人の絆 「ありがとう」

「いつもありがとう」
人の絆

「ありがとう」


私にとって 演歌の歌詞は 
記憶を呼び起こすキーワード
八代亜紀さんの歌は その大きなひとつでした

・・・ 昭和の記憶

 


 
 
●「私は代弁者」歌手・八代亜紀さん(73)急逝
大切にしていた言葉は「ありがとう」
  八代亜紀
  森進一
  青江三奈
●最期まで大切にした「ありがとう」 歌手・八代亜紀さん死去
歌手の八代亜紀さんが、先月30日に亡くなっていたことがわかりました。73歳でした。
「舟唄」や「なみだ恋」が大ヒット。「雨の慕情」でレコード大賞を受賞しました。
八代亜紀さん(2017年10月)「歌は代弁者ですから、自分じゃないんですね、イメージが。イントロで心が変わるんです。顔も変わるみたいで、「舟唄」とか歌うと、男の顔になるらしいんですよ。その後、「どうも〜」とか言うから、みんなこける」
八代さんは、去年8月、体調不良を訴え、年内は活動休止すると発表していました。
八代亜紀さん「少しの間、大好きな歌と絵から離れなきゃいけないのは寂しいけれど、必ず元気になって戻ってきますので、待っててね」
検査の結果、膠原(こうげん)病の一種であり、指定難病の「抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎」と「急速進行性間質性肺炎」を発症していました。
熊本県八代市出身の八代亜紀さん。バスガイドを経て、10代で上京。キャバレーで歌を磨きました。
八代亜紀さん(1982年11月)「小学6年生から歌手になるって。クラブ歌手が憧れで、当時からジュリー・ロンドンの声がすごく自分に似てるって思い込んで、クラブシンガーになりたかった」
デビューから3年、「なみだ恋」がヒットし、日本中に歌声が届くようになりました。
才能は歌にとどまりませんでした。
画家の登竜門、世界最古の美術展フランスの「ル・サロン」で5年連続入選し、永久会員になりました。
八代亜紀さん(2007年5月)「模写をして、できるだけ上手く、どんどんうまくなりたいの」
八代さんが亡くなったことを受け、故郷・熊本では号外が配られました。
熊本県民「治療のための療養ときいていたので、急でびっくりしました。いろんな福祉もされていて、とても残念」
熊本豪雨のあとは、仮設住宅を訪問。いつでも、誰かを励ましていた八代亜紀さん。事務所が9日、コメントを出しました。

容態の急変により皆様へこのようなご報告をしなければならなくなりましたことは無念でなりません。代弁者として歌を歌い、表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の中で、常に大切にしていた言葉は「ありがとう」でした。
「一人では何もできない、支えてくれる周りの皆様に感謝を」という父と母からの教えを八代自身は体現し続けて参りました。
療養期間中も傍で支えるスタッフや医療従事者の皆様に「みんなありがとう」と感謝を伝え、最期まで八代亜紀らしい人柄が滲み出ておりました。
これから先いつまでも八代亜紀が命を吹き込んだ作品の数々が沢山の人達に愛され、皆様の心の中に生き続けることを八代自身も望んでいると思います。
●「いつもありがとう」八代亜紀さんの慈愛に満ちた人柄 「おごらず、謙虚」…
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られる歌手の八代亜紀(やしろ・あき)さんが、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため、死去した。73歳だった。所属事務所のミリオン企画が9日、公式サイトで発表した。葬儀・告別式は8日に事務所スタッフのみで執り行った。後日、お別れの会を開く。昨夏に膠原(こうげん)病の一種で、指定難病の抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎を発症。昨年9月に入院し、闘病生活を送っていた。
「大御所」と呼ばれる歌い手なのに、おごらず、謙虚。15年以上の記者人生の中で、八代さんほど慈愛に満ちた人を見たことがない。
「加茂さん、いつもありがとう」「ちゃんと食べているの」「ちゃんと寝られているかしら」―。コンサート会場の楽屋やレコード会社のインタビュールーム、所属事務所の一室…。息子ほど年の離れた40代前半の記者が訪ねるとニコッとほほ笑み、いつも優しい声を掛けてくれた。まるで、母親から愛情を注がれているかのようだった。
初めて取材したのは、2020年の年明けの音楽特集面のインタビュー。ガチガチに緊張する記者の雰囲気を察知してか、相当、助け舟を出してくれた。柔和な表情が脳裏から離れない。この日、所属事務所が発表した「療養期間中もスタッフ、医療従事者の皆様に『みんなありがとう』と感謝を伝えていた」というコメントは、その人柄そのものだなと感じた。
「いつもありがとう」とほほ笑む八代さん。優しい笑顔を、もう見られないのがつらい。
●八代亜紀さんの歌手人生は「しあわせ返し」…「いつもありがとう」が口癖だった
演歌歌手の八代亜紀さんは膠原病の一種である指定難病を患い、昨年9月からの療養期間中も傍らで支えるスタッフや医療従事者たちに「みんなありがとう」と感謝を伝えていた。昨年12月30日、73歳で逝くときまで。
「一人では何も出来ない、支えてくれる周りの皆様に感謝を」とのご両親からの教えを体現し続けた。そうした所属事務所からのコメントを読んで、その歌手人生を語っていただいた連載取材時のことが蘇ってきた。
「しあわせ返し」と八代さんは言っていた。
「21歳でデビューして、ずっと売れなかったわたしが『なみだ恋』という大ヒット曲に恵まれ、少年院の慰問をスタートした1973年から、いつも使っている言葉なの」
それをタイトルにした連載は2012年3月スタート。まだ還暦をすこし過ぎた頃であったが、八代さんは常人では考えられないようなスケジュールをこなした後であっても、笑顔で迎えてくれた。そしてどんな質問にも即座に答えてくれた。情景まで覚えている記憶力に驚かされた。
熊本県八代市に生まれ、小5のとき運送会社経営のお父さんから「ほら」とプレゼントされた一枚のLPレコード。それは「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」などの米歌手ジュリー・ロンドンのアルバムで、歌手になると誓った日のこと。
「よーし、私がクラブシンガーで一流になって、お父さんが従業員の皆さんに楽にお給料を払えるようになるんだって」
拳を握り、遠くを見つめる当時のまなざしになってしまう。
中学卒業と同時に地元のバスガイドになったけれど、夢は抑えきれず、アーケード通りのキャバレーで歌い始めた。やがてそれはお父さんの耳に入り、「どうして、そんなもっこす(頑固)か」と雷を落とされ、ちゃぶ台をひっくり返し、頬を張られながらも、こう言い返した。
「お父さんの娘だからよ!」
「まわりから幸せをいっぱいもらいながら生きてきたんですね」
半ば勘当で家を出て、ちいさなトランクひとつで目指した東京。お金もなく、別府港から瀬戸内海をフェリーで四国、本州へと渡る大変な行程だったが、16歳の八代さんはフェリーの舳先が海を割って走るはるか彼方を見つめていた。
新婚のいとこ夫婦の4畳半アパートに居候しながら、音楽学校へ通い、歌手を目指すも、発声の先生から見初められ、プロポーズされたり、デビュー詐欺のような話に巻き込まれたり。くじけてしまいそうな壁にあたるも、決めたら即行動が信条の八代さんはすぐに学校をやめて、新宿の「美人喫茶」の扉を叩く。昼夜フルタイムのドアガール兼歌手となって、ジャパンドリームをつかみとっていく。
時は高度成長期。街は華やぎ、人であふれ、「世界は二人のために」や「悲しみは駈け足でやってくる」などの流行歌が流れていた。そんな街で、八代さんがマイクを握れば店の入り口まで客であふれ、列をつくった。スタンダードジャズにポップス、カンツォーネまで歌いこなし、矢吹健の「うしろ姿」を歌うと、泣きだすホステスもいた。
♪あゝ別れ言葉は他人でも〜
コブシの利いたサビを口ずさんでくれただけで、鳥肌が立ったものだ。
都合3店の専属歌手となった八代さんは早稲田の4畳半、巣鴨のマンションと住むところも変わり、スカGで送っていくと誘ってくる追っかけの男たちが相次いだ。「愛は死んでも」で歌手デビュー後もまた壁が立ち塞がったが、いつも最後にこう振り返った。
「本当にね、苦労したという思いがないの。レコードが売れず、地方のキャバレー回りをした頃なんて、忙しかろうが、突き飛ばされようがへいちゃら。スランプに陥ったこともあったけど、今思えば自分を成長させてくれた貴重な時間。どんなときも、ステージに立つと、待ってましたとあたたかい拍手で迎えてもらえ、私の歌に耳を傾けてもらえた。まわりから幸せをいっぱいもらいながら生きてきたんですね。60代になった今はもう最高! まだまだいくよ〜」
計34回となった連載中も、そういえば「いつもありがとう」と繰り返していた。
「80歳になったとき、『舟唄』を知らない若者たちにステージで生で聴かせるから」と公言しているという八代さんに、つい「ヨボヨボになっても歌うなんてすごい」と言うと、こうだった。
「どうしてヨボヨボをつけるの? わたしはヨボヨボにはならないよ〜」
あの笑顔、ガッツポーズを忘れない。
●八代亜紀さん逝く 演歌の女王早すぎる73歳 リハビリ闘病も先月末に容体急変
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られる歌手・八代亜紀さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去していたことが9日、公式サイトで発表された。73歳。熊本県出身。葬儀は8日に事務所スタッフのみで執り行った。後日、お別れの会を予定しているという。昨年9月から療養のため芸能活動を休止し、早期の復帰を目指していた中、あまりにも早い旅立ちとなった。
艶やかなハスキーボイスで老若男女を魅了した「演歌の女王」が、静かにその生涯を閉じていた。
八代さんは昨年8月に皮膚炎などの症状があり、複数の病院を受診した結果、自己免疫疾患である膠原(こうげん)病と診断され、年内の活動休止を発表。その際、「少しの間、大好きな歌と絵から離れなきゃいけないのは寂しいけれど、必ず元気になって戻ってきますので待っててね」などのコメントを発表していた。
関係者によると、一時は体調が回復。12月下旬までは元気にしており、退院の話も出ていたが、容体が急変。最期は事務所スタッフに囲まれ、いつも通りの穏やかな表情で旅立ったという。常々、スタッフや医療従事者に「みんなありがとう」と感謝を伝えていたという八代さん。9月9日に行われたジャズ奏者・日野皓正のスペシャルライブにゲスト出演したのが最後の仕事となった。
八代さんは中学卒業後に歌手を目指して上京、新橋や銀座のクラブで歌った。1971年に「愛は死んでも」でデビューし、73年に発表した「なみだ恋」が大ヒット。その後、「愛の終着駅」「舟唄」など多くのヒット曲を連発し、80年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞。現在でもレコード・CDの総売上枚数が女性演歌歌手で1位の記録を保持している。
「演歌の女王」でありながら、ブルースやジャズなど幅広いジャンルを歌いこなし、2010年には「人の哀感を巧みに描き出す魅力的な歌声と歌唱技術」が評価され、文化庁長官表彰も受けた。また絵画でも才能を発揮。画家の登竜門とも言われる世界最古の美術展、フランスの「ル・サロン」で5年連続入選を果たし永久会員となった。
アーティストの枠にとどまらず、バラエティー番組でも活躍。全国の女子刑務所や少年院への慰問もライフワークとし、両親からの「1人では何もできない。支えてくれる皆さまに感謝を」という教えを、生涯にわたり体現した。18年に「第16回グッドエイジャー賞」の授賞式に出席した際、「声が出なくなるまで歌います」と80歳までライブを続けることを目標を掲げていた。目標には届かなかったが、その歌声は永遠となる。
八代亜紀 1950年8月29日生まれ、熊本県八代市出身。71年9月、テイチクから「愛は死んでも」でデビュー。73年に「なみだ恋」がヒットし、「もう一度逢いたい」、「愛の終着駅」などヒット曲を生み出す。79年にも「舟唄」が大ヒット。80年に「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞・大賞を受賞した。私生活では1994年に当時の所属事務所社長と結婚したが、芸能生活50周年となる2021年1月に離婚した。
●八代亜紀さん死去 73歳 「雨の慕情」や「舟唄」などのヒット曲
「雨の慕情」や「舟唄」などのヒット曲で知られる歌手の八代亜紀さんが12月30日、都内の病院で亡くなりました。73歳でした。
八代さんは熊本県八代市の出身で、1971年にデビューすると2年後の1973年には「なみだ恋」がヒットし、その年、紅白歌合戦に初出場しました。
そして、1980年には代表曲の1つである「雨の慕情」を発表し、日本レコード大賞の大賞を受賞しました。
このほかにも「舟唄」がヒットするなどデビューから半世紀以上にわたって日本を代表する演歌歌手として活躍を続けていましたが、去年9月に免疫の異常によって発症するとされる「こう原病」の診断を受け、治療に専念するため年内の活動をすべて休止していました。
所属事務所によりますと、八代さんは療養を続けていましたが、12月30日、都内の病院で亡くなりました。73歳でした。
石川さゆりさん「同じような時を歌ってきた ニュース見て驚き」
八代さんと同じ熊本県出身の歌手、石川さゆりさんは「同じような時を歌ってきた八代亜紀さん、早く回復なさって、またご一緒できると思っておりました。今、ニュースを見て驚いています。えっ!!ということばしか、出てきません。ご冥福を心よりお祈り申し上げます」とコメントしています。
ジュディ・オングさん「早く元気にと祈った なんて悲しいこと」
八代亜紀さんが亡くなったことを受けて、歌手で女優のジュディ・オングさんは旧ツイッターの「X」に投稿し「八代亜紀さんが亡くなりました。彼女の病気を知った昨年、11月の日野皓正さんのコンサートゲストを代行した時、舞台の上で早く元気になっていただくことをみんなで祈りました。なんて悲しいことでしょう。ご冥福をお祈りします」とコメントしています。
熊本県 蒲島知事「熊本地震や豪雨の折に被災者励ます活動」
熊本県八代市出身の歌手、八代亜紀さんが亡くなったことについて、熊本県の蒲島知事がコメントを出しました。
このなかで蒲島知事は「悲しみの念にたえません。謹んで哀悼の意を表します。熊本地震や4年前の豪雨の折には、復旧・復興に向けて歩む被災者を励ます活動を行うなどふるさとを思う多くの活動をいただきました。そのご功績と在りし日の姿をしのび、八代さんの安らかな眠りを心からお祈りいたします」としています。
地元 熊本では号外
熊本県八代市出身の歌手、八代亜紀さんが亡くなったことを受け、熊本市中心部の商店街では9日夜、地元の新聞社が号外を配りました。
八代さんと同じ年だという女性は「熊本出身の方なので応援していました。本当に残念です」と話していました。
50代の女性は「昭和のシンガーがまた1人亡くなり、さみしいです。私が学生の時に『雨の慕情』などがヒットして今でも歌っています。熊本地震の時にも応援してくれるなど、多くの県民を勇気づけてくれました」と話していました。
●八代亜紀さん、死去数日前に容体急変し旅立つ 療養中も常に感謝の「ありがとう」
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られ、「演歌の女王」と呼ばれた歌手八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去したことを9日、所属事務所が発表した。73歳。熊本県出身。昨年9月に膠原(こうげん)病と診断を受け、治療に専念するために活動を休止。そのままステージ復帰はならなかった。葬儀は関係者で執り行われた。後日、お別れの会を開催する予定。
独特の艶っぽいハスキーボイスで多くの人に温かい歌声を届け、優しい人柄でたくさんのファンに愛された八代さんが旅立った。
所属事務所などによると、昨年8月から体調不良を訴え、病院で診察を受けたところ、9月に膠原病の一種であり、指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎と診断された。すぐに活動休止を発表し、ステージ復帰を目指して治療とリハビリに励んでいたが、死去の数日前に容体が急変。そのまま帰らぬ人となった。
八代さんが大切にしていた言葉は「ありがとう」。両親からの「1人では何もできない。支えてくれる周りの皆さまに感謝を」との教えを守り、療養中も医療従事者やスタッフに常に「ありがとう」と感謝の言葉を伝えていたという。
父親の歌う浪曲を子守歌代わりに聞きながら育ち、中学卒業後に地元のバス会社に就職。歌手を目指して上京後に銀座のクラブの専属歌手をしていたが、1971年に「愛は死んでも」でデビューした。芸名は出身地の熊本県八代市にちなんで付けた。2年後の73年に発売した「なみだ恋」がヒットし、同年のNHK紅白歌合戦に同曲で初出場(通算23回出場)。酒場でしみじみとかん酒をあおる男の心理を描いた79年の「舟唄」で人気を不動のものにした。その他にも「もう1度逢いたい」「おんな港町」など多くのヒット曲を世に送り出した。
活躍は演歌だけでなく、12年に発売したジャズアルバム「夜のアルバム」は世界75カ国で配信。15年にはブルースのアルバム「哀歌」をリリースし、世界中に「日本のYASHIRO」を認知させた。
画家としても高く評価され、世界最古の美術展であるフランスの「ル・サロン」で98年から5年連続入選。国内でも二科展で入選を重ねた。
全国の女子刑務所へや少年院への慰問もワイフワークとし、21年に歌手生活50周年を迎えた際は一層の活躍を誓っていた。大御所と呼ばれるキャリアを誇ることなく、いつも笑顔を絶やさず、現役にこだわった心優しいヒットメーカーだった。
八代亜紀 1950年(昭25)8月29日、熊本県八代市出身。71年に「愛は死んでも」でデビュー。80年に「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞受賞。NHK紅白歌合戦には23回出場し、トリを3度務めた。2010年には歌唱技術が認められ文化庁長官表彰を受賞。芸能生活50周年を迎えた21年には、第42回松尾芸能賞大賞。22年には初のフランス公演を開催。女性演歌歌手のレコード・CDの総売上枚数1位の記録を持つ。最後の作品は昨年3月15日発売の「思い出通り」。映画「トラック野郎・度胸一番星」(77年)などにも出演。16年にモンゴル国から「日本モンゴル文化大使」に任命され、18年に「北極星勲章」を授与された。
●八代亜紀さん ハスキーボイスの女王逝く コンプレックスを生かし悲哀を表現
「舟唄」「雨の慕情」などの名曲で知られる歌手の八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため死去していたことが9日、分かった。所属事務所が公式サイトで発表した。73歳。熊本県八代市出身。葬儀は8日に執り行われた。
昨年8月28日にブルーノート東京でバースデーライブを行い、いつもと変わらない歌声で観客を魅了したほか、昨年9月9日には埼玉県熊谷市での公演「日野皓正クインテット」にゲストとして登場していた。その3日後の同月12日に所属事務所を通じて膠原(こうげん)病を患っていることを公表し、年内の活動を休止することを発表していた。
誰もが一度聞けば忘れらないハスキーボイスの持ち主。
歌が好きだった父親の影響で幼少時代から地元のコンクールに出場。ただ、ハスキーボイスがコンプレックスだったというが、父親が買ってきた米国の「スモーキーボイスの女王」と呼ばれたジャズ歌手ジュリー・ロンドンの歌声をレコードで聞き、自信を持ち、歌手を志す。16歳で銀座のクラブに立ち、幅広い曲を歌った。
同じクラブで歌っていた歌手三谷謙(のちの五木ひろし)に後押しされ芸能プロダクション入り。1971年に「愛は死んでも」でデビューした。
八代さんの持つジャズの要素とハスキーボイスが、どこかに悲哀を漂わせ、聞く人の胸を打ち、73年に「なみだ恋」が大ヒット。79年の「舟唄」で地位を不動のものとした。翌80年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞した。
●八代亜紀さん急死 トラック野郎の女神 情感伝える歌声人気  
「舟唄」「雨の慕情」などの名曲で知られる歌手の八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため死去していたことが9日、分かった。所属事務所が公式サイトで発表した。73歳。熊本県八代市出身。葬儀は8日に執り行われた。
昨年8月28日にブルーノート東京でバースデーライブを行い、いつもと変わらない歌声で観客を魅了したほか、昨年9月9日には埼玉県熊谷市での公演「日野皓正クインテット」にゲストとして登場していた。その後、3日後の同月12日に所属事務所を通じて膠原(こうげん)病を患っていることを公表し、年内の活動を休止することを発表していた。
歌が好きだった父親の影響で幼少時代から地元のコンクールに出場。ただ、ハスキーボイスがコンプレックスだったというが、父親が買ってきた米国の「スモーキーボイスの女王」と呼ばれたジャズ歌手ジュリー・ロンドンのレコードで自信を持ち、歌手を志す。16歳で銀座のクラブに立ち、幅広い曲を歌った。
同じクラブで歌っていた歌手三谷謙(のちの五木ひろし)に後押しされて芸能プロダクション入り。1971年に「愛は死んでも」でデビューした。
ジャズの要素とハスキーボイスがどこか漂う悲哀を聞く人の心に届け、73年に「なみだ恋」が大ヒット。ファンにはデコトラに乗るトラック運転手が多く、77年8月公開の映画「トラック野郎 度胸一番星」にも女性トラッカー役で出演したこともあった。気さくな明るいキャラクターもファンの心をつかんだ。
79年の「舟唄」で地位を不動のものとし、翌80年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞した。
●北島三郎 八代亜紀さん急逝に悲痛な思いを吐露「とても辛く哀しく胸が痛む」
歌手の北島三郎(87)が10日、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のために73歳で死去した歌手の八代亜紀さんを追悼した。
北島は「またひとり…歌の道を一緒に歩んできた仲間の訃報に驚き、とても辛く哀しく胸が痛みます」と悲痛な思いを吐露。
「独特な八代節は、多くの人々に感動を与えてくれました。普段は、笑顔が素敵な心の温かい彼女。歌番組で一緒になった際には『先輩、お元気ですか? お身体は大丈夫ですか?』いつも気遣ってくれた優しさが昨日のように思い出されます。もう会うことの出来ない旅立ち…淋しいなぁ」としのんだ。
●藤あや子、大先輩の八代亜紀さん死去に「悲しすぎます 言葉になりません」
演歌歌手の藤あや子が9日、自身のSNSを更新。昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため73歳で亡くなった八代亜紀さんを悼んだ。
藤は八代さんとの2ショットを投稿。「大好きな大好きな大先輩『八代さん』」と書き出し、2か月前にメッセージカードをやりとりしたことを明かし「信じられません 悲しすぎます 言葉になりません 女神さまのような慈悲深い笑顔が忘れられません 八代さん本当にありがとうございました安らかにおやすみください」と思いをつづった。 
 
●八代亜紀さん訃報に山本譲二ら歌手仲間から悲しみの声
「元気に戻ってきてくれると信じていたのに」
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られる歌手の八代亜紀さんが、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため、死去した。73歳だった。所属事務所のミリオン企画が9日、公式サイトで発表した。葬儀・告別式は8日に事務所スタッフのみで執り行った。後日、お別れの会を開く。
突然の訃報に、多くの悲しみの声が寄せられた。歌手の山本譲二は「『譲二君、ごめんね、ありがとう!』って元気に戻ってきてくれると信じていたのに…。もう会えないのはつらいです。八代さん、どうぞ安らかに」と追悼した。
歌手の川中美幸は「訃報をお聴きして、涙が止まりません。昨年も、何度かコンサートや番組でご一緒していただいて、あんなにお元気そうだったのに。楽屋にごあいさつに伺っても、『美幸ちゃんはいつもニコニコしていていいね』ってご自身もニコニコしながら、おっしゃっていました。『絶対に戻ってくる』とおっしゃっていたのに…。残念でなりません。今は只々、ご冥福をお祈りするばかりです」と悼んだ。
八代さんと同じ熊本出身の島津亜矢は「八代さん、あたたかくて大好きな大好きな先輩でした。入院なさっていることは存じ上げてましたが 絶対絶対また元気なお姿で戻ってきて くださると信じてました。なんで…、寂しい…、悲しい…。涙が止まりません。八代さんたくさんたくさん あたたかく、優しくしてくださって 本当にありがとうございました。大好きで大好きで大好きでした。八代さんのように、柔らかく、あたたかい 人間になれるよう努力します。本当にありがとうございました」としのんだ。
北山たけしは「突然の知らせに、悲しくて言葉になりません。同じ九州の出身で、いつも優しく声をかけてくれる憧れの先輩でもありました。心よりご冥福をお祈りします」。
八代さんが歌手を志すきっかけとなった青山新は「突然のことで言葉にできません。悲しい気持ちでいっぱいです。僕が歌手を志したのは、八代亜紀さんのファンになったことがきっかけです。デビューしてから、ありがたいことに幾度も共演の機会をいただき、いつも優しく、誰に対してもあたたかなお人柄に感激して、ますます尊敬の念がつのり続けました。苦しい時、落ち込んだ時、いつも八代亜紀さんの歌に救われました。いつか自分も、人の力になれる、元気を与えられる、そんな歌い手になりたいです。これからもずっと、八代亜紀さんは僕の目標です」と気持ちを天国へ届けた。 
●八代亜紀さんと同じ熊本出身、石川さゆりさん
「えっ!!という言葉しか出てきません」「同じような時を歌ってきた」
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られる演歌歌手、八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日、死去した。
同じ熊本県出身の歌手、石川さゆりさんのコメント「同じような時を歌ってきた八代亜紀さん、早く回復なさって、またご一緒できると思っておりました。えっ!!という言葉しか、出てきません。ご冥福(めいふく)を心よりお祈り申し上げます」 
●天童よしみ 「最後に一緒に歌った 港が見える丘 忘れられないです」
歌手の天童よしみが、73歳で死去したことが9日明らかになった歌手の八代亜紀さんとのツーショット写真を自身のインスタグラムに投稿し、その死を悼んだ。
「八代亜紀さん! 優しさのある 素晴らしい歌手でした まだ 信じられないです今度焼肉行こうねと約束していました 病で 休業された時も本当に心配していました 元気になられて 私達の元に帰って来られると信じていました 八代亜紀さんと 最後に一緒に歌った 港が見える丘 忘れられないです 寂しいです 大ショックです」
天童は不遇の時代を経て1985年に「道頓堀人情」がヒット。同曲の発売にあたり全国300か所を営業に回った話は有名だ。その際、とある地方で八代さんのサイン色紙を見かけた。当時の八代さんはすでにレコード大賞歌手。「あの八代さんですら、売る努力、聴いてもらう努力をしておられるんです」と感じ入ったというエピソードを過去に明かしている。 
●デヴィ夫人、八代亜紀さんの訃報に「驚きと哀しみでいっぱいです」
タレントのデヴィ夫人が9日、自身のインスタグラムを更新。同日に訃報が報じられた演歌歌手・八代亜紀さんを偲んだ。
所属するミリオン企画の公式サイトで「2023年9月に膠原病の一種であり指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症し療養を続けておりました弊社所属の八代亜紀が12月30日に永眠いたしましたことを謹んでご報告申し上げます」と発表があった八代さん。
突然すぎる別れにデヴィ夫人は「今、ニュースで八代亜紀さんが年末に亡くなっていたことを知り、私は驚きと哀しみでいっぱいです」とつづり、八代さんの写真や、八代さんが描いたイラストを投稿。続けて「八代亜紀さんは2021年に私の主催するインペリアル チャリティー ガラ パーティーにもご出演していただいたりと公私共に仲良くしていただいておりました。彼女の艶っぽいハスキーボイスで数々の名曲を熱唱してくださったお姿はとても素敵でした。今はただ、心からのご冥福をお祈りいたします」と、八代さんとの思い出を語った。
コメント欄ではファンからも「信じがたいけど…お悔やみ申し上げます」「年始から、悲しいニュースが多くて辛いです」「とても悲しいです以前地元でお会いしました。とっても優しく穏やかな素敵な女性でした」「ちょっと若すぎますね。本当に才能豊かな方です」「綺麗であのハスキーボイスも大好きでした」など、悲しみに暮れる声が集まった。 
●伍代夏子さん 八代亜紀さんを追悼
「ジョイントコンサートを楽しみに、頑張って治療していたと伺いました」
「とても信じられません」
9日、急速進行性間質性肺炎のため、死去したことが公表された、歌手の八代亜紀さん(73)。
伍代夏子さんが所属事務所を通じてコメントを寄せ、八代亜紀さんを追悼しました。
この春から始まる予定だったジョイントコンサートを楽しみに、頑張って治療していたと伺いました。
快方に向かっていると信じていたので、とてもショックです。
あまりにも突然すぎて、八代さんがいなくなってしまったなんてとても信じられません。
伍代さんは1982年に歌手デビューするも、事務所の不振で活動休止に。不憫に思ったレコード会社が伍代さんを事務員として雇い、再デビューを目指して働いていたとのこと。伍代さんはその時代に八代亜紀さんを担当していて、スタッフとして八代さんに可愛がってもらったとのことで、芸名「伍代夏子」として再会した折りには、八代さんがとても喜んでくれたと振り返っています。 
●コロッケ 同じ熊本出身の八代亜紀さん死去に「整理できてない」
ものまねタレント・コロッケ(63)が10日、都内で「松平健・コロッケ エンタメ魂バレンタインSpecialショー」取材会にコラボ相手の歌手で俳優・松平健(70)と出席した。
ステージではコロッケがものまねで沸かせ、松平が歌う。コロッケは、この機会に松平の声をマスターし、レパートリーに追加する野望を告白。「バイオリンのように響く声で難しい」と話した。
過去にものまねしてきた有名人の話から、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎で死去した歌手・八代亜紀さんに話題が及ぶと「まだ整理ができてない。同じ熊本出身で本当に優しくしてくださり」と声を落としていた。 
●小柳ルミ子さん 八代亜紀さんを追悼 
「すみません ショックが強すぎて」「亜紀ちゃん どーして どーして?」
9日、急速進行性間質性肺炎のため、死去したことが公表された、歌手の八代亜紀さん(73)。
小柳ルミ子さんが自身のSNSで八代さんを偲びました。
えーっ えーっ 嘘でしょ
たった今 速報が
八代亜紀ちゃんが
亜紀ちゃんが亡くなったなんて
昨年末 亡くなったと速報が
体調が悪く入院している事は聞いていました
すみません 気が動転してて
73才で私と1才違いの 同期
すみません ショックが強すぎて
一寸 まだ信じられなくて
亜紀ちゃん どーして どーして? 
●小柳ルミ子、“同期”八代亜紀さんを追悼し涙「夢であってほしい」
歌手の小柳ルミ子(71)が、ブログを更新。八代亜紀さんの突然の訃報に無念の思いをつづった。
1971年4月『わたしの城下町』で歌手デビューした小柳。その5カ月後、八代さんは『愛は死んでも』でデビューを果たしていた。
9日、八代さんの公式サイトは、2023年12月30日に亡くなっていたことを明かし「歌を歌い 表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の中で常に大切にしていた言葉は『ありがとう』でした」と、八代さんの人柄をつづっていた。
9日、ブログを更新した小柳。「73歳で私と1歳違いの同期。すみません、ショックが強すぎてちょっとまだ信じられなくて。亜紀ちゃんどーして、どーして?」と混乱の中にいることを明かしていた。
次の投稿で「訃報を知ってから、ずっと泣いています。亜紀ちゃんの歌が、頭の中をぐるぐる回っています。未だに信じられず、夢であって欲しいと。私の肖像画を描いてくれましたね、そっくりで上手であの画はどこにあるのかなぁ。亜紀ちゃん、悲しいよ、寂しいよ、こんなに早く逝っちゃうなんて。亜紀ちゃん、痛みから解放されて、大好きな画をたくさん描いてね。心より、心より、心よりご冥福をお祈りいたします」と、絵を描くことが好きだった八代さんへ追悼の思いを込めて、メッセージを送っている。
この投稿に「本当に残念です。ルミ子さんのお気持ち、お察しいたします」「絵ですが必ず捜してぜひ見せてください」「同期だっただけに、悲しみ、苦しみは計り知れないと思います」などのコメントが寄せられている。 
●さだまさしさん 八代亜紀さんを追悼 「『さよなら』も言えなかった。淋しいよ。」
9日、急速進行性間質性肺炎のため、死去したことが公表された、歌手の八代亜紀さん(73)。
さだまさしさんが自身のインスタグラムで八代さんを偲びました。
亜紀ちゃんまで、、、
「まさし〜」「亜紀ちゃん」と呼び合っていたのに、「さよなら」も言えなかった。
淋しいよ。 
●「どーして?」「なんで!」 八代亜紀さん死去、女性歌手らに驚きと動揺
八代亜紀さんが亡くなったことを受け、親交のあった女性歌手らから9日、驚きと動揺の声が上がった。小柳ルミ子さんはブログで「体調が悪く入院していることは聞いていました すみません 気が動転してて 73歳で私と1歳違いの 同期 すみません ショックが強すぎて ちょっと まだ信じられなくて 亜紀ちゃん どーして どーして?」と動揺をあらわにした。
小林幸子さんはSNSのX(旧ツイッター)に「なんで!なんで!なんでなの? 今はこの言葉しかでてきません。頭が真っ白で言葉がみつかりません。思い出を思い出すこともできません。まだお別れなんてできないよ」と書き込んだ。
「何でこんなにも 悲しいニュースばかり。八代さん いろいろありがとうございました。娘のことも気遣っていただき 残念としか言いようがありません」とXにつづったのは研ナオコさん。
ジュディ・オングさんもXに「彼女の病気を知った昨年、11月の日野皓正さんのコンサートゲストを代行した時、舞台の上で早く元気になっていただくことをみんなで祈りました。なんて悲しいことでしょう」と記した。 
●八代亜紀さん死去 悲しみの声続々“弟分”新田純一「無念」 研ナオコら追悼
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られ、艶っぽくハスキーな歌声で「演歌の女王」と呼ばれた歌手の八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去した。73歳。熊本県出身。葬儀は関係者で行った。後日、お別れの会を開く予定。膠原病と診断されたことを同年9月に公表し、活動を休止して療養を続けていた。芸能界や歌手仲間をはじめ、ファンら数多くの人から追悼、悲しみの声が相次いだ。
俳優の新田純一は昨年5月の還暦の誕生日に八代さんのヘアメークを担当する2歳年下の聡子(としこ)さんに公開プロポーズし、結婚。八代さんらが婚姻届の保証人になった。
自身のSNSで「無念です!悲しいです!信じられないです!」と悲痛な様子。「ご入院される1週間前には旅番組のロケで香川県にもご一緒させていただき、八代さんと食べた讃岐うどんの味は忘れません」と思い出をつづった。
八代さんがパーソナリティーを務めたラジオ日本「ムーンラウンジ846」も“弟分”としてナビゲーター。「本日も留守番収録をして参りました。八代さん!たくさん、たくさん優しいお言葉を掛けていただき、ありがとうございました。八代さんの素晴らしい歌声をもう聴くことができないなんて、今でも信じられません。包み込むような優しい笑顔をありがとうございました心」と感謝した。
同じ1971年に歌手デビューした研ナオコも自身のSNSで「何でこんなにも悲しいニュースばかり。八代さん、色々ありがとうございました。娘のことも気遣っていただき、残念としか言いようがありません。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と悼んだ。
元純烈の小田井涼平は自身のSNSで「純烈にとっては、大恩人の一人。純烈ジャーにとっては、女神様。個人的には絵の指導もしていただきました」と振り返り「今年は悲しいことがあり過ぎる…。これからは本当の女神様になって、大空をキャンバスに素敵な絵を描き続けてください。本当にありがとうございました」と感謝した。
歌手仲間の藤あや子は「大好きな八代亜紀さん。いつもの優しい笑顔で仕事に復帰してくださることを信じて待っておりました。あまりにも突然のことで現実を受け止めることができません。悔しいです」、長山洋子も「突然の訃報に絶句しました。いつも優しい八代亜紀さん。いつも温かい八代亜紀さん。歌手としても、人としても本当に大好きな先輩でした。もう会えないなんて信じたくありません。もっともっとご一緒したかったです」と追悼コメント。
八代さんの芸名の由来となった熊本県八代市の中村博生市長は「八代亜紀さんの訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。八代亜紀さんは数々のヒット曲で知られる日本を代表する歌手として長年活躍され、名曲を通じて多くの人に感動を届けてこられました。また、絵画にも造詣が深く、画家としても高い評価を得られており、平成16年(2004年)からは『八代亜紀絵画コンクール』を開催され、本市の文化振興にご尽力いただきました。同年には八代市民栄誉賞を受賞され、平成19年には『八代よかとこ大使』に就任いただくなど、本市のPRや魅力の発信にも多大なる貢献をいただきました。これまでの御功績に改めて敬意を表すとともに、八代市及び八代市民を代表し、ここに謹んで哀悼の意を表し、心から御冥福をお祈りいたします」と市の公式サイトで感謝した。
八代さんの冠番組「八代亜紀いい歌いい話」の番組公式SNSは「2019年4月の番組開始以来、八代さんは毎週、素敵な笑顔と『いい歌いい話』を私たちに届けてくださいました。心よりご冥福をお祈りいたします」としのんだ。 
●玉川徹氏、八代亜紀さんを追悼…「唯一無二の歌声です」
テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」は10日、「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られる歌手の八代亜紀(やしろ・あき、本名・橋本明代=はしもと・あきよ)さんが、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため、死去したことを報じた。73歳だった。所属事務所のミリオン企画が9日に公式サイトで発表した。
葬儀・告別式は8日に事務所スタッフのみで執り行った。後日、お別れの会を開く。昨夏に膠原(こうげん)病の一種で、指定難病の抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎を発症。昨年9月に入院し、闘病生活を送っていた。
コメンテーターで元テレビ朝日社員の玉川徹氏は八代さんを「トラック野郎って(菅原)文太さんの映画にもご出演されていて、トラックドライバーの女神って言われていたんです、昔。運転していると、この歌がいいんでしょうね」と振り返り「唯一無二の歌声です。他の人で似ている人はいないです。魅力あります」と追悼していた。 
●八代亜紀さんに各界著名人が追悼コメント…
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られ「演歌の女王」と呼ばれた歌手八代亜紀(やしろ・あき)さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去したことを9日、所属事務所が発表した。
73歳。熊本県出身。昨年9月に膠原(こうげん)病と診断を受け、治療に専念するために活動を休止。そのままステージ復帰はならなかった。葬儀は関係者で執り行われた。後日、お別れの会を開催する予定。
八代さんの訃報に各界の著名人が所属事務所やSNS、ブログを通じて多数の追悼コメントを寄せた。音楽業界の他に出身の熊本からくまモンもメッセージを寄せた。
山本譲二(73)「『譲二君、ごめんね、ありがとう!』って元気に戻ってきてくれると信じていたのに…もう会えないのはつらいです。八代さん、どうぞ安らかに」
ジュディ・オング(73)「生前から絵を頑張ろうねと、お互いに励まし合っていたものです。彼女の病気を知った昨年、11月の日野皓正さんのコンサートゲストを代行した時、舞台の上で早く元気になっていただくことをみんなで祈りました。なんて悲しいことでしょう。ご冥福をお祈りします」
さだまさし(71)「亜紀ちゃんまで、、、『まさし〜』『亜紀ちゃん』と呼び合っていたのに、『さよなら』も言えなかった。淋しいよ」
小柳ルミ子(71)「たった今 速報が 八代亜紀ちゃんが亜紀ちゃんが亡くなったなんて 昨年末 亡くなったと速報が 体調が悪く入院している事は聞いていました すみません 気が動転してて 73才で私と1才違いの 同期 すみません ショックが強すぎて 一寸 まだ信じられなくて 亜紀ちゃん どーして どーして?」
研ナオコ(70)「八代さん 色々有り難う御座いました。娘の事も気遣って頂き残念としか言いようが ありません、、、。心よりご冥福をお祈り申し上げます」
小林幸子(70)「亜紀さん。なんで!なんで!なんでなの?今はこの言葉しかでてきません 頭が真っ白で言葉がみつかりません。思い出を思い出すこともできません。まだお別れなんてできないよ」
川中美幸(68)「訃報をお聴きして、涙が止まりません。昨年も、何度かコンサートや番組でご一緒していただいて、あんなにお元気そうだったのに。そして「楽屋にご挨拶に伺っても『美幸ちゃんはいつもニコニコしていていいね』ってご自身もニコニコしながら、おっしゃっていました 今年一月四日と十一日に放送の『八代亜紀 いい歌いい話』(BS11)に出演させて頂いていますが、昨年の収録の時に体調を崩して、急遽欠席をされて、来年の一月収録の時は、絶対に戻ってくる。とおしゃっていたのに…。残念でなりません。今は只々、ご冥福をお祈りするばかりです」
アグネス・チャン(68)「いつも優雅で、本当に美しい八代さん。そして優しい笑顔。デビュー頃はほぼ毎週会ってました。八代さんの歌が大好きでした。魂が込められた歌声は人々の心を揺さぶる。。。そんな力がある八代節です 惜しい。。。寂しいですね。辛いですね。まだ実感が湧きません。嘘であって欲しいです」
岩崎宏美(65)「亜紀さん 突然逝ってしまうなんて悲しすぎます。デビューしたての時、渋谷公会堂の楽屋で桜田淳子ちゃんと、のびたラーメンすすっていたら、『こんな冷たいラーメン食べてるの秋田のお母様が見たら泣いちゃうわ!』と亜紀さんが泣かれていました。私も淳子ちゃんも、お腹空いていたから、なんでもないことだったけれど、あの頃からいつでも優しかった亜紀さんが忘れられません。お別れができなかったけれど、沢山優しくしてくださったこと忘れません。ありがとう亜紀さん わたしの持ってる亜紀さんのレコード なみだ恋,大好きでした」
石川さゆり(65)「同じような時を歌ってきた八代亜紀さん、早く回復なさって、またご一緒できると思っておりました。今、ニュースを見て驚いています。えっ!!という言葉しか、出てきません。ご冥福を心よりお祈り申し上げます」
藤あや子(62)「大好きな八代亜紀さん。いつもの優しい笑顔で仕事に復帰してくださることを信じて待っておりました。あまりにも突然の事で現実を受け止めることが出来ません。悔しいです」
伍代夏子(62)「この春から始まる予定だったジョイントコンサートを楽しみに、頑張って治療していたと伺いました。快方に向かっていると信じていたので、とてもショックです。あまりにも突然すぎて、八代さんがいなくなってしまったなんてとても信じられません」
長山洋子(55)「突然の訃報に絶句しました。いつも優しい八代亜紀さん。いつも温かい八代亜紀さん。歌手としても、人としても本当に大好きな先輩でした。もう会えないなんて信じたくありません。もっともっとご一緒したかったです。心よりお悔やみ申し上げます」
島津亜矢(52)「八代さん、あたたかくて大好きな大好きな先輩でした。入院なさっていることは存じ上げてましたが 絶対絶対また元気なお姿で戻ってきてくださると信じてました なんで、、、寂しい、、、悲しい、、、涙が止まりません。八代さんたくさんたくさんあたたかく、優しくしてくださって本当にありがとうございました。大好きで大好きで大好きでした。八代さんのように、柔らかく、あたたかい人間になれるよう努力します。本当にありがとうございました」
元純烈の小田井涼平(52)「八代亜紀さん…。純烈にとっては、大恩人の一人。純烈ジャーにとっては、女神様。個人的には絵の指導もして頂きました。今年は悲しいことがあり過ぎる…。これからは本当の女神様になって大空をキャンバスに、素敵な絵を描き続けてください。本当にありがとうございました」
北山たけし(49)「突然の知らせに、悲しくて言葉になりません。同じ九州の出身で、いつも優しく声をかけてくれる憧れの先輩でもありました。心よりご冥福をお祈りします」
青山新(23)「突然のことで言葉にできません。悲しい気持ちでいっぱいです。僕が歌手を志したのは、八代亜紀さんのファンになったことがきっかけです デビューしてから、ありがたいことに幾度も共演の機会をいただき、いつも優しく、誰に対してもあたたかなお人柄に感激して、益々尊敬の念がつのり続けました。苦しい時、落ち込んだ時、いつも八代亜紀さんの歌に救われました。いつか自分も、人の力になれる 元気を与えられる そんな歌い手になりたいです。心よりご冥福をお祈りいたします。これからもずっと、八代亜紀さんは僕の目標です」
デーブ・スペクター(69)「八代亜紀さん、大好きだった歌声ありがとうございました。ご本人の前で練習した『なみだ恋』をちょっとだけ歌ったら喜んでくれました。とても明るく優しい方でした。ご冥福をお祈りします」
のん(30)「八代亜紀さんの歌声を聴けたこと、本当に嬉しかったです。ご冥福をお祈りいたします。のん」
くまモン(−)「歌でいつも熊本を盛り上げてくださった八代亜紀さん、ボクも色んなところでご一緒させてもらったモン。想い出だけが行き過ぎる…。ありがとうございました」 
●野口五郎、八代亜紀さんを追悼「悔しくて悲しい!」
「舟唄」「雨の慕情」などのヒット曲で知られ、艶っぽくハスキーな歌声で「演歌の女王」と呼ばれた歌手、八代亜紀(やしろ・あき)さんが2023年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため東京都内の病院で死去したことが9日、分かった。73歳だった。訃報を受け、歌手、野口五郎(67)が10日、自身のブログで故人を追悼した。
野口は「八代亜紀さんの訃報!! 信じられません!」と突然の死に驚きを表した。1971年に当初は演歌歌手としてシングル曲『博多みれん』でデビューした野口。同年に『愛は死んでも』でデビューした八代さんとは同期≠ニなる。野口は「素敵なお姉さんでした!」とつづり、「いつも『五郎くん、元気?』って。ご自身が逝っちゃってどうするんですか!」と悲痛な叫びを記した。「温厚で優しい方でした。二年前に矢吹健さんの『貴方のブルース』を亜紀さんと歌う事になりました。亜紀さんの鉄板曲!です。僕にとって13〜4才の時、デビュー前の練習曲でした。演歌ではない僕が、お姉ちゃんの胸を借りるつもりで歌わせて頂きました!本番での亜紀さんの迫力には驚かされました」と述懐。「半世紀、ご一緒させて頂きました! 亜紀さん、ずーっと変わらなかった! ずーっといい人でした!!」と人柄の思い出をつづりつつ、「悔しくて悲しい! しばらくは思い出す度、涙が出て来ます」と別れを惜しんだ。 
●椿鬼奴 追悼「お線香をあげに伺いました…こういう時気持ちを言葉にしづらい」
お笑いタレントの椿鬼奴(51)が12日、自身のインスタグラムを更新。昨年12月30日に73歳で亡くなった八代亜紀さんを追悼した。
椿は「八代亜紀さんにお線香をあげに伺いました」とコメント。「一方的にものまねしていた私に優しくしてくださった八代さん。このお写真の時は少し大きめの私の衣装を安全ピンでとめてちょうど良くなるよう直してくださいました」と、2ショット写真を掲載した。
そして「旅ロケをご一緒させて頂いた時はずっとキュートでアーティスティックで、私まで八代さんの景色をお裾分けいただいたような贅沢で印象的な旅でした」と投稿。「星野さんのうちで踊ろうを八代さんのものまねで動画を上げましたら、それを八代さんご本人がYouTubeでカバーしてくださり、なんて楽しい方なんだろうと感動しました」と振り返った。
さらに「八代さんご自身の歌はもちろん、ジャズも素敵だし、残酷な天使のテーゼも素敵だし、ビリーアイリッシュも素敵だし、、」と回想。「こういう時なんと言っていいのか気持ちを言葉にしづらいですが、八代さんの歌をこれからもたくさん聴いて歌わせていただきたいと思っています。ご冥福をお祈りします」と悼んだ。 
●森高千里、同郷の八代亜紀さんを追悼「八代亜紀さんの音楽は永遠」
歌手、森高千里(54)が10日放送のニッポン放送「オールナイトニッポンMUSIC10」に出演。昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため73歳で亡くなった演歌歌手、八代亜紀さんを追悼した。
同じ熊本県出身の森高は「今年はお正月から地震があったり、飛行機の事故があったり、どうなってるのと心配なこともたくさんあるんですが、それに加えてまた本当に寂しいというか残念な報告をしなきゃいけないというか、皆さんご存じかと思いますが、八代亜紀さんがお亡くなりになられました」と伝えた。
「私は音楽番組で何度もご一緒させていただいて、最初にお会いしたのは20代だと思います。大先輩なのでごあいさつに行ったときに、熊本出身の同郷ということで、本当に優しく声を掛けていただいて、どこの出身なんですかとか、学校はどこなのみたいな、私が緊張していたんですけど、優しく声を掛けていただいて。私も緊張してるので盛り上がるとかということではなく、話ができたってことですごくうれしかったんですけど」と振り返った。
続けて、「熊本出身のスターというと八代亜紀さん、石川さゆりさん、水前寺清子さんの3大巨頭と熊本の皆さんも思っていらっしゃて、そういう方と一緒に番組で出られることがすごく光栄なことだったんですけど」と同郷の先輩に尊敬の念。森高は昨年夏、八代さんが闘病のため休演した熊本・阿蘇でのイベントの代役を務めており、「そういうこともあって、共通なところもすごく自分では感じていて。年が明けてそういうニュースが入ってきて、びっくりしてしまったんですけども・・・」と吐露。「本当に優しさとか素敵な声だとか八代亜紀さんの音楽は永遠だと思うので、それを皆さん心にとどめていただいて、音楽をたくさん聴いてこれからも過ごしていただきたいと思います。ご冥福をお祈りします」としのんだ。 
●May J.さん 八代亜紀さんを追悼「私にとって音楽業界の母のような存在でした」
9日、急速進行性間質性肺炎のため、死去したことが公表された、歌手の八代亜紀さん(73)。歌手のMay J.さんが自身のインスタグラムで八代さんを偲びました。May J.さんは八代さんと「お互い旧姓が『橋本』」ということなどから、とても親しい関係だったと振り返っています。
八代さんの訃報を知り、あまりにも突然のことで言葉が見つかりませんでした。
お互い旧姓が「橋本」ということで距離が縮まり、私のためにドレスをデザインしてプレゼントしてくださったり、母と娘のデュエットソングをリリースしたり、思い出があり過ぎてとてもさみしい気持ちでいっぱいです。
私にとって音楽業界の母のような存在でしたが、時に子供のように無邪気で可愛らしい方でした。
もう一度一緒に歌いたかったです。
八代さんから頂いたたくさんの金言を胸に、これからも歌い続けていきます。
どうか、ずっと見守っていてください。 
●立川志らく、追悼「昭和の歌ってこんなにかっこいいんだぞと教えたくなる存在」
落語家の立川志らくが9日、自身のX(旧ツイッター)で昨年12月30日に他界したことが公表された演歌歌手の八代亜紀さんを偲んだ。
「八代亜紀が亡くなった。昭和の歌姫がまたひとり。あまりに悲しすぎる。今の若い子達に昭和の歌ってこんなにかっこいいんだぞと教えたくなる存在」。自身は昭和の歌謡曲通でも知られ、「私が一番愛した歌は『おんな港町』」と1977年にリリースされた曲を紹介。「前奏から、歌に入る前に聴こえてくる海猫の鳴き声。そして悲恋をアップテンポで明るく歌う、その雰囲気はロックを感ずる。振り付けも堪らない。嗚呼、八代亜紀!」と悼んだ。
フォロワーから敬称がなく呼び捨てにしているとの指摘を受けたが、「知り合いはさんづけ。スターは呼び捨てが礼儀なのです。石原裕次郎さんとは言わない。石原裕次郎と呼びます。もちろん会えば石原裕次郎さんですよ。和田アキ子さんは知り合いだからアッコさんと呼びます。でも彼女を讃える文章を書く時は和田アキ子と書きます」。スターに対するリスペクトの思いがつづられていることを訴えた。 
●和田アキ子、八代亜紀さんを追悼「すごく明るくて優しい子」
歌手、和田アキ子(73)が13日、ニッポン放送「ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回」に出演。昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため73歳で亡くなった演歌歌手、八代亜紀さんを追悼した。
八代さんと同い年の和田は「何回も『ミュージックフェア』なんかも一緒だったり、紅白の楽屋も一緒。すごく明るくて優しい子でした」と人柄を紹介。1987年の紅白では、和田が初めて紅組の司会を務め、紅組のトップバッターが八代さんだったということが紹介され、「全然覚えてないんですよ」。その後、八代さんが当時の紅白で歌唱した「恋は火の川」をオンエアした。 
●桑田佳祐 「感謝」追悼 初対面は初出場の紅白の舞台「あまりにも美しく…」
サザンオールスターズの桑田佳祐(67)が13日、TOKYO FM「桑田佳祐のやさしい夜遊び」に出演。昨年12月30日に亡くなった歌手の八代亜紀さん(享年73)を追悼した。
リスナーから以前、八代さんと共演した「NHK紅白歌合戦」の思い出話を尋ねられ、桑田はその時を「はっきり覚えています」と即答。続けて、「八代亜紀さん残念ですけどね。驚きました。『舟唄』をカバーさせていただいたことがあるんですけど」と八代さんとの思い出を振り返った。
79年、サザンオールスターズが「紅白歌合戦」に初出場した際「リハーサルがあったんですよ。初めてお会いした。あまりにも驚いた“八代亜紀さんだ”と、顔もちゃんと見てないんですけど」と八代さんとの初対面に興奮したと告白。
「なぜか、私と八代亜紀さんがペアになって、手をつないで何かを練習したんですね。嬉しかったね〜。あの方はあまりにも美しくて、スタイルが良くて、色っぽくて…。ほんとファンだった。ほんとに良い匂いがしたのよ」と八代さんとの初対面が昨日のことのように語った。
また、生前「トラック野郎の女神」とも呼ばれていた矢代さんの美しさを「身に染みて感じた」と明かし、「偉大なる八代亜紀さんに感謝でございます。本当にありがとうございました」と八代さんを偲んだ。  
●八代亜紀さん 誰かの気持ちを歌い続けた昭和の大歌手
昨年12月30日に亡くなった八代亜紀さんは、昭和を代表する大歌手の一人だった。独特のハスキーな声で歌う「舟唄」や「雨の慕情」など哀愁に染まった旋律は、日本人の心の奥底に深くしみこんだ。
演歌の大御所歌手として記憶している人も多いだろうが、産経新聞の取材に「私は演歌じゃなく、流行歌の歌手」と話したことがある。
実際、八代さんの歌の原点は12歳のときに父親が買ってくれた米ジャズ歌手、ジュリー・ロンドンのレコードだという。
「私が描いた髪の長い女性歌手の絵が、ロンドンに似ていて。それでレコードを買ってきたみたい」と笑っていたが、八代さんは平成24年にジャズのアルバムを発表。翌年、米ニューヨークの有名ジャズクラブでの公演も果たした。
意外ではなく、まさに原点回帰だったのだ。八代さんは、ジャンルを超えて歌いこなすことができる真の実力派歌手だった。
歌手になろうと決めたのは、13歳の頃。事業に苦労する父親の姿を見て、「私が一流歌手になって助けよう」と決心したのだという。
熊本から上京し、親類宅から音楽学校に通い、やがて東京・銀座のクラブで歌うようになった。
当時、クラブ歌手は高収入で、レコードデビューすることには興味がなかったという。
だが、クラブで働く女性たちから「世の中には悲しい女が大勢いる。あなたの歌声を、そんな女性たちに聴かせたい。レコードを出して全国に届けてほしい」と説得され、レコード会社と契約した。
デビュー当初は売れなかった。ギャラを関係者に持ち逃げされるなど苦労もしたが、次第にトラック野郎≠スちの間で人気に火がつき、ついに「なみだ恋」(昭和48年)で全国規模での売れに売れ、その後はヒット曲が絶えなかった。
八代さんは、父親のために歌手を目指し、苦しむ女性たちのためにレコードデビューすることを選んだ。令和元年に取材した際、八代さんは自身を振り返って次のように話した。
「私の歌は自分のことではなく、誰かの気持ちを代弁してきたんです。それが、大勢の方に聴いていただけた理由でしょうね。聴いてくれる人との間で、ずうっと『ありがとう』を交換してきた歌手人生です」 
●「徹子の部屋」、最後の出演「老後っていつ?」「100歳でも歌えますから」と意欲語る
テレビ朝日系「徹子の部屋」が10日放送され、「緊急追悼」として昨年末に急死した歌手の八代亜紀さんの過去に登場したVTRを放送された。
番組は当初の予定を変更して、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のために亡くなった八代さんへの追悼番組として放送。初登場となった1982年の放送回で当時32歳だった八代さんは黒のハンチング帽に純白のシャツ、黒のパンツ姿を披露した。
その後も97年、2017年、20年の出演回が流され、最後の出演となった昨年3月の同番組では、大ヒット曲「なみだ恋」をアカペラで披露し、司会の黒柳徹子を喜ばせていた。
その黒柳に「今、通過点という感じ?」と尋ねられた八代さんは「そうです。全然、通過点です。まだまだ」とキッパリ。取材で老後について聞かれ、「老後?老後っていつからですか。全然分かりません、老後」と返したことを明かした。黒柳に「当分歌えるのね?」と問われると、「全然、歌えます。100歳でも歌えますから、私」と笑顔で意欲を語っていた。 
●加山雄三、八代亜紀さんの思い出を語り追悼 「俺は100歳まで生きると決めた」
歌手の加山雄三(86)が16日、文化放送「くにまる食堂」内のコーナー「加山雄三プロジェクト 俺は100歳まで生きると決めた」に出演、昨年末に73歳で他界した歌手八代亜紀さんとの思い出を語り、追悼する。
番組では、加山は冒頭から「人生はどうしてこういうことが起きるんだろう、と思うもんな」と語り、「(八代さんとは)ステージに一緒に並んで出たことあるんだもん。歌ってくれたからさ、俺の歌。それなんかを思い出すと、俺の方が先に逝かなきゃいけないのに…」と在りし日の八代さんを悼んだ。
一緒に歌ったのは、加山が作曲した演歌「残り酒」。テレビ番組でデュエットした思い出を振り返り、「いつか天国で八代さんと一緒に歌いたい曲」を問われると、加山は八代さんの代表曲を挙げ、あらためて早過ぎる別れをかみしめた。
「俺は100歳まで生きると決めた」は音楽、俳優、絵画、ヨット、ゲームなど多彩なジャンルで才能を発揮してきた加山が人生100年時代を生きるリスナーに向け人生の在り方、楽しみ方を発信し、応援する番組だ。 
●五木ひろし、「下積み時代からずっとそばで見てきました」 賞レースで「五・八戦争」
昨年12月30日に死去した歌手の八代亜紀さん(享年73)の訃報を受け、生前親交のあった演歌歌手の五木ひろしが9日、所属事務所を通じコメントを発表した。
2人はデビュー前、銀座のクラブでの下積み時代に同じ店で歌っていた仲間同士。八代さんは、当時の芸名(三谷謙)から親しみを込めて「ケンちゃん」と呼んだ。1980年末の日本レコード大賞をはじめとした賞レースでは、八代さんの「雨の慕情」と、五木の「ふたりの夜明け」が全面対決した激しい賞取り合戦「五・八(ごっぱち)戦争」でも話題を呼んだ。五木のコメントは以下の通り。
訃報を聞きあまりの驚きに言葉もありません。
彼女の下積み時代から50数年間頑張っている姿をずっとそばで見てきました。
心から敬意を表したいと思います。
ご冥福をお祈り致します。 
●八代亜紀さん “五八戦争”の最中に語っていた「結婚を考えた男性」との悲恋
1月9日、「演歌の女王」八代亜紀さんが昨年12月30日に「急速進行性間質性肺炎」のため亡くなっていたことがわかった。73歳だった。大御所ながら飾らない人柄で多くの人に愛され、突然の訃報には多くの著名人から早すぎる死を悼んだ。
八代さんは『舟唄』や『なみだ恋』などヒット曲を連発。特にお茶の間の注目を集めたのが、1980年に巻き起こった八代さんと五木ひろし(75)による「五八戦争」だった。当時、歌手にとって最大の栄誉であった「レコード大賞」を五木は『ふたりの夜明け』、八代は『雨の慕情』で激しく争った。ともに苦労人で、10代の頃から銀座のクラブ歌手として旧知の仲だったこともあって大きな話題になった。
最終的には八代の「雨の慕情」が見事大賞に輝いたが、そんな賞レースの真っ最中だった年末、八代は分刻みのスケジュールの合間を縫ってTBSの楽屋で本誌『週刊ポスト』の取材(1981年1月9日号)に応じていた。恋多き女としても知られた八代さんは数々の熱愛でワイドショーを賑わせたが、この時のインタビューは知られざる恋を赤裸々に明かしてファンを驚かせた。
記事のタイトルは、「私のいい人……喋ります」。
「とっても……つらかった」
当時の八代さんはキャリア絶頂期。そのタイミングで恋愛遍歴を振り返った八代さんは、歌手としてデビューした21歳の頃、結婚を考えていた男性がいたと明かした。
〈二十一歳になったころ好きだったその人はとっても思いやりがあって、頼りがいのある人だった。女っていうのは恋をすると、その人との結婚をあれこれ空想してみるんです。相手の姓の下に自分の名前を書いてみたり……。でも結局、相手の立場、私の生き方を考えて、私の方から身を引いてしまったんです。とっても……つらかった〉
現在進行形の恋愛について問うとこう答えた。
〈いまの恋のこと? 歌の文句じゃないけれど、“私のイイ人つれて来い”よ。しょっ中、惚れてはいるんですけど、うまくいかないのよね。だって私の年(三十歳)で惚れる男性となると、たいていの人が家庭持ちでしょう。もうこりごりだわ(笑い)〉
それからも数々の恋愛を重ね、結婚・離婚も経験した。そのたびに歌は情感を帯び、人々の心に響いた。もうその歌声を聴けないのが悲しい。
●「嗚呼!みんなの動物園」が追悼 元気になったら保護猫プロジェクトを予定していた
日本テレビの「嗚呼!みんなの動物園」が13日に放送され、昨年12月30日に亡くなった歌手の八代亜紀さん(享年73)を追悼した。
「嵐」の相葉雅紀(41)がMCを務める同番組。
60年間にわたって保護猫を引き取り育てていた八代さんは猫好きの「レジェンド」として昨年10月7日の放送回に登場。
「風神」「雷神」と名付けた保護猫2匹を引き取ったうえに新しい飼い主を探すための“人慣れ”を目的とした預かりボランティアもしているお笑いタレント、サンシャイン池崎(42)の新居を訪れていた。
番組の最後に、池崎が“お留守番”を八代さんに頼んだり、八代さんが池崎の自宅で猫と遊ぶ当時の映像が流され、「元気になったら池崎一門として保護猫プロジェクトを予定していた八代亜紀さん」「心から哀悼の意を捧げます」とのテロップが表示され、動物好きで心優しい人柄だった故人をしのんだ。
八代さんは昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去。所属事務所が今年1月9日に発表した。昨年8月に皮膚炎などの症状があり、複数の病院を受診して膠原病の診断。9月9日に埼玉県内で行われた日野皓正(81)の公演にゲスト出演した後に入院し、仕事は全てキャンセルして療養していた。
●大村崑、追悼「命の恩人。ずっと泣いてます」 検査説得され大腸がん見つかる
タレントの大村崑が9日、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため73歳で亡くなった八代亜紀さんを悼んだ。
八代さんとは舞台の座長公演の常連で約10年間、共演。大村はスポーツ報知の取材に「ずっと泣いています」と訃報にショックをあらわにした。
大村は58歳のときに大腸がん手術。当時の八代さんの主治医とも交流が生まれ、「一度、しっかり検査してみたら」と説得された。検査を受けてみたところ、大腸がんが見つかったという。
「もう30年以上前ですね。そんなこともありましたね。命の恩人とも言えるでしょうね。舞台では僕をずっと副座長扱いにして優遇してくれた。公演が終われば、大勢の共演ダンサーたちを自腹でグアム旅行に連れて行ったり。いろんな座長見てきましたが、あんな座長さんはいませんよ」。
大村夫妻が10数年前に大阪で開催した「金婚式」パーティーでの出来事も忘れられないという。八代さんは九州にいるという理由で映像出演だった。ところが、その映像が終わると同時に、何と会場に本人が姿を見せたのだ。夫婦にとって、この上ないサプライズ祝福となった。「こうやって話すのもつらいね。人を愛することが人一倍好きな人でしたね」と涙ながらに語った。
●サンドウィッチマン、追悼「我々ごときにすごく優しく」露天風呂で背中流してもらった
お笑いコンビ・サンドウィッチマンが13日、ニッポン放送「サンドウィッチマン ザ・ラジオショーサタデー」に出演。昨年12月30日に亡くなった歌手の八代亜紀さん(享年73)との思い出を語った。
富澤たけしが「お風呂の番組で別荘のお風呂も借りしたりもしてましたね」と、かつて番組のロケで八代さんの別荘を訪問したことを紹介。伊達みきおも「すごく立派な別荘があって。家に露天風呂あるんですよ、デッカイ。そこで、ボクら露天風呂に入れさしていただいて。八代さんに確か背中流してもらったような気がするんだよねえ。今思うとすごいことですよね」と応じた。
さらに「超大御所でね、すごく優しくしてくれた。我々ごときにさあ。うれしかったよねえ」と感謝した。
富澤は、八代さんが東日本大震災の際に「石巻の避難所とかに、畳送ってくれたりしてた」と説明。ほかにも避難所で歌を披露したことや八代さんの地元である熊本地震のときにも被災地へ何度も足を運んだことを挙げ、伊達は「弱ってる方々のところに駆けつけて、元気付けて上げるという、八代さんらしいスタイルというのかなあ」と偲んだ。富澤も「ショックでしたねえ」としんみりしていた。 
●NHKメディア総局長が八代亜紀さん追悼 「絵にしていただいて届けに」
NHKは17日、都内の同局で定例会見を行い、山名啓雄メディア総局長が、昨年12月30日に、73歳で亡くなった演歌歌手の八代亜紀さんについて言及した。
山名メディア総局長は、年末年始から続いている訃報について「中村メイコさん、八代亜紀さんなど多くの方の訃報が続いています。八代さんには紅白を始め、歌番組などでお世話になりました」と追悼した。
続けて八代さんが「鶴瓶の家族に乾杯」に出演した際について、「長野県を訪問していただいて。リンゴ農家さんと知り合って、後日その様子を絵にしていただいて、『リンゴ農家さんに届けておいて』と言われて、後日届けに行きました。農家さんはすごく喜んでくれて。絵は僕らが頼んだわけではないものでしたが描いてくださったという、そういうエピソードが八代さんらしい」と懐かしみ、「(印象は)みなさんが感じられているのと相違はないと思います。チャーミングで歌も上手で、ヒット曲もある方ですが、すごく気さくな方でした」と悼んだ。  
●美川憲一、八代亜紀さん追悼 「つらい。彼女ほど人間性抜群の人いない」
歌手の美川憲一が9日、昨年12月30日に急速進行性間質性肺炎のため73歳で亡くなった八代亜紀さんを悼んだ。
長年交流があり、八代さんとは近年、ジョイントコンサートで共演。スポーツ報知の取材に「びっくりしました。まだ信じられない。芸能界で彼女ほど人間性抜群の人はいなかった。つらい」と肩を落とす。
「私たちクラスになると仕事で譲り合う、ということがなかなか難しいもの。苦労して一枚看板でやってきただけにね。でも亜紀さんは違ったわ。トークもすごくやりやすくて楽しくて」。
ともに一時代を築き、浮き沈み激しい歌謡界を生き抜いてきた。「“ジョイント”では私はシャンソン、彼女がジャスを担当でした。共演がすごく心地良くて。そういう人ってなかなかいない。彼女の自然体でさっぱりした性格の一方できめ細かな優しさに包まれるような感覚とでもいうのかしら」と振り返り、八代さんの入院直前にも「『ジョイント、必ずまたやりましょうね』と約束し合ったたのに。残念過ぎます」と話した。 
●「どん底に落ちたときの歌を」…八代亜紀がブルースに挑戦 銀座のホステス泣かせたクラブ歌手時代 [ 2015/10/17 ]
浪曲に演歌、ジャズにロックと何でものみ込む歌手の八代亜紀(65)がブルースに挑戦した。日米のブルース全12曲を収録したアルバム「哀歌−aiuta−」を28日にリリースする。新曲の制作は中村中(あたる)(30)ら今をときめくミュージシャンたちが担当。八代は「『どん底に落ちたときの歌を作って』と頼みました」と舞台裏を明かした。
ブルース発祥の地、メンフィスへ
「どん底に落ちたときの歌」をリクエストしたのには理由がある。「引きこもり、いじめ…。いろいろな社会問題があるけれど、今、置かれている立場はどん底ではないよ、と気づいてほしくて制作しました。もっと悲しんでいる人はいる。自分の悲しみは大したことがない、と思ってもらえるアルバムができたと確信しています」
プロデュースを担当したのは、4人組バンド「JUN SKY WALKER(S)」のベーシストで音楽プロデューサー、寺岡呼人(よひと、47)。新曲3曲の制作は中村のほか、人気ロックバンド「THE BAWDIES」、「クレイジーケンバンド」のボーカル、横山剣(55)に依頼した。頼み方に八代らしさを感じさせる。例えば、中村には「タイトルは『命のブルース』にしてほしい。どん底に落ちたときの命を追求して作ってください、と伝えました」
今年7月にはブルース発祥の地、米メンフィスを訪れた。そこで、切なさやつらさの中から生まれたのがブルースと実感したことも歌を深化させた。帰路の空港で中村から届いた新曲を聴いた。「魂が感じられて『いいね』と言いました。ただ、1つだけアドバイスしました。そのときは全部が悲しさを表す歌詞だったのですが、1カ所だけ明るさや幸せを想像させる点が欲しい、と。スイカに塩をかけたら甘さが引き立つのと同じです」
淡谷のり子から酷評された経験
歌うときも心の明暗を巧みに操る。「『悲しいね』と笑いながら歌うと心に染みる。『楽しいね』と悲しそうに口ずさむと、グッとくる。銀座のクラブで歌っていた10代のとき、ホステスのお姉さんたちが泣きながら聴く姿を見て、そんな歌の心を知りました」
「哀歌」では、歌手の淡谷のり子(享年92)が歌った「別れのブルース」など日本の名曲もカバー。人気テレビ番組「全日本歌謡選手権」に出演したときは淡谷から酷評された経験がある。それでも、その後、淡谷から「『亜紀ちゃん、ごめんね。私、女が嫌いなのよ』と言われました。淡谷先生の歌は好きです」。
大ヒット曲「舟唄」「雨の慕情」などで知られる歌姫だが、ブルースでも存分に実力を発揮している。 
●八代さんをインタビュー [ 週刊朝日 2016年9月30日号 ]
近年はジャズを歌うなど幅広く活躍中する八代亜紀さん。デビューは1971年と、歌謡曲全盛期を体験した彼女は、今でも忘れられない思い出があるという。
70年代から80年代は歌謡曲の全盛時代、ほぼ毎日ゴールデンタイムに歌の生番組があり、賞レースはお祭りのようでしたね。80年はヒット曲が多く生まれて、誰が日本レコード大賞を獲ってもおかしくない感じでしたが、五木ひろしさんの「ふたりの夜明け」と私の「雨の慕情」のどちらかが大賞を獲りそうだと業界が煽り、〈五−八(ごっぱち)戦争〉という言葉まで生まれました。
五木さんとはまだ売れない時代に銀座のクラブで一緒に歌った“流行歌仲間”だし、戦争だなんていわれても私自身ピンとこないわけです。当時は過密スケジュールをこなすだけで精いっぱいだし、テレビ局からテレビ局への移動の車に看護師さんに乗ってもらって点滴を受けていたくらい(笑)。でも騒動が過熱する中で、「賞を獲るな」とか脅迫めいた手紙を(ほかの歌手のファンを名乗る人から)もらったこともありました。一緒に住んでいた父が心配して、私が事務所の車で仕事に出かけるときと帰ってくるときに大通りまで見送りと出迎えに来ていましたよ。
ありがたいことに結局、レコード大賞を受賞しましたが、その瞬間、日本武道館の会場で五木さんのもとへ駆け寄り、ありがとうって言いました。彼は唇を噛んで何も言わず、私もちょっと切ない気持ちに。でもいざ受賞曲を歌い始めると、会場の雰囲気が一転したんです。その年の新人賞は田原俊彦君の「ハッとして!Good」や「青い珊瑚礁」の松田聖子ちゃんなどがノミネートされ、「ハッとして……」が受賞していたんですが、会場にいたトシちゃんや聖子ちゃんのファンが「雨の慕情」を一緒に歌ってくれた。雨、雨、ふれふれというサビでは皆が手のひらを天に向ける振り付けをまねて大合唱、感動しました。
昭和のよき思い出には、藤圭子ちゃんのこともあります。圭子ちゃんは1歳下だけどデビューは2年先輩。クールに見えてあがり性で、楽屋でいつも手が冷たくなって震えているの。「アキさんどうしよう」と言うから、「大丈夫よ」と両手でよく手を温めてあげました。圭子ちゃんが引退してアメリカに渡り、その後結婚して、しばらくして日本に戻ったときに何かの番組で再会したことがあります。リハーサル時にスタジオを小さな女の子が走っていて、圭子ちゃんが「こらっ」と叱っていた。それが宇多田ヒカルちゃんでした。
あれから数十年、音楽シーンは変わりましたが、私は今もライブを年100日前後行っています。若い子から「生の『舟唄』聴かせて〜」とせがまれる。昭和の歌を今の時代にも受け入れてもらうのは嬉しいですね。お酒はぬるめの燗がいい〜なんて酒通っぽく歌い続けているけれど、本当は私、一滴も飲めないのよ(笑)。 
 
 
 
 
 
 
 


2024/1