創造神話伝承 諸説

マヤ神話マヤ文明1マヤ文明2守護数金星 観測フォトンベルト1フォトンベルト2マヤの予言カルキニ文書16世紀植民地マヤ・・ ・
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雑学の世界・補考   

マヤ神話

一般に、マヤ文明の広範囲に派生した固有の宗教的神話のことを指す。この神話はメソアメリカ人によって約三千年以上前から9世紀にかけて信仰されてきた。他の神話の例に漏れず、世界の誕生、神々が人間を創造する話などが伝わっている。この神話には方角、色、数字、星、カレンダー、食物の収穫等についての重要性が示されている。大半はスペインによる征服の歴史の中で消失したため、現在明らかにされているマヤ神話は断片的である。生け贄の人間から心臓をえぐり出し、祭壇に供え、後に神官が生け贄から剥ぎ取った皮を着用して舞踏する儀式が有名。
あらゆるものに神を見いだす汎神的な世界観をもち、世界の四隅に住み異なる姿を持つ神チャク(Chac)などのほか、13の天に住む13の神、9の暗黒に住む9の神がいる。また自然のエレメント(元素)、星や惑星、数、作物、暦や日時などに固有の神々がいる。現在のグアテマラあたりにいたとされる原住民族キチェー族(Ki'che'orQuiché)に伝わるマヤ創世神話にポポル・ブフ(PopolVuhorPopolWuj)がある。それによれば、世界はマヤの聖域の神々の意思によって無から生み出されたとされる。人は泥で作られ、また木で作られたが失敗であり、やがてトウモロコシで作られたものが神々を敬うという当初の計画にそう出来となった。それが銀細工師や宝飾師、石工や陶工である。創世神話のあとポポル・ブフの物語は伝説の双子の英雄フンアフプー(Hunahpu)とイシュバランケー(Ixbalanque)の物語、地底世界シバルバー(Xibalba)の主たちを退治する冒険譚を語る。この創世神話と英雄譚がマヤ神話の焦点であり、しばしばマヤ芸術の題材として見いだすことができる。(ローマ字表記はスペイン語による)  
創世神話
マヤの神話では、テペウ(Tepeu)とグクマッツ(トルテカ神話及びアステカ神話のケツァルコアトル神Quetzalcoatlに相当)が創造主、創世主、始祖とされている。彼らが最初の「在りて在る者」であり、賢者と等しい賢明さを兼ね備えた者であったとされる。またカクルハー(雷)・フラカン(Huracan一本足の意)あるいは単に「天の心」と呼ばれる者が存在しテペウと同一視、または分身とされる。フラカンは嵐と雷を象徴する神格とされている(ハリケーンの語源)。
テペウとグクマッツは集まりを持ち、彼らを崇拝することのできる種族を作らなければならないと合意する。テペウとグクマッツの分身ともいえる「天の心」及び「地の心」によって実際の創造をおこなわれる。大地が作られ、動物が備えられる。人間ははじめ泥で作られるのだが、すぐに壊れてしまう。別の神々が召集されて、つぎは木で作られるが、これは魂を持たない代物であった。そうして人はトウモロコシから作られ神々とその行いは完成にいたる。
大地と動物の創造
「ツアコル」と「ビトル」又は「テペウ」と「グラマック」という二人の創造主がおりました。彼らは最初に大地を呼び出して山・谷・川を作り、そして動物や鳥を作りました。
人間の創造
今度は創造主を養ってくれる人間を造ろうとしました。最初は土から造りましたが、柔らかい上に水に解けてしまいます。歩けないし子供を産むこともできません。これではだめだと破壊してしまいました。二回目は木で人間を造りました。前と違い子供を産むことも出来き、言葉を話したのですが魂がありませんでした。魂がないので神に感謝しませんでした。これではだめだと大水で破壊されてしまいました。三回目は、男は豆・女はい草で造りましたが、神と話すこともできない上に考えることが出来ないので破壊されました。このときの生き残りが猿なのです。第四回目は白と黄色のトウモロコシで造られましたが、神と同じになってしまいました。人間が神と同じ能力なのはいけないので破壊されました。このように人間は4度造られ4度破壊されたのです。
太陽・月・星
第4の破壊からしばらく後に、双子の神「ファンプー」と「イシュパランケー」が様々な悪と闘い、地下の闇の国「シバルバー」での試練と冒険を終えて、二人は光に包まれて天に昇っていき1人は太陽に、もう1人は月となり、天地に明かりがもたらされました。双子の神に倒された「光り輝くヴクブ・カキシュ」の手にかかり命を落とした400人の若者も星に姿を変えました。
五度目の人間の創造
再び「ツアコル」と「ビトル」により人間創造が始まります。ジャガーとコヨーテとオウムとカラスから人間が造られました。その人間は身動き1つしないであらゆることを知ることが出来ました。神は人間の野心や驕慢を恐れ、その目に霧を吹きかけて曇らせました。これにより獣にはない知性があるけれども、ものを見る能力が劣る今の人間ができました。そうして、マヤの人々は5度目の破壊を恐れたのです。その日を知ろうと天文が発達し三種の暦が造られ、その日が来ないように儀式が行われたのです。
 
マヤ文明1

 

メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。
大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル、ワシャクトゥン、エル=ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、人口の集中が起こり繁栄した。エル・ミラドール、ナクベ、カラクムなど大都市では、古典期を凌ぐ大建造物が、紀元前400年以降に建てられたことが分かってきた。
開花期の古典期(A.D.300-900)にはティカル(Tikal)、カラクムル(Calakmul)などの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。
古典期後期(A.D.600-900)の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明しているため、焼畑(ミルパ)農法や建造物に使用する漆喰を造るために、森林伐採を行い続けたため、地力の減少によって食糧不足や疫病の流行が起こり、それによる支配階層の権威の失墜と、数少ない資源の奪い合いによって戦争が激化したことが共倒れを招き、衰退に拍車をかけたと考えられている。この時期にはテオティワカンの影響が消えたことやティカルにかわって多くの小都市国家が発展した。特に8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、鹿皮や樹皮を材料とした絵文書がつくられた。碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史には高い関心を持っていたことが推測できる。都市は祭事の場であるだけでなく市の立つ通商の場でもあった。通商はメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもちいくつかの商業都市も生まれた。
なお、古典期マヤ文明は金属を持たず、基本的には新石器時代に入っていたといえる。しかし、9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)、農民反乱説、内紛説、疫病説、気候変動説、農業生産性低下説など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。
一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン=イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。
標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。
先古典期中期後半(マモム期)
先古典期後期(チカネル期)
古典期前期(ツァコル期)
古典期後期(テペウ期)
他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
後古典期(A.D.900-1524)には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。 
マヤ文明の特徴
青銅器や鉄器などの金属器を持たなかった
生贄の儀式が盛んであった
車輪の原理は、土偶などの遺物に出てくるにもかかわらず、実用化しようと考えていなかった
牛や馬などの家畜を飼育しなかった
とうもろこしの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった
焼畑(ミルパ)農法や段々畑・湿地で農業を行った
数学を発達させた(二十進法を用い、零の概念を発明した)
文字種が4万種に及ぶマヤ文字を使用していた
持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた
極めて正確な暦を持っていた(火星や金星の軌道も計算していた)
多くの文明は河川の水の恵みにより発展してきたが、マヤ文明はセノーテとよばれる天然の泉により発展した
農業技術については、段々畑で作物を作り、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分にカカオなど農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。この湿地利用によく似た農法としてメキシコ中央部にはチナンパという湿地転用農法があるので、その方法を移入した可能性を指摘する研究者もいる。
数字は、点(・)を1、横棒(−)を5として表現したり、独特な象形文字で表現された。 
マヤのカレンダー
マヤの人々は天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていたとみられている。1つは、一周期を260日(13日の20サイクル)とするツォルキンと呼ばれるカレンダーで、宗教的、儀礼的な役割を果たしていた。もう1つは、1年(1トゥン)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日のワイエブ月を追加することで365日とする、ハアブと呼ばれる太陽暦のカレンダーである。
ワイエブ月を除いたハアブ暦(360日)とツォルキン暦(260日)の組み合わせが約13年(13トゥン)ごとに一巡する。これをベースとして4サイクルの約52年を周期とする 。この他、より大きな周期も存在していた。このようなカレンダーの周期のことをカレンダー・ラウンド(rueda calendárica)という。
また、紀元前3114年に置かれた基準日からの経過日数で表された、長期暦(ロング=カウント;Long Count)と呼ばれるカレンダーも使われていた。石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれていて、年代決定の良い史料となっている。この暦は次のように構成されている。
キン(1日)
ウィナル(20キン)
トゥン(18ウィナル、360キン)
カトゥン(20トゥン、7200キン)
バクトゥン(20カトゥン、144000キン)
ハアブ暦の閏については、そのずれを調整しなかったが、新月が全く同じ月日に現れるメトン周期(6939.6日)を把握していたことが、ドレスデン・コデックスやコパンの石碑に19.5.0.すなわち360×19トゥン+20×5ウィナル=6940キン(日)の間隔を記載することによって実際には季節のずれを認識していた可能性やパレンケの太陽の神殿、十字架の神殿、葉の十字架の神殿の彫刻に長期暦の紀元の記載とハアブ暦と実際の1年の値である365.2422日との差が最大になる1.18.5.0.0.(長期暦の紀元から約755年経過した時点)の記載があり、これもマヤ人が1年を365日とした場合の季節のずれを認識していた証拠とも考えられる。
かつては、現在通用しているグレゴリオ暦の365.2425日(400年間に97日の閏日)よりも真値に近い、365.2420日がその答えとされていた。これは、化学工学技術者のジョン・E・ティープルが1930年代に唱えた決定値理論と呼ばれる説で、アメリカのマヤ学の権威とされたエリック・トンプソンが認めたため、現在でも流布している説であるがその誤りが判明している。カラクムル遺跡にある15回目のカトゥン(9.15.0.0.0.,731年)を祝う石碑が7本あるが、その1年前に修正がなされており、太陽年を意識して201日分を加えている。これを太陽年を最初から想定していたとすると1年を365.2421日(3845年間に931日の閏日)としていたことになる。また、キリグアの785年を刻んだ石彫で、212日を追加する修正が見られる。グレゴリオ暦では、215日であり、太陽年で正確に計算すると214日の誤差となる。これを太陽年を想定した1年の日数とすると365.2417日(3898年間に942日の閏日)になる。単純に考えれば肉眼のみの観測で非常に精度が高い値で修正を行っていること自体は驚くべきであるが、実際にはグレゴリオ暦のように暦の1年を意識して計算しているものではないため、精度の高い暦を使っていたということはできない。 
マヤ暦の終わり
ニューエイジ関連の書物ではマヤの長期暦は2012年の冬至付近(12月21日〜23日)で終わるとされ、その日を終末論と絡めた形でホピ族の預言も成就する、フォトンベルトに突入する時期としているものが多い(2012年人類滅亡説)。しかし、フォトンベルトの存在は皆無に等しく、フォトンベルト関係の予言は非常に信憑性にかけた予言であり、さらにマヤの暦は現サイクルが終了しても新しいサイクルに入るだけで永遠に終わらないという見方もあり、多くのマヤ文明の研究家たちも終末説を否定している。
この他、カール・コールマンの計算によると「マヤ暦の最終日は2011年10月28日」との説もあった。 
 
マヤ文明2

 

マヤ文明は、考古学者の間では「謎の古代文明」と呼ばれています。マヤとはメキシコ先住民の言葉で「周期」、マヤ文明とは「時間の文明」という意味です。この奇妙な名を持つ文明をつくり上げたのは、自らを「マヤ=時の民」と称した人々(メキシコ・グアテマラ先住民のマヤ族)でした。そんな不思議な名前をもつ民族・文明は、世界中どこを探してもマヤ以外には見当たりません。しかし、残念なことに、マヤ文明の存在が世界に知られ始めたのは19世紀末。本格的に研究されるようになったのは、20世紀後半に入ってからです。しかも、古代マヤ文明が栄えたメキシコからグアテマラ・ホンジュラス・サルバドールなどの中米一帯は、熱帯性多雨気候という発掘不向きの場所のうえに、昔から政府軍とゲリラによる内戦がつづいていたので、研究が思うように進んでいないのです。そのために専門の考古学者たちにさえ、マヤ文明についての詳しいことはわかっていません。では、古代マヤ文明とはいったい、どんな文明だっのでしょう。

巨大なピラミッドを建造した。
ゼロの発見に象徴される高等数学をもつ。
天文学に優れていた。
考古学の常識を超えた、古代マヤ文明のすごさとは!?

紀元前2600年ごろ、いまから約4600年前のこと。中央アメリカ南部で誕生し、それから数千年にわたってメキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄え、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達する前に、大密林の中に忽然と姿を消した「謎の古代文明」――それがマヤ文明です。
ではなぜ、マヤは「謎の古代文明」と言われるのでしょう。
理由は山ほどあります。1つはいまも説明した通り、マヤ文明がどのように誕生し、熱帯ジャングルの中で栄え、なぜ繁栄の絶頂で突然この地上から消え失せてしまったのか、いまもってわからないためです。2つめはマヤ文明が「考古学の常識を超えた古代文明」だったことです。そして3つめは、これがもっとも重要なのですが、古代マヤ人たちが高等数学と高度な天文学によって作り上げた暦(マヤ・カレンダー)を使って「予言のテクノロジー」を操っていたことです。

考古学では、大文明が誕生する必要条件として、次の3つをあげています。すなわち、大河の辺(ほとり)という地理的条件、クルマ(車輪)の発明、金属(鉄)の使用の3つです。
四大古代文明(エジプト、中国、インド、メソポタミア)はいずれも、その3つの条件を備えていました。しかし、マヤ文明にはそのどれ一つなかったのです。まさに、考古学の常識を超えた古代文明です。
マヤ文明が誕生した中央アメリカ・メキシコ南部の大密林地帯――そこは熱帯雨林が地平線の彼方まで広がり、地上には密生する樹木が生い茂り、木の枝やつる草が人の行く手を阻む、昼なお暗いまさに緑の魔境です。そこには石材や農作物を運ぶ船が走れるほどの大河などはなく、運搬車が密林の中を通ることは不可能だったためか、車輪が使用された形跡はありません(荷車を模した古代のオモチャは発掘されていますが)。また、鉄などの金属が製造された痕跡も、見つかっていないのです。
にもかかわらず、古代マヤ人たちは、その緑の魔境の大地に四大文明に優るとも劣らぬ大文明を築き始めました。
巨大ピラミッドの建造、華麗で壮大な神殿都市、ゼロの発見に代表される高等数学、20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学など、マヤが発明したテクノロジーの数々はいずれも、四大文明以上の科学水準を誇っていました。
マヤ文明がどれほど壮大で華麗なものだったかは、その古代遺跡からも明らかです。
たとえば、グアテマラの熱帯密林の中にいまなお雄姿を残すティカル遺跡。紀元前600年、いまから2600年前から人が住み始め、紀元8世紀に絶頂期を迎えたマヤ最高の神聖都市ティカルは、その規模でも華麗さでも当時のヨーロッパ文明をはるかにしのいでいました。
ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。周囲を濠と土塁で守り、10万人にものぼる人が暮らしていたと考えられています。これはルネッサンス期(15世紀)のヨーロッパ大都市をしのぐ規模です。
ティカルは湖からも河からも遠かったので、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられました。
その中心に華麗な都があったのです。大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群が林立する都市。壮大な球技場とそれを囲む3つの高層アクロポリス。ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていました。
その都市の真ん中に、ひときわ巨大な5基のピラミッドが天を突くようにそびえ立っていました。
その第四ピラミッドの高さは70メートル。巨大地震の多発地帯として知られるグアテマラでは、地震と火山噴火によって過去に何度も首都が破壊され、耐震構造の関係から、高さ30メートル以上のビルがありません。そのため、21世紀を目の前にしたいまでも、7〜8世紀ごろに造られたこの第四ピラミッドがグアテマラでもっとも高い建築物なのです。このピラミッド建造技術を見ただけでも、マヤがいかに優れた文明だったかわかるでしょう。
メキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄えていたマヤ文明には、このような大都市がいくつもありました。考古学者の推定では、その総人口はメキシコのユカタン半島に住んでいたマヤ低地族だけで500万人。マヤ文明が支配していた地域全体では最盛期には1000万人以上。2000万人から6000万人の人々が暮らしていた、と主張する考古学者さえいます。
こんな人類史の奇跡としか思えないほどの素晴らしさゆえ、マヤ文明の誕生の謎については様々な見解が述べられてきました。
「マヤ文明は、古代ムー大陸の一部だったのだ」
「マヤ文明は、アトランティス大陸の生き残りがつくり上げたのだ」
「マヤ文明は、旧約聖書に記されているソロモン王の11人の使徒たちがつくり上げたのだ」
「マヤ文明のような奇跡的文明は、遠い宇宙から飛来した宇宙人にしかつくりだせない」
などといったものです。これらの説の一つひとつについて、ここで言及するつもりはありません。ただ、一つ確かなことは、マヤ文明は多くの人々の想像力をかきたてずにはおかない、謎と魅力と神秘に満ちあふれた古代文明だったということです。

しかし、繁栄を誇ったマヤ文明は、突然、謎の消失をとげてしまいます。西暦1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した時には、すでにマヤ文明の大部分は密林の彼方に消え失せた後でした。(ここまで読めばわかるはずですが、コロンブスの行為は、実は歴史の教科書に書かれているような「発見」などというものではなく、その後の残忍な植民地支配が証明したように、ヨーロッパ文明と新大陸文明との「不幸な遭遇」にすぎなかったのです)
新大陸発見当時、メキシコではマヤ文明の影響をうけたアステカ帝国が栄えていました。その最後の古代帝国アステカでさえ、ヨーロッパ大陸をしのぐ文明を誇っていました。琵琶湖の5倍ほどの広さを持つ湖の中の島に、巨石を組んでつくられた水上都市(現在のメキシコ・シティ)。その壮麗な都を目にしたスペインの征服者(コンキスタドール)の司令官コルテスは、こんな手紙を本国にしたためています。
「自分たちは魔法をかけられて夢を見ているに違いない。というのも、信じられないことに、アステカの都は我がスペインの都グラナダの規模にして優に10倍、その華麗さはまるで天国にいるとしか思えないほどだ」
それほど高度で強大な文明を持つアステカ帝国が、なぜコルテス率いる総勢150名たらずのスペイン兵の前に簡単に滅び去ったのか。
さらに言うなら、アステカ以上の文明と高度な科学を誇ったマヤ文明が、なぜスペイン人の到来以前に謎の消失をとげたのか──。
それはいまでも、歴史の大きな謎とされています。そして、いま考古学者たちが考えているその答えが「予言の存在」なのです。

マヤ文明はまさに「時間の文明」でした。時間の神秘の謎を解き、未来の時間を手に入れること、つまり、予言こそが、マヤ文明がそのもてる全知全能と富と力と心血のすべてを注いだ対象だったのです。巨大ピラミッドも高度な天文学も0(ゼロ)の発見に象徴される高等数学も、すべては正確な未来を予知するために発明された道具だったのです。
科学技術が高度に進んだ現代では、予言などというものは迷信の一種としか扱われていません。しかし、現代人がコンピュータとカオス理論を操って未来を予知しようと企てているように、当時のマヤの人々にとっては、予言の術こそが最高に高度なテクノロジーだったのです。
そして、初めに書いたとおり──現代科学の粋を集めたスーパーコンピュータでさえ、明日の天気を60パーセント程度の確率でしか予知できないのに比べ──驚くべきことに、マヤの予言は(少なくともいくつかの歴史的事件については)正確な未来の予知に成功していたのです。
古代マヤ人たちが遺した重要な考古学資料の中に、『チラム・バラムの聖なる予言』(単に『チラム・バラムの予言』とも言う)という聖なる書物(アナーテ)があります。
チラム・バラムとは、古代マヤの最高位の予言者に与えられる称号で、その書物は歴代チラム・バラムが告げた予言の言葉を記したものです。「白人のアメリカ大陸到来」を予言した言葉は、この聖なる書物の中にもあります。
たとえば、9世紀に実在した「ナワト」という名のチラム・バラムは、こう告げていました。
「カトゥン4アハウの年、それは大激変が起きる時。イッツア(マヤ)の人々が木の下、藪の下、蔓の下をくぐり、苦しむのはいつもこのカトゥンの時である。そして、カトゥン2アハウの1ベンの年、白い肌をして髪を長くのばし赤い髭をはやした神の名を名乗る者たちが、東方の海よりやって来るだろう」
カトゥンとかアハウとかベンというのは、マヤの暦で使われる年月を表わす言葉で、現在私たちが使っている年や月、曜日、日といった言葉に当たります。
そして、カトゥン4アハウの年とは、西暦に直すと、1481年から1500年の期間。カトゥン2アハウの1ベンの年とは、1519年のことです。
コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは、まさにカトゥン4アハウのちょうど真ん中の年(西暦1492年)。そして、「白い肌をして髪を長くのばし赤い髭をはやした」スペイン兵たちが「キリスト教の布教」を名目に「東の海岸」よりアステカ帝国に攻め込んで来たのは、まさに2アハウの1ベンの年(西暦1519年)だったのです。
マヤの人々は褐色の肌をもっており、髭をはやす風習もなく、「白い肌をして髭をはやした人間」がこの世界に存在しているなどということは、彼らの想像を超えたものでした。
にもかかわらず、マヤの予言者たちは、白い肌をもつ者たちの到来とその時期(西暦1492年のコロンブスの到来と1519年からのスペイン兵による侵略)、そして場所(東の海岸より上陸してくること)、さらには彼らの目的(キリスト教の布教)さえも正確に予言していたのです。
このような予言が、少なくとも600年間にわたり、歴代チラム・バラムの口から伝えられつづけました。運命の西暦1519年が近づくにつれ、予言の言葉はだんだん詳細になっていきます。ついに西暦1519年、最期のチラム・バラムが「すでに白い肌の人々は東方の海より上陸している。運命は避けられない」と告げた時、すでに人々が去り廃墟と化していた都にまだ残っていた最後のマヤ人たちも、異教の神との衝突を避け、運命を受け入れて、ついに密林の深奥へと姿を消しました。こうしてマヤ文明は、歴史の表舞台から完全に消えていったのです。
それにしてもなぜこれほどまでに正確な予言が可能だったのでしょう。
マヤの予言者は述べています。
「神はその御手で、過去の時間の中に密かに未来を記された。すなわち、未来とは人の手が記さなかった過去であり、予言とは空白の過去に隠された神の言葉を宇宙の原理を借りて、読み解く業なのである」
そう、マヤの予言者の言葉にしたがえば、過去から未来にわたる時間の神秘を操る「宇宙の原理」こそ、予言の鍵を握るものなのです。
そのマヤ文明が発見した「宇宙の原理」に形を与えたもの、それがマヤ文明の最大にして最高の発明品である究極の予言テクノロジー、『マヤ・カレンダー』なのです。

マヤとは周期=時間という意味だ、ということは書きました。では、時間とは何でしょう。
私たち現代人にとって、世紀や年、月や日といったものは、時の歩みを計る単なる単位、電子時計の針が刻む機械的リズムにすぎません。
そこには雨や風のリズムはなく、まして天空の星々が刻む大宇宙の鼓動などありません。生命のない機械的な時間が流れているだけです。そこから見えるのは、大地や宇宙のリズムと切り離され、この地上で孤独に生きる現代人類の姿です。
もし私たち人類が、コンピュータゲームで遊ぶように脳が作りだしたバーチャル世界の中だけで生きていけるなら、コンピュータが刻む機械的時間を知るだけで充分かもしれません。
しかし、どんなに時間が経とうと、人間も他の生物同様、大地から生まれた存在であるという宿命から逃れることはできないのです。試験管ベービーも成長するためには、大地で育った食物を必要とし、スーパーコンピュータでさえ、大地から採掘したシリコン(珪素)なしには存在することすらできません。
そして、この大地は宇宙から生まれたものなのです。宇宙なしに人間は存在することはできず、宇宙の時間の流れを知ることなしに未来を知ることは不可能なのです。
これは、決して抽象的な話ではなくリアルな事実です。
たとえば「景気と不景気はある周期をもって循環している」という景気循環説で有名なイギリスの経済学者ジュボンズは、景気循環の最大の原因に太陽の黒点運動をあげました。
「太陽の活動状態を表わす黒点活動は、11年と22年と55年の3つのサイクルで盛衰を繰り返している。当然、黒点運動によって生まれる太陽風(地球に吹きつける磁気嵐のこと)の強さもそのサイクルにしたがうため、太陽活動に強く影響される動植物の生育もそのサイクルに支配されることになり、結果として世の中に好・不況の波が起きる」
というわけです。さらに微生物学の最先端では、
「インフルエンザの流行が周期的に繰り返されるのは、彗星がウイルスを運んでくるからだ」
との説が最近になって、多数の研究者の間でとりざたされるようになり、いま調査が進められている最中です。
このように人間と宇宙は、見えないところで深く関わり合っているのです。しかし、そのことに気づいている人がどれだけいるでしょう。
そんな宇宙のリズムを忘れてしまった現代人が、いくら最強のスーパーコンピュータと最先端のカオス理論を駆使して経済動向などの予知を企てようと、結局、予測が外れてしまうのは当然と言えます。
マヤ文明は、その真実に気づいていました。人間の鼓動は大地の鼓動に支配され、大地の鼓動は宇宙の鼓動に支配されていることを。
マヤ文明は、太陽風の存在までは知らなかったかもしれません。しかし、太陽の動きが大地に影響を与え、そのために起きる雨や風や干ばつなどが植物の成長を左右し、それが獣たちの生育に影響を及ぼし、その結果が自分たち人間の営みのすべて、社会の混乱から一人ひとりの心のありようまでのすべてを支配しているということを、マヤ人たちは深く理解していたのです。
もちろん、大地を支配しているのは太陽だけではありません。月も、金星も、その他の星々を含む大宇宙のすべてが、この大地を通して人間の運命を支配しているのです。
そのことに気づいた時、マヤ人は考えました。
「──ならば大宇宙の鼓動(=リズム)を知ることができれば、あらゆるものの鼓動(=リズム)を知ることが可能となるだろう」
こうして大宇宙のリズム(=天空の動き)から、地上の未来を読み解くために発明されたのが『マヤ・カレンダー』なのです。

「すぐにでも自分の運命と性格について知りたい」という人は、いますぐ自分のデータを入力しましょう。もしあなたに(古代マヤの)予言の言葉を読み解く力があるなら、そこにあなたの未来に関する重大な秘密と、その未来を自分のものに変える術が記されているのがわかるでしょう。
でも、予言の言葉を読み解くことに不慣れな人、もう少し占いの業の深い部分について知りたいという人、さらには「予言という名の古代文明のテクノロジー」について興味があるという人……そのような人にはこの『マヤ占い』(予言のテクノロジー)を発明した古代マヤ文明について知ることをお勧めします。
マヤの予言者は次のような意味のことを述べています。
「時間とは棒のように直線的に進歩するものではない。寄せては返す波のように、過去と未来はある法則に基づいて繰り返すものである。すなわち、未来の中に過去があり、過去の中に未来があるのだ」
その言葉にしたがうなら、未来を読み解く鍵は、古代の時間の中に隠されているのです。

もっとも、こう思う人も多いでしょう。
「過去と未来は繰り返す、だなんて、マヤ人はなんて無知なんだ。」
当然です。時間は過去から未来へ一直線に進むものというのが、私たち現代人の常識だからです。しかし、本当に無知の一言で片づけられるでしょうか。
たとえば、マヤ文明は「過去に起きた大変事は必ず未来に繰り返される」との考えから、その繰り返しの周期を知るために様々な暦を発明していました。その1つに考古学者が『カレンダー・ラウンド』と呼ぶ『52年周期』をもつ暦があります。これは、『月の暦』の260日と『太陽の暦』の365日の最小公倍数の1万8980日=52年ごとに1つの時代が終わり、新しい時代が始まるというマヤ人の人々の考え方があらわされたものです。
この52年周期の暦を使って現在の日本を見ると、どうなるでしょう。
たとえば1997年、それまで誰も予想しなかった大銀行や大証券会社の破綻がつづいた年です。それを日本経済の敗北ととらえたマスコミは「日本の第二の敗戦の年」と騒ぎ、逆に金融ビッグバンによる外国金融機関の日本進出を「大改革」のチャンスと見る評論家たちは「第三の開国の年」と名づけました。
しかし、マヤ人ならきっとあわてはしなかったでしょう。
マヤの52年周期の暦を使って読み解くなら、その1997年が日本にとって「敗戦」「開国」「大改革」の年となることは、あらかじめ予測できていたはずだからです。
なぜなら1997年の52年前の1945年は、日本が太平洋戦争に破れた「敗戦の年」でした。そのさらに52年前の1893年は、日本と英国の間で新しい条約を結ぶことが決まり、幕府が外国と結んだ不平等条約を廃止することに初めて成功した年、日本が世界の列強の仲間へと脱皮しはじめた「大改革」の年だったのです。
さらにその52年前の1841年は、イギリスとオランダの軍艦(黒船)が琉球・長崎に次々と現われ、そのためしかたなく幕府は外国船打ち払い令を事実上廃止、ついに「開国」への第一歩を踏み出した記念すべき年なのです。
つまり、日本がそれまで経験した「敗戦」「開国」「大改革」は、マヤの暦が示すとおり52年の周期で現われてきたのです。
これは、単なる歴史のいたずらか、稀にみる偶然の一致かもしれません。しかし、古代マヤの予言者たちは自分たちが発明したその様々な暦を使い、稀にみる偶然の一致と呼ぶにはあまりに高い確率で予言を的中させていました。
マヤ人は、コロンブスのアメリカ大陸発見さえ予言していたのです。

古代マヤの予言者たちはすでに9世紀の時点で、それから600年以上も未来の歴史的大事件、西暦1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見と、それに続くマヤ・アステカ文明の崩壊を正確に予言していました。
信じ難いことですが、古代マヤの地で「白人の到来」が予言されていたことについては様々な証拠資料が存在し、世界中すべての考古学者が認めている歴史学的に証明されている事実です。
そして、古代マヤの予言者たちはこうも予言していました。
「この世界は13バクトゥンが完了する日に滅び去るだろう」
バクトゥンとはマヤの暦で使われた時間の単位で、1バクトゥン=14万4000日です。その計算にしたがうと、右記の言葉はこうなります。
「この世界は西暦2012年12月21日の金曜日に滅び去るだろう」
何とも恐ろしい予言です。果たして本当にこの世界は、西暦2012年12月21日(金)に滅び去ってしまうのでしょうか。
そもそもいったいなぜ、古代マヤの予言者は、コロンブスのアメリカ大陸発見を正確に予言することができ、しかも、世界の滅亡までも予言しているのでしょうか。
そして、それらの予言の基となっている『カレンダー・ラウンド(マヤの暦)』とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
答えはすべて、古代マヤ文明そのものに隠されています。 
 
守護数

 

守護数『1』
支配しているのは『月の女神』。これは「はかなさと誘惑」を意味しています。人気や権力の面で最高の椅子へと人を導く守護数。
マヤ語で『1』はフン。「最高の」とか「ナンバーワン」を表す時、マヤでは「フン・〜」というように言います。そして、月は生命の成長を見守る神でもあります。あなたは、権力や人気を得ることができます。しかし、現状の自分の姿に満足して、いまある場所に固執しすぎると、せっかく手に入れた権力や人気をたちまち失ってしまいます。変化を素直に受け入れ、自分の姿を運命に合わせて変化させることができれば、新月の暗闇から再び新しい満月が生まれてくるように、新しい活躍の場が見つけられます。月が満月から新月へとまたたくまに姿を変えるように、権力や人気ははかなく変わりやすいものです。自分の力を過信するのは禁物です。そして『月の女神』はまた、人を罪深い恋に誘惑する恋愛の女神です。自分が誘惑に弱いということを自覚してください。人の心も月のようにくるくる形を変えるので、軽いノリで話に乗ると、思わぬケガを負います。細心の心構えが必要です。
守護数『2』
支配しているのは『死と生贄の神』。これは「快楽の代償」を意味しています。献身的な行為に人を導く守護数。
マヤの神話は、ツアコルとビトルという2人の神が破壊と創造を4度繰り返し、現在の5度目の世界をつくったと教えています。その破壊から創造をつくり出す手助けをしたのが『死と生贄の神』です。神のもとへ行き人間の願いごとを伝える「生贄」に選ばれるのは、マヤではたいへん名誉なこと。そして、生贄は人々から神のように扱われ、快楽の生活を与えられたのです。すべては生贄として命を捧げるための代償でした。あなたは本来、見えないところで人のために働くことに生きがいを感じるタイプです。その協力の中から素晴らしい実りが生まれます。パートナーや家族、仲間のための献身的な行為に徹してください。自ずと幸せが近づいてきます。しかし、自分の快楽のみを追求すると、後に大きな代償を払わなければいけなくなります。時として、あなたは自分ではなく、他人を生贄に捧げることもあります。でも、心配しないでください。それは、相手のためを思ってした行為なのです。
守護数『3』
支配しているのは『雨と風の神』。これは「生命の歓喜(よろこび)」を意味しています。他人からよろこばれる人生に人を導く守護数。
雨は、あらゆる生命の源である水を大地に与えます。大地は、生命を得たことを歓喜し、生命の息吹である風を吹かせます。このように、大地、つまり人々によろこびを与えることを自分のよろこびとするのが、この『雨と風の神』です。涼風が熱帯の密林で働くマヤの人々を心地好くさせるように、あなたは人を心地好くさせ、よろこばせるのが好きな人です。ただし、相手をよろこばせようと、あまりに強く吹かせ過ぎるのは禁物です。好意がすぎると嵐になり、相手に不快感を与えてしまうことがあります。ハリケーン(嵐)の語源は、『雨と風の神』を意味するマヤ語「フラカン」。『雨と風の神』は、あなたが予想した以上の巨大な波紋を起こします。そして、風が吹く向きや強さを刻々と変えるように、あなたは気持ちが不安定なところがあります。その不安定さが時には自信喪失につながり、相手が本当によろこんでいるのか、不安になりがちです。そのため、サービス過剰気味になる傾向があります。
守護数『4』
支配しているのは『太陽の神』。これは「王を支える力」を意味しています。指導者のアシスト役に人を導く守護数。
マヤでは、この大地の東西南北の四隅で4人の兄弟の神が天をもち上げている、と信じられています。その縁の下の隠れた力のおかげで、天は落ちないですんでいるのです。マヤの最高の神フナブ・クーは人の目には見えない神で、太陽はその化身。太陽は人の目にふれる昼の間はもちろん、目に見えない夜の間も「王を支える力」を発揮して、この大地に生命のエネルギーを与えつづけています。守護数『4』の『太陽の神』は、その見えない方の太陽です。あなたはどんな場合でも、自ら大王の座を望んではいけません。四角い顔をした冥界の魔王に魅入られ、道を踏み外してしまいます。リーダーのアシスト役に回り、縁の下の力持ちに徹するのがベスト。常に、人に対して隠れた助力を行なうことを心掛けてください。目に見えない努力をつづけ、隠れた力を発揮して縁の下を支えつづけるなら、アー・キン(太陽の王)の座が向こうから近づいてきます。
守護数『5』
支配しているのは『老賢者の神』。これは「地の知恵」を意味しています。地上の頂点へと人を導く守護数。
マヤ語では「第5の場所」を「ティホ」と言います。4人の神が天を支えるために四隅に立っているこの大地の東西南北の中心――そこが地上世界での頂点の場所、第5の場所「ティホ」なのです。そして『老賢者の神』は、学問と芸術の神です。あなたは、老練な知恵の助けを借りることができれば、自分の望みを何でも叶えることができます。地上の頂点に立つことも、決して夢ではありません。ただし、誤解してはいけません。世界は大地と天空からできており、この地上に天頂はないのです。宇宙全体を支配しているのは天頂で輝く太陽と金星です。あなたが「地の知恵」に溺れてしまうと、「天の知恵」の怒りをかい、すべてが凶となって最悪の結果を招きます。また、地の上で5裂の花弁を咲かせる5月の花「ニクテ」のマヤでの花言葉は、「甘いセックスには棘がある」です。あなたは、異性との交際は慎重にしないと、痛い目にあうことがあります。注意してください。
守護数『6』
支配しているのは『雨と雷の神』。これは「火の言葉」を意味しています。よき伝達役へと人を導く守護数。商売繁盛の数。
マヤでは、雷は「神の言葉」を伝えるメディア(伝達役)だと信じられています。神は稲妻で天と地をつなぎ、轟く落雷の大音響で神の言葉を伝えるのです。あなたは、メッセージを伝えるのが上手な人です。でも、誤解しないでください。あなたはあくまでもメディアであって、メッセージをもってはいません。人に伝えるべき言葉(メッセージ)をもっているのは、神だけ。役割を誤解して、自分のメッセージを神の言葉として伝えようとすると、やがてボロが出て、伝達役としての地位も失ってしまいます。あなたが神の言葉を雷のように大声で、稲光のようにハッキリと伝えるなら、富の報酬を期待できます。6匹のサソリは地上に落ちたカカオを集めて売る「商いの神」だからです。ただし、メッセージの伝達方法には細心の注意が必要。『雷の神』ヒールは、雷を使って「人間に火を与えた神」でもあるからです。火は落ち込んだ人の心を燃えたたせますが、あまりに心を燃えたたせると、思わぬ戦いが起きます。
守護数『7』
支配しているのは『夜の太陽の神』。これは「陽の当たらぬ言葉」を意味しています。予言者へと人を導く守護数。
『夜の太陽』とは夜の暗闇を見通すジャガーの眼のこと。そして、ジャガーのように、まだ見えない遠い未来を予知する『夜の太陽』の眼を持つ人間が、予言者なのです。マヤの予言のやり方は、過去の時間へと旅立ち、その歴史の中に記されている未来に関する言葉を探し出すというもの。つまり、死者たちの国へ出向き、死者たちの言葉を聞くのです。あなたは、適切な助言者として能力を発揮します。あなたが、栄光と輝きに満ちた過去の時代を誉め、その業績をたたえている限りは、未来に関する的確な予言(死者たちの言葉)を次々と得ることができるからです。ただし、あなたは、周りの人からは「思い出や過去の栄光にこだわる人」と見られがち。思い出や栄光は、あくまでも新しい未来を作りだすためにあることを忘れないでください。過去にこだわってばかりいると、あなた自身が過去の時間から出られなくなります。ただの懐古趣味的な人になってしまうか、二度と現代では生きられない人になってしまいます。
守護数『8』
支配しているのは『若いトウモロコシの神』。これは「豊穣」を意味しています。創造的作業へと人を導く守護数。
マヤ神話は「人間はトウモロコシの粉と蛇の血をこねて創られた」と伝え、トウモロコシの色である黄色は大地の色とされ、マヤのシンボルカラーとなっています。『若いトウモロコシの神』は『風の女神』であり、生命に息吹を与え、大地を黄金色に実らせ、「富と豊穣」を作りだす神でもあります。あなたは、アイデア商売や創造的仕事で成功します。ただし、マヤ神話は「昔々、トウモロコシの種は固い石の殻の中に入っていて、なかなか芽がでなかった。その石の殻を割ってくれたのは雷である」と伝えています。あなたは、そんな石の殻に包まれたトウモロコシのように、他人の話を受けつけないガンコさがあります。殻に閉じこもったままのトウモロコシでは、大きく成長できません。ベエウ(マヤ語で「ちっぽけな」とか「いじけた」の意味)という小さなトウモロコシになる恐れがあります。他人の忠告や意見をどれだけ素直に聞けるか――その柔軟さがもっとも大切です。
守護数『9』
支配しているのは『蛇の神』。これは「大地」を意味しています。文化的で平穏な生活へと人を導く守護数。
マヤの最高位の文化神は、ククルカン。ククルとは金星の化身と言われるケツアル鳥、カンは蛇。マヤでは、蛇の神は『夜の9神』を支配する大地の母であり、大地のすべての生命を生かせている水の神、また大地そのものを支えている巨大な緑の大樹でもあります。あなたは、大地にしっかり根をおろした平穏な生活がふさわしい人です。ただし、この『9』という守護数を持つ人同士が出会うと、大地の様相はガラリと一変。蛇が成長するために脱皮を繰り返すように、大地も古い殻を脱ぎ捨てるため、揺らぎ始めます。この揺らぎは、平穏な世界を破壊する地震であると同時に、新しい世界を生みだすための胎動でもあります。マヤの予言者は石に9つの文字を彫ることで、その予言の言葉を伝えました。9という数字が持つ意味に注目すれば、未来の形が見えてくるのです。あなたは、簡単な発言にも自覚が必要です。地の底に潜む蛇の神が人間に大きな影響を与えているように、あなたの言葉が周囲に大きな波紋を巻き起こすことがあるからです。
守護数『10』
支配しているのは『死の神』。これは「メメント・モリ(死を忘れるな)」を意味しています。死の存在する世界(リアルな世界)へと人を導く守護数。
ヨーロッパやアメリカで13という数が嫌われるように、10はマヤでは「老いた数」と言われ、もっとも忌み嫌われています。マヤ神聖文字(絵文字)では、10をドクロの顔で描きます。生贄となった死者の言葉を最高神に伝える神チャックモールの顔も、またドクロで描きます。つまり『死の神』とは、神の言葉を伝える者のことなのです。あなたの一言は、相手に多大な影響力を及ぼしたり、相手の心にグサッと突き刺さることがあります。軽はずみな言動は避けた方がよいでしょう。あなたは、考える前に行動してしまうタイプです。過去の経験と実績で判断して、じっくりと心の声に耳を傾けてください。すぐに動きたい時は、死をも恐れぬ覚悟が必要です。あなたはともすると、リアルさの薄いバーチャルな世界に憧れるところがあります。リアルな現実から逃避ばかりしていると、死を早く呼び込むことになるので注意してください。あなたがリアルな世界に目を向けた時、初めてそこから別の価値観が生まれます。
守護数『11』
支配しているのは『山の神』。これは「秘められた力」を意味しています。誰からも信頼される伝達役へと人を導く守護数。
山とは、天と地を結ぶ存在。天に住む神の言葉を地に暮らす人間にわかるように、神の心を目に見える形で伝えるのが『山の神』なのです。あなたは、普段は目立ってはいけません。山の姿が目立つ時は、天から水の恵みが降らず、大地が干からびる時だからです。とにかく、動かないことで、周りからの信頼をより獲得できます。でも、ひとたび天の意思を感じたら、自ら動きだして、平穏な生活に明け暮れる大地を揺るがすのも『山の神』の役目。その行動は、休火山が突然噴火するように、周囲に大きな波紋を引き起こします。あなたは穏やかに見えても、実は大地震を起こすほどのエネルギーを内部に秘めているのです。いったん動き始めたら、すべてのマグマが出つくすまで噴火をやめてはいけません。マグマが残っていると、小噴火がつづきます。また、あなたはエネルギー充電のため、長期の休息をとることも必要です。『山の神』は、活火山と休火山のサイクルをとることで、その生命力を保っているからです。
守護数『12』
支配しているのは『宵の金星の神』。これは「風」を意味しています。文化や芸術など創造的仕事へと人を導く守護数。
金星はマヤの最高位の文化神ククルカンの化身で、大地に様々な豊かさをもたらす星として、最も敬われています。『宵の金星』はそのククルカンの若い時の姿を意味し、それは空の力である『風の神』を表わしています。あなたは、明るい空から吹きつける風のように、人をよろこばすのが得意です。そして、文化神ククルカンに守られているため、豊かな想像力にも恵まれています。文化的な仕事や芸術的な仕事が向いています。しかし、明るさや風まかせの、勢いだけの仕事になりがちな面もあるので注意してください。また、風が吹く向きを刻々と変えるように、あなたには気まぐれな面もあります。ときに、精神が不安定になることさえあります。風だけでは生命は育ちません。大地に生命が実るには、雨も火も必要。でも、この『12』の風は、雨を伴わない風です。乾燥した風を吹かせすぎたり、想像力を働かせすぎると、あなたは妄想へ走る危険があります。想像力の暴走にはくれぐれも気をつけてください。
守護数『13』
支配しているのは『フナブ・クー』という神。これは「全能の力」を意味しています。全能の力と幸運を人に与える最高の守護数。
マヤの人々は、この宇宙は13層の天空からできていると考えていました。そのもっとも上の13層の天空にいて宇宙全体を支配しているのが、唯一にして最高の神『フナブ・クー』なのです。その姿は人には見えず、あまりに崇高な神なので、形もないとされています。あなたは生まれながらにして、あらゆる分野で活躍できる能力と幸運を与えられ、人の上に立つ宿命を授けられています。しかし、人間は神ではありません。全能の力をコントロールできるのは、神だけ。ともすれば、あなたは全能の力を浪費して、あらゆることをソコソコこなす器用貧乏になりがちです。また、幸運の星のもとに生まれたぶん、他人の痛みに鈍感で、自分では気づかないところで人から恨みをかいやすい点があります。また、あなたは形がない『フナブ・クー』のように、決まりきったルールがない世界でその能力をもっとも発揮します。本来が自由自在な存在なので、一つの型にはまらずに、新しい分野でベンチャー企業などを興すと成功します。ゼロ(無)から始めるのがベスト。 
 
金星の動きを理解していた「マヤ文明」  
1999年、ノストラダムスは「恐怖の大王」を予言した。そして、2012年。世界が終わるという話が、あちらこちらで囁かれる。2012年滅亡説の大きな論拠となるのが、「マヤ暦」である。
その謎の暦をつくったとされる「マヤ文明」は、ユカタン半島(メキシコ・グアテマラ・ベリーズ)に、2000年(B.C.6世紀〜A.D.16世紀)にわたって栄えた文明である。
現在に残る遺跡や文字から、この文明が高度な天文技術を持ち合わせていたことが判っている。
現代の我々にとって、「太陽と月」が重要な天体であるが、マヤの人々にとっては、「太陽と金星」がとりわけ重視された。
遺跡として残る神殿は、太陽の動きに合わせて建設されている。
「春分・秋分」、「夏至・冬至」などの重要な節目には、太陽が神殿と重なったり(カラクルム遺跡)、不思議な影を現出したりする。
例えば、天空から舞い降りる蛇「ククルカン」は、春分の日にだけ、その全貌を明らかにする。階段の最下段に設置されたククルカンの頭に、春分の日の太陽が作る階段の影が胴体を添えるのだ。
この壮大な仕掛けのポイントは、神殿が東西南北の方角に対して「21°」だけズレていることにある。
太陽は規則正しく動くために、その観測は容易であるが、「金星」の場合、そう簡単にはいかない。
地球から見える金星の周期は「584日」だが、金星は東の空を260日以上うろついたかと思うと、2ヶ月ほど消えてしまう。
そして、再び現れるのは西の空。一通り西の空を巡回すれば、また一週間ほど消えてしまう。そして、584日後には元の場所に現れる。
この一見不規則に見える「規則性」を、マヤの人々は完璧に把握していた。
金星は「チャクエク(偉大な星)」として、その観測を欠かすことがなかったのだ。
地球が太陽・金星と一直線に並ぶ周期(584日)と、地球が太陽を一周する周期(365日)が、8年に一度だけ一致することを示す石碑も残っている。
金星観測の天文台の遺跡も残る。土台や建物が微妙にズレた設計になっているのは、建物の開口部が、金星や太陽の動きを正確に示しているためである。
スペイン侵略の際、キリスト教のために、マヤは邪教とされ、ほとんどの書物が燃やされた。それらの書物には、貴重な天文観測の記録が認(したた)められていたという。
わずかに残る書、「ドレスデン・コデックス」には、金星に関する詳細な記述がビッシリと書き込まれている(この書のおかげで、現代の我々はマヤ人の金星の知識の一部を知ることができた)。
当時のスペイン人は、マヤの高度な天文学を理解することができなかった。自分たちが使う暦が最高の暦だと信じて疑わなかったからである。
しかし、マヤの暦は、一年の日数を「365.242」と、小数点第3位まで正確に表していたのに対し、ヨーロッパの暦は、それよりも雑で不正確であった。
また、マヤの数学もヨーロッパ人には意味不明であった。
なぜなら、マヤの数学は「20進法」であり、より高度な算術であったためだ。
現在の我々には「10進法(一・十・百・千・万)」がお馴染みであるが、なぜマヤの人々は、より複雑な「20進法(20・4百・8千・16万・320万)」を使っていたのか?
それは、20進法の方が、巨大な数字をシンプルに表記できるためである。
マヤの暦は、紀元前3114年からスタートし、この基準からずっと日数を積み重ね続けている。そのため、扱う数字がケタ違いに大きくなってしまうのである。
その膨大な数を処理するには、20進法のほうがケタが少なくて済む。例えば、320万を表記する際、10進法では7ケタ必要になるが、20進法では、5ケタで済む。
金星観測の驚くべき精度は、マヤ人が「金星の日面通過」を捉えていたことにもある。
「金星の日面通過」とは、地球・金星・太陽が一直線に並び、地球から見ると、金星が太陽と重なって、太陽の真上を横切る現象である。
この現象が起きる周期は、243年である。しかも、金星の動きにありがちな不規則な規則性もある。105.5年、8年、129.5年、8年という不規則な間隔で「金星の日面通過」は繰り返される(さらにややこしい事には、この周期は時代により変化する)。
そして、太陽と金星が重なる時間は、長くて6時間程度。マヤ人は、金星の複雑怪奇な動きを把握するのみならず、この短時間の特異な現象をも見逃さなかったことになる。
前回の金星による日面通過は、2008年6月8日。次の通過は、この8年後の2012年6月6日の予定。
2012年の地球滅亡説は、12月23日が有力だが、この金星がらみの6月6日に注目している人々もいるという。
もっとも、滅亡説の主たる根拠は、マヤ暦による世界の第5時代(紀元前3114年を起点とする)が、2012年に完了することである。
マヤの高度な天文知識の一部は石碑に記され、その8割は解読可能だという。
しかし、スペイン人が燃やしてしまった記録や、未解読な文字のなかに重要なメッセージが隠されている可能性もある。
そのため、我々現代人が、マヤの知識を完璧に理解しているとは言い難い。
もしかしたら、かつてのスペイン人のように、自分達の文明が最上だと勘違いしているだけかもしれない。
マヤの人々は、望遠鏡を使うこともなく、シンプルな石の建造物のみで、天空の動きを読み取っていた。そして、太陽や影という分かりやすい方法で、万民に時を告げていた。
ククルカンの蛇が現れれば、春分だということで、種をまけば良いのである。
より、重要な決断には、金星の動きを参照した。大きな戦いが、金星の日面通過の日を選んで行われた記録も残る。 
 
フォトン・ベルト(Photon Belt)1  
銀河系にあると言われている「高エネルギーフォトン」のドーナッツ状の帯、とされるもの。これを支持する天文学の理論はない。
太陽系はプレアデス星団の一番明るい星アルシオーネを中心に約26,000年周期で銀河を回っており、その際11,000年毎に2000年かけてフォトンベルトを通過するとされる。
地球が次に完全突入するのは2012年12月23日(JSTでは24日)で、その時には強力なフォトン(光子)によって、人類の遺伝子構造が変化し進化を引き起こすとも言われる。
フォトンベルトの初出は1981年のオーストラリアのUFO雑誌で、エドモンド・ハレーが発見したとも、1961年にポール・オットー・ヘッセが発見したとも言われている。1991年に科学ジャーナル誌の『Nexus magazine[1]』が "The Photon Belt Story" として取り上げ衆目を集めた。
肯定派主張
その内容については複数の説が存在するが、共通点としては以下が挙げられる。
太陽系はプレアデス星団のアルシオーネを中心として約26,000年周期で回っている。地球は公転軌道の関係でフォトンベルトに一時的に入ったり出たりしているが、2012年12月23日には完全に突入し、通過するのに2000年程を要すると見られる。
フォトンベルトはアルシオーネを中心に垂直に分布しており、NASAが観測に成功している。
フォトンベルトに突入すると強力な電磁波により太陽や地球の活動に大きな影響が出て、電子機器が使用できなくなるとも言われている。20世紀末から異常気象や火山活動・地震が頻発しているのは、地球がフォトンベルトに入り始めたからとも主張している。
肯定説批判
メディアで伝えられるフォトンベルトの実在性は科学的ではない。
神秘主義の一種である。
アセンションを唱えるニューエイジ系信仰の一つとして採用されている。
フォトンベルトとアセンションは、共に、聖書の至福千年との共通点もあるという指摘もある。
そもそもフォトンは光子であり、フォトンの帯が形成されることはない。
太陽系は銀河系中心に対して約2億2600万年周期で公転しており、プレアデス星団を中心に回るということはない。また、実際に26,000年周期で太陽系が銀河系を公転するとすると、光速度を超えてしまう(特殊相対性理論に反する)。仮にプレアデス星団を中心に回っているとすると、そこには銀河系を遥かに上回る質量がなければならない。 フォトンベルト説では、地球がプレアデス星団のまわりを回っている説と、わずか26,000年で銀河を回るという二説が、それぞれ相互に矛盾しているにもかかわらず併記されていることが多い。 
 
フォトン・ベルト2  
フォトン・ベルトの真相
3600年周期の謎
第1章では、世界で起きている天変地異、異常気象、生態系の変化、そして、小惑星のたび重なる飛来といったものを紹介し、検証してみた。その中で、注目すべき新しい情報が出てきた。
それは、3600年周期で起きる地球の大クラッシュというレポートである。
フォトン・ベルトは、1万1000年周期で大異変が起こるとされていたが、それよりもはるかに短いサイクルで、私たちの地球はポールシフトや絶滅現象を繰り返しているのである。どうやら、フォトン・ベルトの他にも何かしらの影響がひんぱんにあると考えざるをえない。
すでに述べたが、地下都市計画もフォトン・ベルト対策という観点からは意味がないのに進行している。フォトン・ベルトだけでは説明がつかない事態に出くわしたというしかない。
いったい私たちの地球は、いまどのような状態を迎えようとしているのか。
2012年12月22日という日は、やはり最後の審判の時なのか。
それは回避できるのだろうか。
私はこれまで世界中の国々を旅してきて、それぞれの国でその国の文化と結びついた予言の数々を聞かされてきた。洋の東西を問わず、この変容の時代において、何かが大きく働きかけていることをそれらの予言から想像できた。時代をひっくり返すような出来事が、予言の中でシンボル的に実に詳しく述べられているのである。
古代文明のほとんどに今日の情報が残されているという点に、私たちの今と未来が暗示されている気がしてならないのである。
地球の最後を予言した魔女
ある予言者を紹介したい。私がもっとも関心と興味を持っている人物である。
15世紀のイギリスに、マザー・シプトンという女性の予言者がいた。彼女は普通の主婦だったのだが、「魔女狩り」に遭い、火あぶりの刑を受けて殺されてしまうまでの50〜60年の間に、じつにさまざまな予言を世に残した。中世の世界では、彼女のような特殊な知識を持つ女性や、特に神秘について明かす女性は魔女扱いされ、集団狂喜の餌食にされた。マザー・シプトンもそのひとりで、彼女は自分の死まで詳しく予知していたのである。
彼女は予言を詩として残した。その中にはテレビや潜水艦、電話など、その時代の表現を使ってではあるが、今日のテクノロジーについてすべてといってよいほど、詳しく予言している。
では、彼女はどういうふうにして、それが予言できたのだろうか。未来を見るためには、まず時間に対する感覚を変えてしまうのではないかと私は思う。つまり、過去、現在、未来といった直線的な時間は存在しないという観点にならないと、予言できないのではないだろうか。
つまり、マザー・シプトンは、タイムトラベルをしていたというふうに考えられるのだ。いやむしろ、時間の定義を変えることによって、今、ここに宇宙のすべてが存在するというふうにいったほうがよいかもしれない。
そして、「すべてが融合する一点」(マージング・ポイント)に立ち会ったであろうマザー・シプトンは、人類の最後を予言している。そこには「非常に大きな規模でのカタストロフが訪れる」と書かれているのである。
それはいつ訪れるのだろうか?
残念ながら彼女の予言でははっきりしてはいないのだが、流れをつかむことはできる。そこにはテレビらしきものが現れて、世界の王が戦争を引き起こし、そしてその後に、天にドラゴンが現れると書かれてある。また、データファイル8をご覧いただければ、そのドラゴンが通過するときに地球上の人間の記憶が消えるとか、大変な地変が引き起こされるなどと書かれてある。その後にはドラゴンは再び現れるとも言っている。ドラゴンは二度も地球を通過する。そしてその二度目が人類にとって最後の試練となると、文献には残っているのである。
マヤ、アステカ、インカ族に伝わる2012年
実はそういう内容に似た予言は、中南米の古代文明であるアステカやマヤ、インカにも残されているし、アメリカ・インディアンのホピ族にもある。
マヤ文明は紀元前1500年頃に興り、820年頃には急激に衰退した文明である。
マヤ文明は天文学と数学が非常に発展していた。天体の動きに注目し、非常に正確に観測していた。
彼らは2万5640年を大きな歴史のサイクルとして考える「ロングカウント・カレンダー」を持っている。そしてそれを5つに分け(1サイクルは5128年)、現在は最後の5つ目のサイクルとなっている。また、5つ目のサイクルのスタートは紀元前3113年、終わりが2012年12月22日となっている。(中略)
いっぽう、アステカ文明にも同じようなカレンダーが残されている。多くの研究者がこのカレンダーと天文学のデータなどと対比したところ、過去の出来事や現代の出来事と驚くほど一致していることから、特に最近になって、未来の予言ではないかと注目されているものである。
彼らもマヤと同様、地球の歴史を5つの時代に分けている。第一の時代は土、第二の時代は風、第三の時代は火、第四の時代は水によって滅び、そして現在われわれが住んでいる第五の時代は、カレンダーによると「火山の大爆発、食糧危機、大地震によって終わる」と記されているという。
そして気になる滅亡の日付だが、それもやはり2012年12月22日(23日という説もある)というのだ。
さらにインカ文明に目を向けてみると、古代インカ族の子孫がケロ族として現存している。アメリカの人類学の研究家ジョージ・ウィルコックはケロ族のシャーマンのもとで長期間トレーニングを受けた。その彼女が著書の中で、「ケロ族の予言では、世界を“父の時代”“息子の時代”“精霊の時代”の3つに分けている」とし、さらに「精霊の時代は1990〜93年の間に始まり2012年に終わる」と述べている。
ここでも、フォトン・ベルト突入の時期とされる2012年がクローズアップされる。こうした符合はいったい何を意味するのだろうか。
終末の到来はおとぎ話ではなかった
私は世界のさまざまな遺跡を訪ねながらいろいろデータを集めた。そして古代文明に伝わる神話の中には、必ず2つの共通点があることに気づいたのである。
ひとつは、古代人は暦にとても深い興味を示していて、正確なカレンダーが各々の古代文明において製作されていたということである。もうひとつは、そういったカレンダーを製作するのに必要な、高度な天文学的な知識を有していたことである。
マヤも、アステカも、インカにしても、ここまで述べてきたように、きわめて詳しくサイクルを区切っていた。そしてそれぞれの時代の間にはブランクがあり、そのブランクはカタストロフ的な時期であると表現されている。
本章の最後でも紹介するホピ族の予言が、それを一番わかりやすく説明している。例えば第一の世界があって、それが水によって滅び、その次の世界は火によって滅び、そしてホピ族によると、現代は第四番目の世界であるというのである。そしてこれが最後の世界であると彼らははっきり言っている。
マヤ族でも、第一、第二、第三、第四、第五世界があるといわれている。そして必ずそれらの世界へ移動する間にカタストロフが起きるといわれている。しかも、現在は五番目の世界、つまり最後のサイクルであり、それが終わるのが2012年12月22日と予言しているのである。
このようにマヤやホピなどの先史民族が遺したカレンダーの奇妙な符合や、旧約聖書をはじめとする古代の文献に描かれたカタストロフの時期の一致などを考えると、これらのサイクルの最後と関係してくる現象はおとぎ話のようなものではなく、非常に物理的なものであろうと考えられる。(中略)
世界中に遺された二ビル伝説
話を二ビルに戻そう。シュメール神話によると、二ビルは木星とほぼ同じ大きさで、原始太陽系にとつじょ現れた惑星である。天王星と激突し、冥王星の引力を狂わせ、火星と木星にあった惑星ティアマト(フェィトン)を破壊した惑星であり、シュメールではその太陽系の出来事を、神々の戦いとして表し、それを「天界の戦闘」と呼んでいる。
二ビルはメソポタミア周辺だけで語り継がれた惑星ではない。
驚くべきことに、紀元前の古代の記録者たちは、謎の天体が地球に大災厄をもたらしたと記録していた。古代の世界では、この同じ星の存在について共通認識があったようである。(中略)
「ヨハネの黙示録」に残された記述
ヨハネの黙示録には「天の星は地上に落ちた」「松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が天から落ちてきて」「火のように赤い大きな竜」と記されている。(中略)
「黙示録」は、ヨハネが絶望的な状況の中で啓示を受け、紀元95年頃に著された、地球の最後について描かれた書である。
ファティマ第三の予言と二ビル
余談ではあるが、聖書でWormWoodと呼ばれている二ビルを観察するために、バチカンでは数十年前からすでに天文台を設置しているという話がある。彼らは天文学に真剣に取り組んでおり、アリゾナ州にあるマウント・グラハム国際天文台は、バチカン市国によって建設され、彼ら自身で望遠鏡が組み立てられているほどだ。
ただ、読者のみなさんも「ファティマの予言」という言葉を聞いたことがあるはずだ。1917年、ポルトガルのファティマで、3人の子どもたちの前にとつじょ聖母マリアが現れ、彼らの世界の終わりを告げたという有名な事件である。最終的には何百万人もの人々が聖母マリアの出現を見たというのだが、その具体的な予言の内容はマリアと子どもたちだけの間で交わされ(後日になって親たちと神父たちに伝えられたと言われているが)、全部で3つある予言の中で、長い間2つだけしか発表されてこなかった。3つ目の予言の内容を知った法王が失神したというのは有名な話だ。
99年に3つ目の予言も一部公表されたが、法王が失神したといわれるほどの内容とは思えなかった。どうやら3番目の預言の真実は、まだ明らかにされてはいないのだろう。
私の直感では、第三の預言こそWormWoodの接近に関することではないかと考えている。
二ビルの地球接近を知っている者たち
ここまでくると、天変地異や生態系の変化と小惑星の接近、そして地球に向かって接近しつつある二ビルとの関連性に、思い至る読者もいるのではないだろうか。
とくに太陽から一番離れている冥王星で温暖化現象が観測され、それから太陽に向かって次々と太陽系の惑星に異変が起き始めていることも、二ビルの接近による影響であろうと考えると、納得できるものがある。(中略)
さらに権力者たちが進めているといわれる「地下都市計画」も、これから起こりうる大カタストロフを証明するものではないだろうか。 
古代からの警告を受けとめよう
さまざまな予言が語る「世界の終わり」については、多少の時間のずれがあっても、これからの流れとしてカタストロフが起きるという全体像は当たっているように思われる。(中略)
非常に危険な天体がこの地球に定期的に接近するからこそ、彼らはその周期を測定せざるをえなかったのである。
3600年ごとにカタストロフが起きるということ、そしてそれが第一の世界、第二の世界、第三の世界という形で表現されていること‥‥。異なる古代文明のそのような共通点を私は重視している。
ついにNASAが二ビルを発見
現代人も黙って見過ごしていたわけではない。
近代では、天王星と海王星の軌道にズレが見つかったことから、「海王星のさらなる向こうに未知なる惑星があるのではないか」と、18世紀から二ビルの存在を探していた。そしてその過程で発見されたのが冥王星であった。
その後、二ビルの探索は足踏み状態であったが、1983年にアメリカの「ワシントン・ポスト」紙が、「地球の衛星軌道を周回中のIRAS(赤外線天文衛星)がオリオン座の方角に巨大な謎の天体を発見した」との記事を掲載した。IRASはアメリカ・イギリス・オランダの共同プロジェクトであった。
さらに1987年、NASAが「惑星X」として冥王星の彼方に惑星がある可能性を公式発表した。それは冥王星のさらにはるか彼方にあることから、「超冥王星」と呼ばれた。(中略)
それは木星と同じぐらいの大きさで、1000年以上の公転周期が確認されており、木星と火星を交差して大きな楕円軌道を描くという。まさにシュメールの伝承「交差する星=二ビル」とまったく同じものであった。
二ビルをめぐるロシアの奇妙な動き
2012年12月、超巨大天体である二ビルが地球に再接近し、最悪の場合は接触する可能性もある。たとえ接触を免れたとしても、その巨大な重力と電磁波によって、地球の地殻が変動する。その結果、地震や火山の大噴火が頻発して、地球は壊滅的な打撃を受ける――。
この恐るべきシナリオを裏付けるかのような政治的な動きも、にわかに活発化している。2002年9月13日、ロイター通信のアンドレイ・シュクシン記者は次のような記事を配信した。
ロシア、2003年問題に取り組む
ロシア議会のリーダーであり大統領のヴラディミア・プーチンは、2003年に国を襲うと予想されている災害の予期せぬ連鎖を回避するために、この3年間を必死で取り組みたいと水曜日に述べた。元大臣のプリマコフもリポーターに対し、「深刻な非常事態であり、生命を脅かすほどの変化に見舞われるかもしれないので、慎重な対策を必要とする。これをロシア国民に対して強調したい」と話した。また、クレムリン統一派閥のリーダーで、2003年問題を持ち出した人物であるポリス・グリズロフは、「この事態で人口が劇的に減少するであろう」と述べている。
しかも翌日には、なぜか「人口が劇的に減少する」の部分が抹消されていた。
何度読み返しても不思議な記事である。
だいぶ前から「ロシアは赤色に輝く謎の天体の撮影に成功した」「二ビルは2003年に最接近することが判明している」といった情報が流れていたことを考えると、この暗号のような記事の意味も浮き彫りになってくる。
警告する「ホピの予言」
二ビルによって引き起こされる大カタストロフは、3600年周期で繰り返される、まさに宇宙の精妙なリズムによって繰り広げられる儀式といえよう。
それにしても、なぜそのような繰り返しの儀式を経なければならないのだろうか?
私の推測であるが、私たちは物理的には大きく進化しても、精神的にはまったくと言っていいほど進化してないからではないか。文明を研究している歴史学者などは、どんな帝国であれ200年しか持続しないといっている。
それは何を意味するかといえば、人間の問題は心から生じていて、同じ問題が繰り返されるということが、私たちの歴史を通して考えてみるとよく理解できるからである。どんなに素晴らしい発想があっても、最終的には破滅的なことが引き起こされる。人間はもっとスピリチュアルな生き方を理解しないかぎり、永遠に同じ繰り返しが続くのではないだろうか。(中略)
ホピの予言が語る「第四世界」、つまり現代文明の終末は、戦争と物質文明の到来から始まるとされている。
今日の世界情勢や物質至上主義に陥った経済を眺めたホピの人々は、世界はもう後戻りのできない調和を失ったカオスの世界へと突入してしまったことを感じ取っているようである。
「第四の世界」を滅亡へと導く「第三の炎の輪」の中の争い(第三次世界大戦といわれている)が始まる時期が、そう遠くない将来に迫っているのだろうか。予言では、そのとき、創造主の怒りの現れとして「飢え」や「疫病」と同時に、「火」と「水」による地球的規模の大異変が襲ってくることになるのである。
物質主義の束縛から逃れてスピリチュアルな意識を取り戻し、地球や自然に対する守り手としての責任や任務に一日も早く目覚めなければ、私たちの前に待ち受けているのは、ホピ族のいう「大いなる清めの日」の到来であろう。それは人類が過去の文明で体験した歴史の再現である。
フォトン・ベルトと突然の変異
これまでのところで私は、2012年に向けて、地球に住む人類も含むあらゆる生命が最悪の挑戦を受ける可能性があると述べてきた。
被害は物質的なものだけにとどまらない。第2章の最後では、二ビルの地球への接近に際し、その影響で私たちの集合無意識自体も変容するかもしれないと述べた。その「挑戦」によって、人類は進化せざるをえないこととなり、われわれに大きな意識の進化が起きるだろうと考えられているからである。
そうは言っても、意識の進化とは抽象的すぎよう。いったいどんな状況を意味するのか、ここではまず、それを見ていこう。
渡邊氏は著書の中で、2012年12月22日にフォトン・ベルトに突入すると、人類は突然変異を起こすと述べている。要約してみると、
1 太陽のエネルギーが届かない中で、電気装置や自動車などは使用不可となり、地球は暗闇に包まれる、
2 地球上のあらゆる原子は、まるで電子レンジで加熱されるように燃えることなく変容し、人体の原子構造も変化する。そしてすべての生命体のボディ・タイプが変容される、
3 地磁気の異常によってDNAのバランスが大きく崩れ、新しいDNAのバランスをもった人類が誕生する、
4 人類は、三次元の空間から、まったく新しい時間軸へシフトする、
5 そして最後に紹介した「次元のシフト」、つまり次元上昇こそ、「アセンション」だ、
と結論づけている。
じつさい、それらの変化の連続が2012年までにピークを迎えると、人類の集合無意識自体がリセットされる可能性もある。すなわち今までのすべてが消え、新しいものが始まる可能性があるのだ。
アセンションとセットになっている「はりつけ」
「アセンション」という言葉の由来をご存知だろうか。
アセンションとは、辞書を調べるとAscension、直訳すれば「上昇する」という意味だが、じつは聖書に言うところのキリストの復活を表している。
聖書では、死を克服したキリストは「次元上昇」をしたとされる。彼の肉体は滅びずして、彼自身が天昇したという意味である。
この「アセンション」というテーマは、実際に起きたことかどうかは別にして、私も含めて西洋人の根底にある最大のテーマではないだろうか。宗教上の話であり、歴史的な真実として実際に起きたかどうかを検証するのは難しい。しかし、ここで大切になってくるポイントは、アセンションが行なわれるまで、キリストが何をしたかという点である。
じつは、そこにこそ、今の地球と私たち人類に関連づけられる重要なキーワードが潜んでいる。
キリストは「はりつけ」の刑を受けたあと復活し、天に上昇した。しかし、逆に言うと、はりつけという儀式がなければ、キリストのアセンションはなかったのである。
現代人は今、はりつけ状態にある
アセンションの前にcrucifixion、つまり「はりつけ」状態が訪れるということを見逃してはなるまい。キリストが再生する、すなわち甦って復活するためには、一度死ぬという儀式的なアクションが必要なのである。
現在の世界で、この「はりつけ」を象徴する問題は限りなくある。
すでに述べたように生命体の絶滅現象、劇的な気象の変化、地変、政治・経済システムの崩壊、9・11と、それ以降の世界情勢などである。こうした事態も地球がアセンションする直前には、はりつけ状態が起こると考えればしごく当然のように思えてくる。(中略)
アセンションはもう私たちにプログラムされている
はりつけからアセンションへと至るプロセスは、じつはわれわれの意識の中にもブロックされているのである。
出産のプロセスを考えてほしい。まず母親の陣痛が始まると子宮が収縮し、子宮口が開く。そして赤ちゃんは産道を通って出てくるわけだが、へその緒に圧迫されるなど命が危険にさらされることもあり、赤ちゃんにとってはまさに命がけである。しかし、この苦しみを乗り越えなければ、誕生することはできないのである。
私たち人類は、今まさに本格的な陣痛を迎え、これから産道を通って生まれようとする寸前の状態にあるといえる。これから2012年までに徹底的に陣痛を経験するであろう。しかし、陣痛と陣痛の間には間があるように、2012年まで休みなくカタストロフが引き起こされるわけではない。それはまるで陣痛のリズムと同様である。カタストロフのペースはだんだんと速まっていくはずである。
そこで難産になるのか、安産になるのかは別として、どちらにしても私たちは生まれ変わらなければならない。
どれほど素晴らしい体験となるかはわれわれの意識次第である。そしてコクーン(繭)から蝶が出てくるように、まったく今までとは違う生命体へと私たちは変容するかもしれない。
これがアセンションなのである。
DNAが覚醒しはじめた
しかし、何に変わるかと、はっきりこの段階でいえるものではない。さなぎでしかなく、さなぎの姿しか見えないわれわれにとって、蝶がどんなものであるのか、想像するのは不可能である。
わかっていることは、ブレイクスルー(アセンション)するには、まずブレイクダウン(はりつけ)が必要であるという点だ。宇宙には動かしがたい運行計画があり、地球もその影響下にある。そしてわれわれの肉体は地球の一部であり、われわれの肉体も含めてブレイクダウンするのである。
これから、システムも人体も、見方によれば結構スローなテンポではあるが、確実にブレイクダウンが起きる。そして肉体のブレイクダウンと共に、肉体の変化としてブレイクスルーも同時に起きているのではないかと考えられる。
人間のDNAに関する発見とその研究の歴史は、人体のブレイクスルーを明確に教えてくれている。なぜなら、人間のDNAにも著しい変化が起きているからである。(中略)
つまり恐怖の感情に満ちているとDNAの螺旋は短くなり、また健康状態も悪くなる。そして寿命すら短くなるといっている。逆に愛情に満ちている状態では、DNAは長くなり健康状態もよくなるということを発見したのである。
現実は心の反映に過ぎない
ペルーの古代インカ族の子孫とされるケロ族は、いまの時代を「パチャクティ」と呼んでいる。これは「すぺてがひっくり返される」という意味である。
ここまで読み進めてきて、ひっくり返されるのが地球上における天変地異や絶滅現象といった物理的なものばかりでなく、人間の精神こそがひっくり返されるのである、と推察していただけよう。
さらにマヤのカレンダーは、2012年12月22日で終わっているが、それは時空中心の世界の終わりということを意味しているのであろう。
時空中心の世界とは、すばりこの世、この宇宙だといえる。今、われわれが五感を通して捉えている三次元の世界である。
今までの私たちの心の持ち方は、三次元世界に基づいていた。つまり、物質的な生き方であったわけだ。その心の持ち方自体が完璧に変わるのである。今までの意識とは変わるのだ。唯物的な生き方や時空に基づいている生き方は、もうすぐ終わるだろう。
生き方の価値観が変わるのが「アセンション」だと私は考える。
アセンションを、地球が滅亡の危機に見舞われるなかで、人類が死滅するという問題だと曲解している人が、まだ多いかもしれない。カタストロフにばかり注意がとられていると、恐怖のあまりキレル人も増えてくるし、アセンションに対して狂信的になりすぎる人も出てきてしまいそうである。
しかし、これから起きるカタストロフ的なことは、われわれの心の反映にすぎない。
外の世界も内なる世界もない。つまり外で起きるカタストロフによって、内なる世界が影響を受けるというのではなく、内なる世界によって外の世界が影響されるということである。最後の世界がどうなるかは、われわれの理解の仕方次第なのである。
古代人は予言を通して何を言わんとしたのか。私は、今の地球に住む私たち人間の、心の持ち方が最後を迎えることを伝えたかったのだと思う。
つまり自己中心的な世界が終わるということである。
いや、「時空中心」と言い換えたほうがよいかもしれない。
時空中心的な世界は、2012年までに終わるというふうに考えればよいと思う。
現実を見抜く力がより要求される時代
この本で私がお伝えしている事々が、本当に本当であれば、政府やマスコミによってもっと早く知らされるはずである、と疑う読者がいて当然だと思う。しかし、事実はいつもそのとおりには教えられていないものなのである。
1992年8月24日にハリケーン・アンドリューがフロリダの海岸を襲ったとき、アメリカ海洋大気局(NOAA)の発表では26人の犠牲者が出たと報告されたが、事実はまったく異なっていた。
ハリケーンは、警告の余裕がないほどあっという間に、コースを変えてしまった。
私は生存者報告を個人的にチェックしてみた。すると、カリフォルニア州軍のデータでは、犠牲者数が5820人にのぼっていたことが明らかになった。トラック数百台分にも及ぶ死体が取り出される間、被害が発生した地域は憲兵によって立ち入り禁止となり、報道はすべて制限されてしまった。政府はフロリダの一部の地域に警告することができなかったという事実を、人々に知らせることができなかったからである。
インターネットが広がる現在、情報は昔とは比較にならないほどに個人的になってきている。最近では事件が起こっている場所にいる複数の個人によるレポートだけしか信頼できない現実が、より鮮明にわかってきた。
世界貿易センターのテロリスト攻撃についても、インターネット上のどれほどの人の情報がどのようにまったく異なる見解をもっているかについてを講演で話したことがあるが、しかし世界の大部分の人々はいまだにビン・ラディンがテロ事件の犯人だと信じている。
最近、あなたはその後のビン・ラディンについて耳にしただろうか。ビン・ラディンは決して見つからないし、また新しい『悪者』が彼と交代に出現するであろうと、私は1年ほど前にみんなの前で述べたことがある。現実はそのように動き、現在ではサダム・フセインが悪者である。
ニュースというものは、真実の情報を提供することに関心がない人々によって製作されている。NHKであろうと、BBCやCNNであろうとも、源はほぼ同じである。
異なる種類の情報を集めるための唯一の場所は、今やインターネットとなった。
インターネットをサーチする知識人と、新聞・テレビ信者との違いは、博士号持ちの教授と小学生の違いほど情報の内容が違ってくる。これは大げさでも冗談でもない。
情報とは、現代に生きるわれわれが持つもっとも極めて貴重な資源であり、そして情報をコントロールするためには何億ドルもが支払われるものなのである。
アフガニスタンとイラクのような場所を買収する理由をつくるために、強力な石油会社によってテロリズムは引き起こされるのであり、実際にはわれわれが信じ込まされているようなテロリストは存在しないということも、私は日本のみなさんに講演で話した。しかし、一般の人々は、そのような事件の背後にある真実や、つねに英国とアメリカが世界の石油王国であることなどを調べようとはしない。
見栄えのする雄弁な人間がリーダーとして選ばれていて、事の成り行きをメディアを通して見るかぎり、私たちは何が本当に起きているのか想像すらできない。
アルゼンチンのような国は、IMF(国際通貨基金)と、世界銀行と呼ばれている本当の意味でのテロリストによって、経済から蝕まれていき崩壊させられてしまう。
われわれの世界はこうした巧みな方法で、気がつかぬ間に次から次へと買収されている最中なのだ。
民主主義的で自由な国家に暮らしていると信じていても、戦争を止めることすらできない。それのみならず、自分の資産もすべて国家に管理される生き方を私たちは選んでしまった。私たちが決して見ることもできない少数の人々によって、私たちの人生に及ぼすすべての方針が決められるのである。
政権を握っている人々が、実際にメディアも含めて経済も国も自由自在にコントロールしていて、その間、私たちは生き残るために必死で、忙しくて、現実はそういったことに関与できない仕組みになっている。
権威のある人が、私たちに自由を提供しているか?
こういうことをいうと、私は陰謀論者だと一部の人には判断されてしまうのだが、スピリチュアル性だけを追求するのではなく、私たちが暮らす現実全体を見抜く力がこれからの進化に欠かせない過程であると私は信じている。
今の社会と暗黒時代と呼ばれている中世期を調査して比べてみた人がいる。中世に生きた人々よりも現代に生きる私たちのほうが自由が少ないという驚くべき結果がでた。
あまり信じたくはないが、これから進化する人類の無限の可能性から見ると、今の私たちはまだまだ奴隷に近い生き方をしているといえよう。このままいくともっと悪化してしまうだろう。(中略)
アセンションは皆が共有するテーマ
今までの話を少し振り返ってみたい。
アセンションというプロセスが何にたとえられるかというと、昆虫類が変態するプロセスや、また卵から誕生へのプロセスにもたとえられる。人間にたとえるならば、苦しい陣痛のあとで赤ちゃんが生まれてくることにたとえてみた。
それらすべての共通点は、突然の変化、つまりAという状態からまったく異なるBという状態に変わってしまうことである。そして変わってしまう直前には、何らかの苦労や痛み、ショックが伴うということだった。
これをアセンションの前に起きる「はりつけ」状態であるというふうに説明したが、ここが重要な点となる。
いわゆる地球の次元上昇と一般に呼ばれているプロセスにおける「はりつけ」を意味する中心的な要素は、太陽系への惑星接近ではないかと思われる。
その後に恐らく本来のフォトン・ベルトと呼ばれるエネルギーゾーンにわれわれは突入する時代が来るのではないだろうか。
今までにこの地球に何度も二ビルが接近したし、何度もアセンションに近づいていくような機会があったと考えられる。だが、過去の時代とまったく異なる要素が今はある。何かと言えば、それは「情報」である。今と過去の決定的な違いは、インターネットを始めとする、情報のネットが存在していて、われわれは、それによって結ばれているという点である。
今、起きようとしているアセンションは、われわれみんなが共有するテーマであり、単独で対処するものではない。当然「はりつけ」もまた、われわれみんなで共有するテーマではないだろうか。
それなのに、世界全体の様子を非常に冷静な目で見つめると、スピリチュアルな生き方が、存在していないのにほぼ等しいことは一目瞭然である。
今の地球人がたとえば卒業式を間近にひかえた高校3年生だとすれば、今の私たちの学習レベルでは、確実に2012年12月の卒業試験に落ちるであろう。合格は絶対的に不可能と思える。
ではスピリチュアルな生き方とは、どんなものなのか。
私の定義はこうである。この大宇宙と調和的な関係を持ちながら、内なる平和と愛、感謝に基づいた生き方をすることである。ある特定の宗教に所属して、その教えに従いながら、さまざまな儀式的な行為を行なうという意味ではない。
スピリチュアリティとは、難しく複雑なことではなく、ごくシンプルなことなのだ。しかし現実世界は、あまりにもスピリチュアリティからはほど遠い。(中略) 
「独立個人」のすすめ
今までに存在したどんな社会の住民よりも、今の私たちはコントロールされていて、監視されていて、操作されている。もちろん情報とメディアによるものなのだが、史上もっともコントロールされているのが現代の地球人ではないかとすら思える。
いわゆる宇宙の神というべきか、宇宙のこころとでもいうべき壮大な存在とのコネクションは、完璧に近いほど失われてしまった。私たちは実に迷える者たちなのである。(中略)
今の世の中は、戦争とカタストロフといったまったくもって地獄のような状態に向かい、フルスピードで疾走していることは事実である。
こんな現状の中、どの政府であろうが、どんな世界的な宗教であろうが、どんなに素晴らしい組織力があるグループであろうが、われわれをこのエントロピー(無秩序)から本当に救えるものは存在しないといえよう。むしろ反対にあらゆるシステムが今、周りでどんどん崩壊しつつある。
こうしたことに気づいてこそ、あなたのパラダイムは国家や権力を持ったものに束縛されない独立した自分、他者と自分を同じように大切にする力を持った人間へとシフトしていくのである。
そういうあなたを、私は「独立個人」と表現する。
「独立個人」への道は、究めるに値する素晴らしさと目覚めがたくさんあるように私は思う。確実にあなたの現実を変えていく。当然、あなたが変わると周りも的確に変化するはずである。
アセンションの第一ステップ
アセンションにおいても、自分が治めるということがポイントである。
なぜならば、アセンションを体験するのは、集団ではないからだ。アセンションするのは自分である。いくら仲間や家族がいても、同じ国籍同士であっても、個々の意識は異なる。当然ながら、それぞれが体験する内容も違ってくる。
この本だって、読者であるあなた自身のための本である。これが一番理解していただきたいポイントである。
自分を治めることにおいては、例えば情報をかき集めて、今の傾向を自分なりに把握できるようになることもそのひとつである。
「なるほど、太陽系規模での大きな変化が起こる。これは変容のプロセスであり、進化するひとつのプロセスであり、今まで予言されているように、これは人類の最後の浄化かもしれない‥‥。今、地球は〈はりつけ〉プロセスの真っ最中なのだ」
というふうにわかれば、それも自分が治める世界のありのままの現実を知ることにつながる。
自分で本当に実感して知ること、つまり自分があってこそ、この世界があることを感知することだといえよう。
感知すれば自ずから変わらなければならないことに気づく。今までどちらかというと受動的に生きてきた自分があり、いつも問題を避け続けていた自分が、自分も含めて周囲のすべてのことにすすんで関わる能動的な自分にいつのまにか切り替わっていく。まるでモードスイッチが自動的に入れ替わるように、今、あちらこちらで私たちの知覚の変化は起き始める。それは自然な気づきによって起きるのである。
気がつけば、まったく今までとは違っている自分をきっと発見するだろう。しかし、それは問題を抱えたり、悩んだり、ある意味で「はりつけ」のような苦しみを体験した自分がいるからこそ、変わるのだということを忘れないでいただきたい。
私たちはあくまでも三次元空間に住んでいて、アセンションはこの空間にて起きる。そうでなければアセンションする意味はない。
しかしこの三次元では、すべてが二元性を持っている。よく観察すれば、相対する世界であることがわかる。
平和を平和をと言いながら戦争を繰り返す、矛盾の世界である。内なる世界も同じで、勝とう勝とうといきむと負けたりもする。
しかしこのような二つの摩擦を超えるためには、二つが存在することをまず知って、二つを受け入れることから、アセンション・プロセスは始まる。
自分の世界を治める「独立個人」に覚醒することが、アセンションの第一ステップとなるのである。
国家は最大の暴力団
気づきを得た「独立個人」は、この世は一体何によって動かされているのかという疑問を抱くべきである。これは追究するに値する非常に大切な問題意識である。
世の中を動かしている中心的なエネルギーは何かと問うと、間違いなく「勢力」だという答えを私はもっている。そしてある本の説明によると、そういった勢力を「フォース」と呼んでいる。
勢力とは、とことん問いつめていくと暴力であり、世界のすべての国家主義は、そのエネルギーを確かにコアとして持っている。見方によれば、国家とは最大の暴力団なのかもしれない。
今のアメリカ対イラクの戦争は、その完璧な例である。世界のリーダー的な国のやり方が、暴力団の手法と同じであることに気づかないのは、現実を見る力がないからか、システムにすっかり洗脳されているからとしか考えられない。
そのような気づきが、世界中で広まってきているのは事実であり、これこそ暴力的な世界の終わりを私たちの力で築き始めている証拠である。暴力的な地球人には、暴力的な空しい終末しか待っていないのである。これが宇宙の秩序というものである。
こうした現実の中に暮らしている独立個人には、あらゆるシステムの崩壊が見えるはずである。すべてのシステムに対して疑う力を養っていくことと同時に、情報の豊かさによってシステムに所属しなくても生きていける方法をいろいろと発見していただきたい。(中略)
物質や力を求めるという今までの私たちの夢は、なんと幼稚すぎたものかと思う人たちもきっと増えてくるだろう。お金とちょっとした栄光で幸せになろうとするのは、ナンセンスであると気づく人たちも増えてくるに違いない。いくらお金や権力があっても、またいくら影響力があっても、それが本当の幸せであろうかと考える人々もきっと増えてくると私は思う。それらの方向は、本当のスピリチュアリティにはほど遠くて、知らず知らずのうちに今の地球の現状と同調して歩むことになってしまうからだ。
マザー・テレサも愛読し評価した本
アセンションと力には、深い関わりがある。アセンションと力とだけではなく、スピリチュアルな生き方にも、「独立個人」にも深く関係している。それらすべての共通点は、「気づき」に基づいている。そして気づくか気づかないかは、個人に関わっている。
何度もいうように、「気づく」ことがアセンションへの道に不可欠な条件なのである。
次に、貴重な本を紹介する。人類全員のアセンションの可能性が、私には違うアングルから想像できるようになった画期的なものである。
“Powervs.Force”(『パワーVSフォース』)という精神医のデビッド・ホーキンス博士によって書かれた本がアメリカで出版された。以前に彼は、ノーベル化学賞と平和賞を受賞したライナス・ポーリング博士と共に本を出版したこともある学者である。
彼は覚醒する体験を何度もしたことがあり、そのことがこの本の特徴としてよく現れていた。単に医者および科学者として書いているのではなく、実際に宇宙意識、神意識を何回も体験したことのある、とても意識の高い人間であることが伝わってくる。
彼の本は、デンマーク政府にとても高く評価され、ホーキンス博士は王室からナイトの称号を受賞した。また、マザー・テレサやウォルマート社長のサン・ウォルトン、元クライスラー社長のリー・アイアコッカなど、世界的にも名高い人物たちに愛読され、高く評価された。
その理由は、古いパラダイムから新しいパラダイムにシフトする時代において、集団から個人へと、権力から自由へと変化することについてが、述べられているからである。
物質主義からスピリチュアル的な発想に基づく変化が実際に起こりつつある背景には、何が真実の情報であるかということも明確に示されている。(中略)
この本を読むと真実の情報の根元はパワーであり、それにくらべて誤った情報の根元はフォースから生まれていることが、自分の真実性テストを通して理解することができる。
同時にこの二つを識別する能力も、この本は養ってくれる。
恐怖を選ぶか、パワーを選ぶか?
さて、これまでに述べてきた二ビルという惑星の接近は、私たちの地球規模での進化の大きな引き金となり、そしてその影響によって私たちは、フォトンの時代に突入するであろうと考えると、ある意味ではその惑星の接近はとてもありがたい事態だといえる。
光の時代、黄金の時代、至福千年と、その時代をどのように名づけてもよいのだが、しかしその時代はスピリチュアルな生き方への転換となることは間違いない。
精神性の高い発想がよりいっそう地球上で開花し、新たなルネッサンスを迎えるとき、人間と神との関係は一体、どうなっていくのであろうか。
少し進んで考えれば、人間はどうやって神となるのかという問いである。
私たちのDNAをはじめとして、意識と知覚、そして肉体に大きな変化がやってくることは確かだ。私たちのDNAの変化は、電磁波の変化、磁場の変化によって引き起こされて急速に進化するであろう。そしてその進化と同時に大きな危機もやってくるであろうというのが、私の意見である。
卵からひなが生まれる瞬間は、その中にいるひなにとっては一番命に関わる危険な瞬間でもある。しかし、それはほんの一瞬にしか過ぎない。
今から2012年までのたったの9年間で、われわれ個人としての現実は、どのように大きく変わりえるのか、地球の長い歴史から見るとどうなのか、どういうふうに変化するのかを、ぜひ想像してほしい。
なぜならこれは、ちょっとした社会的な変化や新しいムーブメントといったようなスケールで起きるという話ではないからである。地球人にとって、最大の進化ができるチャンスが与えられる太陽系規模の大イベントが起きているからだ。
そこで個々が何を選択するかが一番のポイントである。ホーキンス博士のいう、パワーを選択するか、恐怖を選択するか、どちらを選択しようと、私たちの自由である。
恐怖を選択すれば、たちまちフォースの世界にわれわれの意識は囚われてしまう。
実際に一瞬一瞬、自分の意識をチェックしてみると、進化のスパイラル上に存在し続けることは、かなりのスピリチュアル性が要求されるのは事実だ。
アセンションは毎日毎日起きている
これから情報がさらに増えてくると同時に、混沌もいっそう増してくるのは間違いない。そして恐らく劇的な地球規模での変化も起き続けるだろう。
そんな中、だれもが時間がもっと加速化していくのを感じ取るはずだ。
近づく惑星の影響力によって、私たちは進化させられるわけである。これほど変化する中、今までの生き方がまったく変わるのは当然である。
個人としての自分がアセンションするプロセスはどのように感じられるだろうか。高層ビルのエレベーターに乗ったようにヒューと上がるのだろうか。まったく別の次元にスーッと瞬間移動するのだろうか。
ここまで読んでくださった読者の方々は、そんなことを信じないし、2012年に急に起きることを待つ人もいないだろう。アセンションは毎日毎日起きていて、今、毎日アセンション・トレーニングを私たちはしている最中である。
つまり2012年にすごいレースがあるとしよう。そしてそのレースに参加するためのトレーニングとして何が一番大切なのかは、この瞬間瞬間、どこに自分の意識がフォーカスしているのかというトレーニングに決まっている。自分の意識を、この瞬間瞬間、何に注ぐかということなのだ。
平和?光?
自分のDNAに存在する光、宇宙に存在する光にフォーカスしているだろうか。光については、まだ比喩としておいて、もっともシンプルな答えとして、愛を選択するか、恐怖を選択するかである。
正直いって、自分の周りは混沌やパニック状態で、恐怖心が漂っている中、この一瞬一瞬に、愛や平和を選択することは実に難しいことである。
しかしもう、本当の勇気と、依存のない独立心が問われる時代が到来したのである。
エピローグ
ファラドーウディン・アタールという、スーフィー教の指導者で詩人が著した『鳥の会議』という寓話がある。
スーフィーとは、イスラム教の主流派が「表」であれば、いわば「裏」の宗教、秘教である。コーラン原典主義からみれば、異端中の異端と言える。
スーフィーの教えは、寓話や物語を通して、哲学的・宗教的な教えを伝達するというシステムを用いており、アタールも『鳥の会議』の中で、人間の意識の旅について説明しようとしたのだろう。
私がこの話を読んだのは20年以上も前になる。
あるところにフーポーという鳥がいました。
ある日フーポーは、全世界の鳥たちに向かって、これから会議を行なうので集まるようにと呼びかけました。
全世界の鳥たちは一カ所に集まって、フーポーの話を熱心に聞きました。
フーポーは次のように呼びかけました。
「私たち鳥には、サイムルグという名前の神様がいる。サイムルグは幻の国の宮殿の中で生活している。これからサイムルグに会いに行こう」
しかし、遠く離れているサイムルグの宮殿に行くには、長く危険な厳しい旅になることは目に見えており、命の危険も覚悟しなければなりません。そこでフーポーは、
「サイムルグに1回でも会えば、私たちは覚醒し、本当に生きる目的を見つけ、幸福になれる」
と語りかけました。
鳥たちは顔を見合わせ、相談しあいました。神様には会いたいけれど、危険な旅であり、躊躇しているのです。
するとフーポーは、「行きたくないのなら、行かなくてもいい。しかし行きたくない理由をみんなの前で言いなさい」と言いました。
鳥の中でもっとも美しい声を出し、人間を喜ばすことで有名なナイチン・ゲール(ウグイス)は、「私は本当に行きたいのです。だけど、長い旅の中で声が枯れれば人間を喜ばすことができません。私の使命を果たせないんです」と言いました。
それに対してフーポーは、「ああそうか。それならやめて結構だ」と答えました。
他の鳥たちも、次々と前に出てきて、行きたくない、いや行けないと、理由を説明しはじめました。
結局、集まった鳥たちの中で、行くことを決意したのは数百羽にすぎませんでした。
それから7年にわたる、彼らのつらく苦しい旅が始まりました。そのうち三分の一の鳥たちは、その途中の危険な冒険のなかで脱落していきました。
サイムルグの宮殿にたどり着いたときには、もう37羽しか残っていませんでした。到着した鳥たちも疲れ果て、羽は落ち、貧弱になって、ボロボロでした。
限界の中でようやくたどり着いた鳥たちは、宮殿の責任者に案内されて、サイムルグの部屋に通されました。
その部屋には大きなカーテンがあり、その向こうでサイムルグが待っていると言われました。37羽の鳥たちは気を取り直して、期待に胸をふくらませました。
長いあいだ待たされました。どのくらいたったのでしょう。ようやく「今からサイムルグとの対面ができますよ」と言われました。
カーテンの幕がゆっくりと上がっていきます。
しかしそこには、誰もいませんでした。
「どうなっているんだ!」「7年間ボロボロになるまで飛び続けて、危険な目にあって、いろんな体験をして、やっとのことでここまで来たのに、誰もいないじゃないか!」
鳥たちは騒然となりました。皆はフーポーに向かって言いました。
「サイムルグはどこにいらっしゃるんですか!?」
それに対してフーポーは、静かな口調で「じつは君たちに言わなければならないことがあるんだ」と言いました。
みな、フーポーの次の言葉を待っています。フーポーは言いました。
「サイムルグとは、じつは37羽の鳥のことなんだよ」
それを聞いた鳥たちは、自分たちの数を数えました。
そのとたんに、彼らは悟りを開きました。
「ああ、俺たちがサイムルグなんだ」と気づいたのです。
本書をここまで読み進めてこられた読者なら、この寓話の言わんとすることは、すでにおわかりだろう。つまり、「外にいる神」を探し求めるのは間違ったことであり、神は自分の心の中にこそ存在しているということである。また、鳥たちが長く危険な旅に出ることを躊躇したのは、そのまま、私たちはスピリチュアルな進化をすることに興味を持っているにもかかわらず、実際に取り組む人は非常に少ないということを意味しているのである。 
 
マヤの予言  
神秘の発見
中央アメリカの密林に遺跡が埋もれている。これらの遺跡を残したのは、きわめて神秘な人びと――マヤ人だ。彼らは何者だったのか?どこからやってきたのか?
1773年に有名なパレンケの遺跡が再発見されて以来、探検家や学者や作家は、200年以上、このような問いに悩まされてきた。驚くべき町パレンケは、いまでも完全に発掘されておらず、迫りくる密林にたえず脅かされている。それは新世界の不思議の1つだ。
パレンケの遺跡は白く輝く石灰岩でできている。ルネサンス時代の石工の技量にも匹敵する、そのみごとな出来栄えのピラミッドや神殿や宮殿は、見る者すべてを驚かせる。しかし、この貴重な宝の価値を正しく評価できるようになったのは、20世紀後半に入ってからだ。多くの主要な建物の壁に書かれた碑文が徐々に解読されてきたからだ。
マヤ人が、われわれとひじょうにちがった人びとであったことは、だんだんわかってきている。現代人とちがって、マヤ人は最低限の生活必需品のほかには私有財産をほとんど持たなかった。マヤ人は原始的な道具で大地を耕し、トウモロコシその他2、3の作物を育てていた。その一方で、豪華に盛装したマヤの統治者は、土地の豊饒を祈って、風変わりで、面倒な儀式を行なった。マヤは階層社会で、統治者と農民がはっきり区別されていた。
だが、同時代のいわゆる暗黒時代のヨーロッパ社会とマヤの社会のあいだには、1つ大きなちがいがあった。マヤの民が卓越した天文学者であったことだ。
マヤ人は自分たちが、太陽の「第五の時代」を生きていると信じていた。さらに、現代の人間が創造される前には、4つの民族と4つの時代があったという。ところが、この古い時代は大激変のためにすっかり破壊され、わずかな生存者が過去の話を伝えるばかりとなった。
マヤの年代学によれば、「現代」は紀元前3114年8月12日に始まり、2012年12月22日に終わるとされる。このとき地球は、壊滅的な大地震のためにふたたび破局を迎えるのだという。
浮上するアトランティス
古代マヤ人が現在の時代の終わりとして予言した2012年の運命の日が近づきつつある今、われわれは地球の将来に対して不安を抱くことしかできない。マヤの最後の時代が始まったのは、金星つまりケツァルコアトルの星の誕生した紀元前3114年8月12日だ。この時代の終わりにあたる2012年12月22日、金星と太陽とプレアデス星団とオリオン座の宇宙での関係がふたたび明確になる。
かつて金星の出現は夜明けの直前に子午線上のプレアデス星団によって予告された。つまり、このとき金星は文字どおり「誕生」したのだ。それと同じように、こんどは金星は象徴的に「死ぬ」のである。
「スカイグローブ」プログラムによると、2012年12月22日に太陽が沈む直前、金星は西の地平線の下に沈む。そして同時にプレアデス星団が東の空に昇ってくる。太陽が没するとオリオン座が昇ってくる。これはおそらく、新たな歳差運動の周期の始まりを意味し、象徴的に新しい時代の誕生を示す。地球の地質学的観点から見た場合にこれが何を意味しているのか、われわれには推測しかできない。だが、それは失われた大陸と関わりがあるのかもしれない。
エドガー・ケイシーはアトランティスがふたたび浮上することを予言しただけでなく、千年紀(ミレニアム)を迎えるにあたって別の重要な「地球の変化」が起こると述べた。モーリス・コットレルと同じく、ケイシーは磁極の移動が大規模な崩壊を引き起こすと考えていた。その多くは地球史を通じてみると周期的に繰り返される性質があり、地形上の変化や運動をともなっていたようだ。
しかし、世界がこれほど人口過密になったことはない。ケイシーの予言が現実のものになったら、人間がかつて経験したことのない最大級の惨事になる。ケイシーは、アメリカの東西岸に沿った広い地域が、アトランティスのように、押し寄せてくる海の波の下に消えるだろうと述べている。同時にヨーロッパでも、この「大陸」の海岸部は洪水に呑み込まれ、気候も急激に変化してひどく寒くなるという。これは旧アトランティス大陸が上昇してメキシコ湾流を引き裂き、ヨーロッパの「暖房システム」を断ち切ってしまうために起こるのだ。
ケイシーは、極の変化がほかの気候変化も引き起こすと述べている。今日の極地方と熱帯地方がもっと温和な気候になるというのだ。
これらの予言はいずれも、現在の時代が西暦2012年に終わるというマヤの信仰とよく合致する。もっとも、このような地球変化の起こるメカニズムについてケイシーは述べていない。だが、いまやコットレルの新しい太陽黒点論によって、われわれはその因果関係を解く理論を得た。太陽の磁場こそ、地球の磁場の逆転を引き起こし、激変と結びついているのだ。そうした出来事をどのように考えるべきか。それは今後の問題だ。しかし、警告がなかったとは、もはや言えないのである。 
 
植民地時代におけるマヤ文書の形成とその「意味」の変化について  
『カルキニ文書(Códice de Calkiní)』は全部で13のテキストに分けることの出来る、植民地時代にアルファベット表記のユカタン・マヤ語で書かれた書物である。全部で41頁から成っているが、最初の10頁は紛失しているから、11頁から40頁までを現在見ることが出来る。その内容は多岐にわたってはいるが、先スペイン期にこの地方を治めていたカヌル(Canul)家の歴史、征服期に起ったことども、カルキニ村の領界設定についてなどがその主だったテーマとなっている。したがって、16世紀後半にその大半が書かれたと考えていい。それに、19世紀初頭にかかれたテキストが2つ付け加えられているのである。
さて、こう説明すると、この文書が16世紀のものであることにどうしても関心がゆく。かく言う私もそうで、博士論文でこの文書を分析したのも、まさに先スペイン期のカルキニ地方の政治領域構造を再検討するためだった。むろん『カルキニ文書』は豊かな情報を提供してくれ、このテーマに関してこれまでに議論されなかった新しい視点を提供することが出来たと自負している。だが、無知というのはおそろしいもので、その時には、いや昨年の夏までは、なぜ19世紀にスペイン語とマヤ語のテキストが2つ付け加えられたのかは考えてもみなかったのである。そして、まさしく私が気にとめてもみなかったこの部分にこそ、『カルキニ文書』を筆写、保管してきた人々にとっての重要性を考える鍵が隠されていたのであった。
昨年の春のことである。永らく懸案になっていた『カルキニ文書』の出版準備を終えることができ、ほっとする思いで査読に回した。査読者の一人に、19世紀のこの文書を取り巻く歴史的環境をもっと書き込むべきであるというもっともな指摘を受けたので、以前からその存在を知っていて、コピーも手元に置いてあった、しかし面倒で内容に目を通すことすらしていなかった『マニ年代記(Crónica de Maní)』をいやいやながら読み始めた。文書を筆写しながら、疲れた目を休めるために頁をめくっていたら、ふと面白いことに気がついた。『マニ年代記』のほとんど全ての葉の左の欄外に、同じ花押(書き判、Rúbrica)が付されているのだ。いかに無知な私とて、その意味ぐらいはすぐに分かった。この文書は、カルキニ村との土地争いを解決するために、同村と境を接するノフカカブ村が19世紀前半に編纂したもので、彼らはこれを植民地政府当局に提出し、そこで担当官が各葉に花押(rúbrica)を付して法的文書として扱ったことを示しているのである。19世紀当時の法制から考えてみて、ノフカカブ村は当然の手続きをふんだことになるのだが、同時にそれは、同じことをカルキニ村の代表がしなければならなかった事を意味する。彼らはインディオ裁判所(Juzgado General de Indios)に対して、自分たちの正統性を、証拠となるべき文書に地図をそえて提出し、主張しなければならなかったのである。そして『カルキニ文書』はまさしくそのために筆写されたもので、だからこそ19世紀初頭の先住民保護官(Protector de los naturales)のスペイン語による内容証明が付されているのだ(テキスト12)。『マニ年代記』と『カルキニ文書』は、したがって、同時代の文書であったことがこれではっきりしたのである。
しかし、だからといって、『カルキニ文書』がこの時代にはじめて作成されたのではない。マヤ語テキストの正書法の分析から、テキスト1から11までは16世紀中に書かれたものであることは間違いないのである。そしてそこには、カヌル家が15世紀半ばに放棄されたマヤパンを後にしてカルキニ地方に到着したときに、すでにこの地で勢力を張っていたカンチェ家と、彼らの版図を蚕食していったカヌル家との争いが反映されている。もっともカヌル家が主導権をとって支配者に落ち着くと、カンチェ家は心ならずも服従しなければならなかったのだが、征服期に入った1541年にカヌル家の当主がスペイン人を攻撃して失敗し、このためにカンチェ家の一人がカルキニ村の首長位にスペイン人によって任命されると、両家の対立は再燃した。かつての特権を維持しようとして、スペイン当局を意識しながらカヌル家の書記が様々な文書を作成すれば、カンチェ家は自らの王権を同じマヤ貴族に対して正当化しようと、カヌル家の正史のなかに自分達の名前を入れ込んで、歴史の改ざんをしたのである。したがって16世紀においては、カヌル家とカンチェ家がそれぞれ自らの正統性をアピールする文書を作成し、それぞれが別々にこれらを保管していた、つまりこの時点では『カルキニ文書』は今見るような体裁はおろか、まだ編纂すらされていなかったと考えることが妥当であるように思われる。これらを一つの書にまとめるには、当事者が生存しており、あまりに生々しすぎて、まだ歴史として凝結してはいないと判断されたためだろう。
これが17世紀になると、やや状況が変わってくる。両家の人々は植民地政府の方針でカルキニ村の政治に関わることができなくなり、またその子孫の代になって、彼らの16世紀的な主張はかつてのような意味を持たなくなっていたのである。また、1642年にティクル村とノフカカブ村の間に耕地をめぐる争いが起り、その解決には書類の提出が求められることを知ったカルキニの村役らは、『カルキニ文書』を編纂することを思いついたのではないかと私は考えている。ただこの時点で、編纂者は、異なる二系統のテキスト群を混ぜてはいない。これは、カンチェ家とカヌル家がそれぞれ異なった時間にこの土地の支配者だった歴史的過程を意識することで、編纂者が「先祖代々」のイメージをより具体的に示そうとしたことを意味するのではないか。すなわち、カルキニ村の土地は、カヌル王国が存在する以前の、カンチェ家の王国があった時代から、村人に属した土地だったということを言わんがために、わざわざ両家の文書を順序だてて組み込んだのではないかと思うのだ。 1762年、ベカル村とカルキニ、テパカム村との間に耕地をめぐる争いが起った。ベカル村の領域でカルキニとテパカムの村人が無断で耕作をしていることが発覚したのだ。カルキニ、テパカム両村とも敗訴したが、自己弁護のために、カルキニ村の代表は「昔から現在に至るまで保管されている」「古い地図や文書」を用いた。これは、17世紀に作成されたものの写しだったろう。だが、ここには、前世紀にあったカンチェ家とカヌル家への眼差しは感得できない。16世紀という「過去」は人々の記憶からはすでに具体的なものとしての存在であることをやめ、「過去」というひとまとめにされたものとして認識され始めていたらしい。カルキニ村の役職者は「古くから」ということを盛んに強調していたことは、それを示唆しているように思う。彼らは、『カルキニ文書』に「自分たちの」土地の境界が記してあり、「遠い昔から」問題の土地を占有していることが書いてあると理解していたのではないだろうか。
この眼差しは次の19世紀にまで持ち越される。1800年、ノフカカブ村とカルキニ村との間に耕地をめぐる争いが起った。ノフカカブ村の領域でカルキニ村の人々が1791年から耕作をしていて、我々が耕す土地も無くなったと、前者の世話役達が当局に訴えたのだ。この時に、現存する『カルキニ文書』が筆写されたようだ。文書は先住民保護官に提出され、彼はこれに花押を付した。さらに、文書はノフカカブ村の先住民保護官にまわされ、その助手で通辞でもあった人物が3頁にわたって花押を書き入れて、最終的に正式な法的文書として受け付けられたのである。だが、この争いは1813年になっても解決していない。このころ、それまでの訴訟関係文書を集めた『マニ年代記』が作成されている。さらに年月が流れ、1821年にカルキニ村の代表がマニ村の古文館へ村の地図の写しをもらいに行っている。まだ、問題が解決していなかった証拠である。『カルキニ文書』にはこの経緯が記されたテキスト13が書き込まれ、これによってこの文書は現在見る形になった。カルキニの人々は、この文書が「我々の」過去、「我々の」土地の領界が記されているものであるという認識は持ち続けていた。だからこそ、これを基に自らの正当性を主張できたのであり、具体的には、彼らはこの文書を「私たちの土地や耕地の境界がどこにあるのか」を証明するものだと理解していたのである。
さて、ここで話を一般的にしてみよう。『カルキニ文書』の例に見るように、今日私たちの手にすることの出来る多くのマヤ文書は、18世紀から19世紀に筆写されたものだ。そこで、16世紀の原本を、先住民が当時と同じ意味をそこに見据えつつ、数世紀にわたって後生大事に筆写し続けてきたと判断するのは、もうやめるべきだろう。彼らがそれをしたのは、その時に筆写する必要、意味があったからなのであって、マヤの人々は、この新たに筆写された文書に、それがもともと作成された時代に付与されていたものとは全く別の意味付けをしていたと考えるのが正しいように思う。したがって、マヤ文書はそれぞれの時代に様々な意味で解釈され使用され続けた、彼ら先住民にとって「生きた」存在だったのだと言えよう。だとするならば、各文書がどのような使い方をされてきたのかを、調べてみる必要がある。そのためには、周辺のさまざまなスペイン文書やマヤ文書をも読んで、それぞれの時代を当該文書との関連で具体的に知るようにしなければならない。これは難しい課題だが、マヤ文書をそれが書かれた、またそれが使われたコンテクストの中で読むという作業の重要性を、再認識する必要がある。 
 
16世紀植民地体制下におけるユカタン・マヤの空間概念の研究
 カンペチェ州カルキニ村を例として
 
1 はじめに
1551年ダリエンからエスパニョーラ島へ向かっていたスペイン船が難破し、生き残りの十数人は命からがらユカタン半島の東海岸に漂着した。だが、そこで彼らを待っていたのは、その土地を治める王の命によっていけにえにされるという過酷な運命であった。そこを脱出して、命を永らえたのはへロニモ・デ・アギラールとゴンサーロ・ゲレーロの2人だけだった。彼らは、1517年のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ、1518年のフアン・デ・グリハルバの遠征隊に遭遇することが出来ず、遠征隊長らは「カスティラン、カスティラン」と先住民が言うのを耳にしたとその記録に書き記すのみだった。一方1519年にやって来たエルナン・コルテスは、「カスティラン」が何らかの形でユカタンの地にいるスペイン人であろうと想定して、コスメル島に1ヶ月以上も滞在し、ついにアギラールとの遭遇を果たした。ゲレーロは「我胡服せり」との心境から祖国へ戻ることをせず、のちに同胞の弾にあたって戦場に倒れることになる。
コルテスは、その後メシーカ(アステカ)人の首都テノチティトラン征服に向かい、ユカタン地方はつかの間の平和をむさぼることが出来た。だが、拡大を続けるスペインの野望はメキシコ市からマヤ地域へと伸び、1527年からコルテスの部将であったフランシスコ・デ・モンテーホが東海岸から征服を開始する。メシーカ王国はコルテスがモクテスーマ王を捕らえたことにより、比較的簡単に軍門に降ったため、その伝でユカタン地方のマヤ人たちも屈服させられるであろうと見た彼の考えは、全て裏目に出た。メキシコ中央高原とは違い、ユカタンは湿度や気温が高く、熱帯性の疾病に兵馬は瞬く間に疲弊していった。さらに悪いことに、この地は貴金属類を全く産せず、それを目当ての人々をがっかりさせた。1530年代に入ると南の方で黄金に包まれた先住民帝国が発見されたというニュースが入ってほとんどの兵がユカタンを後にし、残るはモンテーホ一族とその党類のみという情けない状況に陥ったこともあった。先住民の面従腹背の態度も、征服活動を妨げた大きな要因ともなった。だから、この地の征服が一区切りつくのは、開始から19年も経った1546年のことであった。
こうして、ユカタンはヌエバ・エスパーニャ副王領に組み込まれ、総督のもとに植民地時代を生きてゆくことになったが、最初の_ 年ほどは、スペイン人の人口があまりに少なく、また副王領の安定も確立しているとは言えない状況であったため、現実には先住民の王国群がなお存続し、一方でエンコメンデーロたちはマヤ人から好き勝手に貢納を取り立て、人々を塗炭の苦しみに陥れていたのが実情であった。そこで、􀀀_ 年にグアテマラ高等司法行政院(アウディエンシア)からトマス・ロペス・メデル学士が派遣され、ユカタン地方の植民地支配の統制と確立を目指して「オルデナンサス(法令集)」を発し、これは30年以上もの時間をかけて実行されていった。彼が最も重要視したのは、人口の大多数を占める先住民のキリスト教への改宗、先住民王国の解体、先住民貴族・王族の特権の制限、キリスト教徒としての生活の確立などであり、このための政策の一環として集住政策が行われた。これは、それまで拡散型の居住形態を持っていた先住民の効率の良いキリスト教への改宗と、貢納取り立てや人口把握を容易にするために、彼らを一つ所に集めてしまうものだった。こうして成立したのが、プエブロと呼ばれる村落であった。
本稿では、これまで具体的な例をもとに研究されたことのない、集住政策によって創出されたプエブロの内実がどのようなものであったのか、具体的には通常考えられてきたようにそこにはスペイン人の空間概念に完全にそった先住民集落ができ上がったのか、あるいは先住民の空間概念が何らかの形で織り込まれていたのかを閲することにしたい。これを明らかにすることで、私たちは植民地時代に先住民社会がどのような形で自らの空間を分節していたのかを、具体的に知る手がかりを得ることが出来ると考えるのである。ではその前に、比較の基本となる先スペイン期における空間概念について、大まかに見ておくことにしよう。 
2 先スペイン期マヤ社会における空間概念
先スペイン期のマヤ社会における空間概念を考えるにあたって、マヤ人がアルファベットを使用してマヤ語で書いた史料を用いるのは、必要不可欠であるといわねばならない。用いられている名詞や動詞の意味のなかに、私たちは極めて豊かな概念を見てとることが出来るからである。ここで用いるのは、16世紀末にその大部分が書かれた『カルキニ文書』である。この書には、当時のカルキニ村の境界を記録した三部から成るテキストが含まれており、その最初のものが一番長く、かつ言及されている全ての人物が先スペイン期の名前でのみ表記されていることから、彼らが洗礼を受ける前にこのテキストが作成されたものであろうとの推測がつく。次のものには全ての人が洗礼名とともに現れるから、これら三部は時系列に沿って配置されていることがわかる。さて、その最も古い内容を持っていると考えられる第一部には次の節が読み取れる。
「ツェメス・アカルの池の辺り、マトゥのサバンナの端の辺り。なぜなら、ツェメス・アカルの池の辺りにはナ・マイ・タユという老人が住んでいたからだ。ここはまた、我々の土地の端である。ツックシャンのあたり、大きなサバンナの真ん中の辺り、シキンチャフの池の北の辺り、コッチヨル、カルシュッブ、カラクヤの辺り、するとハラチョ村の森の端に至り、その北にはチョチョラ村がある。」
ここで注目したいのは、境界標とおぼしき地名には必ず「〜の辺り」と極めて漠然とした表現が用いられていることだ。これはその地名の周辺部をも含む、ある広がりを持った空間を指している。したがって、例えばツェメス・アカル、マトゥのサバンナ、ツックシャン、シキンチャフの池の北などの地名は、「点」としての境界標として挙げられているのでないことは明白である。また、「ある広がりを持った空間を指して」いるとは言え、それが相互に連続している、さらにいえば境界線によって結ばれているものではなく、各々が独立していて物理的連関がないらしいことも看取出来る。すなわち、_􀀀 世紀を生きる私たちが「土地の境界」を考える上に必要不可欠とみなしている境界標と、それを結びつける線としての境界の存在は、先スペイン期の考え方が濃厚に残っていた時期のマヤ人にとっては異質なものであった。
これを、『ユカタン、ヤシャ村のシウ家文書』に含まれている「耕地分配の覚書(1557年8月15日付け)」に用いられている表現と比較してみれば、その違いはさらにはっきりとする。このテキストは、集住政策の実施に伴い、分散して存在している耕地を整理しようとする目的で1557年に行われた会議の内容を記したものである。ここでは、分配の際に「木を切り倒し、境界を設定」したのであり、さらに「このようにして、順に境界標が置かれていった」という表現とも合わせ考えると、境界線設定のために森が帯状に切り開かれ、そこに境界標が置かれたことを示唆している。
この行為が、スペイン人の導入した領域概念に基づいていたことは疑いないから、それと対極にあったのが『カルキニ文書』に記された概念で、これはすぐれてマヤのものだったと言えよう。すなわち、先スペイン期には、ある政体がその権力を行使している地域を「区切る」境界標も、これらを線で結んで空間を閉じる境界線も存在していなかったのである。
では、上の引用文に挙げられている境界標ではない地名は、何を表すのであろうか。この問題を考えるには、「土地所有」原理を議論する必要がある。まず『カルキニ文書』に言及されている場所は、「カルキニに住む首長」に服する人びとが、日常生活を成立させている空間であった。例えばツェメス・アカルにはナ・マイ・タユが住んでいたのであり、またシキンチャフには少なくとも古典期から人々が居住していたことが考古学的に確かめられている。サバンナは極めて肥沃な土地を持っているから、人々によって耕作されていたはずだ。別の言葉で言えば、これらの場所はカルキニの首長を頭といただく人々が用益権を行使し、占有していた所だったのである。また、首長の立場から見れば、上に挙げた引用文は、「自分の権威が及ぶところ、端」を表すのであり、それは、カルキニ村の境界が「ツェメス・アカルの池の辺り」までであるとしたうえで、その理由を「(そこにには)ナ・マイ・タユという老人が住んでいたからだ」と述べていることからも明らかである。この場合の「老人」とは、老齢であったことを示すばかりではなく、貴族であり、様々な問題を処理する能力を持った人というほどの意味である。ナ・マイ・タユは単にツェメス・アカルに「住んで」いたのではなく、カルキニの首長と主従関係を結び、同地を支配していたと考えるべきだろうし、だからこそここまで首長の権威が及んでいたとこの文章は言うのだ。
ツェメス・アカルまでカルキニの首長の権威が及ぶ「端」であるとしているこの文章の理由付けは、考慮に値する。同地がカルキニの「所領」であるとは書かれていないからだ。この池は首長の所有地として認識されていないのであり、そこを治める人物との間に成立していた関係に基づいて「ここまで支配が及ぶ」と言うのである。このことは、先スペイン期そしてその上に構築された植民地時代の先住民社会の「土地所有概念」、さらにいえば空間認識そのものを理解するうえで極めて重要な意味を持つ。土地を人間の政治・社会的関係の主たる媒介ととらえる考え方を対地主義とするならば、『カルキニ文書』に現れる考え方は、政治・社会関係がすべて人間関係を基礎として成立している対人主義と定義されよう。これを具体的に言えば、マヤの首長は、誰が自分に服しているのかを基準に、彼が人々を治めている所まで自分の支配が及んでいると考え、これに基づいてその支配域(管轄域と言い換えてもよい)を認識していたのである。
先スペイン期の政体が対人主義のもとに成立していたのであれば、首長と彼に服する人びとが生活を営んでいる場所との物理的な距離は意味を持ちえない。重要なのは、首長とその権威を認める人びととの間で結ばれる錯綜した政治的、経済的、宗教的、そして政略結婚を主とした親族関係なのであって、首長に地理的に近い場所に居住しているか否かは問題にはなりえないのである。だからこそ、連続する面としての領域の存在を前提とする境界線の設定は無意味で、また設定そのものが出来ない場合もあったのだ。この意味において、先の引用文に言及されている「境界標」とも解釈できる地名は、現実には「領域の長の支配がそこまで及ぶ」ことを指し示す目印のようなものであり、相互に(境界)線で結ばれるものではなかった性質を持っていた。それらには、人工の池(ツェメス・アカル、シキンチャフなど)、サバンナ、丘、放棄された遺跡、セノーテという大きなものから、井戸、樹木など小規模のものまでかなりのバリエーションがあったこともわかっている。
土地所有に関しては、フランシスコ会修道士ディエゴ・デ・ランダが著した『ユカタン事物記』によれば、「土地は現在全て共有だが、最初に占拠したものがこれを保有していた」とあり、土地は本来誰の私有地でもない共有のものであったことが読み取れる。この点に関して、ゴンサーロ・アギーレ・ベルトランは次のように述べている。
「土地は共同体のものであり、聖なるものであった。したがって売買貸借はもちろんのこと、無期限に使用を放棄することも許されなかったし、商品としてもみなされてはいなかった。また世代から世代へと相続されても、家族がその土地にたいして私有権を得ることもなかった。唯一の認められる権利は、用益権と先祖から伝わる土地に対する占有権のみである。」
ユカタン半島北部低地ではほとんどの土地は森(ジャングル)に覆われており、占有すればただちに役立つ農地はまずない。耕地を得るには、木を切り倒して乾燥させた後それを焼いて肥料とする、いわゆる焼き畑農耕の手順を踏むしかなく、それ相当の人的エネルギーを投下してはじめて生産が可能になったのである。まさにこの点において、ランダの言う「最初に占拠したものがこれを保有していた」の意味がはっきりと理解できる。マヤ社会では、土地に労働力を投下しこれを耕作・維持する者が、その占有、用益権を主張できるのである。対人主義に基づいた空間認識の基本が、まさにここにあると言っていい。
この点について、具体的な事例を見ておこう。ランダは、マヤ族の農耕について次のように述べている。
「彼らの騾馬や牛は人間であった。通常一夫婦についてフン・ウイニクと呼ばれている400ピエ平方の一区画、すなわち20ピエの物差しで、縦横が20ピエずつの広さの区画に播種していた。」
この文の中で興味深いのは、耕地の広さの単位として用いられているフン・ウイニックという言葉である。
図1クッチカバル模式図 図2クッチカバルの現実
図3バタビル模式図 図4バタビルの現実
これは「一人の人間」という意味であり、おそらくは一人の成年男子がその妻とともに生活するに充分な糧を生産できる土地の面積を差し、それはそこに一人の人間の労働力が投下されたという意味でこう呼んだのであろう_。したがって、ユカタン・マヤ社会では、誰がある土地に労働力を投下しているのか、および投下することを認めているのかが土地所有を決定する要素になっており_、これに基づいて彼らは用益権を主張しえたのであった。さらにそれは父から子へと継承されてゆくため、相続権もあったと言うべきであろう。ただし、いかなる場合においても、土地を売買、転売するなどの処分権は誰も持っていなかった。マヤの人びとにとって、大地はワニの格好をしたイツァム・カブ・アインという名の神であったから、これは当然のことだった。 
3 拡大家族の強制移動:マヤ社会の基本単位と集住政策
上に述べたことをもとに、まず先スペイン期社会の政治・社会構造を概観しておこう。スペイン人は、マヤ人との様々な接触を通して、彼らの社会の様子を少しずつ理解し始めていた。フランシスコ会修道士ディエゴ・デ・ランダの言葉を借りれば、この地域はいくつかの「地方(プロビンシア)」に分かれており、メシーカ人のように一人の王によって治められてはいなかったのである。ランダの言うプロビンシアとは具体的には政治領域、すなわち小国家を指し、マヤ人はこれをクッチカバルと呼んでいた。通常クッチカバルはハラチ・ウイニクという称号を持つ首長によって治められ_、その傘下にはバタブと呼ばれた小首長が治める複数の統治単位(バタビル)があった。さらに、各バタビルは複数のcah(小集落)からなり、それぞれのcahは、いくつかの拡大家族から成立していた。むろん、これは米国の歴史学者ラルフ・ロイズが提唱したモデルであり、ひどく整然とした社会を連想させるが、現実はこのモデルよりもはるかに錯綜したものであった。いずれのクッチカバルにも属さない独立したバタビルは数多くあったし、また同様にどこのバタビルにも属さない、あるいは複数のバタビルに属しているcahもあったらしいことを付け加えねばならない。これを図で表したのが、4枚の模式図である。クッチカバル(図1)、バタビル(図3)それぞれのモデル図に続いて、現実はどのようであったのかを示してある(図2,4)。とりわけバタビル内部における現実のcahの分布を見れば、多くのスペイン人が「彼ら(マヤ人)が住む村は、村とは言えない。街路もなければ、家々は森の中に点在しているだけだ」と評しているものの一端がわかろうと言うものだ。
さて、ここで先スペイン期マヤ社会の基本単位であった、cahについて具体例をもとに考えてみることにしよう。16世紀半ばにほとんど全てのマヤ集落が集住政策によって移動させられたことにより、それ以前に存在していたcahの空間分布を探ることを可能にする史料はほとんどない。わずかに、『エブトゥン村土地権原証書』にその片鱗がうかがえるだけだ。ここには、「古い村」と呼ばれる集住政策前に各地に散在していた集落についての言及がある。今それを表にしてみると、次のようになる。
[ cahの名称 / 拡大家族数 ]
全部で23記録されているcahのうち、1拡大家族のみで成立しているものは56.5%、2拡大家族のものは21.7%、4,5,6,8,10拡大家族からなるcahの割合はそれぞれ4%である。すなわち、大半(78.2%)のcahは1ないし2拡大家族で構成されていたことになる。
では、1拡大家族はどのくらいの構成員を持っていたのであろうか。これを推測する手がかりとして、『ディエゴ・ガルシア・デ・パラシオのユカタン巡察報告書(1583)』を使うことが出来る。ガルシア・パラシオはメキシコ高等司法行政院のオイドールとして1583年ユカタンを巡察し、それを報告書にまとめたが、そのなかに当時のユカタン東部の村々の具体的な人口調査が含まれている。ただし、この史料に記載されている村落は、すでに集住政策によってひとつところにcahが集められてでき上がったものであることをあらかじめ考慮しておく必要はあるだろうが、ツォノットチュイル村の村長であるフアン・チュイルの家族は、次のような構成になっていた:
フアン・チュイルを含めて、総人数は32人とすこぶる大家族である。
一方ティシミン(ボシュチェン)村では、村長であるフアン・フチムの家族は10人でしかない。
この2つの例は、史料による限り人数の多い方であり、最も少ない場合は核家族そのものの例が散見出来る。大所帯の家族の場合、フアン・チュイルの例に見るように村参事会の中で高い地位に就いていることが多い。これは、マヤ社会では働き手をいちばん多く持っているものが裕福な者とみなされ、逆に誰も助けてくれるものがおらず、一人で働かねばならない人間は貧者と考えられていたことにも通じるものだ。ユカタン・マヤ語でキリス(kiliz)とは「老人、裕福な者、多くの家族を持つ者、古くから村に住んでいる者」という意味を持つ。長い歳月を経て人数の多くなった家族を擁する者、別の言葉で言えば、親族組織を基礎にした互酬関係を充分に活用できる人間が「富める者」と見なされていたのである。ちなみに、ツォノットチュイル村における家族集団の平均構成人数は約9人であり、ティシミン(ボシュチェン)村では約10人である。
集住政策によって居住形態が大きく変わる前の1549年の貢納人口台帳によれば、ツォノットチュイル村の貢納人口は330人であり、総人口は約1485人であったと推定されている。したがって、1583年にはこの村の総人口は668人にまで減っていたことになる。ティシミン(ボシュチェン)村では同じ1549年の貢納人口は210 人であり、総人口は約945人だった。1583年の人口は555人だったから、こちらの減少率は前者のものと比べれば低い。集住政策が実行に移された後、スペイン人の手の届かぬところへ逃亡する農民が続出したことによって、人口はかなりの減少を示したものと見なければならないが、1583年の史料に基づく平均拡大家族構成人数は、集住がはじまる以前はその倍近くあったと考えていいのではあるまいか。
さて、植民地政府が確立してゆく16世紀半ばごろから打ち出された様々な政策は、マヤ人たちの生活に大きな変化をもたらしていった。政治組織に関して言えば、クッチカバルを統治していた王の死亡にともなう王位継承を認めなかった。対人主義の原則に基づき、ハラチ・ウイニクとバタブたちとの間に結ばれる諸関係の上に成立していたこの政体は、ハラチ・ウイニクの消滅によって雲散霧消し、かつてクッチカバルの構成員だったバタビルは、独立した政治組織となった。しかし、それとて旧態然とした拡散型の居住形態を持つ先住民集落をもとに成立していたものだったから、効率の良いキリスト教への改宗や貢納義務の賦課徹底を求めるスペイン王室にとっては、これは重大な障害以外の何ものでもなかった。グアテマラの高等司法行政院から派遣されたトマス・ロペス・メデルは、そのような現実に対して集住政策を実行に移したのである。
ヌエバ・エスパーニャ副王領で最初に集住政策の行われたユカタンでは、バタビルを単位として行われた。すなわち、拡散していたcahを、それが属するバタブの居住するcahに集めるのである。かつていずれのバタビルにも属していなかったcahは、その住民が結んでいる他のcahの住民との親族関係に基づいてその帰属が決定されたようだ。このタイプの集住がユカタンでは最も多かった。ツォノットチュイル村は、このようにして形成されたものである。一方、カンペチェとメリダ、メリダとバジャドリー、メリダとマニなど、ユカタン総督領の主立ったスペイン人の居住地を結ぶ幹線道路上に、またはそれにほど近い場所に位置していたバタビルに関しては、これに属していたcahを集めると同時に、このバタビルと政治的従属関係にあった周囲の複数のバタビルをも同じ場所に集住させた。いずれの場合にも、これによって創設された新しい先住民集落は、街路によって碁盤の目状に区画され、その中心には教会が建立されていた。具体的には、教会は中央広場をはさんでアウディエンシア、カサ・レアル、あるいはアユンタミエントなどと呼ばれた役場に面しているか、これを右手に見るように配置されていた。
先スペイン期的観点から見れば、新しく造り出された先住民集落は、家々が画一的かつ稠密に配置されているという点で、全く異質な空間であった。植民地政府によりプエブロ(村)と呼ばれるようになった村々は、現代に至るまでその基本的装いを変えていない。だが、その始まりはといえば、先住民の意思を完全に無視した強制という形で、フランシスコ会修道士によって実行に移されたのである。例えば、フランシスコ・アパリシオ修道士は全く何の前触れもなくテマサ村に現れ、荷物をまとめる時間をほとんど与えず、先住民が家を出た途端これに火をつけた。焼かれた家は160軒以上だったという。こうして家を追われた人々は、新しく指定された土地へ向かい、悲しみのあまり首長や貴族の多くが8日もしないうちに死んでしまったと報告されている。またシサル村の修道院にいたルイス・ビジャルパンド修道士は、ポポラ村の周囲に存在する先住民集落を全て焼き払い、人々をポポラ村に集めようとしたが、多くがその過程で森に逃亡したという。このほかにも、集住政策によって先住民人口が激減したという報告がエンコメンデーロたちによって多くなされているが、これは先祖崇拝を持っていたマヤ人たちが、家のどこかにその拠り所となる遺骨の一部などを持っていて、それを持ち出すことが出来なかった場合が多かったことにも関係しているはずだ。過去との絆を失った人々が、過去の上に築き上げる現在の生に意味を見いだすことが出来なくなり、そして同時に未来にも希望をつなぐことが出来なくなってしまったためであろう。円環的時間のなかで自らの生をとらえていたマヤ人にとって、過去のなかに未来は書かれているのであり、過去を失うことは、現在・未来が未知のものになってしまうことを意味していたのである。
むろん、「時を置かずして多くが死んだ」という表現をそのまま解釈すること、および円環的時間が彼らの生きる意思をも支配し、その行動を決定していたのだと断定することは、現実の複雑性を軽視することにつながる。この表現には、修道士の行為に批判的なエンコメンデーロたちの考えが反映されているし、17世紀末にイツァー族の王国のあるペテン・イツァー湖に浮かぶ都、タヤサルを訪れたフランシスコ会修道士アンドレス・デ・アベンダーニョの記録に基づけば、円環的時間論は、必ずしもそれを信じる人々に同一の行為をとらせる、あるいは強制するものではなかったという事実を考慮すべきであろう。しかし、ツォノットチュイル村やティシミン村のデータは、明確な人口減があったことを示しており、エンコメンデーロたちの証言が一面の事実を伝えていることは否定出来まい。 
4 カルキニにおける集住政策の特質:マヤ言説の再領土化
集住政策は、マヤ先住民にキリスト教を受け入れさせ、教会組織はもちろん、この宗教が持つ宗教的、社会的儀礼を自らの生活に取り込ませる、先スペイン期の居住形態を改めさせ、碁盤の目状の街区とともに、領土が明確に区画された空間を持つ村落に住まわせ、先スペイン期起源の王族や貴族から権力をはく奪し、村参事会(カビルド)に自治を委ねることを組織的に強制するものであった。すなわち、植民地政府の当初の狙いは、スペイン化させることによって先住民社会を根本的に改変することにあったのである。新たな現実に直面したマヤ人らは、これにどのように対処していったのだろうか。これを、カルキニ村を具体例として考えてみることにしよう。
カルキニ村は、チャンセノーテ、イサマル、マニ、テカント、オシュクツカブ、ティシミン、ソトゥタ、フヌクマとともに、16世紀後半にフランシスコ会管区修道院(グアルディアニア)がおかれ、管区における宗教的および政治的中心になったばかりか、お布施や人々が集まる場所ともなった。カルキニに関して言えば、これに加えてメリダ―カンペチェ街道上の中間点として、戦略的にもユカタン総督府政府の交易網の一部をになう重要な拠点であった。したがって、ここに􀀀_ 年の時点でハラチョ、キンラカン(現在のキラカン)、クカブ、モピラ、ヌンキニ、パンビルチェン、サカルム、シホ、テパカンという_ つのバタビルが集められたのは、カルキニを重要視していた植民地政府にしてみれば当然であった。
だが、これによって成立したカルキニ村の内実は、スペインの風に基づいて人々が生活するという本来あるべき姿とは大きくかけ離れたものであった。強制移住させられた先住民たちは、その社会組織の基本単位である拡大家族を一つのまとまりとして街区を占有していった。これによって、マヤ人らは家族のみならず、cahの内部における人間関係の網の目を保持し続けることが可能になったのであり、自分たちの社会が文字通り「根底」から変えられるのを防ぐことが出来たのである。先に引用したツォノットチュイルやティシミン村における拡大家族のリストは、この現実がユカタン半島大で見られたことを示すものだ_。
拡大家族を村(プエブロ)の基本単位として存続させることは、先住民のみの発想によるものではない。スペイン人聖職者および行政官がこれを認めたからであることは想像に難くない。この時代のスペイン王室と新大陸植民地の関係を考える時、常に生じたのは、前者が理想論・原則論に傾きがちなのに対して、出先機関である後者は現実に即した柔軟な対応をしていったということだ。植民地で働くスペイン人らは、人口の大多数を占める先住民に経済的に依存していることを熟知していた。したがって、王室が要求する完全なスペイン化を強制することによって先住民社会を崩壊させることよりも、その基本的な社会組織(拡大家族)の温存を「黙認」することで、彼らの社会を安定させる方式を選択したのであった。
ただし、「先住民社会の安定」は、先スペイン期に起源を持つ王族や貴族を君臨させ続けることを意味したわけではなかった。􀀀_ 世紀半ば以降、少しずつ時間をかけて彼らは村の政治から遠ざけられ、これに替わるものとして村々には参事会(カビルド)が設置された。もともとスペインから移植された、先住民村落の政治・行政の一本化を目的とするこの組織の長は、ゴベルナドールと呼ばれた。その下に、アルカルデ、レヒドール、マジョルドーモ、アルグアシルなどの役職者がいたが、ゴベルナドールを除いた他のメンバーは、毎年1月1日に貴族や平民が参加する選挙によって選出された。一方ゴベルナドールに関しては、植民地政府がこれを任命するシステムが17世紀まで続いていた。
先スペイン期起源のクッチカバルやバタビルが、村(プエブロ)に再編成されてゆく中で、マヤ人はアイデンティティーの機軸になるものを必要としていた。かつては王侯貴族らが政治・宗教・経済を一手に掌握していたことにより、彼らによって過去・現在・未来に渡る時の流れの中で宇宙論的意味が「今」に与えられていた。これに参加することで、人々は様々な関係の編目の中に折り込まれている自分を見いだし、安心を得ていたのである。だが、16世紀の半ば以降、その基盤である政治・権力機構が崩壊させられたことにより、創設された村ごとにアイデンティティーの源を求める以外に残された道はなかった。
ところが、村参事会(カビルド)そのものは、人々のアイデンティティーのよりどころにはなりにくかった。その機能が、政治・行政面に限定されており、宗教的権原を欠いていたところに問題があったように思える。まして、ゴベルナドールを除く全ての役職者が、毎年選挙によって入れ替わるとあれば、特定のグループによる安定した権力行使を期待出来なかったこと、そして何よりもかつて存在していた再分配システムも有効化することが出来なかったことなどがその理由として考えられる。人々をまとめる上に必要不可欠な、多くの人々の参加を前提とした儀礼を組織することことが出来ない村参事会は、アイデンティティーの創成と維持には極めて限定的な機能しか果たしえないのであった。
そこで、フランシスコ会修道士らが導入した、教会を介してのコフラディアやマジョルドミアにマヤ人が注目したのは当然だった。スペイン本国では、コフラディアは自発的な参加をもとにした互助的な性格を持ったものだったが、ユカタンでは村人全員が参加する、共同体そのものであった。各村は名目上いくつかのコフラディアを持っていたにも関わらず、実際には一つのコフラディア組織にまとめあげられ、これを管理する役職者は、並行して村参事会にポストを持つものがほとんどだった。コフラディアは様々な形で収入をはかり、時には牧畜に投資をする場合もあったという。これにより村人に要求される多くの課金をコフラディアが負担することになり、支払いが滞らない限りにおいて植民地政府も介入することはなかった。
カビルドの役職者を組み入れることで階層制を導入し、かつ政治・宗教をこれによりごく自然な形で融合し、さらにはコフラディアそのものの機能として互酬・再分配システムが備わっていという組織が村々にでき上がった時、これは彼らのアイデンティティーを維持・再創造する機軸となっていったのである。以後植民地時代を通じて、コフラディアは「伝統的な」組織としてマヤ社会をまとめ続けていく。このように、􀀀_ 世紀に選択されたキリスト教とそれを取り巻くように創造された社会関係は、むろん先スペイン期マヤのそれとは異なったものであった。しかし現実を生き抜く上に必要な手段として彼らはそれを取り入れ、自分たちの利益に叶うという形でこれに変容を加えたのである。そして重要なことは、新しく受け入れられたこの機構は、スペイン世界から脱領土化され、マヤ世界に領土化されたものなのであり、その後日常的実践のなかで継承されかつ発展していった「伝統」そのものとして人々に認識されてきた、別の言葉で言うならばその総体が「マヤの伝統的な言説」として再領土化されてきたものなのであった。
創設されたカルキニ村の内部において、このような目に見えないところでの文化変容が進行していったのに並行して、その首長は極めて具体的な問題に直面し、これに一つの解を与えていた。そこには、上に述べたと同じ脱領土化・再領土化のプロセスが明確に見て取れる。集住がはじまった時点で、カルキニの主だった人々は、これが耕作地分配を巡っての争いを惹起しうることを予見し、それを話し合いで解決していこうとする姿勢を確認している。それは、集住政策が従来の空間認識に大きな変更を加えるものであるという本質を彼らが見抜いていたことを意味し、同時にこの現実に自らの伝統に沿った形での対応をしていこうとする意識的な態度の表われでもあった。これを具体的に見ることにしよう。
『カルキニ文書』によれば、集住がはじまって間もない頃、すでにカルキニ村に移されていたモピラ村のバタブ(首長)、アフ・ツァブ・エウアンが、カルキニのバタブ、ナ・チャン・カヌルのもとを訪い、集住されたバタビルの人々はどこで耕作すればいいのかと尋ねた。ナ・チャン・カヌルは自分の支配がどこまで及んでいるのかを説明し、モピラの農民はどこで耕作すべきなのかを指示した後、次のように述べている。
「以後この了解事項に口をはさむ者のないように。また、この内容に疑義を表明したり偽りを述べたりしてはならない。何人も境界標を使用してはならない_。なぜならば、それは不和と殺し合いをもたらすからだ。耕地の端に境界標を置くならば、将来悪い人間によって動かされてしまうだろう。これこそが、耕地の端に境界標を置かない理由である。」
ナ・チャン・カヌルは、ユカタン総督府が要求する境界標の設置を拒んでいる。植民地時代を通じて、簡単に動かすことの出来るこの種の境界標が、様々な土地争いを引き起こしたことは歴史が証明しているから、彼の言葉は本質をついた名言であるといえるだろう。しかし、ここで見逃せないのは、境界標の導入を拒否しながらも、集住政策そのものに抗しているわけではないということだ。それには従いつつも、問題を生じせしめる可能性のある要素を排除しようとしているのだ。この態度を、「境界標を置くことはマヤの伝統にはなかったからだ」と説明することは、一面的であるというそしりを免れえない。集住そのものが、先スペイン期の居住形態とは相容れないものだからだ。したがって、ナ・チャン・カヌルは避けて通ることの出来ない集住を現実として受け入れ、そのなかで、強制移住させられた集落の人々がいかに問題なく耕作出来るようにするかという切実な問題を解決することに腐心しているのだ。むろん、スペイン側にしてみれば、集住を通して創設された村落に明確な境界線が設定されたのであり、これを境界標によって具体的に示すことは不可分の「パッケージ」として認識されている。だが、ナ・チャン・カヌルはそうは考えていない。彼は集住政策をいくつかの要素に分け、その重要性および必要性に応じて取捨選択しているのである。
だが、その長男であるミゲル・カヌルが家督を継ぐと、「パッケージ」を解体すること自体が難しくなっていた。父ナ・チャン・カヌルが先スペイン期的な、対人主義に基づいた空間認識に基づいて説明した「自分の支配が及ぶ範囲」は、息子の代には「カルキニ村の領界」へとその表現が変わっていた。これは実際の空間認識がどうであったかは別にして、少なくとも公的な言説において16世紀後半文書は別の論理を使用し始めたことを示している。これを具体的に見てみよう。
「私たちは、話しあいが終了したのをこの目で見た。そこでは、(カルキニ村の)領界が測られ、決定されたのだ。参加した人々は、カラフクムの住民が境界標を結ぶ道を開くことに合意した。彼らは、イシュカラクヤの所まで行き、そこで話し合った。シュカラクヤに着いた時に、北の方の境界について議論した。・・・・それからシキンチャフの水場の北、サバンナの端、ワスの木があるところに出た。べークの木の根元に十字架を立てた。道を開きつつチャナップのサバンナの端に出た。」
第2節に引用した同じ『カルキニ文書』の文と比較すれば、その差は歴然としている。前者において、言及されている地名は首長の支配権が及ぶ「端」を示す目S 印S であり、相互に境界線では結ばれていない。ところが上の文章では参加者は「道を開きつつ」次の場所へと移動しているのだ。この時点で地名は境S 界S 標S に変化し、彼らの言う「道」は境S 界S 線S となるのである。これによって、同じ空間がそれまでの「支配域、管轄域」から「領域」へと意味論的・認識論的変化を遂げたことが分かる。しかも、十字架というこれ以後領界を示す道具として使われるようになる「標(しるし)」が初めて用いられていることは、意味深い。これを用いたカルキニ村の役職者は、明らかに植民地政府の要求に従って「村の領S 土S 」を策定しているからである。
こうして16世紀後半には、先スペイン期の習慣にはなかった境界線が、境界標の使用とともに設定され、これによってカルキニ村は面としての領土を持つようになった。当時の人々は、この時に自分たちの文化には存在していなかった要素が取り入れられたことをはっきりと認識していた。だが、17世紀に入り、スペイン人による征服と植民地時代のはじまりという苦難に満ちた歴史が、遠い記憶の中に結晶し始めると、「今」を生きる人々にとって、日常生活の中で看取出来る現実は天地そのものと見なされるようになる。_ つの異なった伝統に基づいた空間認識は一つのものとなり、「我々の土地」と認識するための言説へと変貌を遂げてゆく。だから、この世紀の半ば頃それまであった文書を整理して『カルキニ文書』が編纂され、続く18世紀、19世紀に隣接する村々と領地争いに巻き込まれたおりに、「はるかな昔から村が所有している」ことを証明するものとしてこの文書を裁判所に提出した村の役職者たちの脳裏には、16世紀に創成された空間認識が所与のものとして浮かんでいたのは当然だった。それは、この時に添付された村の地図に明確に読み取ることが出来る(図)。ここにも、系統の異なる2つの空間認識がなんの矛盾もなく作図者によって自家薬籠中のものとされているし、さらに時を経て、1821年には、カルキニ村の人々が村の地図をマニ村にある公文書へ探しに出かけているが、そこには「私たちの土地や耕地の端」が描かれているからであったと『カルキニ文書』には読める。したがって、集住政策が終了してひとまず植民地支配が確立した時に、先住民らはスペイン人によって改変された空間を自らのものと見なし、世代を経て、それこそが「昔から」自分たちが確かなものとして受け継いできたものだと一様に思ってきたのである。
植民地時代に外来のものが取り入れられ、「自分たちのもの、(私たちからすれば)マヤ的なもの」として「伝統」のなかで語られていくプロセスを、別の事例から見てみよう。集住政策は、単なる先住民集落の改変にとどまるものではなく、「文明」の名に恥じないようキリスト教への改宗、植民地支配への統合、具体的には貢納システムへの編入を意味した。だが、その複雑な内容が、先住民をして様々な対応を生むことになる。まず、これ全体を一つのものとして受け取り、それを拒否する人々がいた。彼らは特定の集団を形成することなくcah単位、家族あるいは個人のレベルでこの選択を行い_、スペイン人の手の届かないユカタン半島東岸から中・南部のジャングル地帯へと移住していった。そして、移住先で自分たちが慣れ親しんできている空間を持つ集落を再創設することになる。しかし逃れたとは言え、総督府が管理する地域に残された家族、親族とのコンタクトは維持し続け、相互に依存関係にあったことは、多くの史料が示している。
一方、ユカタン総督府管轄域に残った人々は、植民地政府が打ち出す様々な政策を拒否する立場にはないが、そのなかで出来る限り自分たちの日常生活が営みやすいように、様々な工夫(戦略)をしていくことになる。これに関して、再びカルキニ村の例を分析してみよう。ここでは、創出された「村」の内部における空間の占有についての分析をしてみたい。
カルキニ村(プエブロ)のなかに組み込まれた_ つの村(プエブロ)のひとつであるキラカン村は、教区教会の南西部に配置され、その中心部には小さな礼拝堂(カピージャ)が建てられていた(図6)。
図5 カルキニの地図
図6 キラカン地区礼拝堂
礼拝堂の正面(西向き)には、一ブロックは優にあると思われる広闊な広場があり、毎年7月31日の守護聖人聖イグナシオ・デ・ロヨラの祭りに、ここは人であふれかえっていたはずだ。『カルキニ文書』によれば、1582年12月9日にカルキニの街路がペドロ・ぺーニャ・クラーロス修道士の指導によって完成したとあるから、今キラカンで見ることの出来る礼拝堂と広場辺りの景観は、この時期に完成していたと見るべきだろう。これが新しく創設された村(プエブロ)の一般的な形であり、町割りのみならず、村の生活空間の中心にキリスト教の礼拝堂を据えることを、スペイン人によって強制されたと同時に、これを受け入れたマヤ人があったことを雄弁に物語っている。これについて、『カルキニ文書』は興味深い記述をしている。「街路の建設には多くの時間がかかった。その間、多くのバタブたちがこれに参加した。次に挙げるのは彼ら全員の名前である」。残念なことに肝心の参加者のリストが文書には欠落しており、どの村の首長らが関わったのかを知ることは出来ない。だが、重要なことは、彼らが自発的に参加していたことであり、しかも名前を記録に残していた事実は、彼らにとってこの作業が必ずしも否定的なものではなかったことを示している。すなわち、村のエリートたちにとって、スペイン人によって作り出された空間は拒否出来ないものとして存在し、この与えられた条件の中で新たな社会の創成に積極的に参加し、自分たちの占めるべき地位を確保することに重大な関心を払ったのではあるまいか。
この点に関して、17世紀後半からメキシコ中央高原の多くの村々で作成された『権原証書』の内容に関する研究は、『カルキニ文書』に数行で書かれている事実の背後にある、先住民エリートのしたたかな態度を明確にしてくれる。ステファニー・ウッドによれば、証書の作者らは教会や礼拝堂の建設に従事したことに誇りを持っていたようだと指摘し、先住民エリートらは植民地政策に徹底して反対するどころか、積極的にこれを取り入れ、新たな組織の中に自分たちの特別な地位を築き上げようとしたのだという。今まで一般的に考えられてきたように、植民地時代に生きたマヤ人が、自らの「伝統」を守り抜くためにスペイン人に対し常に抵抗を続けてきたのだという言説は、一面的に過ぎるようだ。彼らは、想像以上に新たな現実に対応している様子が、上に述べた極めて短い文によくにじみ出ている。
さて、こうして出来上がった、一見先スペイン期の集落とはよほど異なった形態を持った先住民村落は、逆説的かもしれないが、前の時代と明確な断絶線によって画されているというわけでもなかった。私たちが見落としてはならないのは、外来要素の極めて強い所与の空間に対し、マヤ人は独自の解釈を行い、スペイン人が想像もしなかった、重層的な意味をこれに与えていたということだ。それは物質的には捕えにくいものであるがゆえに、看過されやすい性格のものだった。まず私たちは、現在ではバリオと呼ばれ、カルキニ市の一地区となっているが、キラカンをはじめとする集住させられた村々は、19世紀末までcahであるみなされていた事実を挙げねばならない。入れ子構造を持つカルキニ村を構成する集住村落が、行政的な独立性を保ち続けていたことをこれは示すものだが、その淵源には次のような歴史的背景があったのである。すなわち1560年代前半にユカタンを治めていたアルカルデ・マヨール、ディエゴ・キハーダに対し、カルキニの首長は、自分が治める村にのみ村参事会を設置し、集住させられた村々からはレヒドールとよばれる参事会員を出させるという提案をした。この案は、カルキニ以外の村々がかつて享受していた自治性を事実上剥奪するものであり、しかし植民地政府にしてみればカルキニ村が行政的に一つの単位となることを意味していたから、大いに歓迎すべきものだった。だが、そうと知った村々の長は猛反対をし、ついにはキハーダ、首長もおれてそれぞれの村が参事会を持つことになったのである。
本来であれば、新しく創設された村ごとに一つの参事会を設置することで、先住民社会の再編の基礎が出来たはずなのだが、この事例に見るように複数の村々が一ヶ所に集住させられた場合、各々がその政治的自立性を保ち続けたケースが多かった。その例をもう一つ挙げておこう。それは、1565年ごろまでにマニ村に集住させられたオシュクツカブ村である。後に、この村はかつてあった場所に再移動させられたが、1581年にオシュクツカブ村にフランシスコ会管区修道院が建てられると、ここにヤシャ村とティシュクンチェ村が移動させられた。1630年代ごろまではこの_ つの村々にはそれぞれ参事会が設けられていたが、後1640年ごろになるとこれらはヤシャクムチェという􀀀 つの村に改編させられて、しかし参事会はそのままに独立期を迎えることになる。すなわち、これらの村々では、特定の首長が、集住のために人口がかつてよりもはるかに多くなった村(プエブロ)全体にその権力を振るうことが出来なかったのである。
ある首長が絶対的な権力を振るうのを許さない政治機構は、実のところ先スペイン期末のマヤ社会にはあまねく存在していた。カルキニを都としていたカヌル家が支配をしていた領域では、これを構成するバタビルの長が、必要があるたびにカルキニに集まって会合を開いていた。ところが、その会合は必ず屋外で、しかもイシュ・ハリムという名のセノーテ脇にある聖なる樹、セイバの木陰で行われていたのである。会議では参加者全員が同意に達することが重視されており、『カルキニ文書』に「我々は兄弟である」、「合意に達するため」という表現が見られるのはそのためである。これは、カヌル家の王に服するバタブらの発言権が強かったことを示しており、この時代のマヤ人の王は、盟主・仲介者という性格を強く持っており、絶対的・中央集権的だった古典期の王権行使のありようとは大きく異なったものであった。カルキニに集められた村々の長が自分たちの政治的自立性を保とうとした事実は、したがって先スペイン期における政治風土が生き残ったものと見ることも出来よう。むろん先住民王族の目的が、植民地体制にあって自らの権威を確保しようとしたためであることは言うまでもない。だが新しい現実に対応しようとする彼らの行動を規定していたのは、おそらく長年歴史の中で培われてきた対処法なのであり、それを模倣・再生産したのだと考えるべきであろう。また、本来口碑伝承によって伝えられる内容が、これを文書に記すという行為に置き換えられているのは、旧王侯貴族が政治に関わることが禁じられ、選挙や植民地政府の指名によって選ばれる村参事会の役職者が、そのポストを世襲とすることが出来にくいこと、したがって世襲を前提とした口碑伝承が機能しなかった現実を反映しているのだ。アルファベット表記のマヤ語で書かれた文書は、彼らの子孫らがその内容を通して共同体の記憶を更新し、模倣・再生産する源として、文化の継続性・連続性を確かなものにする働きを持っていたのである。
話をもとに戻そう。先に述べた、先住民村落内に政治的に独立した別の村落が存在し続ける現実は、間違いなくスペイン国王・インディアス枢機会議が想定しなかったものだ。だが、ヌエバ・エスパーニャ副王領の先住民社会の現実は、スペイン人聖職者・行政官に柔軟な対応を求めていた。先住民社会の根底からの改編は、彼らの社会そのものを崩壊させてしまいかねなかったからで、それは同時に先住民に依存している植民地経済に危機をもたらすものであった。このあたりにスペイン人支配者と先住民社会とが折り合える可能性があったのであり、その後植民地時代を通じて、双方の暗黙の了解は多くの場で看取出来ることになる。そのひとつが、マヤ社会の基本単位であった拡大家族を、集住政策において手付かずに残したことである。むろん、各拡大家族が維持していた政治的な紐帯、すなわちcah のもととなるバタビルも温存された。この事実は、前節で引用した1583年のディエゴ・ガルシア・デ・パラシオの巡察記録にもはっきりと見て取れる。ツォノットチュイル、ティシミンをはじめとする村々の住人は、皆拡大家族を単位として近接した場所、さらに言うならば同じブロックに中庭を共有しつつ住んでいたのである。かくして、表面的には植民地政府が意図したスペイン風の街並みを持った村々が出現したものの、その内部では先スペイン期の社会組織の基本的な部分が温存されていたことになる。
こうして、拡大家族を単位として、cahごとに上にも述べたコフラディアなどの組織が機能していたから、これらは、事実上政治・宗教を軸とした参事会・礼拝堂・広場とともに一つのセットとして、あらゆる意味で独立して機能する空間・組織を住民に提供していたのである。このことは、カルキニ村全体の運営に大きな障害となったはずである。なぜなら、カルキニの中央に建設された教区教会は、その管轄下に全てのcahの礼拝堂を置いていたが、カルキニ村の参事会には集住させられた村々の政治に介入する権限は与えられていなかったからである。したがって、宗教・政治における権限が対になって付与されていなかった状態で出来上がったカルキニ村には、その中心部の求心力に関する限り、宗教的なもの以外あまりなかったという、珍しい特徴を備えることとなった。
この、カルキニ村の中心と周囲のcahとの遠心的関係は、同時に空間占有にも明確に反映されていた。それを伺い知ることの出来る材料が2つ存在している。一つはカルキニとは関係がないのだが、『ヤシャ村シウ家関係文書』に頻出する、
「サン・フランシスコ・オシュクツカブの場所の端に位置するサン・フアン・ヤシャ村において」という表現である。これは、「オシュクツカブ村にヤシャ(クムチェ)村が集住させられ、しかしこのヤシャ(クムチェ)村が位置しているのは、オシュクツカブ村が占有している空間の端の方である」ことを意味する。したがって、2つの村の間には何もない空間が存在しており、距離が離れている印象を強く受ける。同様なことは、1582年に作成されたユカタン総督府(コスメル、タバスコ地方を含む)の修道院、教区教会、村々の一覧表に見える表現にも見て取れる。
図7 カルキニ中心部
「サン・フランシスコ・オシュクツカブ村修道院。オシュクツカブ:修道院のある場所にある。ヤシャ:本来の場所にある。ティクムチェ:前者と同じ場所にある」
「本来の場所」とは上のマヤ語による表現から得る印象と全く一致する。
すなわち、オシュクツカブとヤシャ村の間には多少の距離・空間が横たわっているらしいということだ。
一方同じ文書に記されているカルキニの状況はと言えば、
「サン・ルイス・オビスポ・カルキニ村修道院。ヌンキニ:同じ場所にある。クカブ:同じ場所にある。モピラ:同じ場所にある。パンビルチェン:同じ場所にある。シホ:同じ場所にある。カラフクム:同じ場所にある。ハラチョ:同じ場所にある。キンラカン:同じ場所にある。テパカム:__ レグア離れた場所にある・・・」
と、皆同じ場所にあると言うのみだ。ここで使用されているスペイン語が「町、村などがある場所、部分」を意味することを考慮しても、オシュクツカブとヤシャにおけるような関係を想起することは難しい。
ところが、この写真を見ていただきたい(図#)。これは􀀀__ 年に撮影されたカルキニ村の中心部である。修道院以外、その周囲にはこの年に建設された左側の建物を除き何もないのだ。すくなくとも教区教会を中心として􀀀 ブロック四方には建物が存在していない。中心には、それを示す構造物(教区教会)以外には空白が存在しているのだ。おそらくこれは、村全体をまとめる政治的機構を欠いていたカルキニ村の中心部に出現した、「空白」の空間そのものを受け継いだものであったろう。
私たちが、集住が行われた村々の中心部には、広場を中心とした公的な空間があり、そこには教会や役所の建物があったといつも考えているが、そうではない場所も存在していたことを、この写真は教えてくれる。ファリスは、「あたかも森林によって数キロメートルも離れていたがごとく」集住政策によって移動させられた村々が、相互に独立して機能していた場合もあったと述べているが、実際数キロメートルとは言わぬまでも、相互の間には何もない空間が大なり小なり広がっていたのである。
では、少なくともカルキニ村に集められた___ の人々は、新しく出来上がった街割りに問題なく住むことが出来ていたのであろうか。これを、いくつかの資料を用いて考察してみることにしよう。下にあげる表は、1565 年にカルキニに集められた村々の、1549年当時の推定人口である。
1549年から1565年までの間に総人口は減少傾向にあり、人口学者の試算によれば1519年から1565年までの間で50から80パーセントの減少であるという。もっとも1549年から1565年に限ると、減少傾向ははるかに少ないものとなり、およそ20パーセントくらいだったと推定される。人口減少には疫病のまん延が主原因として関わっているが、スペイン支配地域からの逃亡者が後を絶たなかったことも考慮に入れる必要がある。したがって、上の数字から1565年当時の人口を推測すれば、1200人ほどの貢納人口となり、総人口はおよそ5400人となる。一方、先に用いたツォノットチュイル、ティシミン村のデータによる人口減少率を当てはめれば、総人口はそれよりもはるかに少なく、約3400人となる。2005年の統計によれば、カルキニの人口は14289である。したがって、1565年当時のそれが3400〜5400人の間にあったとすれば、余程の稠密さであるといわねばなるまい。
しかも、カルキニ村が占めている土地はさほど広くはなかった。1998年、すなわち今からわずか12年前の市街地は、教会があるところから起算しても、東に2ブロック、北に7ブロック、西に2ないし3ブロック、南に3ブロック分の広がりしか持っていなかった。したがって、1565年当時はそれよりも小さな市街を持っていたであろうと推測せざるをえず、それは図8 に示される円で囲まれた部分、あるいはこれよりも小さな地域にほぼ相当するものだったはずだ。
この狭い空間へ3400〜5400人もの人々が、しかも拡大家族を単位として移動させられたのだ。物理的にそれだけの人数を収容することは出来ない。私は、集住が行われた当初から、人々は主集落から離れた場所に拡大家族を単位として小さな部落を複数つくって住んでいたのではないかと推測している。次の文は、現代のチェマシュ村でのブラウンの観察によるものだが、これと同じことを、例えばキラカン村の人々が行っていたのではないかと考えるのである。
「チェマシュの人々は、自分の農地に責任を持つ農民である。農地は時に10レグア離れたところ、あるいは村から歩いて1日はかかる場所にあることもしばしばである。したがって、彼らが遠い農地に小さな集落を作ってそこに住むこともあったが、同時に彼らは一年を通じてチェマシュ村の行事に参加し、関係を保たねばならなかった。同じ理由によって、村に家を構えていることも必要であり、またそうすべきであると考えられていた。村の中心にある様々な組織に関わることを通してチェマシュ村に属し、関係を成立させ、これを維持することが出来るからだ。同時にそれは、住人として農地への権利を保持することが認められることを意味していたのである。これはこの地域の農民自身とその家族が生き、成功するために本質的に重要なものであった。」
新しく創設された村(プエブロ)には広場と教区教会、集住させられた他の村々の中心となる礼拝堂とその前に広がる広場が設けられ、その周囲に村のなかでも主だった拡大家族の家々があった。そしてさらにそれを取り囲むように、農民の家々があったのだろうが、これらは農民が村との政治的、経済的、宗教的、人的関係を保つために持っていた最小限のものであり、さほど棟数、敷地が大きいものではなかったはずだ。農繁期にはほとんど空き家同然になっていたろう。なぜなら、彼らは割り振られた農地にほど近い場所に小集落を作り、そこで一年の半分以上の時間を過ごしていたからである。
ヴォルフガング・ガバートによれば、16世紀半ば頃にそれまで400ほどあったマヤ村落は170の村(プエブロ)に改編され、この数は後に23村にまでまとめられることになった。だが、集住計画は長続きせず、19世紀初頭には村の数は223に増加し、その周囲に散在する小集落は、18世紀の初頭に900あったものが、その約100年後には1500にまで増えていた。18世紀の始め頃には、先住民人口の3分の1が散在する小集落に住んでいたという。カルキニの例は、少なくとも複数の村々が集められて出来上がったプエブロでは、当初からその周囲に小集落が散在していた可能性を示しているのである。このことは同時に、植民地政府の企図とは別に、巧まずして先スペイン期にバタビルが持っていたものと酷似した居住形態が保持されていたことを意味している(図3を参照のこと)。そして、先住民人口に植民地経済を依存しなければならなかったユカタン総督府は、その社会を支える基盤であった拡大家族、農耕法と密接な関係を持つ居住形態をマヤ人が温存することを暗黙のうちに認めざるをえなかったのである。
以上をまとめておくと、次のようになる。スペイン人により異質な原理に基づいた構成を持つ空間を与えられたマヤ人は、一方では植民地時代の現実に合わせて目に見える形で応じていった。キリスト教への改宗、それに伴う教会・礼拝堂の建設、村参事会の受け入れ、集住の受容とその後の街区建設への参加、そしてもともと自発的な参加に基づく宗教色の強いコフラディアに、政治・宗教を統合した新しい機能を付していったことなどは全て、マヤ人が新しい「外」の要素を積極的に、しかし選択的に取り入れていったことを示すものだ。これらの政治的、経済的、宗教的要素は、同時にヨーロッパにおけるものと全く異なった、先住民社会において意味があるものへと変化を遂げる。先住民は、オリジナルのコンテクストから脱領土化し、自らの社会になじむ形に再領土化し、植民地時代のマヤ社会の「伝統」に組み込んだのである。
脱領土化や再領土化を行った先住民社会が占有する空間は、一方で植民地政府が強要した形態を持っていたものの、他方で濃厚に先スペイン期の居住形態を残しているという、特異なものであった。植民地時代を通じて農耕の方法が前の時代と全く変わらないものであり、かつマヤ語の使用が禁止されることがなかったという条件は、これに最も適合した居住形態を保持させることを可能にしたのである。そして植民地政府はこれら全てを黙認することで、先住民社会と共存することを選んだのである。全面的なスペイン化は、ユカタン・マヤの場合にもついに行われることがなかった。だからこそ、支配者らは、上に述べたようなプロセスを経て出来上がった異質な空間を内包する先住民社会を、先スペイン期のマヤに対して抱いていたと同じ不信感を持ち続け、彼らの反乱を20世紀初頭に至るまで警戒することとなった。先住民のリーダーらは、それを知悉しており、17世紀後半以降「反乱」の可能性を恫喝材料に使いながら、植民地政府との交渉を行っていくのだ。 
5 結語
落合は、マヤ文化を考える上に「かたい文化」と「やわらかい文化」という2つの概念を用いることが出来ると述べている。前者は、ものとして残る、同時に「発展や滅亡という直線的な時間概念に基づく歴史観が潜んでいる」のであり、後者は「循環的な時間概念に支えられた『継続更新』という文化伝達の型を示す」。「やわらかい文化」の風景は「一時的で移ろいやすい」性格を持つがゆえに、「模倣し、再生産し、更新することができ」、それによって「継続性や連続性を獲得し、存続し続けてきた」と言うのである。
先スペイン期の伝統を保っていたマヤ社会を大幅に改編した植民地時代にあって、とりわけ集住政策は本稿の主題である先住民の空間認識に深く関わっていた。王や貴族の支配のもとに機能していたマヤ社会は、彼らの特権の源が全て否定されその行使を禁じられたことにより、一般の人々と共に新たなアイデンティティーの確立を求め、スペイン人が移植しようとした様々な政治・社会的機構、キリスト教を受け入れた。これを別の言葉で言えば、外来の文化要素をその文化的コンテクストから脱領土化し、今度はマヤ文化というコンテクストに取り込み、そればかりではなく、これに自らの解釈を加えで自分たちのものとみなして再領土化したのである。ここでいう「自分たちのもの」は、次の世代以降植民地時代のマヤ社会の「伝統」として受け継がれ、しかし「伝統」という言説はしなやかにその時々の必要性に合わせて再解釈され、再領土化されて、落合の言う模倣・再生産・更新というプロセスをたどることになった。
植民地時代のマヤ社会が創り上げられた空間に目を向ければ、その中心には広場・教会・村参事会があり、これを起点として碁盤の目状の街区が広がっていたから、誰の目から見てもこの時代の先住民社会は先スペイン期とは一線を画しているように見えた。しかし、ここでも上で見たと同じプロセスを経て、マヤ人はその異質な空間を自らのものとして再領土化していたのである。カルキニの場合、そこには広場・教会・村参事会をセットとして持つ、したがって政治的に独立した機能を有していた村々が集められ、カルキニの中心に置かれた教区教会は、宗教的なまとまりを全体に与えこそすれ、政治的な求心力に欠けていた。これは、先スペイン期のカルキニとバタビルとの関係の一部を植民地時代に再現した形に巧まずしてなっていたのである。だから、各村々の間にはそれと分かる空間が横たわり、近年に至るまでカルキニの中心には何もない野原が広がっていたのだ。しかも、植民地時代のカルキニが占有していた土地の広さは、集住させられた村々の全人口を収容するにはあまりにも狭かった。だから、人々はその周辺に衛星集落を作ることで、これを解決していたのである。
こうして、16世紀半ばに出現した新しいマヤ人の居住空間は、新旧ないまぜになった極めて面白い外観と意味とを持つに至った。それは、外来のものを積極的に取り入れてこれを自らのものとし、「現在」を生き抜こうとする先住民のしたたかな態度の表れである。彼らは、先スペイン期社会との断絶の上に生きていたのでも、また先スペイン期の伝統に固執し、それにしがみついて外来のものを拒否していたのでもなかった。スペイン人が入ってくる前から、彼らはメソアメリカの様々な文化と交じりあい、対立し、自らの文化を豊かにしてきたのである。そして、ヨーロッパ人と出会い、彼らによる支配を受けることになった時、やはり同じように柔軟な態度で「伝統」を更新し、自らを存続させていったのであった。 
 
神話の太陽神

 

アジア
1 インド神話
サヴィトリ
インド神話には様々な太陽神が登場しますが、この「サヴィトリ」もその一つです。「サヴィトリ」は「鼓舞者」、「激励者」、「刺激者」などの意で、太陽が陽光によって万物を刺激、鼓舞し、活動を促す1側面を神格化したものです。そのためバラモン階級の人間が最も神聖視し、毎朝唱える讃歌ガーヤトリーはサーヴィトリーとも呼ばれています。
神話の中では「サヴィトリ」は、バガ、プーシャンとともに身体毀損の伝承を持っています。バガは公正な富の分配を司る神で、盲目の神であるとも言われています。プーシャンは太陽神であり、道祖神で家畜や動物の守護神とされています。プーシャンは太陽神スーリヤの娘を妃としており、古代インドの聖典である『リグ・ヴェーダ』では、陽光の持つ万物を生育する力、一切を見渡す力を神格化したものとされていますので、太陽神であることは間違いないようです。
奇怪なのは、「サヴィトリ」を始めとする三神が身体毀損の伝承を持っていることです。「サヴィトリ」はシヴァ神(ルドラ)から手痛い被害を受けたうちの一人であり、シヴァは「サヴィトリ」の両腕を切り落とし、バガの両眼をえぐり、プーシャンの歯を全部折ったとされています。シヴァ神は破壊神ですからそのとばっちりを受けたわけですが、幾ら神話とはいえ、太陽神の両腕がなくなったり、歯が折れたりするのは変な話です。
「サヴィトリ」もプーシャンも、太陽神の働きの一部を神格化したものに過ぎず、信仰の対象にはならないようです。
ヴィシュヌ
インドの最高神ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが本来は一体であるとする三神一体論において、「ヴィシュヌ」は世界を維持する役目があるとされています。古くは『リグ・ヴェーダ』にもその名の見える起源の古い神格で、世界を3歩で踏破する自由闊歩の神として扱われています。その名は、サンスクリットで「広がる」「行き渡る」を意味する√viSに由来し、恐らくは世界の果てまで届く太陽光線の神格化であったと考えられています。そのため後には太陽神アーディティヤの1人ともされ、最終的には他の太陽神スーリヤを取り込んで神格を形成しました。
アーディティヤは古代インド神話における神々の集団の1つで、アーディティヤ神群と呼ばれますが、古来より太陽との関連が深い神々とされ、後世には「ヴィシュヌ」などが加わって12神とされるようになりました。
「ヴィシュヌ」には太陽神としての性格もあるようですが、それは属性の一つに過ぎません。破壊神のシヴァと一体であるとすると、とても信仰の対象にすることはできません。
スーリヤ
インドを代表する太陽神と言えば、この「スーリヤ」です。一般的に、金髪に三つの目、そして四本の腕を持つ姿で現されます。七頭の馬が引く戦車に乗り、天を翔ると言われています。
仏教では日天とされ、十二天の一つです。正しくは日天子と言い、宝意天子、宝光天子などの異名もあります。当然ながらこれも太陽(日輪)を神格化した神で、観世音菩薩の変化身の一つとされています。太陽を宮殿とし、その中に住すと伝えられています。
日天の象形については、二臂像で八頭立ての馬車に乗った姿で表されます。
「スーリヤ」の方は三つ眼で四臂(「臂」は手首からひじまでの部分を表します)ですから、これに比べればまともです。しかしこの日天は両界曼荼羅や十二天の一人として信仰され、単独で信仰されることはほとんどないと言いますから、仏教では余り信仰されなかったようです。仏教は、「西方浄土」に示されるようにどちらかと言えば陰性の宗教ですから、陽性の太陽神には人気が集まらなかったようです。
この点はインドも同じで、太陽信仰より月の信仰の方が盛んであり、「スーリヤ」もそれほど信仰を集めた形跡はありません。インドは暑い国ですから無理もありませんが、三つ眼で四臂という異形の姿では拝む気もなくなるでしょう。
ヴィローチャナ
「ヴィローチャナ」は、インド神話や仏教説話では古くからアスラ(阿修羅)族の王、あるいは単に太陽神とされてきました。アスラは、インド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称で、ペルシャにおけるアフラ・マズダーに当ります。アスラは本来、『リグ・ヴェーダ』に見られるように悪役的な要素はなく、雷神で天空神のインドラ(仏教では帝釈天)に敵対することもある天空神・司法神ヴァルナの眷属を指していました。しかし次第にその暗黒的・呪術的な側面が強調されるようになり、時代が下ると悪として扱われるようになりました。
「ヴィローチャナ」は阿修羅の魔王ヒラニヤカシプの孫にあたり、父の名はプラフーダと言い、魔王バリはその子供とされています。これはどう見てもまともな存在ではありません。「アスラはア(a=非)・スラ(sura=生)である」という解釈は俗説とされていますが、当っているような気がします。
かつてインドラと共に「本当の自我とは何か」という真理を求めた「ヴィローチャナ」は、その奥義を得て満足し、アスラたちに伝えたという。それは「美しい飾りをつけ、水や鏡に映る身像、それこそ自我であり、梵(宇宙の真理)である」というものであったと言われています。この悟りは正しいものとは思えません。やはり「ヴィローチャナ」の系統には問題があるようです。
なお、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における仏の一つですが、これはサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」を音訳したものです。この「ヴァイローチャナ(Vairocana)」は、「ヴィローチャナ(Virocana)」に由来すると言う説があります。毘盧遮那仏から発展したのが大日如来ですから、これが正しければ阿修羅の一族と言うことになります。  
2 中国神話

 

義和
「義和」は、中国古代の地理書「山海経」に出てくる神で、太陽の母神とされています。東海の海の外、甘水のほとりに義和の国があり、そこに生える世界樹・扶桑の下に住む女神である「義和」は、子である「十の太陽たち」を世話していると記されています。天を巡ってきてくたびれた太陽を洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせるというのですが、話としては面白くても有り難みには欠けます。
山海経(せんがいきょう)とは戦国時代から秦・漢期にかけて徐々に付加執筆されて成立した中国最古の地理書であり、禹の治水を助けた伯益の著に仮託されて伝えられています。各地の動植物、鉱物などの産物のことが記されていますが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれており、そこに古い時代の中国各地の神話が伝承されていると考えられています。我国に関する重要な情報が含まれていると見る人もあり、検討を要すべき文献です。
「十の太陽たち」とありますから十個の太陽があったことになりますが、太陽系ではそのようなことは有り得ないので、宇宙規模の神話と見るべきなのかもしれません。「義和」のことは次の2でも出て来ますが、想像力豊かな中国人が生み出した神話の中の一つのキャラクターと見なすのが妥当なようです。
火烏
「火烏(かう)」は中国に伝わる伝説の鳥で、3本の足を持った烏ともされ、「三足烏(さんそくう)」と呼ばれます。
帝俊(「こく」ないし舜と同じとされる)には義和という妻がいて、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を儲けました。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていましたが、堯の時代になり、10の太陽がいっぺんに現れるようになりました。これにより地上は灼熱地獄となり、作物も全て枯れてしまったのです。
この窮状に対して、堯が対策を依頼したのが「げい」である。「げい」は弓の名手で、初めは威嚇して太陽たちを元のように交代で出てくるよう説得しましたが、効果がありませんでした。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落としました。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされています。干支で言う十干は「天」を表していますが、これは元々太陽を意味していたのかもしれません。
「げい」が射抜いた太陽は、全部「火烏」になって地上に落ちたと言われています。これが「火烏」が太陽とされるいわれです。「火烏」は太陽の化身ということになりますが、これは日本神話に出てくる八咫烏に似ています。
八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、神武東征の際にタカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる三本足の烏です。日本サッカー協会のシンボルマークに用いられて有名になりました。しかし、三本足と明記されているわけではありません。
八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場しますが、『日本書紀』では、やはり神武東征の場面で金鵄(金色のトビ)が登場します。金鵄は、ナガスネヒコとの戦いで神武天皇を助けたと記されており、八咫烏と金鵄はしばしば同一視されます。神武天皇は太陽を背にすることによって戦いに勝っており、八咫烏と太陽が結びつけられていることは明らかです。三本足の鳥の神話は世界に広がっていて、ギリシア神話にも登場します。太陽神アポロンの烏は本来白かったのですが、後にアポロンの怒りを買って黒くなったとされています。からす座のからすはこの烏とされ、古い星座絵図の中には3本足で描かれている物もあるそうです。また、高句麗では天孫の象徴であるとされており、古墳壁画にも三本足の烏が描かれていると言います。
「火烏」も八咫烏も太陽と結びつけられていますが、烏は害鳥であり、太陽の象徴として相応しくありません。黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もありますが、これはこじつけでしょう。「3」の数字には、天地人などそれなりの意味はあることでしょう。しかし足が三本というのでは奇形でしかありません。太陽や太陽神のシンボルとするには、もっと適切なものが外にあったはずです。「火烏」も八咫烏も、今のままでは信仰の対象にはなり得ません。
中国思想史の研究者の森三樹三郎氏によると、古代の中国には太陽崇拝はなく、天を祀る郊祭は盛大に行なわれていましたが、太陽を祀る独立した儀式はなかったそうです。中国人が重んじた天帝は蒼穹を連想したもので、太陽神とは無関係だったようです。森氏によれば、中国人は不思議なほど太陽に冷淡であったらしいので、太陽神に関する神話は殆ど見当たりません。この辺に民族的な特徴が出ています。  
日本

 

1 天照大神の神格が確立されたのは比較的新しい
我国の太陽神と言えば天照大神ですが、『古事記』や『日本書紀』においては、イザナギがイザナミの居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際に、左目を洗ったときに化生したとされています。
このとき右目から生まれたツクヨミ、鼻から生まれたスサノオと共に、三貴子又は「三(みはしら)の神」と呼ばれています。そしてイザナギは天照大神に高天原を治めるように指示しました。このため、高天原は太陽にあると考えられます。
「高天原」は、「たかあまはら」と読みます。「たかまのはら」とか「たかまがはら」と読ませるケースがありますが、『古事記』には「たかあまはら」と読むべしという訓注がありますから正しく発音すべきです。この読み方は五十音図の最上段から成っており、高い世界であることを表しています。「たかまがはら」などと読んでしまうと禍津日神(まがつひ)につながるので、これは避けなければなりません。
天照大神はイザナギから生まれた訳ですが、このイザナギは国土の創造神でありながら、宮中祭祀では軽視されています。これは一体どうした理由によるのでしょうか?
イザナギの名前の由来はよく判っていませんが、本居宣長は『古事記伝』の中で、「いざな」は「誘う(いざなう)」の語根であり、「ぎ」は男性を表していると述べています。これは余りよい名とは思えません。また、南朝の忠臣であった北畠親房の『神皇正統記』によれば、「ある説にイザナギ・イザナミは梵語なり、伊舎那天伊舎那后なりともいう」とされています。親房は伊勢において、度会家行の協力を得て南朝勢力の拡大を図っていたので、ここでこうした情報を得たようです。度会家行の『古老口実伝』には、「伊弉諾尊・伊弉冊尊、此ノ二柱ノ神ハ、第六天宮ノ主、大自在天ニ坐シマス」と記されています。尤も、親房は家行の唱えた伊勢神道自体に対しては批判的であったと言われていますが。
伊舎那天は仏教の天部における天神の名で、欲界第六天(他化自在天)の主とされています。一面三目二臂の忿怒相、持物は右手に三叉戟、左手に杯で牛に乗る姿で表され、魔王ですが、インド系であることは明らかです。他化自在天と大自在天はよく混同されますが、それは破壊神としての性質がよく似ているからでしょう。大自在天はシヴァ神のことで、シヴァの妻はパールヴァティーであり、その間の子供がガネーシャ(歓喜天)と軍神スカンダ(韋駄天)です。
イザナギがインド系とすると、神話でその子供とされている天照大神も同じくインド系ではないかという疑念が生じますが、インドの神話にはそれを窺わせる物語があります。ガネーシャ(歓喜天)は、太鼓腹の人間の身体に片方の牙の折れた象の頭をもった神として表現されますが、母のパールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだと言われています。これは、イザナギが黄泉の穢れを洗い流した際に天照大神が誕生したという話と通底するものがあります。
穢れから生まれた神様が尊い筈がありませんからその性質に疑問が生じますが、ガネーシャ(歓喜天)は聖天であり、まともな存在ではありません。追究すべきは天照大神の由来です。
天照大神が祀られているのは言うまでもなく伊勢の皇大神宮ですが、意外なことに創建は余り古くありません。『続日本紀』に「文武天皇二年十二月乙卯(きのとう)、多気大神宮を度会郡に遷す」という記事が見えますが、これが皇大神宮かできた年とされています。「大神宮」という呼称は当時この皇大神宮以外には使用されていませんから、この年に創建されたことは間違いないようです。
これを裏付けるように、天皇による伊勢神宮参拝は、古代には一度も行なわれていません。持統天皇や聖武天皇は伊勢に行幸されましたが、神宮へは参拝していません。持統天皇の曾孫である聖武天皇の御代には既に皇大神宮は存在していた筈ですから、ここを素通りしたのは重視されていなかったことを示しています。大方の予想に反して、天皇による伊勢神宮参拝は明治になるまで行なわれて来なかったのです。その理由は後で述べます。
天照大神の憑り代である神鏡が崇神天皇の時代に宮中の外に出されたことはよく知られていますが、その後斎き祀る場所を転々と変えて最終的に伊勢に落ち着いたとされています。そうすると皇大神宮の創建が比較的新しくても、天照大神自体は古くから宮中で祀られていたのであろうと普通は考えます。ところが歴史学者の直木孝次郎氏は、「天照大神と伊勢神宮の起源」の中で、西暦645年の大化の改新以前には宮中で天照大神が祀られた形跡がないと指摘しています。『日本書紀』の神武紀から皇極紀まで、天照大神を祀ったという記録は、崇神紀に一度しか出て来ません。
後は、「天神地祇」とか「天神」などを祀ったとされているのみです。
天照大神を祀るのは当然だから省かれたという見方もできますが、登場するのは崇神紀だけで、しかも登場すると共に外へ出されてしまっていますから、やはり宮中では祀られていなかったと見るのが正しいようです。
天照大神が天皇家の尊崇を集めるようになったのは、天武天皇の時代と考えられます。壬申の乱が勃発したのは天武元年ですが、天武紀によるとその年六月、東国に向かっていた天武天皇は、「丙戌(ひのえいぬのひ)に、旦(あした)に、朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかは)の辺にして、天照太神を望拝(たよせにをが)みたまふ」とあり、帝御自身が天照大神を拝礼されたことが記されています。これは三重の鈴鹿辺りでの出来事です。
「望拝」はとありますので、皇大神宮を遙拝したと勘違いされやすいのですが、このときはまだ皇大神宮は存在していません。筑紫申真氏によれば、「望」は「見やり、眺めること」で、ただ礼拝するという意味であり、「遙拝」というような意識はないとされています。「天照大神」も、皇祖神としての「アマテラス」ではなく、太陽そのものを意味する「アマテル神」のことだと指摘しています。「天照」には、「アマテラス」と「アマテル」の二通りの読み方があり、皇祖神以外の「天照」は「アマテル」と呼び、古い太陽神を指しています。アマテル神は全国に広く祀られていますが、これは太陽信仰が各地に普及していたことを物語っています。
古代の伊勢地方でもこのアマテル神が祀られていましたが、この地方神が皇祖神に格上げされて「アマテラスオオミカミ」として尊崇されるようになったようです。その切っ掛けを作ったのが天武天皇です。
天武天皇は即位前、「大海人皇子」と呼ばれていましたが、これは摂津の大(凡)海人氏に養い育てられたことから来ています。『日本書紀』によると、天武天皇の葬儀の時、大海宿禰(おおしあまのすくね)が「壬生の事を誄(しのびごと)」しています。「誄」とは弔辞のことで、「壬生」は生まれた皇子を育て養うことを意味しています。ここから、天武天皇が摂津の海人に養育されたことがわかります。各地の海人たちは互いに結びついていますから、伊勢の海人たちとも交流があったのでしょう。あるいは、壬申の乱のときにいち早く味方についたのかもしれません。その結果、太陽神であるアマテル神が皇祖神となったと考えられます。この意味で、皇祖神としての天照大神が確立したのは比較的新しいのです。  
2 伊勢のアマテル神は元々月神だった

 

太陽神と言えば普通男性神ですが、天照大神は女性神とされています。天照大神が太陽神とすると、これは例外的なケースとなるわけですが、天照大神は本来月神であり、太陽神ではなかったという説があります。次にこのことを採り上げてみましょう。
天照大神=月神説を唱える人は幾人かいますが、近年刊行された三浦茂久氏が著わした『古代日本の月信仰と再生思想』(作品社、平成20年)からその主張を見てみることにします。言語学的な分析を主とした大部の本です。
太陽信仰は世界各地どこでも見られるものですが、それより古いとされているのが月信仰です。古代エジプトの太陽信仰については別項で述べたとおりですが、ここでも非常に古くから月が信仰されており、太陽神ラーの信仰が始まったのは紀元前1800年以降であろうとされています。イスラム教の唯一神アラーも元は月神の「アラート」であり、イスラム諸国が三日月をシンボルとしているのはこの頃の名残です。古代では月の信仰が広く見られました。我国も例外ではないというのが、前掲書の主張です。
天照大神は記紀で太陽神とされていますが、それらしい記述は天の岩戸隠れの件りしかありません。後は機を織ったりしていますが、これはむしろ月神の特徴で、諸外国でもそのように扱われているそうです。織り姫と彦星の話は星に関係しており、太陽は出て来ませんから、むしろ月神に相応しいと言えましょう。
天照大神は太陽神としての性格に乏しいわけですが、それが疑問視されてこなかったのは、名前から太陽を連想しやすいためと思われます。「天照=アマテラス」は、いかにも太陽が光り輝いている感じがします。しかし古代では、「天照」という言葉はほとんどが月に関して使われているそうです。『万葉集』の用例を二、三挙げると次の通りです。
ひさかたの天照る月は神代にか出でかへるらむ年はへにつつ(巻7、1080番)
ひさかたの天光(て)る月の隠りなば何になぞへて妹をば偲ばむ(巻11、2463番)
ひさかたの天照る月は見つれども吾が思ふ妹に逢はぬ頃かも(巻15、3650番)
この場合の「天照=アマテラス」は、夜空を照らす月を意味しているわけです。これは単に月を愛でるといった風雅な趣味から来ているのではなく、月の存在が生活に欠かせない一部となっていたからです。三浦茂久氏は、海人族と月の関係についてこう述べています。
「三重県伊勢市や志摩地方は舟運や漁業が盛んなところで、度会氏や磯部氏が活躍していた。漁撈にしても舟運にしても、海で生計を立てるには、潮汐・潮流を上手に利用する必要があった。だから、それらをもたらす月には大いに関心を持っていた。……発動機のない時代には、潮の満ち干や潮の流れに逆らわず利用しなければ、舟も自由には使えない」
自分たちの生活に直接関わってきますから、海人族の間では月信仰が盛んだったようです。これを裏付けるように、伊勢には月神を祀る神社が密集しています。皇大神宮の別宮の一つに月読宮があり、月読尊を祀っています。また、この月読宮境内にある月読荒御魂宮では、その名の通り月読尊の荒御魂が祀られています。外宮別宮には月夜見宮があり、祭神は同じく月夜見尊とその荒御魂です。そして近郊にも、ツキヨミを祀る度会郡の川原神社や多気郡の魚見神社などがあります。全国的に見ても月神が多く祀られていると言えましょう。
しかしいかに月神が多いとは言え、内宮に祀られた天照大神は月神とは言えないのではないかという疑問が湧いてくることでしょう。内宮の御神体は八咫鏡ですが、これは銅製で、天照大神の憑り代とされています。この銅鏡は天照大神そのものを表していると考えてよいのですが、『万葉集』では銅鏡、特に白銅鏡(ますみのかがみ)は月の象徴として扱われています。二、三例を挙げてみましょう。
鏡なす見れども飽かず望月のいやめづらしみ思ほしし君と時々(巻2、196番)
まそ鏡照るべき月を白たへの雲か隠せる天つ霧かも(巻7,1079番)
吾が思ふ妹にまそ鏡清き月夜にただ一目見するまでには(巻8,1507番)
このように鏡は月のシンボルとされています。鏡を日にかけて詠んだ歌は『万葉集』に一首もないそうです。そして「神代紀」五段第一には、イザナギが左手に白銅鏡を持ったときにアマテラスが化生し、右手に持ったときに月弓尊(つくゆみのみこと)が化生したと記されています。そして内宮所伝本『倭姫命世紀』に次の記述が見られます。
「大田命白さく、崇神天皇の御宇(あめのしたしろしめすとき)に、止由気皇太神天降り坐して、天照皇大神と一所に双び坐しき。時に天上より御随身(おほんみにそ)へたまふ宝鏡是也。神代に天御中主神の受る所の白銅鏡也。是国常立命より所化(なりいで)たまふ神天鏡(あまのかがみ)尊が月殿に居まして鋳造(いつく)る鏡にして、三才三面の内の第一の鏡也。……」
白銅鏡は、天鏡尊が月殿で鋳造したと記されています。『倭姫命世紀』に資料的価値がどの程度あるか意見が分れるところですが、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされており、秘本として相伝されてきました。従って、全く信憑性がないと切って捨てるわけにはいきません。白銅鏡は錫の配合率が多く、銅鏡と違ってかなり青白いそうですから、月の象徴として相応しいと思われます。
白銅鏡に限らず、鏡は光を反射するものですから、形が円ければ太陽の光を反射する月のシンボルとしてこれ以上のものはありません。太陽は光を発する方なので、その神格化したものを鏡で表すのは本来おかしいのです。
『倭姫命世紀』には、更に次のような記述が見られます。
「伊弉諾尊、筑紫の日向の小戸の橘の樟原(あはぎはら)に到りて、祓除(はらへ)まするの時、亦右目を洗ひて、月天子を生みます。亦天下り化生(なり)ますみ名は、天照皇太神の和魂也」
「(イザナギの)左目を洗ひて日天子大日霎貴(おほひるめのむち)を生みます。天下り化生ますみ名は、天照皇太神の荒魂荒祭神と曰す也」
月天子は月やその光明を神格化した神のことで、日天子はその太陽版です。ここに出てくる「和魂」や「荒魂」は神道の用語ですが、一般的には魂の働きの意味で使われています。しかし実体的には荒魂は現世に現れている魂、和魂は霊界に存在する魂を指しています。荒魂と和魂は別体ですが、密接な関係があり、性質が互いに似ています。
『倭姫命世紀』では、月天子が天照大神の和魂と記されていますから、天照大神の背後には月神がいたことになります。月と太陽は日月と言われるようにワンセットで括られることもありますが、天体の性質から見ればまさに「月とすっぽん」の存在であり、このような組み合わせは有り得べきものではありません。
伊勢の内宮に祀られているのは天照大神の和魂です。内宮の別宮として北方に荒祭宮が存在しており、ここに天照大神の荒魂がお祀りされています。ということは、『倭姫命世紀』の記述が正しければ、正宮に参拝する人は月神を拝んでいることになります。
引用文の中に「大日霎貴」という言葉が出て来ますが、この「ヒルメ」について、日神に仕える「日の妻」、すなわち巫女を意味するという解釈がかつて流行しました。しかし歴史学者の溝口睦子氏によると、この解釈は明らかに間違っているそうです。「ヒルメ」の「ル」は、「ノ」と同じ意味の助詞であり、「太陽の女神」と解するのが正しいようです。
たとえば、食物の神様を「ウカノメ」と言いますが、これは「ウカ(食物)の女神」の意味であり、「ウカの妻」ではありません。これと同様に、「ヒルメ」=「日の女神」とするのが学問的に正しいのです。すると、「大日霎貴」=「天照大神」は、元々女性神だったことになります。
以上のことから推測すると、伊勢のアマテル神は元々月神であり、その後太陽信仰が盛んになるにつれて太陽神の方へ軸足を移していったと考えられます。それで月神と太陽神の性質が混交しているのでしょう。
伊勢の天照大神の神格の変遷は次の通りです。
月神としてのアマテル神→太陽神としてのアマテル神→皇祖神としての天照大神
天照大神は太陽神とは言え元々は月神ですから、その当時の面影を残しています。女性神であるのはそのためで、機織りしているのもその名残と考えられます。そして記紀が編纂されるときに、月神としての性格が利用されました。
天照大神に持統天皇が反映されていることはよく知られています。天照大神は孫の瓊々杵尊(ににぎのみこと)を天孫降臨させましたが、この不自然な筋書きは、持統天皇が孫の文武天皇に譲位することを正当化するために創作されたという解釈が有力です。これが可能だったのは、天照大神に月神の性質があったからでしょう。天照大神が当初から太陽神で男性的であったならば、さすがの持統天皇も神話に手を加えることはできなかったに相違ありません。  
3 鎮魂祭は太陽霊を身につける儀式だった

 

次に、太陽神としてのアマテル神がいかにして皇祖神としての天照大神に昇格したのか、その経緯を見てみましょう。
前項の如く、伊勢では元々月神が信仰されていたと考えられるのですが、それと同じく、太陽神が信仰されていたことも否定できません。それは、「日」という文字を祖先神の名に頂いている氏族が多いことからも裏付けられます。
たとえば、伊勢神宮外宮の禰宜の血筋である度会氏は、「天日別命(あめのひわきのみこと)」を祖先神としていますが、この名は明らかに太陽神を意味しています。また、大和の豪族で日奉部(ひまつりべ)の世話役であった佐伯日奉造(さえきのひまつりのみやつこ)は、「天押日命(あめのおしひのみこと)」の末裔とされていますが、これも日神を表しています。
この「日奉部(日祀部)」は敏達紀六年二月条が初出で、「詔して日祀部・私部(きさいちべ)を置く」と記されています。太陽信仰が行なわれていた証拠とされていますが、別の解釈もあります。皇学館大学理事長を務めた櫻井勝之進氏は、これを「日々の祀り」の意であると解していますが、この見方は採用できません。日祀部の世話役であった佐伯日奉造は「天押日命」を氏神として頂いているので、日神を祀っていたと見るべきでしょう。
同様の記述は用明前紀にもあって、「酢香手姫皇女(すかてひめみこ)を以て、伊勢神宮に拝(め)して日神(ひのかみ)の祀(まつり)に奉(つかへまつ)らしむ」と記されています。酢香手姫は用命天皇の皇女ですが、こちらは間違いなく太陽祭祀の意味で使われています。日神を祀るために皇女が派遣されたわけです。
我国の神話には様々な地方の伝承が採り入れられていますが、中でも大きな比重を占めているのが伊勢地方のものです。南伊勢の度会氏や五十鈴川沿いの宇治土公(うじのつちぎみ)氏、伊勢・志摩の海人である磯部などの伝承が宮廷神話の中へ持ち込まれたのです。こうした人々の中には、大和朝廷専属の語部(かたりべ)として都に住み着く人たちも出て来ました。彼らを「天語連(あまがたりのむらじ)」(天語部)と呼びます。この天語連は、『新撰姓氏録』によると「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」の後裔であるされています。天日鷲命は度会氏の先祖ですから、天語連は度会氏の同族ということになります。
各地の豪族たちが持つ伝承が大和朝廷の神話に取り込まれるということは、霊的・政治的に服属することを意味します。昔は祭政一致でしたから、他の勢力の支配下に入れば、霊的にも従うことになります。服属した豪族たちは、氏神を巫女と共に朝廷に差し出し、彼女たちは采女(うねめ)となって、先祖神の御魂を天皇へ捧げました。天皇は、豪族が奉斎する氏神を我が身につけることで権威を得て統治したのです。
こうした慣例から、宇治土公氏の娘の猿女(さるめ)も采女として朝廷に差し出されました。「猿女」は太陽の巫女を意味していますが、、宇治土公の女性は猿女君と呼ばれていました。民俗学者の折口信夫氏によれば、、宇治土公と猿女君は同じ家系に属し、男系を「宇治土公」、女系を「猿女君」と呼んだそうです。この宇治土公の氏神が「猿田彦神」であり、これは太陽神を表しています。猿田彦は、『日本書紀』神代下第九段本文に、「口尻(くちわき)明り耀(て)れり。眼は八咫鏡の如くして、赤然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり」とあることから、太陽神であることは明らかです。
この猿田彦は天孫降臨の際に出て来ますが、天の八衢(やちまた)に立って瓊々杵尊一行のお迎えをしようと待っていました。その名を聞き出したのが天宇受売(あめのうずめ)神で、この関係から天宇受売は猿田彦に仕えるようになり、「猿女君」と呼ばれました。宇治土公と猿女君の関係が密接なのは、こうした神話に由来しています。
このように猿女は太陽神を祀っていましたから、差し出された天皇も太陽霊を身につける必要がありました。それが宮中で毎年行なわれていた鎮魂祭です。なぜそう言えるのかというと、斎部広成が著した『古語拾遺』の中に、「およそ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡なり」と記されているからです。天鈿女命は天宇受売のことで、猿女君の祖神に当ります。『古事記』を誦したのは稗田阿礼ですが、この稗田氏は猿女君と血縁関係にあります。
ここで重要なのが、太陽神と鎮魂祭の関係です。石上神宮で行われてきた鎮魂祭は、天皇の御衣を御魂代として柳筥(やないばこ)に入れて、それを案上でゆらゆらと揺らがすというおまじないのようなものですが、実際は太陽霊を天皇自らが身につけるというのが本来の姿だったようです。
歴史学者の肥後和男氏は、『神話時代』(至文堂)の中で次のように述べています。
「鎮魂祭は離遊する魂をよびもどして、しっかりと身体の中府にとどめるための祭りです。ただ記録によるとそれは天皇・皇太子など数人にかぎって十一月に行なわれる年中行事であるところが問題です。それでこれは天皇の本質を太陽と見るところから、太陽の光がようやく薄れ行く十一月は、天皇の魂もまた弱まって行くものとみて、これを回復するために行なわれると解釈されています。……天岩戸の話は太陽がかくれたのを回復したことで、丁度よくこの鎮魂祭の説明にも合うことになります」
鎮魂祭は元来太陽儀礼であると解釈されていたのです。易の卦で見ても、十一月は一番下の初爻のみが陽爻であり、後はすべて陰で構成されています。この卦は「一陽来復」を表し、衰えた太陽の勢いが増してくる様を意味しています。鎮魂祭が外でもないこの時期に行なわれるのは、太陽を意識しているとしか思えません。
本来の鎮魂が太陽霊を身につけることであったということは極めて重要です。太陽神と一体になることが鎮魂なのであり、これが真の「みたまふり」です。鎮魂は宮中のみで行なわれるべきものではなく、単に範を示したに過ぎません。
国民も「みたまふり」=「太陽神との一体化」に努めるのが理想的な姿と言えましょう。  
4 本来の皇祖神・太陽神は「タカミムスビ」

 

伊勢のアマテル神が皇祖の太陽神となった経緯は以上の通りですが、天皇家の祖先神が太陽と無関係であったかというとそんなことはなく、古来より太陽神が祀られてきました。その神が「タカミムスヒ」です。これについては歴史学者の溝口睦子氏が著した『アマテラスの誕生』(岩波新書)で論証されていますので、以下概要を紹介します。
天皇家の本当の祖先神は、このタカミムスヒです。まずこのことから見て行きましょう。
『日本書紀』神代下第九段「天孫降臨」条本文に次の記述が見られます。
「皇祖(みおや)高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、特に、憐愛(うつくしび)を鍾(あつ)めて、崇め養(ひだ)したまふ」
我国の正史とされる『日本書紀』本文において、タカミムスヒは「皇祖」とされています。これは疑いようのない事実で、皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒなのです。タカミムスヒは、『古事記』においては「アメノミナカヌシ」「カミムスヒ」と共に造化三神の一柱として登場します。
そして『日本書紀』神武天皇即位前紀「神武東征」条には、こう記されています。
「昔我が天神(あまつかみ)、高皇産霊尊・大日霎尊、此の豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)を挙(こぞ)りて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊(あまつみおやひこほのににぎのみこと)に授けたまへり」
ここでは、タカミムスヒがオオヒルメ(アマテラス)と共にニニギに国を授けた記されています。タカミムスヒが先に書かれていますから、序列から言うとアマテラスよりタカミムスヒの方が上位にあることは明らかです。
これに対して『古事記』では、天孫降臨の場面ではアマテラスが主神となっていますが、アマテラスが登場する八箇所の内、七箇所においてタカミムスヒの名前が併記されています。タカミムスヒの名を落とすことはできなかったことが見て取れ、この神にアマテラスと同等の権威が付与されていたことが判ります。
皇祖神がタカミムスヒであることは、宮廷の祭りである「月次祭(つきなみのまつり)」を見ても明らかです。この月次祭は古代より六月と一二月に行なわれていた国家的祭祀で、天皇親祭で執り行われました。「月次祭」ですから、かつては毎月行なわれていたのではないかと国学者の本居宣長は述べています。
月次祭は朝廷の百官が参集して行なわれ、天皇親祭のものとしては外に新嘗祭(にいなめさい)があるだけです。朝廷にとっていかに重要なお祭りであったかが窺われます。
月次祭で読み上げられる祝詞の冒頭の部分は、次の通りです。
高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏弥命以て、天社国社と称辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、今年の六月の月次の幣帛を、〔十二月には今年の六月の月次の幣帛と云へ〕明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉りて、朝日の豊栄登に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。
大御巫の辞竟へ奉る皇神等の前に白さく、神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮売・御膳都神・辞代主と御名は白して、辞竟へ奉らくは、皇御孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉るが故に、皇吾睦神漏伎命・神漏弥命と、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣る。
最初の「神漏伎命・神漏弥命」は「カムロギノミコト・カムロミノミコト」と読み、現代の神道ではタカミムスヒと天照大神と解釈されていますが、『古語拾遺』ではタカミムスヒとカミムスヒだとしています。前に見たように天照大神は比較的新しい神格ですから、ここはタカミムスヒとカミムスヒとするのが正しいと思われます。
重要なのは「皇睦神漏伎命」とされていることで、タカミムスヒが皇祖神として扱われていることが判ります。
そして、その次の段に出て来る「神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮売・御膳都神・辞代主」は、宮中の八神殿に祀られている神々です。溝口睦子氏は、『古語拾遺』の記述に従って「高御魂(タカミムスビ)」を先頭に持ってきて、これで皇祖神の論拠としていますが、これら宮中八神は神道学者の今泉定助氏が指摘している通り、鎮魂の諸階梯を示しているとするのが正しい見方です。つまり、境地を表すのに八つの神名を借りたまでの話で、これを実体のある神々と見るのは無理があります。その証拠に、「生魂・足魂・玉留魂」などという神は存在しません。
この月次祭祝詞の後半に、「辞別きて、伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく」という言葉が出て来ますが、この件りは内容・形式とも他の箇所とは異なっており、後世に付加したのではないかと疑われています。天照大神が本来の皇祖神であればもっと初めの方に出てくる筈ですから、元々はなかったと見るのが正しいようです。
月次祭のような重要な祭祀が行なわれるときは、全国の有力社に幣帛(神への供物)が献じられました。その順番は、タカミムスヒなど宮中に祀られている神々が最初で、次に山城・大和など畿内にある社へ献じられ、その後で伊勢神宮へ奉幣されました。伊勢神宮がそれほど重視されていなかったことは明らかであり、タカミムスヒが皇祖神であったことがこうしたところにも現れています。
さて、タカミムスヒが太陽神であるかどうかですが、記紀においてアマテラスと共に登場することが多く、同じ性格の神であることを示しています。また、御神名自体が太陽神であることを表しています。
タカミムスヒの「タカ」と「ミ」は、それぞれ「高」と「御」という美称であり、「高く尊い」という意味です。するとこの神の本質は、「ムスヒ」にあることになります。ムスヒは「ムス」と「ヒ」に分れ、「ムス」は「ヒ」にかかる形容語で、「生成」「生産」を意味する言葉であろうと諸説一致しています。問題は「ヒ」の方です。
「ヒ」には、これを「霊力」と見る説と「日(太陽)」とする説の二つがあるとされています。溝口睦子氏は、両説を検討した上で「ヒ」=「太陽」説を支持しています。しかし我国の言霊では、「ヒ」は「日」であり「霊」でもありますから、どちらか一方に限定してしまうと言葉の持つ奥行きが失われてしまいます。太陽には万物を生成する力があり、古代の日本人はこれを「ヒ」という一言で表したのです。
古文献には、「天照高彌牟須比命」や「天照御魂神」といった御神名が見え、これらは「アマテル(アマテラス)タカミムスヒノミコト」「アマテルミムスヒノカミ」と読みます。「天照」は太陽や月にしか使われない形容語ですから、この点からも「ムスヒ」は太陽神であることが裏付けられます。
前にも出て来た日奉部(ひまつりべ)を中央で統括していたのが日奉連(ひまつりのむらじ)ですが、この氏族はタカミムスヒを先祖神としています。太陽を祀っていた氏族の祖先神はやはり太陽神ということになりましょう。天皇家は古来、皇祖のタカミムスヒを太陽神として祀ってきたのです。
このタカミムスヒは外来の神と考えられているようですが、我国のような形で祀られてきたケースは外にありませんから、独自の神格と見なしてよいでしょう。タカミムスヒは太陽神ですが、皇祖神なので人格神でもあります。異端とされる宮下文書(富士文献)では、タカミムスヒを始めとする造化三神は実在の人物とされています。恐らく太陽のように優れた霊格と人徳を備えていたのでしょう。
皇大神宮に参拝すると天照大神の和魂を拝むことになりますが、その実体ははっきりしません。『倭姫命世紀』が記すように月天子かもしれません。しかし皇祖神は本来タカミムスヒだったのですから、タカミムスヒに祈念してもきっと通じることでしょう。日本人はおおらかですから御祭神のことまで考えませんが、対象をはっきりとさせた方が祈願が通りやすいことも事実です。そういう場合は、太陽神であるタカミムスヒを意識してお祈りすればよいでしょう。
中近東

 

太陽神は神話の中に登場しますが、神話によってその性格は異なっています。ここでは諸外国の神話に登場する太陽神の性格を見て行くことにします。 
1 メソポタミア神話
メソポタミア神話といっても時代により変遷があるのですが、シュメール神話の太陽神は「ウトゥ」と言い、戦いの神であり、真実・正義・裁判・占卜の守護神でもあります。
この「ウトゥ」はバビロニアでは「シャマシュ」と呼ばれ、運命を司り、生者と死者の王であり法律を与える神とされています。また、正邪善悪を審判し、正義を愛し悪に対しては復仇する神でもあります。有名なハンムラビ法典は、この「シャマシュ」によりハンムラビ王に与えられたと伝えられています。
以上から判るように、「シャマシュ」は峻烈な裁きをする神であり、我々日本人が考えるような慈悲深い太陽神ではありません。これは厳しい自然状況の反映と思われます。
「シャマシュ」の父神は月神シン、母神はニンガルとされています。太陽神が月神の子供となっていますが、月の信仰は太陽信仰より古いと言われていますから、それが反映したと見られます。この辺は月の信仰が盛んな所で、この地で発祥したイスラム教は三日月をシンボルとしています。
シンは、元来はシナイ山に住む月の神で、シナイ山自体、「月の山」という意味です(バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』大修館書店)。ある聖書学者によれば、ヘブライ人のエホバはアラビアの原始的な月の神を淵源とするそうですが、これはこのシンのことを指しているのでしょう。この地域では太陽神は余り重視されなかったようです。 
2 ウガリット神話

 

ウガリット神話は、シリアの地中海岸にあった古代都市ウガリットに保存されていた粘土板文書に記されていた神話で、同じセム系神話として旧約聖書と共通性があります。この神話の中に「シャプシュ」という太陽神が出て来ますが、これは女性神とされています。
太陽神は男性神が一般的ですが、この「シャプシュ」はわが国の天照大神と同じく女性神となっています。しかし「シャブシュ」はバビロニアのシャマシュと同一の神と思われますから、そうだとすると途中で男性神から女性神へ変化したことになります。バビロニアのシャマシュはミトラとも呼ばれましたが(これはインドのリグ・ヴェーダに現れる太陽神と同じ名です)、ミトラは空の神であり、雨を降らせるので豊饒神でもあります。豊饒神は通常女性神ですから、シャマシュは元々女性神だった可能性があります。
「シャプシュ」は天空を行き世界の全てを照覧する神であり、特に神話では物語の重要な転換点に現れて神々に助言をし、物語の進行を促す役割を果たしています。太陽神らしい性格と言えますが、気になるのは常にバール神の味方をしていることです。
バールはカナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神で、その名はセム語で「主」を意味しています。このことから判るように、この神は旧約聖書にも登場し、ヤハウェと共に神殿に祀られていたこともあります。バールは、エジプト神話にも取り入れられ同じ嵐の神のセトと同一視されましたが、このセトは悪神として有名です。
バールはまた、フェニキアやその植民地カルタゴの最高神モロク(モレク)と同一視されることがありますが、このモロクは人身供儀を要求することで知られています。カルタゴを発掘調査した際には、祭儀場らしい場所から子供の骨が大量に発見されたこともあります。モロクは太陽神とされることもありますが、エジプトのセトと同様悪神であり、太陽神として相応しくありません。
「シャプシュ」はバール=セト=モロクの味方をしているということになり、その性質に疑問符がつきます。太陽神として信仰の対象にするのは避けた方がよいでしょう。 
3 ペルシャ神話

 

フワル・フシャエータ
ペルシャ神話には、「フワル・フシャエータ」と「ミスラ」という太陽神が登場します。
「フワル・フシャエータ」はゾロアスター教において崇拝される太陽神で、「輝ける太陽」を意味しています。天空から地上の全てを見下ろす太陽神であり、その光は全てを浄化し、この「フワル・フシャエータ」が昇らなければ悪神は世界の全てを蹂躙し、善神達はそれに抵抗出来ないとすら言われています。中世には、太陽への一日三度の礼拝がゾロアスター教徒の日課とされるほどの信仰を得ました。
素晴らしい太陽神のようですが、「フワル・フシャエータ」は中級神に分類され、最高神ではありません。ゾロアスター教の最高神はアフラ・マズダーで、善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とされています。このためゾロアスター教は世界最古の一神教と呼ばれることもありますが、アフラ・マズダーは観念的な存在であり、太陽神「フワル・フシャエータ」ほどの具体性がありません。それ故崇められるのでしょうが、太陽神の神格に制限が加えられたことは確かで、この辺に割り切れないものを感じます。
中級神とは言え、「フワル・フシャエータ」は太陽神として大きな信仰を集めたことは事実であり、世界宗教史上注目すべき出来事だと言えましょう。
ミスラ
「ミスラ」は英雄神として西アジアからギリシア・ローマに至る広い範囲で崇められた神で、インド神話の神ミトラと起源を同じくするとされています。後述するようにミトラは太陽神ですが、「ミスラ」の名は「契約」を意味し、司法神が本来の性格のようです。また、光明神であり、闇を打ち払う戦士・軍神とされ、牧畜の守護神としても崇められました。
古くはアフラ・マズダーと表裏一体を成す天則の神でしたが、ゾロアスター教に於いてアフラ・マズダーが絶対神の地位に高められると、ミスラは格下の中級神の地位に落とされてしまいました。「ミスラ」は後に、ゾロアスター教の流れをくむマニ教において光明神としての性格が強調され、太陽と同一視されるようになりました。
このように「ミスラ」には本来、太陽神としての性格は見られず、後世に意味づけが変えられたり、他の神と習合することで太陽神として扱われるようになりました。始源神としての「ミスラ」を太陽神と見るのは難しいようです。
なお、弥勒菩薩(マイトレーヤ)は名の語源を同じくする事から、「ミスラ」を起源とする説がありますが、これが正しければ弥勒菩薩の救世主的性格は「ミスラ」から受け継いだということになります。「ミスラ」崇拝が西方世界で広まったのは、このためかもしれません。中近東では、強い救世主願望が見られるからです。
4 エジプト神話

 

太陽神ラー
エジプト神話には、太陽神がたくさん登場します。有名なのが「ラー」で、ハヤブサの頭をもつ姿で描かれることが多いです。古代エジプト人は太陽の昇り沈みとともにラー自体も変形すると考えました。日の出のときはタマオシコガネ(フンコロガシ)の姿のケプリとして現れ、日中はハヤブサの姿をして天を舞い、夜は雄羊の姿で夜の船に乗り死の世界(夜)を旅するとされています。これらは太陽の運行を表しているのですが、なぜ太陽をフンコロガシやハヤブサ、雄羊で表すのかよく分かりません。「ラー」はカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市ヘリオポリスで最も重要な神とされましたが、「ヘリオポリス」はギリシア語で「太陽の町」を意味します。ここで太陽神が信仰されていたことは間違いありません。
「ラー」は後に、天地創造の神アトゥムと習合して「ラー・アトゥム」となりました。この神も、勿論太陽神です。「ラー」の実態はよく分かりませんが、『神話・伝承事典』(バーバラ・ウォーカー、大修館書店)には次のように記されています。
「ユダヤ人は熱狂的にラーを受け入れ、彼とヤハウェを同一視した。とくに、エジプトのラーに相当するバビロニアの太陽神シャマシュ(ケモシ)はヤハウェと同一視された」
これが正しければ、「ラー」はヤハウェと同じような性格を有していたと想像されます。
アメン神
エジプト神話でもう一つ有名なのが「アメン(アモン)」神です。「アメン」は、中王国時代にナイル川東岸のテーベが首都とされて以来1700年にわたって、ラーと一体化した「アメン=ラー」としてエジプトの神々の主神とされました。
「アメン=ラー」はエジプト最大の神殿であるカルナック神殿に祭られており、世界遺産第一号であるアブシンベル神殿内の至聖所に座するその像は、春と秋の特定の日に1回ずつ、奥まで届く太陽の光によって照らし出されるように天文学的に計算されています。紀元前332年にエジプト入りを果たしたアレキサンダー大王がエジプトの文明にいたく感動し、自らを「アモンの息子」と称したことはよく知られています。
「アメン」は大気の守護神で豊饒神とされており、実態は不明ですが、ラーと習合してからはその太陽神としての性格を受け継いだと思われます。バーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』によれば、「アメン」には「隠れている者」という意味があり、昇って再生する太陽が母親の胎内にある様を表しているとされています。「アメン」を表す象形文字は妊婦の腹を意味していますので、この解釈は正しいようです。そうするとこれはまだ太陽が出ていない状態なので、暗闇を表していることになります。いくら太陽神とは言え、これでは信仰の対象にはなりません。
唯一神アテン
エジプト神話の中で最も特異なのが太陽神「アテン」です。「アテン」は、人間的形態を取っている他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現されていす。
初期には従来の太陽神ラーと同一視されましたが、その後神性は薄れ、天体としての太陽を表すようになりました。天体としての太陽を信仰するというのは、エジプト人にとって画期的な出来事ですが、これを評価すべきかどうか慎重な検討を要するところです。
前述したアメン信仰は、古代エジプト第18王朝の王アメンホテプ4世の治世に最盛期を迎えました。しかしアメンを讃えていたエジプトの神官たちがファラオをも凌ぐ権勢を誇ったために、王権を強化する目的でアメンホテプ4世はアマルナ宗教改革を断行しました。
アメンホテプ4世は太陽神「アテン」を唯一神とし、自分の名もこれに因んで「アクエンアテン」と改めました。これが世界初の一神教の誕生とされていますが、アメンホテプ4世がなぜこのような唯一神を考え出したのかよく判っていません。
太陽はこの世に一つしか存在しないのでこれを唯一の神としたのかもしれませんが、それなら月でもシリウスでもよかったわけです。アメンホテプ4世は妻ネフェルティティの影響で「アテン」信仰を広めたと言われていますから、ネフェルティティの出自が問題となります。
ネフェルティテイの両親が誰なのかはっきりしたことは判っていませんが、一説によるとミタンニ王女タドゥキバと言われています。ミタンニ王国はフルリ人が紀元前16世紀頃メソポタミア北部のハブル川上流域を中心に建国した王国で、フルリ人の文書の中には明らかにサンスクリットで解釈できる単語が多いので、インドとのつながりが指摘されています。ヒッタイトとミタンニとの間で交わされた条約では、インドのヴェーダの神ミトラ、ヴァルナ、インドラやナーサティヤ(アシュヴィン双神)に誓いが立てられています。また人名もサンスクリットで解釈できるものが多いそうです。
ミトラとヴァルナは、古代のイラン・インドの神話共有時代における始源神で、太古のアスラ族のアーディティヤ神群と呼ばれる神々に属しています。ミトラは十二人の太陽神(アーディティヤ)の一人で、毎年6月の一カ月間、太陽戦車に乗って天空を駆けるとされています。ヴァルナはミトラと表裏一体をなし、天空神、司法神(=契約と正義の神)と見なされています。またヴァルナは、イランのゾロアスター教では最高神アフラ・マズダーとされ、有翼光輪を背景にした王者の姿で表されています。
ミトラとヴァルナを合わせると最高の太陽神となり、ミタンニ王国でこれらが信仰されていたとすれば、ネフェルティテイがこれをエジプトに持ち込んだ可能性があります。その結果、唯一神「アテン」が誕生したのかもしれません。
アクエンアテンの治世年と、旧約聖書に出て来る出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じであるため、この「アテン」神がユダヤ教のヤハウェになったと、精神分析学の創始者として有名なジグムント・フロイトが述べています(『モーセと一神教』)。フロイトはユダヤ人ですから、この説には信憑性があると思います。
アクエンアテンの宗教改革は、他の神々の祭祀を停止したり、アメンの文字を削ったりするなど、その改革があまりにも急激だったために神官団の抵抗が激しく、宗教改革は失敗に終わりました。アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、その子供のツタンカーメン王の時代にエジプトはアメン信仰に戻り、アテン信仰は消滅しました。このとき「アテン」信仰を奉じてエジプトを脱出したのがモーゼの一行だったとフロイトは考えました。
「アテン」神はインド・イラン系の淵源を持ち、ヤハウェへ変質した可能性もありますから、天体としての太陽を神格化したと言う側面はあったとしても、通常の太陽神とは性質が違うことは明らかです。
太陽神ホルス
エジプトのオシリス神話に出て来るのが「ホルス」神です。「ホルス」はオシリスとイシスの子供で、悪神セトの敵対者として知られています。「ホルス」はギリシア語であり、古代エジプトでは「ヘル」と呼ばれました。
「ホルス」は通常は隼の頭をした男性として表現されますが、母神イシスの膝に乗った幼児として描かれることもあり、これはキリスト教における聖母子像の原型と考えられています。イシス信仰は共和政末期のローマへ持ち込まれて発展し、ほぼローマ帝国全域で崇拝されたので、イシスとホルスの関係がマリアとイエスに投影されていること間違いありません。マリア信仰はイシス崇拝が基盤になっているわけです。
「ホルス」は父神オシリスの後を継いで、現世の統治者となりました。このため、ファラオはホルスの化身とされています。また「ホルス」は、ラーと習合したラー・ホルアクティ(「地上のホルスたるラー」)を初め、様々な神との習合が見られます。ラーと一体化したことで太陽神と見なされることになったようです。
エジプトを象徴する模様としてよく知られているのが「ウジャトの目」ですが、これは「ホルス」の目を表しています。「ホルス」はセトと王座を巡って争い、このときに目を失いました。この目は「ホルス」の所に帰ることができず、長い間エジプト全土を旅し、様々な知見を得ました。その後、智恵の神とされるトート神によってこの目は「ホルス」のもとへ戻ることが出来、同時に「ホルス」は癒されました。
ゲゲゲの鬼太郎に出て来る目玉おやじによく似ていますが、あるいはこの「ウジャトの目」からヒントを得たのかも知れません。いずれにしろ奇怪な神話ですが、さらに奇怪なのは、この「ホルス」の目がアメリカの1ドル札の裏に描かれていることです。
ピラミッドの冠石の中に描かれた一つ目は、「万物を見通す目」として知られ、フランス人権宣言の扉絵の上部にも同じものが見られます。これはゴッドを表しているのでしょうが、ピラミット゛と組み合わせられていることからわかるように、これは「ホルス」の目と密接な関係があります。この辺に「ホルス」の性格を読み説くヒントが隠されているように思われます。
太陽光には「万物を見通す」性質が確かにありますが、それは物事の真実やありのままを照らし出すというもので、天空から監視するような陰性の性格はありません。「ホルス」の目=「万物を見通す目」には太陽光の持つ暖かさは感じられず、素朴な太陽信仰の対象として相応しくありません。
シリウス信仰と太陽信仰
以上のようにエジプト神話には太陽神がたくさん出て来るのですが、エジプトではシリウスの信仰が盛んでした。なぜシリウスが重視されたかと言えば、この星が365日と4分の1日の周期を持つ唯一の恒星だからです。太陽暦では4年に一度閏年を設けて日数を調節する必要がありますが、シリウスを元に暦を作ればその手間が省けるわけです。(その代わりに季節が暦とずれてゆきますが、エジプト人は気にしなかったようです)
古代エジプトで使われたシリウス暦では、1年の元旦はシリウスが日の出前出現(ヘリアカル・ライジング)する時と定められていました。その時期は時代によって違いますが、7月から8月にかけてこの現象が見られます。
このように古代エジプトではシリウスが重視されましたが、これと太陽信仰はどのように結びつくのでしょうか。
わが国におけるエジプト考古学の第一人者・吉村作治氏は、古代エジプトには星派と太陽派の二大勢力が存在し、抗争の末、星派(シリウス派)が勝利して、それがビラミッド建設につながったと見ています。これは有名なクフ王に関して言及したものですが、この仮説はビラミッドがクフ王の時代に建造され、大ビラミッドでシリウスなどの星の観測が行われていたという前提のもとで組み立てられています。
しかし大ビラミッドで星の観測がなされたとか、ギザのピラミッド群がオリオン座の三つ星を模して作られたとかいう話が一時はやりましたが、これは事実と相違しています。ピラミッド群と三つ星は完全には対応しておらず、恣意的に結びつけられたことは、イギリスの調査作家リン・ピクネットとクライブ・プリンスが指摘しています。
また、大ピラミッドの「王の玄室」と「女王の玄室」から伸びる斜孔が特定の星を指しているという話も、各斜孔が左右に折れ曲がっているので成立しません。「女王の玄室」の孔はシリウスを指していると言われますが、この斜孔に至っては外部にさえ達しておらず、とても観測など出来ません。
ピラミッド群がシリウスと関係していることは確かですが、それはまだ学問的に解明されていないようです。そうすると、先ほどの星派と太陽派の構想という話も怪しくなってきます。古代エジプトには星派も太陽派も存在しなかったのではないでしょうか。そのような区分は無意味だと思うのです。
太陽というと我々は太陽系の天体を連想しますが、古代エジプトではシリウスを太陽と称していた形跡があります。恒星としては同じですし、暦に使うには便利な存在です。少なくとも支配者側に属していた神官たちは、民衆が誤解することを承知した上でシリウスを太陽と称していた疑いがあります。というのも秘教的な伝統においては、太陽よりシリウスが重視され、シリウスこそ真の太陽とされてきたからです。
魔術師として有名なアレイスター・クロウリーの弟子だったケネス・グラントは、『魔術の復活』(国書刊行会)の中で次のように述べています。
「隠秘学の伝統によれば、我々の太陽は、それよりももっと大きな太陽ソティスの反射にしかすぎないのである。従って、太陽系の太陽は、この巨大な星とは『子供』(子ホルス)の関係にある」
「ソティス」はシリウスのことで、西洋のオカルトはエジプト魔術の影響を受けており、このグラントの考え方は古代エジプト人の信仰を示唆するものです。ちなみに、イシス神はシリウスを表しています。
北欧ユーラシア研究所のユハン・ヤコブソン氏によると、古代中近東ではシリウスが信仰されていたが、紀元前3000年から2000年にかけて太陽信仰への大掛りなシフトが行われたそうです。例えば、太陽神ラーはその原型はシリウスの光輝を表す神であり、ピラミッドの稜線も太陽の光を表現したものとされていますが、本来は闇夜を照らすシリウスの光を表したものであったと言います。
シリウス崇拝から太陽信仰へのシフトが起きた理由について、ヤコブソン氏はこう述べています。
「……そもそも文明の建設者たちにとって闇夜を照らすシリウスの光こそ崇拝に値するものであったのだ。毎日のように安っぽく『死』と『復活』を繰り返す太陽など、ありがたくもなんともなかったのだろう。しかし、権力拡大を狙う王たちの奨励政策により、太陽信仰は古代世界の大衆に浸透していった。太陽に対する民間信仰がどこにでも存在したこと、何よりも太陽信仰がわかりやすい宗教であったことが幸いしたのだろう。一方、旧来のシリウス信仰は支配階級の宗教として秘儀化していった。シリウスにまつわる儀式が公に行なわれることはなくなり、シリウスにまつわる『神聖知識』が公に語られることもなくなった。かくして、紀元前一千年ごろまでに、シリウス信仰は歴史の表舞台から完全に姿を消したのだった」
太陽の存在が有り難くないというのは、通常の感覚とはかけ離れています。古代文明の支配者たちは、普通の人とは系統が違うようです。前出のケネス・グラントは、このとき秘儀化されたシリウス信仰のことを述べているのだと思います。シリウス信仰が現代西洋魔術のルーツなのです。
エジプト神話に頻出する太陽神の実態がシリウスだったとすれば、太陽信仰の範疇に入らないことは言うまでもありません。太陽信仰と称していてもその内実は様々であり、言葉に引っかからないように注意が必要です。  
欧州

 

1 ギリシア神話
ヒュペリオン
ギリシア神話に出て来る太陽神はヒュペリオン、ヘリオス、アポロンです。
「ヒュペリオン」は「高みを行く者」の意味で、天空神ウラノスと大地の女神ガイアの息子とされています。また、太陽神としてのヘリオスの呼称としても用いられています。
「ヒュペリオン」は純然たる太陽神のようですが、その両親には問題があります。母神のガイアは、「ヒュペリオン」の外にキュクロプスやヘカトンケイル、ギガス、ピュトン、テュポンなどの魔神・怪物を生んでいます。キュクロプスは一つ目の巨人で、ヘカトンケイルは五十頭百手の巨人の姿をしており、ギガスは上半身が人間、両脚が蛇という姿です。ビュトンは巨大な蛇で、テュポンに至っては肩からは百の蛇の頭が生え、火を放つ目をもち、腿から上は人間と同じですが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしていると言います。これらは紛れもなく魔神・怪物です。
ウーラノスはその醜怪さを嫌い、彼らをタルタロス(奈落の底)に幽閉してしまいました。ところがこれに怒ったガイアは、末子クロノスに命じてウラノスの男性器を切り落とさせました。海に漂流していたウラノスの陽物の周囲にできた泡から生まれたのが有名なアフロディテ女神とされています。
神話ですからまじめに受け取らなくてもよいのですが、それにしても奇怪な話です。古代ギリシア人がこのような話を信じていたとすると、その程度が疑われます。「ヒュペリオン」はこれらの魔神・怪物の兄弟であり、太陽神の出自として相応しいとは言えません。
ヘリオス
ギリシア神話を代表する太陽神と言えば、「ヘリオス」が挙げられます。「ヘリオス」は太陽・日の意味であり、太陽神そのものと言ってよいでしょう。古代ギリシア人は、太陽は天空を翔ける「ヘリオス」神の4頭立て馬車であると信じており、そのように表現されました。
ヘシオドスの『神統記』によれば、「ヘリオス」は太陽神ヒュペリオンとその姉妹テイアーの息子であり、暁の女神エオスや月の女神セレネ、魔女のキルケは兄弟に当たります。エオスはよいとして、セレネやキルケは素性がよくありません。
セレネは、月が形を変えるように三つの顔を持つ魔法の女神と考えられており、キルケは気に入った人間の男がいると自分の島に連れて行って養い、飽きると魔法で獣や家畜に変えて暮らしていました。これはどう見てもまともではないでしょう。
「ヘリオス」自身は、神々の居所とされるオリンポス山の東の地の果てに宮殿を持っており、盲目になったオリオン(オリオン座の元となった人物)の目を治療したりして、太陽神らしいところもありますが、アフロディテの浮気を夫のヘファイストスに密告したりして神様らしからぬ点も見受けられます。このように人間臭いのがギリシア神話の特徴で、それが魅力的でもあるのですが、信仰の対象としては物足りないところが多々あります。
アポロン
ギリシアの神々の中でよく知られているのが「アポロン」です。「アポロン」はギリシア神話の主神ゼウスとレトとの息子で、狩猟と純潔を司る処女神アルテミスは双子の兄弟に当たります。後に光明神の性格を持つことからヘリオスと混同され太陽神とされましたが、本来は予言と牧羊、音楽(竪琴)、弓矢の神とされています。
アルテミスはギリシア人固有の神ではなく、先住民族の信仰を古代ギリシア人が取り入れたものと現在の研究では考えられています。双子の「アポロン」も非ギリシア的な面があり、複雑な性格を持っています。
「アポロン」は、妹神アルテミスと共に「遠矢射るアポロン」として疫病神の性格を持ち、転じて医術の神としても信仰されました。本来は人々に恐れられた存在だったのです。「アポロン」の性格は理性的、知性的とされていますが、人間を疫病で虐殺したり、音楽の腕を競う賭けをして半人半獣の精霊サテュロスの1人マルシュアスを生きたまま全身の皮膚を剥いで殺すなど、冷酷な残忍さをも併せ持っています。
光明神の性格もあると言いますが、「アポロン」は元々音楽や狩猟の神であり、太陽神の性格は窺われません。後にヘリオスと混同されただけで、太陽神の範疇には入れるべきではないと思います。 
2 ローマ神話

 

太陽神ソル
ローマ神話に出て来る太陽神はアポロ、ソル、ヘリオガバルスです。この内、「アポロ」はギリシア神話のアポロンと同じです。従って、ここで問題となるのは「ソル」と「ヘリオガバルス」です。
「ソル」は英語の形容詞solarの語源であり、ギリシャ神話のヘリオスと同一視され、アポロンやミトラスなどの別の太陽神と習合し、帝政ローマの時代には、ほとんど主神の様に篤く信仰されました。ミトラスは、インド・イラン系のミトラ(ミスラ)がローマに取り入れられたものです。
太陽神「ソル」と言えば、キリスト教を公認したローマ帝国のコンスタンティヌス1世が信仰していたことで知られています。コンスタンティヌスが帝位を継ごうとしていた時はローマは政治的に混乱し、皇帝が乱立していました。彼が政敵マクセンティウス帝に対して遠征を行い、紀元312年10月28日にローマの外を流れるテベレ川にかかるミルビオ橋でマクセンティウスと対峙しました。その決戦の時コンスタンティヌスは次のような幻を見たと言われています。
「真夏の太陽の頃で、一日がすでに午後になり始めていた頃、コンスタンティヌスによれば、彼はまさしく己の目で、ほかならぬ天に、太陽の上に懸かる、その形状が光で示された十字架のトロパイオンが目にされたのです。そこには『これにて勝利せよ(イン・ホク・シグノ・ウィンケ)』と書かれておりました。彼と兵士全員がその光景を見て驚愕しました。兵士はそのとき、彼がある場所に率いて行く遠征に同道していて、その奇跡を目にしたのです」
文中の「トロパイオン」は、軍団旗のことです。コンスタンティヌスは夢の中でキリストにその意味を教えられ、軍旗から盾、兜に至るまでキリストを象徴する組み合わせ文字をつけさせて戦いに臨み、勝利したとされています。事の真偽はともかくとして、エウセビオスの記述からコンスタンティヌスが太陽を崇拝していたことが窺われます。
太陽神「ソル」の信奉者がキリスト教をローマの国教にしたのですから、キリスト教にもその影響が残っています。わが国でもよく知られているデーヴィッド・アイクは、キリスト教は太陽信仰そのものだとしています。
「イエズス教団のシンボルが太陽であることは偶然の一致ではない。(中略)キリスト教は、太陽崇拝者、カエサル・フラウィウス・コンスタンティヌスによってローマ国教として導入された(引用者注:実際は公認しただけです)。彼はコンスタンティヌス大帝とも称され、AD325年のニケア(ニカイア)会議にて、キリスト教徒が今日に至るまで守らなければならない教義を課した。(中略)ニケア信条の場合、バビロンの古い太陽男神と月の女神の宗教が別の装いをまとったものが、『新』キリスト教である事実を隠すためであった」
アイクはキリスト教の実態が太陽崇拝であることを批判していますが、太陽信仰自体に問題はありません。問題なのは、その太陽崇拝の内容です。太陽神「ソル」はインド・イラン系のミトラと習合しましたが、ミトラはバビロニアのシャマシュと同一視されています。(〔中近東編〕のウガリット神話の項を参照)アイクがバビロン云々と言っているのは、このことを指しています。この「ソル」の実態がミトラやシャマシュであれば、肯定するわけには行かないと思います。
ヘリオガバルス
次にローマのもう一つの太陽神「ヘリオガバルス」について述べましょう。「ヘリオガバルス」はラテン語で、ギリシアの太陽神ヘリオスが中東で土着化した神であり、シリアのエメサ(現在のホムス)で崇拝された太陽神エル・ガバル(山の神の意)のこととされています。そしてややこしいことに、「ソル」とも習合しています。つまり、ギリシアとシリアの太陽神が互いに影響し合って「ヘリオガバルス」となったのです。
この太陽神「ヘリオガバルス」を信仰していたのが、3世紀初頭のローマ皇帝バッシアヌス・マルクス・アウレリウス・アントニウスであり、このためヘリオガバルスとも呼ばれています。
「ローマ帝国の皇帝バッシアヌスVariusAvitusBassianus,204-222は、先祖代々の定めで十四歳のときシリアの町エメサで太陽神の神官になった。このとき、少年皇帝は自らヘリオガバルス(エルガバル)と名乗り、太陽神の化身になった。ヘリオガバルスは、ギリシア語で太陽神を意味するヘーリオスHeliosとアザゼルの別名ガド・バアルGadBaalの合成語で、ヘーリオス・ガド・バアルHeliosGadBaalが音訛したものである。これには、もう一つの説があって、それによれば、ヘリオガバルスは、シリア語で山を意味するエルジャバルel-Jabalとギリシア語で太陽神を意味するヘーリオスHeliosの合成語で、ヘーリオス・アル・ジャバルHeliosel-Jabalが音訛したものである。一見すると二つの説があるように見えるが、ガド・バアルは山の神(山羊神・牧神パン)でもあるので、実はどちらも同じこと、つまりヘーリオス(太陽神ミトラ)とアザゼルの一体化を意味している」
皇帝が太陽神の化身となったというのですから、我が国の天皇が天照大神と一体化することとよく似ています。しかしその太陽神がバアルとされているところに大きな問題があります。〔中近東編〕でも触れたように、バアル(バール)はエジプトの悪神セトや、フェニキアの人身供儀の魔神モロクと同一視されていますので善神とは言えません。
同HPには「アザゼル」について、「ミトラの第一の天使。山羊座、山羊神である牧神パンに関係する。タロットの大アルカナ《XV悪魔》には、山羊頭の悪魔として描かれている(これは秘密教義を知らない西欧人の無知と誤解による)。アザゼルは、日本神話の素戔鳴尊に相当する。荒ぶる神であるが、悪ではない」と記されていますが、これはどう見てもよい存在とは思われません。
皇帝ヘリオガバルスについてさらにこう記されています。
「ヘリオガバルスは、シリアの町エメサにあった太陽神の御神体である黒い聖石を首都ローマ市にもちこんだ。ヘリオガバルスの意図は、太陽神を帝国の最高神とし、その宗教をローマ帝国の唯一の公式宗教にすることであった。ヘリオガバルスは、この太陽神をソル・インウィクトゥスSolInvictus、すなわち「無敵の太陽」と呼んだ。ヘリオガバルスの治世はわずか四年と短かったが、太陽神崇拝を帝国に確立することができた。
太陽神の御神体が黒い石というのですから、太陽に相応しくありません。メッカのカーバ神殿にも黒い隕石が御神体として祀られているそうですが、イスラム教の方は月の系統ですのでまだ理解できます。しかも太陽神を「無敵の太陽」と呼んだとされていて、戦闘的な性質を強調しています。ローマ帝国の皇帝が信仰するのですから、慈愛に満ちた太陽神ということにはならないようです。
ローマ帝国のその後の宗教状況について、次のように記されています。
「ヘリオガバルスの死後、聖石はエメサにもどされた。半世紀後、ヘリオガバルスに触発されたマルクス=アウレリウス帝(在位270-275)は、無敵の太陽神DeusSolInvictusを帝国の最高神と定めた。この時期は、ササン朝および、クルディスタン(ローマ帝国とササン朝の緩衝地帯)でミトラ教が大きく勢力を伸ばした時期であり、ローマ帝国領内においては、これに呼応するかのようにカルデア神学(新プラトン神智学)の援護でミトラ教の地歩が固まっていった時期に該当する。西暦304年には、ディオクレチアヌス帝(在位284-305)が正式に《無敵の太陽》という称号がミトラだけをさす称号であり、《無敵の太陽ミトラ》SolInvictusMithrasこそが帝国の保護者であると定めた。こうして、ローマ帝国におけるミトラ崇拝が確立され、380年にキリスト教が国教化されるまで、約七十六年間ローマ帝国の国教となった」
前述の如く、コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認したわけですが、それは西暦313年のことで、国教とされたのは380年ではなく、391年のテオドシウス帝の時代です。
コンスタンティヌスが信仰していたのは正確には「ソル・インウィクトゥス」という太陽神で、彼は「太陽皇帝」と呼ばれ、国旗から貨幣に至るまであらゆるところに「ソル・インウィクトゥス」のシンボルが見いだされました。コンスタンティヌスは死ぬ直前に洗礼を受けましたが、反抗する気力も関心もない状態でのことなのでクリスチャンとは言えません。
シリア発祥の太陽神「ヘリオガバルス」=「ソル・インウィクトゥス」には外の神々の特質が全て付与されたので、この太陽信仰は一神教に近いものだったようです。この神だけで全てが間に合うようにしたのですから、外の神々は必要がなくなったわけです。これには皇帝崇拝を強化する意図があったと思われます。
このような状況下でキリスト教は国教とされたので、当然のことながら太陽信仰の影響が強く見られます。例えばこれ以前、キリストの誕生日は1月6日とされていましたが、それが12月25日となったのは、太陽の誕生を意味するナタリス・インウィクトゥスの祝祭日がこの日だったからです。この頃は冬至の近くで一陽来復の意味があり、クリスマスというのは本来は太陽の復活を祝う行事だったのです。キリストが死んで復活したという話も、沈んでは昇り来たるという太陽の運行と関係があります。しかしだからといって、キリスト教が太陽信仰ではないことは言うまでもありません。
「ソル・インウィクトゥス」=「ヘリオガバルス」は、太陽神と言っても唯一神に近く、エジプトのアテンと似たところがあります。これは通常の太陽神とは性質を異にしていると言ってよいでしょう。 
3 ケルト神話

 

ルー
「ルー」は、ダーナ神族の一人で太陽(光)の神とされ、知識・技能・医術・魔術・発明など全技能に秀でていると言われています。ダーナ神族とは、アイルランドに上陸した4番目の種族で、女神ダヌ(ダーナ)を母神とする金髪碧眼の人々のことです。
ダヌ(ダーナ)について、『ウィキペディア』には、「インド神話に登場するダヌ(Danu)という名前を持つ女神が、水およびダナヴァス(Danavas)という名の阿修羅(アシュラ)の一族の母に関係している」と記されており、インド系の母神のようです。インドの女神がヨーロッパ北西部まで進出しているというのは驚きですが、アシュラの母ですから系統はよくありません。
「ルー」自身も魔術に秀で、見たものを誰でも殺すことができる「邪眼のバロール」という魔神の孫とされていますので、まともではありません。(「ルー」は祖父のバロールを殺しています)とんだ太陽神と言うべきでしょう。
ベレヌス
「ベレヌス」は「輝くもの」の意で、光・治癒をつかさどる神とされています。「ベレヌス」についてはよく分かっていませんが、「DEUSEXMACHINA」にこう紹介されています。
「ケルトの季節の祭りで最も有名なのはベルテーン祭である。五月一日がその祝日で、この日から夏となり、家畜の野外放牧が始まる。ベルテーン(Beltane)といういい方はベル・ティンヌ(Bel-tinne)――「ベルの火」――に由来しているので、元来はベルニュスという名の神を祀る機会であった事がわかる。このベルニュスというのはガリアの太陽神で、ケルト世界の各地で様々に姿を変えて崇拝されている。ローマ人はベルニュスをアポロになぞらえた。ローマ人の文書によれば、プロヴァンス、ブルゴーニュ、北イタリアなどにベレヌスを祀る社があったという。(中略)ベルテーン祭は火の祭典であった。丘の頂などの聖なる場所で焚き火が行われた。アイルランドでは二つのドルイド僧の焚き火の間を牛に走らせる習慣があった。これは牛を病気から守ろうとする、厄除けの行事であった。ケルトの祝祭の中で最も最後まで生き長らえたのは、このベルテーン祭である。スコットランドのある地方では18世紀まで行われ、年間に四度ある節季日の一つが、古くはベルテーンの日と呼ばれた。(中略)祭り前夜は魔の時刻で、魔女や霊魂が人の世に徘徊する。現代では聖ヴァルブルガにちなんで、ワルプルギスの夜と称されている」
ヨーロッパの「ワルプルギスの夜」は有名で、悪魔が集うことで知られています。文中のベルニュスは「ベレヌス」のことで、魔の祭典に太陽神が出て来るのは変な話です。「ベレヌス」は「輝くもの」という意味で光を司るとされていますから、太陽神としたのは早とちりということでしょう。「ベレヌス」はむしろ、キリスト教で言うルシファーに近い感じです。 
4 北欧神話(ゲルマン神話)

 

「ソール(ソル)」は、北欧神話に登場する太陽の女神です。これはローマ帝国で崇拝された「ソル」と同じだと思われますが、こちらは男性神ではなく女性神です。
13世紀にアイスランドの詩人スノッリ・ストゥルルソンが著した詩の教本『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第11章〜第12章には、「ソール」に関する次のような物語が登場します。
「ムンディルファリという男が、自身の二人の子供があまりに美しいことから、娘にソール(太陽)、息子にマーニ(月)という名をつけた。神々はこれに怒り、二人を捕らえて、太陽を牽く馬車の馭者をさせた。ソールは太陽の運行を、マーニは月の運行と満ち欠けを司る。馬の名はアールヴァク(「早起き」の意)、アルスヴィズ(「快速」の意)といい、体を冷やすための鞴(ふいご)が取り付けられている。太陽は常にスコルという狼に追いかけられているため、急いで運行しなければならない」
たわいない話ですが、童話のようで微笑ましい感じがします。女性神だからかもしれませんが、これなら太陽神として認めることが出来ます。北欧では太陽光が乏しいので、やはり有り難い存在なのて゜しょう。
とは言え北欧神話の主神はオーディンであり、オーディンは戦争と死の神で、魔術の達人とされています。奇怪なことに彼は片目しかなく、魔術を会得する代償として失ったと言われています。「ソール」は片隅に追いやられた脇役に過ぎず、太陽崇拝が行われたとは言えないようです。 
5 スラブ神話

 

ダジボーグ
スラブ神話に出て来る太陽神は「ダジボーグ」、「ベロボーグ」の二神で、どちらもあまり資料がありません。
「ダジボーグ」はスヴァローグ、ペルーンと共に、神々の集合体であるトリグラフを構成しています。これは、キリスト教の三位一体やヒンドゥー教の三神一体と似たところがあります。
スヴァローグは「輝き清い」という意味で、これも太陽神であり、火の精霊の神でもあります。しかし民話におけるスヴァローグは火の大蛇、翼を持った火を噴く竜として描かれており、太陽神として相応しくありません。
ペルーンはスラヴ神話の主神で、その名は「打つ/壊す」を意味しており、雷神とされています。ペルーンは農作物の実りを豊かにする慈雨をもたらす神であり、また雷をもって敵を退ける性格から戦争や闘争と結び付けられ、しばしば戦士の守護者として崇められました。ギリシア神話のゼウスのような存在と言ってよいでしょう。
奇怪なことにこのトリグラフは、3つの頭をもった男性の姿で表され、(金色の)目隠しがなされていることもあるそうです。また、3つの山羊の頭をもった男性の姿で表されることもあると言いますから、グロテスクでまともな神とは思えません。ヒンドゥー教の三神一体と何らかのつながりがあると考えられます。
従って、このトリグラフの一員である「ダジボーグ」も太陽神として問題がありそうです。
ベロボーグ
「ベロボーグ」は「白い神」を意味し、チェルノボグと対立する存在であり、昼と善と生を司るとされています。
チェルノボグは、「黒い神」を意味する死神です。スラヴの諸地方に伝わる創世神話には白い神と黒い神が登場し、その2柱の神が協力して水底の泥から世界を創り上げたことになっています。その後、黒い神は白い神と対立し、闘争の末に地上に落とされたとされて邪な精霊に変わったといわれている。
黒い神のチェルノボグはキリスト教のルシファーのような存在ですが、黒い神と白い神と言えば、フィンランドの著述家ケネス・B・V・プフェッテンバッハの話を連想します。聖書に出て来る神は黒い神と白い神の二つの面を持っており、その時々で両者を使い分けるというものです。早い話が、神様らしい面と悪魔的な面の双方を有しているわけで、善でも悪でもあるという複雑な存在とされています。スケールが大きいと言うことも出来ますが、善神でないことは確かです。
「ベロボーグ」とチェルノボグがこの双面の神であれば、いかに昼と善と生を司っていようとも善神ということにはなりません。純然たる太陽神と見ることはできないでしょう。 
中南米

 

1 インカ神話
インカ帝国の国教は太陽神信仰であったとされていますが、創世神話において太陽は他の神に作られることはあっても、太陽自体が主神の役割をすることはなかったようです。インカ帝国を興したケチュア族の人々は、太陽神を天の序列の第一位に置き、「インティ」という名前で神聖視しました。さらに、「インティ」にはより複雑で普遍的な人格が付与され、創造の神格を吸収して、イラ・コチャまたはその正式名であるアプ・コン・チキ・ウィラ・コチャ神となりました。この神は、世界創造の基礎となる3要素(水・土・火)を統べる絶対権力であるとされています。
インカ帝国で太陽神が信仰されていたことは太陽の神殿があることで分かりますが、インカの支配者は「インティ」の現人神であるとされていました。これは我国の天皇陛下が天照大神と同一視されてきたことと同じであり、興味深い類似点だと思います。
この太陽神は金の円盤に人面を描いたもので表され、しばしば雷光によって権力を表しました。「インティ」は創造者として崇拝または畏敬されていましたが、また同時に、助けを乞う者が駆けつけるところでもあり、「インティ」だけが農作物を育て、病気を治し、人々の熱望に応えることができる存在であるとされています。
太陽神を祭る「インティ・ライミ祭り(IntiRaimi)」はインカ帝国の首都であったクスコの行事で、毎年幾千もの観光客が見物に集まります。毎年6月下旬の冬至の日(南半球のため逆になる)、その年の収穫を終えたこの時期に、インカ帝国の時代には太陽神に収穫を感謝し翌年の豊作を願う祭「インティ・ライミ」が盛大かつ厳粛に行われていました。ケチュア語で「インティ」は太陽、「ライミ」は祭を意味します。インカの人々にとって農作物の収穫をもたらしてくれる太陽は絶対的存在であり、日が一番短いこの日に、宇宙の長い旅の中で、太陽が地球と人間を見放さずに戻ってきてくれる為に、太陽を崇拝し生贄を捧げる必要があったのです。
1995年頃、インカの遺跡から10歳前後の子供のミイラが相次いで発見されました。当時の文献によると、どうやらこれらのミイラは「カパコチャ」と呼ばれる儀式で葬られた生贄だったようです。「カパコチャ」は4年から7年ごとに行われる国の重大な儀式で、4つの地方から選ばれた4人の子供たちがインカのために捧げられるお祭りでした。カパコチャに選ばれる子供たちは、顔に染みやできものなどが一切ない美しい子供であることが条件でした。盛大に持て成された後、山に登った子供たちはチチャやコカで眠らされ、明け方太陽が昇ると同時に殺されるか生き埋めにされました。
いかなる理由があるにしろ、人身御供を捧げるのは悪魔的所業です。ましてやそれが太陽神に対するものであればなおさらで、通常の太陽信仰とは全く相容れない風習です。インカの太陽信仰は一見問題がなさそうですが、子供の生贄を要求すると考えられていたのであれば、その神の性質にも大きな疑問符を付けざるを得ません。 
2 メキシコ神話(マヤ・アステカ神話)

 

ウィツィロポチトリ
「ウィツィロポチトリ」は、アステカ神話の太陽神・軍神・狩猟神であり、アステカの部族神として最も篤く信仰されました。アステカの都テンプロ・マヨールには「ウィツィロポチトリ」を祀った神殿があり、テノチティトラン(現在のメキシコシティ)がアステカの首都となったのも「ウィツィロポチトリ」の神託によるものとされ、メキシコの国旗、国章にもその姿が描かれています。人々の信仰を集めていたことが窺われます。
「ウィツィロポチトリ」の名は「蜂鳥の左足」または「左(南)の蜂鳥」を意味しますが、なぜ左なのか疑問に思うところです。そしてその誕生の経緯も奇怪なものです。
女神コアトリクエは、コアテペック山で羽毛の珠を拾ったことにより受胎しました。それを知ったコアトリクエの子たちは、母の懐妊に面目を潰されたと感じ、コアトリクエを殺害しようとしました。しかしコアテペック山で完全武装した「ウィツィロポチトリ」が誕生し、「トルコ石の蛇」という火の玉を使って八つ裂きにして兄弟の大半を滅ぼしました。「ウィツィロポチトリ」の兄弟殺しは、アステカの版図の拡大を象徴していると言われています。
どうも我々日本人にはついて行けない感覚です。「ウィツィロポチトリ」は、夜の暗闇を打ち破って世界に朝の光をもたらす戦士であることから軍神ともされました。そのため、夜の神テスカトリポカの敵対者とされています。また、アステカの人々は「ウィツィロポチトリ」が負けて朝が来なくなる事を恐れ、生贄として人間の心臓を捧げ続けたそうです。
「アステカ帝国」での生贄は有名で、生贄にするための人間を得るために他の部族と戦争をしました。残酷な話ですが、生贄にされた人間は生きたまま石のナイフで身体を切り裂かれて心臓を取り出されました。人間の血が神さまである太陽を燃やすと信じられたからですが、どう考えても悪魔的な風習であり、当時のアステカの人々は何か酷く勘違いをしていたとしか思われません。
ケツァルコアトル
「ケツァルコアトル」はアステカ神話の文化神・農耕神であり、風の神とも考えられています。マヤ文明では「ククルカン」という名で崇拝されています。古くは水や農耕に関わる蛇神でしたが、後に文明一般を人類に授けた文化神と考えられるようになり、ギリシア神話におけるプロメテウスのように人類に火をもたらした神とされました。
特にトルテカ族の祖神として篤く崇拝されていましたが、アステカ族の神話に取り入れられてからは、原初神トナカテクトリとトナカシワトルの4人の息子の1人として、上記のウィツィロポチトリらとともに創造神の地位にまで高められました。「五つの太陽の神話」の中では太陽神としての「ケツァルコアトル」の逸話も残されているそうです。
神話では平和の神とされ、人々に人身供犠をやめさせたとされています。それ故に人身供犠を好み、神々の中で最も大きな力を持っていたテスカトリポカの恨みを買い、トゥーラ(又はアステカ)の地を追われました。この際、金星に姿を変えて天に逃れたとも言われ、「ケツァルコアトル」は金星の神ともされるようになりました。
しかし、この話は、10世紀頃「ケツァルコアトル」を名乗っていたトルテカの王が、人身供犠に反対してトルテカの首都を追い出された事件からつくられた神話だとされています。
それにアステカには「ケツァルコアトル」への人身供犠についての記録や遺跡などが多数あり、「ケツァルコアトル」が生贄を差し出すことを禁じたとは思えません。
「ケツァルコアトル」はナワトル語で「羽毛ある蛇」(ケツァルが鳥の名前、コアトルが蛇の意)を意味し、宗教画などでもしばしばその様な姿で描かれています。羽のある蛇というのは東洋で言う龍のことと思われますが、上図を見ても蛇神であることは明らかであり、太陽神として相応しくありません。蛇神又は龍神としての「ケツァルコアトル」が、後世になって太陽神と結びつけられたのではないかと思います。
トナティウ
「トナティウ」はアステカ神話における太陽神で、この世に5番目に誕生した太陽とされています。アステカ神話では、現代は第5の時代(あるいは5度目の創世)とされており、この「トナティウ」が今の太陽を表しているのかもしれません。
しかし、この神は好戦的な戦神の側面も併せ持ち、当時のアステカの民は捕虜をしばしばこの神への生贄として捧げました。上記のインティやウィツィロポチトリ、ケツァルコアトルと同じであり、中南米では太陽に人身供犠をする習慣があったようです。太陽神がそれを望んだとすれば、信仰の対象として不適格です。
「トナティウ」は戦神でもあるので夜ごと戦っては死に、朝になると生まれ変わります。
このような大変な仕事を維持してもらうため、日々生贄が捧げられたというのですが、これは余りにも残酷で幼稚な考え方です。生贄にされることは本人にとって名誉なことであったというのですから、その感覚にはついて行けません。
アステカ帝国は軍国主義国家であり、16世紀にスペイン人のエルナン・コルテスによって亡ぼされますが、このような悪しき風習が招いたカルマと言うより外はありません。
「トナティウ」は「熱さ」と「渇き」を司る太陽神とされており、智慧と慈悲を与える我国の太陽神とは性質が異なります。
同じ太陽信仰として扱うことはできません。
キニチ・アハウ
「キニチ・アハウ」はマヤ神話に伝わる太陽神で、日没になるとジャガーに変身して地下世界を闊歩するとされています。そのため、「キニチ・アハウ」はジャガーの姿で表されることもあると言います。ジャガーは夜行性なので、「キニチ・アハウ」は日没後の暗闇を表しているようです。
しかし「キニチ・アハウ」は、完全なる善意を司る存在とされる神イツァムナーに似た姿で表されることが多く、その場合イツァムナーが老人の姿で、「キニチ・アハウ」が若者の姿で表されるケースが多いそうです。そのため「キニチ・アハウ」はイツァムナーの昼の側面であるとも考えられています。昼の側面であれば、日中の太陽ということになります。
しかし「キニチ・アハウ」は、頭に蛇を置き、交叉した骨が刺繍されているスカートをはいた破壊神イシュ・チェルの夫とされており、このイシュ・チェルを鎮めるには、常に生贄を捧げなければならないと言われています。従って、夫の「キニチ・アハウ」にも生贄が捧げられたものと考えられます。 
 
南太平洋の神話に探る日本人の根っこ

 

第1話 南太平洋の神話から見た古代日本人の思想
この連載では、日本の神話や沖縄の民話の中で、南太平洋に連なる事例を取りあげながら、古代日本や南島に見られる海人的な思考の伝統を探ってみたい。私はここで“南太平洋"という言葉を、沖縄に連なる、台湾からフィリピン・インドネシア方面、さらにニューギニアからメラネシアやポリネシア、ミクロネシアの島々を指す意味で使いたい。台湾の先住民の言語はオーストロネシア(南島)語の系統であり、それは南太平洋に連綿と広がる一大語族の北端にあたるのだ。
日本語の文法は韓国語に近く、単語や文字は中国語の影響を受けている。しかし日本語の基本語彙には謎が多く、まったく系統の異なる、南島語の伝統を基層にもっていた可能性がある。国立民族学博物館の崎山理の行った縄文語の復元推定には、南島語がモデルとして使われた。さらに京都大学の片山一道は人骨の分析により、縄文人とポリネシア人が近いことを明らかにしている。そして日本列島から中国南部、台湾、東南アジア島嶼部にかけて“海のモンゴロイド"の故郷があったと推測している。このように、縄文時代に遡る日本の基層文化が、南太平洋と密接な関係にあったことが明らかにされつつある。
その後の日本文化は色々な地域からの影響を受けた。つまり日本文化は雑種文化として発達したと言える。古代神話にもそれはあてはまる。古事記や日本書紀の神話は、南方、中国、あるいは朝鮮・北アジア系など、色々な系統の要素の複合である。しかしその基層には南太平洋系統の神話が存在しているようだ。だから本連載は、われわれ日本人の深層文化を探る旅と言うことができる。
日本の古代神話の中で、南太平洋系統の一例とされるのは海幸・山幸の神話である。
兄の海幸彦(ホデリノミコト)は海を支配し、弟の山幸彦(ホヲリノミコト)は山を支配していた。ある日、弟は互いに道具を交換しようと頼み、兄の釣針を借りて漁に出た。しかし山幸彦は魚に針を取られてしまう。兄は釣針をなくした弟を許さない。山幸彦は海岸で海神・塩土の翁(シオツチノオジ)から得た船に乗って、海の彼方の国へゆく。その国の入り口で様子を伺っていると人の気配がしたので、山幸彦は木の上に登って隠れる。やって来た娘が水を汲もうとして泉を覗くと、木の上にいる男の顔が水面に映っていた。こうして山幸彦は海神(ワタツミノカミ)の娘、豊玉姫に出会った。
山幸彦は海神の宮で歓迎をうけ、海神の配下の鯛の喉に引っかかっていた釣針も返してもらい、帰途につく。海神は兄を凝らしめる呪術を教え、水を呼ぶ珠を与える。一尋鰐(『古事記』原文では和邇とつづられるが、古代日本語の“わに"は鮫を意味していたものと思われる。)の背中に乗った山幸彦は一日にして地上にたどり着く。山幸彦は帰ってから兄を呪術と珠の力で起こした洪水で屈服させる。このとき海幸彦が示した屈服のポーズが後世、隼人族が朝廷に忠義を示す踊りの中に受け継がれる。
さて妊娠した豊玉姫は夫を追って地上に来た。彼女は出産するとき、夫にけっしてその姿を見てはいけないと言った。しかし山幸彦はこらえきれず見てしまう。豊玉姫は鰐の格好に変わって出産しようとしていた。恥じた豊玉姫は息子を残して海神の宮に帰ってしまう。代わって妹の玉依姫を養育のため地上に送った。残された息子はやがて成長し、叔母の玉依姫と結婚し、生まれた子供の一人が最初の支配者・神武天皇となる。
神話はいくつかのモチーフの複合体である。モチーフとは神話の筋を左右する、ひとまとまりの話を意味する。海幸・山幸神話には釣針喪失譚、異境探訪譚、大魚(鰐)に乗る話、メリュジーヌ・モチーフ、異類婚などのモチーフ連鎖が見られる。メリュジーヌとは入浴のとき禁止を破って妻の半人半魚の姿を見てしまう話である。異類婚とは人間と動物との結婚であり、海幸・山幸で重要なのは、日本の天皇家には女性を通して海神の血が入っている点である。 
第2話 亡くした釣針の行方

 

前号で紹介した海幸・山幸神話の発端は弟の山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣針を亡くしてしまうことである。同じような発端を持つ神話はインドネシア付近に多い。たとえば次はスラウェシ(旧セレベス)島の北端、ミナハッサ地方に伝わる話である。
カヴァルサンという男がいた。彼は海で漁をしようと思い、友人から釣鈎を借りる。舟で漁に出ると魚が食いついたが、糸が切れて鈎をなくしてしまった。友人は「他の鈎を十くれても受け取らない」言って許してくれない。カヴァルサンは海に引き返し、鍵をなくしたところで海に潜った。すると海底に道があり、それを辿って行くと村に到着した。村の家の一軒で騒ぎになっているので覗くと、乙女の喉に魚骨が引っかかって苦しんでいた。カヴァルサンが両親に自分が医者なってなおしたやると言って喉に掛かった釣鈎をはずしてやった。彼は鈎を抱えて帰る途中大魚に出会ったのでお願いすると、一瞬にして岸に戻してくれた。彼は地上に戻ってから神に懇願して大雨を降らせ、意地悪い友人を懲らしめた。
このように借りた釣針(鈎)をなくして探しに行く話は“釣針喪失譚”と呼ばれ、インドネシアのチモール島、ケイ島、メラネシアのソロモン諸島、あるいはミクロネシアのパラウ諸島など南太平洋に連綿として見いだせる。兄弟間、あるいは父・息子間で、立場の下の人間が立場の上の人間から借りた鈎をなくしてしまうことが多い。
さらに山に住む猟師が猪や象を捕ろうとして弓矢や銛がなくなり、それを探しに行くという海幸・山幸の山間バージョンも数多く知られている。
かつて日本軍がラバウル基地をおいたメラネシアのニューブリテン島では逃げた鳩を追って見知らぬ島にたどり着いた男の話がある。上陸した男は人が来たのであわてて木に登って隠れると、彼の顔が下の泉に映っていたので、水くみに来た娘に知られてしまう。これは山幸彦と豊玉姫(あるいは侍女)との出会いを彷彿とさせる。
これらの話には釣針や弓矢といった道具が登場する。このような道具は、大型動物の捕獲に用いるいることが多い。そして人々は大型魚や熊、象などの動物を神の使いとして捉えていたことが明らかである。つまり釣針や弓矢のような遠隔操作具あるいは飛び道具は、人間の領域と神の住む異境を橋渡しをする手段となっているものと思われる。
このような広義の“釣針喪失譚”は日本列島を挟むようにして南は東南アジア大陸、インドネシアや南太平洋、北はシベリア東端から北アメリカや南米アマゾン地方と環太平洋的な分布をしている。これはちょうど“モンゴロイド”の分布と重なる。モンゴロイドとはアジア大陸に起源を持つ人々で日本人のように黒い目と髪、蒙古斑などに特徴づけられる。彼らは氷河期、海面低下によって陸続きになったベーリング海を渡り、アメリカ・インディアンや中南米のインディオの祖先となった。あのマヤ文明やインカ帝国を築いたのもモンゴロイドである。われわれがフォルクローレを奏でるアンデスのインディオの姿に何か郷愁を感じるのは当然なのである。同じように相撲の小錦や曙などのポリネシア人も同じくモンゴロイド、つまりわれわれ日本人の同胞なのである。
つまり、われわれの祖先のモンゴロイドたちは、釣針喪失譚を語り継ぎながら前人未踏の土地、すなわち南太平洋へと船出し、また極寒のベーリングの陸橋を歩み、新大陸に渡ったのである。
基本的にはモンゴロイドの移動方向は西から東、すなわち陽の昇る方向への歩みであった。それは希望の土地を求める冒険、あるいは逆に祖先の国への回帰であったとも言われる。釣針喪失譚が漁労具や狩猟具を媒介とする異境への旅を意味するなら、魚や獣を追って南の海や北の大陸に進出した古代モンゴロイドの思想が結晶したものこそ釣針喪失譚であったといえないだろうか。 
第3話 鰐に乗る話

 

海幸・山幸神話において次に取りあげるのは、鰐鮫に乗ってこの世と海底世界を行き来するモチーフである。これ以外にも日本の古代神話では因幡の白兎の説話や『出雲風土記』『肥前風土記』などに鰐(和邇)が登場する。中国の揚子江流域には淡水性の鰐がおり、また東南アジアのマレー鰐もかつては中国南部海岸にまで棲息していた可能性がある。鰐の分布が日本にまで及んでいたかどうかは疑問だが、中国から鰐の知識が日本に持ち込まれ、鮫のイメージと融合して定着した可能性が強い。
鰐のような大きな水棲動物の背に乗って海上を移動する話は連綿として見つかる。たとえば『宇治拾遺物語』の中には、遣唐使で中国に行った男が現地妻を作り息子をもうける話がある。男は日本に帰った。夫の帰りを待ちわびた妻は自分を捨てた男への腹いせに、夫の名前を書いた札を息子の首につけ、息子を海に投げ入れてしまう。だが息子は大魚の背中に乗って海を越えて難波の浜にたどり着き、父と巡り会う。魚に助けられたのでその子は魚養(うおかひ)と名づけられるのである。
海上で遭難したところを鰐鮫に助けられる話は滝沢馬琴の小説『椿説弓張月』にも見られるが、日本の南島には巨魚の背中に乗って助かったという話が多い。たとえば宮古島や八重山の黒島、竹富島などには遭難して漂流しているとき、あるいは無人島に漂着したとき鮫に助けられ、その背に乗って故郷に戻ったとする話が多い。そのような人々は以後、鮫を神として祭り、その肉を食べるのをタブーとするのである。
このように鰐や鮫のような“巨魚”の役割は、人間を救助し運ぶだけでなく、人間界と海底あるいは海彼世界をつなぐ存在にもなるのである。それは多かれ少なかれ、浦島説話に登場する亀とも役割を重ねるものだ。しかし鰐・鮫類と亀の違う点は、前者が人間を襲うという性格と人間を救うという相反する性格をもつ点である。
鰐は凶暴なイメージとは裏腹に、四つ足で歩き、集団で生活する高等な社会的動物である。子鰐は母鰐ないし両親から保護されていることが多い。このような特徴が人間に近いイメージを鰐に与えるのである。だからマレー・インドネシア世界では鰐は祖先が変身したものであると信じられ、鰐を見たら「お爺さん」と呼びかける習慣がある。鰐のいないポリネシアに行くと、鰐の役割を鮫が果たすようになる。日本の南島の事例もこれに近いであろう。
マレー半島沿岸には次のような、神聖な白い鰐の伝承が点々と見られる。
老人と若者が漁に出た。経験の深い老人は空模様を見て嵐の到来を察知したが、若者は老人の警告を無視して漁を続けた。やがて嵐がおこり、若者が海に落ちて網に絡まれた。老人は助けようとしたが船が転覆してしまった。すると荒海の中を白い鰐が泳いで来て、二人を背に乗せて島に送り届けた。そこはシンガポールの南に浮かぶリアウ諸島の島だった。老人はその島で作物の作り方を人々に教えた。白い鰐の話をする彼の回りにはいつも人だかりができた。
やがて島の土地を買いによそ者が来たが、老人はそれを拒んだ。よそ者たちは夜に老人を捉えて縛り、湿地に体をすてた。しかし湿地には鰐が住んでおり、老人を助け、よその者たちを食い殺した。これ以後、鰐は肉食になった。老人は息を吹き返したが、再び鰐のいる水に潜り、次に地上に戻ると老人はすっかり鰐の姿になっていた。その後、王が橋を掛けようとしたが、工事は何度も失敗した。それで湿地にダムを作り、水をかい出したところ、水の底に巨大な白い鰐がいた。王は鰐に橋を掛けるので協力してくれるようにお願いした。鰐は王の申し出を受け、海に去った。そして鰐は南海の神になった。
日本神話で山幸彦に覇者となる力を授けるのが海神であり、その娘豊玉姫は鰐鮫の姿で出産した。山幸彦と豊玉姫の孫が神武天皇であるから、日本の天皇家には鰐の血が流れている。それは海の覇者たる海人族の血ともいえるだろう。 
第4話 海神の血脈

 

前号では、日本の天皇家には豊玉姫を通して海神の血が受け継がれていることを指摘した。おそらくそれは、大陸や南方から様々な文化を取り入れながら作られた日本の古代王権の中で、水運や漁業に携わる海人族が重要な役割を果たしていたことの反映であろう。
日本や中国の神話における海神は、古事記の豊玉姫のように鰐、あるいは蛇や龍のような姿をしているのが普通である。そしてそのような動物と人間との結婚は異類婚と呼ばれる。東南アジアの王権起源の神話には、この異類婚が多く、面白いことにその場合、たいてい人間の男が動物の女と結婚して息子をつくり、その子が新たな王国を作るというストーリーが一般的である点だ。
東南アジアにはインド文明の影響を受けてナーガという龍神が知られている。東南アジア大陸部の王権始祖神話は大部分このナーガと関係する。たとえばベトナムの『大越史記全書』によると、中国の皇帝と、洞庭湖の龍女の子供として貉龍君が生まれた。そして彼と結婚したのが嫗姫である。二人の間には百個の卵が生まれた。しかしやがて二人は仲が悪くなり、嫗姫は、貉龍君は水の性格で自分は火の性格だから別れることにしようと言った。そのとき子供のうち五〇人が父、残り五〇人が母について行った。水を代表する父についていった子供の長男の雄王がベトナムの始祖となった。
ラオスの建国神話では帝釈天(インドラ天)の孫クンボロムが天からメコン川に降りてきた。しかし川にはあちこちにナーガ龍がいて暴れていたが、隠者が龍を説得して龍たちはクンボルムを迎えたのである。もっと古い扶南の話だとインドから征服してきた王が土着の女王を娶って国を開いた。この女王はナーギ、つまり雌の龍なのである。カンボジアでは王が毎夜、王国の繁栄のためにナーギと交わるとされている。
様々な動物がうごめく異界としての水底こには水の百獣の王がいる。どのような動物が王者として考えられるかは土地によって違う。北海道アイヌや東北地方ではサケが水界の王で、サケのオオスケ伝承が伝わる。第二話では、釣針や弓矢などが動物に刺さってなくなり、それを探しに行って動物界に至り、そこの長老や娘などに刺さって苦しんでいるのをとってやって感謝される、という釣針喪失譚の広い分布について述べた。インドのチモール島では、釣針のささった水界の王者が鰐とされ、そこでは鰐が人間の皮をかぶって人間のような生活をしているのだ。
マレー人の間に伝わる歴史書『スジャラ・マラユ』にはすでに擬人化された海神が登場する。アレキサンダー大王の息子のスラン王は、インドから中国討伐のために海を東に進んでいた。王は、ある時、夢で海中に潜って美女と会う夢を見た。そこで彼は職人に大きなガラスの球を作らせ、その球に入って海底に降りると、美しい女性のいる町があった。王は海底の町で楽しい時を過ごした。瞬く間に一二年が過ぎ、三人の息子ができていた。しかし王はしだいに地上が懐かしくなった。王は妻に息子を連れて地上に戻りたいと言った。妻は息子たちを失うのに忍びなく、義父の海神は、子供たちはここで育て、十分成長したら地上に送り届けよう、と言った。王は海神に王権のシンボル、銀の槍、金の刀そして王冠を預け、息子が海神宮を離れるときこれを持たせて欲しいと頼んだ。スラン王が再び水面に戻ると、船の上では部下たちが待っていた。王はこの間一二分しか経っていないと聞いて驚いた。やがて成長した三人兄弟は父を求めて地上にやってきた。そして色々な冒険の末、末っ子が後を継ぎ、さらにその子供が王位をついだ。かれはやがてマラッカ海峡周辺を支配するミナンカバウ王国を造るのだ。
上の話とはまったく逆に、日本の浦島物語では、異界での時間の進みがが現世よりも遅かった。いずれにせよ異界では現世とは時間の流れかたが違うのだ。これを民話学の方では「民話における異常な時間の経過」モチーフと呼ぶ。 
第5話 水と陸との戦い

 

海幸・山幸神話の結末は、海神から得た珠の威力で、山幸が洪水を起こし、兄の海幸を屈服させて自らが支配者になるというものであった。この神話は海と山を代表する神が役割を交代させて争うという複雑な形になっているが、水と陸との戦いを象徴するものだ。
日本のみならず世界の古代文明において、もっとも重要な問題は水の制御であった。四大文明圏においては川を征する者が国を制した。乾燥地では水を引き、湿地では水を排水する治水技術が文明と農耕を支える根幹であった。
東アジアから南太平洋の洪水神話を分析したヴァルクという学者によると、ひとつの形態として宇宙闘争型というものが見いだせる。それは、神々や動物が争った結果洪水が起こるというものだ。争うのは天界の神や動物と、地界・水界の神や動物である。
ベトナムでは山の神と水の神が美しい王女を娶るために争う話がある。その際、結納を届けるのに遅れた水神は、山神が獲得した王女を我がものにするため洪水を起こし、攻撃をする。しかし結局、水神は敗れ、その恨みを晴らすために毎年洪水を起こすというのだ。洪水に悩まされる東南アジアならでわの話である。
またアンコール・ワット文明を生み出したカンボジアには鳥と鰐や蟹が喧嘩をして洪水が起こるとする話がある。ある時、鳶が蟹を馬鹿にして嘴で甲羅に穴を開けた。それが今でも見られる蟹の模様の起源である。怒った蟹は雲の中に隠れている鳶を殺すために、天まで届くほど海を上昇させた。
これは宇宙闘争型洪水説話の典型であるが、同様の事例は東南アジア内陸部に広く見られる。これらの神話では、鳥は乾いた世界と天上界を象徴し、鰐、蟹、蛇などは湿った世界、地下界、あるいは水界を象徴する。そして毎年起こる洪水は天上界と地下界・水界との闘争なのである。
一方、中国南部の内陸に住む少数民族の間では天に属する雷神と地神、あるいは人間の争いという形が多い。ここでは、洪水が起こったとき、近親者がカボチャの船に乗って助かるというのが特徴として上げられる。たとえば中国南西部のヤオ族の間では次のようである。天から降りて来た雷神を男が鎌で傷つけてしまう。男は雷神を三日三晩、火の上で料理していたが、雷神は男の母に洪水の到来を予告する。母は雷神を逃がし、神は救ってくれたお礼にカボチャの種を母に残した。洪水が起こったらそれに乗って逃げるようにと。雷神は天に戻り、男を罰するために雨を降らせた。しかし種からは巨大なカボチャができ、それに乗って男と妹は逃げた。水かさが増して天まで届いたので、男は雷神のいる天に昇ろうとしたが、神は天の帳を閉じて拒絶した。二人の乗ったカボチャは山の頂に流れ着き、兄妹は人類の始祖になる。このような神話には治水に基礎を置いた古代文明の性格がよく現れていると言えよう。洪水から助かった兄妹が人類の始祖となるモチーフは、次号のテーマである。
また東南アジア島嶼部やポリネシアには、太古の昔、天と地が接近しすぎていたため地上は闇に覆われ、人間の住む空間がなかったとする神話がある。あるきっかけで天と地が引き離なされると、光が射して今のような世の中になったというのである。
このような話では天が男神、地が女神であり、天地が接近しているというのは男女の交合状態を表していると言われる。その結果として人間や動植物が生まれたのだが、今でも天と地は年に一度交合を行い、生命を復活させると信じられている。この種の神話は特に、雨季と乾季がはっきりしているインドネシア東部に多い。雨季のはじめ、乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨は、かつて抱擁していた女神の上に注ぐ、男神の涙あるいは精液である。
日本の八又の大蛇退治は、荒れ狂う川の反乱を制御したことを象徴すると言われる。このようにアジア各地に見られる陸と水、あるいは天と地の争いや抱擁は、大自然の営みに対する人々の恐れや畏敬の念を表すのである。 
第6話 孤島に降り立つ兄妹始祖

 

前話でのべた宇宙闘争型の洪水神話とは別に、洪水に関連する兄妹始祖神話というものが中国南部から東南アジアにかけて見られる。それは原初の海あるいは大洪水の後で唯一存在していた島に兄妹が到来して交わり、人間の始祖となったという話である。このモチーフはわが南島から古代日本にも及んでいたことがわかっている。
日本神話の冒頭、すなわち天地(あめつち)の初めの時、国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている油のような状態であった。このとき最初の神々、天つ神が出現し、しんがりに兄妹神、イザナキとイザナミが現れた。二人に対し神は「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と命じた。
そこで兄妹は、この原初の海を矛の先でかき混ぜた。そのとき、したたり落ちた滴が固まってオノゴロ島ができたので、二神はその島に降り立った。二人は天地を支える柱と立派な御殿を建てた。そして二人はそれぞれ、男神の体には有り余る部分、女神の体には足りない部分があることに気がついた。二人は柱の回りを逆方向に回って出会い、互いに惚れあったので、まぐあい(性交)を行った。そうして女神は出産するのだが、最初の子供は不具の子供、蛭子(ひるこ)であったので水に流した。それは禁を犯して女神の方から男神に声をかけたからだった。しかし改めて柱を回った後、男神から女神に声をかけたので次の出産は成功し、女神は日本列島の島々、そして神々を生んでいった。
さて奄美から沖縄にかけて島々の創世神話、「島建て」にはこのイザナキ・イザナミの神話を想起させるものがたくさんある。
たとえば与論島では昔、人間と猿がいたが喧嘩ばかりしているので神が怒って洪水を起こす話がある。世界中が水浸しになったが、やがて遠くから兄妹二人だけの神が船に乗って島にやってきた。二人は海岸で千鳥が戯れているのを見て男女の営みを知り、自ら交合して子孫を作って行くのである。
石垣島では島の最初、裸体で現れた男女がジュゴンの交尾を見て夫婦になる話がある。その後二人は恥を知り、クバの葉で陰部を隠すようになる。彼らの子孫が沖縄の島民である。同じく石垣島には最初の男女が現れた後、大雨で大洪水になった。水が引くと木の穴に隠れていた二人は現れ、神のお告げに従って井戸の回りを逆に回り、再び出会って結婚する、という話もある。
竹富島では最初に現れた裸体の男女が成長したとき、天神が女神の足りない所と男神の余る所をあわせてみるように命じる。二人は神の仰せのとおり腰をあわせて池の回りを回り、愛し合うことを覚えるのである。
このように洪水の後で現れた神や兄妹、あるいは天や海の彼方から到来した神ないし先祖によって新しい世界が始まるとするモチーフは、南島世界の島建てには一般的である。
何らかの理由で起こった洪水のために人間が死滅し、生き残った兄妹あるいは母子が近親相姦を行って子孫を作り、新たな人類の始祖となる。そしてこの近親婚はしばしば最初は生み損ないの子供をもたらすのである。兄妹は原初の海に突き出た岩に降臨するパタン場合と、洪水から船などに乗って避難し、ある島に到来する話の二つに大別される。すでに前話ではカボチャに乗って洪水から逃れる話のことを述べたが、それ以外に椰子の実、ヒョウタン、臼、太鼓など様々な「ノアの箱船」が見いだせる。
これら兄妹始祖神話は原初の海に浮かぶ島に降り立つわけで、それは海からの創世を示している。さらに、禁を犯して近親者が交わったために最初の人間が生まれる、という「最初で最後」であるべきタブー破りを表現したものである。
南島以南には兄妹が船に乗って到来した形が多いのは、実際に海を渡ってきた人々の歴史意識が残っているためではないか。何も見えない大海原に点のような島影を発見したときの感動、それは原初の海に浮かぶ島に降臨する神々の姿と重ね合わさっても不思議はない。それは次回述べる島釣りの思想にもつながる。 
第7話 島釣り神話

 

私の調査地のひとつは、ソロモン群島のガダルカナル島北東に浮かぶマライタ島である。この島の西岸に広がるラグーンにはランガランガの民が住んでいる。今でも結納や交換活動に必要な貝貨を作って暮す彼らは、誇りをこめて自らを海の民と呼び、同じ島内陸に住む山の民と区別をする。
かつてランガランガの民の多くは、浅い珊瑚礁に石を積み上げて作った人工島に住んでいた。そして飲み水をとったり、畑を耕したり、物々交換の市場に出たりすために、わざわざ本島までカヌーを漕いでいった。彼らはなぜ不便な、小さな人工の島に住んでいたのだろうか?ひとつの説はこの地に蔓延するマラリア蚊からの予防である。マラリアは過去の病気と思っている人もいるだろうが、マラリア蚊は、今では薬に耐性をもち、現代も世界でもっとも死者の多い風土病とされる。私自身、予防薬を飲んでいたにもかかわらず現地でこの病にかかり、日本で再発して苦しんだ経験がある。その蚊が飛べる距離には限りがあるので、沖合いの人工島で生活すればこの病を予防できるというわけだ。
人工島をつくるもうひとつの理由は敵からの防御である。約百年ほど前に白人がくるまで、海の民ランガランガ部族は、周辺の山の民と争っていた。人工島に住んでいれば、カヌーに乗って攻めてくる敵の到来を察知しやすく、不意打ちを防げるというわけである。
さらにもうひとつの説明はもっと興味深い。それは、人工島とは彼らの創世神話の再現であるという説だ。南太平洋には、釣りをしたとき釣針が珊瑚にひっかかり、それを引き上げたところ海底が浮上して島になった、という話が広がる。たとえばソロモン南東部にあるアトゥア島には次のような話がある。二人の兄弟がいた。彼らは精霊が踊ることのできる場所を探しすため、船出した。色々な所で聞き耳をたて、とうとう精霊が海底で歌い踊っているの場所を見つけた。兄は弟に海に潜って海底の何でもいいからロープをしっかりと結びつけてこいと言った。弟は海底で巨大な木を見つけて、大きな根に結びつけた。彼はロープを引いて兄に合図した。兄がロープを引くと海が波を荒立て沸騰した。そして波間から島が出現した。木が生えていた所は島でもっとも高い所で、今も精霊の踊る神聖な場所となっている。
もっとも有名な島釣り神話はハワイにある。かつてマウイ神が兄たちと釣りに出たときのことだ。兄は末っ子のマウイを馬鹿にしていたが、彼の釣針には大魚がかかった。マウイは兄たちにまっすぐ岸まで獲物を曳航するように言ったが、兄たちは振り返ってしまう。すると魚の体は分断されて、ハワイの島々になった。そしてこの創世神話にちなんで、後世、ハワイの王が儀礼で使う釣針をマウイの釣針と呼ぶ。第二話で釣針の象徴的な意味を考えたが、南太平洋では釣針は島の創世を行う道具としても描かれているのだ。
島釣りでなくても、南太平洋のメラネシアには原初の海で泳ぐ蛇神が、海底を浮上させて島になった。あるいは創世神の亀がせっせと砂を珊瑚礁に積んで島になったという話がある。私の行っている村では、働き者だった村長の祖父が毎日珊瑚石をカヌーで運んで築いたと語りつぐ。彼らにとって人工島を造り、そこに住むということ自体が、創世神話を再現する行為、あるいは祖先に感謝し、海の民としての誇りを確認する意味があったのだ。
これら南太平洋の島々は火山活動と珊瑚礁の活動でできた。海底が盛り上がって島ができるという思想はこの自然の摂理を素朴に表現したものであろう。南太平洋の島々を生み出した火山脈の彼方には、日本列島がある。前回紹介した、イザナキ・イザナミの神話では、矛を海に下ろしてかき混ぜ、そのとき滴ったしずくから日本列島が生れた。矛で海水をかき混ぜるしぐさは古代の製塩法を表しているか、あるいは、矛は魚叉のような漁具であった可能性もあり、釣針そのものは登場しないが、このモチーフは南太平洋の島釣り神話につながるのである。 
第8話 海霊(よなたま)の系譜

 

日本列島の最南端、八重山を尋ねると、方々に津波石がみつかる。それは明和年間にこの付近で起こった大津波に由来する。当時は琉球王朝の尚穆王(ほうぼくおう)の頃で、津波の被害の惨憺たるありさまが文献に記録されている。それに伴って津波の説話が語られている。
石垣島では若者たちが海岸で、美しい女の声が聞こえてくるのを聞いた。不思議に思い、三人の若者が翌朝船を出して声の主を確かめることになった。網を掛けると、大きな人魚(ザン)がかかった。思わぬ獲物に喜んだが、人魚が泣き始めたのでかわいそうに思い逃がしてやった。人魚は嬉しそうに泳ぎながら言った「助けてくれたお礼に教えてあげます。今海が大変怒っています。程なく大津波があります。だから早く帰って山に逃げなさい」と。三人は村の人にこれを話し山に逃げた。しかし白保の人は誰も信じず、やがて起こった津波に呑まれてしまった。話を信じて逃げていた野底村の人々は村の復興を行った。三人は以後、親切を教訓にして暮らした。
このような説話は民俗学者・や柳田國男が論考「物言う魚」の中で海霊型と呼んだ説話に含まれる。それは次のような話から由来する。昔、宮古群島の伊良部島の漁師が漁に出て、ヨナタマという魚を釣る。この魚は人面魚体であり物を言う魚だった。漁師はこのような珍しい魚ならば明日賞味しようと思い、炭をおこしてあぶりこにのせて乾かしはじめた。その夜寝静まると隣の家の子供が泣き叫び伊良部村へ行こうと言う。母は心配しそれを抱いて行くと海の方から「ヨナタマ、ヨナタマ、どうして遅く帰る」と聞こえてきた。すると隣家で網の上であぶられていた魚が「今われはまさに炭の上で焼かれること半夜に及ぶ。早く(=潮)をやって迎えてくれ」と答えた。これを聞いて母子は恐ろしくなって逃げ帰ると、果たして津波で村は流された後だった。
この中でヨナタマとは海を表す古語ヨナと関係し、ヨナタマとは海霊であろうと柳田は推測している。宮古地方では海に漁に行くことを「よなうり(ヨナ下り)」と言い、それに関連して「よな下り道」や「よな下り川」といった言葉があるそうだ。すなわち海霊は海神思想の原型で、一方で食おうとした侵犯者を懲罰すると同時に、他方敬虔であり、従順である者には多大なる福徳を与えるという意味があると指摘している。
第五話と第六話では東南アジア・南太平洋方面の洪水説話について紹介した。実はこの海霊型も沖縄から南方に色濃く見られる洪水説話の一形態なのだ(後藤明『物言う魚たち』、小学館、近刊)。たとえばインドネシアのセラム島には次のような話がある。
二人の姉妹が蟹を捕らえに川に行ったとき、岩の所で鰻を見つけた。「鰻がいる。あれを捕まえよう」と一人が言った。すると鰻は彼らの言った言葉を繰り返した。彼らは鰻を自らひきずり出し、捕まえ殺した。しかし鰻は重すぎて、家に持って帰ることができなかった。人々は村に戻って、助っ人を頼んだ。彼らは木を切り、それにつけてようやく鰻を担いで村まで運んだ。そし帰ると鰻を切り刻んだ。しかし鰻の肉は十分なかったので人々は文句を言った。鰻は彼らの言った言葉を皆繰り返した。夜になると川の水かさが増して、村は呑み込まれてしまった。鰻を食べた家族は流されて溺れ、食べなかった家族だけが助かった。
一連の類話の特徴は、(一)人魚ないし物を言う魚を捕らえるが、それが人間の言葉を話し、助けてくれるように言ったので不憫に思って助ける、あるいは災害が起こることを警告したので恐ろしくなって逃がす。その結果、(二)津波や洪水のような災難から逃れることができる。さらに(三)助かった者は村の草分けになったり、その体験を以後教訓とする、この三点である。南方では「物言う魚」は鰻、蛇あるいは鰐である場合がほとんどである。鰐について第三話で述べたように、これらは共通に水の主あるいは水霊として信仰を集める。このような原初的な思考から海神・水神の思想が生れるのである。 
第9話 地軸を支える鰻

 

先日、台湾で大地震が起こったのは記憶に新しい。日本列島から南太平洋へ連なる火山脈の上では、鰻や大蛇が大地を支え、その動きによって地震が起こると信じる民族が多い。この南に伸びる火山脈に沿って、大地を支える鰻や蛇の観念が存在するのだ。
いうまでもなく、日本では、鯰と地震との関係が有名である。日本の民間信仰では、鹿島大明神が要石で鯰を押さえつけている間は地震が起こらないが、何かのきっかけでタガがゆるむと鯰が暴れて地震になると言われている。しかし日本の鯰絵を研究したC.アウエハントは、もともと原初の海に泳ぐ龍蛇が大地を取り巻き押さえているという信仰が原型にあると言う。
薩南諸島の種子島では次のように伝えられる。とても長い「なえ」という魚がいて、世界を取りまいている。なえは自分の口でくわえるくらい長い体を持ち、それで地球を締めつけている。しかしときどきなえは自分の尾を離す。するとタガが緩まって、地面の弱いところが割れたり、山が崩れたりして地震が起こる。
伝承ではなえの頭は京都の下にあり、その中心に京塚がある。普段はこの京塚の重みでなえが押さえられており、尾を離すとその重みですぐまた尾をくわえる。だから人々は地震が起こったら「きょうづか、きょうづか」と唱えるのだ。地震が起こったとき「きょうづか、きょうづか」あるいは「つかつか、つかつか」と唱えるのは沖縄本島や八重山にも見られる風習だ。
八重山の石垣島でも、ナイ(地震)の原因は、地底に住む大蟹が悪さをして鰻を挟むと、鰻が苦しんであばれるためであると語り継がれていた。
民俗学者・谷川健一によると、宮古群島では、をヨナイタマとも呼ぶが、その言葉に含まれる“ナイ"が地震のようにものが揺れることを指すという。そして津波はヨナナイと言われるが、前章で述べたヨナタマには地震によって津波が起こるという意味が含まれているようだ。洪水を起こす鰻と地震を起こす鰻が元はひとつであることが理解できよう。
仏教思想の影響をうけているが、東南アジア・大陸部のラオ族は、この世の中心にある山、須弥山はプラ・アヌンと呼ばれる魚によって支えられていると信じていた。この魚は山を取り巻いていると表現されるので鰻のような魚であったろう。魚が眠っている間は静かだが魚が動くと地震が起こる。
フィリピンのミンダナオ島に住むバゴボ族には大地を支える鰻の伝承がある。この伝承では、天地や海が創造された後、最初の人間は、大鰻と蟹を創った。蟹がときどき鰻を噛むと、鰻が大暴れをして、大地が揺らいで地震が起こる。
ヒンズー文化の影響を受けているが、インドネシアのジャワやスマトラ島でも大地を支える蛇の思想が一般的である。蛇は口で尻尾をくわえるほど巨大である。しかし時々蛇が身動きすると地震が起こる。ボルネオ南部のオロ・ンガジュ族も蛇神ナーガが大地を支えていると信じている。蛇がだらけて寝返りを打つと地震が起こる。
北部ソロモン諸島のブーゲンビル島では大地の底に蛇が住み、それらが交尾するときの動きで地震が起こると信じられていた。大地を支える蛇の観念は、フィジーにも見られる。
さらに大地を支える、あるいはそれと関連すると思われる、天をもちあげた蛇や鰻の説話はポリネシアやミクロネシア各地にも見出せる。またポリネシアのマルケサス諸島では島が大鮫の背に乗っているという神話がある。創世の神タンガロアの息子が逃がしてしまった小魚のカワハギが島の守り神である鮫の頭を囓ってしまった。鮫はそれで目覚め、尾鰭を一振りした。すると島を支えていた細い岩が壊れ、島はひっくり返り、海底に沈んでしまった。人々は皆溺れ死んだ。この話を一九世紀末に紹介したF.クリスチャンは、日本列島が鯰の背に乗っているという伝承と類似していると述べ、鹿島の要石信仰との類似を指摘している。 
第10話 大蛇の腹には宝が宿る

 

大蛇のいない所にも人食い蛇の話が見つかる。そのひとつ沖縄の津堅島にある七頭鰻の話を見よう。
海に住む大鰻が毎年、陸に上がり人を一人食うまで暴れるの困っていた。そこでクジで当たった者を犠牲にしようと言うことになったが、若い娘が当たってしまう。家族が困っていると武人が通りかかり、作戦を授ける。鰻が好きな酒を瓶に入れて道に置き、その上に櫓を建てておとりの娘を立たせたのだ。鰻が瓶に頭をつっこんで酒を飲んでいるときに、太刀で斬りつけて鰻を殺したのである。
島ではこの説話に関連して旧暦一一月一四日にマータンコーと呼ばれる儀礼を行う。女の絵を掲げて酒樽に映し、酒を飲ませて蛇を殺す儀礼である。普通二人の男性が長者として選ばれる。長者は名誉をうけ、祭りでは上座に座る。マータンコーの祭りは大蛇を退治する祭りであると共に、蛇を退治する長者が新たに誕生することを祝う儀礼なのだ。そしてこの儀礼は蛇の姿をした神海の彼方の豊穣の国、ニライカナイからを迎える意味を持つ。
ところで、遠く離れたニューギニア北岸にも類似した話がある。大蛇が村に来たとき、畑仕事をしていて逃げ遅れた女がいた。彼女は身ごもっていた。蟹が彼女を見つけて同情し、自分の巣で暮らすようにと言った。やがて彼女は二人の息子を生んだ。息子たちは成長して、蛇を殺しに出る決心をした。彼らは小屋と大きな炉を作り、竹の筒を用意した。炉から上がる煙を見て、大蛇が寄ってきた。息子たちが椰子酒を勧めると、卑しい大蛇は、大口を開けて酒を飲もうとした。息子たちは、竹筒の酒を口に注いだが、蛇が口を締める前に、焼けた石を入れた。大蛇は焼けた石を呑み込んで、のたうち回り、死んでしまった。彼らの勝利を聞いて、避難していた人々は戻ってきた。今の「勇者の儀式」の時には、子孫たちはこの出来事を思い出すのである。
異伝では、洪水から逃れるため蟹の穴に隠れる話があるので、大蛇に襲われることは洪水に襲われることと同じ意味があったといえる。蛇や鰻の動きは川の蛇行を想起させ、また水霊であるが故に水そのものと同化している。日本の八俣の大蛇退治にも川の流れを制御するという治水の意味があったと言われているのも同様だ。
さて、この話は沖縄の説話を思い出させる。大鰻をおびき寄せるために櫓や小屋を建て、酒を飲ませる部分がである。説話が儀礼の起源となっている点も両地域に共通だ。また沖縄で鰻・蛇を退治するために櫓を組むのと同様、三階建ての家を造る次のような事例もある。この場合息子たちは三階建ての家を作り、それぞれの階に炉を作り、炉のわきには餌の魚、そして焼けた石と熱湯を置く。やがて龍が魚の臭いを嗅いでやってきて、一階に登り、魚を食べようとしたとき焼け石と熱湯を呑み込んでしまう。龍はさらに登り、同じ事を繰り返すが、そのすきに息子は槍で龍にとどめを刺す。龍は死ぬ間際に「俺は死ぬが四日後に俺の死体を見ろ」と言い残す。母と息子が死体を見に行くと、死体から煙が上がっていたが、そこからは戸棚、皿、貝輪、布、など色々な財宝が生まれていた。
この話では、死んだ龍の体から財宝が出てくる。人々に財宝をもたらしたという意味ではこの龍は一方的に悪者ではない。むしろ沖縄におけるニライカナイから富を運んで来る蛇形の来訪神と同じである。人食い大蛇は恐ろしいと同時に、腹に宝の山を宿す両義的存在なのである。
流れる川の象徴である蛇の襲撃は川の氾濫や洪水を意味する。また鰻や蛇あるいは鰐が多く棲息するのは湿地帯、マングローブである。マングローブの植物は利用価値が高く、人々にとってマングローブは恵みを与えてくれる“宝の山”なのだ。そしてマングローブで育まれた生命は成長して外海に出て、やがて潮に乗って人間に多大な幸をもたらす。腹に宝を宿す龍蛇は、大地を覆う水が人間に豊穣もたらすという思想を表すのでえある。 
第11話 異常な誕生

 

山形県と秋田県の県境にある鳥海山の始祖伝承は次のような卵生神話である。昔、巨大な鳥が卵を抱いてこの山に飛来した。卵から菩薩や親王が生まれて始祖になった。また南島・宮古諸島にも卵生神話がある。多良間島では次のようである。津波がやってきて人々が全滅してしまった。天の神が卵を七個持ってきて鳥のようにそれを抱いて孵化しようとした。しかしなかなか孵らず卵は腐ってしまった。再び七個の卵を持ってきて別の所で抱いていると、男女七名が孵化した。そこでその七名の伴侶を天からさらに降ろして夫婦にさせた。
鳥海山のようにその卵が鳥の卵である事例は、フィリピン、インドネシア、さらにメラネシアに顕著である。しかしそのような卵生神話には、鳥だけでなく、水界の生物、つまり蛇や鰐をモデルにした話も多い。台湾・高山族の間にある卵生神話は次のようだ。
昔、一本の竹があった。中に水がたまっていたが、その竹を割ってみると、中から四個の卵が転げ落ちてきた。五、六日たつとその中から蛇の形をした男女が現れた。二人は交合を知らなかった。ところが男の男根が何となく勃起してきたので、彼が放尿しようとすると、女がここに出せと言って股間を示した。その通りしてみると、二人は快楽を覚え、毎日同じ行為をした。やがて二人には子供ができた。
またビルマの建国神話で女のナーガ蛇がやってきて太陽神の王子と関係を持った。やがてナーガは妊娠し、金と黒と白の卵を生んだ。やがてその卵は嵐で流され、孵化した卵から王子が生まれた。
さらにインドネシア・モルッカ諸島北部のテルナテ王国の起源神話には次のような物語がある。
昔、王はいなかった。ある時、長老がカヌーで船出した。彼は海の岩の近くに綺麗な籐が生えているのを見つけた。彼が近くに行き、手下に籐を切らせた。すると切り口から血が噴き出したので、びっくりして飛び退いた。彼らは近くの岩にナーガ蛇の卵が四つあるのに気がついた。彼が卵に近づくと、声がした。卵は偉大な者たちが生まれるのでもって帰るようにと言うのだ。彼は感銘をうけ篭にいれて卵を持って帰った。やがて卵が孵化して三人の男と一人の女が生まれた。彼らがテルナテなど王国の始祖になった。
この物語では籐の間に置かれていた卵から王の祖先が誕生する。籐は椰子科の植物だが形態としては竹を想起させる。したがってこの話は、台湾の話や竹取物語に見る日本の竹中誕生の説話とも一脈通ずるのである。
民族学者・松本信広は竹取物語の源流は中国の類話ではなく、東南アジアやオセアニアにたどれると論じた。同時にそこにはヴェジタリズム、あるいは植物トーテムの思想が基盤にあると考える。植物から誕生するという点では、日本の桃太郎のような民話も関係するだろう。また竹の象徴的重要性のひとつは、幹が中空であるために、地上と地下世界をつなぐパイプになるという点である。竹を通って地下世界あるいは冥界の霊が地上にやってくる話は多い。
竹中誕生が多いのは、マレーの王権神話である。マレーの起源神話では子供のない王夫妻が森の竹や筍の中から跡取りを発見する話が多い。さらに竹ではなく、ココ椰子の実の中から子供が誕生する説話も見られる。また類話を辿ると、川から流れてきた泡や卵の中から誕生する話もあり、日本の桃太郎型民話との関連も注意すべきである。つまり植物中誕生説話、卵生神話、水辺の誕生が密接に関連している。海辺や川辺では流れ来る卵ないし泡から生まれるような形が多く、山間部では狩りや伐採にでかけたとき竹の中に赤子を見いだす話になる。ちなみに中国では洗濯をしているときに流れ着いた竹の中から誕生する話もある。
その背景には南方の多雨林や湿地の生活がある。卵生説話あるいは竹などの植物から人間が生まれる思想は、自然と人間の絆を強調することで、人間が自然支配のような思い上がった考えを持つことを戒めているのではないだろうか。 
第12話 日本古代の原風景

 

日本古代の原風景を考えてみたい。そのためには記紀神話の冒頭に注目しよう。
『日本書紀』の最初には、天地が開けた始めには国土が浮き漂っていたと記される。その中に葦の芽のようなものが最初に生じて神になったと語られている。
日本で本格的に水稲耕作が始まったのは弥生時代であるが、最初の稲作水田は低湿地に営まれた。稲作をもたらした人々には、年貢で苦しめられる農民のような姿を想像してはいけない。彼らは揚子江流域で活躍した海人・水人の系譜を引く人々だ。中国南部から東南アジアにかけて、低湿地や海岸部をねぐらとする人々は多い。彼らはマングローブなどの湿地近くで漁業を行いながら、各地に農耕を伝えていったのである。これが弥生人のイメージなのである。
彼らの生活空間こそ、記紀神話冒頭で述べられている日本古代の原風景なのだ。ズブズブ・ドロドロの湿地はきわめて生産性の高い生態系である。多くの海洋生物はそこで育まれ、やがて人間に多大な富をもたらす。しばしば洪水に襲われる低湿地は、その季節のサイクルを把握すれば、豊かな農地ともなる。腹に宝を宿す大蛇の思想はそれを象徴する。
日本や南島にもその系譜が及んでいる海霊や洪水の説話と、そこに登場する鰻、蛇、鰐などの動物。それらが活躍するのは、だいたい湿地帯、すなわち陸と水の中間地帯であった。前回で述べた「異常な誕生」も水辺に関わっていた。そしてこれらにまつわる説話は自然の恵みと、人間の不遜な行いに対する戒めが同時に描かれていた。
このような古代の原風景は、日本人の思想の中にかなり強固に受け継がれている。谷川健一の『日本の神々』によると、九州の隠れ真宗、カヤカベ教の教義では、この世の始まりは洪水に覆われた泥海のようなものだったと描かれるのである。そしてその泥海に生じた最初の光明こそ阿弥陀仏なのである。また天理教の教義でも、この世の大本は”どろうみ”であったと説くのである。
本シリーズで見てきたように、神話に登場する多くの海神はこのように湿地帯に棲息する鰻や蛇、あるいは鰐などを原型としていた。やがて神々は波濤や珊瑚礁を越えた、遠い海の彼方からやってくるものとなった。海を越えてやってきた人々の遠い始祖の地、また常世の国から到来する神々となったのである。
南島で広く見られる海から到来する神は、スク(塩辛状にし豆腐の上に載せて食べる魚)である。スクはアイゴの稚魚のことだが、人々はスクをネィラ(ニライ)の神の贈り物と考える。この海の神は日本人にとってもっとも大事なもの、すなわち稲をもたらす神なのだ。
スクの到来は旧暦の五月から八月の間で、朔日の前後である。鹿児島県の徳之島では最初の到来は五月にワクサ(若草)忌み、つまり、稲が穂を孕んだ後の忌みの期間である。この時期、稲に宿った稲霊に失礼のないように水田に入って騒いだり、光り物を持ち込んだりするのを禁止する。そして六月の半ばに稲刈りの解禁の直後、珊瑚礁を真っ赤に染めてシュク(方言名)が再び到来する。これをアキヌックワ(水稲収穫の子)と呼ぶ。神女ノロがシュクを潮だまりでとり、ニライからの神を迎える。また刈り取りが終わるのが七月の半ばであるが、その直後、旧七月二八日頃、三度目のシュクの寄りがある。
同じように海の神が作物をもたらすという思想は南島だけでななく、日本各地の漂着神信仰やミロク船の信仰にも見られる。さらに拙著『「物言う魚」たち』(小学館)でも書いたように、南太平洋にも共通に見られる思想だ。
徳之島郷土研究会会長の松山光秀氏によると、昨年はそのスクの到来に異変が起こったと言う。定期的なシュクの寄りがなかったのである。そして三回目、稲の収穫期になってやっと現れたのだ。島の人々はニライの神にいよいよ見放されたかと矢先だった。稲霊をもたらす時期ではなく収穫期にだけ到来した神の魚。これが海国日本を取り巻く自然への警告でないことを祈りつつ筆を置きたい。 
 
古代アフリカ・エジプト史への疑惑

 

序章 疑惑の旅立ち
序章1 はじめの驚異
アフリカ大陸の歴史については、まず、学説のくいちがいの大きさに、おどろかざるをえない。もっとも大きなくいちがいは、古代エジプトの位置づけ方にはじまっているようだ。
たとえば、ジャーナリストとして、アフリカ通の第一人者と言われるイギリス人のデヴィドソンは、つぎのように書いている。
「王朝以前のエジプトから出土した約800の頭蓋――ナイル下流からのもの――の分析の示すところでは、少なくともその3分の1はニグロ、あるいはわれわれの知っているニグロの祖先であった。そして、このことから、今日のアフリカ人の遠い祖先は、古代エジプトの文明を生み出した住民のうちで重要な、おそらくは支配的な要素だったという見解(それは言語の研究からも若干の裏づけが得られる)が支持されるもののようである」
人種差別問題を考える上でも、世界最古、最長の、古代エジプト文明の、「支配的な要素」をなしていた人々が、黒色人であったかどうかは、大変に重要だ。それゆえ、アフロ・アメリカ人の思想家、デュボイスや、歴史家のウッドソンなどは、意外に早くから、この点に着目していた。彼らは、パン・アフリカニズムとよばれる黒色人自身の歴史再発見、民族的自覚再確認の運動を起していた。
黒色人歴史家たちが、古代エジプト黒色人説――かりにこう名づけておく――の重要な論拠のひとつとしたのは、ヘロドトス(前484?〜425)の『歴史』における証言である。
「歴史の父」といわれるヘロドトスの時代には、人種も民族も一緒くたに考えられていた。彼は3ヶ所で、エジプト人の人種形質にかかわる証言をしている。しかし、そのいずれも、他のことを論ずるための証拠として書かれており、とりたてて、エジプト人の人種形質を論じた部分はない。彼らにとっては、エジプト人の特徴はあまりにも明らかなことであったのだろう。そして、3ヶ所とも、エジプト人は、「黒い」人種として描かれている。とくに、黒海の南東郡にいたコルキス人を、エジプトの遠征軍の残留部隊だ、と論じている部分では、「色が黒く、髪が縮れていること」を、同一人種・民族と考える上での重要な論拠にしている。
ところが、へロドトスその他の古代人の著作については、百も承知のはずの、ヨーロッパ、アメリカなどの学者は、古代エジプト人を「ハム系の白色人種」だといいはっている。そして、古代エジプト文明はオリエントからつたわった、と主張している。
フランス人のシュレ=カナールは、彼らが、「暗黙の人種主義的偏見から古代エジプト人をなにがなんでも〈白人化〉しようとした」、と指摘する。しかし、このシュレ=カナール自身も、北アフリカ、エジプトを白色人種の地方、「白アフリカ」とする慣行にしたがっている。まさに複雑怪奇である。
黒色人の当事者にとっては、大変に重要な問題で、こうもくいちがいがあっては、大論争にならざるを得ないだろう。そして、事実、この問題は、長い間の論争の焦点になっていた。
ところが、残念なことに、日本語で出版されている本には、この問題――かりに古代エジプト黒白論争とする――を真正面から取扱ったものがない。それどころか、日本の学者が書いた本では、黒色人、つまりアフリカ人やアフロ・アメリカ人の主張を、全くとり上げていない。
また、アフリカ全体に、謎の古代遺跡が沢山あり、巨大な石造の城があったこと、ダム、水道、潅漑工事もなされていたこと、アフリカが金属産業の中心地だったこと、鉄をはじめとする鉱山跡が数十万ヶ所もあることなどは、ほとんど紹介されていない。もちろん、そんな状態だから、アフリカの黒色人文明の評価は、まことに不充分で、まちがいだらけである。
とくに残念なのは、古代エジプト史と、アフリカ史とが、相変わらず、全く切りはなされて、取扱われていることである。これは従来のヨーロッパ系の学者の、あやまった姿勢を、そのまま受け入れていることに他ならない。そこで、シロウトながら、だんだんと病みつきになってきたわたしは、的をしぼって、2人の学者の、最近の研究にもとづく原著をとりよせてみた。
1人は、フランスで博士号をとったセネガルの黒色人学者、ディオプ、もう一人は、フランスのアフリカ史学界の最高権威の1人、コルヌヴァンである。
この2人の本にも、相当なくいちがいがある。共通するのは、エジプトを含めて、アフリカ大陸全体の歴史を考えていることと、エジプト文明を、アフリカ大陸の民族自身による創造、として位置づける点である。この2人の著作で学びえたことは、また、さらに驚異的であった。 
序章2 つぎなる疑問

 

だが、ひとつのことで、ふたつもみっつもの学説があるということは、何を意味するのだろうか。いうまでもなく、真実はひとつしかない。だから、正しい学説も、ひとつしか存在しえない。ひとつの学説をのぞいて、ほかは、当然、まちがっている。また、もしかすると、いままでの学説が、すべてまちがっている可能性すらある。
たとえば日本史では、女王ヒミコの邪馬台国が、大和か九州かというので、数十年間も論争がつづいている。せまい日本のことだから、これ以外に候補地がでてくる気づかいはない。そしてこれも、どちらかが、まちがっているに決まっている。また、ヒミコや邪馬台国の位置づけについては、「皇国史観」がさまざまな錯誤をつくりだしてきた。
わたしは、これと同じことが、ヨーロッパ系の学者によるアフリカ史やエジプト史、そしてオリエント史の研究方法の中に、はっきりとあらわれているのを知った。皇国史観やナチズムは、つい30年前まで通用していた。日本やドイツは、封建制度からぬけだしたばかりの国だったから、神話そのままの歴史学が、そのまま受けいれられた。
フランス、イギリス、アメリカでは、ブルジョワ民主主義の伝統があったから、若干事情がちがっていた。だが、フランスやイギリスは、最大の植民地領有国だった。そして、アメリカは黒色人差別の国である。これらの諸国の支配体制も、当然、神話を必要としていた。そこで、一見科学的な「現代の神話」をつくりあげた。この「一見科学的」が、大変な曲者である。皇国史観やナチズムなどは、まともな学者には相手にされなかった。ところが、「一見科学的」な説明は、意外に受け入れられやすい。多分、それを考えた学者本人も、信じこんでいるのだろう。
そこでわたしは、あらゆる学説を、根本的に疑ってかかることにした。また、アフリカ大陸の中心部から、すべての歴史をみなおすことにした。データを整理し、いままでの学説の論理を、裏がえしにしてみた。もちろん、採用できる点は、とりいれた。
その結果、アフリカ史のみならず、人類史全体にかかわる、大きな謎をいくつか解いた、と確信している。もちろん、シロウトのことだから、いくつかの誤りをも犯しているであろう。しかし、わたしがどういうデータにもとづき、どういう論理によって古代の謎を解く鍵を見出したか、という経過は、人類史、古代史の理解を深める上で、決して無益なものではないと思う。
また、そこはシロウトの身軽さで、わたし自身が楽しんだ謎ときを、いささか勇み足とは思いながらも、そのまま書かせていただくことにする。わたしがあらゆる学者の説を疑ってかかったように、読者も、わたしの説明をおおいに疑いながら、よんでいただきたい。
ではまず、疑惑の旅の出発点を、古代エジプトに定めてみよう。デヴィドソンは、「古代アフリカの記録はエジプトからはじまる」、と指摘している。だが、この肝心のエジプト古記録の解釈が、まちがっていたら、どういうことになるのだろうか。 
序章3 ナルメルの遠征

 

古代エジプトは、上下または南北2王国という制度をとっていた。最初の統一者、ネブウ・タウイ(2国の王)は、伝承によれば、メネスである。しかし、現在までに発見された最古の上下王国支配者は、ナルメルである。
ナルメルが最初の統一者である、という論拠として、ナルメルの業績を記したパレット(石板または化粧板)があげられている。写真(11ページ[web公開では序章の扉絵])のようなものである。日本の例でいえば、神社にかかげる絵馬のような位置づけになるだろう。これには絵文宇で、ナルメルの名が記されている。
エジプト史学者の加藤一朗は『古代エジプト王国』の中で、この絵を、上エジプトの王であったナルメルが下エジプトを征服した記録だと説明している。これは、エジプト史学者の大勢をしめる考えであったようだ。
ところが、オーストラリアのオリエント史学者、キュリカンの説期によると、この時にはエジプトの上下統一はすでに達成されており、ナルメルが征服したのは、下エジプトではなくオリエントになる。これでは歴史の様相が一変してしまう。
彼は、統一王朝出現以前のエジプトと、オリエント各地との通商関係の事実を、まず、出土品によって証明する。そして、つぎのようにいう。
「これらの最初の物資交換の背景にある政治事情はわからない。古代の通商は非常にしばしば移住または征服というやり方をとるし、またシュメルとナイル間の初期王朝文化にはたしかに類似があることからみて、両地域は何らかの接触をもっていたと想像される。ナルメル王みずからがアジアの秘密を探険するのに重要な役割を演じたのであろう。
というのはカイロ博物舘に所蔵される彼の有名な化粧板[パレット]のある解釈によると、それはトランス=ヨルダン遠征と『双生河』を『飼いならす』ことの記録だとみるからである。その化粧板にはたしかにアジア人が表わされているようだし、またその板の反対測に、長い首をからみ合わせている2ひきの豹は、先王朝時代のメソポタミアのウルク朝に一般に通用したシンボルだった」
たしかに、長髪の人物像は、後代のエジプト絵画にでてくる、オリエント(アジア)人の典型である。ファラオの象徴である牡牛の角で破壊されている城壁も、オリエントの都市遣跡と同じ型である。とくに、2匹の豹の説明は、これ以外にはなしえないだろう。
コルヌヴァンは、このパレットに関連して、つぎのように書いている。
「ナルメルのパレットは、まさにエジプトの歴史の開幕をつげる。しかしそれは同時に、世界の歴史のはじまりを年代づけてもいる。事実、紀元前3000年紀のはじめには、ひとりバビロニアのシュメル人のみが、エジプト人と同じように文字を発明し、その名前が伝説にのこされている諸王によって統治される、いくつかの都市を建設していただけだから、である。しかし彼らは、まだ国家を形成しておらず、彼らの都市は、セム系のアカデア人があらわれる紀元前2300年までは、連合することがなかった。その他の、古代世界における文明中心地、すなわちインド、中国、地中海の東海岸地帯は、紀元前2000年紀まで、歴史への登場に達しなかった」
オリエントからエジプトへの、文化・文明の伝播によって、世界史の開幕を説明しようとするならば、以上の年代的なギャッブの、合埋的な解釈が必要になる。
エジプトのヒエログリフの起源は、ナイル河中流域の岩壁にのこる線刻画にまでさかのぼることができる。そして、ナルメルの登場以前に、上(南部)エジプトで、はっきりした形をとっている。その年代は、紀元前3500年から3000年以上の古さである。上下エジプトの統一の年代のきめ方は、学者によって、約500年もの差がある。だが、ヒエログリフはそれ以前に完成していた。
エジプトの統一は、しかも、上エジプトからなされている。オリエントとは反対側、つまり、よりアフリカ内陸に近い方からなされている。上下王国を合わせた二重帝国という大事業においても、エジプトはオリエントに先んじている。途中から追いこしたという主張は、果して成り立ちうるのであろうか。 
序章4 ネヘシの黒い霧

 

オリエントとは反対の側、つまり、エジプトの南方、現在のスーダンには、クシュ帝国があった。この国は、いろいろなニュアンスがあるにしても、あらゆる学者によって、黒色人の帝国として認められている。歴史の細部はのちに考えるが、この帝国は、エジプトから現在のウガンダにいたる領土を支配し、古代エジプト第25王朝(前751-656)をも開いた。
しかし、それより1000年以上も前から、クシュ帝国とエジプト帝国との国境地帯、フィラエ(ヘー)には、城砦がきずかれ、石碑が建てられていた。この石碑はドイツ人学者に発見され、ベルリンにもち帰られた。
人類学者の寺田和夫は、その碑文の内容解釈も含めて、つぎのように書いている。
「最古の黒人に対する差別の例としてエジプトのセソトリス3世(前1818-1849)の命令でつくられた、第2爆布近くの石碑があげられることがある。
『南の国境。上下エジプトの王たるセソトリス3世――生命の永らえんことを――の御世8年にこれを建てる。輸入のためか、または交易所で物を購入する目的のある場合を除き、黒人が水路・陸路を舟をもって、あるいは家畜を連れてこの国境を越えてはならない。前記の目的で越境する黒人は歓迎されるが、ヘーの地点より下流に舟で進むことは永久に禁止する』」
文中、「黒人」にあたる古代エジプト語は、ネヘシであるという。ほとんどの学者は、これを黒人とか、黒色人とか訳している。フランス人のコルヌヴァソも、「ネグル」(ニグロ)としている。
ところが、セネガル人のディオプは、この訳語は間違いであるだけではなく、曲解だとし、きびしい批判をしている。その理由は、1955年出版『黒色人国家と文化』でも、くわしくのべられている。だがここでは、それよりも論旨明解で、ヒエログリフまで描出してある、1967年出版の『黒色人文明の先行性』の方から、訳出しておきたい。ディオプは、アフリカの諸言語(セム系諸語も含む)では、ケム、カム、ハムなどが、「黒い」という語根をなすことをくわしく説明し、つぎのようにいう。
「古代エジプト語では、ケムが黒の意味を持っていた。……特筆すべきことには、エジプト人は彼ら以外の黒色人《ディオプは古代エジプト黒色人説》を区別するために、皮膚の色を指し示すような人種用語を使ったことはない。……エジプト人は、《クシュ人のことを》、彼らの家族の末席につらなるものとみなしており、つぎのように呼んだ。クシュの性悪息子たち、クシュの横着息子たち、やくざものたち、である。彼らを指示する民族名は、ネヘス、ネヘシィ(複数)であった。注目すべきことには、この言葉はウォロフ語にも存在しており、古代エジプト語の俗化した意味を保っている。すなわち、ウォロフ語では、ナハス=やくざもの、三下奴、ナハス・イ=やくざものたち(複数)である。
《ネヘス》を、黒人[ネグル]と訳した人々は、意図的に(なぜなら、彼らはそういうことを知っていたのだから)、不当な曲解を行ったのである。これは、色彩を表現する用語ではないのだ」
ヒエログリフの描出は省いた。専門家にしかわからない問題であろう。しかし、さいわいなことに、エジプト史学者の鈴木八司は、つぎのように書いていた。重複するので、碑文の訳出個所は省くが、彼は、ネヘシに「南方人」という訳語を当てている。
「エジプト人はこれらクシュより南方の住民を総称して『ネヘシ』と呼んだ。従って、このネヘシという言葉を『黒人[ニグロ]』と訳すことは必ずしも妥当ではない」
ネヘシの語源は、いずれ明らかにされるであろう。ディオプの本では、大変な数の古代エジプト語とウォロフ語の比較が行なわれている。単語だけではなく、文法構造の共通性も指摘されている。そして、何人かのヨーロッパ系学者の発言は、ディオプの言語学上の主張の正しさを、「間接的」に認めている。なぜ「間接的」かといえば、彼らは決して、「アフリカの黒色人学者ディオプ氏の説にしたがえば、……」という姿勢は示さないからである。
ヨーロッパ系学者のこのような姿勢の背景にはもちろん、長期にわたる人種差別の歴史がある。その上に、ディオプの本も、ヨーロッパ系学者への大変痛烈な批判に満ちており、またまた新しい拒絶反応をつくりだしているかのようである。
それはともかく、以上のことから考えると、ネヘシはおそらく、古代エジプト人の「中華思想」にもとづく、「南蛮人」というほどの意味である。絶対に、肌色を示す人種用語ではないだろう。
問題は、「黒人[ニグロ]」と訳しつづけたヨーロッパ系学者の意図にある。最初の訳出者がなにを考えたかは問題ではない。それは結果として、つぎの三段論法をみちびきだしたといえる。
1、スーダンは「黒人[ニグロ]」の領域である。
2、隣人を「黒人[ニグロ]」とよんだ古代エジプト人自身は「黒人[ニグロ]」ではない。彼らは自分たちを、「黒人[ニグロ]」から区別していた。
3、エジプト人は「白人[コーカソイド]」(ハム系とされてきた)である。
この誤解、またはディオプによれば曲解と、つぎに示す、古代エジプトの国名、ケメト(ケメット)の解釈とは、まさに表裏一体の関係にあるようだ。 
序章5 ケメトの住民

 

エジプト学者の加藤一朗は、古代エジプト人自身が、自分達の国とその他の地方をよんだ用語を、つぎのように説明している。
「古代エジプト人は、自国を《ケメット》(黒い土地、ナイルの氾濫の及ぶ沖積地帯)とよび、《デシュレット》(赤い土地、砂漢)、《カセット》(高い土地、丘の彼方の外国)と対照させた」
また、自分たち自身に対するよび名については、こう説明している。
「エジプト人は、白分たちのことを表現する《レメッチ》(人びと)ということばを、決して異国人のためには用いなかった」
エジプト人は、また、レムトゥ・ケメト(ケムトゥ)、すなわち、ケメトのひと、というように、自分たちをよんでいた。ほとんどのエジプト学者は、これを「黒い土地の人間」の意と解釈している。
ところが、ディオプは、このケメトは決して、黒い土に由来する用語ではなく、黒い人間の形容だ、と主張している。
エジプトの国名の起源を、土の色と関係させて論じたのは、『英雄伝』の著者、プルタルコス(46-120)の著作、『イシスとオシリス』(33章)が初めてであって、エジプト人自身の記録には、そんな理由を論じたものはない、という。そして、黒い人間についてこそ、この用語は使われている、ともいう。
これも大変なくいちがいである。ディオプが、古代人の証言を列挙している中にも、エジプト(ギリシャ語で“黒い”に発するという)の国名の由来を、肌色に求めている例がある。プルタルコス以前、前1世紀のギリシャの哲学者、アポロドレスは『イナクスの家族』の章、2〜3節で、つぎのように書いている。
「エジプト人は、彼らの国を黒い足で征服し、その国を彼ら自身の呼び名にもとづいて、エジプトと命名した」
この引用の紹介を含めて、こういう論旨を展開している本は、ディオプのもの以外には見当らなかった。だから、ここでは、ディオプの論理を追っていくしかない。しかし、これは非常に説得性があるといわねばならない。
まず第1に、レムトゥ・ケメトという場合、ケメトは“黒い”という形容詞でしかない。土とか、土地とか、国土とかいう単語は含まれていない。黒い国土という場合には、ター・ケムトなどといっているようである。
だから、レムトゥ・ケメトを直訳すれば、黒い人間、黒色人としかならない。これも、論埋的にはその通りである。
さらに、ディオプは近代の例をあげる。
「白アフリカ」「黒アフリカ」というよび方は、白色人、黒色人の意味からでているのではなかろうか。たしかに、アラビア語の「ブレド・エッ・スダン」も、黒色人の国の意味であった。それは、土の色に由来したものではなかった。
メラネシア(ギリシャ語のメラノから、黒い島々)というではないか。これもオセアニアの黒色人地帯の名称である。
わたしもひとつ追加しておくと、「白人高地」(ホワイト・ハイランド)という例がある。ここは、ケニアの古くからの農地を、イギリス人が奪い、ヨーロッパ系入植者を屯田兵がわりにしたところである。土地は肥沃で、明らかに黒い。
はたして、ケメトは「黒い人」であろうか、「黒い土」であろうか。この件については、まだ、結論的なことはいえない。しかし、この謎ときも面白そうだ。ディオプの著作、1955年の『黒色人国家と文化』に対しては、ヨーロッパ系学者による、いくつかの挙足取り的批評が眼についた。しかし、彼の引用している古代人の証言についての、まともな反論は見当らなかった。これもまことに残念なことである。
ではこの点について、人類学者はどういう見解を示してきたのであろうか。 
序章6 ファラオの人種壁画

 

人類学者の寺田和夫は、また、古代エジプト人の人種観について、絵画(下図)を示し、つぎのように書いている。[メレネプタ王墓の四大人種壁画]
「やがて、古代国家が成立するに及んで、われわれは、……人類学的知識の増大を、具体的に知ることができる。エジプトの絵画、とくに第19王朝のメレンプタ王(紀元前1212〜1181)の王墓の絵画は4人種の特徴を巧みに伝えているものとして、しばしば引用される。ホルス《エジプトのファラオの氏族神である鷹神》に導かれて歩む十数人は4群からなり、第1群はエジプト人で、赤い皮膚、鼻筋は真っ直ぐか、わずかに鷲鼻で、黒髪をもち、優雅な姿勢をしている。第2群はアジア人かアッシリア、ユダヤ、ペルシャ人であろう。黄色い皮膚、短頭、隆鼻、黒髪、低身長である。第3群は黒人で、髪は縮れ、広鼻、厚唇、突顎を示す。第4群はリビア人と思われるが、白い皮膚、ブロンド、赤ひげ、狭い鷲鼻、青い眼で、活動的にみえる」
たしかに、これに類する文章は、人類学、人種理論開係の本には、しばしば登場する。寺田和夫もヨーロッパ人学者の記述をそのまま訳したのであろう。ところが、この記述の仕方には、いくつかの重大な疑問がある。
まず最初に、このメレネプタの時代は、統一エジプト帝国成立以来からしても、約2000年以後である。2000年といえば、日本の歴史がまるまる収まってしまうほどの、広大な時空をへだてている。しかも、それより800年前、紀元前1000年頃のエジプトの絵画では、褐色のエジプト人と、黄色のオリエント(アジア)人が書きわけられており、この区別を先に論ずる必要があろう。古代エジプト人は、まず、自分達とオリエント人の肌色の相違を明確にしている。
第2に、王墓に描かれた人物像は、各国の王族であって、平民ではない。
第3に、2群と3群とされるものの順序が、実際の絵の順序と、いれかわっている。「黒人」とされるものの方が、第2群であった。
第4に、各群の特徴に関する記述が、ヨーロッパ人好みの表現に変更されている。
メレネプタ王墓を最初に調査したのは、ヒエログリフの解読で有名なフランス人学者、シャンポリオンである。彼は沢山の手紙を書いた。ディオプは、1839年出版の叢書、『世界』に所収されたシャンポリオンの書簡集を引用して、いくつかの指摘をしている。
まず、シャンポリオン自身の手紙から、メレネプタ王墓の描写を抜き出してみたい。少し長文になるが、前記の引用と読みくらべていただきたい。シャンポリオンはこう書いている。
「第1群……神に最も隣接しており、暗色の赤い肌色、よく均勢のとれた身体つき、優雅な顔立ち、鼻は、わずかに鷲鼻、長い編み毛、……ロト・エン・ネ・ロメ、ひとの人種、もっともすぐれたひと、すなわちエジプト人。
そのあとに現われる人種については、いかなる不確かさもない、……それはネグルの人種に属し、ネヘシという一般的名称で示されている。そのあとにつきしたがうものは、非常に異なった容貌を示している。黄色もしくは日焼けした顔色の上に、わずかに肉色が引かれており、鼻は強い鷲鼻、黒いひげ……ナムウとよばれる。
そして最後に来るのが、われわれが肉色と名づける皮膚の色合い、またはより微妙なニュアンスの、白い皮膚の持ち主である。鼻は真っ直ぐか、またはアーチ型で、眼は青、ひげはブロンドか赤毛、身長は高く、またはすらりと伸びた姿勢であり、まだ毛のついた牛の皮を着て、身体のあちこちに入れ墨をしており、まぎれもない野蛮人。タンフウとよばれる。
わたしは、これと共通する絵を、他の王墓でさがすのがいやになった。それらの中に、いくつかの変形をみることはできるにしても、それらはわたしに、エジプトの旧来の秩序にもとづいて、世界の4つの部分の住民を描く目的に立つものであることを、明白に確信させるものであった。……2群……アフリカ本来の住民、黒色人[ネグル]、……最後の(わたしはこれをいうのが恥かしい。なぜなら、われわれの人種は最後であり、序列のなかでも、もっとも野蛮なものだからだ)ヨーロッパ人は、この時代には末席にあり、それは正当な扱いであり、世間的には見よい姿をしていたとはいえない。ここでは、ブロンド人種で白い肌の民族が、その出発点においては、ヨーロッパだけでなく、アジアにもいた、と考えなくてはならない。……他の墓でも、同し一般的名称が使われ、つねに同じ順序である。また、エジプト人とアフリカ人は、同じ手法によって表現されており、この手法には変更はありえない、しかし、ナムウ(アジア人)とタンフウ(ヨーロッパ諸人種)については、重要かつ興味深い異種を書き分けてある」
シャンポリオンの記述こそは、メレネプタ王墓の人種壁画の描写に関する原典とされなければならない。しかし、さきに示した寺田和夫の例文とは、相当にちがっている。
第1群について、シャンポリオンが「暗色の赤」と書いていたものが、寺田和夫の例文では単に「赤」となっている。「長い編み毛」(マサイ民族は縮れ毛を編んで垂らしている)とされていたものが、単に「黒髪」となっている。
第2群と第3群の、順序のいれかえは、明らかにヨーロッパ人学者による意図的な工作にちがいない。古代エジプト人にとって、エジプトの王族につぐ地位をしめるものは、スーダンのクシュ帝国の王族に他ならなかった。古代エジプトとクシュとは、のちにのべるように、同盟的間係にあった。
第3群とされるべきアジア人について、「ユダヤ人、ペルシャ人」を登場させているのは、どういうわけであろうか。ユダヤの建国は前10世紀頃であり、メレネプタの時代には、王族としての存在どころか、単一民族、人種としての類別は成立しない。ペルシャの名が部族名としてアッシリアの記録にあらわれるのも、前9世紀である。シャンポリオンは、「メデス人またはペルシャの何処かのもとの住民」としており、ペルシャを便宜的な地方名として使っていたにすぎない。
第4群を「リビア人」とするのは、また、大変なまちがいである。
シャンポリオンが[ヨーロッパだけでなく、アジアと]書いているように、「タンフウ」は、ヨーロッパとオリエント北部の境界近辺にしかいなかった。へロドトスは、ファラオ・セソトリスの軍勢が、草原の遊牧民スキティア人をも征服したといっており、おそらく「タンフウ」は、南ロシアあたりでエジプト人と接触したものと考えられる。
アフリカ大陸の現在のリビアあたりの住民は、エジプト人によって、レブとよばれていた。へ口ドトスの時代には、このレブが、アフリカ大陸全体を指す、リビアという名称になった。つまり、ギリシャ人は、リビア人すなわちアフリカ人、いいかえれば、黒色人と考えていた。このあたりに、ブロンド人種がいたという証拠は何もない。現在、わずかに金髪青眼の人々がいるにしても、これは、後代の混血の結果にすぎない。
このように、ヨーロッパ系の学者によってはじめられたエジプト古記録の解釈は、誤解と曲解にみちている。しかも、その背景には、人類史、文化史のすべてにわたる複雑な仮説的主張が、はりめぐらされている。デヴィドソンは、アフリカ文明を紹介するにあたって、ある法律家が使った「わけのわからぬ大前提」、という表現を引用している。そこでわたしは、なぜ、「わけのわからぬ」仮説が通用してきたのか、という埋由を考えてみた。
「わけ」とか、「わかる」とかいう単語は、「わける」に由来する。つまり、簡単な部分、原理に分解しなければ、ことの真相はわからない。学者は、複雑に、抽象的に表現したがる。そこに、独断的な仮説が通用する弱点がある。
だからわたしは、以下、すこしまわり道のようだが、アフリカ大陸の歴史をめぐる問題点を、ひとつづつ追求したい。そのどれもこれもが、大変な仕掛けになっているのだ。 
第一章 ホモ・サピエンス

 

第1章-1 ネグロイド  
シュレ=カナールは最近の急速な研究の前進を紹介し、つぎのように要約している。
「人間の進化のすべての段階が、それに対応する石器の進化のすべての段階とともに、とぎれることなく、年代的に連続してあらわれているところは、世界広しといえどもアフリカ以外にはない」
アフリカの人類学、先史考古学は、ヨーロッパ、アジアのそれにくらべれば、非常におくれていた。しかも、アフリカの気候、土壌の性質は、化石保存や、考古学的年代決定の上では、最も不利な条件にある。有機成分も無機成分も、非常に分解が早く、安定した地層形成を欠いている。
しかし、そのような悪条件にもかかわらず、ここ10数年でも、相当な研究の進展がみられ、シュレ=カナールのような発言が可能になった。この傾向は強化される一方であろう。つい最近の新発見も、新聞に報道されており、ますます逆転の心配はなくなった。
しかしわたしは、オーストラロピテクス(アフリカ南方の直立猿人または前人類)などの初期人類については、省略する。その後についても、ピテカントロプス(原人類)、ネアンデルタール人(旧人類)、ホモ・サピエンス(現生人類)という、単純な順序にとどめたい。
さて、学者たちは漠然と「人類の進化」と表現している。ところが、「アフリカは人類そのものの源郷」と認めながらも、ホモ・サピエンスそのものの発生経過について、大変に奇妙な主張を押し通している。これが第1の問題点である。
どこが奇妙かというと、基本的には、ヨーロッパ人の「純粋性」を守り通したいという願望につきる。この願望の表われは、学説史の経過をたどることによって、はっきりしてくる。
まず最初に、人間は猿とは別系統で、神様がつくったと考えられた。もちろんこれは全然問題にならない。
ずっとくだって、ネアンデルタール人とクロマニヨン人(フランスで発掘されたホモ・サピエンスの1種)とは、これまた別系統だと考えられた。それどころか、北西ヨーロッパには早くから大脳が発達した優秀人種がいたとさえ主張された。この風潮に悪乗りしたのが、ピルトダウン人の偽造である。
ピルトダウンとは、イギリスのある地方のよび名である。ここで、本職は法律家のアマチュア考古学者が、現代人の頭骨に、ヤスリで加工した類人猿のアゴの骨、石器などの道具類をまぜて、古い地層から掘りだしたという発表をした。学界はこの「発見」を受け入れた。ピルトダウン人の偽造は、1909年にはじまり、1947年まで通用した。フッ素法という化学的な調査方法で、偽造が見破られた。
しかし、ピルトダウン人の偽造をやすやすと受け入れた「学会」は、その一方で、南アフリカで発見されたオーストラロピテクスを、数10年にわたって拒否しつづけた。ここにも、アフリカ大陸の歴史を考える上で、典型的な現象がみられる。
さて、ピルトダウン人の偽造は、フッ素法とか、カーボン14の放射能法とかで、完全に見破られた。また、各地での発掘がすすむと、ネアンデルタール人とクロマニヨン型のホモ・サピエンスとの、中間の型、すなわち、混血種もしくは、変異中の人類がいたこともわかってきた。この点でも、話がかわってこざるをえない。
一方、ヨーロッパ系の学者たちは、クロマニヨン人がヨーロッパ大陸で発生し、世界中にホモ・サピエンスの系統をひろめたと主張してきた。ところが、アジアからもアフリカからも、同時代のホモ・サピエンスの遺骨が発掘されはじめた。これで従来の仮説はくずれてしまった。
そこでまた新しい仮説が登場する。まずオリエントあたりで、最初のホモ・サピエンスがネアンデルタール人の中から生れた。そして、ヨーロッパでは白色人型、アジアでは黄色人型、アフリカでは黒色人型に発展したというのである。これを、3大人種系株説とよんでおく。
この説の変形には、各地のネアンデルタール人から、別々に3大人種が発生したと説明するのもある。いずれにしても、3大人種のそれぞれに、「純粋種」があるという考え方に立っている。ヨーロッパ系の学者は、一歩ゆずった形で、やはり、白色人の「純粋性」を守りぬいたわけである。
ところが最近の発見は、この3大人種系株説をも、大きくゆるがした。
まず、ホモ・サピエンス発生の年代が、大幅にくりあげられた。カーボン14のテストで、年代が確定された人骨には、つぎのような例がある。ソ連の人類学者、レシュトフの著作からぬきだしてみよう。
北イラクの「シャニダルでは、約6〜6.4万年の年代の地層から、サピエンス的特徴がはっきりあらわれているネアンデルタール人の頭骨」が出土した。アフリカでも、相当古い時期のホモ・サピエンスの人骨が沢山でてきた。そして、「これらの出土品のうちでもっとも古く、放射性炭素法で4万年以上の年代をもつとされる……《南アフリカの》フロリスバードの頭骨は、オーストラロイド・ネグロイド型のヒトに属している」。
オーストラロイドとは、オーストラリア大陸の原住黒色人型の意味である。黒色人型と同じと考えてよい。
ところで、ユ・ゲ・レシュトフは、初期ホモ・サピエンスについての、最近のあらゆるデータをとりあげている。そして、「これらはすべて、多かれ少なかれ、はっきりしたオーストラロイド・ネグロイド的特徴をもっている。また、それ以外にはありえなかった」と断言している。
さて、3大人種系株説によれば、黒色人型のいわゆるネグロイド系株と白色人型のコーカソイドと黄色人型のモンゴロイドとは、別々に発生していなくてはならない。それぞれが純枠なはずであった。ところが、中国亜大陸で発見された初期ホモ・サピエンスの遺骨は、「すべて、原始的なモンゴロイドの特徴をもったオーストラロイド・ネグロイド型に属している」。レシュトフは、この現象を、初期ホモ・サピエンスと、原住ネアンデルタ−ル人との混血によって説明している。すなわち、オーストラロイド・ネグロイド型のホモ・サピエンスと、モンゴロイドの特徴をもったネアンデルタール人の混血の結果が、中国大陸に現われているということになる。
さらに、レシュトフは、ナイル河上流地帯からサハラをぬけ、ジブラルタル陸橋(当時はつながっていた)を北上した初期ホモ・サピエンスと、ヨーロッパ型のネアンデルタール人の混血を推定している。そして、こう書いている。
「クロマニヨン人には、ネアンデルタール的特徴をすくなからず指摘することができる。現代型のヒトは、マグリブから、ジブラルタル陸橋を通って南から西ヨーロッパへ入り込んだのかもしれない。さまざまな研究者たちが、オーリニャック文化のなかにアフリカ的な特徴をみていることは、この推測をいつそう有力なものにしている」
初期ホモ・サピエンスの遺骨の出土は、これからもますます大規模につづくであろう。しかし、現在までの発見を、素直に解釈すれば、アフリカ大陸の何処かで、オーストラロイド・ネグロイド型のヒトが生れ、各地のネアンデルタール人と混血しながらひろがっていったという仮説しかでてこないはずだ。
もちろん、オーストラロイド・ネグロイド型のホモ・サピエンスの起源を、現在の分布から類推して、ニューギニアや、南インドに求めることもできよう。ただし、オーストラロイドの語源となっているオーストラリア大陸への人類の上陸は、いまのところ、紀元前1万4000年頃までしか証明されていないから、この地帯に設定することは不可能である。
さらに、アフリカのローデシア型のネアンデルタール人と、ネグロイド形質との関連が論じられてもいる。以上のことからすれば、初期ホモ・サピエンスの起源について、アフリカ大陸が、最も高い可能性を持っていることは否定できないだろう。
3大人種系株説なるものは、実際の発見に照らして考えるなら、ヨーロッパ型ホモ・サピエンス単元説の名残りでしかない。セネガル人のディオプは、以上の諸発見が相ついだのちの1963年に、パリで、ある高名な学者が、つぎのようにのベるのを聞いたと、皮肉な調子で紹介している。
「ネグルとブロン《白色人》とジョウヌ《黄色人》との間の人種形質の相違は、あまりにも大きいから、4万年さかのぼってみたところで、あとの2者が、原始的ネグロイド形質のものからの亜種としてつくられたと想像するのは、馬鹿げている。そのころには、3つの人種は当然、はっきりしたそれぞれの性格をもって、この地上に存在していたにちがいない。考古学はいつの日にか、最初のオーリニャック期のネグロイドと同じように古い、ブロンの化石人骨を発見すろであろう」
要するに、考古学上の証拠は、この「高名な学者」の希望を逆転する方向に積み重ねられているのである。かつては、クロマニヨン人の化石のみをもとにして、ホモ・サピエンスのヨーロッパ起源を主張し、ピルトダウン人の偽造まで行ったヨーロッパ流人類学は、ここまでの破綻を示している。
ヨーロッパ大陸の考古学的発掘は、最も進んでおり、可能性のあるところは掘りつくされている。いまこそはっきりと、アフリカ大陸の後塵を拝ぎ続けてきた事実を、素直に認めるべきである。
ではなぜ、アフリカ大陸が人類形成に先んじたのであろうか。それには、自然環境の説明が必要になってくる。 
第1章-2 異常乾燥期

 

つい最近、日本語訳が出版された著作に、『アフリカ創世記/殺戮と闘争の人類史』という物騒な題名のものがある。著者のアードレイは、アメリカ人。本職は劇作家で、生物学を学んだことがあるという人物である。原著は欧米でベストセラーになったらしい。一読して、なかなか面白いといえる。
ただし、この著作の取り扱い範囲は、オーストラロピテクスまでなので、本書のねらいとは、相当にへだたりがある。とくに参考になるのは、図表である。
アフリカ大陸には、はげしい気象変化があった。アードレイは、アフリカ大陸の異常乾燥期における猿人同士の縄張り争い、とも喰いに、主要な関心をよせている。そして、生き残った猿人が、新しい進化の道を歩みはじめたと主張している。動物の習性学[エソロジー]をあてはめた解釈は、大変に説得力がある。
もっとも、アードレイがこの習性学を現代社会にも及ぼそうとしている点には、若干の異論がある。実は、この点こそがベストセラーの要因になっているらしいのであるが、やはり、現代社会に強力にはたらいている経済法則を軽視するのは、誤まりであろう。
それはそれとして、アフリカ大陸の自然環境と人類進化を結びつけるアードレイの所説は、傾聴に価する。しかも、異常乾燥期と人類進化の対応関係は、その後もつづいている。
まず、気象と自然環境の変化を、地理・歴史学者であるシュレ=カナールの『黒アフリカ史』にもとづいて、要約してみよう。カタカナの個有名詞は、地名に由来するもので、とくに意味はない。
(1)約100万?〜70万年前以降……第1カゲリアン雨期。それにつづく乾期。
(2)約45万年前以降……第2カマジアン雨期。つづいて、後カマジアン乾期。アフリカ大陸の半分が居住不能となった。
(3)約10万〜9万年前以降……第3ガンブリアン雨期。
(4)紀元前1万年以降、8000年まで……後ガンブリアン乾期。アフリカ大陸の半分が居住不能となり、サハラの沙漠化は、現在よりも広範囲に及んだ。
(5)紀元前8000年以降、2000年まで……後ガンブリアン湿期。サハラには、森林、草原、河川、湖水があり、好適な気候。こののち、乾期にはいり、現在も進行中。
これに対して、人類進化、初期の人類文化の年代を、最近のデータや仮説にもとづいて、わたしなりにまとめてみると、つぎのようになる。
(1)ピテカントロプスの発生……約100万年前?
(2)ネアンデルタール人の発生……約30〜45万年前?
(3)ホモ・サピエンスの発生……約7万〜10万年前?
(4)農耕民の発生……紀元前約8000年
(5)オリエント・地中海文明史の開幕……紀元前約2000年
この年代が、アフリカ大陸の異常乾燥期と、見事に対応していることに注目したい。異常乾燥期を生きのびた人類とその文化が、そのあとの湿潤期に主流をしめたと考えればよい。もちろん、のちの時代になれば、別の経済法則がはたらきはじめることはいうまでもない。
さらに、異常乾燥期のもたらした劇的な事件のひとつに、サハラ先史美術の再発見がある。サハラ沙漠の真只中から、かっての湿潤期にさかえたアフリカの黒色人文明の証拠が、ぞくぞくと発見された。では、サハラ先史美術には、何が描かれていたのであろうか。また、それらは、どういう歴史を秘めていたのであろうか。 
第1章-3 サハラ先史美術

 

フランスの考古学者・探検家のロートは、先史サハラの牧畜民発見のよろこびを、つぎのように記している。
「仕事を継続しているうちに、私たちは代赭色と白とで描かれたすばらしい牛の壁画を発見した。その壁画は65頭の牛が牧人たちに看視されながら群れをなして歩いているところを表わしていた」
その後の調査によって、サハラの岩壁画には、6000頭以上もの家畜ウシが描かれていることがわかった。また、飼育種のヤギも描かれており、牧畜文化の繁栄がうかがわれる。そして、「牧人たち」は、まぎれもない黒色人種であった。
ロートはさらに、「畑を耕やす女性を表わした」絵も発見したし、「角の上に描かれた穀物畑」から、農業の女神か女司祭と目される人物像をも見出した。
ロートはまた、農耕・牧畜文化の段階にあったサハラ先住民の遺跡について、道具類の残骸が、「いくつかの岩の退避所では、文字どおり地表をおおっていた」と書いている。そこからは、「多数の石臼、粉砕器、陶器の破片、……食料品の多量の残滓、……石のおの、火打石の矢じり、ナイフ、……駝鳥の卵の殻を切った頸飾り用の玉、片岩で作った耳飾りや腕輪などの装飾品の残骸」が出土した。
カーボンテストの結果、この遺跡は、紀元前3500〜2500年という年代を示した。
岩壁画に描かれたサハラ農民の生活は、非常に繁栄していたようである。スポーツや祭典の描写もある。円錐形の小屋、石臼で穀粒を砕く女性像などは、定着農業の様相を示している。コルヌヴァンは、このサハラ先史美術をくわしく研究した。また、その後に行なわれたサハラの各地に残る植物の研究にもふれている。そして、つぎのように主張している。
「新石器時代に、毎年の氾濫にひたされていたサハラのどこかの地域には、農耕が発明されるための大きな機会があった」
つまり、サハラ先史美術の発見は、農耕文化のサハラ起源説までみちびきだした。もちろん、サハラ先史美術、農耕・牧畜・新石器文化の発見についても、ただちに、年代の引き下げ、外部からの影響を論ずる学者は出現した。
たとえば、イギリスの考古学者、アーケルは、すべてのアフリカ文化を、エジプトからスーダンのクシュ帝国を通って伝播したかのように主張する。彼によれば、クシュ帝国の文化の中で、価値のあるもののすべては、エジプト人による征服によって伝えられたということになっている。彼はその時代を、紀元前約1500年という、非常に遅い時期に設定し、つぎのように主張している。
「この時代のエジプト芸術に、アフリカの黒人や猿がひんぱんに表わされていることは、黒人の居住する地方とエジプトとの接触が当時初めてなされたものであることを明瞭に物語っている。それ故、私の考えでは、沙漠地帯以南の岩面絵画のほとんどすべては、紀元前およそ1500年以前にはさかのぼりえないものであり、この時代にエジプト人がクシュの国に築いた神殿の壁の装飾が、アフリカ人に絵を描くという観念をはじめてもたらしたように思われる」
何という論理の立て方であろうか。このような文章が、「明瞭に物語っている」のは、ことさらに「黒人や猿」と並べて書くような、この学者の思想に他ならない。
一方、コルヌヴアンは、ロートの業績を高く評価しつつ、つぎのように書いている。
「いくつかの遅い年代の作品について、エジプトとか、たとえば地中海とかの影響が指摘されているが、それ以外は絶対にオリジナルな技巧を示しており、その場で生れ、発展したものであり、先史時代のいかなる流派とも、比較することはできない。アンリ・ロートはさらに、つぎのことをも論証した――これはもちろん彼の業績のほんの一部にすぎないが、――すなわち、アフリカ人は紀元前6千年紀もしくは7千年紀と見積ることのできる年代からすでに、この芸術的分野において、創造者[イタリック文字による強調]であったし、ここ30年来しきりといわれてきたような、フランコ=カンタブリック美術の模倣者ではなかったということを、論証したのである」
文中、フランコ=カンタブリック美術とは、スペインのアルタミラ洞穴の牛の画に代表されるヨーロッパ先史美術である。論争の詳細はわからないが、要するに、アフリカ人の絵はヨーロッパ人の模倣にすぎないという主張を、30年間もしつこく繰り返していた学者がいたわけである。この30年間が、ちょうど、ファシズムの隆盛時代と一致しているのも、偶然のことではない。
まことに残念なことには、サハラ探険がその間、中断されていたことである。これまたファシズムの歴史と表裏一体の関係になるので、一応、探険の概略をつぎに紹介しておきたい。 
第1章-4 探検者たち

 

サハラの真只中に、岩壁画・岩窟画が沢山あることは、実際には、19世紀の中頃からヨーロッパ人に知られ、文章化されていた。むしろ、その頃のヨーロッパ人の方が、アフリカ大陸の文化・文明について、素直な関心をよせていたともいえる。もちろん欲得づくの調査行が多いにしても、彼らにとってアフリカ大陸は、未知の世界だった。
ドイツ人探険家、バルトは、イギリス人商人の依願を受け、1850〜55年にかけて、サハラと西アフリカの通商路の調査に当った。彼の報告書の中にもすでに、「牛飼い民」の姿が岩壁に描かれていることが記され、バルト自身の仮説的解釈がそえられていた。
サハラのその後の探険は、主にヨーロッパ列強による軍事用地図の作成を目的としており、考吉学的調査は行なわれなかった。
1933年になって、フランスのアルジェリア植民地軍駱駝騎兵隊中尉ブレナンが、タッシリ・ン・アジェールの峡谷(サハラ高原の中心、現在のアルジェリア南部)で、大量の岩壁画を発見し、簡単なスケッチをもたらした。フランスの考古学者、地理学者が、現地におもむいた。その中には、すでに10数年間のサハラ探険の経験をもつロートも加わっていた。しかし、この調査は、戦争のために中断されざるをえなかった。
1956年、すなわち、バルト以後1世紀、ブレナン以後4分の1世紀を経て、ロートの本格的な探険隊が、タッシリ遺跡調査に成功した。木村重信によれば、「タッシリとはトゥアレグ語で『水流の多い台地』の意味であるが、もとより現在は渓谷に水流はなく、完全に乾燥しきった嶮しい山塊である」。
ロ−トの探険隊には、専門の画家、写真家が加わり、岩壁の埃にかくされた絵画を、スポンジで洗い出し、その模写、撮影に成功した。1958年には、パリで展示会が行なわれ、一大センセーションをまき起した。
美術史上の価値は別として、この発見の意義を、つぎのように要約しておこう。
第1に、アフリカの過去の気象、地理的環境についての、決定的な証拠をもたらし、研究を促進したこと。ロートは、それ以前にも、周辺各地の遺跡調査をしていた。すでに、相当数の証拠物件を提出していたらしいが、タッシリ遺跡の発見は、その決定打となった。「サハラの秘境」は、あまりにも鮮やかな姿で出現したのだ。
第2に、岩壁画の分類によって、先史時代の区分が確立されたこと。ロートは、狩猟民の絵画を、16段階、約30様式にわけた。このあとには、牧畜・農耕民時代、ウマと二輪戦車の時代、ラクダ時代などがつづく。また、未解読のリビア文字もある。ここにも大きな謎がのこっている。
第3に、サハラのみならず、アフリカ大陸の過去の、動物相が明らかにされたこと。とくに、ウシ、ヤギ、ヒッジなどの、家畜の野生種が、かつてはアフリカ大陸にいたことがわかった。これは、のちに牧畜起源の章でふれるが、決定的な重要性をもっている。
さて、これらの材料をもとにして、コルヌヴァンは、農耕だけではなく、牧畜文化も、新石器文化も、サハラに起源をもっていると主張している。これも従来のオリエント起源説と、真向から対立するものである。このサハラ起源、つまり、ひとつのアフリカ大陸起源説が出ているだけでも、なかなか面白くなってきた。
だが、わたしは、ホモ・サピエンスの起源を考える場合も含めて、熱帯降雨林と中央アフリカの大湖水地帯を重視する。そこには、自然環境のもたらす強力な必然性がはたらいている。また、ヤム(山芋)、ヤシ、バナナ、ウリなどの農作物を重視する。そして、以下、わたしの結論に到達するまで、従来の学説の茂みをかきわけていかねばならない。 
第2章 ヤムのふるさと

 

第2章-1 ムギの神話  
日本人が、イネに関する神話を持っているように、あらゆる民族は、農作物についての神話を語りつたえてきた。だが、神話がそのまま、科学のよそおいをこらすようになると、大変にややこしいことになる。
たとえば、農学者であり、有数の探険家でもある中尾佐助は、農耕文化のオリエント起源説について、つぎのように評している。
「各種の栽培植物の起源は、旧世界では完全な農耕文化一元論でまとめられている。……まず最初にコムギ、オオムギ、エンドウなどの栽培化と農業がはじまると、その影響が東方や西方へつたわって、つぎつぎに野蛮人を文化の恩恵によくせしめ、新しい栽培値物を各地で生んだという見解である。……まるで将棋倒しのような芸当である。……イギリス人の世界民族史観にもよく合致している特色があり、日本の人文学者も大部分がこの方向に追随的である」
中尾佐助は、イギリスの学者たちの考え方に反対しており、別の説を立てている。しかし、その説をすぐ紹介すると、話がややこしくなるので、まず、オオムギ・コムギに焦点をしぼって、追跡してみよう。
たしかに、オリエント一帯でオオムギ・コムギが栽培されはじめた時期は、相当に早かった。紀元前7000年ごろの証拠もでている。しかしそれだけでは、オリエントが一番先であるときめるわけにはいかない。もしかすると他の場所で紀元前8000年頃に、オオムギ・コムギを裁培しはじめた民族が、オリエントに移り住んだのかもしれない。
そのため、もうひとつの手掛りが求められている。それは、オオムギ・コムギの野生種の分布状態である。これもたしかに、オリエントに有利な証拠がある。両方とも、オリエント一帯に野生種が分布している。
ではこれで、オオムギ・コムギの裁培起源地はオリエントだ、と決定できるだろうか。とりあえず、野生種の分布状態を根拠にして、オリエント起源を断定する学者の文章をみてみよう。
イギリス人のクラークとピゴットの共著による『先史時代の社会』という本は、日本の歴史学者にも高い評価を受けているらしいのだが、そこにはこう書いてある。
「栽培されている小麦や大麦の祖先であった穀草……の分布は、……とくにアナトリアからイランに至る西アジアの山脈に接した地方の山麓や平原に限られていた」
これには、地図に斜線を引いた分布図までそえられている。そして、これを重要な根拠に、オリエント以外の地域では、農業の発明の可能性はなかったのだと断言されている。わたしも成程と思っで、感心したものである。
ところが、ほかの本をよみ返してみると、このオオムギ・コムギの分布図は、非常に不思議なつくり方をしたものだということがわかった。
まず、この『先史時代の社会』の原著が出版されたのは、1965年である。ところが、やはりイギリス考古学界の中心人物だったチャイルドは、1936年に出版された名著、『文明の起源』の中で、すでに、北アフリカのマルマリカ(エジブトとリビアの国境付近)からオオムギの野生種が発見されたという報告を書きとめていた。チャイルドの後輩である2人のイギリス人の学者が、そのことを知らないはずはない。
チャイルドも、やはり、オリエント起源説をとなえていた。しかし彼は、非常に慎重で良心的な学者であった。まず彼は、ムギ栽培の起源地点が、1ヶ所か数ヶ所か、どこであるのかということが解決されたわけではないという。そして、コムギについては、その野生種が発見されたのは、オリエントだけだという。しかし、つぎのようにつけ加えるのを忘れていない。
「もちろん現在の分布は、あてにならないかもしれない。その理由は、ムギの栽培が始まって以来、気候が大いに変化した、植物の分布は気候に左右されるからである。」
チャイルドの予感は当っていた。コルヌヴァンによれば、「オオムギの野生種は、……北西アフリカにもエチオピア高原にも、同様に原生している」。コムギの野生種については、新しい分布地点は報告されていない。しかし、コムギの異種で、古代エジブトでも栽培されていたものに、学名をトリティクム・ドゥルム(かたいコムギの意)とよばれるものがあり、それはサハラのホガール山中に、いまでも野生している。この事実や、サハラ湿潤期の状態がわかってきたことを根拠にして、コルヌヴァンは、コムギの野生種の分布も、かっては、相当にひろかったのだと主張している。
チャイルドは、1957年、すなわち、ロートたちによるタッシリ遺跡探検の発表をまたず、65歳で不慮の死(登山中の墜落)にあった。彼が、サハラ先史美術と遺跡の示すものを知ったならば、という想像を禁じえない。
ともかく、中尾佐助が「将棋倒しのような芸当」と表現したイギリス流の農耕文化一元説は、その最初のコマの位置に、うたがいがかけられだしたのである。コルヌヴァンは、その他の値物の野生分布をも考慮にいれて、農耕のサハラ起源をとなえ、つぎのように書いている。
「あらゆる栽培値物は、この地帯に自生していたのであり、それが栽培化されて、旧大陸全体にひろがったのである」
コルヌヴァンの主張は、このように、サハラを中心地とする農耕文化一元説である。それでは、この説は完全に支持しうるものであろうか。どこかおかしなところはないのだろうか。 
第2章-2 オリュラの謎

 

コルヌヴァンのサハラ起源説によれば、ムギの栽培は、サハラからまずエジプトにひろがり、そこからオリエントに伝えられたことになる。
ところが、古代エジプトに何年も滞在して、エジプト人の生活ぶりをくわしく研究したヘロドトスは、こう書いている。
「他国人は小麦と大麦を主食としているが、エジプトではこれらを主食とすることは非常な恥とされており、彼らはオリュラという穀物を食糧にしている。これは人によってゼイアといっている穀物である」
さらに彼は、「パンはオリュラという穀物からつくったものを常食としている」、とも書いている。この、オリュラまたはゼイアとよばれた穀物が、いったいどんなものであったのかということは、のちに考える。ともかく、この謎の穀物が、古代エジプトで、主食の座をしめていた。
それでは、オオムギ・コムギは利用されていなかったのだろうかというと、そうではない。ヘロドトスは、「酒は大麦から製したものを用いる」と書いている。事実、エジプトの古代遺跡からは、紀元前4、5000年頃に、オオムギ・コムギが貯蔵されていたという確かな証拠も発見されている。ヨーロッパ系の学者たちは、おおむね、これを証拠にして、ムギを主食とする民族が、オリエントからエジプトに移住したのだと主張してきた。しかし、へロドトスの証言によれば、オオムギは酒づくりの原料でしかなかった。
残念ながらへロドトスは、コムギの利用法については、何も書いていない。
だが、オオムギとコムギには、意外な歴史があった。まず現在のパンコムギは、比較的おそく出現した。それ以前のコムギは、そんなに味のよいものではなかった。しかも、古代から中世にいたるまで、オオムギ・コムギ、その他の雑穀は、一緒に、つまり同じ畠の中にごちゃまぜに播かれ、一緒に収穫されていた。その上に、なんと、オオムギの方が主力だったのである。
ということは、古代のムギ栽培を考える時に、オオムギを中心にして考えてもよいということである。オオムギに焦点を当てておけば、大体の状況がわかるわけである。
ところで、オオムギは決して美味ではない。人間のたべものとしては、むしろ、まずい方の部類にはいる。そして、現在でも酒づくりの原料か、家畜の飼科になっている。こんなものが、どうしてオリエントの主食になっていたのであろうか。そして、一方の古代エジプト人がなぜ、ムギを主食とするのを非常な恥としたのであろうか。
この謎をとくためには、まず、古代エジプト人の主食であったオリュラ、またはゼイアとはなにか、という疑問に答えなければならない。オリュラとオオムギとが、何らかの形で比較できないと、先へすすめない。
では、古代エジプト人の主食、オリュラまたはゼイアとは、いったい、どんな穀物だったのであろうか。 
第2章-3 美味なインジェラ

 

オリュラ、またはゼイアについて、『歴史』の日本語版訳者は、「よくわからないが、ヒエかキビのたぐいではなかろうか」、と注記している。
しかしわたしは、これを、現在のエチオピアの北部で栽培され、主食にされているテフではなかろうかと考えている。まず、テフからつくられる独得のモチのようなものが、インジェラ(ゼイアと発音が似ている)とよばれている事実がある。
わたしの想像が当っているかどうかは、保証のかぎりではない。しかし、エチオピアの北部、つまりエジプトに近い地方で、インジェラづくりが早くから行なわれているので、この可能牲は高い。エチオピアのハイレ・セラシエ1世大学で、3年間教職にあった地埋学著、鈴末秀夫によれば、インジジェラづくりの起源は非常に古く、「後代の記事ではあるが、紀元前100年にはすでにあったという」
では、インジェラとは、どんなものであろうか。これについてはやはり、エチオピア皇室の女官として3年間滞在した日本女性、松本真理子と福本昭子が、共著の本の中で、つぎのように書いている。実物を何度もたべた2人の女性の証言であるが、これによると、相当に美味なものらしい。
「主食はインジェラという、桜餅の皮を大きくしたようなものである。原料のテフはひえのようなこまかい穀物。黒と白の2種類ある。それを粉にして水でドロドロにとき、発酵させておく。……かまどに、シナ鍋をもっと大きく、もっと平たくしたような鉄鍋がかけられる。……
「鍋があつくなってくると、いよいよインジェラ焼きにとりかかる。発酵したドロドロのテフを小型の片口[かたくち]にとり、トロトロトロトロうずまきを描きながら流して、直径50センチほどの円型のおやきを形づくる。特大の土鍋のふたがかけられ、4、5分たってあけてみると、桜餅の皮のような肌のインジェラが、ホカホカ湯気をたてて焼きあがっている。……
「2種類のテフを、それぞれ精製して作ったインジェラは、チョコレート色と白で、適当な大きさに切って盛りつけられると美しい。私たちには、この2種の味のちがいはわからなかったけれど、皇后陛下は、白よりもチョコレート色のインジェラの方がお好きなのだそうだ。……味はちょっとすっぱみがあるけれど、慣れるとおいしい食べ物である」
やはり女性だけに、観察がこまかい。実は、この「すっぱみ」が、曲者らしいのである。鈴木秀夫によると、「発酵にかける時間の違いによって、甘く芳香のあるもの、少し酸味のあるもの、非常に酸っぱいもの」ができるし、この非常にすっぱいインジェラを、とくに好む人もいるのだそうである。テフに2種類あることといい、それが一緒に盛ってだされる、チョコレート色と白色のインジェラになることといい、つくり方によって味加減が違うことといい、なかなかに美食家の民族のたべものである。
では、テフの栽培と、オオムギなどの栽培とでは、どちらが先だったのであろうか。
まず、テフの野生種の分布だが、この研究も相当におくれている。ある学者は、エチオピア高原にしかないと書いている。しかし、鈴木秀夫は、「ケニア、南アフリカ、オーストラリアにもある」と書いている。さらに、コルヌヴァンは、フランス人の植物学者、シュヴァリエの研究を紹介しており、それによると、テフはサハラにも野生している。おそらく、この他の地帯にも可能性があるだろう。相当に広い分布を示しているにちがいない。
つぎに、テフはともかく美味なのであり、一方、オオムギなどはまずいのである。ここでは、古代人は意外に美食家であったと考えなければならない。人類は、栽培という作業をはじめる前に、何万年にもわたって、野生の植物を採集し、たべつづけてきたわけだから、経験的にすぐれた鑑識眼をもっていた。ともかく、たべられるものはなんでもたべて、生きのびてきたのである。
テフはさらに、美味なだけにとどまらない。栄養の面からみても、高い評価があたえられている。鈴木秀夫は、テフについて、「各種鉱物の含有量は麦などに比べて圧倒的に多く、きわめて健康的であり、世界的な食糧になる可能性を秘めている」とまでほめちぎっている。
こんなにすばらしい穀物が、大変早くからエチオピアで、そしておそらく古代エジプトで栽培されていたとすれば、どうして、世界中にひろがらなかったのであろうか。
惜しいかな、テフは、単位面積あたりの収穫量が少ない。つまり、生産性が低い。そして、「穂はほとんど籾ばかり、穀粒は長径1ミリ幅0.5ミリ位で、探し出すのが困難なほど小さい」。
それゆえわたしの考えでは、古代のテフ栽培は、むしろ衰退しさえした。というのは、へロドトスのエジプト滞在はペルシャ支配ののちであったが、この時すでに、オオムギ・コムギなどを主食にするギリシャ人の植民地が、エジプトとリビアの国境付近にも設立されていた。エジプトの農業はナイルの灌漑を唯一のたよりとしていたが、小量の雨が降れば成育するムギ類は、乾地農業として、従来は牧草地だったところに成立した。
中尾佐助は、この乾地農業の方式は、単位面積あたりの収量は少なくても、水利に制約されないから、広い面積を使用できると説明している。そして、この農業方式の優越性こそが、アレクサンドルのエジプト・オリエント制覇の原動力だと書いている。最初の植民は、ギリシャ人たちが、エジプト人の許しを得て、用辺の牧草地を使用するという形ではじまった。その代償として、ギリシャ人は、エジプトの傭兵隊を編成したのである。やがて、ギリシャ人植民地が強化され、傭兵隊もエジプト軍の主力とさえなってくる。その情勢のもとにおいてこそ、アレクサンドルの軍事的天才が発揮されたわけである。
ギリシャが勝利したということは、それゆえ、ムギ裁培が勝利したことでもある。支配民族の主食であるムギはナイルの潅漑農地にもなだれこんだ。そしてテフは現在のエチオピアに撤退した。これがわたしの推理である。傍証としては、現在のエチオピアに、古代エジプト以来の風俗が沢山残っている事実があげられる。エチオピアは1937年から5年間だけイタリアに占領されたけれども、それ以外は2000年間も、ほぼ同じ支配体制を保ってきた。だから、古いしきたりが残っている。この国で、キリスト教といわれているのは、キリスト単性説という古い形式のもので、古代エジプトの正統をつたえるコプト人のキリスト教と、同じものであった。わたしには果せなかったが、コプト教徒またはコプト人の食料の中に、テフがみつかると面白い。ただし、彼らが宗教的迫害をのがれて、上エジプトに移住したのは、すでにローマ支配の時代だから、彼らが現在、テフを持っていないとしても、私の推埋を撤回するわけにはいかない。
ともかく、オリュラまたはゼイアが、テフであるか否かは別としても、その謎は深い。この謎をとかないかぎり、古代エジプトの農業起源は、安易に説明してはならないであろう。
さて、コルヌヴァンは、テフがサハラに野生していることをも根拠にして、農耕文化のサハラ起源をとなえている。だが、サハラには、テフのほかにも、新しい、そして日本人なら、おどろかずにはいられない植物もあった。それはまず、アフリカ稲である。 
第2章-4 アフリカ稲

 

サハラに野生している植物は、もちろん、テフだけではない。すでに紹介したトリティクム・ドゥルム(かたいコムギ)もあった。それ以外にも、モロコシ類のソルゴ、毛筆粟、フォニオ、アフリカ棉の木があり、これらはいずれも、現在の栽培種に結びつけられている。つまり、遺伝的なつながりがたしかめられている。アフリカ起源がたしかめられた栽培植物は相当にふえている。
しかし、日本人のわたしが、いちばんおどろいたのは、アフリカ稲の存在である。この野生種はサハラだけでなく、西アフリカ一帯にもある。そして、これまた大変早くから栽培されていたし、品種改良もされていた。
結論の一部を先にいっておくと、このアフリカ稲は、最近になって、アジア稲とは別種のものであり、疑いもなくアフリカに栽培の起源をもつことが判明した。
実は、西アフリ一帯に、イネの水田がひろがっていることは、早くから知られていた。アラブ人もヨーロッパ人も知っていた。ところが、例によって、アフリカにあるものは、まことに無造作に、何の罪悪悪もなく、すべて外来起源で説明する「学会の慣習」がはびこっていたものだから、だれもまともな研究をしようとはしなかった。この点は、イネの研究に関して、世界一の権威であるはずの、日本の農学者も同罪である。
そんな事情だから、たとえば、アフリカの植民地問題の専門家、西野照太郎も、1954年に、こう書いてしまった。
「西部アフリカにもアジアと同じ水田地帯が拡っている。アフリカ大陸の海岸地帯は西南の一部を除いて、アジア的な景観で取り囲まれている。……
「アフリカの周囲にアジア的な風物があることは、アフリカがアジアに侵略された歴史の記念碑なのである」
わざわざ古い文章を引き合いに出して恐縮であるが、植民地支配に抗議をする良心的な識者でさえ、こう思いこんでいた。
ともかく、このアフリカ稲の東南アジア(インドも含む)起源説は、ついこの前まで、農学者の間でも通用していた。ドイツ人の農業研究家、ヴェルトは、1954年に、アフリカで栽培されているイネは、「前方インド(南アジア)を原産」の地とするものであると断言していた。
ところが、遺伝学的な研究によって、アフリカ稲とアジア稲とは、まったく別種であることが明らかになり、従来の東南アジア起源説は、完全にうちくだかれた。遺伝学的などというと、大変ややこしくきこえるが、とても簡単なことなのである。
まず、アフリカ稲とアジア稲とを、花粉をつかって、かけ合せてみると、1代雑種は50%の成功率となる。ところが、この1代雑種を育ててみると、正常な花粉をつけて実を結ぶものが1%以下になってしまう。つまり繁殖能力がない。動物に例をとると、ウマとロバの1代雑種のラバがそうであるし、最近よく紹介されるものには、ライガーとか、タイゴンとかいう、ライオンとトラの1代雑種がある。これらの不幸な1代雑種の親同志の関係は、一番近い種ではあるが、別種のはじまりでもある。
いつごろから別種にわかれたか、という研究になると、とてもややこしいらしい。しかし、アフリカ稲とアジア稲については、専門の学者が、野生状態のころにわかれたのだと太鼓判を押している。
以上のことから、専門の学者は、アフリカ稲はアフリカで栽培されはじめた、そして、アジア稲は東南アジアで栽培されはじめた、つまり、全く別々に栽培されはじめたのだと説明している。また、アメリカ人の民族学者、マードックは、アフリカ稲の栽培のはじまりを、紀元前8000年から9000年と主張している。
ところが、もうひとつ不思議なことがある。西アフリカで栽培されていたのは、アフリカ稲だけではなく、アジア稲も、早くから栽培されていた。これに対して、アジアでは、アジア稲だけしか栽培されていなかった。これはどういうわけだろうか。どういう説明がなされているのだろうか。
学者の説明によると、やはり、後代になって、アジア稲がアラブ人によってもたらされた、つまり、追加されたのだということになっている。しかし、その証拠として提出されているのは、英語のライス(アラブ語に由来という)の系統に属するイネのよび名のよせ集めにすぎない。西アフリカでも、同じ系統のよび名をつかっている地方があるのだが、それは、アジア稲と一緒につたわったアラブ語に由来するものだというのである。
だが、こんな説明ですまされてよいものだろうか。もしかすると、アジア稲といわれている種類も、西アフリカの原産であり、よび名のつたわり方も反対方向だったのではないだろうか。西アフリカのある地方でのイネのよび名が、アラブ人の方につたわったのではないだろうか。最初にアフリカ稲の起源で間違った説明をされただけに、まだまだ疑惑が晴れない。
しかも、中尾佐助によれば、アジア稲の真の野生種はまだ発見されていない。つまり、結論はでていない。わたしには、もちろん、くわしいことはよく分らない。しかし、アフリカ大陸のどこかから新しい野生のイネが発見され、それがアジア稲の祖型だったということになるかもしれない。というのは、アジアには、野生と思われるイネは2種類(両方ともアジア稲と交雑可能)しかないのに、西アフリカだけで、現在も採集利用されている野生のイネが「数種」あると報告されている。この「数種」と言う表現が曲者で、要するに、調査不足の告白にちがいない。だが、これではっきりすることは、アフリカ大陸に野生のイネが大変に沢山ありそうだということである。わたしはむしろ、アフリカ原産の仮説を立てて研究してみるべきだと思う。
しかも、西アフリカの河川流域やサバンナ(草原)で開発された農作物は、まだまだ沢山ある。この事実は、どういう意味をもつのであろうか。 
第2章-5 サバンナ

 

中尾佐助その他の学者が、西アフリカ周辺で開発されたと主張している農作物のうちから、馴染みのあるものをあげてみよう。
ゴマ、スイカ、ヒマワリ、オクラ、ササゲが、まずたしかだ。中国の高梁[コーリャン]も、西アフリカのソルゴに、東南アジア近辺で、他の植物の遺伝子がくわわったものであるという。
意外にも、テフは、西アフリカでは栽培されていないらしい。すくなくとも、そう書いてある本はない。かわりに、フォニオというのがある。英語で、ハングリー・ライスというあだ名がつけられているが、はらがへったコメではなくて、みすぼらしいコメの意である。これがまた、スープなどにいれると、大変にこくのある味がするらしい。その他にも沢山あるが、話がややこしくなるので、興味のある方は、参考文献に直接当たっていただきたい。
さらに貴重なものに、ワタがある。すでに、サハラにアフリカ棉の木が野生していることを紹介した。これが、いままでは、アジアなどの栽培種のワタとちがうものと思われていた。そして、西アフリカで栽培されているワタは、やはり、アジアからアラブ人によってつたえられたと説明されてきた。ところが、遺伝学的な研究で、ワタは「アフリカで野生から栽培へと人間により転化したと考えられてよい」といえるようになってきた。そして、中尾佐助は「木綿布生産は西アフリカで発生した可能性がある」と主張している。
ワタの栽培のはじめには、種子を食料にしていたもので、西アフリカでは現在も、この習慣がつづいている。食料としての起源という意外史もさることながら、衣服文化という新しい要素を含んでいるだけに、これも注目に価する。
では、これだけの農作物を開発した西アフリカの農民は、最初の農耕の発明者といってよいであろうか。
中尾佐助は、「サバンナ農耕」という組合せを考えている。そして、農耕文化発祥地の多元説をとっている。この多元説は、アメリカの学者によって唱えられはじめた。これにも必然的な事情がある。というのは、新大陸アメリカには、トウモロコシやジャガイモを中心作物とする独自の農耕文化があった。また、アメリカは、スペインとの戦争などで、フィリピンその他の東南アジアや、オセアニアの植民地を獲得した。
新大陸アメリカの農耕も、オセアニアのそれも、掘り棒にたよっている例が多かった。つまり簡単な農具で成立していた。この事実を知ったアメリカの学者は、まず、新大陸の農耕文化は別系統だと主張した。ついで、旧大陸(アフリカ・アジア・ヨーロッパ、オセアニア)の農耕文化は、東南アジアに起源をもつと主張した。この仮説が、さまざまな経過をたどって、多元説に発展している。
しかし、わたしは基本的に、多元説には反対である。農耕文化の発明は、やはり、必然的な条件のある所にしか生れなかったと考える。新大陸の農作物についても、ヒョウタンがアジア種と同じものだったり、サツマイモ、トウモロコシ、バナナの起源については、さまざまな疑問がだされている。
そこでまずは、わたしが最初の農耕文化の発祥地に想定する熱帯降雨林周辺の農作物を追求してみたい。 
第2章-6 ヤムの謎

 

ニジェール河の下流域、現在のナイジェリアの南部にはいると、一般に熱帯降雨林とよばれるジャングルが多くなる。この地帯ではまず、ヤム(山芋のたぐい)に焦点をあててみたい。
ヤムは写真のように、大変に大型のイモになっている。
西アフリカだけのことではないが、ヤムを主食にする民族は、これを小さく切って、熱湯でゆで、さらに、ウスにいれ、キネでついてモチにしてからたべる。丸のまま焼いてもたべられるのに、これだけ手間をかける理由について、野生のヤムには毒性があるので、その毒ぬき作業に由来するのではなかろうかという説明がなされている。
ほかにも、この料理方法について異説があるが、紹介は省く。わたしは、毒性のある野生のヤムを掘り取ってたべていた農耕以前の採集民が、すでに、このやり方を発明していたと思う。
一方、現在利用されているコメやムギなどの雑穀の野生種には、まったく毒性はない。だから、雑穀を採集していた民族には、毒ぬき作業のやり方を発明する必然性も、チャンスもなかったはずである。このことから論埋的に、ウスやキネをつかってモチをつくる習慣は、ヤム栽培農民、もしくはヤム採集民族から、雑穀を利用する民族につたえられたという可能性が考えられる。この料理方法の追跡も、正月には必ずモチをたべる日本人にとって、大変興味深いものにちがいない。
さらに大きな問題は、ヤムそのものの栽培起源の謎にある。料理する前に、当然、ヤムそのものがなければならないのだが、ヤムの野生種はどこに分布しており、どこで栽培されはじめたのであろうか。
ヤムというよび名は、英語であるが、本来は西アフリカに発している。最初に西アフリカを訪れたポルトガル人は、インハーメとよび、スペイン人はインガーメとよんだ。これが英語のヤムになり、一般に総称として用いられている。だから、よび名はアフリカ起源である。
ところが、ヤムは東南アジア一帯でも、ひろく栽培されている。そして、アメリカの学者が、ヤム栽培の東南アジア起源説をとなえはじめた。これによると、紀元前1000年頃、東アフリカ海岸に上陸したヤムが、アフリカ大陸をぐんぐん横切って、ヤム栽培地帯の横断ベルト(ヤムベルト)をつくり、それから一斉に南下しはじめたということになっている。つぎの参考図のような説明図までつくられている。そして、若干の相異はあっても、ほとんどの学者は、この説にしたがっている。
こういう事情だから、これに疑惑をさしはさむのは、大変なことだが、やはり奇妙な点があるので、指摘せざるをえない。
まず、ヤムの野生種は何か。これが他の場合より数が多いので、当惑してしまう。東南アジア起源を採用している学者や著述家たちは、大体において、野生種のことは何も書いていない。また、栽培種そのものにも沢山の異種がある。ところが、中尾佐助が西アフリカで栽培されているヤムを紹介している本、『ニジェールからナイルヘ』をみると、西アフリカの栽培種は4種であり、そのうち2種は「西アフリカ原生種」、つまり西アフリカの野生種に発しているらしい。しかも、この西アフリカ起源の2種の方が栽培の主力になっている。これはどういうことであろうか。
つぎには、のこりの2種をみてみよう。つまり、アジア原産とされている2種の栽培ヤムのことであるが、このうち、ダイジョという種類は日本の九州でも最近になってから栽培されており、東南アジアの主要な栽培ヤムである。しかし、この種類の真の野生状態のものは、まだ発見されていない。マレー半島から、もっとも原始的な、つまり野生にもっとも近いものは発見されている。だが、その前のことはわからないのである。
一方、中尾佐助によれば、西アフリカで栽培されているダイジョは、「単調な品種群で、変異も少ない」。ヤムは、植物としての性質もあって、雑穀類などよりも、品種改良による変異種が多い。東南アジアのダイジョには、「赤ちゃんの離乳食用の品種、ピクニック弁当用品種、……宴会用の品種などというものができていた」。西アフリカ原産のヤムも、もちろんアフリカの農民によって、相当に品種改良され、巨大なものがある。それなのに、西アフリカのダイジョは、栽培の主力でもなく、あまり品種改良がおこなわれていない。つまり、野生に近いともいえる。
わたしは、それゆえ、ダイジョの真の野生種が、アフリカの熱帯隆雨林のどこかにひそんでいるのではないかという可能性を、考えざるをえない。
ともかく、ダイジョの起源を棚上げにするとしても、西アフリカには原産のヤムがあり、それが栽培の主力をなしている。ヤム裁培の東南アジア起源説では、この現象を、どう説明するつもりなのであろうか。
無理に説明しようとすれば、こんなことしかいえないだろう。つまり、西アフリカには、たしかに野生のヤムは何種類もあった。しかし、アフリカ人は、紀元前1000年ごろまでは、それを栽培していなかった。そこへ、東南アジアから、ヤムの栽培種がつたわってきた。ヤムの栽培方法を知ったアフリカの農民は、ここではじめて、西アフリカの野生のヤムを、東南アジア原産種と一緒に栽培しはじめた。かくして、東南アジア原産種と西アフリカ原産種との間に、農作物としての競争がはじまり、西アフリカ勢が、主力栽培種の地位を獲得した。
果して、こういう説明が、成り立ちうるものだろうか。 
第2章-7 農耕民と狩猟民

 

まず、ヤムベルトが、紀元前1000年頃に形成されたという説がある。ところが、そのヤムベルトのすぐ北方には、イネやソルガム(モロコシ)を栽培する地帯がある。そして、アメリカ人のマードックは、アフリカ稲の栽培のはじまりは、紀元前8000〜5000頃と主張している。また、中尾佐助は、この地帯の「サバンナ農耕」は、地中海のムギ栽培と同時期だと主張している。つまり、紀元前7、8000年頃のことになる。
さて、サバンナ農耕地帯とヤムベルトとは、大小の河川で縦横につながり、境界はいりくんでいる。一方で8000年、他方で1000年、つまり差引き7000年の落差が主張されている。
では、7000年も待たなければならないほど、熱帯隆雨林地帯でのヤム栽培などは、むずかしい技術を必要とするのだろうかというと、全く反対である。東南アジアでも、熱帯隆雨林地帯で、ヤム、タロイモなどの栽培が広くおこなわれている。しかも、東南アジアのヤム栽培については、紀元前1万年という年代さえ提唱されている。アメリカ人のサウァーは、東南アジアのヤムなどの栽培が、すべての農耕の起源をなしたという一元説をたてている。また、中尾佐助は、農耕技術の上でも、料埋法の上でも、ヤムなどは、最初の農作物にちがいないと主張している。
しかるに、何故、アフリカの熱帯降雨林地帯では、7000年もしくは9000年も、人々は、ヤムを栽培しなかったといえるのであろうか。
わたしが見出しえた唯一の障害は、人類学者による「一見科学的」な仮説であった。彼らの主張によると、熱帯降雨林や中央アフリカの大湖水地帯より南方には、バトワ民族(ピグミー)やサン民族(ブッシュマン)のような、狩猟民しかいなかったことになっている。しかし、この仮説には何の証拠もない。これは大まちがいである。
この仮説の唯一の根拠といえるものは、現在、アフリカ大陸に少数の狩猟民がいるという事実でしかない。しかし、現在の日本にも、古来からの伝統を守りつづけるマタギの集団がいる。那須の与一も、ウィリアム・テルも、ロビン・フッドも、農業社会の真只中にいた。また、漁撈というのは、獲物を求める場所がちがうだけで、狩猟と同じ経済パターンである。このパターンは、農業経済と併行してつづいている。狩猟民の存在を理由にして、農耕民の進出がおそかったと主張するのは、錯覚を利用した手品にすぎない。
さらに、この主張は、論理的にみても、いわゆる「本末転倒」の典型である。つまり、「狩猟民しかいなかった」という主張は、「農耕民が全くいなかった」という事実の確認ができて、はじめて成立する。ところが、ここでは、「狩猟民しかいなかった」という仮説を板拠にして、だから、「農耕民はいなかった」、そして、「農耕は行なわれていなかった」とまで主張されている。だが、農耕が行なわれていなかったという証拠はないのである。わたしは、むしろ、その逆の、つまり、農耕が早くから行なわれていたという証拠物件も、のちに提出する。
その上、農作物としてのヤムの発祥地についても、全く逆の主張がある。前出の鈴木秀夫の『高地民族の国エチオピア』によると、エチオピア高原では、紀元前3000年ごろには「イモ類」(ヤムのこと)が栽培されていたらしいのである。これで、まず、紀元前1000年頃のヤムベルト説には、すくなくとも2000年の狂いがでてくる。しかも、鈴木秀夫は、このヤム栽培をしたのは、「古ネグロ(バンツーネグロ?)」だとしている。南方系の人々だと考えているわけである。つまり、ヤムベルトは、南下したのではなくて、その逆に北上した可能性の方が、示唆されているのである。[注]
従来のほとんどすべての外来起源説と同様、ヤムベルトの仮説も、近いうちに、同じ運命をたどりそうである。だが、最も重要なのは、ほとんどの農学者が、農耕の発明にいたる「必然的な過程」の説明を、全く放棄している事実である。 
第2章-8 ふたたび異常乾燥期

 

結論から先にいっておくと、わたしは、アフリカ大陸の異常乾燥期、紀元前1万年から8000年の間に、熱帯降雨林(水源湖地帯を含む)に逃げ場を求めた人々が、農業を発明するための最大の必然性を持っていたと考える。
異常乾燥期と農業の発明とを結びつける考え方自体は、別に新しいものではない。
すでに1930年代、オリエントに農業文化の起源を想定した学者たちは、その契機を、気候の変化に求めていた。イギリス人のチャイルドは、その代表者のひとりであった。彼は、ヴュルム氷期の終り(紀元前約1万年〜8000年)に、オリエント一帯が、急速に乾燥化したと考えた。そして、当時の人類集団が、青々とした草原地帯から、オアシス(河川流域を含む)周辺に追いこまれたと想定した。
オアシス周辺で、人間と動物、植物の、一種の共存関係が成立し、そこで、大麦、小麦の栽培、山羊、羊の飼育か、一拠にはじめられたというのが、チャイルドの考え方であった。
ところが、その後の研発で、この想定は困難になり、すて去られた。
まず、地質学上の研究から、この時期にオリエントでは、急激な乾燥化はおこらなかったという証明がなされた。つぎに、考古学上の発掘がすすみ、オリエントの初期の農耕は、オアシス周辺ではなく、山間、山麓地帯ではじめられたという結論がでてきた。
最近のオリエント起源説では、この結果、チャイルドが「農業革命」と名づけたような、劇的な変革を主張しなくなった。農業起源の合理的な説明はなされず、進取的な気性のものがはじめたという考えさえだされはじめた。
しかし、こういう安易な考え方は、学問的方法の堕落につながる。わたしは、チャイルドの発想の基本は、正しかったのだと思う。
チャイルドは、自然環境の変化による必然的な文化段階の発展を重視した。それは、当時抬頭していたナチズム・ファシズムの思想体系への、ひとつの反論でもあった。彼は、若干の「北方系」優秀人種の指導能力によって、文化・文明の発展を説明しようとする傾向に反対した。現在、ナチズムは別の形で、たとえば、アパルトヘイトの思想として、いまだに生きのびている。この時期に、合埋的な説明方法を放棄して、「進取的な気性」を持ちだす傾向がでてきたのは、やはり偶然とは思えない。日本の学者が、この傾向に追随的であるのは、まことに残念である。
紀元前1万年から8000年という期間に、急激な乾燥期を経験したのは、すでに紹介したように、アフリカ大陸であった。とくに高原地帯がひどかったであろうし、現在のサバンナも、砂漠と化していたにちがいない。実際に、同じ現象が最近数年間もつづいており、各地に惨害をもたらしている。新聞報道によれば、西アフリカだけで、1973年の1年間、家畜総数の4分の1、350万頭が、水不足や餓死で失われたらしい。そして現在も、人々は、やせおとろえた家畜の群をひきいて、河川流域、湖水の沿岸、熱帯降雨林地帯へと、避難の旅をつづけている。
わたしにとっては、チャイルドの方法論を、アフリカ大陸に当てはめてみる学者が、まったく見当らないことの方が、「現代の謎」である。
また、異常乾燥期の気象的条件は、アフリカ大陸の地理的条件と重なり合う。つぎの地図をみていただきたい。
現在のサバンナ地帯までが沙漠化すると、熱帯降雨林と中央アフリカの大湖水地帯は、ほぼ完全に、沙漠と大西洋とによって包囲されてしまう。ナイル河をくだれば、長旅の末に、地中海方面にぬけることはできる。しかし、この脱出を試みたものは、比較的少数の漁撈民だけだったにちがいない。
このような自然環境の特異性は、他の大陸ではみられない。また、現在の熱帯降雨林と、大湖水地帯にも、相当な変化はあっただろうが、このあたりに、アフリカ大陸全体の住民が密集してきたことは、だれしも認めざるをえないだろう。
では、当時のアフリカ大陸の住民は、どんな状態にあったのであろうか。 
第2章-9 狩猟者たち

 

果たして、アフリカの当時の住民は、農耕を発明するだけの主体的な条件、つまり、技術や社会組織をもっていたであろうか。この条件も満たされなければ、白然環境の変化に対応した飛躍はむずかしい。そして、この点は、ほとんどの学者によって、ぼんやりとしか語られていない。
ところが、アフリカ人こそが、当時の世界で、もっとも進歩的な文化をもっていたのである。
たとえば、オリエント起源説の権化のようなイギリス人の考古学者、ホィラーでさえ、旧石器時代におけるアフリカ大陸の先進性を認めている。この場合、紀元前1万年に近い時期を考えると、単に旧石器文化というよりも、狩猟文化の全盛時代とした方がよい。そして、全世界から発見される狩猟用の飛び道具のすべてが、アフリカ大陸で発明された可能性が、ほぼ決定的なのである。
学者は、弓矢が、紀元前1万2000年頃、サハラで発明されたと認めている。それより古いものには投槍器がある。これはヤリを溝のついた棒にひっかけて飛ばすものであり、ニュージーランドやオーストラリアでは、現在も、主要な狩猟用具として使われている。オーストラリアといえば、ブーメランが有名だが、これもアフリカにあった。東南アジアやアメリカで使われている吹矢も、アフリカにあった。一番面白いのは、インカ帝国の軍隊で主力武器となっていたボーラである。これは数個の丸石を皮でつつみ、それを皮のひもでつなぎあわせたものである。頭上で振りまわして勢いをつけたのち、動物(人間も不幸な仲間であった)に投げつける。数個の弾丸が一緒に飛ぶわけだから、命中率も高いし、首や足元にからみついたりもする。かなり効率のいい武器である。
しかも、ボーラについては、当時の社会組織を照らしだす重要な遺跡さえ発見された。ケニア高原から、ボーラ用に仕上げた大量の丸石を貯蔵した倉庫が、発掘されたのである。そして、その他住居跡の状況からみても、すでに、ボーラづくりに分業が成立していたと主張されている。
以上のような考古学的発見によって、旧石器時代のアフリカ大陸が狩猟文化の繁栄期にあり、当時の世界の人類社会の中心地であったことは、だれしも認めざるをえなくなってきた。ということは、当然、当時のアフリカ大陸の人口密度が世界最高だったという推論をもみちびきだす。文化的繁栄が人口増大につながることは明らかである。残念ながら、当時のアフリカ大陸の人口推計は発見できなかった。しかし、わたしのこの考え方は、だれしも否定できないだろう。
では、それだけの狩猟文化を発展させたアフリカ人は、どんな社会組織をもっていたのだろうか。 
第2章-10 双分氏族

 

アフリカ人は、早くから、双分氏族制をきずいていた。
「双分」というのは、ふたつの分族があって、それがワンペアになっていることである。単に氏族制社会とか、原始共同体とか、原始共産制とかいう表現をしている学者も多い。しかし、この「双分」の関係こそが、最大のポイントである。そして、このワンペアが基礎単位になっている。
従来の研究はおおむね、ふたつの分族同志の婚姻関係に焦点を当ててきた。しかしわたしは、婚姻関係をひとつの手段と考える。
たとえば、フランス人のマカリウス夫妻の『族外婚とトーテミズムの起源』では、双分民族制の発生の原因を、狩猟文化に求めている。彼らは、現存の狩猟民のデータをあげ、2つの狩猟民の集団が、狩猟地のなわばり争いをやめ、協力関係を結ぶための手段として、婚姻関係を結んだのだと主張している。わたしも、基本的に、この考え方に賛成である。「基本的に」とことわったのは、もしかすると、大型化した集団が、2つにわかれたのちも、協力関係を維持したという可能性が残っているからである。そして、この方式が、新しい別の集団と協力する場合に、生かされていったとも考えられる。
いずれにしても、2集団の協力によって、大型獣の狩猟も容易になった。狩猟用具の製作、家事、育児の分業は発展した。この生産力の増大、そして、人口の増加こそが、双分民族制の発展を保障したことは、うたがう余地のない事実であろう。
さて、双分氏族制の発生を、約3万年前とする学者もいる。紀元前1万年の異常乾燥期に直面したアフリカ人が、この段階にあったのは当然である。むしろ、アフリカ大陸こそが、双分氏族制の出発点であったと考えるべきであろう。このことは、マカリウス夫妻も、ほかの学著も、全くふれていないのだが、最も重要なポイントである。
というのは、このポイントなしには、双分氏族制発生の必然性がはっきりしない。つまり、狩猟文化が発展して、狩猟人口がふえなくては、なわばりの衝突は起きない。それが最も早く起きたのは、アフリカ大陸に他ならない。そして、双分氏族制により、集団の力が強まって、道具製作の分業が生れなければ、新しい狩猟用具の開発はむずかしい。
アフリカ大陸で、何種類もの飛び道具が発明されたのは、決して偶然ではない。それは、当時のアフリカ大陸における社会組織の発展を証明するものである。
さて、このような狩猟(採集)文化と、社会組織とをもつアフリカの諸民族が、いままでよりはるかにせまい地帯に押しこまれた。当然、新しいなわばり争いがくりかえされたであろう。
『アフリカ創世記/殺戮と闘争の人類史』の著者、アードレイは、動物の習性学[エソロジー]にもとづいて、オーストラロピテクスの自然淘汰と進化、最初の武器の発達を論じている。それによると、なわばり争いは、小鳥にさえみられる大変に強い本能になっているらしい。もちろん、双分氏族制度をもった人類集団には、新しい解決方法、つまり、一族としての縁結びという方法があった。だが、如何にせん、狩猟地・採集地は、従来よりも、はるかにせまくならざるをえなかった。当然、食料は不足してくる。
戦争か、平和か。おそらく男たちは、新しい一族との縁結びを軍事力の強化と認め、つぎの戦争を開始し、狩猟地をひろげようとしたであろう。しかし、狩猟文化のかげにかくれていた採集者の女たちは、平和な解決方法を探し求めた。ただし、女たちの方が思想的にすぐれていて、平和を願ったという意味ではない。女たちは、いやおうなしに、出産と育児に結びつけられていたし、食物採集という作業も、戦争技術とは無縁のものであった。
では、新しい文化、つまり、せまいなわばりの中でも生産性の高い農耕文化のにない手となるアフリカの女たちは、どういう道具をもっていたであろうか。 
第2章-11 掘り棒とオノ

 

ザイール(コンゴ)盆地に、バルバ民族がいる。彼らは、中世に、ルバ帝国の支配階級をなしていた。彼らも、ヤムなどを栽培する農耕民である。そして、つぎのような始祖伝説を語りつたえている。
「彼は食物を栽培しはじめた。そのためには土地を耕さねばならない。しばらく彼は木製の掘棒を用いていたが、それでは仕事がとても苦しかった。その後、柄をつけた石の掘棒を用いてみたが、やはり仕事は楽にならなかった。そして遂に鉄の掘棒を用いるようになった。仕事は速く楽にできた」
この神話には、製鉄の起源と、アフリカにおける鉄鍛治師の社会的な地位の問題とがからんでいる。だが、製鉄の起源問題はのちの章でまとめてとりあげることにして、掘り棒に焦点をあててみよう。
この掘り棒こそが、もっとも古くからの農「耕」具、つまり、土地を耕すための農具だった。一般には、オリエントで発掘された黒曜石の鎌が、最初の農具のように説明されている。しかし、鎌は、地面を耕す道具ではない。それは、採集用具または収穫用具にすぎない。
木製の掘り棒は、採集民時代からひきつがれた道具である。ところが中米のマヤ文明などは、トウモロコシ栽培で成りたっていたのだが、相変らず木製の掘り棒をつかっていた。つまり、木製の掘り棒しかなくても、あれだけの古代文明をきずく生産力があった。掘り棒農耕は、軽視されてよいものではない。そして、採集民時代の道具だけでも、農耕はすでに可能だったのである。
ところが、アフリカの熱帯隆雨林では、おそくとも紀元前7000年には、石製の刃をつけたクワが使われていた。これはどういうことであろうか。
この石のクワについて、農学者の書いた文章は見当らなかった。発見されたところは、熱帯降雨林地帯の中心部、ザイール(コンゴ)盆地である。石のクワだけでなく、石のオノなどの伐採用具も発見された。そして、フランス人の地理・歴史学者、シュレ=カナールは、紀元前7000年のザイール盆地の住民が、「道具からして、森林の伐採や農耕に従事していたものと考えられる」、と書いている。
しかし、シュレ=カナールは農学者ではないし、農業起源論にまでは立ちいっていない。その点は残念だが、ともかく重要な示唆である。石のクワは、すでに、掘り棒よりも進んだ農具である。わたしは、ザイール盆地周辺から、今後もぞくぞく同じような発見がつづくにちがいない、と考えている。そして、例の紀元前1000年頃のヤムベルト形成、そして南下という説は、この発見によって、すでに決定的に破綻していると考える。
さて、掘り棒と、クワがでてきた。この農耕具の発達の歴史も面白い。
まず、掘り棒の先が平べたくなった。そして、スコップ型のスキになり、家畜に引かせるスキ、ブラウになった。
クワは、これとは別系統で、石のオノの刃が横向きになったものだ。つまり、森林の伐採用具から転用された。
では、この2系統の農耕具の発明は、どういう地帯でなされた可能性が高いのであろうか。いうまでもなく、ヤムなどのような、根を掘り取る食用植物があった地帯であり、森林地帯に他ならない。つまり、農耕具の点でも、アフリカの熱帯降雨林地帯で最初の農耕がはじまったと考える方が、理屈にかなっている。
一方、熱帯隆雨林地帯では、日本人にもヨーロッパ人にも、思いもつかないような道具が、主要な農耕具になっている。それは山刀、または伐採刀である。
まず、農地を確保するために、樹木を切り払わなければならない。ところが、この作業は、休むことなしにつづけなくてはならないのである。その理由は、実際に熱帯降雨林地帯に住みこんでみないと、よく分らないであろう。
文化人類学者の川田順造は、西アフリカのギニア海岸で長期間の研究生活を送ったのだが、百聞は一見にしかずというおどろきを感じたらしく、つぎのように書いている。
「熱帯降雨林では、『栽培』というのは何よりもまず、植物の過剰な繁茂とのたたかいを意味する。……あぶら椰子やバナナなどの有用樹をまもるために、他の植物を、たえず『きりはらう』のである。……オアシスの椰子畑で、人が最もよく使う道具が、潅漑の水路を按配するための刃の幅の広い鍬であるのに対し、熱帯降雨林の大切な農具が、山刀であるというのも象徴性だ」
新しい栽培植物の名前がでてきたが、この点はあとまわしにして、まず、山刀の問題を片づけよう。この川田順造の描写によると、山刀のようなものがなければ、熱帯降雨林で農業をやるのはむずかしそうである。
では、山刀に類するものを、紀元前1万年頃のアフリカ人は持っていただろうか。
もちろん、これもあった。しかも、大変古くからあった。ザイール(コンゴ)盆地を中心に、サンゴアン様式とよばれる面面加工石器(刃の部分を両面からけずったもの)が沢山発掘されている。その中には、木彫に用いられたらしいものとか、森林の伐採につかわれたらしいものとかがあり、なんと、この様式のはじまりは、約10万年前にもさかのぼることができる。おそらく最初は、住居をつくる材木を切りだしたり、槍や弓矢をつくったりしたのであろう。そして、すでに紹介したように、石のオノも出土している。異常乾燥期のアフリカ人は、充分に熱帯降雨林地帯にいどむことができた。たとえ中心部のジャングルに切りこむことはむずかしかったにしても、周辺部に農地を獲得する力量はもっていた。
では、その最初の農地で、どんな農作物が、どういうやり方で裁培されはじめたのだろうか。ヤムだけだったのだろうか。それだけでは栄養が偏らなかっただろうか。 
第2章-12 家庭菜園

 

すでに、川田順造の描写の中に、油ヤシが登場していた。この他に、コーラ、アキーなどという名の大きな種子をつける樹木性の農作物も、アフリカ熱帯隆雨林の原産である。つまり、この地帯の野生種に発すると考えられている。
その他に中尾佐助は、2種のウリの原産がたしかだとしている。そのウリの1種は、ニワトリのタマゴ大の種子を食料にする。以上のものに、主食のヤムを加えた農作物の組合わせについて、中尾佐助は、オセアニアの組合わせと比較しながら、それよりも、「油科食物を含んでいる点で、決定的にすぐれている」と評価している。これに、狩猟動物による蛋白質を加えれば、栄養は満点である。
面白いのは、バナナの利用法である。たとえば、ザイール(コンゴ)に派遣された外交官夫人、山本玲子によれば、大型の料理用バナナ、数種のデザート用バナナ、親指大のモンキー・バナナ、皮が赤くて中味がピンクの赤バナナといつたように、沢山の品種が栽培されている。
ただし、バナナはやはり、または「まだ」、東南アジアからアフリカにつたわったのだと主張されている。ところが、まだ真の野生種は発見されていない。しかも、中尾佐助によると、「西アフリカのバナナは、まだまったく科学的に何人[なんぴと]によっても調査されたことがなく、いまにいたっている」。東アフリカ海岸のバナナは、少し調査されているらしいが、西アフリカ以外でも、熱帯降雨林のバナナは、全く調査されていないらしい。わたしは、最低限必要な調査をしていない主張を、学説とは認めない。また、アフリカ大陸に、バナナの野生種がなかったとも考えられない。現に、エチオピア南部では、類縁のニセバナナ(エンセーテ)を主食にしており、これはアフリカ原産である。
それゆえわたしは、バナナも最初からアフリカで利用されていたと想定する。もちろんわたしの想定が誤りであるという調査結果がでれば、それにはしたがわざるをえない。しかし、それまでは、このわたしのバナナ栽培アフリカ起源説は、調査なき「学説」と同格である。
では、以上のような農作物の栽培は、どのようにしてはじめられ、どういう栽培方式を生みだしたのであろうか。
まず、植物性の食料採集を受けもつ女たちは、せまくなったなわばりの中で、成長の悪い、もしくは未熟なヤム、バナナ、ヤシの実、ウリなどをも採集しなければならなくなった。そこで、植物の成長の条件に注目しないわけにはいかなくなった。いささかこじつけめくが、ヤムのイモのような根っ子をほる作業をしていた女性たちは、字義通り、植物の生態を「根本的」に理解する機会にめぐまれてもいた。
最初の農作業は、食用にならない植物をとりのぞき、食用植物の日当りをよくすることだっただろう。大きな木がじゃまになるときには、男性も手伝わされたであろう。しかしまだ、男性が完全に農耕文化にひきこまれるのは早い。農作業は当分、女、子供、老人の仕事である。
さて、ここで面白いのは、ヤムやウリのつるが、樹木にまきついて成長することである。これは、現在でも、各地で行われている方式なのだが、わたしは、最初から、樹木性作物と、つるをのばす作物とは、組み合わせになって栽培されていたと考える。もともと自然状態でそうなっていたものを、見逃がすはずはない。
いったんこの方式が成功してしまえば、あとは急速にすすむ。不用な植物をとりのぞき、そこに幼樹を植える。もしかすると、このころからすでに、不用な植物を焼くこと、つまり、焼畑耕作の原型がみられたのかもしれない。灰がすてられた場所では植物の成育が早いことも、すぐに発見されたのではないだろうか。
これらの農作物は、また、植物としての性質もあり、熱帯という条件の下では、つねに収穫が可能である。つまり、つねに新鮮で、しかも、貯蔵の必要がない。この点も、最初の農作物として、最適の条件をもっていた。
熱帯降雨林の農業社会の「楽園」的様相については、中尾佐助の描写を紹介しておきたい。まず、つぎの参考図のようなオセアニアの方式である。
「いまでも南太平洋の離島などでみられる裏庭型ともいうべき畑で、キチン・ガーデンともいわれる方式……何本かのパンノキやヤシ類が点々とあり、ヤムイモの蔓がそれらにまといついている。樹の下には半日陰でもよく育つタローイモの各種があちこちに雑然と生え、バナナやサトウキビの幾株かがところどころに育ち、野菜になる雑草が残っている。豚がそのあいだをときどき歩きまわっているといった風景である。畑といえば1種類の作物が整然と植えられている風景に見慣れた人にはキチン・ガーデンは畑にみえないかもしれないが、生産力は予想外に高い方式である」
こういう生産性の高い農業方式があればこそ、「南太平洋の楽園」が存在しえたのである。そして、同じ方式は、現在のナイジェリア南部にもある。中尾佐助は、ナイジェリアのヤム栽培農民が、「南太平洋の島で見られるキチン・ガーデンの植え込みを、大規模に行なっている」と説明している。
残念ながら、こういう生産性の高い「楽園」は、熱帯隆雨林地帯、または赤道地帯でしか成功しない。また、石器による伐採では、ジャングルの奥深くまでは切りこめない。
しかし、人口は増えつづけた。人々は次第にサバンナへも進出し、それまでは、種子の採集ですませていた雑穀をも、栽培するようになった。農作物の種類はふえていった。方法も多様になった。こうして、新しく進出していった土地の条件に応じて、新しい栽培方式が工夫された。わたしはこのように、農業文化の一元説を考えている。
紀元前8000年、アフリカ大陸に湿潤期が訪れた。農耕民族も、相変らず狩猟をつづけていた民族も、サハラへ、ナイル河流城へ、そしてオリエントへと流れだしていった。
では、これらの民族、とくに農耕文化をきずきあげた中心的な民族は、その苦難の歴史を語りつたえてはいないだろうか。すでに双分氏族性の社会構造をつくり、指導者、つまり、長老の教えを受けついでいた人々は、それまでの歴史を教訓としなかっただろうか。 
第2章-13 アフリカの神話

 

わたしは、以上の農業起源問題についての考え方をまとめてのちに、文化人類学者の阿部年晴の著書、『アフリカの創世神話』を読み直してみた。そして、再度、びっくりした。最初にびっくりした時のことをまず述べないと、あとの方もわかりにくいと思うので、その方から先に紹介する。
アフリカの神話については、もうひとつ、『アフリカの神話的世界』というのがある。やはり文化人類学者の山口昌男によるもので、神話の類型的解釈が中心になっている。わたしはこれを最初によんで、いやに旧約聖書の創世記に似た話が多いなと思った。そう思ったあとで『アフリカの創世神話』を読んだのだが、すでにそこには、つぎのように書かれていた。
「天と地の結婚およびその後の天地の分離、神の言葉による世界の再創造、言葉の啓示、祖先と水の結びつきなど……といった観念に出会えば誰しも旧約聖書の創世記を想い起さずにはいないだろう。かつてのヨーロッパの学者の中には、性急にキリスト教の影響を考えるひとびとがいたが、それについては何の根拠もない。その見解同様に証明されてはいないが、きわめて古い共通の伝統が一方では旧約の信仰へと展開し、他方ではドゴン(ニジェール河の中流域の農耕民族のこと)の神話体系にみられるような変貌を遂げたと考えることもできよう。いずれにしてもまだこうしたことは単なる推測の域を出ない」
阿部年晴は、数あるアフリカの神話の中から、それぞれのパターンの典型をとりあげている。だから、このドゴン民族の神話のところで、旧約聖書との関係を指摘している。だが、この指摘は、アフリカ各地の神話にもあてはまる。箱舟の話もあるし、7日目に休む話もある。創世記だけではなく、ヨブ記などに似た話もあるし、ギリシャのパンドラの箱の伝説とそっくりの話もある。開係がないとは考えられない。
わたしは最初に、サハラの湿潤期を想い浮かべた。サハラがエデンの園で、その東の荒れ地に追われた話が、例の「エデンの東」というくだりに当るのではなかろうか、なども空想してみた。つまり、サハラに神話体系の原型が成立し、そこから乾燥化におわれて散っていった民族が、それぞれの新しい環境に合せて、どこかを切りすてたり、つぎたしたり、つくりかえたりしていったのだと考えた。
ところが、農耕起源について、さきのような結論に到達してしまったので、神話も熱帯降雨林周辺に発しているのではなかろうかと考えざるをえない。そこで、再度よみなおしてみた。すると、現在のルワンダにいるワッシ民族の神話が、びっくりするほど、わたしの考えた農耕起源の説明に似ていた。
もっとも、神話、伝説、説話のたぐいは、いろいろに解釈できるものだから、この符合は、偶然かもしれない。しかし、ほぼ同じ環境の下に、あまり動かずにいた古い民族の場合には、その神話は、意外に正確な歴史をつたえているのかもしれない。そして、このワッツ民族は、わたしの考え(のちにものべる)では、ほとんど移動しなかった民族なのである。また、ワッシ民族の現在の居住圏は、ヴィクトリア湖(ナイルの最大の水源湖)と熱帯降雨林の中間に当るウガンダの西部、ルワンダ、ブルンジを中心とし、ザイール(コンゴ)盆地にひろがっている。この中心地点はまた、大変に気侯がよく、火山、温泉などもあって、観光案内などでは、「アフリカの日本」などという表現もみられるところである。
では、どういう点で、ワッシ民族の神話が、わたしの農耕起源の考えと似ているかというと、まず、つぎのような荒筋がそっくりである(以下カギカッコ内は原文)。
神は2つの国をつくった。天上の楽園の国と、地上の悲惨、苦痛、労働、反乱の国である。ワッシ民族の始祖、キグワと弟、妹とは、天上の楽園で、「労せずして動物や植物を利用した」。キグワと弟のルトゥツィは狩猟の名人だった。ところがある日、神が怒った。「その日動物は急に敏捷かつ猛々しくなり、狩りに出た兄弟は1匹の獲物も持たず、空しく疲れ果てて戻ってきた。やがて神は3人の兄弟を追放する」。
3人は地上に降りたのだが、そこには、「天上で食べていたような動物や植物は全く見当らなかった。……彼らは苦い草を食べて飢えをしのいだ」。しかしある日、「突然天の一角に裂目ができて」、現在のすべての農作物の種子(この神話の採録されたルワンダではヤムとササゲが主食)、そして道具が降ってきた。「3人はそれらの道具を用いて土地を耕やし、種子を播いた」。
ほかの民族も、やはり大罪をおかして、天上の国から追放されてきた。彼らはキグワたちの「よく耕された菜園と見たこともない植物を発見し……珍らしい道具をみせてもらい、ご馳走になって帰る」。やがて、「全ての人間がキグワの指導のもとに農耕を行なうようになった」。
この天上の国を、狩猟文化はなやかなりしころのケニア高原あたり、地上の国を熱帯降雨林周辺に想定すると、この神話の説明はスムーズにできる。神の怒りは異常乾燥期の到来である。草原地帯と森林地帯とでは、全く植物相がちがうから、見知らぬ「苦い草」、つまり、毒性のある植物を試食して、死ぬことさえある。「反乱」、すなわち、追いつめられた者同志のなわばり争いも生ずる。
「菜園」は、例のキチン・ガーデン方式だと考える。ほかの民族は、実際には、掠奪にきたのかもしれない。男たちの留守をおそわれた女たちは、なけなしの収穫物をさしだす。そして、掠奪者たちにも、農耕のやり方を教える。そうしないと、また掠奪を受けることになってしまったであろう。農耕文化にひきこまれた諸民族は、新しい同盟関係をつくりだす。やがて国家が成立すると、それまでの歴史はすべて、王族の始祖たるキグワー人の業績に帰せられるようになる。
さて、王族と書いたが、ワッシ民族は、つい最近まで、ウガンダ西部のアンコーレ王国、現在のルワンダとブルンジにまたがるルアンダ=ウルンディ二重王国の支配階級(人口の1割)をなしていた。そして、有力者は、数千頭、数万頭のウシを飼っていた。この状態をみたヨーロッパ系の学者は、彼らを牧畜民族と現定し、ウシとともに北方、つまりオリエントに近い方角からきた「白色人種である」と主張してきた。
しかし、ワッシ民族はすべて、かつてヘロドトスが古代エジプト人とコルキス人について表現したように、「色が黒くて髪の毛が縮れている」。また、遊牧民族であったとか、ウシをつれて移動してきたとか主張されているのに、ワッシ民族は、農耕文化の起源に関する神話をほこらしげに語っている。
わたしは、このことからも、従来のワッシ民族の起源に関する説明は、まっさかさまだと考えている。しかし、すでに定説であるかのごとくに主張されている仮説ををひっくりがえすためには、牧畜の起源地そのものを、真反対にもってこなければならない。これも大変なことにちがいない。だが、その論拠はふえているし、すでに、コルヌヴァンの牧畜文化サハラ起源説、いいかえれば、ひとつのアフリカ起源説が出されている。
では、本当にこのサハラ起源説は確実なのだろうか。また最初の家畜は、どういう経過をたどって、人間に飼育されるようになったのだろうか。 
第3章 さまよえる聖獣

 

第3章-1 幼獣の飼育  
アフリカの神話の中には、家畜のウシが、野牛に由来するという説明をしているものがある。神が野牛をおどろかした時に、野牛の親が逃げてしまい、あとに残されたオスとメスの2頭の子牛を、人間の始祖が育てあげ、家畜にしたのだ、とされている。
わたしは、この説明を、非常に合理的だと思う。子牛、つまり、動物一般におきかえると、幼獣を人間の手で育てたという発想には、動物の野生種と飼育種のちがいをよく知っている民族の経験が、にじみでているような気がする。野牛の動物は、ほかの動物のにおいに大変敏感である。幼獣の時期から人間に抱かれて育てられないと、なかなかなつくものではない。
たとえばアメリカには、子鹿を母乳で育てて、森にはなってやる習慣がある。オセアニアでは、家畜の子豚を、やはり母乳で育てて、宗教的行事のいけにえにする。また、乳児死亡率の高かった大昔には、生れたばかりの子供をなくした母親が、幼獣に母乳を吸わせて、乳の張った痛みをやわらげる事実があったのではなかろうか、とも想像できる。
いずれにしても、幼獣を育てる行為は、狩猟文化の早い時期からみられたにちがいない。というのは、狩猟民族というものは、獲物にする狩猟動物を民族神にもしており、神がその獲物に姿をかえて自分達に食料を与えてくれるもの、と考えていた。だから、一般には、幼獣をつれた母獣を狙うようなことはしない。彼らは、その動物を愛しており、敬まっていたのである。母獣を誤って射ってしまったり、他に獲物がえられず、やむなく殺した場合もあったにちがいないが、その時に、母獣をしたってなく幼獣を、そのまま見殺しにするとは考えられない。
幼獣はつれ帰られ、育てられた。しかし、すぐには家畜にされなかった。狩猟民族の生活パターンの中には、飼育した動物を繁殖させるという発想は生れにくいものだという説明をする学者が多いし、わたしもそれには賛成である。狩猟民族というより、正確には狩猟者である男たちという意味で考えると、問題点はより明らかになる。男たちは、農耕がはじめられてからでさえ、なかなか狩猟生活をすてきれたかったし、放浪者的性格をたもちつづけた。そして、女たちの手で育てあげられた幼獣も、狩猟文化のバターンの中で、つまり、男たちの発想にもとづいて処理された。彼らは、育った幼獣を森にはなったり、いけにえにしたりして、神のもとにおくりかえし、狩猟動物の繁殖をいのったのである。
ただし唯一の例外に、犬がある。この動物は、集団で狩りをする肉食獣という、特殊な性格をもっていた。だから、乳ばなれをするとただちに、男たちを仲間と思いこんで、一緒に狩猟にでかけたわけである。つまり、犬の家畜化は、狩猟文化のパターンの中で成立することができた。
ほかの動物が家畜にされはじめたのは、農耕文化の基礎が、かためられてのちのことであった。食料経済のパターンからみると、植物の栽培、つまり、生物を育てて人間の手元で繁殖させるという方式の中に、動物の飼育も含められるようになったわけである。自然に成長したものを、いわば、奪いとって食料にするのではなくて、人間の支配の下で繁殖させて食料にするという方式は、抜本的な発想の転換なしには実現するものでなかった。それゆえ動物の飼育をこのパターンにとりいれることも、農耕文化の創始者である女たちの力なしには不可能であった。女たちは、動物の繁殖の神秘を、みずからの出産・育児の経騒を通して、深く埋解していた。そして、狩猟文化の時期においても、幼獣を育てたのは女たちであった。最初は、育てあげた動物を、男たちの狩猟文化のパターンに奪いかえされていた。だが、植物の成育を支配しはじめた時、女たちは、手元で育てた動物をも、同じ支配の下におこうとした。いまや、経済の実権を握りはじめた女たちは、同時に、自分たちの力をも自覚しはじめたのである。
家畜の飼育にいたる経過は、具体的なイメージとしては、つぎのように進んだのであろう。
幼獣の飼育以来の段階として、まず最初に、野生の状態にもどすという行為があり、つぎに、いけにえにするという行為がつづく。これを経済的なパターンからみると、最初は完全に狩猟文化に送りかえすのであるが、つぎには、精神的、つまり霊をおくりかえすにとどまり、実物は、日本でいえば神棚さがりの形式の下で、直接に食料としてしまう。いいかえると、すでに食用飼育動物のパターンにとりこみはじめている。だがここまではまだ、繁殖という考え方は生かされていない。ところが、植物栽培で繁殖という行為をはじめてしまった女たちは、この方式にも抵抗を感じてくる。
わたしはこの時期に成立した男女間、または、狩猟文化と農業(農耕・牧畜)文化の妥協の産物を、現在のアフリカの牧畜民族が、かたくなに守ってきた儀礼の中に指摘できると思う。そこでは、ウシの首筋に特殊な矢を射こんで穴をあけて、生血をとる場合もあるし、去勢ウシを槍でさし殺し、いけにえにする場合もある。だが、いずれにしても、この行為は狩猟の形式をふんでいる。しかも、宗教的行事として、儀礼が定められている。もちろん、男たちの仕事として、なされてもいる。つまり、女たちが飼育動物とみなしているものを、男たちはあくまで、狩猟動物として取り扱うわけである。この儀礼によって、狩猟者たる男たちの面目はたもたれ、一方、女たちが望んだ飼育から繁殖への道がひらけてきたのである。
さて、話をまえにもどすと、以上のような点からいっても、最初の家畜飼育者は、絶対に女たちでなければならなかった。そして、家庭で、つまり女社会の中で育てられた幼児・少年が、家畜の世話役として登場してくる。当然、家畜の群れは大きくなっていくから、少年の役割は、次第に青年期までひきつがれるようになり、ついには、若者集団が遊牧(移動式牧畜)の旅をはじめるようになる。こうしてはじめて、農業社会の中から、遊牧民族の分離への道がひらけてきたのである。では一体、その過程がどこではじまったのであろうか。そして、従来の研究史には、どういう問題があったのだろうか。 
第3章-2 サハラの野牛

 

コルヌヴァンがとなえている牧畜文化のサハラ起源説は、現在までのところ、唯一のアフリカ大陸起源説である。
6000頭以上もの家畜ウシ、黒色の牧人、これまではアフリカ大陸にいなかったものと主張されつづけてきた野牛、つまり家畜ウシの野生種、この重要な証拠物件の絵画記録が、数十世紀もの間、沙漠と化した山塊の谷間に眠っていた。そして、サハラの牧畜文化の繁栄を物語るこの壮大な絵巻物に匹敵するものは、世界中のどこを探しても見当らない。牧畜文化のサハラ起源説は、出るべくして出たのであって、それ以前の諸説を圧倒している。
しかし、わたしはこのサハラを、ひとつの橋頭堡として位置づけたい。これまでにのべてきた農耕文化の起源地の求め方、牧畜文化の成立要件についての考え方にもとづいて、わたしはさらに南方、熱帯隆雨林周辺に、最初の出発点を置く。そして、わたしの論拠は、以下、従来の研究史の誤りを指摘しつつ、明らかにしていきたい。そこには、裏返しの形で、わたしが必要とする論理がころがっている。
ヨーロッパ系の学者によってはじめられた研究のはじめには、ヨーロッパまたユーラシア(ヨーロッパとアジア)内陸草原が重視された。そして、北方草原の狩猟民が、直接的に遊牧民族に変身したと主張された。この種の説は、考古学的な調査によってくつがえり、全く論拠を失っているのだが、いまだに、何の説明もないままに、日本の文化人類学者が書いた本などに散見する。おそらく、ヨーロッパ系の学者の説をそのまま、引きうつしたものであろう。
ヨーロッパ系の学者が、このユーラシア内陸起源説にこだわるのは、神話的発想にほかならない。彼らの歴史は、遊牧民族の移住にはじまっており、ウシ・ヤギ・ヒツジ・ウマが聖獣とされていたのである。
また、この種の説は、狩猟文化から牧畜(遊牧)文化への直接の移行、という考え方にたっている。つまり、狩猟者たる男たちが、狩猟動物を飼い馴らしたのだと主張している。しかも、最初から成獣の群れを、ひとまとめに追い立てて、遊牧の家畜群に仕立て上げたのだと説明している。この点については、すでにわたしの考え方をのべておいたので、再論はしない。
つぎに、オリエント起源説の典型的な問題点を、ウシの問題にしぼって紹介する。まず、古代エジプトには、非常に早くから、家畜ウシの存在がみとめられる。ところが、ヨーロッパ系の学者は、やっきとなってエジプト、つまりアフリカ大陸起源の可能性を否定してきた。そして、その唯一の論拠は、つぎに示すように、アフリカ大陸には家畜ウシの野生種がいない、ということであった。
たとえば、ドイツ人の農学者、ケルレルは、1919年にこう書いている。「亜弗利加本土に於ては馴化された牛は同様非常に早くから存在していた事が証明される。その絵画に現わされたものは、他の家畜と一緒に、古代埃及のファラオ王朝時代のすぐ前の旧ネガダー王朝に既に見られる。……《ところが》、家牛は亜弗利加本土に発生した、ということは否定されねばならぬ。なぜかといえば、これに属する野生形態がないからである。従ってこれは他所から、詳しくいえば亜細亜から、移入せられた」
このケルレルの説明自体、どこが「詳し」いのか全くわからないのであるが、ともかく、この説の唯一の論拠がくずれてしまった。サハラの先史美術は、その初期の狩猟の有様を描きだしており、「一群の射手が一角で牛の群れを襲おうとしている」、という状景を、見事な絵巻物として記録していた。これは当然、野生ウシであった。サハラの黒色人の画家たちはまた、さまざまな動物の特徴点を、正確にとらえていた。この野生ウシは、明らかに家畜ウシの野生種であると認められた。これにはいかなる反論の余地もなかった。
というのはすでに、古代エジプトの歴代のファラオが、サハラに野牛狩りをしにいったとか、ヘロドトスが北アフリカで野牛をみたとかいう、立派な文字記録も残っていた。ところが、これまでのヨーロッパ系の学者は、あれはアフリカ水牛ではないか、などという口実を設けて、これらの古代人の証言を、否認しつづけてきた。サハラ先史美術は、ついにそのような口実の壁をうちやぶってしまった。そして、古代人の証言も、採用されざるをえなくなってきた。
ではこれで、牧畜文化のオリエントまたはユーラシア起源説は鳴りをひそめたかというと、なかなかそうはいかない。
すでに、オオムギ・コムギの項で紹介したイギリス人、クラークとピゴットは、新しい三段論法をくみ立てている。彼らは、アフリカ大陸に「野生の牛は生息していた」、という事実は認める。しかし、ウシは、オリエントの農業地帯の「証拠では馴化された最初の動物群のなかには含まれていなかったことが示唆されている」、つまりウシの家畜化はあとの段階だ、と主張する。
彼らの説によれば、最初の、または第一段階の飼育動物は、ヤギ・ヒッジでなければならない。そしてここでも、クラークとピゴットの『先史時代の社会』という本には、ヤギ・ヒッジの野生種は、オリエント周辺にしかいなかったかのような、不思議な分布地図がのせられている。
こうして、彼らは、やはり牧畜の起源は、オリエントに求めるべきだと主張している。しかも、ヤギがいないと、農業そのもの、つまり農耕を含めた農業文化が成り立たない、とまで極言している。
本当にそんなことがいえるのだろうか。果してアフリカ大陸には、ヤギ・ヒツジの野生種はいなかったのだろうか。 
第3章-3 最初の家畜

 

野生のヤギもヒツジも、ほぼ確実に、アフリカ大陸にいた。ほぼ確実というのは、ヤギに関しては、物的証拠についての記述を発見できなかったからである。しかし、フランス人の文化人類学者、ポームは、『アフリカの民族と文化』の中で、サハラに野生のヤギがいたと書いている。だから、何らかの証拠はあるにちがいない。サハラや西アフリカについては、フランスの学者の方がくわしいのである。そして、ポームは、アフリカ人(黒アフリカ人としている)がヤギの飼育をはじめたと主張している。その上、サハラ先史美術には、やはり、野生のヒツジが描かれていた。
これで、クラークとピゴットの三段論法は、ほぼ確実に、成立しなくなった。しかし、念には念を入れて、彼らの第一段階論に当る飼育動物を、もっと範囲をひろげて追求してみよう。
まず、従来のヨーロッパ系学者の家畜起源についての考え方は、ひとつの仮説的主張にすぎない。彼らは、さきに、オオムギ・コムギこそが最初の農作物でなければならない、ときめこんでいた。それがここでは、ヤギ・ヒツジでなければならない、にいれかわっているだけの話である。つまり、ヨーロッパ型の農業形式のみから割りだされた固定観念を、そのまま主張しつづけているわけだ。
ところが、新大陸アメリカには、野生のヤギ・ヒツジはいなかった。それでは、牧畜が行なわれなかったかというと、立派にやられていた。ラマとか、アルパカとか、七面鳥とかが飼育されていた。しかも、遊牧民はおらず、農耕民の副業として、家畜が飼われていた。
わたしの結論をいってしまうと、旧大陸での最初の家畜は、ブタやニワトリのようなものだったにちがいない。というのは、先史考古学では、いちばん遠くまで移住した人々の文化を、いちばん古い型に結びつけてみるのが原則だ。もちろん、その後の変化発達は無視してはならない。しかし、この原則なしには、とても先史考古学は成立しない。
ところで、旧大陸のはずれにいるオセアニアの農民は、ブタとニワトリをもっていたが、ヤギ・ヒツジは全く飼っていなかった。農具も、基本的には木製の掘り棒だけだった。これがいちばん古い農業形式だ。ここにポイントをすえなければ、科学的な仮説は成立しない。
では、アフリカ人は、ブタやニワトリのような家畜を飼い馴らしていただろうか。
ポームは、イヌ、ネコ、ロバなどとともに、ブタとホロホロ鳥とが、「黒アフリカ人」によって飼育されはじめたと主張している。この点には、ほとんど異論はないようだ。ホロホロ鳥とは、ニワトリと同じキジ科で、ほぼ似たりよったりの大きさ、性質の鳥である。
ロバも、ブタも、ホロホロ鳥も、遊牧生活には適さなかった。だから、定着農業社会の一員としてとどまった。遊牧民は、たとえばユダヤ人がブタを不浄の動物とみなすように、定着農業社会の家畜を軽視、蔑視する。これが、学問の世界にまで反映しているのだ。
さて、もうひとつの論拠は、農耕文化の発祥地についての考え方にある。わたしは、それをアフリカの熱帯降雨林の周辺に設定した。簡単にいうと森林地帯である。そして、ブタ(イノシシ)やホロホロ鳥(ニワトリも)は、基本的には、森林性の動物である。これらの動物は、また、農耕民の立場からみて、畠あらしの専門家でもある。畠あらしをするということは、裏をかえせば、ヤムの切れっぱしや、鶏卵大の種子をとったあとのウリなどで、充分に飼育できる、という意味にもなる。つまりこのブタとホロホロ鳥という動物は、熱帯降雨林農業の組合せとしては、最適の条件をもっている。
それゆえわたしは、すでに紀元前8000年頃、つまり、アフリカ大陸の湿潤期がはじまり、新しい農耕もしくは農業(牧畜を含む)文化のにない手が、熱帯隆雨林地帯から進出する以前に、ブタやホロホロ鳥などの飼育がはじめられた可能性があると考えている。
クラークとピゴットの、第一段階に関する主張に、決定的な反論を加えるためには、もうひとつ、ヤギ・ヒツジがどこで家畜化されはしめたか、という問題にとりくまなければならない。しかし、すでにサハラ起源を主張する学者もいることだし、わたしは、熱帯降雨林からサバンナへの進出の途中のどこかで、としておきたい。ヤギ・ヒツジなどは山岳地帯の野生動物であったから、サハラ高原の起源は充分に考えられる。ただし、高原地帯は、ケニアあたりにもひろがっている。そして、すくなくとも、クラークとピゴットが第二段階の飼青動物とするウシについては、ナイル河水源湖地帯に、面白い事実がある。
そこには、世界最大のオオツノウシといわれる家畜ウシが、100万頭以上も飼われている。そして、この品種の系統に関する従来の説明方法、つまりオリエントの方角からの伝播という考え方にもとづいた品種の特徴に関する解釈は、すでに破綻をみせている。家畜ウシのサハラ起源説もでている以上、従来の家畜の品種系統研究のやり方には、当然、抜本的なやりなおしが要求されてしかるべきである。その際、わたしはこのオオツノウシに、最大の謎が秘められているのではないかと考えている。 
第3章-4 オオツノウシと巨人

 

「オオツノウシ〔大角牛〕ウシの1品種で、インド産のコブウシの系統に属する。……角がいちじるしく長く、1.2メートルに達し、基部の太さも47.5センチに達する。体重400キロぐらいで、肩には顕著な肉瘤がある。古くからアフリカで飼われている」(『大日本百科事典』)
以上がオオツノウシについての、百科事典の説明である。つまり、このオオツノウシは、インドの原産であるとされてきた。従来の説によると、家畜ウシには2系統あり、インドのコブウシ(瘤牛)系と、オリエントまたはヨーロッパ原産の原牛(ゲンギュウ)系がある。そして、アフリカには、この両方の系統がつたわった。つまり、コブウシは現在のエチオピアあたりから東アフリカ方面へ、そして原牛はナイル河をさかのぼって、エジプト周辺にはいりこんだとされてきた。
この前提にもとづいて、アフリカの家畜ウシを研究すれば、当然、コブウシ系の純粋種に近いもの、原牛系の純粋種に近いもの、そして両者の混血種、という分類法がでてくる。
ところが、ウシの解剖学的研究、つまり、骨格や筋肉の構造の研究がすすむと、この説明はうまくいかなくなってきた。家畜史の研究家、加茂儀一は、アフリカのウシの頭骨の特徴などが、系統的に説明しにくくなったとしており、つぎのように書いている。「今日東アフリカの家牛については、それが原牛種であるか、あるいは瘤牛であるかということは問題になっている」
すなわち、従来の2系統の起源論では説明しきれなくなってきた。もともと、この2系統説そのものも、最初に立てられたヨーロッパ起源の原牛(よんで字のごとく、最初の家畜ウシの原種の意)の1系統説の破綻から生じたものであった。この1系統説では、インドのコブウシの背瘤などが説明できなくなったのである。
しかし、今度は機械的に、2系統説を3系統説へと切りかえればよいものではないだろう。わたしは、オオツノウシこそが、最初の家畜ウシの直系ではないかと思っている。まず、すでに加茂儀一は、東アフリカの家畜ウシの説明についての疑問を表明している。しかし、それより奥地の、そして、東アフリカ経由でつたわったとされているオオツノウシについては、その特徴を記しているのみで、最早、系統説明をしていない。ここに最大の鍵がある。
わたしにはもちろん、家畜ウシの解剖学的知識などは全くない。だが、別の角度からオオツノウシの周辺を追求することによって、この品種を最初の家畜ウシの直系ではないか、と考える根拠を示したい。
まず、オオツノウシを100万頭も飼育している現在のルワンダとブルンジ(かつてはルアンダ=ウルンディの2重王国)を訪れた日本の外交官夫人、山本玲子の手記をみてみよう。この地帯は旧ドイツ領からベルギー領コンゴーヘ併合という経過をたどったため、おもに英・仏系をたよりとする日本の研究者には、この地帯の実情はほとんど知られていない。だから、こういうルポルタージュ的なものにしか、手がかりはみつけられなかった。
さて、山本玲子はこう書いている。
「ここの牛は、波うつ大きな角を持っています。90万頭から100万頭もこの狭いルアンダ・ウルンディにいるこれらの牛は、祝福されたものと考えられ、広々とした原野にゆうゆうとし、ただ牛乳を人間に供給するだけで、あとは一切の労働もせず、死ぬまで生活は保証されているのです」
オオツノウシは、このように、大変に可愛がられており、神格化されている。しかも、1頭1頭に、名前までつけてある。山本玲子は、白分の名前が「玲瓏」という意味だと説明したら、このオオツノウシを飼っている青年から、こういわれた。「ああそれは美しい名前だ。ちょうど私の牛にもその名前がついています」
わたしは、このようにウシを大事にし、立派に育てあげた人々こそ、最初のウシの飼育者の直系にちかいと考える。では、その人々は、どんな謎を秘めているのだろうか。この民族は、わたしの考えでは、人類史上最大の謎を秘めている。この民族こそ、すでに農耕起源の神話で紹介したワッシ民族である。しかも、生物学的にみても、超一流の不思議な集団である。
まず、あきれるほどに背が高い。男女の平均でも、2メートルもあるらしい。そして貴族層ほど背が高い。1958年に、ルワンダの宮殿を見た早稲田大学の遠征隊は、『アフリカ縦断1万キロ』の中で、「7尺以上もあろう衛兵が2人、ヤリを持って立っていた」、と記している。また、山本玲子は、ルワンダの王(ムワミ)に会った。そして彼女は、こう書いている。「ムワミは、2メートル15センチの長身で、あまり高いので、か細く、弱々しいみたいに見えました。しかしこの長身は、さすがに巨人族の王者としてはふさわしい体格です。王と握手をする私は、背のびして天を仰ぐような恰好をせねばなりませんでした」
一般にもたしかに、同一人種でさえ、牧畜に従事していると、背が高くなってくる。イギリスの農民と、アングロ・アメリカンのカウボーイとでは、300年ほどの間に、20センチも差がでてきた。食料源のちがいもあるし、背をかがめて力仕事をする農耕民と、草原を歩きまわる牧畜民とでは、骨格がかわるのも当然である。
それにしても、平均2メートルの巨人民族は、世界最高は当然ながら、桁はずれといわねばならない。しかも、これにつづく高身長集団は、チャド湖南岸のサラ民族(平均181.7センチ)、スマトラのマライ人(175.5)、南アメリカのパタゴニア人(175)、スウェーデン人(174.4)、といったものである。つまり、20センチほども大巾に、平均身長がさがっている。
一般に、高等動物ほど、環境による変異の巾はせまい。最大値を特別に引き上げるためには、それなりの特別な事情が必要である。残念ながら、前述の事情もあって、人類学者による説明は発見できなかった。だが、わたしは、ワッシ民族が、ナイルのみなもとの、気侯のいい草原で、数千年間、定着牧畜をつづけてきたと推測する。つまり、農耕民と分離はせず、遊牧民ではなく、放ち飼いの牧畜専業著として暮してきたと考える。ウシの体躯も、こういう落ちついた環境の中で、長年月を経て、世界最大(近代の改良品種は別)になったし、人間の方も、世界で最高の巨人になったと考える。
ただし、ワッシ民族をはじめとする中央アフリカ以南の牧畜を行なう農民について、北方起源をとなえる学者も多い。彼らの論拠は、家畜のオリエント起源以外に、もうひとつある。それは、ナイル系といわれる言語を使用する牧畜民族の伝説である。彼らは、中央アフリカにも若干進出しており、北方からきたと語りつたえている。
しかし、いわゆるナイル系の牧畜民の南下は、サハラの乾燥化によってひき起こされたものにすぎない。彼らも、オリエント起源の民族ではありえない。むしろ、バントゥ系の民族の根拠地から、北方へ進出し、また少し南へ戻ってきたと考えるべきである。
一方、バントゥ系の言語の使用者であるワッシ民族などには、北方起源の伝説はない。ワッシ民族の神話では、彼らの始祖キグワたちが、天から降ってきたところは、ナイルの水源、カゲラ川のほとりの丘の上(高天原か?)として語られている。ウシのオリエント起源説のみを根拠に、人種的にも北方からきた白色人種と断定する学説は、二重の誤まりをおかしている。そして、その強引さは、ケルレルによる、つぎのような、オオツノウシのつたわり方の説明をみれば、よりはっきりするだろう。
「多数の牛の流れがエチオピアから古代のナイル谷に向った。これは最初は角の大きい種類であった。これは今では中央亜弗利加に引き込んでしまった」
この論理をたどると、ケルレルはまず、オオツノウシは、最初からそういう種類だったのだと考えている。つまり、中央アフリカ(ウガンダ、ルワンダ、ブルンジなどのあたり)に行ってから大きくなったとは考えていない。おそらく、品種改良に必要な年代を考えると、この説明以外にできないのだろう。では、ケルレルは、オオツノウシが最初に飼われていたところはどこだと考えているのかといえば、インドである。ところがインドには、こんなに大きな角を持つ種類はいない。インドの牧畜民(アリアンといわれているが?)は、すばらしいオオツノウシをかつては持っていたのに、いまは失ってしまったとでもいうのだろうか。彼らは、品種改良をするどころか、聖牛を、みすぼらしい品種におとしてしまったのだろうか。
一方、ケルレルは、家畜ウシの起源はアフリカ大陸には求められないと主張し、その唯一の根拠として、アフリカに野生のウシがいない(本当はいたわけだが)ことをあげていた。ところがここでは、まったく逆に、インドにオオツノウシの品種がいないのに、オオツノウシはインドの原産だと主張している。こんな手品は通用しない。それゆえ、ケルレルの系統史は、強引なだけでなく、書かれた時から、論理的に破綻していた。
オオツノウシの系統の伝播方向は、逆であったにちがいない。中央アフリカは、わたしの考えでは、ウシの品種改良(もちろん聖牛としての意味を含めて)の中心地であった。わたしはのちに、エジプト古記録による証拠を示すが、中央アフリカからは、各地に種オスの供給が行なわれていたにちがいない。というのは、ウシに優雅な名前をつける習慣はアフリカの各地にもある。そしてこれは、サラブレッド競走馬の場合と同様に、種オスの選抜、血統の確認という作業でもある。よりのけられたオスは、去勢ウシとされ、いけにえにもされた。しかし、その前に、このすばらしいオオツノウシの血統は、周辺の諸民族にもわけ与えられたにちがいない。
ところで、人間の品種改良といっては、大変に失礼に当るが、ワッシ貴族がとびぬけて高身長になった原因についても、似たような経過が考えられてもよい。そして、その論拠となるような記述が、ヘロドトスの『歴史』の中で語られている。しかし、これは牧畜文化とははなれてしまうので、予告にとどめ、つぎには、ヘロドトスの『歴史』、つまり、エジプト・オリエント・ギリシャの古代史に、かくことのできない動物、ウマの原産地をさぐってみよう。
ウマはモンゴルの草原で飼いならされたともいわれ、現存のターパン馬という野生状態にあるものが、その祖型であると主張されてきた。しかし、これにも相当に疑問がではじめている。また、ここでも、アフリカには野生ウマがいなかったと主張されつづけてきた。それがやはり、あやしくなっている。 
第3章-5 騎馬帝国

 

ウマの話には、まず、アフリカの騎馬帝国の盛衰史を知っておいていただくと、イメージ・アップがしやすい。アフリカの中世帝国について書いた本は何冊かあるので、興味のある方はぜひ直接当っていただきたい。ここでは、簡単な紹介にとどめる。
なぜ中世帝国の話になるかというと、ウマとか騎馬民族とかについては、モンゴルその他の内陸ユーラシア帝国の印象が、強烈すぎるほど、わたしたち日本人の脳裏にやきつけられているからである。しかし、アフリカにも強力な騎馬隊を待つ中世帝国がたくさんあった。サラセン帝国も、もちろん、アフリカに根拠地を置いていたのだが、そのほかにも無数にあった。
日本でいえば、秀吉の小田原城攻めの前年に当る1589年、モロッコ軍が現在のマリを中心に栄えていたガオ帝国に侵入した。それを迎え撃ったガオ軍について、イギリス人のマーガレット・シーニ−は、「騎兵1万8000、歩兵9000名の軍勢」、と書いている。しかし、これに対するモロッコ軍は、4000挺の鉄砲をもっていた。ガオ帝国軍は敗れ、以来、西アフリカ諸国は乱世に突入した。
これより少し前、1505年に、西アフリカ経由でインドまでの航海をしたポルトガル人は、現在のセネガルに勢威を振っていたジョロフ王国について、こう書いた。「ジョロフの王は1万の騎兵と10万の歩兵を戦野に送る力あり」
以上、イメージ・アップのために、騎兵の数字があげられているものだけを引用した。しかし、この他にも沢山の記録がある。それらによれば、騎馬武者たちは、銅製のカブトをかぶり、鉄の鎖カタビラ、木綿の刺し子のヨロイを着用していた。当時の西アフリカは、商工業の中心地であり、サラセン帝国にむけて、染色された木綿布や金属製品を輸出していた。そして、現在も各地に、はなやかな色どりの装束を身につけ、長剣をたばさみ、馬にのって住来する貴族の末裔が残っている。
これらの騎馬武者たちは、一体いつから現われたのであろうか。まず2世紀初頭のガーナ帝国(現在のガーナではなく、モーリタニアからマリのあたりを中心にしていた)には、アラブ人の記録によれば、20万人の戦士がおり、そのうち4万人以上が弓隊であった。騎兵の数は不明だが、皇帝が謁見する大天幕のまわりには、金の布で装った馬が立ち並んでいたと記されている。ガーナ帝国の起源は、3世紀ごろとされており、日本の大和朝廷のはじまりよりも古い。そして、つぎの証拠からして、最初から騎兵、もしくはウマに引かせる二輪戦車隊の編成があったにちがいない。これまた、サハラ先史美術の証言である。
サハラには、無数のウマの絵があった。疾駆するウマ、ウマに引かれる二輪戦車、戦車を駆る男たち。しかも、それらの絵の分布地点をつないでみると、見事なサハラ縦断ルートがあぶりだされてきた。このルートは、現在のマリ、かつてのガーナ帝国の故地からサハラの中心に至り、そこから二手にわかれてアフリカ大陸の北海岸に達していた。
紀元前5世紀、ヘロドトスは、このサハラ縦断ルートの中心付近に首都をおくガラマント王国の存在を記録にとどめた。ガラマント王国には、ヒツジが沢山おり、ナツメヤシが栽培されていた。そのころのサハラは、まだ完全には乾き切っていなかった。そして、ガラマント王国の戦士は、二輪戦車を駆使していた。彼らは、カルタゴと同盟を結び、ハンニバルとともにイベリア半島にわたり、ピレネーをこえ、アルプスをこえてイタリア半島を南下し、ローマへと進撃した。
では、ガラマント人が、サハラでウマを飼いならしたのだろうか。彼らは、6000頭もの家畜ウシを描いた牧人の後裔であろうか。
しかし、その証拠は全くない。家畜ウマの絵は、突加として現われているかのようである。ある学者は、この絵に、紀元前1500年頃という年代をあたえている。だが、これも推定でしかない。牧人の絵にはウマは登場しておらず、全く、つながりが断たれている。では、サハラに野生ウマはいなかったかというと、やはりこれもいた。狩猟動物を描いた中に、「種類不詳の馬」があった。狩猟民の絵だから、当然、野生ウマである。現存のウマとのつながりがよくわからないにしても、野生のウマはたしかに、サハラにいた。その上、現在のモーリタニア、つまり、かつてのガーナ帝国の故地の周辺から、新しい証拠もでてきた。
川田順造によれば、「モーリタニア馬という名で学者がひとまとめにしている、体形のかなりまちまちな一群の馬がいて、やがて絶滅したらしい」。
どうして体形が「まちまち」だったのだろうか。いろいろな種類の野生ウマがいたのだろうか。それとも、家畜ウマの品種改良の歴史を、暗示しているのだろうか。 
第3章-6 神話の崩壊

 

さて、アフリカ大陸の方のイメージ・アップをした上で、オリエント起源説の問題点を追求してみよう。つぎの地図を参照しながら、よんでいただきたい。
ウマのオリエント、またはユーラシア内陸起源説は、これまで、当然のことのように主張されてきた。決定的な定説として取り扱われてきた。ところが、そこにはウシのオリエント起源説の場合よりも、もっと鮮明な形で、従来の学説の破綻が見受けられる。
まず最初の説によれば、アフリカにウマがもたらされたのは、オリエントからヒクソス(古代エジプト語で外国人の君主の意とされている)が侵入した時だとされていた。ヒクソスの軍勢の勝利の原因も、馬にひかせる二輪戦車の威力によるものとされてきた。ところが、それにしては奇妙な事実が明らかになった。美術史学著の木村重信は、その間の事情をつぎのように書いている。
「当時の絵画や浮彫を調べてみると、ヒクソス人がナイル・デルタで支配権を確立した前18世紀には、ヒクソスの兵士は徒歩で戦闘しており、馬や戦車は描かれていない」
つまり、ヒクソスによるウマの伝来説には、何らの証拠もなかったのである。ウマはオリエント方面で飼育されはじめたという仮説的主張が、エジプトの古記録によるヒクソスの侵入の事実と結びつけられ、現代風の説明をあたえられた。つまり、強力な新兵器の開発こそが勝利への道であるという死の商人たちの論理に、むすびつけられたわけである。
もうひとつの有力な学説は、現在のトルコにあったヒッタイト王国に、ウマの起源を求めていた。ヒッタイトの言語は、すこし特殊な文法をもっていたが、インド・ヨーロッパ語族の古い型のものとされている。それゆえ、ヨーロッパ系の学者は、この国の歴史に特別の関心をよせている。インド・ヨーロッパ語族[注]の言語が使用された国家としては、最古のものだからである。この王国は、前16世紀に興隆し、15世紀にはオリエントに覇をとなえる帝国と化した。前14世紀には、エジプトに戦いを挑み、こののち、平等の資格で媾和条約を結んだ。
注:現在では「語族」に分ける議論そのものに矛盾が続出して崩壊し、欧米中心主義の似非学問として批判されている。
ヨーロッパの言語学者たちは、一方、インド・ヨーロッパ語のウマのよび名が、その発音の祖型を、サンスクリット語の「アスヴァ」にまで溯り得るという学説を立てた。そして、インド・ヨーロッパ語族の言語を使用する民族が、いちばん最初からウマを飼っていたのであり、ウマとともに四方にひろがったのだと主張しはじめた。
そのため、ヒッタイト王国の歴史を再現しようとするヨーロッパ系の学者は、その言語学的な推測を、「定説」として取り扱ってきた。ある歴史書には、まさに、軍馬はいななき、戦車は走るといったような、ヒッタイト王国興隆史が、生々しく語られている。ところが、こういう説がとなえられはしめたころには、ヒッタイト語そのものの研究は、まだ充分ではなかったのである。
やがて、ヒッタイトの表音文字が解読された。ウマは、「アスウァ」とよばれていた。そして、このよび名は、隣国のミタンニ王国の言語から取り入れたものであると判断された。ウマのよび名だけでなく、ウマの飼育・調教について解説した粘土板が発見され、それらの用語も、ミタンニ語からの借用であり、実際にはミタンニ人の調教師が、やとわれていたこともわかってきた。
ミタンニ人は、言語の面からみても、考古学的発掘の結果からみても、ヒッタイト人よりあとからイラン高原をくだり、チグリス・ユーフラテス両河のほとりに建国したとされている。だから、ヒッタイト人は、最初はウマを持たずにトルコ半島に進出し、そののち、ミタンニ人からウマをもらったという結論がでてきたわけである。
こうなってくると、インド・ヨーロッパ語を使用する遊牧民族が、イラン高原あたりで、ウマを飼いはじめたと仮定しても、それは、ヒッタイト人の分離以後のことにすぎない。
ともかく、オリエント史学者の岸本通夫は、前述のウマのよび名「アスウァ」の研究にもとづいて、従来の「定説」を批判し、つぎのように書いている。「前世紀以来の定説……『馬はインド・ヨーロッパ語とともに古い』とのインド・ヨーロッパ語学者の固定観念に重大な修正を加える必要のあることを意味するであろう」
さて、ミタンニ語の「アスウァ」と、サンスクリット語の「アスヴァ」とは、たしかに非常に近い関係にある。そして、岸本通夫は、サンスクリット語、つまりイラン高原に近いところにいた民族のウマのよび名である「アスヴァ」から、ミタンニ語の「アスウァ」が地方形としてわかれたのではないか、と主張している。しかし、これは、ウマのイラン高原起源の仮説(岸本通夫はこの説に立っている)を認めた上での、もうひとつの説明方法でしかない。
ミタンニ王国の本拠地をはさんで、イラン高原と真反対には、アラビア半島がある。そして、現在のアラブ語では、ウマを、「フウッスアン」とよんでいる。もしかすると、こちらの方が祖型にちかいのではなかろうか。つまり、アラビア半島から、オリエントヘのウマの供給が行なわれたのではないだろうか。その手掛りになるようなものは、何か発見されてはいないだろうか。 
第3章-7 森林の野生馬

 

話はまたアフリカ大陸にもどる。
つい最近の1959年、現在のスーダンから、家畜ウマの骨が発見された。そこはかつての要塞のあとであった。当然、軍馬と考えられる。そして、そのウマは、紀元前1670年ごろのものと推定された。この紀元前1670年という年代は、ヒッタイト王国の興隆以前でもあり、また、ヒクソスによるエジプト支配以前でもあった。
一方、わたしの知るかぎりでは、オリエントの周辺からの古い家畜ウマの骨の出土は、報告されていない。どういうわけかよく分らないのだが、ともかくどの本にも書いてない。古い年代を示すものが出土していないと判断するほかはない。わたしは、それゆえ、スーダンからアラビア半島にウマが渡ったもの、と考える。このルートは、今でも聖都メッカへの巡礼につかわれている。大昔からの移住ルートでもあった。
では、スーダンでウマが飼育されはじめたといえるかというと、これも証拠はない。しかし、スーダンから、メッカ詣での巡礼ルートを逆行すると、また西アフリカに達する。そしてそこには、もうひとつの謎がかくされている。
ウマの起源をオリエントに求めるとすれば、西アフリカのウマは、サラセン種に近いものでなければおかしい。事実、中世には、サラセン種のウマが西アフリカに輸入されていた。ところが、それでは説明しきれない系統のウマが沢山いる。西アフリカに永らく研究生活を送った川田順造が、こう書いている。
「アフリカの馬の問題はまだ解明されたわけではなく、西アフリカ、ダオメー北部の小型のコトコリ馬の由来など不明のままである」
コトコリ馬の分布はかなり広いらしい。しかも、これに結びつけうる中世帝国の歴史が、熱帯降雨林地帯にも展開されていた。わたしも最初は、「ダオメー北部」という表現の意味が、よくわからなかったのであるが、アフリカの植民地戦争の歴史をよみなおしていたら、つぎの事実に気がついた。
ダオメーは、かつてのダオメー帝国のあとなのだが、この帝国は、北部の熱帯降雨林地帯を根拠地としていた。そして17世紀には、ギニア湾岸までを支配下においた。しかし、19世紀にはフランス軍の侵人とたたかいつつ、また北部へ撤退し、ゲリラ戦を数年間つづけていた。
だが、残念なことに、このダオメー帝国に騎兵隊がどれだけいたのか、それともいなかったのかについては、どの本にも書いてなかった。それでうっかり見逃していた。何となく日本の北海道の道産子馬のような、農業馬のたぐいのような気がしてしまったのである。
ところが、このダオメー帝国は、隣国のナイジェリアにあったヨルバ連合王国と、何度も戦っていた。そして、ヨルバ連合王国のひとつ、ベニンの黄銅美術には、騎馬武者の像が沢山あった。つぎの写真のようなものだが、この国の黄銅美術は、世界的に最高級の水準をいくものとして評価されている。
[ニンで発掘された黄銅製の騎士像(『アフリカの古代王国』より)]
ここでもまた、独特のデフォルメが行なわれているので、このウマが小型であることを、うっかり見逃がしていた。しかし、日本でも足利尊氏の乗馬姿の絵がよく教科書などに紹介されているが、あのウマも小型に描かれている。そして事実、日本馬は小型であった。ナイジェリアのウマも、本当に小型だったにちがいない。
わたしはここに、重要な鍵を見出した。しかもそれが、もうひとつの事実と結びついてきた。というのは、従来の定説によると、モンゴルの草原に野生していたターパン馬が最初に飼いならされ、ついでヨーロッパの森林馬(現在は絶減)が別系統、もしくはターパン系とかけ合されて、飼育種になったとされていたのである。わたしは、このヨーロッパ森林馬とよばれているものが、人間に追われて、草原から森林に逃げこんだのだとばっかり、思いこんでいだ。
ところが、コトコリ馬と、ギニア湾岸の熱帯降雨林地帯に展開された騎馬帝国の歴史に想いを馳せていたら、突然、もしかすると、人間に飼われる前の野生ウマは、森林動物になっていたのではなかろうか、という疑問が湧いてきた。
自然環境や、弱肉強食の法則に追われて、住むところを変えた動物は、いくらでもいる。いちばん典型的なのは、陸上の哺乳類から海棲動物に変わったクジラである。しかし、新しい環境に充分適応できなければ、そこで絶滅してしまう。
ウマは、もしかすると、草原では肉食獣に対抗しきれず、森林にかくれすみ、絶滅寸前のところを、人間に発見されたのではないだろうか。そして、家畜として品種改良が加えられ、ふたたび草原性をとりもどしたのではないだろうか。この疑問が湧いてきた時には、われながら、びっくりした。いままでに教えられたり、本でよんだりしたことが、すくなくとも、ウマの進化の最終段階のところで、全くちがってしまうのだ。
だがその後、あらゆる角度から検討してみた結果、わたしはこの考え方に確信を深めた。以下、その根拠をのべてみたい。もっとも、ここでは、野生ウマが小型であったかどうかは、原則的には関係がない。ヨーロッパ森林馬は、逆に、大型であった。寒い所に住む動物は、一般に、寒さに対抗するために大型になる。そして、熱帯の森林地帯では、一般に小型になる。動物の大きさは、環境によって変化する。
まずこれもイメージ・アップのために、宮崎県都井岬の野生状態のウマの例をだしておきたい。都井岬には、江戸時代から放牧されていた日本馬が、約70頭いる。観光案内などには、森のそばの草原に、馬が何頭か群れている写真がのせられている。ところが、わたしがいった時には、全部、森の中にしかいなかった。ジっと立ったまま、時々しずかに頭をたれては、草をむしりとっていた。
さて、問題の第一点は、保護色である。茶褐色の肌、黒いたてがみ(家畜化されて以後の変異は別問題)、どれをとっても、うすぐらい森林にぴったりである。草原動物は、こんな肌色をしてはいない。
アフリカの草原にも、ウマ科の動物がいる。いうまでもなく、シマウマである。あのシマ模様は、実に見事な保護色である。動物園でみると、やたらに目立つが、アフリカの草原では全く事情がちがう。猛獣映画の制作者の手記によると、アフリカの草原では、照りつける太陽のために、強いかげろうが立ちのぼる。そのために、シマウマの群はなかなか発見できない。かげろうの中に、あのシマ模様がとけこんでしまうのだ。
シマウマは、この見事な保護色を獲得しただけではない。肉食獣に襲われると、円陣を組んで、うしろ足を一斉にけりあげる。ウマ科の動物にはウシ科の動物のような角がない。その不利を、シマウマは、新しい戦法を学ぶことでおぎなっている。これにくらべれば、ウマは、草原動物として落第である。とくにアフリカの草原では、生き残る可能性はない。
もうひとつのウマ科動物は、ロバである。ロバの肌は沙漠や山岳地帯の保護色、うす茶色になっている。足はおそいが、かわりに耳が発達した。そして、危険を察知すると、石のように動かなくなる習慣を身につけた。飼育種のロバにも、この性癖は強力にのこっている。ロバは、イヌの吠え声などを耳にして、いったん立止まると、押せども引けども絶対に動こうとしない。
ウマには、草原をつい最近まで走っていたにしては、まだまだおかしな点がある。まず、ウマ科の中では、いちばん大きなヒヅメを持っている。しかし、それがもろくて、割れやすい。わたしは、ウマの唯一の身を守る方法が、森林のくらがりに、じっと立っていることだったために、ヒヅメが変ったのだと考える。じっと立っているためには、安定をよくしなければならない。ヒヅメは大きくなった。しかし、走りまわらないので、もろくなった。これが唯一の説明方法だと思う。
またウマは火を見ると極端におびえる。ウマ科の限の構造を比較した研究は、残念ながら発見できなかった。だが、おそらくウマの眼は、森林のくらがりに適応したのではないだろうか。火がきらいだというよりも、明るい光に耐えられないのではないだろうか。しかもウマは、暗い厩舎の中では、安心して、あの大きな、うるんだような眼を見開いて、じっと立っている。
モンゴル草原のターパン馬は、それゆえ、もともとは家畜ウマで放牧の群れから離れたものの、森林にもぐりこめなかった仲間ではないだろうか。そのころには、人間がトラやオオカミなどを、あらかた追いはらっていたので、彼らは細々と生きのびることができたのではないだろうか。
その上に、わたしは、草原性動物の家畜化という発想そのものに、重大な疑問を抱くようになった。 
第3章-8 人間と家畜

 

まず、ウマが家畜になったのに、どうしてシマウマは、飼い馴されなかったのだろうか。シマウマのいる所では、そういう考えが浮かばなかったのだろうか。東アフリカや南アフリカの人々は、どうしていたのだろうか。
実際に、シマウマを飼い馴そうとした実験例がある。ところが、シマウマには、家畜としての耐久力がなくて、あきらめざるをえなかった。草原を走りまわることに馴れた動物は、人間によって閉じこめられることに、耐えられないのだ。もともとは肉食獣のネコについても、同じことがいえる。ネコは、せまい箱に閉じこめると、狂い死にしてしまう。そして、ネコは、家畜とはいっても、ペットであり、独立性を保っている。なかなか、いいなりにはならない。
さて、大型、中型の家畜で、本物の草原動物だったのは、実際にいるのだろうか。ただし、ゾウは例外である。ゾウは巨大すぎて、天敵がいない。だから、大変におうようである。親切にさえしていれば、暴れたり、逃げだしたりしない。
[注]アフリカの古代遺跡には家畜の象が描かれている。北アフリカからスペインに広がっていたフェニキアの軍勢は、象を連れてアルプスを越え、古代ローマに攻め込んだ。当然、アフリカ人には、家畜としての象の飼育経験があったのである。しかし、アフリカ象は、インド象に比べると人に馴れにくいので、上記の実例は、家畜化されたインド象の輸入とされている。アフリカ象については、生まれた直後から人が育てた実例を発見できなかったので、結論は保留とする。
まず、ウシ、ヤギ、ヒツジのウシ科動物がいる。この野生種は、山岳地帯にしかいない。やはり、草原を捨てて、食料はとぼしいが、逃げかくれしやすい所に避難したのだ。ロバも同様だ。ブタやニワトリは、森林性の動物だった。ブタの野生種はイノシシだが、これはひとつのイノシシ科になっている。イノシシ亜目には、ベッカリーとカバがいる。ベッカリーは、イノシシよりも草原を走るに適した足をもっているが、新大陸アメリカの森林地帯でしか生きのびられなかった。カバは河川地帯にもぐりこんでいた。イノシシは草原などにもいるが、基本的には、草原動物ではない。ニワトリ、ホロホロ鳥、七面鳥などは、空をとべず、羽根が退化した鳥類だ。ラクダやラマ、アルパカは、沙漠地帯に逃げこんでいた。
このように、人間が、家畜として最適の条件を見出した動物は、すべて、動物の天国である草原や大空から、脱落したものばかりだ。それらの動物は、新しい環境の中でも、いきづまり、辛抱強い性格を身につけざるをえなかったのだ。
ここに、ウマの問題を解く大きな鍵がある。しかし、この考え方は、もうひとつの問題の鍵にもなる。つまり、なぜアフリカ大陸には、家畜の野生種がいなくなってしまったのか、という謎も解ける。アフリカ大陸には、多種多様な生物がいる。植物も動物も種類が多い。しかし、そのかげには、生存競争に敗れて、絶滅していった生物も多い。家畜の野生種もそうだった。アジアやヨーロッパの辺境に落ちのびた仲間だけが、いまだに野生のまま生き残っているのだ。
なぜそういうことが最近になって起ったかというと、ホモ・サピエンスのヒト科動物だけではなく、ウシ科、ウマ科、ネコ科、イヌ科などの高等哺乳動物は、ほぼ時期を同じくして、現存の種へと進化をつづけてきた。そして、同じような自然環境の中で、それぞれが典型的な進化をとげてきた。つまり、喰うか喰われるかの立場はちがっても、環境に適応した分化、発達では、同じ法則にしたがってきた。
たとえば、ネコ科の代表、ライオン、トラ、ヒョウは、一代雑種ができる間柄である。そして、ライオンは草原、トラは山岳の森林、ヒョウは平野の森林を、主ななわばりにしている。彼らの肌色は、保護色ではなくて攻撃用の偽装色だが、これも完璧である。
ウマ科のわかれ方も、全くこのネコ科の例に対応している。しかし、森林にはいりこんだウマは、あまり成功しなかった。森林動物としては、身体も大きくなっていたし、シカのような角もなかった。ウマはただ、じっと立っている以外に身を守る方法をもたなかった。
このウマを、自然淘汰の法則から解放できたのは、人間だけだった。しかも、植物も動物も育てあげた経験をもつ人間だけであった。わたしは、ウマが飼い馴らされたのは、ギニア湾岸の熱帯降雨林地帯のどこかであると考える。そして、ウマだけでなく、ウシ、ヤギ、ヒツジも、最初は女たちの手で育てられたのではなかろうかと考える。
また、アフリカ人はすでに、紀元前4000年ごろにロバを飼っていた。ロバを飼い馴らした人々が、ウマを育ててみなかったはずはない。アフリカ人は、ネコも、カモシカも、サルも、ゾウさえも飼い馴らしていた。ウマの野生種が、アフリカ大陸にもいたことが判明した以上、アフリカ人がウマを飼い馴さなかったという結論はありえない。
ところで、ヒヅメがもろくなっていたウマは、ふたたび走りまわることになった時、ヒヅメに蹄鉄をつけなければならなかった。では、鉄はどこで、だれによって発明されたのであろうか。一般には、やはり、製鉄のオリエント起源を説く学者が多いが、それは本当にたしかなのであろうか。また、アフリカ大陸起源を主張する学者も続出しているのだが、その論拠は、どんなものであろうか。 
第4章 鉄鍛冶師のカースト

 

第4章-1 現代の神話  
ザイール(コンゴ)盆地の広大な熱帯降雨林の中心部にいるバトワ民族(ピグミー)は、彼らの一族のなかに鉄鍛冶師がいたという伝説を語りつたえている。鍛冶師の氏族は、アコアとよばれていた。
「彼らは、だれよりもさきに、鉄の矢と槍と斧と刀をつくった。その仕事場を覗くことは、職人以外には禁止されていた。ある日、1人の男が、その仕事場を見おろす木の上にしのびこんだ。
職長は鍛冶仕事をはじめた。彼は火をいれ、鉄を鍛えた。彼は斧をつくろうとした。しかし、いつものようにはいかなかった。彼はだれかに見られていることを感じ、木を見上げた。彼は見知らぬ男をそこに認めた。そのとき、アコア族は、まるで妖精のように、直ちに消え去った。」
そして、秘密を盗んだ男が、鉄のつくり方をひろめたというのである。
伝説があるぐらいだから、当然、バトワ民族は鉄器を使用している。鉄のヤジリ、ホコサキ、ナタ、包丁、山刀、鉄の火打石を使っている。また、同じ狩猟民のサン民族(ブッシュマン)も、鉄のヤジリ、ホコサキをつかっている。以上の鉄器の使用状況は、わたしが、本やフィルムでたしかめえたものだけだから、ほかの種類の鉄器を使っている可能性もある。
ところが、ほとんどの本では、バトワ民族やサン民族は、石器時代そのままであるとか、土器を使っていないから、旧石器時代にちかいという説明がなされている。なぜかというと、彼らが鉄を、他のバントゥ系の民族から、物々交換で手にいれているからだというのである。この説明は果して正しいのであろうか。
古典時代のギリシャ人は、やはり、鉄を物々交換で手にいれていた。鉄は、彼らにとって、どこからともなく運ばれてくる金属であった。彼らは、鉄鉱石の存在すら知らなかったのである。また、アッシリア人は、やはり鉄鉱石のない平野部にいたから、物々交換で鉄を手にいれていた。しかし、ョーロッパ系の学者は、ギリシャ人もアッシリア人も、鉄器時代に区分している。
バトワ民族もサン民族も、鉄器を使用しているだけではない。鉄の棒を手にいれて、自分達の手で、火を使って加工している。つまり、製鉄所からきた鉄塊を使って製品をつくる町の鉄工場のような仕事をしている。日本でも、「村の鍛冶屋」とよばれた人々は、自分の手で鉱石を掘りだしたり、それを溶解して鉄をとりだしたりする作業をやってはいなかった。しかも、それ以外の人々は、出来上った製品を使用しただけである。
だから当然、アフリカの狩猟民族を、石器時代に区分するのは、大変なまちがいである。彼らは、ヨーロッパ人がアフリカにやってくるよりずっと前から、鉄器を使っていた。実際、アフリカ人で鉄器を使用しない民族は、どこにもいなかった。それどころか、アフリカ東海岸を通して、アラブ、インド方面に、大量の鉄が輸出されていた。すくなくとも中世期のアフリカは、むしろ製鉄業の中心地であった。そして、わたしの考えでは、古代においても、たしかにそうだったにちがいない。
また、土器を使用していないと旧石器時代とか、中石器時代に区分するのも、大変なまちがいである。世界中どこにいっても、狩猟民族というものは、大体、土器は使用していない。理由は簡単である。土器は重くて、しかも割れやすい。高級な土器、つまり陶器や磁器であっても、この性質は変わらない。だから、移動する必要のある民族は、土器を使わない。遊牧民族であっても、この事情はほとんど同じである。そのかわりに、ヒョータンでつくった食器とか、皮の袋とかをつかう。山登りにセトモノのドビンを持っていく人がいたら、相当のシロウトか気取り屋だと思われるにちがいない。それと同じ理屈が、どうして考古学者や歴史学者にわからなかったのだろうか。それとも、わからない振りをしていたのだろうか。
このこたえは、わざわざ出すまでもない。ともかく、先入観というものはおそろしいもので、専門家でさえ、一度つくられた印象に支配されてしまう。
たとえば、のちに紹介するような古代アフリカの遺跡の数々を、熱心に調査したイギリス人のジャーナリスト、デヴィドソンは、いかにアフリカ文明が誤解につつまれていたかという具体例を、つぎのように書いている。
「1958年になってからですら、ロンドン駐在の英領東アフリカ弁務官サー・アーサー・カービーは……『過去60年間、つまりこの部屋にお集まりのみなさんが生きてこられた年月とちょっとの間に、東アフリカは完全に原始的な国、多くの点で石器時代よりもおくれた状態から発展してきたのです』といったほどである」
このカービーは、「サー」、つまり貴族である。そして、ロンドン駐在の弁務官というのは、かりに、ひとつの植民地を独立国にたとえると、そこからイギリスに派遣された外務大臣級の大使だ。そういう地位の人物が、つい最近まで、このような講演をやっているわけだから、なかなか反対できるものではない。
だが、アフリカの製鉄の歴史は、意外に早くから、ヨーロッパ系の学者にも知られていた。現在のスーダンには、メロエ(のちに紹介)という古都があったのだが、そこには、約10メートルもの高さの2つのボタ山があった。調べてみると、これは鉄をとりだしたあとの鉱石のカス(鉱滓、カナクソ)であった。しかも、どうおそく見積っても、このメロエの製鉄業は、紀元前6世紀ごろにははじめられていた。イギリスの考古学者はびっくりして、これはアフリカのバーミンガム(イギリスの製鉄業の中心地)であるといった。しかし、歴史の順序から考えると、バーミンガムの方が、イギリスのメロエなのである。
また、製鉄の技術史を研究した冶金学者は、すでに1880年代から、アフリカ大陸こそ鉄の発明が行なわれたところにちがいないという考えを発表していた。わたしも以下に紹介するような事実からして、その考えに賛成である。
しかし、考吉学者も歴史学者も、なかなか冶金学者、つまり鉄鍛冶師の末裔の意見には賛成しなかった。それはなぜだろうか。 
第4章-2 不吉な金属

 

鉄はまず、さびるのが早い。しかも、芯までさびてしまう。つまり、大気中の酸素と結びついて、ボロボロの酸化鉄の粉になる。水分が多いと、この作用は早くすすむ。だから、考古学的な発掘で出土する例は非常に稀である。
石器にはそういうことはない。林料によっては、分解することもあるが、土の中に埋れていれば、まず残る。金は絶対にさびない。そして、銀、銅、青銅、黄銅は、すこし酸化(または硫化)するけれども、表面に膜ができて、原型をとどめる。
鉄の考古学は、このために、大変に不利な条件をかかえている。ここでもまた、鉄の起源はオリエントだ、ヒッタイトだ、と主張されてきたのだが、アフリカ大陸の前進基地、つまり、肝心の古代エジプトのピラミッドから、鉄製品がでてこないと、なかなか反論しにくい。しかし、それだけで、オリエント起源だと、断定してよいものだろうか。
たとえば、紀元前3世紀ごろとされる日本の月の輪古墳から出土した鉄の刀剣類も、すでに、ボロボロになっていた。古代エジプトの初期の王墓は、これよりも、3、4000年は古い。たとえその中に、鉄製品が副葬されたと仮定しても、影も形もとどめていない可能性の方が高い。もっと粗末な墓や住居跡なら、なおさらのことである。
この条件はさらに、二重の制約を生む。エジプトのみならず、ギリシャあたりでも、鉄は「不吉な金属」とされていた。他の貴金属類にくらべれば、美しくもなく、すぐさびてしまうのだから、当然の評価であろう。
一方、ピラミッドの建造には、永遠性が求められた。副葬品もえらびぬかれ、後世につたえる目的をもっていた。神殿の宝物も同様である。その上、面白いことに、金属器時代になってからも、古代エジプト人は黒曜石の道具をつかっていた。現代でも、工業用ダイヤモンドが使われているが、やはり、固い石の特徴を、うまく利用していたわけである。また、宗教的な儀式のためには、石のオノを使ってもいた。打製、つまり、けずっただけのものもあったし、磨製の見事にみがき上げられたものもあった。多分、余裕のなかった時と、余裕のあった時の、つくり方の差でもあろう。
こんな事情もあって、いまでは、みがかれた石器を、新石器時代の特徴ときめつけるわけにもいかなくなってきた。道具というものは、実用的なものだから、不必要な部分までみがきあげなくてもよい。むしろ、みがき上げた石器というものは、金属製品の形をまねた、または、後世につたえるためのものではなかろうか、という考えもでてきた。
もしかすると、みがいた石器を宗教儀式に使う習慣は、古代エジプト人だけのものではなく、アフリカ大陸全体にみられたことかもしれない。その可能性は充分に考えられる。
いずれにしても、鉄は、ピラミッドや神殿におさめるための道具をつくる材料には、なりにくかった。しかし、まったく鉄の出土品がないかというと、そうでもない。 
第4章-3 スポンジ・アイアン

 

鉄の技術史を研究した市川弘勝は、鉄は意外に早くから知られていたと主張しており、つぎのように書いている。
「紀元前約3000年ごろにつくられたといわれるケオプスのピラミッドの石材のつぎ目から鉄製のナイフが発見され、カルノック・スフィンクスの一つの足もとからは鉄製の鎌が発掘されているので、鉄は相当早くから人類に知られていたものと思われる。」
また、同じく技術史家の立川昭二は、『古代鉱業史研究』の中で、ゲルゼの先王朝(古代エジプトの統一王朝以前)の墓から、鉄のビーズ玉が発見されたと書いている。紀元前14世紀のトゥト・アンク・アモン(ツタンカーメン)の王墓からは、鉄製の短刀もでてきた。
こういう事実を指摘しているのは、不思議なことに、いわゆる歴史学者ではなくて、技術史家、つまり、冶金学者に近い研究者ばかりである。そして、歴史学者や考古学者は、たとえば鉄のビーズ玉(首飾りらしい)について、墓の盗掘者が落していったのではなかろうか、などといっている。鉄のナイフも、やはり盗掘者がピラミッドに穴をあけようとして、抜けなくなったまま、すてていったのではないか、などという疑いをかけている。
はたして、どちらが正しいのであろうか。また、どうして歴史関係の学者考えと、技術関係の学者の考えとが、これほどまでにくいちがっているのであろうか。
ほとんどの歴史書には、鉄の発明が行なわれたのは、紀元前1500年頃であり、その場所は現在のアルメニアあたりであるというように書かれている。これは、技術史家の主張している年代とくらべれば、2000年以上ものくいちがいがある。どうして、こんなにくいちがうのであろうか。
わたしも最初は、この「現代の謎」がとけなかった。ところが、イギリス人の技術史家、フォーブスが書いた本をよんでみたら、この学者は化学の専門家なのに、歴史学者と同じ見解をとっていた。彼は、鉄の発明がなぜおそかったかという理由を、鉄の性質に求めており、つぎのように書いている。
「鉄の冶金は、銅や、その合金の冶金とは全くちがうものであった。……もっと高い温度を必要とした」
これがまた、決定的なまちがいである。古代の鉄の製法では、高温を必要としなかった。ところが、専門の技術者がこう書いているのだから、イギリスの歴史。考古学者は、当然、この説明を信じてしまう。その結果、イギリス系の学者を中心とするオリエント・エジプト史では、この先入観がすべてを支配したにちがいない。
一方、すでに1880年代、ドイツの製鉄史家、ベックは、鉄を鉱石からとりだすのは、銅の場合よりもやさしいという事実を指摘していた。鉄の溶解点は約1200度Cで、金、銀、銅の場合よりも、高い温度を必要とする。ところが、銅を鉱石からとりだすのには、約1100度Cの溶解点まで加熱しなければならないのに、鉄は、塊まりのままでも、還元され、鉱石から分離してしまう。さきにあげた「酸化」との関係でいうと、酸化されやすいものは、逆に、還元もされやすい。
たとえば、技術史家の中沢護人は、この性質にもとづく鉄のとりだし方について、つぎのように書いている。
「この還元とよばれる過程は400度から800度あれば進行でき、温度が低ければ、固体のまま還元して酸素を失った孔だらけの海綿状の鉄になり、もっと温度が高ければ、粘いあめ状の塊になる。これを鍛錬して鉄でない部分を十分に除去すれば、立派な鉄となる」
この海綿状の鉄塊(スポソジ・アイアン)の利用については、わたしも、セメント工場の経験者から、つぎのような話をきいた。日本で、戦前に鉄鋼が不足したころ、というよりは軍需用にとられてしまったころ、町の鉄工場では、鉄鉱石を入手し、セメント用の石灰を焼くカマで、海綿鉄をつくった、というのである。日常の鉄製品の原材料だけなら、結構、この方法でも間に合うわけだ。[註]
ではなぜ、イギリスの技術史家が、こう事実を知らなかったのだろうか。もっとも、全く知らなかったわけではない。さきにあげたイギリス人のフォーブスは、温度が低いと、「スポンジ状のモエガラの塊りと金属粒」ができるという事実も書きそえていた。しかし、彼はそれを、ひとつの失敗、加熱の不足というように理解していたらしい。
このあとは、若干の推測をするほかない。しかし、大筋は当っていると思う。
というのは、ヨーロッパにおける高炉法(高いカマの意だが、高温で鉄を溶かして流しだす)の中心地は、ドイツだった。イギリスでは、古い製鉄法も行なわれていたが、この高炉法を輸入した。そこで従来の技術と新しい技術の断絶が起ったと考えられる。日本でも、明治以前と以後の技術史には、こういう例は多い。その結果、技術者が古い製鉄法を伝えなかったか、最初から知らない鍛冶師が出現したか、ともかく結果として知らないという状態になった。だから、低温で出てくる海綿状の鉄塊を、フォーブスのように、単なる「モエガラ」としか考えなくなってしまったのであろう。 
第4章-4 鉄鍛冶師の末裔

 

ドイツの製鉄業は、イギリスやフランスよりも古い歴史をもっていた。
なぜかというと、中世のドイツ諸国は、神聖ロ−マ帝国の中心になっていた。この帝国は、古代ローマ帝国の遺産を受けついでいたし、バルカン半島にものびていた。そして、バルカン半島の山岳地帯は、古代からの製鉄業の中心地であった。
ところが、バルカン半島の周辺には、謎めいた歴史がある。
まず、面白いことに、このあたりの製鉄地帯の地名と、旧約聖書にでてくる伝説的な鍛冶師の名前とか、古代エジプト語の金属や鉄のよび名とかが、結びつくのである。わたしにも、別に確証があるわけではないが、一応紹介してみたい。
まず、旧約聖書では、鍛冶師の先祖は、タバルカインということになっている。「タ」をのぞくと、バルカインとなり、バルカン半島のよび名にそっくりである。そして、バルカンとは、この半島北部の鉄鉱石がとれた山脈のよび名にはじまっている。鍛冶師の山、とよばれていたのではないだろうか。
また、「タ」というのも、古代エジプト語の「ター」が、土地のことを意味しているから、鍛冶師の土地というよび名が、人名になってしまったのかもしれない。
つぎに、ベックの『鉄の歴史』によると、古代エジプト語では、金属また鉄のことを、バ、バー、バーエネペ、ベト、などとよんでいた。そして、古代エジプト語の直系であるコプト語では、鉄を、ベニペとよんでいる。
さて、バルカン半島の西部にあるアルバニアは、古代に製鉄が行なわれた山岳地帯を含んでいる。バニアは、ベニペと結びつく。しかも、不思議なことに、アルバニアはもう1ケ所あった。現在は、ソ連邦アゼルバイジャン共和国になっているのだが、古代にはここに、アルバニアという国があった。ここも、やはり、製鉄地帯を含んでいる。
また、このふたつのアルバニアの中間にはアルメニア(現在はソ連とトルコに分割)がある。このアルメニアこそ、イギリス人の歴史家や技術史家が、鉄の発明された地帯だと主張しているところだ。だが、バ行とマ行とは、すぐにいれかわる。日本語でも、サビシイといったり、サミシイといったりする。メニアがベニアだったと考えると、これも、ベニペに結びつく。
話が少しとぶが、フランスとスペインの国境地帯、ピレネー山脈も、古代の製鉄業の中心地だった。ところが、ここにも、バースク民族がいる。どうも偶然とは思えない。
さて、アルメニアはヒッタイト王国の本拠地でもあった。ウマの項でのべたように、ヨーロッパ系の学者は、この王国に特別な関心をよせていた。
だが、すぐ近くのソ連邦グルジャ共和国には、かつて、コルキスとよばれた古代王国があった。これは、序章で紹介したように、ヘロドトスによれば、「色が黒くて髪が縮れている」コルキス人の国だった。ヘロドトスは、この方面にも旅行をしており、自分の眼でたしかめている。そして、コルキス人自身が、エジプトからきたことを認めたとも書いている。これはどういうつながりになるのだろうか。
コルキスというよび名は、さらに、現在のコーカサスという山脈のよび名にもなり、コーカサス地方にもなり、例のコーカソイド(白色人種)という使われ方もしている。そして、なぜヨーロッパ系の学者が、コーカソイドという用語をつくりだしたかというと、このコーカサス山脈は、ギリシャ神話の舞台だったからである。
コーカサス山脈で、神の国から火を盗んで人間に与えた英雄、プロメテウスが、岩山に鉄の鎖でしばりつげられ、ワシに肝臓をついばまれる話は有名だ。もしかすると、これも、火を盗んだのではなくて、火を使って鉄をつくる製法を盗んだ鍛冶師の一族の伝説なのではないだろうか。また、ワシとタカとは同じワシタカ科の仲間であり、タカは、古代エジプトの主神、ホルスになっていた。これも、鉄鉱山と鍛冶場を守るエジプト軍の兵士の意味だったのではないだろうか。しかも、バルカン半島のアルバニア人は、ワシの息子(シキベタル)と称しており、このあたりの最古の民族とされている。なにやら意味ありげな感じがしてくる。
さらに、このコーカサス山脈からアジアの内陸草原をみると、トルコ(モンゴルも含む)系の民族がいる。彼らは、鉄鍛冶師の子孫であるという伝説や儀礼をもっている。そして、ある時、鉱山の岩壁を爆破して、平原に進出したのだ、とも語り伝えている。これも、もしかすると、エジプト軍のきびしい監視の下ではたらいていた鉱夫や鍛冶師たちが、反乱を起したということかもしれない。
では本当に、古代エジプトがこのあたりを支配していた事実はあるのだろうか。
まずへロドトスは、古代エジプトのファラオ、セソトリスが、ヨーロッパまで遠征し、スキティア人をも従えたと書いている。スキティア人とは、現在の南ロシアの平原にいた騎馬民族のことである。そうだとすれば、当然、コーカサス地方は、征服された地帯に含まれたにちがいない。ヘロドドスは、セソトリスとしか書いていないのだが、エジプト史学者によれば、12王朝のセソトリス3世(前1887〜1850)は、たしかにオリエントに進出している。
また、フランス人のエジプト史学者、ヴェルクテールは、すくなくとも、18王朝のトゥトモシス3世(前1504〜1450)以後の、オリエント支配を認めている。ヴェルクテールの表現を要約すると、この時代、ミタンニ、アッシリア、バビロニア、ヒッタイトの諸王国は、エジプトに貢物をおくることになった。そして、エジプトは諸王国の王族や貴族の息子たちを、エジプトに人質としてつれ返り、教育をした上で、エジプト文明をつたえる使節として送り返した。ヒッタイト帝国の興隆はこののちである。
このような、古代エジプトによるオリエントや現在のトルコあたりに対する支配の事実は、いろいろな証拠物件もあり、ひろく認められている。また、ナイル河の下流域には鉱山がない。そこで、エジプトからは何度もシナイ半島に銅鉱山開発の部隊を送っていたという古記録もある。時には何千人もの部隊を送りこんで、長期間の滞在を可能にしていた。
立川昭二が『古代鉱業史研究』であげている例によると、紀元前1800年頃のアメネムハット3世の時代に、農夫、水夫、鉱夫、アジア人、石工による284名の遠征隊が記録されている。また、紀元前1160年頃のラムセス4世の時代に、支配人、書記、石工、鉱夫、シリア人、警吏、兵士による8357名の遠征隊がだされており、このうち、5310名が兵士(士官を含む)であった。アジア人とかシリア人とあるのは、牧夫の意味であろう。
以上の事実からみれば、いわゆる鉄のヒッタイト起源説は、単なる第二次中心地の誤認でしかないだろう。唯一の論拠になりうるものは、古代エジプト人、またはアフリカ人が鉄の製法を知らなかったという仮説的主張以外にない。しかし、あれだけの古代文明をきずいた民族に、どうして鉄の製法が発見できなかったわけがあろうか。本当にそんなことがいえるのだろうか。
なお、オリエントをはなれる前に、もうひとつの謎を指摘しておきたい。というのは、立川昭二の『鉄』という本によれば、ヒッタイトの故地から、鋼鉄の短剣が出土し、紀元前2300年と年代づけられた。この短剣の成分をしらべると、ニッケルなどの含有量が高く、隕鉄の利用という可能性もあると説明されている。しかしまず、この2300年という数字は、まだヒッタイトの侵入以前である。この短剣は、本当に隕鉄を含んでいたのであろうか。どこで、だれの手によってつくられたものであろうか。 
第4章-5 ヒエログリフ

 

ドイツ人のベックは、工学博士であったが、製鉄の歴史を詳細に研究した。『鉄の歴史』の第1巻は、古代から中世までの範囲をとり扱っている。彼はヒエログリフをも学び、第1章に「エジプト」を設定した。そして、従来のオリエント起源説のあやまりを指摘し、つぎのように書いた。
「エジプト人の碑銘や彫刻から、かれらのところでは、すでに第4王朝の第1代の王の時期に、鉄が使用されていたことを知る」
このベックの主張は、すでにピラミッドの壁やスフィンクスの足元から鉄製品が出土したことによって、証明されはじめたといってよいだろう。
ところが、エジプト史学者は、このヒエログリフの解釈に反対しつづけてきた。なぜかというと、初期のヒエログリフには、「天の金属」と書いてあるから、鉱石からとりだした鉄ではなくて、天から降ってきた隕鉄を利用したのだという主張をくみ立てた。鉄の利用は、隕鉄にはじまるという説明は、また、ほとんどの歴史関係の本にも書いてある。
このような説明方法は、すでに、エジプト史研究の初期から行なわれていた。だからベックは、同時に、この隕鉄の利用の可能性についても、研究をしていた。ベックは、地上に落ちた隕鉄は、表面が酸化し、「褐鉄鉱の外観をもっているから、これを純鉄として認識することはむずかしい」、と指摘している。そして、実際に隕鉄を何種類も集めて、実験を行なった。その結果、隕鉄は、「石器では加工できないほど硬い」、という結論をえた。隕鉄のかたまりを、鉄のハンマーでたたくと、形は変わらず、コナゴナになってしまう、という実験結果もでている。
それゆえ、もし隕鉄を利用したとすれば、それは、金属を熱処理する方法が知られてからでなければならない、というのがベックの結論となった。この結論は、わたしにも非常に論理的に思える。また、この主張に対する技術的な反論は全く見出せなかった。むしろ逆に、隕鉄を最初に利用したという学説の矛盾が、はっきりしてきた。
たとえば、イギリス人のフォーブスは、「隕鉄は、何世紀も前から知られていたけれども」、鉱石から鉄をとりだす方法は、エジプト人には知られていなかったという説明をしている。理由は、すでに紹介したように、鉄の冶金には高温が必要だということであった。ところが、ニッケル含有量の多い隕鉄、つまり、ニッケル鋼を加工するためにも、高温が必要なのだ。現在の技術では、焼入れに、820〜870度Cを適当としている。しかし、古代の鉄の製法では、400〜800度Cしか必要でなかった。つまり、鉱石から鉄をとりだす方が、ニッケル鋼の隕鉄の加工よりも低温でできた。明らかに、フォーブスの説明は、矛盾している。
つぎにフォーブスは、古代エジプトで、ベンガラ(酸化第二鉄の赤い顔料)が使用されていたことを認めているが、これを、鉄鉱石の熱処理による製品だと考えていない。これも大変に矛盾した考え方である。現在では、硫化鉄鉱の熱処理によって、ベンガラがえられることがわかっている。また、ベンガラは自然にころがっているものではない。ベンガラを最初につくりだした民族は、鉄鉱石の熱処理を知っていたにきまっている。
このように、古代エジプト人が、製鉄法を知らなかったという主張は、矛盾だらけである。しかし、古代エジプトの本拠地には、鉱石はほとんどなかった。鉱右を、農作物や家畜の野生種におきかえてみれば、これなしには鉄の発明は成立しない。
では、鉄鉱石があり、しかも、鉄の発明の条件をもっていたのは、どこであろうか。 
第4章-6 土師部の女

 

1831年に、現在のルワンダからザイール、ローデシアにひろがるルンダ帝国を訪れたポルトガルの軍人、アントニオ・ガミット大尉は、このあたりでは鉄鉱石が、「地表に沢山あって掘り出す必要がないほどである」、という報告をした。これはどういうことであろうか。地表に、鉱石がころがっていたのであろうか。
この謎の手掛かりは、もともとは地理学者であるシュレ=カナールの『黒アフリカ史』の中にあった。彼の研究範囲は西アフリカの旧フランス領植民地を中心としているのだが、そこには、「ラテライト性の露出鉱」がたくさんあった。もちろん、鉄鉱石のことであり、シュレ=カナールはこれを、アフリカで製鉄法が発明されるための有利な条件だと指摘している。また、このラテライト性といわれる土壌は、アフリカ大陸全体にひろがっている。では、ラテライトとはなんだろうか。
ラテライトは、熱帯地方特有の分解土壌のことであるが、シュレ=カナールによると、最近では、「古鉄土」という総称がつかわれている。この中には、酸化鉄分の含有量が非常に高いものが多く、砂状、礫状、粘土状、岩盤状などの形をとっている。砂の状態のものは、砂鉄として採集されるし、礫、岩盤状のものは、鉱石として採掘される。
なぜこういう「古鉄土」がアフリカ大陸に多いかといえば、やはり自然環境に特殊性がある。照りつける太陽と、豪雨とが、鉄分を含む岩山を酸化し、破壊し、流出させる。いったん固まった「古鉄土」も、また同じ目に会う。これが繰り返されると、砂金や砂鉄の採集と同じことが、自然に起きる。比重の重い金属は下に沈み、分離されてしまう。そして、表面の土砂が流されると、露出鉱となる。
ラテライト性の鉄鉱石は、それゆえ、アフリカ大陸の平野部にいくらでもある。山岳地帯に採鉱師がいく必要はなかった。こんな有利な条件がアフリカ大陸にはあった。しかも、自然に起きた金属の沈澱物の中には、マンガン、ニッケル、コバルトなどの重金属が含まれていたので、最初から特殊合金鋼ができた。アントニオ・ガミットは、「この鉄は熱いうちは鉛のようにのびやすく、またそのように割れないが、冷えると鋼鉄のようにかたい」、と報告していた。
一般には、鉄の本格的利用について、浸炭法(炭と一緒に焼いて炭素をしみこませる)による炭素鋼、そして焼きいれ法の発見までは、鉄器は普及しなかったと説明されている。しかし、アフリカ大陸では、その発明を待つ必要がなかった。
アフリカ人は、特殊鋼をやすやすとつくりだした。そして、東海岸まわりで、インドや地中海方面にも輸出していた。デヴィドソンも、「ソファラの鉄は、その豊富なこと、良質なことで、インドの鉄より有名」だったとしている。ソファラは、現在のモザンビーク海岸に古くから栄えた貿易港のことである。また、12世紀のアラブ人は、このソファラの鉄がインドで高く売れる、と書いていた。[下図参照]
[アフリカ沿岸の貿易ルート]
しかしわたしは、もっと意外なことを推測している。というのは、この自然条件の下で、だれが鉄の製法を発見したか、ということである。わたしはこれも女たちだ、と考えている。また一般には、鉄鍛冶師が突然出現したかのように説明されているようだが、これにも、必然的な過程があるにちがいない。
まず、アフリカの農耕民の社会では、技術者の最上位のカーストは、鉄鍛冶師とされている。ところが、シュレ=カナールの研究によると、ほとんどどこでも、このカーストの女性は陶工、または土器製作者である。
しかも、アントニオ・ガミットの報告によると、彼は、「採鉱中のアフリカ人の女を見たい」と希望した。だが、「この仕事は実際にそれをしている者だけが見ることを許されていて、そうでないとこの金属が見失なわれるという迷信」があって、その希望をことわられたのである。
ところで、明らかに鉄器よりも、土器の方が先に発明されている。ということは、土器をつくっていた女たちが、鉄の製法を発見し、男たちに力仕事、つまり加工作業を手伝わせたとも考えられる。その鍵になるものは、ラテライト、または「古鉄土」のもうひとつの特殊性である。つまり、「古鉄土」は粘土状でも存在する。そして、土器の原料と同じ形で、地表にあった。この条件が決定的なものではなかろうか。
そして、もちろん、アフリカ人は早くから土器をつくっていた。紀元前6000年のケニア高原の遺跡について、コルヌヴァンは、「とりわけ豊富な土器」という表現さえ使っている。
では、どういうことをしているうちに、鉄の製法が発見されただろうか。偶然だろうか。わたしは、これも必然的な結果として考えている。なぜなら、土器の製作には、すでに500〜700度C以上の高温が必要であったし、そこには、さまざまな実験のあとがみられるからである。たとえば、手元の百科事典にも、つぎのように書いてある。
「土器は一ケ所の粘士で焼成したこともあったが、数ケ所の粘土をまぜ、粘着力の強いものとし、さらに焼成のさいの亀裂を防ぐため、石英や長石などの砂粒をまぜたりしている。貝殻・滑石・石英の粉末をつくってまぜたもの、植物繊維を混入したもの、サンドイッチ状に2枚の薄い粘土板の間に植物繊維などをはさんだものなどもある」(『大日本百科辞典』、土器)
実験には当然、多くの失敗例がある。古鉄土性の粘土が多い地方では、土器製作過程で海綿鉄の塊まりが得られるという可能性は、充分に考えられる。逆に、よくいわれる例だが、カマドの積み石や焚火の下の地面に、鉱石がまじっていて、それが溶けて人目につくという可能性は、非常にとぼしい。料理用の火の温度は、はるかに低いのである。
長い間、土器をつくっていた女たちは、その上に、実験的訓練を経ていたし、出来上りのよさ、色彩を競いあったにちがいない。女たちの研究心は旺盛であった。奇妙な黒い鉄の塊まりの利用方法に気づくのも、人一倍早かったにちがいない。
さらに、発見された最初の鉄塊で、何がつくられたか、ということも考えなくてはならない。歴史学者は、刀剣類に重点を置く傾向がある。しかし、石器と同様に、金属器も最初は生産用用具、とくに農耕用具として開発されたと考えるのが、本筋であろう。
コルヌヴァンによれば、南方アフリカのサンゴアン様式にはじまる石器の系列には、一貫して、「木工に適した、ツルハシ、タガネ、ノミ」のたぐいがみられた。ツルハシは、木製の掘り棒とともに、ヤムなどの採集につかわれたのであろう。タガネやノミは、もしかすると、ヤシの実に穴をあける道具だったのかもしれない。わたしは、最初の鉄塊が、この種の道具にきたえ上げられたと考える。
では、このような土器製作者による鉄器製作、つまり、土師部と鍛冶師の兼業は、ほかの大陸にも、痕跡をとどめているであろうか。
まず、旧約聖書には何ケ所も、粘土と金属とが一緒に並べて書いてある。ギリシャや中国の哲学者は、万物を、「土(地)、水、火、風」の要素に分解しようと試みた。金属は、土の一種にすぎなかった。また、それ以外には考えられなかった。
日本ではどうだろうか。土師部は、土器、ハニワの製作者だと説明されている。しかし、アカハニという種類には、赤い色の酸化鉄分が含まれており、すでに、鉄鍛冶師と結びつけて考えている学者もいる。わたしは、土師(ハジ)が、鍛冶(カジ)にかわったのだと思う、土器、陶器、磁器については、中国、朝鮮から進んだ技術を持つ陶工が移住してきたので、従来の土師は、鍛冶に専念するようになったのではないだろうか。
また、鉄とシャーマニズム(呪術的な古代宗教)の結びつきは、ひろく認められている。そして、日本のシャーマニズムは、トルコ、モンゴル系の由来で説明されている場合が多い。
ところが、アフリカでも、鍛冶師のカーストは、呪術師と医者を兼ねている。やはり、シャーマンである。わたしは、日本のイネ作農耕民が、東南アジアまわりで、アフリカのシャーマニズムを伴なってきたと考えてもよいと思う。最近の新聞報道によれば、タイで、紀元前3000年頃の青銅器文化の遺跡が、発掘されている。むしろ、東南アジアの金属文化の方が、中国やモンゴル草原よりも、早くから発達していた可能性がある。当然、鉄器文化も早かったであろう。日本の鉄器文化とシャーマニズムは、アフリカ大陸に由来しているのかもしれない。
ついでながら、女王ヒミコは、シャーマンであった。つまり、わたしの考えでは、女王ヒミコも、アフリカの鍛冶師、または土師部の女の系譜に属することになる。
さて、さきに、紀元前2300年頃と推定される鉄の短剣の例を紹介した。この短剣には、ニッケル分などが含まれていた。果して、隕鉄を利用したものであろうか。それとも、アフリカの「古鉄土」による製品だろうか。
わたしは、この短剣も、アフリカ大陸に由来すると考える。もちろん、まだ決定しようはない。だが、隕鉄の利用、つまり、自然にころがっていた鉄塊の利用、という発想には、いささか注意を要する問題点がある。
鉄はやはり、土の中から、火によってきたえあげられ、火によってのみ出現するものであった。それ故にこそ神秘性、魔力を人々に覚えさせた。アフリカの神話には、火が天から降ってきたというのもある。「天の金属」とは、この思想に由来するものかもしれない。そして、火によって土を鉄に変えるわざは、土器づくりとともに、化学の系列に含めなくてはならないだろう。のちにこの系列は、アルケミア、ケミストリーにつながっていく。人々は、火によって新しい金属を得ようとしはしめた。
大地から、新しい性質の物質をえらびだし、火によって加工すること、支配すること、これは無機物の世界への支配力を、人間が手にいれたことを意味する。農耕・牧畜が、有機物の世界への支配を意味しているとすれば、ここにまた、新しい分野が開拓されたことになる。この契機としても、鉄の発明は重要である。
では、アフリカ大陸に、早期からの鉄の利用を示すような証拠は、どれだけ出ているのだろうか。 
第4章-7 鉱山遺跡

 

ここでまず指摘しておかなければならないのは、アフリカ人や、アフロ・アメリカ人の学者が、鉄の起源の問題を非常に重視していることである。
アフリカ人は、さきにのべたように、鍛冶師をカーストの最上位に置いていた。彼らの神話はすべて、神から直接に金属を与えられたということを語っている。独自の技術に誇りをもってもいた[次の写真は、この章の扉絵と同じで、アフリカの土製の高炉(『黒色人文化の先行性』より)]。
神話そのものを比較してみても、大変に興味深い現象がみられる。ヒッタイトの神話は知るよしもないが、ギリシャ神話では、ブロメテウスが火を盗んだ。ところが、バトワ民族の神話は、鉄の秘法を盗まれたと語っていた。また、ギリシャ神話の英雄たちは、ヘーパイストスという天上の神にたのんで、武具をつくってもらうことになっている。そして、ヘロドトスは、へ−パイストスを、エジプトの太陽神ラーと同一視している。一方、トルコ・モンゴル系の神話では、彼らが最初から鍛冶師だったという記憶しかのこっていない。
つまり、自分たちが「鉄の秘法」を知っていたと、はっきり語り伝えているのは、上記の内では、アフリカのバトワ民族だけなのである。しかも、ギリシャ神話の暗示するものも、ヘロドトスの『歴史』も、すべてアフリカを強く意識している。
では、神話の裏づけは、どこに隠されているのだろうか。たとえば、アフロ・アメリカ人の歴史学者、ウッドソソは、1947年に出版された『われわれの歴史における黒色人』の中で、つぎのように主張している。「大陸の中心部に近いアフリカ人は、この貴重な金属の効用を最初に知った人たちである」
ただし、この引用文だけでは、ウッドソンの論拠は分らない。また、原著は入手できなかった。だが、ほかの事情からして、わたしは、ウッドソンが、つぎに紹介するドイツ人、ルーシャンの説を採用したものと判断する。
ルーシャンは、アフリカ大陸の各地をまわった。彼は、鉄の製法を調べた。おそらく、ベックの学説も知っていたにちがいない。そして、アフリカの製鉄法が、もっとも祖型に近いものと考えたようである。羊の皮製のフイゴなどにも注目している。
そして、ソ連のコスヴェンが、このルーシャンの説と、新しい発見とを結びつけて、つぎのように書いている。
「1902年にドイツの学者フェリクス・ルーシャン……(1854〜1924)……が、鉄の溶解と熱処理の最初の発明者はネグロで、他の民族はこの技術を彼らから学んだのであり、したがって鉄の冶金術はアフリカから西ヨーロッパに伝ったのだと確信をもって述べた。……これにかんして注目される考古学の記念物は、北ローデシアのムンブア洞窟で、そこでは新石器時代の用具とともに鉄の溶炉趾と鉄鏃が発見された。この記念物は、きわめて疑問が多いが、紀元前2000年紀と年代づけられている」
ほかにも、やはりソ連のペシキンが『鉄の誕生』の中で、同じようなことを書いている。彼の表現は、より確定的であり、アフリカ大陸で、「何回も発掘が行われた結果、紀元前2000年にアフリカでは鉄の熱間加工がひろく普及していたことが確認ざれた」、となっている。
残念ながら、ペシキンの記述には、遺跡の名称、場所が記されていない。また、コスヴェンのそれは、「きわめて疑問が多い」ともなっている。しかし、ソ連では、こういう見解が有力なのであろう。
また、すでにベックが、1880年代に、西アフリカの「古い土着の製鉄業」にも注意を向けていた。そして、現在のスーダン西部の民族が「大昔からの鉄鍛冶として有名」だったとしており、「非常に進んでいた」と評価している。
ここでも不思議なのは、古い型の技術をつたえている民族が、なぜほかの学者によっても、最古参に想定され、その作業仮説にもとづいて研究されなかったのか、ということである。ドイツや、やはりドイツの技術をとりいれたロシア、またはソ連からはこの発想がでているのに、イギリスやフランス系の学者は、まったくこの点を無視している。これでは、鉄製品の出土がむずかしい、という条件の上にあぐらをかいて、最後までアフリカ文化の評価をおくらせようとしている、といわれても仕方あるまい。事実、セネガル人のディオプは、こういう歴史学者(彼の場合はフランスの学界が相手)の態度に、強い不満を表明している。
だが、いずれ、決定的な調査結果もでるにちがいない。というのは、デヴィドソンによれば、ローデシア周辺だけでも、古い鉱山の遺跡は、「おそらく6万ないし7万に達する」。アフリカ大陸全体では、数十万ケ所といってよいだろう。
コルヌヴァンは、1967年までの新しい調査結果を列挙している。それによると、わずか6地点だけで、紀元前400年から紀元後400年の数字がでている。
この数字はまだ、紀元前後のものでしかない。しかし、古い時代のものになればなるほど、遺跡の絶対数はすくないに決まっている。年代の確定したものは、それゆえ、ビラミッドにたとえれば、途中の階段にすぎない。数十万にものぼる鉱山遺跡の中で、わずか数地点の調査だけでも、これだけ古い年代が示されたと評価したい。
また、統計学的に評価すれば、紀元前後には、大量の鉄生産が行なわれていた、と推定できる。
なお、アフリカの鉄器文化については、別系統に独自の発生をみたとする説もある。しかし、わたしはすでに農耕の章でもふれたように、安易な多元説には反対である。アフリカ大陸は、そんなに孤立したところではなかった。
さて、もうひとつ、ナイジェリア南部にも、鉄器文化をめぐる謎がある。 
第4章-8 テラコッタの証言

 

ナイジェリアの南部地帯には、すでに紹介したように、多くの騎馬帝国が栄えていた。ベニンとかイーフェとかは、黄銅美術でも有名だ。
ところが、この地帯のすこし北に、ノクという地名の錫鉱山があった。そして、この鉱山の採掘現場から、大量のテラコッタ(焼き粘土の意)、つまり土製の人物像(日本のハニワに似ている)が出土した。これはノクの小像文化ともよばれているが、このテラコッタには、鉄の鉱滓(カナクソ)がこびりついていた。しかも、コルヌヴァンはこう書いている。
「いくつかの発掘地点では、通風管の破片、鉄の鉱滓、溶鉱炉の痕跡が、実際に発見された」
つまり、動かしようのない鉄生産の証拠がでてきた。そして、この事実もわたしの考え方のヒントになったのだが、土器またはテラコッタの製作と鉄の溶鉱との結びつきが暗示されている。同じカマをつかっていたために、テラコッタにカナクソがこびりついたもののようだ。
ところで、このノクの鉄器文化の年代は、どういうことになっているのだろうか。わたしには、この地点に関するたった1ケ所のデータの研究方法が、いかにも不可思議に思えてならないのである。一般には、このノクの鉄器文化の年代を、紀元前300年ごろとする学者が多いのだが、わたしは、その年代のきめ方に、異論をさしはさみたい。そして、もっとずっと早かったのではなかろうかと考えている。
というのは、ノクの一地点で4つの炭化した木片が採集された。そして、カーボンテストの結果、紀元前約3500年、2000年、900年、紀元後200年という年代を示した。ところが、最初の2つの数字は除外されて、あとの数字の中間が採用されている。しかも、丁度真中は紀元前350年となるはずなのに、すこしけずって、紀元後300年という仮説が発表され、それが「定説」として取扱われている。これはどういうわけであろうか。しかも、さらに奇妙な事実がでてきた。何冊かの本に、資料の取扱い方のくいちがいがでてきたのだ。
まず最初に、このノクの4つの木片を採集して、カーボンテストにかけたのは、イギリス人の考古学者、ファッグである。デヴィドソンは、さきにあげた4つの年代測定の結果を書き、古い方の年代を捨てた理由について、こう説明している。
「『最初の2つの年代は』とバーナード・ファッグは注釈をつけている。『ほぼ確実に、それ以前の沈澱物から生じたものだ』」
なぜ「ほぼ確実」なのだろうか。「それ以前の沈澱物」とはどういうことだろうか。ファッグは、4つの木片を採集するときに、それぞれの状態に、いささかなりとも差異を見いだしていたのだろうか。カーボンテストにかけるまでは、同格に扱っていたのではないだろうか。論理的には、紀元前3500年を示した木片の方が、鉄器文化と同時期のもので、ほかの3つの木片の方が、あとから、その後の何千年のうちに新しく生え、くちていった木の根の破片だったのかもしれない。しかも、このノクは、熱帯降雨林、つまり、一番植物の繁茂がはげしいところなのだ。
ところが、この疑問を抱きつつ、コルヌヴァンの『アフリカの歴史』をよんでいたら、そこでは、木片の数が3つにへり、紀元前3500年に相当する数字が、消え失せていた。コルヌヴァンは、フランスのアフリカおよび海外研究・資料蒐集センターの所長である。彼は、あらゆる個所で、くわしいデーターをあげている。そういう資料の活用者が、どこでまちがったのだろうか。
この「現代の謎」をとく鍵のひとつは、デヴィドソンが編集した資料集、『アフリカの過去』の中にあった。そこには、ファッグ自身が書いた別の文章、つまり、さきにあげたデヴィドソンの『古代アフリカの発見』に引用されたものよりも、あとに書かれた論文が抄録されていた。
おどろいたことに、そこでは、紀元前2000年頃という数字さえ消滅していた。しかも、注意して読むと、紀元後200年、つまり一番おそい年代を示した木片は、いわゆるノクの小像文化、または鉄器文化の最盛期よりは、はるかにおそい年代のものだったのである。
ファッグはこう書いている。
「いままで小像を出したことのないようなそれこそもっとも若い推積層のなかに、灰色の粘土にすっぽりつつまれた"もとのままの位置"[訳文では傍点による強調。原文はおそらくイタリックであろう]で、しっかりした胴体の材をいくつか発見するのに成功した。これらの標本を分析した結果、ほぼ紀元200年ごろというのが適当な日付けであることがわかった。小像の材が発見された下方の砂礫層から出たものは、ほぼ紀元前900年を示した」
これによると、紀元後200年という数字は、小像文化期の、もっとも新しい年代を示していることになる。しかも、胴体に木材が使ってあるように、若干、手のこんだものである。
それゆえ、紀元後200年という数字は、ノクの小像文化という芸術的様式が、この年代までつづいたということは示しているとしても、鉄器の発生年代をきめる手掛りにはなりえない。この数字の方こそ、採用してはならないものなのだ。
つぎに、なぜ紀元前3500年と2000年の数字が捨てられたのか、ということだが、まるで理由が記されていない。本人に聞いてみなければ、これ以上のことはわからない。しかし、傍証としてあげることができる事実には、すでにのべたように、イギリスの歴史・考古・技術史学者の頑強な、紀元前1500年頃という年代のヒッタイト起源説がある。この仮説的主張を捨てて、新しい角度から見なおすことなしには、古い年代数字の評価はできないわげである。
しかし、ノクのテラコッタは、まだまだ沢山、地中に眠っている。鉄の鉱滓をつけて、カーボンテストに必要な木片をともなって、やがて新しいテラコッタが出現するであろう。
さて、わたしは土器製作の副産物として、鉄の発明を位置づけた。それゆえ、この発明がそれほどに困難なものだったとは考えていない。火によって土を変えるわざを知っており、一方で、樹木の伐採などをしていた人々、つまり、鉄の発明の主体的条件をもっており、固い金属、または固い道其を必要としていた人々には、早くから、この発明をする必然性があった。しかも、すぐそばには、世界中でも稀にみる状態の粘土から岩盤までの、すぐれた鉱石がころがっていたのである。
それゆえ、わたしは、紀元前6000年頃には、中央アフリカあたりで、鉄の発明が行なわれていたと想定しておく。しかも、紀元前4000年頃には、その鉄がエジプトにも到達していたのではなかろうかと思う。さきにあげたゲルゼの先王朝の王墓からでた鉄のビーズ玉は、いまのところ、もっとも古い直接的な手掛りである。素直に解釈するならば、この鉄のビーズ玉は、紀元前3600年頃、人々がすでに、円い小さな鉄の玉をつくり、それに穴をうがつことさえ知っていたという事実を示している。
だが、エジプト周辺には、鉄鉱石があまりなかった。また、簡単に特殊合金鋼をつくりだせる「古鉄土」の鉱床もなかった。オリエント方面に遠征しても、そこの鉱山からとれる鉄鉱石では、軟鉄しかできなかった。炭素鋼の発明以前のエジプトでは、どういう解決法が求められたであろうか。 
第4章-9 ミルラの秘蹟

 

フランス人のド・ボーが書いた『アフリカ探険五千年史』によると、紀元前2300年頃に死んだ古代エジプトの王女のミイラのそばから、アンチモンが発見された。この金属は鉄を触媒にして、輝安鉱という鉱石と一緒に熱すると、還元され、分離してくるものである。
アンチモンはすでに、紀元前4000年頃から、陶器の壷の装飾などに使われはじめていた。しかし、これもエジプトには鉱石がない。そこでド・ボーは、現在の分布からして、ローデシア産の可能性ありと指摘している。ローデシアは、すでに紹介したように、6万から7万にも達する鉱山遺跡があるところだ。
一方、同じローデシアから、古代エジプトの神、オシリスの小像が発見された。それには、紀元前15世紀のファラオ、トゥトモシス3世の碑銘がきざみこまれていた。また、ザイール(コンゴ)からも、紀元前7世紀と年代づけられる別のオシリス小像が発見された。ザイールのシャバ(カタンガ)州にも、やはり、数千ないし数万の鉱山遺跡がある。ここでは、現在でも、銅、ウラニウム鉱山などが開発されている。しかも、このシャバを中心にして、南はローデシアから、北はルワンダ[巨人の多いワッシ民族のいるところ]にかけては、つい最近まで、ルンダ帝国が勢威をほこっていた。このあたりに、中世の内陸貿易ルートが縦横につながっていた。
以上の事実、およびド・ボーの指摘から、どういう推測がなしうるだろうか。
中央アフリカの鍛冶師、または土師部の女たちは、早くから、鉄だけでなく、アンチモン、ベンガラその他の金属粉末をつくりだすことを、学んでいたのではないだろうか。そして、古代エジプト人は、そのような金属粉末または金属塊を、必要としたのではなかろうか。壁画の顔料や、陶器の模様として、いわば安全な場所にとじこめられたものは、現在につたわっている。しかし、もしかすると、軟鉄しかとれない鉄鉱石を利用し、中央アフリカから、ニッケル、コバルト、マンガンなどをとりよせて、特殊鋼をつくっていたのではないだろうか。壁画や壷の絵の彩色は、その余技として発達したものではないだろうか。
中央アフリカの土師部の女たちは、いろいろな場所の粘土から、さまざまな色彩の土器が出来あがることを知っていた。出来あがった鉄が固くなったり、軟かくなったり、時にはもろくなったりすることも知っていた。この条件の下でこそ、諸金属の分離、精錬がはじまったのではないだろうか。わたしは、この謎の鍵を、「ミルラ」に求める。ミルラは、一般に、神殿でつかう「没薬」として説明されているものである。
古代エジプトのファラオは、ミルラを求めて何度も南方に遠征隊を送っている。その記録は、第1王朝ないし第2王朝にはじまっている。第5王朝(前2563〜2423)のサフラーは、南方の国プーントから、「8万枡のミルラ、6200斤のエレクトン(金と銀の合金)、2600斤の貴重木」を持ち返ったことを、記録にとどめている。
このプーントが、どこにあった国かということは、ミルラとはなにか、ということともに、大変な謎である。従来のエジプト史・オリエント史学者は、このプーントの国を、現在のエチオピアの北、ソマリアの海岸地帯に求めつづけてきた。しかし、現在のソマリアやエチオピアからは、何らの考古学的証拠も発見されていない。一方、セネガル人のディオプは、例のロ−デシアで発見されたオシリス神像と、エジプトの壁画にのこるプーントの王族の姿[次の写真。第六章の扉絵を同じもの]、風俗を根拠に、プーントはローデシア近辺にちがいないと主張している。
[エジプトの壁画にのこるプーントの王族の姿(『黒色人文化の先行性』より)]
わたしはまず、ディオプの主張にほぼ賛成であるといっておこう。そして、ミルラをどう解釈するか、という問題を先に片づけておきたい。
ミルラは、神殿でつかわれたとされている。では、神殿ではだれが、何をしていたのだろうか。「8万析」ものミルラは、線香のように燃やされていたのであろうか。
ところが、あらゆる学者は、古代の金属精錬が神殿で、神官によって行なわれたと主張している。わたしはこれに、巫女の役割を加える。わたしの考えでは、巫女そのものも、中央アフリカの鉄鍛冶師の一族の出身であった。彼女たちは、金属精錬の秘法を守っていた。ミルラとして総称されているものの中には、何種類もの稀少金属、重金属が含まれていた。巫女たちは秘法を知り、奇蹟を行なうものとして、あがめられていた。
さて、英語で奇蹟のことをミラクルというが、これはラテン語のミラクルムに発する。わたしはこれを、かりに(正確にはたどりにくいので)、ミルラ・ケムと解釈する。ケムは化学、ケミストリーの語源である。つまり、ミルラをつかった冶金化学が、奇蹟または秘蹟と考えられたわけだ。ラテン語の動詞、ミロールは、それゆえ、「驚嘆する」、「崇拝する」、という意味を持っている。また、英語で金属の総称となっているメタルは、ギリシャ語に由来している。ギリシャ語でメターラは、金と銀の鉱山の意味であるが、この語根を持つ単語の中には、粗鉱という名詞であるとか、変えるという動詞であるとか、金属精錬を意味する単語が沢山ある。このメターラも、ミルラの変化にちがいない。
ギリシャ人やローマ人は、エジプトを征服する以前に、金属類の輸入者であった。彼らの金属や化学に関する単語は、ほとんど古代エジプト語に由来している。これだけでも、ミルラの正体については、充分な証明になるだろう。
しかし、さらに面白いことがある。ド・ボーの記述によると、ミルラは、オーともよばれていた。ギリシャ語では、鉄をオラオーといった。オーと、オラオーとは、つながりがある。そしてこの系列の単語は、英語でまた、オーとなり、鉱石、粗鉱の意となっている。わたしは、普通の鉄鉱石に、ミルラ、つまり、重金属類を加えて特殊鋼をつくっていたのだと考えるから、言葉としてのミルラとオーの歴史的なつながりにも、大いに惹かれる。
さて、プーントの位置の問題に戻ってみよう。今度は、他の要素も加味して考えたい。
紀元前2300年頃、古代エジプトの貴族ハルクーフが、ナイル河上流に、2回の旅をした。これは現代風にいえば、スパイとして調査活動を行なったのである。そして、4回の軍事的遠征を成功させた。旅については、最初は7ケ月で帰ってきたことを誇っており、2回目は8ケ月かかっている。相当に遠くまでいったことになる。
まずハルクーフは、「精霊の国」から小人をつれてかえった。そしてこの小人は、かつて「宝物係りのブールデッドがプーントから連れて帰った小人とおなじような踊る小人の神様」であった。つまり、ハルクーフより前に、「宝物係りのブールデッド」が、「プーント」に行ったのであり、そこには、「小人」がいたのである。ハルクーフも、間違いなしに、プーントの近くにいっている。中央アフリカに住む現在のバトワ民族には、毎晩、焚き火を囲んで踊り、歌う習慣がある。非常に踊りが巧みであることについては、いろいろな証言もあり、どの学者も、この「小人の神様」を、バトワ民族と結びつけている。
ところが、現在のソマリア周辺には、バトワ民族に類する背の低い集団は、まったくいない。そこでプーントの国をソマリアに設定する歴史学者に呼応して、ヨーロッパ系の人類学者は、昔はいたのかもしれない、そういう伝説もあるから、などといっている。しかし、巨人伝説と同様に、小人の伝説を持たない民族というのは、さがす方がむずかしいぐらいである。このような根拠にもとづく学説は、まったく、砂上の楼閤に等しい。むしろわたしの考えでは、小人や巨人(ワッシ民族が最大の候補)の伝説をもっている民族は、中央アフリカに出発点をもつ人々を加えているのだ。現在のバトワ民族の分布から素直に解釈して、プーントの国、または精霊の国は、ザイール盆地周辺にあった、と仮定するのが、本筋である。
ついで、ハルクーフは、「精霊の国」またはプーントの国から、2回にわたって雄ウシを持ち返ったことを、碑銘にとどめている。自分の墓の碑銘文に記すぐらいだから、これは大事なことなのである。しかも、この「雄ウシ」の位置づけについては、もっと他にも材料がある。
紀元前15世紀、トウトモーシス3世は、やはり、ミルラとともに、プーントの国から遠征隊が雄ウシ305頭を持ち帰ったこと、その後、南方の征服地から雄ウシ60頭を献上されたことなどを、神殿に記録している。
わたしは、この雄ウシ、つまり種オスの問題を、すでに予告しておいた。これは、中央アフリカのオオツノウシの系統以外の、なにものでもありえない。そうでなければ、何を苦労して遠征隊が大量のウシの群れをつれ帰り、しかも、神殿に報告したりするであろうか。逆に、オリエントやインドから牛を輸入した記録はどこにも見当らない。
この記録はそれゆえ、同時に2つのことを証明している。第一には、家畜ウシまたは聖牛の起源は中央アフリカにあることであり、第二には、プーントの国は中央アフリカにあったということである。これを否定する学者には、はっきりした反証を提出してもらう必要があるだろう。
ところで、すべての本や辞典には、ミルラは植物からとる樹脂であるとか、胃腸薬であるとか書いてある。この説明もしなくてはなるまい。
まず、貴重なミルラが、本当に植物からとれるものだったら、古代エジプト人は万難を排して、その植物の栽培をしたであろう。なにも、大遠征隊を送る必要はない。
わたしの考えでは、古代エジプトの支配階級は、当然、ミルラの秘密をかくしていた。もしかすると、神官と巫女だけの秘密になっていたのかもしれない。そして、神殿にかかげた壁画にさえ、ミルラがとれる樹木の絵をかきこませた。それほど大事な秘密だったのである。彼らの権力は、ミルラによる金属精錬、特殊合金鋼の生産能力にかかっていた。
だが、ギリシャ人やローマ人の技術者は、ミルラの秘蹟を見破ってしまった。そして、メタルとか、ミネラルとかいう、鉱物のよび名をつくりだした。
ところが、近代の学者は、プーントの国を神秘化してしまったので、ミルラそのものが、どんなものだったのかを考えようともしなかった。彼らは、再び、古代エジプト人にだまされたのだ。
最後に、プーントの位置のきめ方について、もっとも肝心なのは、その名称である。この名称は、すくなくとも1500年間、全くかわっていない。そして、プーントに類似する名前の国は、ソマリア近辺には全くない。
たしかに、地名はよくかわる。ところが、なかなか変化しにくい単語というものもある。それは人間自身のよび名だ。この「人間」という単語の系列は、どの言語族でも、明瞭なつながりを示す。そして、中央アフリカから熱帯降雨林にかけての広大な地方で、人々は、自分たちのことをバントゥとよんでいる。ここからの変化、またはエジプト訛りへの変化は、ブーントを経て、プーントである。謎の古代国家、あらゆるエジプト史学者、オリエント史学者のあこがれの国、プーントは、バントゥの国にほかならない。
「バ」は複数形の接頭辞、「ントゥ」は力を意味する。つまり、バントゥの国とは、力ある人々の国なのだ。しかも、バントゥの思想体系[終章:「王国の哲学」で詳述]においては、その力は人間だけにあたえられたものであり、人間だけがその力を用いて、植物・動物・鉱物の中にひそむ「凍った力」を引きだすことができると規定されている。
思想は決して、頭の中から生れてくるものではない。ミルラを用いた金属精錬を、ひとつの秘蹟としてしか理解できなかった古代エジプト人の思想と、このバントゥの哲学の持主たちの思想との相異は、何を意味するのであろうか。わたしは、この謎を、最後[終章:「王国の哲学」]にのこしておきたい。わたしの考えをのべるためには、まだまだ材料が不足している。
まず、バントゥの本拠地、アフリカ大陸の周辺に眼をむけてみよう。従来の学者たちは、つねにアフリカ大陸への、人類そのもの、そして文化・文明の外来起源説を、主張しつづけてきた。しかしその逆に、アフリカ大陸に、最初の農耕・牧畜・金属文化が発生したとすれば、それは必ずや、外側にひろがったことであろう。その痕跡は、果してとどめられているだろうか。 
第5章 巨石文化の影

 

第5章-1 フェニキア人  
1920年代、フェニキア人の植民都市として有名なカルタゴの神殿遺跡の発掘が行なわれた。
タニットの神殿とよばれるフェニキア(カルタゴ)人の聖所には、ひとつの石棺があった。フランス人のピッタールは、1924年に、この石棺から発見された遺体について、つぎのように書いている。
「カルタゴの……タニットの女神像のあの驚くべき石棺……外形は恐らく女神自身を表わしているこの石棺こそは、宗教上の最も高貴な人物の墳墓であったに違いない。ところで、そこに埋葬されていた女は類黒人の特徴を持っていたのである。人種的には、1人のアフリカ女であったのだ」
このピッタールの本は、当時抬頭しつつあったファシズムとのたたかいの一環として書かれたものであった。しかし、この「類黒人」(ネグロイド)の特徴をもつ女性について、その後の人類学者、歴史学者は何も語っていない。これはどういうことであろうか。また、フェニキア人とは、本来、どういう人種を中心にしていたのであろうか。
まず第一に、へロドトスの証言をみてみよう。彼は、ペルシャの学者にも、フェニキア人自身にもたずね、同じことを2ヶ所で書いている。ここでは、フェニキア人自身のいいつたえによる部分を紹介しょう。文中、カッコ内は、ヨーロッパ系の学者による註釈である。
「フェニキア人は、彼ら自らつたえるところによれば、古くはエリュトラ海辺(ペルシャ湾岸)に住んでいたが、この地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むようになったという」
エリュトラ海とはどこかというと、古代ギリシャ人にとって、紅海・ペルシャ湾をふくむインド洋全体のことであった。それゆえ、エリュトラ海を、「ペルシャ湾」に限定するのは、明らかなまちがいである。むしろ、紀元後60年頃のギリシャ人水先案内人によって書かれた『エリュトラ海周遊記』は、当時のインド洋貿易の中心が、インドと東アフリカにあったことを語っている。
当時のアフリカ大陸東海岸には、すでに23ヶ所もの港町があった。季節風を利用する、定期的な沿海貿易が発達していた。デヴィドソンは、『エリュトラ海周遊記』の中から、東アフリカ沿岸の状況を書いた部分について、つぎのように要約している。
「海岸づたいの航海は、立ち寄る港や市場がきまっている一般に認められた多数の『1日行程』に区切られており、これらの港や市場が供給し、また求める品ははっきりわかっていた。貿易船の船長が心得ておくべき政治状態の概要も、ついでながら述べられている」
この貿易ルートの歴史が、どれほど古いものかはわからない。しかし、インドのボンベイの近くからは、紀元前三千年紀にはじまるロトハル(ロータル)港の遺跡が発掘されている。この古代の港湾都市は規模も大きく、焼きレンガづくりの荷役用ドックさえ備えていた。アフリカ東海岸からのエジプトやインドへの鉄などの輸出の歴史は、意外に古いのではなかろうか。その証拠はまだみつからないのだろうか。
たしかに、もっと早くから定期的な貿易ルートがあったという証拠は、まだないようだ。しかし、エジプトの古記録には紀元前2300年頃、水先案内人のクネムホテップが、2回の旅をしたと記されている。フランス人のド・ボーは、この記録を根拠に、王女(または巫女?)のミイラのそばにあったアンチモンを、ローデシア産ではないかと考えたのである。このクネムホテップの旅は、まさに、ハルクーフがナイル河をさかのぼったのと同時期だが、一般に、クネムホテップの方は、紅海まわりでプーントの国を目指したものとされている。その可能性はあるだろう。
というのは、当時のファラオは、必死になってミルラを求めていた。紀元前3000年ごろから、サハラの乾燥化がはじまったため、サハラから、遊牧化した民族が、エジプトの南国境に流れてきだした。そのために、国境紛争が起り、ナイル河による貿易路は寸断されはじめた。ミルラを手に入れなければ、ファラオたちは、秘蹟をつづけさせることができない。宗教的権威も弱まるし、武器にも不自由した。そして事実、紀元前2300年頃から2065年頃まで、古代エジプトは、第一中間期とよばれる戦国時代に突入してしまう。
また、紀元前1380年頃には、ナイル河と紅海を直接に結ぶ大運河が掘られた。古代のスエズ運河である。これは、紅海まわりのミルラ・ルートにちがいない。しかも、フェニキア人のオリエント史への登場が、これ以後であるのも興味深い問題である。このような背景からしても、わたしはフェニキア人の出身地を、東アフリカだと考える。
ただし、フェニキア語はセム語族という先入観が強いと思われるので、この点にも一言しておく必要があるだろう。簡単な例をあげれば、いわゆる華橋のビジネス・イングリッシュ(ピジョン・イングリッシュ)がある。貿易商人という職業ほど、外国語の習得が早く、母国語をすてさる職業は、ほかにはあまりない。
では、フェニキア人が東アフリカ海岸に根拠地をもっていたと仮定して、もうひとつの謎をといてみよう。フェニキア人の貿易と、切ってもきりはなせない国、または民族に、タルシシがある。 
第5章-2 タルシシの船隊

 

タルシシ(タルシシュ)は、オリエント史学者にとっては、謎の国である。いまだに、タルシシとよばれ、金、銀、銅、鉄、錫、象牙などを産する豊かな古代国家の位置についての定説はない。
旧約聖書には、フェニキア人(ツロとよばれた)について、何度も長い章句がでてくる。ソロモンの栄華は、フェニキア人の貿易なしには成立しえなかった。そして、フェニキア人が金属類を求めたところは、タルシシとよばれていた。タルシシには、大きな船が何度も渡っていった。しかし、フェニキア人は、タルシシの場所を秘密にしていた。それは、彼らの独占権を守るための当然の行為であった。
そこで、オリエント史学者のキュリカンの表現を借りると、「このタルシシュという神秘的な場所の位置についてある混乱がおこってきた。ソロモン以後の時代に属する聖書の筆者たちは、タルシシュの場所については全く漠然とした考えを抱いていたにすぎない」。そして、ヨーロッパ系の歴史学者は、彼らが知っている地中海の周辺に、タルシシに当る国を探し求めた。
タルシシと似た名前の国は、たしかに地中海周辺にもあった。イベリア半島の南端に、タルテッソスとよばれた古代王国があった。しかし、このタルテッソスが、フェニキア人と貿易をしていたとすれば、フェニキア人から買ったはずの象牙細工や青銅製品が、発見されなくてはならない。ところが、沢山の出土品がありながら、フェニキア人独得の商品がもたらされた証拠は、紀元前7世紀にしかさかのぼりえない。
ソロモンは、紀元前10世紀の王である。このソロモンとむすびつけて語られているタルシシは、それゆえ、イベリア半島南端のタルテッソスではありえない。しかも、奇妙なことには、現在のサルディニア島(イタリア)から、タルシシと明記された石碑がでてきた。これはどういう意味だろうか。
わたしは、タルシシというのは、フェニキアと同様に、ある民族のよび名だと考えている。たとえばローマは、カルタゴとたたかったわけだが、この戦争を、ポエニ戦争、つまり、フェニキア人との戦争とよんでいた。日本にも、ヤマトとか、クマソ、クマノといった地名がやたらに沢山あるが、これはある系列の民族の移住、発展のあとを示すものだ。山があるからヤマトなのではなくて、ヤマトとよばれる民族のよび名が、地名になったものである。
つまり、わたしは、イベリア半島にも、サルディニア島にも、タルシシ人の植民地ができたと考える。では、タルシシ人の本拠地はどこだろうか。
旧約聖書は、ソロモン王の栄華と権勢を語り、つぎのように伝えている。
「王が海にタルシシの船隊を所有して、……タルシシの船隊に3年に1度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせた」(『列王紀上』、10章)
つまり、この章句を素直によむならば、タルシシの船隊は、ゾウ、サル、クジャクがいるところにおもむいたのである。ヨーロッパ系の学者の中には、後世の記録に異国趣味がとりいれられたという主張をするものもいる。なぜかというと、これらの動物群は、イベリア半島あたりにはいないからだ。しかし、そういう都合のいい解釈をするのなら、最初から、旧約聖書を引き合いにだしてはならないだろう。
さて、クジャクがいるのは、インドとセイロンだけである。しかし、これだけでは決定的な材料にはならない。インド洋の貿易船は、インドにもアフリカ東海岸にも、つづけて航海したかもしれない。しかも、途中には沢山の中継貿易業者がいた。つまり、直接に現地へいけば安く仕入れられる商品を、都合によっては途中で、運賃こみの値段で仕入れたにちがいない。インドにいった船隊は、帰途の中継地点で、東アフリカの特産品もつみこんだであろう。そして、東アフリカにいった船隊は、その逆のことをしたであろう。
しかも、決定的な決め手は、まず、金、銀である。インドは、全や銀の特産地ではなかった。そして、古代の証拠はまだ不足しているにしても、中世にはたしかに、東アフリカが、金、銀、および象牙の特産地であった。さらに、アラブ人は、東アフリカ一帯を、ザンジ人、ザンジの国とよびつづけてきたこと、そこには現在もザンジバル島があることを指摘したい。
タ行とザ行は容易にいれかわる。また、ラ行(この場合はアール)ほど不安定な発音はない。タルシシ、ザルシ、ザンジである。わたしには、ヨーロッパ系の学者が、こんなに明確な類似を無視し、しかも、何千年にもわたる東アフリカ潅岸の貿易の歴史を、タルシシと結びつけて考えないことの方が、かえって不思議である。視点さえかえれば、タルシシは、まったく謎の国などではない。
また、フェニキア人の貿易については、青銅製品にスポットが当りすぎているが、彼らは、鉄も、その他の金属も取り扱っていた。むしろ、鉄はつねに登場している。たとえばエゼキエル書には、「タルシシは……銀、鉄、すず……ダマスコは……銑鉄」(27章)、といった具合に、鉄の状態まで書きわけてあり、かえって、銅や青銅が含まれていないこともある。
それゆえ、フェニキア人といえば地中海、そして青銅器の独古販売といったイメージは、後世の歴史家によって、つくりだされたものといえる。また、青銅の普及は、鉄器の発明よりのちのことだと、技術者、技術史家がいっている。この点についての説明は省くが、わたしも、その考えに賛成である。
青銅はしかも、錫がなければつくれず、錫鉱石の産地はかぎられていた。そして、当然のことながら、錫がないところで、錫の利用法が発明されるはずはない。オリエントや地中海周辺で青銅が発明されたと主張するヨーロッパ系の学者は、わずかに、イベリア半島やブリテン諸島に錫の鉱山があったとつけ加えるだけである。しかし、このあたりの鉱山開発は、のちのことにすぎない。錫が大量にあったのは、やはり、アフリカ大陸であった。ザンジ(タルシシ)の錫によってこそ、容易に鋳物にできる青銅の普及は、可能になったのである。もちろん、アフリカ大陸には銅山も沢山あった。
フェニキア人はまた、ポエニとよばれていた。わたしはこれも、古代エジプト語の鉄、ベニーペに結びつける。彼らは鉄商人、鉄屋とよばれたのではなかろうか。そして、旧約聖書の、ツロという呼び名は、フェニキア人の都市、テュルスに由来するとされている。これも、本来はタルシシ人の居住地のことだったのではないだろうか。
さて、地中海といえば、いかにもヨーロッパ諸国の内海のように表現されている場合が多い。しかし、この海は、アフリカ大陸の北の海でもあった。地中海のさらに北方への、アフリカ人の進出はみられなかったのであろうか。 
第5章-3 海神ポセイドン

 

クレーテ島を中心に、紀元前3000年から栄えたミュケナイ文明の建設者は、だれであろうか。彼らについて、イギリス人のキトーは、つぎのように書いている。
「彼らは自らの彫像を残しており、これは彼らが北アフリカに起源をもつ、ほっそりとした、肌の黒い、黒髪の『地中海』の血統であったことを明らかにしている。この民族、その中のあるものが人のいないクレーテ島へ到着した時には、すでに旧石器時代を過ぎていた。また、彼らの中の別のものがさらに北上してギリシャの各地に定住したのだろうか?これはわれわれの知り得ないものである」
ここでは若干、用語に異議をとなえないわけにはいかない。「北アフリカに起源」ということは、アフリカ大陸起源ということに他ならない。当時のサハラは、まだ乾燥しきっていなかった。アフリカ大陸の南北は、完全につながっていた。そして、「地中海」、もしくは「地中海人」といういいまわしも、ヨーロッパ系の学者の慣用句にすぎない。クレーテ島の人々はアフリカからきた、そして、アフリカ人だった。
彼らはまた、突如として北アフリカ海岸で、舟を仕立てて、地中海を渡ったのだろうか。わたしはそうではないと思う。
たとえば、サハラの先史美術には、「藤で作った3隻の丸木船」が描かれていた。そして、湿潤期のサハラ周辺には、大きな湖もあり、地中海に注ぐ大河があったことはたしかだ。つまり、サハラの高原と地中海とは、水路でつながっていた。
サハラの住民、つまり先史美術が証明するような、黒色のアフリカ人は、早くからこの水路によって、地中海方面へと進出したにちがいない。
ところで、アフリカからクレーテ島への移住がたしかだとすると、もうひとつの謎が浮び上がってくる。それは、例のサハラの縦断ルートの各所に描かれたウマと戦車の絵の問題である。
美術史家の木村重信は、このウマの絵の様式について、つぎのように書いている。
「アンリ・ロートは、四肢を前後に長く伸ばして疾駆する馬の特異な表現に注目して、そのスタイルが、エジプト様式よりも、むしろミュケナイ美術の様式に近いことを指摘する」
どういうことかというと、ほとんどの学者が最初から、サハラのウマは、オリエントからもたらされたと主張してきた。ところが、オリエントからサハラに到達するには、エジプトを通らなくてはならない。一方、サハラの後代の岩壁画を、エジプトの影響で説明しようとする傾向、つまり、サハラ美術の創造性を否定しようとする傾向には、ぬきがたいものがある。そこで、サハラのウマも、ウマの絵の様式も、オリエントからエジプトを通ってやってきたのだという主張が通用してきた。
これに対して、フランス人のロートは、ミュケナイ美術からの影響、そして、エ−ゲ海からアフリカへのウマと人間の移住という考えを提出し、ウマの絵の様式の類似を、その根拠としているわけである。
しかし、このロートの説明、つまり、クレーテ島からアフリカ大陸への移住説には、同じフランス人のシュレ=カナールも疑問を表明している。そしてわたしは、はっきりとその逆だと思う。人もウマも、美術様式も、サハラからクレーテ島へ渡ったのだと思う。その証拠には、クレーテ島などのミュケナイ美術には、アフリカの動物が沢山でてくる。人々は、おそらくそれらの動物もつれていったのであろうし、アフリカ大陸をなつかしむ気持が、あの濃密な色彩の美術に表現されたのだと思う。農作物の研究は発見できなかったが、これも決め手になるだろう。
また、この事実との関係で面白いのは、ギリシャ人の海神ポセイドン信仰であろう。ポセイドンは、海神であると同時に、ウマの神格化でもあった。ヘロドトスは、ギリシャの神々のほとんどすべての系譜を、エジプトに求めている。ところが、ポセイドンに当る神は、エジプトの神々の中にはいない。そこで彼は、リビア、つまり、この場合、北アフリカからサハラにかけてのアフリカ大陸に、ポセイドンの起源を求めている。ヘロドトスは、こう書いている。
「ギリシャ人がポセイドンを識ったのはリビア人からである。本来ポセイドンなる神をもっている民族はリビア人以外にはなく、リビア人は昔からかわらずこの神を尊崇しているのである」
すでに、家畜ウマの起源のところでのべたように、「ウマはインド・ヨーロッパ語とともに古い」という固定観念があった。
ところが、いわゆるインド・ヨーロッパ系の言語を使用する民族の中で最古参の古代ギリシャ人自身が、ウマの信仰の起源を、アフリカに求めている。これは、従来のように、ウマの起源をオリエント周辺に求める学者には、全く説明しきれない現象であろう。
わたしはすでに、ウマの飼育の起源を、アフリカの熱帯隆雨林地帯に想定したから、このヘロドトスの説明は、まことに真相をついていると思う。また、ウマと一緒に地中海から上陸してきたアフリカ人の戦士の記憶が、上半身が人間で下半身がウマという、神話的映像として残ったと考えてもよいだろう。
もちろんこのことは、直接的に、ギリシャ人がすべてアフリカ出身だということには結びつかない。ギリシャ人もローマ人も、古代の「市民」という範囲で考えるなら、古くからあった農耕文明の上に、征服者としてのりこんだ民族である。しかし、その前に栄えていた幾多の文化・文明の歴史を忘れてよいものではない。また、詳論はさけるが、ギリシャ・ローマ人自身、みずからの姿を、黒い巻き毛、褐色の肌に描いていた。彼らも決して、北方のブロンド人種地帯からきた民族ではない。
さらに、地中海をつきぬけて、大西洋にでてみよう。ブリテン諸島にも、アフリカ大陸の文化が流れこんでいた。 
第5章-4 ストーンヘンジ

 

やはり紀元前3000年頃、アフリカ大陸からジブラルタル海峡をわたって、西ヨーロッパにひろがった人々の存在が確かめられている。彼らは、イベリア半島、フランスのブルターニュ、ブリテン諸島などに、有名な巨石文化(イギリスのストーン・へンジなど)や農業遺跡を残している。
このアフリカ起源の人々は、イベリア半島を第二次の起点としたので、イベロ族とか、イベリア人とかよばれている。そして、イギリスの歴史学者、モートンは、彼らについてつぎのように書いている。
「コーンワル、アイアランドおよびウェールズとスコットランドの海岸にそって、紀元前3000年から2000年のあいだにブリテンに移住したイベリア人ないし巨石文化人の残した遺跡が群がっている。
……かれらは、短身、暗色の皮膚、長頭の人種で、……かれらの遺跡の大きさとみごとさとは、かれらが多数のよく組織された人びとであったことを物語っている。なん千人もの人びとが、大きな土塁を盛りあげるのに共同で労働をおこなったにちがいない。そして、輸送路が、整然たるやり方で定住地と定住地とを結んでいるのである。したがって、イクニールド路は、ノーファクのブレクランドにある大規模な火打石採集場たるグライムズ・グレイブズという産業の中心地とエイヴベリの宗教的中心地とをつないでいるのである。丘原地帯の段々は、鍬や鋤で集約的な農業がおこなわれたことを示している。……
イベリア人の社会構造のより直接的な証拠は長い塚である。しばしば長さ200フィート《約60メートル》をこえるこれらの塚は、埋葬地であって、明確な階級区分が存在したことを示している」
この民族は、最初は、新石器文化の段階にあったようだ。この時代に、輸送路、火打石鉱山、宗教的中心地(ストーン・ヘンジのこと)、段々畑の集約農耕がみられ、しかも、その起源はアフリカに求められている。おそらくは、サハラ農業文化地帯の出身者であろう。
もっとも、この年代は、アフリカ大陸に古代エジプト上下王国が成立し、オリエントに進出したのちなのだから、イベリア人の遺跡の巨大さは、おどろくには当らない。だが、この民族とつながりのある文化は、アフリカには残されていないのだろうか。ストーン・ヘンジなどの巨石文化のにない手は、アフリカ大陸のどこで、なにをしていたのであろうか。
残念ながら、そういう研究をした学者はいないらしい。漠然と、「北アフリカ」出身を示すのみの場合が多い。
だが、西アフリカにも、同様な巨石文化があった。現在のガンビアにある巨石の遺跡は、イギリスのストーン・へンジよりは小さいが、同じ型のものである。そこには古墳もある。そして、同じような古代遺跡が、ニジェール河中流域にもみられる。しかも、この2つの巨石文化の中心地は、例のアフリカ稲の栽培地の真只中にある。しかし、これらの古代文明については、ほとんど調査がなされていないらしい。フランスの学者がとなえる推定年代も、紀元前1500年から紀元後1000年頃までといったぐあいで、全くまちまちである。わたしはこれも、相当に古いのではなかろうかと思う。
また、サハラ沙漠の中にも、謎の遺跡が残されている。例のウマと戦車のサハラ縦断ルートの南端で発見された遺跡について、木村重信はこう書いている。
「壮大な石造の住居遺跡や墳墓……非回教的な巨大な古墳がいくつかあった。……これらの住居遺跡や墳墓の絶対年代は分らない」
サハラの砂の中にも、まだまだ遺跡がうもれているにちがいない。やがては、イギリスのストーン・ヘンジを建設した民族の出発地点も、推定できるようになるだろう。
イベリア人のほかにも、やはりイベリア半島の南端から西ヨーロッパにひろがった人々がいる。彼らは、全属精練用のルツボを各地に残した。このルツボが、つり鐘(ベル)をさかさまにしたような形なので、ベル・ビーカー人とよばれている。彼らも、おそらくアフリカ大陸の出身者であろう。
イベリア人やベル・ビーカー人のあとから、ケルト語を使用する民族がやってきた。そして、現在の調査においても、「ケルト語族とくにウェルシュ人は小さくて皮膚も濃色であることが明らかになった」。つまり、イングランド南部、ウェールズ地方の住民には、かつてアフリカ大陸からわたってきた先住民の特徴が、残されている。
しかし、以上のような、ヨーロッパ各地へのアフリカ大陸からの移住は、海岸づたいのルートによるものばかりではなかった。まず、最も明確なブロンド人種地帯とされている北ヨーロッパにとんでみよう。 
第5章-5 北ヨーロッパ人

 

長い間、北ヨーロッパの諸民族は、北方に起源をもつ「純枠種」であるという神話が、定説であるかのように、語りつづけられてきた。
しかし、形質人類学、つまり、人類の生物学的研究が進むにつれ、北欧神話はくずれはじめた。たとえば、アメリカの人類学者、クーン、ガーン、バードセル(以下、クーンを代表とする)の3人の共著による、『人種』という本では、北ヨーロッパ人の中にみられる高身長で鼻の細くとがった骨格は、「紀元前5000年をこえないある時期に、おそらくイランから農耕民・牧畜民としてユーラシアの草原に入ってきた」人々がもたらしたもの、と説明されている。
では、その当時、イラン高原にいた人々はどんな肌色をしていたかというと、クーンは、「淡褐色の皮膚、褐色の眼」をしていたと考えている。そして、イラン高原からインドに侵入した、いわゆるアーリア人についても、従来主張されてきたようなブロンド人種ではなかった、と説明している。では、淡褐色の肌色、褐色の眼の人々は、どういう時期に北ヨーロッパに移住し、ブロンド型になっていったのであろうか。
「その頃ウラル山脈の氷河の融解によって地表をあらわした地域は曇りがちであった。彼らは紀元前2000年代に中央および北西ヨーロッパに到達した。彼らがここに来たのは雲多い時代の終末期であった。彼らは第一には原住民との混血により、第二には環境的淘汰によって、あるいはこの2つの経過にしたがって、皮膚、毛、眼に関するブロンディズムの遺伝子を獲得したのだろう」
では、「原住民」は、どんな人種的特徴を持っていたのであろうか。そして、ブロンディズムとは、どのようなものであり、どのような自然環境の中で発生したものであろうか。
ブロンディズムは、雲や霧の多い、氷河期の北ヨーロッパ特有の気候の中で発生した。基本的には「白皮症」である。つまり、色素細胞の機能消滅である。この現象はどの地方でも発生するが、太陽光線のとぼしい環境の中では、これが、かえって有利な条件となった。しかもこの環境はほぼ、紀元前の2200年までつづいた。ホメーロスも、北ヨーロッパについて、霧多き国とうたっていたほどである。
このことからすれば、北ヨーロッパ人の「純粋性」を主張する際には、もっとも色素沈着のすくない住民をあげなくてはならないだろう。事実、クーンは、こう書いている。
「灰色ブロンドの毛はバルト海地方の東方および南方の中部ヨーロッパの、皮膚の青く、灰色の眼をした住民の間ではもっとも普通である」
つまり、いわゆる金髪青眼ではなくて、銀髪灰眼の方が、北ヨーロッパの古くからの現住民だった。バルト海は北ヨーロッパの中心部であり、凍りついた海の上には、ツンドラ草原がひろがっていた。曇りがちな空の下で、狩猟民が紀元前3000年もしくは2000年頃まで、つまり古代エジプト帝国がアフリカ大陸からオリエントに進出していたころまで、氷河期と同じ生活をつづけていた。現在のバルト海沿岸には、「白眼」とよばれる人々さえいる。
では、この銀髪灰眼の人々は、どんな骨格をしていたのだろうか。
「この種の色素をもつ人々の多くはずんぐりしており、顔は幅びろく獅子鼻である。彼らはモンゴロイドが完成した寒地適応の路を部分的にたどってきたのであった」
つまり、人類そのものの生物学的な研究によれば、すんぐりした身体つきの方が、表面積が少なくて、体熱の発散をふせぐ。この方が寒地適応型なのだ。もちろん、ここでモンゴロイドの典型とされているのは、氷原の狩猟民族、エスキモー人のことである。
結論として北ヨーロッパの原住民は、銀髪灰眼、ずんぐり型であったと考えられる。
高身長、細鼻の骨格形質は、クーンによれば、イラン高原に由来する。つまり、南方系であった。だが同時に、その骨格形質は、濃い色素細胞をもともなっていた。金髪青眼は、銀髪灰眼よりも、色素が濃い。つまり、金髪青眼の人々も、南方系との混血種にちがいない。
だが、南方系の特徴は、これだけにとどまらない。 
第5章-6 曲毛の人々

 

さらに重要で、なかなか消えにくい人種的特徴は、髪の毛にある。
巻毛、波毛について、ヨーロッパで独自に発生したものだという説をとなえた学者もいるらしいが、この説には何の証拠もない。クーンも、このような説の存在を記しているのみで、全くとりあっていない。とくにブロンド、灰色ブロンド地帯では、細い直毛が圧倒的多数である。
クーンはまず、「曲毛の大中心はアフリカとメラネシアである」、という当然の事実を確認する。そして、ヨーロッパでは、「南アイルランド人、ウェールズ人、一部ノルウェー人、フィンランド人、それにバヴァリア人、およびその隣接山岳地帯のアルプス人」などに、この曲毛の特徴がみられることを指摘する。
さらに広大な曲毛地帯は、南ヨーロッパである。古代文明が栄えたバルカン半島、イタリア半島、イベリア半島には、現在も、曲毛、そして縮れ毛に近い巻き毛の人々が、沢山住んでいる。ロ−マ帝国末期の、大量のゲルマン系、スラブ系諸民族の移住を計算にいれると、古代の南ヨーロッパ人は、ほとんど曲毛だったと推定できる。肌色も、相当に濃い褐色だったにちがいない。わたしはこれを、アフリカ系の人々、と考える。
もちろん、あれはギリシャ・ローマ時代にアフリカからきた奴隷の血がまじったもの、という説明をする学者もいるだろう。しかし、そのことは、のちにものべるので、ここでは単に否定しておく。
さて、クーンは、ヨーロッパ大陸への曲毛形質の侵入を、ジブラルタル海峡を通じて入ってきたものと、イラン高原からきた人々の中の「少数のネグロイド形質」によって説明している。わたしは、そういう人々が意外に多かったのではなかろうかと考えているのだが、ともかく、そういう人々がいた。彼らはどこから来たのだろうか。
わたしの考えでは、この種の人々は、農耕・牧畜文化とともに、アフリカ大陸からやってきた。だが、それだけではない。さらに、いわゆるコーカソイド(白色人系)とされてきた骨格的な形質も、アフリカ大陸の真只中に出発点をもっていた。
すでにコルヌヴァンは、ケニアとタンガニーカで発見された紀元前約2000年のいくつかの人骨の研究にもとづいて、この型の人種はアフリカ大陸に古くから居住していたと主張している。その中には、現存の人種の例として、あの興味深い巨人、ワッシ民族も含まれている。
コルヌヴァンはこう書いている。
「このタイプは、アフリカにおいて相当有力な分布を示し、新石器時代の湿潤期から居住していたと見受けられる。だから、彼らがアフリカ大陸以外の他の場所から来たと主張することは、……アフリカの住民を外来の起源であると確言する理論が、つい最近まで支持されてきたものの……不可能と思われる」(『アフリカの歴史』)
コルヌヴァンは、このタイプをいわゆるコーカソイド型の骨格形質という現存の人種群への「最後の鎖」、つまり、祖型とみなしている。わたしは、さらに論を進めて、このタイプの人々が、家畜の群れをひきいて、相当大量にオリエント方面にも進出したと考える。クーンが「淡褐色の肌、褐色の眼」の人々としたイラン高原の農耕・牧畜民の主流は、このアフリカ大陸からきた人々だったと考える。牧畜起源地の設定が変った以上、これは当然の推論であろう。
では、以上のようなアフリカ人の対外進出は、ヨーロッパ大陸の民族に、どのような痕跡をのこしているだろうか。ギリシャ神話をみてみよう。 
第5章-7 黒色の巨人神[タイタン]

 

ホメーロスの作とされる『イーリアス』の中には、つぎのような章句がある。
「ゼウスさまは、ちょうど昨日、オーケアノスへ、立派なアイティオプスたちのところへお出かけになって、神様がたもみな、それについておいででした」
もちろんこれだけでは、全くなんのことかよくわからない。ゼウスは、ギリシャの主神である。だが、オーケアノスとか、アイティオプスになると、訳注をみただけではよくわからない。わたしはこの章句の重要性を、ディオプの引用で知ったのだが、ここでは、わたしなりの解釈をしておきたい。
最初に概略をのべると、オーケアノスは、ナイルのみなもとの大湖水であり、アイティオプス(エチオピア人)は、現在の巨人、ワッシ民族などに結びつけうる黒色人である。
ギリシャ人は、ともかく、オーケアノスを神聖な場所と考えていた。また、エチオピア人を、非常に敬まっていた。訳注にも、巨人神の一族の黒色人としてある。だが、この二つの単語の意味は、このさき、決定的な重要性をおびてくるので、もっと正確にたしかめておきたい。
まず、オーケアノスとはなんだろうか。
面白いことに、ギリシャ神話の世界は、アフリカ大陸を中心にしている。そこでは、陸地はひとつしかなく、その中心をナイル河が流れている。この考え方を持っていること自体、ギリシャ文化の主流となる人々が、アフリカ大陸からの移住者であったことを物語っている。
さて、陸地のまわりには、オーケアノス(英語のオーシャン)とよばれる大洋があった。そして、ナイル河は、むこう側の大洋から、こちら側の大洋に流れてくる。つまり、地中海に注いでくると説明されていた。では、むこう側の大洋とはなんだろうか。
ヨーロッパ系の学者は、ここにくると、突然、沈黙してしまう。のちにのべるように、ナイル河の水系は、古代エジプト人によって非常によく利用されていたし、くわしく知られてもいた。ところが、従来のエジプト史学者は、いろいろな理由で、古代エジプト人が、ナイル河の上流地帯と交流をしなかったと主張してきた。この奇妙な前提が立てられているために、むこう側のオーケアノスは、これまで、単なる神話的空想として片づけられてきた。
しかし、ナイル河の水源湖は、大海原としか考えられないような巨大な湖だ。古代人はこの事実を知っていた。だから、ナイル河は、むこうの大洋からこちらの大洋に流れてくると説明した。これはまことに自然の成行で、空想でもなんでもない。当時には、これ以外の説明方法がなかった。ギリシャの神々は、何度も、むこうのオーケアノスにいく。つまり、ギリシャ人は、ナイル河水源湖を、ひとつの聖所と考えていた。
つぎに、アイティオプス(エチオピア人)だが、この用語の使用法が、近代になって、まるっきり変ってしまったので、相当な混乱が生じている。また、わざと混乱させているとしか思えない場合さえある。古代のエチオピア人は、むしろ、現在のエチオピア帝国とは、全く関係がない。
たとえば、2世紀のギリシャ人で、天文学者として名高いプトレマイオスは、現存のものでは世界最古の以下に一部を紹介する世界地図(原本では190頁に世界全体の地図掲載)をつくった。
[プトレマイオス地図:(その1)アフリカの内陸(ETHIOPIAINTERIOR)]
[プトレマイオス地図:(その2)ナイル河口から水源湖までの流域]
その上の方の地図でエチオピアと書かれているのは、まさにアフリカ大陸の中心部である。このプトレマイオスの地図は、いわゆる地理的発見の時代まで、ヨーロッパ諸国では、世界の地理に関する堆一の知識源だった。だから、つい最近までのヨーロッパ人は、アフリカの南方の黒色の住民を、エチオピアンとか、ブラッカムーア(黒いムーア人。ムーア人とは、イベリア半島を征服したサラセン帝国の住民)とよんでいた。ニグロというよび名は、ポルトガルの奴隷商人たちが使いはじめたものにすぎない。
では、なぜ現在のエチオピアが、この国名を採用したかというと、これにも、アフリカの歴史を考える上で、またその研究史の誤りを指摘する上で、象徴的な事実がかくされている。
現在のエチオピアは、つい最近まで、アビシニアとよばれてきた(以下、混乱をさけるために、アビシニアとよぶ)。ところが、アビシニアには、さきにも紹介したように、キリスト単性説という教派が生き残っていた。ローマ帝国期には、この教派は異端として、ローマ法王から破門され、迫害されたのだが、中世期のヨーロッパでは、別の評価が生れてきた。
中世には回教圏がひろがり、キリスト教圏はせまくなった。そこで、いつかきっと、エチオピアのキリスト教徒の王が、回教徒をうちやぶって、ヨーロッパを救ってくれるという伝説がうまれた。エチオピア人は、のちにも紹介するが、ギリシャ神話にも、聖書にも、何度もでてくるし、大変に強い人々だと考えられていた。つまり、ヨーロッパ人は、エチオピア人を尊敬していた。
ところが、奴隷貿易がはじまって、ニグロというよび名が使われだし、また、アビシニアにしかキリスト教徒がいなかったことがわかると、今度は、アビシニアだけがエチオピアとよばれるようになってしまった。尊敬すべきエチオピア人を、奴隷にするわけにもいかなかったのであろう。そして、ローマ法王は、異教徒なら奴隷にしてもよいという教書をだした。 
第5章-8 王国の戦士たち

 

さて、歴史的背景の説明が長くなってしまったが、ホメーロスの章句にたちもどってみよう。
ヨーロッパの学者は、しかし、エチオピア人を、アフリカ大陸と切りはなすことはできなかった。そして、たとえばギリシャ・英語辞典では、エチオピア人、ニグロ、本来は、日に焼けた顔、と説明している。つまり、黒色人であることを認めている。
だが、これで満足してよいかというと、まだ納得できない点もある。というのは、アイティオプスが「日に焼けた顔」だという説明は、まず間違いなしに、後世になって行なわれている。たしかに、アテネの標準語を中心に作成された古代ギリシャ語辞典では、アイティは、焼けるような暑さ、火、となっており、オプスは、顔となっている。
ところが、古い言葉の意味を、日常用語で解釈しようとするのは、どの民族にも共通した現象である。ギリシャ人はとくに、意味のわからなくなった単語の語源を、こじつけるのが好きだった。また彼らは、口伝えに、エチオピア人の伝説を語ってきたのだから、正確な発音が守られていたものかどうかは、保証のかぎりではない。彼らは、しかし、エチオピア人が黒色人であることは知っていた。だから、類似の発音をもつ単語によって、その意味を説明したのであろう。
わたしにも、絶対にこうだといえる確証はない。しかし、はたして古代人が、肌色によって、ある民族をよんだものかどうか、とくに、尊敬する人々を、「日焼けした顔」とよんだものかどうかと考えてみると、納得がいかなくなる。材料として提供できるのは、古代ギリシャ語のつぎのような単語である。
まず、アイティについて、アイエートスがあり、これはワシを意味する。アイティアは、起源を意味する。しかし、一番適切なのは、アイデースである。これは、地上の世界の王、の意味である。ルワンダのワッシ民族は、彼らの始祖キグワが地上に追放され、農耕を発明し、それを諸民族に教えることによって、王となった、という神話を語りつたえていた。尊敬すべきエチオピア人の語源として、これが第一候補である。
オプスとなると、語尾の発音はもっとも変化しやすいので、容易にきめられるものではないだろう。だからわたしは、自分の考え方にもとづいて、当てはまる単語をさがした。まず、オプスは、きりちぢめられた発音だと想定する。その際、アイティオプスの不規則な複数形に、アイティオピエーアスがあることを、手掛りにしてもいいだろう。つまり、オピエーアスに近いものを、さがすわけである。
そうしてみたら、これまたぴったりの単語があった。アテネの最古の2部族のひとつに、オプレーテースというのがあった。また、オプリテースというのがあって、重装歩兵の意味である。この2つの単語は、明らかに関係がある。オプレーテースは、戦士の氏族だったのだろう。
つまり、わたしの考えでは、地上の世界の王の戦士、これが、エチオピア人の意味として、第一候補である。わたしが到達したバントゥの国、つまり、力ある人々の国の本拠地を守る民族にあたえられる名称としては、これが最適である。ギリシャ人が、なぜ原義を忘れたかという問いに対しては、「去るものは日々にうとし」、という格言でこたえるほかはない。
このほかに、『オデュッセウス』の中にも、エチオピア人についてのさらにくわしい叙述がある。またギリシャには、ほかにもたくさんの叙事詩があって、その中には、『アイティオプス』(5巻)もあり、エチオピアの王、メムノーンが、トロイエー軍の応援にかけつける話になっている。しかも、その構成が『イーリアス』と似ている。そのため、『イーリアス』そのものが、『アイティオプス』の一部を発展させたものではないかという説さえある。つまり、もともとは、『地上の世界の王の戦士たちの物語』といったようなものがあって、その一部がギリシャ人によって語りつがれ、潤色されてきたとも考えられる。
ヘロドトスも、このエチオピア人に、非常な関心をよせており、随所にその話がでてくる。それはまた、新しい裏付けの材料を出したところで紹介するとして、古代エジプト人も、ナイル河上流地帯を神聖視していたことを、デヴィドソンに証言してもらうことにしたい。
デヴィドソンは、つぎのように書いている。文中、「西」となっている点については、のちにわたしの解釈を示す。基本的には南である。
「偉大な先祖たちの霊の住む『神の国」は、王朝エジプトにおいては、東でも北でもなく、はるか南と西の方にあった」
ここでふたたび、南方へ戻ることにしたいが、その前に、『イーリアス』の章句を、わたしの解釈にもとづいて、訳しなおしてみたい。
「ゼウスは今日、すべての神々をしたがえて、地上の世界の王の戦士がささげるいけにえを召し上っておられる。聖なる地上の世界の王の戦士たちを訪れるために、ゼウスは昨日、ナイルのみなもとにおもむいたのだ」
では、ナイルのみなもとには、どんな古代史が展開されていたのだろうか。また、古代エジプト人が、「神の国」とよんだところは、どこなのだろうか。 
第6章 バントゥの王国

 

第6章-1 古代エジプト神話  
エジプトには、活火山はない。となりのスーダンにもない。ところが、古代エジプト人は、火山とか、温泉とか、火山地帯でしか見ることのできないものを、知っていた。
それだけではない。雷雨とか、大瀑布の記憶さえもっていた。これはどういうことだろうか。
エジプト神話の研究者、村上光彦は、古代エジプト人の祖先について、「アフリカの奥地に起源を求める説が有力になってきました」とし、ピラミッド文書や、死者の書のなかから、具体例を紹介している。これらのヒエログリフの文献は、ファラオのための、死後の世界、つまり先祖の霊が住んでいる国への案内書として、ピラミッド内におさめられていたものである。
この案内書の中には、中央アフリカ以南でなければ、経験できないものが、沢山含まれていた。
稲妻と雷鳴、雷雨――「天はとけて水となり、星はたたかいをかわし、射手がせめてくる」、「天は語り、地はふるえる」
火山――「ほのおの湖」
温泉――「やけどするほどの熱湯」
大瀑布――「大いなる捧げもののはてしない落下」、「とどろきによって生ずるおそれ」、「そのなかにいる神は、その名を『捧げものの落下の深み』といって、人がそこに近づかないように守護している」
とくにこの大瀑布について、村上光彦は、「中央アフリカのザンベジの滝のことではないでしょうか」、と書いている。
この滝には、イギリス人が、ヴィクトリア滝、という名前を勝手につけているが、現地名は、モシ・オア・ツンヤといい、雷鳴する煙の意だという。「1855年11月16日に探検家リビングストン博士が発見したときにも、滝のそばの小屋で住民たちが神への祈りを声高く朗誦していた」、というから、古くからの神格化が考えられる。
モシ・オア・ツンヤは、横幅約1500メートル、落差は120メートル前後であるが、滝壷が普通の形とちがい、地面の割れ目になっている。しかも、その割れ目の巾が、落差よりも狭く、50〜75メートルであるため、落流はぶつかりあい、水煙が天高く立ちのぼり、轟音を発する。水量の多い時期には、あたり一面に豪雨を降らせるようになる。
わたしは、古代の農耕民が、この滝に、雨雲の神が住むと考え、雨乞いの祈りをささげたのだと考えたい。そして、この信仰が、相当広い範囲に広がっていたのではないか、と想像している。
古代エジプト神学の起源が南方にあるという、もうひとつの論拠には、タカ神ホルスのトーテム信仰があげられる。ザンベジ河の近くにある、大ジンバヴウェの遺跡からは、「タカまたはハゲタカの様式化」された石像が、何体か発見されている。そして、デヴィドソンは、「南バントゥー語族の多くの種族が、雷光を巨鳥とみなし、雷光をあざむき他にそらすため、巨鳥の像を建てたことが示された」、と説明している。
ただし、巨鳥、またはタカ神の崇拝が、「雷光をあざむく」という目的ではじめられた、という説明には、若干疑問がある。わたしは、この信仰もトーテム神崇拝なのではなかろうか、と考えている。というのは、タカをあやつる狩猟民が、戦士貴族になる例は多いのだ。
この推測にもとづいて、タンザニア大使館の友人、ルヤガザにきいてみたところ、やはり、タンガニーカ湖の周辺にも、日本のタカ匠と同じやり方で狩猟をする人々が昔からいた。そして戦士貴族はタカをあやつり、タカの翼をカブトの飾りにしていた。この点は、日本でも、タカツカサ、などという貴族がいたのと、全く同様である。古代エジプトの、最初の戦争指導者も、やはり、タカ匠の一族だったのではないだろうか。
だが、肝心のエジプト史学者のほとんどは、古代エジプト人とナイルのみなもとの人々とは、まるで交流がなかったかのように主張している。この先入観をも、うちやぶっておこう。 
第6章-2 母なるナイル

 

まずは、地図を見ながら、ナイル河をさかのぼっていただきたい。
エジプト史学者のほとんどは、ナイル河中域、アスワンからハルツームまでの、6つの急流を、「瀑布」(カタラクト)として描きだした。そしてこの急流が、文化交流の非常なさまたげになったかのように、主張してきた。
しかし、大型で、吃水の深い遠洋航海船ならいざしらず、古代の葦舟をあやつる人びとにとって、岩場の急流は、何らの障害でもなかった。日光の鬼怒川下りの平底船の、軽快な航行に似たものであろう。難所では、岸に上がって、葦舟を肩にかつげばよい。
さらに、近代ヨーロッパの探検家たちは、冒険談の潤色によって、スーダン南部の湿原地帯を、ひとつの恐るべき魔境に仕立てあげた。これは日本の関東地方の総面積の二倍にも達する、広大な沼沢地だが、千葉県の水郷を、大きくしたようなものといえる。サッドという名でよばれているが、これもアラビア語で、単に浮草の意味でしかない。熱帯性の昆虫類や、ワニなどがいるのはたしかだが、土着のアフリカ人にとっては、決して、危険地帯ではなった。
実際にも、ヨーロッパの探検隊や侵入者が一番恐れたのは、「異教徒」の襲撃であった。そして、他ならぬ異教徒のアフリカ人は、この湿原に散在する島々を根拠地とし、牧畜・漁撈・農耕を営み、いくつかの王国を形成していた。浮草の間を自由自在に走りまわる葦舟は、古代の王国にとって、水の都ヴェネチアにおける、ゴンドラのごとき交通機関であったろう。
これらの王国の兵士たちが、近代の奴隷狩り商人や、デヴィッドソンの表現を借りれば、「すべて植民地侵略のつゆばらいであったヨーロッパ探検家」の侵入に対抗したのは、当然の行為であった。デヴィッドソンは、「1884年以前に東部および中部アフリカに入っていた約300名の宣教師のうち、アフリカ人に殺されたのがわかっているのは6名だけであり、この6名も勝手気ままに殺されたのではなかったようである。……生命への大きな危険のように見えたものは、ほとんどつねに途方もない誇張であった」、と書いている。そして、その当時のヨーロッパ諸国での旅行よりも、内陸アフリカでの旅の方が、はるかに安全だったとさえ断言している。
古代ローマの遠征軍が、このサッドにさえぎられて、引きかえしたことを、文化交流の障害の論拠とする学者もいる。しかし、古代ローマ軍得意のファランクス(重装密集歩兵槍隊)戦法や、ガリー船を漕ぎよせる海戦方式が、この地帯では全く通用しなくなることも、考えにいれなくてはなるまい。果てしなくひろがるサッドの存在は、遠征隊の指揮官にとって、都に引き返すための、絶好の口実になったであろう。彼らより5世紀も前の、ペルシャの遠征軍は、この手前の沙漠地帯で、糧食がつきて、撤退している。それよりは前進した、という理由で満足したのかもしれない。
さらに、サッドを越えて上流に向かうと、若干の急流はあるが、小舟艇の航行にはさしつかえない、アルバート湖から、本流のヴィクトリア・ナイルへ向えば、たしかに、マーチンソン滝がある。これがはじめての、本当の滝である。だが、ナイルのみなもとは、もうひとつある。アルバート湖から、ザイール(コンゴ)領内を通って、エドワード湖に通ずるセムリキ川の流れは、非常にゆるやかである。
セキリム川について、地理学者の小堀巌は、つぎのように描写している。
「この川は240キロメートルにわたってコンゴを通り、ゆるい水流となり、コンゴ、ウガンダの自然の国境となって東方向にすすみ、最期にはアルバート湖にはいる。水流は短いが、セキリム川の流域はたいへん色彩にとんでおり、アフリカにすんでいるすべての草原性の獣類――象、サイ、ライオン、カバ、カモシカなど――がすんでおり、また沼沢性の川岸にはほとんどすべての種類の水鳥がたわむれている。」
セキリム川の水源に当るエドワード湖は、魚類に富み、漁業はいまも、ウガンダ西部の重要産業にひとつである。湖のまわりには、間歇泉、火口湖群があり、観光・保養地ともなっている。
さて、セキリム川の東側には、月の山として古代から知られた、ルヴェンゾリ山がある。この山塊は、「地上で最も湿っぽい場所の一つで、年間360日は雨が降り、降雨量は5000ミリメートルに達する」。
ところが、今では頂上に雪をいただいた、この神秘な山塊が、かつては活火山で、紀元前6000年頃に、大爆発を起し、巨大なセキリム湖を埋めたてて、細い川にしてしまった、という意外な事実が明らかになった。しかも、その溶岩と火山灰の下には、何万年、何十万年となくつづいてきた、人類文化・文明の歴史が、ひっそりと埋れていた。
もちろん、イタリア半島のヴェスヴィウス火山の爆発によって埋められた、ポンペイー市のような状景が現われるはずはない。時代も違うし、とくに、風土が違う。アフリカでは、沙漠的気候(エジプトも含む)のところをのぞけば、土壁の木造の建物の方が、住む人の健康にも良い。つまり雨季には湿度があがる。この点は、梅雨季のある日本と同じだ。日本の建物が、しっくいぬりの壁、つまり土壁と、木や紙でつくられてきたのには、それなりの理由がある。
このへんの事情が、ヨーロッパ系の学者には、よく分らないらしく、アフリカで石造建築が発見されると大騒ぎするが、土造りの村落は軽視している。しかし、初期の人類文明は、うたがいもなく、最も気候のいい、アフリカ大陸の高原地帯に花咲いたのである。
では、ルヴェンゾリの火山灰の下からは、どんなものがでてきたのだろうか。それは、どういう歴史を物語っているのだろうか。 
第6章-3 ルヴェンゾリ大爆発

 

ルヴェンゾリ山の大爆発で、溶岩流と火山灰におおわれた広大な地帯の、一番南のはずれから、新石器文化の特徴を明確に示す遺跡が発掘され、イシャンゴ文明と名付けられた。
火山灰が、熱帯アフリカ特有の、土壌の分解、地層の崩壊をふせいでいた。そのため、先史文化のすべての段階が、各地層にわかれて発見された。カーボンテストも成功し、イシャゴの新石器文明は、紀元前6000年と年代づけられた。
これだけでも、すでに、アフリカの新石器文化に関する、従来のすべての学説は、完全に破綻する。イギリス人の考古学者、ホィーラーなどは、すべての文明の起源をオリエントに求め、アフリカ内陸に新石器文化が到着したのは、紀元前3000年頃だ、と書いていた。差引き、3000年もの、ぼう大な誤差がでてきたわけである。
イシャンゴ文明の出土品は、石臼、粉砕用石器(食料をくだく)、装飾用具などの磨製石器であった。また、早くから骨製の、一段または二段の逆アゴつきの銛、ピンなどが使用されており、場所もアルバート湖畔であるところから、漁民の文化と認められている。しかし、石臼、粉砕用石器は、植物性食料のためのものである。それゆえ、農耕をしていなかったとはいえない。おそらく、男たちは漁撈、女たちは農耕、という社会だったのではないだろうか。
ルヴェンゾリのふもとには、まだまだ秘密がかくされているにちがいない。しかし、イシャンゴ文明の発見は、ヴィクトリア湖をはさんで、丁度対岸にある、ナクル文明と結びつけられた。ナクルは、ケニア高原の「白人高地(ホワイト・ハイランド)」とよばれる、肥沃な農業地帯の、一都市のよび名である。
ナクル文明は、これまで、年代の決定ができなかったようだが、イシャンゴ文明の発見によって、それと同時代だと考えられるようになった。この意義もまた、高く評価されなければならないだろう。
ナクル文明もやはり、明確な新石器文化の要素をもっており、コルヌヴァンの表現によれば、「石のうつわ、乳鉢、とりわけ豊富な土器」を出土した。狩猟用具もあったらしく、コルヌヴァンは、「狩猟・採集民の文化」とよんでいる。しかし、わたしはそうは思わない。新石器の特徴はやはり、農耕文化以後に出現したものであろう。狩猟動物が沢山いるところでは、どんな文化段階になろうと、男たちは狩猟をやめるものではない。
しかも、このナクル文明をきずいた人々は、遺骨を残していた。これがまた、大変に興味深い。調査したのは、ケニアに住みついている、有名なイギリス人の考古学者、リーキーだが、彼は、いくつかの頭骨の、原型を回復することに成功した。ナクル人の大部分は、背が高く、長頭で、狭い顔立ちであった。ところが、一部の人々は、背が低く、短頭で、巾の広い顔立ちであり、現存の狩猟民であるサン民族(ブッシュマン)に似ていた。
つまり、同一地点に、同時代に、全くちがう人種的特徴をもつ人々が、一緒に暮していたことになる。わたしは、この事実を、農耕牧畜民と、狩猟民との協力関係があったことの証明、と解釈する。では、ナクル文明とイシャンゴ文明は、その後、どういう発展をみせたのだろうか。それを考えるために、ナイルのみなもとから、はるか南方にかけて、沢山の遺跡があることを、つづけて紹介したい。
そこには、古城もあれば、道路もあり、水道もある。巨大な王墓もある。それらはいつごろつくられたものだろうか。また、だれがつくったものだろうか。 
第6章-4 中世の古城

 

大ジンバブウェとして知られる、ローデシアの古城は、最も有名である。そして、ナイルのみなもとより南方の遺跡としては、年代が確定した唯一のものだ。ジンバブウェとは、土地の言葉で、石の家の意である。そして、ローデシアからザンビア、ボツワナにかけてはジンバブウェとよばれる遺跡が、なんと、300から400ヶ所もある。そして、その中の最大のものだけが、大ジンバブウェとして紹介され、観光ルートにはいっている。
大ジンバブウェの構成は、相当に複雑だ。まず、120メートルの高さの、花崗岩の岩山があって、その上に城郭があり、中には、ヤグラがある。山の下の平地には、楕円型の城壁がめぐらされている。そして、山上の城郭と、平地の城壁との間には、複雑にいりくんだ石壁がつながっていて、沢山の石造家屋のあとがある。
この古城は、かつてモノモタパ帝国の名で知られた広大な帝国の、首都のひとつだった。この帝国には、ローマ帝国から神聖ローマ帝国へのうつりかわりにも似た、何度かの、主導権の移行がみられるが、その点は省略する。ともかく、この古城に首都がおかれていたころ、アラブ人やポルトガル人が訪れた際の、記録ものこっている。
アラブ人やポルトガル人が訪れた、ということは、つまり、中世または近世の話である。紀元前6000年ごろのルヴェンゾリ大爆発から、いきなり、中世に話がとんで恐縮だが、この大ジンバブウェに関する、ヨーロッパ系の学者の姿勢を知っておいてもらうと、ほかの古代遺跡の紹介がしやすいのである。
大ジンバブウェは、長らく廃墟と化していた。そして、1868年に、アメリカ人の狩猟家の眼にとまった。そのころのアメリカ人やイギリス人は、アラブ人やポルトガル人が書きのこした記録の存在を、全く知らなかった。だから、この古城の主たちが、黒色のアフリカ人だったとは露知らず、研究をしはじめた。
すでに、フェニキア人とタルシシの船隊の話はしたが、旧約聖書はさらに、豊かな金の産地、オフィールの名を記していた。最近になって、フェニキア文字で、「オフィルの金」と刻みこまれた大きな瓶も発見されているし、実在した国か都市などのよび名にちがいない。
19世紀には、アメリカでも、ゴールド・ラッシュが起きており、謎の金産国オフィールに対する関心は高かった。だから、大ジンバブウェの発見は、すぐに、古代のオフィールにむすびつけられた。1891年には、イギリス軍がローデシアに攻め入り、大ジンバブウェの周辺を占領した。そして、指揮官は、つぎのような電報を、本国に送った。
「いまやイギリス人は、オフィールの国に到着し、古代の宝庫をふたたび開かんとしている。われわれは、かつてソロモン王が象牙の玉座を渡金し、神殿の杉の柱を飾った黄金に、ヴィクトリア女王の姿を刻むことになるであろう」
簡単にいうと、女王の浮き彫り入りの金貨を、沢山つくれるようになる、という報告をしたわけだ。まことに現金なエピソードである。しかし、この電文は、おそるべき悲劇のプロローグ(序曲)となった。ローデシアのアフリカ人の諸王国は、完膚なきまでに破壊された。ゴールド・ラッシュが起こり、遺跡はうちくだかれ、考古学的な価値のある遺品も、あらかた鋳つぶされてしまった。
そこへ登場した学者は、研究に先立って、アフリカ人に巨大な石造建築がつくれるはずはない、という奇怪な前提条件をきめた。そして、シーニーの表現を借りると、「さまざまな新奇な説」を提唱した。ソロモンを訪れたことで有名なシバの女王と関係づける学者もいた。サバ人、ヘブライ人、フェニキア人、アラビア人、インド人、アジア人、あらゆる外来起源説が、つぎからつぎへと出現した。木村重信は、つい最近になっても、アメリカ人のジョン・ガンサーが『アフリカの内幕』で、アラビア人による大ジンバブウェ建造を主張しているとして、きびしく批判している。
しかし、1905年に、最初の科学的調査を行なった学者は、すでに、外来起源を否定し、「バンツー起源で中世のもの」、と断定した。以後、数十年も論争、再調査がつづいた結果、真相はほぼ判明した。ショナ、ロズウィなどのバンツゥ系の民族が、同じ石造建築の技術をつたえていることも確かめられた。年代決定については、デヴィドゾンがこう書いている。
「1952年(?原資料確認中)にシカゴで、1944年にふたたびロンドンで行なわれたカーボンテストは、『楕円型建物』の下部から出土した排水用の木材の二つの破片について行なわれ、その結果、年代は西紀591年(プラスまたはマイナス120年)と西紀702年(プラスまたはマイナス92年)の間ということになった。
この年代は、高松塚の装飾壁画古墳のそれよりも、少し古い。日本では、「古代史再発見」ということになっている。しかし、アフリカでは、この年代は中世である。
ところが、これでもまだ論争はおさまらない。アフリカ人による建造が確定すると、今度は、年代の引き下げに熱中する、ヨーロッパ系の学者が出現した。たとえば、木村重信は、つぎのように書いている。
「学者たちのあいだでは、問題の木材がタンブーティという、ひじょうに寿命の長い木であることから、伐り倒されてから相当の期間を経たのちに加工されたか、あるいは今は消滅した、もっと古い建築に用いられた古材が、のちに排水溝のために再使用されたのではないか、との意見が強い」。
たしかに、部分部分で、何度かの修復、増築の歴史はあるらしい。しかし、話がやたらと細かくなるし、こういう、年代引下げの主張は無視しておく。むしろ、古材の再使用説については、逆の証拠がある。つまり、大ジンバブウェの石造建築以前に、木造の建物があり、それが焼失したのではないか、とも考えられる。というのは、デヴィドソンによれば、石造建造物の下に、「『死の層』」とよばれるものがあり、これは未解決のまま」、である。まさか、焼け跡の灰の中から、「寿命の長い木」を拾いだした、と主張するわけでもあるまい。
本当の問題は、もっと大きなところにある。というのは、まず、ジンバブウェは、大小とりまぜて、300から400ヶ所もある。最初の建造は、小さな城郭からはじまった、と考える方が自然であろう。つぎに、アフリカ内陸の気候を考えに入れると、石造の城というのは、戦争のような、物理的破壊を防ぐためのもので、はるか古代には、土造の方が一般的だったにちがいない。
また、石造技術そのものも、のちに紹介するような、ダムや水道の建造にはじまっているのではないだろうか。多くの学者は、大ジンバブウェの石造部分の年代がきまり、しかも、アフリカ人がつくったことがわかってしまうと、突然、それ以前の歴史を考えるのを、中止したかのようである。
だが、わたしは、大ジンバブウェの背景には、壮大な古代史がかくされていると考える。それは、以下に紹介するような、謎の古代遺跡が物語っているのではないだろうか。 
第6章-5 巨大な土塁

 

デヴィドソンは、ウガンダ西部、すなわちイシャンゴ文明の故地に近接する地点で発見された、「土塁の巨大なシステム」に注目し、この遺跡を、「アフリカ最大で、世界でも最大に属するもの」と表現している。
彼は、この土塁の重要性を強調するに当って、それが「楕円型」をなしている点を指摘する。すなわち、ローデシアの大ジンバブウェの城壁と似ている、というのである。そして、「ローデシアと同じく、ここも広範囲な採鉱と、溶鉱の地域であった」といっている。
しかし、この遺跡に金属文化の証拠があることは、必ずしも、この土塁の建設開始の年代を、金属文化開幕以後である、と決定する材料にはならない。
たとえばモートンは、イベリア人が残した巨石文化遺跡について、「現在の土塁は、かなりあとの、主に鉄器時代に起源をもつものであるが、しばしば新石器時代の下層をもっている」、という事実を指摘している。沙漠化などの特殊な事情がない限り、多くの文明中心地では、人びとは遺跡の真上で生活を続けてきた。だから、そこに何層もの歴史がかくされているのは、まことに当然至極のことである。
またもし、このウガンダの土塁が、鉄器文化以後のものだとしても、今度は、鉄器文化の起源についての考え方が問題になってくる。ただひとついえることは、このウガンダ西部という地点は、ルヴェンゾリの大爆発の灰、もしくは溶岩流をかぶった範囲にはいっている。それゆえ、地上にある土塁は、紀元前6000年以後のものであることは、確かであろう。
土塁の築かれた目的は、この周辺の牧畜民の生活から考えると、家畜を中にいれる、大きな屋敷の方式を、発展させたものと思われる。城砦都市の遺跡といってよいだろう。しかし家屋は土壁だったと考えられる。そして事実、地表からは、全く姿を消している。正式の発掘をすれば、もっとよくわかるようになるだろうが、まだ、そういう報告はないようだ。
牧畜との関係については、シーニーが、土塁の中から、「家畜の頸にさして地をぬきとるのに用いられた特殊なヤジリ」が発見されたと書いている。マサイ民族などが使っているのと、同じ種類のものだろう。わたしは、宗教的な儀式に使われたのではなかろうか、と考えている。
では、どんな人々が住んでいたのだろうか。伝説は残っていないのだろうか。
ウガンダ人は、この土塁、または城塞都市をきづいたのは、巨人たちだといっている。他の国の場合とちがって、ウガンダから、となりのルワンダ・ブルンジその他には、いまも二メートル以上の巨人が何十万人もいるのだから、この伝説には、リアリティーがでてくる。
さて、このウガンダの遺跡は、かつてのイシャンゴ文明と、ほぼ同じところにあった。ところが、イシャンゴ文明と対応するナクル文明の周辺にも、古代遺跡が、さらに大規模な分布をみせている。 
第6章-6 灌漑農場

 

アフリカの農業といえば、すぐ焼畑耕作と一口に片づける学者もいるが、これがまた、大変なまちがいである。
デヴィドソンは、現在、ケニア白人高地とよばれている地帯に、大規模な灌漑農業が行なわれていた事実を、つぎのように指摘している。
「ハンティンフォーフォによれば、ケニアで廃墟がもっとも数多く、もっとも開発されているのは、まさに現在ヨーロッパ人入植者が居住している高地地方である。この……目のさめるような緑地帯には、さまざまなタイプの石造の居住地に、かつて明らかに多数の人口が住んでいた。……石造の囲壁、住居群、石塚、直線の土塁、灌漑工事……道路、溝、……湿地帯……築堤の上を通る道路……運河、階段状構築……鉱山や鍛冶屋の作業場、石塚や岸壁画など……」
しかも、この遺跡は孤立したものではない、同じケニア高原地帯を少し南に進むと、またも、巨大な廃墟の都市がある。
「ケニアとタンガニカの国境地帯に……『大きな廃墟の都市』のあることが、1935年タンガニカの地方官吏によって報告された。……リーキー博士……はつぎのように書いた。『……斜面の主要な都市には約6300戸があり、谷間には約500戸の家がある……』。人口は『おそらく3万ないし4万と推定され、この数字でも低すぎるのではないかと思う。』」
デヴィドソンは、この失われた都市の住民数との比較として、「中世のフィレンツェは人口約6万」、という例をあげている。この数字比較はいいとしても、やはり、中世期の遺跡だと断定する根拠は何もない。事実彼は、同時に、「この地域では、完全な考古学的調査らしいものはまだ一度も行なわれていない」、と指摘している。この失われた都市は、エンガルカとよばれており、よく引き合いに出されている。しかし、何の調査もなしに、中世期に位置づけている本があるので、一言、その取扱いに反対の意思表示をしておく。
わたしは、むしろ、このあたりにこそ、旧約聖書のタルシシのみならず、古代エジプトへのミラルの供給地として、想定されてしかるべきだと思う。それは、つぎの古代道路網の存在によっても、証明されるものではないだろうか。 
第6章-7 道路網

 

ケニア高原から、ザンビアまで、そして、海岸地帯をも結ぶ、大規模な道路のシステムがたあったらしい。これまた、その後の調査報告はない。しかし、この調査をぬきにしては、アフリカ大陸の歴史を、本当に語ることはできないだろう。
デヴィドソンは、3人の学者の報告をもとにして、アフリカ大陸の内部を縦横に結ぶ、巨大な道路システムがあった可能性を指摘している。その要点をぬきだすと、つぎのようなものである。
「多くの道路が存在……勾配がゆるくされており、『通常は幅10ないし12フィート((3〜4メートル))で』、その一方、『丘の中腹の層はむきだしで、道具でならしてあった。』……これらの……道路の最長のものは、……ニサヤ湖の水源地帯から今日の北ローデシア((ザンビア))のアバーコン((タンガニーカ湖の南端))に向って、ケニヤの『白人高地』にあるアルシャやナイロビに達していたようである。……昔の道路(あるいはそう見えるもの)の短い断片は、……イリンガ((タンザニアの中心点))とニアサ湖水源地との間にも報告されており、これらの断片のひとつは幅約9フィート((3メートル))、『それを平坦にするため土を盛りあげたらしく、外側にそって小石の列がある』。
……『これらの道路がつきとめられたところから、大湖地方の東側で北から南へ走る交通システムがあったと推察されるが、海岸地方との交通も存在していたものとみられる』」
ザンビアのアバーコンと、ケニア白人高地のナイロビとの間の、直線距離は、約1200キロになる。日本列島でこの距離を求めてみると、なんと、函館・鹿児島間の長苦戦距離に相当する。
これは、やはり、大事業にちがいない。しかし、モートンは、ブリテン諸島の巨石文化遺跡について、「なん千人もの人びとが、大きな土塁を盛り上げるのに共同で労働をおこなったにちがいない」、と書いていた。ブリテン諸島のような辺境で、紀元前三千年頃にできた仕事が、もっと人口の多いアフリカ大陸で、不可能なはずはない。
その後の調査が行なわれていない理由は、1930年代からの独立戦争、第二次世界大戦にある。残念だが、今のところ仕方がない。
しかし、これらの道路と結びつけうる、エジプトの古記録がある。すでに紹介した、ハルクーフの墓碑銘である。
このハルクーフの碑銘には、道路という単語が、3回でてくる。そのうちの一つは、もっとも遠い所にあるもので、「高原地帯の道路」となっている。つまり、ハルクーフがこの地帯にきた、と断定できれば、道路システムの存在は、紀元前2300年まで、さかのぼって考えることができる。
さて、この道路システムを、さらに南方へたどると、またもや、大規模な灌漑農業の遺跡が出現する。 
第6章-8 ダムと水道

 

モザンビークの西部国境地帯に、ダムや水道が石で造られていたと聞けば、やはり、おどろかずにはいられない。
これもまた、年代などはまったくわからない。しかしわたしはすでに、大ジンバブウェのところでのべたように、こういう農耕に必要な、つまり、生活していく上で最も肝心なところから、石造技術が発達したにちがいないと考えている。
デヴィドソンは、こう書いている。
『階段式耕作は北部アフリカ独特のもののように思われていたが……消え失せた諸種族がリンポポ河((モザンビークと南アフリカの国境地帯))に至るまで、ケニヤ、タンガニイカ、ローデシア、モザンビックで広範囲にこれを行なっていたことが、現在では知られている』
これらの集約農業の遺跡のうちで、現在までに発見された、最大のものは、モザンビークの西部国境地帯にある。
このリンポポ河流域の農業遺跡は、ニーケルク、イニヤンガという地名で知られている。デヴィドソンの記述からぬきだしてみると、そこには、つぎのような大水道網、ダムの石造遺跡がある。
「階段状構築……石造のダム、水道が非常に多く、しばしば数マイル……勾配は見事に計算されており、その技倆は精巧な機具をもつ現代の土木技師でも、必ずしも太刀打ちできるとはかぎらぬほどである。……深さは約1メートルの単なる溝……ダムはモルタルなしで自然の石を材料にうまく丈夫につくられている」
水道は、リンポポ河の水を、耕作地に配るシステムをなしていたらしい。「数マイル」とあるのを、かりに5マイルと考えれば、それは8キロになる。日本で例をとれば、中央線の東京・東大久保間の直線距離に相当する。これが、「しばしば」ともなれば、山手線のひとまわりが加わるかもしれない。
要所には、「重さ1トンにも達する丸石」が使ってあり、どうやって動かしたのかも分からない。実物をみた学者は、ニーケルクのダムと水道網の建設について、「ここではピラミッドの建設におとらぬ労働力が費やされた。あるいはそれ以上かもしれない」といっている。
この巨大な農業遺跡についても、これ以上の情報はない。現在、ポルトガル領植民地モザンビークでは、南ヴェトナムと全く同様な、激しいたたかいが進行中である。解放戦線側の村民を、皆殺しにするような大事件が、やっと伝わってくるような状態では、当分は考古学的調査の可能性はないだろう。
それだけにわたしは、何の根拠もなしに、この遺跡の建造年代を押し下げたり、過少評価にみちびくような記述には、大いに疑問を提出しておきたいのである。
謎はまた、遺跡の年代だけにとどまらない。栽培植物の起源と伝播経路にもかかわってくる。デヴィドソンによれば、この農業遺跡から出土した、「炭化した穀物の示すところでは、彼らの作物はキビ、高粱、豆類」であった。中尾佐助の説明にしたがえば、このうち、キビとはトージンビエの誤認で、高粱とあるのは、ソルガム(モロコシ類)の誤認である。トージンビエもソルガム、豆類も、中尾佐助の説明によれば、西アフリカのサバンナ起源であった。そして、南部アフリカ一帯は、従来の学説によると、ヤムイモ文化圏のはずであった。
しかし、南部アフリカにも、広大なサバンナ高原がひろがっているし、また、いたのである。わたしは、このあたりの栽培植物も研究しなおすべきではないかと思う。階段式の灌漑耕作も、意外に、このあたりの高原地帯、湖水地帯に発しているのかもしれない。謎は深い。
さらに、リンポポ河のすぐ南、現在の南アフリカ共和国トランスヴァール州には、モザンビークの農業遺跡と結びつくかもしれない、興味深い遺跡があった。
マプングブウェとよばれるこの遺跡は、絶壁に囲まれた岩山の、平らな頂上部にあった。現地のアフリカ人は、この岩山を神聖なものとして、その名を語るときは、背を向けて、畏怖の念さえ示したという。頂上に登る道はたったひとつのトンネルで、そこは岩石で封じてあった。そのために、例のゴールド・ラッシュをまぬがれたのである。
マプングブウェの発掘結果は、ここが王家の墓所にちがいない、ということを示した。発見された23体の人骨のひとつは、約2キロもの金製細工品をともなっていた。全体の3分の1は、その足が、「渦巻きにした針金からなる100以上の飾り輪で巻かれていた。見事な細工の金メッキのいくつかも発見され、約1万2千個の飾り玉も発見された」
このような、山頂を利用する遺跡には、要塞らしきものもあるらしい。そして、山頂の要塞と住居の遺跡の分布は、階段状構築の農業遺跡の分布と、重なり合っている。
デヴィドソンはこう書いている。
「山頂の要塞と住居の存在も、同様に謎であり、至るところにみられる。それは南部ローデシアにもアンゴラにもあり、遠く南アフリカのバストランドにもある」
アンゴラも、モザンビークと同様に、ポルトガル領植民地のままであり、同じたたかいが進行中である。「しかも、アンゴラの考古学は、石器時代にせよ鉄器時代にせよ、ほとんど完全に未知のままで残っているのである」。
それでも、アンゴラに隣接する、現在のザイール(コンゴ)のシヤバ(カタンガ)州からは、相当に大きな王国、または帝国の存在を予想させるような、巨大な墓地の遺跡が発見されている。
中央アフリカ史の研究者、ヴァンシナ(ベルギーのブリュッセルから、フランス語の本を出している人物だが、ルワンダ人らしい)は、この遺跡をつぎのように描写している。
「中世あるいはおそらくさらに古く、一つの国家が、コンゴ川の水源にあたるキサレ湖の附近に存在してた。考古学者たちは、そこに、川岸に沿って幾マイルものびる墓地を発見している。死者は、彼らの容器や装飾品と共に埋葬されていた。これらの副葬品のうちには、帯や、針や、そしてすでにいわゆる『カタンガ十字』などの、銅や鉄の製品が含まれていた。『カタンガ十字』は、銅の十字で、長い間通貨として用いられていたものである」
この遺跡の年代も、全く不明である。しかし、このあたりは、金、銀、銅の鉱山遺跡が、数千あるいは数万にものぼるほど散在している。かつてはカタンガ州とよばれていたが、最近のザイール(コンゴ)では植民地時代の名称をすべて廃止した。そして、昔の地名であるシャバを復活し、シャバ州とよんでいる。シャバとは、ザイール大使館に問い合わせてみたところ、銅のことであった。
また、このシャバ州は、おそくとも16世紀以来、ルンダ帝国の中心地のひとつであった。そして、このルンダ帝国は、南はローデシアから、北は、ルワンダまでを領地としていた。ヴァンシナは、「幾マイル」、つまり、数キロにもわたる巨大な王墓をきづいた国家は、このルンダ帝国よりも、かなり前にあったものだと説明している。ともかく、相当に古いことはたしかだ。
では、この国家は、アフリカ大陸の外には、全く知られていなかったのであろうか。シャバという言葉は、いつごろからつかわれていたのであろうか。その名称に類した言葉を、古代人は、つたえていないだろうか。 
第6章-9 シバの女王

 

わたしは、ザイールのシャバこそが、旧約聖書に名をとどめたシバの女王の、本拠地であったと考える。
シバの女王は、ソロモンを訪ねた。彼女は富める国の女王であった。シバは、国名または地名であろう。そして、シバは、タルシシやオフィルと結びつけられていた。旧約聖書の章句もそうなっているし、オリエント史学者も、そう考えている。
旧約聖書は、つぎのように、シバの女王の国が、金や、香料、宝石の特産地であることを物語っている。
「シバの女王は主の名にかかわるソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようとたずねてきた。……そして彼女は金120タラントおよび多くの香料と宝石を王に贈った。シバの女王がソロモンに贈ったような多くの香料は再びこなかった」(『列王紀上』、10章)
シャバは、金、銀、銅の主要産出国であった。このシャバから、大ジンバブウェのあるローデシアをぬけ、モザンビーク海岸のソファラ港にむけて、古くからの通商ルートが開かれていた。地図を参照していただきたい。
ソファラはまた、古代の宝庫、オフィルにちがいない。中世のアラブ商人は、このソファラから、金、銀、銅、鉄、象牙を求め、インドや、地中海方面に売りさばき、巨利を博していた。アラブ人の通商ルートは、古代のフェニキア人のそれを受けついだものである。タルシシ、オフィル、シャバ(シバ)は、古くからの通商ルートであった。
では、このわたしの考えに対して、ヨーロッパ系のオリエント史学者は、どうこたえるだろうか。彼らは、シバの女王の国は、アラビア半島の一士候国だったのだろうか、と主張している。だが、アラブ人はあくまで、仲介貿易業者として栄えたのである。現代でも、スエズ運河は、東西貿易の要衝となっているが、この位置づけは、古代でも中世でも、全く同じだった。しかも、アラビア半島からは、金、銀、銅の大量の産出はみられない。その他の物的証拠も、全く提出されていない。
その上、オリエント史学者は一時期、わたしと基本的に同じ考えを、大々的に発表したことがある。彼らは、大ジンバブウェの発見に狂喜して、ただちにここはオフィルだ、シバの女王の国だ、と断定したのであった。つまり彼らは、金産国の位置づけ、古代・中世の通商ルートの位置づけなどにもとづいて、東アフリカや中央アフリカを、最大の候補地と考えていた。
なぜ、この考え方が撤回されたのだろうか。わたしには、この「現代の謎」を解くべき物的証拠はない。しかし、「心証」は明確である。それは、大ジンバブウェの建設者が、生粋のアフリカ人であり、黒色人である、という事実が明らかになったからにほかならない。あこがれのシバの女王が、黒色人では都合が悪い、と考えたからにほかならない。
だが、旧約聖書のどこにも、シバの女王の人種的特徴は、描かれてはいなかった。その逆に、ソロモンの時代に大活躍したフェニキア人は、カルタゴの神殿の石槨に、明確な黒色人の特徴を示す貴婦人を、女神そのもののように葬っていた。シバの女王も、黒色人であったと考えるべきであろう。この「心理的」障害さえ突破すれば、すべては解決する。
さて、ザイールでは、シャバを銅のよび名にしている。しかし、わたしは、シャバは本来、金属の総称だったのではなかろうかと思う。シャバ州は、銅を大量に産するので、この総称が銅のみを示すようになり、他の金属には別のよび名がつけられた、と考えられる。こういう事例は沢山ある。たとえば日本では、カネが総称で、コガネ、シロガネ、アカガネ、クロガネといった。そして、ただカネといえば、鉄を意味していたり、青銅の鐘を意味したり、金・銀・銅を意味したりする。
では、金属の総称としてのシャバは、ほかの国につたわらなかっただろうか。
わたしはまず、古代エジプト語のバ(鉄、金属)を思いだす。そして、シャバ、カバ、ケム・バ、つまり、化学(アルケミア)による金属、と解釈する。日本語のカネもこれと無縁ではないだろう。
つづいて、古代エジプトの第25クシュ(エチオピア)王朝のファラオに、シャバ、シャバタカ、がいたことも指摘したい。この王朝は、少なくとも、中央アフリカのウガンダまでを領土としていた。シャバ州そのものとの関係もあるかもしれないが、金属生産を国力の背景としていた、とも解釈できる。残念ながら、クシュ(エチオピア)帝国の本来の言語が、未解読なために、全くわかっていない。しかし、わたしは、こういう基本的な単語のつながりには、かなりの確信を抱いてもよいと思う。
さらに面白いことには、この王朝のファラオに、もうひとり、タハルカがいる。タを、古代エジプト語の土地または国と考えれば、ハルカの国の王者、と結びつけうる。そして、ハルカは、すでに指摘したバルカン半島(またはタバルカイン)と結びつけうる。また、プラトンのアトランティス説話には、オリュハルコンという特別な金属の名前がでてくる。ハルカ、ハルコン、バルカン、バルカインという語根は、どうも、金属と関係があるようだ。
さて、以上のコトバの謎は、指摘にとどめておきたい。いずれにしても、シバの女王をめぐる歴史は、せいぜい紀元前10世紀前後のことである。このへんを、アフリカ史のピラミッドの中段として、また、踏み台として、もう一度、紀元前6000年頃の事件をふりかえってみたい。
まず、ルヴェンゾリの大爆発は、周囲にどういう影響をもたらしたであろうか。 
第6章-10 太陽神ラー

 

地質学者の金子史朗は、1883年の、インドネシアにおけるクラカタウ火山の大爆発の観察資料にもとづいて、つぎのように書いている。
「大気の上層部に達した火山灰の微粒子は、何ヶ月も何年も大気中にとどまって、光の回折や吸収、散乱などの物理的現象を引き起こす……そればかりでなく、火山灰の遮閉により日射量が減少し(クラカタウ噴火ではそのあと87パーセントに減少)、気候異変の原因となるばかりでなく、しばしば凶作とつながるのである」
金子史朗は、プラトンのアトランティス説話に、紀元前1500年頃、エーゲ海のサントリン島で起きた、ミノア火山の大爆発をむすびつけている。また、凶作が起きたのは、ナイル河のデルタ地帯だと想定しており、その凶作を、同じ頃に隆盛をほこった太陽神アトンの一神教の背景だ、と主張している。
この金子史朗の本は、結論として、アトランティス大陸の存在を否定している。あれはプラトンのフィクションだ、と主張している。従来のアトランティス伝説が、大西洋に「白色の古代文明人」がいたかのように、奇妙な解釈をしているのに対して、金子史朗の推理は、誠に科学的である。プラトンの時代には、黒色のエジプト人やエチオピア人が、最大かつ最古の文明人だった。プラトンは、アトランティス大陸の住民の肌色には、何もふれていない。むしろ、黒色人を想像していたと考える方が、自然である。
それはともかく、金子史朗は、プラトンがエジプトの神官の話にヒントをえた、と解釈している。ところが、そのつぎに、「エジプトには活火山はないし、エジプト人が火山を知らなかったことだけは事実である」、という考えがのべられている。
この、「エジプト人が火山を知らなかった」という前提条件には、すでに紹介した、村上光彦のエジプト神話研究が、反論となっている。つまり、金子史朗の論拠は、ここでくずれる。それゆえわたしは、ミノア火山の代わりに、ルヴェンゾリを設定してみたい。
だが、金子史朗の本によって与えられた示唆は、太陽神のことだけではない。彼は、大洪水伝説の由来をも、火山爆発に結びつけている。この点も面白い、一般には、大洪水伝説の起源地は、メソポタミアの発掘結果によって明らかにされた洪水に、結びつけられている。しかし、河川の氾濫は、金子史朗のいうように、大小の差はあっても、定期的には発生するものだ。むしろ、ナイル河の氾濫は、めぐみとして歓迎されている。ナイル河の水は大量の土砂とともに、サッドの湿原地帯から、緑褐色の有機成分をはこんでくれるのだ。
しかも、アフリカの神話には、具体的な箱舟伝説がある。これがメソポタミアから伝わってきた、とはいえないだろう。わたしはアフリカの方が本家だと思う。水源地帯には、漁民も沢山いたし、舟が沢山あったにちがいない。
また、金子史朗は、旧約聖書の『出エジプト記』にでてくる。「昼は雲の柱、……夜は火の柱」というくだりをも、ミノア火山の爆発に結びつけている。しかし、エジプトからサントリン島のミノア火山の、火の柱までみえたとは思えない。わたしは、ルヴェンゾリの大爆発によって、ナイルのみなもとをはなれた人々の記憶が、伝えられたものだと思う。
では、ルヴェンゾリ大爆発によって、ナイルのみなもとには、どういう事態が発生したであろうか。まず、地図をみていただきたい。
ルヴェンゾリが爆発し、溶岩が流れ、火山弾が降り注ぎ、火山灰が舞いおりると、ナイルの水系は、半分以上せきとめられる。なにしろ、爆発の規模が大きい。コルヌヴァンによれば、現在のアルバート湖は、エドワード湖とつながっていた。そこへ大爆発が起きて、セムリキ川ができた。現在のセムリキ川は、長さが240キロに達する。ところが、日本最大のビワ湖の長径は、63キロそこそこである。つまり、かつてのセムリキ湖は、ビワ湖の数倍の大きさと考えられる。ビワ湖の数倍の大湖水を埋めたてるだけの、溶岩、火山弾、火山灰とは、一体どれほどの量になるのであろうか。
しかも、同じことは、四方八方に起きた。かつてのセムリキ湖の、大量の水は、突如として津波と化した。ヴィクトリア湖から流れでる水流も、ほとんどせきとめられた。あたりは一面の大海と化した。『創世記』では、水が地上にあった期間を、「40日」といったり、「150日」といったりしているが、ともかく相当長くつづいた。
一方、水没しなかった地帯でも、火山灰の影響で、農作物に被害がではじめた。金子史朗の記述を借りると、古代エジプト人は、この記憶をとどめている。
「エジプトのパピルス文書の中につぎの一節がみえる。
『太陽は隠され、その輝きを見ることができない。太陽が雲でおおわれれば、だれも生きのびることはできない……また太陽はひとびとの前から消える。かりにそれが輝くとしても、束(つか)の間……』
太陽はあっても月のように弱々しいといった言いまわしがつづいている。」
人々は、いままでにきいたこともないこの現象におどろき、ひたすら太陽のよみがえりを祈る。とくに、季節的な畠作物にたよっていた人々は、太陽のよみがえりなしには、収穫がのぞめない。畠作物は、日射量が少ないと全滅してしまうのである。畠作農耕民の必死の祈りは、当然、通じたかに思えた。火山灰の影響は、いずれは消えたのである。だが、自分達の祈りを聞きとどけてもらえた、神の許しを得た、と思いこんだ人々にとって、この時から、太陽神ラーは畠作物の神になった。
太陽神ラーは、記録にのこるかぎりでは、最初は上エジプトの一地方神だった。そして、第五王朝(前2563〜2423)になって、エジプト全体の主神(アモン)となり、アモン・ラーとよばれるようになった。わたしは、この事実をつぎのように解釈する。
まず、ナイル河でも、水量が多く、湿地、沼地がひろがっていた時代には、樹木性農作物が多かった。しかし、乾燥期にはいると、水量がへり、季節的な農作物である畠作物がふえた。そして、畑作物派の農耕民が優勢になると同時に、畠作物の神、ラーが主神となった。つまり、ラーをトーテム神とする畑作農耕民の一派が、政権を握った、と考えたい。
さて、いずれにしても、ナイルのみなもとの人々は、ルヴェンゾリ大爆発の惨害をきりぬけ、新しい国づくりにはげんだ。そして、いつごろからか、巨人のワッシ民族が出現し、支配階級となった。古代人は、このワッシ民族について、何らかの証言をのこしてはいないだろうか。 
第6章-11 マクロビオイ

 

先ず写真をみていただきたい。これは、紀元前15世紀に、プーント延性をした古代エジプト人が、神殿に、その遠征の模様を報告した壁画の一部である。
[(『黒色人文化の先行性』より)]
プーントの王とされている真中の人物は、いやに顔が大きく、極端な胴長である。これはどういうわけだろうか。わたしも、最初は全く意味がわからなかった。腰をかがめて臣従の礼をとっている形にしたのかな、などと考えていた。しかし。それにしては、右手の男が棒を持っているのが気になる。どうにも解釈のしようがない。
ところが、古代エジプトの美術様式についての説明をよんでいたら、この謎がとけた。古代エジプトの絵画や浮彫り、群像の彫刻や塑像などでは、立っている人物の頭部の高さを、同一線上にそろえることになっていた。だから、この不思議なプーントの王の肖像は、腰から下をデフォルメされたのであろう。これは、背の高い巨人だったにちがいない。遠征隊の記録係として同行した芸術家は、そのプーントの王を、リアルにつたえたかった。しかし、頭部をそろえる習慣を、くずすことはできない。そこで、もっとも簡単な、脚部の描写を犠牲にしたのだ。これ以外に、合理的な解釈は成りたたないだろう。
さて、つづいて、ヘロドトスの証言があらわれる。ギリシャ人は、エチオピア人の中に、とくに背が高い人々がいることを知っていた。そしてその人々を、「長命族(マクロビオイ)」とよんでいた。ただし、このマクロビオイの語源については、長命に由来するものではなく、長弓をよくひくことに由来する、という説もある。しかし、一方のピュグマイオイ(ピグミー)が、肘の長さの人、の意とされていることから考えると、背の高い人、の意ではなかろうか。それとも逆に、ピュグマイオイの方が、短弓を得意とする人、の意だったのであろうか。
このへんの事情はよくわからないが、いずれにしても、マクロビオイとピュグマイオイという単語は、対になっていたにちがいない。それゆえ、ついでながら、ヘロドトスの『歴史』の中から、「小人」に関する記述をひろい集めるのには、非常に熱心な姿勢を示すヨーロッパ系の学者たちが、マクロビオイを無視しているのは、奇妙といわねばなるまい。マクロビオイに関するくだりの方が、何度もでてくるし、非常に具体的なのだ。
たとえば、古代エジプト第27王朝を開いたペルシャ王カンビュセスは、紀元前6世紀末、さらにナイル河上流域の征服をくわだてた。そして、まず、手始めに、使節をよそおったスパイを送りこんだ。
ヘロドトスは、ことの次第を、つぎのようにくわしく物語っている。
「カンビュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである。……エチオピア王は彼らがスパイとして来訪したものであることを看抜いて、次のようにいった。『……この弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。エチオピア王はペルシャ王に忠告する。ペルシャ人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。しかしそれまではエチオピアの子らの心に自国領以外の国土を獲得する願望を起さしめ給わぬ神々に感謝するがよい、とな。』
エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。
……寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が120歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲物は乳であると王は答えた。スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。この泉は菫のような芳香を発していたという」
ここでまず面白いのは、背の高い男が王位継承の資格をもっていることだ。アフリカの王国は、ほとんど女系である。男の王は、軍事指導者である。そして、女系の血統の中から、選挙でえらばれる。多くの場合、選挙に敗れた男とその一派は、王国を立ち去るか、あるいは紛争をさけるために殺されてしまう。なお、この殺し合いを「未開」の証拠のように表現する学者もいるが、ヨーロッパや日本の中世期にも、全く同じことをしている。国民を捲きこまないで解決するアフリカ方式は、むしろ、より人間的である。
さて、このような制度があったため、マクロビオイの直径の子孫は、ますます背が高くなった。背の低い男は、王位継承権が認められず、不満を抱きながら、別天地を求めて去ったにちがいない。わたしの考えでは、現在の巨人、ワッシ民族は、エチオピア人のなかでもとくに背の高いマクロビオイの、直系の子孫である。
さらに、長寿の説明も、合理的である。中央アフリカ一体には、火山、温泉が多いから、つじつまも合う。コーカサス山中や、ヒマラヤのブータン王国などに、同様の長寿者が多いことを考えれば、あながち誇張とばかりはいえまい。
ヘロドトスは、さらにつづけていう。「カンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることも考えてもみなかった」。
カンビュセスの軍勢は、このため、途中の沙漠地帯で糧食が切れ、その果てには、とも喰いさえはじまり、やむなく撤退したという。
では、ここで「地の果て」、表現されているマクロビオイの国は、果して、現在の、ワッシ民族の居住地のあたりにあったのだろうか。
ヘロドトスは、別の章で、「リビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの『長命族(マクロビオイ)』」、という表現をつかっている。ここでいう「リビア」とは、アフリカ大陸のことである。つまり、アフリカ大陸の南の海岸地帯にいた、といっているわけだ。だが、この「南の海」は、ヴィクトリア湖のことであろう。例のサッド、つまり、スーダン南部の沼沢地帯ではないか、と書いている学者もいるが、それでは、温泉の説明ができない。しかも、すでに紀元前8世紀には、古代エジプト帝国は、ヴィクトリア湖までつながっていた。
スーダン北部に根拠地をもち、第25王朝を開いたクシュ帝国は、ピアンキ(前751〜716)の時代に、「北は地中海から東は現在のエチオピア国境まで支配下においたが、それはアフリカ大陸の4分の1におよぶ広さであった」
これはいいかえると、ナイル河流域を、水源湖にいたるまで制圧したことでもあり、当時の世界で最大の帝国となったことでもある。その証拠は石碑に残されており、歴史の諸委細はわからないとしても、ウガンダや、ルワンダ、ブルンジのあたりが、孤立した辺境ではありえないことをないか証明している。
つぎに、ディオプの研究には、写真のような、ワッシ民族の髪型が紹介されており、ラムセス二世(前1298〜1232)像の頭部デザインと比較されている。ディオプの主張の重点は、これらの小円を配置した頭部デザインが、「黒色アフリカ人の縮れ髪の髪型に由来する」、というところにある。この指摘もいろいろと興味深い論争点を含んでいるのだが、賛成の意だけを表して、本書では割愛する。
[ワッシ民族の髪型とラムセス二世像の頭部デザイン(『黒色人文化の先行性』より)]
古代人の髪型は、日本の武士階級のチョンマゲのように、強い伝統をもっていた。髪型の一致は、民族的なつながりを推定する上でも、重要な論拠とされている。ラムセス二世の祖父であり、第19王朝の始祖であるラムセス1世と、第二代セティ1世とは、ヴェルクテールによれば、ともに「弓隊隊長」の経歴を持っている。そして、古来から、エジプト帝国軍には、クシュ(エチオピア)出身者の弓隊が重要な一翼をなしていた。この結びつきも見逃せない。おそらくクシュ帝国は、早くからウガンダあたりと、つながりをもっていたのであろう。
さて、古代エジプトは、上下、または南北の二重王国制をとっていた。この二重王国制は、ソロモンの国にもみられた。そこでは、北のイスラエル王国と、南のユダヤ王国とにわかれていた。この二重王国の原理は、どこで、どういう理由で発生したものであろうか。 
第6章-12 二重王国

 

『イーリアス』の続編をなす、『オデュッセウス』には、アイティオプス(エチオピア人)について、さらに具体的な描写があらわれる。
オデュッセウスに敵対する、海神ポセイドンのエチオピア訪問中に、ゼウスたちは、オデュッセウス救援の策をめぐらす。文中、かの神とは、ポセイドンのことである。
「だが、かの神は、遠くに住まうエチオピア人、世の果てに、日の神ヒュペリオーンの沈む所と登る所に別れて住むエチオピア人の所に、牡牛と牡羊のさかんな犠牲(いけにえ)をうけようとて、赴いていた。そこでかの神が座をしめて、宴(うたげ)をたのしんでいる間に、ほかの神々はオリュンポスなるゼウスの宮に集まっていた」
ここでいわれているように、エチオピア人は、東西に別れて住むものと考えられていた。ヘロドトスも、子午線が西に傾いている方角では、エチオピアが人の住む世界の涯てになる」、と書いている。さらに、紀元前2300年頃のハルクーフは、「ヤムの首長がテメーを天の西端まで打ちこらしめるべく、テメーの国へ出かけるところを見た」。このことからしても、どこかに、「天の西端」と考えられたところが、あったにちがいない。そして、この場所は、当時の人々には、別に説明の必要がないほど、よく知られた場所だったのではないだろうか。
ところで、地図を見ていただきたい。ヴィクトリア湖をはさんで、ほぼ赤道直下に、東にはケニア山(5149メートル)があり、西にはルヴェンゾリ山(5125メートル)がある。つまり、ケニア山とルヴェンゾリ山とは、位置も、その高さも、まことに対照的な姿をみせている。
しかも、この二つの高山は、かつて、活火山であって。このふたつの活火山の中間に住む人々には、世界、または宇宙が、どのように見え、どのように解釈できたであろうか。太陽は、火を吐くケニア山の山頂からのぼり、そしてまた、火を吐くルヴェンゾリ山の山頂に沈んでいくのだ。赤道直下であるから、北半球の日本で、夏至、冬至といわれる時期には、太陽の軌道が、あるいは北に、あるいは南に、すこし傾く。しかし、春分、秋分には、真上にくる。
わたしは、この光景が、実に荘厳なおもむきを呈したにちがいないと思う。人々は、きっと、自分たちが宇宙の中心にいる、と信じたにちがいない。「日の神ヒュペリオーンの沈む所と登る所に別れて住むエチオピア人」を想像するのに、こんなにぴったりの場所はない。
では、ここに、東西相対応する古代遺跡が、残されているだろうか。
わたしはすでに、そのふたつの遺跡を紹介しておいた。ウガンダ西部の「巨大な土塁」と、ケニア白人高地の、「灌漑農場」の遺跡である。しかも、ほぼ同じ地点には、ルヴェンゾリ大爆発に埋もれた、イシャンゴ文明があり、ケニアのナクル文明があった。この地帯は、先進的なところであった。
さて、二重王国制は、古代エジプトの上下二王国制をはじめ、ルアンダ=ウルンディ二重王国など、沢山の例がある。アフリカ社会の二重主義という思想によるもの、と説明されている。
たとえば阿部年晴は、かつて南部アフリカ一帯に覇をとなえ、大ジンバブウェを首都にしていたこともあるロズウィ人の王国について、つぎのように書いている。
「王は、中央集権的に構成された……諸組織の共通の頂点であるが、その権力は双分的な色彩を濃く帯びている。
たとえば『真の都』と称される王都は南北にひとつずつある。王は『北の都』の宮廷に住み、『南の都』の宮廷には第一王女が住む。これら2つの王都は同じ構造をもち、同じ形の国鼓、王室舟艇、かい、槍などをもつ。2つの都の評議会も同じように組織されている」
この二重王国制の起源は、もしかすると、双分氏族制の強固な伝統の上に、成り立ったものかもしれない。しかし、もうひとつの、後代の起源も考えられる。それは、ルヴェンゾリ大爆発、大洪水の教訓である。たとえば、「王室舟艇」というのは、箱舟を思わせる。
大惨害を経験した民族は、一族または王国の存在を期するため、つねにその中心地を二つに分け、同じ文化を伝えうるようにしたのではなかろうか。ルヴェンゾリの大爆発の時には、イシャンゴ文明はほろびた。しかし、対岸のナクル文明はのこっていたのである。このような現実の土台なしに、二重主義という思想だけが生れるはずはない。
二重王国制は、もしかすると、ヴィクトリア湖の東と西にわかれて住む、エチオピア人の王国にはじまり、アフリカ大陸全体にひろまったのではないだろうか。わたしにも漠然とした想像しかできないが、この謎ときも面白いものではないだろうか。
さて、いよいよ古代エジプトの建設者が、黒色のアフリカ人であったかどうか、という核心にせまることになる。しかし、ナイル河をふたたびくだる途中のスーダンには、すでに何度も引合いにだしたクシュ(エチオピア)帝国の古都がある。一体この国と、古代エジプトとの関係は、どういうものだったのであろうか。 
第7章 ナイル河谷

 

第7章-1 定着者たち  
古代人の証言は、近代のオリエントエジプト史学者の主張とは、全く反対のことをつたえていた。
ローマ時代の学者、ディオドロス・シクロス(前63〜後14)は、『世界の歴史』の中で、つぎのように書いていた。
「エチオピア人の言によると、エジプトは彼らの植民地であって、オシリスがそこへ((エチオピア人の一派である))エジプト人を連れていったのである。彼らによると、エジプトの国土は、この世のはじめには、海でしかなかった。しかし、そこへナイル河がエチオピアの泥土を大量に押し流し、ついには埋めたてて、大陸の一部としたのである……彼らはそれにつけ加えて、エジプト人たちは、彼ら((エチオピア人))をエジプト人の創造者であり、先祖であり、エジプトの王たちの偉大な一族だと信じている、ともいう」
ヘロドトスも、やはり、エジプト人は、現在のスーダンにあったクシュ帝国のことメロエから来たらしい、と書いていた。クシュというよび名はエジプト人がつけたもので、エチオピアともよばれた。本当の国名はわからない。
地質学的な研究によって、たしかに現在のエジプトの大部分は、紀元前4、5000年ごろには、一面の大きな入江または湿原であったことが、たしかめられた。エジプトへの植民が、上流地帯からなされたことは、うたがう余地がなくなった。
いまだにエジプト人がオリエントから来た、と主張しつづける学者は、アラビア半島経由で、上エジプトに移住したのだ、という大変に苦しい説明をしている。
ところが、この苦心の修正をほどこしたオリエント起源説は、またしても、考古学的出土品によって、否定されることになった。現在のスーダン北部から、エジプトの南部にかけてを、ヌビアとよんでいる。エジプト史学者の鈴木八司は、ヌビアに関する最近の研究にもとづいて、つぎのように書いている。
「ヌビアにおけるナイル河畔の定着民がいつごろ出現したかは明らかではないが、エジプトと同様に紀元前5000年頃には、農耕・狩猟・漁撈などの手段を混合した民族が定住生活の営みを開始したと思われる。紀元前4000年ごろには明確に定住民が出現しており、彼らは当時の上エジプト人と同人種で、相互に交易もし、文化様相も似ていた」
つまり、スーダンの住民と、古代エジプトの中心となった上エジプトの住民は、同じ人種、同じ民族であった。ディオドロス・シクロスの証言は、ここでも裏付けられた。さらに、このあたりの初期の定着民は、ナイルのみなもと、イシャンゴ文明のそれと似通った、骨製の銛を用いていた。1963年の調査では、ヌビアから、20個ほどの骨製の銛の破片が出土した。その銛が埋もれていた地層の、一番上の部分は、紀元前5110プラスマイナス120年、と決定された。
現在のスーダンの首都ハルツームからも、同種の骨製の銛が発見され、紀元前5060プラスマイナス450年、と決定された。もっと上流からも、ぞくぞく似たような結果がでるであろう。
これに対して、オリエントからエジプトへの移住を主張する学者は、何らの物的証拠をも提出していない。古代人の証言をやみくもに否定し、しかも何らの証拠も提出できなかったのだから、これは重大である。
わたしの考えでは、すでにのべてきたことから明らかであろう。ナイル河谷の住民は、中央アフリカから、流れに沿ってくだってきた。さらに、サハラに進出したグループも、乾燥期にはいって、ナイル河谷に合流した。クシュ(エチオピア)帝国も、古代エジプト帝国も、アフリカ人の国家である。
クシュ帝国については、くわしい本もでているので、ここでは、古代エジプトとの関係だけに焦点をしぼって、従来の研究の問題点を指摘するにとどめたい。
まず、多くの学者は、古代エジプトがスーダンを征服し、文化をつたえた、と主張している。それには、何らかの証拠があるのだろうか。  
第7章-2 通商ルート

 

たしかに、古代エジプトのファラオたちが、何度も、ナイル河上流方面に軍勢をすすめた事実はある。たとえば、第一王朝のジゼールは、第二急流に、勝利の記念碑を残した。歴代のファラオも、同じようなことをやっている。
ところが、まず第一に、ファラオたちは、オリエントにも進出し、やはり勝利の記念碑を残している。つまり、勝利の記念碑を材料にして、征服とか、文化をつたえたとかいうのなら、オリエントについてもそういわなければおかしい。ヘロドトスは、エジプトのファラオが、オリエントやヨーロッパから住民をつれ帰って、奴隷にしたと書いている。当時のエジプトからみれば、オリエントやヨーロッパは、人的資源しかない未開の地であった。
逆に、古代エジプトは、プーントの国のミルラを求めて、南方の通称ルートの確保につとめた。つまり、遠征の目的がちがう。従来のエジプト史学者、オリエント史学者は、ミルラを「沒薬」としてしか、理解しなかった。しかも、古代エジプトの歴史の最初から、唯一の通商相手の国家として記録されているプーントの国を、まともな根拠もなしに、ソマリア海岸に設定した。これでは、歴代のファラオの、ナイル河上流方面への遠征の目的が、分らなくなるのも、当然である。
ファラオたちは、貴重な通商ルートを、掠奪型の遊牧民族の襲撃から守るために、何度も出撃したのである。
事実、エジプトの古記録を素直によんでみれば、それ以外の解釈は成り立たない。あらゆる記録は、領土の拡張ではなく、「交易の成功」を誇らしげに報告している。そして、ミルラと雄牛は、最上の商品だった。第三王朝のアメネムハト一世は(前2000〜1980)は、第三急流に進出した。そして、「交易所」をきずいた。同じ王朝第五代のファラオ、セソトリス三世は、これよりも後退し、第二急流近くに城砦をきずいた。しかし、これも「交易所」であった。
この地点、フィラエの石碑の解釈については、本書の冒頭に紹介した。最初には、ネヘシの意味について追求したが、ここでは、碑文の内容が問題になる。「輸入のためか、または交易所で物を購入する目的……で越境する」ネヘシは「歓待される」、と明記されている。しかし、「家畜を連れてこの国境を越えてはならない」のであった。
コルヌヴァンも、この碑文を指摘し、当時のクシュが、通商の相手として、対等に評価されていたのだと主張している。わたしは、古代エジプト人が、ネヘシを、二種類にわけて考えていたと解釈する。通商の相手と、厄介ものの遊牧民とである。
だが、古代エジプトの文化は、クシュの地につたわった、と主張するむきもあるだろう。では、文化とはなんだろうか。また、文化交流とは、果して、一方的なものだろうか。  
第7章-3 建築様式

 

エジプトの建築様式が、クシュ帝国の故地に散在する事実を、古代エジプトによる、スーダン征服の根拠にあげる学者もいる。
しかし、明治時代の日本では、イギリスのヴィクトリア朝風のビルが沢山つくられた。もとも、建築様式ほど流行をとりいれやすいものはない。また、石工や建築家は、古代から、渡り職人の最たるものである。しかも、建築された年代が確定していないものが、クシュの故地には沢山あるので、本当はどちらが先なのかも、よくわからない。相互に影響し合ったのかもしれない。
それはともかく、クシュ帝国では、エジプトの様式がみられる前から、独自の文化も発展していた。その点について、コルヌヴァンは、つぎのように書いている。
「その起源はどうであれ、このクシュの王国は、エジプトがこの国との接触をはじめた、紀元前二千年紀のはじめには、ケルマにおけるライスナーの発掘(1923年)によって示されたように、洗練された物質文明の持主であった。エジプト式の墓石のとなりには、ちがった型の墓地がある。その中のひとつには、土着の王公が、二百人の女性と子供たちに取りかこまれて、葬られていた。寝台はエジプトの型ではなく、象牙細工で飾られていた」
このような墓の形式は、もしかすると、ザイールのシャバ州から発見された、「幾マイルにものびる墓地」のそれと、つながりがあるのかもしれない。
また、クシュ帝国の古都メロエの周辺に、浴場の遺跡があることを、その建造年代もはっきりしていないのに、ギリシャ・ローマの風習をとりいれた、と説明している例がある。しかし、浴場は、ギリシャ人やローマ人の専売特許ではない。それよりも早く、紀元前三千年期の、インド黒色人によるインダス文明にも、浴場の遺構が見られた。これは、ギリシャ人やローマ人の影響ではありえない。
また、ヘロドトスがつたえているように、エチオピアの「長命族(マクロビオイ)」は、鉱泉に入浴する習慣を持っていた。もしかすると、中央アフリカの火山帯における、温泉・鉱泉の利用が、人工の浴場へと発展したのかもしれない。
以上の点に関しては、わたしのうたがいすぎがあるかもしれない。しかし、これまでの研究の傾向を考慮にいれると、決定的なデータが提出されるまでは、疑い続ける必要がある。
さらに、一番の問題点は、その先にある。つまり、建築様式の比較が、その他の文化の伝播の説明にまで、エスカレートしていることである。このエスカレーションはまことに理不尽である。日本女性がパリ・モードを着こなしていれば、日本のイネの栽培まで、フランス直輸入ときめつけるような論理には、とても、付き合いきれない。
ところが、この理不尽な先入観念は、アフリカのあらゆる文化の外来起源説の、骨組みとなっている。たとえば、メロエの神殿のそばにある、高さ10メートルもの、二つの鉄の鉱滓の山の評価にも及ぼされている。シーニーは、「メロエの有名な鉄鉱業のくずである鉱滓(スラグ)の……小山の下に何があるかは、今後の発見にまたなければならない」、と書いている。つまり、メロエの鉄生産の起源については、ほとんど調査されていない。
ところが、ほとんどの学者が、鉄器文明のオリエント起源説にもとづいて、メロエの製鉄のはじまりは、ギリシャ人傭兵隊の侵入以後であるという。そして紀元前591年以後、などという細かい数字まであげて、断言してしまっている。まことに信じがたいような、そして、由々しき事態であるといわねばならない。
さらに、文化の問題だけではなく、この先入観念では、クシュとエジプトの、政治上のむすびつきの解釈にまで、はたらいている。古代エジプトの軍隊では、クシュ人もしくは、アイティオプスの弓兵隊が、重要な一翼をになっていた。この弓兵隊を、「黒人奴隷兵」と表現している学者が多い。まずは、政治的に、クシュとエジプトの間柄は、どんなものだったであろうか。  
第7章-4 ファラオの一族

 

古代人の証言を、正しく解釈するならば、クシュとエジプト、もしくは、アイティオプスの本拠地と、ナイル河谷の前進基地とは、永らく兄弟のような関係を保っていた。エジプト人は、エチオピア人(アイティオプス)がファラオの座につくことを、公式に認めていた。そのことをヘロドトスは、直接的にではないが、たしかに書きとめている。
ヘロドトスは、エジプトの神官から、歴代のファラオの業績を聞いて、くわしい記述をのこしている。その冒頭部分はつぎのようになっている。
「祭司たちは一巻の巻物を開き、それによってミン以後の330人の王の名を次々に挙げた。このおびただしい数に上る世代にわたって、18人はエチオピア人で、唯1人だけ生粋のエジプト人の女性がおり、他はすべてエジプト人の男子である。」
このように、「他はすべてエジプト人の男子である」、と断言されている。ところが、実際に王名表を研究すると、ヘロドトスがエジプトを訪れる以前にも、沢山の外国人王朝があり、外国人のファラオがいた。ヒクソス王朝、シリア王朝、リビア王朝などがあった。しかし、エジプトの神殿の公式記録は、その事実を否認しているわけだ。つまり、「エチオピア人」は別格扱いだが、その他の侵入者による王朝の歴史は認めない。外国人のファラオをいただくことは、国辱と思っている、と解釈する以外にない。従来のエジプト史学者は、このヘロドトスの文章に、何らふれていない。これ以外の解釈しか成立しないために、放置しているのではないだろうか。
また、従来のエジプト史学者によれば、第25クシュ(エチオピア)王朝の5人のファラオ以外には、第13王朝のネヘシィだけしか、クシュ出身とされていない。つまり、6人である。ところがヘロドトスは、「18人はエチオピア人」と書いているのだから、差引き12人の、エチオピア人のファラオが行方不明である。この謎もよくわからない。だが、古代エジプトの王朝再建者は、ほとんど上エジプト、つまり、クシュ帝国またはエチオピア人の本拠地に近い方から出現している。このあたりに、謎を解く鍵がありそうだ。
背景には、強力な長弓隊の軍事力もあったであろう。これはあらゆる証拠が示している。しかし、日本の例でいうと、徳川御三家のようなファラオの一族が、エチオピア人の中にいた可能性もある。宗教的に南方が尊ばれていたことも、その傍証となるだろう。
さて、ヘロドトスはもうひとつ重要な証言をしている。これを正しく解釈するならば、クシュ人またはエチオピア人の弓兵隊が、「奴隷兵」などではありえないことが、はっきりする。ファラオは、弓兵隊の伝統を、誇りとしていたのである。
たとえば、第12王朝の対外進出は目ざましいものであった。とくに第5代のファラオ、セソトリス3世(前1887〜1850)は、アジア・ヨーロッパに遠征し、史上最大の帝国をうちたてた。ヘロドトスは、このファラオの足跡について、こう書いている。
「エジプト王セソトリスが各地に建てた記念柱は、大部分失われて残っていないが、私はパレスティナ・シリアで現存するものを幾つか見た。……またイオニア方面にも岩壁に浮彫にしたこの人物の像が二つある。……その男は右手に槍を、左手には弓をもち、その他の服装もこれに準じている。というのは、つまり一部はエジプト式、一部はエチオピア式の服装をしているという意味である。そしてその胸部には、一方の肩から他方にわたって、エジプトの神聖文字で記した碑銘が刻んであるが、その意味は、『われはこの地を、わが肩によりて得たり』というものである。」
この二つの人物像は、ファラオそのものを刻んだものだ。ファラオの「左手の弓」と「エチオピア式」の服装は、ファラオがエチオピア(クシュ)をエジプトと同格に重んじていたことを示す。また、弓兵隊の地位の高さをも示している。しかも、第12王朝自体が、エチオピア(クシュ)の王族によって開かれた可能性さえ、暗示している。
このような、古代人の「エチオピア」観というものは、旧約聖書の章句にも、はっきり刻みこまれている。エチオピア(クシュ)王朝は、当時アッシリアの支配下にあったオリエント諸国の叛乱に、手をかした。この次第が、『イザヤ書』に、つぎのように記されている。
「ああ、エチオピアの川々のかなたなる、ぶんぶんと羽音のする国、この国は葦の船を水にうかべ、ナイル川によって使者をつかわす。とく走る使者よ、行け。川々の分れる国の、たけ高く、膚のなめらかな民、遠近に恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民へ行け。……力強く、戦いに勝つ民から、万軍の主にささげる贈り物を携えて、万軍の主のみ名のある所、シオンの山に来る。」(『イザヤ書』、18章)
これと同様な、エチオピア人の軍勢の来援に関する記憶は、ギリシャ人の神話にもとどめられている。すでに紹介したように、『アィティオプス』5巻は、『イーリアス』の原型とも考えられている作品である。ここでは、「エチオピアの王メムノーンが、ヘーパイストス神の造った鎧を身につけてトロイエー援助にやってくる」
ヘーパイストスは、「ギリシャの火と鍛冶の神。……自分の宮殿に仕事場をもち、オリュンポスの神々の宮殿はすべて彼の造ったもの」(『ギリシャ・ローマ神話辞典』)、というのだから、これも面白い。エチオピア人と、鍛冶の神、つまり金属生産とが結びつけられている、とも解釈できる。
クシュ王朝は、アッシリア勢の侵入に際して、エジプト再統一のために立上がった。そして、アッシリアの侵入を再三うちやぶった。わたしはその背景として、メロエにおける大量の鉄生産を考えるべきだと思う。
ところが、イギリスのアーケルなどは、クシュ王朝が、何度もアッシリア勢をうちやぶったことを、全く無視している。そして、「アフリカ史の曙」の中では、アッシリア人は鉄の武器を持っていたので、「クシュの部族民の原始的な武器は、鉄の武器を前にしては何の役にも立たなかった」、などと断言している。「部族民の原始的」、という表現もさることながら、アーケルのたくましい想像には何の証拠もない。
逆に、クシュ王朝のはじめの勝利こそ、大量の鉄の武器に帰せられるべきである。また、アィティオプスの長弓隊は、「原始的」などころか、騎馬武者隊への、おそるべき対抗手段であった。鋭くとがった鉄のヤジリをつけた重量のある矢は、うなりを発して、疾駆する騎馬武者をおそったにちがいない。事実、中世ヨーロッパでは、農民兵による長弓隊の編成が重要視され、それが小銃隊に移行している。アーケルの説明は、その点でも全く意味をなさない。
クシュ王朝期のエジプトが、アッシリアに対抗しきれなかった理由は、旧約聖書の章句が語っている。イザヤ書第18章は、すでに紹介したように、クシュ(エチオピア)の軍勢の来援をつたえ、第20章は、「エジプトびとのとりことエチオピアびとの捕われ人とは、アッスリアの王に引き行かれて」、という敗北の情景を描写している。そして、その中間の第19章は、つぎのように、ナイル河谷の天災による凶作を物語っている。
「ナイルの水はつき、川はわれてかわく。またその運河は臭いにおいを放ち、エジプトのナイルの支流はややに減ってかわき、葦とよしとは枯れはてる。ナイルのほとり、ナイルの岸には裸の所があり、ナイルのほとりにまいた物はことごとく枯れはてる。ナイルのほとり、漁夫は嘆き、すべてナイルにつりをたれる者は悲しみ、網を水のおもてにうつ物はことごとく枯れ、散らされて、うせ去る。漁夫は嘆き、すべてナイルにつりをたれる者は悲しみ、網を水のおもてにうつ者は衰える」(『イザヤ書』、19章)
ナイルはかれる。アッシリア勢はせめよせる。まさに内憂外患である。アフリカ大陸の悲劇は、このように、乾燥期の襲来をぬきにしては語れない。たとえば、古代エジプトの税金は、ナイルの水の高さによってきめられた。水がへり、沙漠がひろがり、同時に、ファラオの一族たるエチオピア人の後背地が遠のいていった時に、オリエント勢の侵入は、本格化しはじめた。
では、それまでの古代エジプト人は、果して、黒色人の特徴を保っていたであろうか。いよいよ、最初の謎にとりかかる時がきた。果して、どれほどの証拠を、みつけることができるであろうか。  
第7章-5 古代の証言

 

ヘロドトスは、コルキス人を、エジプトの遠征軍の残留部隊だと考えた。そして、両者が同一人種だと判断する第一の証拠として、コルキス人もエジプト人も、「色が黒く、髪が縮れている」点をあげた。これを一応、男の特徴としてみよう。では、エジプトの女については、どうだろうか。
ギリシャの神殿の巫女は、エジプトからきたものだ、と信じられていた。そしてヘロドトスは、エジプトの神官が、このギリシャの巫女の伝説と、見事に符合する語りつたえをもっているのを発見した。つまり、かつて、二人の巫女が神殿からつれさられ、一人はギリシャにいった、というのである。
ところで、ギリシャの伝説では、その巫女が、「黒鳩」として表現されている。ヘロドトスは、まず、ハトにたとえられたのは、巫女の言葉が、外国人であるギリシャ人に、ハトの鳴き声のように、きこえたからであろう、と推理した。ついで、つぎのように肌色の問題を指摘した。
「その鳩が黒色であったというのは、つまり女がエジプト人であったことを意味する」
わたしは、ヘロドトスがエジプト人の黒さを、他のことを論ずるための証拠にあげている点を、積極的に解釈する。つまりヘロドトスは、これを動かしがたい証拠としてあげている。エジプト人が黒いというのは、だれしもが認めた事実だった。「エジプト人は黒い」というのは、「鉛は重い」というのと同様に、それ以上の証明を必要としない事実だった。
しかるに、ヨーロッパ系の学者は、このヘロドトスの証言を、いろいろな形で否認しつづけている。その詳細については、のちにまとめて取扱うこととして、セネガル人のディオプが調べあげた、ほかの古代人の証言のうち、典型的な2例を紹介したい。ディオプは、この問題でも20年来の論争をしている。
ギリシャの哲学者、アリストテレス(前389?〜322)は、アレクサンドル大王の家庭教師として有名である。彼は辺境、マケドニアの王子に、自分の哲人政治の理想を託した。この当時最大の文明国エジプトは弱体化していた。エジプト軍の主力は、ギリシャ人などの傭兵隊で構成されるようになっていた。エジプト人の戦士貴族たちは、いわば日本の平家の公達のように、文弱の状態にあった。そこで、アリストテレスは、『生理学』の中で、つぎのように主張する。
「あまりに色の黒い人間は臆病となる。それが当てはまるのは、エジプト人とエチオピア人である」
また、ギリシャ人の文筆家、ルキニウス(後125〜190)は、『航海記』の中で、若いエジプト人について、つぎのように表現した。
「この若者は、黒いだけでなく、唇が厚く、非常にほっそりとしている」
この「唇が厚い」という点と、「足がほっそりとしている」という点は、近代ヨーロッパの人類学においても、いわゆるネグロイドの特徴とされている。これも重要な証言である。
つぎには、古代人が残した物的証拠を、検討しなければならない。セネガル人のディオプは、さまざまな絵画・彫刻の例をあげている。そして、その評価の仕方についても、ヨーロッパ人自身の間で、意見の相違がみられることを指摘している。
1783年から1785年、ディオプの表現を借りるならば、まさに黒色人奴隷制たけなわの時代に、フランスの著述家、ヴォルネイがエジプトを訪れた。彼の本『シリアとエジプトへの旅』から、ディオプはかなりの引用をしている。
ヴォルネイは、古代エジプト人の直系とされるコプト人に会い、ギゼーの大スフィンクスを訪れ、その感想を記している。文中、ミュラートルとは、一般に、黒色人・白色人の混血を指す用語である。
「コプト人は、みんなふくらんだ顔付で、眼ははれぼったく、鼻はつぶれ、唇は厚い。一言でいえば、ミュラートルである。わたしはこれを、気候条件によるものとして、解釈しようとした。しかし、大スフィンクスを訪れた時に、その容貌が、わたしに謎を解く鍵をあたえてくれた。その頭部は、あらゆる点からみて、黒色人(ネグル)の特徴を示しており、わたしにヘロドトスの注目すべき章句を思いださせた。……すなわち、古代エジプト人は、アフリカはえぬきの人種に属する、真の黒色人(ネグル)だったのである。その後、数世紀にわたって、ローマ人やギリシャ人の血がまじり、最初の皮膚の色の強さはうすれたものの、もとからの人種形質の刻印は保たれた、という説明が成り立つ」
ディオプは、19世紀に派遣された、フランスの第1回調査隊の手になる大スフィンクスの線刻画を紹介している。そして、「このプロフィルは、ヘレニズム(ギリシャ)的でも、セム的でもない。これは、バントゥである。
念のために、1834年に描かれた、F・エンゲルスのスケッチも紹介しておきたい。この角度から撮った写真が全くないのも、残念ではあるが、また、奇妙でもある。
[上大スフィンクス第1回調査隊の線刻図]
[下大スフィンクスエンゲルスのスケッチ]
さらにディオプは、いわゆるネグロイドの特徴を示すファラオ像を沢山あげているが、その中の最も特徴的なものを、写真でみていただきたい。女性像についても、第18王朝、アメンホテプ3世の王妃テュイイ、もしくはこの二人の娘シトアメンものとされている頭部像がある。一般には、この像の正面の写真しか紹介されていないのだが、側面から撮影したものを発見できた。写真のように、明確な「突顎」がみられる。この特徴は、ヨーロッパ系の人類学者によると、いわゆるネクロイドの、不可欠の特徴である。
[第二王朝のファラオ・ジゼール]
[第18王朝のテュイイ王妃]
ただし、シュル=カナールがつぎのように書いていることも指摘しておく必要があるだろう。
「〈突額〉はよく〈黒色人種〉の特質といわれるが、それも案外一般的なものではない」
つまり、エジプトの美術の人物像に、いわゆる突顎が表現されていないとしても、それだけで、そのエジプト人は黒色人種ではなかった。という主張はなりたたない。その上に、突顎のような特徴は、環境によって変化し、都会的な人口密集地帯では、消滅する傾向にある。すでに、アメリカの人類学者、クーン、ガーン、バードセルの共同研究では、つぎのような結論がでている。
「食物生産経済の課した生活条件に応じて、まず旧世界では顎骨の小さい、骨の繊細な地中海的な顔の型式が生じ、一方、これに対応して、新世界ではとんがった顔のアメリカ・インディアンが生まれ、さらに都会ではこの顔面形式が極端な形態のまま最終的に明確化されるにいたったのである……これに反する実例はない」
当然のとこながら、これに反する分類も、これに反する記述も、許されてはならない。ヨーロッパ系の人類学者は、ネグロイド形質に「突顎」が不可欠であると主張し、それが観察されない頭骨には、コーカソイド(白色人系)という分類を、当然のこととしてきた。このあやまりは、抜本的に、訂正されなければならない。
また美術には、様式の変化、流行がある。リアリズムの時代と、極端な様式化の時代の作品とを、はっきり区別しなくてはならない。日本の江戸時代の人々が、浮世絵や役者絵のような顔をしていたわけではない。また、明治の女性は、黒田清輝の絵のような姿をしてはいなかった。
わたしは、いわゆるネグロイド的特徴を示す古代エジプト人の画像、彫像は、リアリズム時代の作品だと判断する。そして、様式化されたファラオ像の中にも、真黒に塗られたものが多いことを、合せて指摘しておきたい。後世になって、オリエントやギリシャの影響があらわれ、そして、混血のファラオや王妃が出現した時代の作品については、全く論外である。
さて、以上のような古代人の証言、物的証拠に対して、従来のヨーロッパ系人類学者、歴史学者は、どのような態度でのぞんだのであろうか。なんらかの科学的反証をあげたのであろうか。  
第7章-6 近代の偽証

 

古代エジプト人が、黒色人ではなく、コーカソイド(白色人系)であると主張する学者たちは、全く何らの証言も、物的証拠も、提出していない。
では、なにをしたか。まず、誤訳、もしくは曲訳をした。
ディオプは、フランスの文化人類学界の権威、R・モーニーが、ギリシャ語のメラゴス(黒い)を、ブリュン(褐色)と訳した文献をそのまま引用している、と指摘している。わたしも念のために、ギリシャ・英語辞典を調べてみたが、メラグ、またはメラノを頭部にもつ単語で、褐色の何々、とされているものは、ひとつもない。明確にブラック、またはダークである。黒い、または暗い、の意味しかない。ギリシャ人自身が、褐色だったのだから、彼らが黒い、というのは、まさに黒いのである。
もうひとつの問題は、はなはだ微妙である。
ヘロドトスは、コルキス人がエジプトの遠征軍の一部である、と断定したが、その理由には三つある。第一に、コルキス人とエジプト人の相方が、その事実を認めたこと、第二に、両者とも「色が黒く、紙が縮れていること」、第三に、両者とも「昔から割礼を行なっていること」である。
ところが、一般に流布されているヘロドトスの『歴史』には、明らかに、後世の学者の加筆がある。というのは、ヘロドトスの文章にかぎらず、古代の書物は、筆写によっていたため、異文が多いし、後世の校訂、注釈が本文にまぎれこむ例が多い。それがこの場合に微妙なニュアンスのちがいを、つくりだしている。
わたしがそのように断定する根拠は、たった三つの日本語訳をみただけでも、そうとうなくいちがいがあるからだ。以下、該当する個所だけを並べてみたい。
A「色が黒く、髪が縮れていることであるが、もちろんそれだけでは何の証明にもならない。そのような特徴をもった人種は他にもいるからである」(松平千秋訳、筑摩書房版)
B「色黒くしかも毛がちぢれているだけではなく(ほかにもこんな人種はいるから、これだけでは何の意味をも成なさない)(青木巌訳、河出書房版)
C「皮膚は黒く、髪はちぢれている(といっても他の諸民族(ネーション)がそうであるほどそんなにもひどくない)という事実によっており」(貫名美隆訳、理論社、『アフリカの過去』)
さて、ギリシャ・ローマ時代には、カッコ入りの文章は、全く存在しなかった。散文といえども、また歴史書といえども、文学として取扱われていた。
ヘロドトスは、うたがいもなく、「色が黒く、髪の毛が縮れており、しかも、割礼の習慣を持っている」、としか書いていなかったのだ。これに、挿入句を加えることも誤りなら、ましてや、勝手な解釈を割りこましてはならないのは、当然のことである。
とくに、最期の文例、「そんなにひどくはない」、というのは、古代エジプト人の肌色、髪の毛が、一般の黒色人ほど、「ひどくはない」という意味である。「ひどい」というコトバは、「非道(ひど)い」の当て字もあるくらいで、語感も好ましくない。資料集『アフリカの過去』は、イギリス人のデヴィッドソンが編集したのだから、おそらく、イギリスでは、こういうテキストが公式に認められているのであろう。この挿入句は、たとえ無意識で書かれたとしても、意図的であり、改ざんに近い。
イギリス人の歴史学者、人類学は、この、改ざんに近い挿入句入りの、ヘロドトスの『歴史』を、そのまま受けとっているにちがいない。デヴィッドソンでさえ、疑問をさしはさんでいないのだ。彼は、「『黒い』といっても、批判の多いこの一節から、かりにも『人種問題』の結論を立てるのは軽卒であろう」、と注記している。しかし、「結論」をさまたげるための意図をもった後世の注釈を、唯一の論拠とするような「批判」は、全く論外である。
さて、後世の加筆は、やはり、その当時のナイル河デルタ地帯の住民が、相当に混血し、人種形質に変化をきたしていた事実とも関係がある。目の前の、近代のエジプトの住民の印象と、黒色(ニグロ)人は、奴隷の種族であるという先入観念が、すべてを支配している。では、過去を復元する方法はないものだろうか。数字的に、後世の混血を証明することはできないものだろうか。  
第7章-7 モンタージュ

 

ヨーロッパ系の人類学者、歴史学者は、「混血といってもほとんどとるに足らない」、という考え方を表明している。
しかし、数字的に根拠を示した文章は、全く発見できなかった。わたしの考えでは、これも証拠をかくすという、一種の偽証行為である。資料を一番沢山握っていたのは、ヨーロッパ系の学者自身だった。セネガル人のディオプや、アフロ・アメリカ人の歴史学者たちが、それらの資料を活用できるようになるまでには、ヨーロッパ人の「地理的発見」以来、500年近い年月が流れた。
わたしにできることも、当然、限られている。しかし、過去を復元する方法はあるのだ、ということだけは、示しうると思う。簡単なスケッチを試みて、今後の専門家による研究を期待したい。
まず、古代社会を考える上での根拠を、古代アテネの人口構成に求めてみよう。エンゲルスは、つぎのように書いている。
「その最盛期には、アテナイの自由市民は、女も子供もあわせて総数約9万人からなっており、それとならんで36万5千の男女奴隷と、4万5千の保護居留民――外国人と解放奴隷――とが存在していた」
この数字から、一般に、外部から侵入する征服民族の比率は10%ぐらいなもの、と推定されている。わたしも、この考えを採用する。また、保護居留民などがやはり、10%程度であることも、参考になる。外からつれてくる職人や奴隷を、この数字で考えてみたい。
さて、ヴェルクテールは、ギリシャ・ローマの古記録などにもとづいて、古代エジプトの本拠地の人口を、最大限700万人とふんでいる。ヘロドトスは、武士階級を約40万人としている。王族、貴族、神官その他もあり、家族も含めれば、支配階級は、10%をこえていたであろう。
一方、ヘロドトスによれば、ギリシャ遠征を行ったクセルクセスのペルシャ連合軍は、「陸上部隊の総数は170万に上った」、とされている。オリエント・エジプトの戦争では、百万前後の軍勢が組織されたと考えられる。
以上の数字から、古代世界の中心地であったエジプトに、何らかの、捕虜、移住、侵入などにより、1世紀に1割の流入があったと想定しても、決して過大ではないだろう。紀元前の3000年間、つまり30世紀の間に、そのような機会を、10回と考えてみよう。
1回で、もとからのエジプト人の血統、または人口比率は、10分の9になる。10分の9を10乗すると、0.3486784701、つまり35%以下となる。クシュ王朝などの、南方からの進出もあるが、ほぼ半々にはなりそうである。
では、歴史上の事実はどうだっただろうか。  
第7章-8 ファラオの世紀

 

デルタ地帯は、新開地である。このあたりの干拓、灌漑工事は、統一帝国以後に本格化した、とされている。大工事には、ピラミッドや神殿の建設もあり、捕虜、外国人の徴用があった。
少し時代は下るが、ヘロドトスはつぎのように書いている。
「セソトリスは大陸を席捲し、アジアからヨーロッパに渡り、スキュティア人およびトラキア人をも征服……征服した国々の住民を捕虜として随え帰国……多数の捕虜を次のように利用した。この王の代にその意をうけて多数の巨石がヘパイストス神殿に運ばれたのであったが、これらの石を曳いたのは、捕虜たちであり、また現在エジプトにある運河はことごとく、捕虜たちが強制労働によって開墾したものである」
このような、軍事遠征による戦時捕虜の連れ帰りは、何回にもわたった。そして、古代から中世にかけては、奴隷の大半は、オリエントやヨーロッパ大陸から供給された。
紀元前約2千年以降、オリエント方面からヒクソスの侵入がつづいた。ばらばらな侵入の波に乗って、ついには、1世紀近くも、ヒクソス王朝が、デルタと中部エジプトを支配した。オリエント方面からの侵入の影響は、この間相当なものだったのであろう。たとえば、ヴェルクテールは、つぎのように強調している。
「アジアからの強制が今後、エジプトの戸口を脅かし、そこにこそ、今や、あらゆるエジプト史を決定づけてゆく本質的な事実が存在するのである」
文化史の上でも、この紀元前2000年頃は、ひとつの画期をなしている。
牧畜文化、金属文化は、アフリカ大陸からひろがり、オリエントやユーラシア内陸に、遊牧民族の発達、人口増加をもたらした。紀元前2300年頃には、メソポタミアで、セム系のアッカド人が国家形成に達し、前2000年以後には、ヒッタイト人のアナトリア侵入もはじまった。馬、戦車の使用によって、騎馬民族の形成が進んだ。
しかし、一方のアフリカ大陸は、紀元前2000年には、乾燥期に突入した。サハラの人口は急速にへりはじめた。そして、ナイル河谷は、アフリカ大陸の突出部となり、後背地から切りはなされ、孤立化への様相を呈しはじめた。
人口増加の圧力は、従来とは逆に、オリエントからエジプトへと向きはじめた。ナイルの水量はへり、エジプトの国力は下向きになった。ヴェルクテールは「その数値的弱さが……エジプトにとって、余りに重すぎるハンディキャップとなる」、という点を指摘している。
ヒクソスの支配は、紀元前16世紀になって、やっとくつがえされた。しかし、これにつぐ新王国(前1580〜1200)は、以上の文化史的背景を反映して、まさに国際化時代となる。たとえば、オリエント史学者の板倉勝正は、つぎのように書いている。
「トトメス4世がミタンニ王女ギル・ヘパをめとったとき、彼女は317人のミタンニの女官を引きつれてやってきた。この結婚から生れたアメン・ホテップ3世はミタンニ王女タドゥ・ヘパをめとっている。
当時の絵画・彫刻が明らかに示しているように、((上エジプトにあった))首都テーベは世界最古のコスモポリスとなった。クレタの商人、シリア人の捕虜と奴隷、フェニキアの船乗りたち、黒人兵、リビアの兵士たち、さらにさまざまの衣装をつけたハッティ、ミタンニ、バビロニア、アッシリアなどの国々の使節たちが、波止場を市場を街上を、あるいは徒歩であるいは輿に乗って往来していた」
序章で紹介したメレネプタ王墓の人種壁画は、この新王国の、しかも最も後期のものだった。壁画に描かれたのは、この国際化時代の王族である。本来のアフリカ人と、少しくらい形質を異にし、肌色がうすくなっていても、全く不思議はない。むしろ、まだまだアフリカ的だ、と評価すべきであろう。
この時期の典型をなすアメンホテップ4世、またの名をアクン・アトン(前1370〜1352)は、「アマルナ革命」とよばれる宗教改革を試みた。太陽神アトンの一神教が強制された。この一神教の思想は、ユダヤ・イスラム・ゾロアスター教のように、セム的ないしオリエント的背景を持っている。古代エジプトのアフリカ的伝統は、宗教的にもくずれようとしていた。そして事実、この王朝期には、ミタンニやヒッタイトの内政干渉がみられた。当然、オリエントからの侵入は、はげしくなった。
第19王朝(前1320〜1200)末期には、シリア人のファラオも出現した。地中海岸には、国籍不明の「海の民」が出没し、エーゲ海諸国を掠奪し、リビア方面からナイル河谷にも攻めこんできた。
これにつぐ時代は、デカダンス(前1200〜330)とよばれている。アッシリアの侵入が、何波にもわたってつづいた。第25エチオピア(クシュ)王朝は、アフリカ大陸の内部からの、最後の反撃であった。この王朝は、人種形質上のバランスをいささか回復したかもしれない。しかし、アッシリア、つまりオリエント勢の攻撃は、やがて効を奏し、エチオピア人(アイティオプス)の一族は、アフリカ内陸へと撤退した。撤退したのは、エチオピア(クシュ)王朝の王族だけではない。ヘロドトスによれば、こののちの第26王朝期に、「エジプトの士族であった……24万のものたちが、王にそむいてエチオピア側に走った」。この士族たちも、おそらく、エチオピア人の直系だったのではないだろうか。  
第7章-9 ギリシャ・ローマ時代

 

ナイル河デルタ地帯に本拠地を持つ第26王朝は、アッシリア人を撃退した。エジプトの独立は、一時回復された。
この第26王朝(前663〜525)のあとには、前後2回のペルシャ支配があり、通算約半世紀つづく。
だが、このペルシャ支配の時期も含めて、大勢はすでに、ギリシャ・ローマ全盛期にさしかかっていた、と考えてよい。というのは、ヴェルクテールの表現を借りると、第26王朝の軍事力の中心は、「外国人たち、つまりギリシャ人傭兵たちなのだ。……国内経済すら、ギリシャ人植民地の設立のよって変形されている」。
[ローマ帝国時代の北アフリカ植民都市]
ギリシャ人植民地の規模はどれほどかというと、すでに紀元前570年頃、現在のエジプト軍をうちやぶるだけの力を持っていた。
ヘロドトスによれば、キュレネへの、最初の植民は、「2隻の50橈船」で送り出された。訳注によると、「50橈船の定員は約80人であったから、移民の数は200を越えなかったわけである」。だが、その後に神託があり、「ギリシャ人が大挙してキュレネに集った結果、多くの土地を削り取られた近隣のリビア人」との間に、紛争が生じた。
リビア人は、エジプトに応援を求めた。しかし、ギリシャ人の植民者に、ギリシャ人傭兵隊をさしむけるわけにはいかない。そこで、エジプト人の正規軍が出動した。ところが、この正規軍が、キュレネのギリシャ人に負け、それを契機にして、ファラオが一将軍から王位を簒奪される、というさわぎにまで発展した。
キュレネに派遣されたエジプトの正規軍の数は、単に「大軍」とされているだけであるが、推定、数万としてよいだろう。そして、キュレネのギリシャ人の戦力も、同程度だったといえる。
というのは、ヘロドトスによれば、この事件以後、「リビア人は交戦してキュレネ軍を破ったが、実に圧倒的な勝利でキュレネ軍7千の重装歩兵がここで戦死を遂げた」。戦死者は、当時の戦争では、何割かであろう。皆殺し戦争というのは、古代では大変な騒動である。何万人かの兵士のうち、7千人が戦死したと考えてよいだろう。
キュレネは、これらの戦争以後も、独立植民都市として発展した。しかも、この衝突以前に、キュレネからわかれて、別の植民地をつくった一派もいる。これらのことから、すでにギリシャ人植民者が、10万人を越えていた、と推定してもいいだろう。
このようなギリシャ人の植民地は、地中海岸の北アフリカ一帯にひろがっていった。ペルシャ支配、アレクサンドル以後のギリシャ支配、ポエニ戦争以後のローマの進出などによって、ギリシャ・ローマ型の植民都市は、ぞくぞくと建設された。
すでにのべたように、これらの植民地は、広い面積をつかう、「乾燥農業」の方式をとっていた。だがそれは同時に、「奴隷制大農場経営方式」でもあった。では、ギリシャローマ型植民地に、大量の奴隷を供給したのは、どの地方であったのだろうか。
ギリシャ・ローマ時代の主要な奴隷は、やはり、アフリカの黒色人ではなかった。たとえばシュレ=カナールは、アフリカ大陸の南方から、黒色奴隷がつれてこられたという可能性を否定しており、つぎのように書いている。
「〈黒人奴隷のキャラバン〉が沙漠を横断してカルタゴの市(いち)へきたという、よくいわれる仮説には、なんらはっきりした根拠はない。これは、奴隷貿易を〈伝統的な風潮〉のごとく見せかけて、それを正当化しようとする、多少とも意識的な試みにすぎない。ローマで黒人奴隷の数がいちばん多かったのは、アントニヌス朝の時代(紀元2世紀)らしいが、その頃でも、貴族のあいだでは、黒人奴隷をもっていることが、格式の高さを示すしるしになった。この程度の〈奢侈〉貿易をまかなうには、サハラの辺境地帯(とくにガラマント族の地方。ガラマント族は〈ベルベル人〉だが、色は黒い)を侵掠するだけで十分だったはずである」
シュレ=カナールは、ガラマント人またはベルベル人を、白色人系に分類している。この点に関しては、わたしは反対である。しかし、それ以外の点については賛成したい。
ローマ帝国の主要な奴隷供給源が、北方のゲルマーニアにあったことは、だれひとり否定するもののない事実である。たとえばカエサルは、紀元前55年の「北方諸族の討伐」に当って、「百夫長」全員の会議を開いた。それは、つぎの事態が発生したためだった。
「ゲルマーニー人が法外な体格を持ち、信じられないほど勇気があり、戦争にきたえられていると伝えたガリー人や商人……の言葉を聞いたり、それを味方が問いただしたりしているうちに、不意に大きな恐怖が全軍をとらえ、すべてのものの士気、精神を全くかき乱した」
カエサルは、百夫長たちを痛烈にアジった。彼は自分の演説を再録しているわけであるが、その中で、こう語っている。
「この敵についてはもう先代の頃に経験がある……つい先頃イータリアで我々から実践と訓練を受けて強くなった奴隷の叛乱でもためされた」
「この敵」、つまりゲルマーニー人と、奴隷とが、ここでは同一視されている。「奴隷の叛乱」とは、一時は12万の兵力に達したもので、スパルタクスの奴隷反乱として有名なものである。ローマ人は、この叛乱軍を、ゲルマーニー人と同一視してた。
ただし、正確を期しておく必要もあろう。ローマの奴隷は、ゲルマーニアを主要供給地とはしていたが、ほかからも供給された。古代の奴隷制度は、人種差別をともなってはいなかった。土井正興の『スパルタクス反乱論序説』によると、この他の奴隷出身地には、現在のフランス、ギリシャ、トルコ、シリア、北西アフリカ、スペインなどがある。
土井正興が、数字をあげているのは、1ヶ所だけだが、以下、つぎのようになっている。
「ゲルマン人が大量に奴隷にされたのは、……約15万人……捕虜にされたときであり……ローマ人とゲルマン人との間では、その後も、闘争は継続……その度に捕虜として奴隷がもたらされたであろう。このような、戦争奴隷以外に、前2世紀半ころから、奴隷商人により奴隷として、ローマ人にうられるゲルマン人かなりあったと推定されている」
ところで、北アフリカの植民都市へは、奴隷だけでなく、市民も送りこまれた。たとえば弓削達は、次のように書いている。
「カイサルの植民政策におけるもう一つの注目すべき点はローマの無産市民8万人を海外に送り出したことである」
このカイサル、または、シーザーの時代の植民者の送り先は、よくわからない。だが、これにつぐアウグストス帝の時代の植民者は、「大部分が退役兵によるものであり、全体で30万人の植民者がアフリカ、シチリア、マケドニア……に送り出されたという」。ここでは、「アフリカ」が筆頭にあげられている。また、「退役兵」とあるが、これは奴隷の出身者を大量に含んでいる。ローマ帝国は、スパルタクスの叛乱に学んで、強壮な奴隷を兵士にとり立て、軍務が終れば自由民にする、という制度をつくっていたのである。
材料はまだ少ない。ゲルマン人の奴隷が直接アフリカに送られた、とわたしは考えるのだが、奴隷に関する資料は、大体、とぼしいのだ。それでも、おおまかな動きは、北ヨーロッパからイタリアへ、イタリアからアフリカへ、と流れていたのはたしかである。
一方、黒色の、本来のアフリカ人は、むしろ同盟者として、アフリカ大陸のローマ植民都市の支配層となり、ローマ市民権を獲得した。
さらに、アフリカ人女性(セム系といわれるが?)が生んだ、色の黒い皇帝さえ出現した。セプティミウス=セウェルス(在位193〜211)にはじまる、セウェルス朝の3代、42年間は、アフリカ大陸の植民都市群の最盛期であった。この王朝第2代のカラカラ帝は、212年の勅令で、帝国内の全自由民に、ローマ市民権を与えた。
前7世紀ごろから本格化した、ギリシャ人の植民以来、7世紀半ばの、イスラム支配の開始までで、13世紀、前332年のアレキサンダーによる征服以来でも、優に10世紀近くの期間になる。この間、429年には、ゲルマン系のヴァンダル族が北アフリカに侵入し、建国した。
北アフリカ各地に残る、ローマ時代の巨大都市遺跡の研究をすれば当時の人口の推定は可能であろう。そのころの北アフリカ一帯は、むしろ穀倉地帯であった。農業奴隷の数と、出身地も、いづれ、正しく確定されるであろう。
さて、ローマ時代に繁栄した北アフリカの植民地としては、約10都市が挙げられている。アテネの総人口が約50万人であったことからすれば、全住民数は約5百万、おそらく1千万人は越えていたであろう。優に、ナイル河谷の住民数に匹敵するものである。そして、北アフリカの住民とエジプトの住民とは、アラブ時代の、新しい秩序の下に、かきまぜられてしまった。  
第7章-10 イスラム支配

 

アラブの支配層は、人種的にみて、エジプトや北アフリカ一帯の住民と、そんなにかけはなれてはいなかっただろう。また、エジプトには、イスラム支配以前からの古い階層が残っていて、人種的にも複雑な構成がみられたにちがいない。だが、それらの要素は、イスラムの、新しい中世的社会構成の中で混合されていた。
むしろ、この時期のポイントは、イスラム世界の繁栄が12世紀以上もつづいたことにある。そしてその間、絶え間ない家内奴隷の流入がつづいた。では、家内奴隷の供給地は、どこだったのであろうか。
ヨーロッパ系の学者は、ここでも大方、ためらいをみせる。しかし、ヨーロッパの近代美術、ロマン派文芸の主要テーマのひとつに、トルコ帝国の、ギリシャ系オダリスク(ハレムの女奴隷)があったことは、周知の事実である。それゆえにこそ、バイロンは『海賊』を書いたし、みずからギリシャ独立戦争へとおもむいた。奴隷といえば、黒色人が連想されるようになるのは、つい最近、18世紀ごろからの現象にすぎない。それまでは、むしろ逆だったのだ。
イスラム世界への、主要な奴隷供給源は、やはり、ヨーロッパ大陸にあった。そして、アフリカの内陸には、サラセン帝国よりも古い歴史をもつ強大な帝国が繁栄しており、断じて、奴隷狩り地帯ではありえなかった。スーダンにはフング帝国、チャドにはボルヌ帝国、西アフリカには、ガーナ、マリ、ガオなどの諸帝国が、興亡の歴史をくりひろげていた。
たとえばシュレ=カナールは、アラブ・トルコ時代の奴隷制度について、つぎのように書いている。
「ガーナやマリの最盛期に、黒人奴隷――独立の部族のなかからさらってきたもの――がアラブ世界に売られていたことはたしかであるが、アラブの著作家のものを見ても、この貿易がとくに大々的にやられた証拠はどこにもない。当時のアラブ世界には、ヨーロッパからきた奴隷もいた。キリスト教徒は、キリスト教圏の辺境地帯からさらってきたゲルマン人やスラヴ人の〈偶像教徒〉を、良心の呵責もなしに〈異教徒〉に売りとばしていたのである。黒アフリカからの奴隷輸出は、規模からいっても、こうした取引を凌駕するものではなかったし、たぶんそれよりも小規模だったにちがいない。……当時、アラブ諸国むけの宦官の製造は、ヴェルダン((パリの東方、ドイツ国境より))の町のもっとも活発な産業部門をなしていた。ヴェネチアも、アドリア海岸のスラヴ人を使って、ながいことこの商売をやっていた。奴隷という名前自体、このスラヴ人の名称からきたのである。……アラブ世界の奴隷制は――アメリカ植民地とちがって――生産面で大きな役を演じておらず、主としてハレムや大家に妾や召使いを供給するためのものだった。
しかも、この貿易は片面貿易ではなかった。マリの皇帝の小姓のなかには、エジプトで買いいれた白人奴隷もいた」
シュレ=カナールの記述は、主に西アフリカ方面を対象としている。だが、東アフリカ海岸の貿易についても、フリーマン=グレンビルが、同様な主張をしている。
「奴隷については中世の文献でそれにふれているものはごくまれである。15世紀のインドに東アフリカ人の奴隷がいたとしても、どこか他のイスラム世界にも多数がいたとは考えられない、ほかにも豊富な源、とくにカフカース〔黒海とカスピ海のあいだの地方〕とか西部アジアとか、があり、そこから供給できたであろうから」
さらに、オスマン=トルコは、バルカン半島を征服し、オーストリアに迫った。バルカン半島は、当時最大の奴隷供給地となった。
しかも、バルカン半島の住民によって、オスマン=トルコ最強の奴隷軍団、イェニ=チェリが組織され、北アフリカにも配置された。この軍団の兵士は、バルカン半島の住民のなかから、5年ごとに、健康で美貌の少年を選抜し、強制改宗と特殊訓練とによって、最も狂信的なイスラム親衛隊員にきたえあげたものである。最大時は、14万人に達した。この伝統は、確実に300年は続いている。
以上のような、イスラム時代の人口動静も、「南方からの黒色人奴隷」という、政治的俗説によって、なおざりにされてきた。いづれは正しい方法にもとづいて、相当に適確な推定がでてくるであろう。たしかに、シュレ=カナールのいうように、家内奴隷の人口的比率は、後世のアメリカ大陸における農業奴隷のそれにくらべると、少なかったであろう。しかし、この制度は12世紀にもわたって維持された。
アラブ・トルコ時代には、奴隷も一定の時期がくれば、自由民になれた。そして、長期間にわたる混血によって、北アフリカ、ナイル河谷の住民の人種形質は、徐々に変っていった。
そこへ近代ヨーロッパの学者がやってきた。ヒエログリフの解読で有名な、フランス人のシャンポリオンもその一人である。シャンポリオンは、ヒエログリフ解読という偉業をなしとげた。しかし、もうひとつの注目すべき「発見」をした。彼は、古代エジプト人は、「黒色人種(ラス・ネグル)」ではない、という奇妙な論理を「発見」した。それは、どういうことだろうか。  
第7章-11 シャンポリオン

 

シャンポリオンは、それなりに誠実な、古代言語の研究者である。だから、誤訳や曲訳によって、古代人の証言を、否認したりはしなかった。
そのかわりに、新しい論理を発見した。つまり、「肌の色が黒く、髪の毛が縮れている」という、この二つの特徴だけでは、黒色人種(ラス・ネグル)と決定はできない、という主張をくみたてた。シャンポリオンは、古代エジプトの記録の解読に成功したと同時に、古代エジプト人は、本来のアフリカ人ではない、と主張しはじめた。それはどうしてだろか。どういう事情の下に、こういう不思議な考え方がでてきたのだろうか。
まずシャンポリオンは、「有名なヴォルネイ」という表現を使っている。すでに紹介した18世紀の旅行家ヴォルネイの主張、つまり古代エジプト人は黒色人種(ラス・ネグル)なり、という主張を無視できなかったわけである。しかも、シャンポリオン自身の文章から察するに、ヴォルネイの主張は、当時のフランスで、ほぼ定説化していたらしい。政治的背景としては、フランス革命がある。ヴォルネイは、古代文明の建設者と同一人種である人々を奴隷にするのは誤りである、という見解ものべていた。また、フランス本国では、いち早く奴隷制度が廃止された。もっとも、植民地では、なかなかどころか、ますますひどくなった。それはともかく、パリあたりの知識人は、科学的な思考方法を身につけていたし、相当程度に人種偏見を克服していた。実際、素直に歴史を考え、事実をみるならば、古代エジプト人がコーカソイド(白色人系)などであるはずがない。
しかし、シャンポリオンは、なぜか、このフランス革命期の、明晰な論理に刃向いはじめた。そして、1892年、次のような手紙を、エジプトのパシャに送った。パシャとは、トルコ帝国の太守の意味だが、事実上、独立王国の君主であった。
「ある見解によれば、古代エジプトの住民は、アフリカの黒色人種(ラス・ネグル)に属するというのですが、それは長期にわたって真実として採用されてきたものの、誤解です。……ヴォルネイはその主張を補強するために、ヘロドトスがコルキス人について考えた時、エジプト人の肌の色が黒く、髪の毛が縮れているのを連想した、という例を引合いに出しています。しかし、この二つの肉体的な形質は、黒色人種(ラス・ネグル)を特徴づけるためには、充分なものではありません。そして、ヴォルネイによる、エジプトの古代住民を黒色人(ネグル)起源とする結論は、明らかに強引であり、認めることはできません。」
なぜ、こういう手紙を書いたのだろうか。シャンポリオンとエジプトのパシャとの関係は、どのようなものだったのだろうか。
これからあとは、状況証拠による推理しかない。こんな事情を書いた本は、全く見つからなかった。最小限いえることは、シャンポリオンの調査活動が、パシャの援助なしには、不可能だったということである。そこで、エジプトのパシャの血統をなす、モハメット・アリ家について、まず追求してみたい。
鈴木八司は、モハメット・アリ家について、つぎのように書いている。
「1805年にエジプトのパシャとしてオスマン・トルコ帝国から独立したモハメット・アリは、その後1830年にはパシャの世襲権を獲得して王朝をたて、専ら富国強兵の目的のために、エジプトにおける経済発達の計画を実施していった。
モハメット・アリはアルバニアの出身であって、プトレオマイオス家の出身地マケドニアと奇しくも同じ地方である。彼自身エジプトの国語のアラビア語を話さず、かつエジプト人を極端に軽蔑していた。また彼の世襲的後継者たちも同様で、エジプト人の民族主義者などは「強い弾圧をうけたのである。
つまり、当時のエジプトの支配者は、イスラム教徒とはいうものの、人種的にも民族的にも、ヨーロッパ大陸からきた侵入者であった。アルバニア人は、少し浅黒く、捲毛の形質が多い。それにしても、比較的に色の白い支配者が、相当に色の黒いエジプト人を支配し、しかもお互いに憎み合っていた。
また、アリの軍事力の中心は、例のイェニ=チェリの伝統に立つアルバニア軍団であった。その上、主要敵国には、スーダンの黒色人国家、フング王朝があった。アリの三男イスマイルは、1821年にスーダン遠征を試み、フング王朝を降伏させた。しかし、小堀厳の『ナイル河の文化』によると、遠征の帰途、イスマイルは住民に捕えられ、火あぶりにされた。スーダンの黒色人住民は公然と叛乱を起した。そして、「怒ったモハメット・アリは北部スーダンをおそい、一年の間に、彼の軍隊は約5万人のスーダン人を殺し、通りがかりの村々で掠奪をほしいままにした。」しかし、叛乱はつづいていた。
アリは、エジプト人を軽蔑していたし、それにもまして、黒色人を憎んでいた。想像をたくましくするならば、シャンポリオンたちに、「ヴォルネイのように、古代エジプトが黒色人だったなどという邪説を立てるのであれば、調査は許さぬ」、とまで脅かしたのかもしれない。
アリ王家は、近代のヨーロッパ列強と同様の位置にあった。つまり、白色のヨーロッパ人こそが、すべての文化をつくりだしたのだ、という現代神話を必要としていた。エジプトの原住民や、黒色のスーダン人は、被支配者にふさわしい、劣等な人種なのだ、と宣伝する必要があった。
そのようなアリ王家の政治的意図と、シャンポリオンの研究が、なぜ合致してしまったのだろうか。もっともシャンポリオンは、相当に矛盾したことを口走っている。彼は同時に、「縮れ毛と球状毛の頭髪は、黒色人種(ラス・ネグル)の明確な特徴である」、とも書いている。このような矛盾を抱えこみながら、シャンポリオンは、何を求めていたのだろうか。単に、アリ王家の援助を受けるための口実として、人種分類法をねじまげたのだろうか。
わたしは、もうひとつの理由の方が、重要だと推測する。つまり、シャンポリオンは、古代エジプト文明の驚異を、ヨーロッパの近代文明諸国に紹介したかった。古代エジプト史の研究を発展させたかった。だから、古代エジプト人を、当時のヨーロッパ人に、「受け入れやすい」形で紹介したかった。すでに当時のヨーロッパは、反動期にはいっていた。フランス革命は、ブルジョワ革命としての使命を果し、新しい資本主義の秩序が、うちたてられていた。フランス本国では奴隷制度が廃止されたものの、新大陸アメリカへの奴隷貿易は、この時期、最高潮に達していた。フランス人の奴隷商人も、イギリス人に負けず劣らず、この商売をやっていた。
黒色人種は、やはり、19世紀のヨーロッパ人にとって、奴隷の種族であり、劣等人種でなければならなかった。この「現代神話」なしには、ヨーロッパ列強の支配体制は維持できなかった。シャンポリオンが、古代エジプト人は黒色人であった、とこの時に宣言していたら、歴史は少し変ったかもしれない。しかし、シャンポリオンは健康も害していたし、いささかあせってもいた。そのような宣言をすれば、古代エジプト史の研究は、一時頓挫のやむなきにいたったであろう。
そこへ、人類学者のラリイがあらわれた。そして、シャンポリオンは、つぎのように書いた。
「ラリイ博士は、エジプト人そのものの、この疑問に関して、風変りな探索を行いました。彼は沢山のミイラの皮をはいで、その頭骨を研究し、その基本的な特徴を認識した上で、エジプトに住んでいるいろいろな人種の中に、それと合致するものを捜し求めました。彼には、アビシニア人が、すべての点で結びつき、とりわけ黒色人種(ラス・ネグル)は、比較の対象から排除できるように思われました。アビシニア人は、眼が大きく、眼差しは好ましいし(アグレアーブル)、……肌色は銅色にすぎません。」
ラリイが分析したミイラは、明らかに王族のものにちがいない。平民のミイラは、よほどの条件がなければ、みつからないからだ。どの時代のものかも、全く不明だが、すでに王族の混血や、都会化による人種形質の変化について指摘をしたので、ここでは再論はしない。
興味深いのは、「好ましい(アグレアーブル)」という表現である。実際には、眼球が大きいのが、いわゆるネグロイドの特徴のひとつなのだが、ここでは、「眼差し」という、後天的な習慣による印象が、重視されている。そして、生物学的な人種形質の評価とは全く関係のない、「好ましい(アグレアーブル)」という表現がでてくる。これはどういうことなのだろうか。
わたしは、アグレアーブルの原義が、「賛成できる」(英語のアグリーと同語源)であり、「受け入れやすい(アグレアーブル)」の意でもある、という点を指摘したい。
古代エジプト人は、アビシニア人と同一視されることによって、ヨーロッパ系の諸国に「受け入れやすい(アグレアーブル)」印象をあたえられた。アビシニアのキリスト教徒の問題は、すでにのべた。彼らはまた、古代のエチオピア人(アィティオプス)の直系にすりかえられた。
以上のような、奇妙な人種分類学への道は、シャンポリオンの、ヒエログリフ解読の裏面にひらかれた。しかし、シャンポリオンはすぐれた言語学者ではあったが、生物学者でも、人類学者でも、本来の意味での歴史学者でもなかった。彼の錯誤をとがめず、訂正せず、むしろ、極端なエスカレーションに発展させたのは、専門の人類学者であり、歴史学者であった。
しかし、わたしが採用しているエスカレーションという単語は、ヴェトナム戦争によって、新たな概念を獲得した単語である。それは、つくろいきれぬ破綻を、無理押しで解決しようとする戦法であり、さらに決定的な破綻へとつきすすむ道である。
では、この場合の決定的は破綻とは、なんであろうか。わたしは、このエスカレーションの破綻に確信を持ったとき、また、思いもかけぬ謎が解け、秘められた過去への扉が開かれるのを知った。  
終章 王国の哲学

 

終章-1 エスカレーション  
このエスカレーションの、大まかな有様は、すでにのべてきた。ホモ・サピエンス、新石器文化、農耕・牧畜文化、金属文化、古代文明のすべての段階にわたって、オリエント起源説またはコーカソイド(白色人系)起源説が横行していた。それは、現代版の神話、白色人の文化英雄神話であった。
セネガル人のディオプは、こう書いている。
「実際のところ、西ヨーロッパ諸国の出版物を信じなければならないとすれば、熱帯降雨林の中心部にいたるまで、ぎりぎりの分析をしてみると、黒色人の創造になるといえる文明を、ひとつなりとも見いだそうとするのは、空しい努力だというのである。……
アフリカ文明の起源についての、このような説明は、何らかの策略によって、かの神秘的な白色人種が、この地域に到達し、住みついたという、有りうべからざる証明にたどりつくことなしには、論理的でもなく、承認され得べくもないし、まともに相手にされず、客観的でも科学的でもありえない。学者たちが、彼らの論理の果てに、論理学的かつ弁証法的な演釈((これは皮肉である))によって、ヨーロッパの専門家筋の広くいきわたったところの、《黒い肌の白色人種》という概念に、自らを導いていかざるをえなかった理由は、非常にk簡単に理解できるであろう。このような学説には、現実的な土台が全く欠けているのだから、明日がないものであることは明らかである。この事態は、これらの著述家たちの、客観性と落ち着き払った態度のよそおいの下からすけてみえ、彼らをむしばむ情念によってしか、説明できない」
このようなディオプの宣言は、いささか手きびしすぎたのであろう。セネガルあたりは、「反白色人優越主義」の中心地といわれている。ディオプの本に、たちまちにして、揚げ足取りの批判、というより非難が集中したのは、よくわかるような気がする。
しかし、わたしはそれ以前の、数百年にわたる歴史の歪曲を考えれば、これくらいの皮肉は、当然ではなかろうかと思う。むしろ、非難され、批判されなければならないのは、エスカレーションの推進者である。
たとえば、東アフリカ史を専攻するイギリス人のローランド・オリバーは、『ジンバブウェの謎』と題して、つぎのような論理を展開している。
まず彼は、ウガンダのアンコーレ王国やルアンダ=ウルンディ二重王国のワッシ貴族を、「ハム系の白色人種からなる支配階級」と規定する。ハム系とは、エジプト系というほどの意味である。そして、その出発点は、現代のエチオピア周辺の、『ハム系またはセム系のより小さな王国の一群の中に探し求むべきであると思われる」、という結論をひきだしている。ところが、その証拠は、なにもあげられていない。
要するにオリバーは、何の証拠もなしに、アフリカの黒色人は、白色人の支配階級をいただいていた、つまり、社会組織すら、「白色人種」に教えられた、と主張している。では、なぜ証拠が残らなかったのだろうか。オリバーは、つぎのように説明している。
「この特殊な牧畜民文化のほとんどすべての痕跡は、優秀なバントゥ諸族の文化――そのただなかに、この牧畜文化が浸透していったのであるが――の中に埋れ、消え去ってしまっている」
オリバーは、ここで、巧妙に問題点をさけている。というのは、ワッシ貴族の言語は、完全なバントゥ系言語であり、そこには、いわゆるハム系やセム系からの影響は、全くみいだせないのだ。同じイギリス人でも、シーニーの方が卒直である卒直である。彼女は、ウガンダの支配層をなす民族について、彼らが、「征服された人びとと雑婚し……その人びとのバンツー語を使うようになった」と説明している。
しかし、こういうことは、絶対に起りえない。侵入した支配者が、数的に弱体で、文化的にも劣っていた場合には、文法上の同化が起きる。たとえば、ヴァイキングの一派であるノルマン貴族は、アングロ・サクソンの国を征服した。ノルマン人自体が雑多な集団で、フランス語を借用していたような状態だったから、英語の文法は堅持された。しかし、それ以後の英語には、大量のフランス語の単語が流れ込んだ。しかも、宮廷ではフランス語が、永らく公用語として使われた。
ルアンダ=ウルンディのワッシ貴族、またはアイティオプスの一族は、大昔からバントゥ系の、キンヤルワンダとよばれる言語を使っていた。彼らは、中央アフリカはえぬきの民族だった。
それではなぜ、オリバーたちは、このような無理押しのエスカレーションをしたのであろうか。
そのこたえは、彼自身の文章が語っている。ヨーロッパ系の学者は、アフリカの諸王国を研究するにつれて、その社会にはたらいている基本原理に、気づかずにはいられなかった。たとえば、二重王国制度である。この社会制度が、古代エジプトにも、ソロモンの王国にも生かされていた以上、その起源について、何らかの説明がなされなければならない。
しかし、オリバーたちは、深追いしすぎた。バントゥ系の言語族(終章の扉の図表参照)の壁は、いかにも厚かった。オリバーたちの「白色人英雄神話」の南進は、ここで決定的にはばまれた。車輪は空転し、むしろ、逆転のおもむきを呈しはじめた。
しかもこの、バントゥ語圏の文化には、古代史の深い謎が刻みこまれていた。バントゥ語の文法は、バントゥ哲学、つまり力ある人々の思想を反映していたし、その言語の成立年代をも暗示していた、わたしは、その背景を悟ったとき、おののきを覚えた。  
終章-2 バントゥの思想

 

バントゥ語の基本文法と、バントゥ哲学とは、わたしの推理が当っていれば、すでに紀元前8000年頃に確立されていた。わたしは、この推理の材料が出揃った時に、愕然とした。
だが、同質のおののきの予感は、すでに早くから、ベルギー人のカトリック神父たちをも、襲っていた。神父たちは、ザイール(コンゴ)に布教におもむき、そこでバントゥ哲学に出会い、当惑した。神父のひとり、プラシード・タンペルは、1949年に、つぎのような告白をした。
「われわれは子どもたち、『大きな子どもたち』を教育しているのだと思っていた、そしてこの仕事はらくな仕事だと思っていた。しかし、われわれはいまや突然、一人前の、自分の知恵を自覚し独特な普遍救済の哲学につらぬかれた一種の人間を相手にしていることを知る。そしてわれわれの足下で大地がずり落ちていくのを感じる」
誇り高いカトリックの伝導者に、このような虚脱感を覚えさせたバントゥ哲学とは、どのようなものだったであろうか。それは、得体の知れぬ、神秘的な魔力を持つものだったのであろうか。
そうではない。バントゥ哲学は、まさに普遍的で、一般的で、平明そのものであった。それは、まことに人間的であり、むしろ、神秘を否定したものですらあった。バントゥは、人間のみが持つ力を、確信をもって位置づけていた。思想は、決して頭の中だけでつくられるものではない。それは、人間と自然とのかかわり合い、人間と人間との相克を通じて、つまり、行為を通じて形成されるものである。それゆえ、わたしは、以下に紹介するバントゥ哲学のような思想は、人類文化の基本的な要素を、みずから開発し、発展させた人々によってしかきずかれえなかった、と確信する。
それ以後の、古代・中世の思想のすべては、神を絶対者とし、人間の価値を低めようとした。階級社会の混乱は、思想の混濁を生んでいた。
バントゥ哲学と比較しうるものは、近代になって確立された科学的な、経済学の体系以外にはない。もちろん、バントゥ哲学には、「資本」、「流通過程」、「剰余価値」または「余剰生産」という概念はない。それは、自家生産・自家消費の経済を反映した思想である。また、たしかに、「神」が含まれている。しかし、それは近代科学以前の思想としては、当然のことである。むしろ、その位置づけの軽さ、抽象性に注目したい。
さて、文化人類学者の阿部年晴は、ルワンダ人の学者、アレクシス・カガメの『バントゥ哲学』の研究を、つぎのように要約紹介している。
まず、バントゥ語で、「ントゥ」とは、力である。そして、存在するものはすべて力であり、それは必ず、つぎの四つのカテゴリー(範疇)のいずれかに属する。
(1)ムントゥ。知性を与えられた力というべきもので、神々や人間がこれに属する。
(2)キントゥ。いわゆる《物》であり、動植物や鉱物がこれに属する。《眠れる力》あるいは《凍れる力》とでも言うべきもので、それ自体では活動を開始することができず、ムントゥの働きかけがあるときにのみ、目覚めた力として活動するのである。
(3)クントゥ。いわゆる様式や観念の有する力であり、言葉やリズムはその代表的なものである。ムントゥのみがこの力を操作することができる。ムントゥはこの力を用いて凍れる力、キントゥに働きかける。
(4)ハントゥ。時間と空間。これも一種の力であり、事物を生起させ、配列する。
この「ムントゥ」を人間、「キントゥ」を資本、「クントゥ」を人間のみがもつ労働力、「ハントゥ」を労働期間と生産期間におきかえてみると、まず最初のおどろきが生まれてくる。
たとえばマルクスは、資本を「死んだ労働」とよんだ。そこには人間の過去の労働が、死んだ形、つまり「凍った力」として眠っている、と考えた。そして、その「死んだ労働」は、人間だけがもつ労働力が働きかけることによって、はじめて生きかえり、新しい生産物の中によみがえるのだ、と説明した。マルクスはまた、生産期間を、工場の中の作業工程としてだけではなく、農作物の種まき、栽培、収穫などの期間としても位置づけた。
つぎなる驚異は、この思想体系がバントゥ語族の、すべての文法をつらぬいている事実である。わたしの手元には、スワヒリ語の簡単な文法書しかない。だが、当面はこれだけあれば、基本的な問題点はよくわかる。そして、わたしがそういえることさえ、バントゥ語族、またはバントゥ文化圏の、驚異のひとつなのである。
あの広大な地帯に、なぜ同一語族の人々がひろがっているのだろうか。しかも、スワヒリ語が、共通の国際語として通用するのは、なぜだろうか。スワヒリ語は、東海岸でアラブ語の単語を若干とりいれはしたが、基本的にバントゥ語である。そして、中世のアラブ商人は決して、内陸にはいりこまなかった。わずかに旅行者が見聞をのこしているだけである。ところがスワヒリ語は、ザイールの西海岸でも通用する。それはなぜだろうか。
わたしは、最初に、広大な中世帝国の役割を考えた。しかし、西アフリカを例にとると、そこには、何種類もの国際語がある。つまり、歴史的な諸帝国、諸王国の領域や通商圏のひろがりを反映して、いくつかの地方別に、国際語がわかれている。ところが、バントゥ語族の領域は、あまりにも広すぎる。
スワヒリ語の歴史がどれほど古いものかについては、具体的に書かれたものがない。しかしわたしは、はるか先史時代からの歴史を考えている。スワヒリ語の基本となった言語は、後世になって国際語となったものではなくて、最初からの共通語であったのだ、と考える。なぜそう考えるのかといえば、それは、スワヒリ語の、またはバントゥ語族の文法が、その歴史を語っているからだ。
スワヒリ語の名詞は、接頭辞によって、単数、複数を表わす。しかし、その接頭辞の発音が、つぎの部類に、明確にわけられている。
(1)「人間」部類、……「ムントゥ」
(2)「樹木」部類、……「キントゥ」の中の植物。
(3)「果物」部類、……「キントゥ」の中の収穫物、または生産物。
(4)「事物」部類、……「キントゥ」の中の鉱物、または無生物。
(5)「動物」部類、……「キントゥ」の中の動物(その他を含む)。
(6)「抽象」部類、……「クントゥ」にかかわりある状態(その他を含む)。
(7)「動作」部類、……「クントゥ」がはたらいている状態。
(8)「場所」部類、……「ハントゥ」の中の空間。
以上の分類のうち、「動物」と「動作」だけは、わたしが部類名をおぎなった。また、スワヒリ語は、本来のバントゥ語よりも、すこし簡略化されているらしい。つまり、部類の数がへっている。
さて、なぜこのような文法が発生したのであろうか。これが不思議である。インド・ヨーロッパ語の名詞は、おおむね、男性・女性、中性となっている。これは、男女の分業にもとづくもの、と説明できる。おそらく、戦士型の牧畜民族が、古くからあった母系制の農耕社会を征服した時に、父系制の伝統をきずいたことに起因するのであろう。では、バントゥ語の文法の原理は、どういう社会、どういう経済の上に成り立ったものであろうか。それはまた、いつごろのことだったのだろうか。
わたしがこの疑問を、つきつめて考えたのは、本書の、おおむねの結論をまとめたのちであった。つまり、農耕・牧畜・金属文化の起源地を、バントゥ文化圏にさだめることに、確信を抱いたのちであった。そして、このバントゥの、力ある人々の王国から、どのようにして、新しい文化がひろがり、人々が移住し、各地の狩猟・採集民を同化していったのであろうか、という想像をめぐらしていた。
その時、突如として謎がとけた。コトバであった。力ある人々は、コトバを持っていた。それは彼らの生活を通じて、新しく秩序立てられたコトバであった。
だが、そのコトバとともに、新しい文化を受けとった人々にとっては、コトバは、はじめから存在していた。  
終章-3 はじめにコトバありき

 

「全地は同じ発音、同じ言葉であった」(旧約、『創世記』、11章)。「初(はじ)めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。……すべてのものは、これによってできた」(新訳、『ヨハネによる福音書』、1章)
もちろん、わたしは神の存在を信じない。だが、この時、それまでに暗中模索していたいろいろなコトバの謎が、わたしの頭の中で、湧きたつようにこの1点に流れこんできた。そして、もし、わたしの推理が当っていれば、このコトバは、紀元前8000年頃の人々によって語られたコトバなのだ。
では、それまでにわたしが手繰りよせていたコトバの謎は、どんなものであったか。そのつながりは、果して確かなものであろうか。
まず最初には、すでに紹介したような、アフリカの神話と、旧約聖書の酷似がある。この系譜は、また、シュメールのギルガメシュ叙事詩やギリシャ・ローマの神話のみならず、インドのヴェーダにもみられることが、早くから指摘されている。そして、おそらくは、世界各国の神話、宗教の骨組みにもつながっているであろう。
わたしは、これを背景にして、まず、結論からのべ、あとは、想像をめぐらせることにしたい。
すでに農耕起源のところでのべたように、最初の農耕文化のにない手は、周辺の狩猟・採集民とたたかい、そして彼らを同化していった。その時に、いままでのように、自然から奪うのではなく、人間だけに与えられた能力によって、農作物を育て、収穫をする、という作業を教えなくてはならなかった。人々は、農作物の種類を教え、育て方を教え、果物の種類を教えた。そして、収穫の時期まで、待つことを教えこまねばならなかった。彼らはまた、当然のことながら、自分達の言語で教えた。
この行為、つまり、言語を異にする人々に、新しい文化をつたえる行為が、バントゥ語の文法にきざみこまれ、思想体系をなした。
つぎの段階には何が起っただろうか。人々は、本拠地をはなれて、ひろがっていった。その時にわたしの考えでは、三部族の協力体制ができた。農耕・牧畜・狩猟の三大分業である。狩猟は、まだまだ重要な生産部門だった。かれらは、お互いをどう区別したであろうか。わたしは、一応つぎのように仮定する。発音は、あくまで、説明の都合上のものである。
農耕部族……ケ・ムントゥ
牧畜部族……セ・ムントゥ
狩猟部族……ヤ・ムントゥ
この、ケ、セ、ヤは、いずれも、農作物、家畜、狩猟に関係のある、何らかの総称に由来するものだと考える。最初の総称は、簡単な発音のものだったにちがいない。
ケ、と対応するのは、樹木であろう。スワヒリ語では、木のことを、ティという。日本語では、キであり、英語では、トゥリーである。
セ、については、動物は粘土でつくられた、という神話を参考にする。スワヒリ語の文法でも、動物は、「事物」のあとになっている。そして、物は、トゥである。ドイツ語のディング、英語のシングが対応する。
ヤ、については、狩猟をする場所を考えてみる。スワヒリ語で、場所を、ハリという。日本語の、ノハラ、ハラッパ、英語の、フィールドが対応する。だが、日本語に、ヤマ、ヤブもある。そして、紀元前2300年頃の、ハルクーフの碑文には、「ヤムの国」とか、「ヤムの首長」という単語がでてきた。そこで、ハリ、アリ、ヤリ、ヤミ、ヤム、ヤブというような、発音のつながりを、想定しておく。
ともかく、以上のような、基本的な単語のつながりは、意外に深いものである。いずれは、アフリカの言語学者が、材料をそろえて、解決してくれるのではないだろうか。
人々は、三大分業の連絡をたもちながら、各地にひろがっていった。行手には、農作物を荒し、家畜を奪いとる人々が、まちかまえていた。三部族の協力は、身を守るためにも必要であった。そして、その協力関係は、それぞれの部族が強大になるまで、維持されなければならなかった。
ところで、ノアの息子は、ハム、セム、ヤペテであった。古代エジプト語では、ハム、セムは、ケムトゥ、セムトゥであった。これは、ケ・ムントゥとセ・ムントゥがちぢめられたもの、と考える。
ヤペテは、すぐにはわからなかった。だが、ヤ・ムントゥを、ヤブ・ムントゥだったと想定すれば、ヤブ・ムト、ヤベテ、ヤペテの変化は、説明できる。
さらに、古代エジプトの最初のファラオとされているメネスは、ムントゥであろう。つまり、神ではなく、人間である。そして、序章で紹介した「ケメト」の論争は、両者の主張とも、間違いだと判断する。ケメト、またはケムトゥは、黒い人間でも、黒い土地でもなく、誇り高き農耕文化の持主のことであった。
では、古代エジプトの王族が、レムトゥ・ケムトゥと名乗ったのは、どういうことだろうか。
わたしはこれを、ケムトゥより出でたるレムトゥ、と解釈する。レ、とは、太陽神ラーのことである。ラーは、すでにのべたように、畠作物の神であった。ケムトゥは、本来、樹木性農作物の栽培者であった。その中から、新しい段階の畠作農耕部族、レムトゥが出現し、最有力となったのだ。
では、このようなバントゥの部族は、ナイル河谷以外にはひろがらなかったのであろうか。そして、コトバは、人々とともにつたわらなかったのであろうか。  
終章-4 地に満ちよ

 

古代エジプト人は、スーダンの北部を、ター・セティとよんだ。また、この地帯に、セツーとよばれた古代国家もあった。そして、ター・セティが、カセット、クシュと変化したもののようである。クシュ帝国の自称は、まだわからないのである。
セティやセツーは、セムトゥーの変化であろう。そこは、牧畜部族の土地だった。セムトゥは、いろいろな場所にいた。旧約聖書のカナンの地は、おそらくサハラであろう。そして、サハラに永らく栄えていたガラマント王国の名称と、関係があるのではないだろうか。ガラム、カナム、カナン、である。しかし、「カナンの地はききんが激しく」、人々は、「エジプトに下(くだ)るのを恐れてはならない」と教えられた。だが、「羊飼はすべて、エジプトの忌む者」であった。つまり、南国境フィラエには、「家畜を連れてこの国境を越えてはならない」という石碑まで建てられるようになった。人々はそこで、「ゴセンの地に住まわせてください」、とパロにたのんだ。つまり、ナイル河上流域にあったカセット(ター・セムトゥ)、カセン、ゴセンへの移住の許可を、ファラオ(パロはファラオと認められている)に求めたのである。
ユダヤ史学者の小辻誠祐によれば、セム系諸民族は「言語及び人種の特徴」からして、アフリカ大陸からアラビア半島に渡ったものと説く学者が、早くから何人もいた。小辻誠祐の『ユダヤ民族――その四千年の歩み』という本は、すでに1943年に出版された本の改訂版である。詳論はさけるが、いまや、この説以外に成立する学説はありえなくなってきた。わたしは、いわゆる大言語族の系統を、全く別々のもののように説く学説も、近く完全に破綻するものと考える。そして、新しい言語体系は、アフリカ人の学者の輩出によって、バントゥ語に出発点を置いたものとなるであろう、と考えている。
さて、セムトゥは家畜の群と一緒なので、最初の移住範囲は限られていた。だが、ケムトゥとヤムトゥ(ヤ・ムントゥ)とは、身軽だった。たとえば日本列島に、クマソ、クマノ、ケの国、ヤマトという地名がいたる所にあるのは、彼らの移住の証拠ではないだろうか。
一方、人々を意味するバントゥは、ヨーロッパで、マント、マンに変り、アジアで、ピンヅー、ヒンヅー(インド)となり、ヒント、ヒトになった。
レムトゥは、ケムトゥ一般よりも、あとから本拠地をはなれた。だが、彼らは耕地面積を広くつかえたので、有力な部族になった。オリエントには、レバント(シリアの古代名)の国ができた。中国では、レント、レン(人)が、人間を意味するようになった。自分の国をレーベンとよんだ人々もいて、中国人はこれに、日本という字を当てた。
ギリシャの各地には、語尾に「ントス」がつく地名が多い。この意味はギリシャ語ではとけず、先住民のつけた地名だとされてきた。しかしこれも、ムントゥ、ントゥ、ントス、の名残りであろう。たとえばコリントスは、コルン(角)・ムントゥかもしれない。角のあるウシ、ヒツジ、ヤギを飼う人々、もしくは、家畜用のムギ類を主食にするようになった人々ではなかろうか。ドイツ語のケルン(穀物)、英語のコーン(同)は、ともに、コルン(角)と関係がありそうだ。
たとえばエンゲルスは、家畜用の穀草を栽培するのが、農耕のはじまりだったのではなかろうか、と推測した。現在では、農耕文化が先行した、という考え方が大勢をしめている。しかし、エンゲルスの推測は、いったん遊牧化した民族が、ふたたび定着する際に生じた、二次的な農業社会での出来事、という想定に生かされてもいいのではなかろうか。
もっとも、このコルン・ムントゥ、または、コルムトスは、レムトゥの出身かもしれない。ローマの伝説は、ロムルス・レムルスの双生児による、建国をつたえている。しかし、これは後代の解釈であって、レムス、すなわちレムトゥより出でたるロムルスの国であり、ロムルスはコルムトスが、ホロムルス、ロムルスとなまったものではないだろうか。
これとは別に、日本のカミや、アイヌ民族のカムイを、トルコ・モンガムのカム(シャーマン)に結びつけている学者もいる。そのもとは、ケムトゥではなかろうか。それも、ケムトゥが金属精練の秘法を知り、それが、ケムトゥの秘法、アル・ケミアとよばれたこととに由来するのではないだろうか。いわゆるシャーマンは、鉄鍛冶師なのだ。
ふたたび、コトバに立ちかえってみよう。コトバとはなんだろうか。それは単語のことではなくて、思想体系だったのではないだろうか。日本語のコトバを、アラブ語のキタブに結びつける人もいる。キタブは、本そのもののことではなくて、本に書かれた内容、つまり、思想体系としてのコトバの意味である。
わたしは最初、コトバを、人の道、つまりムントゥまたはバントゥの道と考えた。そしてムントゥが、キントゥ、クントゥ、ハントゥを支配するための教えであり、キ・ク・ハの関係を説明したものではなかろうか、と推測した。この可能性もあるだろう。
しかし、より行動的に、ケ・セ・ヤまたは、キ・タ・ヤブの三部族の、協力を説いたものと考えてもよい。そして、それぞれの部族または、その三部族の要素を持った民族集団同志は、お互いにコトバが乱れないように、つねに交流を絶やすな、とおしえられたのではないだろうか。旧約聖書の構成には、どうもそのような気配がある。遊牧民族の伝承のつねとして、農耕にかかわる部分は、かなり抽象化されている、しかし、ユダヤ民族は、セムの子孫なのに、ハムの子孫の系図も、くわしくつたえている。出会った民族と、コトバをあわせる、という習慣があったのではないだろうか。そして、キリスト教のカテキズム(宗教問答)も、キタブ、カテヒ、カテキ、と変化したものではないだろうか。
少ない材料では、これ以上の推測はできない。しかしわたしは、きっと、はじめにコトバがあったのだ、と思いはじめた。そのコトバは、力の哲学であった。コトバによって、人々は力を振いおこし、ある時ははたらき、あるときはたたかった。日本では、その重要なコトバを、ヒミ(秘み)コトバとか、イミ(忌み)コトバとよんだ。秘めると、忌むとは、同じ語源をもっている。ヒミコトバは人格化されて、ヒミコとなり、イミコトバは、ミコトとなった。一方は、女性に結びつけられ、他方は、男性に結びつけられたのではないだろうか。そして、ヤマトタケルノミコトとは、ケムトゥの土地のヤムトゥの秘めたるコトバ、だったのではないだろうか。
わたしの推測は、当を得ていないかもしれない。しかし、これが本当に証明されたら、どんなに素晴らしいことだろうか、と思わずにはいられない。そうすれば、「人間はひとつの家族」というコトバは、抽象的なものから、はっきりと具体的なものになるだろう。
だがそれにしても、最初の意識的な、法則的なコトバをつくったのは、バントゥの中の、どういう人々だったのだろうか。  
終章-5 インクルレコ

 

わたしは、最初のコトバをつくったのは、バントゥの母親たちだ、と考える。バントゥの年老いた母親たちは、眠れぬ夜を星空の下で語り明かした。夜空の星々には、バントゥの祖先の霊がやどっており、彼らの子孫を見守っているはずだった。
紀元前8千年、アフリカ大陸には、湿潤期が訪れようとしていた。バントゥは、いつかこの日がくることを、信じていた。いつか神の怒りがとけ、許しの日が来ることを、バントゥは信じ、語りつたえていた。彼らは、植物を育て、火によって土を変え、動物を飼い馴らしてきた。この努力はいま、神に通じた。先祖たちが勇壮な狩りをした草原は、いま青々とよみがえりはじめた。野生の動物たちも、ようやくふえはじめた。
だが、年老いた母親たちは、心配だった。男たちはまた、狩りにでかけはじめた。男たちは、また、昔のくらしをなつかしがりはじめた。狩りをする男たちは、ふたたび、猛々しくなりはじめた。植物を育て、動物を飼いならすことによって、やっと平和な日々がおとずれた。しかし、このままでは、また昔のような、たたかいの日々がくりかえされる。
コトバが必要だった。子供たちにコトバを教えるのは、母親の仕事だった。年老いたバントゥの母親たちは、星々にやどる先祖の霊に祈り、たがいに語り合い、新しいコトバを考えた。
人間だけがもっている力、それは、クントゥである。人間はクントゥを用いて、ハントゥの中で、キントゥを変えるのだ。奪い合い、争い合うのは、人間のしわざではない。それは、本当の力を知らない、動物がすることだ。そして、人間は、たがいに協力し合わなくてはならない。たとえ、地の果てにひろがろうとも、おたがいの血のつながりを忘れてはならない。
バントゥの母親たちは、このように考え、星空の下で、たがいに語り合い、新しいコトバをつくった。
コトバはこうして生み出された、とわたしは考えたい。そしていま、人々は、新しいコトバを必要としている。より複雑化した社会にふさわしいコトバは、あらゆる形でつくられている。だが、そのコトバを、すべてのバントゥ、すべての力ある人々のふるさとに立ち帰って、語らなくてはならないだろう。そうでなくては、それは本当に生きたコトバには、なりえないのではなかろうか。
いま、南アフリカ共和国では、バントゥが、アパルトヘイトの最下位におかれ、自由(インクルレコ)を求めてたたかっている、みずからをアフリカーナとよぶ支配層は、バントゥというよび名を、蔑称だと思い込んでいる。しかし、バントゥとよばれる人々こそ、最初の「力ある人々」の、伝統を守り抜いた民族なのだ。
人類はいま、自然を支配し、自然の必然的な暴力から解放され、真の「自由の王国」の扉をたたこうとしている。だが、この歴史的な行進の先頭には、バントゥのインクルレコの旗が、高くひるがえっていなければならないのではなかろうか。バントゥの確信にみちた力、クントゥによってこそ、その扉は押し開かれうるものではないだろうか。  
おわりに
はじめにも断ったように、わたしは、シロウトの身軽さにまかせて、思いきり推理を発展させた。疑わしい点も多いことと思う。しかし、これによって、日本の邪馬台国論争のような、シロウト参加の人類史・アフリカ大陸史論争の、きっかけをつかむことができれば、と希望している。わたし自身も、この本では煩雑さをさけるために省略した言語系統の問題などを、つづいて追求したいと考えている。
それゆえ、たとえ酷評でも、わたしは大歓迎をしたい。ジャーナリストの伊藤正孝が描いた『南アフリカ共和国の内幕』には、在日タンザニア大使官員C・カビエメラの訴えが記録されている。彼は、参加者30人の、アパルトヘイト反対デモ行進に感動し、こう語っている。
「日本人の良心に、とはいわない。好奇心に訴えるだけでもいいから、南アの黒人問題に目を向けるようにしてほしい」
わたしはこの訴えを、「知的好奇心」への要望と受けとった。そして、明確な結論をさけ、論難をさける文章では、この要望に応えることはできないだろう、と考えた。ひとつひとつの問題に、わたしなりの推理を試みてみた結果は、ごらんの通りである。酷評も含めて、やはり、結論をつきつめる批評、論争を望むものである。
 
インカ帝国

 

(スペイン語:Imperio Inca、正式名称:タワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyo))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。首都はクスコ。
インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。
インカ帝国は、被征服民族については比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。  
国名
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、「スウユ」とは、州、地方、場合によっては国を表す。訳すと「四つの邦」という意味である。「四つの邦(スウユ)」とは、クスコの北方の旧チムー王国領やエクアドルを含む北海岸地方のチンチャイ・スウユ、クスコの南側からチチカカ湖周辺、ボリビア、チリ、アルゼンチンの一部を含むコリャ・スウユ、クスコの東側のアマゾン川へ向かって降るアンデス山脈東側斜面のアンティ・スウユ、クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域のクンティ・スウユの4つを指す。4つのスウユへは全てクスコから伸びる街道が通じており、インカの宇宙観に基づいて4つの区分を象徴するよう首都のクスコも設計されていた。
なお、インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉だった。スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使い、次第に国をさす言葉として使うようになった。  
創造神話
インカには様々な創造神話が存在していた。そのうちの一つビラコチャ伝説では次のとおりである。ビラコチャは、村を建設するためにクスコに近いパカリ・タンプ (Paqariq Tanpu) という所で暮らしていた4人の息子(マンコ、アヤ・アンカ(Ayar Anca)、アヤ・カチ(Ayar Kachi)、アヤ・ウチュ(Ayar Uchu))と4人の娘(ママ・オクリョ(Mama Ocllo)、ママ・ワコ(Mama Waqu)、ママ・ラウア(Mama Rawa)、ママ・クラ(Mama Cura))(彼らはアヤル兄弟として知られている)を送り出し、旅の途中にマンコとママ・オクリョの間に生まれたシンチ・ロカが、自分たちのクスコの谷に仲間を導き新しい村が開かれた。また、兄弟姉妹たちはクスコの谷へ遠征しながら近隣の10の部落を併合していったとも伝えられている。この時、支配者の象徴である金の杖が父ビラコチャによりマンコ・カパックに与えられたとされるが、一説にはマンコ・カパックは兄を嫉妬と裏切りで殺してクスコの支配者になり、マンコ・カパック(Manco Capac)として知られるようになったとされる。
別の起源神話であるインティ伝説では次のとおりとなる。太陽神インティがチチカカ湖の深みから出てくるよう命じると、湖の中からマンコ・カパックとママ・オクリョが生まれた。彼らは兄弟たちとともにパカリタンボ (Pacaritambo) という洞窟からこの世に遣わされたともいう。インティはタパク・ヤウリ (Tapac Yauri) と呼ばれる金の杖を与え、その杖が地面に沈む地に太陽の神殿を作るように指示した。マンコ・カパックはママ・オクリョたちとともにクスコの町を建設するために地下の道を通って北上し、クスコで父インティを讃える神殿を建設した。クスコへの旅の途中、何人かの兄弟は石になり、偶像(ワカ : Huaca)になった。彼らは、クスコ下王朝(クスコ王国第1王朝)を打ち立てた。
また、別の説では太陽神インティが地上の野蛮な生活ぶりを哀れんだために息子と娘を地上へ使わしたが、チチカカ湖に降り立った後、金の笏を投げるとクスコ盆地のワナカウリの丘で地中深くに沈んだ。そこで兄妹二人でインティの言葉に従い、クスコに都を築いて周辺の未開な人々に文化を与えてインカ帝国の礎を築く事になったとしており、兄の名前がマンコ・カパック、妹の名前がママ・オクリョ・ワコであった。
マンコ・カパックとママ・オクリョはチチカカ湖にある太陽の島(Isla del sol)に現れたとも、湖の彼方からやってきたとも、天から降り立ったともいわれる。さらにママ・オクリョは太陽の島ではなく隣の月の島(Isla de la luna)に現れたともいわれる。マンコ・カパックは天の神パチャカマック(Pachacamac)の兄弟ともされる。
複数の伝承の矛盾に気づかせないために、庶民はビラコチャの名を口にすることが禁じられていたといわれる。
なお、伝承に残っているインカ帝国の王(皇帝)のうち、この初代のマンコ・カパックだけは実在しない人物であるという説もある。
これらの神話は、スペイン人の植民者により記録されるまで口伝で継承されたと考えられているが、キープに記録していたのではないかと考える研究者もいる。  
考古学
アンデス文明はおそらくBP約9,500年(約紀元前7500年)ころまでに始まったと考えられている。インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上となった。
考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に対応しているという利点があった。インカ以前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。彼らは先行する文化から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。
アンデスの研究者らは、約500年間にわたり偉大な国家権力の行政資本と儀式により栄えたチチカカ湖地方のティワナクをインカ帝国の最も重要なさきがけのひとつとして認識している。
最初のインカの統治者(サパ・インカ)はマンコ・カパックであった。彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、1250年から1438年頃と想定されている。インカは中央高原地帯のクスコで起こり、海岸部に広がっていった。インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王のアイリュに所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后であるコヤとなった自らの姉妹との近親婚によって継続した。インカ帝国の拡張は、おそらくその気候条件の結果である。彼らの高地における資産は、リャマ、アルパカ、ビクーニャに限定されていた。
1445年、第9代パチャクテクは、チチカカ湖地方の征服を始めた。彼は既存の文化、特にチムー文化の様式を、発展させ取り入れた。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の戦斧、投石器、ランス、投げ槍、弓矢、皮革で覆った木製の盾、綿或いは竹製の兜、刺し子の鎧により武装した。攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と台地栽培方式の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積グアノを使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。
彼らは神殿、要塞、優れた道路を建設した。その道路は北部のキトからチリ中部のタルカに至るまで5,230kmにも達した。この道路は帝国の維持に必要であったが、皮肉なことにこの道路網はスペインによる征服をより容易にした。1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、サパ・インカと随行者のために設置されていた。チャスキ(飛脚)が約8km毎に設置され、1日あたり約240kmの割合で緊急連絡をリレーした。口頭による緊急連絡は、おそらく数に基づく符号を含むキープ(結縄)により補われた。これらはヨーロッパで古くに使用されていた割符と同等の物であった。
インカは平等の考えに基づいた社会であった。全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。  
クスコ王国
インカ族=ケチュア族は、12世紀頃にクスコ地方で部族として成立した。マンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ(ケチュア語:Qusqu'Qosqo)に小規模の都市国家を築いた。1438年、彼らはサパ・インカ(最上位の王)パチャクテク・クシ・ユパンキ(パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代のアプリマク県にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。パチャクテクの在位中、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキは、アンデス山脈のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。
我々は、そこがとても美しく、スペインにおいても注目されるであろうほど素晴らしい建築物が存在することを陛下に得心させうる。フランシスコ・ピサロ  
国家の再編とその構成
パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西のチンチャイ・スウユ、北東のアンティ・スウユ、南西のクンティ・スウユ、南東のコリャ・スウユ)とから成り立つ連邦制であった。パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地としてマチュ・ピチュを建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。
パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。  
国土の拡大と強化
伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。パチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキは1463年北征を始め、1471年パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続した。彼の手になった征服中、最も重要であったのはペルー海岸を巡る唯一の真の敵であったチムー王国に対するそれであった。トゥパック・インカ・ユパンキの帝国は、現エクアドル、現コロンビアにまで及ぶほど北に伸長した。
トゥパック・インカ・ユパンキの皇子であったワイナ・カパックは、現エクアドルとペルーの一部に当たる北部にわずかな領土を付け加えた。最盛期のインカ帝国は、ペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、マウレ川以北のチリの広大な部分とを含んでいた。帝国の南進は、マプチェ族による大規模な抵抗に遭ったマウレの戦いの後に停止した。帝国の領域はまた、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいた。しかし、帝国南部の大部分(コリャ・スウユと命名された地方)は砂漠による不毛地帯であった。
インカ帝国は、多言語、多文化、多民族の継ぎ接ぎによって成立していた。帝国の各構成要素は、均一に忠誠であった訳ではなく、地方の各文化は、完全に統合されていたのでもなかった。インカ帝国全体としては、高級品と労働力に対する課税と交換とに基づく経済が存在した。課税方法については、「周知の通り、高地においても平地においても、収税吏に課税された貢納物を支払うことに失敗した村はなかった。住民が貢納物の支払いを肯んじなかった場合、4か月毎に生きているシラミで満たされた大きな羽根を支払うべきであるとの命令をした州さえ存在した。これは貢納物の支払いに関し、教示し馴致させるインカの手法を示している。」という説明がなされている。  
内戦とスペインによる征服
スペインの征服者たちは、フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、1526年にインカ帝国の領土に達した。彼らが大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、その領域の征服と副王就任に係る国王の認可を得た。
1532年に彼らがペルーに戻ってきたとき、ワイナ・カパックの二人の息子たちであるワスカルとアタワルパの間での内戦、新征服地の不安、そしておそらくより重要なことには中央アメリカから広まった天然痘などにより、インカ帝国はかなり弱体化していた。ピサロは当時、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力であり、決して抜きんでたものではなかったため、彼は自らの集団を容易に消し去りうる潜在的な内部対立から逃れるために、しばしば彼のやり方を説明する必要があった。インカ軍に比べスペインの完全防備の騎兵は、技術的に大きく優越していた。アンデス山脈における伝統的な戦闘とは、敵を圧倒するために多人数の士気の低い徴集兵が送られた一種の攻城戦であった。スペイン人は前近代においては最も優秀な兵器の1つを開発しており、イベリア半島におけるムーア人との何世紀にも及ぶ長い戦闘を通じて学んだ戦術を身につけていた。このように戦術的にも物質的にも優越しているうえに、スペイン人はインカの統治から脱しようとする何万もの現地の同盟国を買収していた。
最初の交戦は、現代のエクアドル、グアヤキル近郊の島、プナの戦いであった。その後ピサロは、1532年7月にピウラを建設した。エルナンド・デ・ソトは内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともにカハマルカで休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国のカルロス1世への服従とキリスト教への改宗とを要求した投降勧告状(requerimiento)を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた。
アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中にワスカルは余所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、1533年8月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。  
最後のインカたち
スペイン人たちはアタワルパの弟マンコ・インカ・ユパンキの擁立を強行し、スペイン人たちが北部の反乱を鎮圧する戦いの間は協力関係が続いた。その間、ピサロの仲間ディエゴ・デ・アルマグロはクスコを要求した。マンコ・インカはスペイン人同士の不和を利用することを試み、1536年にクスコを回復したが、スペイン人たちに奪還された。マンコ・インカはビルカバンバに後退し、彼とその後継者たちはそこで更に36年間統治し、スペイン人たちへの襲撃や反乱の扇動を続けた。1572年、インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。
インカ帝国が倒れた後、新たなスペイン人の統治者たちは人々に厳しい苛政を布くとともに、彼らの伝統を抑圧した。洗練された営農組織を含むインカ文化の多くの分野が組織的に破壊された。スペイン人たちは人民を死に至るまで酷使するためにインカのミタ制(労役)を利用した。各家族から1人が徴用され、ポトシの巨大な銀山に代表される金銀山で働かされた。
こうした状況の中天然痘が壊滅的な打撃を与えた。天然痘はスペイン人の侵略者たちが最初に帝国に達するより前にコロンビアから急速に広まった。おそらくは効率的なインカの道路網により波及が容易になったものである。天然痘はわずか数年間でインカ帝国人口の60パーセントから94パーセントを死に至らしめた。 さらに、ヨーロッパから到来した他の病気の波により更に人口は減少した。1546年(推定)のチフス、1558年のインフルエンザと天然痘、1589年の天然痘再流行、1614年のジフテリア、1618年の麻疹、こうしてインカ文化の残滓は破壊された。  
政治
君主制国家で、近親結婚によって生まれた一族による世襲政治である。これは彼らの宗教観から、広く交雑する事で、「皇族」の血筋が汚されると考えたためである。「サパ・インカ(皇帝)」は太陽神インティの化身としても考えられ、当時の官僚は、同時に神官でもあった。臣下が王に謁見するとき、王を直接見ることは禁じられていた。
インカ帝国は前述の通り4つのスウユ(州)に区分されていた。各スウユはいくつかのワマン(県)に、ワマンは1万人の集団ウニュ(村)に分かれていた。ウニュ(村)の長にはインカ以前からの支配者階級が、スウユ(州)やワマン(県)の長にはインカの血をひく上級貴族が任命され、あわせてインカの貴族階級(クラカ)を形成した。
貨幣は用いられておらず、物々交換によって経済活動を行なっていた。
土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は共同体に帰属し貴族ですら私有を認められなかった。この共同体をアイリュと呼ぶ。アイリュの土地はインカ皇帝・太陽神・人民の3つに分割され、インカ皇帝と太陽神の土地に対する労働を行わせ、その生産物を徴収する形態で徴税が行われた。こうして集められた生産物は再分配され、寡婦・老人・孤児などに支給されたり飢饉などの非常時に放出された。この体制は社会主義にも類似したものであった。
それ以外に、鉱山労働や道路の建設などの労役が若干あった。この労役制度はミタ制と呼ばれる。この労役の成果の一つとして、チャスキと呼ばれる飛脚による通信網を確立させていた。この通信網を使って広大な領土を中央集権により統治していた。なお、この通信網の名残として、チャスキという言葉はアンデスのいくつかの場所の地名としていまも残っている。日本で言うところの「宿」のようなものである。
「知識は庶民のためのものではない」という考えのもと、いわゆる文化活動は貴族階級だけに許された行為であった。一般庶民はそれぞれの役務に必要なことだけを教えられ、それ以上を知ろうとすることは禁止されていた。手工業などの技術も貴族によって独占されていた。すなわち貴族が職人として労働に従事していたことになる。  
地理
アンデス高原地帯を中心とする範囲に栄え、ジャガイモやトウモロコシを主な作物とする農耕とリャマ、アルパカによる牧畜が行われていた。また、“クイッ、クイッ”と鳴くことから「クイ」と呼ばれたテンジクネズミも食用として広く民衆によって飼育されていた。広漠とした平野は極めて降雨量が少なく、農耕に適さないために、そこに住む者も稀であったが、高原地帯は海から吹き上げる風によって雲が出来、霧雨が降るため、湿潤な環境となり、農耕に適した。このような気候条件から、今日でも驚異的な高山都市を形成するに至った。  
文化
文字文化を持たなかった(かつては文字を持っていたが、迷信的理由により廃止したという説がある)ため、口語伝承に拠る物が、インカ帝国崩壊後に布教のために入ってきたスペイン人修道士による記録(年代記)の形で僅かに残されているに過ぎず、歴史や文化面で不明確な部分もあり、今後の研究が待たれる所もある。文字の代わりとして、キープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、これで暦法や納税などの記録を行った。近年になって、このキープが言語情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている。
ヨーロッパの技術が伝わるよりも前から、プレ・インカ時代の伝統を受け継いで金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)を精錬する技術を持っていた(いわゆるインカ帝国の金製品は実は合金製であり、そのためヨーロッパ人の侵略により、その大部分が溶かされて純金の延べ板にされてしまった→ワッケーロ)。一方鞴を用いた高温の炉を作れず、鉄の製錬技術は無かった。鉄器と火器を持たなかったことは、スペインによる征服を容易にした。
また、幾何学文様が描かれた長頸の尖底土器が特徴で、チャビン文化などプレ・インカ時代の土器や織物のように蛇、コンドル、ピューマなどの動物をモチーフにしたものは少ない。
海に面した急勾配の土地を利用して段々畑を作り、トマトやトウガラシは低い土地に、寒冷地を好むジャガイモは高地に、と、高度に応じた農作物の多品種生産を行っていた。
峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、王は国中の谷に吊り橋を掛け、石畳の道や階段を作り、その道中に食物の備蓄庫を置いた。急峻な地形であるために人力もしくは家畜(偶蹄目)によって物資を輸送するしかなく、車輪を用いた運搬手段は発明されることはなかった。また野生馬を飼いならし、人や物資の運搬に用いることはなかった。収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、そうして集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得ることが出来た。しかしながら皮肉なことにこのシステムは、スペイン人が食料の補給に困ることなく容易にインカを侵略できてしまった結果を産んだ。
西海岸部の砂漠地帯を領土に取り込んだ際、現地にあったミイラ信仰をとりこんだ。歴代の皇帝はこれを人心掌握や権威の保持など、政治的に利用した。例えば、インカがアマゾンに接した地域を征服する際、その地域ではそれまでは崖の中腹にある穴に先祖の骨を置いて墓としていたが、インカはそれらの骨を打ち捨てて代わりに布を巻いたミイラを崖に安置するようにした。こうして半ば強引に征服地の民衆の心の拠り所をインカの中央政権に刷りかえさせたのだった。また、歴代皇帝は死後ミイラにされて権威が保たれ、皇帝に仕えていた者達はそのミイラを生前と同じように世話をすることで領土や財産を保持した。これは即ち、次の皇帝は前の皇帝から遺産を相続できないということであり、結果、即位した新しい皇帝は自分の財産を得るために領土拡張のための遠征を行わざるを得なかった。代を重ねるにつれ死者皇帝が現皇帝の権威を凌ぐようになり、必然的に各々のミイラに仕える者達の権力も増大。それに対抗するため12代目の皇帝が、それまでの全ての皇帝のミイラの埋葬と、そのミイラとそれに仕える者達の所領や財産の没収を企て、それが内乱へと発展。その混乱の最中にスペインの侵攻があり滅亡した。  
後世への影響
インカ帝国は滅ぼされた後も、様々な影響を後世に残した。インカ皇族とスペイン人のメスティーソだったインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは17世紀に『インカ皇統記』を著したが、この中で理想化されたインカのイメージは18世紀になってから「インカ・ナショナリズム」と呼ばれる運動の源泉となった。「インカ・ナショナリズム」はインディオのみならず、クリオージョ支配層にも共有されて様々な反乱の原動力となり、その中で最大のものとなったのが、1780年のトゥパク・アマルー2世の反乱だった。
南アメリカがスペインから独立する19世紀初頭には、ベネズエラの独立指導者のフランシスコ・デ・ミランダやアルゼンチンの独立指導者のマヌエル・ベルグラーノらにはインカ帝国は新しい国家の立ち返るべき地点の一つと見なされた。特にベルグラーノが主要な役割を果たした1816年9月7日のトゥクマン議会では、新たに独立する南アメリカ連合州でのインカ皇帝の復古、ケチュア語とアイマラ語の公用語化などがスペイン語とケチュア語で書かれた独立宣言に盛り込まれたが、実際にはこのような政策は実現には至らなかった。
独立後のペルーにおいても、現実に存在するインディオが様々な人種主義的被害を受けたのに対し、既に滅びたインカ帝国は理想視され、国民的なアイデンティティの基盤となった。インカは今でもペルーの国民的な飲料インカ・コーラなどにその名を留めている。  
 
「神々の指紋」

 

『ムー』にバカにされたベストセラー
『神々の指紋』(上下二巻、グラハム=ハンコック著、大地舜訳、翔泳社)といえば『脳内革命』とならぶ1996年の代表的ベストセラーである。だが、この本を最初、書店で見かけた時、私はまったく気をひかれるところはなかった。なぜならその中身にまったく目新しいものはなかったからだ。
なにしろ冒頭の古地図の話にしてからが、すでに1960年代、議論されつくした感のある内容のものだったからである。オカルトや超古代史に関心がある人ならば、この手の古地図の話は何度も目にする機会があっただろう。
南米、中米、エジプトの古代遺跡の話にしても古代文明ファンの間ではすでに知られた話ばかりである。最後の終末予言にいたっては「ものみの塔」(エホバの証人)まで持ち出す始末で、オウム真理教事件で世間もオカルトには懲りているだろうに、今時、こんな本をハードカバー、上下巻で出すとは奇特な出版社もあるものだと思った程度だった。
しかし私は間もなく自分の不明を思い知らされることになった。『神々の指紋』は朝日新聞(ふだんオカルトに批判的な立場をとるあの「朝日」である)をはじめとする大手マスコミから次々と好意的な書評を寄せられ、たちまち70万部を越えるヒット作となったのだ。しかも日本語訳が出る前にすでに十二カ国で発売されていたというのだから、世界中でどれだけの人がこの怪しい本を歓迎したか、考えるだに恐ろしいものがある。
ちなみに学研『ムー』1996年9月号所収の「ムー新聞」には「『神々の指紋』がなんだ!」と題して次のような文が掲載されている。
「あの本が出るよりも先に同じ内容の「ムー・ブックス」が出ていたのを知ってます?実は『アトランティスは南極大陸だった!!』と『神々の指紋』の内容はほとんど同じといっていいくらいなのだ。すなわち、われわれはあのベストセラーの原点ともいうべき本を先駆けて出していたのだ。ドーだ、エライだろう。(中略)あっちは上下巻で3000円、こっちはお手頃価格の870円。どうせ同じ内容なら安いほうがいいに決まっているよねっ!」
『ムー』編集者は「ドーだ、エライだろう」と自画自賛しているが、『神々の指紋』とムー・ブックス『アトランティスは南極大陸だった!!』はどちらもチャールズ=ハプグッドなる人物が1966年に出した著作『古代海王たちの地図』を主なタネ本にしているのだから、内容が似ていても不思議ではない。そもそも30年も前のネタを未だに使い回していること自体、あまり自慢にするべきことでもあるまい。
しかし、オカルト本の老舗『ムー』から見れば、どこかで聞いた話ばかりの『神々の指紋』のヒットはいささか合点のいかない事態であったことはうかがえる。  
ようやく出た批判の書
さて、『「神々の指紋」超真相』(以下、本書)はこのベストセラーを分析し「事実の歪曲、都合のよい文章だけ引用、知っているくせに知らないふり、二分法の罠(二者択一を装うが実は真実は別にある)、明らかに誤りと知りつつ引用、読者の無知に便乗、失われた環の詐術、虎の威をかるキツネ、年代のごまかし、ミスディレクション(誤誘導)、そしてイラスト詐欺・・・・・・などなど、およそ考えられる文章トリックのほぼすべてが駆使されている、希代の書物であること」を考証した好著である。その帯には「世界各国で話題騒然、希代のトンデモ本を暴く!まるで手品と一緒、詐術のオンパレード!!」とある。
『神々の指紋』にならって、本書もまた古代地図の話から始まる。16〜18世紀の西欧の世界地図には当時、まだ発見されていなかったはずの南極大陸が描かれている・・・これは『神々の指紋』で重要なツカミとなっている話だが、それに対する回答は簡単だ。
本当のところそれら西欧の地図で南極にあるとされる陸地の形と実際の南極大陸の形はあまり似ていないのだ。ハンコックは、地図作成当時の人々の脳裏から生まれた空想上の大陸を南極のスケッチだと言い張っているのである。
それは注意力のある人なら必ず気がつく程度のトリック、もしくはハンコック(そしてハンコックのタネ本を書いたハプグッド)の感違いだ。
本書では、それをハンコックの懺悔(?)という形式でユーモラスに語っている。
実はハプグッドに重視され、ハンコックもまた太古の南極地理が描かれているとみなしたトルコの古地図(ピリ=レイス地図)には、南極など描かれてはいない。その地図上の南方に広がるのは当時、正確な地理がわかっていなかった南米大陸にすぎないのだ。
また、ハンコックが西欧の古地図において南極大陸とみなしたものはルネサンス時代の空想上の大陸「テラ=アウストラリス」であり、その名は現在、オーストラリアに譲られている。その証拠に、ハンコックによって南極が描かれているとされた西欧の古地図にはいずれもオーストラリアが描かれていないのである。
さらにナスカの地上絵と地元の伝統的な土器の紋様が類似している事実について、ハンコックが隠していること。この事実を認めれば地上絵が現地の「原始部族」の手になるものではないというハンコックの主張は成り立たない)、インカの遺跡でハンコックが南米にいないはずの象の浮き彫りと言い張るものが実はコンドル、絶滅動物トクソドンの像と言い張るものがネコ科の動物(おそらくはジャガーかアンデスネコ)に過ぎないことなど、中南米文明に関するハンコックのごまかし(もしくは無知)を明らかにする。
そして、エジプト関係の論文では、すでにエジプト学の世界で解決済みの問題について、いかにハンコックが未解決の謎にしたてているか、その手口が明らかにされているのである。
そしてハンコックの終末予言と阪神大震災に関する記述を通して、彼にこの書物を書かせた(と推測される)深層心理についても分析を試みる。
「白人優位主義者のハンコックにしてみれば、マヤやインカやエジプトが、あれほど優れた文明を、しかも独自に発達させた、なんてことは金輪際考えられない。超古代文明の創始者はもちろん白人だが、彼らがマヤやインカやエジプトに文明を伝えたと考えると、すべての矛盾は解消される。そして現代においても、黄色人種が支配する日本国が世界に冠たる国になっているなんてことは、何かの間違いか、悪い冗談としか考えられない。だが、今の日本の繁栄はつかの間のまぼろしだ。インカやマヤやエジプトが滅んだように、きっと近い将来、日本も滅亡するに違いない。神戸の地震はその前兆だ。黄色人種の国が繁栄するなどといったことが、神の理にかなっているはずがない。すなわち、神戸の地震は、神がくだした審判なのである。−だからハンコックは、聖書の一節を引用するのとまったく同じ理屈(気持ち)で、神戸地震のルポも引用することができるのだ」
この指摘に疑問を持たれる方はあらためて『神々の指紋』を読み直していただきたい。必ずやその文章のはしばしに人種差別的記述があることを見出すことだろう。  
「インベントリー石碑」について
なお、本書では、ハンコックが「インベントリー石碑」といわれる碑文について「スフィンクスも大ピラミッドも、クフ王が王位につく遥か昔から存在していたということがはっきりと書かれていた」としているのを引用し、次のように述べている。
「この石碑には、スフィンクスや「大ピラミッド」が、クフ王が王位に着く前から存在していたと本当に書かれていたのだろうか。クフ王の大ピラミッドの前からあった「ピラミッド」なら、話は理解できるのだが。・・・・・・(中略)ハンコックさんは、いったいどこから、この怪しげな話を引用してきたのだろうか?」
『「神々の指紋」超真相』スタッフはインベントリー石碑まで調査が及ばなかったようだが、実はその碑文には大ピラミッドがクフ王の時代より前にあったとは書かれていない。この碑文は大ピラミッド東の神殿で発見されたものであり、そこに書かれているのは、クフ王が新たな神殿を建てたということとスフィンクスを補修復興したということである。
すなわちこの石碑が発見された神殿の由来書きとみしてよいだろう。ただし文面にはクフ王がいたエジプト古王国の第四王朝のものとは思えない語彙があるため、実際に石碑が建てられたのは遥か後世、新王国の第十八王朝頃ではないかと言われている。
つまりインベントリー石碑は大ピラミッドについて何ら言及していない。また、クフ王がスフィンクスを補修したとしても、それは必ずしもスフィンクスが「クフ王が王位につく遥か昔から存在していた」ということを示すものではないだろう。エジプト人最初のエジプト学者セリム=ハッサンは、スフィンクスに雷によると思われる損壊とその補修の跡があることを指摘し、インベントリー石碑との関連を推測しているが、そのような事故は建造直後においても起こりうるものだからだ。
インベントリー石碑というあまり知られていない資料を持ち出し、そこにあたかも大ピラミッドのことが書かれているかのように言い張る、これもまたハンコックによるトリックの一例だったのである。  
『オリオン・ミステリー』
さて、ハプグッドとならんでハンコックがタネ本として書籍に最近、日本でも話題になったロバード=ボーヴァルの『オリオン・ミステリー』(エイドリアン=ギルバートとの共著、日本語版はNHK出版刊)がある。ボーヴァルは最近、ハンコックと共著で『創世の守護神』という本まで出すにいたった。
本書でもこの本については「『オリオン・ミステリー』という本がベースにあって、それに数種類の香辛料を加えて『神々の指紋』を作った、というのが正解だ」「第49章は、ほぼ全文が『オリオン・ミステリー』からのパクリである。もっとも、ハンコック流にアレンジされているので、興味のある方はオリジナルの方を読まれることをお勧めする」として言及されている。
実際、ハンコックによる『オリオン・ミステリー』の利用にはいささか問題がある。ハンコックはボーヴァルの説を要約して次のようにいう。
「三つのピラミッドは、信じがたいほど正確にオリオン座の三つ星に対応しているという。それぞれの星相互の位置関係だけでなく、光度までも(建造物の大小を通して)示しているという。さらにこの天空図は南北に広がり、ギザ台地の他の建造物も含むものとなっており、やはり正確に天体の位置を示すものとなっているという。だが、ボーヴァルの天文学の計算がもたらした、真の驚きは別のところにある。ボーヴァルによると、大ピラミッドが天文学的に〔ピラミッド時代〕との関連性を示しているにもかかわらず、ギザの建造物全体の配置を見ると、それらが示している天空図は紀元前二五〇〇年の第四王朝のものではなくて、紀元前一万四五〇年頃のものだという」(『神々の指紋』)
だが、この要約は実はボーヴァルの説の弱点ばかりを集めたものとなっているのだ。
早稲田大学の近藤二郎講師は「巨大ピラミッドとオリオン信仰の謎」(『別冊歴史読本』「謎の超古代文明と宇宙考古学」所収)で『オリオン・ミステリー』に批判を加えているが、それによるとまずオリオンの三つ星の光度と三大ピラミッドの大きさには実際には対応関係はない。ボーヴァルによればメンカフラー王の第三ピラミッドに当たるデルタ星は2・23等と確かに三つ星の内でもっとも暗い。しかし、カフラー王の第二ピラミッドに当たるというイプシロン星は1・70等、クフ王の大ピラミッドに当たるというゼータ星は2・05等と、これでは大ピラミッドの星の方が第二ピラミッドの星よりも暗いということになってしまうのである。
近藤講師は「彼(ボーヴァル)が著書の中で使用しているオリオン座の三つ星の写真は、ある意味で作為的であり、読者の目を惑わす働きをしている」と指摘する(『オリオン・ミステリー』で掲げられた三つ星の写真ではイプシロン星とゼータ星がほぼ同じ明るさのように見える)。
また、たとえオリオン座の三つ星の位置と三大ピラミッドの配列が対応するとしても、その三つ星によって指示されるはずの位置にあり、古代エジプト人の信仰上、三つ星以上に重視されていたはずのシリウスに相当する場所には特別なモニュメントはない。これでは、三つ星とピラミッドに対応関係があるという仮定そのものが怪しくなるだけではなく、三大ピラミッド以外の建造物を含む天空図があるとはとても言えそうにない。
かくして近藤講師は次のように論じていくのである。
「一方では、歳差や固有運動などの影響を加味した数理天文学の手法を使った厳密な天体の位置計算を実施していながら、星の光度や古代エジプト史の資料操作や解釈などで厳密性を欠く論旨の立て方は、学問的に極めて不適切である。特に、ボーヴァルが『オリオン・ミステリー』の後半で、紀元前一万四五〇年頃のオリオン座の三つ星の位置が、現在の三大ピラミッドの配列と極めて酷似しているとの理由から、三大ピラミッドの起源を紀元前一万四五〇年頃まで遡らせようとする説を展開しているが、これは自らの計算に溺れた結果であると断言できる。まったく受入れられない机上の空論を展開することは自らの正しい説までを窮地に追い込むことになりかねない」
ボーヴァルの主張は、専門のエジプト学者からも、学問的に検討しうる要素を含むと認められているようだ。だが、それがハンコックのもてはやすような要素とは決して重ならないということもうかがえるのである。スサノオは臼をひくか?
さて、本書の指摘とは別に『神々の指紋』の日本語版を読んでいて私がもっとも違和感を覚えたのは、これだけ大部の著書で詳細な原註がついているにも関わらず、訳註が一つもないということだった。
たとえば『神々の指紋』、中国の記録として次のような引用がある。「人類が神々に反抗したため、宇宙の体系が混乱した」「惑星は軌道を変えた。空は北に向かって低くなった。太陽と月と星は動きを変えた。地上は裂かれ粉々になり、荒れ狂う海の水は溢れ陸地を襲った」
少しでも中国の神話に関心がある人なら、これは前漢代の悲劇のプリンス、淮南王劉安の編になる思想書『淮南子』からの引用であることは一目で明らかである。
ところがハンコックによると、これは「ヨーロッパ人として初めて中国を訪れた人々の一人、初期のイエズス会に動向したある学者」が「王朝の図書館」で見た「古代から伝わる〔すべての知識を網羅する〕といわれる四三二〇巻の書物」に記されていたものだという。ちなみにハンコックはこのくだりをチャールズ=ベルリッツの著書から引用している。ベルリッツ(バーリッツともいう)は有名なベルリッツ語学教室の創始者の親族だがアトランティス実在の信念にとりつかれ、バミューダートライアングルやフィラデルフィア実験の話を流布した奇想の人である。
『淮南子』のような有名な古典からの引用をなぜハンコック(もしくはバーリッツ)はあたかも一般の目に触れない特殊な文献の記述のように語らなければならないのか。まあ、漢籍と馴染みの薄い英語圏の人がそのようなハッタリをかますのはいいとしても(本当にいいのか?)、なぜそれに日本人がつきあわなければならないのか。訳者の大地氏は訳注でそのことを指摘するべきだったのではないか?
この疑問は『神々の指紋』の、「天の球体が臼の石のように回り、繰り返し災いをもたらす」という寓意が『旧約聖書』の「ガザに住む盲目の男で、奴隷とともに臼をひいた」サムソンに現れるとした上で、「同様のテーマは、いろいろな場所で姿を現す。日本、中央アメリカ、ニュージーランドのマオリ族、フィンランドの神話である」としている。そして、その原註によると、「日本の神話では、サムソンにあたる人物はスサノオと呼ばれている」でとけることになる。
問題は日本神話にはスサノオが臼をひいたというくだりなど存在しないということである。なるほど、スサノオの荒々しさや反抗的性格には聖書のサムソンと比較できる要素もあるだろう。しかし、ここでの問題は臼をひいたかどうかである。その一点に関する限りスサノオを日本のサムソンというのは見当外れだろう。そして、訳者がそのことに気づいた様子はまったくないのだ。
どうやらこの訳者は中国どころか日本の神話に関する知識も怪しいのではないか?  
無知と傲慢
奥付頁の訳者略歴によると訳者の大地氏はジャーナリストとして活躍してこられた方であり、『大統領の戦争』『右脳開発法』『インナーセックス』『人生のささやかな真理』などの訳書があるという。この訳書の中に神話もしくは考古学と関係のありそうな本が一冊もない。
その大地氏がなぜこの本を訳してしまったのか。しかも、なぜ「『神々の指紋』は世界史を塗り替えるきっかけとなった本として記憶されるだろう。書物の中には「読まなければならない」という類の本がある。本書はそういう書物の一つだと思う」(「訳者あとがき」)とまで言えるのだろう。
その「訳者あとがき」では日本語版出版のいきさつが次のように説明されている。「この本の存在を知ったのは、一九九五年六月のことだった。米国のジャーナリスト、パトリック・ベクストン氏から「英国で面白い本がナンバーワン・ベストセラーになってるよ」と連絡があり、そこでさっそく本を入手して読んでみた。
第一部を読んだだけで、興奮を覚えた。一六世紀に編纂された世界地図に南極大陸が描かれていたという話は初耳だった。さらにアインシュタイン博士による「地殻移動説」の解説にも衝撃を受けた。
そんなときにお会いしたのが翔泳社編集部の新田氏だった。「一晩、本を貸してください」という。そして翌朝電話がかかってきた。「すごい本ですね。やりましょう!」そんなわけで急遽、翻訳に取りかかった」
「テラ=アウストラリス」のことは古地図に関心がある人なら誰もが知っているような話である。また、アインシュタイン博士の「地殻移動説」なるものはランド=フレマスなる人物からハンコックに寄せられたという書簡に出てくるものだが、どうもこれは前述のハプグッドの著書『地球の移動する地殻』にアインシュタインが序文を寄せたことを指しているらしい。だから正確には“アインシュタイン博士の”ではなく“ハプグッドの”「地殻移動説」なのである。
もっともこの地殻移動説が現在の地球物理学で議論の対象とされていない以上、誰が唱えようが同じことなのであるが(地殻移動説が物理学的に成立しにくいだけではなく、ハンコック自身の他の主張とも矛盾してくる)。
第一、前述したように南極が書かれた古地図の話はオカルトや超古代史の本ではすでにおなじみの話題だったのである。どうもこの訳者には、それまで自分が知らなかったことは大変な新事実だという思い込みがあるようである。関心がない方面への知識が欠けるのは、無知といえば無知だが責めるべき筋合いのことではない。しかし、単に初耳なだけの話を過大評価するのは傲慢というものだろう。それは自らの無知にさえ思いいたらないということだからである。
大地氏は次のように述べる。
「私は個人的にはUFOも信じないし、ムー大陸の存在なども非科学的であるとして否定してきた。もともと荒唐無稽な話は嫌いで、確固たる証拠を要求する性格なのだ。だが、本書には強い説得力があった。太古に高度な文明がなったことも、それが跡方もなく消えてしまったことも、科学的・論理的に説明されており、十分に納得できるのだ」(「訳者あとがき」)
どうやらこの文に大地氏が『神々の指紋』に魅かれた理由が示されているようだ。大地氏はUFOもムー大陸も嫌いな自分が認めるのだから、この本は本物だといいたいようだが実情は逆である。UFOやムー大陸が嫌いでその種の本を読まなかった大地氏にとって「一六世紀に編纂された世界地図に南極大陸が描かれていたという話は初耳」であり、それは「確固たる証拠」のように思えた。そして最後まで読んでみて、嫌いなUFOもムー大陸も出てこなかったから「科学的・論理的に説明されており、十分に納得できる」内容ということになったのである。大地氏がその時点で止まることなく、自ら古代文明のことを調べ、ハンコックの主張の妥当性を確かめていれば果たして「世界史を塗り替えるきっかけとなった本として記憶される」とまで褒めちぎることができただろうか。
マスコミ紙上で『神々の指紋』に好意的な書評を寄せた人々にとっても、この本の内容は初耳であるが故に新鮮味があったのだろう。
その上、上下巻という分厚さと多くの原註、そしてハードカバーの製本と上品な装丁が高級そうなムードを醸し出し、読者の知的虚栄心をくすぐる要素となっている。
いかにお手頃価格でも、新書版で派手な装丁のムーブックスではこうはいかない(いや、それどころか値段の安さがかえって足を引っ張ることになる)。『神々の指紋』という本には読者の無知と傲慢につけこむような要素がある。うわべのムードに惑わされず、自分で物事を調べ、自分の頭で考える習慣がある人ならば、この本の底の浅さに気づくことはさほど困難ではないはずだ。しかし、そのような本が国際的なベストセラーになるというところに現代の知的頽廃が現れているといえよう(すぐ底が割れるという点では日本におけるもう一つのベストセラー『脳内革命』もいい勝負である)。
『「神々の指紋」の超真相』の登場がこの頽廃にすこしでもプレーキをかけることを望むものである。  
 
『絵地図の世界像』

 

古地図研究の三つの流れ
最近話題となった英国人作家グラハム=ハンコックの著作『神々の指紋』、そのインチキさ加減については、このHPでもすでに『「神々の指紋」の超真相』への書評という形で取り上げ、幸い御好評をいただいた。
しかし、あれほどインチキな本がなぜ大ベストセラーになったか、そのことを考えるのは決して無駄ではあるまい。『神々の指紋』で読者へのツカミとなっているのは古地図の話である。16〜18世紀に西欧で作られた世界地図で南半球の地理を見ると、そこには当時、まだ知られていなかったはずの南極大陸(1818年発見)によく似た陸地が描かれている。つまり、これこそ私たちの文明が南極大陸を発見する以前から、その地理知識が密かに伝えられていた証拠というわけだ。
この幻の「南極大陸」が実は、空想上の大陸であり、それが実際の南極大陸に似ているように見えるのは、読者の気のせい、というよりもハンコックのトリッキーな誘導によるものであることは『「神々の指紋」の超真相』を参照されたい。
空想上の島や大陸は古地図にはよく見られるものであり、日本や中国においても例外ではない・・・というわけでその問題に関する恰好の入門書が現れた。それが岩波新書、応地利明著『絵地図の世界像』(以下、本書)である。
著者略歴によると応地氏は一九三八年大阪生まれ、専攻は人文地理学、現在の肩書は京都大学東南アジア研究センター教授とある。
さて、応地氏によると古地図=絵地図研究には三つの流れがあった。
「第一は地図発達史ともいうべき流れで、最初は“荒唐無稽”であった絵地図が精度を高めていって、だんだんと現場や生活世界をいかに“正確に”表現するようになっていったかという観点から、絵地図をあつかうものである。・・・このような視点からの研究には、近代的な地図ほど“正確”であり、“進んだ”地図であるという暗黙の前提があった。第二の流れは、失われた過去の景観を復原するための重要資料として絵地図を利用するものである。・・・従来、歴史学や歴史地理学は、主としてこの観点から絵地図をとりあげてきた。第三の流れは、地図を書物にたとえていえば、ちょうど本が意味のつまったテクストであるように、絵地図もまた意味に満ちたテクストであるという立場である。たとえ絵地図の表現が“荒唐無稽”なものであったとしても、その背後には意味に満ちた描き手のメッセージが隠されていると考えるのである。・・・第一の流れとは異なって、第三の流れでは、絵地図は“荒唐無稽”であるがゆえに意味がある、という逆説的なことになる」
この内、第一の流れを支える「暗黙の前提」は進歩史観が骨の髄まで染み込んだほとんどの現代人に共有されるものだろう。ハンコックはこの「暗黙の前提」から外れた(かに見える)データを提示することにより、読者の理性を揺さぶりをかけ、トンデモない世界に引き込んでいったというわけである。
また、ムーやアトランチスなどの「失われた大陸」説や太古天変地異説の信奉者もよく古地図を持ち出す。その場合には、古地図の「荒唐無稽」とされる箇所を、むりやり第二の流れにそう方法で解釈するわけである。その場合、地図の描き手の所在から余りに遠方で、とても責任を問えないような遠方の描写までが信用できるものと見なされる。
しかし「前近代の絵地図の場合には、いわゆる近代的な地図が切り捨ててきた、観念や信仰にもとづく空間知覚の内容をも図上に表現してきた。その場合には、たとえ表現されたものが実在するものであったとしても、その表現には観念や信仰による潤色がくわえられている」
西欧の古地図にある幻の「南極大陸」は、観念にもとづく空間知覚の典型である。西欧人はこの観念に惑わされたため、あの巨大なオーストラリア大陸が18世紀まで見えなかったのである(それ以前にみつかっていたオーストラリアの一部は長い間、ニューギニアもしくは幻の「南極大陸」の一部と誤認されていた)。
つまり古地図を検討するためには、第三の流れにそった知識と方法が欠かせないというわけだ。そして本書はその第三の流れに立ち、「主としてわが国の前近代をとりあげて、異域に代表される特異な場所・空間への当時の人々の知覚内容を、絵地図のなかで読み解いていこうとする」ものである。
『神々の指紋』のようなインチキに二度とだまされないようにするために、本書は必読である。そして、本書を読み終えた時、目前に広がる世界は『神々の指紋』などよりはるかにスリリングでスケールの大きいものなのだ。  
「羅刹国」と「雁道」
さて、本書ではまず中世日本に流行した形式の日本地図、いわゆる行基図の中でも特に「金沢文庫蔵日本図」(14世紀初頭から中頃の時期の作成)に例をとり、その中で日本列島の周囲に描かれた六つの陸塊に着目する。
その内、一つには「龍及国」や「雨見嶋」の名が記され、南西諸島を象徴するものであることは間違いない。また一つには「唐土三百六十六ケ国」として、中国であることが示され、また他の一つには「高麗ヨリ蒙古え・・・一称八百国」とあって、朝鮮からモンゴルにいたる国々を示すことがわかる。また、一つの陸塊はまったく無名である。
さて、残る二つの陸塊にはそれぞれ次のように示されている。
「雁道雖有城非人 新羅国五百六十六国」
「羅刹国 女人華来人不還」
本書では、『今昔物語集』に基づいて「雁道」「羅刹国」という二つの国名の謎解きが行われる。なかなか面白いので本書をぜひ読んでいただきたいところなのだが、結論をいってしまうとどちらの名もインドを舞台とする説話に起源が求められるという。「羅刹国」にいたっては、『今昔物語集』の説話のさらに原典となった『大唐西域記』巻十一の説話では、南天竺からはるか南方の大島とされ、仏典をも参照すると現代のスリランカ、すなわちセイロン島にあたるらしい。
応地氏は特に指摘していないが、このことは古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』で、ラクシャサ(鬼族。仏典にいう「羅刹」)の支配する島とされるランカが伝統的にセイロン島と同一視されていることと無関係ではないだろう。そもそもスリランカ(=聖なるランカ)という現在の国名も『ラーマーヤナ』のランカに由来しているのである。
羅刹国のモデルがセイロン島に特定できるかどうかは別にして、インドの説話に登場する国が日本列島とあっさり隣接しているはずはない。雁道にしても同様である。そう言えば、古地図から古代史を解くという類の本の中に、この雁道のことを北海道だとしているものがあった。その本の著者は、古地図について頭の痛くなるような解釈を行い、えらく破天荒な古代史像を描き出す人物だったが、その彼も本書を読めば、少しは考えを改めてくれるだろうか(改めないだろうな、おそらく)。
それはともかくとして、本書により、中世日本人の地理認識はインドに隣接すべき国を日本列島のそばまで引き寄せてしまったことが明らかにされた。応地氏はこの二つの国が描かれた理由について、それらが説話の中で「人間の形をした異類」の住む国とされていることに注目する。
そして、中世日本人の空間観念、<中心−周縁−境界−異域>という配列が<浄−穢>の体系と対応しているという中世史研究物たちの指摘を踏まえ、「異形の人間」の住まう異域のさらに外側に「人形の異類」の住む仮想的な異域が設定されたとするのである。  
二つの混一彊理図
羅刹国、雁道を書いた地図で14世紀以降となると、日本製では16世紀中期のものが現存するに過ぎない。しかし、行基図は日本国内のみならず、海外にも流れて地図作成のために利用された。そのため、この2世紀半の空白を埋める上で朝鮮や中国の地図が役に立つという。
またイタリアのフィレンツェ博物館にはポルトガル語で説明が書かれた16世紀の日本地図があり、そこにも「女人だけで男はいない」陸塊(羅刹国)と「鳥の道」という陸塊(雁道)が描かれている。
さて、行基図を参考にしたと思われる地図の中に、1402年、李氏朝鮮の廷臣・権近の題跋を付せられた世界図二点がある。すなわち「混一彊理歴代国都之図」(京都・龍谷大学蔵、以下、龍谷図)と「混一彊理歴代国都地図」(島原市本光寺蔵、以下、本光寺図)である。これからしばらく本書の論旨を離れ、この二点の地図について述べたい。
龍谷図はかつて邪馬台国畿内説の論拠の一つとされてきた。龍谷図では、日本列島は南北に細長い島国として描かれた上、九州島や琉球を北にして、本州島は南に南にと伸びてしまっている。しかも、行基図では日本列島の南方にあるはずの羅刹国は西方、雁道は東方の島となっている。つまり龍谷図の日本列島はほぼ90度、傾いてしまっているのである。
さて、邪馬台国問題の基礎史料といえば『三国志』東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝だが、その中では、倭の女王の都する邪馬台国は、北部九州の国々から南方にあることになっている。邪馬台国畿内説にとってはその点がネックとなるわけだが、ここで龍谷図が光をもたらした。つまり、古代中国人は本来、九州から東方に伸びるべき日本列島の地理を南方に伸びると誤って認識していた。したがって魏志倭人伝に「南」とあるのは東のことであり、邪馬台国は北部九州から見て東方にある畿内で問題はない。龍谷図の傾いた日本列島は古代中国人の地理認識のなごりである。15世紀にさえ誤っていた日本列島の地理をどうして3世紀の邪馬台国の時代、正しく理解していたということがあろうかというわけである。
そこには地理的認識は時間の経過と共に一方的に進むものだという進歩史観が「暗黙の前提」となっている。和歌森太郎や肥後和男といったアカデミックな研究者によって説かれたこともあり、この説は戦後の邪馬台国研究に大きな影響を与えた。
また、龍谷図は畿内説以外の論者、たとえば出雲説や阿波説などの論者からも自説の根拠に利用されることになる。つまるところ、邪馬台国問題がらみで龍谷図を珍重した人々は、魏志倭人伝にある「南」が本当の南であっては困る人々だったというわけである。
さて、龍谷図は長らく中世の中国・朝鮮人の極東地理を示す代表的な地図とされていた。ところが1980年代末、弘中芳男氏によって本光寺本の存在が好評されてからは、龍谷図の評価はまったく変わってしまった。本光寺本の日本列島は九州島から東に伸び、中部地方のあかりからは東北に湾曲している・・・つまり、九州・四国・本州の3島に関する限り実際の日本列島の形状をリアルに描いたものだったのである。
名称の類似からも題跋を同じくするところからも両者の地図がルーツを同じくすることは明らかだ。では、どちらの地図がより原形に近いのだろうか。
ここで注目されるのが、日本列島周辺にある島々である。応地氏は『海東諸国記』(1471年、申叔舟撰進)所載「海東諸国総図」が龍谷図系統の地図を基本として作られたことを考証している(本書84〜103頁、ただし「海東諸国総図」の日本列島は九州島から真東に伸びている)。
その中で応地氏は「海東諸国総図」で日本列島周辺にあるとされる扶桑、瀛州、女国、三仏斉、大身、勃楚、支、黒歯、勃海、大漢、尾渠の11島について、「いずれも聞きなれない島名であり、いわば架空の島々といってもよい」と述べている(本書98頁)。これらの島々はいずれも龍谷図では日本列島に隣接して描かれている。ところが本光寺図では、扶桑、瀛州、女国は日本列島のすぐ東方、三仏斉、大身、勃楚、支、黒歯、勃海、大漢、尼渠(「海東諸国総図」の尾渠)が琉球ほぼ東方の羅刹国よりもさらに南方の海上に描かれているのである。
これらの島々の内、「瀛州」は神仙伝説上の神山である。また、「黒歯」は魏志倭人伝、「扶桑」「女国」「大漢」は『梁書』扶桑国伝と中国正史にも記載された国だが、現在の地図上のどこに該当するかは判定困難であり、実在を疑う説すらある。
しかし、この中に間違いなく実在した国がある。それは「三仏斉」である。三仏斉国については『宋史』『明史』に伝があり、趙汝活撰の『諸蕃志』(1225年)にもその名を見ることができる。三仏斉はシュリヴィジャヤの音写であり、スマトラ島を拠点にマラッカ海峡を支配した海洋国家だった。
応地氏も羅洪先撰『広與図』(1561年)で大漢、尼渠、黒歯、支、瀛州、扶桑が「東南華夷図」に記載されているのに対して、三仏斉、勃楚、大身が東南アジア以西を対象とする「西南華夷図」の南端にジャワなどと共に記載されているとして、「つまり『広與図』では、東アジアと東南アジアの二つの図に分かれて描かれていたこれらの島々が、龍谷図では本州島の太平洋側にまとめて記載されているのである」とする。
つまり、本光寺図では日本列島南方の島々と東方の島々がきちんと分かれ、三仏斉の所在もほぼ妥当な位置にあったのに対して、龍谷図では日本列島の形が歪んだためにそれらの島々の位置が混乱し、さらに「海東諸国総図」では龍谷図系の地図を参考にしながら日本列島の方向を南から東にただそうとしたため、スマトラにあるはずの三仏斉が日本のすぐそばに引っ越すという騒ぎになったのである。つまりこの地図が作成された当時の地理的認識をより正確に伝えているのは、本光寺図の方だと考えられるのだ。
なお、これらの地図にある「勃海」について、8世紀、旧満州から沿海州にかけて渤海という国が実在したが、それが南海に描かれるとは考えにくい。これはあるいは「勃泥」の誤記が写し継がれたものではないか。勃泥国は『宋史』『文献通考』に伝が立てられており、『諸蕃志』には「渤泥国」とある。ボルネオ島北東部、現在のブルネイ共和国の地である。「大身」については『粱書』扶桑国伝の「文身国」か、もしくは「大食国」(アラビア)の誤記とも考えられる。
龍谷図を邪馬台国畿内説(そして出雲説や阿波説など)の証拠に用いることができないのはこれでおわかりだろう。かつては地理的知識は必ずしも時間と共に直線的に進歩するとは限らない。正確な知識が、より荒唐無稽なものに駆逐される場合だってありえたのである。ちなみに3世紀、日本列島の地理について中国側でも十分、把握していたにも関わらず、その知識がいかに失われたかについては『優曇華花咲く邪馬台国』を参照されたい。
さて、なぜ龍谷図では日本列島の地理について歪みが生じてしまったのだろうか。その理由の一つは図の全体を見るとよくわかる。龍谷図では中国と朝鮮半島は大きくくわしく描かれているが、その四方はえらく窮屈になっている。そのため、日本列島には東に伸びるためのスペースが与えられなかった。この地図を作った主体である朝鮮半島との距離を保ちつつ日本列島の細長い形を地図内に収めるには、中国との距離関係を犠牲にしても、九州島から南に伸ばすしかなかったのである。
また、中国でも4世紀以降、日本列島を中国江南のすぐ東と考える思潮が生じ、それもまた龍谷図のような歪んだ地図を受け入れる要因となったらしい。それについてはすでに前掲拙著でもくわしく述べたところである。
以上、本書の書評としては大脱線なのを承知で、あえて邪馬台国と古地図の関係について、長々と言及させていただいた。この問題は地図の発展史ということで応地氏のいう「第一の流れ」に関連し、古代地理の探究ということでは「第二の流れ」に関連するだろう。しかし、このような考察が可能になったのも、地図そのものをテキストとして解読するという本書の立場にインスパイアされたからこそである。謹んで感謝したい。  
余談
本書には他にも仏教的世界観に基づく中世日本の世界全図・五天竺図の解読や、近代的地理観の日本移入など興味深い問題が論じられており、ぜひ一読をおすすめする肥大である。最後に余談を一つ。1708年(宝永五年)に出た西川如見の『増補華夷通商考』に所載された「地球万国一覧之図」(本書178〜179頁見開き)、日本列島を中心とする世界地図だが、その南半球に広がるのは『神々の指紋』でおなじみ、幻の「南極大陸」ではないか!!
その大陸には中国で作成された世界地図にならって「黒瓦臘尼加」すなわちメガラニカと名付けられている(マゼラン海峡を渡ったポルトガル人マガリエンスの名にちなむ。第一字「黒」は「墨」の誤記)。応地氏によると「メガラニカ大陸もまた、古代ギリシャ以来の想像上の大陸である“未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)”をひきつぐもの」であるという。
「地球万国一覧之図」のメガラニカにはすでに「新オランダ」というオランダ植民地もあるとされ、南極大陸などでないのは明らかだ。ハンコック氏の御意見、ぜひうかがいたいところである。  
 
『神々の発見』

 

斎藤守弘・・・この名を目にする時、しばしの感慨のひたる方は少なくないだろう。特に昭和30年代生まれの世代の中に−。斎藤氏は1960〜70年代にかけて、「前衛科学評論家」を称し、怪奇実話の紹介者として活躍された人物である。
その舞台は『エニグマ』『UFOと宇宙』といったオカルト誌はもちろん、科学誌にSF誌、小学館や学研の学習雑誌、当時は科学記事を多くのせていた『少年マガジン』や今は亡き『冒険王』といった漫画雑誌、さらには『歴史読本』などの歴史雑誌や大衆誌にいたるまで多岐にわたっている。テレビやラジオにまでしばしば顔を出していたものだ。
この時期の斎藤氏の文章は『世界の奇談』(68)『神秘の世界』(69)『ミステリの科学』(70)『奇現象の科学』(71)『四次元の科学』(71)『失われた科学』(72)『日本列島の前衛科学』(72)『四次元の人間学』(74)『失われた世界の謎』(74)『絶望の惑星』(75)などといった多くの著書にまとめられている(いずれも大陸書房。この出版社も消えて久しい)。
日本で怪奇実話の大家といえば、まず思い浮かぶのは黒沼健であろう。この偉大なる先達の業績について、私は著書『怪獣のいる精神史』(風塵社)の中で論じたことがある。そして中岡俊哉氏、佐藤有文氏、ノストラダムスの大ヒットを生んだ五島勉氏といった方々の名がそれに続くわけだが、彼らがいずれも文科系のセンスで話をまとめているのに対し、斎藤氏は科学的(もしくは擬似科学的)な概念や用語をたくみに導入して解釈をつけており、いわば理工系のテイストをもっている点で特異な位置を占めていた。
だが、1979年の『ムー』創刊を皮切りにオカルト誌が乱立するようになると、かえって斎藤氏の名を目にする機会は少なくなっていく。
基本的に斎藤氏のスタンスは読者に考えるためのデータを提供するもので、一応、科学(擬似科学)的な解釈を提示するにしても、その結論を断言するものではない。中には興味深い謎を提示しながら、蜃気楼のいたずら、単なる見間違い、自称発明(発見)者のインチキといったオチをつけた例もある。
ところが『ムー』以降、主流になったオカルト語りの手法は、いたずらに読者の好奇心なり不安感、恐怖心をあおりたて、編集部で用意した結論に読者の思考を誘導するというものになっている。つまり、斎藤氏には怪奇譚の紹介を通して年少の読者の判断力、批判力を養っていこうという姿勢があるといえよう。それは単に斎藤氏一人のものではなく、『エニグマ』『UFOと宇宙』といったかつてのオカルト雑誌の編集方針にも見られたものであった。
ところが、『ムー』以降のオカルト雑誌はそうした力を奪うことで読者をオカルト依存症にし、売り上げを伸ばそうという根性が見え見えである。『UFOと宇宙』の休刊は「悪貨が良貨を駆逐する」という見本のような事件だった。
オウム真理教事件をはじめとするカルトの暴走、『脳内革命』『神々の指紋』やフナイ関係書籍といった二流オカルト書籍のベストセラーの背景には、こうした『ムー』以降のオカルト雑誌によるマインド・コントロールの積み重ねがあるように思えてならない。
あるいは、斎藤氏がオカルト業界を遠ざかる遠因には、この姿勢の違いによる摩擦があったのかも知れない。
しかし、斎藤氏は80年代に入ってからも地道な活動を続けていた。『神々の発見』(以下、本書)は、78年から96年にかけて各誌に発表した文章を収録した斎藤氏の久々の著書なのである。  
「本家」を超えた便乗本
さて、本書はタイトルからもうかがえるように出版社の意図としては『神々の指紋』ブームへの便乗本として企画されたものらしい。冒頭の章が「ピリ・レイス地図は全地球的ネットワーク文明の存在を証明した」と題されているところからも、そのことはうかがえる。しかし、その中身はいずれも『神々の指紋』とは無関係に掻かれたものばかりであり、斎藤氏のオリジナルな発想に満ちている。
ちなみに『神々の指紋』で冒頭のツカミとなっているピリ・レイス地図の話のタネ本がチャールズ・ハプグッドの『古代海王の地図』であることは有名だが、本書にも、そのハプグッドに関する言及がある。
「不幸にして、世界的ピリ・レイス地図研究の第一人者チャールズ・ハプグッド教授が1982年12月20日、自動車事故で急逝した。筆者は当時ハプグッド教授と連絡。できるならば、拙宅に“日本のピリ・レイス地図”調査のため招聘、国際的な共同研究を行う手はずを整えていたその矢先、突然の訃報であった。ここにあらためて哀悼の意を表したい」
作家高橋克彦氏は次のように述べる。
「あの『神々の指紋』を読んで、なにに一番驚いたかと言えば、訳者のあとがきだった。ハンコックの説明しているピリ・レイスの地図のことに触れて、世の中にこんな不思議なものがあるとは知らなかった、と驚嘆し、それが翻訳の原動力になったと書かれてある。どうしてもこの事実を日本の読者に広く伝えたかったのだと訴えている。私は限りなく悲しかった。三十年も前から皆が大騒ぎしてきた地図なのに・・・それではハンコックの書いている内容に驚愕するのも当たり前である。(中略)黒沼健さん以降の私たちはいったいなにをしてきたのか、と大いなる疑問を覚えてしまった。大ベストセラーをやっかんでこういう文章を書いていると思われるのは辛い。私はこの分野がもっと認知されている、と思い込んでいたのである。荒唐無稽、と思われながらも、たくさんの読者が古代史の謎解きを楽しんでいるものと考えていたのだ。だからこのあとがきにショックを感じた。たとえばこれを通常の歴史に当て嵌めてみよう。もしモヘンジョ・ダロの遺跡についての本が出版されて、その訳者あとがきに、はじめてモヘンジョ・ダロの遺跡の存在を知りました、と書いてあったらどうだろう?まぁ、それは極端な比喩だが、私にとってそれと同等に信じられない言葉だったのである。(中略)ハンコックとは違って、この本は遥かに興奮を誘う新説で埋められている。しばらく超歴史学の世界から遠ざかっていた私だが、この本を読むうち、ふたたびの挑戦意欲に駆られた。そこもハンコックとは違うところだ」
さて、ハンコックの『神々の指紋』が多くのタネ本に基づくパッチワークのようなシロモノなのはすでに知られたところだが、本書には高橋氏が指摘するように斎藤氏のオリジナルなアイデアが溢れており、しかもそれを進んで体系化しようという意欲がある。
実はこれは以前の斎藤氏の著書にはみられなかったものである。かつての斎藤氏の著書は怪奇実話集の常として多くの単発のエピソードによって構成されており、その個々の事例に付された解釈も思いつきの域を出ないものであった。偉大な先駆者・黒沼健氏の作ったパターンから、さしもの斎藤氏も抜け出していない感があった。
日本の怪奇実話作家は主に洋書や海外の雑誌から怪奇実話を拾い集め、それを翻訳するというコレクター兼紹介者にすぎなかった。数多くの「実話」を相互に関連つけて何らかの世界観を構築する・・・チャールズ=フォートやジョン=キールのようなタイプの研究者は日本ではついに現れなかった。
黒沼の丸善通いは有名であった。また、斎藤氏にしても「いち早く海外の文献を読んで、自分の意見のごとくに書いているのだろう」「情報がたくさん集まれば、だれだって新しい見方ができるようになるさ」と陰口をたたかれたという(『失われた科学』あとがき)。斎藤氏はその同じ文において「私の見方は海外の学者よりも早くこそあれ、そのひそかな輸入ではない」と反論しているが、そもそも、その「私の見方」を引き出す枕となる「実話」は多く海外の文献に頼っていたのである。
また、斎藤氏は一方で、アシモフのある短編をSFと承知の上で「実話」として紹介するような奇妙な振る舞いもしておられる(と学会著『トンデモ怪現象99の謎』)。ちなみにこのエピソード、斎藤氏は『奇談の世界』において「この特ダネを発表したのは、ボストン大生化学大学教授アイザック・アシモフ博士で(後略)」と、わかる人にだけわかるようなネタばらしをしていた。
もっともこの種の冗談は斎藤氏の好むところのようだ。斎藤氏はある自らの仮説を世に出すにあたって、次のような手を使ったという。
「この着想はつい十年ほど前まで、非常に革命的で一般に受入れにくかったので、私は一策を案じた。有名なSF作家A.C.クラークの意見の引用という形にして、発表したのである。はたせるかな、外人名に弱い日本人のつねで、クラークの著述のどこにもそんな意見を発見できないにもかかわらず、クラークの意見としてあちこちに引用され、それを主アイディアとしたSF小説も、いくつか発表されたが、おそらく、もしそれが、日本人の私の意見であるとわかっていたら、それほどもてはやされ引用され、人々の頭に新しい概念として浸透することもなかったにちがいない。(中略)ところで一言弁明しておくと、外人の名を借りて自己の意見をとなえたのは、実は私がはじめてではない。先輩がいる。ユニークな物理学者として知られた渡辺慧博士であり、日本の学者の外人名崇拝をヤユして、ギリシア名で自分の論文を発表した、その故事にならったのである」(『失われた科学』)
どうも斎藤氏が書いた大量の「実話」の中には、海外の小説ばかりでなく、斎藤氏自身の創作も混ざっている可能性がありそうだ。しかし本書は斎藤氏自身の調査によって集めた事実が骨子となっており、過去の斎藤氏の著作とは一線を画する出来となっている。
もっとも、その「事実」の中には、古代豪族・物部氏の子孫がアフリカや両米大陸まで描かれた古代地図を持っているなどという、出所不明の怪しげな情報まで含まれてはいるのだが(先の引用における“日本のピリ・レイス地図”)。
また、ハンコックのような露骨な詭弁こそ用いてはいないが、斎藤氏の論の進め方にもいささか怪しい展開がないわけではない。しかし、本書で示される仮説は、一万二千年前まで南極に氷がなかったなどというヨタ話よりもはるかに読者の視野を広げる可能性を秘めたものである。
高橋克彦氏は解説の中で「この本は名著である。文庫オリジナルとして出版されながら、この時点で必読の古典の高みに達した」と宣言されたが、本書は80年代以来の斎藤氏の沈黙が決して無駄ではなかったということをわからせてくれる。
本書が『神々の指紋』の便乗本だとしても、それはまさに「本家」を超えた出来になっているのである。  
さて、前置きが長くなりすぎて申し訳ないが、ここから本書の各章別に、その内容の紹介へと移らせていただこう。
「ピリ・レイス地図は全地球的ネットワーク文明の存在を証明した」(1983年11月初出)
ピリ・レイス地図に関する書誌学的な説明と、その作図法の解説から約6000年前に栄えた太古文明ネットワークの可能性に説き及ぶものである。地図の作成年代が16世紀であること、複数の地図を組み合わせたものであることなど、基本的な情報はきちんと紹介されている。斎藤氏は、地図から割り出される地球の大きさが実際よりも4・5パーセント大きいこと、その誤差が無意味なものではなく古代ギリシアのエラトステネスが行った有名な地球計測の算定値と一致することを指摘した上で次のように論じる。
「ピリ・レイス地図では、経度の驚くべき正確さにくらべ、緯度の誤差は北に向かって増加し、また赤道から南へ向かって増加する。ところがこれにエラトステネスの算定値を当てはめ補正すると、その誤差を大きく減少させることができる。(中略)太古の原地図製作者は、それとは別個に地球の円周を算出した。エラトステネスの犯した誤差によらず、いまのわれわれとまさしく同じ正確な地球円周値を知っていた!そう考えるほかにない」
しかし、考えてみれば、この問題はギリシア文明の遺産と十七世紀のイスラム文明の知識が共にピリ・レイス地図に生かされているとするだけで解けるものであり、何も「太古の原地図製作者」を持ち出す必要がない。また斎藤氏は「ピリ・レイス地図では、南極大陸はやや北すぎる。そのため南米南端のホーン岬から地続きで南極海岸線が長く伸びている。つまり緯度にして25度の誤差となる」と指摘しながら、緯度を補正すれば誤差を5パーセント以内に抑えられるとしている。だが、その一見、南極大陸に見えるものを南米大陸の海岸線として見直せば、大幅な補正を加えるまでもなくリアルな地図になってしまうのだ。斎藤氏はピリ・レイス地図に南極大陸が描かれているというハプグッドの解釈に引きずられたようである。
しかし、斎藤氏は「ロス海のコア・サンプリング(海底をボーリングして堆積者の粒状資料を採集する)によると、ここ何十万年かの間、南極大陸には四回の温暖期があり、その前後の寒冷な氷河期堆積物と互層している」として、その最後の温暖期、今から6000年前に南極を開拓した人々がピリ・レイス地図の原地図を残したのだろうとしている。
それだけでも南極の氷がほんの一万二千年ほど前に一気にできたなどというハプグッド=ハンコック流の説に斎藤氏が組していないのは明らかである。
斎藤氏はピリ・レイス地図の「南極」に大蛇が描かれていることから、その開拓者は同時代の日本の縄文土器に蛇の装飾モチーフを残したのと同じ蛇トーテム族であろうとする。しかし、ピリ・レイス地図の「南極」が南米大陸の一部だとすれば、そこに大蛇が描かれることは必ずしも不思議ではない(もっとも問題の「南極」は南米大陸南端に近く、そこには現在、大蛇はいないという疑問はある)。
紀元前4000年の温暖期、ピリ・レイス地図の「南極」(南米大陸南端)から日本列島までかけめぐった蛇トーテム族という仮説は魅力的である。斎藤氏には、こうして批判を踏まえた上でぜひその仮説を発展させるようにお願いする次第である。
「超古代のスーパー・テクノロジーか」(1983年9月初出)
オーパーツとスーパー・テクノロジー / オーパーツとは Out of Place Artifacts、「場違いな加工出土品」の略、斎藤氏はそのオーパーツの代表として、古代メキシコのブルトーザー型遺物、南米先史文明の純金製ジェット機型ペンダント、エーゲ海発見の歯車式コンピューター、バグダッド出土の紀元前の電池、旧石器時代の骨製カレンダーなどをあげている。斎藤氏は次のように述べる。
「それらの遺跡・出土品(オーパーツ)を正当に評価する限り、人類は紀元前数千年にさかのぼる最初期より、早くも七つの海を乗り回す渡洋大型船を建造し、地球の隅ずみまで到達していた。この見方は当然、西欧中心の大航海史観の拒絶反応をひき起こす。(中略)従来考えられてきた文明の三大発祥地とは、ほかでもない、この忘れられた最初期統一連合に起きた動乱と崩壊の結果、生じたものである。だが、にもかかわらず極東の島国倭ではその後も長く初期統一連合の栄光の記憶をとどめるばかりか、今日なお絶大な影響力を及ぼすことになるのである」
太古日本のピラミッド / エジプトの大ピラミッドはほぼ北緯30度の位置にあるが、斎藤氏はそこから地球を北緯30〜50度の「大ピラミッド・ベルト」が廻り、そこに世界のほとんどすべてのピラミッド遺跡があるとして、日本列島もベルト内に収まる以上、そこにピラミッドが見つかる可能性が高いと説き進み、日本各地のピラミッドの噂がある山々を紹介するものである(広島県のうが高原・葦嶽山、秋田県黒又山、岐阜県位山、徳島県剣山、奈良県三輪山など)。
もっとも北緯30〜50度といえば、東は日本・朝鮮・中国、西はヨーロッパ・地中海周辺とユーラシアにおける国家・都市・文明の興亡がもっともさかんだった地域であり、別にピラミッドばかりがあるというわけではない(北半球で50度以北の人々は雪や氷、30度以南の人々は砂漠化や熱帯雨林との闘いを強いられる)。それに斎藤氏が本書であげた世界のピラミッド遺跡の中には、ユカタン半島のパレンケ遺跡やポナペ島の石造物のように「大ピラミッド・ベルト」に入っていないものがあるのはご愛嬌だろう。ピラミッドの話を枕にして斎藤氏が本当に言いたいのは次のことだろう。
「従来、三輪山の主祭神大物主神を太陽神であると考えてきたが、実はそうではなく、新たに得られた証拠から、文明の最初期統一連合の流れを汲む月神であったと思う。(以下、三輪山からの出土物と地中海周辺の出土物との比較)まさしく文明の最初期統一連合の、活力あふれる地球規模の広がりを暗示している」
伝説につつまれた国々 / 『旧約聖書』にソロモン王の船団が目指したとある黄金の国オフルを南米ペルーに求めて紀元前の第一期大航海時代を語り、ギリシャ神話の女戦士国アマゾンと古代日本、卑弥呼の女王国の関連を示唆する。
「謎の日本オーパーツ文明」(1985年3月初出)
初出当時のトピックスだった石川県真脇遺跡のウッドサークル、島根県岡田山古墳出土鉄刀の装飾、山梨県丸山塚古墳の装飾、島根県神庭荒神谷遺跡出土銅剣の「X」マークなどを古代エジプト、地中海、ヨーロッパの出土物と比較し、共通のシンボル体系があるとした上で「これほど先史の聖シンボル、あるいは聖記号がおびただしく重畳集積する地は、地球上、ちょっと他に例がない。日本列島は先史世界の人びとにとって、聖なる天体崇拝の最重要地点、かけがえのない選ばれた聖所(月出現、日出現の地)だったのではなかろうか」と結論付けるものである。
「世界蛇文明の遺跡・遺物」(1983年9月初出)
古代のギリシャ、北米大陸、イギリス本土を「世界三大蛇文明地」としてその相互の交流関係を説き、奈良県三輪山や岡山県楯築遺跡(弥生中期)の出土物にもその蛇文明の影響が見られるとした上で、その伝統は数十万年前、ネアンデルタール人の時代にまで遡りうると結論付けるものである。著者による「ワールドワイド・アーケオロジー(汎世界考古学)、もしくはグローバル・アーケオロジー(地球考古学)」の提唱には興味深いものがある。
ただし、「『契丹古伝』その他の文献によると、太古日本に繁栄した人類は“竜族”の呼称があった」、ほぼ同様の内容の記述が本書にもある)とあるが、実際の『契丹古伝』にはそのような記述がなく、斎藤氏が何を出典にされたのか、わからない点が惜しまれる。
「古代人のメッセージ地上絵・壁画・遺物は何を意味するか」(1981年9月初出)
“地上絵・壁画”南米ナスカ高原・イギリス本土・北米五大湖周辺・日本列島を四大地上絵地帯とみなし、これらの地域の地上絵や遺跡の壁画に古代世界共通のシンボリズムと天文知識の痕跡がみられることから、太古、その四つの地域を往来した“地球測量船団”があったとするものである。
遺物 / ペルー、アンデス山中の巨大な人面像、コスタリカの巨大石球群、グァテマラの巨大石頭像、五世紀の北部九州の流行した石人石馬などに古代エジプト文明の影響をみとめ、「紀元前4000年代、人類初の哲学ともいえる熱烈な月辰信仰のもとに七つの海を測量してまわり、各地に“大地上絵文明”の伝統を移植したアルファ民族(おそらくエジプト、シュメールに分裂する以前の原民族)にひき続き、こんどは紀元前3000年をやや下る頃、はやくも地上最初の国家を誕生させて、その躍進する国力を背景に、太陽神信仰を中心とする、新たなエジプトの国立探検船団が地球一周の壮途につく」というモデルを示した上で、日本古代史の謎・筑紫国造磐井の反乱の真相へと推理を進めるものである。
「日本の遺跡・遺物に秘められた宇宙観」(1984年8月初出)
先史の月神文明の遺産という立場から遮光器土偶、日本のピラミッド、ストーンサークルについて考察を加えるものである。ただし、すでに現代人の創作であることが明らかな『東日流外三郡誌』に依拠して遮光器土偶が江戸期までイシカホノリと呼ばれていた、とするのは惜しまれる、なお同頁には『東日流外三郡誌』について「偽書との批判もある」とし、本書頁にも「偽書との謗りがあるにしても、本書では論じない」と一応は偽書説についても触れている)。江戸期の信頼のおける資料では、遮光器土偶をイシカホノリと呼んだなどという例はなく、単に「土偶人」などと記されている。現代人の創作を古伝承扱いして論に取り入れてしまっては、せっかくの優れた着想も台無しというものだろう。
なお、『東日流外三郡誌』問題については『幻想の津軽王国』『東日流外三郡誌「偽書」の証明』『歴史を変えた偽書』などを参照されたい。
また、日本列島と匹敵するストーンサークル集中地はイギリス本土しかないと指摘した上で「広大なユーラシア大陸をへだてた東端と西端の島に、なぜかくもストーンサークルの遺跡が集中しているのか。しかも両者は、同一の規格・物指しにしたがって設計、プランされているように見える。とすれば、紀元前数千年にさかのぼる謎の大航海者アルファ民族の南方ルートと、その忘れられた宗教上の東西祭祀センターを考えぬかぎり、説明不可能のように思われる」とあるが、そこまで言われるのなら、ストーンサークルと共に東北地方の縄文文化を特徴付ける指標の一つ、円筒土器とほぼ同時代のブリテン島から出土するビーカー型土器の類似についても指摘してほしかったところである。さらに進んで斎藤氏に円筒土器とビーカー型土器の共通の用法まで考察していただければありがたいところなのだが・・・
「太古コンピューター文明があった」(1982年11月初出)
斎藤氏自身によるテーマの要約「はるか紀元前4000年にさかのぼる頃、いち早く全世界にのびる進歩した技術社会と、その中枢をなす高度天文計算のコンピューター文明があった。それはもはや失われて久しい遠古の記憶なのだが、いまや失われた記憶はようやく甦ろうとしている」
斎藤氏によると、大和三輪山周辺はアルファ民族の中継ステーションであり、大和三山は天体観測用の超々大型コンピューターの一部を成していたという。
なお、「そんな太古の時代に進歩した技術社会があるとしたら、それはもう他の星の世界からやって来た高度文明の宇宙人のおかげか、あるいは失われたという伝説の大陸アトランチスやムー大陸の子孫の移住によるしかないと思うかもしれぬが、ここではそのどちらの共同幻想をもとらない」とした上で、アルファ民族の正体について「まだ民族のできる前の段階であり、のちの黒人、アジア人、ヨーロッパ人を含む、いくつかの人類の種族の集合混成体」として、「欧米の学者はこの(アルファ文明に対する西欧文明の)後進性に耐えられないのか、うすうすアルファ民族の存在に気づきながら、それを認めたがらず、例の失われた大陸アトランチスの共同幻想に逃げ場を求める」と述べておられるのは、欧米の古代宇宙飛行士論者、「失われた大陸」論者にしばしばみられる白人優位主義への斎藤氏なりの批判といえよう(この種の人種的偏見はグラハム・ハンコックにも顕著である)。
「環太平洋の謎の聖サーペント文明」(1984年4月初出)
古墳から出土する代表的な鏡であり、卑弥呼が中国・魏朝から下賜された舶載鏡か、国産鏡かをめぐって議論の絶えない三角縁神獣鏡。斎藤氏は三角縁神獣鏡国産説に与し、その紋様を北米五大湖地方の古代のマウンド(墳丘)の形状、岡山県男女山遺跡(弥生終末期)の溝状遺構の形状、フランスのプチ・ド・ラーセから出土した三十万年前の雄牛の肋骨の線刻などと比較し、三角縁神獣鏡は「人類最古の紋章の集大成」で、その製作に関わって卑弥呼こそ「伝統を誇る環太平洋古文明圏の最高位蛇巫」であったと論じておられる。
「多頭竜蛇神と土蜘蛛の時代」(1989年10月初出)
初出当時のトピックス、奈良県斑鳩・藤の木古墳出土の鞍金具に彫られた精緻な装飾から、その意匠と共通のシンボルが長野県戸隠山周辺の社寺にそろっていることから説き起こし、戸隠の九頭竜、出雲のヤマタノオロチ、三浦半島逗子市池子の七頭竜などの多頭竜伝説について考察を加える。斎藤氏によると、多頭竜伝説の起源は天上の蛇である北斗への信仰にあり、その担い手は大和朝廷に降伏するまでは土蜘蛛と呼ばれた人々であった。そして、大北斗蛇信仰は法隆寺にもその影を落としているというのである。
「謎の盃状穴と神社の聖方位」(1996年1月初出)
「まず、盃状穴とはいかなる形のものか、から始めよう。まだ発見されて間もなく、専門的な学者のみならず、ほとんどの人が耳なれない言葉なのは当然。知らなくてあたり前なのである。一言でいえば、硬い石にわざわざ人工的に彫りこんだ盃形の穴である」
斎藤氏は盃状穴が日本のみならずユーラシア大陸各地、さらにはイギリス諸島にまで分布することを指摘し、そのモデルは天の北極付近、見掛け状の天の運動中心に現れる「天の盃状穴」であろうとして、それは「天空太女神」あるいは「極孔神」ともいうべき女神のシンボルであったとする。そして、世界で唯一、極孔神の記憶が残っているのは日本だと結論付けるのである(『古事記』の天之御中主神のこと。
なお、盃状穴研究の古典であるSiegfried Giedion;The Eternal Present The Beginning of Artが観光されたのは1962年(邦訳は江上波夫・木村重信訳『永遠の現在 美術の起源』)であり、国分直一氏が本州西部・北部九州における盃状穴の事例を『えのとす』15号に発表したのは1981年だから、特に「発見されて間もない」というわけではないようだ(斎藤氏も本書において日本における盃状穴の最初の確認が1980年5月であると述べている)。
むしろ斎藤氏が本書のこの章において、まず盃状穴とは何か、から書き出さなければならないほど、一般に知られていないことが不思議といえよう。
日本国内での盃状穴の事例と海外での研究状況については、国分直一監修『盃状穴考』が参考になる。
「仁徳朝の異形賊 両面宿儺の実像」(1996年1月初出)
『日本書紀』で仁徳天皇65年、飛騨で討伐されたとある二面四手の怪人・両面宿儺。本章では宿儺の正体が縄文神学の伝統を伝える巫女養成機関「縄文アカデミー」の校長であり、天皇家以前の原天皇ともいうべき存在であったことを考証する。なお、斎藤氏は触れていないが、両面宿儺の伝承を根拠に飛騨に天皇家以前の王権があったことを唱えた先達としては、作家の坂口安吾があることを指摘しておきたい(「飛騨・高山の抹殺」『安吾新日本地理』所収)。
「抹殺された神津軽の至高神アラハバキ」(1986年8月初出)
『東日流外三郡誌』に古代東北の至高神として語られるアラハバキが古代エジプトの鷲神(ホルス)と蛇神(ウラヌス)の合体であり、古代中国の北方の神・玄武神でもあることを考証する。もっとも『東日流外三郡誌』そのものが現代人の創作であることが判明した現在では、この章は色褪せて見えることは否めない。遮光器土偶がアラハバキの像だなどという話も『東日流外三郡誌』など和田家文書にのみ見られるものである。斎藤氏にはぜひ『東日流外三郡誌』に依拠しない独自のアラハバキ論を展開していただきたいものである。
「日本列島の謎の巨石と祭神」(1996年8月初出)
和歌山県・三重県・香川県・岩手県・青森県・山梨県・京都府・奈良県にある巨石信仰の跡とゆかりの神社およびその御祭神を紹介する。ただし、青森県市浦村の荒磯崎神社について、御祭神をアラハバキとしているのはいただけない。この神社にアラハバキが祭られているというのは、例によって『東日流外三郡誌』のみの主張である。この神社は江戸時代まで薬師堂であり、明治に神社になってからはスクナヒコナを祭神としている。小館衷三氏によると「薬師如来は比叡山延暦寺の本尊で『十三往来』でも十三の明神の本地仏は薬師如来と述べている」という(『東日流外三郡誌の旅』北方新社、1989、荒磯崎神社は十三湖に近く、中世のこの地方では比叡山系の天台宗が広まっていた)。小館氏はスクナヒコナは酒神であり、アラハバキも酒神の松尾神と関連あることから附会されたのではないかとするが、それよりは『東日流外三郡誌』作者が神社内の「アラ」という音からアラハバキ祭神説をでっちあげたと考える方が妥当である。
「大実験・ピラミッドの地下トンネルを探る」(1978年12月初出)
大ピラミッドの地下に眠るという大トンネルの位置を探るべくダウジング・ロッド(水脈占い棒)を駆使しての実験の記録。むろん発掘調査を伴うものではない。ダウジング・ロッドがいかなるものかについてはマーティン・ガードナー『奇妙な論理II』およびテレンス・ハインズ『ハインズ博士「超科学」をきる』を参照されたい(二十年ほど前、日本の地方自治体でも埋設水道管を探すためにダウジング・ロッドの研究をしていたところがあったが、今頃どうなっているだろう?)
「パルテノン神殿は見えないピラミッドか」(1977年4月初出)
ギリシア、アテネのパルテノン神殿の柱には微妙な傾斜角があり、その延長線が上空で交わる所を図式化すると高さ訳2000メートルもの見えないピラミッドが現れる。これこそパウル・シュリーマンのアトランチス発見記録(1912)に現れる「透明宮の神殿」のなごりだという。私はこの初出誌(今は亡き『UFOと宇宙』)を読んで、そのイメージの美しさと壮大さに圧倒されたものである。もっとも、現在、パウル・シュリーマンの記録は偽造ということで評価が定まっており(『歴史を変えた偽書』ジャパンミックス編・刊)、その点を考慮に入れた上で本章の内容も再検討される必要があるだろう。
「神武天皇の紀伊半島横断作戦」(1996年11月初出)
記紀の神武東征譚を紀伊半島の神社伝承や考古学的資料を参考にしつつ解読、弥生前期以来、銅鐸を祭ってきた出雲王国を大和朝廷が閉廷するための呪術・祭祀の跡を読み取る。
以上、いずれの章にもそれぞれ私としては承服しかねるところはあるが、それを補って余りあるイメージの輝きに満ちた一冊である。慎んで一読を勧める次第だ。  
 
二つの相異なる日猶同祖論 (「猶」=猶太=ユダヤ )

 

明治初年頃出版された、N・マクレオドというユダヤ人の書いた英文冊子(The Epitome of the Ancient History)は、「日猶同祖論」の嚆矢ともいうような論文であるが、この中に奇妙な記述がある。
マクレオドは、日本の王オセエ(Osea)はイスラエル王ホセア(Hosea)と同一人であるかもしれないと述べていることである。
ホセア王は、イスラエル国最後の王として「列王紀」下15章29−30節に登場するのだが、「記紀」はもちろん『竹内古代史』にも記されていない。
オセエ王の典拠はどこにあるのか?マクレオドは何も記していない。われわれの知らない秘密の文献に、日本にオセエ王なる人物の存在したことが伝承されているものがあるとしか解釈し得ないのである。
いずれにせよ、酒井勝軍もマクレオドも直接この古文献に言及することを避けていることを考えると、相当核心に触れる記述があったに相違ない。
古代に高度な文明を持った原日本人が存在し、彼らがユダヤの祖となったなどということが明らかになることは、シオニストにとっても、また、万世一系の天皇制国家にとっても許し難いことであろう。
シオニズムの国際謀略機関や、天皇家の手先共が、マクレオドや酒井にさまざまな圧力をかけ、問題のユダヤ古文献の公開を防止しようとしたのは、これがためである。ユダヤ人はすばらしく優れた民族であるが、一方ではシオニスト国家の反革命的な反縄文人的性格を見せつけられると暗たんたる気持になる。
今やユダヤは骨の髄まで堕落しつつある。すみやかにシオニスト国家を解体し『トート第二の書』を公開させ、彼らをして縄文革命の隊列に復帰させねばならない。そしてロスチャイルド、ロックフェラー、サッスーンなどユダヤの生んだシャイロック顔負けの悪徳資本家、デイズレリ、グラッドストン、フリードリッヒ、エーベルーなどの忌まわしい権力に取りつかれたユダヤを、カタカムナの名において否定せねばならぬのである。──こう武内裕氏は強力に訴えている。(中略)
それに、ユダヤ人が日本へ来て日本人の祖の一人になったと唱導する人の多くは、わずか二千年三千年前の時代だけを捉えて論評しているが、『竹内古代史』でさえ、五万年前からの人類の歴史書だというが、この頃は、四十万年前、八十万年前、すでに日本に人間が生活していたことを物語る「石器」が出土したことを、新聞は報じている。
が、振り返って自己をみると、自己の血液の中には、すでに何百万年前からの人間の血液が流れているのである。それに、人類は、猿から進化したというが、「宇宙考古学」がようやく発達してきたこの頃では、人類は、他の惑星から天降った神人の子孫(太古の日本人)であるという論が新たな視点となってきていることを注目すべきだと思う。
では、最後に、日本人の二つの異なる日猶同祖論に対して、当のユダヤ人はどのように受け取っているか、ユダヤ教でも上位のラビ(指導者)といわれるマーブイン・トケイヤー著『ユダヤと日本・謎の古代史』によって、その見解を見ていくことにしよう。
明治維新初期に横浜に来日したスコットランド人一般商人マックレオド(武内裕氏の本に、マクレオドとして出てきた人物)は、日本の歴史を調べ、各地で行なわれる祭式を調べ、食物、衣服、その他さまざまの伝統的な行事について『日本古代史の縮図』という本を横浜で印刷し刊行した。この本の中でマックレオドは、日本人だけがその他の東洋民族とは全く異なった文化や行動様式を持っており、それがどうしておこったかということは説明がつかないと述べている。
ただし、二千五百年の昔にユダヤ人の十二種族のうちの大部分である十種族が、東方世界に追放されたという聖書の記述に従って、もしこれらの古代ユダヤ人が日本に住みついたとすれば、日本で行なわれている説明のつかないさまざまの行動様式や祭式のあり方などが、よく理解できると述べているという。つまり、古代ユダヤの習慣が現代の日本に生き残っている可能性が出て来た、というのである。
また、英文の『ユダヤ百科事典』におけるユダヤの十種族の項目は、すべて日本人とユダヤ人との関係についての記述で満たされている、とも書いている。
マックレオドはさらに、京都の祇園祭を訪れ、日本人の神官の着る衣服と古代ユダヤ人の僧侶が着た衣服との間に、数々の共通点を発見している。古代ユダヤ人僧侶が着た真っ白でフサのついたドレスは、日本の神官のそれと全く同じものである。また、祇園という名前は、シオン(ユダヤの地)がなまったものであろうと想定した、と書いている。
他、日本の神社の前に立っている狛犬が、古代ユダヤの神殿の前に立てられたライオンの像と類似した関係にあること。特に日本修験道の山伏が、変形したユダヤ教徒のように考えられること。エルサレムの嘆きの壁にある「菊の紋」、この日本の皇室の紋である菊の御紋が、古代ユダヤの神殿の遺跡にも同じような菊の紋が発見される事実をも挙げており、川守田英二の、日本民謡のはやし言葉はヘブライ語という説についても、古代ユダヤ語の専門家としての立場から、トケイヤー氏はだいたい肯定しているし、秦一族のこと、広隆寺、大酒神社などもはっきり肯定している。
何れにしても、日本人の中には、古代ユダヤ人が日本を訪れて日本に真の知恵をもたらしたと考える人と、古代にユダヤ人が日本を訪れて知識を授かってユダヤに持ち帰ったと、二様に考える人が、明治末年あたりから大正、昭和を通じて後を絶たないのであるが、外国人で日本人=ユダヤ人説を主張した人がいて、その人は、サミュエル・アブラハム・グリンバーグというラビだと、トケイヤー氏ははっきり名前を挙げている。
以上のように、ユダヤ教の上層部の有力なラビから見ても、日本人とユダヤ人は、二千年や三千年前からではなく、遙かの古代からほとんど兄弟関係の種族であることが肯定されているのである。  
 
縄文日本文明一万五千年史序論  

 

『神々の指紋』グラハム・ハンコックの指摘は的を射ているか
『神々の指紋』の著者グラハム・ハンコックが来日し、6週間かけて日本の縄文文化遺跡を調査した(2000年)。
「日本以外ではほとんど知られてないけれど、私は縄文を古代世界で最も重要な文化と位置づけています」と彼は述べる。
1万2千年前、地球を襲った天変地異によって世界中の古代文明が滅びた。しかし日本列島の縄文人はその目撃証人であり、しかも生き残って現在の日本人までその系統はつながっているのではないかと、ハンコックは推測する。
「縄文文化は海外ではほとんど知られていない。それは日本人が過小評価し、発信もしてこなかったからだ」。その、封印がハンコック氏によって解かれようとしている。「1万2千年超の足跡を現在まで連綿と残している、世界でも希有な縄文文化に、どんなに注目しても注目のしすぎということはない」。
日本人が過小評価してきた、西洋(英国)の作家がその封印を破って云々、という。しかし、「日本人」と、容易に一般化してもらっても困るのである。太古以来の日本の伝統を過小評価したのは、まず、中国かぶれの売国奴エリート権力階級、次に西洋かぶれの同じ売国奴エリート権力者階級、であろう。
過小評価が究極まで煮詰まると、まさしく現在の日本の政財官学界マスコミ界エリート集団のように、日本的なるものの一切を抹殺しないではおれない心理メカニズムとなる。
日本人の脳の特異性、角田忠信博士説
西洋式言語学の訓練を受けた日本の学者たちは、百年以上にわたって日本語をいじくりまわしてきた。日本語という、何から何まで奇妙な、人類文明の頂点に立つ西洋人の言語に対して異質であり、それ故劣悪な言語を破壊して、これを西洋語化することこそ、西洋文明の洗礼を受けた自分たちエリートの使命である、と固く信じた。
その国その民族の言語はまた、その民族の音楽と緊密不可分に結びついている。日本語が西洋語およびユーラシア大陸のすべての民族の言語と決定的に異質であると同時に、日本人の音楽もまた、西洋人の音楽と本質的に異なる。ところが、西洋かぶれの明治国家官僚は、小学校の全般的義務教育学制を施行するにあたって、全児童に西洋音楽を強制した。
「日本の義務教育での音楽教育は、日本人が長い伝統で培った音楽の感覚を全く無視して、これとは異質な西洋音楽の方法でなされているという指摘は、日本の教育者からされている」と角田博士が言われる通りである。(中略)
にもかかわらず、角田博士は、(少なくとも9歳頃まで)日本語で育った人間の脳の働きは、西洋人のみならず日本人以外の他のすべての民族と人種とは全く異質であるという独自の新説を立て、それを実証する仕事を営々と積み重ねられた。(中略)
角田博士の学術論文を発表年代順に収録しただけの、まるで一般受けのする要素のない『日本人の脳』が、平成5年に34版というから脱帽だ。
日本語はまるで「原始の尻尾」をつけたような言葉
日本では認識過程をロゴス(論理)とパトス(感情、情念、情緒)に分けるという考え方は、西欧文化に接するまではついに生じなかったし、また現在に至っても、哲学、論理学は日本人一般には定着していないように思う──と角田博士は語っておられる。
西欧人においては、左脳(言語半球)はロゴス的脳。言語は子音(音節)、そして計算。右脳(劣位半球)はパトス的脳と機械音、楽器音、自然音、そして母音、という。しかるに、日本人の場合は、左脳(言語半球)は、子音のみならず母音、あらゆる人声。そして、虫の声、動物の鳴き声などの自然音、そして計算を司どる。右脳(劣位半球)は楽器音、機械音。
この事実は、『日本人の脳』が出版された昭和53年までの間に、角田博士によって明らかにされたことである。しかも、その後実験を続けていくうちに、西欧人のみならず、日本人とポリネシア人を除く、他のすべての民族と人種が、西欧型に分類されるという。
日本語は完全に孤立しているのか?
渡部昇一(上智大学教授)は「日本語だけが変にユニークで原始の尻尾をつけたような言葉である」とさえ語っており、「西洋人もうんと太古には日本語みたいに左のほう(左脳)にみんな入っちゃうような言葉だったのではないか」と続ける。
日本以外の民族では、何度も何度も「原始の尻尾」を切られた。日本は幾度か「切られそう」にはなったがその度に生き延びた。そこを「私が数えただけで5回あるんですよ。一回目は用明天皇のときの仏教導入です。2回目は頼朝の時。3回目は北条泰時。それから明治維新。そして敗戦」と渡部は解説する。
「日本語のユニークさ」とは、つまるところ、人類の原始太古時代の言葉が生き延びている、いや単に言葉というのではなくて、脳の仕組み、脳の働きが太古のまま維持されている、ということなのであろう。
「日本文化を考えますと、どうも普通の文明国の文化じゃないところがあるんですね。おかしい文化なんですよ」(渡部昇一)。
超太古原始人の精神と最先端西洋科学技術文明が共存している。日本人以外は、いずれかの時点でこの原始性が切断されて消滅している。しかし日本人だけはそれが生き続けている。どうも、日本に関する限り、超太古期縄文文明は今日まで生きている、と言えそうなのだ。日本には、外国のいかなる規準や物差しもそのままあてはめることは出来ない。
また、ハンコックのこうした発言も重要だ。「縄文土器は、素晴らしい古代文化の結晶です。縄文人が作った土器を手にすると、電流のようなものに打たれて、縄文人の知的水準の高さ、創造力、あるいは芸術的センスといったものが、歳月を超えて伝わりました。私たちにとって幸運なことは、縄文文化は失われた文明ではないということです」。  
 
キリスト教初期の歴史と聖書の構成

 

キリスト教の誕生とパレスチナの地
キリスト教の聖典は新約聖書と旧約聖書であり、キリスト教の神の母胎は、ユダヤ民族が信奉するユダヤ教の神ヤーヴェ(ヤハウェ,YHWH)にある。ユダヤ民族は、モーセの十戒の第3戒にある神の名をいたずらに口にしてはならないを長い年月にわたって厳守した為、神の名前を示すテトラグラマトン(神聖四文字)の正確な呼び方を忘却してしまったとされている。
テトラグラマトン(神聖四文字)は、“YHWH”あるいは“JHVH”であり、現在ではヤーヴェ(ヤハウェ・ヤーウェ)と読むものとされているが、中世時代まではエホバという語訳が採用されていた。神の名をみだらに唱えてはならないとする戒律を遵守するユダヤ人達は、通常、神の名を口にすることはなく主(アドナイ)や御名(ハシェーム)と呼んでいる。
ユダヤ教が成立した経緯とイスラエルの民族の歴史については、世界の宗教史の略年表(紀元前)を参照して頂きたい。ここでは、ユダヤ教の旧約聖書の概略とキリスト教が誕生した歴史的背景について説明していこうと思う。
唯一神を信じる一神教であるキリスト教は、厳格な一神教であるユダヤ教の影響を強く受けていて、その教義と歴史の延長線上に誕生した。キリスト教が誕生した紀元前後の中東地域は、ローマ帝国領に組み込まれていたが、アレクサンドロス大王の大遠征(B.C.334)によって広まったヘレニズム文化の雰囲気が色濃く残っていた。
ユダヤ教の旧約聖書とモーセの十戒
ユダヤ人達は、モーセの十戒の第2戒で自分のために、あらゆる像を刻むことを禁じられたので、絵画・彫刻といった対象を写像にする芸術活動が発達しなかった。キリスト教徒達も偶像崇拝を禁止されてはいるが、教会にキリスト像や聖人像、マリア像、ステンドグラスの芸術作品が配置されているようにそれほど厳格に偶像崇拝の禁止を遵守しているわけではない。
絵画や芸術、造形物の創作といった芸術文化の伝統を持たないユダヤ民族(イスラエル民族)にとって、最高の精神的財産は神との契約や律法を示した旧約聖書なのである。ユダヤ民族の精神活動が生み出した民族文化の集大成が旧約聖書であり、紀元前8世紀からその編纂活動が行われ始め、紀元100年頃にユダヤ教の聖典旧約聖書の正典が確定した。
旧約聖書とは、新約聖書を聖典とするキリスト教徒の立場からの呼び方であって、ユダヤ民族にとっては旧約と新約を区別する意義はなく、ユダヤ教の聖典はユダヤ教聖書(ヘブライ語聖書)ただ一つである。
キリスト教徒は、2世紀頃に、新約聖書のコリントの信徒への手紙二の部分にある「旧い契約」という言葉に着目して、ユダヤ教の聖書にあるモーセの神との律法契約を旧約と呼び、彼らの聖典を旧約聖書と呼んでキリスト教の聖典と区別するようになった。ユダヤ民族からすると、ユダヤ教聖書と呼ぶのが正しいが、ここでは日本で慣例的に使用されている旧約聖書の名称を使うことにする。
旧約聖書は、律法(トーラー)・預言者の書(ネビーイーム)・諸書(ケスービーム)に分類される。旧約聖書の内容は、イスラエル民族の神話伝説・神話時代以降の約1,500年の歴史・法律・祭祀・預言・詩歌・小説・歌劇といった文学芸術のあらゆるジャンルを含むものであり、全39巻の文書から成り立っている。
新約聖書の内容構成
キリスト教の聖典である新約聖書の編纂は、大体、紀元50年くらいから始められ2世紀の終わり頃にはその原形が完成したと言われている。旧約聖書(ヘブライ語聖書)は全39巻の文書から成り立っているが、新約聖書(ギリシア語聖書)は全27巻の文書から成り立っている。
イエスの直弟子の記憶が消滅する前に、新約聖書にイエス・キリストの生涯と言動(福音)が記録され福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)となった。
イエスとその弟子の十二使徒
人間としての肉体を持つナザレのイエスは、紀元前4-3年頃に聖母マリアの処女懐胎によってベツレヘムに生誕した。ナザレのイエスは大工の仕事を生業として、敬虔なユダヤ教徒として旧約聖書を読み、ユダヤ教の礼拝所であるシナゴーグへ足繁く通ったという。
イエス・キリストは、天上にまします神そのものである証として、性行為という原罪を伴わずにこの世に生を受けた。肉体を持つイエスの母親であるマリアをどう解釈するのかは、カトリックかプロテスタントかによって異なる。
ローマ法王を頂点とするカトリック教会では、聖母マリアはそのまま神の唯一の母として崇拝の対象となっている。一方、聖書の記述に飽くまで忠実であろうとする宗教改革を経たプロテスタント諸派は、概ね、マリアを通常の人間と解釈してその崇拝を偶像崇拝として退けている。
イエスは、西暦28年頃に、当時、神の国の到来と悔い改めを説教する洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、ガリラヤ地方を中心として布教活動を開始する。
新約聖書の記述では、ヨハネは洗礼する以前からイエスが神としてこの地上に降り立ったことを知っていたとされる。イエスがゴルゴダの丘で処刑されたのは西暦29年頃とされるから、30歳をやや越えた当たりで肉体を持つイエスとして人類の贖罪の役目を果たした。
紀元前の宗教史の略年表
有史以前の人類は、アニミズム(森羅万象への精霊崇拝)やシャーマニズム(呪術信仰)、神話伝承といった宗教的感受性を共有することで、共同体の連帯や団結を高め、自然の猛威や外敵の脅威に備えてきました。
そういった原始的な自然宗教の段階を脱しても、古代文明社会では、自己のアイデンティティや民族の存在意義を宗教の物語を通して強化し、理解困難な自然現象のメカニズムや宇宙の摂理を宗教原理によって説明しました。
時代が大きく下って、コペルニクスやガリレオ・ガリレイの地動説やダーウィンの進化論などが出てきて宗教教義の誤謬を指摘する科学革命が起こる前まで、中世キリスト教会は世界を合理的に説明する理性的営為の拠点でもあったのです。
紀元前に、民族宗教であるユダヤ教の成立から世界宗教となるキリスト教の誕生へと向かっていく宗教の歴史は、自然崇拝の多神教から観念崇拝の一神教の方向へと流れていきました。
自然世界の不可解な摂理を説明し、共同体を統治する政治権力に正当性を付与し、同じ宗教を信じる集団の成員に「大きな物語」としての生きる意味を伝達することに成功してきた宗教は、世界規模で勢力を拡大していく一神教の成立以後、急速に強大な国家権力や宗教団体(教会組織)と密接な関係を持つようになっていきます。
現代に至っても、宗教と政治を完全に切り離して考えられる国家や地域はごく限定的なものであり、イスラム教を信仰するパレスチナとユダヤ教をアイデンティティとして持つユダヤ人との紛争一つをとっても、宗教と民族の絡んだ根深い対立の歴史が、現在の政治的対立の根底に横たわり続けています。
また、特定宗教の信仰の有無を別としても、私たち現代人の倫理規範や行動基準には、宗教的な精神性(不合理であっても私はそれを信じるとする心理・所属共同体の慣習として根拠の有無を問わず長期にわたって正しいとされてきた価値観)が多く介在していることがあります。
「紀元前の宗教史」に関連する出来事をメインにしながら、世界史上の重要な事件、政治情勢の変化などをピックアップして、人類の宗教的な精神と行動の歴史を年表形式で簡単に振り返ってみました。
世界の宗教史の略年表(紀元前)
B.C.1270年頃 ユダヤ民族の歴史は、B.C.20世紀代の族長アブラハムの時代に始まり、子・イサク、孫・ヤコブへと続いた。「イスラエル」とは、ユダヤ民族の始祖ヤコブが神より下賜された名である。
エジプト王朝下で奴隷階層に落ちた古代イスラエルの民(ユダヤ人)を、モーセが主導して「出エジプト」の事業を成し遂げる。
「モーセの十戒」を神から授かったイスラエルの民は、苦難を乗り越え強固な民族アイデンティティを獲得していく。 B.C.14世紀頃、統一国家のエジプト(アメンフィス4世治下)では、太陽神アトンが国家神となり、宗教的求心力を強化した。
ユダヤ人にとって「出エジプト」は、民族の自由と独立を象徴する特別な歴史的事件であり、ペサハ(過越祭)、シャブオット(律法祭)、 スコット(仮庵祭)では「出エジプト」の精神を回顧する。  
 
祖先の物語 ドーキンスの生命史

 

文明社会を構築した人の適応戦略
科学としての進化生物学には進歩主義的な進化(evolution)というものは存在せず、進化という現象に今よりも優れた存在になるという意味は含まれていない。進化は自然淘汰(自然選択)と突然変異という二つの原理によって生成される個体の適応的な変化であり、悠久の歴史過程における微細なDNAの変異の膨大な累積が配偶不能な種の変化(小進化・大進化)を生み出す。進化の方向性は盲目的であり非目的的なので、進化の結果を事前に予測することは不可能であり、客観的に見て複雑で高度な機能を持った生物種のほうが生き残りやすいと断言することもまた出来ない。リチャード・ドーキンスの祖先の物語 ドーキンスの生命史が書かれた目的は明確であり、進化の系統樹の先端に最も優れた種であるヒトが存在するという人類の共有幻想に科学的にクリティカルな批判を加えることである。
一つの種が進化の主役の座にあり、他のものは脇役、端役であると考えたい人間の誘惑を否定するのはむずかしい。その誤りに屈することなしに、歴史的な礼儀を尊重しつつ、公明正大に人間を中心にすえる方法が一つある。その方法とは、私たちの歴史を後ろ向きにさかのぼることであり、それが本書の方法である。
しかし、私達が幼少期から積み重ねてきたインテレクチュアルな生物の階層序列性の呪縛というものは予想を越えて強固なものであり、人間の多くはある動物がある動物よりも高等な生き物であるという優劣判断を捨てて生物界を眺める生物学的な見かたに慣れていない。ホモ・サピエンス・サピエンス(賢明な人間)であるヒトと遺伝的にプログラムされた本能(反射)に従って生きる他の動物を同列に並べて考えることはとても難しいことでもある。ヒトの倫理的感覚には近縁種や高度な知性を持つ種への親近性(共感性)もあり、日本の捕鯨活動に対して強硬に反対するオーストラリアや欧米の環境保護(動物愛護)主義者たちも、ヒトとクジラの間に何らかの近縁性(類似性)を見出しクジラと食用の豚・牛・羊との間に恣意的な境界線を引いているのだろう。この本では、あらゆる生物を私たち人間と祖先を共有する種として眺める長い旅路を歩むことになるが、(ヒトに近い感覚・意識を持つ)類人猿にも人間に近い権利を与えるべきという倫理学者ピーター・シンガーのような動物への共感性を無視しているわけではない。
どの動物を殺しても良くどの動物を殺してはいけないというような倫理規範は自然界には存在しないが、私たちは祖先の遺伝子を探求する本書の巡礼によって全ての生物と根源的(遺伝的)につながっているという知的な確信を得ることが出来るだろう。私はリチャード・ドーキンスの著作である利己的な遺伝子や延長された表現型、盲目の時計職人などを過去に読んできたが、この祖先の物語は生物全体の系統樹の種を枝葉から根幹へと遡っていく構成となっている。体系的に組み立てられた科学の読み物としてのクオリティは高く、膨大無数の動植物が過去に歩んできた歴史を鮮烈に再現することに成功している。本書の第一歩は、ホモ・サピエンス・サピエンスを先端に持つ人類の歴史の逆行から始まり、ホモ族を代表する種としてホモ・エレクトゥス(直立するヒト)とホモ・ハビリス(道具を使うヒト)が取り上げられている。現生人類(新人)から旧人、原人、猿人という見慣れた図式にこだわらずに、化石資料に言及しながら人類の共通祖先を追い求める刺激的な記述が続けられていく。
文明的・言語的に啓蒙された人間は、生物に普遍的な至上命題である遺伝子の保存のみに盲目的に従って生きるわけではない。文明圏で生きる自意識が強化された人間は、自己愛(自尊心)の発達ラインや社会的な自己アイデンティティに生殖行動(配偶者選択)が適切にドライブしないと子孫を残せないという精神構造の複雑さを持っている。ヒトも、他の種の動物と同じように求愛行動と生殖行為による自己複製を行うが、進化の過程で高度な精神活動(自己意識)が関与する求愛行動を獲得してからは、ヒトの行動の目的が家族形成や子孫継続の外部(個としての充実)へと拡散していくようになった。少子化・晩婚化の進展やセックスレスの増加、性欲の代理満足など、現代におけるヒトの性行為は既に本能的な衝動充足という側面を失いつつあるようにも見える。
言語機能(知的想像力)と生活教育水準を向上させてから後のヒトは、精神的なエロスの共有観念(それを支える社会経済的構造)や性的興奮を誘発する社会的コード(記号・商品・意匠)によって性行為の頻度を半ば人工的に調整してきた。その結果として、今人類は、個体のQOL(生活の質)に強くこだわる少産少死の社会を持続していけるか否かという厳しい課題に直面している。自己の遺伝子保存を目的とする生物界においてヒトは特権的な地位に立っているわけではなく、自我と科学技術を有する精神機能の特権性は生物学的な繁殖適応度(存続可能性)を何ら保証するものではない。進化生物学の自然選択のゲームでは個体の満足度(QOL)よりも繁殖の成功度のほうが重要な判定基準となり、自我と知性を有する人間が進化の究極形態とする尊大な自己認識は生物学的にナンセンスである。進化の系統樹を私たちヒトから段階的に遡っていく祖先の物語では、ヒトでさえ類人猿の一種と見なすような生物観に立脚しており、実際問題としてヒトとチンパンジーやボノボとの遺伝的差異は外観上(生活上)の差異と比較すれば極めて小さいものである。
ドーキンスは本書冒頭の巡礼の始まりにおいてまず人類が環境に与える負荷について語っている。現代社会の人間と狩猟採集・農耕牧畜段階の人間を比較し、外部の自然環境を破壊して収奪する人間の本性は過去も今も殆ど変わらないとする点は、消費文明(経済活動)による環境破壊に罪悪感を持ちやすい現代人にとっては意外であるかもしれない。特に、野生動物の保護や天然資源の確保といった環境保護的な視点は、産業革命期の公害や動物の乱獲の弊害を経験した近代以降の人間が手に入れた視点に過ぎない。
私はジャレド・ダイアモンドの銃・鉄・病原菌という地政学的・生物学的に人類の歴史を読み解いた書籍をとても興味深いと感じているが、ドーキンスはダイアモンドの著作を前提として科学技術や消費文明を持っていなかった狩猟採集段階の人間も(美味な肉食のための)大型哺乳類・鳥類の絶滅という生態系の破壊を積極的に行ったと語る。農耕牧畜によって生活を支えていた古代の人類も、家畜の増殖や農作物の連作による不毛な土地の増大(塩害・砂漠化)という環境破壊を延々と行って地球の大地のかなりの部分を生命が適応しにくい広大な砂漠に変えてしまった。かつてアフリカ大陸の大部分が深い緑の森林に覆われていたこと、中東地域の砂漠地帯にも豊かな草原と沃野が広がっていたことを想像すれば、狩猟採集民・農耕牧畜民の計画性のない環境開発がいかに深刻かつ広範なものであったのかを知ることは難しくないだろう。
そういった環境破壊の結果として、幾つかの文明圏は食糧生産能力を低下させて滅亡していったのだが、農業革命がもたらした進化プロセスへの最大の影響は野生動物の家畜化であり人間自身の家畜化であった。動物を飼育(家畜化)して利用するようになった人間は、野生種のイヌ(オオカミ)・ブタ・ウシ・ヒツジ・ニワトリ・アヒルなどを人為的に淘汰(選択)して人間になつきやすい種を段階的に作り上げていった。更に、自然環境の猛威から人間(仲間)を守る文明社会(共同体)の構築によって、人間は自然淘汰(自然選択)の圧力を人工的に低下させることに成功したのである。その為、現在の文明社会内で家畜化された人間には、形質の進化のための淘汰圧が性淘汰以外には殆どかからなくなっており、人間の外観(形態)や身体機能が大幅に変化する可能性は小さくなっている。
人間は環境適応のために自然選択による遺伝子の変異ではなく、知識・技術・道具・社会制度を用いるという(他種と比較して)極めてイレギュラーな適応方略を確立していると言える。無論、突然変異や異性による性淘汰(配偶者選択)によって、現在のヒトの形質も緩やかに変化していっているとは思うが、今のヒトと遥か先の未来のヒトとを比較してヒトと類人猿ほどの形態的な差異を見出せるような遺伝子の変異が起こる可能性は相当に小さいだろう。人間の文明的な家畜化による文脈では、ミルクを飲めなかった太古のヒト(成人)がラクトース寛容性を手に入れてミルクを分解吸収できるようになったことや小麦寛容性の獲得について語られ、文明社会の形成段階で食生活のあり方が生理学的に変化した(食べられなかったものが食べられるようになった)可能性を示唆している。
本書序文に当たる巡礼の始まりでは、百万年以上にもわたる前期旧石器時代に生まれなかった文字(言語)・芸術(絵画)・観念(概念)が、突如、4万年前辺りに出現したことをダイアモンドの表現を借りて飛躍的大前進(great leap forward)と呼んでいる。現代の高度な文明社会や科学技術(学術教養)の原点が、数万年前の後期旧石器時代の人類が言語や観念を獲得した何か非常に特別なことに由来していることは疑いない。しかし、飛躍的大前進の前と後の人類の脳容積や筋骨格系をはじめとする形質には目立った変化は起きておらず、何をきっかけにして、人類が言語的・文化的・技術的な驚異的前進を成し遂げたのかは推測の域を脱け出ることがない。
本書は、現生人類から順番にコンセスター(共通祖先)を遡っていく構成となっていて、自らのルーツ(起源)を知りたいという人間の普遍的願望により本質的な解を与えようとする知的誠実さに貫かれている。私たちが自分の祖先というとき精々数十年から数百年のスパンで直系の祖先を語っているに過ぎないが、ドーキンスの祖先の物語は最終的に数十億年の時間を遡って人類のみならずすべての生物の共通祖先(生命の起源)へ到達しようとする長大無辺な物語である。多様性に満ちた生命の本質(起源)を進化論的に突き詰めていく祖先の物語を読み進めることで、今まで見慣れていた動植物の姿に新たな感動と共感を抱けるような感じがしてくる。生命の進化に終わりがなく、人間の寿命に限界があることは、生命と地球(宇宙)のゆくすえを見届けられないという意味で非常に残念なことでもあるが、言語と知的好奇心を持つ人類が地上に存続している間は生命史の記録が淡々と着実に積み重ねられていくことだろう。
系統樹の先端に居て生態学的地位(ニッチ)を保っている動物たちの共通祖先を次々に遡っていくと、最終的に何処に行き着くことになるのか……そういった誰もが抱く素朴な疑問を、各種の動物の興味深いエピソードに触れながら解決していけるというのが本書の最大の魅力となっている。少々内容が専門的になって難しい部分もあるが、生物や進化論に関するエピソードが好きな人であれば長大な共通祖先の物語を一つずつ楽しく読んでいけると思う。まだ祖先の物語の上巻しか読めていないのだが、時間を見つけて具体的な内容の概略と興味深い動物種のエピソードの感想についてもまとめてみたいと思っている。上巻を読み終えた感想として、写真・イラストのついた動物図鑑や博物学の絵付きの事典のようなものを一緒に見ながら読むというのが、本書を一番楽しく読めるスタイルではないかと思った。コンセスター(共通祖先)の化石や実物は残っていないものの、本書では合理的な推測とリアルな想像に基づいて描かれたコンセスターのイラストが各章に配されていてそれを見ていくのも本書の楽しみであったことを付け加えておきたい。  
ホモ・サピエンスから類人猿・サル類への歴史的遡行
人類がその生命の歴史を遡っていく時に、異なる近縁種と初めて合流(ランデブー)するのはチンパンジーやボノボとのコンセスター(共通祖先)である。ドーキンスの祖先の物語では、その前に人類(ホモ族)の進化の歴史が現代型ホモ・サピエンス(新人)→古代型ホモ・サピエンス(旧人)→ホモ・エレクトゥス(原人)という順番で語られていくが、ヒトと類人猿の厳密な境界線を化石資料や断片的な遺伝子情報から確定することは困難なようだ。
ここで注意すべきなのは、人類の進化の過程はとても複雑で、中学の歴史の授業で習うように猿人(アウストラロピテクス)→原人(北京原人・ジャワ原人)→旧人(ハイデルベルク人・かつて人類の祖先と思われていたネアンデルタール人)→新人(クロマニヨン人)というように整然とした進化段階の区別は成立せず、過去の人類種の呼称についても統一見解は成立し難いということである。類人猿から現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)へと至る進化の道筋には膨大な数の中間型の種が存在しており、古代型ホモ・サピエンスからは現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)とネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)という異なる種の人類が分岐している。
今から約2万8000年ほど前に絶滅したネアンデルタール人は、少なくとも数万年間以上のスパンで現生人類と共存していたのは驚きである。現生人類とネアンデルタール人が同時代人であった時期には文字文明が発達していなかったので、私たちはネアンデルタール人の知的能力(言語能力)や文化水準がどのようなものであったのかを具体的に知ることは出来ない。眼窩上隆起の大きさや頑丈な骨格などは古代型サピエンスに近似しているが、古代型サピエンスやネアンデルタール人が音声言語を持っていたか否かも確定することが出来ないのは残念なことである。
ネアンデルタール人はかつて人類の直接の祖先の一種と考えられていたこともあったが、現在ではミトコンドリアDNAの比較検査により、ネアンデルタール人の遺伝情報が現在のヒトに受け継がれている可能性は極めて低いか殆ど無いと考えられている。ドーキンスはたった一人のネアンデルタール人が現生人類の中の繁殖グループに入り込んでいれば、その遺伝子の一部が現代のヒトにまで継承されている可能性は否定できないと言うが、それを検証する科学的方法論は(ネアンデルタール人の遺伝情報の資料の少なさも加味して)今後も開発されないだろう。もちろん、この仮説の前提には、同時代人であったホモ・サピエンスとネアンデルタール人との交配可能性が含まれているが、この二種の間に子どもを作ることが出来るのか否かも現段階では明言できないのではないだろうか。
ハイデルベルク人・ローデシア人・ターリー人(中国)といった古代型サピエンスから更に歴史を遡ると、約100万年以上前の時代にコンセスター(共通祖先)のホモ・エレクトゥス(エルガスト人)に出会うことになる。ホモ族の知能の限界と相関を持つ脳容積は、現代型サピエンス(1400cc)から古代型サピエンス(1200-1300cc)、ホモ・エレクトゥス(900-1100cc)という風に少しずつ小さくなっていっている。ホモ・エレクトゥスと呼ばれることの多いホモ族(ホミニド)について、本書ではホモ・エルガスターという呼称を採用している。直立した人間を意味するホモ・エレクトゥスとは、聞き慣れた名前でいうと北京原人(シナントロプス)やジャワ原人(ピテカントロプス)のことであり、眼窩上隆起の突出や頤(顎)の小ささなど明らかに現代型人類とは異なる解剖学的特徴を持っている。ホモ・エレクトゥスは、石器や木製器具などの簡単な道具を使い、火(焚き火)を用いた生活をしていたが、類人猿の鳴き声以上の言語が発達していたかは依然として不明である。
言語の起源がいつなのかの仮説には諸説あり、頭蓋骨の構造を元にした仮説では、ホモ・エレクトゥスよりも遥か昔に遡る約200万年前に人類は言語を獲得していたとするものもある。反対に、約4万年前の現生人類になって初めて言語が生まれたとする仮説もある。ホモ・エレクトゥスの化石であるトゥルカナ・ボーイ(ケニアのトゥルカナ湖で発見された約150万年前の化石)の頭蓋骨やFOXP2という遺伝子の突然変異を考えると、100万年前以上の昔にホモ・サピエンスと同等の言語が発達していた可能性はまずないという話がされている。一方、リチャード・ドーキンスや言語学者&進化生物学者のスティーブン・ピンカーは母音の不足したごく簡単な言語がホモ・エレクトゥスやネアンデルタール人に存在していた可能性は捨てきれないという。
当時9〜11歳の段階で死亡されたとするトゥルカナ・ボーイは現存する最も完全な骨格を残した化石だが、それよりも数百万年古い猿人アウストラロピテクス・アファレンシスの化石としてルーシーの名前が良く知られている。トゥルカナ・ボーイ(ホモ・エレクトゥス)やKNM−ER 1470(ホモ・ハビリス)などの化石発見は、リチャード・リーキーという人類考古学者によって成し遂げられている。リチャード・リーキーは、ケニヤとタンザニアにおける人類学のフィールドワークの分野で多くの発見をした人類学者として著名だが、ジンジャントロプス・ボイセイなどを発見して人類の進化論に大きな影響を与えたルイス・リーキーとメアリー・リーキーのリーキー夫妻の子であり幼少期から考古学の発掘現場の活動に参加していたという。リーキー一族の人類学研究が人類のアフリカ単一起源説に与えた影響は極めて大きいが、ルイス・リーキーがケニヤやタンザニアといった化石発見のチャンスが高い地域の発掘権をほぼ独占していたことに対する批判もある。
ホモ・エレクトゥスの次には、巨大な脳(750cc以上)を持つ最古の人類とも言われる約200万年前のホモ・ハビリス(器用な人)が登場するが、この人骨化石もタンザニアにおいてルイス・リーキーによって発見されている。ホモ・ハビリスの物語では、ヒトと他の動物の知的能力を区別する脳の大きさにまつわるテーマが展開されるが、ドーキンスは体の大きさに対する脳の大きさの比率だけでなく、ハリー・ジェリソンの大脳化指数(Encephalisation Quotient:EQ)を用いて人類の脳の特別な大きさを論じている。人間の高度な知性の原因を脳の大きさ及び身体重量に対する脳重量の比率だけで説明し尽くすことは困難であり、比率だけを見るとヒトやイルカ、クジラ、ゾウなどの脳機能にそれほど大きな差異がないという結論が導かれる可能性もある。しかし、哺乳類の平均的な脳の大きさを示す大脳化指数を参照すると、現生人類の脳は人類と同じ体重を持つ哺乳類の平均的な脳の約6倍の大きさを持っているのである。
人類の高次脳機能の特殊性について脳の量的拡大だけではなく脳の質的転換を主張する仮説もあるが、脳容量の飛躍的拡大の原点はホモ・ハビリス前後の進化過程にあるのではないかと見られている。人類の脳容量がどういった自然選択の淘汰圧を受けてここまで大きくなったのかについて定説はないが、かつて言われていた突然変異による脳の拡大が手先の器用さや直立二足歩行に先行していたという仮説はあまり有力ではなくなっているようだ。リチャード・ドーキンスは前著虹の解体の脳のなかの風船という章で、ソフトウェア(脳)とハードウェア(身体)の共進化という仮説を提起しているが、本書ではジェフリー・ミラーの恋人選びの心に言及してクジャクの尾羽のような性淘汰によって脳が拡大した可能性を考えている。
人類(ホミニド)と類人猿の境界線として600cc以上の脳容量が持ち出されることがあるが、ドーキンスはこういった数量的な基準は実証的な根拠とならず、ある猿人の人骨化石が現生人類の直接の祖先であるということを証明することは不可能だという。猿人のアウストラロピテクス属は間違いなく現代型ホモ・サピエンスと過去の何処かでコンセスター(共通祖先)を持つだろうが、今発掘されているルーシーのようなアウストラロピテクス・アファレンシス(華奢型)が新人の直系の祖先であるか否かは確認しようがない。アウストラロピテクス属には華奢型(グラセル型)と頑丈型(ロブストゥス型)があるが、華奢型の種が進化して現生人類までの系譜に連なっていったと推測されている。
アウストラロピテクス属の化石であるリトル・フットからは二足歩行の痕跡を確認することができるが、約400万年前以上にまでヒト科の歴史を遡ることで脳の巨大化・道具と火の使用・言語的コミュニケーション・直立二足歩行という人類の特徴的な条件が揃ったことになる。道具の使用は厳密にはチンパンジーやボノボのような類人猿も行えるが、チンパンジーは火を起こして管理するような知的能力を発達させることは出来なかった。脳の大きさが拡大してから直立二足歩行を始め、道具や火を使い、言葉を話せるようになったのか、それともその逆で身体的・言語的機能の発達が脳の大きさの拡大にフィードバックしたのか、脳の拡大と身体・精神機能の発達のどちらが先かは推測するしかない。
脳の巨大化・道具と火の使用・言語的コミュニケーション・直立二足歩行が相互作用して現生人類のライフスタイルと知的能力が緩やかに確立していったと見るのが最も妥当なように思える。そして、その中で最も早く起こった変異は恐らくリトル・フットに見られる二足歩行だろう。樹上生活への適応である四足歩行を捨て去って、二本足で地上に立ち歩き始めた時に現生人類への進化の歯車は持続的に回り始めた。しかし、類人猿やサル類が遂に捨て去ることのなかった四足歩行を、なぜホミニド(初期人類)たちは捨て去ったのだろうか。類人猿に四足歩行と二足歩行で運動をさせ酸素消費量を測定する実験を行ったところ、エネルギーコスト的には類人猿でも二足歩行と四足歩行で有意な差はないという。生理学的な条件だけを見れば「二足歩行が決定的に有利なのであれば」類人猿も進化の途上で二本足で立ち上がってもおかしくなかったが、実際には類人猿やサル類は立ち上がらずに四足歩行で食糧を探求する生存方略を採用したのである。
直立二足歩行の謎に迫るのが猿人の章であるが、ドーキンスは性器を異性に誇示するためのマクシーン・シーツ=ジョンストンの性淘汰説、オーウェン・ラヴジョイの食べ物の持ち帰り説(手を自由にして獲物や果実を持ち運び仲間に渡したり保存したりする)、アリスタ・ハーディの水生類人猿説、ジョナサン・キングドンのしゃがみ採餌説などを紹介している。私は個人的には、直立二足歩行には性淘汰の要素は余り関与していなかったように感じるが、キングドンのしゃがみ採餌説によって樹上生活の適応を段階的に捨て、解剖学的な構造の変化(木に捕まる足が偏平になり、背筋が垂直になるような変化)が起きたという仮説に説得力を感じた。この後に続く類人猿の章では、腕わたりによる樹間移動によって安全を確保する生活様式が出てくるが、ヒトの祖先は樹上ではなくサバンナ(地上)に主要な生活拠点を定め、それまでとは違うしゃがみ採餌や食物の持ち運びによって小集団(家族集団)での生活を行うようになったのかもしれない。初期人類と類人猿の中間型化石と見られる約600万年以上前のトゥーマイとオロリンが紹介されるが、トゥーマイとチンパンジー系統の類人猿の違いは直立二足歩行にあったという仮説が正しいかどうかは分からない。トゥーマイが生きていた時代はチンパンジーと人類の共通祖先が生きていた時代とオーバーラップする部分があり、トゥーマイはよりチンパンジー的な四足歩行に近い歩き方をしていた可能性もあるからである。
人類(ホモ属)の祖先とチンパンジー・ボノボ(パン属)の祖先が交わる地点にコンセスター1が存在していたと考えられるが、コンセスター1は人類に至る系列とチンパンジーに至る系列に分化していったのである。ドーキンスも指摘しているが進化論に対する誤解として、人類の祖先が今存在しているチンパンジーやニホンザルだったというような誤解があり、進化論が事実なら、なぜ、今いる類人猿やサルたちが人間にならないのだ?という見当違いの批判がある。今地上に存在している類人猿とサルは人類の直接の祖先種では当然ない。遠い昔において人類・類人猿・サル類は共通祖先(コンセスター)を持っているはずだが、既に現在では共通祖先から分岐してそれぞれ異なる進化の道筋を歩み現在の適応的な形質にとりあえず落ち着いているわけである。だから、チンパンジーやサル類の進化が人間より遅れていて、もう少し進化が進めば彼らが私たちと同じ人類になるというような変化は決して起こらない。何故なら、共通祖先から分かれたチンパンジーやサル類も、人類と同じだけの時間をかけて現在の姿(形質)へと進化してきたからであり、進化の系統樹というのは無数の異なる道筋に分かれて枝葉を伸ばしていくものだからである(進化は、類縁種が同じ一本道の上を競争しているわけではなく、共通祖先から分かれた後には全く別の道を進んでいるということ)。今現在、存在している種の間には進化が進んでいるとか遅れているとかいう差は存在せず、途中でそれぞれの種の進化の道筋がずれていったというのが正しい認識である。
人類はゴリラよりもチンパンジー・ボノボに近い種であるが、コンセスター1の歴史を更に遡っていくと今度はゴリラとコンセスター1の共通祖先であるコンセスター2と遭遇することになる。コンセスター2の類人猿がチンパンジー系列とゴリラ系列に分岐していった過程は、アウストラロピテクス属のホミニドが華奢型(グラセル)と頑丈型(ロブストゥス)とに分岐していった過程とオーバーラップするが、解剖学的な身体構造の変遷を考えるのも興味深いことである。ゴリラの章では、人類と外観的に類似した類人猿に対する伝統的な抵抗感や嫌悪感について語られ、白人の人種差別思想の淵源に進化プロセスの逆行(原始的で野蛮・無知な印象を抱かせる類人猿・文明社会を持たない未開部族)に対する軽蔑があったことも記されている。人間・類人猿・サル類が混同して語られる時には、文明から遠ざかった生活様式を持つ人類をサルに近いものと見なし、文明社会と科学技術によって自然界から区切られた生活をする人類をより高等な人類と見るような差別意識が横たわっていたのである。こういった生物種や生活様式に対する差別意識の学術的な克服を達成するには、20世紀後半の文化相対主義(価値多元主義)的な文化人類学の成熟と、ポストモダン思想の発想を待つ必要があった。
現生人類(現代型ホモ・サピエンス)から次々に共通祖先(コンセスター)を遡っていく進化の旅路は、ゴリラからオランウータン、テナガザル類、旧世界ザル、新世界ザル、メガネザル、キツネザル類との共通祖先へと移っていき、生物の視覚(色覚障害)の仕組みや地理的に隔離されたマダガスカル島固有の生態系などのサイドストーリーが興味深く語られる。サル類までの共通祖先を探求し終わった後に、地球環境の大規模な変動が起きた白亜紀の大激変についての説明があり恐竜絶滅の背景について概略を知ることが出来る。大型の恐竜(爬虫類)による捕食を恐れて小型哺乳類が逃げ回っていた7000万年前の時代へと歴史は遡っていき、げっ歯類やウサギといった哺乳類の祖先の物語が紡がれていくことになる。祖先の物語 上巻の最後には、蜥型類(爬虫類)から両生類の段階に至るまで生命史を遡行していくのだが、下巻では更に太古の時代にまで共通祖先を探す長く楽しい旅路が続けられていく。始生代から新生代に至るまで、無数の生命が歩んできたシビアな自然淘汰の道筋を歩みなおしてみたい人、進化の過程で生まれた多種多様な生物のエピソードを楽しみたい人は、時間のある時にリチャード・ドーキンスの祖先の物語を紐解いてみて下さい。  
 
生物と無生物のあいだ

 

科学者の研究生活の楽しさと厳しさ
生物と無生物のあいだの帯タイトルには、読み始めたら止まらない極上の科学ミステリーと書かれているが、本書の対象とする読者層は、生命の基本的な仕組みあるいは本質に関心がある人であり、自然科学分野の研究者を目指してみたいと漠然と思っている若い人たちではないかと思う。つまり、純粋に生命とは何か?という根本命題を考えることが楽しくて仕方がない人であれば娯楽本として読むことができ、これから生命科学分野(遺伝子工学分野)で論文を書く研究者になりたいと思っている高校生にとっては、科学者の具体的な研究生活(経済的処遇)について知る手がかりの書となる。
著者の福岡伸一氏は、電子顕微鏡で覗きみるミクロレベルの世界で生命の構造と機能を解明しようとする分子生物学者だが、少年期には昆虫学のアンリ・ファーブルや進化生物学の今西錦司といったマクロな動物行動学者に憧れを抱いていたという。本書からは、京都大学からハーバード大学医学部というアカデミズムのキャリアパスを歩んだ筆者の生き生きとした留学体験や研究生活の一旦を垣間見ることができるのだが、福岡氏は研究者としての楽しみだけではなくて研究者としての苦しみについても多くのページを費やしている。一般社会では、科学研究者というと自分の好きな研究をして生活ができるので羨ましいと思われることが多いが、実際にはアカデミズムのヒエラルキー構造(階層秩序)の最下層から研究者生活はスタートするわけで、博士号をとっても生計を立てられる保証は新卒の会社員よりも随分と低いのである。博士研究員であるポスト・ドクトラル・フェロー(ポスドク)が直面する苦悩と不安は、まず第一に経済的自立(安定雇用先の確保)が困難であること、自分の好きな研究分野に集中できるかどうかは所属する研究室(指導教授)によって大きく左右されるということである。
助手に採用されるということはアカデミアの塔を昇るはしごに足をかけることであると同時に、ヒエラルキーに取り込まれるということでもある。アカデミアは外からは輝ける塔に見えるかもしれないが、実際は暗く隠微なたこつぼ以外のなにものでもない。講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手−講師−助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち。あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐え切ったものだけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする。
確かに、学問や研究、知識探求が好きな人であれば少ない給料であっても自分の好きな分野に打ち込めれば良いと思うかもしれない。しかし、著者はアカデミズムの世界に閉じ込められて単調な研究生活をこなしている内に、学術的な情熱がすっかりと冷え込んで世俗的な賞賛(名声)のみが高まるという死んだ鳥症候群のリスクについて語っている。つまり、好きなことを仕事にするということは、何処かで好きなことの追究のレベルを落として、お金や地位に変換することをも意味するのである。アカデミズムの世界で確固たるポジションを獲得した時には、研究生活のスタート時点に抱いていた理想や熱情が衰えてしまっていることも少なくない。現実社会で生きていく為にはお金が必要であり、それ以前に自然科学の先端分野を研究する為には莫大な研究資金が必要なのだから、ストイックな研究への情熱だけでは有意義な研究成果を生み出すことは不可能なのである。
筆者は、日本の閉鎖的なアカデミズム(講座制)の世界に限界を感じて、自由の国アメリカでの研究者生活へと身を投じることになるのだが、日本の大学(学会)に対する評価はかなり厳しく為されている。日本の学界がヒエラルキーの対人関係(教授に嫌われないようにすること)を重視する世界であるとするならば、アメリカの学界は、政府予算やスポンサーが提供する研究費(グラント)がすべてを掌握する自由競争の世界なのだった。市場価値を生み出す可能性が高い研究(研究グループ)にグラントは投資されるが、アメリカにおいて独立した有力な研究者とはそのグラントを出来るだけ多く獲得できる研究者のことであり、大学での教授・准教授・助手といった肩書きが直接的に使役のヒエラルキー(支配−従属の権力構造)を生み出すわけではないという。
大学と研究者の関係は、端的にいって貸しビルとテナントの関係となる。大学は研究者の稼いだグラントから一定の割合を吸い上げる。これをもって研究スペースと光熱通信、メンテナンス、セキュリティなどのインフラサービス、そして大学のブランドが提供される。
私は後に、ニューヨークからボストンのハーバード大学医学部の研究室に移ったが、ここではこのシステムが徹底していた。研究スペースの割り当ては完全にグラントの額と比例していた。巨額のグラントをもつ研究者には潤沢な面積が、駆け出しの研究者には窓のない小部屋が与えられる。万一、グラントの更新に失敗すれば、つまりショバ代が滞れば、たちまち退去である。ハーバードに入りたい研究者は山のようにいるのだ。私が在籍していた数年の間にも激しい新陳代謝が繰り返された。ちょっと見かけないなと思ったら彼の実験室はがらんとした更地となり、まもなく新しい研究チームが意気揚々と乗り込んできた。
筆者は、研究の実績と論文の評価(量と質)によってポスドクが独立研究者(グラントを一定金額集められる研究者)になれる可能性があるアメリカのアカデミズムを比喩して、流動性のある風と評している。私はこの部分を読んで良くも悪くもアメリカ合衆国は徹底した近代主義国家なのだと感じた、つまり、人が人を地位によって支配するというのが封建主義社会(専制主義)であるならば、人が人を金銭によって雇用(使役)するというのが近代主義国家(資本主義)ではないかという直感である。
人による支配と金銭による使役のどちらが優れた社会原則であると単純に裁断することは出来ない。ただ、匿名の金銭が人間を支配する世界では行動の選択の自由を見出しやすいが、実名の地位・身分が人間を支配する世界には行動の選択の自由が少ないという意味で、人間個々人にかかってくるプレッシャー(ある種の不自由な拘束感)が違ってくる。何より、経済的な金銭・資産の量というのは流動的であり、政治的な身分・家柄の世襲というのは固定的なものだから、自由主義的価値観からは人(身分・地位)による固定的な管理・支配というのは原理的に肯定できないということになる。競争原理による所得・資産の流動性というのが自由主義・資本主義の倫理性を支える有力な論拠の一つであり、相続税の増税や所得税の累進性という意見は流動性に支えられた公正感覚に賛同していることになるというと分かりやすいかもしれない。
無論、圧倒的な格差や貧困は、人間の精神と行動の自由を奪うので、自由原理に基づく資本主義社会においても経済格差の拡大を抑制する再分配政策は必要になってくるだろう。最終的には、アメリカ南北戦争時代の奴隷制肯定のロジック(支配されていても保護されて安心できればいいじゃないか)の問題にまで遡れるのかもしれないが、自由と安定を巡る葛藤というのは人間の人生のあらゆる場面で生じるものである。そして、本書の結末も生命の本質は流動性(エントロピー)であるという地点に、シンクロニシティ(共時)的に着地するのである。
大学での研究生活に関する感想が長くなり過ぎたが、本書を読む面白さの一つが科学者の研究生活を垣間見ることにあることは間違いないし、生物学的な内容にそれほど関心がない人であっても、興味深く読める科学史のエピソードや分子生物学の知見が散りばめられている。生命の本質を探究していく部分の感想については、もう少し補足して書いてみたい。  
生命の一回性と適応性がもたらす機械論的生命観への疑念
前記以外に、生物と無生物のあいだを読む楽しみはもう二つある。一つは生命とは何か?という根本的な生命感の刷新に関する記述であり、もう一つは科学史から見落とされやすい地味な研究者にもう一度スポットライトを当てて「分子生物学の歩みのプロセス」を再確認できることである。更に、分子生物学の研究現場における実際の作業
本書では、DNAの二重螺旋構造の発見でノーベル生理医学賞を受賞して科学界のヒーローとなったジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックの陰に、オズワルド・エイブリーやロザリンド・フランクリンといった一般人に余り名前が知られていないマイナーで誠実な研究者がいたことを詳細に解説している。自然科学は過去の知見や理論の積み重ねから新たなパラダイム・シフトを模索していく経験主義的な営為であり、同時代人のアイデアや実験結果から自己の革新的な科学理論(研究成果)が生まれることも少なくない。
客観データを一つずつ拾い上げていく実験と観察が一番面倒な作業であることは間違いないが、そのデータから有意義な理論を構築することが出来なければデータはデータのままで死蔵されることになってしまう可能性がある。オズワルド・エイブリーは、肺炎双球菌の形質転換に関する研究を生涯を通して継続して、精緻な研究データの蓄積に努めたが、形質転換物質がタンパク質とは異なる固有の遺伝子(DNA)であることを証明する地点にまで行き着けなかった。生命体の性質を変える物質=形質転換物質を観察したという意味で、エイブリーは実験レベルにおける遺伝子の発見者といっても過言ではないが、単純な高分子構造を持つ核酸をDNA(遺伝子=生命の設計図)と断言するだけのモデル構造(四つの塩基配列の対構造)と名声への野心を持っていなかったのが裏目に出たのかもしれない。
研究者生活半ばにして早逝してしまったロザリンド・フランクリンについて本書ではかなりのページ数を費やしているが、それはP105から始まる20世紀最大の発見にまつわる疑惑のテーマと深く関わっている。ワトソンとクリックが発見したDNAの二重螺旋構造とは、リン酸と糖からなる二本の鎖がラセン状に絡まっていて、そのラセンの内部でA・G・C・Tが相補的な対構造をとっているというモデル図式のことであり、エイブリーとアーウィン・シャルガフの研究・理論の恩恵を受けて発見に漕ぎ着けたものである。しかし、本書では、X線結晶学を専門とした女性物理学者ロザリンド・フランクリンのX線照射によるDNAの構造解析の研究成果が、ロンドン大学キングズカレッジを訪問したワトソンに盗み見られたのではないかという仮説が紹介されている。この伝記的な内容に関するエピソードについては、本書の他にも、ジェームズ・ワトソン二重らせん(講談社文庫)、フランシス・クリック熱き探求の日々(TBSブリタニカ)、モーリス・ウィルキンズ二重らせん 第三の男(岩波書店)などで言及されているようである。
さて、生命とは何か?について現代科学が到達した大まかな定義は、以下の3つの特徴を持つ有機体であるということであるが、本書では冒頭で生命の定義を自己複製能を持つことと限定しながら、次第に流動的な代謝(エントロピーの低減による秩序維持)へと生命の定義を引き寄せていく。著者はウイルスが生物であるか無生物であるかという従来からの問いに、第2章アンサング・ヒーローにおいて「ウイルスは生命ではない」という判断を下すのだが、その理由として幾何学的で無機的な構造を持つこと(細胞に見られない結晶化を起こすこと)と生命の律動(代謝)がないことを挙げている。本書では特に触れられていないが、ウイルスを非生命体と見做す意見として一般に言われるのは、ウイルス単独では自己複製できない(ウイルスは他の生物に依存的な情報複製子に過ぎない)ということもある。ウイルスは他の生命に寄生してDNAという情報を複製する機能しか持っておらず、ウイルスの構造は無機物のように幾何学的で外界とのエネルギーのやり取りがない。
生命の定義
1.外界と自己を区別する膜を持っていること。
2.外界からエネルギー(栄養)を摂取して排泄する代謝を行うこと。
3.自己と同じ遺伝情報を持った子をつくり出す自己複製能を持っていること。
生命活動で最も重要な要素は、全体としての秩序維持(無秩序を生むエントロピー増大の抑制)である。生命活動は物理化学的な作用に還元することができると語ったエルヴィン・シュレーディンガーは、原子が非常に小さく、生物個体が非常に大きい理由として、生命活動に参加する原子(粒子)の数が多いほど生命活動の秩序(原子の平均的振る舞い)から外れる誤差率が低くなることを上げている。あらゆる系の物理化学的状態は、原子(物質)の拡散が均一なランダム状態を目指して変化するが、その変化の終わりがエントロピー(乱雑性)最大の状態=熱力学的平衡であり、端的にその状態は生命系の死を意味する。生命体とは、自然状態ではあり得ない自発的な動的秩序を生み出す主体であり、生命活動とは動的な秩序を破壊するエントロピー増加則に対抗する有限の営みである。
しかし、自然界では物理化学的状態のエントロピー(乱雑性)を減少させて、熱力学的平衡(静止=死)から逃げ続けるというのはとても困難な作業であり、生命体以外にエントロピーを効率的に縮減させられる存在は知られていない。鉱物や地層のような無機的な秩序も確かにあるが、動的な秩序(動的な均衡)を生み出して維持できるのは複製能を持つ生命だけなのである。本書では、ルドルフ・シェーンハイマーの同位体(アイソトープ)を用いた代謝の実験結果を引いて、動的な秩序の正体を分子レベルの新陳代謝の流れに見出している。昨日の私を構成する分子は今日の私を構成する分子ではなく、生命体の構造は絶えざる分子レベルの流れ(代謝)の中に置かれることでのみ動的な秩序を維持することができるのだ。外界から食物や空気を取り入れることが出来なくなったり、消化した食物を排泄できなくなったりすれば栄養学的な観点からの欠乏だけでなく、動的秩序の崩壊によって私たちは生命活動を継続する事が出来なくなる。
タンパク質の構成物質(原子)が入れ替わる代謝の流れをせき止めることは誰にもできず、その破壊と再生の規則的秩序が乱れれば、私たちの生命に致命的な危険が差し迫ってくることとなる。生命体の安定した秩序は、破壊から堅固に秩序を守ることでは到底実現できない、破壊と再生の絶え間ないリズムによってのみ生命体はその生存時間を延長することができるのである。本書では、この動的な平衡(秩序)について以下のような表現で適切に説明されていて、秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならないという生命活動の原則に説得力を持たせている。
エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。
著者の福岡氏は、この絶え間ない分解と合成の中で、どのようにしてタンパク質の生体高分子が一定の動的秩序を維持しているのかを相補的なジグソーパズルモデルによって理念的に解説している。このジグソーパズルモデルとその後に続く細胞の膜構造の研究や特定遺伝子を破壊したノックアウトマウスの研究から得られた解釈は、一対一対応の機械論的生命観に対するアンチテーゼであり、ここが本書の最大の読みどころとなっている。
近代科学は、生命の本質を分子機械と見なし生物個体を遺伝子の乗り物と見なすように、原則として機械論的生命観に基づいて観察と実験を進めている。人間だけは自己言及できる自我意識を持つという意味で特殊だが、基本的に動物や植物はDNAの複製(自己複製)を究極的な目的として生きており、個体の満足や快楽に対するこだわりはヒトと比較すると殆ど無いといって良い。自然界の動植物の形質は自己複製のための環境適応として進化してきたものだが、果たして、人間や動植物は機械論的生命観で解き明かされる分子機械(DNAの解読と操作で改良できる機械)と断言してしまって良いのだろうか?そういった問いかけが本書生物と無生物のあいだの根底には流れており、生命倫理学的な疑念と欲望を孕みながら未来における生物学のあり方を展望している。
近代科学の一分野である生物学が到達した地点は、DNAを操作する遺伝子工学やES細胞(胚性幹細胞)を活用する生殖医療・再生医療に代表されるように、先端的な観察機器と操作技術(医療技術)によってミクロレベルから人間の生殖や疾病をコントロールできるという確信である。どれだけ長い時間がかかるか分からないが、優れた人材に長大な時間と莫大な予算、充実した環境が与えられるならば、人間はあらゆる遺伝疾患や不妊症を克服し、生命の有限性(死)に対抗し、優秀な形質を発現する遺伝情報を特定できるかもしれない……そういった無限の時間・完全な健康・優れた形質への野心が操作的な分子生物学や遺伝子治療には宿っている。
しかし、本書の後半部分では、そういった人間が神(生命の完全制御)に接近しようとする不遜な試みあるいは野心的な挑戦は、恐らく挫折するのではないかという根拠と予見がさまざまな角度から語られることになる。特定の遺伝子を人為的に破壊してその遺伝子の機能を確認するノックアウト実験について終盤で語られるのだが、GP2という細胞膜の組織化に重要な役割を果たすタンパク質を生産する遺伝子をノックアウトしても、そのノックアウトのマウスには何の異常も変化も生じなかったという。最終的な結論として引き出されるのは、生命を機械のメタファーとして見る機械論的生命観(自然観)への疑念であり、生命は機械のように特定の機能を持つ部品を単純に組み合わせたものではないということである。
つまり、機械のように壊れた部品を作り直してそこに配置すれば故障が直るというように、生命の壊れた部分(器官)を作り直してそこに配置すれば機能異常や疾患が回復するというわけにはいかないだろうという予測を示唆している。生命の目的的なコントロールの難しさは、生命が一回性・時間性・適応性という特徴を持っていて、一瞬たりとも完全に静止することがなく、遺伝子や器官を操作する時間さえ与えてもらえないケースに顕著に現れる。エントロピー最大に到達した生命を再び動的な平衡(秩序)のプロセスに引き戻すことは誰にもできない……死んだ生命を生き返らせることは出来ないからであり、発生プロセスにおいて致命的な異常が起これば生命活動そのものが停止してしまうからである。
遺伝疾患にしても代謝異常にしても突然変異した情報を特定して書き直す時間があれば完全に克服できるかもしれないが、致命的疾患の場合にはノックアウト実験を行っても発生初期で死んでしまうことが多く、遺伝子情報と異常内容との一対一の対応を特定することが極めて困難なようだ。生命は機械と違って時間経過に対する応答性と欠落を自動的に補う適応性があるので、一つの部品(機能)だけが欠落した状態というのをつくり出すことが基本的にできない……。
著者はこのことを時間という解けない折り紙という文学的表現で華麗に表現しているが、不断の生命活動に対して然るべき瞬間に然るべき操作を与えられる神の手がない限り、生命の人為的操作には超えがたい大きな壁が立ちはだかることとなる。しかし、人間の生命科学の営みは原理的かつ倫理的な困難を抱えながらも、より有効な生命の解明・操作へと突き進んでいくに違いないし、その飽くなき戦いの矛先は生命の一回性(発生プロセスへの適時的介入)・病理性(難治疾患の治療)・生殖性(不妊治療・ES細胞の有効利用)へと向けられることになるだろう。  
 
女神たちの饗宴

 

いかに日本の神々たちが天衣無縫、世界無比であるか。神話こそ愛国心の基である
八百万の神々に引き寄せられ、私は豊葦原瑞穂の国に戻ってきた。
帰国後の最初の旅の行き先は、宮崎の高千穂神社参拝だった。
《カム》ながらの道とは神道のことであり、《惟神》と書くが、大分から阿蘇を越えて高千穂に向う道は形而下的にもまさに神の道を感じる。その美しさというか、神々しさというか、崇高さというか、なんとも言葉も出ない感動で、これも意味は違うが「言挙げせぬ国」を実感した。日本の神々の地は、終始、心に満ちる言の葉″を越えた美の中にあった。いかなる人為もその前では無力であり、神慮は水蒸気であり、香りであり、光であり、風であり、色彩なのだ。
私が少年時代、日本にはそうした神々が満ち溢れていた。
自宅に、近所に、学校に。それから約半世紀、かくも日の本が黄昏るとは、それこそ神ならぬ身、知る由もなかった。『雲にそびゆる高千穂の、高嶺おろしに草も木も、なびき伏しけんおお御世を……』、同行の若者はこの歌を聞いたこともないと言った。それでいて「祖国はイルミナティに完全にのっとられている」という私の嘆きも、同時に彼らにはチンプンカンなのである。何も考えようとせず、何も感じようとしない国語を失った若い世代の日本人は、「気高い」というものへの直感的な感受性を失い、黄泉の国で腐乱したイザナキよりも醜い死を迎えつつあるのだ。
神話は人間生活の精神的可能性を探る鍵である──、とジョセフ・キヤンベルは彼の対談集『神話の力』(早川書房)の中で語っている。続けて彼はこう言う。「神話を読むことによって人間は自己の内面と向かい合うことができ、知的な経験を積むことができる。人生でもっとも大切なことは、この今″を自分が生きているということを、喜びの経験として実感することであり、人は神話を通じてそれを得ることができる──、と。
確かにどの国の神話でも、それは人類がはじめて知性というもの(知識ではなく知性)を身につけたときに生み出したものである。この宇宙と大地の森羅万象を「知」という鏡に映したときに反射した光が神話になった。それらの物語に描かれる内容は、さらに時代が下ってから作り出されたたぶんに意図的で意識的な脚色を持つ宗教的物語(たとえば旧約聖書の物語)などより、ずっと純粋で、豪快率直である。
その中でも日本神話はギリシャやローマの神話と比べ、ひときわ天衣無縫で(この言葉自体がすでに神の世界だが)、日本人の知性がいかに夷狄の神々と異質であり、好ましい神格を備えているか驚くばかりだ。神話の比較は愛国心涵養の基本なのだ。少なくとも私の子供の時代はそうだった。そして愛国心こそ、人間知性の第一の発露であり、知性の「チ」の字も失ってしまった現代日本の青少年から愛国の心など生まれるべくもない。第一神話を読むことによって自分の生きる喜びや、自己発見のカタルシスなどを持つ能力など皆無だろう。
神話を読みこなす能力とは、神々と匹敵するほどの豊かな感性と、自由で奔放な空想力である。その両方を抹殺し尽くされたテレビ・ロボット人間には、たとえば古事記に登場する神々はあまりにも人間的で、理解の足がかりすら発見できまい。日本人は日本の神の持つ人間らしさを失うことによって、同時に神を失ってしまった。
子供のころ、私は神と人間を区別していなかった。その第一の理由は、たとえば『講談社の絵本』という類まれなる上質の絵本に描かれた神々の姿が、あまりにも人間らしかったからだ。この絵本に筆を振るった日本画家は、いずれも当代一流の画家たちだった。相手が子供だからといって手加減するような芸術家たちではなかった。むしろ相手が子供であるがゆえに、いっそう真剣に絵筆を取ったに違いないと思わせる見事な挿絵が、厚さ一センチにも満たない大型両開きの叢書を飾っていた。
因幡の白兎と大国主命の物語を始め、イザナキとイザナミ、アマテラスとスサノヲ、ヤマトタケルとオトタチバナヒメといった主要登場人物(いやいや、登場神物)はすべてそうした絢爛豪華な絵巻物とカタカナ文の解説で脳裏に叩き込んだものだった。いまでも目を瞑ると、その絵の数々が瞼に浮かぶ。よほど印象が強烈だったのだろう。現代で言えば幼稚園児のころの記憶である。神武天皇東征のお姿と、その手に握られた弓、その上にとまった金鵄の挿絵など、記憶をたどって模写できるほどに鮮明である。
私はこの稿を書くにあたって、念のため町最大の本屋の児童書棚を見て回った。神話に関しての絵本はたった一冊、アマテラスの岩戸の物語が描かれていた。もっと都会の本屋に行けば、まさかたった一冊ということはあるまいが、神々のふるさと九州の本屋でこの有様だ。しかもその絵は漫画に近い表現で、アメノウズメとサザエさんの区別もつきかねるような描写だった。
何たることだろう!
アメノウズメは乳房を露出させ、ホトをもあけ広げて踊ったのである。それを見て神々は笑ったのだ。日本の神々ほどよく笑い、よく泣く神も世界の神話には見られない一大特徴だろう。特に男神が人の目(いや神の目)もはばからず泣きまくる。兄貴の海幸彦から借りた釣り針をなくしたといって、弟山幸彦は泣きくれる。毛唐の神は泣かない。彼らは信じられないほど残酷だ。サムソンに比べればスサノオの乱暴など児戯に等しい。やはり日本はイルミナティに征服されるべくして征服されたのだろう。
私は日本神話の女神たちの誰とも恋をしたく思ったものだ。妖艶さもさることながら、気風のよさ、男勝りの勇気と決断力、爽やかさと清らかさ、そして何よりも現代人がすっかり失っている情熱の豊穣さは日本が女神の国であったことを納得させるのである。
ヤマトタケルの命を救うために、自らパーフェクト・ストームの荒海に身を投じるオトタチバナヒメなど、夢にまで現れた私の女神で、その姿も『講談社の絵本』の挿絵による美しいイメージの女だった。何しろ彼女たちはみななんとも味のあるきれいな名前を持っていて、それらはやはりカタカナ書きでは理解できず、漢字の訓読みで見なければならない。弟橘比売命とか木花之佐久夜毘売とか、天宇受売といったものだが、こと名前の当て字表記は古事記より日本書紀のほうが私は好きだ。
ああ、それにしても──!
神よ、なぜ神は日本の女神たちを殺されたのですか?  
 
永遠の福音

 

( ヨハネの黙示録14章6〜13節 )
ヨハネの幻に3人の天使が次々に現れます。彼らは「永遠の福音」を宣べ伝えます(実際にこの語が出るのは第1の天使が登場する場面ではありますが)。「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐」(12節)を呼び起こす時、まさにそれは良き音信(福音)であります。しかし他方、偶像を拝み、サタンの化身である獣の名を刻印される者には徹底的に厳しい永遠の審きとなることが告げられます。
第1の天使が空高く飛ぶのは、鷲が高い位置から地上の獲物を狙うために広い視野で鳥瞰するのと同様、地上全体に、つまり人類全体を射程に入れて告げ知らせるためです。彼は天地万物の創造者なる神が終末の審きの時を来たらそうとしておられるから「神を畏れ、その栄光をたたえなさい」と告げます。それは神を礼拝するという行為です。今日の私たちが行っている礼拝も同じです。この天使が伝える「永遠の福音」とは唯一の永遠者である神に由来する事柄であり、特に黙示録では「今から後、いつまでも」という将来を指す方向でこの永遠ということは述べられています。今や実現した、そして将来何時までも続く喜ばしい状態ということです。それゆえ「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」(13節)と告げられるのです。しかしここでは今まだ生存中に惹起する事柄以外のものは信じられていません。
第2の天使が「大バビロンが倒れた」と宣言します。バビロンはかつて前6世紀に一時オリエント世界を支配し、ユダヤの王朝も滅ぼし、その住民の一部を強制連行したあの新バビロニア帝国の首都です。その支配権力と、ヨハネの時代のローマ帝国の中心地が重ねられています。ローマの支配は「みだらな行い」(八節)にたとえられます。この黙示録のヨハネはおそらくユダヤ人ですが、ユダヤ人にとっては、神の禁じた悪事の象徴が「みだらな行い」であり、悪いことはなんでも「みだらな行い」だったのです。それは繁栄に酔いしれた人間の姿を表します。人々はローマ帝国の繁栄というぶどう酒を飲むことによって本当は酩酊させられているのですが。
第三の天使も「神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むこと」、つまり強いぶどう酒に水か何かを混ぜて薄めないで飲み、悪酔いや二日酔いで気持ち悪くなるイメージが用いられています。ぶどう酒が豊かにあることは収穫の豊かさを表し、神の祝福を意味するのですが、しかしこれが神の怒りを表す場合、ぶどう酒を飲んだ人間が酔っ払い、嘔吐して倒れたり(エレミヤ書25章27節)、酔っ払って裸になり失態を晒す(ハバクク書2章15〜16節)というような状態がイメージされているようです。しかしそれ以上に神の怒りは神の厳しい審きをもたらします。裁かれる者とはサタンの化身である獣を礼拝し、その獣の(名の)刻印を受ける者たちです。つまり具体的には、ローマ皇帝を礼拝し、ローマ帝国の支配構造に取り込まれて生きる者たちです。「永遠の福音」とは対照的に彼らは火と硫黄で、即ち地獄の火で焼かれて「世々限りなく」苦しめられ、「昼も夜も安らぐことはない」のです。すなわち永遠の地獄の火で苛まれることが言われているのです。ここには報復・復讐の怨念があります。イエスを信じる自分たちを苦しめ苛む獣の名を刻んだ者たちが何故繁栄しているのか。義人が圧迫されて苦しむのに、悪人がなぜ支配し君臨するのか。すでに6章の幻で、天上界の屠られた神の小羊イエス・キリストが第5の封印を開いた時、「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』」(9〜10節)ということが記されていました。しかし、このような事態に於いて「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」(12節)と言われます。黙示録にはここの「神の掟」と「イエスに対する信仰」という表現の組み合わせがしばしば出ますが、このような表現によってキリスト教的信仰そのものを示しています。この組み合わせの後者については「イエスの信仰」と訳した方が良い。事柄としてもイエスによって基本的に可能とされた信仰の忠実のことが言われているからです。それは人々のために贖いとなって下さった屠られた神の小羊イエス・キリストのわざに基づいています。12章ではこの小羊が天上界で勝利者として即位されたという宣言が全被造物に向かってなされ、歴史が全く新しい局面となったことが記されていました。
この小羊は救い主を表しています。ローマ帝国の支配を確立する皇帝たちではなく、イエスこそが救い主なのです。この小羊が屠られたのは、かつて小羊の血によってエジプトから神の民イスラエルが解放されたように神に反抗する諸勢力から神の民が解放されることが示されています。この屠られた神の小羊が天上界に君臨するとは、神に反抗する諸勢力の大本のサタンに勝利したことを表しています。だからこそ迫害に遭ってもキリスト者は勝利者イエス・キリストに属し、その支配下にあるのであるから、迫害の中で死を迎えても決して見捨てられることはないのです。
13節では、神あるいはキリストの声が「書き記せ」と天からヨハネに告げて聞き逃してはならない重要なことが述べられます。ここでは「諸勢力の滅亡が確実に展望出来るようになった今、キリスト者である死者は自分たちの救いの実現を確実視することが出来るので幸いだ」(佐竹明)と言われています。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」(13節)と霊が言います。「労苦」と「安らぎ」とは相反するものです。義人は労苦するが、悪人は安らいでいる。しかし、終わりの時にはこの関係が逆転するという黙示文学の思想があります。しかしこのヨハネ黙示録は、終末が到来して信者たちが復活するよりも早く、神に敵対する者たちが報復されることが現在すでに明らかになったと記します。それで復活後の至福を現在予め味わって安らぐことができるということを記しています。死んで苦しい生から解放されるだけでは本当に「労苦」から解放されたことになりません。敵対者に向けて神の報復が明らかに示されて初めて「労苦」から解放されて「安らぎ」に入れられることになります。今日であれば、東日本の災害に関して特に深刻な人災をもたらした事態について私たちは為政者と国家や経済構造に対して神の厳しい審きを祈るべきかもしれません。しかし私たちがこのような報復、復讐の文脈だけで屠られた神の小羊の勝利の「永遠の福音」を読んでいたら、イエスヘの忠実な服従という「行い」は暗い偏執狂の集団の呪詛になり果ててしまいます。
果たしてそうでしょうか。イエスには報復や復讐に対するバリアがあります。黙示録の時代の信者たちが迫害の中で、理不尽で不条理な苦しみを実感していたとき、すでにイエスは神の子として人間に於ける理不尽で不条理で悲惨な苦悩と死を体験しておられたと言わねばなりません。神の子が充分わかって下さる。ここに私たち人間が実感する理不尽で不条理で悲惨な苦しみの受け皿があるのです。彼自身がそうであった。人間の怨念はここを突き抜けることはない。分かってもらえるということは大きな慰めとなります。最早復讐するな、報復し復讐する必要はない。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章44節)という関係世界をイエスがご自分の十字架の死を通じて開拓しそこに教会を建てて下さったのです。そこに永遠の福音とその勝利の根があるのです。人間の報復や怨念を宥めることの難しさは人類の歴史が証明する通りです。しかし私たちはイエスが開拓して下さった地平を見晴るかし礼拝を通じてそこに繋がれるように招かれていることを覚えたいと願うものです。  
 

 

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