富山の売薬

薬売り1薬売り2薬売り3富山の薬の歴史反魂丹富山反魂丹旧記万金丹
桂類薬名「桂枝」に統一先用後利信用と情報人材教育文化を運ぶ近代を拓く売薬理念「医心方」医学雑話・・・
 

雑学の世界・補考   

富山の売薬1

富山売薬が全国に販路を広げた理由として、「先用後利」の販売システムを早くに整えたことが挙げられる。しかし、それと並んで「進物」の魅力も得意先を惹きつけたことであろう。富山の売薬といえば、現在でも紙風船が思い出されるほど、進物との関わりは深い。また、馴染み深いパッケージデザインという点も、富山売薬のイメージ形成に役立っていたと思われる。
江戸時代
配置薬の場合、薬袋にはいくつか分類がある。「上袋(うわぶくろ)」は「中包(なかつつみ)」に包んだ薬を入れる袋である。また、同一の上袋をまとめて入れる袋を「差袋(さしぶくろ)」と呼ぶ。それぞれの袋には薬品名、製造者名、そして効能などが記されている。袋以外にも、薬によっては桐箱を使用しているものもあり、そこには袋と同様に印刷の施されたラベルが貼られていた。
江戸期の薬袋は、墨刷り一色で文字だけのものが多く、印などに朱色が使われている程度である。図柄は、熊胆が処方された薬には熊が描かれるように、一目で何の薬かが分かるようなものとなっている。例としては、虫下しの薬=寄生虫、風邪薬=達磨や鍾馗(しょうき)、子供薬=幼児、婦人薬=女性などがある。ただし、これらの図柄は、富山独特のものとまではいえず、全国の売薬産地などとおおむね共通するものと考えてよいだろう。
この頃の薬づくりは、売薬人が自ら行う自家製造であったが、その際に薬袋も一緒に作られていた。ただ袋の印刷に使う版木は、専門の彫師に依頼しており、その技術が次に述べる「売薬版画」の基盤となるのである。
売薬版画の登場
最初の進物といわれているのが、売薬版画(錦絵と呼ばれていた)である。江戸時代後期から明治時代後期にかけて、進物の主流を占めていた。その始まりについては未詳の部分も多いが、最初は江戸や上方の浮世絵を配ったものと思われる。浮世絵が進物に取り入れられた理由として、軽くてかさ張らないため、持ち運びに便利であった点が挙げられよう。その後、天保年間(1830-1843)前後から、歌川広重(うたがわひろしげ)などの江戸の浮世絵作品が富山でも刷り始められたと考えられている。続いて嘉永年間(1848-1853)になると、地元の絵師である松浦守美(まつうらもりよし)が登場し、数多くの版画作品を描いていった。
売薬版画の最大の特徴は、ごく初期を除いて富山の版元によって、富山の絵師の作品が、富山で制作、されたことである。しかし、浮世絵に比べて色数が少なく、紙も粗悪なものを使うなど非常に安刷りであった。これは、進物という性格上、制作費用を低く抑えていたことを示している。
主題には当時流行していた図柄が選ばれており、江戸期は名所絵や役者絵など娯楽性の高い作品のほか、暦絵や熨斗絵のように実用的な作品も制作された。それらの作品は江戸浮世絵に範を取ったものが多く、守美もしばしば江戸版からの引用を行なっている。このことからも売薬版画は、地方の人々が江戸文化の代表である浮世絵に触れるため、媒体の役割を果たしていたといえよう。
また、富山では江戸時代から芝居が好まれ、それに伴ない浄瑠璃も大流行した。この芝居熱・浄瑠璃熱は町人によって支えられており、特に売薬人は役者絵などをただ配るだけではなく、その題材を語って聞かせたという。この「売薬さんの一ロ浄瑠璃」が、売薬版画の魅力をより高めたと思われる。売薬版画は目で見るだけではなく、語りを伴なうことによって多くの情報を伝えていたのである。また、この時期は、扇子・糸・縫針・元結なども進物として配られていた。
明治時代
明治の新時代に入っても、初期の頃は前代のデザインを踏襲した薬袋が多い。しかし、「秘伝」「秘方」「家伝」などの表記は禁止され、代わって「官許」の文字が登場した。また、政府の指導で「薬づくり」は自家製造から製薬会社へと移行していき、これに伴ない薬袋の印刷も次第に専門業者に依頼するようになった。加えて、新しいデザイン(ポンチ絵風の図柄など)も登場し、新時代の変化が現われ始めていた。
一方、政府は洋薬尊重の方針を取り、売薬営業税や売薬印紙税などを課したため、売薬業は一時困難な時期を迎えた。しかし、それらを克服し、明治20年代になると富山売薬は再び進展し、また、製薬技術の改良(丸薬器の開発)もあり大量生産の時代に入っていった。
売薬版画の最盛期
明治時代に入ると、売薬版画にも輸入染料が使用され初め、「赤絵」と呼ばれる強烈な色彩の作品が登場した。そして明治20年代における売薬業の成長に伴ない、売薬版画は質量ともに最盛期を迎えた。
これに合わせるように尾竹国一(おたけくにかず・新潟県出身)が登場した。国一は明治23年から32年(1890-1899)末まで富山で活動し、松浦守美と並び多数の作品を遺している。また、需要の伸びに合わせ、尾竹竹坡や国観(国一の弟)、竹翁、国晴など多数の絵師が登場するとともに、版元も富山市内や水橋に加えて、滑川にも成立した。しかし、多くの作品は相変わらず安刷りの範囲を出るものではなかった。
明治時代における主題は、初期の頃は世相に合わせて開化絵も描かれていたが、中期になると役者絵が主流となる。加えて、時局報道絵(日清戦争など)が現れるのもこの時期である。このことは、売薬が得意先としていた地方の農山村部にも、より速い情報を求める「情報化」が進展してきたことを示している。
この他、1枚に多くの役者を描き込んだ役者絵が多数見られる点も、この時期の特徴である。これは浮世絵の続物を1枚にまとめたものであり、プラスの商法である進物商法らしい付加価植の付け方であろう。また、この頃すでに、後の時期につながる動きも見られる。それは判の大小や出来具具合の上下などによる、作品のランク分けが明確になったことである。このことが後の進物の多様性につながっていったのであろう。
明治から大正・昭和へ
売薬版画は明治30年代半ば以降、木版から石版へと印刷技術の転換が進むにつれて次第に衰え始めた。理由として、新聞や雑誌などが普及し、情報伝達手段としての役割を果たせなくなったことが挙げられる。また、色刷りの印刷物が珍しくなくなったことや、さらに写真の普及によって版画の魅力が失われたこともあろう。
売薬版画は、最後は近代印刷へと印刷方法を変化させつつ、昭和初期まで続いた。その頃になると「喰合せ表」なども登場し、広告チラシ類に吸収されていったと考えられる。
一方、印刷技術の発展は、パッケージデザインに多彩さを加えていった。大正・昭和期になると、当時流行のデザイン(アール・デコ調など)が取り入れられるなど、伝統的なデザインからの脱皮が進んでいった。
紙風船の登場
富山では明治30年代に紙風船が流行したというが、このことが進物に取り入れられるきっかけになったのではないかと想像される。小さくて軽い紙風船は、売薬人にとって売薬版画と同様に扱い易い品物だからである。進物の主流は、売薬版画から子供向けの紙風船へと移っていったのである。
昭和初期が売薬進物の最盛期であり、当時、富山市内には、20軒以上の進物商が営業していたという。その頃の進物には、大人・家庭向け=九谷焼の湯呑・若狭塗の箸・コースター・氷見の縫針・手拭・暦・喰合せ表、子供向け=紙風船・絵飛行機・折紙・トンガリ帽子などのように、多種多様な品物があった。
また、薬を入れ替えている時に、民謡(越中おわら節など)を歌ったり、種籾や牛耕などの農業技術を伝えるといったことは、「品物ではない進物」であったといえるだろう。
進物は、得意先ごとに売り上げの5パーセントを目安に配られており、売上高の上下によって品物にも違いがあった。しかし、最盛期は長く続かず、日中戦争が始まると物資統制のため不要不急のものとされ、売薬進物は一時姿を消してしまった。
広告チラシ類
進物とともに、各得意先に配布したものとして広告チラシ類が挙げられる。広告チラシ類は、江戸期以来の引札(ひきふだ)の系譜を引くものと考えてよい。引礼は明治・大正の頃まで制作され、富山売薬でも薬種商や売薬商らの様々な作品が残っている。また、売薬版画の中にも画中に宣伝文句を入れたものが見られ、広告チラシと判別し難い作品もある。昭和になると、喰合せ表や暦などの入った多彩な広告チラシが現われるが、人々は主としてこれら作品のことを絵紙(えがみ)と呼んだのであろう。
現在の富山売薬
第二次世界大戦が終わると、様々な統制が解除され、富山売薬は再び活発な行商を行うようになった。戦後、薬袋は印刷業者から購入するようになり、売薬人が薬袋づくりを行うこともなくなっていった。伝統的なデザインは姿を消していき、大衆薬と変わらないデザインが主流を占めるようになった。
また、業界では過当競争を防ぐため、進物について高価な品は廃止して、紙風船やチラシ類に留める申し合わせを行なった。このため、現在ではゴム風船ぐらいしか見られなくなってしまった。しかし、今でも角型の紙風船を覚えている人は多く、富山の売薬人と紙風船は分かち難く結びついている。また近年、富山の薬袋のレトロなイメージが若い人を中心に人気を集めている。
進物とパッケージデザイン、いずれも人々の目に一番触れやすいものである。そのイメージは富山売薬にとって大きな財産であろう。
 
富山の売薬2

古くから富山県にある医薬品配置販売業の俗称のことである。
薬種商の始まり
薬種商の始まりは室町時代とされる。中原康富の「康富記」(1455年)の1453年5月2日(6月17日)の条に「諸薬商買の千駄櫃申し間事談合とするなり。薬売るもの施薬院相計る所なり。」と書いてある。また、「御府文書」には1460年に京都の四府賀興丁座の中に薬品類を商いする商人がいたことが記されている。富山で薬種商が始まったのは16世紀中ごろ、越中に薬商種の唐人の座ができたことである。17世紀初期から中ごろにかけて丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。開業当時は薬種販売のみを行い、それから製薬業に移ったと思われる。
1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代・江戸幕府の委託事業などで財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために売薬商法を武器に起死回生を図ろうとした。17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫が薬に興味を持ち合薬の研究をし富山では最も有名な合薬富山反魂丹(はんごんたん)が開発された。これが富山売薬の創業とされる。しかし、このころの反魂丹の中心地は和泉国(現在の大阪府)であった。しかし、1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復したというエピソードがある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬は有名になった。さらに富山城下の製薬店や薬種業者の自主的な商売を踏まえて産業奨励のために売薬を採り上げた。このことが越中売薬発生の大きな契機となった。
18世紀になると売薬は藩の一大事業になり反魂丹商売人に対する各種の心得が示され、この商売道徳が現在まで富山売薬を発展させてきた一因である。藩の援助と取締りのもと越中売薬は種類を広げながら次第に販路を拡大していった。
明治になって漢方医学の廃止とともに富山売薬が苦境に立たされるが、配置家庭薬業界は結束して生き残りを図ろうとした。1886年には輸出売薬を開始した。明治の末期から大正にかけて輸出売薬は大きく伸び、中国・アメリカ・インドなど数多くの国と交流があった。大正の初めにはピークに達し、日貨排斥運動が活発だった中国市場の8割強が輸出売薬に占められた。
20世紀に入ると売薬に関する制度や法律が次々と整備された。1914年には売薬の調整・販売が出来るものの資格・責任を定めた「売薬法」が施行され、1943年に品質向上確保のため医薬品製造はすべて許可制とする「薬事法」となった。さらに1960年には薬事法が改正され、医薬品配置販売業が法文化された。
先用後利
先用後利は「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念である。創業の江戸時代の元禄期から現在まで脈々と受け継がれている。始まりは富山藩2代藩主の正甫の訓示「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ。」と伝えられている。
創業当時、新たな売薬販売の市場に加わる富山売薬は他の売薬と同一視されないような販売戦略をしなければならなかった。当時は200年にわたる戦国の騒乱も終わり江戸幕府や全国の諸藩は救国済民に努め、特に領民の健康保持に力を入れていた。しかし疫病は多発し、医薬品は不十分だった。医薬品販売も室町時代から続く売薬はあったものの店売りは少なく、薬を取り扱う商人の多くは誇大な効能を触れ回る大道商人が多かった。またこの時代、地方の一般庶民の日常生活では貨幣の流通が十分ではなかった。貨幣の蓄積が少ない庶民にとって医薬品は家庭に常備することはできず、病気のたびに商業人から買わざるを得なかった。
こうした背景の中で医薬品を前もって預けて必要な時に使ってもらい、代金は後日支払ってもらう先用後利のシステムは画期的で時代の要請にも合っていた。
配置販売
配置販売は富山売薬の営業形態となっている。消費者の家庭に予め医薬品を預けておき半年ごとに巡回訪問を行って使用した分の代金を受け取り、さらに新しい品物を預けるシステムである。薬事法では医薬品の小売を店頭販売と規定し消費者が転売することを禁じているため、「決まった所運飛車の商人の上で配置という形の陳列販売をしている。」と解釈されている。また預ける医薬品や配置員も許可制で代金は使用された後に受け取ることになっており、他の小売販売のように現金販売はできない。
 
薬売り3

日本の薬業史の上で、売薬業が繁昌した原因の一つは、置薬という独特な行商の法によったことにある。元来、庶民が薬を求めるには、身近な所で草根木皮を採取して煎汁を服用したり、生汁を傷につけることであったが、近世に入って製薬が専業化した。初めは、製薬元の寺社や店舗において販売されたが、その後、行商による販売法が確立した。薬売りの商行為である行商は、修験道に起因した面がある。薬そのものも、修験者自体の必要から製されており、修験者が廻国修行の折、薬を携えて健康保持に留意するうちにムラからの供米の印に与えたり、病気平癒の祈祷に合わせて供与するようになった。やがて商行為として薬を売り、のちに米・金銭を得る手段となった。薬には神仏授与の神秘な由緒がまつわり、薬種は自然採取のほか栽培されたが、製薬法は秘密にされた。製薬が完全に専業化したときでも扱い所は寺社におき、行商によってその販路をひろげた。
薬売りの中心地
全国に知られた薬売りの中心地は大和と越中である。大和の薬で有名なのは、“陀羅尼助”で、霊山大峰開祖役小角(えんのおづの)が吉祥草寺で創製したという由緒がある。黄蘗(おうばく)を濃く煎じ竹皮にのべたもので、陀羅尼を誦じながら製し、その功徳により薬効が大という。胃腸病・打僕症・捻挫・切傷・眼病などに効くという。陀羅尼助は当麻寺・高野山でも頒布されていた。西大寺の“豊心丹”、唐招提寺の“奇応丸”も古くからあり、近世には、鴨都波神社伝の“畝尼薬”、今住の“蘇命散”などがあった。葛・船倉・高取などが地方の中心地であった。越中では、富山の“反魂丹”という胃腸薬が有名である。吉野朝時代、当時越中礪波(となみ)に居住していた京都の長(ちょう)政春が、重病の母のため立山に登って不動明王と阿弥陀如来から、熊胆・硫黄を混合する薬の処方を授かり一度息の絶えた母の唇に薬を当てたところ、蘇生したという説話がある。立山の芦峅寺(あしくらじ)の修験者も、護符と“反魂丹”を持ち民間を歩いた。また江戸時代、富山藩主2代前田正甫(まさとし)には持病があり、岡山侯に仕えた万代常閑(もずじょうかん)から“廷寿反魂丹”の処方を得、製造販売させたという説もある。富山薬には万金丹・紫金錠・一角丸・感応丸・奇応丸・熊胆丸などがあった。ほかには、近江の多賀売薬“神教腹薬”、日野売薬“五色袖珍方”、越後の“毒消し”なども知られている。
配置売薬と懸場
富山の薬売りは、一人立ちすると懸場帳をもって帳主となり、回る範囲によって連人や売子を雇う。売子は、得意先である懸場を1年に2度訪問し、そのつど定まった数の薬を置く。使用した分は集金し、古い薬は新品と取り替えて補充する。置薬は、1袋に風邪薬・下痢止め・頭痛薬・咳止め・傷薬などを主薬に、10種くらいを入れた。配置薬の精神は“済生利民”にあり、“先用後利”の商法を確立した。帳主のもつ懸場帳とは得意先を書き上げた帳簿で、郡市別に住所・氏名・売上高・値引率などが記載されている。なかには、屋号・家族・生年月日・娘の嫁入先まで記されていた。得意先は永年にわたるもので、祖父の代から引き継いでいるものも多く、6〜7代前からというのもまれにある。薬売りにとって懸場帳は財産であるから、これを売買した。売薬業を始めるには、懸場帳を買わなければ営業ができない。売子の服装は、明治・大正期は紺無地の着物に角帯・白パッチに脚絆・草鞋ばきである。冬には羽織を着た。背には、5段重ねの柳行李を一反風呂敷で包んで背負い、こうもり傘を持つ。柳行李の重ねは上段ほど小さく、桐の仕切箱を入れて薬に湿りが入らぬようにしてある。最上段には算盤・矢立・通帳・懸場帳・財布・弁当を入れた。また小型仏壇を入れるのも、富山薬売りの特色であった。庶民や子供に親しまれたのは、紙風船・絵紙・塗箸・針・九谷焼酒器・急須などを配ったことも一助となっている。全国に販路と声価は及び、現代でもその商法は行われている。
 
富山の薬の歴史

富山売薬の起源、それは様々な説がありどれも発端は人に奉仕するという元から始まっています。その始まりは順調とはいえず、さまざまな工夫とお客様の信用の獲得の為の努力をした先代達が残したもの、それが現在の基盤を築いているのです。
全ての始まり・・・富山藩主前田正甫公が、備前岡山の万代常閑を招き、富山の松井屋源右衛門に製法を伝授することになる。その後松井屋源右衛門は許可を得て「反魂丹」を製造に成功、前田正甫公から他領商売勝手の許しがでた事によって八重崎屋源六が売薬商売を始める。富山城下の町人による、売薬の始まりといわれる。
富山売薬4人祖
前田正甫(まえだまさとし)
絶対窮地の中、富山売薬を興した富山藩二代藩主。
江戸時代に全国各地で薬草等を主とした秘伝薬や家伝薬が生まれていた。前田正甫公は自領内で良薬をたくさん作りそれを販売することで富山藩の発展を願っていたのだ。 正甫の出した政策の中で特に目立つのは他領商売勝手である。土地に領民を縛り付けるのが原則の封建時代に、他領へ出向き収入をあげてもよいと許可する事、それは当時では相当な決断であった。旗揚げ間もない富山藩に売薬・蚕種・八尾和紙の三つの独特の産業が起こせたのも正甫公の多大な督励があっての事だろう。・・・がしかし町民には多大な支持を受けたものの、領民には暴君との名が高かったという話しもある、だが越中反魂丹の製造と全国規模に販売網を広げた功績は大きい。
万代常閑(まんだいじょうかん)
富山売薬の創始となった薬 反魂丹の精製・日本売薬の始祖として知られる医師である。
富山で売薬業が始ったのは、およそ300年前、当時富山藩2代藩主だった前田正甫公が、反魂丹(はんごんたん)という良薬を入手、配置売薬業が誕生したきっかけといわれる、ではその反魂丹を前田正甫公は入手したのだろうか?。時はさかのぼって室町時代、泉州堺浦(現在の大阪府堺市)に、万代家初代の万代掃部助(もずかもんのすけ)が万代村に住んでいた。ある日堺浦の海岸に異国の商船が流れ着く・・・掃部助は乗員達を手厚く介抱したという。後日、そのお礼だと唐人から教えてもらったのが一子相伝の妙薬 延寿返魂丹(えんじゅはんごんたん)の製法だったのだ。
そうして代々家伝薬となった、延寿返魂丹を受け継ぎ、3代目万代主計(もずかずえ)は、備前国和気郡益原村(現在の岡山県和気郡和気町益原)へ、移り住んで医者になった。その時万代を"もず"から"まんだい"へと読み改め名前を常閑としている、以後万代家は医者として数々の業績を残した。
松井屋源右衛門
越中反魂丹の製造、富山売薬の産業としての基礎を築きあげた人物。
富山藩が成立した時それまで加賀領の町であったが、藩の中心の町となるということで富山町人は新藩主に期待した、特に二代藩主前田正甫は産業の振興に熱心ゆえ、富山町人は前田正甫を支持していく、松井屋源右衛門もその一人で前田正甫の製薬の協力者であった。
松井屋源右衛門の先祖は、越中の薬種を税として取りたてる役人として伊勢(三重県)出身と伝えられ、天正10年(1582)頃、富山町で薬種屋を始めたという。富山藩が成立する以前の寛永8年(1631)に、松井屋源右衛門は町年寄り各で富山町の税収納にあたる有力町人であった。松井屋源右衛門は万代常閑家と遠い親戚でもあり、万代常閑から反魂丹の荒薬種を伝授・技術指導を受ける事になる、反魂丹生産の中心となる薬種屋として、藩の統制を実行する製薬指導役人として、富山城下の有力町人 松井屋源右衛門は最適の存在だったのである。
江戸城で各大名から反魂丹の販売を頼まれて売薬行商を始めたが、備前(現 岡山)の万代常閑製の反魂丹を仕入れて売るのでは利益が少ない。どうしても、富山藩の中で反魂丹を生産して藩の産業にしたいという考えが前田正甫にはあったと思われる、松井屋源右衛門は、前田正甫の構想の実現に努めた1人である。
八重崎屋源六(やえさきやげんろく)
越中反魂丹の販売、そして富山売薬を全国規模への産業としての基礎を築きあげた人物。
元禄3年(1690)に売薬行商に始まり60年の時が流れ・・越中売薬といえば薬売り・反魂丹というほどに売薬業は発展、2000人もの売薬行商人が全国へと販売に向かうほどに成長した、元禄時代は現代のように道路・通信網など全くない、そんな中八重崎屋源六の才覚があったからこそ、今の富山売薬行商があるのかもしれない。
八重崎屋源六が初めて売薬行商に出たのは、元禄3年(1690)と言われているが、富山売薬はその時から順調に発展したわけではない。大阪・京都・江戸などの市(いち)で芸をして反魂丹を売り広めた時代、各地の祭りで反魂丹を売りながら村にお得意を作る地道な訪問販売の努力がなされた時代を経て、宝暦年間(1751〜63)には、富山売薬の名が全国に知られるようになった。次の明和年間(1764〜72)には、21組の仲間ができ、富山反魂丹売薬の、形ができあがったのである。
先用後利
当時の状況で個人が他領内での商売という概念がなく、当然薬売りの人々は非常に苦労しました。
がしかし、薬売りと顧客との幾度との取引を繰り返すうちに生まれた信頼関係、そこで薬売りは考えたのでした。
それが先用後利の始まりです・・・
信頼からの発展
薬売りは元々は現金商いであった、当時では現代のように交通網が管理されておらず、当然見知らぬ遠国では代金の回収困難だからであるだが当時の庶民にとっては、いつどのような薬を使う事になるかわからない状態で数多くある種類の薬を買い常備しておくことは経済的に不可能に近かった。
・・・がしかし幾度と通う事により薬売りと顧客の間に信頼関係が生まれていくのだった、そこで売薬りは思ったのである。
「1回だけの取引ではなく幾度と訪問するのだ、とりあえずいくつかの薬を渡して次に来たときに代金を受け取っても遅くはない」
これが先用後利の元になるのである、この考えは継続的な取引をする薬売りにとっては非常に理想的商法であり薬売りには永続的な商いを保証することになる。
また多くが真言宗徒(現在も富山は日本有数の真宗県である)であった薬売りは、職務を通じて人々の健康に貢献することが仏に仕えることだとも考えていた。つまり、先用後利という商法は薬という特殊な商品を通して、長い時間をかけて顧客との間に築かれた信頼なのだ。
ゆえに販売網は不動のものとなりその後も取引が絶えることはなかったのである。 後利とはその時だけでなく未来における利益も意味していたのかもしれない、今なお、この商法は続いている。
現在に通じる先用後利
こうして生まれたのが先用後利の制度などである、先用後利という制度は現在のクレジット商法の先駆けとも言える、・・・がしかし、当時の状況でそれができるのは売薬りと顧客との長い付き合いと信用があって初めてできる事ではないだろうか、 そうでなければ 当時藩を挙げて奨励といえど、それだけで商売として300年も続くわけがないだろう。
ちなみに委託販売は自体は古くから習慣として行われていたのである、霊山として人々の信仰を集める立山を仰ぎ見る、富山県。立山のふもとの、あしくらじ・いわくらじの部落の人達が立山信仰と立山参拝をすすめて全国を旅していく。
立山信仰を全国に布教していた御師と呼ばれる宗徒たちが作った、よもねぎり・三効草といった薬を病除札と共に施予しており、配付した護符や薬の代金を冥加金(みょうがきん)として1年後に徴収していたのだ。
懸場帳
幾度と全国各地を訪問し顧客を増やしていった薬売りでしたが、当時の交通網では頻繁な往復はできませんでした。
それでもお客様との取引を確実なものにして評判を落とすような事をするわけにはいきません。
その工夫の1つとして懸場帳の作成にいたりました。
人々の要望は・・・
幾度と取引していく内に先用後利などの顧客とのつながりも確保しつつあった、だがそれで安心できるわけではなかった。
当時の交通網の環境では頻繁な往復はできず1度の来訪でできるだけ無駄のない取引をしなければならなかった、常に来訪先の顧客の希望に答えるべく様々な薬を所持しなければならない、しかし1人の力で運べる薬には限界がある。
現に来訪先の配置薬は消費された物だけの補充・徴収というわけではなく古く使えない物は回収する事になる、当然来訪先によって使われる薬は異なり、無駄な在庫過多や薬回収は商売としては成り立たなくなるのである。
そこで薬売りは来訪先の使用薬の種類・使用量・回収薬から支払明細、さらには家族構成からその健康状態に至るまでを記していった、こうして生まれたのが懸場帳である、こうする事によって各来訪先の配薬状況から需要がわかる為、無駄な在庫の所持や回収薬も最小限におさえられる、またそれによってより一層顧客の要望に答える事が可能となり信頼の獲得にもなったのだ、現在でも情報管理は非常に重要だ、それを当時の薬売りの人はすでに行っていたのである。
懸場帳の価値
顧客リストというべき懸場帳、その価値は長年の情報集大成であり薬売り達は片身離さず持ち歩いた、それはお客との信用にもかかわる重要な物である、その為商売をやめる薬売りの懸場帳は高額取引されたのだった。
その懸場帳の過去の売上金額から年間平均売上を算出し配置されている薬代を加え、一年以上の不廻り(ふまわり:長期間得意先を訪問しない事、その期間は薬売りによって差がある) を除き、集金金額の割り出す、その金額に暖簾価値(のれんかち:商売から生じる無形の経済的利益・財産価値を示す) として二・三割の金額を加算するのが一般的な取引金額の割り出し方法であった。
さらに、古くからの得意先を抱えている・帳主が顧客から深い信用を得ている・売上高が高額で地域の将来性が高いといった、懸場帳には五割までの暖簾価値がついたのである
懸場帳が当時の薬売りにとっていかに重要な物だったかは、本当は金額では言い表せない物なのかもしれない。
売薬版画・紙風船
薬売りがくれた紙風船に郷愁を誘われるお年寄りの方から、若い世代の方から風船という形となっても、越中富山の薬売りは全国的に有名になっています。
お客様からは薬売りの人に薬の購入だけではなく、実に様々な事を提供していたのです。
情報の配達人
他領で商売していくという事は当時では富山売薬の薬売り特有の事でした、さらに交通網・情報網の整っていない時代の中、地域外の情報の入手は極めて困難だったのです。
そこで全国を回る薬売りの人々は各地の特産品などを顧客におまけとして持参するようになりました、 特に江戸時代後期に流行になりその中でも喜ばれた物が売薬版画でした、庶民からすれば領内からでる事はまれで娯楽のない中、こういったおまけは全国の情報を知らせてくれる物として非常に喜ばれ、また薬売りの話なども情報の担い手となっていたようです。
時代も代わり明治以降になると上得意様には九谷焼(くたにやき)や輪島塗(わじまぬり) 等の焼物などを送り、一般の顧客には絵紙や氷見(ひみ:現富山県氷見市)のぬい針、ぬり箸・手拭などを送りました。また大人だけでなく子供向けの物に紙風船がありました、これは江戸時代後期から明治時代に渡すようになり、現在でも紙風船や風船などのおまけを渡している薬売りの人さんもいます。
 
富山の薬売りと反魂丹

富山の薬売りと反魂丹が津々浦々に浸透したきっかけを伝えるのは、「正甫公伝説」。この言い伝えによれば・・・
時は元禄三年の江戸城内。突如として秋田河内守が腹をかかえて苦しみ出した。そこに居合わせたのが富山藩の前田正甫、二代目藩主だった。前田はおもむろに印籠を手にすると、中より取り出したのは反魂丹。それを飲んだ秋田河内守の腹の痛みはたちまち治まった。
この一部始終を眺めていた全国の諸大名は反魂丹の霊験に驚嘆し、自分の国でも売って欲しいと懇願。前田は国許の薬種商の松井屋源右衛門に製薬を命じ、八重崎屋源六が全国の行商を担った、というもの。しかしこの話は松井屋源右衛門が自分の由緒書として書き上げたものなので、信憑性は疑問が残ります。
それはともかくとしても、江戸時代に売薬といえば「反魂丹」といわれるほどに、越中の薬は浸透していました。
しかし薬は越中ばかりでなく、近隣の越後、奈良にも伝わっています。たとえば越後であれば毒消丸、奈良では奇効丸に豊心丹。特に奈良の薬は聖徳太子によって伝えられたものといいますから、相当に永い歴史を持っています。
これら薬を売り歩いたのは、奈良は熊野修験ですし、富山も同じく立山の修験僧たち。修験僧は布教の道具として護符と反魂丹を売っていましたが、次第に反魂丹のほうが商売になって独立したということでしょうか。
この薬の反魂丹という名前もそういえばどことなく宗教のにおいがしますね。名前の由来を調べると、後醍醐天皇の時代、長正春という武士が重病の母を治そうと立山に登り不動明王と阿弥陀如来に祈願したところ、熊胆と硫黄を混ぜた薬の処方を授かった。立山はご存知のように硫黄の産地。正春はさっそくこの薬を手に入れて母の元へ向かいますが、母はすでに亡くなっていたのです。
それでも正春は、その霊薬を死んだ母の口に注ぎいれました。そうすると、死んだはずの母の目が開き息を吹き返したのです。つまり、魂を戻すということから反魂丹と、そう呼ばれたと伝わります。
薬というより、呪術の一種に近いようです。が、そもそも薬という呼び名も奇し(くし)と云って、一種の呪い(まじない)の一種とされていましたから、おかしくないのかもしれませんが。当然、当時の医者、薬製造者も芸能民の一人として、江戸では非人頭弾左衛門の支配下でした。
修験から切り離された富山売薬行商人は、売り歩く先の藩から売薬の許可状をもらって売り歩くことになります。上の「当領内薬業之儀差免置候、万一不宜品売候ハヽ可指留候」と記されているのがそうですが、こうした反魂丹御免札を手に全国各地へと散って行きました。江戸時代では、大岡越前守が全国の香具師の頭に反魂丹の行商を認めています。
売薬たちはそれぞれ自分のお得意先を持ち、一年に盆暮れの二回まわったと云われており、その際に使用した薬の代金をいただき、新たな薬を補充する、という商売方法でした。これは現代でも同様のことが行われています。こうした方法で商売範囲を拡大し、北は青森から南は九州島津の領地まで。そしてさらに戦前には台湾、朝鮮、南米にまで進出したと記録に残るほどです。
さて売薬の行商が持ち歩いたのは反魂丹ばかりではなく「おまけ」今でいうプレミアムもお得意様に手渡しました。それは縁起のいい絵柄の錦絵です。
■それは江戸城での小さな出来事だった
元禄3年(1690)、富山藩主前田正甫公が江戸城に参勤した時のことです。諸大名が居並ぶなかで、三春城主秋田河内守が突然腹痛を訴えられました。正甫公が印籠から反魂丹を取り出して勧めたところ、たちまち腹痛が治まったのです。あまりの薬効の早さに驚いたのが、その場にも居合わせた諸大名たち。「自領内で販売してもらえないだろうか」と申し入れが相次ぎました。他国との交流を嫌った藩政時代としては異例のこと。これが越中売薬の起源と言われています。  
■「魂を呼び戻す」というので反魂丹
14世紀の初めごろ、松井源長という武士の母が重い病気にかかりました。いろいろ手を尽くしたものの、症状は悪化するばかり。あとは神仏に頼るしかないと、立山に登り一心に祈願しました。するとその夜の夢の中で阿弥陀如来から妙薬の作り方を授かったのです。
急ぎ帰ったものの、ひと足ちがいで母は亡くなっていました。嘆き悲しみながらも源長は薬を調合、母の口に注ぎました。するとどうでしょう。母は生き返り、病気も治っていました。阿弥陀如来に「まだ来るのは早い」と言われ、不動明王に「早く返れ」と背をたたかれたそうです。つまり「身体に魂を返してくれる薬」というのが反魂丹の名の由来です。(とやまの民話より)  
 
反魂丹伝説の成立/「富山反魂丹旧記」の再検討

富山売薬業の起源については、「富山反魂丹旧記」などの由緒書が伝来しており、現在もこれらを基本とした、いわゆる「反魂丹伝説」が様々な形で富山の人々に語り継がれている。 ただし、売薬の由緒はあくまでも伝説であり、内容の信頼性については十分注意を要する。その反面、なぜそのような伝説が作られていったのかということの考察も必要と思われるのである。る。る。
本稿では、「富山反魂丹旧記」を今一度検討することによって、反魂丹伝説の形成と成長についての私見をまとめてみたい。  
「富山反魂丹旧記」について
「富山反魂丹旧記」(以下「旧記」と表記)は、明治21年3月、岡本昭ミツの編輯によるもので、一連の由緒書の中でも、「富山売薬業史史料集」の冒頭に所収され、従来から研究者に利用されてきた史料である。
現在は、A富山売薬業史史料集本、B大法寺本、C富山県立図書館本(旧富山市立図書館本)、D富山市売薬資料館本の4種類が確認されている。このうち、A本の底本となった高岡高等商業学校本は、現在その所在を確認できない。またB本とC本は、「富山売薬業史史料集」の頭註で異写本として紹介されている。なおD本は、これまでほとんど紹介されておらず、また富山市売薬資料館に収蔵された経緯なども不詳である。
構成は、各本同一であり、(い)富山反魂丹之事、(ろ)反魂丹由来并松井家由緒等書上、(は)万代家伝反魂丹薬方書、(に)売薬製法吟味につき触書、(ほ)富山町寛文六年分小物成皆済状、(へ)丁頭役申付書、(と)丁頭役仰付により申渡書、(ち)反魂丹由来につき妙国寺書上、以上8つの部分からなっている。一方各本にはそれぞれ表書や跋の有無、また語句の異同があり一様ではない。ではこれらの中で、どれが完本であろうか。
まず表書と跋の有無を見ると、表書はA本に、跋はC本とD本にある。A本の表書には、河上義載が富山前田家にあったものを明治20年に写したとしている。跋はC本・D本同文で、旧富山藩主前田利同が売薬業の由来について尋ねたため、明治21年に岡本昭ミツが編輯したと記してある。
語句の異同については、跋を持つC本とD本を比較すると、C本は抹消や墨消しがそのままとなっており、また脱字等も見られる。さらにC本は、罫紙に書かれているところから、D本の写しと見て差し支えないであろう。次に、表書を持つA本は、D本との語句の異同が大きく、校訂を加えた様子も見られる。
一方、B本を所蔵する大法寺は、第2代富山藩主前田正甫所縁の寺で、藩主菩提寺である。したがってB本は、「旧記」完成時に同寺に納められたものではないだろうか。なおB本については、跋はないものの、D本とは形状や語句等に異同はなく同一のものである。
これらのことから、「旧記」は明治20年には編輯が行われており、21年に完成したと見るべきであろう。そして、A本は草稿段階での写しであり、D本は完成して利同に提出されたもの、同様にB本は大法寺に納められたものと考えられる。そしてC本は、D本の写しと考えてよいだろう。したがって、以下はD本によって検討を進めることとする。  
「富山反魂丹旧記」の原資料
では、「旧記」はどのように編纂されたのだろうか。跋には、@松井屋の子孫に伝わった古文書を写したこと、A維新の際に取糺した家記等を用いたことが記されている。
まず@については、松井屋の子孫と伝来史料が、「元祖反魂丹」で紹介されており、(ろ)号、(は)号、(に)号、(ほ)号の原本も同書に所収されている。原本とD本の対応については表2に、また異同については史料1〜4に示した。異同の内容を見ると、編者の岡本は、語句の修正に留めているといえよう 。
では、A「維新の際に取糺した家記等」とは何か。
「富山前田御家譜」(以下「御家譜」と表記)は、奥書に「右ハ明治六年秋官ニ御書上ノ写ナリ、此撰ハ岡田呉陽ナリ」とあり、旧藩主前田家が政府に提出するため、元藩儒の岡田呉陽に編纂させたものである。この正甫の条に、(い)号の内容と同様の江戸城参勤事件―江戸城中で頓病に見舞われた大名を、前田正甫が反魂丹を服用させて治した―が記されている。また、「諸旧記抜萃」(以下「抜萃」と表記)下巻には、「富山反魂丹売弘候由来之事」が所収されており、その前半部分には、正甫の命で万代浄閑が反魂丹の処方を日比野小兵衛に伝授し、それから松井屋が売り広めたという話が記されている。また後半部分には、「御家譜」と同内容の話がやや詳しく記されており、「旧記」の原形ともいえる体裁になっている。このように、「維新の際に取糺した家記等」とは、「御家譜」であり、また、(い)号の原形、あるいは手控えと考えられる「抜萃」であるといえよう。
さらに、いま一つ「旧記」が利用した史料として「妙国寺旧記」があげられる。これは(ち)号の原史料と考えられるが、現在、妙国寺に原本は現存していない。主旨は、現在の常閑祭に相当する法会の際、藩主家の紋所を使用したい旨を願い出たものであり、そのために同寺と売薬の由緒を記している。(ち)号と比較すると、語句の追加、削除などの異同が大幅に見られる。まず、原本では「製薬仕売弘候処」となっているが、「旧記」では「製薬致し売弘メ方可仕旨御達ニ相成候ニ付」とするなど、正甫の功績を強調する意図が認められる。また、「一入尊敬」を「一入重く尊敬」と語句を加えるなど、藩主家の権威を高める操作も見られるのである。この他にも、「正甫院様」を「正甫公」に、また「国々」を「皇国一般」にするなど、明治の新時代に合わせるために語句の書替え等も行われている。
では岡本は、「旧記」編輯に対して、どのような考えを持っていたのだろうか。@・Aの内容や、原本との異同を見ると、およそ次のことがいえるのである。(一)(い)・(ろ)・(ち)号は、いずれも正甫にまつわる由緒である。(二)妙国寺書上には、先に挙げたように、正甫の功績を強調するなどの内容の書替えが見られる。(三)旧藩主前田利同に提出されたものである。したがって、「旧記」は富山売薬の由緒を通して、旧藩主家の功績を示す狙いがあったと考えられるのである。  
「旧記」編纂と反魂丹伝説
最後に、「旧記」の意義について考えてみたい。
江戸時代以来、売薬の由緒書は各種記されてきたが、それらを編纂したものとしては、「旧記」がその最初であるという点が注目される。また、内容については、売薬業における旧藩主家の功績を示すものとなっている。「旧記」の編輯によって、「反魂丹伝説」が旧藩主家公認のものとなったわけであり、その影響は大きかったのではないだろうか。「旧記」は、刊行されたものではないが、C本のように写本と見られるものがあることから、ある程度流布した可能性がある。そして、ここから「反魂丹伝説」の史実化が事実上始まったと考えられるのである。
その後富山前田家は、明治23年に「前田氏家乗」を編纂するが、当然そこには「旧記」の内容が反映している。その後、「富山沿革志略」(明治27年)、「富山売薬沿革概要」(明治33年)、「富山売薬の濫觴」(明治42年)、あるいは「富山市史」(同前)が次々と刊行されていき、「反魂丹伝説」は史実として広く紹介されていくことになったのである 。
この史実化の過程が最も顕著に現われているのが、反魂丹の伝来や、配置売薬の起源についての年代の確立である。反魂丹伝来の年代について、江戸期は「正甫の頃」であったが、明治2年の「淡州表へ指出たる由緒書」では「天和年間」という年号が見られるようになる。そして、「富山沿革志略」に「天和3年」と明記され、それが「富山売薬の濫觴」や「富山市史」にも採用されている。一方配置売薬の起源については、江戸期は「正甫の頃」だが、明治3年の「御拝借金証文留帳」には「元禄3年頃」の年記が見られる。そして「富山沿革志略」、「富山市史」では「元禄3年」と明記されるようになる。このように、「天和3年」や「元禄3年」といった年代の確立には、「富山沿革志略」などの諸書が大きな役割を果たしたのである。
先に述べた、妙国寺書上との内容の異同に、反魂丹伝説が創られていく一端が垣間見られたように、「旧記」の編輯は、明治時代における「反魂丹伝説」成長の契機となるものであった。  
おわりに
今回は、売薬関係由緒の形成過程について、ほとんど触れることができなかった。由緒の中には、立山山中での霊夢譚のように、立山信仰の影響を受けたと思われる話や、富山町以外の諸家で伝えられた由緒もある。これらについても、比較検討しなければならないだろう。今後の課題としたい。
 
万金丹・反魂丹・六神丸

万金丹
明治維新によって西洋医薬が登場するまで腹痛、胃腸病はじめ万病に効く丸薬として、「万金丹」ほど全国の家庭及び道中薬として有名な漢方薬はなかったでしょう。庶氏にとって安価で効能よく、入手しやすい常備薬として親しまれました。「伊勢へ詣らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片詣り」といわれるようになり朝熊山の金剛証寺の門前の野間家の「万金丹」は朝熊詣うでに欠くことのできない伊勢土産品になり全国にその名を広めました。当時は薬の発売「官許」は必要でしたが、各製造発売元の特許とか登録商標など持っていなかったので「野間万金丹」「小西万金丹」「小林万金丹」「小原万金丹」「岩城万金丹」「秋田万金丹」など伊勢だけでも数業者が販売競争をしていました。四日市市にも戦前まで鈴木製薬所が万金丹を製造販売していました。明治以降はほとんど廃業したが現在は江戸時代から最も有名な前述の野間家(因幡少掾の称を賜わる)と小西家(大和大掾の称を賜わる)の二軒が昔ながらの「麝香」「甘草」「阿仙薬」「肉桂」「木香」「丁字」などを原科にほぼ昔の製法で伝統薬の製造販売をしています。
反魂丹(はんごんたん)
丸薬の一種である。家庭用配置用医薬品として流通し、胃痛・腹痛などに効能がある。
室町時代、中国から日本に伝播。堺の商人・万代掃部助(もずかもんのすけ)が唐人から処方の伝授を受け、万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)で代々伝えてきた。万代家は3代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし、8代目の頃には岡山藩藩主池田忠雄のお抱え医となっていた。
富山藩藩主前田正甫が腹痛を起こした際、11代目万代常閑(まんだいじょうかん)が作った「反魂丹」が効いたことから、1683年(天和3年)に万代常閑を呼び寄せ、処方の伝授を受けた。それ以降、正甫は「反魂丹」を印籠にいれて常時携帯していた。1690年(元禄3年)、江戸城内において、三春藩藩主秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた正甫が携帯していた「反魂丹」を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分の藩内での販売を頼んだ。前田正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ諸国に行商させた。この行商が富山の売薬、配置販売業のもととなった。
六神丸(ろくしんがん)
動物性の生薬を中心に配合された民間薬処方の一つである。
成分は麝香、牛黄(牛の胆石)、熊胆(月の輪熊の胆嚢)、人参(オタネニンジン)、真珠、蟾酥(せんそ)で、六神丸の名前はこの6つの神薬(高価で貴重な薬)でできていることに由来との説のほか、中国の四神(青竜、白虎、朱雀、玄武)に勾陳(こうちん)と騰蛇(とうしゃ)を加えた六神から由来するという説、五臓六腑の五臓(肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓)に心包を合わせた六臓に効果があるという考え方に由来するという説がある。
京都の呉服商だった亀田利三郎(かめだりさぶろう)という人が、商用で清国に渡ったとき体をこわし、この薬を飲んだところ大変効いたので、それを輸入して日本に広めたが、明治になってからこの輸入薬にヒ素が入っていたために販売禁止になり、1899年頃にいまの処方にしたという。一粒が6mgくらいの小さな丸薬で、口に含むと麝香に由来する強いブーケと、牛黄などのかなり刺激的なえぐみがある。めまい、息切れ、心臓病などに効くとされる。
かなり人気のある薬方で、元祖の亀田利三郎薬舗のほか、多くの製薬会社が生産・販売しているが、処方は少しずつ違っているようだ。救心製薬の主力製品「救心」の原点となったのも、この六神丸である。当初は「ホリ六神丸」として売られていた(現在も発売中だが、救心がメインのためサブ的な扱いとなっている)。ちなみに、六神丸が6種類の生薬を使用しているのに対し、救心は8種類の生薬が使われている。

中国11世紀以前の桂類薬物と薬名
 −林億らは仲景医書の桂類薬名を桂枝に統一した−

1 緒言
1-1 薬物の疑問−日本と中国の相違
後漢時代の張仲景は3世紀初に医書を編纂したと伝えられている。そして現在に伝わる仲景医書の全版本は、北宋政府校正医書局の林億らの校訂、いわゆる宋改を経て初めて1065年に刊行された「傷寒論」(以下「傷寒」)、同年に刊行された「金匱玉函経」(以下「玉函」)、翌1066年に刊行された「金匱要略」(以下「金匱」)に基づく。当3書には桂枝湯など桂枝を配剤した処方が多数あり、その桂枝に日本は「日本薬局方」(以下「局方」)が規定する桂皮、すなわちCinnamomum cassiaまたは同属植物の乾燥樹皮であるCinnmomic Cortexを用いる。
一方、C. cassiaの乾燥樹皮を「中華人民共和国薬典」(以下「薬典」)は肉桂と規定するが、現中国で肉桂を仲景医方の桂枝に用いることはない。中国は別に桂枝と呼ぶ薬物を仲景医方に用い、これを「薬典」はC. cassiaの乾燥した直径0.3-1.0cmの小枝全体であるCinnamomic Ramulusと規定し、桂枝尖という枝先の商品もある。しかし、「薬典」の桂枝に相当する薬物は「局方」にない。すると仲景医方の桂枝に樹皮を用いる日本と、小枝全体を用いる中国は本来いずれが正しいのだろうか。
1-2 薬名の疑問−仲景医書の記載不一致
仲景医書は桂枝以外の桂類薬名を例外的に記載する。たとえば「傷寒」発汗吐下後病篇の五苓散に桂心、「玉函」巻七の五苓散に桂が配剤される。また「金匱」痙湿暍病篇の葛根湯と痰飲咳嗽病篇の五苓散にも桂が配剤され、同書雑療法篇には薬味を記さないが桂湯という処方もある。あるいは「金匱」瘧病篇の白虎加「桂枝」湯に「桂」、「傷寒」「玉函」「金匱」の桂枝加「桂」湯に「桂枝」が配剤され、加味薬名と配薬名が一致しない。さらに「傷寒」「玉函」の桂枝去桂加茯苓白朮湯で桂枝湯から除去されるのはもちろん桂枝であり、方名の「去桂」と一致しない。
1-3 問題の所在と研究方法
仲景医書のこれら桂・桂心は桂枝と同一薬物なのか、それとも別物なのか。もし同一薬物なら、なぜ例外的に桂や桂心という薬名を記載するのか。もし別物なら、桂枝・桂・桂心はどこが相違するのか。すなわち問題は、仲景医書の桂枝が本来いかなる薬物で、桂・桂心といかなる関係にあるのかである。当問題が解決されるなら、桂枝の解釈が日本と中国で相違する是否も決着可能だろう。ただし現在の「傷寒」「玉函」「金匱」は印刷物となるまでの800年近い筆写伝承による変化が十分に予測され、この3書だけで名と物の歴史変遷を内包する当問題は正確に考察できない。そこで歴代の記載文献を批判しつつ、所載の仲景医方および関連文献や出土物などから総合的に検討することにした。
2 漢代までの桂
2-1 非医書の菌桂・桂・梫・木桂
前3世紀の「楚辞」離騒は菌桂や桂酒、漢代の「礼記」檀弓上は桂および「爾雅」は「梫、木桂」、2世紀初の「説文」は「梫、桂也」などを記載する。この「爾雅」と「説文」から判断すると、梫・木桂・桂は異名同物だったらしい。しかし形状記載はいずれもなく、後に3世紀の郭璞が「山海経」注に「衡山有菌桂、桂員(円)似竹」、また「爾雅」注に「今江東呼桂、厚皮者為木桂」と記すのみである。一方、桂枝の表現が前3世紀の「呂氏春秋」(「爾雅翼」所引)、前1世紀の「楚辞」招隠士、1世紀の「漢書」、5世紀の「後漢書」にある。あるいは「桂枝-」の用例が多数みいだされるが、いずれも薬名ではない。
2-2 出土した中国古代の桂皮と現存する中国中世の桂心
前168年に埋葬された馬王堆1号漢墓の副葬品から、医療目的らしい7植物の香薬とともにC. chekiangenseの樹皮小片が出土し、調査報告書はこれを桂皮という。注目すべきは、コルク層が除去されていた点である。これは王侯貴族の副葬品なので、当時としては上等な加工品だったろう。なお出土品に小枝全体の桂類はない。
奈良時代の日本では唐から輸入した桂心等の薬物を、孝謙天皇が756年に東大寺に献上した。現存する当時の献上目録「種々薬帳」に桂心の名で記載され、その桂心が現在も正倉院に保管されている。実物を調査した結果、C. cassiaないしC. obtusifoliumに基づく大小さまざまな板状-半管状-管状の樹皮で、みなコルク層が除去されていた。天皇の献上物なので当然これも上等品である。小枝全体の桂類は現存せず、当時の献上記録・使用記録にも桂枝の薬名はない。
以上より中国では、紀元前から桂類薬の上等品にコルク層を除去した樹皮を使用し、それを中世では桂心と呼んでいたことが分かる。
2-3 出土医書の桂・菌桂
馬王堆3号漢墓の出土医書(前168年以前)には薬名として、「五十二病方」に桂9回・美桂1回・菌桂1回、「養生方」に桂3回・菌桂3回、「雑療方」に桂4回の記載があるが、桂枝など他の桂類薬名は一切ない。また前1世紀-後1世紀頃の「流沙墜簡」と「居延漢簡」の医方簡には桂のみ各2回、1世紀頃の武威出土医書には桂のみ12回の記載がある。
当頻度から漢代までの一般的名称は主に桂、ついで菌桂だったと推定できる。桂・菌桂の具体的相違は不明だが、薬名に桂枝は使用されていなかった可能性が高い。
2-4 「霊枢」(「太素」「甲乙経」)の桂
「霊枢」には薬名として寿夭剛柔篇に桂心、経筋篇に桂の記載がある。ところが両者の対応文を、「太素」「甲乙経」はともに桂と記す。上述した漢代までの非医書や出土文献にも桂心はなかった。すると後漢代頃の原「霊枢」の桂が、後代の伝承過程で寿夭剛柔篇のみ桂心に改められたと推定できる。
当変化は、漢代の桂が後代に桂心と理解された可能性も示唆する。なおこの3書および同系医書の「素問」にも桂枝の薬名は一切ない。
2-5 小結@
(1) 漢代までの薬名では桂、ついで菌桂が一般的だった。また一般的ではなかったが、梫・木桂は桂の異名だったらしい。
(2)当時の上等薬物はコルク層を除去した樹皮、つまり後の桂心である。漢代までの桂は後に桂心と理解された痕跡があるので、当時の桂には樹皮のコルク層除去品もあっただろう。
(3) 桂類小枝の実物は未発見であり、諸記録からしても桂枝の表現は当時まだ薬名に使用されていなかった可能性が高い。
3 漢-唐代本草書の桂類
漢代までの記録・出土品だけでは名と物の関係が不明瞭で、桂と菌桂の相違も分からなかった。他方、陶弘景の「本草集注」(500年頃、以下「集注」)によれば、朱字経文の「神農本草経」(1-2世紀、以下「本経」)で牡桂・菌桂が、3-4世紀頃の墨字経文(以下、仮に「別録」)で桂が本草の正条品に収載された。「本経」や「別録」は各形状をあまり記載しないが、のち唐代までの本草書は比較的詳細に観察している。そこで各記載を検討し、唐以前の桂類薬と基原植物および現市場品との関連を考察してみた。
3-1 桂・牡桂と桂枝
桂は「別録」で本草正条品に収載されたが、本草での初出は3世紀初の「呉普本草」だろう。しかし「呉普本草」も「別録」も形状は記さない。陶弘景は桂条に注して「以半巻多脂者、単名桂、入薬最多」という。形状が半巻ならば当然樹皮である。しかし、いま中国で桂枝とする径1cm以下の小枝から「半巻多脂」の樹皮を採取するのは現実的に不可能だろう。当時の桂はある程度太い枝ないし幹の樹皮に相違ない。また「入薬最多」というので、桂は陶弘景の6世紀前後にも一般的桂類薬だったと分かる。
一方、牡桂は「本経」が初出であるが、「別録」ともに形状や植物を記述しない。陶弘景の牡桂注で初めて「状似桂而扁広」といい、樹皮と分かる。さらに「新修本草」(659年、以下「新修」)、および「蜀本草」(938-964年)を介して「嘉祐本草」(1061年)に転引された「新修図経」(659年)は唐政府の編纂で、産出地から実際の情報を収集している。それゆえ形状や植物にも詳しく、唐代までの記録では信頼性がもっとも高い。この要旨は以下のように整理できる。
a.梫・木桂・牡桂・桂について
「新修」牡桂条注:梫、木桂、…牡桂即今木桂及単名桂者是也。
b.肉桂・桂枝と桂心について
「新修」桂条注:牡桂嫩枝皮、名為肉桂、亦云桂枝。
「新修」牡桂条注:小枝皮肉多半巻、…一名肉桂、一名桂枝、一名桂心。
「新修図経」牡桂条注:其嫩枝皮半巻多紫肉、…謂之桂枝、又名肉桂、削去上皮(コルク層)、名曰桂心、薬中以此為善。
c.牡桂・木桂について
「新修」桂条注:其老者、名牡桂、亦名木桂。
「新修」牡桂条注:大枝皮…如木、肉少味薄、不及小枝皮。
「新修図経」牡桂条注:其厚皮者、名曰木桂。
d.牡桂植物の葉長について
「新修」桂条注:牡桂葉、長尺許。
「新修」牡桂条注:此桂花子、与菌桂同、惟葉倍長。
「新修図経」牡桂条注:葉狭、長於菌桂葉一二倍。
まずdの「牡桂葉、長尺許(牡桂葉は1尺ほどになる)」から牡桂植物を同定してみたい。唐代の1尺は大制で約30cm、小制で約25cmに換算される。中国に自生するクスノキ属薬用桂類種で葉が最長はC. obtusifoliumで約10-22cm、次はC. cassiaで約8-17cmである。両種以外はより短葉の種しかなく、牡桂植物はこの2種に限定できよう。現在の日本市場の大多数は中国から輸入されるC. cassiaの樹皮で、商品名を集散地から広南桂皮や東興桂皮と一般にいい、「薬典」の肉桂や「局方」の桂皮に該当する。他方、C. obtusifoliumの樹皮を日本でベトナム桂皮といい、桂皮の上等品とされるが、ほとんど中国市場にない。したがって唐政府が規定した牡桂(桂)植物は主にC. cassiaで、一部にはC. obtusifoliumもあっただろうと判断できる。
bでは若枝の半巻状で多肉な皮を肉桂や桂枝といい、コルク層除去品を桂心という。この形状に相当する中国の現市場品は、径約3cm前後の枝や幹の樹皮とされる桂通や官桂で、「薬典」の肉桂や「局方」の桂皮に用いられる。またcでは大枝の厚い皮を木桂と規定する。この形状は径約8-10cm以上の幹の樹皮とされる現市場品の企辺桂や板桂に相当し、やはり「薬典」の肉桂や「局方」の桂皮に用いられる。したがって「新修」の桂枝とは現在の肉桂・桂皮の別名であり、径約1cm以下の小枝全体を薬物とする現在の桂枝は「新修」の規定にない。
ところで「新修」は牡桂と桂を同一品と判断するのに、なぜ別々の条文に記すのか。これは「別録」が、桂の条文を牡桂とも菌桂とも別に記したことに起因する。それで陶弘景の「集注」は牡桂を「状似桂而扁広」というが、「別録」を踏襲して両者を一緒にしなかった。「新修」の桂条注も桂と牡桂は同一と断定して「剰出単桂条、陶為深誤也」というが、分類だけは「別録」「集注」に従った。そして当分類は宋代まで踏襲されたので、後々混乱が深まっていったといえる。
3-2 菌桂
菌桂は本草に「本経」から収載されたが、形状記述はない。「別録」で初めて「無骨、正円如竹」と記され、これは前述の「山海経」郭璞注にいう「菌桂、桂員(円)似竹」ともおよそ合致する。ちなみに仁和寺本「新修」は菌桂でなく、箘桂と記す。この箘には竹の意味があり菌と通じるので、菌桂(箘桂)とは竹筒状桂類薬の意味で呼ばれた名称だろう。「集注」の菌桂条で弘景は「正円如竹者、惟嫩枝破巻成円、猶依桂用、非真菌桂也」「三重者良、則明非今桂矣、必当別是一物」と注し、菌桂と桂はまったく別物と考えている。一方、「新修」菌桂条の注は「大枝小枝皮倶菌、然大枝皮不能重巻、味極淡薄、不入薬用」という。すると7世紀までの菌桂は桂(牡桂)と別植物で、その小枝の樹皮は重なり巻くが、大枝の樹皮は味が淡薄で重なり巻かず使用不可だったらしい。
他方、「新修図経」注は牡桂の葉が「長於菌桂葉一二倍」といっていた。現在の中国に自生する薬用桂類種で、葉の長さが牡桂すなわちC. cassiaやC. obtusifoliumの1/2-1/3なのは 6-10cmのC. burmanniしかない。すると「新修」の7世紀以前の菌桂はC. burmanniの小枝の皮だった可能性が予測されよう。ところで現在スパイスとして使用されているシナモンスティックの大部分は、C. zeylanicumのセイロンニッケイとC. burmanniのジャワニッケイに基づく。製法は株から新出した若枝の皮を剥ぎ、コルク層を削り落として重ね巻き、紙巻きタバコほどの太さになっている。その形状はまさしく竹筒状で、唐代までの菌桂の文献記載と一致する。このシナモンスティックは辛味が弱くて甘味が強い食用で、辛味・甘味ともに強い薬用のC.cassiaの樹皮とは相当に違う。菌桂もシナモンスティック同様、香辛料だったのだろうか。
本草の経文を見ると、桂条の「別録」と牡桂条の「本経」「別録」はいずれも治療効果に具体的病状を挙げる。ところが菌桂は「本経」に「主百病、養精神、和顔色、為諸薬先聘通使、久服軽身不老、面生光華、媚好常如童子」、と一般的な健康増進効果しか記されない。「別録」は菌桂の効果すら一切記載しない。すると菌桂は治療用ではなく、健康増進を目的とした香辛料だったに相違ない。「本経」上薬の秦椒が食用で、下薬の蜀椒が薬用という同様例もある。馬王堆医書以降、菌桂を配剤した処方が医方書にみえないのも当理由からであろう。一方、C. zeylanicumの葉長は15-20cmで、「新修」がいう菌桂の葉長と合致しない。以上より、菌桂はC. burmanniに基づき、シナモンスティックと同様の製品だったらしいと判断できる。
3-3 小結A(表1)
(1) 漢代前からの梫・木桂(牡桂)あるいは桂を、7世紀唐政府の「新修」はC. cassiaないしC. obtusifoliumの樹皮と規定した。これは「局方」の桂皮や「薬典」の肉桂におおむね該当する。
(2)牡桂の若枝の樹皮は多肉で乾燥すると半巻状になり、「新修」はこれを肉桂・桂枝といい、いまの桂通等に相当する。上等品はコルク層を削り去り、桂心と呼んだ。大枝の樹皮は品質が劣るが、厚い皮を木桂といい、今の企辺桂や板桂に相当する。
(3) 漢代から記載された菌桂は健康増進目的の香辛料で、薬物の桂(牡桂)とは効能でも明瞭に区別されていた。
(4) 唐政府がいう菌桂はC. burmanniの小枝の樹皮と考えられ、重なり巻いた竹筒状の製品で、現在のシナモンスティックにほぼ相当する。大枝の樹皮は気味を欠くので利用不能だった。
(5)「新修」に初めて薬物として記述された桂枝は、現在の桂皮(肉桂)に該当する。しかし小枝全体を薬物とする現在の桂枝は、まだ本草書に出現していない。
4 西晋-六朝代仲景医方の桂類
3世紀初頃に成立した仲景医書そのままが出土したり伝存する例はない。しかし旧態を比較的保存した西晋-六朝時代の医方書はいくつか伝わり、そこに仲景医方の引用も発見できる。それらを仔細に検討し、各時代ごとの桂類薬名と薬物を考察してみたい。
4-1 「張仲景方」
984年の丹波康頼「医心方」は隋唐以前の医書を多数引用し、ほぼそのままの姿で現代に伝えられた。この「医心方」には、「張仲景方」から桂を配剤する桑根白皮湯と桂心を配剤する半夏湯が引用される。
当「張仲景方」は898年頃の「日本国見在書目録」が著録する「張仲景方九巻」に恐らく該当し、「隋書」経籍志に著録の「張仲景方15巻」や「高湛養生論」の逸文(「太平御覧」巻722所引)にいう「王叔和編次張仲景方論、編為三十六巻」の系統と考えられる。王叔和による仲景医書の編集は282年以前なので、この桑根白皮湯と半夏湯も3世紀後半の処方に由来する可能性があろう。そこに桂枝ではなく、現在仲景医書に例外的にみえる桂や桂心が配剤されている点に注意したい。
4-2 「肘後百一方」
310年頃に葛洪は「肘後救卒方」を編纂し、それを500年に陶弘景が増補して「肘後百一方」とした。これは北宋校正医書局の校訂を経ず、金代になって楊用道が付広し、楊用道本の系統のみ現代に伝わる。その文章は「医心方」所引の「葛氏方」などと相当に合致するので、葛洪・陶弘景の面目をよく保存していると考えられる。
本書には張仲景八味腎気丸方が載り、無記名だが麻黄湯・小建中湯と同一薬味の処方もあり、みな桂が配剤されている。一方、葛洪が書いたと判別できる文章には、「凡治傷寒方甚多、其有諸麻黄・葛根・桂枝・柴胡・青竜・白虎・四順・四逆二十余方、並是至要者」とある。この桂枝とは前後からして桂枝湯に相違ない。
ところで「肘後百一方」の処方には筆者の概算で仲景の3処方を含め、桂が58回、桂心が20回、肉桂が4回、牡桂と桂肉が各1回配剤されている。これは陶弘景が「集注」で「単名桂、入薬最多」と述べていたことと符合する。しかし薬名としての桂枝は一切なく、仲景処方でも桂が配剤されるのに、桂枝(湯)の方名が記される。とするなら葛洪や陶弘景の時代、桂枝という特殊な語彙は処方名に使用されるのが第一義であり、およそ通常の薬名ではなかったと判断していい。また葛洪が「肘後卒急方」を編纂した310年頃すでに桂枝湯の方名があったことも分かり、現存記録ではこれが最初と思われる。
4-3 「小品方」
陶弘景以前の成立で、その後の改変が少ないと判断される医方書を筆者らは近年発見した。前田家・尊経閣文庫所蔵の古巻子本「小品方」巻1である。当書は454-473年に陳延之が著し、日本に渡来したのは649年以前の写本と推定された。この「小品方」序文には18種の参照文献を列挙し、うち「張仲景弁傷寒并方九巻」と「張仲景雑方八巻」が注目される。また巻1前半の「述旧方合薬法」では「合湯、用桂・厚朴…」「桂、一尺若数寸者…」と桂のみを記す。
当本巻1の後半には計27処方が記載され、うち16方に桂肉、1方に桂心が配剤されている。また27方のうち「傷寒」方と関連するものはないが、「金匱」方と方名が類似し、かつ同一薬味の処方が5方あり、うち厚朴湯と桂支湯加烏頭湯の2方に桂肉が配剤されている(表2)。各々は「金匱」の厚朴七物湯と烏頭桂枝湯に該当する。桂肉の名称は唐代までの本草書になかったが、「肘後百一方」に1回記載されていたので、六朝の医方家の一部で使用された桂心ないし肉桂の別称かと思われる。
さて桂支湯加烏頭湯であるが、この「桂支」もいままでの検討になかった。もっとも可能性が高いのは、桂枝と同義に解釈することだろう。馬王堆医書には長枝を「長支」、「素問」「霊枢」には四肢を「四支」と記す例がある。当本巻1の27処方の配剤薬でも芍薬を「夕薬」、茯苓を「伏苓」と記し、同様の例は「医心方」にも多い。いまひとつは、皮と支の字形が似るので、「桂皮」が「桂支」に転訛した可能性である。たとえば「千金翼方」巻19には大桂皮湯が載り、皷と鼓は別字だが同音・同義という例もある。しかし漢代頃までの文献に桂皮の用例は発見できない。また音韻学上、隋唐音では枝・皮ともに「支」の韻に所属するが、それ以前の古音では支・枝が第二部、皮が第六部の韻で一致しない。したがって桂支湯は桂枝湯に釈読するのが妥当だろう。*追記(明・無名氏本「霊枢」14-6b3に「大腸者皮」を「大腸者支」に誤記する)
つまり桂枝湯という方名は確かにあった。そして構成薬味もある桂枝湯の古文献における記載は、現在のところ古写本「小品方」巻1が最古ということになる。これに桂枝ではなく、桂肉の薬名で配剤している。一方、主治条文の記述形式に注目すると、桂心配剤方は「治…」なのに、桂肉配剤方はすべて「主…」でまったく違う。陳延之が記述形式を統一せず、参照した文献の記載をほぼ踏襲した証拠である。ならば陳延之が参照した「張仲景弁傷寒并方九巻」や「張仲景雑方八巻」などにも、桂枝という薬名はなかった可能性がきわめて高い。*追記(北斉武平6(以前?の「龍門薬方」に桂心1回、桂3回ほどの記載があり、傾向は「肘後方」に近い)。
4-4 小結B
(1)旧態を比較的保存する3世紀後半-5世紀後半の医方書に、計7方の仲景医方を見い出した。うち4方に桂が、2方に桂肉が、1方に桂心が配剤されていた。これは時代の経過に従い、仲景医方の桂類薬名も書き改められていたことを示唆する。
(2)500年の「肘後百一方」では桂の配剤が最も多く、次いで桂心・肉桂・牡桂・桂肉の順だった。出土漢代医書でも桂が一般的だったので、これは漢代の影響が六朝時代にも及んでいたことを物語る。
(3) 桂枝湯の方名は少なくとも310年以前から存在していた。しかし桂枝湯を含め薬名としての桂枝の記載は一切なく、当時の桂枝は方名のみに使用される特殊な語彙と判断された。なお現中国の桂枝に相当すると判断できる薬物の記載もなかった。
5 唐代仲景医方の桂類
5-1 敦煌文書P.3287の仲景医方
フランスのPaul Pelliotが1908年に敦煌の莫高窟で入手した古文書類はいまパリ国立図書館に所蔵され、中には医学関係の文献も少なくない。うち巻子本のP.3287は計149行が残存し、第105-114行にかけて桂枝湯と葛根湯の記載がみえる。その桂枝湯は桂心・白勺薬・生薑・甘草・大棗、葛根湯は生葛根・黄芩・白勺薬・桂心・麻黄・生薑・甘草・萎蕤・大青・大棗から構成され、ともに桂枝ではなく桂心が配剤される。
P.3287の文字に唐の睿宗・李旦の避諱はないが、太宗・李世民の「世」ないし「葉」、および高宗・李治の「治」を避諱で欠筆するので、高宗時代(650-683)の筆写と推定されている。すなわち唐代7世紀後半頃には、仲景医方の桂枝湯に桂心を配剤する例が確かにあった。またPelliotやSteinの敦煌文書には、非仲景医方ではあるが桂心配剤方が少なからずある。その一方、桂枝配剤方は1首も見いだせなかった。
ちなみに同じ西域文書では龍谷大学大宮図書館に大谷文書がある。うちトルファンで1912年頃に発掘された物価文書は、交河郡城(トルファン)の官員が742年夏頃に公定市価を記録したもので、その3033号と3099号の2紙に桂心の薬価が記されている。ただし、これら物価文書を含め、大谷文書にも桂枝の記載はない。
以上のように7世紀後半頃の敦煌文書は桂枝湯にも桂心を配剤し、桂心は8世紀中頃に西域のトルファンにまで流通していた。が、桂枝という薬名は西域出土の医薬文書に1例も発見できなかった。したがって唐代7-8世紀の薬名は桂心が主流で、薬名としての桂枝はほとんど使用されていなかった可能性が高い。
5-2 唐本「千金方」の仲景医方
現在、広く通行している「千金方」(650-658年頃)は、林億らの宋改を経て1066年に出版された北宋版の系統に基づくので、ここでは宋改本「千金方」と呼ぶ。また宋改を経ていない南宋版が日本にあり、これを未宋改本「千金方」と呼ぶ。さらに唐代に日本に伝来した「千金方」が現存し、「真本千金方」と通称される。「真本千金方」と同系統は丹波康頼「医心方」にも引用されており、その引用文を仮に唐本「千金方」と呼びたい。
以上のうち、唐代の面目に直接遡ることが可能なのは「真本千金方」と唐本「千金方」である。ただし「真本千金方」の現存部分は巻1なので、仲景医方との対応処方がない。そこで「医心方」にみえる唐本「千金方」の全引用文を精査してみた。
この結果、処方に配剤された桂類薬名はすべて桂心で、他の名称は一切なかった。うち「金匱」方と対応する以下の4方に桂心が配剤されていたが、むろん「金匱」はそれらに桂枝を配剤する。
a.「医心方」巻6治胸痛方第1:胸痺之病…不知殺人方(「金匱」胸痺心痛短気篇:枳実薤白桂枝湯)
b.「医心方」巻6治肺病方第13:大建中湯(「金匱」血痺虚労病篇:小建中湯)
c.「医心方」巻9治淡(痰)飲方第7:青竜湯・木防已湯(「金匱」痰飲咳嗽篇:大青竜湯・木防已湯)
ところで「医心方」所引書でも、300年前後の「張仲景方」や「葛氏方」などには桂、5世紀の「小品方」と6世紀の「如意方」など一部には桂肉の配剤方がみえる。そして桂・桂肉を除くと、「医心方」に200余書から引用された多量の桂類配剤方はほぼすべて桂心を記す。「医心方」巻1に「医門方」から引用される桂枝加附子湯・桂枝麻黄湯(麻黄湯)でも、桂枝ではなく桂心が配剤されていた。したがって「医心方」の編纂では薬名を桂心に統一しておらず、医方書での薬名は桂が古く、六朝頃に桂肉が一部で用いられたが、六朝-隋唐代は桂心がごく一般的だったと判断できる。この点からすると、唐本「千金方」が桂心だけなのは「医心方」を編纂した丹波康頼の作為ではない。原「千金方」の編纂時か、それが日本に渡来するまでの間に桂心に統一された可能性しかない。
一方、「医心方」の多量な桂類配剤方は桂心・桂・桂肉しか記さないので、唐以前の医方書に記された桂類薬はおよそ樹皮製品で、小枝全体を薬物とした可能性はほぼないと思われる。また桂枝という薬名も「医心方」は記載しないので、唐代までの医方書に桂枝が配剤されることはほとんどなかったと思われる。すると、桂枝という薬名で配剤する現在の「傷寒」「玉函」「金匱」は、唐以前に遡る書としてきわめて異例となってしまう。しかし仲景医書の条文や処方が異例なのではない。「医心方」だけでも、唐以前の医方書に記載された同類条文や対応処方の引用は相当な数に上る。異例とすべきは「傷寒」「玉函」「金匱」の3書のみ薬名のほぼすべてを桂枝とすること、その桂枝を小枝全体の薬物と解釈することである。
5-3 宋改本・未宋改本「千金方」の仲景医方
唐本「千金方」の検討結果を踏まえた上で、宋改本・未宋改本についても検討したい。唐本ほど旧態を伝えていない可能性もあるが、より多くの仲景医方が記載されているからである。まず唐本のa-c方について予備調査してみた。
c方(青竜湯・木防已湯)はともに宋改本「千金方」巻18痰飲第6に該当文がある。宋改本では木防已湯主治文の字句が増加し、「金匱」とほぼ同内容に変化していたが、桂心が配剤されている。青竜湯は宋改本で小青竜湯とされ、構成薬は巻18咳嗽第5の小青竜湯に一括して記され、桂心が配剤される。b方(大建中湯)は宋改本巻17肺虚実第2に該当文があり、主治文は大差ない。薬味にも桂心を記すが、方名は「金匱」と同様に小建中湯に変化していた。
a方「胸痺之病…不知殺人方」の該当条文は宋改本巻13胸痺第7にあり、新たに「金匱」方と同名の「枳実薤白桂枝湯」、および「金匱」と略同の主治文が増加していた。しかも方名中の「桂枝」と呼応し、配薬名も桂枝になっていた。他方、未宋改本では巻13胸痺7にa方の該当文がある。その記述は宋改本と合致せず、逆に桂心を配剤する点や条文字句のほとんど、各薬物の分量・助数詞までも唐本と一致していた。すると唐代の「千金方」では一律に桂心で記されていたのに、a方に限っては宋改段階ないし宋改に使用した底本の段階で桂枝に改められ、「金匱」と同じ枳実薤白桂枝湯の方名と主治文が付加されたと判断できる。当結果をふまえ、宋改本の巻9・10傷寒門を検討してみた。
宋改本傷寒門の処方で構成薬が記され、それが「傷寒」「金匱」と対応するのは50方を越す。他方、桂類を配剤するのは傷寒門に29方あり、うち25方に桂心、4方に桂枝が配剤されていた。両者の共通方で桂心を配剤するのは五苓散・麻黄湯・大青竜湯・小青竜湯・茯苓(苓桂朮甘)湯・黄耆芍薬桂苦酒湯・鼈甲煎丸・白虎加桂湯、桂枝を配剤するのは桂枝湯・桂枝二麻黄壹湯・桂枝加黄耆湯である(表3)。この方名と配薬名に相関関係があるのは一目瞭然だろう。桂枝配剤方の方名には必ず「桂枝」がある。桂心配剤方は方名に「桂枝」がなく、あったとしても黄耆芍薬桂苦酒湯と白虎加桂湯の「桂」にすぎない。
ところで、「小品方」では桂支湯加烏頭湯に桂肉、「医門方」では桂枝加附子湯・桂枝麻黄湯に桂心が配剤され、唐以前では方名と配薬名が矛盾する例もある。そして宋改本「千金方」は方名に桂枝がある処方のみ桂枝を配剤し、方名と配薬名の矛盾が解消されていた。a方は唐本と未宋改本で桂心だったが、宋改本では桂枝だった。唐代から宋代までの伝写過程で、これらの相違が自然に生じる可能性はまずない。すると唐本と宋改本の相違は名称矛盾を回避する意図が濃厚な改変と推測できよう。ちなみに朮類名称について宋改本「千金方」の新校方例に、「如白朮一物、古書惟只言朮、近代医家咸以朮為蒼朮、今加以白字、庶乎臨用無惑矣」と林億らが明言するので、「傷寒」「玉函」「金匱」もすべて白朮に統一されたことが論証されている。当然、桂枝についても宋改による改変を疑うべきだろう。
一方、この改変には名称の矛盾解消以外に、物としての桂心と桂枝の相違が関係しているかも知れない。薬物としての桂枝は「新修」が初出だが、その規定で桂枝と桂心に本質的な相違はなかった。しかも「新修」の当規定を宋改担当者は必ず知っている。なぜなら「千金方」巻1の「七情表」は本来、「集注」から引用したことが「真本千金方」と敦煌本「集注」から明らかで、これを宋改本「千金方」は「新修」の「七情表」で完全に改変しているからである。彼らが「新修」の内容を熟知していたのは疑問の余地もない。しかも同じ仲景の発表剤にもかかわらず、宋改本「千金方」は桂枝湯類のみ桂枝で、麻黄湯・大青竜湯等には唐本のまま桂心を記す。以上からすると宋改本の時点でも桂心と桂枝に物としての本質的相違を考えていないので、唐本と宋改本の相違は方名と配薬名の矛盾解消が目的らしいと判断される。
5-4 唐政府本「傷寒論」の桂類
唐政府は医生の学ぶ医方書に、719年の開元7年令まで「小品方」と「集験方」を指定していた。のち唐の760年に規定された医官の登用試験は10問中2問を「張仲景傷寒論」から出題し、林億らも宋改本「千金方」の校定後序に「臣嘗読唐令、見其制為医者、皆習張仲景傷寒陳延之小品」と記す。以上からすると開元7年令に次ぐ737年の開元25年令で医生の学習書に「張仲景傷寒論」が指定されたのは疑いない。むろんこの唐政府本は伝存しない。
一方、王Zの「外台秘要方」(以下「外台方」)には18巻本「(張)仲景傷寒論」の引用文が多数あり、内容の多くは「傷寒」「金匱」とほぼ対応する。王Zは唐の官僚で、「外台方」を完成した752年の自序に「余幼多疾病、長好医術」「久知弘文館図籍方書等」という。弘文館は唐政府の図書館なので、737年指定の「張仲景傷寒論」を必ず所蔵していた。ならば752年に完成した「外台方」が引用する「(張)仲景傷寒論」18巻は唐政府本に間違いなく、唐代の桂類薬名を反映している可能性も高い。ただし「外台方」の伝本は宋改系版本しかなく、「千金方」の例から推せば、たとえ宋版でも唐代の面目を保持しているとは速断できない。唐代の「外台方」を窺えるのは「医心方」に引用される7条のみだが、桂類配剤方はない。そこで宋改を経てはいるが現存最善の宋版「外台方」を底本とし、唐政府本の桂類薬名を慎重に検討することにした。
まず「外台方」巻1・2の傷寒門にて予備調査した。その結果(表4)、桂類配剤方は30方あり、うち9方が「仲景傷寒論」、21方が他書からの引用だった。「仲景傷寒論」の9方では、巻1の桂枝湯のみ桂枝を配剤し、他の8方は巻1の桂枝附子湯でも巻2の桂枝湯・麻黄湯・葛根湯でもみな桂心を配剤していた。他書から引用の21方でも「小品方」の射干湯に肉桂、「古今録験方」の橘皮湯に桂枝のみで、他の19方は「范汪方」の桂枝二麻黄一湯も「古今録験方」の大青竜湯もみな桂心が配剤されていた。
以上のように傷寒門の桂類配剤方は、その90%に桂心が記載されていた。この点は「千金方」の検討結果からしても、唐代の医方書として順当な姿である。また方名に桂枝がある4方のうち3方は桂心を配剤し、宋改本「千金方」のような方名と薬名の一致が図られていない。他方、「外台方」のほぼ全主治文は「療…方」の形式で、しばしば方後に「右…味擣」と記す。これを「医心方」でみると本来は「治…方」「凡…物冶」であることが多い。いずれも唐の官僚である王Zが高宗の諱の「治」および字形の似た「冶」を避け、治を療、冶を擣に改め、「外台方」を編纂した証拠である。かくも顕著な避諱に宋改を担当した儒者が気付かないはずはない。宋の刊行物で唐の避諱を踏襲する必要もない。つまり宋改時に本来の文字に改変可能なのに、王Zの旧のまま放置している。同じ宋改を経てはいるが、「外台方」はこの点からも「千金方」ほど改変されていない可能性が考えられる。
当結果をふまえ「外台方」所引の「仲景傷寒論」全体を検討してみた。「外台方」全40巻には、「仲景傷寒論」の条文・処方と判断できる引用文が以下の3類ある(表5)。第1類は王Zが文頭に「仲景傷寒論」と記し、次条以下の文頭に「又」と記す直接引用文である。これに該当する桂類配剤方は19方あった。うち桂枝を配剤するのは前述した「外台方」巻1の桂枝湯のみ。他の18方はみな桂心を配剤し、巻4の桂枝湯加黄耆や巻7の抵党烏頭桂枝湯・柴胡桂枝湯のように方名中に「桂枝」を持つ例もあった。あるいは巻4の黄耆芍薬桂心酒湯や桂心生薑枳実湯のように方名中に「桂心」があり、配薬名と合致する例もある。
第2類は他の方書からの引用文末付近に、王Zが「傷寒論…同」「張仲景論…同」などと注記する文章である。これに該当する桂類配剤方は「外台方」巻1の桃人承気湯と巻3の五苓散があり、いずれも桂心を配剤していた。
第3類は文末に細字双行で「此本仲景傷寒論方」などと宋改の注がある文章である。これに該当する桂類配剤方は「外台方」巻1から巻23までに18方あり、すべて桂心を配剤していた。なかには前述した「范汪方」の桂枝二麻黄一湯や、巻23所引「集験方」の桂枝加附子湯のように、方名に桂枝を持つ例もある。
第1類と第2類は王Zの引用と注記によるので、唐政府本の佚文に相違ない。この21方に桂枝は1方のみ。他の20方はみな桂心を配剤するが、方名に「桂枝」「桂心」を持つ不統一な例もある。当傾向は「外台方」傷寒門の予備調査でも同様だった。第3類も同様だった。つまり方名と配薬名に意図的統一の形跡がないので、第1に少なくとも桂類薬名については王Zの段階でも宋改の段階でも大きな変化はなかったはずである。また薬名の大多数は桂心であり、「医心方」の分析でも六朝-隋唐代では桂心の薬名が一般的だったので、第2にそれが「外台方」に反映し、かつ宋改でも変化しなかったと考えられる。この第1・第2の特徴は「仲景傷寒論」の逸文にも共通して認められたので、第3に唐政府本「傷寒論」の桂類薬名は宋改本「外台方」でもおよそ変化していないと推定できる。
したがって唐政府本は現在の「傷寒」「金匱」とほぼ対応するにもかかわらず、桂類を配剤する21方中の20方は桂心だったと判断できる。第3類も含めると39方中38方が桂心なのである。ならば現在の「傷寒」「玉函」「金匱」の桂枝は相当に疑わねばならない。
ところで唐政府本には1例だけ桂枝湯に桂枝が配剤されていた。しかし桂心を配剤する桂枝湯も王Zは唐政府本から引用している。すると、これまで漢代から唐代までの医方書を検討した結果からして、その桂枝の実体が桂心だったとしても、桂枝の名称は古来からの配薬名と認め難い。「外台方」の成立時から宋改までの約300年にわたる伝写過程で、桂枝湯の方名につられ半ば偶然に誤写され、それが踏襲されてきたと推定するのが自然ではなかろうか。
5-5 小結C
(1) 医方書での薬名は桂が古く、六朝頃に桂肉が一部で用いられたが、六朝-隋唐代は桂心が一般的である。この傾向は仲景医方でも同じである。
(2)唐以前の医方書に、桂枝の薬名で配剤することまずない。もしあったなら、それは後世の誤写に由来するか、宋改時点で改変された可能性がきわめて高い。唐代の仲景医方でも同じなので、現在の「傷寒」「玉函」「金匱」の桂枝は相当に疑わしい。
(3) 唐以前の医方書や唐代の仲景医方に記された桂類薬はすべて樹皮製品で、小枝全体を薬物に使用した可能性はほぼない。
(4)唐代の仲景医方でも桂枝湯類については、宋改本「千金方」は桂枝を配剤して方名と配薬名の矛盾を解消していた。しかし宋改の担当者も桂枝を樹皮製品と理解していた可能性が高い。
6 宋初「傷寒論」の桂類
北宋初期の淳化3年(992)に勅撰された「太平聖恵方」(以下「聖恵方」)全100巻の巻8-14は傷寒と関連雑病の部分で、各処に仲景医書の佚文らしきものが見える。とりわけ巻8は現「傷寒」の別伝本の性格が強く、「聖恵方」の成立年に因み淳化本「傷寒論」と呼ばれる。この淳化本は時代的に唐政府本と宋改本の中間に位置するだけに、桂類薬の考察にも看過できない。ただし「聖恵方」は大部分の文章に出典を記載せず、巻8の「傷寒」対応文も引用文献を記さない。そこで、まず淳化本の由来と性格をあらかじめ検討しておきたい。
6-1 淳化本「傷寒論」の性格
「聖恵方」の勅撰には宋政府の蔵書も利用された。証拠は宋政府の蔵書目録「崇文総目」の佚文に著録の「食医心鑒三巻 昝殷撰」にある。本書は亡佚したが、朝鮮の「医方類聚」全266巻(1477年刊)にある引用文を幕末の多紀元堅らが輯佚。この多紀輯佚本を明治初に来日した羅振玉が購入し、帰国後に活字出版した。一方、「医方類聚」は「金匱方」を43回引用し、その字句は元版「金匱」とほぼ完全に合致するので、「医方類聚」の引用は改変が少ないと判断できる。そこで「聖恵方」食治門の巻96・97をみると、羅振玉刊「食医心鑑」とほぼ合致する論や治方を引用していた。「聖恵方」の勅撰に宋政府の蔵書を利用した証拠である。ただし「聖恵方」が引用する「食医心鑑」の論は省略・改変が多く、治方主治文と薬名もしばしば改変されていたが、桂心はすべて桂心のままだった。したがって「聖恵方」巻8でも利用書の文章そのままと判断するのは危険で、多少なりとも節略・改変があることを予測しなければならない。
6-2 淳化本「傷寒論」の桂類
淳化本は計25篇からなる。全篇は大きく序論・脈論と、発病の日数篇、三陰三陽篇、治法の可不可篇、そして処方篇に分けられる。この処方篇を設けて、薬味・分量・調剤法・服用法を末尾に一括するのはひとつの特徴といえよう。これは少なくとも唐代までは遡れる仲景医書の一形式だからである。
そこで処方篇「傷寒三陰三陽応用湯散諸方」を分析してみた。処方篇には薬蒸による発汗法を含め、計50方が載る。この数も作為的だが、湯剤のほぼすべては宋政府の「和剤局方」と同様、散剤を煎じる宋代特有の調剤法である。これは明らかに淳化本段階の統一なので、処方の他の記述も素直に信用できないだろう。
当50方のうち桂枝配剤方は第1方の桂枝湯から順に、桂枝附子湯、桂枝芍薬湯、桂枝麻黄湯、桂枝人参湯、麻黄湯、朮附湯、第9方の小柴胡桂枝湯まで計8方あった。すなわち第7方の麻黄附子湯に桂類が配剤されない以外、他の桂枝配剤方は連続して前半にまとめられている。また麻黄湯と朮附湯以外の6方は、みな方名に桂枝の2字がある。しかも当処方篇の目録は桂枝芍薬湯を桂心芍薬湯と記す。「三陰三陽篇」の主治条文でも桂心芍薬湯で、桂枝芍薬湯の記載はない。一方、それら以外の処方はすべて桂心が配剤され、第12方の葛根湯から第43方の桃人承気湯まで計11方あった。いずれも方名に桂類のない処方ばかりで、後半にまとめられている(表6)。
この方名と配薬名の相関は明瞭だろう。桂枝湯など方名に桂枝や桂心がある処方は前半に一括され、みな桂枝が配剤される。それ以降は方名に桂類のない処方で、みな桂心が配剤される。桂枝と桂心を物として区別したのではない。方名と配薬名に矛盾が生じないよう、薬名を改変したのである。また桂枝芍薬湯は主治条文と処方篇目録ともに「桂心」芍薬湯の方名なので、本来は桂心が配剤されていただろう。さらに処方篇の調剤法では「擣」が多用され、これは前述した唐の避諱の遺存なので、巻8に利用された文献は確実に唐人の編集を介している。ならば処方篇の他の桂枝配剤方も本来、唐代方書の一般名称だった桂心が配剤されていた、と推定できる。
当改変が淳化本とその利用文献のいずれで生じたのかは分からない。ただし淳化本の処方篇全体は、前述のように宋政府方式にほぼ統一されている。すると方名に桂類を持つ処方の配薬名や方名まで、桂枝に統一したのは淳化本段階かも知れない。ともあれ宋初の段階でも仲景医方に桂心が配剤され、桂枝は桂心の異名と理解されていたのは疑いない。唐本「千金方」にある仲景医方の桂心が、宋改本「千金方」では桂枝に変化した例があった。宋改以前でも、宋初の淳化本には実物と無関係に薬名を桂心から桂枝へ、意図的に統一した例が存在する。伝写過程で方名と薬名に矛盾が多々生じていた医書を、出版を前提に政府が校訂するなら、この統一は当然の処置かも知れない。同じ宋代でのち初めて出版物となった現在の「傷寒」「玉函」「金匱」が、全体的に桂枝で統一されている不可思議さは、淳化本にその前兆を窺うことができた。
6-3 小結D
(1) 淳化本「傷寒論」は半数以上の処方に桂心を配剤するので、宋初でも仲景医方に樹皮が用いられていた。
(2) 淳化本の桂枝配剤方には本来、桂心が配剤されていたと推定された。桂心が桂枝に改変されたのは、方名と配薬名の矛盾解消のためと理解された。
(3) 淳化本の桂枝は「新修」と同じく桂心の異名なので、宋初でも小枝全体の桂枝はほとんど存在しなかったと思われる。
(4) 伝本間で異同の多い医書を政府が出版を前提に校訂するなら、淳化本にみられた桂心から桂枝への改変などは当然の処置だった可能性がある。
7 林億らの統一
7-1 「金匱」の付方と性格
これまで仲景医書の宋改直前まで、千年以上にわたる桂類薬名・薬物の変遷を検討してきた。その結果、「傷寒」「玉函」「金匱」の桂枝は、宋改の段階で全体的に統一された可能性が考察の過程で最後まで残った。
この宋改の様子は宋改本とその底本を比較するなら、比較的容易に推知できる。しかし宋改を受けた書の底本が伝存する例はない。「千金方」だけは欠巻本ながら宋改を経ない書も伝わるが、それが宋改の底本と同系かは何ともいえない。ところが唯一の例外が「金匱」にある。なぜなら「金匱」の宋改底本は節略が多かったので、宋改時に少なからぬ処方を付方として扶翼した。この付方の大部分については、出典書ないし佚文を載せる書が伝存するからである。ならば出典と付方を比較検討することで、宋改の様子も明らかになるだろう。
「金匱」には現存最善本の元版を用い、これに付方と明記、ないし出典を方名上に略記して付方と判断される処方は計27方ある。うち構成薬味まで記すのは22方、その8方には桂枝が配剤され、他の桂類薬名は一切ない。そこで当8方について出典文と対照しながら検討した。
7-2 古今録験続命湯
「金匱」中風歴節病篇の付方に古今録験続命湯がある。「古今録験方」は唐初・甄権の作で散佚したが、宋版「外台方」巻14は同じ続命湯を「古今録験方」から引き、桂心を配剤する。「外台方」主治文の2行目なかばに「姚云、与大続命湯同」と記すのは大字文なので、「外台方」を編纂した王Zが姚僧垣「集験方」(6世紀後半)からつけた注と分かる。一方、「金匱」は王Z注とほぼ同文を主治文末尾に細字双行で記す。したがって「金匱」の続命湯条は「古今録験方」からの直接引用ではない。「外台方」からの間接引用である。他方、「外台方」文の末行には「汪云、是仲景方」とある。当文も大字なので王Zの注で、彼が「范汪方」(350頃)を見て記した文と分かる。この王Z注から林億らは続命湯条を仲景の佚文と判断し、「金匱」の付方としたのである。しかし桂心は桂枝に改めた。
7-3 崔氏八味丸
「金匱」中風歴節病篇の付方には崔氏八味丸もある。「崔氏」は7世紀後半の崔知悌が著した「崔氏(纂要)方」10巻だろう。本書も伝わらないが、「外台方」巻18に「崔氏…張仲景八味丸方」と記し、「金匱」とほぼ対応する文が引用される。つまり「崔氏方」が仲景の八味丸と記すので、「金匱」の付方とされた。ただし「崔氏方」の直接引用か、「外台方」からの間接引用かは定かでない。しかし「外台方」に徴して桂心が本来の配剤薬名と推定できるが、「金匱」は桂枝とする。
7-4 千金翼炙甘草湯
「金匱」血痺虚労病篇の付方に千金翼炙甘草湯があり、方名下に細字双行で「一云、復脈湯」と林億らが注する。「千金翼」も林億らが「金匱」と同年頃に校刊したので、この炙甘草湯は「千金翼」の直接引用とみていい。じじつ林億らが復脈湯の別名を注記するように、元版「千金翼」巻15にほぼ同じ主治文の復脈湯が載る。方名の相違はさておき、「千金翼」の復脈湯は桂心を配剤する。
ところで古今録験続命湯と崔氏八味丸では考察を省いたが、薬量・調剤法は千金翼炙甘草湯でも出典の復脈湯と一致しない。その原因は「千金翼」復脈湯文の末行に林億らが注する、「仲景名炙甘草湯、…見傷寒中」から分かる。すなわち「傷寒」をみると巻4に炙甘草湯が載り、その薬量・調剤法ともに「金匱」と一致する。「玉函」も一致する。とすれば千金翼炙甘草湯が次の操作で「金匱」の付方とされたのは自明だろう。林億らは「千金翼」から復脈湯の主治文のみ付方に引用した。が、唐の避諱で「主虚労不足…」となっていたのを「治虚労不足…」とするなど、文字の一部を改めた。一方、方名・薬量・調剤法は「千金翼」に従わず、「金匱」以前に校刊ずみの「傷寒」「玉函」と統一。それら改変の一部については、校異の注を「金匱」「千金翼」の双方に記した。しかし薬名・薬量・文字の改変については言及しない。あまりにも多岐にわたるからだろう。
ともあれ「金匱」付方の千金翼炙甘草湯と「千金翼」の復脈湯を比較することで、宋改の様子を垣間見ることができた。これは桂心から桂枝への薬名改変が、「傷寒」「玉函」「金匱」という、仲景医書間での記載統一の一環でなされた可能性を強く示唆している。もちろん桂心と桂枝を同一薬物とみなしていることは疑うべくもない。
7-5 千金桂枝去芍薬加皀莢湯
「金匱」肺萎肺廱咳嗽上気篇の付方に千金桂枝去芍薬加皀莢湯がある。「千金方」も林億らが「金匱」と同年に校刊したので、当方は「千金方」の直接引用に相違ない。そこで宋改本「千金方」をみると巻17にほぼ同じ主治文の当方が載り、桂枝を配剤する。さらに「真本千金方」や唐本「千金方」も調査すべきだが、該当部分は伝存や引用がない。未宋改本「千金方」も該当部分を欠巻する。一方、宋版「外台方」巻10では王Zが「千金…出第十七巻中」と注し、ほぼ同じ主治文の桂枝去芍薬加皀莢湯を引用する。そして桂心が配剤される。すでに唐政府本「傷寒論」の考察で検討したように、宋版「外台方」の桂類薬名は王Zの段階でも宋改の段階でも大きな変化がないと考えられた。とするなら宋改以前の「千金方」は当方に桂心を配剤していたに相違なく、それを宋改本「千金方」も「金匱」も桂枝に改めたのである。
7-6 外台黄芩湯
「金匱」嘔吐噦下利篇の付方には外台黄芩湯がある。当方は「傷寒」の黄芩湯と同名異方で、主治文も違う。一方、「玉函」の黄芩人参湯は当方と異名同方だが、主治文を欠く。「金匱」付方の当方はもちろん「外台方」からの直接引用で、宋版「外台方」は巻8に載せ、桂心を配剤する。その王Z注に「仲景傷寒論…出第十六巻中」と記すので、当方は唐政府本「傷寒論」巻16が本来の出典だったと分かる。なお唐政府本「傷寒論」全18巻は巻10までが傷寒部分で、巻11以降が雑病部分だったと考えられる。それで当方が「金匱」の付方とされた。なお「医心方」も巻14第28に同一薬味で同内容の黄芩湯を4世紀の「范汪方」から引用し、桂心を配剤する。つまり当方は唐代でも、あるいは六朝代でも桂心だったが、「金匱」で桂枝に改められたのである。
7-7 千金内補当帰建中湯
「金匱」婦人産後病篇の付方に千金内補当帰建中湯がある。宋改本「千金方」では巻3にほぼ同条文の当方があり、桂心を配剤する。未宋改本「千金方」でも巻3にあり、ほぼ同条文だが方名を「内補当帰湯達中」とし、一字の桂を記していた。すると当方には医方書の薬名として最も古い桂が「千金方」でも記されていたが、のち宋改本「千金方」の底本段階、あるいは宋改の段階で桂心に変化し、さらに「金匱」で桂枝に改変されたことが分かる。
7-8 外台柴胡桂枝湯
「金匱」腹満寒疝宿食病篇の付方に外台柴胡桂枝湯がある。宋版「外台方」では巻7に主治文をやや異にする同方を載せ、桂心を配剤する。しかし両主治文に差異があるので、にわかに双方が引用と出典の関係とは認め難い。
ところで「外台方」条文の文頭・文末にある王Z注によると、同方は唐政府本「傷寒論」の巻15つまり雑病部分からの引用と分かる。「外台方」巻7がこの唐政府本「傷寒論」巻15から柴胡桂枝湯とともに引用するのは、二物大烏頭煎・抵党烏頭桂枝湯・当帰生薑羊肉湯の3方である。いずれも「金匱」腹満寒疝宿食病篇に該当の処方・条文があり、それぞれ(大)烏頭煎・(抵党)烏頭桂枝湯・当帰生姜羊肉湯に対応する。さらに「外台方」に載る柴胡桂枝湯はこの1方のみで、他に異名同方もない。以上からすると「金匱」付方の外台柴胡桂枝湯は、宋版「外台方」巻7の柴胡桂枝湯とみてまず間違いない。したがって原方は桂心で、それを「金匱」が改変したことが分かる。
7-9 「附外台秘要方」柴胡桂姜湯
「金匱」瘧病篇は「附外台秘要方」と明記して牡蠣湯・柴胡去半夏加括蔞湯・柴胡桂姜湯の3方を載せ、うち柴胡桂姜湯が桂枝配剤方である。前2方は宋版「外台方」巻5の瘧病門が、唐政府本「傷寒論」巻15から引用する牡蠣湯・小柴胡去半夏加栝楼湯とそれぞれ対応する。しかし柴胡桂姜湯の対応方は「外台方」瘧病門になぜかない。同一薬味なら宋版「外台方」巻1に唐政府本「傷寒論」巻3から引用の小柴胡湯、および宋版「外台方」巻2に唐政府本「傷寒論」巻4から引用の小柴胡桂薑湯があり、いずれも桂心を配剤する。しかし主治文はともに「金匱」付方の柴胡桂姜湯と違う。それで山田業広は、「今本外台无攷、脈経千金亦不載此条、豈林億等所見有之、而今之外台係脱落也」という。あるいはそうかも知れない。ただし「金匱」の柴胡桂姜湯が桂枝なのに「外台方」の別条同方が桂心なのは、やはり林億らの改変を間接的に示唆している。
以上、「金匱」の付方で桂枝を配剤する8方につき、引用出典に遡って比較検討を加えた。この結果、もともと桂枝の薬名で配剤されていたと判断できる処方は1方もなく、本来は7方が桂心、1方が桂ないし桂心であった。当結果は、この8方が宋改で「金匱」に転載された際、桂枝に改変されたことを明瞭に証明している。もちろん付方だけ桂枝に改変する理由はない。すでに淳化本の段階から桂心と同義で桂枝が混用されていた。つまり「傷寒」「玉函」「金匱」の記載を統一するため、桂心の意味で方名と矛盾しない「桂枝去皮」に、付方も含め宋改で一律に改変されたのである。したがってこの桂枝は樹皮である。
7-10 小結E
(1)林億らは桂類配剤方を「金匱」付方に転載する際、方名に桂枝が有る無しにかかわらず、配薬名を桂枝に統一した。この事実は、付方と同じ改変が「傷寒」「玉函」「金匱」の全書にわたり宋改で実行されたことも証明する。3書にわずかに記される桂・桂湯や桂心は、その痕跡である。
(2)「傷寒」「玉函」「金匱」の桂枝は、「新修」にいう肉桂の別名である。また「桂枝去皮」の指示はコルク層除去を意味しており、唐以前から使用されていた桂心のことである。
(3)仲景医書・医方の桂枝は樹皮で、小枝全体ではない。
8 結論
桂類薬名と桂類薬物の関連と変遷を、仲景医書の宋改まで約1300年にわたる記録などから検討した(表7)。この考察結果は以下のように結論できる。なお宋改から現代までの約950年間で、仲景医方の桂枝に中国と日本で解釈・使用の相違が生じた原因と歴史も考察すべきだが、紙幅の関係で別稿に譲りたい。
(1)桂類植物の樹皮製品に対し後漢時代まで桂の薬名が一般的に用いられ、その樹皮のコルク層はふつう除去されていた。この製品は前2世紀に埋葬された墓から出土しており、それらに対して桂心の薬名が唐代まで一般に用いられていた。唐代の桂心も日本に現存する。
(2)10世紀までの医学文献にみえる桂・梫・木桂・牡桂・桂肉・肉桂・桂心・桂枝の語彙は、みな樹皮製品に対して用いられていた。659年編纂の唐政府薬局方「新修」は、それらの基原植物を主にC. cassiaないしC. obtusifoliumと規定していた。当製品は「局方」の桂皮および「薬典」の肉桂にほぼ相当する。
(3)菌桂の語彙は小枝の樹皮が重なり巻いた竹筒状の製品に紀元前3世紀から使用され、用途は健康食品ないし香辛料であった。この基原植物を「新修」はC. burmanniと規定し、当製品は現在のジャワ桂皮によるシナモンスティックにほぼ相当する。
(4)漢末に仲景が整理した医方書に桂枝(支)湯の方名があった可能性は否定できない。しかし6世紀までに桂枝という薬名の用例はなく、唐代前後の仲景医方は多くに桂心や桂が配剤されていた。この理由で、桂枝湯などに桂枝ではなく桂心が配剤され、方名と配薬名の語彙に矛盾が生じていた。それで桂心…湯という名称の処方もあった。一方、桂類植物の小枝全体が、薬物として11世紀以前に使用された痕跡もなかった。したがって仲景の時代で桂枝の薬名が使用された可能性、および小枝全体が薬物として配剤された可能性はきわめて低いことが示唆された。
(5)北宋初期の「太平聖恵方」出版時に、方名に桂枝がある仲景医方については桂心と同義で桂枝の名称を用い配剤する例が出現した。しかし桂心の名称は当時もまだ主流だった。
(6)仲景医書が北宋政府により校訂・初刊行されたとき、仲景の3書で記載を統一する必要から、桂類薬の名称は桂心の意味として「桂枝去皮」に一部の疎漏を除き統一された。同時に方名も桂心…湯などは桂枝…湯などに改められ、配薬名と方名の矛盾が解消された。したがって仲景医書のあらゆる版本に記載される桂枝は、「薬典」が規定する小枝全体のCinnamomi Ramulusではなく、「局方」が規定する樹皮のCinnamomi Cortexに該当する。
 
越中売薬の壮大な展開-「先用後利」の大事業-

(「越中売薬」と「富山売薬」の言葉の使い分けについて)
富山売薬業の特徴
富山売薬というのは、原料の仕入れ、製造、販売を総称して全体に与えられた名称である。売薬業は全国行商によって成立し、交通の不便な江戸時代にあって全国行商を押し進めるのは、当時としては想像以上に積極的な努力が必要であった。
富山売薬の特色は、(1)商圏の広さとともに、鎖国時代にあって、原料となる麝香(じゃこう)や牛黄(ごおう)などの漢方薬が、中国から長崎に輸入され、さらに長崎から大坂の道修町に、そして富山に送られるという、想像以上に壮大な輸入ルートを持っていたことである。
(2)医薬品の販売については、山岳信仰、神社、寺院などの宗教的な霊験あらたかさが背景にあった中世に対して、近世になると薬そのものの効用、あるいは商品自体に医薬品としての価値を求め、中世的な宗教からの解放という国民の意識改革があった。
(3)商品の薬効が高いこと。そして何よりも、得意先に対して常に信用と信頼を重視してきたこと。売薬業者は常に旅先の経済事情や政治環境などの情報を、細心の注意をもって収集したことなど経営の巧みさがある。
(4)販売に際して財務会計が巧みである。各藩での行商とその取引を間違いなくするため、得意先の住所、氏名、配置した薬の銘柄、数量、前の配置における消費高、集金額を明確に記帳し、経営の正確な実体を数量的に把握できる「懸場帳(かけばちょう)」を作成したことである。
しかし、売薬の販売形態である「行商」や「先用後利」という経営方式もとりわけ「富山売薬」の専売特許ではなく、近世の行商に多く見られる商慣行に過ぎないのである。しかし、富山売薬は「先用後利」の方式を最大限に生かしきったところに最大の特徴がある。
売薬の起源論
ある現象の歴史的発展の原点を「起源」として捉えることは、その構造や展開の仕方について重要な意味を持つものである。しかし、産業について「起源」を歴史的に明らかにすることは多くの場合甚だ困難である。ことに売薬については、日本の各地にそれぞれ特有の霊薬が伝わっていて、その起源や形成については宗教的、迷信的権威の伝説に満ちているのが普通である。
明治の始めに作られた「富山売薬の縁起」には「立山信仰」が起源であるとされる。富山売薬の起源を立山信仰に求めたのは、薬種がかって宗教的、迷信的権威によるものであったためであろう。しかし、売薬の得意先の権利を記した「懸場帳」と、立山信仰における宿坊の衆徒(檀那(だんな))の「諸国配札帳」「檀那場帳」は似たような性格を持つ。何れが考案し、発展的に整備したのかは分からないが時代の経過につれて相互に影響しあったことは確かである。芦峅寺の衆徒は護符などの御札と同時に、富山売薬の「反魂丹」をも販売していることからも、相互の関係を窺うことができる。
ここで富山売薬の起源を歴史的系譜、成立の社会的基盤、の2点から考えると、まず歴史的系譜については、嘉吉3年(1443)頃の『康富記』に「薬売者施薬院所相計也」と記され(『古事類苑』方技部十四)、この頃に売薬の商人がいたことが窺われる。越中においても、室町時代に薬種を営む「唐人座」があったという。また「富士山之記」には、江戸初期の富山城下に関する記載のなかで、「薬種ノ類者、沈ン香、麝香、薫陸香、人尽、甘草、桂心、肉桂」な24種の薬種が記されている。
このように江戸の始期までには、すでに合薬が各地で現れており、売薬の出発点となったのである。成立の社会的基盤については、近世の交通路、物資の流通機構の整備を挙げることができる。西廻り航路が形成され、東北と北陸、北陸と瀬戸内海・関西・九州などの諸地域との物流が活発化した。富山売薬はこのルートに乗って大坂から原料を輸入し、製造された薬は全国への積極的な販路開拓に役立ったのである。また、飛騨街道を通じて美濃、そして太平洋沿岸への道も開かれ、北陸の富山から陸路・海路の両面で全国へのルートが確立され、売薬商人が全国行商に出かけることになったのである。
富山藩の財政危機と売薬振興
富山売薬は、支配領域から「富山売薬」と「加賀売薬」に大別され、加賀売薬は地域によって滑川売薬、射水売薬、高岡売薬などと呼んでいる。また、一般に富山売薬というと、富山藩領の売薬を指し、富山藩がバックアップして経営する、今でいう藩と民間の第3セクターによる商業である。
富山藩は文化13年(1816)に、売薬人の統制管理、薬種の仕入れおよび合薬製造の管理、経営指導、資金融資、他藩との交渉などを業務とする「反魂丹役所」を設置し、藩の銘品として保護育成したのである。こうした藩の売薬政策には藩財政上の思惑があった。江戸後期の天保5年(1834)の事例ではあるが、年貢米収入は24,762石、小物成(こものなり・山・川・海などからの産物に課せられた税)など現金収入は10,284両、一方、歳出は江戸藩邸・富山城下などの消費が約30,758両余で、これを換米すると約39,370石となり、年間約1,000石以上の赤字財政となる。このほかに累積借財が30万両であるという。富山藩は早くも延宝3年(1675)には京都・金沢・富山領内の借財高が4,800貫目に至るほどの財政難に陥っていた。この延宝3年から家中よりの借知(藩士の給料である知行の借用)も始まり、それ以後は領民からの年貢率アップも幕末まで続けられた(「富山藩政史の諸問題」水島茂『富山史壇』50・51合併号)。藩の産業統制策は、享保年間(1716〜1735)より見られるが、特に財政難が破局的となってきた明和ー安永−天明年間に、藩財政難への寄与策として強化されてきた。売薬業はまさに恰好の産業であったのである。
こうした慢性的な財政難に陥っていた富山藩は、売薬を保護する代償として御役金を賦課し、弘化元年(1844)には1,841両余、幕末の安政4年(1857)には2,889両にも及んでいるのである。
全国への展開
富山売薬が他藩へ行商を行った最初は、寛永年間(1624〜1643)肥後の国への行商である(嘉永元年の熊本の財津九十郎の手紙)。また、万治年間には豊前から豊後・筑後に、さらに肥後にも行商を広げ(「薬種屋権七由来書」)、元禄の頃には八重崎屋源六が中国筋に出かけている(『富山売薬沿革概要』広貫堂編)。また、この頃には仙台へも出かけている。こうして富山売薬は九州地方から中国地方へ、そして東北地方へと、遠隔地から次第に近隣地へと販路を拡大していったのである。
富山売薬の行商圏の拡大の様相は、地理的条件、陸上・海上の交通路や市場関係などにより、九州と中国が先躯的で、次いで日本海沿岸地域、近畿、東北、関東などに普及したものと思われる。こうして天保の頃には文字通り全国の至る所に販路を拡大したのである。『大坂商業史資料集』には天保年間の売薬として富山売薬をまず挙げ、「今は昔し天保時代に名高かりし売薬は、言ずともこれ越中富山が本家にて、その他諸国に行われたるその概略をあぐれば、(以下略)」として、富山売薬は日本の売薬の第一に挙げられ、大和売薬や近江売薬などの追随を許さなかった。
越中薩摩組と北前船交易〈昆布ロードと売薬〉
売薬人は他領行商に際して、富山藩で他国売薬の許可を得るとともに、旅先の藩で販売許可を得なければならなかった。売薬の行商は、他藩にとって今でいう貿易の輸入に当たり、藩経済の立場からすれば保護統制の必要が常にあった。藩財政が逼迫する江戸後期から、各藩は国産の奨励を進め、専売制度を設けるなど各種施策を講ずるとともに、外からの輸入を極力抑える保護貿易主義に傾いていった。その結果、全国を行商する売薬商人は各地で度々営業差止を受けた。売薬人はこの営業差止を何らかの形で解除したり、あるいは差止を未然に防ぐために、それぞれの旅先藩の立場を考慮し、藩経済にプラスになるような方策を行なわねばならなかった。
薩摩領内における売薬行商がその好例である。当時の意識として薩摩は本州の最南端に位置し、琉球あるいは中国(清国)との密貿易が盛んで、藩外からの人や物の流入には甚だ警戒が厳しかった。このため「越中薩摩組」の売薬人たちは、薩摩藩の地理的特徴を生かし、蝦夷松前の昆布を薩摩藩主に献上し、さらに琉球貿易や中国との出合貿易の交易品とする昆布を、薩摩組が富山で雇い入れた船で大坂から蝦夷、薩摩に運行した。昆布交易である。
薩摩藩と富山売薬の秘密裡にして継続的な回漕業であった。こうした蝦夷からの昆布輸送に要る資金として、薩摩藩主から総額500両の助成(借入金)を受けていた。昆布6万斤を仕入れ、1万斤は薩摩藩主へ献上、残り5万斤は薩摩藩で買い上げるというものであった。こうした政策は当時としては奇想天外ともいえるもので、また、想像を絶する困難を克服して行われた驚くべき雄大な貿易構想であった。幕末の嘉永3年(1850)のことである。 
 
暮らしを支えた越中売薬-商品は信用と情報-

売薬さんの情報
売薬は、地域に健康と安心を運ぶと同時に、「文化と情報の伝達」という面でも大きな働きをした。封建時代は他国との交流が閉ざされ、交わされる情報がないといってよかった。そのような状況でも、売薬さんは広い行商圏を持った。売薬さんと顧客との会話では、異郷のことが自然に語られた。南の国へ行くと北の国の話をする。農村に行けば都会の話をした。その土地以外の近隣・他郷の異文化が、行商の先々で売薬さんの口から語られた。
売薬さんが来ると、座布団を勧めて話を聞くのが楽しみだったという記述を載せた郷土史もある。北海道では他の土地の開拓状況を聞き、それを聞いた開拓者は自分よりも苦労しながらがんばり抜いている人がいることを知って奮起したという。さらに、開拓方法などについても学んだという。売薬さんの話は居ながらにして他郷のことを知ることができる。
安政4年(1857)、佐藤信渕の子昭(昇庵)が、富山藩主前田利聲(としかた)に出した意見書の一節に、「…六十余州ノ人情風習及ビ各国郷村等ニ至ルマデ大小ノ事件、悉ク坐シテ而シテ此ヲ知ルベク…」とあり、売薬さんは庶民史の主体者と同時に、こよなき見聞者であると述べている。
売薬さんの言を集めれば、情報を居ながらにして日本国中の細部まで知ることができた。しかし、この情報は集約されて利用されることがなかった。
売薬版画(絵紙)を通して
売薬進物、つまり「おまけ」は販路獲得の一助としての見方だけではなく、楽しみや潤いの少ない山村・僻地に美的世界と娯楽を提供した媒体としての価値がある。
一般に多色刷りの彩色画は、明治中期まで庶民が簡単に入手できるものではなかった。売薬版画には時代の流行・世相・戦争話などが描かれ、当時のニュースペーパーとして情報が満載されていた。また、地方の人々は売薬版画を通して明治維新や開国を知った。それまでの役者絵や東海道物から、文明開化・横浜居留地などの絵に変化したからである。まさに売薬版画は文明と接触する媒体であった。
また、生活に密着したのは農事暦、喰い合せ禁忌の短冊、熨斗(のし)絵であった。数十個の熨斗絵を一つずつ切り取って贈り物に貼ったという話もある。
長い顧客との交流
二代・三代、何十年にもわたって続く顧客(配置先)との交流は、単なる得意先という関係をさらに深めて、親戚同様に親しいものになり、嫁や養子話の相談なども受けた。次に訪れたとき、紹介した娘がその家の嫁になっていることもあったという。時には婚礼や祭の宴席に招かれたとき、売薬さんは得意な義太夫の一節を披露して芸能文化も伝えた。
また、村に来た名士として医療の講演を頼まれたり、帳簿(懸場帳)を矢立の筆で書いた時代は能筆の売薬が多く、「書き物」を頼まれることもあった。岩手県の県南地方では、売薬さんのことを「とうじんさま」(唐人か冬人か)と親しみを込めて呼び、売薬さんの来るの待った。ラジオ・テレビは勿論、新聞さえ普及していなかった頃は、売薬さんは庶民の健康を守る「医療人」であるとともに、文化を運ぶ「文化人」の役目も果たしたのである。
地域貢献〜種籾・蚕種・レンゲ・馬耕機
売薬さん自身の中にも農家の人が多くいる。農業を営む顧客とは共通の話題で親しみ、農業の新知識や技術の話で時を過ごすことも多かった。ことに種籾(たねもみ)・蚕種(蚕(かいこ)の卵)・レンゲ(肥料用)・馬耕機(犂(すき))について、富山県は全国的に見て先進県としての評価が高かった。
種籾については、今日でも流通量の約63パーセントは富山産(『富山がわかる本』富山県統計課編・平成12年発行)で全国第1位を占め、「種籾王国」とさえ言われている。県内には6ヵ所の種籾採種場があるが、なかでも東砺波郡の旧種田村(現庄川町)は、村名の起こりそのものが特産の種籾をさらに盛んにするために付けられた。売薬さんによる種籾の斡旋の歴史は古く、宝暦(1751〜1763)の頃からといわれるから250年にもなる。県西部の種田村に対して県東部の中心は旧浜黒崎村(現富山市北部)の日方江(ひかたえ)である。ことに日方江の周辺には滑川・水橋・岩瀬など、売薬さんが県全体の三分の一、3千余人(昭和30年代)もいて、強力に日方江の種籾を懸場先の顧客へ届けた。重い行李を背負いながら、手には種籾の入った袋を下げて、農家の得意先を廻った。日方江の種籾は多収穫で、病害虫にも強い品種といわれ、売薬さんのロコミによって、江戸時代から藩外各地に広がり注文が殺到した。
種籾生産は、種田村=庄川五ヵ村では明治16年(1883)に販売高1000石(150トン)、日方江でも明治20年(1887)に1970石(約296トン)の生産記録が残されている。売薬さんの斡旋量は不明だが、大量の注文を受けたと推定される。今日に続く種籾王国の素地は、売薬さんたちによって築かれたといっても過言ではない。
春になると、戦前の富山県内の水田の60〜70パーセントがレンゲの花で埋め尽くされた。レンゲは窒素肥料成分を多く含むので、水田裏作の自給肥料(緑肥)として栽培された。富山県の作付は、江戸時代の18世紀末から19世紀にかけてといわれる。『日本農業発史』には「富山の薬売り」が秋田県・山形県・新潟県・石川県の13ヵ所にレンゲの種を運んで斡旋したことが紹介されている。そのうち約半数の所は明治期に伝えられ、導入者は売薬さんであった。このレンゲの種は、わが国で初めての「耐雪耐寒性の花種」であった。温暖乾田地帝の植物であったレンゲが、東北地方にまで広められたのである。
また、山形県米沢市には1基の報恩碑が建っている。この地方に「富山犂」という馬耕機を導入したのが富山市近郊の青木伝次という売薬だった。伝次は、田起こしをいまだに備中鍬を使った人力で作業しているのに驚き、富山で使っている馬耕機の話をした。それは馬1頭と農夫1人で人力の4倍の能率が上がり、しかも2倍の深耕ができた。たらまち「富山犂」は改良されて米沢地方一帯に普及した。明治33年(1900)、馬耕機導入2年目に報恩碑が建立され、その式典に伝次を招いて地域貢献を称え、心からなる深い感謝の気持ちを表したという。
「蚕種」とは、養蚕用の蚕の卵を和紙に植え付けたもので、1箱2万粒の単位で販売された。1枚の原種から24.5キロの繭がとれた。八尾の蚕種は病原をもたない良質なもので、全国の四分の一も生産された。幕末には遠くフランスまで輸出された。「種屋」という蚕種販売行商人がいたが、全国に懸場を持つ売薬さんは種屋が廻りきれない広い販路で、八尾の蚕種を運んだ。
売薬さんは「薬売り」という本業のほかに、全国各地の農業生産の向上に貢献した役割は大きい。商売そっちのけで親身になって、得意先の人々のために尽力した。
北海道開拓と売薬
富山売薬が北海道に最初に足を踏み人れたのは、享保(1716〜1735)の頃であるが、本格的な商いは明治以後である。富山県人の入植は明治20年代(1885〜)で、30年代(1897〜)になると移住者数順位で1位を占めるようになった。そして県人移住者の動きに、影のように追いかけたのは売薬さんであった。
富山県からの移住戸数(1882〜1935)は全道71万余戸のうち、7.5パーセントにあたる53,850戸である。富山売薬は北海道の新天地を商業の開拓者精神「フロンティア・スピリッツ」で市場開拓に入ったのであるが、富山県民移住者の激増という背景も考えられる。
富山県からの開拓民は、始めは水産業者で、根室・釧路・広尾という東海岸であった。これらの地域には越中町や越中衆の集落ができた。大漁と不漁の差が激しく、漁師も漁場を転々とした。しかし、売薬さんは今年は集金できなくても次に期待をかけた。翌年の大漁ですべての支払いをしてくれることも度々あったからである。
明治30年代以降、内陸・奥地への開拓が進み、県人だけでなく、道内一円に販路を求めて分け入った。売薬さんの顧客獲得は、開拓者に匹敵するほどの苦労の連続であった。行商期間は7月から翌年3月までの約8ヵ月で、出発する時は水盃を交わして出る時代でもあった。
北海道の自然は酷烈で寒気、交通・生産の何れをとっても並大抵ではなかった。旭川では氷点下40度を記録するほどで、そんな時でも売薬さんは不十分な防寒具を着けて廻商した。道路は秋になるとねかるみ、歩くことが因難になるほどであったが、重い柳行李を背負って歩き続けた。明治から大正にかけては、2年毎に冷害・凶作で、穀物の収穫がほとんど無い時もあった。
寒気はまだしも、集金不能になって帰省の汽車賃の心配をしなければならなかった。十勝の大森林の中を分け入って開拓者集落を訪ねるときは、5、6百メートル先の目標を定めて歩かないと迷ってしまうことがあった。熊の危険に脅えながら、村々を訪ね歩くのは実に大変なことであった。
しかし、売薬さんはひるむことなく得意先を拡大した。開拓民にとって、馬はかけがえのない財産であり、助力者であった。耕作にも、隣家に行くにも、病人を病院に運ぶにも馬がなければ用を足せなかった。馬は開拓民の仕事と暮らしに欠かせない命綱であった。馬が病気になると倒れないように柱に縛った。馬は倒れると再起できないからである。そして気付け薬として「神薬」を飲ませるのである。売薬さんは神薬を大さな瓶に入れ、何本も背負って開拓民の家に届けた。神薬を牛馬の薬に用いるのは、北海道ならではの窮余の策であった。
あらゆる辛苦を克服して、北海道開拓民に薬を届けたことが、その後の道内の市町村史のなかに記されたのである。北海道開拓の陰の功労者は「富山売薬」であるといわれるくらいである。
商品は信用と信頼
富山売薬は「先用後利」という徹底的に顧客側に立った販売システムをとっているが、顧客にしても行商から「薬」という命にかかわるものを買うのだから、そこに売薬さんへの信頼がなければ成り立たない。その信頼に応えるため、先輩から厳しく躾られたのはまず礼儀作法であった。仏壇があれば合掌することも忘れなかった。もちろん、薬についての深い知識・教養も求められた。一方、売薬の側から見れば、顧客への無担保の信用貸である。「先用後利」とはまさに人間相互の深い信頼関係に基盤をおくものであった。 
 
越中売薬の基盤を支えた人材教育-商売は「人」なり-

売薬行商人などを教育する機関の一つとして寺子屋が挙げられる。近世の子供たちは、遊んだり、家職、家事を手伝って見習うというだけで、成人として社会から「一人前」と認められることはなかった。子供たちには「文字」の読み書き、算盤を使って計算能力を養うことが要望され、それに応えて民間の有識者や武士、浪人が任意に開いたのが寺子屋であった。
寺子屋は、寺の後継者養成のために中世寺院に発生したものであるが、本来の僧侶教育のほかに僧侶にならない子供を預かり、いわゆる俗人数育も行なった。近世になると、寺院以外においても一般の子供たらに読み書き・算盤を教える施設が発達したが、「寺子」(生徒)と「屋」に分けて用いたので、本来の寺子屋ではなかった。
これらは多く自然発生的に生じたもので、政治力をもってつくられた明治の学制による小学校や、古代の大学、国学などとは趣を異にしていた。
寺子屋の教育と「往来物」
寺子屋の学習分野は、地域により、時代によって様々な形をとっていたが、「習字」は常に学習内容の中核となっていた。習字といっても、それは単に「字を上手に書く、器用にしたためる」ということに留まらず、手習いを通して「ものを読む」ことを教えた。なかでも多種多様な知識を盛り込んだ習字用・読本用手本である往来物が数多くつくられ、用いられるようになった。
往来物がつくられるようになったのは11世紀の中頃で、平安後期に遡るといわれる。もともとは進状、返状といった往返一対の手紙をいくつも収録して、初歩教科書の形に編んだものを意味した。『明衡往来』『東山往来』などがその代表で、室町時代の『庭訓往来』のごときは教科書界、ひいては教育界に大きな影響を与えた。
江戸時代になると、往来物は寺子屋の教科書として広く使用された。『商売往来』がテキストとしては重要な科目であった。商取引の言葉として、両替の金子、大判、小判、ほかにも新米、古米、早稲、問屋の蔵人、値段、相場、利潤などがある。『商売往来』の中では、361の項目が並べられ、その中に薬の名が45も出ていた。「…そもそも、商売の家輩に生れ、幼児の時より先ず手跡、算術執行肝要たるべきなり。総じて見世棚奇麗にて、挨拶、応答、饗応、柔和たるべし。大いに高利貧り、人の目を掠め、天罰を蒙るれば、重ねて問いに来たる人稀なるべし。天道の動きを恐れる輩は、富貴繁昌、子孫栄花の瑞相なり、倍々の利潤疑ひなし…」これが『商売往来』の結論である。
富山の売薬業も、読み、書き、算盤のほかに、行商地域の地誌、歴史の概略、懸場帳付(配置業者が得意先に配置した薬方、数量、金高および入金高を記した帳面)に関する計算カ、薬石の調合・薬付に関する知識が要求された。
算法と算盤
算術科目では、主として算盤を用い、関流の算法も取り入れられた。関流の算法については、富山の中田高寛の存在を忘れることはできない。高寛は元文4年(1739)3月、富山長柄町に生まれ、長じて富山藩に仕え、幼より算学を好み、後に乗除を学び、独学研鑽に努めた。安永2年(1773)、6代藩主前田利與は高寛の学才に感じ、江戸へ参勤の折、関流三伝の正統を伝えた山路主住の門に入れた。算学の奥義を極めようと難問に取り組み、安永8年(1779)関流算学の別伝印可を受けた。その後、高寛は富山に帰り、桃井町に算学の塾を開いた。富山はもとより、遠く伊勢、大聖寺、飛騨高山などからも算学学習の徒が集まったといわれる。
寺子屋「小西塾」
明和3年(1766)、富山西三番町に、小西鳴鶴が開いた小西塾(臨池居(りんちきょ))は、日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、その子有斐、有実、さらにその弟の有義が跡を引き継ぎ、明治の「学制」頒布の後も特例をもって廃止されず、明治32年(1899)まで続いた。有実が継ぐ頃は、商業取引、なかでも売薬の行商が盛況を極め、簡単な記帳や算盤が生活上必要のものとなり、私塾(漢学塾)の色彩が次第に薄れ、寺子屋の性格が濃くなった。特に、売薬を重視する傾向が強くなった。
本草学
富山売薬が全国に行商を拡大し、継続したのは、教育施設が充実したところに要因があったが、これとともに藩当局も、この分野の研究を進めていたことも見逃せない。それは藩主の本草学の研究であった。
富山売薬が販売する漢方薬は、主として売薬行商人が自宅で製造・調合したため、薬草に対する目利きは重大な関心事であった。富山売薬の最初は「反魂丹」と「奇応丸」のほか2、3種の薬品に過ぎなかったようであるが、幕末の頃には行商人は約2700人に達し、和漢医学の成果を取り入れた処方も約数十種類に達した。したがって売薬業者は信用保持のため、原料生薬の入手と、その吟味、薬剤の調合には特に意を用いた。売薬の原料である生薬の真偽鑑定が重要となり、ここに薬学(本草学)が生まれることとなった。
本草学は博物学であり、動物・植物・鉱物などを研究し、かつその薬用について研究する学問で、中国では「医薬の学」と称した。
本草学の研究にとりわけ大きな功練を遺したのが10代藩主前田利保である。殖産興業に取り組み、国産奨励、経済振興を図ったが、本草学の権威でもあった。江戸藩邸に草花を植え、貝原益軒の『大和本草』を読み、小野闌山の『本草綱目啓蒙』を学んだ。
また、江戸において草木虫魚金石類の品評会を開き、これを「赭鞭会(しゃべんかい)」と名付けた。一方、富山では、富山では藩士や医師に所蔵する薬草・薬石その他の珍品奇物を提供させ、また売薬商に命じて他国の物産を収集した。嘉永6年(1853)梅沢町大法寺において、富山藩薬品会を開催し、出品数は211点にのぼったという。
藩主利保はまた、東田地方に薬草園をつくり、薬草の栽培・普及に努め、売薬業の振興に寄与した。退隠後、八尾方面の山地河川を廻り、薬草を採集し、『本草通串(ほんぞうつうかん)』(94巻)など、植物通鑑ともいうべき大著を作成した。絵師山下守胤・木村立嶽・松浦守美らによって写生された大図鑑『本草通串証図』(5巻)は見事である。
神農信仰
富山市にある於保多(おおた)神社は、もともと富山藩と関わりの深い神社であるが、天神様のほかに、藩主の前田利次、正甫(まさとし)、利保が合祀されている。正甫は売薬や古銭収集でも著名だが、富山城址公園には「売薬の祖正甫」の立像が仰がれている。
前述の利保の業績で有名な「赭鞭会」の赭鞭とは、赤い鞭のことで、「神農」の故事によるものである。神農とは、中国の神話、伝説上の帝王で、人身牛首の存在ともいわれる。中国の歴史書『史記』の中では、神農は木を切って鋤を作り、木をたわえてその柄を作って人々に耕作を教えたという。また、赤い鞭で草木を打ち、百草を嘗めて薬草を発見したとある。このことから中国では穀神、薬神として信仰するようになる。これがわが国に伝わって信仰されるようになる。神農信仰は、遣隋使や遣唐使によって大陸文化が伝来された時代に、その萌芽があったといわれる。平安・鎌倉時代の重要な医薬文献にも神農の名が見られ、また、室町時代には雪舟が水墨画で神農を描き、五山の僧の月舟寿桂が「神農像賛」を遺していることはよく知られている。
売薬業の家では、神農は守護神として厚く信仰され、その肖像は掛軸や木像などの形となって親しまれている。また、それと一緒に、商売繁盛を願って弁財天を飾ったり、富山で広く信仰されている天神像を飾ったりする家も少なくない。県内最大の製薬会社の一つである広貫堂の玄関には、昭和11年(1936)松村外次郎作、高さ263センチの神農像が展示されている。
近代化と薬業教育
明治維新とともに、西洋医学・薬学が取り入れられ、和漢医学や和漢薬は一時壊滅の苦難にさらされた。長年の努力によって築かれた富山売薬業も、瀕死の瀬戸際に追い込まれた。売薬業者は苦心惨胆、業務の継続に努めるとともに、西洋薬学の研究に迫られた。それは明治5年(1872)の「洋学授与願」となり、翌6年には文部省への「舎密学校建設願」となって現れた。これが本県における薬学校設立の最初の声であった。同9年には広貫堂が製薬会社として許可され、富山売薬業の中心を成してきた。特に、薬学教育の推進にあたって尽カし、その役割と功績は大きい。
明治26年(1893)富山市の補助金300円を基に、広貫堂、弘明堂、師天堂、富山薬剤会社、保寿堂、精寿堂などの寄付金で賄われて、梅沢町の広貫堂の向かい側に敷地を求めて校舎を新築、富山県における最初の薬学校(共立薬学校)が創設された。共立薬学校は明治30年(1897)11月に市立となった。
このように売薬商人の教育に乗り出したのであるが、入学者が少なく、有識者はまず生徒の募集に苦しんだ。同33年、富山市議会は校舎が火災にあったのを機に一旦は廃校の決議をしたが、熱心な売薬業者たち、特に青年たちはそれを阻止、撒回させた。その後、売薬業者らの努力により、明治43年(1910)に県立薬学専門学校となり、さらに大正9年(1920)には官立薬学専門学校となって、薬剤師の養成を目的とする学校となった。そのため、初期の目的であった売薬行商人の養成は頓挫する結果となった。
そこで売薬業者は、大正13年(1924)頃から再び行商人の養成を行う薬業学校の設立運動を展開した。昭和2年(1927)4月、この願いが取り上げられ、実業補習学校規程により、市内の柳町尋常小学校の一部で市立富山薬学校を開校した。その後、この学校は同8年に文部省から優良実業補習学校として認定され、同14年には5年制に昇格した。
昭和23年(1948)4月、県立富山薬業高等学校と県立滑川高等学校薬業科が設立され、同年9月にはその県立薬業高等学校と県立北部高等学校が合併して、県立北部高等学校薬業科となった。また、同33年には県立上市高等学校薬業科が設立された。
一方、大学教育では、同24年に富山大学薬学部が発足し、昭和50年(1975)10月にはそれを受け継ぐ形で富山医科薬科大学が開校した。さらに、同53年には大学内に「和漢薬研究所」が設立され、富山売薬の歴史は新たな展開を見せようとしている。 
 
売薬美術館-売薬は文化を運ぶ-

富山売薬が全国に販路を広げた理由として、「先用後利」の販売システムを早くに整えたことが挙げられる。しかし、それと並んで「進物」の魅力も得意先を惹きつけたことであろう。富山の売薬といえば、現在でも紙風船が思い出されるほど、進物との関わりは深い。また、馴染み深いパッケージデザインという点も、富山売薬のイメージ形成に役立っていたと思われる。
【江戸時代】薬袋の様相
配置薬の場合、薬袋にはいくつか分類がある。「上袋(うわぶくろ)」は「中包(なかつつみ)」に包んだ薬を入れる袋である。また、同一の上袋をまとめて入れる袋を「差袋(さしぶくろ)」と呼ぶ。それぞれの袋には薬品名、製造者名、そして効能などが記されている。袋以外にも、薬によっては桐箱を使用しているものもあり、そこには袋と同様に印刷の施されたラベルが貼られていた。
江戸期の薬袋は、墨刷り一色で文字だけのものが多く、印などに朱色が使われている程度である。図柄は、熊胆が処方された薬には熊が描かれるように、一目で何の薬かが分かるようなものとなっている。例としては、虫下しの薬=寄生虫、風邪薬=達磨や鍾馗(しょうき)、子供薬=幼児、婦人薬=女性などがある。ただし、これらの図柄は、富山独特のものとまではいえず、全国の売薬産地などとおおむね共通するものと考えてよいだろう。
この頃の薬づくりは、売薬人が自ら行う自家製造であったが、その際に薬袋も一緒に作られていた。ただ袋の印刷に使う版木は、専門の彫師に依頼しており、その技術が次に述べる「売薬版画」の基盤となるのである。
売薬版画の登場
最初の進物といわれているのが、売薬版画(錦絵と呼ばれていた)である。江戸時代後期から明治時代後期にかけて、進物の主流を占めていた。その始まりについては未詳の部分も多いが、最初は江戸や上方の浮世絵を配ったものと思われる。浮世絵が進物に取り入れられた理由として、軽くてかさ張らないため、持ち運びに便利であった点が挙げられよう。その後、天保年間(1830〜1843)前後から、歌川広重(うたがわひろしげ)などの江戸の浮世絵作品が富山でも刷り始められたと考えられている。続いて嘉永年間(1848〜1853)になると、地元の絵師である松浦守美(まつうらもりよし)が登場し、数多くの版画作品を描いていった。
売薬版画の最大の特徴は、ごく初期を除いて富山の版元によって、富山の絵師の作品が、富山で制作、されたことである。しかし、浮世絵に比べて色数が少なく、紙も粗悪なものを使うなど非常に安刷りであった。これは、進物という性格上、制作費用を低く抑えていたことを示している。
主題には当時流行していた図柄が選ばれており、江戸期は名所絵や役者絵など娯楽性の高い作品のほか、暦絵や熨斗絵のように実用的な作品も制作された。それらの作品は江戸浮世絵に範を取ったものが多く、守美もしばしば江戸版からの引用を行なっている。このことからも売薬版画は、地方の人々が江戸文化の代表である浮世絵に触れるため、媒体の役割を果たしていたといえよう。
また、富山では江戸時代から芝居が好まれ、それに伴ない浄瑠璃も大流行した。この芝居熱・浄瑠璃熱は町人によって支えられており、特に売薬人は役者絵などをただ配るだけではなく、その題材を語って聞かせたという。この「売薬さんの一ロ浄瑠璃」が、売薬版画の魅力をより高めたと思われる。売薬版画は目で見るだけではなく、語りを伴なうことによって多くの情報を伝えていたのである。また、この時期は、扇子・糸・縫針・元結なども進物として配られていた。
【明治時代】新時代を迎えて
明治の新時代に入っても、初期の頃は前代のデザインを踏襲した薬袋が多い。しかし、「秘伝」「秘方」「家伝」などの表記は禁止され、代わって「官許」の文字が登場した。また、政府の指導で「薬づくり」は自家製造から製薬会社へと移行していき、これに伴ない薬袋の印刷も次第に専門業者に依頼するようになった。加えて、新しいデザイン(ポンチ絵風の図柄など)も登場し、新時代の変化が現われ始めていた。
一方、政府は洋薬尊重の方針を取り、売薬営業税や売薬印紙税などを課したため、売薬業は一時困難な時期を迎えた。しかし、それらを克服し、明治20年代になると富山売薬は再び進展し、また、製薬技術の改良(丸薬器の開発)もあり大量生産の時代に入っていった。
売薬版画の最盛期
明治時代に入ると、売薬版画にも輸入染料が使用され初め、「赤絵」と呼ばれる強烈な色彩の作品が登場した。そして明治20年代における売薬業の成長に伴ない、売薬版画は質量ともに最盛期を迎えた。
これに合わせるように尾竹国一(おたけくにかず・新潟県出身)が登場した。国一は明治23年から32年(1890〜1899)末まで富山で活動し、松浦守美と並び多数の作品を遺している。また、需要の伸びに合わせ、尾竹竹坡や国観(国一の弟)、竹翁、国晴など多数の絵師が登場するとともに、版元も富山市内や水橋に加えて、滑川にも成立した。しかし、多くの作品は相変わらず安刷りの範囲を出るものではなかった。
明治時代における主題は、初期の頃は世相に合わせて開化絵も描かれていたが、中期になると役者絵が主流となる。加えて、時局報道絵(日清戦争など)が現れるのもこの時期である。このことは、売薬が得意先としていた地方の農山村部にも、より速い情報を求める「情報化」が進展してきたことを示している。
この他、1枚に多くの役者を描き込んだ役者絵が多数見られる点も、この時期の特徴である。これは浮世絵の続物を1枚にまとめたものであり、プラスの商法である進物商法らしい付加価植の付け方であろう。また、この頃すでに、後の時期につながる動きも見られる。それは判の大小や出来具具合の上下などによる、作品のランク分けが明確になったことである。このことが後の進物の多様性につながっていったのであろう。
【明治から大正・昭和へ】売薬版画の衰退
売薬版画は明治30年代半ば以降、木版から石版へと印刷技術の転換が進むにつれて次第に衰え始めた。理由として、新聞や雑誌などが普及し、情報伝達手段としての役割を果たせなくなったことが挙げられる。また、色刷りの印刷物が珍しくなくなったことや、さらに写真の普及によって版画の魅力が失われたこともあろう。
売薬版画は、最後は近代印刷へと印刷方法を変化させつつ、昭和初期まで続いた。その頃になると「喰合せ表」なども登場し、広告チラシ類に吸収されていったと考えられる。
一方、印刷技術の発展は、パッケージデザインに多彩さを加えていった。大正・昭和期になると、当時流行のデザイン(アール・デコ調など)が取り入れられるなど、伝統的なデザインからの脱皮が進んでいった。
紙風船の登場−進物の最盛期−
富山では明治30年代に紙風船が流行したというが、このことが進物に取り入れられるきっかけになったのではないかと想像される。小さくて軽い紙風船は、売薬人にとって売薬版画と同様に扱い易い品物だからである。進物の主流は、売薬版画から子供向けの紙風船へと移っていったのである。
昭和初期が売薬進物の最盛期であり、当時、富山市内には、20軒以上の進物商が営業していたという。その頃の進物には、大人・家庭向け=九谷焼の湯呑・若狭塗の箸・コースター・氷見の縫針・手拭・暦・喰合せ表、子供向け=紙風船・絵飛行機・折紙・トンガリ帽子などのように、多種多様な品物があった。
また、薬を入れ替えている時に、民謡(越中おわら節など)を歌ったり、種籾や牛耕などの農業技術を伝えるといったことは、「品物ではない進物」であったといえるだろう。
進物は、得意先ごとに売り上げの5パーセントを目安に配られており、売上高の上下によって品物にも違いがあった。しかし、最盛期は長く続かず、日中戦争が始まると物資統制のため不要不急のものとされ、売薬進物は一時姿を消してしまった。
広告チラシ類について
進物とともに、各得意先に配布したものとして広告チラシ類が挙げられる。広告チラシ類は、江戸期以来の引札(ひきふだ)の系譜を引くものと考えてよい。引礼は明治・大正の頃まで制作され、富山売薬でも薬種商や売薬商らの様々な作品が残っている。また、売薬版画の中にも画中に宣伝文句を入れたものが見られ、広告チラシと判別し難い作品もある。昭和になると、喰合せ表や暦などの入った多彩な広告チラシが現われるが、人々は主としてこれら作品のことを絵紙(えがみ)と呼んだのであろう。
【現在の富山売薬】
第二次世界大戦が終わると、様々な統制が解除され、富山売薬は再び活発な行商を行うようになった。戦後、薬袋は印刷業者から購入するようになり、売薬人が薬袋づくりを行うこともなくなっていった。伝統的なデザインは姿を消していき、大衆薬と変わらないデザインが主流を占めるようになった。
また、業界では過当競争を防ぐため、進物について高価な品は廃止して、紙風船やチラシ類に留める申し合わせを行なった。このため、現在ではゴム風船ぐらいしか見られなくなってしまった。しかし、今でも角型の紙風船を覚えている人は多く、富山の売薬人と紙風船は分かち難く結びついている。また近年、富山の薬袋のレトロなイメージが若い人を中心に人気を集めている。
進物とパッケージデザイン、いずれも人々の目に一番触れやすいものである。そのイメージは富山売薬にとって大きな財産であろう。
 
近代産業を育てた富山売薬-資本が近代を拓く-

江戸時代から富山では、和紙の生産や印刷業などが売薬に関わって興っていた。明治時代になると、売薬業者たちが長年かけて貯めたお金や知識が、新しい基幹産業を興すために役立てられた。
左の模式図(産業樹)は、売薬を中心に富山の産業が育っていったことを示す、いわば「売薬の木」ともいえる図である。木の大本は、江戸時代に興った売薬業者と古くからの農業者(地主)が支えている。明治時代以前には藩のきまりで、蓄積した資本を他に投じることが禁じられていた。明治を迎えるとその束縛が外れ、売薬業者は金融機関をはじめ、水力発電・鉄道・各種製造業・出版や印刷・教育などの幅広い分野に投資していった。
昭和・平成と時代が進むにつれて、産業の姿が電子機器・バイオテクノロジー・ITなどと変化しても、そのルーツが売薬に求められるものが数多い。この「産業樹」はそのことを示している。
地元資本でできた富山の銀行
明治5年(1872)国立銀行条例が公布されてから各地に銀行ができ、富山では明治11年(1878)に富山第百二十三国立銀行が設立された。その銀行の頭取は士族の前田則邦だったが、5人の役員のうち2人が売薬業者であった。それは副頭取の密田林蔵と取締役の中田清兵衛(14代)で、この2人が実質的な資本提供者であった。
その後、明治16年(1883)に金沢にあった金沢第十二国立銀行と合併、名称を富山第十二国立銀行とすることになった(明治30年に十二銀行と改称、私立銀行に)。士族中心の金沢十二と売薬業者や地主などが中心の富山百二十三が合併することにより大きく発展し、北陸地方や北海道に勢力を伸ばした。
明治後期には、第四十七銀行・高岡銀行・富山貯蓄銀行・密田銀行など各地に中小の銀行が設立されたが、それらにも多くの売薬資本が関わった。昭和18年(1943)、戦争遂行のための国策として「1県1行」の方針が取られ、十二・高岡・中越・富山の4銀行が合併し、北陸銀行が誕生した。その初代頭取になったのは、十二銀行頭取で薬種商の中田清兵衛(第15代)であった。これらの銀行は、富山県の産業を支える重要な要となっている。
水力発電から各種製造業へ
薬種商の金岡又左衛門(初代)が、明治30年(1897)、「洪水禍のエネルギーを電力に変える」という密田孝吉の夢に共鳴し、富山電灯を設立。同32年には大久保発電所を建設して150キロワットの電灯用電力を送電したのが、富山県の水力発電の始まりであった。
富山電灯への出資の中心になったのは、金岡をはじめ中田清兵衛・密田兵蔵・邨沢金広・松井伊兵衛・田中清次郎らの薬種商や売薬業者の人々であった。また、十二銀行などの銀行資本も、この新しい事業に積極的に助力した。
富山電灯は明治42年(1909)に富山電気、昭和4年(1929)に日本海電気と改称し、その後各地にできた中小の電気会社を併合して地方の大手会社に成長した。昭和16年(1941)、電力の国家管理が実施されたため、北陸3県の電力会社がまとまって北陸合同電気を発足させた。同26年、戦後の電力再編成時、北陸の重要性が認められて北陸電力9電力会社の一つとして設立され、今日に至っている。
一方、富山県内では豊富で安い電力が利用できるため、明治末期以降、紡績・化学・金属・機械などの近代工場が次々と設立された。大正10年(1921)には、富山県の工業生産額が初めて農業生産額を上回った。
売薬業者は、これらの諸会社の設立に参画したり、株主の形で関わったりするものが多かった。主な業種は、はじめ織物業が多く、その後、商業(呉服・書店)・運輸・水産・保険・出版・新聞・広告などの分野にわたった。また、売薬関連業種としては容器製造・印刷・製紙(和紙)などがある。
容器製造は薬品を入れるビンやカンなどの製造であり、印刷は各種の薬袋や効能書・薬箱などの印刷、製紙は売薬を包装するための紙袋、あるいは膏薬用の紙(合紙=和紙を何枚も張り合わせて作った)などを生産することであった。容器の曲面などに直接印刷する特殊印刷の技術も発達した。
容器製造・印刷・製紙などは、はじめ売薬関連業種として出発したが、大正・昭和の時代を経るにしたがい、他の業種との結びつきが次第に強くなり、売薬とは別の分野で大きく成長した企業が多い。
売薬ルーツの優れ物たち
売薬問題の企業家たちは、資本のみでなく売薬で培った知識や情報、事業の見通しの良さなどを発揮した。売薬関連の企業に源を持つが、現在ではまったく関係のない分野で成功している業種がある。
富山名産「ますのすし」は、曲げ物と呼ばれる木の容器に笹の葉を敷き、その中にすしが仕込まれ、落とし蓋をし、しっかりと紐で結わえられている。そのすし桶を特製の紙箱や紙袋に入れて販売するのである。結構、手の込んだ包装であるが、そのことによって中身の品質が良好に保たれ、しかも、持ち運び易いように工夫されている。この「ますのすし」のパッケージの工夫が、元をたどれば売薬に行き着く。薬を入れる容器としての曲げ物や薬袋・紙箱などの応用・進化したものが富山のパッケージ産業なのである。
県内には印刷紙器(印刷を施した紙器)の製造業が多く、アイデアを凝らした意匠の優れた包装を数多く見ることができる。また、薬小袋やおまけ紙、紙風船などの印刷意匠を手掛けた人たちの中から、グラフィック・デザイナーが生まれ、富山の広告文化を特色あるものにした。
薬の缶から缶ビールヘ
私たちが見慣れている缶ビールと、生ビールの家庭用ミニ樽は、富山の売薬関連産業から生み出された。缶ビール容器などを生産している武内プレス工業は、明治時代に創業した「牛嶋屋金物店」を継承し、ブリキ缶などの薬の容器を作ってきた。明治34年(1901)には日本初のアルミニウム製高貴薬(六神丸など)容器を開発。以後、広貫堂と一体となって家庭薬容器の製造・研究を続け、押出チューブ、アルミ缶などの分野で次々と新製品を開発し、数々の特許を得ている。また、缶の表面の特殊加工やプロセス印刷などでも独自の技術を持っている。
さらに、薬品の品質保持にはビンやガラス容器が有効な場合もあり、製壜工業も発達した。ガラスアンプルの開発から、各種の管ビンや理科学器の製造に発展した。また、戦後になって、ガラスや紙の代替ともいえるビニール、さらにプラスチック製造業の発達も促した。 
 
「薬都」を築いた富山売薬の試練-受け継がれる売薬理念-

富山売薬がその販路を全国に確立したのは、江戸中期、宝暦年間(1751〜1763)の頃とされている。その後も発展を続け、行商人の数は富山藩だけで文化年間(1804〜1817)に1700人、文久年間(1861〜1863)には2200人を超えた。
江戸時代に猪谷の関所を通った人々の記録を見ると、北陸では越後・越中・加賀・能登・越前の人々が飛騨・信濃を通って尾張を抜け、三河・遠江を越えて江戸へ、または伊勢・大和を通って大坂方面へと向かっていた。猪谷関所を通ったのは、加賀藩の侍、富山藩の侍、また天領があった飛騨や越前の侍が最も多く、次いで多かったのが越中の売薬人たちで、その次がお寺やお宮参りの諸国の人々だった。
『大阪商業史資料』でも、天保年間には売薬の第一に富山売薬が挙げられ、富山反魂丹は、京都の雨森無二膏・伊勢の朝熊万金丹・大和西大寺の豊心丹など、当時の著名薬46種の中で第1位を占めている。
富山売薬の年間売上高は、富山藩だけで20万両(5貫文=1両=米1石)にのぼり、売薬業者が藩に納める、いわば営業税などは藩財政の15パーセントにも及んだという。富山城下では松井屋(志甫屋・荻原)源右衛門、茶木屋(中田)清兵衛、能登屋(密田)林蔵、布目屋(松井)伊兵衛などが、また富山藩に隣接した加賀藩領でも新庄町の金剛寺屋(金岡)七右衛門、滑川(高月)の高田屋清次郎などが売薬によって財を築いた。
当初は大きな産業もなく貧しかった富山も、この富山売薬とともに全国有数の町に発展していったのである。富山藩は隣国に加賀藩領百万石という大藩を控え、十万石という小藩と考えられがちだが、江戸時代に全国で百数十、多いときは200ほどあった藩の中で、40番目ほどに位置する。全国的には大きな方に分類される藩であった。
驚かされるのは、廃藩置県が行われた明治4年(1871)の城下町富山の人ロである。全国第9位ほどに位置する大きな町になっていたとされている。ちなみに1位は世界でもトップクラスの大都市東京(69万人)、2位が大阪(29万人)、3位が京都(23万人)、4位・5位が名古屋・金沢(10万人台)、6位が広島(7万人)、7位・8位が和歌山・横浜(6万人台)、そして仙台と並んで第9位クラスに5万人台の富山があった。これはひとえに「富山売薬」という一大産業のお陰であった。
明治34年(1901)12月号の横山源之助著『新小説』には、「当時の富山市は、戸数一万五千、人口六万、このうち売薬業で生活している者、製薬工場七ツ、薬種商五十八軒、売薬営業者二百二十四人、請負業者三百十二人、行商人は四千百九十六人であるが、実際の行商人は七千人以上、それに広貫堂職工男女四百人など、製薬工場通勤者を入れると莫大な数、十万石のご城下というよりも、売薬の都会…」といった記述も見られる。
富山売薬人の数は、幕末でおよそ4,500人。明治になってさらに増え続け、明治25年(1892)に6,880人、明治45年(1912)に8,094人、大正15年(1926)11,752人、そして昭和9年に戦前のピークである14,160人を数えている。富山売薬をその後従事者数で見ると、昭和5年から昭和9年にかけてが、富山売薬史上、最も隆盛な時期であった。
相馬御風作詩の「富山売薬歌」
昭和11年(1936)に、富山県売薬同業組合でつくった「売薬歌」なるものがある。「都の西北…」の早稲田大学校歌でも知られる相馬御風の作詩によるもので、この「売薬歌」からも往事の勢いを偲ぶことができる。
   学の進歩にしたがいて 富山薬の光輝ある
   歴史貴みいざわれら 努め励みて止まざらん
海外にも飛翔した「富山売薬」
この「売薬歌」で「満州支那の奥地よリ メキシコ南洋の果てまでも」と歌われている点についてだが、富山売薬は明治期に日本人の大陸進出などに伴ない、海外にまで進出していった。主として海外へ移住する日本人を追ってのものだったが、明治42年(1909)の『富山売薬紀要』によると、同19年に藤井諭三がハワイで配置売薬を始めたのを皮切りに、土田真雄が韓国へ、隅田岩次郎が清国アモイヘ、寺田久平や重松佐平が上海へと飛翔した。明治40年代の輸出売薬従事者は43名と4社。朝鮮半島、中国大陸、ハワイ、台湾、ウラジオストックなどから、さらに、遠くブラジル、インドにまで、富山売薬は日本人の行くところ、どこへでも進出して行ったのである。
富山売薬最大の試練「売薬印紙税」
富山売薬はこうして明治以降も伸張・発展を続けた。
しかし、それは厳しい試練にさらされてのものだった。
明治政府は「維新」の言葉からもわかるように、諸事を西欧化に一新することを基本とした。それは医薬・医療制度でも同様であった。政府は明治3年(1870)、衛生上、危害を生ずる怒れのある薬の販売を禁止し、有効な薬の製造を奨励する−との趣旨から「売薬取締規則」を発令し、従来の売薬の取り締まりに乗り出した。
当時、「神仏・夢想・家伝・秘方・秘薬」などの言葉を用い、「万病に効く」といった、あまりにいい加減な「妙薬」なるものが巷に野放し状態だったからである。富山売薬にとって不幸だったのは、西洋医学を第一とする維新政府関係者あるいは当時の有識者らには、漢方薬などとともに富山売薬の和漢生薬類の薬も、巷の「まがいものの薬」と同様に写り、「効果のない気休めだけの薬」との偏見の目で遇されたことである。
こうした政府の偏見で導入されたのが、明治15年(1882)に布告され、翌16年1月1日から施行された「売薬印紙税」だった。明治10年(1877)の西南の役以降の財政破綻の打開と、その後の伝染病対策費捻出のためとされているが、その背景には、「売薬の薬など害にさえならなければ、あってもいいが、なくなっても一向に構わない−」とする政府の売薬に対するいわゆる無効無害主義の立場があった。
新税は、定価1銭から10銭までは1割、それ以上は5銭増すごとに1銭の印紙を製品に貼付することを義務づける形で課せられた。これは売薬業者にとって大変な重税であった。特に当時、全国の売薬で大さな地位を占めていた富山の売薬業界が受けた打撃は深刻で、同15年に富山の売薬生産額672万円、行商人9,700人だったものが、「売薬印紙税」導入後の同18年には生産額50万円、行商人5,000人にまで激減した。わずか3年でおよそ12分の1にまで規模が縮小したのである。まさに壊滅状態に近かった。
「売薬印紙税」は、大正15年(1926)に廃止されるまで、44年もの間、売薬業界を苦しめ続けた。実は、前述した富山売薬人らの海外飛翔も、海外売薬にはこの重税が免除される特典があったからともされる。
近代薬事法規制度への対応
しかし、明治政府が行った、西欧にならった薬事関係法制などの近代化は、富山の売薬業界などには過酷なものであったが、反面、近代国家建設にとっては当然なことであった。明治10年(1877)に太政官布告された「売薬規則」では、薬の品質確保を重点に、製薬を主とする売薬営業者を規定し、さらに製薬せずに販売だけを行う請売業者、実際に薬を売り歩く行商人といった区分を初めて明確にした。製薬を行う売薬営業者は、「薬の品質に個々に責任を負うべし」とされたため、こうした政府の方針に対応して、より良質な医薬品製造のため明治9年(1876)に現在の広貫堂の前身である調剤所広貫堂が設立された。明治10年代に入ると、富山では売薬業者らが共同で次々と会社を設立し、また、薬学校も設立した。
これには政府も呼応し、売薬に対する考えを「無効無害主義」から「有効無害主義」に転換していく。
それが「売薬印紙税」の廃止につながっていくのだが、それに先見ち大正3年(1914)、政府は「売薬法」を制定し、より有効で安全な医薬品製造のため、西欧先進諸国と同様に薬剤師制度を設け、「薬剤師あるいは薬剤師を使用する者、または医師でなければ薬を調製してはいけない」とした。ここで初めて製薬に「薬剤師」の関与を義務づけたのである。
それまでの売薬業者は、行商から帰っては自宅で思い思いに次に配置する薬を自ら製造し、また行商に出かけた。だが、この「売薬法」制定の後は、薬剤師を使用するか、あるいは薬剤師を雇用している会社においてでなければ製造ができなくなった。また、その薬の処方も、従来のように「家伝」「秘方」などと称して秘密にしておくことは許されず、配合成分を公開することが義務づけられた(各業者は一部に家伝などの未公開の薬も扱った)。
ちなみに「売薬」という言葉は、戦時下の昭和18年(1943)に公布・施行された薬事法の制定まで、現在でいうところの「市販医薬品」の意味で法律上でも使用されていた。しかし、薬事法で薬は「日本薬局方医薬品」と「局方外薬品」に大別され、「売薬」は「局方外薬品」と同一に医療品全般に一括されることとなり、法律の文面から「売薬」の文字は消えた。
戦後のピークと「配置販売業」
戦争が激しくなるにつれ、あらゆる物が戦争遂行のために動員された。物資はもちろん、人員も不足し、経済の統制が求められた。企業整備令による売薬営業者の合併や置き薬の一戸一袋制が命じられ、代々の得意先からも置き薬を引き揚げざるを得ない苦渋も強いられた。
物資統制などの混乱は昭和26年(1951)ぐらいまで続いたが、衛生状態の悪さから駆虫薬などが全国で求められ、同25年には7594人もの売薬さんが全国に出かけていた。戦後の廃墟の中から、富山売薬はまたたく間によみがえったのである。そして昭和35年(1960)の薬事法改正で、配置売薬は法文上「医薬品配置販売業」となり、わが国における医薬品販売業の一つに規定された。翌36年2月には「配置販売品目指定基準」も発表され、いわゆる「置き薬」の定義も明確にされたのである。
先進諸国のどこにも「配置売薬」といった医薬品販売形態は存在しない。したがって戦後の法整備においても、配置売薬という形態の存続の是非が検討された。これに強い危機感を抱いた、特に富山の薬業界の首脳たちは、伝統的地場産業でもある配置売薬が法律上に明記され、存続できるように、機会あるごとに厚生省や関係方面に陳情・要請を重ねていた。薬事法にわが国独自の「配置販売業」という医薬品販売形態が明記されたのは、当時の富山売薬人たちの大変な努力の賜物だった−と言っても決して過言ではない。
こうして富山売薬は、戦後もまた、全国の家庭で受け入れられ、昭和36年(1961)には富山から全国へ出かける売薬さんの人数は11,685人を数えるまでになった。しかし、同年が戦後のピークであって、それ以降は毎年減少し続けている。
「現地居住」と「企業化」
減少に転じた原因の第一は、昭和33年(1958)に新国民健康保険法が公布され、同36年から実施された国民皆保険制度だった。同制度は国民の医薬品需要を、一般大衆薬から医療用医薬品に一挙に大転換させた。
それまでは医薬品全体に占める割合は、一般大衆薬が医療用医薬品を上回っていた。ところが、国民皆保険制度で「医者へ行けば、保険でただ同然で薬がもらえる」との風潮が生じ、一気に逆転してしまったのである。その打撃は深刻で売薬業者から自殺者が出るほどだった。
第二の原因は、高度経済成長とともに、地元富山での就職先が増え、長期間、親元や家族と離れて暮らす配置販売業が敬遠され始めたことと、後継者難、あるいは経営・営業の効率化から、得意先のある土地に移り住んで配置販売業に従事する「現地居住」が、昭和30年代末から進行したことが挙げられる。また、移り住んだ配置販売業者たちが、株式会社や有限会社を設立し、営業地で配置従事者を多数雇用して業務を行う「企業化」の進展と、これら業者との競合激化も、富山からの売薬さんの減少を促した。
富山県から全国に出かける売薬さんの数は、平成12年(2000)には、戦後のピークであった昭和36年(1961)当時のおよそ5分の1弱の2,438人にまで減少した。
しかし、全国で配置販売業に従事する者はおよそ2万9千人で、その総数はここ数年さほど減少していない。
富山の売薬さんなど、個人で営業する者は減少しているものの、大きな配置販売会社の従業員数が増えているからである。配置販売の最大手では一社の配置部門だけで320億円(平成12年度)も売り上げる会社も生まれた。このほか年間売上げ百億円単位の配置販売会社が1社、70億円から60億円が2社、40億円から30億円が数礼あるが、これら経営者やそれ以外の全国に点在する多くの配置販売会社の経営トップの70〜80パーセントは、富山から営業県へ移り住んだ人か、その子息たちなのである。つまり、富山売薬の系流が、その営業拠点を富山から全国各地に拡散しているのだ。
「売薬さん」と「配置員」
しかし、富山売薬に代表される配置販売業界全体が、いま、大きな転換期を迎えているのも間違いない。平成11年(1999)の全国配置薬生産額は588億円で、前年の664億円に比べて76億円も減少した。これは医薬品販売の規制緩和で、これまで医薬品であって配置薬に分類されていたドリンク剤やその他が医薬部外品に移行され、コンビニエンスストアなどでも販売可能となったことによる統計分類上の減少もあるが、やはり全体として苦戦を強いられていることは否めない。
配置薬だけではない。大衆薬全体もその比率を落としている。少子高齢社会の進展に伴ない、国民医療費(平成13年度・30兆7千億円)は増大の一途をたどり、いまだに年間およそ1兆円ずつ増え続けている現状で、自分の軽度な病気は自分で治すセルフメディケーションのぬ必要性が叫ばれ、それに伴ない国民の負担増加、一般大衆薬の需要は高まるものとされてきたが、現在の医薬品総生産額は約7兆円で、そのうち医療用医薬品87.5パーセント、一般大衆薬12.6パーセント、配置用医薬品0.9パーセントで、セルフメディケーションに貢献するはずの配置用医薬品が一般大衆薬とともに、皮肉にもその比率をむしろ低下させているのである。
比率低下の外的要因には、長引く深刻な消費不況やデフレ経済下での一部業者の極端な安売り攻勢、さらに前述した医薬品販売規制緩和など、国の政策の影響などが挙げられる。だが、業界の内的要因も考えられる。それは若い配置員に向かってある配置得意先が語ったという「あなたたちは単なるクスリ売りのセールスであって、『富山の売薬さん』とは違う」の言葉に如実に現れているように思われる。
富山売薬はなぜ、江戸元禄年間から三百有余年もの間続いてきたのだろうか。その理由の第一は「先用後利」の商法でもなければ、特有の製品によるものでもない。それはおそらく、ひとえに「売薬さん」たちの総体的な「人間カ」だったのではなかろうか。であるから、仮に配置薬業が衰退するとすれば、それは本来の配置薬業の衰退ではなく、配置薬業界を構成しているヒト(人的要素)の衰退であり、特に、末端の顧客と直接応対する配置員に起因しているように思えてならない。
やむを得ないことではあるが、富山売薬が以前のように富山から出かけて行った個人営業の、いわゆる「売薬さん」たちによるものではなく、営業地で採用した配置員が訪れるクスリのセールス形態に変質していっているところに大きなリスクが隠されているように思われる。
「富山売薬三百年」存続の秘訣
富山売薬の家の次男に生まれ、昭和26年(1951)に単身東京に出て、一代で都内を中心に約150店舗、従業員約600名を擁するドラッグストアを育て上げた人がいる。平成12年(2000)9月に東証2部に株式上場も行なった全国有数のドラッグストアチェーンである株式会社セイジョーの創業者で社長の斎藤正巳氏である。
同社は、他の大手ドラッグストアとは少々趣が異なる。社員1人当たりおよび売り場面積単位当たりの売上高が抜群に高いのだ。徹底した社員教育と説明販売で「薬局の東大病院」の異名をとり、利益率はドラッグストア業界ナンバーワンを誇る。その斎藤社長が、経営に積極的に取り入れているのが「富山売薬三百有余年存続の秘訣」であるという。
斎藤社長は言う。「富山売薬とは本来、個人業者のものだ。いろんなことを勉強していて話題が豊富で、話もうまい。知識プラス説得力もある。説得する貫禄もある。また、話し相手のいないご老人の話も上手に聞いてあげる。だからお客さんは『いい話を聞いた』『この人にまた訪ねてきて欲しいから、この人の置き薬を飲もう』という気になった。値引きも言い出さない。これがただの物販だったら、『もっと安くしろ』『もっと安く薬が手に入るよ』となる。富山の売薬さんは置き薬以外のところで、仲人もしたり、田畑の作り方の指導をしたり、いっぱい『タネ』を撒いてきたのだ。これが富山売薬に限らず、ほんとうの意味での商いではないでしょうか」。
同社の社員教育は、まず徹底した顧客への接客態度に始まる。挨拶から釣銭の出し方に始まり、それから医薬品などに関する知識へと移る。最近では、ロイヤルカスタマー登録という顧客サービス制度も設け、幾度も来店する顧客に関しては、レジなどで名前で呼びかけるように社員教育しているという。店頭販売において顧客一人ひとりを「個」で捉えるまでに指導しているというのだ。コンピュータによる情報管理でそれがいっそう可能となった。
では、この顧客一人ひとりの「顔」を実際に見て、その一人ひとりに個々に対応してきたビジネスの代表は何か。それは言うまでもなく一軒一軒の家庭を訪ね、その家の人の「顔」と「生活の揚」をしっかりと見て商いを行なってきた、他でもない富山売薬だった。
「礼儀作法」「教養」「モラル」
そうした「他人の生活の場」に足を踏み入れるにあたって、富山売薬人たちは砕身の注意を払ってきた。それには決して欠かしてはいけないルールがあった。それは「正直」であり、「勤勉さ」であり、さらに仏壇があれば必ず手を合わせ、その家のご先祖さまにまで敬意を表するといった「礼儀作法」であった。
置き薬を長年愛用してきた、ある地方のお得意先が作った川柳に、「戸を閉めて、またおじぎするクスリ売り」というのがある。富山売薬人にとっては、薬を売ることだけが商いではなかったのである。その前に、いかに礼偽正しく、美しくお客さんの前で振舞うか、自分の身のこなし、一つ一つをいかに洗練されたものにするかが勝負だったのである。その礼儀正しい態度にお客さんも応え、決して粗末に応対はしなかった。かつて、50年間に一度も値引きをしたことがなかったと話した富山の売薬さんは、その秘訣を「それはひとえに、正しい礼儀作法のお陰です」と語った。
富山売薬が三百有余年の風雪に耐えてきた要因に「先用後利の商法」「懸場帳」等などいろいろ挙げられる。そのいずれもが正しいかもしれない。しかし、それを超えて、その基本にあったものは、顧客を「個」で捉え、「個々」に対応し、その際に「正直」「勤勉」「倹約」を旨とし、さらに「礼儀作法」「教養」「モラル」に裏づけされた売薬人個々の「人間カ」だった。ひとえに、この「ヒト」に支えられて、富山売薬は江戸期から明治・大正・昭和という時代の風雪を乗り越えてきたように思えてならないし、この基本は平成の世になっても、その後も、なんら変わらないのではなかろうか。 
 
『医心方』の基礎的研究

『医心方』(1)全30巻は針博士(2)・丹波康頼が永観2(984)年に撰進と伝えられる(3)、現存する日本最古の医書である。かつその最大の特色と価値は、岡西(4)・吉田(5)・長沢(6)・新村(7)・馬(8)・小曽戸(9)らが報告するごとく、既散書を含む六朝・隋・唐を中心とする医薬文献などより多量の逸文が出典を明記のうえ引用されていること。およびそれらのすべてが、後世の改変を受ける以前の旧態で引用・保持されていることにある(10)。それゆえ、『神農本草経』(11,12)・『本草経集注』(13,14)・『新修本草』(15,16)・『食療本草』(17,18)、および『小品方』(19)・『素女経』・『玉房秘決』・『玉房指要』・『洞玄子』(20)など唐以前の医薬書を重輯・校訂する格好の資料として、本書はこれまでいく度も利用されてきた。
しかし『医心方』にかぎらず、所引文や断片的記述を研究資料とするにはその信頼性に対する基礎考察が不可欠である。当然ながら、このためには引用上の特徴や編述姿勢がまず把握されねばならない。あいにく現伝『医心方』には編者自身の序や跋がなく、その間の事情が不明瞭である。したがって中国医薬書の抄出・羅列にすぎないと単純に評論されることが多く、この方面には従来見るべき考察がなかった(21)。
さて『医心方』の巻30は、それ自体が一種の食物本草とも呼ぶべき、やや独立した体裁となっている。前述のごとく、当巻にも『神農(食)経』(22)・『本草拾遺』(23)をはじめとする既散医薬書の逸文が多量に保存され、唐以前の本草・食経書をうかがう上で資料価値がきわめて高い。さらに所引文の約半数量は書誌学的問題の少ない『新修本草』(24)や『証類本草』(25)中に対応文があり、それらについては信頼度の高い比較考察が可能である。
よって本報は、まず『医心方』巻30の構成・収載文・引文の取捨、の3方面より検討を加える。その結果、編著・丹波康頼の編纂姿勢と引用特徴、および日本の本草書としての価値を考察する。ひいては巻30のみならず、『医心方』所引文全体の信頼性をはかる一視座の提出を目的とするものである。 
1.構成
『医心方』巻30は、安政版(26)によれば「札記」を除き全51葉。全体は「目次」、「総論」(27)、「五穀部第一(24品)」、「五菓部第二(41品)」、「五肉(28)部第三(45品)」(29)、「五菜部第四(52品)」からなり、4類・計162品の食物薬が収載されている。そこで、まず丹波康頼が食物薬を五穀・五菓・五肉・五菜の4類に編成したゆえんを考察してみる。
『医心方』以前に成立の医薬書中、食物薬をこのように類編・収載することを現在に知られ、丹波康頼が参考とした可能性を想定できるものに以下の例があげられよう。
(a)陶弘景編『本草経集注』(30)7巻(492-500)(31):巻6に虫獣、巻7に果・菜・米食の計4類を収める(32)。
(b)孫思{貌+シンニュウ}著『千金方』(33)30巻(655-659)(34):巻22(35)に果実・菜部・米食部・鳥獣部の計4類を収める。
(c)『新修本草』(36)20巻(659):巻15に獣禽部、巻16に虫魚部、巻17に菓部、巻18に菜部、巻19に米等部の計5類を収める。
上掲3書中、『本草経集注』と『新修本草』は各類をさらに上・中・下の三品に分類するが、『千金方』巻22および『医心方』巻30はこの三品分類を採用していない。かつ後2書は総論を冒頭に置く点、4類に食物薬を編成する点も共通している。すなわち『医心方』巻30の構成は、『千金方』のそれを参考にした可能性が推測されよう。これは、『医心方』にこのような巻を設けることが、『医心方』巻1「服薬節度第三」の冒頭に『千金方』より引用された、「夫為医者、当須洞視病源、知其所犯、以食治之。食療不愈、然後命薬」を受けたものであろうことから傍証できる。
しかし丹波康頼は、『千金方』巻22の構成・類編名などをそのまま模倣しているわけではない。『医心方』巻30の総論を注目すると、そこには『太素経』より「五穀為養、五菓為助、五畜為益、五菜{土+卑}」(37)と、巻30構成篇名と順次のひな型を示す文が引用されている。したがって丹波康頼は、巻30編纂の発想を『千金方』によりながらも、具体的類編と順次は『太素』の記載(38)に依拠したものと考えられる。ちなみに、『太素』が「五畜」とするのに、『医心方』の類編で「五肉」と改めるのは、鳥・魚・貝なども含ませる目的に相違ない。この構成に、康頼が独自の観点を示そうとする意識を見ることができよう。 
2.収載品
『医心方』巻30に収載される食物薬162品は、『千金方』巻22所載の約170品とほぼ同数である。しかし個々の品目には相当数の出入がある。これは『千金方』巻22所載品の大多数が『本草経集注』より採録されている(39)のに対し、『医心方』巻30所載品は「本草」(40)ばかりでなく、多くの食療本草類から採録されている(41)ことによる。
そこで、巻30所載162品の各条で、第1に引用する書毎の回数を表1に作成してみた。この表より大体の傾向として、主食たる五穀では大多数が『(新修)本草』を第1に引くが、他の3類 とりわけ五肉部では『(新修)本草』以外の記述を第1に引用するものが多いことを了解できる。次にこの五肉部を例にとり、さらに検討を加えてみた。
すなわち、『本草経集注』品で『千金方』巻22に引録されるが、『医心方』巻30五肉部に見えないものを(a)。『医心方』巻30五肉部所載品であるが、『千金方』『新修本草』両書に未収のものを(b)として列挙すると以下のようになる。
(a)人乳、馬乳、羊乳、驢乳、醍醐、熊、馬、狗、虎、豹、狸、獺など。
(b)雲雀(ヒバリ)、鳩、鵤(イカルガ)、鯛、鯖、鯵、鮭、鱒、王余魚(カレイ)、海月(クラゲ)、海蛸(タコ)など。
一見して理解されるように、(a)は主に畜獣、(b)は野鳥・海産魚類という特徴がきわめて明瞭である。つまり丹波康頼は(a)の動物性食物薬をあえて『千金方』『新修本草』より採らず、逆に両書未収の(b)を諸家の食経書などから捜し出して収録しているのである。この(a)・(b)の相違に、当時の日中間の産物・習慣・副食品の違いに対する康頼の配慮を如実に見ることができる。
ちなみに、『医心方』巻30所載品で「本草云」の引文を持つもののうち、橡実・酪・{魚+即}魚・竜葵・蘆茯(莢{艸+服}根)などは『新修本草』新附品である。かつそれらの「本草云」の文章は皆『新修本草』の大字文と一致する。したがって、少なくともそれらについては『新修本草』を引用していることが明らかである。そこで巻30所載品の配列順次を見ると、全体としては『新修本草』や『本草経集注』に従っている。ところが、同類品を前後に集める結果、処々は両書の類編や三品配順が無視されている(42)。『千金方』巻22所載の『本草経集注』品の配順にも同様の傾向を見られるが、『医心方』巻30ほどではない。むろん、『医心方』の約66年前に成立(43)の『本草和名』が、ほぼ完全に『新修本草』の配順を踏襲している(44)のとは相当の違いである。この配順に、丹波康頼の合理性と独自性をうかがうことができよう。
次に各食物薬条末に小字で付記される和名を注目すると、酪と酥(45)を除くすべてに和名が同定(46)されている。『本草和名』や、それに追加・訂正したと思われる本書の巻1諸薬和名第10は『新修本草』の全品を引録するため、後者ですら約5分の1(47)に和名が記されない。つまり『医心方』巻30は、日本に産出し、すでに広く使用されて和名のあるものを選択・収載していることが推測できる。さらに、和名の前に小字で「今案」と述べる文が30品に見られるが、そのうち25品に「今案、損害物」と明記されている。これは明らかに丹波康頼の字句であるから、康頼が人体に害を与えると判断するに足る使用経験がすでに蓄積されていたことになる。 以上の検討より、『医心方』巻30所載品は日本の実情に合わせ、日本に産出して一定の使用経験があり、かつ中国の書物に記載のある品を選択し、それらを康頼の観点から配置している、と考察される。 
3.引用文の取捨
『医心方』巻30所蔵計162品の各条文は、前述の「今案」文と和名を除き、すべて引用文で構成されている。おのおのは引用書数や引用文の長短により必ずしも一定しないが、全体傾向として薬名以下は基本的に(a)気味、(b)毒の有無、(c)主治・効能、(d)服用・調理法、(e)久服や多服時の副作用、の内容からなっている。(a)〜(c)は『本草経集注』、『新修本草』の大字文に必ず記される内容である。また所引文から見るかぎり、諸家の食経には(d)・(e)の記載が多い。諸書より漫然と引用・羅列して、(a)から(e)の内容が満たされることはむろんありえない。したがって、ここに丹波康頼が正統本草と諸家食経双方の内容を包括させんとした目的意識を読みとることができよう。
次に個々の引用文に検討を加えてみる。まず巻30所引書毎の引用字数・回数を集計し、それを表2にまとめてみた。「崔禹」に次いで引用数の多い「本草」は、前述したように『新修本草』あるいは『新修本草』『本草経集注』両書の大字文を引用したものである。ところで、両書の大字文はもともと均しく朱と墨で『神農本経』と『名医別録』の字句が区別されていたはずである(48)。両者を区別せずに「本草」と記すことは、康頼の使用したものが『新修本草』、『本草経集注』のいずれにせよ、「本経」文・「別録」文ともに墨書されていた可能性を示唆している。『本草和名』(49)も両者を区別しないこと、仁和寺本系『新修本草』(50)がすべて墨書されていることもその示唆を証左しよう。なおかつ、この「本草云」以下の文字は、現行『証類本草』白・黒大字より仁和寺本系『新修本草』の大字とはるかに良く合致する。以上を勘案するならば、丹波康頼の引く「本草」は仁和寺本と同系にある『新修本草』の可能性が高いと推測できる。
また「陶景注云」「陶景云」、「蘇敬注云」「蘇敬云」などとわずかに異なる字句を付す引用文がある。それらすべてを『新修本草』『証類本草』と照合したところ、2例(51)を除きいずれも陶弘景と蘇敬の注釈文の引用であった。したがって『医心方』巻30に「本草」「陶景注」「蘇敬注」などと記される引文は、均しく『新修本草』からの所引と見なしてよいと考えられる。
上述の検討にもとづき、表2より引用字数の多い順に書名をあげると、『新修本草』、「崔禹」、「拾遺」、「孟{言+先}」等々ということになる。とすると、丹波康頼は巻30の編纂にあたり、およそこの順に各書の記載を重視している、と見て大きな問題はないだろう。筆頭の『新修本草』は半数の巻(52)が『証類本草』に転録の形でしか伝わらないにしても、幸いなことに現在その全文を知ることが可能である。そこで、現伝『新修本草』と巻30所引文を照合したところ、以下の明瞭な傾向が認められた。
[1]『新修本草』大字文後半の産地・採取時期は一切引用されていない。
[2]大字文中の薬物別名はほとんど引用されない。
[3]気味と毒の有無は必ず採録される。
[4]久服による延年軽身に類する記述は、多くが採録される。
[5]久服・多服による副作用は、多くは採録される。
[6]類似品との鑑別注釈文の多くは採録される。
さて、上掲の傾向は次のように理解することができる。
[1]については先に考察したように、巻30所載品すべてに日本産品が同定・開発されており、あえて風土の異なる中国の採取時期や産地を引用する必要のないことは当然である。ましてや、その地名は後漢頃のものと陶弘景が記す(53)だけに、当時の日本に実用的意味のないことはなおさらであろう。
[2]は、『医心方』前に成立の『本草和名』が、『新修本草』中の全別名をすでに網羅しているためと考えられる(54)。
[3]の「味」の記載については、品質や類似品との鑑別の目的と、『素問』など「内経系医書」に記録される「五味説」を利用した薬効の抽象的簡称目的の2通りが考えられる。ところで先に述べた巻30の総論冒頭に引かれる『太素』の文は、本来は五味の抽象的作用論説の一部分である。しかし総論には所引文の前後にある五味論説が一切引用されないばかりか、所引文に対する楊上善注も「五味」の2字を一々除去して引用している。丹波康頼のこの際立った姿勢は、同じく『千金方』22巻の総論に『太素』と酷似した五味論説が大量に記述されているのと全く対照的である。したがって(6)の傾向も考慮すると、康頼は各々の味を実践的鑑別目的で採録(55)していると理解される。
[3]の「気」と毒の有無、そして[4][5]の引用傾向は、いずれも巻30所載品が薬物であると同時に食物でもあり、そもそも久服し、時には多服もするからである。一般に『神農本経』『名医別録』に記される「久服延年軽身」の類は神仙流の邪説と退けられることが多い。しかし少なくとも当時の食養生において、これは究極の目的であり、きわめて現実的課題であった。[4]の傾向はこの意味でしごく当然であり、かつそれは『医心方』巻27に養生の内容が編纂されていることに呼応している。同様に[5]の傾向は、『医心方』巻29に食禁の内容が編纂されていることと軌を同じくしている。
[6]の傾向は、『千金方』巻22が食物薬の実践的応用の記述に始終するのに対し、康頼が陶弘景や蘇敬らと同じく、応用面以外に正条品の同定・鑑別という基礎的側面にも留意していたことを物語る。それは先に指摘したごとく、巻30を単なる食物本草ではなく、正統本草の内容をも踏まえたものにせんとする康頼の意識を体現したものと理解できよう。
以上6点の傾向に加え、陶弘景・蘇敬の注文や字数の多い大字文は程度の差はあれ、ほぼすべてが処々省略のうえ引用されている。また少数ながら、記載の前後を変えた引用例(56)も見られる。それらのある部分は、あるいは現伝『新修本草』『証類本草』と、康頼が使用した底本との相違に由来する可能性も全くは否定しえない。しかし他条との比較より、多くは康頼の観点を反映した節略・改変と考えられる。
以上の検討より、丹波康頼は当時の日本に適した実用的内容を持ち、また正統本草の長所をも具有した食物本草として巻30を編纂していると考察された。したがって『新修本草』からの引用は、一定の基準で条文が取捨され、時には前後を入れ換える操作なども行われている。当然このような取捨・改変は、他の所引文中にも存在するであろうことは想像に難くない。 
4.結論 
『医心方』巻30に対し、構成・収載品・引文の取捨の3方面より検討を加えた結果、下記の結論と示唆が得られた。
[1]『医心方』巻30はごく一部を除き、すべて中国書籍(57)の引用文で構成されている。しかしながら、その収載品は日本に産出して使用経験のあるものが選択されている。
[2]丹波康頼の編纂姿勢は、三品分類や正統本草の薬物類編に必ずしも拘泥せず、「五味」説と薬味を関連させる観念主義も排するなど、構成・収載品・引文の取捨ともにきわめて実践的意図に立脚している。そこには中国という権威を借りながらも、単なる引用・模倣にとどまらず、自己の見識を反映させたより完璧な食物本草を編纂せんとする康頼の強固な意志をもうかがうことができる。
[3]巻30所引の「本草」は、『新修本草』大字文である。それらは陶弘景注・蘇敬注からの引用も含め、[1][2]の理由による康頼の取捨と一部の改変が施されたものである。したがって『医心方』所引の様々な逸文は、各々の旧態を保ちつつも、一定の節略・改変が存在することが示唆される。
以上の結論と示唆は、今日『医心方』のみが持つ計り知れない価値をいくばくなりとも損なうものではない。巻30に限定しても、現存する日本の本草書として初めて自国に適した独自性を体系化した点で、日本の本草学・薬史学上に特筆されるべき価値を持つのは明白であろう。今後、『医心方』に対する基礎的研究がさらに進められれば、薬史学・医史学・書誌学などの各分野で、かけがえのない本書の資料価値が一層発揮されるものと考える。
謝辞:本研究費用は北里研究所附属東洋医学総合研究所の矢数寄金によった。当研究所所長・矢数道明博士のご好意に心より感謝申し上げる。また本研究にあたり、種々のご高配をいただいた当研究所副所長・大塚恭男博士、基礎資料収集に援助と助言を与えられた当研究所医史学研究室室長・小曽戸洋博士に深謝する。 
参考文献および注
(1)万延元(1860)年初刊の江戸医学模刻半井本(「安政版」と略称)を底本に使用。その影印版に『日本古典全集』所収本(1935年初刊・1978年覆刊)、人民衛生出版社本(北京、1955年刊)、日本古医学資料センター本(1973年刊)、新文豊出版公司本(台北、1976年刊)がある。また国立公文書館内閣文庫蔵の江戸写本(「内閣文庫本」と略称)も参照した。
(2)安政版の刻医心方序に、撰進時の位を「従五位下行針博士兼丹波介丹波宿称康頼」と記す。
(3)安政4(1857)年に森立之が影刻した延慶本『医心方』の奥書(注(1)所掲の人民衛生出版社本に影印収録)に、「康頼、永観二年十一月廿八日撰此書、進公家」とある。
(4)岡西為人・佐土丁:外台秘要、医心方、証類本草等書引用之古医書、東方医学雑誌15、543、(1937)。
(5)吉田幸一:医心方引用書名索引、書誌学、12、120(1939);同13、19、50(1940)。
(6)長沢元夫・後藤志郎:引用書解説、影印安政版所付、日本古医学資料センター、東京、P.18(1973)。
(7)新村拓:日本医療社会史の研究、法政大学出版局、東京、P.286(1985)。
(8)馬継興:『医心方』中的古医学文献初探、日本医史学雑誌、31、326(1985)。
(9)小曽戸洋:『医心方』引用文献名索引(1)、日本医史学雑誌、32、89(1986)。
(10)小曽戸洋:漢方古典文献解説9・医心方、現代東洋医学、5(4)、77(1984)。
(11)森立之重輯:神農本草経、文祥堂書店再印、東京(1933)。
(12)尚志鈞校点:神農本草経校点、皖南医学院科研処、蕪湖(1981)。
(13)小嶋尚真・森立之・森約之重輯:本草経集注、南大阪印刷センター影印、大阪(1972)。
(14)尚志鈞輯校:本草経集注、蕪湖医学専科学校油印、蕪湖(1963)。
(15)岡西為人重輯:重輯新修本草、学術図書刊行会、川西市(1978)。
(16)尚志鈞輯絞:唐・新修本草、安徽科学技術出版社、合肥(1981)。
(17)中尾万三:校合食療本草遺文、上海自然科学研究所彙報、1(3)、(1930)。
(18)謝海州・馬継興・翁維健・鄭金生輯校:食療本草、人民衛生出版社、北京(1984)。
(19)高文柱輯校:小品方輯校、天津科学技術出版社、天津(1983)。
(20)葉徳輝編輯:双梅景闇叢書所収、公論社影印、東京(1982)。
(21)この空白を埋めるべく、平馬氏らの基礎研究が行われている。平馬直樹・小曽戸洋:『医心方』に引く『諸病源候論』の条文検討−その取捨選択方針初探。日本医史学雑誌、31、255(1985)。
(22)真柳誠:『医心方』所引の『神農経』『神農食経』について、日本医史学雑誌、31、258 (1985)。
(23)開元27(739)年、陳蔵器撰。宋・銭易の『南部新書』に「開元二十七年、明州人陳蔵器、撰本草拾遺」とある。宋・唐慎微の『証類本草』に「陳蔵器云」「陳蔵器余」として引用されている。
(24)底本には仁和寺蔵国宝古巻子本(巻17・19、武田長兵衛影印、1936)。江戸影写仁和寺本(巻15、武田長兵衛影印、1936)、森立之旧蔵影写仁和寺本(巻18、上海古籍出版社影印、1981)、小嶋宝素復原本(巻16、台北故宮博物院蔵)を用いる。
(25)底本には柯逢時校刻『経史証類大観本草』(廣川書店影印、東京、1970)と、金・晦明軒翻刻『重修政和経史証類備用本草』(人民衛生出版社影印、北京、1957年初刊)を併用する。
(26)上掲注(1)所引文献。
(27)底本は「総論」を、次の「五穀第一」の冒頭に置く。
(28)底本は「肉」を異体字の「宍」に作る。
(29)大田典礼(巻第30解説、影印安政版所付、日本古医学資料センター、東京、P.222-226、1973)はこれを46品と数える。だが、これは当巻に記載のない「雲丹」を霊{虫+壘(ルイ)}子の和名「宇仁(ウニ)」につられて記入し、 それを加えて計上したことによる誤算。
(30)藤原佐世編『日本国見在書目録』(893年頃)の医方家に「神農本草七、陶隠居撰」と記されることによる。
(31)岡西為人:本草概説、創元社、大阪、P.47(1977)。
(32)上掲文献(13)の編成による。
(33)上掲注(30)所引文献に「千金方卅一、孫思{貌+シンニュウ}撰」と記されることによる。
(34)大塚恭男:「千金要方」について、漢方の臨床、18、303(1971)。
(35)南宋刊未経宋改本『新雕孫真人千金方』(静嘉堂文庫蔵)の巻編成による。通行する宋改本『千金方』はこれを巻26に置くが、宋改を受けているゆえにこれを採用しない。
(36)上掲注(30)所引文献に「新修本草廿巻、孔玄均撰」と記されることによる。
(37)『素問』蔵気法時論篇第22は、この「{土+卑}」を「充」に作る。
(38)この記載は現伝『太素』(『東洋医学善本叢書』所収影印仁和寺本、東洋医学研究会、大阪、1981)の巻2調食に見える。
(39)渡辺幸三:孫思{貌+シンニュウ}千金要方食治篇の文献学的研究、日本東洋医学会誌、5(3)、21(1955)。
(40)後に考察しているが、「本草云」と引かれる文は、『新修本草』からのものと推定される。
(41)前掲文献(7)、298;同文献(8)、334
(42)たとえば、五菓部の最初に『本草経集注』『新修本草』が(草)木部上品とする橘・柚を引用したり、両書の三品による配順を無視して同類物を前後に集め、乾棗(上)→生棗(上)→李(下)→杏実(下)→桃実(下)→梅実(中)→栗子(上)→柿(中)→梨子(下)の順に配置する例が見られる。
(43)『日本紀略』延喜18(918)年8月の条に、「右衛門医師深根輔仁、撰掌中要方」とあり、『和名類聚抄』の源順序に「大医博士深江輔仁、奉勅撰集新鈔倭名本草」とあるので、おそらく現伝『本草和名』も『掌中要方』と近い年に勅撰されたものと推測されている。
(44)多紀元簡:刻本草和名序。寛政8(1796)年刊、『本草和名』(『日本古典全集』影印収録)前付(1926)。
(45)『政事要略』によると、文武4(700)年に全国に酥の製造・献上を命じている。したがって、飛鳥・奈良時代より宮廷で酥を用いたことは疑いない。ならば『医心方』や『本草和名』に酪や酥の和名を記さないのは、当時それらを外来語としてそのまま「ラク」、「ソ」と呼んでいたものと考えられる。
(46)黄粱米も条文中に和名を記されないが、巻30巻頭の目次や巻1諸薬和名第10には「キナルキア(支奈留支美・キナルキミ)」と記されている。
(47)『新修本草』薬全850品中、161品に和名が記されない。
(48)劉翰・馬志:開宝重定序。証類本草所収、上掲注(25)所引文献。
(49)影写紅葉山文庫本、森立之旧蔵、台北・故官博物院現蔵。通行の多紀刊本は所改が著しい。
(50)上掲注(24)所引文献。
(51)安政版・内閣文庫本ともに、杏実条に引く「陶(景)注云」文が現伝『新修本草』、『証類本草』では大字(「本経」)文であること。また柿条に引く「陶云」が、現伝『新修本草』『証類本草』中の陶弘景注文その他などに発見されないこと。
(52)巻1・2・3・6・7・8・9・10・11・16の10巻以外は仁和寺本系の伝写本が現存する。また敦煌からは、巻1断簡の李盛鐸旧蔵文書、巻10断簡のペリオ3714文書、巻17・18・19節略断簡のスタイン4534文書などが出土している。
(53)「其本経生出郡県、乃後漢時制」(陶弘景序。敦煌出土『木草経集注』残巻、竜谷大学蔵。京都国立博物館編:医学に関する古美術聚英影印収録、便利堂再版、京都、図版40、1973)と言う。また上掲注(25)所引文献の滑石条・陶隠居注にも、「本経所注郡県、必是後漢時也」と強調する。
(54)『本草和名』は『新修本草』以外にも、『医心方』とかなり共通の文献より別名を引用している。
(55)『本草経集注』以後、「本経」と「別録」の気・味が相違する場合、両者は「味甘・苦、平・温」のように併記されている。しかし巻30はこのような場合、多くはいずれか一方ずつを選択して引用している。これも同様の理由によると考えられる。
(56)たとえば『新修本草』巻17は、「李核人、味甘苦平無毒、主…。実、味苦、除固熱調中」と記されているが、『医心方』巻30第13葉オモテは「李、本草云、味苦平無毒、主固熱調中」と、李の種仁の気味と果実の主治を混記している。また『医心方』巻30第47葉ウラの楡皮条でも、『新修本草』巻12に楡の実の主治として記される「療小児頭瘡{ヤマイダレ+ヒ}」が、楡皮の主治中に混入されている。さらに『医心方』巻30第46葉ウラの牛蒡条に、「本草云、悪実、一名牛蒡、一名鼠黏草」と引く別名は『証類本草』巻9悪実条の大字文にはなく、蘇敬注文の引く『別録』文中に見え、かつ『医心方』は悪実の気味とその根茎の主治を牛蒡条中に一括して記している。巻30第21葉オモテの烏芋条は「本草云、味苦、微寒、無毒、甘。主〜」と記すが、『新修本草』巻17・烏芋条は「味苦甘、微寒、無毒。主〜」と味が一括して記されている、などの例が指摘されうる。
(57)上掲文献(8)に指摘されるように、巻30以外の巻には数例ではあるが朝鮮半島の医方書からの引用が見える。 
   
医学雑話

万能薬
(鼻糞万金丹)とか(鼻糞丸めてあんぽん丹)と言う言葉を見たり聞いたりした人は多いと思うが、これは効きもしない薬と、それを信じる人をあざけっていうものである。アメリカでは無効の薬をシュガー・ピル(SugarPill)という綽名で呼んでいるが、(万能薬)には(Panacea)という名がある。しかし、日本でもアメリカでも本当に何にでも効く薬という意味で(万能薬)とは言わないで(薬)以外の事情で誰にも喜ばれる解決策を比喩的に指すときに使うことの方が多い。これは、(万能薬)の存在は誰も信じていないということであろう。
それにもかかわらず、薬の広告に(万能薬)と言ってもよいほど、盛り沢山の効能を書き立ててあるのを見ることがある。そんな広告をまともに信じる人があるはずもないと思うので、広告しても薬の売り上げが増すことはあるまい。
昔から人は(不老長寿)の薬とか難病の特効薬を求めてあれこれ試みて来て、効果があるらしいと認められたものは(伝承薬)として今でも(民間薬)として定着しているが、その他の新しい特効薬とか、とにかく健康によいという理由で、処方箋の要らない健康茶、健康食品、漢方薬などが次々と宣伝されては売り出されている。
また、酒は(百薬の長)とされて広く愛好されているが、中毒状態になってしまっては長寿の期待は無理である。なお、古い歴史のある阿片、コカイン、ヘロイン、その他諸々の(麻薬)も根強く浸透して政府が躍起になって取り締まりをしているが、根絶は困難のようである。中毒者は健康など問題にしなくなるらしいから始末が悪い。(馬鹿は死ななきゃー治らない)とはよく言ったものである。とにかく、人間は弱き者である故に、あれこれ詮索をして有効かどうかを確かめないで手取り早くなんでも叶えてくれるという効能書きのある(万能薬)を信じて頼りにしたい心情が働くのも無理からぬことであろう。 
素人診断と売薬
何か不快な症状があれば、誰でも一応自己診断(素人診断)をして、病気の名前を考え、さらに、症状を和らげる薬を探そうとするものである。以前にも同じような症状があり、医者にもかかって、診断を受けて、投薬もしてもらった経験があり、その薬が有効であったのなら、また、おなじ薬を使ってみるのが当たり前であるが、以前の薬があまり効かなかったとか、今度使ってみて、以前程薬の効き目が、はかばかしくない時に、どう対処したらよいか迷うことであろう。
ここで、一番問題となるのは、言うまでもなく、症状のよってくる原因(病名)がなんであるかである。しかし、素人が自分の体とはいえ、正確な診断名に思い当たることは、まず無理であろう。かりに、(当たらずといえども遠からず)であっても、さて、薬を選ぶとなると、そこでまた、考え込むことになる筈である。
ところが、ドラッグ・ストアーに行ってみると、ありとあらゆる薬が並んでいて、医者の処方を持って行かなくても、なんでも間に合いそうに見えるほどである。最近では、処方箋なしで買える薬(オーバー・ザ・カウンター・ドラッグ)が、とても増えて来ているので、その昔、処方箋で制限していた理由が納得できない有り様となった。例えば、抗ヒスタミン剤などで、処方箋が必要とされる製品は、発売が始まって間の無い頃に限られているように見える理由は、どうやら、製薬会社の販売政策と関係があるのだと思う。新薬は、処方箋で販売をしていると、副作用が出た時には、医者が報告してくれることを期待しやすいというのが、表向きの理由であるらしい。また、お客が勝手に買って、使用法の指示を無視して薬を使って危険性があるから、医師の処方にした方が安全だという理屈も人を馬鹿にしているようでいただけない。
日本では、抗生物質の薬も薬局で処方箋なしで買えたものだが、最近では、取締りが厳しくなっているかも知れないが、処方箋の指示に忠実に従って、最低五日、多くは一週間か十日服用する人は少ないのではなかろうか。薬は三日か四日飲んで症状が軽快すると、薬を止めたくなるのも人情である。しかし、抗生物質の薬は、五日以上続けないと、細菌の抵抗力のあるものが生き残るので具合が悪いとされている。
医者の処方箋なしで買える薬の中では、「漢方薬」に触れない訳には行かないと思う。西洋医学を学んだ医師でも、関心をよせている人が、少なくないが、漢方薬には多種の有効物質が混ざっているので、処方し難いという難点がある。アメリカの医者が一人の患者に何種類もの処方を出すことが多いが、漢方薬の時には、何種類もの薬をという訳には行かないと思う。ともあれ、自己診断による自己投薬では、(生兵法は怪我のもと)ということになりかねないと思うものである。 
頭痛
頭痛の問題を分かりやすく解き明かすことは頭の痛い話である。大人では誰でも経験したことのある頭痛も、子供には稀であるので、ちゃんと小児科医に相談しないと安心できないものだ。というのは、子供には、どう言うふうに頭が痛いのか説明する能力に欠けているし、子供の訴えから、頭痛が精神的なものか、あるいは器質的なものであるのか、素人が判断できる筈がないからである。ところが、表現能力の旺盛な大人が、頭がガンガンするとか、頭が割れるように痛いとか、頭が締め付けられるように痛いとか、錘(キリ)で突き刺すように痛いとか説明できても、それが診断の役に立つとは思われないから始末が悪い。
医者が診断名としてつける頭痛の中で一番多いのは、テンション頭痛(緊張性頭痛)であろう。緊張性と言っても、頭皮とか、うしろ頚の筋肉が硬くなって頭痛がくる時には、筋肉性の頭痛というので、テンションとは、精神的の緊張を指すのが普通である。しかし、患者としては、テンション性の頭痛というのを嫌って、人には、「サイナス頭痛」だと言い換える思惑が働くものだ。ところが、テンション性の頭痛であっても、仕事を休まねばならない程ひどい場合には、本格的?な頭痛として認められた、「偏頭痛」に昇格させた方が説得力がある。そして、偏頭痛は、その名の示すように、頭の半分が、ひどく痛むものであるが、頭痛が襲う前に、目にチラチラするものが見えるなどの、前駆症状があるのが特徴である。又、頭痛の程度も、偏頭痛は、並々ならぬ程強くて、その発作がくると、人は、完全に「失格」して、仕事にでることもできないで、暗い所で寝ているより他致し方もないという厄介なものである。
偏頭痛に限らず、頭痛が始まってからは、アスピリンとか、燐酸コデインなどを含んだ頭痛薬を飲んで、頭痛が収まるまで待つより仕方がないのであるが、偏頭痛の場合には、前駆症状がでた時、すぐ、血管を収縮する薬を飲んでおくと、後に続く頭痛の「発作」を未然に防ぐことがある。このことから、偏頭痛の痛みは、脳膜にある血管が拡張して、その隣を走る三叉神経(第五脳神経で、眼、上顎、下顎と三つに分かれているので三叉神経と呼ばれている)を圧迫して、その刺激が大脳の知覚中枢に伝わる為であると見られるようになった。この論法でゆけば、その他の頭痛も大体説明がつくものである。
それでは、脳膜の血管が異常に拡大する理由を探すとなれば、どうしても、その血管を管理している自律神経系の血管運動神経の失調に求めなければなるまい。脳膜も含めた頭、顔の血管運動神経は、感情に影響され易いことは、怒った時、顔が赤くなったり、青くなったりすることを考えれば容易に理解できる。だから、毎日のストレスでも繰り返していると、自律神経系の「失調」とか「異常反応」を引き起こして、ストレス性(テンション性)の頭痛が起こることも不思議ではあるまい。要するに頭に血がのぼると頭痛に繋がりかねないので、頭は冷やしておいた方がよいということだろうか。 
毛髪考
毛髪と言えば人間の毛のときに使い、動物の体毛をいうときには使わない。人間の毛でも、その生えている場所で名前を変えて使うし、その毛の性状によって色々な表現方法があって面白い。
日本人は「白人」に比べると概して「体毛」が少ないのだが、(毛深い)のは動物を思わせて、あまり恰好がよいとはいえない。「胸毛」ぐらいは(男性的)で良いとお好みになるご婦人もあるようだが、手の甲まで(毛むくじゃら)であるのは、どうも(教養のある人間)と言う感じが伝わって来ないと思う。人の目に触れ易いところに生えている毛(頭髪とか髭)には、とても時間をかけて整える(グルームする)のをいとわないのに、手の甲にある毛は剃ったり刈ったりはしないようだ。医者とか、弁護士などの手の甲にいっぱい毛が生えているのを見たときには、あまり良い印象を受けないのではなかろうか。また、毛むくじゃらの人から、お金とか、品物を渡されても、お金や品物の値打ちにケチをつけるべきではないのだが、あまり気持ちのよいものではあるまい。もしも、ピアノを弾く人の毛むくじゃらの手の甲が見えたなら、ピアノから流れる音色すらも割引されないものだろうか。音楽家の容姿が美しいと、音楽そのものも立派に聞こえるというのが人情であろう。
女の人は(幸いに)体毛が少ないのだが、「毛臑(ケズネ)」にはかなりの人がお悩みのことと思う。それも剃刀で剃ると毛が濃くなるという(言い訳)で、色々な(脱毛法)が売り出されている。(ウチの女房にゃヒゲがある)は他愛ない歌詞として受け入れても、それはうっすらした口ひげに留まって、カイゼル髭のようないかめしいものとか、ドジョウ髭のように(滑稽)なものではなかろう。まして女性に「頬髭」とか「顎髭」となると、もういただけない。(鬼婆)に似つかわしい髪型としては、(髭)ではなく(ザンバラ髪)を振り乱したという表現がピッタリする。
顔に生えた毛もさることながら、頭の毛は、もうその人そのものである。人を見て一番目につく所は、頭髪であることに異論を唱える人はあるまい。したがって、人間が古来から頭髪に(憂き身をやつし)て来たというのもうなずける。
だから、髪型を整えることにはどれ程時間を費やしても無駄とは思わないのが、人間というものであろう。動物でも交尾期には、雄が雌の前で自分の(男性美)を見せびらかせようとするらしいが、人間は四六時中自分の(みてくれ)を気にしているのが普通だから、人に与える標識として印象の大きい頭髪をちゃんとしておかなければ、人間社会から(失格)するような気にもなるのではないか。
日本の平安時代の高貴な女性は、黒髪を長く垂らすために髪を梳くことで、かなりの時間がかかったことと想像するが、江戸時代になって(総髪)は別として誰もが「髷」を結うようになってからも、毎日「髪結い」をわずらわして大変な時間と労力を費していたはずである。
昔の各種の「髷」については時代劇を見て知識を得ることができるが、昭和の初期には、芸者ではない一般の家庭で「丸髷」を見ることは珍しいことではなかった。時代劇を見ていて、チョンマゲの位置が横にずらしてあるのを発見し不思議に思ったことがあるが、最近はその(式)のチョンマゲを見ても、あまり気にかからなくなった。今でもまだ謎として残っているのは、チョンマゲなどの鬘(カツラ)を付ける役者は自分の髪をうんと短くしないといけないのだろうか?ということである。髪が長いと、カツラを付けるとき、耳の周りの接着具合が難しいのではないかと思う。
現代では、時代劇の役者だけではなく、芸妓さんでもカツラを使うのが当り前になっているし、歌手でも部分的なカツラ(ヘアー・ピース)を付ける人も多いようだ。しかし、相撲力士は自分の髪で「大銀杏」を結うのがしきたりであるので、カツラで代用する訳には行かない。それだから、髪がうすくなって「大銀杏」を拵えるのに苦労する力士は気の毒である。
ともあれ、恰好だけに構っていられない職業では、頭髪を邪魔者扱いをすることもあるようだ。特にスピードを争う水泳では水中での抵抗を減らすためにゴムのキャップを付けるが、思い切って(頭を丸めて)ツルツルテンにしてしまうのも一法であろう。ヘルメットを使用しないで頭を振りかざしてプレイをするバスケット・ボールやボクシングの試合に出る人の中に、わざわざスキン・ヘッド(青い頭と言いたいが、茶色の頭に近い)にした選手が多いのは、矢張り髪が邪魔になるからであろう。また、ヘルメットを被るフット・ボールのプレイヤーにでも、頭を剃った黒人が多いのは、どうやら頭髪などはむしろ無い方が(便利)であるに違いない。
概して、黒人の頭髪はひどい(巻き毛)なので(扱いにくい)ものらしく、何とか見られるようにするには、真っ直ぐな毛の人の(髷結い)に劣らず、とんでもない時間と努力がいるものらしいから、整髪に費やす時間を節約するための(坊主刈り)が増えてきたものと思う。この(坊主刈り)は、出家する場合には、(世俗を絶つ)という(シルシ)であるが、一般人の場合は(罰則)として実施することもあるというように、(坊主頭)では美を競うことも困難と思う。だから女性の場合には、尼さんにでもならない限り頭を剃ってツルツルにする(便法)を取ることは避けているのでなないか。
明治時代にはいって(斬髪令)が出てからは、日本人の男の子は「五分刈り」、女の子は「おかっぱ」が一番手っ取り早いのでそれが一般的になって今日に至っている。(巻き毛)の黒人の男の子でも、「五分刈り」式に短く刈り込む方法を取るのが一番多いようだ。しかしただの「五分刈り」ではあまり洒落っけがないので、色々の所に「筋目」をつけたり、わざと(刈り残し)て「尻尾」のようなものを作ることも、(おしゃれ)として流行しているようだ。
「五分刈り」を少し長めにして、日本では「角刈り」、アメリカでは「GIカット」の若者も多い。極端な縮れ毛ではそれを無理矢理に引き延ばそうとしないで、縮れ毛をそのまま長くしたタンブル・ウイード状の丸い髪型(アフロ)も一時盛んになって、今でもかなりの人が使っている。しかし、この「アフロ型」では、男女の区別を付けるのが困難のように思う。それかあらぬか黒人の中高年の女の人の半数は、相変わらず(昔流)に縮れ毛をまっすぐにする作業を踏襲しているように観察される。
最近では、髪を編んで頭皮に密着させてみたり、(のれん)のように何本もぶら下げた「髪型」もよく見られるようになった。なお、この(縄のれん)など足もとにも及び付かない、奇をてらった異様な髪型をモールなどで散見するが、「髪型」に(彩色)を加えると人に与えるインパクトがさらに大きくなる。この「縄のれん」にしても、(黒色)ではあまり目立たないが、それが茶色になったり赤くなったり、果ては緑色・黄色・白色に塗りたくったり(まだら色)にしたときには、もっと華々しいものとして人目を引くようになる。さらに自分の髪を編んだ(のれん)ではなく、色々の(数珠・ビード)を使った(数珠のれん)もおめみえしているが、それも、髪に(カンザシ)を付けたりリボンを付けたりすることは、昔から行われていたことで不思議でもなんでもない。日本でも(頭巾)を被って髪をかくすことをしていたが、その延長の(帽子)を何時でもつけておれるのなら、髪の形に煩わされることもない訳である。
日本に住んでいた頃は、髪の色といえば黒に決まっていて、白い髪が混ざってくるとだれもが躍起になって白髪を黒に染める風習があって、白髪染めの製品の広告もよく見られたものだ。しかし、今日では日本人の目も世界に向けて開かれて来て黒髪一点張りでは物足りなくなったせいか、「茶色の髪」も「チャバツ」と言って(愛用?)されるようになっている。
何十年も前に、アメリカに来たときに黒髪以外の髪の色があるのが目新しいものだった。そして、旅券やドライバー・ライセンスなどの公用の「人相証明」に頭髪の色の項があったのも、成る程とうなずけた。しかし、髪の毛の色は自然変化もあれば人工的変化も容易に出来るので、頭髪の色はI・Dとしては無意味になってしまった。アメリカ映画界での(美人)の条件の一つにブロンドの髪の毛を喧伝しているが、(赤毛)はなんとなく(毛嫌い)されているのも面白い。赤毛の女は情熱的だとか浮気だとか言われるのも、その人の性格が髪の毛に反映していると思う者が多いということだろう。それも、頭髪の色のインパクトが大きいという証明である。黒い頭がゴロゴロしている日本では白髪頭はいやに目立つが、白髪のふんだんに見られるアメリカの社会では、黒髪のほうがかえって目に付くということになる。白髪といっても、総白髪になる前の(ちらほら白髪)とか(ゴマ塩頭)とか(半白髪)があるが、それを美しく見せる工夫を多くの人が試みている。総白髪でも、ほんのり桃色のかかった(ピンク白髪)はとても美しいものである。白髪頭の人はとかく年寄りに見られ勝ちだが、イギリスの裁判官が白いカツラを付ける習慣があるように、白髪頭の人には知恵が満載されているような印象を与える利点があるかも知れない。
さて、頭髪や口ひげや陰毛などの人間の毛は、生まれた時から老年になるまでの間に、色々な変り様を見せるものである。子供の頃にはブロンドであったのが、年頃になるまでにだんだんと色が濃くなってブルーネットになるなどのことは珍しくないが、大抵は年とともに色褪せて、白くなって行くのが定則であろう。この際白髪の出てくる度合いは、(遺伝的)に生まれついているとみるのがおおかたの人の認めていることと思うが、(精神的)なものがうんと影響するのも確かである。ただ、食べ物と髪の色との関係はあまりはっきりとしないものの、沃度分の多い昆布を食べていると黒髪が保てるなどの話は、信じても害はないと思う。髪が白くなることのみならず、毛が抜け落ちて(禿)になるのも(気苦労)などの精神面からの関連もあるとされている。それから、よく知られている現象として、化学治療として抗ガン剤を静脈経由で注入したり、放射線治療の副作用としての(脱毛)がある。このように、(毛)は体の一部であり、(新陳代謝)をしている(生き物)であることがよく分かる。
「毛髪」にははっきりとした(特殊性)があって、一本の毛をよく調べれば、それが体の何処から来たかはすぐ分かる上に、(毛根部)もあると今頃流行のDNA鑑定も可能で、誰の毛であるかも判明するのだから馬鹿にならない。この(毛根部)が毛の(モト)であるから、毛を剃っても毛根部が残っている限り毛はまた生えてくる訳だが、「眉毛」を剃ったら後から生えて来ないことがあるとされているのは不思議である。従って、耳鼻科などで、「前額洞」の手術をする時にも、「眉毛」は剃り落とさないという慣習がある。眉毛以外の所であれば、手術をする際には(遠慮会釈なく)大きく剃ってしまうものである。お産の時には、(帝王切開)でなくても「陰毛」も(血祭り)にするのも毛の(再生力)を信じているからである。
「禿」の中でも「円形脱毛症」なるものがあるが、これは、直径一、二インチ大の丸い禿が頭髪内の諸処に出来るもので、そのはっきりした理由は分からないまま、どうやら神経性のものらしいとされている。それに、この「円形脱毛症」なら自然に治るから心配は要らないのだが、一般の「禿」は徐々に進行して広がって行き自然治癒はないのが特徴である。「禿」の対策として、人は昔から(不老長寿の薬)の一環として(毛はえ薬)も探して来たものの、(特効薬)が見つからないので、(カツラ)に頼っていたものだ。そのうち「植毛術」なるものも開発された。これは、自分の頭髪を間引いて禿の場所に移植するだけのことで、自分の毛一本につき何ドルかのお金を払って少し(配置換え)をして貰うという、(不完全)で馬鹿らしい(術)とみられるためかあまり人気はよくないようだ。ところが、最近になって(条件付き)で(有効)とされる、一つの「毛はえ薬」が陽の目を見て販売の認可を受けるに至った。これは一種の女性ホルモンであるらしく、「禿」の(初期)に使うとある程度効果があるとか。しかしそんな女性ホルモンを長期使用していると、(副作用)がないという保証はないらしい。男性では性欲の減少を起こす可能性は大ありの理屈である。「禿」の人は男性ホルモンが旺盛であると認識されているのだから、その男性ホルモンを押さえ込めば「禿」にも有効であろうとの発想でこの(新薬)を試みたのではないかと憶測している。
ここで、「毛」ではあっても、あまり人目につかない問題にされていない?(毛)のことにも目を向けてみたい。その無視された毛の筆頭は(ウブ毛)であるが、(襟足)の所にある(ウブ毛)状の(後れ毛)は、見苦しいとされて剃り落されるから大いに問題視されているといえよう。それから、人目には触れさせないで欲しい(腋毛)とか(陰毛)もあるが、(尻毛)までは抜かれないように隠しておきたいものだ。(腋毛)は人に見られてとても恰好のよいものではないが、バスケット・ボールの選手は堂々と開陳している。その他にも(腋の下)が露出するスポーツは沢山あるのだが、流石に女性は気を付けて対処しているようだ。覗いていて見苦しい毛には(鼻毛)もあるが、(耳毛)はあることすら知らない人が多いはずである。こんな(耳毛)でもあまり旺盛に飛び出してくると恰好はよくない。
肉眼では見えない微細な「毛」の一種で、とても大切な役目をしている粘膜の「繊毛(センモー)」がある。この「繊毛」は、鼻や耳管とか気管の粘膜などにもあり、粘膜の上に載った粘液やゴミなどを運ぶ仕事をする。もう一つ、内耳にある超微細の「繊毛」で、「感覚毛」と呼ばれるものがある。この(毛)は何百万本もあって、聴覚を司っていることが知られているのだから、たかが毛だからといって馬鹿には出来ないものであるのは面白い。内耳の「カタツムリ核」・・(テントウ虫位の大きさ)の中に「有毛細胞」が何万個もあり、その細胞一つに六十本とか八十本づつ「感覚毛」が生えていてありとあらゆる(音)を聴き分ける仕事をしているのだから、その「毛」が抜け落ちたりすると、たちまち聴力に支障を起こす。となると、頭の毛が抜けて出来る「禿」などよりは、(被害)が甚大である。この「感覚毛」は(大きな音)によって障碍を受けることも証明されており、ストレプトマイシンなどの抗生物質によっても悪い影響を受けることも分かって来た。しかし、ストレプトマイシンで頭の毛が抜けたという話は聞かないから、(内耳の毛)と(頭の毛)とでは(性格)が違うということである。また、頭髪が抜け落ちる副作用を持つ抗ガン剤が、内耳の毛にも悪影響を及ぼして聴力障害を起こすとは聞いてない。
こうみてくると、一概に(毛)といっても、その生えている場所によって名実ともに(各毛各様)の差があるだけでなく、毛という同じ名が付いていても、その一本一本に(個毛差)があるということを認めざるを得ない。 
鼻のはなし
(花より団子)、(花は桜木)、(言わぬが花)などと(ハナ)と言えば、誰でも(花)のことを思って、(団子鼻)の(鼻)には(鼻も引っかけない)ものであるが、どうして、(鼻持ちならぬ)話とばかり(鼻で笑って)ばかりもいられないと思うがいかがなものであろうか。
鼻は顔の造作の中では、(目)についで目立つものであろう。人と人のつき合いは、まず(鼻を突き合わせて)話をすることから始まるものである。目は(心の窓)と言われておるが、人の(善し悪し)を(嗅ぎ分ける)鼻の能力も馬鹿にしてはいけない。
(目は口ほどに物を言う)ものであるが、鼻は鼻唄を謡ったり、鼻を鳴らしたり、鼻をうごめかしたりして機嫌の表現をすることが出来る。「脳神経」の順位では、嗅神経が第一番目で、視神経は第二番目になっているが、第三、第四、第五、第六、第七の脳神経は眼を動かしたり、眼瞼の動きとか、涙腺などに関係があるので、眼は脳神経の順位こそは嗅覚に譲っても数では鼻より多くの神経支配を受けていることになる。
さて、その鼻も秀でている(鼻が高い)人は威張って見えるが、高くなり過ぎた(天狗の鼻)はへし折られる憂き目に会う可能性があろう。天狗の鼻までは行かなくても(鷲鼻)はHumpNoseと言われて整形術の対象になることが多い。鼻も高いだけでなく幅の狭い(RazorThin)の鼻であるのは(酷薄)な人という印象を与えるし、鼻梁(鼻筋)が曲がっていたり、傾いているのは見苦しいものである。しかし、鼻は曲がっていても(臍曲がり)というように性根が曲がっているという印象は与えないので、鼻が曲がるほど臭いという表現の意味に使って、(鼻つまみもの)になるとは関係がないようである。
そして、鼻の長さはその人の顔の三分の一くらいのものが一番納まりがよい。(短鼻)は愛嬌があるかも知れないが、チンチクリンで格好がよくないし、逆に(長鼻)は間延びしたようで可愛げがなく、魔法使いの女のような(とんがり鼻)は特に薄気味悪いものである。また、鼻の稜線では、勿論Humpもよくないし、逆にボブ・ホープとかリチャード・ニクソンのように、スキー場のスロープを思わすカーブがあるのも美しいとは言いかねる。
鼻のなかで一番気になるのは矢張り(鼻尖;Tip)で、(団子鼻;BulbousTip)は品がなく、(獅子鼻;Rhinophyma)に至っては病的である。また、(小鼻)が横に張り出したのは美的とは言い難いものだ。鼻の穴の格好も、大きさも千差万別であるのは勿論だが、理想的な形状とか大きさなどはあるはずがない。人間の鼻だけに限って、どんな鼻がよいの悪いのと考えないで、目を転じて動物界に見られる各種の鼻のことも考慮に入れてみれば、鼻の(品定め)など到底できることではないと分かると思う。
鼻は、その持ち主に便利に働いてくれなければ、いくら外見が芸術的であっても無用である。ここで鼻の機能・効能について喋々するつもりはないが、鼻が、音声、特に歌声に大いに関係していることを見逃してはならない。耳鼻科医師で、声楽家としてもその名を成している、現広島大学長の原田康夫教授によれば、歌声が鼻を抜けるだけでなく、鼻の中にある(甲介)も振動して、歌声に微妙な好影響を与えると確信されているとか承っているが、この伝で行くと、鼻声を売り物にしている?歌手の瀬川瑛子は、慢性の鼻炎、副鼻腔炎などで鼻が塞がった為に図らずもあんな鼻声になっているのではなく、特別に鼻声を出す訓練をしているのかも知れない。普通の話し声が鼻つまりの為に(鼻つまり声)になったのは聞き苦しいものだが、歌手の鼻声は魅力が増すということであろうか。黒人には歌手として有名な人が多いが、ノドや口腔の他に、鼻がどのように貢献しているのか、考えて見るのも面白いと思う。
それにしても、鼻は体の一部であるから、「感情」がこもることは不思議ではないが、性的興奮の為に鼻がつまることを経験された方は多い筈である。(泣き声)で歌を唄う歌手はざらであるが、ついでに鼻までつまらせて鼻声も混ぜると一層効果があるかも知れないし、逆に鼻にかかって聞きづらいかも知れない。とにかく、鼻声はモノをおねだりする時に一番効果を発揮する。
鼻に関することでは、(鼻の権威者)としての高橋良先生の本が何冊も発行されているので、その中のどれかを是非ご一読して頂きたい。ところが、(文芸書)を多数書いて有名になった、元・整形外科医の渡辺淳一先生の「新訳・からだ事典」には鼻については、ただの一行も触れてないのは納得が行かない。鼻が動物にとってはもっとも大事な器官のひとつであることは言うまでもないが、人様にとっても大事なものであることに間違いない。その鼻を避けて通られたのは何故であろう。鼻はご自分の専門外のことであるからというのなら、眼科や耳鼻科の扱う眼、耳、口、舌、ノドなどのことにも触れないで欲しい。整形外科医でも医者であるから、からだ全体のことに関しては、素人よりは知識が多いとうぬぼれて?執筆されたのだと思うが、本の中で鼻の項目についてわざと?知らぬ顔をされた(ワケ)を断っておいて欲しかった。
鼻に因んだ話を挙げればきりがないが、永年鼻と付き合って来た私は、色々な角度から、あれこれLosAngelesの日系新聞の欄に寄稿したものである。たとえば、「無臭症」、「悪いサイナス」、「鼻血」、「鼻の整形」、「後鼻漏」、「鼻涙管」などの題目を掲げて鼻のことを少し論じてみた。昔はよくお目にかかった(洟垂れ小僧)はすでに、この世から消失してしまって、現今、日常茶飯事の(鼻アレルギー)として(ハナ)は生き永らえているが、(鼻アレルギー)はアメリカではHayFeverの愛称?で呼ばれていたこともあり、日本ではこれを「枯草熱」と訳していたことなど憶えておられる方は少ないのではないか。
鼻のことで印象深かったのは、アメリカの病院の手術場でマスクを掛けるのに、鼻を隠さないで、マスクの外に突きだして(事たれり)としていた、ユダヤ系の医者が居たが、それを誰も咎めようとはしなかったことである。アメリカの医者の中に占めるユダヤ系の医者は40-50%以上ではないかという気がするものだが、ユダヤ系の医者が総てマスクの外に鼻を出すとは思えない。その(鼻の医者)は鼻のニック・ネーム?(本名?)はシナゾーラであると私に繰り返して教えてくれたものである。
英語で鼻を使った言葉は、日本語に比べると、やや少ないような気がするのは、私がアメリカで生まれ育っていないからだけでもないと思う。しかし英語では、日本人にはない発想があることに気付く。たとえば、NoseCountとかNoseDiveという時に使うNoseは、日本語では(頭数)とか(機首を下げる)というように(鼻)というより(頭)として取り扱うし、KeepNosetoGrindstoneでは(身を粉にして・・)とか、KeepNoseClean(身をきれいに保つ)のように、(鼻)は(からだ全体)の意味で使われる。
それから、ThumbNoseat(あかんべーをする)とかTurnupNose(鼻もひっかけない)というように、(鼻)は(人間)を代表して使う。
さらに、PaythroughtheNose(お金を搾り取られる)の時に使う(鼻)はどちらかと言えば吐き出す(口)に近いと思う。
勿論、HaveaGoodNose(鼻が利く)では、英語も日本語も本当の鼻を指しての表現であるが、(詮索好きな人)を英語でNosyPersonと表現するのは言い得て妙である。日本語では他人事に(鼻)を突っ込むとは言わないで(頭)を突っ込むと言いたいところであろう。 
いびき 1
いびきをかいて寝る、と言えば「安眠」を思わせる言葉であり、一日の労働を終えて、晩酌の一つも楽しんで、高いびきをかいて寝る、などと聞けば、なんとなく、ほほえましい感じがするものだ。
ところが、このいびきも、すやすや眠っている子供の寝息の音を通り越して、辺り四方に響き渡る雷のような大いびきになると、近所迷惑になることは必定である。特に、隣に寝ているつれあいの安眠妨害になることは疑いない。そして、いびきをかいている人を横からつつくと、一時、いびきは止まるが、すぐ元に帰るので、ついには諦めて別室にでも避難せざるをえないこともあろう。
いびきは、体位とも関係があり、横向きになると、いびきが納まることもある。又、いびきをかいている人は、たいてい、口を開けているので、無理に口を塞いでみると、鼻呼吸を強いられて、いびきも消えるかもしれないが、実用的ではない。なお、肥満型の人が、いびきをかきやすいものだが、体重を減らすことの困難さは先刻ご承知の通りである。
いびきをかくのは、男性の方に多いらしく、若い兵士の約四分の一は、いびきをかいて寝ると言われているが、女性についての統計にはお目にかかったことはない。
夫のかく、いびきを子守歌と受け止めているという夫人の話を聞いたこともあるが、現今の「女性上位」の世の中では、夫のいびきをなんとかして呉れと訴える人の方が多いと思う。
さて、いびきは、咽喉(のど)を通過する呼吸気が乱れて、主に軟口蓋が振動する為と見られている。そして、咽喉に乱気流が起こるのは、そこの気道が狭くなり過ぎるからである。子供が、いびきをかくのは、扁桃腺が異常に肥大したためであることが多く、これは、扁桃腺を摘ることで、簡単に解決できるが、大人の場合は、睡眠中には、舌や、軟口蓋、咽喉の筋肉がゆるんで、舌や軟口蓋が咽喉の後壁に近づく為に、咽喉の気道が狭くなる状態になって、いびきが発生すると見てよい。しかし、睡眠中に舌が咽喉の方に落ちない装置を考案した人もあるが、それにとびつく人が少なく、結局は、振動板の役目をしている、軟口蓋を大きく切り取る手術で、いびきを退治する人が多い。なお、最近、テレビで宣伝している外来手術で、口蓋垂(のどちんこ)だけを切るものもあるが、効果は疑わしい。もし、睡眠が浅いと筋肉の弛緩度も少ないので、女性にいびきが少ないのは、その辺りに理由があるのかも知れない。
ここで、一言付け加えておきたいのは、軟口蓋の広汎切除術は、麻酔が醒めてから約十日間は、痛みがとてもひどいということである。
いびき 2
(いびき)をかく人はざらにあるが、子供と女性にはなぜか少ないものである。その理由を詮議すると(いびき)の発生を促す条件が案外複雑であることが分かってくるのではないか。それはともかくとして、人の集まった会場で居眠りをして人が(いびき)音を出すくらいなら、周りの人の失笑を買う程度で余りたいしたことではないが、寝室で隣の人の迷惑になる(いびき)となると問題はやや深刻になる。しかし、高鼾をかいて寝ている人は安眠熟睡しているようにみえるし、本人も自分のいびきの音で目を覚ますことは稀である。(いびき)は寝入りばなにはよくみられ、そのうち消えてなくなるものもあり、何時間も延々と続くものもある。
近来は就眠時から覚醒するまでの一晩中を連続的に記録観察する睡眠検査室があちこちに設置されて、研究・調査が行われるようになったため、(いびき)とその後に続く(無呼吸状態)についても貴重な記録が取れるようになった。そして、無呼吸の状態では血中の酸素量が減ることも分かって来た。この無呼吸状態が睡眠中に何回も起こるようでは、折角、長時間眠っても実際には体が休まらないので翌日は睡眠不足の症状が出るのではないかと疑われるようになった。逆に言えば、(いびき)がなければ無呼吸状態にもならないという訳である。だから、(いびき)はご愛敬として放置するのは好くないとの説が出ている。しかし、(いびき)を簡単に半恒久的に止める方法はみつからないものである。
考えてみれば、(いびき)の最終的の原因は咽喉の乱気流によって、軟口蓋やノドチンコ辺りが振動して音を立てるのであるから、その音源を切り取ってしまう手術が効果覿面であろう。ただ、この手術は確かに(いびき)退治には有効であるが、手術後の痛みは相当ひどいという欠点がある。もともと、いびきかきの張本人は(いびき)が自分の健康に悪いなどの実感はないのが普通である。したがって、手術は、いわば(奥さん孝行)の為であると、考える傾向がある。だから、(いびき)の手術をめぐっては夫婦の間で意見のくいちがいが起こり得ると思う。 
声は七色
題目の(声は七色)というのは人が出す声には種類が多いということであろう。その多数の声のなかで、はっきりと色と関係をつけて呼ばれる黄色の声というのがある。黄色い声というのは、キャーキャーと囃し立てるかん高い嬌声を描写するときに使われるが、なぜ嬌声が黄色の声と呼ばれるのか疑問に思って辞書をみると、幼い子の声と、女姓の声のことをいうとあったので、幼い鳥を嘴が黄色であると呼ぶことから、幼い人の声も黄色であると関連をつけたのだろうと納得した。しかし、声の描写に色をあてるのは黄色い声以外には見当たらないと思う。これは、声色とか音色と言う言葉があっても、ここで使われた色は虹色(赤橙黄緑青藍紫)の七色ではなく音声の性質を指して色といっているのであるから、いくら色彩の色が何百種類あっても、色で声を分類するのは適してないとされたのであらう。
人があげる声のなかでは、生まれて最初にあげる泣き声の種類が一番多いと思う。産声はオギャーと聞こえるが、人が出すいろいろな泣き声は音声学的には人種差はないと思う。しかし、泣き声を表現する言葉としては、日本人はワーワー、ワンワン、ヒーヒー、シクシク、オイオイ、などと擬音に近いものを使うことが多いが、擬音ではうまく真似しにくいものは、啜り泣き、忍び泣き、号泣などと説明調の名前をつけて表現する。
泣き声についで多いのは笑い声で、乳幼児でも三ヶ月もするとケラケラと声を出して笑うようになり、成長するにつれて、笑い声の種類も増えてゆく。
そして表現にはアッハッハ、ハッハッハ、ワッハッハ、オホホ、クックック、クスクス、カラカラと笑うというように擬似音を使うものから、微笑む、呵呵大笑する、哄笑する、爆笑が起こるなどという言葉で表現するものまで多種多様になる。
人の声は感情を表現するために出すものには違いないが、感情には喜怒哀楽のほかにもいろいろと複雑なものがあるので、それらに対応して声も多種類にならざるを得ないわけである。
たとえば、苦しいときに上げるうめき声とか、驚いたときの叫び声なども、感情の表現になるが、感情そのものではないかも知れないが、気合を発するときに出す声とか、掛け声などがある。
声にはカン高い声(キンキン声、キーキー声、金切り声)と低い声、明るい声、華やかな声もあれば、暗い声、沈んだ声、ガラガラ声、ドスの効いた声などもある。音量によって区別すると、大声(わめき声、ほえるような声、胴間声、大音声など)と小声(か細い声、消え入るような声、ささやきなど)、さらに、音量が完全に無になった(声無き声、世間の声、天の声、神の声など)も考えられる。大きい音量といえば、祝詞をあげる声、読経の声、詩歌を吟じる声、謡いの声や歌唱の声などもその中に入ると思う。
さらに、意図的に使う声のうちには、人に媚びるときに使う鼻声、裏声、腹話術者の声などもある。
発声器官の構造と関係のある声としては、鼻がつまったときの鼻声、子供の高い声、思春期の声変わりした声を経て、老人の声(しわがれ声)などもあり、喉頭の病気(炎症、腫瘍、麻痺)に伴うかすれ声、喉頭を無くしたとき食道を使って出す声(食道音声)、人工喉頭を使用した声などもあげられよう。
笑い声はいろいろあっても、ひとつの音を繰り返すのみであるから、含み笑い、苦笑いをしたからと言っても言葉としては通用しない。出した声を言葉にするのは莫大な訓練時間を要するものであるが、吃るという発声様式が現れることがある。吃りは子供の頃にはかなり頻繁にみられるものであるが矯正しなくても自然に消失するのが普通である。ところが、成年に達してから発生した吃りの矯正は困難であるらしい。吃りに似ているが、震え声というのがある。声が震えるのは、興奮したときに自然発生することがあるが、わざと歌手などが声を震わすこともある。また、病気のために体が震え、そのついでに声までも震えることもある。
吃りのことでは、私が永年勤務した医療団体の同僚医師の中に吃る人があったので、興味深く観察したことである。
彼はアメリカ東海岸出身のユダヤ系医師として第二次世界大戦に参加し、ヨーロッパの戦場で負傷して回復したが、後遺症として吃るようになったという。彼はコンサート・ピアニストを目指したこともあったが医師の道を歩んだという経歴があり感受性の高い人なのだと思うが、吃りをものともせず喋りまくるので控えめの人間という印象はなかった。彼には難聴があり補聴器を使用していたが、その他には身体上の障害は無いようであった。勿論吃りに対する矯正治療はあれこれ試みたはずであるが、65歳で引退するまで吃りが続いていた。
吃りの原因が何であるかにつぃての定説はないらしいが、吃りの人でも歌を唄うときには流暢に声が出るというから不思議なものである。
言葉を出そうとしても、感情が昂ぶり過ぎてしまったときに声を呑むとか声を失うという現象が表われることがある。しかし、この声を失うという状態は一時的なものであるのが普通であり、失声状態が何ヶ月も続くことは稀である。長期間の失語症については、実際に皇后様の身に起こったので周知の事実になったものである。
喉頭や発声にかかわる神経系統に器質的な異常は認められないのに、失語症が長く続くという現象は発声にはいかに精神的影響が大きいかを証明するものであろう。吃りなども精神的な原因で始まっても、長く続いているうちに神経系統に(癖)ができてしまって取り除くことが困難になることも考えられるのではないか。 
腹時計
人が集団生活をするためには時刻を決めておく必要があるため、日本では昔からお寺の鐘が時を知らせる役目をしていたようだ。しかし、各家庭にも柱時計を置くようになったのは明治・大正時代になってからではないかと思う。私が子供の頃(昭和の初期)にはラジオ放送が始まって近所の家から放送音が外の道に洩れていたのを憶えているが、私の家にはまだラジオとまではゆかないまでも、柱時計はあった。家庭に柱時計が普及して、置き時計や携帯用の時計と小型化が進むには余り時間がかからなかったのではないか。
農作業をする人は日の出から日暮れまでを戸外での活動時間に当てていたので、時計を体につけて働く必要もない訳であるが、昼食を摂る時刻は腹時計に頼って決めればよいことである。もっとも太陽の位置を見て正午の時刻を知ることは容易であるが、それ以外の時刻は腹時計では正確な判断がし難いという不便を解消するために、懐中時計や腕時計を持って外出する人が増えて行ったのだと思う。
昔は小学校の生徒で腕時計をしていた子供ななかったが、中学生になると郡部から通学する生徒の間では腕時計を使用していた者が大勢いた。小・中学校の教室に時計があったかどうかは判然としないが、時計の針を気にして授業時間が終わるのを待った記憶はない。私は中学生の時には時計を持っていなかったのだが、旧制高等学校の入学試験などの時には父から借りた懐中時計を試験場に持参して、机の上に置いて答案を時間内に仕上げる為に利用したものだ。
大学に進んでからは、講義室にも病院の至る所に丸形の大きい壁時計があったので、自分で腕時計など必要と思ったことはない。
社会に出てからも通勤の為とか仕事場で腕時計をつける習慣はないまま一生を過ごした。その代わり建物や乗り物の中でも備えつけの時計に注意する習慣が身についたものである。
家の中に居る時に腕時計をつけている人は少ないと思うし、まして寝ている時には腕時計は外しているのが普通であろう。
さて、規則正しい生活をしていて、就寝時刻が定刻であれば、起床時刻も決まっているのだから、目覚まし時計のご厄介にはならないでも、自然に目が覚めるという人があるようだ。ところが、就寝時刻が可成り違っていても朝は一定の時刻になると目が覚めるという人もあるので不思議なものである。私は引退するまでは、用心の為目覚まし時計をおいていないと、安心して就眠出来なかったものである。しかし、時には目覚ましが鳴る直前に自然に目が覚めることもあった。
人には時計を見ないでも或る程度の正確さで時間の動きが認識される勘とか本能のようなものがあるので腹時計という言葉も出来たのであろう。
日本で言う腹時計に対応する英語としてInnerClockを挙げている辞書もある。腹時計とは腹の空き具合で昼食時などを知るから使われたのではあろうが、InnerClock(仮に体内時計と訳す)は腹の中にあるというより脳内にあるというべきであろう。
もともと、腹の空き具合は血中の糖度が脳の何処かで測定されて、大脳の知覚中枢もその連絡が入るから空腹として感ずるのだと思う。私はInnerClockの所在場所は脳幹とか脳底の情報収集センターのあるところではないかと漠然と想像していた。事実、NHKが5/26/04に放映した「体内時計」番組では視床の下方にある極小の「視交叉上核」が体内時計の所在場所であるとのことであった。
人間には生きて行くために必要とされる食欲本能とか睡眠本能と名付けられた機能があり、時を知る機能は情報収集センターのある脳底と大脳の皮質にある知能とが連携して出来た勘というものではないかと考える。よく知られている(刑事の勘)とか(土地勘)とか言われる勘と時間感覚とは共通点がありそうである。勘がよく働くということは、長年の経験を積み重ねて大脳の皮質に統合された成果ではないか。
私は朝目が覚めた時は勿論、夜中に小便をするため起きた時、時刻を確かめる習慣があるが、時計を見る前に今何時かを憶測して30分以上狂わないで当たることが多いのにわれながら不思議に思っている。これは、夜中でも時刻を正確に把握したいという本能が自然に訓練されて培われたからではあるまいか。
人との約束時間を守らないことを繰り返して平気でいると、時間感覚など重要視しない習慣が習い性になってしまって、乗り物の発車時刻にも間に合わなかったり、仕事場にも定刻に着けないなどの(欠陥人間)になりそうである。 
健康食品
「健康食品」と呼ばれる食べ物が近来話題になってきているが、マーケットで健康食品のコーナーというのは見あたらない。有機栽培された野菜とか、小豆などは値段が高いことの断りの為か、その旨が明示してあるくらいである。銀杏(ギンナン)、ニンニク、キノコが健康に良いということから精製して薬品の恰好で陳列してあるらしいが特に関心を持って探したことはない。こういう物はビタミンなどと一緒に(栄養・健康)の製品を売る所に並べてあるようだ。ビタミン剤はドラッグ・ストア以外の店でも手に入る。食べ物としては有毒であると昔から知られたものに毒茸とかフグがあるが、フグ料理は毒にならないように工夫されて料理屋で食べさせてくれるようになっている。食べ物は飢えを凌ぐだけでなく、口欲も満足さして飽食している中に肥満する人が増えてきた。昔は太っている人は裕福であると羨ましがられていたものだが、肥り過ぎは健康上好ましくないということになって、まず槍玉に挙げられたのは脂肪である。そして安くて美味しいハンバーガーには動物性脂肪が多いのでジャンク・フードという汚名を着せられてしまった。ポテト・チップは植物性の油で揚げてあっても脂肪には違いないということで、それを食べながらテレビを観ているとカウチ・ポテトになると漫画の種にされるようになった。
脂肪は蛋白質と糖類の二倍の栄養価があるので腹がふくれるまで油物を食べると肥ってしまうという結果になる。しかし甘い物を多量に摂っていると糖尿病になるかも知れぬとか、逆に塩辛いものを食べ過ぎると高血圧になるとか、魚といっても鮹とか貝類にはコレステロールが多いから良くないとか、悪玉コレステロールの少ないとされている青い魚でも焦げた皮は向癌性があるとか、焦げたものは米飯でもよくないとかやたらに健康に悪いとされる食べ物の情報が氾濫する世の中になった。昔から偏食は悪いと言われているようにあれこれバランスの取れた(粗食)を腹八分にしておくのが健康に良いということに落ち着くというのだろう。 
温泉と風呂
日本人が風呂好きになった理由として、日本の各地に、天然に噴出して溜まった温泉に浸かる機会が多かったという自然環境が考えられる。湯に浸かると気分が良いだけでなく、体そのものにも好影響があることを知ってから、露天の温泉に囲いをしたり屋根を付けて湯浴み場として利用を始め、果ては湯治場として有名になっていったと想像される。温泉でも温度が低いのでは利用度が少なく、加熱しないでも使える温水が珍重されることは言うまでもない。その際、そこの温泉に含まれている成分を詮索して、各種の疾患に特効があるという宣伝文句は俄には信じ難い。したがって、屋内の浴槽に温泉の水を引き込めない時に有効物を混ぜて「薬湯」と名付けてみても、本当に医療効果があるとは思えない。とにかく、浴槽にとっぷり浸かっていると湯に含まれた成分が体内に入って疾患を治して呉れるというよりは、むしろ適温の湯が体温を上げて筋肉がほぐれたり、血行も良くなるなどの物理的な効果を期待すべきであろう。昔から湯治場として栄えた所には温泉病院などを造ってリハビリの専門病院として活用しているが、もともとリハビリには日にちが薬というようなものであるから、ゆっくりと何週間も治療の為に滞在するのがよいのであって、一泊の温泉郷旅行で心身爽快を味わっても湯治の役には立たないと思う。さらに、水槽の水を振動させて体に指圧・マッサージの効果を出すジャクジ風呂を屋内に入れることも、深くて大きな浴槽を設置することも費用をかければ可能になっている。ホテルでも高級になれば、広い浴室も期待出来る訳である。疲れを癒すのにはシャワーだけではいくら時間をかけても浴槽に浸かる程の効果はないように思う。最近、日本式の深い浴槽は腰に良くないとかの記事を見たが横になる式の方が体には良いという説には同意出来ない。肢体の不自由な人の為にプールの中で運動をすすめることも行われているが、水中では抵抗が大きいので運動にも余計な力が要ることを前提にしなければなるまい。 
Out of Shape
Out of Shapeという言葉をよく耳にしている。
この言葉は人間が不格好であるという表現によく使われていうようである。
格好が型はずれで見苦しいという意味であるが、人の場合は肥満の度がひどい時に使うことが多く、痩せすぎた人には用いていない。
最近のテレビでアメリカの成人男子の6割はOverWeightであるとか聞いたが、女性のことには言及していなかった。こんな断片的なテレビ情報でも自分の観察と合致しているようで、さらに、詳しい内訳はどうであろうかと好奇心をそそのかせてくれる。ショッピング・モールを歩いていて行き交う人や雑多な人種の集まる大衆食堂とか、カイザー病院系の薬局で見かける人の姿を興味深く観察した印象からいえば、肥満者の男女差はないようにみえる。そればかりか、夫婦者では双方申し合わせたように肥っている。
肥満といっても程度があり、標準より10%、20%くらい体重が多いのは別に不格好とはみえないし健康に問題が出てくるとは思えない。痩せこけているより肉付きの良い人の方が健康的にみえる。しかし肥り過ぎてヨタヨタ歩いているにはどうみても気の毒である。
体重過多になっても筋肉質の体型で均整がとれている場合には不格好にはなりにくいと思うが、体の一部が異常に発達してくると格好が悪いという印象を与えるようになる。たとえば、アメリカン・フットボール選手によく見られる太い頸などがそれである。
頸が筋肉のためではなく、脂肪が溜まって猪首になって頸がはっきりしないのは人間としては格好が悪くて見苦しいものだ。
格好が悪い典型的な体型は元力士の小錦関を思い浮かべるのが手っ取り早い。
元横綱の曙や現横綱の武蔵丸は身長が高くても、体重過多でありビール樽体型になっておりOut of Shapeと言ってよいと思う。
アメリカのバスケット・ボール選手に多いノッポの人は9頭身、10頭身になって日本人に多い6頭身を見慣れていると異様であり、美しい格好とはほど遠い。
しかし、動物界では頸が極端に長い麒麟もいるし頭の大きい象もいる訳で、そういう動物の固有の姿態に対して不格好と言う言葉を使うことは無理がある。自然界に見られる千差万別の動植物は、それぞれところを得て存在しており、Out of Shapeなる呼称は人の主観から発した言葉で人間社会だけに通用する話である。
ただ、人間がペットとして飼う動物が食べ過ぎや運動不足のために自然に放置されていた時より太り過ぎになって格好が不自然に変化することはある。
人がOut of Shapeといはれるのは、主に胴回り全体が太すぎる時が多いが極端な出尻も不格好の仲間入りが出来ると思う。胴回りと臀部だけではなく、胸部の乳房も飛び出るのは女性に往々みられるが、男性でも肥り過ぎると乳房も大きくならないわけではない。女性の豊胸は腰がくびれている時は挑発的な美形とみられるものであるが、肥満していてはそちらに気を取られて魅力は半減する。
小児麻痺の後遺症でチンバになっている人とか先天性の侏儒(コビト)の人などを指してOut of Shapeと言わないようである。
日本のテレビではよく出てくる腰の曲がった老人はアメリカでは少ない。この腰曲りなどは四つ足動物ならいざ知らず人間ではとても不格好である。
Out of Shapeという言葉は格好が悪いだけではなく、その人の動作も十分でないことを暗に指しているようである。運動選手でもその姿態が技量を妨げていないときには問題にされないものである。体重が大きいほど有利になる競技としては、重量揚げ、砲丸投げ、ハンマー投げがあると思うが、相撲や柔道となると機敏さに欠ける動きの点で体重ばかりに頼っておれない競技もあろう。
逆にマラソンなどの長時間をかけて争う競技では体重は軽くて脚の長い人が有利であるようだ。分からないのはスキーのジャンプでは体重があって運動量の大きい方が有利のようにみえるが、浮揚力も関係することだから大型で軽量の人が理想的なのであろうか。短距離でスピードを争う時には空気抵抗を考える必要があるので脚の長くて大型の人が有利と決めつけることはよくないのではないか。
結論として言えば、Out of Shapeという言葉はテレビで発言している人の好悪感の入った主観的なものであるから、聞く人の琴線に触れるとは限らないことで問題にしないことである。 
骨の話
「骨」という言葉は、日常生活によく使われているが、(骨がある)、(骨が折れる)、(骨相がよい)、(気骨がある)などの時に出てくる(骨)は、実際の骨そのものがどうだとか言ってはいない。また(骨肉)、(骨身)と言う場合も本当の(骨)と(肉)とか、(骨)と(身)を意味して使っていない。
しかし、(老骨)とか(骨を埋める)となると、もっと(実際の骨)を指すようになる。それでは、「粉骨砕身」はどうであろうか。骨を焼いて(骨灰)にすることはあっても、骨を粉にしてしまうという発想は、日本人にはなくて、むしろ(身を粉にして働く)のように、(身)の方を(粉)にするという考え方を取る。また、「鏤骨彫心」のように骨や心に刻み込むという表現は、どうも日本古来の発想ではないと思われるが、人間の骨を刻むことはしないでも、象牙とか動物の骨に細工をすることは中国に限らず日本でも行われていたのだから、(骨を刻む)というのも現実味がある。さらに(肉を斬らせて骨を斬る)となれば、本当に刀で骨まで届く傷をつけるということであるから、いよいよ現実的になる。
(象牙細工)とか(根付け)などに使う動物の骨ではなく、人間の「骨」を取り扱う職業も人間社会には勿論必要である。屍体を焼いたり埋めたりするとか、(骨灰)を(骨壺)や(骨箱)に入れて(納骨)するのも大事な仕事である。
また、骨を粉々にしないで、そのままの恰好で保存して(骸骨標本)を作って学習に役立たせることも必要であろう。人間の骨はバラバラにすると何百個にもなるが、その一つ一つの骨についても、至る所に詳細に(解剖学名)がついているのである。医学校に入ると、早速解剖学の講義を受けることになるが、最初に出合うのが、骨の各部のラテン語名称である。骨のあらゆる場所にもっともらしい名前がやたらに沢山ついているのを教えられて驚き入ったものだ。まさに(一点一画もおろそかにしない)という言葉を地で行くのはこのことであった。どうしてそんなにうるさく至る所に名前をつけなくてはいけないのか分からないままにうとましく思った記憶がある。後になって考えて見れば名は体を現すわけで、解剖学ひいては医学の基本的な必須事項であった。そして骨の各部の名前も、その意味するところが分かって見ればちゃんと辻褄が合って一定の規則に従っているので(丸覚え)する名前はそう多くないということに気付いたものだ。
医学で(骨)の占める役割は頗る重要であるのは言うまでもないが、一般の人は、耳鼻科でも(骨)との関わりがとても多いとは思わないのではないか。こういう私も耳鼻科を専攻するまでは、耳鼻科がそれほど(骨)を扱う科であるとは思ってもいなかったものである。ただ医学校の一年生の時に焼け跡で人骨を見たとか、解剖学の講座で骨に触っただけの経験しか持ち合わせていなかった。ところが、耳とか「サイナス」の手術では、耳の後ろとか鼻の横の骨に孔を開けたり削ったりするのが主体であることを発見した。そして、その際に使う道具は、大工仕事と同じく(ノミ)、(槌)、(鋸)、(キリ)とかであるのも面白いと思ったものだ。また、紙とか布を切るものと思っていた(鋏)でも強いものであれば十分に骨が切れるということも知った。さらにアメリカでは、一九五○年代には大工道具まがいの器具に留まらず、すでに歯医者の使う電動ドリルを耳鼻科の手術に取り入れて使っていた。そしてドリルを骨に使うと(ソーダスト)のような細かい骨の粉(ボーン・ダスト)が出るのだから、事実上(骨を粉にする)作業に携わることにもなった。従って、骨を砕いたり焼いたりして砕片にするだけでなく、本当に(骨の粉)も作ることもあり得る訳である。考えてみればカルシューム剤としてカキ殻を粉にしたものが市販されているのだからカルシュームの集合体のようなものである骨を粉にして利用することは実際に行われていることである。
さて、(骨)と一口に言っても、骨はどれも一様であるとは言えない。形状も大きさも様々である。骨には緻密なところもあれば、粗いところもある、その粗いところは骨の本来の(役割)としての(支持組織)以外の仕事がある。例えば形が筒状で大きい骨の中心にある(骨髄組織)がそれである。平ったい骨でも厚い骨には(骨髄)があるが、薄い骨には勿論(骨髄)はない。(骨の随まで)という表現は昔からあったが、(骨髄移植)なる言葉も最近はよく聞くようになって、(骨髄)は(恨み骨髄)というより、起死回生の妙薬としてのイメージとして人の目を引くようになった。(骨髄)は体の一番深いところにあるという感じ方もさることながら、生命に欠かせない(血液)を製造しているところでもあるとの認識が必要であろう。放射線に曝されるとか、癌の治療のための(抗ガン剤)などの影響で(骨髄)の(造血機能)が衰えると生命の危険が起こるので(骨髄)の重要性は言うまでもないことである。
(骨)は生きている間はどんどん変化を続けるものであるが、その変化のひどい骨もあれば、あまり変わらないものもある。(背丈が伸びる)のは背骨とか脚の骨が伸びるのが大いに貢献しており頭の部分が大きくなるのは身長にあまり影響を与えない。生まれた時には無かった(歯)は(乳歯)がまず出て来たあと、それが抜け落ちて(永久歯)に変わる。それもそのうちボロボロになるとかなど、骨の中でも(歯)は特別である。そしてその変転めまぐるしい(歯)を(かくまっている)(顎骨)とか(上顎骨)の変化もすごいものである。それを利用して、法医学では(顎骨)も年齢を推測するのに役立たせることもある。(歯)が(出て行った)あとご用済みとなった(上顎骨)には(空家)みたいになって(上顎洞)という空間(いわゆるサイナス)が出来るという仕組みも自然の妙である。
また、変化しない(骨)として、生まれ落ちた時から老人になっても、形も大きさも変わらない三つの(聴小骨)がある。(聴小骨)は(鼓膜)の後ろにあって音の振動を伝えて聴力に関係する人体の中では、もっとも小さい骨である。子供はすでに大人に劣らない程の(聴力)を持っているということは、子供の伝音系の骨も殆ど完成品であると見てよいのだから年とともに成長して行く必要がないということと思われる。
(骨)が生きている証拠として、怪我などで本当に(骨が折れた)時には、折れた箇所に新しい骨が出来て修復されてしまうことを挙げてもよい。(骨)の主要成分であるカルシュウムは授乳している乳に流れ出して骨の(粗鬆現象)が起きるとか、(寝たきり老人)に(骨粗鬆)が起こりやすいといはれているように、(骨)は一定不動のものではないということだ。(骨)はカルシュームの貯蔵庫の役もしていて、筋肉や神経活動にも必要なカルシューム分を供給するらしい。動いておれば(骨は太くなる)が、動かないでじっとしておれば(骨も細る)という具合に(骨)は生体が与える刺激に敏感に応じているという訳である。ただ、この刺激=(負荷)が(間欠的)であれば、カルシュームが付加して骨が強くなるが、(持続的)の負荷であれば、(骨が崩れ溶ける)という微妙な因果関係がある。この(骨が崩れる)という現象は、成長期を過ぎた人の脊椎などに多くみられる。年をとると背が低くなるのは背骨が曲がるだけのせいではない。なお、骨が持続的な圧力に弱いのとを利用して、歯並びの矯正に役立たせることもある。
(骨)は硬いものとされているので、(硬骨漢)という表現もあるほどだが、(軟らかい骨・軟骨)も人間にはある。しかし(軟骨野郎)などという表現は聞かない。何れにしろ(軟骨)は弾力性に富んでいて、少々曲げたぐらいでは(骨折?)を起こさない性質があるのだが、体のあちこちにあって重要な役を果たしている。死んだ人の(頭蓋骨)を見ると、生前あった(鼻)が消えて、そこには大きな洞穴が開いているのが目立って変だと感じる人が多いと思う。それは、(鼻の芯)には(骨)があると何となく想像していたのに、(頭蓋骨)には鼻の場所に骨がないのを発見するからである。生体にある(鼻)を形ずくっていたのは(軟骨)であったために(頭蓋骨)には(鼻)そのものが残らない訳である。それと同じことは(耳)の場合にも当てはまる。(耳)も(耳たぶ)以外は(軟骨)が(芯)となって恰好をつけているものである。(耳)は引っ張っても曲げても元の形に復るが、(鼻)は叩かれて斜めになったり曲がったりした時に、(修復工事)をしないと元の恰好にならないことがある。これは(鼻の付け根)の所に小さいながら(鼻骨)という骨の部分があり(骨折)もするからである。
この他に(軟骨)で形造られている重要な器官には(気管)とか(喉仏)がある。ここでいう(喉仏)とは、(お骨拾い)の時に目にすることのある(第二頸椎)のことではなく(声帯)が中にある(甲状軟骨)であるが、この(甲状軟骨)は成年になると(骨性化)する傾向にある。(軟骨)が(骨)に変わるのは(骨の成長)に関わる基本的な(新陳代謝)であるのだから、別に不思議ではないのだが、その(骨性化)の度合いが場所によって違うのは絶妙な機序であると言いたい。
(甲状軟骨)の(骨性化)の度合いはレントゲン写真を撮れば簡単に分かるので、それを利用して、歌手などの声の変化と(喉頭)にある(その他の軟骨)の(骨性変化)の関係を調べた人があるのだろうか?(呼吸運動)に大事な役目をしていると思われる(肋骨軟骨)ーー(肋骨)が(胸骨)と接続する部にあるーーが(骨)になって弾力性が失われては困るのだから、あまりあっさりと(骨性化)などしないように出来ている。(耳の軟骨)にしても(骨性化)して(耳が折れる)ようになっては不都合である。喉頭が軟骨で形成されているのは、頸に色々な圧力がかかることが多いことに対応してのためであると思う。それだから頸に外傷などを受けやすい子供には、喉頭は軟骨であった方が都合がよいことは言うまでもなかろう。しかし大人になるにつれて、喉頭に不測の外圧を受けることは少なくなるので、軟骨が(骨性化)しても大丈夫という理由が考えられる。
(骨)のことについて話を進める時には、骨と骨の接合部(関節)を避けては通れないと思うのだが、(関節)にも色々の種類がある。その中では、(関節炎)を起こすことでよく知られる(膝関節)とか(節くれ立って)目に付く(指の関節)などがあるが、あまり(関節)らしくない(顎関節)というのもある。(関節が外れる)ことを(脱臼)というが、この(顎の関節)が外れて、本当に(開いた口が塞がらなく)なることもある。口を開けたり閉めたりする時に、(舌鼓)ならぬコツコツと鳴る音が(顎関節)で聞かれるなどの芸当をする変わりものである。この(顎関節)はアメリカでは、TMJ(Temporo-MandibularJoint)という名前で呼ばれるのだが、「TMJ症候群」をおこして(厄介者)扱いをされている。そしてこの(厄介者)を扱う専門医は(歯医者)と(耳鼻科医)の中間に位置する(口腔外科医)である。
なお、動く(関節)という観念からほど遠くて、絶対に動かない(縫合関節)というのもある。これは(頭蓋骨)のようにいくつもの骨がしっかりと縫合して一つの骨を形成する時の骨と骨の接合方式である。この一見外れそうにもない(縫合関節)をもバラバラにする方法がない訳でもない。しかし、それは死体から取り出した(頭蓋骨)でないと出来ない相談である。屍体であれば、その頭を骨付きのまま縮小して、いわゆるShrunkenHeadを作る(高等技術?)もあるとか聞いている。
とにかく(骨)には、生前死後を問わず種々相があり誠に摩訶不思議なものである。 
アスピリン
カタカナで書かれた薬で昔から一番よく知られたものはアスピリンであろう。1950年、私が医者になった頃は、痛み止めと言えば、アスピリンと燐酸コデインを処方していたものである。
その頃、日本で処方なしで売られていた頭痛薬に「ノーシン」と呼ばれていたものがあったが、その主成分はアスピリンであったのだと思う。
アメリカでも1950年代には、鎮痛剤としてはアスピリンを主体としていたが、――(アスピリンはドイツのバイエル社の商標名である)名前を変えてアナシン(Anacin)とか、バッファリン(Bufferin)などが商品として処方なしで市販されていた。それらは、アスピリンの鎮痛剤としての効力は残して、胃の刺激を弱める為に工夫した(混合薬)であった。(混合)する薬品としては、Antiacid、血管収斂剤、睡眠剤、カフェイン、コデインなどが加えられて売り出されるようになった。
したがって、アスピリンの入っている製品でも、混合物の差により、Alka-Seltzer(アルカ・セルツアー)、Anacin(アナシン)、Bufferin(バッファリン)、Empirin(エムピリン)、Equagesic(イクワジージック)、Excedrin(エクセドリン)、Fiorinal(フィオリナール)、Norgesic(ノルジージック)、Robaxisal(ロバキシサル)、Soma(ソーマ)などと商品名も違っている。
アスピリンは鎮痛作用の他に(解熱:ゲネツ)作用もあることが知られており、子供が発熱した時、よく使われていたものだが、フルーとか、チキン・ポックス(水疱瘡)にかかった後に、稀ではあるが、脳や肝臓に出る障害症状(Reyeシンドローム)がアスピリンと関係があるとの疑いが出ているので、医者に相談しないで子供にアスピリンを飲ますことはよくないとされるようになった。
アメリカでは、熱のある患者に(氷枕)をするとか、頭に冷たいタオルをのせるなどの発想はないし、少々の熱に対しての解熱作業をやいやい言わない風潮がある。
アスピンには、胃の刺激症状の副作用以外にも、稀ではあるが、アレルギー性の過敏症状、その他にも、ゼンソク、聴力低下が起こることもある。
また、注意を必要とする出血性素因なども知られて来たので、アスピリンは鎮痛剤の主役の座を譲らねばならなくなった。そこで代用品として、やかましく宣伝されて登場しているものに、Acetaminophen(アセタミノフェン)があるが、商品名としてはタイレノールが一番よく広告に出ている。
ところが、アスピリンにはタイレノールなどには及びも付かない(抗リュウマチ)性の(消炎作用)があり、広く愛用されていたので、その代用品として(非アスピリン系の)消炎・鎮痛剤として、Motrin(モートリン)、Advil(アドビル)、Nuprin(ニュープリン)などが華々しく市場に出現した。
それで、アスピリンの出幕はなくなったかと見えていた時に、今度はアスピリンの副作用であった(出血を促す原因=血の凝固を妨げる作用)を利用して、脳血管や心臓血管の(血栓症の予防)に使う医師も現れたので、アスピリンは未だに生き残っている、したたか者で、不思議な薬でもあると言わざるを得ない。 
ステロイド
題目のステロイドという名前には馴染みのない方がおられると思うが、もう40年も前にコーチゾンという名前で「リューマチ」の特効薬として華々しく登場した(奇跡の薬)に属する化学薬品の総称である。このステロイド系の物質は人体でも副腎の皮質からもホルモンとして産出されるし、性ホルモン(男性、女性を問わず)とか、悪名高いコレステロールなどもステロイドの一種であると理解して欲しい。
コーチゾンがリューマチ性の関節炎にとてもよく効いたのでリューマチ性の疾患は完全に克服できると期待されていたが、薬を永く使っていると色々な副作用が出ることが分かって来たので、コーチゾンの使用量には工夫を凝らさねばならなくなった。今では、「リュウマチ」にはコーチゾン薬剤を短期間(5日間とか十日間)それも最初の二、三日は有効量の十倍位から始めて急激に減らして、服用最終日には最低有効量にするという式で使用して、リューマチ症状の一時的緩解を図っておき、必要に応じて、この投薬方法を何ヶ月に一回という割で繰り返す治療法が多く使われている。そして平生はステロイド以外の消炎・鎮痛剤(アスピリンとかアスピリンに似た作用のある薬)に頼るという方法が一般的である。
コーチゾンなどのステロイド系の薬はリューマチ以外にもアレルギー性の疾患にも著効があるが、その使用方法にも副作用を避ける為の工夫が要ることは同じである。ステロイド薬剤は経口的服用以外に注射で速効を狙ったり、スプレイを使って粘膜から吸収さしたり、皮膚に貼り付けて徐々に吸収させるなどの使用法もある。
いずれにしても、体の中ではステロイド系の物質が色々の面で生命を維持するのに絶対に必要で大事な役目をしているのだが、特に手術の時とか、怪我をして出血をした時とか、毒物によるショックなどで、急に血圧が下がるのを防ぐという役目は評価されるべきである。
ところが、内分泌腺の副腎は外からステロイド剤を連続的に与えていると、自前でステロイドを造る機能が衰えるという(癖)があるので、いざ火急の時に体を守るのに必要なだけの分泌活動をしなくなるという結果になる。これが、ステロイド薬剤の長期投与に伴う副作用の中では一番恐ろしいものである。
なお、ステロイド剤の副作用としては、ムーン・フェイス(満月のように丸い顔)になったり、血圧が上がったり、果ては精神状態が変になるなどもあるが、臓器移植をした時の拒絶反応を抑制する為にはステロイド剤のご厄介になる必要があるので、こんな副作用が出ても止める訳には行かない。
その他にも、ステロイド薬剤にどうしても頼らねば生きてゆけない病気もあるので、ステロイド剤常用依存者は、その旨を医療者にすぐ分かるように(標示)を付けておくことが望ましい。
さらに、アナボリック・ステロイドという筋肉増加の為に競技者が禁を犯して使用することもあるステロイドもあることも付け加えておきたい。 
 

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