エンカ」の受肉
第十一章 「エンカ」という新語
「演歌」は1960年代末から72年ごろにかけて、若者向きの流行現象として音楽産業によって仕掛けられていたように見受けられます。
「演歌」ないし「艶歌」が「日本的」なものとして正当性を付与されるにあたっては、股旅やくざと遊女、その現代版としてのチンピラとホステス、そうした人々の空間である「盛り場」といった、「健全なお茶の間」の公序良俗の空間から危険視されるアウトローと悪所にこそ「真の」民衆性が存するのだという発想があった。
やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、それゆえに見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった、ということです。
第四部 「演歌」から「昭和歌謡」へ
第十二章 1970年代以降の「演歌」
現在まで続く「演歌」と「酒」と「北」の強固な観念連合は、この時期[1980年代前半]にはっきり確立されたといえます。
第十三章 「演歌」から「昭和歌謡」へ
「演歌」という言葉である種のレコード歌謡を指示し、それに「日本的」「伝統的」という意味合いを込めるようになったのは1970年前後であり、また、明示的に「演歌」と呼ばれた楽曲がレコード売り上げにおいてまがりなりにも成功を収めていた時期は1980年代半ばごろまでのわずか十数年にすぎません。
終章 「昭和歌謡の死」と再生 
評1
演歌を聴いたことのない中国系アメリカ人に英語で演歌を説明できなかったという思い出がある。なんでそんな話題になったのか覚えていないが、相手はミュージシャンじゃないし、日本の大衆音楽も知らない。真っ青になった。音楽を言葉で説明するのは不可能だと言ってしまえばそれでお終いだ。しかし、音楽それ自体ではなく、どんな背景を持つ音楽かくらいは英語で説明はできる。宮廷の音楽なのか伝承された民謡なのか、何時代の音楽なのか・・。たぶん僕もそういうふうに演歌を説明しようとしたのだ。しかし、英語にならない。日本語でも出てこない。結局、情感を込めた、「こぶし」と言われるビブラート(ビブラートという説明も不正確だが)を多用した、独特の音階を多用する、しかし、民謡ではない歌入りのポピュラー音楽だとか、そんな苦しい説明をしたのだと思う。
さて、この新書は、演歌=日本(人)の心、という神話をビリビリと引っ剥がすために充分な情報量と巧みな引用、極めてトリビアなエピソード、そして、これらを結び付ける時代性と社会性を有する稀有な出来上がりになっている。僕は演歌は「創られたジャンル」であるとずっと思ってきたので、結論それ自体には驚かない。しかし、この結論に至る過程で著者が鍋に放り込んだ圧倒的な具材(音楽)の種類と、それを何日も煮込んで、理論の布で濾過したスープの濃厚さには驚いた。音楽人類学とも呼べる、理論的に鍛えられた研究であるところが新鮮だ。僕の印象では、民族音楽学者が大衆音楽について書くものは、音階(スケール)やらリズムやらの音楽理論に傾いてしまうことが多い。そうでない研究は、反対に、カルチュラル・スタディーズ的な、「記号と戯れる」ような、易しいことをわざわざ難解な言葉に置き換えるだけの論文になってしまうことになり、これもツマラナイ。
中身の紹介をする時間がないので、私的に楽しかった部分を記すと、例えば、都はるみが「うなる」のは、弘田三枝子の歌い方の模倣に由来しているという説明には、「なーるほど!」と膝を叩いた。演歌とは関係ないトリビアだと思われるかもしれないが、そうではない。日本の歌謡曲や演歌がいかに「なんでもあり」で、「雑多」で、「文化横断的」であったかという証拠のひとつなのだ、これは。弘田三枝子。サザンの桑田が「ミ〜コ〜」と叫ぶ曲を録音しているほど凄い歌手であった。今の若い人は知らんだろうが、僕が子供の頃には、アメリカン・ポップスやジャズを歌わせたら弘田三枝子に勝てる歌手はいなかったのだ。今の日本人ジャズ歌手なんて、弘田三枝子の足元にも及ばない。都はるみもまた、ユニークな歌唱法で世に出た歌手であった。
この雑多性こそが歌謡曲の歌謡曲らしさで、その「ごった煮」性がいかに幅広く、また、虚構性に満ちていたかは、この本を読めばわかる。これも若い人は知らないだろうが(こんな前置きを言うようになった僕は老人か?(苦笑))、著者がアイ・ジョージにページを割いているのにも感心した。子供の頃、僕が初めてラテンっぽい音楽を聴いたのは、中南米から来た「本場」の歌手ではなく、坂本スミ子であり、アイ・ジョージであった。ただ、アイ・ジョージについては、その風貌と雰囲気から「ただ者ではない」と感じていたが、いつの間にかメディアから消えてしまったので、忘れかけていた。たぶん、アイ・ジョージという歌い手個人の人気がなくなったというより、アイ・ジョージ的な「うさんくささ」や虚構性が時代に合わなくなってしまったのだろう。「ラテン歌手」という位置づけも今はまず聞かないし営業的にも意味がない。しかし、「「流し」の歌手」という枠組みは気がつかなかった。著者は1974年生まれなのによく調べ上げていると思う。そうそう。「流し」といえば田端義夫だが、田端義夫は絶対に「演歌歌手」じゃない。美空ひばりが「演歌歌手」ではないように。なお、ジェロは演歌について間違った知識を持っているが、それは彼の祖母がそう教えたせいなので、仕方がないし、それを責めるのは無理だ。
それで、僕が気になるのは、五木寛之たちにより、「レコード歌謡の一ジャンルとしての「エンカ」が「発明」され、それが「艶歌」とかいう当て字をされた後、「演歌」となり、「日本(人)の心」として理解され受容されていくプロセスのほうである。これもこの本に詳しいが、「演歌」は、近年は「仏教仏教」と唱えているだけのさほど重要でもないこの作家の妄想とレコード会社の戦略とが一方的に創作した虚構ではなく、「「日本(人)の心」を表現する歌」の不在(これ自体も虚構だが)を埋めるなにかを待っていた多くの大衆の心の隙間にはまったのだろうと思う。カラオケの普及も「演歌」の延命に大きな役割を果たしているのではないか。以上は僕の印象であり、著者の意見ではないけれど、当たらずとも遠からじと思っている。
それから、「演歌」の誕生には、当時のジャズ評論家(左翼的かつ観念的な)やら大衆文化絶対主義者やら新左翼(くずれ)の思想家たちによる解釈も深く関係しているという指摘はよくわかる。僕も、そういう人たちが書いたジャズ本を一応読んでいたので、その功罪は知っている。芸術運動が前衛と大衆とに分離するのが怖いから、情念だとか衝動だとか土着だとかいう方向に行かざるを得ないわけだ。社会主義的芸術運動などは勿論ダメなので、結局、特定の歌手をシンボルにして誉めちぎることにより、その他大勢の凡庸さを浮かびださせることになる。竹中労は美空ひばりを、平岡正明は山口百恵を崇拝した。著者はここに相倉久人を加えているが、僕にはその意図がわかる。これらの異端者たちが論じる大衆音楽論やジャズ論と、「艶歌は日本のブルースだ」という五木寛之の小説の中の一節は、違うようで実はどこかで共鳴しあい、あの時代を作っていったのだろう。
蛇足だが、ここに中村とうようを加えれば、更に面白い味付けができたのではないだろうか。中村とうようは元々はラテン音楽が専門で、ロックやフォークに来たが、「民族性」に強くこだわった評論家であった。NMM誌(今のミュージック・マガジン)を購読していたので、僕も中村とうよう的な見方をしていた時期がある。中村とうようはある種の原理主義というか純粋主義で、ウェザー・リポートを「プリミティミズムの偽物だ」と批判し、「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」にこだわっていた。
で、「演歌」の結語的存在として、この本での議論は藤圭子へとなだれ込むのだが、ここでは割愛する。
以上、かなり強引な読み方をしているので、誤読が幾つもあるとは思うが、お許しを。クレイジー・ケン・バンドや大西ユカリまで出して「昭和歌謡」に言及している事を含め、キャッチーでサービス精神にあふれた著作であることは間違いない。こんなことを書くとひんしゅくを買いそうだが、「大衆はバカだ」という意見には一理ある。歌謡曲という豊穣でユニークな歌の世界(こんなのは世界的にも稀有だ!)を「演歌」で代用するなんて、ほんとにつまらない。ま、好き嫌いだといえばそれで議論は終わりだが、歌は文化であり、大げさに言うと、生き方のスタイル(流儀)でもあるわけで、好き嫌いで済ますわけにはいかない。 
評2
はじめに
近年、日本の歴史、特に戦国時代がブームになってるようですが、歴史に詳しい人にとっては常識となってる事実があります。それは、「真田幸村」という名前の武将は実在しなかったということです。真田信繁という武将は存在したのですが、その「真田信繁」が江戸時代になってから「真田幸村」と呼ばれて今に至っているということです。真田信繁の「信繁」とは、武田信繁(武田信玄公の弟)にあやかったと伝えられてます。真田信繁の父、真田昌幸は武田信玄公の奥近習衆だったんですが、おそらく信玄公の弟の武田信繁には余程お世話になってたんじゃないかなと想像します。
輪島裕介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んみ改めて、70年代に「演歌」が“発明”され、50年代、60年代のある特徴を持った歌(唄)を「日本の心」を持ったものとしてカテゴライズ、包括していったんだなということを認識し、「真田幸村」の存在を連想したわけなんです。
知的・言説的産物としての「演歌」カテゴリー
「昭和30年代までの『進歩派』的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった『アウトロー』や『貧しさ』『不幸』にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修二や五木寛之のような文化人が、過去に作品として生産されたレコード歌謡に『流し』や『夜の蝶』といったアウトローとの連続性を見出し、そこに『下層』や『怨念』、あるいは『漂泊』や『疎外』といった意味を付与することで、現在『演歌』と呼ばれる音楽ジャンルが誕生し、『抑圧された日本の庶民の怨念』の反映という意味において『日本の心』となりえたのです」
「演歌」が「日本の心」と定義づけられた“仕掛け”は上述のようになります。引用を続けます。
「さらにそれは専属制度の解体というレコード産業の一大転換期と結びつくことで、専属制度時代の音楽スタイルを引き継ぐ『演歌』と、新しく主流となりつつあった米英風の若者音楽をモデルとした非専属作家達によるレコード歌謡との差異が強く意識され、昭和30年代までのレコード歌謡の特徴はおしなべて『古い』ものと感じられるようになり、それがあたかも過去から連綿と続くような『土着』の『伝統』であるかのように読み替えられることを可能にしました。」
「こぶし」や「唸り」といった“演歌”的な特徴要素のレコード歌謡への流入は昭和30年代から。
畠山みどりがパロディ、コミックとしてレコード歌謡に取り込んだ浪曲的意匠を、「唸り」という歌唱技法に極端に推し進めたのが都はるみ。
都はるみは、弘田三枝子の歌唱法を模倣したそうです。
その弘田三枝子の歌唱技法は、戦後のアメリカ音楽受容の一つの“到達点”。
「ためいき路線」の森進一も青江三奈も、ともにバックグラウンドは洋楽。
森進一のしわがれ声は、ルイ・アームストロングを意識したもの。
三橋美智也はビートルズより早くダビング録音を行っていたり。
ちなみに、昭和20年代まで“日本調の伝統”というと、「お座敷」などで歌われた「芸者歌手」の歌唱法。
それは、おちょぼ口でか細く歌うもので、歯を見せて笑うことさえ下品と見なすお座敷文化では、大口を開けて声を張り上げたり唸ったりなんて野暮の極みだったといいます。
北島三郎のコスチュームに代表される「和服」姿も、当初はいわば“コスプレ”的な衣装だったようです。
こじつけになるかもしれませんが、現在の“日本人のオタク的心性”に通ずるかもしれませんよね。
著者の問題意識
しかし、輪島氏が本書を書かれた目的は、演歌は知的・言説的に“捏造”されたものだ、と演歌を批判することではありません。
現在の「演歌」が、(輪島氏が愛する)大衆音楽における「日本的」「伝統的」なものを、もっぱら「暗く、貧しく、じめじめして、寒々しく、みじめ」なものとして描いていることへの強い違和感こそ、輪島氏が「演歌」への批判的な研究に向かわせた動機だったそうです。
本書の終盤(第13章 「演歌」から「昭和歌謡」へ)で輪島氏は、「演歌」と「ニューミュージック」がパラレルな存在であり、ともに「J−POP(若者向けの自作自演風の音楽)」に駆逐される経緯を以下のように述べてます。
「『演歌』という言葉である種のレコード歌謡を指示し、それに『日本的』『伝統的』という意味合いを込めるようになったのは1970年前後であり、また、明示的に『演歌』と呼ばれた楽曲がレコード売り上げにおいてまがりなりにも成功を収めていた時期は1980年代半ばごろまでのわずか十数年にすぎません。『演歌』という言葉が市場的に意味を持った時期は、『ニューミュージック』という、もはや死語となった言葉のそれとほぼ重なっています」
それに続けて、研究の目的について述べられてます。
「繰り返しますが、それゆえに『演歌』は『日本的・伝統的』ではない、と主張することは私の本意ではありません。本書で強調してきたのは、『演歌』とは、『過去のレコード歌謡』を一定の仕方で選択的に包摂するための言説装置、つまり、『日本的・伝統的な大衆音楽』というものを作り出すための『語り方』であり『仕掛け』であった、ということです。」
良質な戦後日本ポピュラー音楽史としての本書
ところで本書では、「演歌」というカテゴリに留まらず、戦後(一部戦前)のポピュラー音楽についての、産業、言説的な視点から、きめ細かな実証的な分析・考察が滔々として溢れており、とても読みごたえがあります。
戦後にフォーカスを絞られた日本のポピュラー音楽史を知る上で良質な書籍です。
個人的な感想を述べさせてもらうと、自分が実体験した時代についての言説について、僕よりも年少の方が書かれた書籍では、「ううん、ちょっと違うんだよな、ニュアンスが・・・」と感じることが多いんですけど、僕より約10歳年少の輪島氏の言説から、そういう感じ方は一切受けませんでした。
それどころか、自分が実体験していない過去の事例には心強い納得感を感じました。
輪島氏の研究がそれだけ実証的ということなのかなと思います。
余談ですが、昔から音楽産業において、実は緻密なマーケティング戦略(メディアミックスなど)があったことは周知の事実なんですが、割と驚いた事例を本書で知りました。競合他社の商品(カテゴリ)を貶めるため、わざと“変な”商品をリリースして、新カテゴリ自体を潰してしまうことを「陳腐化戦略」というのですが、この陳腐化戦略まで実行されてたんですね。音楽産業の世界でも。 
評3
昭和を歌う演歌は不思議である。登場人物の多くが、下積み中の流しの歌手であったり、不幸な身の上のホステスだったり、不倫で心中しようとしている女だったり、一般大衆というにはプロフィールが偏っている。その人生は経済成長の時代背景に反して「暗く、貧しく、じめじめして、寒々しく、みじめ」なイメージに満ちている。
著者はまず「日本の心」としての演歌は60年代にはじまり70年代に完成した比較的新しい文化なのだということを明らかにする。明治・大正には社会批判を歌う演歌の伝統があったが、昭和の演歌とは別物であり、それは昭和40年代のレコード業界の再編と専属歌手制度と密接な関係があったそうだ。流し、ドサ回り、長い下積みといった要素は歌手のおかれた背景に由来する。
「推測するに、設立当初のクラウンレコードは経営難であり、派手な広告も打てず、レコードを立て続けに発売することもできなかったため、結果として地道な実演や各地の盛り場の「流し」との連携を通じて一曲を長く売らざるをえなかったのではないでしょうか。それがいつの間にか「演歌の世界の常道」として定着してゆき、今日まで繰り返される苦行のような商店街のレコード店や有線放送局でのキャンペーンといった各種の「言葉」が、業界の「伝統」や「しきたり」としての意味を負わされるようになってゆくのです。」
そして著者は、明るく豊かになった人々が、近代化や経済成長から取り残され疎外されたアウトロー的人物像に対して、ある種のやましさと憧憬を持ちながら称揚したのが「日本の心」としての演歌であると結論している。
「「演歌」ないし「艶歌」が「日本的」なものとして真正性を付与されるにあたっては、股旅やくざと遊女、その現代版としてのチンピラとホステス、そうした人々の空間である「盛り場」といった、「健全なお茶の間」の公序良俗の空間から危険視されるアウトローと悪所にこそ「真の」民衆性が存するのだという発想があった、ということです。」
時代遅れになってしまった人たちを歌っているわけだから、演歌は最新の楽曲でも常に古臭いものなのだ。下層・アウトサイダーの逸脱がメディアを通して、民衆的・大衆的な「国民文化」として定着していく事例は他国の音楽文化にもある普遍的な現象として位置づける。アメリカのルーツミュージックしかり、ブラジルのサンバしかり、アルゼンチンのタンゴしかり。
逆に、エリートやお金持ちを歌う国民文化というのは、大衆社会の力学的にありえないのであろう。流行歌というものが、個の才能(歌手や作詞家、作曲家)によるものであると同時に、同時代の社会学的な構造に規定されて、生まれてくるものだということを明らかにした本でたいへん面白い。研究的にも相当価値のある内容だと思う。 
評4
【第一部】
近代日本大衆音楽史を三つに区分 / 第一期 レコード会社専属制度の時代(昭和初期[20年代後半]〜30年代[50年代後半]) / 第二期 フリーランス職業作家の時代(昭和40年代[60年代末]〜昭和末期[90年代]) / 第三期 J-POP以降の時代
演歌=自由民権運動の壮士の演説歌→ 第一期末の演歌士≒流しの芸人たる添田唖蝉坊・知道親子による「創建神話」。第一期あたりでの「演歌」の支配的な説明。「艶唄」は「演歌」の頽落形態ととらえられる。
【第二部】
第三部において解説される「新左翼知識人」が日本の土俗的原型をみた「艶歌・演歌」に実際には「民謡調」「浪曲調」「流し歌」「やくざ歌」「ムード歌謡」「ナツメロ」といった多様な(かならずしも日本土着とはいえない)スタイルの音楽が流れ込んでいることの解説。第一期までの歌手や「流し」は流行したスタイルならなんでもレパートリーにした。
【第三部】
本書の主張が述べられた部分。進歩派左翼知識人の俗歌・猥歌に対する非難に対抗する形で「新左翼」の左翼ナショナリスト知識人が「艶歌」を「日本のブルース」として再創造していく。その後、健全化・体制化を通じて現在のようなイメージが確立する。
五木寛之の小説「艶歌」(1966年)における「艶歌」観
1、「艶歌」はレコード歌謡黎明期の昭和初期から連続するもので、しかも現在(昭和40年前後)それは衰退しつつある。
2、「艶歌」は「タイハイ的」な歌であって勇壮な軍国歌謡の≪愛国行進曲≫や明朗快活な≪リンゴの唄≫などとは別のカテゴリーに属する。
3、「艶唄」は「やくざっぽい」人物によって、長年のカンに従って制作されており、それは西洋音楽の価値体系とは相容れない。
4、「艶唄」は姑息な販売戦略や派手な宣伝によらず売れるべきものである、また「演歌」が「艶唄」に頽落したことに「庶民の唄」として積極的に評価している。
新左翼論壇の「艶歌」論
相倉久人と平岡正明はフランツ・ファノンやリロイ・ジョーンズなどのポストコロニアル理論の先駆を参考にして「日本のブルース」として「艶歌」に目を向けた。
藤圭子
五木が小説などで提示した「不幸な生い立ち」「暗さ」「怨念」といった少女歌手像を体現する存在として藤圭子が売り出される。藤圭子は演じられたフィクショナルなキャラクターを売る(しかもオーディエンス側もそれを織り込み済み)という点で最初のアイドルでもある。
著者の主張がもっともよくまとまった文
“やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正なプロレタリアート」であり、それ故に見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人なのだ」、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった”
“昭和30年代までの「進歩的な思想」の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な新正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見いだし、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。”
“さらにそれは専属制度の解体というレコード産業の一大転換期と結びつくことで、専属制度時代の音楽スタイルを引き継ぐ「演歌」と、新しく主流となりつつあった米英風の若者音楽をモデルとした非専属作家によるレコード歌謡との差違が強く意識され、昭和三〇年代までのレコード歌謡の音楽的特徴はおしなべて「古い」ものと感じられるようになり、それがあたかも過去から連綿と続くような「土着」の「伝統」であるかのように読み替えられることを可能にしました”
演歌の健全化
アウトローの音楽というイメージから清純化・家庭化する→小柳ルミ子
小柳のデビュー曲≪私の城下町≫(1971年)、続く≪お祭りの夜≫≪雪明かりの町≫≪瀬戸の花嫁≫≪京のにわか雨≫と続く一連の楽曲はは当時の国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を連想させる。「古き良き日本」を表象する。後に家父長制イデオロギーにも親和的になっていく(≪与作≫)。
カラオケナショナリズムとそこで歌われるものとしての「演歌」
1977年カラオケブーム「国際化するジャパニーズ・ビジネスマン」がカラオケで歌うナショナルソングとしての演歌
ナツメロが歌われ、“「演歌」は専ら「過去」と結びつく「歴史的文化財」としての地位を完全に獲得したといえるかもしれません”
「演歌」と「みなさまのNHK」の結合
1981年、演歌を中心とする『歌謡ホール』(現・『歌謡コンサート』)開始。
この番組で“「演歌」は「古くから日本人に親しまれてきた」「スタンダード」として捉えなおされて”いる。この番組の“選曲基準は「視聴者の関心が新しいヒットソングだけにあるのではない」として、「日曜日の『のど自慢』で歌われる曲や、暮れの『紅白歌合戦』のアンケート結果」を重視するという番組スタッフの発言が引かれています。同じく「十一月、十二月は『紅白歌合戦』に向けた特集にしたい」との談話が紹介されています。(1981年3月4日付朝日新聞)”
“現在の「演歌」シーンにおける最高の晴れ舞台(あるいは業界の生命線)と言える地上波全国放送の『のど自慢』『歌謡ホール』(現在は『歌謡コンサート』)『紅白歌合戦』の密接な関係は、ここで確立されたといえます”
カラオケによる歌詞と曲調の均質化
1979年あたりからの「演歌」のヒット曲は旋律・伴奏・歌詞ともにどれも似通っていて、戦後初期くらいのものに逆戻りしたかのようである。「演歌」のイメージも、“男は羽織袴、女は振り袖姿で「古き良き日本の自然と風物と人情」を(カラオケ的な基準で)上手に歌う、というステレオタイプが突出”していく(:313)。その好例が石川さゆり。≪天城越え≫はカラオケで挑戦しがいのある難曲としてヒット。カラオケスナックで主婦を相手に開かれるようになった「お稽古ごと化したカラオケ」が背景にある。主婦層の支持なくして現在の「演歌」は存続し得ない。そのため川中美幸≪ふたり酒≫や三船和子≪だんな様≫といった曲は一夫一婦制と夫唱婦随のイデオロギーを称揚し、鳥羽一郎≪兄弟船≫は兄弟と両親の絆を描くものとなっており、当初のアウトローの音楽という「演歌」のイメージからは対照的になっている。
カラオケの脱演歌化
カラオケの中心がJ-POPに移ることで演歌は駆逐されていった。
「歌謡曲」「昭和歌謡」
「歌謡曲」「昭和歌謡」といった言葉も、かつての「演歌」と同じく、それまでの多様なレコード歌謡を現在の視点から再カテゴリー化したものといってよい。(レコード歌謡-演歌とJ-POP=歌謡曲、昭和歌謡)「昭和歌謡」はなんとなく昭和的なサウンドのオリジナル曲をだすJ-POPアーティストを呼ぶ言葉(初めは椎名林檎を指す言葉だった)である。他にエゴ・ラッピンやクレイジーケンバンドなど。「サブカル的」な卓越競争において普通のJ-POPや「洋楽」ロックを聴くものよりもセンスある選択として「歌謡曲」「昭和歌謡」が選ばれるという背景もある。
「国民音楽」
「国民音楽」を創出しようとする歴史的・イデオロギー的動態としてはキューバのソン、ブラジルのサンバ、アルゼンチンのタンゴなどと「演歌」とは構造的に似通っている。
“なるほど、「演歌」は「日本独自」の「国民的」な音楽ジャンルかもしれませんが、「下層」の逸脱的な表現を素材に、西洋近代由来の高級文化志向との対抗において、民衆的・大衆的な独自の「国民文化」を立ち上げる、というプロジェクト自体は、他国・他地域とりわけ西洋中心の「世界システム」の「周縁」に位置づけられた場所)における「国民文化」の創出過程とかなりの程度共通点を見いだせるものであり、そのような観点での比較・検討が今後の課題となるでしょう”
おまけ
“「農耕民族」は二拍子、「騎馬民族」は三拍子といういい方は、民俗音楽学者の小泉文夫や小島美子に由来すると思われますが、それ自体きわめて根拠薄弱で、疑似科学的な「日本文化論」の一種というべきです” 
評5
「演歌は日本の心」とよく言われるが、現在の「演歌」イメージがいつ頃から生成されたかを検証する本。
執筆者はジメジメ演歌ではなくもっと明るい歌謡曲が好きなようだが、変なあてこすりや自分の趣味に合わないものを糾弾する姿勢は希薄で、好感が持てる。
60年代のサブカル史、すなわち品行方正な文化を志向する既成左翼から周縁文化を持ち上げる新左翼的言説までの流れを詳細に追っており(その後「J-POP」という言葉が出てきてから現在までも論考の対象になってはいる)、「同じサヨクでも言ってることが違うじゃん」と思う若い人は、2000年代までのサブカル評論における思想的背景の概略が把握できる良書である。
ただし、私自身は日本の戦後歌謡史にも疎いし、音楽の専門知識を有しているわけでもない。だから、本当に細かいところまでの、本書に書かれていることの厳密性は保証できない。
しかし、前述のように「同じサヨクでも言っていることが違う」という「流れ」の記述の正確さについては、かなり太鼓判を押すことができる。
そしてそれは、現在の広義のサブカル評論の地図を思い描くにあたっても重要な、基礎教養的な部分なのである。
以下には、その辺のことについて(本書の内容からはやや離れるが)書いてみたい。
その1
もともと、戦後に共産党を中心とする左翼は「品行方正な方向に人々を導く」ことを主眼としていたらしい。
だから、わりとお行儀のよい、上品な歌を推奨していたようだ。
その裏には(これは私見だが)「左翼思想」そのものが、外来の普遍的価値を持つモダンな思想であって、それにふさわしい、コスモポリタニズムを象徴する「歌」の存在が問われたのではないかと思う。
で、ここまでは若い世代でも「なんでそこまで?」と思ってしまうところ。
この動きに対して、反発が起こる。「日本の『土着的なるもの』を顧みることこそが大切なのではないか」という動きである。本書によれば歌謡史においては竹中労の美空ひばり礼賛がそれに当たる。
本としてもかなり売れたらしく、単なる一評論家が狭い世界でブチあげた珍論ではない。
この竹中の「ひばり礼賛」は、左翼的思想の深いところでは「外来の先進思想である社会主義、共産主義を無知な人々に教えてやる」という態度ではなく、人々の日々の生活の中に自然にあるものを見つめ直し、そこから社会主義なり共産主義なりを考え直さなければいけない、という反省があった。
時期的には60年代の後半からだと思う。
同時代的には、別ジャンルとして本書にもあるように任侠映画や劇画の評価、柳田民俗学の見つめ直しがある。
根本的な「なぜ左翼なのか」だが、その頃の時代の勢いもあっただろうし、当時のサブカルチャーをまともに論評の対象にしていた人々のほとんどが左翼的文化人だ、ということもあったのだろう。
本書の面白いところは、単なる概略にとどまらず、竹中労の「ひばり礼賛」や五木寛之が「艶歌」という小説に書いた「日本人の心の原像としての演歌そのもの」が、悪い言い方をすると歴史観の捏造を含んでいるのではないか、と疑義を提示しているところにある。またそれを立証しようとしている。
そしてそれは、同時代では三角寛の「サンカ研究」評価や山田風太郎の伝奇小説、デニケンの「宇宙考古学」人気ともつながっている。
ここはいくら強調してもし足りない。
(フィクションを書いた山田風太郎は別として)ある種の人々はある時期に、「日本人の歴史」をやんわりと捏造しようとしたのである(その是非は、ここでは置く)。
ちなみにオタク的には70年代に「原日本人」が存在するとする「アイアンキング」などに「日本人の原点」論がかいま見える。
「キカイダー01」で斜光器土偶型の巨大ロボが出てくるのも、この流れである(内容はあまり関係ないようだが)。
その2
話が大きくなり過ぎ、またやや否定的になってしまったので話を戻そう。
たとえば竹中労、五木寛之が「情念の吐露としての演歌(艶歌)」を称揚したとすれば、その後、それをさらに一方で「山口百恵」にポップ化させ、「ジャズ」でコスモポリタニズムに目を配り、一方で浪曲などのさらなる過去へ向かったのが平岡正明である。
また、70年代後半以降、「河内音頭」に注目したのが朝倉喬司。
ミュージシャンでは岡林信康が、メッセージ性の強いフォークから70年代半ばには「演歌に開眼した」とウィキペディアにはある。さらに80年代半ばには日本民謡を取り入れた、とある。
(余談だがyoutubeに、岡林が演歌の要素を取り入れた歌を歌っている姿があった。歌詞の中では「ディスコで踊ったって所詮イエローモンキーだ」というような言葉が出てくる。ここでもやはり「日本人の原点回帰」の思想が見て取れる。あまり評価されなかったようだが、この「エンヤトット路線」というのはなかなか面白い! ダンスミュージックなんだもの。)
で、本書にも指摘があることだが「大衆の原像を観るため」という理由で、さまざまなジャンルへの目配りや過去の掘り下げ(そしてそこにはやや恣意的なチョイスや捏造と言わざるを得ない歴史の改変があった)が行われた。
これは政治的な流れとしては、共産党やその青年団体である民青のやり方に不満を持った人々が「新左翼」を形成する中で起こった出来事である。
つまり、「共産党的なるもの」をよりパンキッシュになることによって克服しようとしたのが全共闘運動、新左翼運動で、それを把握していないと60年代後半から70年代終わりまで、「何が採用され、切り捨てられていったのか」が見えなくなってしまう。これらは基礎教養である。
その3
さて、ではこれらの考え方がオールマイティであったかというとそうではない。インテリ/民衆という壁を突き崩そうとしたのがそれらの考え方だが、それをどんなに実践してもインテリが民衆そのものにはなり得ないという事実があるし、実際にインテリが「おれは民衆の意見を完全に代弁できる」と言ったとしたらそれは欺瞞であろう。
その欺瞞性を指摘した人物の一人がマンガ評論家でもある呉智英だ、と自分は思っている。
以下はぜんぶ当時をよく知らない私の予測だけで書くのだが、彼の著作の中に入っている、彼が典型的な新左翼だと思っている人たちとの論争、これらはほとんど竹中労や平岡正明に対する間接的な攻撃なのではないかという気がする(論争の相手は、たいてい平岡の弟子筋の人物である)。
呉智英が80年代に注目していたのは、今考えれば「中流意識」があまねく蔓延した時代に、どのように「知性」を救い出すかという点にあった(と思う)。
大半が中流意識を持っている以上、あらゆる事象はリアリティをなくし浮遊してしまう。
彼が「(学生の)自己否定は自己肯定」と学生運動のアジ演説で言ったというのも、60年代からいわゆる「自己否定」に欺瞞性をかぎとっていたという意味で興味深い。
だから、呉智英の「読書家の新技術」などを読むと、その読書ラインナップには柳田国男などの、他の新左翼系の評論家が勧めるものと同時に、わりと固い古典的な本が並ぶ。
おそらく、彼が志向していたのは「日本的なるもの、土着的なるもの」を理解しつつそれに浸りつつ、そこからどのように、再びオピニオンリーダーとして「知性、知識を持った者」が立ち上がるべきか、ということの模索だった。
また別の「一億総中流意識によって、あらゆるものが(かつてとは違って)リアリティをなくしてしまう浮遊感」に抗しようとしたのが村上春樹である。
今考えるとそうたいした話しでもないのだが、やはり寓話としてはつい例に出してしまいたくなる「パン屋再襲撃」などは、60年代に若者だったものの「時代に対する空振り感」をよく表現していると言わざるを得ない。
なお、70年代終わりの「ディスカバー・ジャパン」やアンノン族の国内旅行などは、本書にも指摘されているが「原日本人像を探る」というムーヴメントのポップ化、悪く言えばなれの果てであった。
その4
だがいずれにしろ、「過去に沈潜することによって『本当の日本人像にせまろうとする』」という考え方は80年代いっぱいは(それが欺瞞であっても)エンターテインメントの世界では「おとしどころ」として生きることになる。
以上、また自分の考えのまとめとしてダラダラ長文を書いてしまったが、とにかく60年代から70年代終わりくらいまで、同時代的に各ジャンルで似たようなことが起こっていたことが、理解されればいい。
なお、70年代にはサブカルシーンにおいて「アメリカンニューシネマ」の影響が色濃く入ってくることになるが、それについて語るとややこしくなるので別の場に譲りたい。 
評6
本ブログの一回目で、音楽が持つ「始原」を喚起させる力みたいな話を書いた。「神話力」「始原力」とでも呼んだらいいのだろうか。
一方で音楽は、強固な本質として、身体感覚に訴えかけて来る「現前性」の魔力みたいなものも持っている。
音楽が持つこの2つの特質を、不用意に言語化したり、さもなくば自覚的に悪用すると、割と簡単に「歴史の偽造」「始原の捏造」に繋がる危険性がある。
常に始原と統合を必要とする宗教やファシズムと、音楽運動や音楽芸術の親和性は今さら言うまでもない。
(まあそれを言うなら近代国民国家の統合・教化装置としての音楽に触れるべきだろうか?)
・・・そこまで大上段で自覚的ではなくとも、実は商業音楽・大衆音楽こそ、虚実を交えた「始原」「歴史」「俗説」の言説の中にあり、自己言及的なナショナリズム形成のベースとなっているのではないだろうか。
この10月に発売されたばかりの輪島裕介「創られた「日本の心」神話〜「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史」(2010年・光文社新書)は「偽史としての演歌」「装置としての演歌」に迫る本である。
1974年生まれの若手の音楽・文化史研究者である輪島は「演歌= 日本人の心」として当り前の様に語られる言説と、実際の歴史の間にある隙間や亀裂を、主に実際の制作者・歌手・楽曲の実際の音楽的系譜や、その語られ方の変遷を詳細に語ることで掘り下げてゆく。
(輪島は、レコード歌謡の時代区分を「レコード会社専属作家の時代」「非専属職業作家の時代」「J-POPの時代」と区分し、その後の分析の基本視座としている。)
そして、昭和40年代に浮上した「演歌(艶歌)」は歌謡曲やレコード歌謡の下位概念にすぎなかったことや、「演歌」概念の成立と共に、それ以前の様々なルーツと個性を持った楽曲や歌手が、後付けで「日本人の心としての演歌」の概念の中に括られて行ったことを、それら多様な楽曲や歌手の実相と共に明らかにしてゆく。
例えば、美空ひばりの代表作とされる古賀政男作の「柔」「悲しい酒」は、実はピークを過ぎた古賀・ひばりの二人の大物が、当時の新興勢力である偽古的な田舎調に寄り添うことで成功した例であるという。
これらが後付けで「演歌の代表曲」と位置付けられたことにより、二人のモダンで明るい側面−古賀の戦前からの都市インテリ的側面や、ひばりの流行歌手としての万能選手的なレパートリーの広さ−が見えにくくなっているという。
そして「演歌」概念の本格的な成立には、1960年代の政治・文化状況、そして新左翼的・大衆主義的な文化人の影響力も大きかったという。
特に、元レコード会社専属作家で、自ら小説「艶歌」を書き、演歌を日本の反権力的・土俗的な伝統に連なるものとして位置付けた仕掛け人としての五木寛之の重要性の指摘と、その小説「艶歌」内に潜む虚実操作の分析は非常に鋭く興味深い。
・・・以前本ブログでも五木の作品に触れたことがある(「中野の夜の戦後精神」)。
彼の初期作品に潜む乾いたニヒリズムが、反権力的土俗の系譜と想像上で結合した時、偽史としての「艶歌」(のちに「演歌」。この2つの呼称の違いについても輪島は触れている)というジャンルが登場したのだろうか。
それが現実に、例えば藤圭子など実際の歌手にフィードバックされ、再話・反復され、強化されていく・・・。
勿論本書はホブズボウムの「創られた伝統」概念を押さえた上で書かれており、その意味では近代国民国家の文化伝統の創出という、個別的でありながら普遍的なテーマに繋がる大真面目な本であるのだが、一方でどうも、輪島はそもそも純粋に歌謡曲が好きで、しかも最新のサブカルチャーにも相当詳しいと思われる。
それぞれの楽曲や歌手・作家の特徴の紹介も、一つ一つは短いながらもそれこそオタク的に詳しく、本書はトリビアをも含めた「輪島版・読むヒットパレード」の様相も呈しており、純粋に面白い。
そして、学術的な語り口に混ざって、しばしばサブカルっぽい顔や語り口が(特に楽曲の制作体制からその受容や語られ方へと焦点が移行する後半部に)見られるのが面白い(例えば虚構性を演じるアイドルの先駆者としての藤圭子を語るうちに、アイドルの虚構性を戦略的に打ち出した小泉今日子や、おニャン子倶楽部の仕掛け人、秋元康の「フェイク演歌」にまで思わず言及してしまう辺りなど)。
そして、本書の最終第4部は、21世紀に入り、演歌をも包含して成立した「昭和歌謡」という概念−DJ文化から発生した点サブカルであり、より広い「昭和ブーム」に親和的である点でマスでもある−の言説分析に割かれている。ここで「昭和歌謡」の体現者とされる阿久悠や、その言説の継承者としての半田健人の語る歴史区分の不正確さを輪島は批判してゆく。
・・・それを読みながら、この本自体が、「演歌」というジャンル概念がある程度脱神話化され、代わって「昭和歌謡」という別の神話が生まれつつある21世紀の現在だからこそ、書かれるべくして書かれた一冊だったのだな、ということを改めて感じさせられた。
そのようなメタ的な視点すら誘発してくれる、刺激的でユニークな本である。 
評7
岩井直溥の語り下ろし自伝 / 上海時代のお兄さん、岩井貞雄のシロフォン奏者としての活躍の話(のちに上海交響楽団で朝比奈隆とも共演したのだとか)からはじまって、東京音楽学校では戦争中なのに橋本国彦からジャズ和声を教わって(岩井直溥は片山杜秀がしばしば言及する話題の生き証人の一人ということですね)、戦後は進駐軍将校クラブバンドからアーニー・パイル劇場、フランキー堺とシティ・スリッカーズ、弘田三枝子……というように、戦後のジャズ・洋楽史の重要な名前が次々でてきて、吹奏楽をやった者なら誰もが知っているニュー・サウンズ・イン・ブラスの前にこういう歴史があったのかと、驚きました。
進駐軍の将校クラブから紙恭輔のシンフォニック・ジャズを経てコミック・バンドというのは、ポピュラー音楽としてのジャズの王道ですよね。
岩井直溥がメイン・アレンジャーだったヤマハのニュー・サウンズ・イン・ブラスという吹奏楽ポップスのシリーズは、ちょっと背伸びしたい中高生向けで、そのうち本物のジャズやロックやフュージョンにアクセスするようになって自然に卒業するもの、というイメージですが(ブラバンよりもジャコパスやチック・コリアのオリジナルに夢中になる、という形で)、その匙加減も意識的だったようで。
ディズニー・メドレーのティンパニではじまるオープニングはアーニー・パイル劇場のレビュー、「飾りのついた四輪馬車」のスライド・ホイッスルはシティ・スリッカーズと考えると(私の吹奏楽の知識は80年代半ばで止まっているので、古めの曲ですみません)、岩井直溥のアレンジは昭和のジャズ(ビバップが入ってくる前)の生き証人なのかもしれませんね。
そういえば、序論で小林信彦にも言及しながら「レコード歌謡としての演歌」に流れ込んでいる諸々を整理する新書が出ましたが、個々の情報はすごく面白いのに、書物を成立させる背骨が「カルスタ」なのは、ちょっと残念。
(「カルスタ」であることはタイトルから明らかなので、ストーリーの本筋以外のところで面白いところを見つければいい本なのだろうと、事前に心の準備ができて助かったとも言えますが、「レコード歌謡」の雑種性(岩井直溥も東芝専属時代にそこにどっぷり浸かっていた)が、「日本の心」は創出された伝統である、というこの書物の論旨を飲みこんで圧倒している印象をもちました。美空ひばりや都はるみ(本書で前者は笠置シヅ子の大人びて上手すぎる物真似からスタートし、後者は弘田三枝子の歌唱から唸りを学んだとされている)が「日本の心」に回収しきれなさそうだという主張はなるほどその見方のほうが有望だろうと直観的に思いますが、竹中労や五木寛之を考えるときに、「カルスタ」的言説批判は問題のとっかかりでしかないと思われ、この先の見通しがあるのかどうか、そこが気になります。
あと、「○○をただちに連想させる」とか「××を強く印象づける」といった語法で難所を乗り切ろうとしている箇所があるのが気になりました。「ただちに」であろうが「じんわり」であろうが、強かろうが弱かろうが、書き手の未だ十分に論証されていない印象を読者に押しつけられては、読むほうが迷惑する。そんなやり方で歯切れの良さを演出するのは邪道だと思います。この種の、書き手のワガママを読者に強要する論法は、増田聡や岡田暁生の得意技ですが、あんなものをマネしてはいけない、と少なくとも私は信じます。(「強く」も「弱く」もなく、単に、信じます。)
竹中労の美空ひばり論に事実の歪曲がある、という指摘が「神話創出」の現場を押さえる決定的な箇所のひとつになっていて、この箇所は著者の口調も高ぶっていますが、「(竹中が下敷きにした文書を)素直に読めばこうなる」というだけでは弱いのではないでしょうか。たとえば共産党訪問団が実際に何を訪問先で歌ったのか、第三の文書や記録の傍証を求る等の手順がなければ、おそらく「公判」を維持するのは難しい。そういう証拠固めがあれば、研究にも広がりが出て一挙両得のはず。学問には、衝撃の映像を使ったプレゼンでシロウト裁判員を説得すればオッケーな最近の人民裁判とは違うロジックがあるはずだと思うのですが……。
(こういうとき、増田聡だったら、「これからは学問もコモンセンスに訴えるべきだ」とか言うのでしょうが、文化研究は、ひとまずコモンセンスに訴えて支持を得たはずの主張を再検討した場合の混乱や不一致を問題にしているはずで、コモンセンスのレヴェルで判断不能だったら、歴史的な事実の検証など別次元のロジックを呼び出すしかない。輪島さんがマスダと同類だ、というわけではないですし、紙数の関係で簡略に書き、実際には事実関係を調べてあるのかもしれないですが……。[補足:傍証は調べてあり、うたごえ運動で「越後獅子」と言えば美空ひばりではなく、それ以前から知られているアレという風に認識されていたようです。
本の「あとがき」に増田聡の紹介でこの新書が実現した、などと書いてあるので、どうしても党派性を警戒しながら読んでしまったのです。ややこしい人間と関わり合いになっているのだなあ、せっかくの面白いテーマが、変なところでねじ曲げられなければいいのだけれど、と思いながら。)) 
評8
副題は「「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史」。「演歌」という「伝統的」と思われているジャンルが、1960年代に成立し、そして70年代から80年代にかけて「日本の心」となっていった過程を丁寧に論じた本。
新書の枠をはみ出すようなページ数(350ページ超)と情報量で、読みやすい本とは言えないのですが、たんに「演歌」だけにとどまらず、日本の大衆文化と政治性を深く出した本です。
「演歌」の語源は、自由民権運動の時に歌われた「演説の歌」であり、明治・大正と「演歌」は脈々とその歴史をつないできた、という演歌の「伝統性」はちょっと調べれば怪しいものだとわかります。
「演歌の女王・美空ひばり」のデビューは「ブギの女王・笠置シズ子」のモノマネでしたし、「演歌の王道」のように思われる古賀政男のメロディも戦前期は「ラテン風」、「南欧風」と言われていました。また、藤山一郎、淡谷のり子といった歌手たちは、いずれも音楽学校で西洋的な歌唱法を身につけた歌手であり、いわゆる「コブシ」や「唸り」といった演歌の歌唱法とは一線を画しています。
「演歌」は歴史の中で綿々と受け継がれてきたのではなく、ある時点でさまざまな歌が「演歌/艶歌」としてカテゴライズされ、そして「伝統的」、「日本的」とされたのです。
作曲家・船村徹と作詞家・高野公男のコンビがつくりあげた「都会調」に対する「田舎調」の楽曲群。畠山みどりがパロディ的に持ち込んだ「浪曲」の意匠。「下積み」や「流し」のイメージを売り物にした、こまどり姉妹や北島三郎。洋風ブルースで夜の盛り場を歌った青江三奈や森進一。戦後民主主義批判の中で見出された日本の土着的、あるいは夜の盛り場の歌。それを言説化してみせた五木寛之。その五木寛之のイメージする「艶歌」を体現してみせた藤圭子。「艶歌」の「艶」の字が常用漢字でなかった頃から入り交じる「演歌」と「艶歌」。
挙げていけばキリがないのですが、これらの様々な要素と状況が重なって、「演歌」というカテゴリーが誕生します。
正直、あまりにも多くの要素がありすぎて、もうちょっとすっきりとした見取り図は描けなかったのか?とも思いますが、このあまりにも雑多な要素から見えてくる政治性というのも面白い。
やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正の下層プロレタリアート」であり、それゆえに、見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能になった、ということです(290p)
これは藤圭子の登場によって「エンカ」という言葉が流行語になった現象を説明したあとに置かれた文章ですが、ここからは日本の「労働者階級」の弱さ、「反近代」という立ち位置を共有する右翼と左翼の同根性など、さまざまなことが連想できます。
さらに、「演歌=韓国起源説」を否定したあとで引用されている平岡正明の北島三郎についての「おねがいだから、在日朝鮮人であってほしい」との発言。知識人のある種のマイノリティーへの歪んだ入れ込みが戦後の大衆文化を駆動してきたこともうかがえます。
この他にも小柳ルミ子などによって「風俗」的なイメージが脱色された演歌とそれにのっかったNHK、「歌謡曲」というジャンルの消長など興味深い部分も多いです。
もう少し整理されていたほうがよかったのでしょうが、演歌に興味がなくても、戦後の大衆文化、そして文化と政治の問題に興味がある人はぜひ読むべき本だと思います。 
 
乃木将軍と音楽

前回述べたように、父は1937年(昭和2年)に、『新しき笑いと教訓』という本を出しています。「笑い話・教訓集」なんですが、これを読むと、コントのような話のほかに、父がどのような音楽環境にいたか、また、明治から大正にかけての日本における西洋音楽の受容ぶりがたいへんよく分かります。
さらには、「ああ、この岩井貞麿という人は、確かに僕の父なんだなあ」と思わされる部分もあります。今回は、この本から、いくつかご紹介しましょう。 
乃木将軍家に出入りしていた父
この本の中身は、いまでいうショート・ショートばかりですが、いくつかは、かなりの分量の項目もあります。
そのひとつが≪乃木将軍と音楽≫。
いま、これを読んでる若い方々は「乃木将軍」なんていっても、わかんないだろうねえ。
乃木希典[のぎ・まれすけ](1849/嘉永2〜1912/大正元)。明治時代を代表する軍人です。日清戦争(1894/明治27〜1895/明治28)、日露戦争(1904/明治37〜1905/明治38)で活躍した功労者。日露戦争では2人の息子が戦死し、「わが子を国に捧げた」といわれた。その後は学習院院長となり、特に昭和天皇の教育にあたられる。明治天皇が崩御すると、その大葬の夜、夫婦揃って自害し、あとを追った。
まあ、典型的な明治の男ですね。
で、父は、その乃木家と親交があったようなんです。
≪乃木将軍と音楽≫は、こう始まります。
旅順口の戦で名高き乃木将軍!
親しく接せざりし人は、その名を聞いただけでも怖い将軍と思い込み、気の弱い人は縮み上がってしまう。
だが、突貫と肉弾よりほか知らぬ人だと思いがちだが、これが大間違い。文武両道に秀でる武将の典型である。
私は音楽をやる。始めてから20有余年。我こそは世界一、日本一の大音楽家とは申さぬが、これでも音楽を知らざる人から見れば「先生様」だ。
旅順口で戦死した将軍の令息2人は私の親友。遊びに行っては、僕はヴァイオリンを弾いたり菓子を食べたりしゃべったり、ある時などは朝から行って晩飯までご馳走になり、風呂まで入って帰ってきたこともしばしばあった。
乃木将軍も始終、その部屋に顔を出されて私の拙劣なる音楽に耳を傾けてくださった。そして、「中国でも昔より<礼楽>と称し、音楽をもって修養の一科となしてある。おおいにまじめに研究せよ」と力づけてくださった。私もその言葉に感激して一生懸命「まじめの音楽」ということを標榜してこれをおさめた。私の今日あるのも、その賜物である。
そして、日露戦争で、乃木将軍率いる第3軍が旅順を陥落させ、奉天に司令部を置いたとき、連戦連勝ムードに兵士たちの士気がゆるみ始めた。すると、
将軍、おおいにこれを憂い、この惰気を一掃するのは音楽に限る、軍楽に限る、と思いつかれた。自ら志気を鼓舞せんがため、軍歌をつくられ、これを第3軍付属軍楽隊長に命じて作曲せしめて、朝に夕に集まりともに合唱せしめられ、その一方、軍楽隊に各宿営地を巡回せしめて奏楽させておおいに志気の涵養につとめられた。
こういった戦場における軍楽隊の効用が具体的に説明され、
将軍が凱旋後、よく私にこの話をされた。「軍隊に音楽の必要なことは戦地においてしみじみ、これを感じた。君もそのつもりで、一生懸命、頼む」といわれた。将軍がかく思われたくらいだから、よほど、その必要を認められたものと思われる。
とまあ、いかに乃木将軍が音楽に理解があったかが、綴られています。
そしてここからが父のいいたいことで、これからさらに戦争ともなれば、時代は「連合軍」となっているから、他国の軍人たちと接する機会が多くなるはずだ、というのです。そんなとき、
「日本の将校音楽(軍楽)を聴かせてください」「ダンスはいかがですか」と促されたとき、ガリガリ頭に青筋を立て、四角張ってサンマの干物のように堅くなって「私はダンスは知らんであります」「私は音楽なぞはわからんであります」とやるのが、これまで大部分であった。こんな風では、意思の疎通なぞ思いもよらぬ。これだから常に不利の位置に立たせられて馬鹿にされる、軽蔑される、日本の将校は野蛮だな、とあとで陰口を叩かれる。「日本の将校は戦が強いだけで、文学も音楽もわからない低級なものである、彼らはブルドッグに等しい」と。こんな調子では、甘い汁はいつも外国軍に吸われてしまいはいたさぬか。
なかなか先見の明があったんですね。たまたま音楽を例にしていますが、これ、先日の洞爺湖サミットにおけるどこかの国の首相みたいじゃないですか。
僕はぜひ、日本の将校連中に音楽を奨める。必ずしも自分自身でヴァイオリンを弾いたり、ピアノを奏したりすることは第二の問題として、聴くだけの力を養ってもらいたい。諸君が西洋料理を食べて、これはうまいとかまずいとかいう味覚を有しているがごとく、音楽を聴く力、すなわち「聴覚」をもおおいに修養することが必要だ。
音楽をやったり聴いたりしたとて、決して恥にはならぬ。柔弱にもならぬ。もってのほかだ。
音楽を聴いて、あの曲は○○行進曲であるとか、ダンスに用いる曲か、ワルツか、くらいはわからなくては、文明の今日、わが国の将校としてはその資格に乏しい。軍人の口癖にいう「攻撃精神」は、単に講話や訓示などではだめである、不足である。
僕をしていわしむれば、兵卒に「音楽」、すなわち「軍楽」を聴かしむるに限る。すなわち「行進曲」をおおいに聴かすのである。
ここから、「行進曲」の効用が綴られます。それがいちばん簡単な軍人教育である、と。
なのに、
簡単にしてかつ実行しやすきことを尊ぶ軍隊において、なぜ、音楽を利用しないのであるかと、僕は平素より不思議に、かつ遺憾に思っている。
軍隊には「軍楽隊」という立派な一団体があるではないか。
なのに、それを兵卒教育に利用する道を知らぬ。知らぬがゆえに不用視される。軍楽隊は、ただ奉迎奉送、あるいは年に一、二度の観兵式にのみ用いるものと思っている。邪魔者扱いにされるのも無理はない。
不用視したり邪魔者扱いにするのなら、軍縮のこの時期だ、きれいさっぱりと全廃したほうがよい。
僕は、時勢に順応し、全国の各師団に一隊くらいの軍楽隊が設けられているものと思ったら、なんと、ドシドシ減らして、いまでは東京にたった一つ、大日本帝国の軍楽隊は哀れにその痕跡をとどめているだけだという。
あるところで外国人に「あの軍楽隊は、どこの連隊の付属か」と聞かれて、僕は実に返答に窮した。まさか日本にたったあれだけだとは、大和民族たる僕の口からは言えなかった。実に哀れ無情を感じた。外国には連隊ごとにあるのだから話にならぬ。
日本の軍楽隊は、明治の初め、現陸軍の創設当時よりある。明治4年ころにおいて、すでに軍隊に軍楽隊の必要を認めて、それを編成内に加えた西郷隆盛ドンたちのほうが、大正の今日の時勢に逆行しドシドシ打ち潰しにかかっている人たちよりも、実にえらいもんじゃ。諸君もそう思わないか!? 
芸者軍楽隊?
どうもこのころ(大正時代)は、陸軍の中央に軍楽隊があるだけだったみたいですね。
時代が時代ですから、こういった「提案」は、すべて軍隊や戦争がらみの話になっていますが、要するに父がいいたかったことは、もっと音楽を生活の中に組み入れよ、ということだったのでしょう。息子の僕がいうのもナンですが、けっこう、いいことをいっています。
ところが、ここから先が、なんというか、まさに「岩井貞麿」ならではというか、「ああ、やっぱり僕の父親だなあ」といいたくなる部分なんです。
今日のごとく、わずかに痕跡をとどめる程度に軍楽隊の一小部隊を残しておくくらいなら、軍縮の今日、いっそ全廃したほうが国費の出費もいくぶん楽になる。もし観兵式などに音楽が入用とあらば、すべからく芸者の動員を行い、文金高島田、左褄をとって整列せしむる。
「分列、前へ!」 の号令とともに、三味線、太鼓に、笛、鼓で「コリャコリャ、ドンドン、チン、ツン、シャン」とやる。足は揃う、兵隊は喜ぶ、士官も喜ぶ。
「頭[かしら]、右!」 おっとどっこいと、頭を右に向けて芸者隊に敬意を表する将校も出てくるだろう。
今後、また戦争が始まれば、国民軍も出れば、女軍も出征の覚悟が必要だ。芸者の動員のみならず、女軍が出れば女医も出る。産婆隊も編成されて分娩器具を馬に積んで「前へ!」。
滑稽だ、空想だ、なぞと思ってはいかん。男も女も国をあげてつとめる覚悟が必要だぞ。
さっきまでまじめに、戦争における音楽の効用や軍楽隊の必要性を論じていたのに、急にこれでしょう。
でもね、僕が後年、特にポップス・アレンジで使う手法に、どこか似てるんですよ。ある時点までカッチリ進んでいたのが、途中からガラリと姿を変えるスタイル。やはり「血」なんでしょうか。 
女子学習院、音楽教育のルーツ
ただし、この≪乃木将軍と音楽≫の章は、この手のお笑いでは、終わっていません。
最後に、乃木将軍がいかに音楽に理解があったか、具体的なエピソードで締めています。
現役を引退し、学習院の院長になった乃木将軍のもとに、あるとき、女子部の生徒数名が「自習用のピアノを備えてほしい」と懇願にきたそうです。
で、タバコを吸いながら話を聞いていた乃木将軍、その日の昼食時、姿が見えなくなった。いったい、どこに行ったのかと思いきや、将軍の乗馬姿が銀座の楽器屋の店頭に現れた。店員は将軍のご来店とあって、頭が地べたにつくほどお辞儀をした。
院長は馬上より三軍を叱咤する大声とはうって変わって優しい声で、「ピアノを2台、すぐ学校に届けてくれよ」と、生徒のためにピアノを注文せられ、再び馬首をめぐらして帰っていかれた。翌日、荷車に積んだ新しきピアノ2台は、エッサカホイの掛け声勇ましく運ばれ、自習室に備え付けられた。
生徒は飛び上がって喜んだ。自習室からは妙なるピアノの音がもれてくる。院長もこれを喜んで聴いておられた。これが基礎となって、女子学習院で、今日、秩序的にピアノを教えるようになったのである。つまり女子学習院でピアノ教育が行われるようになったのは、乃木将軍のおかげだというわけです。
そしてさらにラストで、こんな話が紹介されて、≪乃木将軍と音楽≫は、終わります。
××子爵に会ったとき、「岩井くん、うちの娘もピアノを習いたいといっているが、いったい、音楽なんてものは嫁に行っても必要かね」と聞く。
なんという愚問だろう。いまどきの紳士、○○大学卒業生、枢要な地位、光栄なる職にいる人が「音楽が嫁に行っても必要か否か」とは。
僕は「回答の限りにあらず」と答えてやりたかったが、「音楽は女子学習院でも教えておりますよ。女子学習院は皇后陛下の思し召しによって建った学校です。その学校で教えているからには、皇后陛下が音楽を必要と思し召されたからでしょう。嫁に行っても必要であるや否やは、私にはわからない。皇后さまにうかがってごらんなさい」
××子爵、ギャフンとまいった。 
 
演歌と日本

私たちの生活の中で、演歌がどれだけの人に聴かれているのだろうか。テレビのゴールデンタイムといわれる時間帯での音楽番組や、ラジオでは最新曲が中心にかけられているが、その中に演歌が含まれることはほとんどないと言っていいだろう。
実際、演歌の人気はこの数年の間どんどん下がっているという。とくに私と同世代の人たちには馴染みがなく、実際のところよく知らないという人がほとんどであると考える。日本にとって演歌は、フランスでいう「シャンソン」であり、イタリアでは「カンツォーネ」、アメリカでは黒人が「ジャズ」で感性を表現しているのと同じ存在であると言ってもいいのではないのだろうか。
そのため、演歌の中には日本の伝統、文化、歴史が多くみられるはずである。多くの歌手が存在し、さらに多くの歌が溢れている現在、「日本の伝統的な歌謡」と言われる歌は確実に廃れてきているのだ。J―POPと呼ばれる曲は日々進化し、よりレベルの高いものとなっている中、演歌も日本の変化と共に少しずつ形を変えてきた。私は今回、演歌が語りかける何かを捕らえ、日本の文化を広く学ぶことができるのではないだろうか、このことを中心に考えながらレポートを進めていきたい。 
一、演歌の位置付け
演歌を聴くと、やはりその基礎となるものは民謡や浪曲が地方から発達し、人々の生活の中から生まれてくる喜びや怒り、悲しみなどの感情が多く含まれ、グッと抑え込んだ末に解放するようなものが多いようだ。
そもそも日本の音楽の特徴は、歌と踊り、さらに物語がくっつき「歌う」というより「語る」と言ったほうがピンとくるだろう。そのため音楽と舞踊、演劇を合わせた総合芸術で能や狂言、浄瑠璃などストーリーがあるものが挙げられ、これらを日本伝統音楽とし長い歴史の中で伝承されてきた。それでは演歌はどうなのであろうか。
先ほども挙げたように演歌も「日本の伝統」と言われる音楽で、さらには「日本の心」とも言われている。他のJ―POPにはなく、演歌にあるもの。それはやはり独特な特徴にあるだろう。演歌にも日本伝統音楽を感じさせる強い感情を感じる。言葉をメロディーにし、メロディーを言葉にする力があり、聴いているものに訴え、語りかけてくる。その訴えは例えば高い声で伸ばす部分であったり、逆に低い声で唸るような歌い方をすることで、単なる音ではなく表面には表れることのない感情が詰まっている。
また、歌詞はJ−POPのような直接語りかけるようなものではなく、その歌詞の裏側を探ることで見え、伝わるのだ。そういった意味で演歌は地方などでのキャンペーンが行なわれ、歌詞カードを配ることで聴き手に堪能してもらおうとしているのだが時代のニーズについて行けず、演歌は取り残されつつあるのだ。 
二、演歌と歌謡曲
演歌の位置付けとして「歌謡曲」という分類がある。現在ではこの「歌謡曲」という言葉は廃れ、CDショップなどでは演歌として分類されている。また他の曲は「歌謡曲」とは言わず、J−POPと分類される。
「歌謡曲」の意味を調べると、現代日本の日本語大衆歌曲=流行歌・はやり歌。昭和初期に現在のNHKがまだ、流行するかどうかわからない歌まで含めて流行歌と呼ぶのは適切でないとし、放送したことによる。とあるのだが、以前の私の感覚からすると演歌はこの中に含まれていなかった。
「歌謡曲」として売り出された時代、私は幼く音楽にはまだ関心がなかった。そのため、現在放送されるテレビ番組名自体に「歌謡曲」とついたもので、例えば歌手の服装や歌い方、映像が今と比べて古い感じに見えるもの、バックにフルバンドを付けて歌っているものなどテレビの画面から映し出された映像と音だけを頼りに「歌謡曲」を1つのジャンルとして理解していたのだ。
それでは「歌謡曲」の演歌と、そうでないもの(J−POP)とはどのように違うのだろうか。ここで重要となるのは日本語と英語のもつ特徴とその違いである。日本語は1つの言葉の意味がハッキリし、似たような意味合いのものでも異なる言葉を用いることで微妙な感情の違いを表現する。また、同じ言葉、つまり漢字1文字でもそのままの読み方ではなく別の読み方に変えることが演歌の中には表れ、言語的なイメージの大きさが変わるのだ。例えば英語の「YOU」は、日本語で簡単に訳せば「あなた」である。たとえ詞の全体を考えて「あなた」ではなく「お前」が合っていたとしても「YOU」の形は変わらないのだ。そういった点で演歌は日本語を最大限に利用し、表現されている。「歌謡曲」と呼ばれていた曲は外来語が歌詞に含まれ、それに合ったメロディー重視の曲が作られるようになってから徐々にそこから離れていき、「歌謡曲」の本来の意味から抜け出しJ−POPとなった。そのため過去の「歌謡曲」と言えるものと、演歌とに分けられ、主に演歌を指すようになったのだ。 
三、演(説)歌と演歌(艶歌)
演歌の日本大衆音楽の一種としての始まりは、1886年(明治16)頃、自由民主思想を普及させる目的で、上辺だけの西洋化を風刺し、弾圧された自由民権運動の演説の変わりに運動家たちが芝居や歌で広め、さらに路上でも演歌壮士(後に演歌士)が民衆の声を怒鳴り声に近い声で唄ったことによる。後に自由民権運動の後退と共に題材を広く日常生活に求めるようになっていったのだが当時の演歌の歌詞を見てみると大きく、次の3つに分けられる。
1 政治、権力に対する批判―『ダイナマイト節』(1883年 明治16)
2 外国崇拝に対する風刺―『オッペケペー』(1890年 明治23)
3 愛国心の高揚、覚醒
『ダイナマイト節』作詞/曲演歌壮士団
『オッペケペー』作詞川上音二郎 曲不詳
当時演歌は現在言われているものとは大きく異なり演説歌として認知され、この「演」という字は、広める・広く及ぼすという意味合いが強かった。それではいつから、現在認知されている曲が演歌となったのだろうか。
大正時代になると、愛だの恋だのと、男女を唄う曲が多くなり、このあたりから現在の演歌(艶歌)にかなり近いものが世に流行した。また外国の民謡が日本に多く取り入れられ、演歌士はこれを替歌で貧富の差を歌詞にし、囃子詞を入れることで、まじめな日本人がナンセンスな歌を歌うということが流行った。この頃からようやく、歌謡曲つまり流行歌の中に演歌とその他の曲が見え隠れし始めるが、やはりまだ演歌(艶歌)として認知されてはいない。
1931年(昭和6)満州事変からは軍国主義となり、軍歌や軍国歌謡一色で大人から子どもまで「お国のために死ね」という意味の歌を唄い戦争の準備をさせた。しかし戦後、とくに1950年代以降は歌謡曲が急成長し、黄金時代と呼ばれるものとなった。ロカビリーからGS、フォークなど洋楽が氾濫し、ひたすら耳に快感を与えることを目的とした今までとは別の音楽が若者に受け入れられた。
そんな中、歌詞の内容が歌い方に反映し、「演劇的世界が表現される曲」演じる歌が現れた。これらは、日本伝統音楽を思わせるもの、そして演説歌の訴えかけるパワーをもっていたため、他のものと区別し、伝統的なものだとするため「演歌」と名付けられたのである。 
四、演歌のルーツを探る
演歌を知るうえで理解しておきたいのが、そのルーツである。ここまで演歌は「日本の伝統的な歌謡曲」とし、進めてきたが比較的多くの人が「ルーツは日本ではないのではないか」と理解しているかもしれない。ここ最近テレビでもそのように説明され、驚いた人も多いだろう。ここでは本当のルーツとなるものを探してみたいと考える。
1 韓国からの刺激
韓国の音楽に演歌と良く似ているものがあり、これを聴いた日本人なら日本の演歌との共通性を感じただろう。お隣の国韓国にはパンソリと呼ばれる伝統的な語り物がある。簡単に説明すると、広大(クワンデ)と呼ばれる職業的芸能人の語り手が鼓手の太鼓に合わせて物語を語る。近年では洗練・発展していく中で、諧謔や風刺・エロティシズムといった庶民的要素と官僚特権階級の教訓的要素の二重的性格を持つようになった。
パンソリを唄えるようになるには人生の全てをかけ、喉がつぶれるほどの修行を必要とする。演歌との違いを指摘するとしたら、その感情表現にあり、感情を抑えて唄うのに対し、パンソリは侘びや寂び、人生の苦悩などを思い切りぶつける芸術なのである。パンソリと演歌との違いが国民の精神的特色の表現方法だけであるならば、演歌のルーツは韓国にあると言っていいだろう。
また韓国語に恨(はん)という言葉があり、民族を映す観念で、初めは「うらみ」という意味が強かったが、喜怒哀楽の底に潜む「憂愁」へと変わって行った。本来朝鮮民族のものである恨という観念が日本民族に抵抗なく、受け継がれているともいえるのだ。
2 宗教による刺激
演歌の特徴である歌唱法に「こぶし」がある。これは、ビブラートとは異なり、ただ音を響かせるのではなく心の襞を表現する微妙な節回しで演歌には欠かすことの出来ないものとなっている。この「こぶし」にもルーツがある。
仏教行事などで使われる声明は仏教音楽の中の声楽に属し、お経に旋律をつけた仏教音楽である。今から2400年ほど前インドには声明の原型があり、中国に伝わった声明は進んだ文化の中で充実してゆき、西暦552年仏教伝来とともに日本にも伝来した。この音楽や音楽理論は、日本の風土の中で謡曲や長唄・浄瑠璃などの日本音階の基礎となり演歌の音階やこぶしとして発展したのだ。
3 西洋からの刺激
日本の庶民が西洋音楽と接点をもったのは1881年(明治14)「小学唱歌」が刊行された頃で、主に外国の民謡などに日本語詞をつけたものであった。この頃から外国風な曲作りを始め、その後は賛美歌やダンスミュージックに関心がもたれるようになり、日本人は洋楽を近代感覚に合わせ、自然に日本人訛りで受け入れた。この時使われていた音階が四七(ヨナ)抜き音階であった。これはドレミソラドの5音音階で当時は階名を数字、つまり1ヒ2フ3ミで呼びファとシ、4ヨと7ナを抜いた音階という意味で生まれた言葉である。
当時日本はヨーロッパ音楽を全面的に取り入れ、スコットランドやアイルランドなどの民謡は特にこの四七抜きの要素が強く、日本人に理解されやすいものとし、教育音楽に取り入れられた。その後、短音階もヨとナを抜いた形となり、ヨーロッパの短音階の終止法が影響を与えて出来た音階となった。1921年(大正10)の『船頭小唄』から完全な四七抜き音階を用い、日本伝統音楽である都節に最も近いため日本人の昔ながらの好みに合い哀愁や三味線調を強く感じさせたのだ。
このように演歌は日本でのみ作られた音楽ではないということはハッキリと言える。しかし外国からの刺激を多く受け、日本文化と接触したことにより演歌は生まれのである。そこには日本人ならではの吸収と消化があったからこそ完成し、日本の文化と歴史が上手く絡みついたオリジナルの音楽といっていいのではないだろうか。 
五、日本語のリズム
日本の歌には7音節や5音節で1フレーズとして作詞作曲されたものが多い。これは童歌や学校唱歌などでよく見られるのだがこの7と5という数字で思い浮かぶのが5・7・5や5・7・5・7・7などで形作られる俳句や短歌である。この形式は七五調と言われ、7・5の組み合わせが繰り返されているのだが演歌もこの形式にこだわっている。その例として『船頭小唄』の歌詞を見てみる
『船頭小唄』作詞野口雨情 作曲中山晋平
この歌に限らず童歌同様、演歌も短歌や俳句などと同じ七五調となっているのがわかるのだが、ここで理解しておきたい点は、平仮名で考えての数だということである。ローマ字は母音、子音が別々になっているのに対し、日本語の仮名は1音節を1字で表されていて演歌も音数という日本語独特の性質を基礎とし成り立ち、この音数により味わいや心地よさが生まれるのだ。また、七五調に触れると日本人はごく自然に4拍子を意識するようになる。そのため演歌では4拍子のリズムが基本とされている。
さらに、演歌には同じ長さの音符が連なることがよくある。これは日本語にあまり強弱リズムがないことに関係する。そのため演歌ではフレーズの出だしが等拍のリズムになることが多く、フレーズの最後では規則性を弱めるためにリズムをずらしたりする。演歌は日本語の特性により、独特のリズムを持ち日本人の耳には入り易い音楽と言えるだろう。
音楽は時代と共にその形を変化させ、人々に愛され続けて行く。これはどのジャンルにも言えることなのだが、その背景にはそれぞれが持つ伝統的な音楽、民族音楽があってこそ成り立っている。
現在、日本では歌詞を主体とした曲よりも、メロディーやリズムを第一に考えメディアとレコード会社によって動かされている。しかし、これらの音楽も多くはないにしろ日本人の耳に馴染んだ音や親しみのある歌詞のリズムなどは知らず知らずのうちに盛り込まれているのだ。実際、日本の音楽界では音楽家たちが各地の民族音楽と共に日本の伝統音楽や民謡に現代的な要素などを加えたアレンジが多く行なわれている。そして私たちも心地よくこれらの音楽を受け止めている。
演歌もそんな中の一つなのである。若い人たちにはただ、古臭いものに聞こえてしまうかもしれないが、演歌は日本そのものを映し出した音楽だと私は考えている。現在認知されている演歌としての成立は、それほど古いものではないのだが日本人の心の底にある全てが演歌には含まれ、そこには時代背景や歴史、宗教、感情、価値観などが見えてくるのだ。演歌は日本伝統音楽と形は異なるが、その根っことなる部分は同じで、これまでの日本を見てきているのだと感じる。 
 
流行歌曲について / 萩原朔太郎

現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答へるだらう。現代の日本は、実に「詩」を失つてゐる時代である。そして此所に詩といふのは、魂の渇きに水をあたへ、生活の枯燥を救つてくれる文学芸術を言ふのである。然るに今の日本には、さうした芸術といふものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレツタンチズムになつて居るし、政府の官営してゐる学校音楽といふものも、同じやうに民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現してゐる芸術は、蓄音機のレコード等によつて唄はれてる、町の流行唄以外にないのである。
僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る。そして酒に酔つた時は、いつも大衆と一所にそれを合唱したくなるのである。音楽といふものは、本来皆その精神に「合唱性」を持つてるものだ。なぜなら音楽は詩と同じく、普遍に通ずるカメラードへの呼びかけであるからである。町の音楽をきいて、僕がそれを大衆と一所に唄ひたくなるといふのは、つまりその音楽の中に、僕等の時代に生きてるところの、社会人一般の情操を代表してゐるものがあるからである。この点から言へば、僕等のインテリ階級者と一般社会大衆人との間に、何の生活的劃線があるわけではない。一般社会人の悲しみは、常にそれ自ら僕等の心に反映してゐる悲しみなのだ。しかも僕等のインテリ文学は、この現実の社会感情から遊離して居り、却つて無智の大衆芸術である町の小唄が、僕等の求めてる真のリリツクを正直によく歌つてくれるのである。僕等の時代の文学者が、文壇の詩に退屈して、町の小唄音楽に却つて心の渇きを充たして居るといふのは、現代日本文化の畸型的な発育を反証するところの、一つのイロニカルな現像にちがひない。
町の流行唄を聞いてゐると、時代の変遷する推移が実によく解るのである。人心が少しでも明るくなり、景気が活気づいて来た時には、音楽の調子がすぐ明朗になつてくるし、その反対の場合には、音楽がまたすぐ憂鬱になつてくる。町の流行歌曲ほど、感度の鋭敏な時代のテレビジヨンはないのである。
そこでこの十年来、僕はこのテレビジヨンの感度機を廻しながら、目に見えない社会人心の変動を触覚して来た。そして一つの結論を得た。それはこの十年以来、日本の社会が日々に益々憂鬱になり、人心が絶望的に呻吟して、文化がその目的性と希望とを失ひ、年々歳々益々低落の度を深めて来て居るといふ事実である。例へば少し昔には、古賀政男の名曲「酒は涙か溜息か」や「幻の影をしたひて」等が流行した。これらの歌曲は、そのもつと前、欧洲大戦前後の好況時代に流行した、外国オペラの明朗な翻訳曲に比すれば、遥かに憂鬱で哀傷的のものであつたが、音楽として尚甚だ上品のものであり、その精神には健全で浪漫的な青春のリリシズムが情操して居た。然るにその後、勝太郎の「ハア小唄」になつてくると、もはや「酒は涙か」のロマネスクや青年性は失はれて、年増女の淫猥な情痴感や感傷性やが、大衆の卑俗趣味に迎合するやうになつて来た。「酒は涙か」から「ハア小唄」への流行的推移は、すくなくとも「恋愛的感傷」から「情痴的感傷」への文化的低落と、その卑俗的散文化を語つて居た。
この勝太郎節と同時に、並行して流行したものは所謂「股旅小唄」であつた。この股旅小唄の主旋律は、概して皆尺八的、浪花節的哀傷を帯びてるもので、日本人の民族的リリシズムとも言ふべき、旅への放浪情操をよく表現して居た。しかしこれもまた前時代の歌曲に比すれば、その品位のないことに於て、野趣的に卑俗化したことに於て、時代の文化的低落を語る一実証と見るべきだつた。
所でまた最近の流行歌曲は、例の「あなたと呼べば」や「忘れちや厭よ」である。この二つの歌曲は、その作曲の新味と歌詞の取り扱ひ方とに於て、日本の流行小唄に一の新しいエポツクを劃したものと言はれて居る。だかこれを聴く毎に、僕は日本文化の悲しい末路といふことを痛感する。此所に歌はれてる歌曲は、卑猥で陰惨なエロチシズム以外に何物もない。勝太郎の「ハア小唄」には、年増女的淫猥の情痴があつたが、しかしそこにはまだ純情のリリシズムと感傷性とが流れて居た。然るに「あなたと呼べば何だいと答へる」や「忘れちや厭よ」の歌謡には、そのメロヂイにもその歌詞にも、全然リリシズムといふものが無いのである。しかもまたそれで居て、ナンセンス音楽に特有するユーモラスの明朗性もない。これは非常に憂鬱で陰惨な、何か梅雨時のやうにジメジメした感じの唄である。大体から言つて、流行歌曲の種属は二つに別れる。即ちセンチメンタルのものと、ナンセンス的のものとである。然るに此等の唄には、ナンセンスとしての明朗性もなく、センチメンタルとしての抒情性もない。そして単に、卑猥な擽り的エロチシズムがあるのみである。
「あなたと呼べば」の歌詞は、現代サラリイマンの無気力、無希望な人生願望を表象してゐる。彼等の人生に於ける唯一の理想は、重役の娘と結婚して、郊外の文化住宅に住み、何も他に為すことがなく、新婚の妻と朝から晩までイチヤついて居たいのである。若い妻の機嫌を取り、女房の尻に敷かれ、猥褻な性的遊戯をして日を暮す以外に、人生に向つて意欲する何の理想もなく野心もなく、無為劣等な動物的人生をすごすことが、現代大衆やサラリイマンの理想とすれば、これほど陰鬱な梅雨時の社会はない。そしてこの現実の社会的陰鬱性を、此等の流行唄がよく反映してゐるのである。特にまた「忘れちやいやよ」に至つては、最近それが発売禁止になつたほど、一層もつと極端に、この時代的陰鬱の梅毒的エロチシズムを表現して居る。
かうした最近の流行唄について、特に著るしい特色として感ずることは、歌詞の取扱ひ方に対する、作曲の方法が著るしい変つて来てゐることである。昔の流行歌曲は、歌詞を軽んじて音楽を重視して居た。中には旋律ばかりが耳に入つて、歌詞は何を歌つてゐるのか、まるで意味の解らないやうな者さへあつた。然るに最近の「忘れちや厭よ」や「あなたと呼べば」等は歌詞に強いアクセントをつけ、その言葉の方の面白味で、専ら聴者を興がらす様に工夫されてる。例へば「あなた」「何だい」という問答の対話。「忘れちやイヤーヨ」といふ、イヤーに於ける強いアクセント等、皆歌詞を主眼にして、音楽の旋律をこれに附加して居るのである。
かうした作曲は、流行小唄としてたしかに新しい創造であり、エポツクメーキングのものかも知れないのである。しかし僕の考へでは、逆にこれが音楽精神の衰退を示してゐると思ふ。なぜなら音楽が歌詞を本位とすればするほど、音楽としての散文化(リリシズムの喪失)を意味するからである。つまり言へば聴者は、それを旋律の美しさに於て聴かないで、歌詞の面白さに於て聴き、真の音楽的陶酔とはちがふところの、別の散文化の興味で聴くからである。現に「あなたと呼べば」の如き唄が流行するのは、大衆が既にその心のリリシズムを喪失して、音楽でさへも、散文的な興味で聴かうとするところの、現代社会の時代的傾向を実証してゐる。そして流行歌曲の作家が、機敏にこの大衆の向ふ所を捉へたのである。それは流行唄としての新しいエポツクメーキングであるか知れない。しかし本質的に観察して、音楽精神の時代的没落を語るものであり、併せて現代日本文化の、救ひがたき卑俗的低落化を実証するものである。かうした歌詞本位的流行歌曲の進む所は、結局遂に「アメリカ式掛合万才」の全盛時代になるであらう。即ちジヤツク・ウオーキイ等によつて映画で紹介されてゐるやうな、歌詞を本位として簡単な音楽を伴奏的につけ、専ら歌詞の滑稽味やエロチシズムやで、大衆を興がらすやうに出来てる「音楽入西洋万才」が、近い未来に於て日本に現れることを予感させる。「あなたと呼べば」を悦ぶ大衆は、音楽よりも歌詞を悦ぶ大衆であり、それの徹底する所は、アメリカ式万才音楽を要求するにちがひないのだ。そして流行歌曲も、此所に至れば音楽としての自滅である。
町の音楽を聴きながら、僕は絶えず自分自身に怒つて居る。なぜなら僕自身が、さうした音楽に魅力を感じ、大衆と共にそれを唄ふことによつて、日々に低落する現実社会の堕落の中へ、自ら環境的に引き込まれて行くことを感ずるからだ。僕は耳をふさいで町を通り、一切の流行唄を聴くまいとする。しかも僕の渇いた心は、渇者が水を求めるやうに、自然にそれの方へ引きつけられる。なぜならそれらの音楽以外に、僕等の現実の社会的生活感情を表現し、魂の渇きを充たしてくれる芸術がないからだ。僕は珈琲店の椅子で酒を飲み、大衆と共に「あなたと呼べば」を唄つた後で、自ら自分の髪の毛をむしりながら、自分に向つて「この大馬鹿野郎奴」と叫ぶのである。僕等は時代のトリコである。何物からも脱れられない。一切は絶望的に決定されてる。今日の社会に於ては、私が「私自身」を拒絶する外、詩人としての生きる道が無いのである。 
軍歌その他の音楽について
時局と詩歌人
今度の事変に際して、僕等の詩人が一見極めて冷静であり、時局に関する憂国詩や愛国詩の作品が無いのに反し、歌壇の連中が筆をそろへて時局を歌ひ、さかんに戦争や出征の歌を作つてるのは、まことに興味のある対照である。或る人々はこの現象を帰納して、歌人の至誠な愛国心に帰してるけれども、自分は必しもさう思はない。もつとも日本の和歌といふものは、昔から皇室を中心として栄えたもので、伝統的に国粋主義の精神を持つものだから、西洋輸入の自由詩や新体詩のエスプリとは、文学の本質上で多少異るものがあるだらうし、実際また歌人の仲間に国粋主義者が多いことも事実である。しかし今の歌人等が作る時局の歌が、真の憂国至誠の熱情から生れたものとは、いかにしても考へられない。端的に言ふと、彼等は歌を一つの手藝として、単なる職業的レトリックの手藝として、常に殆んど何の詩的情感なしに作つて居るのだ。彼等の生活は、その身辺のあらゆる周囲に、絶えず作歌の題材を探さうとして、いつも何か事あれかしと、蚤取り眼できよろきよろしてゐることだけである。そこで例へば、子供が病気したと言つては歌を作り、妻が里帰りしたと言つては歌を作り、障子を張り代へたと言つては、歌を作る。毎朝の新聞紙とラヂオのニュースは、彼等にとつて映くべからざる歌の資料である。何所そこに大火事があつたとか、地震があつたとか、電車が脱線したとか、人殺しがあつたとか、某工場でストライキが起つたとかいふ類の社会事変は、悉く皆彼等の歌の逸材となりミソヒトモジの散文に手際よく構成される。かつて二・二六事件があつた時、殆んど全歌壇の人々が総動員でニュースに飛びつき、この好餌を逃すまいとして何百千の歌を作つた。今度の支那事変に際して、歌人等が盛んに時局を取材し、何かの愛国歌のやうなもの、憂国歌のやうなものを乱作するのは当然である。此所で「やうなもの」と言ふのは、それが真の熱情からほとばしつたものでなく、彼等の使ひ慣れた手法によつて、儀礼的に表情を装つたものにすぎないからだ。正直に観察して、自分はこんな歌人等よりも、却つて沈黙してゐる詩人の方が、ずつと深く真剣に時局を考へ、真の憂国の情を抱いてるところの、純真の愛国者であると思ふ。彼等が容易に筆を取らないのは、時局の性質が深酷であり、容易に昂奮ができないほど、実質的に重大なものであることを知つてるからだ。皮相な感激に浮れ上つて、御座なりの詩歌を乱作するほど僕等の仲間は単純な子供等ではない。 
露営の歌と愛国行進曲
「露営の歌」と「愛国行進曲」とは今度の時局が生んだ二つの名軍歌であつた。特に前者の「露営の歌」が、日本の津々浦々に行き亙り、老幼男女を通じて歌はれてるのは、実に驚くべきものである。この歌謡が大衆に悦ばれるのは、歌詞と作曲とが共に哀調を帯びてぴつたり一致し、よく日本人の民族的趣味に通するからである。「物のあはれ」の伝統以来、日本人の音楽趣味は哀傷風なセンチメンタリズムで、一貫してゐる。日清戦争の時の「雪の進軍」日露戦争の時に流行つた「戦友」(此所は御国を何百里)、共に皆哀調を帯びた悲しい歌であつた。軍歌に限らず、大衆に受ける近頃の流行歌曲は、たいてい皆哀調の短音階だが、今度の「露営の歌」もまたハ調短音階で、流行歌曲風の旋律を巧みに取り入れて編曲されてる。つまり軍歌と流行歌謡の合の子見たいなものであり、大衆がまたそこを悦ぶのである。しかしこの歌謡のセンチメンタリズムは、日露戦争の時の「戦友」と何所か質がちがつて居る。「戦友」はその歌詞が琵琶歌風な叙事詩であるばかりでなく、曲譜がまた単純な琵琶歌的悲調のものであつたが、今度の「露営の歌」は、歌詞も曲譜も共に純抒情詩的で、デスぺラートの絶望感が深く、哀傷の質が甚だ深酷である。つまり今度の時局に伴ふ国民のニヒルの不安が、そのままリリックとなつてこの歌曲に反映されてるので、戦争の質が深酷であるだけ、日露戦争時代の単純な軍歌に此して、情緒の内容が複雑深酷になつてるのである。
それ故にかうした歌謡は、藝術としては正に本筋の物 ― 大衆の真実な心を正直に反映する作品は、常に藝術として本筋の物であるにちがひないが、所謂国民精神総動員の「士気を鼓舞する」目的からは、むしろ禁止令に触れるべきものかも知れない。昨冬僕は伊豆の伊東温泉に滞留し、南京陥落の日に行はれた市民の旗行列を見物したが、小学校の女生徒等が、この歌謡を唄つて行進するのを見、一種異様な感じがした。南京陥落、日本大勝利を祝する目出度い日に、かかるニヒリスチックな悲哀の歌を合唱するのは、いかにしても、場合に適はしくないからである。すくなくともかかる場合は、もつと勇壮で力に充ちた、明るい光明的な軍歌がほしい。それかあらぬか知らないが、政府は今度「愛国行進曲」を大仕掛で宣伝し始めた。老軍楽士瀬戸口氏の作曲になるこの歌は、たしかに国民精神総動員の主旨に適ひ極めて雄健明朗であり、その上に荘重の趣さへもある。
此所で僕は、行進曲作者としての瀬戸口氏の天才的独創性を今さらの如く考へずに居られない。前に述べた如く、由来日本人は悲調を帯びた哀傷風の音楽が好きであり、この国民的大衆性に投じない歌謡は、決して普遍的に流行することができないのである。現に日々新聞で一等に入選(露営の歌は二等であつた)した陸軍軍楽隊作曲の行進曲の如き、政府がレコード会社と共に盛んに宣伝したにかかはらず、大衆は一向に之れを唄はず、却つて二等の「露営の歌」ばかりが唄はれてる有様である。然るに不思議なことは、独り瀬戸口氏の作曲だけは、極めて明朗勇壮であるにかかはらず、よく日本人の趣味に適ひ、何等哀傷的の悲調なくして、しかも大衆に悦んで唄はれるのである。前に氏の作つた「軍艦マーチ」もさうであつたが、今度の「愛国行進曲」もまたさうである。つまり瀬戸口氏の作曲は、日本真の雅楽調や、日本俗謡の特色たるラグタイムやを、随所に巧みに取り入れることによつて、洋楽の行進曲を、日本人の伝統的血液中によく融化してゐるのである。そしてこれは、天才のオリヂナリチイに非ずば不可能な仕事である。音楽でも映画でも大衆小説でも同じであるが、感傷好きな日本人を口説くのには、いつも「お涙頂戴」の一手に限る。この一手さへ使つてゐれば、たいていの凡庸作家でも大衆に相当受けるのである。しかし「お涙頂戴」以外の手で、大衆を動かすことのできる人は稀れであり、それが出来る人は天才である。今や国家非常の時、日本の大衆の心を捉へ、よく人心を鼓舞する歌謡を作り得るもの、瀬戸口氏を置いて他になしとすれば、この人の存在が一層貴重に感じられる。しかも氏は老齢七十歳である。此所にもまた深酷の感なきを得ない。
普仏戦争の時、祖国敗亡の危難に際して、ナポレオン一世に仕へた老軍楽士等が、奮然立つて幾多愛国の行進曲を作曲したが、今や老齢七十歳、日露戦争時代の軍服を着た白髪の老楽手が、祖国の非常時に際して奮起し、この勇しくも美しい愛国行進曲を作つたことは、西洋の戦争小説にでもある如きドラマチックの悲壮美を感じさせ、深く僕等の心を打つものがある。僕はあの行進曲の第三節「ああ悠遠の神代より」といふところを聞く毎に、作曲者瀬戸口氏のことを思うて涙湧きくるものがある。
しかしこの作曲の名誉に比して、あの歌詞の拙いことはどうだ。僕はローマ字論者でもなく漢字廃排論者でもないが、この「愛国行進曲」の歌詞のむづかしさには、心から反感をもたざるを得ない。「見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば」などと、歌ひ出しから既にチンプンカンプンで、一昔前に流行つた一高の寮歌と同じく、漢字を見なければ語意がまるで解らない。宜なる哉。大衆の唄ふのを聞くに、殆んど歌詞を完全に覚えてる者は一人も居ない。皆うろ覚えでデタラメに唄つてるのだ。そこへ行くと「露営の歌」の方は質に歌詞がよく出来て居り、曲の旋律と合つて意味がぴつたり迫つてくる。折角の名行進曲も、歌詞が悪くては仕方がない。この歌詞は朝日新聞の懸賞募集で、選者の中には佐佐木信網氏や河井酔茗氏などの大先輩も居た筈なのに、一体何うしたといふことなのだらう。 
琵琶・詩吟・その他の事
琵琶唄といふもの、日露戦争の時には全盛的に流行したが、今度の時局ではあまり唄はれなくなつたやうだ。実際僕等が聞いてもあの音楽の旋律はあまり単調で繊弱にすぎ、悲壮美を感ずるよりは、むしろ卑俗な安センチメンタリズムを感ずるのみだ。つまり日露戦争の時の軍歌「此所は御国を何百里」が、今日の大衆にとつて興味がなく、単純にすぎて悲壮美を感じなくなつたやうに、琵琶唄が時代の情操から遅れたのである。之れに反して「詩吟」といふものは、今日でも命依然として流行し、僕等が聞いても一種特別の悲壮美を感じさせる。特に底力のある男声で、あまり節をつけぬ素朴な朗吟には、何とも言へない魅力があり、漢詩風の東洋的悲壮美を強く感じさせる。琵琶唄の旋律も詩吟と似たやうなものであるが、詩吟のエスプリを忘れてこれを音楽化した為に、却つて安感傷主義に堕したのである。
尚聞くところによれば、政府は今度所謂股旅物の映画流行唄を始め、あまり情痴的のものやセンチメンタルなものに制限を加へるさうである。その理由は色々あるだらうが、つまりこの非常時に際して国民精神総動員の士気を鼓舞し、民心を颯爽たるヒロイズムに導く為に、之れと反するやうなものを控へるのであらう。しかしさうなつて来ると、在来の伝統的な日本歌謡、特に三味線音楽的の物は、町のレコード小唄と共に概ね制限されねばならない。そして代りに、否でも西洋音楽が専制的に採用される。なぜなら在来の日本音楽は、情痴的に非ずば感傷的であり、一も士気を鼓舞する如き颯爽たるものがないからである。(その原因は、日本が島国に鎖国して、外敵の侵略を受けず、長く平和で居たからである。)
この一例を見ても解る如く、世界戦場に進出した今日、現代の日本主義は表面或る点で伝統に反逆し、或る程度まで旧国粋的なるものを揚棄することによつて、逆に国粋日本主義を止揚する立場にある。ヘーゲル流の弁証論的パラドックスは、今日現代の日本が避けがたいヂレンマである。それ故に政府当局者は、一方で女の洋装やパーマネントを毛嫌ひしながら、一方では活動に便利な洋服的ユニホームを銃後の日本女性に求め、一方で国粋伝統主義を称へながら、一方で股旅式の義理人情を排斥したり、洋楽の行進曲を宣伝してゐる。そしてしかもこのヂレンマは、日本の正しい世界的地位を自覚してゐる者にとつて、何の矛盾でもないのである。かつて日露戦争の時、「四方の海みな同胞と思ふ世になど浪風の立ち騒ぐらむ」と詠まれた明治大帝の御製に対し、畏れ多くもこれを不合理の自家撞着だと評した外国人の記者があつたが、今日、日本の世界的使命を知り、併せて自己の立場を自覚してゐる僕等にとつては、この明治大帝の御歌が、そのヂレンマの深遠の哲理を知る故に、却つていよいよ哀切深く、悲壮美の幽玄なリリシズムとして感じられるのである。
 
大衆音楽

近代日本流行歌の成立
流行歌にとっての20世紀とは一体何であろうか。それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。レガートな旋律が作られたのである。クラシックという異文化との交流が見られた。流行歌というものが政治主張・宣伝、ニュース報道からより音楽的なものになったことはこの二人の功績である。中山は、クラシックの立場から、 鳥取は、街演歌師の世界から流行歌の近代化を果たしたのである。中山は西洋音楽の作曲技法で美しく日本人の心情をメロディーにし、流行り唄から流行歌への発展に大きな功績を残した。第二には電気吹込みによるヴォーカル革命が重要な意味をもっている。それは昭和モダンに相応しかった。これによって、古賀メロディーが一世を風靡し、政治色の濃い明治演歌の伝統をもつ大正艶歌を終焉させ、マイクロフォンを巧みに使った歌手の時代が今日に伝えられたからである。殊にマンドリン・ギターで民衆歌曲が創作されたことは、流行歌の可能性を広げるものであった。昭和流行歌は、マイクロフォンを前提にしてレコードを吹込む。それを前提に企画・製作・表現がある。声楽の正統な解釈(ホールのすみずみに響かせるメッツァ・ヴォーチェ)のもとにしたクルーン唱法でマイクロフォンに効果的な音声をのせた藤山一郎の登場は、まさに革命の一歩だった。マリア・トル、ヴーハー・ペーニッヒら外国人歌手とに伍して堂々と独唱する豊かな声量を小さいな美しい声にしてマクロフォンにのせる。古賀政男の感傷のメロディーが感銘をあたえるはずである。
電気吹込みによるヴォーカル革命の波は、太平洋を隔てたアメリカからの波だった。電気吹込みは、大正13年、アメリカのウェスタン・エレクトリック社が実用化に成功したものであり、翌年には電気吹込みのレコードが登場している。明治時代から日本を市場としていた欧米のレコード会社は当然、日本進出を狙う。国内に製造会社を造ってレコード市場の拡大を志向するのだ。米国ビクターと英米コロムビアの外国資本の参入である。これがアメリカニズムの影響を受けた消費文化・昭和モダンの需要を満たし、日本の流行歌の構造を根底から変えてしまった。つまり、レコード会社が企画・製作・誇大宣伝することにより、大衆に選択させるシステムが登場したのである。従来の街頭で流歩いていた演歌師姿は消えうせ、洋楽を身につけた音楽家が大衆音楽の主流となった。西洋音楽の手法に日本人の肌合い・情緒・民衆心理を融合させたこの近代流行歌は、戦前・戦後の昭和歌謡の源流となるのである。 
中山晋平
明治45年7月、明治天皇崩御、明治の御代が終焉し、大正という新しい時代を迎えた。元号の改元はひとつの時代の区切りとはいえ、新しい時代への動きは、すでに明治末期に胚胎していた。たとえば、明治44年9月、女性解放を叫び、人間としての自我の確立を唱えた平塚雷鳥らの『青鞜』の創刊は新しい時代の予兆をしめすものであった。大正は世相において明治とは異なる。その変化は顕著であった。明治時代には数えるほどしかなかったカフェー、バーもかなりの数になった。活動写真館も濫立する。そして、楽隊も登場しオペラも上演されるようになった。大正は、『流行歌・明治大正史』ののべられているいるように「すべてが複雑な音響と『軽便安直』に向かって盲信」する時代なのだ。とはいえ、ロマンティックな心情もまた大正の特徴でもあった。そのオープニングには晋平節が相応しいといえる。その洋風の旋律は新鮮であり心地よい感覚をあたえてくれた。
明治末期から大正にかけて演歌に質的変化が見え出した頃、大正3年、芸術座は帝国劇場においてトルストイの『復活』を上演した。この『復活』の劇中歌《カチューシャの唄》は、大衆をすっかり魅了してしまった。松井須磨子がカチューシャ、横川唯治のネフリュードフ、宮部静子のフヨードシャという配役で、第一幕のカチューシャの純情時代と、第四幕の女囚の二つの場面でヒロインによって歌われたのである。洋風の旋律は、今までの流行歌にはない新鮮な響きであった。劇中歌の《カチューシャの唄》は、大流行した。大正4年京都南座で巡業中に松井須磨子がオリエントレコードで吹き込んだ《カチューシャの唄》は、またたくまに売れ切れとなり、倒産しかけていたオリエントレコードが息を吹き返したそうだ。まさに「復活」だったのである。大正4年帝劇で上演されたツルゲーネフの『その前夜』の劇中歌《ゴンドラの唄》は、大正ロマンを最も象徴する流行歌である。
この歌は第四幕「ベネチアの夜」で歌われている。女主人公エレーネは、親と故郷を捨て病める恋人をいたわりながら、このヴェネツィアの町に着いた。その晩、月に照らされた薄明るい海の面からマンドリンの音に交じって《ゴンドラの唄》が聞こえてくる。遠くにゴンドラのような舟が見える。《ゴンドラの唄》には、前途はたとえ夜の闇よりも恐ろしい運命が待ち受けていようとも、それを乗り越えて行くところまで行って幸福をつかむというロマン的情緒が感じられる。《ゴンドラの唄》の旋律の感傷には母ぞうとの死別を抜きに語ることはできない。中山が歌詞を受け取ってから数日、満足するような旋律が浮かばないまま過ごしていた時だった。「母、危篤」の知らせは中山を茫然とさせた。上野から夜行列車にのって新野村の家に着いたときはもう母の顔には白い布がかけられていた。それをとると安らかに眠る母の顔があった。帰りの夜行列車に乗って母の死への悲しみに耐えかねて泣きながら《ゴンドラの唄》の歌詞を口ずさんだ。その押さえ難い感情が胸の奥から高まり旋律となったのである。
また、大正6年の明治座で上演されたトルストイの『生ける屍』で北原白秋が初めて書いた流行歌《さすらいの唄》は、美しい詩情が感じられる。《さすらいの唄》は、女主人公マーシャンに扮した松井須磨子がジプシーの旅愁をこめて歌ったものである。この歌も大変流行した。レコードディレクターの最古参森垣二郎の「年間27万の空前のヒットを放った」という言葉を借りるまでもなく、驚異的な数字を記録した。中山の作品が大衆に新鮮な感覚をあたえた理由として、彼独特の作曲法があった。中山のヨナ抜き長音階にユリを加えたメロディーは当時の大正という新時代を生きる大衆を魅了した。《船頭小唄》においては、ヨナ抜き短音階にユリを加えた独自のメロディー体系をつくり、洋楽にもとづく流行歌の基本音階を確立したのである。ヨナ抜き音階とは、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド、という欧米の七音階の中の半音ファ(第四度音)とシ(第七度音)を除いた五音階のことである。日本の伝統音楽に多用されている都節音階にみられるのテトラ・コードと七音で構成される西洋音階の折衷ともいえる。これが、それ以後の日本流行歌の主流の曲調となり、日本人の感性として深く生活のなかに浸透した。《船頭小唄》は、最初は《枯れすすき》といったが、大正10年、関東大震災の2年前に作られた。おそらく晋平節のなかでは最も生命が長かった歌であろう。その秘密は、やはり、日本人が好む都節(陰音階)に近い感じのするヨナ抜き五音の短音階にもとづいているからである。二番の歌詞の〈死ぬも生きるもねえお前〉は、現世の虚妄に身を任せた己の内奥にある無定形の怨恨ともいうべきはけ口のない不満、挫折感が表現されていた。〈枯れた真菰に照らしてる〉は、どこか現実の世に身を委ねることを諦め、死を選択しようとする観念に結びついている。こうしてみると、モダニズムが孕む影ともいうべきデカダンスがすでに準備されていたかのように感じられるのだが。
《頭小唄》は、帝国蓄音、オリエント、日東など当時の蓄音機会社でレコードに吹き込まれた。大正末までには、10数枚の音盤が登場している。オリエントからは田辺正行、翌12年には同じオリエントから大津豆千代、日東レコードでは、高橋銀声、など多士済々だった。鳥取春陽のレコード盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音からオーケストラ伴奏で吹き込まれている。副旋律がつけられ従来のヴァイオリンのみ伴奏よりもずっと音楽的なものであった。また、栗島すみ子、岩田祐吉という人気コンビで映画もヒットした。製作は松竹キネマ。この映画『船頭小唄』は、小唄映画と呼ばれる流行歌の映画化第一号といえる。 中山の登場は、心情を洋楽的旋律で表現し新しい感覚を大衆にあたえた。その影響は昭和流行歌にも及んでいる。ラジオ放送も開始されレコード会社の企画によって新しい流行歌も作られるようになった。昭和3年、世界的オペラ歌手「我等のテナー」藤原義江が歌った《出船の港》、《鉾をおさめて》7月新譜の《波浮の港》らが発売された。
伊豆大島には小さな風持ちの漁港がある。左手に雄大な三原山が見える。その眺めに目を奪われるであろう。ふと、右手の崖の下を覗きこむと、港口の岩礁には外海の波が砕けていた。港内は波ひとつなく静かである。それが波浮の港である。この小さな港にすぎなかった無名の港は、歌のヒットのおかげでたたまち有名になったのである。そして、多数の観光客が押しかけ東京湾汽船はかなりの収益をあげた。この歌には問題となる箇所があった。作詞者の野口雨情が土地の事情を知らずに書いたためである。それは、波浮の港には夕焼けが見えないということだった。波浮は山を西に背負っている東に面した港なので現地の人から「波浮には夕焼けがない」という文句が地元住民から出ても当たり前のことなのである。 中山の流行歌を中心とする作曲活動のなかで重要なそれは新民謡運動における功績である。前述の歌曲もその所産である。その新民謡の作曲で中山の天才的な創作力をしめしたのが囃言葉の挿入であった。例えば、《波浮の港》の原作では、〈ヤレホンニサ〉は入っていない。これは中山が苦心の末挿入したものである。また、《東京音頭》の〈ヤットナーソレヨイヨイ〉や《上州小唄》の〈ホラギッチョンギッチョン、チョーチョン〉、《桜音頭》の〈シャンシャンシャンと来てシャンと踊れ〉などはいずれも中山が作曲の際に「歌全体の死命を制する場合も少なくない」という事態をかなり考慮し慎重に挿入したものである。したがって、相当頭を痛め苦労している。中山はつぎのようにのべている。
「スキー節の『ツツウノツ』、熱海節の『オーサヨイトサノセ』などあとで考へると『あれしきの物』と思ふようなものでもその時は痩せる程苦労している。皆相当苦労してつけたものである。今までの経験で最も苦労した囃言葉は越後の十日町のために作った、十日町小唄で、この歌は新潟県を中心として信州、上州、羽前あたりまでも相当歌はれてゐるやうであるが、この歌の囃言葉『テモサッテモ、ソヂヤナイカ、テモソヂヤナイカ』と云ふのを考へつくまでには十日町の宿屋の炬燵へはいつたまゝ実に三日間を費やしてゐる。併し苦んだゞけに、この言葉を思ひついた時の嬉しさは全く天へも上る様であつた。」
昭和モダンと流行歌
苦心惨憺の末囃言葉を創作した中山晋平ではあるが、やはり、そこには少年時代の新野神社の祭礼の催し物出ある式三番叟のほか六人囃子の響きがその源泉になっているといえる。晋平節の流行歌と言えば、2年に亙るフランス留学から帰朝した西條八十とコンビを忘れることはできない。フランス象徴詩の研究で近代日本詩壇で名声を博した 西條が歌謡作家トして登場したことは驚きであった。その後、歌謡作家は早稲田歌謡詩人の系譜が形成された。昭和3年4月号、プラトン社発行の大衆雑誌『苦楽』に掲載された《当世銀座節》は、西條・中山コンビの第一回作品である。といいたいが、実は、『苦楽』に昭和3年5月に掲載された《マノンレスコオの唄》の方がレコードは早かった。昭和3年6月新譜。『マノン・レスコオ』は、フランスの作家アベ・プレヴォの恋愛小説で、『椿姫』、ユーゴーの『マリオン・ドゥロルム』とならんで、「娼婦のもつ純情をテーマ」にした近代フランス文学を代表する作品である。歌は佐藤千夜子、伴奏は 中山のピアノ演奏のみ。
《当世銀座節》の歌詞に登場する〈セーラーズボンに引眉毛〉は、銀ブラの主人公であるモボ・モガをさす。断髪、ショートスカート、ハイヒール姿で、映画、ダンス、スポーツ観戦を好み、「明るく、朗らかで、感覚的で、理知的で、技巧的で、野生的で、複雑で、単純で、率直」な女性=モダンガールとだぶだぶズボン(セーラズボン)とカンカン帽子、ステッキなどの特徴をもつモダンボーイが銀座のシンボル。この頃に流行った《洒落男》にも流行の先端をいくモボ・モガの具体的姿が描かれている。変貌する東京の空間装置。それは、モダニズムの磁場となった。ジャズ、シネマ、リキュル(リキュール洋酒の名称)などモダニズムを記号化した横文字を取り入れた《東京行進曲》に描かれた。それは、昭和モダンの見事な戯画だったのだ。 西條は、《東京行進曲》で〈ジャズで踊って、リキュルで更けて明けりゃダンサーの涙雨〉とモダニズムを巧みに操った。といいたいがこれは作曲者の中山からの注文で書き直したのだった。
西條の意図には、ジャズで踊ってリキュールを飲み交わした若い二人が歓楽街での一夜が明けて翌朝になると別離の涙となる、という設定があった。西條は、<彼女>が<ダンサー>に代わり、なぜ朝になると踊り子が泣くのか疑問におもった。しかし、大衆歌謡においては一日の長がある 中山に従ったのである。また、西條は、共産党弾圧史も歌詞になかにもりこんでいた。四番の歌詞の最初の二行に〈シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか〉とあるが、この歌詞には実は、〈長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える赤い恋〉であった。マルクス主義にかぶれた長髪で深刻そうな青白い顔をしたインテリがソ連の女流作家コロンタイの小説『赤い恋』を抱える姿がここでは流行現象に取り入れられ風俗化されていたのである。
西條は、共産党員を治安維持法をもって一斉検挙・弾圧した前年の昭和3年の3.15事件、《東京行進曲》がヒットした昭和4年の4.16事件(市川正一、鍋山貞親ら検挙)を意識して作詩したのかどうかわからないが、「左翼思想の宣伝になる恐れがある」と当時のビクター文芸部長岡庄五の要求があって、その部分を書き直したそうだ。《東京行進曲》の大ヒットの背景には、歌のモデルとなった小説『東京行進曲』が連載された大衆雑誌『キング』(昭和4年10月まで連載)のすさまじいほどの販売力を見逃すことができないであろう。昭和3年の11月号はなんと150万部を越える驚異的な記録をしめしている。その勢いにのったことも否定できないであろう。また、《東京行進曲》は、レコード会社と映画会社の提携企画による映画主題歌の第一号でもある。映画は、溝口健二が監督、夏川静江、入江たか子、小杉勇、神田俊二、佐久間妙子らが出演。5月に封切られている。すでに、大正時代に松竹蒲田映画『船頭小唄』が封切られ、それ以来流行した歌と映画化は行われてきたが、映画とレコード企画が同時におこなわれ大ヒットしたのは、これが最初である。それ以後主要な映画作品には主題歌を挿入してレコードを発売することになるのである。
《東京行進曲》もヨナ抜きのメロディーである。しかも、哀調のあるマイナーコードで作られているので、「人間の心の奥底にひそむ情緒に強くふれるもの」がある。したがって、人々の口の端にのりやすい《東京行進曲》は流行歌の洪水をもたらした。クラシック愛好者の雑誌『フィルハーモニー』には、「小唄なんておぼえようとする気のちっともない僕でさえ、いつの間にか『君恋し』から『東京行進曲』、さては「草津湯もみ唄」までおぼえて仕舞ったから」という投書が掲載され、流行歌の威力を伺うことができる。関心のない者の耳に自然と入ってくるのだから、まさにこれこそ晋平節の力といわねばならぬ。昭和4年6月、放送予定(6月15日放送日)だった二村定一の《東京行進曲》が突然、放送禁止となった。「少しも知らぬ若い子女に、浅草であいびきして小田急で駆落ちするような文句は、どうも困る」というのが理由らしい。それから、《東京行進曲》をめぐって最小の流行歌論争が『読売新聞』紙上で火ぶたが切って落とされた。どうやら、伊庭孝が7月の「現代の民衆音楽−最良の流行歌はヨーロッパ趣味のもの」という放送で《東京行進曲》を攻撃をしたのがその口火らしい。まずは、伊庭孝が「軟弱・悪趣味の現代民謡」と題して8月の『読売新聞』で攻撃を加えた。伊庭の批判は、流行によって自然に口ずさむことによる民衆の「審美的判断力」の喪失と物質的利益にとりつかれた制作者たちによる「民衆の趣味の堕落」を主眼に展開された。また、永井荷風は《東京行進曲》に対しては辛辣な批評を浴びせている。しかし、伊庭が何と言おうと大衆は近代都市に変貌した東京のモダン風景の戯画である《東京行進曲》を口ずさんだ。大正ロマンから昭和モダンという時代に 中山メロディーは大衆に新しい感覚をあたえ洋楽的旋律の素晴らしさを認識させた。とはいえ、晋平節が「日本民族の固有の旋律と律動」を踏まえていることが日本人の原始的郷愁をくすぐるのである。つまり、「演歌的な音楽的原始性」を失わずにラインのしっかりとした洋楽的旋律によって大衆の心情に共感を呼んだといえる。 
大正流行り歌
大正の流行り歌は、デモクラシーの開花の対極にある民衆の呻きを主題としている。とはいえ、政治世界からまったく無縁になったわけではない。〈近ごろはやりのデモクラシー〉の《デモクラシー節》は、第一護憲運動からスタートし、吉野作造が提唱する民本主義などによって理論武装した大正デモクラシーの思潮を反映しているし、《平和節》は第一次対戦後のヴェルサイユ体制がもたらす国際平和を風刺したりしているので、まだ、政治社会の風刺としての機能はあった。しかし、大正艶歌が民衆の心情にウエイトが置かれるようになり歌に艶が出てきたことは確かである。つまり、歌詞も政治宣伝一点張りではなく抒情性や心情を主題にしたものも作られるようになったのである。政治のメッセージである演歌から心情の発露という艶歌へとその本質が変わっていく。例えば、大正6年に「千葉心中」という心中事件が起きている。これは、芳川顕正伯爵家の若婦人鎌子(婿が曽弥荒助の弟寛治)とお抱え運転手の倉持陸助が階級を越えた恋となり、鉄道路線に自殺を図った事件である。大正の初めに女性の自覚が自由と平等を要求し始めたとはいえ、男と女の問題はまだまだ不自由な掟が支配的であった。このように世相ニュースの伝達とともにその心情も歌に託されるようになるのである。そうなると、社会の底辺で閉塞状態になり抑圧された心情を歌う傾向が強くなったといえよう。
とはいえ、大正艶歌の成立を知るためににはその源流である演歌の歴史を知る必要があるであろう。演歌は、路傍から湧き起こった有司専制、藩閥への怨嗟の声である。国会開設という政治参加の欲求をメロディーに託しながら、その運動を鼓舞する役割を果たしたのである。演歌は、もともとは政治批判、政治宣伝の歌であり、自由民権運動の産物だったのだ。明治政府の反政府運動に対する弾圧は苛烈を極めた。讒謗律、新聞紙条例による言論抑圧、会条例で集会・結社の自由に規制を加え保安条例によって危険人物と見なされる民権派を皇居の三里の外へ追放するなど行った。大衆の運動への鼓舞は、演説である。演説会が開かれると、政府によって送られたものたちによって、野次、罵声の妨害が始まる。演説会には警察が派遣され臨場しているので、演説への「注意」から、「中止命令」となった。そうなると多数の警官によって聴衆はその場から追い出されるのである。抵抗すれば、当然、拘留ということになる。このように、国家権力による暴力によって演説は破壊される。そこで、街頭で歌という手段をとって民権思想を普及させる手段をこうじたのである。
「民権自由の思想は、民衆のなかにこそ、ひろめ、根づかせなければだめだという発想があり、それには生硬な演説よりも、大衆の耳に入りやすい、小唄や講談の形式をとるがよいという着想もあった。そこで演説に代る『演歌』という新語ができたのである。」
これが、演歌の発祥である。壮士といわれた人達は、街頭に出てげんこつをふりまわしながら歌った。
このような演歌は現代の演歌とは異なり、権力批判、時局風刺、悲憤慷慨の演説歌、宣伝・煽動歌といえるのである。明治演歌には、見田宗介が指摘しているように民権論と国権論が前者に重心が置かれているとはいえ内包されていた。しかし、福島事件、加波山事件、秩父事件などの国内の民権運動の激化や朝鮮問題を契機に国権論が優位となった。つまり、日本の武威をしめすナショナリズムが台頭し、国権伸長が朝野のスローガンとなったのである。〈ダイナマイトどん〉が外に向かって撃たれたのだ。そして、明治憲法体制の始動から、日清、日露戦争の勝利、朝鮮半島の植民地化も進むと、その過程の中で演歌も大きく変化していった。演歌が壮士節から、袴を穿いた苦学生が街頭に立って歌う書生節へと移行した。藩閥への怒りを込めた民権の主張という政治宣伝・批判は、影を潜め、時局風刺を歌ったものは残ったが、社会世相に敏感に反応する感情の発露、涙、あきらめ、未練、無常感など民衆の情念が主題となってきたのである。「男三郎事件」を題材にした《夜半の追憶》、《袖しぐれ》などは、演歌から艶歌へと転換させた作品といっても過言ではない。
現代における演歌は、この政治、時局風刺の性格を喪失した艶歌を意味している。一般に演歌という言葉が使われているが、本来の意味を失っているのである。上野昂志は、艶歌について「決して土着的な歌ではない。それは資本制の深化とともに、土地との結びつきを断たれて都市に流れて行った人々の叙情を基盤として生まれた歌である」という分析をしたが、もう一つ付け加えるならば、感情表現を効果的にするために洋楽の影響を受けその手法を取り入れたということである。そうなると、演歌師のなから既成曲をもとにして替え歌にする方法から脱して洋楽の手法で作曲する者が登場してくるのである。それが、鳥取春陽だった。春陽の登場が演歌の近代化と言われる所以がここにあるといえよう。演歌が艶歌に変わると、歌にも大正のロマンティシズムが帯びるようになった。それは、大陸への夢への架け橋となったといえる。《馬賊の唄》は作詞が大陸浪人宮崎滔天と言われている。宮崎滔天は、数奇な大陸浪人、ロマン的な革命家、狂人などさまざまな評価があるが、孫文と知己となり中国革命に無私の精神で挺身した人物である。その滔天の作詞かどうかという真偽はともかくも大戦景気もつかの間、戦後恐慌によって暗雲が立ち込めた日本の息苦しさから脱出して、広大な大陸にロマンをかける心情が託されている。これも、演歌が国権論の主張に利用されたなごりなのだろうか。
1920年代の東アジアと太平洋の安定を名目に日本の膨張を封じ込めるワシントン体制が成立した。ヴェルサイユ体制のアジア版とでもいえる。日本は、ワシントン体制にもとづく協調外交を展開するが、やがて、それに抵触すれば、悲劇を迎えるのである。しかし、この《馬賊の唄》は、膨張に対する封じ込めという領土的感覚だけではなく、国内の状況、すなわち、戦後恐慌の始まり、労働運動、米騒動などから予想される革命の兆し、不安の予兆から逃れ、広大な大陸に自由を求めようとするヒロイズムが根底にあったといえる。昭和モダニズムの前夜、それは、大正デモクラシーの翳を見せ、大正ロマンも色褪せはじめた虚ろな風景だった。大正という時代は、個としての主体の確立もないまま政治の舞台に民衆を登場させた。桂内閣を打倒した大正政変しかり、寺内内閣を打倒した米騒動、小作争議、部落解放運動、労働運動の昂揚もそうだが、政治の世界に大きなパワーとなった民衆のエネルギーは、伝統的な政治技術では統治に不可能を実証したが、支配者や後の昭和維新者に思想的危機感をあたえたといえる。大正7年には、米騒動が全国的に広がりをみせた。大戦景気は資本主義の発達をもたらし、都市の人口増加にもとづく米の需要を増加させた。ところが、大正時代は資本主義と地主制の矛盾の増大による農業生産が停滞した。そして、シベリア出兵に当て込んだ米商の買い占め・売り惜しみ、地主の投機が米価高騰に拍車をかけたのである。これが米騒動の原因となった。米騒動は、富山県の魚津町におきた主婦たちの米の県外移出阻止請願運動がきっかけとなって、8月には、中新川郡の西水橋町の主婦数百名による米商襲撃(越中女一揆)が起こり、それらを発端に全国的に拡大した。
暴動は1道3府37県にわたり、参加数推定で70万人以上とされた。このため寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれ、本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生したのである。大正9年、戦後恐慌を迎えると、労働争議も一層の激しさを呈した。1920年2月、労働時間短縮、三割賃上げを嘆願した八幡製鉄所争議、5月、日本最初のメーデー、上野公園で一万人参加、8月、「一切の社会主義者を包括」ことを掲げた社会主義の大同団結ともいうべきの日本社会主義同盟の結成、翌年には、戦前最大の労働争議と言われた川崎・三菱造船所、10月、大日本労働総同盟友愛会が日本労働総同盟と改称し戦闘的な階級闘争になっていった。諸運動は労働運動、社会主義ばかりではなかった。大正11年、西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作らの奔走によって全国水平社が結成、7月、非合法ながらコミンテルンの日本支部としての日本共産党の誕生、各地に生まれていた小作人組合の統一と小作人の地位向上を目標にした杉山元治郎、賀川豊彦ら創立の日本農民組合など諸運動は燃え上がっていた。それらの諸運動の展開には街頭演歌師の活躍を無視することはできない。添田唖蝉坊の〈高い日本米はおいらにゃ食へぬ〉で知られる《豆粕の唄》が広まったのもこの頃である。演歌師たちは全国に散っていた。そうなるとふたたび演歌師の全盛がやってくる。そして、直にに世相にふれることによって、大正期の民衆のナショナルな感情も変化する。脱政治的な志向を持ちながら近代社会のなかで目標を失い、貴族的な市民社会から切り離されたならば、民衆の心情は感傷的なメロディーに慰めを求めるであろう。
1923年9月1日、関東地方を突如大地震が襲った。死者99331人、行方不明43476名を数え、直接損害額60億円以上が示すようにその損害規模は天文学的数字に近いものであった。その被害は、特に東京がひどかった。神田、日本橋から浅草、本所、深川の下町一帯は壊滅状態になってしまった。
《大震災の歌》は、その様相をあまねく伝えている。そして、その惨状をニュースとして広めたのが演歌師たちであった。時それ大正12年、9月1日正午時 突然起こる大地震 神の怒りか竜神の 何に恐るゝ戦きか大地ゆるぎて家毀ち 瓦の崩れ落つる音電柱さけて物凄く 潰れし家のその中に呻きの声や叫ぶ声 文化の都一瞬に修羅の巷と化しにけり東京の名所の一つである浅草の凌雲閣も、八階のところでポッキリと二つに折れて無残な残骸に変わってしまった。大正デモクラシーの風潮も浅草オペラもみんな吹っ飛んでしまったのだ。翌日に組閣した第二次山本権兵衛内閣は、治安確保と罹災者救済のため戒厳令を東京市と府下の5郡に施行した。それにもかかわらず、表面化されていなかった不安が一挙に顕在化し噴出した。この混乱のさなか「不逞鮮人来襲」の流言蜚語が伝えられると、自警団による朝鮮人殺害という痛ましい事件がおこった。そして、亀戸事件、甘粕事件と−−−東京の亀戸署は、亀戸一帯の朝鮮人虐殺と同時に労働運動家川合義虎、平沢計七らを殺害し、その死体を遺棄する暴挙を行った(亀戸事件)。一方、無政府主義者大杉栄が伊藤野枝、甥の橘宗一と共に東京憲兵隊本部に検束され、麹町憲兵分隊の一室で憲兵大尉の甘粕正彦らに殺害された事件(甘粕事件)が起きた。甘粕らは、関東大震災後の混乱に乗じて引き起こす不逞行為へと及ぶ可能性があるという勝手な憶測で殺害した。このような一連の虐殺事件に廃墟の街は格好の舞台だった。
殺伐とした空間に流れる歌声、荒涼とした風景に演歌が響き、荒んだ人々の心を慰めた。春陽もヴァイオリンをもって人々に慰安を与えた。どれほどの人が慰められ勇気づけられたであろうか。春陽が作曲した《大震災の歌》を歌ったときの感銘について作詞者の添田知道は、つぎのように記している。
「どこもかしこも薄暗くて、どの家もどの家もひそみかえっていた。かつかつの食料を手に入れることが精一杯の時期である。こんな陰気千万なときに歌などうたったら、どなられるか、またひっぱたかれでもするのではないかと、不安だった。おそるおそる、まったくおそるおそる、オリンを弾き出し、うたい出してみた。せまい横丁である。あちこちから忽ちの、人がとび出して囲まれた。けれど、怒られるのではなかった。、みなしいんと聴いているのだった。」
人々は「悲境の底」で喘ぎながらも歌を欲していたのだった。焼け跡の街にバラックが建ちはじめた。軽快な《復興節》も共感をもって迎えられた。薄暗い町の片隅に演歌師たちの歌声が流れ、〈家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ〉と東京中で歌われるようになったのである。歌詞はユーモラスな感じのする内容だが、メロディーは中国の《沙窓》という曲を代用している。しかし、復興の過程において震災後の荒涼とした虚ろ風景には、「凝縮と退化の感覚は、社会的主題をうしなったのちの心情の下降」が見られた。 鳥取作曲の《籠の鳥》は、まさにそれに対応したものであり、国家から心情が切り離され、しかも、対戦景気はつかの間で不況の到来、労働運動の激化などの社会不安によって追い詰められた民衆の感情を反映している。
《籠の鳥》は、子供の間にまで流行った。そのために教育上好ましくないという批判が多くの教育者、学識者からおこり、ついに児童が歌うことを禁止されることになった。まだ、舌のよくまわらない子供にまでも、アイタチャミタチャニとやられた時分には、たまったものではなかったにちがいない。
磯田光一は『鹿鳴館の系譜』で「『出るに出られぬ籠の鳥』の求めていたのが、『ミラボオ橋』の橋の上の男女に通じる自由」とのべているが、籠の不自由さはもっと深刻なものではないかと思うのだが。では、《籠の鳥》の発想源は何か。それは男女間の嘆きに止まらず大正デモクラシーに底流する「民衆全体に通ずる欲求不満の訴え」が触発された連鎖反応である。したがって、大衆感情が国家という主題を喪失した状態では「国民精神作興に関する詔書」を発布し、国民精神を鼓舞しても無駄なのである。逃げ場のない場所に追い詰められ脱出できない精神状況のなかで、「教養」、「主体的個」などとは無縁な大衆はささやかな慰めを歌に求めていたのである。《籠の鳥》の「籠」が閉塞感をしめすとするならば、そこに描かれた女性は、自由を失った廓の女であろう。作曲者の 鳥取は、街頭演歌師時代、縁日での一仕事を終えると一酌の酒を飲み、それからが流しの本番が始めた。愛用のヴァイオリンをもちながら久留米絣に黒の袴というお決まりのスタイルで花街から廓に入って本領を発揮したのだ。むし暑い真夏の夜でも、北風の吹きすさぶ凍りつく真冬の夜でも、夜霧に濡れ、夜風にさらされながら歌ったのである。
夜更けの廓は、演歌師たちのその日の最後の稼ぎ場だった。春陽がお得意の曲を歌って流していると、格子戸から外を覗くお女郎さんのどこにも逃げることのできない不自由な姿が目に止まる。また、切ない歌を聞いたお女郎さんが涙を流しながら窓を開け、50銭玉を紙にくるんで投げたりした。そのような光景が曲のイメージにつながったのである。それにしてもこの歌には、大正デモクラシーに底流する民衆の哀感と行き場のないやるせなさ、自由を失い閉塞状態に喘ぐ民衆の嘆きを感じさせる。しかし、追い詰められた感情が出口を求めて権力へのルサンチマンとなるならば、それは、破壊にむかう情念となるのだ。《籠の鳥》の作曲者、鳥取春陽は、本名鳥取貫一。明治33年、岩手県下閉伊郡刈屋村(現新里村)の北山というところで父民五郎、母キクノの長男として生まれた。春陽は、やがて、高等小学校を卒業するとひとかどの人物になると言って上京を決意した。上京してからの春陽は、随分苦労をした。ひとかどの人物といってもすぐになれるものではない。新聞売り、政治家の書生、児童劇団の雑役をしたり、神田正則英語学校に通ったりしたが、やがて、江東区富川の木賃宿に常宿するようになり同宿の演歌師と知り合いその道に入るのである。春陽が最初演歌師の道に入るのも、それが、社会の矛盾を突き世直し的救済が音楽活動をつうじて実践できるということがあったからであろう。春陽は《籠の鳥》で声価を得るが、添田知道によると《籠の鳥》の発表前につぎのような一場面があったそうだ。
「例によって演奏して聴かせる。曲はたしかに軽い鳥取調だが、詞の方で〔なんだい、これは小原節にある文句じゃないか〕といったら、放浪詩人と自称した作者の千野馨が、石川県人だというのでわかったのは、民謡の土地っ子にしみこんでゐるということだった。〔いやぁ〕と頭をかいてみせた千野の若い顔に善人を感じたものだった。」
知道によると《籠の鳥》の歌詞の元は《越中おわら》にあるため、東京での発売を保留にしたそうだ。そのために《籠の鳥》は、春陽が大阪の「大阪演歌青年共鳴会」の傘下に入り活動しはじめてから西のほうから流行った。一つの歌が流行するとその土地に根ざした俗謡と歌詞が類似していれば親しみが湧いて受けいれられやすいのであろう。西沢爽は『日本近代歌謡史下』において、《籠の鳥》の淵源について曲亭馬琴の『著作堂一夕話』(『蓑笠雨談』享和4年刊)を引用しながら、詳細な記述を行っている。
「さて『籠の鳥』の冒頭の歌詞は『越中おわら』に限らず、昔から各地に流転し、それぞれの土地の唄に組入まれていたものである。 その淵源は古く、曲亭馬琴の『著作堂一夕話』(『蓑笠雨談』享和4年刊)に、 −こゝを通る熊野同者、手にもつたも梛の葉笠にさいたも梛の葉といふ歌を、今の目から見れば鼠のかぶるやうに琴かきならせば、さてもこのいくすぢもある糸を一時に、指は只三本にて引ならし玉ふは名誉なりと、声をそろへてほめたてける。これ近代なげぶしといふは、なぎぶしのかはりにて、籠の鳥かやうらめしやと、好色大鑑(『色道大鏡』)の作者が作りかへたる証歌の根元なり。〔割註、以上色競馬(『男女色競馬』西沢一風、宝永5年。)〕よし野(徳子、京、六条柳町廓、二代目、吉野太夫、灰屋紹益の妻となる。〈井原西鶴『好色一代男』には世之介の妻として描かれている。〉絶世の名妓といわれた。寛永20年、38歳歿)が事書るものこれら尤くはし。この作者面のあたり見たるにはあらざめれど、このころまでは聞伝へたることも多かるべし。投節は堺のり隆達といふものその名高し。章歌箕山(藤本箕山『色道大鏡』の著者、宝永9年、79歳歿)が作はじめしといふことは余もしらざりしが、此冊子を得てはじめてしりぬ。−とあって、元禄期の色里の大通人、藤本箕山つくる一節が梛節にうたいつがれ、さまざまな唄へと拡がっていったようである。」
遊女の嘆きの歌が時代と共に受け継がれ流布しながらしだいに変化して《籠の鳥》が生まれていったのであろう。《越中おわら》は、浅草などで女芸人が興行を打って人気を集めたので、かなり巷間では流行していた。千野にはこの歌がどこか記憶の片隅に残っていたのではないか。ともあれ、春陽の哀調あるメロディーとマッチしたことは確かだ。私は、以前、上山敬三の『日本の流行歌』で《籠の鳥》の著作権をめぐる問題を読んだことがある。赤沢大助という人物がビクターに「《籠の鳥》を作ったのは自分である」という投書を送ったという話である。関東大震災の年、興行主赤沢は、映画興行のため樺太に渡った。大泊にロシア人娼婦がたくさんいて、日本語でいうなら「籠の鳥」という意味の歌を歌っていたそうだ。それがヒントになってあの《籠の鳥》ができあがったというのだ。その赤沢なる人物は、昭和48年に和歌山地裁に訴訟を起こした。これが、いわゆる「籠の鳥事件」と呼ばれるものである。この訴訟については、西沢爽の『日本近代歌謡史下』に詳細に記されている。裁判は大阪高裁でも棄却され、原告赤沢大助の敗訴ということになったが、この訴訟の過程で西沢が指摘するように「この唄はそれまでの流行歌にあった日本調ではなく、西洋風であって日本人向きの五音階で作られ、相当素養のある作曲者によってつくられた」ことが実証され、春陽の洋楽の素養が改めて評価されたのである。
《籠の鳥》も、《船頭小唄》と同様にいくつかの録音盤がある。この頃には、国産レコード会社も増え、大正13年、7月から僅か3カ月だけでも、大阪のツバメ印の日東レコードから寺井金春、貝印の内外レコード(西宮)、ハト印の東亜(尼崎)では横尾晩秋、ラクダ印のオリエント(京都)からは歌川八重子、ツル印のアサヒ(名古屋)、ヒコーキ印の帝国蓄音(東京)などから、11種類の《籠の鳥》のレコードが発売された。『街角の詩』に収録された巽京子と共演した《籠の鳥》の録音盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音で吹き込んだものである。倉田善弘の『日本レコード文化史』によると大正13年9月発売となっている。歌にはピアノ伴奏が入っていた。春陽と巽京子は男女のラブソングにふさわしく掛け合いで歌っている。春陽の歌い方も書生節そのもので味がある。「かたいつまった声」ではあるが、歌詞の言葉が明瞭に伝わっていくる。一語一語がよくわかることによって歌のもつ切なさが人々の心情を捉えるのである。この伴奏形式は、演歌師の作る流行歌が洋楽と融合できることを示唆するものであった。《船頭小唄》や《籠の鳥》などに代表される大正艶演歌は関東大震災前後の既成国家の権威を抹消しようとする諸事件の噴出を暗示させていた。朴烈、金子文子の摂政宮暗殺計画、難波大助が帝国議会の開院式にむかう摂政宮裕仁親王をねらった狙撃事件(虎ノ門事件)など、底辺に沈殿した無定形な怨恨、鬱的情緒(アノミー)が具象化された。これらが、やがて昭和テロリズムという情念行動の系譜に結び付けられるのである。また、一方では、大正ロマンの影には頽廃的なエロ・グロ・ナンセンスの温床が内在していた。それがパンタライ社という怪しげな団体である。浅草オペラがさかんな時分に観音裏の馬道にあって「女優派出」の看板を掲げていた。それは、ヌードショウを兼ねたお座敷ダンスの元祖であり、裸踊りの女を抱えていたからまさに「性の探求の実験室」だったのだ。パンタライとは、ギリシャ語で「万物流転」という意味である。ダダイズムの辻潤が名付けた。ここには多くの文化人が出入りしていた。芥川龍之介、徳田秋声しかり、谷崎潤一郎などは、パンタライ社の看板女優若草民子を随分贔屓にしていた。
《籠の鳥》はワルツ調ではないが三拍子のリズムである。朝倉喬司は、『遊歌遊侠』でワルツという共通項を前提に「三拍子の祖型を、私なりに推測すると、それは『天然の美』だったのではないかと思う。」とのべているが、三拍子ということなら、その中間に《籠の鳥》が存在する。三拍子のリズムについては、朝鮮メロディーのトラジを思い浮かべることができるが、春陽が古賀より先に朝鮮メロディーのリズムに着目したかどうかはわからない。しかし、流行歌に三拍子のリズムを本格的に取り入れたことは確かなのだ。《籠の鳥》も、《船頭小唄》と同様にいくつかの録音盤がある。この頃には、国産レコード会社も増え、大正13年、7月から僅か3カ月だけでも、大阪のツバメ印の日東レコードから寺井金春、貝印の内外レコード(西宮)、ハト印の東亜(尼崎)では横尾晩秋、ラクダ印のオリエント(京都)からは歌川八重子、ツル印のアサヒ(名古屋)、ヒコーキ印の帝国蓄音(東京)などから、11種類の《籠の鳥》のレコードが発売された。レコードと蓄音器の国産化は、明治40年10月、10万円の資本金をもって設立された日米蓄音機製造株式会社の誕生によって始まる。そして、明治43年、ホーン商会の社員を重役陣として発足した日本蓄音器商会が新設され(日米蓄音器商会は廃止)、ニッポノホンのマークを使用して販売を拡大した。
レコードには長唄、薩摩琵琶、浪花節、義太夫などが多く吹き込まれていた。やがて、大正年間に入ると、蓄音器会社の設立が相次いだ。大阪蓄音器商会、東京蓄音器株式会社、東洋蓄音器株式会社、ヒコーキ印の帝国蓄音器株式会社(商会)などが設立された。そして、大正9年以降は、関西地方にもレコード会社が続出するようになったのである。当然、春陽は、レコード会社から引くあまたであった。『街角の詩演歌のルーツ鳥取春陽ベストコレクション』に収録された巽京子と共演した《籠の鳥》の録音盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音器で吹き込んだものである。倉田善弘の『日本レコード文化史』によると大正13年9月発売となっている。歌にはピアノ伴奏が入っていた。春陽と巽京子は男女のラブソングにふさわしく掛け合いで歌っている。春陽の歌い方も書生節そのもので味がある。「かたいつまった声」ではあるが、歌詞の言葉が明瞭に伝わっていくる。一語一語がよくわかることによって歌のもつ切なさが人々の心情を捉えるのである。この伴奏形式は、演歌師の作る流行歌が洋楽と融合できることを示唆するものであった。/《籠の鳥》と共に春陽のメロディーの代表作には、映画の主題歌となった《恋慕小唄》がある。親の反対する女性と結婚した男が駆け落ちして小豆島で暮らすストーリだが、抑圧された男女の心情が良く理解できる。
春陽のレコードは、ヒコーキ印の帝国蓄音器商会から発売されている。おそらく大正13、4年頃であろう。巽京子とのデュエットで伴奏は帝蓄管弦楽団となっている。春陽は、《籠の鳥》を最初に吹き込んだヒコーキ印の帝国蓄音器商会でかなりのレコードを吹き込んだ。その中の数曲であるが、《続金色夜叉》《春陽新小唄集》《満州節》《一寸法師》、《船頭小唄》《水藻の唄》《ヴェニスの船唄》《陽はおちる》《新関の五本松》などが民俗資料館に展示されている。これも貴重なレコードといえる。特に《春陽新小唄集》は、LPレコードのように両面に数曲ずつ、しかも、ワンコーラスのメドレーで入っている。A面が《鈴蘭》《籠の鳥》《スットントン》、B面は《恋慕小唄》、《カフェー小唄》《捨小舟》と街頭で民衆を堪能させた春陽メロディーの傑作集とでもいえるレコードである。大正14、5年頃のレコードではないかと思われる。また、同じヒコーキ印の帝国蓄音器商会からは同じような志向で《続春陽小唄集》が発売されている。A面には《女の唄》《旅人の唄》《舟出の唄》B面は《すたれもの》、《月の出》《銀座雀》《花園の恋》。まさに、大正艶歌の傑作集である。それにしても、驚くべきことは、昭和以前の時代にメドレー集のレコードが存在していたことである。それは、鳥取春陽のユニークな音楽的個性の一面をしめしているといえる。
春陽が演歌師としてその地位を確立している間、関西、中京地方では、大正9年以来、レコード会社が続々と誕生していた。大阪にはツバメ印の日東蓄音器株式会社、兵庫県では鳩印の東亜蓄音器株式会社、名古屋の大曾根のツルレコードといわれたアサヒ蓄音器商会など設立されていた。春陽は、この頃から、次第に小唄映画の主題歌をレコードに吹き込むために関西地方に行く機会がますます重なってきた。春陽が大阪に拠点を移すのもそのためである。大阪の映画会社は震災の打撃を被らなかった。演歌師たちが歌って広めた艶歌をテーマにして競って新作を東京に送りこむようになったのだ。大阪に本拠地を置く帝国キネマが『籠の鳥』の歌をテーマに製作したのもそのような事情を背景にしている。歌もレコードに吹き込まれたので、春陽はレコード会社の引っぱり凧となったのである。春陽の大阪行きの時期は、関東大震災後の大正13年の秋以降だと思われる。おそらく、《籠の鳥》の帝キネの封切りが8月で、ヒコーキ印の帝国蓄音器での春陽の吹き込みレコードが発売されたのが9月だから、大阪へ居を移すことになるのは、やはり、それ以後ということになる。大阪行きは、音のさすらい人鳥取春陽につかのまの安住の地を提供した。彼は、この大阪で全盛期を迎えるのである。大阪は、古代から、難波津・淀川によって都へ通ずる水上交通の要地として栄え、江戸時代には、諸大名の蔵屋敷が集中し物資の集散地として天下の台所といわれるほどの繁栄をみせ、大商業都市へと発展した歴史をもっている。明治以後は、紡績を中心に近代工業の導入により、商工業地帯として発展した。その大阪は大正14年4月から、第二次市域拡張をおこない「大大阪」を形成しつつあった。東成・西成郡すべて新市域となり、旧市域の8区に新市域5区と合わせて13区となった。この年から昭和9年までのおよそ10年間、大阪の人口は急増するのである。
春陽は、南海線の天下茶屋の付近に居を構えた。彼は、新世界のシンボルとして聳えたつ通天閣を見て震災で破壊された12階の楼閣を思い出した。この付近のごみごみした街の空間や人の流れは浅草とよく似ていて春陽には馴染みやすかった。それに加え、寄席の太鼓や威勢よく飛び交う大阪弁もリズムがあって心地よかった。道頓堀は、芝居茶屋を中心に栄えた代表的な娯楽街である。、芝居、映画、喜劇などの劇場が並んだ。弁天座・角座・中座・浪速座などが有名である。やがて、大正、昭和を迎えると、道頓堀の風情も幾つかの色あざやかなネオンが川面にゆらぐカフェーがにぎわう歓楽の街になっていた。 鳥取は大阪レコード界で絶頂を極めた。大正13年の作であるが《恋慕小唄》《すたれもの》《赤いバラ》が大ヒットした。春陽の作品に野口雨情の作詞のものが散見する。野口雨情は、春陽と同郷の石川啄木とは小樽の新聞社で一緒に仕事をしたことがある。わずか27歳で夭折した啄木も早熟の天才だが、20代前半で《籠の鳥》で全国的ヒットを飛ばした春陽からも同質のものを感じたにちがいない。大正15年、春陽は、一連の艶歌の大ヒットによってコロムビアの子会社であるオリエントレコードの専属作曲家になった。駱駝印のオリエントレコードは、大正3年に成立した。そこで製作されたレコードは京阪神を中心に、中国、四国、九州地方などを地盤にしていた。しかし、大正8年に日蓄に合併されていた。 鳥取の専属料は150円。当時、帝大出身の初任給が45円ぐらいであるから、相当な額である。当時、人気絶頂にいた春陽にはそのくらいのお金を払っても会社は損をしないというのだから、その評価は高かった。また、このような専属制という形式でレコード会社と契約した音楽家は春陽が最初らしい。
契約書を交わしたときの春陽の住所は、大阪此花区上福島南一丁目となっている。これは大阪青年共鳴会の住所と同じである。おそらく、レコード会社と春陽との折衝は大阪の青年共鳴会を通して行われていたのだろう。専属になれば生活の安定保証はある。だが、束縛というマイナス面もある。音のさすらい人、 鳥取にはちょっと窮屈だったかもしれない。契約書にも記されているように毎月レコード3枚ということは、最低両面併せて6曲ということである。それは、洋楽的手法をとっているとはいえ地べたからうまれた春陽のメロデイーがレコード会社の企画・製造・宣伝という分業工程から作られた商品になることを意味していた。大正後期は、 鳥取の全盛期だった。まさに時代の尖端を行くレコード界の寵児である。しかし、時代は大正から昭和へと移行し、新たな流行歌黄金時代を迎えようとしていた。本格的な外国資本が参入しての大量生産・消費の時代である。粗製乱造の構造は変わらないが、音楽の質は向上する。それはレコードの吹き込みシステムが大きく変わるからなのだ。そして、街頭で演歌師が歌って流行らしていた歌をレコードにするのではなくて、レコード会社が企画・製作して歌を大衆消費者に選択させるという仕組みに移行しようとしていたのである。 
古賀メロディー
古賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく 古賀くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。古賀は、明治37年、福岡県三瀦郡田口村(現在は大川市)に生まれた。父は古賀喜太郎、母はセツといい、古賀は男6人、女1人の7人兄弟の6番目の子供だった。九州は古賀という姓は多い。それは地名にもあるくらいである。古賀の故郷は北原白秋の生地、水郷豊かな柳川の近くである。よく人に出身地を聞かれると白秋の柳川の近くと思わず答えた。古賀は北原白秋を敬愛していた。それを知ってか、森繁久弥が“柳川や、白秋ありて、古賀ありて”と詠んで 古賀に送ったのは有名な話である。
「詩人との交遊の多かった私にとって、かえすがえすもなく残念なことは、とうとう白秋さんと一度もまみえることがなかったことである。白秋の故郷と私の故郷は、距離にしてほんのわずかなのである。それだけに白秋の切々とつづるノスタルジアは、じつに私の望郷の詩でもあった。」
柳川と大川とは、わずか、一里たらずの距離にすぎない。しかし、詩情豊かな柳川の水郷と、大川は随分風景が違っていた。田口村から見える風景らしきものといえば雲仙岳の雄姿が遠望できるだけで、果てしなく広がる水田と縦横に掘割、その周辺に点在する草深い農家、つまり純粋な農村地帯風景そのものだった。<花摘む野辺に日は落ちて>と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。
《誰か故郷を想わざる》には、母親への思慕に劣らないない姉への古賀の強烈な追憶を感じさせる。嫁ぐ姉を見送る時駅のプラットホームで泣いた体験をもつ西條の詩は古賀に強烈なインスピレーションをあたえた。それは、古賀が自伝に「この姉にたいする私の敬慕の情が、八十さんの歌詞に、あまりにも的確に唱いこまれていたので、一瞬、私の日記を盗み見されたのではないかと疑ったほどであった。」と記したことからも十分に窺える。姉の古賀少年への眼差しはやさしかった。土間で畳表を織りながら、優しい瞳の姉は手伝う古賀少年に自分の創作童話を聞かせてくれた。女兄弟がいなかったせいか、姉は古賀を妹のように可愛がった。古賀に女性的なところがみられたのもそのせいかもしれない。その姉は、大正2年、草刈商店の番頭、永島米蔵と結婚した。縁談が決まって、いよいよ嫁入りの日が来た。古賀の郷里には花嫁が綿帽子をかぶるしきたりがあった。嫁入りのときと死んだときの二度しかかぶらないのだそうだ。嫁ぐという強い決意をしめしているのであろう。古賀は姉の嫁入りが無性に寂しかった。そして、その寂しい感情を殺すかのように「もう帰って来ないなら、嫁なんかにいくな」という言葉がつい出てしまった。後年、 西條が古賀に見せた〈ひとりの姉が嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙の なつかしさ〉は、偽らざる少年時代の古賀の姉への思慕なのである。 
古賀の家庭環境には西洋音楽は皆無であった。あるとするならば母親が口ずさむ清元、長唄のさわりぐらいのものであったであろう。だから、音感の良い古賀は、外部に向かって音源を求めていった。自分の耳に入ってくる音の識別能力が相当高かったといえる。古賀の少年時代の音楽体験には、村にやってくる門づけの旅芸人の月琴の音があった。古賀の感性は敏感に反応したのだ。
「桃割れ髪にゆうぜん姿の娘が、月琴と四つ竹の伴奏で踊るふぜい」は、少年時代の古賀にとっては、唯一の音楽文化・娯楽であった。やがて、少年は実際に自分の手で楽器を弾いてみたいという衝動にからた。そこで、姉から古い羽子板をもらって、古い三味線の糸をさがしてきてそれに張り付けてはかき鳴らし、得意になっては門づけのまねをした」
古賀の少年時代の音楽体験で忘れてはならないのは子供心をときめかせたのが旅まわりの劇団とサーカスだった。中山晋平も上田からやって来るクラリネット、太鼓などによる小編成のジンタの演奏を聞いて西洋音楽に目覚めたと言われているが、古賀と同じ共通な原体験をもっていることは非常に興味深い。なつかしいジンタの響きが古賀メロディーの甘さと美しさ、そして感傷と大衆性の原点であるといえる。
「秋になると、鎮守の森にサーカスがかかった。うらかなしい『天然の美』をかなでるクラリネット。それが私の見た最初の西洋楽器で、私は朝から晩まで、サーカス小屋のまえに立ちつくして不思議な音色に聞き惚れ、まるで夢心地であった。」
鎮守の森とは古賀の郷里にある蛭児神社のことであろう。毎年やってくる曲馬団のもの悲しい音色。ジンタとは少数の吹奏楽隊のことである。曲馬団の人寄せや広告宣伝のために用いられた。サーカス、ジンタといえばやはり《天然の美》の旋律が浮かんでくる。〈空にさえずる鳥の声 みねより落つる滝の音〉ではじまるこの歌はワルツのリズムにのせて人々の心の底に深い味わいを残したであろう。大川で心をときめかせて聴いたあの少年期の音楽体験が《サーカスの唄》の心情へとつながっている。《サーカスの唄》は日独親善をかねてのドイツのハーゲン・ペックサーカス団の来日宣伝に作ったものである。
古賀の少年時代は、貧しかった。当時の明治後期の農村では、よくみられる貧農階級だった。日本の立身出世伝には、貧しい家に生まれは欠かせない常套句である。古賀も下層階級の典型としては例外ではない。古賀の父、喜太郎は、農業が正業だったが、とても農業だけでは一家を養えないので、瀬戸物の商品を天びん棒にかついで近在の村を売り歩きながら行商をしていた。古賀の微かな淡い記憶に宿された父の喜太郎という人の面影は、暮らしが貧しくても、「屈託した表情」を見せたこともない明るい人であり終生強い人であったという。古賀は、父を6歳のとき失った。弟治郎が生まれた直後の明治42年に父の喜太郎は病に倒れた。肝臓が悪く、福岡医大の付属病院に入院しなければならなかったほどだから、重病だった。翌年、そのまま病院で息を引き取ったのである。母セツは、大黒柱を失った後、一家を支えるために死に物狂いで働いた。古賀は、「父の法事を済ませると、それまでも働き者であった母は、まるでなにかに憑かれたかのように、一層烈しく仕事に精を出した」といつ寝るのかを知らないくらい働く母親の姿を回想している。長男福太郎は、すでに奉公のために朝鮮に渡っていたから、夭逝した古賀の妹を除いて、家に残されたのは乳幼児の弟を含めて6人の子供と祖母を抱えての母親への重圧は、すさまじいものであった。
女一つ手は一家を支えるのはやはり厳しかった。生活はゆきずまり、路頭に迷う運命がこの家族に今にも襲うとしていた。セツは、家をたたみ一家で朝鮮にいる長兄福太郎をたよって朝鮮半島にわたる決心をした。当時、日本の植民地になったばかりの朝鮮半島には、福太郎をはじめ兄弟たいが、父の死後に仁川で金物屋を営む徳本氏のところに奉公していたのだ。古賀が故郷田口村と離別した年が明治45年。明治天皇の崩御、乃木希典夫妻の殉死など衝撃的なニュ−スが全国に流れていた。二人とも故郷喪失による近代人への飛翔がそうさせたといえる。古賀少年は、「だっこ、だっこ」と駄々をこねる幼い弟の手を引いて故郷を捨てた思い出を終生忘れなかった。真夏の太陽が、地平線の彼方に沈んでいく。その夕暮れの美しさを背に細い影を引きずりながら、歩く四人の家族には、いかにも哀れさが漂っていた。故郷喪失、流浪が近代人の宿命だとしても、幼い少年にとっては、苛酷な運命の十字架に等しかったに違いない。
《人生の並木路》は、そんな古賀の体験がそのまま歌になったようなものだ。古賀少年の行く先は、仁川、そして、京城へと。古賀メロディーが朝鮮のメロディーの影響うけているということは一般に認識されている。 古賀が朝鮮半島の生活体験において彼の音楽のもつ叙情性の源になったといっても過言ではない。兄の店で働いている朝鮮人労働者がふとなにげなく口ずさむ哀調に満ちた民謡・俗謡など生きた人間の感情のこもったメロディーが自然に古賀の体内に宿っていたのである。それが古賀メロディーの表現において「叙情核」になっていった。さらに、朝鮮での生活において、大正琴、琴、筑前琵琶、の絃楽器にふれたことも大きい。 
萩原朔太郎は、古賀政男と石川啄についてつぎのようにのべている。
「石川啄木と古賀政男は、すべての点においてよく似ている。第一に、彼等は、情熱的なロマンチストであり、そして純情的なリリシトである。しかし、彼等のロマン情操は、現実の実生活と遊離した架空のロマンシズムではなく、現代の日本の社会が実相しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の芸術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラーの普遍性を有するのである」
朔太郎は啄木と古賀の芸術の類似性を指摘しながら、古賀メロディーの世界的な普遍性を獲得する時代を予見している。後に古賀メロディーは全米を席捲することになるが、やはり、初期において藤山一郎の歌唱芸術がその魅力を引き出したことよるところが大きいのである。 
金融恐慌で幕をあけた昭和、モダニズの華やかさとは対照的に暗い世相もまた時代の象徴だった。取付け騒ぎから台湾銀行の営業停止による金融恐慌の全国的拡大は、中小企業と零細預金者を悲惨な状況に追いやった。通帳を持ちながら路上で泣き伏す老婆の姿は哀れだった。その場しのぎの日銀融資の救済処置が銀行破産という最悪の結果だったのだ。対戦景気で「成り金」が続出して活気を呈した日本経済の繁栄は、実は底の浅いものであった。第一次世界大戦の終結によってヨーロッパがアジア市場に再登場してくると、日本経済は、木の葉のように揺れ動き苦境に立たされることは明白なことだった。作家、芥川龍之介が、「或旧友へ送る手記」のなかに「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と記し、自殺したのも金融恐慌勃発の年である。夏目漱石の推賞によって文壇に登場したのが大正5年。それから11年後の自殺は、何か象徴的な事件であり、この遺稿に残された言葉にはあらためて考えさせられる。ラジオ、自動車の氾濫を意味する機械主義、ビルディングやカフェー、ネオンに象徴される都会主義は、芥川にとっては封建的な土着の残骸をごまかしているにすぎない。芥川は、中身のない皮相なモダニズムに不安、危機感と影を感じて苦悩した結果が自殺という回答を示したのも頷ける。金融恐慌と山東出兵、芥川龍之介の死、翌昭和3年は、、共産党を一斉検挙した3.15事件、第二次山東出兵の際の武力衝突(済南事件)、治安維持法の改正(死刑罪、目的遂行罪追加)、張作霖を爆殺した満州某重大事件、特別高等課設置と不吉な時代の前触れを暗示させた。20世紀の日本に大きな音楽遺産を残した作曲家 古賀もこの頃、マルクス、エンゲルスの本や『赤旗』を読もうと本屋の前に徹夜して開店を待ったこともある。そして、青根という東北の鄙びた温泉の宿で人生に絶望し自殺未遂を図ったのもこの頃である。
「その頃私は貧しい苦学生であった。父に逝かれた幼い私は家を飛び出して上京し、苦学しながら明治大学に通っていた。空腹を水でまぎらわしながら講義に通ったのは、前途にバラ色の門を自分で作らねばとの気概からであった。これは前途に希望を託していたにほかならなかった。だが、卒業期が近ずくにつれて、私のロマンチシズムは急速に崩壊していった。前途には、ただ灰色の重く沈殿した社会が横たわっているだけであった。」
古賀はカミソリを手にして、正気を失いどんどん谷間に降りていった。この温泉は蔵王への途中にあるらしく宿も二軒ほどしかなく、人の気配はまったくなかった。古賀はカミソリを首筋にあてた。鋭い痛みが走る。その痛みが死ぬことへの恐怖心に変わるのだ。怖くて死ねない。古賀は咄嗟に首から噴き出す血をハンカチで押さえた。そして、うつ伏せになって谷底で慟哭した。ただ泣くばかりであった。その時の鬱屈と人生への苦悶谷底から上がるときの蔵王の山に消えようとしていた。その夜は、泥酔しとうと浴びるほど酒を飲んだ。酔えなかった。夕日の鮮やかさが入り混じり、浮かんだ詩と曲もイメージが《影を慕いて》だった。
《影を慕いて》の初演は、昭和4年6月、明治大学マンドリン倶楽部第14回定期演奏会赤坂溜池三會堂においてである。ギター合奏で演奏された。当日、ゲスト歌手の佐藤千夜子は、明大マンドリン倶楽部の50年史によると、《青い芒》と《龍峡小唄》と記されている。その後、昭和4年10月のアンドレスセゴビアのギター演奏は古賀に大きな衝撃をあたえた。まさに古賀の胸に差し込んだ一筋の光りの矢だった。あの有名な《影を慕いて》の前奏部分ができたのはこの興奮の後であろう。
「秋の夕暮れのことであった。キセルなおしの『ラオ屋』が屋台を引き、物悲しい笛の音を流して通っていった。その音をそのままギターの音におきかえて、あのメロディーができあがった。こうしてセコビアの放った〃矢〃は閃光を放って私の体につきささって以来、私の心の奥底にとどまっているのである。恐らく永遠に抜き去ることはできないであろう。」
《影を慕いて》は、エロ全盛の頃昭和6年1月新譜で発売されている。佐藤千夜子が歌った。A面は《日本橋から》である。ビクターの月報の新譜紹介には、わずか《影を慕いて》については「B面は、ギター伴奏の歌謡曲」という記されている。 
コロムビアは、昭和流行歌の序盤戦においてビクターの独走を許し窮地に陥っていた。コロムビアとしては劣勢をどうにか挽回しなければならない。しかし、ビクターでは全く芽がでなかった 古賀をコロムビアは迎えいれ晋平節に対抗できる力を獲得したのである。昭和6年、9月、柳条湖事件が勃発。ついに満州を中国の主権から切り離し軍事的制圧による日本支配を目的に関東軍の軍事行動が始まった。ついに近代日本の崩壊への序曲が鳴りはじめたのである。満州事変が本格的になりだした頃だろうか、なんともいえないあの暗いやりきれない時代を暗示させる鈍いギターの旋律にのせてこの《酒は涙か溜息か》が爆発的に流行した。
作詞は高橋掬太郎。古賀は高橋が送ってきた七五調の短歌に困惑し苦しんだ。歌詩が短すぎて、まるで都々逸に近いものであったからである。高橋掬太郎は、すでに《月の浜辺》《キャンプ小唄》のレコードで古賀の名前は知っていた。高橋は、この2曲が好きだった。どっちらにも青春の感情が麗しくこもっていて胸一杯にし魅了してくれたからである。この《酒は涙か溜息か》の詩にはつぎのようなエピソードがある。函館の花街に千成という芸者がいた。芸達者で美人で蓬莱町では随一の名妓の一人であった。ところが、ある事情によって芸者をやめなければならなかった。彼女がいよいよ花街を去る前夜、高橋ら知人たちによって送別会が開かれた。その席上で、高橋は、《酒は涙か溜息か》を白扇に即興で書いて、餞別として千成に送った。その詩がコロンビアのディレクターの市村幸一を通うして古賀のところに送られてきたのであった。毎日、ギターを持って三味線の曲や義太夫などを弾いてみた。なかなか詩がもつ詠嘆的余情にぴったりとあうメロディーが浮かんでこない。この頃の世相を古賀は肌で感じていた。ひどく暗い憂鬱な時代だ。昭和恐慌の嵐が吹き荒れ、「大学は出たけれど」という言葉に象徴されるように、ひどい就職難。重要産業統制法によって産業合理化は一層進み、街には失業者が溢れ、どこへ行っても絶望感と深い溜息が聞こえてくるような時代であった。民衆は、権力に翻弄されながらモダニズムの蔭で多くの涙を流し続けた。大都市では、相変わらず、不況を忘れるかのようにジャズが鳴り響いていた。盛り場は、夜が更けると、カフェーやダンスホールの官能的な艶かしいネオンが灯り、人々のやるせない鬱積した心情は、エロ・グロの中に吸い込まれていった。都会のジャズの馬鹿騒ぎのなかで借金の形で売られ心身を食い荒らされる娘の涙、雑巾のように絞られ捨てられていく大衆のどうしようもない絶望感に満ちた深い溜め息、向島、本所、深川あたりの貨物列車のような裏長屋から聞こえてくる呻き声、この落差を古賀はどうしても埋めたかった。
「ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」
ジャズ=疑似的明るい情念、溜め息=暗い情念、とするならば、その距離を埋めることは、狂騒を鎮静させ、悲しみの情念が鬱屈させずに浄化することを意味する。だから、クラシックの作曲法の常套手段であるピアノを使用せず、その合理的ハーモニーや調和と均整という精神では捉えきれなかった大衆の情念をギター、マンドリンをつかった独自の作曲法で表現したのである。古賀がもし音楽学校で正規の作曲法を身につけていたなら、このメロディーは生まれていなかったに違いない。この『酒は涙か溜息か』の16小節には「赤い夕陽が墓地の彼方に沈むふるさとの想い出も、七つの年寂しく母に手をとられて、そのふるさとを出て行かねばならなかった童心の嘆き」が込められている。また、「愛する人を義理ゆえに諦めねばならなかった哀しみ」や、「夢枕の立つまで自分を慕ってくれた愛人」を、振りきらなければならなかった苦しみ、「身は病に傷ついて、ただ一人旅の空に月を仰ぎみる孤独の寂しさ」がこの曲に集約されているという。これは、古賀の大衆から遊離したひとりよがりのな感情ではない。また、青白い青年の告白でもない。貧困、身売り、嬰児殺し、故郷との別離、肉親との別れ、失恋、失業による生活不安、嘆きに悶え苦しみ、孤独な「我」に涙を流す者は数えきれないほどいたであろう。古賀の《酒は涙か溜息か》はこれらの人々の心情をメロディー化したのである。宮本旅人が《酒は涙か溜息か》の持つ本質を「この泣きたい様な前奏に始まる音律の美しさをみよ、長くひくAの音に始まる歌のメロディーが持つ、うづく様な悩ましさにひたれよ」絶賛したのも納得がいく。萩原朔太郎もまた同様に「真のヒューマニストの芸術家」と称賛を惜しまなかったのも、民衆の苦悩、情緒、生活を生きた吐息のままでリアルに体感しできる感性に驚嘆したからであろう。萩原朔太郎は、宮本旅人の『 古賀政男芸術大観』の序文に「古賀政男と石川啄木」と題して二人の芸術家としての同質性をのべた。
「石川啄木と古賀政男とは、すべての點に於てよく似てゐる。第一に彼等は、情熱的なロマンチストであり、そして純情的なリリシストである。」
朔太郎ののべるところによると、彼らのロマンチシズムは、生活実感から遊離したものではなく民衆の苦悩、をリアルにそれぞれの手法において体感したものであり、「ホピュラーの普遍性」を有するものなのである。
「藝術家の魂は、常に大衆の心の反映鏡であり、藝術家の獨り流す涙は、常にまた大衆の心の悲哀を表象する故に、かかる純眞の藝術は、孤獨の詩人の胞から生まれて、同時にそれが大衆の所有となり、大衆によって合唱それる結果になる」
なぜ、己の内面凝視が大衆ぶ共鳴し普遍化するかといえば、朔太郎によれば、古賀も啄木も「真のヒューマニスト」だからである。そして、社会と正面から対峙しながら苦悩しオリジナルな創作芸術を完成させたからである。そこには、それぞれの分野でありがちな一方的な模倣や軽薄な和洋折衷を排した真の主体的な文化の創造がみられたのだ。 
藤山一郎
《酒は涙か溜息か》を歌った藤山は、本名の増永丈夫といって東京音楽学校のみならず、日本の楽壇が期待するホープで声楽家としての将来が嘱望されていた。後に来日したプリングスハイムやヴハーペニッヒが彼のバリトンにかなり期待をしたそうだ。それは、昭和7年、東京音楽学校主催第65回定期演奏会での《ローエングリン》での朗々と日比谷公会堂に響きわたった高低の均質な響きのテノールのようなのびやかなバリトンが証明していた。まさに「上野最大の傑作」は近代日本音楽の所産を思わせたのだ。昭和8年6月、同じ日比谷公会堂におけるベートーヴェンの『第九』のバリトン独唱は、それを一層認識させたである。 藤山は、明治44年、日本橋生まれ。東京文化のほとんどは西洋文化の模倣だったが、下町に僅かに残されていた江戸文化の面影が藤山の幼き日の記憶の底にあった。しかし、文明開化の象徴である瓦斯灯のイメージが彼の「陽」の原点だった。瓦斯灯が点火されたのは、明治5年、横浜の居留地の点火が最初だそうだ。江戸の陰影を払拭する革命をもたらした。
藤山と同じ日本橋蠣殻町生まれの文豪谷崎潤一郎の『陰翳礼讚』にも詳しいが、文明開化以前の日本では、夕映え、月の出、夜明け、靄、蛍、花火など、「美の目的に添うよう」に光りと蔭の使用が巧妙な「陰翳」というものが日本の美意識において表現上重要な意味をもっていた。 藤山は、慶応幼稚舎の四年生のとき早くも童謡をレコードを吹き込んでいる。それは、慶応の音楽教師である江沢清太郎の推薦があったからである。藤山は、この江沢の推薦で東京三光堂から発売された「スタークトン・レコード」」(後の日本蓄音器商会のニッポノフォン)に《半どん》《春の野・山の祭り》《何して遊ぼ》《はねばし》などの童謡を歌っている。当時は、マイクロフォン録音ではなくおおきなスタジオの壁から突き出たメガホォンのような集音ラッパに向かって声を発声している。レコーディングのことを「吹き込み」といったのもそこらへんからきている。 古賀と藤山が登場する昭和初期、19世紀のヨーロッパは音楽において「高級」と「低俗」という枠組みが登場したが、日本においてはその二分立は、昭和初期に見え始めた。大衆の感覚を満足させる流行歌の大量生産。 藤山が登場する以前に多くの流行歌が氾濫している。歌手も多士済々。モダニズムの経済哲学がここにも現れ、ややもするとクラシックが主張する音楽美を喪失させる。享楽と頽廃、刹那的感覚の消費、モダニズムの世相を反映する流行歌にたいして当然、当時の知識人たちは、嫌悪感をしめした。永井荷風の『断腸亭日乗』には、インテリ階級、知識人らの流行歌にたいする嫌悪感が代弁されている。
「夜お歌を伴い銀座を歩む。三丁目の角に蓄音機を売る店あり。散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く。沓掛時次郎とやらいふ流行唄の由なり。この頃都下到処のカッフェーを始め山の手辺の色町いづこといはずこの唄大に流行す。其他はぶの港君恋し東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るもなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず。広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり」
裕福な家に育ちながら、近代化の皮相への呪詛とコンプレックスから江戸情緒に耽溺した荷風には、モダニズムの消費スピードを増すために東西が皮相な形式で折衷された流行歌は耐え難いものであったにちがいない。モダニズムは、伝統的規範の破棄から出発する。現実を直視する思想を放棄し、格調高い精神性を溶かす感覚的消費のなかで快楽を享受する民衆の唄が流れれば、知識人たちの音楽教養は捨てられる。とくに、「文化の最先端を誇る近代都市のペーブメントに、さまざまな人工的光」とともに流れ、人々のモダニズムの感染している感覚を刺激するジャズは、まさに「騒音の暴君的支配」に聴こえてきたにちがいない。しかし、ワーグナーやベートーベンを独唱する 藤山が均整のとれた澄んだ響きで正統に刹那的に感覚消費を目的としたモダン相に流れる流行歌を唄ったことは、大衆から遊離した高踏芸術が世俗化する一歩であり、「高級」=精神、「低俗」=感覚を接合する画期的なことなのである。
藤山は、刹那的享楽消費文化といわれたモダニズム文化のなかで自己創造を主体的に実践した歌手なのだ。だが、不思議なのは、およそ、悲しみの情念とは程遠い「陽」の響きをもった理性歌手が、大衆の涙を凝縮した感傷のメロディーを唄いヒットさせたことでる。慶応−上野というクラシックのエリートは、農村の悲惨さと下層民の呻き声とは無縁なはずだ。しかも、《酒は涙か溜息か》の歌詞には、酒、涙、憂さ、溜息、など情念の記号がちりばめられている。未練、自棄、悲しみなどおよそ、美しいハイバリトンで華麗に歌うクラシックの優等生に歌えそうな気がしないのである。藤山は、《酒は涙か溜息か》以降、藤山は古賀のギター伴奏で古賀メロディーを唄うが、、昭和モダニズムの蔭で流す涙と古賀メロディーから醸し出される「民衆の吐息」を表現したのだ。そのような歌手が昭和モダニズムに底流する「涙」を表現するのだから、宮本旅人は、かつて 藤山を「あの美しく若々しき風貌そのままの、青春を讚へる歌を唄はせれば天下一品である。又、古賀メロディーの一番の特色であるセンチメンタリズムの表現も、この藤山の右に出づる歌手はない」と評したことも納得できる。
古賀・藤山コンビを一躍流行歌の頂点に押し上げた《酒は涙か溜息か》は、昭和6年に公開された松竹映画『想い出多き女』の主題歌になった。それが歌の流行に拍車を幾分かけたといえる。監督は、池田義信、主演栗島すみ子。レコード売上に拍車をかけた。また、新興映画でも歌と同タイトルで製作され12月常盤座で公開された。昭和6年12月新譜で《丘を越えて》が発売された。《丘を越えて》は古賀の青春の譜の象徴といえる。古賀は学生時代、春は倶楽部のメンバーと花見を兼ねたピクニックに行った。古賀は、卒業を迎えた春も同じようにマンドリン倶楽部の後輩たちと小田急沿線の稲田堤にハイキングにいった。ちょうど桜が満開になる頃だった。いつものように焼酎を一本さげてでかけた。古賀は焼酎に砂糖をかきまぜて飲むのが好きだった。この日の思い出は、古賀の自伝につぎのように記されている。
「ハラハラとこぼれる桜の花びらをさかなにしこたま飲んで酔っ払い、さんざん唄い騒いでその日も暮れた。下宿に帰って帽子を脱ぐと、ビジョウのところに桜の花びらが一枚はりついでいる。この花びらをじっと見つめているうちに、昼間楽しかったハイキングの情景がよみがえってきた。学生時代さいごの花見か−二度と返らぬ若さががぎりなくいとしくなってきた。そのとき、軽快なマンドリンの音(ね)が頭に響いてきた。頭の中のメロディーは次ぎからつぎへと、おもしろいように変化していった。私はマンドリンを取り上げて楽譜に写していった。」
古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。46小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和のレコード産業の創成期において革命的なことであったのだ。「青春」は、近代日本が生み出した学歴社会、学校歴社会が舞台装置となって成立する。「青春」というテーマを流行歌の世界に持ち込まれることによってそれまで無縁であった一般大衆との「心理装置としての共有財産」が可能になったのである。そして、青春の躍動感を溌剌と歌う 藤山の登場によって古賀メロディーの「陽」の世界が完成するのだ。「陰」と「陽」の世界を併せもつ古賀メロディーは、いろいろな歌手に唄われることによって歌謡界の共有財産になっている。朝倉孝司は、古賀メロディーの凄さについてつぎのようにのべている。
「『影を慕いて』における森進一、『目ン無い千鳥』における大川栄策、『サーカスの唄』においては小林旭、どの歌と特定するまでもない古賀メロディー全般における美空ひばり、といったぐあいに、発表後何年も経ってから、それぞれの歌が最適の歌い手をみつけ出し、しっかり結びついてしまうことだ」
《丘を越えて》だけは、歌謡曲の歌手で藤山以後、持ち歌にした者はいない。天才といわれた美空ひばりでさえも《丘を越えて》だけは、この唄のもつ明るさは完全には表現できなかった。朝倉にかぎらず、古賀メロディーを論ずるほとんどの人が感傷性と大衆性(平易)だけに目をやり、古賀の咲き誇る花の香りともいうべき青春の躍動を見逃しているのである。戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約20万台といわれた時代に50万から60万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。
だから、山田耕筰が 古賀の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。 藤山は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声の中間で音色をつくって発声するので透明感があるのである。そして、声を張るところではスピントをかける。軟口蓋の後ろから抜く場合と硬口蓋から直接鼻腔に抜くという二つの武器がある。 藤山によって古賀の音楽芸術は開花した。その後の古賀の日本音楽界にあたえた功績は、彼の才能と努力の結果であり、20世紀日本が生んだ偉大な作曲家である。昭和7年、古賀メロディーは流行する。《酒は涙か溜息か》同様に《影を慕いて》が一世を風靡した。まるで、梶井基次郎のつぎのような言葉は不気味な情念を響かせるかのように流行したのだ。
「櫻の木の下には屍體が埋まつてゐる!これは信じていいことなんだよ。何故つて、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やっとわかるときが來た。櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる。これは信じていいことだ」
昭和モダニズムの精神風景の記号は涙から未来を透視できない影に変わるのである。この時も、藤山はバリトンで声を張らずにテノールの音色をいかしたクルーン唱法で唄っている。 藤山という歌手は、まったく不思議な存在だ。昭和7年の暮れには東京音楽学校の定期演奏会でワーグナーの《ローエングリーン》を独唱している。高踏芸術の世界に身を置きながらえたいの知れない不吉な昭和の影を歌うのだからその音楽個性もユニークなのであろう。《影を慕いて》の歌詞には、「まぼろし」、「影」、「焦がれ」、「痛み」、「胸の火」、「はかなき」、「忍び泣く」、「ギター」、「時雨」、−−−感傷や影の慕情ともいうべきシンボルが殺し文句的にちりばめられている。己のロマンチシズムが崩れ、人生に絶望し自殺という自己の抹消を図った経験のある 古賀の心情がわかる。また、<永遠に春見ぬ 我がさだめ 永ろうべきか 空蝉の はかなき影よ 我が恋よ>は、近代日本の未来の不確定性に映る影と滅びゆくものへの切ない思いを感じさせる。 昭和7年1月は、 藤山の歌唱で《影を慕いて》の吹き込みがあった。春陽の死と藤山による古賀メロディーの登場、《籠の鳥》と《影を慕いて》、何か因縁を感じる。《影を慕いて》は、春陽の《籠の鳥》と同様に三拍子のリズムだ。どちらも、そのリズムに哀歓が込められている。《籠の鳥》は、抑圧され、押し込められた民衆が閉塞状態から抜け出ようとし、その呻き声を洋楽の手法で演歌師の立場から作曲された。大正デモクラーの底流する民衆の呻き声を悲しくも寂しくも奏でている。そのメロディーは20世紀における流行歌の近代化でもある。それは大変意義のあることであった。なぜなら、街頭演歌師の立場からそれをやってのけたからだ。そして、昭和モダンを迎え、 藤山がホールの隅々までに響かせるメッツァヴォーチェによるクルーン唱法で古賀メロディーを歌唱したことも、やはり革命なのである。晋平節の《ゴンドラの唄》に始まり、《籠の鳥》から近代日本の透視できない影を象徴する《影を慕いて》へ、流行歌における20世紀の意味がわかるような気がする。 
古関裕而
昭和に入ると、街頭演歌師たち庶民の心を慰めた「流行り唄」の時代でなくなっていた。電気吹込みを完備した外資系レコード産業の成立によって、その仕組みが大きく変わっていたのである。路傍で流行っていた唄をレコード会社がレコードにするのではなく、レコード会社が企画・製作し宣伝によって、大衆に選択させるというシステムが誕生したのである。
昭和2年、日本ポリドール蓄音器会社が設立、日本で最初の輸入原盤をプレスした。同月、日本蓄音器商会は、技術提携を条件に英国コロムビアに35.7%の株式を譲渡した。昭和2年9月、米国ビクター(ビクター・トーキング・マシン社)の全額出資によって、日本ビクター蓄音器株式会社が発足した。翌年の日本蓄音器商会は、英国資本に米国資本(昭和2年10月、日蓄の総株式の11.7%を米国コロムビアに譲渡)が加わって、日本コロムビア(商号・「日本コロンビア蓄音器株式会社」)が設立された。日本蓄音器商会は英米コロムビアと提携して新たな製造会社を発足させたのである。
昭和流行歌のヒット競争が日本ビクターの独走で開幕した。ビクターは西條八十、中山晋平を専属に迎え、赤盤芸術家藤原義江、「晋平節」と言われた中山メロディーを世の中に広めた佐藤千夜子、ジャズ・ソングを歌い一世を風靡した二村定一を擁してつぎつぎとヒットの鉱脈を当てたのである。昭和3年・《波浮の港》、《青空》、《アラビアの唄》、昭和4年・《君恋し》、《東京行進曲》と昭和流行歌新時代の到来だった。コロムビアは関西の傍系会社で腕を奮う鳥取春陽の上京を促していたが、彼は関西から動こうとしなかった。
流行歌新時代を迎えた昭和だが、古関は流行歌には関心がなかった。彼にとっての音楽はクラシックだった。外資系レコード会社の成立によって、電気吹込みによるクラシックレコードが洪水のごとく輸入された。コロムビアの青盤、ビクターの青盤がふんだんに聴けたのである。また、ジャズなどの洋楽レコードも同様だった。
昭和に入ると楽壇の動きも俄かに活発になってきた。昭和3年2月、日本青年館において、「国民交響管弦楽団」の第一回演奏会が開催された。ハイドン・《ト長調交響曲》シューベルト・《未完成交響曲》モーツァルト・《劇場支配人》が演奏されている。
昭和5年の秋、古関は日本コロムビア専属作曲家となり、妻金子と共に上京した。古関夫妻は早速、日本楽檀の状況を耳にした。9月、エフレム・ジンバリストの演奏会が帝劇で5日間にわたる独奏会が開催された。第一夜のブラームスの《二短調ソナタ》とベートーヴェンの《ニ長調》は好評だった。11月、井口基成がスクリアピンの作品を仁寿館で演奏し渡欧の置き土産となった。《作品二三番ソナタ》《悪魔の詩》《第九ソナタ》等への意欲的な取り組みが見られ,演奏としては申し分のない評価を得たのである。
古関夫妻は、上京するとまもなく、慶応大学に在学していた従兄の関係で、ヴォーカル・フォア合唱団に入った。この合唱団は、当時の新進声楽家、松平里子、平井美奈子、内田栄一、下八川圭祐らが主宰しており、放送オペラや演奏に活躍していた。妻金子の練習に古関も同伴していたので、彼自身もバスパートに入ることになったのである。
古関のコロムビア専属は山田耕筰の推薦によるものだが、出社通知と辞令はまだ手にしていなかった。古関は阿佐ヶ谷にある義姉の家に部屋を借りて住んでいた。三百円という多額の契約金を貰ったので、当面の生活の心配はなかったがとはいえ、コロムビアからは一行に音沙汰がないことが古関に猜疑心を生むような不安をあたえていた。
昭和5年といえば、昭和恐慌によって不景気のどん底で,街には失業者が溢れていた。古関は不安を抱えながら昭和6年を迎えた。昭和6年に入ってもビクターの勢い衰えず、コロムビアの劣勢は変わらなかった。昭和6年1月新譜の《女給の唄》は華やかな昭和モダンの「翳」ともいうべき女給の哀しき姿をテーマにした歌である。同月新譜には佐藤千夜子が吹込んだ古賀メロディー・《影を慕いて》が発売された。A面は《日本橋から》でマンドリンオーケストラ伴奏、B面・《影を慕いて》はギター歌曲だった。だが、レコードは売れなかった。コロムビアは作曲者の「古賀正男」に白羽の矢を立てた。そして、 古賀を誕生させたのである。ということは、古関と古賀はほぼ同時期にコロムビアの専属作曲家になったことになる。 
昭和6年2月、日本青年館でヴァイオリンの名手モギレフスキーの演奏会が開かれた。演奏曲目はチャイコフスキー・《協奏曲二長調》、モーツァルト・《アダージョーホ長調》シューマン・《ファンタジー・作品73-1》、ブラームス・《ハンガリア舞曲・ヘ短調》ドビュッシー・《小さな子羊飼》《ミンストレス》などがちりばめられ、好評を博したヴァイオリン独奏会だった。3月には、昨秋ベルリン郊外で不慮の死を遂げた故井上織子の音楽葬が日本青年館で行われた。新響の近衛文麿指揮でベートーヴェンの第三交響曲の《葬送行進曲》が演奏された。
昭和6年春、妻金子が帝国音楽学校に入学した。と同時に古関は音楽学校近くのに妻の通学の便を考えて世田谷代田に引っ越した。ちょうど、音楽学校には古関と同郷の伊藤久男がいて、下宿先も近かった。世田谷代田には福島県出身のテノール歌手平間文寿が声楽塾を主宰しており、伊藤はそこでも声楽を学んでいた。伊藤は下宿が近いこともあって古関の所にしょっちゅう来ていた。古関はコロムビアからいっこうに何もないので優鬱な日々を送っていたので、豪放磊落な伊藤の来訪は嬉しかった。
古関が悶々とした日々を送って頃、作曲家古関を最初に知らしめることになる仕事の依頼が来た。それが、早稲田大の応援歌「紺碧の空」である。昭和6年春のリーグ戦を前にして、早稲田は打倒慶応大を果たすために新応援歌を作ろうとしていた。しかも、前年度は一勝もできなかった。早稲田としては、慶応の応援歌「若き血」に対抗できる新応援歌が是が非でもほしい。それは早稲田校友の願いでもあった。
歌詞は応援団が全早大生から募集した。その中から、当時高等部に在籍していた住治男の作品が選ばれた。選者の一人である西條が絶賛するほどの詩だった。だが、「覇者、覇者、早稲田」の個所が作曲上難しいとされ、作曲者の選定を悩ますことになった。失敗の許されない大事な新応援歌である。そのため、中山晋平、山田耕筰ら大家でなければ作曲は難しいであろうという声が大勢を占めていた。
早稲田応援団の幹部の一人、伊藤茂は当時、帝国音楽学校に通っていた伊藤久男のいとこであり、伊藤久男を通じて古関に新応援歌の作曲を依頼した。当時の古関は日本コロムビアの専属作曲家といえ、まだ、作品を書いていなかった。無名であり早稲田関係者の間では反対する声も多かった。
伊藤茂は母校の命運を古関に託した。古関も引き受けたからには、「陸の王者」に負けない歌を作曲しなければならない。だが、早稲田の劣性を挽回(ばんかい)するような旋律がなかなか浮かばなかった。発表会の期日が迫ってくる。苦心の末、ようやく完成した。応援団関係者からは「少し難しすぎる」という声もあったが、古関は己のメロディーに自信を持っており、ほとんど手を加えず発表した。
6年春のリーグ戦は慶応が早慶戦を前に優勝の有無にかかわらず、宿敵慶応を打倒しなければならない。胸部疾患で戦列を離脱したエース小川正太郎に代わってマウンドに登った伊藤正男の 三連投や、二回戦で三原脩の勝ち越しを決めた劇的なホームスチールなどで、早稲田は3シーズンぶりに慶応から勝ち越し点を奪った。
初夏の陽がさんさんと輝く神宮球場。早稲田側のスタンドから沸き起こる歓喜あふれだ「紺碧の空」の大合唱。学生は絶叫し勝利に酔いしれた。「紺碧の空」は早稲田の校友にとって青春を謳歌(おうか)する魂の躍動であり、忘れぬ青春の譜となったのである。 
昭和6年5月、ようやくコロムビアから古関の所へ2曲早急に作曲してくれとの依頼があった。古関はようやくコロムビアから仕事の依頼がきたことに安堵した。ところが、その作曲とは、流行歌だった。古関は躊躇した。古関の希望はクラシックの作曲家であるが、コロムビアは電気吹込みによる新しい流行歌の作曲を古関に期待していた。ロンドンのチェスター音楽出版社募集の作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」ほか4曲を応募し入選し実績などまったく何の意味も成していなかったのである。つまり、会社としては、このぐらいの組曲を作れるなら、流行歌の作曲家として十分にやっていけるだろうとい考え方だった。
昭和の流行歌は明治・大正時代の「流行り唄」を脱し、近代詩人たちが歌謡作家として腕を奮い、西洋音楽に精通した作曲家がその手法で旋律を作り、洋楽演奏家たちが歌唱する時代になっていた。コロムビアは、古関の音楽を認めていたからこそ、流行歌の作曲を依頼したのである。古関も契約時に貰った三百円もそろそろ底をつき始めたので、流行歌とはいえ、背に腹を変えるえることができなかった。
さて、古関は流行歌といっても、作曲したことがなかった。そこで、とりあえず、日本歌曲のつもりで作曲していた自作品を吹込みことにした。それが《福島行進曲》と《福島セレナーデ》である。発売は昭和6年7月新譜。ちょうど、古賀政男と藤山一郎の第一作の《キャンプ小唄》も同月に発売されている。古賀はコロムビアから専属作家としての打診を受けたとき、流行歌の作曲には自信がないことをのべて、社員入社を希望していた。
古賀社員希望であったことは、古関の自伝にもつぎのように記されている。
「私がコロムビア専属になった頃、古賀政男さんは既に社員として入社していた。ストップウォッチ片手に吹き込みの記録などを担当していた。私のレコーディングにも幾度か立ち会ってくれたこともある。時折、うす暗い地下食堂でお茶を飲みながらお互いに励まし合い、将来を夢みたものだった。彼は社員としてかたわら盛んに作曲もやっていた」
古賀の社員入社は古関の記憶違いであろう。古賀は社員希望だったが、コロムビアからは強引に専属作曲家の契約を結ばされている。だが、古賀は作曲家としての自分に全く自信がなく、会社に毎日出社し社員の真似ごとをやっていたことは事実である。
古関と古賀はほぼ同期ということもあり、お互いを励まし合いながら地下食堂で語り合うことが多かった。古賀はこのとき自分の音楽の夢はギター・マンドリン、プレクトラム音楽の演奏家として身を立てることを語った。現に古賀は母校の明治大学のマンドリンオーケストラを指揮・指導していた。古関が古賀と将来の夢と抱負を語り讃え、励まし合っていたということは、古賀自身がまだコロムビア入社の頃、クラシックを志向していたことになるのではなかろうか。
古賀は「月2曲」という条件をのみ作曲家として恐る恐る仕事をしていた。だが、藤山との出会いによって大きくその才能が開花して行くのである。
古関は故郷福島を愛してやまなかった。記念すべきデビュー曲は故郷に捧げるつもりで《福島行進曲》を選んだ。B面のやはり故郷福島をテーマにした《福島小夜曲》を選んだのだ。この曲は、昭和4年、福島で「竹下夢二展」が催された時作曲したものである。古関は絵画にも関心があったので、同会場を訪れた。竹下夢二が滞在中に書いたと思われる墨絵の福島の風景画とその下段に書かれた民謡調の歌謡に心を魅かれた。古関はこの詩画に深く感動し早速、全部ノートに写して帰宅した。そして、感興のおもむくまま楽想を練ったのである。古関はレコードに吹込むうえで次の三編を選んだ。
遠い山河たずねて来たに吾妻しぐれて見えもせず
川をへだてた弁天山の松にことづてしてたもれ
信夫お山におびときかけりゃ松葉ちらしの伊達模様
弁天山は福島市を流れる阿武隈川を隔てて見える丘陵地である。信夫山は桜の名所で知られている。古関は、哀調のある民謡調の童歌的な歌曲に仕上げていた。
《福島行進曲》は天野喜久代、《福島小夜曲》は阿部秀子が歌った。天野は帝劇出身のオペラ歌手だが、ジャズ・ソングを二村定一と一緒に歌っていたので、流行歌には馴染みがあったが、阿部秀子の方はクラシックの声楽家で、言葉が不明瞭で歌唱力に難があった。福島では竹下夢二愛好家が比較的多いので、《福島小夜曲》の方が地元では歌われた。だが、流行歌、いわゆるレコード歌謡としてのヒットというわけではなかった。クラシックの作曲を自負している古関はむしろ、流行歌で声価が決定しなかったことに内心ではホッとしていた。 
昭和6年9月、古関夫妻が所属するヴァーカル・フォアのソリストとしてオペラ、演奏に活躍した松平里子がイタリアのミラノにて急逝した。9月、ドイツに留学していたテノールの奥田良三が帰朝して独唱会を開いた。奥田はすでに鈴野雪夫、植森たかをという名前でビクター、コロムビアで流行歌を吹込んでおり、ポピュラー音楽にも熱い眼差しを向けていた。
昭和6年10月、古関は正式に日本コロムビア専属作曲家になった。コロムビアから朗報の通知を受けてからおよそ1年が過ぎていた。8月新譜で古関のユニークな新民謡・《平右衛(ヱ)門》が発売された。北原白秋の飄逸な詩想は卑俗な世界をユモーラスに描いたものだった。古関は、奇抜な作曲法で楽想を深め、歌手・藤山一郎も格調を徹底的に捨て去り、白秋の卑俗な野調をくんだ俗謡的なユーモラスな歌唱だった。このレコードを聴いたかぎりでは、あのクラシックの殿堂・官立「上野」(東京音楽学校・現芸大)が期待する音楽学校生・増永丈夫が歌っているとは思わなかったであろう。古関は慶応普通部(現慶応高校)から東京音楽学校というクラシックのエリートがなぜレコードに流行歌を吹込むのか不思議だった。
幼少のころから、山田源一郎、弘田龍太郎、山田耕筰、梁田貞ら日本の近代音楽の巨匠らに師事し英才教育を受けたこの青年が何故に流行歌を歌うのか、古関は解せなかった。しかも、「上野」では、声楽を船橋栄吉、音楽理論・指揮法をクラウス・プリングスハイムに師事し、来年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督を務めたヴーハー・ペーニッヒがこの増永丈夫のために招聘されることなのだ。
聞くところによると、昭和の恐慌で傾いた生家の借財返済に少しでも役立てようということらしい。ところが、音楽学校は校則で学校以外での演奏を禁止していた。卒業後に流行歌を歌うことは、すでに、徳山l、四家文子、関種子ら「上野」出身らの声楽家が流行歌手として歌っているので問題にならないが、在校中はまずかった。発覚すれば厳しい処分がまっていた。そこで、素性を隠すために芸名藤山一郎が生まれたのである。
古関はとにかく藤山の歌で《山の唄》《輝く吾等の行く手》を吹込んだ。スポーツ映画の主題歌として作られた行進曲風の歌だった。古関も藤山も吹込み料さえ貰えれば文句ないので、歌がヒットすることなど全く考えていなかった。
古関は《紺碧の空》の作曲以来、野球との結びつきを深めてゆく。昭和6年11月、読売新聞社は大リーグの選抜リーグを招いた。このときのメンバーはすごかった。アメリカリーグが誇るグローブ、首位打者・シモンズ、名捕手・カクレーンらフィラルフィアのアスレチックスを中心に、ヤンキーのルー・ゲーリッグ、ドジャーズのオドゥールらそうそうたるメンバーだった。日本はプロ野球が発足する前であるから東京大学のチームが中心となって対戦したのだ。
日本コロムビアは読売新聞社とタイアップし、大リーグチームを歓迎するという意味もあり大会歌を作ることになった。作詞は久米正雄、作曲に古関が起用された。当時、古関は「福島行進曲」「福島小夜曲」の作曲以来、大衆歌の作曲家として歩み始めていた。大リーグの一流選手の打球のすごさ、投げるボールのスピード感をメロディチームは込まなければならない。歌詞には「野末の走る稲妻」「まこと章葉」など、洗練された高度な大リーグ野球にそぐわない言葉もあり、古関は苦労した。古関は実際にアメリカのスタープレーヤーたちを見たことがない。想像力を駆使して作曲するほかなかったのである。
6年11月、アメリカ選抜チームの歓迎会が日比谷公会堂で開催された。そして、古関が作曲した「日米野球行進曲」披露された。オーケストラの指揮は古関が担当することになった。古関は自伝に次のようなことを記している。「この歌を新交響楽団の伴奏で、大合唱団が合唱することに決まった。伴奏は私自身が三管編成のシンフォニーオーケストラに書きおろし、私が指揮をすることになった。」(鐘よ鳴り響け)。日比谷公会堂には四千人のファンが集まった。古関はそのような大観衆を前に音楽の殿堂・日比谷公会堂で指揮をしたのである。
さて、試合だが、日本チームは17戦全敗に終わった。だが、早稲田が8回まで5-0とリードする試合などもあり、日本の野球ファンを十分に熱狂させたのである。当時、古関が作曲した「紺碧の空」で意気上がる早稲田・伊達選手の好投が光った試合だった。日米野球はその後も全慶応が0-2と惜敗するなど、興行は大成功に終わった。「日米野球行進曲」もその成功に大いに貢献したのである。
無事、日比谷公会堂での大役を終えて、ホッとしていた古関に衝撃が走った。古賀がヒットの鉱脈をあてたのである。《酒は涙か溜息か》が一世を風靡したのである。歌唱者は 藤山。正統な声楽技術を解釈して、メッツァヴォーチェの美しい響き効果的にマクロフォンに乗せたクルー唱法で古賀のギターの魅力を伝えたのである。つづいて、藤山が豊かな声量で高らかに歌いあげた《丘を越えて》が大ヒット。日本の流行歌は古賀メロディー一色に塗りつぶされたかのようであった。
古賀メロディーが一世を風靡すると、社内では古関への風当たりが強くなってきた。古関にしてみれば、その理由が分からなかった。コロムビアは古賀と古関を天秤にかけていたのだ。 藤山と二人(古賀・古関)を組ませ、どちらがビクターの勢いを止めコロムビアの巻き返しができる曲をつくるのか、実は競争させていたのである。コロムビアがこんな思惑で古関に仕事を依頼していたとは、古関は知るよしもなかった。歌手の 藤山は素性を隠した覆面の謎の歌手であり、そのような歌手が歌ってヒットするはずがない。それを考えれば、東京音楽学校のエリートを本気にさせた点において、古賀は古関よりも非常に幸運だったといえよう。だが、 古賀にもブレーキがかかった。《酒は涙か溜息か》のレコードがあまりにも売れすぎて、歌っている藤山が東京音楽学校声楽科に在籍する学生であることが発覚して問題になり、藤山はレコード界から去ることになったからである。これが有名な「藤山一郎音楽学校停学事件」である。これは古賀にとって痛かった。 
新鋭作曲家
昭和7年、古賀政男・藤山一郎による《影を慕いて》が巷では流行っていた。、世相は満州事変の翌年であり、井上準之助、団琢磨が凶漢の手にかかり(血盟団事件)、神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」、この「坂田山心中」の騒動のさなか、「問答無用」の一言で時の総理大臣犬養毅が青年将校に暗殺される「5.15事件」がおきるなど血なまぐさい不安な時代を象徴していた。このように不気味な「翳」が日本を覆い尽くしいていた頃、 古関は苦闘の時代を迎えていた。
昭和7年3月、満洲国が建国された。古関はそれに合わすかのように《満州征旅の歌》《我等の満州》を作曲した。古関はロシア民謡が好きだった。雄大な大陸から感じる異国情緒に魅了されていたのだ。満州を舞台にしたこの歌の歌唱はいずれもバリトン歌手の内田栄一。古関は内田とはヴォーカル・フォアで親交があった。この頃から菅原明朗との付き合いも始まった。
昭和7年4月から4日間にわたって、フランス女流ヴァイオリニスト・ルネ・シューメが東京劇場で独奏会を開いた。さらに5月、日比谷公会堂で告別演奏会を催し、彼女自ら編曲し宮城道雄・作曲《春の海》を演奏した。同ステージでは作曲者の宮城道雄との共演も見られ聴衆に感銘を与えた。それより、2日前であるが、妻金子が敬愛する三浦環が12年ぶりに帰朝しており、東京劇場で独唱会を催した。6月、フランスから留学を終えて帰国していた荻野綾子が朝日講堂で演奏会を開き、同じく渡仏していた佐藤美子が日比谷公会堂で独唱会を開いている。音楽学校で声楽を学び声楽歌を目指している金子にとって、日本声楽界の動向は大きな刺激になっていた。
流行歌では、昭和7年の初夏、《天国に結ぶ恋》が流行した。神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」を題材にした時事歌謡である。慶応の学生・調所五郎と静岡の素封家の娘・湯山八重子は親の反対にあって結ばれず、二人は自殺した。それを悲しんでの心中だった。とはいえ、昭和モダンの「翳」が目立ち始めた頃、《天国に結ぶ恋》は徳山lと四家文子の歌唱で哀歌として世に広まったのである。 藤山無しの古賀メロディーは劣勢である。そこにビクターには新鋭佐々木俊一という作曲家が現われたのである。
佐々木俊一は古関と同じ福島県出身である。ビクターではバンドマンとして仕事をしていた。オーケストラの一員でありながら、仕事が終わった後、夜遅くまでピアノに向かい作曲をしていた。その努力が実り、《涙の渡り鳥》が誕生した。レコードは小林千代子の歌で、昭和7年10月に新譜発売された。 藤山の古賀メロディーで形成を逆転させたコロムビアを追う立場になっていたビクターにとって、願ってもないヒットだった。小林千代子は、佐々木俊一と同じ東洋音楽学校(現東京音楽大学)出身の歌手。金色仮面という覆面歌手として話題を呼んでいたが、このときは覆面をすでに脱いでいた。
昭和7年の晩秋、《忘られぬ花》というロマッチックな抒情歌謡がポリドールから発売された。江口夜詩という新しい作曲家が歌謡界で注目されたのである。《忘られぬ花》は江口自身、亡き妻を思いピアノの鍵盤を涙で濡らしながら作曲したと言われている。江口は 古賀の《酒は涙か溜息か》を意識して作曲した。当然伴奏にもギターが使用されていた。歌手は新人の池上利夫。西岡水朗の抒情詩に甘美なメロディーをつけた江口夜詩の新しいギター曲と新しい歌手の登場だった。
江口は《忘られぬ花》を最初コロムビアに持ち込んだ。だが、コロムビアの文芸部は売れないと判断し、問題にしなかった。それがポリドールに持ち込まれてヒットしたのだから、コロムビアは驚きの色を隠せなかったのである。社内での責任追及も相当厳しかったそうだ。
《忘られぬ花》のヒットによって、作曲者の江口夜詩が注目された。江口夜詩は、本名江口源吾。明治36年生まれ。16歳のとき海軍軍楽隊に入った。海軍省委託生として東京音楽学校に学んだ。昭和3年には、昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲《挙国の歓喜》を発表した。昭和6年5月、海軍を除隊してポリドールの専属で活動したが、その後、フリーの立場をとりながら、各レコード会社で流行歌の作曲をしていた。
佐々木俊一、江口夜詩が台頭し始めた頃、古関はコロムビアでの仕事が減ってきていた。だが、現状に満足していた。自分はクラシックの作曲家だとういう自負が強く、《紺碧の空》の作曲で名を轟かせ、《日米野球行進曲》では日比谷公会堂で指揮を振るなど、音楽家としての地歩を着実に築いていると思っていた。その頃、ハーモニカの大御所宮田東峰(コロムビア専属)から、「ミヤタ・バンド」の指揮を依頼された。このバンドはハーモニカのオーケストラとしては日本最高峰であり、古関はクラシック作品が演奏できると思い、喜んで引き受けた。
当時、ハーモニカ・バンドは、行進曲が中心だったが、古関はそのレパートリーや演奏形式を一変させた。ドビュッシー、ラベル、ストラビンスキーなどの楽曲をちりばめた。同オーケストラの上原秋雄の独奏をいかし、メンデルスゾーン、ベートーヴェンの《ヴァイオリン・コンチェルト》を演奏した。古関が指揮するようになってから、「ミヤタ・バンド」は斬新なハーモニカオーケストラとして注目を浴びるようになったのである。 古賀が明治大学のマンドリンクラブを指揮するなら、自分はハーモニカオーケストラを指揮しクラシックのスタンスをあくまでとろうとした。
ギター曲が流行歌の主役になり始めた頃、古関もギター曲に挑戦している。《山のあけくれ》のB面《時雨の頃》がそうである。歌唱は美貌のソプラノ歌手の関種子。東京音楽学校出身の才媛である。古関は声楽家が自分の作品を歌ってくれることに満足だった。
この曲の伴奏のギター演奏は古賀である。古関は古賀のギター演奏のテクニックに驚いた。古関が師事している菅原明朗は古賀のギターを認めようとしていなかったが、古賀はギター・マンドリン演奏家としても一流なのである。だが、《時雨の頃》のレコードは妻金子が憧れる関種子の歌唱と古賀のギター演奏にもかかわらずヒットしなかった。
一方、佐々木俊一は、昭和7「年の暮れ、さらに《島の娘》という大ホームランを放った。作詞は長田幹彦。小唄勝太郎が一躍大スターの座についた。絹糸のような細い美声で歌う日本調歌手の登場である。ライバルの市丸(ビクター専属)と共に日本情緒艶やかな歌声で多くの歌謡ファンを魅了したのである。
歌詞の中に登場する〈ハァー〉が女心をやるせなく燃え上がらせた。この頃、女子学生の私通事件が持ち上がり新聞紙上を騒がせていた。私通とは夫婦でない男女の恋愛を意味するが、現代なら問題になることはないが、当時は女子学生の恋愛にいろいろとうるさかった。歌詞について内務省からお叱りが出た。「恋心」を「紅だすき」に替えられた。だが、〈人目忍んで、主と一夜の仇なさけ〉はなぜかクレームがなかった。それでも、さすがに太平洋戦争が激しくなると、全く違う歌詞に替えられた。とにかく、佐々木俊一はビクターの新たなヒットメーカーになり、同時に小唄勝太郎神話が出来上がった。ビクターは 藤山が歌謡界から去っているあいだに巻き返しを図ったのである。
コロムビアは古賀に続くヒットメーカーとして、新たな作曲家を必要としていた。ライバルビクターは大御所中山晋平と新鋭の佐々木俊一の両輪で打倒古賀メロディーを図っていた。コロムビアは、江口夜詩を専属に招こうと動いた。コロムビアは 古賀と競わせようということなのだ。実をいうと、コロムビア内部では、ギター・マンドリンの古賀とハーモニカの古関とは勝負はついていたのだ。ところが、古関は将来の夢を語り励まし合っていた 古賀と天秤にかけられていたなどつゆも知らなかった。自分は流行歌の作曲家ではなくクラシックの作曲家として迎えられていたと思っていたからだ。
昭和7年12月、早速、《浮草の唄》という江口夜詩の曲がコロムビアで吹込まれた。昭和8年2月、江口夜詩はコロムビアに正式入社。江口夜詩は、コロムビア専属作曲家として同専属作曲家 古賀と激しい競争を展開するのである。古関の2月新譜は《国立公園日本アルプス行進曲》だった。また、2月新譜の中には松竹映画・『限りなき舗道』の主題歌・《限りなき舗道》《街の唄》はヒットしなかった。
江口の入社以来、古関への風当たりもますます強くなっていた。古関の場合は、古賀のような作曲上のスランプからくるものではなかった。だが、古関はクラシックの作曲であるという自負を曲げることがなく、社内の風当たりなどいっこうに気にしない様子だった。菅原明朗の下でリムスキー・コルサコフの音楽理論の勉強も怠らなった。妻は声楽の勉強に励み、自分は音楽理論の本格的理論研究に没頭する日々を送っていたのだ。だが、古関は厳しい局面に直面した。それは突然、コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。コロムビアは江口夜詩の入社によって、もはや 古関は必要ないと判断したのである。古関にとってこれは寝耳に水であった。専属契約打ち切り理由が分からなかった。このとき、古関はようやく自分の立場が理解できたのである。専属になって、2年目、ヒットが出ないようではもはや存在する意味がないのである。古関は自分に求められているのは、クラシックの作曲家ではなく、あくまでの流行歌の作曲家であることがようやく理解できたのである。古関は愕然とした。そのとき、古関はなぜ、 古賀が社員入社にあれほどまでに拘っていたのかが分かったのである。
苦しい立場に立たされた古関を救ったのは古賀だった。古賀は文芸部長の和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは古賀自身のことでもあった。もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに入れなかったであろう。コロムビアは、同社のヒットメーカーである 古賀の主張を聞き入れた。
古賀は「芸術家はスランプがつきもの」という発言をしたが、このような言葉をのべることは古賀自身も流行歌・レコード歌謡のヒットメーカーという意識よりも、芸術家・音楽家というそれの意識が強かったと思われる。古賀も一世風靡したヒットを得たのもたまたまアルバイトの素性を隠した覆面歌手・ 藤山が歌ったからであることを十分に知っていた。
さて、話題の藤山(増永丈夫)が昭和8年3月、東京音楽学校声楽科を首席で卒業した。昭和7年の暮れ、クラウス・プリングスハイム指揮の《ローエングリン》の独唱(日比谷公会堂)では、マリアトール、ヴーハー・ペーニッヒら外国人歌手に伍して豊かな将来性を示した。卒業演奏ではパリアッチのアリアを独唱し「上野最大の傑作」の賛辞を得た。そして、改めて誰憚ることなくビクターと専属契約を結び、世に定着した「テナー藤山一郎」と「声楽家増永丈夫」をスタートさせたのである。
藤山一郎のビクター入社は古賀を中心としたコロムビアにとって大きな痛手だった。なぜなら、日独親善をかねてのドイツのハーゲン・べックサーカス団の来日宣伝のために作った《サーカスの唄》の歌手に藤山を予定していたからだ。また、当然、藤山チオ江口のコンビも予定していた。なぜなら、藤山はニットーレコードで「藤井竜男」の変名で江口夜詩の作品を吹込んでいた。藤山がコロムビアに来れば、当然、江口夜詩とコンビを組んだであろう。また、古関にとっても 藤山は、待ち望んでいた歌手である。古関は藤山のレジェッロなテノールの音色を生かした爽やかな歌唱で軽快なマーチ風の曲を考えていたからだ。しかも、藤山は音楽理論をあの高名なクラウス・プリングハイムに師事していたので、古関は藤山から学ぶべきところが多かった。
《サーカスの唄》に藤山が使えないとなると、それに代わる男性歌手が必要になった。中野忠晴のような外国系のポピュラー歌手では、古賀の哀愁に満ちたセチメンタルの表現が難しい。古関は中野の歌で地元歌、行進曲を吹込んでいた。10月新譜発売の《八戸行進曲》は東奥日報懸賞当選歌だったので、地元では好評だった。だが、中野のバリトンは重く流行歌には不向きだった。コロムビアの文芸部は上野の音楽学校の学生を古賀と 西條の前に連れて来た。この青年は、藤山がニットーレコードに紹介した福田青年である。コロムビアに来た頃、福田は、まだ音楽学校をやめるかどうか煩悶中だった。ポリドールで吹込んだ《忘られぬ花》がヒットし、学校当局に目をつけられ始めていた。しかも、音楽学校の女生徒との恋愛問題の噂もあり、学校に入れる状況ではなかった。
福田青年は松平晃という芸名を名乗った。昭和8年の3月新譜の松竹映画『椿姫』の主題歌《かなしき夜》を吹込み、コロムビアからデビューした。コロムビアは、ビクター専属テナー 藤山の対抗馬として、コロムビアは、新鋭・松平晃を歌謡界に登場させたのである。新たな青春歌手の登場だった。
古関は、専属契約打ち切りという最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。5月新譜の古関メロディーは僅か《外務省警察歌》だけだった。6月新譜は《春のうたげ》《青森市民歌》の2曲、《青森市民歌》はAB両面なので、結局古関メロディーの6月新譜発売レコードはたった2枚だけだった。7月新譜発売は《五色旗の下に》と《萬里の長城》はAB面にカップリングだから、7月の新譜発売レコードはたた一枚しか発売されなかった。《萬里の長城》では初めて松平晃とコンビを組んだ。だが、ヒットには程遠かった。
コロムビア社内における江口メロディーと古賀メロディーの競争は熾烈な戦いだった。だが、古賀は藤山を失いスランプに陥ることになる。古賀メロディーで一世風靡した 古賀でさえ、ヒットがなければ、厳しい状況を迎えることは時間の問題であった。
昭和8年6月、日本クラシック界はクラウス・プリングスハイムと近衛秀麿のベートーヴェンの《第九》の競演が大きな話題だった。東京音楽学校のオーケストラを指揮するクラウス・プリングハイムと新響を率いる近衛との対決だったのである。6月、日比谷公会堂でクラウス・プリングスハイムの指揮で颯爽と第四楽章のバリトンの逞しいソロを響かせたのが期待の新鋭増永丈夫だった。まるで、響きが体から離れるような眼の前に飛んでくる感じでホールの隅々まで響き、聴衆に感銘を与えたのである。当夜の聴衆は、テノールのような美しい音色を持つバリトン歌手がまさか古賀メロディーのギター曲の魅力を伝えた流行歌手テナー 藤山とは信じられなかった。古関も同様だった。だが、
昭和8年9月新譜の《東京祭》は、《東京音頭》の前に敗れた。人気上昇中の松平晃が歌ったにもかかわらず、中山−西條コンビの《東京音頭》の前に消されてしまった。古賀としては自信作のはずだったが、《東京音頭》の歌唱者に小唄勝太郎が名前を連ねれば、申し分がなかった。
古賀は、このレコードが発売された頃、肺結核の初期症状にかかっていた。昭和8年8月、神田杏雲堂病院に入院した。中村千代子との結婚生活の行き詰まり、また、《東京祭》の敗北、 藤山無しでの各社レコード会社とのヒット競争、同じコロムビアでの江口夜詩とのライバル関係等々。古賀は追い詰められていたのだ。ここに天才作曲家古賀の知られざる苦悩があったのである。完全なスランプだった。
その頃、藤山は、古賀メロディーとは無縁な世界にいた。そして、バリトン増永丈夫としてラジオ放送に登場する。1933(昭和8)年9月「世界民謡しらべ」というNHKラジオ番組で、ベートーヴェン編曲のアイルランド、ウエールズ、スコットランドの民謡が特集された。藤山は本名の増永丈夫でバリトン独唱した。
昭和8年10月、古賀は正式に離婚した。古賀の結婚はあきらかに失敗であった。古賀はそのような古関夫妻の姿を理想に東洋音楽学校出の中村千代子という女性と結婚したはずだったが、音楽を基本にした夫婦生活を営むことができなかった。
中村千代子という女性は、最初から古賀の地位と名声だけを求めていた。古賀自身も彼女に恋い焦がれて結婚したというわけではなかった。古賀は、この時期精神的に苦境に立たされていた。同月新譜の《はてなき旅》は当時の古賀の心境に一致する。スランプ状態を暗示しているのだ。
古賀が離婚した10月、日比谷公会堂で『藤山一郎と増永丈夫の会』が開かれた。一部ではドイツリート,オペラのアリアを独唱。ヴェルディーの《椿姫》では増永丈夫(藤山一郎)がヂ(ジ)ェルモン(父役=バリトン)をヴィオレッタは美貌のソプラノ歌手中村淑子が演じた。声量豊かな美しい響きのバリトンは聴衆に感銘をあたえた。第二部ではマクロフォンを効果的にいかしたクルーン唱法で流行歌を歌った。そして、第三部はミュージカルショーを演出したのである。藤山は 古賀とは全く無縁の世界にいた。
昭和8年の晩秋から9年の4月まで、古賀は病気回復と精神的傷を癒すために伊東の温泉で静養した。当然、その間の作曲活動は中断である。とにかく体を休めたかった。古賀は浴槽のなかで静かに傷を癒していた。古賀が雲隠れした後、古関は矢面に一人立たされていた。コロムビアにとってはヒットの鉱脈を当てることができない作曲家は必要ないのである。
昭和8年11月新譜の《をどり踊れば》で同郷の伊藤久男と初めてコンビを組んだ。伊藤久男はリガールから「宮本一夫」の名前でデビューしていたが、9月新譜の《ニセコスキー小唄》で「伊藤久男」としてコロムビアからメジャーレーベルのデビューを果たしていた。伊藤もこの頃はまだ、オペラ歌手を目指していた。バリトンだが、テノールの音域も出る。流行歌のテナー歌手にあるか、オペラのバリトン歌手を目指すのかまだはっきりとしていなかった。古関は伊藤のためにドラマティックな叙情歌を作曲したかったが、コロンビアの企画は二人の個性とは全く違うものであった。
昭和9年1月新譜で古関メロディーの流行歌、3曲が発売された。その中の一曲を歌った歌手に荘司史郎という歌手がいた。この歌手はキング・ポリドール専属の東海林太郎である。東海林太郎はコロムビアで変名を使って数曲吹込んでいる。
古関は東海林がクラシックの声楽家を熱望していたことを知っていた。その夢を実現するために、東海林は満鉄を辞したのである。音楽学校を出ていないということもあり、売り込み先のレコード会社からは門前払いを食らっていた。ところが、時事新報社主催の音楽コンクールの声楽部門で入賞すると、レコード会社の態度も急変したのだ。コロムビアもその一つだった。
東海林太郎はすでにキングとポリドールの両方の専属になっていたので、コロムビアでは変名を使って吹込んだ。東海林は声楽家ではなく流行歌手としてレコードを吹込まざる得ない状況に落胆していた。それは古関も同じ心境だった。詩人が歌謡作家になり、クラシックの技法・洋楽の手法で作曲され、洋楽演奏家が流行歌を歌う新時代とはいえ、それはトップレベルの話であり、まだまだ、演歌師が奏でる「流行り唄」の名残りは十分にあった。
東海林太郎が変名・「荘司史郎」で歌った古関作品が発売されてから、まもなく2月新譜の《赤城の子守唄》で東海林太郎は一躍スターダムに押し上げられた。これは発売元のポリドールも全く予想外だった。民謡風とはいえ、股旅という「ヤクザ」をテーマにしたレコード歌謡は哀調溢れる艶歌調を濃くした分、浪花節愛好家の心情にマッチした。
アルバイトで歌った藤山は別として、松平晃、東海林太郎が歌ってヒットしないとなれば、古関メロディーではヒットの鉱脈を当てることはできないという判断が生まれてもおかしくはなかった。古関はクラシックに固執するかぎり、ヒットは望めないことは分かっていたが、頭では認識できてもいざ曲を作るとなるとなかなか思うようにできなかったのである。ヒットを出せば「晋平節の亜流」という批判もクラシック側からの批判を被りかねない。そう思うと「流行り唄」と言われる俗謡のなかに宿る享楽頽廃性を帯びたセンチメンタリズムをうっかり旋律に込めることができなかった。
歌謡界は、《赤城の子守唄》を歌う東海林太郎ブーム一色となった。古関は解雇通告に怯えながら不安な日々を送っていた。そこへ、古関にとっては衝撃的なニュースが伝わった。それは、 古賀が正式にコロムビアを辞めるというニュースだった。古賀はテイチク移籍をめぐってコロムビアと係争中だった。だが、結局、コロムビアは折れた。古賀のテイチクへの移籍を認めたのだ。
昭和9年5月、テイチクの東京文芸部が古賀を中心に発足した。そうなると、コロムビアはポリドールの東海林太郎旋風を含めて新興勢力に対抗するために一人でも作曲家が必要だった。 古関の残留は決定したのである。そして、コロムビアは古関に流行歌のヒット作品を作ることを要求したのである。古関は悩んだ。だが、ここでヒットを出さないと今度は本当に専属打ち切りということになりかねないことも確かなのだ。 
古関裕而は、コロムビア専属作曲家となって以来、初めて流行歌の作曲に本格的に苦しんだ。なぜなら、ヒットを意識したからである。もし、ヒット曲を書けなければ、もはやコロムビア専属にいることはできない。専属打ち切り解雇通告は決定的だ。苦闘の日々が続いていた。レコード歌謡においてヒット曲は至上命令である。だが、彼のクラシック的な作風は民衆歌謡特有のセンチメンタリズムをもとめられる流行歌にいまひとつ馴染(なじ)めなかったのである。西洋音楽の技法によって日本人の心情を表現するためには、ある程度は日本人の伝統的な肌合いは必要だ。邦楽的技巧表現ともいえる微妙な節回しは洋楽の記譜法では表現することはほぼ不可能である。西洋音楽は「十二平均律」による記譜法であるから、洋楽音符で示されるレガートなメロディーラインのなかに「微妙な音」の到底表現が不可能なのである。
古関はメロディーの源泉を民謡に求めた。短音階を用いた「晋平節の亜流」という批判にならないにように頽廃的哀調を避ける意味でも、都会化され以前の純粋な民謡にメロディーのそれを求めたのである。
古関は作詞家の高橋掬太郎と一緒にヒット作品の素材を求めて水郷で有名な茨城県の潮来へ赴いた。土浦から古びた一銭蒸気に乗った日帰りの小旅行である。潮来はひっそりとした寂しい町であった。二人は舟を雇って出島、十二橋と水郷の風景を隅々まで見回った。
高橋は純農村地帯の素朴な風景からインスピレーションが湧いたらしく、甘い「利根の朝露櫓柄(ろづか)がぬれる。恋の潮来は 恋の 恋の潮来は身もぬれる」という抒情詩を練り上げた。古関は、春の潮来から黄昏(たそがれ)に近い安芸の利根川の流れに浮かぶ小舟を想像した。「あのひっそりとした潮来や静かな木々の影を映す狭い水路を思い浮かべると、私にはすぐにメロディーが浮かんだ」(古関著「鐘よ鳴り響け」)。
日本の流行歌には「マドロスもの」というジャングルがあるが、源流は「潮来もの」と呼ばれる水郷での生活である。古関は、水郷生活の風景をテーマに「さすらい」という漂泊の感情を旋律に込めたのである。
編曲は奥山貞吉が担当することになった。古関は間奏に潮来の地方色を出すために尺八を使うことを指定し、コロムビアのオーケストラの演奏に川本晴朗を七孔尺八が入った。コロンビアの人気歌手松平晃が「利根の舟唄」を歌うことになり、9月新譜で発売された。コロムビアのドル箱江口夜詩のメロディーの大一人者・松平晃が歌ってヒットしなかたら、もはや古関はコロムビアでは不要となるのだ。《利根の舟唄》は松平晃の甘いバリトンが虚無的な頽廃を抑制したくれたおかげで好評だった。ようやく、古関の流行歌における最初のヒット曲が誕生した。
B面はミス・コロムビアが歌う《河原すすき》。《利根の舟唄》とともに大正期の「船頭小唄」の系譜に位置づけられるものであり、古関メロディーの知られざる名曲である。 
《利根の舟唄》が新譜発売された翌月、古関裕而の野球をテーマにした歌が発売された。これも神宮に轟く《紺碧の空》の実績を買われてのことだった。だが、古関はここでも悩んだ。会社の意向は一般の人が歌える平易な楽想をという要求だったからである。あまりにもクラシック的なマーチだと、一般の人にはなじめないということなだ。古関はこのとき 藤山がいればと思った。藤山が歌えば、格調高いマーチでも一般にも十分に刷り込める自信があった。
戦前、夏の風物詩は甲子園の中等野球であったが、神宮球場ではもう一つ熱戦が繰り広げられていた。それが今日でも社会人野球の頂点として開催されている都市対抗野球大会である。
都市対抗野球大会は昭和2年にスタートした。橋戸信一の発案で、各都市の代表するクラブチームが競う大会として開催された。戦後、都市対抗野球は企業チームが中心となり、隆盛を極め日本経済の発展とともに歩んだのである。戦前のチームで最も人気があったのは、東京倶楽部だった。東京六大学出身のスタープレーヤーを集めた日本一のクラブチームである。ことに昭和5、6年、宮武三郎(慶応大卒。後に阪急)の投打にわたる活躍で二連覇を達成していた。7年には全神戸に不覚を取り一回戦で敗退したが、翌8年には再び優勝の栄光に輝いた。都市対抗野球大会の人気は甲子園の中等野球、東京六大学野球と並んで頂点に立ったのである。
昭和9年は全大阪が戦力を充実させ優勝候補に挙げられ、常勝東京倶楽部との東西対決が話題だった。そこで、大会を盛り上げるために、都市対抗野球大会の歌が企画された。歌詞は「東京日日新聞」の懸賞募集で小島茂蔵の作品が当選し、古関が作曲を受けた。そして、レコードは「都市対抗野球行進歌」として、日本コロムビアから発売されたのである。
ジャズ・ソングで売り出し中の中野忠晴が歌った。古関は旋律を明るい前奏で始まる雄大な楽想に仕上げている。編曲は奥山貞吉が担当し吹奏楽風にアレンジした。中野の歌にコロンビア合唱団の「ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ通せ」と「フレーフレー」という合いの手が力強く挿入されている。
さて、全大阪と東京倶楽部の対決だが、両チームは2回戦で対決し8−7で全大阪が勝利した。全大阪は三原脩、伊達正男らの活躍で勝ち進み、念願の優勝を果たしたのである。三原と伊達は早稲田時代に古関の「紺碧の空」で荒ぶる魂を奮い立たせ、神宮でははつらつとプレーしたスターだった。古関は神宮のスターたちが再びプレーする都市対抗野球の大会歌を作曲し熱戦に花を添えたのである。
昭和9年の暮れ、古関に衝撃が走った。東海林太郎が万感の思いを込めて熱唱する《国境の町》である。大陸風の異国情緒が溢れるメロディーは古関を動揺させた。メロディーの美しさはさることながら、雄大な大陸の地平の音楽空間が広がっていくようなスケールの大きさがあった。大陸をテーマに雄大な楽想を練っていた古関にとって、彗星の如く現れた阿部武雄は全く予想外であった。全国の映画館を流れ歩く流転のヴァイオリン楽士であることは知っていたが、まさか作曲家として浮上してくるとは。どこで、これだけの作品を創作する作曲技術を磨いたのだろうか。古関はただ唖然とするばかりであった。 
昭和10年1月新譜発売で、ポリドールは早速ヒット曲を出した。大村能章が日本調の道中・股旅歌謡で台頭してきたのである。歌唱は東海林太郎。ポリドールは藤田まさと−大村能章−東海林太郎のトリオを売り出した。同年5月新譜では、《国境の町》で注目された阿部武雄作曲・《むらさき小唄》が東海林太郎の歌唱の歌唱によって発売された。テイチクの 古賀は、《夕べ仄かに》がまずまずのヒットを記録した。だが、ポリドールから発売された《大江出世小唄》の前には霞んでしまった。モダン調な古賀メロディーは哀愁溢れる旋律でもポリドールの日本調には今ひとつ退かなければならなかった。一方、ビクターは、《無情の夢》がヒットした。佐伯孝夫−佐々木俊一コンビの作品である。イタリアから帰国した児玉義雄が邦楽的技巧表現を巧く取り入れて歌った。
古関は、前年の《利根の舟唄》のヒットでようやく流行歌で実績を出し始めていた。1月新譜発売の《ヒュッテの夜》もミス・コロムビアが歌って女学生の間に広まり好評だった。古関は「流行り唄」の頽廃性を悉く避けていた。
6月新譜ではやはりミス・コロムビアの歌唱で《月のキャンプ》が発売され、古関の健全なメロディーの個性が出るようになった。この歌は、 古賀と江口夜詩の「ハイキング決戦」といわれた《ハイキングの歌》(江口夜詩・作曲)のB面だった。軍配は古賀メロディーの《ハイキングの唄》に上がったが、B面レコードの古関メロディーもなかなか好評で若い女性に人気があった。
昭和10年、古関は「利根の舟唄」を上回るヒットを目論(もくろ)んでいた。高橋掬太郎の一片の民謡調の詩が古関最初の大ヒット曲「船頭可愛や」は日本民謡の旋律を生かした曲である。それは短調ではなく、瀬戸内海、遠洋漁業の男を想う乙女の歌にふさわしい長調の旋律だった。古関は民衆歌謡特有の退廃性の極力避け、間奏には「利根の舟唄」と同様に日本情緒を浮き彫りするため再び尺八(川本晴朗・七孔尺八)を使った。素朴な音色が、独創的な「瀬戸の民謡」抒情性を一層高めたのである。テイチク・ディック・ミネ、コロムビア・中野忠晴、淡谷のり子らが歌うジャズ・ソング、藤山一郎、奥田良三、関種子らが独唱する内外の歌曲、外国民謡が流行する一方で、この独特な民謡調の旋律は新鮮なイメージを与えたといえよう。
歌手には商家の主婦だった音丸が起用され彼女のデビュー盤となった。音丸は琵琶歌が得意で民謡のフィーリングを持ち合わせていた。装飾音をうます小節にした味わい深い歌唱だった。小唄勝太郎、市丸ら芸者出身の日本調歌手が「艶」を競っていたころで、音丸も先輩格の歌手を向こうに回して大いに活躍した。
古関の名前がそろそろ流行歌においても知られるようになった頃、江口メロディーは満州を舞台にした《夕日は落ちて》を松平晃と豆千代の歌でヒットさせた。一方、テイチクの 古賀も夏頃から、ヒット量産にエンジンがかかりだした。映画『のぞかれた花嫁』の挿入歌・《二人は若い》がモダンライフをテーマにヒットした。ディック・ミネと星玲子が歌った。そして、11月新譜で発売され、楠木繁夫の熱唱で知られる《緑の地平線》がテイチクの春を呼ぶかのようにヒットした。それに対してポリドールは東海林太郎が歌う《野崎小唄》で対抗した。
昭和10年の晩秋から暮れにかけて古関メロディー・《船頭可愛や》が売れ行きを見せ始めた。レコード発売当初(10年7月新譜)、音丸のデビュー盤ということでコロムビアは大々的に宣伝したが、最初あまり反響がなかった。だが、10年の暮れから猛烈な勢いで流行し始めた、全国を風靡(ふうび)することになったのである。これで、 古関もレコード歌謡においてヒット曲に恵まれ、コロムビア専属作曲家として胸を張れるようになった。 
昭和11年は、陸軍の皇道派の青年将校らが国家改造を目的にクーデターを挙行した。これが「2.26事件」である雪降る帝都東京を震撼させたのだ。首相官邸・警視庁・朝日新聞社などが襲撃され、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害された。戒厳令が敷かれ、戒厳司令部が設置され、当初は「蹶起部隊」とされたが、後に「反乱軍」となり、鎮圧された。その結果、統制派が実権をにぎることになり、粛軍が行われ軍部の政治的発言権が高まることになった。物騒なクーデタ―事件が起きた2月は、ロシアの声楽家、シャリアピンが来日し、圧倒的な声量が日比谷公会堂に響き渡った。表現力も豊かでその芸術に古関は感銘を受けた。
5月に入ると今度は荒川区尾久で「阿部定事件」という猟奇事件が起こった。流行歌・SPレコード歌謡では、渡辺はま子が甘ったるく歌う《忘れちゃいやヨ》が流行した。
2.26事件に幕を開けた昭和11年、古関はふたたび野球と関わりを持つ。昭和9年の日米野球を機に結成された大東京巨人軍は、翌年のアメリカ遠征で成果を挙げ、職業野球の展望を開いた。そのころ、大坂の阪神電鉄も職業野球のチーム結成の動きを見せていた。昭和10年12月、「大阪タイガース」が設立され、現在の阪神タイガースが誕生したのである。大阪タイガースの創立に合わせて、早速、球団歌が作られた。作詞はすでに「赤城の手守唄」で名を成していた佐藤惣之助、作曲は6年の日米野球の応援歌「日米野球行進曲」や早稲田の応援歌「紺碧の空」、流行歌の「船頭可愛や」で知られ始めていた古関に白羽の矢が立った。
歌が出来上がると、早速、11年3月、「甲子園ホテル」で開かれた。チーム激励会で初披露された。日本コロンビアからジャズシンガーで売り出していた中野忠晴の歌によってレコードが吹き込まれた。だが、レコードは関係者に配布されただけで、一般に発売されたものではなく、当時はあまり普及しなかった。
古関は昭和11年に入ると、前年に実績が影響し新譜発売が非常に多くなった。2月だけでも10曲を数えた。こうなると、古関もヒット数ではまだまだだが、江口夜詩と並ぶようになってきたのだ。そして、大衆歌の作曲家としても知名度が大分でてきたのである。昭和11年春、ビクターから、藤山一郎をテイチクに迎えた 古賀は、都市文化の讃歌・昭和モダンを高らかに歌った《東京ラプソディー》を作曲した。声量豊かな響きと正確無比な歌唱を誇る藤山の歌でヒットし、古賀メロディーの第二期黄金時代が確定し、「古賀政男・流行歌王」としての地位が確立したのである。藤山はビクターでは、本名の増永丈夫で本格的クラシックを独唱することは別にして、流行歌はもちろんのこと、外国民謡、内外の歌曲、タンゴ、ジャズ・ソングなどを幅広く歌っていた。だが、経済事情からふたたび流行歌のヒットを狙う必要に迫られていた。
藤山のテイチク入社からすぐに古関にとって驚くべきことがあった。当時、海外で広く活躍していたオペラ歌手三浦環三が流行歌の寵児(ちょうじ)藤山と共に明大マンドリン倶楽部の第26回定期演奏会(11年6月)で古賀メロディーを独唱したのである。三浦は以前から流行歌にも関心が深かった。当然、古賀メロディーにも注目していた。そして、三浦環は、音丸でヒットした「船頭可愛や」をレコードにしたのである。古関、民謡とはいえ、作曲上クラシック風な楽想を考えていたので、世界のプリマドンナ三浦の申し出は願ってもないことであった。三浦のレコードは14年4月新譜でコロビビアから発売された。レーベルは外国の著名な音楽家が録音する青盤レコードで発売されるのは作曲家古関にとって最高の名誉だったのである。
古賀・藤山コンビは、流行歌界の頂点に立った。ヒットは続く。各レコード会社は古賀メロディーに圧倒された。古関は、クラシックの正統派・藤山、ジャズシンガー・ディックミネ、洋風演歌・楠木繁夫を得てモダン都市文化をテーマにヒットを放つ古賀メロディーに対して、古関は民謡調のレコード歌謡で勝負を挑んだ。
昭和11年7月新譜の古関メロディーは、西條が作詞し《船頭可愛や》ですっかり人気歌手になった音丸が歌った《大島くずし》だった。B面は松平晃が歌う《夢の大島》。佐々木俊一の《島の娘》が《相馬節》をベースにしていたこともあり、古関も民謡に日本人の生命的エネルギーを求めたのである。だが、モダン都市文化の讃歌・《東京ラプソディー》の前には沈黙した。
8月新譜の古関メロディーでは、伊藤久男が歌った《緑の大地》、西條の詩にバンジョー、マンドリン、スチールギター、フルートなどの楽器を融合させ作曲した《キャンプは更けて》を発売したが、ヒットにはつながらなかった。《キャムプは更けて》の歌唱者の二葉あき子は東京音楽学校師範科を卒業後、故郷の広島で女学校(三次高女)の先生をしていたが、コロムビアからデビューした。古関は、そのデビュー曲である《愛の揺籃》を作曲している。二葉は東京音楽学校在学中に同校の奏楽堂で独唱する声楽家増永丈夫がすでに 藤山として人気流行歌手と知り、流行歌への関心を持っていた。
古関は《船頭可愛や》のヒット以後、流行歌の作曲に再び行き詰まりを感じていた。古関は民謡に着目していたが、喜び悲しみをさらけ出す解放性や原始性をクラシックの技法で完全に表現することは無理がある。古関はその壁にぶつかった。日本的な心情となれば、やはり、哀調趣味を求めた浪花節的な艶歌調か退嬰的な俗謡風の流行り唄にするしかないのかと思えば、 古関の理想とは違ってくる。その矛盾を打開するために、古賀はギター・マンドリンのクラシックから得た外国調のリズムを巧く使った。また、コロムビアに最近ニットーレコードから移籍した服部良一はジャズを試みている。古関は純クラシック音楽で流行歌を作りたかった。
古賀メロディーのヒットは快調だった。日活映画『魂』の主題歌《男の純情》は、いわゆる現代の演歌調であるが、正統派の藤山が歌うと格調が高い。《男の純情》のB面の《愛の小窓》も好評だった。歌唱はディック・ミネ。邦楽的技巧表現に重点を置いた《愛の小窓》をジャズシンガー・ディック・ミネに歌わせるなど,奇抜な古賀のアイディアは成功した。昭和11年12月新譜で吉屋信子原作『女の階級』の映画主題歌・《女の階級》が楠木繁夫の情感溢れる歌唱でヒットした。B面は《回想譜》。 藤山が美しいメッツァヴォーチェの響きで浜辺の抒情をしんみりと歌った。
コロムビアから、11月新譜で淡谷のり子が妖艶なソプラノで歌った《暗い日曜日》が発売された。淡谷は、昭和モダンの哀愁を歌いあげた。コロムビアは翌月新譜で松平晃が歌う《人妻椿》を発売した。同月新譜の古関メロディーは、同郷福島県いわき市出身の霧島昇に歌わせた《月の夜舟》が発売された。霧島昇は流行歌手を目指し東洋音楽学校に学び、昭和11年、エジソンレコードか坂本英明(夫)の名前で《僕の思ひ出》を吹込みレコード歌謡に登場した。その後、コロムビア松村武重文芸部長の目に止まり、《思い出の江の島》《月の夜舟》を吹込み、霧島昇として同社から、デビューした。
昭和12年1月新譜で、古関メロディー・《米山三里》が発売された。古関は音丸の歌唱に期待し民謡に固執した。だが、同月のテイチクから新譜発売された《ああそれなのに》は、サラリーマン・ソングとして、ホワイトカラーの中間層のペイソス溢れる生活(モダンライフ)を歌い、美ち奴の歌唱でヒットした。
戦前のホワイトカラー全盛時代にも戦争の気配は感じられた。昭和10年の美濃部達吉の憲法が国体に反すると批判を浴びた(天皇機関説問題)、昭和11年には、歌にも登場する「アドバルン」が人々を不安な表情にさせた「勅命下る軍旗に手向かうな」のそれを思わせた。しのびよる軍国の足音と昭和モダンの都市文化が共存していたのだ。
昭和12年1月新譜で《人生の並木路》が発売された。これは、古賀の少年時代の故郷喪失の体験がそのまま歌になったようなものだ。その故郷との離別を主題とした《人生の並木路》をジャズシンガーのディック・ミネが根気よく歌ってヒットさせるのだから、古賀メロディーの奥深い魅力があるのである。
古関は前年8月新譜で発売された《ミス仙台》の詩を作り変え、《乙女の十九》として再生した。歌唱は二葉あき子。また、同月新譜では、昭和12年の御勅題にちなんで 西條−古関によって作詞・作曲された《田家の雪》が発売された。前奏・間奏には尺八が使われ、日本の藁屋根や田圃に積もる雪の「シバレル風景」が楽想に込められ、まるで墨絵のような日本農村の墨絵のような伝統美を表現している。だが、都市文化を享受する中間層のレコード歌謡ファンはモンダニズムの哀歓を求めていた。テイチク3月新譜では青春の哀歓をテーマに青年心理を巧みに衝いた《青い背広で》と青春の感傷を美しく歌い上げた《青春日記》が藤山の歌唱で発売され、ヒットした。
一方、ポリドールは藤山を迎えた古賀メロディー・テイチクに対して、文芸歌謡・名作歌謡を企画していた。東海林太郎がこの傾向を歌いモダン都市を歌い藤山と歌謡界の「団菊時代」を形成していた。そして、ポリドールは、東海林太郎よりももっと泥臭い道中・股旅歌謡で浪花節ファン層を取り込むために上原敏を売り出した。《妻恋道中》は上原敏をスターダムに押し上げたのだ。ポリドールは藤田まさと―阿部武雄―上原敏のトリオで道中・股旅歌謡で新たな展開を迎えるのである。
一方、古関が憧れを持つクラシックは、ワインガルトナーの来日が大きな話題であった。昭和12年5月、日比谷公会堂で「ワインガルトナー夫妻指揮交響楽演奏会」が開催された。曲目はベートヴェンの《交響曲第五番》《交響曲第六番》《レオノーレ序曲第三番》が中心だった。世界的な指揮者の音楽性に聴衆は感銘を受けた。古関も74歳とも思われないワインガルトナーの楽曲に対する適切な解釈による指揮ぶりに感動したのである。 
 

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