悪女・毒婦

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雑学の世界・補考   

 
 
 
 
 
 
 
 
■阿部定
 

 
阿部定・坂口安吾 対談   
坂口 おそくに伺いまして…。
阿部 もうガスも出ないんで、お茶も沸かせないから、これでも。《ブドウをすすめながら》いつも停電しましてネ、ちょっと前に点いたんですよ。《坂口氏の出す名刺を見て》坂口安吾先生ですか、ああ、そうですか。とてもいい本をお書きになって…。
坂口 僕はネ、阿部さんのこの前の事件も、あれくらい世間にセンセイションを起したものはありませんけどネ、しかし、あれは明るい意味で人人の印象に残ったもので、阿部さんを悪い人だと思った人は、あの頃一人もなかったのじゃないか、と僕は思うのですよ。《阿部さんは下を向いてジッと聴いている》それで今も阿部さんがいろいろと話題になるということは、やっぱり、どこかしらに人人の救いになってる、というような意味があるんだろうと私は思うのです。今度阿部さんは告訴されたけど、むしろ阿部さんの御心境や何かを、大胆率直にお話なさったほうが、かえっていい結果を及ぼすのじゃないかと思うのですよ。
阿部 はあ。…
坂口 阿部さんは大きな話題になったけども、阿部さんをほんとに悪い人間だと思ってる者は一人もありませんよ。文学の上から言いますと、あらゆる人間はそういう弱点を持っている。ただ阿部さんはそういうことを率直におやりになったというだけで、だからみんな同感して、なにか懐かしむような気もちがあるんじゃないかと思うのですよ。もし悪い犯罪事件でしたら、決してそんなにいつまでも問題になるもんじゃありませんよ。阿部さんがいつまでも問題になるのは、その意味で非常に名誉なことじゃないかと思うんだ。人間ていうものは身勝手なもので、いつだって自分の救いを求めているんですから、自分に不利益なことを何遍も問題にするわけがないんです。兇悪な犯罪を二度も三度も世の中が思い出すという例はないんです。織田作之助君は「妖婦」という小説を書いてますが、しかし、あれは題は非常に悪いんですけど、内容は決してあなたを傷つけるものじゃなかったと思うんだ。
阿部 先生とあの方と同じような書き方ですね。―そうじゃあないんですか。
坂口 まあ、大体は似てるかも知れません。
阿部 あとの人は、とても下品だもの、ね。
坂口 あなたの告訴されたあの本を書いたのなんか、文筆家じゃないんですよ。 ―で、阿部さんはこれからどうなさるお考えですか。
阿部 それはまだ考えてないんです、これから先のことは、ね。どうなるのか判らない…。
坂口 それはそうでしょう。非常によく判りますね。
阿部 それにこのことが早くきまりがつけばね。でも、どういうふうにきまりがつくのか判らないし、いま気もちが落着いてないんですの。自分の家を出ているし…。あたし、いま考えてみると、あの織田先生が書いたなら、こんなに怒ンなかったかも知れないわね。あんなに下品に書かないから…。
坂口 しかし世の中の評判というものを、そんなに問題にする必要はありませんよ。一体あなたはあの事件を後悔なさってますか―僕は悪い事件じゃないと思うけど。
阿部 そりゃア、別に後悔してませんね。今でも、あんなことしなきゃよかったかしらん、と思うけども、やっぱし、そうでしょうね。ちっとも後悔してないんです。死んだ人に悪いけどもネ。―それが自分でも不思議なんだけど。
坂口 いや、不思議じゃない。それが大切なことなんですよ。あなたはそういうことをハッキリおっしゃるべきですよ。
阿部 あたし、先生の本は好きなんですよ。最近の「堕落論」なんていうのネ、あれ読もうかと思ったけども、高いから…。
坂口 そうですか。じゃあ、ひとつ贈りましよう。    
(しばらく沈黙)
阿部 あたしのことを、みんなが誤解してんのよ、ねえ。
坂口 そう。しかし…。
阿部 ほんとの気もちは、なかなか口で言ったって判らないけど、ただそんなことだけでそういうふうにしたっていうふうに思ってるから。
坂口 しかし、それはネ、案外そうでもないんですよ。人間ていうものは二つの心があるから、一つの心でエロ本を面白がる。しかし、もう一つの心、内面では、ちっともあなたを悪いと思っていない。そういうもんですよ。
阿部 あたしはみんなもそうなんじゃないかと思うの。あたしみたいな考えを持ってて、ただしなかっただけのことなのね。
坂口 無論そうなんです。そうなんですよ。だから、みんなあなたに同情してるんですよ。ただエロ本を読む気もち、読者の気もちというのは別ですからね。それはネ、あなたがモデルであっても、なくても、問題にしなくってもいいんですよ。
阿部 でも、いい人が書けば、あんなゲビた書き方はしないでしょう。
坂口 それは勿論そうですね。
阿部 ずいぶんへンなふうに書いてるけども、いい人の書いたのは下品でない、ね。あんなバカバカしい、あれじゃあ、ほんとに可哀そうだ。…でも、いくらあたしがこういうふうに言っても、世間の人は、やっぱし見直してはくれないだろうと思ってね。
坂口 しかしネ、それは問題にすることないですよ。自分が理解される、されないじゃなくてネ、根本は自分ですよ。
阿部 でも、告訴しなけりや、あたしは世間の人に誤解されてたんですのよ。告訴したから判ったけど、今まであんたが本を出したり、お芝居したりして、お金儲けしてたと思ってた、なんていう人があるんです。ずいぶん浅間しい誤解ね。可哀そうだわ。
坂口 僕はこういうことを思うんですよ。新聞なんていうものが、阿部さんは死者の冥福を祈っているとかそういう生活をしているとか書くでしょう。それがいけないんだと思う。むしろ阿部さんが大胆に自分の心情を吐露されれば、みんなに判ると思うのです。僕は万人が自分の胸にあることだと思うんですよ。あなたはそれをおやりになっただけなんだ。だから、万人が非常に同情したんです。だから、ヘンな言いわけはなさらんほうがよろしいんだ。
阿部 あたしは言いわけはちっともしてないんです。あの人をああいうふうにしたことについては、あたしは言いわけはしないんです。あれはあれでいいんです。あたしは今でも満足なんです。あんなことをしなけりやよかった、なんて思ってないんです。だけど、世間がただ肉慾のことだけであたしがしたように思うでしょう。そのために少し言ってるんです。それと、あたしが隠れて一生懸命まじめに暮していたのに、それをこういうふうに騒いだでしょう。毎日毎日寝られない日ばっかし続いたんです。ラジオなんかでも云うしネ、とてもいやだったんです。だから、とにかくこういうことを無くなしてもらいたいと思って告訴したんですの。ほんとは、あたしがうまく書ければ、自分の気もちを書いてみたいくらいなんです。あたしには書けないからね、あたしに代って書いてくれればと思うけどネ、そういう人もないし…。人の気もちはむずかしいからね。
坂口 むずかしい、まったく。
阿部 ずいぶん手紙なんか来るんです。ほんとにあたしを思って言ってくれる手紙なんか、とても嬉しいんだけど、石川県だの九州だのでやってるお芝居なんて、ほんとにひどい。あたしを軽蔑してるんですよ。そんなことをしちゃ可哀そうだわ、死んだ人が。…それもあたしが何か浮ついたことしてる時なら、まだいいけどね。…お芝居なんてびどいのよ。あのことから裁判の所もやるんですって。だから、弁護士なんかが出てくるらしいわ。でも、若い学生さんからまじめな手紙をもらったりすると、嬉しいですわ。
坂口 みんなそう考えてるんですよ。そういう手紙をよこさない階級も、みんなそうなんですよ。―僕は阿部さんなんか、一番純情な人だと思うんです。そういう純情一途な思いを、阿部さん自身が少しも偽らずに言ってしまえばいいんです。それがエロになる筈は絶対にないんだ。純情一途の思いというものは、決してエロになりっこないですよ。そういうことが大切だと思うんです。
阿部 でも、あたしがあの時のことを後悔していないッて言ったならば、ずいぶんおかしく響くでしょうね。
坂口 いや、響きません。僕は絶対に響かんと思う。
阿部 それが心配だから、ほんとのことはなかなか言えないのよ。
坂口 決してへンに響きませんよ。ほんとうのことを言うのが一番大切なんじゃないかナ。
阿部 あたしが後悔してないと言っても、先生ならば、そこをうまく考えるわね。今までの小説を読んであたしが知ってるから、そう思うんだけど、世間の人は、あんなことをして悪いと思ってないのかッて、また誤解するでしょう。
坂口 そんなものじゃない。
阿部 先生なら、この深い気もちは判っていただけるだろうけど、あたしは、今あの人がいれば嬉しい、なんてことも思わない。―そういう立入ったことは、あたしは言うの厭なんだけど。
坂口 それは阿部さんの場合だけじゃないですよ。
阿部 本に書くっていうことは、ほんとに後に遺るからね。うっかりしたことを喋べったら、なんだ、後悔してないのか、なんて思われるでしょ。そうじゃなくてネ、ねえ、あたしの気もち判るでしょうよ。
坂口 よくわかりますよ。
阿部 あたしはいま安心しているんですよ。あの人がいないから安心しているんです。あたしは安心して、自分ですることをしちゃったから、今度はまじめに、そういうふうな感情のない人と一緒にいるんです。ただ漠然と一緒にいるんです。ちっとも感情なんかないんです。その人には申訳ないけど…。さりとて、あたしなんか学もないし、手に職もないから、独りで生活していくっていうのは、やっぱり結婚生活に頼らなくちゃならないでしょ。だけども、愛情なんていうことは、あれ以来あたしは全然抛っているんです。だから、あの人がいないほうがいいと思って、安心して暮しているんです。静かに暮しているんです。信仰生活もしてますけど。
坂口 しかし、あの人だけが問題じゃないでしょう。私はやっぱり、あなたのもっと重大な時機はズッと前にあったんだらうと思うナ。
阿部 どういうこと?
坂口 あなたのもっと若い時、幸福になっていればよかった。そういう時代があったんだらろと思ふナ。
阿部 そんなこと、なかったわ。
坂口 一度も?
阿部 ええ。割りと恵まれなかったんですもの。自分の出発点が間違っていましたから…ですから、ほんとの愛情を持ったとか、このまんま死ぬまでこの生活が続いたらいいと思うような境遇になったことがないんです。で、あの時だけそういう気もちになって、それが最後になっちゃったわけなんです。だから、あの人が奥さんも何にもない人だとしたら…。それでもああいうふうになったかも、それは判ンないけど…。だからあたしにとっては初めの終りなんですよ。今はもう全然そんな気もちがないの。ラジオなんて、ずいぶん言ってたわ。終戟後ふた月くらいの時と、それから憲法発布の時ね、昭和十一年度の事件だって、二・二六がどうのこうのッて、そのあとであたしのことを…。それから新聞でも書いたけど、厭だなア、まだあたしのことを言って、と思ったんです。それでも我慢していたんですけどネ、「りべらる」に出て、そのほかにも出て、また夏ごろラジオで言ったんです。そうして単行本が出て、とても厭ンなっちゃったんです。ほんとの気もちを出してくれればいいけど、ただ男とふざけることばかり書いてるんだから…。織田さんが書けば、それほど怒ンないかも知れない。
坂口 「妖婦」は途中までですけど、決して悪いものじゃないんです。
阿部 それでも名前を出せば厭ですけれど。
坂口 じゃあ、阿部さん、若い時、ほんたうに夢みたいに男が好きになった、ということはなかったんですか。
阿部 とにかく最初騙されてネ、―騙されたっていうとおかしいけれど、子供みたいな年のころで、好奇心もあってネ、そのころ処女じゃなくなったんです。それから後は転々といろいろに暮してましたから、そういうふうな時がなかったんです。ですから、あれが初めてなんです。あの三十二の、あの時がね。その時まで結婚生活は全然なくて、世帯を持っても蔭の生活だとか、芸妓をしてたとか、かりに旦那があっても、それは好きッていうんでなくてネ、商売の、フーッとした生活でしょう。心からその人を好いたッていうことは、初めてだったんですよ。三十くらいになってそんなことはおかしいかも知れないけど、それはほんとのことなんです。一生、恋しない人もあるから、ね。
坂口 今はもう気もちはズッと落着いておられますか。世間の悪口とか、そんなことは別にして、家庭の生活は、生きる満足とか慰さめとかいう、毎日毎日が楽しいと感じておられますか。
阿部 ええ、このことが始まるまでは、平凡に静かでしたね。その代り、熱もなかったけど。毎日が楽しくて楽しくてという生活ではなかったけど、ごくあり来りの、朝起きて、ごはん食べて、夜になったら寝るっていう、ただ平凡なスーッとした生活なんです。ですから、今までいた家の近所の人から手紙が来て、あなたがそうだったなんて信じられない、帰っていらっしゃい、なんて言ってくれるんですよ。今度はあたしネ、いい意味で働いてみたいと思んです。そんなことを宣伝して儲けるなんて、そんな汚くじゃなくネ、社会事業なんていっちゃあ大きいけど、あんなことをやった人が今度はこんなことをやってる、偉いねッて言われるようなことをやってみたいと思うんです。それが何だか、まだ判らないけど。あたしも吉井マサ子になりきって、かりにも浮ついたこともなく、一つには信仰もありましたけど、それで満足して、これでいい、あたしがあんまり幸福じや、死んだ人に申訳ない、と思って静かに暮してたんです。それがこういうふうになっちやって、今さら引っ込みがつかないでしょ。だから、どうせウンと言われたんだから、今度は偉いと言われることをやってみたいと思うんです。何かいいことを、ね。
坂口 それはいいことですね。
阿部 あたし、学問があればいいんだけど、言うことや書くことがうまくないから…。
坂口 そんなことないですよ。世間のそんなことは問題にしないほうがいいですよ。
阿部 あたし、立派に書くことができれば、本を出してやりたいくらいですよ。
坂口 世間ていう奴は物好きだから。
阿部 これからどうやって暮したらいいか、今の人はこの騒ぎが起きてから、どこかへいっちゃったんですよ。あたしは吉井マサ子で結婚してましたからね。知らないで夫婦になったんでしょうけど。
坂口 そんな、逃出すなんてないですよ。そんな人とは離れてもいいと思いますね。
阿部 今度はあたし、チャンと阿部定で配給を取ろうと思ってるんです。
坂口 かえってそれがいいですよ。
阿部 でも、家庭が破壊されちゃったんです。あの発表があって、夫が家を出てから、もうやがて一ト月になりますもの。
坂口 強く生きることですよ。
阿部 そう?
坂口 あなたがしっかりしていくのが、かえって非常にいいことなんです。
阿部 あたしの今までの間に間違ったことっていうのは、あれだけなんですものね。まだほかに沢山いろんなことがあるのならば、しようがないけど、あれだけだったんですもの。
坂口 いや、間違いといっても、純粋な意味で間違いということは、ちっとも悪いことじゃないんだから、これからだって、あなたが間違いをやったって、ちっとも悪いと思っていないんです。
阿部 みんなだって、自分の男に対してそう思ってるだらうと思うんですよ。ただ、いろんなことを考えて止すだけでしょ、きっと。だから、何でもないでしょうね。
坂口 そうですよ。強く生きるといいんだ。阿部定を隠して生きるなんていいことじゃないですよ。
阿部 ええ、今度はチャンと出して、偉いわねッて言われるようなことをやりたいと思ってるんです。
坂口 それはいいですね。しかし、それからがむずかしいですよ。その時に腐ったりしたらダメですね。闘いですから。
阿部 どうしたらいいでしょう。
坂口 それはあなたの情熱の問題だ。それをあなたがやり通そうという、命懸けみたいなものを持って事に当らなければダメですよ。人にちょっと言われて引っ込んだりしちゃあ…。
阿部 ええ、今度は…。
坂口 じゃ、強く生きてください。あんまり晩くなりますから失礼します。
阿部 そうですか―。何にもお構いできませんで…。
 
阿部定さんの印象
 坂口安吾

 

阿部定さんに会つた感じは、一ばん平凡な下町育ちの女といふ感じであつた。東京下町に生れ、水商売もやつてきたお定さんであるから、山の手の人や田舎育ちの人とは違つてゐるのが当然だが、東京の下町では最もあたりまへな奇も変もない女のひとで、むしろ、あんまり平凡すぎる、さういふ感じである。すこしもスレたところがない。つまり天性、人みしりせず、気立のよい、明るい人だつたのだらうと思ふ。
この春以来、私の家の女中は三度変つた。そのうち二人は東京の下町そだちで、一人は天理教、一人は向島の婆さん芸者であるが、この二人はどう見ても変質者としか思はれず、ヒネくれたところや歪んだところがあつたが、お定さんには、さういふ変質的なところが少しも感じられない。まつたく、まともな女なのである。お定さんの事件そのものが、さうなので、実際は非常にまともな事件だ。
僕がお定さんに、なんべん恋をしましたか、と云つたら、たつた一度なんです、それがあの人なんです、三十二で恋なんて、をかしいかも知れないけど、でも一度も恋をしないで死ぬ人だつてタクサンゐるんでせう、と訴へるやうに僕を見た。然し、この恋といふ言葉は、お定さんの自分流の解釈で、お定さんは男が好きだつたことは少女のころから有つたのである。けれども、いつも騙された。相手がいつもダマすつもりで近づいてくる男ばかり、いかにも女らしい、そして人のよい、かういふタイプの人々は、だいたい男にダマされやすいタイプぢやないかと私は思ふ。
つまり好きな男に好かれた、それをお定さんは恋と云つてゐるので、それがあの人一人であつたといふ。思へば気の毒な人なんであるが、又、お定さんの言ふ通り、でも恋を知らないで死ぬ人だつてタクサンあるんでせう、といふ。その通りである。好きな人に好かれる、ある意味では、そんなことはメッタにないのかも知れない。だから、お定さんがどんなに幸福で、夢中であつたか、名誉も金もいらないといふ一途な性質のものであつたことがうなづける。
思ふに、お定さんに変質的なところはないが、相手の吉さんには、いくらかマゾヒズムの傾向があつたと思ふ。吉さんは恋の陶酔のなかでお定さんにクビをしめてもらうのが嬉しいといふ癖があつた。一般に女の人々は、本当の恋をすると、相手次第で誰しもいくらかは男の変質にオツキアヒを辞せない性質があり、これは本来の変質とは違ふ。女には、男次第といふ傾向が非常に強い。
たまたま、どこかの待合で遊んでゐるとき、遊びの果に気づいてみると、吉さんは本当にクビをしめられて死んでゐた。たゞそれだけの話なのである。
いつも首をしめられ、その苦悶の中で恋の陶酔を見てゐる吉さんだから、お定さんも死んだことには気づかなかつたに相違なく、もとより、気づいて後も、殺したといふ罪悪感は殆どなかつたのが当然である。むしろ、いとしい人が、いとしい/\と思ふアゲクの中で、よろこんで死んで行つた。定吉一つといふやうな激越な愛情ばかりを無上に思ひつのつたらうと思ふ。さういふ愛情の激越な感動の果に、世界もいらない、たゞ二人だけ、そのアゲク、男の一物を斬りとつて胸にだいて出た、外見は奇妙のやうでも、極めて当りまへ、同感、同情すべき点が多々あるではないか。
あのころは、ちやうど軍部が戦争熱をかりたて、クーデタは続出し、世相アンタンたる時であつたから、反動的に新聞はデカデカかきたてる。まつたくあれぐらゐ大紙面をつかつてデカデカと煽情的に書きたてられた事件は私の知る限り他になかつたが、それは世相に対するジャーナリストの皮肉でもあり、また読者たちもアンタンたる世相に一抹の涼気、ハケ口を喜んだ傾向のもので、内心お定さんの罪を憎んだものなど殆どなかつたらう。
誰しも自分の胸にあることだ。むしろ純情一途であり、多くの人々は内々共感、同情してゐた。僕らの身ぺんはみなさうだつた。あんな風に煽情的に書きたてゝゐるジャーナリストがむしろ最もお定さんの同情者、共感者といふぐあいで、自分の本心と逆に、たゞエロ的に煽つてしまふ、ジャーナリズムのやりがちな悲しい勇み足であるが、まつたく当時は、お定さんの事件でもなければやりきれないやうな、圧おしつぶされたファッショ入門時代であつた。お定さんも亦、ファッショ時代のおかげで反動的に煽情的に騒ぎたてられすぎたギセイ者であつたかも知れない。
実際、さうだらう。お定さんの刑期は七年だか五年だか、どう考へたつて、長すぎる。僕はせゐぜゐ三ヶ月か半年、それも執行猶予くらゐのところと思つてゐた。人を殺した、死体に傷をつけた、といつてもどこにも犯罪的な要素は殆どないではないか。純愛一途のせゐであり、むしろ可憐ではないか。
やつぱり時代のギセイであつた。あのセンセーショナルなところが軍人時代に反撥され、良俗に反するからといふやうな、よけいな刑期の憂目を見た原因であつたと思ふ。
実際に又、お定さんは時代の人気をあつめたもので、お定さんが出所するとき、警察の人々が特に心配してくれて、特別に変名を許可し、変名の配給書類をつくつてくれた。その変名の配給書類で、お定さんは今日まで、誰にもさとられず(隣の人も知らなかつた)平凡に、つゝましく暮してきたのであつた。
どんな犯罪でも、その犯罪者だけができるといふものはなく、あらゆる人間に、あらゆる犯罪の要素があるのである。小平も樋口も我々の胸底にあるのだ。けれども、我々の理性がそれを抑へてゐるだけのことなのだ。中には、とても、やれないやうな犯罪もある。去年だか、埼玉だか、どこかの田舎で、ママ子を殺して三日にわたつて煮て食つたといふ女があつた。こんなのは普通やれそうもないけれども、然し犯罪としてやれないのではなく、問題は味覚に関することで、蛙のキライな人間が蛙を食ふ気がしないのと同じ意味に於て、やる気がないだけの話なのである。
お定さんの問題などは、実は男女の愛情上の偶然の然らしめる部分が主で、殆ど犯罪の要素はない。愛し合ふ男女は、愛情のさなかで往々二人だけの特別の世界に飛躍して棲むもの。そんな愛情はノルマルではない、いけない、そんなことの言へるべきものではない。さういふ愛情の中で、偶然さうなつた、相手が死んだ、そして二人だけの世界を信じて、一物を斬つて胸にひめるといふ、八百屋お七の狂恋にくらべて、むしろ私にはノルマルに見える。偶然をさしひけば、お定さんには、どこにも変質的な、特別なところはなくて、痛々しく可憐であるばかりである。思つてもみたまへ。それまで人生の裏道ばかり歩かされ、男には騙され通し、玩弄されてばかりゐた悲しいお定さんが、はじめて好きな人にも好かれることができた、二人だけの世界、思ひ余り、思ひきる、むしろそこまで一人の男を思ひつめたお定さんに同情すべきのみではないか。
然し、お定さんが、十年もたつた今になつて、又こんなに騒がれるといふのも、人々がそこに何か一種の救ひを感じてゐるからだと私は思ふ。救ひのない、たゞインサンな犯罪は二度とこんなに騒がれるものではない。小平の犯罪などは、決してこんなに再び騒ぎたてられることはないだらう。
人間は勝手気まゝのやうで案外みんな内々の正義派であり、エロだグロだと喜びながら、たゞのエログロではダメで、やつぱり救ひがあるから、その救ひを見てゐるから、騒ぎたつやうな、バランスのとれたところがあるのだらうと思ふ。
お定さんはもう今後は警察の許可してくれた変名もかなぐりすて、阿部定にかへつて、事業をやるさうだ。そして、あの人が、今はあんなにしてゐる、エライものだ、さう思はれるやうな人々の為になる仕事に精魂を打ちこむのだと決意してゐる。
まつたく、おそすぎたぐらゐのものだ。堂々と本名をだして、いさゝかも羞ぢる必要のないお定さんであつたのである。然しまつたく羞じ怖れ隠れずにゐられない、平凡な、をとなしい、弱々しい、女らしい女のお定さんであるから、隠れずにもゐられなかつたであらうが、思ひ決して、世に名乗りでゝ、人々のタメになる仕事をやり、あんな女が今ではあんなに、エライものだと言はせてみせるといふ、まことに嬉しいことではないか。
然し又、世の大方の人々が、たゞの好奇心からお定さんをエロ本にしたてゝ面白がる、それも又仕方のないことで、私はそれを咎めたいとは思はない。それは本当のお定さんとは関係のないもはや一つの伝説であり、それはそれでいゝ。
然し今日、八百屋お七がなほ純情一途の悲恋として人々の共鳴を得てゐるのに比べれば、お定さんの場合は、更により深くより悲しく、いたましい純情一途な悲恋であり、やがてそのほのぼのとしたあたゝかさは人々の救ひとなつて永遠の語り草となるであらう。恋する人々に幸あれ。  

阿部定という女
 坂口安吾

 

御手紙本日廻送、うれしく拝見致しました。先日色々御教示仰ぎました探偵小説は目下『日本小説』という雑誌へ連載しておりますが、全部まとまりましたら、御送付致すつもりでおります。
先日、ある雑誌の依頼で例の阿部定さんと対談しましたが、私には、非常に有益なものでした。だいたい、女というものは男次第で生長変化のあるものだろうと思いますが、相手の吉さんという男にはマゾヒズムの傾向があったと思いますが、お定さんは極めて当り前な、つまり、一番女らしい女のように思われます。東京の下町育ち、花柳界や妾などもしていましたから、一般の主婦とは違っていますが、然しまア最も平凡な女という感じを受けました。
トンチンカンな対談ですが、お定さんが大変マジメで、面白かったのです。
いつごろから恋をしましたか、と私がきゝましたら、吉さんとあゝなるまで、つまり三十三かの年まで恋をしたことはなかった。あれが自分には一代の恋だった。然し、もし、これからでも、恋ができるなら、したいとは思っている。
そのときお定さんはこう附けたして言いました。世の中の大概の女の人は一度も恋をしないで死ぬ人も多いのだから、私は幸福なのだろう、と。
然し、お定さんは男が好きになった。そして、その男にだまされた、そういうことは十六七から何度もあったのですが、それを恋愛とは考えていないのです。そして、自分の愛する人に自分も亦愛された、相思相愛、つまり吉さんとの場合だけが恋であり、三十いくつで一代の恋を始めて知った。世の多くの女の人は恋を知らずに死ぬ人も多い、そう申しておるのであります。
又、お定さんは、自分はあのことは実際は少しも後悔していない、世の中の女の人はみんな、もし本当に恋をすればあゝなるだろうと思っている、みんな、同じものを持っている筈と申していました。
事実、あの出来事には犯罪性というものは全く無いように思われます。吉さんの方にはマゾヒズムの傾向があって房事の折に首をしめて貰う。殆ど窒息に近いまで常に首をしめて貰う例だそうで、たまたま本当に死んでしまった、お定さんは始めは気がつかなかった程で、そういうクライマックスで死んでいった吉さんを殺したような気がしないのは自然であり、むしろそのまま死んでしまった吉さんに無限の愛情を覚えざるを得なかったのは当然だろうと思います。まったく二人だけの至高の世界に於ける一つの愛情の完結みたいなもので、吉さんが死して自分と共に一つに帰したような思いもしたろうと思われます。
そういうアゲクに吉さんの虚しい屍体を置き残して立ち去るとすれば、最愛の形見に一物を斬りとることも自然であり、最も女らしい犯罪、女の弱さそのものゝ姿で、まことに同情すべきものゝ如くに思われます。
八百屋お七を娘の狂恋とすれば、お定さんは女の恋であり、この二つはむしろ多く可憐なる要素を含むもので、特に現実の女としてのお定さんというものは、たゞ弱く、ひたむきな、そして案外にもつゝましやかな女、極めて平凡そのものゝ女、そういう感じの可憐な人でありました。
私はお定さんのような事件は正しい意味で世間の人々が理解する必要があると考えていますが、だいたい男女の肉体生活の合理性というものが、もっと公開的に論議せられることが望ましいと思うものです。
我々の精神文化、精神上の良心、正義というようなものが、肉体生活の合理性まで隠蔽の上で、からくも歪められた在り方をとゝのえている、それでは魂の平衡は在り得ず、健全な精神生活も在り得ない。
私の文学の真意は多く誤読されていると思いますが、私は然しこの過渡期には、まだまだ絶望はしていません。むしろ希望をいだいております。
私は精神分析学を高く評価するものですが、我々の精神肉体の合理的な平衡を増大するためにはタブーというものを合理的になしくずしに減らして行く、そういう理性的な発掘と建築作業が行われなければならないと思うものです。
いずれ又、お目にかゝって、ゆっくり色々お話をうかゞいたいと思います。私は三十一日から、約一カ月ぐらい仕事のために温泉へ行きますが(東京は電燈がつきませんので)いずれ帰京の上、お目にかゝる日をたのしみに致しております。
 
坂口安吾
(さかぐち あんご、明治39年-昭和30年 / 1906-1955) 日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。純文学のみならず、歴史小説や推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語を学んだ。戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、無頼派・新戯作派と呼ばれる作家の一人として地歩を築いた。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された。坂口安吾の文学作品には、途中で放棄された未完の長編や失敗作も多く、小説家としての技量や芸術性・完璧性の観点からは器用な作家とはいえないが、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている。

坂口安吾の作品の中には、未熟な失敗作や未完作も多く、その個性や方法論を十全に開花させた長編小説は書かれず、いわゆる文豪と呼ばれるような名人的な技巧の文学者ではないが、特異な魅力のある作家として、ジャンルを越えて他の多くの作家からも親しまれている傾向がある。奥野健男は、その安吾の魅力を、他の優れた小説家からは求めることができない「不思議な人間的魅力にあふれている」とし、「ある時は人間の魂の底まで揺がすようなすさまじい感動を、ある時は澄みきった切ないかなしみに似た憧れを与えてくれる」と評している。また、文学作品だけではなく、その推理小説も評価され愛好されている。
また、坂口安吾の作家生活は約24年間(1931年-1955年)であるが、戦後10年間の後半生(文壇的成功、恋愛、酒と遊び、狂気、長編小説の失敗、社会的事件、死)と、戦前14年間の前半生の経過が非常に似ていることが指摘されている。小川徹は、安吾が自身の前半生を戦後の後半生に対応させて、同じ人間が生まれ変わり、「解放された人間」として同じ経過のコースをもう一度生きてみようとしたのではないかと考察している。
終戦直後の成功によって無頼派(新戯作派)と呼ばれた坂口安吾だが、その戦前からのファルス的作品や、歴史小説までも含めた諸作品に貫かれているのは、「壮大な虚構精神」であり、私小説的な自伝小説には、自己否定と独特な「求道的態度」が脈打っていると三枝康高は解説し、それらの作品には、安吾の狂気じみた「爆発的性格」と「ガランドウにも似た風格」が介在していると評している。
この「ガランドウ」という言葉は、三好達治が安吾を評して、「かれは堂々たる建築だけれども、中へはいってみると、畳が敷かれていない感じだ」と言った名評を受け、安吾自身が笑ってしまい、自分のことを、「まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに、一枚のウスベリも見当たらない。大切な一時間一時間を、ただなんとなく迎へ入れて送りだしてゐる。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままスッとはいりこまれて、そのままズッと出ていかれても、文句のいいやうもない。どこにもくぎりのないのだ。ここにて下駄をぬぐべしといふやうな制札が、まつたくどこにもないのである」と述べてことから来ている。
「太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ」とする三島由紀夫は、安吾について以下のように評している。
「坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だつた。坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。なぜだらう。余計なものがなく、ガランとしてゐて、空つ風が吹きとほつて、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、夢のやうに明るい丸い遠景の光りが浮かんでゐる。この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかつた。未来まで、この人はトンネルのやうな体ごと、スポンと抜けてゐたからだ。太宰が甘口の酒とすれば、坂口はジンだ。ウォッカだ。純粋なアルコホル分はこちらのはうにあるのである。」
 
阿部定 1 

 

(あべ さだ、明治38年-没年不明 / 1905-? ) 日本の芸妓、娼妓。阿部定事件の犯人として知られる。
出生・少女期
定は江戸時代から続く裕福な畳店「相模屋」の阿部重吉・カツ夫妻の末娘として東京市神田区新銀町(現東京都千代田区神田多町)に生まれる。生まれた時は仮死状態であった。カツの乳の出が悪かったため、1歳になるまで近所の家で育てられた。定は4歳になるまで家族とも会話ができなかった。後に癇癪持ちになり、裁判時にヒステリーと診断されているが、幼児期のこうした体験が関連があるのではとも言われている。
8人兄弟だが長女、次男、三男は幼くして亡くなり、四男は養子に出され、定が神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に通う頃には20歳以上年が離れた長男・新太郎、17歳年上の次女・とく、6歳年上の三女・千代の4人兄弟であった。定は母親の勧めで進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。孫のように年が離れた末娘に母は稽古事の際には毎回新しい着物を着せ、大人のように髪を結わせて通わせた。また定もこれが似合う美少女であったので定を猫かわいがりしていた父母は鼻が高かった。定の見栄っ張りで少々高慢な性格はこの頃から見受けられるようになる。父母は日常の学校生活よりも歌や踊りや三味線の稽古を優先して育て、尋常小学校の教師からも注意を受けている。そのような環境のためか、10歳になる頃には男女の性交の意味を知っていた。
高等小学校に進学するも15歳の時に自主退学している。当時は親分肌の性格だったと隣人が証言している。15歳(数えのため満14歳)の頃、大学生と二人でふざけているうちに強姦されてしまった。これが彼女の初体験である。定は出血が2日も止まらず恐ろしくなり、定の母親がその学生と話をしようと自宅まで行くが、本人とは会えず、泣き寝入りする形になる。定は16歳の終わり頃に初潮をむかえた。初潮前に強姦された定はその後不良少女になっていくが、本人の弁によれば「もう自分は処女でないと思うと、このようなことを隠してお嫁に行くのはいやだし、これを話してお嫁に行くにはなおいやだし、もうお嫁にいけないのだ、どうしようかしらと思いつめ、ヤケクソになってしまいました」。母は定をなだめようと優しい言葉をかけたり、物を買い与えたが、逆にそれが癪に障った。
丁度その頃、阿部家は長男と次女の男女問題や家業継承問題でもめており、母は家庭内の揉め事を年頃の定に見せないように小遣いを渡して外に出すようになり、やがて定は現代の金額に換算すると10万円から60万円もの大金を家からを持ち出して、浅草界隈を仲間を引き連れて遊びまわる不良娘となっていた。父・重吉は時折厳しく定を叱り付け、家から閉め出したり折檻をしている。後に浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うようになり地元神田にまで定の名は轟く。
この頃の定の暮らしは、昼近くに目を覚まし朝昼兼用の食事を女中に運ばせ、風呂を済ますと外出し、10人以上の不良少年に取り巻かれ、凌雲閣で映画を見て、映画が終わると居酒屋へ繰り出し、夜遅く帰宅する。他の男性と交際していたが、不良仲間とは肉体関係は持っていなかった。このような生活は1年ほど続いたが、定が16歳の時に、三女・千代の縁談が決まると、体面を保つのと家を追い出される形で女中奉公に出たが、屋敷の娘の着物や指輪を盗んだため警察の世話になり、1か月後に家に送り返された。父・重吉は非常に怒り、それから約1年間、定を自宅で監禁同様に過ごさせている。長男・新太郎が両親の金をありったけ持って蒸発すると、畳屋を店じまいすることになり、阿部家はその頃埼玉県入間郡坂戸町(現:坂戸市)に転居した。しかし、阿部家は都内に貸家を何件か持っていたため、生活に困ることはなかった。
芸妓から娼妓へ
その後の定は男と交際を繰り返し続け、見かねた父と兄は定が17歳の時に「そんなに男が好きなら芸妓になってしまえ」と長男・新太郎の前妻・ムメの妹の夫で女衒の秋葉正義に売ってしまう。定は秋葉に夜這いをかけられ、秋葉は4年ほど定のヒモとなっている。神奈川県横浜市住吉町(現横浜市中区住吉町)の芸妓屋「春新美濃(はじみの)」に前借金300円で契約。源氏名「みやこ」として芸者の世界に脚を入れる。1年ほど春新美濃に在籍し、その後も横浜や長野で芸者として働いていたが、三味線が弾けるとはいえ特筆した座敷芸がない定は、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが嫌であったという。身売りの金は定の小遣いとなった。1923年(大正12年)の関東大震災の時、定はちょうど秋葉の家に遊びに来ていたが、彼の家は全焼。定は秋葉の家を助けるため、富山県富山市清水町の「平安楼」という芸妓屋に1000円以上の前借金をして店変えをし、前の店に返済した残りの金から300円ほどを秋葉に渡し、秋葉一家の生活の面倒を見るようになった。当時1000円という金額は、立派な家が一軒建つほどの大金であった。
20歳になると定は秋葉に騙されていたことを知り縁を切ろうとするが、「平安楼」の契約書が秋葉との連判であったため、その借金を返すべく1925年(大正14年)7月、長野県飯田市の「三河屋」に移転するが、自分で売り込むわけにもいかず、ここでも仕方なく秋葉との連判で契約をしている。ここでは「静香」と名乗り、売れっ子芸者になったものの性病にかかってしまう。父・重吉はどうせ男に懲りて家に戻ってくるだろうと追い出したのだが、「検黴を受けてまで不見転(みずてん。客に体を売る芸者の意)芸者をするなら、いっそのこと」と自ら進んで遊女に身を落とした。この時、母・カツに秋葉との一部始終を暴露し、別の仲介業者を得て移籍手続きをし、秋葉から連判の契約書を返してもらっている。
1927年(昭和2年)、大阪府大阪市西成区にある飛田新地の高級遊郭「御園楼」に前借金2800円で契約、連判者は父の重吉であった。ここでは「園丸」と名乗り、売れっ子娼妓となる。1年ほどすると常連客の会社員から身請けの話が出たが、その男性の部下も定の常連であり、身請け話は立ち消えになる。その後は逃走と失敗、トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫・名古屋の娼館を転々とし、どんどん客層の悪い店に落ちていった。1932年(昭和7年)、6カ月ほど在籍した篠山の下等遊郭「大正楼」から逃げ出し、娼妓としての仕事を辞めた。
神戸で2カ月ほどカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。この頃、男性と毎日肉体関係を持たないと気がおかしくなりそうだと病院に相談しているが、医者は「難しい精神鍛錬の本や思想の本を読んだり、結婚をすればいいだろう」と答えた記録がある。一度は坂戸の実家に戻るが、大正楼からの追っ手が来たため大阪に逃亡。1933年(昭和8年)、大阪で母のカツが死亡したという電報を受け取る。翌1934年(昭和9年)正月、日本橋の袋物商の妾をしていた定の元に、父の重吉が重病だという知らせが届く。10日間つきっきりで看護するが、重吉は病死。最期の言葉は「まさかお前の世話になるとは思わなかった…」であったとされる。その後も妾を続けていたが、知人から秋葉の娘が死んだと聞き、横浜へ墓参に行くと秋葉は金に困っており、定は指輪を質入し150円を秋葉に用立てる。この頃から定と秋葉の関係が復活する。定は愛人を何度か変えると、ある愛人から婚約不履行で訴えられ、名古屋に逃れる。
1935年(昭和10年)4月に名古屋市東区千種町(現名古屋市千種区)の料亭「寿」で、名古屋市議会議員で有名商業学校校長の大宮五郎と知り合い交際していた。紳士的な大宮は定にとっては今まで会ったことがない男性だった。大宮は娼婦や妾をしていた定を人間の道に外れたことだと叱り、更生するように定を諭した。この頃、本籍を名古屋市東区千種町に変更している。大宮から、まじめな職業に就くようにと諭され、新宿の口入屋を介して紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京中野の料亭・吉田屋であった。彼は後々定に店を持たせようと考えていた。
「田中加代」の偽名を使い吉田屋で働き始めた定と石田は知り合ってまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると二人は出奔。定は嘘をつき大宮に逃亡資金を何度か無心している。大宮は後に重要参考人として身柄を拘束され、取調べを受け不問となるが、学校の卒業生に合わせる顔がないとその後は隠居生活を送っている。
裁判・服役
1936年(昭和11年)5月18日、定は石田を殺害した容疑で逮捕された。当時横浜で畳店を経営していた兄・新太郎は「自殺でもしてくれればいい」と新聞にコメントしている(新太郎は定が受刑中に病死)。姉のトクは秋葉と共に何度も面会に来ている。定は事件後、石田が事件当時に身につけていた褌を腰に巻き、シャツにステテコと石田の血で汚れた腰巻を身につけて逃亡していた。石田の下着類はいくら探しても見つからないので警察も不思議に思っていたが、それらは拘置所(市ヶ谷刑務所)に入った定が身につけていた。拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎしている。留置から裁判でのやり取りは、定を担当した弁護士によってマスコミに話が流れ、当時の社会に衝撃を与えた。その後当時の弁護士を解任し、新たに竹内金太郎弁護士がついている(私選か公選かは不明)。
精神鑑定の結果では残忍性淫乱症(サディズム)と節片淫乱症(フェチズム)と結果が出た。裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年(未決勾留120日を含む)の判決を受ける。通常は汽車で刑務所に移送されるが、有名人になっていた定は車で栃木刑務所に送られている。受刑生活ではラジオ体操の存在も知らず、最初は精神的に苦痛を受けるが、刑務所での作業は人の2倍はこなす模範囚となった。しかし、石田の一周忌を迎えると癇癪を起こすようになり、泣き喚いたり呼ばれても横になったまま、看守の頭にバケツの水をかけるなどの奇行を繰り返した。その後、教誨師の説得により徐々に平常心を取り戻すようになった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依した。
1941年(昭和16年)に「皇紀紀元2600年」を理由に恩赦を受け出所。事件の猟奇性により、世間の好奇心を呼び注目を引くこととなり、定は「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。出所後数日は姉・トクの家に世話になり、その後は元愛人の秋葉正義夫妻の家に下宿(その頃秋葉は保険業に転職)、秋葉夫妻は実質的な定の保護者となっており、定は秋葉夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになる。
偽名・名誉毀損裁判
その後7年ほどは刑事から与えられた「吉井昌子」という偽名を使い生活、勤務先の赤坂の料亭で知り合ったサラリーマン男性と事実婚し谷中のアパートで暮らしていたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災すると、茨城県結城郡宗道村(現茨城県下妻市)に疎開する。ここでは農業の手伝いをし、上記の偽名で配給を受けている。終戦後は埼玉県川口市に居住。しかし、戦後のエログロナンセンスブームで1947年(昭和22年)には『お定本』と呼ばれるカストリ本が続々と出版されている。3月に『愛欲に泣きぬれる女』、6月に『お定色ざんげ』、8月に『阿部定行状記』が出版。中でも『お定色ざんげ』(石神書店発行)の作者・木村一郎と石神出版の社長を石田と定の名誉毀損に当たるとし、9月4日に定は秋葉と連名で東京地裁に訴訟を起こす。訴訟から数週間後に『お定色ざんげ』は発禁となっている。夫はその頃、自分の妻が阿部定であったことを知り失踪している。その後彼女は本名を名乗り、事件を背負いながら生きることとなる。この年には織田作之助が阿部定事件を基にした小説『妖婦』を出版。坂口安吾は文藝春秋社発行の雑誌『座談』12月号で定と対談している。織田や坂口ら無頼派の作家にとって、定はファム・ファタール的存在だった。1948年(昭和23年)3月には手記『阿部定手記』(新橋書房)を出版。これにより名誉毀損訴訟も収まっている。
定は秋葉夫妻の元に下宿し、1949年(昭和24年)、秋葉の援助を受け、劇作家の長田幹彦が主催する劇団を旗揚げし、自らが主人公となり阿部定事件劇『昭和一代女』を演じた。6カ月ほど地方を巡業し、東京でも浅草の観音寺裏にあった百万弗劇場で上演されている。その後は京都で芸者をし、大阪の「バー・ヒノデ」のホステスや伊豆の旅館の仲居として働いていたが、1954年(昭和29年)夏、実業家の島田国一の紹介で、料亭「星菊水」社長・丸山忠男は定を客寄せパンダにしようと10万円の前金(現在の金額で300万円ほど)を出しスカウトする。月給も他の仲居は3000円だったのを、定は1万5000円をもらっていた。当時の都電にはこんなチラシが掲載された。
「お定さんの夢の大広間で、お定さんのお酌で一パイ 庭に面したテレビのある小室十六室完備 夢の酒場・夢の割烹『星菊水』」
星菊水では料理の他に、宴会の終盤に「お定でございます」と定が宴席に登場し、客をもてなすサービスがセットになっていた。働きぶりは真面目で、1958年(昭和33年)には東京料飲食同志組合から優良従業員として表彰されている。この頃は店のマネージャー兼女中頭であった。その後、上野の国際通りに小さなバー「クィーン」を開店。しかし従業員に店の金を持ち逃げされて半年で店じまいする。
晩年
1967年(昭和42年)、定が62歳の頃、秋葉の家を離れ清水社長から出資してもらい、台東区竜泉に「若竹」というおにぎり屋を開店した。店の裏の6畳間は定の住居であった。おにぎりを買いに来る客はほとんどおらず、店には定と三味線を弾き料理をする女性がおり、カウンターで酒を飲ませる店であった。若竹には浅香光代や有名力士や相撲部屋親方、国会議員、阿部定事件を担当した法曹界の人間もたびたび訪れており、特に事件当初より定に心酔した土方巽は常連客であった。1956年(昭和31年)、親代わりであった秋葉が既に死亡しているが、1968年(昭和43年)2月には秋葉の妻ハナが死去。この頃から定は死にたいと考えるようになり、客にぽつりと「あのバス事故のように誰だか身元がわからないまま死にたいわ」などと話すようになる。1969年(昭和44年)、店の常連であった土方が「僕に定さんの清らかな魂を写してくれ!」と懇願し、二人で写真を撮影している(外部リンク参照)。1969年(昭和44年)に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということを約束した上での出演であったという。
また、「星菊水」「若竹」共に店の客からの評判は「江戸っ子らしく気風のいい優しい人」と評判が良かったが、事件には一切触れることはせず、仕事仲間にも当時のことを語ることはほとんどなかった。一方で、事件の当時を知っている警察関係者や司法関係者が店にやってきて、金をせびったり、身体を要求することもあり、定は用心深くなっていった。1970年(昭和45年)3月、定は若竹から忽然と姿を消す。店を手伝っていた女性が病気になり、一人で店を切り盛りしていたが彼女も体を壊し、世話をしてくれた年下のバイセクシャルの恋人に店の金を持ち逃げされ、店を閉じて借金をある程度清算したが、どうしても残りの金を工面できず、関西に行き自殺を考えていたが、様子がおかしいと気づいた芸者から諭され、東京に戻ってきたとされている。
失踪
1971年(昭和46年)1月頃、定を星菊水にスカウトした島田国一と偶然浅草の仲見世で出会い、千葉県市原市の「勝山ホテル(現在は廃業)」で働くことになる。「あたし、新派の芝居『日本橋』に出てくる、こう役が好きだから『こう』と呼んで頂戴」と島田の妻に話している。ここでは65歳という高齢にも関わらず若い男に金品を貢いでは気を引いていたとされる(ただ、島田の妻は男性関係は一切なかったと証言している)。6月頃に「リウマチを治療し、7月8月が過ぎたら戻る」という置き手紙を残し、浴衣一枚だけを持って失踪した。その後、1974年(昭和49年)前後の3か月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明となった。「とある老人ホームに入っている」、「京都の尼寺で亡くなった」、「琵琶湖畔で老衰のため亡くなった」など諸説流れているが生死は不明のままである。
石田吉蔵の命日には久遠寺(山梨県身延町)に必ず定から贈られたと思われる花束が届いていた(1955年(昭和30年)に定は寺へ石田の永代供養の手続きをしている)が、1987年(昭和62年)頃を境に供えられることがなくなったため、その頃に死亡したのではないかとする説もある。だが、現在も「若竹」の未納税金があるために、「以下余白」とされる戸籍が残っている。これは生存が分かれば復活でき、死亡が分かれば死亡と書き換えられる行方不明者の戸籍記載である。
定ゆかりの場は現在ではほとんどが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした篠山の遊郭「大正楼」の建物は現存している。大正楼では「おかる」「育代」と名乗った。定の証言によると玉の井の淫売以下のひどく悪い客層で、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったという。 
 
阿部定 2

 

阿部定(あべさだ)、明治三十八年(一九〇五)五月二十八日生れ。
出生地は東京市神田新銀町一九(現、東京都千代田区神田田町)。生家は裕福な畳屋であったが、十七歳のときに父重吉に娼妓として身売りされた。ここまでの経緯については、織田作之助の小説「妖婦」にその詳細が記述されている(後出)。
昭和十一年(一九三六)、恋人である石田吉蔵(四二歳、定は三二歳)との房事の最中に誤って吉蔵を殺し、男の陰茎と陰嚢を切り取って逃亡するという猟奇的な事件を起こした。逮捕されて懲役六年の判決を言い渡され、栃木刑務所で服役。昭和十六年(一九四一)に恩赦で出獄した。
吉井昌子の偽名で長姉とくの家に身を寄せ、内縁の夫と平凡な生活に入った。戦後、カストリ雑誌に阿部定の事件が小説や記事の猟奇的な題材として取り上げられ、織田作之助「妖婦」(『風雪』昭和二十二年三月)、予審調書『艶恨録』(同年三月、出版社不明)、木村一郎『お定色ざんげ』(同年六月、石神書店)などが現れたのを見て、定は『お定色ざんげ』の出版社を告訴した。作家坂口安吾が定と会って対談をしたのは、この時期である(後出)。偽名を捨てて本名の阿部定に戻ったために、内縁の夫と別れ、『阿部定手記―愛の半生―』(昭和二十三年四月、新橋書店)を刊行した。
これらの事があってから各地を偽名で仕事を転々とするようになり、昭和四十六年に置手紙を書いて姿を消してからの消息は不明とされる。このとき、定は六十六歳である。
同年の冬頃、千葉県市原市の「勝山ホテル」で、「こう」という名前で働いていて、六月頃にまたも置手紙を残して姿を消したという。旅館の箸袋の裏に「(前略)くれぐれも御立腹なきようお詫び申し上げます。ショセン私は駄目な女です。こう」とあった。
昭和四十六年頃の三ヶ月間、浅草の知人の旅館で匿われていたという証言もある。
それからも、老人ホームに入っているらしいとか、京都の尼寺で亡くなったとか、琵琶湖畔で老衰のため死亡したとかの諸説が流れたがその生死は不明である。
また、昭和六十二年頃までは、吉蔵の命日には身延山久遠寺に必ず定からと思われる花束が届いていた。定は身延山久遠寺に吉蔵を永代供養するための手続きをしていたのである。しかしそれ以降は供花がなくなったので、その頃に死亡したのではないかという説がある。それなら八十二歳である。
定に関するその他の文献は上記の外、東京精神分析学研究所編『阿部定の精神分析的診断』(昭和十二年年一月、東京精神分析学研究所出版部)、冬木健『愛慾に泣きぬれる女』(昭和二十二年三月、国際書房)、村松梢風『娼婦昇天』(昭和二十五年二月、比良書房)などがある。また、織田作之助の小説「世相」にも興味深い記述がある。 
 
阿部定事件 1

 

仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。
事件発生
芸者や娼婦などをしながら各地を転々として暮らしていた阿部定は、交際していた大宮五郎の紹介で東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中として田中加代という偽名で働き始め、その店の主人・石田吉蔵に惹かれる。吉蔵も次第に阿部定に惹かれ、次第に二人は関係を持つようになり、他人に気づかれないように店を離れたびたび二人で会うようになる。石田と定は駆け落ちし、待合を転々としながら、尾久の待合旅館「満佐喜」に滞在した。愛の行為の間、定はナイフを石田のペニスに置いて、「もう他の女性と決してふざけないこと」と凄んだが石田はこれを笑った。二夜連続のセックスの最中、定は石田の首をしめ始め、石田は続けるように定に言った。性交中に首を絞める行為は快感を増すと石田は定に言ったという(窒息プレイ)。
1936年(昭和11年)5月16日の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、鬱血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かよい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めに良く眠れるようにとカルモチンを購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めた時に石田は定に話した 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ…おまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったと後に供述している。
5月18日午前2時、石田が眠っている時、定は二回、腰紐で死ぬまで彼を絞めた。定は後に警察で「まるで重荷が私の肩から持ち上げられたように、石田を殺したあと、私はとても楽になった」と供述している。定は包丁で彼の性器を切断した。雑誌の表紙にペニスと睾丸を包み、逮捕されるまでの3日間、彼女はこれを持ち歩いた。そして彼女は血で、シーツと石田の左太ももに「定、石田の吉二人キリ」と、石田の左腕に「定」と刻んだ。石田のステテコとシャツを腰巻の下につけると、定は宿の人間に「(吉蔵は)具合が悪くて寝ているので午後になるまで起こさないで」と言い、午前8時頃に宿を出た。
宿を出た後、定は大宮五郎に会い繰り返し彼に謝罪した。しかし定の殺人をまだ知らない大宮は定がもう一人の恋人を連れて行ったことを謝罪していると勘違い。大宮はさほど気にせず、その夜は定と肉体関係を持った。定の謝罪は、自分と大宮の交際がスキャンダルを引き起こすにちがいないということを知っていたからである。しかし、5月19日に新聞は阿部定事件を報じた。大宮も後に法廷で定との関係を証言することになる。
阿部定パニック
この事件はすぐに国民を興奮させた。そして彼女の捜索について引き続いて起こる熱狂は「阿部定パニック」と呼ばれていた。瓜実顔で髪を夜会巻きにした細身の女性を、定と勘違いし通報を受けた銀座や大阪の繁華街は一時騒然としてパニックになった。定が現れたという情報が流れるたびに、町はパニックになり、新聞はそれをさも愉快に書きたてた。この年に起こった失敗した二・二六事件クーデターの引用で、目撃例の犯罪が「試みイチ-ハチ」(「5-18」または「5月18日」)と諷刺的に呼ばれた。国民は美しいこの猟奇殺人者を二・二六事件で暗くなった世相を吹き飛ばす女神のような扱いをして歓迎した。「上野動物園クロヒョウ脱走事件」「二・二六事件」とあわせて「昭和11年の三大事件」と呼ばれている。
5月19日、定は買い物をし映画を見た。5月20日に品川の宿(品川館)に大和田直なる偽名を使い宿泊、大阪へ逃亡する予定であった。そこで、彼女はマッサージを受けて、3本のビールを飲んだ。彼女は、大宮五郎、友人、石田に別れの手紙を書いていた。午後4:00、高輪署安藤刑事は偽名で逗留している彼女の部屋に来た。「阿部定を探しているんでしょ?あたしがお探しの阿部定ですよ」と、さらりと言うと逮捕された。刑事達は定の落ち着いた態度に驚いた。
逮捕
定は逮捕されると「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。私達は正式な夫婦ではなかったので、石田は他の女性から抱きしめられることもできた。私は彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した…」なぜ石田の性器を切断したかは「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼の側にいるためにそれを持っていきたかった」と供述している。
この犯罪の詳細が公表されたときのデマでは、石田のペニスが驚異的なサイズであると切り出した。しかし逮捕の後、定に質問した警官はこれを否定した。「石田のモノはちょうど平均であった。私を性的に喜ばせたいというテクニックと奉仕的な愛撫をする石田が好きだった」と定は答えている。定の逮捕後、石田のペニスと睾丸は東京医科大学の病理学博物館へ送られた。第二次世界大戦後まもなく、一般に公開していたようだ。
裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決を受けて服役、1941年(昭和16年)に「紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所している。
その後
釈放後、「吉井昌子」と名前を変え市井で一般人としての生活を送っていたが、終戦直後『昭和好色一代女 お定色ざんげ』という書籍が出版され、著者と出版社を名誉毀損で告訴した。告訴した頃は埼玉県でサラリーマン男性と結婚をしていたが(未入籍のため事実婚)、男性は自分の妻が阿部定だと知ったことが原因で破局している。さらに、その後この事件を基にした劇や映画も製作されている(後述)。
この事がきっかけで再び各地で色々な仕事を転々とするようになるも、1971年(昭和46年)に置手紙を残し身内から忽然と姿を消し、以降の消息及び生死は不明となっている(詳細は阿部定の項目を参照)。
瀬戸内寂聴がNHK教育放送ラジオ番組で語ったところによると、事件後、芝居・見世物一座で本人が講釈し、模造の一物を見せる事もしていたらしい(浅香光代も子供時代に阿部定劇を見たと語っている)。
なお、1953年(昭和28年)にもこの阿部定事件と同様の事件が東京都文京区で発生している。また1972年(昭和47年)にも同様の事件が東京都杉並区で発生し、4月29日に荻窪にあるアパート2階にて徳島出身の当時予備校生だった旅館の跡取り息子(21歳)を、この旅館の仲居として働く女性(32歳)が別れ話のもつれから包丁で切りつけた。予備校生の陰部は皮一枚を残して殆ど切断された状態となり元通りに縫合する事は困難とされた。これを当時のマスコミは昭和の阿部定事件として騒ぎ立てた。
切断部位の表現
事件発生後、阿部定が切断した性器をどう表現するか、各新聞社は頭を悩ませた。「ちんぽ」「おちんちん」などでは品位がないし、「男性器」「生殖器」などでは生々しすぎたからである。またこの事件のメインテーマでもあるため、お茶を濁して誤魔化すわけにはいかなかったのである。苦慮の末、「局所」「下腹部」という表現が用いられて報道され、これ以後は性器部分をあらわす言葉として定着した。 
 
阿部定事件 2

 

阿部定と石田吉蔵
月下の公園でたったひとり、ベンチに腰かけていると、70年前に逃亡者でありながら、ここで孤独に放心していた女の残留思念をたぐり寄せられないものかと願わずにいられなくなる。
隅田川べりにある東京・日本橋の浜町公園かいわいは、かつてはしっとりと華やいだ花街だった。美貌(びぼう)の芸妓(げいぎ)お梅の箱屋殺しを基にした新派の悲劇「明治一代女」の舞台でもある。
1936(昭和11)年5月18日、30歳の阿部定(さだ)は、あまりに過剰な愛情に突き動かされて手をかけた石田吉蔵(きちぞう)の「魂」を懐に抱いたまま、この公園のみすぼらしいベンチに座っていた。
吉蔵の形見の褌(ふんどし)を腹に巻き、そこにハトロン紙でくるんだ吉蔵の肉体の一部をはさみこんでいた。手ずから包丁で切り離したそれは、魂の交接する高貴な器官でもあったからだ。
罪を償い、変名でひっそりと暮らしていた定は、戦後間もなく上梓(じょうし)した手記に、事件直後の逃走中、浜町公園で「伸び伸びとした嬉(うれ)しさで生まれて初めて野天で夜を明かした」と記した。ベンチに腰かけて、「あの人はモウ誰の手にも触れられない。遠い所に逝ったのだもの。モウ安心だ」と無上の安息の境地を漂っていたらしいのだ。
全身全霊を傾けて愛した男をついに霊魂の領域で独占した女の押し殺された狂喜を物語るエピソードはしかし、裁判の前に予審判事の尋問に供述した事実を改変したフィクションだった。
料理屋、待合、芸者置屋のひしめく荒川の尾久三業地(おぐさんぎょうち)にあった待合「満佐喜(まさき)」に吉蔵と約1週間も流連(りゅうれん)(居続け)して愛欲の限りを尽くした定は5月18日未明、帰るそぶりを隠さなくなった吉蔵を「殺して永遠に自分のものにする外ない」と決意する。
首を腰ひもで絞めた吉蔵の亡きがらに、股間からのおびただしい流血を指ですくい取って「定吉二人キリ」と血文字を残し、市中へ逃走した。
古着屋で着替え、眼鏡を買って変装すると、もう一人の情人の名古屋市議を呼び出し、今生最後の契りを交わして別れを告げる。夕暮れの浜町公園に立ち寄ったのは確かだが、吉蔵に追随する自死の覚悟が固まらないまま浅草の旅館に投宿した、と定は供述していたのだった。後年、手記に編集者の独断の創作とも思えないフィクションを織り交ぜた理由は不明である。
逃亡3日目、定は品川の旅館で逮捕された。朝日新聞は「妖婦お定遂(つい)に就縄 刑事に笑で応待」と報じている。尾久署へ移送される定を待ち受けていた群衆は忘我の興奮に包まれていた。二・二六事件の記憶も生々しく、鬱屈(うっくつ)した大衆の心理は、定を希代のトリックスターに祭りあげようとしていた。
定はその運命を潔く引き受けたかにみえた。だが、手記に透かし見える虚実あいまいな内面の真実は、死にきれなかった「殉愛」の聖なるヒロインに人知れずなりきることだったようだ。
「駄目な女」と書き残し失踪
なまめかしく和服の襟元をくつろがせた、母親ほども年長の熟女の着こなしをはしたなく思いながらも、女剣劇の座長の浅香光代さん(75)は、勘所を押さえた彼女の客あしらいの手練手管に感心することしきりだった。
「ちょっとホーさん、こちら浅香光代さんよ。チップを差し上げて」と、ほろ酔いの彼女がしなだれかかると連れの男は目を細めてうなずくばかり。
東京・浅草の浅草寺裏で浅香さんは1960年代後半、料亭「芝居茶屋」を経営した。そこへ阿部定が、客としてしばしば現れたのだという。
芝居茶屋は、桟敷で会席の弁当をつつきながら、舞台で浅香光代一座の剣劇名場面集のショーを観劇するという趣向だった。定はいつも、夜10時から始まる最後のショーに、紳士然とした初老の男と同伴でやって来た。

そのころ定は、60歳を過ぎてから吉原に近い台東区竜泉でおにぎり屋「若竹」を開店し、カウンターと土間にテーブルが一つしかない窮屈な店をかいがいしく切り盛りしていた。
「阿部定の店」という触れ込みでほどほどに繁盛しており、浅香さんも返礼に一度だけ訪ねたことがあった。
「しらふのときはシャキッとしているけど、酔うと口調が甘ったるくなるんです。茶屋に来た男も常連客で、他人とは思えないなれなれしさがあったから、できてたんでしょうね」
戦後ほどなくして、事件直後の鬱々(うつうつ)とした熱狂をよみがえらせる第二の阿部定ブームともいうべき社会現象が、突発性の熱病のように起きている。
石田吉蔵殺しで懲役6年の判決を受けた定は皇紀2600年の恩赦で残りの刑期を半減され、41年に出所した。
変名で俗世にかえるとやがて、手記によると「真面目(まじめ)で意固地なくらい曲がったことが嫌いな」男と同棲(どうせい)することになる。戦時下は茨城県下妻市へ疎開し、戦後は埼玉県川口市へ移住、誰にも素性を知られていない安穏な日常に慰められていた。

ところが世間は、猟奇事件の「妖婦」を寛大に忘れてはくれない。
47年に「昭和好色一代女 お定色ざんげ」と題した暴露本が出版された。戦前、地下出版物となって好事家(こうずか)にひそかに出回っていた定の供述調書を下敷きに、性愛描写を官能的に潤色して架空のざんげ録に仕立てた俗悪なエロ本だった。憤慨した定は名誉棄損で版元を告訴、それが新聞で報じられたために同棲生活も破局してしまった。
このとき傷心の定は、つきまとう悲運を逆手に取って一世一代の開き直りをやり遂げてしまうのだから、底知れない反骨心を秘めていた。
変名を捨て、作家坂口安吾と月刊誌で対談し、事件を舞台で再現する「阿部定劇」で「本人実演」の主演女優となって全国巡業の旅に出た。その後、10万円の契約金でスカウトされた浅草清島町(現台東区東上野)の料亭「星菊水」で12年間も看板仲居を勤めた。
定が「若竹」のおかみだったころの肉声と容姿は、69年に公開された石井輝男監督の映画「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」にとどめられている。
女の欲望をめぐる猟奇殺人事件の実録とうたったこの映画に、定はたった一シーンだけ出演し、浅草の吾妻橋に立って事件を追想しているのである。
「あの人は喜んで死んだんだからね……人間、一生のうち一人じゃないかしら、好きになるのは……」
この映画で定役を演じた女優の賀川ゆき絵さんはクランクインの前、新橋の料亭で本人と差し向かいで座談する機会があった。「気づいたら死んでしまっていたけれど、けっして後悔はしていないの」と不変の心情を吐露する小柄な老女の濡(ぬ)れた瞳がまるで童女のように澄み切っていたために、思わず抱擁したくなったというのだ。

映画公開の翌年、定は唐突に「若竹」を畳んで消息を絶つ。翌々年に千葉・内房の「勝山ホテル」に「こう」という名で仲居に雇われたが、約半年後、「ショセン私は駄目な女です」と書き置きを残して失跡してしまった。
取材に4年半を費やして定の生涯をたどったルポルタージュの大著「阿部定正伝」(情報センター出版局)を書いたフリーライターの堀ノ内雅一さんは、彼女のあまりに一途な人柄を見過ごせないパトロンに恵まれて、晩年は手厚く庇護(ひご)されたはずだと夢想する。
「星菊水」時代の同僚の証言に、切なく胸に染みる逸話があったという。
泥酔した定をおぶって長屋の住まいに送り届けると、正体を失っていたはずの定はやおら押し入れを開けた。見ると位牌(いはい)と吉蔵の写真が隠されていた。定は同僚には目もくれず、つぶやき声で一心不乱に遺影に語りかけているのだった。――定吉二人キリ。

[ 粋で見えっぱりな気風の職人街だった東京神田の新銀(しんしろがね)町(現千代田区神田司町)で1905(明治38)年、江戸時代から続く畳屋「相模屋」の末っ子に生まれた阿部定は、派手好みの母親に溺愛(できあい)され、学業より三味線などの芸事に身を入れていた。ところが14歳のとき慶大生にレイプされて捨て鉢になり、浅草で自堕落に遊び歩く不良少女へと変わり果てる。逆上した父親は女衒(ぜげん)に頼んでわが娘を娼妓(しょうぎ)へ売ってしまった。花柳界を流浪する娼婦に落ちぶれた定は35年、商業学校長でもある名古屋市議(当時46)と巡りあい、情を通じる。ストイックな物腰の紳士だった市議に苦界から脱して小料理屋を始めるよう勧められた定が翌年、見習いの奉公先に紹介されたのが東京・中野の割烹(かっぽう)「吉田屋」。男っぷりのいい多情多淫(たいん)な主人・石田吉蔵(同42)にひきつけられた定は、いつしか待合で吉蔵と流連の身となり、性愛の絶頂と破滅のときを迎えた。]  
 
予審決定書全文

 

本籍 名古屋市東区千種通り七の七九住所不定   
無職 阿部定(三二歳)
右に対する殺人及び死体損壊被告事件に付き予審を遂げ終結決定する事左の如し
主文 本件を東京刑事地方裁判所の公判に附す 
理由 被告人阿部定は東京市神田区新銀町一九、畳職重吉の四女に生れ小学校在学中より遊芸を仕込まれたるが、早熟にして十五歳の時既に処女を失ひ其後は町の不良と交り相次いで異性を求むる等、不良の傾向顯著なりし為十八歳の頃父重吉は被告人を見限りて芸妓となすに至り爾来被告人は横浜、富山長野、大阪、名古屋、兵庫、東京等の各地を転々し、芸妓、娼妓、私娼或ひは妾等次第に淪落の淵に沈み生活し来れり、然れども昭和十年頃よりやゝ目覚むるところあり、更生の一歩として昭和十一年二月一日東京市中野区新井町五三八、割烹業吉田家事石田吉蔵(四二)方に女中として住み込みたるが、生来多情なる被告人は間もなく右吉蔵と情を通じ家人に感知せらるゝに及び同年四月二十三日両名諜めし合はせて家出し、翌五月七日渋谷区円山町八五「みつわ」外市内数ヶ所の待合を転々して愛慾生活に耽溺し居り其間吉蔵は被告人との関係を長く持続する為同人を妾となし待合を開業せしむる意あるを洩らしその準備のため一時帰宅する事となり互に未練を残して別れたり 然るに被告人は吉蔵と別るるや同人に対し未だ嘗つて経験したる事なき恋慕、愛著の念を感じ吉蔵夫婦の生活を想像して嫉妬と焦躁の情に馳られ、瞬時も吉蔵と別離するに堪へがたく再会の折りは情痴の戯れに用ひんとして牛刀を買求め等したる上同月十一日電話を以て吉蔵を誘ひ出し中野駅にて落ち合ひ午後十時頃荒川区尾久町四の一八八一待合「まさき」事正木しち方に赴き以来同家に流連し日夜情痴、愛慾の限りを尽したるがたまたま五月十六日、吉蔵と情交中刺激を求む可く同人の頸部を腰紐を以て緊縛したる為同人の顔面充血するに至り吉蔵は之が治療の為帰宅静養せんと被告人に告げたるところ被告人はさきに一時吉蔵と別れゐたる間の苦しき経験を惟ひ到底同人と別るゝに忍びず、さりとて吉蔵には妻子を振り捨て自己と同棲する迄の意思なかりを察知し居たる為遂に吉蔵を永遠に独占せんがためには同人を殺害するに如かずと決意し、同月十八日午前二時頃前記待合「まさき」方さくらの間に於いて熟睡中なる吉蔵の頸部に自己の腰紐を二重に巻き付け、その両端を両手を以て強くひきしめて即時同人を窒息死に至らしめ尚ほ吉蔵の死体に痴戯しゐるうち同人を完全に独占し他の女性は妻と云へども一指だに触れさせまじと慾求する余り、同室に持ち込みゐたる被告人所有の牛刀を以て吉蔵の陰莖及び陰嚢を切り取り且つ同人の右上膊部外側に被告人の「定」の名を刻み込み以て吉蔵の死体を損壊したる後其の傷口の血を手指につけ吉蔵の左大腿部に「定吉二人」なる文字をその寝床敷布に「定吉二人キリ」なる文字を書き残し、右切り取りたる陰莖及び陰嚢を懐中して同日午前八時頃同家を逃走したるものなり (昭和十一年十月一日付 国民新聞) 
 
「妖婦」

 

神田の司町は震災前は新銀町といった。
新銀町は大工、屋根職、左官、畳職など職人が多く、掘割の荷揚場のほかにすぐ鼻の先に青物市場があり、同じ下町でも日本橋や浅草と一風違い、いかにも神田らしい土地であった。
喧嘩早く、物見高く、町中見栄を張りたがり、裏店の破れ障子の中にくすぶっても、三月の雛の節句には商売道具を質においても雛段を飾り、娘には年中派手な衣裳を着せて、三味線を習わせ、踊を仕込むという町であった。そのために随分無理をする親もあったが、もっとも無理が重なって、借金で首が廻らなくなる時分には、もう娘は垢ぬけた体に一通りの芸をつけており、すぐに芸者になれた。
安子はそんな町の相模屋という畳屋に生れた。相模屋は江戸時代から四代も続いた古い暖簾で五六人の職人を使っていたが、末娘の安子が生れた頃は、そろそろひっそくしかけていた。総領の新太郎は放蕩者で、家の職は手伝わず、十五の歳から遊び廻ったが、二十一の時兵隊にとられて二年後に帰って来ると、すぐ家の金を持ち出して、浅草の十二階下の矢場の女で古い馴染みだったのと横浜へ逃げ、世帯を持った翌月にはもう実家へ無心に来た。父親は律義な職人肌で、酒も飲まず、口数も尠なかったが、真面目一方の男だけに、そんな新太郎への小言はきびしかった。しかし家附きの娘の母親がかばうと、この父も養子の弱身があってか存外脆かった。母親は派手好きで、情に脆く、行き当りばったりの愛情で子供に向い、口数の多い女であった。
安子はそんな母親に育てられた。安子は智慧も体も人なみより早かったが、何故か口が遅く、はじめは唖ではないかと思われたくらいで、四つになっても片言しか喋れなかった。しかし安子は口よりも顎で人を使い、人使いの滅法荒い子供だったが、母親は人使いの荒いのは気位の高いせいだとむしろ喜び、安子にはどんな我儘も許し贅沢もさせた。
たしかに安子は気位が高く、男の子からいじめられたり撲られたりしても、逃げも泣きもせず涙を一杯溜めた白い眼で、いつまでも相手を睨みつけていた。かと思うと、些細なことで気にいらないことがあると、キンキンした疳高い声で泣き、しまいには外行きの着物のまま泥んこの道端へ寝転ぶのだった。欲しいと思ったものは誰が何と言おうと、手に入れなければ承知せず、五つの時近所の、お仙という娘に、茶ダンスの上の犬の置物を無心して断られると、ある日わざとお仙の留守中遊びに行って盗んで帰った。
早生れの安子は七つで小学校に入ったが、安子は色が白く鼻筋がツンと通り口許は下唇が少し突き出たまま緊り、眼許のいくらか上り気味なのも難にならないくらいの器量よしだったから、三年生になると、もう男の子が眼をつけた。その学校は土地柄風紀がみだれて、早熟(ませ)た生徒は二年生の頃から艶文をやりとりをし、三年生になれば組の半分は「今夜は不動様の縁日だから一緒に行こうよ」とか、「この絵本貸してあげるから、ほかの子に見せないでお読みよ」とか、「お前さんの昨日着て来た着物はよく似合った、明日もあれを着て来てくれ」とか、「文公は昨日お前さんをいじめたそうだが、あいつは今日おれがやっつけてやるから安心しな」などという艶文を、それぞれの相手に贈るのだった。艶文を贈って返事が来ると、二人の仲は公然と認められ、男の子は相手を「おれの娘(こ)」とよび女の子は「あたいの好い人」とよび、友達に冷やかされてぽうっと赫くなってうつむくのが嬉しいのだった。
安子が毎朝教室へ行って机を開けると何通もの艶文がはいっていた。が、安子は健坊という一人を「あたいの好い人」にしていた。健坊は安子の家とは道一つへだてた向側の雑貨屋の伜で、体が大きく腕力が強く、近所の餓鬼大将であった。
ところが四年生になって間もなくのある日、安子は仕立屋の伜の春ちゃんの所へ鉛筆と雑記帳を持って行き、「これ上げるから、あたいの好い人になってね」そう言って春ちゃんの顔をじっと媚を含んだ眼で見つめた。
春ちゃんは無口な大人しい子供で、成績もよく級長であったから、やはり女の方の級長をしている雪子という蒼白い顔の大人しい娘を「おれの娘」にしていたが、思わず、「うん」とうなずいて、その日から安子の「好い人」になってしまった。
その日学校がひけて帰り途、友達のお仙が「安ちゃん、あんたどうして健坊をチャイしたの」と訊くと、安子はにいっと笑って、「お仙ちゃん、誰にも言わない? 言っちゃいけないことよ。―あたい本当は一番になろうと思って勉強したんだけれど、また十番でしょう。くやしいからあたい一番になる代りに、一番の春ちゃんを好い人にしたのよ。これ内緒よ、よくって?」
「だってあんたには健坊がいるじゃないの」
「健坊は雪ちゃんをいい娘にすればいいさ」
そういった途端、うしろからボソボソ尾行て来た健坊がいきなり駈けだして、安子の傍を見向きもせずに通り抜け、物凄い勢いで去って行った。兵児帯が解けていた。安子はそのうしろ姿を見送りながら、
「いやな奴」と左の肩をゆり上げた。
ところが、次の日曜日、安子とお仙と一緒に銭湯へ行っていると、板一つへだてた男湯から水を飛ばした者がいる。
「誰さ。いたずらおよしよ」
安子が男湯に向って呶鳴ると、
「てやがんでえ。文句があるなら男湯へ来い、あははは…。女がいくら威張ったって男湯へ入ることは出来めえ。やあい、莫迦野郎!」
男湯から来た声は健坊だ、と判ると安子はキッとした顔になり、
「入ったらどうするッ」
「手を突いて謝ってみせらア」
「ふうん…」
「手を突いて、それから、シャボン水を飲んで見せらア」
「ようし、きっとお飲みよ」
安子はそう言うといきなり起ち上って、男湯と女湯の境についている潜り戸をあけると、男湯の中へ裸のままはいって行った。手拭を肩に掛けて、乳房も何も隠さずすくっと立ちはだかったまま、
「さあ入ったよ。手を突いてシャボン水お飲みよ」
健坊は思わず顔をそむけたが、やがて何思ったかいきなり湯舟の中へ飛び込んで、永いこと潜っていた。
「なにさ。あたいは潜れと云っちゃいないわよ。シャボン水をお飲みと言ってるんだよ。へーん飲めもしない癖に…、卑怯者!」
安子はそう言い捨てて女湯へ戻って来た。早熟の安子はもうその頃には胸のふくらみなど何か物を言い掛けるぐらいになっていた。
やがて尋常科を卒え、高等科にはいると、そのふくらみは一層目立ち、安子の器量のよさは学校でよりも近所の若い男たちの中で問題になった。家の隣りは駄菓子屋だが、夏になると縁台を出して氷水や蜜豆を売ったので、町内の若い男たちの溜り場であった。安子が学校から帰って、長い袂の年頃の娘のような着物に着替え、襟首まで白粉をつけて踊りの稽古に通う時には、もう隣りの氷店には五六人の若い男がとぐろを巻いて、ジロリと視線が腰へ来た。踊りの帰りは視線のほかに冷やかしの言葉が飛んだ。そんな時安子は、
「何さ鼻たれ小僧!」と言い返しざまにひょいと家の中へ飛び込むのだったが、その連中の中に魚屋の鉄ちゃんの顔がまじっていると安子はもう口も利けず、もじもじと赫くなり夏の宵の悩ましさがふと胸をしめつけるのだった。鉄ちゃんは須田町の近くの魚屋の伜で十九歳、浅黒い顔に角刈りが似合い、痩せぎすの体つきもどこかいなせであった。
やがて安子と鉄ちゃんの仲が怪しいという噂が両親の耳にはいった。縁日の夜、不動様の暗がりで抱き合っていたという者もあり、鉄ちゃんが安子を連れ込む所を見たという者もあった。さすがに両親は驚いた。総領の新太郎は道楽者で、長女のおとくは埼玉へ嫁いだから、両親は職人の善作というのを次女の千代の婿養子にして、暖簾を譲る肚を決め、祝言を済ませたところ、千代に男があったことを善作は知り、さまざま揉めた揚句、善作は相模屋を去ってしまった―。
丁度その矢先に、安子の噂を聴いたのである。父親は子供達の悪さをなげきながら、安子に学校や稽古事をやめさせて二階へ監禁し、一歩も外出させず、仲よしのお仙がたずねて行っても親戚へ行っていると言って会わせなかった。
安子は鉄ちゃんには唇を盗まれただけで、父親が言うように女の大事なものを失うような大それたことをした覚えはなかったから、
「鉄ちゃんと活動見に行ったり、おそば屋へ行ったりしただけで、監禁されるのはあわないわ。ねえおっ母さん、あたい本当にそんなことしなかったのよ、皆が言ってるのは嘘よ、だからお父っさんにたのんで、外へ出して貰ってよ」と、母親にたのんだ。安子に甘い母親はすぐ父親に取りついたが、父親は、
「鉄公とあったかなかったかは、体を見りゃ判るんだ。あいつの体つきは娘じゃねえ」
と言って、この時ばかりは女房に負けぬ男だった。
ところが二十日許りたって、母親がいつまでも二階に監禁して置いてはだいいち近所の体裁も悪い。それに学校や踊はやめてもせめてお針ぐらいは習わせなければと父親を口説き、お仙ちゃんなど半年も前から毎日お針に行ってるから随分手が上ったと言うと、さすがに父親も狼狽して今川橋の師匠の許へ通わせることにした。
安子は二十日振りに外の空気を吸ってほっとしたが、何もしなかったのに監禁の辛さを味わせた父親への恨みは残り、お父つぁんがあくまで何かあったと思い込んでいるのなら、いっそ本当にそんなことをしてやろうかと思った。どうせ監禁されたのだから、悪いことをしても差引はちゃんとついている。このままでは引合わない、莫迦な眼を見たのはあたいだけだからと云うそんな安子の肚の底には、皆が大騒ぎしている「あの事」って一体どんなことなのかしらといういたずらな好奇心があった。
今川橋のお針の師匠の家には荒木という髪の毛の長い学生が下宿していた。荒木はその家の遠縁に当る男らしく、師匠に用事のある顔をして、ちょこちょこ稽古場へ現われては、美しい安子に空しく胸を焦していたが、安子が稽古に通い出して一月許りたったある日、町内に不幸があって師匠がその告別式へ顔出しするため、小一時間ほど留守にした機会をねらって、階下の稽古場へ降りてくると、
「安ちゃん、いいものを見せてあげるから、僕の部屋へ来ないか」と言った。
「いいものって何さ…」
「来なくっちゃ解らない。一寸でいいから来てごらん」
「何さ、勿体振って…」
そう云いながら、二階の荒木の部屋へ随って上ると、荒木はいきなり安子を抱きしめた。荒木の息は酒くさかった。安子は声も立てずに、じっとしていた。そして未知の世界を知ろうとする強烈な好奇心が安子の肩と胸ではげしく鳴っていた。
やがてその部屋を出てゆく時、安子は皆が大騒ぎをしていることって、たったあれだけのことか、なんだつまらないと思ったが、しかし翌日、安子は荒木に誘われるままに家出して、熱海の宿にかくれた。もっと知りたいという好奇心の強さと、父親の鼻を明かしてやりたいと言う気持に押し出されて、そんな駈落をする気になったのだが、しかし三日たって追手につかまり、新銀町の家へ連れ戻された時はもう荒木への未練はなかった。それほど荒木はつまらぬ男だったのだ。
日頃おとなしい父親も、この時はさすがに畳針を持って、二階まで安子を追いかけたが、母親が泣いて停めると、埼玉県の坂戸町に嫁いでいる長女の許へ安子を預けた。安子は三日ばかり田舎でブラブラしていたが、正月には新銀町へ戻った。せめてお正月ぐらい東京でさしてやりたいという母親の情だったが、しかし父親は戻って来た安子に近所歩き一つさせず、再び監禁同様にした。安子は一日中炬燵にあたって、
「出ろと云ったって、誰がこんな寒い日に外へ出てやるものか」
そう云いながらゴロゴロしていたが、やがて節分の夜がくると、明神様の豆まきが見たく、たまりかねてこっそり抜け出した。ところが明神様の帰り、しるこ屋へ寄って、戻って来ると、家の戸が閉っていた。戸を敲いてみたが、咳ばらいが聴えるだけで返事がない。
「あたいよ、あけて頂戴。ねえ、あけてよ。だまって明神様へお詣りしたのは謝るから、入れて頂戴」と声を掛けたが、あけに立つ気配もなかった。
「いいわよ」
安子はいきなり戸を蹴ると、その足でお仙の家を訪れた。
「どうしたの安ちゃん、こんなに晩く…」
「明日田舎へゆくからお別れに来たのよ」
そして安子はとりとめない友達の噂話をはじめながら、今夜はこの家で泊めて貰おうと思ったが、ふと気がつけばお仙はともかく、お仙の母親は、界隈の札つき娘で通っている女を泊めることが迷惑らしかった。安子はしばらく喋っていた後、
「明日もしうちのお父つぁんに逢ったら、今夜は本郷の叔母さんちへ泊って田舎へ行ったって、そう云って頂戴な」
そう言づけを頼んで、風の中へしょんぼり出て行ったが、足はいつか明神様へ引っ返していた。二度目の明神様はつまらなかったが、節分の夜らしい浮々したあたりの雰囲気に惹きつけられた。雑閙に押されながら当てもなし歩いていると、
「おい、安ちゃん」と声を掛けられた。
振り向くと、折井という神田の不良青年であった。折井は一年前にしきりに自分を尾け廻していたことがあり、いやな奴と思っていたが、心の寂しい時は折井のような男でも口を利けば慰さめられた。
並んで歩き出すと折井は、
「どうだ、これから浅草へ行かないか」
一年前と違い、何か押しの利く物の云い方だった。折井は神田でちゃちな与太者に過ぎなかったが、一年の間に浅草の方で顔を売り、黒姫団の団長であった。浅草へゆくと、折井は簪を買ってくれたり、しるこ屋へ連れて行ってくれたり、夜店の指輪も折井が買うと三割引だった。
「こんな晩くなっちゃ、うちへ帰れないわ」
安子が云うと、折井はじゃ僕に任かせろと、小意気な宿屋へ連れて行ってくれた。部屋にはいると、赤い友禅模様の蒲団を掛けた炬燵が置いてあり、風呂もすぐにはいれ、寒空を歩いてきた安子にはその温さがそのまま折井の温さかと見えて、もういやな奴ではなかった。
いざという時には突き飛ばしてやる気で随いてきたのだが、抱かれると安子の方が燃えた。
折井は荒木と違って、吉原の女を泣かせたこともあるくらいの凄い男で、耳に口を寄せて囁く時の言葉すら馴れたものだったから、安子ははじめて女になったと思った。
翌日から安子は折井と一緒に浅草を歩き廻り、黒姫団の団員にも紹介されて、悪の世界へ足を踏み入れると、安子のおきゃんな気っぷと美貌は男の団員たちがはっと固唾を飲むくらい凄く、団員は姐御とよんだ。気位の高い安子はけちくさい脅迫や、しみったれた万引など振りむきもせず、安子が眼をつけた仕事はさすがの折井もふるえる位の大仕事だった。いつか安子は団長に祭り上げられて、華族の令嬢のような身なりで浅草をのし歩いた。ところがこのことは直ぐ両親に知れて、うむを云わさぬ父親の手に連れられて、新銀町へ戻された。
戻ってみると、相模屋の暖簾もすっかりした前で職人も一人いるきりだった。安子は白髪のふえた父親の前に手をついて、二度と悪いことはしないと誓った。そして、父親の出入先の芝の聖坂にある実業家のお邸へ行儀見習に遣られた。安子は十日許り窮屈な辛棒をしていたが、そこの令嬢が器量の悪い癖にぞろりと着飾って、自分をこき使うのが癪だとそろそろ肚の虫が動き出した矢先、ある夜、主人が安子に向って変な眼付をした。なんだいこんな家と、翌る日、安子は令嬢の真珠の指輪に羽二重の帯や御召のセルを持ち出して、浅草の折井をたずね、女中部屋の夢にまで見た折井の腕に抱かれた。その翌朝、警察の手が廻って錦町署に留置された。検事局へ廻されたが、未成年者だというので釈放され、父親の手に渡された。
そんな事があってみれば、両親ももう新銀町には居たたまれなかった。両親は夜逃げ同然に先祖代々の相模屋をたたんで、埼玉の田舎へ引っ込んでしまった。一つには借金で首が廻らなくなっていたのだ。
安子も両親について埼玉へ行ったが、三日で田舎ぐらしに飽いてしまった。丁度そこへやってきたのが横浜にいる兄の新太郎で、
「どうだ横浜で芸者にならぬか」と、それをすすめにきたのだった。
「そうね、なってもいいわよ」
安子の返事の簡単さにさすがの新太郎も驚いたが、しかし父親はそれ以上に驚いて、
「莫迦なことを云うもんじゃねえ」
と安子の言葉を揉み消すような云い方をしたが、ふと考えてみれば、安子のような女はもうまともな結婚は出来そうにないし、といって堅気のままで置けば、いずれ不仕末を仕出かすに違いあるまい。それならばいっそ新太郎の云うように水商売に入れた方がかえって素行も収まるだろう。もともと水商売をするように生れついた女かも知れない、―そう考えると父親も諦めたのか、
「じゃそうしねえ」と、もう強い反抗もしなかった。
安子はやがて新太郎に連れられて横浜へ行き芸者になった。前借金の大半は新太郎がまき上げた。この時安子は十八歳であった。 ( 織田作之助 / 昭和二十二年三月、風雪 ) 
 
阿部定の訊問調書

 

一 はじめに 
研究報告第八号で「資料阿部定の精神鑑定書」を翻刻した。
阿部定事件は、昭和一一年(一九三六) 五月に起こった猟奇殺人事件で、その概要はつぎのとおりである。
5月18 日東京荒川区尾久町の待合で、局部を切り取られた男の死体が発見された。
男は中野区で料理屋を営む石田吉蔵(42)。殺害したのはその愛人の阿部定(32)と判明。10代から芸妓・女中・娼婦などを転々とした定は、前年2月に石田の営む料理屋に女中として住み込んだ。主人の吉田吉蔵と定はまもなく愛人関係となるが、家人に知られ、4月末に2人で愛の逃避行、5月H日に尾久の待合満佐喜(まさき) に身を置いた。だが添えぬ仲に、定は吉蔵を永遠に独占するには殺害するしかないと考え、18日午前2時過ぎに就寝中の吉蔵を腰紐で絞殺した。絞殺後、定は牛刀で吉蔵の局部を切断し、紙に包んで懐中に入れたまま、朝を待って姿を消したのだった。
定は2日後の5月20 日に、品川駅前の旅館で逮捕され、12月に懲役6年の刑を言い渡される。この事件は、その猟奇性から世間の強い関心を集める。(宇野俊一他編『日本全史』講談社、一〇六六頁による。)
ちなみに文中で「局部」とあるのは、睾丸と陰嚢である。
犯行現場には、被告が被害者の鮮血で書いた文字が残された。蒲団の敷布に二寸角大の楷書で「定吉二人きり」、死体の左太腿に「定吉二人」の血文字が書いてあった。左腕には「定」の字が、刃物で刻まれていた。 
二 阿部定事件の裁判資料 

 

なにゆえ不倫が猟奇殺人に転化したのか。加害者はどんな人格を持つ女性だったのか。また裁判に制度的・法律的問題はなかったのか。
この稀有な事件の本質に迫ってみたいと久しく願っていたところ、偶然にも同事件にかかわる左記の資料を入手した。
資料(1)相対会研究報告資料の部「阿部定訊問事項」
資料(2)相対会研究報告資料の部「阿部定の調書」
資料(1) 「阿部定訊問事項」は、予審における訊問記録を活字印刷したものである。表紙裏に、次の文がある。
本文は、もと、例の「出歯亀事件の調書」その他とともに『色界種々相』の題のもとに発表されたものですが、本復刻においては編集の都合もあって、この「阿部定訊問」を先行させ、引続き同調書を、さらに、その他の件に関する調書を逐号報告する予定です。
右お含みをき下さい。
一頁めに、次のとおり見出しがある。
阿部定訳問事項
すぐに本文が始まり、一行四二字、一頁一五行詰で、第六回訊問を記した八四頁まで続く。項目は、左記のとおりである。
第一回訊問〜第六回訊問 
阿部定事件の予審調書は、これまでに左記の作品で紹介された。
1 森長英三郎「阿部定事件性愛の極致を求めて」、同『史談裁判』日本評論社、一九六六年一二月
2 伊佐千尋『愛するがゆえに阿部定の愛と性』文藝春秋、一九八九年一〇月。文春文庫、一九九七年一二月
3 堀ノ内雅一『阿部定正伝』情報センター出版局、一九九八年二月阿部定事件の第一回公判は、東京地裁で昭和一一年(一九三六) 一一月二五日に行われた。
裁判長細谷啓次郎は、第一回公判日の指定にあたり、陪席判事二名に妻の生理日を質した上、その期間を除き公判期日を指定したと回想している。また開廷にあたり、公判の進行中、意外な質問、応答、状態が発生しても、決して笑ったり拍手してはならないと傍聴人に訓示があったため、法律新聞はこれを「傍聴人興奮禁止令」と呼んだ。
のちに、法廷は傍聴禁止となった。当時の法廷の状況については、細谷『どてら裁判』(昭和三一年刊) に述懐されている。
つぎに
1 森長「阿部定事件」によると、予審調書はすでに昭和一七年(一九四二) には印刷頒布されていたという。
2 伊佐『愛するがゆえに』は、予審調書原文の旧漢字、仮名つかいおよび文体を手直しして読みやすくした作品である。
3 堀ノ内『阿部定正伝』は、四年半をかけて加害者の足跡や関係者の証言を丹念に取材した労作であり、予審調書も引用している。
ちなみに阿部定への訊問は、計八回行われた。根拠は、伊佐『愛するがゆえに』目次、および「計八回の予審から得られた五万六〇〇〇字に及ぶ『予審調書』」(堀ノ内『阿部定正伝』二一六頁) の記述に基づく。
結局、
資料(1)「阿部定訊問事項」は、右の作品でも引用した予備調書と同一の資料だろう。ただし資料(1) は、三万七〇〇〇字あまりで、第七、第八の二回分の訊問記録を欠き、本来の分量の六割六分に過ぎない点で遺憾である。
資料(2) 「阿部定の調書」は、精神鑑定書を内容とする。表紙裏に「内容」と題七て目次がある。一頁め「一、公訴事実」の見出しに続き、本文が始まる。一行四三字、一頁一五行詰で、五六頁めの「五、鑑定」まで続く。末尾の五七頁めに年月日、鑑定人名を記載して完結する。ちなみに堀ノ内『阿部定正伝』では、精神鑑定書の「内容すべてをここで引用するわけにはいかない」(二一八頁) として一部の引用に留めている。
小職は、前号で資料(2)「阿部定の調書」を翻刻した。
ちなみに、阿部定の生い立ちについては、幼年時代の友人久保仙子とその母が、『婦人公論』昭和= 年(一九三六)七月号で述べている(のち東京精神分析学研究所『阿部定の精神分析』昭和一二年刊に再録)。
阿部定は、逮捕後約一か月間、警視庁で取り調べを受けると、六月一五日に市ヶ谷刑務所の未決監房へ移送された。そこから東京刑事地方裁判所の予審廷に出て、担当予審判事の正田光治から八回にわたり訊問を受けたのである。
本稿では、この予審廷における第一回から第六回までの阿部定訊問調書、すなわち資料(1)「阿部定訊問事項」を翻刻する。 
三 資料「阿部定訊問事項」 

 

第一回訊問 阿部定 
本籍ハ、名古屋市東区千種通七丁目七十九番地
出生地ハ、東京市神田区新銀町九十九番地
問 検事ヨリ被告二対シ、斯様ナ事実二付キ殺人及ビ死体損壊被告事件トシテ、予審請求ニナッテ居ルガ、コノ事実二対シテ何力陳述スルコトガアルカ
コノ時予審判事ハ被告人二対シ、本件予審請求書記載ノ公訴事実ヲ読聞ケタリ
御詰聞ケノ通り相違アリマセヌ。
問 ドウシテ吉蔵ヲ殺ス気ニナッタカ。
答 私ハアノ人が好キデ堪ラズ、自分デ独占シタイト思ヒ詰メ、未ダアノ人ハ私ト夫婦デナイカラ、アノ人が生キテ居レバ外ノ女二触レル事ニナルデアラウ。殺シテシマヘバ、外ノ女ハ指一本触レナクナリマスカラ殺シテシマツタノデス。
問 吉蔵モ被告ヲ好イテ居タノカ。
答 矢張リ好イテ居マシタガ、天秤二掛ケレバ四分六分デ、私ノ方が余計好イテ居りマシタ。石田ハ始終、家庭ハ家庭、オ前ハオ前ダ、家庭ニハ子供が二人モアルノダシ、俺ハ齢ダカラ、今更オ前ト駆落スル訳二八行カナイ。オ前ニハドンナ貧乏タラシイ家デモ持タセテ待合デモ開カセ、末長ク楽シマウト言ツテ居りマシタ。然シ私ハソンナ生温イ事デハ、連モ我慢が出来ナカツタノデス。
問 石田ガソレ程好キナラ、何故心中スル相談ヲ持掛ケナカッタカ
答 石田ハ、始終私ヲ妾ニスルト云フ様ナ事ヲ云フ、冗談二死ヌ等云ツタコトハアリマシタガ、実際ハ二人デ心中スル気持等全然ナカツタシ、私ハ、石田ノ家ノ様子ヲ知ッテ居りマシタカラ、心中スル相談ヲスルコトヲ考ヘテモ見マセンデシタ。
問 石田ヲ殺ス晩モ、死ンデ呉レトハ云ハナカッタノカ。
答 全然左様ナコトハ云ヒマセンデシタ。
問 其ノ晩、石田ハ被告二段サレルコトヲ予期シテ居タ様子ガアツタカ。
答 予期シテ居ナカッタト思ヒマス。尤モ、十八日ノ午前一時頃、石田が私ニオ前八橋が眠ッタラ亦締メルダラウネ、締メルナラ途中デ手ヲ離スナヨ、締メラレル時ハ判ラナイガ、離スト後が苦シイカラネト云ヒマシタガ、ソレハ冗談二云ッタノダト思ッテ居りマス。
問 ソレハ何故力。
答 私ハ、以前二頸ヲ締メナガラ関係スルト、感ガジ良イト云ツタコトガアリマシタガ、五月十六日ノ晩、私が石田ノ上二乗ツテ初メ八手デ石田ノ喉ヲ押ス様ニシテ関係シマシタガ、手デハ少シモ感ジが出ナイカラ、私ノ腰紐デ石田ノ頸ヲ巻キ、私ガソレヲ締メタリ緩メタリシテ関係シテイル内、下ノ方バツカリ見テ居タタメカが入り過ギ、石田ガ「ウー」ト稔り、局部が急二小サクナッタノデ、私ハ驚イテ紐ヲ離シマシタガ、其ノタメ石田ノ顔が赤クナツテ、直ラナイノデ、翌日迄水デ顔ヲ冷シテヤリマシタ。
ソンナコトガアッタタメ、十八日ノ午前一時頃、石田が眠ル時二、先程ノ様二締メルナラ途中デ手ヲ離スナ等ト云ツタノデスガ、私ハソウ云ハレタ瞬間、自分二殺サレテモ惜マナイト云フノカナト考ヘマシタガ、同時二其ノ時、私ハ「ウン」ト云ッテ笑ッテ居タノダシ、石田モ私ノ顔ヲ窺キ込ンデ笑イナガラソウ云ツタノデアリ、又死ヌ気ナラ、私二段シテクレト云フ筈デスカラ、冗談二云ツタノダト思ヒマシタ。其ノ後三十分位、石田ノ眠ツテイル側二坐ッテ居りマシタガ、石田ニハ殺スト云フ事ヲ云ハナカツタノデス。ソレニ石田ハ、私ノ身体が弱ソウニ見ヘルタメ、肺病ダト思ツテ居り、始終オ加代、俺ハオ前ノ為ナラ何時デモ死ヌヨ等云ッテ居りマシタガ、無論皆冗談事デアリマシタカラ、其ノ晩、石田が私二云ッタ事ハ冗談ダト思ツタノデス。尚私が殺ス心算デ、最初私が静カニ石田ノ頸ヲ締メル時、石田ハ、オ加代ト云ツテ、私二抱キ付ク様ニシタノデ、殺サレル等トハ考ヘテ居ラズ、吃驚シタノデハナイカト思ヒマシタガ、私ハ紐ヲ緩メズ、心ノ中デ堪忍シテト思ヒナガラ、其ノ儘「ギユッ」ト締メタノデス。
聴取書 笠原喜之助
私ハ、横浜市中区野毛町生レ、吉田小学校高等科ヲ卒業シ、間モナク横浜株式取引所デ株式ノ取引店員ヲ長クヤリ、昭和五年十一月二十一日カラ、只今立憲政友会院外団横浜支部書記長トナリ、今日二及ビマシタ。事務所ハ野毛山下ノ宮川町ニアリマス。目下月収ハ八十円位デ、家庭ハ、妻サイ五十五才、之レトハ明治四十年来同棲シテ居りマス。長男喜久太郎二十才、之レハ関東学院中学部五年在学中、ソレ丈ケデアリマス。
問 貴下ハ、阿部定ト云フ女ヲ知レルヤ、知ルトセバ其ノ関係ハ如何。
答 阿部定トイフ女ハ知ツテ居りマス。ソノ定トノ関係ハ、柳カキマリが悪イガ詳シク申上ゲマス。私が定ヲ知ツタノハ、一昨年即チ昭和九年十月頃デ、日ハ一寸失念シマシタガ、私ノ知人デ市内中区富士見町二丁目番地不詳ノ高等淫売屋デ、山田某ト云フ男ガアリ、ソノ頃、其ノ家デ手入ヲ喰ツテ、女連が伊勢佐木署へ捕り、ソノ女運ノ貰ヒ下ゲ方ヲ山田二頼マレテ、私達が伊勢佐木署へ行ツテ、オ願ヒシタ処ガ、未ダ未遂デアツタ為メニ、直グ許シテ頂イタ事ガアリ、其ノ時ノ女ガ、ツマリ問題ノ阿部定デアリマシタ。
処ガ、伸々顔ツキモ体格モヨク惜シクナッタノデ、私ハ、山田二談判シテ借金ノナイ事ヲ幸二、自分ノ妾ニナル様二談シ、本人モ承諾デ話ヲ決メテ、其ノ年ノ十二月二十日二宮川町二丁目番地ハ忘レマシタガ、=戸ヲ借りテニ百円位カケテ世帯ヲ持タセ、生活費トシテハ必要二応ジ、五円、参円トヤツテ居テ、一定額ハヤリマセンデシタ。
家賃八一ケ月拾五円ノ割デ、ソレヲ私が払ヒ米代モ私が払ツテ居りマシタ。定ト同棲迄トハ行カナイガ、最初ハ一日置キカニ日置位二、定ノ処二行ツテハ泊リマシタガ、実二強烈デ、強者デ、流石ノ私モ閉口シマシタ。
アノ女ハ一晩、二、三回デモ、四回デモ、ヤラナケレバ満足出来ナイモノデ、一晩市女ノ局部へ手が行ツテ働イテイナケレバ承知出来ナイノデス。ソシテ、私ノ道具ヲナメル位ハ平気デ、トテモ言葉や筆二八尽クセナイ程デ、殆ンド終夜眠ラセナイ位デアリマシタ。
初メノ頃ハ面白カツタガ、半月モ経ット柳力参リ気味デシタ。勿論、私方ノコトデス。処ガ、私モ三十年来苦労ヲ共ニシタ妻モアリマスノデ、定ノ側へ行キキリニモ出来ズ、段々五日置位ニナリマシタ。
処ガ、私ノ働イテ居ル事務所ニハ、イッモ五六人ノ使用人が居ルノデ、之レニ一食宛ヤルニシテモ一日相当ノ額二上ルノデ、材料ヲ買ツテ来テ定二炊事ヲサセテヤツタラ安ク上ルダラウト思ツテ、ソノ事ヲ定三言付ケタガ、アノ女ハ、ソンナコトハ全然駄目デ、其ノ上、私二毎晩側二寝テ満足ノ行クマデ嬌態ヲ為シテ呉レト云フノデスガ、私モ前ノ様ナ訳デ、定ノ要求二全部応ジ切レナイト申シマシタ所ガ、今後ハオ内儀ヲ追出シテ私ヲ正妻トシ、其ノ上デ満足サセテ呉レト云ヒ出シマシテ肯キマセンデシタ。私ハ、ソンナ馬鹿ナコトハ出来ナイト云フト、夫レデハ色男ヲ持ヘテモ良イカト来マシタ。夫レが去年ノ一月二十九日ノ事デス。私モ食扶持や小遣銭ヲ貢イデ居テ、男トシテ自分ノ囲者ガ、天下晴レテ色男ヲ作ツテイチヤッカレテハ堪ラナイノデ「フザケルナ」トバカリ、プン殴ツテヤルト、其ノ晩ノ内二身体一ツデヅラカツテシマッテ、只一通手紙が来タノデス。
ソレが東海道線ノ汽車ノ中カラ出シ、浜松局扱ヒノモノデシタ。其ノ内容ハ散々御迷惑ヲ掛ケタが奥サント三角関係ハヨクナイカラ、私ハ暇ヲ貰ツテ関西二行ツテ働クコトニスルカラ、諦メテ呉レトアリマシタ。私モ癩ニハ触ツタガ、多少未練モアツテ大二探シマシタガ、ソレヲ見テソレ切りニシテ置キ、其ノ後ハ何ノ便りモアリマセンデシタ。
ソシテ、今デモ何ノ関係モアリマセン。所が、今回ノ事件デ、私モ警察カラ御取調ヲ受ケマシタ。又私ノ妾ヲシテ居ツタ時ノ事ハ、東京神田二居ル兄阿部某モ知ツテ居ツタノデス。幸ナルカナ、私ハ早ク別レタオ蔭デ、大切ナ物ヲヤラレナクテ助ツタ訳デアリマス。私ハ、定ト一緒二居ル内二、刃物や毒物ヲイジリ廻シタリ、殺スノ生カスノ、又死ヌノ生キルノト云ッタコトハ聞イタ事ガアリマセン。
アレハ、大淫婦妖婦型ノ女デス。併シロハ見タ所ハ、男ノ好ク恐シイ女デアリマシタ。
私ノ知ツテ居ル範囲ハ、ソンナモノデス。何卒宜シクオ願ヒ致シマ,ス。 
第二回訊問 阿部定 

 

問 前科ハナイカ。
答 アリマセン。
問 警察デ調べヲ受ケタコトハナイカ。
答 四度程アリマス。一度ハ十六才ノ時、女中奉公中、無断デオ嬢サンノ着物や指輪ヲ身二付ケ活動見物二出タタメ、次ハ、二十一才ノ時、朋輩芸妓ノ三味線ノ撰ヲ五六個ト煙管ヲ盗ツテ入質シタタメ、次ハ、二十六才ノ時、娼妓奉公中、客ノ金百円ヲ盗ツタタメ、次ハ、二十八九才ノ時、大阪デ花札や麻雀賭博ヲシタタメ、警察デオ調べヲ受ケマシタガ、許シテ頂キマシタ。
問 学校ハ何所迄行ツタカ。
答 東京ノ神田尋常小学校ヲ卒業シタカラ、家庭二先生ヲ呼ビ、オ習字ヲ少シ習ヒマシタ。
問 親へ兄弟ハ?
答 父ハ、阿部重吉、母ハ、カット云ヒマスガ、母ハ、昭和八年一月二、、父ハ、昭和九年一月二何方モ七十五才位デ病死シマシタ。兄弟ハ七人アリ、私ハ、四女ノ末子デ、其ノ中二番目ト三番目、兄ハ。私が十才位ノ時亡クナリ、四番目ノ兄ハ、生レテ直グ亡クナリマシタカラ、現在残ツテ居ル兄弟ハ、長男新太郎当五十年、次女今尾トク当四十九年、三女巽当三十八年ト、私ノ四人デス。現在兄新太郎ハ、横浜デ畳屋ヲシテ居り、姉トクハ、今尾清太郎ノ妻デ、清太郎ハ、元埼玉県入間郡坂石町デ運送屋ヲシテ居りマシタが止メテ、昨年頃カラ東京ノ荏原区上神明町二住ミ雑貨行商ヲシテ居りマス。姉照子ハ、池袋デ畳表商ヲシテ居ル巽利三郎ノ妻ニナッテ居りマス。
問 健康ハドウカ。
答 弱ソウ二見ヘマスガ、身体ハ丈夫デアリマス。名古屋デ娼妓ヲシテ居タニ十三才ノ時、梅毒二罹ツテ注射ヲ十本位シテ貰ヒ、其ノ後梅毒ノ症状ハアリマセンデシタガ、昨年十月頃、手等二腫物が出来タノデ、草津温泉へ湯治二行キ治りマシタ。本年一月、医者ノ診察ヲ受ケタ所、梅毒第三期ダト云ハレマシタ。私ノ梅毒ハ外二出ナイモノト見ヘマス。二十四才ノ時二膓膣扶斯二罹リマシタガ、夫レが治ツテカラハズツト丈夫ニナリマシタ。其ノ頃眈(イボ) 痔デ、二月許リ入院シタ事ガアリマス。
問 月経ハ順調力。
答 私ハ、十六才ノ暮カラ月経ガアリマシタが何時モ順調デ、四日間位デスミマス。月経ノ時ハ少シ頭痛ガシテイライラシマスガ、寝ル程デハァリマセン。
問 親兄弟や親戚二精神病者ハナイカ。
答 アリマセヌ。親ハ何方トモ老衰ノ為メ病死シ、二人ノ兄が亡クナツタノハ、脚気衝心や腸膣扶斯ノタメデス。他ノ兄弟ハ現在皆丈夫デ、親戚ニモ精神病ノ人ハアリマセン。
問 被告が育ツタ当時、家庭ノ様子ハドウデアツタカ。
答 私ハ神田デ生レタノデスガ、兄新太郎ハ嫁ヲ貰ツテ居り、姉トクハ嫁ギ、次ノ姉照子ハ年頃デ未ダ家庭二居リマシタ。私が育ツ頃ハ、家が一番隆盛ナ頃デ、家二八職人が六人モ居り、忙シイ時二八十人モ十五人モ職人ヲ雇ツテ畳屋ヲシテ居り、裕福デアツタシ、私ハ末子デシタカラ両親二大変可愛ガラレマシタ。
母ハ、派手好キデ見へ坊デシタカラ、小学校二年位カラ、私一=二味線ヲ習ハセ、綺レイニシテ八達レテ歩イタノデ、勉強ハ良ク出来ナクナリ自然嫌ニナリ、学校ノ先生カラオ稽古ナンカ止メナサイト云ハレマシタガ、小学校在学中ズツトオ稽古二身ヲ入レテシマヒマシタ。学校ヲ卒業シテ後一年位、裁縫ノ御稽古二通ツタリ、家二先生ヲ呼ンデオ習字ヲ習ツタリシマシタガ、家二大勢職人が居テ色々ノ話ヲ聞カサレル為、十才位ノ頃カラ男ト女ガスル事等ヲ知り、自然マセテ居りマシタ。
ソレニ、兄新太郎ハ少シ道楽者デ、私ノ十五才位ノ時、堅気ノ姉サンヲ出シテシマヒ、夫レ迄外二囲ツテ居タ水商売ノ女ヲ家二人レマシタガ、恰度其ノ頃、家ノ職人ヲ照子姉サンノ婿養子ニシタタメ、新太郎兄サンが照子姉サンニ家ヲ相続サセルノデハナイカト思ヒ、嫁サント一緒二若夫婦ヲ虐メ、母ハ、照子姉サンニ味方シ毎日家ノ中ガゴタゴタシテ居りマシタ。両親ハ、家が揉メルノヲ私二見セテハ為ニナラヌト思ツタラシク、毎日「表デ遊ンデ来イ」ト云フノデ私ハ良イ事ニシ、毎日オ友達ノ宅等へ遊ビニ行ツテ居り、自然外出が好キニナリマシタ。
問 被告ハ、其ノ頃カラ漸次不良ノ仲間入リヲシタノカ。
答 左様デアリマセヌ。又其ノ頃ハドチラカト云ヘバ、堅スギル位真面目ナ考ヘヲ持ツテ居タノデスガ、十五才ノ時、オ友達ノ家デ学生二姦淫サレテカラガラリト気持が変ツテ、不良ト浅草デ遊ビ暮ス様ニナツタノデス。
問 其ノ経緯ハ?
答其ノ頃、毎日ノ様二福田ナミ子サンノ宅へ遊ビニ行キ、私が十五才ノ夏ノ事デシタガ、其処へ遊ビニ来タ福田サンノ兄サンノオ友達ノ桜木健ト云フ慶応ノ学生ト知り合ヒマシタ。私ハ割合マセテ居タノデコンイニナリ、二人ハ其ノ二階デフザケテ居ル内、其ノ学生二姦淫サレテシマヒマシタ。其ノ時大変痛ミガアリ、二日位出血シタノデ、私ハ驚イタシ、之レデ自分ハ娘デナクナッタカト思フト何ダカ恐ロシクナツテ、ドウシテモ母二話サズニハ居ラレナイ気持ニナリ、其ノ事ヲ母二話シ、其ノ後、其ノ学生ト福田サンノ家デ会ツタノデ、二人が散歩二出タ時、学生二自分ハ此ノ間ノ事ヲ母二話シタガ、アナタモ親二話シテ呉レト云ッタ所、其ノ学生ハ、其ノ後福田サンノ家二寄付カナカッタノデ、母が其ノ学生ノ家二行ツテ呉レマシタガ、相談二乗ツテ呉レズ、其ノ儘泣寝入リニナツテシマヒマシタ。当時、其ノ学生ト夫婦ニナラウト云フ気持ガアツタ訳デハアリマセンガ、椰楡ハレタト思フトロ惜シクテ堪ラズ、モウ自分ハ処女デハナイト思フト、此ノ様ナコトヲ隠クシテオ嫁二行クノハ嫌ダシ、之レヲ話シテオ嫁二行クノハ尚イヤダシ、モウ嫁ニハ行ケナイノダドウシヨウカ知ラト迄思ヒ詰メ、連モヤケクソニナツテシマヒマシタ。
母ハ、私ノイライラスルノヲ見テ、オ前サへ黙ツテ居レバ判ラナイコトダシ、オ前ノシラナイ事ヲ男ガシタノダカラ、何デモナイト慰メテ呉レ、大正琴ヲ。貝ッテ呉レタリ等シテ、前ヨリモ一層可愛ガツテ呉レマシタガ、可愛ガラレ、バ可愛ガラレル程癩二触ツテ、或日何処カへ行ツテ遊ンデ来ヨウト云フ気持ニナリ、家ノ金ヲ拾五円程ソツト持ツテ遊ビニ行キマシタ。
其ノ頃、私ノ近所ニハ不良が沢山居リ、私ノ姿ヲ見ルト何トカ声ヲ掛ケテハ椰楡ヒマシタガ、夫レ迄ハ振リ向モシマセンデシタ。所が其ノ時ハ私が不良二声ヲ掛ケ、今日ハ気分が悪イカラ面白イ思ヒヲスル所へ連レテ行ツテ呉レト云フト、二三人尾イテ来タノデ、一緒二浅草二行キ、晩迄一日遊ビ暮シ、帰ル時、金ヲ持チ帰ルト判ルト思ッタカラ、皆二全部分ケテ遣りマシタ。
恰度照子姉サン夫婦が家出シタ頃デ、家ノ中ガゴタゴタシテ居夕頃デアッタタメ、親達ハ別段私ノ事ヲ気二止メズ、母カラ随分遅カツタネト云ハレタノデ、上野ノ山へ行ツテ来タト云ツテ居りマシタ。
金ヲ持チ出シテハ遊ビニ行キ、不良仲間二奢ツテ遣ツタリ、小遣ヲヤツタリスルト、皆カラ「サーチヤン、サーチヤン」ト騒ガレルノデ面白クテ堪ラズ、親が余り小言ヲ言ハナイノヲ良イ事ニシテ段々増長シテシマヒ、朝ハ起サレテモ伸々起キズ、寝坊ヲシテ、起キルト二階迄オ膳ヲ運バセ、御飯ガスムトスグ着物ヲ着換ヘテハ浅草へ遊ビニ出掛ケ、三館共通ノ金竜館等ヲ一日遊ビ暮シテハ、夜九時頃デナケレバ帰りマセンデシタ。
或時等ハ、親ノ金ヲ一掴ミ持出シテ、外へ出テカラ勘定スルトニ十円アツタノデ怖クナリ、返サウト戻りマシタガ、家二職人達が多勢居タタメ其儀返サズ費ツテシマツ夕暮モアリマシタ。
斯様ニシテ、一年間位不良仲間二人ツテ遊ビ暮シマシタガ、当時照子姉サンバ家出シテカラ亭主ト別レテシマヒ、家三民ツテ居ル内、近所ノ職人ヲ情夫二持ツヤウナ不行儀ガアリ、私モ夫レヲ知ツテ居タノデ、親達が私ヲ叱ルト「姉サンダツテ」ト事フモノデスカラ、親ハ黙ツテ居りマシタ。
ソレニ、今考ヘルト、父ハ外出勝デアツタシ、例ヘパ、外デ私が晴着姿デ遊ビニ出ル所ヲ見テモ、知ラヌ顔ヲスルト云フ可愛ガリ方デアリ、母モ私が帰ル頃ハ、ソツト戸ヲ開ケテ呉レルト云フ可愛ガリ方デアツタカラ、増々増長シタモノト思ヒマス。
夫レデモ、偶ニハ父が怒ツテ二階ノ私ノ寝間ノ入口ノ戸ヲ釘付ニシタリ、晴着ヲ風呂敷二包ミ物置へ投ゲコンダリシマシタガ、私ハ隣ノ小母サンヲ呼ンデ、窓カラ屋根伝ヒニ外出シタリ、職人二着物ヲ取り出サセタリ、矢張遊ビニ出掛ケテ居りマシタ。
私ノ不良仲間ハ、男が十人位アリ、女ガニ人位アリ、大抵ハ浅草デ、持ツテ居ル小遣ヲ皆ニタカラレ乍ラ良イ気持デ遊ピマシタガ、性的関係ハナク、唯一度鎌倉デ遊ンダ時、二十才位ノ男二人ト、一度関係シタダケデシタ。
問 其ノ後、被告が芸者ニナル迄ノ出来事ハ。
答 私ノ十六才ノ四月、照子姉サンノ嫁ノ世話ガアッタ時、私が不良ニナツタノデ呆レタタメモアルト思ヒマスガ、一面私が居テハ、姉ノ不行跡ヲ口外シテ、其ノ妨ゲトナルノヲ恐レタラシク、母が私二今度姉サンノ縁談ガアル、姉サンヲ片付ケルタメニハオ前モ温和シクシテ居ナケレバナラナイカラ、小間使二行ケト云ハレテ、芝区聖心学院前ノオ屋敷へ奉公二出サレ、才媛サン付ノ女中ニナリマシタ。
所が、今迄可愛ガラレ放ジユウナ生活ヲシテ居タタメ窮屈デ堪ラズ、其ノ上、オ勝手デ食事ヲスルト云フ始末デスカラ情ケナクナリ、食事ノ度二涙が出テ淋シクテ淋シクテ仕方ナク、浅草デ遊ンダ事が忘レラレズ、奉公二来テーケ月位経ッタ時、無断デ才媛サンノ晴着や指輪ヲ身二付ケ、後デ返セバ良イト簡単二考ヘテ浅草へ出掛ケテシマヒ、金竜館へ這入リマシタ。スルト、其処デ探シニ来タ姉ニアヒ連レ戻サレマシタガ、此ノ時、初メテ警察へ連レテ行カレマシタ。
其ノ後、家二温和シクシテ居マシタガ、私が十七才ノ春、兄ノ新太郎夫婦が親ノ金ヲ持ツテ家出シマシタノデ、両親ハ先々ヲ心配シテ畳屋ヲ止メ、神田ノ家ヲ売り払ヒ、トク姉サンノ嫁入先デアル埼玉県ノ坂石町へ家ヲ建テ、親子三人デ引移リマシタ。
然シ、父ハ田舎デハ商売シテ居ナカッタカラ、私モ仕事ガナカッタタメ、亦三味線ノ稽古ヲ始メマシタガ、矢張リ温和シクシテ居ラレズ、近所ノ男ト懇意ニナリ一度関係モアリ、時々散歩等シタノデ目ニツキマシタ。ソレニ、一人デ時々近所ノ洋食屋等二出掛ケタタメ、田舎ノ事デスカラ、私ノ噂が五月蝿クナツタノデ、父ハソレヲ見兼ネテ怒り、ソンナニ男好キナラ娼妓二売ツテシマフト云ヒダシマシタ。母ヤトク姉サンが心配シテ、父ヲ止メマシタシ、私モ本当二怖シクナリ、三日モ眼ヲ泣キハラシテ父二謝ツタノデスガ、父ハドウシテモ承知セズ、大正十一年七月、十八才ノ時、私ヲ連レテ横浜市蒔田町二居タ遠縁ニアタル稲葉正武方二行キ、娼妓ニスル世話ヲ頼ミマシタ。私八達レテ行カレル汽車ノ中デ、一口モ父トロヲ利カズ、ドウセヒビノ入ツタ身体ダシ、斯ウナツタ以上ドウトモナレ、モウ決シテ親元ヘハ帰ラナイト決心シマシタ。所が、未ダ齢が足りナカツタノデ、娼妓ニハナレナカツタカラ、稲葉方一二月許リ世話ニナツタ後、稲葉カラ紹介屋二頼ミ前借金三百円デ、中区住吉町ノ芸妓屋春新美濃二抱ヘラレ「みやこ」ト名乗リ、直グ一本芸者ニナリマシタ。
其ノ頃、私ノ家ハ、東京二貸家が五六軒アツタノデ暮シニ楽デアリ、金二困ツタ訳デアリマセンデシタカラ、私ノ前借金ハ一部稲葉ノ礼ニシタ外、私ノ支度二使ヒ私ノ小遣ニモシマシタ。当時、私ハ、父ヲ恨ンデ居タノデスガ、後デ聞クト、父八一時男相手ノ商売ヲサセレバスグイヤニナリ、謝ツテ帰ルニ違ヒナイカラ、其ノ時迎ヘニ行クト母や姉一=云ツテ居タソウデス。
問 芸者ニナッテ居タ頃ノ感想ハ、ドウデアツタカ。
答 芸妓ニナッテ見ルト、私ノ様二途中カラ這入ツタ中年芸者ハ、ドシテモオ酌上リノ芸者ヨリ芸が劣り、下積ニナリ勝ダシ「春新美濃」ハ一流ノ芸妓デ万事が厳重デアツタシ、私ハ前借金ノ一部ヲ小遣二持ッテイタノデ金ニハ困リマセンデシタガ、其レデモ待合二行クト淫売ヲ勧メラレルノデ、厭ナ商売ダト思ヒマシタガ、ドウセ親二見捨テラレタ身体ダカラ成行キニ委カセ様ト自棄ニナリ、働クコトヨリ遊ブ事ヲ考へ、先ノ希望等全然持ツテ居ラズ、色々都合デ方々二住ミ換へ乍ラ、芸者稼業ヲシテ居りマシタ。
問 被告が各地二転ジテ、芸者ヲシタ模様ハ。
答 ソノ話ヲスル二八、稲葉正武卜私ノ関係ヲ申上ゲネバナラヌノデスガ、稲葉ハ、兄ノ先妻ウメノ姉黒川はなノ亭主デ、当時横浜デ木彫業ヲシ私方ト交際シテ居タノデ、稲葉ハ、前カラ私が不良少女デアルコトヲ知ツテ居タノデ、私ガーケ月許リ同人ノ方二世話ニナツテ居夕時、無理矢理二関係シテシマヒマシタ。稲葉八口が上手デ、私ハマダ世間知ラズデシタカラ、稲葉ニスツカリ丸メ込マレ、芸者ニナツテカラモ、仕事ノ暇ニハ稲葉方二遊ビニ行ツテハ関係ヲ続ケテ、稲葉ハ、私が十九才ノ時「春新美濃」ハ厭ダト云フト、神奈川区春木町ノ川茂中ト云フ芸者屋へ住ミ換ヘサシテ呉レマシタ。
其ノ時ノ前借金ハ六百円デ、当時ハソンナ事二頓着アリマセンデシタガ、後デ考ヘルト稲葉二胡魔化サレテ居タノデス。「川茂中」デ芸妓ヲシテ居り、恰度稲葉ノ家二選ビニ来テ居タ時、大震災二遭ヒマシタ。稲葉ノ家デハ何モ出サズ全焼シ、私モ前借ガアツテ親元へ帰ル訳ニモ行キマセンノデ、稲葉ノ家ヲ一時助ケタリ、前借ヲ返スタメ、其ノ年ノ十月稲葉ノ家族全部ト一緒二富山市二行キ、清水町ノ平安楼ト云フ芸妓屋二千円以上前借シテ住ミ換へ「川茂中」へ返シタ残リニ三百円ハ稲葉二渡シ、其ノ金デ稲葉八家ヲ借り「平安楼」ノ近所二住ミ、私ハ客ノナイ時ハ、何時モ稲葉方へ行ツテ居り、矢張リ引続キ情交ガアリマシタ。
其ノ当時ハ、春子ト云フ芸名デ稼イデ居りマシタガ、稲葉方ノ暮シ向ヲ一切私が引受ケテ、小遣全部ヲ出シテ居りマシタガ、私ノ収入丈デハ足ラズ、生活苦ヲ見兼ネテ、芸者仲間ノ三味線ノ掻ト煙管ヲ盗ンデ質入シ、五十円推ヘテ稲葉二渡シマシタ。ソレが大正十三年、私ガニ十一才ノ時デ、之レガタメ警察二挙ゲラレ御調ベヲ受ケマシタガ、許サレテ帰りマシタ。
富山ノ「平安楼」デハ一年位働キマシタガ、私が警察二挙ゲラレタタメ、此処ニハ居ラレナクナリ、其ノ年ノ十月頃稲葉ノ家族ト共二東京二引揚ゲ、芝区露月町三十一番地二家ヲ借り、稲葉方ト同居シ、半年程ブラブラ遊ンデ居りマシタ。
其ノ内、大連デ芸者ヲシテ居タ稲葉ノ家内黒川はなノ従姉妹ガ、稲葉方二世話ニナツタ処、稲葉ハソノ女ト関係ヲ付ケタ上芸者二売ツタノデ、ゴテゴテシテ居ルノニ、家内黒川ハソレヲ知ツテ知ラヌ顔ヲシテ居りマシタカラ、私ハ、此時初メテ稲葉夫婦ハ今迄自分ヲ金箱ニシヨウト考へ、食物ニシテ居タノダト云フ事が判りロ惜シクナリマシタカラ、モウ稲葉トハ縁ヲ切ラウトシマシタガ、富山ノ前借ハ稲葉ト連判ダツタノデ直グ縁ヲ切ル訳ニモ行カズ、此ノ仕末ヲ付ケルタメ、大正十四年五月、信州飯田町ノ三河屋ト云フ芸妓屋二、矢張リ稲葉ノ連判デ前借金千五百円位デ住込ミ、「静香」ト名乗ツテ働キマシタ。
信州ハ、皆不見転芸者デ、オ茶屋モ、オ客モソノ頭デ検パイモアリマシタカラ、私モ場所柄不見転ヲシタ所、花柳病二罹ツテシマヒマシタ。
私ハ機微迄受ケテ芸妓ヲスルナラ、一層娼妓ニナツタ方が増シデアルト思ヒ、二十二才ノ正月、大阪市ノ飛田遊廓御園楼二住ミ換へ娼妓ニナリ、源氏名「園丸」ト名乗ツテ出マシタ。其ノ時ハ稲葉ト縁ヲ切ツテシマヒマシタ。「御園楼」二住ミ換ヘル話が極ツタ当時、母モ私が稲葉ト関係ノアルコトヲ知ツテ居りマシタカラ、今度縁ヲ切ル話ヲシタイト思ヒ、私二初メテ芸者ノロ入ヲシテクレタ横浜二居ル紹介屋甲斐田サント云フ人二頼ミ「御園楼」カラ、態々母ヲ信州ノ三河屋二連レテ来テ貰ヒマシタ。ソシテ母二是迄ノ稲葉トノ関係ヲ話シ判ヲ返シテ貰フコトヲ頼ミ「御園楼」カラニ千八百円位前借シタ金デ「三河屋」ノ前借ヲ返シテ、今後ハ、父ノ連判ダケニシテ貰ヒ、母二、二三百円小遣ヲヤリマシタ。
私が親二小遣ヲヤツタノハ、此ノ時が初メテベアリマス。ソレ迄、私ハ親ヲ恨ンデ居りマシタガ、気ヲ取り直シ、母二八前借金モ殖エタシ、モウ此処迄落チテシマッタノダカラ、今後私ノ我儘ハ許シテ下サイト断ツテ貰ヒマシタ。
問 被告が娼妓ヲシテ居ル頃ノ出来事ハ。
答 「御園楼」ハ、当時大阪デ一流ノ店デアツタシ、私モ売レテ三枚ト下りマセンデシタ。其ノ頃カラ、私ハ客ヲ相手ニスルノが厭デアリマセンデシタカラ、御園楼デハ面白ク働キマシタ。一年位経ツタ頃、或会社ノ客が私ヲ落籍シテ呉レル事ニナリマシタ処、其ノ人ノ部下モ私ノ客デアルコトが判ツタタメ、落籍ノ話ハ駄目ニナリ客カラ勘定シテクレト言ハレ、金ヲ貰ッタ事ガアリマシタ。
ソレデ、少シ腐ツテ居ル処へ、紹介二幅テラレタノデ、翌年早々二千六百円位デ乗換ヘマシタ。此処二移ル時ハ、其ノ抱主ハ「丸ボチヤ」ノ可愛ラシイ女ヲ希望シテイタ処、私ハ面長デ、何方ト云ヘバ鉄火肌ノ女デアリマスガ、紹介屋デ是非抱ヘテ呉レト頼マレテ抱ヘル事ニナツタラシク、当時、私ハ、其ノ事情ヲ知ラナカッタノデスガ、抱主ガオ内儀サンニ仕方ナク抱ヘタンデ、名前等ハ何デモ良イト話シテ居ル事ヲ耳ニシタノデ、其ノ事情ヲ知ッタノデス。私ハ、抱主が気二人ラヌナラ気二人ラシテ見セルト云フ気ニナリ「貞子」ト云フ源氏名デ、一生懸命働キマシタ。
徳栄楼デハ、二年許リ働キマシタガ、此ノ頃が思ヒ出ノ多カッタ時代デス。
其ノ頃ハ、何デモ鶯色ノモノヲ好ンダタメ、主人が私ヲ「セキセイ」ト悪口云ヒマシタガ、他ノ朋輩ハ主人カラ何ヲ云ハレテモ黙ツテ肯イテ居マシタガ、私ハ遠慮ナクポンポン云ヒ、或ル時ハ、朋輩が逃ゲタイト相談ヲ持掛ケタモノデスカラ、私が逃シテヤルト云ヒ、自分ノ部屋ノ窓カラ外二出シタ処、其ノ朋輩ハ大キナ化粧箱ヲ持出シタノデ( 其レが地二落チテ大キナ音ガシタノデ、見ッカツテシマツタコトガアリマシタ。
主人ハ、ソレデモ普段ハ大シテ叱りマセンデシタガ、酒二酔フト私二「セキセイ」ヲ呼べト云ツテハ呼ビ付ケ、叱ル様ナコトヲ云ヒマシタ。私ハ、ソレデモ負ケテ居ラズポンポン云ツテヤリ、却ツテ主人ハ、私二負ケテシマヒマシタ。ソレモ半分冗談ノ様ニスルノデ面白クモアリ、又、オ内儀サンモ連モ良イ人デシタ。又、徳栄楼モ一流ノ店デアツタシ、客種モ良カッタノデ、此ノ頃、母が逢ヒ度クナツタト云ツテ来テ呉レタ事ガアリマス。
其ノ時ハ、商売ヲ十日位休マセテモラヒ、注モ歓待シ、帰ル時二小遣ヲ八十円位遣リ、母や姉ノ子全部二土産ヲドツサリ買ツテヤリ喜バレマシタ。
又稲葉が今度芸妓紹介業ヲ初メタト云ツテ手紙ヲ呉レマシタガ、交際ハナイト云ツテヤリマシタ。
スルト、稲葉ノ娘が態々遊ビニ来タノデ、一週間位泊ラシテ土産ヲ持タセテ帰ラシタ事モアリマシタ。
其ノ後、膣扶斯ヲ患ッタリシテ、商売が段々厭ニナリマシタノデ、何処カへ住ミ換へ様トシテ無断家ヲ出テ、大阪ノ元世話二成ツタ紹介屋ノ所二行ツタ所、先方カラ通知ガアツテ、徳栄楼カラ迎ヒが来テ連レ戻サレ、抱主パオ前ハ逃ゲタ方が得ダ。稼ギ高デ借金ヲ返シテ貰フヨリ、逃ゲレバオ前ノ親ノ家作ヲ差押ヘテ一度二取ルト云ツタノデ怖クナリ、温和シク相談ヅケテ、大阪ノ松島遊廓「都楼」へ住ミ換へ東ト名乗リマシタ。確力其ノ時ノ前借金八二千円位ダツタト思ヒマス。処ガ、其ノ店ハ今迄ト違ヒズツト格が落チルシ、客筋モ悪カッタノデスグ厭ニナリ、何トカシテ自由廃業シタイト思ヒ、店へ来テカラ半ケ月位シテ、其処ヲ逃ゲ出シ東京へ来テ、元世話ニナツタ塚田ト云フ紹介屋ノ前ノ宿屋二居ルト「都楼」カラ探シニ来タ使ノ男二見ッカリ連レ戻サレ、無理矢理丹波笹山ノ「大正楼」二住ミ換ヘサセラレ「おかる」ト名乗リマシタ。其レハ、私ガニ十六才ノ冬ノ事デ「大正楼」八前ヨリモ酷ク「玉乃井」ノ淫売以上デアリ、何シ口塞イ雪ノ晩デモ、外へ出テ客ヲ引張ル様ナ辛イ勤メヲシナケレバナラヌノデ、私ハ益々厭ニナリ、半年位シタ時、或ル客ヲ踏台ニシテ駈落ノ様ニシテ逃ゲ出シタ事ガアリマシタガ、失敗シテ連レ戻サレテシマヒマシタ。
ソウシテ、ソレカラハ源氏名ヲ「育代」ト代ヘマシタ。私が逃ゲル為メ、客ノ金百円ヲ盗ンダノモ此ノ頃ノ事デス。然シ、看視が厳重デドウシテモ逃ゲラレマセンデシタ。処が或ル時、表ノ大鍵が下りテ居ナガラ掛ツテ居ナイ事二気が付イタノデ、客ヲ送り出シタ時、態ト音ヲサセ鍵ヲ掛ラナイ様ニシテ下シ、店ノ者ヲ安心サセテ置キ、ソツト其処ヲ抜ケ出シ、一番電車ヲ待ツテ漸ク神戸迄逃ゲテシマヒ、以来娼妓カラ足ヲ洗ツテシマイマシタ。 
第三回訊問 阿部定 

 

問 娼妓ヲ廃メテカラ、何ヲシテ暮シテ来タカ。
答 其ノ時カラ女給ヲシタリ、高等淫売ヲシタリ、妾ニナッタリシテ、昨年七月迄大体淫売生活ヲシテ居りマシタガ、其ノ間ニハ、一時男カラ遠ザカッテ、女中ヲシタリ、田舎へ帰ツテ親ノ世話ヲシタ事モアリマス。
問 被告が淫売生活ヲシテ居タ頃ノ出来事ヲ詳シク申述ベヨ。
答 丹波篠山ヲ逃ゲテ神戸二行ツテカラハ、吉井昌子ト名乗ツテ、二週間許リカフエーノ女給ヲシテ居りマシタガ、前借ノ事モアルシ、小遣ニモ困りマシタカラ、何トカシテ金が欲シイト思ヒ、其ノ店二来タ客二二百円位ノ収入ノアル商売ハナイカト聞イタ。客が良イ商売ガアル、俺ノ所二来イ、当分遊ンデ居テ気が向イテカラ、商売ヲ始メロト云ヒマシタ。
其ノ男ハ、神戸デ淫売屋ノ客引ヲシテ居ル人ダツタノデス。大体、其ノ見当ハ付イテ居マシタガ、今更堅気二成ツテモ追付キマセンカラ、私モ其ノ気ニナリ、其ノ家二行キ、ニケ月許リプラく静養シテカラ高等淫売ヲ始メマシタ。処ガ、其ノ主人ハ、私が稼ギ高カラ今迄ノ費用ヲ取り、尚頸ヲハネルノデ、仕打が酷イカラー二月位ノ後商売ヲ止メ、昭和七年、二十八才ノ時、今度ハ大阪二移ツテ同ジ商売ヲシマシタガ、間モナク淫売ヲ止メテ、一年許リ妾ヲシテ居りマシタ。
其ノ間、相手八三人位変リマシタガ、毎月百円カラ五六十円ノ手当ヲ貰ッテ居りマシタ。此頃カラ情事二快感が湧キ、一人寝ハ淋シクテナリマセンデシタガ、妾デハ旦那ノ来ルノが月五六同位ナノデ、淫売当時ノ好キナ客二三人許リトモ度々関係シテ居りマシタ。ソシテ、金モ容易ク入ツタシ、暇モアツタモノデスカラ、遊蕩的ニナリ、暇二委セテハ麻雀ヲシタリ、宝塚へ遊ビニ行ツタリ、道頓堀へ出ケタリシテ浮カレテ居りマシタ。
賭博ノ事デ警察二検挙サレタノハ、此頃デアリマス。
此処デ謹慎スル気ニナリ、小遣モ四百円位アリマシタカラ妾ヲ止メ、一人デ大阪ノ住吉デ「アパート」ヲ借り、本等ヲ読ンデ一月半位静カニ生活ヲシテ居マシタガ、ドウシテモ男二連ザカルト気ガイライラスルノデ、当時医者二診察シテ貰ッタ事ガアリマシタ。処ガ、医者ハ別二異状ハナイ。左様ナ事ハ人間トシテ当然アル事ダカラ、独身ヨリ真面目ナ夫婦生活ヲスルガヨカロウ、又難カシイ精神修養ノ本ヲ読ンデ、気分ヲ転換シナサイト云ハレマシタ。
其ノ内、又遊ビニ出掛ケテ麻雀ヲ始メ、好キナ男が出来マシタガ、二十八才ノ秋頃、大阪デ、横浜ノ知人二会ツテ、両親が私ヲ心配シテ居ル事ヲ聞キ急二帰リ度クナツテ、冬迄三月許リ田舎ノ両親ノ許二帰リ、此ノ時生レテ初メテ孝行ヲシマシタ。
親ニハ、大阪デ良イ人ノ世話ニナッテ居ルト嘘ヲ云ツテ安心サセ、朝夕両親ノ肩ヲ揉ムヤラ、新聞ヲ読ンデヤルヤラ、食物ノ料理ヲシテヤルヤラ、出来ル丈ノ親孝行シタノデ、親ハ喜ンデモウ満足ダカラ死ンデモ良イト云ツテ呉レマシタ。
スルト、ソノ頃、田舎へ篠山カラ三人モ私ヲ探シニ来タノデ、親許二居ラレナクナツテ、又大阪二帰リアパートニ住ツテ居マシタガ、昭和八年一月、二十九才ノ時、突然母が死ンダト云フ電報ヲ貰ツテシマヒマシタノデ、金丈送ツテ置キ、荷物ヲマトメ大阪ヲ引払ッテ、母ノ初七日ノ時、田舎二帰リオ墓参リシマシタ。二週間位居リマシタガ、篠山ノ事ガアルシ、以前田舎二噂二上ッタ事ガアツテ、人二顔が合ハセラレナイ気ガスルノデ、窮屈デスカラ東京へ来テ、三輪デ矢張リ吉井昌子ト云ツテ、高等淫売ヲシマシタ。其ノ内、二十九才ノ十月頃、日本橋区室町ノ袋物商年齢三十七八才位、中川朝太郎ノ妻ニナリマシタガ、中川サンバ、私モ好キデシタカラ毎日来テ貰フ約束デ、私ハ神田区新銀町ノおでん屋ノ二階ヤ、日本橋区本石町ノ生花師匠ノ二階ヲ間借リシ、毎月六十円位貰ツテ居りマシタ。スルト三十才ノ正月、父が病気ダト云フ知ラセガアリマシタノデ、田舎へ帰り十日間位、何モ忘レテ熱心二看病シマシタガ、今デモ此ノ時丈ハ本当二親孝行シタト思ヒマス。
父ハ死ヌ頃、オ前ノ世話二成ルトハ思ハナカッタト涙ヲ流シテ喜コンデ呉レ、一月二十六日二死亡シマシタ。
私ハ、父ノ片身金三百円ヲ分ケテ貰ヒ、間モナク東京へ帰り、矢張リ中川サンノ妾ヲシテ居りマシタ。
恰度其ノ頃、用事ガアツテ横浜二行ツタ処、昔ノ友達二会ヒ、稲葉ノ娘が死ンダ事ヲ聞キマシタガ、稲葉ノ娘ハ、私ト仲良シノ友達デアリマシタカラ、田舎ヘオ墓参リニ行キマシタノデ、一旦絶縁シテ居ル稲葉ト又行キ来スルヤウニナリ、当時、稲葉方ノ暮シヲ見兼ネテ、自分ノ指輪ヲ入質シテ百五十円呉レテヤリマシタ。
私ハ、三十才ノ九月頃、中川サンハ病気ニナリ、色々私ノコトヲ心配シテ呉レルノデ申訳ナクナリマシタカラ、同人ト相談ヅクデ別レテシマヒ、ソレカラ稲葉方二行キ、半月許リブラブラ遊ンデ居りマシタガ、一人デ居ル事が淋シイ上二、別二手二職ガアルト云フ訳デハアリマセンカラ、亦横浜市中区富士見町山田トイフ淫売屋デ高等淫売ヲ始メマシタガ、其ノ縁デ一昨年ノ暮頃、政友会ノ院外団ダト云フ年ノ頃五十位ノ笠原喜之助ノ妾トナリマシタ。処ガ、笠原ハ放蕩デ線ナ手当モセズ、愛情モナク私ヲ獣扱ヒニシ、別レ様トスルト平身低頭シテ哀願スルト云フ品性下劣ナ男デ、スグ嫌ヒニナリ、昨年一月、電話デ中川サンヲ呼出シ、浅草ノ上州屋デ同宿シタ事ガアリマス。何トカシテ別レヨウト思ヒ逃ゲ出スト、田舎ノ坂石町迄探シ歩キ、稲葉ヘオ前が俺ノ妾ニナツテ居ル事ヲ話ストカ云ツテ脅スノデ困り抜キ、トウく昨年一月、名古屋市へ逃ゲ、其レ以来、笠原トハ縁ヲ切ツテシマヒマシタ。
名古屋デ東区千種通デ「寿」ト云フ小料理屋二、田中加代ト云フ偽名デ女中二這入リマシタガ、此処ハ女中ハ私一人ダケデ極真面目ナ店デシタ。処ガ、昨年四月ノ或晩、名前や身分ハ後デ判ッタノデスガ、名古屋市会議員中京商業学校ノ校長デアル大宮五郎サンガ、宴会ノ帰りダト云ヒ、他ノ料理屋ノ女中ヲ連レテ「寿」へ来マシタ。
大宮先生ノ其ノ女中二対スル態度が誠二紳士的デアリ、何処トナクキリツトシテ居タノデ、初メテ会ツタノデスガ、立派ナ人ダト惚レテシマヒマシタ。四五日後デ、今度ハ先生一人ガオ出ニナリ水菓子等ヲ食べナガラ、私ノ身ノ上話ヲ聞キタガルモノデスカラ、私ハ哀レポイ調子デ同情ヲ乞フ様二、東京ノ生レダが九ツニナル女ノ子ヲ残サレテ、亭主二死ナレタカラ、子供ヲ育テル為メコンナ事ヲシテ居ルト出鱈目ヲ云ッタ処、先生ハ、子供二何力買ツテ遣レト云ツテ拾円呉レタノデ、良イ人ダト益々惚レテシマイマシタ。
先生ハ四五日後、亦一人和服デ来マシタカラ、自分二気ガアルニ違ヒナイト思ヒ、聞カレル儘二子供ノ話等シナガラ、先生ノ膝二任几レ付イテ泣イテ居ル様ナ態度ヲスルト、先生ハ「ソンナ処へ手ヲ遣ツテハイケナイ、男ダカラ変ナ気持ニナル、向フニ行ツテ座ツテ居レ。
人が来ルトイケナイト」云ヒマシタカラ、私ハ、此処ダト思ヒ、色ツポイ様子ヲシテ尚先生二任几レ懸ルト、先生ハ、私ヲ抱キ締メマシタカラ、其ノ儘先生ヲ倒シテ関係シテシマヒマシタ。
其ノニ三日後、亦先生ガ「寿」二乗タノデ、ユックリシタ処デオ会ヒシ度イト云フト、先生ハソレデハ、鶴舞公園付近ノ松川旅館へ行力ウト云フノデ、店二八一寸外出スルト告ゲテ、其ノ旅館へ行キ一緒ニナリマシタ。
其ノ後「寿」ニハ帰ラズ、其ノ儘附近ノ「移住」ト云フ小料理屋二住込ンデ働キ、其ノ頃、先生ト松川デ一回関係シマシタガ、何トナク名古屋が飽キタノデ、昨年六月、先生ニハ子供が死ンダカラ東京へ帰ルガ、松川旅館気付デ手紙ヲ出スカラト云ヒ、先生カラ五十円貰ツテ東京へ帰り、当時下谷雲居タ稲葉方二行ツテ十日位ブラブラ遊ンデ居マシタ処ガ、元私が妾ヲシテ居タ笠原ガ、私ヲ結婚詐欺ダト云ッテ告訴シタトノ事デ、稲葉方へ刑事が調べニ来タトノ事デスカラ、五月蝿ク感ジ、以前東京デ淫売シテ居タ時知り会ニナツタ浜町ノ淫売屋木村博方二行キ矢張リ田中加代ト偽名デ、客席デハ田中きみト名乗ツテ高等淫売シ、大宮先生二八木村方二居ルカラ来テ下サイト云フ手紙ヲ出シテ置キマシタ。
スルト、昨年六月中旬頃、先生が木村方二訊ネテ来マシタカラ、先生ニ八木村方ハ姉ノ家ダト嘘ヲ云ヒ、ソノ日ハ先生ト品川ノ「夢ノ里」へ行キニ時間位遊ビ、浅草デ活動ヲ見物シ、夕食シテカラ、其晩先生ハ名古屋へ帰りマシタガ、此ノ時三十円貰ヒマシタ。
其ノ後モ、私ハ、木村方二居リマシタガ、其ノ内主人ト関係が出来タノデ、木村ノ内縁ノ妻金子シズが焼餅ヲ焼キ、家ノ中ニゴタゴタが起キマシタ。
木村博ハ大変ナ道楽者デ、其ノ先妻大橋ヒデト同棲シテ居タ頃、今ノ金子ト懇意二成ツタ処、先妻ヒデサンバ、ソンナラ婿ニヤルト云ツテ亭主ト金子ヲ同居サセ、自分ハ近所二別居シテ居タノデス。
今度、木村ト私が関係が出来ゴテゴテシテ居夕処、先妻ノヒデサンが仲二立ツテ、二人ヲヒデサンノ二階二同棲サシテ呉レマシタ。
私ハ、其ノ時カラ淫売ヲ止メマシタ処ガ、昨年七月中旬頃、夕方金子シズガ、大宮先生が来テ居ルト私ヲ迎ヘニ来マシタカラ、シズサンノ家二行クト、暑イ座敷二先生が居り、聞クトモウ三時間モ居ルトノ事デシタ。
私ハ、嬉シクテ早速仕度シテ、先生ト東京駅カラ汽車デ熱海二行キ、玉ノ井旅館二泊リマシタガ、先生ハ、木村ノ御内儀サンカラ色々ノ話ヲ聞イタガ、オ前が淫売シテモ、人ノ亭主ヲ取ツテモ驚カナイ。
初メカラ良イ事ヲシテ居ル女デナイト思ツテ居ルガ、何トカ救ツテヤリ度イノダカラ是非真面目ニナレ。俺ハ、名前コソ話サナイガ、オ前ノ将来ハ必ズ引受ケテヤルト夜通シ私二意見シテ呉レマシタ。
初メ私ノ先生二対スル気持ハ、一時ノ浮気位ノ程度デアリマシタ。
ソレニ、先生ハ名前や職業ヲ絶対二打明ケズ「田村正男」ト出鱈目ヲ云ヒ、私二八オ前ノ居所サへ知ラセバ何処迄モ面倒見ルト云フガ、洋服迄自分が始末シ、名前が判ラヌ様気ヲ付ケテ居り、非常ナ潔癖性デ寝間モ面白クナカッタノデ、私ハ頼リナク思ツテ居タノデスガ、今度モ、私ヲ態々尋ネテ呉レタノダシ、万事二親切デ、私二会フト誠心誠意私ヲ良クシヤウト意見シテ呉レルノデ、此ノ時泌々有難クナリ、先生二動カサレテ将来ハ真面目ニナツテ、先生二頼ラウト決心シ、翌日沼津迄先生ヲ送り涙デ別レマシタ。
此ノ時、先生カラー二十円貰ヒマシタ。私ハソレ以来、淫売生活カラ全然足ヲ洗ツテシマヒ、東京二帰ツテモ木村方ヘハ行カズ、稲葉方へ世話ニナリ、煙草モ断トウト思ツテ、近所ノオ祖師様ニオ百度詣リシ禁煙ノ願ヲカケマシタ。大宮先生トハ、昨年八月名古屋ト、東京デ、二度会ヒ、其ノ後モ日ヲ打合セテハ、豊橋、大阪、草津、京都、東京等デ十回位会ヒ、本年五月十八日、石田吉蔵ヲ殺シタ直後、東京デ会ツタノが最後デス。
問 其ノ頃、他ノ男ト関係ハナカツタカ。
答 大宮先生ダケデハ物足リナカッタカラ、元妾ヲシテ居タ中川朝次郎トモ、前後五六回浅草ノ上洲屋二泊ツテ関係シマシタ。
問 デハ、大宮五郎トノ関係ヲ続イテ述べヨ。
答 昨年七月中旬頃、大宮先生ト別レ東京へ帰ツテカラ、稲葉方雲居リマシタガ、半月位経ット先生二会ヒタクナツタガ、先生ハ胸二(八ト云フ徽章ヲ付ケテ、其ノ徽章ハ名古屋市会議員又ハ市役所ノ役人ノ印デアル事ヲ知ツテ居マシタカラ、調べレバ判ルト思ヒ、八月中旬、名古屋二行キマシタ。
駅前ノ清駒旅館二寄ツテ新聞ヲ見ルト「大市会議員渡米」ト云フ見出デ、先生が写真二出テ居りマシタカラ、此時初メテ先生ノ身分や職業ヲ知り嬉シクナリ、早速先生二電話ヲ掛ケ、東築港ノ南陽館デ先生ト会ヒマシタ。先生ハ、余程困ツタラシク打萎レテ居り、急シテ名前ヲ知ツタカト云ヒマスカラ、新聞ヲ見タト云フト、ソウカト頷キ「俺ハ学校長デアル丈二、オ前トノ関係デ世間二知レルト生キテハ居ラレナイ。ピストルダ。俺ヲ殺スモ生スモオ前ノ心一ツダ。
将来代議士ニナル心算ダカラ、ソレ迄温和シクシテ居テ呉レ、代議士ニナッタラ堂々ト尋ネテ来イ」ト云ヒマシタカラ、私ハ、先生ヲ知ッテ居ルノハ私ダケデ、他人二云フデハナシ、御迷惑八掛ケナイト云ヒマシタ。
先生ハ、今日八達モ忙シイカラ直グ東京二帰ツテ呉レ、オ前が名古屋二居ルト云フダケデモ道が真直グ歩ケナイト云ヒ、其ノ時、私ハ、先生ト関係ガシタクテ傍へ寄ツタノデスガ、今日ハ之レデ別レヤウ、十三日二東京二行クト云ヒ、元気ガアリマセンデシタカラ、小遣百三十円ヲ貰ツタダケデ、其儀東京へ帰りマシタ。
先生が八月十三日渡米ノ為上京シタノデ、其ノ日「夢ノ里」デ会ヒマシタガ、其ノ後、私ハズツト稲葉方二世話ニナッテ居り、十月下旬頃、先生が帰国スル事ヲ知ツテ居りマシタカラ、先廻リシテ名古屋デ待ツテ居りマシタガ、先生ハ、帰途東京デ滞在シテ居タ為メ、私八二週間モ待呆ケ二道ヒ、活動等見テ遊ビ暮シタノデ、二百円以上モ小遣ヲ使ヒマシタ。
十一月十一日、漸クノ思ヒデ先生二会ヒマシタガ、忙シイト云ヒ一時間位デ別レ、先生カラ百円戴キマシタ。
其ノ時ノ約束ニヨリ、十一月十六日、豊橋デ会ヒ一日ユックリシ、.五十円貰ッテ東京三帰リ、間モナク大阪デ逢ツタ時腫物が出来テ居ルト云ッタラ、先生ハ、過去ノ生活が悪イカラダ、梅毒ダラウカラ草津へ湯治二行ケト云ヒ、二百五十円呉レタノデ、昨年十一月下旬頃カラ本年一月十日頃迄、草津へ行ツテ居りマシタ。草津湯治中一度先生が来マシタ。先生ハ、私が煙草ヲ吸ハナクナッタノヲ知ツテ驚イテ居りマシタ。先生ハ、草津一二晩泊リマシタガ、布団ニツ敷キ、私が寄ツテモ今日ハ疲レテ居ルカラト云ツテ関係セズ、却ツテ私二夫婦や女ノ道ヲ話シテ聞カセ、夫婦ハ生活本位デ、色事ハ夫婦ノ交りノタメ第二ノ問題デアル、男女等デモ色事ハ第二デナケレバナラヌ、心ト心ト触レ合ツテ居レバ夫レデ満足シナケレバナラヌ。
俺ハ、オ前ヲ見レバ安心スルノダ。オ前ハ、手ヲ握ツテモ眼グ目ノ色が変ル位デ色情が強スギル。男女一緒二寝テ居テモ自制出来ル位二修養シナケレバナラヌ。俺ハ、関係シマイト思ヘバ絶対シナイト云ツテ居り、私トシテハ実二詰ラナイト思ヒマシタ。翌日一緒二伊香保二行ツテ泊り、先生ハ其ノ翌日昼頃帰リマシタガ、私二百円小遣ヲ置イテ行キマシタ。
然シ、伊香保デ先生カラ、オ前ハ何処トナク温和シクナリ、ロノ利キ方モ変ツタト云ハレタ時ハ非常二嬉シク思ヒ、今デモ忘レラレマセン。ソシテ、私が草津ヲ引上ゲテ後、本年一月中、京都デ一度先生二会ヒマシタ。先生ハ、以前カラモ云ツテ居りマシタガ、草津や京都デ会ッタ時、オ前ハ真面目ニナツテ何力商売ヲ始メタ方が良イ、今年ノ暮カラ「おでん屋」ノヤウナ小料理ヲ始メル様二、今カラ何処カへ奉公シテ料理ヲ見習ツタラ憲ウカト云ツテ呉レタノデ、私モソノ気ニナリ、草津カラ東京二帰リ、藤原区上神明ノ姉「トク」方ヤ、下谷ノ稲葉方二居リマシタガ、本年二月一日新宿ノ紹介業「日ノ出屋」へ、儲ハ少クテ良イカラ真面目ナ処へ世話シテ下サイト申込ミ、東京市中野区新井町五三八、割烹店吉田屋事、石田吉蔵、当四十二年方ノ女中トナリマシタ。
大宮先生ニハ、姉ノ今尾トク方二私ノ居ル処ヲ知ラシテ置ケト云ヒ置キマシタノデ、本年三月三日、先生ハ上京シテ姉二間キ、電話デ私二東京駅二乗イト云ツテ来マシタカラ、飛ビ立ッ思ヒデ吉田屋ノ忙シイノモカマハズ一時暇ヲ貰ヒ、其ノ晩先生ト新宿ノ明治屋二泊リマシタ。
其ノ時二先生ハ、頭ヲグリく二刈ッテ居り、今度三月許リ東京二滞在シ、青年ノ気分デ勉強スル心算ダガ、其ノ間、オ前トハ関係シナイゾ、其ノ代り勉強が済ンダラ塩原へ連レテ行クト云ヒ、私ハ、貴男ノ様ナ冷淡デハ私ガヤリ切レナイト云フト、先生ハ、私二色男ガアルモノト思ヒ込ンデ居ルトソレヲ信用シナイデ、オ前ハ現在、俺ノ独占物デハナイノダカラ何ヲシテモ良イガ、商売デモ始メタラ真面目ニナラナケレバナラヌ。其ノ時、色男ガアツタラ俺二話セ。
人物試験ヲシタ上デ良ケレバ、仲介シテ夫婦ニシテヤル。ソシテ妹ダト思ツテ死ヌ迄世話スルト云ヒマシタ。
其ノ時、先生ハ、私二五十円呉レテ帰りマシタ。私ノ性交デハ先生二満足シマセンデシタガ、其ノ真実味二感謝シテ、今デモ忘レル事が出来マセヌ、又石田二熱中シタ時、何故先生ヲ思ヒ出サナカッタカト夫レが残念デス。兎二角、其ノ先生ノ話ヲ聞キ、是レカラモ時々先生ト会ヘルシ、塩原へ行クト云フ事が楽シミデ、吉田屋二帰ツテカラ石鹸箱や化粧品ヲ買ッテ準備ヲシテ居りマシタガ、其ノ道具ヲ、今度刑務所デ使フトハ何ト云フ廻り合セダラウト思ツテ居りマス。
私が吉田屋ノ女中ニナツテカラ、段々二主人ト懇意ニナリ関係が出来、四月二十三日示シ合セテ、二人デ待合二泊リ込ム様ナ仲ニナツテシマッテカラモ、大宮先生トハ前後四回会ヒマシタ。
一度ハ、四月二十九日、石田ト二子多摩川待合田川二泊ツテ居夕時、金二困ツタノデ、私が名古屋二行キ旅館一二泊シ、翌日南陽館デ先生二会ヒ百円ト旅費ヲ貰ヒ、来月五日、東京デ会フ約束ヲシテ帰り、次ハ五月五日、石田ト尾久ノ待合「満左喜」二泊ツテ居タ時、新宿ノ明治旅館デ先生ト会ヒ百二十円貰ヒ、次ハ、五月十五日、矢張リ石田ト尾久ノ待合「満左喜」二泊ツテ居ル時、東京駅二行ツテ先生二会ヒ銀座デ食事シ、品川ノ「夢ノ里」デ休息シ五十円貰ヒ、最後ハ五月十八日、石田ヲ殺シテカラ須田町ノ万惣ノ前デ先生二会ヒ、日本橋ノそばや二審リ、大塚ノ旅館「緑屋」二行キニ時間許リ休息シテ別レマシタ。然シ其ノ間、先生ト関係シタノハ「夢ノ里」ト「緑屋」二行ツタ時ノニ回ダケデシタ。先生ハ、会フト何時モ私ノ将来ノ事ヲ心配シテ、真面目ニナレト云フ様ナ話許リシテ呉レマシタ。 
第四回訊問 阿部定 

 

問 被告が吉田屋ノ女中トナッテカラ、主人吉蔵ト関係スル迄ノ事情ハドウカ。
答 私が吉田屋二住込ム時ハ、給金ハ三十円迄保証スルトノ事デシタガ、実際ハチップ四十円位戴ケマシタ。女中ハ五人居り、全部住込デ真面目ナ料理屋デアリ、オ内儀サンモ良イ人デ面白ク働イテ居りマシタ。
吉田屋二行クト、直グ石田夫婦カラドシテ奉公スル様ニナツタカト聞カレマシタカラ、亭主が事業二失敗シタタメ共稼ヲスルノデスト、嘘ヲ云ツテ居りマシタ。
主人ノ石田吉蔵ヲ初メテ見タ時、様子ノ良イ優シサウナ人ダト思ヒ、岡惚シマシタガ、別二態度二八出シマセヌデシタ。処ガ、十日位経ツタ頃カラ、石田ハ廊下デ擦レ違ツタ時等二、私ノ顔ヲ指デ突イタリ、態ト廊下二立塞ツテ見タリスルノデ、自然気ガアルノデハナイカトモ思ヒマシタガ、芸妓時代、祖父二郷楡ハレタ事モアルノデ、単純ノ椰楡ヒダト思ッテ居りマシタ。二月二十五日頃、用事ガアツテ暇ヲ取り稲葉ノ家ニイキ、二日許リシテ帰ツタ事ガアリマシタガ、帰ツタ晩、私が電話室デ芸妓屋二電話ヲ掛ケテ居ルト、石田が用モナイノニ電話室へ来テ小声デ私二「オ疲レ様、昨夜良イ事ヲシテ来ヤガツテ」ト云ヒマシタカラ「御冗談デセウ」ト云フト、石田ハ「嘘ヲ付ケ」ト云ヒナガラ、私ノ耳朶ヲ噛ミ、膝デ私ノ尻ヲ突イタノデ、私ハ横目デ石田ヲ色ボク睨ミ嬉シク思ヒマシタ。
石田ハ魚河岸ヘイク為メ毎朝早ク起キルノデスガ、私が翌朝早ク便所ニイクト、石田が女中部屋ノ廊下ニウロウロシテ居り「冷タイ手ヲシテ居ルナ」ト云ツテ手ヲ握り、私ヲ抱キ締メテ呉レマシタ。其ノ後ハ折サヘアレバ抱キ合ツタリ「キッス」ヲシタリ、御乳ヲ弄ツタリシテ居りマシタガ、未ダ関係ハシマセンデシタ。
四月三日ノ夕方、大宮先生カラ電話ガアッタノデ、オ内儀サンニ話シ暇ヲ貰ツテ出掛ケ、二晩外泊シテ夜十一時頃帰ルト、其ノ晩、廊下デ石田が何モ云ハズ遭モ痛ク私ノ腕ヲ抑リマシタ。翌日昼間、石田ト私デ自然ト一緒二誰モ居ナイ二階ノ広間ニイキマシタカラ、座敷ノ隅デ「アノ電話ハ旦那ダラウ、畜生」ト云ヒ、私ハ返事セズニヤリト笑フト、石田ハ私ヲ抱キ締メタノデ「キッス」ヲシ、其儀降リマシタ。四月中旬頃ノ事デシタガ、御内儀サンガ「オ加代サン、離レニ御客サンデスヨ」ト云フモノデスカラ、御銚子ヲ持ツテイツテ見ルト、石田が客ニナツテ酒ヲ呑ンデ居ルノデ驚キマシタ。訳ヲ聞クト、石田ハ外デハ酒ヲ断ツテ居ルカラ、今日八家デ客遊ビヲスルノダト云ヒ、首二吊シテアル禁酒ト書イタ成田様ノ御札ヲ見セマシタ。私が側デオ酒ノ酌ヲスルト、石田八手ヲ握ツタリ私ヲ抱キ締メタリシ、其ノ内、私ノモノヲ弄りマシタガ、私ハ嬉シク感ジ石田ノスル儘二委セテ居りマシタ。間モナク八重次ト云フ芸者が来テ、石田ノ清元ヲ初メテ聞キマシタガ、喉が良ク素的ダツタノデ、全ク惚レテシマヒマシタ。
芸者が帳場ヘイッタ留守、一寸シタ間二、其ノ席デ初メテ情交シマシタガ、其ノ時ハ唯入レテ貰ツタダケデユツクリ出来マセヌデシタ。
問 其ノ内、情事が家人二知レ亘ツタノデ、石田ト二人家出シテ待合二泊ル様ニナツタノカ。
答 左様デス。本年四月十九日ノ晩、私ト石田が応接間ノ電気ヲ消シテ、此処デ関係シヨウトシテ居ル時、女中二見付ケラレテシマイ家人二知レタノデ、石田ガユックリ外デ相談シヨウト云ヒ、四月二十二日ノ朝、二人示シ合セテ家出シ、渋谷区園山町八〇、待合「みつわ」ニイキマシタ。
問 其ノ経緯ハ。
答 石田ト初メテ関係シタ翌朝、私が朝早ク便所ニイッタ処、其処へ石田が来テ待ツテ居り、誘ハレテソツト離レノ間ニイキ亦関係シマシタ。其ノ後モ人目ガナイト、僅カノ間デモ二階や離レデ関係シテ居りマシタガ、段々二人ノ仲が露骨ニナリ、四月十九日、宴会ガアツテ家ノ中ガゴタゴタシテ居夕時、私ト石田が応接間二這入リ、電気ヲ消シテ弄ツテ長椅子二腰掛ケテ関係シヨウトシテ居タ処、女中ガ「アレツ応接間ノ電気が消ヘテ居ル」ト云ヒ乍ラ、座布団ヲ取りニ這入ツテ来タノデ、二人共慌テテ飛出シタタメ、其ノ女中二見ツケラレテシマヒマシタ。其ノ翌朝、石田が私二、昨夜家内カラ痛メツケラレタ、ユックリ外デ相談シヨウト云ツタノデ私ハ一旦外デ石田ト相談シテスグ戻ル心算デ、四月二十二日ノ晩、オ内儀サンニ一寸家ヘイッテ来ルカラ二三目許リ暇ヲ貰ヒ度イト云ツテ、石田ト示シ合セタ通リ、四月二十三日午前八時新宿駅デ落合ヒ、渋谷ノ待合「みつわ」ニイキマシタ。
石田二惚レタノハ一寸浮気デ、吉田屋三雇ハレテカラレ始終大宮先生ノ事ヲ考へ、末ヲ楽シミニ働イテ居り、オ内儀サンニ八前カラ五月一杯デ暇ヲ取ル事ヲ話シテ置キ、先生ト塩原ヘイクタメ石鹸箱や化粧品ヲ買ッテ準備シテ居タ位デ、先生ハ誠意ハアルガ、女ノ気持ヲ擦シテ呉レナイ人デ、手紙一本呉レルデナシ、会ッタ時セメテ手紙ヲ下サイト云フト、オ前ハ嘘八百デモ手紙ヲ貰ヘバ嬉シイノカ、俺ハ五年十年別レテ居テモ決シテ忘レナイノダカラ、本当ノ気持ヲ信ジテ呉レト云ヒ、左様二云ハレレバ我慢シナケレバイケナイトハ思ヒマスガ、ソレデモ頼りナク遂二浮気スル事ニナツタノデス。
四月二十三日朝、石田ト家出スル時モ、待合デ石田ト流連スル気持ハナク、一寸相談シタラスグ帰ル心算デアリマシタ。二十五日二八吉田屋二八十人位ノ宴会ガアリ、二十六日二八或ルオ屋敷カラオ手伝ヲ頼マレテ居タノデ、オ内儀サンカラニ十五日迄二八帰ツテ来テ下サイト云ハレテ居り、石田モ忙シイ事ヲ知ッテ居タノデスカラ、石田トシテモ恐ラクスグ帰ル心算ダツタト思ヒマス。
吉田屋デハ、私が荷物ヲマトメテ持出シタカラ、コレナク石田ト家出スル考ヘデアッタニ違ヒナイト思ヒマスガ、当時、私八前カラ五月一杯デ暇ヲ貰フト云ツテ居タノデスカラ、少シ早目二暇ヲ取ツテモ左程迷惑八掛ケナイダラウト、石田ト相談シタラスグ帰り、改メテ暇ヲ取ル考ヘガアツタカラ、取敢ズ荷物ヲマトメ稲葉方へ送ツテ置クタメ、手荷物トシテ蔦屋迄出シテ置イタモノデス。
問 石田ト家出後被告ノ行動ハ。
答 四月二十三日午前八時頃、渋谷ノ待合「みつわ」ニイッテカラ料理ヲ取り、石田トユックリ話シ合ヒマシタガ、其ノ時、石田ハ先晩オトク(石田ノ妻) ニゴテゴテ云ハレタガ、女中が云ヒ付ケタラシイ。オ前ダツテ居辛イダラウカラ、今月末ニハ暇ヲ取ッタ方が良イ。
実ハ、俺ノ家ハ電話が担保二人レテアル位ダ。今スグト云フ訳二八イカナイガ、オ前二八小サイ待合デモ持タセテ末長ク楽シマウト云ヒマスカラ、私ハ、アンナ良イオ内儀サンガアル癖、私見タイナ女ヲソンナニ迄ドウシテ思フノデスカト云フト「オトク」ハ、色男ヲ持へ一年間モ家出シタ女ダガ、子供が可愛イ許リニ家三民シタノダ。
如何二男が浮気デモ、女房二男ヲ掠ラレタ事ヲ思フト、腹ノ中ガニエクリ返ル様デ、本当ノ愛情ハ持テルモノデハナイ。
俺ハ、実ハオ前が来タ時カラ好キダツタト云ッテ呉レタノデ「私ダツテ好キダツタワ」ト、石田二抱キ付キマシタ。
此処デ、石田トオ内儀サンノ夫婦仲二付イテオ話シタイト思ヒマスガ、石田ノオ内儀サンバ、石田が女ニウルサイ亭主ダカラ、ソレヲ警戒スルタメカモ知レマセヌガ、私達二折二曲レテハ云ヒ切レナイ程、石田ノ悪口ヲ聞カセマシタ。
例ヘバ、石田ハ女道楽デ、六年間モ妾ヲ囲ツテ置キ、或ル時ハオ内儀サンが妾ノ処ヘイキ塀ヲ乗越エテ這入ルト、二人真ッ裸デ重ツテ居タトカ、十二荘ノ待合二石田ヲ迎ヘニイッタ時、石田が妾ト別レルトカ別レナイトカノ事デ、十二荘ノ池ヲ血二染メタトカ、芝居モドキデ蛇ノ目ノ傘ヲサシ、女ノ洗髪ヲ掴ミ女ヲ引ツパタイテ居タトカ、石田ハ、女ニハ好カレルカ知レナイガ、意気地ナシデ男ノ中二 ナカね
出テ一人前二喋レル男デナイトカ、犬畜生ノヤウニ云ツテ居りマシタ。
或ル時等、オ内儀サンが病気デニ三日寝タ傍デ私が看病シテ居ルト、矢張リ石田ノ事ヲアンナ男ハ亭主二持ッ男デハナイ。薄情デ女好キデト、クサシテ居タ事モアリマス。尤モ、石田ハ、オ内儀サンが病気デ寝テ居ルノニ、家へ芸者ヲ呼ンデ飲ム様ナ事ヲシテ居タカラデス。
私ハ、オ内儀サンカラ石田ノ悪口ヲ聞イテモ、石田ノ事ヲ何トモ思ハズ、却ッテオ内儀サンヲ亭主ノ悪口ヲ云ッテ馬鹿ダナート思ッテ居マシタ。
私ハ、浮気デ石田ト関係シタノデスガ、石田ノ夫婦仲が左程良クナイ処へ、石田ガオ内儀サンが知ラナイラシイ電話担保ノ内情迄私二打明ケタノデ、ソレ程自分ヲ思ツテ呉レルノカト、段々石田二惹キ付ケラレタノデス。石田ハ、私二旦那ガアルモノト思ヒ込ンデ居り「オ前ノ旦那ダツテ大シタ事ハナイダラウ、何トカシヨウジヤナイカ」ト云フモノデスカラ、私ハ「ウン」ト云ヒマシタ。
石田ハ、其ノ間「みつわ」デ今日ハ結婚式ダカラ一杯飯マウトイヒマシタ。処ガ、其ノ時モ頸二禁酒トイフ成田様ノオ札ヲ下ゲテ居マシタカラ、私ハ「ソレデモアナタハ酒ヲ断ツテ居ルノデセウ」トイフト「今日ハオ前ト一緒ニナルノダカラ飲ムヨ、オ前ニモコレヲヤル」トイヒオ札ヲ私二渡シ「後デ二人が成田様二御詫ニイケバヨイ」トイッテ居りマシタ。話が多少前後シマスガ、私ト石田ガ「みつわ」ニイキ寛イダ時、マダ石田二対シ他人行儀ニシテ居り「旦那」ト呼ンダ処、石田ハ片膝ヲ立テテ座ッテ様子ノ良イ姿デ「二人ダケノ時旦那ナンテイフナヨ」前カラ考ヘテ居夕様ナ甘イ事ヲイフノデ、最初カラ私ハ石田二参ツテシマヒマシタ。酒ヲ飲ミナガラ、一時間力二時間ソンナ事ヲ話シ合ツタ末床二這入リ、久シ振りニユツクリシタ気分二浸リマシタガ、私ハ、石田が案外巧イ男ダナアト思ヒマシタ。
実際、今迄私が接シタ数多イ男ノ中デ、石田ハ一番情事が濃厚デ上手デス。情交シタリ単二弄リ合ツテカラ、寝床デ今日ハ二人ノ結婚式ダカラ、二十三日ヲ記念スルタメ芸者ヲ呼バウトイヒマシタカラ、ソレモ面白イネト賛成シ、早速芸者ヲ呼ンデ貰ヒマシタ。
石田ハドンナ考ヘデアッタカ知レマセヌガ、私トシテハ此ノ儘デハ何時モ機会が出来ルシ、二時間芸者ヲ揚ゲテ食事ヲスルト、丁度六時頃ニナリ、帰ルニ都合が良イト思ッタノデス。私ハ一風呂浴ビ支度シテカラ二階ノ客間ニイキ、芸者ト騒ギ芸者が帰り、御飯が出タノデヤレヤレト思ヒ乍ラ亦寝床へ戻り、寝テ居ル石田二「モウ六時ダガドウスル」トイッテ顔ヲ擦り付ケルト、石田が引張リ込ンダモノデスカラ、支度モ解カズ其儀ズルズルト寝床二這入リ、亦石田ト寝テシマヒマシタ。
ソレカラニ十七日ノ夕方迄居続ケ、寝床ハ敷ツ放シニシテ、夜トナク昼トナク情交シ、.芸者ヲ寝間二呼ンデ酒ヲ飲ミ乱痴気騒ギシテ、遂二上ツテ夢中ニナツテ居マシタ。
「田川」デ、二十八日モ芸者ヲ呼ビ、二十七日ノ晩カラニ十九日ノ朝方迄寝床ヲ敷イタ儘、夜モ殆ド寝ズ根嚢ノ限りヲ尽シテ遊ビ暮シマシタガ、私が迎モ疲レタトイフト、石田ハ、私ト情交シテハ其ノ儘眠リヲシナガラモ、私ノ身体ヲ摩ツテ呉レルトイフ親切振リデ、全ク私ハ生レテ始メテ女ヲ大事ニシ嬉バシテ呉レル男二出会ツタト惚レぐシ、益々離レラレナクナリマシタガ、金ガナク三何時迄モ斯シテ居レマセヌカラ、大宮先生ノ所ヘイキ金ヲ貰ツテ来ヨウト思ヒ、石田二金ヲ工面シテ来ルカラ、東京デハ出来ナイカラ名古屋迄イク、名古屋ヘイケバ五十円位何トカナルト思フが待ツテ居ラレルカト聞クト、石田ハ待ツテ居ルトイヒマシタ。若シオトクサン(オ内儀サン) ガ迎ヘニ来タラドウスルトイフト、其ノ時ハドウトモイヒマセヌカラ無理モナイト思ヒ、ソレデハイツテ来ルトイヒ、女将ニハ自分が帰ル迄石田ヲ帰サナイデ呉レト頼ンデ、二十九日午前七時頃「田川」ヲ出テ、知合ノ浅草区柳橋芸妓屋「歌の家」方芸妓山子サンヲ訪ネ、十円借リテ旅費ニシ、名古屋ニイキ駅前ノ清駒旅館カラ先生二電話ヲ掛ケマシタガ、其ノ日ハ会ヘナカッタノデ、黒川加代トイフ名デ其ノ旅館二泊リ、其ノ事ヲ特別配達ノ手紙デ石田二知ラセテ置キ、翌三十日午後一時頃、南陽館デ先生二会ヒ、一時間半位話シテ直グ帰りマシタ。
其ノ時、先生二実ハ今迄隠シテ居タガ、自分二八ゴロツキ情夫ガアリ、吉田屋二暴レ込ミ復縁ヲセマツテ来タノデ、吉田屋ノ主人が仲二入ツテ呉レタガ、其ノ男八二百円出セバ大連ニイクトイッタカラ、何モイハズニ百円下サイト出鱈目ヲイヒマシタ。
スルト先生ハ、ヤルノハヤルが今百円シカ無イカラ、之レヲ持ツテイケ、後八五日二上京スルカラ、其ノ時渡ストイヒ、百円ト旅費十円ヲ呉レ、尚オ前ハ其ノ男が好キナラ遠慮セズ一緒ニナレトイヒマシタカラ、私ハ、ソレ位ナラ金ヲ取りニ来マセヌトイヒマシタ。
実際、私ハ石田許リ思ツテ、先生ヲ捨テルトイフ気ハナク、先生トシテ慕ツテ居りマシタガ、石田ニモ充分惚レテ居りマシタ。
三十日、名古屋カラ帰りノ汽車中午後五時頃、静岡デ石田二「八時東京二着ク」トイフ電報ヲ出シ八時半頃者キ、電話デ石田二度レタカラ神田駅マデ迎ヘニ来テ貰ヒ度イトイッタ処、石田ハ三十分位スルト、神田駅二着キマシタ。私が名古屋二出掛ケテカラモ、石田ノ事が片時モ頭カラ離レズ、名古屋ノ清駒館二着キ泊ル事ニナツタ時、石田へ手紙ヲ出サウカ出スマイカ、手紙ヲ出サナイタメ帰ル様ナ男ナラ、跡ヲ追ツテモ詰ラナイカラ手紙ヲ出スマイカ等考ヘタガ、矢張リ石田恋シサノ余り、手紙ヲ出シタ様ナ始末デ、旅館二一人泊ツタ時モ、石田ヲ憶ヒ淋シク堪ラレズ、ビール二本飲ンデ寝タ位デス。
大宮先生二会ッタ時モ、先生二申訳ナイト思ヒ乍ラモ、殆ンド石田二心惹カレテ居り早ク帰り度イ、午後三時ノ特急二遅レルト六時ノ普通列車ニナツテシマウト、気が急イデ仕方ガナカツタ処ガ、先生が風呂へ這うウト云ッタノデガツカリシマシタ。ソレデモ先生が自動車デ送ッテ呉レタノデ、三時ノ汽車二間二合ヒマシタガ、汽車中デモ早ク帰ツテ石田二噛リツキ度イ様ナ気ガシテナラズ、自分デモコンナニ石田二惚レテ居ルノデハ仕様ガナイカラ、一層石田が留守三帰ツテ呉レ夕方が良イ。留守中帰レバ、口惜シイ事ハロ惜シイが諦ラメが付クト思ッタリ、汽車が静岡二着クト、石田ヲ思フ気持が抑へ切レズ電報ヲ打ツタリ、色々考ヘテ居りマシタガ、東京駅カラ電話ヲ掛ケルト、石田ガ「田川」二居タモノデスカラ、留守中良ク我慢シテ待ツテ呉レタト思フト、自分ノ気持ガガラリト変り、石田ヲ思フ一念ノ外何モノモナクナツテシマヒマシタ。石田二淋シカツタデセウト云フト、淋シイノハ良イガ、女将が来テ… … ト話ヲシマシタカラ、私ハ大抵勘定ノ事ダラウト察シ、ソンナラモウ行クマイト云ヒ、石田が荒川区ノ尾久二知人ガアルカラ其処二行カウト云ツタノデ、円タクデ尾久迄行キマシタガ「みつわ」カラ吉田屋二勘定ノ催促ヲシタカモ知レズ、催促シタトスレバ知合ノ所へ手ヲ廻シタト思ヒマシタカラ、二人デ尾久ノ待合ヲブラブラ歩キ、尾久町四丁目一、八一一、待合「満左喜」ガ感ジが良サソウダツタノデ、其処へ這入リマシタ。
夫レハ、十時半頃デス。「満左喜」デ、石田二「田川」へ何ト云ツテ出テ来タカト聞クト、具合が悪イト云フカラ、迎ヘニ行ツテ来ルト云ツテ出テ来タト云ヒマシタカラ「吉田屋」へ電話ヲ掛ケラレテハ困ルト思ヒ「田川」へ、今晩ハ都合デ帰レナイカモ知レナイガ、吉田屋ニハ知ラセナイ様ニト電話スルト、絶対吉田屋ニハ電話ヲ掛ケナイカラ、帰ツテ呉レトノ事デシタ。「満左喜」二泊ツタ三十日ノ晩ハ、二人が二日一晩離レテ居タノデ、寝ルト続ケテ二度関係シマシタガ、私が旅行シタ間、石田ハ一人デ「田川」二寝テ居タタメ眼ガサヘテ居り、私が疲レテ寝ルト椰楡フノデ、冗談二石田ノ手足ヲ腰紐デ縛ルト、石田ハ子供ノ様二嬉シガリ、寝ルト縛ラレタ手デ亦私ヲ櫟ツタリシテ、矢張リ様々寝ズニ巫山戯テ居り、夜明方カラ五月一日ノ夜迄、食事モセズ酒ヲ飲ンデハ関係シテ居りマシタ。
其ノ間、別二真面目ナ相談ハセズ、石田ハ冗談二「オ前ト一緒ニナレバ、キット俺ハ骸骨ニナル」ト云ツテ居りマシタ。
待合「田川」カラ勘定セズニ出タ儘デスカラ、五月一日夜十時過ギ頃「満左喜」ノ勘定二十円ヲ払ヒ、円タクデ亦「二子玉川」ノ田川へ出掛ケ、途中銀座藤屋デ菓子ヲ買ツテ土産ニシ、十一時頃田川へ着キ、前ノ勘定ハ八十円ダトノ事デシタガ、内金五十円ト御祝儀三円ヲ払ヒ、其ノ晩カラー二日ノ夕方迄居続ケテ居りマシタ。処ガ、田川ハ女将が元中区新井町デ芸者ヲシテ居タ頃、石田が贔屓シタ事ガアリ、吉田屋ト懇意ナ間柄デアル事ヲ知ツテ居りマシタカラ、電話が掛ツテ来ル様ナ気ガシテ落付キマセヌカラ、其ノ時ノ勘定ハ五六十円ニナルト思ヒマシタガ、五月三日午後七時頃、女将二勘定八六日二持ツテ来ルカラト云ヒ貸シテ貰ヒ、其処ヲ出マシタ。
当時、金八二十円シカ持ツテ居りマセヌデシタカラ、ドウシテモ別レル気ニナレズ、五日ニハ大宮先生ト会フ約束二成ツテ居ルカラ金が出来ルト思ヒ、石田二又尾久へ行カウト云ヒ、途中新宿ノ蟹料理屋二立寄リ一杯飯ミ、円タクデ其ノ晩十時頃「満左喜」二行キマシタ。石田ハ、此処ハシラナイ家ダカラ貸サナイカラ、ドウカシナケレバナラナイト考へ込ンデ居りマシタカラ、私ハ一日二日ノ間二何処カへ行ツテ借りテ来ルカラ、イ・ワヨト云ツテ置キ、三日ノ晩ハ芸者ヲ揚ゲテ遊ビ、夫レカラ五日ノ夕方迄寝床ヲ敷ツ放シデ入浴モセズ、矢張リ情事ノ限りヲ尽シテ居マシタ。
其ノ間、私が自分ノ鋏デ石田ノ爪ヲ切ツテヤルト、石田ハオ前ノ指ヲ喰ヒ切ツテヤリタイ等云ヒ、私が石田ノ陰毛ヲ十本位鋏デ切ッタリ、「オチンチン」ヲ掴ンデ切ル真似ヲシタリスルト、石田ハ馬鹿ナ事ヲスルナヨト云ヒ、嬉シガツテ笑ヒマシタ。
石田ハ、私が其ノ様二巫山戯ルト、何時モ迎モ喜ブノデス。大宮先生ト五月五日ノ昼頃、新宿ノ明治屋デ会フ約束ヲシテ置キマシタガ、先生ハ「昼頃会フ話ダノニドウシタノカ、俺ハ四時間モ待ツテ居タガ来ナイカラ食事ヲシテ来タ」ト云ヒ、何時モハ酒ヲ飲マナイ人デスガ、少シ酔ツテ居りマシタ。先生が男ノ事ヲ聞キマシタカラ、尾久ノ高橋ト云フ方面委員へ預ケテ来タ男ト一緒雲居ルト、出鱈目ヲ云フト、別レ様ト云フ男ト一緒雲居ルノハ随分不思議ダガ、男ト関係シテ居ルトスレバ、今夜ハ関係シナイ方が良イダラウト云ヒマシ夕。
私ハ、「ウン」色々拗ネテ居ルカラ気分が出ナイト云フト、先生ハ「ソレデハ金ヲヤルヨ」ト云ヒ、百二十円呉レマシタ。
当時、私ハ石田ト流連シテ居タタメ、頬が細ツテシマツタノデ、先生ハ其ノ疲労シタ様子ヲ見テ、オ前モウ一度草津へ行ツタ方が良イト云ヒ、銀座デ一緒二夕食シヨウト云ツタノデ、出掛ケマシタガ、道ヲ歩キ乍ラ、今年ノ暮二千円ヤルが何力商売ヲ始メルカ、夫レトモ之レデ別レルカト云ヒマシタガ、別レルノハ厭ダト云ヒマシタ。
銀座ノ「オリンピック」デ食事シ、先生カラコーヒーヲ飲ムカトカ、胃腸ノ薬ガアルカラ飲メトカ、色々親切二云ッテ呉レ、ユツクリシ度イ様子デシタガ、石田ノ事許リ考へ早ク帰ラナケレバ具合が悪イカラ、今日ハコレデオ別レシマスト云ヒ、十五日迄ニハ男ノ方ノ片ヲ付ケル、其ノ日二東京駅デ会フト云フ約束ヲシテ、其ノ際ハ、先生ト手ヲーツ握ラズ別レマシタ。
何ダカ先生二気ノ毒デナリマセヌデシタ。五日夜十時頃「満左喜」二帰ルト、石田ハ寝テ雑誌ヲ読ンデ居りマシタガ、私ガニ時間力三時間留守ニシタダケニ、石田ノ元気八逆モ猛烈ニナッテ居タタメ、其ノ晩モ寝ズニ石田ト関係シ、先生ノ事等スッカリ忘レテシマヒマシタ。当時「満左喜」カラ稲葉ノ家へ電話ヲ掛ケテ見ルト、吉田屋カラ稲葉方へ「ジヤンヂヤン」電話デ私達ノ行先ヲ問ヒ合ヒテ居ル事が判りマシタガ、私ハ勿論、石田モ平気ニナツテシマヒ、今ニナレバ仕様ガナイ。ドウセ厭ナコトヲ云バレルナラ、ウント面白イ思ヒヲシ夕方が良イト云ツテ居りマシタ。斯様ニシテ、五月六日ノ晩迄遊ビ暮シテ居りマシタガ、コンナ事ヲシテ居テハ何時迄モ互二別レラレズ、金モ続ク訳ガナイカラ仕方ナク考ヘタノデ、行末二付キ石田二相談シマシタ。
石田モ、私が二度モ外出シテ金ヲ工面シテ来タノデ、男カラ貰ツテ来タト思ツテ居ルラシクピケ目ヲ感ジ、気ノ毒二恩ツテ居ル様子。
家二帰レバ何トカ都合シテ、オ前二返スヨ上言ツテ居りマシタガ、私が相談スルト、之レ以上オ前二金ヲ費ハセル訳ニハイカナイ、又オ前二待合ヲ出サセルニシテモ、一旦帰宅シテ家内ノ御機嫌ヲ取り、旦ハ合ヨクシテ置カネバナラヌカラ、一旦帰ラウト云フ事二.ナリマシタ。
恰度其ノ晩ハ、シトシトト雨が降ツテ居ル所へ、辛サヲ忍ンデ一時別レヤウトイフ相談デスカラ、私ハ、石田ヲオ内儀サンノ処へ帰スノカト思フト、口惜シイヤラ愁シイヤラデ泣ケテ仕方ナク、石田モ泣キ実二恋ノ愁嘆場デシタ。
私ハ、今夜、石田が帰宅シテモ、オ内儀サンニ良イ処ヤラセマイト思ツタノデ、石田ト関係シ続ケテ二度モ無理二気ヲヤラセマシタ。
夫レカラ祝儀共七十円位ノ勘定ヲ「満左喜」二支払ヒ、番傘ヲ買ツテ貰ヒ、私ハ「満左喜」カラ下駄ヲ借り、石田ハ長靴ヲ穿キ、二人相傘デ六日ノ夜十時頃「満左喜」ヲ出タトコロバ全ク珍無類ノ恰好デシタ。
「満左喜」ヲ出テカラモ、別レノ辛サニブラプラ歩キマシタガ、此ノ儘別レル気ニナレナカッタノデ、途中円タクヲ拾ヒ、浅草二行キ公園ヲ歩キ、別レノ盃ヲシヨウト思ツテ、野田屋トイフ蟹料理屋デ一杯飲ミ、恰度十二時ノ看板ニナリ追出サレタノデ、私ハ、兎二角何ッ方ニシタツテ別レナケレバナラナイノダカラ、私ハ稲葉方へ行クガ、アナタ八家へ帰ッタ方が良イトイヒ、ブラブラ出タ事ハ出マシタガ、矢張リスンナリ別レラレズ、浅草ノオ汁粉屋「梅園」デソーダー水ヲ飲ミブラブラ歩イテ、柳橋ノ方へ行キ、橋ノ挟ノ或ル小料理屋二寄ツテ亦一杯飯ム内、午前二時ニナリ、矢張リ看板デ追出サレ、柳橋ノ辺りデ彼方此方情ケナサソウニブラブラ歩キマシタ。
私ハ、何時迄経ツテモドウセ別レ切レナイカラ、中野迄送ラウトイフト、石田ハソウシテ呉レト云ヒマシタカラ、円タクヲ拾ヒ出掛ケルト、三時過頃、途中巡査二答メラレマシタ。石田ノ家ノ附近マデ行キマシタガ、私ハ一人デ帰ルト亦答メラレルカラ厭ダト云フト、石田ハ「デハ、新宿ノ待合ニオ前泊ツチメヘヨ」ト云ヒ、石田二送ラレ中野町ノ「関弥」ト云フ待合二行キマシタ。
二人が待合ノ二階デ一時間位ビールヲ飲ンデカラ、サア別レルトナルト、石田ハ帰リソビレ「キッス」シタリ一寸弄リ合ツタリシ、石田ハ、私二「近所ノ『玉寿司』へ話ヲシテ置クカラニ三日シタラ電話ヲ掛ケテ呉レ、都合良イ日二合フ」ト云ツテ、一旦下リテ帰ツテ行キマシタガ、又直グ戻ッテ参りマシタノデ、私ハ直グ起キテ石田ノ着物ヲ脱セテヤリ、一ツ床二這入リ朝迄関係シタリ、巫山戯テ居りマシタ。
何時迄ソンナ事ヲシテモ切りガナイカラ、兎二角、家二帰リナサイト、朝九時頃、十円札一枚懐中へ入レテヤリ、自分ハ、自動車デ白木屋二行キ土産ヲ買ヒ、十二時頃、稲葉方へ行キマシタ。  
第五回訊問 阿部定 

 

問 石田ト一旦別レタガ、亦石田ヲ誘ツテ五月十一日カラ待合「満左喜」二泊リ込ンダノカ?
答 左様デス。中野町新宿ノ待合関弥デ石田ト別レ、五月七日昼頃、下谷区下谷町五一ノ稲葉正武方二帰リマシタガ、急二空腹ニナツタノデ持ツテ行ツタオ土産ノ寿司ヲ取り出シ、家人ト一緒二其レヲ食べタリ、支那ソバヲ取ッタリ、オ茶ヲ呑ンダリシテ、サテ謀デモシヨウカトスルト、急二、今晩石田ハ家内トゴテクサイッテ居ルダラウナド考へ出シテ居タラ堪ラナクナリマシタ。ソシテ石田ヲ帰シテヤルノデハナカツタ。ヨクスンナリ帰シテヤツタモノダト、自分デ自分ヲ疑ヒ、今度会ツタラバ忽ンナコトヲシテモ帰スマイト思フ程、石田二執着シタ気持ヲ急ウスル事モ出来マセンデシタ。
仕方ナク稲葉方デビール三本、一人デ飲ミ気分ヲ紛シテ居マシタ。
夜牒テカラモ石田ノ事許リ考ヘテ味付カレズ、一層中野へ行ツテ見テヤラウカ知ラ畜生ト、焼餅が焼ケテナリマセンカラ二階ノ條間カラ下へ降りテ、煙草ヲ喫ツタリ雑誌ヲ読ンダリシテ居りマシタ。
八日ノ日モ同ジ様ナ気持デ一日暮シマシタガ、殊二昼間ラヂオデ清元ノ放送ガアツタタメ余計二石田ヲ思ヒ出シ、中野へ電話シヨウカ活動二出掛ケ様カト思ヒ乍ラ、二階デ雑誌ヲ読ンダリ媒転ンダリシテ暮シマシタ。殊二吉田屋ノ様子ヲ一々良ク知ッテ居ルモノデスカラ、時計ヲ見ナガラ、手二取ル様二石田ノ生活が想像サレルノデ、此ノ時位嫉妬ノタメ苦ンダ事ハ生レテ初メテデス。
八日ノ晩モ矢張リ寝付カレズ、夜中ニナル程癩デ気ガイライラスルノデ、階下へ降り自分ノ嬬神ヲ縫ツタリシテ居りマシタ。
裁縫シナガラモ石田ノ事バカリ考へ、.妾ニナンカナツテモ半分半分ノ生活ヲスルノハ詰ラナイカラ、夫婦ニナルヨリ仕方ガナイ。石田ト夫婦ニナルニハ他処へ逃ゲルヨリ方法ハナイガ、石田ハ逃ゲル人デモナイシ等考ヘテ、一層石田ヲ殺シチマハウカ知ラト迄思ヒマシタガ、嫉妬カラ左様ナ事ヲ思フノデ、結局取リ止メナイ考ヘデシタ。
九日ハ稲葉方デ成田様へ行クタメ、留守番ヲ頼マレ留守居シタガ、本モ康二読マズ、矢張リ石田ノ事許リ考ヘテ居りマシタ。
其ノ晩モ様々寝ラレズ、十日ハ大掃除ダツダノデ近所ノ喫茶店二行キ、ビールヲ飲ンデ夕方帰ルト、七日二注文シタ羽織が届イタノデ紐ヲ買フタメ浅草二出掛ケ廻ツテ、明治座デ芝居ヲ見マシタガ、良イナアト矢張リ石田ノ事許リ考ヘテ居りマシタ。
ソノ芝居ニハ出刃包丁ヲ使フ場面ガアツタノデ、自分モ出刃包丁ヲ買ッテ石田二巫山戯テヤラウト云フ気ニナリ、其ノ晩十一時頃稲葉方へ帰りマシタ。石田ト別レル時、五六日経ツタラ合フト云フ事デシタガ、注モ待チ切レマセヌカラ、兎二角玉寿司へ電話ヲシテ見ヨウト思ヒ、恰度稲葉夫婦が留守ダツタノデ子供ヲ使二出シ、玉寿司へ石田カラ何力話ハナカッタカト電話スルト、先方カラ電話番号ヲ聞イテ置イテクレト頼マレテ居ルトノ事ダツタノデ、ソレデハモウ一度電話デ知ラセルト云ツテ切りマシタガ、其ノ時ハ嬉シクテ顧へ上りマシタ。
早速トランクヲ持ツテ稲葉方ヲ出掛ケ、新宿ノ明治屋二行ツテビールヲ飲ンデカラ× 其ノ晩泊リ翌十一日小遣が不足シタノデ、上野ノ小野古着店二袷ト衿天ヲ売りニ行ツタ処、小僧ダケデアツタカラ品物ヲ預ケテ活動ヲ見タリ、明治製菓デ「ウイスキー」ノ入ッタ「コーヒー」ヲ飲ンダリシテカラ古着屋三民リ品物ヲ四円デ売ツテカラ、近所ノ幸寿司デ寿司ヲ。コ貝ヒ、序二電話ヲ掛ケ明治屋旅館ノ電話番号ヲ知ラセテ置キマシタ。ソレカラ幸寿司ノ二三軒先ノ菊秀金物店デ手刀一挺ヲ九拾銭デ買ヒ、大塚ノ照子姉サンニオ金ヲ借り様トシマシタガ、忙イシカラ会ヘナイトノ事デ、ソノ儘明治屋旅館三民リマシタ。
明治屋デハ以前大宮先生ト泊ツタ事ガアッテ、夫婦迄来テ私ヲ奥サント呼ビ、サービスシテ呉レマシタ。今迄私ハ、先生二気兼シテ旅館デハ上品ニシテ居りマシタガ、其ノ晩ハ直グ石田ト会ヘルノデ嬉シクテ堪ラズ、先生ハ問題デナカッタカラ、煙草ハ喫ヒ、ビールハ飲ムト云フ風ダツタノデ、旅館デモ吃驚シテ居タラウト思ヒマス。
私ガビールヲ飲ンデ居ル時、午後七時半頃、石田カラ電話が掛ツテ来マシタ。帳場ノ卓上電話デ旅館ノ人達二間エマシタガ、酔ツテ居タシ嬉シ紛レニ遠慮ナク甘ッタレタ話ヲ石田トシタノデ、今考ヘテ醜態ダツタト思ヒマス。兎二角、石田ハ、十四日迄待ツテト云ヒマシタガ、私ハ厭ダ是非会ヒ度イカラ中野駅へ行クト云ツテ連絡ヲ取ツタノデスガ、其ノ時途中デ電話が切レテガツカリシタガ、亦石田カラ掛ツテ来タノデ連モ嬉シク思ヒマシタ。斯様ニシテ五月十一日午後八時半頃、中野駅デ石田ト落合ヒ、再ビ待合二泊リ込ム様ニナツタノデス。
問 被告ハ何故斯様二迄強ク石田ヲ恋慕愛着シタカ。
答 石田ノ何処が良イカト云ハレテモ、此処ト云ッテ答ヘル事ハ出来マセヌガ、石田ハ様子ト云ヒ、態度ト云ヒ、寝間ト云ヒ、心持ト云ピケナス所一ツモナク、アレ程ノ色男二会ツタ事ハアリマセヌ。年ハ四十ニト八達モ思ヘズ、精々二十七八二見工皮膚ノ色八二十台ノ男ノ様デアリマシタ。
気持八極単純デ、一寸シタ事デモ嬉シガリ、感情家デ直グ態度二現ハレ、赤ン坊ノ様二無邪気デ、私が何ヲシテモ喜ンデ居り甘ヘテ居りマシタ。
或ル時ハ、私ノ赤イ長橋枠ヲ着セルト、ソレヲ着タ憾寝テ居り、私ト一緒二待合ヲ泊り歩イテモ一度モ家ノ事ヲロニ出シタ事サヘアリマセヌ。
石田ハ寝間が連モ巧者デ、情事ノ事八女ノ気持ヲ良ク知ツテ居り、自分ハ長ク辛棒シテ充分気持ヲ良クスル様ニシテ、口説百曼陀羅デ女ノ気持ヲ良クスル事二努力シ、一度情交シテモ又直グ大キクナルト云フ精力振リデシタ。
私ハ、石田が技巧丈デハナク、本当二私二惚レテ情事ヲスルノカ忽ウカ、試シタ事ガアリマシタ。申上ゲルモ失礼ヤラ塊シイヤラシマスガ、四月二十三日、吉田屋ヲ家出シタ時、私ハ月経デオ腰が少シ汚レテ居タノデスガ、ソレデモ石田ハ厭ガラズ触ツタリ舐メタリシテ呉レマシタ。四月二十八日頃、待合「田川」二居タ時、私が椎茸ノオ吸物ヲ眺へ、石田二本当二惚レ合フト椎茸ヤオ刺身ヲ前二漬ケテ食べルソウダツテネト云フト、石田ハ俺ダツテシテ遺ルヨト云ツタノデ、オ吸物カラ椎茸ヲ出シテ箸デソレヲ私ノ前二差込ミ、汁二付ケテチヤブ台ノ上二置イタ処、暫ク巫山戯テカラ石田ガソレヲ半分食べ、私モソレヲ半分食べマシタ。又石田ハ茄玉子ヲ割ツテ、私ノ前二擦リ付ケ食べ夕事モアリマシタ。私が余り可愛クテ気が詰ル程ギユツト抱キ乍ラ、誰トモ良イ事ヲシナイ様殺シテシマハウカ知ラト石田二云フト、石田ハオ前ノタメナラ死ンデヤルヨト云ツタリ、五月四、五日頃「満左喜」二居タ当時、金が続カナイカラ家二帰ラナケレバナラナイト云フノデ、私が石田ノモノヲ取ツテシマハウト云フト、石田八家二帰ツテモ、シヤシナイヨ、オ前丈ダヨト云ツタリ、冗談ニセヨ石田ハ恋ノ技巧が連モ上手デシタ。其ノ他、石田が私二親切デアツタ事ハ今迄述べタ通リデシタカラ、石田ト初メテ関係シテカラ段々石田二心ヲ惹カレ、四月二十三日カラ五月七日迄二週間モ待合ヲ泊り歩イタノデスカラ、普通ナレバ厭気が来ル筈デスガ、急シテモ石田ト一緒二居ルト益々良クナル許リデ、一旦別レテ八日カラ十日迄一人居タ時ノ嫉妬ト焦躁ノ気持、今考ヘテモアレ程辛カッタ事ハアリマセヌ。五月十一日午後八時半頃、私が円タクデ省線中野駅二行クト、石田ガセルノ着物二兵古帯姿デ来テ居り、私ハ、余り嬉シサニ転ゲル様二自動車カラ降りマシタ。
二人が暗ガリノ処へ行クト、石田ハコ度切レタ電話ヲ掛ケル丈俺ハ矢張リ惚レテ居ルンダナ」ト云ヒマシタ。私ハ、包カラ手刀ヲ出シ「吉、手前着物何力着テオトクサンノ御機嫌取ッタンダラウ、畜生、手前ヲ殺シテ死ンヂマウカラ」ト御芝居モドキデ脅カスト、石田ハ吃驚シテ少シ除ケマシタガ、注モ嬉シソウニヨセく人二見ラレルト大変ダト云ヒ、御機嫌トル騒ギデナイ、半月位我慢シテ居ナイト大変ダヨ、オトクが喧シクテ金が自由ニナラナイト云ヒマシタカラ、私ハ石田二、デモ今夜ハ帰サナイヨト云フト、金ハコレシカナイヨト云ツテニ十円出シタカラ、夫レヲ受取リ中野駅ノ近所ノおでん屋二二人が行キ酒ヲ三本飲ミマシタガ、後デ聞クト、キッスシタリ、抱キ付イタリ大変ダツタソウデスガ、私ハ、当時酔ツテシマツテ居り何ヲシタカ覚エテ居りマセヌノデシタ。
ソレカラ「満左喜」二行ツテ泊ラウト石田ヲ誘ヒ、円タクデ亦尾久へ出掛ケ、夜九時頃行キマシタ。
問 其ノ後、ソノ待合デ流連シタ模様ハ。
答 「満左喜」へ行ツテカラハ、女中が来ヨウが誰か来ヨウガ、石田二喰付イテ離レズ、悲シクテ泣ケマシタガ、同時二一二日許リ石田ト別レテ居タ間、石田ガオ内儀サンニシテヤツタ事ヲ想像シテ妬ケテナラズ、嬉シイノト憎イノトガ一緒ニナツテ、石田ヲ可愛ガツタリ虐メタリ目茶苦茶デシタ。
石田二間クト、石田ハ七日ノ朝、俺ハオ前が先二帰ツテシマツタ事が痛二曲ツテナラヌノデ、板橋ノ兎月園二遊ビニ行キ一泊シテ、翌日電話デ家カラ金ヲ取り寄セ自宅二帰ツタガ、案外家内が矢釜シイノデ、実ハオ加代ト遊ビ歩イタノダガ、俺カラ好キナ訳デハナイ。
オ加代二引張ラレタノダガ、今後オ加代トハ絶対関係シナイト云ツテモ家内ハ信用シナイカラ、今ノ処デ八百モ二百モノ金ハ自由ニナラナイが辛抱シテ呉レト云ヒマシタ。石田ハ又家内トハ関係シナカッタ。家内が寄ツテ来タカラ蹴トバシタト云ツテ居りマシタガ、石田ト家出中、私が買ツテヤツタ下帯ヲ締メサセテ居夕処、其ノ時ハ別ノ下帯ヲシテ居りマシタシ、三日モノ間帰ツテ居テ、オ内儀サント関係シテナイト云フ筈ハナイト思ヒ、石田が何ト云ツテモ自分ノ気持が治マラズ、石田ト関係シテハ後デ、石田ノ身体ヲ所嫌ハズ孤ツタリ、引ツ叩イタリ、噛ンダリシテ虐メマシタ。石田ハ、私カラ何ヲサレテモ怒ル様ナ事ハナク、惹ンナ事デモヤルカラ勘弁シテ呉レ、オ前ト別レテカラ俺ハ焦躁二馳ラレテ居ルヨト云ヒマシタ。私ハソノ意味が判ラナカッタモノデスカラ、胡麻化スタメニ態トインチキナ言葉ヲ使ツタノダト云ツテ、石田ヲ虐メルト、蒲団ノ中へ藻繰リ込ンデ、俺ヲ殺スナヨト云ツテ居りマシタ。
兎二角、十一日ノ晩ノ事ハ、焦レテ居ル男二二百年振リニ会ツタ様ナ嬉シサデ、到底御話出来ナイ位デ、泣イタリ、巫山戯タリ、夜通シ寝マセヌデシタ。
矢張リ其ノ晩モ手刀ヲ出シテ逆手二持チ「ヤイ吉」ト云ツテ、斬り付ケル真似ヲスルト、石田ハ小道具が足りナイ、逆手二持ツ時ハ出刃ニシテ貰ヒ度イネ、板二付カナイヨ、ソンナ物デ八穀セナイヨト云ツテ嬉シガツテ居り、亦手刀ヲ石田ノ「オチンチン」ノ根元二村ケテ、外ノ女何トモ出来ナイ様二切ッテシマウト云フト、石田ハ笑ヒ乍ラ此奴馬鹿ナ奴ダナシト云ツテ居りマシタ。
翌十二日ニナッテ、女中二見ラレルトイケナイト思ヒマシタカラ、手刀ハ額ノ裏へ隠シテ置キ、十三日ノ夜芸者ヲ一人呼ンデ一時間半位遊ンダノト、十五日夕方カラ夜十一時頃迄、私が大宮先生ト会フタメ外出シタノト、十六日ノ夕方、石田が理髪二出掛ケタノト外ハ、十八日ノ夜明方、石田ヲ殺ス迄寝床ヲ敷イ夕鶴、石田ト二人裸デ寝テ居りマシタ。
其ノ間二人ノ情事ハ、以前待合二泊リ歩イタ時ヨリ猛烈デ、夜モ確々寝ズ、殆ド入浴モシマセンデシタ。
大宮先生トハ五月七日ノ約束デ、午後五時頃銀座デ会ヒ、或ル小料理屋デ食事シ、品川ノ「夢ノ里」へ行ツテ一時間半位遊ビ、ソノ際、先生ト御義理二関係シマシタ。石田ノ事許リ考ヘテ居り何ノ興味モ出マセンデシタ。
先生カラ五十円貰ヒ円タクデ帰り、先生ハ四谷デ降り、私ハ其ノ儘尾久へ帰りマシタ。夜十一時頃「さくら」ノ間二部屋ヲ変ツテ居り、石田ハ寝テ居りマシタガ… … 私二「ヤイ俺ノ事バカリ云ヤガツテ何ダ」ト云ヒ「男二会ツテ来タノデハナイヨ」ト云ツテモ「俺が今度ハ出刃包丁ヲ買ツテ来ナケレバナラナイ」ト云ヒマシタ。
私ハ大宮先生トビールヲ少シ飲ンデ居タタメ顔二出テキタノデ、テレクサカッタノデ、座敷ニアツタビールヲ一杯飯ンデカラ、オ風呂へ這入ツテ来ルト、石田ハ疾シイ事ガアルカラ風呂へ入ルノダラウト云ヒ、私ヲ抑ッタリ、髪毛ヲ引張ツタリシマシタガ、虐メラレテ却ツテ嬉シク思ヒマシタ。石田ニハ勿論五十円貰ツテ来夕事ヲ話シマシタガ、石田トシテハ、私が男カラ貰ツテ来ル事ハ当然判ツテ居夕筈デ、嫉ク様ナ風ヲシテ其ノ場ヲ面白クシタニ過ギマセヌ。
問 五月十六日夜、石田ノ頸ヲ締メナガラ関係シタ模様ヲ述べヨ。
答 其ノ前十二三日頃、先程述べ夕様二石田ヲ虐メテ居タ時、石田ノ喉ヲ指デ締メタ事ガアリマシタガ、其ノ時石田ハ「喉ヲ締メル事が良イノダツテネ」ト云ヒマシタカラ「ソウ夫レデハ締メテ頂戴」ト云ヒ、石田ト関係シナガラ締メテ貰ヒマシタガ、石田ハ少シモ気持が良クナラナイシ、何ダカオ前が可哀相ダカラ厭ダト云フノデ、今度ハ私が上ニナツテ、石田ノ喉ヲ締メマシタガ、石田ハ笑ヒ出シクスグツタイカラ止セト云ヒマシタ。
十六日ノ晩、石田二抱カレテ居ルト連モ可愛クナリ、息が止ル程抱キ締メテ関係スル事ヲ思ヒ付キ、石田二今夜ハ「紐デ締メルヨ」ト云ツテ、枕元ニアツタ私ノ腰紐ヲ取り、石田ノ頸二巻キ付ケテ両ノ手デ紐ノ端ヲ持チ、私が石田ノ上ニナツテ情交シナガラ、頸ヲ締メタリ、緩メタリシテ居りマシタ。初メ石田ハ面白ガツテ、オデコ叩イタ時二舌ヲ出スト同ジ様ナ巫山戯方ヲシテ、頸ヲ締メルト舌ヲ出シテ巫山戯テ居り、途中止メテ紐ヲ頸二巻キ付ケタ儘酒ヲ飲ミ、亦頸ヲ締メナガラ関係スルト云ツタ具合ニシテ居り、少シ頸ヲ締メルト腹が出テ「オチンチン」ガビクビクシテ気持が良イモノデスカラ、石田ニソレヲ話スト、オ前が良ケレバ少シ苦シクトモ良イヨ、我慢スルヨト云ヒ、其ノ頃ハ石田ハヘトヘトニ疲レテシマヒ眼ヲシヨポシヨボシテ居りマシタカラ、私ガ「厭ナンデセウ、厭ナラモツト締メルヨ」ト云フト、石田ハ「厭ジヤナイ俺ノ身体ヲドンナニデモシテ呉レ」ト云ツテ居りマシタ。
尚紐ヲ締メタリ緩メタリシテ関係シテニ時間位巫山戯テ居ル中、十七日午前二時頃デシタガ、私が下ノ方ノ具合バカリ見テ、遂二力が這入リギユツト頸ヲ締メタ・メ、石田ハ「ウー」ト一声稔リ石田ノ「オチンチン」ガ急二小サクナツタノデ、私ハ驚イテ紐ヲ離シマスト、石田ハ起キ上り、オ加代ト云ッタナリ私二抱キ付イテ少シ泣イタ様デシタカラ、私ハ胸ヲ擦ツテヤツテ居りマシタ。
暫クシテ石田ガドウシタノダラウ顔が熱イヨト云ヒ、顔が赤クナツテ居り、目が少シ腫レ上り、頸二紐ノ跡が付イテ居タノデ、私ハ早速石田ヲ風呂場へ連レテ行キ顔ヲ洗ツテヤリ、連レ戻ツテ部屋二寝カセテカラ、夜明迄冷シタリ拭イタリシテヤツテ居マシタ。
ソンナ時デモ退屈ノタメ、私が石田ノ局部二触レルト直グ立チマシタカラ、シヤブツタリ弄シテヤリマシタ。石田ノ顔八逆モ酷カツタノデスガ、鏡ヲ見テソレが判ツテモ「酷イ事ヲシタナ」ト云ツタ丈デ少シモ怒りマセンデシタ。
十七日ノ朝、柳川や酢物ヲ取ツテ食べタリ、石田二食べセサタリシテ、私ダケ酒ヲ飲ミマシタガ、石田八人二見ラレルノが厭デ下二顔ヲ洗ヒニ行キマセヌカラ、水ヲ持ツテ来テヤツテ優シクシテ居りマシタ。
十一時頃、亦私ダケ酒ヲ飲ミ情慾が起キタノデ、石田ノ物ヲ弄ッテ居ルト、石田ハ出来ナイカモ知レナイガ、シテヤルカラ此方へ来イト云ヒマスカラ、蒲団ノ中デ関係シテ草臥シテ一寸寝テ起キルト、午後一時頃デシタガ、矢張リ石田ノ顔ハ直ラナイノデ、私ハソンナ顔デハ外二出ラレナイカラ医者ヲ呼ンデ来ヨウカト云フト、石田ハ此ノ前「みつわ」デ医者ヲ呼ンダ時ニモ何力飲ンダカト聞カレタ位ダカラ、今度医者二見テ貰フト、警察二届ケラレルカラ止セト云ヒマシタ。
医者ヲ止メテ顔ヲ冷シタリ、身体ヲ按ンダリシテ居りマシタガ、少シモ治ラナイノデ、晩方薬買ヒニ行ツテ、序二薬局二相談シテ来ルカラ待ツテ居ナサイト云フト、石田ハ薬屋二八オ客が喧嘩シテ頸ヲ締メラレ、顔が赤クナツタト云ツタ方が良イト云ツタノデ、銀座ノ資生堂二行ツテ、其ノ話ヲシテ相談スルト、薬局デハ夫レハ血管が腫レタノダカラ、静カニ寝カセテ流動物ヲ取ル外手当ノ方法ガナイ。
治ル迄一ニケ月掛ルト云ヒマシタカラ、目ノ赤クナッタノヲ治スタメ目薬ヲ一場買ッテ「モナミ」ト云フ喫茶店二行キ、夕食二「チキンライス」ヲ食べ「コーヒ」ヲ飲ミ、土産二野菜スープヲ西洋菓子ト共二買ヒ、亦資生堂三民リ早イ話が水ヲ楽壇二人レテ下サイト頼ムト、薬局デハ之レヲ持ツテイラツシヤイト云ヒ、三十錠入カルモチン一箱ヲ取り出シテ、三粒以上飲マセテハイケマセンヨト云ヒマシタカラ、ソレヲ買ッテ七十銭払ヒ、千疋屋二立寄リ一円四十銭ノ西瓜ヲ一個買ツテ、午後九時頃「満左喜」へ帰りマシタ。
石田ハ寝テ居タガ直グ起キ、私が薬局デ聞イタ話ヲスルト、石田ハ困ッタナアト云ヒ、金ガナイカラ此処ノ家ニソウ長ク居ル訳ニモ行カナイシ、ドウシヨウト少シ悲観シテ居り、可愛想デシタ。
其ノ時ハ牛刀ヲ忘レテ居タモノデスカラ、女中二包丁ヲ借りテ西瓜ヲ切り石田二食べサセ、女中ニスープヲ温メテ貰ツテ、スープト一緒ニカルモチン三粒ヲ飲マセマシタ。
尚石田ハ柳川ヲ食べタダケダカラオ腹が空イタト云フノデ、臨能掛ヲーツ食べサセ、私ハ海苔巻ヲ取ツテ食べマシタ。石田バカルモチン三粒位デハ効力ガナイヨト云ヒマスカラ、皆ンナ飲ンデモ大丈夫ヨト云ツテ、亦五粒飲マセ暫ククチヤクチや話ヲシテ居りマシタ。
其ノ間、石田ハ半身ヲ私二抱カレテ居タノデ、私ノ手が自然ト石田ノ「オチンチン」二触レル様ニナツテシマヒ、手が触レルト石田ノが大キクナリマスガ、進ンデ情交スル程元気ハアリマセンデシタ。
夜が段々遅クナッテカラ、雑炊ヲ一人前注文シ、ソレト一緒ニカルモチンヲ五六粒飲マセルト、其ノ頃カラ石田八目ヲシヨボシヨボサセテ居りマシタが未ダ寝ナイノデ、私二一寸帰ルヨリ仕方ガナイ、勘定モ足りナイカラト云ヒ、私ハ「帰りタクナイ」ト云フト「帰ラナイッテ此ノ顔デ此ノ家二居レバ女中二見ラレ極りガ悪イシ、何時ニシテモ帰ラナケレバナラヌ。仕方ガナイカラ、オ前ハ下谷ノ家が居難ケレバ、何トカ都合シテ他処ノ家二居テ呉レ」ト情ケナイ事ヲ云ヒマシタ。
私ハ「惹ウシテモ帰りタクナイ」ト云フト「ソレデハ此処ノ勘定ハ借リテ置キ、知人ガアルカラ湯河原へ行ツテ、オ前トニ三日居テカラオトクヲ呼ンデ帰ルコトニシヨウ」ト云ヒマシタガ、私ハ、ソレデモ厭ダト云フト、ソンナニ何モカモ厭ダツテ仕方ガナイ、オ前モ最初カラ俺二子供ノアル事モ知ツテ居タンダシ、ソウ二人デ喰付イテイル訳ニハユカナイ。
オ互末長ク楽シマウトスルニハ、少シ位ノ事ハ我慢シテ呉レナケレバナラナイト云フノデ、愈々石田ハ一寸別レル気ダナト思ヒ、私ハ少シ声ヲ出シテ泣クト、石田モ涙ナガラニ私二色々話シヲスルノデシタ。
私ハ石田カラ優シク云バレル程癩二触ツテ、石田ノ云フ事ヲ聞キ分ケ様トスル気ハナク、忽ウシタラ石田ト一緒二居ラレルカト云フ事ダケシカ考ヘズ、石田ノ話ハ半分上ノ空デ聞イテ居りマシタ。
尚石田ハ「女房八家ノ飾物ダカラ、ソレ程焼餅ヲ焼ク事ハナイ、商売スルタメノ方法ヲ考ヘナケレバナラヌ、オ互ニグズグズシテ家中二騒ガレル程結局オ互ヒノ損ダ」ト云ツテ居りマシタ。
其ノ中、女中が前二注文シテ置イタ鳥ノスープヲ持ツテ来タノデ、石田ニソレヲ飲マセ、マダカルモチンが十二ー二粒残ツテ居りマシタカラ、スープト一緒二全部ソレヲ飲マセテ、十二時、二人蒲団二這入りマシタ。
石田ハ元気ガアリマセンデシタガ、私が少シ膨レテ居タノデ慰メルタメ、私ノ前ヲナメタリ何トカシテ機嫌ヲ取ツテ呉レ、石田が上ニナツテ関係シマシタ。
関係シテカラ石田ハ少シ眠イヨ、寝ルカラオ前起キテ居テ俺ノ顔ヲ見テ居テ呉レト云ヒマスカラ、起キテ石田ヲ見テ居テアゲルカラユツクリ寝ナサイト云ヒ、半身起シテ石田ノ顔ノ上二頬ヲスリツケテ居ルト、石田ハウトウトシテ居りマシタ。
五月七日カラ十日迄、石田ト別レ、自分二人稲葉方二居タ当時、石田ノ事許リ考ヘテ辛イ思ヒヲシ、石田ヲ殺シテシマハウカ知ラト云フ考へが出マシタガ、ソレハ直グ他ノ気持二打消サレテ居タ処、其ノ晩、石田カラ色々云ヒ聞カサレ、顔ヲ治ス為メニモ将来二人が立行クタメニモ一時別レナケレバナラナイト云ハレタノデ、石田ノ寝顔ヲ見テ居ル内、石田が家二帰レバ、自分が介抱シタ様ニオ内儀サンが介抱スルニ決ツテ居ルシ、今度別レレバ憲ウセ一月モ二月モ会ヘナイノダガ、此ノ間デサへ辛ラカツタノダカラ、連モ我慢が出来ルモノデハナイト思ヒ、忽シテモ石田ヲ帰シタクアリマセンデシタ。
石田ハ、私カラ心中シテ呉レトカ、何処カへ逃ゲテ呉レトカ云ッタ処、今迄待合ヲ出サセテ末長ク楽シマウト云ツテ居タシ、石田トシテハ現在出世シタノデスカラ、今ノ立場デ死ヌトカ、駈落スルトカバ考ヘマセンカラ、私ノ云フ事ヲ断ル事ハ判リ切ツテ居ルノデ、私ハ心中や駈落ハテンデ問題ニシテ居ナカッタカラ、結局石田ヲ殺シテ永久二自分ノモノニスル外ナイト決心シタノデス。
問 熟睡中、被告ノ腰紐デ石田ノ頸部ヲ緊迫シタ顛末ヲ申述べヨ。
答 石田ガウトウトシテヰル時、私ハ南枕二寝テ居ル石田ノ右側ニナリ、石田ノ右手ハ私ノ脇ノ下カラ背中ノ方へ延ビテ、私ヲ抱ヘル様ナ恰好ヲシ、左手ヲ左肩ノ辺二置キ、寝顔ヲ見守ツテ居ルト、石田ハ時々目ヲパット開キ、私が居ルノヲ見テ安心シテ又目ヲ閉ジル様ニシテ居りマシタガ、其ノ内「オ加代、オ前俺が寝タラ亦締メルノダロゥ」ト云ヒ、私ハ「ウン」ト云ヒナガラ少シニヤリトスルト「締メルナラ途中デ手ヲ離スナヨ、後ガトテモ苦シイカラ」ト云ヒマシタ。其ノ時、私ハ、此ノ人ハ自分二段サレルノヲ望ンデ居ルノカ知ラトフト思ヒマシタガ、ソンナ筈ノナイコトハ色々ノ事カラ判り切ッタ事デスカラ、勿論冗談ダト直グ思ヒマシタ。其ノ内、石田が寝タ様子デスカラ、右手ヲ延バシテ枕元ニアツタ私ノ桃色ノ腰紐ヲ取り上ゲテ、紐ノ端ヲ左手デ頸ノ下二差シ込ミ、頸二二巻キ巻イテカラ、紐ノ両端ヲ少シ加減シテ締メタ処、石田ガパット目ヲ開ケテ「オ加代」ト云ヒ乍ラ少シ、身体ヲ上ゲテ私二抱キ付ク様ニシマシタカラ、私ハ自分ノ顔ヲ石田ノ胸二擦リ付ケテ「堪忍シテ」ト泣キ、紐ノ両端ヲ力一杯引キ締メマシタ。石田ハ「ウー」ト一度稔リ、両手ヲ「プルプル」フルハセ、躯テグツタリシテシマツタノデ紐ヲ離シマシタ。私ハドウニモ身体ガフルヘテナリマセヌカラ、茶卓ノ上ニアリマシタ酒ノ一杯入ツテ居ルオ銚子ヲ取り上ゲテ刺臥呑二全部呑ンデカラ、石田が生キ返ラナイ様二喉ノ正面ノ辺りデ腰ヒモー度堅ク結ビ、残りノ全部ヲ頸ニグルグル巻キ付ケテ、両端ヲ石田ノ枕ノ下二差シ込ンデ置キマシタ。ソレカラ様子ヲ見ルタメ下二降リタ時、帳場ノ時計ヲ見マシタガ、午前二時一寸過ギデシタ。
問 其ノ後、被告ハ石田ノ陰茎陰嚢ヲ切り取り、左腕二自分ノ名ヲ刻ミ込ミ、死体や敷布二血デ字ヲ書キ残シテ、満左喜ヲ逃ゲタ様子ヲ述べヨ。
答 私ハ、石田ヲ殺シテシマウトスッカリ安心シテ、肩ノ重荷が下りタ様ナ感ジガシテ、気分が朗カニナリマシタ。下二降リタ時持ツテ来タビールヲ一本飲ンデカラ、石田ノ横二種テ、石田ノ喉ガカラカラニ乾イテ居ル様デスカラ、石田ノ舌ヲ舐メテ濡シテヤツタリ、石田ノ顔ヲ拭イテヤツタリシテ居りマシタガ、死骸ノ側二居ル様ナ気ハセズ、石田が生キテ居ル時ヨリ可愛ラシイ様ナ気持ガシテ、朝方迄一緒二寝テ居り「オチンチン」ヲ弄ツタリ、一寸自分ノ前二当テテ見タリシテ居りマシタガ、其ノ間色々ノ事ヲ考ヘテ居ル内二、石田ハ死ンデシマッタノダナト考ヘタリ、十六日ノ昼頃、神田ノ万成館二居ル大宮先生宛ノ手紙ヲ「満左喜」ノ女中二届ケテ貰ッタカラ、此ノ事件デキツト先生が警察カラ調べラレルガトンダ事ヲシタ。一目会ツテオ詫ビシヨウト思ツタリシマシタ。
石田ノ「オチンチン」ヲ弄ッテ居ル内、切ツテ持ツテ行カウカト思ヒ、額ノ裏二隠シテ置イタ手刀ヲ出シテ根元二手刀ヲアテテ切ツテ見マシタガ、スグ八切レズカナリ時間ガカカリマシタ。其ノ時、手刀が滑ツテ腿ノ辺りニモ傷ヲ付ケマシタ。ソレカラ睾丸ヲ切り取ルタメ、亦嚢ノ元二手刀ヲ当テ、切りマシタガ、矢張リ伸々切レズ、嚢が少シ残ッタ様二恩ヒマス。塵紙ヲ拡ゲテ切ツタ「オチンチン」ヤ睾丸ヲソノ上二置キマシタガ、切口カラ沢山血が出ルノデ塵紙デ抑ヘテ居り、ソレカラ切口カラ出ル血ヲ右ノ人差指ニツケテ、自分ノ着テ居タ長橋祥ト袖ト襟二塗リ付ケテ、尚石田ノ左腿二其ノ血デ定、吉二人ト書キ、敷布ニモ書キマシタ。次二手刀デ「定」ト云フ自分ノ名ヲ刻込ンデカラ、窓ニアツタ金ダライデ手ヲ洗ヒ、石田ノ枕元二置イテアツタ富士ト云フ雑誌ノ表紙ノ紙ヲ剥シ取り、其ノ紙二切リトツタ「オチンチン」ト「睾丸」ヲ包ミ、乱レ籠ノ中二脱イデアツタ石田ノ六尺揮ヲ腹二巻キ付ケ、オ腹ノ処へ肌へ付ケテ「オチンチン」ノ包ミヲ差シ込ミ、ソレカラ石田ノ襯衣ヲ着ケテズボン下ヲ穿キ、其ノ上二自分ノ着物ヲ着テ帯ヲ締メ、スッカリ仕度ヲシテカラ座敷ヲ片付ケ、手刀ノ血ハ拭キ取り汚物ハ新聞紙二包ンデ二階ノ便所ノ手洗水ヲ流シ込ミ、マダ足ラナイノデ下カラトタン桶二水ヲ汲ンデ来テ、便所二流シテ綺麗ニシマシタ。其ノ際、便所ノ手洗ヲ逆ニシテ水ヲ流シタタメ其ノ蓋ヲ便所二落シテシマヒマシタ。
スッカリ仕度が出来テカラ、手刀ヲ新聞紙二包ンダモノダケヲ持ツテ、石田二別レノ「キッス」ヲシテ、死体二八蒲団や毛布ヲ掛ケ、手拭デ顔ヲ覆ヒ石田ノ枕元二雑誌ヲ拡ゲテ石田が読ンダ様二見セカケテ置キ、午前八時、下二降リテ、女中サンニ一寸水菓子ヲ買ツテ来マスカラ、昼頃迄起サナイデ下サイト話シ、「満左喜」ノ頼ミ付ケノ自動車屋ヲ自分が電話ヲ掛ケテ呼ビ、ソノ自動車二乗ツテ逃ゲ出シマシタ。
問 何故石田ノ陰茎や陰嚢ヲ切り取ツテ持チ出シタカ。
答 ソレハ一番可愛イ大事ナ物ダカラ、其ノ儘ニシテ置ケバ湯棺デモスル時、オ内儀サンが触レルニチガヒナイカラ、ソレヲ誰ニモ触レサセ度クナイノト、ドウセ石田ノ死骸ヲ其処二置イテ逃ゲナケレバナリマセヌガ、石田ノ「オチンチン」ガアレバ、石田ト一緒ノ様ナ気ガシテ淋シクナイト思ツタカラデス。何故石田ノ腿や敷布二定吉二人等ト書イタカト云ヒマスト、石田ヲ殺シテシマウト、是レデスツカリ石田ハ自分ノモノニナツタト云フ安心シタ気持ニナッタタメ石田ハ完全二自分ノモノダト云フ意味ヲ、定、吉二人、又は定、吉二人キリト書イタノデス。
問 石田ノ左腕二、何故、定ト彫りツケタノカ。
答 石田ノ身体二私ヲ付ケテ行ツテ貰ヒタカッタタメニ、自分ノ名ヲ彫り付ケタノデス。
問 何故二、石田ノ揮や下着ヲ肌身二着ケテ出タカ。
答 ソノ揮や下着ハ男ノ臭ヒガシテ、石田ノ臭ヒカラ可愛イイ石田ノ形身二、自分ノ身体二着ケテ出タノデス。  
第六回訊問 阿部定 

 

問 被告が待合「満左喜」デ、本年五月十七日ノ晩、石田ニカルモチンヲ飲マセタ時、コレが為石田が死二八セヌカト思ハナカッタカ。
答 三十錠入一壇全部ヲ飲マセタ処デ、死ヌ様ナ事ハナイト思ヒマシタ。
若シ死ヌ様ナ危険ガアルトスレバ、薬屋デ売ル筈ハナイシ、カルモチンデ死ヌニハ、八百錠以上飲マサナケレバナラナイ事ヲ、新聞デ読ンデ知ツテ居マス。
問 被告ハ、待合「満左喜」二居ル間、石田ノ着物ヲ隠シタソウダが何故力。
答 石田が無断デ帰ル様ナ事ハナイト思ツテ居りマシタガ、着物ヲ隠シテ帰ラセナイ程、私が惚レテ居タノデモアルシ、冗談モアツタノデス。
問 石田ハ、何トカシテ帰りタガツテ居タノデハナイカ。
答 無論、石田ノ腹ノ中ハ知りマセンガ、私二対シテハ左様ナ様子ハ見セマセンデシタ。
若シ本当二帰リ度イナラ、帰ル折ハ幾ラデモアツタ筈デス。十五日ハ、私が留守ニシマシタシ、十六日ニハ、石田二五円持タセテ理髪ヘヤツタシ、着物ヲ隠シタート云ツテモ、探セバスグ判ル程度ナノデ、ソレガタメ石田が帰レナカツタト云フ事ハアリマセヌ。石田ハ、五月十七日ノ夜中二、初メテ帰宅スル話ヲ持チ出シマシタノデス。
問 被告ハ、五月十一日以後、「満左喜」二居ル間、諸方へ電話ヲ掛ケタソウダが何故力。
答 十二〔日力〕、下谷ノ稲葉ノ家内黒田ハナト、中野ノ玉寿司ト新宿ノ明治屋ノ三ケ所へ掛ケタ用事ハ、昨夜御話シナイデ突然外出シタガ、十五日迄二帰ルト云フ知ラセヲスルタメデモアリ、玉寿司へ掛ケタノハ、明治屋ノ電話番号が判ラナカツタカラ、夫レヲ問合セルタメデアリ、明治屋へ掛ケタノハ、昨夜勘定モセズ宿ヲ出夕タメ、其ノ云ヒ訳ヲスルタメデアリマシタ。十六日二黒川へ電話ヲシタノハ、待合『満左喜』ニズルズル長居シテ何トナク極りガ悪イカラ、待合ノ帳場二態ト聞エル様ナ事ヲ云ツテ取りックロツタリ、亦一方吉田屋カラ黒川ノ方へ電話デモアッタカドウカ探ルタメデモアリマシタ。
為念申シ上ゲマスガ、其ノ頃カラ石田ヲ殺ス気ガアリ、殺シタ後ノ事ヲ考ヘテ人ノ眼ヲ胡魔化スタメニ、左様ナ電話ヲ掛ケタノデハアリマセヌ。
当時、石田ヲ殺ス気ガアツタトスレバ、電話ヲ方々へ掛ケル様ナ事ハシマセヌ。
問 被告ハ、五月十五六日、大宮五郎二如何ナル手紙ヲ届ケタカ。
答 五十円程使ノ人二渡シテ下サイト云フ手紙デシタ。
問 被告ハ、ソノ金ヲ貰ツテドウスル心算デアツタカ。
答 其ノ時持ツテ居タ金ハ四十五円デシタカラ、待合ノ勘定ニハトテモ足りナイト思ヒ、少シデモ金ガアレバ、気楽二進ンデ居レルト思ツタカラ、先生二金ヲ無心シタノデス。
処ガ、女中ノ返事デハ、宴会二出テ先生ハ留守デアツタ為メ、帰ツタラ渡シテ下サイト云ッテ、ソノ手紙ヲ置イテ来タトノコトデシタ。
私ハ、手紙デ頼ンダ金ヲ余り当二八シテ居マセンデシタカラ、其儀ニシテ置イタノデス。尤モ石田ヲ殺シテカラ、逃ゲル旅費ニスルタメ欲シイト思ツテ居タノデハアリマセヌ。又序二申上ゲマスガ、大宮先生二此ノ手紙ヲ出シサヘシナケレバ、世間カラ気狂イミタイ二恩バレル様ナ今度ノ事ヲシナイデスンダノダト思フト、何トモ残念デス。
問 夫レハ何故力。
答 何ツ方ニシテモ、石田八穀スヨリ外仕方ガナカッタノデ、石田ヲ殺シテシマウ迄ハ、自分ノ身ノ振り方等ハテンデ頭ニアリマセンデシタガ、殺シテシマツテカラ、ア・石田ハ死ンデシマツタンダナ、自分モ生キテ居ラレナイ。死ナナケレバナラヌノダト思ヒ、死ヌノヲ厭トモ思ヒマセヌデシタガ、同時二先生ノコトヲ思ヒ出シ、昨日手紙サへ届ケナカッタラ、此ノ事件デ先生が引合二出サレル事ハナイノニ、手紙ヲ届ケタ許リに、キット警察カラ調べラレ、トンダ迷惑が懸ル二連ヒナイ。何トシテモ申訳ナイ事ヲシタカラ、一目会ツテオ詫ビシ度イト考ヘマシタ。若シ先生ノ事ヲ左様考ヘナカッタラ、私ハ、キット「満左喜」ノ二階ノ物干デ頸ヲ吊ツテ死ンダノデシタガ、先生ノ事ヲ考へ外出スル気ニナリ、石田ト別レルノが淋シイノデ、石田ノ襯衣ヲ着タリ「オチンチン」ヲ切ツタリ、気狂ジミタ事ヲシテシマツタノデス。
ソンナ事デ世間カラ変態ノ様二云バレルノガロ惜シク御座イマス。
問 デハ、犯行後逃走シタ経路二付キ述べヨ。
答 五月十八日午前八時頃、待合「満左喜」ヲ出タ時ハ、五十円位持ツテ居り、新宿伊勢丹ノ角デ自動車ヲ乗り捨テ、新宿駅二行ツテ円タク三乗リ、上野ノ松阪屋前で降り、午前九時頃附近ノ小野古着店二行キ、仕度ヲ変ヘルタメ着テイタ白地玉結城ノ袷ト銀鼠地ウヅラ癒合羽織トヲ十三円五十銭デ売り、鼠地鱗飛模様単衣御召ヲ五円デ買ヒ、次ノ間デ着替へ、小僧二頼ンデ木綿風呂敷ヲ買ツテ貰ヒ、新聞包ノ手刀ヲ其ノ風呂敷二包ンデ其ノ店ヲ出テカラ、松坂屋前電車通リ下駄屋二行キ桐ノ駒下駄ヲ一円四十銭デ買ヒ、穿イテ居タ表付キノ下駄ヲ其ノ店二預ケ、其ノ店ノ世話デ隣ノ電話ヲ借り、待合『満左喜』ノ女中サンニ昼頃帰ルカラ、帰ル迄起サズニ置イテ下サイト云フ電話ヲ掛ケルト承知シテ呉レタノデ、マダ判ラナイト安心シマシタ。
尚神田ノ萬代館雲居ル大宮先生二電話ヲ掛ケルト、丁度出掛ケル処デシタガ、五分力十分デ良イカラ会ツテ下サイト云ヒ、万惣果物店ノ前デ会フ事ニナリ、円タク二乗ツテ行キ、其処デ先生二会ヒ、亦円タクデ日本橋ノ木村屋喫茶店二行キ、コーヒーヤトーストヲ取ツテ暫ク休ミマシタガ、私ハ先生ヲ見ルト申訳ナク涙が出テ仕方ガアリマセヌデシタガ、店が騒ガシクテ細イ話が出来ズ、失礼ナ手紙ヲ差上ゲテ申訳ナカッタト云フオ詫ビダケ云ヒ、昭和通リそば屋デ、私ダケ天丼ヲ食べ、先生二是非一時間位ユックリシテ貰ヒ度イト云フト、先生ハソレデハ『夢ノ里』へ行力ウト云ヒマシタガ、全然知ラナイ旅館が良イト云ッテ、ソレカラ円タクデ大塚ノ方二行キ、市電附近ノみどり屋旅館二行キマシタ。
私ハ、みどり屋旅館デ先生ト合ツテ居テモ唯泣ケテ仕方ガナク、先生二八石田ヲ殺シ夕暮等云ハズニ、ソレトナク今後ドンナ事ガアツテモ、貴下ハ私ヲ金デ買ッタ丈ケノ事デスカラ、ソウ云フ気持デ居テ下サイ。心カラアナタニ申訳ナイト思ツテ居ルノデスカラ、私ヲ恨マナイデ下サイト云フ意味ノ事ヲ繰り返シテ云ツテ泣イテ居りマシタ。
処ガ、先生ハ、私ノ心持が判ラナイト見工、情夫ノ事デ謝ツテ居ルノダト思ツタラシク、今更ソンナ事ヲ云ハナクッテモ判ツテ居ル。此ノ間カラアパートヲ借りョウト思ッテ探シテ居ルガ、良イ処ガナイ。今日愈々校長ヲ辞メタノデ、今迄一二番気持良クオ前二会ツテイルノダト云ヒマシタ。
私ハ、何モ知ラナイ朗カナ気持ヲ考へ、一層申訳ナク泣キマシタ。
久シ振りニ私ト会ツタ先生ノ気持ヲ察シテ、慰メル為二兎二角寝マセウト云ヒ、宿ノ人二蒲団ヲ敷イテ貰ヒ、私ハ、先生二知レナイ様腹二巻イタ揮ヲ取り、襯衣ヤズボンヲ脱ギ「オチンチン」ノ包紙ハ、ソツト蒲団ノ下二人レ、先生ト寝マシタ。
其ノ時、先生ハ私二変ナ話ダガ、オ前少シ臭ヒネト云ヒマシタ。私ハ、気持が少シモ引立タズクオ義理デ先生ト関係シ、其ノ後、先生ハ入浴二行ツタノデ、其ノ間三兀通リ仕度シ、先生カラ受取ツタ十円デ払ヒ、午後一時頃、みどり屋ヲ出テ円タクヲ拾ヒ新宿二行キマシタガ、途中先生ハ、今度二十五日二東京駅デ会ハウト云ツテ、小石川ノ壱岐坂デ降り、私ハ、新宿六丁目デ自動車ヲ捨テマ、シタ。
初メハ、先生二会ッテカラ死ナウト思ツテ居りマシタガ、先生ト別レテカラノ私ハ、何ツ方ニシタツテ死ナナケレバナラナイト漠然考ヘテハ居リマシタガ、石田ノ大事ナ物ヲ身二付ケテ居ル為、安心シタ様ナ気持モ起ラズ、モツト石田ト一緒二居テ、石田ヲ追想シタリ何カシテ楽シムタメ、東京二居テ、ソレカラ大阪二行カウト考ヘテ居りマシタ。
其ノ時、私が着テ居タオ召ノ単衣ハ未ダ時期が早クテ似合ヒマセヌシ、上野デ買ツタ駒下駄ハキックテ足が痛カッタモノデスカラ、新橋中通ノ東屋ト云フ古着屋デ、セルノ単衣物ト名古屋帯ト帯止ヲ十二円二十銭デ。貝ヒ、脱イダ着物ヲ紙包ニシテ貰ヒ、着物ヲ着替ヘテ出掛ケ、近所ノ下駄屋デ総革草履ヲニ円八十銭デ買ツテ穿キ、駒下駄ハ紙箱二人レテ貰ヒブラ下ゲテ出マシタ。尚其ノ近所デニ円五十銭ノ眼鏡ヲ買ツテ掛ケマシタガ、勿論人目二付カヌ様ニスル為デシタ。午後四時頃、新橋六丁目ノ電車停留所前ノ寿司屋二寄リ、寿司ヲ五十銭取リ少シ食べ、残りヲ包ンデ貰ヒブラブラ歩イテ銀座ノコロンバント云フ喫茶店二寄リ、其処ヲ出テカラ昭和通迄歩キ円タクデ浜町公園二行キ、其ノベンチニ腰ヲ掛ケ一時間許リ考へ込ンデ居りマシタ。幾ラ考ヘテモ、結局前ト同ジ様ナ事ヲ考ヘルダケデ、ドウセ死ナ・ケレバナラヌガ、大阪へ行ツテ生駒山カラ谷底へ飛込ンデ死ナウト思ヒマシタ。三原山等ノ話ハ聞イテ居りマスガ、行ク道サへ知ラズ、生駒山ナラ行ツタ事ガアツテ知ツテ居マシタカラ、其処デ死ナウト思ツタノデス。敦レニセヨスグ死ヌ気ハナク、亦ソレ程ノ勇気モナカッタノデ、暫ク石田ノ事ヲ考ヘテ居タイ様ナ気ガシ、今晩一晩東京デ宿ラウト思ヒ、公園前ノ喫茶店デコーヒーヲ飲ミナガラ、夕刊ヲ見タ所、未ダ変ッタ記事ガアリマセヌカラ大丈夫ト思ヒ、夜七時頃、浅草ノ上野屋ト云フ以前泊ッタ事ノアル宿屋二行キマシタ。行クトスグザツトオ風呂二人リマシタガ、大事ナ紙包ハ風呂場迄持ツテ来テ置キマシタ。二階ノ部屋デ一人寝マシタガ、蒲団ノ中デ其ノ包紙ヲ拡ゲ石田ノ「オチンチン」ト「睾丸」ヲ眺メテ居り、少シソレヲシヤブツタリ、前ニモソレヲ当テテ見タリ、色々考ヘテ少シ泣イタリシテ様々寝ラレマセヌデシタ。
朝早ク帳場ノ新聞ヲ借りテ来テ見ルト、私ノ若イ時ノ写真ヤ、尾久ノ事が書イテアリマシタカラ、宿ノ者二此ノ新聞ヲ見ラレテハ大変ダト考へ、蒲団ノ下へ隠シテ置キ、翌十時頃、勘定ヲ払ヒ、雨が降ツテ居りマシタカラ、下駄ト洋傘ヲ借りテ宿ヲ出マシタ。
大阪へ行クトシテモ雨が降ツテ居ルシ、恰好が付カナイカラ夜行ニシヤウト思ヒ、浅草二行キ松竹館二這入リお夏清十郎ノ活動ヲ観、午後二時頃、青バスデ銀座二来テ御飯ヲ食べ様ト思ヒ少シ歩キマシタガ、恰好が悪カッタ為止メテ、円タクデ品川駅二行キ、午後四時頃デシタガ大阪行三等列車ノ切符ヲ買ヒマシタ。此ノ汽車ハ、六時十九分デマダニ時間モアリマシタカラ、駅ノ売店デ新聞五通買ヒ汽車二乗ツテカラ読ム心算デ、荷物ト一緒二包ミ駅前ノ喫茶店デ酒ヲ一本飲ンデ、空腹ノ為メ連モ酔ヒ眠クナツテシマヒマシタカラ、午後五時頃、近所ノ品川館ト云フ旅館二行キ、湯二人ツテカラビールヲ一本飲ミ、按摩ヲ呼ンデ貰ヒマシタ。
按摩ヲシテ貰ツテ居ル内、良イ気持デ寝転ンダ処、石田ノ夢ヲ見タノデ、寝言デモ言ツタカドウカ按摩二間キマシタガ、何事モアリマセヌデシタ。
按摩ヲ帰シテカラ、御飯ヲ食べ夕刊ヲ見マシタ。ソレ迄ハ、ソレ程ニモ思ツテ居りマセンデシタガ、高橋お伝トカ大変ナ事ヲ書キ立テ、各駅二全部刑事が張り込ンデ居ル事が書イテアツタノデ、.大変ナ事ニナツタ、モウ生キテ居ラレナイシ、大阪へ行クドコロデナイカラ、気ノ毒ダが此ノ宿屋デ死ナウト決心シ、買ッタ切符ハ番頭二頼ンデ金ヲ取り戻シテ貰ヒマシタ。
此ノ儘宿屋二居レバ、警察カラ調べニ来テ其ノ晩ノ内二捕ルカラ、早ク死二度イト思ヒマシタガ、欄間が低イタメ頸ヲ吊ルト足が届イテシマヒ死ネソウモアリマセンカラ、捕マル覚悟デ午前一時迄起キテ居りマシタ。所が其ノ晩ハ、警察カラ誰モ来ナカツタノデ、部屋デ死ナウト思ヒ、朝、女中二頼ンデ夫レ迄ノ勘定ヲ全部払ヒ、離ノ部屋二移シテ貰ヒマシタ。
此処デ頸ヲ吊り、庭迄足ヲ下セバキツト死ネルト思ツタカラ、宿カラレターペーパーや万年筆ヲ借りテ、大宮先生ト、黒川サント、死ンダ石田サントニ宛テタ遺書ヲ三通ヲ書キ、夜中二死ヌ心算デビールヲ三本許リ飲ンデカラ寝テ居ルト、其ノ日ノ午後四時頃、警察ノ人が部屋二来タノデ、阿部定ハ私デスト云ツテ捕ツタ次第デス。
問 此ノ品二覚エガアルカ。此ノ時予審判事ハ、昭和十一年押第七二一号ノ一乃至二九ヲ示ス
答 一ノ腰紐ハ、待合「満左喜」デ石田ノ頸ヲ締メルノニ使ツタ私ノ腰紐デス。
二、三ノ桜紙ハ、私ガ『満左喜』デ使ッテ居タモノデスカラ、さくらノ間二在ッタトスレバ、私が片付ケ残シタモノカモ知レマセヌ。
四ノ陰毛ハ、石田ノ陰部ヲ切ル時一緒二切レタノヲ、私が座敷へ取り落シタモノダト思ヒマス。
五ノ雑誌ハ、『満左喜』二居タ当時買ツテ来テ貰ツテ読ンデ居タモノデ、石田ヲ殺シタ後デ、枕元ニコレヲ捨テ置キマシタ。
六ノ眼薬ハ、石田ノ頸ヲ締メテ顔が赤クナツタ時、資生堂カラ買ツテ来タモノデス。
七ト九ノ祥天ハ、『満左喜』カラ借りテ石田が使ッタモノデ、石田ヲ殺ス時ハ裸デ寝テ居りマシタガ、殺シテカラソノ二枚ヲ着セマシタ。
八ノ敷布ハ、石田が敷イテ居タモノデ、之レニ書イテアル定、吉二人キリト云フノハ、私が書イタ字デス。
一〇ノ花札ハ、『満左喜』カラ借りテ、石田ト遊ブノニ使ッタモノデス。
一一ノ都新聞ハ、『満左喜』カラ借りテ、さくらノ間へ持ツテ来テ置イタモノデ、其ノ内一枚力二枚ハ、汚物ヲ包ンデ便所へ捨テマシタ。
一二ノ脱脂綿ハ、使ツタ覚エガアリマセン。
一三乃至一五ノ汚レ物ハ、汚イ物ヲ便所へ捨テマシタカラ、『満左喜』ノ便所カラ出タモノトスレバ、私が捨テタモノダト思ヒマス。
一六ノ手洗ノ蓋ハ、便所へ水ヲ流シ込ム際、落シタモノデス。
一七乃至一八ノ陰茎及睾丸ハ、私が石田カラ切り取り捕マル迄持ツテ居タモノニ相違アリマセン
一九ノ肉切庖丁ハ、買ツタモノデ、石田ノ局部ヲ切取ッタリ、名ヲ石田ノ腕二刻ミ付ケル時使ツタモノデス。
二〇、二一、二二ノ衣類ハ、石田ノモノデス。
二四ノ御召ノ単衣物ハ、小野古着店デ買ツテ、先生ト会ツタ間、一時着テ居タモノデス。
二五ノセルノ単衣物ハ、新橋ノあずまやデ買ヒ、品川館迄着テ居タモノデス。
二六ノ名古屋帯ト、二七ノ帯上モ、同様デス。
二八ノ眼鏡ハ、新橋デ買ヒ、品川館二居ル時掛ケテ居タモノデス。
二九ノ新聞紙ハ、品川駅ノ売店デ買ツタモノデス。
問 被告が書イタ石田宛ノ遺書ニヨルト、十六日ノ晩、石田ヲ締メタ時、殺ス考ヘガアツタ様ニモ思ヘルガドウカ。
答 前ノ晩頸ヲ締メル時ハ、是非殺スト云フ決心ハナカツタノデスガ、締メナガラ関係シテ居ル中連モ可愛クナリ、ギユツト締メタノデ、結リ殺シテシマヒ度イ程可愛クナツタノデスカラ、石田が苦シソウナノヲ見テ手ヲ離シタノデス。
問 被告ハ、今度ノ事件二付テドウ考ヘテ居ルカ。
答 警視庁二居ル頃ハ、未ダ安心シテ嬉シイ様ナ気持デアリ、石田ノ事ヲ喋ベルト嬉シカッタシ夜ニナルト、石田ノ夢ヲ見タイト思ヒ、刑務所へ来タ当時モマダ石田ノ夢ヲ見ルト、可愛イ、様ナ嬉シイ様ナ気持ガシテ居りマシタガ、一日一日ト気持が変ツテ来テ、此ノ頃ハアンナ事ヲシナケレバヨカツタ、馬鹿くシイ事ヲシタト後悔シテ居りマス。
殊二殺サナケレバヨカッタガ、仕方ナク殺シタトシテモ、石田ノモノヲ取ツタリ、襯衣ヲ着タリシナケレバヨカッタト思ツテ居りマス。
一番後悔シテ居ル事ハ、アンナ事サヘシナケレバ、今頃ハ大宮先生ト一緒ニナツテ幸福ナノダガト思フ事デス。然シ大宮先生ガアルカラ、石田ノ事ヲ馬鹿くシイト思フノデハナイカト考ヘルト、何ダカ石田二申訳ナイ様ナ気モシマス。只今デハ成ル可ク石田ノ事ヲ忘レ様ト骨折ツテ居りマス。従ッテ、今後此ノ事件ノ事ハ、ロニシタリ考ヘタリシタクナイノデ、出来レバ公判トカ裁判トカ、大勢ノ所デ色々ノ事ヲ聞カレルヨリ、御役所デ然ルベク相談シテ判ヲ定メテ下サイ。不服等云ハズ快ク其ノ判ヲ受ケル心算デスソウ云フ意味デ弁護士ハ要ラナイ様二恩フノデスガ、只世間カラ、私ヲ気狂ノ様二誤解サレルノが一番残念デ、此ノ点ノ申開キヲスル為二、矢張リ弁護士ヲ頼マウカト思ヒマス。デスカラ最後二此ノ点二付キ述べサシテ戴キ度イノデスガ、私が変態性欲者デアルカドウカバ、私ノ今迄ノ事ヲ調べテ貰ヘバ良ク解ルト思ヒマス。今迄ハ自分ヲ忘レテ男ト関係シタ事モアリマスガ、夫レデモ自分ヲ忘レズ、時ト場合ヲ考ヘテ簡単二別レテ居マシタ。
例ヘバ、中川朝次郎ニシテモ寝タ間八良イガ、顔や姿ノ悪イアラが良ク判ツテ居り、同人ト関係シテ自分が眠ツテ居ル間二帰ラレ、今頃ハ家内ヲ抱イテ居ルナト想像シテモ平気デアツタシ、大阪デ淫売当時知リ合ツタ八木幸次郎ト云フ人ハ、様子モ良イシ表面金離レモ良カッタシ可成リ惚レ合ツテ居マシタガ、金モナイノニ取繕ツテ見栄ヲ飾ル様子が眼二付キ、別レルノヲ何トモ思ヒマセンデシタ。
今迄、私ハ、ソレ位理性が勝ツテ居り、男二吃驚サレタ事モアリマシタ。処ガ、石田ダケハ非点ノ打チ所がナイ。強イテ云ヘバ品ハアリマセヌガ、却ツテ其ノ粋ナ所が好イタノデ、全ク身モ心モ惚レ込ンデシマツタ訳デス。
私ノ事ハ世間二判ツタカラ、可笑シク騒ガレルノデスガ、女が男ノモノヲ酷ク好ク様子ヲスルノハ、世間ニザラニアルト思ヒマス。早イ話ガ、オ刺身ヲ好カナクテモ、亭主が好ケバ自然ト好ク様ニナリ、亭主ノ留守二亭主ノ枕ヲ抱ヘテ寝タリスル事ハ良クアル事ト思ヒマス。
自分ノ好キナ男ノ丹前ノ嗅イデ、気持ヲ悪クスル女ガアリマセウカ、好キナ男ノ飲ミ残シタ湯呑ミ湯ヲ飲ンデモオ美味イシ、男が噛ンダモノヲ口移シニシテ食べテ、オ美味ガル事モ良ク世間ニアリマス。
芸者ヲ落籍スルノモ、結局自分ノ独占ニシヤウトスルカラデ、男二惚レタ余リ、今度ノ私ガヤツタ程度ノ事ヲ思フ女ハ、世間ニアルニチガヒナイノデスガ、只シナイ丈ノモノト思ヒマス。尤モ、女ダツテ色々アリマスガ、恋愛本位デハ御飯が食べラレナイト思ツテ、物質本位ノ人モアリマスガ、恋愛ノ為メ止ムニ止マレズ、私ノシタ様ナ事件二成ルノモ、色気違ヒ許リカラデハアリマセヌ。 
四 事件その後 / もしくは問題点の素描 

 

予審判事正田光治は、定の印象を次のように語っている。
普通一般の商売女にあり勝な極めて洗練された態度を有する女に過ぎず、時には涙を流して語るやさしさもあり、入廷退廷には必ずいんぎんに会釈し、通常人と少しも変らぬ動作であった、ただ心のうつり変りが多くて、取扱が気にいらないと、妙にすねる点があった。(法律新聞四〇四一号)
ちなみに予審は、フランス法の影響を受けた治罪法(明治=二年公布) 以来、旧刑事訴訟法(大正= 年公布) でも採用された裁判制度である。裁判官が、起訴された被告人を公判に付すが、免訴にするか決定するため、または公判で取り調べにくい証拠を収集保全するために行う手続きが、予審だった。
しかも予審は、非公開であり、訊問に弁護人の立ち会いを認めず、作成された予審調書は公判で無条件に証拠能力をもつなど、糾問主義的な色彩の強い制度だった。言い換えれば予審は、公判で有罪を宣告するための前提条件であった。ゆえに予審廷自体、冤罪を生じさせる温床だったとの指摘がある。
予審が始まると、正田予審判事は阿部被告の精神鑑定を依頼した。
鑑定期間は、昭和一一年九月一〇日から同月二六日までの一七日間、鑑定人は、東京帝国大学医学部講師の村松常雄医学博士だった。この時点で、被告の有罪はなかば準備されたといえる。
昭和一一年(一九三六) 一二月二二日、阿部被告は懲役六年の判決(未決通算一二八日。検事は懲役一〇年を求刑)を受けた。なお判決に至る経過が新聞に掲載され、合議の秘密を漏洩したと批判された。
のちに、弁護人竹内金太郎は、この判決に誤審ありとし、傷害致死で懲役三年が相当だったと述べている(『週刊新潮』昭和三一年一〇月一五日)。
しかし被告は、控訴権を放棄し、栃木刑務支所で服役した。まじめな獄中生活を送ったという。
昭和一五年(一九四〇) 二月一一日紀元二千六百年祝典で恩赦減刑され、残る刑期の二分の一を済ませ、昭和一六年五月一七日に出所した。奇しくも被害者の五回めの命日の前日だった。
阿部定事件については、当時の新聞報道をはじめ、小説、本人の手記、伝記、ルポルタージュ、回想記、映画など多数の著作物がある。
従来の作品中には、関係者を実名で表記したものもある。昭和五一年(一九七六) には、事件にもとついた映画「愛のコリーダ」(大島渚監督)が公開された。東京地検が、そのスチール写真とシナリオで構成した単行本をわいせつ文書として摘発したところ、表現の自由をあぐって法廷闘争が展開された(結果は、被告側勝訴)。
出獄後、阿部元受刑者は、或る暴露本の著者、出版社を名誉穀損で告訴したり、キワモノ的な舞台演劇や映画に出演したりして話題をまいた。彼女の身辺には、終生「事件」の影がまとわりついた。心ならずも好奇の対象とされたことに、小職は同情を禁じ得ない。
晩年は処々流転の末、昭和四六年(一九七一)六月頃まで千葉県市原市のホテルで働いていたことが確認されている。昭和五〇年(一九七五) ころ、浅草の旅館にかくまわれていたというが、以後消息を絶ち生死はいまだに不明である。
(お断り) 本稿では、半世紀以上経過した事件に関する資料を精確に残すため、関係者名も原文のまま表記しました。ご了承ください。
 
阿部定事件と新派

 

時代の雰囲気、阿部定の雰囲気
昭和11年5月10日、一人の女性が明治座の新派合同公演を観劇します。演目は講談種の毒婦物「夜嵐お絹」、他に金子洋文作「牝鶏」、三好一光作「片時雨」、そして泉鏡花の原作を川口松太郎が脚色した花柳界物「新版つや物語」でした。その内「夜嵐お絹」は実際にあった有名な殺人事件をネタにしたものであり、「新版つや物語」は猟奇的な殺人へと至る閉塞的な筋立てを持った物語でした。この年は、ナチス=ドイツのラインラント進駐、スペイン内乱、西安事変などがおこった年で、世界は非常に不安定な状況にありました。東京も2,26事件により戒厳令下におかれ芝居と同様に閉鎖的でした。そんな中、明治座でひとり芝居見物をしている女、、、彼女も非常に閉息的な状況にいましたが、それは世界の情勢や戒厳令とは関係がなく、多分に自分の狭い世間の他に何も世界を知らない女性でした。観劇の翌日「新版つや物語」を見て思いつき、金物屋で出刃包丁を買った(実際に買ったのは牛刀)その女の名は、阿部定といいました。
阿部定事件については、ここで詳しく述べることもないでしょう。後年、何度も映画化され、そのほとんどががポルノであり、特にフランスがポルノの全面解禁をした年のカンヌ映画祭で上映された大島渚監督の「愛のコリーダ」(76’フランス映画)は、日本初のハードコアポルノでした。世界のOSIMAへの大きなステップとなったこの作品では(78年の「愛の亡霊」で大島はカンヌ映画祭監督賞受賞)、当時テレビで人気のあった被害者役の主演男優藤竜也が、映画の中で実際に性器を露出し性交するというのも話題でした。AVが当たり前になってしまった今日から考えても、一般映画でキャリアの長い有名男優が撮影の中で性行為を行い、それがスクリーンに写し出されるというのは、衝撃を通り越したものがあります。映画自体には芸術性があり海外でも評価されましたが、無修正版を観る海外ツアーが組まれたり、写真集をめぐって大島本人らがわいせつ図画販売で起訴されたり(54.10.19東京地裁、無罪判決)、日本のポルノ映画史上、というより日本映画史の中でも非常にスキャンダラスな映画のあり方でした。しかし実際の阿部定事件は、スキャンダラス、ショッキングそして好奇の注目を集めるという点で、後の映画が起こした騒ぎなど足下にもにも及ばない大事件でした。殺された被害者がいるとはいえ、それは戒厳令下の帝都の淀んだ空気に、荒川区尾久の待合から噴射された笑気ガスの一撃でした。さぞやいいガス抜きになったのでしょう。逮捕された阿部定の有名な写真の中で、殺人犯を護送しているはずの刑事のニヤニヤした顔が物語っています。
事件発生まで・・・「新版つや物語」
阿部定「(前略)明治座で芝居を見ましたが、身を入れて見る気はなく役者を見てもA(被害者)の方が良いなあと矢張りAの事ばかり考えて居りました。その芝居は出刃包丁を使う場面があったので自分も出刃包丁を買ってAに巫山戯してやろうと云ふ気になり、その晩十一時頃稲葉方へ帰りました」(予審調書)
そもそも阿部定が芝居の影響で刃物さえ買わなければ、たとえ殺人を実行したにせよ、下腹部を切断し持ち歩くなどという行為はできなかったわけです。そうなると、単に色惚け女が愛人の男を痴情の果てに殺害したという、とりたてて珍しいことのない事件になり、映画などを含むその後のさまざまな出来事もなかったことになります。帝都市民にニヤケ顔ならぬ笑顔をもたらすのは、同年8月のベルリンオリンピックにおける、「前畑ガンバレ!」のラジオの実況中継まで待たねばなりませんでした。阿部定という人が昭和11年5月10日に明治座で新派公演を見たということは、日本の社会史の上で、実はとても重要なことだったのです。
裁判官「被告は芝居がすきか」
阿部定「大好きです」
裁判官「どんなのが好きか」
阿部定「まあ、新派でしょうね」
第一回公判で、阿部定はこう証言しています。あまりの素行の悪さから、17才の時に実の父に芸者に売られた阿部定は、当時としても珍しいケースだったようです。借金を返して年季を明けようという気持ちもなく、半端な気持ちの芸者勤めをするうちに、自分から飛田遊廓の娼妓となり、以後苦界を漂泊していきます。理性もなく、見栄っ張りで威勢のいいことを言っているわりにはすぐに流される阿部定は、どんな局面でも後先を考えるということができない性格だったようで、常にその時々の楽な選択をして苦しい状況へ陥っていきます。逮捕直後の独房で看守に枕の高さで注文をつけ、取り調べの最中にビールを飲みたがったと伝えられていますが、このような狭い世界観の阿部定が、芝居の中でも特に新派が好きで自己同一化してしまうのにはうなずけます。新派の主人公は花柳界の人間であることが多く、阿部定も芝居の登場人物に自分を重ねて見ていたでしょう。芸者が主人公だと、テーマは女の意気地ということになり、彼女らは時に伝法であり時にか弱く儚いのです。また、虚勢を張り、人に甘えることしか処世術を持たない阿部定が、神田で生まれた神田育ちであることを考え合わせれば、一見突拍子もなく思いのままに飛んでいくようなその言動を美談にせずに理解することもできるでしょう。
阿部定「(前略)その晩十一時頃稲葉方へ帰りました。Aと別れる時五、六日経ったら会ふという事でしたがとても待ち切れませぬから、とに角「玉寿司」へ電話して見やうと思ひ丁度稲葉夫婦が留守だったので子供をお使いに出し「玉寿司」へAから何か話はなかったかと電話すると、先方から電話番号を聞いて置いて呉れとのことだったのでそれではもう一度電話で知らせると云って切りましたが、その時は嬉しくて慄え上がりました。」(予審調書)
「新版つや物語」は、泉鏡花原作の新派の名作「通夜物語」を川口松太郎が脚色したものです。昭和11年5月明治座が初演でした。主人公の芸者小今は「通夜物語」では花魁丁山になっています。「通夜物語」上演が警視庁から不許可となり(花魁、女郎、廓内で生活している女性の芝居の禁止)、やむなく花魁を芸者に代えて脚色しました。ところが川口脚本を原作者の泉鏡花が気にいらず自分で手を入れたため、かえって詰まらなくなってしまいました。結局松竹大谷社長の指示で、2日目から序幕「上野梅川楼二階座敷の場」と二幕目「玉川清下宿の場」がカットにり、いつも終演が遅かった新派公演が早く終わるということ(それでも10時15分)にもなりました。普段通りもっと遅い終演時間だったら、阿部定がその日のうちに「玉寿司」へ連絡を付けられなかった可能性もあり、事件も違う方向へ向かっていたかもしれません。
川口脚本に鏡花が手を入れたのは、上演された部分では序幕、二幕、大詰めの幕開きです。ちなみに、鏡花がどんな改稿を行ったかというと、カットされた「上野梅川楼二階座敷の場」では、卒業生の会の場で清が借金の催促を受け、見かねた幹事が会費から借金を払う。会費がなくなったので会ができなくなり解散するところへ、颯爽と小今が現れて金を出すという筋を鏡花は不自然だとして、会費を預かった幹事が金を落としたので会が中止になるところ小今が払う、というふうに書替えました。(以前の古い「通夜物語」でも、清が借金の催促をされる筋になっています)一度は川口脚本を覚えていた俳優達も、鏡花改稿脚本を受け取ったのが初日1週間前の巡業中とあって混乱、丁山役の花柳章太郎は演目差し替えまで考えたもののそうもいかず、大きなストレスとジレンマを抱えてしまいました。その後も変更があり、何とか初日を迎えましたが当然よい評判は取れませんでした。
裁判長「被告は五月九日の夜に(予審調書では10日)明治座で新作「新版通夜物語」という芝居を観たか」
阿部定「観ました」
裁判長「それはどんな筋だった」
阿部定「なにか芸者がかわいい男を出刃包丁で殺して、その血で男の姿をふすまに描くところがありました」
裁判長「それにひどく感動したわけだな」
阿部定「(答えず)」(第1回公判)
上記のように阿部定は「新版つや物語」の筋を説明していますが、実際はまったく反対の筋で、清の左腕をへし折った悪役の代議士篠山を小今が出刃包丁で刺し殺し、自分の腋の下も刺し流れ出た血で清に自分の姿を襖に描かせ、自分は喜んで死んでいくのです。阿部定は、より自分の欲望に近い筋に思い込み、裁判になっても気がついていません。芝居を観た日、どれだけ阿部定が切迫した精神状態だったかわかるというものです。もちろんそれは、世界情勢でも世の中のでも戒厳令でもなく、被害者の体を他の女に触れさせたくない、自分が独占したいという一心です。2週間程この妻子ある被害者と流連し、その間金が無くなると名古屋まで行って金蔓の愛人某氏(芝居に登場する篠山と同じく金も地位ある人物で、学校長であり県会議員。国会議員を目指していた。阿部定を更生させようとした人で、事実、定は淫売生活をやめている。被害者の経営する料亭で女中奉公をしたのも元はといえば、某氏が資金を出して定に商売をさせてくれることになったので勉強するためだった)を騙して金を貰って戻ってきてはまた流連するというくらい、阿部定の被害者に対するエネルギーは凄いものがありました。ちょうど9日(予審調書では10日)は、金も尽き泣く泣く別れ、被害者は妻と子供の元へ帰り、阿部定は知人宅へ転がり込んでいたところでした。
小今「卑しい稼業はしていても、親代々の負けず嫌い、東京生まれの魂は、胸三寸に納まっているんだ。金の光に目が眩んで左様でございますかと、兜を脱ぐような意気地なしじゃないんだよ」
清 「(札束を篠山の前に叩きつけ)素寒貧の清でも、五百や千の金は持っているンだ。憚りながら江戸っ子だい。命を懸けて惚れた女を貴様なんぞに取られては、東京生まれの面汚し、さあ、金で身請けをした小今の身体を、指一本でもさしてみろッ(小今を抱き)もう苦労はいらねえぞ。しっかり俺に抱かれていろ!」(「新版つや物語」二幕目返し「向島植半の場」のセリフ)
金さえあればいつまでも被害者とぬくぬく流連して、痴情の限りをつくしていられた阿部定ですから、こんな啖呵をきってみたかった、きってもらいたかったことでしょう。しかし、被害者は自分より強い者に啖呵のきれるような人物ではなかったようで、金が無くなると料亭を切り盛りする妻の所へ戻っていきます。定はもう後のない生活だったので(30代となり、かつてのようにいい旦那がいくらでも見つかる状況ではなくなったこと、売春婦の生活にはこりごりしていたであろうこと、店を出させてあげようという旦那である某氏の申し出、、、つまり、切られそうになっていたこと)かなり追い詰められた精神状態だったようです。ここで普通の人間だったら、どこかに怨みの鉾先を向けるとしても、愛人、愛人の妻、旦那、自分、社会などがその的になるところです。ところが阿部定は何故か、怨みというよりも咆哮するすてばちなプライドらしきものを、奇妙な形で実現してしまったのです。
後日談・・・「日本橋」
阿部定には、事件発覚、逃走中、逮捕、裁判、刑務所生活、出所後それぞれに、ここでは書ききれないほどの沢山のエピソードがあります。出所後しばらく静かに生活していたのに、自分について書かれた出版物に対して訴えを起こし、再び世間の前に姿を現したりもしました。小料理屋を経営したり、女優として一座を組み実演をしたところなど、やはり毒婦と言われ読み物や芝居(歌舞伎の河竹黙阿弥「月梅薫朧夜」、新派の名作の伊原青々園「仮名家小梅」川口松太郎「明治一代女」)にもなった、有名な箱屋殺しの花井お梅と共通するところがあります。もちろん阿部定事件は暗く貧しく下品すぎ、歌舞伎や新派の芝居にできるような粋さもなければ艶も意気地もありませんが、70年代にポルノ映画になり平成に入っても映画化されました。阿部定自身も、著名人達に可愛がられたり、映画に出演したりで、マスコミにもしばしば登場していたようです。どこか文化人のように扱われている時期もあります。今日になっても阿部定事件に関して書かれた本が出版され、映画も作られているところからして、まだまだ阿部定は人々の関心を引ける人物のようです。猟奇事件と言われているが実は、定という純粋な女と被害者の究極の愛とエロスの結果だった、という理解の仕方が今や主流のようにも感じます。何事も時が経つとともに美化され、時には同じ時代を共有さえしなかった人達の思想や思惑や思い込み理想などが、事実を取り囲み被いかぶさることもあります。阿部定という人はどんな人だったのか、今となっては余計に解りにくくなっているといってもいいでしょう。判っていることは、東京生まれの東京育ちだった、畳屋の娘だった、娘時代に慶応大学の学生に強姦された、不良だった、父親に芸者に売られた、自分から売春婦になった、女中になった、いい旦那に巡り会った、それなのに男を作って殺人を犯した、刑期を終えて出所してからは一度も罪は犯さなかった、今は生きているのか死んでいるのかもわからない、、、というところでしょうか。
最後に阿部定の所在が確認できるのは、昭和46年、知人の経営する千葉の旅館で仲居をしていた時のことです。66才になっていました。一生の間に沢山の偽名を使った定ですが、この時も素性を隠し偽名を使っています。
「そうね、あたし、新派の『日本橋』に出てくる「こう」という女が好きだから、こうと呼んでちょうだいな」(堀ノ内雅一「阿部定正伝」)
こう阿部定は言ったと言われています。「日本橋」もやはり泉鏡花の原作で新派の名作中の名作です。今でも度々上演されています。主人公のおこうはやはり伝法で負けず嫌いな芸者で、敵役の男を刺し殺し、自分も好きな男の腕の中で死んでいきます。定の新派好きは、事件前も事件後も変わらなかったようです。こんな芝居の中の死に方に、最後まで憧れていたのでしょう。
阿部定は、結局千葉の旅館からも突然姿を消してしまいます。以後、定の所在はわかりません。「愛のコリーダ」で関心が集まった時もマスコミが定を探しましたが、見つかりませんでした。たとえどこかで淋しく死んだとしても、思い込みの激しい定のことですから、惚れた男の腕の中で「お前は俺の女房だ」と言われながら死んでいく芸者だと、自分のことを思い込んでいてくれたらと思ってしまいます。
阿部定は、旅館から消えるとき、旅館の箸袋の裏に書いた書き置きをしていきました。
「(前略)くれぐれも御立腹なきよう お詫び申し上げます ショセン私は駄目な女です。 こう」 
 

 

 
 
 
■高橋お伝

 

高橋お伝 1  
(たかはし おでん、本名:高橋でん、嘉永3年(1850年) -
明治12年(1879年)1月31日)は強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなった。上野国利根郡下牧村(現群馬県利根郡みなかみ町)出身。「明治の毒婦」と呼ばれた。
嘉永3年7月(1850年8月) 誕生、生後すぐに養子に出される。 慶応2年12月(1867年1月) 高橋浪之助と結婚。 明治5年(1872年)
9月17日 夫・浪之助が癩病を発病後死去。毒殺などと言われるが実際は逆で、お伝は厚い看病をしている。その後小川市太郎と恋仲になる。 明治9年(1876年)8月 
ヤクザ者の市太郎との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、枕を交わすなら金を貸すと言われる。8月26日 吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で一晩を過ごす。
8月27日 吉蔵が態度を変え金は貸せないと言い出したため、怒りにまかせるままに剃刀で喉を掻き切って殺害。財布の中の金を奪って逃走する。 9月
9日 強盗殺人容疑で逮捕。 明治12年(1879年)1月31日 
東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄で死刑執行。八代目山田浅右衛門の弟吉亮により、斬首刑に処された。遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部(性器)の標本が衛生試験場に保存され、のち東京大学医学部、戦時中には陸軍病院に渡ったともいわれるが詳細不明である。その後小塚原回向院に埋葬された。墓は片岡直次郎・鼠小僧次郎吉・腕の喜三郎の墓に隣接して置かれている。
明治14年 (1881年) 4月 
お伝の三回忌のおりに仮名垣魯文の世話で谷中霊園にも伝の墓が建立された。こちらには遺骨は納められていない。十二代目守田勘彌、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らが寄付者となっている。お伝の芝居を打って当たったのでその礼として建てたという。
作られた毒婦「高橋お伝」 読売新聞より
日本の刑罰史上、最後の斬首刑
「明治の読売新聞」に、「高橋お伝」の関連記事は26本出てきます。その初報は、1876年(明治9年)9月12日付1面「少し古いが先月二七日に浅草蔵前片町の丸竹といふ旅人宿にて一人の男を殺した女の一件のあらましは…」という書き出しで始まっています。2面にも続く長文の記事ですが、以下、ごく簡単に概略を紹介します。
――上州(群馬県)生まれの高橋お伝(29歳)は数年前、病気の夫と国を出奔、横浜に出てきた。夫の病死後、別の男と同居していたが、10円の借金があり、その返済を迫られて古着屋・吉蔵に金策を頼んだ。吉蔵に「どこかでゆっくり話を」と言われ、丸竹に宿泊したが、金の融通を断られ、剃刀で吉蔵の喉を切って殺害。11円を奪い、「姉の仇」との書き置きを残して逃走した。お伝は、盗んだ金で借金を返した後、捕まった。
記事は、まだ斬首刑があった明治初期らしく、「此上は首と胴とが離れ離れと成りましょう〜アア恐ろしい事で有りませんか」と結ばれています。
しかし、この後は「お伝」に関する裁判記事もなく、特に騒がれた形跡もありません。 そして2年半後、1879年(明治12年)2月1日付で「昨日東京裁判所にて斬罪の処刑を申し渡された上州生まれの高橋お伝は…」と、いきなり死刑判決の報道。さらに4日付「浅草の警視第五病院で解剖」の記事で死刑執行が報じられました(判決が言い渡された1月31日、お伝は市ヶ谷監獄で日本の刑罰史上最後となる斬首刑に処せられています。執行人は、幕末に多くの志士を処刑した「首切り朝右衛門」でした)。
お伝は法廷で「仇討ち」を主張
読売新聞は2月2日付から4回にわたり、裁判記録を中心に事件を詳報しています。記事の大筋はお伝の供述に基づくもので、初報とかなり異なりますが、以下はその要約。
――お伝は婿養子の夫がハンセン病を患って家にいづらくなり上京。偶然出会った異母姉の世話で横浜に移り、夫の療治に努めていた。しかし、姉を囲っていた内田仙之助がお伝に言い寄るようになり、仙之助の使いの男から渡された薬を飲んだ夫が急死。その後、お伝は何人かの男の世話になるうち、横浜の姉の急死を知らされ、それも仙之助の仕業と確信した。お伝は東京で知り合った男と商売をして暮らしていたが、商売上の金が必要になり、知り合いに「後藤吉蔵」という金満家を紹介してもらった。それが何と仙之助。お伝はたびたび吉蔵に会い、夫や姉の死の真相を問いただす。そうしてある日、一泊した宿で吉蔵はお伝に短刀で襲いかかった。振り払った刀が吉蔵の首に当たり、吉蔵は「もうこれまで」と自ら短刀を喉に突き立てた。お伝は「姉の仇」と書き残し、宿を去った。
以上、事件はまるで仇討ちのように描かれています。しかし、記事は連載の最後に「是までは高橋おでんが裁判所で申し立た口供でありますが姉の仇討ちだの夫の仇だのというのは皆お伝の拵へ事で全たく色に事よせて吉蔵の金を取ろうとしたのを見顕されたゆえ隠して居た剃刀で吉蔵を殺したに違ひない」と、お伝の供述を全面的に否定。同様の趣旨でお伝の罪状を認めて斬罪を言い渡した東京裁判所の判決を掲載し、連載を終えています。
確かに、夫と姉(実在したかどうかも不明)の死因や吉蔵との再会など、お伝の供述は偶然に過ぎ、かなり作り話めいています。しかし、お伝が夫の病気で追われるように郷里を去り、その療養に尽くしてかなり苦労したことは事実のようです。事件が「金ほしさからの殺人」という判決の通りだとしても、それだけで「毒婦」になるのでしょうか。
絵草紙、芝居で一気に「話題の人」に
実は、お伝が「希代の毒婦」として有名になったのは、処刑後まもなく刊行された絵草紙と、新富座などで上演された芝居によってでした。 明治の花形戯作者・仮名垣魯文は処刑からわずか3か月後、絵草紙『高橋阿伝夜刄譚』(たかはしおでんやしゃものがたり)を刊行、大評判をとります。 人気戯曲家・河竹黙阿弥も同じころ、狂言『綴合於伝仮名書』(とじあわせおでんのかなぶみ)を書き上げました。同年5月6日付の読売新聞は「新富座の今度の狂言の二番目は高橋お伝と極り菊五郎のお伝であります」と伝え、13日付は、黙阿弥と尾上菊五郎が「囚人が糾問されるところを実地にみたい」と裁判を傍聴したことを報じています。
これら絵草紙や芝居に描かれたお伝は「色白であだっぽく妖艶、うそつきで情欲深く、男を次々と手玉に取り、揚げ句の果ては殺してしまう年増女」のイメージ。ストーリーも裁判記録を基にしたとはいえ、作者たちの想像、というより「創造」に近いもので、魯文の作品では、ハンセン病の夫の死までも、お伝が殺したことになっています。 それらがいつしか、お伝の実像として定着、後には新聞にも1908年(明治41年)8月1日付「新人国記/上州(5) 毒婦高橋お伝は、上州に於ける女盗の最大なるもの也」などと書かれるようになったわけです。
しかし、初期の新聞記事を見る限り、お伝は病夫を抱え、苦労の末に借金返済に困って殺人を犯した不運な女性としか見えません。「毒婦・お伝」は、絵草紙や芝居という当時の大衆的メディアが、「商品」としてつくり出した虚像だったのではないでしょうか。
『週刊日録20世紀 男と女の事件簿』(1999年、講談社)は、事件当時、お伝と同居していた男性が尾上菊五郎に語ったという次のような言葉を紹介しています。
「従順にして規矩正しき一見士族の女房風で芝居の毒婦的人格にあらず」 
 
高橋お伝 2 / お伝の実相

 

わが国の「悪女伝」に類する本には、必ずといってよいほど「高橋お伝」がはいっている。常連といおうか、定番といおうか。
男を次々とたぶらかして殺害した稀代の悪女、毒婦で、明治初期に処刑された。
高橋お伝の陰部がホルマリン漬けになって保存されており、現物は東京大学医学部にあるが部外秘で、公開はされていない。特別の許可を得て観察した人によると、その陰部は特殊な形状をしていて、多くの男をとりこにしたのもむべなるかなと感じたそうである――こんな話を昔、読んだことがある。
いわゆる歴史の雑学本だった。もちろん、当時の筆者は本当だと信じた。できればそのホルマリン漬けを見たいと切実に思ったものである。
その後、東大の関係者に尋ねたところ、まったくのデマであるとのこと。
別な東大関係者によると、「自分は見たことはないが、保管されているのは確からしい」と。
はたして、本当なのかどうか。
それに考えてみると、もし本当に保存されているとしても、ホルマリンに漬かって100年以上も経過している。ふやけてしまい、形状が変化しているのは当然ではあるまいか。
さて、筆者は高橋お伝に関するいくつかの資料を読んだが、どうも判然としない。
というより、お伝の伝記と称するものはあまりにたくさんあり、フィクションとノンフィクションが入りまじり、どこからどこまでが事実で、どこからどこまでが作者の創作なのか、よくわからないのだ。
後世の人は先人の著作をベースにするが、そのベース自体が怪しいのである。しかも、後世の人がさらに創作を付け加える。
こうなると、もう一種の伝説化といおうか、伝説の拡大再生産といおうか。
たまたま、明治九年九月十二日付けの朝野新聞に高橋お伝の逮捕の?末が報じられているのを目にした。
この記事にしてもすべて事実かどうかは断言できないのだが、少なくとも明治九年という「現時点」で書かれている。その意味では、もっとも事実に近いであろう。以下、その内容を要約して紹介しよう。
高橋お伝は上州(群馬県)沼田横木村に生まれ、同村の波之助を婿養子に迎えた。
明治二年、お伝は夫波之助とともに村を出て、東京を経て横浜に向かったが、波之助が病気で死去。お伝も病の床に伏したが、同郷の人の世話で明治四年十月、東京の神田仲町の秋元幸吉に引き取られた。
その後、プイと家出をして、幸吉の家で知り合った、麹町十二丁目で砂糖屋をいとなむ小川市太郎のもとに押しかけ、夫婦同然の暮らしをしていた。
このとき、お伝は同居している市太郎には内緒で、房州(千葉県)館山町の船頭田中甚三郎から金十円を借りた。
期限がすぎ、甚三郎にたびたび返済を催促されたが、お伝はそのたびに言い訳をして引き延ばす。
甚三郎もついにたまりかね、
「すぐに返済しなければ、市太郎さんに掛け合う」と宣告した。
明治九年八月二十日のことである。
困ったお伝は翌日、知り合いの檜物町の古着屋後藤藤吉を訪ね、
「船頭の田中甚三郎さんの荷物を抵当に二百円貸してほしい」と申し入れた。
なにしろ大金なので、藤吉もその場では承諾しなかった。
二十六日の夕方になって、藤吉のほうからお伝を訪ねてきた。市太郎に知れるとまずいので、お伝は藤吉を蕎麦屋に連れて行った。
藤吉がさそった。
「今夜はどこかに一泊しようではないか」
この言葉で、お伝は金を引き出せると踏んだ。もしものときを考え、お伝はいったん家に戻るとカミソリをひそかにふところに忍ばせた。
お伝と藤吉は人力車を雇って蔵前片町に向かい、宿屋の大谷屋に泊まった。
このとき、ふたりは宿帳に、
「武州大里郡熊谷新宿内山仙之助、同妻マツ」と記した。
宿屋でお伝はあらためて借金を申し入れたが、藤吉はうんとは言わない。
計算が狂ったお伝は翌二十七日、熟睡している藤吉の喉笛をカミソリでかき切り、ほとばしる血潮を布団で押し隠した。
その日の昼過ぎ、お伝は吉蔵が所持していた金十一円と書付類を風呂敷に包み、
「ちょっと用事があるので出かけてきます。亭主は具合が悪くて寝ております。起こさないでください」と言い残すや、宿屋を出て行った。
翌二十八日になってもお伝は戻ってこないし、寝ている亭主はまだ起きない。さすがに不審を覚えた女中が寝床を調べに行き、男が死んでいるのを見つけた。
男の死体のそばには、
「この者に五年前、姉を殺され、その後はわたくしも非道の扱いを受けておりました。ようやく姉のかたきを討ちました。 マツ」という意味の書置きが残されていた。
いっぽう、後藤家では二十六日以来、藤吉の行方が知れないので方々をさがしていたが、蔵前片町の宿屋で変死人が出たという噂を聞きつけて訪ね、死人が後藤藤吉であるのを確認した。
男の身元がわかれば、あとの探索はさほどむずかしくない。
二十九日、お伝はあっさり召し捕られた。
当時の新聞だけに、性的な記述はいっさいない。
しかし、いろんな男の世話になっていることから考え、お伝がかなり性的には奔放だったのがうかがえる。体を許すことで男に取り入ったのであろう。
ただし、殺した男はたったひとりである。殺害方法もけっして冷血な計算づくではないし、さほど陰惨でもない。
お伝が稀代の悪女、毒婦とはどうしても思えない。この程度の犯罪者は世の中にはざらにいるのではなかろうか。
明治十二年(1879)、高橋お伝は市ヶ谷刑務所内の死罪場で山田浅右衛門(八代)によって首を斬られた。このとき浅右衛門は斬りそこない、醜態を演じたという。
『明治百話』によると、お伝の前に首を斬られる男がガタガタふるえていた。
これを見て、お伝が、
「おまえさんも臆病だね、男のくせにサ、わたしをごらんよ、女じやァないか」と励ましたという。
なお、明治十三年に制定された刑法で、わが国の死刑は斬首から絞首刑に変わった。
高橋お伝はわが国最後の斬首刑になったといえる。
こんなことも手伝って、お伝は稀代の悪女、毒婦に仕立てられていったのではなかろうか。 
 
高橋お伝 3

 

性に目覚めて
高橋お伝(1850〜1879年)は、強盗殺人罪で日本最後の斬首刑となった女性です。毒婦とか悪婦と称されますが、本当は、その一生を最後まで男に尽くした悲しい女性でした。
嘉永3年に群馬県利根郡みなかみ町で生まれました。お伝の供述書によると、母親は『お春』と言い、若い時に沼田城主の家老・広瀬半右衛門の屋敷奉公として勤めていたそうです。
妾奉公と言って昔は、主人が奉公人をお妾(めかけ)気分で、手をつけることは、普通のことでした。この家老も好色でしたから、美人のお春に目を付けたのも自然なことでした。ある夜、部屋に呼びつけ、酒の酌を命じている内に、H心がわいてお春を引き寄せ、口を吸いながら膝から手を入れ、指を這わせます。初めて知る快感に、イヤイヤと抵抗しても結局は帯を解いてしまったということです。
こうして、半ば強引に犯されるのですが、その後は毎日のように部屋に呼びつけ痴態を繰り広げていたそうです。お春もまんざらではなく足繁く通ったそうです。処女にとってセックスに覚めさせてくれた男は、どんな年寄りでも憎めない存在だったのです。しかし、やがて子供が出来ると、当時の習慣にならい、金を包んで宿下がりを命じられてしまいます。この子が『お伝』でした。実家に帰ると、男を知った女の業でしょうか、またたくまに近所に住む『勘左衛門』と言う男とできてしまいます。
でも、勘左衛門は貧乏で酒飲みのぐうたらな男でしたから、愛想をつかし、娘の『お伝』をこの男におしつけて家出してしまいます。
一人慰めを見られて
勘左衛門の養女となった『お伝』は近所でも評判の美人となり評判の子でした。武士の血を引いていたためか、頭もよく、どこか品のある顔立ちをしていました。14才の時に『宮下要次郎』と言う男との婚姻がきまり一緒になります。しかし相性が悪くて、3ケ月で離婚してしまいました。
お伝の要求が激し過ぎたのではと噂されますが、実際は判りません。しかし母の遺伝でしょうか、魔性の女の芽生えでしょうか、いつの間にか男なしではがまんできない身体になっていたことは事実のようです。例えば、横浜の生糸商人『小沢伊平』に口説かれて、旅逗留の間だけお金で愛人契約を結んだりして割り切った関係のHをしたりしていたそうです。可愛い顔をしていたので、いい寄る男が多かったのです。お伝も身持ちのよい女ではなかったので手当たり次第みたくして、男を漁ってました。この頃知り合ったのが『高橋浪之助』と言う男でした。色白の二枚目と言われ、お伝好みの男でしたから、すぐ同棲生活を始めました。お伝は、昔から面食いだったので、イケメンには弱かったのです。夫婦仲はよかったのですが、16才の時に浪之助がハンセン病にかかったため当時、名医がいると言う横浜に行くため故郷の群馬県を後にします。この時、身を寄せていたのが義姉の家でした。病人を看病しながら、生計をたてるために金になる異人相手の娼婦となります。当時は、華族の娘でも娼婦になるような時代でしたから、珍しいことではなかったのです。
しかし、こんなに苦労して尽くした夫も1年あまりで死亡してしてしまいます。
この時、身を寄せていた義姉もやがて原因不明で死んでしまいます。(お伝と、義姉の旦那が共謀毒殺したとの説があります)義姉の死後、この主人の『後藤吉蔵』が一人身になったお伝に言い寄り、毎夜しつこく身体を求めてくるようになりました。きっかけは、お伝が肌寂しさに一人慰めていた時、淫らな声を聞いた義姉の主人が、全裸で部屋に入ってきてお伝を犯したことからでした。
しかし、吉蔵は本心から好きな男ではなかったよです。夜のほうも、女を満足させてくれない自分身勝手な営みでした。そういう関係に、嫌気をさしていた頃、偶然知り合ったのが『小川市太郎』という色男でした。二枚目の役者顔に一目でぞっこん惚れてしまいます。
当時、市太郎は義母と同居していたのですが(この義母とは身体の関係があったそうです)、お伝に乗り換えを考えて、ジャマな義母を殺し床下に埋めてお伝を迎えたそうです。そんな男でしたから、そうとうの悪人でした。その上、三日に明けず酒と博打にうつつを抜かすヤクザ男でした。それでも、惚れた弱みで情婦として離れることができなかったのです。
『市さぁん、市さぁん』と泣き叫んで
1876年8月、お伝が26才の時に市太郎と二人で始めた茶の販売店がうまく行かず、借金がかさんだため、市太郎にそそのかされて、前カレの『後藤吉蔵』に会いに行きます。200円の借金を頼んだ所『枕を交わすなら金を貸すと』と吉蔵に言われたからです。お伝は、金欲しさに蔵前・片町の旅旅籠『竹丸』で会うことになります。ところが散々、身体をもて遊んでしまうと、吉蔵は態度をガラリと変えて『そんな金はない』と言い出します。『こんちきしょう、さっきのスケベはなんだったのサ』とお伝は怒ります。喧嘩になり、殴り殴られしている内に気がついた時は、吉蔵の喉を剃刀で掻き切っていました。万一の場合を考えて剃刀を隠し持っていたのです。
その場から逃亡するのですが、すぐ逮捕され裁判で『斬首刑』を命じられます。
お伝の29年間の短い一生は、たしかに色んな男を渡り歩いたのですが、どの男にも、一生懸命に尽くすようないじらしい人生でした。そう言う一途な女でした。しかし処刑後に発表された『高橋阿伝夜叉譚』(仮名垣魯文作)で、一代の夜叉(毒婦)として脚色されたため、講談や芝居で公演される内に、稀代の毒婦として人々に印象付けられてしまうのです。日本での斬首刑は、高橋お伝が最後と言われます。刑の執行は、首切り浅右衛門こと八代目『山田浅右衛門』によって行われたそうです。用いられた刀は備前介藤原宗次作2尺1寸5分(約65センチ)の名刀とか。執行に際しお伝が『市さぁん、市さぁん』と情夫、市太郎の名を叫んで暴れまわったと伝えられ、この首切り名人も2度失敗したそうです。その首は、小塚原刑場に数日間さらされ、千住の回向院に埋められたそうです。
また昔は『犯罪者とアレ』の関係が医学的に関心を呼んでいて、日本でも盛んに解剖され標本として保存する慣例がありました。彼女と寝た男もみな『大変な名器であった』と証言していたために、解剖され詳細な測定がなされたそうです。お伝のアソコが名器かどうか定かではありませんが、今でもホルマリン漬けになり、東大法医学部の参考室に保存されているそうです。 
 
高橋お伝の最後

 

先ず、斬首執行人・山田一族について。
江戸の元禄の頃から明治十四年の廃刑まで、死罪における斬首の刑を執行した山田浅右衛門一族は、七代この仕事をつづけた。しかし斬首はこの一族の正式の仕事ではなく、二世吉時の代に≪徳川家御佩刀御試御用≫という役職、いいかえれば試刀家としての最高の地位に就いて七代の間に富を築いた。試刀は徳川家にとってなくてはならない重要な仕事でありながら、浅右衛門一族は幕藩体制の内部に組みこまれることなく、終始一貫して「浪人」の地位でありつづけた。
斬首の仕事はもともと町奉行同心の業務であったが、山田家が彼らのいやがる仕事の代役をなし、その代わりに斬刑後の屍を試し切りに使用する自由と、生胆を抜き取り薬剤として売買する自由を役得として思うままにしていたのである。われわれの想像を絶した異様かつ凄絶な業務に、七代にわたり倫理とプライドを賭け、社会的屈辱に耐えながら携わってきた一族の孤独がここにあった。
まだ十二歳の吉亮が、慶応元年(一八六五年)最初の斬首の刑を執行した。父親吉利が家職を伝えるために、まだほんの子供といってよい年齢の吉亮に、道場で鼠を斬る訓練をさせた。そしてついに十二歳の少年は、最初の日を迎え、儀式に従って堂々と罪人の首を落とす。執行後、吉利は屍体から生胆を抜き、二つ胴の試し斬りをする。
斬首の刑は吉亮の最初の刑執行の日から十七年間、明治十四年の最後の斬刑の日まで(この日をもって刑法史上に「斬」の刑罰はなくなる)続く。処刑される罪人たちも親殺しや夫殺しばかりではない。父吉利が処刑した者には吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎といった安政の大獄の志士たちがあり、維新後の吉亮の処刑者には、今度は逆の立場に立つ犯人たち、横井小楠、大村益次郎、岩倉具視を暗殺した犯人たち、国事犯としては雲井龍雄、そのほかには夜嵐お絹、高橋お伝らの名前がみられる。すなわち時代の大きな波のうねりを、この一族はもっぱら小伝馬町の囚獄から眺めていた。体制が変わっても彼らは変わらず、どんな体制下でもつねに同じ刑の執行者として振舞った。体制がいかようであれ、斬刑を執行する精密な機械に徹することが、山田浅右衛門一族に課せられたプロとしての職業モラルであった。 
職業選択の可能性の閉ざされていた封建的階級制度下では、誰かが引受けなければならないこのおぞましい家業を、ともあれ世襲として守り抜くことは一つの倫理ですらあったと思う。一族は社会的な屈辱に耐えながら、しかしプライドをもってこの仕事を守った。それは封建的体制下における一つの役割であったに違いない。役割に徹することにはなんらかの自足があり、安心がある。枠の固定した社会の中では、たとえ卑しまれた立場であれ、自分の分を守るということが、一番尊敬され、それなりの誇りを持ち得るよすがにもなりえたのである。が、やがて新しい時代が来て、この一族を支えていた精神的支柱が崩れ去る。山田家が≪徳川家御御試御用≫という役割を失い、明治に入って新政府の指示どおりに、≪東京府囚獄掛斬役≫になるほかなくなったときに、この一族に荒廃の影がしのびこむ。この荒廃は外と内の両方からやってくる。すなわち廃刀令以来しだいに斬刑が時代遅れの刑罰とみられて、絞首刑にとって代わられていく外側の変化がその一つである。これにより一族が精魂をこめて修業した、罪人に苦痛を与えない立派な斬り方という彼らの道徳はナンセンスになっていくからである。
さらに加えて山田家の内側からひろがる荒廃は、父親の後妻となった素伝(そで)という若い女の存在によって引き起こされる。四人の兄弟はそれぞれ彼女によって感情の混乱の渦の中に置かれる。長男は不倫と放蕩に走り、次男は父に殺意をもって迫ったあげく父に殺され、四男は家出をして反政府運動の匂いのある強盗の集団に入る。一族はこうして外と内からしのびこむ荒廃の犠牲となり、運命に翻弄されて、四分五裂の状態に陥るのである。
明治十二年一月三十日、市ヶ谷監獄署の処刑場で、三人の斬首執行があった。男一人、女二人である。
男の名は安川巳之助、女の名は浅子なかと高橋でん。ただし巳之助となかは同じ事件の共犯者である。
執刀者は「なか」には浜田が当り、「巳之助」と「でん」には吉亮が当った。 
市ヶ谷の処刑場は監獄署の裏手にあり、鬱蒼とした杉林の中で、方五十間ばかりの黒塀で囲まれた地域であった。その囲いのなかの一方に絞首台が聳え立ち、その台の下に首打場がある。
小伝馬町囚獄の処刑場は、広大な牢屋敷の東北隅で、塀の側に柳が五、六本植わっている程度の、割合にひろびろとした、青空も眺められる、明るい場所であったが、市ヶ谷監獄署の場合は、日も射さぬほどの杉の森の、しかも黒塀のなかであるから、見るからに暗鬱で、凄惨の気の人に迫るものがあった。
首打場は、土壇の前に畳一畳ほどの広さで深さ一尺の血溜りが掘られ、漆喰で固められて、その周囲は頑丈な木材で框が嵌められている。しかも罪囚の据えられる土壇がわの框の縁は、首を斬った刀の勢いが余って切りつけるらしく、三日月形にえぐられている。漆喰で固められた血溜りは、首を打ち落すたびに洗うのであるが、それでも血痕が点々と黒く残って、血腥い、一種異様な臭気を漂わしていたという。
最初に刑の執行された浅子なかと安川巳之助の罪状は次のようなものであった(以下略)。
最後に引き出されたのが高橋でんであった。
当時の新聞に以下のような記事が掲載された。
去る明治九年八月二十六日の夜、浅草御蔵前旅人宿大谷三四郎方にて後藤吉蔵を殺害なしし毒婦高橋お伝の事跡はその口供によって彼が履歴顛末の概略を知るにたるをもって諸新聞これに基き各記者筆を採って長談数回に及ぶといえども、彼の口供の如きは毒婦が狡才詐欺をのみ旨とし現に明々たる法庭を暗まさんとするにありて、遂にその実を告ぐるに至らず、しかれども共官の明鏡毒婦が胸裏を認定るの証をあげ、審判きわまりて同十二年一月三十一日東京裁判所にて左の如く申し渡されたり、     
群馬県下上野国利根部下牧村四拾四番地
平民 九右衛門養女               
高橋おでん  二十九年二ケ月
その方儀、後藤吉蔵の死は自死にして己の所為にあらざるおもむき申し立るといえども、第一、右吉蔵を殺害せししかじかの書置及び当所警視分署等に明治十年八月十日糺問判事においての口書き、第二、医員の診断、第三、今宮秀太郎の申し口、第四、旅店大谷三四郎等の申し口、第五、宍倉佐七郎の申し述此衆証に依れば自殺に非ざる事明白なりとす。しかして広瀬某の落胤或は異母の姉の復讐なりと云い又は姉在世の有様及び須藤為次郎等を証拠人と云うも果して姉の生れ等をも認むべきしるしなし。畢竟名を復讐に托し自ら賊名を匿さん為に出る逃げ言葉なるものとす。これによりてこれを見れば、いたずらに艶情(いろ)をもって吉蔵を欺き財を計るも遂にあたわざるより予め殺意を起し剃刀をもって殺害し財を得る者と認定す。よって右科人律謀殺第五項に照し斬罪申し付くる。
とあり、「被害者の死は自死にして己れの所為にあらず」などという彼女の申立ては、取調べの結果「他殺に係る証状明白と言ふべし」という結論が出、彼女が自分の実父は沼田城主土岐氏(三万五千石)の家老・広瀬半右衛門だと言い、腹違いの姉の仇討ちのため後藤吉蔵を殺したなど、いろいろなことを言っているが、その異母姉の生所身分調べなどをしてみても一つもその証の拠るべきものがないから、「畢竟名を復讐に仮り、只管賊名を掩はむ為の遁辞と言はざるべからず」、したがって彼女は艶情をもって被害者を欺き、しばしば金を奪おうとしたが意のごとくならないため、準備しておいた剃刀で殺害し、財を得たものと認められるので、当裁判所としてはこのように決定した、という報告に対して、大審院もそれを可としたのである。 
安川巳之助の顫えているのをせせら笑ったお伝であるから、自分がいよいよ面紙で眼隠しされ、土壇場の莚のうえに後ろ手に縛られてひき出されたときも落ち着いていた。木綿ながらこざっぱり、とした縦縞の袷が小股の切れ上った身体にぴったりと纏いつき、襟の黒襦子が顔の白さによく映っている。 
さすがにしたたか者だといわれただけある。大胆不敵な女だ。これなら安心して首も打ち落せよう。―そう思った安堵感がかえって吉亮の心に隙をつくっていたのかもしれない。
すべてが順調にすすんでいた。押え役の常吉と定吉が左右からお伝の肩を押え、仙吉がいつものようにうしろからお伝の足の親指を握って、吉亮の念力の盛り上りを待っている。処刑場全体が一瞬の閃光を待って寂と静まった。厳しい冬の朝で、空は曇っているがそろそろ霜も消えようとしている。全員の吐く息がわずかに白く見えた。 
吉亮が四句偈を心にとなえて、無銘ながら直江志津、刃渡り二尺三寸の愛刀を鞘走らせようとしたとき、
「待ってください」と突然、お伝が叫んだ。 
偶然とはいえ、お伝の叫びはあまりにも見事に吉亮の虚を突いた。吉亮は刀に手をかけたままグッと腰を下ろし、あやうく一瞬の差でフーッと呼吸を抜いたが、心はリズムを失った。
「どうした!」と常吉が叫んで肩を押えた。
「お願いがございます。市太郎さんに会わせてください」
「なにをいうか。静かにしろ」 
お伝は猛然と首を振りはじめた。
「お願い、お願ーい。市さんに会わせてー」 
叫びながらお伝はキーキーと泣き出した。評判だった髪の櫛巻もほどけ、面紙もとれた。
「市太郎ってだれだ!」               
こんどは定吉が叫んだ。
「うちの人です。きょう会いに来ることになっているんです。一と目、一と目だけ会わせてください。お願いします」
「ばかをいえ、そんなことができるか」
「観念するんだ」 
常吉と定吉が口々に怒鳴りながら肩を押えて、お伝の鵜首を血溜りの方へ押し出そうとした。すると、お伝は「市太郎さーん」と呼びつづけ、尺取りの虫のように全身の屈伸運動をはじめた。趾を握っていた仙吾が蹴りとばされて、あやうく転りそうになったが、すぐに真白な膝に抱きついてお伝の自由を奪おうとした。膝前はあられもなく乱れた。
「よし、わかった。市太郎に会わせよう」 
吉亮が叫んだ。瞬間、お伝も、押え役たちも、ハッと運動を停止させた。
「その市太郎とやらに会わせてやるから、静かにするんだ」
「ありがとうございます。浅右衛門先生、ありがとうございます」
全身の緊張を解いたお伝が、おいおいと泣き出した。吉亮はその肩をふるわせて泣いている姿に女の哀れさを感じた。
お伝がようやく身体を起して莚の上に坐り直したとき、吉亮は仙吉たちに目くばせして、すっと傍に寄った。途端にお伝が危険を察した獣のように、
「うそつき!」と叫ぶと、自分から転るように横ざまに倒れた。押え役たちがまた怒鳴り声をあげて身体を起そうとした。 
吉亮は、到底これでは斬れないと、検視役の大警部で監獄署長・安村治孝の方を見て、指示を求めるように目で問いかけた。安村は首をふって、そのままやってしまえ、という合図を送ってきた。 
いまはどうしようもなくなった押え役たちは地面に膝をついて、丸太ン棒を抱えるようにお伝を抱き、その首だけが血溜りの上に突き出るように必死に頑張っていた。吉亮は心を静めるように半眼を瞑じて、「うそつき!うそつき!」と叫び狂っているお伝の首振り運動の軌跡を眺めていた。桃色に染まった皮膚の下に血管がはちきれそうに怒張したお伝の細首がちょうど血溜りの上へさしかかったとき、吉亮は刀を鞘走らせた。その瞬間、あの幻覚が、鼠の幻覚が頭の中をよぎった。 
コッ!という音が響いた。途端に「キューッ!」というお伝の悲鳴があたりの空気を引き裂いた。
斬り損じであった。吉亮の刀は手許が狂って、お伝の後頭部に当たり、骨を斬りつけたのであった。しかも押え役たちがお伝の身体を空中に抱え上げる恰好になっていたため、上から振り下ろされた刀の衝撃に対抗する下からの圧力が少なく、刀は骨に食いこむことができず、そのうえ押え役たちの両手が痺れてお伝の身体をドサと取り落す結果になった。お伝は狂ったように、いや実際にもがき狂って、後頭部から血を噴き出し、ヒーッ、ヒーッと悲鳴をあげながら、血溜りの漆喰で固めた三和土のなかに這いずりこんで、刀から逃れようとした。
当然、吉亮は心のバランスを全く失っていた。お伝を追って血溜りに入るや、吉亮は大きく刀を振りかぶった。そのとき、「助けて!」と叫んだお伝が、血に濡れた顔で吉亮をふり仰いだ。気は上ずり、目は吊り上って、凄艶な眸がこちらを凝視していた。素伝であった。そこにいるのは間違いなく素伝であった。吉亮の頭の中を尻尾の長い鼠が滅茶滅茶に走り廻った。そして素伝の眼が睨んでいた。
吉亮は文字通り顫えあがった。恐怖に戦慄した。生れてはじめての恐怖感であった。吉亮は刀を振り下ろした。これも斬り損じであった。お伝が刀を避けようと横を向いて倒れたため、顎を斬りつけただけであった。刀は流れて、切先が三和土の漆喰を跳ね飛ばした。
そのとき押え役の三人が血溜りのなかに殺到して、お伝の両肩両脚を俯伏せのまま押え込んだ。吉亮はお伝の上に屈みこむと、刀を彼女の項にあて、「母上、ご免!」と無言の絶叫をふりしぼり、全身の重みを託すように刀を向うに押しやって、押し斬りにした。 
刀が襟首にあてられたと知るや、お伝はもう逃れられないと観念したらしく、「南無阿弥陀仏」と唱えた。二度唱えたとき、首が胴から離れていた。
「斬れたか! 斬れたか!」 
はじめて口から出た吉亮の声は上ずっていた。吉亮は首が離れてからも二、三度刀をゴシゴシと三和土の上でしごいていた。 
転った首を押し流すように、お伝の胴体から血が噴出し、白い三和土の上をすべって行って、框にあたって赤い飛沫となって跳ね返った。それから血溜りのなか一帯に拡がった。 
浜田が駈け寄ってきて、「若先生!」と叫ぶや、吉亮の腕を抱えこんで血溜りの外へ引き上げた。「母上を斬った。母上を斬った」と吉亮は血刀を下げたまま呟いていた。焦点のない呟きであった。顔全体に膏汗が噴き出していた。 
浜田は咄嵯に刀を洗う手桶を持ち上げると、吉亮の頭上からザブリと水を懸けた。意識をとりもどした吉亮の手から刀が落ちて地面に突き立った。ガクッと膝を折りそうになった吉亮の腕を肩にかついだ浜田は、「しっかりしてください」と吉亮を励ましながら、処刑場を去って行った。
検視役の安村署長をはじめ、居合わせた監獄署関係の全員は、あまりに凄惨な場面を目撃して、呪縛に会ったようにしばらくはその場を立ち去りかねていた。  
高橋お伝の余談
お伝には辞世の歌がいくつかある。  
なき夫の為に待ちゐし時なれば 手向に咲きし花とこそ知れ 
嬉しきも憂きも夢なり現なり さめては獄屋看ては故里  
子を思ふ親の心を汲む水に ぬるる袂の干る隙もなし  
しばらくも望みなき世にあらんより 渡し急げや三途の河守 
後藤吉蔵の殺害現場に残されていたお伝の(書置)なるものが、折れ釘流の、しかも仮名ちがいの多い拙い文章であったのに、辞世となるとこのように流暢な歌ができるというのは、不思議というしかない。これらの辞世はすべて他人の創作である。前の三首は当時の「朝野新聞」の記者の手になるものであろうし、あとの一首は高橋でんなる女性をわが国毒婦伝中の代表的人物に祭り上げるのに多大な功績のあった元兇の一人、仮名垣魯文の作である。 
明治の犯罪史上において、犯人が嘘の自供を創作し、嘘と真実との境界線が曖昧になってかえって一般に流布される結果になった事件が三つあるという。その主人公の各々を事件の年代順にあげると、「後藤吉蔵殺害事件」の高橋でん、「相馬事件」の錦織剛清、「臀肉切り事件」の野口男三郎の三人である。(中略)。 
お伝の場合は、処刑のあった明治十二年に岡本勘造著『其名も高橋毒婦の小伝・東京奇聞』と仮名垣魯文著『高橋阿伝夜叉譚』が出版されて、当時のベストセラーになったし、同年五月には、新富町の新富座で河竹新七(黙阿弥)の構想脚色で「綴合於伝仮名書」という新狂言が上演された。このときは五代目菊五郎が玉橋お伝に扮し(初代左団次が佐藤七蔵、九代目団十郎が裁判長・民尾諭の役)、凝り性の音羽屋が狂言のなかの裁判所場面の参考として実際の裁判所公判廷の見学を願い出て許された、というようなことが新聞種となったりした。これらの物語は、お伝が嘘に嘘を積み重ねてデッチ上げた一世一代のノンフィクション(?)ともいうべき彼女の口供書を、さらに羽根を拡げ、枝葉を咲かせて創作したものであるから、事実とは無縁な物語であるが、多くの創作家の想像力をそのようにかきたてる口供書をつくったということは、お伝自身も稀代の創作家であったといえるかもしれない。 
現在、谷中天王寺境内にあるお伝の墓は、明治十四年一月、お伝の三回忌に仮名垣魯文が世話人となって建てたもので、協力者の多くは新聞社とか芝居関係者であり、いうならばお伝を飯の種にした人々の謝罪の意がこめられてあるといってよいだろう。魯文が自分の代作した辞世をこの墓に残しているのは、謝罪のつもりにしてはすこし厚かましすぎる感がないでもない。 
さて、(身首処を異に)したお伝の肉体はどうなったであろうか。 
仮名垣魯文の『夜叉譚』によれば「斯る大胆なる女なればその亡骸を浅草なる警視第五病院に差送られ本年二月一日より四日間細密に解剖検査されしに脳漿並びに脂膏多く情欲深きも知られしとぞお伝は親族ある者ながら其死体を引取者絶てなきゆゑ病院にて埋葬の義を取扱かハれ」たとある。 
この時の解剖の執刀にあたったのは小山内薫の父の小山内健であり、立会人は小泉親正、江口譲(作家・江口換の父)、高田忠良の諸氏であった。 
解剖にあたって世人がもっとも関心を寄せた一つは局部についてであったが、「小陰唇の異常肥厚及び肥大、陰挺部の発達、膣口・膣内腔の拡大」という特長を持っており、この部分は切除されてアルコール漬にして保存された。(筆者は昭和三十七年頃、東京大学法医学教室で見た記憶があるが、現在はどうなっているか?)
篠田鉱造著『明治開化綺談』によると、「昭和十一年七月、軍医学校五十年記念会に上京した現存高田忠良翁は、其実話に局部解剖は別段学術上資料といつた意義のあることではなく、多情の女ゆゑホップがあるかどうかといつた位の意味で、序に演ったに過ぎずと語ってゐた」という。
次にお伝の首の行方であるが、篠田鉱造の同書によると、お伝の首は浄化され、髑髏となって浅草区田町一丁目の宮田清という漢方医のもとに蔵されていたという。「想ふに、これは仙吉、定吉の手で処分され、阿伝の首だから、彼等の仲間にある浄化法によって髑髏と姿を変へ、奇しくも宮田家へ購はれたものと思はれる。」 
お伝が処刑されて十年たった明治二十二年の三月、一人の旅僧が宮田医師を訪ねてきて、拙僧は俗名小川市太郎といい、高橋お伝が情夫のなれの果てである、御当家にあると聞くお伝の髑髏に一と目逢いたくて、はるばる越後路からやってきた、という。 
宮田医師が、当家に髑髏のあることをどうして識ったか、と問うと、拙僧はお伝と共犯ではないかと一時入牢させられたが、犯罪とは関係のないことが明かとなって放免され、その後、山岡鉄舟居士の許に参禅してお伝の後世を弔っているうちに、居士から夢幻という名をもらい、越後の鉄舟寺に参って修行をしていたとき、湯島切通の月輪瑞章という法師から貴殿のお手許にお伝の髑髏のあることを聞いた、という。 
宮田医師も、その人ならかねての知合いであると納得したが、実はお伝の首は他処に行っていて、現在手許にないので、一両日中にもう一度おいでいただきたい、というと、小川市太郎は淋しそうに帰って行った。 
お伝が最期の際までその名を呼んでいた情夫・市太郎とお伝の髑髏との対面は、その一両日後におこなわれた。 
数珠をつまぐりながらお伝の「在りし姿に似もつかぬ白骨の、眼穴陥ちて空を描ざ、艶けし毛も残らぬ頭蓋骨」と対面した市太郎は、しばらく無言で髑髏を撫でて眼に涙を浮べていたが、経を誦し終ると、お伝処刑前後の昔語りをした。 
その話によると、お伝の養父の九右衛門と市太郎とが最後の面会にお伝を訪ねたとき、お伝は近くこの世を去るだろうという覚悟はしていたが、刑場の露と消える日には必ずお二人とも一と目この世の見納めをさせてください、と涙とともに言ったので、養父も市太郎も、その日にはお上にお願いして必ず面会しようと約束してきた。ところが処刑の日取りを一日間違って、駈けつけたときは前日刑の執行があったという。がっかりして死体の引き取り方を願い出たが、それもすでに警視第五病院へ御下付後とのことであった。聞くところによると、はたして身寄りに逢わしてくれといって首斬り浅右衛門に首を打振って刃を近寄せず、初太刀は後頭部に斬付けて仕損じたとのこと。この髑髏の後頭部にある斬傷の痕こそそのときの名残りで、まごう方ないお伝のものの証拠と思うにつけ、その情の不憫さが胸板を貫く心地がする、とのことであった。 
そこで宮田医師は、世に毒婦と謳われても、遺骸は医学上に貢献し、髑髏も医術の研究に遺っているのだから、死んでの後は善良な婦人といっても恥しくない、どうか貴僧はせいぜい後世を弔ってやってください、と慰めると、夢幻法師は厚く礼を言って、再び頭陀袋を胸にかけ、別れを告げて立ち去った。
高橋お伝後日譚の一節である。 
首斬り浅右衛門の逸話
○浅右衛門の腕の冴えはいろいろな挿話となっているが、囚人の頚に張りつけた小豆を真二つに切って、しかも皮膚にかすり傷さえ負わせなかった。しかしあるとき、正装して斬られたいと願い出て許された吉原の花魁の首を斬ったときだけは、その女の美しさに心に迷いを生じ、手許が狂ったといわれる。
○幕末から維新にかけての有名な絵師である河鍋暁斎は奇矯な振舞いが多く、卒塔婆小町のノタレ死の有様を死骸が腐ってシャレコウベになるまで克明に絵巻物に作るなど、惨たらしい変態画が好きであった。あるとき画の仕事で首斬り浅右衛門を紹介してもらい、浅右衛門と同じ扮装をして刑場に臨んで、首斬りの現場をしかと見届けた。その後、親しい人に会うと、
「名士の首や、度胸のすわった人の首を、浅右衛門が見事斬って棄てると、その血はサッと勢いよく飛び散るが、臆病な弱い奴の首を刎ねたときは、血までが跳ねないで、ドロドロとみっともない出方をする」と、笑って話した。 
○「手前共の麹町区平河町一丁目の邸に幽霊が出ると世間での評判は道理千万、手前にしたところで齢十二歳から幕府の届出を十五歳と披露して斬り始めた、されば三百有余人の怨霊取付くものなら今日まで命が幾つあつても足りる訳のものではありますまい、(中略)、ただここに手前共へ幽霊の出る為徹夜酒興を催し騒ぐといふ世間評の起こりといふのが一つあります、ソレは手前共で手前や弟子が多くの人を斬って帰ると身体はグッタリします、おまけに血に酔ふといふものか顔がボウーとする、疲労は言ふ迄もありませんから、父より其日は徹夜で騒ぐことが許されましたので、若い弟 子達は底を抜いて騒いだものです、之を世間は曲解して朝右衛門(ママ)は怨霊が出て寝られないから夜通し騒ぐのだと申し伝へたのでありませう」(明治四十一年七月十日「報知新聞」夕刊「首斬朝右衛門」より。これは吉亮の談話である)
○ある日、浅右衛門が死罪人の首を斬ろうとすると、そこに「東照大権現」と刺青がしてあった。浅右衛門は刀を振りおろすのを止めて、牢屋奉行の石出帯刀にその旨を報告して指示を求めた。家康公の名前に斬りつけるわけにはいかない、というのである。帯刀は、憎い奴だが致し方あるまい、一命は助けてやれ、といってその囚人を遠島の刑にした。ところがこの噂を聞いて悪党どもは大喜び、われもわれもと「東照大権現」の彫り物をしだした。そこで浅右衛門は それらの首を斬るときに、彫り物のしてあるところだけ細長く皮膚を切り取って、それからゆっくり首を刎ねたので、悪党たちは首の皮をそがれるだけ痛い目をみて損だと、このブームは一遍に消えてしまった。
○「徳川家の頃、罪人の首斬で名高い浅右衛門が或時賊を処置場へ引出だせしに其賊は浅右衛門に向ひ、汝は己等の仲間の為めには仇なれば此儘死すとも怨恨は汝に祟って報ひをなさんと恨めしげに述べたるゆゑ、浅右衛門は打笑ひて其方が如き鼠賊が怨を報ふなどとは小癪なり、美事祟りをなさんと思ふほどの精神ならば今拙者が首を斬たる後笑って見せよと嘲笑せしに、かの罪人は益々憤りオゝ斬れたる後笑って見せんとゆふうち閃く電光忽ち首は落ちたるが、其首両眼を開き浅右衛門を見て笑ひし故傍に在りし者は大に驚き彼奴中々執念深さ者なれば注意すべしと告げたるに、浅右衛門は冷笑してこいつ吾を怨む事甚だしけれど斬られし後笑ふべしと云ひし一心にて最早吾を怨むの念は消滅したり、人間最後の一念により生を引くといへば吾等の如き職業は平生に心得あるべき事なり、と語りし由云々」(明治十六年十二月二十一日「開化新聞」) 
絞首刑の始まり
明治五年十二月二十九日、監獄則および監獄図式が府藩県に頒布された。 
これは小原重哉がイギリスの監獄制度を参考にして作ったもので、当時としては画期的な法典であった。もっともそれはあまりにも理想に走りすぎ、たとえばヨーロッパ風の石造煉瓦塀の堂々たる監獄をただちに建造しょうとする小原の熱意はかえって当時の政府の財政に脅威を与え、大蔵省の猛反対をうけて、翌六年四月に全面的施行を停止されるにいたったが、その精神は明治三年十二月の「新律綱領」と明治六年六月の「改実律例」とを繋ぐものとして意味があるし、やがて明治八年五月、設備の悪い小伝馬町囚獄が市ヶ谷に新築された獄舎に移転する契機ともなった。
次に明治六年二月二十日、太政官布告をもって(絞罪器械)が改正されている。
これは「新律綱領」制完のさい、絞首の器械として採用された『絞柱』(絞首台)が実際に使用してみると受刑者の苦痛がはげしく、「臨刑ノ状ヲ聞クニ、囚人空ニ懸ラレ命未タ絶セサル際、腹肚起張シ血ガ耳鼻ヨリ出テ其ノ苦痛言フ可ラス」(明治五年十月・鹿児島県伺)といった状態であり、そのうえ制定後二年のうちに、二、三の蘇生事件が起きて、その不完全さが証明された結果の改正であった。
この『絞柱』の不備であったことは司法省も認め、明治五年八月、次のような何を太政官正院に提出している。
新律綱領嶽具図中絞罪器械ノ儀ハ、実用ニ於テ絶命ニ至ル迄ノ時間モ掛リ、罪人ノ苦痛モ有之候ニ付、今般西洋器械ヲ模倣シ別紙ノ通り製造致シ候間、従前ノ器械ハ被廃止候様仕度此段相伺候也 
ここで「西洋器械」といっているのは、イギリス式のものである。前述した小原重哉が、明治四年、香港やシンガポールに出張してイギリスの監獄制度を視察したさい、同地で実見した図解を持ち帰って『絞柱』の改正意見を具申したからである。小原の回顧談に次のような一節がある。
「新律綱領にて定められた絞罪器械の製法が未だ充全ならず、死刑者の苦悩惨状に於て実に名状すべからず。加之、死体検査の後、其屍の下附を受けし親族の家にて蘇生せし者さえ全国にて三人許りもありたるに付、私が嘗て実物を写生し致しておきました英国器具の『絞柱』を軌範にして自ら数個の模型を造り、日本橋区鍛冶職吉田辰蔵に示し、実物六十分一に当る改正の標本を製し、絞罪器械改正の意見を奉りました。」 
こうして出来たのが『絞架』である。 
これは高さ九尺(二七二a・階段を八段上る)で、八尺四寸(二五五a)に一丈(三b)の広さの台を作り、その台の中央部に さらに八尺(二四二a)の高さで鳥居のように二本の柱を設け、その横木から絞縄がさがっている。台上中央部に八尺に六尺の踏板があって下に開くようになっていて、その開落は台の側面にあるハンドルで行う。 
この『絞架』によると、「機車ノ柄ヲ挽ケバ踏板忽チ開落シテ囚身(地ヲ離ル凡ソ一尺)空ニ懸ル時間凡ソ二分。死相ヲ験シテ解下ス」ということで、前の『絞柱』が「空二懸ル時間凡ソ三分」であったのにくらべて、一分間の時間短縮となったわけだ。
『絞架』となってから蘇生者は絶無となったかどうかは疑問の節もないではないが、その基本形式は現在もほとんど変っていないといわれる。一書によれば、「当初は絞首台上に階子段によりて登ることとせしを改め、明治十五年以来、平板上を歩むのみに止め、地平面上に於ける台の転回によりて絞首せらるることとせられたり。是れ死に当面しては、多くは恐怖或は狂乱して、従容として登段するもの極めて少く、取扱上甚しき不便ありしを以てなり」とある。また昭和二十二年、「アサヒグラフ」に紹介された広島刑務所の絞首台の写真によると、『絞架』そのものに立派な屋根が冠せられ、階段にあたる部分はゆるやかなコンクリートの道になっており、したがって台の高さは地平面からほんの少し出ているだけで、床が下方に開いて地下室に吊り下がるようになっている。
当時の司法省は「『絞架』ハ英国ノ刑具ヲ現ニ模造シ其『絞柱』ニ優ル所以ハ器械ノ施用極メテ簡便、殊ニ罪人ノ断命速疾ニシテ最モ苦悩少ク実験上其効不少」と自負している。
この司法省の自負こそ首切役の山田家にとっては最大の致命傷ともなるべきものであった。簡便な器械で囚人の苦痛を最も少くし、確実に絶命させうるなら、斬首という執行法の存続については一考を要するとなることは、自然の帰趨であろう。この『絞架』の出現はやがて山田家からその家業を奪うことになる。 
 
お伝地獄

 

明治9年9月9日(1876年。 139年前の9月9日)、 高橋お伝(26歳)が、強盗殺人容疑で逮捕されました。
13日前の8月27日、お伝は、金を貸してもらうために古物商の後藤吉蔵と情交。 その後、後藤が前言を翻したことに激昂して彼の喉を剃刀で掻き切って殺害、財布から金を奪って逃走したといいます。逮捕後3年した明治12年、死刑判決がおりて市ケ谷の監獄で斬首されました。
お伝が処刑された明治12年には、彼女をモデルにした文芸作品が続々登場します。河竹黙阿弥の 『綴合於伝仮名書』、仮名垣魯文の 『高橋阿伝夜刃譚』、岡本起泉の 『其名も高橋毒婦の小伝 東京奇聞』などがそうです。 お伝は“毒婦”の代名詞になります。
しかし、「お伝=毒婦」を疑う作家も出てきます。
邦枝完二はお伝の郷里(上野国利根郡下牧村。現・みなかみ町)を訪ね、彼女の知り合いから直接話を聞きます。 そして、彼女が“毒婦”ではなく、むしろ“貞女”であると確信しました。 彼はその確信をもとに、『お伝地獄』を「読売新聞」に連載します。

「ちょいと車屋さん。お前さんそんな方へ行つちや。道が違やしないのかえ。」
「----」
「もし、車屋さん。----」
黙阿弥物の書割をそのままの土手が、四里八丁三日月の下に続いて、桜もみぢの落葉も繁く、まだ宵の八時を廻つたばかりだといふのに、あたりには犬の仔一匹うろついてゐなかつた……(中略)……亭主の病気を癒したいとの一心から、下牧村をあとにして、双六の振出しとはあべこべの道中筋、沼田、森下、渋川と高崎街道の赤土道を高崎に出たお伝が、倉賀野、本庄、深谷を過ぎて、急ぐは中山道の一筋道。熊谷泊りをせめて巣鴨まで伸しておいたらと、一歩でも東京の地へ近着かうとの焦慮からか、熊谷宿の三軒茶屋で、煙草の火を貸してもらつた、ふとした縁につひうかうかと親切ごかしに乗せられたのが、三十余りの鬢に火傷の痕のある、大八と名乗るこの男の車だった。……(邦枝完二『お伝地獄』冒頭 ※一部新字に改めました) 
 
高橋お伝の真実

 

明治時代の初期に毒婦の代表の如く世間で騒がれ、約2年半の刑期の末に29才の若さで斬首された高橋お伝について調べました。
高橋お伝(生1850年〜没1879年)享年29歳・・強盗殺人で斬首される、
私とお伝の関係
私はお伝の生まれた群馬県下牧村(しももくむら)現在はみなかみ町下牧の出身です。そして私の母はお伝の養女先の家で生まれました。お伝の養女先は造り酒屋の兼業農家でした。また私の祖母はお伝の夫だった波之助の生家の生まれです。祖母の実家は「こう屋」(藍染め屋)の兼業農家でした。
私の生家はお伝や波之助の家と親戚関係にあったのです。そして今も私の生家では近親者としてお付き合いをしています。
明治の時代にマスメディアに翻弄され多くの悪評のまま深い溝に落ちたお伝の多くの虚像を晴らし、真実のお伝像を一人でも多くの方々に理解して欲しいと願っています、同時にお傳を出来るだけ「正しく」弁護したいとも思います。
29歳の若さで弁護人も無い裁判で斬首されたお伝の実像は毒婦や妖女とは凡そ無縁な「激しい愛」と「ひたむきな実業」のなかで生きた「明治の黎明期が生んだ悲運な女傑」であったとの思いでいます。
後藤吉蔵殺人事件
明治9年8月27日・東京蔵前の旅人宿「丸竹旅館」で古着屋、後藤吉蔵が鋭い刃物で首を切られる殺人事件がおきました、同宿していたのは高橋お伝でした。
お伝は2日後の29日には早くも自宅で捕縛されています。
取り調べたのは東京警視庁(明治7年1月15日設立)第5方面隊第1分署(京橋)です、厳しい取り調べが連日続きました、しかしお伝は姉カネの仇討ちと言い張ったのです。
さまざまな疑問が解けないまま、翌年5月、お伝は警察の手を離れて市ヶ谷監獄に収容されました。
事件は東京裁判所に移され今度は判事によって審理は進められたのです。
この時代の裁判には、弁護士も、検事も居なかったのです。
お伝はたった独りで刑事紛いの判事と2年もの長い間向きあい闘ったのです。もしもお伝に弁護人がいたならば、このような無惨な処刑は無かった事でしょう。
明治の新政府のもと、判事たちも西洋の新しい裁判制度に真剣にとり組みました、それは下調べの詳細な文献からも伺えます。
しかし最後は鬼判事に激しい詰問、拷問を受けてチカラ尽きたのです。
(裁判記録の一部は「下調べ」の調書として後半に記載しました)
創られた虚像
高橋お伝は 主に戯作者 仮名垣魯文の創作本、絵草紙「高橋阿伝夜刃譚」(たかはしおでんやしゃものがたり)や岡本勘造綴の「その名も高橋お伝毒婦の小伝」又は、河竹黙阿弥作「綴合於伝仮名書」が東京「新富座」で名優五代目尾上菊五郎主演で上演、などの競作によって日本国中に知れわたりました。
殊にその伝説を作りあげた人気戯作者の仮名垣魯文が書いた「高橋阿伝夜刃譚」は最大のヒット作となり魯文の懐を大いに豊かにしたのです。
魯文は「丸竹旅館殺人事件」が起きてすぐに執筆を初めています。
魯文は「高橋阿伝夜刃譚」の中で上野の国(こうずけのくに)今の群馬県のことをこう書いています。
・・そもそも従前当国の悪風は賭け事を以て楽しみの第一とする人気なれば、この国の士農工商に勝負にいどまぬ者とてなく、女童も従って此の悪行に身をやつせば、ついには産を破り、家を失い賭けを以てなりはいとし、土地を去り他方に走り、旅より旅と股にかけ。
草鞋脱ぐまも荒くれて長脇差しは寝ても離さず銭、争敗して財布むなしく、びた一文に窮迫すれば、白昼他人の家に迫り、夜陰富豪の扉鎖を開いて、強いて金銭を略奪し・・
などと、まだまだ続く驚くばかりの悪口雑言には憤りと云うよりはむしろ滑稽な感じがします。
明治の人々は、この流行戯作者の流れるような装飾された文章に酔いしれ、疑うことなく鵜呑みにしたことと思います。
武蔵野女子大教授、越塚和夫薯に依れば戯作者(げさくしゃ)とは
・・筆料だけでは一家の生計を支えてゆく事が出来なかった「モノ書き」である。パトロン(版元、御用商人、幕臣等)などに寄生してかろうじて生きて来た町人戯作者たちは煙のない処から火を出し、それを更に大火の如く書き、舞文、曲分の限りをつくしたのである・・
この創られた妖婦、毒婦の戯作本が当時、西洋文明の印刷技術を駆使し始めた製本技術に便乗し大量に印刷されて日本国中に行きわたりました。
解剖の罪
お伝を斬首ののち、遺体は時の軍医、小山内健、(小山内馨の父)小泉親正、江口譲などにより解剖されました。
罪人は凡ての人権を剥奪され、如何様に料理されてもおかまいなしの時代でした。
しかもお伝の恥ずかしい「陰花」の部位が切り取られ、解釈し難い奇名がつけられました。その「部位」が毒婦の証しとして公表され戯作者の餌食となったのです。
切り取られた「花の秘部」はその後アルコール(ホルマリン?)漬けにされ東大病院に保管されたと云われています。
明治時代の初期とはいえ、このような蛮行が最高級軍医達の手で行われたのです。
何のために切られ、また何を理由にそのモノが「毒婦の証し」となったのか解剖した軍医にも分かるはずはなく、興味本意と女性軽視の「卑猥で猟奇的な解剖」だったのは明らかなのです。
お傳が丸竹旅館で後藤吉蔵を殺害した罪は罪として、この解剖こそ異次元の大罪です。
レベルの異なる遥かに重い罪を高級軍医達は犯しています。これ程まで侮辱された女性が日本の犯罪史上に有ったでしょうか。男社会の時代ゆえお傳の思考や商業での活躍が世間に否定され、あたかも異常性欲者の如くに秘部が晒され悪女のレッテルが貼られました。
お伝の「妖婦の証し」とやらが戯作者の脳裏を刺激し筆を走らせ大衆の間に毒婦、妖女のシンボルとなり爆発的に浸透し好奇の対象になったのです。お伝はより妖艶に、より悪女にと豹変し想像され日本全国、津々浦々に知れ渡ったのでした。
残念ながらそのイメージは現在も消えることなく定着したままのように感じています。
最近保存されたお傳の秘部がパソコン上に貼られております、お傳の縁者の一人としてその方の人格を疑う者です、一刻も早く削除される事を願っています。
主に東京裁判所の調書を許に書いたものですが、下の著作及び資料を拝見して参考にさせて頂きました、厚く御礼申しあげます。
1 加藤周一薯 「日本近代思想大系・・16」
2 塚越和夫署(武蔵野女子大教授)の「明治文学石摺考」2008年8月発行
3 山下恒夫署(歴史学者)「明治東京犯罪歴」1988年4月発行:
4 田村栄太郎「実説高橋お伝」1960年6月発行
5 朝倉喬司「毒婦の誕生」1999年4月発行
6 平田由美「女性表現の明治史」大阪外国語大学教授 1999年11月発行
7 山西健吉薯「小林考子・懺悔秘話」1930年1月発行
8 石渡安窮「高橋お伝の殺人事件」1933年6月発行
9 文体(加藤周一/前田愛)「日本近代思想大系・16」1989年発行
10 郷土史「古馬牧村史・記述-阿部義次郎氏-故人)1982年9月発行 
11 郷土の歴史研究家、渋谷・K先生の資料
私は平成10年5月に故郷の歴史研究家である渋谷・Kさんをお訪ねしました。渋谷さんの御先祖はお伝の母ハルを養女に迎えた渋谷小左衛門さんです。渋谷さん宅には、お伝を下牧村に養女として出した古文書が保存されていて、その写しを頂いてきましたので下に添付します。
渋谷さんのお話では、ご先祖からの言い伝えとして、取り調べ当局から下牧村にお伝を「村預かり」にする様、依頼があったそうです。
しかし下牧村はこれを頑なに受け入れなかったそうです。取り調べ官がこれほど迄、お伝の処遇に苦慮していたのです。
・・村預かりとは・・
・・その罪人または容疑者を村から一歩も出さないで村内で保護する責任を持つ事・・
当時の下牧村の名主等にもっと広い心と温情があれば、お伝はまた別の幸せな人生を歩めたはずでした。
また渋谷さんは内海文之助氏(故人、みなかみ町字上津出身、元群馬県教育長)が生存中に「君はまだ若いからお伝の研究をするように」と励まされたとのことでした。
お伝は斬首されたのち、罪人とし南千住の回向院に埋葬されました、この墓の建立は養父の九右衛門とのことです(越塚和夫薯)
そののち、二つ目の墓として都立谷中霊苑の墓が建立されました。3年忌にお伝の恋人、小川市太郎名義で仮名垣魯文が寄付をつのり建立したものです。
その時、回向院にあったお伝の遺骨を拾えたのかどうか、はなはだ疑問です、谷中霊苑の墓はむしろ祈念碑的なものです。
山手線日暮里駅をでて右に進むとすぐに広大な都立谷中霊苑です。
墓石の表には小川市太郎建立と刻まれています。裏側には世話人として仮名垣魯文の名が大きく刻まれています。
協力者として、和同開珍社、歌舞伎新報社、いろは新聞社などの新聞社。
新富座、久松座、尾上菊五郎等の歌舞伎役者たち、田辺南龍等の講釈師たち、桂文治等の噺家たち。さらに新橋、日本橋あたりの花柳界など総勢80余名の名前が刻まれています。
この頃のお傳は妖艶な毒婦として現在では想像できない程の「不名誉な有名人」だったのです。
お伝を天下の悪女に仕立てあげた仮名垣魯文はお傳の恋人である小川市太郎に恨まれて「高橋阿伝夜刃譚」で懐中が豊かとなったこともあり、魯文自身が寄付をつのり墓石を建てお伝の三回忌供養をしたのです、それが魯文にとって、せめてもの罪滅ぼしだったのでしょう。
墓地の広い中央道路の両側には桜の老木が並木になっています、春には桜の花びらがお伝の墓石にも降りそそぎ淡いピンクの色に染まります。
しかし今も浮かばれることのない「悲運な女」お伝です。
尚、仮名垣魯文の墓所もすぐ近くの寺院にあります。谷中霊苑にあるお伝の墓。回向院に有るお伝の墓。従来の墓石は明治、大正時代にお傳マニア達に削り盗られて戒名も定かでなくなってしまったのでしょう。最近になって立て替えたらしく、まだ新しい感じでした。両寺院とも平成16年11月11日にお参りし花をたむけ冥福を祈りました。回向院は罪人埋葬専門の寺院だった、境内は非常に狭い。この時代は「安政の大獄」などで政治犯で斬首された人も多かったので特別に区別もされず埋葬されたと思われます(吉田松陰の墓もここにある)。
故郷にあるお伝の墓
お傳の実父、勘左衛門が建立したのでしょう。現在の当主Kさんの墓地にあります。戒名は「聞外妙傳大姉」と刻まれています。ちなみに私とKさんは従兄弟にあたります、Kさんの母と私の母は実の姉妹です。当主Kさんの話しでは明治以前の記録は菩提寺である玉泉寺の火災により焼失してしまい、お傳に関する事柄は不明とのことでした。 明治4年現在=お伝の故郷、下牧村の人口・戸数・104戸・男262名・女220名・合計485名 「古馬牧村史」より 
 

 

お傳の生まれ
お伝は1851年(嘉永3年)7月末に現在の群馬県利根郡みなかみ町下牧(しももく)に生まれました。
父高橋勘左衛門(農業)と母ハルの長女です。ハルは隣村の後閑村「櫛渕きよ」の娘です。
ハルは後閑村の渋谷小左衛門の養女となり、後に勘左衛門と結婚したのです
勘左衛門とハルは嘉永3年1月2日に結婚し同年7月下旬にお伝が生まれました。
お伝が7ヶ月の月足らずで生まれたということで、小さな山村の下牧村ではさまざまな噂さ話しがささやかれました。
1 父親は隣村の小川島に住む信州無宿者「鬼清」の子だという説、これは戯作者、仮名垣魯文が書いています、当時の読者はこれを信じました。
2 ハルはひなにも希な美人であり、また勝ち気な女でもあったったと言われています。ハルは沼田藩、土岐氏(3万5千石)家老、広瀬半右衛門の屋敷に奉公していたおりに半右衛門の手がつき胤を宿したのだといいます。お伝も取り調べの判事にそのように供述しています、お伝は、父、半右衛門自身から聞いたと云っています。お傳は性格も容姿も母親似だった様子です。
3 勘左衛門とハルは恋愛結婚だったので婚前交渉で妊娠したとも考えられますが、しかし当時の農民にはそのような行為は御法度だったかも知れません。お伝は生まれて二ヶ月ほど母親に育てられたのち、子宝のない勘左衛門の兄、同村農業兼造酒屋、高橋九右衛門(41歳)ハツ夫妻に請われて養女となりました。勘左衛門はお伝を養女にだして間もなく妻ハルとも離縁しています。勘左衛門の言い分は「妻ハルは何分我意強く自分の意に応ぜらるを以て離縁致し・・」と裁判で供述しています。勘左衛門はハルが広瀬半右衛門の胤を宿していたという噂話しを気にしてハルと離婚したのかも知れません。
離縁されたハルは後閑村の実家に帰り、そのご間もなく、嘉永4年2月、生泉村の勇吉という者と再婚しましたが、悪性の病に罹ったらしく嘉永6年5月に亡くっています。
九右衛門の妻ハツは越後の生まれで板鼻宿の旅籠で働いていた仲居だったと田村栄太郎薯「実説高橋お傳」で書いています。
この時代、農閑期には雪深い越後の人達は三国峠を越えて関東に出稼ぎにくる人が大勢いました。ハツもその中の一人だったのでしょう。
私が子供の頃、茅葺き屋根の葺き替え職人はいつも越後の人達でした。
泊まり込みで4,5人の人達が一週間ほど修理に来ていました。「越後の人達は良く働く」と親たちが話していたのを今でもよく覚えています。
板鼻宿
九右衛門夫婦はお伝を連れて板鼻宿で小料理屋を営んでいてお伝が14歳になった時下牧に帰ったといわれています・・郷土史及び田村栄太郎薯より・・
お伝は生後、4、5ヶ月頃から14歳の思春期まで板鼻宿で育ったのです。
中山道の賑やかな宿場町、しかも父母たちが小料理屋を営んでいたとなれば、お傳はその環境に染まって育ち、お伝にとって板鼻宿こそが本当の故郷だったのだと解釈するのが自然なことでしょう。
親たちは一人娘のお伝を大切に育てています、読み書きなども自己流に習ったらしく、将来は造り酒屋の跡取り娘として期待されていたことでしょう。
少女時代を賑やかな中仙道の板鼻宿で過ごしたお伝は下牧村に帰ってからは手紙ばかり書いていたと伝えられています。
幕末のこの当時、山村の女子はほとんど読み書きなどできなかったから村人からは驚異の目でみられました。
宿場の小料理屋育ちで、色白で垢抜けた美人だったので村の若者達がそれぞれお伝に群がったといわれています・・郷土史から・・
私の義父(2011年当時、95歳、後閑村出身)が、つたえ聞いた話として・・お伝が村うちを通ると
「お伝が通る、お伝が通る」と人々が騒いだとの事です。
お伝は垢抜けて居て、高貴な雰囲気だった、又自己主張が強かったと私は想像します、それは共に暮らした後述する小川市太郎の談話から想像出来ます。
お伝結婚する
お伝は14歳の時、親の薦めで、村内の働き者、宮下要次郎を婿養子に迎へました。
しかしお伝は要次郎を好きになれず1867年(慶応3年)6月に離縁しています。
要次郎は働き者だったが、お伝とは気が合わず、要次郎を嫌って親に無断で家出をして忘れがたい板鼻宿へ行き、仕出し屋「隅田屋」で働いたといわれています・・田村栄太郎薯より・・
この頃からお伝の勝ち気ぶりが目立っています。
しかしながら厳格な父に一年程で連れ戻されました、お伝を連れ戻した父、九右衛門は
「然らば一時懲らしめの為、同郡戸鹿野村、星野惣七(造り酒屋)方へ下女奉公にさし遣わしおき、なお改心あい立ちたる上は引き取る方よろしかるべし」といっています。
九右衛門も造り酒屋の兼業農家だったのでお互いに見習い奉公に出しあう風習があったのです。
お伝が星野方で奉公していたのは僅か1ヶ月足らずだったとか。勤めが窮屈で否になったのか、お傳はたちまち家に逃げ帰ってしまったのです。
その後、慶応3年11月、お伝18歳の時、村内の高橋代助の次男、波之助(24歳)を婿養子に迎え再婚しました。
お伝の家と波之助の家は約500メートル位の近さでした。
九右衛門は
「当節は夫婦の仲も和熟にてそれぞれ農業あい稼ぎ居たるにつき九右衛門の家名相続より田畑等も養子波之助に譲り渡し自分は別宅に隠居いたし・・」と述べています。
波之助にお伝もかねてから好意を持っていたので二人の仲は睦まじくまた夫婦とも良く働きました。
振り返ればこの新婚時代がお伝と波之助にとって一番幸せな時期だったのです。
お伝、波乃助夫婦は九右衛門の田畑の全部ではなく、その一部を相続したのです。
しかし不運にもこの幸せな新婚時代も僅か一年余りの短い間で終わりを告げます。
愛する波之助が難病にかかったのです。
1869年(明治2年)3月頃から波之助は病気になり、隣り村、月夜野の漢方医、秋山健良に通うようになりました。波之助の病は、「らい病」とか「天刑病」(ハンセン病)と村人に囁やかれました。
4、5日おきに良くなったり悪くなったりの繰り返しで村人たちに恐れられた。草津温泉などに湯治に行く、また高価な漢方薬など試すが病は一進一退を繰り返し次第に村にも居にくくなっていったのです。田畑を次第に質入れし、やがて生活にも困窮するようになって居ました。
駆け落ち
父親の九右衛門は難病の波之助と離婚をするようにお伝に勧めたがお伝は父親のいうことを聞かなかった・・郷土誌より・・
それはお伝が好いた男には、とことん尽くすという性格の現れでもありました、普通の人には真似のできない夫婦愛を大切にしたお傳の強さだったのです。
お伝は冷たい視線を向ける村人への意地もあり、波之助の病は必ず自分が治してみせると秘かに誓ったことでしょう。
明治4年12月末の25日、村人から疎外される暮らしに堪えられず二人は相談して維新の新天地、東京に希望の光を求めて家出の決心をしたのです。
難病の夫を連れての村からの逃亡はいかにも無謀です。しかし維新後、江戸から名を東京と変えた大都会にはお伝、波之助を惹きつける大きな夢と希望があったのです。
家出の時お伝は義父の代助だけに「東京に行き二人で出直しますのでお許し下さい」と伝えています。
お伝の供述から・・養家へは無断にて夫実父代助へは右情態秘かに申述べ、旅費手当金等貰受、明治4年12月25日、養家出立然るに両人共東京は初めての儀に付き・・
それを知った代助は難病を患う波之助が心配で当然ながら反対しました、それに東京へ行くには一番必要なのはお金である。お金はどの位用意出来たのか。代助が工面してあげたことは確かですが金額は不明です。
年末の12月の25日、お伝(22歳)波之助(28歳)は、越後ざかいの耳双つ(谷川岳)の冷たい吹き下ろしを背にうけ、人目を避け手に手をとりあって故郷をあとにしました。
その後、波之助は二度と故郷へは帰れなかったのです。 
 

 

下牧から東京までの道のりは約200〜250キロでしょうか、当時の人は健脚だったので4日〜5日ぐらいで着いた事でしょう。
清水街道から、三国街道(国道17号)へ、子持山を越え、渋川までは山道です。
渋川から高崎にでれば中仙道(国道18号)に合流して東京まで関東平野です、中仙道にでれば人々の往来も多く賑やかでした。
しかし何故か、お伝、波之助は真っすぐ東京へ向かったわけではなかった。
波之助父子が親しくしていた同県甘楽郡(かんらぐん)藤川村の高正寺、住職、三島大州の許へ身をよせています。
三島大州が下牧の常恩院にいたころ、波之助とは特別親しい友人であり先輩でもあった。
三島大州の証言より
・・明治4年12月28日頃突然右下牧村高橋九右衛門の養子高橋代助次男波之助並に高橋九右衛門の娘でんを携帯してまかり越し其波之助申すには自分負債等多分出来して夫れが為田畑等売却しついに家産を破るに至り何分活計不相立候に付他所に出て相応の稼業可成営存意にて夫婦共に家出致し来り候間。当分の間差留め可呉旨頻に懇願する故へ自分先年前書下牧村常忍院の世話に相成り居りたる時の懇意なるを以て其筋へは不届出只ただ同情すべき至情より出で何心なく自分宅に差留置き申候・・
二人が高正寺に来て間もなく波之助の父代助が高正寺まで訪ねてきた。難病の息子が気がかりだったのです。代助は二人に帰郷するよう再度引き留めにきたのです。
しかし二人の決心は変わらなかった。村に帰っても村人の視線が怖かったし、横濱に住むという異国人の名医に診察してもらう希望も持っていたのです。
代助は、やむを得ず諦めてその夜高正寺に一泊して翌日には帰村しています。
代助は、この寺に来たことを九右衛門や村人達にはくれぐれも秘密にしてくれと波之助、お伝、大州に頼んでいます、代助は村の誰にも秘密で引き留めにきたのです。
二人は3ヶ月間三島大州の世話になっていた。
何故二人は真っ直ぐ東京に向かわず寄り道をしたのか。波之助が、親友である三島大州に自分たちの悩みを打ち明けて、東京へ出る心の準備をした期間だったのではないかと思います。
波乃助は体調の良い時は境内の掃除などをしていた模様です。
またお伝はその間、生活費稼ぎに板鼻宿に行き働いたのではないかと推察します。
同年の春4月1日、二人は大州に礼を言い東京へと出発していきます。
東京、横浜へ
明治5年1月、二人は東京へ出て馬喰町2丁目の旅人宿「武蔵屋治兵衛」方に止宿した。
明治4年4月に高正寺を出てから8ヶ月余りも二人はどこに寄り道していたのか、その間の足跡が不明です。
この期間、魯文が創作した文面では、お伝たちが様々な悪事を働くことになっています。
私の推察では・・8ヶ月の空白は東京での生活費を稼ぐ為に、お伝が板鼻宿の料理屋「隅田屋」で働いていたのではと思います。ここには数々の思い出と、頼れる知人が居たはずでした。
お伝夫婦は、故郷を「無断逃亡」だったので東京に出てからは、波之助は「粂八」と名乗り、お伝は「まつ」または「たつ」と名乗って居ます。
以下はお伝の供述から
・・先に広瀬半右衛門承り居候には旧忍藩(旧おしはん、今の埼玉県行田市)青木新右衛門娘しづと申者に馴染み女子出生致し青木かねと名付け東京へ残し置き候承り候間、同人とも面会致度と旁々養家へは無断にて夫、実父代助へは右状態ひそかに申述べ旅費手当金等貰受・・(中略)
お伝は腹違いの姉が東京に居ることを父、半右衛門から聞いていたと言っています。
・・明治5年1月中、出京馬喰町2丁目旅人宿武藏屋治兵衛方に止宿療養中。
自分は虎の門外、金刀比羅神社元へ病気全快の祈念を込、21日間参詣致し候中何れのご婦人か不存是も毎朝参詣致居候内言葉を掛け候より、互に心願の次第又は身の上話会候処、彼の婦人は兼て広瀬半右衛門より承り居候腹違いの姉かねに合当り始めて面会夫より行末之事柄咄し合互に力を添え全く金比羅神社の御引合尚々心願、まかり在候
明治5年1月中、出京二人は馬喰町2丁目旅人宿武藏屋治兵衛方に止宿しました。お傳は波之助の病気全快を祈って虎ノ門金刀比羅神社に21日間通っていました。その折偶然に腹違いの姉、カネに遭遇しお互いが神の巡り合わせと喜んだ・・と云っています。姉カネとの遭遇は、かなり偶然過ぎて疑わしいですが、しかし世の中には奇遇という言葉もあります。
この供述を否定するとお傳の供述が凡て出鱈目になってしまいます。
逮捕されたお傳が短期間でこの様な必要以上に手の込んだ架空の物語りが出来るでしょうか。
更に
・・其節姉かね申聞るに横浜には外国人にヘボンと申す名医有り如何様の病気にても療治致候へば、全快不致儀は無之間治療を受け可然段申候付、其旨波之助に申聞け候上、後より参り候段相答え。其節同人宿所承り置、明治5年4月上旬、東京出立、横浜野毛坂下町番地不詳青木かねへまかり越止宿療養被居候処・・
お伝、波之助は外国人医師ヘボンに診てもらうのが故郷を出てきた目的の一つでした。
明治5年4月、姉カネの勧めで二人は名医ヘボンが居るという横浜に移住します。
お伝の供述では最初に野毛町の姉宅に住み、後に植村清治郎方に移り住んだことになってる。
横浜吉田町(現在の桜木町近辺)2丁目42番地、魚屋こと植村清次朗の木賃宿に移ったのは確かです。
波之助は療養で寝ていたが、体調の良い日に清治郎が紹介する日雇い仕事をしていた。
この頃、お伝は生活費を稼ぐ為に街娼もした。横濱元町に有る「谷戸橋」や関内にある「吉田橋」あたりで「まつ」又は「たつ」と名のり橋の袂に立ち「体」を売った。これは病身の波之助の病いを治すための懸命なお伝の努力だったのであり、好んでの売春では無かったのです。
街娼に立ったお伝は、見映えも良かったし、生まれながらの小料理屋育ちで客扱いも身に付いていたので、客には困らなかったはずです。
ただ勝ち気な性分だったから、客の選り好みはしていたかも知れません客の中には西洋人もいたらしく、お伝は西洋人嫌いだったとか・・・誰かの書物に書いてあった。
・・其節東京の由にて内田仙之助と申者(後藤吉蔵)同家に時々参り姉の世話等も厚く致居、私儀も追々懇意に相成候内自分へ右吉蔵より再々不義を申掛けられ候得共強て相断り置候末、明治5年8月10日頃と覚・・
お傳は姉カネの内縁の夫内田仙之助(後藤吉蔵)が秘かにお傳に言い寄って来たので困惑したと言っています。
波之助死す
・・吉蔵よりと申当時行衛不知、元会津藩の由、加藤武雄なる者を以て名薬と申しビン入れにて水薬持来波之助へ為呑候へば暫時に全快致し候旨申聞き候間、速に相用候処、直に波之助胸部より顔へ掛け大に腫上り紫色に相成苦痛甚しく夫是手当致し候内ついに明治5年9月18日病死候・・
同年八月頃から波之助の様態が悪化して寝たきりになった。
・・吉蔵に頼まれたと云い加藤武雄なる男が名薬と云って瓶に入っている飲み薬を置いていきます。疑わしい薬だと思いながらも少し飲ませてみます、更に飲ませると波之助の胸、顔が腫れ上がり苦しみだした。お伝はその後殆ど付ききりで看病をしています。懸命の看病も空しく波之助は9月17日に息をひきとったのです。
波之助を亡くしてお伝は精神的に混乱していたのでしょうか、須藤藤冶郎と石橋廣吉を混同している様に思われます。波之助の死後埋葬等の世話をしていたのは清次郎とその義弟だった石橋廣吉でした。
植村清次朗は日雇い派遣業の様な仕事をかなり手広く営んでいた。
文明開化の波に乗り一旗揚げようとした男達がウヨウヨと横浜に集まったのです。そのような人達が
植村清次朗の廻りには沢山居た事でしょう。
お伝の悲願だった波之助を全快させる、と言う目的はもろくも崩れさったのです。
(裁判所は姉カネの存在、加藤武雄の存在も否定している)
家主の清次郎、清次郎の弟、石橋広吉、まつ(お伝)三人で相談の上、横浜鑑札取調会所へ届け、死骸検視済みのうえ翌日夕方に大田村東福寺へ日雇い二人を頼み埋葬した。
法名は清次朗の弟として「秋還信士」としたという。お伝の供述では「則良善信士」となっています。
植村清次朗は、お伝、波之助の面倒を良くみた、更に埋葬の時自分の弟として扱っているのだから世話好きで立派な家主だったといえます。
裁判の下調べで石崎広吉は粂八がらい病だったと言っています。
清次郎は客商売ながら波之助がらい病と知りながら宿を貸して居たことになります。清次郎に対してお傳波之助の印象が良かったとも云えます。
田村栄太郎(1893年〜1969年)群馬県高崎生まれの風俗研究作家・がこの辺の事情を詳細に調べています
・・お伝のまつは雇奉公に出たが、毎晩帰るわけではなく、時々看病と見舞いに帰る程度であった。この木賃宿に来たのは5月中であるが8月13日頃から、波之助の病気が重くなったので、お伝はその月末から付き添い、看病をしていた。この間であろう、前述星野(註1)の横濱の店へゆき時々金を貰ったが、波之助を大切にするので金をやっていたという話を星野から聞いたことがある。
この6月、7月、8月と推定される間、お伝は何処に奉公していたかという問題であるが、「埼卯」の家へ奉公に行っていたのは確かである。この「埼卯」というのは、何町何の商売かも判らない。新妻伊都子さん(註2)の話によると、新妻伊都子さんの父が野毛で煙草屋を営んでいた頃、お伝は煙草をよく買いに来たといい、お伝の写真もあった。
戦災で写真は焼いて仕舞ったが、懇意にしていたらしい。
「埼卯」というのは、野毛と思われる。埼玉屋卯吉などの略称であって、旅人宿か飲食店であったらしく、何人かの客に売春して金を貰っていたらしい。専門の売春婦ではなかった。
同居していた、つまり植村清治郎は明治7年4月に病死しているので、裁判所への陳述は、義弟の石橋広吉がしている。平常植村宅へ出入りしていたので、お伝夫妻の生活は大体わかっていた・・
(註1)戸鹿野村の造り酒屋、星野惣七の横濱支店。
(註2)新妻伊都子さん・・戦後第一回衆議院選挙で神奈川県から立候補して当選した日本で初めての女性代議士だった。
田村栄太郎薯を参考にすれば、1月から5月までは姉のかね宅に住み5月から植村清次朗の木賃宿に来たことになる。
波之助は医師のヘボン博士の診察を受けたと考えられる、ヘボン博士は宣教師でもありボランティアで診察をしていたのです。
 ヘボン博士について
・・1859年(安政6年)、3人の外国人宣教師が日本にやってきました。医者として多くの日本人の生命を救ったジェイムス.カーチス.ヘボン(Hepburn)新約聖書の日本語訳を行ったS.R.ブラウン、明治新政府の顧問を務めたG.F.フルベッキの3人は、新時代の日本を背負っていく人材の育成をめざして、それぞれが塾を開きました。明治学院の初代総理(現在の学院長)に就任したのは、J.C.ヘボン博士です。博士は多くの有能な若者たちに、キリスト教精神を土台としたリベラルな学問の場を提供しました。神奈川宿近くの宗興寺はヘボンが診療所を開いた寺として知られ、それを記念した石碑が境内に設けられている。ヘボンの診療所はすべて無料診療であったという。診療所は後に山下町谷戸橋畔の自宅で開院しました・・・・ヘボン博士は晩年故国アメリカに帰り95歳で亡くなっている。尚ヘボンではなくて「ヘップバーン」と読むのが正しい。 
 

 

小沢伊兵衛
娘盛りの20歳から23歳までの4年にも及ぶ愛する夫への献身的な看病暮らしは無念にも不孝な結末を迎えてしまった。
波之助の無念、お傳の口惜しさ悲しみが伝わってきます。
自らも痔の病を持つ身のため、身心とも疲労していたお伝であり、暮らしもどん底の状態でした。
清治郎の好意もあって、簡単ながら無事に夫波之助の埋葬をすませたお伝でした。
波之助が亡くなったからといって、お伝は下牧村に帰るという選択肢は全くなかったのです。
人一倍気性の激しいお伝だったので、下牧に帰る時は波之助の病が治り、商売で成功した時・・それがお伝の意地であり悲願だったのです。
お伝は波之助亡きあとは、街娼とも縁を切っています。
戯作者や小説家が好んで書いた博打打ちだったとか、入れ墨をした、あるいはスリの名人だった、などというのは全くデタラメなのです。
お伝は元々一寒村の農民であり博徒まがいの暮らしなどとは無縁な生活環境で暮らしてきたのです。
波之助の死後、心の支えをなくしたお伝がその後頼りにして行った先は、板鼻時代からの知人だった絹商人、小沢伊兵衛でした。
伊兵衛は上州富岡から、たびたび商用で横浜に来ていました。
お伝は清次朗宅をでて数日後には、早くも伊兵衛が借りてくれた横浜の宿(町名不明)に移り住んでいます。
看病の疲れと持病(痔疾)の悪化でその後は殆ど寝込んでしまったお伝です。
お伝は生きるために、不自由でも安全な小沢伊兵衛の妾になるみちを選んだのでした。このあたりにお伝の強靱でしたたかな生きざまが伺えます。
田村栄太郎薯より ・・小沢伊兵衛は正確には吉田伊兵衛。富岡の小沢嘉吉という絹屋の次男であるが吉田屋と云う宿屋に婿にいった。この宿は絹糸を扱う糸屋(浜師)が多く泊まる宿屋であった。横浜の商館に売り込んでいた彼等「浜師」はなかなか羽振りが良かったのである。富岡には官営の製糸工場があり当時絹の製糸業界の中心地であった。伊兵衛は商売熱心で商才も有り信用は有ったらしい、当然横浜にも何度か往復していた・・
伊兵衛は吉田家(宿屋)に婿入りして正しくは吉田伊兵衛でした。なおも田村は・・
・・吉田に男後家として婿入りしたのであるが、養家の先夫の子に、おいちと言う年頃の娘があったが、婿入り後、このおいちに手をつけているのである・・
と書いています。伊兵衛はお伝よりも、義理の娘、おいちに惹かれていたのでしょうか?
貿易で急速に栄えた横浜は物価も高かったので伊兵衛はお伝を横浜から明治5年10月30日に東京の神田仲町2丁目の秋元幸吉(菓子商店)方の二階へとお伝を引っ越しさせています。
この頃4ヶ月間もお伝は病気療養をしています。
小沢伊兵衛は、お伝を囲ったが実際には4,5回ぐらいしか通わなかった。
妾とはいえ金に細かい伊兵衛だったので食事にも事欠く位のみじめな暮らしだった。お伝の境遇に同情して、又はお傳に頼まれて面倒をみたのかも知れません。
伊兵衛はお伝には金を渡さずに、家賃3円は直接家主の秋元に渡していたので、お伝は多分お小遣いは貰っていなかったのでしょう。
お伝の供述より
・・その後病気も全快に至り月日失念入湯にまかり越し候途中、同所藤本と申す寄席の角に前書加藤武雄(その頃27歳)佇み居候に付幸の事と存じ前顕夫持参候薬の原因を相尋ね候処直ちにその場駆け出し候に付、依ては該薬には何ぞ子細も可有之儀と存じ追掛候処終に駿河台その頃昌平橋内、大手際に於いて同人の羽織を掴み候処直に自分右腕へ切付け今に旧痕有之其の儘見失い無詮帰宅致候末・・
銭湯に行く途中で加藤武雄に出逢ったと言っています、以前内山から頼まれたと言い飲み薬を置いていった不審な男です。飲み薬が毒薬だったのでその事を聞きただすと加藤が逃げるので追いかけて格闘となり短刀で切り突けられたと言っています。興奮して帰ってきたお伝は秋元幸吉にその件を報告して傷の手当てをしている。
さらにお伝の供述
・・月日失念横浜表前書須藤藤次郎より鼠半切書面到来に付被見候処。
姉かね何れか連れ参り候趣申来り候に付何分姉にも面会致度、且つ小沢伊兵衛儀帰国致し候儘音信無之に付尋ね度と存じ候得共宿主幸吉より他行差止有之、因て書面認め残し置き幸吉へ無断にて立出、直に横浜へまかり出姉方へ参り候処果して其屋に居り不申に付、隣家藤次郎に相尋候処4日頃何れか相越趣にて家財は如何候哉尋ね候へば年頃37、8歳位の男参り取り片付候旨承り候に付き、右は全く後藤吉蔵に相当り同人の所為と存候・・・・
妾の身だったのでお傳は外出時には家主秋元の承諾が必要だったのです。
須藤藤次郎よりの報せで姉カネが突然引っ越ししたとの事なので家主の留守を狙って無断で、横浜のカネ宅へ行ったところカネが所在不明で又家財も消えていたと言ってます・・
お傳が内山(後藤吉蔵)に並々ならぬ憎しみを持ったのは当然です。しかし、これらのお伝の供述は凡て裁判所では否定しています。
明治6年4月頃、お伝は秋元幸吉に書置きを残して上州富岡の小沢伊兵衛を訪ねています。
不自由でしかも貧しい囲い者の身から縁を切る潮時と考えたのです。
小沢伊兵衛と縁を切ったお伝は、その後、東京麹町8丁目16番地 瀧口専之助方に移り住んでいます。
小川市太郎と知り合ったのは明治6年で、季節は不明ですが、たまたま瀧口専之助方に市太郎も住んでいたので知り合いになったのです。
女商人として
健康を取り戻したお伝は、かねてから念願だった横浜や東京で見聞きした新しい商売を熱心に初めるようになりました。
お伝の周りは地方から出て来て一攫千金を狙う浪人や農民、商人若者などの失業者が大勢いました。
過去や身分を問わず野心を持ったニワカブローカー達が東京や横浜に出て来て、一旗揚げようとしてうごめいていたのです。
小さな漁村に過ぎなかった横浜村も明治4年ころは貿易で栄え6万人の街になって賑わった。
その欲望の渦巻くなかでお伝も生きる為に女ながら新商売で成功を狙って熱心に働くようになっていったのです。
お伝が目指した商売とは、ある意味で革新的な商品の仲介業だったと考えられます。
関東甲信越を精力的に往来して、生糸、絹、茶、桑の苗、その他何でも情報を得て人から人へ物流させて斡旋料を貰うやりかたです。女であるお伝には様々な障害や偏見が有ったことでしょう。
世間の考えはまだ徳川幕府時代と変わらなかったし、男尊女卑の風潮も少しも変わっては居なかったのです。
小説家や、戯作者が、好んで書いた妖婦的なお伝像は、あくまでも読者を惹きつける為の創作なので、実際のお伝は、そのイメージとはほど遠い、身なりなど構わない、否、構うゆとりなどなく商売で一旗揚げようとして懸命に働いていたのです。
下牧村を逃亡して以来、波之助を失ったお伝の強い性格から、それが当然な成り行きだったと言えます。
親たち
明治7年3月20日ころ横浜で商売をしている知人の上澤屋与三郎(代助の得意先か?)から代助宛てに書状が届いたという。その内容は
・・明治7年3月20日頃兼て懇意なる横浜本町3丁目上澤與三郎より書簡到着其書状を披見するに波之助夫婦は東京麹町辺に奇遇して自今波之助病に罹り難渋しおりたる故金子少々貸し与えくれるよう妻伝なる者右与三郎へ越したるに金子は貸し与えと云えども(2円50銭)僅かの金子にては不足を生ずるのみならず余所において病に罹りては尚難渋致すは必然たるに付き早々村方に引き取りたる方宜しかるべし・・
この書簡ではお伝は波之助の死後一年半も経ってから与三郎方に金を借りに行っています、それも未だ波之助が生きていて病で難渋していることになっています。
お伝は故郷の親たちに波之助の死を知られたくなかったので嘘をついたのです。親たちを悲しませない為のその場しのぎの嘘、それはお傳が小料理屋育ちの環境から身についた処世術だったのでしょうか、しかしその嘘は親たちを困らせ、我が身をも窮地に立たせる結果を招くのです。
代助は与三郎の手紙を見て息子は無事かも知れぬ、とすぐに勘左衛門を訪ねた。
代助と勘左衛門は急遽、旅支度をして東京へと向かったのです、明治7年3月24日のことです。
(この頃九右衛門は病気をしていた)
生みの親、育ての親、義理の親、それぞれの親たちがお傳を親身になって心配している状態がよく判ります。
お伝は番地までは上澤屋与三郎に教えていなかったのです。
お伝の住むという東京麹町に辿り着き、探し歩いた二人だったが番地が判らず見つかるはずがなかったのです。
二人は疲れはて横浜の与三郎方へ向かい一泊した。
翌日は与三郎から、横浜野毛町に無産者が集まる処と聞いた日雇業、植村清次朗宅に僅かな望みを託してお伝達の消息を訪ねた(無産者とは?ブローカー達を指しての言葉だと思います、戦後の昭和20年代に多く居た闇屋の様な商売)
そこで上州生まれの粂八(波之助)という者が既に明治5年の夏に死亡し近くの東福寺に清次朗の弟として埋葬されたと聞かされる。
しかし代助、勘左衛門は粂八、マツという名前に「名前が違うから人違いではないか」と楽観的な解釈をして東福寺へは訪ねなかった。二人はそれ以上の探索を諦めて下牧村に帰ったのです。
代助は「倅は必ず何処かで生きているはず」と秘かに願っていたことでしょう。
上澤屋与三郎から
・・横浜野毛町に無産者が集まる処と聞いた日雇業、植村清次朗宅・・
二人は植村清次朗宅を教えてもらって訪ねています、横浜辺りではかなり知られた植村清次朗だということが判ります。
小川市太郎
お伝は瀧口専之助方で知り合った市太郎と次第に親蜜になっていきます。波之助を亡くしてからの孤独感からお伝は市太郎の優しさに惹かれていったのです。
新しい恋人の小川市太郎はあちこちの知り合いから小金を借りる悪い癖が有った、その借りた金はお伝が何時も返していたのです。最も惚れてはいけない男に惚れてしまった女心、これがお伝の不幸の始まりだったのです。
やがて、小川市太郎(30歳)と時々同棲をしています。
少々粋で怠け者、お人良しの市太郎、これがお伝好みの男だったのでしょう。お伝は市太郎に愛情をそそぎます。
二人の居場所は麹町、新富町あたりを中心に転々と代わった様子でこの頃の二人の居場所は定ままっていなかった。
お伝の帰郷
明治7年8月7、8日ごろ、お伝は突然帰郷して養父、九右衛門を訪ねている。逃亡以来始めてのお伝の帰村に驚いたり喜んだりの親達でした。
お伝は親たちに、今までの親不孝を涙ながらに詫び・・「藤川村で波之助とは離別し別々の方向に向かったので波之助の消息は知らない」と言っています。
横浜の上澤与三郎から届いた代助宛の文面も有ったので、親たちはどちらを信じたら良いのか、戸惑ったことでしょう。
此処でもお伝は嘘を言ってます、嘘は村人たちへの意地と、親たち、特に代助を悲しませたくない言い逃れだったのでしょう、しかしこの嘘は九右衛門、勘左衛門、代助たち親族を迷わせた大きな罪だったのです。
代助はお伝の言葉を信じたかったし、何よりも波之助の生存を信じたかった。
お伝は帰郷して2ヶ月程、実家ではなく義理の父である代助方で過ごしています。
お伝はこの時に代助から「波の助はすでに九右衛門から離縁されている」と聞かされた筈です。
事実、二人が逃亡後、数年して九右衛門は波之助を離縁し、質入れされていた田畑を買い戻しています。
農民にとって先祖代々の田畑への執着心は強いものがあります。
(当時の農民は僅かな借金でも田畑を質入れしていた。また貸し借りには証文もなく、簡単に質入れをしています)
お伝はこの時、九右衛門に東京麹町8丁目16番地瀧口専之助方へ籍を送ってくれるよう懸命に懇願しています。
勘左衛門、九右衛門とも止むなくお伝の強い願望を聞きいれた。一旦言い出したら後には引かないお伝の性格を判っていた親達でした。
「親の心子知らず」・・・お伝は東京で腰をすえて本格的に商売をしたいと思っていたのです。
小川市太郎の傍で暮らしたいとも考えていた事でしょう。
籍を麹町に入れ、晴れて東京の住人となったお伝は、益々商売熱心になり、時には一人で、時には小川市太郎を助手にして東奔西走して働いたのです。
送籍はしたものの、娘が気掛かりな養父、九右衛門はお伝の住まいを明治8年2月下旬に訪ねている、育ての親九右衛門は、お伝の身の上が何より心配だったので様子を伺いに行ったのです。
養父が訪ねて来る日、お伝は部屋を片付け、針仕事に精をだしている、市太郎のことは秘密だった事でしょう。
実直な九右衛門はその夜、お伝の住まいに一泊し、ゆるゆるとつもる話しをした。
できるなら下牧へお伝を連れ戻したいと思っていたことでしょう。しかしお傳がすでに父親の手の届かない処に行ってしまったとも感じたことでしょう。翌日には九右衛門はお伝と別れて帰村します。
お伝と市太郎は麹町12丁目の瀧口専太郎方に止宿していたがその後は馬喰町、新富町と住まいを変えている.。
お傳は市太郎とは結婚しなかった。そして常に一緒にいた訳でもなかった、二人は時に同居したり、時には別々に暮らしていた、これがお伝流の生き方だったと言えます、現在ならよくある関係ですがその頃は異常な関係だったのです。
お伝が常に商用で関東一園を股にかけて飛び回っていたからで、戯作者たちが創作したお伝像とは全く別の姿をした、女商人のお伝の姿が関東の街道筋を行き来していたのです。
絣の着物に麦わら帽子を被り足には草鞋、肩に風呂敷包みを背負って颯爽と歩くお傳の姿を想像してみました。
我が身を飾りたい年頃の娘が身なりも構わずひたすら商業に励んでいた。それを知っていたのは恋人の市太郎だけでした。
幕末から明治にかけて日本で貿易量が多かったのは生糸に次いで茶でした。
彼女も当時の日本のシルクロードである横浜から、関東甲信を男顔負けの度胸で往復するようになっていたのです。
資本のないお伝だったので時には危ない橋も渡ったでしょう、常に貧しかった訳ではなく、一時は羽振りの良い時も有ったはずです。
裁判の証人達がお伝の様子を
「質素な身なりだった」とか「特に印象にない」と証言しています。お伝が仕事上では女の色気を武器にした様子などは無かったのです。
今流に言えばスタイルもルックスも良かったお伝だったが、あえて、それを隠して本物の商人を目指したお伝だったのです。
市太郎が言う・・「従順にして規矩正しき一見士族の女房風」・・だったお伝です。
熱心さと度胸では男に勝っていたお伝でしたが、資金がなく、それに江戸時代の考えの儘を引きずった男尊女卑の時代に女商人を目指しても、なかなか信頼されない時代だったのです。
お伝の熱心さは空回りする時が多かった。
世間の「女のくせに」という冷ややかな眼差しが見えるようです。
明治9年8月初め、お伝の指図で市太郎はかねて知り合いの宍倉佐七郎の家を訪ねて「茶」の商談をした。
米商人・宍倉佐七郎の供述より
・・明治9年7月頃と覚不図小川市太郎なる者と懇意相成交り居候処、同人儀茶見本持来り候、品目方900貫目を代金750円にて買い求め内金250円手金とし相渡し残金500円是非4,5日の内不相渡では手金流れの約定に有之、依ては何方に於てか買主又は金借の周旋致呉間敷哉の旨にて尚値段等委細儀は妻買取りたる品に付同人より聞取り呉候様是非明日は妻同道可致す旨申し聞候に付、早々聞合可遣旨答え相分かれ、翌日に至り市太郎並にでん共々来りでんへ委細相尋候処右品は武州熊ヶ谷在大麻生村鈴木濱次郎方に有之何分今4、5日を過ぐれば手金流れに付幾金にも金主なり又は買手の口入なり依頼可致と承るに付夫是周旋致候中略金主も出来候末・・
お伝と市太郎は茶を900貫目、(キロで換算して約3400キロ)
金額750円(現在の貨幣価値で約2000万円から3000万円位か)を売買しょうとして今の埼玉県熊谷まで買い主、宍倉と栄介両名を連れて行きます。
しかし・・現品悪敷甚だ相違に付・・茶の現品が粗悪なのでこの商談は成立しなかった。更に
・・然るに右商法不相成上は活計向窮迫致候間甚だ気の毒ながら当分の内同居致させ呉れたき旨頼みに応じ夫れより市太郎は自分方へ同居差置候中尚同人窮究の躰に付自分方に於て食事等も賄置候儀有之其後明治9年8月中旬頃と存じ前書高橋でんなる者帰京の上馬喰町辺に寄宿致居る趣にて市太郎に面会としてまかり越商法行違より窮迫の旨趣々相話し其際行川やす方座敷を借受けでん儀も同居罷り在候依て同人等と懇意に相成り候儀に有之・・
と書かれている、250円もの手金を支払ってあると云っています。しかし担保も無いお傳それ程高額の現金を貸す人が居たでしょうか?現在の貨幣価値だと750万円位になるでしょう。
実際には手金(250円)など払って居なかったのだと思います。
商談が流れても手金を払っていなければ、特に生活に困窮する事も無かった筈です。
(お伝の供述では桑の苗の商談となっている)
お伝と市太郎は行川やすが経営する宿の住人、米ブローカーの宍倉佐七郎を頼り、そちらに移り住むようになった、宍倉は賄いも世話をしたほど二人の生活は窮迫していたと言っています。
商談が流れた位で何故そこ迄、急に貧しくなって仕舞ったのか・・私は釈然としないのです。 
 

 

後藤吉蔵死亡事件
丸竹旅館の後藤吉蔵死亡事件は「お伝の犯罪か否か」で唯一最大重要な部分です。
A・・お傳が証言した「姉かねの仇討ち」なのか?
B・・裁判所がいう、お伝の「強盗殺人」なのか?
判決はお伝の「強盗殺人」になった。しかしそれは裁判所が選んだ結果だけの話し、事実は霧につつまれたままだと私は思います。
丸竹旅館の殺人事件はお伝のみが真実を知る、いわば「密室での出来事」です。
判決は「お伝の犯罪」になっています。状況もお伝に不利です。
新制度の明治の裁判でしたが、弁護人も居なかったのです。
裁判所で1年半もの間、尋問されあらゆる拷問も受けたと思われるなかでの自白でした。
お伝の供述の内容は何度も変わっています。警察で半年、裁判所で2年・・長い獄中暮らし、お伝が正直に供述したものが否定されれば、供述も二転三転するのも、是また当然です。
誰も現場を見た訳ではないので様々な想像ができますが此処ではお傳の記述を追ってみます。
以下は丸竹旅館でのいきさつを述べたお伝の供述より(控訴文から)
9月23日
・・明治9年8月23日、自分一人にて同人方へ尋参り候処、図らずも兼て相尋る処の内田仙之助に付、右手紙の趣旨は、さておき、先互に久々にての面会の挨拶及び候折節、該居戸棚の内に兼ねて亡父半右衛門より姉かねへ遺したる短刀の小柄有之を見認め候より。旁々先年の咄思越し、加藤武雄の居所且姉かねの行衛並同人所持の諸道具等如何相成候哉と相尋候処、心得不旨返答に付、此小柄有之上は必ず承知に可有之と強て相尋候処、先にかねへ金圓の貸有之夫れが為、諸道具不銭請取候得共、夫には仔細も有之短刀は浅草辺の者へ売渡候趣にては話兼最早日没にも相成候間。明24日、呉服町稲田屋事稲垣九右衛門方に於て詳細可相話間同人方へ出向呉れ候様申聞候、其儘相別れ岩崎龍之助方へ立帰り候。
金策の為に紹介された人物が実は姉カネの仇、内田仙之助だと知り驚いたお伝でした。そのごは金策の事は別にして後藤吉蔵(内山仙之助)に対して執拗に加藤武雄(毒薬を持ち込んだ男)の行く方を問いただしている。また姉カネの行く方、父の形見の短刀、小柄の返却を求めています。明日24日に会う約束をする。
9月24日
明治9年1月24日午前11時頃、前書稲垣九右衛門方罷越暫時待居候得共、吉蔵参不申候間、九右衛門方より呼寄貰候処暫午後1時頃吉蔵参り、当日は差支有之に付、明日致し呉れとの事故其儘立帰り・・
後藤吉蔵(内山仙之助)が今日は差し支えがあるので明日にしてくれと言っています。
9月25日
猶翌日明治9年8月25日午後2時過ぎ、前約の如く九右衛門方罷越候処。
是又吉蔵参り居不候間、九右衛門方より迎ひを頼み吉蔵呼寄せ候得共、同日も先方差支候由にて、猶明日に致し呉れ候様同日は同人方より案内致呉故、然らば行川やす方へ報知致し呉れ候様申聞立別候事。
この日も不都合なので明日にしてくれと言われる。
9月26日・・丸竹旅館に入る
其節は名前不存竹丸と称する旅人宿へ立入、最早黄昏に至り不審に存候得共吉蔵は直に二階に上り候間、自分も続いて上り候処、暫くして同家雇女より酒肴差出すべきやと問合候共、自分に於ては心得不申旨相答、便所へ参り立戻り候処、酒肴差出有之、吉蔵より度々勧められ候得共、気分悪敷故一切相用不申、然る処又候梨子を差出候に付、少々喫し吉蔵は独酌にて飲終り、夕飯差出すに付、一椀を食し夫より1時間程も相立候得共、先方より何の音信も無之に付、吉蔵へ断り、近傍迄納涼の為外出し12時頃と覚立戻り候処。
・・丸竹旅人宿へ入る、お傳は吉蔵が先に入ったと云っています。・・夕飯がでて一椀を食べそれより1時間ほど経っても加藤武雄から音信がないと云ってます
吉蔵は其場に寝臥入り候に付、先は如何の訳に候哉、余程時間も遅しと相尋候処、先方へ同人参りたる処、必ず参る筈につき今暫く相待居候様申にませ相待居候処、不図気分悪敷吐瀉を催し候間、便所へ参りたる所益々激しく二階へ立戻りたるに蚊帳を釣り中に床も二つ取敷揃へ有之、吉蔵より自分へ如何致せし哉と相尋候に付、右の趣相答候処。
お傳は気分が悪くなって吐きそうになった、吉蔵は・・必ず来るから今暫く待ってくれ・・と云っています・・蚊帳を釣り中に床も二つ取り敷き揃へ有・・吉蔵がお傳の躰を求めている様子です。
9月27日・・事件当日
同人も気の毒の由にて蚊帳の中へ入り候様屡々申聞、殊に蚊多く候間、旁々蚊帳の中へ這入暫時気を休め居る内、巳に明治9年8月27日午前1時にも相成候間、誑かされたるやも難計在遅くも自分帰宅不致候ては不相成旨申聞候処、是非共先方の者参り候筈今少々待居呉れ候様申聞追々深更に至り、余儀なく、帰宅は相止め右蚊帳の内に打臥候処、吉蔵儀彼是艶言申聞け戯れ候得共、強て相断り置内。
・・同人も気の毒の由にて蚊帳の中へ入り候・・吉蔵の勧めでお傳も蚊帳の中に入ってます。これはお傳が躰を許したことになります。愛する市太郎の処へ早く帰りたいのを我慢している様子です。
・・略・・如何にも同人に誑かされたるは遺憾と存じ強て呼起し是迄数度詐言而巳申聞き居今日は有体申明すべく先方へ同道致し候哉、其次第柄明瞭に申聞呉れ候様相迫り候処、同人儀更に取敢不申右様の儀は断念し存意に従ひ候様申乍ら自分を抱き候得共、自分心中には是迄姉の始末も不申明而巳ならず、同人所有品をも甲紛し、如何にも残念に不堪彼是苦慮中、吉蔵は種々戯れ掛られ、終に自分を組臥せ口へ手拭を当るや否9寸許の短刀を抜き放し自分に打ち掛る勢に付、驚愕し、其手を打払い候際、同人の頸筋へ刃先当り自分は其儘次の間に逃退き候処、同人儀最早是切と言ひ乍ら自ら咽喉を切りたる故、大に驚き同人側に立寄り候処其儘相果て候に付、如何せんと一時痛心に及び候得共、必ず驚く場合にあらずと精神を鎮め此上は前條姉の敵なる証拠取揃え且国元両親へも面会致したる上。其段可訴出と存じ吉蔵の持居る短刀をもぎとり血を拭ひ、鞘に入れ並に兼て見覚え小柄も傍らに有之候に付き、右二た品を懐中し、吉蔵死体へは夜具を掛け寝臥せる躰にし、同人は姉の敵に付、討果し候趣一書を認め傍に差置候。
お傳は吉蔵に殆ど弄ばれています、躰を与えても吉蔵が姉カネの事、父の形見の事、加藤武雄の所在など、はぐらかし如何にも残念と苦慮しています。特に愛する市太郎を裏切ってまで躰を許した事でお傳の理性が崩れ狂った如く吉蔵へ迫ったのです。
・・吉蔵に種々戯れかけられ、終に自分を組臥せ口へ手拭を当るや9寸ほどの短刀を抜き放し自分に打ち掛る勢につき、驚愕し、其手を打払った際、同人の頸筋へ刃先が当り自分は其儘次の間に逃げのいた、吉蔵は最早これ迄と云い自ら喉を切った・・と云ってます。お傳は吉蔵が短刀で脅してきたのでその手を払ったら吉蔵の喉に短刀が当たって死亡したと云ってます。
1 ・・明治9年9月12日の朝野新聞から・・武州大里郡熊谷新宿 内山仙之助等に妻マツの由にて一泊し度と申し参り・・とあり、記帳したのは内山でしょう、何故なら旅館に誘ったのも内山です。お傳は始め金策の為だったけれど相手が吉蔵(内山)と知ってからは金策よりも父の形見などの返却を強く求めています、旅館に行く気など無かったはずです。記帳者が誰なのか、宿の者に聞けば判ることですが、その事は裁判記録に有りません。状況から内山が宿に誘ったものと想像します。
2 ・・裁判ではお伝が強盗殺害の目的で吉蔵を宿に誘い込んだことになっている、強盗殺害が目的なら宿帳に仕事や街娼などで使っていた名前「マツ」と書くでしょうか(又は書かせるでしょうか)それはあり得ないことです。敵討ちが目的なら逮捕されるのを覚悟で「マツ」と書いたかも知れません。マツと宿帳に書かれていたので犯行はすぐにお伝と推測され2日後の29日に逮捕されています。
3 吉蔵に弄ばれたあげく吉蔵の不誠実さにお傳の激情ぶりが尋常では無かったことが分かります。死因は喉のS字状の深い切り傷だったので、お伝の犯行ならば当然お伝自身も、かなりの返り血を浴びているはずです、しかしそのような形跡が全くない、これも大きな疑問です。喉の深い切り傷なので布団などを楯にしてお伝が切ったのならば血は殆ど散っていない筈、血液の飛散状態はどうだったのか、警察の発表が見られない。
4 ・・凶器は剃刀と断定されています。剃刀は唯一の物的証拠です、しかし凶器は見つかったのか?見つかったという証明がない。私の調べた資料には、今宮秀太郎と大谷三四郎の証言が見当たらない。今宮秀太郎と大谷三四郎が証言したのは事実です、しかし証言が何故か削除されています。のちに今宮秀太郎は、いくえ不明になっているので尚更疑問が残ります。さらに凶器が何処に有ったかも記述されていない。当時の裁判とはいいながら、納得できない判決文なのです。
5 ・・短刀と剃刀の切り傷の違いは有るのか。どちらも片刃であること、短刀の方が先が尖っているから深い傷になるのではないか。切り傷は短刀だった、とも言える。
6 ・・吉蔵の人物像が殆ど判らないし、裁判所も知ろうとしていないのは何故なのか。吉蔵こそプロの犯罪者ではなかったのか。男尊女卑の時代だったので被害者の吉蔵の身元は詮索しなかったのでしょうか。
7 ・・お伝がいう・・其段可訴出と存じ吉蔵の持居る短刀をもぎとり血を拭ひ、鞘に入れ並に兼て見覚え小柄も傍らに有之候に付き、右二た品を懐中し、吉蔵死体へは夜具を掛け寝臥せる躰にし、同人は姉の敵に付、討果し候趣一書を認め傍に差置候・・
明治9年9月12日・・朝野新聞記事より
お伝は吉蔵の死体のかたわらに次のような書き置きを残しています。
此もの五年いらいあねをころされ、其上わたくしまでひどふのふるまひうけ候はせん方なき候まま、今日までむねんの月日をくらし、只今あねのかたきをうち候也。いまひとたびあねのはかまいり、その上すみやかになのり出で候也、けしてにげかくれるひきふはこれなく候。この旨御たむろへとどけ下され候。かわごいうまれにて   まつ
上記の書き置きを裁判所では芝居じみた嘘言と断定しましたが、私はお傳の覚悟がこの書き置き・・けしてにげかくれるひきふはこれなく候・・の中に滲んでいると信じます。
吉蔵の態度に誠意がないのでお傳は様々に迷った末、激しい憎しみが激流となって満ち溢れ殺意へと変わっていったのです。「窮鼠猫を噛む」の例えあり。普段はもの静かでも気性の強いお傳が窮したときに、いかに怖いか吉蔵は知らなかったのでしょう。。
8 ・・お伝が持っていた品々は凡て没収されていたので、お伝の持ち物にどんな物が有ったかが分からない。突然の事件に気が動転したお人好しの市太郎は、お傳の持ち物の中身を見ないで警察に提出してしまった。その中身を公表しないのは弁護人が居なかった時代の不運だったが、公表できない理由が有ったのかも知れません。市太郎も当然ながら共犯の疑いで逮捕され7日間牢に入れられました、その間に警察が家宅捜索をしたことでしょう。しかし市太郎は何も知らないで、この事件を驚愕し、ただ呆然とするのみでした。
9 強盗の罪
宍倉佐太郎の供述より
・・9月27日・・略・・思わしき金策も整い兼ね候趣を申聞け太政官一円札十枚にて先にて受取呉とてでんとり差出し候に付受け取り候・・
市太郎の食事の面倒をみて呉れる宍倉の好意に お傳は10円也を渡しています、この金は吉蔵から奪ったものでしょう、市太郎が宍倉に賄いの世話になったお礼に10円という大金をちゃんと払い恩を返したのです。裁判では吉蔵から金を奪ったので「強盗殺人」になっています。
お傳は吉蔵への強い怨恨が有っただけでありお金の強盗が目的では無かった筈です。僅かな金銭を奪ったが為に自分の立場が最悪の極刑になっています、吉蔵から奪った金は11円から23円位といわれています。お傳が殺害したとしても吉蔵の誠意の無さで事件が起きたのは確かだと思います。
10 市太郎の証言
・・明治9年9月20日頃警視第三課より御呼出相成り有楽町中山屋に小柄一挺預け置の趣、でんより申立候に付探索掛同道にて同家へまかり越取調参り同家玄関表に到取次人に面会致し高橋でんと申者より小柄一挺御預け申置候段申立候に御渡相成度申入候処取次ぎ者奥へ立入取調べ候由之処高橋でんなる者一切承知無之尤小柄など預り居るは尚更存不申旨聞候に付探索掛同道三課へ立戻り始末書を以て其旨申上帰宅致した市太郎は中山屋に・・小柄一挺預け置の趣でんより申立候付探索掛同道にて同家へまかり越・・
小柄を貰いに行ってます、でも中山屋では「知らない」と云われたが
・・同夜9時頃行川と云う者は居るかと云いながら白紙にて包み表に小川と記したる小柄一挺相渡し候に付請取り・・中略・・翌朝警視第三課へ持参前夜の手続始末書に致し差出たり・・
その後不明の人物から市太郎に小柄が届けられた。この小柄こそ後藤吉蔵が持っていた父半右衛門譲りの小柄だったのではと推察します。
11・・お伝の母ハル及び姉カネについての調べでお伝が最後まで主張した姉カネの父親関係についての証人調べは相手が元士族という事もあって極めて簡素で判事が及び腰です、取り調べというよりお伺いをたてていると言う印象でした。
広瀬半右衛門の息子、広瀬文郎の証言より
群馬県下十八大区一小区利根郡沼田倉内町百八十一番地  士族   広瀬文郎
(1)亡父半右衛門娘にかねと申女子無し半右衛門実妹にかねと申者有之候。
(1)文化9年11月22日、同藩士族広瀬治平と申者乱心し屋敷門前にて右かねを殺害し治平も其場にて自殺検死にて葬る。
(1)亡父半右衛門存命中同郡後閑村娘しづ並にはると申者召使候事実母並に親類の者と雖も一向不存且出入せし事なし。
広瀬半右衛門の弟の証言より。
東京 麻布三間谷町四十七番地     士族   広瀬佐十郎
(1)兄上沼田倉内町広瀬半右衛門儀召使の中にでんなる者なし尤も9年前迄同居致候得共右一向に見聞せし事なし。
広瀬佐十郎は見当違いの証言をしたままで終わっています。
永かった裁判
取り調べでは何人かの判事、判事補が担当していたはずです、控訴文の署名をしている判事 三村親始、判事補 沢崎廉二も取り調べに当たっていました。しかし強硬にお伝を自供に追い込んだのは加藤恒でした。
下調べを読むと、加藤恒 対 お伝 の「一対一」の対決の感があります。逮捕されてから一年余りの頃から加藤恒が強引にお伝に自白を迫った、お伝の強靱な精神と肉体が国家権力と二年余り闘った末の敗北だったのです。
お伝が獄中で監視の目を逃れて自らの腕を歯で噛み切り「こより」に血を滲ませて懸命に書いた市太郎宛の文は肝心の市太郎には渡らず監史に見つかり押収されてしまいました。それは次のような文面でした。
・・このたびは、いろいろの事、内はむつかしく候。りんさい寺のほうぢょうに、本町のせんせいとたかいところから、たんがんして下され。したからではだめだ。たんさくがはいるから、せけんの事をたのむ。宗そふとんさんに、たかいところの、てずるをたのんで、たんがんして下され。そふでなければたすからない。おさげだけでよいから・・
「たかいところからたんがんして下され」の高いところとは誰を指すのか判らない。「おさげだけでよいから」は「減刑だけでもよい」の意味でしょう。
お伝には頼れる人は、頼り甲斐のない市太郎しかいなかった、お伝は加藤恒の強硬な取り調べから既に死刑を覚悟していたのです。
お伝は、明治3年12月施行の「新律綱領」によって罰せられた、徳川時代の制度と殆ど変わっていない、本人の自白さえ取れれば刑は決定したのです。
「疑わしきは罰せず」の考え方はなくて、シロかクロか、どちらかの裁判でした。否一旦逮捕した者は凡て犯人!!にしなければ面子が立たない・・だったのかも知れません
当時、日本にも、星亨(ほしとおる)目賀田種太郎(めがたたねたろう)などの弁護士もいましたが、お伝には当然ながら彼らを弁護人とする財力は無かった。二人とも後に国会議員になっています。

明治15年1月から刑法も改正され西洋の法典の影響が大きく加わりました。お伝が斬首されてから間もなく、明治政府は、戯作者が事件を実話の如く虚飾し実説と称し世間に発表するのを禁止しました。
明治20年に起きた「花井お梅の峰吉殺人事件」では、お梅に弁護士もついて、15年の刑期で釈放されています。

逮捕後一年が過ぎる9月頃からの取り調べは厳しさを増す。加藤 恒はあらゆる拷問で、お伝を責めたことでしょう。さしものお伝も抵抗の限界がきました、加藤の言いなりに頷き、判事補の書いた供述書に拇印を押しただけでした、今までと違う尋問の激しさが伝わってきます。
2年5ヶ月に及ぶ長い裁判は当時、異例中の異例でした。お伝が頑強に仇討ちを主張し、取り調べ側にも確かな証拠がなかったからでした。
この頃の世相は幕末から明治の初期で騒然としていた。日本国中に旧士族や農民等が反乱を起こしていた時代でした。にも拘わらずお伝事件がこうも長引いたのは明治の裁判が新しい時代に対応しようと努力していた証拠でもあったといえます。しかし結果的には判事補、加藤恒の意の儘に判決は下ったといえます。間もなくお伝の「仇討ち」の主張が通らず「斬首」の刑が下った。

人を謀殺し財を取る者(東京裁判所判決書)
人命律謀殺條第五項に照し
   斬   高橋でん
該犯被害者の死は自死にして己れの所為にあらず云々雖も、第一彼れの書置及其供状
(明治9年11月14日、明治11年8月10日)及第一分署園田権中警部調口供
第二医員の診断書第三今宮秀太郎の申供、第四旅店大谷三四郎等の申供、第五宍倉佐太郎申書等を審閲するに、其他殺に係る証状明白と云うべし。
而して該犯広瀬某の落胤と云い、異母の姉の復讐云々或は姉在住の証、須藤籐次郎云々云ふと雖も姉の生所身分調に就て一も其証拠拠るべきなければ、畢竟名を復讐に仮り、ひたすら賊名を掩はむ為の遁辞と云はざるべからず。
到底此案艶情を以被害者を欺き、屡財を図るも意の如くならざるより予め謀り剃刀を以て殺害し、因て財を得るものと信認し本議の如し。
   可   明治12年1月29日

後に、判事 三村親始、判事補 沢崎廉二の署名で控訴したが認められなかった。三村親始、沢崎廉二の判事たちは加藤恒とは違った意見を持っていたのでお伝の胸中を察したのであろう「伺い書」を書いて控訴し文に署名をしています。それでも、大審院判長だった玉乃世履の「可」とする判決文が覆ることはなかったのです。

判決が下って数日後、東京市ヶ谷の刑場で明治12年1月31日八代目、山田浅右衛門吉亮の重い刀がお伝の白い首に振り下ろされた、八代続いた「首切り浅右衛門家」最後の仕事がお伝の斬首だったと言われています。刑場でお伝は市太郎の名を何度も叫んだ「市さ〜ん 市さ〜ん」その後は「ヒュー」「ヒュー」と風の様に喉を鳴らし、最後は「南無亜無駄仏」を二度唱えたという。

山田浅右衛門・・斬首役の九代目・山田浅右衛門吉亮は士族ではあったが役人ではなかった。一人を斬って20銭の収入だったとか。首切り役自体はささやかな収入だった。そのかわりに、腕は確かだったから江戸時代は刀の切れ味を武士に依頼され試し切りの報酬がおおきかった。処刑された罪人は人としての権威を失い、切り刻まれても何ら問題のない時代だったので肝臓や胆嚢、脳味噌などが当時は肺病の特効薬として高く売れて実入りは良かったらしい。 
 

 

お傳の人柄
1 お傳の人柄について信頼できる一言が僅かながら残っています。それは歌舞伎役者、名優五代目尾上菊五郎と小川市太郎の対談の中にあります(当時の読売新聞から)
・・従順にして規矩正しき一見士族の女房風で芝居の毒婦的人格にあらず・・
と市太郎が言ってます。市太郎はお傳と数年共に暮らした人物です、短い文面ですがお傳の性格が手に取る様に判かります、お傳の性格を的確に捉えています。市太郎の一言に悪女と騒がれた無念さがでています。
「従順にして規矩正しき一見士族の女房風」ということは立ち居振る舞いが上品で品格が有ったと言うことです。実像のお傳は仮名垣魯文が描いた、あばずれ女、妖女悪女などとは無縁な女性だったのです。
2 「お傳地獄」の著者、邦枝完二が下牧を訪れた時(昭和8年)の一文には
・・お伝の友たりし84歳の木村国女の生けるに逢い親しくお伝が若き日の行状をきくを得たり。しかもその語るところは従来の単なる毒婦妖婦と全く異なり、「むしろ一種の貞女と呼ぶも可なり」と思わるる節少なからず・・
ここでもお傳の人柄が伺えます。木村国女はお傳と同じ・西暦1851年、嘉永4年生まれ・になります、狭い村内です二人は親しい間柄だったのではないでしょうか。私も調べましたが木村家は下牧に数軒あり国女さんを特定できませんでした。お傳はお転婆娘ではなく、むしろ、もの静かで礼儀正しい女の子だったのです。
・・むしろ一種の貞女と呼ぶも可なり・・と邦枝完二は木村国女から聞いて知ったのです。
3 お伝は波之助に驚くはど献身的でした。
養父九右衛門がらい病を患う波之助と離別するように勧めたのを断固断っています。田村栄太郎が云うような「打算的な女」なら、らい病を患う波之助ときっと離縁した事でしょう。波之助を熱愛していたのです。その後は死の間際まで市太郎に惚れぬいたのです。恋も一途、仕事も一生懸命なお傳だったのです。
お傳の性格は・・品格が有り淑やか、礼儀正しく、個性的で自己主張がしっかりしていた。人見知りせず誰とも親しく接することができた。又母親が采配をふるった「小料理屋」の環境も大きく影響していたでしょう。お傳は世渡り上手でした。お傳は時々ウソついています。ウソをつかない人などは居ないのです。お傳の嘘は人を傷つけまいとする為のウソだったと思いますが、それが時々言い逃れになり、裁判では不利になっています。
下牧にはお傳に関する言い伝えが全く有りません。年配の人に聞いてみても誰もが全く無関心でした。理由は当時、戯作者やマスコミがお傳を希代の悪女として宣伝したため村人達が関わりを持つ事を恐れて誰もが口を塞いでしまったのです。故郷にお傳についての「語り部」が居なかったのが非常に残念でなりません。
お傳について最も丁寧に調べていたのは同県人である田村栄太郎(1893年〜1969年、高崎生まれ・風俗研究家) でした。田村は下牧村に来てお傳を知ろうとして熱心さのあまり無遠慮に取材したのでしよう、その為か村の人々に疎まれ取材拒否されたと想像されます。取材に来た田村栄太郎にとって下牧村の印象が非常に悪かった、その為なのか?田村は仮名垣魯文同様「お傳悪女説」を唱えています。実際の田村自身は、高崎の遊郭で育ち、かなり遊女遊びもしていたのです。
お傳は美人だったのか
美人だったと言われたお伝ですが、本人の写真は現存したのでしょうか?田村栄太郎薯のなかに・・新妻伊都子さん(神奈川県から選出された女性初の元衆議院議員)の父が野毛で煙草屋を営んでいた頃、お伝は煙草をよく買いに来たといい、お伝の写真もあった。戦災で写真は焼いて仕舞ったが、懇意にしていたらしい・・・との記事があります。
横浜の弁天通りに下岡蓮杖が開いた関東初の写真館がありました(文久2年開業)。お伝が住んでいた野毛町に近いのでお傳も下岡蓮杖写真館で撮った筈です。
1 田村榮太郎の「実説高橋お伝」のなかに明治の浮絵師、小林清親筆として載っていますが真筆か偽物か、定かでは有りません。
2 女優、大原麗子を思わせる美女の写真は新冶村の「多助ドライブイン」という処にお伝の写真として飾られていますが全くの別人だと私は思います。
私の故郷の友人高橋・M君(元・町会議員)から聞いた確かな話しが有ります。
高橋・M君がこの写真の提供者である元群馬県教育長、内海文之助氏(故人・みなかみ町上津出身高橋・M君と親戚関係)に直接聞いた話しで「これはお伝の写真ではないが、これをお伝の写真として飾っておけば誰かが、それは違うこちらが本物だと云ってくるかも知れない」と云い提出したもとのことです。内海文之助氏が戦友から貰った本の中に有った写真だと聞きました。内海文之助氏が探したかったお傳の写真は現れず、何時のまにか参考写真がお傳の写真になってしまったのです。とかく歴史とはこんな物なのでしょうか。にこやかな笑顔の3の美人は正面からカメラを見ています、この女性はカメラ慣れしています、明治初期に撮った写真のイメージではないのですが?
裁判記録に証人として出ている人々は「特に印象にない」「目立たなかった」などと言っています。彼らがウソをついているとは思えないのです。山村では垢抜けた美人に見られたお傳でしたが、東京でも飛びっきりの美人にみられたのでしょうか?
東京に来てからは、お傳自身があまりお化粧やお洒落をする環境や心境ではなかった。お傳自身は特に着飾らなくても私は魅力的なのだ・・と思っていたでしょう。商業をするお傳にとって、女である事や美貌がプラスにはならず、むしろマイナスな時もあったことでしょう。・・毒婦の定番はどれもこれも「絶世の美女」なのである、そうでなければ読者が納得しないのです、江戸時代から明治にかけての戯作者の作意なのです。
美しいお傳の躰
お傳は美人と言うより肌の美しさや体型が良かったのは確かです。
必要も無いのに亡骸を高級軍医達が解剖しています。解剖されたお傳の肢体は二年半もの長い刑務所暮らしと取り調べにも関わらず、男子並にシッカリとし衰えた様子もなく艶やかな女体だったと記録されています。これは正に驚異的なことです。お傳の強靱な肉体と精神にはただただ驚くばかりです。お傳は至って健康で美しい艶やかな肌の持ち主だったのです。セックスシンボルになったお傳の亡骸にエリート軍医達が群り秘部を保存したのです。横浜の薬店に頭蓋骨が秘かに保存されたとも言われています。又回向院に有るお傳の墓石はお傳マニアによって明治時代に削り取られた様子です。現在の墓は二代目です。
二度死んだお傳
斬首も酷い死刑でしたが、「陰花」を保存されたお傳はそれより遥かに悲しい二度目の死です。何時か蘇る時が来るのでしょうか!!
以下は作家や学者たちが出版したお伝に関する感想文を掲載しました。
「日本近代思想大系・・16」加藤周一薯から
・・メディアに載ったお伝をめぐる情報は、「事実」を重視する新時代の実学的風潮と、それぞれのメディアがもつ、虚構性と神話化作用との中で引き裂かれている。お伝の実情は情夫の小川市太郎らが云うように、「従順にして規則正しき一見士族の女房風とも云う可く決して型にはまりし芝居の毒婦的人に非ず」(続々歌舞伎年代記)というものであったろう。夫波之助の病気のため借金で首がまわらなくなって出奔した以降のお伝の行動は、法律を利用したり、広域経済流通の網の目をぬって、茶や生糸の投機的な商取引を行うといった、むしろ新時代の波に必死で乗ろうとした生き方であったことを示している。・・中略・・自己の欲望を忠実に追求しようとした「新しい女」の敗北を意味していたのである・・
加藤周一薯ではお傳が捨て身で挑んだ商売を的確に捉えています。・・自己の欲望を忠実に追求しようとした「新しい女」の敗北を意味していたのである・・私は、これがお傳の生き様だったと確信しています。
「女性表現の明冶史」・平田由美薯から
・・実際には私たちが彼女と交渉をもったことがあるわけではない。それにもかかわらず、そのイメージが妙に具体的で鮮明なのは、私たちが自らの好奇心や恐怖心によって生みだしたおびただしい<毒婦の物語>に取り囲まれているからだ。数々の男を惑わし破滅させるのはいかなる女なのか。彼女の物語がその悪行だけでなく魅力さえ語ってしまうのは怖いものみたさに通じるアンビヴァレントな欲望というものだろう。富やチカラあるいは異性などなど、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じである。異なるのは。「欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して」「欲望をあらわにした女には懲罰が待っているということだろう」人は一方でそうした女に対する恐怖や嫌悪感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいという秘かな欲望や憧憬を抱いている。つまるところ<毒婦の物語>とは<処刑の物語>なのである・・
塚越和夫薯「明治文学石摺考」
塚越和夫は「丸竹事件」に就いて7っの疑問をなげかけている。私の前述記載の疑問以外をのせると以下の通りです。
1 ・・お伝が云う「自分心得にては前書短刀並に小柄とも右やす方二階に差し置き候と相覚候」が是非とも必要である。警察は当然、やす方を捜索したのだろうが「申渡」には、短刀がなかったとは記されてはいない。そうなると、あったのだろうということになり、「申渡」では、この不都合を省略したのだとしか考えられない。姉かねについても「果シテ姉ノ生所等モ認ム可キ徴候ナシ」とあるのだけでは、理由としては消極的である。
2 ・・物証として凶器が必要である。今宮秀太郎に預けた「剃刀」が押収されていなければならないのだ。しかし、それについての記述は「申渡」にないのである。
(私が図書館で調べたなかには今宮秀太郎の証言が何故か見当たらなかった。
小説「お伝地獄」
(全二巻(昭和8年読売新聞連載・長編小説)を書いた小説家、邦枝完二はこの小説を書く前にお伝の故郷下牧村に足を運んでお伝の人柄などを知ろうとしている、そして次のように書いている(お傳地獄の巻末に記載)
・・申戌の秋、友と共に上州奥利根に遊ぶ、偶偶高橋お伝の生家に至る、お伝の友たりし84歳の木村国女の生けるに逢い親しくお伝が若き日の行状をきくを得たり。しかもその語るところは従来の単なる毒婦妖婦と全く異なり、むしろ一種の貞女と呼ぶも可なりと思わるる節少なからず、此処において作意大いに動きてとどまるを知らず。
邦枝完二は後に「お伝情史」を書いています。「お伝情史」はお伝は悪女として描かれています、国家や軍からの圧力がかかったのか?・・出る杭(おんな)は打たれる・・の時代だったのです。
小林考子
山西健吉薯「小林考子・懺悔秘話」はお伝に好意的です。小林考子は事業が破産した父に懇願されて16才の若さで44歳も歳の離れた宮内省大臣、田中光顕(当時60歳)の第三夫人になりました。この小林孝子を当時のマスメディアが毒婦と書きたてた。同時代の女としてお伝には同情しており、また小林考子は夫が政治の中軸で活躍していたこともあり、お伝の裁判情報も伝え聞きその内情を良く知っていたと思われます。
山田風太郎
「お傳は一人を殺しただけだが彼女を希代の毒婦にしてしまったのは仮名垣魯文である」
山下恒夫署「明治東京犯罪歴」(1988)
内山仙之助(後藤吉蔵)は恐らくプロの犯罪者であり悪行の数々を重ね裏街道を歩んでいた、それが隠された真の履歴だったのではなかろうか。内山の履歴が判然とすればお伝の仇討ちの口説が嘘か真か、直ちに明白になりお伝の供述も輝きを増したに相違ない。いわずもがな、お伝はたった一人の身空で収監の責め苦にも屈せず無罪を最後まで主張し続け二年有余の春秋を生きのびた、罪状の有無はさておき、まさに天晴れなる気力の持ち主と云う他はない。
海音寺潮五郎
お傳の犯罪は運命的なものだ、得意体質が原因かも知れぬが女のかなしさをしみじみと思わせる生涯である。多かれ少なかれ女にはこうしたところがある。もしもお傳が自分の体質にあった男と夫婦になっていたら、どうにか暮らせる境遇にあったら最も貞淑な世話女房であったであろう。
朝倉喬司(毒婦伝)
斬首される時・・地を這い身をよじって恋人の名を呼び続けた・・お傳です。これはお傳が命尽きるまで市太郎を熱愛し求め続けたからでした。波之助を助け、市太郎に助けを請うた一途な愛の現れなのです。

お伝の丸竹事件に関しては、裁判所の判決も含めて、凡てが・証拠不十分であり・不明・なのです、それが私の結論です。お伝の死後、小川市太郎は仮名垣魯文に墓を建立させて、お坊さんになったとの噂があります。また市太郎は七年忌の法要も行ったとの記事がありました。 
 
高橋お伝の裁判

 

「後藤吉蔵殺害事件」下調べ 
高橋お伝の下調べ
この事件の下調べは熊谷裁判所と東京裁判所で行われました。下調べを受けた人は以下の人達です。
被告人
高橋 デン     
証人
三島 大州     高正寺住職、波之助の友人
高橋 九右衛門  お伝の養父、勘右衛門の兄
高橋善兵衛    九右衛門病気の為代理人
高橋 代助     波之助の父
渋谷 小左衛門  お伝の母、春を養女に迎えた義父
小川 市太郎   お伝の恋人
石崎 幸吉     波之助埋葬の証言者
宍倉 佐七郎   市太郎、お伝に住居を貸した知人
吉本 虎次郎   横浜野毛町在住
岩崎 みね    小川 市太郎の知人、龍之助の妻、市太郎に貸し金が有った
広瀬 文郎    元、沼田藩士族、半右衛門の息子
広瀬 佐十郎   元、沼田藩士族、半右衛門の弟
加藤 安積    元、沼田藩士族、半右衛門の弟
石川 甚三郎   市太郎の知人
後藤 ふみ     後藤吉蔵の妻
石川 甚三郎   お伝と商法での知人
金光寺 信元   横浜、東福寺住職
行川 やす     市太郎、お伝の知人(お伝最後の住まい)
秋元 幸吉     菓子商、小沢伊兵衛の知人
・・熊谷裁判所分・
下調べ(その一)
県邑楽郡藤川村、高正寺住職 三島大州  39年8ヶ月 (年齢)
自分儀生処は新潟県越後国魚沼郡安養寺村平民板場武右衛門の4男に候処31ヶ年前弘化3年8月中より上野国利根郡上川田村東光寺住職一川の弟子にまかり成り修行致し居りたる処14ヶ年前元治元年5月22日右一川儀不孝にして病死致すに付一時頼る所を失し当惑し居りたる末慶応2年9月中より上州利根郡下牧村常忍院住職筧春英の弟子同様にて世話に相成り居りたる頃同郡下牧村高橋代助次男波之助は同村高橋九右衛門の養子に相成り同人の娘でんと夫婦に取結びたり。
其頃より同村の訳を以て互いに出入し懇意に致し居りたる末明治4年1月中より自分儀は上州邑楽郡(おうらぐん)藤川村高正寺の住職にまかり成り明治7年10月5日教導職試補拝命し矢張依然として高正寺住職致し居りたる処、明治4年12月28日頃突然右下牧村高橋九右衛門の養子高橋代助次男波之助並に高橋九右衛門の娘でんを携帯してまかり越し其波之助申すには自分負債等多分出来して夫れが為田畑等売却しついに家産を破るに至り何分活計不相立候に付他所に出て相応の稼業可成営存意にて夫婦共に家出致し来り候間。
当分の間差留め可呉旨頻に懇願する故へ自分先年前書下牧村常忍院の世話に相成り居りたる時の懇意なるを以て其筋へは不届出只ただ同情すべき至情より出で何心なく自分宅に差留置き申候然るに逗留中波之助儀は先年来の病気再発致したる由にて確かな病名は不認めと雖ども外見すればらい病とも思量する、其訳は病気の差募り甚きに至れば面部の血色少々黒くなり従って手足も腫れ出て血膿み等の出づる日も時々有之たるに付必ずらい病と視察す勿論本人波之助に於ては病名は不知旨相語ると雖ども時々4、5日は病気差募り翌日は治し4、5日毎に差募り或は平治する事も有之其平治する時日は庭前の掃除等を致し居たると雖ども別段医師を招きて療養は不致素より困窮なる故加養は不行き届趣に付自分兼て越中水橋沢井長兵衛店より売薬する一粒金と唱る丸薬を買求め置きしを投薬致し居りたり然るに明治5年1月頃波之助実父高橋大助なる者波之助を尋ねまかり越し其代助申すには波之助事追々御厄介に相なりたりと一礼を申し述べ続いて波之助夫婦共々既に家出し来る者に付詮方なし。
是上は本人の望に応じ帰村するか又は東京に出づるも兎角本人の勝手次第に任せ可呉旨依託して代助儀其夜自分に一泊し翌日帰村致し又波之助も追々全快に趣き来りたる旨にて病気平癒にて明治5年4月1日波之助妻でんを携え夫婦同行して東京へ相越すべき旨を以て自分方を出発致し候。
其後音信等は勿論再び出入り致したる儀も嘗て無之と雖ども以前波之助夫婦共々自分方にまかり越したる事情より逗留中の運動御尋問を受け事実無遺漏正実を以て前書の始末奉申上事。右之通相違不申上候。以上
明治10年1月11日          三島大州
熊谷裁判所糺問掛 十六等出仕 宮地良一
下調べ(その二)
上野国利根郡下牧村33番地  
平民 農 高橋勘左衛門(実父)  54年10ヶ月
自分儀同村高橋九右衛門の実弟にて従来農業相営みまかり在る処26ヶ年前嘉永4年亥正月2日同郡後閑村亡渋谷小左衛門養女はるを妻に貰い受け夫婦の契約を相結び居りたる末同年7月下旬頃一女を産する、その女でんと名付け養育し居りたる処。
妻はるなる者我意強くして何分自分の意に応ぜざるを以て同年9月初頃離縁致し妻はるは郷里亡渋谷小左衛門に引き渡したり。
その頃実兄高橋九右衛門儀、最早歳老いたりと雖ども一男一女も得ず家名相続方に差支え居るたる間、長女でんを貰い受け養育して相続致させ度段、実兄九右衛門より志談これありたる故を以て26ヶ年前嘉永4年9月下旬頃、双方許諾の上長女でんを養女に差遣し其の時長女でんは生ずるより60日位にて差遣したるに付九右衛門に於ては乳母を招き養育し置かれたる末追々成長して巳に14年に相成故13ヶ年前慶応元年2月中同村宮下治郎兵衛二男要次郎を実兄九右衛門の養子に貰い受け養女でんと夫婦に為取結度段九右衛門より協議を受けたるに承諾致し居りたり。
然るに夫婦の間も不和なるを以て慶応3年6月中離縁致され養子要次郎は郷里へ引渡されたり畢竟でんなる者我意を気儘にする故夫婦の間も不和を生ずる旨九右衛門より申聞けらるゝに付然からば一時懲らしめの為同郡石鹿野村星野惣七方へ下女同様に差遣し置き尚改心の目途相立ちたる上引取る方よろしかるべし九右衛門に相談を遂げ既に自分携帯して星野惣七へ依託し置きたる後でんを九右衛門方に尚責訓を加え10ヶ年前慶応3年11月11日同村高橋代助次男波之助を更に九右衛門の養子に貰受けでんと夫婦に為取結びたる処。
当節は夫婦の間も和熟にてそれぞれ農業相稼ぎ居りたるに付九右衛門の家名相続より田畑等も養子波之助に譲渡し九右衛門は別宅に隠居致され居りたる処波之助儀不幸にして明治2年3月頃より病に罹り困惑する由を以て医師、同郡月夜野町秋山健良に診察を乞い療養相加へ居りたる内医師より其病名は知れ申さざる由なれ共他人の噂には必ずらい病と相唱えと居りたれど雖ども日を追って快気に趣き来り申候然る処。
波之助追々貧困に陥り既に前書病気なる故諸入費にも差支え候趣きを以て九右衛門より譲り受けたる田畑の内少々は質入して金円を借りたることは承分致し居りたるに、ふと6ヶ年前明治4年12月25日頃より波之助妻でんを携え夫婦共々無断家出致し行方知れ申さざる段九右衛門より旧沼田藩へ届け出たる旨にて組合親類自分共尋方申付けらるゝ間尚諸処相尋居りたりと雖ども波之助夫婦の踪跡更に分明不致由を以て波之助を離別し度段九右衛門より協議に及ばれついに明治5年3月中波之助を離縁致し同人の名籍を郷里高橋代助に引渡し送籍し置きたる処。
明治7年3月20日頃横浜本町上澤與三郎より同村高橋代助へ書簡到来したり其書状において波之助夫婦は東京麹町辺に寄寓して自今波之助病に罹り難渋し居りたる故金子少々貸与え可呉旨妻でんなる者右與三郎方へ相越したるに金子は貸渡し置くと雖も僅かの金子にては不足を生ずるのみならず他所に於て病に罹りては尚難渋致すは必然たるに付早々村方に引取たる方宜しかるべしと記載し有之付如何致すべく哉と高橋代助より示談に及ばれ兎角引取たる方可然と同人の協議に応ずるも畢竟でん女は自分の実娘なるを以て兼て懸念致す間左すれば自分も同行にて出京致すべしと明治7年3月24日頃より高橋代助同行にて出京し。
東京麹町辺へまかり越し波之助夫婦の所在を相尋ぬると雖ども分明致さず尚前書横浜與三郎方へ行き尋ぬるに於ては明瞭致すべくと思量して翌3月25日矢張大助同道にて右與三郎方に相越し波之助夫婦の住所を尋ねたるに同人に於ても只東京麹町辺とのみ承り詳しき事は存じ申さざる由併し当横浜吉田町2丁目魚屋清次郎方は無産の徒多く集合するに付右に相越し探索するに於ては自然分明致すべく哉も難計旨申聞けらるるに付直に其魚屋清次郎方へまかり越し波之助夫婦の身上を相尋ねらる処同人の談話に成程波之助は代助殿の子息なる哉。
明治5年10月頃より其波之助並びに妻辰とか申す女を携え滞在し居りたるに波之助不斗病に罹りついに同年10月18日病死致すに付朋友の者其打集り心配して当横浜在にて赤門とか申す寺の地中へ埋葬したる旨尤も只ただ犬猫の埋葬の如くにして素より墓印も無之由に付き最早年月も経て今日に至らば其場所も相知れ申さざる段且つ波之助妻辰とか申す女も其際より家出したる儘にて其後再び相越し不申旨魚屋清次郎より申聞けらるゝに付大助に於ては一時驚愕して尋ねる気力無之などと申居と雖どもつれゞ熟考するに真実片言にて曖昧なり加ふるに波之助妻の名も相違するを以て疑惑を生じ譬え其赤門とか申す寺へ行き捜索するも詮方無しと其儘前書與三郎方に立帰り右の云々を申述べ其夜與三郎方に一泊して翌同年3月26日代助同道にて帰路再び東京麹町辺に立廻り尚波之助夫婦の踪跡を尋ぬると雖ども更に相知れ申さゞる間不得止翌3月27日より大助共々帰村致し居りたるに。
明治7年8月7、8日頃突然波之助妻でんのみ独身にて帰宅致し其でんの申すには何分自分に対して悉く不孝を生じ今更申訳け相立難と雖ども悔悟して此上は必ず改心する間何卒勘弁致し可呉旨頻りに泣謝致すに付承諾し置き候。
併し夫波之助は如何なる踪跡に相成りたるやと尋ねたるに初め夫婦共々無断に家出したる後。
上野邑楽郡藤川村高正寺へまかり越し一年間程夫婦共に稼業相営みと雖ども活計相立ざる故其藤川村高正寺を立居でたる哉直に夫婦離別し互いに好む所に向ひて相越したるに付其後波之助の行方は更に存じ申さず譬え波之助帰村致候とも手前に於ては干渉無之旨でんより申出でたり依って自分横浜に於て魚屋清次郎より聞込みたる次第と只今でんの口舌とは大に齟齬致し何分了解し難く、尚疑惑は増すと雖ども不得止其儘等閑に致し置きたる末暫くしてでんなる者東京麹町辺に相越し出稼ぎ致度き由実兄九右衛門へ申出る旨を以て九右衛門よりの相談に応じ無論でんの望みに任せ明治7年9月中より東京麹町8丁目16番地瀧口専之助方寄留にて送籍状を為持差遣し置きたり其後でんの進退は更に存じ申さゞるのみならず波之助失踪に付ても承りたる儀も嘗て無之候処今般御堤喚の上波之助夫婦の挙動御尋問を受け真実無遺漏前書の始末奉申上げ候也。
右通相違不申上候。以上
明治10年1月26日          高橋勘右衛門
熊谷裁判所糾問掛 十六等出仕 宮地良一
下調べ(その三)
上野国利根郡下牧村26番地  
平民  農  高橋代助(波之助の父)60年5ヶ月
自分儀従来農業稼ぎまかり在る処10ヶ年前慶応3年虎11月11日次男波之助を同村高橋九右衛門へ養子に差遺し同人の養女でんと夫婦に為取結、当節は夫婦の間も和熟にてそれぞれ農業相稼ぎ居りたるに付九右衛門の家名相続より田畑等も養子波之助に譲渡し九右衛門は別宅に隠居致され居りたる処波之助儀不幸にして明治2年3月頃より病に罹り困惑する由を以て医師、同郡月夜野町秋山健良に診察を乞い療養相加へ居りたる内医師より其病名は知れ申さざる由なれ共飲食の食違ひとのみ申し聞けらるゝに併し乍ら他人の噂には必ずらい病と相唱えと居りたれど雖ども日を追って快気に趣き参り申し候。
波之助追々貧困に陥り既に前書病気なる故諸入費にも差支え候趣きを以て九右衛門より譲り受けたる田畑の内少々は質入して金円を借りたることは承分致し居りたるに。
ふと6ヶ年前明治4年12月25日頃より波之助妻でんを携え夫婦共々無断家出致し行方知れ申さずに付き九右衛門より旧沼田藩へ届け出たる旨にて組合親類自分共尋方申付けらるる内伝承するに波之助夫婦は上州邑楽郡藤川村高正寺へ相越し滞在致し居候趣に付翌明治5年1月末頃前書藤川村高正寺へまかり越たれば果たして波之助夫婦に面会致し直に波之助に向かい如何の次第なる故無届にて家出致したる哉、迅速帰宅すべし勿論家出の始末藩庁へ届出尋中なるを以て同行して帰村可致し段他言も種種申聞かせ責錬相加えたる処。
其波之助申すには素より家出するも畢竟活計自意の如くならず困窮の余りついに養父九右衛門より譲り受けたる田畑等も養父へは断りも無くほしい儘に質入れし其他にも借財有之何分養父に対し今更申訳相立難く加之居村於ては到底稼業の目途相立たざるに付寧ろ余所に出で相応の稼業必至相営み資本金等相貯え候上帰村致すべく間何卒勘弁致し可呉旨頻りに悲願する故を以て相済まざる儀とは存じながら一時親子の愛情に溺れ左すれば其方波之助へ出会致さざる趣きに詐称し黙許し独り帰村するに付是のことは本人波之助情願応じ譬え東京その他へ相越すも又は帰村するも本人の存意に任すべしと波之助へ申し聞かせ候。
尚高正寺住職三島大州へも前顕の次第を述べ依託して其夜高正寺へ一泊翌日帰村致候てもやはり近隣親類中には波之助に出逢不致未だ行方更に相知れ申さざる段相唱え置き候。
而して明治5年3月中九右衛門よりの示談に波之助儀到底踪跡相分からざる故を以て気の毒ながら離縁致す間同人の名籍を実方自分方に差し戻し申すべく旨に付不得止親類協議の上波之助の名籍を引取り帰籍し置きたり其後波之助夫婦より嘗て音信等も無之居りたる処。
明治7年3月20日頃兼て懇意なる横浜本町3丁目上澤與三郎より書簡到着其書状を披見するに波之助夫婦は東京麹町辺へ寄寓して自今病に罹り難渋し居りたるに付金子少々貸与え可呉旨を以て妻でんなる者まかり越したる故金子2円50銭貸渡し置くと雖ども到底僅なの金子にては不足を生じ加養不行届きは必然なり依て早く村方自分宅へ引き取り申すべき旨記載し有之に付直に其書状を持て同村高橋勘左衛門方へ示談に及び兎角引取りたる方可然と協議の上同人同行して明治7年3月24日頃より出京し。
東京麹町辺へまかり越し波之助夫婦の所在を捜索すると雖ども更に相知れ申さずに付不得止尚前顕横浜與三郎方へ行き尋ぬるに於ては分明致すべくと思量して翌同年3月25日やはり勘右衛門同道にて右與三郎方へまかり越し波之助の所在を相尋ねたる処同人に於いても只ただ東京麹町辺とのみ承り詳しき事は存じ申さざる由併し当横浜吉田町2丁目魚屋清次郎方は無産の徒多く集合するに付右に相越し探索するに於ては自然分明致すべく哉も難計旨申聞けらるゝに付直に其魚屋清次郎方へまかり越し波之助夫婦の身上を相尋ねらゝ処同人の談話に成程波之助は大助殿の子息なる哉。
明治5年10月頃より其波之助並びに妻辰とか申す女を携え滞在し居りたるに波之助不斗病に罹りついに同年10月18日病死致すに付朋友の者其打集り心配しって当横浜在にて赤門とか申す寺の地中へ埋葬したる旨尤も只ただ犬猫の埋葬の如くにして素より墓印も無之由に付き最早年月も経て今日に至らば其場所も相知れ申さざる段且つ波之助妻辰とか申す女も其際より家出したる儘にて其後再び相越し不申旨魚屋清次郎より申聞けらるゝに付一時驚愕して尋ねる気力無之などと申居と雖ども真実片言にて曖昧なり加ふるに波之助妻の名も相違するを以て疑惑を生じ譬え其赤門とか申す寺へ行き捜索するも詮方無し再其儘前書與三郎方に立帰り右の云々を申述べ且つ妻でんへ貸し渡したる金円も返却して其夜與三郎方に一泊して翌同年3月26日勘右衛門同道にて帰路再び東京麹町辺に立廻り尚波之助夫婦の踪跡を尋ぬると雖ども更に相知れ申さゞる間不得止翌3月27日より勘右衛門共々帰村致し居りた処。
明治7年8月7、8日頃突然波之助妻でんのみ独り帰村致すに付波之助の踪跡より身体如何を相尋ねたるに前顕藤川村高正寺へ一年間程逗留致し居りたると雖ども可然稼業も無之故を以て其高正寺を出発致し候哉互に波之助と夫婦離別して互に我が意に任せ相越したるに付その後波之助は何方へまかり越し候や更に踪跡は存じ申さざる段でんより申されたり。
依て自分横浜に於て聞込みたる次第と只今でんの口舌とは大に食違い致し何分解し難く尚一層疑惑を増し荏苒(じんぜん)今日に至るも未だかって波之助の踪跡は更に分明不致又波之助儀に付て他所より通知を受けたる儀も嘗て無之然るに今般御呼出しにて波之助夫婦挙動御尋問を受け真実無遺漏正実を以て前書の始末奉申上候事。
右之通相違不申上候。以上
明治10年1月26日         高橋代助
熊谷裁判所糾問掛 十六等出仕 宮地良一
下調べ(その四)
上野国利根郡後閑村第66番地  
平民   渋谷小左衛門     39年11ヶ月
自分儀生所は同村櫛渕二左衛門次男茂助に候処17ヶ年前文久元年正月中頃同村渋谷小左衛門の養子にまかり越し同人の長女ふさと夫婦にまかり成り居りたる末翌文久二年正月下旬頃養父小左衛門の家名より田畑等も譲受けたり其節養父小左衛門は隠居致すに付て自分小左衛門と改称して相続致居りたる処養父小左衛門不孝にして10ヶ年前慶応3年9月中病死致し候然るに養父亡小左衛門生存中嘗て申し聞けるに年月不知45、6ヶ年前同村櫛渕長兵衛妹きよなる者同郡下津小川島村姓不知、沼五郎の妻と相成り居る処長女春を産するの後沼五郎は病死致すに付不得止きよ及長女春共郷里櫛渕長兵衛方に引取り居たる頃。
44ヶ年前天保4年巳2月中前書櫛節長兵衛妹きよの長女春亡小左衛門の養女に貰ひ受け養育し居りたる然るを26ヶ年前嘉永4年亥正月中同郡下牧村高橋九衛門の実弟高橋勘左衛門の妻に縁談相整い既に差遺し置かれたる由の末同年7月下旬頃長女でん一人を生ずるの後同年9月中高橋勘左衛門に於ては妻春を離別致され郷里亡小左衛門方に引取り居たる其養女春を嘉永6年2月中同郡生早村姓不知、勇吉の妻に再び差遺し置かれたる旨の処其勇吉妻春は不孝にして同年5月中に病死致し候。
亡父小左衛門より承り置きたる処今般御喚出しの上でんの実母春の生所等御尋問を受け事実無遺漏前書の始末奉申上候事。
右の通相違不申上候。以上
明治10年1月26日         渋谷小左衛門
熊谷裁判所糾問掛 十六等出仕 宮地良一
下調べ(その五)
上野国利根郡下牧村44番地   
平民  農  高橋九右衛門(養父)    67年11ヶ月
自分儀従来農業相稼ぎまかり在る処最早歳老いたりと雖ども一男一女の不得家名相続譲り渡す子孫も無之殆ど当惑の末26年前嘉永4年亥9月中実弟同村高橋勘左衛門の長女でんを養女と致し其時でんは産するより60日位にて貰受け乳母を招き養育し居りたる処成長して既に14年にまかり成るに付13ヶ年前慶応元年2月中同村宮下治郎兵衛の次男要次郎を養子に致しでんと夫婦に為取結せたり雖ども夫婦の間不和なるを以て親類相談の上10ヶ年前慶応3年6月中離縁致し候。
而して養子要次郎は郷里治郎兵衛に引渡し養女でん畢竟我意を張り養子要次郎の意に従はざる故へ兎角夫婦の間も不和を生ずる哉と思量するを以て一時懲しめの為同郡石鹿野村、星野惣七方へ下女同様に暫く差遺し置きその後引取り尚折檻を加え10ヶ年前慶応3年11月11日同村高橋代助の次男波之助を更に養子に貰い受け養女でんと夫婦に取結たる処夫婦の間も当節は真以て和熟にて共々農業相稼ぎ勉励致すに付自分の家名相続より田畑共合せて三石余り譲り渡し自分は別宅に隠居致し居たる。
末波之助は不幸にして明治6年3頃より病気差発し難渋の由を以て医師同郡月夜野町秋山健良に診察を乞ひ服薬して療養相加え居たる内、其医師より病名は確かには知らせ申さず只ただ飲食の食違ひとのみ申聞けらると雖ども他人の噂にてはらい病と相唱へ居り候。
尤も波之助発病の際は時々面部の血色黒く少々赤くして或は手足等の腫れ出づる事も有之と雖ども日を追て快気に趣き来り申候。
然るに波之助儀追々貧窮に陥り既に自分より譲り渡し置たる田畑の内四斗余は質入れし金円を借受けたる事は承諾致し居りたる処6ヶ年前明治4年12月25日頃より。
ふと波之助妻でんを携帯して夫婦共々無断で家出致し行方相知れ申さずに付其段旧沼田藩へ自 分より届け出たり左すれば直ちに親類組合へ尋方申付けらるゝに付尚所々相尋ね居りたると雖ども波之助夫婦の踪跡は更に分明致さざるに依て不得止明治5年3月中波之助を離縁致し同人の名籍を郷里同村高橋代助に引渡し送籍し置きたり其後に至るも波之助並に養女でんの踪跡は相知れ申さざるに付やや懸念し居りたる処。
明治7年8月8日頃突然養女でんのみ独身にて帰村致し其でんの申訳に何分自分に対し誠に不孝を生じ今更相済まざるは千万有之と雖ども先非悔悟して必ず改心するに付何卒勘弁致し可呉旨頻りに泣謝する故を以て養女とは申し乍ら親子の哀情黙止難く承諾致し置き就ては夫波之助は如何の次第に相成たるや又は何方に流寓し居たる哉と相尋たるに、養女でんの申すには先年来無断に家出致したる後ち上州邑楽郡(おうらぐん)藤川村高正寺へ相越し一年間程夫婦共々稼業相営み居りたると雖ども活計相立たざるに付右藤川村高正寺を立出候哉直に夫婦離別致し各其望に応じ道路を分て相越たるに其後波之助の行方は更に存知申さず、譬へ波之助帰宅致し候ても手前でんに於ては更に干渉無之段申し出たり。
最も手前でんは東京麹町8丁目瀧口専之助方に寄寓致し居たる由申さるゝ依て明治7年8月10日頃無断家出致したる旨を旧熊谷県へ自首致させたるに程無く熊谷裁判所に於て免罪の御処分を受けたるに付矢張り自分宅に引取りたる処暫くして養女でん申すには東京麹町辺へまかり越し出稼ぎ致し度く間寄留証書差出し可呉に付、尚実弟勘左衛門に協議を尽くし、よんどころ無くでんの好みに応じ明治7年9月中より東京麹町8丁目16番地瀧口専之助方寄留にて送籍を持たせ差遺し置きたる後ち如何して生計相立て居り候や懸念する間。
明治8年2月下旬頃自分儀出京致し前書麹町瀧口専之助方へ相越したる処養女でんは瀧口専之助方裏座敷に借宅して縫い針又は洗濯等を渡世にて活計相立て居りたるに付緩々面会して其夜はでん借宅に一泊致し翌日帰村致候のみにて其後はでんに面会せざるのみならず音信等も嘗て無之荏苒今日に至る処今般御呼出の上前養子波之助並に養女でんの挙動御尋問を受け事実無遺漏誠実を以て前書の始末奉申上候事。
右之通相違不申上候。以上
明治10年1月26日         高橋九右衛門
熊谷裁判所糾問掛 十六等出仕 宮地良一
右之通相違不申上候 以上   明治十年一月二十六日
高橋九右衛門 右九右衛門病気に付代 高橋善兵衛
熊谷裁判所糺問掛 十六等出仕 宮地良一
下調べ(その六)
群馬県上野国利根郡下牧村、高橋九右衛門養女    高橋でん
右の者犯罪有之御糾問中之処10ヶ年前慶応3年12月中同村高橋代助次男波之助を婿養子とし、右でんと婚する後ち明治4年2月頃より波之助らい病煩ひ、村巷良医無之に付、出京の上療養の見込にて同村12月中夫婦共々家出致し、館林在藤川高正寺住職淨円なる者は波之助懇意なるを以て相越し厄介相成居候内、翌年1月に至り波之助実父代助も参り面会する事あり暫く滞在、同5年3月出京所々漂白以来。
横浜吉田町2丁目42番地、植田清次郎方へ同居致し,同年8月中波之助病死其節同人国許父方に音信致候段供出候処、事実判然致依て波之助病質並に光照寺に逗留の景況其他高橋勘左衛門同九右衛門同大助光照寺淨円等巨細取糾し口書取を送送致すべく旨の処、明治7年12月9日付を以て御照会に付、則堤喚候処或は病死又は他行等にて人数揃はざる故、事実糾問するを不得、自ら還延に及び、且つ藤川光照寺住職淨円の名称はかって無之、やはり藤川村高正寺住職は三島大州なる者に付、呼出し一応推問候処、果して然り、依て高橋九右衛門外三名並に高正寺住職三島大州糾問の上、口書別紙五冊之通取之御回送に及び候條、右にて御承諾有之度此段御回答に及候也。
明治10年1月29日   熊谷裁判所糾問掛
東京裁判所糾問掛御中  
東京裁判所下調べ 

 

檜物町後藤吉蔵を殺害せし手続概略
(1) 明治9年8月27日浅草区御蔵前片町旅人宿大谷三四郎方へ後藤吉蔵同宿同枕の際、午前11時頃新富町宍倉タネより借受け所持せる所の剃刀を以て同人の喉を切付候処即死致し候事。
(1) 此ものに5年以来云々と記せし書付は後藤吉蔵を殺害せし後自分所持の矢立を以て認め置候事。
右の通相違不申上候    以上
明治10年9月10日   高橋でん  
糺問掛          加藤 判事補
下調べ(東京分その一)
明治9年8月27日浅草区小蔵片町大谷三四郎宅に於て同日午前11時頃、後藤吉蔵殺害致し候末同日午後 時頃同家立出同町三橋際にて人力車に乗し新富町3丁目行川方に帰宅致し候、刻限は凡午後4時ころにて其節市太郎不在にて直ちに二階に打臥居候処同5時頃市太郎帰宅同人に依頼致し導引を呼寄せ療治致居候、翌28日29日迄病臥まかり在候処29日午後10時頃御召捕に相成候。
右之通相違不申上候哉 以上
明治11年3月19日   高橋でん
下調べ(同その二)
東京第1第区15小区岡崎町一丁目十五番地  平民  木挽渡世   
小川市太郎 (34年7月)
(1) 自分儀嘗て高橋でんと馴染同居候中明治8年2月中でん同道愛知県まで商用にてまかり越候節同人より大切の品にて他見を恐れ預かり呉れる様封じの儘預り直に自分守袋の中に差入有之候処、昨明治10年5月頃と覚守札沢山には入替として取出し候処許にて右預り有之候処封紙破損致し候に付、一覧致し候処別紙差上候文面に付不容易儀と存じ外書類と大切に致し預り置候処今般でんより申立により上納可致旨本月23日御渡に付則持参上納仕り候。
右之通相違不申上候。
明治11年3月26日   小川市太郎
下調べ(同その三)
神奈川県武藏国久良岐郡横浜梅ヶ谷町千三百四十九番地  日雇業  真宗  
石橋広吉 (57年6月)
自分儀越後国頸城郡青野村文衛門長男にして18ヶ年前前書の地へまかり出候以来日雇稼業まかり在候処16年前其頃、東京飯田町俗に鎗屋坂住居当時絶家、上総屋彦七三女かよなる者縁組致候、妻かよの実兄植村清次郎なる者横浜吉田町2丁目42番地に住居にて木賃宿渡世致居候処、明治5月5日中、日失念上野国利根郡下牧村出生の由にて35、6歳と存候らい病に罹り候、高橋粂八並に同人妻22、3歳位と存候まつの両人宿泊致居候中粂八折々日雇稼致居暫時滞留まかり在候より自分も時々清次郎宅へまかり越候に付承知致候儀にて右まつ儀は其節何れへ参りたるや存不申候へ共雇奉公にまかり在候様承り同人も時々粂八見舞看病為めまかり帰り候儀有之、然る処明治5年8月13日頃より粂八病気差重り候に付、まつも同月下旬頃より付添看病まかり有得共追々衰弱致し終に明治5年9月17日病死致し候に付、清次郎自分並にまつ共々談示之上其節横浜鑑札取調会所へ届け之上死骸検死済の上翌日と存じ午後7時頃同所太田村東福寺へ埋葬致し候節は名前不存日雇両人相雇自分清次郎並にまつ共々葬送致候儀候有之翌日と存じまつは立去り候儀にて其後同人に面会致したる儀無之候。
(1) 明治6年2月中と存候上野国下牧村高橋勘左衛門同代助両人右清次郎方へ波之助と申す者当家に於て病死致し候趣に付候、埋葬の寺為知呉れべき旨にて尋参り候に付清次郎より波之助無之粂八儀に候はゞ前書東福寺を指図致遺し候儀に有之候事。
(1) 右まつ儀其節の形態も御尋有之候へ共確と御答の難致全く自分は時々清次郎宅へ参候而巳に有之候事。
(1) 清次郎儀は明治6年4月3日病死自分妻かよは明治7年7月2日病死致し且つ清次郎妻ひでなる者は同人病死後は何れへ参り候哉、今以て踪跡相知不申候事。
(1) 清次郎存命中近隣の者姓名御尋に付向に松島国蔵、福山重兵衛、左隣は増田清吉、右隣り其頃空地に有之候事。
右之通今般御尋に付自分心得の分申上候儀に相違無之候 以上
明治11年4月1日   石橋広吉
東京裁判所糺問掛  加藤恒
下調べ(同その四)                 
東京第一大区九小区日吉町二十二番地  平民  日蓮宗   
宍倉佐太郎 (44年9月)
(1) 自分儀明治9年中新富町3丁目3番地、行川やす方に居住致居候中高橋でんなる者同居まかり有候始末左に申上候。
自分は行川やす方間借致し日々蛎殻町米市場へまかり出居候中明治9年7月頃と覚不図小川市太郎なる者と懇意相成交り居交処、同人儀茶見本持来り候、品目方900貫目を代金750円にて買求め内金250円手金とし相渡し残金500円是非4、5日の内不相渡ては手金流れの約定に有之、依ては何方に於てか買主又は金借の周旋致呉間敷哉の旨にて尚値段等委細儀は私妻買取りたる品に付同人より聞取り呉候様是非明日は妻同道可致す旨申聞候に付、早々聞合可遺旨答え相分れ翌日に至り市太郎並にでん共々来りでんへ委細相尋候処右品は武州熊ヶ谷在大麻生村鈴木濱次郎方に有之何分今4、5を過ぐれば手金流れに付幾金にも金主なり又は買手の口入なり依頼可致と承るに付夫是周旋致候中略金主も出来候末。
自分並に右でん金主(住所判然致さず)榮助共々明治9年8月中と心得大麻生村までまかり越右一見致候処見本とは原品悪敷甚だ相違に付金主に相断り空しく自分榮助の両人帰京仕候然る処自分留守中子供のみに付右市太郎を留守番に差置候儀にて帰宅の上同人へ其段相話候処甚だ気之毒にて同人は更に心得不申旨申聞候。
然るに右商法不相成上は活計向窮迫致候間甚だ気の毒ながら当分の内同居致させ呉れたき旨頼みに応じ夫れより市太郎は自分方へ同居差置候中尚同人窮究の躰に付自分方に於て食事等も賄置候儀有之其後明治9年8月中旬頃と存じ前書高橋でんなる者帰京の上馬喰町辺に寄宿致居る趣にて市太郎に面会としてまかり越商法行違より窮迫の旨種ゝ相話し其際行川やす方座敷を借受けでん儀も同居まかり在候依て同人等と懇意に相成候儀に有之。
彼等両人共余程金円に差支候趣に想像致し候より憫然の至と存じ日々食事は自分方より遺し賄い置き尤もでん儀、髷を結いたる儀は無之程にて前顕自分方より賄遺置を心痛致居候哉、でん儀横浜表に従弟有之に付彼方にて金策の上返済可致旨時々申聞居同月20日頃より日々夕飯後凡そ午後7、8時頃よりでん一人にて横浜表にまかり越す旨或は金策に参るとて出宅致し毎夜11時或は10時過頃帰宅致候事。
(1) 明治9年8月26日にも夕飯後前同様申聞でん儀一人にて立出其夜帰宅不致に付如何候哉と存居候中翌27日午後5時頃にも相成候哉帰宅致し候上漸く従弟に面会致し出来したれども思わしき金策も整ひ兼ね候趣を申聞け太政官一円札十枚にて先以て受取置呉とてでんとり差出し候に付受取り候。 
其夜市太郎でんの両人にて外出致し凡一時間程過し立戻り候事、尤も食事処入費の方に該金請取候儀にて其時に費用致候。
(1) 明治9年8月28日早朝初て丸髷に結い簪根掛け等も用いたる旨自分長女たね(其の頃14歳)申聞候得共別段聞届も不致まかり在候処午後7時頃区務所より自分を被呼候に付まかり越候処衣類人相書等を以て警視局探索掛よりでんの始末尋を受候に付御答申上候末でん儀同道にて其節新富町に有之警視第一方面第一分署へまかり出夫より浅草蔵前第五方面第一分署へ御拘引相成候事。
(1) 同年8年21日より所有の髪剃刀不相見依ては何れへか仕舞失ひたる儀と心得居候、右でん者盗取り同人より近隣の研屋(当今行方不知、今宮秀太郎)より受取り直に同局へ上納致候儀にて該髪剃刀は全く自分所持品に御座候事。
(1) 高橋でん拘引之後何ぞ刃物等は該家に無之哉の旨御尋を受け候へ共尤も同人所有の古帯小夜具の二つ外に小布類は少々有之依て差配人兼家主行川やす市太郎立会の上市太郎へ封じの儘相渡したるの外今般御尋の品等は嘗て見受けたる儀無御座候事。
右者今般御糾しを受自分記憶の儘有体申上候相違不申上候    以上
明治11年6月10日   宍倉佐太郎
東京裁判所糺問掛 判事補 加藤恒
下調べ(同その五)                  
神奈川県武藏国久良岐郡横浜太田村  東福寺住職  真言宗  
金光寺信元 (43年11月)
(1) 自分儀前東福寺へ明治10年4月中より住職相成居候処明治5年9月中植村粂八と申者埋葬致候儀有之哉御尋に付取調左に申上候。
横浜太田町長八店屋号魚屋事、植村清次郎弟粂八なる者明治5年9月17日病死致し候旨にて清次郎より申来依て聞調候処変死にては無之明治5年5月頃より発病の趣則らい病症にて死亡致候に相違無之に付、法名秋還信士と名付則明治5年9月18日該寺へ埋葬致し候儀有之然る処明治9年中旧警視局より御出張にて御調之節高橋波之助と御尋に付該氏名の者埋葬致し候儀無之に付其段千住職長島観園より御答仕置候処、尚又今般御尋に付前書の始末該寺過去帳取調の上此段申上候通相違無御座候  以上
明治11年4月5日   金光寺信元
東京裁判所糾問掛 判事補 加藤恒
下調べ(同その六)  
上野国利根郡下牧村四十四番地  平民  高橋九右衛門長女  
高橋でん (25年10月)   
(1) ・・【自分儀、実母ハルは同郡小川島村沼五郎娘にて祖父病死後、祖母共々同郡後閑村生家長兵衛方へ立戻り候上、実母は同村渋谷小左衛門養女に被貰候、同家にて成長の後旧沼田藩家老職、広瀬半右衛門方へ時々出入り致し候中、同人と馴れ合い懐妊相成り候儘、右九右衛門弟勘左衛門妻に嫁し自分出生致し候末家内不熟にて私共々離別小左衛門方へ被引取まかり在候。
然るに右九右衛門方に相続人無之に付き、自分を同人方へ被貰養女と相成り成長致し10ヶ年前12月中、同村高橋大助次男波之助なる者を婿養子に貰受候処、明治4年2月頃より波之助儀、不図ライ病相発し候より親子の間に何となく、苦情相発し、波之助申聞くには斯く難病に罹るより両親の機嫌も悪しく且つ当地には良医も無之に付き、一先ず出京治療致したく候へば平癒も可相成りと存じ候。且つ両親へは立出度段申に従い同行世話致段度存じ且先に広瀬半右衛門承り居候には旧忍藩青木新右衛門娘しづと申者に馴染み女子出生致し青きかねと名付け東京へ残し置き候承り候間、同人とも面会致度と旁々養家へは無断にて夫実父大助へは右情態秘かに申述べ、旅費手当金等貰受、明治4年12月25日、養家出立然るに両人共東京は初めての儀に付き、新年に至り出京可致しと申し合わせ同国藤川村高正寺住職儀は大助懇意之者に付便り参り同寺に滞在、明治5年1月中、出京馬喰町2丁目旅人宿武藏屋治兵衛方に止宿療養中。
自分は虎の門外、金比羅神社元へ病気全快の祈念を込、21日間参詣致し候中何れのご婦人か不存是も毎朝参詣致居候内言葉を掛け候より、互に心願の次第又は身の上話会候処、彼の婦人は兼て広瀬半右衛門より承り居候腹違いの姉かねに合当り始めて面会夫より行末之事柄咄し合互に力を添え全く金比羅神社の御引合尚々心願、まかり在候其節姉かね申聞るに横浜には外国人にヘボンと申す名医有り如何様の病気にても療治致候へば、全快不致儀は無之間治療を受け可然段申候付、其旨波之助に申聞け候上、後より参り候段相答え。其節同人宿所承り置、明治5年4月上旬、東京出立、横浜野毛坂下町番地不詳青木かねへまかり越止宿療養被居候処。
其節東京の由にて内田仙之助と申者(後藤吉蔵)同家に時々参り姉の世話等も厚く致居、私儀も追々懇意に相成候内自分へ右吉蔵より再々不義を申掛けられ候得共強て相断り置候末、明治5年8月10日頃と覚、吉蔵よりと申当時行衛不知、元会津藩の由、加藤武雄なる者を以て名薬と申しビン入れにて水薬持来波之助へ為呑候へば暫時に全快致し候旨申聞き候間、速に相用候処、直に波之助胸部より顔へ掛け大に腫上り紫色に相成苦痛甚しく夫是手当致し候内ついに明治5年9月18日病死候依って其節隣家須藤藤治郎(その頃33歳)世話を以て太田清水町東福寺に於いて「則良善信士」と名付け送葬致し候。
その後自分儀気疲れより発病種々手当致候得共全快不致中国元にて懇意まかり有候上野国富岡町絹商人小沢伊兵衛に出会自分儀病気の次第相話し候処、東京にて療養可致様、勧めに従ひ明治5年10月30日神田仲町2丁目5番地秋本幸吉方へ、其節自分はまつと称し居止宿治療まかり在り候中。
明治6年2月中伊兵衛儀は一先ず帰国致し留守中、前書、吉蔵儀尋ね参り自分を世話致呉候様聞き候へ共姉かねも世話に相成候儀に付殊に自分は伊兵衛の世話にて差支も無之故相断り置候、その後病気も全快に至り月日失念入湯にまかり越し候途中、同所藤本と申す寄席の角に前書加藤武雄(その頃27歳)佇み居候に付幸の事と存じ前顕夫持参候薬の原因を相尋ね候処直ちにその場駆け出し候に付、依ては該薬には何ぞ子細も可有之儀と存じ追掛候処終に駿河台その頃昌平橋内、大手際に於いて同人の羽織を掴み候処直に自分右腕へ切付け今に旧痕有之其の儘見失い無詮帰宅致候末、月日失念横浜表前書須藤藤次郎より鼠半切書面到来に付被見候処。
姉かね何れか連れ参り候趣申来り候に付何分姉にも面会致度、且つ小沢伊兵衛儀帰国致し候儘音信無之に付尋ね度と存じ候得共宿主幸吉より他行差止有之、因て書面認め残し置き幸吉へ無断にて立出、直に横浜へまかり出姉方へ参り候処果して其屋に居り不申に付、隣家藤次郎に相尋候処4日頃何れか相越趣にて家財は如何候哉尋ね候へば年頃37、8歳位の男参り取り片付候旨承り候に付き、右は全く後藤吉蔵に相当り同人の所為と存候。
何共遺憾乍ら立帰り其より上野国富岡町小沢伊兵衛方へ尋ね国元へ夫の病死も為知度と旁々夫実父大助方へ立戻り同人の行衛、且波之助病死の段相話し養家不立寄直に出京致し兼て懇意まかり在候、麹町12丁目住居、小川市太郎方へ尋参り同家へ止宿まかり在候処。
両親始め且親戚へも面会致度と存じ明治7年6月中帰国仕候、両人共逃亡御届相成居り、依り県庁へ自訴仕候処自分は免罪相成夫より養父九右衛門被連麹町8丁目18番地滝口専之助方へ寄留まかり在候、然るに愛知県下平民当時所在不存立松儀一なる者右市太郎方にまかり在候節養蚕掃立てに付桑苗買い求め度旨申に付国許へ自分儀まかり越候際、熊谷県下大麻生村鈴木浜次郎方に於て右苗都合3万本300円買求める約定致し、内金150円相渡し、尤も此金は養母より右金50円借受候を以て相払い右3万本を明治7年11月中勢州二見表へ前書市太郎をして積送り為致自分儀は同人の帰京を待居候処明治7年12月28日頃帰京に付右代金悉く皆受取り前書浜次郎方へ計算相仕舞翌明治8年2月3日前書の手続にて右苗10万本持参して自分並びに鈴木浜次郎、市太郎それぞれ勢州二見表へ出立市太郎儀は実家にまかり在浜次郎は立戻り、自分所々旅人宿に宿泊同年10月下旬頃迄まかり在、尤も右桑代金滞り候に依り請求の為滞留致候儀に有之候事。
(1) ・・明治8年10月下旬頃浜次郎再び自分を尋ね参り候に付き同人共々直に帰京致し一旦滝口専之助方へ着直に国許両親へ面会の為11月中浜次郎共々まかり越し同月中一人にて専之助方へ帰宅致し候。
明治11年5月2日   高橋でん
東京裁判所糺問掛 判事補 加藤恒
下調べ(同その七)
東京第一大区小区九新富町三丁目三番地  平民   
行川やす (50年6月)
(1) 自分儀、前書の地に住居まかり在候中宍倉佐太郎なる者に自分店を貸し置候処同人より懇意の由にて小川市太郎並にでんなる者暫時二階貸し呉れとの頼みに任せ貸置候儀に付明冶9年8月10日頃より右二人止宿まかり在候儀に有之両人共別段職業等は一切致したる処見受不申、且時々でん儀は外出致し候事に有之候。
(1) 明治9年8月26日日没の際でん儀横浜表へまかり越す旨にてまかり出翌28日午後7時頃同人帰宅其夜は近辺まで買物に出掛け間もなく帰宅翌29日は終日二階に臥居る趣有之然る処午後7時頃前書佐太郎なる者区務所より喚出され候段間もなくでん儀も御呼出にて其儘今以て如何相成候や心得不申、就ては同人召捕相成候後には同人之所有品古き抱巻一枚並に古き女帯一筋の他は一品も無之、依て右二品は市太郎並に区務所より立会いの上封印致し市太郎に相渡候にて匕首短刀小柄等は決して無之候事。
右之通相違不申上候。
明治11年5月29日   行川やす
東京裁判所糺問掛 判事補 加藤恒
下調べ(同その八)
東京第五大区四小区神田仲町二丁目五番地  平民  菓子商  
秋元幸吉 (65年11月)
(1) 自分儀申上候、上野国富岡上町小沢伊兵衛なる者は年来懇意まかり有候より折々面会致候中明治5年10月中と心得同人申聞くには上野国沼田の者にて婦人一名まつと申者当今横浜表まかり居り候得共該地は余程物価高値にて諸雑費相嵩候故暫時預り居り呉れとの依頼を受け承諾の上同人同道にてまかり越し其節まつなる者着衣等は余分は無之同人痔病にて凡そ4ヶ月程相煩い種種医薬治療致居、伊兵得は諸処生糸商ひにて自分方へは同人止宿中4、5度程止宿致し候。
右まつに付入費は一ヶ月三円づつ伊兵衛より請取り来り其後明治6年2月下旬より3月頃右まつなる者午後5時頃近隣の入浴場にまかり越す旨にて立出帰路待居候処、同9時頃にも候哉帰宅致し候、如何と相尋候処近辺藤本と申寄席前に於て何れの恨みある男に出逢ひたるに付同人を取押えんとせしを不斗自分へ疵為負られ候旨申聞其男を駿河台辺にて見失ひよんどころなく遅刻せし旨申聞則右まつの右腕に一寸許疵有之に付早速薬種店に於て薬品求め治療致し遺し無程全癒致し候上。
同年3月日失念別紙手面を認め置き無断にて立出候に付当人立出たる旨直に伊兵衛方へ申遺し候儀に有之候、然る処まつ儀は高橋でんなる旨御示しにて承知仕候、且しでん儀止宿中病症に付別段余事相話したる事無之右御尋に付此の段申上候、右之他別に申上候廉無之候。
明治11年6月6日   秋元幸吉
東京裁判所糺問掛、判事補 加藤恒
下調べ(同その九)
神奈川県第一大区に小区横浜野毛町百三十七番地  平民   
吉本虎次郎 
(1) 自分儀横浜野毛町137番地則60坪を明治4年11月中、長谷川惣三郎等申者より譲り受け所持致候然る処右地所内に自分所有致居地所店中に是迄広瀬並に青木かね又は須藤籐次郎と申姓名の者住居致したる儀は決して無之候に付今般御尋に付此段申上候。
明治11年5月4日   吉本虎次郎
東京裁判所、判事補 加藤恒 
下調べ(同その十)
東京第三区九小区四谷尾張町五番地  平民  龍之助後家  
岩崎みね (29年)
自分儀、大伝馬町2丁目26番地龍之助共々商業まかり在候節明治6年の頃尾州出生の由にて小川市太郎なる者尋ね参りしは夫亡父庄三郎儀も尾州出生にて右縁合より市太郎と知る人に相成追々市太郎には貸金も出来候中明治6年8月11日龍之助は病死致し候、後絶て市太郎も参り不申、然る処明治9年3か4月頃同人まかり越し候後5月頃と存じ同人並に高橋でんなる者を同道にて立ち寄り、その後市太郎へ少々貸金致し同年7年14、5日頃該金厳重催促の上金二円と存じ請取り候、後は右市太郎並に高橋でん儀も自分宅へ更に参り不申尤も6月頃に日は失念夜分でん一人にて一泊為致呉れとの事にて止宿仕候事も有之儀にて同人儀は何れに居住せし者に候哉、又は懇意の者には決して無之候事、右之通聊相違不申上候也。
明治11年6月7日   岩崎みね
東京裁判所、判事補 加藤恒
下調べ(同 十一)
上野国利根郡下牧村四十四番地  平民  九右衛門長女  
高橋でん (25年11月)
(1) 自分儀、曾て後藤吉蔵宅に於て小柄を見認めたるとの証拠は無之候事。
(1) 行川やす方にまかり在候節宍倉佐太郎の助力を受けたる儀且明治9年8月28日大谷三四郎方より帰宅の上右佐太郎へ金円遺したる等の覚無之候事。
(1) 行川やす方へ短刀持帰り同家へ残し置くとの証拠は無之候事。
(1) 明治9年8月27日大谷三四郎宅へ自分手記したる後藤吉蔵を姉カネの敵なるに付只今無念を晴らし打たると認めしは其場に余人は無之に付必定後日相顕し候儀、又は自分よりも自首致す 心得に付其節に至り自殺致したると認めありてはひきょうと存じ跡方なき事を認めたるに有之候事。
明治9年8月27日大谷三四郎宅に於て後藤吉蔵と同枕の際自分剃刀を以殺害致したると明治  10年8月10日御訊問の節有躰申立てたる上は右後藤吉蔵短刀にて自殺したるとの証拠は無之候事。
右之通相違不申立候 以上
明治11年6月27日   高橋でん
東京裁判所 判事補 加藤恒
下調べ(同その十二)
上野国利根郡下牧村四十四番地  平民  九右衛門長女   
高橋でん
(1) 須藤藤次郎儀、到底行方不知上は同人より先に差越候手紙は追て外人へ頼み取揃候と御見倣相成候ても申披無之候事。
(1) 右に付姉青木かねも虚名の旨御科相成上は同人まかり在たるとの証拠は無之候事。
(1) 大谷三四郎方に於て後藤吉蔵の死骸へ布団を掛け立出逃去りたる上外に立合せたる人も無之に付同人の所持金を奪取るため同家にて伴い連れ出し殺害致したると御見なし相成ても一言の申開無之候事。
(1) 明治9年8月28日大谷三四郎宅を立去る節自分所有の一円相払い候儀に有之候事。
右之通相違不申上候也。
明治11年6月27日   高橋でん
東京裁判所 判事補 加藤恒 
東京裁判所下調べ (その他)

 

上野国利根郡下牧村二十に番地  高橋勘左衛門
(1) 右妻は同郡後閑村渋谷小左衛門の養女はると云い嘉永元年正月中夫婦に成る。
(1) 同年7月中でん出生の末離別す。
(1) 同年8月中同村高橋九右衛門方へ養女に遺す慶応3年12月同村高橋大助次男波之助を婿養子に貰い受けでんと娶す。
(1) 明治4年12月中右夫婦無断家出し逃亡届す。
(1) 同7年8月中でん事右九右衛門方へ参り入籍し更に東京麹町8丁目16番地瀧口専之助方へ寄留送籍す。
(1) 波之助の行方不在。
同国利根郡後閑村六十八番地  渋谷小左衛門
(1) 右の者養父小左衛門同村農櫛渕張兵衛妹きよなる者を養女に貰ひ同郡下津小川島村、沼五郎方へ縁付女子はるを設け後沼五郎死去に付長兵衛へ女子共引取る。
(1) 天保4年2月中右きよの生むはるを養父小左衛門方へ養女に貰受養育す。
(1) 嘉永3年1月中同郡下牧村高橋九右衛門方にはるを縁付。
(1) 同年7月中女子でん出生す、後離別に成り引取る。
(1) 同4年2月中右はる同郡生泉村勇吉方へ縁付。
(1) 嘉永6年5月中病死。
上野国利根郡下牧村二十六番地  高橋代助
(1) 慶応3年11月中次男波之助同村高橋九右衛門方へ婿養子に遺す。
(1) 明治4年12月中右夫婦無断家出致し、依て逃亡届且波之助は留守中離別相成入籍す。
(1) 明治7年8月中波之助妻でん一時帰村の由其節波之助は同国藤川辺に相越し一ヶ年も居り活計不立夫婦分れ致す趣其後波之助行方不知。
上野国利根郡下牧村四十四番地  高橋九右衛門
(1) 嘉永4年8月中高橋勘左衛門女伝を養女に貰い受養育し成長14歳節同村宮下要次郎を婿養子に貰ひ不熟にて離別。
(1) 慶応3年6月中、石鹿野村星野惣七方に預置同月中呼寄せ。
(1) 同年12月中同村高橋大助次男波之助を婿養子に貰ひ依頼隠居致す処追々借財嵩田畑入質す。
(1) 明治4年12月中夫婦共逃亡行方不知依て届出波之助は大助方へ戸籍差戻す。
(1) 明治7年8月中でん一人帰村に付波之助の行方を尋る処同国新田郡藤川村辺にまかり越一ヶ年程稼ぎ活計難立夫婦別れ相成その後波之助行方不知の趣依て依て同人帰村の趣県庁へ自首免罪に相成以来でん儀東京麹町8丁目16番地瀧口専之助方寄留出稼に付寄留送籍す後文通有るのみ委細不存。
群馬県下十八大区一小区利根郡沼田倉内町百八十一番地  士族  広瀬文郎
(1) 亡父半右衛門娘にかねと申女子無し半右衛門実妹にかねと申者有之候。
(1) 文化9年11月22日、同藩士族広瀬治平と申者乱心し屋敷門前にて右かねを殺害し治平も其場にて自殺検死にて葬る。
(1) 亡父半右衛門存命中同郡後閑村娘しづ並にはると申者召使候事実母並に親類の者と雖も一向不存且出入せし事なし。
麻布三間谷町四十七番地  士族  広瀬佐十郎
(1) 兄上沼田倉内町広瀬半右衛門儀召使の中にでんなる者なし尤も9年前迄同居致候得共右一向に見聞せし事なし。
柳島町十四番地  松平忠敬  家令  加藤安積
旧藩人に青木姓の者無之。
檜町七番地  後藤吉蔵  後家  ふみ
夫吉蔵存生中、横浜へ取引等は一切無之、小柄等所持致す儀嘗て覚え無之。
安房国安房郡館山小町  石川甚三郎
霊岸島川口町小川市太郎へ商法取引致し候節、同居の高橋でんなる者知る人に有之候処、金円の貸借の儀一切無之。
横浜市梅ヶ枝町千三百四十九番地  石崎広吉
(1) 明治5年5月中兄、横浜吉田町2丁目42番地、植村清次郎方へ上州利根郡下牧村出生の旨にて高橋粂八並に同人妻でん尋来同居致、同年8月13日より病気に付同年9月17日病死、妻でん儀は粂八病気に付埼卯方へ差遺し置重体に至りでんを呼寄しも病為致死去に付相談の上鑑札取締会所の検査を受、大田村東福寺へ埋葬清次郎儀は3年以前明治7年4月6日病死。
(1) 粂八病死の節生国へ音信致し候事。
神田仲町二丁目五番地  秋元幸吉
明治4年10月中懇意の上州富岡上町小沢伊兵衛まつと云婦人連来商業済次第国元へ連れ帰るに付預り呉度旨にて止宿為致置、翌5年2月伊兵得国元より急使に付伊兵衛のみ立帰まつ預り置候中、入湯に参り途中知人に出合始末不存手傷受跡追駈駿河台辺にて見失候趣帰宅の上手当致し無程癒其後明治4年3月中でん何れか立行候儘不立帰、書置開封披見候処駿府親類へ参る趣。
東京第一大区十五小区岡崎町一丁目十五番地  平民  小川市太郎 (35年2月)
(1) 自分儀、明治6年中より高橋でんと夫婦の約束致し其後明治9年7月中より行川やす方同居人宍倉佐太郎に自分と共に止宿まかり在候処同年8月28日午後8時頃でん儀呼出に合い成直にまかり出候処同夜警視第五方面第一分署へ拘留相成候に付何等の儀と心得翌29日朝宍倉佐太郎同道にて同分署へまかり出、でん之身の上相伺候処自分へも御調の筋有之趣にてでんなる者後藤吉蔵を殺害せし旨にて大いに関係致居る哉之趣にて種々御吟味を受け候得共更に是無之事故其段申上夫より伊藤友蔵へ偽証書を以て金借致し候始末御調を受け都合7、8日間拘留相成居宍倉佐太郎へ保管申付けられたり。
(1) 明治9年9月20日頃警視第三課より御呼出相成り有楽町中山屋に小柄一挺預け置の趣、でんより申立候に付探索掛同道にて同家へまかり越取調参り同家玄関表に到取次人に面会致し高橋でんと申者より小柄一挺御預け申置候段申立候に御渡相成度申入候処取次ぎ者奥へ立入取調べ候由之処高橋でんなる者一切承知無之尤小柄など預り居るは尚更存不申旨申聞候に付探索掛同道三課へ立戻り始末書を以て其旨申上帰宅致したり。
(1) 同夜9時頃行川やすと自分雑談致し居候内表入口の戸を開け行川と云うのは此家か小川と云う者は居るかと云いながら白紙にて包み表に小川と記したる小柄一挺相渡し候に付請取り座敷に入り点灯に照らし直に表口へ立出て何より参りたるや相不知に付奥へ立入り候処行川やすより只今外より人之来りしはなんでしたかと相尋に付き何も不申聞只不思議な事があるものじゃと答え候迄にて外に相談し不申翌朝右小柄警視第三課へ持参前夜の手続始末書に致し差出たり。
(1) 右小柄は平日見覚え有之候品に候哉御調候得共更に見覚は勿論でんより話しにも承り候段無之候。
(1) でんより封したる手紙を預り置候始末は検事局へ申上候通に有之候。
右の通相違不申上候 以上
明治11年10月18日   小川市太郎 
伺書 控訴文 

 

東京上等裁判所調
掛   判事   三村親始    
     判事補 沢崎廉二
探偵捕獲 明治9年8月29日
群馬県上野国利根郡下牧村44番地  平民 九右衛門養女 禅宗  高橋でん
群馬県上野国利根郡下牧村  高橋九右衛門養女  高橋でん
右別紙口述遂審閲候間擬律相附し請批可候也
明治12年1月7日
東京上等裁判所判事 尾崎房豊
大審院長判事      玉之世履 殿
被殺人 後藤吉蔵
被所咽喉部甲状軟骨右側よりS型に右頸動脈及び気管を切除す。(長さ3寸3分深さ胃管に達す)
[ 明治7年8月10日、熊谷裁判所に於いて逃亡の科自首するに付、免罪に処えられる。]
自分儀、10年前明治2年12月8日中、同村高橋代助次男波之助を婿養子に致し候処、明治4年2月中より同人儀、ふと、らい病相発し、自然親子の間も睦ましからず、依って治療の為、出京致度旨申に、同じ両親へは秘かに、明治4年12月中、両人連立家出致し、翌明治5年1月出京、馬喰町2丁目旅人宿武蔵屋冶兵衛方に止宿療養中、自分は同日、琴平町、金比羅神社へ参詣致し候折柄、何れかの婦人に候哉。
同様参詣致し候者有之、互いに懇意に相成り、彼是噺合候処、あいはからんや右は自分腹異の姉かねなる者にして、一体自分実母はるは旧沼田藩家老広瀬半右衛門方へ出入り致し候内、同人と通じ合、懐妊後養父九右衛門弟勘左衛門妻となり自分出生致し、正しく半右衛門の種に有之又半右衛門儀旧忍藩青木新左衛門娘しづなる者に馴染出生し、青木かねと称し即ち右のかねに相当たり、東京に残し候趣、兼ねて承り居候者に付、全く金比羅神社の引合と感心仕り。
其の節かねより、兼ねて横浜市野毛坂下町に住居候処、同港には外国人ヘボンと称する名医有之、何様難病病気にても全快不致儀は無之候間、波之助を連れ参り療養受け候様申し聞け候に付、何れ同人へ申聞、何罷越相答え立別れ、其段波之助へも咄聞。
明治5年4月上旬、両人にて右かね方へ尋越し止宿療養罷在候内、東京住所の、内田仙之助なる者(即、後藤吉蔵)同家に参り、姉の世話致し(かねの囲ひ主の如し)分も追々懇意に相成候処、右仙之助より自分へ不義申懸候得共、強く相断置候。
然るに明治5年8月10日頃と覚、当今行方不知、元会津藩の由、加藤武雄なる者、仙之助より被頼候由にて、瓶に入れたる水薬持参名薬の由にて、波之助に服用致させ候得ば、暫時に全快致す旨申聞き候間事実と存じ速に相用候。
然る所忽ち同人胸部より顔に懸け大いに腫上り紫色に相成り差し痛甚敷夫是手当致し候得共、終に明治5年8月18日死去致し候。
其節隣家に罷在候須藤藤治郎(その頃年齢33歳位)の世話をもって横浜市太田清水町、東福寺にて埋葬、法名、良善信士と称し候。自分も夫より気疲れにて発病、はかばか敷、快気にも不至、併し長々姉の厄介に相成候も、気の毒に存罷在候折柄、かねて国許見知居、上野国富岡町絹商人小澤伊兵衛に出会い出会候処、東京に於て療養致候様申勧めに随ひ、明治5年10月30日出京、神田仲町2丁目秋元幸吉方へ伊兵衛倶々止宿、自分はまつと唱へ同人世話を受け療養罷在候。
その内、明治6年2月中、伊兵衛儀帰国致し、自分一人罷在候処、その後病気も全快に至り、近辺へ入湯に罷越途中、同町往還にて全書加藤武雄に出会候に付、幸ひ事と存前顕夫へ服用致せし薬の原因相尋候処、答も不致駆出候に付、果して仔細在之と追い賭け
終に駿河壱元昌平橋土手際に於て同人の羽織を掴み候処、直に帯し居る刀を抜き自分右腕へ切付け(今に傷跡あり)その儘逃去候に付、詮なく幸吉宅へ帰宅同人へも申聞け候共、疵所は僅に付膏薬買整相用別段医師へは相懸け不申平癒致候。
其頃月日失念横濱表前書須藤藤次郎より書状到来披見候処、姉かねを内田なる者差殺たる旨云云申来候に付き、驚入直に様子承り度、且小沢伊兵衛も帰国儘音信無之、是又尋度候得共、宿主幸吉より他行差止められ心底不在、因て窃かに書面を残し置き幸吉へは無断出立、横濱表へ立越候処、果して住宅は取片付有之に付、隣家藤次郎方に至り相尋ね候処。
前書々状の如く白地には不申聞候得共、4月頃何処へ罷相越し家財等は年齢37、8歳位の男参り取片付候旨相答候間、是仙之助に相当必定同人所為と存前文夫相果候節、景況と申遺憾ながら立帰り、夫より伊兵得国元へ尋参り、帰路波之助の実父代助方へ立寄り、波之助病気の趣相話し自分養家へは不立寄、直に出京兼て懇意の麹町12丁目住居小川市太郎方に止宿罷在候処、故郷慕敷存じ、明治7年7、8月頃帰国養家へ立戻り候処。
自分夫妻の逃亡御届相成居候由にて、自訴致し候処前文の如く御処分受候上、猶又商法の為出京麹町8丁目瀧口専之助方に寄宿前書市太郎と夫婦同様に相成、同人並びに上野國大麻生村鈴木濱次郎等と商業に従事罷在、明治9年8月中頃、大伝馬町1丁目岩崎龍之助方に止宿中、金策の儀、安房國館山出生の由、石井甚三郎なる者相頼置候処。
同人俄に帰国致するに付ては、甚三郎知人後藤吉蔵へ相頼み遣し候由にて、添書相渡し呉れ候に付、明治9年8月23日、自分一人にて同人方へ尋参り候処、図らずも兼て相尋る処の内田仙之助に付、右手紙の趣旨は、さておき、先互に久々にての面会の挨拶及び候折節、該居戸棚の内に兼ねて亡父半右衛門より姉かねへ遺したる短刀の小柄有之を見認め候より。
旁々先年の咄思越し、加藤武雄の居所且姉かねの行衛並同人所持の諸道具等如何相成候哉と相尋候処、心得不旨返答に付、此小柄有之上は必ず承知に可有之と強て相尋候処、先にかねへ金圓の貸有之夫れが為、諸道具不銭請取候得共、夫には仔細も有之短刀は浅草辺の者へ売渡候趣にては話兼最早日没にも相成候間。
明24日、呉服町稲田屋事稲垣九右衛門方に於て詳細可相話間同人方へ出向呉れ候様申聞候、其儘相別れ岩崎龍之助方へ立帰り候、翌明治9年1月24日午前11時頃、前書稲垣九右衛門方罷越暫時待居候得共、吉蔵参不申候間、九右衛門方より呼寄貰候処暫午後1時頃吉蔵参り、当日は差支有之に付、明日致し呉れとの事故其儘立帰り、該日は兼て懇意新富町1丁目行川やす方に止宿し、猶翌日明治9年8月25日午後2時過ぎ、前約の如く九右衛門方罷越候処。
是又吉蔵参り居不候間、九右衛門方より迎ひを頼み吉蔵呼寄せ候得共、同日も先方差支候由にて、猶明日に致し呉れ候様同日は同人方より案内致呉故、然らば行川やす方へ報知致し呉れ候様申聞立別候事。
明治9年8月26日午後4時頃近辺へ用向有之、立出候跡へ右吉蔵尋参り立帰り候上は前書稲垣九右衛門方へ出向呉れ候様申置候趣、帰宅の上やすより承り候に付、直出立候、途中南八丁掘辺名前不存蕎麦屋渡世者方吉蔵待居呼込候に付、立寄り候処。
兼て尋候品は浅草辺に有之候間、同方迄同道致し候様、且加藤武雄の居所も相分り可申趣に付同車にて、浅草蔵前迄罷越し候処、名前不存水茶屋にて、暫時待居候様申、吉蔵は立出無間も立戻り先方へ同道可致の処、少々差合有之、此処に待居も不都合に付、先方老人の由にて、浅草御蔵前片町大谷三四郎方に候哉。
其節は名前不存竹丸と称する旅人宿へ立入、最早黄昏に至り不審に存候得共吉蔵は直に二階に上り候間、自分も続いて上り候処、暫くして同家雇女より酒肴差出すべきやと問合候共、自分に於ては心得不申旨相答、便所へ参り立戻り候処、酒肴差出有之、吉蔵より度々勧められ候得共、気分悪敷故一切相用不申、然る処又候梨子を差出候に付、少々喫し吉蔵は独酌にて飲終り、夕飯差出すに付、一椀を食し夫より1時間程も相立候得共、先方より何の音信も無之に付、吉蔵へ断り、近傍迄納涼の為外出し12時頃と覚立戻り候処。
吉蔵は其場に寝臥入り候に付、先は如何の訳に候哉、余程時間も遅しと相尋候処、先方へ同人参りたる処、必ず参る筈につき今暫く相待居候様申にませ相待居候処、不図気分悪敷吐瀉を催し候間、便所へ参りたる所益々激しく二階へ立戻りたるに蚊帳を釣り中に床も二つ取敷揃へ有之、吉蔵より自分へ如何致せし哉と相尋候に付、右の趣相答候処。
同人も気の毒の由にて蚊帳の中へ入り候様屡々申聞、殊に蚊多く候間、旁々蚊帳の中へ這入暫時気を休め居る内、巳に明治9年8月27日午前1時にも相成候間、誑かされたるやも難計在遅くも自分帰宅不致候ては不相成旨申聞候処、是非共先方の者参り候筈今少々待居呉れ候様申聞追々深更に至り、余儀なく、帰宅は相止め右蚊帳の内に打臥候処、吉蔵儀彼是艶言申聞け戯れ候得共、強て相断り置内。
明方にも相成候処、同人儀再酒食し、前同様戯れ候得共大酔躰故、程能く断り置く内吉蔵は睡眠し彼是致す内朝食も喫し不申、追々時刻押移り、午前11時頃に相成候ても、吉蔵目覚不申候に付、自分而巳昼飯を喫し勘考するに是迄気永堪忍致すも際限無之。
如何にも同人に誑かされたるは遺憾と存じ強て呼起し是迄数度詐言而巳申聞き居今日は有体申明すべく先方へ同道
致し候哉、其次第柄明瞭に申聞呉れ候様相迫り候処、同人儀更に取敢不申右様の儀は断念し存意に従ひ候様申乍ら自分を抱き候得共、自分心中には是迄姉の始末も不申明而巳ならず、同人所有品をも甲紛し。
如何にも残念に不堪彼是苦慮中、吉蔵は種々戯れ掛られ、終に自分を組臥せ口へ手拭を当るや否9寸許の短刀を抜き放し自分に打ち掛る勢に付、驚愕し、其手を打払い候際、同人の頸筋へ刃先当り自分は其儘次の間に逃退き候処、同人儀最早是切と言ひ乍ら自ら咽喉を切りたる故、大に驚き同人側に立寄り候処其儘相果て候に付、如何せんと一時痛心に及び候得共、必ず驚く場合にあらずと精神を鎮め此上は前條姉の敵なる証拠取揃え且国元両親へも面会致したる上。
其段可訴出と存じ吉蔵の持居る短刀をもぎとり血を拭ひ、鞘に入れ並に兼て見覚え小柄も傍らに有之候に付き、右二た品を懐中し、吉蔵死体へは夜具を掛け寝臥せる躰にし、同人は姉の敵に付、討果し候趣一書を認め傍に差置候。
宿には用事有之、近辺へ立出候趣に甲成、尤連れの者は打臥居候に付、其儘に致し置き呉れ候様申聞、午後3時頃と覚、同家を立出夫れより行川やす方に止宿罷在り候処、明治9年8月29日、被召揃候、自分心得にては前書短刀並び小柄共右行方やす方二階に差置候儀と相覚候事。
右之通相違不申上候  以上   明治11年10月26日
高橋でん
伺書(判決についてのもの)
群馬県上野国利根郡下牧44番地  平民  高橋でん
右別紙口供遂審閲候間擬律相附し請批可候也
明治12年1月7日
東京上等裁判所判事   尾崎房豊   
         大審院長 玉乃世履 殿 
 
「毒婦」幻想

 

菊池三渓「臙脂虎伝」と仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』
はじめに
『高橋阿伝夜刃譚』の主人公高橋お伝(1850?〜1879)は、上野国(群馬県)出身の実在する人物である。夫はハンセン病(癩病)のために若くして死去している。夫の死後、東京府蔵前の旅館である商人の男と金銭を条件に一夜を共にしたが、約束の貸与を断られたのでその商人を殺害して所持金を奪い、同容疑で捕まった。明治十二年(1879)一月三十一日に東京・市ヶ谷監獄で斬罪に処せられる。明治で最期の斬首(死刑)になった「毒婦」と言われている。
お伝が逮捕された当時、『読売新聞』『東京曙新聞』『仮名読新聞』『郵便報知新聞』などの各メディアはこの事件を一斉に報道した。明治の戯作者・仮名垣魯文(1829−1894)は、お伝の処刑からわずか三ヶ月後、絵草紙『高橋阿伝夜刃譚』(明治12 年4 月)を刊行し、大評判をとる。絵草紙だけでなく、新富座(河竹黙阿弥『綴合於伝仮名書』)などで上演された芝居によって、高橋お伝の話は一層話題になった。様々な出版物、芝居を通じて高橋お伝は「稀代の毒婦」として有名になり、明治の毒婦物の代表とされるようになった。
仮名垣魯文の後、漢学者菊池三渓(1819-1891)も高橋お伝に関心を示し、お伝をめぐる当時の伝聞を漢文体で描いている。「臙脂虎伝 一名毒婦高橋男伝実録」と題するその作品は、『本朝虞初新誌』に収められている。菊池三渓は幕末・明治期の漢学者、随筆家で、本名純、別号晴雪楼主人、戯文や詩で知られた。『本朝虞初新誌』は漢文で書いた小説的遊戯文ではあるが、文章が面白いので一時盛行した。だが、その原書は今では殆ど現存していない。東京大学附属図書館の「鷗外文庫」に所蔵されているのは、明治十六年(1883)、吉川半七、文玉圃の版である。全三巻、二十四編で、清初の伝奇小説集『虞初新志』(張潮編)にならい、依田学海(1833〜1909)の評点が付けてある。「臙脂虎伝」は巻下に収録された。
様々なメディアで報道されたことにより、高橋お伝は「毒婦」として定着するようになった。お伝の実像と確認できない部分もあり、お伝の毒婦像は一部は明治のマスメディアによって作られたものだと言える。菊池三渓が漢文体で描いた高橋お伝像はどのようなものか、またそれは仮名垣魯文の作品の世界とどう異なるのか。本稿では、菊池三渓の「臙脂虎伝」を中心に、仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』の文学世界と比較して「臙脂虎伝」の特色を明らかにしたいと思う。 
一、仮名垣魯文の『高橋阿伝夜刃譚』
仮名垣魯文は明治初期の戯作文学者で、『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』などの作品があるが、中でも毒婦物『高橋阿伝夜刃譚』が、同じ題材を扱った他の作家たちによる類似作品を圧倒しており、高い世評を博した。『高橋阿伝夜刃譚』は、当時の実学的風潮の中で流行っていた新聞の「つづきもの」の延長線で作られたものである。「つづきもの」とは、現実に起こった事件を物語化したものを指しており、その主要なメディアは明治以降に出版されるようになる新聞での連載であった。仮名垣魯文の『高橋阿伝夜刃譚』は、当初「毒婦おでんの話」という題で、魯文が編集した『仮名読新聞』に連載されていた。しかし、「つづきもの」の「毒婦おでんの話」は二回しか掲載されておらず、その数日後『高橋阿伝夜刃譚』と題し、単行本で刊行された。魯文が急いで「毒婦おでんの話」を打ち切った理由について、前田愛氏は、ライバル出版社である島鮮堂が、『東京新聞』に岡本起泉が書いた「阿伝の咄」を単行本として近々出版することを知ったので、魯文の作の出版を急いだと分析している。前田氏は更にお伝の行動線を辿り、絹の道と結び付けて論じている。また、亀井秀雄氏は当時の土地制度やお伝が兄と土地の所有権を争った実態を分析し、新しい法律を楯に自分の権利を主張した側面を解明した。近年、平田由美氏はメディアの権力と暴力という視点から、お伝をめぐる言説を勧善懲悪というプロットのもとに考察したが、北原泰邦氏はそれに反論してお伝をいわば「新しい女」という身体を獲得した女性と捉えている。
『高橋阿伝夜刃譚』は実学を尊重する時勢に書かれた実録小説とはいえ、事実からかなり離れた部分もある。周知のように、お伝の情夫小川市太郎は次のように語ったといわれており、そこでは毒婦というお伝の形象が否定されている。「彼が悪事を働きし罪状に依つて考へてもでんぱふ肌にいなせ作りの女らしく思はるれど実際は全く是と異り彼れは従順にして規矩正しき一見士族の女房風とも云ふ可く決して型にはまりし芝居の毒婦的人がらに非ず」(『続々歌舞伎年代記』)。魯文は事実を部分的に変更もしくは除去し、当時の民衆の期待に迎合するような潤色をかなり加えている。例えば、お伝の出自について、魯文は無頼漢の父親の博徒清吉と淫靡な母親お春を虚構することにより、お伝の淫猥な性格と将来の残忍な犯罪行為を暗示させている。だが、実際には、お伝は上州沼田在下牧村の農家の出身で、母のお春はお伝の生後一ヵ月後で夫と離縁しており、お伝は父の実兄九右衛門の養女となっている。波之助はお伝の二度目の夫だが、明治二年(1869)に波之助はハンセン病に罹り、お伝夫婦は全財産を療養費に当ててしまった。その後二人は上京するが、波之助は明治五年(1872)に病死する。お伝がそれから処刑されるまでの大半の歳月は、情夫小川市太郎との同棲生活からなる。
貧苦のために一人の男を殺害したお伝だが、魯文は、彼女を色白で妖艶、うそつきで情欲深く、男を次々と手玉を取り、悪事を重ねていく冷血な毒婦に仕立て上げている。お伝の出自から博徒の父親、夫を殺めることなどはすべて魯文による虚構である。魯文は基本的に高橋お伝を毒婦に仕立てる立場から、博打、詐欺、男漁り、性欲、金銭欲、殺人などお伝の悪を鮮やかに描きあげた。「毒婦」をお伝の代名詞とし、さらには「妖婦」「奸婦」「妖狐身」などの名称でお伝を表現したり、『高橋阿伝夜刃譚』初編・上の表紙絵を、人を殺害する際の凶暴で残忍な場面にしたりしていることからも、仮名垣魯文はお伝に毒婦のレッテルを貼ることに力を注いでいるのが分かる。『高橋阿伝夜刃譚』は、その煽情的な悪女形象の造型や、それに対する因果応報的な処罰という物語的な期待とその充足のプロットによって、お伝の実像を単に写実するよりもはるかに当時の民衆に満足を与えたのである。
一方、菊池三渓が漢文体で作り上げたお伝の話はどのようなものであろうか。 
二、「臙脂虎伝」におけるお伝の「毒」
菊池三渓の「臙脂虎伝」のあらすじは次の通りである。高橋お伝は淫らな母親と博打好きな父親の間に生まれた私生児で、その性格は淫乱な母親と似ている。波生と結婚したが、お伝の父親が突然現れお伝夫婦を困らせたので、二人は逃亡生活を始めた。途中波生は癩病に罹り、お伝はしばらく看病していたが、生活のために売春で盗人の市松と知り合い、お伝は波生を殺害した。その後、市松が逮捕されるが、お伝は小川という男に助けられる。その後さらにお伝は古着の商売人後藤吉蔵に金を無心したが断られたので、ある日後藤と共に旅館に入り、熟睡した後藤の喉を切り殺害し、所持全二百円を盗む。お伝はまもなく逮捕され処刑された、という話である。
こうした筋の展開はほぼ仮名垣魯文の『高橋阿伝夜刃譚』に沿っている。菊池三渓はどのようにして漢文体で高橋お伝を毒婦に仕立てていくのであろうか。三渓は高橋お伝の事件に「臙脂虎伝 一名毒婦高橋男伝実録」という題目を付けている。「お伝」の名前をわざわざ「男伝」に改めている。この点について評者依田学海が欄外の評で指摘したように、菊池三渓はお伝が女性でありながら、女とは思えないような男性性の持ち主であることを前面に出しているのである。このタイトルは、仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』の書き出しと類似する。「男女その性を異にしその質に別あるハ造物主宰の機関にして唯人生を滋産の妙工骨格瑣細の変化ある而已蓋し霊魂の善悪女子にして男子に勝れる者ハ西哲の所謂雌雄双性の混淆に生じ来り加ふるに父母教育の親疎に依て白絲色を染るの類か」(『明治開化期文学集二』筑摩書房、1967 年6 月、P4、以下同)というように、魯文はここで男と女の「質」が根本的に異なると考え、お伝を男の性質を持つ女のように仕立て、お伝を男女両方の性質を持っている女性として作り上げる。魯文と同様、三渓は正面からお伝の名前に工夫を凝らし、お伝に男性的な性格を持たせる。両者とも、女が男的な性質を持つことは通常ではないと訴え、それを女の「悪」的な要素とし、ひいては良妻賢母の枠組みからお伝を評価するのである。
菊池三渓はさらに「臙脂虎伝」と題し、虎のような美人伝の世界を暗示する。三渓のいうお伝の「虎」的な部分とは、男性的な性質を指している。お伝が「男伝」と表記される所以である。冒頭から、「毒婦男傳之事行,各社新報爭記載之。而其本末紛紜,一是一非,不知其誰適從焉。獨十年八月十日,警視分署之法庭,男傳所自首,頗為明確」(毒婦お伝の事件を各新聞社は競って報道している。それぞれの言い分が異なるので、どれに従うべきか判別できない。ただ明治十年八月十日に警視支署の法廷でお伝が自首し、事件の始末がようやく明確になってきた。「鷗外文庫」『本朝虞初新誌』「臙脂虎伝」十四頁、以下同)と始まる。お伝の言動について「一是一非」という正反対の面から報道されており、どちらのほうが信用できるか判断できないというのにもかかわらず、「毒婦高橋男伝」という表現の通りに、最初からお伝を「毒婦」として提示している。
それから、三渓はお伝が如何なる毒婦なのかを彼女の出自から語り始める。お伝の母はお春というが、その「はる」の読みを取って「波留」にする。波留が「為人浮靡輕佻,淫縱自放」(放縦にして淫蕩である。十四頁)なので、結婚する前に悪漢である清吉の子を妊娠した。その子こそ高橋お伝なのだが、このように淫らな母と凶悪な無頼漢の父の間に生まれた子どもであるとして、後の毒婦像作りに伏線を張っているわけである。お伝の出自を語るくだりは基本的に仮名垣魯文の虚構を踏まえたものである。
「臙脂虎伝」ではお伝が成長してから、「男傳往往赴賭場,與鄉里惡漢交焉」(お伝は常に賭博の場へ出入りし、郷里の悪漢と交わる。十五頁)と展開する。こうした展開が高橋お伝の実像であるかどうかは検証できず、三渓はここでも基本的に『高橋阿伝夜刃譚』を踏まえているのである。三渓は魯文の虚構を援用したまま、更にぶらぶらして博打の場に出入りすることを加えて、お伝の無教養な一面を強調する。しかし、「臙脂虎伝」で最もお伝の悪を読者に伝えたのは、次の二箇所からだと言えよう。一つは、夫の波生を殺す場面であり、もう一つは商売人の後藤吉蔵を殺害するシーンである。この二箇所は物語の展開のクライマックスとも言え、細かく鮮烈に描写されている。特にお伝が夫を殺す場面での言葉遣いは力強く、特別に四文字の熟語を使い、その情景を生き生きと描き出している。
夫を殺めたシーンでは、まずお伝は波生が熟睡したかを確認する場面から始まる。「時正夜半,四鄰闔竅C雞犬悉定」(その時ちょうど夜中で周囲がひっそりとしており、鶏も犬も落ち着いている。十七頁)と細かく犯行する前の様子を言い付ける。波生を殺害してから、「當是時,弦月如弓,倒窺戶隙;朔風穿壁,燭光欲滅;霜氣凜烈,駸駸逼股;寒犬長鳴,聲如玄豹」(その時、弓の如き月の光が家の隙間に入り込み、強風が勢いよく壁を通し、燭光が消えかけ、寒風が凛冽し、身に凍み、犬がいっそう長く鳴き、その声がまるで黒豹のようだ。十八頁)とある。ここでは、簡潔で力強い言葉遣いによって、悪事をした当時の異常な天象や寒風、戦慄が走る犬声を生き生きと描きあげている。「寒犬長鳴」という言葉遣いは、王維の詩「與裴迪秀才書」での「深巷寒犬、吠聲如豹」という特有の表現に類似しており、王維の詩から示唆を得たものと推測できる。また、波生を殺害する前は周囲がひっそりしているのに対して、殺害した後は強風が吹き冷気が凛冽して、犬が声高く吠えるという描写を通して、犯行する前の「静」の世界に犯行後の「動」の世界が対比される。異常な天象と動物の変化を借りて、お伝の夫殺しが天理に容赦できない行為であることを表しているわけである。
それから、お伝の表情について、「男傳鬢髮怒張,睛光射人。蓋色美者,面目一變,其猙獰猛惡,不唯天魔波旬,使人一矚股戰,不覺寒毛生也」(お伝は髪が乱れ、怒り狂った鋭い目つきをしている。美人であった彼女は一転して凶悪で残忍な悪魔のようであり、見て思わずぞっとする。十八頁)と描かれている。お伝のこうした表情と姿は仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』初編上の表紙に描いているお伝のイメージと饗鳴する。この表紙でお伝は右手にナイフを高く持ち上げ、目つきは凶悪であり、波生を殺害する前かその後の姿の雰囲気を彷彿させる。三渓はある程度この表紙の絵からも影響を受けつつ、お伝の美人像と正反対な毒婦の形象を強調し、読者をしてお伝が悪魔へと変身したように思わせる。「天魔」のようにここにお伝の虎的な性質が前面化され、「男伝」の名の通りに女らしくない男的な性質を読者に読み取らせようとするのである。ここでの菊池三渓の漢文造詣は言うまでもない。
もう一つの場面、即ち後藤吉蔵を殺めるくだりでは、冷静に手早く吉蔵を殺し、慌てることなく後片付けをしたことが書かれている。「吉藏淵醉困臥,男傳晌其睡熟,徑引剃刀剔其咽喉。吉藏大叫。男傳手塞其口,極力洞之。吉藏煩悶而絕。男傳神態自若,先探其懷中,獲紙幣二百圓,挑燭數之」(お伝は、酔って熟睡した吉蔵を見て、剃刀でその喉を切った。そして叫んだ吉蔵の口を手で強く塞いだ。吉蔵の息はそれで止まったが、お伝は落ち着いて慌てず、まず吉蔵の懐を探り、中から二百円を取り出して蝋燭の下で数えた。(十九頁、傍点引用者))とある。ここは冷静に落ち着いて犯行するお伝の姿が描かれており、あたかも累犯者のように慌てず素早く金を手に入れるのである。わざわざ盗んだ金を「挑燭數之」と言い、お伝の金銭欲を強調する。
このように、「臙脂虎伝」では特にこの二つの人殺しの場面を通してお伝の「毒」をアピールした。人殺しまでする性欲と金銭欲はお伝の「毒」を構成する二つの大きな要素である。三渓は、基本的に諸メディアに毒婦化されているお伝像を踏まえて作り上げている。しかし、「臙脂虎伝」で描かれているお伝の形象は毒婦の性格だけではなく、『高橋阿伝夜刃譚』に見られないお伝の「良い」一面、女らしさも描かれている。それは両者の根本的な相違点だと考えられる。次節から検討したい。 
三、「臙脂虎伝」―毒婦像の歪み
「臙脂虎伝」では、お伝の性格の良い一面も語られている。例えば、美男子の波生が重病のため、「眉毛脫落,皮膚悉腐敗。(略)非復舊波生也」(眉が落ち、皮膚が殆ど腐っている。(中略)もう昔の波生ではない)というにもかかわらず、「男傳憂慮,謀之籟山」(お伝は心配し、宿主の籟山氏に相談した)という。籟山氏が横浜の西洋医を勧めたので、「男傳看護,舁而赴于濱」(お伝は看病して早速横浜に向かった)とあるように、お伝は波生の治療に大変気をかけ、あちこち奔走していた。そして、医者は治る見込みがないと言ったので、「男傳大驚,日夜看護」(お伝は大変驚いて更に日も夜も看病するようになった)という。このように、お伝は最初から病気になった波生を嫌い、心を移したわけではない。むしろここでは、心細くなり力を尽くして看病するという、良妻賢母の役を演じている。これは、性欲の赴くままに行動する毒婦の形象と大きくずれる側面である。三渓は最初から「お」伝を「男」伝と表記することから、お伝にもっぱら男性性を持たせようとしたにも関わらず、物語の展開につれ、意図せずして女性性をも与えてしまったわけである。このように、お伝の毒婦像の変貌により、物語の内容と題目から暗示される虎の美人伝の世界と一致しなくなるのである。
また、夫を殺害してから市松と一緒になったお伝は、彼の逮捕により横浜から東京へ逃亡し、その際に運賃が払えなかったためにひどく叱責されることになったが、丁度そのとき通りかかった士人に助けられた、という節がある。「男傳再拜,深コ之」(お伝は再び御礼を言い、その恩情を心に銘記する)というように、窮地から助け出してくれた恩人に深く感謝し、その情を銘記するという行動も、冷血でうそつきな毒婦の形象から離れており、誠実で素直な一面を呈しているのである。
こうして、「臙脂虎伝」では基本的に仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』の筋の展開を踏まえながらも、お伝を完全に毒婦として描いたのではなく、お伝の性格の「良い」面も書くことにより、お伝の毒婦像が変貌してしまう。「臙脂虎伝」で毒婦の枠組みが幾分不安定な形になり、仮名垣魯文の高橋お伝像に比べて、毒婦らしくない、不完全な毒婦像に仕上げられてしまったのである。
では、「臙脂虎伝」で描かれたお伝像はどのようなものなのか。物語の最後に次のように結んでいる。「男傳下獄,數經訊鞠,而舌頭銳利,舞智辨,逞姦慝,邪正混淆,曲直異位,以免死於旦夕者一二年。遂以十二年一月三十日處斬。其臨刑,神色自若,從容就死,可以想見其膽大氣壯,非尋常釵裙之比也」(お伝が刑務所に入ってからいくら尋問されても、雄弁で賢く悪の限りを尽くして正邪を転倒させる。無罪だと強弁して判決を下すまで一、二年の時間を稼いだ。ついに明治十二年一月三十日処刑される。処刑される前でも落ち着いて恐れることなく死に向かったのである。その大胆な行為と気力は普通の女性との比較を超えていると想像できる。二十頁)とある。ここでは、「逞姦慝,邪正混淆」(悪の限りを尽くして正邪を転倒させる)とお伝の悪が指摘されながらも、「舌頭銳利,舞智辨」(雄弁で賢く)と彼女の聡明で知能の高い一面も同時に語られている。お伝の人物像を全般的に否定するのではなく、彼女の人並み以上の知恵も評価していることが分かる。特に臨死の状況にあるお伝の描写は興味深い。「其臨刑,神色自若,從容就死」とは『高橋阿伝夜刃譚』に見られない表現で、処刑される前でも恐れる顔を見せず、まるで無罪のように堂々と死に向かうといっている。また、「可以想見其膽大氣壯,非尋常釵裙之比也」とあるように、お伝を単に勧善懲悪風に否定するのではなく、むしろ彼女の群を抜く気性と大胆さに驚き、お伝の意外な「良い」一面を肯定的に描き出したのではないか。
一方、『高橋阿伝夜刃譚』の場合は、お伝の言い分が破られたのでとうとう斬首された、と結んでいる。
(上略)鈴木鉄五郎といふものは足さへも地に着ぬをお傳は看つ、冷笑ひしつつと座に付て刀下に首を失ひしと斯る大膽なる女なればその亡骸を浅草なる警視第五病院に差送られ本年二月一日より四日間細密に解剖検査されしに脳漿並びに脂膏多く情欲深きも知られしとぞお傳は親族ある者ながら其死体を引取者絶てなきゆゑ病院にて埋葬の義を取扱かはれ悪人亡び善人栄へ世の開明ますます進み衆庶万歳を唱へたり目出たし目出たし(六一頁、傍点引用者)
お伝が処決される時には、役人があざ笑い、また死体を引き取る人もいなかった、という悲惨な最期が描かれている。しかも、死体を解剖した結果、「脂膏多」いことを強引に「情欲深き」と関連させて毒婦のテーマと一貫させている。また、結語に「悪人亡び善人栄へ」とあるように悪人と扱われ、毒婦の形象と一致させているのである。
こうして、「臙脂虎伝」では『高橋阿伝夜刃譚』と異なり、淫靡な妖婦で性的な魅力で男を騙し、悪事を働く完全な毒婦像が作り上げられたのではなく、お伝の怜悧さや賢さ、普通の女性が比べられない気力と知恵など、という肯定的な側面も含まれ、お伝の造型がより細かく織り込まれているのである。三渓が冒頭文で暗示した虎美人の世界とのずれは大きい。つまり「臙脂虎伝」において、お伝の毒婦像は、夫を殺害するほどの悪徳、金銭のために後藤氏を殺めるような情欲と金銭欲、などだけからなるのではない。熱心に看病する女性的、良妻的な姿勢や助けてくれた人に恩情を銘記する素直な性格なども描かれることによって、虚構されている不自然な毒婦像より、お伝の人間らしさが一層リアルに描き出されたのではないか。即ち、『高橋阿伝夜刃譚』に比べて漢文体で仕上げられた「臙脂虎伝」はお伝の実像により近く表現できたと言えるのである。
三渓の作品(明治十六年)は、魯文のもの(明治十二年)より四年も遅れて刊行されている。亀井秀雄氏は「臙脂虎伝」が『高橋阿伝夜刃譚』の漢訳だと説明しているが7、そうではない。単に魯文の作を漢訳してお伝の毒婦像を反復することは、読者に満足を与えられないはずである。三渓は、「臙脂虎伝」という題目の通りにお伝を毒婦として提示しようとしたが、無意識的にお伝に肯定的な意味での女らしさも表現させており、より実像に近いお伝の形象が出されている。このことから、文明開化での実学尊重の風潮は日本の漢文小説にも影響を与えたと言える。また結末は勧善懲悪の因襲から離脱し、魯文より文明開化に向かって文壇の近代化に一歩進んだと考えられる。これは菊池三渓からだけでなく、同じく漢学者である依田学海の評及び彼の創作からも証言できる。 
四、評者依田学海の目に映った高橋お伝
「はじめに」で言及したように、『本朝虞初新誌』の主要な評者は依田学海である。依田学海は欄外に物語の細部について評語を入れただけでなく、「臙脂虎伝」の編末に次のように評している。「余嘗閱新聞紙,讀男傳所詐白,情事貫穿,有發端,有結局,如實有其事者,余試敘列如左,亦見其奸詐不可測也」(私はかつて新聞でお伝が虚言を述べることを読んだことがある。筋が通っており、発端があり、結末があってまるで確かなことのようで、私は次のようにまとめてみた。そこからもお伝の嘘を見抜けなくて狡猾な性格がよく分かる。二十一頁)とある。依田学海はここでお伝を「奸詐不可測」(嘘をついているのを見抜きがたい、狡猾な性格)をもつ女性と捉えている。
そして、お伝に関する話を菊池三渓と異なる筋の展開で紹介する。千字未満で一段落にまとまったものである。また、この評とほぼ同じ内容のものが、「阿傳偽供」と題して依田学海の漢文小説集『譚海』(巻三、明治十七年七月)に収録されている。同じ漢学者の依田学海はお伝をどのように仕上げたのか。東京のある寺に二人の互いに知らない美人が毎日拝みに行く。年長の女が年少の女(高橋お伝)に何を祈っているのかを聞くと、お伝は夫の難病のためだと答えた。二人が更に話してみると、年長の女が意外にもお伝の離散した腹違いの姉であることが分かった。その夫は後藤吉蔵である。その後、吉蔵はお伝を誘惑して堅く断られたので、波生を毒殺する。お伝は夫の復讐のため吉蔵を殺害した、という話である。
この物語は「臙脂虎伝」と全く異なる筋で展開される。『高橋阿伝夜刃譚』では、お伝が吉蔵を殺害した後、旅館に残った書き付けに姉の仇のためだと説明する一節が見られる。依田学海は正面から、姉の仇とは如何なる経緯なのかを説明するように筋を展開する。しかし、姉が如何に殺害されたのか全く言及されていないので、ストーリーの展開につながりの不明な疑問点が多く見られ、厳密に構成されているものではない。
依田学海の短文には筋が通っていない箇所が見られるものの、「臙脂虎伝」と共通する点が挙げられる。それはお伝の毒婦像の不完全さということである。前述したように、依田学海は最初からお伝を狡猾な女だと捉えている。しかし、内容に関してはお伝の「毒」なるところは殆ど表現されていない。むしろ、反対に良妻賢母型に仕立てられているのではないか。例えば、寺で年長の女がお伝に願い事が何かと聞いた時、お伝は「紅潮於面,欲言不言,羞澀半時」(顔が真っ赤になり、言うかどうか迷って恥ずかしがっていた。二十一頁)という。それから、夫の難病にと白状した時、「言畢潛焉淚.下」(言い終わってから、思わず涙が流れた)とまで細かくお伝の辛い心境が語られている。ここからお伝の夫に対する忠実な態度と深い愛情がうかがわれ、「臙脂虎伝」と同様、毒婦よりも良妻として形象化されている。その後、お伝夫婦が姉夫婦の家に住むようになり、お伝は「感激不已」(感激した)と描かれたり、また反対に吉蔵のほうがお伝を誘惑するように描写されたりする。しかも、吉蔵の誘惑に対して「阿傳謂峻拒辱之,不利於姊.,婉辭謝之」(お伝が厳しく断り、姉に不利なので優しく拒否した。二十二頁)とあり、『高橋阿伝夜刃譚』と正反対な展開を見せたのである。全文で唯一お伝の悪を表す箇所は、最後の夫の仇で吉蔵を殺害したことであろうが、それも依田学海が最初に言うお伝の狡猾なイメージとかなり離れている。
このように、全文を通してお伝の性欲や金銭欲は見られず、彼女の狡猾さや毒なる一面も読み取りにくく、毒婦像が変容している点においては「臙脂虎伝」と同様である。三渓と学海が漢文体で魯文の後に表現したお伝像は、毒婦の衣装に包まれていながらも、毒婦と正反対な女らしさ(素直さ、親切さや献身的な姿勢など)によって裏付けられているのである。明治初期のマスメディアに翻弄されたお伝は、毒婦として機能していない。また、漢文体で作り上げられた世界は魯文の創作より、因果応報の枠組みから離れている。このことは、おそらく漢文学者が意識的にその枠から離脱しようとしたことに起因するわけではない。むしろ、明治の漢文小説で作り上げられた高橋お伝の話は、勧善懲悪風に描かれたお伝像を超えて事実性を尊重する実学ムードの中で、魯文より一歩進み、明治文壇での近代化の波に乗っていたのだと言えよう。 
終わりに
菊池三渓はより実像に近いお伝像を描き出した。『高橋阿伝夜刃譚』を単に漢訳してお伝の毒婦の形象を再強調するのではなく、因果応報の枠からの脱却に向けて、魯文の創作よりも実学という文明開化のテーマに近づいているのである。菊池三渓だけでなく、依田学海の作品にもそうした特色が見られるので、当時提唱していた西洋実学の影響力が明治の漢文小説にも及んでいたことが分かる。また、菊池三渓が当時の「つづきもの」から材を取り、漢文体で伝奇小説に仕上げたことは、日本漢文伝奇小説の特色の一つだと言える。
 
 
 
 
 
■花井お梅

 

花井お梅 1  
(はない おうめ、1863年(元治元年) - 1916年(大正5年)12月13日)は、幕末から大正時代にかけての女性。芸妓などで生計を立てていたが、1887年(明治20年)に犯した殺人事件が、色々な演芸に脚色され、演じられた。
本名ムメ。佐倉藩の下級武士、専之助の娘に生まれ、9歳のとき、養女に売られた。15歳で柳橋の芸妓小秀となり、18歳のとき、新橋へ移って『秀吉』を名乗った。豊臣秀吉のように大成しよう意気込みからと言われる。
美貌で気っぷがよかった反面、勝ち気で酒癖が悪く、切れ易かった。
第百三十三国立銀行の頭取某の世話になりながら、四代目沢村源之助に惚れて貢いだ。そして源之助と悶着を起こし、その件で付き人を解雇された八杉峰三郎(峯三郎、峰吉、峯吉とも書かれる)を、自分の箱屋(お座敷へ行くときに、三味線の箱を持って従う男)に雇った。
1887年(明治20年)5月(24歳)、頭取某から浜町2丁目に待合『酔月(酔月楼)』を宛われ(『水月』ともある)、主人となる。
翌月6月9日の夜、浜町河岸でお梅は峰三郎を刺し、峰三郎は逃げてのち死に、お梅は父親に連れられて自首した。美人芸妓の殺人に新聞が飛びつき、お梅は『毒婦』に仕立てられたが、犯行直後の当人は、動顛して歩けないほどだった。刺した動機は、「ホンのハズミ」、「峯吉の陰口への腹立ち]、「峰吉に横恋慕される鬱陶しさと彼に待合を乗っ取られるのではの疑心」など、ノンフィクションの資料にもまちまちである。峯吉の亡骸は、麻布長谷寺に葬られたあと、1888年に浅草今戸町本龍寺に改葬され、歌舞伎役者や芸妓、同業の箱屋などが一同に会して法要が行なわれた。
大岡育造らが弁護に立ち、無期徒刑となり、服役中の動静が新聞だねになった。15年後の1903年4月釈放された。出獄を見ようと群がる野次馬を避けて、早めに刑務所の裏口から出た。40歳だった。
その9月、浅草千束町(現、台東区千束)に汁粉屋を、続いて神田連雀町(現、神田須田町と神田淡路町の一部)に洋食屋を開いたが、お梅を見に来る一過性の野次馬客が去って店仕舞いし、牛込岩戸町(現、新宿区岩戸町)で小間物屋を始め、これも続かなかった。
1905年(明治38年)秋、42歳、峰三郎殺しの芝居の旅回りを始めた。
1916年(大正5年)夏、53歳、新橋の芸妓に戻り、秀之助を名乗った。その12月13日、肺炎のため、蔵前片町(現、台東区蔵前1丁目)にあった精研堂病院で没した。嘗て源之助を巡る恋敵だった芸妓喜代次が看取った。
墓は西麻布2丁目の長谷寺にある。戒名は『戒珠院梅顔玉永大姉』。かたわらに、1935年の流行歌『明治一代女』を作詞した藤田まさとの歌碑が建てられている。
十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の 水に流した色のかず 花がいつしか命とり 
 
花井お梅 2

 

花井お梅もまた高橋お伝と並ぶ毒婦として知られている。お伝もお梅も美人であったが故に大衆の好奇の眼に晒されて、数多の創作の題材になったのだ。もし醜女であったならば、これほど注目されることはなかっただろう。
花井お梅は文久3年(1863年)、下総国(現在の千葉県)の士族、花井専之助の娘として生まれた。実家は貧しく、彼女は9歳の時に日本橋吉川町の岡田常三郎に養子に出されている。要するに売られたのだ。そして、15歳で柳町の芸者になった。器量良しの彼女はたちまち売れっ子になり、18歳で早くも置屋から独立している。20歳の時には養父と離縁し、花井姓に戻っている。つまり、今度はお梅が父親を買い戻したのだ。
お梅には河村伝衛というパトロンがいた。その資金的援助を得て日本橋浜町に待合茶屋『酔月楼』を開業したのが明治20年(1887年)5月14日のことだ。ところが、どういうわけかお梅は営業鑑札の名義人を父親の専之助にした。これが間違いの元だった。元士族のこの男に客商売が出来る筈がないのだ。「士族の商法」という言葉があるくらいだ。また、父権意識が強い男で、何かとお梅を蔑ろにした。お梅が半ばノイローゼ状態に陥っていたことは想像に難くない。そして、5月26日に不満が遂に爆発し、大喧嘩の末にお梅は家を飛び出してしまう。
さて、ここでこの事件の被害者たる八杉峯吉(34)が登場する。峯吉はお梅の雇い人で、三味線などを運ぶ箱屋をしていた。
実は峯吉はお梅が芸者の頃からの知り合いだった。当時、お梅は沢村源之助という歌舞伎役者に貢いでおり、その源之助の付き人が峯吉だったのだ。
或る時、お梅は源之助に「芝居に使っておくんなさいな」と高価な着物をプレゼントした。ところが、源之助はそれを芝居が跳ねた後に喜代治という芸者にあげてしまった。このことをお梅にチクったのが峯吉だと云われている。お梅の怒るまいこと。刃物片手に源之助の家に暴れ込んだ。この時は警察沙汰にはならなかったが、源之助との仲が終わったことは云うまでもない。チクった峯吉もまたクビになった。そして、お梅に雇われたのである。
この事件からも、お梅はかなり気性の激しい女だったことが判る。
お梅が峯吉を雇ったのは、おそらく己れのためにクビになったことに負い目を感じていたからだろう。ところが、峯吉は恩義に感じるどころか、父親たる専之助の味方になり、お梅の悪口を云って回る始末である。これには相当カチンと来ていたことだろう。飼い犬に手を噛まれるとはこのことだ。あんなに眼をかけてやったのに、恩を仇で返しやがった。彼女が殺意を抱いたとしても何ら不思議ではない。なにしろ己れを裏切った男の家に刃物を持って押し入る女なのだから。
ところが、お梅の供述によれば、峯吉を刺し殺したのは正当防衛だという。つまり、父親との仲を取り持っておくれと峯吉に頭を下げたところ、俺の女になれば取り持ってやろうと襲われて、抵抗の挙げ句に出刃包丁で刺し殺してしまった…。
しかし、この供述は腑に落ちない。お梅が峯吉を刺し殺したのは6月9日、場所は五月雨降りしきる大川端なのだ。出刃包丁が転がっているわけがない。お梅が携帯していたわけで、ハナから殺意があったと見るべきだろう。
結局、お梅は死刑は免れ、無期徒刑の判決が下された。そして、明治36年(1903年)に特赦により釈放された。40歳になっていたお梅は芸者への復帰を望んでいたが叶わず、汁粉屋を経営するも間もなく廃業。その後、芸人に転じ、寄席で芸者踊りなどを披露していたという。箱屋殺しを実演していたという話もある。そして、大正5年(1916年)12月14日に死亡。53歳だった。 
 
花井お梅の心意気『明治一代女』

 

明治二十年(1887年)6月9日、後に『明治一代女』のモデルとなる花井お梅が、使用人の八杉峰三郎を刺殺する事件がありました。
『明治一代女』と言えば、昭和1ケタ世代なら、知らない人はいないほどの有名なお話・・・
事件直後から、新聞をはじめ、関係するノンフィクション物が多数出版され、やがて小説になり、お芝居になり、映画となって歌もヒットする・・・
まぁ、小説や歌になるのは昭和に入ってからなので、昭和1ケタ世代って事なのですが・・・
今の若い方に、わかりやすく例えるなら『余命ヶ月の花嫁』みたいな感じ???
ただし、『花嫁』は純愛感動路線ですが、この『一代女』は、どちらかと言うと愛憎がらみの2時間サスペンスみたいなお話で、ジャンルは違います。
もちろん、『明治一代女』という小説になるにあたっては、様々な創作も加えられていますしね。
そんな有名話のモデルとなったのは、花井お梅(はないおうめ)という女性・・・
彼女は佐倉藩(千葉県佐倉市)の下級武士の娘だったと言われますが、9歳の時に身売りをされ、やがて15歳の時に柳橋で芸妓デビュー・・・18歳の時に京橋日吉町(現在の銀座)に移った後は、秀吉という源氏名で浮き名を流しました。
やがて23歳となった明治十九年(1886年)、お梅は日本橋浜町に「酔月楼」という待合茶屋(まちあいぢゃや=待ち合わせや宴会などに場所を提供する貸席業)を開店して、女将となります。
しかし、その店の名義が、父の花井専之助だった事から、父が度々経営に口出す事で、父娘で営業上の争いが絶えなかったのだとか・・・
そんな時に、彼女が悩みをうち明けていた相談相手が、八杉峰三郎という男でした。
彼は、通称を箱屋峰吉という彼女の奉公人・・・箱屋というのは、芸者がお座敷に行く時に、その三味線を入れた箱を持つ係の事で、彼女が秀吉と名乗っていた京橋の時代からの雇人でした。
長年の親しさからもあって、父の不満を「あーだ」「こーだ」と峰三郎にブチまけるお梅・・・ある意味、単なるストレス解消だったのかも知れませんが、この峰三郎が、ことごとく父の味方をするのです。
黙って「フンフン」と聞いていてくれれば、言いたい事言って、あとはスッキリするのでしょうが、ことごとく反論されれば、そのストレスは溜まる一方・・・
父への腹立ちが、やがて峰三郎に向いていきます。
かくして、店を開店した翌年の明治二十年(1887年)6月9日、夜の9時・・・密かに出刃包丁を隠し持ったお梅は、辻待ちの車夫に頼んで、峰三郎を呼び出し、自宅門前の土蔵の脇(浜町河岸=はまちょうがし)で、彼を刺殺したのです。
その後、ぼう然としながらも、凶器の包丁を持ったまま日本橋久松署に自首・・・
というのが、事件の一連の流れですが、美人芸者の殺人事件てな話にマスコミが飛びつかないわけがなく、直後に出された新聞やノンフィクションでも、その動機や人間関係が様々に書かれ、もはや、何が本当だか、よくわからない状況です。
動機に関しては、先ほどの営業上のモメ事以外にも、お梅が、何たらという男に入れ込んで多額の金を貢いでいたため、彼女の事を好きだった峰三郎が横恋慕して関係を迫って来ていた・・・いわゆる三角関係のもつれとか、父と峰三郎が結託して店を乗っ取ろうとしているんじゃないか?という恐怖感にかられたとか、とにかく、彼女の公判の時には、ひと目その顔を見ようと、約2000人の群衆が集まったと言いますから、その注目度はスゴイです。
結局、犯行時に心神の喪失がみられなかった事から、計画的な殺人と判断され、無期徒刑(現在の無期懲役とほぼ同じでちと厳しい?)の判決が下りますが、その服役中の行動までが新聞報道されるという熱狂ぶりは、しばらく続きます。
やがて、特赦によって15年刑に減ぜられたお梅は、明治三十六年(1903年)に、刑の満期を迎えて釈放されます。
すでに30代後半になっていたお梅は、浜町に帰った後、半年後に浅草公園でおしるこ屋をオープン・・・なんと、初日には1時間に80人以上の客が殺到するという繁盛ぶりを見せますが、お察しの通り、これはお梅を見たさにやって来る野次馬のようなお客・・・
そんな一過性のお客が去った後、今度は牛込岩戸町(新宿区)にて小物屋を開きますが、それも長続きせず、結局、浜町に戻って、またまたおしるこ屋を始めますが、その間に、自称・豊島銀行の頭取と名乗る鈴木何たらという男に騙され、持ってたお金もスッカラカンになったらしい・・・
その後、明治三十八年(1905年)頃からは、森三之助一座などに加わって旅廻りの芝居巡業をはじめ、なんと、峰三郎殺しを、本人が実演して見せていたのだとか・・・
大正五年(1916年)には、その地方巡業も辞め、もとの芸妓に戻ったそうですが、その年の12月13日、肺炎の為に53歳の生涯を閉じたと言います。
自らの殺人事件を自らが舞台で演じる・・・そんな波乱万丈な人生を送ったお梅・・・
もちろん、殺人という罪を犯した以上、自業自得と言えば自業自得・・・その心の内も、どのような物だったかは、ご本人にしか解り得ませんが、実はこんな話が残っています。
明治四十五年(1912年)6月23日の浅草駒形町の蓬莱座で行われた「芸妓慈善演芸会」にて、『峰吉(峰三郎)殺し』の場面を上演中の朝8時頃・・・
突然、客席から、1人の女が舞台に駆けあがり、お梅役の芸者の胸ぐらをつかんで「この芝居は、誰に断わってやってるんだい!」と詰め寄ったのだとか・・・
もちろん、その女性はお梅本人・・・
噂が噂を呼び、稀代の毒婦に仕立て上げられたその中で、たった一つの真実を知る自分自身こそが、お梅を演じる事の出来るただ一人の女優・・・
そこに、彼女なりのプライドが見え隠れするような気がします。
明治一代女
この曲「明治一代女」は、花井お梅事件(別名箱屋事件)を題材にした川口松太郎の小説を元に作られたものです。小説、戯曲の 方は歌舞伎役者や道楽者など男女間の愛憎が複雑に絡まった物語ですが、実際の事件は比較的単純です。美貌で勝気な芸者お梅は二十歳そこそこで待合を持ち女将となりますが、名義人を父にしたばかりに自分の待合から締め出されます。何とか店を取り戻そうと、かつて自分が芸者時代に箱屋として使い、そのときも待合の使用人として使ってやっていた峯吉(唄では巳之吉)に相談します。しかし峯吉は多大の恩にも拘らず、欲に目がくらんで、父親の側に立ってお梅を苛み、あろうことか関係を迫ります。逆上したお梅は峯吉を浜町河岸に追い、背中に出刃包丁を突き立て殺害します。峯吉殺しを父親に告げてからお梅は日本橋久松署へ自首しました。男尊女卑、家父長制のこの時代、ちょっと早ければ朝右衛門の登場となったでしょうが、それでも無期懲役となり、稀代の毒婦の名を冠せられたのです。
新橋喜代三(しんばしきよぞう、1903年〜1963年(昭和38年)、鹿児島県種子島出身の芸者歌手)は中山晋平の後妻となったことで有名です。ために本名は中山嘉子。デビュー曲「鹿児島小原節」が晋平の作曲だったのが縁でした。昭和10年前後は、葭町(藤本)二三吉、市丸、小唄勝太郎などなどの芸者歌手全盛の時代でしたが、喜代三は中山晋平との結婚を機に引退をし、晋平没後彼の音楽普及に努めていました。
 
花井お梅 3

 

15歳で水揚げされて
花井お梅(はないおうめ)は、1863年(元治元年)〜1916年(大正5年)12月13日)に活躍した新橋の芸者さんです。
24歳の時に、犯した殺人事件が川口松太郎の「明治一代女」など、いろいろな演芸に脚色され、演じられたため悪女、毒婦として有名になった人です。
本名は花井ムメと言います。佐倉藩(千葉県)の下級武士・専之助の娘として生まれましたが、当時の下級武士は貧困な生活でしたから小さい頃に養女として出されるのが普通でした。お梅も9歳のときに3両で置屋に売られました。当時は、2両もあれば1年くらい生活できた時代ですから3両は大金でした。
しばらくは置屋で女中みたくして生活してましたが、すぐに踊りや三味線を学んで芸妓の修行に入りました。
15歳のとき柳橋の芸妓『小秀』となり水揚げされてます。水揚げの平均年齢は13歳くらいが普通でしたから、少し遅い年齢だったかもしれません。水揚げって花柳界では、お金持ちの旦那衆がセリで大金を払い『初夜権』を手に入れることです。旦那と呼ばれますが、その後も女の子を一生世話することになります。
別な世界ですが、陰間(男色)の場合は童貞を失うことを「水下げ」と言うらしいです。
18歳のときに新橋へ移って『秀吉』を名乗っていたそうです。豊臣秀吉のように出世しようとしたためでしょうか。
晩年の芸名も『秀之助』と名乗っていましたから、よっぽど秀吉が好きだったのだと思います。
美貌で気っぷがよかったので、お梅をひいきにする男の子も多かったそうです。ですが反面、勝ち気で酒癖が悪く切れやすかったため、客とよく喧嘩するような難しい子でした。
しかし、そういう女も面白いと世話する男がいたのです。第百三十三国立銀行(滋賀銀行の前身)の河村伝衛という頭取でした。金満家でしたからお梅には湯水のようにして金品を与えていました。
花柳界には『旦那様制度』というのがあって、好みの芸妓を見つけると水揚を行いその後生涯に渡り金品の世話をするパトロン制度があります。芸妓の若手見習いから一人前になるまでにかかる多額の費用や着物から持ち物、装飾品や生活費まで、今のお金で数百万円〜数億円を負担します。
1887年5月に浜町河岸で待合茶屋『酔月楼』を開業するときも、川村頭取は資金をポンと出してくれました。このとき、自分を花柳界に売った父親の専之助を、営業鑑札の名義人にしています。憎くくても親は親だったのでしょうか。しかし、お梅は旦那からは大層世話を受けながらも、一方ではいつかお座敷に遊びに来た役者の四代目・沢村源之助にぞっこんになり、これがきっかけで役者遊びに耽けていきました。
あん、身体が勝手に
昔は社会的に妾が公認された時代でしたから、旦那以外の男性との不義密通はご法度でした。芸妓の世界でも旦那持ちは貞節を守らなければならないのです。でも、当時お梅は24歳の若さですから、時々はパワー全開の若い男に抱かれたかったのかもしれませんが・・・。
それに、役者の沢村は『中条きよし』似のイイ男でしたし、女泣かせのテクニックは老人のセックスしか知らないお梅の身体をめちゃめちゃに目覚めさせたのかもしれません。
当時の役者は江戸の名残で「女は芸の肥し」とばかりに、13とか14歳の頃は「陰間」と言われ男色として男の子を相手にしていましたが、25歳を過ぎると女の子や熟女を相手にしていましたから、男女両刀で、アチラの道にはずば抜けていたのです。特に、沢村は女形でしたから陰子(かげご)とか色子(いろご)と呼ばれ修行としてHに励んでいたのです。芸者は色町の子なので、それを悦ばせれば一人前みたいな、そういう意味で芸妓を相手にしていたのかも知れません。沢村と会うときは月に1度くらいですが、旦那の目を盗んでお梅のほうから、待合所や屋形船に昼間から深川あたりで頻繁に逢引してました。
ある日、お梅が舞台用に贈った高価な着物を、沢村が別の芸妓にあげたという話を沢村の付き人(峯吉)から聞きます。それを聞いたお梅は「あんなに愛しているのに、ちきしょうッ!殺してやる!!」と刃物片手に源之助の家に暴れ込んだそうです。命に別状はなかったのですが、刃物三昧で気まずくなり、この事件で沢村との関係は終わってしまいます。その頃は、待合茶屋の経営もうまくいってなかったり、パトロンが他の子に熱をあげていたりでストレスが重なりイラついていたせいだったと、自白の時に語っています。
商売も、元々士族の父親が待合の経営などうまく出来る筈もなく、家では金銭のことでいつも口喧嘩していたそうです。峰吉は自分に告げ口したことで、沢村の付き人をクビにされたことを可愛そうに思い雇ったのですが男なしで悶々としているお梅の様子につけこんで、なにかと親切に立振る舞いお梅の気を引こうとするような男でした。
組合の会合で、父親が熱海に行った夜のこと、初夏とはいえ蒸し暑い寝苦しい晩でした。
お梅が自分の部屋で寝ていると、峯吉が大胆にも忍んできて「俺の女になれ」と迫りました。「いやいや」と抵抗したのですが無理やり肌襦袢に手を入れられ、もみあう内に腰巻がめくれて薄暗い部屋で、お梅の白い肌があらわになってしまいました。最初は激しく抵抗するのですが、男を知った女の身体は正直で、次第次第に許してしまうようになって、ついにはしがみついてしまいます。
いきなり峯吉を
それからは、毎晩のように身体を求められて、お梅も待ち遠しくなるほどになっていきます。
けれど、峯吉は34歳の大人でしたが嫉妬深く独占欲が強いため怒ると子供のように分別がつかなくなる男でした。お梅が別れた沢村のことをまだ密かに好いていることを知った峯吉は、激しく怒りお梅をなじります。
別れても縁りを戻そうと人を介して沢村に連絡をとっていたのです。身体を満たす男がいても心を満たす男のことは忘れられないみたいな女心でしょうか。このことがバレて峯吉と口論になりやがて二人の仲は険悪になっていきます。
1887年年(明治20年)6月9日夜9時すぎ、車夫に頼んで浜町2丁目の細川邸近くの横町に峯吉を呼び出したお梅は、突然無言で峯吉の腹を出刃包丁で刺したそうです。驚いた峯吉は、逃げましたが、大量の出血がもとで少し離れた場所で死んでしまいます。何が何かも分からぬままの死に方でした。犯行直後のお梅は、返り血を浴びて、血だらけで呆然と立ってました。声をかけられても動顛して歩けなかったそうです。その日の内に父親に連れられてお梅は自首しました。これが当時新聞紙上大騒ぎになった「花井お梅の峯吉殺し」といわれた事件の顛末です。
美人芸妓の殺人に、新聞社が飛びつき、あっという間にお梅は「毒婦」に仕立てられました。お梅の写真が紙面に載ると美人だった事もあって、裁判では行列が出来るほど傍聴人が集まりました。無罪を主張しましたが、判決では、無期徒刑の判決が下されました。
15年後の1903年4月にお梅は恩赦で釈放されます。新聞で出獄を知った野次馬が刑務所に集まり騒いだため、早めに刑務所の裏口から出されたそうです。迎えに出たのは旦那の河村頭取と父親でした。
お梅は40歳になっていました。出所後、旦那の世話で1903年9月、浅草千束町(現、台東区千束)に汁粉屋を、続いて神田連雀町に洋食屋を、そして新宿の小間物屋を開業するのですがことごとくうまくいかず
次々に店仕舞いしてしまいました。最初は客で賑わうのですが、次第に興味本位の客足が遠のきついには閉店となるのです。その後、芸人に転じ寄席で芸者踊りなどを披露していたといいます。
1905年(明治38年)秋には旅回りの芝居を始め「「花井お梅の峯吉殺し」を演題にしていたそうです。
そうしてこうして、いつしかお梅も53歳となり、時代も大正となったある夏、新橋で「秀之助」と名乗った年老いた芸妓が座敷に出ていました。それが晩年のお梅の姿でした。 
 
毒婦と擬された花井お梅の生涯

 

処で今でこそ情報過多の時代だが、新聞やテレビ等が無かった江戸時代に庶民はどのような手段で世の中の様子を知り得たのであろうか? 溝口健二監督の名作『近松物語』の冒頭では“捨て札”と呼ばれる罪人を処刑する際、その氏名・年齢・罪状などを記して街頭に立てた高札に野次馬根性丸出しの庶民が集まるシーンがある。やがてそこへ当の罪人、不義密通の大罪を犯した男女二人が背中合わせに捕縛された上、見せしめに馬に乗せられて磔の刑場に向かっていく。
その姿を見た男共は嘲笑し、女達は哀れみを示す。これを罪を犯した戒めと捉える者は少なかった。だがこうして庶民達は事件のあらましと藩主や代官、町奉行所の意思を知る由となる...。
しかしこれは身近な者の仕業、自分達が住む町中で起こった事件等の狭い範囲内での出来事のみ可能なのである。時代劇でよく出てくる“かわら版”は江戸時代の災害や事件、幕府の政を逸早く伝える為に粗悪な木版で摺られたものだが、その登場時期ははっきりとされない。また登場と流行(庶民までにゆき届くまで)は別の観点で述べなければならない。実際、かわら版は大都市(江戸や大阪、京都)の人々が多く集まる場所(絵草子屋や宿場町等)で売られていたので、江戸時代の庶民全てに目が届くものでもなかったらしい...。
いずれにせよ、おそらく江戸時代中期頃までは幕府(将軍)のお達しは無論のこと、よその土地での金銭や色恋沙汰の事件が庶民レベルまで伝わることは極めて少なかったと思われる。
そう考えると江戸時代の庶民は退屈な日々を過ごしていたに違いない。朝から晩まで働いて、やっと女房子供を食べさす分量の食事にありつける。夜になっても息抜きの娯楽もない...。そうなれば実話を基にした創作物語の芝居(歌舞伎や浄瑠璃)に、またはそれらの出来事を書物にした“写本”に飛びつくのは自然な欲求なのである。非常に下卑た考え方かも知れないが、人々は他人の立身出世や成功物語を面白いとは思わない。彼らが関心を示すのは他人の不幸物語なのだ。心中や不義密通、仇討ち等のクライマックスな部分とその代償としての懲罰の有り方に胸躍らすのである。もしその罪人が妖艶な姿態の女ならば、人々の好奇心は否応なく昂ぶるのだ。
やがて明治時代に入る。この頃になるとかわら版は印刷技術の進歩で大衆紙に生まれ変わり、また人々の識字の向上と相俟って飛躍的に部数が増やせたお陰で、人々に各地の事件を素早く知らせる役目を果たした。興味深いのはこの草創期の時代でさえ、人々の関心は三面記事的な事件に集まっていたことだ。刊行側もそれに応えるように、それらの事件に潤色を施し、数日に渡って小刻みに詳細を連載した。やがてそれは“つづき物”と呼ばれる長期の連載記事になり、更にそこにフィクション性を加えて纏めた“草双紙”(今で言う単行本の類)が発行されるようになった。更にまたその内容に芝居としての脚色をしたのが講談や歌舞伎の演目となっていったのである。つまり講談や歌舞伎の演目は実話を基にしていながら、中味は真実と虚構の入り混じった物語であることを再認識しなければならない。
またこの頃、大衆紙が増刷する“草双紙”と区別をつける為、犯罪を面白おかしく伝える事件報道に歯止めを掛け、事実関係のみを掲載する姿勢に転じたことも着眼すべき点である。つまりここに読み物としての大衆紙から報道する新聞紙の原型が築かれたのだ。
“草双紙”とは俗人の興味に合わせる様に過去の犯罪者達の記録文書である。そこには犯行時の詳細のみならず、罪人のそれまでの半生や刑罰を受けた後の行く末まで綴られている。しかも何故か罪人には女性が多く、それも浮世絵から抜き出たような容貌姿色麗しの美人ばかりであることから“毒婦実録物”とも呼ばれた。
殺す側が薄幸の美女で、殺される側が性格粗暴にして狡猾な悪漢という構図が大衆に受け、芝居にもし易かったのであろう。逆のパターンではただ哀しいだけで観ている者は気が重くなる...。
悪女は時として魅惑的に映り、男の欲望を掻き立てる。それは下衆な好奇心でもあり、ある種の恐怖心でもあるのだ。妖艶な姿態に惹かれるだけではなく、己の欲望と快楽を満足させる為には如何なる手段も厭わない知略と実行力に密かに隠し持っている欲望や憧憬が顕わになるのだ。たとえその女が自分を破滅に導くとしても一時の間、彼女に幻惑され、骨抜きにされたいのである。そして「訳有りの美女に殺されるなら、それも本懐!」との思いに浸っては自分が妄想した物語に満悦するのかも知れない。これが美人ではなく、ただの憎まれ女なら相当未練を残すと思うが...。
唐突ながら、丹念に読まれている殿方の中で、“妻”という字を“毒”と見間違えることがありませんか?
所謂“毒婦物”が文学、芸能の世界に登場したのは近代が開ける明治時代初期の頃であったが、それ以前(江戸時代)にも毒婦の物語は存在した。それは「土手のお六」「妲妃のお百」「鬼神のお松」等をヒロインとする歌舞伎の“悪婆物”と呼ばれるジャンルである。それはまた心中や仇討ち等の数々の事件が、かわら版から講談や浄瑠璃、または写本に等によって江戸庶民に広まっていった。こうして“毒婦物”には現実に起こった事件を元に虚実の境界線上を行き来しながら発展していったのである。そこには不思議な引力があったのだ。
幕末の「雲霧のお辰」を経て明治時代に入ると、それまでの生活の為の殺人動機が男女の愛憎へシフトしていった。それがまた大衆の本能を刺激した。草双紙は脚色を強めた物語に徹し、講談や歌舞伎は大流行となった。その中でも有名なのが「夜嵐お絹」「古着屋後藤吉蔵殺しの高橋お伝」「茨城お滝」等である。もうこの頃になるとフィクションの占める割合が高くなっていったのだ。
しかしこのような事実関係の凶悪化した虚構は前述した通り、裁判に不公平な心証を与えるとし、法整備によって歯止めが掛けられるようになった。今回は後に『明治一代女』のモデルともなった「箱屋峯吉殺し」の花井お梅の生涯を追ってみたい。
花井お梅の生涯
箱屋とは三味線を入れる箱を持って運ぶ芸者の付き人のことである。八杉峯吉は花井お梅の雇い人だった。大川端(隅田川のほとり)の日本橋区浜町河岸の待合茶屋「酔月楼」の女将・花井お梅は1887年(明治20年)6月9日夜、箱屋峰吉を出刃包丁で刺殺し、毒婦として巷間を騒がせた。殺人の動機は折り合いの悪くなった実父との取持ちを峰吉に頼んだところ、お梅に横恋慕していた峯吉にそれを口実に身体を要求されたことに逆上しての凶行だった...。
聡明で美人として名が通っていた花井お梅の事件は「大川端箱屋峯吉殺し」と名づけられ、一夜にしてセンセーションを巻き起こした。そこには明治最大の毒婦と謳われた高橋お伝の再来を求める世間の空気があったことは確かだ。因みに高橋お伝は箱屋峯吉殺しの8年前、斬首の刑に処されている。
お梅の裁判は麹町八重洲の東京裁判所で行われ、公判の度に高貴な衣装を着飾る彼女見たさに押し寄せた傍聴人は2千余人と当時としては破格の規模の人出だった。お梅は死刑こそ免れたものの、無期徒刑(懲役)の判決を受け、市ヶ谷監獄へ収監され服役。15年後の明治36年4月10日特赦により出獄した。
待ち望んでいた凶悪犯の毒婦の登場を刊行に携わる者達(今で言うマスコミ関係者)が見逃す筈がない。この時も8年前に高橋お伝と同じように大衆紙には事実関係を歪曲し、且つ誇張した“つづき物”が連載され、事件の翌年には黙阿弥が脚色した芝居が上演される運びとなった。こうして花井お梅は毒婦に仕立て上げられていったのだ。
しかし虚実ない交ぜの報道が過熱する中、判決確定以前の事件報道や上演を禁ずる法令によって“つづき物”は中断せざるを得ず、また歌舞伎は初日の目処が立たないまま、演目の差し替えが噂された。
辛うじて花井お梅は奉行所の良心に救われたのであった...。
花井お梅は下総(千葉県)の佐倉藩士・花井専之助の娘として1864年(元治元年)に生まれた。侍の娘らしく幼い頃から気性が激しかったようだ。だが当時は明治維新に向けて下級武士にとっては受難の時代だった。経済的に窮していた専之助はお梅が9歳の時、日本橋区の岡田常吉なる人物の許に芸妓として売ってしまう。お梅は常吉を義父として雛妓(おしゃく)の道を歩む。やがて17歳の時、一本立ちして小秀を名乗った。
当時の花柳界は柳橋から新橋へ盛衰の舞台が移り、お梅も時代の潮流に便乗する形で22歳の時に新橋へ舞い込み、秀吉(ひできち)と名を改めた。名の由来は聡明で勝気なお梅が「私は花柳界の太閤秀吉になる!」とお披露目式で言ったと伝えられている。
美麗で気立ての良いお梅の評判はたちまち柳橋や新橋で有名になり、前借も完済した彼女は当時の第三十三国立銀行頭取・河村電衛なるパトロンの援助で晴れて独立。24歳の時、念願叶って日本橋区浜町河岸のすぐ傍に待合茶屋「酔月楼」を持つに至った。尚、名義は実父・専之助にしておいた。「娘を売るような父親に孝行するなんて...。」とお思いになられるかも知れないが、それは今の時代感覚での理屈である。当時は「国に忠、親に孝」の時代であり、何より親に孝行を尽くすことが世間の常識だったのだ。
お梅は「酔月楼」の番頭役に両国時代からの顔馴染み、箱屋の八杉峯吉を雇った。だがこれは父の専之助が娘の役者遊びの監視役として雇ったという説もある。いずれにせよ、結果的に峯吉を雇ったことが後の悲劇の遠因となっていく。
当時、金銭面で潤っていた芸者が更に箔を付ける意味で、歌舞伎役者を情人にする慣習があった。お梅のお気に入りは澤村源之助で、新橋芸者の喜代治と張り合っていたそうだ。だがほどなく源之助と手を切ると、市川海老蔵、市川権十郎らと浮名を流していた。
余談ながら昭和10年、川口松太郎が著した「明治一代女」はこのお梅を主人公にし、物語は歌舞伎役者・三代目澤村仙之助、及び巳之吉(峯吉)との拗れた三角関係の末の悲恋物風に纏めているが、実際には誇り高いお梅が使用人の醜男を相手にする筈がないのである!
処でこの峯吉という男は手癖が悪く、店から金目の物を盗んだり、隠れては使い込みをする等のすこぶる悪漢である。その上、お梅の役者遊びのあることないことを専之助に告げ口する等、全く下衆な男なのだ。
専之助は娘のお陰で「酔月楼」の当代に納まった恩も忘れて、店が傾く心配からお梅を叱責、「酔月楼」から締め出してしまう。彼女にしてみれば、何人もの男を相手にし、やっと貯めたお金で手に入れた「酔月楼」である。それを失う不安に駆られた彼女は父・専之助との仲を修復するには峯吉を追い出す必要があると考えた。
そして事件当日の夜、お梅は峯吉との談判が揉めたときの用心にと出刃包丁を懐紙に包み、帯に差しては浜町に出向いたのである。
旧細川藩邸近くの路上。かねてからお梅に不埒な思いを寄せていた峯吉はここぞとばかり、「言うことを聞けば、親父との仲を取り持ってやる。」と言い寄った。これに対し、お梅は毅然とした態度で「お前如きの箱屋風情を相手にするか!」と罵った。激怒した峯吉はお梅を突き飛ばした。その拍子でお梅は手に出刃包丁が触れた。お梅は逆手に握り返して峯吉を一撃し、横腹を抉った。峯吉は呻きながら二、三歩よろめいた後、地べたに横臥し絶命した。
お梅は潔く久松署へ出頭した...。
裁判では検察側が事前に出刃包丁を買っていたことで計画殺人を主張して死刑(斬首)を求刑したが、自首したことで酌量され、無期徒刑の判決が下った。
しかし前述した通り、15年後の1903年(明治36年)4月10日、特赦により出獄した。お梅も既に40歳になっていた。それでも世間は花井お梅のことを忘れず、東京新聞の前身である都新聞は11日付けでお梅の出獄の様子を報じている。また都新聞のみならず、服役中のお梅の状態などを報じている新聞は他にもあり、世間は美人のお梅のことを放って置かなかったのである。その為、出獄の様子を記事にしようと記者が詰めかけるのを予想し、お梅は深夜に出獄したのだ。
その後のお梅の余生は、汁粉屋や小間物屋を開いたり、何と自分の事件を芝居にした舞台に本人役で立って見世物になる芝居役者、或いは芸者に戻っては目黒の易者の妾になる等したが、いずれも惨めな思いをするだけだった。
生活に窮したお梅は、最後は「峯吉殺し」で巡業する旅役者の一座に加わったが、1916年(大正5年)12月12日に巡業先で倒れ、蔵前片町の精研堂病院に戻されつつも病死した。享年53歳であった。  
 
「青柳の糸より」

 

浜町河岸で激昂したお梅姐さん
久しぶりに、浜町河岸を歩いてきた。このあたり、最近では夏になると怪談話によく登場するエリアだが、出現する幽霊はどれもこれも1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲に起因しているようだ。大川に面した浜町公園の周辺と、その西側に位置する明治座の界隈が舞台になっている。スポーツセンターができたおかげで、なんだかとても狭くなってしまったように感じる浜町公園を歩きながら、親からさんざん聞かされた戦災の記憶を反芻してみる。
浜町河岸のすぐ北側、東日本橋(当時は西両国/通称:薬研堀界隈)にあったわたしの実家も、同日の夜半に全焼している。そのころの記憶としてわが家に伝わるのは、親父が高田馬場の下宿先へ持ち出していた1冊のアルバムに身のまわりの家具・調度・小物類と、蔵から見つかった火炎で熔けた10銭玉ぐらいのものだ。ほかにも持ち出されたものはあったのだろうが、親戚たちの家に置かれたまま、すっかり忘れ去られたのだろう。
空襲の記憶があまりに鮮烈なため、浜町河岸というと戦争や空襲の記憶として語られることが多い。わたしも子供のころから、その情景を何度も繰り返し聞かされて育ったので、1960年代に見た界隈の風景とが重なり、まるで自分がその現場にいて惨状を目撃していたかのような錯覚をおぼえるから不思議だ。物心つくころから反復して聞かされた話が、わたしの内部で勝手に映像化され記憶されている。親の世代だと空襲だが、祖父母の世代だと、浜町河岸のイメージはガラリと変わる。大川や深川が目の前なため、江戸前のうまい「う」の見世ももちろんなのだが、それはまた、別の物語・・・。明治から大正にかけての人々にとっては、待合「醉月」の花井梅が起こした事件現場としての街、新派による『明治一代女』の舞台としてのイメージが強烈だ。
高橋伝と同様にマスコミや芝居、のちに映画で面白おかしく取り上げられたせいで、花井梅もまた、実像とはまったく異なる稀代の「毒婦」にデッチ上げられてしまった。彼女の生涯をみていると、もともとは佐倉の武家の出で気は強かったようだが、情にもろくて根はやさしい性格の女性だったように思える。ただ、感情が激すると前後の見境がなくなってしまう、直情型の性格でもあったようだ。事件は1887年(明治20)6月9日の夜、大川に面した浜町河岸で起きた。
歌舞伎の女形で、通称「田圃(たんぼ)の太夫」と呼ばれた澤村源之助に恋をしていたお梅は、恋敵である芸者の喜代次に源之助を取られてしまう。ちなみに、「田圃の太夫」と名のっていたのは、当時の芝居小屋が江戸期と変わらずに、いまだ新吉原も近い浅草田圃(あさくさたんぼ)の猿若町にあったからだ。源之助とお梅は、箱屋(見番に詰める芸者の付き人=マネージャーのような仕事)の峰吉を介して連絡を取り合い、逢瀬を重ねていたのだが、源之助を喜代次に取られてしまったのは、付き人の峰吉がちゃんと連絡をとらないでサボッたからだと逆上し、浜町河岸でつい刺してしまった。峰吉は逃げたが、のちに傷がもとで死亡している・・・というのが、一般的なこの事件の推移であり、コトのなりゆきとして記憶されている解釈だ。
でも、恋人との“つなぎ”を怠り恋敵に取られたぐらいで、自分のだいじなビジネスのパートナーである箱屋を刺すだろうか? それほど、お梅は紀伊国屋にぞっこんだったのだと解釈すれば、納得できないこともないのだけれど、そして直情型の性格を考えればありえそうにも思えるのだが、どこか動機がいまいち薄弱でハッキリしない。当時の裁判では、失恋の経緯が犯行の動機だとは採用されず、「醉月」を経営していた実父と、その味方をしていた峰吉との確執が主因とされて審議されたのだが、なんとなく謎に包まれている部分が残るようにも思える。事件当時の彼女は動転し、ひとりでは立って歩けなかったほどで、警察へも父親に付き添われて自首している。峰吉が死亡しているため、その不明な部分がいろいろと憶測を呼び、あることないことが脚色されて報道され、はては芝居に仕立てられて各地で上演されることになってしまった。
お梅の事件を、最初に芝居にしたのは新派ではなく、翌1888年(明治21)に中村座で上演された『月梅薫朧夜(つきとうめ・かほるおぼろよ)』の河竹黙阿弥だ。この芝居は現在ではほとんど上演されず、わたしは観たことがないのだが、当時は大当たりをとっていたようだ。もっとも、『明治一代女』のほうは、新派の十八番(おはこ)なので観ているのかもしれないが、子どものころのことなので、どうせ座席でスヤスヤと「新派午睡」していたのだろう、まったく舞台の記憶がない。お梅=初代・水谷八重子、澤村仙枝(源之助)=安井昌二、巳之吉(峰吉)=菅原謙次・・・のような憶えがあるのだが、きっとこれもあとで勝手に作られたイメージ映像なのだろう。
『明治一代女』は、川口松太郎が新派の女形・花柳章太郎のために書いた芝居だが、それ以前にも新派には、眞山青果が同じく女形・河合武雄のために書き下ろした『仮名屋小梅』が上演されている。この芝居では、お梅が「小梅」に源之助が「銀之助」に変えられているのだが、もちろんわたしは舞台を知らない。前者の『明治一代女』では、身勝手なお梅に思いを寄せつづける箱屋の巳之吉(峰吉)による純情物語・・・というような解釈だが、これまた、わたしには花柳界を単純に見すぎている(観客にわかりやすくしている)ような気もする。芝居では、刃物を持ってきたのは巳之吉(峰吉)ということになっている。浜町河岸でのふたりのやり取りを、ちょっと聞いてみよう。
巳之吉 「一昨日の晩も梅川で、太夫と二人が差向ひ、腹が立つてたまらなくなつて、思はず座敷へ飛び込んだ時にも姐さんは素早く何処かへ姿をかくし、私は飛んだ恥をかいて了ひました。姐さん、お恨みに思ひますよ。親ゆづりの田畑を残らず売払つてお金の工面をして来たのは、あなたの意地を立てさせる上、芸者をやめて、夫婦になるのを、たつた一つの楽しみにして来た巳之吉だ。」
お 梅 「巳之さん、すみません、堪忍して下さい。千両のお金はお返し致します。きつと、お返し致します。」
巳之吉 「金を返す。姐さん、そりやア何と云うお言葉だ、今になつて金を返して貰つて何になる。それよりは、太夫と別れてくんなさい。私と一緒に土地をはなれて、夫婦になつてくらして下さい。お願ひです。姐さん、お願ひです。どうか、太夫と別れておくんなさい。」
お 梅 「それが出来るくらひなら、とつくに、わかれて、居りますよ。」
巳代吉 「えツ。」  (川口松太郎『明治一代女』の「浜町河岸の場」より)
高橋伝とは異なり、花井梅の殺人事件には計画性がなく、一時の激しい感情に押し流された突発的な事件だと裁定され、判決は死罪にならずに無期懲役となった。事件から15年後の1903年(明治36)、お梅は刑務所から釈放されているのだが、その後さまざまな小商いをしたり、ときには自身を演じるために舞台に立ってみたりと、苦労の多い後半生だったようだ。彼女が1916年(大正5)に死の床へついたとき、最後まで看病したのが紀伊国屋の恋敵であったはずの喜代次だったのも、背後に複雑な事情があったことをうかがわせるエピソードなのだ。
小唄『青柳の糸より』
『青柳』の踊りをお稽古中の先輩が、「刃物を持って人を切るような振りがあるのだけど、内容がわからないので教えて。新派らしいの」と仰いました。私もよく知らなかったので、調べ上げました。
明治20年6月9日。浜町酔月楼の女将・花井梅が、峰吉を大川端(隅田川岸)へ誘いだし、出刃包丁で殺した事件をもとに、歌舞伎や新派で次々に劇化がなされました。
明治21年『月梅薫朧夜(つきとうめかおるおぼろよ)河竹黙阿弥作 5代目尾上菊五郎
明治36年『花井お梅』伊井、河合一座
大正8年『仮名屋小梅』伊原青々園(いはらせいせいえん)原作 真山青果脚色
昭和10年『明治一代女』川口松太郎作 花柳章太郎
作品としては『明治一代女』が一番有名ですが、この小唄は大正の『仮名屋小梅』が元になっているそうです。
登場人物
○仮名屋小梅 売れっ子の新橋芸者で、銀之助の贔屓。のちに、待合茶屋・酔月(すいげつ)の女将
○沢村銀之助 小梅の応援をもって人気が出た、歌舞伎役者
○蝶次 新富町の下っ端芸者で、銀之助と馴染む
○宇治一重 一中節の師匠で、小梅をたしなめる
○兼吉 銀之助の付き人(箱屋)で、嫌な奴
○山村重兵衛 小梅の旦那。支援者。
○浜本 小梅の浮気相手で、ものすごく年下の書生。
小梅は、銀之助を人気役者に仕立てた。しかし、銀之助は小梅から贈られた羽織を帯に仕立てなおして、蝶次にプレゼントする。それを知った小梅は、酔ってカミソリを振り回し2人の所へ乗り込む。そこに居た宇治一重は、小梅に対し、真底から銀之助の贔屓になれ、とたしなめ、3人は後腐れなく別れる。
小梅は、山村に頼み、蝶次に新橋で家を持たせ、妹芸者にし、女の意地を見せる。それでも銀之助を忘れられずなまけていた小梅は、兼吉に「銀之助と蝶次が逢っている」と告げられ逆上し再び乗り込むが誤報、小梅は笑いものになり、兼吉は付き人をクビになる。
山村は、落ち目となった小梅に芸者を辞めさせ、待合『酔月』を出させ、兼吉を使用人とする。小梅は深酒と浮気にひたり、山村は兼吉に酔月を任せるようになる。兼吉は、「旦那がありながら浜本と浮気するようなふしだらな女将さんは家に入れない」と小梅を閉め出し、浜本は兼吉に怒鳴り込む。すると、兼吉は浜本を警察に突き出すと脅す。
小梅は兼吉を大川端に呼び出し、話し合うが兼吉は取り合わない。小梅は浜本とのこと、自分の家である酔月に入れてもらえないこと、銀之助との仲を打ち壊されたことで兼吉に逆上。兼吉を出刃包丁で刺し殺し、警察に自首する。
青柳の糸より胸の結ぼれて 
もつれて解けぬ恋の謎
三日月ならぬ酔月の
うちの敷居も高くなり
女心のつきつめた
思案のほかの無分別
大川端へ流す浮名え   (宮川曼魚作 草紙庵曲)
小梅の恋のもつれを、柳の枝がもつれてとけないことに見立ててうたっています。胸の結ぼれて、は、羽織を帯に仕立て直されたことも示しているのでしょうか。
三日月ならぬ、は、酔月楼の枕詞です。兼吉に任されてしまった家には帰れないし、突き詰めた女心が、大川端で殺人を犯してしまいました、というお話を、この7行にまとめてあります。
 
悪女雑話

 

「毒婦」イメージ  
「女と罪悪とが永劫離れ難い」という命題を「今更」思うという叙述は、その命題が言いふるされたものであることを含意している。明治の大人気小説で『煤煙』の心中未遂へのなんらかの影響を思わせる尾崎紅葉『金色夜叉』の「続続編」の地の文に「我聞く、犯罪の底には必ず女有りと」とあるし、より科学的ないし法律的な言説においてもこの命題は頻出するようで、たとえば「性欲学大家」と呼ばれた沢田順次郎の河合廉一との共著『性欲より生ずる罪悪史』(新生社、一九二四) に序文を寄せた花井卓蔵は、開口一番「犯罪の裏に、女があると、昔から言つて居る」と述べている。
この命題は、フランス語の・・・・・に由来するといい、政治家タレーランのことばなどともいわれるが、一般的になったのはアレクサンドル・デュマ・フィスの戯曲『パリのモヒカン族』のなかで使われて以来とされる。さらにその発想の源を求あるとすれば、ギリシア神話のパンドラや『創世記』のイヴにまで遡ることが可能だろう。
近代に受け継がれたこの伝統思想は、ところで、二つの基本命題に足を置いているようで、その一つが「女は男をあやつる」であるとすれば、他は「女は邪悪(ないし劣悪) だ」ということになろう。後者が十九世紀末の西洋で広範に受け入れられていたことは、たとえば犯罪人類学の創始者とされるチェザーレ・ロンブローゾの『女性犯罪者と売春婦』(一八九五) に明白に現れており、これを検討したピエール・ダルモンは、その女性観- 知性、感受性、誠実さ、において男に劣り、復讐心、残酷さ、虚言、嫉妬、模倣において優るを「当時の正統的な考えに近い」と見ている(『医者と殺人者」一九八九)。オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』(一九〇三) は、平塚明子への男の視線(少なくとも草平と佐藤春夫の) にも影響を与えた有力な著作であったが、そこに見られる「女は男の罪悪である」云々の断言などにも、同様の「当時の正統的な考え」が滲んでいる。
「罪悪」に直結した「女」のより具体的なイメージとして作者の意識にあったことが推測しうるものとしては、新でのみ末尾に登場する八百屋お七のほか、明治期に広く流布していたらしい、高橋お伝、蝮のお政から花井お梅に至る、「毒婦」と呼ばれた一連の美女が考えられる。これらはいずれも当初「事実」として報じられたものが種々に脚色されていった物語で、その「罪悪」はお七の場合は放火であり、「毒婦」たちの多くは夫ないし情人(実際には情人でなくてもそう報じられがちだった) の惨殺である。明治一〇年代からおおむね新聞報道を発端として、虚実ないまぜとなった物語が絵草紙や劇の世界で膨らんで「毒婦物」というジャンルを形成していたといい、奥武則はこれらを江戸期の「お七フィーバー」との連続性において分析している。明治期の「毒婦」をあぐっては、松山巌『うわさの遠近法』 / 平田由美『物語の女・女の物語』 / 同「『女の物語』という制度」。
これら「毒婦」は人の哀れを誘うものでもあり、なかでも長谷川時雨をして「あんまり無惨すぎる。社会は冷酷すぎる」とまでいわしめたのが花井お梅の場合である。かつて新橋の売れっ子芸妓で役者の沢村源之助と浮名を流したこともある待合茶屋女主人のお梅は、商売上のトラブルから雇い人の元「箱屋」(芸者の付き人のような役をする男) を殺害(明治20年。当初は色恋沙汰と報じられた)。彼女は恩赦による出獄(36年) の後も不遇で、通俗劇の女優としてかつての自分の役を演じさせられるなど、さらしものになっていると報じられた(『東京朝日』明38/8/14)。
その事件の当時十七、八歳で新聞から強い印象を受けていたという江見水蔭は、40年頃に銚子の旅館で偶然お梅の隣室に泊まり、彼女が「悪夢に魘はれる」らしい「激しい悲鳴」を聞いたという話を書いている。旅館の女中によれば、近くの芝居小屋でお梅は「自分はこやそツくりで自分の箱丁殺しをね、悉皆芝居に為るんですがね、大変な評判で、大概な晩は札留め」、またうなされることも「毎晩同じ時間」なのだという(江見水蔭「花井お梅《旅日記の一節》」)。 
悪女の深情け
悪女の深情けとは、顔かたちのよくない女性は情け深く、嫉妬心が強いものだということ。
【注釈1】 「悪女」とは器量のよくない女性という意味。顔かたちの美しくない女性は、とかく愛情深いが、そのぶん嫉妬心も強くなる。それが男性にとってはありがた迷惑であるというときに用いる。
【注釈2】 「悪女」とは、心の悪い女ではなく、顔だちの悪い女を言うようで、男性が、 そういう女性につきまとわれて、ありがた迷惑を感じるときに言う言葉のようです。 美しい女性に比べると嫉妬心が強い、ということのようですから、 あまり嫉妬心が強すぎると、その思いが顔だちに表れてくるのではないかと思います。 更に考えてみると、美人には楽天家が多いということなのかもしれません。
【注釈3】 悪女=「あくじょ」と読み、1 みにくい女。2 性格や心が悪い女。深情け=「ふかなさけ」と読み、異性に対しての愛情の持ち方が強いこと。嫉妬心=「しっとしん」と読み、1 自分の好きな人が別の人を好きになったりすると、そのことを憎んだりすること。やきもち。2 ねたみ。ありがた迷惑=他人が良いと思ってしたことを迷惑に感じること。つきまとう=常に言い寄ってきて離れない。 
 
尾上縫

 

ホンマよう吸いつきよるデ
尾上縫(おのうえぬい)は1930年(昭和5年)奈良県橿原市の農家の次女として生まれました。
1950年(昭和25年)、尾上縫(ぬい)は20才で結婚して長女をもうけますがその後すぐ離婚します。
その頃は、大阪・ミナミのすき焼き屋で仲居として働いていました。この頃の縫いは美人だったと言われ店でも人気がありました。上客と呼ばれるお客は、個室で仲居がすき焼きを作ってくれるのです。
個室で酒も入り、二人っきりの部屋ですからどうしても淫らな関係になってしまう場合が多かったかもしれません。尾上縫は若い頃から「金持ちを見抜く目と、肉体を武器に男を虜にする能力」が優れていたと同僚は語ります。
後に、パトロンとなるこの男も、中堅の電気会社の社長さんで、大手の下請けとして当時は空調機を作っいたそうです。パトロンの名は川中良吉(仮名)と言い当時57歳でした。
日本は「神武景気」と呼ばれ、高度経済成長の始まりで景気がよい時代を迎えてました。尾上縫のアレは「あげまん」だったそうです。川中はHが終わるとかならず「ホンマよう吸いつきよるデ」ときまって下品に笑ったそうです。
尾上縫が男を誘惑する手口はいつも同じで「あなたの将来を占ってあげましょうか?」と言って手相占いで近づく方法だそうです。川中の場合も、会社の買収話があってその吉凶を占ってもらったそうです。ところが偶然かどうか分かりませんが半年くらいして莫大な大金を手にできたそうです。この見返りみたくして尾上縫は、川中から店を出す資金を借りることができました。当時のお金で6億円と言われます。土地名義は川中でしたが大阪・ミナミに旅館の土地と建物を購入し料亭「恵川」を開業しました。
1983年に7階建ての恵川ビルを建て、そこに「恵川」を移転。跡地を大衆料理屋「大黒や」として経営しました。
商売も順調にいっていたある日、証券会社の営業マンがNTTの上場に伴う株を「絶対値上がりするから購入されたらどうですか」と薦められました。1987年4月のことです。これで川中の借金を全てチャラに出来ると考えた尾上縫は、パトロンから、更に10億円を借りてNTT株を購入しました。2月9日NTT株が初上場すると買が殺到して初値がつかないほどの人気でした。10日、ストップ高で160万円をつけ、あれあれと驚くうちに23日には240万円の値をつけました。こうして尾上縫は28億円もの売却益を得ることができました。
巨万の富を得た尾上縫は注目され、次第に「恵川」には証券マンや銀行マンらが群がるようになっていきました。これがきっかけとなり世の中は次第に「財テクブーム」に向かっていきます。
負債総額は4,300億円
マスコミでも、ミナミの美人料亭女将、女相場師、女霊感師などと紹介され、金に群がる金融マンたちの実態が幾度も紹介されました。1987年4月頃から株取引を始め、自らも料亭と土地を担保に、銀行から多額の融資を受けて株式の売買を行うようになっていきました。
1988年夏には証券会社の支店長が、尾上縫の料亭に在駐するようになったそうです。
この頃はバブル絶頂期で、銀行はいくらでもお金を貸してくれた時代でした。
1988年(昭和63年)当時、尾上縫は2.270億円を金融機関から借りていました。
記録によれば、定期預金は400億円近く持っていたそうです。株取引で48億円の利益を得、金融債ワリコー(無記名・利子先払い)を288億円も購入し、55億円の金利を受け取っていたそうです。
「ミナミの女帝」と呼ばれたのもこの頃でした。株取引も相場師気取りで大量売買を繰り返してました。
「恵川ビル」の一角には、祠の祭神・不動明王像の祭壇があって、入り口には大きな蝦蟇(ガマ)が控えていました。 そこでは週末ごとに「密業」という儀式が行われていました。
尾上縫の株の買い方は”神が乗り移った!神が乗り移った!”と叫ぶと、証券会社や銀行の幹部たちは床にひれ伏して尾上縫の御宣託を待つような方法でした。口の悪い証券マンは「拝み詣」と言っていたそうです。
「水が溢れている」と言えば水関連の会社株が売買されたそうです。こうして「お告げ」により銘柄を選び、銀行やノンバンクからお金を借受けて売買していました。
この頃の尾上縫の金融資産は2,650億円、負債は7,221億円の天文学的に増加してました。
資金に窮すると、かねて親交のあった東洋信用金庫支店長らに架空の預金証書を作成させ、それを別の金融機関に持ち込み、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替え、それらを取り戻す手口で資金を回するような詐欺行為をしていました。
やがて、1991年8月13日に詐欺罪で逮捕されるまでにノンバンクを含む12の金融機関からの借入金総額は、延2兆7,736億円、支払額は延2兆3060億円に達してました。
逮捕後留置所で破産手続きを行った時は、負債総額は4,300億円にもなっていました。これは個人としては史上最高額だそうです。巨額の融資を行った日本興業銀行は富士銀行(いずれも当時の銀行名)と合併し、みずほコーポレート銀行(存続会社は富士銀行)となり、また、東洋信金は経営破綻し、府下の複数の信金へ分割併合され共に現存していません。
警察の「なんでこんな馬鹿な事をしたんだ」との問いに、尾上容疑者は「皆からチヤホヤされ続けたかった」と答えたそうです。
28億円の利益が出た時点でやめておけば一生安泰でした。6,000億円の時にやめていれば、歴史に名を残す偉大な個人投資家の一人になっていたはずでした。
2003年04月21日、懲役12年(実刑)が確定しましたが、警察がとことん調べて無一文のはずの尾上縫は、数日後に7億円の保釈金を払って出所したそうです。
この金を用意したのが誰だったかは、今でも明らかになっていません。 
 
夜嵐お絹 1

 

幕末から明治初期に実在した毒殺犯原田 きぬ(はらだ きぬ、生年不詳、弘化元年(1844年)説 - 明治5年2月20日(1872年3月28日))をベースとして生まれた新聞錦絵等における登場人物及び後年製作された映画作品のタイトルである。原田きぬ本人については処刑の時に発行された「東京日日新聞」の資料があるが正確な資料は少ない。夜嵐おきぬの物語は現実の原田きぬのそれというよりは、それに脚色を加えたフィクションである。木下直之は夜嵐おきぬの物語について「物語も画像も必ずしもキヌの事件に必ずしも内在する必要はなく、戯作者と絵師の判断に委ねられる」と述べている。
1844年あるいは弘化年間前後の時代に、三浦半島城ヶ島の漁師・佐次郎の娘として生まれたらしい。彼女は16歳のときに両親と死別し、伯父に引き取られ江戸に出て芸妓になることになり「時尾張屋」において「鎌倉小春」と名乗りその美貌から江戸中の評判を取る。
そのとき、大久保佐渡守(下野国那須郡烏山藩三万石城主)に見初められ、黒沢玄達(日本橋の医者)を仮親とし、大久保家の御部屋様(側室)となり、名を花代と改めた。安政4年(1857年)、お世継ぎの春若を生んだが、その三年後に土佐守は44歳の若さで逝去し、二人の新婚生活に終止符が打たれた。
花代は当時の慣例に従って仏門に入りることになり、名を「真月院」と改め、亡き夫の冥福を祈る生活に入った。しかしながら、これは半ば強制されたもので、真の信仰心から仏門に入ったのではなかったので、そのような生活には馴染めず、やがて欝状態になり、勧める人があって箱根に転地療法に出かけることになった。
しかしながら同所で「今業平」の異名を持つ日本橋の呉服商紀伊国屋の伜、角太郎と出会うことになり、やがて二人は恋に落ちた。江戸に戻った後も二人の関係は続き、角太郎がきぬの元に通う生活が始まった。だが、そのような禁断の恋が許されるはずもなく、やがてその乱行不行跡が大久保家の知るところとなり、きぬは同家から追放された。その後、角太郎に縁談が持ち上がり、彼の足はおきぬから遠ざかっていった。
その後きぬは元の芸者の生活に戻ることになった。戊辰戦争時、旧幕府時御鷹匠であり、その後金貸し業を生業としていた東京府士族・小林金平が、明治2年おきぬを気に入り身請けした。そして彼は浅草の歌舞伎三座付近の猿若町に妾宅を設けおきぬを住まわすことにした。小林はきぬを溺愛し、彼女の求めるものなら何でも与えた。
彼女は歌舞伎役者の璃鶴(「璃鶴」は三代目嵐璃珏の俳名、後の二代目市川権十郎)との役者買いにのめり込み、恋人との結婚を願い、障害となる旦那である小林金平を殺鼠剤で毒殺した。
逮捕、裁判にかけられたとき、彼女は妊娠しており、死刑判決を受けた後、出産まで刑の執行が延期され、小塚原刑場で処刑された。当時近代刑法が確立しておらず、断頭の後三日間梟首に処せられた。執行に際し残した辞世の句「夜嵐の さめて跡なし 花の夢」から、きぬは「夜嵐おきぬ」と渾名で呼ばれるようになったと物語上はなっているが、実際のキヌは辞世を残してはいないという(『明治百話』上)。不義密通に対する罪で璃鶴は懲役3年だった。
なお、蜂巣敦は大久保忠順がお絹を妾にしたが世継ぎが生まれたので捨てたところ、その放浪先で殺人事件を起こしたのだとこの事件の顛末を記述している。
原田キヌの墓は東京都墨田区東駒形3丁目21番地、赤門福巌寺にある。 
 
夜嵐お絹 2

 

幕末から明治にかけて浅草を代表する毒婦
『夜嵐の覚めて跡なし花の夢』の辞世の句を残し、明治5年2月20日小塚原の露と消えた美人が「夜嵐おきぬ」こと原田きぬだった。
きぬは房州の出とか城ヶ島の産とか謂れ、生国は定かではないが、江戸生まれという説が有力になっている。少女時代は寄席芸人として、手品や曲芸をしていたという。
16歳の時尾張屋の小春を名乗り、左褄をとった。その頃のきぬを見初めたのが大久保佐渡の守という那須烏山の大名で、きぬは小春から花代と改めて側室となった。安政4年に世嗣ぎを生んだが、佐渡の守が没した後再縁を許され暇が出たが、緑の黒髪を下ろし真月院と改め小梅の寮を譲り受け、佐渡の守の冥福を祈る生活を始めた。何もかもが平和で幸せに流れる生活の中、おきぬは何かしら物足りなさを感じはじめていた。
箱根の湯治場で
そんな生活の中、おきぬはある日箱根へ湯治に出かけた。日がな何度かつかる湯にあたり、縁側でほてった湯上りの身体を昼下がりの初夏の風で涼ませていると、どこからともなくかすかな尺八の音が聞こえてきた。得も云われぬその妙えなる音色に、真月院も三味線を取り出し弾きはじめた。するとそれに追いすがるように尺八の音色が大きくなって纏わりついてきた。しばらく後、夢から覚めた心地で、上気した顔を縁側から音のしていた方へ出すと、二階からこちらを見ている若者がいた。
ほどなくその若者が、今業平の異名を持つ日本橋の呉服商紀伊国屋の伜、角太郎と分かった。湯治場での自由気儘さから、二人が結ばれるのは自然の明だった。
江戸に戻ってからも二人の中はしばらく続いた。おきぬの下げた緑の髪もいつしか、髷を結うまでになり、年若い角太郎の膝にもたれて酒の酌をさせる日が続いた。そんな折、角太郎に縁談が持ち上がり、何だかだと理由をつけては角太郎の足はおきぬから遠ざかっていった。
小林金平との出会い
角太郎との恋におぼれたおきぬは再び刺激のある芸者の生活に戻っていた。戊辰戦争が激しくなる頃、戦争で疲弊した江戸庶民の生き血を吸って大儲けていた金貸しを生業としていた小林金平なる男が、その頃足繁くおきぬのもとに通って来て、このドサクサで儲けた金で金平は明治2年におきぬを身請けした。そして浅草の歌舞伎三座からほど近い猿若町に妾宅を構えた。おきぬ26歳の時だった
金平旦那、普段はひどくごうつくばりで因業な取立てをするのに、おきぬのこととなるとまるで目の中に入れても痛くないほど可愛がつた。おきぬにだけはふんだんに金も与えた。
そんな折、猿若町の森田座に役者の送り迎えをする伊之助という芝居者が小林家に金を借りに来るうちに、小遣い稼ぎにおきぬに役者を次々と紹介していった。生来、多情な性質だったおきぬは金にあかして次から次へと役者を買いあさった。市川団蔵、尾上菊五郎、市川女寅、助高屋高助、坂東家橘など、当時の名優とは皆関係した。歌舞伎役者はそれが金づるで人気取りの手立てとしていた。今風ホストがその頃の歌舞伎役者だった。
運命の引き合わせ
おきぬの役者狂いが頂点に達したころ。伊之助が連れてきたのが上方下りの嵐璃鶴(りかく)だった。璃鶴の柔らかい上方言葉はおきぬの耳には新鮮に響き、歯の浮くようなおべんちゃらも、おきぬはまるで箱入り娘のように真に受けていった。とりわけ璃鶴は当時菊五郎と並ぶ美男子だったので、海千山千の生活をしてきていても面食いだったおきぬは、どんどんと璃鶴に入れ込んでいった。金を使えば使うほど入れ込むのが世の理であり、おきぬもその男地獄にはまっていった。まるで生娘のように璃鶴への思いを募らせ逢瀬を待ちわびるおきぬだった。
明治3年12月の雪の降る向島の料理屋「植半」の離れ座敷での璃鶴との逢瀬で、おきぬは璃鶴の膝にもたれていた。
『おきぬはん、わてのこと忘れたら承知しまへんで。でもおきぬはんには金貸しの立派な旦さんが付いてるさかいなあ。そやなければ、明日が日にでも夫婦になりとうござんす』
『親方、本当に旦那と別れたら、あたしをお上さんにしてくれますか』
『そりゃもう一も二もなく、そうしますがな。そやなければ誰がこんな雪の日にわざわざ向島まで来るもんですか』璃鶴は相変わらずありもしないべんちゃらを続けた。
『それが本当なら、うれしい。きっとですよ』
『当たり前ですがな、あんたに会ってからは、この世でおきぬさん以外おなごと思うたことありまへん』
『神かけて嘘はいやですよ』
おきぬの心は酒の酔いと、璃鶴の甘い言葉にうっとりと夢心地の境地を漂っていた。見上げると、金平旦那の脂ぎったしつこい顔とはあまりにかけ離れた、年下の璃鶴の美しい顔がこちらをのぞいていた。
石見銀山ねずみ獲り(いわみぎんざん-殺鼠剤)
おきぬは角太郎にムキになった以上に、璃鶴に入れあげていった。向島での逢瀬以来、おきぬの心にある言葉がむくむくと膨らんできていた。それは璃鶴がべんちゃらで云った「旦那さえいなければ、明日が日からでも夫婦になりとうござんす」、おきぬはとりわけ「旦那さえいなければ」という言葉を心の端にいつも持つようになっていった。「旦那さえいなければ」この言葉はいつしか恐ろしい思いに変わった。
伊之助にこのことを相談すると「旦那にいなくなってもらうのには、石見銀山を葛湯の中に混ぜるのが一番ですぜ。何で死んだか絶対に分かりっこありゃせんや」と、いう確信的なアドバイスを受けて、正月のある晩、おきぬは早速実行に移した。伊之助の云った通り、金平旦那は鼠のように参ってしまった。
その後、そ知らぬ顔で璃鶴との逢瀬を楽しんでいたおきぬだったが、世間でこの噂が取り沙汰され、明治4年5月末おきぬは捕らえられた。初めのうちは「粗相で葛湯に混じってしまったかもしれません」などと、うそぶいていたが「璃鶴にそそのかされての事だろう」と、問い詰められると、助けたい一心から素直に白状した。
その後、璃鶴も捕らえられたことを知らされたおきぬは「私の心得違いから親方にまで迷惑をかけて申し訳ない」と、涙にむせんだという。
刑の執行の延期
捕らえられ小伝馬町に繋がれた、おきぬはこの時、璃鶴の胤を宿して五ヶ月だった。子供を生むまでの間は刑の執行は延期された。
梅雨の六月、猛暑の夏を過ぎ、10月1日おきぬは璃鶴似の男の子を産んだ。身重の体で暑い夏を牢の中で、刑の執行を待つ思いは、芸妓上がりのおきぬにとって、どれほど過酷な思いだっただろう。しかし、おきぬは自分のことよりも璃鶴の苦しさを思い、一日も早く親方が出所できますように祈っていたという。
子供が生まれたとき、すなわちおきぬが死ぬときでもある。まだ乳離れのしないうちに、母親との永遠の別れをしなければならない赤ん坊の無心な寝顔に頬をすり寄せ、おきぬは身震いしながらむせび泣いた。
夜嵐の覚めて跡なし花の夢
北風が吹きすさぶ2月の寒い夜明け、おきぬは小伝馬町の牢屋敷から、両手をわら縄で縛られ寝案駄という長細い竹篭の中に入れられ、小塚原に送られた。途中猿若町で森田座の前を通ると、役人が慈悲で「見えるか」と尋ねると、「はい」と、答えて幾度も幾度も身動きできない籠の中から振り返り涙にむせんだ。
刑場に着いたとき「最後に何か言い残すことはないか」と、役人が聞くと、「親方はどうなりましたでしょうか」と、身を乗り出すように尋ねた。死罪ではない璃鶴はまだ入牢中だったが、役人が気を利かし、「あれはお前、もうとっくに死罪になり、今頃は三途の川でお前を待っているよ」と、云うと「さようでしたか、わたしゆえに可哀想なことをしてしまいました」と、ふっとため息をつき、「夜嵐の覚めて跡なし夢の花」という辞世の句を残し二十八歳の短い生涯を閉じた。
首斬り朝右衛門の話
明治5年2月20日おきぬの首を刎ねたのは、八代目山田朝右衛門19歳の時だった。(この日を八代目は9月と勘違いしている)
晒し首にするので斬り方が非常に難しく、水平に斬らないと晒した首のすわりが悪く倒れてしまいます。
おきぬの場合は、失敗のないよう自分の愛刀、関の孫六兼光二尺三寸五分、幅一寸三分のものを使いました。大衆の面前で処刑するので、それはそれは気を遣います。
おきぬがいよいよ牢を出る時、他の女囚たちが別れを惜しんで、「おきぬさん、未練を残さず往生遂げなさいよ、これは私たちの志だから」といって、米粒の数珠を渡した。百八粒の米粒を見事に、こよりに通してありました。
おきぬは縄取り役人に最後に、「璃鶴さんはどうしました」と聞きましたが、まさか達者で生きているとも云えず、「おまえあれは蓮の台で半座を分けているだろうよ」といいますと、「わたしゆえ可哀相なことを致しました」とホロリと涙を流しました。
実際は璃鶴は3年で放免になり、市川権十郎となって大変な人気を取りました。これもおきぬの一件が幸いしたのでしょう。 
 
夜嵐お絹 3

 

湯殿での戯れ
夜嵐お絹(よあらしお絹)は、幕末から明治初期に実在した毒殺犯で本名原田絹(はらだきぬ)といいます。出身地については、諸説ありますが1840年、三浦半島城ヶ島の漁師・佐次郎の娘として生まれたそうです。16歳の時に両親と死別し伯父に引き取られますが、すぐに江戸に出て浅草仲見世の半襟店で働きました。お絹は大変な美人であったことから連日のように、大勢の客が押し寄せ店は大繁盛だったそうです。たまたま、浅草参りに行っていた烏山藩(栃木県)藩主・大久保忠美が、この美人のお絹を見初めて、お供に命じて伯父を連れ立って下屋敷に来るように命じました。(出会は芸妓のお絹を見染めて、芝居小屋に出ていたお絹を見染めてなど諸説あります)
お殿様自ら伯父に、お絹を御部屋様(側室)として迎えたいと頼んだそうです。当時、側室になることは、名誉であるばかりか莫大な支度金がもらえるため、願ってもないお話だったのです。もちろん漁師の娘からすぐには武家には入れませんから、一度しかるべき家の養女となり、そこからあらためて側室として迎えることになるのです。
話がまとまり名も「花代」と改め、半月ほどで側室としてお城に上がりました。
安政末に編纂された「烏山家家譜」によれば、忠美は24歳年下のお絹を溺愛して、毎晩のようにご寵愛したそうです。1857年、花代はお世継ぎの「春若」を出産します。しかしその3年後に、忠美は病で逝去してしまいます。
わずか45歳の若さでした。
お絹は当時の慣例に従って名を「真月院」と改め、仏門に入ります。しかし、普通の武家の娘ならこの後、生涯亡き夫の冥福を祈る生活を送るのですが、もともと信仰心の薄い漁師の子ですから17歳の子供にはそのような生活は馴染めなかったたのです。やがて欝状態になります。医師の勧めで箱根に転地療法することになり、お供をつれて箱根に行きました。箱根は奈良時代から続く名湯で江戸の絵師・鳥居清長の「箱根七湯名所」の絵で一躍有名になり人気が出て、沢山の人が湯治として利用していたそうです。
箱根逗留が10日ほどしたある夜、湯船につかりながら、満天の空を見上げていました。その夜はこうこうと月が輝いて静寂とした露天湯殿を照らしてました。お絹は、湯船のそばで火照った身体を夜風で涼ませながら江戸のことや亡き夫のことを考えてました。そして、思いおこせば主人を亡くしてからこのかた、男との交じあいもなく17歳の若さで寂しく仏門に入ってこうして男を近づけない生活を1年近くになろうとしている。
「浅草お絹」「江戸一の器量よし」と騒がれた日々を思うと、なんと侘しいことかとわが身の不憫を嘆くのでした。
愛おしさが増してそっと胸に手をやりました。未亡人とは言え、まだ17歳の若さです。持て余すような劣情に襲われ、人がいないのを幸いに淫らな気持ちをそっと慰めました。目が潤み顔を赤く上気させ息を弾ませてたその時、突然男が入ってきました。急なことで驚いたのですが、とっさに足を拭う仕草をして誤魔化しました。
こんな処で恥ずかしい
「気づかれたかしら?」とドキドキしながら、それとなく男の様子を見ると25、6歳のきれいな顔立ちの男でした。
それが「後家殺しの業平」とあだ名される日本橋の呉服商紀伊国屋の伜「角太郎」でした。
当時の温泉は混浴でしたから男が湯殿に男がは入ってきてもしかたがなかったのですが、慣れているとは言え男の視線は恥ずかしいと感じるものです。でも深夜遅く、人目もない場所、男恋しさに悶々とした女、後家殺の男、薄暗い湯場・・・と条件が重なれば何も起きないはずもなく、すぐにただならぬ関係になってしまいました。お絹はあっという間に洗い場に身を横たえて、激しい角太郎の動きに身を任せていました。こうして箱根逗留の間、何度も愛し合いました。江戸に戻ってからも二人の関係は続き、角太郎が足繁くお絹の元に通う生活がはじまりました。
しかしやがて「真月院」が毎晩乱行していると言う噂が、大久保家の知るところとなり、お絹は追放されてしまいます。もちろん角太郎とは別れ離れになってしまいます。
それからしばらくは、定かではありませんが、26歳の頃にお絹は浅草で芸者の生活を送っていました。
お座敷に出てまもなく、高利貸しをしている小林金平という老人に目をかけられ、身請けされます。浅草の歌舞伎三座付近の猿若町に妾宅を設け住むことになりました。小林はケチな男でしたが、お絹にだけは求めるものなら何でも与えてました。昔の妾は一軒屋を借りてもらい、通いの女中をつけてもらのが普通で、生活費の他になにがしかの小遣いをもらうなど何一つ不自由のない生活を送れることが出来たのです。そんな折に、旦那の小林に金を借りに来る「伊之助」という遊び人と親しくなります。カレは役者の知り合いが多いことから退屈まぎれに役者を紹介してもらいました。紹介といっても、ただ会うだけでなく、金でHをする「役者買い」のことです。「可愛い子はH好き」の例えの通り、お絹も多情な女でしたから、金にあかして次から次へと役者を買いあさっていきました。
事件後の新聞報道によれば市川団蔵、尾上菊五郎、市川女寅、助高屋高助、坂東家橘など、当時名優と呼ばれた役者のほとんどと関係をもっていたそうです。お絹の役者狂いが頂点に達したころ、伊之助が連れてきたのが美少年の役者「嵐璃鶴(りかく)」でした。上方歌舞伎出身の役者でした。見たこともないくらいの優しい顔立ち、年下の愛くるしい笑顔にお絹はぞっこん惚れてしまいます。いつしか、璃鶴なしではいられなくなったお絹は、三日にあけず、向島の待合所で逢瀬を楽しんでいました。
夫婦になりたい一心で
いつものように、激しい情事の後で布団の中で横になっていると、璃鶴が煙草を吸いながら突然つぶやくようにして「お絹はん、わてのこと忘れたら承知しまへんぇ。うちとお絹はんは旦はんがいなければ夫婦ですよって」と耳元でささやきまました。夢心地の境地に漂っているお絹には、璃鶴の甘い声にうっとりとして、璃鶴の歯の浮くようなおべんちゃらに生娘のように赤くなってうなずいてました。もう一度と腕を絡めると、璃鶴はお絹の胸に顔を埋めてきて、再び歓楽の世界に落ちていくのでした。お絹は「旦那さえいなければ」という言葉が心に残り、頭の中でぐるぐると幾度も繰り返してしまうのです。
やがて二人っきりの生活を夢見ている自分がいました。こうして、しだいしだいに旦那の小林が疎ましくなっていくお絹でした。
ある日、伊之助にこのことを相談すると「旦那にいなくなってもらうのには石見銀山(殺鼠剤)を葛湯の中に混ぜるのが一番ですぜ」と教えられます。そしてお絹はこの恐ろしい計画を実行します。言われたように葛湯の中に殺虫剤を混ぜて小林を殺害したのです。小林は口から泡を吹いて、あっというまに死んでしまいました。
その後も、そ知らぬ顔で璃鶴との密会を楽しんでいたお絹でしたが、伊之助が口を滑らしたことで噂が立ちついには二人とも逮捕されてしまいます。昔は、不義密通はご法度で妾でも厳しく貞操を要求されていたのです。
1871年(明治4年)5月に小伝馬町に繋がれた時、お絹は璃鶴の子を宿していて子供を生むまでの5ケ月間は刑の執行は延期されました。10月1日璃鶴の子を産んで、1872年(明治5年)2月20日小塚原刑場(南千住)で打首の刑で処刑されます。断頭後三日間は処刑場で「梟首」(きょうしゅ=さらし首)に処せられました。
「夜嵐の覚めて跡なし夢の花」(美しい花のような生涯でしたが、今は嵐のあとのように消えてしまいました)と辞世の句を残し短い生涯を閉じます。
また浮気相手の嵐璃鶴も不義密通の罪で3年の徒刑を云い渡されました。明治7年9月に釈放され、市川権十郎と改名改して歌舞伎役者を続けたといいます。
処刑後10年も経たぬうちに『其名も高橋毒婦の小伝』を書いた岡本起泉が『夜嵐阿衣花廼仇夢』を発表して毒婦夜嵐お絹の事件が広まり講談、芝居となりました。 
 
下田歌子

 

寂しい才女の夜
下田歌子(1854〜1936)まで活躍した岐阜県出身の歌人です。18才(1872年)の時に上京して、女官として宮中に仕出しました。小さい頃から和歌のお勉強をしていて、その才能を皇后に認められ宮中で和歌を教えるようになりました。25才(1879年)の時に宮中を寿退社で辞めて、剣客『下田猛雄』と結婚しました。しかし、結婚で知った女の喜びに目覚めると、狂ったように毎晩、夫に求めたそうです。
夫はこの激しい営みが原因で身体が衰弱して、ついには死んでしまいます。歌子は女官時代に閨房の技術を学んだと言われ、床上手だったそうですが、それが仇となってしまったのでした。
未亡人になっても、男には不自由しなかったみたいです。歌子は当時としては美人だったので男好きの顔立ち、若さから、沢山の男の子から誘われていたようです。それに、それだけの床上手の子が一人の夜は寂しかったのではと思います。
当時、明治政府は、女性の教育に力を入れていて歌子も29才(1883)の時に、私塾を開いて士族の娘たちに礼儀作法や古典の講義を教えていたそうです。政府の推薦で『華族女学校』の教授を命じられたのは、それからしばらくしてのことです。
またこの年、女子教育の視察のために、2年間欧米に留学もしました。帰国後『帝国婦人協会』を組織し、その初代会長にも就任しました。
こうした華々しい活躍は、伊藤博文との不倫な関係があったからと言われています。伊藤は明治天皇にもほどほどにと注意されたくらいの艶福家で、毎晩のように芸者遊びをしていたそうです。お妾さんもたくさんいました。
地方に出張すれば、地元の実力者の娘や権力者と関係ある芸者とよく遊んだそうですから、歌子もその一人だったと考えられます。
30年前くらいに発刊された『花の嵐』(志茂田景樹著書)によれば、歌子は従来の日本の女の子と違う考えを持っていた人で『社会を変えるのは女性である。そのためには女性が変わらなくてはならない』を信念に、積極的に行動した人だったようです。
今で言う割り切った男女関係も平気な人でした。野心家の歌子が伊藤総理に色々お願いしたのではないでしょうか。学校の設立も、留学も、協会設立も伊藤総理の力なくしては実現しなかったのではと考えます。それに、伊藤博文は気前がよい人で『よろしい御前』ともあだ名されるくらい、寝物語の女たちの願いごとを叶えてあげる人だったそうです。
吉三郎との恋
飯野吉三郎(1867年〜1944年)は岐阜県・岩村藩士族出身の宗教家です。政治界の妖雲と言われ、別名『穏田の行者』と呼ばれていました。若くして、呪術を学び新宗教を興し、よく天下を予言し的中したと言われ、特に1904年に陸軍の児玉源太郎大将の依頼で、日本海海戦での勝利を時間場所まで正確に当てたことから、多数の貴顕の信任を得るようになったそうです。またそれで得た金を満州に投資し、莫大な財産を得ることができそれを元手に東京・穏田に1,000坪の土地を購入して新興宗教団体「大日本精神団」を設立しました。口が旨くて、誰もが信じてしまうような説得力があったといわれます。また、稀代の巨根の持ち主と言われ、美人の信者はもちろん、女と見れば手を出した好色家でもあったそうです。
自宅にも複数の愛妻と住んで、その子供達とハーレム生活をおくっていたそうです。その吉三郎が下田歌子と会ったのは、カレが20才の時に、上京して同郷の有名人であった下田歌子を頼ったのが始まりと言われます。
カレが歌子の塾に出入りする内に信頼され、悩み相談みたくして可愛い子に近づいて、犯してしまうようになりました。もちろん、大きなアレを武器に歌子の生徒ばかりでなく、歌子自身にも手を出し愛人関係となってました。
カレは可愛い弟子を手当たりしだいに犯しすのですが、歌子も若い子が好きな吉三郎の趣向を知っていたので、弟子と出来ているのを知りながらも、愛人関係を続けるために目をつぶっていたのだとおもいます。あかさかな熟女の知恵なのでしょうか。
やがて二人の関係は、当時のゴシップ紙萬朝報新聞に『妖婦下田歌子』と題した特集に書かれることになります。当時はプライバシーなどなかった時代ですから夜の営みをここでは紹介できないくらい詳しく赤裸々に書かれてしまったそうです。女にだらしがない男でしたが、並外れた性愛と体力が歌子を夢中にさせたのだと思います。当時は、お妾さんを沢山もつのは男の甲斐性(かいしょう)でしたから、むしろ尊敬された時代でした。お金もあって、新興とは言え、宗教団体の設立者でしたから、歌子にとって飯野吉三郎をなにかと頼りにした男性の一人だったのです。
カレに頼まれると、政界や皇室でも、豊富な人脈を生かして紹介してました。このことが、後に日本のラスプーチンと呼ばれる詐欺事件を起こし、歌子自身それに荷担してと疑われることになります。人物を見る目は一流でも、やはりオトコとなると別モノなのかもしれません。 
 
悪女阿仏尼

 

瀬野精一郎
正和二年(1313)七月廿日播磨国細河荘所領裁許状は、『十六夜日記』の著者として有名な阿仏尼の細河荘に関する相論の内容を知り得る裁許状として知られ、これまでも多くの研究論著がある。
・・・(中略)・・・
さて阿仏尼と細河荘をめぐる相論については、日本古典全書『十六夜日記他』の石田吉貞氏の解説、玉井幸助著『日記文学の研究』、福田秀一著前掲書ほか多くの研究があるが、特に福田氏の著書で詳細に論及されている。
それによれば阿仏尼は生年、実父母は不明であるが、幼くして平度繁の養女となり、十四〜五歳で安嘉門院に仕えた後、建長五年(1253)、当時歌壇の巨匠として名声を馳せていた藤原定家の子為家に接近し、間もなくその側室となり、為家との間に為相、為守、女子の三人の子を生んでいる。
為家には正妻である東国御家人宇都宮頼綱の女との間に為氏、源承、為教ほか数人の子供があり、為相が生まれた弘長三年(1263)には為家六十六歳、嫡子為氏四十二歳、阿仏尼も為氏とほぼ同年齢と推定されている。
阿仏尼はそれまで愛の遍歴を重ねた情深き女であったらしい。阿仏尼は高齢で生んだ子供達の将来を案じ、為家に迫って種々身勝手な要求をし、年老いた為家は阿仏尼のいいなりになっていた。そこで正妻との間に生まれた為氏以下の子供達にとって、阿仏尼は父為家を誑かす悪女と映じていたことは疑いない。
阿仏尼も為氏らの悪口を為家に吹き込んでいたらしく、阿仏尼の吹聴を真に受けた為家は、文永十年(1273)、嫡子為氏に不孝行為があったとして義絶してしまった。そしてすでに正元元年(1259)為氏に譲っていた播磨国細河荘を悔返し、為相に譲り与えている。この時為氏は五十二歳、為相は十一歳であった。
鎌倉時代、父母より義絶された子供は相続権を放棄せねばならず、すでに譲られていた所領所職は悔返しと称して、父母に没収されることになっていた。したがって為家の為氏に対する悔返権の行使は何等非難さるべきことではなく、為氏としては父為家の命に従わざるを得なかったのである。
しかし為家の背後に阿仏尼が存在していることは明らかであり、為氏らの阿仏尼に対する敵意はますます尖鋭化したものと思われる。しかし為氏としては、父為家の生存中は、阿仏尼の身勝手な行動に対し手の施しようはなかったと思われる。ところが為家は建治元年(1275)五月一日、七十八歳で没した。
為家の死は、阿仏尼、為相母子の細河荘知行にとって容易ならぬ事態の到来を意味した。果せるかな為氏は、細河荘の悔返と為相への譲与を不当とし、その知行権の行便に対して押妨行為に出たらしい。これに対し阿仏尼は、文永十年の為家の後判の譲状を証拠として、細河荘の領家職、地頭職の進止権を主張し、公家と六波羅探題に提訴している。
しかし、公家、六波羅探題共に阿仏尼に不利な判断を示したので、阿仏尼をして関東に下向し、直接鎌倉幕府に訴えることを決意させることになった。かくて為氏、阿仏尼は相ついで関東に下向して、鎌倉幕府の問注所で相論することになり、『十六夜日記』が書かれることになったことは周知のことである。
ところが、阿仏尼は相論に対する裁許を得ないまま、弘安六年(1283)没してしまった。その後、弘安九年(1286)六月四日、細河荘領家職は院宣によって為氏の相伝領掌が認められた。その直後に為氏も六十五歳で鎌倉で没している。
そこで細河荘地頭職に関する相論は、為氏の子の為世によって引き継がれ、以後為相と為世によって争われることになった。為世が曾祖父定家の二条邸を伝領したことから二条家を称したのに対し、為相は冷泉家を称することになり、以後歌学家として相対立することになった。
このようにして細河荘をめぐる冷泉家と二条家の相論は益々激化の一途をたどり、正応二年(1289)十一月七日、鎌倉幕府は細河荘地頭職を為相に与える裁許を下したが、直ちに為世が異議を申し立てたので、二年後の正応四年(1291)八月十四日には、逆転細河荘地頭職を為世に与える裁許を下した。その根拠は、「先判状」とある正元元年十月十四日の為家が為氏に与えた譲状であった。
しかし冷泉家側が「以正元髪髴先状、被破文永※懃後状之条、違傍例」と反論している如く、鎌倉時代の裁許においては、後判の譲状が先判の譲状に優先するという原則があり、それに違背する裁許であった。かくてこの裁許に不服の冷泉家は再び幕府に訴え、それに対する幕府の裁許がこの正和二年七月廿日の関東裁許状である。
判決の主文は「於当荘地頭職者、任文永両通譲状並正応二年下知状、所被付前右衛門督家(冷泉為相)也」にあり、後判の譲状を優先するという原則に則り、為相に安堵され、阿仏尼の悲願はようやく実現されることになった。
歌学の道のみでなく、草創期において、冷泉・二条両家は細河荘の進止権をめぐって、激しく相争った歴史を有していたのである。 
 
詐欺師の生き様

 

「悪女について」より思う1   (「悪女について」 有吉佐和子著)
嘘は大きければ大きいほど良い
他人をうまく利用できる人は、現代社会の様々な競争に勝利できるから、財産を成し立身出世できるものなのでしょう。利用するだけでなく、大嘘をついて他人から金品や物資を巻き上げるような人のことを、一般に詐欺師といいます。
「嘘は大きければ大きいほど良い」とは、アドルフ・ヒトラーの言葉ですね。「わが闘争」のどこかにあったかと思います。
詐欺師とはどんな人なのだろうか?人は、詐欺師に出会ったときどう判断しどう行動するのだろうか?有吉佐和子「悪女について」(新潮文庫)の読者に対する問いかけはこれらではないでしょうか。
この小説には、有吉佐和子の人物観察眼がよく出ているように思います。
「悪女」とは昭和11年10月8日生まれで、41、42歳で急死した実業家富小路公子という架空の人物です。
小説は、富小路公子をめぐる27人の述懐集です。
貧しい八百屋の娘鈴木君子は、出会う人を次から次へと騙して財をなします。他人を騙すためには、知識と能力が必要です。鈴木君子は宝石についての優れた鑑定眼や簿記の知識を夜学や独学で習得しており、優秀な実業家になりました。
鈴木君子は富小路公子と改名するのですが、富小路とはあたかも旧華族のような名前です。
富小路公子は、生きていく中でヒトラーの言葉に表されているような処世術を体得したのでしょう。子供の頃から、空想の世界を好み、虚言を吐くようなところがあったのでしょう。自分が「貰いっ子」であるというのは、虚言ではないでしょうか。
「その二十一 鈴木タネの話」は富小路公子の母親の話ですが、この中には「貰いっ子」などという話はありません。鈴木タネは窃盗癖のある人間ですが、娘の公子に関する限り本当のことを言っているように私には思えます。
次から次へと男を騙し続ける女
富小路公子は、次から次へと男を騙し続けました。
富小路公子は16歳の頃に長男、翌年に次男を産みますが、父親が誰だかはっきりしないのです。27人の述懐者のうち、公子から「あなたの子供です」と言われた人は3人です。
16歳くらいの頃の同棲相手の渡瀬義雄、16歳くらいの頃勤めていた中華料理店の経営者だった沢山栄次そして子供の頃、母親と一緒に引き取られた家の長男、尾藤輝彦です。
3人とも子供が生まれた頃、富小路公子と深い関係を持っていました。沢山と尾藤は、富小路と生涯、深い関係にありました。この二人は、富小路が生んだ二人の男の子を自分の子と確信しています。
渡瀬義雄は、自分の子ではないと考えています。
富小路は二度の結婚をしています。最初の夫は渡瀬義雄です。富小路公子は渡瀬に無断で昭和28年に入籍届けを出し、二人の子供も渡瀬の籍に入れていました。手切れ金として、昭和34年に5千万円を渡瀬家から受け取りました。
鈴木タネは長男は尾藤の子ではないかと睨んでいます。次男は違う男の子とみています。ひょっとしたら、富小路自身も子供の父親が誰だかわからないのではないでしょうか。
25歳のときに二度目の結婚をします。二番目の夫富本寛一との結婚生活は二年だけです。この結婚は財産目当てだったのではないでしょうか。離婚の慰謝料として、田園調布の500坪の屋敷を取ってしまいました。
それでも富本寛一は、富小路が悪女であることに気づいていません。学生時代ラグビー部だった富本は、人が嘘をつくということを知らないのでしょう。
さらに富小路は晩年、14歳年下の社員とも深い関係でした(その二十三 小島誠の話)。小島は富小路に自分以外の男がいたとは思っていません。晩年の富小路は、3人の男を弄んでいたことになります。
富小路はとんでもない詐欺師なのですが、周囲にいた人でさえ、それがわからない人はいくらでもいました。二番目の夫だけではありません。子供の頃から知っていた宝石職人は「清く正しく生きたことは間違いない」と言っています。
職人肌の真面目な人間や、嘘をついたことがないような人間は、身近な人間が詐欺師であることを見抜けないものでしょう。
詐欺師として生き抜くなら−太く、短く−
詐欺行為をする際には、自分の話には嘘などこれっぽっちもないという顔をしないといけないのでしょう。真剣な顔をして大法螺を吹けば、信じてしまう人はいくらでもいるものなのでしょう。
詐欺師でも嘘に嘘を重ねていくと、次第に自分の話のうち、どこまでが真実でどこまでが虚偽なのか区別がつかなくなってしまうのかもしれません。富小路は子供の頃一緒に算盤塾に通った友人、丸井牧子に「算盤ならったことないわよ」と言いました。
富小路の場合、男性や顧客を虚言で弄びつつ生きてきた結果、真実と虚言の区別がつかなくなってしまったのではないでしょうか。
富小路の次男義輝は、自分が小さいとき、母が「雲が虹のように輝いているわ。ね。輝、傍に行ってみましょうよ」と語っていたと述べています。二階から飛び降りたら怪我をしてしまうことに母は気づかなかったそうです。
義輝は母が、虹色に輝く雲を見たから、前後の考えもなくその雲に乗ろうとしてビルの更衣室から飛び降りたのではないかと考えています。
詐欺師として生き抜くなら、「太く、短く」を覚悟して生きねばならないのでしょうね。長期的な人生計画をたてて目標を少しずつ実現しつつ生きていくような人は、優秀な詐欺師にはなれませんね。
「悪女について」より思う2
私が木嶋佳苗という女性が引き起こしたとされる事件のことを知ったのは、ノンフィクション作家の佐野眞一をはじめとする著名人が、彼女自身のことに興味をいだき、そのことについて執筆されたものを読んだことがきっかけである。インターネットの婚活サイトを利用して何人もの男に近づき、金を貢がせる婚活詐欺を繰り返したとされる木嶋佳苗は、そのなかの三人の男性の不審死について殺人罪に問われ、2012年4月にはさいたま地裁で死刑判決を受けているが、とかくその容姿と結婚詐欺というギャップばかりが取り沙汰されるなか、執筆者たちが一様に彼女自身の動機や内面のほうに迫ろうとしている点にふと興味をおぼえた。
一連の事件がすべて事実だったとして、その動機を「金のため」だとひとくくりにするのは簡単であるし、じっさいに裁判の傍聴記録をまとめたものを読むと、じつにさまざまな嘘によって塗り固められていた経歴も見えてくる。しかし、たんなる詐欺師が、嘘がばれそうになったからという理由だけで相手を殺すというのはあまりにも極端にすぎる。木嶋佳苗の事件がどのような結末を迎えるのかはまだわからないし、私にその真実が見抜けるわけもないのだが、ひとつわかることがあるとすれば、仮にすべての事実が明らかになったとしても、彼女の心の内までは見えてこない――虚飾をすべて剥ぎとった後に残されるはずの、真実の彼女の姿がいっこうに見えてこないという一種の「不気味さ」である。
今回紹介する本書『悪女について』を読み終えた私が、上述の事件のことをまず思い出したのは、この作品に登場する富小路公子という女性について、似たような「不気味さ」を感じとったからに他ならない。その人生において彼女とかかわることになった二十七人の登場人物へのインタビューという形式で進んでいく本書であるが、読み進めていけばいくほど隠された事実がおぼろげに見えてくるいっぽうで、富小路公子という女性については、その内面や心情がはっきりしてくるどころか、ますますつかみどころのないものとして読者の目をくらませてしまうのだ。
「数学と法律と、よく似てるのよ。どちらも、人間の思うようになるわ。8という字を数限りなく書き並べて大きな桁数に仕上げても、それに0を掛けると0になってしまうの。面白いでしょう? 法律も同じみたいよ。いろいろな事実をどんなに積み重ねても、一人の人間の意志で0にしてしまうことも出来るし、本当に面白いわ」
この作品の骨子となっているのは、言うまでもなく富小路公子という女性の存在である。しかしながら、その当の本人の談話はここでは出てこない。凄腕の女実業家としてマスコミにおおいに持てはやされ、敗戦によって没落していった華族や資産家を尻目に、湯水のように金をふりまいて多くの人々の賞賛を受けるいっぽう、たんなる嫉妬か真実か、そうとうにあこぎな商売をして多くの関係者を不幸にしてきたとも噂されていた彼女は、ある日イブニング・ドレスを身にまとってビルから転落死してしまっているからだ。そして週刊誌などのメディアでは、その数々のスキャンダルを暴露するという形で、彼女を稀代の悪女として取り上げている背景がある。
つまり、本書のインタビュー形式には、登場人物として出てくることはないものの、そのインタビュアーである人物が、メディアの印象操作からは見えてこない富小路公子の真実の姿に迫っていこうとする意思が感じられる。あるいはそこには、彼女の死の真相をあきらかにできるかもしれない、という思惑もあり、自殺か他殺かもはっきりしないという謎に対するミステリーとしての要素も、本書の読みどころであることは間違いない。だが繰り返しになるが、そんな多くの謎に包まれた富小路公子という人物を、その関係者たちのインタビューによって重層的に浮き彫りにしようとする試みは、ついに果たされることはないと言うことができる。もっとも、それは著者の技量不足から来るものではなく、ひとえに富小路公子という人物の、それこそがひとつの強烈な個性として息づいているからに他ならないからであり、あくまでその輪郭をなぞるにとどめておくという著者の強い意図がたしかにある。
たしかに、二十七人のインタビューを比較検討することによって、富小路公子という人物像が多くの虚飾によって成り立っていることが見えてはくる。たとえば、彼女の本名は鈴木君子であり、八百屋を営む母親タネの娘であることが、タネ自身へのインタビューで語られるわけだが、それ以外の関係者のインタビューのなかで、彼女が自分は孤児であり、母親はあくまで育ての親であって、本当は没落した華族の出身なのだと語っていたことが明らかになる。また彼女は少なくとも四人の男性と関係をもち、彼ら全員に自らが妊娠した子どもを相手の子だと語って、最終的には多額の手切れ金や援助を引き出すことにまんまと成功しているという事実も見えてくる。
不動産バブルを見越して土地を転がし、利益を得るという先見の明をもっていたり、レストランや宝石店を経営して確実に利益を上げたり、会員制の女性用高級エステといった新事業を立ち上げたりといった手腕の持ち主であるいっぽう、資産家のもつ高価な宝石をひそかにイミテーションにすり替えたり、高価な宝石を割引すると見せかけて偽物をつかませたりといった詐欺行為を繰り返していた富小路公子に対して、殺意に近い憎悪をたぎらせる者もいることはいるのだが、不思議なことにインタビューを受けた相手の大半が、彼女に対して好意的な印象を崩してはいない。むしろ、週刊誌の暴露記事に対して「彼女がそんなことをするはずがない」「彼女は悪女などではない」と憤慨してみせるのだ。そしてさらに驚くべきことに、彼女の女としての美貌にまんまと騙されたあげく、離婚したり慰謝料を払うことになった男たちでさえ、いまだに富小路公子との関係を自慢していたり、未練を募らせていたり、自分の人間としての器が小さいせいだと嘆いたりすることはあっても、彼女を悪女として責めるようなことをしないという事実である。
まるで、富小路公子という人格が何人も存在するかのようにさえ見えてしまうほど、彼女に対する関係者の捉え方はじつに多種多様であり、それだけ彼女が振りかざした虚飾の巧みさが際立つ本書であるが、逆に言うなら、彼女はそれだけ相手に対して、虚飾としての自分自身を信じ込ませるために多くの労力を費やしてきたということでもある。それこそ、自分が八百屋の娘ではなく、華族の血族に位置するものだという、まるで物語のようなストーリーこそが真実であると、自分自身が深く信じ込んでいたふしさえある。だからこそ、その事実を突きつけられてなお、平然として揺るがない彼女の姿が見えてくる。だが、年月の経過とともにそれがどれだけの負担を彼女に強いることになったのかは、病院関係者のインタビューなどからもおのずと見えてくる。
はたして富小路公子とは何者だったのか、そしてその死の真相は何なのかという点について、はっきりしたものは見えてこないのだが、それでもひとつの傾向は見て取ることができる。それは、彼女が宝石などの美しいものをとりわけ好んでいたという点だ。インタビューのひとつに、とある宝石職人のものが書かれているのだが、そのなかで彼は、彼女のことを「まるで宝石をはめるために生れたよう」だと評している。これと似たような内容は、服飾デザイナーである林梨江のインタビューにも出てくるのだが、これは少なくとも彼女の容姿が、男女関係なくこのうえなく美しいものとして映っていたという事実を意味する。そしてその傾向は、彼女自身がよく口にしていた「清く美しく生きる」ことや、金儲けの秘訣としてひたすら「愛」という言葉を繰り返していたという流れにもつながっていく。
少なからぬ嘘と虚飾にまみれた彼女の人生とは、まるで正反対のように見える「清さ」や「美しさ」への執着について、あるいはこんな考えがあったのではないか、とふと考える。彼女はその容貌としての美しさゆえに、「鈴木君子」という本来の自分ではなく、きらびやかで光り輝く存在としての「富小路公子」のほうこそが本当の自分であると信じようとしたのではないか、と。そしてその美しさを真実のものとして維持するためにこそ、本物の宝石で着飾ることに執着していたのではないかと。彼女にとって事実というのは、意志の力でいくらでもゼロにすることができる程度のものでしかなかった。だからこそ、どれだけ多くの嘘を重ねても、そこに罪悪感など生まれるはずもないのだ。だが、そんなふうに光り輝く部分だけで自分を着飾っていく人生というのは、誰にもその裏側を見せるつもりがないという意味で、このうえなく孤独なものでもある。
「おじさん、人間も宝石も同じだと思うのよ。生命が輝くには、清く正しいことをしてなくちゃ」
物事の真実というものは、暴いてしまえば大抵はつまらないことだったり、取るに足らないものだったりする。世のなかがけっして綺麗事だけで成り立っているわけではなく、むしろ目を背けたくなるような醜悪さやおぞましさといったもので溢れているとするなら、そんな真実をあえて見据えるよりも、美しくてきらびやかな虚飾こそが真実であると錯覚するほうが、むしろ生きていくうえで幸せなことではないか、という考えが生まれてきたとしてもさほど不思議なことではない。はたしてあなたは、この富小路公子という女性の生き様にどのような思いを抱くことになるのだろうか。  
 
昭和悪女伝

 

「昭和悪女伝」1
終戦のときRAAと言う組織が政府主導で出来ました。これはやがてやってくる占領軍兵士(つまり米兵)に対して、売春婦を斡旋しようとする組織でした。RAAは「女子事務員、ダンサー募集」と言う名目で若い女性たちを集めます。当然これは嘘で実際には売春婦にするための女性を集めたのです。
ところが当の米軍は風紀上よろしくないと、米兵のRAAへの出入りを禁止してしまいます。するとRAAは解散し集められた女性たちを放り出してしまいます。町へ出た女性たちは街娼いわゆる「パンパン」となって行きます。彼女らにはもうほかに生きる路がなかったのです。
お話はこのRAAにだまされて街へ放り出された女性たちが、やがて銀座で飲食店を始め。それが高級クラブの元になっていく様子を描いています。オムニバス形式で、何人かの女性たちを描いていますが、それは相互に関連しています。
中心になっていくのは津島映子と言う女性になります。この映子が中心になり、それぞれの女性を援助したり励ましたりしながらたくましく生きていきます。
「悪女伝」とはなっていますが、悪女は出てこないかもしれませんね。以前話のありました、『八十八夜物語』のロミ姉さんが集団で出てくるみたいな感じでしょうか。
このRAAと言う組織は、インターネットで検索するとたくさんでてきますが、私はこの本を読むまで知りませんでした。戦後史のタブー見たいなところのようですね。
「昭和悪女伝」2
この小説のキーになるのがRAAという施設。略称だとなんのことだか分からないが漢字で書くと「特殊慰安施設協会」のことだ。そんなものがあったなんて知らなかった。パンパンという言葉とその意味するものは何となく知っていたけど、これを読んでみて、そうだったのか・・・と。
日本の政府もとんでもなかったんだなぁ。ダンサーおよび事務員募集という広告で若い女性を集め、進駐軍兵士の性処理に使うなんて。その広告のどこにも、進駐軍相手の慰安婦とは書かれてなかったわけで・・・。今なら国際的に大問題になるよね。
日本の婦女子を守るための防波堤とか言ってるけど、案外、アメリカさんによく思われようとしたんじゃないの??ご機嫌取りみたいな。
ときに、この本には悪女は一人も出てこない。みな、政府に騙された女性たちがパンパンになり、その後、銀座で生きていくためにママとして必死で働いた女性たちばかりである。ひとりひとりにドラマがあり、この小説は仮名ながらもそれを追っている。もちろん、ところどころフィクションはあるのだろうけれど。
そうそう、RAA解散と共に、新円切り替えが行なわれそれまでの紙幣が通用しなくなったわけだが、RAAで慰安婦だった女性たちがRAA解散で町に放り出された時、政府からもらったお金も通用しなくなってしまい、そういった事情もあってパンパンになるしかなかったようだ。二重苦だったのね。同じ女性として、なぜか謝りたくなってくる。戦後の混乱を知るには、読んでおくべき小説かもしれない。
[ RAAについて、以下に本文から抜粋 ]
「日本が無条件降伏をして連合軍の進駐を受け入れることに決まったとき、時の政府は進駐してくる連合軍兵士が、首都の婦女子を陵辱するのではないかと怖れ、日本女性の純潔を守るために、五代伊兵衛のような女郎屋の親父たちを東京へ呼び集め、特殊慰安施設協会なる組織を作り、やがて来る進駐軍兵士に対する肉体防波堤を築かせようとしたのである。
戦争終結は昭和二十年八月十五日。特殊慰安施設協会発足の式典が皇居前広場で挙行されたのは、八月二十八日の正午頃。空はよく晴れていたという。協会の発足を準備したのは内務官僚で、資金は大蔵省から出されたそうだ。それにかかわった当時の主計局長は、のちに総理大臣となる池田勇人である。
その式典に反対して皇居前広場で大暴れして解散寸前まで持って行ったのが五代伊兵衛たちだった。五代伊兵衛は桜田門から駆けつけた警官たちに取り押さえられ、翌年三月までブタ箱に放り込まれたが、その間に協会は銀座七丁目に本部を置いて、いかにもそれらしくRAAなる略称を用いて慰安施設の要員を募集した。
ダンサーおよび事務員募集。被服、食料、宿舎つきという募集広告に釣られて、銀座七丁目の本部前には、若い女性が蜿々(えんえん)長蛇の列を作ったという。終戦のすぐあとである。どこもかしこも焼野が原で、食うものも着るものもろくにない。汚れきった姿で履物さえない裸足の娘が、その列に加わっていたのを目撃した者もいるそうだ。
東京都もそのRAAに協力して、メリンスから洗面道具や桜紙まで特配した。もちろんメリンスは長襦袢や腰巻にするためだ。
進駐軍がやってくると、その女性たちが外国兵の相手をさせられた。そのため第一日から自殺者が続出したという。彼女たちは騙されたのだ。しかも連合軍側もそれを喜んではいなかった。占領した日本に対して、性的慰安施設を作れなどとは要求しなかったのだ。そのため苦々しく思ったGHQは、翌昭和二十一年三月に、その種の施設へ兵士が出入りすることを禁止してしまった。
当然協会は解散し、騙されて施設へ入った女性たちは、町へ放り出されてしまう。身に付いたのは外国兵とのセッ○ス体験だけで、頼りにするのは馴染みになりかけた外国兵だけである。
新橋や銀座、有楽町界隈に出現した、当時としては珍しいカタコト英語を喋る女性たちは、RAAに騙されて人身御供になった者たちだったのだ。もちろんそれを見倣った街娼も輩出したが、パンパンと呼ばれた女たちの根はRAAにあったのだ。
彼女たちの特色と言えるのは、RAA以前に娼婦体験をしていないことだった。それ以前に、すでに遊郭などにいた女性たちは、RAAの募集広告に騙されはしなかったのだ。彼女たちの抱え主が真実をよく知っていたのだから。
五代伊兵衛が皇居前で協会の発足を阻止しようと暴れた理由はよくわかる。国家的な規模で素人娘を騙そうとしたからだ。その時仲間の女郎屋の親父たちも、伊兵衛たちに逆らおうとはしなかったという。なんとか発足を阻止させまいと警官隊を呼び寄せたのは、官僚たちである。」 
 
「毒婦」の誕生

 

凶器や毒薬、あるいは替え玉、偽造文書といった数々の小道具によって構成される、人を震撼させるような犯罪行為おのれの欲望と快楽を満足させるためには、いかなる手段もいとわない、知略と行動力にたけ、妖艶な姿態、性的魅力に恵まれた女。<毒婦>ということばから人がイメージするのは、およそこういったところだろうか。
実際には、私たちの多くが彼女と交渉をもったことがあるわけではない。それにもかかわらず、そのイメージが妙に具体的で鮮明なのは、私たちが自らの好奇心や恐怖心によって生み出したおびただしい<毒婦の物語>に取り囲まれているからだ。数々の男を惑わし破滅させるのはいかなる女なのか。彼女の物語が、その悪行だけでなく、魅力さえも語ってしまうのは、怖いものみたさに通じるアンビヴァレントな欲望というものだろう。
富や力あるいは異性などなど、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じである。異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、<毒婦の物語>とは、<処罰の物語>なのであった。
文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことであるが、これはたんに文学という浮世の外の閉じられた世界における出来事ではない。小新聞と呼ばれる大衆紙には、創刊まもない時期から三面記事的事件を潤色し数日にわたって報道する記事が登場していた。明治一〇年代になるとそれは「つづき物」と呼ばれる長期の連載記事となり、ほとんど同時に草双紙として出版され、さらには演劇や歌謡などの世界へも広がっていった。「毒婦物」とは、これらのうち女性によって現実に引き起こされた事件を核にして、虚実の境界線上を行き来しながら、「実」を燃料に「虚」へと向かって推進する物語をいう。
もちろん、近代以前に<毒婦>の物語が存在しなかったわけでも、また現実の事件に取材した物語が語られなかったわけでもない。土手のお六や妲妃のお百、鬼神のお松といった女をヒロインとする歌舞伎の「悪婆物」は「毒婦物」の前身というべきものである。それはまた、心中、仇討ちなど数々の事件がかわら版から始まって、講談や浄瑠璃あるいは写本によって人々の間に広まってもいる時代であった。しかし、「近代」におけるジャーナリズムは、印刷技術や識字の向上とあいまって、圧倒的な量や速度で事件の流通を拡大させた。そしてその成熟が、物語に対して<事実>と<虚構>との間のいっそう複雑な緊張関係を強いることになったのである。
金貸し小林金平の妾原田絹が、俳優の嵐璃鶴と密通のうえ旦那を毒殺し、小塚原で斬首されたのが明治五年。新聞報道や新聞錦絵で処刑が報じられたのち六年の時間を隔てて、この事件が<毒婦の物語>として展開する背景には、明治一一年一月に刊行された久保田彦作『鳥追阿松海上新話』の好調な売れ行きがある。初め『かなよみ』紙上に掲載された「鳥追ひお松の伝」が、二ヶ月という、つづき物としては異様な長期連載のあげくに中絶して草双紙へ移行したことは、すでにこの時期に新聞紙が事実報道へと体勢をシフトさせはじめていたことを示唆する。それは他面において、「事実性」の掣肘から物語を解き放ち、虚構として増殖する道筋をつけることでもあった。
原田絹が「夜嵐お絹」という連続殺人犯に仕立て上げられた翌明治一二年、古着屋後藤吉蔵殺しの罪で高橋お伝が斬首されている。処刑という事実は、逮捕直後から紙面を賑わした事件報道に区切りをつけるどころか、新聞紙から草双紙へと飛び出した物語における虚構の度合いをさらにエスカレートさせた。仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』では、たびたび「記者曰く」としてニュース・ソースを示しつつ、それが「架空無根」の「小説作り物語」ではないことが言明される。しかし、ただ一件の殺人を確認しうるお伝の犯罪は、ここでは、窃盗、詐欺、密売春から数件の殺人および殺人未遂事件にまで膨れ上がっている。こうしたお伝の凶悪化は、起泉の『東京奇聞』においても同様であった。
つづき物、草双紙、歌舞伎と、「毒婦お伝」を語る数々の物語は、極刑の執行という結末において共通するだけで、処罰とその事由たる吉蔵殺し以外に物語を「事実」に繋留するものは存在しない。最後にそこへ着地しさえすれば、それ以前にどのような虚空へ浮上するのも自在であるかのように物語は飛翔していった。
しかしながら、このような事実報道の虚構化は、裁判制度や出版条例などの法整備によって、歯止めがかけられることになる。お伝の死から八年後、待合茶屋酔月の女将花井梅が雇い人八杉峯吉を出刃包丁で刺殺して無期徒刑の判決を受けるという出来事が起きた。この時もお伝と同じように、さまざまなメディアが事件を報道し、つづき物が連載され、黙阿弥が事件を脚色した。しかし、判決確定以前の事件報道や上演を禁ずる法令によってつづき物は中絶し、歌舞伎は初日のめどが立たないまま、演目の差し替えが噂された。それは、「純然たる小説を別欄に登載する」ことを宣言した『読売新聞』が新聞小説の連載に踏み切った翌年のことであった。新聞紙面に虚と実との境界線が引かれる時代が到来していたのである。
お梅の芝居がようやく上演可能になったちょうどその頃、『東京絵入新聞』には「裏見富士女西行」が連載されていた。しかし、この「毒婦お吉」に物語の起点となる事件報道はない。新聞附録の「口上」で、「作者」はこの物語を静養先の大磯で耳にした「奇談」として、お吉の臨終の場所にかの地の西行庵まで引き合いに出しているが、おそらく読者にとっては、物語が事実か虚構かはどうでもよいことだったに違いない。作者の四世中村福助(のち五世歌右衛門)は、このとき絶大な人気を誇る若手女形で、『歌舞伎新報』の雑録には、しばしばその動向が報じられていた。その人気たるや、大磯で療養中、海水浴に茜染めの肌着を用いたところ、逗留客がことごとくその真似をして、たちまち布地が売り切れたという逸話が残るほどであった(伊原敏郎『明治演劇史』)。
読者の興味が物語それじたいというよりは、作者のほうへと向けられていることは、新聞付録の錦絵、つづき物の挿絵、はたまた単行本の表紙を見れば一目瞭然だろう。新聞つづき物としての<毒婦の物語>が終焉を迎えたのちに現れたこの物語では、<ニュース>はもはや「毒婦」の事件ではなく彼の人気であり、読者が欲しているのは「毒婦」を語る物語ではなく、福助が語る物語なのであった。
それでは、いまや<毒婦の物語>は死滅したのだろうか。いやそうではあるまい。お伝とお梅の物語はなおも再生産され続けている。毒物殺傷事件の容疑者とされる女性が「平成の毒婦」と呼ばれる例を目にしたのはついさき頃のことではなかっただろうか。<毒婦の物語>が誕生してから百数十年、二十世紀も終ろうとしている今、私たちは<毒婦>の事件にどのような物語を欲望しているのだろうか。 
東京日々新聞 第三号
掛詞や縁語を駆使した文章は、のちに三世柳亭種彦を襲名し、一派を率いた戯作者転々堂主人こと高畠藍泉の筆になるもの。お絹と情人嵐璃鶴を前景に、後景屋外に石見銀山請け合い(ねずみ取り)の旗を持った男を配するこの構図は、後続するお絹の物語の挿絵にしばしば取りいれられた。
鶸雉ハ己が/羽色の美なるに/愛て遂に溺るる水/鏡。曇なき身も恋ゆへ/に狂ふ意の駒形町。舟板塀に竹格/子好風な住居の外妾ハ。原田/於絹と呼れたる弦妓あがりの淫婦手折れ易き/路傍の花に嵐の璃鶴とて。美少年なる俳優と/兼て姦通なしたりしが。女夫とならん情慾に迫て發る/悪念ハ頓て報ひて己が身の罪状を掲示紙幟に形も/似たる紺木綿。石見銀山請合と白く染たる鼠取地獄おとしの/謀計に東家を毒殺なしたりしが。天網いかでか/免るべき。男ハ懲役婦ハ梟首。野末のつゆとはかなくも消て朽せぬ臭名を彼山鳥のながながしく世伝るぞ/浅ましかりけり転々堂誌
東京日日新聞 第三号「捨札ノ写」
明治五年(一八七二)二月二十三日
小塚原の刑場でお絹が処刑された明治五年は、いまだ梟首刑の廃止以前であったために、彼女の首は三日にわたってさらされた。さらし首をかけた梟木の傍らには人名や罪状を記した木札(捨札)が立てられることが通例で、この記事はその内容を報じたもの。
夜嵐阿衣花廼仇夢
吉川俊雄閲、岡本起泉綴、孟斎芳虎画 初編
明治十一年六月〜第五編同年十一月、金松堂
『東京さきがけ』のつづき物「夜嵐於絹の話」を合巻化したもの。ここでのお絹は手品を使う女芸人から大名の側室を経て、のち金貸し金平の妾となるまでにいくつもの殺人を犯す典型的な「毒婦」として描かれている。吉川俊雄は『さきがけ』の主幹で、起泉の合巻の多くに閲者として名を連ねる人物。
東京各社撰抜新聞
明治十二年(一八七九)五月十日 三島蕉窓絵
冒頭の「外面如菩薩内心如夜刃」は〈毒婦〉を形容する常套句。末尾、お伝の獄中吟とされる「しばらくも望みなき世にあらんより渡しいそげや三途の河守」の一首は、魯文の『高橋阿伝夜刃譚』のほか『東京絵入新聞』のつづき物などにも見えるが、真偽は明らかではない。
外面如菩薩内心如夜刃毒婦とその名高橋/阿伝が出所は上州沼田の藩広瀬何某の女なりしが/故あつて母親の離別のをりに伴なはれ母の実家へ/到りし後高橋九右エ門が養女となり成長なすに/したがひて鄙珍らしき容色は雨をふくめる海棠/ならで枝に鍼もつ薔薇花誰しも心ありそ海恋の/湊へ打よする仇しあだなる波之助を夫となしても/僅の間天刑病に脳めるを愈さんものと故郷を立いで/夫婦手に手をとりがなく東京に少時は足を留めて/直ならぬ心の底は横浜かけて種々の悪事も大谷の/其丸竹へ合宿の以前は内山仙之助当時は後藤吉蔵を/殺害なせし事よりして遂にはかゝる天の網御所刑うけしは/本年の一月三十一日なりとぞ/拇印なして檻獄へ戻されしをりの吟/しばらくも望みなき世にあらんより/渡しいそげや三途の河守
かなよみ 明治九年(一八七六)九月十二日
事件の二週間後、各紙に一斉に現れたお伝捕縛を報じる記事のうち、かなりの紙幅を割いたもののひとつ。挿絵に描かれているのは『かなよみ』の売り子で、記事冒頭の「是は此頃東京市街に於まして大評判の大新聞所ろは……」は、当時小新聞の販売を担っていた彼らの売り声である。
東京絵入新聞「毒婦お伝のはなし」
明治十二年(一八七九)二月十八日
お伝の斬首の翌日から、多くの小新聞が出生からはじまる彼女の履歴と事件の詳細とをつづき物に潤色して掲げた。なかでも『東京絵入新聞』はほぼ毎回に挿絵を入れ、計十六回にわたる大部のつづき物を連載している。これは凶行直後、死体のそばに残した書置きを認めるお伝。
其名も高橋毒婦の小伝 東京奇聞
岡本勘造綴、吉川俊雄閲、桜斎房種画
初編明治十二年(一八七九)二月〜第七編同年四月
『東京さきがけ』改め『東京新聞』に連載されたつづき物は、『高橋阿伝夜刃譚』に2日先んじて合巻化され、初編以後も先を争うようにして刊行された。お伝の供述を否定するところから物語を開始した魯文と異なり、ここでのお伝は彼女の供述どおり、沼田藩家老のご落胤という出自をもち、事件も仇討ち殺人として物語られている。
高橋阿伝夜刃譚 初編
仮名垣魯文著、守川周重画
初編明治十二年(一八七九)二月〜第八編同年四月
『かなよみ』でも魯文が「毒婦おでんの話し」の連載を始めたが、これはわずか二回で中絶し、直ちに金松堂辻岡屋文助から合巻として発兌された。この唐突な企画変更の背景には、『東京奇聞』との出版競争があったといわれる。草双紙としてきわめて異例の活版刷初編はそのことを示唆する。
綴合於伝仮名書筋書
『歌舞伎新報』十四号・明治十二年(一八七九)五月十五日、十七号・五月三十日
「綴合於伝仮名書」は、新富座での上演に先だって『歌舞伎新報』にその筋書が連載された。この年創刊されたばかりの『歌舞伎新報』は、劇評や劇界雑報のほか、各座で上演される狂言筋書の連載が売り物であった。
高橋阿伝夜刃譚 仮名垣魯文補綴
明治十八年(一八八五)十一月、錦松堂 
明治十二年の金松堂『高橋阿伝夜刃譚』を元版にして活字に組みなおし、翻刻出版されたもの。回数・本文ともに合巻のままで、脱漏部の補填や訂正以外の改変は見られないが、挿絵は望斎秀月によって新たに描かれた。
たかはしおでんくどき
明治十三年(一八八〇)五月 吉田小吉
近代における事件報道の量的拡大は、口説節やちょぼくれ(浪花節の前身といわれる)、祭文などの大道芸や門付芸に数々の題材を与えた。本来、文字化された報道に先んじるはずのニュース媒体としての「声」が、逆に新聞雑報やつづき物の後追いをしたのである。
近世人物誌やまと新聞附録 第十一号
明治二十年(一八八七)八月二十日
公判開始以前の新聞附録で、まだ事実関係がはっきりしていないために、事件の原因についても二説の風聞を併記して、「種々入込たる事情もあらんか」と推測するにとどまる。峯吉殺しの現場を再現した絵画には、暗闇に二人の人物を浮びあがらせ、凶器の出刃包丁とともに傘や提灯を配するものが見られる。凶行は梅雨の夜の出来事であった。
今ハ酔月の女房お梅故は柳橋では小秀/新橋でハ秀吉とて三筋の糸に総を掛/け三弾の何でも宜と気随気まぐれで/鳴らした果五月の闇の暗き夜に以/前ハ内箱今ハ食客の峯吉を殺せし/事ハ普く人の知る所ながら彼を/殺せしといふ原因に二様あり一は/峯吉が平生よりお梅に懸想し言/寄ることも数度なりしが流石に面/恥かかするも気の毒とて風の柳に/受居りしを或る夜兇器をもつて/情欲を遂んと迫りしより止を得/ず之を切害せしといふにあり一ハ世に/も人にも包むべき一大事を峯吉に洩/せしに彼の同意をせざるより事の爰/に及びしともいふ二者何れが是なる/か公判の上ならでハ知るによしなし/唯お梅は是迄も情夫の自己につれ/なかりしを憤り之を害さんと威/したる事二度に及ベりされバ此度/の峯吉殺しも想ふに種々入込たる事情/もあらんか兎にかく凄き婦人なりかし
大川端箱夫殺花井阿梅の略伝
明治二十一年(一八八八)一月二十日
梅堂国政画、福田熊次郎
「東京絵入新聞抜萃」という、活字で組まれた本文は、同紙連載の「梅雨衣酔月情話」や公判傍聴筆記に、裁判をめぐる後日報道など種々の情報をつぎ合わせて再構成したものである。画面中央の「東京重罪裁判所」前の図は、『花井於梅酔月奇聞』所載の挿絵を借りもちいて描かれたものであろう。
梅雨衣酔月情話
『東京絵入新聞』明治二十年(一八八七)七月八日
「発端」には「松林伯円演」とあり、新聞種の講談で人気を博した彼の高座を再現するかのような文体で書かれているが、第一回以下は雑報記者が聞き込んだ街談巷説を構成して綴られている。第三十回で中絶したのは、「重罪・軽罪ノ予審ハ、公判ニ付セザル以前ニ之ヲ記載スルコトヲ得ズ」という新聞紙条例第三十三条違反を恐れたためであった。
雑賀園柳香作「走馬燈水月漫画」
『改進新聞』明治二十年(一八八七)七月十七日
木下屋東吉すなわち芸者秀吉時代のお梅を主人公にするものの、峯吉にあたる人物も登場しないまま、連載わずか九回目で中絶した。タイトルが示唆するように、当時控訴審判決が出るなどで世間の耳目を集めていた相馬家騒動をないまぜにしており、そのことによる連載中止であったのだろうか。
花井お梅の公判『東京絵入新聞』
明治二十年(一八八七)十一月十九日
『東京絵入新聞』は公判終結の翌日から五日間にわたって連日挿絵入りで、公判の傍聴筆記を掲げた。判決申し渡しの場を描いた挿絵以外は、男装、洋装、あるいは芸者時代のお梅の写真をもとに描いたものと記されており、読者の興味がいかなるところにあったのかをうかがわせる。
花井於梅酔月奇聞
明治二十年十二月、栄泉堂
『花井於梅酔月奇聞』というタイトルの単行本は、上下二冊を和綴じにしたものやボール表紙本など数種が残されている。表紙絵と口絵が異なる以外は、本文前半に『東京絵入新聞』の「梅雨衣酔月情話」を挿絵とともに流用し、後半に同紙上の公判傍聴筆記をこれまた挿絵もろともそっくり拝借して一編に仕上げている点ですべて共通する。
花井梅女公判傍聴筆記
明治二十年(一八八七)十二月、精文堂
二葉の挿絵のうちひとつが、栄泉堂版『花井於梅酔月奇聞』に見える裁判所前の図に酷似する。しかし傍聴筆記は大意を同じくするのみでまったくの異文となっており、別の速記者によって書き取られたもののようである。
月梅薫朧夜筋書
『歌舞伎新報』八百九十三号、明治二十一年(一八八八)四月二十八日
公判の申し渡し以前に事件を上演することが禁じられていたために、「月梅薫朧夜」は正本の完成が報じられてからも、度重なる延期のあげくに一時は狂言の差し替えさえ噂された。お梅の哀訴棄却で裁判が終結すると、ただちに『歌舞伎新報』に筋書が連載された。
月梅薫朧夜・化粧鏡写俤
国周画
「月梅薫朧夜」は明治二十一年四月二十八日、中村座で初日を迎えた。関係者への聞き合わせをするなど、このときも凝り性を発揮した菊五郎の演じるお梅は、巳之吉(峯吉)殺しの場から自首までの愁嘆場を「演劇と思はれざる程なり」と評された。
東京絵入新聞 第三千八百二十三号付録
明治二十一年(一八八八)三月四日 
落合芳幾画
同紙連載の「裏見富士女西行」のお披露目広告。「口上」を述べているのは作者の四世中村福助。口上に、「像上の挿画は毒婦お吉が三度姿を換升た体」というのは、ヒロインが見世物芸の女芸人から大名の側室に成りあがり、はては尼法師に身をやつすという物語の趣向を異時同図法的に示したもの。同紙の雑報によると、この附録は新富座の興行舞台から客席にも撒かれたという。
裏見富士女西行/中村福助作/久保田彦作校合/当絵入新聞へ本日より引/続毎日記載いたし候
乍憚口上
先以御贔屓様方御機嫌克恐悦至極に奉/存升る随まして私儀昨年中より病気にて既に大患にも陥り可申の所/大医方御方剤相応し加るに松本大医御差図にて大磯海水浴にて/暫く保養仕り候効験に依り再び何れも様へ御目通り致し升るハ実以/冥加至極難有仕合に奉存升扨大磯入浴中徒然の余り日々数十町/宛遊歩仕り候折柄不斗承りし一奇談ハ同地出生の女子にして/成長の后江戸へ罷出種々の悪行の末天網に罹り重き所刑に/臨みしが此者常に歌道の心懸ありて/一首の和歌を詠ぜし故いとも危ふき/一命を右歌の徳にて助かり爰に/懺悔して尼となり彼鴫立/沢の古蹟西行庵にて臨/終を遂げしといふ里人これを/西行お吉と号け夜話の/料と致せしを私覚書に/致し所持罷在候/を久保田彦作/氏に見せし所/恰もよく東京/絵入新聞の依頼も/あれバ同氏校合の上/投書して然るべしとの勧めに余儀なく草稿を贈り升た私ハ/兎もあれ同新聞御愛頑の諸君次に私し御ひゐきの/御方様幸ひに御高覧下さらバ難有奉有升る則ち/像上の挿画は毒婦お吉が三度姿を換升た体と御評判御評判
「裏見富士女西行」第二十四回
『東京絵入新聞』明治二十一年(一八八八)四月三日
「中村福助作 久保田彦作校」の新聞小説。彦作は狂言作者として黙阿弥門下にいた経歴の持ち主だが、彼の筆がどのくらい入っているかは不明である。物語じたいは、お家騒動、女清玄、江島生島など歌舞伎的プロットを寄せ集めただけのものであるにもかかわらず、百余回、三ヶ月以上におよぶ長期連載であった。
裏見富士女西行
明治二十二年(一八八九)一月、金泉堂
新聞連載中の挿絵に作者が登場していたことは、読者の興味が物語そのものよりも作者に向けられていたことをうかがわせるが、このボール表紙本においても中央に福助の肖像写真を、フレームに彼の紋所をあしらった意匠となっている。中身は回数の重複を訂正しただけで、本文・挿絵ともに新聞連載時のままである。序文には新聞附録の文面が使われている。
改進新聞 第三千百五号付録
明治二十六年(一八九三)六月十一日、増原熊太郎撮影
『裏見富士女西行』のブックデザインにも見られるように、明治も二十年代に入ると、災害報道を先駆として新聞紙面に写真やそれをもとにした銅板・石版画が登場しはじめる。新聞付録においても従来の役者の錦絵が写真に取って代わられる時代、視覚メディアの新たな展開の到来であった。 
 
犯罪に対する民衆の意識の変容

 

「毒婦」について
「毒婦」。明治初期の女性犯罪者は、このような呼称をつけて呼ばれる事がしばしばあった。「毒婦」と認定されるのには、当時隆盛を極めていた実録物や芝居の題材として取り上げられる事が重要だったらしい。そうした物語の中では、女性犯罪者たちは、数奇な生い立ちを背負い、残虐な犯罪を何の感情の揺らぎも無く行い、奇妙な風習を持つ、異人種のように書かれていた。
高橋お伝の場合・・・その罪状は1名を金銭目的で殺害した事に留まるが、仮名垣魯文による実録物には、連続殺人を敢行したかのように書かれている。途中までは貞淑な主婦と慰して書かれているが、物語の途中から、堰を切ったように連続して悪事を敢行するような女となっており、心理に一貫性が乏しい。また、同じく、魯文の手による実録物の中では、親子の証明をするために、父親として書かれているヤクザ者の血と自分の血を皿の中に垂らす、という奇怪な親子識別法を用いたとされている。因みに、二人の血が交じり合えば、それは親子である、という事になるらしい。
実録物におけるこうした描写を鑑みるに、当時においては、現代のような犯罪者の非人間化が行なわれていただけではなく、犯罪を脚色し、それを一種の物語として消費する事が常識的に行なわれていた。犯罪は、正しく娯楽であり、犯人は自分たちとは関係の無い常軌を逸した人間で無ければならず、恐るべき悪鬼であると同時に祝祭の提供者でもあった。高橋お伝の死体が、犯罪の原因究明のために解剖に付された事を持って、犯罪が分析、研究の対象と考えられ始めていた事は伺える。しかし、社会にとって、犯罪者は社会問題の象徴でも分析の対象でも無く、事件の真実など、如何でも良い事であった。さすがに新聞は事実を書くように心がけていたようであるが。
しかし、この時代には、戦後から90年代前半までに見られるような、犯罪者に自己を投影し、犯罪者を使って自分語りをするような姿勢は、まだ見えなかった。この当時、民衆にとって犯罪者は、もっと自分から突き放したところにある娯楽だった。
夜嵐お絹事件
明治4年1月12日、高利貸、小林金平の妾、原田きぬ(29?)は、愛人であり、歌舞伎の人気役者であった嵐璃鶴と添い遂げたいが為に、小林金平を、石見銀山鼠取り(砒素)を用いて毒殺した。科学技術が未発達だったためか、検挙には時間がかかり、きぬが逮捕されたのは、同年7月だった。璃鶴も、舞台姿のまま、警察にしょっ引かれた。逮捕された当初、きぬは、璃鶴も共犯であると言い募っていたが、11月18日、牢獄で子供を出産してからは、単独犯である事を自白した。きぬの断罪は、「分娩後一百日ヲ経ルニ非ザレバ刑ヲ行ハズ」の刑律に従ったため、大幅に遅れた。原田きぬには、明治5年2月20日、梟首(晒し首)が言い渡された。死刑は、同日執行された。冷静な態度で死を受け入れたらしい。死刑執行を行なったのは、山田浅右衛門だった。璃鶴には、きぬと密通し、殺害計画を知っていながらどうしようともしなかったため、徒罪二年半が言い渡された。
明治11年に、芳川春涛の著作である、「夜嵐於衣花廼仇夢」という本が刊行された。この本は、虚実ない交ぜになった、当時流行の実録物だった。芝居小屋も、お絹の事件を取り扱うと、連日満員となった。
高橋お伝事件
明治9年8月27日、浅草の旅籠にて、古着屋、後藤吉蔵の死体が発見された。発見したのは、旅籠の主人と女中であり、なかなか起きてこない男客を不審に思い、部屋に見に行った事が、発見のきっかけとなった。吉蔵は、喉元を切り裂かれて殺害され、死体の側には、後藤を殺したのは姉の仇討ちである、という旨の書置きが残されていた。容疑者として、男客と共に投宿し、死体発見の数時間前、男を起こさないようにと言い残して出て行った女客が有力視された。やがて、その女客は、9月上旬に逮捕され、犯行を自白した。女客は、高橋お伝(29)といい、内縁の夫と共に営んでいた商売に失敗し、借金に追われていた。仇討ちという犯行動機は、嘘であった。吉蔵を誘惑して借金を頼んだが断られ、吉蔵の持っている金を手に入れようとした、というのが、後藤を殺害した動機だったらしい。お伝は、最初は、犯行動機を素直に自白したと思われる。しかし、後に供述を二転三転させたため、判決が下るのには、明治12年1月31日までかかった。判決は、斬首だった。処刑は、その日のうちに行なわれた。お伝は、悲鳴を上げ、髪を振り乱し、内縁の夫の名前を呼び、「南無阿弥陀仏」と叫びながら、首を切られた。お伝の死刑執行を行なったのも山田浅右衛門だったが、首をねじ切るような状態で処刑は行なわれたという。
お伝については、仮名垣魯文が、お伝の処刑からわずか3か月後に、絵草紙『高橋阿伝夜刄譚』を書き上げ、河竹黙阿弥も、『綴合於伝仮名書』(とじあわせおでんのかなぶみ)を書き上げた。河竹黙阿弥は、一応お伝の裁判を取材した上で執筆したらしい。しかし、仮名垣魯文の書いたものは全くの出鱈目で、お伝が懸命に面倒を見ていたハンセン氏病だった前夫を殺し、更に連続して人を殺した、等と書いていた。この事は、裁判でも全く立証されていない。あまりの内容の酷さに、お伝の内縁の夫が怒鳴り込んでくる始末だった。お伝は、逮捕後の態度は狡猾だったものの、前夫の生前に、ハンセン氏病であった前夫を見捨てる事無く懸命に面倒を見ていた事を考えれば、基本的には性格の良い女性ではなかったのか、とも思える。その事からは、「毒婦」という忌まわしいイメージは湧いてこない。しかし、実録物や芝居によって、お伝は毒婦のイメージで、幾重にもその身を縛められてしまった。そのイメージは、お伝の死後にも影響した。犯罪資料として、お伝の遺体は解剖され、陰唇はホルマリン漬けにされて保存される事となったのである。昭和戦前に、軍医が、お伝の陰部の特徴を鑑定して、ドルメンという医学雑誌に記事を書いたことがあった。この時は、東大医学部に保管されていたらしい。現在はどうなっているかわからないが、戦後に衛生博覧会の見世物として出品された事もあったという事だ。 
 
現代中国悪女列伝

 

中国に悪女が多いのはなぜか?
「谷開来は大悪女と言われるけれど、ちょっと大した女じゃないですか? 文化大革命でろくに小学校も行けず、豚肉売りをしながら、解放軍の文工団(文藝工作団)入り目指して必死に琵琶を練習しプロ並みの腕前となった。大学入試が復活すると、いきなり北京大学を目指し入学を果たし、弁護士になってしまう。親戚中敵に回しても米国留学のチャンスを蹴っても、本命と決めた男・薄熙来を前妻から奪い結婚する。天晴れな根性ですよ。彼女が日本に生まれていれば、堂々たる勝ち組です」
何かの会議で隣り合わせに座った先輩ジャーナリストに喫緊の中国情勢などと交えてこんな話をしたとき、「その話、おもしろいんじゃないの? 男には分からなかった視点だ。書いたら」と勧められたのが本書を書くきっかけとなった。
元重慶市党委書記・薄熙来の妻、谷開来は「毛沢東夫人・江青に次ぐ悪女」と中国メディアでも散々あくどく書きたてられた。美人弁護士で将来有望な政治家の妻。だが、その裏で夫の権力を借りて贅沢と淫楽の限りをつくし、巨額の蓄財を行い、その挙句、愛人の1人だった英国人ニール・ヘイウッドを毒殺した。何が彼女をそうさせた? 性悪であった、の一言で済ませられるだろうか。
谷開来だけではない。ベトナム難民から中国人となり、15人もの政治家・高官を手玉にとり、失脚させながらも、自らは無事国外に逃げおおせた女実業家・李薇。戦略的に狙った権力者たちを籠絡し国民的人気歌手の座に上り詰めながら、現在行方不明となっている湯燦。貧困農村の卵売りから始め、その甲斐甲斐しさで鉄道官僚らに気に入られ、ついには元鉄道相・劉志軍の愛人となって鉄道利権に食い込み巨万の富を成したが、劉の失脚に連座した女実業家・丁書苗。中国に、悪女は数えきれない。
悪女たちの人生をつぶさにたどってゆくと、予想していたものと違ったものも見えてくる。例えば革命世代の親たちの濃密な人間関係。反右派闘争や文化大革命、あるいはベトナム戦争といった政治事件が人生をどう左右してきたか。農村の貧困がどれほどのものか。彼女らの極めて打算的とも戦略的ともいえる結婚観や男女関係の価値観がどのように醸成されたか。なぜかくも野心的で欲望に忠実で、満足への妥協を知らないのか。具体的な籠絡、汚職、蓄財の手法から見える権貴政治の実態......汝如何にして悪女となりしか。そのプロセスに現代中国の成り立ちが浮かび上がってくる。
悪女の日中比較
こんな美しく才長けてたくましい女であれば、日本人ならば悪女にならずとも十分社会的な成功と女の幸せを達成できただろう。そういえば日本には悪女があまりいない。日本の歴史上の3大悪女といえば北条政子、阿野廉子、日野富子、あるいは淀君か。呂后、武則天や西太后ら中国悪女の代名詞と比べるとなんともスケールが小さい。文革時代の2大悪女といわれた江青や葉群に匹敵する恐ろしい女は日本の近現代史に存在しただろうか。日本で若い女性の間で悪女といえば、美人でセクシーで男を翻弄する可愛い小悪魔だ。単に小国だから、悪女のスケールも小さいのか?
私はその差は、日本は弱者がそこまで虐げられていないからだと思う。むしろ弱者は庇護するものという常識がある。だが中国は、弱者は徹底的に踏みにじられる社会だ。最も弱い存在は貧しい女と子供。中国の女の多くは強者・男の情けを信じない。信じては足元をすくわれ搾取されかねない。だから強者になるために男を籠絡し、利用しある程度の富と権力と庇護を得てもなお安心感はなく、より強い権力と富を際限なく渇望する。
統計によれば2012年、汚職で摘発された16万人の中国官僚の95%が愛人を囲っていたという。生まれながらに富も権力も持たない女たちは、自ら進んで「性賄賂」となる。だがその「性賄賂」を使うチャンスのほとんどは、男と男の利権や権力の争いがあってこそ生まれる。チャンスをものにするには、努力や才能だけでも、美貌や肉体だけでもかなわない。壮絶な政治謀略の戦場を捨て身で闘い抜くタフな精神と人並み外れた強い欲望が必要だ。そういう意味で、悪女たちは選ばれし女戦士だ。だが男の権力の失墜とともに終わりを告げたその運命を見れば、権力闘争の生贄とも言えよう。
本書では10人の典型的な現代の悪女の物語を取り上げた。背後には何10万何100万の悪女たちがいる。中国で女がのし上がるには程度の差こそあれ、悪女の資質が必要なのだ。中国悪女のそのあざとくも切ない人生を透かして、カレードスコープのように見えてくる中国という国の断面図に興味をもっていただければ幸いである。 
 
中国三大悪女

 

権力を握ったのが「女性」だったから
中国はじめ、日本、韓国は儒教の影響で基本的に「男尊女卑」の国である。女性が表に出て活躍するのは忌避される傾向にあり、まして女性が「国家権力」を握った場合、その当時の政治的関係者だけでなく、後世の歴史家からも悪くいわれるのが普通である。「雌鳥時を告げれば家傾く」という言い回しがあり、「三従(生まれては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う)」が美徳とされた国々なのである。
悪女は西洋にもいた
権力を手中にするために、あらゆる手段を使かった女性権力者は世界には多くいるが、世界史では、今回の中国の3女性ほどは酷評されていない。
西洋で悪女(?)の例を2,3挙げると、
アグリッピナ / 彼女は息子を皇帝にするためなら、どんな卑劣無惨な行為も辞さなかった。彼女は、息子ネロを連れ、30歳年上のクラウディウス皇帝に嫁いだ。クラウディウスはその時60歳。愛情からの結婚でないことは間違いない。夫が老衰死するのを待てず、毒茸を食わせて毒殺を図った。それが失敗するや、医師に言い含めて、毒を塗った羽根箒を喉に押し込み、殺した。
エリザベス一世 / 政敵メリー・スチュアートを女性特有の陰湿さでいたぶり、最後は獄死させた。
エカテリーナ二世 / エカテリーナ二世夫ピョートル三世を殺して皇帝になった。ただし、彼女は主義主張を持って内政に当たった。ヨーロッパ先進地域に学ぶ開明化の方針である。ヴォルテールやディドロなどの文化人と親しく文通し、ロシアにアカデミーを設立し、劇場を作り、人民を啓蒙しようとした。
.中国三大悪女
中国三大悪女とは、漢代の呂后、唐代の則天武后、清代の西太后のことである。彼女らが悪女であるとのイメージを定着させた共通の行為は「ライバルの四肢を切断し、生きながら甕詰め」にしたことである。
呂后 / 息子恵帝の有力なライバルであった劉邦の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企て、趙王及びその生母・戚氏を殺害した。趙王如意殺害後には、戚氏の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後、便所に置いて人豚と呼ばせた、と史書にある。
則天武后 / 監禁していた王・前皇后と、蕭・前淑妃を棍杖で百叩きにした後、蕭氏を生き返らないように四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壺に投げ込んだ。
西太后 / ライバル麗妃の手足を切断したというエピソードは、映画「火焼円明園」に描かれているが、これは完全なフィクションで、呂后や則天武后のイメージと混同されている。 
呂后

 

呂雉(りょち、〜BC180年)は、漢の高祖・劉邦の皇后。恵帝の母。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。
呂后の闘争
劉邦は多くの世継をもうけるという責務は認められるが、彼は本来、好色であった。その最たる例は、功臣の妃(後の趙妃)と通じ、劉長をもうけたことであろう。この時代、長子相続制は確定しておらず、皇太子の冊立は皇帝の胸三寸であった。これが皇太子冊立を巡る悲劇の始まりである。また、劉邦が定めた「劉氏以外王たるべからず」との不文律が劉氏・呂氏抗争の原因である。たとえば、下記系図で丸印をつけた「趙王」に注目していただきたい。劉氏3人の趙王は呂后の劉氏潰しの結果であり、順に潰され、冊封され、その後潰され、ついに呂氏に渡ったことを表している。
呂雉が皇后に
呂雉は単県(山東省)の有力者・呂公(呂文叔平)の娘として生まれた。当時沛県の亭長(宿場役人)であった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際に酒宴を仕切っていた蕭何(後の丞相)に「進物一万銭」と、はったりの御祝書を出した。呂公は、はったりと知りつつも感心し、妻の反対を押し切って娘・呂雉を劉邦に嫁がせた。
その当時の劉邦は、地方の小役人であり、海の物とも山の物ともわからない、とにかくパッとしない人物であった。しかし、見かけは、髭をはやして威風堂々としており、いかにも豪傑そうなので人目を引く存在であった。酒宴で劉邦の姿を見た呂公は、その男っぷりに目を止めてすっかり惚れ込んでしまった。結婚後、呂雉は劉邦の父・劉太公の農業を助け、懸命に子供(一男・一女)を育てた。ちなみに呂雉の妹・呂須は樊?に嫁いだ。
秦末の動乱期および楚漢戦争開始直後は、沛県で舅の劉太公や子供たちとともに夫の留守を守っていた。しかし、楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営に捕らえられ、人質になってしまう。
劉盈(後の恵帝)と魯元公主は劉邦と合流し、関中に逃れることに成功するが、その際に劉邦が馬車から落ちた子供たちを見捨てるという騒動が起こった。
楚漢戦争の当初、項羽側が優勢に進めたが、BC203年に入ると、韓信などによる楚陣営の切り崩しが成功し、形勢は逆転する。窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公とともに劉邦の元に帰ることを許された。
BC202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。しかし、まだ政情は劉邦が自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。
中国全土を統一して一段落つくと、劉邦は次第に本来の性分を発揮し始めた。つまり、酒好きで、女に目のない性格が頭をもたげて来たのである。劉邦は大掛かりな酒宴をたびたび開き、大勢の妾を囲い始めた。その多くの愛人の中に側室の戚妃(せき)もいた。戚妃は若く、大変な美人であった。その上、野心家であった戚妃は、劉邦との間に子供(劉如意)が生まれると、次期後継者にすべくいろいろと手を回し始めた。
劉邦には、皇后となった呂后との間に、すでに孝恵(幼名劉盈)という皇太子がいたが、劉邦は物静かで軟弱な性格の孝恵を嫌うようになっていた。劉邦はあまりにも繊細すぎる少年・孝恵を皇帝に相応しくないと思い始めていた。
そうした劉邦の心を見透かして、戚妃はわが子・如意を漢の次期後継者とすべく、劉邦にいろいろと話を持ちかけ、連日のように熱心にくどいていたのである。
こうした戚妃の行動を、呂后は知っていたが、劉邦の手前、表だった行動もできず、我慢に我慢を重ねていた。表面上は、つとめて冷静に振る舞ってはいたが、心の底では、はらわたが煮えくり返っていた。
皇太子を入れ替えるという問題は、重臣たちの猛烈な反対に合って、劉邦も思いとどまざるを得なかった。この時、呂后も内心ほっと胸をなで下ろしたに違いない。だが、いつかこの仕返しはしてやるぞという憎悪の気持ちだけは強烈に心の中に刻み込まれた。
功臣の粛清
BC202年、燕王臧荼(ぞうと)が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。
劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、漢王室の今後にとって最も危険な存在であった。
「韓信が反乱を企んでいる」との報告があり、閣内で韓信の討伐について議論した。その際、陳平は「軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険である、だまして捕らえる」ことを提案。劉邦はこれを受け入れ、巡幸に出るから韓信も来るようにといいつけ、韓信がやって来た所を虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。
翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦は親征してこれを下した。
同年、彭越は捕らえられて蜀に流されるが、途中で誅殺される。一人残った英布も反乱を起こした。劉邦はこの時、体調が良くなく、太子・劉盈を代理の将にしようとしたが、呂后に諫められ、親征して英布を下した。
劉邦の死
英布戦で受けた矢傷がもとで病状が悪化し、翌BC195年、呂后に今後誰を丞相とするべきかなどの人事策を言い残して死去した。
呂后に、「あとは蕭何(丞相)に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」といい、「その次は?」と問う呂后に「次は王陵が良いが、愚直すぎるので陳平を補佐とせよ。しかい、陳平は頭が切れすぎるから、すべてを任せるのは危ない。社稷を安んじる者は周勃である」と遺言した。なおも「その次は?」と問う呂后に「おまえは、いつまで生きるつもりだ。そのあとは、おまえにはもう関係ない」といった。
呂太后の残虐
皇太子の孝恵が即位し、呂后は皇太后として事実上政権を握った。呂后政権の始まりである。当時の中国社会では、母子関係は絶対であり、いくら皇帝であろうとも、おいそれと自分の母親には口出しできなかった。こうした時代背景を武器に、呂后は実権を握ると、専制政治を開始した。つまり一族をことごとく高官に配置し、要職をすべて牛耳って、宮中を思いどおりに動かし始めたのである。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く、恵帝即位後まもなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王・劉肥、趙王・劉如意の殺害を計画するが、斉王暗殺は恵帝によって失敗する。
趙王とその生母・戚夫人を殺害した。この時、呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王・如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後、便所に置いて人豚と呼ばせた、と史書にはある。
なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われる。
恵帝の死
自分の母親である呂雉の悪行にショックを受けた恵 帝は政務を放棄し酒に溺れ、23歳の若さで死去して しまう。実に恐ろしきは女の怨みかな。
呂皇太后の専横
陳平は、呂皇太后に実家の呂氏一族を重役に立てることを進言、呂皇太后はその遺児・少帝恭を立て、呂氏一族や陳平、周勃ら建国の元勲たちの協力を得て、政治の安定を図る。しかし、この頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥たちなど、呂氏一族を配して外戚政治を執り、自分に反抗的な少帝恭を殺害して少帝弘を立てるなどの行動をとり、劉邦恩顧の元勲たちから反発を買うようになる。また、元勲たちも自らの暗殺を不安視したために、ろくに仕事をしなくなった。呂皇太后自身、このことには気付いていたようで、甥の呂産らに元勲たちの動向に気をつけるように言い聞かせ、さらに、呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就けて万全を期した後、死去した。呂皇太后は、漢陽郊外(現西安市)の高祖の陵墓・長陵に合葬された
クーデター
呂皇太皇の死後まもなく、陳平や周勃らの元勲は、斉王の遺児などの皇族や諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにしたうえで、恵帝の異母弟・代王劉恒を新たに皇帝に擁立した。これが文帝である。
文帝擁立の前後には少帝弘も、恵帝の実子ではなく呂后がどこからか連れてきた素性の知れぬ者という理由で、恵帝の子とされていた常山王劉朝、周勃クーデターの決意淮陽王劉武らとともに暗殺された。
また、呂后の妹の呂須は鞭打ちの刑で殺害され、呂須の息子の樊伉も殺害された。呂氏の血を引く者のうち、この粛清で殺害されなかったのは、魯元公主が生んだ張敖の子供である張皇后と張偃兄弟のみであった(公主は母の呂后に先だって死去)。
評価
呂皇太后の時代は、皇族や元勲が殺害されるなど、何かと血腥い事件の続いた時代であり、呂氏一族も呂皇太后の死後誅殺された。司馬遷は史記において、呂皇太后を始皇帝・項羽・劉邦らと同列に扱い、呂太后本紀として立てているし、『漢書』でも同じく高后紀を立てている。
呂皇太后の政治は8年間も続いた。かくも横暴をきわめた呂皇太后の政治であったが、史記によると、世の中は至って平和で、人民の暮らし向きはいいほうであったという。それは、呂皇太后の関心は宮中内部にとどまり、対外遠征や大規模な工事などには興味がなく、民衆に重税を課したり、過酷な労働を強制したりすることがなかったということであろう。
呂皇太后の考えは、呂一族に対抗するような勢力を潰し、呂一族の漢にすることだった。そのため、他氏族を潰してまわったのだが、これが奇妙な形で漢に幸いした。呂皇太后の死後、陳平らの尽力で呂一族は滅亡したのだが、たったひとつ残った有力氏族がなくなったことで、漢の王室の独裁体制が整ったのである。漢の武帝の輝かしい偉業は、この独裁体制の整備なくしては語れない。 
武則天

 

武則天は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、のちに唐に代わり武周朝を建てた。諱は照。日本では「則天武后」と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方、中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的である。在位期間690〜705年。ここでは中国呼称を尊重し、以下武則天とする。
闘争
武后の戦いの第1弾は、彼女が先皇・太宗の寵愛を受けたことで、先皇の崩御の後は、寵妃は総て尼になり、先皇の一生菩提を弔うのがしきたりであった。当初、武昭はそれに従い尼寺・感業寺で尼となった。その後、先皇の後を継いだ息子・高宗に尼寺から請け出され寵妃となったが、この儒教道徳にもとる行動は皇族、重臣から猛烈な反対を受け、それに対する戦いと復讐戦である。
第2弾は高宗の死後、高宗の後を継いだ武太后の実の息子が儒教かぶれで母を痛烈に非難し、やむを得ず廃位させたが、それに替わる皇子たちは皇帝に足るべき力量を備えておらず、武太后自身、皇帝を目指すことになる。唐朝では女帝など考えられないことであり、皇族、重臣の猛反対を受ける。その反対者との熾烈な戦いであった。
少女時代
武昭は、利州都督武士?と楊夫人の間の次女として生まれた。生まれてまもない頃、道士・袁天鋼が彼女の相を占い、「必ずや天に昇る」と述べたという。これを聞いた父・武士?は、乳児の武照の容姿が極めて美しかったこともあり、将来の皇后を期待し、高度な教育を与え、幼名を媚娘と命名した。
媚娘が幸せな生活を送ったのは武士?が死去する8歳までであった。父の亡き後、媚娘は異母兄弟に虐げられる生活を送った。少女期の媚娘は、漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、聡明な頭脳を備えていたと史書に記録されている。
宮廷入り
14歳で太宗の後宮に唐2代皇帝太宋入り、才人(妃の地位、正五品)となった。当初は太宗に寵愛されるが、「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」と流言があり、武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗は次第に武照を疎遠にしていった。
こうした状況下で太宗に殺害されることを恐れた武照は、皇太子・李治を籠絡、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。太宗の崩御にともない武照は出家することとなった。
その頃の宮中では、太宗の後を継いだ高宗の皇后である王皇后と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立していた。蕭淑妃は、王皇后に子がないことに狙いを定め、自分が生んだ皇子・素節を皇太子にし、自分が王皇后に替わろうと謀った王皇后は、高宗がひそかに尼寺に通い、武照と逢引していることを知り、高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らすため、高宗に武照の入宮を推薦した。
武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は、王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れたが、王皇后とも疎遠になった。
やがて武照は皇子・弘を出産する。これを機に武照は自身が皇后へ、弘が皇太子にとの野望を抱き、王皇后、蕭淑妃の排斥をもくろむ。
立后
武照のでっち上げた「陰謀下毒」事件で高宗は、王皇后と蕭淑妃を投獄した。彼女らの父母兄弟なども官位を剥奪し嶺南に流す、という詔書を発布することに成功した。
永徽6年(655年)高宗は王皇后を廃し、武照を皇后に立てる事を重臣に下問した。
この時の朝廷の重鎮は、王皇后の兄・長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた?遂良、高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の四人である。長孫無忌と?遂良は反対し、于志寧は賛成も反対もいわず、李勣はこの会議には欠席していた。その後、高宗が直々に李勣に下問したところ、「これは陛下の家庭の事です。なぜ臣下に聞くのですか?」と答え、皇后の廃立に力を与えた。
高宗は詔書を発布して武照を立后するとともに、諫言した?遂良を潭州都督へ左遷した。
蕭淑妃の甕詰め
皇后になった武照は、監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きにした。王氏はその場で死んだが、蕭氏は死ななかったため、四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と酒壺に投げ込ませた。蕭氏は、酒壺の中で数日間泣き叫んだのち絶命した。さらに、遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「蟒」(ウワバミ)と「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされる)に改称させた。
蕭氏は死の間際に、武照が生まれ変わったら鼠になり、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやると呪いながら死んだといわれ、後年の武則天は、宮中で猫を飼うのを禁じたといわれる。
垂簾政治
高宗は、政治にまったく関心を示さず、武皇后は高宗に代わり垂簾政治を行った。武皇后が真っ先に手掛けたのは、今までの伝統的貴族、すなわち唐建国の功臣や、名門家柄出身の貴族たちを政治の座からの追放であった。武皇后は、それだけで終わらず、完全な実権を握るのを目指した。たとえば、高宗の母の兄・長孫無己は、武照が皇后になるのを反対したため、流罪の上に謀反の罪に落とされ、殺された。
唐は隋と同じく基本的に貴族政治であり、関ろう貴族集団(注)と呼ばれる貴族層が権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この頃、科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用と国政運営には限界があった。武皇后は、今後も貴族の積極的支持がないと理解していたため、権力を維持するべく新しい出身層の人材を積極的に登用した。登用された人材としては狄仁傑・姚崇・宋ケイなどがいる。これらは非貴族身分の出身であり、貴族制下では出世が見込めない人物だった。武皇后は、ただたんに低い身分に主眼を置いたのではなく、その登用には才能と武皇后への忠誠を重視している。
姚崇と宋ケイは後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた 出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。
高宗の死と中宗の即位
弘道元年(683年)、高宗が崩御すると子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位しその弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。
睿宗は武后の権勢のもと、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。武則天の専横に対して皇族が次々と挙兵したが、いずれも打ち破られた。民衆は暮らしに困窮し、浮戸や逃戸もあったが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍中宗追放に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。
登位
宗族の挙兵を打ち破った後、武后は、女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った。
天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」として、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ。
密告制度と酷吏
武則天の悪のイメージは、蕭氏を甕詰めというおぞましい方法で殺害したことのほか、密告を奨励し、来俊臣・索元礼・周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行なったことによる。
晩年
則武天は、皇太后の時代から、白馬寺の僧・薛懐義を、誰憚ることなく閨房に侍らせていた。さらに晩年には、張易之・張昌宗の若い兄弟を寵愛し、政治は大いに乱れた。張兄弟は、武則天の寵愛を傘に横暴を極め、李一族であろうと、武一族であろうと、王・侯族も張兄弟には逆らうことができず、諫言したことで殺された者さえ出た。
クーデター
武則天は、病に臥せがちとなった。この状況に唐復活の機運は高まり、80歳の宰相・張柬之が立ち上がった。張柬之は慎重に足元を固めたうえで、705年の正月、張兄弟を斬り、病床に伏せっている武則天を退位させ、皇太子に復帰していた中宗が復位した。
武氏の眷属は李氏を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築していたため、唐朝再興に伴う粛清は、太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。皇帝の母である太后でもあるため、中宗は退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈り、その後まもなく武照は死去した。享年83。
これで血なまぐさい宮中の争いは終わったわけではない。中宗の皇后である韋后が、「今度こそ、第2の武則天になってやる!」と、娘と共謀して夫の中宗を毒殺してしまう。これが韋后の命取りとなり、以唐玄宗前から対立していた睿宗の息子、李隆基(28歳)が兵士を率いて韋后らを殺害する。
そして李隆基が即位。第6代皇帝玄宗(在位712〜756年)である。彼は武則天の時に採用された有能な新官僚に支えられ、唐の最盛期をもたらす。これが「開元の治」である。
武則天の墓碑
706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。乾陵の地下宮殿には貴重な文物が当時のまま残っていると期待されているが、発掘の予定はない。中宗は、退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈っているが、武照は皇帝の文字を削り「則天大聖皇后」とするよう中宗に遺言している。また、乾陵に則天皇后の墓碑があるが、碑面には文字がない。一説によると、評価を後世の人に委ねよとの則天皇后の遺言によるものという。
則天文字
武則天は、漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日、使用されることはほとんどないが、「圀」の字は、日本では徳川光圀と本圀寺の名称に使用されている。この改変は、「國」が国構えの内に「惑」を含むことを忌み嫌ったもので、その代替として国構えの内に「八方」をそえたものである。ほかにも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「?」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものであった。
奉先寺大仏
帝室が、老子の末裔だとされ、「道先仏後(道教上位で仏教が下位の意)」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行ったほか、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記した『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。これがのちの日本の国分寺制度の元になった。
洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。 
西太后

 

西太后(1835年〜1908年)は、清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人の葉赫那拉(エホナラ)氏の出身といい伝えられている。慈禧太后。幼名は蘭児。紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后皇后(慈安皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后)と区別して呼ばれた。
西太后の闘争
清朝末期の系図で、黄色は後世に西太后が殺害したといわれる人物。皇帝の枠の下の数字は在位期間を示す。光緒帝は27歳までその地位にいたが、その後の10年間は西太后によって幽閉されていたので、実質の在位は27歳までである。俗説では4人を殺害したと言われている。光緒帝だけは疑いは残っているが、あとの3人はまったくのフィクションである。
西太后が悪とされるとことは、皇帝人事を私し、判断能力のない幼児を皇帝にしたことであろう。そのうえ、垂簾聴政を行うが、彼女自身激変する国内外の情勢を把握できず、清朝を滅亡に至らしめたことであろう。
逆に彼女の不幸は、歴代の皇帝は皆早世し、世継が得られなかったこと。また、彼女を支えるべき官僚組織が完全に腐敗していたことである。世継としての選択肢が多すぎ、混乱・不幸を招いた呂后、武則天との違うところである。
出自
西太后は、1835年、山西省長治市の満州族の貧しい下級官吏の娘として生まれたといわれているが、近年では、漢民族の貧しい農家の生まれで、4歳の時に他の漢民族の家に売られたのち、その家もおちぶれて、再び12歳の時、別の下級官吏(養父・恵征)の家に売られてきたといわれている。その家では、西太后 の美しさが際立っていたので、彼女を養子とし、その後、宮廷に出仕させた。
従来、西太后は纏足をしていないので、漢民族ではなく、満州族の出身だと考えられていた。しかし、実際は漢民族の出身ではあるが、生まれた家は纏足もできないほど下層だったということが真相であろう。
彼女は、満州文字は理解できなかったことも、漢族であるとの根拠となっている。
皇子出産と出世
1852年、17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年6月、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。宮廷に入って3年で「貴人」から「嬪」になった。かなり早期に「咸豊帝」の目にとまったのであろう。徽号も「蘭」から「懿」に変え、懿嬪に進んだ。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した。
清代の後宮制度は
清朝の後宮制度は、右図のようにトップの皇后から常在の8段階で、その下に下働きの宮女という構造である。
清代では「秀女」は、3年ごとに選ばれる。これを「選秀女」という。八旗(清朝の戸籍制度)ごとに名簿に記載された妙齢の女性たちに対して、宮中で「初選」(主に器量や姿態による一次選抜)、「複選」(器量と手芸による二次選抜)が行われ、見事に合格すると、下級妃嬪(貴人・答応・常在)として宮中に採用された。
これとは別に、五旗の漢族女性を対象に内務府による秀女選抜も毎年行われ、合格者は「宮女」(妃嬪に仕える女性)として宮中に入った。「宮女」や「秀女」は、どちらも宮廷内の女官になるが、格が違う。仮に、皇帝の「お手」がついた場合、どちらも妃嬪(側室)として扱われるが、宮女は「常在」からスタートするのに対して、秀女はいきなり中級妃嬪である「貴人」となる。
また、宮女は「25歳」までに皇帝のお手がつかなければ、実家に帰ることができる。しかし、秀女は生涯を宮廷で過ごさなければならない。
皇后を選ぶ時は、しかるべき家柄の娘を数人候補として選ぶが、皇后になれなかった者は貴級妃嬪の「妃」以上として遇される。ちなみに「皇貴妃」とは、皇后がなくなった場合に皇后となるべく選ばれた者である。
一例として、「西大后」は、「秀女」として宮廷に入って3年で「貴人」から「嬪」になった。その後、1856年に皇子「戴惇」を生んで「妃」となり、翌年には「貴妃」になっている。
政権掌握
アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は、1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と、咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らと激しく争った。
懿貴妃は、王皇后と咸豊帝の弟・恭親王を味方に引き入れ、咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上、クーデターを起こし、載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変、1861年)し権力を掌握した。
北京帰還後、載淳は、同治帝として即位し、王皇后は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。同治帝の肖像画
当初は、東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。
1874年、同治帝は、大婚を機に親政を行おうとしたが、若くして崩御した。同治帝は、成長するに従って実母に反発、遊郭に入り浸って梅毒で死亡。同治帝は「嘉順皇后の妊娠中の子を次期皇帝に」と遺言するも、妊娠中の胎児の性別がわからないうえ、嫁の皇后とそりのあわない西太后は許さず、皇后を幽閉する(その後、嘉順皇后は憤死)。
次期皇帝についたのは西太后の母方の甥にあたる載?(さいてん、光緒帝。8代道光帝第7子・醇親王奕?と西太后の妹の子)。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合、名光緒帝の肖像画前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者になれない。しかし、西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子・載?を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を続けた。
東太皇の死
1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。
また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた恭親王へ責任を被せ、失脚させた。
東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、隆裕太后の肖像画3年間の「訓政」という形で政治の後見を行うことを条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。
日清戦争
西太后は、洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章らを登用。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した。洋務運動とはヨーロッパ近代文明の科学技術を導入することで、中国の国力増強を意図した運動あり、清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らがこの運動の推進者として知られる。しかし、洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。
清朝の敗北は、北洋艦隊の予算不足により、艦船は整備されたものの操練が遅れていたことが主要因である。北洋艦隊の予算の不足については、1885年から始まった頤和園の再建と拡張に伴う予算に数百万両ほど流用したことや西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費をしたことが影響したといわれている。それよりも、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当したこと、海軍費を広東水師(海軍)の増強の方に充てたことなどから北洋艦隊の整備・増強を後回しにしためである。
変法自強運動と戊戌の政変
日清戦争の敗北後、技術的な改革にすぎない洋務運動ではなく、体制的な改革を推進する変法運動が起きた。変法派に共感する光緒帝は明治維新に倣って政治・行政制度の改革を目指した変法派の康有為・梁啓超らを登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。
しかし、急速かつ急進的な改革に対して、親貴や軍機大臣を含めた守旧派高官との間で深刻な対立が生じた。守旧派は、西太后の再々度の訓政を願い、両派がクーデターを計画するなど、一発触発の事態となった。
この時期、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。変法派リーダーの康有為は伊藤博文を清の顧問にと計画した。伊藤は「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案。それを受け変法派官吏・楊深秀らは光緒皇帝へ上奏した。上奏の内容は「中、日、米および英と連合し“合邦”すること。時代の情勢をよく知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する」というもので、あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限に外国人を参画させる内容であった。西太后は紫禁城へ戻り、この報告を受けると激怒した。
光緒帝側は、改革に好意的な袁世凱を抜擢し、西太后のいる頤和園を包囲するクーデター計画を立てたが、袁世凱の変心で計画が西太后側に露見してしまう。西太后は宮中に乗り込み無血クーデターにより政権を掌握し、変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した。
義和団の乱
1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。義和団は、勢力が拡大するにつれ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになる。ついには、ドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初義和団を優勢と見た西太后は、義和団支持派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝が寵愛していた珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じたという。
西太后の悪評の多くは俗説
1) 皇后になれなかった理由 / いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。葉赫那拉は、ヌルハチに激しく抵抗した末に併合されたエホナラ部族の最後の首長・金臺吉(ギンタイジ)は、臨終に際して、ヌルハチに対して「清朝の一族にたとえ女一人でも葉赫那拉の人間が加われば、そのものがおまえの一族を滅ぼすであろう」と呪いの言葉を遺して死んだ。清朝はこの呪いを言い伝えて、決して葉赫那拉氏の女を后妃にしないという掟が守られ続けた。ところが、清末の咸豊帝が掟を破って葉赫那拉氏の女を妃にした。はたして葉赫那拉氏は咸豊帝の死後に西太后となって権力をほしいままにし、ついに清を滅ぼしてしまったという俗説である。 これについては、この章の冒頭の出自のところで述べたように、西太后は、葉赫那拉族ではなく、漢族なのである。
2) 光緒帝毒殺 / 光緒帝は、西太后が亡くなる前日に急死しており、当時から西太后によって毒殺されたとの流説があった。これを確かめるために、中国当局は2003〜2008年にかけて、陵墓から光緒帝の遺体を法医学者によって科学分析を実施した。その結果、頭髪から経口致死量を上回る残留砒素が検出され、国家清史委員会は光緒帝が毒殺されたと結論づけている。誰が光緒帝を殺害したかについては、さまざまな議論があるが、どれも決定的な証拠は無く不明のままである。西太后殺害説、袁世凱殺害説、李蓮英殺害説、崔玉貴殺害説などがある。西太后犯人説をとる『崇陵伝信録』では、死期が近づいた西太后が光緒帝が自分よりも長生きしないように毒殺したとしている。しかし、西太后は74歳という齢で、永らく病床にあり、この時、彼女は死の前日で重篤の状況にあった。このような状態の彼女が清の将来を心配するほどであったとは考えがたい。
3) かってのライバル・麗妃の手足を切断して甕の中で飼った / 上に挙げた例は根拠のない流説であると判明している(加藤徹『西太后』参照)。ライバルの麗妃の手足を切断したというエピソードは、映画「火焼円明園」(邦題「西太后」)でも描かれているが、これは完全なフィクションである。西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは、危害を加えられることなく後宮で生活している。麗妃は、咸豊帝の唯一の娘・栄安固倫公主を生んだのち、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒の両帝から麗皇貴妃、麗皇貴太妃にと加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお、栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の生んだ娘ではあるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。
4) 珍妃身投事件 / 西太后のイメージを悪くしているもう一つの逸話は、列強8ヶ国連合軍が北京に迫り、彼女が紫禁城から脱出した際に、光緒帝側室・珍妃を井戸に突き落として殺したという話であろう。この事件の経緯は、西太后は、まず珍妃に対して、光緒帝とともに西方へ逃げるのか、敢えて紫禁城に止まるのかとの問いに、珍妃が北京から逃げ出すことを潔しとしなかった。これが西太后の逆鱗に触れ珍妃が投げ込まれたという井戸、死を命じられたというのが話である。珍妃が投げ込まれたという井戸は紫禁城内に残っているが、その口は狭く、とても大人が入るとは考えられない口である。珍妃自ら飛込み自殺するのは無理である。誰かに意識的に頭からグイグイと押し込まれなければ無理である。彼女の遺体は、その後、北京に入城した日本軍兵士によって引き上げられ埋葬されたという。彼女の墓は清の歴代皇室の陵墓である西陵にあり、日本軍が清皇室の側室を、そこに葬り、陵墓を築くはずはない。珍妃の死は1900年で、西太后の崩御は1908年であり、辛亥革命で清王朝が倒れるのは2011年であるから、中華民国建国後に珍妃の墓がつくられたとも考え難く、結局、西太后の生存中に葬られたと考えるのが筋であろう。
西太后は写真好きであった
西太后は、写真に撮られることを特に好んだという。彼女を中心に、外国公使の夫人を左右に侍らせて撮った写真が残っている。
西太后の外国観(徳齢の記録より)
「私には、外国人もシナ人と同じくらいお金持ちだとは、とても信じられません。外国人たちが宝石をあまり付けていないのに気がついています。私は世界じゅうのどの君主よりもたくさん宝石を持っているということですが、そのうえ絶えずふやしているのですから」。西太后は、中国が全世界でもっとも富裕であり、中国人はもっとも金持ちであると生涯信じていた。この視野の狭さは外交における失敗をもたらしたことは確実だろう。ただ同時に西太后は、欧米人が中国人を野蛮人と呼んでいることもよく知っていた。
「あの外国の婦人たちが大きな足をしているのは、どうしたわけなのですか? あの人たちの靴といったら舟みたいですし、おかしな歩き方ときたら、私には褒められませんよ。私はまだ外国人できれいな手をしている人をひとりも見たことがありません。肌は白いけれど、顔は白い毛でいっぱいじゃありませんか。あなたはその人たちが美しいと思いますか?」
これは、頤和園における園遊会で、コンガー米公使夫人、デカルセルスペイン公使夫人、内田康哉公使夫人などを引見したあとの記録である。
西太后の陵墓
1908年、西太后は74歳で崩御した。西太后は、北京の東にある陸墓に葬られた。そこは、清王朝歴代の皇帝が眠る陸墓である。ところが、20年ほどたった頃、中華民国兵士による墓荒らし事件が起きた。
北京郊外に駐屯していた国民革命軍12軍に所属する部隊が、副葬品として埋められていた金銀財宝に目をつけたのである。たしかにそれは、莫大な財宝だったようだ。なにしろ、すべてを運ぶのに数十台の馬車が必要であった。その内訳は、金銀の仏像百体以上、大粒の真珠1万2千粒、4千の真珠を縫い込んだ掛布団の他、大量の翡翠、宝石の山だった。その際、西太后にとって忌わしい記録が付け加えられることになった。
西太后の墓の一部を爆破した兵士らは、手にツルハシや懐中電灯を持って地下の墓室に侵入した。西太后の木棺をたたき壊してこじ開けた兵士らは、遺体を棺の外に引きずり出した。西太后の遺体は、まだ弾力が残されておりまるで眠るようであったという。
兵士らは、西太后の口を銃剣でこじ開けると、まず、口の中に詰められている含み珠を取り出した。さらに、彼らは、遺体から服、下着、靴に至るまですべて剥ぎ取って裸にすると、身につけている宝石がないか隅々まで捜し回った。それが済むと、屍姦を試みた者すらあったというのだ。
この事件は、2か月後に発覚して全世界を駆けめぐった。清王朝の陸墓荒らしのニュースにショックを受けた清朝ラストエンペラーの溥儀は、祖先を汚した新政府(中華民国政府)に憤慨し怒りの炎を燃え上がらせた。無限の恨みを持った溥儀は、この時、復讐を誓ったという。こうして、彼は、日本の誘いを受け入れることにした。溥儀は、満州国皇帝として、日本の傀儡政権として利用される運命を自ら選択したのであった。 
誰が一番の悪女か

 

悪の基準をどこにおくかで、3人のうち誰が一番悪女かが違ってくる。
何人死なせたか? 死なせ方の残酷さを基準に
1位武則天、2位呂后、だいぶ離れて3位西太后。武則天については、自分に敵する者、大周の建国に意義を唱えるもの総てを葬り、その数、千人近くであるといわれている。特に自分の夫・高宗に繋がる李一族、さらに自身の身内、血を分けた息子ですら容赦しなかった。その冷酷さが人々から嫌われているようだ。
呂后も粛清という点では武則天に負けてはいず、劉邦と建国の苦を共にした功臣を悉く粛清した。
その点西太后は、自身が起こしたクーデターと、後年クーデターを仕掛けようとした連中を処刑した十数名に過ぎない。悪女の根拠とされた若き日のライバル・麗妃の甕漬け、光緒帝の毒殺、光緒帝の妃・珍妃の井戸への投げ込みなどは、すべてフィクションである。
「人民を苦しめた」「国を滅ぼす遠因をつくった」などの政治的失敗を基準に
1位西太后、だいぶ離れて2位呂后、3位武則天。西太后は、頤和園の修復のために軍事予算を流用し、そのため、弱小国日本に敗れたともいわれているが、それはともかく、清朝末期の官僚の腐敗が太平天国の乱をまねき、日本との敗戦、欧米列強の領土割譲要求など、国家の危機的状況になんら対応策を講じなかったばかりか、義和団に肩入れするなど醜態を演じ、清王朝の滅亡を招いた。
呂后は、漢王朝の統治に邪魔になる諸侯(建国の功臣)や、その後呂家の専横のために劉一族を殺害したのであって、行為自体は非難されることではあるが、治世自体は秦末期の戦乱に較べれば安定しており、民衆自体の消極敵ながら支持を得ていた。
武則天は、建国の功臣、貴族による統治体制を破壊し、科挙の再開・発展、在野の人材の発掘を積極的に行ない、庶民の人気も高かった。玄宗皇帝時代前半の「開元の治」は武則天が登用した人材によるものである。
玄宗皇帝が登用した人物が安史の乱を起こしたこと、また、外交で朝鮮を平定したことなどを考えると、武則天は、一級の政治家であったといえるであろう。要は、周囲の男たちが凡庸で情けなかったことが原因なのである。 
 
福田和子 1 / 松山ホステス殺害事件

 

日本の強盗殺人犯である。1982年(昭和57年)に殺人を犯した後、1997年(平成9年)に逮捕されるまで、約15年に及ぶ逃走劇で知られる。指名手配犯として有名になったが、長期間逃亡した動機は、以前に服役した刑務所で二度も強姦事件の被害者となったことである。血液型はB型。
生涯
1948年(昭和23年)、愛媛県松山市に生まれる。
幼くして両親が離婚、母親に引き取られ愛媛県川之江市(現:四国中央市)に移る。母親は自宅で売春宿を経営していた。その後母は漁師と再婚、来島に移るが島の排他性に耐え切れず母子で今治市に移る。愛媛県内の高校に入学するものの交際中の同級生が事故死し、自暴自棄になり3年生の1学期に退学。
18歳のときに同棲していた男性と高松市の国税局長の家に強盗に入った罪で松山刑務所に服役中の1966年(当時18歳)、第1次松山抗争で逮捕された郷田会の関係者が看守を買収し、女性受刑者を強姦するという松山刑務所事件が起き、福田はこの事件で被害者となった。さらに、福田は移監された高松刑務所でも同様の被害に遭っているが、いずれも被害届を出すことが認められなかったため、公訴時効により事件の責任追及は行われなかった。
出所後、キャバレーのホステスとして働いていた1982年、松山市内で福田の同僚だったホステス(当時31歳)の首を絞めて殺害する松山ホステス殺害事件を起こし、逃亡する(後に逮捕された夫は死体遺棄罪のみで有罪となった)。
逃亡中は幾度となく偽名を使ったり美容整形を繰り返したりするなどして全国のキャバレーを転々とする生活をしており、美容整形をしていたことが判明した際には「7つの顔を持つ女」と呼ばれた。愛媛県警察が懸賞金をかけた捜査を行い、公訴時効が成立する21日前である1997年7月29日、福井市内で逮捕された。逃亡生活は5,459日間にもおよんだ。岡山駅まで鉄道、岡山駅からは愛媛県警察のワゴン車で松山東警察署に移送された。
松山市までの道中は女性捜査員と福田が乗車した特急サンダーバードや山陽新幹線などにマスコミ関係者が同乗し、福田の周囲を取り囲むなど大騒ぎとなった。逮捕のきっかけは公訴時効成立が近づき大々的にワイドショーなどで報道されたために社会的関心が高まったことにあった。
松山東警察署で取調べを受けた後の1997年8月18日に殺人罪で起訴された。公訴時効成立まで11時間前の起訴であった。
1999年5月31日、松山地方裁判所にて無期懲役の判決が下され控訴するも、2000年12月13日、高松高等裁判所にて控訴棄却。拘置先の松山刑務所から高松刑務所に移され、収監。福田は最高裁判所へ上告したが2003年11月、上告棄却。無期懲役の刑が確定し、和歌山県和歌山市の和歌山刑務所に収監された。
2005年2月に刑務所内の工場の作業中に、くも膜下出血のため緊急入院。意識の回復の無いまま3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて死亡。57歳没。
エピソード
逮捕までの15年近くの5459日間、日本各地を転々としていた福田だが、潜伏生活の中で最も大胆だったのは石川県根上町(現在は市町村合併により能美市)の和菓子屋の後妻(入籍はしておらず、事実上の内縁関係)の座に納まっていたことである。その店には、家が近所で当時、小学生だった松井秀喜も客としてよく菓子を買いに来ており、逮捕後のインタビューで「きれいで愛想のいい奥さんだった」と語っている。
金沢市のスナックで働いていた福田はその店の客だった和菓子屋の主人に見初められて同棲するようになり、店も手伝うようになる。福田は非常によく働き、接客も得意だったことから、店はたちまち評判となり、新しく改装するほどの繁盛店となった。和菓子屋の主人は福田をたいそう気に入り、正式に結婚を申し込むが、福田は正体の判明を恐れ、結婚を渋る。
あまりに結婚を渋る福田の態度に不審を抱いた親戚が石川県警察に通報し、警察は福田の逮捕に向かう。しかし、当日、近所の葬式の手伝いに出掛けていた福田は警察の行動を素早く察知し、とっさの判断で近くにあった自転車に乗り逃走。これにより逮捕は失敗する。このとき、警察は福田が整形手術を行っていたことを初めて知り、この事実は当時の週刊誌でも取り上げられた。その後は愛知県内でモーテルの客室清掃員などもしていたらしいが、詳しい足取りは不明である。逮捕後の供述では、大阪を拠点に、近畿地方・中国地方・北陸地方などの料理店などを転々としていたとしている。
その後も捜査網を巧みにくぐり抜け逃亡を続けるが、福井市に潜伏していた1997年、市内のおでん屋の店主から提供されたビール瓶とマラカスから採取された指紋が決め手となり、ついに福田は逮捕された。当時、時効を目前に控えたこの事件は盛んにテレビのワイドショーなどで取り上げられ始めており、福田の肉声も繰り返し放送されていた。福田はこの時、逮捕に繋がる情報を提供した店の常連客であり、店主や他の常連客はテレビでよく耳にする福田和子と声がそっくりな彼女を怪しむようになったのだという。逮捕の現場となったそのおでん屋はのちに区画整理によって取り壊された。 
 
福田和子 2

 

松山市で友人のホステスを殺害した福田和子(かずこ)は、この後整形手術で顔を変え、日本各地を転々としながら警察の捜査をかわした。逃走期間は約15年間に及ぶが、時効寸前に市民からの通報で逮捕される。
松山ホステス殺害事件
1982年8月19日に愛媛県松山市のマンションでホステス(当時31歳)が元同僚のホステスであった福田和子に殺害され、福田和子とその夫がマンションから家財道具を運び去って逃亡。家財一式が奪われたうえに、遺体が松山市内の山中に遺棄された強盗殺人及び死体遺棄事件である。 もともとは被害者に会うために松山に向かったのではなく知人に会うためであったが不在であった。
この事件で注目されたのが、犯人の福田和子が整形手術を受けたうえで当時の殺人罪の公訴時効である15年(延長を経て、現在は無期限)直前まで逮捕されず逃亡したことであり、マスコミ報道を見た市民による通報で逮捕されると言う劇的な幕切れを迎えたことであった。
事件当時、和子には夫と4人の子がいた。
殺害後、夫は和子に自首を勧めたが拒み、夫も死体遺棄の共犯で逮捕された。 被害者宅の家財道具は一式、和子が松山市内に借りたアパートに運び込んでいる多くの目撃証言があり、松山東警察署は強殺事件として捜査を開始した。
犯行4日後、和子は松山駅から急行列車と宇高連絡船で本州に逃亡、大阪経由で金沢市に15年にも及ぶ当て所ない逃亡生活を始める。逃走資金は60万円ほどであった。
和子は早速、金沢市内で求職するも30歳という年齢から飲食店関係に採用されなかったが、不採用であったスナックに飲みに行き情の深い経営者に採用された。 採用2日後、整形手術を受けるため上京した後、店に戻り、そこで市内の和菓子屋の店主と知り合い交際し内縁関係となる。 3代続く老舗和菓子屋を切り盛りし、店の売り上げも相当に伸びたという、また親戚と偽り実子を呼び寄せ店で働かせている。
3年後、指名手配書が全国に貼られ、和菓子屋の家族も和子の素性を疑い始め通報、店の知人の通夜の手伝い中に金沢中警察署員が斎場に急行したが、それを察知した和子は自転車で逃走し、名古屋市に向かう。市内のラブホテルで住み込みの客室係として採用される。しかし、たまたま名古屋の緑警察署に運転免許の更新に行った同僚が指名手配写真を見て、和子に自首を勧めたため逃亡、市内の別のラブホテルの面接を受けたが、その際、顔写真と、雇用契約の拇印をとられたため1988年5月13日名古屋市から離れ福井市に現れ、求職し住み込みでホステスをする。 1992年大阪市内の売春宿に移るが、すぐに辞める。 松山東警察署は、公訴時効が迫ってきていることに焦り始め、手配写真入りのテレフォンカードの配布、肉声の公開、懸賞金100万円という近代警察史上前例のない捜査手法を採用した。
福田和子15年間の逃亡生活
時効までの15年近く日本各地を転々としていた福田だが、潜伏生活の中で最も大胆だったのは石川県根上町の和菓子屋の後妻(婚姻せず。事実上の内縁関係)の座に納まっていたことである。
金沢市のスナックで働いていた福田はその店の客だった和菓子屋の主人に見初められて同棲するようになり、店も手伝うようになる。福田は非常によく働き接客も得意だったことから店は忽ち評判となり、新しく改装するほどの繁盛店となった。和菓子屋の主人は福田を大層気に入り、正式に結婚を申し込むが、福田は正体の判明を懼れ結婚を渋る。
余りに結婚を渋る福田の態度に不審を抱いた親戚が警察に通報、警察は福田の逮捕に向かう。しかし当日、近所の葬式の手伝いに出掛けていた福田は警察の行動を素早く察知、咄嗟の判断で近くにあった自転車に乗り逃走。逮捕は失敗する。このとき警察は福田が整形手術を行っていた事実を初めて知り、当時の週刊誌でも取り上げられた。
その後も捜査網を巧みに潜り抜け逃亡を続けるが、1997年福井市内に潜伏中、行きつけのおでん屋のママと常連客の通報が切掛けとなり、逮捕。逮捕成功に繋がった情報の提供者に懸賞金が支払われた。
懸賞金は慈善団体に寄付が為され、また逮捕現場となったおでん屋は区画整理により取り壊され現存していない。
福田和子(逃亡15年時効寸前に逮捕)
福井署は1997年7月29日、昭和57年8月、愛媛県松山市内のマンションで同僚のホステスを殺害したとして、愛媛県警から殺人容疑で指名手配されていた松山市生まれ、住所不定、元ホステス、福田和子容疑者(49)を福井市内の飲食店で発見、逮捕した。
同容疑者は指名手配直後、顔を整形、偽名を使って15年近くにわたり逃亡生活を続けていた。8月19日午前0時の時効成立まであと21日だった。
同署によると、今月24日「福井市内の飲食店に出入りしている女性客が手配中の福田容疑者に似ている」と、同店の男性客(59)から届けがあった。29日午後2時ごろ、同じ飲食店にいるとの情報があり、同日夕、店から出てきた福田容疑者に任意同行を求めた。
事情聴取に対し、福田容疑者は当初「ナカムラユキコ」と名乗り、指紋採取を拒否。否認していたが、手配指紋が一致し、容疑事実を認めたため、同6時40分逮捕した。
任意同行時には酒を飲んでいた。抵抗はせず、オレンジ色の上着、白のタイトスカートに、小物入れのバッグを所持。金、銀二本のネックレスを着け、赤茶色に染めた頭には白いバンダナを巻いていた。手配写真より少しやせていたが、疲れた様子はなかったという。
調べによると、福田容疑者は57年8月19日午後、松山市のホステス、安岡厚子さん=当時(31)=のマンションで安岡さんを絞殺した疑い。遺体は翌日、同市郊外の山中に埋めたとされるが、死体遺棄容疑は既に時効が成立している。
愛媛県警は犯行後に安岡さんの家財道具や預金通帳を奪い、大阪市内で現金59万円を下ろしていることから、強盗殺人容疑に切り替え追及する方針。30日早朝にも福井署から松山東署に身柄を移し、本格的に調べる。
福田容疑者は、金沢市のスナックでホステスとして働き、60年9月ごろ、知り合った和菓子店主と同居。63年2月から、名古屋市内のラブホテルに住み込みで働き、同5月に「下呂温泉に行く」と言い残したのを最後に足取りが途絶えた。
国内の犯罪捜査では、初の「懸賞金」100万円が愛媛県警察協会によって掛けられ、同容疑者をモデルにした小説が出版されるなど、逃走劇は全国的な話題となった。
福田和子の生い立ち
1948年(昭和23年)、愛媛県松山市に生まれる。
幼くして両親が離婚し、母親に引き取られ愛媛県川之江市(現四国中央市)に移る。母親は自宅で売春宿を経営していた。その後母は漁師と再婚し来島に移るが島の排他性に耐え切れず母子で今治市に移る。愛媛県内の高校に入学するものの交際中の同級生が事故死し、自暴自棄になり3年生の1学期に退学。
18歳のときに同棲していた男性と高松市の国税局長の家に強盗に入った罪で松山刑務所に服役中の1966年(当時18歳)、第1次松山抗争で逮捕された郷田会の関係者が看守を買収し、女性受刑者を強姦するという松山刑務所事件が起き、福田はこの事件で被害者となった。さらに、福田は移監された高松刑務所でも同様の被害に遭っているが、いずれも被害届を出すことが認められなかったため、公訴時効により事件の責任追及は行われなかった。
刑務所に収監された頃の手紙
私の弱さのせいで男性にたよったこともありますし、お酒も強くなりました。逃亡中にもかかわらず、ぜいたくな生活もしたこともあります。でも表面だけしかみられてないことが、とても悲しいのです。どんな高級品を身につけても、心の渇きや叫びがいやされるものではありません。私は一人っ子で育ったのですが ははは商売に力が入っていて欲しいものは不自由なく 買ってもらえたけれど心は空虚でした。だからね。結婚したらたくさんの子供を生んで にぎやかな家庭を夢見ていたのですが どこかで歯車が来るってしまって こんな数奇な人生を送ってしまった。何もかもなくしてしまったし 真実の愛もみつけられなかった。
これが私の調書にかかれているもので、私の言い分なんだけれど、検察側からは私がもう以前から売れっ子の○○さんに、売れないホステスの私がしっと心を起して計画をして、お金や家具をうばう決心をしていたといわれている所なのよ。本当にため息がでます。私はとても売れないホステスで○ちゃんに、嫉妬していたように疑われるし、調書でもいかにもそのように書かれている。何故私をそんなに売れないホステスに、仕立てなければいけないのかとても疑問です。又マスコミや本などでもそのように、書かれているでしょう。○○○のマスターもママも、私がナンバースリーだったことは、わかっているはずなのに〜。こうして周りの人達の嘘が、少しずつ積みあがって私は魔女になる。
松山刑務所事件
この事件は、第1次松山抗争で大量に逮捕された暴力団関係者が、刑務所の看守を買収した事件である。この汚職事件は1人の看守が、入所前から顔見知りであった本郷組関係の被告人に頼まれ、不正に手紙を投函し礼金を受け取った事がきっかけで起こった。この行動により施設の職員は軽くあしらえる人ばかりだと判断した囚人たちは、刑務官を脅迫、暴行する事態となった。
組員らは所内の鍵を使用し拘置所内を自由に歩き回る事が可能となり、飲酒、喫煙、花札賭博、領置金の脅し取り、女性囚人の強姦を行い、さらに看守も組員の仲介で女性囚人と関係を持つなど、拘置所はまさしく暴力団による無法地帯と化してしまった。この事件では、出所後の1982年に松山ホステス殺害事件を起こすことになる福田和子が強盗罪で服役中に強姦被害者となっている。
この問題は国会にも取り上げられ、1966年6月と7月、副看守長2人が自殺し、これでこの事件は一応の終息を見ている。
福田和子受刑者、3月に病院で死亡
(2005年8月26日) 強盗殺人罪で無期懲役の判決を受け服役中だった福田和子(ふくだ かずこ)受刑者が、2005年3月に和歌山市内の病院で死亡していたことがわかった。8月26日、複数の報道機関が伝えた。福田受刑者は、1982年のホステス殺害・死体遺棄事件で指名手配を受けたが、その後15年に渡り逃亡し時効成立直前に逮捕された。
報道を総合すると、福田受刑者は2005年2月、収監先の和歌山刑務所で倒れ、和歌山市内の病院に搬送され緊急手術を受けたが、意識は戻らず、3月10日に脳梗塞(のうこうそく)で死亡したという。57歳だった。  
 
林真須美

 

和歌山毒物カレー事件
1998年7月、和歌山市の新興住宅地の自治会が主催した夏祭りで、住民が作ったカレーライスに猛毒のヒ素が混入され、これを食べた4人が死亡、63人が急性ヒ素中毒になった。
現場近くに住む女(当時37)の周囲で不審なヒ素中毒現象が多発し、多額の保険金が女やその夫(同53)に流れていることが判明。和歌山県警など捜査当局は保険金詐欺容疑で強制捜査に乗り出し、同年12月、カレー事件についても殺人などの罪で女を起訴した。本人の供述を含め、犯行と女を直接結びつける証拠がないため、検察は祭り当日の住民の動きを詳細に再現するなど、状況証拠を積み重ね、他に犯人がいないことを立証した。
女は当初黙秘を続け、弁護側も無罪を主張したが、和歌山地裁は2002年12月、「動機は認定できなかった」としても「ヒ素を混入する機会のあったのは被告だけだ」と認定、求刑通り被告に死刑を言い渡した。05年6月の控訴審判決でも大阪高裁は一審判決を支持、女の控訴を棄却した。被告側は上告した。女は控訴審に入ってから、黙秘をやめて自らの言葉で無罪を主張したが、高裁は「意図的な操作や捏造」と供述の信用性を否定。
動機については、カレーを調理していたガレージ内でほかの主婦らから疎外されて犯行に及んだことが最も自然としたが、「被告が事実を語ろうとしない状況では断定は困難」とした。また女と共謀して、3件の保険金詐欺事件で総額約1億6000万円を詐取したとして詐欺罪の有罪が確定した夫は05年6月7日、刑期満了で出所した。
林真須美の半生
子ども時代と両親
林真須美被告は、小さな漁村で3人兄弟の末っ子として生まれます。一人娘でした。父親は地味な人でした。母親は、外向的でまめな性格で、保険の外交員として活躍しました。
小さいころの真須美被告は、ごく普通のかわいい子どもでした。両親ともに忙しく、あまり遊んではもらえなかったかもしれませんが、経済的な不自由はなく、当時この地域としてはめずらしくピアノも買ってもらい、小遣いも十二分にもらっていました。よく家の手伝いもするよい子だったようです。子ども時代の彼女を知る人々は、「明るい子」だったと語っています。同時に、「負けず嫌い」だったとも多くの人が言っています。
思春期・青年期
思春期になった真須美被告は、やせていて、どちらかといえば、内気で恥ずかしがり屋の清純な女の子でした。その一方で、負けず嫌いの激しい性格の一面ははむしろ強まっていきます。テストで悪い点をとったときなどは、悔しくてたまらなかったようです。いつもは笑顔でおだやかなでしたが、怒ったときには、まわりが驚くほどヒステリックになり、収まりがつかなくなりました。
看護学校時代
高校卒業後は、大学付属の看護学校に入学します。看護学校の2年生になった19歳の時、真須美被告は後に夫となる男性と知りあいます。
当時彼女は、看護学校の寮に入っていましたが、しつけや規則の厳しい寮生活で、窮屈な思いをしていたようです。「こんな生活は嫌だ。自由が欲しい」と彼女は語っています。
男性は、シロアリ駆除会社を経営する当時35歳の会社社長。結婚もしていましたが、派手な車で真須美被告を迎えに来ては、高価なプレゼントしたりしています。
彼女は、しだいにこの男性に恋愛感情を持ち、魅かれていきます。自分を束縛から解放し、自由にしてくれる男性に見えたのでしょうか。
結婚生活そして、保険金詐欺、カレー毒物事件
1983年林死刑囚は、元妻と離婚したこの男性と結婚します。男性にとっては、3度目の結婚でした。
しかし、すぐにトラブルが起こります。披露宴での行き違いから、建治は「てめえ、おれをコケにするつもりか! 恥をかかせやがって!」と、新妻の真須美を平手で殴りつけたのでした。二人の結婚生活はこうして始まりました。
2人の生活は、家賃3万円の3部屋のアパートから始まります。真須美も働きはじめます。ウエイトレス、化粧品販売。結婚の翌年1984年には、新築一戸建ての家を3500万円で購入しました。このときには、普通の住宅ローンを組んでいました。この間、二人の子供も生まれています。
さて、この後、彼女の周りでさまざまな事件事故が発生します。保険金詐欺を行い、大金を手に入れていったのです。
1995年には、園部地区にある120坪の家を7000万円で購入します。
この年の10月、真須美の母親が「急性白血病による脳出血」で死亡。67才でした。真須美は、保険金1億4000万円を手にしています。
1998年2月には、高級リゾートマンションの最上階を購入する契約をしています。同年3月 保険金目的で、知人にヒ素入りうどんを食べさせます。(殺人未遂罪)。そして、この年、1998年7月25日。カレー毒物事件が起こりました。4人を殺害、63人をヒ素中毒にしたとされています(殺人、殺人未遂罪)。
彼女は、自由を求めていたような気がします。そのための必死の努力を重ねてきたように感じます。しかし、その結果は犯罪行為でした(少なくとも保険金詐欺、そして死刑判決を受けている殺人)。
和歌山カレー毒物事件に関する、いくつかの疑問
決定的な物証はなく状況証拠しかないこと。(混入されたヒ素の鑑定への疑問も出されています)
検察は、被告が「激高」してカレー鍋に毒を入れたとしていますが、激高した様子は確認されていないこと。
犯罪心理学的には、保険金詐欺のような知能犯罪と無差別殺人を狙った毒カレー事件のような粗暴犯罪を、同一の犯人が起こすことは珍しいこと。
裁判
和歌山地検は98年12月29日に、同地区住民で元保険外交員・林真須美被告(37)を殺人、殺人未遂罪で起訴。起訴状によると、真須美被告は事件当日の正午から午後1時ごろまでの間、夏祭り会場近くの民家ガレージに置いてあったカレーなべに、殺意を持ってヒ素を混入したとされている。同被告はこのほか、保険金目的の殺人未遂や詐欺など8つの事件で3回にわたって起訴されている。29日の起訴により、事件発生以来5か月余りに及ぶ長期捜査も終了。
地検は、最新銃のハイテク装置を使った鑑定や、住民参加の現場検証などで得られた証言などから証拠は十分で、犯罪の立証は可能と判断した。被告人宅で検出された亜ヒ酸は微量。カレーに混入されに亜ヒ酸などとの同一性の確認のため、地検は、兵庫県・播磨科学企周都市の大型放射光施設「SPring8」や、茨城県つくば市の高エネルギー加速器研究機構「フォトン・ファクトリー」のハイテク施設で、「蛍光X線分析」による元素レベルでの同一性確認を分析科学者に依頼。
この鑑定の結果、カレーなべ、夏祭り会場近くにあった紙コップ、自宅台所の食品保存容器、真須美被告の親族が任意提出した50キロ缶やミルク缶などの4点(9試料)にあったヒ素化合物の亜ヒ酸に含まれる不純物の濃度が一致した。科学の世界では、同一性があると判断していい実験結果だという。被告人本人の前髪からもヒ素を検出している。地検は、これで真須美被告が自宅に保育していた亜ヒ酸を紙コップでガレージまで運び、なべに混入したことを立証できるとしている模様。
弁護側の弁論要旨
我々弁護人は本件事件受任後、2カ月に1〜2回のペースで現地に入り、住民達から事情を聞いてきた。
共通する話は、当時、地域の一部の住民の間にはトラブルが絶えず、犬が毒殺されたり、物置に放火されるという事件もあった。
現在もなお、地元では被告人が犯人ではないのではないかと、言う人たちがいるのである。
原審判決は、以下の事実をもって被告人が犯人であると認定している。
@ カレー鍋に混入されていた亜ヒ酸と被告人の自宅等にあった亜ヒ酸が同一であること
A 被告人が午後0時20分から午後1時までの間、1人でカレーを見張っており、カレー鍋に亜ヒ酸を混入する機会があったこと
B 他の時間帯において、他の者が亜ヒ酸を混入する機会がなかったこと
C 被告人およびその家族がカレーを食べていないこと
D くず湯事件をはじめとして、被告人が過去、飲食物に亜ヒ酸を混入して他人を殺害しようとしたという類似の犯罪を行っていること
@より 被告人宅等にあった亜ヒ酸が使われたとしても、これに接触できる人は被告人の家族を含めて20人近くに上る。しかも夫は当時、亜ヒ酸をプラスチック容器に入れて、夏祭り会場に面した貸ガレージに置いていた。このガレージは施錠されておらず、誰でも入ろうとすれば入ることができたのである。
Aより 被告人はずっと次女と一緒であった。次女もずっと一緒だったと証言している。被告人と見張りをバトンタッチした女性も、次女と被告人がガレージの中で一緒に並んで座って、なごやかに話をしていたと証言している。近所に住む女子高生は「午後0時から午後1時にかけて、白いTシャツを着て首にタオルを巻き、髪の長い女性が、1人でカレー鍋の周りを歩き回り、西鍋の蓋を開けた。そして、その女性は被告人であった」と証言している。しかし、被告人が着ていたのは黒のTシャツである。首にタオルを巻いてもいなかったし、髪も長くなかった。白のTシャツを着て首にタオルを巻き、髪が長く、そして西鍋の蓋を開けたのは、実は被告人の次女だった。女子高生は被告人と次女を見間違えたのである。次女は当時、体重約70キロ、身長約160センチと被告人とよく似た体型で、しかも白のTシャツを着て、首にタオルを巻いていた。近所の女子高生は、被告人と次女を同一人だと見間違えたものである。この目撃証言は、被告人が犯人であると疑わしめるものではなく、むしろ、次女の証言を裏付けるものである。また、その場所には、4歳になる1番年下の子供もいたのである。しかも次女は、鍋は違ったとしてもカレーの味見をしたのである。もし、被告人が毒物を混入したとすれば、そのような危険な場所に子供を連れて行くであろうか。
Bより 他の時間帯においては、他の者が毒物を混入する機会がないとされていることにも、重大な疑問がある。原審判決は、被告人の場合以外はすべて複数の者がカレー鍋を監視していたことを理由に、被告人が監視していた時間帯以外に毒物を混入する機会はなかったとしている。カレー鍋は午後3時にガレージから夏祭り会場に運ばれた。そこでは夏祭りの準備が行われており、多数の人が出入りしていた。そして午後5時からは蓋が取り払われ、再度加熱されて、入れ代わり立ち代わり木のしゃもじで1時間余りにわたってかき混ぜられた。これらの間に、誰かが毒物を混入するすきが全く生じなかったとは断定できない。
Cより 被告人およびその家族がカレーを食べていないとされていることは、被告人が疑わしいとされる理由にならない。確かに、被告人およびその家族はカレーを食べていない。(次女はガレージでは味見しているが)しかし、それは被告人の夫が急遽予定を変更して、被告人や家族を連れてカラオケに行ったからに他ならない。被告人は長女と三女を家に残してカラオケに出かけている。しかも出かけるにあたって、子供たちにカレーを食べないようにとは指示していない。そして、子供たちのために晩ご飯も用意していない。もし被告人が毒物を混入していたとすれば、何らかの指示をしないはずがない。このこともまた、被告人が犯人でないことを証明する有力な証拠である。
以上のとおり、被告人は本件事件の犯人ではない。としています。
彼女が起こした保険金詐欺は22件、儲けた金額も大きい。
カレー事件と類似した手口だが、これらの事件では死者は出ていない。
このカレー事件は、無差別大量殺人事件であり、金が入ることは一切なく、逆に自分に疑いがかかってくるのは必至。
なのに何故自分の首を絞めるようなことをするでしょうか?
真須美被告には、動機が無い。
冤罪の可能性は無視できないと思います。
和歌山毒物カレー事件 林真須美被告の死刑確定
和歌山市で平成10年、4人が死亡、63人が急性ヒ素中毒になった毒物カレー事件で、殺人などの罪に問われ1、2審で死刑判決を受け、今年4月に上告を棄却された林真須美被告(47)側の判決訂正申し立てについて、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は申し立てを棄却する決定をした。真須美被告の死刑が確定した。決定は18日付。
申し立てで弁護側は「カレーに混入されたヒ素と同じ特徴のヒ素が林被告の自宅などから発見されたとする鑑定は信用性がなく、不審な挙動をしていたとする目撃証言は人違い」などと事実誤認があると主張。しかし、同小法廷は「判決の内容に誤りのあることを発見しない」とした。
和歌山毒カレー事件、ヒ素鑑定により逆転無罪の可能性が
最高裁は2009年5月、犯人とされる林眞須美被告(51歳)の上告を棄却し、死刑が確定した(現在は再審請求中)。が、ここにきて大ドンデン返しが?2月28日、林死刑囚の弁護団が再審請求補充書を和歌山地裁に提出した。その一文を紹介する。
「証拠とされた鑑定のデータを専門家が分析した結果、(林死刑囚宅の)台所から見つかった保存容器内のヒ素と、カレーに混入する際に使ったとされる紙コップ内のヒ素は別物とわかった」
もしこの主張が本当なら、林死刑囚が自宅からヒ素を持ち出し、夏祭り用に用意されたカレーの鍋に投入、住民を無差別に殺そうとしたという検察の主張は崩れてしまう。
そう、つまり林死刑囚に逆転無罪が言い渡される可能性が出てきたのだ。
当時、裁判所が検察の主張を認めたのは、兵庫県にある大型放射光施設「スプリング8」の鑑定結果を採用したからだった。
「スプリング8」はどんな微量の分子構造も分析できる最先端の施設で、その建設費はなんと1100億円!その分析結果が林死刑囚をヒ素混入の犯人と結論づけたのだから、裁判所が信じたのもムリはない。 
 
和歌山毒物カレー事件

 

1998年7月25日夕方、和歌山県和歌山市の園部地区で行われた夏祭において、提供されたカレーに毒物が混入された事件。主婦の林眞須美が犯人として逮捕され、2009年5月18日には最高裁判所にて死刑が確定したが無実を訴え再審請求中。
事件
1998年7月25日に園部地区で行われた夏祭りで、カレーを食べた67人が腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送され、4人(64歳男性、54歳男性、16歳女性、10歳男児)が死亡した。
当初保健所は食中毒によるものと判断したが、和歌山県警は吐瀉物を検査し、青酸の反応が出たことから青酸中毒によるものと判断。しかし、症状が青酸中毒と合致しないという指摘を受け、警察庁の科学警察研究所が改めて調査して亜ヒ酸の混入が判明した。
逮捕後
1998年10月4日、知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺の容疑で主婦・林眞須美(はやし ますみ、1961年7月22日 - )が逮捕された。さらに12月9日には、カレーへの亜ヒ酸の混入による殺人と殺人未遂の容疑で再逮捕された。
林は容疑を全面否認したまま裁判へと臨み、第一審の和歌山地裁の初公判では5220人の傍聴希望者が出た(これはオウム真理教事件の麻原彰晃や覚せい剤取締法違反の酒井法子に次ぐ記録であり、事件発覚前に無名人だった人物としては最高記録である)。
裁判
裁判で検察側が提出した証拠は約1700点。1審の開廷数は95回、約3年7か月に及んだ。2審は結審まで12回を要した。直接証拠も動機の解明もできていない状況の中、上告審では弁護側が「地域住民に対して無差別殺人を行う動機は全くない」と主張したのに対し、最高裁は判決で「動機が解明されていないことは、被告が犯人であるとの認定を左右するものではない」と述べ、動機を解明することにこだわる必要がないという姿勢を示した。
第一審・控訴審の大阪高裁において共に死刑判決を受け、林真須美側は上告したが、2009年4月21日に最高裁判所が上告を棄却。判決訂正も5月18日付で棄却したため死刑が確定した。
2014年現在、林は大阪拘置所に収監されており、戦後日本では11人目の女性死刑囚である。再審請求中。2014年3月、林は支援者の釜ヶ崎地域合同労働組合委員長・北大阪合同労働組合執行委員長稲垣浩と養子縁組している。
 
角田美代子 / 尼崎事件

 

尼崎事件
2012年10月に兵庫県尼崎市で発覚した連続殺人死体遺棄事件である。1987年頃に発生した女性失踪事件を発端に、主に暴行や監禁などの虐待により死亡したとされる複数名の被害者が確認されている。報道では「尼崎連続変死事件」などとも呼ばれることが多い。
この事件の主犯格とされる女(以下、「主犯」)は、少なくとも25年以上もの間、兵庫県尼崎市南東部で、血縁関係にない人物を多く集め、「疑似家族」を築きながら共同生活を営んでいた。そして、主犯の周辺では、1987年頃に当時、主犯と同居していた女性(A家母)が失踪したことを発端に、複数の不審死や失踪事件が相次いで発生していたが、長年にわたり、事件が表に出ることはなかった。しかし、2011年11月、主犯らに監禁されていた40代女性(F家長女)が監禁状態から抜け出し警察に駆け込んだことで、主犯がF家長女に対する傷害容疑で逮捕され、次いで、その女性の母親(F家母)の死亡事件が発覚する。さらに、この事件を端緒に捜査は進められ、2012年10月に、別件(C家長男・C家母年金窃盗事件)で逮捕されていた従犯者が全面自供したことにより、ようやく一連の事件が明るみに出ることになった。ところが、主犯は、事件について多くを語らないまま、2012年12月12日、兵庫県警本部の留置所で自殺し、事件の真相解明は極めて困難な状況になってしまう。
従犯者の供述をもとに、事件の捜査を続けてきた兵庫、香川、沖縄の各県警による合同捜査本部は、2014年3月に解散し、捜査は事実上終結しており、確認された8名の死亡者のうち6名について、殺人や傷害致死の罪などで、主犯やその親族など11名が起訴された。また、現在も主犯の周辺で3名の行方が判明しておらず、1名は主犯によって死亡したとされるが遺体が発見されておらず、他2名については主犯から逃れているため後に行方不明となっており公開手配されている。
数ある大量殺人事件の中でも逮捕、書類送検者の数が17名と多く、その中には被害者の子や姉妹といった親族も含まれていることが、この事件の大きな特徴の一つである。また、死亡事件以外に特筆すべき事柄として、些細な弱みにつけこんで威圧的に家族を支配する、いわば「家族乗っ取り事件」を主犯が複数回起こしていたことも明らかになった。そこでは、多くの人々が、親族間同士での暴力を強要されたり、飲食や睡眠を制限されるなど虐待され、さらには、財産を奪われたり、家庭崩壊に追い込まれるといった被害を受けていたことも判明している。逮捕、書類送検者には、そういった事情により、主犯に取り込まれ「疑似家族」の一員となったり、否応なく、事件に関与せざるをえなくなったと思われる人物も多く含まれている。
角田美代子
25年以上にわたって、尼崎市を中心に兵庫県、高知県、香川県、岡山県、滋賀県、京都府の6府県で、数世帯の家族が長期間虐待、監禁し、10人以上を虐殺した凶悪な殺人犯である。以前の苗字は「月岡」。2011年11月の大江和子さんドラム缶事件で発覚した。
主犯・角田美代子(64歳・2012年)は、従犯とされる親族の在日韓国人の李38歳(2012年)やその他数名の取り巻きを従えて、標的とした複数の家族を暴力的に支配して、家庭に居座る、裸で外を歩かせる、などあらゆる虐待を繰り返し、結果死亡した女性はドラム缶に詰める、などした。角田美代子らによって暴力的・精神的に支配された被害者家族らは家ごと乗っ取られ、互いに殴打し合わされたり、監禁され暴行されたり、全財産を奪われたりしたが、角田美代子の手口は巧妙で、自ら手を出すことは控えめだった。
角田美代子らは、些細なことに難癖をつけては弱みを見せる相手を脅迫し、多数の無法者を引き連れて家庭に侵入し、金品をむしり取ることを生業としており、夜の街で獲物を探し歩いていた。角田美代子は普段から飲み仲間に、「交通事故に遭ったら金になる」など当たり屋の指導をするなどし、うっかり隙を見せて食い物になってしまった家族らのその後は凄惨で、高松市の谷本家は2003年5月頃、餓死寸前になり、服も着させて貰えず、父親の谷本誠さんが全裸で長女の茉莉子さんをおんぶして親族の元に「何か食べさせてほしい」と、助けを求めてきたこともあった。
またある時は谷本夫婦揃って全裸で泣きながら親族に金を借りに来ることもあり、やがては親族までもが呼び出され、次女・瑠衣が「お父さん、ごめんね」と泣きながら両親を顔が腫れるまで殴らせられている光景を目の当たりにし、「情けなくてつらくて、ノイローゼになるかと思った」とショックを受けた。
しかし、警察(兵庫県警尼崎東署、香川県警高松東署、高松南署)は再三親族や、谷本誠さん、近隣住民などから被害相談や通報があったにも拘らず、全く対応することはなく、「事件ではないので動けない」などと繰り返し、結果的に長年の間、被害者たちはなすすべもなく角田らの暴力、虐待の前に見殺しにされ、2011年管轄外の大阪府警が大江香愛(ドラム缶遺体の大江和子さんの長女)の駆け込みを信じて捜査を行ったことで、ようやく事態が公になった。被害者たちは、何度も逃げたが、そのたびに連れ戻されていた。
また中には、保険金目的に崖から転落を強要されて殺された橋本さんもいるが、この時も警察は現場の聞き込みや生命保険契約有無の確認さえ怠り、角田美代子達の言うがまま事故として処理していた。また、兵庫県警は角田逮捕後も角田宅の現状維持さえ怠り、競売に出されるがままになっており、逮捕一年後、2012年10月になってようやく家宅捜索を行うが、既に一味残党に証拠隠滅のため、監禁小屋を撤去されてしまうなど捜査の遅れが目立った。2012年11月7日、角田美代子や李、その内縁の夫など8人が再逮捕、または逮捕された。
2012年12月12日、角田美代子は留置所にて自殺した。64歳。重要なニュースにもかかわらず、北朝鮮のミサイル発射や衆議院選挙などのニュースもあったためあまり報道されなかった。 
 
木嶋佳苗 1 / 婚活連続殺人事件

 

2009年(平成21年)9月に発覚した木嶋佳苗による大量殺人事件である。2007年からの推定殺害人数は6人。被害者達から騙し取った金額は、1億円以上にのぼる。
2009年8月6日、埼玉県富士見市の月極駐車場内にあった車内において会社員大出嘉之さん(当時41歳・自分のブログではトーマシールド、愛称はトマちゃん)の遺体が発見された。死因は練炭による一酸化炭素中毒であったが、自殺にしては不審点が多かったことから警察の捜査が始まった。 その結果、大出嘉之さんは被疑者の住所不定・無職の木嶋佳苗(当時34歳)と交際していたことがわかり、捜査していくにつれて木嶋にはほかにも多数の愛人がおり、その愛人のうち5人が不審死を遂げていることがわかった。埼玉県警は木嶋が結婚を装った詐欺を行っていたと断定し、9月25日に木嶋を結婚詐欺の容疑で逮捕した。また、逮捕時に同居していた千葉県出身の40代男性から450万円を受け取っていた。
2010年(平成22年)1月までに木嶋佳苗は7度に及ぶ詐欺などの容疑で再逮捕されている。警察は詐欺と不審死の関連について慎重に捜査している。
2010年2月22日、木嶋は大出嘉之さんに対する殺人罪で起訴された。窃盗や詐欺罪などですでに起訴されており、あわせて6度目の起訴となる。10月29日、東京都青梅市の寺田隆夫さん(当時53歳)を自殺にみせかけて殺害したとして警視庁に再逮捕された。ただし寺田隆夫さんの遺体は当時は自殺と断定されて解剖されておらず、死因に関する資料が乏しい中での極めて異例の殺人罪の立件である。
殺害された被害者
福山定男さん(70)
千葉県松戸市の自営業福山定男さん。2007年8月死亡。70歳。自宅の風呂場で死亡。死因不明。木嶋に貢いだ金額は約7,400万円。
寺田隆夫さん(53)
2009年2月4日に東京都青梅市の会社員寺田隆夫さん(53歳)が死亡。死因は一酸化中毒死。金額は約1,700万円。
木嶋とはインターネットで知り合い、寺田さんの姉は「弟は結婚すると思っていた」と証言。1,700万円を木嶋に渡した。 寺田さんは1月30日夜に立川市内の会社を退社後、翌日から出社せず 遺書はなく、玄関や窓はすべて施錠 自宅マンションの鍵のうち1本がない 練炭の入った6個の七輪が各部屋に1個ずつ設置 警視庁から木嶋への電話「『もし結婚できないんだったらもう死にたい』と話していた。自殺したのでは」と木嶋は話した。
安藤建三さん(80)
2009年5月15日に千葉県野田市の安藤建三さん(80歳)が死亡。死因は自宅で焼死。ただし、遺体から睡眠薬の成分が検出。金額は180万円。
安藤建三さん(80)も、木嶋とネット上で知り合った。木嶋はヘルパーとして出入りしていたという。こちらも練炭が焚かれ、安藤さんの体内から睡眠導入剤とみられる成分が検出。 木嶋が火災当日に男性のキャッシュカードから180万円を引き出しており、県警が関連を調べている。
大出嘉之さん(41)
2009年8月6日に東京都千代田区の会社員大出嘉之さん(41歳)が埼玉県富士見市の駐車場のレンタカー内で練炭自殺に見せかけて死亡。死因は一酸化炭素中毒死。金額は500万円。
埼玉県警は以下不審点から捜査を開始した ドアが全て施錠され中にいたが男性は鍵を持っていない 火を付けたライター・マッチが車内にない 遺書がない 大出さんからアルコール成分を検出 司法解剖で体内から睡眠導入剤が検出 大出さんが事前に練炭を購入した痕跡がない 県警は前日の夜に大出さんと一緒にいた木嶋に事情聴取したところ、木嶋は「男性と駐車場に行ったが、けんかをして別れた。そのショックで自殺したのではないか」と答えた。 大出嘉之さん(41)は、木嶋と出会い系サイトで2008年夏に知り合った。母親に「いい人ができた」などと打ち明け、結婚資金として木嶋に500万円を渡していた。「結婚しましょう。会うのにも、物を買うのにもお金がいる。貸してほしい」と言われたためである。また、亡くなる前日には、自らのブログで婚活報告をしていた。 「実は41歳のトマちゃんは婚活中でしてwつか今日相手のご家族と会うのです。ここ最近ずっと相手と新居を探したり新生活のことを話し合ってるんです。今夜から2泊3日で相手と婚前旅行に行きます」戦車模型ちゃんねるB-Yahoo!ブログ ところが、そのわずか20時間後、車の中から変死体で見つかる。「こんな書き込みをする人が自殺するはずがない」。埼玉県警は交際相手だった木嶋を徹底マークする。 練炭が焚かれ自殺を装っていたが、大出さんの遺体から3種類の睡眠薬を検出。同じ成分の睡眠薬を木嶋の自宅から押収。そして直前まで一緒にいた木嶋が事件前にネットで練炭を大量に購入していたことなどが判明し、埼玉県警は殺人事件と断定した。 亡くなった大出さんは、プラモデルのマニアとして知られ、最後のブログ日記では、結婚後しばらくしてプラモを再開したいと写真付きでつづっている。その思いはかなわなかった。軍事プラモデルのコンテスト受賞歴もある大出さんは、作品をネットで販売するほどだった。プラモデル仲間の男性(47)に「大きな賞をたくさん取って箔をつけて売れるプラモデルを作るのが夢。万人受けするモデルを作りたい」と熱っぽく語ったという。ブログには、お悔やみのコメントが殺到、1,900以上に達した。 死亡日は不明だが、2件の関東地方在住の男性の不審死がある。こちらも遺体発見現場には練炭があった。
詐欺など
静岡県の40代男性から2008年9月から12月にかけて合計130万円をだまし取ったとして(詐欺罪)。「専門学校を卒業するための学費を援助してほしい」⇒ 「あなたとはこれ以上付き合えない」と一方的に別れ話
長野県の50代男性から2008年10月から12月にかけて約190万円をだまし取ったとして(詐欺罪)。「専門学校を卒業するための学費を援助してほしい」⇒ 「あなたとはこれ以上付き合えない」と一方的に別れ話
静岡県の40代男性から女性とホテルで就寝中の2009年1月10日から翌日ごろに、財布から5万円を盗んだとして(窃盗罪)。
50代男性から2009年7月中旬から下旬にかけて百数十万円をだまし取ろうとしたとして(詐欺未遂罪)。
東京都の41歳男性から2009年7月24日に四百数十万円をだまし取ったとして(詐欺罪)。
長野県の50代後半男性から2009年8月に約140万をだまし取ろうとしたとして(詐欺未遂罪)。
埼玉県の30代後半男性から2009年8月から9月にかけて約70万円を取ろうとしたとして(詐欺未遂罪)。
木嶋佳苗について
木嶋はネット上でこれまでも数多くの犯罪を重ねている。2003年3月には、ネットオークションでパソコンを売るとウソをついて、10万円をだまし取ったとして警視庁に逮捕されている。9件120万円の余罪があったとされ、懲役2年6月、執行猶予5年の有罪判決が確定している。
ネットオークション詐欺で無職女逮捕
警視庁捜査二課と八丈島署は二十五日、詐欺の疑いで板橋区徳丸2、無職木島佳苗容疑者(28)を逮捕した。調べでは、木島容疑者は一昨年1月下旬、偽名を使って大手ネットオークションの掲示板に「パソコンを売る」とうそを掲載。同年2月上旬、八丈町の自営業男性(40)が電子メールで購入の申し込みをすると、同容疑者が開設した目黒区内の都市銀行の支店の口座に代金10万円を振り込ませ、だまし取った疑い。木島容疑者は「別人がやったこと」と容疑を否認しているが、同課は同様の手口で9件120万円の余罪があるとみて追及している。
ところが、これに懲りず、ネットで知り合った前出とは違う男性2人に結婚の約束をし、大学院の学費や生活費が必要とウソをついて、計320万円をだまし取った疑いで埼玉県警に09年9月逮捕された。さらに、別の男性2人への計210万円の詐欺未遂の疑いでも再逮捕されたのだ。
ネット上では、木嶋は一部で危険人物視されていた。グルメ系のオフ会にも顔を出していたといい、2ちゃんねるには、悪評が書き込まれていた。10月28日発売の東京スポーツによると、オフ会で出会った男性に、「ビル持ち男性と出会ってお金をもらった」などと自慢をしていたという。
木嶋は、当初はピアノ講師、後にフードコーディネーターと称していたが、定職にはついていなかった。にもかかわらず、月額21万9000円の池袋駅西口前の14階建てマンション最上階に住み、ベンツ(1台目のベンツを3ヶ月で2台目に買い換えている)を乗り回し、3か月で70万円もかかるというフランス料理専門学校「ル・コルドン・ブルー 代官山校」に通うなど、セレブな生活をしていた。そのため100キロ近くに体重が増えていた。
詐欺方法 / 木嶋は嘘が得意であり、吉川桜という偽名を用いて、父親は東大教授で、自らはピアノ講師、フードコーディネイターであると語っていた。出会い系サイトでは貯金のある高齢独身男性をターゲットにし、「結婚しましょう」「自分は学生で、学費が3カ月未納になっている。卒業したら尽くすわ」と自分の口座に金を振り込ませていた。
異常性 / 被害者とされる男性が変死していくのは満月の日が多かった(2009年8月6日が満月の日)が、木嶋のブログ『かなえキッチン』『桜の欲求不満日』においても満月に関する記述が多い。また、そのブログでは木嶋が厳選したとされるセレブ食が多数掲載されており、更新数も1年半で2,000回を超えるというものだった。
木嶋のブログ「かなえキッチン」
「食を通じて楽しさと幸せのお福分け♪」「おなかも心も満たされるお料理で、みんなと「口福」を堪能し続けたいですね♪」
2009年9月9日 (水)
いつも「かなえキッチン」をご覧になってくださっている方に励まされながら楽しく更新を続けてきましたが、少しお休みをいただきます。
9月9日に更新停止ということは、詐欺容疑で逮捕されることを知ってからブログを書いたのか?それとも、他にブログを閉鎖する要因が何かあったのか。
2009年5月17日 (日)
私は自宅では愛犬の介護もあるので、お昼までのお約束でお手伝いをしました。 夜、約束の時間になっても連絡がこないので、どうしたのかしらとこちらから電話をすると「現在おかけになった地域では、ネットワーク設備が故障している、または相手の通信機器の電源が入っていないか故障していると思われます」とアナウンスが流れました。 どういうことかしら?と思い、翌日電話をしても繋がらないので、心配になってご家族の携帯電話に連絡をすると、「昨日の午後自宅が火事で全焼しました、父親はその中にいて他界しました」と言われて… 私がお手伝いをして帰宅し、数時間後の出来事だった様子。おじいさまと最後に会ったのは、私ではないか、ということで、その後色々なところから事情を聞かれて、サスペンスドラマのような一日でした。
安藤建三さん(80歳)殺害の2日後にこの日記を書いている。
2009年2月13日 (金)
一部自動車教習所に通っていた時から、免許を取得したら「スリーポインテッド・スター」のエンブレムがついている車に乗りたい♪それ以外の車なら乗りたくないわ、と思っていました。 それは以前Hさんの車に乗せて頂いた時に、そのHさんの姿がとても素敵で、私も車を運転するならこういう車に乗りたいわ♪と憧れに思っていたからです。 そしてその時の車の色の美しさにも魅了されました。 (中略)ワインレッドと思っていたその色は、「カーネリアンレッド」と呼ぶそうです。 (中略)
でも、今回Eクラスのカーネリアンレッドを選んだのは、自分の好みでもありますから、後悔はありませんし、とっても気に入っております。三ヶ月のお付き合いでしたが、昨日まで乗っていたシルバーの車も、手放すのが惜しいと感じるほど愛着が湧いていました。なんといっても、初めて乗った車ですもの。
Cクラスのベンツ購入3ヵ月後にEクラスのベンツを騙し取った金で購入。
報道
埼玉不審死事件、殺人容疑で35歳女を逮捕 (2010/2/1)
埼玉県内で昨年8月、東京都千代田区の会社員大出嘉之(おおいで・よしゆき)さん(当時41)が乗用車内で死亡しているのが見つかった事件で、県警は大出さんを殺害したとして、同豊島区に住んでいた無職木嶋佳苗(きじま・かなえ)容疑者(35)=詐欺罪などで起訴=を殺人容疑で1日、再逮捕した。木嶋容疑者の周辺で他にも3人の男性が急死しているとして、千葉県警などと協力し、木嶋容疑者の関与を調べる。 埼玉県警によると、木嶋容疑者は昨年8月5日、埼玉県富士見市内の駐車場に止めたレンタカー内で練炭に火をつけ、大出さんを一酸化炭素中毒で殺害した疑いが持たれている。
遺体は翌6日朝、発見されたが、遺体から睡眠導入剤の成分が検出されたり、現場の状況に不審な点があったりしたことから、自殺に偽装した殺人の疑いが強いとみて県警が捜査を進めていた。
その結果、木嶋容疑者が、かかりつけの診療所から何度も睡眠導入剤を処方され、インターネットで練炭や七輪を購入していたことなどがわかった。
木嶋容疑者は、大出さんとインターネットの結婚相手紹介サイトを通じて知り合い、交際していた。県警の調べに当初、遺体発見前日の5日に大出さんと一緒にいたことは認めたが、「けんかして別れた」などと説明し、死亡への関与は否定していた。
大出さんは死亡直前、自身のブログに「今夜から2泊3日で相手と旅行に行きます」と書き込み、大出さんの口座からは事前に約470万円が引き出されていた。
県警は、大出さんら6人の男性に結婚話を持ちかけて現金をだまし取ったなどとして昨年9月以降、詐欺や詐欺未遂、窃盗の容疑で逮捕、再逮捕を繰り返す一方、大出さん死亡への関与も調べてきた。
大出さん以外にも木嶋容疑者の知人男性3人が2007年から09年にかけて千葉県や都内で不審な死を遂げており、総額1億円近くが木嶋容疑者に渡った可能性があるという。
連続不審死事件 (2010/10/29)
東京都青梅市のマンションで09年1月、会社員、寺田隆夫さん(当時53歳)が死亡した事件で、警視庁捜査1課は29日、住所不定、無職、木嶋佳苗被告(35)=埼玉県の事件で殺人罪などで起訴=を埼玉県警川越署から移送し、殺人容疑で再逮捕した。
首都圏連続不審死事件で殺人容疑での立件は2件目。
捜査1課は埼玉事件と同様、インターネットの結婚相手紹介サイトで知り合った寺田さんとの意図しない結婚話の進展に危機感を募らせた木嶋容疑者が、練炭自殺を装って殺害したとみて追及する。
逮捕容疑は、09年1月30日夜〜31日、寺田さんの自宅マンションで練炭を燃やし、寺田さんを一酸化炭素中毒死させたとされる。
寺田さんは同2月4日、布団の上で死亡しているのが発見された。青梅署は当初、自殺と判断した。
だが捜査1課の再捜査で▽現場にあったものと同型の七輪を木嶋容疑者が事件直前にネットで購入した▽事件前後に木嶋容疑者やその車が現場周辺で目撃されていた−−などが判明。
木嶋容疑者が用意した練炭を燃やし自殺に見せかけ寺田さんを殺害したと判断したとみられる。
木嶋容疑者は埼玉県富士見市で09年8月、交際中だった東京都千代田区、会社員、大出嘉之さん(同41歳)を殺害したとして2月に起訴された。埼玉県警の調べに否認しているという。
連続不審死事件 (2010/12/02)
首都圏の連続不審死事件で、千葉県警は一日、同県野田市の無職安藤建三さん=当時(80)=への殺人容疑で住所不定、無職木嶋佳苗容疑者(36)を再逮捕し、野田署に捜査本部を設置した。殺人容疑での逮捕は埼玉県警、警視庁に続き三件目。
捜査本部によると、木嶋容疑者は「私は安藤さんを殺害していません」と容疑を否認している。既に起訴された二件の殺人罪についても否認している。
逮捕容疑では昨年五月十五日午前、安藤さん宅で、安藤さんに睡眠導入剤を服用させて
眠らせた上で、練炭数本に火を付け燃やし一酸化炭素中毒と熱傷で死亡させたとされる。 安藤さん宅は同日午後一時ごろ出火し全焼。和室で安藤さんの遺体と練炭数本、七輪(しちりん)一個が見つかり、司法解剖で遺体から睡眠導入剤の成分が検出された。
捜査関係者によると、東京都内の診療所で木嶋容疑者に処方されたベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤と成分が一致。練炭と七輪は木嶋容疑者が数日前にインターネットで購入したという。
同容疑者はネットの介護ヘルパー募集サイトで安藤さんと知り合い、一昨年十月ごろから安藤さん宅に出入りしていた。火災当日の朝も同宅を訪れ、野田市内の現金自動預払機で、安藤さんの預金口座から約百八十万円を引き出したという。
2011年3月の木嶋の様子
詐欺容疑での逮捕から既に1年半が経っている。捜査関係者が獄中生活を明かした。
「支給される食事では足りないのか、自分で弁当やお菓子を注文して食べている。こないだはハンバーグ弁当をペロリと平らげていました。運動も制限されているので、身体は大きくなる一方……不摂生と長期の取り調べが身体に負担を与えているようで、医師から薬を処方してもらっていました」
同地裁では来る公判に向けて公判前整理手続きが進められているも、長期化するのは必至の情勢だという。再び捜査関係者の話。
「起訴内容を認めれば3人を殺害したことになり、極刑も確実。雑談には応じるんですが、殺人については、『黙秘します』とダンマリで、貫禄すら漂っている。検察は状況証拠の積み重ねで公判を維持させるつもりでしょうが、自供も直接証拠もない。展開が読みづらい裁判員裁判を闘うだけに、検察側にも不安が残る」
関係者の間では初公判は来春にずれ込むと見られている。“完食”“完黙”の被告に、検察の打つ手が見物である。
初公判開始(2012年1月10日)
練炭自殺に見せかけ、都内の会社員・寺田隆夫さん(当時53歳)、千葉県の無職・安藤建三さん(同80歳)、都内の会社員・大出嘉之さん(同41歳)の3人を殺害したとして、殺人罪などで起訴された木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判(4月13日判決)の初公判が2012年1月10日、さいたま地裁(大熊一之裁判長)であり、木嶋被告は「私は殺害していません」と3件の殺人容疑をいずれも否認し、無罪を主張した。殺人を除く7事件も、2つの詐欺事件を認めたほかは否認した。
詐欺容疑で逮捕されてから約2年3か月ぶりに公の場に姿を見せた木嶋被告。この日は青いカーディガンにベージュのスカート姿で入廷し、長い勾留生活にやつれた様子はなかった。
罪状認否で「(亡くなった3人とは)結婚を真剣に考えていました」と用意したメモを読み上げると、午後の法廷では濃紺のジャケットに着替え、女性刑務官には笑顔を見せる場面も。その一方で、休憩時の退廷を見守る報道陣には顔をしかめた。
証拠調べで大出さんの遺体写真が卓上のモニター画面に映し出されると、顔をゆがめる裁判員もいたが、検察官から大出さんの殺害時に使用したとされる練炭やコンロを目の前に示されても、木嶋被告は動揺する様子を見せなかった。
検察側は起訴状朗読などで、木嶋被告と殺人や詐欺事件の被害者との生々しいメールのやりとりを明らかにした。
「男性2人と付き合ったが、どちらも死別しました」「恋人ではなく旦那さまを探しています」「ラブホテル、ご一緒していいですよ」「肉体関係の相性はある。避妊しなくても構わない」
木嶋被告のメール内容は、どの男性に送ったものもほぼ同じで、〈1〉介護の仕事をしているが、仕事が忙しく、料理専門学の授業料が足りない〈2〉授業料を恋人に負担してもらうのが愛情の証明〈3〉早い期間に肉体関係を結ぶことは自然なこと―などと結婚や肉体関係をちらつかせ、金を無心するもの。死亡した男性3人を含め、サイト利用以降、最大5人と同時に交際。総額3,000万円近い金銭を得ていた。また、交際期間の長い恋人がいたが、「ヨシカワ サクラ」という偽名を名乗っていたという。
一方、弁護側は「亡くなった3人の男性とは性交渉がうまくいかなかったので別れた」などと主張。亡くなった3人の死因については、寺田さんは自殺、安藤さんは失火、大出さんも自殺の疑いがあると主張した。
裁判員裁判第23回公判(2012年2月17日)
首都圏の連続不審死事件で、交際男性3人への殺人罪などに問われた無職、木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判第23回公判が2月17日、さいたま地裁(大熊一之裁判長)で開かれた。
この日始まった被告人質問で、木嶋被告は3人殺害を「していない」とあらためて否認。一方で、金銭感覚、男性観など「性」に関する特異な一面を赤裸々に告白した。
木嶋被告は白のカーディガン、黒のミニスカート姿で出廷。“金と愛人”の関係は北海道から上京した翌年の1994年から始まり、「あなたのような人が好きな男性がいる」と都内で男性から声をかけられたのがきっかけとなった。
愛人契約を結んだのは、会社役員、経営者、学者、医師、弁護士ら20人弱で、同時に都内のデートクラブでも交際男性が10人いたという。
「1回で3〜5万円をもらっていました。性交渉を褒められたこともある。テクニックではなく『女性として本来持っている機能が高い』といわれた」
収入は月約150万円。奔放な性生活の一方で本命の存在も。
「合コンで出会った。会って2回目でセックスしたら『こんなに相性が良いのは初めてだ』と。最初はセックスフレンドです。でも結婚の意思はありませんでした」
2001年には妹との同居を機に、こうした関係をいったん清算。だが同年、“パトロン”の経営者とネットの掲示板で出会い、家事手伝いなどで1億円近くの経済援助を受けた。この男性が死亡すると、2008年5月に婚活サイトに登録したという。
6年半の間に約30人の“愛人”がいたという木嶋被告は、当時について「貯金をしたことは一度もなかった」と説明。収入の使いみちについて「高級雑貨や食料品、競馬に費やしました」と明かすなど、独特の金銭感覚をよどみなく語った。恋人以外の男性と交際し金を受け取っていたことについては「(おかしいという)価値観はなかった」と述べた。
「性の奥義を極めてみたい」(2012年3月6日)
「性の奥義を極めてみたい」―。練炭自殺に見せかけ交際男性3人を殺害したとして、殺人罪などに問われた木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判第33回公判が2012年3月6日、さいたま地裁(大熊一之裁判長)で行われた。検察側、弁護側双方の被告人質問が行われた後、午後からは裁判員が直接、木嶋被告に質問。またも仰天供述を繰り返した。
事件当時の状況などについて聞かれると、沈黙が目立った木嶋被告。だが、男性裁判員の1人が独自の男性観について尋ねると、言いよどむことなく証言した。
男性との性交渉の対価として、金銭的援助を受けるようになったきっかけについては「19歳で愛人契約を結んだこと」と説明。「私は一般の女性とは違うと思う」といったん話した後、自ら「これはセックスのことです」と付け加え、まくしたてた。これには男性裁判員もやや驚いた表情を見せた。
交際していた男性は「ハイクラスの方」で、「私のセックスで癒やしと活力を男性に与えることができると思った」と自画自賛。「セックスでお金をもらうことが正当な報酬と理解していた」「いろいろな性の研究をして、性の奥義を極めてみたいと思うようになった」とも話した。木嶋被告は裁判員に対しても「ですます調」で丁寧に受け答えしていた。
終始、険しい表情でやりとりを聞いていた大熊裁判長は、木嶋被告の結婚観について何度も認識をただした。「過去の愛人契約や複数の男性と同時に交際することは、結婚への障害になるとは思わなかったですか」などと質問。木嶋被告はやや戸惑ったように「お勤めする男性と結婚すれば、おのずと普通の主婦になれる」と答え、「結婚するまでに、ほかの男性との関係を清算できると思った」などと話した。
起訴状によると、木嶋被告は東京都の寺田隆夫さん(当時53歳)、千葉県の安藤建三さん(同80歳)、東京都の大出嘉之さん(同41歳)を2009年1〜8月までに東京、千葉、埼玉県で睡眠導入剤を使い眠らせた上で、練炭を燃焼させ、殺害したとされる。木嶋被告は殺害を否認している。
この日で被告人質問は終了。3月12日に検察側の論告求刑、3月13日に弁護側の最終弁論、判決公判は4月13日に行われる。
1審さいたま地裁求刑(2012年4月12日)
首都圏で起きた男性の連続不審死事件で、殺人などの罪に問われた木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判の論告求刑公判が4月12日、さいたま地裁(大熊一之裁判長)で開かれた。検察側は「すべて利欲目的で行った犯行で、酌量の余地はみじんもない」などとして、死刑を求刑した。弁護側の最終弁論は13日で、判決は4月13日に言い渡される。
検察側は、男性3人の殺害事件について、いずれも木嶋被告が練炭と練炭コンロを準備し、現場から同一の練炭が発見された▽3人の死亡直前に会っている▽死因が3人とも一酸化炭素中毒−などの状況から、木嶋被告が練炭自殺に見せかけて殺害したと指摘。犯行の手口について「極めて巧妙で悪質」と指弾した。
また、木嶋被告がこれまでの被告人質問で「嫌悪感がわいて別れ話になった」「性生活がうまくいかず別れた」などと供述している点について、検察側は「公判廷で被害者を侮辱する発言を繰り返し、遺族感情を踏みにじった。反省の態度も更生の可能性も皆無」と断じた。
起訴状によると、木嶋被告は平成21年1月に東京都青梅市の寺田隆夫さん=当時(53)=を、5月に千葉県野田市の安藤建三さん=当時(80)=をそれぞれの自宅で練炭を燃やして一酸化炭素中毒で殺害。同年8月には埼玉県富士見市内に止めた車の中で、練炭自殺を装って東京都千代田区の大出嘉之さん=当時(41)=を殺害したなどとされる。
1審判決は主文後回し(2012年4月13日)
首都圏で起きた男性の連続不審死事件で、殺人などの罪に問われ死刑を求刑された無職、木嶋佳苗被(37)の裁判員裁判の判決公判が13日午前、さいたま地裁で開かれた。大熊一之裁判長は、3件の殺人のほか詐欺など10事件すべてを有罪と認定。
「3人の尊い命を奪った結果は深刻で甚大。動機は身勝手で酌量の余地はない」として、求刑通り死刑を言い渡した。
裁判員の在任期間は過去最長となる100日間。弁護側が殺人罪の無罪を主張する一方で、自白や目撃証言などの被告の関与を示す直接証拠はなく、検察側の状況証拠による立証の評価が最大の焦点だった。
大熊裁判長は判決理由の中で、3件の殺人事件で現場に残された練炭と、被告が事前に準備した練炭が同じメーカーのものであり、「偶然とは考えにくい」と指摘。「いずれも被告の犯行と推認できる」と認定した。
東京都青梅市の会社員、寺田隆夫さん=当時(53)=殺害事件について、「寺田さんが練炭を入手した形跡はなく、自殺の動機もない。犯行が可能なのは被告のほかには見当たらない」と述べ、被告の犯行と認定。弁護側の「寺田さんは自殺した」との主張を退けた
千葉県野田市の無職、安藤建三さん=同(80)=殺害事件についても、「多量の睡眠薬を服用しており、安藤さんが失火により死亡したとの説明は困難。しかも自ら睡眠薬を服用したとは考えがたい」と検察側の主張に沿う認定をした。
東京都千代田区の大出嘉之さん=同(41)=についても、「遺体が発見された車の鍵がなく、大出さんの手に練炭の炭粉がついていなかった」として他殺と認定。その上で「大出さんが死亡した時間の近くまで一緒にいた」などとして、「犯人は被告であると優に認められる」と述べた。
大熊裁判長は、犯行について「あまりにも身勝手で利欲的な動機であり、酌量の余地など皆無」と断罪。木嶋について「不合理な弁解に終始するばかりか、公判廷でも被害者をおとしめる発言を繰り返した。真摯な反省はうかがえず、刑事責任は重大」と述べ、死刑を言い渡した。
木嶋は同日、ただちに控訴した。
木嶋佳苗の判決公判 (2012/4/13)
首都圏の連続殺人事件で、3件の殺人罪などに問われた木嶋佳苗被告(37)に対する、裁判員裁判の判決公判(大熊一之裁判長)が13日、さいたま地裁で開かれる。
いずれの事件も物証に乏しく、直接証拠がない中で、検察側は状況証拠を積み重ね、木嶋被告以外に犯行をなし得なかったと主張し、「死刑」を求めた。
これに対し、弁護側は「疑わしきは罰せず」とする刑事裁判の鉄則を強調。「疑わしい事件が3つあるから有罪とするのは許されない」と訴えた。
起訴状によると、木嶋被告は、(1)平成21年8月、埼玉県富士見市の駐車場で駐車中のレンタカーの車内で練炭を燃やし、薬物で眠らせた交際相手の東京都千代田区、会社員、大出嘉之さん=当時(41)=を一酸化炭素(CO)中毒で殺害。
(2)21年1月、東京都青梅市のマンション室内で、コンロ6つに入れた練炭を燃やし交際相手の会社員、寺田隆夫さん=当時(53)=を殺害した。
(3)21年5月には、千葉県野田市の無職、安藤建三さん=当時(80)に睡眠導入剤を飲ませて眠らせた上でコンロを使って練炭に火をつけて殺害したとされる。
さらに、この3つの殺人事件に加え、詐欺、詐欺未遂、窃盗など計10の罪に問われている。
検察側が主張する事件の構図は、こうだ。木嶋被告は、ぜいたくな暮らしを維持したいとして、インターネットの婚活サイトを利用し、だます相手を物色していたとする。言葉巧みに男性を手玉に取り現金を詐取。時には肉体関係をちらつかせるメールを送信するなど、相手をコントロールしていたとする。
そして、詐欺が発覚して、男性から詰め寄られるなどすると、練炭自殺に見せかけて殺害していたと検察側は主張した。
木嶋被告の犯行の根拠として、検察側が注目するのが、練炭とコンロだ。いずれの現場にもあった練炭とコンロは、木嶋被告が直前に購入していたメーカーと一致するという。
また、3人が死の直前に会っていたのは木嶋被告だったとし、犯行を印象づけた。これに対し、弁護側は、コンロは大量生産されており、木嶋被告が購入したものと同一とはいえないなどと反論。いずれの事件も、自殺や事故死の可能性がぬぐえないとした。
検察側と弁護側双方の主張が真っ向から対立。さらに、1月5日の裁判員選任手続きから、この日の判決までは、ちょうど100日。精神的にも、肉体的にも、裁判員に大きな負担を強いた。
その裁判員が導く結論とは…。いよいよ判決公判が始まる。
裁判長「それでは開廷します」
木嶋被告は弁護側の横の席に腰掛けている。初公判では午前と午後に服装を替えたりするなど、公判では木嶋被告のファッションにも注目が集まった。
判決の日の木嶋被告は青のシャツにグレーのカーディガン、柄入りのスカートに黒のストッキングを履いている。
裁判長が木嶋被告に証言台の前に立つように指示する。
木嶋被告は、ゆっくりした足取りで歩を進め、裁判長の前へと向かう。
刑事裁判の場合、通常は、判決の冒頭に刑の言い渡しの主文が読み上げられる。だが、極刑の場合は主文が後に回されるのが一般的だ。
裁判長「それでは席に着いてください。裁判所が認定する事実は以下の通りです」
主文は後に回されたようだ。厳しい刑が予想される。木嶋被告は、じっと前を向き冷静を装っているように見えるが…。机の下では、黒のストッキングを履いた足を組んだり、軽く足踏みを繰り返していた。

刑事裁判の場合、通常は判決の冒頭に刑の言い渡しの主文が読み上げられる。だが、大熊裁判長は主文を後回しにした。厳しい刑が予想される。
木嶋被告が問われているのは3つの殺人事件に加え、詐欺や詐欺未遂など計10の罪に及ぶ。大熊裁判長は、まず10の罪すべてで木嶋被告の犯行を認めた上、コップの水を口にしてひと息入れた後、東京都青梅市の会社員、寺田隆夫さん=当時(53)=の殺害についての争点の検討に入った。
寺田さんの遺体は自宅で見つかった。室内には6個の練炭コンロが置かれ、練炭自体も16個あった。
裁判長「死因は、練炭の燃焼による一酸化炭素中毒死。そこで、自殺したのか何者かに殺害されたのかを検討する」
「まず、練炭を(寺田さんが入手できた可能性だが…」
16個のうち3つは製造会社の証言からメーカーはほぼ特定できている。それを示した上で、大熊裁判長は寺田さんの自宅から半径5キロ圏内に、売っている店がないと指摘。
最も近くで扱っているホームセンターは、直線距離で2・5キロ離れ、売っているものは1パック14個入りだとした。
裁判長「手で運ぶのは重いが、(寺田さんは)車や自転車を持っていない。インターネットで入手した形跡もない」
「もともと、(寺田さんが)16個もの練炭をストックしていたとは到底考えられない」
「(弁護側は、公判で寺田さんは自殺を図ったと主張しているが)これを踏まえると、寺田さん自身が自殺するための手段を事前に持っていなかったと考えられる。何者かに殺害されたと強く推認できる」
練炭コンロについてもメーカーを指摘した上で言及していく。コンロは室内に6個置かれていた。
裁判長「自殺目的で多数のコンロを用意すること自体が不自然だ」
続いて、施錠状況も指摘する。寺田さん方はすべての出入口が施錠されていた。しかし…。
裁判長「あるはずの2本のカギのうち1本が見つかっていない」
「すべてのレシートを保存するなど、几帳面な性格からして(寺田さんが)紛失したとは考えづらい」
「また、(寺田さんの)姉が遺品整理の際に室内を調べたし、その後の清掃業者も発見できなかった」
「密室で死亡し、2本のカギが見つかっているならば自殺と推認できるが、1本がなくなっているということは、密室を作りだすために、犯人が持ち出したと強く推察できる」
さらに、デスクトップや手帳も室内からなくなっていることを挙げ、大熊裁判長は断言した。
裁判長「以上のようなことを総合すると、(寺田さんは)常識的に考えて殺害されたのは、ほぼ間違いない」
続いて、木嶋被告の犯行の認定に進む。練炭コンロは、木嶋被告が購入していたメーカーと一致していると認定した上で、こう続ける。
裁判長「(木嶋被告が購入した練炭コンロは)同じメーカーで(寺田さん殺害現場から見つかったのと)個数も一致する。こんな偶然が重なることは、そう多くない」
さらに、丁寧に説明を続ける。木嶋被告は6つは調理器具で、用途に応じて使い分けていたと主張。廃棄したともする。
裁判長「そもそも調理目的で多数のコンロを所有するというのは、にわかに信じ難い」
「被告人の弁解は不自然で信用できない」
こうした指摘を続けた上で、大熊裁判長はじわり核心に踏み込む。
「6個の練炭コンロと16個の練炭を持ち込んで着火したが、室内には争った形跡や物色の跡もなく、通り魔や第三者の犯行とも考えられない」
「合い鍵を入手でき、親密に交際していた人物が犯人と推認できる」
ことごとく主張を否定されていく木嶋被告…。時折、かすかに首をかしげる様子を見せながらも、うつむくことなく、じっと前を向き続けている。

引き続き、東京都青梅市の寺田隆夫さん=当時(53)=の殺害についての検討が行われている。
大熊裁判長が木嶋被告が寺田さんを殺害した動機についても言及する。注目したのは、木嶋被告が寺田さんと交際関係にあり、多額の金銭援助を受けていたことだ。援助目的でついてきたうそが、寺田さんにばれ、返済を迫らせるのを防ぐために殺害したと指摘した。
裁判長「返金を求められると考え、被告が寺田を殺害しようとしても不思議ではない。寺田には自殺する動機もない」
裁判所は、木嶋被告が寺田さんと結婚する意思もないまま結婚を前提に多額の金銭を得ていたと判断した。
大熊裁判長はコップの水をひと口飲んで休みを入れた後、木嶋被告が寺田さんから受け取ったとされる現金約1千万円にも触れた。
弁護側は、寺田さんから譲り受けたと主張していたが…。
裁判長は「別れを告げた相手にそのまま渡すとは考えられない」
寺田さんが自殺したとする弁護側の主張にも触れる。
裁判長「自殺の兆候は見られない。犯人は寺田と面識があり、玄関のカギを手にする機会があったものにほぼ絞り込まれる」
「寺田を殺害したのは被告人以外ありえない」
事件直後、木嶋被告が警察に対し「自殺したと思う」などと証言していた点にも言及して、こう締めくくった。
裁判長「被告人が練炭自殺を装って殺害したと認定できる」
論告求刑で訴えた主張がおおむね採用された格好の検察官は、表情を変えずに正面を見ている。
一方、無罪の訴えが退けられた弁護側も、正面を向いているが、その表情には、疲れがにじんでいるように見える。
裁判員らは、両手を合わせてひざの上に置いて聞き入っている木嶋被告の姿をじっと見ている。木嶋被告の背筋はぴんと伸びている。
裁判長「よって、殺人罪が成立する」
大熊裁判長の声が法廷に響く。木嶋被告は、黒いストッキングに包まれた足を組んだり、ほどいたりを繰り返している。

3人の殺害事件のうち東京都青梅市の会社員、寺田隆夫さん=当時(53)=について、大熊裁判長は丁寧に木嶋被告の犯人性などを論じた。
続いて、千葉県野田市の無職、安藤建三さん=当時(80)=殺害事件の言及に移る。起訴状によると、安藤さんは平成21年5月、睡眠導入剤を飲ませて眠らされた上で、コンロを使って練炭に火をつけて殺害したとされる。判決の冒頭では、この事件についても木嶋被告の殺人罪を認めた。大熊裁判長は、その理由について細かく説明を始めた。
大熊裁判長は、コンロや睡眠薬について、これまでの法廷で明らかにされた証言や燃焼実験を引き合いに出して続ける。
裁判長「安藤さんは一酸化炭素中毒を起こし、その後、高温の空気を吸い込んで気道熱傷を起こし、死亡したと推定される」
そして、安藤さんの遺体からは睡眠薬の成分が検出されたものの、病院から睡眠薬を処方されていなかったことや、インターネット経由で入手した形跡もなかったことに触れた上で断じた。
裁判長「何者かに睡眠薬を飲まされ、殺害された可能性が高い」
さらに、大熊裁判長は、木嶋被告以外の第三者による他殺説についても言及する。
木嶋被告は、出火の2時間半前に、安藤さん方を出たと主張。火事はその後に起きたもので、関係はないとしている。
裁判長「わずか2時間半の間に恨みのある別の者が殺害したとは考えにくい」
「これらのことは被告人と犯人を強く結びつける」
弁護側は、コンロや練炭について、木嶋被告が用意したものとは断定できないとの論を展開してきた。だが、大熊裁判長は安藤さんが死亡したとされる時期に近い時点で、木嶋被告が注文し、受け取っていることを挙げて続ける。
裁判長「単なる偶然とは考えられない」
睡眠薬の成分にも言及して、木嶋被告の犯行説の根拠を積み上げる。
裁判長「被告人は睡眠薬も所持していた。服用させる機会もあった」
動機にも言及する。検察側は、木嶋被告が安藤さんのクレジットカードやキャッシュカードを無断で使用し、追及されたことに恐れを感じて安藤さんを殺害したとみている。
裁判長「これ(無断使用)が発覚し、返済や被害届提出を逃れるために殺害しようと考えても不思議ではない」
大熊裁判長は、次々と弁護側の主張を退け、検察側の主張を認めていく。そして結論を導き出した。
裁判長は「殺害したのは被告人以外にあり得ない。よって、殺人罪が成立する」
すそを少し巻いた髪が動くことがないほど、木嶋被告は、じっと裁判長を見据え続けている。
続いて、3つのうちの最後となる、東京都千代田区の会社員、大出嘉之さん=当時(41)=殺害事件についての判断に進む。

3つの事件のうち最後となる、東京都千代田区の会社員、大出嘉之さん=当時(41)=殺害事件についての判断に進められている。
大熊裁判長はやや早い口調で説明を続ける。
裁判長「被告が購入した練炭やコンロと、大出さんの遺体が見つかった車の中から発見されたものが、メーカーなどが同一であったことは偶然とは考えにくい」
「また、大出さんの体から検出された3種類の睡眠薬は、被告が所持していたものと同じである。さらに被告は大出さんとともに食事をし、これらを服用させることが可能だった」
弁護側は、これまでの公判で木嶋被告が購入した練炭とコンロは大量生産されているものであり、たとえ同一メーカーであっても同一品とは言えないとしていた。
さらに、睡眠薬についても同様に同一品ではないとしていた。大熊裁判長は次々と弁護側の主張を否定していく。
その上で、動機に言及する。弁護側は、木嶋被告は大出さんと真剣に交際していたと主張。ただ、別れ話になり、大出さんは自殺したとしていた。
裁判長「被告は当時、経済的に困窮していた。大出さんとは真剣に結婚を考えていたとしているが、同時に複数の男性と交際していた」 
「大出さんが催眠薬を10錠以上服用した状態で、練炭の燃焼による一酸化炭素中毒で死亡した状況に加え車のカギがなかった」
「大出さんが睡眠薬を入手した形跡がない。さらに大出さんに自殺の動機がないことからすれば、大出さんは何者かに殺害されたと認められる」
こう一気に説明した上で、大熊裁判長は締めくくる。
裁判長「被告は大出さんと一緒に駐車場まで同行し、死亡時刻と接着した時間に立ち去っている」
「また、犯行に用いられたのと同種の練炭、コンロなどや睡眠薬を入手。大出さんを殺害する動機があったことなどから、大出さんを殺害した犯人は被告であると認められる」
木嶋被告は、3つの殺人事件に加え、詐欺や詐欺未遂など計10の罪に問われた。いずれも婚活サイトを通じて、男性に近づき、学費名目などで現金をだまし取っていた手口が似ているとされる。
大熊裁判長は、こうした手口にも触れ、詐欺や詐欺未遂についても木嶋被告の犯行を認めた。10の罪、すべての検討が終わり、いよいよ量刑の説明に入る。主文は後回しにされていた。木嶋被告はじっと前を見すえたままだ。

10の罪、すべての検討が終わり、いよいよ量刑の説明に移る。
木嶋被告の公判は「100日裁判」と呼ばれた。1月5日の裁判員選任手続きから、この日の判決までがちょうど100日だったためだ。
一般市民が刑事裁判に加わる裁判員裁判で、こうした長期間の審理は初めてで注目を浴びた。さらに直接証拠はなく、検察側と弁護側の主張は真っ向から対立。難しい判断を強いられるとされた。その裁判員が導いた結論に注目が集まる。
大熊裁判長は傍らのコップの水をゆっくり飲んだ後、説明を始めた。傍聴席に一瞬、緊張が走る。
裁判長「量刑理由について説明します」
こう前置きした後、最も重視すべき事情と述べてこうつなげた。
「婚活サイトで知り合った男性から真剣な交際を装って多額の金を受領するなどした末、返済などを逃れるため、被害者を殺害したという極めて重大かつ非道な犯罪を3度も繰り返し、何ら落ち度のない3人の尊い命を奪ったことであり結果は深刻かつ甚大である」
「被害者は、結婚相手または交際相手として被告を信頼したまま、予想だにしない形で理不尽にも生命を奪われ、その無念さも計り知れない」
「被害者らとともに平穏な生活を送っていた遺族らの悲しみや喪失感は大きく、厳しい処罰感情は至極当然。あらかじめ練炭やコンロを準備するなど、犯行の態様は計画性で冷酷かつ悪質である」
大熊裁判長は一気にまくしたてた。さらに、木嶋被告への言及は続く。
裁判長「被害者を抵抗できなくさせて確実に犯行を遂げ、自らは被害者が死亡する前に現場から立ち去って犯跡を隠匿することを可能にするもので、強い殺害意欲や巧妙さすらうかがえる」
大熊裁判長は、木嶋被告の身勝手な犯行動機と様態を厳しく断罪していく。
裁判長「被告は働かずにぜいたくで虚飾に満ちた生活を維持するため、婚活サイトで知り合った被害者から多額の金を受け取るなどした末の犯行で、あまりにも身勝手で利欲的な動機に酌量の余地はない」
「何ら落ち度もない被害者らの純粋な思いを踏みにじった経緯も強い非難は免れない」
「このような極めて重大かつ非常な殺人をさほど長くない期間内に3度も繰り返しており、生命というかけがえのない価値を軽んじる態度は顕著である」
3つの殺人事件は、6カ月の間に立て続けに起きた。
裁判長「被告は公判でも独自の価値観を前提に不合理な弁解に終始するばかりか、被害者をおとしめる発言を繰り返すなど、真摯な反省や改悛の情は一切うかがえない」
10の罪、すべてが木嶋被告の犯行であると指摘した検察側は、死刑を求めている。大熊裁判長は、ゆっくりと結論を述べる。
裁判長「死刑が人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における刑罰であるとしても、被告に対しては、死刑をもって臨むほかない」
「主文、被告人を死刑に処する」
次の瞬間、傍聴席に詰めていた報道陣らが慌ただしく席を立ち、次々と廊下に飛び出していく。
それでも、木嶋被告はずっと前を見据えたまま微動だにしない。
そして…。木嶋被告はゆっくりと立ち上がると、裁判長に向かって軽く頭を下げた。
さらに、弁護側の席に戻った木嶋被告は、自らが持ち込んだ資料が入った紙袋を両手で抱えると、傍聴席に目をやって軽く頭を下げた。
感情を押し殺していたのか、それとも状況が飲み込めていないのか。その目は、うつろだった。 
木嶋佳苗の台詞
いわゆる首都圏連続不審死事件で3人の男性を練炭自殺に見せかけて殺害したなどの殺人罪などに問われ、4月13日、さいたま地裁で死刑判決が言い渡された木嶋佳苗被告(37)。弁護側が即日控訴しており、いずれは東京高裁で控訴審が開かれる事になる。一審ではその風貌、そして「テクニックよりも本来持っている機能が高い」などをはじめとする性的な発言が大いに注目を集めたが、性的な発言以外にも、彼女の人となりを知る上で注目すべき発言は多かった。
「ホテルの中での出来事は一切お話ししたくありません」
解説 / 命を奪われる事のなかった詐欺被害者たち。彼らは木嶋被告とホテルに行っているが、いずれも木嶋被告から出された飲み物を飲んだ直後、意識喪失に陥っている。彼らとホテルで何があったのか問われると、木嶋被告は必ずこう返した。この台詞の登場回数は非常に多かった。しかし、話せない理由があるのだろうか……。
「始めて半年ぐらいで、総閲覧数が10万アクセスを超えましたので……。平成21年度には50万アクセスを越えました。沢山投稿すると、反応も一杯ありますのでとても楽しくて(以下続く)」
解説 / 木嶋被告が当時開設していた有名ブログ『かなえキッチン』について問われて。アクセス数の多さや、閲覧者からの反応があったことなど、自慢げに話していた。
「50万円必要ですと答えました。いつもは100万円と答えていましたが、安藤さんは年金暮らしと聞いて、裕福そうでもないので、50万円程度だったら支援してくださるかと思って数字を出しました」
解説 / 千葉事件の被害者で焼死した安藤健三さん(80=当時)と初めて会った際、支援を申し出たときのことについて。支援してもらう立場でありながら“この程度なら”という不遜な姿勢が見える。“裕福そうでない”など被害者についての失礼な発言は他の場面でも垣間みられた。
「びっくりして電話をしました。安藤さんは空き巣に狙われるようなお金持ちとは思えなかったからです」
解説 / 先の安藤さんが生前「空き巣に入られた」と木嶋被告にメールをした際のことについて。ここで安藤さんは、画家である父が描いた絵を盗まれていると告げているが、これらの絵について検察側は、木嶋被告が盗み、詐欺被害者に売るなどしていたのではないかと追求していた。
「最初は神経質そうな印象を受けました。生活や学校、家族の話をしていましたが、とても下品で不快感を抱きました」
解説 / 詐欺未遂被害者の1人と初めて会ったときの感想。ちなみに木嶋被告はこの日、この被害者に授業料と称して金の無心をし、断られているだけでなく、後日、数年前のオークション詐欺の前科もネットで調べられている。
「(低い声で)違います」
解説 / 検察官から「練炭や練炭コンロを購入したのは殺害のためか」と問われて。木嶋被告の声の可愛らしさはいたるところで報じられているが、この時だけはドスの利いた低い声になるのが非常に印象的だった。  
木嶋佳苗被告のブログ開設にネット震撼(2014年1月)
首都圏で起きた男性の連続不審死事件で殺人罪などに問われ、1審で死刑となった木嶋佳苗(39)が2014年1月にブログを開設していたことがわかり、インターネット上に衝撃が走っている。内容は拘置所での生活から、支援してくれる「おじさま」の存在、ノンフィクション作家・佐野眞一氏への辛らつな批判まで幅広い。読者からは賛否両論が寄せられ、反響を呼んでいる。
タイトルは「木嶋佳苗の拘置所日記」
木嶋は2009年に東京都、千葉県、埼玉県で男性3人を練炭自殺に見せかけ一酸化炭素中毒で殺害したとして、殺人罪などに問われ、2012年4月にさいたま地方裁判所の裁判員裁判で死刑判決を言い渡された。裁判の過程では週刊誌などで、木嶋の結婚詐欺の手口や愛人契約の稼ぎなどが派手に報道され、世間を驚かせた。木嶋の語る華々しい男性遍歴と、その容姿や太った体型にギャップがあると感じた人も多かったようで、その点でも関心を集めた。弁護側は一審判決後すぐに東京高裁に控訴。現在は2審の判決を待っている段階だ。
そんな木嶋のブログの存在が2014年2月26日、「週刊文春WEB」のスクープ速報によって明らかになった。「木嶋佳苗の拘置所日記」と題したブログには1月5日に1本目の記事が投稿され、2月27日時点で計14本が公開されている。1本目の記事から4000文字以上と長文で、「このブログでは、本音のさらにその奥にある本心のようなものを伝えていきたいと考えております」と綴っている。
ジャーナリスト青木理氏へのラブコールも
内容は食事や外部交通といった拘置所内での話が中心。ユーモアを織り交ぜながら、死刑判決を受けた人物とは思えないほど穏やかな調子で書かれている。中でも目立つのは、支援してくれる男性たちの話だ。たとえば、2月16日に公開された記事では、自身が世話になった9人の男性弁護士に触れたうえで、「私の人生は、ずっと男性に支えられてきました」と書いている。
ブログを管理しているのも、木嶋被告が「おじさま」と呼ぶ男性だ。「お鮨好きのおじさまは、私の原稿をパソコンで打ち込むのが面倒で、お金を払って人に頼んでるの。私そのものがエンターテインメントだから文句言わない。彼は、お金払ってワハハーって笑ってる。私は、こういう人が好き」と紹介している。ちなみに恋愛関係にはないらしい。
他に「男性達からの毛布とタオルケット」、「たくさんの記念切手に『可愛い切手をお贈りしたく』と書かれた一筆箋を添えて送ってくれた彼」など木嶋被告に寄り添う男性たちがさりげなく登場しているのも印象的だ。また、以前から「敬服」しているというジャーナリストの青木理氏については「あのルックスで取材に来られたら、ドキドキしちゃうだろうなぁ」と書き、青木氏が木嶋と比べられることの多い鳥取連続不審死事件の上田美由紀を取材したことに「嫉妬心」をあらわにしていた。
「救いようがない」「文才ある」と賛否両論
一方で、穏やかな口ぶりに合わず、皮肉たっぷりに特定の人物を非難したこともある。死刑判決後、事件関連の本が相次いで出版されたが、木嶋はその中でも「別海から来た女」を書いたノンフィクション作家の佐野眞一氏をやり玉に挙げている。「彼は、過剰な人の心の闇や血脈だのに拘泥し過ぎるあまり、大切なことを見失っている」「取材対象をいかに口汚く罵ることができるかに全精力を注ぐ下品な芸風」と酷評し、下のような「感謝の辞」さえ贈っている。
「ジャーナリストとして活躍する取材記者を何人も使って、著名なノンフィクション作家が、私についてあの程度の本しか書けなかったことは、自叙伝を執筆する時の励みになりました」 さらにもう一人、木嶋の100日裁判を傍聴して「毒婦。」を書いた文筆家の北原みのり氏にも反論する。こちらは名指ししていないものの「『毒婦』ライター」と呼んでいることから北原氏であることは明白で、木嶋被告は北原氏を「木っ端ライター」と呼び、「彼女が私に関して語ることの7割は、事実じゃありません」「彼女の取材能力は限りなくゼロに近い」と書く。さらには「フラれた恋人に付きまとうストーカーみたい。片思いの恋愛が成就しなかった人、と言った方が正しいかな」と非難した。
こうした内容にネットでは賛否の声が上がっている。ブログのコメント欄にはさっそく多くの声が寄せられ、「この図太さってどんなふうになると出来上がるんだろうか?」「救いのようのない自己顕示欲の塊です」と批判的な意見が目立つ。ところがツイッターでは、批判的な意見に加えて「林真理子みたいなエッセイ本出したら売れそう」「変な作家の文章より全然いい。思わず全記事読んでしまった」「これなら男にモテるのは分かる」と評価する意見も多々寄せられている。ライブドアブロガーランキングでは27日17時時点で1位にランクインしていて、今後しばらく注目を集めそうだ。
控訴棄却、2審も死刑の木嶋被告、拘置所内で自伝的官能小説執筆(2014年3月)
木嶋佳苗(39)の控訴審判決で、東京高裁(八木正一裁判長)は12日、1審のさいたま地裁での死刑判決を支持、被告側の控訴を棄却した。
木嶋は東京拘置所内で自らの経験をベースにした私小説を執筆。大手出版社からの出版を望んでいるという。弁護側は即日、上告した。控訴審判決のこの日、木嶋は髪を七三に分け、赤色に白色などのチェック柄のパジャマ姿で出廷した。判決文を読み上げる八木裁判長に視線を送ったり、メモを取るなどした。退廷する傍聴人を気にするそぶりも見せていた。
2審でも死刑判決を受けた木嶋。控訴審での3回の審理では被告人質問などの機会はなく、この日も話す機会はなかったが、拘置所内では活発な執筆活動を行っている。昨年には出版大手の光文社にノート41冊分の原稿を提出。内容は官能的な内容を含む「自伝的小説」だという。今年1月に始めたブログでも、2014年出版予定とアピールしている。ただ、光文社によると、出版するかはまだ決まっていないという。
関係者によると、ブログは本人が手紙に書いたものを支援者が業者に依頼し更新。ブログではデザート好きをアピールしたり、ジャーナリストを「(見る目がないので)眼科に行け」などと批判している。
控訴審判決では、男性が死亡したのは、練炭自殺や失火の可能性があるとした弁護側の主張をすべて退けた。殺害に関する直接証拠はなく、判決では犯人性や間接証拠をそれぞれ検討したため、判決文の読み上げは2時間を超えた。
判決では、木嶋は2009年1〜8月、婚活サイトで知り合った東京都青梅市の寺田隆夫さん(当時53歳)、千葉県野田市の無職・安藤建三さん(80)、都内会社員の大出嘉之さん(41)を練炭による一酸化中毒で殺害したと認定。詐欺や窃盗などについても認めた。
八木裁判長は1審判決に「不合理な点はない」とし、男性3人の殺害については「犯人は被害者と面識のあった者しか考えられない」と指摘。練炭や睡眠薬を入手し、3人の死亡直前まで一緒にいた状況証拠から「被告が犯人でないとすれば、合理的に説明できない事実を証拠が示している」とした。動機については「3人から受け取ったり、だまし取ったりした金の返済から逃れるために殺害を決意したとしても不思議ではない」と述べた。
裁判員裁判最長1審100日間
木嶋の1審は2012年1月から4月までさいたま地裁で行われ、裁判員の在任期間は過去最長となる100日間となった。殺害に関するDNA鑑定などの直接証拠はなく、検察側は状況を証拠を積み上げ、立証した。 木嶋は殺人を含め詐欺、詐欺未遂、窃盗など10件で起訴されたが、完全否認し、検察側と全面対決した。被告人質問では、「私のセックスで癒やしと活力を男性に与えることができると思った」などと証言。「セックスでお金をもらうことが正当な報酬」「性の奥義を極めてみたい」などの発言も飛び出した。  
 
木嶋佳苗 2 / 妄想のセレブ 

 

首都圏連続不審死事件で死刑判決を受けた木嶋佳苗については、多くの報道がなされ書籍も出版されていますが、よく分からない部分が多すぎます。
婚活サイトを利用した結婚詐欺と見る人も多いでしょうが、70歳や80歳の年寄りも被害者となっています。また、結婚詐欺なら殺人に至ることは少ないのが通例だと思いますが、木嶋佳苗は少なくとも3人を殺しています。まだ金を騙し取れると思えるのにアッサリと殺しています。
ブスでデブなのに愛人契約で150万円の月収があったと証言していますが、本当でしょうか?また、ブログに書いていたセレブ生活は本当なのでしょうか?
木嶋佳苗については、自身が本当の内面を語っていないし、その生い立ちについての証言も少なく、分からないことも多いのですが、木嶋佳苗の真実について検証してみたいと思います。
生い立ち
木嶋佳苗は74年11月27日に北海道の中標津町に生まれています。その後、木嶋佳苗が小学校4年の時に近くの別海町に移って来たようです。
祖父は司法書士事務所を開設していて町議会議員を勤めた地元の名士です。
父親は中央大学法学部卒業ですが、弁護士にも司法書士にもなれなくて、祖父の司法書士事務所に勤める行政書士でした。洒脱で知的、料理好きで教育熱心だったとの周囲の評判です。
母親は別海町の西春別の出身で、近所の子供にピアノを教えるなどしていましたが、自立心が旺盛で化粧品販売の商売などもしていたようです。出たがりでPTAや婦人会の役員もしていました。
木嶋佳苗は長女で、3歳下の妹、6歳下の弟、8歳下の妹がいます。
小学校時代(81年〜86年)
木嶋佳苗は母親に習ったピアノが得意で、父親の影響で読書が好きで作文も優秀でした。
木嶋佳苗は小学校5年の時に問題を起こしたようです。詳細は不明ですが「妊娠」、「大学生」、「お金」といった言葉がクラスに飛び交ったそうです。
中学校時代(87年〜89年)
中学校時代には窃盗事件を起こしています。母親のピアノの先生だった医師のお宅から貯金通帳と印鑑を持ち出し300万円おろそうとしたようです。この時は母親と親しい家だったので事件にされずに済んだようです。
(この事件は佐野眞一の本によると、祖父の談として小学校時代とされています。)
また、中学校時代の木嶋佳苗については、年上の男性とセックスをしているとの噂があったようです。
高校時代(90年〜92年)
高校は地元の別海高校普通科に進んでいます。しかし、母親との確執があり、わざわざ遠い西春別の母親の実家に移り住み、そこから高校に通ったようです。
高校では、ボランティアサークルに入り部長になっています。老人ホームや障害者施設を訪問し、入浴の介助や清拭を行っていました。木嶋佳苗は、後に年寄りと付き合ってお金を引き出していますが、あるいは老人の介助などが好きなのかもしれません。
高校の成績は普通で、周りの評判では、「真面目で上品なタイプ」、「どこか色っぽい感じ」、「仕草や物腰が上品で大人びて見える」といったようなものでした。真面目で上品なタイプという評価がある一方で援助交際の噂もあったようです。
そして、高2の時にも窃盗事件を起こしています。付き合っていた男の指示で中学時代の事件と同じ家から貯金通帳と印鑑を盗み出して金を引き出したようです。高校卒業後、この事件のために家庭裁判所で保護観察処分を受けています。本人の証言によれば父親が7〜800万円を弁償したそうです。
性格
アイデンティティ
木嶋佳苗は自分の生まれ育った家庭環境を自慢に思っていたようです。手記の中で次のように書いています。「本格的なオーディオセット、ピアノとチェロとバイオリン、棚に並んだ多くの本とレコードと映画のビデオとLD。鍋や食器、大きなガスオーブンに調理道具。箪笥や食器棚、鞄と靴。思い起こすと、実家にあった印象深いものは、決して華美ではないけれど、そこには質の高い文化がありました。」実家は祖父や父が司法書士事務所を経営しており、酪農中心の田舎町では名家だったようです。このことが、「ブス」として生まれ育った木嶋佳苗にとっては誇りであり、アイデンティティの拠り所だったのだと思います。このアイデンティティの延長線上に、のちにセレブを演じて詐欺を繰り返す木嶋佳苗がいると思います。
反社会性
木嶋佳苗の家は周りからは、仲の良い理想的な家庭のように思われていたようですが、両親の不和は木嶋佳苗が小学校高学年の頃から始まっていたようです。高校生のころには木嶋佳苗自身が家を出て母親の実家から高校へ通っています。また、次女が進学のため長野へ行くと、母親はその次女と一緒に長野で暮らし始めています。残された父親は弟と三女の面倒を見るのが大変だったようです。子供の非行原因として家庭内の不和があげられることが多いのですが、木嶋佳苗の反社会的性向も、こうした両親の不和から始まっているのだと思います。また、中学・高校時代の窃盗事件は母親のピアノの先生のお宅で起こしています。これらの事件は、母親への面当てだったのかもしれません。
家族関係
木嶋佳苗は母親との軋轢をかかえていたようですが、妹や弟たちは木嶋佳苗を慕っていたようです。妹たちは一時期、東京で佳苗と一緒に暮らしています。05年に父親が交通事故で亡くなると木嶋佳苗は浅草に父親の墓を建てています。この時には祖父はまだ存命で、母親は北海道で生活しています。木嶋家における佳苗の存在感を感じさせる出来事です。
恋人
デブでブスな木嶋佳苗ですが、常に付き合っている男がいたようです。高校時代からの付き合いの男は10歳年上で神奈川県在住の建設会社勤務。彼とは98年(佳苗24歳)まで交際していたようです。 98年には愛犬サークルを通して2歳年下の上智大学生と付き合っています。この彼とは、彼が02年に京都大学大学院に進学したため別れることになったようです。逮捕されるまで付き合っていた10歳ほど年上のSとは98年に知り合っています。恋人関係になったのは02年(佳苗28歳)からのようです。Sに対しては吉川桜という偽名で、ヤマハのピアノ講師を名乗っています。父親は弁護士、母親は事業をやっていると詐称しています。大出嘉之さんから470万円をまきあげた際には「父親がイギリスにゴルフに行って成田に帰ってきた、2、3日都内で休んでから湯河原に戻る。父親からは400万円貰った。」と帯封付の現金の写真を付けてS宛にメールをしています。つまり、「恋人」に対しても虚構の付き合いをしていました。あるいは、木嶋佳苗にとっては「恋人」というのは、単なる商売抜きのセックスの相手だったのかもしれません。
友だち
木嶋佳苗には女性の友人がいたという話が出てきません。女性の友人がいないというのは、子供のころからなのかもしれません。おそらくブスとして迫害され、そうした世間にあらがって生きてきた孤高の存在である木嶋佳苗にとって、友人というのは不要だったのかもしれません。というより、持てなかったのだと思います。
就職
93年に高校を卒業すると木嶋佳苗は日本ケンタッキー・フライド・チキンに入社し、目黒区祐天寺で暮らし始めます。父親は大学進学を望んでいましたが勝手に就職先を決めてきたようです。進学せずに就職したことについては同級生なども驚いたようです。木嶋佳苗には東京への憧れがあり、何よりも早く実家を離れて好きなように暮らしたかったのかもしれません。
しかし、会社は3ヶ月で辞めています。高卒で就職しても給料はおそらく十数万円程度です。家賃10万円では暮らしていけません。
その後はピアノ講師として働いていたと言っていますが、疑問があります。多少ピアノが上手くとも正式な教育を受けていない人をピアノ講師として雇ってくれるとは思えません。また、もし雇ってもらえたとしても一人で暮らしていけるほどの収入があったとは思えません。
木嶋佳苗は、どうやって生活していたのでしょうか。おそらく当時流行り始めていた援助交際をしていたのだろうと、私は想像しています。18歳で、多少ブスでも、どこか上品な感じのある木嶋佳苗は案外と売れたのかもしれません。
デートクラブ
94年(佳苗20歳)に、木嶋佳苗は渋谷で池袋のデートクラブにスカウトされたようです。その時のいきさつを木嶋佳苗は次のように裁判で証言しています。
「道玄坂の楽器店の向かいにある喫茶店で、音楽教室で使う楽譜を買ったので広げて見ていたら、40歳前後の上質なスーツを着た銀行員のようなまじめな雰囲気の男に声をかけられ、あなたのような人が好きな男性がいるので紹介したい、相手は身元が確かで一流企業の役員など社会的地位の高い人ですと言われスカウトされました。」
この話は、おそらく木嶋佳苗の創ったファンタジーストーリーです。渋谷で援助交際をしていた際に知り合った男に紹介されて池袋のデートクラブに登録したのが実際だろうと思います。
「94年から01年までの間に関係を持った人数は20人弱で、企業の役員や会社経営者、学者、医師、弁護士など社会的な地位の高い人です」と木嶋佳苗は証言しています。しかし、木嶋佳苗に一流の男は似合いません。今回の裁判で明らかになった被害者を含めて木嶋佳苗と付き合った人たちには、失礼ながら一流と思える人はいません。
後に木嶋佳苗は、「全日本愛人不倫クラブ」、妊婦系サイト、ぽっちゃり系サイトなどに登録して稼いでいます。むしろ、こうしたエゲツなさが木嶋佳苗の本質ではないでしょうか。
また、木嶋佳苗は自分のセックスについて裁判で証言しています。
「今まで(セックス)したなかで、あなたほどすごい女性はいない」、「テクニックよりも本来持っている機能が高い」などと言われたと証言しています。反証する人がいないのをいいことに、好き勝手を言っている感じがします。
木嶋佳苗のこの証言を信じてしまった人もいるかも知れませんが、だまされてはいけません。木嶋佳苗は詐欺師です。虚言癖のある木嶋佳苗を簡単に信用してはいけないと思います。
愛犬サークル
98年(佳苗24歳)に木嶋佳苗は板橋区のマンションに移り、妹(次女)と暮らし始めますが、このころに愛犬サークル「カインド」を始めています。ブリーダーの仲介を行っており年間数百万円の利益があったと言っています。売春生活を止めて新しい生活の方法を模索していたのかもしれません。
なお、01年には私立音楽短大に合格した別の妹(三女)とも暮らしています。
小犯罪時代
木嶋佳苗は99年(佳苗25歳)から01年にかけて小犯罪を繰り返しています。生活が苦しかったのでしょうか?衝動的な犯罪が目立ちます。
99年1月 化粧品を万引きして目黒署に検挙される
00年3月 本を万引きして新座署に検挙される
01年5月 銀行のATMで現金を窃盗して高島平署に検挙される
03年3月 2年前のネットオークションの詐欺罪で逮捕される
03年6月 懲役2年6ヶ月、執行猶予5年の判決
釈放後に睡眠障害治療を受けていますが、この時には睡眠薬は使用しなかったと本人は証言しています。そして、05年3月にうつ病と診断され睡眠導入剤「レンドルミン」など3種類を入手しています。その後、睡眠導入剤の「ハルシオン」や「サイレース」も処方されています。こうした睡眠薬は、後の事件で使われることになります。
いかにも精神的にタフな木嶋佳苗が睡眠障害やうつ病だとは信じられません。睡眠薬を手に入れるための詐病だったのでしょうか。
そして06年11月には薬の調剤目的で専用の乳鉢を購入しています。誰かに睡眠薬をこっそり飲ませる目的だったのだと思います。
福山定男さん不審死事件
福山定男さんは千葉県松戸市などでリサイクルショップ5軒を経営していました。
01年6月に木嶋佳苗(当時26歳)は「事務手伝い、副業手伝い、家事が上手で昼食を作れる方」という条件に応募して、福山さん(当時64歳)に採用されています。
木嶋佳苗は、国立音大卒でヤマハ勤務、ケンブリッジ大学に音楽留学、皇太子妃雅子様の遠縁、という作り話をしていますが、福山さんはこれを信じていたようです。そして、福山さんは木嶋佳苗に年間一千万円以上の援助をしていたようです。福山さんと木嶋佳苗は草津温泉や玉川温泉、沖縄などに旅行に行っていたようです。木嶋佳苗は、性的関係はなかったと証言していますが、実態は不明です。
福山さんは07年8月31に風呂場で全裸のまま泡を吹いて死んでいたそうです。享年70でした。
この件は事故として処理されてしまいましたが、木嶋佳苗は8月23日に練炭を注文し8月26日に受け取っています。一連の練炭を使った殺人事件の先がけだったと思われます。
なお、木嶋佳苗は結婚詐欺師のように言われることが多いのですが、この場合は明らかに援助交際の延長、あるいは愛人関係です。
福山定男さんの死後、収入のなくなった木嶋佳苗は売春生活に戻ったようです。前述しましたが、「全日本愛人不倫クラブ」、妊婦系サイト、ぽっちゃり系サイトなどに登録して稼いでいたようです。
第一次婚活サイト時代
08年5月、33歳の木嶋佳苗は婚活サイト「マッチ・ドットコム」に登録しカモを探し始めます。そして、結婚を匂わせながら同時に4人の男性と付き合いながら金を巻き上げていきます。
Mさん詐欺事件
08年8月に長野県松本市在住のMさん(当時50歳)は婚活サイトで木嶋佳苗と知り合います。木嶋佳苗は音楽教室の講師で、大学院で栄養学を専攻していると自称していました。
木嶋佳苗は学費援助のためとして金を要求し、Mさんは8月から9月にかけて合計130万円を木嶋佳苗に振り込んでいます。そして、08年9月6日に木嶋佳苗はMさんの住む松本市を訪問しています。
08年12月29日にMさんは木嶋佳苗と池袋のラブホテルに行きますが、ホテル内で意識を喪失します。睡眠薬を盛られたようです。Mさんは、この事件で不審感を持ち、09年3月7日に同じように木嶋佳苗と池袋のラブホテルに行きますが、またホテル内で意識喪失し、目を覚ますと財布がなくなっていたそうです。
Mさんは、こうした一連の不審な出来事を調べてもらうために探偵を雇うことも考えたようですが、面倒になりやめたそうです。
なお、この事件のホテル内でのことについては、なぜか木嶋佳苗は証言を拒否しています。
Kさん詐欺事件
08年8月に静岡県在住のKさん(当時47歳)も婚活サイトで木嶋佳苗と知り合っています。木嶋佳苗は女子栄養大学大学院の学費滞納という名目で資金援助を要請しています。また、この時は静岡大学か静岡県立大学への就職を考えているという餌もまいています。
08年10月4日にKさんと木嶋佳苗はデートし、池袋のデパートで昼食を取っています。そして、この後Kさんは合計190万円を木嶋佳苗に振り込んでいます。
08年12月27日にKさんは木嶋佳苗とザ・リッツ・カールトン東京に宿泊しますが、その夜にKさんはコーヒーを飲んで意識を失っています。
09年1月10日にはKさんは木嶋佳苗とホテル・メトロポリタンに宿泊しますが、今度はココアを飲んで意識を失い、Kさんが目覚めると5万円がなくなっていたそうです。木嶋佳苗は、この時にKさんから暴言を吐かれたと言いがかりをつけ二人の交際を終了しています。
Kさんは睡眠薬を飲まされお金を盗られたとして警察へ行きますが、この時は事件性がないとして相手にされなかったようです。なお、Kさんはこの時の証拠品のココアパウダー、泡立棒、茶筅を保存していました。
Mさんの時と同様に、ホテル内でのことについては、木嶋佳苗は証言を拒否しています。
寺田隆夫さん殺人事件
08年6月に東京都青梅市の寺田隆夫さん(当時52歳?)は婚活サイトで木嶋佳苗と知り合い交際を始めました。木嶋佳苗はピアノ講師を自称し、女子栄養大学の大学院に通っていると言っていたようです。
寺田さんは裕福だったようで、かなりの金額を木嶋佳苗に振り込んでいます。
08年6月  265万円
08年7月   83万円
08年9月  150万円
08年11月 137万円
08年12月  50万円
09年1月 1167万円(9日40万円、25日1127万円)
09年1月11日に寺田さんは木嶋佳苗と東京ドームホテルに宿泊し、寺田さんは婚約指輪代わりにカルティエのブレスレット(73万円)をプレゼントしています。
09年1月30日に木嶋佳苗は寺田さんの自宅を訪問しています。この日の木嶋佳苗の行動は次のようになります。
午後2時半過ぎに板橋サティで買い物
午後7時ころベンツで青梅シティホテルにチェックイン
午後8時ころ寺田さん宅で宅配便の荷物(練炭など)を受け取る
午後8時半ころ帰宅した寺田さんと合流
そして、木嶋佳苗は寺田さんにイチゴ、練乳、紅茶などを飲食させ、睡眠薬で眠らせてアイマスクを着用させています。その後、練炭に点火し玄関ドアを施錠して立ち去っています。
寺田さんの遺体は2月4日になって発見されました。享年53でした。
木嶋佳苗は寺田さん殺害後の2月1日に461万円で赤いベンツを購入し、2月2日には代官山の高級フランス料理学校「ル・コルドン・ブルー」に73万4千円の支払い、そして家賃と駐車場代金10ヶ月分の前払い(たぶん270万円くらい)を行っています。
なお、木嶋佳苗は、寺田さんの自宅を訪問した際の印象として「トイレや浴槽が汚く、不衛生だった。泊まることはできないと思った。」と証言しています。事実かどうか分かりませんが、何か死者をおとしめる無神経な発言に聞こえてきます。木嶋佳苗の異常さの一端でしょうか。
安藤建三さん殺人事件
08年6月千葉県野田市の元運送業で年金生活の安藤建三さん(当時79歳?)は婚活サイトで木嶋佳苗と知り合っています。
08年6月17日には安藤さんは木嶋佳苗と池袋のラブホテルへ行っています。その後、学費の援助として安藤さんは木嶋佳苗に50万円を振り込んでいます。
08年6月30日には二人は舞浜のホテル・ユーラシアに一泊。7月11日に安藤さんはローンで30万円を工面して木嶋佳苗に振り込んでいます。
08年10月27日に安藤さんは木嶋佳苗と一緒に行った舞浜のホテル・ユーラシアで意識を喪失していますが、この時には木嶋佳苗は安藤さん宅に行き絵画を持ち出しています。
08年12月16日に木嶋佳苗は安藤さん宅を訪問。安藤さんのカードを使い13万円をキャッシングしています。これは、安藤さんには無断でのキャッシングのようです。木嶋佳苗は金欠だったのかもしれません。
08年12月26日に安藤さんは木嶋佳苗と池袋でデートをしますが、安藤さんは帰りの電車で意識を喪失します。一方、木嶋佳苗は安藤さんから盗んだカードで買い物をしたようです。
09年3月6日に木嶋佳苗が安藤さん宅を訪問中に、安藤さんは意識を喪失しています。この時には、木嶋佳苗は安藤さんのカードを無断使用し2万円をキャッシングしています。木嶋佳苗は、よほど金に困っていたのでしょうか。そして、そのころ安藤さんは「正式に司法手続きを取ります」と木嶋佳苗にメールをしています。木嶋佳苗の悪さに怒ったのでしょうか。でも、その後も二人の付き合いは続きます。
09年4月17日に木嶋佳苗が安藤さん宅を訪問した際にも、安藤さんは意識を喪失しています。そして、この時には、木嶋佳苗はATMで安藤さんの口座から30万円を引き出しています。
09年5月15日に畳替えを手伝う名目で木嶋佳苗は安藤さん宅を訪問しています。そして、木嶋佳苗は、安藤さんを睡眠導入剤で眠らせ、コンロの練炭に火を付けて安藤さんを殺そうとしました。結果的には、安藤さん宅は火事になり、安藤さんは焼死しています。享年80でした。この時に、木嶋佳苗は安藤さんの銀行口座から188万円を引き出しています。
木嶋佳苗は、老齢で年金生活者である安藤さんをなぜ狙ったのでしょうか。騙し易いと思ったのでしょうか、それとも年寄りが好きだったのでしょうか。木嶋佳苗の祖父が佐野眞一の本のインタビューで、木嶋佳苗には子供の頃から盗癖があって苦労していたと語っています。木嶋佳苗が比較的小額の金を年寄りの安藤さんから盗んでいるのは見ていると、祖父から金をくすねる不良少女のようにも見えてきます。木嶋佳苗は、年寄りの安藤さんを実は好きだったのではないかと思えてきます。
一方の安藤さんは保健師の女性に木嶋佳苗の写真を見られて「俺の彼女」と紹介しています。また、安藤さんはED治療薬の処方を受けていました。祖父と孫娘の禁断の関係だったのでしょうか。
木嶋佳苗は、安藤さん宅には介護ヘルパーとして通っていると妹に語っており、安藤さん宅はゴミ屋敷だと言っていました。実際にゴミ屋敷だったかどうかは分かりませんが、寺田隆夫さんの家の中が汚かったと証言しているのと何か符号しているようにも思えます。
年末年始
08年の年末から09年の年始にかけて、木嶋佳苗は驚くほど精力的に活動しています。当時の4名の被害者とほぼ連日会っています。
12月26日安藤建三さんが池袋でデートの帰りに電車で意識喪失
12月27日Kさんがリッツカールトンで意識喪失
12月29日Mさんが池袋のラブホテルで意識喪失
12月30日寺田隆夫さんと池袋でデート
1月1日〜5日恋人Sさんと裏磐梯へ旅行
実は12月は収入が少なかったので必死に工作していたのかもしれません。でも、そのおかげか1月には寺田さんから大金の振り込みを得ています。
第二次婚活サイト時代
木嶋佳苗は、5月に安藤建三さんを始末した後、再び婚活サイトを使って新たな獲物を探し始めます。しかし、今度は稼ぐのに案外苦労しています。
大出嘉之さん殺人事件
09年7月13日に神田神保町の自宅ビルに住む大出嘉之さん(当時41歳)は婚活サイトで木嶋佳苗と知り合っています。大出さんは駐車場管理会社に勤めるサラリーマンです。趣味はプラモデルで相当の腕前だったようです。
木嶋佳苗は介護の仕事をしていると自称。そして、料理学校を卒業し教室を開きたいとして学費の支援を要請していました。
大出さんは木嶋佳苗の自宅を訪問した際に「弁護士」だった父親の位牌が置いてあるのを見て、大出さんは木嶋佳苗を信頼したようです。
7月23日には大出さんは木嶋佳苗の自宅を訪問し、その後ホテルへ行きセックスをしています。
7月24日に木嶋佳苗は神田駅で大出さんに会い借用書を作成し、大出さんは学費名目で470万円を振り込んでいます。
7月25日に木嶋佳苗は386万円の借金を返済しています。しばらく収入がなかったので木嶋佳苗も生活が大変だったはずです。
8月5日に木嶋佳苗は埼玉県富士見市の駐車場のレンタカー車内で練炭を燃やし、大出さんを殺害しました。大出さんは2泊3日の予定で婚前旅行に行くつもりでした。
Iさん詐欺未遂事件
神奈川県小田原市のIさん(当時56歳)は、木嶋佳苗に高級料理学校の学費の立替を要求されますが、断ったようです。その際に木嶋佳苗はIさんに次のようなメールを送っています。
「おカネを立て替えてもらえないのであれば、私に対しての愛情や誠意がない証拠だと判断せざるを得ません。今後のことは私も考え直します。」
脅しとも取れる強い調子ですが、結局、Iさんは騙されませんでした。
Kさん詐欺未遂事件
長野県佐久市のKさん(当時53歳)は婚活サイトで木嶋佳苗と知り合っています。
09年8月31日に池袋で木嶋佳苗はKさんと会い140万円の援助を要求しますが、断られています。
Sさん詐欺未遂事件
埼玉県在住のSさん(当時38歳)も婚活サイトで木嶋佳苗と知り合っています。
09年9月1日にSさんは木嶋佳苗と池袋のデパートのレストラン街で食事をし、その後、すぐに池袋のラブホテルでセックスをしています。木嶋佳苗にしては、珍しいことです。Sさんが他の被害者に比べて若かったからでしょうか?そして9月3日にもデートをしています。
Sさんは、木嶋佳苗に学費70万円の援助を要求されますが、結局払いませんでした。
Yさん / 最後の被害者
Yさん(当時46歳)は千葉県野田市に住んでいました。焼死した安藤健三さんの近所に住む人です。
09年9月にYさんは木嶋佳苗と婚活サイトで知り合いました。Yさんは、木嶋佳苗にお菓子教室を開くための資金援助を要求され合計464万円を渡しています。
9月19日に木嶋佳苗はYさんと同居を始めます。この頃、警察の捜査が木嶋佳苗へ及んで来ていたので、木嶋佳苗が池袋のマンションから逃げ出した格好になっています。Yさんも、それを承知で木嶋佳苗をかくまったようです。
9月23日に木嶋佳苗は練炭と練炭コンロを注文しています。後日、Yさんの家の火災報知機が全て取り外されてことが判明します。木嶋佳苗はYさんも殺害する予定だったようです。
9月25日にYさんの家で、木嶋佳苗は警察に逮捕されます。おかげ、Yさんは一命を取り留めたのかもしれません。
Yさんは警察に被害届を出しましたが、受け取ってもらえなかったようです。一時期、Yさんは木嶋佳苗の共犯者として警察に疑われていたようです。
なお、Yさんは木嶋佳苗と肉体関係はなかったと証言しています。木嶋佳苗は相手によってセックスをしたり、しなかったりしています。いったい、どのような基準があったのでしょうか?
妄想のセレブ生活
木嶋佳苗は多くの男性から大金を騙し取って贅沢な生活をしていました。そうした「セレブ」生活をブログで自慢していましたが、いくら金を使ってもセレブには成りきれませんでした。その辺の所を鋭い女性たちは指摘しています。
「旅行へ持っていくバッグとして2つのバッグが写真に収められている。ひとつはクレージュの赤いボストンバッグ、そしてもうひとつはエルメスのバーキン、それも限定色だ。だが、そのバッグが置いてある場所がスノコの上なのである。このアンバランス感が木嶋の特徴とも言えるだろう。」(高橋ユキ、木嶋佳苗劇場より)
木嶋佳苗には、おそらく女性の友だちはいません。まして、本物のセレブの知り合いなどいなかったと思います。木嶋佳苗は妄想上のセレブを演じて、ブログで自慢し、そして男性を騙して大金を稼いでいたのだと思います。
 
上田美由紀 / 鳥取連続不審死事件

 

鳥取県鳥取市を中心におこった連続不審死事件である。2009年に発覚した(事件は2004年から2009年にかけて、計6件)。元スナックホステスの女(2009年当時、35歳。)の周辺で6人の不審死が起こり、注目された。2009年11月に女が別件の詐欺罪で逮捕された後に一連の不審死に関する捜査が行われた。2010年1月に女性は強盗殺人罪で逮捕され、最終的に2人を殺害した罪で起訴された。
一連の不審死事件
42歳男性不審死事件2004年(平成16年)5月13日、女性の交際相手で、読売新聞鳥取支局に勤めていた男性記者(42歳)が段ボールに詰められた状態で鳥取市内で列車に轢かれ死亡した。段ボールには「出会って幸せだった」などのようなことが書かれており、鳥取県警は文面の様子などから遺書と判断し、男性記者の死因を「自殺」と処理して司法解剖などは行わなかった。男性記者は女性との金銭トラブルがあり、同僚などからたびたび借金をしていた。27歳男性不審死事件2007年(平成19年)8月18日、女性の家族と共に貝を採りに鳥取砂丘近くの海岸に出かけた会社員の男性(27歳)が海で溺れて病院に搬送、約10日後に死亡した。男性は泳げなかった。女性とは2001年頃にスナックで知り合い、2005年頃から同居するようになった。男性は女性から日常的に熱湯をかけられるなどの暴行を受けていた。41歳男性不審死事件2008年(平成20年)2月、鳥取市郊外の山中で鳥取県警所属の男性警察官(41歳)が首つり死しているのが発見。男性は女性が働いていたスナックの常連客であり、2人の間で金銭トラブルがあったという。47歳男性不審死事件(起訴事案)2009年(平成21年)4月11日早朝、北栄町沖の日本海でトラック運転手の男性(47歳)の水死体を発見。遺体からは睡眠導入剤、肺からは水死の場合入るはずのない砂が検出された。57歳男性不審死事件(起訴事案)同年10月6日、自営業の男性(57歳)が「集金に行く」といい、車でどこかへ出発、翌日の午後2時、自宅から約4km離れている鳥取市内の摩尼川でうつ伏せの状態で死亡しているのが発見された。しかし、川は溺れるはずのない水深約20cmで顔を押し付けた可能性があり、遺体から睡眠導入剤が検出された。男性は女性とその同居人に140万円ほどの未収金があり、前日の発言はこのことだと思われる。現場から約10m離れたあたりに男性の車が発見され、カーナビの走行記録をみたところ、自宅を出発してから事務所そこから約7km離れた女性の自宅へ行き、数度、女性の自宅敷地を出入りし発見現場に到着。その後は移動していない模様。58歳男性不審死事件同年9月、女性と同じアパートに住んでいた無職の58歳男性が女の車を借りて運転中、鳥取駅前で乗用車と衝突。女性は「相手と示談する」といい、男性から8万円をもらったが、その後、ことは進展せず、男性が示談相手ともめることになった。その1ヶ月後、男性は突如体調が悪くなり、10月27日に死亡。前日にはこん睡状態に陥っていた。男性は女性のスナックの常連客で、自宅の鍵を女性に預けていたという。

この事件は、2009年11月2日に詐欺容疑で女が逮捕された際、鳥取県警は実名を公表し、県警記者クラブに加盟する報道各社に発表資料を配布した。しかし、不審死事件が発覚した5日以降は匿名にきりかわった。これは、殺人容疑で立件されれば裁判員裁判の対象となるため、世間に予断をあたえないための配慮とされている。しかし、ほとんどの週刊誌は実名や顔写真を掲載し、センセーショナルな見出しで女の生い立ちや生活実態を報道した。『週刊新潮』は、『社会的な関心がおおきく、「知る権利」にこたえるため』、『週刊文春』は「事案の重大性をかんがみて」という理由で実名報道を選択した理由を説明している。
一連の報道についてマスコミ研究者の桂敬一は、「実名報道は捜査当局の判断をまってからでもおそくない。興味本位の報道ではよくなく、インターネット上でも情報が氾濫しており、フィクションの世界で犯罪ができあがるような錯覚すらおぼえる」と指摘している。
2010年1月28日に女が強盗殺人罪で逮捕されたのを機に、テレビや大手新聞でも実名報道に切り替えとなった。
裁判
裁判では目撃証言などの直接証拠が存在せず、間接証拠の積み重ねでの判断に注目が集まった。
2012年12月4日、鳥取地裁(野口卓志裁判長)は求刑通り死刑を言い渡した。被告側は判決を不服として即日控訴した。
2014年3月20日、広島高裁松江支部(塚本伊平裁判長)は一審判決を支持し控訴を棄却した。これにより二審死刑判決。被告側は最高裁に即日上告した。
このまま死刑が確定すれば戦後15、16人目の女性死刑囚となる。
報道
鳥取県警が警察官の自殺場所訂正 「署内」を「山中」に (2009/11/9)
鳥取県で男性の不審死が相次いでいる問題で、鳥取県警は、詐欺容疑で逮捕した元スナック従業員の女(35)と交際していて、08年2月に死亡した同県警の男性警察官の遺体発見現場を「警察署内」と説明していたが、7日、県内の「山中」と訂正した。発見当時、山には雪が積もっており、警察官が首をつった状態で見つかった場所まで、この警察官のものとみられる足跡しかなかったことから、「自殺」と判断したという。
鳥取連続不審死 「ノーコメント」繰り返す県警 (2010/1/29)
上田美由紀容疑者の逮捕を受け鳥取県警は28日、鳥取署で記者会見を開き、事件の概要については説明した。上田容疑者周辺に男性6人が不審な死をとげている疑惑が浮上してから長期間が経過したことがあってか、上田容疑者の供述内容や他の不審死事案の捜査状況などについては「ノーコメント」を繰り返す、歯切れの悪い会見となった。
会見には近藤治夫署長らが出席。上田容疑者と円山さんとの間の金銭トラブルの内容などについて、用意したメモを淡々と読み上げた。報道陣からは逮捕容疑に対する上田容疑者の認否や、殺害方法について質問が相次いだが、県警は「捜査中」「犯人しかわからないこと」などとして明らかにしなかった。
鳥取不審死、36歳女を逮捕 川で男性殺害容疑 (2010/1/28)
円山秀樹さんの遺体が発見された摩尼川=28日午前、鳥取市覚寺鳥取市の摩尼(まに)川で昨年10月に遺体で見つかった同市の電気工事業円山(まるやま)秀樹さん(当時57)を家電製品の代金支払いを免れる目的で殺害したとして、鳥取県警は28日、詐欺容疑などで起訴された同市福部町、元スナック従業員上田(うえた)美由紀容疑者(36)を強盗殺人容疑で逮捕し、発表した。同県では上田容疑者と面識があった男性6人が相次いで変死し、円山さんら3人からは睡眠導入剤が検出された。県警は同日、鳥取署に捜査本部を設け、円山さん以外の不審死についても調べを進める。
捜査本部によると、上田容疑者の逮捕容疑は、昨年10月6日、家電製品12点の代金約123万円の支払いを免れるため、円山さんに睡眠導入剤を飲ませ、摩尼川に連れて行っておぼれさせて殺害した、とする内容。同容疑者は「知らない」「やっていない」と容疑を否認しているという。
円山さんの家族によると、円山さんは昨年夏、テレビなどを上田容疑者らに渡した。だが、代金が払われず、行方不明になった昨年10月6日朝も、上田容疑者から代金を回収するため、午前8時ごろ自宅を車で出たという。
捜査関係者によると、翌7日午後2時ごろ、摩尼川で発見された円山さんの遺体から、睡眠導入剤が検出された。県警の捜査で、この成分が上田容疑者宅から押収された薬の成分と一致。また、円山さんの車のカーナビに残っていた記録から、円山さんの車が上田容疑者宅近くで止まった後、摩尼川で止まったことなどが分かったという。
さらに、上田容疑者と同居し、ともに詐欺、窃盗容疑で逮捕、起訴された元自動車セールスマンの男(46)に接見した弁護士によると、男は県警に対し、円山さんが行方不明になった日の朝、上田容疑者と一緒にいた円山さんと会ったと供述したという。
この弁護士によると、男が2人に会ったとき、円山さんの意識はもうろうとしていた。上田容疑者が「どこかで休ませよう」と言い、同容疑者の先導で車2台で摩尼川へ行った。男はいったん2人と別れたが、その後、上田容疑者に呼ばれて川に戻ると、円山さんの姿はなく、上田容疑者の服がぬれていた。上田容疑者は「円山さんと、もみ合いになっ¥た」という趣旨の話をしていたという。
県警の捜査で、上田容疑者は、代金未払いの家電製品や農機などを転売し、生活費などに充てていたことが判明。円山さんが渡した家電製品もリサイクル店に転売されていたという。県警は、上田容疑者は支払いを免れるために円山さんを殺害した疑いが強まったと判断したという。
昨年4月には、上田容疑者が借金していた同県若桜町のトラック運転手矢部和実さん(当時47)が同県北栄町沖の日本海で、10月には隣人の田口和美さん(同58)が自宅アパートで変死し、2人から睡眠導入剤が検出された。男の供述などから、県警は矢部さん死亡の経緯についても上田容疑者が知っている可能性があるとみて事情を聴く。
(朝日新聞社は、上田美由紀容疑者が、不審死事件とは別の詐欺や窃盗事件で逮捕、起訴されていたため匿名で報道してきましたが、強盗殺人容疑で逮捕されたことから実名に切り替えます。)
鳥取不審死 強盗殺害2人目の容疑 上田容疑者を再逮捕 (2010/3/3)
鳥取県沖の日本海で2009年4月に水死体で見つかった同県若桜町のトラック運転手矢部和実さん(当時47)を借金返済を免れるために殺害したとして、鳥取県警は3日、鳥取市の元スナック従業員上田(うえた)美由紀容疑者(36)=電気工事業円山(まるやま)秀樹さん(当時57)に対する強盗殺人の罪で起訴=を強盗殺人容疑で再逮捕し、発表した。
上田容疑者が逮捕容疑を認めているかどうかについて、県警は「捜査上、支障がある」として明かしていないが、捜査関係者によると、黙秘しているという。
県警によると、上田容疑者の再逮捕容疑は、矢部さんから借りていた約270万円の返済を免れる目的で、09年4月4日、矢部さんに睡眠導入剤を飲ませ、同県北栄町の海岸でおぼれさせて殺害したとする内容。矢部さんの遺体は同11日、同町沖約600メートルの日本海で見つかり、死後1週間程度たっていたという。
上田容疑者と矢部さんは数年前、お互い客として訪れた鳥取市の飲食店で知り合った。その後、矢部さんは自分で借金をしたうえで、数回に分けて上田容疑者に生活費名目で計約270万円を貸したといい、上田容疑者から借用書を受け取っていたという。
上田容疑者と同居し、詐欺罪などで起訴された元自動車セールスマンの男(46)に接見した弁護士によると、男は09年4月4日、上田容疑者に呼ばれて北栄町の海岸に行くと、上田容疑者の服がぬれており、その理由について、「矢部さんともみ合いになった」という趣旨の説明をしたという。
上田容疑者は09年11月に接見した弁護士に、殺害を否定したという。
一方、捜査関係者によると、上田容疑者が借りているアパートの隣の棟に住み、09年10月に死亡した無職田口和美さん(当時58)の体内からも、上田容疑者宅から押収されたものと同じ成分の睡眠導入剤が検出されたという。県警は、田口さんが死亡した経緯についても、上田容疑者から事情を聴く方針だ。 
 
〈毒婦〉という教育

 

はじめに 
ここでいう〈毒婦〉とは、明治五人毒婦の一人に数えられる一方で、〈貴婦人〉とも謳われた〈島津お政〉を指す。志賀直哉『暗夜行路』(大正10年から昭和12年まで「改造」に断続発表。「前編」は大正11年7月に新潮社から刊行)の「前編第二、十二」には、「祇園の八坂神社の場末の寄席といつたやうな小屋」で「懺悔する意味で自身、一代記を演」じていた、「長いマントを着、坊主頭に所謂宗匠帽を被」る女性が描かれているが、「暗夜行路前編」が主として大正元年から3年頃までの取材によるものであり、松山巌『うわさの遠近法』(講談社学術文庫,1997年,p.72)には〈お政〉の興行が大正初期頃まで続けられていたという報告もあることから、この五十歳を過ぎた「お政」は、〈島津お政〉をモデルにしたものとみることができるかもしれない。作中では、主人公時任謙作が「本統に一人の人が救はれるといふ事は容易な事ではない」との思いを抱きながら、「お政」の「気六ヶしさうな、憂鬱な顔」を思い浮かべるのだが、もし仮に、この場面が興行しながら諸国を経巡った晩年の〈島津お政〉の姿を伝えるものとすれば、「懺悔する意味で自身、一代記を演」じることで、犯した罪を悔い改めた後もなおその罪に深く関わりながら生きていった〈お政〉は、〈毒婦〉からいかにして〈貴婦人〉と讃えられるに至ったのか。
本稿は、明治20年12月「大阪朝日新聞」に掲げられた出所記事に端を発し、新聞連載の「島津まさの履歴」や単行本『悪事改悛島津お政の履歴』などから、これまで看過されてきた明治20年代の「つづきもの」の有り様を明らかにすると同時に、〈毒婦〉の造形化に着目しながら当時の女子教育の一端や今日的な教育の問題を考察するものである。 
T〈島津お政〉の登場 
明治新政府樹立後、国民の啓蒙を目的としていた新聞は、政府内の分裂を契機として、政治的、社会的言論を中心とする「大新聞(おおしんぶん)」と、市井の出来事や記事を主に掲げた「小新聞(こしんぶん)」とに分離し、それぞれの読者層を獲得しながら発展していった。なかでも、「小新聞」に掲載された読み物風な娯楽性を伴った記事は、とりわけ庶民に歓迎され、明治10年代に入り、「つづきもの」として急激な成長をみるに至る。紙上で人気を博した「つづきもの」は競って小説化や演劇化され、衰退期を迎えていた戯作の復活を果たすと同時に、日本近代文学史上に写実小説が登場する明治20年代までの一時期を飾ることになる。また、のちの新聞小説の先駆ともなっていった。
興津要「『つづきもの』の研究」(『明治開化期文学の研究』桜楓社,昭和43年,p.67)は「つづきもの」の嚆矢を『平仮名絵入新聞』連載の「岩田八十八の話」(明治8年11月)とし、「鳥追お松の伝」(『仮名読』明治10年12月)や「金之助の説話(はなし)」(『東京絵入』明治11年8月)、「高橋お伝」(『東京新聞』明治12年2月)など、「つづきもの」が華やかに紙面を飾った明治10年代前半をその全盛期と位置づけている。つまり、硯友社の結成や坪内逍遙『小説神髄』が刊行される、いわば日本近代文学の黎明期である明治18年辺りまでをその考察対象としているが、ここで取り上げる「島津まさの履歴」(明治21年6月5日〜7月1日まで全17回、「大阪朝日新聞」)もそうした「つづきもの」のひとつに数えるべき作品である。しかも、その経緯を綿密に調査してみると、必ずしも興津がいうような、話題性のある記事を「つづきもの」として連載し、さらには刊行へ、といった経過を辿ってはいない。「島津まさの履歴」が明治21年6月の「朝日新聞」に連載され、その後『悪事改悛島津お政の履歴』として同年10月に刊行されるまでの経緯を「(1)『悪事改悛島津お政の履歴』刊行までの経緯」として、つぎに示しておく。
『悪事改悛島津お政の履歴』刊行までの経緯
  《年月日・記載事項・刊行状況・出典・発行所》
20・12・11;十二月十日、終身懲役に処せられていた窃盗犯である島津まさ(三十一年一ヶ月)は、特赦の申し渡しを受けた。(「朝日新聞(大阪)」)
21・・8;「角の芝居は、過日当監獄より満期放免されたる島津まさと入獄中の雷お新の両人に係わる事蹟を仕組んで出す筈。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)
21・5・20;「角の芝居は、島津まさの履歴を狂言に仕組み外題を『島津まさ監獄日記』と名付け、来る二十三日に看板を上げ、来月一日初日の筈。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)
21・5・27;「『島津まさ監獄日記』の場割に訂正を加えるところあり。また、他にも何か事故の生じたる為、之を後に回す。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)
21・6・5;「島津まさの履歴(一)」連載開始。(「朝日新聞(大阪)」)
21・7・1;「島津まさの履歴(十七)」連載終わる。(「朝日新聞(大阪)」)
21・7・14;「道頓堀弁天座は『島津まさの履歴』を七幕に仕組み、納涼芝居を興行するといふ。」(『劇場通信』「朝日新聞(大阪)」)
21・7・27;(「弁天座の仕打某は今度浪華座を借受け島津まさの狂言を一興行なさんとて奔走中」(『芝居と浄瑠璃』「朝日新聞(大阪)」)
21・10・27;『悪事改悛島津お政の履歴』刊行(岡野武平校閲・吉田香雨編纂・発行者吉田伊太郎・大阪、聚英舎印刷所)
上記(1)に示したように、「島津まさ」に関する記事が新聞に掲載されたのは明治20年12月11日付「朝日新聞」である。この時は紙上第一面下段の片隅に「特赦の沙汰」と題され、つぎのように紹介されている。
兼てより当府監獄に在る懲役(中略)十年囚兵庫県神戸元町三丁目今村たつ方同居島津まさ(三十一年一ヶ月)は元来旧律に拠つて終身懲役に処せられたる窃盗犯なりし処兼て各一等を減ぜられたる次第なりしに又此程より其筋に於て詮議の上特赦の申立ありし由にて昨日(中略)弥(いよいよ)特赦の申渡を受けたり(中略)まさは来る明治二十四年二月十六日が刑期満限に当れる由
この記事から、通り名〈島津お政〉の本名は「島津まさ」で、実在の女性であり、しかも「元来旧律に拠つて終身懲役に処せられたる窃盗犯」であったことが知れる。今にすれば「窃盗犯」で「終身刑」というのは違和感があるが、当時法制度は十分に整備されていない。「旧律」は盗んだ金額によって懲役期間が決定されるというものであり、当然ながら盗んだ金額が高額なら、その受刑期間は一生分を越えるほどのものになる。「島津まさ」の経歴については後述するが、「終身懲役」である「島津まさ」の「特赦」を報じたこの記事は、客観性に富む文章によって事実を正確に報じたものであり、決して興味本位な戯作調のものではなかった。これは、「つづきもの」が「実の文学で、その種はいわゆる新聞の雑報であり、いわば雑報の文学である」(柳田泉『明治文学研究第四巻明治初期の文学思想』春秋社,昭和40年,p.100)ことと多少異なっている。「つづきもの」の代表とされる「高橋お伝」の場合、明治12年1月31日、「お伝」処刑の翌日から「有喜世新聞」「仮名読」などの「小新聞」が一斉に「お伝」の記事を「仏説にいふ因果応報母が密夫の罪」(「仮名読」)、「四方の民うるほひまさる徳川」(「有喜世新聞」)といった戯作調の書き出しで掲載したのと、「島津まさ」とでは初発から事情が違っているのである。
明治21年4月から5月頃に掲載された「朝日新聞」の記事からすると、明治20年暮れ、出所した「島津まさ」を真っ先に取り上げたのは、大阪の劇場「角の芝居」である。「島津まさ」が「つづきもの」として登場するのは6月5日であり、それ以前から「島津まさ監獄日記」と題した芝居の準備は始められていた。ところが、5月27日付に「場割に訂正を加えるところあり。また、他にも何か事故の生じたる為」に延期されてしまう。「島津まさの履歴」連載開始の6月5日はその直後である。つまり、「島津まさの履歴」は、劇化までの埋め合わせに急遽連載されたとみることができる。したがって、「つづきもの」が雑録に物語性や文学性を加味しながら、合巻化、小説化へと展開していったとする先行研究(興津,前掲書,p.67)とは異なる。「島津まさの履歴」は、それらを見直す事実としても注目される。
なお、そのわずか3ヶ月後に単行出版された『悪事改悛島津お政の履歴』は、紙上掲載「島津まさの履歴(全17回)」に投獄中の事件や出所後を記した最終章「第十八回」が加えられたものである。
ところで、明治14年1月、「終身懲役」を申し渡された「島津まさ」がわずか7年足らずの刑期を終え、20年12月に放免されたという事実は、逮捕拘留されて以来の彼女の「改悛」ぶりを説明するには十分すぎるほどである。単行出版された『悪事改悛島津お政の履歴』によって、「島津まさ」の経歴をみておこう。
まさは江戸積の砂糖商錫屋藤七とお勇との間にもうけた五男二女の次女として生まれた(第一回)。両親は相次いで死別し、錫屋の家運は傾いていく。まさは奥勤の奉公に出されたが、主家の別家某に思いを寄せ、某の後を追って主家を逃げ出してしまう。掟の厳しい大家のことでもあり、継母が住む実家へも帰れず、まさは明治3年5月に入水自殺を図った(第二回)。大工某に助けられたまさは、その親切にほだされ、呉服商を営み始める。明治10年には湯屋業にも手を広げ、商売も軌道に乗ったかにみえた(第三回)。ある日、湯屋にかつての恋人が現れ、互いの想いが変わらぬ事を確認し合うが、その機に乗じた荒男たちに大金を盗まれてしまう(第四回)。金策に窮したまさはしばらく神戸で仲居として働きながら身を隠すが、かつての強盗事件は実は大工某に仕組まれたという噂を耳にする。明治12年夏7月頃、まさは再び大阪に舞い戻る(第五回)。まさは一刻も早く負債を清算したい一念で箱廻しに身を落とすが、ある青楼の依頼を受けて料理屋に行ったところ、大工某がまさを探しにやってくる。咄嗟に押入に隠れたまさは、金貨銀貨が入った胴巻を見つける(第六回)。まさは胴巻に隠された376円を持ち逃げし、その金で借金のすべてを返済した(第七回)。世話になった芸妓たちを芝居見物に連れて行った際、紳士体の男紀田某と再会する(第八回)。芝居小屋を出ると、紀田から不意に鞄を渡されるが、紀田はまさの眼前で逮捕され、紀田が大盗賊であったことを知る。鞄の中には1950円もの大金が入っていた(第九回)。大金を手にしたまさは、金に困るものがあれば惜しげもなく金を与えた(第十回)。立ち寄った時計屋で雷お新と出くわすが、お新は万引きで逮捕されていく(第十一回)。お新が拘引されるのを目の当たりにしたまさは、男装して姿を変え、この世の見納めにと驕奢を極めた遊びにふける一方、幼い子どもたちに小遣いを配って歩く(第十二回)。来合わせた比叡山の某一院の座主白道上人にその行状を戒められ、まさは上人の教化に涙を流す。その白道上人こそ、実母が生き別れた最愛の人であった。出頭を決意して湯屋から出たところ、まさは日本橋警察に逮捕される(第十三回)。監獄には雷お新がいた(第十四回)。まさの罪科は青楼の押入から大金を盗んだ一件だけだった(第十五回)。明治14年1月17日、まさは終身懲役を申し渡され、同年2月16日、終身懲役確定(第十六回)。受刑中、まさは神妙に獄則を守り、他の女囚を励ます。獄中四等助教を命ぜられるが、まさを妬むものもいた(第十七回)。18年2月25日、19年3月にも表彰され、合わせて4個の賞表を与えられた。まさは明治20年10月、国事犯事件で入獄した景山英とも獄中で親しくなった。明治20年10月に再び表彰され、同12月10日、放免の身となった。心学道話の家元へ礼に向かう。同胞はみな薄命のうちに果てていた(第十八回)。
いうまでもなく、ここに描かれたすべてが「島津まさ」の実歴ということにはならない。そこには、当然ながら、読み物としての誇張や脚色が加えられているであろうし、その辺は差し引いて考えなければならない。ただ、ここで確認すべきことは、逮捕に至るまでの罪の犯し方である。失恋による自殺未遂まで、「まさ」は薄幸ながら何事もない。ところが、大工某と出会い、大金を盗まれたのをきっかけに、人の金に手をつけてしまう。それも偶然見つけた、胴巻に隠された金である。それ以外、「まさ」はとても悪党とは思えない。盗んだ金はまず借金返済にあて、貧しい人々への施しも忘れない。心学の道話に涙を流し、犯した罪を悔いる気持は他を圧倒するほどである。ほんの出来心、それが「まさ」を窃盗犯にし、「終身懲役」の大罪人にしたのである。ここに書かれている「まさ」が犯した「悪事」は、盗まれた金を返済することに躍起になっていた彼女が、目の前にあった金を持ち出したという一件だけである。それさえ、大工某に陥れられていたのである。本来なら、「まさ」は「悪事」を犯すような女性ではなかったのだ。だからこそ、前代未聞の早さで放免されたのである。
生涯「悪事」とは無縁のはずの女性が、ある時階段を踏み外し、犯罪者になっていく。そうした印象をもつ作品といえようが、事実スピード出所した「まさ」を描くためには、本来的に「まさ」は決して悪女ではなかったことを強調する必要がある。それからすれば、「まさ」の実人生と『悪事改悛島津お政の履歴』とは、必ずしも一致しないことは考慮すべきだが、紙上の片隅にひっそりと報じられたにすぎない「まさ」に関して、読者が興味をそそられるのは、なぜ「終身懲役」になったのか、それがなぜ「特赦」となったのか、そうした点にあったろう。その疑問に答えるためには、「終身懲役」犯になるような人物でなかったことを強調するのが妥当である。そうすれば、その目覚ましい「改悛」の在処も首肯できるものとなる。 
U 〈絶世悪婦〉から〈毒婦〉へ 
「島津まさ」が演劇化されたことにより多くの支持を得たことは、ほどなく『悪事改悛島津お政の履歴』(岡野武平校閲,吉田香雨編纂,明治21年10月27日,擁萬楼刊)が刊行されたことからも窺えよう。その後、日本全国を興行して回ったと思われるが、明治24年辺りから東京版「朝日新聞」にその記述がみられる。その後の動向について、「(2)〈島津まさ〉の横浜興行、諸本の刊行」としてつぎに掲げる。
〈島津お政〉の横浜興行、諸本の刊行
  《年月日・記載事項・刊行状況・出典・発行所》
24・9・29;「蔦座は『大阪朝日新聞』の続きもの悪婦お政の伝『島津政女改心録』。役者は従前の一座へ右島津政女(三十五)が自身の劇を演るといへば、是は一段の見ものであらう。」(『横浜の芝居』「朝日新聞(東京)」)
24・10・3;蔦座において「島津お政改心録」を市川七右衛門、中村谷三郎、尾上多見之丞という顔ぶれで上演開始。(『蔦座のコップ騒ぎ』「朝日新聞(10.20.東京)」)
24・10・16;「同座は『島津政女改心録』が人気にはまりいよいよ大入りに付、今十六日よりお政改心の場までを演ずるよし。」(『横浜の蔦座』「朝日新聞(東京)」)
24・10・16;「同座にては過日より大阪の婦人島津政なるものゝ履歴を仕組たる狂言にて」(『横浜蔦座』「やまと新聞」)
24・10・25;「横浜の蔦座で大入りを取ている『島津政女改心録』が大分宜さうだとの内相談から、・・・どうでも島津政女の狂言を演ることに取り決まりたるよし。」(『ことぶき座』「朝日新聞(東京)」)
24・0・9;「狂言島津政女改心録は近頃大当りにして日々大入につき尚二十九日より引続き第三回の興行をするといふ。」(11・0頃まで約40日間に亘って興行)(『横浜の蔦座』「朝日新聞(東京)」)
24・1・;『絶世悪婦嶋津政女改心録島津智海口述』(横浜市金林堂発行・川村太一著)刊行。
25年頃か;横浜蔦座「嶋津政女謹述る」(「口上ビラ」かながわ資料室所蔵、その後蔦座は明治32.8.12の関外大火により消失して廃座)
28・4・23;『明治五人毒婦之一人嶋津政改心実録』(東京、擁萬楼発行、編集兼発行鈴木倉)刊行。
37・2・6;「市村座島津政子一座は久々の出京といひ座員の櫻井東女、南鈴子など初めての目見江といひ何れも大車輪にて勤むとなり」(『楽屋すゞめ』「朝日新聞(東京)」)
37・2・17;「島津お政一座は来二十日より横浜の横浜座へ出勤と極り狂言は『島津政女改心録』の通しにて打上後は予て約束ある米国万国博覧会へ赴き欧米を漫遊すといふ」(『楽屋すゞめ』「朝日新聞(東京)」)
37・2・20;「横浜座の島津政東京市村座にて興行中なりし同一座は来二十三日初日其純益を軍資に献納する狂言は例の『改心録』九幕、尚マサは獄舎実説懺悔談及心学家庭教育談を弁ずる由」(『芝居だより』「横浜貿易新聞」)
37・2・23;横浜座「軍資恤兵金献納演劇島津政女改心録十幕」上演開始。「活劇派真演劇女壮士島津一座貧児教育学校創立賛助員島津政子」口上。(横浜開港記念資料館所蔵・肖像写真「芝居番付」)▽37・3・11;「横浜座の替狂言ハ一番目『露探』二番目『島津政女』後編六幕」(「横浜貿易新聞(狂愚仙)」
37・3・23;「果然横浜座閉場」(「横浜貿易新聞」)
〈不詳〉;「活劇派真演劇女壮士島津真佐子一座開演御披露旧大罪人明治白浪五人毒婦の一人終身懲役特赦恩典人日本女優演劇改良会々長権中講義」(横浜開港記念資料館所蔵「芝居番付」)
上記(2)は横浜を中心に調査し、現時点で確認できた資料から作成したものだが、明治24年に入り、〈島津お政〉の芝居が横浜で評判となっていたことだけは確かである。24年9月29日付「横浜の芝居」(「朝日新聞(東京)」)に「島津政女(三十五)が自身の劇を演るといへば、是は一段の見もの」とあるように、このころには「まさ」本人が舞台に上がり、自ら懺悔話を披露していたようである。10月16日付「横浜蔦座」(「やまと新聞」)にも「狂言中に島津政が舞台に出て自分の懴悔話を聞かせるのが大評判と成り、近頃に無き大入なる」とあり、末尾には「序(ついで)に記す、島津政は当年三十八才、頭を円くしたれど中々の美人なり」とも報じている(時期は不明だが、横浜開港記念資料館には「島津まさ」の肖像写真が掲げられた「芝居番付」が所蔵されている)。この時点で、「まさ」の年齢はまちまちだが、出所した際の年齢が31才であったことからすれば、この頃「まさ」は35才のはずである。その「島津政女(三十五)が自身の劇を演る」ということでかなりの評判になり、翌10月3日から11月10日頃まで約40日間に亘って興行されたことは間違いない。これによって、「横浜演劇史年表」(横浜開港資料館編集『横浜の芝居と劇場』横浜開港資料普及協会,1992年)の「24・10頃蔦座で『島津政女改心録』上場」、及び、『神奈川県演劇史』(神奈川県立青少年センター,1995年)における「資料1演劇事象」の双方に記された「10頃」は「10・3〜11・10頃まで」と補うことができよう。
この10月興行に続くと思われる、神奈川県立図書館かながわ資料室所蔵、未発表資料横浜蔦座「口上」の全文をつぎに掲げておく。
乍憚口上
御市区(おんまち)中様益々御機嫌克(ごきげんよく)御超歳(ごてうさい)被遊恐悦至極(しごく)ニ奉存候隨而妾義昨年御当港於而我児(わがみ)が犯せし大罪を改心録与名ケ(かいしんろくとなづけ)活歴演劇(かつれきえんげき)ニ取仕組ミ御覧ニ入候処殊之外御意ニ叶ひ連日之大入実ニ四旬(しじゅん)の永ニ至候段全ク御ひゐきの御蔭と朝夕奉拝謝然るに今般去ル方之御招ニ任せ奥羽地方江参り候に付而者暫く之間御当地御目見得も不相成右御名残与して甚ダ嗚滸(おこ)がましくは御座候得共中幕之内へ
傾城青陽鶏(けいせいはるのにはとり) 長七出馬切の場
政女自ら相勤メ御覧に入れ候間尚不相替永当に御見物之程伏して希上奉候以上
横浜蔦座に於而嶋津政女謹述る
この「口上」の年月は不詳だが、「昨年御当港於而我児が犯せし大罪を改心録与名ケ活歴演劇ニ取仕組ミ御覧ニ入候処殊之外御意ニ叶ひ連日之大入」という記述が、先にみた蔦座の「島津政女改心録」上演を指すとすれば、翌25年に横浜蔦座で再演された時のものとも考えられる。が、これは断定できない。ただ、「去ル方之御招ニ任せ奥羽地方江参り」とあるように、その間地方巡業による興行を継続していたことは確かなようだ。
横浜蔦座で「大当りにして日々大入」という金字塔を打ち立てた「島津政女改心録」は、約40日間にも及ぶ興行の最終日と相前後して、『絶世悪婦嶋津政女改心録島津智海口述』(川村太一著)刊行に至る。これは、上演された「絶世悪婦嶋津政女改心録」の「序幕」から「大詰」までの芝居の演目を冒頭に掲げ、それに解説を付したもので、本人の口述を元に「脚本二十冊」が作られ、「場役割に規り僅かに経歴の筋書」にあたるという。残念ながら「真佐女口述乃其荒増を速記に」したという「脚本二十冊」は未見だが、上演の様子を伝える『絶世悪婦嶋津政女改心録』から、芝居の内容をみておくことにする。
序幕  大坂二軒茶屋の場、守口街道松原の場
二幕目 守口街道亀屋の場、同奥座敷の場、同裏手堀外の場
三幕目 大坂本町砂糖店の場、同奥座敷お政責の場
四幕目 大坂本町橋の場、同政女投身の場
五幕目 高麗橋岩井湯の場、同二楷新内浚の場、呉服店の場
六幕目 道頓堀芝居の場、同芝居茶屋の場
七幕目 平野町魚亀の場、大黒橋召捕の場
八幕目 明石町宿屋の場、舞子の浜牛買殺の場
九幕目 淀屋橋時計屋の場
十幕目 小間善兵衛の内併す路地口の場
十一幕目 天満橋の場、友之進内の場
十二幕目 大坂監獄の場、同女工洗濯所の場、罪石空役の場、病院安蔵お政面会の場、島津お政放免の場
大詰  地蔵寺説教の場、天下茶屋畷権治親殺の場、権治召捕、同改心自白の場
この『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年)と先の『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年)との相違点は、つぎのようにまとめることができる。
1、大工清七の企みにより恋人秀二郎と別れ、清七との間に清一という子をもうける。
2、秀二郎との再会により清七の欺きを知り、清七との関係を清算しようとする。
3、淀屋橋の時計屋で金皮時計を万引きし、強請る。
4、茨の権治と結託し、強盗や殺人(毒殺を謀る)などを犯し、金を巻き上げる。
5、木田安蔵と共に脱獄する。
6、米屋を脅かし、三百円を奪う。
7、神戸で「初音」という料理屋を開業する。
8、明治21年12月10日、特赦、放免される。
9、大塚覚善師の法弟となり、智海と名乗る。
10、雷お新の遺言によって権治に殺されかける。
11、権治の実母がお政の身代わりとなって殺される。
12、明治24年11月6日、権中講義の職を授かる。
先述したように、大阪で刊行された『悪事改悛島津お政の履歴』の〈お政〉は、
根っからの悪党とは思えない女性として描かれていた。ところが、それから約3年を経て、すでに「まさ」の経歴には多くの相違点がみられるようになる。1から12に掲げたように、「まさ」は一児の母となり、茨の権治を情夫とする。木田安蔵と脱獄を企てたり、万引きや強請を働くなど、「悪婦」性が加味され、強調されている。一例を挙げれば、当初「島津まさの履歴」では、「雷お新」が時計屋で逮捕されたが、ここでは「まさ」が「金皮時計を万引し之を身体に押かくし却て其家に柄目をつけ金百円をゆすり取」(「九幕目淀屋橋時計屋の場」)っている。その上、「まさ」が「特赦」によって放免された年月日は、新聞報道と『悪事改悛島津お政の履歴』とでは20年12月10日で一致していたが、ここでは21年12月10日とされる。また、蔦座『絶世悪婦嶋津政女改心録』興行にあたって、「権中講義をさづけられ」た「智海」こと「島津政が舞台に出て自分の懴悔話を聞かせ」ているのである。『絶世悪婦嶋津政女改心録』にはつぎのような記述がみられる。
今度真佐女口述乃其荒増を速記にし之を脚本二十冊に輯す劇場に舞ひ本人自ら演上に登り仏教心学交も交も演ず弁舌宛も流水の如く相貌(そうばふ)音律男子に増(まさ)ると場中巳るゝ許りにて喝采の声拍子の音連日場中に絶ざるはまつたく夫(それ)理(ことわ)りなきに非ず
「頭を円くし」法衣に身を包んだ女性が舞台に上がり、「宛も流水の如く」、「仏教心学」を弁ずる。その「美人」の過去は「金皮時計を万引し」たり、「金百円をゆす」るなど非道なものである。しかも、「捕縛せられて囚獄の末」にも「収監中大賊の木田安蔵と共謀し風雨の夜半に病気と偽り油断させ破獄」するような極悪人である。目の前の「頭を円くし」た「中々の美人」の、それがつい数年前の事実であり、変われば変わるものだ、という観客の驚きや衝撃は想像に難くない。〈悪婦〉を強調すればするほど、その「改悛」ぶりが一層増すという、逆説的だが、そのひとつの証左であろう。「まさ」本人について、作品はつぎのようにも伝えている。
衣食の料にあてるの余ハことごとく囚人貧民に施し(中略)暇あれば経文を読誦し応答厳正犯す可からざるの風あり(中略)今日豹変教導の任を帯て人に説く古往今来見さるの奇婦なり嗚呼(ああ)奇代の女子と謂ふ可し
明治21年6月5日に新聞連載された「島津まさの履歴」から『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年10月)を経て、『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年11月)刊行までの間、「まさ」自身が出家して「智海」と名乗り、「自身の劇を演る」など、出所後の本人に大きな変化がもたらされている。それと並行して作品も書き直されていったことは注意されていい。つまり、作品が「島津まさ」という一人の女性に「絶世悪婦」と称されるような「悪」性を加味していったのと同時進行するかのように、「まさ」は「厳正犯す可からざるの風」、「奇代の女子」に豹変して舞台に登場しているのである。 
V 〈毒婦〉の誕生 
明治28年に入ると、東京への進出も果たしたと考えられる。東京、擁萬楼から『明治五人毒婦之一人嶋津政改心実録』(4月23日)が発行されていることからも、それは窺えよう。ここに至り、「島津まさ」は〈悪婦〉を超え、「明治五人毒婦之一人」の〈島津お政〉と化していった。この『明治五人毒婦之一人嶋津政改心実録』(明治28年4月)と前述した『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年11月)との相違点をつぎに掲げておく。
1、雷お新、妹分島津およし、茨の権治の悪巧み。
2、継母と義弟とがお政を酷く折檻する場面。
3、盗賊島津およしはお政と偽名、捕縛される。
4、道頓堀中の芝居狂言「島津お政改心実録」の評判。
5、呉服店が強盗にあった後、お政は芸者となる。
6、雷お新の仁平衛殺し。
7、お政の策略で、お新は拘引される。
8、お政が、時計店で時計を盗む。
9、比叡山の麓で猟人に追われて雪山を転落。通りがかかった白道上人(お政の叔父)に助けられ、実子清一との再会によって改悛し、自首する。
1から9に掲げたように、「雷お新」や「島津およし」など、他の女性たちの存在感が大きくなっている。「お政」もまた、不幸な幼少期を強調する一方、「雷お新」の「仁平衛」殺しを目撃し、それを逆手にとって「お新」を陥れ、その金を持ち逃げしてしまうなど、「雷お新」の上手を行くほどの女性として描かれている。逃亡中に次々と脅迫や強盗を働く「お政」は、「追々に悪事をたくみに働き」、「毒婦」として成長していく姿でもある。それが、「実子清一との再会」を契機に「改悛」するという、「母性」を持ち出すことで、かつての「毒婦」は「実に未曽有の貴婦人なり」と語り終えられるのである。
参考までに、いかに「毒婦」性が加味されたかについて、単行出版された三冊(『悪事改悛島津お政の履歴』、『絶世悪婦嶋津政女改心録』、『明治五人毒婦之一人嶋津政女改心実録』)に共通する一場面〈紀田安蔵から預った大金入りの鞄を開く場面〉をつぎに掲げておく。
1 .『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年)
何時の間に何處へ往けん一人だも桟敷には居らざりけりお政は詮方なさに(中略)我宅に持帰り人知れず開いて内なる金を算へ見れば
2 .『絶世悪婦嶋津政女改心録』(明治24年)
安蔵革嚢の二千八百円有余の金をお政に預け青樓にて酌まんと木戸を出るを遁すかとかヽるを安蔵心得て恵比寿橋よりざんぶりと飛こむ(中略)竟に安蔵を大黒橋に捕縛せりお政是ぞ幸ひと洋刀(ナイフ)を以てカバンを切り件(くだん)の札をとりだし
3 .『明治五人毒婦之一人嶋津政女改心実録』(明治28年)
急場のしのぎに、錠前きつて跡で其訳け云ふたなら、夫婦の中ではあたりまい、幸い爰にナイフがある、是で切れとの天のあたへ(中略)納屋の内へ隠して置き、斯して置けば此身の仕業と心も付くまい、気を落ち付て一ぱいやろう
繰り返すまでもない。「お政」は次第にその純情さを失い、捕縛されていった安蔵には目もくれずに「ナイフ」で鞄を切り裂き、金のためなら大盗賊の情婦となることさえ躊躇わない。こうして、「まさ」は通り名をもつ〈毒婦〉として誕生したのである。
ところで、明治10年前後、ひとつの流行にまでになった「つづきもの」のなかでも、いわゆる「毒婦物」と呼ばれる作品群がある。その代表格は、「夜嵐お絹」「高橋お伝」「鳥追お松」等だが、お絹が毒殺の罪で斬首刑に処せられたのは明治5年2月(30才)、お伝が情夫殺しで同じく斬首刑となったのは明治12年1月(29才)、お松が狂死したのは明治10年2月(27,8才)であった。いずれもその美貌と肉体とで男たちを翻弄し、薄幸のうちに落命した実在の女性たちである。彼女たちの生涯は維新と前後し、その波乱に満ちた事実としての情痴と殺戮性は、前時代的な勧善懲悪とも結びつき、新聞の恰好な材料となって、種々の虚構性を織り交ぜながら人口に膾炙されていった。
当時、明治10年代の文学的風潮は、いうまでもなく実学尊重である。事実性を重視し、その制約から外れることは時流にそぐわないものとみなされた。実録を元にした「つづきもの」が隆盛をみたのも、前時代的な怪奇や伝奇性に飽き足らなくなった読者が、事実の報道と勧善懲悪との微妙なかね合いでもたらされた「つづきもの」を歓迎したからである。そうした幕末以来の儒教的な勧善懲悪や因果応報がい
つまでも作品を覆っている限り、当時の新文学創造の機運や政治小説に後れを取ることになる。たとえそれが、実の情痴話や毒婦の戦慄すべき凶悪事件だったとしても、「つづきもの」が古色蒼然たる内容を脱しきれず、陳腐な紋切り型の文体を続ける限り、新時代の文学にその座を譲らなければならない。そうしたなかで、明治20年代に入り、「島津まさ」が「毒婦」性を加味しながら生き延びていったことは、これまでの「毒婦物」にはみられない展開であるといっていい。高橋お伝や夜嵐お絹のような「毒婦物」とは一線を画すような、新たな「つづきもの」として登場したことは特筆に値する。つまり、「毒婦」がすでに「毒婦」として語られてきたそれまでの「つづきもの」とは、決定的な違いがあるからである。「島津まさ」は演劇化されたことで評判となり、それが却って作品に「毒婦」性を付加される、という経過を辿っている。坪内逍遙が『小説神髄』で「小説の主脳は人情なり」と提唱したことなどで、写実的な小説が新文学としての地位を確立していくこの時期、刑されたお伝やお絹たちが新聞連載当初から虚構性を伴っていたのとは異なり、「島津まさ」は「島津まさの履歴」、『悪事改悛島津お政の履歴』を経て『絶世悪婦島津政女改心録』へ、さらには『明治五人毒婦之一人島津政改心実録』へと書き換えられる時間の経過のなかで、その「毒婦」性は生み出され、〈島津お政〉として造形化されていったのである。ちなみに、明治21年6月刊行『新編明治毒婦伝』(銀花堂)には、「毒婦」として「高橋於傳、茨木於瀧、雷神於新、夜嵐於衣、権妻於辰、鳥追於松の六人」を掲げている。いずれも「容貌十人勝れたる美人なるも其の美ハ只容貌に止りて其為業の心程恐るゝも尚ほ余りある」と紹介されているが、この時点の「毒婦」に〈島津お政〉の名前はみられない。 
W 成長する〈毒婦〉 
「毒婦」と化した「島津まさ」はどこへ向かっていったのか。「つづきもの」として「島津まさの履歴」を連載した「大阪朝日新聞」は「小新聞」として成功し、当時(明治21年頃)には3万4千部近い部数を発行していた。芝居になるまでの間、「つづきもの」として連載されたことによって多くの読者を得、さらに劇化されることで、それはさらに大衆化される。その大衆化は、前科をもつ本人が「貴婦人」となって登場するという、「実録」は見紛うばかりの「実物」を得たことで、一層の教育的色彩を帯び、説得性をもつ。明治37年2月20日付「貿易新報」に「政は『獄舎実説懺悔』及び『心学家庭教育談』を弁ずる由」とあるように、「まさ」自身もまた、意識的に「懺悔」は「家庭教育談」であると喧伝していたが、そうした単純な論理は、それゆえ、却って大衆に歓迎されたのであろう。むろん、これには当時の読者層や観客層を考慮に入れなければならない。
前田愛『近代読者の成立』(『前田愛著作集第二巻』,筑摩書房,1989年,p.119〜p.129)はこれについて有効な手がかりを与えてくれる。それによれば、明治初年に幼少時代を過ごした人々の多くは、「父から漢籍の素読」を、「祖母・母・姉からは草双紙の絵解き」を、つまり、「肉親の声によって授けられ」る読書体験が、彼等の知識や教養の支柱となっていた。明治5年8月「学制」に始まる近代教育制度の体制が整うに従い、青少年の読書欲は高まりをみせるが、女子の小学校就学率は明治20年代まで50%を上回ることはない。立身出世を望む男子とは裏腹に、大多数の庶民が女子に望んでいたのは、近世以来の女子教育観、つまり、将来の嫁としての役割の自覚や家庭的技術の習得という女子固有の教育であった。一方、「高等女学校令」(明治32年)によって男子の中学校とは別に設置された高等女学校は、日本の近代化の過程で形成されてきた家父長的な家族国家主義観というイデオロギーに引きつけられた儒教的な良妻賢母主義的教育であった。高等女学校「修身」科が「躬行実践ヲ旨トシ務メテ貞淑ノ徳ヲ養」(明治32年2月「高等女学校ノ学科及其程度ニ関スル規則」,大空社『高等女学校資料集成第一巻』1997年,p.23)うための必須教科であったのをみても、そのことは明らかである。その後、日露戦争をきっかけに一層高揚した国力と女子教育への期待は、明治40年代に入り、ほぼ男子と並ぶまで(男子98.5%、女子96.1%)になる。統計的にみれば、それまでの女子の不就学率は、一見、一般民衆が女子の教育に対して無関心であったかのように思われるが、必ずしもそうではない。社会的変動によって生じた近世末期以来の女子教育への期待は、明治新政府樹立後の女学校設立論の一論拠となるほどの大きさだった。ただ、「伝統的な社会が育んだ独特の穎智」である、「一方は漢語の勁い響きを反復することによって規範(ノルム)への馴化を訓へ、他方は七五調のなだらかなリズムに乗せて規範から逸脱した世界の所在を開示する」(前田)ような、そうした前時代から継承された知徳の育成に馴染んでいた多くの庶民は、机上ばかりの学校教育に違和感を抱き続けていたのである。
明治維新後、国家の目論んだ女子教育が不振を続けていた頃、庶民はもっぱら前時代的な方法で女子の教育に心血を注いでいたと考えられる。年代は未詳だが、つぎに掲げる「芝居番付」(横浜開港資料館所蔵)は、その証左となろう。
活劇派真演劇女壮士島津一座
謹啓御当地各位様には何の御障もなふ益々御清適の御事大慶至極と存じ奉賀候随而本会演劇の義は(中略)人慾の恐るべきは無教育よりなれる己が身を模範とし因果応報勧善懲悪の意を以て是迄各地に於て懺悔演劇仕りし処(中略)固より拙き女一座の事なれば御覧諸彦の御満足を期するは不容易な業なれど単に幼男婦女子をして家庭教育の一助たらしめん希望の至に御座候故狂言ニは改良ニ改良を加へ十分なる精神を凝し現世己が作りし罪悪の始めより改悛の今日に至る迄の身の閲歴細大漏らさず演劇として聊か以て教誡の近路となし一座大車輪ニ未熟ながらも会長自身も演芸に出勤致し善悪邪正の有様を五倫五常の明るき道に照し義を正し理をせめ速ニ善に趣くを主とし高尚優婉に敏活に演じ(後略)
やや長い引用になったが、この「芝居番付」には、「貧児教育学校創立賛助員島津政子肖像」(写真)も掲げられている。法服に身を包んだその風貌は、鼻筋の通った美形であり、端正で凛としたものである。この肖像写真に付された「島津政子」の肩書きは「貧児教育学校創立賛助員」とされており、「貧児」に施しを忘れなかった「島津まさ」が演劇の傍ら下層社会への関心を持ち続けていたことを窺わせる。また、「人慾の恐るべきは無教育よりなれる」といった彼女の本音もある。自ら「模範」として舞台に立った「まさ」の心情さえ伝わってくるものである。赤裸々に「是迄犯したる自己の罪悪の顛末」を「細大漏らさず演劇とし」、観衆を前に「懺悔」することが、「無教育」の「まさ」に考えられる最善の方法であり、「近路」だった。それを「高尚優婉に」演じるのは、「幼男婦女子」の教育向けに脚色しているからである。
中流階級以上の家庭向けには、それまでにも女子の啓蒙雑誌として明治18年7月に『女学雑誌』が、明治24年8月には『女鑑』が発刊されていたが、「貞操節義なる日本女子の特性を啓蒙し、以て世の良妻賢母たるものを養成する」(『女鑑』)という性格のものであった。いずれも、女子に「貞操節義」や「良妻賢母」像を求めた、高等女学校設置目的と何ら変わりのない偏向した女性像を掲げていたといえるが、女子の公教育制度にいまだ馴染めない庶民には、剃髪の「貴婦人」がなによりの「模範」となったであろう。活版本の普及によって、一冊の蔵書を囲み、家族団欒のうちに家族共同の教養の糧や娯楽を共有する時間や場が失われつつあったこの時期、「逸脱した世界の所在を開示」(前田)してくれるのは、何も草双紙の絵解きに限ったことではない。芝居もそれを満たしてくれたはずである。「毒婦」の「懺悔」が、「高尚優婉」であればあるほど、女子の「貞操節義」や「貞淑ノ徳」への教育効果は期待できよう。見方を変えれば、この「口上」は、芝居が庶民の娯楽となるだけではなく、婦女子の教育に演劇が大きな役割を果たしていたことへの注意をも喚起させているのである。
ところで、この「芝居番付」が作成された時期については、つぎのように類推することができよう。明治30年前後、松原岩五郎『最暗黒の東京』(明治26年)や横山源之助『日本の下層社会』(明治32年)が相次いで刊行されたことで、「貧民」はにわかに脚光を浴び始める。また、肖像写真からすると、日本で最初に写真製版が印刷されたのが明治23年8月17日発行「毎日新聞」付録であり、明治28年12月『文芸倶楽部』臨時増刊号に初めて女流文学者(樋口一葉、若松賤子ら)の肖像写真が印刷されている(李孝徳『表象空間の近代』新曜社,1997年,p.157)ことから、少なくともそれ以降の写真と考えられよう。それからすれば、この「芝居番付」は明治30年代に作られたと推定できるのではなかろうか。
いまひとつ、この「芝居番付」は演劇史の上からも興味深い。「活歴派」「女壮士」というのがそれである。明治5年4月「三條の教憲」布達後、僧侶や神官に加え、戯作者、役者も「教導職」を命じられ、人民啓蒙にあたるが、以来、淫風醜態や荒唐無稽を排除し、それに代わって、史実の尊重や勧善懲悪による国民の教化を主とした演劇だけが許された。その「教導職」は明治17年に全廃されたが、「まさ」が明治24年11月に「権中講義」(職制は一級「大教正」から十三級「権訓導」までが設けられ、「権中講義」はその第九級にあたる)を授かるのはこれと矛盾する。この場合、庶民の間では全廃後も機能していたことを示すものとみなすべきか。
明治10年代以降、政府の欧化政策に影響を受け、改良を余儀なくされていた演劇界は、当時活歴劇(九世市川団十郎による歴史的写実主義的演劇,小櫃万津夫『日本新劇理念史』白水社,1988年,p.162)や散切劇(明治の新しい風物を舞台に描いた演劇)、壮士芝居(壮士が自由民権思想を民衆に伝えるために興した演劇)が喧伝され、脚本尊重の動きも強まり、脚本改良も進められた。つまり、「活歴」と題された「島津政女改心実録」は、「活」きた「お政」の「歴史」そのままとしての「活歴劇」であり、「女壮士」とは「無教育よりなれる己が身を模範と」して、婦女子に「因果応報勧善懲悪の意を」伝えるため、演劇に情熱を傾けるという「女一座」の決意表明でもあった。 
X〈毒婦〉の行方 
「島津まさ」が「教導職」廃止後も「権中講義」を名乗り続けて貧児や女子の教育へと接近していったのは、「無教育なれる己が身」への悔恨であったにちがいない。あるいは、『悪事改悛島津お政の履歴』(明治21年)に記されたように、獄中で親しくなった「景山英」こと「福田英子」(大阪事件によって明治18年暮れに逮捕投獄された)の影響があったかもしれない。その後の出版物から「景山英」の名は消されていく一方で、〈島津お政〉が女子教育へと傾斜していく辺りは興味深いものがあるが、その内実はそれほど単純なものではなかろう。「懺悔でもなんでも要するに芝居に違ひなかつた。しかも見物はそれが当の人物である所に何等かの実感を期待するだけに一層彼女には苦しい偽善が必要となるに違ひなかつた」とは、〈島津お政〉らしき人物を見かけた謙作(「暗夜行路」)の内的独白だが、謙作をして「本統に一人の人が救はれるといふ事は容易な事ではない」と吐露させた、いまや「島津一座」の座長に納まった「まさ」は大衆の教化という大役を果たさねばならない。そのためには人気の持続が不可欠である。その意味からしても、演劇界の動向や庶民の関心事を的確に把握し、「斯界の改良を企て着々と歩を進め」(口上)ながら全国を巡業していくほかはない。
時機に叶った興行を意識してのことであろう。明治37年2月10日、日本がロシアへ
の宣戦布告後間もない、横浜座上演の際の明治37年2月23日付「口上」の冒頭部分は
つぎのようなものである。
活歴派真演劇女壮士島津真佐子一座開演御披露
旧大罪人明治白浪五人毒婦の一人終身懲役特赦恩典人日本女優改良演劇会々長権中講義
島津真佐子
軍資恤兵金献納演劇島津政女改心録十幕
この頃、横浜の各劇場(2月21日から相生座、25日からは賑座)では「日露の戦争」や「日露戦争大海戦」と銘打った戦争劇を「大詰め旅順口海戦の場は電気作用の大道具」(「横浜貿易新聞」)で上演するなど、一気に戦争ムードが高まっていた。島津一座もその機に乗じ、早々に戦争を取り入れた「改心録」を仕立て、横浜座で上演していたことをこの「軍資恤兵金献納演劇」と銘打った「芝居番付」は物語っている。
ここに至り、「旧大罪人明治白浪五人毒婦の一人終身懲役特赦恩典人」は「毒婦」や「終身懲役」を大々的に喧伝した「改心録」に飽き足らず、「戦争」という時流にまでも迎合し、その初心であった「懺悔」や「改心」という「家庭教育談」の域を逸脱してしまう。
そうなれば、自ずと限界はやってくる。この「芝居番付」が配布された横浜座興行に当たり、「狂愚仙」と名乗る「横浜貿易新聞」の記者によって、明治37年3月11日から13日まで、「戦争劇と島津政(一)マサは果して改心したか」、「戦争劇と島津政(二)醜悪劇は風教の破壊物なり」、「戦争劇と島津政(三)政は遂に偽善の徒なり」と題した文章を三回に亘って掲載され、「戦争劇」と結託した「まさ」の偽善ぶりは厳しく非難される。さらに、同年3月16日付「醜悪劇と真演劇の由来」(「横浜貿易新聞」)では「島津政女一座」が標榜した「真演劇」(当時隆盛を見せ始めた「新演劇」に対抗し、「真相を演じた劇」という意味合い)が揶揄されるだけでなく、「権中講義は頻りに抽出し違ひの『必ずしも』を振廻して顔を顰め手を振る様の気障(きざ)さ加減と来たら実に嘔吐一斗を催す(狂愚仙)」、「彼等を長く市内に置のは横浜市民の面汚し」とまで徹底的にその浮薄さを攻撃されてしまう。「新演劇」の祖となった川上音二郎一座をいち早く世に送り出し、翻訳劇上演に力を入れるなど、横浜の演劇界は先見性が高いことで知られる。その土地柄を考慮してか、時を移さず「家庭教育談」としての「改心劇」に「戦争」を持ち込むという、無節操な上演を試みた代償は大きかった。ほどなく、その偽善性は辛くも見破られ、敢えなく「島津政女一座」は横浜演劇界から放逐されたとみることができる。付け加えれば、その翌年(明治36年4月)、特赦によって出獄した「花井お梅」(明治20年6月9日箱屋殺しで自首、川口正太郎の小説「明治一代女」のモデル)が「お梅は初舞台のことゝて日々稽古に余念なし」(明治38年7月28日「貿易新報」)と報じられ、皮肉にも〈島津お政〉に取って代わるかのように、「お梅」は横浜座においてその経歴を自ら演じるという演劇活動を本格的に開始する。ここに至って、〈島津お政〉は完全に横浜から排斥されるのである。 
おわりに 
近代日本の形成期にあたる混沌とした時代状況のなかで、「島津まさ」は彼女なりに罪を悔い改め、誠実に生きようとしたにちがいない。しかしながら、伝説の〈毒婦〉となった〈島津お政〉という人間像が作り出されていった経過をこうしてさまざまな観点から検討するとき、〈島津お政〉という一女性の問題に止まらない、近代日本における文学史や演劇史、教育史等の今日的な問題が浮かび上がってくるはずである。
やや結論を急ぐようだが、ひとつには近年ほとんど顧みられなくなった明治初期文学の問題がある。〈島津お政〉造形化の変遷は、いま一度「つづきもの」という一時代を飾った文学がいかに複雑な様相を呈していたか、再検討を促しているように思われる。維新後、新しい「文学」が芽生え始めてきた時期、前時代的な勧善懲悪や因果応報から抜け出せなかった「つづきもの」を、「毒婦」を、なぜ民衆は求め、どこに魅了されたのか。近代教育制度が一般に浸透し始めていた時期、なにゆえ演劇は民衆の「教誡」に傾斜し、多くの民衆もまた、なぜそれを歓迎したのか等である。
一方、演劇史的には、後年「島津政子」が「会長」を務めたという「日本女優演劇改良会」や「女壮士」についてはいまだ研究の俎上に上げられていない。演劇改良運動が「活歴」から「新劇」へと展開していく過程で、全国を巡回した「女一座」の存在は見過ごされているのではあるまいか。また、教育史を論じる際に、庶民の間で機能していた教育実態としての演劇まで視野を広げることの重要性も感じられる。
ことに、今日国語教育において問題視されている「文学」と「教育」との接点、あるいは乖離という問題など、相互の本質に関わる問題をも、それは提起していると思われる。つまり、「まさ」自身が、特赦放免後、「智海」と名乗る「権中講義」から「座長」「日本女優改良演劇会々長」へと変貌していった事実は、生身の活きた人間は常に変化するということを教えている。また、それと並行するように〈悪婦〉は〈毒婦〉へと書き換えられる過程は、「文学」が本来的に「悪」や「毒」を内包し、常に時代を映しながら、時流に乗ることでその生命を持続し続けるものであり、それは偏向していく危険性を孕んでいることをも示唆している。もちろん、国語教科書に掲載されている、教材と呼ばれる「文学」と、ここでいう「文学」とは大きな隔たりがある。戦前期のナショナリズムに絡め取られた「読本(とくほん)」(国語科講読用教科書)はもちろんのこと、「教育性」という規範から逃れられない教材が、前田の言葉を借りれば、漢文の素読のような「漢語の勁い響きを反復することによって規範への馴化を訓へ」るものとするなら、「文学」は「なだらかなリズムに乗せて規範から逸脱した世界の所在を開示」してみせるものである。教材の向かう先は「善」や「徳」であり、「文学」そのものは「悪」や「毒」でもある。「教育」と「文学」とでは、当然ながら向かう方向は異なる。ゆえに、「文学」を「文学教育」へとそのまま移行させることはできまい。あるいは、教授者と学習者という問題への糸口ともなろう。〈島津お政〉の造形化は、そうしたさまざまな問題を提起しているのである。
なお、冒頭で触れた志賀『暗夜行路』ではこの「お政」を「蝮(まむし)のお政」としているが、「蝮のお政」については篠田鉱造『幕末明治女百話(下)』(昭和7年,四条書房刊,岩波文庫再録,1997年)に本人の聞き書きがある。また、それを基にした長谷川伸の小説『蝮のお政』もあるが、「蝮のお政」とは前科10犯を勲章にした女掏摸「内田まさ」をいう。つまり、「懺悔する意味で自身、一代記を演」じたという点では〈島津お政〉と同一人物と考えられるが、「蝮のお政」は別人であり、これについては稿を改めたい。  
 
筧千佐子

 

複数の夫の連続不審死事件
筧千佐子(かけひちさこ)容疑者(67)は、結婚相談所で夫の筧勇夫さん(75)に青酸化合物の致死性の毒物を盛って殺害し、約1億円の財産と土地・建物を不正に前倒しして相続した罪に問われている。筧千佐子容疑者は、20代の頃の初婚の相手(結局死亡してはいる)とだけは20年程度の結婚を続けたが、その後は結婚相談所などを経由して複数の男性と結婚を繰り返し、その全ての配偶者は死後の体内から毒物が検出されるような不審死を遂げている。
千佐子容疑者が、死亡した複数の結婚相手から相続した財産は少なく見積もっても『5億円』を超えているとされるが、現在の千佐子容疑者は筧勇夫さんから相続した1億円を除けば無一文の状態で、5億円の相続財産のすべてを先物投資や為替取引などのリスク投資で食いつぶして、更に1000万円以上の有利子の負債を抱えていたという。千佐子容疑者は、金銭に終わりなき貪欲さを持つ『守銭奴』であると同時に、財産保有の高齢男性をただの金銭詐取のための道具としか見ない徹底したサイコパス的な気質を持つ『冷血漢(冷血女か)』でもあるのだろう。
典型的な『生活とカネのための結婚』であるが、60代で出産可能年齢を大幅に超えていながら、千佐子容疑者は『入籍すること(相手の財産を分有できる妻の立場を得ること)』に過度にこだわっており、結婚相談所で希望する相手の条件として『年収1000万円以上・(年収が低い場合には)相応の資産があること・(結婚に反対したり財産の動きを監視するような)子供がいないこと』などかなり強気な条件を立て続けに上げていたという。
特別な美人でも何でもない60代の女性が、そんなむちゃくちゃな厚かましい条件を突きつけて結婚相手など見つかるのだろうかと、20〜40代くらいのまっとうな結婚観・男女関係の捉え方をする女性であれば思うだろうが、『年齢不問・自分の異性の好みを度外視・金銭的利害だけに着目・自分の感情的判断を遮断する』であれば、50代でも60代でも甲斐甲斐しく尽くす素振りを見せる(最期まで一緒にいてあげるような態度を見せる)女性であれば、人淋しい(弱気になった)高齢男性をターゲットにすれば可能であるのが現実だろう。
性的魅力が維持された20〜40代女性で、『良い出会いがない・安定した結婚生活ができそうな男性がいない』という不満や不安をこぼす人は確かに少なくないが、それは『自分の性的魅力や年齢との一定の釣り合い(職業・収入・財産以外の人として男としての魅力の要素)』を求めているからで、いくら外見(容姿)や年齢にこだわらないといっても、60〜70代以上で、異性としては見ることが難しくなった年齢の金持ちの男性などは『年齢要件』によって初めから完全に除外されているからである。
人生の晩年になって人恋しくなり気弱にもなったお金は持っている高齢男性が、結婚相談所(婚活サイト)に登録している場合には、一般的な若い男女の結婚願望とは大きく異なる『男女のカップリングの盲点』が生まれる。
こういった高齢男性は、結婚相手に『若さ・美しさ・性的魅力』などは殆ど求めておらず、『一緒にいて安らげる女性・身の回りの世話や介護をしてくれそうな女性・最期まで離れずに人生に寄り添ってくれる女性』を優先的な条件として探している。
ある程度は財産のためもあって演技的に尽くしてくれているとしても、家事・世話など昔ながらの夫婦像におけるやるべきことをやってくれて、自分の寂しさや虚しさを埋めてくれるのであれば、死後に財産を上げることは(どうせ使い道もないのだから)惜しくないとも思っているだろう。また相手も高齢女性であれば、そこまで金銭的なギラギラとした欲望(大金を使って浪費したいモノやサービス、他の異性との浮気願望)があるとも思わず、普通に家があってお金に困らない生活があれば、相手もそういった終身的な老後保障だけで満足して楽しんでくれるはずだと思うわけである。
むしろ『極端に自分よりも若くて綺麗な女性』が来れば、『自分なんかの老人にこんな若い子が好きだ何だというのはおかしい、これは財産目的で近寄ってきているのではないか』と警戒心を強めるかもしれない。だが、同世代や少し年下くらいであれば、生きてきた時代も重なるし話題・趣味も合いやすいしで、収入・財産があっても『自分の人間性や生き様をこの女性は気に入って認めてくれたんだ・これからの人生を一緒に生きていけたら楽しくなりそう(このまま孤独な生活で最期を迎えるのは寂しく虚しいからこの人を選ぼう)』という認識に傾きやすくなる。
この『高齢化による異性選択基準の変化という盲点』を突けば、相当な人生経験がある相手でも完全に落とすことができたり、財布の紐を緩ませることができる。
このことを知ったある種の“悪女(結婚制度の悪用を意図した女)”は、『自分の客観的な美貌の評価とは異なる特定の男性の心だけを掴み取るテクニック』を身に付けているといっても良いが、『自分の落としやすい男(女)だけを利益目的で狙う戦略』は広義の水商売・性風俗や擬似恋愛ビジネスなどにもつながるもので、まっとうな恋愛市場の裏側に広大な空間と人々を巻き込んで広がっている。
『自分の落としやすい男(女)だけを利益目的で狙う戦略』が、他人の生命や人生、感情を完全に切り捨てられる冷徹で利己的なサイコパスによって学習されてしまうと、『コントロール可能な異性や状況における金銭の略奪・詐取』が凶悪犯罪の形態を取って過激化していくケースが少なからず出てくる。
殺人まで実行して数千万円以上の財産を根こそぎ奪う女性(男性)は極めて稀で凶悪な存在であるが、『異性の恋愛感情・結婚願望を利用して小金を巻き上げる詐欺事件や悪質な擬似恋愛商法』のようなものは世の中に無数に跋扈しているといっても良いだろう。
婚活サイト(結婚相談所)を悪用して、金銭目的で睡眠薬・練炭を使った連続殺人を行った冷酷非情な毒婦として木嶋佳苗容疑者が知られるが、木嶋佳苗容疑者も『客観的な自分の性的魅力の高低』を切り捨てて『自分が優位に立てる相手と場面の選別の嗅覚』を徹底的に研ぎ澄ましたサイコパス的な凶悪犯罪者である。
この木嶋容疑者の証言・文書からは既に『客観的な自己認識・他者からの評価軸』といったものが失われており、自分が世界の中心にあるかのような妄想的パーソナリティーが『サイコパスの冷酷非情な特質(他人の生命・人生・感情を自分が上手く利用して良い道具としか思わない感受性)』と結合している。
過去に自分の女性としての魅力が承認されなかったルサンチマン(怨恨感情)があまりに強大であるため、既に生まれてから現在までの自分の女性的・外見的な魅力が誰も並び立てない最高水準にあるかのような『妄想体系(パラノイア・デリュージョン)』が修正不可能なものとして確立されている。木嶋容疑者は殺した被害者男性を殺害して奪い取ったお金で、ホストクラブで豪遊するなどしていたというが、『好みの男からは選ばれない怨恨』と『好みでない男から奪い取る冷酷さ』によってある種のサイコティックな怪物に変貌したと解釈できるかもしれない。
結婚制度は歴史的には、『異性として好きかどうかという恋愛感情やロマンス』よりも、『性・世話と財力・生活保障を男女が交換する社会再生産(労働と育児の互助的共同体)の仕組み』として機能してきた。
だが、現代では『自分に対して異性や人間として惚れ込んでくれる相手』という結婚の前提条件が強まりすぎた結果、それが逆に心理的ブラインド(心理的な盲点)になりやすくもなっている。
一定以上の信頼感や安心感(自分の人間性を認めてくれる素振り)を感じるようになった異性が、『自分の人間性・性的魅力以外の金銭の側面』にだけ興味・欲求があるはずがないという自己暗示にかかってしまいやすいということだが、筧千佐子にしても木嶋佳苗にしても、『若さ・性的魅力の不足という短所』を『サイコパス的な合理主義の利害計算と標的の選定』によって逆利用(悪用)し続け、最後は殺人犯として厳罰(木嶋容疑者は死刑判決を受けた)に処される空虚な末路に至ろうとしている。
女性を男性に置き換えてみても、結婚詐欺や飲み屋での借金強要(無理に遊ばせて借金を背負わせる)、横領の教唆という恋愛感情を逆手に取った犯罪はあるわけだが、高齢になればなるほど、『恋愛市場・結婚市場の特性とその場における客観的な自己評価』との兼ね合いを前提にして、『自分を好いてくれる相手の本当のパーソナリティーや感情・目的がどこにあるのか』を少し冷静に見極める間合いが欲しいものである。
60〜70代以上の年齢になって、法的な結婚を急ぐ必要はないのであり、生活面で困っていそうな相手を助けて上げたいとしても、少し時間をかけて信頼関係を築き上げていき、二人以外の他者も交えた関係性も楽しんでいくなどしたほうが良いのかもしれない。
高齢結婚のすべてが悪いわけではもちろんないし、大半の高齢結婚は『老後を助け合って楽しく過ごしたいという純粋な動機づけ』に基づくもので、金銭面の援助があっても『二人で生活していくための経費』というくらいの捉え方であるのが普通である。
結婚相談所も、高齢男性に対して『年収1000万・財産や不動産の保有・子供や親族がいないこと』などの、いかにもお金だけが目的といわんばかりの条件を上げている高齢女性に対しては、付き合いを開始した相手の男性にその女性が示した条件をそれとなく伝えてあげるような配慮があっても良いかもしれない。 
 
「魔性の女」の真実

 

「一度悪女にだまされてみたい」という男のセリフを、昔よく聞いたものだ。もちろん、独身男性にはその余裕がないので、日常に刺激をなくしはじめた既婚者ばかりだ。女好きタイプであろうと、そうでなかろうと、家族に問題があってもなくても、その望みはどこかにあるのだろう。男社会の環境どっぷりの中で生きてきた私は、いかに男たちが悪女を好むのか、いやというほど知らされてきた気がする。一方、悪女側はそんな男の弱みなど、すべてお見通しで、虎視眈々(たんたん)と自分を満足させる獲物を狙っているだけである。
私は、自慢じゃないがこの業界で40年近く、不倫や枕営業などしたことがない。正義の旗を振りかざして、野心的なチャンスを迷うことなく、棒に振る人生だ。救いは、“男の頭”を持っていたことで、これで仲間意識は確立できる。それでも彼らが感謝するのは、一度でもエロスの期待を持たせてくれた、“妙な悪女”の嘘くさい色気なのだけれど。
男たちがどんな女を好もうと知ったことではないが、問題は、職場環境をぶち壊すこと。これはリアルな現実だ。
悪女はまず、注目を浴びたい愉快犯らしく、どこでも騒ぎを起こす。芸や技術がないので、あの手この手で、価値ある男の気を引くことに懸命だ。当然、気を取られた周囲の男たちの仕事のクオリティーは下がる。とばっちりを受ける女たちのテンションも下がる。これが一番低いレベルの社会的な悪女。
しかし、私が出くわした悪女は、もっと野心的で破壊的だ。かくして私のキャリア時代の悪女体験は、すでに「セクシャルウェポン」(講談社、木村奈保子が悪女と戦った実話を元にしたファイティングエッセイ=冒頭写真)で発表したので読んでほしい。男が自己中の悪女に振り回されるのは、会社にとってもマイナスのはずだが、まだ男社会では悪女を優遇する傾向にある。悪女は女性の社会進出を利用し、気が付いたら、政治や思想に関心もないのに、野心達成のため政界にまで躍り出ているではないか。 
男の寂しさに付け込む悪女の手練手管
さて米国映画とともに人間の生き方を追うのが、私のライフワーク。多民族国家の民族運動の中で、映画の中の女性問題は、1980年くらいから明確に変化を見せ始めた。それまで弱い立場の女性が精神的、経済的、性的にも本気で“自立”に向かうのだ。夫の浮気で捨てられる妻の人権運動は、財産分与に頼らず、女性の自立を促す方向へと向かった。
男女平等を求めて、論理的な正攻法で突き進むのが米国映画の現代ヒロインだ。悪女映画が派手に描かれた時期もあったが、ヒロイン像はすぐに軌道修正され、正しく、強い自立型を確立した。
日本はその点、フェミニズムが育ちにくい土壌だけあって、女性の強さは、玉のこし狙いや悪女志向により、楽をして男性の持ち物をゲットできるほうがお得という風潮がまだ根強い。だから、どんどん悪女ばかりがエスカレートしていく。
しかも、現代の玉のこし女性が厄介なのは、お金だけでなく、「目立ちたい」「権力を持ちたい」といった“人より上に立ちたい願望”もあること。だから、人のふんどし=夫の権力や看板により、「○○夫人でござい」を振りかざし、前に出たがる。献身や従順のない女性が、女の強さを悪用する時代になったのだ。これも男が悪女を甘やかすから、の結果ではなかろうか。
昨今は、色で老人をくらう裏稼業を描いた黒川博行の「後妻業」(文藝春秋)が、実際の悪女事件と重なり、大きな話題となった。男の寂しさに付け込む悪女の手練手管アプローチがビジネスになっている。 
“居直り”と“脅し”で本性を現す
それでも、男は信じたい。90歳になっても、追い求める女性の献身性とエロスの匂い――。まさにクロゴケグモ(黒後家蜘蛛)と呼ばれる、交尾の後に雄を殺す黒蜘蛛に例えた米国映画「ブラック・ウィドー」の話である。
クロゴケグモ女は、狙った男を色仕掛けで引き寄せ、わなに掛ける。ヴァンパイアと異なるのは、血を吸う代わりに、お金を吸い取ること。そのために、結婚して籍を入れるという人間社会の法則を用いる。出会いから結婚まで男性の心を自在に操り、数カ月後にはじんわりと手を下す。そこには良心の呵責(かしゃく)もない。
男は、クロゴケに息を吹きかけられただけで、ブレーンファック=魂を侵される。そしてカルト信者のようにころがされたまま、気付くことなく全てを奪われ、闇に葬られるのだ。ブラック・ウィドーは、通いの愛人や日々の水商売より、はるかに効率が良い。ただ、犯罪者であることを忘れてはいけない。
悪女を演じた女優テレサ・ラッセルは、いかにもアメリカンなブロンド・ビューティー。「氷の微笑」(シャロン・ストーン)や「白いドレスの女」(キャスリーン・ターナー)しかり、美しい悪女のイメージ作りがハリウッド映画的だ。
さらにこの作品の面白さは、悪女を執拗に追うFBI女性捜査官が登場するところ。黒髪のデブラ・ウィンガーが対称的な男前キャラで、ぐいぐいと悪女の正体に迫る。途中、悪女と捜査官は女同士で、ちょっと親しい関係に……。しかし、相手が捜査官であることが分かったとき、悪女は「見たなあ〜?」と言わんばかりに、血相を変えモンスターばりに暴れ狂う。
悪女は、自分のやましい正体を見られた時には、“居直り”と“脅し”で本性を現すのが特徴。ヤクザも真っ青のこわもてになる。だまされた男は、この顔を見ることなく、天に召される。
80年代の女性映画として、本作は私が主人公(捜査官)に最も共感した映画の1つ。実際に、悪女の「見たなあ〜?」豹変(ひょうへん)時に、何度も出くわしたことがあるからだ。 
実際の悪女は、2番手のルックス
私が関わった実際の悪女は、決して映画のような派手ないでたちをしていない。かっこいい美女は皆無だが、2番手のルックスこそ、男を油断させる武器となる。“清楚”に見せるための地味なファッションと“被虐的な泣き顔”により、“男性に守ってもらいたい感”を演出し、じわじわと男心をくすぐっていく。
上目使いで男を見る芸だけは天下一品。もちろん必要とあらば、“寝技”も惜しまない。かくして、当人や周囲をあっという間に支配する。自分のやり方に意義を唱える(商売の邪魔をする)やからには、ひるむことなく「見たなあ〜?」と振り返り際に、すごむ。
もちろん裏の顔は、男=お客様には絶対に見せない。現実の悪女は、まさに“清楚”で“かわいそう”な女性像とは真逆の、悪意に満ちた欲望の塊だと私は断言する。
昨年も、有名人の妻たちなど悪女が登場したいくつかの事件で、“清楚”と表現された記事があった。オヤジが好む古風な表現が女性誌で使われ、一部本人を知っていただけに、うげげっ、とたまげた。悪女は、ブレーンファックされた男たちによって“清楚”な“悲劇のヒロイン”、はたまた“天使”としてあがめられることが多い。悪女が、官能的な魅力でおモテになるのは構わないが、“天使”の座に持ち上げられるのだけは勘弁だ。それこそが、悪魔の仕業といえるだろう。
しかし、まっとうな周囲の人間が悪女の正体をいくら暴いても、洗脳された男は、もはや悪女を“天使”とあがめてやまない。いったい、安っぽい悪女のどこを拝んでいるというのか? もはや論理で責めても力はなく、オウム信者のように“カルト教祖”的な悪女に取り込まれたまま、うれしそうでさえある。 
より強い目力で、初老の男心をわしづかみに
「人生は自分でコントロールできる、と思っていた。だが、そうではない」
巨匠、ルイ・マル監督のフランス映画「ダメージ」の主人公は、堅物のエリート下院議員。悪女のブレーンファックからついに目覚めた時に、このセリフを吐いた。地位も仕事も家族も何もかも失った後に、知った悪女の真実とは……?
男は、妻と子どもと仕事に恵まれたエリート。ある日、息子がフィアンセを紹介したときから、人生は狂い始める。息子のフィアンセは、いわゆる明るいお嬢様ではなく、これまで見たこともない人生の何かを背負っているようなドラマ系の女。特別目を引く美人でもなく、セクシーなプロポーションでもない。
だが育ちの良い男は、底なし沼のような目を持つ女にとりつかれるまで、そう時間はかからなかった。女のほうからも、より強い目力で、義理の父親になる初老の男心をわしづかみにしてしまったのだ。
ここでの悪女が、すでに息子と婚約している身にもかかわらず、あえて父親と関係することには、金欲でなく、グロテスクな性癖を感じさせる。禁断の関係は、悪魔との契約か。男は、息子の婚約者と秘密の肉体関係を結び、ついにはそれを息子の目の前にさらしてしまう。
無邪気な息子の人生は、ここで終わる。あまりに悲しく重い。悪女が怖いのは、父親との関係が見つかるまで、平気で息子との結婚話を進めていたことだ。このしたたかさ、冷酷さ、いや悪女は、自分の存在によって周囲が壊れるさまを無意識に望んでいるようにも見える。
不幸な境遇ゆえの破滅的な行為が身に付いているのか。かくして禁断の行為は、容赦なく遂行される。彼女はサイコパス(精神病質者)のように、良心の呵責が一切ないのも特徴だ。
めくるめく悲劇が訪れて、全人生が崩壊する男と、何事もなかったように平然と別の家庭に入っていくだけの悪女――。この男女の対比的なラストシーンが強烈な印象を残す。ジュリエット・ビノシュが、2番手のルックスでえたいの知れない悪女を、ジェレミー・アイアンズが崩れ落ちるエリートを、それぞれリアルに演じる。二大名優によるドラマチックなショーは見ものだが、周囲を巻き込んだ人生の崩壊劇は地獄絵のように恐ろしく悲しい。
「人生は自分でコントロールできる、と思っていた。だが、そうではない」――。エリート堅物男のこのセリフに続けるなら、「悪女という魔物に出会うまでは」だろう。 
 
ホテル日本閣事件

 

1960年から61年にかけて、栃木県の塩原温泉郷にあるホテル日本閣の経営者・生方鎌助(53歳)とその妻・ウメ(49歳)が失踪するという事件が起きた。まもなく2人を殺して埋めたとして、同ホテル共同経営の小林カウと雑役・大貫光吉が逮捕された。カウは逮捕後、前夫を毒殺したことも自白、1970年死刑が執行された。戦後初の女性死刑執行者だった。 
商い
1908年、埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家に生まれた。カウの家は集落の中では旧家だったが、例によって貧窮な家庭だった。カウは7人兄弟の5番目の次女(7人兄弟)。小学校を4年で終えて、5年ほど家事を手伝い、やがて都会に憧れて東京・本郷の旅館に女中奉公に出た。
やがて東京で垢抜けた姿で玉井村に戻ってきたカウは一際目立つ女だった。1930年、カウ22歳の時、熊谷の在に嫁いだ姉の口利きで、新潟県柏崎市出身の林秀之助(当時27歳)と見合い結婚した。秀之助は身長160cmもない貧弱な体格で、青黒いような顔をした青年だった。結婚してみると、秀之助は慢性胃腸病と慢性淋病の持つ主で、カウは性的にも満足が得られなかった。夫婦で熊谷市中で雑貨商を営んでいた1931年、長男が誕生するがまもなく死亡。その翌年には長女が誕生した。
そのうち商売がうまくいかなくなり、夫婦は熊谷を離れ、東京近辺を転々とした。この間、戦争が本格化し、秀之助も年ながら兵隊にとられるが、体を壊して戻ってきた。以来、秀之助は気力のない中年男になっていた。
戦争が終わると、夫婦は熊谷に家を建て、自転車のタイヤのブローカーをする傍ら、ゴム、米、砂糖などの禁制品も扱い始める。
またカウは内職的に菓子の五家宝(上野国(群馬県)五箇村の人が初めて製したといわれる、もち米を蒸して干し、炒ってふくらませたものを水あめで固めて棒状にし、青きなこをまぶした菓子。今は埼玉県熊谷市の名産。)づくりを手がけた。さらに観光地向けの辛子漬や芋のつるの砂糖漬の土産物製造卸売りを始め、病みがちな夫に代わって、カウの働きで生計が支えられていた。この頃からカウは金を稼ぐ楽しさを知り、物欲が強まっていった。
精力旺盛なカウは愛人づくりもマメであり秀之助はそれに気づいていたが黙認していた、という説もある。
ある時、近くの交番の若い巡査が戸口調査簿を手に小林家にあらわれる。この男の名は中村又一郎(当時25歳)。独身ですらりとした男前だった。闇物資を扱うカウの家では、この訪問は何か気味が悪い。それまでにも闇物資を警察に取り締まられたことがあった。そこでカウはこの中村巡査に手厚いおもてなしをした。中村は気をよくして、親しくカウの家を出入りするようになった。当初、カウは中村を娘の婿に、と考えていた。ところが欲望が満たされていくなかで唯一性的な満足がなかった40代の女と、おもてなしを好意と受け取った20代の男、そんな2人の関係ができあがってしまうのに時間はかからなかった。14歳で手淫を覚えるものの、秀之助と一緒になってから性的な快感を味わったことのなかったカウは中村に夢中になっていった。後にカウは
「わたしゃ中村又一郎で恋を知った。今でも好きです」
と供述している。恋に夢中になったと言っても、関係した後「今度、取締りの時は教えてね」と中村に言うなど打算的なことも忘れなかった。
その後も2人の関係は続き、カウは中村と一緒になりたいと考える。秀之助に「財産は何一ついらないから。暇をもらいたい」と頼んだが、聞き入れられなかった。そこで中村が「いっそあんたの実家に逃げ出せば、秀之助も諦めるだろう」と助言すると、本当に兄の家に逃げ出したりもした。
1952年10月2日、秀之助が突然異様な唸り声をあげて死んでしまった。その声にびっくりした隣人が駆けつけると、カウは夫の死に顔を撫でていたという。秀之助のかかりつけの医師は、保健所の医師立会いの元で脳出血と診断した。カウ夫妻はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたりしたが、熊谷署は捜査を打ち切った。(以下、この変死事件を「熊谷事件」とする)
その後まもなく、カウは中村を家に引き入れて同棲を始める。中村は以前からその行状が上司に知られており11月6日に懲戒免職となった。カウは年下の中村を惹きつけておくためには経済力が必要と、ますます商売に精を出し、翌年中村の家に移り、辛子漬の製造を続けていた。、両人は当時20歳だったカウの娘と折り合いが良くないという理由もあった。しかし、そんな同棲生活も2年で終結する。中村は母親ほどの女性に嫌気がさしたのか、カウを追い出し、若い娘と結婚したのだ。カウは中村の新居の表戸を蹴り続け、新しい妻に毒づき、転げ回って悔しがった。この時、中村はなぜかカウから手切れ金をもらっている。
一方、カウの方は辛子漬の製造卸を姉の一家との共同事業にしていた。姉の家を製造工場にして、カウは卸の外交を受け持っていた。カウの積極的な気性もあって商売は順調にいったようだ。カウは近県の温泉地をまわり、1954年、本事件の舞台となった栃木県・塩原温泉郷に初めてやってきた。 
日本閣の女主人
塩原にやってきたカウは土地の人ともすぐ馴染んで、品物もよく売れた。また、道々で知り合った人の家に泊めてもらう気安さで、宿屋を使う不経済はしなかった。カウは塩原がすっかり気に入った。
1956年春、カウはホテル明賀屋前の小店を一軒、1年分の家賃をポンと前払いして借り、「那珂屋物産店」の看板をあげた。ここでカウは最初の一旗をあげた。カウの商売魂はおさまらず、翌年春には隣りの店を買いとって、小食堂「風味屋」をひらいた。そちらの仕事は姉夫婦にやらせた。カウは店の売上は伸び、銀行預金を増やし、土地も買い、資産300万円ほどになっていた。成功を手にしていながら、カウはさらに上を見る。「温泉宿をひとつ持ちたい」と思うようになった。旅館の仕事ならば女中奉公のキャリアがあるし、女主人はカウの理想であるステイタスだった。
しかし、古いのれんを誇る塩原に新参者のわりこめるような所はなかった。この時、カウは見ようによっては30代に見えなくもないが、すでに50歳に達していた。カウはあせっていた。
1958年秋、カウは「ホテル日本閣」が安値で売りに出ていることを知る。ホテル日本閣は名前こそ立派だが、実際は三流クラスの小旅館だった。この日本閣が経営不振で3、400万円で投げ出すという噂があり、カウは飛びつくように交渉した。しかし、主人である生方鎌助にまるで売る気はなく、話はいったん立ち消えた。
生方鎌助は温泉番頭などを経て、1957年春、ホテル日本閣の看板を掲げた。しかし、やや強引に開業してしまったために温泉組合からはじき出され、引き湯の権利がとれなかった。自費で送湯管を敷いたが湯が冷えて、ボイラーで沸かしなおした。当然ながら、経営は厳しく、閑古鳥はなくばかりだった。鎌助はおかげで一時気がおかしくなり、宇都宮の精神病院に入院した。58年夏に退院したが、誇大妄想に悩まされるようになっていた。
いっそのこと温泉宿は廃業にして出なおそう、と鎌助の妻・ウメは言った。しかし、鎌助は聞かず、創価学会のご利益に頼って、59年春には新館の増築にかかった。だが途中で資金が尽き、未完成のみっともない姿に壊そうにも金がかかり、鎌助は途方にくれることになった。ここで鎌助は前年交渉にきたカウを思いだし、すぐに融資をもちかけた。この時の条件は「妻・ウメに対する手切れ金50万を出してくれれば、後釜に迎えてやる」というものだった。カウは「50万で温泉旅館の内儀さんの座が買える」とこの生方鎌助という男に賭けてみる事にした。しかし、手切れ金を30万に下げたところ、ウメは50万円を譲らなかった。「どうせウメは承知しないだろう、こうなれば一文も手切れ金をだすのが惜しい」とカウはウメ殺害を考えた。
1960年1月中旬、カウは日本閣の雑役をしていた大貫光吉(当時36歳)にウメ殺害を命じた。「手間賃2万円、成功したら抱いてやる」と言ってカウは大貫の手をとり股にはさんだ。女ッ気のほとんどない大貫は思わずうなずいた。
2月8日、怖くなり殺害を躊躇しつづけていた大貫に、今度は鎌助が励ましの言葉をかける。
「ウメは体が弱っていて、ちょっと絞めればイチコロだから、今夜は間違いなくやってくれよ」
そしてこの夜、大貫はひとり寝ていたウメを首を麻紐で締めて殺した。遺体は大貫がさらに手間賃1万円を受けとって、元ボイラー室の土間を掘って埋めた。
塩原の町では「ウメさんは殺された」という噂が流れ始めた。噂を聞いた大貫はボイラー室の床をコンクリートで塗り固めた。すると今度は「ボイラー室で埋められている」という噂が流れ、3人はうろたえた。3月中旬、3人はコンクリートの床を再び掘り返し、遺体を裏の林の中に運んで埋めなおした。
そうして何くわぬ顔で日本閣の増築工事は再開された。 
鎌助殺し
1960年の大晦日、日本閣の帳場の炬燵で3人はテレビを見ていた。午後5時過ぎ、カウは夕食の仕度で台所に立ち、忍び足で戻ると、背後から鎌助の首を細引で絞めつけた。そこへ大貫が鎌助にとびかかる。カウの持っていた細引がぷつんと切れ、そこで大貫は鎌助を押し倒し首を絞めた。カウが包丁を差し出すと、大貫は必死に抵抗する鎌助の首に刺し、殺害した。そのまま元日がおとずれ、年賀の客がやってきた。カウはこの時、「鎌助さんは東京に金策に行きました」と話した。
事件前の11月、カウは大貫に鎌助殺害を持ちかけていた。今度は報酬とホテル日本閣の亭主というエサで釣って大貫にやらせた。まず、毒殺と決めて計画し、12月中旬、塩酸を鎌助の食事や酒に混ぜるも、味がきつすぎたのか吐き出して失敗していた。
そもそもカウが鎌助までを殺すことになったのは、ウメ殺害直後、登記所に行ってみたら自分の名義になってるはずの新館が旧館とともに近々競売にかけられることになっていたからである。増築などで200万を注ぎ込んでいたカウは「騙された」と思い、鎌助への殺意を固めた。
鎌助殺害後、町では前よりも実しやかな噂が流れていた。新聞もこの旅館経営夫妻の失踪を取り上げ始めた。
2月20日、ついに小林カウと大貫光吉は逮捕となった。この時、カウ52歳、それでも小太り丸顔でチャーミングなところがあったという。 
秀之助殺し
逮捕されたカウは、前の夫・小林秀之助が変死した熊谷事件についても追求された。カウは当時の愛人・中村と共謀して、毒殺したことを認めた。話によると、中村に「亭主をやっちゃおう」と青酸カリをもらい、秀之助に風邪薬と偽って飲ませたのである。(しかし、公判が進むにつれ、カウは証言を翻した。1審の6回公判では「青酸カリは受け取ったが、川に捨てたので殺していない」、20何回目かの公判では「中村に精力剤だと言ってたのをもらい、セックスの弱い夫に飲ませたところ死んだ」と言っている)
中村がどこで青酸カリを手にすることができたのかも調べられ、あるメッキ工場主が制服巡査に青酸カリを渡したことがある」と証言したが、10数年前のことで、中村かどうかはわからなかった。中村は最初から最後まで容疑を完全に否定した。
カウは逮捕後も男好きの病気は治らず、取調官に「死刑だけはかんにんしてね」と愛嬌をこめて言ったりしていた。 
裁判
1966年7月14日 最高裁、カウと大貫に死刑を言い渡す。中村は証拠不充分で無罪となった。
1970年6月11日、小林カウは東京の小菅刑務所において死刑執行された。享年61。戦後の女性の死刑はカウが第1号であった。(女性の死刑の確定は3人目だが、前の一人は恩赦を受け、もう一人は獄中で死亡) 
 
妲妃のお百

 

(だっきのおひゃく) 江戸後期、講談、実録物などで御家騒動の逆意方ヒロインとして毒婦と喧伝(けんでん)された女性。中国殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の妃で、残忍性と淫蕩(いんとう)性で知られた妲己(だっき)にちなんでこうよばれた。お百は京都・祇園(ぎおん)の遊女の出で、たびたび主人や旦那(だんな)をかえ、奉公先の廻船(かいせん)問屋や歌舞伎(かぶき)役者と密通。吉原から花魁(おいらん)に出ているうちに揚屋の主人の妻に納まる。一転して、秋田騒動の際、秋田藩の家老那河忠左衛門(実録物では中川采女(うねめ))の囲い者として毒婦ぶりを発揮したといわれる。歌舞伎脚本に河竹黙阿弥(もくあみ)作、1867年(慶応3)初演の『善悪両面児手柏(ぜんあくりようめんこのでがしわ)』(通称「妲妃のお百」)があり、江戸末期から流行した毒婦物狂言の代表作の一つであった。 
妲妃のお百2
生年:生没年不詳 / 江戸中期の人物。のち毒婦として虚構化される。京都祇園の遊女から,鴻池善右衛門の妾,江戸の役者の妻など,旦那や夫を次々と替え,秋田藩士那河忠左衛門の内妻となる。宝暦7(1757)年忠左衛門がお家騒動で斬罪に処せられると,これが脚色され,お百の話は実録本『増補秋田蕗』を経て,伝説的な淫婦悪女で殷の紂王の妃,妲己になぞらえた講談「妲妃のお百」となり,廻船問屋桑名屋徳兵衛殺し,秋田騒動の奥医師殺しなどを行った毒婦に仕立てられた。さらにその話は慶応3(1867)年,歌舞伎「善悪両面児手柏」(河竹黙阿弥作)で劇化され,江戸末期から流行をみた代表的な毒婦物となった。 
妲妃のお百3
江戸の大悪女
「なぜ女性の名の上に『お』がつくのだ?」と疑問を感じませんか?この「お」は敬称の意味の「お」、漢字で書けば「御」にあたります。公家のお姫様を家来や御付女中が敬称のつもりで「お」をつけて呼んでいたのが、武士、町民の間に広まり、庶民の娘でも「お」をつけて呼ぶようになりました。ですから、親がつけた名前は「くま」「せん」「りん」「しち」「でん」というわけです。
江戸の大悪女といえば、「姐妃のおひゃく」「鬼神のおまつ」「生首のおせん」の3人ということになっている。いずれもおどろおどろしい渾名がついております。明治時代の中ごろまでは、ヤクザ女の背中の刺青の定番でありました。
宝暦年間に秋田佐竹藩で相続問題からお家騒動が起きた。宝暦3(1753)年に藩主である義真(よしざね)が23歳の若さで急死した。彼には子供がなかった。その後継者問題で藩内が分裂し、対立が起きた。このときにおひゃくは義真の側室であった。彼女を側室に上げたのが重臣の那珂忠左衛門であって、反対派の言い分では、おひゃくは那珂の妾であり、2人はお家乗っ取りを策したのだという。義真が急死したのも、那珂忠左衛門の指示でおひゃくが毒殺したと疑われた。
京女
おひゃくは京都九条通りの貧しい家に生まれた。8歳のときに祇園町の「山村屋」に売られ、14歳のときに芸妓としてデビューした。美人で利発だと、たちまち人気が出た。
「祇園丸山西河原芝居の櫓暗き夜の、闇も月夜も分かちなく、さはりがちなるおひゃくはどこに。ここに初夜から暁までも松兵衛松兵衛と夕涼み」
こういう歌が京都で歌われた。
松兵衛とは人気役者である中村かしくのこと。これと並び称されたのだから、相当の人気があったことがわかります。
彼女1、2年後に江戸から大坂に下ってきた役者の津打(つうち)門三郎とデキてしまった。これが善右衛門に知れて縁を切られてしまい、門三郎に従って江戸に出た。
門三郎の兄が松本幸四郎、後の4世市川団十郎です。おひゃくは幸四郎を好きになり、その想いのたけを打ち明けたが、「弟の女房に手を出せるか。ええい、気持ち悪い。おまえとは絶縁だ」と、おひゃくを突き放した。
松本幸四郎は3世市川団十郎と人気を分け合う人気役者です。いっぽう門三郎は病気がちで、舞台を休むこともしばしばあった。役どころも脇役ばかりの中堅役者に過ぎない。
野心家の彼女は門三郎を捨てて幸四郎に乗り換えようとしたわけですな。白面のにこやかな媚びの下には冷たい氷のような打算が潜んでいる。京女の恐ろしいところです。皆さんも京女にはゆめゆめ騙されてはいけませぬぞ、とずいぶん京女には手痛い目に遇わされた私が申します。
美人は得
宝暦元(1751)年に門三郎が病死すると、一年忌も終えないうちにおひゃくは吉原の揚屋である尾張屋の清十郎といっしょになる。
尾張屋に出入りしていたのが秋田佐竹藩の江戸留守居役の那珂忠左衛門であって、会うなりおひゃくは彼に心を寄せ、尾張屋を飛び出して忠左衛門の妾となる。そして、忠左衛門が秋田に下ると、同行して、名前は「りつ」、年は19歳という触れ込みで佐竹藩上屋敷の御側女中に登るのである。
宝暦2年ごろには彼女は30歳近くになっていたと思われますが、見た目が若かったのでしょう。能書で、和歌を詠み、踊りも上手かった。そりゃそうでしょう。京都祇園で遊女となるための特訓を受けていたんですから。
こんなことを言っては秋田に失礼だが、当時の京都と秋田では比較にもならないほどの文化格差があった。田舎殿様の佐竹義真はおひゃくに夢中になってしまった。
おひゃくが男子を産んでいれば、これが佐竹藩の跡継ぎとなるところであった。おひゃくは当主の「御生母様」となるところでありました。
彼女の野望はもう一歩で実現するかにみえたが、子供が出来ないままに佐竹義真は病死する。藩内を二分する後継者問題が起き、那珂忠左衛門は破れてしまう。反対派が擁立した義明が7代当主となり、那珂忠左衛門は切腹、おひゃくは秋田から追放されます。
江戸に出た彼女は米問屋の高間磯右衛門の妾となって一生を終えたという。腐っても鯛。美人は得ですねえ。かならず拾ってくれる男がいるんです。
講談本が仕立て上げた
おひゃくの人生を見れば、まあ褒められる生涯ではないが、さりとて凶悪な悪女とも思えない。じつは彼女を悪女に仕立て上げたのは講談本でした。講談本が彼女を自分の野心と欲望のために邪魔になる人間を次々と殺す殺人狂、ついには佐竹藩乗っ取りを策すという稀代の悪女に仕立て上げたのです。
「姉妃のおひゃく」と命名したのも講談本。表の顔は虫も殺さぬなまめかしい美人、裏の顔を子分のヤクザから「姉妃」と呼ばれる冷酷無慈悲な殺人鬼。講談本がおもしろ、おかしくおひゃくを稀代の悪女に作り上げたのです。
じつは騒いだのは浄瑠璃や歌舞伎や瓦版や講談本の作者でした。商魂たくましい彼らが、あることないことを付け加えて、誇張した伝説を作り上げたわけです。 
那珂忠左衛門
秋田騒動は藩札仕法をめぐっての争い
この騒動は大へんな犠牲者が出ているくせに、本質がはっきりしない事件である。しかし、藩札仕法をめぐっての争いであることは確かであろう。今日のこっている資料や物語からは一向はっきりしたことはうかがわれないが(恐らく意識的に佐竹家が隠滅したものであろう)、那河忠左衛門、大越甚右衛門、山方助八郎、梅津外記らは藩札仕法の存続論者であり、北図書、東山城、石塚市正、岡本又太郎は廃止論者であったのであろう。つまり、廃止論者が勝った争いであった。前述した通り、藩札制度がすぐ廃止になっているのをもっても、そう思われるのである。階級打破の陰謀ももちろんあったであろうが、この争いにくらべれば、それは言うに足りないものであったろう。野尻忠三郎の抱負と気概とは別として。全藩の全経済にたいする根本的争いであるから、ずいぶん辛辣な戦いぶりをしたはずである。しかし、この争いには善悪の位づけをすべきではあるまい。経済政策の争いに善悪はない。あるのは適不適だけである。
柴田錬三郎「毒婦伝奇」より
この窮乏のどん底にあって、忠左衛門は、憎悪と怨嗟えんさを一身に負うたのである。 
江戸屋敷の筆頭となっていた 忠左衛門は、藩庫はんこが全く空になったことを苦慮して、大阪商人から借金するために八方手をつくしていた。
忠左衛門、生まれてはじめて、女に惚れた。
秋田藩兵具頭・ 忠左衛門が、吉原へ通って来ているうちに、清十郎女房於百に出会ったのは、それから一年ばかり過ぎてからであった。
遊興の揚屋を、他店から尾張屋に移した 忠左衛門は、於百を知るや、たちまち、とりこヽヽヽになってしまった。 
忠左衛門は、四十過ぎていたが、未だ独身ひとりみであった。
妲己の於百が、稀代の毒婦として、後世に伝えられたのは、奸臣忠左衛門の命令を受けて、その妻の身であり乍ら、藩主佐竹義明を誘惑して、通じた罪状によってである。
忠左衛門は、奸臣でもなければ、佞人(ねいじん)でもなかった。
忠左衛門から、意外な申し出をされて、清十郎は、ふっと、於百を手放せば、十年ばかり、寿命がのびるのではなかろうか、と思ったのである。 
秋田騒動
騒動は七代藩主義明の時に発行した藩札をめぐって起こったが、以前より藩内に積もりに積もった鬱屈があり、これらが藩札問題で一挙に噴出し、大騒動にまで発展してしまった事件である。
久保田藩は連年の大風雨、大火、洪水等の災害から凶作が続き藩財政は窮乏していた、領民は飢渇に苦しみ藩士らも困苦し、どうにもならない窮況にまで追い込まれていたという。藩札の発行を進言をしたのは森元小兵衛という久保田の商人である。藩札の行使によって領内から金・銀・銭を吸い上げ、他領や上方から米雑穀などを買い入れて領民に安く売り渡せば、藩も領民も共に助かるというのがその考えの骨子であった。藩は財政の立て直しをその案にかけることになる、家老、山方助八郎、梅津外記、江戸家老大越甚右衛門らが中心となり準備をすすめ、宝暦四年、藩札発行の許可をもとめる伺書を幕府に提出しその許可をえる。
札元(藩札と現金を交換する)になれば士分に取り立てるという条件で保証人を集め、宝暦五年、藩札は発行された。
結果はまったくの見込み外れ、藩札は渋滞してしまう。藩札を現金に換えようとする者ばかりで、現金を藩札に換えようとする者がいないのである。藩札の価値はドンドン下がりインフレ状態を引き起こしてしまうまでになる。追い討ちをかけるようにその年も大飢饉となり飢民が巷にあふれた。藩は領民救済の為、施行小屋を設け食べ物を配る一方で、米の売買を禁止、藩が買い上げて専売しようと考えたが、その支払いを藩札で行った為、商人や農民は米を隠してしまう。
藩は強権を発動し城下の六十一店舗を急襲し隠匿銀を摘発、さらに領内の蔵探しを繰り返したが、米価は暴騰する一方で食べ物を入手できない為、餓死者が続出した。領内は騒然とし藩がねらった財政改革どころか社会不安が広がるばかりであった。
こうした情勢のなかで以前から藩札の発行には常に批判的であった、家老、石塚孫太夫、岡本又太郎、平元茂助たちは、藩主義明の叔父義智(義道の弟)東山城、北家の佐竹図書(角館城代)に相談し事態の収拾策を講じようと動き始める。
藩札推進派は石塚らの行動を門閥の権威をかさにきて、藩政を私有化しようとする専横の振る舞いだと決めつけ、さらに東家北家家老の石塚、岡本等が反乱をおこし、藩主義明の失脚を謀り義峰の孫秀丸を擁立しようとしていると、藩主義明に訴えでる手段にでたのである。
宝暦七年参勤交代の江戸詰めをおわった義明は秋田に向けて出発、その帰国途上には藩札推進派からの情報が次々と届き、事態が逼迫してきている事を知らせてくる。
五月十八日秋田領刈和野についた義明は久保田に早馬を走らせ、東山城、佐竹図書、石塚、岡本両家老を謹慎処分とし、足軽数百人をもって城中の御門を警備させるよう命令を下す。
翌十九日久保田着、義明はすぐに事態の収拾を図るための作業を開始、六月になると事態は急展開を見せはじめる。 
調査の結果藩札推進派の陰謀であることが露顕したのである。
義明は戸村十太夫、小野岡原四郎を家老に任じ、藩札推進派をすべて捕らえる一方反対派の謹慎を解く、推進派の処分は徹底的に行われ久保田藩始まって以来の大獄事件となったのである。
ただこの事件には善悪の差別のつけがたい要素があることも事実であった。 
藩札推進派は経済に疎く、さまざまな問題への対処が遅れ、しかも適切ではなかったようである。彼らは藩のためひたすら善かれと信じ、改革を推し進めたわけであり、私心は全くなかった。
藩札は時代の動きに即応した斬新な考え方であり、事実この行使により財政改革に成功した他藩の例もある。推進派の努力がなんら改革の結果をみずに終わったことは、彼らにとっても久保田藩にとっても不幸であったと思う。
藩主義明は判決後、死罪者らの刑の執行を意図的に引き延ばそうとしていたようすが伺える。藩札推進派達の志は十分に理解し彼らが藩財政を何とかしようと一生懸命に努力していたことを想い、その方法に間違いや行き過ぎがあったことも承知のうえで、義明は彼らをできれば助けたいと考えた。
しかし藩全体のことを思い混乱の償いとして刑は執行されることになったのである。 
妲己
(だっき) 殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の帝辛(紂王)の妃。帝辛に寵愛され、末喜などと共に悪女の代名詞的存在として扱われる。
基本となる『史記』「殷本紀」では、帝辛に寵愛され、妲己のいうことなら、帝辛は何でも聞いたという。師涓に新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作らせた。賦税を厚くして鹿台に銭をたくわえ、鉅橋に粟を満たし、狗馬・奇物を収めて宮室いっぱいにした。沙丘の苑台を拡張して、野獣蜚鳥をその中に置いた。鬼神をあなどり、沙丘に大勢の者を集めて楽しみ戯れた。酒をそそいで池とし、肉を掛けて林とし(酒池肉林)、男女を裸にして互いに追いかけさせ、長夜の飲をなした。
その後、妲己は周によって攻められた際に武王により殺されたとされる。また『国語』では、帝辛が有蘇氏を討った際に有蘇氏が献上したのが妲己であり、己が姓、妲は字であるとしている。この頃女性は字を先に、姓を後に書く風習があった。妲己を字と見なすのは後世の誤解である。
『列女伝』巻7孽嬖傳 殷紂妲己では、炮烙の法を見て妲己が笑ったとされている。比干が「先王の典法をおさめずに、婦人の言を用いていれば、禍のいたる日も近いでしょう」と諫めた。すると、妲己は「聖人の心臓に七つの穴があるとわたしは聞いています」と答え、比干の心臓を取り出させて観賞した。紂王が自殺すると、妲己は武王によって首を斬られ、小白旗に掛けられた。「紂を亡ぼす者はこの女なり」と評論された。
『漢書』外戚列伝の顔師古注には、「弁辞をよく好み、姦を究めること盛んにした。その言を帝辛が用いて民を苦しめた」とある。
現代中国の妲己像
現代中国で妲己の名は悪女とともに、魅惑的な女性の代名詞でもある。また彼女は紂の寵愛を得るために数種類の桃の花から花弁を取り、これを絞って汁を固めた燕脂と呼ばれる化粧を発明して頬へ塗っていたといわれている(紅粉)。ここから妲己が単に男を狂わせた妖女と言うだけではなく、男の愛情に応える健気な女心を読み取る者も多い(燕脂というのは紅藍花・紅草の一種だともいわれている)。また、中国では妲己を題材にした時代物ドラマや劇場映画が現在も多数製作されている。
妲己に関する伝説
全相平話 / 『全相平話』の一節「武王伐紂平話」の中で妲己が妖狐伝説と結び付けられ、妲己はキツネのなりかわりとされた。「千字文」の「周が殷の湯を伐った」に対する注で、殷の紂王(紀元前11世紀頃)を誘惑して国を傾けた妲己(だっき)は九尾狐であると指摘。明代の「封神演義」が妲己を九尾狐の精としているのは、この説をもとにしている。
封神演義 / 『封神演義』では、千年狐狸精(せんねんこりせい)として登場し、殷周革命を実現させるために使わされたという。そして、冀州侯蘇護の娘、蘇妲己(そ だっき)の魂を奪って妲己になりすまし、紂王を堕落させて殷を滅ぼした。また、胡喜媚、王貴人という2人の架空の女性は、彼女と同じく紂王の寵姫とされている。胡喜媚が九頭雉鶏精(きゅうとうちけいせい)、王貴人が玉石琵琶精(いしびわせい)と、雉と玉石琵琶の妖怪が化けた者として紹介されている。
日本の妲己像
たま藻のまへ / 日本においては、玉藻前伝説と結び付けられ、妲己も白面金毛九尾の狐が化けたものとして紹介されている。また、悪女のイメージから河竹黙阿弥の『妲己のお百』で知られる吉原の遊女、毒婦のお百が生まれた。 お百は、京都九条通の賤家の生まれ。美貌の持ち主で、14歳で祇園中村屋の遊女となり、鴻池善右衛門に身請けされた。江戸役者津打友蔵と姦通し、江戸に下り、友蔵の死後新吉原の尾張屋清十郎の女房となり、佐竹家の臣である那河忠左衛門の妾となり、秋田騒動に関係し名を「りつ」と改めた。那河が秋田騒動の中川采女で、那河は宝暦7年6月処刑されたが、お百は奉公人であるとしておとがめなく、間もなく江戸に出て、高間騒動の高間磯右衛門の妾となったという。その間男性を殺害すること5たびにわたり、宝暦年間の退廃期を代表するとされる。
三国悪狐伝(三国妖婦伝) / 『三国悪狐伝』(三国妖婦伝)は、妲己、華陽婦人、褒姒、玉藻前へと姿を変えて悪事をはたらいた「千年九尾狐狸精」を描いた作品である。中国、古代インド、日本と三国をまたにかけ、三千年にわたって転生を繰り返しながら男を惑わす美女となり、国を滅亡させようとした。  
 
悪女の真実

 

先日、ゴミ屋敷問題で騒がれた戸川昌子は81歳になった。世の東西を問わず歳を取ると目が悪くなる。億劫になる。だから、汚くなるのは、人間の本然であり、真理だ。彼女は厳密には高女卒ではないが、扱いは昭和7年組になる。だから高女の世界は垣間見た世代でもある。父親も兄も戦争で喪った。世に出た「大いなる幻影」の舞台は彼女が敗戦後に暮らした大塚の同潤会アパートであったことで知られている。
「その舞台となったアパートにそっくりなのを、少年の日に見なれていた。大塚のある中学にかよっていたのだが、そのそばにあった。大戦前のことである」
これは本書に解説を寄せた星新一の回想である。大塚1丁目に移転したばかりの筑波大付属が星新一の母校である。当時で言えば、高等師範の付属中学。
「現在ではアパートというと軽い響きがあるが、そのことはちがう。木造住宅が普通だった時代に鉄筋コンクリートの5階建てというと、立派で高級で、エキゾチックなムードがあった。どんな住人がいるのか、ミステリアスであった。乱歩さんの描く、古きよき時代のおもかげを残していた」
敗戦後、彼女はそのエレベーター付きの大塚女子アパートから伊藤忠に通勤していた。製薬会社の御曹司であった星新一にとっても、まぶしい、「新しい女」であったわけだ。その彼女が悪女を描いたのが本書。元々オリジナルのタイトルは「日本毒婦伝」だった。講談社の「小説現代」に連載したものを一冊にまとめ、1971年に出版されている。

さて、その「悪女」とは誰か。
有名毒婦のオンパレード。江戸末から明治初頭の「高橋お伝の石」(高橋でん(1850-79))、「夜嵐お絹の毒」(原田きぬ(1844-72))等、悪女と呼ばれた女たちから、「千姫狂い髪」(千姫(1597-1666))で千姫まで取り上げた。本作で彼女は時代小説に新境地を開いたとされた。
岡本綺堂の「半七捕物帳」に出てくる「蟹のお角」も出て来る。
「蟹のお角という女は、だんだん調べてみると札付きの莫連もので、蟹の彫りものは両腕ばかりでなく、両方の胸にも彫ってあるのです。つまり二匹の蟹の鋏が右と左の乳首を挟んでいるという図で、面白いといえば面白いが、これはなかなかの大仕事です」
「痛いのを辛抱して、女のくせに両方の乳のあたりに蟹の彫りものを仕上げたんですから、それを見ただけでも大抵の者はぎょっとする。そこへ付け込んで相手を嚇しにかかるというわけで、こんな莫連おんなは男よりも始末がわるい」
岡本綺堂の筆ではこうだ。
ところが、戸川昌子の説では、お角の秘部は彫られた蟹の一方の鋏になっており、蟹の胴やもう一方の鋏は右の腿に散っているということになっている。
「お角が両脚をよじるようにした動作につれて、つーっと一筋、涙のように光るものが蟹の目を伝ったのである」
身を落とす前には御殿女中であったお角は、刺青を男から観られることによって性的な興奮を得るという設定になっている。女性が毒婦を描いたからなのか、そこまでエログロにするかと呆れるほどの描写が続く。戸川昌子は連載の頃にはまだ30代の後半だった。女流作家で、この辺りを境に狂い咲く手合いが多いことを想った。それでいいと開き直って、さらに執筆も行き詰る者が多い。
高橋お伝、夜嵐お絹、蟹のお角等は、捕縛された当時から世間では大騒ぎをした稀代の悪女であったが、それでも江戸期、江戸末期の女である。やはり、今とは違う。
本書では、それでも中でも面白いのは、阿部定だろう。
毒婦というとこうして浮世絵に出てきそうな女たちばかりなのに、阿部定を入れるのが日本の毒婦モノの定番になっている。世間に以前から時代が違うと指摘する議論は数々あるが、阿部定は、歴史に名を残した別格の悪女として定着している。逮捕された時の着物姿があまりに有名になったからだ。写真の胸の袷の下には、男の切り取った一物が懐紙に包んであったというのだから、イヤでも記憶には残るだろう。
戸川は「お定怨み節」としている。ご存知「安部定」伝記の定番の男として、「稲川正次」という名で、定の命運を握った男を「定の兄の先妻の弟」として登場させている。
「定が売春を平気に思うようになったのは、稲川正次との関係があったからであった」
戸川はこう書き、稲川正次が定の肉体を開花させたと書いている。だが、女衒で、所詮、定は、いい商売道具としてしか考えていないという位置付けに留めている。むしろ逮捕、収監された6年後に、模範囚として出所した阿部定は司法筋からの特別の配慮で別名の戸籍を得た。金杉という進駐軍の施設の電気工事を請け負っている男と世帯まで持った設定だが、話の切れ味としては今ひとつ。定への愛情が他の毒婦同様に感じられない。
本作が書かれた後で、「愛のコリーダ」(1976年)を大島渚が監督して、若松孝次が製作で関わった。「芸術か猥褻か」というお堅いテーマで裁判になった。自由にモノが言えない雰囲気が生まれた。「阿部定事件」自体も、男女の至高の愛だとかエロスの極致みたいな評価をする大人が増えて、詰まらない教訓になった感じがある。
これに対して、平成の島村洋子が描いた「阿部定」では、「稲川正次」は「稲葉正武」という名前となり、「定の兄の先妻の義理の兄」という立場で登場させている。そして阿部定の起こした事件よりも、阿部定がどういう女であったのか、という点に焦点を当てている。このため、稲葉正武と女房のハナは、阿部定とは離れられない独特の関係という設定が面白い。大島渚を含め、3人の阿部定像を較べると、島村洋子の定が最も魅力的だ。
島村洋子は、阿部定を好いているし、稲葉正武のことも好いている。好みの人間たちの好きな世界を描いて読後感がいい。戸川の「悪女伝説」は、書き飛ばしの観がありありだ。手元の本の奥付は初版で昭和61年1月(1986年)。昭和の末は熟女のエロ小説が読まれ、商売になったとも言えるのだろうけれど。
「僕はやはりその人は自分の好きな事をやっているのだと思うんですよ。結局、その人は自分を出しているんじゃないかな」
こう語ったのは小林秀雄である。島村洋子の阿部定が大島渚に勝るのはその伝だ。
「国を滅ぼす学者というのは、自己を忘れているという意味だろう。自分の学問はどこから出て来たか、という源を忘れて、ただ学問をしているんですよ。だから学問が常套語を上手に並べる知的遊戯になる。(中略)文化を背負って立っているような顔をしているでしょう。これは世を毒するな」
大島渚や若松孝次が自ら望んで背負ったドグマにはこういう一面があったのではないか。息苦しくて、堅苦しくて、自由ではない。ハッキリ言うと、知的ぶっているけれども、知性から最も離れて、知的ではないんだよな。ドグマの奴隷に堕している。
だが、同じ京都一派であっても、“京都の総番長”こと、あの今西錦司御大が、「生物の世界」[中公クラシックス]で、「これは私の自画像である」と序文に書いていることを小林秀雄は高く評価した。
「これは今の科学ではない、私の科学――いや、私の学問だ、と言ってるんだ。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉というのは私でしょう。自分でしょう。だから結局。私の学問がどこから出て来たかという事を書いた本だから、これは私の自画像であるという事を序文で書いている」
書いた今西も引いた小林も共にこれは至言。ここには知の自由とその息吹があるよ。
 

 

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