天地創造 諸説

創造論創造論否定ビッグバン宇宙の年表聖書「創造論」創造か進化か地球の誕生宇宙の創造ノアの大洪水大洪水による環境の激変人類と地球の年齢宇宙の年齢人類の誕生観測可能な宇宙天地開闢(日本神話)ギリシャ神話淮南子「俶真訓」淮南子に見える天界遊行古代の宇宙観中国神話1中国神話2空海の宇宙生成観日本書紀旧約聖書「創世記」殷商代中原地区の気候古事記冒頭の読み古事記に依る宇宙創造概観宇宙の始まり古事記の謎・・・
 

雑学の世界・補考   

創造論

創造論とは、宇宙や生命などの起源を創世記に書かれた「創造主なる神」に求める考え方であり、「創造主なる神」によって天地万物の全てが創造されたとする様々な議論のことである。
創世記を教典に含む宗教には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教があるが、これらはいずれも創造についての教えがある。
創造の具体的な過程については、創造の過程に進化的な要素を含むか含まないか、創造に要した時間はどれぐらいか、などの点で異なるいくつかの説がある。  
自然神学
1517年のプロテスタントの宗教改革は、中世のローマ教会が聖書の字義通りの意味を軽視していると考えたために、字句どおり聖書を読むことを強調した 。マルティン・ルターは天地創造が文字通り6日間で6000年前ほどになされたと主張し、「モーセは誰にでもわかるように書いた」とした。ヘビは寓話的に理解している。ジャン・カルヴァンも同様に、天地創造が瞬時になされたことを否定した。
新大陸の発見により、生物の多様性の理解が深まり、これらの種が神によって個々に創造されたという確信が強まった。1605年にフランシス・ベーコンは、神によって書かれた自然と、神によって書かれた神のことばとしての聖書を強調し、またベーコンは現代の科学にとっても中心的な経験的なアプローチを導入した。 自然神学はキリスト教を裏付けるために発展した。
1650年にジェームス・アッシャー大主教は、天地創造が紀元前4004年とし、この見解は多く採用されたが、18世紀から19世紀に地層と化石が発見され、古い地球が考えられた。天変地異説はイングランドで採用されたもので、創造論にもいくつか説があり、1850年ぐらいまでに多くの地質学者とキリスト教徒は古い地球説を採用したが、進化論は拒否した。
創世記解釈としての創造論
創造論には創世記の記述の解釈の仕方の違いによるいくつかの説がある。それらの中には現在では支持者がおらず廃れてしまったものもある。
若い地球
神が創造した六日間と、安息された七日目の一日は文字通り24時間であったと解釈する説。天地創造は、アダムの創造から家系譜を計算して今から数千年前-1万年前とされる。
1654年に、英国国教会のアイルランド大主教ジェームズ・アッシャーとケンブリッジ大学副総長 ジョン・ライトフットが聖書の記述から逆算し、天地創造は西暦でユリウス暦の紀元前4004年10月18日〜24日にかけて起こり、アダム創造は紀元前4004年10月23日午前9時と算出し、長らくキリスト教圏ではこの年代が信じられてきた。その他にも天地創造の年代には諸説ある。
聖書無謬の創造論では、宇宙の始まりから現在までの過程についても聖書に誤りが無く、旧約聖書『創世記』の記述が文字通り正しいという聖書無謬説をとり、生物種はそれぞれ独立に創られたとしている。初期のキリスト教根本主義の中には創造的進化論を採用する者もおり、根本主義者は必ずしもこの説を採ったわけではない 。
創造科学
聖書の真理を与えられているとの確信に立って、聖書を中心に論じ、進化論を退けるために、科学を道具として用いる。科学は神学によって導かれるべきだとし、進化論には根拠がないと主張する。それに関与する学者・科学者を「クリエーショニスト」と呼ぶ。特徴として若い地球説がある。
古い地球説
近代科学の地球の古い年代を認める説。断絶説、漸進的創造論を含む。
断絶説(間隙説、ギャップ・セオリー)
創世記1章1節と1章2節の間の創造以前の状態、に長い時間(数十億年)があったとする説。
単に長い時間の間に創造的進化論を当てはめる考えと、この中に二回創造説の最初の時代があり1章2節が二回目の創造であるとする考えがある。
枠組み説
6日間の出来事は創造の順番として理解する説。聖書の主題は人類の救済であるとし、聖書の記述が科学的に全て解明されたわけではないため、聖書の創造の記述について一般的な解釈である枠組み説に立つ創造論支持者も多い。(テトス3:9等)
堕落前の世界と堕落後の世界
全的堕落前と堕落後の世界は相違しており、堕落後の世界に生きている人間がアダムの堕落前の世界を科学的に解明することはできないとする説。
長期説(1日=1時代説)
創世記中で「日」と訳されるヘブライ語ヨームには「長い時間、特別な出来事の時」という意味があり、創造の六日間が数千年、あるいは数十億年の期間であったと考える。
(創造の1日を千年あるいは数十億年の長期とし、×6の期間で創造)
神が時間をも作ったと考えるならば創造の最初の時間、六日間はまさに「特別な出来事の時」として理解できる。また「長い時間=千年」を、アダム、ノア、アブラハム、ダビデ、キリストまでがそれぞれ約千年、キリストから現代までを2千年=合計6千年として予型や雛形としての側面から聖書を読み取る神学的解釈と字義解釈は矛盾しない。(ペテロの手紙第二3:8)
この長期説をとる立場の中には、七日目の安息日が終わったという記述がないこと、またヘブル書4章の記述などから、創世記2章3節から終末までの人類の歴史全体を七日目であると解釈する立場もある。
二回創造説
第一の創造の後、ルシファー(サタン=悪魔)に率いられた天使(堕天使=悪霊)らの反乱が起こり、その戦乱で世界は破壊されてしまったので、ミカエル率いる天の軍勢が堕天使を制圧し地獄に幽閉した後、神が世界を造り直した過程が第二の創造だとする説。(黙示録12章2~9節)(ペテロの手紙第二2:4)
英語訳聖書で以前、地獄と訳されていた「ハデス」を現在は音訳にするものが多く、日本語では音訳あるいは「黄泉」(よみ) と訳して地獄と明確に区別している。人間は死後、自動的に地獄や天国に行くのではなく最後の審判があり、神による死者の裁きがあった後に「よみ」さえも落とされる場所が地獄であり、まだ形成されていないため字義的に二回目の創造は黙示録の記述にある神が創造する「新しい天と地」となる。この場合第一と第二の創造は字義解釈に取り込まれる。
複数回創造説
フランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエは天変地異説を提唱した。キュヴィエはほ乳類化石の専門家であったが、化石として発見される動物は現在ほとんど見られず、逆に現在見られる多くの動物は化石として発見されることがない。この矛盾を解決するため、ノアの洪水伝説を流用し、同様な大災害が複数回起こったのだと論じた。彼自身は神による創造には言及していないが、彼の弟子筋や、後続の学者には、彼の天変地異説と結びつけ、神による創造は何度も、たびたび行われたのだと考えたものがいる。19世紀には多くの博物学者・地質学者が創造論者でもあり、現実に観察される生物や地球と聖書の記述を合致させようと様々な説が提示された。本説も、オムファロス説もそれらのうちの一つ。
オムファロス仮説
イギリスの自然学者フィリップ・ヘンリー・ゴスが1857年に提唱した。歴史の存在を想像させる地質学的、生物学的、その他ありとあらゆる証拠(化石、地層、年輪など)は、それを含めた完全な形で地球は紀元前4004年に創造された、とする。
伝達説
テルトゥリアヌスの説。肉体と霊魂はアダムにおいて創造され、自然生殖によって伝達されたとする。
霊魂創造説(創造神学)
肉体の発達の初期段階に、神が直接創造した霊魂が肉体に注入される。アリストテレス、ペラギウス、また、トマス・アクイナスらカトリック教会の神学者の多くが唱えたとされる説。
進化的創造説(有神論的進化論)
単体で用いられる説ではなく、上記の「断絶説」「長期説」に含まれる長い時間の中で生命の進化があり、その過程において神の意思が反映されたとするもの。また、創造論と進化論 は必ずしも対立しないとし、神の意志によって進化がなされたとするため「進化的〜」と呼ばれているが進化論を積極的に支持しているのではないとしている。人によっては「断絶説」「長期説」以外の説にも適用して用いる場合もある。
イスラム教の創造説
イスラム教徒の中にも『コーラン』に基づく創造説がある。そして、これに基づき創造科学を主張する一派も存在している。
インテリジェント・デザイン(ID)
近年のアメリカで始まったもので、聖書から科学的に論証しようとする宗教的な論説の創造科学を基礎にして、より多くの人々に受け入れられるように、全てを創った存在を「創造者(神)」と言わず「偉大なる知性」と表現し、この知性によって宇宙・地球が設計(デザイン)され、創造されたとするもの。創造科学と違い若い地球説を採らない。
高等批評学、文書仮説
事物の創造順が異なるため統合できないとする文献批判の聖書学により創世記をP典とJ典(2章4節から)の二つに分類して創造説話を解釈するもの。高等批評学、文書仮説では『創世記』の第一章天地創造でエロヒムが植物・動物・人(男と女)の順で天地を完成させたとしているのに対し、第二章では第一章とは異なる順序、つまり、アダム・植物・動物・女イシャー(後にイブという名になる)の順にヤハウェ・エロヒム創ったとしている点に着目し、創世記の記述を文字通りに解釈するものではないと主張している。
異教的創造説
この節では異教とキリスト教が結びついた創造説について記述する。 紀元後1世紀、アレクサンドリアのフィロンによって、イデア界の霊的創造(創世記1章1節から3節)がデミウルゴス(造物主)による物質界創造(同1章4節以降)に先立って起こったとする説が説かれた。これを二段階創造説という、フィロンは創造の第1日をイデア界の創造として把握し、対して、第2日以降に詳細に展開される創造の過程を、イデアに基づく現実界の創造と考えた。ここには、プラトンの『ティマイオス』における「イデアのみやり」による工匠・造物主の世界の創造論と聖書の創造記述の結びつきによる把握がある。創世記2章には「われわれの形(エイコーン)にしたがって」(七十人訳聖書)という個所があり、創造は「エイコーンにしたがって」なされたと考える余地があった。そして中期プラトンにおいて、エイコーンはイデアと互換な概念であり、この語はいわばイデア論と創世記の創世神話をむすぶ蝶番となったのである。
この二段階創造論と同じ発想は、グノーシスにもみられる。グノーシスもまたプラトン思想の影響下にあり、むしろさらに感覚的・肉的なものへの嫌悪を受け継いでいる。グノーシスでは、神の作った善なる霊的世界と、デミウルゴスの模倣により悪なる劣った肉的な世界の二段階の創造が考えられた。この説は、他のグノーシスの教説とともに、のちのキリスト教会からは異端とみなされた。
一方、正統教会のなかにも、異教的な背景をもつ自然学と創世記の創世神話を調和的にむすびつけようとする試みが為された。このとき、自然は、聖書文書とともに「神の業」をあらわす書物であるかのように考えられた。4世紀、多神教的異教は依然として勢力を保っており、したがって、この時代の護教的な文脈のなかでは、両者の一致をいうことは有益であると思われた。例えばカエサレアのバシレイオスは、『ヘクサエメロン』(六日の書、中世思想原典集成2・平凡社収録)を著し、創造説についての記述を行った。
キリスト教の教理・教義・神学としての創造論
創造論は術語としては近年のキリスト教(特にプロテスタント)で使われるようになったものである。しかし神により世界が創造されたとする考え方については、聖書を根拠とする歴史的伝統がある。
キリスト教の正統信仰を規定する基本信条である使徒信条、原ニケア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、神をまず創造主として告白している。従ってキリスト教において創造は必須の基本教理・教義である。ただしその創造をどのように理解するかについては、キリスト教内に見解の差異がある。
古代から教父時代の創造論の例
エイレナイオスはギリシャの異教哲学を退け、神による無からの創造を主張した。テルトゥリアヌスは神の意志を強調した。アウグスティヌス、ジャン・カルヴァンの神学に見られる創造の教理は創造主である神と被造物を区別し、神の創造を認めることに中心がある。アウグスティヌスは神が時間も創造したと教え、これは現代の思想にも影響を与えている。
無からの(ex nihilo)創造の教理は、グノーシス主義の異端に対して強調された。トマス・F・トーランスは、初代教会がグノーシスと対決し、ヘレニズムと東洋的な仮説を退けたとする研究を発表した。  
現代の創造説
正教会における見解
他の多くの教派と同様、正教会もこの世が神によって創造された事は疑わない。しかしながら旧約聖書、特に創世記にある世界の創造の記述について、どこまで創造が記述された通りに行われたか、また生物の進化をどこまで認めるかといった問題については、正教会内でも見解の差がある。さらに、こうした見解の差を解消して教義化したり、非妥協的な答えを出したりするといった事はこれまで行われていない。確かに教義とされているのは、唯一の真の神がこの世の一切を創造したこと、人が被造物の中で特別に唯一、神の像と肖に似せて創られたことである 。
こうした正教会における創造を巡る理解は、科学の発達した近現代に始まるものではない。4世紀には既にニッサのグリゴリオスが創世記の冒頭部分につき、「歴史であるよりはむしろ物語のかたちを借りた教義である」と述べたことを、英国在住の府主教カリストス・ウェアが著書で引用している 。
ロシア正教会渉外局長も務めるイラリオン・アルフェエフ府主教は著書『信仰の機密』において、聖書の史実は実際の歴史であって寓話でも比喩でもないが、古代のあらゆる記述と同様に象徴言語で書かれているため、聖書を読むのにあたっては単語のひとつひとつ、形象のひとつひとつを解釈しなければならないのであり、聖書に書かれたことは最後の一字まで真理であるが、全てを文字通りに解釈すべきではないとし、聖書の記述を「象徴的記述」であるとしている 。
カトリック教会における見解
カトリックは本来、創造論を支持するが、1996年10月にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、「進化論は仮説以上のもので、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神に創造されたもの」だと述べた。
プロテスタントにおける見解
支持者によって20世紀最大の神学者と称される新正統主義のカール・バルトは、未完の主著「教会教義学」全4巻における第3巻、邦訳全36分冊中11冊分を創造説に割いている。
バルトに師事したトーマス・トーランスは師であるバルトと見解を異にし、神学が自然科学に基礎付けられるのではなく、逆に科学が神学に基礎付けられるべきであり、その方が真実に近いとしている。
内田和彦は進化論を受け入れる立場が部分的霊感説になるとしている。日本基督教団亀有教会牧師鈴木靖尋は、日本基督教団の牧師の95%が部分霊感であり、有神的進化論の支持者であるとしている。  
創造論の影響
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国では『創世記』をそのまま信じている人はかなりの割合であると言われ、論争が起こってきた。その中には、進化論を教えるならば同じ時間だけ創造論も教えるべきであるという主張や、創造主の存在を出さずに創造論を暗に示唆するインテリジェント・デザイン論など立場は多様で、複雑である。一部の州では生物の教科書で「進化論」を教える派と「創造論」を教える派が真っ向から対立し社会問題化することもあった(スコープス裁判など)。インテリジェント・デザイン論を公教育に取り入れようとする動きに対して反対派が創造主がスパゲッティ・モンスターであるというパロディ宗教「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」を創設して抗議運動を起こした。
近年アメリカで創造論を支持する人が増加しているのは福音派の影響というよりも、それぞれの専門家が議論を交わすテレビ討論番組などの放送が大きく影響しているようである。民間の統計では国民の50%を超える人々が神が人間を創造した事を信じているという数字が出ている。
創造論は 聖書根本主義者の間違った主張であるとする立場では、創造論者の総称として「ファンダメンタル」と呼ぶこともある。創造論の間違いを主張する媒体はインターネット上でも見られる。過激な活動で影響を与えようとする創造論者がアメリカには存在しており、それに対する拒絶反応が創造を信じないリベラル派(自由主義神学)に創造論を非難する理由を与えている。
日本
キリスト教の信仰者が1%に満たない日本では、創造論を初等教育で教えるように求めて裁判に訴えた例は2010年時点ではないが、福音派の教会においては創造の教理は信じられている。また、学校教育では進化論を教えるため、チャーチスクールやホームスクーリングで子弟を教育する教会や家庭もある。 
 
「創造論否定」 ホーキング博士

 

英国の世界的な物理学者スティーブン・ホーキング博士は、ダーウィンが生物学で創造主の必要性を排除したように、新しい物理学理論が宇宙のための創造主の役割を不必要なものにしたと主張した。
「宇宙創造に神は必要ない。ビッグバンは物理学法則に則った結果である」
「宇宙は神が設計していない、自己創造するのみ」
「現代の物理学は、宇宙の創造において神の場所を与えない」
英紙タイムズが発行する科学月刊誌「エウレカ」は2日、近く出版されるホーキング博士の著書『The Grand Design』の一部を抜粋し、掲載した。創造論者の知的デザイン(Intellectual Design)を念頭に置いたタイトルの同書で、ホーキング博士は、「宇宙には創造主が必要か」という問いを投げかけ、「ノー」と答えた。
ホーキング博士によると、ビッグバンは物理学的法則の避けられない結果であり、神の手や偶然によって説明できるものではない。ホーキング博士は、「重力の法則があるため、宇宙は無から自らを創造でき、これからもそうするだろう。このような自発的な創造が、無ではない有、すなわち、宇宙と人間が存在することになった理由だ」と強調した。ホーキング博士は、「紙に火をつけ、宇宙を爆発させる神を呼ぶ必要はない」と付け加えた。
新刊書の内容は、ホーキング博士が以前、宗教について表明した見解から外れていない。ホーキング博士は、88年のベストセラー『ホーキング、宇宙を語る』という著書で、創造主の神が宇宙に対する科学的な説明と両立できないわけではない、というニュアンスを漂わせた。ホーキング博士は当時、著書で、「人間が完璧な理論を発見できるなら、その理論は人間の理性の最後の勝利になるだろう。その時、人間は神の心を知ることになるだろう」と書いた。
しかし、ホーキング博士は、米国の物理学者レナード・ムロディナウとの共著で、9日出版の新刊書で、「宇宙は混沌(chaos)から生まれるのではなく、神によって創造されたに違いない」というニュートンの信念を打ち砕く。ホーキング博士は、「最初の一撃は92年、太陽とは違う星を回っている惑星が、観測されたことだ。これにより、地球という惑星が持っている条件の絶妙な一致、つまり一つの太陽、そして、太陽から地球までの距離と太陽の質量の運の良い結合という条件が、地球が人間のためにデザインされたという証拠としては、過去よりも重要ではなくなった」と主張した。さらに「地球のような惑星だけでなく、別の宇宙も存在する可能性がある」と強調した。
『神は妄想である』という本を書き、無神論を擁護した進化生物学者のリチャード・ドーキンスは、同書の内容を単に自然の中に生きている人間だけでなく、まさにその自然のためのダーウィン主義で描写し、出版を歓迎した。ドーキンスは、「私は、物理学の詳しい内容をよく知らないが、私も(ホーキング博士と)全く同じことを仮定してきた」と話した。
ホーキング博士は、物理学が全ての理論、自然の全ての特性を完全に説明できる一つの枠組みを構成する時に至っていると見通した。そのような理論は、アインシュタイン以来、すべての物理学者が追求してきた聖杯だったが、これまで原子以下の世界を説明する量子理論と重力理論を和解させることができなかった。ホーキング博士は、「一種のひも理論(string theory)であるM理論が、この目標を果たすだろう。M理論は、アインシュタインが発見しようとした統一理論だ」と主張した。

「宇宙創造に神の居場所はない」(2010/9/3)
1988年に発売され、世界的なベストセラーとなった『ホーキング、宇宙を語る(A Brief History of Time)』において、「神という考え方は、宇宙の科学的理解とは必ずしも相いれないものではない」と比較的寛容だった宗教観は、新著『The Grand Design』では硬化した。ビッグバンは万有引力の法則の結果でしかないという論を、次のように展開した。
「引力などの法則が存在するため、宇宙は無から自らを創造することが可能。自発的に創造されたからこそ、無というよりは何かが存在する。だからこそ宇宙は存在し、われわれも存在する」
「青い導火紙に火をつけ、宇宙を創造してくれるよう、神に祈る必要はない」
「宇宙は混沌から生まれることはあり得ない」とするアイザック・ニュートン(Isaac Newton)の理論に立ち向かうきかっけとなったのは、1992年の太陽系外惑星の発見だったと記している。
「(この太陽系外惑星は)地球の条件に一致していた。太陽が1個であること、地球と太陽の距離、太陽の質量などの幸運な要素が似通っていた。このことは、地球がわれわれ人類を喜ばせるためだけに注意深く作られたという考え方を弱めるものだ」
 
ビッグバン (Big Bang)

 

ビッグバン理論(ビッグバン仮説)、つまり「この宇宙には始まりがあって、爆発のように膨張して現在のようになった。」とする説。同説において想定される、宇宙の最初期の超高温度・超高密度の状態のことである。  
概要
「ビッグバン」という語は、狭義では現在観測されている(ハッブルの法則に従う)宇宙の膨張が始まった時点を指す。その時刻は今から137億年(1.37 × 1010年)前と計算されている。より一般的な意味では、宇宙の起源や宇宙の膨張を説明し、またα-β-γ理論から予測される宇宙初期の元素合成によって現在の宇宙の物質組成が生まれたとする、現代的な宇宙論的パラダイムも指しうる。
この理論に「ビッグバン (Big Bang)」という名をつけることになったのは、皮肉にも、「宇宙に始まりがあった」という考えを非常に嫌悪していたフレッド・ホイルであり、あるラジオ番組において、ジョルジュ・ルメートルのモデルを 「this 'big bang' idea(この大ボラ)」 と愚弄するように呼んだのが始まりであるとされている。
ビッグバン理論(ビッグバン仮説)に基づいたビッグバン・モデルでは、宇宙は時間と空間の区別がつかない一種の「無」の状態から忽然と誕生し、爆発的に膨張してきた、とされる。近年の観測値を根拠にした推定により、ビッグバンは約137億年前に起きたと推定されるようになった。
遠方の銀河がハッブルの法則に従って遠ざかっているという観測事実を、一般相対性理論を適用して解釈すれば、宇宙が膨張しているという結論が得られる。宇宙膨張を過去へと外挿すれば、宇宙の初期には全ての物質とエネルギーが一カ所に集まる高温度・高密度状態にあったことになる。この初期状態、またはこの状態からの爆発的膨張をビッグバンという。
この高温・高密度の状態よりさらに以前については、一般相対性理論によれば重力的特異点になるが、物理学者たちの間でこの時点の宇宙に何が起きたかについては広く合意されているモデルはない。
20世紀前半でも、天文学者も含めて人々は宇宙は不変で定常的だと考えていた。ハッブルの観測によって得られたデータが登場しても科学者たちも真剣にそれを扱おうともせず、ごくわずかな人数のアウトサイダー的な天文学者・科学者がビッグバン仮説を発展させたものの、無視されたり軽視されたりしてなかなか受け入れられなかった。 ビッグバン理論から導かれる帰結の1つとして、今日の宇宙の状態は過去あるいは未来の宇宙とは異なる、というものがある。このモデルに基づいて、1948年にジョージ・ガモフは宇宙マイクロ波背景放射 (CMB) が存在することを主張、その温度を5Kと推定した。CMB は1960年代になって発見され、この事実が、当時最も重要な対立仮説(対立理論)であった定常宇宙論ではなくビッグバン理論を支持する証拠と受け止められ、支持する人が増え多数派になり、「標準理論」を構成するようになった。この説が生まれてから数十年の時を経て、ようやくそうなったのである。  
歴史
20世紀初頭では天文学者も含めてほとんどの人々は宇宙は定常的なものだと考えていた。「宇宙には始まりがなければならない」などという考えを口にするような天文学者は皆無だった。ハッブルも、柔軟な考えを持っていると評価されているアインシュタインですらも、「宇宙に始まりがあった」などという考えはまるっきり馬鹿げていていると思っていた。科学者たちは膨張宇宙論は科学では理解しがたく、宗教上の立場だと見なしていた。
ビッグバン理論は、紆余曲折を経て、観測と理論の両面が揃ってようやく、 徐々に認められるようになってきた歴史がある。
観測的には、多くの渦巻星雲が地球から遠ざかっていることが知られていたが、当初これらの観測を行った研究者たちはその宇宙論的な意味に気づかず、これらの星雲が実際に我々の天の川銀河の外にある銀河であるということが分からない状況にいた。
1927年にベルギーの司祭で天文学者のジョルジュ・ルメートルが一般相対論のフリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量に従う方程式を独自に導き出し、渦巻銀河が後退しているという観測結果に基づいて、「宇宙は原始的原子(primeval atom) の“爆発”から始まった」というモデルを提唱した。
1929年、エドウィン・ハッブルの観測で、彼は銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっており、その速度は地球から各銀河までの距離に比例していることを発見した(この事実は現在「ハッブルの法則」と呼ばれている。これが、ルメートルの「原始的原子(primeval atom) の“爆発”から始まった」とする理論に対して基礎付けを与えることになった。) 
この時点でこの問題(ハッブルの観測結果を説明すること)に本気で立ち向かい科学的にとらえようという気になっている科学者は皆無だった。
その数少ない例外がロシア出身の天文・核物理学者ジョージ・ガモフであり、ジョルジュ・ルメートルが提唱したビッグバン理論を支持し発展させた。ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを、熱核爆弾の火の玉と捉え、創造の材料(陽子、中性子、電子、ガンマ放射線の高密度ガス。これらの材料をガモフは「イーレム」と呼んだ)が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した。1940年代、ガモフとその共同研究者たちは、熱核反応によって創世が起きたとする説明の細部を詳細に描く論文をいくつも執筆した。だが、この説明図式がうまくゆかなかった。原子核のなかには非常に不安定なものがあり、再融合する前にバラバラになり、彼が求めていた、元素へと組成する連鎖が途中で途切れてしまうのだった。ガモフたちの研究や論文は無視され軽視されたままになり、研究チームは1940年代末に解散してしまい、チームメンバーでは科学を捨てる者もいた。ガモフも引退することになった。ただ、ガモフは大衆向けに科学や宇宙論の本を書いたりし、次世代に影響は与えた。
ハッブルの観測結果を説明するもうひとつの方法は、従来通りに「宇宙に始まりなどなく、定常である」とする説を採用することである。フレッド・ホイルは「宇宙に始まりがあった」という考えをとことん嫌い抜いていた。ホイルが1948年に出したモデルは「定常モデル」と呼ばれる。このモデルでは銀河が互いに遠ざかるに従って、あとに残った空間に新しい物質が現れ出て、それが固まることで新たな銀河を形成してゆくとし、これにより宇宙の物質密度が一定に保たれるとした。このモデルでは大まかに言えば、宇宙はいつでも同じように見えることになる。これは「宇宙は永遠で無限だから偉大なのだ」と考える科学者たちの心をつかんだ。おまけにホイルの説はビッグバン説よりエレガントだった。物理学者らはエレガント好きなのでそれを好んだ。ハッブルまで定常説が自然だと見なした。ルメートルの理論にビッグバン (Big Bang) という名前を付けたのはホイルで、1949年の BBC のラジオ番組 The Nature of Things の中で彼がルメートルのモデルを "this 'big bang' idea" とからかうように呼んだのが始まりであるとされている。ところでホイルは、定常モデルであってもライバルのビッグバン・モデルと同様に炭素・酸素・金・鉄・窒素・ウラン・鉛などの化学元素の起源を説明しなければならない、という問題に気づいた。ホイルは、時間の始まりに一発のビッグバンがあってそれが核反応炉の役割を果たしたとしなくても元素が創生されたと説明がつくことを示したくて、「星ではありとあらゆる核種変換が起こっている」と提唱した。そのため1953年にはカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所に赴いて、そこの所長のウィリー・ファウラーの協力で、泡箱を用いて原子核の衝突実験( 3個のヘリウムでできる炭素の原子核の性質を調べる実験)を成功させた。これにより炭素は星のなかで無尽蔵に作られる性質があることが判った。その後も彼ら2人を含めて数名が元素の歴史に迫り、論文に結実させた。だが、こうした論文は定常モデルに有利に働いたというよりむしろ、ハッブルの観測によって導かれた星の進化に関するアイディア群がより完成度を高めた、と一般には見なされた。
《ビッグバン VS 定常宇宙》論争では、ローマカトリックは早い段階で、どちらの陣営を支持するか態度を明らかにしていた。1951年に教皇ピウス12世はバチカン宮殿で会議を開き、「ビッグバンはカトリックの公式の教義に矛盾しない」との声明を発表した(とは言っても、これは純粋に科学的なことには、あまり関係のないことであった)これらの宇宙論に関する大きな論争が起きるたびに、新聞の読者たちは熱くなった。
1953年にハッブルが亡くなり、彼が計画した仕事(宇宙のサイズと運命を推算する仕事。当時、ウィルソン山天文台でなければできない仕事)を引き継がなければならなくなったアラン・サンディジ(en:Allan Sandage)という弟子がいた。当時20代半ばで、ようやく学位論文を仕上げたばかりだった。彼はルメートルの説を馬鹿げたものとは見なさず、これを「Creation Event (天地創造事件)」と呼んで探究した。サンディジは、膨張宇宙説を支えているのは1920〜30年代に集められた いかにも頼りない証拠にすぎない、ということを意識しており、結局、どの説が正しいかを決定づけるのは彼がウィルソン山の天文台で少しずつ、だが系統的に日々集めている観測データであることを知っていた。
ところで、ロシアに核兵器関連の仕事をしつつ物理学者として成長し素粒子物理に関する論文を書いていたヤコブ・ゼルドビッチがいたが、彼は西側の科学者以上にビッグバン説について真剣に考えていて、宇宙を巨大な素粒子物理実験と見なすようになっていた。彼は宇宙の元素存在比の表を読み違えて計算したことにより、《熱いビッグバン》は間違いだと考え、《冷たいビッグバン》を長らく信じた。
しかしやがて、宇宙が高温高密度の状態から進化したというアイデアを支持する観測的な証拠が挙がってきた。1965年の宇宙マイクロ波背景放射の発見以降は、ビッグバン理論が宇宙の起源と進化を説明する最も良い理論であると考える人が多数派になった。
現在の科学者による宇宙論の研究はそのほとんど全てが基本的なビッグバン理論の拡張や改良を含むものである。現在行なわれているほとんどの宇宙論の研究には、ビッグバンの文脈で銀河がどのように作られたかを理解することや、ビッグバンの時点で何が起きたかを明らかにすること、観測結果を基本的な理論と整合させることなどが含まれている。
ビッグバン宇宙論の分野では1990年代の終わりから21世紀初めにかけて、望遠鏡技術の大発展と COBE、ハッブル宇宙望遠鏡、WMAP といった衛星から得られた膨大な量の観測データとが相まって、非常に大きな進展が見られた。これらのデータによって、宇宙論研究者はビッグバン理論のパラメータを今までにない高い精度で計算することが可能になり、これによって宇宙が加速膨張しているらしいという予想外の発見がもたらされた。  
概観
Ia型超新星を用いた宇宙膨張の測定や宇宙マイクロ波背景放射の揺らぎの観測、また銀河の相関関数の測定から、我々の宇宙の年齢は137 ± 2億年と見積もられている。「これら三つの独立した観測結果が一致しているという事実は、宇宙に含まれる物質やエネルギーの詳細な性質を記述する、いわゆるΛ-CDMモデルを支持する強い証拠である」と考えられている。
初期宇宙は考えられないほど高いエネルギー密度と、それに伴う非常に高い温度と圧力で一様・等方的に満たされていた。その後宇宙は膨張して冷却し、それに伴って相転移を引き起こした。この相転移は水蒸気が凝結したり水が凍ったりする物理過程と類似しているが、宇宙の相転移は素粒子に関連した過程である。
プランク時代の約10-35秒後、相転移によってインフレーションと呼ばれる宇宙の指数関数的膨張が引き起こされた。インフレーションが終了した後、宇宙の物質要素はクォーク・グルーオンプラズマと呼ばれる状態で存在していた(これにはクォーク、グルーオン以外のあらゆる粒子も含まれている。なお、2005年には、この宇宙初期に近い物質状態がクォーク・グルーオン液体として実験的に作られた可能性も報告された)。このプラズマ中では物質を構成する粒子は全て相対論的速度で運動している。宇宙の大きさが大きくなるにつれて、温度は下がり続けた。ある温度に達したところでバリオン数生成 (baryogenesis) と呼ばれる未知の相転移が起こり、クォークとグルーオンが結合して陽子や中性子といったバリオンが作られた。「この時に、現在観測されている物質と反物質との間の非対称性が何らかの形で生まれた」と考えられている。
さらに温度が下がると、さらなる対称性の破れをもたらす相転移が起こり、これによって、この宇宙に存在する基本的な力と素粒子とが現在のような形になった。この後、ビッグバン元素合成と呼ばれる過程によって、陽子と中性子とが結合してこの宇宙に存在する重水素とヘリウムの原子核が作られた。宇宙が冷えるにつれて、物質の相対性理論的速度での運動は次第に収まり、物質の静止質量エネルギー密度の方が放射(電磁波)のエネルギー密度よりも重力的に優勢になった。およそ30万年後には電子と原子核とが結合して原子(そのほとんどは水素原子)が作られた。これによって放射は物質と相互作用する確率が低くなり、ほぼ物質に妨げられることなく空間内を進むことができるようになった。この時期の放射の名残が宇宙マイクロ波背景放射である。
時間が経つにつれて、ほとんど一様に分布している物質の中でわずかに密度の高い部分が重力によってそばの物質を引き寄せてより高い密度に成長し、ガス雲や恒星、銀河、その他の今日見られる天文学的な構造を形作った。この過程の細かい部分は宇宙の物質の量と種類によって変わってくる。ここでは物質の種類としては、冷たいダークマター、熱いダークマター、バリオンの3種類が可能性として考えられる。現在最も精度の良い測定(WMAP による)によると、宇宙の物質の大部分を占めているのは冷たいダークマターであると見られている。それ以外の2種類の物質が占める割合は宇宙全体の物質の20%以下である。
今日の宇宙ではダークエネルギーと呼ばれる謎のエネルギーが優勢であるらしいことがわかっている。現在の宇宙の全エネルギー密度のうちおよそ70%がダークエネルギーである。宇宙にこのような構成要素が存在することは、大きな距離スケールで時空が予想よりも速く膨張しており、このために宇宙膨張が速度と距離の比例関係からずれていることが明らかになったのがきっかけとなって知られるようになった。
ダークエネルギーは最も単純な形では一般相対性理論のアインシュタイン方程式の中に宇宙定数項として現れるが、その組成は不明である。より一般的に言うと、ダークエネルギーの状態方程式の詳細や素粒子物理学の標準模型との関係について、観測と理論の両面から現在も研究が続けられている。
これら全ての観測結果は、Λ-CDMモデルと呼ばれる宇宙論モデルに凝縮されている。6個の自由パラメータを持つビッグバン理論の数学モデルである。
宇宙の始まりの時代、今までの素粒子実験で調べられたことがないほど粒子のエネルギーが高かった時期を詳しく見ていくと、謎が浮かび上がってくる。大統一理論によって予想されている最初の相転移よりも前、宇宙最初の10-33秒間については、説得力のある物理モデルは存在しない。アインシュタインの相対性理論では、宇宙は、「最初の瞬間」には密度が無限大になる重力的特異点になる。これより以前の宇宙の状態を記述するには、量子重力理論が必要になると考えられる。この時代(プランク時代)の宇宙の状態を解明することは現代の物理学の大きな未解決問題の1つである。  
理論的基盤
現在のところ、ビッグバンは次の3つの仮定に依存しているとされる。
1.物理法則の普遍性
2.宇宙原理
3.コペルニクスの原理
最初にビッグバンが考え出された時にはこれらのアイデアは単なる仮定と考えられていたが、今日ではこのそれぞれを検証する試みが行なわれている。物理法則の普遍性の検証からは、宇宙年齢の間にわたって微細構造定数に生じ得たずれの大きさは最大でも10-5のオーダーであることが分かっている。宇宙原理を定義している宇宙の等方性については10-5以内のレベルで成り立っていることが検証されており、一様性については最大10%のレベルで成り立っていることが分かっている。また、コペルニクスの原理についてはスニヤエフ・ゼルドビッチ効果による銀河団と CMB との相互作用を観測するという手法で検証する試みが行われており、1%の精度で検証されている。
ビッグバン理論では、任意の場所での時刻を「プランク時代からの時間」として曖昧さなく定義するためにワイルの仮定を用いる。この系では大きさは共形 (conformal) 座標と呼ばれる座標系に従って決められる。この座標系ではいわゆる共動距離と共形時間を用いることで宇宙膨張の効果を消し去る。宇宙膨張は宇宙論的スケール因子によって、時空のサイズを考慮してパラメータ化される。共動距離と共形時間はそれぞれ、宇宙論的な運動に乗って動く物体間の共動距離が常に一定となるように、また粒子的地平線、すなわちある場所から見た宇宙の観測限界が共形時間と光速によって決まるように定義される。
宇宙がこのような座標系で記述されることから、ビッグバンは物質が空っぽの宇宙を満たすように外に向かって爆発するのではないことが分かる。ビッグバンでは時空自体が膨張するのである。我々の宇宙でどのような2つの定点をとっても二点間の物理的距離が大きくなる原因はこれによって説明される。(例えば重力などによって)一体に束縛されている物体の系は時空の膨張とともに膨張はしない。これは、これらの物体を支配する物理法則が普遍的に成り立ち、計量の膨張とは無関係であることが仮定されているためである。加えて、局所的なスケールでの現在の宇宙膨張は非常に小さいため、仮に物理法則が宇宙膨張に依存していたとしても現在の技術では測定不可能である。
ビッグバンのメカニズムについて
1.前宇宙で発生したブラックホールで吸収された物質が、素粒子(この時代だと素粒子がわかりやすいが、実際は粒子を更に構成している物質、そして、それを更に構成している、更に更に・・・)まで分解された後、時空の底へ落下する。
2.時空の点に落ちた細かな粒子は最大の放出口であるビッグバンに向かって放出される。
3.放出後に物質化した物質同士が融合を繰り返し再度ブラックホールが形成され1から繰り返される。
ブラックホールで最小の粒子へ分解され、同一の時間、同一の空間、同一の速度で放出されるため全てが均一の状態で膨張する。 時空に落ちた時代や空間がそれぞれ異なっても、出口は同一であるため宇宙に存在する物質やエネルギーは全てビッグバンに還元される。 ※一部熱放射として消費されるため、実際は有限の繰り返しとなる。また、現在は、何回目のビッグバンか判明していない。  
観測的証拠
一般に、宇宙論においてビッグバン理論を支持する観測的な支柱が三つあると言われている。それは、銀河の赤方偏移に見られるハッブル則的な膨張と、宇宙マイクロ波背景放射の詳細な観測、それに軽元素の存在量である。これらに加えて、宇宙の大規模構造の相関関数の観測も標準的なビッグバン理論とよく一致している。  
ハッブル則に従う膨張
遠方の銀河とクエーサーの観測から、これらの天体が赤方偏移していることが分かっている。これは、これらの天体から出た光がより長い波長へとずれていることを意味する。この赤方偏移は、これらの天体のスペクトルをとって、それらの天体に含まれる原子が光と相互作用して生じる輝線や吸収線の分光パターンを実験室で測定したスペクトルと比較することで分かる。この分析から、光のドップラーシフトに対応した値の赤方偏移が測定され、これは後退速度として説明される。後退速度を天体までの距離に対してプロットすると、ハッブルの法則として知られている比例関係が現れる。
v = H0・D
ここで
v は銀河や遠方の天体の後退速度 D は天体までの距離 H0 はハッブル定数。WMAP による2005年現在の観測値は 71 ± 4 km/s/Mpc
観測されているハッブルの法則については2つの説明が可能である。1つは、我々は銀河が四方に飛び去る運動の中心にいるというものである。これはコペルニクスの原理の仮定の下では受け入れがたい。もう1つの説明は、宇宙は時空の唯一の性質として、全ての場所で一様に膨張しているとするものである。この種の一様な膨張というアイデアは、ハッブルによる観測と解析が行われるより以前に一般相対論の枠組みの中で数学的に考え出されたもので、フリードマン、ルメートル、ロバートソン、ウォーカーらによって独立に提案されて(フリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量)以来、現在もなおビッグバン理論の土台となっている。  
宇宙マイクロ波背景放射
ビッグバン理論からは、バリオン数生成の時代に放出された光子による宇宙マイクロ波背景放射 (CMB) の存在が予測されていた。初期宇宙は熱平衡の状態にあったため、プラズマが再結合するまでは放射とプラズマの温度は等しかった。原子が作られる以前には、放射はコンプトン散乱と呼ばれる過程によって一定の割合で吸収・再放射されていた。つまり、初期の宇宙は光に対して不透明だった。しかし宇宙が膨張によって冷却すると、やがては温度が3000K以下にまで下がり、電子と原子核とが結合して原子を作り、原始プラズマは電気的に中性のガスに変わった。この過程は光子の脱結合 (decoupling) として知られている。中性原子のみとなった宇宙では放射はほぼ妨げられることなく進むことができる。
初期の宇宙は熱平衡状態にあったため、この時代の放射は黒体放射スペクトルを持ち、今日まで自由に宇宙空間を飛んでいる。ただし宇宙のハッブル膨張によってその波長は赤方偏移を受けている。これによって元々の高温の黒体スペクトルはその温度が下がっている。この放射は宇宙のあらゆる場所で、あらゆる方向からやってくるのが観測できる。
1964年、アーノ・ペンジアスとロバート・W・ウィルソンは、ベル研究所にある新型のマイクロ波受信アンテナを使って一連の試験観測を行なっていた時に宇宙背景放射を発見した。この発見は一般的な CMB の予想を確実に裏付けるものだった。発見された放射は等方的で、約3Kの黒体スペクトルに一致することが明らかとなったのである。この発見によって宇宙論をめぐる意見はビッグバン仮説を支持する方へと傾いた。ペンジアスとウィルソンはこの発見によって1978年にノーベル物理学賞を受賞した。
1989年に NASA は宇宙背景放射探査衛星 (COBE) を打ち上げた。1990年に発表されたこの衛星による初期の成果は、CMB に関するビッグバン理論による予想と一致した。COBE は 2.726K という初期宇宙の名残の温度を検出し、CMB が約105分の1の精度で等方的であると結論した。1990年代には CMB の非等方性が数多くの地上観測によって詳しく調査され、非等方成分の典型的な角度サイズ(天球上でのサイズ)の測定から、宇宙は幾何学的に平坦であることが明らかになった 。
2003年の初めには WMAP 探査機の観測結果が発表され、宇宙論パラメータのいくつかについてこの時点で最も精度の良い値が得られた。この探査機のデータからいくつかのインフレーションモデルは妥当性を否定されたものの、観測結果は大筋ではインフレーション理論と整合するものだった。  
軽元素の存在比
ビッグバンモデルを用いると、この宇宙に存在するヘリウム4(4He)、ヘリウム3(3He)、重水素(2H)、リチウム7(7Li)の中性水素(1H)に対する相対的濃度を計算することができる。全ての組成はバリオン−光子比という1個のパラメータに依存している。ビッグバン理論で予想される存在比(個数比ではなく質量比)の値は、4He/1H が約0.25、2H/1H が約10-3、3He/1H が約10-4、7Li/1H が約10-9である。
実際に測定されている存在量は全て、バリオン−光子比という1つの値から予想される値と一致している。軽元素の相対的存在比を説明できる理論はこれ以外には知られていないため、この事実はビッグバンの強い証拠と考えられている。
若い時代の宇宙(恒星内での原子核合成で生成された核種を含まない、星形成以前の宇宙)において、ヘリウム4が重水素よりも多く存在することや重水素がヘリウム3よりも多く存在すること、さらにそれが宇宙のどこでも一定の比率であることを明確に説明できる理論は、ビッグバン理論以外にはない。  
銀河の進化と分布
銀河やクエーサーの形態と分布の詳細な観測からビッグバンの強い証拠が得られている。観測データと理論によって、最初のクエーサーや銀河はビッグバンからおよそ10億年後に生まれ、その後で銀河団や超銀河団などのより大きな構造が今に至るまで作られていることが示唆されている。恒星の集団は時間とともに状態を変化させるので、(初期の宇宙にあるものと見なされる)遠方の銀河は(新しいと見なされる)我々の近傍にある銀河とは大きく異なっているように見える。加えて、相対的に最近に生まれた銀河も、同じ距離にあってビッグバンの直後に生まれた古い銀河とは明らかに異なっている。これらの観測結果は定常宇宙モデルに対する強い反論となっている。星形成、銀河・クエーサーの分布、大規模構造の各観測結果はビッグバンモデルによる宇宙の構造形成シミュレーションの結果とよく一致しており、理論の詳細部分を補完するのに役立っている。  
特徴と問題
ビッグバンが提唱されて以来、この理論にはいくつもの問題が持ち上がってきた。これらの問題のうちのいくつかは今日では主に歴史的興味の対象であり、理論を修正したりより質の良い観測データが得られたことで解決されてきた。それ以外の問題、例えば尖ったハローの問題 (cuspy halo problem) や矮小銀河問題、冷たいダークマターといった問題については、理論を改良することで対処できるため、致命的な問題ではない、と考えられている。
ビッグバンがあったことに疑念を抱く人や、全く信じない人、ビッグバン理論支持者が「非標準的宇宙論 (non-standard cosmologies)」と呼ぶ説の支持者も、少数派ではあるが存在する。彼らはビッグバン理論の標準的な問題に対する解決策は理論のその場しのぎ的な修正や補足に過ぎないと主張している。彼らにしばしば攻撃されるのは、標準的宇宙論のダークマターやダークエネルギー、インフレーションといった部分である。「しかし、これらの特徴についての理論的説明は今なお物理学の探求の最前線にある話題であり、しかもビッグバン元素合成や宇宙背景放射、大規模構造、Ia型超新星といった独立した観測から示唆されているものである」という。これらの特徴が持つ重力的効果は観測的にも理論的にも理解されているが、素粒子物理学の標準模型にはまだうまく組み込まれていない。ビッグバン理論のいくつかの面は基礎物理学によって十分には説明されていないが、ほとんどの天文学者や物理学者はビッグバン理論と観測結果がよく合致していることによって、この理論の基本部分は全てしっかりと確立していることを受け入れている、という。
ビッグバン理論にまつわる「問題」と謎を以下に挙げる。
地平線問題
地平線問題は情報が光速より速くは伝わらないという前提から導かれる問題である。すなわち、光速に宇宙年齢を乗じて得られる距離(地平線)よりも遠く隔たっている宇宙空間の2つの領域は因果律的に関わりを持たない。観測されている宇宙背景放射 (CMB) の等方性はこの点で問題となる。なぜなら CMB の光子が放射された時代の地平線の大きさは、現在の天球上で約2度の大きさにしかならないからである。もし宇宙がプランク時代以来同じ膨張の歴史をたどってきたとすると、これらの領域が同じ温度になったメカニズムが存在しないことになる。
この見かけの矛盾はインフレーション理論で解決される。この理論では、プランク時代の10-35秒後の宇宙では一様等方的なスカラーエネルギー場が優勢であったとする。インフレーションの間、宇宙は指数関数的な膨張を起こし、因果律的につながりのある各領域が、それぞれの地平線を超えて膨張する。ハイゼンベルクの不確定性原理から、このインフレーション期には量子論的な揺らぎが存在したことが予想されている。この揺らぎが後に宇宙スケールにまで引き伸ばされることになる。これらの揺らぎが現在の宇宙に見られる全ての構造の種となる。インフレーションの後、宇宙はハッブルの法則に従って膨張し、因果律的につながりのある範囲を超えて拡大した領域が再び地平線内に入ってくる。こうして CMB に観測されている等方性が説明される。インフレーション理論は原始揺らぎがほぼスケール不変でガウス分布に従うことを予想しており、これは実際に CMB の測定によって確認されている。
平坦性問題
平坦性問題は、ロバートソン・ウォーカー計量に伴う幾何学を考えることで導かれる観測上の問題である。一般的に、宇宙は3種類の異なる幾何学に従う可能性がある。すなわち、双曲線幾何学、ユークリッド幾何学、楕円幾何学である。宇宙の幾何学(曲率)は宇宙に含まれる全エネルギー密度(これはアインシュタイン方程式の上では応力エネルギーテンソルで表される)によって決まる。エネルギー密度が臨界密度より小さければ宇宙の幾何学は双曲線的(負の曲率)に、臨界密度より大きければ楕円的(正の曲率)に、そしてちょうど臨界密度に等しければユークリッド的(曲率 0)になる。現在の宇宙のエネルギー密度の測定結果から考えると、宇宙が生まれた直後にはエネルギー密度が1015分の1の精度で臨界密度に等しくなっていた必要がある。これより少しでもはずれた値だった場合には宇宙は急激に膨張してしまうかあっという間にビッグクランチを迎えてしまい、現在存在するような宇宙にはならないことになる。
この問題の解決策もやはりインフレーション理論によって提案されている。インフレーションの時代には時空は急激な膨張によって、それ以前に存在したどんな曲率も均されてしまい、高い精度で平坦になる。このようにしてインフレーションによって宇宙は平坦になったという説明である。
磁気単極子
磁気単極子問題は1970年代の終わりに提起された。大統一理論によれば宇宙空間には点欠陥が生まれ、これが磁気単極子として現れる。このような磁気単極子は観測からは全く見つかっていないが、大統一理論からはこの観測結果とは全く一致しないほど大量の磁気単極子が生成されることが予想されている。この問題もインフレーションによって解決できる。インフレーションが起こると、曲率が均されて平坦になるのと同様に、これらの点欠陥も全て密度が急激に薄められて観測可能な範囲の宇宙から見当たらないほどになる。
バリオンの非対称性
この宇宙になぜ物質が反物質よりも多く存在するのかについてはまだ分かっていない。一般には、宇宙が若く非常に高温だった時代には宇宙は統計的に平衡状態にあり、バリオンと反バリオンが同じ数だけ存在したと考えられる。しかし現在の観測からは、宇宙は非常に遠方の領域も含めてほぼ完全に物質から構成されているらしいことが分かっている。そこで、バリオン数生成と呼ばれる未知の物理過程によってこの非対称性が作られたと考えられている。バリオン数生成が起こるためには、アンドレイ・サハロフによって提唱されたサハロフの条件が満たされている必要がある。この条件とは、バリオン数が保存しないこと、C対称性とCP対称性が破れていること、宇宙が熱力学的平衡状態にないことである。ビッグバンではこれら全ての条件が満たされるが、その効果は現在のバリオンの非対称性を説明できるほど強くはない。バリオンの非対称性を説明するためには高エネルギー素粒子物理学の新たな進展が必要である。
球状星団の年齢
1990年代の中頃、球状星団の観測結果がビッグバン理論と矛盾する可能性が指摘された。球状星団の恒星の種族の観測と一致するような恒星進化のコンピュータシミュレーションの研究から、球状星団の年齢は約150億年であるという結果が出た。これは宇宙年齢が137億年であるという見積もりと矛盾する。この問題は1990年代終わりになって、恒星風による質量放出の効果を考慮した新しいコンピュータシミュレーションによって、球状星団の年齢はもっと若いという結果が得られたことによって一般的には解決した。観測による球状星団の年齢の測定結果がどの程度正しいかについては依然として問題も残されているが、球状星団が宇宙で最も古い天体の一種であることは明らかである。
ダークマター
1970年代から1980年代にかけて、様々な観測(特に銀河の回転曲線の観測)から、宇宙には銀河内や銀河間に働く重力の強さを十分説明できるだけの「目に見える」(電磁波を放出・吸収・散乱する)質量が存在しないことが明らかになった。このことから、宇宙に存在する物質の90%は通常の、つまりバリオンからなる物質ではなく、ダークマターであるという考え方が出てきた。これに加えて、宇宙の質量のほとんどが通常の物質であると仮定すると、観測と強く矛盾するような帰結が得られることも分かってきた。具体的には、もしダークマターが存在しないとすると、宇宙には銀河や銀河団などの高密度の構造がこれほど大きく成長しなかったはずであり、また重水素の量が今よりはるかに多く作られたはずである。ダークマター仮説は当初は議論を呼んだが、現在では CMB の非等方性や銀河団の速度分散、大規模構造の分布などの観測や、重力レンズの研究、銀河団からのX線の測定などを通じて、標準的宇宙論の一部として広く受け入れられている。ダークマターは重力的な痕跡を通じてしか検出されておらず、ダークマターに当てはまるような粒子は実験室ではまだ見つかっていない。しかし素粒子物理学からはダークマターの候補が数多く挙がっており、これらを検出するプロジェクトがいくつか進んでいる。
ダークエネルギー
1990年代に宇宙の質量密度の詳細な測定が行なわれると、宇宙のエネルギー密度全体に占める質量の割合は臨界密度の約30%であることが明らかになった。宇宙背景放射の観測が示すように我々の宇宙は平坦なので、残り70%のエネルギー密度が説明されないまま残されていることになる。現在、この謎はもう1つ別の謎と結び付いているように見える。それは、Ia型超新星の複数の独立した観測から、宇宙膨張が厳密なハッブルの法則に従っているのではなく、非線形な加速をしていることが示されているという点である。この加速を説明するためには、宇宙の大部分が大きな負の圧力を持つ成分からなっていることが一般相対論から要請される。このダークエネルギーがエネルギー密度の残り70%を担っていると現在考えられている。ダークエネルギーの正体はビッグバン理論の大きな謎の1つとして残されている。考えられる候補としてはスカラーの宇宙定数やクインテセンスなどがある。この正体を理解するための観測が現在続けられている。
ヒミコの発見
2009年、大内正己特別研究員が率いる日米英の国際研究チームが発見したヒミコは、ビッグバンから約8億年後(現在の宇宙年齢の6%、現在から遡ると約129億年前)という宇宙が生まれて間もない時代に存在した巨大天体であり、この天体の存在はビッグバン理論に対して大きな問題を投げかけることになった。
ヒミコは、5万5千光年にも広がり、宇宙初期の時代の天体としては記録的な大きさである。ビッグバン理論では、「小さな天体が最初に作られ、それらが合体集合を繰り返して大きな天体ができる」と考えられているが、ヒミコはビッグバンから約8億年後には既に現在の平均的な銀河と同じくらいの大きさになっていたこととなり、これは理論の根幹を揺るがす事実である。  
ビッグバン理論に基づく宇宙の未来
ダークエネルギーが観測される以前は、宇宙論研究者は宇宙の未来について二通りのシナリオを考えていた。宇宙の質量密度が臨界密度より大きい場合には、宇宙は最大の大きさに達し、その後収縮し始める。それに伴って宇宙は再び高密度・高温になってゆき、宇宙が始まったときと同じ状態(ビッグクランチ)で終わる。またあるいは、宇宙の密度が臨界密度に等しいかそれより小さい場合には、膨張は減速するものの止まることはない。宇宙の密度が下がっていくにつれて星形成は起こらなくなる。宇宙の平均温度は絶対零度に次第に近づいていき、それとともに、より質量の大きなブラックホールも蒸発するようになる。これは熱死あるいは低温死 (cold death) として知られるシナリオである。さらに、陽子崩壊が起こるならば、現在の宇宙のバリオン物質の大多数を占める水素が崩壊する。こうして最終的には放射だけが残る。
現在の加速膨張の観測結果からは、今見えている宇宙は時間とともに我々の事象の地平線を超えてどんどん離れていき、我々とは関わりを持たなくなることが示唆される。最終的な結果がどうなるかは分かっていない。Λ-CDM宇宙モデルは、宇宙定数という形でダークエネルギーを含んでいる。この理論では銀河などの重力的に束縛された系だけはそのまま残され、宇宙が膨張して冷えるに従ってやはり低温死へと向かうことが示唆される。幽霊エネルギー (en:phantom energy) 説と呼ばれる別のダークエネルギーの説明では、ダークエネルギーの密度が時間とともに増加し、これによるビッグリップと呼ばれる永遠に加速する膨張によって銀河団や銀河自体もばらばらに壊されてしまうとしている。  
ビッグバンを超える純理論的物理学
「ビッグバンモデルは宇宙論の中で堅固に確立しているが、将来的には改良されるものと思われる。インフレーションが起きたと仮定される最も初期の宇宙についてはほとんど分かっていない。また、我々が原理的に観測できる範囲をはるかに超えたところにも宇宙の一部が存在するかもしれない。インフレーションを仮定した場合にはそうなるはずである。すなわち、宇宙の指数関数的膨張によって空間の大部分は我々が観測可能な地平線を超えて広がっていることになる。我々が超高エネルギースケールでの物理を現在より深く理解した時に何が起こるかはある程度推測することができる。その時には量子重力理論が構築されているはずである」という。
今まで提案された理論には以下のようなものがある。
カオス的インフレーション
宇宙のインフレーション (cosmic inflation) とは、ビッグバン理論を補完する初期宇宙の進化モデルである。インフレーション理論・インフレーション宇宙論などとも呼ばれる。この理論は、1980年にアラン・グース、そして1981年に佐藤勝彦によって提唱された。論文発表はグースの方が後である。
この理論の名前は、提唱者の1人であるアラン・グースが1970年代終わりにアメリカで起きた経済のインフレーションをユーモア交じりに引用して名付けたものである。
インフレーション理論では、宇宙は誕生直後の10-36秒後から10-34秒後までの間にエネルギーの高い真空(偽の真空, en)から低い真空(真の真空)に相転移し、この過程で負の圧力を持つ偽の真空のエネルギー密度によって引き起こされた指数関数的な膨張(インフレーション)の時期を経たとする。
この膨張の時間発展は正の宇宙定数を持つド・ジッター宇宙と同様のものである。この急激な膨張の直接の結果として、現在我々から観測可能な宇宙全体は因果関係で結び付いた (causally-connected) 小さな領域から始まったこととなる。この微小な領域の中に存在した量子ゆらぎが宇宙サイズにまで引き伸ばされ、現在の宇宙に存在する構造が成長する種となった。このインフレーションに関与する粒子は一般にインフラトンと呼ばれる。
ブレイン宇宙論モデル
ビッグバンはブレイン同士の衝突の結果起こるとするエキピロティックモデルを含む。
振動宇宙論
初期宇宙の高温高密度状態は現在と同じような宇宙が過去にビッグクランチを起こした結果であるとする。この説では宇宙は無限回のビッグバンとビッグクランチを繰り返してきたことになる。エキピロティックモデルを拡張した循環モデルはこのシナリオの現代版である。
時空の全体は有限であるとするハートル=ホーキングの境界条件を含むモデル。
これらのシナリオの中には定性的に互いに同等なものもある。これらはそれぞれまだ検証されていない仮定を含んでいる。  
 
宇宙の年表

 

宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものである。
観測によれば、宇宙はおよそ137億年前に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。
次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。
そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。
宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。  
最初期宇宙
最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば 以下のような、補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。  
ハートル=ホーキングの境界条件(Hartle-Hawking state)
ハートル=ホーキングの境界条件(Hartle-Hawking boundary condition)は、どのように宇宙が始まったのかの謎を解くことを目的とした、理論物理学における概念である。ジェームス・ハートル(James Hartle)とステファン・ホーキングに因んで名付けられた。ハートル=ホーキングの無境界仮説とも。この境界条件を満たす宇宙の波動関数(ハートル=ホーキング波動関数)は、ファインマンの経路積分により計算される。ハートル=ホーキング波動関数は、正確には、量子重力理論のヒルベルト空間における、波動汎関数を記述する仮説的な状態ベクトルである。ハートル=ホーキング波動関数の正確な式は、境界上に誘導される計量(induced metric)に関するハートル=ホーキングの境界条件を満たす、あらゆるD次元幾何に関する経路積分で表される。結果として、境界である(D-1)次元のコンパクト多様体上の計量テンソルの汎関数となる。(D は時空の次元)このような宇宙の波動関数は、ホイーラー・ドウィット方程式を満足することが知られている。
弦風景(String theory landscape)
The string theory landscape or anthropic landscape refers to the large number of possible false vacua in string theory. The "landscape" includes so many possible configurations that some physicists[who?] think that the known laws of physics, the standard model and general relativity with a positive cosmological constant, occur in at least one of them. The anthropic landscape refers to the collection of those portions of the landscape that are suitable for supporting human life, an application of the anthropic principle that selects a subset of the theoretically possible configurations. In string theory the number of false vacua is commonly quoted as 10500. The large number of possibilities arises from different choices of Calabi-Yau manifolds and different values of generalized magnetic fluxes over different homology cycles. If one assumes that there is no structure in the space of vacua, the problem of finding one with a sufficiently small cosmological constant is NP complete, being a version of the subset sum problem. The idea of the string theory landscape has been used to propose a concrete implementation of the anthropic principle, the idea that fundamental constants may have the values they have not for fundamental physical reasons, but rather because such values are necessary for life (and hence intelligent observers to measure the constants). In 1987, Steven Weinberg proposed that the observed value of the cosmological constant was so small because it is not possible for life to occur in a universe with a much larger cosmological constant. In order to implement this idea in a concrete physical theory, it is necessary to postulate a multiverse in which fundamental physical parameters can take different values. This has been realized in the context of eternal inflation.
ブレーンインフレーション
弦ガス宇宙論(String gas cosmology)
エキピロティック宇宙論(Ekpyrotic universe)
The ekpyrotic universe, or ekpyrotic scenario, is a cosmological model of the origin and shape of the universe. The name comes from a Stoic term ekpyrosis (Ancient Greek ἐκπύρωσις ekpurōsis) meaning conflagration or in Stoic usage "conversion into fire". The ekpyrotic model of the universe is an alternative to the standard cosmic inflation model for the very early universe; both models accommodate the standard big bang Lambda-CDM model of our universe. The ekpyrotic model is a precursor to, and part of some cyclic models. The ekpyrotic model came out of work by Neil Turok and Paul Steinhardt and maintains that the universe did not start in a singularity, but came about from the collision of two branes. This collision avoids the primordial singularity and superluminal expansion while preserving nearly scale-free density fluctuations and other features of the observed universe. The ekpyrotic model is cyclic, though collisions between branes are rare on the time scale of the expansion of the universe to a nearly featureless flat expanse. Observations that may distinguish between the ekpyrotic and inflationary models include polarization of the cosmic microwave background radiation and frequency distribution of the gravitational wave spectrum.
プランク時代
宇宙誕生から10-43秒(プランク時間)後まで
超対称性が存在するなら、この時期に4つの基本相互作用—電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用、重力相互作用—は、分離しておらず統一の相互作用(統一場理論)である。この時代についてわかっていることは少ないが、シナリオによりいくつかの理論が提示されている。このような状況では量子効果のために一般相対性理論は破綻すると推測されている。超弦理論、ループ量子重力理論といった量子重力理論が確立すれば、この時代の理解が進むと期待する物理学者もいる。  
大統一時代
スイス・ジュネーブ郊外にフランスとの国境をまたいで設置されている大型ハドロン衝突型加速器は、大統一理論についての知見をもたらす可能性が指摘されている
宇宙誕生から10-43から10-36秒後
プランク時代から宇宙の膨張と冷却がはじまり、重力相互作用とゲージ理論で示される基本相互作用は分離する。この時代の物理法則は大統一理論で記述される。大統一時代は電弱相互作用と強い相互作用に分離することにより終了する。この終了はインフレーションと同時期である。いくつかの理論は大統一時代に磁気単極子が生成されるとしている。  
大統一理論 (Grand Unification Theory / Grand Unified Theory)
電磁相互作用と弱い相互作用は電弱統一理論としてシェルドン・グラショウ、スティーヴン・ワインバーグ、アブドゥス・サラムにより完成されている。現在、一定の成功をおさめている標準模型は、ゲージ群 Gs=SU(3)×SU(2)×U(1) に対するゲージ理論であり、大統一理論は基本的にこのゲージ群を含む更に大きなゲージ群に対するゲージ理論である。
自然界にある4つの根本的な力は、宇宙の始まりに存在した1種類の力だけで、その後分かれたという考え方から、4つの力を一つの式で表して統一しようという理論の一つである。大統一理論は「電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用、重力」のうちで前者3つを、一つの理論(式)に統一しようとしている。歴史はマックスウェルによる場の方程式による電磁場理論によって、電気と磁気が統一されたことから始まる。アインシュタインの一般相対性理論に大きな影響を及ぼし、「統一場理論」への夢につながった。その後電磁相互作用と弱い相互作用が統一された。その後作られたこの理論は、3つめの「強い相互作用」も統一しようとしう理論である。「ゲージ変換」という、ある式にある操作を施しても対称性(ゲージ対称性)が保たれるという数学的手法を使い、知られている性質を説明し未知の性質を予言して検証することによって理論を確認しようとしている。標準理論では説明できない現象を説明しようとして作られたこの理論は、ビッグバン理論(インフレーション宇宙)の基礎となっているため、様々な検証がおこなわれている。カミオカンデの実験により最初の大統一理論は否定され、超対称性という概念を加えた新しい大統一理論を検証の対象としている。一つは東京大学の森俊則教授の率いる日本・スイス・イタリア・ロシア・米国の国際チームがスイス・ポールシェラー研究所で行っているのが、ミュー粒子が崩壊して電子とガンマ線になること(μ→eγ(ミューイーガンマ)崩壊)を観測する実験である。標準理論では起こらないが、大統一理論では数千億から数兆分の一の確率で起こることが予想されていた。2011年9月に発表された5年間の5千億個の実験による中間報告では発見できなかったため、実験を2年間継続し10兆個のミュー粒子で検証する。ミュー粒子の崩壊を発見できない場合、大統一理論は修正する必要が出てきて、さらにビッグバン理論は成立せず、宇宙の起源に対する新たな理論の構築が求められる。
インフレーション時代
宇宙誕生から10-36から10-32秒後
宇宙のインフレーションが生じた温度そして時間についてはよくわかっていない。インフレーションの間宇宙は閉じた宇宙であり、一様・等方に急速に拡大する段階に突入する。光子のエネルギーはクォークとハイペロンとなるが、それらの粒子はすぐに崩壊する。あるシナリオによれば、宇宙のインフレーションに先立ち宇宙は冷たく空虚となっていた。  
電弱時代
宇宙誕生から10-36から10-12秒後
この時代の宇宙の温度は1028ケルビンと冷たく、強い相互作用と電弱相互作用(ワインバーグ=サラム理論)は分離している。この電弱時代は、インフレーションにより粒子が引き離されたことも、関連していると考えられている。粒子の相互作用は活発であり、ウィークボソン(WホゾンとZボソン)、ヒッグス粒子といった大量のエキゾチック粒子が生成される。
ワインバーグ=サラム理論 (Weinberg-Salam theory)
弱い相互作用と電磁相互作用を統一する電弱統一理論である。その名の示すとおり、スティーヴン・ワインバーグ、アブドゥス・サラム、それに、シェルドン・グラショウの尽力によって完成した。彼ら3人は、この研究により、1979年にノーベル物理学賞を受賞した。
ワインバーグ=サラム理論の特徴は、かつて(ビッグバンから10-10秒後)は光子とウィークボソンが区別できなかったとしていることである。
1961年、シェルドン・グラショウは、量子電磁力学と弱い力を統一する枠組みを与えた。これを、自発的対称性の破れを使い、洗練させたのがワインバーグ=サラム理論である。
南部=ゴールドストーンの定理によると、連続的な対称性を持った系において、ある種の場が非ゼロの値を取り、対称性を破った時にエネルギーが最低状態になるようなポテンシャル実現していた場合、無質量のゴールドストーン・ボソンという粒子が現れる。これを自発的対称性の破れという。
1967年に発表されたワインバーグ=サラム理論では、ある形で SU(2)_L×U(1)_Y チャージを持つヒッグス場を導入し、ヒッグスとゲージの結合に対して、ヒッグスが真空期待値を取った時に質量項を持つ3つのゲージボソンと一つの無質量のゲージボゾンが現れる。これらのゲージボゾンは SU(2)_L および U(1)_Y の場とは別物であり、これらの場の混合によって再定義された場である。この混合角をワインバーグ角という。真空期待値を持つボゾンの導入によって質量を持つゲージ場の予言に成功しており、これらの値はヒッグスの真空期待値の絶対値 (246GeV) と SU(2)_L および U(1)_Y のゲージ結合定数によって表される。なお、これらの値は実際の観測から精度よく決まっている。ただしヒッグス粒子は未発見であり、実験によるワインバーグ=サラム理論の完全実証には至っていない。
しかし、先述した、ビッグバンから10-10秒後の状態においては、ヒッグス粒子は約1000兆Kもの高温によって蒸発してしまう。これによって、ウィークボソンはヒッグス粒子の抵抗と無関係になり、光子と区別できなくなる。
つまりこのことは、宇宙が始まってから10-10秒以前では、電磁気力が弱い力と区別できず、電弱力として力の統一状態にあったということを意味している。
また、この温度においては、クォークとレプトンも質量がゼロになる。
再加熱
再加熱時代ではインフレーションの間に生じていた指数関数的な膨張は止まり、インフラトン場の潜在エネルギーは熱く、相対的にクォークグルーオンプラズマな粒子に変換される。大統一理論が正しければ宇宙のインフレーションは大統一理論の破綻の最中あるいは後に生じるか、さもなければ磁気単極子が確認できるはずである。この時代では、宇宙はクォーク、電子、ニュートリノが支配し、放射優勢である。  
バリオン生成
この宇宙において、反物質よりバリオンの方が多い理由には不明な部分が多い。この理由を説明するには、インフレーションの後にサハロフ状況が満たされなければいけない。既知の物理学と研究中である大統一理論はヒントになるが、やはり多くは不明である。
反物質 (antimatter)
質量とスピンが全く同じで、構成する素粒子の電荷などが全く逆の性質を持つ反粒子によって組成される物質。例えば電子はマイナスの電荷を持つが、反電子(陽電子)はプラスの電荷を持つ。中性子と反中性子は電荷を持たないが、中性子はクォーク、反中性子は反クォークから構成されている。
物質と反物質が衝突すると対消滅を起こし、質量がエネルギーとなって放出される。これは反応前の物質・反物質そのものが完全になくなってしまい、消滅したそれらの質量に相当するエネルギーがそこに残るということである 。1gの質量は約 9×1013(90兆)ジュール のエネルギーに相当する。ただし 発生するニュートリノが一部のエネルギーを持ち去るため、実際に反物質の対消滅で発生するエネルギーは、これより少なくなると言われる。
反物質は自然界には殆ど存在しないので、人工的に作らねば得ることが難しい。非常に高いエネルギーを持つ粒子どうしを衝突させると多くの粒子が新たに生成されることは既に知られていて、これは粒子が衝突前に持っていたエネルギーがそれに相当する質量に変わるためであり、物質と反物質の衝突とは逆の事が起きているのだが、これによって生成される粒子の中に反粒子が実際に含まれている。そのため現在では、人工的に高エネルギーの粒子を、粒子加速器という非常に巨大な装置を使って作り出し、それらを衝突させて反粒子を作りだし捕獲することで反粒子を得ている。
反物質がどうしてわれわれの住む宇宙では殆ど存在していないのかは、長い間、物理学の大きな疑問の一つであったが、最近その疑問への回答が部分的ではあるが得られつつある。初期宇宙においての超高温のカオス状態の中で、クオークから陽子や中性子が出来、中間子が生まれ、それぞれの反粒子との衝突で光子(電磁波・ガンマ線)に変換されたり再び対生成されていた頃にすべては起こったと考えられている。
従来、物質と反物質は鏡のように性質が逆なだけでその寿命を全く同じだと考えられてきた(CP対称性)。だが近年、粒子群の中で「物質と反物質の寿命がほんの少しだけ違う」というものが出てきた。最初はK中間子と反K中間子である。そして、B中間子もはっきりと反B中間子とでは寿命が違うことが確認された。日本の高エネルギー加速器研究機構のBelle検出器による発見である。「反物質の寿命がわずかに短かった」(CP対称性の破れ)。これにより、初期宇宙の混沌の一瞬の間の「物質と反物質の対生成と対消滅」において、ほんのわずかな可能性だが反物質だけが消滅し物質だけが取り残されるケースがあり、無限に近いほどの回数の生成・消滅の果てに、「やがて宇宙は物質だけで構成されるようになった」と説明できる。もちろん多種さまざまな粒子群の中のわずか2つの事例であるが、他の粒子での同様の現象の発見やそもそもの寿命のずれの発生機序が解明されれば、この謎は遠からずすべてが解明されると期待されている。
バリオン (baryon)
3つのクォークから構成される亜原子粒子である。素粒子物理学の標準模型では、ハドロンの一種である。重粒子(じゅうりゅうし)とも言う。
バリオンは、3つのクォークから構成されるハドロンである。ハドロンの重要な2つのグループのうち1つで、もう1つは1つのクォークと1つの反クォークからなるメソン(中間子)である。
「バリオン」とはギリシャ語の barys(「重い」の意)に由来する。この名はバリオンが、かつて素粒子と考えられていたバリオン、メソン、レプトンの中で最も大きな質量を持つことからついた。
バリオンは強く相互作用するフェルミ粒子である。言い換えると、強い核力を受けていて、パウリの排他原理に従うすべての粒子に適用されるフェルミ・ディラック統計によって記述される。これは、パウリの排他原理に従わないボース粒子とは大きく異なる。
なお医療分野においては、(相対的な表現ではあるが)陽子より大きな質量を持った原子核からなるイオン線を重粒子線と呼んでいる。その重粒子と、この項で述べられているバリオンは違うので注意が必要である。粒子物理学者がバリオンのことを重粒子と和訳で呼ぶことは現在ではほとんどなく、英語名のままバリオンと呼んでいる。
初期宇宙
宇宙のインフレーションの後、宇宙はクォークグルーオンプラズマで満たされる。この時点から後である初期宇宙の物理学は比較的よく理解されており、また推測も減ってくる。  
超対称性の破れ
超対称性があるとすれば電弱超対称性の基準である1TeV程度の低いエネルギーで超対称性は破れ、粒子と超対称性パートナーの質量は等しくなくなると考えられる。これにより、既知の粒子の超対称性パートナーはなぜ観察されないのかが説明される。
超対称性 (supersymmetry,SUSY)
ボソンとフェルミオンの入れ替えに対応する対称性。この対称性を取り入れた理論は超対称性理論などのように呼ばれる。また、超対称性粒子の一部はダークマターの候補の一つである。2009年2月現在、超対称性粒子は未発見である。
現在素粒子物理学では、「標準理論」が理論的にも実験的にも確かめられている。しかし、ある量を計算すると発散してしまう問題点も含んでいる。この問題は朝永振一郎らの「繰り込み理論」である程度解決しているが、階層性問題と呼ばれる不都合さが残っておりこの問題を解決するために導入されたのが超対称性である。
この超対称性は現在我々が生きている地球上では実現されていない。しかし、宇宙初期においてこの超対称性があったと考える事には上記のような数多くの利点があり、そのためにこの対称性を取り込んだ多くの模型が提唱されている。宇宙初期には存在していた超対称性が現在では見られないという仕組みの事を超対称性の破れ(en:Supersymmetry breaking)と呼びいくつかの理論が提唱されているが未だ実験的確証は得られていない。後述する超対称性粒子、例えば電子の超対称性パートナーであるスカラー電子等の超対称性粒子は未だ発見されておらず、世界中の加速器で発見するための実験が進んでいる。  
クォーク時代
宇宙誕生から10-12から10-6秒後
電弱時代の終わりに電弱超対称性が破れると、ヒッグス粒子は真空期待値を獲得し、あらゆる粒子はヒッグス機構により質量を獲得すると考えられる。重力相互作用、電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用からなる基本相互作用は、現在のように分離するものの、宇宙の温度は高いためクォークの結合によるハドロンの生成は生じない。
ハドロン時代
宇宙誕生から10-6から1秒後
宇宙を構成するクォークグルーオンプラズマが冷えることにより、陽子、中性子といったバリオンからなるハドロンが形成される(クォーク・ハドロン相転移を参照してください)。宇宙誕生からおおよそ1秒後、ニュートリノは分離して時空を自由に移動するようになる。この宇宙ニュートリノ背景は、詳細は不明であるが後に放射される宇宙マイクロ波背景に似ている。
ハドロン (hadron)
素粒子標準模型において強い相互作用で結びついた複合粒子のグループである。強粒子とも訳されるが、現代では素粒子物理学者がこの和名で呼ぶことはほとんどない。この名称は、ギリシャ語の「強い」の意のἁδρός (hadros) に由来し、1962年にレフ・オクンによって付けられた。
強い相互作用の基本理論である量子色力学 (QCD) では、ハドロンはクォーク(と反クォーク)とグルーオンによって構成される。
クォーク模型に従って、ハドロンの性質は主に価クォークによって決定される。例えば、陽子は二つのアップクォーク (電荷+2⁄3) および一つのダウンクォーク (電荷−1⁄3) によって構成される。これらを足し合わせると陽子の電荷+1が算出される。クォークは色荷(カラー)も持つが、クォークの閉じ込めという現象のためハドロン全体としては色荷が0となる必要がある。すなわち、ハドロンは"無色"または"白"となる。最も簡単にこれを実現するには、三つそれぞれが色の異なるクォークを合成するか、あるカラーのクォークと対応する反カラーの反クォークを合成すればよい。前者の構成のハドロンはバリオン、後者の構成のハドロンは中間子となる。
全ての亜原子粒子と同様に、ハドロンには量子数が割り当てられている。その一つは、ポアンカレ群の表現に対応するJPC(m)である。ここで、Jはスピン量子数、Pは固有パリティ(Pパリティ)、Cは荷電共役(Cパリティ)、およびmは粒子の質量である。ハドロンの質量はその価クォークにほとんど関係しておらず、むしろ質量とエネルギーの等価性により質量のほとんどは強い相互作用に関連する膨大なエネルギーの量から来ていることに注意が必要である。また、ハドロンはアイソスピン(Gパリティ)やストレンジネスのようなフレーバー量子数を持つ。全てのクォークは加法的な保存するバリオン数 (B) と呼ばれる量子数を持つ。クォークは+1⁄3、反クォークは−1⁄3のバリオン数を持つ。これにより、クォーク3つからなるバリオンはB = 1で、クォークと反クォークからなる中間子はB = 0となる。
ハドロンは共鳴として知られる励起状態を持つ。各基底状態ハドロンはいくつかの励起状態を持つ。数百の共鳴が素粒子実験により観測されている。共鳴は、強い力を介して一瞬(約10−24 秒以内)にして崩壊する。
他のQCD物質の相では、ハドロンは形成されないこともある。QCDの理論によると、例えば超高温や高圧では、クォークのフレーバーが十分に多くなければ、強い相互作用の結合定数がエネルギーとともに減少するためクォークとグルーオンはハドロンの中に閉じ込めることができない。この性質は、漸近的自由性として知られ、1 GeV 〜 1 TeVのエネルギー範囲で実験的に確証されている。
自由粒子のハドロンは、陽子(および反陽子)を除いて不安定である。    
レプトン時代
宇宙誕生から1秒から3分後
ハドロンと反ハドロンはハドロン時代の終わりに対消滅し、宇宙の質量はレプトンと反レプトンが占めるようになる。宇宙誕生からおおよそ3秒後宇宙の温度は、レプトンと反レプトンの新たなる対はもう作られず、レプトンと反レプトンのほとんどが対消滅し、レプトンがわずかに残る。  
光子時代
宇宙誕生から3分から38万年後
ほとんどのレプトンと反レプトンはレプトン時代の終わりに対消滅し、宇宙のエネルギーは光子に支配される。この光子は荷電した陽子、電子、原子核と干渉し、この状態は30万年続く。
光子 (photon)
光を粒子として扱う場合の呼び名である。電磁相互作用を媒介するゲージ粒子であり、素粒子物理学においては記号 γ(ガンマ線に由来する)、光化学においては記号 hν(後述する光子の持つエネルギーを表す式から来ている)で表されることが多い。アルベルト・アインシュタインがマックス・プランクの黒体放射の量子仮説を基にして、電磁波の粒子的な側面を説明するために導入した光の量子である。アインシュタイン自身は光量子 (light quantum) の名前で提唱していた。
光子は質量や電荷が0であり、安定な素粒子である(崩壊寿命がない)。光子の反粒子は光子自身となる。また光子はスピン1を持つボース粒子である。角運動量保存則のため、光子の吸収、あるいは放出の前後には系の角運動量がこのスピン角運動量の分だけ変化しなくてはならない。このことが、電磁波の吸収における状態遷移が起こりうるか否かを決定する選択律の原因となる。
電磁波の吸収が起こる過程においては通常は1個の光子のみが吸収されるが、レーザーのように光子密度の大きな電磁波を用いると、複数の光子が吸収されることもある。このような過程は、多光子過程と呼ばれる。  
原子核合成
宇宙誕生から3分から20分後
光子時代、宇宙の温度は原子核が生成されるまでに低下する。(水素イオンである)陽子と中性子は核融合により結合し、原子核を生成する。核合成は、宇宙の温度と密度が核融合を継続できない程度まで下がるまでのおよそ17分で終わる。この時代、中性水素(1H)の全質量はヘリウム4(4He)の全質量3倍であり、その他の核種の量はわずかである。  
物質優勢
宇宙誕生から7万年後
この時代、非相対的物質(原子核)と相対的放射(光子)の密度は等しい。(重力と圧効果の競合から)生成可能な最小の構造を決定するジーンズ長(en:Jeans length)が小さくなりはじめ、それにより放射自由ストリーミングが一掃され、摂動の振幅が大きくなり始める。  
再結合
WMAPのデータは宇宙マイクロ波背景放射にゆらぎがあることを示している。実際の揺らぎは図に示されているよりも階調性に富んでいる。
宇宙誕生から24万年から31万年後
水素とヘリウムの原子核が電子と結合して原子が形成され、また宇宙の密度は低下する。再結合には分離が生じ、光子は物質に干渉されることなく伝搬できるようになる。これにより光子は宇宙マイクロ波背景を形成し、光子時代の宇宙が現代でも観測できる。
宇宙の晴れ上がり (Transparent to radiation)
ビッグバン理論において宇宙の始まり以来、初めて光子が長距離進めるようになった時期を指す。これはビッグバンからおよそ38万年後であるとされる。
ビッグバンからおよそ38万年後、宇宙の温度の低下にともない電子と原子核が結合して原子を生成するようになると、光子は電子との相互作用をまぬがれ長距離進めるようになった。これを宇宙が放射に対して透明になった(Transparent)、あるいは宇宙が晴れ上がった、と表現する。同様に、宇宙の晴れ上がり以前の状態は、宇宙が放射に対して不透明である(opaque)、あるいは宇宙が霧がかっている(Foggy)と、表現する。
この晴れ上がりの時期のマイクロ波は最後の散乱面(Surface of last scattering)あるいは宇宙マイクロ波背景放射と呼ばれ、ビッグバン理論について現在得られる最も良い証拠であると考えられている。
暗黒時代
分離が生じるまで、宇宙の光子のほとんどは光子バリオン流動体の電子や陽子と相互作用している。宇宙は不透明で「霧がかって」いる。光といっても私たちが望遠鏡でのぞいて観測できるような光でない。宇宙におけるバリオン様の物質はイオン化プラズマから構成されていたが、再結合期に自由電子を獲得すると電気的に中性となった。それにより光子は束縛を解かれ、宇宙マイクロ波背景を形成した。光子が(分離され)自由になると、宇宙は透明になった。
この時代の放射線は中性水素(1H)の放射する21cm線のみである。現在、このかすかな放射を検出する研究が行われているが、これは、初期宇宙の解明において宇宙マイクロ波背景よりも多くの情報を含んでいると考えられている。  
宇宙の大規模構造の形成
ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドは、初期の恒星がどのようであったのかを見せてくれる、ショー・ケースみたいなものである。
ハッブル天体望遠鏡は、最近形成された初期の銀河を捉えた。これは、宇宙論的な時間尺では銀河の形成は最近でも生じていることを意味している。これは、宇宙や銀河はまだ形成途中であることを示している。
ビッグバン理論における構造形成は階層的に、つまり小さい構造が作られてから大きい構造が作られる、というように進んでいる。最初の構造は、クエーサーと呼ばれる、明るく輝く活動銀河で、種族IIIの恒星(恒星の種族)であると考えられている。この時代より前では、宇宙の展開はすべての構造は完全に均一ではなくそこからわずかに逸脱しているという線形宇宙論的摂動理論により理解されている。これはコンピューターにより比較的簡単に研究される。この時からは非線形構造が形成されはじめ、コンピュータによる研究には大きな課題が現れる。例えば10億の粒子をあつかうen:N-body simulationなど。
プラズマ宇宙論は、宇宙の大規模構造となる巨大なガスのかたまりが最初に生まれ、そこから超銀河団、銀河団、銀河群へと分裂を繰り返し、銀河の構造が形成されたと説明している。
宇宙の大規模構造 (large‐scale structure of the cosmos)
宇宙の中で銀河の分布が示す巨大な泡のような構造である。宇宙の泡構造と呼ばれることもある。銀河は数百から数千集まって銀河群、銀河団を形成している。この銀河群や銀河団が更に集まって超銀河団を形成しているが、この超銀河団は平面状の壁のような分布を示している。この巨大な壁をグレートウォールあるいは銀河フィラメントと呼ぶ。
1980年代になって、1枚の銀河フィラメントと他の銀河フィラメントとの間には光を発する天体がほとんど無い領域があることが明らかになった。これを超空洞(ボイド)と呼び、その直径は1億光年を超える。
宇宙の大規模構造は銀河フィラメントと超空洞が複雑に入り組んだ構造であるが、これはあたかも石鹸を泡立てたときにできる、幾重にも積み重なった泡のような構造である。つまり、泡の膜面たる銀河フィラメントには銀河が存在し、泡の中の空洞たる超空洞には銀河がほとんど存在しない。  
再電離
最初のクエーサは重力崩壊により形成される。クエーサーの放つ強い放射は周囲の宇宙を電離させる。この時点から宇宙の大部分はプラズマにより構成されることになる。  
恒星の形成
最初の恒星、おそらく種族IIIの恒星は、ビッグバンにより形成された軽い元素(水素、ヘリウム、リチウム)からより重い元素が生成されることにより始まる。ただし、種族IIIの恒星はまだ観測されていない。宇宙のミステリーである。  
銀河の形成
大きな体積の物質の崩壊は銀河を形成する。種族IIの恒星はこの初期に形成され、種族Iの恒星はその後形成される。最近の研究では銀河は地球からみて反時計回りの回転をともなうパリティ対称性の破れを有していることが示唆されている。
2007年9月6日、ヨハン・シェーデラーの企画は127億光年の位置にクエーサーCFHQS 1641+3755を発見した。これは、137億年の宇宙の歴史の7%地点にあたる。
2004年3月9日、ハッブル・ディープ・フィールドは130億光年の位置でたくさんの小さな銀河から大きな一つの銀河が誕生する様子を観測した。これは宇宙の歴史の5%地点である。
2007年7月11日、マウナ・ケア山のW・M・ケック天文台を利用してパサディナのカリフォニア技術研究所のリチャード・エリスとその一派は132億光年の位置に銀河を形成する6つの恒星を発見した。それは宇宙誕生から5億年の時点である。現在までにおおよそ10のこのような初期の物体が知られている。
核宇宙年代学(en:Nucleocosmochronology)によると、銀河系(天の川)の円盤は83±18億年前に形成したと推定されている。
パリティ対称性の破れ (Parity violation)
空間反転した(鏡に映した)ときに物理法則が同じにならないこと、または、その様な状態を言う。弱い相互作用が関与する物理現象で起こる。P対称性の破れ、あるいは、パリティ非保存とも。
通常の物理現象は空間反転を行っても変わらないように見える。具体的には、まったく見知らぬ国の映像がテレビに映っている場合、その画面が通常どおり撮影されたのか、一度鏡に反射させてから撮影されたのかは、通常の物理現象を見ているかぎりは判別できない。この様に空間反転した状態と元の状態で物理法則が変わらないことをパリティ対称性がある、または、パリティが保存されているという。物体に働く力(相互作用)は重力相互作用、電磁相互作用、強い相互作用、弱い相互作用の4つの相互作用に分られる。これらの中で、パリティ対称性の破れがみられるのは、弱い相互作用の関係する物理現象のみであり、他の3つの相互作用ではパリティ対称性が保存されている。通常、人間の目で直接観察できるのは重力相互作用と電磁相互作用のみであるため、長い間、すべての物理法則でパリティ対称性が保存されていると考えられていた。
1956年にヤン(楊振寧、Chen Ning Yang)とリー(李政道、Tsung-Dao Lee)は、当時説明不能だったK中間子の崩壊に関する現象を説明するため、弱い相互作用が関与する物理現象ではパリティの対称性が破れると予想した。この予想は、1957年にウー(呉健雄、Wu Chien-Shiung)により、弱い相互作用が関与する物理現象であるベータ崩壊を観測する実験で確かめられた。ヤンとリーは、この功績により1957年のノーベル物理学賞を受賞した。
ウーの実験では、放射性核種であるコバルト60を極低温に冷却し、磁場をかけて多数の原子のスピンの方向をそろえた状態で、コバルト60がベータ崩壊して発生するベータ粒子の出る方向が調べられた。コバルト60のスピンと同じ方向にベータ粒子がでるベータ崩壊と、その反対方向にベータ粒子がでるベータ崩壊は、空間反転した関係にあり、パリティが保存されているなら、2つの崩壊が起こる確率は同じはずである。実験の結果、ベータ粒子はコバルト60のスピンと同じ方向よりも逆の方向に多く放出されているのが観測され、パリティ対称性の破れが起こっていることが確認された。 
銀河群、銀河団、超銀河団の形成
重力相互作用は銀河を互いに引き寄せ、銀河群、銀河団、超銀河団を形成する。  
太陽系の形成
これらの出来事の後、太陽系は誕生する。太陽は、第一世代の恒星による生成物のかけらの集まった第二世代の恒星である。太陽系の形成は約50億年前、つまり宇宙誕生から80億から90億年後である。
太陽系 (solar system)
太陽および太陽の周囲を公転する天体と微粒子、さらに太陽活動が環境を決定する主要因となる空間から構成される領域をいう。太陽は、銀河系では典型的な質量の主系列星、すなわちありふれた星である。
太陽の周囲を公転する天体には、現在確認されているだけで8個の惑星、5個の準惑星、多数の太陽系小天体がある。太陽系小天体には小惑星、太陽系外縁天体(ただし外縁天体のうちの冥王星型天体は準惑星に含まれる)、彗星、惑星間塵などがある。惑星や準惑星、太陽系小天体にはその周囲を公転する衛星や環を持つものもある。
太陽は、約10万光年の直径を持つ銀河系(天の川銀河)と呼ばれる銀河を構成する、約2000億個の恒星の中の一つである。太陽系とは、太陽重力の影響によって構成される天体の集団のことであり、太陽はその中央に位置している。銀河系の中で太陽は典型的な恒星の一つであると考えられている。太陽系は銀河系の中心から25,000から28,000光年ほどの位置にあると考えられている。太陽系は約220km/sの速度で銀河系内を周回しており、約2億2600万年で銀河系内を1公転する。
地球が宇宙の中心ではなく、他の惑星と同様に太陽の周りを公転しているという地動説が受け入れられるようになったのは16世紀から17世紀にかけてのことである。太陽系を構成する天体のうち、当時知られていたのは太陽と6個の惑星(水星、金星、地球、火星、木星、土星)、地球の衛星である月、そして木星の4個の衛星(ガリレオ衛星)のみだった。
それから300年ほどの間に、2個の惑星(天王星、海王星)、約20個の衛星、数百個の小惑星が発見された。天王星と海王星の軌道が計算と一致しないことから「惑星X」の存在が予想され、捜索が始まった。1930年に冥王星が発見され、第9番目の惑星とされたが、海王星の摂動を説明するには冥王星の質量が小さすぎる事(後に海王星自体の質量推定を間違えたための計算ミスであったと判明)から「惑星X」の捜索は尚も続けられた。
20世紀終盤からは海王星より外側のエッジワース・カイパーベルトと呼ばれる領域で、かつて想定されていた惑星Xほどではないが比較的大きな天体が続々と発見され始めた。冥王星もそれらの天体の一つであるという認識が学界で定説となってきたことから、逆に冥王星を惑星から除外すべきだという提案もされたが、1999年に国際天文学連合 (IAU) は歴史的な重みを考慮して、「惑星の地位から格下げは行わない」ことを発表した。この間、更に数十個の衛星、一万個以上の小惑星が発見され、エッジワース・カイパーベルトより外側に彗星の巣とも言うべきオールトの雲の存在が予想されるようになった。
21世紀に入ってから発見されたクワオワーやセドナなどは第10番惑星として報道された事もあるが、いずれも冥王星より小さかったり極端な楕円軌道だったりするため正式に惑星としては認められなかった。しかし2005年1月に至って、ついに冥王星より大きいエリス(仮符号:2003 UB313)が発見された。
2006年8月24日のIAU総会で、惑星の定義を確定することが議題となった。当初の定義案ではケレス、カロン、2003 UB313が新たに惑星とされる可能性があったが、反対意見が多かったことから定義案が改定され、これが採択された結果として冥王星が惑星という分類からはずれ、新しく定義された準惑星に含まれることとなった。  
宇宙誕生から137億年後
宇宙の年齢についての最新資料は、今日が宇宙誕生から137億年後であると推定している。宇宙の膨張は加速しており、超銀河団はこの宇宙で形成される最大の構造であると考えられている。現在の膨張はすべての構造が事象の地平面の彼方に去ることを防いでおり、また、重力による新たなる構造の形成を妨げている。 加速膨張しているが、それが発見される前は、減速していると考えられていた。  
事象の地平面 (event horizon)
物理学・相対性理論の概念で、情報伝達の境界面である。シュヴァルツシルト面と言われることもある。空間を2次元に単純化したモデルを考え、事象の地平線(じしょうのちへいせん)ということもある。情報は光や電磁波などにより伝達され、その最大速度は光速であるが、光などでも到達できなくなる領域(距離)が存在し、ここより先の情報を我々は知ることができない。この境界を指し「事象の地平面」と呼ぶ。
ブラックホール
重力が大きく、光でさえも脱出不可能な天体をブラックホールという。光でさえも抜け出せないが故に、ブラックホールを肉眼で観測する事は出来ない。従って、ブラックホールの存在は、ブラックホールに落ち込む物質が放つ放射や、ブラックホール近傍の天体の運動など、間接的な観測事実に頼ることになる。ブラックホールは、一般相対性理論が予言する産物であるが、現在では複数の候補天体があるとともに、銀河系の中心には大質量ブラックホールが存在すると考えられている。
一般相対性理論において、ブラックホールを厳密に定義すると、「情報の伝達が一方的な事象の地平面が存在し、漸近的に平坦ではない方の時空の領域」ということになる。このように数学的には厳密に定義されても、例えば数値シミュレーションで、事象の地平面を特定するのは難しい。未来永劫にわたって、その領域が外側と因果関係を持たないことを示さなければならないからである。そこで、「見かけの地平面(apparent horizon)」という概念がよく利用される。
簡単にブラックホールの大きさを評価する方法として、シュヴァルツシルトの解が表すシュヴァルツシルト半径がある。球対称・真空でのブラックホール解を表すシュヴァルツシルトの解では、事象の地平面がシュヴァルツシルト半径と一致する。そのため事象の地平面をシュヴァルツシルト面と言うことがある。地球のシュヴァルツシルト半径はおよそ10mm程である。また、我々の銀河(天の川銀河)のそれは太陽系の大きさのおよそ30個分である。天の川銀河をそれくらいの領域に集めたとしたら大変な輝きになるだろうが、ひとたびその全質量が完全にシュヴァルツシルト半径内に入ると、そこからくる光は一瞬にして無くなる。
天体の持つ質量により、その天体の中心から事象の地平面が形成されるまでの距離は異なる。 普通の天体の半径はシュヴァルツシルト半径よりも大きく、従って、その天体の情報は得られるが、重力崩壊で収縮すると、 その天体の全質量が事象の地平面よりも小さい領域に押し込まれ、もはや情報を得ることが不能となると考えられる。このようにして、ブラックホールが形成されることになる。
宇宙の地平面(宇宙の地平線)
宇宙の地平面とは観測可能なもっとも遠い宇宙の空間あるいは宇宙の時空であり、観測上の「宇宙の果て」である。一般的に宇宙は膨張していると考えられており、距離が離れているほど地球からの後退速度(宇宙論的固有距離の変化量を宇宙時間で微分した値)が速く、ある距離(ハッブル距離)以上は光速以上の速さで離れる。地球に向かう光が常に光速以上で遠ざかる空間にとどまるという条件下では、その光は地球には永遠に届かない。このとき光が届く限界の時空面を宇宙の事象的地平面という。事象的地平面は我々が観測できる個々の天体がどの時代の姿まで観測できるかを示している。
現在観測される天体のなかには、光速を超えて地球から遠ざかっているものも存在する。このような天体が観測できるのは、天体から放たれた光が光速以上で遠ざかる空間から抜け出て次第に地球からの後退速度が緩やかな空間に入るからであり、「地球から光速で遠ざかる空間=宇宙の地平面」ではない。赤方偏移Zの値が1.7程度の天体は、今地球で観測される光を放ったときちょうど光速で遠ざかっていたので、これよりも赤方偏移の大きな天体は超光速で地球から遠ざかっていたことになる。そのような天体はすでに1000個程度観測されている。
また、現在地球から観測できる最も古い光が放たれた場所の、現在の位置を光子の粒子的地平面という。現在の光子の粒子的地平面は地球を中心とする半径465億光年の球の表面となり、この球面の半径は光速の約3.5倍の速さで大きくなり、我々が今観測している光を放ったとき(宇宙の晴れ上がり)には光速の約60倍もの速度で遠ざかっていた。光子以外の粒子による粒子的地平面は光子のそれよりも遠く伸びる場合がある。たとえばニュートリノによる粒子的地平面は光子の粒子的地平面よりも大きいと考えられる。なぜなら光は直進できるようになるまで「宇宙の晴れ上がり」を待たねばならなかったが、ニュートリノはそれ以前に直進していると考えられるからだ。
また、私たちの属する宇宙は光子を含む電磁波の観測によって関与できる空間の限界を示す光子の粒子的地平面を超えて、はるかに広大に広がっていると考えられている。
宇宙の最終段階
宇宙の最終段階を知るには、最初期宇宙で生じることの推察の場合と同様に基礎物理を応用することとなる。以下に可能性の数例を挙げてみる。  
熱的死 / 1018-1025年
宇宙の膨張が続けば最も可能性の高いと考えられているのが、熱的死と呼ばれる状態である。 1012年という時間尺では現存する恒星は燃え尽き宇宙は暗くなる。宇宙はエントロピーの高い状態に近づく。 熱的死以降の時代は銀河はブラックホールに崩壊し、またブラック・ホールはホーキング放射を通じて蒸散する。 ある大統一理論では、陽子欠損は残りの星間ガスを陽電子と電子に変換し光子の再結合が生じる。 この場合、宇宙は際限なくただ一様な放射がある容器として存在し、また次第に低いエネルギーへと赤方偏移してその放射も冷えきってしまう。  
ビッグ・クランチ / 1027年
ダークエネルギーのエネルギー密度が負であるかあるいは宇宙の時空の曲率が正で開いた宇宙であるならば、宇宙の膨張はいずれ反転し宇宙は高温高密度な状態に向かって収縮する。これはビッグバンへの逆戻りに似ている。これはしばしばサイクリック宇宙論(en:Cyclic model)といった振動宇宙(en:oscillatory universe)のシナリオの一部をなしている。現在の観測によると、この模型は正しくはなく、また宇宙の膨張は継続している。  
ビッグ・リップ
このシナリオは、ダークエネルギーのエネルギー密度が時間的な制限なしに増加する場合に限り見込まれる。そのようなダークエネルギーは幽霊エネルギー(en:phantom energy)と呼ばれ、今まで知られている(仮想粒子のエネルギーをのぞく)どのエネルギーとも似つかぬものである。この場合、宇宙の膨張速度は制限なく加速する。銀河団、銀河、あるいは太陽系といった重力束縛系は引き裂かれる。膨張は、最終的には分子や原子を維持する電磁力を振り切る。そして原子核は引き裂かれ、宇宙は重力の特異点(en:gravitational singularity)の例外として終わりを迎える。言葉をかえれば、宇宙は膨張し続けるあまり4つの基本相互作用をとりこみすべての物質を引き裂く。  
真空準安定事象
宇宙が寿命の長い偽の真空(en:False vacuum)であるなら、宇宙はトンネル効果により低エネルギーの状態になる可能性がある。そのようなことになればすべての構造はたちどころに崩壊する。  
 
聖書「創造論」

 

創造か進化か
聖書には、『初めに神が天体と地球を創造し、つぎに植物と動物を「その種類にしたがって」造り、最後に「人」を造って命の息(霊)を与えた』と書かれています。これは今日の科学と矛盾しません。
また進化説では、すべてのものは偶然によって出来上がり、アメーバやクラゲのようなものが魚になり、それがワニや恐竜のようないろいろな動物に変わって、さらにサルのようなものから今の人間になったと言っています。
あなたはそのような下等動物の子孫として生まれてきたのでしょうか。
あなたの人生で最も大切なことですから、正しい科学を通して、よく考えてみましょう。  
1 キリンの首は?
「キリンは高い木の葉を食べようとして首が長くなった」(ラマルク説)とか、「高い木の葉まで食べられる首の長いキリンが代々生き残った」(ダーウィン説)とかいいます。
そうすると首の短い子どものキリンは、生き残れなかったことになります。首の長くなることが進化で適者生存なら、首の短い一般動物は適者として生存できないことになってしまいます。
また「首が長いほど、敵を早く発見して逃げられた」と言いますが、首が長ければ目立って、敵からもかえって発見されやすいことになります。
だから、キリンの首は、進化や適者生存で長いのではないことがわかるでしょう。
木の葉が食べられない羊は、草を食べることができます。
自然淘汰や自然選択も同じ意味で、それによって羊がキリンになることはありません。
それは動物も植物も、原種を「神がその種類にしたがって造った」という聖書(神のことば)が真実だからです。神は、キリンはキリン、羊は羊として造られたのです。  
2 突然変異は、良い種をつくらない
突然変異は、10万回に1・2回の割合でしか起こりませんが、そのほとんどのものが機能障害をきたしていて、突然変異の積み重ねによって退化はしても、進化はしないことがわかります。
突然変異は、放射能や化学薬品によっても、遺伝子に影響しておこります。
広島や長崎の原爆の放射能で、奇形、損傷、死産などが現れました。
また催眠剤「サリドマイド」などの化学薬品も、胎児に悪影響を及ぼして、難聴や、手の短い奇形の赤ちゃんさえ生まれました。
また突然変異に関する多くの実験の結果、突然変異では動植物の新しい種類ができたことは一度もなく、同じ種類内の変化にすぎませんでした。自然選択と突然変異等を総合しても同じことです。  
3 生物には中間形(移行段階)のものが1つもない
進化論では、「動物も植物も、単純な種類から次第に複雑な種類になった」と、化石を順に並べます。すなわち、A→B→Cと進化したといいます。
しかしもしそれが真実なら、AからBに、またBからCに進化するまでの中間形ABやBCを示す種が、存在するはずです。しかし化石をいくら調べても、そのような移行段階にあるものは一つも発見されませんし、現在の動植物にも、そのような中間形は一つも見当たらないのです。
これも「全知全能の神がその種類にしたがって造った」という、聖書のことばが正しいことを物語っています。
また進化が事実であるなら、手や足や目などの発達段階にある生物が存在するはずですが、そのようなものは、過去にも現在にも一つも見当たりません。
生物はそれぞれが一つ一つ、すべて完全にできているのです。  
4 別の種類にはならない
同じ種類の中での変種(A1とA2) 、または (B1とB2) は進化ではありませんし、A種がB種になることは絶対ありません。メンデルの遺伝法則からも明らかで、犬にはいろいろな変種ができても、犬から猫は生まれません。
進化説では、進化と変種を混同しており、変種ができているうちに別の種類のものになるだろうと、思い違いをしているのです。
これは想像上の産物で、科学上の事実ではありません。真の科学者は、事実を素直に認める態度を持っている人です。
同じ種類内でも、変種をつくるのに限界があります。たとえば、馬とロバをかけ合わせるとラバが生まれるが、ラバどうしでは不妊で子を生めません。
またライオンとヒョウの間にはレオポンが生まれるが、これも不妊で、同一種内での限界を示しています。
生物実験で、A種の卵子に、A種に最も近いB種の精子を結合させようとしても、種類が違うと、精子は卵子の中に入ることがどうしてもできません。それで、人工的に卵子の外膜を取り除いて精子を中に入れても、精子は死んでしまいます。
犬と猫や、牛と馬を交配させても子はできません。人に対して、チンパンジーやサルでも同じことです。血液も、染色体も違うからです。
神は人を人として造られたのです。とくに、人には神から霊が与えられているので、人は神を知り、神に祈ることができます。私たち一人一人は、神からの賜物です。  
5 構造や発育が似ているのは
植物の場合でも、動物の場合でも、それぞれの構造や諸器官や発育する過程が似ているのは、同じ造り主によるからこそ、造り方や材料(核酸とタンパク質)が似ているのではないでしょうか。
似ていることは進化の証拠にはなりません。 建物にたとえると、犬小屋→木造平屋→鉄骨建→鉄筋コンクリート建へと自然に変化していくことはありませんし、また犬小屋をもとにして木造平屋が造られるのでもありません。それぞれが、その種類、用途に応じて造られます。
現在の科学では、人間の卵子も精子も、「人間のもの」としてはっきり確認できます。人間の胎児は「人間の胎児」として確認されます。
人間はいかなる発育段階においても、魚の呼吸機構のような「えら穴」はありません。この肉塊は、耳腔や鼓膜や中耳の三小骨などをつくり上げていくものです。
人体の180もの痕跡器官と言われていたものも、現代科学によってそれは全部私たちの体に重要なホルモンの分泌腺であることが判明しました。これらのことは、比較解剖学、古生物学、血清学、遺伝学にもとづく明白な事実です。  
6 進化していない
進化説では、単細胞動物(アメーバの類)→無脊椎動物(クラゲやイソギンチャクの類)→脊椎動物(魚類)→両棲類→爬虫類→哺乳類→人間と、長い期間に進化してきたと言います。
それならその長い期間に、進化しないアメーバやクラゲ、魚などが現在もなお存在しているのは、なぜでしょうか。
最近山形県で1500万年前という魚の化石が発見されましたが、同じ種類の現在の魚と比べてみると、ほとんど変わっていないのです。これらは1500万年かかっても「進化しなかった」という証拠になるでしょう。
生ける化石動物といわれるヒレの長い肺魚シーラカンスも、魚が地上動物になる段階の魚で、7千万年前に死に絶えたと言われていましたが、最近マダガスカル島沖で、生きたものが何十匹もとれています。
これは魚類も、それぞれ「その種類にしたがってつくられた」証拠です。
植物でも、何億年前というイチョウやブドウの葉の化石が、現在の葉と変わっていないのは、なぜでしょうか?  
7 ノアの大洪水
恐竜時代、地球は温暖で、南極にも熱帯性の植物が生い茂っていた証拠があります。
ところが地球が急に寒くなり、恐竜たちは寒さに耐えられなくなって急に死滅していますが、進化説ではその原因がわからないのです。
このような激変を、聖書だけが説明しているのです。
創世記には、世界的な「大洪水」について書かれています。それまでの地球は起伏が少なく、大気は厚い水蒸気の層(大空の上の水)でおおわれていました(聖書の創世記1章6−7節)。
それで地球全体は、年中、温室のように温暖でした。古生代の木に年輪がないのは、寒暖の差がなかったからで、1年中温暖であった証拠です。
また地球の大気をおおう厚い水蒸気の層は、地球の外から来る有害な宇宙線や、紫外線、エックス線等に対して、反射や吸収をするフィルターの役目を果たしていました。
洪水以前に聖書に出てくる人々が長命なのは、そのせいもありましょう。
また、年代測定に用いられる炭素の放射性同位元素C14が半分に減るのに、5730年かかると言われています。ノアの大洪水以前には、大空の上の水に反射・吸収されて、地上は放射性同位元素の量が少なかったのです。
それで、ノアの洪水以前の大気の状態を無視すると、とてつもなく長大な誤った測定結果になります。C14が最初から少なかったからです。聖書の年代に対して、進化説の年代が非常に長いのは、この誤りと、長大な時間があれば進化するだろうと仮定しているからです。
地球の上空をおおっていた大量の水の降下と、地下水の噴出によって、地球の温室状態は取り除かれて、太陽の光を斜めに弱く受けるようになった北極と南極の地方は特に冷え込み、多くの動植物が氷の中に閉ざされました。
青草が口の中にあるマンモスの発見は: そのためです。また地球上の多くの巨大な熱帯性植物や動物が、大洪水の土砂によって埋められました。
それらが地熱により亜炭、石炭、石油となって、今発掘されているのです。このノアの大洪水の激変を無視してその説明をすることは、困難です。
死んだ動物や植物が自然に放置されたままでは、風化作用によって、ほとんど跡形もなく分解して、土のちりになってしまうからです。
洪水の時、地球は急激に冷えたので、地表は収縮変動して起伏が多くなり、高い山や深い海ができて、洪水が引きました (聖書の詩篇104篇8節)。
今、高い山からも貝の化石が発見されますし、またグランドキャニオンをはじめ、世界の多くの地層は、大洪水の跡を示しています。  
8 地層と化石
世界の地層と化石の大部分は、この世界をおおった大洪水の泥水が沈殿していくときに出来ていった、と考えられます。地層が帯状で何層にも重なるのは、それを証明しています。
最下層には、海底の動植物の化石が多く、上の層に行くにしたがって、魚類→両棲類→地上動物−−と。人間や知的な動物は、洪水が増すにしたがって高い所へ逃げてから濁流に飲みこまれたので、比較的上の層から発見されます。これは進化の順序ではないのです。
また生物の化石は、生存中か死の直後、泥土ですぐ埋められなければ出来上がりません。水中や空気中では腐って分解してしまうからです。
大洪水は多くの民族の伝説にもあります。  
9 原人についても
原人といわれるネアンデルタール人やクロマニョン人は、頭蓋の容量が現代人よりも大きく、体は直立していて現代人に劣りません。
現代人にも、いろいろな骨格の人がいます。進んだのは文明文化の進歩ですが、古代文明の建築技術に現代よりすぐれたものがあるのは、なぜでしょうか。
そのほかのジャワ人、ラマピテクス、アウストラロピテクス等の化石の断片は、大きな猿のものであることが最近わかりました。  
10 生命のない物質からは
最近、分子生物学の研究が進むにつれて、生命のない物質から生命が発生するということは、何十億年かかっても起こり得ないことが、わかってきました。これはパスツールの実験でも明らかです。  
11 科学の基本法則からも
たとえ一つの細胞が出来たと仮定しても、そのままでは、時間が経つとともに分解して、元素に戻ってしまいます。これは、「組織の高度なものは次第に低下して、簡単なものになる」という「熱力学の第2法則」(エントロピーの法則)があるからです。科学の法則でも、退化はしても進化はしません。  
12 どうして無性から有性に
それなのにどうしてその細胞が、2倍に4倍に8倍にと、細胞分裂して増え続けるのでしょうか。
またその無性の生殖が、どうして有性の生殖になるのでしょうか。雌と雄によって子供が出来るためには、雌も雄もそれぞれの生殖器官が、同時にしかも双方がすぐ近くで、完全に子供の生めるものに変化しなければなりません。
そのような変化が双方同時に起こるとしたら、進化は奇跡以外の何ものでもありません。  
13 複雑で精巧な細胞
一つの細胞を、電子顕微鏡で観察すると、その構造が生きた大都市のように、複雑精巧に出来ているのに驚きます。
その中心にDNA(核酸)の糸があり、人の場合はその糸を引き延ばすと、1.5メートルにもなります。その糸はラセン状の平行線で、ハシゴのような階段があって、なんと50億ものいろいろな遺伝情報が、その階段に組み込まれています。
50億というと、1000冊の大百科事典の活字の数くらいで、世界の人口くらいです。これほどのものが、顕微鏡でやっと見える一つの細胞の中の核に含まれているのです。
たった一つの細胞でも、偶然や進化で出来たものでないことがわかりましょう。
あなたの頭脳には、約140億の神経細胞があり、その1つの細胞は電子計算機よりも複雑精巧に出来ており、しかも互いに連絡し合って働いているのです。だから、あなたの頭脳はとてもすばらしいのですよ。  
14 毎日1兆2千億の細胞が体内で
あなたの体は、60兆ものいろいろな細胞によって、つくられています。そして毎日そのうち2%の1兆2千億もの細胞が、体内で新しく造られ、古くなったものは分解されて体外に排泄されているのです。
どんな科学者でも、たった一つの細胞でも造り出せませんが、毎日だれが1兆2千億もの細胞をつくり、あなたを生かしているのでしょうか。全知全能の神のほかには考えられません。  
15 体は変わっても、変わらない霊
このように新陳代謝することによって、あなたの体の血液をはじめ、筋肉や140億の脳のタンパク質まで、わずか120日で新品になります。
それなのに記憶が残るのは、なぜでしょうか。「私」という意識も変わりません。それは肉体の物質的な構成によって精神(霊)が出来るのではなくて、霊は神から与えられている証拠です。
聖書には、「神は土のちり(元素)で人を造り、その鼻に命の息(霊)を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」−−が、やがて「ちりは、もとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」と書かれています。(聖書の創世記2章7節・伝道者の書12章7節)  
16 わずか290日
あなたは受精した一つの細胞から、何百万年もかかって、進化して出来上がったのではありません。母の胎内でわずか280日で、立派な人間として体のすべての器官が完全につくられたのです。
そして「オギャー」と生まれた瞬間、それまでオヘソから酸素や栄養をとっていたのが、鼻や口に自動的に切りかえられて、呼吸をし、お乳を吸うようになって成長してきたあなたなのです。
その体は、どんな芸術品も及ばない美しさを持っています。  
17 あなたは神の創造
そのあなたの目だけを見ても、どんな精巧なカメラよりも、はるかに精巧によく出来ています。ピントもシボリも全自動で、カラーで立体的に、しかも連続的に映って見えます。
カメラでも、造り主がいなければ、偶然に出来上がりません。カメラよりもはるかに素晴らしく出来ているあなたの目が、どうして偶然に進化して出来上がったと言えるのでしょうか。
そのほかあなたの脳をはじめ、体のいろいろな器官や構造や血液の働きなどの働きを、くわしく調べれば調べるほど、じつに驚くほどすばらしく精巧に、よく出来ていることがわかります。
一つ一つの器官について考えてみてください。そうすれば自分の体が、偶然や自然に進化して出来上がったのではなくて、英知に富める全知・全能の神によってつくられていることがわかります。
また呼吸や心臓の動きも、自分の力ではなくて、神によって生かされていることがわかりましょう。とくに人は、神から霊(精神)が与えられています。  
18 生きがいは
カメラはカメラとして造られた用途があるように、あなたは「人」としてつくられ、「造り主」から与えられた生き方(用途)があるのです。
その造り主である神のみこころを知り、これにかなった生き方をするのが、人として生まれたあなたにとって最も生きがいのある生き方で、心の底からの喜びと幸せを実感することができるようになります。  
19 愛
それは神と隣人への愛の中に生きることです。神を愛し、まわりの人々を愛することです。
そうすれば、あなたは神から特に愛され、またまわりの人々からも愛されるようにあり、この世で幸せに過ごすことができます。愛こそは人生最高の生きがいです。  
20 永遠の生命
さらに死後においても、私たちが神の国(新しく造りかえられる天地)で神と共に住むことができるよう、「永遠の命」という贈り物を無料で差し出しておられるのです。 これは、全知にして全能なる神が、聖書を通して私たちに約束されていることです。
聖書は、古今東西を通じて変わらない永遠の真理であり、預言の書です。
世界の歴史は、すべて聖書に預言されたとおりになってきたので、これから先の未来の預言も成就(的中)することは間違いありません。  
21 今のままでは
今の世界は、大変乱れてきています。それはサタン(悪魔)が私たちを神から引き離そうとして、私たちに罪を犯させるからです。
罪の原因は、真の神から離れることにあります。サタンは、はじめ天使のひとりでしたが、神にそむいて悪魔になったのです。
神はサタンを、まもなく滅ぼします。それでサタンは、私たちの間に「神はいない」という間違った思想を流行させたり、偶像(人が木や石や金属で作ったり、紙に書いた物)を拝ませて、真の神から引き離そうとしています。
お釈迦様や○○上人も立派な人でしたが、死去した人で、神であろうはずがありません。だから神棚や仏壇や神社やお寺には、神はいません。
死者の霊は、神のもとに帰っています。位牌や墓の中にもおりません。
神は霊なるおかたであり、人は神から霊を与えられています。人が物の中に、神や死者の霊を入れることはできません。
だから偶像は、自分の力で一歩も動くこともできないし、火事にあえば焼けてしまう空しいものです。
またサタンは、親不幸やウソ、憎しみや盗み、強欲や姦淫、堕胎、人殺し、自殺等をさせて、人を罪に落とし入れます。そして神や隣人から引き離そうとするのです。
今のままでは、あなたは自分の罪のために、火と硫黄の燃える池で、サタンと共に罪の報いを受けなければならなくなりましょう。罪のない人は一人もいないからです。  
22 救い主イエス・キリスト
神のひとり子イエス・キリストは、聖書に預言されていたとおり、今から約2000年前に天から降り、処女マリヤから人の姿で生まれ、この世に来られました。
そして人々にこの世の真の幸せと、永遠の命を受けられる道を教え、最後に私たちの罪を全部一身に引き受けて十字架にかかり、尊い血を流して、私たちが受けなければならない罪の報いの刑罰を、身代わりになって受けて死んでくださいました。
そして墓に葬られましたが、神は3日目に生き返らせました。そして多くの人々の中に現われて、死んでも生き返る神の力を証明されました。
そしてこの世の終わりの時に、神と神の御子イエス・キリストによる罪からの救いを信じた人々や、神のみこころを行なった人々を神の国に導くために、再び来ることを約束して、天に昇られました。
この世の終末は近づいています。人は死ぬことと、死後神の裁きを受けることが定まっています。
「天国か、地獄か」あなたはどちらを選びますか。
永遠の天国に行ける道は、「自分が神の前に罪ある者であることを認め、自分の罪のために死んでくださったイエス様を救い主として信じる」ことです。
何もむずかしいことはないし、費用もいりません。天地万物をはじめ、あなたをも造り、現に命を与えておられる全知全能の神のみが、あなたに永遠の命と幸せを与えることができるのです。
一日もはやく、神のひざもとにお帰りください。平安と喜びと愛に満ちた人生を送ることができます。それは輝かしい永遠の命への道です。
「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(聖書)。  
第1章 地球の誕生

 

地球の誕生に関する科学上の説明は、しだいに聖書の記述内容に近づいてきている
「神は・・・・地を何もない上に掛けられる」(聖書 ヨブ二六・七)
現在、科学の分野で、地球や大気、海洋、大陸などの起源に関する説は、ひと昔前と大きく変わってきています。それに伴い、しだいに科学の説明が聖書に近づきつつある、との感があります。
本書の目的は、それらに関する最近の科学の説を紹介し、聖書と科学の問題に関する一つの考え方を提供することにあります。読者が本書を通して、科学的創造論(創造科学)とその考え方を知り、聖書がどのような書物であるかということについて、理解を深められることを心より期待いたします。
「科学を徹底的に研究すればするほど、科学は無神論というものを取り除いてしまうと、私は信じている」ケルビン卿(英国の物理学者。絶対温度の単位である『ケルビン』は彼の名をとったものである) 
何もない所に掛けられた地球
私たちの住んでいる地球が、何もない宇宙空間に浮かんでいて、目に見える何かで支えられているのではないことは、現代人なら誰でも知っていることでしょう。
私たちは、宇宙飛行士が人工衛星から写した、地球の写真を見ることができます。
しかし古代人には、地球がそのように何もない空間に浮かんでいるとは、考えられなかったようです。例えば古代インド人は、地球は一頭の象の背に乗っており、その象は一匹の亀の上に、その亀はコブラの上に乗っていると考えていました。では、そのコブラを支えているものは何なのか・・・・ということになります。
また、古代エジプト人は、地球は五本の柱で支えられていると考えていました。では、何がその五本の柱を支えているのか、ということになるでしょう。
しかし世界で最も古い書物――キリスト教の教典である聖書は、次のように述べています。
「神は・・・・地を何もない上に掛けられる」(ヨブ二六・七)
これは、聖書の「ヨブ記」というところに記されている言葉で、今から約三千年も前に書かれたものです。当時は、もちろん人工衛星もなく、地球の外に出て、地球の姿をながめることも不可能な時代でした。
しかし聖書は初めから、地球が「何もない所」に掛けられているのであり、目に見える何かで支えられているのではないことを、知っていたのです。
聖書の中にこのようなことが書かれてあることを、驚く人も少なくないでしょう。しかしこれは、聖書が地球について述べている数多くの驚くべき記述の一つに過ぎません。
聖書を単なる"宗教の経典"だとか、あるいは"神話"が書かれている書物だと思っている人は多いようです。しかし、そうした人々は案外、聖書の中に実際はどのようなことが書かれているかを、よく知りません。読者の中にも、本書を読みながら、
「聖書には、このようなことも書かれていたのか」と思う人も、おそらく少なくないでしょう。 
科学上の学説は変化した
聖書の創世記一章の万物創造に関する記述は、かつて「非科学的」と言われ、人々の潮笑の的とされてきました。しかし今では、だいぶ事情が変わってきています。
以前は、科学上の学説が、一般に原始の地球の状態や、海洋、大気、大陸などの形成の問題に関して、聖書の創世記一章の記述を否定する傾向にありました。しかし、そうした科学上の学説も、最近の様々な目覚ましい研究成果によって、大幅にぬり変えられるようになっています。
実際、こうした科学上の変化について、たとえば名古屋大学水圏科学研究所の北野康教授は、こう述べています。
「(地球、海洋、大気、大陸などの起源に関する研究は)科学的というよりは、むしろロマンチックなムードが強いと、数年前までは、しばしば私ども仲間は言い合ったものである。しかし近頃は、むしろ科学的である、と言いたいムードである」(『水と地球の歴史』214頁)。
このように地球、海洋、大気、大陸などの起源に関する研究は、しばらく前までは、「科学的」というより、むしろ空想的なものに近かったのです。しかし最近では、かなりしっかりした科学的根拠をもつようになりました。
こうした科学上の発展・変遷とともに、今では、これらの事柄に関する学説のかなりの部分が、聖書の記述内容を否定する方向よりは、それに近づき、それを裏付けるような方向に向かっています。
科学は、人間のたゆみない努力によって進歩し、また変遷してきました。また、これからも進歩し、変遷していくことでしょう。そのため過去においては、その当時の科学が聖書を否定したが、現在においては、科学の成果がかえって聖書を裏付けるかたちになった、という例が数多く見られるようになっているのです。
そこで、そうした最近の科学的成果を紹介しつつ、地球がどのようにしてでき、またどのようにして水圏(海洋)、気圏(大気)、土壌圏(陸地)ができていったのか、ということを考えてみたいと思います。
ただし読者は、本書が科学の成果を用いて聖書の正しさを"証明"しようとしている、とは思わないようにして下さい。
なぜなら、科学は変わるものであって、一方、聖書は変わりません。変わるものを用いて、変わらないものを"証明"することはできません。
本書は、聖書を科学によって"証明"しようとするものではなく、むしろ、科学の説明が聖書の記述内容に次第に近づいてきている、という事実に関するリポートです。 
地球を形成した「ちり」
「地球はいかにして誕生したか」に関する説は、今までに数多くのものが提出されてきました。
その中で、かつて人々の間でながく信じられてきたものとしては、「地球は太陽から飛び散った高温の物質によってできた」という説があります。
この説は、地球は初め、太陽から飛び散った高温のガス体として生を受け、それが収縮して"火の玉"となり、やがて冷え固まって現在の地球になった、という考えです。この説によれば、地球は灼熱の物質をもとにしてでき、その後に冷えたわけです。
しかしこの説には、多くの科学的難点があり、その後、地球は最初高温のガス体として生を受けたのではなく、もともと冷たい固体が集まって出来たものだ、という説にとって代わられました。井尻正二博士(東大)、湊正雄博士(北大)共著『地球の歴史』には、こう述べられています。
「地球の誕生にまつわるこの『火の玉・冷却』説は、サルからヒトへの進化論と同じように、いつしか人々の常識となってしまい、いまさら疑ってみる者もないありさまであった。
ところが戦後になって・・・・地球のできはじめは、冷たい固体の集まりで、その後に地球は暖かくなったのだ、という地球の成因説が生まれてきた」。
また、竹内均博士(東大)、上田誠也博士(東大)共著『地球の科学』には、こう書かれています。
「火の玉地球説は、一九四〇年頃から、だんだん形勢が不利になってきた。そして・・・・チリ・アクタ説(低温起源説)にとって代わられるようになってきたのである」 。
地球を形成した物質は、もとは宇宙空間に散在する無数の冷たいチリだった。
地球は、かつて高温のガス体だったのではなく、一番はじめは無数の冷たいチリ・アクタだったというこの説は、聖書の、「この世の最初のちりも造られなかった時・・・・」(箴言八・二六) という言葉を思い起こさせます。聖書によれば、はじめに「最初のちり」が造られ、そののち無数のちりが造られて、それらの「ちり」をもとに地球が造られました。
聖書は、地球は太陽から飛び散った高温物質によってできたというように、太陽の落とし子的な存在としては描いていません。地球を形成した物質は、もとは宇宙空間に創造された無数の冷たい「ちり」だったのです。 
微惑星の衝突・合体
では、宇宙空間に存在し始めたチリ・アクタが、どのようにして地球を形成するようになったのでしょうか。
地球の起源に関する論文で、最近世界的な注目をあびた「松井理論」(東大・松井孝典博士)によれば、地球は次のような過程を経て誕生しました。
まず、チリ・アクタの漠然とただよう雲であった原始太陽系は、重力のために次第に収縮し、偏平なものになっていきました。ちょうど、雪が地面に向かって静かに降り積もるように、チリ・アクタは、太陽系の回転面に向かって、上下から静かに堆積していったのです。そして、それまで雲のように広がっていた原始太陽系は、偏平な円盤形になっていきました。
そして、その堆積がある程度の所まで来ると、そこに劇的な変化が生じました。積もり積もった物質粒子の層は、突然壊れたように分割されて、数多くの塊と化し、そこに直径十キロメートル程度の無数の「微惑星」が誕生した、とされています。
こうして誕生した無数の「微惑星」は、そののち互いに衝突を繰り返すことになります。その衝突の際に、あるものは砕け散り、またあるものは運よく合体して、雪だるま式に大きくなっていったことでしょう。
そのような過程を経て、「天体」と呼べるほどまでに大きく成長したものが、地球や、その他の惑星だと言われているわけです(『地球・宇宙・そして人間』117-138頁)。
このような惑星の成長過程は、コンピューターによるシミュレーション(模擬実験)等によって、研究されています。
また、現在の月面に見られる数多くの「クレーター」や、地球にも存在する幾つもの「大隕石孔」は、微惑星衝突期のなごりであると考えられています。
微惑星の衝突・合体が盛んだったときは、おそらく衝突の際に生じるものすごい熱のために、地球の表面はどろどろに溶けて、混沌としていたでしょう。聖書にも、「山もまだ定められず、丘もまだなかった時」(箴言八・二五) 「まだ海も……なかった時」(同八・二四) があった、と記されています。聖書も、原始地球は混沌としていたことを、示しているようです。創世記一・二にも、
「地は形なく、むなしく」(口語訳) あったと記されています。そのときは、「山」も「丘」もまだ定められてはおらず、地球は混沌としていたのです。
しかし、微惑星の衝突がおさまると、地球の表面も冷えていきました。そしてその過程で、地球は形を整えていくことになるのです。
月面には「多くのクレーター」がる。これは微惑星衝突期のなごりであると言われている。地球にも多くある「大隕石孔」も同様のものだが、地球には大気と海があり浸食があるので、その多くは当初の形をとどめていない。 
地球の内部が温められた
現在の地球は、一番外側に「地殻」があり、その内側に「マントル」、中心に「核」というように、層構造をもっていることが知られています。
地球のこの構造は、よく"ゆで卵"にたとえられます。卵の"殻"が「地殻」にあたり、"白身"が「マントル」、"黄身"が「核」にあたるわけです。
「マントル」においては、物質は長い時間をかけてゆっくり対流していると言われ、そこのマグマ(岩石や鉱物の溶けたもの)が地上に噴き出してきたのが、火山の熔岩です。さらに「核」においては、非常な高温になっているため、鉄やニッケルなどの物質がドロドロに溶けていると言われています(ただし外核は液体だが、内核は固体)。
このように、地球は内部に行くほど高温になりますが、「核」においては三千度以上の温度になっています。
では地球内部は、いつ、どのようにして、高温になったのでしょうか。
地球は成長し、大きくなるにつれ、中心部に行くほど重力による圧力で、物質が圧縮されるようになりました。現在、地球の中心は「三百万気圧」という、ものすごい圧力を受けていると言われています。
圧力を増すと、物質の温度は高くなります。読者は、自転車の空気ポンプを何回も押すと、ポンプが熱くなるということを知っているでしょう。これは空気が圧縮されたために、熱が発生したからです。地球の内部が熱くなったのも内部が重力のために、非常な圧力を受けるようになったというのが、一つの原因です。
また、地球の内部にある放射性元素も、地球を温めています。放射性元素は、少しずつ崩壊して、他の元素に変わっていきますが、この時に熱を出すのです。創造当初、地球内部に置かれた放射性元素は、地球内部を温め続けるのに充分なものでした。放射性元素は、地球を温める一つの熱源となっているのです。
地球の内部はこのような理由で、きわめて早いうちに温められた、と思われます。実際、東大の小嶋稔博士によると、地球の「核(コア)」は、地球の歴史のきわめて初期に、すでに形成されていました。
「大気の起源を、モデル計算した結果からは、地球コアの誕生は、地球自体の誕生のすぐ後に起こったことが推測されている」(『地球史』63頁) と博士は述べています。このように、地球自体の誕生のすぐ後に、核はすでに形成されていました。すなわち地球内部は、極めて初期に温められたのであり、その温度上昇によって、核・マントル・地殻という層構造ができ上がっていったのです。
地球は、定められた大きさにまで成長し、内部には層構造ができ上がり、言わば"生きている星"としての基礎が整えられていきました。こうして、「地の基が定められた」(箴言八・二九)のです。 
地球は球形に造られた
聖書は、地球は"丸い"ものとして造られた、と述べています。
「主は、地球のはるか上に座して、地に住む者を、いなごのように見られる」(イザ四〇・二二口語訳) ここに「地球」と訳された言葉は、原語のヘブル語の直訳では「地の円」です。聖書は、地は「円」形であって、丸いと述べているのです。地球は、はるか上からながめると、円形に見えます(新改訳では「地をおおう天蓋」と訳していますが、「おおう」は原語にありません。「地球」と訳すのが適切です)。
聖書の別の箇所には、こうも書かれています。
「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき・・・・」(箴言八・二七) 「深淵」と訳された原語は、創世記冒頭の一章二節にも出てくる言葉で、原始地球をおおった「大いなる水」をさしています。すなわち、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水のうえにあり、神の霊は水の上を動いていた」(創世記一・二新改訳。口語訳では「やみが淵のおもてにあり・・・・」) の「大いなる水」と「深淵」は、ヘブル原語で同じ言葉なのです。したがって、「深淵の面に円を描かれた」は、原始地球をおおった「大いなる水」に関するもので、その水平線の形が円形になるように定められた、ということを意味しているのでしょう。
「大いなる水」は、原始地球全体をおおったものなので、ここで水平線の形が問題にされていることは、理由のないことではありません。こうして、地球の形は"丸く"定められ、球形になったのです。同じことは、聖書のヨブ記二六章一〇節にも記されています。
「水のおもてに円を描いて、光とやみとの境とされた」。
これもやはり、地球の創造のことを言っている箇所です。
太陽が水平線の上にあると昼となり、水平線の下に沈むと夜となります。水平線は「光とやみとの境」であり、この水平線が「円」形になるように、地球の形が定められたのです。
しかし、聖書は決して、地球は"丸くて平たいもの"と考えているわけではありません。それは二次元的平面ではありません。聖書のヨブ記三八・九に、こう記されています。
「そのとき(地球創造の時)、わたし(神)は雲をもってその着物とし、黒雲をそのむつきとした」。
神は地球創造の時、黒雲を地球の「むつきとした」というのです。「むつき」とは、古代ユダヤ人などが、生まれたばかりの赤ん坊の体をグルグル巻きに包む、産着のことです。
神は誕生したばかりの地球に、黒雲を産着のようにグルグル巻きに包まれた、というのです。つまり「地の円」は、単なる"円い平たいもの"ではなく、むしろ球形をさしていることがわかります。
このように、地球が丸く球形に造られたことについて、聖書が今から約三千年も前に述べていたという事実は、まったく驚くべきことと言うほかありません。 
聖書は地軸の傾きを述べている
また聖書は、地球の地軸の傾きについても述べています。私は、本書冒頭において 「神は・・・・地を何もない上に掛けられる」 という聖書の言葉を引用しました。これは聖書ヨブ記二六・七の後半部の言葉で、じつはこの句の全体は、一般に次のように訳されています。
「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる」(新改訳。口語訳聖書は「北の天」と訳していますが、「の天」は原語にはありません)。
この句の前半の「神は北を虚空に張り」は、一体どういう意味でしょうか。きっと読者は、この訳では何の意味かさっぱりわからないでしょう。意味がわからないというのは、良い訳ではないからです。
「張る」と訳された言葉は、原語のヘブル語ではナーター(natah)といい、これは聖書の別の箇所では「傾ける」とも訳されている言葉です。たとえば「水がめを傾けて私に飲ませて下さい」(創世二四・一四)、「日が傾く」(士師一九・八)など。
また、「かたよる」「下げる」「曲がる」等とも訳されています。これらは「傾ける」の派生的意味です――「権力者にかたよって」(出エ二三・二)、「彼はその肩を下げてにない」(創世四九・一五)、「右にも左にも曲がりません」(民数二〇・一七)。
ですから、「張り」を「傾ける」と訳し直すなら、この句は次のようになります。
「神は北を虚空に傾け・・・・」。
これは、地球において「北」の方角が、軌道面に垂直な方向から二三・五度傾いていることを示しているもののように思えます。地球の地軸は、宇宙空間の中で、軌道面に垂直な方向から二三・五度傾いているのです。
よく知られているように、地球において春夏秋冬の四季があるのは、地軸のこの傾きがあるからです。
つまり、先のヨブ記の言葉は、地球が何もない宇宙空間に浮かんでいるということだけでなく、地球の地軸が傾いた状態に置かれているということをも、見事に言い表しているのです。 
地球は「水の惑星」になった
ある科学者は、「地球が、ほかの惑星とまったく違う点は、液体の水がたくさんあることである」(カール・セーガン著『コスモス』第3巻70頁)と述べていますが、地球には、ひじょうに豊富な水が存在します。現在の地球表面の七割は海洋であり、水におおわれています。
また地球上に住む私たち人間の体も、八〇%は水でできていて、水は生命に欠くことのできないものです。科学者は、地球を「水の惑星」と呼んでいます。
はじめ科学においては、海の水は「長い時間をかけて、徐々に増えていった」のではないかと、考えられていました。しかし今では、地球の歴史のきわめて初期に、すでに大規模な海洋が形成されていたことは、確実と見られています。東大の地球物理学教授・小嶋稔博士はこう述べています。
「近年における新たな地球科学的データの多くは、現在とほぼ同様な規模の海水が、(地球の歴史のきわめて初期に)すでに存在していたことを示唆している」(『地球史』150頁)。
地球の歴史のきわめて初期に、すでに大規模な海洋が存在していたというこの結論は、聖書の記述と一致しています。聖書によれば、天地創造「第二日」には、すでに「大空の下の水」と呼ばれる広大な海が存在していました(創世一・七)。
この海洋は、聖書の記述によれば、当時地表の全域をおおっていました。当時の地表は、なだらかだったので、充分な海水量があれば、地表全体を広大な海がおおうことが可能だったのです。このように、地球の歴史のきわめて初期に、すでに現在とほぼ同様な規模の海水が存在していました。
また以前は、誕生当時の海洋の化学的組成は、現在と大きく異なっていた、と考える科学者が少なくありませんでした。しかし小嶋博士は、化学的組成も、誕生当時から現在に至るまでほとんど変わらなかったことを、明らかにしています。
「堆積岩(水中の溶解物質などが沈澱堆積することによってできた岩石)は、化学的組成から見て、年代のずっと新しい堆積岩と本質的な差異はまったく認められず、(初期の)海の性質が、その後現在に至るまでの海とほとんど変わらなかったことを示している」(『地球史』150頁)と述べています。 
大気は「ほぼ一気に」生じた
では、「大気」についてはどうでしょうか。
大気は、地球の歴史の中で、徐々に増えてきたのでしょうか。それとも地球の歴史のきわめて初期に、"ほぼ一気に"生じたのでしょうか。
このことについては、大気も海と同様に、地球の歴史のきわめて初期に"ほぼ一気に"生じたことを示す、明確な証拠が存在します。
現在の地球の大気は、七八%が窒素で、二一%が酸素です。大気の大部分は、このように窒素と酸素ですが、残りの一%のほとんどを、「アルゴン」という気体が占めています。その他、二酸化炭素、水蒸気、ヘリウム、水素なども含まれていますが、これらはほんのわずかです。
アルゴンは、無色で、においもないので、私たちはふだんはその存在に気づきませんが、空気中に含まれる三番目に多い気体です。このアルゴンについての研究は、大気の起源について重要なことを示しています。
アルゴンについての最近の研究によると、アルゴンは地球史のかなり初期に、地球を形成した鉱物内部から「ほぼ一気に」生じたに違いない、ということがわかったのです。東大の小嶋稔博士(地球物理学教授)は、こう述べています。
「私たちはいろいろな実験結果から、地球内部(具体的にはマントル)における平均的なアルゴン同位体比の値は、現在の時点で、少なくても五千よりは大きいだろうと推定している。こうした条件を満足するのは、地球史のかなり初期に、ほぼ一気に脱ガス(鉱物から気体が分離すること)した場合に限られることを、計算によって示すことができる。この時の脱ガスは、かなり激しいもので・・・・」(『地球史』155頁)。このように、大気の一成分アルゴンは、「地球史のかなり初期に、ほぼ一気に」生じたのです。
さらに小嶋博士は、この結論はアルゴンに限らず、大気の他の成分(窒素など)についても言えるとしています。
「大気の他の成分、窒素や水(水蒸気)についても、同様な結論が期待されよう。・・・・アルゴンの八〇%以上を一気に脱ガスさせたような激しい過程においては、当然大気を構成している他の揮発性物質も、程度の違いこそあれ、かなり脱ガスさせた、と考えるのが妥当であろう」(『地球史』156頁)。
大気が、地球史のかなり初期に、ほぼ一気に生じたというこの結論は、やはり聖書の記述によく一致しています。
「神は大空を造り・・・・。第二日」(創世一・六〜八) と書かれています。「大空」は、創造「第二日」には出来あがりました。地球の大気は、地球史のきわめて初期である「第二日」までには、すでに形成されていたのです。 
海と大気の起源は同じ
では、海や大気は、いかにして「ほぼ一気に」生じたのでしょうか。
東大の松井孝典博士によれば、海と大気の起源は同じで、両者は次のようにして誕生しました。
まず、誕生したばかりの原始地球は、膨大な量の「水蒸気大気」におおわれました。
この「水蒸気大気」とは、現在の大気とは大きく異なるもので、成分のほとんどを水蒸気とする大気です。しかし現在の大気のもととなった成分の多くは、この原始の「水蒸気大気」の中に含まれていました。
「水蒸気大気」は、微惑星の衝突・合体によって、地球が成長していく過程で生じたものです。微惑星の鉱物から抜け出た揮発性物質の大部分は、水蒸気であったからです。そうやって生じた膨大な量の水蒸気が、誕生したばかりの地球を厚くおおったのです。
このことは、隕石の調査結果から容易に想像されます。
科学者は、隕石を調べてみた結果、隕石の平均的な元素組成と、地球全体の平均的元素組成は同じであることを、見いだしました。つまり、隕石も地球も元は同じもの、ということです。
また、「隕石」というと、固くて、一見とても水を含んでいるようには見えませんが、よく調べてみると、鉱物に取り込まれたかたちで、しばしば若干の水分を含んでいることがわかります。
質量にして平均〇・一%前後の水を含んでいるのです。意外にも、隕石は"水っぽい"のです。
この数値は、じつは地球(表面と内部)に存在する水の総量の、地球全体の質量に対するパーセンテージにほぼ等しいことが、わかっています。
つまり、地球はもともとこうした隕石、またはもっと巨大な隕石とも言える微惑星が寄り集まってできたものではないか、という考えに私たちは至ります。
先ほど述べたように、微惑星が衝突・合体を繰り返して地球を形成したのだとすれば、その衝突熱のために、微惑星の鉱物に取り込まれていた水分は蒸発して解き放たれたでしょう。
それは原始地球の表面に、膨大な「水蒸気大気」を形成したはずです。松井博士は述べています。
「水が(鉱物からの揮発性物質の)八〇%以上を占めるので、原始地球の大気は水蒸気でできた大気といってもいい」(『地球・宇宙・そして人間』191頁)。
松井博士の計算によると、このとき原始地球の表面に形成された水蒸気大気の総量は、約一・九×一〇の二一乗キログラムと算出されました。この数値は、じつは現在の地球表面にある水の総量――そのほとんどは海ですが――に、ほぼ等しいのです。
(地球表面地殻にある水の総量は、一・五×一〇の二一乗キログラム。『地球・宇宙・そして人間』210頁)。
すなわち、現在は海洋として地表に存在している水は、もとはと言えば、原始地球においては「水蒸気大気」であったことがわかります。
原始地球は、膨大な量の水蒸気を主成分とする大気におおわれていました。そして、この水蒸気大気の大半は、後に冷えてその水蒸気成分が地上に降り注ぎ、広大な海洋を形成したのです。
すなわち、まず水蒸気大気が存在し、それが後に分離して、(窒素やアルゴン等からなる)大気と、その下の海洋とになったのです。
このことは、聖書の記述によく一致しています。聖書によれば、地球はでき始めの頃に、「大いなる水」におおわれていました。
「初めに、神が天と地を創造した。(別訳『神が天と地を創造し始めたとき』、)地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり・・・・」(創世一・一〜二)。
原始地球をおおったこの「大いなる水」こそ、「水蒸気大気」に違いありません。
聖書によれば、この水蒸気大気から、大空と、その下の海洋とが生まれました。
「ついで神は『大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように』と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。……第二日」(創世一・六〜八)
「大空の上の水」が何であるかについては後述しますが、「大空の下にある水」は海洋を意味しています。「大空」とは大気です。聖書によれば、まず「大いなる水」が存在し、のちにそれが「大空の上の水」、「大空」(大気)、「大空の下の水」(海洋)とに分離したのです。
つまり現在の大気と海洋は、原始に存在した「大いなる水」が分離した結果生じたものです。このことは、原始に存在した膨大な量の"水蒸気大気"から、現在のような大気と海洋とが生まれた、という現代科学の結論とよく一致しています。
このようにして、地球の歴史のきわめて初期に、すでに地球をおおう厚い大気と、現在の規模に近い大量の海水が存在するようになりました。
しかし今日も、火山ガスや温泉は、大気や地表の水の量を、わずかずつですが増やしています。
たとえば水については、よく知られているように火山口から放出されるガスは、その大部分が水蒸気です。また海底のいたる所に、高温水を吹き出している海底火山が存在します。
水が、内部から解き放たれて出てきたものです。聖書にも、「海の水が流れいで、胎内からわき出た」(ヨブ三八・八)と記されています。聖書も、水は、地球を形成した鉱物の「胎内」から出てきたものであることを、示しているようです。 
地球が大気を持つことができたのは、地球が充分な質量を持っていたから
ところで、地球が大気を持っていることは、当たり前のように考える人もいるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。大気を持っていない星はたくさんあります。
例えば、地球の衛星である月は、大気を持っていません。月の直径は質量も小さく、地球の一七%の重力しか持っていません。そのため月がもし大気を持っても、弱い重力のために大気を引きつけておくことができず、すぐ散ってしまうのです。
地球が大気を持つことができたのは、地球が充分な質量を持っていて、大気をとらえておくだけの重力を持ち合わせていたからです。ですから、もし地球がもっと小さいものとして創造されていたら、地球は大気を持つことができなかったでしょう。米国バークレー校の生化学教授デュアン・T・ギッシュ博士は、こう言っています。
「地球の大きさを見る時、その質量や大きさは、実に理にかなったものであることがわかる。もし、地球の直径が一万二八〇〇キロでなくて一万一五〇〇キロだったとすれば、大気圏の減少によって、ほとんど地球全体が雪や氷の荒野と化していただろう」(デュアン・T・ギッシュ著『もう洗脳されてしまいましたか』 新生運動トラクト)。
地球がほんの一〇%小さくなるだけで、この地球上にほとんどの生命は住めなくなる。
すなわち、地球がほんの一〇%小さくなるだけで、この地球上に生命が生息することは、まずできなくなるのです。聖書は言っています。
「あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを」(ヨブ三八・五) このように、地球の大きさや質量一つをとってみても、そこに創造者の遠大な御計画があったことがわかります。 
大陸は海の中から現われた
大陸は、いつ、どのようにして出来たのでしょうか。
大陸の形成については、"陸が先か、海が先か"という問題があります。つまり、「地球の表面には、もともとかなりの起伏があって、水蒸気大気が大雨となって落下したとき、水は低い所にたまって海を形成し、残った高所の部分が陸地となった」 と考えることができるでしょうか。それとも、「海は、かつて地表の全域をおおっていて、のちに海底が盛り上がって、海面上に現われた所が陸地となった」 と考えるのが正しいでしょうか。前者の考えによれば、現在の大陸は、海ができる前から存在していたものであり、後者によれば、大陸は海ができて後に、海の中から現われたものということになります。
この問題について、井尻正二、湊正雄共著『地球の歴史』には、こう記されています。
「大陸には、海洋の謎を解く、幾多の秘密がかくされている。というのは、大陸はかつての海洋以外の何物でもないからである」(6頁)。
大陸は、かつては海の底だったのです。
同書は、さらに次のように述べています。
「一つの造山運動がおこるためには、その場所がながいあいだ海になっていて、底深く海底が沈降し、その場所に泥や砂やれきが数千メートル、ときには数万メートルもたまることが、欠くことのできない条件になっている。こうした海域は・・・・つづく地質時代に激しく盛り上がって褶曲の場となり……そのあとは、この盛り上がった地域は、造山作用の舞台となることのない安定した地塊、つまり大陸塊(安定地塊)になるのである」(25頁)。
すなわち大陸は、かつて海であったところが地球内部の物質の対流などの影響を受けて、海底が盛り上がり、海面の上に現われたものだと考えられているわけです。
聖書によれば、やはり、大陸は海の中から上昇してきて現われたものです。創世記一章の記述によると、地球が出来たばかりの時には、まだ大陸はなく、地球の表面全体を、海がおおっていました。そしてその後、創造第三日に、海の中から大陸が現われたのです。
「神はまた言われた。『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現われよ』。そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた」(創世一・九〜一〇)と記されています。
まず海がありました。そしてその後、大陸は隆起して海面の上に現われ、「かわいた地」となりました。そのため低地となった地に水が集まり、こうして陸と海との分離がなされたのです。
このように聖書によれば、明らかに大陸は海の中から現われたものであり、海の水およびその下の地球内部の物質の動きの影響などを受けて、上昇して現われたものと解釈されます。聖書のペテロの第二の手紙三・五にも述べられているように、「地は・・・・水から出て、水によって成った」のです。
酸素が生じた
私たち人間にとって、酸素は欠かせないものです。酸素がなければ、人間も動物も生息できません。地球の大気には、遊離状態にある酸素が約二一%含まれています。この酸素は、どのようにして生じたのでしょうか。
科学者たちは、地球の大気は、初めは酸素を含んでいなかったと考えています。先に、大気は微惑星や地球内部からの"脱ガス"によって生じたと述べましたが、微惑星(隕石)を調べても、その中に酸素はほとんど含まれていないのです。
また、太陽系の他の惑星である金星、火星、木星、土星、天王星、海王星などは、多少なりとも大気を持っていますが、これらの惑星の大気は、酸素を含んでいません。
酸素は、大気の他の成分と違って、微惑星や地球内部から生じたのではなく、他のところから生じたのに違いありません。竹内均、都城秋穂共著『地球の歴史』には、こう記されています。
「注意すべきことは、この大気(原始の大気)のなかには、酸素(化合していない酸素)が実際上なかったことである・・・・酸素は、地球上に植物が出現して、光合成作用を営むようになって後に、多量に生じたものなのだ。その点で、大気中の他の成分とは、全く起源が異なっている」(163頁)。
このように両博士によれば、地球の大気に多量に含まれる酸素は、"植物起源"であり、私たちが酸素を吸うことができるのは、実に植物のおかげです。聖書によれば、創造第二日に大気が造られ、第三日には陸地が造られました。そしてその陸地と海底に、植物が創造されたのです。
「神はまた言われた、『地(地表)は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを、地の上にはえさせよ』。そのようになった」(創世一・一一) と記されています。植物には、二酸化炭素を吸収し、酸素を放出する働きがあります。植物による酸素の放出は、創造の第三日に植物が創造された時に始まりました。こうして、大気の中に酸素が多量に存在するようになったのです。
また植物自体は、様々の有機物質から成り立っているため、後に動物や人間が食べる食物として、ふさわしいものでした。動物や人間が生息できるための条件は、このようにして整えられていったのです。
大気はきわめて初期に、現在の大気と同じような成分を持つようになった
一九五三年、生命の起源に関する有名な実験が、アメリカのS・ミラーによって、なされました。彼は、メタンガス、アンモニアガス、水蒸気、水素ガスなどの気体を混ぜ合わせて、これに放電を続けたところ、数日後にはアミノ酸や脂肪酸が合成されたと報告しました。ソ連でもその合成が追試され、その実験結果が正しいことが認められました。
このように無機物の中から、生命にとって基本的な有機物質が合成されたということで、生命の起源について研究している人々の間に、大きな反響を巻き起こしました。そしてこのことから、生命が誕生した頃の地球大気は、メタンガス、アンモニアガス、水素ガスなどを豊富に含む大気であった、という主張が生まれました。
このような成分からなる大気を、科学者は「還元型大気」と呼んでいます。また、「生命が誕生した頃の原始大気は、還元型大気であった」とする説は、「還元型大気説」と呼ばれます。
しかし、このような成分の大気は、現在の大気とはおよそ異なるものです。現在の大気は、窒素、二酸化炭素、水蒸気、また酸素、アルゴンなどから成っており、こうした大気は、「酸化型大気」と呼ばれます。還元型大気説をとる人々は、大気は時代とともに、現在のような酸化型大気に移り変わってきたと、考えているのです。
しかし、生命が誕生した頃の大気が「還元型」であったか、あるいは当初から「酸化型」であったかという問題は、科学者の間で大きな議論の的となっているようです。名古屋大学水圏科学研究所の北野康教授は、そのことについてこう述べています。
「アメリカなど(の進化論に立つ人々の中)には、依然として還元型大気説を支持する人も多い。生命の起源を研究している日本人を含めた生物学者の多くは、還元型大気説をとっている人が多いように、見うけられる。その理由は、二酸化炭素、窒素、水蒸気のような酸化型の系からは、アミノ酸の合成が大変困難だからというようである」(『水と地球の歴史』214頁)。
このように、「生物が無機物から進化によって生じた」という考えに立つ人の多くは、生命が誕生した頃の原始大気が還元的であったという考えに、固執したがる傾向があるようです。
しかし、その証拠は薄弱です。実際、北野教授はこう述べています。
「私を含めた松尾禎士、清水幹夫、小嶋稔、そしてさらに江上不二夫らの日本の物理、化学を背景にもつ科学者の多くは・・・・酸化型大気説を支持する」(同200頁)。
教授はこう述べて、生命が誕生した頃の原始大気は還元型ではなく、酸化型であったことを支持する有力な証拠を、幾つか提示しています。
例えば、最古の部類に属する岩石から「石灰石」が発見されたことにより、原始大気中に二酸化炭素が存在していたことが、確認されています。「石灰石」は、二酸化炭素がないと出来ないのです。
またその他、様々な理論的考察が、大気が酸化型であったことを支持しています。生命が誕生した頃の大気は、現在の大気と同様、酸化型であったと考える方が、無理のないようです。
聖書の記述からも、生命が誕生した頃の原始大気が、還元型であったとは到底考えられません。様々の科学的証拠は、「大気の成分は、きわめて早いうちに現在の大気の成分と同じようなものになった」という考えを支持しているのです。
第2章 宇宙の創造

 

宇宙は偶然に生まれたものか。それとも創造されたものか。 
宇宙を創造されたかた
万有引力の法則の発見で有名な、イギリスの大科学者アイザック・ニュートンの逸話に、次のようなものがあります。
ある時ニュートンは、腕ききの機械工に、太陽系の模型を作らせました。その模型は、歯車とベルトの働きで、各惑星が動く仕掛けになっている精巧なもので、ニュートンの部屋の大テーブルの上に置かれました。
ある日、ニュートンがその部屋で読書をしていた時、ひとりの友人がやって来ました。彼は無神論者でしたが、科学者だったので、テーブルの上のものを見て、すぐそれが太陽系の模型であることを見てとりました。
彼は模型に近づくと、模型についているクランク(手動用金具)を、ゆっくり回しました。すると、模型の各惑星が、様々な速度で太陽のまわりを回転するのでした。それを見た彼は、いかにも驚いた様子で、
「うーむ。実に見事だ。誰が作ったんだい」と尋ねました。ニュートンは本から目を離さずに、「誰でもないさ」と答えました。
「おいおい、君はぼくの質問がわからなかったしいな。ぼくは、誰がこれを作ったのかと聞いたんだよ」。
するとニュートンは、本から顔を上げて、まじめくさった調子で、これは誰が作ったのでもない、いろいろな物が集まって、たまたまこんな形になったのだ、と言いました。しかし驚いた無神論者は、やや興奮した口調で、言い返しました。
「ニュートン君、人をばかにしないでくれ。誰かが作ったのに決まってるじゃないか。これを作ったのは、なかなかの天才だよ。それは誰かと聞いているんだ」。
ニュートンは本をかたわらに置き、椅子から立ち、友人の肩に手を置いて、言いました。
「これは、壮大な太陽系を模して作った粗末な模型でしかない。太陽系を支配する驚くべき法則は、君も知っているはずだ。
それを模して作ったこの単なるおもちゃが、設計者も製作者もなく、ひとりでに出来たと言っても、君は信じない。ところが君は、この元になった偉大な本物の太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。いったい何故、そんな不統一な結論になるのか説明してくれたまえ」。
こうしてニュートンは、宇宙の背後に、知性を有する偉大な創造者がおられることを、友人に得心させたということです(『ミネソタ工芸より)。
ニュートンは、その著書『プリンキピア』の中で、次のように書きました。
「太陽、惑星、彗星から成る極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在者の意図と統御があって、初めて存在するようになったとしか言いようがない。・・・・至上の神は、永遠、無窮、全く完全なかたであられる」。
彼は、宇宙は目に見えない偉大な神によって創造されたのであり、その統御によって存在しているのだと信じていました。彼は自分の科学研究について、
「自分は、真理の大海の浜辺で戯れているのだ」と語りましたが、彼にとって科学研究とは、"神の真理"を追究することだったのです。
また、相対性理論を生み出し、二〇世紀最大の科学者と言われたアルバート・アインシュタイン博士も、「私は、神の天地創造の"足跡"を探していく人間である」と語ったと伝えられます。彼にとっても、宇宙について、また自然界について研究することは、「神」をより深く知ろうとする心の現われでした。
その他、偉大な科学者のなかには、創造者なる神を信じていた人々がたくさんいます。ケプラー、コペルニクス、ガリレイ、ファラデー、ケルビン、マクスウェル、パスツール、リンネ、ファーブル、パスカル、ボイル、フレミング、ドーソン、ウイルヒョウ、コンプトン、ミリカン、プランクなどをはじめ、科学史上に名だたる人々の多くが、創造者なる神を信じる科学者でした。
彼らはみな、熱心な創造論者であり、創造者なる神の存在を信じていたのです。科学史上に残された彼らの偉大な業績は、「神が創造された世界について、もっとよく知りたい」という探究心から生まれ出たものだと、科学史家は述べています。 
宇宙には創造者の永遠の力と神性とが現れている
野の風に揺れる花々や、高原に流れる小川を見て美しいと思い、夜空に輝く星を見上げたり、山頂から壮大な雲海のながめを見て、大自然の崇高さ、荘厳さに胸を打たれたことのある人は、おそらく少なくないでしょう。
大自然は、「偉大」あるいは「崇高」または「荘厳」と感じさせる何かを、その奥にもっています。このことについて聖書は、次のように述べています。
「神の目に見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物(造られたもの)において知られていて、明らかに認められる」(ロマ一・二〇)。
大自然の持つ美しさ、偉大さ、崇高さは、その奥におられる創造者の美しさ、偉大さ、崇高さの現われである、というのです。自然界(被造物)には、神の永遠の力と神性が現われています。
ですから、宇宙について深く研究しようとする科学者が、その研究を通して、神の存在についての確信を一層深めたとしても、不思議ではありません。
宇宙は、きわめて美しく整った物理法則・化学法則のもとに、秩序正しく運行しています。宇宙の理を究めようとする者は、誰でもその美しさと荘厳さに、魅了されることでしょう。アインシュタイン博士は、「宇宙の法則は、数学的美しさをもっている」と語りました。また、イギリスの数学者で偉大な理論物理学者であるディラックは、『サイエンティフィック・アメリカン』誌の中に、「神は、非常に優れた数学者であられ、宇宙を造る際に、極めて高度な数学を用いた」と書いています。宇宙を秩序正しく支配している諸法則は、まことに荘厳なまでの美しさを持っています。宇宙の諸法則、またその素晴らしい秩序をお与えになったのは、実に宇宙の創造者なる神です。一九二七年にノーベル賞を受けたアメリカの科学者アーサー・ホリー・コンプトンの言っているように、「秩序正しく広がっている宇宙は、『はじめに神が天と地とを創造した』(創世記一・一)という、最も荘厳な言葉の真実さを証明するもの」なのです。神の存在とそのご性質は、被造物である自然を通して、明らかに認められます。神が存在することは、宇宙が存在しているのと同じくらい、いや、それ以上に明らかなことです。宇宙の背後には、宇宙の設計者であり、創造者であり、維持者であるかたがおられるのです。
電気素量や宇宙線の研究に貢献して、ノーベル賞を受けた物理学者ロバート・A・ミリカンは、一九四八年のアメリカ物理学協会の集会で、確信をもって、宇宙の背後に存在する超越者を「偉大な建築者」と呼びました。そして、
「純粋な唯物論は、私にとっては最も考えにくいものだ」と語りました。また、ドイツの偉大な科学者マックス・プランクは、こう述べています。
「理知ある至高の創造者の存在を仮定せずに、宇宙の成り立ちを説明することは、不可能である」。
このように、一流の科学者の中には、神を信じる人々が、少なくありません。しかも今日、科学者のなかで神を信じる人々の割合は、決して減少傾向にはなく、むしろ増加傾向にあるようです。
アメリカでなされたあるアンケート結果によると、第二次大戦以前、創造者としての神の存在を信じる科学者の割合は、三五%だったのに対し、最近では六〇%に達しているとのことです。こうしたことを考えてみると、「科学的知識の豊かな者は、聖書を信じたり、クリスチャンになったりすることはあり得ない」という考えは、少なくともばかげています。むしろ、科学的知識が豊富になることがかえって、宇宙の創造者を信じることを助けた、という場合の方が多いのです。
「神などいない」という人の場合、それは深い知識によるのではないことが、しばしばです。聖書は言っています。
「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている」(詩篇一四・一)。
創造者なる神を信じることは、非科学的なことでも非常識なことでもなく、むしろ、きわめて理にかなったことであり、また人間として非常に自然なことなのです。じつに宇宙は、「無」から「有」を生じさせる力を持つ全能の神により、その遠大なご計画のもとに創造されたと信じられます。 
宇宙は"無"から誕生した
しかし宇宙の起源について、「最近の科学では、宇宙は『ビッグ・バン』と呼ばれる大爆発によって始まった、と言われているではないか」と問う人もいるでしょう。
私たちは、この「ビッグ・バン」説について、どのように考えるべきでしょうか。それははたして、"神による宇宙の創造"という考えを否定するものでしょうか。
この説は、宇宙は最初「ビッグ・バン」と呼ばれる大爆発とともに始まり、現在も宇宙は膨張しつつあるという説です。この「ビッグ・バン」説には、いくつかの興味深い点があります。
かつては、宇宙は膨張も収縮もなく、始まりも終わりもないとする「定常宇宙説」が支配的でした。仏教思想なども、宇宙は「無始無終」であるとしています。
しかし「ビッグ・バン説」は、その考えを否定し、宇宙には明らかに「始まり」があったことを証拠づけました。原因はわからないが、宇宙は突如として、爆発的に始まったとしているのです。そういう意味では「ビッグ・バン説」は、宇宙の「創造」という考えに近いものを持っています。
しかも、初期の「ビッグ・バン」説においては、最初に大爆発のもととなった"非常に密につまった物質"が存在した、と考えられていましたが、最近では、宇宙の初めはそのような密な物質のかたまりではなく、むしろ"無"から宇宙が誕生したという考えに、取って替わられるようになっています。
この"無"とは、量子論(物理学の一分野)でいう"無"で、米国マサチューセッツ州タフツ大学のアレキサンダー・ビレンキン博士は、このことについて、
「宇宙は、量子論的自由をもつ"無"から誕生した」(『ニュートン』1986年4月号42頁)
という内容のことを述べています。また『サイエンティフィック・アメリカン』誌の一九八四年五月号には、
「この考えによれば、宇宙は、量子力学的真空中のゆらぎによって、存在するようになったのである」(『サイエンティフィック・アメリカン』1984年5月号128頁)
と述べられています。この「量子論的自由をもつ"無"」とか、「量子力学的真空中のゆらぎ」とかいう言葉は、量子論の知識がないと理解が困難ですが、いずれにしても開闢時の宇宙は、物質の状態ではなかったと考えられているわけです。
このように宇宙が、"無"あるいは "真空"から誕生したと考えられるようになってきていることは、じつに興味深いことです。聖書によれば宇宙は、神が「無から有を呼び出され」(ロマ四・一七)たことによって、存在するようになったものです。聖書は言っています。
「目を高く上げて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は、数をしらべて万軍(天体、星のこと)をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」(イザ四〇・二六)。
ここに、地球を含めて宇宙にあるすべての天体は、神が無からひき出されてお造りになったものであることが、述べられています。これは、無から有への創造です。
この句の中に、「その勢いの大いなるにより」とありますが、ある聖書訳は「勢い」という言葉を、「エネルギー」と訳しています。これは面白い訳です。
実際、現代の科学者は、アインシュタインの関係式(E=mc2)に従い、物質をエネルギーに変えることができるのと同様に、エネルギーを物質に変えることもできると、考えています。
したがって、もし神が「エネルギー」に富むかたであるならば、宇宙にあるすべての物質が神によって造り出された、と考えることは理にかなったことだと言えるでしょう。宇宙を存在に呼び出されたのは、神なのです。
このようにビッグ・バン説は、宇宙が"無"から爆発的に始まったとしている点で、聖書の記述に近いものです。したがって、"神による宇宙の創造"という考えを否定するものではありません。
ある人は、「けれども、聖書は宇宙は"爆発"によって始まったとは言っていない。爆発は破壊をもたらすもので、創造はしない」と言うかもしれません。しかし、ビッグ・バン説でいう"爆発"とはそのようなものではないのです。
私たちは「爆発」というと、とかくダイナマイトなどの爆発を思い起こしてしまいます。これは"空間の中での爆発"です。これに対し宇宙の爆発的誕生とは、空間・時間・物質の連続体である宇宙全体の急激な誕生、ということなのです。
何かの"中での"爆発ではなく、空間自体が急激に膨張し、物質界が爆発的に現われたのです。それはダイナマイトなどの爆発とは、根本的に異なっています。頭の中で想像しようと思っても、ちょっと苦労してしまうような"爆発"なのです。
ダイナマイト等の爆発は、単に破壊をもたらすもので、無秩序をもたらし、創造することはありません。しかし、"宇宙の爆発的誕生"というのは、そうした爆発とは関係がありません。
宇宙は"爆発によって誕生"したのではなく、"爆発的な勢いで誕生した"というのがビッグバン宇宙論の考え方です。空間・時間・物質が、無から急激に現われ、膨張し、展開して形を整えたのです。聖書にも、
「天を造り出し、これを引き延べられた神なる主」(イザ四二・五)
と記されています。宇宙は「引き延べられた」――宇宙は爆発的に膨張するかたちで、大きな広がりを持つように至ったと、聖書も述べていると見受けられるのです。
誤解しないで欲しいのですが、私は現在のビッグ・バン説が完全に正しいとか、聖書と全く同じだとか述べているのではありません。私が述べているのは、ビッグ・バン説は決して聖書の記述を否定するようなものではない、ということです。
さらに、もう一つ興味深いことに、"無からの創造"ということを真に述べている宗教書は、じつは『聖書』だけです。
世界には多くの天地創造神話がありますが、それらの神話においてはみな、"天地創造" 以前に、すでに"それに先立つ物質"が存在しました。
たとえば、吉田敦彦著『天地創造の神話の謎』(大和書房)によれば、世界には、宇宙卵型神話(巨大な卵が割れて、そこから宇宙が生まれ出た)、潜水型神話(原初の海から、水鳥が神に命じられて海底の土をとってきて、それが陸地になった)、島海型神話(日本神話が一例)、世界巨人型神話(殺された巨人の身体の各部から世界が造られた)などの天地創造神話があります。
ここですぐ気がつくことは、これらの神話はみな、"天地創造"に先立つ物質存在を認めていることです。意地悪く言及すれば、
「では、その先立つ物質は、どのようにして存在するようになったのか」
と問うところですが、古代の人間はおおらかだったのか、そこまでは問い詰めなかったようです。しかし聖書は、
「はじめに神は天と地とを創造された」(創世一・一)
と述べ、天地創造が最初であることを示し、それに先立つ物質存在を語りません。聖書のみが、世界は「無から有を呼び出される神」(ロマ四・一七)によって存在に呼び出された、と語っているのです。 
物質界が活性化された
さて、神が無から有を生じさせ、宇宙の創造を開始されたとき、神はどのようにして物質界や、そこに働く諸力を整えていかれたのでしょう。
聖書の創世記一・二には、宇宙および地球が造られていく過程において、「神の霊」がその上を「動いていた」、と記されています。これは、当初混沌としていた宇宙および地球が活性化され、高度な秩序形態をもっていくために、目に見えない実体が関与していたことを示す聖書的表現です。
聖書において、「神の霊」という言葉が持っている一つの意味は、"力の源泉"です。神の霊は力の源泉であり、すべての種類のエネルギーは、ここから発せられます。そして「神の霊」は、宇宙および地球において、その上を「動いて」いました。
「動く」と訳されたこの言葉は、原語では、めんどりなどがその羽を「舞いかける」、というような時に使う言葉です。ちょうど、めんどりが卵の上で羽を舞いかけ、自らの体温による熱を与えて、孵化を待つように、「神の霊」は物質界を活性化し、整えていったのでしょう。
アメリカのICR(創造調査研究所)理事長へンリー・M・モリス博士は、こう述べています。
「『動く』(舞いかける)という言葉は、宇宙に働くエネルギー伝達は、波の形(光波、熱波、音波等)でなされることと関係があります。事実、(核力は別として)物質に働く基本的力の型は二つだけで、重力と電磁力です。これらはすべて『場』と関係し、波動で伝達するのです」(『マハナイム』11号2頁)。
神は、エネルギーを「舞いかけ」、言わば波立たせることによって、物質界に働く様々な力を、整えていかれたのでしょう。こうして存在に呼び出され、さらに活性化された世界は、創造「第七日」に、ついに完成しました。
「神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた」。
さらに、
「第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた」(創世二・二)
と記されています。万物の完成後、神はそれまでなさっていた創造のわざから手を引かれ、物理的・化学的法則を固定し、宇宙の運行をそれらの法則におまかせになりました。
ですから、それまでは宇宙にエネルギーを供給しつつ、創造のわざを展開してこられたわけですが、わざの「完成を告げられ」て以後は、もはや新しくエネルギーを宇宙に供給することはなさっていない、と考えられます。
したがって、物理学で宇宙を支配する最も基本的な法則として知られている「エネルギー保存の法則」は、当然、ここから期待される法則です。
この法則によれば、エネルギー(質量も含めて)は形態を変えるだけで、新しく造り出すことや、滅ぼすことはできません。何かの物理的・化学的変化が起こっても、そこにあるエネルギーの総和は、常に一定です。
したがって「エネルギー保存の法則」によれば、宇宙のもつ全エネルギーは一定で、ある特定の値をもっているはずです。「エネルギー保存の法則」は、神が創造のわざの「完成を告げられ」、すべてのわざを「休まれた」という記述から、当然期待される法則と言ってよいでしょう。 
太陽より先に光が出来た!?
生命が営まれる環境において、「光」がもっている役割がいかに重要であるかは、よく知られています。「光」なくしては、植物も動物も人間も、生息することはできません。地球に生命が生まれることができたのは、太陽が豊かに光を注いでいてくれたからです。
聖書の創世記一章に記されている宇宙創造の記述の中で、一見奇妙に思えるものとして、"太陽より先に光が造られた"ということがあります。
創世記の記述によると、創造第一日に光が創造され、すでに地球には「昼」と「夜」がありました。しかし太陽自体は、第四日に造られているのです。これを「矛盾だ」と考える人は、次のように言います。
「太陽という"光源"がまだなかったのに、どうして光が輝くことができるだろうか」。
しかし、光が先に創造され、後に太陽が形成されたという記述は、次のようなことを考えれば、とりたてて奇妙なことではありません。まず現代の科学者は、太陽の起源についてどう考えているか、調べてみましょう。
現在、科学的な研究によって、宇宙にある物質のうち最も多い元素は、水素であると言われています。水素原子は、一つの陽子と、一つの電子からなるもので、元素の中で最も簡単な構造をもっています。
次に多いのが、ヘリウム(水素の次に単純な構造をもつ)で、水素とへリウムをあわせると、宇宙の全物質の九八%にもなります。他の元素は、全部あわせても二%程度にすぎません。宇宙にある物質の大半は、水素とへリウムだと考えられているわけです。
これは、星からの光の「スペクトル」を調べることなどによって、わかったものです。元素は、それぞれ固有の「スペクトル」をもっているので、星からの光のスペクトルを調べることによって、その星がどのような元素からなっているかが、わかるわけです。
一般に太陽の起源は、水素や、またいくらかの他の元素が、自分の重力で互いを引き寄せて「ガス雲」を形成したことに始まった、と考えられています。物質の原子や分子が互いに寄り集まって、ぼんやりと集合体を形成し、「ガス雲」となっていったのです。
東大の小尾信弥博士によれば、このガス雲は自分の重力のために、さらにある程度収縮したとき、爆発的に明るく輝きだしたとしています。博士は述べています。
「密度も温度も低い(ガス雲の)外層部は、超音速度で中心に向かって落ちこんできて、すでに収縮が止まっている密度の大きな中心部分とはげしく衝突し、そのため生じたショックの波が、一気にガス雲の表面まで伝わることになる。
ショック波の通過によって、ガス雲の物質は熱せられ、表面さえ四千度近くまで熱くなり、このためガス雲は急に明るく輝き出す。そのときのガス雲の大きさは、現在の水星の軌道よりも大きく……」(『太陽系の科学』23頁)
こうして、充分に高い温度になると、ガス雲は「急に明るく輝き出」しました。その明るさは、非常に明るいものでした。しかしその時のガス雲の大きさは、現在の太陽と比べて、はるかに大きくあり、またこの段階では、まだ水素の「核融合反応」は、行なわれていませんでした。
現在の太陽は、核融合によってエネルギーを得ているわけですから、そのような意味では、光り輝くこのガス雲は、現在の太陽とは異なったものだったと言えます。それは言わば、現在の太陽の"前段階のもの"だったのです。
そしてこのガス雲は、太陽の歴史の長さに比べると非常に短い期間のうちにさらに収縮して、現在の太陽のような大きさにまでなった、とされています。そうなると、中心部は核融合反応がおこるのに充分な温度にまで、高められることになります。小尾博士は述べています。
「この収縮により、中心部はさらに熱くなり、ついに一千万度を越えるようになると、いわゆる水素の熱(核)融合反応が始まる・・・・太陽が誕生したのである」(同23頁)。
以後、太陽は核融合のエネルギーによって、輝き続けるようになります。そしてその安定した光は、今に至るまで、私たちを照らし続けてくれているのです。このように、核融合によって絶えず輝き続けるエネルギーが与えられた時、太陽が真に誕生したと言ってよいでしょう。
神が光を創造し、後に太陽が形成されたときのことが、実際にこのようなものであったかどうかは、確証できませんが、このことは一つの有益な示唆となるでしょう。
聖書によれば、天地創造の第一日目に、地球は「形なく、むなしい」状態であったとされているので、太陽もまだそのときは「形なく、むなしい」物質の集合体にすぎなかった、と思われます。
それは現在の太陽のような形態になる前の段階のもので、水素などの原子からなるガス雲だったと考えられます。そしてもし神が、そのガス雲を充分な温度にまで高めたとすれば、ガス雲は明るく輝き出し、地上に光を供給し、すでに自転を始めていた地球に、「夕」と「朝」をつくったでしょう。これが「創造第一日」のことと思われます。
そして「第四日」に、ガス雲は現在の太陽の大きさにまで収縮し、核融合により、長い時代にわたって輝き続けることのできる天体となった、と考えることは、一つの可能な理解です。
(創造第一日目の「光」を、ビッグ・バン理論における"ビッグ・バン直後に宇宙全体を満たした光"と考える解釈もありますが、それは無理でしょう。なぜなら、聖書によれば創造第一日の「光」は、そのときすでに自転している地球に「夕」と「朝」をつくりました。したがってこの「光」は、太陽系の中心から来た光であって、宇宙全体を満たした光ではありません。)
実際、「神が天と地を創造した」(創世一・一)の「創造した」と、「神は二つの大きな光る物(太陽と月)を造られた」(創世一・一六)の「造られた」は、原語では別の言葉です。
「創造した」(創世一・一)は、ヘブル原語ではバーラーで、この言葉は決して人のわざには用いられません。神のみわざにのみ用いられています。"無から有をつくり出す"というような、神による無からの創造の意味です。
一方、「(太陽や月を)造られた」(創世一・一六)の原語はアーサーで、聖書中、神のみわざと人のわざのどちらにも用いられています。この言葉は、無から有への創造を意味することもありますが、おもには"有から有を造る"という意味で使われます。
たとえば、麦粉をこねてパンを「つくる」(創世一八・六)というようなときに、この言葉が使われています。何かの材料を用いて物を造る、というような場合に使われるのが、この言葉の一般的な用法なのです。
したがって、創造第四日に太陽が「造られた」という言葉は、"無から有を創造された"というよりも、むしろ"有から有を造られた"の意味と思われます。すでに存在していた材料を用いて、太陽が造られたのです。
太陽は、決して「第四日」に"無"の中から突然現われたのではなく、太陽のもととなった物質、あるいは原型は、すでに宇宙空間に存在していました。そして「第一日」の「光あれ」(創世一・三)の言葉とともに、それは光り出すようになり、「第四日」になって、神はそれを現在の形態の太陽に形成されたのでしょう。
こうして、地球が生命の営まれる環境になるために最も重要な役割をはたす太陽が、誕生しました。以来、地球は太陽系の一員として、太陽から豊かな恵みを受けて、今日に至っているのです。 
地球磁場は有害な太陽風から私たちを守っている
太陽は、私たちの地球にサンサンと光を注ぎ、地球を明るく照らしてくれています。地球上の生命にとって、太陽の光は欠かせません。しかし太陽からやって来るのは、そうした有益な光線だけではありません。有害なものも、やって来ます。
その一つに「太陽風」と呼ばれるものがあります。これは「風」と言っても、空気の風ではなく、放射能をもった危険な微粒子の高速の風です。
ですから、例えばアメリカのアポロ宇宙船の飛行士たちが月で活動していた時、太陽風が強くなることがないか心配して、その最中ずっと、太陽の観測が注意深くなされていました。太陽表面で「フレア」と呼ばれる爆発が起きたりすると、太陽風は異常に強く吹き出し、強い放射線のために、宇宙服を着ていても生命の危険があるからです。
このように恐ろしい太陽風が、もろに地球表面に吹きつけてくるとすれば、地球上では、とても生命は住めません。
ところが幸いなことに、地球の磁場や大気が、それを防いでいます。誰でも知っているように、地球は一つの巨大な磁石になっています。現在の最も有力な説によれば、地球が磁場をもっているのは、地球の内部に一種の巨大な電磁石ができているからだと、考えられています。
地球の内部の「核」では、高温のために鉄が溶けています。鉄は電気を通しやすいので、地球の自転に伴ってグルグル回ることによって、一種の"発電機"のようになっているのです。
電気が流れれば、そこに磁場ができます。つまり地球内部で電流が発生しているので、地球は磁石となり、地球のまわりに磁場ができているのです。
この磁場が、太陽から飛んでくる危険な放射線粒子をつかまえ、閉じ込めてくれています。実際、地球のまわりには磁場によって捕えられた放射線粒子が、ドーナツ状になってウヨウヨしている所があります。そこは「バンアレン帯」と呼ばれていますが、危険なので宇宙船もそこを通るのを避けます。
このように地球磁場は、危険な放射線粒子から、地上の生命を保護する働きをしています。同様に大気も、粒子をつかまえて、地上に届かないようにしています。
聖書によると、創造第一日にすでに地球上では、「タとなり、また朝となった」と記されていることからもわかるように、地球はすでにその頃から、自転していました。そしてその自転に伴って、地球内部には電流が発生し、地球磁場が造られたのです。
このように、地球が生命の住める適切な場になるために、さまざまな配慮がなされていることがわかります。 
地動説を確立したのはクリスチャンたちだった
地球は、太陽系の一員として誕生しました。
地球は、太陽から一・五億キロほど離れたところを回る一惑星であり、体積にすれば太陽の一三〇万分の一の大きさしかない、小さな星です。
中世において、この太陽と地球の関係について、「天動説」と「地動説」という二つの説の対立があったことは、よく知られています。「天動説」とは、地球のまわりを太陽が回っているとする説であり、「地動説」は、太陽のまわりを地球が回っているとする説です。
このことについて、聖書が天動説を唱えていると、誤って理解している人は少なくないようです。しかし聖書は実際のところ、天動説を唱えてはいません。キリスト教に反対する人々は、
「聖書は天動説を唱えている。だから一七世紀の大科学者ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたとき、教会は彼に反対した。しかし、のちに地動説が正しいことが明らかになった。これは宗教に対する科学の勝利であった」
といいます。しかし実際は、天動説と地動説の対立は、決して"宗教 対 科学"というような構図ではありませんでした。
なぜなら天動説は、中世においては正統的と見られていた、立派な"科学"だったからです。天動説は、二世紀のエジプトの大天文学者プトレマイオス(英語ではトレミー)が唱えて以来、約一四〇〇年にわたって、人々の"科学的常識"となっていたのです。
プトレマイオスは、「二均差」(月の運動の不規則性)や「大気差」(大気による光の屈折作用)を発見した大科学者です。彼は、宇宙は地球を中心に回っているという考えに立って、夜空に見える星の動き方を詳細に説明しました。
彼の天動説は、非常に高度な数学と、「偏心円」や「周天円」といった科学的概念を用いて星の動きを細かく説明した、非常に精巧な科学理論であったのです。
この科学理論は、非常に長いあいだ人々の間に権威を持ちました。中世のカトリック教会も、この説を鵜呑みにしていたのです。
しかし、やがてこの科学上の学説に異議を唱える人々が現われました。一六世紀になって、コペルニクスが天動説に反対し、地動説を唱えました。
では、コペルニクスは無神論者だったでしょうか。いいえ、彼はクリスチャンでした。コペルニクスは、教会の司教だったのです。プロテスタントで言えば、牧師のような人です。
彼は牧会のかたわら、天文学の研究をなし、地球が太陽のまわりをまわっているという考えに立って、惑星の運行を説明しました。
コペルニクスは、プトレマイオスの天動説が非常に込み入った複雑な理論であり、それでも天体の動きを完全に説明できるものではないことに着目しました。コペルニクスにとっては、
「すべてを完全になしうる神が、そんな不細工な宇宙をつくるなどとは考えられなかった」(バターフィールド、ブラッグ他著『近代科学の歩み』29頁)のです。
つぎに、一七世紀になって、ガリレオ・ガリレイが、コペルニクスの地動説を引き継いで唱えました。
では、ガリレイは無神論者だったでしょうか。いいえ、彼はクリスチャンでした。彼は、
「私に顕微鏡を与えよ。そうすれば無神論を破ってみせよう」
と言ったほどの有神論者でした。ガリレイはさらに、自分の地動説が聖書に矛盾しないことを説明する二通の手紙を、大公妃クリスティナと友人力ステリに宛てて、書き送っています。
コペルニクスやガリレイにとって、地動説は、宇宙を創造された神に対する信仰と、熱心な科学的研究から来る当然の帰結だったのです。
確かに創世記一章の記事を読むと、おもに地球について記されているので、宇宙は地球中心であるように記されているという印象を、得ないこともありません。けれども、これは地球に立った見地から物事を観て、記述がなされているからです。私たちも日常生活の中で、
「太陽が東から昇り、西に沈んだ」
というような表現をします。これは、ある意味では地球中心の表現です。では私たちは、地球のまわりを太陽が回っていると本当に考えているかというと、そんなことはありません。やはり、地球が太陽のまわりを回っているのです。
しかしそれでも、このような表現を私たちが使うのは、私たちの眼が地球に置かれ、その見地から物事が表現されるからです。ですから、厳密な科学的・客観的表現を使うべき場合は別として、私たちの生活の中では「太陽が東から昇り、西に沈んだ」というような、地球に眼を置いた表現で良いわけです。聖書にも、
「日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように」(詩篇一一三・三)
というような表現がありますが、こうした表現や、創世記一章の叙述の仕方も、同じように私たちの見地や生活の座が、地球にあるからにほかなりません。聖書の中には、"地球が止まっていて、そのまわりを太陽がまわっている"と主張する天動説的な言葉は、どこにもないのです。
ガリレイもコペルニクスも、地球は太陽系の中心ではなく、その一員に過ぎないと考えることに抵抗は覚えませんでした。彼らは聖書にしたがって、宇宙は人間中心には造られておらず、神中心であるという思想をもっていました。
そのため彼らは、地球が宇宙あるいは太陽系の中心でなければならないとする考えは、持っていなかったのです。地球が太陽のまわりを回る一惑星であるという考えは、彼らにとって受け入れやすい自然な考えでした。
ドイツの大天文学者ケプラーは、あの有名な惑星公転の法則を発見した時、創造者の偉大さに触れた思いがして、感きわまり、ひざまずいて神を讃えたと伝えられます。地動説は、コペルニクスや、ガリレイ、ケプラーといった、クリスチャンたちの手によって確立されたのです。
このように天動説対地動説の対立は、決して、宗教対科学の対立ではありませんでした。天動説が「宗教」で地動説が「科学」、といった構図ではなかったのです。
天動説は宗教ではなく、当時「正統的」とみられていた"科学"でした。一方、地動説をつくったのは、クリスチャンの科学者たちでした。
つまり、天動説対地動説の対立は、基本的に"古い科学 対 新しい科学"の戦いでした。そして"新しい科学"をつくったのは、聖書を信じるクリスチャンたちだったのです。 
地球は宇宙の中で特別な星
地球は、全宇宙の中で、どのような星なのでしょうか。
それを考えるために、地球が属する太陽系の中心である太陽が、どんな星かということを、まず考えてみましょう。
太陽は、体積で言えば地球の一三〇万倍もある巨大な星です。しかしその太陽も、この広大な宇宙に散在する多くの星と比べると、いったいどうなのでしょうか。
太陽は、現在科学的な研究により、宇宙の中では大体「中くらい」の大きさと明るさを持つ星であると言われています。
太陽は、太陽系外の星と比べると地球に近い所にあるので、地球から見ると大きく見えますが、実際は、宇宙において大体"中程度"の星の一つなのです。太陽は、夜空に輝く星(恒星)と同等の星です。
ですから逆に言えば、私たちが夜空に見ることのできる星のほとんどは、言わば太陽のような星なのです。天体物理学者・畑中武夫博士は、こう述べています。
「夜空に輝く星は、ごく少数の惑星を除けば、すべて太陽と同等な巨大なガスの塊である」(『宇宙と星』45頁)。
太陽は、そのほとんどが水素とへリウムからなるガスの塊ですが、夜空に見える星も、(ごく少数の太陽系惑星を除けば)すべてガスの塊であり、やはり太陽と同じく、水素やへリウムなどの軽い元素で出来ています。
つまり、私たちの太陽系の中心にある太陽も、太陽系外の星も、基本的には全く同じものなのです。
そう考えると、"太陽と星々が同じ日に造られた"という聖書・創世記一章の記述は、きわめて納得のいくものであることがわかります。創世記によれば太陽も星々も、同じく、創造「第四日」に造られているのです(創世一・一六)。
多くの古代文明では、太陽は星とは違うものとみなされ、特別視されてきました。「太陽信仰」なども、そうしたところから生まれたものです。
しかし聖書は、太陽を決して特別視せず、ましてや太陽信仰もしませんでした。むしろ、太陽と星々を同等のものとみなし、両者は同じ日に造られたとしているのです。
太陽も星々も、同じく巨大なガスの塊に過ぎません。
一方、地球には多くの、重く複雑な元素が存在し、多様な分子化合物が存在します。このような星は、じつは宇宙でも稀少なものなのです。英国ケンブリッジ大学のフレッド・ホイル教授は、こう述べています。
「水素とへリウム(最も軽い元素)は別として、他のあらゆる元素は、宇宙ではきわめてまれなものである。太陽の場合、重い元素は、全質量の約一%にしかならない。
星間ガスや、たいていの星は、太陽と同じような物質からなるもので、地球とは似ていない。宇宙論的に言えば、あなたが今いる部屋の材料は、非常に特別であることを理解しなくてはならない。あなた自身、まれな存在なのである」("Harpers Magazine" 1951年4月号64頁)。
地球はまた、美しさという点でも、格別です。宇宙飛行士に言わせると、宇宙から見た地球は、写真では到底わからないような美しさをもっているとのことです。月に二度行ったことのあるアメリカの宇宙飛行士ジーン・サーナンは、次のように語りました。
「宇宙から地球を見る時、そのあまりの美しさに心をうたれる。こんな美しいものが、偶然の産物として生まれるはずがない。ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。
地球はそれほど美しい。何らの目的なしに、何らの意志なしに、偶然のみによってこれほど美しいものが形成される、ということはありえない。そんなことは論理的にありえないということが、宇宙から地球を見たときに確信となる。
この美しさを他の人に見せてやれず、自分だけが見ているということが、ひどく利己的行為のように思えたくらいだ」(立花隆著『宇宙からの帰還』265頁)。
地球の美しさは、宇宙から地球をながめた人にとっては、非常に印象的なようです。地球がこれほど美しいのは、地球が生命の営まれる場所として、特別にデザインされたものだからでしょう。生物物理学者フランク・アレンは、次のように述べました。
「生命維持に適した地球の状態を数えあげれば、その数はあまりにも多く、これを偶然の所産とすることはできない」。
地球には、生命維持に適した状態が数多く備わっており、地球は生命、特に人間が生活する場所として、特別に設計されたものであると感じさせるに充分なものを、持っています。地球はまさに、宇宙飛行士たちが言ったように「宇宙のオアシス」なのです。 
「銀河系の知的生命は地球人類だけだ」
しかし、夜空に見える星がみな太陽と同じような灼熱のガス体で、生命の住めない星であるとはいえ、
「この広い宇宙のどこかには、太陽系と同じような惑星系があって、地球と同じような星もあり、きっと生命が住んでいるに違いない」
とは、よくなされる議論です。けれども最近では、
「我々の銀河系には、地球上を除いて文明は存在しないのではないか」
とする天文学者グループも現われ、話題になっています。たとえば、米国トリニティ大学のマイケル・ハート教授は、電波による地球外文明との交信を試みる科学者たちの活動が活発だった一九七五年に、「銀河系には人類以外に知的生命はいない」という主旨の論文を発表し、「ファクトA論争」と呼ばれる国際的論争をまき起こしました。
その後も、メリーランド大学で開かれた「地球外知性体――彼らはどこにいるのか」と題するシンポジウムで議長を務めるなど、幅広く活躍しています。教授は、こう述べています。
「私の主張は・・・・もし地球外文明がたくさん存在するならば、われわれがいずれ条件が整えばやりとげると思われることを、彼らがすでにやっているはずだ、というものです。つまり、外宇宙に向けて探査体を送り出し、恒星間旅行を行ない、宇宙植民を実現してしまっているだろう、ということです。
とすれば、われわれはすでに彼らにお目にかかっているばかりか、わが地球と太陽系は、とうの昔に彼らによって植民化されているはずです。・・・・もし銀河系の中に多くの生命があったとすれば、それらが・・・・技術文明を発展させ、探査活動や、植民化を行うために充分な時間があったはずです(進化論で言えば何十億年もの時間)。ところが、われわれは彼らに出会っていない。彼らは地球にやって来ていないのです。
もちろん、ほかにも説明のしかたはありますが、私にとってもっとも簡単な説明は、われわれが銀河系の中にいる唯一の知的生物だということです」(学研ムー・サイエンス・シリーズ『最新宇宙論』第2巻44頁)。
教授はまた、一つの簡単な細胞が発生するだけでも、想像を絶する幸運が重なりあった結果であり、一つの銀河で一回起こるか起こらないかの希有な出来事である、と言い切っています。それは、
「十億の十億倍の数の惑星上で、十億の十億倍の年数をかけ、十億の十億倍の化学反応を試みて、やっと一回だけ発生するかしないかといった、きわめてまれな出来事なのです」(同46頁)。
一個の小さな細胞に関してでさえそうであれば、ましてや高度な知的生物が誕生することは、あまりにも希有なことであると言わなければなりません。
つまり、地球上に人類という高度な知的生命が存在するということは、"ほとんど不可能なことが起こった"ということにほかなりません。
ですから私たちは、少なくとも、「宇宙はこのように広大なのだから、どこかに知的生命がいるに違いない」という単純な希望的観測には大きな欠陥があることを、知るべきでしょう。
ここで大切なのは、地球に生命が存在し、人類が存在することは、この広大な宇宙の中でもきわめて特殊な事実に違いない、ということです。それについて聖書は、こう言っています。
「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた」(詩篇一一五・一六)
「天」および宇宙は、それを創造されたかたの偉大さをあらわすために、広大無辺に創造され、存在しています。しかし地球は、小さいながらも生命の地として造られました。ちょうど、神が広大な宇宙をひとつの"家"としているように、地球は「人のすみかに造られた」(イザ四五・一八)のです。
地球は、物理的には、太陽系の中心ではないし、銀河系の中心でもないし、またあるいは宇宙の中心でもないかもしれません。しかし地球は、特別な愛顧を受けて創造されました。
地球は、生命のための好条件がそろっているという点で、また生命を育んできたという点で、全宇宙に異彩を放っています。地球は宇宙の中で、ちょうど広大な砂浜に輝く一粒の宝石のように、小さくても高い価値をもつ星です。
神はこの星を、「人の子らに与えられ」ました。ですから地球は、たとえ物理的には小さく、また太陽系や宇宙の中心ではなくとも、神の関心の中では中心に位置しているのです。 
地球および宇宙は特別な計画をもって創造された
さて、聖書が創造の記述を通して私たちに語りかけている、最も重要な事柄は、地球および宇宙が、特別な計画のうちに創造されたということです。
聖書によれば、宇宙および地球の創造過程は、次のようなものでした。
時間・空間・物質の連続体として始まった宇宙は、神のエネルギーが付与されるとともに、混沌とした全体が分化・発展して、次第に高度な秩序形態へと造り上げられていきました。
「最初のちり」(箴言八・二六)に始まった物質も、単純なものだけでなく、複雑なものも生成されていき、天体を形成する主な物質が整えられました。
さらに、生命にとって最も基本的なものである水の分子が形成されるようになり、その水は地球においては、海洋を形成するまでになったのです。
すなわち、創造「第一日」の前半において、すでに時間・空間、および水を含む諸種の物質の創造がありました。
さらに、光が造られ、また現在の太陽系の中心となるべき位置に太陽の原型、あるいは前段階のものが造られました。それによって光と闇、昼と夜とが「分けられ」(創世一・四)ました。
それ以後、「第二日」「第三日」「第四日」「第五日」「第六日」における出来事は、上図の通りです。
ここで分かってくることは、第一日〜第三日と、第四日〜第六日とが互いに対応関係にあるということです。明らかに、第一日と第四日、第二日と第五日、第三日と第六日とは、対応関係にあります。
まず、第一日に光と闇(昼と夜)が分離したのに対応し、第四日に、昼をつかさどる太陽と、夜をつかさどる月星がつくられています。
また、第二日に「おおぞら」がつくられて水圏(海洋)と気圏(大気)が分離したのに対応して、第五日に、魚をはじめとする水生生物と、鳥をはじめとする空中動物とがつくられています。
そして、第三日に陸地が形成されたのに対応して、第六日に、爬虫類、哺乳類をはじめとする陸生動物がつくられ、また第三日の植物(生命)の創造に対応して、第六日には人間が創造されています。
ここから私たちは、何を知るでしょうか。
まず、地球および宇宙は、特別な計画のうちに創造されたということです。万物が存在するようになったのは、じつに、知性を有する偉大な創造者のご計画と、設計によったのです。
次に、世界は光と闇の分離、陸・海・空の分離、そして様々な生物の創造というように、"分化・発展"という過程を通して創造されていった、ということです。
神は、たとえば人間の母親の胎内で胎児を成長させる際には、最初は一個の単純な受精卵に過ぎない生命を、「細胞分裂」を通して分化・発展させ、ついには高度な機能をもつ生命体に成長させていかれます。それと全く同じように、神は地球および宇宙を、"分化・発展"というかたちを通して造り上げていかれたのです。
また万物の中で、人間は最後に創造されました。ちょうど、赤ん坊の誕生を待つ親が、赤ん坊の生まれる前から、おしめや、ベッド、ベビー服、おもちゃなど、必要なものを皆そろえてから赤ん坊の誕生を迎えるように、神は人間が生活できる環境を完全に整えた後、最後に人間を地上に置かれたのです。 
宇宙は絶妙な知恵によって創造された
「宇宙」という言葉が初めて出てくるのは、中国・漢の時代に書かれた『淮南子』という書物ですが、そこには「宇」とは空間であり、「宙」は時間であると説明されています。「宇宙」とは時間と空間のすべてである、というわけです。
今日物理学では、アインシュタイン博士以来、時間と空間を一つのものとして扱うようになりました。いわゆる「時空」ですが、まさに宇宙は、時間と空間が一つになった連続体であるわけです。
さて、私たちはふつう「宇宙」(universe)というとき、時空、およびその中にある銀河、星、太陽や地球など、すべてのものをさして言っています。「宇宙」とは、存在するもののすべてです。
ですから「宇宙」は、一つしかありません。しかし最近の科学者は、宇宙はじつは一つではなく、いくつもあるのではないか、という議論をしています。
私たちの宇宙のほかに、「他の宇宙」があるのではないか、というわけです。もちろん仮に「他の宇宙」があったとしても、私たちの宇宙から「他の宇宙」に行くことが簡単にできるわけではないし、「他の宇宙」の様子を知ることができるわけでもありません。
また「他の宇宙」というものが本当に存在する、と言っているわけでもありません。しかしここで、私たちが住む宇宙は一体どんな宇宙なのか、を知るために、ちょっとここで次のような思考実験をしてみましょう。
二つの宇宙がある、と頭の中で想像してみてください。一方の宇宙は、銀河も太陽も惑星もみなありますが、人間がどこにもいません。生命もいません。物質だけの世界です。
もう一方の宇宙は、私たちが今住んでいる宇宙です。そこには人間という、知的生命が存在しています。
さて、これら二つの宇宙は、どちらも「宇宙」には違いありません。しかしその存在意義は、全く違っています。
私たちの住んでいる宇宙において、人間は様々な知的探究により、宇宙の存在や様子を認識しています。天文学者は星を探究し、理論物理学者は宇宙の起源を考え、工学者は星に探査ロケットを送っています。
人間は宇宙と、様々なかかわり合いを持っているのです。
ところが知的生命の全くいない宇宙では、その宇宙は誰によっても認識されません。認識されない、ということは、その宇宙は"無きに等しい"ということです。
いかに広大で美しい宇宙であろうと、誰によってもその存在や様子が認識されなければ、そのような宇宙は"存在しないに等しい"のです。"あってもない"のです。
「認識」ということを基準にすると、知的生命のいない宇宙は、たとえ存在しても"存在しない宇宙"です。一方、知的生命のいる私たちの宇宙は、"存在する宇宙"ということになります。
じつはこうしたことが、今、科学者の間で盛んに論議されるようになっているのです。
こうしたことを、みなさんも考えてみたことがあるでしょうか。私たちの住む宇宙は、なぜ知的生命のいる宇宙であって、なぜ物質だけの宇宙にならなかったのか。
これについて多くの科学者は最近、宇宙は知的生命の生まれる宇宙となるように、あらかじめ誕生の際に"プログラム"されていた、と考えるようになってきています。
どういうことかというと、これは京都大学の松田卓也・助教授が『これからの宇宙論』(講談社ブルーバックス)の中に書いていることですが、たとえば「自然定数」というものに着目するとよくわかります。
私たちの宇宙には、たとえば光速、電子の質量、重力定数、プランク定数といった、ある"決まった値"があります。これがなぜ"その値"なのかを考えると、それはあたかも"知的生命を誕生させるべくその値をとった"としか考えられないほど、絶妙にコントロールされているというのです。
たとえば私たちは、光速が秒速三〇万キロメートルであることを知っています。しかし現在の宇宙で、その速さがほんのちょっとだけ違ったとしましょう。
そうすると、それだけでもう人間はできないのです。
光速と知的生命とは、一見何の関係もないようですが、大いに関係しているのです。
人間の肉体は大部分がたんぱく質であり、たんぱく質の大部分は、炭素でできています。そして炭素原子がたんぱく質のような高分子化合物をうまくつくれるのは、炭素の「エネルギー準位」というものが、ちょうどよい値をとっているからです。
そのエネルギー準位を規定しているものの一つが、光速です。あるいは重力定数や、プランク定数です。
つまり現在の宇宙の秩序体系では、光速が秒速三〇万キロでなければ、炭素原子はちょっどよいエネルギー準位を持てず、そのためたんぱく質のような有機化合物はできず、生命は発生できません。そして知性も誕生できなかった、ということになります。
たとえ、光速が秒速三万キロだとか三千キロの宇宙が他にあったとしても、そうした宇宙は「知的生命のいる宇宙」とはならなかっただろう、というのです。
ところが私たちの宇宙では、光速はちょうどよい値を持っています。それで私たちの宇宙は「知的生命のいる宇宙」となり、私たちは今「宇宙はなぜあるのか」を考えているわけです。
また、京都大学の佐藤文隆・教授によると、たとえば電子の質量が一%違っただけでも、人間はできないとのことです。重さが一%くらい違ったっていいじゃないか、と思いたくなりますが、たった一%でもダメなのです。
それほどこの宇宙は、絶妙にコントロールされて、「知的生命のいる宇宙」となっているのです。
アメリカのカーター博士はまた、生命だけでなく、星や銀河ができたのも、自然定数がちょうどよい値をとっていたからだ、と言っています。"車椅子の天才科学者"ホーキング博士も、私たちの宇宙が現在のような形態の宇宙であるのも、自然定数がちょうどよい値だからだ、と言っています。
もし自然定数が違えば、宇宙は誕生してまもなくグチャグチャにつぶれてしまったかも知れませんし、逆にものすごい速さで膨張する宇宙だったかもしれません。
自然定数の違う宇宙があってもよいのです。しかしそのような宇宙は、「知的生命のいる宇宙」とはならなかったでしょう。
ところが現実の私たちの宇宙は、「知的生命のいる宇宙」となっている――つまり「知的生命のいる宇宙」となるよう、あらかじめ内部にプログラムされていた、と言って過言ではありません。
たとえば、ある技術者が、テレビをつくるとしましょう。
彼はブラウン管の電圧を何ボルトにするか、値を決めます。また、テレビの各部品にかかるいろいろな電圧や電流、抵抗の数値を定めて、テレビをつくりあげるのです。
それらの数値をもし一つでも間違えてつくったりすると、テレビは用をたしません。画面が映らなかったり、ギーギー、ガーガーいうだけでしょう。あるいは、ただの粗大ゴミになるだけでしょう。
私などは、このことがよくわかります。私は小学生のころ、よくラジオのキットを買ってきて、ハンダごてを片手に組み立てました。
ところが部品を組み立てるとき、たとえば一〇キロオームの抵抗をつけるべきところに、間違えて一〇〇オームの抵抗をつけたりしたので、なかなか聞こえるようにならなかったのです。一つでも数値を間違えると、粗大ゴミになるだけです。
同様に、この宇宙が見事なかたちで「知的生命のいる宇宙」となっているのは、神が物質界の様々な数値を最も適切な値に定められたからです。様々な自然定数を、最も都合のよいように定められたのです。
一台のテレビやラジオをつくるときでさえ、多くの優れた人々の知性と、長年の研究、また努力が必要でした。そうであれば人間という最も複雑で高度な生命体、またこの偉大な宇宙をお造りになったかたは、一体どんなに優れた知性を持つかたでしょうか。
かつてイスラエルの王ダビデは、こううたいました。
「主(神)よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたはそれらをみな、知恵をもって造っておられます。地は、あなたの造られたもので満ちています」(詩篇一〇四・二四)。
また、こうもうたいました。
「英知をもって天を造られたかたに感謝せよ。そのいつくしみは、とこしえに絶えることがない」(詩篇一三六・五)。
宇宙が絶妙なバランスのもとに造られていることを考えると、私たちもダビデと共に、創造者なる神の英知をほめたたえずにはいられません。
神は、人知をこえる偉大な知性をもって、「知的生命のいる宇宙」を創造されたのです。 
熱力学第一、第二法則は宇宙の創造を示す
物理学に、「熱力学第一法則」および「第二法則」と呼ばれるものがあります。これら二つの法則を合わせて考えると、宇宙は創造されたものであることが、明確にわかります。
熱力学第一法則は「エネルギー保存の法則」、第二法則は「エントロピー増大の法則」と呼ばれるものです。東大の竹内均・名誉教授は、これら二つの基本法則からなる熱力学の法則は、じつは現代物理学が唯一の「絶対的な科学的真理」と認めるものである、と述べています。
それ以外の法則は、ニュートンの「運動の法則」にしても、アインシュタインの「相対性理論」にしても、また二〇世紀になって発達した「量子力学」にしても、すべて"暫定真理"つまり"仮説"にすぎません。
しかし、エネルギー保存の法則と、エントロピー増大の法則は、繰り返し実験的に何度も確証された、疑い得ない科学的真理と考えられているのです。これらの法則は科学の根本であって、また、全宇宙を支配する絶対的な科学的真理と考えられているわけです。
これら二つの法則を合わせて考えると、宇宙が超自然的な偉大な力によって創造されたことを、示せます。まずエネルギー保存の法則から見てみましょう。
1 エネルギー保存の法則は、物理的化学的反応の前と後で、エネルギーの総量が変化しないことを述べたものです。エネルギー自体は、滅ぼすことも、新たにつくり出すこともできません。
エネルギーは形態が変わるだけで、量は変化しないのです。ですからエネルギーは、決して自然発生的には生まれません。
この際、そのエネルギーには、質量も含まれています。これは「質量とエネルギーの等価性」と言われるもので、質量もエネルギーの一形態とみなされているのです。
さて、宇宙は、あるエネルギー(質量を含む)を持っています。ですから、エネルギーは自然発生的には生まれないという「エネルギー保存の法則」により、宇宙は決して自然発生的には発生し得ない、と結論づけることができます。
つまり、宇宙は自然に誕生したのではありません。
2 つぎに、エントロピー増大の法則の意味することを、見てみましょう。
エントロピーとは、使用できないエネルギーの量をいいます。これが、時間と共に必ず増大の方向に向かう、というのが、エントロピー増大の法則です。
この法則は、一言でいえば、「覆水盆に返らず」という諺と一緒です。つまり、「エネルギーを使用すればするほど、そのエネルギーはより質の低いエネルギーへと変換されていき、ついには使用不可能なものになってしまう」ということです。
すべての物理的化学的反応は、時間がたつと、しだいに秩序から無秩序へ、また使用できるエネルギーの豊富な状態から、使用できないエネルギーの多い状態へと移行していきます。物理的化学的反応の起きやすい状態から、起きにくい状態へと移行していくのです。
つまり、全宇宙のエントロピー――使用できないエネルギーの量は、時間と共に増大しています。今後も、エントロピーは増大し続け、かなりの時間がたつと(数百億年以上)、宇宙はついに、そのどこにおいても物理的化学的反応の起きない「熱死」状態(ヒート・デス)に到達することが、科学的に知られています。
「熱死」とは、熱さで死ぬことではなく、熱力学的な死の状態のことです。使用できないエネルギーばかりになってしまって、宇宙が何の事象も起きない状態に達し、宇宙は実質上"死ぬ"のです。
しかし現在の宇宙は、この「熱死」状態にまだ達していません。これは、宇宙が無限の年齢を持っていないことを、意味します。したがって、宇宙には"始まり"があったわけです。
宇宙は決して、永遠の昔から存在しているのではありません。今から有限の時間をさかのぼった時点で、宇宙は始まりを得ました。
この宇宙誕生のとき、エントロピーは最小でした。しかし、時間と共にエントロピーは増大しており、現在の宇宙はその途上にあります。
さて、1と2を合わせて考えると、どんな結論が出るでしょうか。
私たちは2により、宇宙には始まりがあったことを知りました。しかし1により、宇宙の始まりは自然発生的ではなかった、とも知りました。
とすれば宇宙は、超自然的な偉大な力によって特別に創造され、始まりを得たのです。
この偉大な宇宙の創造者が、聖書のいう「神」です。
「はじめに神が天と地を創造した」(創世一・一)。
エネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則は、まさに、この聖書の言葉の真実性を明らかにしているのです。 
第3章 ノアの大洪水

 

大洪水以前の地球環境は、現在とは大きく違っていた
私たちは第一章で、原始地球が膨大な量の「水蒸気大気」におおわれたことを見ました。
この「水蒸気大気」は、現在の大気の成分である窒素やアルゴン等も含みますが、その大部分は水蒸気から成っていました。これら水蒸気、窒素、アルゴン等は、地球を形成した鉱物からの「脱ガス」によって生じたものです。
原始地球をおおったこの「水蒸気大気」こそ、聖書の創世記一・二で原始地球をおおったと言われている「大いなる水」でしょう。
「はじめに神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」(一・一〜二)。
この水蒸気大気、すなわち「大いなる水」は、創造第二日になって、「大空の上の水」、「大空」、「大空の下の水」の三つに分かれました。
「神は『大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように』と仰せられた。こうして神は大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。・・・・第二日」(創世一・六〜八)。
最初にあった「大いなる水」(水蒸気大気)は、創造第二日において、「大空の上の水」「大空」「大空の下の水」の三つに分離したのです。
「大空」は大気、「大空の下の水」は海洋のことです。
では、「大空の上の水」とは何でしょうか。創造論に立つ科学者らは、それはノアの大洪水以前の地球上空に存在していた「水蒸気層」(water vapor canopy)のことだと考えています。米国ミネソタ大学の水力学博士であるヘンリー・M・モリス博士はこう述べています。
「上の水は、現在空中に浮かんでいる雲とは異なります。聖書は、大空の上にあったと言っています。・・・・「大空の上の水」は、おそらく対流圏や成層圏の上で・・・・広大な水蒸気層を形成し、さらに空間へと広がっていたことでしょう」。
ノアの大洪水以前の地球の上空には、膨大な量の水蒸気からなる「水蒸気層」が存在していたのです。
じつは、この「水蒸気層」の考えは、これから述べる「創造論」の柱ともなる重要な概念です。
「創造論」とは、生命は、進化によってではなく、おのおの独自に創造されて出現したと考えた方が、様々の科学的証拠をよく説明できる、とする科学理論です。創造論によれば、世界は計画に従って創造され、生物の各種類は、「種類にしたがって」(創世一・一一)おのおの独自に創造されて出現しました。
この立場に立つ人々が創造論者であり、創造論者になる人は、科学者や知識人の間で次第に増えています。
水蒸気層の考え、および聖書に記されたような世界的大洪水が過去に実際にあったことを認めると、これから見ていくように、地球の歴史の中で謎とされていた多くの事柄が、明快に解明されるようになります。
以下、創造論の考え方を見ていきましょう。  
上空の水蒸気層は無色透明
創造第一日の「大いなる水」と呼ばれた水蒸気大気は、創造第二日になって、一番上の「水蒸気層」、真ん中の「大空」、また一番下の「海洋」の三つに分かれました。聖書によれば、原初の水蒸気大気は、その水蒸気成分のすべてが落下して海洋となったわけではなく、水蒸気の一部は地球上空に残って、「水蒸気層」となったのです。
そして、水蒸気層はノアの大洪水の日に至るまで、地球環境を好適なものにするために、非常に重要な役割を果たしていました。
「水蒸気」というと、読者の中には"白いもの"と思うかたもいるかもしれません。実際、ある中学校で理科の先生が、
「水蒸気は白いものと思う人は手をあげて」
と言うと、ほとんどの生徒が手をあげました。生徒達は、やかんから出る白い湯気などを思い起こして、水蒸気は白いものだと思っていたのでしょう。
しかし、やかんから出る白い湯気は、じつは水蒸気が外気にふれて冷え、小さな水滴に戻ったものが白く見えているのです。それは気体状態の水蒸気ではなくて、小さな水滴に戻った液体状態の水です。
水蒸気と呼ばれる気体は、無色透明です。たとえば、鍋に水を入れてそれを沸騰させると、鍋の底から無色透明の気泡がぶくぶく発生するのを見ることができるでしょう。あれが水蒸気です。
このように水蒸気は無色透明ですから、ノアの大洪水以前の上空にあった水蒸気層は、太陽の光をよく通し、地上にサンサンと光を届けていました。
大洪水以前の地球上空には膨大な水蒸気層が存在していた。
これが聖書でいう「大空の上の水」(創世1:7)である。
また、水蒸気は空気より軽いので、ノアの大洪水以前に水蒸気層は、上空に安定して存在していることが可能でした。
今日の大気を見てみると、地表から上空に行くに従って、しだいに気温が低くなります。高い山に登ると寒くなることは、誰でも経験したことがあるでしょう。
一〇〇メートル上がるごとに約〇・六度、気温が下がります。
しかし、それも高さ一〇キロぐらいまでで、地表から約一三〇キロ以上離れると温度は逆に非常に高くなり、摂氏一〇〇度を越え、高いところでは一〇〇〇度以上にも達します。これは「熱圏」と呼ばれています。
また、上空五〇キロ前後のところも、オゾンの出す熱のために、比較的温度が高くなっています。大気というのは、高さによって、思いのほか複雑な構造になっているのです。
ノアの大洪水以前の地球の上空には、厚い水蒸気の層がありましたから、それによる気圧をも加えて、当時の地表における気圧は現在よりも高い状態にありました。また大気全体の構造も、現在とはかなり異なったものになっていたはずです。
しかし、当時の大気においても、ある程度の高さのところに高温帯があったでしょう。そして水蒸気層は、そこに安定して存在していたと思われます。
水は、一気圧のもとでは摂氏一〇〇度で沸騰し、盛んに蒸発して水蒸気に変わります。しかし、もっと低い気圧下では、もっと低い温度でも水蒸気になります。
したがって、当時の大気における各高度の圧力と温度のバランスが水蒸気状態を許す場所で、膨大な量の水蒸気層が存在することが可能でした。この水蒸気層が、ノアの日になって、「四〇日四〇夜」の大雨となって地表に降り注いだのです。 
プテラノドンは水蒸気層の存在を示す
では、ノアの大洪水以前の地球の上空に水蒸気層が存在したという、何らかの科学的証拠は存在するのでしょうか。
存在します。そのよい例は、空飛ぶ爬虫類プテラノドンの化石でしょう。
プテラノドンの化石の中には、翼を広げると、その幅が六メートル、あるいは大きいものでは一〇メートルを越えるものさえあります。古代世界においては、そのような大きな動物も空を飛ぶことができたのです。
プテラノドンの中には翼を広げると10メートル以上にもなるものがあった。
このように大きく重い動物が空を飛べたのは、大洪水以前の大気圧が、上空の水蒸気層の存在のために高く、現在の2倍以上あったからである。
しかしこのように大きな動物は、現在の一気圧(一〇一三ミリバール)の大気圧のもとでは、とても飛べません。現在の大気圧のもとでは、翼の幅がせいぜい五メートル前後が限度なのです。
それ以上大きくて重い動物になると、よほど強い風でもない限り飛行は困難になり、とくに平地から飛び立つことは不可能と言える状態になります。
では古代世界において、なぜ翼の幅が一〇メートルもある巨大なプテラノドンが、飛ぶことができたのでしょうか。それは当時の大気圧が現在よりも高く、約二倍あったからなのです。
創造論に立つ科学者らの計算によると、ノアの大洪水以前は、上空にあった水蒸気層のために地表の気圧は現在よりも高く、約二気圧ありました。約二倍の気圧があったのです。
それでプテラノドンのような巨大で重い動物も、ゆうゆうと空を飛ぶことができたのです。 
過去の地球は暖かかったという事実も水蒸気層を示す
また"過去の地球は緯度の高低にかかわらず温暖だった"というよく知られた事実も、上空の水蒸気層の存在を示しています。
今は氷に閉ざされている南極大陸にも、「延々と続く石炭層」が発見されています。北極圏にも、同様に石炭層が発見されています。
南極大陸には「延々と続く石炭層」が露出しているところがある。
石炭は、植物の死骸でできたものです。ですから石炭層の存在は、今は極寒の両極地方もかつては植物が生い茂っていた温暖の地だったことを、雄弁に物語っているわけです。
また、サンゴの化石が南極、および北極付近で発見されます。サンゴは、摂氏二〇度以上の水温がないと生育できません。つまり今は極寒のこの地方も、昔はたいへん温暖だったことがわかります。
過去の地球が温暖だったということは、地球史上、疑い得ない事実なのです。読者の中には、
「これはもしかすると、当時の太陽が今よりも明るかったからではないだろうか」と思うかたも、いるかも知れません。
ところが、過去の太陽は現在よりも若干暗かったことが、科学的に知られています。現在太陽は、しだいに明るくなる途上にあるのであって、過去の太陽は今より暗い状態にありました。
昔、太陽は暗かったのに、地球の表面は暖かかった――進化論者はこの謎に、いまだに首をかしげています。
進化論者はしばしば、両極地方が昔暖かかった理由として、今は極地となっている地方も昔は大陸移動によって別の所にあったからではないか、等と言います。
しかし、こうした考えだけでは、証拠の数々をよく説明できません。なぜなら、たとえば「古生代」とされている木には、ほとんど年輪がないのです。山形大学の月岡世光・講師も書いているように、これは、「(過去の地球においては冬と夏の)寒暖の差がなかったからで、一年中温暖であった証拠です」。
また、現在は暖かい地方にしか住まない動物の遺骸が、実際には地球上いたるところで見いだされます。温暖な気候を必要とするはずの恐竜や、その他の変温動物の遺体が、世界中どこにでも発見されるのです。
フランスの学者アンリ・デキュジは、こう述べています。
「(地球はかつて)緯度の高低にかかわらず、一様に温暖、湿潤な気候下にあった。・・・・島々と大陸には、間断なく生長する巨大な樹木が茂った。・・・・
当時、夏と冬の気温の変化は少なかったのである。グリーンランドの北緯七〇度地帯でイチジクの木が発掘され、シベリヤでシュロの木が掘り出されている」(『生物界の進歩』12-13頁)。
当時の地球は、冬と夏の寒暖の差があまりなかっただけでなく、緯度の高低にかかわらず一様に温暖で、湿潤な気候下にあったのです。
さらに、当時は全世界に繁茂する多くの植物のために、大気中の酸素濃度が今よりも高かったことがわかっています。
アメリカの地質学者ランディスは、太古の琥珀(こはく)の中に閉じこめられた気泡の空気を調べました。
「琥珀」というのは、おおむね黄色を帯びた蜂蜜のような色をしていて、美しいので装身具にも使われますが、これは太古の樹木のヤニの化石なのです。
琥珀の中に、しばしば昔の空気が気泡として閉じこめられていることがあります。琥珀はまた、外部との遮断性に優れ、内部の気泡から空気がもれたり、外部のものが中に入ったりすることはありません。
そこで琥珀の気泡中の空気を調べてみると、昔の空気の状態がわかります。その結果、太古の大気中の酸素濃度は、約三〇%もあったことがわかりました。
これは現在の酸素濃度二一%に比べ、かなり高い数値です。当時は全世界が暖かく、どこにおいても植物が繁茂していたので、大気中の酸素濃度がこのように高かったのです。
これらの事実は、単なる大陸移動の考えで説明できるものではありません。
すなわち、かつて植物は全世界に繁茂していました。両極地方でさえ暖かく、植物が所狭しと生い茂っていたのです。
進化論者は、これがなぜなのかを説明できません。しかし、創造論に立つ科学者が言うように、当時の地球の上空に水蒸気層が存在していたとすれば、どうなるでしょうか。説明はきわめて単純、明快になります。
上空にあった水蒸気層は、全世界を覆い、地球全体をちょうどビニールハウスの中のように温暖にしていました。それで当時の地球は、緯度の高低にかかわらず、また年間を通じて温暖だったのです。 
水蒸気層の温室効果で地球は暖かかった
読者は最近、「炭酸ガスによる温室効果」という言葉を耳にしたことがあるかも知れません。
現在の世界では、自動車の排気ガスや、工場から出るガス等により、大気中に炭酸ガス(二酸化炭素)が増加しつつあることが知られています。それに伴い、全世界の平均気温がしだいに温暖化しつつあるのです。
これは、炭酸ガスに「温室効果」があるからです。炭酸ガスは、暖まった地表から出る熱線が宇宙に放出されるのを、遮断する働きを持っているのです。
じつは、温室効果を持っている気体は、炭酸ガスだけではありません。水蒸気も、温室効果にすぐれています。
ノアの大洪水以前の地球においては、上空に膨大な量の水蒸気層があったために、その温室効果によって、地球全体がビニールハウスの中のように温暖になっていました。
また、こうして地球全体が温暖になっていたので、大気上空にあった水蒸気層自体も、高い温度に保たれていました。
大気とその上の水蒸気層の境界面あたりは、おそらく地表よりも高い温度になっていたでしょう。
というのは、たとえば読者の中には、お風呂に入るときに、お湯をかき混ぜないで入って、上のほうは熱いのに下のほうは冷たかったという経験をしたことのある方が、きっとおられるのではないでしょうか。
熱は、上へ行くのです。実際、今日の大気においても、成層圏(上空一〇〜五〇キロメートルの高さ)、中間圏(五〇〜八〇キロ)、熱圏(八〇〜五〇〇キロ)においては、それぞれ上に行くほど気温が高くなっています。
同様に、温室効果によって温まった大気の熱は、上部に行き、上部の水蒸気層を水蒸気状態に保つために適切な温度に保っていたでしょう。
このように、ノアの大洪水以前の地球においては、原初の「大いなる水」と呼ばれた水蒸気大気から分離して出来た厚い「水蒸気層」が、上空に存在していました。この水蒸気層は、動植物や人間のために、全世界にわたって非常に好適な環境をつくり出していたのです。 
大洪水以前は泉が豊富だった
ノアの大洪水以前の地球においては、地下水が多く、泉が多かったでしょう。
エデンの園について記した創世記二・六は、原語を直訳すると、
「地から地下水がわきあがって、土の全面を潤していた」
です。当時は地下に、大量の「地下水」が存在していました。それはエデンの園の一部において、巨大な泉となってわきあがり、大河を形成していました。こう記されています。
「一つの川がこの園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。・・・・
第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである」(創世二・一〇〜一四)。
エデンにあった巨大な泉から流れ出た大河の分流は、四つの川となっていました。それらは四方向へ広がり、非常に広い地域を潤していました。
今日で言えば中東地域全体に匹敵するような大変広大な地域を流れていたのです。ですから、それら四つの分流は、それぞれに大きな川でした。
決して"小川"などではなく、今日の中国の黄河や、インドのガンジス河のような"大河"だったでしょう。
エデンから流れ出た四つの川は、第一が「ピション」、第二が「ギホン」と呼ばれています。また第三の川「ヒデケル」は、ギリシャ語に直せば「ティグリス」です。
さらに「第四の川、それはユーフラテスである」と記されています。しかしこのティグリス川、ユーフラテス川は、大洪水後の世界のものとは違うので、注意する必要があります。
大洪水前の地表は、大陸の形をはじめ、地形が全く異なっていました。エデンから流れ出た四つの川は、そうした大洪水以前の地表を流れていたものなのです。
大洪水後のティグリス・ユーフラテス川の名は、おそらく大洪水前の大河の記憶をもとに、大洪水後の世界の人々が再度命名したもの、と考えてよいでしょう。
このように、エデンの園では膨大な量の地下水が泉となってわき上がり、そこから四つの大河が形成されているほどでした。
同様のことは、エデン以外の地域においても多く見られたに違いありません。地球内部の地下水は、あちこちで泉となってわき上がり、全世界に大小様々の多くの川や、池、湖を形成し、全地を潤していたのです。 
大洪水以前に虹はなかった
また大洪水以前は、降雨や霧などがあった場合でも、「虹」は見られなかったでしょう。それは、当時の大気の状態が今日とは異なっていたからです。
今日、雨のあがったあとなどに虹が見られることがあるのは、空気中に浮いている水滴に太陽の光があたるとき、水滴がプリズムのような働きをして、光の屈折が起こるからです。
その屈折率は光の色によって違い、このために七色の光に分かれて見えます。しかし現在の大気においても、太陽の高度が四二度以上になる真昼には、虹は出ません。屈折した光が地上に達しなくなってしまうからです。
水滴において光の屈折が起こるか否か、また屈折が起きた場合の屈折率は、水滴の密度と大気の密度の差によります。
大洪水以前の大気圧は今日の二倍ほどあり、そのために当時、大気と水滴の密度の差は今日ほどは大きくありませんでした。したがって虹を生じさせるような光の屈折が起こらず、虹は見られなかったでしょう。虹は聖書によれば、
「すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない」(創世九・一一)
という神の契約のしるしとして、大洪水後になって見えるようになったものなのです。 
大洪水以前には今より多くの植物が生い茂っていた
大洪水以前は、どこも温暖かつ湿潤な気候だったので、みずみずしい多くの植物が所狭しと生い茂りました。当時の世界にはどこにも、不毛の砂漠や万年氷原はなかったのです。
全世界に繁茂する植物は、大気中の酸素濃度を押し上げていました。先に見たように、当時の酸素濃度は、約三〇%もあったのです。当時の世界に今よりも多くの植物が生い茂っていたことに関して、次のような証拠も提出されています。
米国バージニア工科大学・原子核工学のホワイトロー教授は、世界各地から無作為に一万五〇〇〇に及ぶ生物の化石を集め、「炭素一四法」(C-14法)によって、それらの生物が生存していた年代を調べました。
「炭素一四法」は、放射性同位元素による年代測定法の一つで、生物の年代測定などに広く使われています。この調査は、何を示していたでしょうか。
教授によると、紀元前三五〇〇年から四〇〇〇年の間の標本で、人や動物、樹木などの数が極度に少なくなっていました。
ただ、生物激減のこの年代については、その測定結果が本当の年代よりも多少古く出てしまっていると教授は考えており、この年代は実際には「ノアの大洪水」が起きた頃の時代(紀元前二五〇〇年頃)をさしていると思われる、と述べています(トーマス・ハインズ著『創造か進化か』170頁)。
地球の過去には、世界の生物の数が大幅に減少した時が、たしかにあったのです。それはまさしく、ノアの大洪水によってでした。
さらに、教授の調査によると、生物の数はこうして一時激減したものの、その後徐々に増加し、人と動物に関してはキリストの時代頃に元の数に達するようになった、とのことです。
しかし樹木に関しては、徐々に増加はしているものの、以前の数にはまだ達していません。すなわち大洪水以前の地表においては、今日の世界を大きく上回る量の植物が所狭しと生い茂っていたのです。
これによって大洪水以前の大気の酸素濃度は、高い状態に押し上げられていました。
また豊富な植物が存在していたので、果実は豊富に実り、動物や人間に豊かな食物を提供していました。 
好適な環境は生物の巨大化に貢献した
これら充分な食物、年間を通じて温暖・湿潤な気候、高い酸素濃度等――当時の好適な環境は、生物の巨大化に、少なからず貢献したに違いありません。
好適な環境は生物のストレスを軽減し、成長ホルモンの分泌をうながしたでしょう。酸素の高濃度に関しても、生物の巨大化や長命に有益であることは、実験的にも確認されています。
羽を広げると八〇センチから一メートルにもなる巨大トンボや、三〇〜四〇メートルの丈にもなる巨大なシダ植物、また巨大な貝などの化石も、各地で発見されています。
巨大な体を持つ恐竜たちが生存することができたのも、こうした好適な環境があったからです。恐竜は、大きいものでは全長三〇メートル程度もありました。
進化論者は、恐竜は今から六五〇〇万年前に滅び、その後多くの時代を経て、今から二五〇万年ほど前になって初の人類が出現した、と主張してきました。すなわち、恐竜と人類が共存した時代はない、と主張されてきたのです。
しかし実際には、恐竜と人類が同時代に生きていたことを示す証拠は、数多く見いだされています。これについては後述しますが、大洪水以前の世界には、各種の恐竜たちも生息していたのです。
恐竜には、草食恐竜と肉食恐竜がいます。
草食恐竜は、体が大きくても性質が比較的おとなしいため、人間が危害を受けることはあまりありません。また肉食恐竜はどう猛ですが、大洪水以前の世界の人口はまだあまり多くはなかったので、人々は肉食恐竜たちの生息地を避けて住んでいたでしょう。
また、人間は火を使ったり、やりなどの武器を作る知恵も持っています。それで人間は、恐竜たちの住む世界においても、それほどの困難を感じることなく生存することが可能でした。世界的生物学者・今西錦司氏の言うように、当時は、生物の「棲み分け」がなされていたでしょう。
大洪水以前には、多くの巨大生物が存在しただけではありません。人間にも巨人がいました。
聖書は、当時地上には「ネフィリム」と呼ばれる巨人がいた、と記しています。
「(大洪水以前)ネフィリムが地上にいた。これらは昔の勇士であり、名のある者たちであった」(創世六・四)。
「ネフィリム」は、昔のユダヤ人が使った旧約聖書のギリシャ語訳「七〇人訳」では、「巨人」です。
米国のパルクシー川の近くでは、昔のヒトの足跡が発見されていますが、その多くは大きさが四〇〜五〇センチ、歩幅が七五〜九〇センチと巨人サイズのものであると報告されています。また、この近くで身長二・一三メートルの女性の骨格も発見されています。
聖書を見てみると、「巨人ゴリアテ」の話や、
"長さ四メートル、幅一・八メートルの特注ベッドに寝ていた男"(申命三・一一)
の話なども出てきます。これらは、大洪水後の話で特殊な例として語られているのですが、大洪水前の世界においては、こうした巨人は決して少なくなかったでしょう。 
大洪水以前、人は長寿だった
大洪水以前はまた、上空にあった水蒸気層が宇宙からの有害な放射線等を遮断していたので、地上に住む生物は一般に長寿を保っていました。
聖書によれば大洪水以前、アダムは「九三〇年」生き、彼の子や孫、曾孫たちも、平均九〇〇歳程度まで生きました。一番の長寿は、アダムから八代目にあたるメトシェラでした。メトシェラは、「九六九年」も生きました(創世五・二七)。
しかし、ノアの時代の大洪水を境として、そののち人々の寿命は急速に短くなりました。たとえばノアの子であったセムの場合、その一生は六〇〇年で終わりました。
セムの子アルパクシャデは四三八年、そしてその後約三〇〇年、二〇〇年と短くなり、アブラハムの時代になって、アブラハムの一生は一七五年でした。またモーセの時代になって、モーセの一生は一二〇年でした。
しかし、一二〇年生きることは、モーセの時代にはすでに「長寿」と見られていたのです。モーセは、
「私たちの齢は七〇年、健やかであっても八〇年」(詩篇九〇・一〇)
と述べています。モーセの時代にはすでに、人は現在と同じような短い寿命になっていたのです。
ではなぜ、大洪水以前の人々は長寿だったのに、大洪水を境として寿命が急速に短縮されたのでしょうか。
ある人々が言うように、大洪水以前の人々の寿命として記されている数字は、"一か月を一年に換算した"ものなのでしょうか。それとも、単なる誇張なのでしょうか。
いずれでもありません。じつは大洪水以前は、上空の水蒸気層が、宇宙からの有害な放射線等を遮断し、生物の細胞の破壊を防いでいたのです。
よく知られているように、宇宙からは様々の高速の放射線が飛んで来ます。放射線は、遠くの銀河から飛んでくるものが「宇宙線」、またとくに太陽から飛んでくるものは「太陽風」と呼ばれています。
宇宙は、じつは何もない真空の空間ではなく、こうした有害な放射線が四方八方から高速で飛び回っている、大変恐ろしい空間なのです。
私たちの住む地球は「宇宙のオアシス」と呼ばれますが、地球を一歩外に出れば、そこは死の空間です。地球は、太陽風や宇宙線が飛び回っている真っただ中にあります。
当然、宇宙線は地球にも多量に降り注いでいるのですが、大気がそれをかなり遮断してくれています。しかし、現在の大気による宇宙線遮断率は、決して完全なものではありません。私たちは一生の間、この地表にあって、絶え間なく宇宙線の放射を浴びているのです。
そして、これによる放射線損傷は、細胞の中に刻々と蓄積されています。米国マサチューセッツ工科大学のパトリック・M・ハーレイ教授は、こう述べています。
「われわれは大気中に突入してくる、宇宙線と呼ばれる高速粒子流による放射線から、のがれることはできない。写真に示されている飛跡は、これらがかなり厚いしんちゅうの板を通り抜けることを示している。
人工の放射線源を除いても、天然放射能があるために、われわれが絶えず受けている放射性損傷の約四分の一は宇宙線による、と言われている」(河出書房新社『地球の年齢』)。
しかし、大洪水以前は、現在の大気の上にさらに水蒸気層が厚く存在していたので、当時地表に到達する放射線は、現在よりはるかに低いレベルにありました。
放射線のない環境が、長寿への重大な役割を果たすことは、最近の医学的研究で実証されています。
また上空の水蒸気層は、地球外からの宇宙線だけでなく、紫外線、エックス線などの有害光線の影響からも人々を守り、生命にとって極めて好適な環境をつくり出していました。そのため、当時の人々の寿命は、たいへん長かったのです。 
長寿の例
大洪水前の人々の長寿を念頭に置かないと、私たちは大洪水以前の出来事についてよく理解することはできません。
たとえば、アダムは長寿であったので、彼から七代目のエノクが生まれたとき、アダムはまだ生きていました。したがってエノクは、創造や、堕落、またその後の人類の歴史等について、アダムから直接話を聞くことができたでしょう。
ユダヤ人の言い伝えによると、エノクは文字の最初の発明者です。実際、大洪水以前にすでに文字が存在したことは、考古学者が発見した古代バビロニア王の碑文の中に、
「私は大洪水の前の書き物を読むのを好んだ」(ヘンリー・H・ハーレー著『聖書ハンドブック』45頁)と記されていることなどからもわかります。
エノクが文字の発明者だったとすれば、エノクは父祖アダムから直接聞いた様々な事柄を、粘土板等の書物に書き記すことができたでしょう。
それらの記録は、大切に保存され、また写本によっても代々伝えられました。またのちの時代になって、モーセが、『創世記』の初めの数章としてこれを編集し、まとめました。
それを、今私たちは聖書として読んでいるのです。聖書の成立に関しても、大洪水前の人々の長寿という理解が必要なのです。
また、次のことはどうでしょうか。アダムの子カインは、兄弟アベルを殺し、神の罰を受けて追放されようとしたとき、
「私に出会う者はだれでも、わたしを殺すでしょう」(創世四・一四)
と言いました。カインがこの言葉を言ったとき、地上には彼以外にはアダムとエバの二人しかいませんでした。にもかかわらずカインが、人々は私を殺すだろうと言ったのは、なぜでしょうか。
理由は単純です。カインは、自分の両親に与えられた神のご命令、
「生めよ。増えよ。地を満たせ」(創世一・二八)
を、両親から聞いて知っていました。人類はこれからたくさん増えていくことを、知っていました。
カインの心にはまた、人間、また自分が短命だというような意識は全くありませんでした。当然カインは、数百年のうちには、自分が多くの人々の中に暮らすようになるであろうと、考えていたはずです。
カインは、しばらくして妻をめとりました。
「さて、カインは妻を知った」(創世四・一七)。
カインは、一体どこから妻を得たのでしょうか。簡単です。彼は自分の妹の中から妻を得たのです。聖書は、
「アダムはセツを生んで後、八〇〇年生き、息子、娘たちを生んだ」(創世五・四)
と記しています。アダムとエバは、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」との神のご命令に従い、多産でした。
アダムの娘たち、すなわちカインの妹にあたる人々も成長して、数百年のうちにはかなりの数になり、各地に住むようになりました。
カインはのちに、彼女たちの中から妻をめとって結婚し、家庭を築いたのです。このように、当時の人々がたいへん長生きだったと考えるなら、聖書は全く矛盾していないのです。
しかしここで、
「カインが妹と結婚したのなら、これは近親結婚ではないか」
と言われるかたもいるかも知れません。その通り、人類の創始期においては、結婚は近親結婚でした(近親相姦ではありません)。
しかし、人類の創始期においては、近親結婚は遺伝的には何の問題もありませんでした。
今日、近親結婚は遺伝的に問題が多いので、法律でも禁止されています。モーセの律法の中でも禁止されています。奇形児が生まれる確率が高いからです。
子どもは父親から遺伝子を一つ、母親から遺伝子を一つもらいます。もし片方の遺伝子の一部に欠陥(エラー)があっても、もう片方の遺伝子のその部分が正常なら、子に異常は現れません。正常な遺伝子が、欠陥を補うからです。
しかし、両親が近親の場合は、両者の遺伝子の同じ箇所に欠陥がある確率がたいへん高くなります。それで近親結婚は、奇形児が生まれる確率が高く、避けるべきとされています。
けれども、人類の創始期においてはアダムとエバの遺伝子は完璧な状態にありました。カインやセツの遺伝子も完全でした。
したがって、人類の創始期においては、近親結婚は遺伝的に何ら支障がなかったのです。
また大洪水以前は、たいへん優れた環境であったために、人の遺伝子が世代を重ねる際にエラー(欠陥)を起こすことも非常に少ない状況にありました。
ただしこの状況は、ノアの大洪水の際、上空の水蒸気層が取り去られたときに変わりました。宇宙線の照射も増え、人の世代が重ねられていく過程で、遺伝子にエラーが起きることも少なくない状況になりました。
こうして、近親結婚はしだいに危険になりました。そのためモーセの時代に、近親結婚は、律法の中で禁止されました(レビ二〇・一七)。
そして今日も、多くの国の法律において禁止されているのです。 
水蒸気層はなぜ大雨と化したか
ノアの大洪水について、聖書はこう記しています。
「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして大雨は四〇日四〇夜、地の上に降った」(創世七・一一〜一二)。
こうして、「大空の上の水」すなわち水蒸気層は、「張り裂け」、地上に大雨となって落下しました。
この「大雨」は、普段私たちが経験する雨とは大きく異なるものでした。というのは、私たちの知っている雨といえば、たとえば東京で降っていても埼玉に来ればもうやんでいる、というように局地的です。
また日本で降っていても、アメリカでは晴れている、というように、現在の世界の雨はすべて局地的なのです。しかしノアの大洪水の時の大雨は、全世界的なものでした。世界中で四〇日間にわたって豪雨が降り注いだのです。
けれども、ノアの日まで上空で安定して存在していた水蒸気層が、なぜ突如としてその安定性を崩し、大雨となって落下してきたのでしょうか。
水蒸気層の安定性を崩す要素として一つ考えられるのは、彗星や小惑星が地球に落下してきた場合です。
つい最近も、一九九四年に彗星が、私たちの太陽系の一員である木星に衝突したことは、大きなニュースとなりました。その模様は全世界で観測され、大きな話題となりました。
では、彗星や小惑星が地球に衝突した場合は、一体どのようなことが起きるのでしょうか。
小惑星や彗星は、弾丸の一〇〇倍もの猛スピードで衝突してきます。そして、たとえば直径一〇キロメートル程度の天体が地球に衝突した場合、その衝突時に発生する爆発エネルギーは、TNT火薬一億メガトン分にも相当します。
このエネルギーは、原子爆弾などとも比べものにならないほど、巨大なものです。それが海に落下した場合は、およそ五〇〇〇メートルもの高さの大津波が発生すると言われます。
落下地点から一四〇〇キロ以上離れたところでも、津波の高さは五〇〇メートル近くあります。
一方、大陸に落ちた場合は、発生する衝撃波によって、半径二四〇キロ以内のすべてのものがなぎ倒されます。
さらに衝突地点付近から、膨大な量のチリが一気に空高く吹き上げられます。それは成層圏の上空にまで達し、広がって全世界の大気を漂うでしょう。
もしこのようなことがノアの日に起きたとすれば、どうでしょうか。大気上空に吹き上げられた膨大な量のチリは、上空の水蒸気層にまで達し、太陽光線をさえぎって水蒸気層を冷やし、それを大雨と化すきっかけとなったことは疑い得ません。
また、雨が降るためには、雨滴を形成する心核となる微少物質(チリなど)が必要です。雨滴はそれを中心に形成されるのです。大気上空に吹き上げられた膨大な量のチリは、全世界において雨滴を形成する心核となったでしょう。
では、小惑星または彗星の衝突の証拠はあるでしょうか。
一九七七年、米国カリフォルニア大学の科学者グループは、地層の中の宇宙塵(宇宙から地球に常時降り注いでいる宇宙からのチリ。微少な隕石)の調査をしていましたが、そのとき興味深い事実を発見しました。
宇宙塵の指標としては、地球の物質にはほとんど含まれていないイリジウムが選ばれました。
宇宙塵の、時間あたりの地球への落下量は、ほぼ一定です。ところが、地層の中にイリジウムの量のピークとなるところが三〜四カ所程度あり、多いところでは通常の三〇倍程度にまではね上がったのです。
イリジウムは、全世界に分布していました。地層が形成されたとき、大量の何かが、地球外から地球に訪れたとしか考えられません。
後述しますが、創造論者は、進化論者によって「先カンブリア時代」と呼ばれている最下層の地層の上にある地層はすべて、ノアの大洪水の時に一挙に形成されたと考えています。地層はじつは長い年月をかけて徐々に形成されたのではなく、大洪水のときに一挙に形成されたのです。
地層内の多量のイリジウム分布は、進化論者の言うような「六五〇〇万年前の恐竜絶滅時の小惑星衝突」を示しているのではありません。イリジウム分布はむしろ、ノアの大洪水が起こったときに地球に飛来した物体について語っているのです。
すなわち地層内のイリジウム分布は、小惑星または彗星がノアの時代に地球に衝突した名残に違いありません。
ノアはそのとき中東地域にいました。小惑星または彗星は、そこからかなり離れた場所――たとえば地球の裏側に衝突したと思われます。ノアは中規模の地震を感じたでしょうが、彼の場所では、すぐにはそれ以上の災害は感じなかったでしょう。
しかし、続いて「四〇日四〇夜」にわたる大雨が降ってきました。これは、小惑星または彗星の衝突によって水蒸気層の安定性が崩され、水蒸気層が大雨となって落下し始めたから、と思われます。 
局地的洪水ではなく全世界的な大洪水
ここで、ノアの大洪水に関する二つの説を比較検討してみましょう。
一つは"局地洪水説"、もう一つは"全世界洪水説"です。
局地洪水説とは、聖書に記されているノアの大洪水は、チグリス・ユーフラテス川流域に限られる局地的なものだった、という説です。
この説は考古学者をはじめ、多くの人々によって唱えられてきました。この説の人々は言います。
「チグリス・ユーフラテス川流域はたいへん広大な地域で、ノアたちにとっては、それは全世界に等しかった。いわゆるノアの大洪水は、チグリス・ユーフラテス川の大規模な氾濫によって起きたのであろう」。
局地洪水説の人々はさらに、全世界洪水説を批判して言います。
「世界にあるすべての高い山々をも覆い尽くすような大洪水が、現実に起きたなどということは、とても不可能だ。もし全世界をおおうような大洪水があったというなら、その水は一体どこから来たというのか。そしてどこへ行ったというのか」。
しかし、これから述べていくように、私たちは全世界洪水説こそ妥当なものであることを、知ることになるでしょう。
大洪水は局地的なものではなく、やはり全世界的なものだったと考えたほうが、様々の科学的事実をきれいに説明できるのです。大洪水のつめあとは、全世界で見いだされています。
聖書も、洪水が局地的なものだったとは述べていません。もし洪水が局地的なものだったなら、ノアが箱舟を建造する必要は全くありませんでした。
彼は何年もかけて、汗水たらしてあの巨大な船を建造する必要など、全くなかったのです。なぜなら、洪水が局地的なものなら、ノアは単に、洪水の及ばない地域に移動しさえすれば良かったからです。
さて、局地洪水説の人々が全世界洪水説に対して抱いてきた疑問は、次の三点がおもなものでした。
(1)ノアの大洪水の水はどこから来たのか。
(2)大洪水はどのようにして、当時の世界のすべ ての高い山々を覆い尽くすことができたか。
(3)大洪水の水はどこへ行ったか。
このうち(1)については、私たちはすでに見ました。大洪水の水は、「大空の上の水」(創世一・七)と呼ばれる上空の水蒸気層から来たのです。
私たちは、(2)(3)の事柄についても、詳しく見てみましょう。 
大洪水以前の地表の起伏はゆるやかだった
(2)の"大洪水はどのようにして、当時の世界のすべての高い山々をも覆い尽くすことができたか"を見てみましょう。
現在、世界における最も高い山と言われるヒマラヤのエベレスト山は、標高八〇〇〇メートル以上あります。日本の富士山は、標高三七七六メートルです。
しかし、大洪水以前の地表には、こうした高い山々は存在しませんでした。現在の高山は、じつは大洪水の直後、大洪水に続く地殻変動によって形成されたものだからです。
大洪水以前、地表は比較的、なだらかでした。地表の起伏(でこぼこ)は、ゆるやかだったのです。『サイエンティフィック・マンスリー』誌は、過去の地球には、
「気候や自然条件の面で障壁となる高山は、存在しなかったであろう」
と述べています。後述しますが、聖書によれば大洪水以前の大陸は一つで、大陸の表面や形も現在とは大きく異なっていました(創世一・九〜一〇)
大洪水以前の大陸は、表面に高山がなく、比較的なだらかだったのです。 
海底山脈の形成が洪水を大規模にした
さて、ノアが六〇〇歳のときになって(創世七・一一)、全地に大雨が降ってきました。このときの降水量は、創造論に立つ科学者ジョセフ・ディロー博士の計算によると、四〇日間の合計で一二メートル、すなわち一万二〇〇〇ミリ程度でした("The Answers Book"120頁) 。
これは、一時間あたり一二・五ミリに相当します。気象庁では一般に一時間あたり一〇ミリ以上降れば「大雨」とされますから、これはまさに「大雨」でした。
ノアの時の大雨は一時間あたり一二・五ミリ、一日では三〇〇ミリ降ったのです。
大雨の記録として、インドのアッサム州で一八六一年七月の一ヶ月間に、九三〇〇ミリも降ったという記録があります。これはノアの時と同じくらいの大雨が、一ヶ月にわたって降った量に相当します。
日本では、一九七六年九月七日〜一三日の七日間に、徳島県の木頭村で二七八一ミリも降ったという記録があります。これも、ノアの時と同じくらいの大雨が七日間降った量に相当します。
こうした大雨で、甚大な被害が出たことは言うまでもありません。いずれにしても、ノアの時の大雨はすさまじい最大級のものでした。
しかも、ノアの時の大雨はある地点だけで降ったのではなく、全世界で降ったのです。そして、四〇日間にわたって連続して降り続きました。
とはいえ、総降雨量一二メートル程度だけでは、いかに大洪水以前の地表がなだらかだったとはいえ、地表のすべての山々をも覆い尽くす大洪水とはならなかったでしょう。
では、どうしてこれが、すべての高い山々をも覆い尽くす大洪水となったのでしょうか。聖書はこう記しています。
「水は、一五〇日間、地の上に増え続けた」(創世七・二四)。
水かさは、「四〇日四〇夜」にわたる大雨がやんだ後も、増え続けたのです! 
水位は「一五〇日間」にわたって上昇し続けました。これは、全地を激流によって洗った大雨が、地殻のあちこちに巨大な変動をひき起こしたからです。聖書は、大洪水が始まると、
「山は上がり、谷は沈みました」(詩篇一〇四・八)と記しています。大きな地殻変動が起きたのです。
大洪水の際「山は上がり、谷は沈みました」(詩篇104:8)。とくに海底山脈の隆起は、大洪水をさらに大規模にした。
この地殻変動は、まず、それまで厚い水におおわれていた海洋部から始まり、海底山脈の形成を引き起こしたでしょう。
海の中に山が形成されたのです。これが、水位の大規模な上昇を引き起こしました。
今日、太平洋や大西洋の海底には、南北に走る巨大な海底山脈が数多くあることが知られています。これらの海底山脈は、大洪水の時に形成されたものと考えられています。
じつは、造山運動は、海洋部のほうが起きやすいことが知られているのです。というのは、地殻というものは、流体であるマントルの上に浮いているかたちになっています。地殻のほうが、下のマントルの流体物質よりも軽いのです。
とくに、海底部に土砂が流れ込み、海底部の地殻が押し下げられて下方に厚くなった場合、そこにマントルからの浮力が高まります。それである時点になると、激しく造山運動が起きます。
ノアの大洪水の時のメカニズムは、次のようだったでしょう。
大雨が全地をおおうと、激流は大陸部から多量の土砂を奪って、海底部へと流し込みました。土砂の流れ込んだ海底では、土砂が堆積するとともに、地殻は下に押しさげられたかたちになり、下方に厚くなっていきます。
そしてある程度まで行くと、マントルからの浮力が上向きに働き、そこは海底山脈の隆起の場となるのです。
このように、造山運動は海底部のほうが、いちはやく起きやすいのです。大洪水が地をおおったとき、「山は上がり」という造山運動は、まず海底において起こったでしょう。
そのため海底山脈が形成され、海面は大きく上昇しました。こうして大雨に始まった大洪水は、ついには地上のすべての山々をも覆い尽くす、世界的大洪水となったのです。 
山は上がり谷は沈んだ
つぎに、(3)大洪水の水はどこへ行ったのか≠見てみましょう。
聖書によれば、水位の上がり続けた「一五〇日」の後、水は「しだいに地から引いていき」ました(創世八・三)。それはその頃になると、地表の全域で山々の隆起や、谷の沈降が起きたからです。
「山は上がり、谷は沈みました」(詩篇一〇四・八)。
地表の起伏は激しくなり、水は低い所にたまりました。こうして、海面上に出た所が陸となったのです。
日本海溝のような海底の巨大な谷や、ロッキー、アンデス、ヒマラヤなどの巨大な山脈などは、このときに出来たものです。実際、これらの高山は、比較的最近できた山々であることが知られています。
また、エベレスト山をはじめ、高山の頂上の岩石は水成岩です。そこから海洋生物の化石が発見されることも、しばしばあります。
これは、大洪水によって水面下に沈んだ土地がのちに隆起して山となったから、と考えるのが一番妥当です。
このように、全地が海面下に沈んだり、また陸地が海面上に出現したりするのは、地表の起伏しだいなのです。
地球物理学者によると、もし今日の地表の起伏を全部ならして平らにしたとすると、地表の全域は、約二四〇〇メートルの海面下に沈むとのことです。
地表の起伏しだいでは、全地は簡単に水中に没してしまいます。また地表の起伏しだいでは、大陸の大きさ、形、位置等はどうにでも変わるのです。 
ノアの大洪水は人類共通の記憶だった
ノアの時代に起きた世界的大洪水は、当時の全人類を滅ぼしました。生き残った人々は、ノア一家だけでした。すなわちノア夫妻、また彼らの子であるセム、ハム、ヤペテと、その妻たち――計八人です。彼らは箱舟に乗って助かったのです。
生き残ったセム夫妻、ハム夫妻、ヤペテ夫妻の三夫妻から、大洪水後のすべての民族が生まれ出てきました。しばらくして「バベルの塔」の出来事があり、人類は全地に離散していきました。
このとき、人類共通の記憶であった「ノアの大洪水」の話は、その後増え広がっていった人類において、世代を通じて語り継がれ、受け継がれていきました。
この過程で、ノアの子のセムの子孫たちは、大洪水の記憶を文字を用いて忠実に保存し、後世に伝えました。その記録は、やがて聖書としてまとめられました。
一方、他の民族においては、一般に「口伝」(くでん 言い伝え)を通し、「伝説」という形で語り継がれていきました。そのため、今日も私たちは世界各地の諸民族の間に、大洪水伝説を見ることができます。
しかし、「口伝」というのは、語り継がれる間に内容が若干変わってしまいやすいものです。
読者は、子どもの頃、「伝言ゲーム」をやったことがありますか。
教室で先生が、ある文章を一番前の列の生徒にささやきます。うしろの生徒には聞こえないように、ひそひそ話で、一番前の列の生徒たちにささやくのです。
その生徒たちは、自分の一つ後ろの生徒に、その文章をひそひそ話でささやきます。それを聞いた生徒たちはまた後ろの生徒にささやくというようにして、六〜七人程度を伝わって、順番に一番うしろの生徒にまで話が届きます。
その後、一番うしろの生徒たちは立って、自分の前の人からどんな話を聞いたかを発表し合います。すると、みな元の話とは全く違うものになってしまっていて大爆笑、というわけです。
そのように、口づたえというのは内容がずいぶん変わってしまいやすいものです。
諸民族に見られる大洪水伝説に関しても同様です。それらはしばしば、語り継がれる間に多神教に変質していたり、細部が異なるものに変わっていたりします。
しかし、口づたえでありながら、それらは全く違うものになっているわけではなく、過去に大洪水があったという記憶に関しては、驚くほどみなよく保存しています。
これは、過去の大洪水が、人類にとってよほど強烈な記憶であったことを物語っているのだ、と言えるでしょう。世界の大洪水伝説はすべて、元の一つの共通の記憶に発したものなのです。
世界中いたるところに、「世界はかつて一度、大洪水によって滅びた」という伝説があります。
具体的に見てみましょう。まず、有名なバビロニア(チグリス・ユーフラテス地方)の大洪水伝説からです。 
バビロニアにある大洪水伝説
バビロニア(オリエントともメソポタミヤともいう)と言えば、かつてノアの住んでいた地域であり、箱舟の漂着したアララテ山もその近くです。また大洪水後の人類が離散したというバベルの塔も、このバビロニア地方にありました。
バビロニアにも大洪水伝説があるが....
バビロニアには、次のような伝説があります。紀元前三〇〇年頃にベロッソスが述べているように、バビロンのマルドゥク神殿には、次のような記録があります。
「キススロス王は、神々のひとりから次のように告げられた。
『舟をつくり、それに友人親族およびあらゆる種類の動物を乗せ、必要な食物を携えよ』。
そこで彼は巨大な舟を建造した。
舟はやがてアルメニアの山(アララテ山はアルメニアにある)に乗り上げた。
大洪水がおさまってきたので、彼は鳥たちを放った。三度目に鳥は帰って来なかった。彼は外に出て、祭壇を築き、犠牲をささげた」。
[聖書の記録においては、ノアははじめにカラスを放った。カラスは箱舟を「出たり、戻ったりしていた」(創世八・七)。その後、ノアはハトを放った。ハトは一度目は、くちばしに何もくわえずに戻ってきた。二度目にハトを放つと、オリーブの葉をくわえて戻ってきた。三度目にハトを放つと、もう戻ってこなかった]。
細部は若干違っているものの、バビロニアの伝説は、大筋において聖書の記す大洪水の記事に酷似していることがわかります。
しかし、無神論者の歴史家の中には、この類似性について、「バビロニアの伝説がもとになって、聖書の大洪水の話が生まれたのだろう」というようなことを言う人々がいます。これは、何か根拠があってそう言っているのでしょうか。
いいえ、何もありません。これは単に、聖書の真実性を知らないがゆえの憶測なのです。
実際は、はじめに人類共通の記憶があり、聖書はそれを最も忠実に保存し、伝達しました。一方バビロニアの伝説は、同じ大洪水の記憶に発しているものの、その後に若干変質してしまった記録なのです。
それはどうしてわかるでしょうか。
第一に、バビロニアの伝説は多神教になっており、一方、聖書の記録は唯一神教です。多神教と唯一神教では、どちらが古いでしょうか。
最近の考古学の発達により、人類のはじめにあったのは唯一神教であり、多神教はその堕落した形態であることがわかっています。
有名な考古学者F・ペトリー卿や、S・ラングドン、W・シュミット、W・コッペルスなどの有力な学者たちがみな、唯一神教こそあらゆる宗教に先立って存在したものであることを、明らかにしたのです。
第二に、大洪水伝説はバビロニアだけにあるのではなく、次に見るように全世界にある、という事実です。
全世界に大洪水伝説がある
世界各地にある大洪水伝説の幾つかを見てみましょう。たとえば次のようなものがあります。
エジプト人の伝説
神はある時、大洪水によって地をきよめた。その洪水からはごく少数の羊飼いたちだけが山に逃れた。
ギリシャ人の伝説
「悪が極まったので、地に大洪水を起こそうとしている」という神々からの警告を受けたデューカリオンは、箱舟を造った。それはパルナソス山上にとどまった。一羽の鳩が二度放たれた。
ヒンズー人の伝説
マヌーは警告を受けて舟をつくり、全被造物を滅ぼした洪水から逃れることができた。
中国人の伝説
中国文化の創設者ファ・ヘは、その妻と三人の息子と三人の娘と共に、人間が天に背いたために起こされた洪水から逃れた代表者とされている。
イギリスのドルイド教の伝説
至高の存在者は、悪に染まった人間たちを滅ぼそうとして、大洪水を送った。このとき一族長が大きな舟に乗って助かったが、彼によって人類は再建された。
ポリネシア人の伝説
洪水の物語がある。洪水からは八人だけが逃れた。
メキシコ人の伝説
一人の男とその妻および子供たちが舟に乗って、全地を覆った大洪水から逃れた。
ペルー人の伝説
一人の男と一人の女とが、浮かぶ舟で洪水から助かった。
アメリカ・インディアンの伝説
各種の神話がある。一人、三人、または八人の者が、高山を越す大洪水から舟によって救われた。
グリーンランドの伝説
地球はある時ひっくり返って、一人の男と一人の女を除いて、すべての人間がおぼれて死んでしまい、その二人によって再び人々は増え広がった。

そのほか、アッシリヤ人、ペルシャ人、フルギヤ人、フィジー島人、エスキモー人、原始アフリカ人、インド人、ブラジル人、また実に全人類のあらゆる種族間に、そしてセム語族、アーリア語族、ウラル・アルタイ語族の間に、一家族を除いて全人類が大洪水によって滅ぼされたという伝説があります(ヘンリー・H・ハーレィ著『聖書ハンドブック』75頁)。
またこれに関し、『標的としての地球』という本はこう述べています。
「人間の通常の経験において、洪水はそれほど大規模なものではなく、またどこにでも起きるものではないから、一切のものを滅ぼし尽くし、何ものも抵抗できないような大洪水の物語を人間が作り出すことは普通ではない。・・・・
ではなぜ、ほとんどすべての民族に大洪水の伝説があるのか。中央メキシコや中央アジアなど、海浜から遠く離れた山岳乾燥地帯に住む民族までが大洪水伝説を持っているのは、なぜか」(239頁)。
それはまさしく、大洪水は実際に過去に起きた歴史的事実であり、人類共通の記憶であったからです。そう考えなければ、全世界に大洪水伝説が存在する事実を説明することはできません。
大洪水直後の人類が持っていた大洪水の記憶は、バベルの塔の人類離散以後、離散した各種族の間で伝説として語り継がれていったのです。
世界中に普遍的に見られる大洪水伝説は、各種族の想像の産物などではありません。それは現実に過去に起きた歴史的事実に発しているのです。
もちろん「伝言ゲーム」と同じく、その細部は若干異なるものに変わってしまっているとしても、 「一家族を除いて、全人類が大洪水によって滅ぼされた」という内容自体は歴史的事実に違いありません。 
大洪水伝説は日本にもあるか
ここで、「大洪水伝説は日本にもあるのか」という疑問を持つ方もおられるでしょう。日本にも大洪水伝説はあるのでしょうか。
日本にもあったようです。しかしそれは、天武天皇(八世紀)が天皇家の権力を確立するために『古事記』を書かせ、それまであったもろもろの書物や伝説を破棄したとき、若干別のものに変質しました。
じつは中国などには、人類はかつて「大洪水」によって滅びたが、そのとき「兄妹二人」が助かったという伝説があります。兄姉はそののち、「大木のまわりを回りながら結婚し」、彼らから再び人類が増え広がったとされています。
この話が日本に輸入され、次の神話になりました。
男神イザナギと女神イザナミが、漂っている混沌とした海を矛でかき回し、国土をつくって整え、そののち神聖な柱のまわりを回って結婚した。彼らから、神々や大和民族が生まれていった
この日本の古事記の物語においては、「大洪水」は消されています。が、漂っている混沌とした海≠ニいうあたりは、大洪水の記憶が変質したものともとれます。民族学者・岡 正雄博士(明治大学教授)は、こう述べています。
「イザナギ、イザナミ神話も、少なくともその前半は、洪水神話の断片と考えられはしないか。
『洪水の襲来のために人類は絶滅し、ただ兄妹二人が生き残った。そしてこの二人が結婚することによって、人類または種族が再び繁栄するに至った』という洪水神話の破片と見るべきと思う。
しかもこの神話は、南シナ、東南アジア、また台湾を経て南方に分布の系統を持つことも明らかのように思う」(講談社学術文庫『日本民族の源流』34頁)。
日本の神話も、古事記以前には、もとは大洪水伝説であったに違いないのです。  
ミャオ族に伝わる驚くべき大洪水伝説
世界の大洪水伝説に関して、もう一つ興味深いものをご紹介しておきましょう。
それは中国のミャオ族(苗族)に伝わる伝説です。ミャオ族は日本人とほとんど同じ顔つきをしています。彼らの一部は古代日本に渡来して、日本人を形成した民族の一つとなった、とも言われています。
ミャオ族。彼らには聖書とそっくりの大洪水伝説が太古の昔から言い伝えられてきた。
ふつうは、伝説は時代とともに変質していくものですが、中国のミャオ族は大昔から今に至るまで、大洪水伝説を、他の諸民族に比べてきわめて正確に言い伝えてきました。
韻律と、二行連句の技法(二行目が一行目の意義付けや補強をする形)を用いることによって、彼らはそれを注意深く受け継いできたのです。
彼らは、大洪水伝説を宣教師から聞いたのではなく、聖書を読んで得たわけでもありません。ユダヤ人から聞いたのでもありません。
自分たちの父祖以来、代々言い伝えられてきた話を、忠実に保持してきたにすぎないのです。
毎年の催し物や、葬儀、結婚式などの重要な場で読み上げることによって、先祖伝来の話を注意深く保存し、後世に伝えてきました。幾つかの相違点を除けば、その物語は聖書の記録に酷似しています。
以下は、ミャオ族に伝わる言い伝えです。
[天地創造]
神は天と地を創造された。
その日に、神は光の門を開かれた。
そして地球に、土と石で山を築かれた。
神は空には天体、太陽と月を造られた。
地には、タカとトビを創造された。
水の中に、ザリガニと、魚を創造された。
原野にトラとクマを造られた。
山々を覆うための草木を造られた。
山々の果て果てまで森で満たされた。
また若草色のトウ(藤)を造り、竹林を造られた。
[人]
神は地上に、ちりから人を造られた。
創造されたその男からは、神は女を形造られた。
それから、土の太祖ダート[聖書ではアダム。以下( )内は聖書の名称]は、石の天秤を造った。
地球の目方をその土台まで見積もった。
天体の大きさを計算した。
そして神の道を深く考えた。
土の太祖ダートは太祖セツ(セツ)をもうけた。
太祖セツは息子ルス(エノシュ?)をもうけた。
ルスはゲーロ(ケナン?)を得た。
ゲーロはラマ(レメク)を生んだ。
太祖ラマは男子ヌア(ノア)を生んだ。
ヌアの妻は女族長ガウ・ボルエンであった(聖書にはノアの妻の名は記されていない)。
彼らの息子は、ロ・ハン(ハム)、ロ・シェン(セム)、そして、ヤフー(ヤペテ)であった。
それで地は民族、家族で満ち始めた。
被造物は氏族と国民によって共有された。
[邪悪な世界]
これらの人々は、神のみこころを行なわず、神の愛に帰らなかった。
かえって神に逆らい、互いに争った。
指導者たちは全能の主に面と向かって反抗した。
すると地球は、
第三の層の深さまで揺り動かされた。
大気を天の果てまで引き裂いた。
神の怒りが燃え上がり、ご自身を満たした。
神が来て人類を滅ぼさなければならないほどに。
神は来て、人で満ちた全地を滅ぼされる。
[大洪水]
それで土砂降りの雨が四〇日間降り注いだ。
その後は霧と霧雨の日が五五日間続いた。
水は山々と山脈を越えた。
山のような大洪水が谷や窪地を飛び越えていった。
地球には逃れる場所はどこにもなかった!
世界には暮らしていけるような足場もなかった!
人々は挫折し、無気力になり、滅びた。
絶望し、恐怖に打たれ、減少し、終わった。
しかし族長ヌア(ノア)は正しい人だった。
女族長ガウ・ボルエン(ノアの妻)は、
高潔な人だった。
彼らは非常に幅の広い舟を造った。
非常に大きな舟を造った。
その家族全員が舟に乗り込み、舟は浮き上がった。
家族全員が無事に大洪水を乗り切った。
彼とともに乗り込んだ動物たちは雄と雌であった。
鳥たちは一緒に入り、それらはつがいであった。
時が満ちたとき、神は水に命じた。
その日が来て、洪水の水が遠くへ退いた。
そしてヌア(ノア)は、
避難の箱舟から一羽のハトを放った。
戻って知らせを告げたカラスをも、
ふたたび解き放った。
大洪水は湖へ退き、大洋を形成した。
泥は、水たまりと窪地に閉じこめられた。
人が居住できるような土地が再び現われた。
ついに地に住居を構えられる所が現われた。
そのとき、水牛が引き出され、
神への捧げ物となった。
肥えた牛が創造者への捧げ物となった。
神は彼らを祝福された。
そして彼らにすばらしい恵みをお与えになった。
(以上のミャオ族に伝わる話は、生涯の大半をミャオ族のために捧げたアーネスト・トラウクス宣教師によって報告された――聖書と科学の会『インパクト』159号)  
聖書に記されていない事柄も明らかに
こののち、中国のミャオ族の話は、バベルの塔、人類の離散、またミャオ族の系図へと続きます。
彼らの伝説をみると、聖書の記録との間に若干表現上の違いはあるものの、両者の間にとくに矛盾はないことがわかります。
もちろん、聖書のアダムが「ダート」と言われていたり、レメクが「ラマ」、ノアが「ヌア」、ハムが「ロ・ハン」、セムが「ロ・シェン」、ヤペテが「ヤフー」と言われているなど、名前の発音の表記に若干の違いはあります。
しかし、これは言語の違いや、訛りによるものとして理解できそうです。翻訳上の問題もあるでしょう。
私たちはさらに、ミャオ族の話の中に幾つか驚くべき点を見いだします。それは彼らの言い伝えは、聖書が記していない事柄をも述べている、ということです。
たとえば、ノアの大洪水の際に土砂降りの雨が四〇日間降り続いたのち、すぐ晴れたわけではなく、その後の「五五日間」は「霧と霧雨」の状態であった、とミャオ族の言い伝えは述べています。
この状況は、聖書には記されていませんが、充分想像されることです。そしてミャオ族の言い伝えは、それが「五五日間」であったと明らかにしているのです。
また、聖書はノアの妻の名を記していませんが、ミャオ族の言い伝えによれば、ノアの妻は「ガウ・ボルエン」という名前でした。そして「高潔な人だった」とも言われています。
これらの事柄はすべて、ノアの大洪水は歴史的事実であり、人類共通の記憶であった≠ニいう私たちの考えを裏付けるものと言えるでしょう。  
初期の人々は地球が球形であると知っていた
さらに、もう一つ興味深いことがあります。
それは、ミャオ族の言い伝えで使われている「地球」という言葉です。これは彼らの言語を直訳すれば「地の玉」であって、地が球形のものとして表現されているのです。
近年になるまで、未開民族であったミャオ族は、地が本当に球形であるとは全く思っていませんでした。ところが彼らが昔から一言一句大切に保存してきた言い伝えは、「地球」(地の玉)という言葉を用いていたのです!
ことにミャオ族の言い伝えの中にあるバベルの塔に関する部分では、こう言われています。
「彼らが労して建てていた塔は、このように未完成のままにならざるを得なかった。そこで彼らは絶望し、全天下に散っていき、互いに分かれ分かれになり、地球(地の玉)を一周した」。
大昔から伝わるミャオ族の話によれば、地は球形であって、「一周する」ことのできるものであるのです。
このようにミャオ族の最初の人々の知識は、完全だったようです。しかし、その後彼らは、地が本当に球形であるとは考えなくなりました。つまり彼らの知識は、進化ではなく退化したのです。
初期の人類は、地が丸くて球形であることを知っていました。もしかすると神は、最初アダムに、地が球形であることを語られたのかも知れません。
人々はその知識を言い伝え、しばらくは保持しました。しかし、それは実証的知識ではなかったので、やがて人々は、本当に地が球形であるとは考えなくなりました。
ようやく、近代になって地が球形であることが実証され、常識として人々に受け入れられるようになりました。それまでの長い間、聖書の正しさやミャオ族の言い伝えの正確さは、理解されないままだったのです。  
第4章 大洪水による環境の激変

 

前章「ノアの大洪水」では、大洪水以前の地球環境は現在とは大きく異なっていたこと、また世界的大洪水がいかにして起きたかについて見ました。この章では、大洪水による地球環境の激変についてみてみましょう。 
大洪水は短期間の「氷河期」をもたらした
大洪水が起きたとき、地表の様相は大きく変化しました。
水蒸気層が大雨となって降り始めると、地表の温度はしだいに下がり、寒冷化したでしょう。地球は、ちょうどビニールを取り去られたビニールハウスのように温室効果を失い、特に北極圏、南極圏は急激に冷却し、たちまち氷原と化しました。
この際、多くの動植物が、氷の中に閉ざされました。モリス、ボードマン、クーンツ共著『科学と創造』に述べられているように、
「大雨は、高緯度では雪と氷の形をとり、巨大な氷河を造り、マンモスやその他の生き物を、突如として凍死に至らせた」(52頁)のです。実際、シベリアで氷づけで発見されたマンモスは、その突如とした凍死を物語っています。
今日も、シベリアには約五千万頭ものマンモスが氷づけにされていると言われていますが、マンモスはもともと極寒の地に住む生物ではなかったのです。
マンモスは、極地に住む動物が持つ油を出す腺を、皮膚に持っていません。また氷づけで発見されたマンモスの口と胃の中には、キンポウゲなどの青草が見つかりました。
すなわちマンモスは、進化論者が主張したように(しだいに)氷河が来て食物がなくなって死滅したのではありません。マンモスは温暖なところに住み、青草を食べていました。そしてまだ青草が口と胃にある時に、突如として大洪水に襲われ、凍結してしまったのです。
『サタデー・イブニング・ポスト』誌は、「凍りついた巨大生物のなぞ」という記事の中で、次のように述べました。
「(北極圏の氷原の)大部分は、厚さ一メートルから三〇〇メートル以上の、ごみの層でおおわれている。この層は、いろいろな物質の集まりであるが、そのすべては凍りついて堅い岩のようになっている・・・・そして大量の骨、および動物の死骸全体を含んでいる場合もある・・・・このごたまぜの中から、氷を解かして取り出された動物の名前を書き出せば、数 頁になるであろう」。
また述べています。
「これらの動物の遺骸は・・・・その地域全体に散らばっていた・・・・これらの動物の多くは、まだ完全にみずみずしく、無傷であり、しかもまだ直立か、少なくとも、ひざをついた姿勢になっていたのである」。
「我々のこれまでの考えからすれば、これは実に衝撃的な事実である。良く肥えた巨大な動物の大群が、日の当たる草地で静かに草をはみ、我々であれば上着さえいらない暖かい所で、ゆったりとキンポウゲの花をむしっていた。これらは極寒の土地に住む動物ではなかったのである。
ところが突然に、これらの動物すべてが、表面的には何の外傷も受けず、しかも口に入れた食べ物を飲むひまなく殺され、そののち急激に凍結したのである。それらの動物の細胞は、今日までことごとく保存されていた」(1960年1月16日付 39、82、83頁)
このように、これら凍結された動物の遺骸は、環境がゆっくり変化して氷河期が来たのではなく、何かの"激変"があって氷河となったことを、示しています。そしてこの"激変"、「急激な凍結」をもたらしたのが、ノアの時代の大洪水だったと考えると、事が非常によく説明できます。
大洪水という"激変"によって、極地は非常に冷え、比較的短期間の「氷河期」となり、多くの動植物が突如として氷の下に閉ざされたのです。
マンモスは温暖な所に住み、青草を食べていた。しかし突如として大洪水に襲われ、凍結してしまったのである。
しかし、「氷河期は一回だけでなく、今までに何度もあったと言われているのではないか」と問う人もいるでしょう。
けれども、大洋のボーリング調査の結果には「たくさんの問題」があり、氷河時代が何度もあったという説と鋭く対立しています。このことについて、アメリカ気象庁の気象学者マイケル・J・オアードは、こう述べています。
「氷河時代は一回だけだったことを示す、強い証拠があります。……漂礫土の主な特質は、氷河時代は一回だけだったとの立場に有利です。また更新世の化石は、氷結した地域では珍しいものです。このことは、間氷期が多かったのなら本当に不思議です・・・・」(『インパクト』115号3頁)。
そして、氷河期は一回だけで、それはノアの大洪水のような激変によって生じたに違いない、と結論しています。 
大洪水後、気候は変わった
大洪水は、このように、短期間の氷河期をもたらし、またその後の地球の気候をも、大きく変えました。
大洪水後、上空の水蒸気層による温室効果が取り去られたため、極地は極寒の地となり、また他の地域においても、夏冬の寒暖の差が大きくなりました。
上空の水蒸気層がなくなった分、大気圧も下がり、地表の気圧は現在の一気圧程度(一〇一三ミリバール)になりました。
こうした大気の状況の変化により、地球の各地の気象も変化しました。
今日の世界における雨について、聖書はこう記しています。
「彼(神)は、水のしたたりを引き上げ、その霧をしたたらせて雨とされる。空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ。だれか雲の広がるわけと、その幕屋のとどろくわけとを、悟ることができようか」(ヨブ三六・二七〜二九)。
雨について、一般に古代人は、上空の雲から降ってきた後、地の上を流れ、川を経て海に至り、海に入ったその水は、水平線の向こうにあると考えられていた"巨大な滝"から流れ落ちていくのだと考えていました。
現代人は、事実はそうでないことを知っています。海に入った水はそこで蒸発し、湿気を含んだ空気が生じて、雲が形成され、再び雨を降らすようになるのです。そのように水は、自然界の中で、
雲→雨→蒸発→雲
というように、循環をしています。
「彼(神)は、水のしたたりを引き上げ、その霧をしたたらせて雨とされる」(ヨブ36:27-29)
ところが、聖書はこの"水の循環"について、
「彼(神)は、水のしたたりを引き上げ、その霧をしたたらせて雨とされる。空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ・・・・」
と見事に表現していたのです。ここには、
水の蒸発(「水のしたたりを引き上げ」)
濃縮(「その霧(雲)をしたたらせて」)
降雨(「雨とされる」)
という"水の循環"が、明確に言い表されています。
これは今から約三千年前の記述ですが、聖書はその時すでに、現代の科学から見ても正しい記述をしていたのです。 
化石は大洪水によってできた
大洪水と「化石」との関係について、見てみましょう。
進化論者は長い間、進化論の最も強力な証拠として、地層内に見いだされる「化石」を取り上げてきました。
世界の地層を調べてみると、一般に、地層の深い所には単純な生物の化石が発見され、上に行くにしたがって、高度な形態を持つ生物の化石が発見されます。
「下には単純・下等な生物、上には複雑・高等な生物」
という原理は、ある程度まで、一般的に世界の地層に見られることです(後に見るように例外はありますが)。
進化論者は、このことは進化の各段階を示しているのであり、この化石の配列は、生物がしだいに進化発展してきたことの証拠であると主張しました。
しかし今では次のような事柄から、地層内の化石は、生物の進化を示すものではないことが明らかにされています。地層における化石の出来方は、進化に関係しているのではなく、むしろノアの時代の大洪水と関連していることなのです。
まず最初に、地層が長い年月をかけてゆっくり堆積していったような場合は、化石は形成されない、という事実に目をとめる必要があります。
魚の化石。このように群れとなって発見されることが少なくない。
化石は、大洪水のような"激変"的過程がないと、出来ません。科学者が言っているように、
「動植物が、崩壊しないようにすばやく葬られ、そしてその後・・・・温存されなければ」(『インパクト』5号3頁)
化石はできないのです。もし、ゆっくり土砂が堆積していったのだとすると、生物は化石になる前に腐敗し、分解されてしまい、骨格をとどめることができません。すなわち"風化"してしまうのです。
たとえば、犬が地面の上で死んだとき、それがゆっくり土の中に埋もれて、そのまま化石になることは絶対にありません。それは化石になる前に腐ってしまうからです。
また魚が死んだとき、それが静かに海底に沈んで、化石になることも絶対にありません。それは化石になる前に腐敗し、分解してしまうのです。
ですから、化石が形成されたということは、生物が何らかの激変的過程によって厚い堆積層の中に「すばやく葬られ」、空気とバクテリヤから遮断された、という事実を示しています。
この激変的過程としてノアの大洪水は、最も適切な説明を与えます。大洪水は、様々の動植物を急激に"葬り去り"、その後それらを厚い土砂の堆積層の高圧力下に置いたからです。 
化石は短期間で形成される
読者はここで、次のように質問なさるかも知れません。
「しかし、化石ができるには何万年、または何億年もの長い時間が必要なのではないか」。
けれども、実際には生物の体が化石化するために、何万年、あるいは何億年もの長い時間は必要ありません。
化石は、急激に葬り去られ、高圧力下に置かれたときにのみ出来ますが、高圧力下に置かれると、生物の遺骸は比較的短期間で化石化するのです。
化石とは、生物の遺骸が"石"化したものですが、これは化学変化の一つにすぎません。同じ物質でも、高圧力をかけると、全く違う性質になります。
そのいい例が人工ダイヤモンドでしょう。これは炭を高圧力で閉じこめてつくったものです。炭焼きで使う真っ黒な炭も、無色透明で輝くダイヤモンドも、同じ炭素から出来ていますが、性質の全く違うものになるのです。
炭から人工ダイヤモンドをつくるのに、何万年もの歳月は要しません。比較的短期間で出来上がるのです。
天然のダイヤモンドや、他のすべての宝石もそうです。それらは何億年もの歳月をかけて出来たものではありません。最近では、ピーナッツ・バターから人工ダイヤモンドをつくったり、ビーカーの中でオパールをつくることにも成功しています。
また圧力だけでなく、土砂の中の化学物質の働きによって石化が非常に早く起きることがあります。たとえばセメントは、はじめ水に溶かしたとき液体状ですが、急速に石化していきます。これは内部の化学物質の働きによるのです。
化石の原理も、これと全く同様です。圧力や土砂内の化学物質の働きによって、生物の体も性質が変化して、かたい石になるのです。化石ができるために、何億年もの期間は必要ありません。
今日、世界各地に生物の化石が出土しますが、その大部分は約四五〇〇年前のノアの大洪水の時に形成された、と創造論者は考えています。
大洪水は当時の生物を急激に葬り去り、厚い堆積層の中に閉じこめました。その際、その堆積層内の非常な高圧力と地層内の化学物質の働きのもとで、生物の遺骸は短期間で化石化したのです。 
地層の形成は急激な土砂の堆積によった
米国ミネソタ大学の水力学博士であり、ICR(創造調査研究所)総主事であるへンリー・M・モリス博士は、その研究の中で、世界の地層はながい年月をかけて形成されたのではなく、急激な土砂の堆積によって短い時間内に形成された、と結論しています。
「明確に区分された各層は、急速に堆積しました。なぜなら、常に一定の、一群の水流が働いた状態をあらわしており、このような水流状態がながく続くことは、あり得ないからです。
どの累層をとっても、各単層は急速に堆積したに違いありません。そうでなければ、不整合の証拠――すなわち、隆起とか浸食の期間が、異なる層との界面に認められるはずだからです」(『インパクト』5号4頁)。
つまり地層は、一時代のうちに急速に形成された、と考えるべきです。
読者は、ビーカーの中に水と泥を入れ、それをかき混ぜて、しばらく放置すると、やがてその水の底に土砂の水平な層ができるのを、見たことがあるでしょう。
それと全く同じように、現在の地表をおおっている地層の水平な堆積は、大洪水によって洗われた土砂が急激に堆積して出来あがったものなのです。実際、よく知られているように堆積岩(水中の土砂や溶解物が堆積してできた岩石)は全世界に見出され、大陸部と海洋部の全域をおおっています。
全世界を取り巻くこの堆積岩の平均の厚さは、約一・六キロであり、一方、洪水の条件下に圧縮されながら土砂が堆積する割合は、平均五分毎に約二・五センチです。そうすると、わずか二二〇日間で、全地層を形成できることになります(ノアの大洪水は三〇〇日以上続いた――創世八・一三)。
「一・六キロ」というと、ひじょうな高さに思えるかもしれませんが、日本のどこにでもある中程度の山ほどの高さであって、地球の直径(一万二八〇〇キロ)から比べれば、微々たるものです。もし全世界をおおいつくすほどの大洪水が起きたのだとすれば、この程度の堆積があって当然でしょう。
アメリカのグランドキャニオンは、このぶ厚い地層が非常に広範囲にわたって露出している所として有名です。そこでは、いくつもの層が、非常に広範囲にわたって水平に積み重なっています。
もし地層が何億年、何十億年もかかって積み重ねられたとすると、こんなに広範囲にわたって水平に横たわったままであるのは、ほとんどあり得ないことだ、と地球物理学者は述べています。長い時間内に、必ず隆起とか褶曲があって、変形したはずなのです。
また、そこには進化論者の「地質柱状図」と矛盾することが多くみられ、地層が長い時間をかけて形成されたとする考えが聞違いであることを、示しています。
大洪水が地球をおおったとき、おそらく地球を何周もするような水流によって、地層の各層は急速に堆積していったでしょう。そのために、各層の間が不整合になることなく、水平に積み重なっていったのです。
このように、地層が世界的大洪水によって形成されたと考えると、地層内の化石の配列は、次のように説明されます。 
なぜ「下には単純・下等な生物、上には複雑・高等な生物」か
一般的に化石は、地層の下の方には単純・下等な生物が、上に行くにしたがって複雑・高等な生物が見出されます。これはなぜでしょうか。進化論者は、
「これは生物の進化を示している。すなわち、生物は単純・下等なものから、しだいに複雑・高等なものへと進化してきたのだ」
と主張してきました。しかし、そうではありません。
創造論者はこう説明します。まず、水には"ふるい分け作用"があります。細かい物は下に沈澱し、大きな物は上に沈澱します。
大洪水の際、生物の死骸は水流によって混ざり合い、その後沈澱し、堆積していきました。そのとき一般に、細かい小さな生物は下に沈澱し、大きな生物は上に沈澱していったでしょう。
土壌細菌等の微生物を長下層に、その上に藻類や貝類などの海底生物や、その他の海生無脊椎動物などの化石が形成されていったでしょう。魚類や両生類などは、泳ぐことができたので、その上に堆積していきました。
また鳥類や哺乳類などは、海の生物より高いところに住んでいますし、洪水前の雨の期間に次第に水かさが増していった時、さらに高い所へ移動していくことができました。ですから、それらは海に住む生物より高い所で発見されます。
また人間は、高度な移動性と、水から逃れるための知恵を持ち合わせていたので、一般に最も高い所で発見されます。
移動性に優れた動物は、大洪水から逃れるために、高い所へ移動していった。(フォックス、ブリス『化石』より)
実際、今日あちこちで発見されている化石の大規模な墓において、私たちは大洪水の爪痕を見ることができます。ある所には、何百万もの化石が互いに積み重なり、ときには、死のもがきのまま捕えられたことを示す形で、存在しています。
それらは魚であり、哺乳類であり、ときには混ざり合ったものです。シチリアの大量のかばの骨、ロッキー山脈の哺乳類の大きな墓、ブラックヒルやロッキー山脈やゴビ砂漠の恐竜の墓、スコットランドの驚くべき魚の墓、等々。
これらの生物が、こうした山の上などの高所に集中して集められたのは、なぜでしょう。『創造か進化か』の著者トーマス・F・ハインズは、こう述べています。
「水が徐々に増してくる。動物たちは、高い所へ高い所へと移動する。やがて山の頂上へ群がることとなろう。そして押し流され、多数の堆積物とともに沈澱される」(167頁)。
このように、移動性に優れた動物たちは、水から逃れるために高所に移動していったので、高所で発見されます。
したがって通常、下の層に単純な生物が見出され、複雑・高等な生物は上の層で見出されるという事実は、進化を示しているのではなく、ノアの大洪水の際の"水のふるい分け作用"と"移動性の高い動物は高所に移動していった"という事実に基づいていることなのです。 
化石はなぜ急に現われるのか
地層および化石が、ノアの時代の大洪水によって形成されたという考えは、進化論では説明できなかった数多くの諸事実をも、適切に説明します。
たとえば進化論者は、時代を様々の「地質時代」に分け、それぞれをいろいろな名前で呼んでいますが、それらの一区分として「カンブリア紀」というのがあり、それ以前の時代は「先カンブリア代」と呼ばれています。
そして進化論者は、「カンブリア紀」の地層には様々の化石が見出されるのに、そのすぐ下の「先カンブリア代」の地層(最も下の地層)になると、化石らしい化石が全く見出されなくなる、という事実に困惑しています。スタンフィールズ著『進化の科学』という教科書には、次のように記されています。
「カンブリア紀に、今日知られている動物の主要なグループのほとんどすべての代表が、突然出現している。まるで巨大なカーテンが引き上げられて、そこには実に変化に富む生命の群がった世界が、姿を現わしたかのようであった。・・・・この問題は(進化論にとって)今もなお問題である」(76頁)。
先カンブリア代の地層には、ほとんど化石らしい化石が見出されないのに、力ンブリア紀の地層になると急に様々な種類の化石が見出されるという事実は、進化論の立場から見ると、理解しにくいことであり、「この問題は今もなお問題」なのです。
けれども、大洪水によって化石を含む地層が形成されたとする創造論の立場からすると、このことも容易に理解されます。つまり、大洪水以前の地層(進化論者が「先カンブリア代」の地層と呼んでいるもの)の上に、大洪水による地層が堆積していったので、そこには急に多くの化石がみられるのです。
また先カンブリア代の地層と、力ンブリア紀の地層が「不整合」になっているという事実も、非常に重要です。
地層が同じような状態で連続堆積しているとき、それらの地層は「整合」であるといい、そうでない場合を「不整合」といいます。じつは、先カンブリア代の地層とその上にある堆積層とは、全世界にわたって「不整合」なのです。
先カンブリア代よりも上の地層は、みな水平に横たわっているのに、その下の先カンブリア代の地層だけは、全世界にわたって山あり谷ありの状態になっています。井尻正二、湊正雄共著『地球の歴史』には、こう記されています。
「世界各地の力ンブリア紀層をみると、カンブリア紀層は、はげしく変質したり、あるいは褶曲したりしている原生代層(つまり先カンブリア代の層)の上に、ほとんど水平に横たわっていることが観察される。・・・・カンブリア紀層と、それ以前の地層との関係は、世界中どこへいっても、両者は不整合であって、いまだかつて整合関係のところは知られていない。この事実は、いったい何を意味するのであろうか」(61-62頁)。
そう述べて、この「不整合」の事実に対する率直な疑問が提出されています。進化論の立場からは、この事実は決して説明できないからです。
しかしこの事実は、ノアの大洪水を認める創造論の立場からすれば、全く当然のこととして理解できます。「不整合」というのは、その下の層と上の層とは連続的に出来たものではなく、時間的なギャップがあったことを示しているのです。
進化論者が「先カンブリア代」と呼んでいる地層は、じつはノアの大洪水以前の地層です。つまり、地球誕生時に形成されていた地層です。その上に、ノアの時代になって、大洪水による地層が新たに堆積しました。
進化論者は、これを誤って「カンブリア紀」とか、それ以降のものと呼んでいるのです。しかし、それは大洪水によって出来た地層です。これらの上の地層は水の作用によるものなので、水平に堆積しました。
はじめに、大洪水以前の褶曲する地層が存在し、そののちその上に、地をおおった全世界的大洪水によって水平な堆積層が形成されたのです。したがって、不整合の界面の上の地層には急に様々の化石が見いだされるのに、その下の地層には化石がないという事実も、これによってよく理解できます。
ノアの大洪水によって上の水平な堆積層が形成されたのだとすれば、"化石の急な出現"も"地層の不整合"の事実も、全く当然のこととして理解できるわけです。 
大洪水は様々の事実をよく説明する
ほかにも、大洪水は、進化論では説明できない多くの事実をよく説明します。
例えばその一つに、木の化石があります。木の化石の中には、ときには幾つもの地層にわたって、貫いて存在しているものがあります。
いまだにまっすぐに立ったもの、また斜めになったものや、上下がひっくり返ったもの等いろいろありますが、樹幹が幾つもの地層にわたって貫いているのです。それはまさに、氾濫する水によって捕らえられた木のまわりに、急速に堆積層が積み重ねられた、という観を呈しています。
樹木の化石の中には、いくつもの地層を貫いた状態で発見されるものがある。何万年、あるいは何億年もかけて形成されたのではなく、ノアの大洪水によって一挙に形成されたことを示す強力な証拠。
こうした事実は、進化論で言うように地層が非常に長い年月をかけてゆっくりできた、という考えでは説明できません。これは大洪水によって急速に地層が形成されたことを示す、一つの強力な証拠です。
また進化論によれば、下の古いとされる地層からは、単純で下等な生物の化石のみが発見されるはずで、より高度な形態をもつ生物の化石が下の地層から発見されることはないはずです。
しかし実際には、より高度な形態をもつ生物の化石が下の地層から発見されることが、しばしばあります。世界の地層の至る所に、進化論者の「地質年代表」に示された地層の順序が、転倒しているところがあります。
しかも、順序の入れ替わったそれらの地層の界面は、不整合にはなっておらず、連続的に堆積しています。つまり、何らかの地殻変動による地層のずれがなくても、高等な生物が下の地層から発見されることが、しばしばあるのです。
この事実は、多くの進化論者を、おおいに困惑させてきました。けれどもこのことは、大洪水によって地層ができたとする考えには矛盾しません。
なぜなら、大洪水の際に高所に移動しそこねて、早くから水にのまれてしまった生物も、なかにはいたことでしょう。それらの生物の遺骸は、下の方の地層に捕らえられました。
ですから、大洪水によって地層が形成されたとするならば、下の地層から、より高度な生物の化石が発見されることがあっても、おかしくはないのです。
また進化論では、石油や石炭の起源を説明することはなかなか困難が伴うようですが、聖書に記されたような大洪水があったと考えると、説明はひじょうに単純になります。
石油は現在、化学者によって分析された結果、昔の莫大な量の動物、とくに海中動物の遺骸が変化して出来たものであると考えられています。そのように大量の動物の遺骸が、地層内にまとまって存在するようになったことを説明できるものは、今日自然界に起こっている物事の中にはありません。
しかし、全世界的なノアの大洪水があったと認める創造論の立場からすれば、今日世界各地で掘り出されている石油の大部分は、かつての大洪水によって葬られた大量の海中動物等の死骸が地層内で変化してできたもの、と理解されます。
一方石炭は、大洪水の猛威のもとに倒され引き抜かれた大量の樹木が、水の力で押し流されて堆積し、地熱の影響でつくられた、と創造論者は考えています。
このように、地層や化石に関する様々の事実は、進化論よりも大洪水の考えによって、よく説明されるものなのです。 
大陸はもともと一つだった
今日、「地球上に散在している各大陸は、かつては一つだった」という説が、科学者の間で有力になっています。
二〇世紀の初めにドイツのウェゲナーは、地球儀をながめている時、ヨーロッパ・アフリカ大陸の西側の海岸線と、南北アメリカ大陸の東側の海岸線の形が、よく似ていることに気づきました。
大西洋の両側の大陸の線を、そのまま互いに引き寄せると、ほぼピッタリ合ってしまう。
つまり、大西洋の両側の大陸の線を、そのまま互いに引き寄せると、ほぼピッタリ一致することに気づいたのです。また、南アメリカとアフリカで同じような化石が見つかることも、わかっていました。
それでウェゲナーは、両大陸はもともとくっついていたのではないか、と考えました。さらにまた、いくつかの考察を加えて、全大陸はもともと一つで、その後分離して、現在の位置にまで「移動」していったという考えを発表しました(大陸移動説)。
この考えは、一時いくつかの反論によって退けられましたが、その後再び有力な説として見直されるようになり、現在では盛んに取り上げられるようになりました。
全大陸がもともと一つだったという考えは、聖書の記述と一致するものです。創世記一・九には、
「神はまた言われた、『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現われよ』。そのようになった」
と記されており、創造当時の地球においては水は一つ所に集められ、一つの大きな海となっていたことがわかります。したがって、大陸も一つであったことになります。この「かわいた地」は、原語では単数形なのです。
では、もともと一つであった大陸が、どのようにして現在のように分かれたのでしょうか。
大洪水以前の大陸は、聖書によればもともと一つであっただけでなく、先に述べたように、現在よりずっと起伏(でこぼこ)がなだらかでした。しかし、大洪水が起きたことによって、地殻に様々な変化が起き、
「山は上がり、谷は沈みました」(詩篇一〇四・八)。
この土地の隆起(造山運動)と沈降によって、大陸の形は大きく変わったのです。大洪水以前は陸であった所が海の底に沈み、海であった所が陸になった、というようなことも起きたでしょう。
こうして、もともと一つであった大陸は、急激に形を変え、分断されました。したがって今日、大陸が分かれているのは、聖書によれば単に「移動」によったのではなく、大洪水の際の山々の隆起や、谷の陥没によったのです。
大洪水が大陸分離の原因であったことを裏付ける証拠は、数多く提出されています。
例えば、米国北東部とイギリスに見られる洪水堆積層は驚くほどよく似ていて、もともとは陸続きだったことを示しています。しかし、両者を結ぶ北大西洋の海盆(海底の大きなくぼ地)には、この洪水堆積層がありません。
これは、それらの陸地が大洪水後に分離したことを示しています。スチュアート・E・ネヴィンス博士の言っているように、
「昔、大陸が裂けたことの原因は、ノアの大洪水の巨大な激変の際の力によって、容易に説明できるのです」(『インパクト』16号4頁)。
このように、大陸はもともと一つでしたが、大洪水後の土地の変動によって、いくつかに分断されました。そしてその後も各大陸は、マントルの流体の動きやプレートの動きなどにより、年に数センチメートルずつ、互いに遠ざかりつつあると言われています(地殻は、いくつかの「プレート」と呼ばれる板に分割されていると考えられている)。
日本列島も、わずかずつですが、ユーラシア大陸から遠ざかりつつあると言われています。このようにして大陸は、現在の形と位置におさまるようになったのです。 
エルサレムは万国の中心に定められた
ノアの大洪水の激変後の大陸分離の際には、その過程において、神の特別なご配慮が働いたようです。
じつは、ある科学者たちが、地球上の "全陸地の中心"について調べたことがあるのですが、それによって興味深い事実が判明しました。
"全陸地の中心"というのは、全陸地の形や位置をそのままにして、地球の球面上の陸地の中心を算出する、というものです。この研究は、アメリカの物理学者アンドリュー・J・ウッド博士を中心に行なわれました。
その方法は、まず全陸地を多くの細かい地域に分割します。つぎに一つの分割地をとり、そこからそれ以外のすべての分割地までの距離の総和を測ります。もちろん、地球儀の上で、巻き尺を用いて測るのです。
そうしたことをすべての分割地に関して行なって、"他のすべての分割地までの距離の総和が最小となるような分割地"を、探し求めます。その地域が、数学上、陸地の地理的中心と見なされるのです。
地球の大陸や島などの地理は非常に入り組んでいるので、その計算にはコンピューターが用いられました。
その結果はどうだったでしょうか。全地の中心は、パレスチナからメソポタミヤにかけての地域であることが判明しました。すなわちエデンの園、バベルの塔、ベツレヘム、ナザレ、エルサレムのある地域、つまり聖書の出来事の舞台となった地域こそ、全地の中心であったのです(『インパクト』14号3頁)。
この地はまた、別の意味でも全地の中心です。すなわちそこは、アジア・ヨーロッパ・アフリカの三大大陸の"接点"であり、また黄色・白色・黒色人種のそれぞれが住む地域の"交点"なのです。
ところが、パレスチナが全地の中心に位置することを、驚くべきことに聖書は、何千年も前から知っていました。紀元前六〇〇年頃記された旧約聖書エゼキエル書五・五には、こう記されています。
「神である主は、こう仰せられる。『これはエルサレムだ。わたしはこれを、諸国の民の真中に置き、そのまわりを、国々で取り囲ませた』」(新改訳)。
同書三八・一二でも、イスラエル民族のことを、
「地の中央に住む」
民と呼んでいます。このように聖書は、人々の地理学の知識がきわめて幼稚であった時代に、パレスチナ地方が全地の中心であると述べ、さらにそれは神のご計画によると、述べていたのです。
しかも今引用した聖句によれば、全地の中心は単にパレスチナであるだけでなく、イスラエルの聖都、キリストが十字架の御わざをなされた地、エルサレムです。神は意図的にエルサレムを、万国の中心に置かれたというのです。
神は、もともと一つであった大陸を分離させる際に、将来エルサレムとなる地点が全陸地の中心となるようにされました。陸地は、定められた所に分離していったのです。聖書は、大洪水後、
「山は立ち上がり、谷は沈みました。あなた(神)が定めたその場所へと」(詩篇一〇四・八)
と述べ、さらに、
「あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました」(一〇四・九)
と記しています。大洪水の激変による土地の隆起や陥没は、定められた海岸線をつくるように起きました。すなわち定められた地形、定められた地理をもたらすように、起きたのです。
こうして、現在のような地形ができ、エルサレムが全地の中心に位置するようになりました
そしてこれは、福音宣教を全地の中心エルサレムから始めて、全世界に行き巡らせるというご計画が、神のみこころの中にあったからに違いありません。
主イエスは、公生涯の終わり頃、「私は必ずエルサレムへ行く」と言われました。そしてそこで十字架にかかり、死んで復活するのだと(ルカ九・五一、一八・三一)。
キリストの十字架の贖いと復活のみわざを、全地の中心エルサレム以外ですることは、あり得なかったのです。
それは、そのみわざが、全世界のすべての人々のためだったからです。 
激変説の復興
今まで学んできたように、大洪水以前の地球は、大気の状態、気候、地形、生物の生態など、多くの点で、現在とは異なっていました。
しかし大洪水後、大気の状態や気候は大きく変化し、地表は再形成され、生態系も変わりました。
このような考え方は、「激変説」と呼ばれます。激変説は、今では多くの科学的証拠に裏付けられており、過去の地球の状況に関して最も適切な説明を与えるものです。
しかも、激変説は、地球の年齢や人類の年齢に関する従来の進化論的考えに対しても、大幅な修正を迫るでしょう。
地球、また人類が誕生してから現在に至るまでの歳月は、じつは従来進化論で考えられていたほど長くはないのです。
これについては後述しますが、激変説は、創造論の柱ともなる大切な考えです。
かつて激変説は、中世のヨーロッパなどではキリスト教信仰のゆえに、広く一般に受け入れられていました。しかし当時の激変説は、科学的知識に裏付けられていなかったので、きわめて漠然としていました。
一九世紀になると、フランスの学者キュビエが独特な激変説を唱えました。彼は、地層内の化石に対する解釈として、地球上にはこれまでに「何回も」天変地異が起こり、大部分の生命はそのたびに死滅して新しい生物が造られたのだ、と唱えました。
そして聖書の示す「ノアの大洪水」は、それらの天変地異の最後のものだと考えたのです。しかし彼の激変説は、今では科学上の様々な証拠を適切に説明するものではなく、また聖書に一致するものでもありません。
その後キュビエの説は退けられ、「斉一説」が広まりました。
「斉一説」とは、現在起きている物事のゆっくりとした変化の過程は、過去のいつの時代においても同様だったとするもので、激変を認めない立場です。
斉一説の考えは、「現在は過去を知る鍵である」という言葉でよく表されます。地球の過去の歴史のすべては、現在起こっているようなゆっくりとした変化の過程で充分説明できる、とするのです。
進化論は、この仮説に立って、地球や生命が長い時間をかけて徐々に進化してきたのだ、と説明してきました。進化論は、斉一説に立って構築されてきたのです。
斉一説が広まった背景には、それが進化論を構築するために非常に好都合だったということと、聖書の記述を単なる神話とみなす偏見等があったようです。
またキュビエの激変説が不完全で、説得力に欠けていたことも、斉一説の浸透を助長しました。
近代から現代にかけて、斉一説は人々の間に力をもってきました。しかしそのことについては、驚くべきことに聖書自体が、あらかじめ予期していたことなのです。聖書はこう言っています。
「第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり・・・・次のように言うでしょう。
『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか』」(Uペテ三・四)。
「何事も創造の初めからのままではないか」――これはまさに、斉一説の考えです。斉一説がある程度力を持つようになることを、聖書は知っていました。しかし、聖書はさらに続けて述べています。
「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。・・・・当時の世界は、水により、洪水におおわれて滅びました」(Uペテ三・五〜七)。
つまり聖書は、私たちが斉一説にではなく激変説に立つべきだ、と述べているのです。
本誌で述べている新しい激変説は、はじめアメリカの科学者であり、創造論者である人々によって唱えられました。
そして現在、斉一説の欠陥が明らかになるにつれ、しだいに多くの人々に受け入れられ、さらに研究が進められつつあります。
ちょうど進化論が、斉一説に立って構築されてきたように、創造論は、激変説の上に立っているのです。
地球の過去には明らかに、それまでの大気の状態や、気候、地形、生物の生態などを大きくぬり変えるような激変がありました。それをぬきにしては、地球の歴史も、生命の歴史も語ることはできません。
そしてその激変とは、聖書に記されているノアの時代の大洪水であったに違いないのです。 
聖書は恐竜に言及している
聖書の創世紀一・二一には、神は生物創造の際に「海の大いなる獣」をも造られたと記されています。
大洪水以前の海には、海棲哺乳類のクジラだけでなく、シーモンスターとも呼ばれる海棲爬虫類プレシオサウルスなど、様々な巨大生物がたくさん生息していました。地上にも、恐竜をはじめとする多くの巨大な動植物が、生息していました。
聖書中、ヨブ記四〇・一五〜一九は、恐竜に関する言及と言われています。それは日本語訳では次のように記されています。
「さあ、河馬を見よ。・・・・見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。尾は杉の木のように垂れ、ももの筋はからみ合っている。骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。これは神が造られた第一の獣・・・・」。
この動物は、「河馬」と訳されていますが、原語のヘブル語はベヘモトで、「巨大な獣」の意味です。昔の聖書翻訳者は、中東の最も巨大な獣を「河馬」と考えて、こう訳したのです。しかし一七節に、
「(その)尾は杉の木のように垂れ・・・・」
と記されています。河馬の尾はあるかないかわからないくらい小さく、とても「杉の木」と比べられるものではありません。
現在の世界で最も巨大な陸上動物であるゾウも、しっぽは細くて、小さなものです。ですから創造論者の多くは、この「ベヘモト」と呼ばれた獣は、カバでもゾウでもなく、恐竜の一種ではなかったか、と考えています。
「(その)尾は杉の木のように垂れ・・・・」
創造論では一般に、恐竜はノアの大洪水以前の時代から、少なくとも大洪水の少し後までは生きていた、と考えられています。
進化論では恐竜が絶滅してから六〇〇〇万年以上たってから人類が出現した、と主張されています。しかし創造論では、恐竜と人類は同じ時代に生きていた、と考えるのです。
大洪水の時になって、恐竜もノアの箱舟に連れてこられ、その中に入れられました。
ご存知のように、おとなの恐竜は体が大きいのですが、卵からかえったばかりの子ども恐竜は、数十センチの大きさに過ぎません。恐竜は、年をとるごとに、形はほぼそのままで、大きさを増していきます。
ですからノアは、箱舟におとな恐竜を入れず、子ども恐竜を入れたに違いありません。そのほうが、場所を取らなかったからです。
大洪水後になって、恐竜はしばらくの間は、生きていました。しかし、やがて絶滅してしまいました。なぜでしょうか。
今日、進化論者の間では、小惑星の衝突による恐竜絶滅説などがささやかれています。その証拠として、恐竜などの見つかっている地層のすぐそばから、地球にはないイリジウムという物質が多く見つかっていることなどが、あげられています。
しかし実際は、イリジウムのピークは地層中に一度でなく、三〜四回現われるため、この小惑星衝突による絶滅説は、古生物学者たちには受け入れられていません。また、なぜ恐竜だけが絶滅して、他の動物は生き残ったのか、という問題があります。
創造論では、イリジウムのピークが地層中に数回現われるのは、地層が大洪水によって形成されたからと考えられます。小惑星の衝突はあったかも知れないが、それは「大空の上の水」(水蒸気層)の均衡を崩し、地上に大雨を降らすきっかけになったに過ぎなかった、と考えられるのです。 
恐竜はなぜ滅びたか
では、恐竜はどうして滅びたのでしょうか。これは、進化論者の間でも創造論者の間でも、まだ確かな回答がありません。
しかし一つ想像されることは、恐竜は、おそらく適応できる環境の範囲が狭く、大洪水で地表の環境が大きく変わった際にその変化について行けなかったに違いない、ということです。
ある説によれば、"恐竜はメスだけになって滅びたのではないか"と言われています。生物学的に恐竜に近いと思われているワニなどは、気温の低い所ではメスしか生まなくなるのです。
もし恐竜が気候の変化についていけず、メスしか生まなくなったのだとすれば、彼らは絶滅することになります。しかし、それではなぜワニなどは生き残ったのに、恐竜は滅びたのか、という問題は依然残ります。
もう一つ考えられる恐竜絶滅の理由は、大洪水後の生物の寿命の短縮による影響です。
大洪水の際に、それまで上空にあった水蒸気層は取り去られ、地表には宇宙線などが多量に降り注ぐようになりました。その影響は各生物に現われ、人間の寿命について見てみても、寿命はしだいに短縮されました。
大洪水以前に九〇〇歳前後だった人間の寿命は、大洪水を境にして急速に短くなり、ついには一二〇歳以下にまで下がったのです。
ですから同時に、動物たちの寿命も、そのとき急速に短くなったはずです。恐竜の寿命も短くなったでしょう。
恐竜は、年を重ねるごとに体を大きくしていきます。つまり恐竜が一般的に巨大化できたのは、長寿だったことが一つの理由です。また恐竜は、ある一定の年齢に達して、体が成熟したときに卵を生みます。
恐竜は、卵を生めるようになる年齢がかなり高かったのではないでしょうか。そこに、寿命の短縮が襲いました。それで大洪水後、恐竜の多くは、卵を生める年齢に達する以前に老化し始め、死ぬようになったとも考えられます。
しかし、じつは恐竜絶滅の理由は、もっとありふれた原因だったのかも知れません。
恐竜に限らず、現在に至るまでに数多くの種類の動植物が絶滅してきました。あるものは食糧がなくなって、またあるものは、環境に適応できずに絶滅したのです。
とくに巨大な体を持つ恐竜などは、大洪水後の厳しい気象環境の中で、食糧を充分とるのはじつに大変であったでしょう。卵を無事に孵したり、赤ん坊を無事に育てたりするのも、大変であったに違いありません。
また、恐竜と人間が同じ時代に生きていたのだとすれば、恐竜にはもう一つの大きな敵がいました。
人間です。人間はこれまで、数多くの動植物を絶滅させてきました。
今日、たとえばトラは、絶滅の危機に立たされています。なぜなら多くのハンターたちが、トラを殺してしまうからです。
ゾウも絶滅が心配されています。多くのハンターたちが、象牙欲しさにゾウを殺してしまうからです。
人間は昔から、巨大な動物や、どう猛な動物、珍しい姿の動物などを見ると、それをハンティングの標的にしてきました。恐竜などは、その標的としては恰好のものだったでしょう。
実際、次にみるように、恐竜と人間が同時代に生きていたことを示す数多くの証拠があるのです。 
恐竜は大洪水後もしばらく生きていた
『謎と不思議の旅』という本が二見文庫から出版されていますが、この本の中で、「恐竜土偶」というものの発見について取り上げられています。これについては、TBSテレビでも、一九九一年一二月一日に放映されました。
メキシコのアカンバロ博物館に、たくさんの遺跡出土品が展示されているのですが、その出土品の中に驚くべき大量の"オーパーツ"(そこにあるはずのないもの OOPARTS=Out-Of-Place Artifactsを縮めて造った新造語)があったのです。
それは、科学の常識をくつがえすもので、あまりにも常識はずれのものであるため、今も倉庫の奥深くにしまいこまれており、一般には公開されていません。
しかしTBSのスタッフは、特別に倉庫の中に案内され、恐竜土偶の幾つかと対面しました。それらの土偶(土で作った人形)は、恐竜化石を元に復元された恐竜と同じ形をしており、しかも、人間がその恐竜の上に乗ったりしているものもあります。
これらの土偶を、無機物を測定できる最新技術である"熱ルミネッセンス(TL)法"で年代測定した結果は、いずれも紀元前二五〇〇年頃(誤差五〜一〇%)と出ました。
つまり今から約四五〇〇年前です。これは、ノアの大洪水の直後と思われる年代です。
進化論では、恐竜は今から六五〇〇万年前に滅びたとされていますから、この土偶はそうした考えに合わないために、進化論者にはまったく無視されています。
しかしこの土偶が、事実今から約四五〇〇年前に生きていた恐竜の姿を当時の人々が見て作ったものであるならば、「恐竜は大洪水の後もしばらく生きていた」という創造論者の考えが、裏づけられることになります。恐竜は、少なくともその頃まで生きていたのです!
しかも興味深いことに、アカンバロの恐竜土偶の中には、ティラノサウルスによく似たものがあります。ただ、よく復元図に見られるティラノサウルスと、この恐竜土偶との間には、一つ違いがあります。
それは、この恐竜土偶には、明らかに"体毛"が見えるのです。馬のたてがみのような毛が、恐竜土偶の首の後ろにあります。
今日、ティラノサウルスのような恐竜に体毛があった、という証拠はまだ見つかっていません。体毛はふつう、化石にならないからです。そのため恐竜の復元図には、体毛は描かれていません。
しかし、恐竜の一部には体毛があった、という説も学者の間にはあります。事実、翼竜に体毛があったことは、今日では常識化しています。
アカンバロの恐竜土偶が本物なら、ティラノサウルスのような恐竜にも体毛があった、ということになるでしょう。 
恐竜と人間は共存していた
「恐竜は、今から四五〇〇年前においても生きていた。恐竜と人間は共存していたのである」というこの考えを支持する証拠は、ほかにもあるでしょうか。
アリゾナ州のハバスパイ渓谷にある古代の岩絵には、二足歩行をする恐竜の姿が描かれています。インドのデカン高原にあるビーム・ベトカーの岩山の岩絵には、頭部に人間のまたがった恐竜の姿が発見されています。
また、米国テキサス州のパルクシー川流域には、干し上がった石灰質の川原に、「恐竜と人類の足跡の交差した」化石が、何か所も発見されています。
さらに、恐竜が比較的最近まで生きていたことを示す、興味深い事実があります。一九八二年、アフリカのニジェールで、恐竜ウーラノサウルス・ニゲリエンシスの骨格が発見されました。
しかも、発見されたこの骨は、バラバラになった状態ではなく、驚いたことに完全骨格の状態で発見されたのです。骨は非常にフレッシュな状態でした。
すぐさま米国カリフォルニア大学、アリゾナ大学、アメリカ地質調査所、ロサンゼルス博物館、ページ博物館、東京大学の各所で、"炭素一四法"などによって年代が測定されました。その結果は、わずか約一〜七万年前のものと出ました。
これに限らず、他の恐竜であっても、その化石を炭素一四法によって測った結果は、後述するように古いものであっても、じつは"数万年前"としかでないのです。
しかも"数万年前"というこの炭素一四法の数字でさえ、真の年代よりも古く出てしまっていると考えるべき理由があります。後述するように、炭素一四法による測定結果は、とくに大洪水以前のものを測ったような場合は、真の年代よりも古く出てしまうからなのです。
(一般に進化論者が主張している恐竜の年代「六五〇〇万年前」は、カリウム・アルゴン法によるものです。しかしカリウム・アルゴン法は決して正確ではなく、むしろ真の年代とは何の関係もない年代を出すことが知られています。これについても後述します。)
恐竜は、進化論者の主張しているように大昔に絶滅したのではなく、比較的最近まで生きていたのです。 
恐竜を見た人々
さらに、ある種の恐竜は大洪水の頃までではなく、さらにもっと最近まで生きていたと思える証拠もあります。
人類の古い記録の中に、しばしば、恐竜としか思えない動物の目撃記録が数多く記されているのです。『恐竜のなぞ』(SAVE新日本視聴覚伝道刊)というビデオに、次のようなことが紹介されています。
紀元前四世紀に、ギリシャのアレクサンドロス大王がインドのある町を征服したとき、大王は、その町の人々が、洞窟に棲んでいるある巨大な爬虫類を神として拝んでいるということを聞いて、その動物を調べにいきました。
すると、それは三〇メートルもある巨大な動物で、鼻息が荒く、その姿の恐ろしさに兵隊たちも驚き、おののいたと記されています。三〇メートルもある動物といえば、ウルトラサウルスのような恐竜を思い起こさせます。
また、一〇世紀のアイルランド人は、珍しい大きな動物に出会ったときのことを記録に記しています。その動物には、堅固なつめを持った太く恐ろしい足があって、しっぽには後ろを向いたとげがあり、また頭は馬のようであったと記されています。この姿は、ステゴザウルスにそっくりです。
また、フランスのナールークという町の名は、昔、人々が「竜」を退治したことを記念してつけられたものです。「竜」と呼ばれたこの動物は、刀のような鋭い大きな角を持ち、牛よりも大きな体で川に棲んでいたとされており、これはトリケラトプスの特徴と一致します。
さらに、一五〇〇年代に書かれた有名な科学の本の中にも、現実に今生きている珍しい動物として、「竜」(dragon)が紹介されています。
同じ頃に、博物学者ユリシーズ・アルドロバンダスの記した文献にも、こんな記録が載っています。
一五七二年五月一三日に、あるイタリヤ農民が、道で珍しい動物に出会いました。その動物は、その頃にはすでに数も少なくなっており、絶滅寸前にありました。
首の長いその動物は、シューシューと音を立てていましたが、農民はその頭を打って、殺してしまいました。この動物は、小型恐竜の一種タニストロフェウスによく似ています。
一方、空を飛ぶ恐竜も人々に目撃されています。
古代ギリシャの歴史家で探検家でもあるテオドトスは、エジプトで空を飛ぶ爬虫類を見た、と書物に記しています。「へびのような体で、コウモリのような羽を持っていた」とはっきり記しているのです。これは、タンフォリンクスによく似ています。
アメリカ・インディアンのスー族の先祖も、空飛ぶ恐竜を見たことがあるようです。スー族の先祖たちは、雷のなりわたるある日、空中で雷にうたれて空から落下するある巨大な鳥を見ました。
数日後、そこへ行ってみると、その巨大な鳥の遺骸が横たわっていました。その鳥は、足と翼の両方に大きなつめがあり、長く尖ったくちばしを持ち、頭には長いとさかのような骨がありました。そして翼を伸ばした全長は、約六メートルもあったのです。
この特徴は、まさにプテラノドンと完全に一致します。以後スー族の人々は、その鳥をサンダーバード(雷の鳥)と呼び、その話はインディアンの伝説として語り継がれるものとなったのです。
そのほか、ヨーロッパのアングロサクソン年代誌にも、空飛ぶ爬虫類の目撃記録があります。一六四九年のスイスの山でも、空飛ぶ爬虫類の発見が報告されています。
このように、恐竜は大洪水後もしばらくのあいだ生存し、ある種のものはつい最近まで生きていた、と思われます。
中国や、スカンジナビア、また他のヨーロッパ諸国等には、「竜」伝説が数多くあります。その「竜」として描かれた動物には、様々の形がありますが、その多くは、恐竜の姿に非常によく似ているのです。
世界の「竜」伝説の多くは、人類の恐竜の記憶をもとに、後世の人々の脚色が加わって出来上がった、と思われます。 
ノアの箱舟はどのような舟だったか
つぎに、ノアが建造した箱舟はどのような舟だったかを、見てみましょう。
聖書によると、箱舟は長さが約一三二メートル(一キュビト=四四センチメートルとして)、幅が二二メートル、高さが一三メートルでしたから(創世六・一五)、これは今日の大型客船に匹敵する巨大な舟だったことがわかります。
また箱舟は、航行の必要はなく、ただ浮けばよかったので、今日の船舶のような流線型ではなく、ほぼ箱型だったでしょう。長さ・幅・高さの割合は三〇・五・三で、形としては比較的細長く、また若干、平べったい舟でした。
船体は、短いほど安定が悪く、逆に長すぎれば、大波に乗ったとき真ん中から折れる危険があります。これは幅についても同様です。さらに、高さが高すぎても安定が悪く、低すぎても具合が悪いでしょう。
じつは、NTTの元会長であった真藤氏は、NTTに入る前には造船会社の社長をしていました。氏は大型船の理想的な形を研究するよう、研究チームに命じました。
その結果わかったことは、タンカー級の大型船にとって最も高い安定性と強度を持つ形は、長さ・幅・高さの比率が三〇・五・三の場合である、ということでした。
以来、造船界では、この比率は「真藤比」とか「黄金比」と呼ばれ、タンカー級の大型船の主流となったのです。
この比率は、ノアの箱舟の比率と同じなのです。ノアは、このように理想的な船を、ろくな造船技術もない時代につくりました。そこにはまさに、神の導きがあったとしか考えられません。
ノアの箱舟は長さ・幅・高さの比率が30:5:3であり、最も高い安定性と強度を持つ理想的な形だった。
箱舟は、上部には天窓、側面には戸口が設けられました。内部は三階構造に造られ、いくつもの部屋に区切られました。それらの区切り用に使われた材木は、箱舟を丈夫にするためにも役立っていたことでしょう。
材木としては「ゴフェルの木」が用いられ、防水用に、舟の内と外は瀝青(ピッチ、アスファルト)で塗られました。
このように箱舟は、大洪水に備えるために、きわめてよく設計されていました。 
すべての種類の動物がそこに入ることは可能だったか
聖書によると箱舟の中には、すべての「きよい動物」(食用にしてよい動物)の中から雄と雌が「七つがいずつ」、「きよくない動物」(食用にしてはいけない動物)の中からは「一つがいずつ」、空の鳥の中から「七つがいずつ」が入りました(創世七・二〜三)。こうして陸上動物と鳥のあらゆる種類が箱舟に入れられた、と記されています。
しかし、今日世界に生息している動物の種類は、はなはだ多く、はたしてすべてが箱舟に入りきれたのか、という議論がしばしばなされます。
たとえば、犬をひとつ例にとってみても、シェパード、セントバーナード、チン、秋田犬、その他さまざまな種類があります。猫や馬、牛、猿、象、また鳥などにおいても同様です。
ですから、それらすべての種類を、箱舟に入れようとしたのでは、とうてい入りきらなかったでしょう。しかし、ノアはそのようにする必要はありませんでした。
彼は、動物の各種類の代表だけ入れればよかったのです。生物は、おのおの自分の内に「遺伝子プール」というものを持っており、子孫が代々増え広がっていく際に、様々に「変異」していくことが可能だからです。
先ほどのシェパード、セントバーナード、チン、秋田犬などは、外見がかなり異なってはいますが、同一の「種」に属するもので、同一の先祖からの様々な「変異」の結果であることが、生物学的に知られています。
人の「三大人種」(黄色、白色、黒色人種)なども、人が同一の先祖から変異して分かれた結果です。
聖書によれば、箱舟に乗った人々はノアとその妻、および三人の息子たちとその妻たちだけでした。ですから、現在の人類はすべて、ノア夫妻の子孫であることになります。
彼らから、現在の人類、そして三大人種が出てきました。ノア夫妻の「遺伝子プール」の中には、多様な人種を生み出す要素が含まれていたのです。
「変異」というのは、犬、猫、人など、一つの「種」内で、生物の性状が様々に変化できることを言います。しかしこの変化は、「種」を飛び越えて起きることはありません。生物は、同じ「種」の範囲内に限って、様々に「変異」することが可能なのです。
ですからノアは、箱舟に、動物の各種類の代表を入れれば充分でした。今日の世界に見られる動物の多様性は、箱舟に入れられた代表の動物たちからの「変異」によって生じたもの、と考えることができます。
また、ノアは箱舟に、水生動物や両生類を入れる必要はありませんでした。植物も入れる必要はありませんでした。陸生動物と、鳥だけを入れればよかったのです。
陸生動物や鳥たちのうち、羊よりも大きなものは、全部合わせても二百数十種にすぎません。他の動物たちはみな、羊よりも小さな動物です。
さらに、ノアは必ずしも、成体となった動物たちを入れる必要はありませんでした。スペースをとる大きな動物たちは、おとなではなく子どもを入れても、全くかまわなかったのです。とくに巨大恐竜などは、まだ若い子ども恐竜を入れてもよかったのです。
箱舟はまた三階構造になっており、充分な床面積がありました。したがって創造論に立つ科学者は、箱舟は、すべての陸生生物や鳥の代表動物たちと食糧を入れるのに、充分なスペースであったと考えています。
神はノアの箱舟に、長さ・幅・高さの比が三〇・五・三という、理想的な形をお与えになりました。ですから神はまた、動物たちを集めてきて箱舟に乗せる際にも、ご自身の見えない御手によって、動物たちを秩序のうちに導かれたことでしょう。
また、箱舟内でも彼らに秩序と平静をお与えになりました。こうして箱舟によって生き残った動物たちや、ノアの家族たちから、大洪水後の生態系が新形成されたのです。 
箱舟は発見されたか
聖書によると、箱舟はアララテ山(現在のトルコ、アルメニア地方にある)に漂着しました。
この山のふもとには、ナクスアナ、またはナキチュパンという町があり、ノアの墓だと言われています。この町名は、「ここにノアが来て住んだ」という意味です。
ある出版物が報じたところによると、ロシア革命(一九一七年)の起きる直前に、ロシアの飛行家が、近づき難いアララテ山上の氷河に、巨大な舟の残骸を見たと発表したとのことです。
当時のロシア皇帝は彼らの報告を受けて、探検隊を組織し、隊員は舟を発見して、大きさをはかり、作図し、撮影しました。しかしその頃、ロシア政権は無神論革命者に打倒され、それらの報告はついに出版されませんでした。
また一九五四年に、フランスの登山家フェルナン・ナヴァラは、アララテ山の標高約五〇〇〇メートル付近の万年氷の下から、箱舟の材木の一部を切り取って持ち帰ったと主張しました。
彼はこの木材について「わたしはノアの箱舟を発見した」と題する本に発表し、話題をふりまきました。木材の年代は、マドリード山林学調査研究所、およびボルドー大学自然科学部等の調査によって、約五〇〇〇年前ないし三〇〇〇年前と推定されました(ノアの大洪水は約四五〇〇年前)。
その後も、箱舟らしいものを撮影したという報告が、いくつか届けられました。しかし、箱舟はアララテ山に起きた地震のために、現在は地中に埋もれてしまっているのではないか、という議論をする人もいます。
いずれにしても、多くの人々を納得させられるだけの決定的な証拠は、まだつかめていません。
アララテ山の登山や調査には、政治的な問題もからみ、また標高五六一五メートルもあるこの山の山頂付近が常に氷に閉ざされていることが、それを困難にしています。早期に本格的な調査が行われることが期待されるところです。 
八人の人々から現在の人口になるのは可能か
世界の総人口は、一九八七年に五〇億人を突破しました。では、大洪水から現在に至るまでの期間に、箱舟によって生き残った八人の人々(ノアとその妻、三人の息子たちとその妻たち)からこの人口にまで達することは、はたして可能だったでしょうか。
大洪水を今から約四五〇〇年前であるとして、その間に人口が八人から五〇億人に増加したとすると、人口は約一五〇年ごとに二倍になってきた計算になります。これは可能だったのでしょうか。
世界総人口は、二〇世紀においては、一九二〇年代半ばに二〇億ほどだったものが、わずか約五〇年後の一九七四年には、二倍の四〇億になりました。また、一九六〇年に三〇億だった総人口は、わずか約四〇年後の一九九九年に二倍の六〇億人に達するであろう、と予測されています。
二〇世紀には、二度の世界大戦があって、多くの人が戦死しました。それなのに、二〇世紀における人口増加は、このように急激だったのです。
つまり、それ以前の時代の増加率がもっとゆっくりであったとしても、大洪水から現在までの時間は、今日の人口を生み出すのに充分な時間だったと言えるでしょう。 
樹木の年齢と大洪水
今日、地球上で最も長生きの生物は、樹木です。
アメリカに生息するメタセコイアという巨木は、樹齢数千年におよぶものがザラです。アメリカにはこの巨木の森があって、どの木も直径が一〇メートルほど、また三〇センチもある松ぼっくりが、地面のあちこちに落ちています。その森に入ると、人間は自分が"小人"になったかのような錯覚に陥ります。それほどの巨木の森があるのです。
樹木というものは、本来どのくらいの寿命を持っているのでしょうか。樹木には、基本的には「寿命」というものがない、とさえ言われます。生物学者は、樹木は条件さえ整えば数万年生きてもおかしくはない、と述べています。
しかし現在の地上において、最高齢の樹木は、約四五〇〇歳です。それは米国カリフォルニア州の山麓に今も生きている、アリスタータ松です。世界中を見渡し、ドリルで抜き取った中身の年輪を数えても、これより古い樹木は存在しません。この松こそ、地上で最も古い、最長寿の生物です。
これは考えてみると、不思議なことです。条件さえそろえばいくらでも寿命をのばすことのできる木であるのに、最高齢は約四五〇〇歳で、それ以上は存在しません。
じつは、四五〇〇年前というと、ちょうどノアの大洪水があった時です。大洪水は全世界をおおい、すべての樹木をなぎ倒しました。ですからノアの大洪水があったとすれば、四五〇〇歳以上の生物が存在しないことは、当然のことと理解されます。
アリスタータ松は、大洪水の直後に土中から芽を出したのでしょう。 
メソポタミヤの洪水堆積層について
ノアの大洪水について、大洪水はチグリス・ユーフラテス河流域に限られる局地的なものだったという"局地洪水説"、および全世界的なものだったという"全世界洪水説"がある、と述べました。これについて、少し補足しておきましょう。
局地洪水説の根拠の一つは、チグリス・ユーフラテス河流域で広範囲に発見されている"洪水堆積層"です。考古学者のウーリー博士やラングドン博士は、チグリス・ユーフラテス流域の町であるウルや、キシュ、ファラ、ニネベ等を調査し、そこで厚さ数メートルの、遺物の混在しない堆積性の堅い水成層を発見しました。しかもその層の下には、別の都市の廃虚があったのです。
その層は四八〇キロ×一六〇キロにおよぶ広範囲な大洪水によるものである、と推定されました。博士らは、これはノアの大洪水によるものに違いないと主張したのです。
この"洪水堆積層"は、全世界洪水説の立場からは、どのように理解されるのでしょうか。全世界洪水説の考えでは、この洪水堆積層はノアの大洪水以後に、チグリス・ユーフラテス河の氾濫によって出来たものに過ぎません。
ノアの大洪水は、上空の水蒸気層が大雨となって落下することに始まり、全世界に地層を形成しました。メソポタミヤの洪水堆積層は、ノアの大洪水によって出来たこの地層の上に、チグリス・ユーフラテス河の氾濫によって形成された堆積層にすぎません。
ノアの大洪水がもし局地的なものだったならば、「すべての高い山々をも覆いつくす」ことは不可能だったでしょう。また、局地的なものならノアが箱舟を建造する必要は全くなく、彼は単に洪水の及ばない地域に避難すれば良かったのです。
さらに、洪水伝説は世界中に見られること、地層の出来方や化石は大洪水の考えによってよく理解されること、などを考えあわせれば、ノアの大洪水が全世界的なものだったという考えは最も妥当であると、私たちは知るのです。 
第5章 人類と地球の年齢

 

人類の年齢は数百万年か
最後に、人類、および地球、宇宙の年齢、すなわち、それらが誕生してから現在まで一体どれぐらいの年月がたっているのか、という問題を検討してみましょう。
これらの年齢の問題については、進化論者と創造論者との間に、大きな論争があります。進化論者によれば、宇宙、地球および人類の年齢は、どれくらいと言われているのでしょうか。ある進化論の解説書には、こう書かれています。
「一五〇億年ほど前にビッグ・バンがあって、宇宙が始まった」(カール・セーガン著『コスモス』第3巻40頁)。
「地球は約四五億年前に誕生した」(同70頁)
「いまから二百数十万年前になって、わたしたちの人類の祖先がついに誕生した」(同94頁)。
しかし、これらの膨大な数字は、いったいどれだけ信頼に値するものでしょうか。本書では、まず人類の年齢について、次に地球、宇宙の年齢について検討していきましょう。
現在よく使われる年代測定法の一つに、「炭素一四(C-14)法」と呼ばれる測定法があります。これは、ウォレット・レビーが考案したもので、彼はこのために、一九六〇年にノーベル賞を受けています。
創造論者もこの方法は高く評価しており、この方法は四千年前ぐらいまでのものならば、年代のわかっている考古学的文書や資料との比較によって、その信頼性が確認されています。レビーは、
「二組の年代(考古学的資料によってわかっている年代と、炭素一四法による年代測定結果)は、四千年さかのぼるところまで一致している」(トーマス・F・ハインズ著『創造か進化か』62頁)
と述べています。それ以上さかのぼる場合は、確かな考古学的資料がほとんどないので、その信頼性をチェックすることはできませんが、一般的に炭素一四法は、かなり信頼できる年代測定法と考えられています。
彼はこの方法によって、人類の化石を調べ、人類の年齢を推定しました。その結果はどうだったでしょうか。それは、人類の年齢として"数百万年"というような数字を出したでしょうか。
いいえ、決してそのような膨大な数字は出てきませんでした。『アメリカン・ジャーナル・フィジクス』に載せられた彼の論文によると、彼はその中で、人類の遺骸に関して到達できた年代は、いくら長くみても二万年から四万年位である、と結論しています(『マハナイム』9号4頁)。
E・ハロンクウィスト博士も、炭素一四法で調べられた様々な標本について、次のように述べています。
「ホモ・サピエンスの最も古い化石の一つと考えられている頭蓋骨(進化論者が二〇〜三〇万年前と教えているもの)は、炭素一四法で、八五〇〇年を示したにすぎません。
アウストラロピテクスは、一〇〇万年前から二〇〇万年前のものとされていますが、アウストラロピテクスが発見されたと同じ位置の、エチオピアのオモ川渓谷の動物の骨の年代は、炭素一四法で、一万五五〇〇年を示したにすぎません。
ジャンジャントロプスが発見されたと同じ所の、アフリカのケニアのオルドバイ渓谷の哺乳動物の骨は、二〇〇万年前と報告されていますが、わずか一万一〇〇年を示したにすぎません」(『マハナイム』9号3頁)。
さらに、次のように述べています。
「炭素一四法の年代測定に関しては、(読者が)大学の図書館に行き、科学閲覧室で『Radiocarbon誌』を取り、自分で調べてみるならば、以上のことを裏付けることができます。この雑誌に記されている年代と、その調査結果をみると驚くでしょう。
いわゆる有史以前の化石の炭素一四法による年代測定が、数百人の科学者によってなされました。その中にはネアンデルタール人、クロマニョン人、ブロークンヒル人、マンモス、マストドン、犬歯がサーベル状に発達したトラ、及び他の絶滅動物ばかりでなく、化石の木、森、石炭、石油、天然ガスの年代もすべて含まれ、これらはわずか数千年の古さにすぎないことがわかりました」(同)。
これは、いったいどうしたことでしょう! 進化論者がとてつもなく長い年月を与えている化石も、炭素一四法によればどれも皆二万年以下です。
これは、桁を間違えているのではありません。
炭素一四法によれば、人類の年齢は、長くても二万年程度にすぎないのです。それでは進化論者は、いったいどこから"数百万年"という数字をもってきたのでしょうか。 
進化論者は進化論に合う結果を選び取った
一九六七年に発見された、化石化したひじの骨の小片について、新聞は、次のように伝えました。
「ケニヤで発見された骨は、人類の年齢が二五〇万年であることを示す」。
この「二五〇万年」という数字を、進化論者はどのようにして出したのでしょうか。
これは、「カリウム―アルゴン法」と呼ばれる年代測定法で出されたものです。この方法は、放射性同位元素を用いているということでは「炭素一四法」と同じですが、原理的には全く異なっています。
炭素一四法の場合は、直接、生物の化石を調べますが、カリウム―アルゴン法の場合は性質上それができないので、化石のなるべく近くの火山岩の年代を調べるのです。
カリウム―アルゴン法の与える年代は、その火山岩が冷えて固まった時の年代を、意味します。そして、その火山岩の年代をもって、その生物の年代とみなすわけです。
しかし、カリウム―アルゴン法による年代測定は、その信頼性に疑問がもたれています。カリウム―アルゴン法は、放射性カリウムの「半減期」を利用して年代を測るものですが、その「半減期」は一、三〇〇、〇〇〇、〇〇〇(一三億)年もあります。その膨大な時間をかけて、カリウムはその半分がアルゴンになるのです。
カリウム―アルゴン法は、このカリウムとアルゴンの割合を測って、年代を決めようとするものです。数千年前のものであろうと、数百万年前のものであろうと、この方法で年代を測定しようとすれば、「半減期」の数字が何桁も違うのですから、それはあたかも"時針しかない時計で秒をはかる"ようなものです。正確な数字は、とても期待できません。
また、この方法は幾つかの薄弱な仮定に基づいており、実際、今やこの方法による結果がきわめて不確かで、信頼性に乏しいことは、全世界から報告が入ってきています。東大の小嶋稔博士は、こう述べています。
「『カリウム―アルゴン法』は、往々きわめて古い、もちろん真の年代とはまったく関係のない年代を与える傾向のあることが、知られている・・・・(また)求められた年代が、岩石の真の年代なのかどうかのチェックが大変むずかしい、という欠点をもっている」(『地球史』120頁)。
例えば、ハワイのファラライ火山で一八〇〇年から一八〇一年に形成されたとわかっている熔岩を、カリウム―アルゴン法で測定した結果が、一九六八年発行のある学術雑誌に出ています。
カリウム―アルゴン法の半減期は一三億年もあるので、このようにわずか一七〇年前のものを測ると、その結果はほとんどゼロと出なければなりません。ところが、一億六〇〇〇万年ないし三〇億年前に形成されたと出て、どう取り扱ってよいかわからないと、報告しています(『マハナイム』9号4頁)。
また、一九六八年一〇月一一日付けの科学雑誌『サイエンス』は、二〇〇年に満たないとわかっている火山岩が、一二〇〇〜二一〇〇万年を示したと報告しています。同様な結果は、ノルウェー、ドイツ、フランス、ロシア等、世界各地から報告されており、カリウム―アルゴン法が、往々にして真の年代よりも、はるかに古い年代を示すことを告げています。
また、有名なリチャード・リーキー博士が発掘したアウストラロピテクス(「猿人」と呼ばれている最古の人類)にあてがわれた年代は、この方法を用いたもので、「二六〇万年前」とされています。ところが、年代測定の専門家E・T・ハル教授によると、最初調べられた時は、実は「二億二〇〇〇万年前」と出たということです。
しかしこれは、年代があまりに古すぎるという理由だけで拒絶され、別の岩石の標本が調べられました。この標本の年代は、もっと受け入れやすい年代「二六〇万年前」という数値を出しました。それで、この数値が採用されたのです(シルビア・ベーカー著『進化論の争点』93頁)。
このことにも表れているように、進化論者はつねに、自分たちの進化論に合う結果だけを選び取り、他の結果は無視してきました。しかし進化論者が採用した年代は、きわめて根拠に乏しく、信頼に値しないと言わなければなりません。 
人類の年齢は六千年程度
進化論者は、炭素一四法による結果が、彼らの進化論に合致しないことがわかると、カリウム―アルゴン法による結果をもってきて、それを採用しました。しかし、それはカリウム―アルゴン法による結果が信頼に値するとわかったからではなく、単にその結果が、長い時間を必要とする進化論の考えに合ったからに過ぎません。
進化論者には、一般に、きわめて長い年月を与える方法を受け入れようとする傾向があります。それは、人類がここまで進化するために長い年月を必要としたという考えに、とらわれてしまっているからです。へンリー・M・モリス博士の言っているように、
「進化論の証拠は、単に進化を前提としているにすぎない」
のです。進化論の「証拠」とされたものは、単に「進化は事実だ」という信仰に合うと見えるものが持ってこられたにすぎません。実際は、進化論に反する多くの証拠があるのです。
もし、人類が下等な生物から「進化」してきたのではなく、はじめから人間として「創造」されたのだとすれば、その創造が何百万年も昔であったと考える必要は、ないことになります。そして実際、そう考えた方が、知られている科学的事実をよく説明できるのです。
私たちの手元にある最も信頼できる証拠は、人類は生まれてから、まだそれほどの年月を経ていないことを示しています。じつは、さきほどの炭素一四法が与えた「数万年」という人類の年齢でさえ、真の年齢よりも大きくなってしまっている、と考えるべき理由があります。
炭素一四法は、四〇〇〇年くらい前までのものならば、あらかじめ考古学的に年代のわかっているものと照らし合わせることによって、その精度を高められています。しかし、四〇〇〇年以上さかのぼるものに関しては、考古学的に年代のわかっているものがほとんどないので、その精度の確かさを知ることができません。
炭素一四法は、ある特殊な前提の上に立っています。その前提とは、
「大気中の炭素一四の量は、全時代を通じて一定だった」
というものです。もし一定であったなら、四〇〇〇年以上前のものでも正しい計算が出来ますが、もし一定でなかったならば、正しい計算はできません。
じつは、ノアの大洪水以前の地球における大気中の炭素一四の量は、現在よりも少なかった、と考えるべき理由があります。
先に述べたように、大洪水以前の地球の上空には、「大空の上の水」と呼ばれる広大な水蒸気層が存在し、地球と大気をおおっていました。この水蒸気層は、宇宙線の侵入をはばみ、宇宙線によって生成される炭素一四の量を、少なくしていたはずです。
当時の炭素一四の量が今より少なかったとすれば、年代を算出する際に、どのように影響するでしょうか。ある科学雑誌は、述べています。
「大気中の炭素一四が今より少なかったとすれば、その生物が生存していた時からの期間として我々が算出するものは、長すぎることになろう」。
つまり、大洪水前のものを炭素一四法で測ると、その結果は、真の年代よりも古く出てしまうことになります。したがって、人類の真の年齢は、先に述べた炭素一四法の示す結果「数万年」にさえも及びません。
人類の創造は、聖書の文字通りの解釈によれば、今からおよそ六千年前です。炭素一四法による結果は、聖書のいう人類の年齢六千年という数字を、ほぼ支持していると考えてよいでしょう。 
地球は若い
次に、進化論で「四五億年」ないし「四六億年」と言われている地球の年齢については、どうでしょうか。創造論に立つ科学者らは、人類の年齢と同様に地球も非常に若い、と考えています。その証拠とされる幾つかの事実を、見てみましょう。
(一)宇宙塵の堆積年数
まず、「宇宙塵」について見てみましょう。
「宇宙塵」とは、宇宙のチリであり、非常に小さな隕石であって、宇宙のあらゆる方向から、つねに地球や月にゆっくり降り注いでいるものです。この「宇宙塵」の量は、地球も月もきわめて若いことを示しています。
宇宙塵の降り注ぐこの速度は、概算では大体のことがわかっています。しかし、地球には大気や海があり、地表には常に動きもあるので、地球創生時から現在までに降り積もった宇宙塵の量を測定することは困難です。
しかし月には、大気も海もなく、表面に動きもないので、月面に降り積もった宇宙塵は、月の創生時から現在までのものがそのまま積もって、残っているはずです。
進化論者は、月の年齢は地球と同じく約四五億年と考えています。それで彼らは、月面の宇宙塵の量は数十メートルにも達しているだろうと考えていました。
実際、アポロ宇宙船に乗って人類初の月面着陸を果たしたニール・アームストロング船長は、あとでテレビのインタビューを受けたとき、最初に何を思ったかと聞かれて、こう答えました。
「私は最初に、チリの中に埋もれてしまうのではないかと思いました」。
彼は「古い宇宙」という考えと、進化の考えを教え込まれていたのです。しかし実際は、彼はチリの中に埋もれてしまったりはしませんでした。月面の宇宙塵は、数ミリしかなかったのです(『インパクト』29号3頁)。月はきわめて若かったのです。
月がそうであれば、地球もそうです。地球も若いのです。米国テキサス大学教授ハロルド・S・スラッシャー博士は、言っています。
「宇宙塵の堆積年数は、数十億年というより、むしろ五〜六千年にしかならないことがわかります」(『インパクト』29号3頁)。
(二)彗星が存在すること
第二に、太陽系内に彗星が存在するという事実を見てみましょう。
彗星は、太陽のまわりをまわっている星です。その大部分は氷で出来ていると考えられています。それが太陽の近くを通り過ぎるとき、太陽風(太陽からの放射線)に表面を吹き飛ばされて、尾を引いて見えるのです。
有名なハレー彗星は、大きな長い楕円形を描いて太陽のまわりをまわっていますが、七六年ごとに太陽の近くを通過するので、その尾を引く光景は地球からもよく観察できます。
彗星は、この尾を引くときに、自分の持つ物質をしだいに失っています。つまり、年月がたてばたつほど、彗星は小さくなっていくのです。
彗星は、どのくらいの期間で小さくなり、なくなってしまうのでしょうか。彗星は最大で一〇万年程度、またたいていの彗星は一万年程度でなくなってしまう、という計算結果が出ています(ラッセル・ハンフリーズ著 "Evidence for A Young World" Creation Science Foundation)。
ですから、もし進化論者のいうように太陽系の年齢が四五〜五〇億年もあるとすれば、現在においてなおも系内に彗星が存在するという事実は、本当に不思議です。
実際、進化論者らは、太陽系のはるか端のほうに、地球からは観測できない所に"彗星のもとになるものが存在しているのだ"という仮説を提出しています。そのような仮説でも立てなければ、彗星が今も存在するという事実を説明できないからです。
しかし、"彗星のもとになるもの"は観測されたことがなく、また理論的にもそのようなものが存在するということは理解しがたいことです。
ですから、彗星が今も存在している事実は、太陽系がきわめて若いことを示していると創造論者は考えています。
(三)大気中のヘリウムの含有量
大気中のへリウムの含有量に関する考察も、地球が若いことを示しています。
ヘリウムは、地殻の岩石などの中にある、放射性物質のウランやトリウムの崩壊の際に、たえず生成され、大気中に放出されています。大気中のへリウム含有量、また岩石からのへリウム噴出率と、その他の要因を考慮すると、大気、および地球の年齢を推定できます。
その結果について、デュアン・T・ギッシュ博士とリチャード・B・ブリス博士の論文には、次のように記されています。
「放射能崩壊からへリウムが大気に加わる率で測定するなら(たとえへリウムが、いくぶん逃げたと考えても)、地球の年齢は約一万年です」(『インパクト』56号3頁)。
(四)海への流入物
進化論者も、創造論者も、海は地球誕生の直後に形成されたと考えています。海の年齢は、地球の年齢とほぼ同じであるはずです。
海には塩分が含まれています。塩分は、川から海に塩分が運ばれて流入することにより、徐々に増えています。もし、過去においても現在と同じ速度で塩分が流入したと仮定して計算するなら、海の塩分がゼロから現在の濃度に達するまで、どのくらいの時間がかかったと出るでしょうか。
その結果は、炭酸塩について言えば、一〇万年、硫酸塩について言えば一〇〇〇万年でした。どちらも、進化論者のいう地球の年齢四五億年にはほど遠い数値です。
しかも、これらの「一〇万年」「一〇〇〇万年」という数字は、上限値と考えられるものなのです。最高でもそのくらい、という数字であって、実際はもっと小さいという数字です。
なぜなら、これは過去においても現在と同じ速度で塩分が増加してきたと仮定して出した数値であって、実際は、過去には現在よりも塩分の流入速度が大きかったはずだからです。
現在は、塩分をかなり出し切った状態にあると考えられます。ですから昔は、川から海への塩分の流入量は、現在よりも多かったでしょう。そうであれば、海の年齢は一〇万年にさえも達しないはずです。
さらに、海の年齢がもっと若いと考えるべき理由があります。
創造論者は、ノアの大洪水のときに、全地が激しく洗われたと考えています。この説に立つなら、そのとき海への塩分の流入は激しく起こったでしょう。ですからこの場合、海の年齢が一万年以内だという考えは、納得のいくものとなります。
そのほか、川から海への流入物質に関する調査が、他の諸物質に関しても幅広く行なわれました。海へのニッケルの流入、ケイ素、カリウム、カルシウム、銅、水銀、鉛、錫、亜鉛、コバルト、そのほか数多くの物質の流入量に関して調査がなされました。それらはみな、海がきわめて若いことを示していたのです。
また海の土砂の堆積物も、地球が若いことを示しています。
科学者の見積りによると、毎年約二七〇億トンもの土砂などの堆積物が、川によって陸から海に運ばれ、海底に移動しています。現在、海底の火山岩の上に堆積している堆積物はどのくらいあるかというと、厚さにして、平均八〇〇メートルくらいです。
そこで、堆積物が海に運び込まれる速度が全時代を通じて一定だったと仮定して、現在海洋にあるすべての堆積物が堆積するのにどのくらい時間がかかったかを計算すると、その結果は「約三千万年」です。
しかしこれは、堆積物が常に現在と同じ速度で、ゆっくり堆積していったと仮定したときの値であって、実際はノアの大洪水の時に、堆積層の大半が形成されたと考えられます。ですから、期間はもっと縮められなければなりません。スチュアート・E・ネヴィンスの言っているように、
「海洋は、約一万年、またはそれよりも、もっと若いものと信じるのは、たいへん理にかなっている」(『インパクト』9号5頁)のです。したがって地球の年齢も、その程度と考えられます。
(五)地球磁場の減衰
地球の磁場の研究も、地球の年齢が一万年以下であることを示しています。
よく知られているように、地球は一個の巨大な磁石になっています。この地磁気があるために、登山家は霧におおわれた中でも、コンパス(磁石)を用いて方角を知ることができます。
地球の磁場は、一八二九年に初めて測定されて以来、毎年測定されてきました。この測定結果は、磁場が少しずつ減衰していることを示しています。
地球の磁場は、一八二九年以降、今までの間に約一四%も減衰しているのです。これはかなり急速な減衰です。
では一八二九年以前も、地球磁場は減衰していたのでしょうか。
減衰していました。それは古磁気学によって知られます。考古学者が研究した煉瓦、陶磁器、キャンプファイアーの石、そのほか人と関係のある物体の磁化に関する研究です。
それらの物体の中の酸化鉄は、それらが最後に常温に冷却されたときの地球磁場の強さと方向を記録にとどめています。
世界的に収集された古い磁気を帯びた物のデータにより、西暦一〇〇〇年頃の地球磁場の強さは、今よりも約四〇%も強かったことがわかりました。さらに、紀元頃の地球磁場は、今よりも五〇%も強かったのです。
しかし、それ以前はというと、地球磁場は何回も反転したりして大きく変動したことがわかっています。これは、岩石の生成時に閉じこめられた磁力を研究する、古地磁気学によっても知られています。
古地磁気学は、地球の地層が形成されたときに、磁場に何回も変動や反転があったことを示しています。
進化論者は、こうした現象を説明するために、四〇年以上にわたって「ダイナモ理論」と呼ばれる説の研究に従事してきました。しかし、これは大きな成果が得られませんでした。さらに、最近になって行なわれた海底の電流の測定結果は、ダイナモ理論を否定するものでした。
これに対し、最近アメリカの著名な科学者で創造論者であるラッセル・ハンフリーズ博士が提出した新理論(ダイナミック減衰論)は、地球磁場の変動をよく説明しています。
ハンフリーズ博士の説は、かつて天王星と海王星の磁場の予測にも適用され、その正しさが、アメリカの惑星探査機ボイジャー二号によって実証されました。
進化論者は、天王星の磁場は全くないか、非常に小さいだろうと予測していたのですが、ボイジャー二号が一九八六年に天王星の近くを、また一九八九年に海王星の近くを通過したときに送ってきたデータは、ハンフリーズ博士の説と一致していたのです。
詳細な理論の説明は省きますが、博士によると、地球創造時に磁場は最も強い状態にありました。しかし、次第に一定の割合で減衰していきました。
紀元前二五〇〇年頃のノアの時代になって、全世界的な大洪水が地球表面に起きると、地球内部にも流体の乱れが生じ、それが磁場の急速な反転や動揺を引き起こしました。そして、そののち二千年以上にわたって、地球磁場に上下の変動を生じさせたのです。
この磁場の変動は、大洪水によって全地に形成された地層の中に、岩石の地磁気記録として残りました。
しかしキリストが降誕された紀元頃の時代になると、地球磁場は本来の自然な状態に落ち着きました。そして以後は、現代に至るまで、一定の割合でなめらかに減衰し続けているのです。
ハンフリーズ博士の理論は、進化論者の説明できなかった地球磁場の反転や変動の仕組みを、うまく説明しました。
博士によると、地球磁場は大洪水の時の乱れにより一時的に反転や、多極化等の変動を起こしたものの、確実に全体の磁場エネルギーを減らしつつあります。もし、過去にさかのぼって、地球磁場の限界に至るまでの年代を概算するなら、それは「最大で八七〇〇年」です。
もしそれ以上過去にさかのぼると、地球磁場は、あり得ないほどに大きくなってしまうのです。ですから、地球の年齢は最大でも八七〇〇年であり、実際はもっと若い、ということになります。
この年齢は、聖書のいう地球の年齢約六〇〇〇年という数字とよく一致しています(『インパクト』一七六、一八八号)。
(六)大気中の炭素一四の量
つぎに、大気中の炭素一四(C-14)の量が、地球の年齢は一万年以下であることを示しています。
炭素一四は、放射性同位元素と呼ばれるものの一種で、大気中にある窒素一四に宇宙線(宇宙からの放射線)がぶつかることによって生成されます。
炭素一四は徐々に放射能を出して崩壊し、しだいに炭素一二に変わっていきます。炭素一四の半分が炭素一二に変わるまで、約六〇〇〇年の時間がかかります。この時間は、「半減期」と呼ばれています。
炭素一四は、大気中の窒素一四に高エネルギーの中性子がぶつかることにより生成され、大気中に少しずつ増えていきます。宇宙から飛んでくる中性子の量は時代を通じてほぼ一定と考えられるので、大気中の炭素一四の増加速度は、ほぼ一定です。
一方、炭素一四は放射性物質ですから、放射能を出しながら崩壊し、減っていきます。この減る量は、もとの炭素一四の量が多いほど、それに比例して多くなります。
したがって、大気中の炭素一四の量は、ある程度までは増えますが、ある程度まで達するともうそれ以上は増えません。生成される炭素一四の量と、崩壊して減る炭素一四の量が、バランスがとれて平衡状態に達するのです。
これはちょうど、底に穴のあいた樽に、上から水を流し込むときに生じる現象に似ています。樽に水を流し込むと、中の水位はしだいに上昇していきますが、底に穴があいているので、出ていく水もあります。
それで、ある水位まで達すると、もうそれ以上は増えません。入る水と、出る水のバランスがとれて平衡状態になったからです。
大気は、炭素一四を入れる大きな樽のようなものなのです。
大気中の炭素一四は、窒素一四に中性子が当たることによって徐々に増え、一方では放射能崩壊によって減っていくので、やがてある程度たまって、もうそれ以上は増えない平衡状態に達します。科学者は、この平衡状態に約「三万年」で達することを知っています。
進化論者は、地球の年齢を約四六億年と考えていますから、このことを最初に考えついた人は、「大気中の炭素一四は、とっくの昔にこの平衡状態に達しているはずだ」と言いました。ところが、調べてみると、まだ平衡状態に達していなかったのです。
現在の大気中に存在する炭素一四の量から算定した結果は、地球が誕生してからまだ一万年くらいしかたっていないことを示していました。
進化論者も、この算定結果について知っています。そして頭をひねっています。しかし、創造論に立つなら、この事実は当然のこととして理解できるのです。
また、大気中の炭素一四の量がまだ平衡状態に達していないのなら、大洪水以前の大気中の炭素一四は、なおのこと少なく、まだ増加途中にあった、ということです。とすれば、先に述べたように炭素一四法で大洪水以前のものを測った場合、古いものを測ったときほど、真の年代よりもより古く出てしまう、ということになります。
つまり、炭素一四法の示した人類の年齢"数万年"は、なおのこと、真の年齢よりも大きすぎるのです。
人類の真の年齢は"数万年"よりもずっと若く、実際は聖書の言うように"六千年"程度でしょう。そして地球の年齢も同じくその程度、と考えられます。
(七)岩石は数ヶ月以内に形成される
つぎに、岩石や化石というものは、何億年もかけずとも、数か月というようなきわめて短期間に形成される、という事実にも私たちは注目する必要があります。
私たちは、堅い岩盤や、地層、また生物の遺骸が石化した化石等を見て、とかくそれらが形成されるには何億年もかかる、と思いがちです。しかし、実際にはそんなに膨大な時間は要しません。
岩石や化石などは、条件さえ整えば、自然界において数か月以内というきわめて短期間に形成されるのです。
たとえば、アメリカの創造研究所(ICR)の「創造と地球史の博物館」に、興味深い岩石が展示されています。この岩石は堅い砂岩で、アメリカのオレゴン州で発見されたものです。
この岩石には、自動車のキーが二本閉じこめられています。そのキーホルダーには、くさりの先にプラスチックの丸い飾りがついていたようで、それも岩石から半分顔をのぞかせています。
これらのキーは、一九六〇年代の車のものであることが判明しました。このように、岩石が形成されるには、必ずしも何億年もの膨大な年月は要しません。
岩石が形成される重要な条件は、圧力と、地層内の化学物質です。
土砂や、堆積物、沈澱物などが、安定した高圧力化に置かれると、それは数か月以内という短期間に岩石化します。この事実は、火山活動によって一九六三年に北大西洋上に新しく出現した島「サーチー島」でも、観測することができます。
そこでは、熔岩だけでなく、火山活動の土石流等でできた新しい堆積岩などが、崖となってそそり立っていたり、丸石となっている光景を見ることができます。きわめて短期間にそのようになったのです。
また、現代の技術は、炭の塊から短期間に人工ダイヤモンドをつくることができます。真っ黒な炭の塊をしばらく高圧力化に置くと、分子構造が変化して、透明なダイヤモンドになるのです。それをつくるのに、何万年とか何億年もの期間は要しません。圧力があれば、短期間に出来上がるのです。
また圧力だけでなく、地層内の化学物質の働きによっても短期間に堅い石となります。いい例がセメントなどですが、液状のものが化学物質の働きにより急速に岩石化するのです。実験では、ビーカーの中でオパールなどの宝石を数か月以内につくることに成功しています。
自然界で岩石ができたり、化石ができたり、宝石ができたりするために、何億年もの時間は要しません。それらは、きわめて短期間に形成されるのです。私たちは岩石や化石、宝石等を見たとき、それが形成されるのに何億年もかかったという先入観は捨てなければなりません。 
進化論者は「長い時間」を求めた
では、地球が若いことを示すこのように多くの証拠があるにもかかわらず、なぜ進化論者は地球の年齢を「四五億年」ないしは「四六億年」だと主張するのでしょうか。
二〇世紀初頭において、多くの科学者たちは、海の塩分濃度や地層の厚さに関する研究から、地球の年齢の「上限値」を算出していました。それによって、二〇世紀初頭の科学者たちは、地球の年齢をどの程度と考えていたでしょうか。
一九二四年に、地殻の化学組成研究の開拓者クラークは、こう述べていました。
「化学的、古生物学的、天文学的研究は、地球の年齢として、一致して五〇〇〇万年〜一億五〇〇〇万年を与える」(『地球の歴史』28頁)。
つまり、二〇世紀初頭において科学者は、地球の年齢は多くてもこの程度と考えていたのです。しかし、進化論に対する信仰が広まったとき、科学者らは、この数字でさえも地球の年齢としては小さすぎる、と考えるようになりました。
その程度の時間内に、生命が生まれ、さらにはアメーバのような生物から人間にまで進化できるだろうか、と考えたのです。それで進化論者は、もっと長い年月を与える年代測定法を探し求めました。
二〇世紀中葉になって、「放射性同位元素」による年代測定法が考え出されました。この方法には、先に述べた炭素一四法のほかに、カリウム―アルゴン法、ウラン―鉛法、ルビジウム―ストロンチウム法、アルゴン―アルゴン法、鉛―鉛法などがあります。
これらの中で、炭素一四法だけは生物の化石を直接調べる方法ですが、他はすべて"岩石の年齢"を測る方法です。
岩石の年齢を示す放射性同位元素の方法が考え出された時、進化論者たちは、その結果を熱狂的に受け入れました。それらは数値的にはひどく「不一致」でしたが、地球の年齢として"数十億年"という大きな数値を出したからです(『地球の歴史』38頁)。
進化論者は、この結果をひじょうに喜びました。進化論は、どうしても「長い時間」を必要とします。「宇宙や生命は、長い時間をかけて進化してきた」は、進化論者にとって一種の信仰告白であり、彼らは、その考えを支持すると見える証拠を探し求めていたのです。
まず進化論の教義があり、次にそれに合うデータがもってこられました。これについては、進化論者自身が、こう述べています。
「注意すべきことは、地質学的データが集積したので、いつともなく地球の歴史がたいへん長いことがわかってきたという順序ではないことだ。実は逆で・・・・仮説が先に出てきたのだ。この仮説は、データによって十分に証明されたとは言えない、一つの仮定的な思想だった。・・・・データの方が、その考えに合うように解釈された」(『地球の歴史』26頁)。
このように、「進化は事実だ」という教義がまずあって、次に、その考えに合う証拠が選ばれて受け入れられました。数十億年という長い年月を与える放射性同位元素法が、進化論者の間で熱狂的に歓迎されたのも、そのためです。
ICR(創造調査研究所)総主事へンリー・M・モリス博士は、その著『創造の科学的論証』の中で、考えられる様々な方法で地球の年齢を計算した結果を、表にして載せています。そこには「七〇通り」もの方法による計算結果が載せられていますが、その結果について、博士は次のように述べています。
「(これらの結果の)すべては、進化モデルに適合させるには、あまりにも若い年代となっています。放射性同位元素の崩壊を指標として調べうる非常にわずかの系(ウラニウム、カリウム、ルビジウム)だけが、数十億年の年代を示しているように思われます・・・・」(54頁)
このように、地球の年齢に関する数ある計算方法のなかで、わずかにウラン、カリウム、ルビジウムなどの放射性同位元素を使った測定法だけが、長い年月を示しているのです。そして進化論者は、長い年月を与える測定方法だけは受け入れ、短い年月を与える他の多くのデータは、「どこかおかしい点があるのだ」で、かたづけてしまいました(『地球の歴史』42頁)。
しかしモリス博士は、「すべての点を考慮して、そのさし示す下限の値から得られた年代の方が、上限の値から得られた年代よりも正確なように思われます」(『創造の科学的論証』54頁)と述べ、その理由をいくつか述べています。また、次に示すように、放射性同位元素の与える大きな数値も、仮定事項の検討次第では、大きく書き替えられる可能性があります。 
いわゆる「有史以前」は存在しなかった
進化論に立つ人類学によると、人類の歴史は一般に、「歴史時代」と「先史時代」の二つに分けて考えられています。
「歴史時代」とは、文字で書かれた記録で知ることのできる時代のことで、大体、都市文化(文明)がみられるようになった頃からの時代です。現在、最古の文字使用は五千年ぐらい前と言われていますが、世界最古の文明であるメソポタミヤ文明等は、今からおよそ六千年ほど前に始まったと言われていますから、大体、歴史時代はその頃からと言ってよいでしょう。
歴史時代は、長くても六千年程度ということになります。そして進化論的人類学によると、それ以前にひじょうに長い「先史時代」、あるいは「有史以前」と呼ばれる時代があったとされているわけです。
しかし、「先史時代」「有史以前」というような時代は、本当にあったのでしょうか。
今まで見てきたように、人類や地球は、進化論で考えられていたよりずっと若く、何十億年というような長い歳月は経ていません。下等な生物から人類へと"進化"してくるほどの長い時間は、存在しなかったのです。
人類は、下等な生物から"進化"して、今日のような姿になったのではありません。人類は、何千年か前――おそらく約六千年前に、他の生物と同様、独自に創造されて出現したのです。
人類は誕生とほぼ同時に「歴史時代」に入ったのであり、人類にとって「有史以前」というようなものは存在しませんでした。聖書によれば、人類は誕生当初から、ある程度の文化文明や文字をもっていたのであり、当初から、文字で書かれた記録によって知ることのできる「歴史時代」だったからです。 
人類は当初から「歴史時代」だった
例えば文字の原始的形態は、聖書によれば、アダムの最初の息子カインの時に、すでにありました。カインが殺人の罪を犯して追放されたとき、神は「彼に一つのしるしをつけられ」(創世四・一五)ました。この「しるし」が、どのような形であったにせよ、それが文字の起源になったことは疑い得ません。
そして文字が実際に使用され始めたのが、かなり古くからであることは、アダム以来の歴史が細かなところまで記録されていて、それが後に編集されて聖書となった、という事実からも明らかでしょう。このように聖書によれば、文字は、人類のきわめて初期からあったとみることができます。
様々な文化も、当初からありました。アダムとエバは堕落後、神から「皮の衣」を与えられ、それ以来衣服を着る習慣を身につけました。
また「カインは土を耕す者となった」(創世四・二)と記されていますから、農耕はもちろん、「耕す」ための、おそらく石器の道具も、自分で作ることをすでに学んでいたでしょう。
アダムとエバも、自分たちの裸を恥じた時、「いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた」(創世三・七)というように、ものを加工して役立てる知恵をもっていたのですから、すでに道具を作ることを知っていたはずです。
さらに聖書によれば、アダムの第二子アベルは「羊飼い」となりましたし、アベル以後も、ヤバルが家畜を飼うようになりましたから、早くから牧畜文化がありました(創世四・二、二〇)。
都市文化も、早くから成立しました。カインは追放されて後、アダムとエバが後に生んだ女子が成人した後に、結婚して子孫を増やし、「町を建て」(創世四・二一)ました。
また紀元前三五〇〇年頃には、すでにカインの子孫のユバルは、琴や笛などの音楽文化の祖となりましたし(創世四・二一)、トバルカインは青銅器、鉄器文化の祖となっていました(創世四・二二)。
このように聖書によれば、人類は誕生当初から、様々な文化文明をもっていたのであり、早くから都市文化を築くことを知っていました。すなわち人類は、はじめから歴史時代だったのです。
また一般的に知られている歴史時代の内容と、聖書に記された歴史時代の内容とがよく一致していることも、注目すべきことです。様々な考古学的事実は、問題なく、聖書の記している歴史時代の内容を裏付けており、また細部をより明確化することに役立っているのです。 
第6章 宇宙の年齢

 

超新星は宇宙が若い証拠
ここで、宇宙がきわめて若いことを示す一つの重要な証拠を見てみましょう。それは「超新星」に関する研究です。
超新星とは、突如ものすごいエネルギーで爆発し、非常に明るく輝き出す星をいいます。
「超新星」というと"新しい星が誕生するのか"と思う方もいるかもしれませんが、これは誕生というよりはむしろ、星の最期の姿です。
太陽よりはるかに重い星が自己崩壊し、爆発して周囲に飛び散り、非常に明るく輝くという、終末期の星の姿なのです。
この超新星に関する最近の研究結果は、宇宙が従来進化論者によって言われていた一五〇億年というような年齢では決してなく、むしろ非常に若いものであることを、示しています。
超新星の有名な例の一つは、西暦一〇五四年に超新星爆発を起こして誕生した「かに星雲」(牡牛座にある)です。
現在の「かに星雲」の雲のように広がって見える物質は、かつての超新星爆発で周囲に飛び散った星の残骸です。飛び散った残骸が、雲のように見えているのです。
一〇五四年の超新星爆発のときの光は、非常に明るく、地球上の人々が肉眼で観測できました。昼間でもそれを見ることができ、数週間にわたって輝いていたと、当時の記録にあります。
また、つい最近でも、超新星爆発が見られたと報道され、話題になりました。
超新星は、どのようにして起こるのでしょうか。
ふつう私たちが夜空に見る輝く星――「恒星」はみな、巨大なガスの塊です。これらの星は、核融合反応によって、光を発し続けています。
核融合の燃料がある限りは、星は安定して存在し続けます。星は重力によって収縮しようとしますが、星の内部の核における巨大な核融合エネルギーが外向きに発せられているので、それらがつり合い、バランスを保って、星は安定して存在し続けます。
ところが、核において核融合の燃料が切れると、もはや収縮しようとする重力の巨大な力を制しきれなくなります。これが星の寿命なのですが、星の寿命は重い星ほど短くなります。
寿命が来ると、まず星の核がつぶれ、つぎに核の外側部分も、追って突然収縮してきます。それは非常に急激な速度であって、二秒程度で収縮してしまい、中心近くで激しくぶつかり合います。
そのため、この星は大爆発を起こすのです。周囲に物質を飛び散らし、非常に明るい光を放って死にます。このときの華々しく見える姿が、超新星と言われているものなのです。
さて、超新星はどのような意味で、宇宙がきわめて若いことを示しているのでしょうか。
天文学者によると、私たちの銀河もそうですが、一つの銀河内では平均二五年に一回程度の割合で超新星爆発が見られる、とされています。
超新星は、理論上、最初の爆発を起こしてから約三〇〇年間は、「第一ステージ」と呼ばれる状態にあります。
これは爆発による星の残骸が、高速で周囲に飛び散っていく期間です。第一ステージにある超新星は、天文学者により、私たちの銀河内に五個観測されています。
第一ステージのあと、超新星は「第二ステージ」に入ります。これは爆発の三百年後に始まって、一二万年後に至るまで続きます。
先の「かに星雲」も、第二ステージに入って間もない時期にあるわけです。この期間、超新星の残骸物質は広がり続けながら、非常に強い電磁波を放射します。
しかし、熱エネルギーはほとんど失われることがありません。第二ステージの超新星は、天文学者によって、私たちの銀河内に約二〇〇個観測されています。
そののち、第二ステージが終わって「第三ステージ」になると、広がり続ける残骸物質は、熱エネルギーを失い始めます。
「第三ステージ」は最終的な姿で、理論上、超新星爆発の一二万年後に始まり、一〇〇万年後まで、ないしは六〇〇万年後まで続きます。
では天文学者は、第三ステージに入った超新星を、いくつ発見したでしょうか。
それがゼロなのです。どこを探しても全く発見されていません。
進化論者は、宇宙の誕生は約一五〇億年前、また我々の銀河は約一〇〇億年前に誕生したと主張しています。そうした長い時間が本当にあったのであれば、当然、今から一二万年以上前に超新星爆発を起こして広がった第三ステージの残骸が、銀河内に数多く見いだされるはずです。
計算では、五〇〇〇個以上発見されるはずなのです。ところが、どこを探しても一つも発見されません。
この事実は、進化論者を当惑させています。たとえば、進化論の天文学者クラークとキャスウェルは、
「多く存在するはずの超新星の残骸が、なぜ発見されないのか」と言い、「失われた残骸のミステリー」と呼んでいます(Clark and Caswell, 1976. Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, 174:267.Cited in Ref.1.)。
しかし、この事実は、聖書の創造論には全く矛盾しません。
聖書によれば――とくに聖書を最も文字通りに解釈した考えによれば、宇宙の創造は約六〇〇〇年前です。そうならば、第三ステージの超新星がどこにも見いだされないのは、当然のことと理解されます。
宇宙は創造されてからまだ間もないために、超新星が第三ステージに達するまでの時間がなかったのです。
これは第二ステージの超新星に関しても同様です。
もし、宇宙が進化論者の言うような長い時間を経ているとすると、第二ステージ――つまり三〇〇年〜一二万年の段階の超新星が、二〇〇〇個以上発見される計算なのです。ところが実際には、わずかに二〇〇個観測されているだけです。
実際の観測結果は、進化論者の主張に大きく反しています。しかし、この結果は、宇宙の創造を約六〇〇〇年前とする創造論にはよく一致します。
今から約六〇〇〇年前に宇宙が創造されたとすると、第二ステージの超新星の実際の観測結果――二〇〇個という数字は、創造論の立場からは納得のいく数字なのです。
宇宙は進化論者のいうような長い年月を経ているのではなく、むしろ非常に若いと考えたほうが、理にかなっています。オーストラリアの創造科学財団(CSF)の著名な科学者、ジョナサン・サーファティ博士はこう述べています。
「各ステージの超新星の数は、宇宙が若いか、それとも長い年月を経ているかを知る上で、非常に優れた指標です。・・・・超新星の残骸が少ないことは、神による宇宙創造が最近であったことを示しています」(Creation ex nihilo, Vol. 19 No. 3 pp.46-47, 1997)
各ステージの超新星の個数の計算
これに関してもっとよく知りたい方々のために、もう少し詳しい計算を示しておきましょう。
1 第一ステージの超新星
まず、第一ステージの超新星に関して見てみましょう。
これは爆発後三〇〇年間の状態です。超新星爆発の際に秒速約七〇〇〇キロメートルで飛び散った残骸は、この三〇〇年間に二三光年の広さにひろがります(一光年は光が一年かかって進む距離)。
先に述べたように、私たちの銀河内で、超新星爆発は平均二五年に約一度の割合で起こります。すると、三〇〇年間に起こる超新星の数は、三〇〇÷二五=一二個となりますが、この一二個のすべてが地球から観測可能なわけではありません。
天文学者によると、これらのうち約一九%が観測可能とのことです。一二個の一九%は、約二個です。つまり進化論でも創造論でも、第一ステージの超新星は私たちの銀河内に二個程度、あるいは二個前後観測されるはずとの計算となります。
実際は、多少の誤差はあると考えられるので、一〜五個程度と考えてよいでしょう。実際観測されているのは五個ですから、これはその範囲内であると言えます。
2 第二ステージの超新星
つぎに、第二ステージ――つまり三〇〇年後〜一二万年後までです。
三〇〇年後に二三光年の大きさになった超新星の残骸は、一二万年後になると、さらに大きくなって三五〇光年の広さになります。
もし、銀河が一〇〇億年もたっていると主張する進化論に立つと、一千年前に超新星爆発を起こしたものも、一万年前に超新星爆発を起こしたものも、一〇万年前に超新星爆発を起こしたものも、あらゆるサイズの第二ステージの超新星残骸が存在するはずです。
超新星は二五年に一度程度起こるので、その個数を計算すると、(一二〇〇〇〇―三〇〇)÷二五=四七八八個となりますが、このうちの四七%が観測可能とされます。観測可能な数は、四七八八個の四七%、すなわち二二五〇個です。
第二ステージの超新星が、私たちの銀河内にそれだけ見いだされるはずなのです――もし進化論が正しいならば。
一方、宇宙の創造を今から六〇〇〇年前として計算すると、どうなるでしょうか。
この場合、存在するはずの第二ステージの超新星は、(六〇〇〇―三〇〇)÷二五=二二八個です。この二二八個のうち四七%が観測可能として、観測可能な個数は私たちの銀河内に一〇七、あるいは一〇七前後となります。
実際には、計算に多少の誤差があり得るので、宇宙は若いと考える創造論で予期される第二ステージの超新星の数は、一〇〇〜二〇〇個程度と考えてよいでしょう。
実際に観測されているのは、二〇〇個ですから、その範囲内と言ってよいでしょう。このように実際の観測結果と、宇宙は若いとする創造論の結果とは、よく一致しているのです。
しかし、長い時間を主張する進化論とは、全くかけ離れています。進化論者は、この事実に関して、今も納得のいくような答えを提出することができません。
3 第三ステージの超新星
第三ステージの超新星は、一二万年後から一〇〇万年後まで、ないしは六〇〇万年後まで続きます。
一〇〇万年後で六五〇光年くらいの大きさになり、さらに六〇〇万年後では、一五〇〇光年くらいの大きさに広がります。
しかしそれ以上たつと、他の宇宙空間と見分けがつかない程度に希薄になってしまいます。
ここで、一二万年〜一〇〇万年の第三ステージの超新星の個数を計算してみましょう。
(一〇〇〇〇〇〇―一二〇〇〇〇)÷二五=三五二〇〇個となりますが、この三万五二〇〇個のうち一四%が観測可能です。
すなわち観測可能なはずの個数は、約五〇〇〇となります。長い時間を信じる進化論に立つと、第三ステージの超新星は私たちの銀河内に、約五〇〇〇も発見されなければならないのです。
ところが、それは一つも観測されていません。全くないのです!
しかし、この事実は、宇宙創造が最近であると考える創造論からは、当然予期されることです。
聖書を文字通り解釈した場合、宇宙の年齢は約六〇〇〇年程度なので、第三ステージに入っている超新星は一つもなくて当然なのです。
このように、超新星の第二、第三ステージの予想個数と実際の観測個数は、宇宙は若いと考える創造論モデルに基づいて計算した場合は、きわめてよく一致しています。
しかし、宇宙は非常に長い年月を経ているという進化論モデルに基づいて計算した場合は、両者は全く食い違ってしまいます。
超新星は、宇宙がきわめて若いと考える創造論の立場を補強する、非常に有力な証拠と言ってよいでしょう。 
天地創造の六日間における原子核の崩壊速度ははやかった
放射性同位元素による年代測定は、放射性物質が、時間とともに放射線を出しながら、他の元素に変わっていくことを利用したものです。そして五〇%の原子が他の元素に変わるまでの期間を、「半減期」と呼んでいます。
たとえば、カリウム四〇の半減期は「一三億年」、ウラン二三八の半減期は「四五億年」、ルビジウム八七の半減期は「五〇〇億年」と言われています。このように、これらの放射性同位元素の「半減期」は、ひじょうに長いとされています。
このような長い半減期をもとめることは、容易なことではありません。実際「半減期」は、ある特別な仮定のもとに求められます。その仮定とは、原子核の崩壊速度(または「崩壊定数」)は、全時代を通じて変わらず、つねに一定だったというものです。
たとえば、もともとあった原子の一〇%が崩壊するのにある期間かかったとすると、次の同じ期間に、さらに残りの原子の一〇%が崩壊し、次にも一〇%が・・・・というように、常に同じ割合で崩壊が進んできたと、仮定されているわけです。
このような仮定のもとに、「半減期」が算出されます。例えば、ウラン二三八の半減期が「四五億年」であることを、もちろん人が四五億年もかけて実際に測ったわけではありません。それは、わずかの年月の間測定した結果を、数十億倍にも拡大延長した推定値なのです。その際、崩壊速度一定の仮定が用いられています。
しかし崩壊速度は、次に述べるように、天地創造の六日間においてはもっと速かった可能性があります。
原子核の崩壊速度は、理論上、光の速度とある関係をもっていることが知られています。崩壊速度は、原子核から「放出される粒子のエネルギーに関係し」、そのエネルギーは「運動エネルギーの相対論的表現による光速に関係している」からです。
光の速度は現在、真空中で秒速約三〇万キロメートルと言われています(水中や空気中ではもっと遅い)。しかしこの速度が、過去において、特に宇宙の創始期においても常にそうだった、という確証はありません。
光の速度は、空間の「誘電率」と「誘磁率」によって決まる値であり、したがってそれは、宇宙空間の状態によって変化しうるはずです。実際私たちは、聖書の中に、光の速度は天地創造の六日間においてはもっと速かった、という可能性を見出すことができるのです。創世記一章には、こう記されています。
「(神は)星を造られた。神はこれらを天のおおぞらに置いて、地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた」(創世一・一六〜一八)。
これは星の創造についての言及ですが、神は星を造って「地を照らさせ」るようにすると、そのようになったと言われています。すなわち、神が夜空に輝く星々を造った当日に、地球ではそれらの星からの光を観測できたのです。
夜空に見える星々(恒星)は、いったいどれだけ離れているでしょう。太陽系外の星だと、最も近い星がケンタウルス座のアルファ星で、「四・三光年」離れています。これは、現在の光の速度で四・三年かかる距離を意味します。他の星は、もっと遠いところにあります。
要は、この四・三光年離れた星や、またはもっと遠く離れた星からの光を、それらの星が創造されたその日に、地球上で観測し得たということなのです。
これを認めるなら、光は天地創造の週において無限、あるいは無限に近い速度をもっていた可能性があります。そして、このように光速が速かったとすると、原子核の崩壊速度にどう影響するでしょうか。
原子核の崩壊速度は光速に依存しているので、光速が速ければ原子核の崩壊速度も速かったと、理論的に示されます。
つまり天地創造の六日間において、原子核の崩壊速度は、現在よりも速かったでしょう。そのため、もし現在の崩壊速度を基準にして半減期を求め、またその半減期を用いて年代測定をすると、その年代測定結果は実際よりも古く出てしまうことになります。
「四五億年」と進化論者が主張している地球の年齢も、実際はそんなに経っていないはずなのです。このように、炭素一四法以外の放射性同位元素による年代測定法も、その仮定事項の検討次第では、地球がきわめて若いことを示す可能性があります。
放射性同位元素による方法は、しばしば、きわめて正確で、狂いがないもののように思い込まれていますが、大きく狂っている可能性があるのです。それについては、ドン・アイカー博士(進化論者)も、その著「地質年代」の中でこう告白しています。
「何らかの予期しない系統誤差のために、放射性測定による年代表全体が、上から下まで徹底的にまちがっているかもしれない、という恐れは常につきまとう」(コリン・ウィルソン著『時間の発見』200頁)。
またブライアン・ジョン博士(オックスフォード大)も、こう述べています。
「細かい詮索を受ければ……重大な問題に出くわして、過去の年代測定にさらに大きな修正が必要になることも、当然あり得る」(同)。 
一五〇億年前の光?
先に第二章において、光速が秒速三〇万キロでなかったら人間はできない、と書きました。これと、天地創造の六日間における光速が速かったこと、また、原子核の崩壊速度が速かったと思われることとは、矛盾するでしょうか。
矛盾しません。聖書によれば、天地創造の六日間においては、物理的・化学的諸法則の全体が、神の特別な関与のもとに現在とは違っていたはずだからです。聖書は、創造第七日のことについて、
「神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、なさっていたすべてのわざを休まれた」(創世二・二)と記しています。神が、創造のみわざを休み、物理的・化学的法則を固定し、宇宙の運行をそれらの法則におまかせになったのは、「第七日」でした。その前日までは、神はずっと宇宙の成長に、積極的に関与されたのです。
そのため、創造のわざをなされたその六日間において、宇宙の物理的・化学的諸法則は今日のようではなかったでしょう。
天地創造の六日間において、神は宇宙に対して特別な関与の仕方をされました。したがってその期間、光速や原子核の崩壊速度が現在とは異なるものであったとしても、決して不思議ではありません。神は、すべてを秩序のうちに守りながら創造されたからです。
光速が天地創造の六日間において速かったという考えは、さらに、宇宙の年齢に関する理解にも当てはめることができます。
天文学では、最も遠方の星として、約一五〇億光年のかなたに位置すると言われるものが知られています。これは現在の光の速度で行って、一五〇億年かかる距離を意味します。そして進化論者は次のように言います。
「あなたが見ているその星からの光は、一五〇億年前にその星を出発したものである。つまりあなたは、その星の一五〇億年前の姿を見ているのである。こうしたことから、宇宙の年齢は約一五〇億年と考えられている」。
しかし、果たしてそうでしょうか。
先に見たように、天地創造の六日間における光速が今よりずっと速かったとするなら(創世一・一七)、宇宙の果てに位置するその星からの光は、決して一五〇億年前に出発したものではないことになります。
宇宙は確かに広大ですが、宇宙の果てから来ているその光は、そのような大昔に発した光ではなく、比較的最近その星を出発した光なのです。
私たちはその星の一五〇億年前の姿を見ているのではありません。天地創造の六日間において、光速は今よりずっと速かったために、広大な宇宙空間も光は短時間に地球近くまで到達していました。それが今、地球上で見えているのです。
宇宙の真の年齢は、進化論者が教えているよりも、ずっと若いでしょう。宇宙の年齢が、地球や月、彗星と同じく一万年以内であるとしても、決して不思議なことではありません。 
創世記一章一節〜二節の解釈について
進化論者は、宇宙の年齢は一五〇億年(または二〇〇億年)であると言い、一方、聖書は、天地宇宙の創造は今から六千年ほど前に、「六日間」でなされたと述べています。両者の見解を比べてみると、そのタイムスケールが全く違うわけです。
ある人々は、このタイムスケールの違いを解消しようと、聖書に対する様々な解釈を試みてきました。
しかし、それらの解釈は妥当なものだったでしょうか。それを検討してみましょう。それらの聖書解釈のうち、おもなものは次の二つでした。
1 間隙説
創世記一章一節と二節の間には、何十億年もの時間の経過(間隙)があった、とする説。つまり、
*創世記一・一
「はじめに神は天と地とを創造された」
*創世記一・二
「地は、形がなく、むなしかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」
これら二つの聖句の間には、何十億年もの時間の経過があったとする。なお、天地創造の六日間の「日」は、地球の一回の自転時間とし、一昼夜と考える。
2 一日一時代説
天地創造の「日」は、文字通りの「一日」(地球の一回の自転時間)ではなく、それぞれ何十億年かの長い時間を表すとする説。
まず1の間隙説から、検討してみましょう。この説では、創世記一章一節で天地が造られ、そののち何十億年もの歳月が経過してのち、二節以降で地球の陸、海、空の形成や、植物、動物、人間等の創造がなされた、と考えます。
この場合、二節以降の「日」は、文字通り地球における一昼夜の時間と考えます。ですから第二日の「大空の上の水」(水蒸気層)・大気・海洋の分離や、第三日の大陸の形成、また第四日以降のすべての事柄は、それぞれ文字通り一昼夜(二四時間)でなされたと考えます。
しかし、こうした大規模な地球的変化がそれぞれ一昼夜でなされたと考えるには、やはり神の創造の力に対する信仰が必要です。
それならば・・・・つまり六日間の地球の変化に関してそのように信仰が要求されるのであれば・・・・なぜ創世記一・一と一・二の間に「何十億年」もの時間を挿入したりして、無理に今の進化論に合わせなければならないのか、という問題が生じることになります。
間隙説は、一部を進化論的に考え、一部を創造論的に考える中途半端な説なのです。
また間隙説は、明らかに聖書的に無理があります。科学的に見ても、中途半端であって、問題でしょう。
では、2の一日一時代説に立てばどうなるでしょうか。つまり天地創造の「日」を、それぞれ何十億年かの長い時間と考えることは、はたして可能でしょうか。
しかしこの解釈も、大きな問題を生じます。聖書によると、草花や、樹木、果樹などの植物は、創造「第三日」に造られています。ところが、植物の受精には昆虫が欠かせません。昆虫が花の蜜を吸う。そのとき昆虫が花粉を運び、めしべに花粉がついて、受精が行なわれるのです。
とくにキュウリや桑、栗などのように花に雄花と雌花とがあるものは、昆虫がいないと受精を行なえません。この昆虫は、「第五日」に造られているのです。
つまり、もし一日一時代説に立てば、私たちは大変な難題をかかえることになります。植物は昆虫なしに、何十億年もの間、受精を続けてきたことになるのです。一日一時代説は、科学的にみて無理なのです。
一日一時代説はまた、聖書的にもたいへん問題です。
というのは、かつてイスラエルの指導者モーセは、十戒を民に授けるとき、安息日の戒めに関して、こう説明しました。
「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である、あなたはどんな仕事もしてはならない。・・・・それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」(出エ二〇・一一)。
ここでもし、「一日」を"数十億年の長い一時代"と考えたら、一体どうなるでしょうか。私たちは、数十億年の長い歳月を六回繰り返すだけ働き続け、その後になって、ようやく休むことができるでしょう。
一日一時代説はまた、もう一つ、聖書的に無理があります。
一日一時代説に立つと、アダム創造の前に何十億年もの年月の経過と、無数の生物の死の積み重ねがあった、と考えなければなりません。しかし聖書によれば、世界に死が入ったのは、アダムが罪を犯したからです。アダム以前に、死はなかったのです。
アダムの堕落以前に死があったとするのは、キリスト教信仰と相容れません。このように一日一時代説は、聖書的に問題です。
そして、科学的にみても問題なのです。私たちは聖書的、科学的の双方から、間隙説、および一日一時代説を、退けなければなりません。
3 文字通り受け取る説
つぎに、第三の解釈を検討してみましょう。第三の解釈とは、聖書を文字通り受け取るものです。
この解釈においては、創世記一・一と一・二の間には、「何十億年」もの間隙はありません。また天地創造の「日」は、文字通り地球の一回の自転時間であり、一昼夜です。
「はじめに神は・・・・」で始まる創世記一・一〜二の聖句は、じつは新改訳聖書の欄外注にも書かれているように、次のようにも訳せます。
「神が天と地を創造し始めたとき、地は形がなく、何もなかった」。
一般には、「はじめに神は天と地とを創造された」という言葉があまりにも有名になっているので、ほとんどの訳はそう訳していますが、原文のヘブル語は、全くこのようにも訳せるわけです。これはユダヤ人のラビ(宗教指導者)もそう言っています。「はじめに・・・・」が、「・・・・し始めたとき」となります。
「はじめに神は天と地とを創造された」――この有名な一句は、まことに心に残る素晴らしい聖句です。しかし創世記一章の内容理解という点では、「神が天と地とを創造し始めたとき・・・・」の訳のほうが、原意に近いでしょう。
どちらの訳も、神が天と地を(無から)創造された、ということでは一緒です。しかし新改訳・欄外注の訳では、創世記一・一と一・二は、一つの文章としてつながっています。
一・一と一・二の間には、「何十億年もの間隙」はないのです。またそれは、"神が天地創造のわざを開始された第一日目の初期において、地球はまだ形がなく、混沌としていた"という意味になります。このように原文をよく調べてみると、神が天地創造のわざを始められた初期――地球が混沌とした中に存在し始めた頃から、聖書の記述が始まっているのだ、ということがわかります。
創造第一日の開始とともに、宇宙が「無」から引き出されて、爆発的に誕生しました。そして様々な物質が造られ、地球のもととなる物体も存在し始めました。それが、「神が天と地とを創造し始めたとき、地は形がなく、何もなかった」ということです。宇宙の誕生から地球の原型の形成までは、きわめて急激な勢いで進んだわけです。
地球の原型は、第一日目の前半が終わるころには、ほぼ出来上がっていました。すなわち第三の解釈によれば、宇宙誕生から地球の原型の形成までの期間は、"半日"でした。
そして後に、創造第一日の後半において、太陽系の中心から光が発せられるようになりました。第二日になると、地球における上空の水蒸気層や、大気、海洋が形成されました。さらに第三日、第四日、第五日、第六日と進むにしたがい、つぎつぎに宇宙や地球、生物界の様子が整えられていったのです。
では、この「日」は、それぞれ何十億年もの長い歳月を意味しているのでしょうか。そうではありません。宇宙は一五〇億年もの長い歳月を経ているのではなく、単に見かけ上、そう見えるだけなのです。
私たちは、人類の始祖アダムの創造の記事を思い起こすとよいでしょう。
アダムは、成人として造られました。もし造られたその日に、私たちが彼の姿を見ることができたとすれば、おそらく彼は二〇〜三〇歳程度に見える姿形をしていたことでしょう。しかし彼の年齢は、造られたその日には、実際にはまだ二四時間未満だったのです。
宇宙の年齢についても同様です。
私たちは宇宙を見るとき、そのあまりの完成度の高さに、すでに気の遠くなるほどの長い年月を経ていると、つい思いこみがちです。神が六日間の天地創造のみわざを終えられたとき、宇宙は高度に完成された姿で出現しました。しかし、そのときの宇宙の年齢は、実際はわずか六日だったのです。
逆にいえば、宇宙は何百億年も経ていると人間の目に見えるほどの高い完成度をもって、神により、わずか六日間で創造されたのです。宇宙も地球も、単に見かけ上、長い歳月を経ているように見えるだけです。
しかし、先に見たように、一〜一〇万年でなくなってしまうはずの彗星が今も存在すること、宇宙塵の堆積量が少ないこと、地球磁場の減衰、大気中の炭素一四やヘリウムの量、海への流入物、超新星などを考慮した結果は、地球や太陽系、また宇宙がきわめて若いことを示しているのです。 
一五〇億年あっても生命は自然には発生しない
私たちは長いこと、地球の年齢は数十億年、宇宙は数百億年と聞かされてきたので、地球が若い、または宇宙も若いという結論は、なにか奇妙に聞こえる人もいるでしょう。
けれどもそれは、頭の中にまだ、「地球は古い」「宇宙は古い」という先入観が残っているからです。「地球は、気の遠くなるような昔に誕生し、ひじょうに長い期間を経て生命が誕生し、それが進化して、ついに人類が誕生した」という進化論の主張は、幾度となく教え込まれてきました。
しかし、本当にそうでしょうか。ここで仮に、地球の年齢は四五億年、宇宙の年齢は一五〇億年であるとしてみましょう。そうしたら、それは生命が発生し、進化して、人類が出現するのに充分な時間だったと言えるでしょうか。
著名な情報学者マルセール・ゴレは、全宇宙の全時代を通じて、最も簡単な生命が自然に発生する確率はどれくらいあるか、を計算しています。彼は、疑わしい要素はできるだけ進化モデルに有利に計算し、宇宙の年齢も三兆年(進化論者によって言われている宇宙の年齢のさらに二〇〇倍)として計算しました。
それでも、その期間内に物質がうまく組み合わせられて、生命が自然に発生する確率は、一〇の二八〇乗分の一以下でした。一〇の二八〇乗と言えば、一のあとに〇が二八〇個もつく数字ですから、これはほぼゼロということです(『創造の科学的論証』65頁)。
この結果は、言い換えると、仮に宇宙の年齢が三兆年の一〇の二八〇乗倍あったとしても、そこに生命が発生する確率は一回あるかないかだ、ということです。
ところが、実際はその確率はもっと低くなります。というのは、宇宙は時間がたてばたつほど、「エントロピー増大の法則」(事物は時間とともに低次の秩序形態に移っていくという法則)により、高次の秩序形態への進化は、ますますあり得なくなるからです。
つまり、宇宙の年齢が一五〇億年であろうと、あるいはその一〇の二八〇乗倍あろうと、生命がそこに自然に発生する確率はゼロなのです。
これは、「地球や宇宙の歴史が充分に長ければ、その間に生命が誕生しただろう」という考え自体が、間違っていることを示しています。
私たちは、長い時間を求める必要はないのです。地球および生命が、長い時間をかけて出現したと考えるより、聖書の述べているように、最近創造されて出現したと考えた方が、ずっと理にかなっています。
もし私たちが全能の神の存在を信じるのなら、「六日間」という時間でさえ、神にとっては長すぎるくらいです。しかしその神が"六日間もの"時間をかけて天地を創造された、ということに、じつは意味があるのです。
多くの証拠は、地球が若く、また人類も若いことを示しています。生命の出現も最近であって、地球誕生後すぐに「種類にしたがって」(創世一・二一)創造されて出現した、と考えられます。 
聖書を信じて新しい科学上の発見
聖書の記述を信じることは、しばしば新たな科学的発見をもたらします。その幾つかの例をみてみましょう。
私たちは、海には親潮(千島海流)とか、黒潮(日本海流)、メキシコ湾流など、「海流」というものがあることを知っています。そして海流にのれば、船は早く目的地に達することができることも知っています。その海流の通り道は、船にとっては航路となり、「海路」となっているのです。
しかし海流、海路の様子は、一九世紀のマシュー・モーリー以前には、よく知られていませんでした。彼はどのようにして海流、海路を発見したのでしょうか。じつは彼は、聖書の言葉をもとに、その存在を予測し、その後詳しい調査の上に実際にそれを発見したのです。
聖書・詩篇八篇八節には、次のように記されています。
「・・・・空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも」。
マシュー・モーリーはこの言葉から、海には「海路」、すなわちそこを通れば早く目的地に行けるような路がきっと存在するに違いない、と考えました。そして彼は、航海日誌その他の資料を念入りにチェックし、海流を調査して、ついに最短時間で目的地に行ける海路を発見したのです。
これは、聖書の記述を真実と受け取って、その結果新たな科学的発見がなされた実例です。米国バージニア州の記念碑には、こう記されています。
「マシュー・フォンティーン・モーリィは、海路の発見者、海洋と大気から初めてその法則の秘密を引きだした天才、彼のインスピレーションは聖書から得られた。詩篇八篇八節、一〇七篇二三、二四節、伝道者の書一章六節」。
聖書の記述から新しい科学的事実を見いだしたという例は、ほかにもあります。
先に少しふれましたが、ラッセル・ハンフリーズ博士による天王星の地場の強さに関する予測も、そうです。
博士は、創造論の考えに基づき、天王星は創造されてから何十億年もたっていないと考え、その磁場の強さは二〜六×一〇の二四乗Am2と概算しました。一方、このとき進化論者は、天王星の磁場はもっとずっと小さいか、全くないだろうと予測していました。
これが実証される日が、ついにアメリカの惑星探査機ボイジャー二号によってもたらされました(一九八六年)。ボイジャー二号は天王星のそばを通過するとき、天王星の磁場が三×一〇の二四乗Am2であることを示すデータを送ってきたのです(『インパクト』一七六号)。これは、まさにハンフリーズ博士の予測通りでした。
また、ボイジャー二号が一九八九年に海王星の近くを通過したときに送ってきた磁場データも、彼の予測とピタリ一致しました。
このことも、聖書の記述をもとに、新たな科学的事実が予見された実例です。私は、創造論の研究がもっとなされていけば、さらに多くの科学的事実が発見されるであろうと信じています。 
第1〜6章までのまとめ
宇宙は、「無から有を呼び出される神」(ロマ四・一七)によって、存在へと呼び出された。
「最初のちり」(箴言八・二六)に始まって、宇宙空間に存在し始めた無数のチリは、地球をはじめ、その他の星々を形成した。
また、太陽系の中心に太陽の原型、あるいは前段階のものが生まれ、光を発するようになった(第一日)。それは後に(第四日)、核融合による安定した光を供給する現在のような太陽となった。
誕生当初の地球は、水蒸気を主成分とする膨大な量の"水蒸気大気"におおわれていた(第一日)。聖書はそれを、「大いなる水」(創世一・二)と呼んでいるが、それは地球の歴史に比べてきわめて短期間のうちに、「大空の上の水」(水蒸気層)、「大空」(大気)、「大空の下の水」(海洋)とに分立した(第二日 創世一・七)。
海洋は、はじめ地表の全域をおおっていたが、海の中から大陸が現われ、海と陸とは分離した。当時の大陸は、一つであった。
そののち、地表に造られた植物は、炭酸同化作用によって酸素を放出し、大気中に、遊離状態にある酸素を増加させた。また、植物は様々の有機物質から成っているため、動物や人間が食べる食物ともなった(第三日)。
大洪水以前の地球は、上空に厚い水蒸気層があったので、地表はどこも、緯度の高低にかかわらず、ビニールハウスの中のように温暖だった。砂漠や万年氷原はなく、どこもみずみずしい植物におおわれ、恐竜をはじめとする巨大生物も存在していた。
しかしノアの日に、水蒸気層は大雨となり、「四〇日四〇夜」地の上に降った。当時の大陸は、現在よりずっとなだらかだったので、水は地の全面をおおった。
しかし、水面は大雨のやんだ後も上昇し続け、「水は一五〇日間、地の上に増え続けた」(創世七・二四)。これは、大洪水に洗われた地表に様々な変化が生じ、「山は上がり、谷は沈んだ」(詩篇一〇四・八)からである。
この地殻変動は、おそらく海洋部から始まり、まず海底が隆起し、海面を上昇させ、大雨に始まった大洪水を、さらに大規模なものとした。
しかしその後、水は「しだいに地から引いていった」(創世八・三)。それは、世界各地で山々が隆起し、谷は沈下して、地表の起伏が激しくなったからである。水は低い所にたまり、海面上に出た所が陸となった。
現在の地表に見られる高山や、海底山脈、巨大な海溝などは、大洪水の激変の際の地殻変動によって出来たものである。またこの変動によって、もともと一つであった大陸は、現在の形のように分離した。
大洪水によって、多くの動植物が死に絶えた。氷づけにされたマンモスや、死のもがきのまま地層内に捕らえられた多くの生物の化石が、それを物語っている。
世界の地層の出来方は、進化論よりも大洪水の考えによって、よく説明できる。地層や地層内の化石は、進化論の説明によると多くの矛盾点や不明点が生じるが、大洪水の考えによるなら、矛盾は生じない。
大洪水が始まったとき、一般に海底生物は最も下の層に、魚類や両生類は、泳ぐことができたのでその上の層に、また陸生動物は、海の生物より高い所に住み移動性にもすぐれていたので、さらに上の層に捕らえられた。そして人間は、高度な移動性と、水から逃れるための知恵を持ち合わせていたので、一般に最も高い所で発見される。
大洪水によって、地層は急速に堆積し、その中には様々の化石が形成された。化石は、このような激変的過程によらなければ、決して形成されないのである。
大洪水後、地表の様相は一変した。気候は変わり、極地は氷に閉ざされた。地表は再形成され、生態系も変わった。
また、水蒸気層の取り去られた後の地球には、宇宙線や紫外線等の照射が強くなり、人間の寿命は短くなった。
進化論者は、宇宙や地球の年齢、また人類の年齢をきわめて膨大なものとしているが、多くの信頼できる証拠は、地球も人類も非常に若いことを示している。
進化論者は「長い時間」を求めた。しかし仮に、宇宙の年齢が一五〇億年あったとしても、あるいはそれ以上あったとしても、そこに生命が自然に発生する確率はゼロである。
宇宙、地球とそこに住む生物、また人類は、聖書の述べているように最近創造されて出現したものだと考えた方が、理にかなっている。 
第7章 人類の誕生

 

現生人類は最初から存在していた
進化論の教科書を読むと、必ずと言っていいほど出てくるのが、人類の祖先とされる、あの毛むくじゃらの「猿人」や「原人」の絵です。
よく引き合いに出されるのは、アウストラロピテクス、ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人、クロマニョン人などですが、これらについて、ある進化論の解説書は次のように説明しています。
「人類の中でいちばん古いのは・・・・アウストラロピテクス(南の猿の意)という動物だと言われている。これはサルと人間の中間のものだが、石を割って石器を使う知恵を持っていた」。(一)
「アウストラロピテクスよりも少し新しいものには、ジャワ島で発見されたピテカントロプス(ジャワ原人)とか、中国の北京の近くの周口店で発見された北京原人とよばれる人類がある。これらは、五〇万年くらい前に生きていた」。(二)
「ネアンデルタール人と呼ばれる、猫背で、がにまたの人類が今から十数万年前に、ヨーロッパや中央アジアや、北アフリカに広く住んでいた」。(三)
「今から約五万年前から約一万年前までの時代になると、現在の人類と同じ人間が、広くヨーロッパに住むようになった。この連中を、クロマニョン人という」。(四)
進化論者は長い間、人類はアウストラロピテクスなどの「猿人」から、ジャワ原人・北京原人その他の「原人」が出、そこからネアンデルタール人などの「旧人」が出て、最後にクロマニョン人などの「新人」が出てきた、と説明してきました。
「原人」は学名ではホモ・エレクツス、「旧人」はホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス、「新人」はホモ・サピエンス・サピエンスと言われています。進化論者は、「猿人」→「原人」→「旧人」と進化発展し、最後に、現生人類である「新人」が出現した、と主張してきたわけです。
しかし最近では、この考えが誤りであることを示す印象的な証拠が、いくつか提出されています。現生人類は、進化論者が「猿人」とか「原人」「旧人」などと呼んだものの生息していたまさにその時代に、すでに生息していたのです。
米国アリゾナ州トゥクソンにある考古学研究所の所長ジェフリー・グッドマンは、その著「人類誕生のミステリー」の中でこう述べています。
「(この結果は)現生人類が、ネアンデルタール人(旧人)に先立ち、すでにホモ・エレクツス(原人)の時代に生息していたことを示すものである」。(五)
「南アフリカの化石や、同じような東アフリカの化石は、ホモ・エレクツス(原人)とホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)とが、まさに同じ地区で共存していたという事実に当面させる。・・・・一言にして言えば・・・・この二つの種は、進化的意味からは無関係であるとの説明を補強するものである」。(六)
「化石記録は・・・・アウストラロピテクス(猿人)とホモ・エレクツス(原人)とは同時に存在していた・・・・ことを支持している」。(七)
こうした共存の例は数多く発見されており、いまや現生人類が、「アウストラロピテクス」「ホモ・エレクツス」また「ネアンデルタール人」と同時代に存在していたことは、確実です。
これは、現生人類がアウストラロピテクスや、ホモ・エレクツスから出てきたのではなく、"当初から"存在していたという、創造論者の主張を裏づけるものです。
人類の歴史に「猿人」→「原人」→「旧人」→「新人」というような進化的発展は、なかったのです。グッドマン所長はこう結論しています。
「最初の新人類は、従来考えられたよりはるかにスマートであったばかりか、それもずっと早くからそうであった」。
進化論者が、「猿人」とか「原人」と呼んだものは、人類の祖先などではなかったのです。 
人類の先祖はサルではない
では、「サルのような動物からヒトへの過渡的状態を示す中間型(移行型)である」と主張されてきたアウストラロピテクスや、ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人などは、いったい何だったのでしょうか。
結論から言えば、それらはサルからヒトへの「中間型」などではなかったのです。実際、進化論を受け入れている科学者のなかにさえ、これらの「中間型」がいずれもきわめて空想的で、かなりの誇張が含まれていることを正直に認める人は、今日では少なくありません。
たとえばツッカーマン卿は、創造論者ではありませんが、類人猿に似た動物からヒトへと姿を変えていく「化石上の痕跡」は、ひとつもないと述べています。(八)
読者は、学生時代に生物の授業で、人間はサルのような動物から次第に進化してきたのだという説を、化石などを並べられて、あたかも証明された事実であるかのように教え込まれてきたことを思い起こすでしょう。
しかし、これから詳しく見ていくように、サルのような動物からヒトにいたる中間型はおろか、生物のあらゆる種間で、かつて「中間型」と主張されたものも、皆じつは中間型などではなかったことが判明したのです。
世界の全化石の二〇%が保存されているシカゴ・フィールド博物館の館長であるデービッド・ロープは、こう述べています。
「進化論の立場から生命を説明する上で、化石がそれを証明してくれると思っている人は多い。さて、ダーウィンが『種の起源』を書いてから一二〇年たつ今、化石記録に関する研究は大いに進んだ。しかし皮肉なことに、進化論を支持する実例は、まるで出てこないのである」。(九)
まるで出てこない? では、今まで進化論者たちが「進化の証拠」だと主張してきた様々なものは、いったい何だったのでしょうか。
アウストラロピテクスは、大洪水以前に生息し、後に絶滅した動物の一種であろう。 
アウストラロピテクスは絶滅動物の一種だった
まず、アウストラロピテクスから見てみましょう。
アウストラロピテクスは、はじめ一九二四年にレイモンド・ダートの手によって発掘されて以来、サルとヒトの中間である「猿人」とされてきました。しかし今日では、多くの著名な学者の手によって、その考えが間違いであることが明らかにされています。
たとえば著名な人類学者、ラトガース大学のアシュレー・モンテギュー博士はこう述べています。
「アウストラロピテクス類は・・・・ヒトの直接の祖先にも、ヒトに至る進化の系列にもなり得ない」。(一〇)
アウストラロピテクスは、ヒトの祖先ではなく、まったく異なった他の動物であったようです。
解剖学と人類学の教授チャールズ・オクスナード博士が、一九七五年に発表したところによると、「多変量解析」という方法で調べた結果は、アウストラロピテクスは、ヒトでも類人猿でも、またその中間の移行型でもなく、まったく異なったものであることを示しているとのことです。(一一)
また最近、リチャード・リーキー博士は、彼が新しく発見したより完全なアウストラロピテクスの前脚と後脚の化石は、この動物が直立歩行をしていなかったことを示している、と述べました。
アウストラロピテクスは、大洪水以前に生息し後に絶滅した、サルやゴリラに似た動物の一種に過ぎなかったのです。 
「ジャワ原人」や「北京原人」は進化の証拠ではない
進化論者は、「原人」(ホモ・エレクツス)すなわち最初の人として、「ジャワ原人」や「北京原人」と彼らが呼ぶものを、よく取り上げてきました。しかしこれらは、いずれも今日では進化の証拠としての価値を失っています。
「ジャワ原人」は、一八九一年、進化論に感化された若者ユージン・デュボアによって発見されたとされていますが、その証拠とされる骨と言えば、頭蓋骨と、歯と、大腿骨だけでした。
それら三つの骨からデュボアは、この動物は直立歩行をしていたもので、サルとヒトの中間型であると考えました。そして得意になって、
「ついにミッシング・リンク(失われた環=中間型)を発見した」と報じ、この動物をピテカントロプス・エレクツス(直立する猿人の意)と命名しました。
しかし当時イギリスの科学者らは、「これは正確にはミッシング・リンク(中間型)ではなく、サル的特徴をもつヒトである」と論じました。(一二) つまり、サルとヒトの中間動物ではなく、"サルに似たヒト"であるとしたのです。
また、デュボアの骨に関する説明は、当時の一流の解剖学者ルドルフ・バーコウ博士やW.H.バロウ博士らによって強く批判されました。
頭蓋骨は大腿骨から一五mも離れた所で発見され、歯は頭蓋骨から数mも離れた所で見つかったからです。これらの骨が同一の体に属している証拠は全くありませんでした。
それらを同一の体に属するものとして結びつけたものは、デュボアの進化論的想像だけだったのです。
「ジャワ原人」とされた化石は、頭蓋骨の一部と歯と大腿骨だけで、しかもそれらが同一の体に属していた証拠はなかった。このようなものから、図右にみるような「ジャワ原人」の絵が描かれた。
また、「北京原人」はどうでしょうか。
「北京原人」も、やはりヒトの骨とサルの骨とが組み合わせられたものだ、と考える人が少なくありません。中国の北京では、サルの脳みそを食べる習慣があり、脳みそを食べた後、サルは近くに捨てられました。それで北京では、サルとヒトの化石化した骨が、近くで発見されることがあるのです。
「北京原人」の化石と言われたものは、第二次世界大戦中に失われてしまったので、今日私たちはそれを見ることができません。そのため、以前にはできなかった化学検査や、その他の進歩したハイテク技術によって、今日それを調べ直すことすらできないのです。
そのようなものを「進化の証拠」と称して教科書にかかげる進化論者の態度には、問題があると言えないでしょうか。
このように「ジャワ原人」にしても「北京原人」にしても、私たちの手元にあるのは、わずかな骨、あるいは六〇年も昔の発掘記録と、進化論的先入観に満ちた人々の膨大な想像だけです。「原人」と呼ばれるものは他にも幾つかありますが・・と言っても一ダースとありませんが・・進化の証拠としての価値を持っていないということでは、大同小異です。
進化論者は、サルに似た外見をもったヒトの化石が発見されると、すぐさまそれをサルとヒトの中間動物だとか、ヒトの祖先だとか主張してきました。
しかし私たちは、今日の世界においても、背が低く、頭も小さく、顔形もサルに似ていないとも言えない人が、しばしば見うけられることを知っています。実際たとえばバイロン・C・ネルソン博士は、現代の聡明な人物の中にも、「せまい額」や「後退した顎」を持つ人がいる例をあげています。(一三)
「ジャワ原人」にしても「北京原人」にしても、またその他の「原人」と言われたものにしても、人間がサルのような動物から進化してきたという説の証拠とはなり得ません。
「猿人」とか「原人」というようなものは、もともと存在しなかったのです。あったのは、サルと、サルに似た絶滅動物と、人間です。サルと人間の中間は、存在しません。
サルは初めからサルとして存在し、人間も初めから人間として存在していました。サルも人も、聖書が述べているように同時代に創造され、同時代に生存を始めたのです。 
ネアンデルタール人は完全に「ヒト」だった
ネアンデルタール人は、かつては進化論者によって、「前かがみで、ひざをひきずり、毛深く、ぶつぶつ声を出し、骨高の額、そしてその下のくぼんだ眼窩から外をのぞきながら、何か獲物はないかと歩いている類人」(一四)として、さかんに取り上げられました。そして、その絵や彫像が、進化論を広めるために長年利用されてきたのです。それは、そうした前かがみで歩く姿が猿の歩く姿に似ているので、進化論者が進化を説明するのに、恰好の材料だったからです。
しかし、『ブリタニカ大百科辞典』には、次のように述べられています。
「一般に普及しているこの人類についての概念、つまり前かがみの姿勢、足をひきずりながらの歩行、そして曲がったひざ、これらは二〇世紀初頭に発見されたネアンデルタール人の一体の人骨の、肢骨のある特徴を誤って解釈したことの産物である」。(一五)
二〇世紀初頭に発見されたネアンデルタール人は、その骨の状態から、曲がったひざをもっていて、前かがみで歩いていたものなのだと解釈されました。そして進化論者は、この一体の人骨を、ネアンデルタール人がまだ猿的な要素をもつヒトであったことの証拠として用いました。
他にもネアンデルタール人の化石は多く見つかっており、それらはみな完全な直立歩行をしていたことを示しているのに、ただ一体の骨から得られた結果が、そのように使われたのです。
しかし今では、この前かがみのネアンデルタール人は、ひざに、くる病とか関節炎とかの病気をもっていたのだということが、わかっています。生物学者デュアン・T・ギッシュ博士は、こう述べています。
「今では、これらの『原始的特徴』は、栄養上の欠陥と、病的状態によるものであることがわかっており、ネアンデルタール人は今では完全な人として分類されています」。(一六)
このようにネアンデルタール人は、完全に「人」でした。
ネアンデルタール人は、大洪水以前の一人種だったに違いない。
しかも、ネアンデルタール人の脳の容積は現代人のものよりも多少大きかったとさえ言われており、また「肩から首にかけて盛り上がるようにして走っていた筋肉も、ありませんでした」(一七)。ですから、ジェフリー・グッドマン博士はこう述べています。
「ネアンデルタール人が肩を曲げ、かがんだ形で、あまり賢くない動物と考えるのは、主に初期研究者たちの先入観による間違った固定観念である」。(一八)
このように、ネアンデルタール人は私たち現代人と同じような人間だったのであり、進化論者が描いたあのサルに似たものは、まったくの空想の産物にほかならなかったのです。
ネアンデルタール人は、大洪水以前に生きた人類の、一人種だったのでしょう。 
クロマニョン人は身体的・能力的に、現代人に勝るとも劣らなかった
進化論者によると、今から約五万年前になると、現在の人類と同じ人間がひろくヨーロッパに住むようになったとされ、彼らはクロマニョン人と呼ばれています。
有名なフランスの「ラスコー洞窟」の壁画は、クロマニョン人が描いたものです。これは今から「約三万年前」のものと言われています。ところが、炭素一四法によって調べられた年代は、「約一万年前」と出ています。しかしこれでは、絵が非常に古いとする進化論者の考えに合わないために、この年代は斥けられています。(一九)
進化論者によれば、生命の長い進化の末に、ようやく現在の人間に似たものが現れ、その一例がクロマニョン人だということになるわけです。しかし創造論者によれば、クロマニョン人は人類創造後、歴史の比較的はやい時代に、まだ文明がそれほど発達していない頃に生きた民族以外のなにものでもありません。
実際、よく知られているように、クロマニョン人の脳の大きさの平均は現代人のものよりも二〇〇〜四〇〇CC大きく、頭脳も体格もりっぱなものでした。彼らは身体的・能力的に、現代人にまさるとも劣らなかったのです。ジェフリー・グッドマンはこう述べています。
「クロマニョン人は、一般に少し頑丈で、また少し筋肉が発達している点を除けば、現代人と区別できない」。(二〇) 
クロマニョン人は身体的・能力的に現代人にまさるとも劣らなかった
以上見てきたように、進化論者が人の進化の各段階を示していると主張してきたこれらのものは、いずれも進化の証拠ではありませんでした。
アウストラロピテクス類は、ヒトでも、「猿人」でも、ヒトの祖先でもありませんでした。それは、大洪水以前の絶滅動物の一種でしょう。ジャワ原人や北京原人も、サルとヒトの中間型ではなく、サルからヒトへの進化の証拠としての価値をもっていません。
ネアンデルタール人やクロマニョン人は、現代人と同じ人間であり、中間型ではありませんでした。他にも「猿人」とか「原人」と名付けられているものはありますが、いずれも進化の証拠たり得ません。
人と他の動物の間隔を埋めるものは、事実上ひとつもないのです。このように、サルあるいはそれに似たものから、ヒトへと次第に進化してきたという説を支持する真の証拠は、いずこにも見当たりません。
膨大な数の証拠は、"人間ははじめから人間として創造され、しかもその創造は最近のことであった"という聖書の記事の正しさを裏付けているのです。 
 
観測可能な宇宙

 

近赤外の全天概観により、銀河系(天の川銀河)から遠く離れた銀河の分布が分かる。この画像は、150万以上の銀河を掲載している2MASS Extended Source Catalog (XSC) と、銀河系内の5億の星を掲載しているPoint Source Catalog (PSC) から作成したもの。銀河にはUGC、CfA、Tully NBGC、LCRS、2dF、6dFGS、SDSSの調査(やNASA銀河系外データベース収集のさまざまな観察)で得られた、あるいはKバンド (2.2 µm) より推定された「赤方偏移」によって、色付けがなされている。青色は最も近い光源 (z < 0.01) であり、緑色は中間距離の光源 (0.01 < z < 0.04)、赤色は2MASSの分析中最も遠くの光源 (0.04 < z < 0.1) である。この分布図は銀河系を中心に据え、エイトフ正積図法により投影したものである。
ビッグバン宇宙論でいう観測可能な宇宙(かんそくかのうなうちゅう、observable universe)とは、中心にいる観測者が領域内の物体を十分に観測できるほど小さい、つまり、ビッグバン以後のどの時点でその物体から放出された信号であっても、それが光速で進んで、現在の観測者のもとに届くまでに十分な時間があるような球状の空間領域である。どの場所にもそこから観測可能な宇宙があり、それは地球を中心とするものと重なる部分も重ならない部分もある。
ここでいう「観測可能」という語は、現代の技術でこの領域内の物体から放射されたエネルギーが検出できるかどうかとは無関係である。単に、その物体からの光やその他の放射エネルギーが地球上の観測者のもとに到達することが原理上可能だというだけにすぎない。実際に観察できるのは、宇宙が晴れ上がった「最終散乱面」にある物体までである。晴れ上がる前の宇宙は、光子に対して不透明であった。しかしながら、重力波(やはり光速で移動している)の検出によって、それ以前の情報を推定することもできないわけではない。 
実際の宇宙と観測可能な宇宙
宇宙論の研究論文では、一般人のものでも専門家のものでも、「宇宙」といえば「観測可能な宇宙」を指すことが多い。宇宙はわれわれと因果律的に断絶しており、直接的な実験法では宇宙のどの部分についても全く何も分からない、ということからも、そのことは裏付けられる。もちろん、宇宙のインフレーションなどの信頼できる多くの理論では、観測可能な宇宙よりもいっそう大きな宇宙が必要になる。観測可能な宇宙の境界面が、実際の宇宙の物理的な境界面とぴったり一致することを示唆する証拠はない(そのような境界面があるとしての話だが)。両境界面が一致するということはまずないと考えてよい。もし一致するなら、地球が実際の宇宙のちょうど中心にあることになり、宇宙原理に反する。確からしいのは、可視宇宙(≠観測可能な宇宙)内にある銀河が、実際の宇宙の全銀河のごくわずかしか表していないということである。
実際の宇宙が観測可能な宇宙よりも「小さい」ということも、もちろん可能である。その場合、非常に遠くにあるように見える銀河が、実は近くにある銀河の光が宇宙を一周してくることによって生じた複製像だということもあり得る。この仮説を実験によってテストするのは、銀河の異なる像がその一生の異なる時代を指すこともあり、結果として全く違うということにもなりかねないため、困難である。2004年のある論文では、全宇宙の直径は、24ギガパーセク(780億光年)が下限であると主張されており、その場合、観測可能な宇宙より少しだけ小さいということになる。この値はWMAPの観測をマッチング・サークル分析したものに基づいている。仮に観測不可能な宇宙を含めた宇宙全体が有限で閉じているとしても、観測可能な宇宙の範囲内では、曲率は無視できるほど小さいことから、宇宙全体の大きさは、光年単位を用いても「兆」等の日常使用する数の単位ではなく、指数表現が必要な大きさである。 
宇宙の大きさ
地球から「可視」宇宙(宇宙光の地平面)の端までの共動距離は、あらゆる方向に約14ギガパーセク(465億光年)である。これによって、観測可能な宇宙の共動半径の下限が明確になる。もっとも、導入部で述べたように、可視宇宙は観測可能な宇宙よりやや小さいと考えられる。これは、再結合(宇宙の晴れ上がり)以後に放射された宇宙背景放射からの光しか見えないためである。この宇宙背景放射によって、われわれには天体の「最終散乱面」が見えているということになる(重力波によって、あくまで理論上は、この球体の外部領域から、再結合期以前の事象が観察できる)。つまり、可視宇宙は直径約28ギガパーセク(約930億光年)の球体だということになる。宇宙空間はだいたいユークリッド平面であるから、この大きさはおよそ
すなわち3×1080立方メートルの共動体積に相当する。
上に引用した数字は、(宇宙時間でいう)「今」の距離であり、「光が放射された時点における」距離ではない。例えば、今この瞬間にみえる宇宙マイクロ波背景放射 (CMBR) は、137億年前に起こったビッグバンから379,000年後の再結合の時に放射されたものである。この放射エネルギーは、その中間の時期に密集し、現在では銀河になっている物質から放出されたものである。これらの銀河は現在、われわれからおよそ460億光年の距離にあるとされている。光が放出された時点におけるその物質までの距離を推定するためには、「膨張の数学モデル」を選び、また、スケール因子a(t) をビッグバンからの任意の時刻t について計算しなければならない。観察に適したΛ-CDMモデルでは、WMAP衛星からのデータを用い、このような計算によって、およそ1292というスケール因子の変化が得られる。これが意味するのは、宇宙が、CMBR光子が放出されたときの大きさの1292倍に膨張しているということである。よって、現在観測できる最も遠くの物質(460億光年先)は、現在受け取っているマイクロ波が放出されたときには、いずれ地球となる物質からわずか3600「万」光年しか離れていなかったのである。 
誤解
多くの二次資料が、これまでにさまざまな可視宇宙の大きさを「報告」している。いくつかを例示する。
137億光年 宇宙の年齢は約137億歳である。光より速く進むものはないということが広く知られている一方で、観測可能な宇宙の半径はゆえに137億光年しかないはずだという誤解も根強い。この論理は、宇宙が特殊相対論での平らな時空である場合に限って意味をなすものである。しかし実際の宇宙では、時空連続体は宇宙スケール上でかなり歪んでおり、三次元空間(だいたい平ら)はハッブルの法則で実証されたように、膨張しているわけである。つまり、光速と宇宙時間の積で得られる距離は、いかなる物理的意義をも持たない。158億光年 この数字も137億光年と同じように得られるが、こちらは有名な一般雑誌が2006年中ごろに、宇宙の年齢を誤って公表したことに端を発している。270億光年 これは半径137億光年という誤解にもとづく、直径である。 780億光年 これは、宇宙マイクロ波背景放射 (CMBR) の対蹠点間の現在の測定値を基にした、全宇宙の大きさの下限である。そのため、CMBRが形成する球体の「直径」を表している。もし全宇宙がこの球体よりも小さいなら、光はビッグバン以降、球体内を周回するだけの時間があるわけで、CMBRには互いに異なる複数の像を生じ、何重もの円を描くことになる。Cornish et alは24ギガパーセク(780億光年)までのスケール値でそのような効果を探したが、結局見つからず、もし自分たちの調査が可能な限り全方位に拡張できるのであれば、「われわれの住む宇宙が直径24ギガパーセクより小さいという可能性を排除できる」はずだと示唆している。さらに、「ノイズが少なく、解像度の高いCMB分布図(WMAPの延長ミッションやプランクからのデータ)」があれば、「より小さい円パターンを探し、下限を28ギガパーセクまで拡張できるであろう」とも推定している。いずれ計画実験で見られるであろうCMBR球体の最大直径は、推定最小値が28ギガパーセクだということになり、半径14ギガパーセクに対応する。これは前節で挙げた数字と一致する。 1560億光年 これは780億光年を半径として、二倍すると得られる。780億光年自体が直径なのだから、二倍すれば誤りである。しかし、あちこちに散見される。1800億光年 宇宙の年齢を158億年とした場合の推定値。1560億光年を誤って15%増しすれば得られる。 
内容物質
観測可能な宇宙には3×1022〜7×1022個(300垓〜700垓個)の星があって800億以上の銀河にまとまり、それぞれがさらに銀河群や銀河団、超銀河団を形成している。
2つの大まかな計算がそれぞれ、観測可能宇宙内の原子数を約1080としている。
1.WMAPからのCMBデータを観察すると、宇宙の空間曲率はほぼゼロに近いことが示唆され、これによって、現在の宇宙モデルでは、宇宙の密度パラメータの値が何らかの臨界値に非常に近いことが含意される。総密度は9.9×10−27 kg/m3となり、1立方メートルあたり水素原子およそ5.9個分である。WMAPデータの分析結果から、臨界密度の約4.6%が通常の原子形態であり、23%は冷たい暗黒物質 (SDM)、72%はダークエネルギーから成ると考えられている。すると、1立方メートルあたり0.27の水素原子が残り、これに可視宇宙の体積をかければ約8×1079の水素原子を得る。
2.典型的な星の質量は2×1030kgであり、星1つに対して約1×1057の水素原子があることになる。典型的な銀河には約4000億の星があるから、銀河1つあたり1×1057 × 4×1011 = 4×1068の水素原子がある計算となる。宇宙には800億の銀河があるといわれているので、観測可能な宇宙には4×1068 × 8×1010 = 3×1079の水素原子がある。しかしこれは下限を示したに過ぎず、また水素原子は星以外にも存在する。 
観測可能な宇宙の質量
観測可能な宇宙内の物質質量は密度と大きさから推定可能である。
星の密度の測定値に基づいた推定
観測可能な宇宙を構成する可視物質の質量を計算する方法は、1つには、平均太陽質量を仮定し、これに観測可能宇宙内の星の総数をかけることである。宇宙の星の推定総数は、観測可能な宇宙の体積と、ハッブル宇宙望遠鏡の観測値から計算した星の密度から導かれ、観測可能な宇宙内の星の推定総数は9×1021(90垓)個となる。
太陽の質量(2×1030 kg)を平均太陽質量(矮星の多さと、太陽より質量の大きな星の数はつりあっているとする)とし、星の総数を1022個とすれば、観測可能な宇宙の星の総質量は3×1052 kgとなる。しかしながら、「内容物質」の節で述べたように、WMAPのデータはΛ-CDMモデルで推定すると、観測可能な宇宙の総質量の5%未満が星などの可視的な物質で構成されており、残りは暗黒物質やダーク・エネルギーが占めていると予測される。
フレッド・ホイルは観測可能な定常宇宙の質量を計算している。 
 
天地開闢 (日本神話)

 

天地に代表される世界が初めて生まれたときのことを示す。
狭義には『日本書紀』冒頭の「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき」をいうが、この記事では、広義の日本神話における天地開闢・国土創造のシーンについて記す。
古事記1
『古事記』によれば、世界のはじまった直後は次のようであった。『古事記』の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めたときであり、天地がいかに創造されたかを語ってはいないが、一般的には、日本神話における天地開闢のシーンといえば、近代以降は『古事記』のこのシーンが想起される。
世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神(造化の三神)が生まれた。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)
続いて、二柱の神が生まれた。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
天之常立神(あめのとこたちのかみ)
この五柱の神は特に性別はなく、独身のままに子どもを生まずに身を隠してしまった。それゆえに、これ以降表だって神話には登場しないが、根元的な影響力を持つ特別な神である。そのため別天津神(ことあまつかみ)と呼ぶ 。
次に、また二柱の神が生まれた。
国之常立神(くにのとこたちのかみ)
豊雲野神(とよくもののかみ)
国之常立神と豊雲野神もまた性別はなく、また、これ以降、神話には登場しない。
これに引き続いて五組十柱の神々が生まれた。五組の神々はそれぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている。
男性神                  女性神
宇比地邇神(うひぢにのかみ)     須比智邇神(すひぢにのかみ)
角杙神(つのぐひのかみ)       活杙神(いくぐひのかみ)
意富斗能地神(おほとのじのかみ) 大斗乃弁神(おほとのべのかみ)
於母陀流神(おもだるのかみ)     阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)    伊邪那美神(いざなみのかみ)
以上の七組十二柱の神々を総称して神世七代(かみのよななよ)という。  
古事記2
「古事記」上巻序 / 混元(渾沌とした宇宙の元素)すでに凝固し、気象(宇宙の根源の気と作用の現象)いまだに効(あらは)れず。名もなく、為(わざ)もなし。誰かその形を知らむ。しかれども、乾坤(けんこん=天地)初めて分かれて、参神(宇宙に最初に出現した三神)造化(創造)の始めとなり、陰陽ここに開けて二霊(いざなぎ・いざなみ)群品(万物)の祖(おや)となりき。 
日本書紀1
『日本書紀』における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られる。続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。
根源神たちの登場
本文によれば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神が生まれるのである。
天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが神となる。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
これらの神々には性別がなかった。
第一の一書によれば、天地の中に生成されたものの形は不明である。しかし、これが神となったことは変わらない。生まれた神々は次の通りである。なお、段落を下げて箇条書きされているのは上の神の別名である。
国常立尊(くにのとこたちのみこと) 国底立尊(くにのそこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと) 国狭立尊(くにのさたちのみこと)
豊国主尊(とよくにむしのみこと) 豊組野尊(とよくむののみこと) 豊香節野尊(とよかぶののみこと) 浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと) 豊国野尊(とよくにののみこと) 豊齧野尊(とよかぶののみこと) 葉木国野尊(はこくにののみこと) 見野尊(みののみこと)
第ニの一書によれば、天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが神となったとされる。すなわち、本書と同じ内容であるが、神々の名称が異なる。
可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
第三の一書でも生まれた神々の名が異なる。なお、生まれた神は人のような姿をしていたと描写されている。
可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)
国底立尊(くにのそこたちのみこと)
第四の一書によれば、生まれた神々の名は下の通りである。この異伝は『古事記』の記述に類似している。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
これらの二柱の神々の次に高天原に生まれたのが下の三柱の神々である。
天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)
神皇産霊尊(かみむすひのみこと)
第5の一書によれば、天地の中に葦の芽が泥の中から出てきたようなものが生成された。これが人の形をした神となったとされる。本書とほぼ同じ内容であるが、一柱の神しか登場しない。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
第6の一書も本書とほぼ同様に葦の芽のような物体から神が生まれた。ただし、国常立尊は漂う脂のような別の物体から生まれた。
天常立尊(あまのとこたちのみこと)
可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
男女一対神たちの登場
渾沌から天地がわかれ、性別のない神々が生まれたあと、男女の別のある神々が生まれることとなる。これらの神々の血縁関係は本書では記されていないが、一書の中には異伝として記されている。
本文によれば、四組八柱の神々が生まれた。四組の神々はそれぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている。なお、段落を下げて箇条書きされているのは上の神の別名である。
埿土煮尊(うひぢにのみこと)、沙土煮尊(すひぢにのみこと) 埿土根尊(うひぢねのみこと)、沙土根尊(すひぢねのみこと)
大戸之道尊(おほとのぢのみこと)、大苫辺尊(おほとまべのみこと) 大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと)、大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと)
大富道尊(おほとまぢのみこと)、大富辺尊(おほとまべのみこと)
大戸之道尊の別名 大戸之辺尊(おほとのべのみこと)
面足尊 (おもだるのみこと) 、惶根尊 (かしこねのみこと) 惶根尊の別名 吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)
忌橿城尊(いむかしきのみこと)
青橿城根尊(あをかしきのみこと)
吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)
第一の一書では伊弉諾尊、伊弉冉尊は青橿城根尊の子とされている。
第ニの一書では神々の系図がよりはっきりとしている。
国常立尊
天鏡尊(あまのかがみのみこと) 国常立尊の子。
天万尊(あめよろずのみこと) 天鏡尊の子。
沫蕩尊(あわなぎのみこと) 天万尊の子。
伊弉諾尊 沫蕩尊の子。
天鏡尊、天万尊は宋史日本伝の引く年代記の他には見えず、また国常立尊・天鏡尊・天万尊・沫蕩尊・伊弉諾尊の並びは当年代記の一部に一致する。
さて、本文によれば、国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊に以上の四組八柱の神々を加えたものを総称して神世七代という。
第一の一書によれば、四組八柱の神々の名が異なっている。
埿土煮尊(うひぢにのみこと)、沙土煮尊(すひぢにのみこと)
角樴尊(つのくひのみこと)、活樴尊(いくくひのみこと)
面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)
解説
自分達の世界がどのようにして生まれたか。このことは古代人にとっても大きな問題であった。『古事記』、『日本書紀』の最初の部分は世界誕生のころの物語となっている。しかし、『古事記』と『日本書紀』との間で、物語の内容は相当に異なる。さらに、『日本書紀』の中でも、「本文」といわれる部分の他に「一書」と呼ばれる異説の部分がある。このようにして、世界誕生の神話は1つに定まっていない。
中国思想の影響
『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」。は中国の古典の『淮南子』の「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず」によっている。
日本書紀2
「日本書紀」冒頭部 / 昔、いまだ天地わかたれず、陰陽わかれざるとき、渾沌たること鶏子(とりこ)のごとく、その清く陽(あきらか)なるものは天となり、重く濁れるものは地となる。天が先ず成りて、後に地が定まる。然して後、神聖その中に生(あ)れます。 
天地の初め
天地初めてひらけしとき、高天原(たかあまはら)に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ=陰陽がない神)と成りまして、身を隠したまいし。次に国稚(わか)く浮ける脂(あぶら)のごとくして、海月(くらげ)なす漂える時に成りし二柱の神も、みな独神と成りまして身を隠したまひし。五柱の神は別天神(ことあまつかみ)。
伊邪那岐命と伊邪那美命
伊邪名美神(いざなみのかみ)は火の神を生みしによりて、ついに神避(さ)りましき。(中略)左の御目を洗いたまう時に成りし神の名は、天照大御神(太陽)。次に右の御目を洗いたまう時に成りし神の名は、月読命(月)。次に御鼻(みはな)を洗いたまう時に成りし神の名は、建速須佐之男命(海)。
記紀神話は盤古を源流とするが、日本書紀は「三五暦記」の盤古を書写したものだろう。
盤古神話は鶏子に表れているように南方系民族の卵生型神話だが、記紀神話には卵生型神話の表現がない。正史に神話を掲載するという体裁上から盤古をベースに編集しただけであり、民間伝承ではないことから、南北の特徴的な記述がないのだろう。
ちなみに鶏子という表現は盤古神話のものだが、苗族古歌「開天辟地」では鶏子ではなく、孵蛋(蚕のさなぎ)となっている。筆者には相異の原因は不明。
また、盤古が兄妹だとすれば、三皇五帝の女媧(じょか)の「国生み神話」も、この盤古を起源とするのかもしれない。  
天地開闢 (中国神話)
中国神話における天地開闢(てんちかいびゃく)は、史記にも記載がなくその初めての記述は呉の時代(3世紀)に成立し た神話集『三五歴記』にある。盤古開天闢地(ばんこかいてんびゃくち)、盤古開天(ばんこかいてん)とも。

天地がその姿かたちをなす前、全ては卵の中身のようにドロドロで、混沌としていた。その中に、天地開闢の主人公となる盤古が生まれた。盤古が死ぬと、その死体の頭は五岳(東岳泰山を筆頭とした北岳恒山、南岳衡山、西岳華山、中岳嵩山の総称)に、その左目は太陽に、その右目は月に、その血液は海に、その毛髪は草木に、その涙が川に、その呼気が風に、その声が雷になった。  
天地開闢 (アイヌ神話)  

 

ここでは、アイヌ民族における天地開闢(てんちかいびゃく)と国造り神話について説明をする。以下は、1858年(19世紀中頃・本州の時代区分でいう幕末)の夏に、タツコプ・コタン(現夕張郡栗山町字円山)の83歳になるエカシ=おじいさん(1775年前後の生まれ)が松浦武四郎のために夜通し炉辺で詠ったユーカラを記録したものの現代語訳である。また、東蝦夷地(北海道南部)における伝承であり、西蝦夷地(北海道北部)については語られていない。
天地(空・島)とカムイの始まり
昔、この世に国も土地もまだ何もない時、ちょうど青海原の中の浮き油のような物ができ、これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように、立ち昇って空となった。そして後に残った濁ったものが、次第に固まって島となった。島は長い間に大きく固まって島となったのであるが、その内、モヤモヤとした氣が集まって一柱の神(カムイ)が生まれ出た。一方、炎の立つように高く昇ったという清く明るい空の氣からも一柱の神が生まれ、その神が五色の雲に乗って地上に降って来た。
五色雲による世界の構築
この二柱の神達が五色の雲の中の青い雲を(現在の)海の方に投げ入れ、「水になれ」と言うと海ができた。そして黄色の雲を投げて、「地上の島を土でおおいつくせ」と言い、赤い雲をまかれて、「金銀珠玉の宝物になれ」、白い雲で、「草木、鳥、獣、魚、虫になれ」と言うと、それぞれのモノができあがった。
多くのカムイの誕生
その後、天神・地神の二柱の神達は、「この国を統率する神がいなくては困るが、どうしたものだろう」と考えていられるところへ、一羽のフクロウが飛んで来た。神達は「何だろう」と見ると、その鳥が目をパチパチして見せるので、「これは面白い」と二柱の神達が、何かしらをされ、沢山の神々を産まれたという。
日の神と月の神
沢山の神々が生まれた中で、ペケレチュプ(日の神)、クンネチュプ(月の神)という二柱の光り輝く美しい神々は、この国(タンシリ)の霧(ウララ)の深く暗い所を照らそうと、ペケレチュプはマツネシリ(雌岳)から、クンネチュプはピンネシリ(雄岳)からクンネニシ(黒雲)に乗って天に昇られたのである。また、この濁ったものが固まってできたモシリ(島根)の始まりが、今のシリベシの山(後方羊蹄山)であると言う。
『蝦夷地奇観』では、ノツカマップ=根室半島の首長であるションコの話として、シリベシ山(後方羊蹄山)を「最初の創造陸地」としている点で伝承が同じである。多くのアイヌがこの地を始まりの地と認識していた事が分かる。
ペケレは「明るい」を意味し、チュプは「太陽」を意味する。一方、クンネチュプは、直訳すれば、「黒い太陽」である。
神々による文化の始まり
沢山生まれた神々は、火を作ったり、土を司る神となったりした(最初から役割が定まっていないのが特徴)。火を作った神は、全ての食糧=アワ・ヒエ・キビの種子を土にまいて育てる事を教え、土を司る神は、草木の事の全て、木の皮をはいで着物を作る事などを教えた。その他、水を司る神、金を司る神、人間を司る神などがいて、サケを取り、マスをやすで突き、ニシンを網で取ったり(この神は江差に祭られている姥神と考えられている)、色々と工夫をして、その子孫の神々に教えられた。
アイヌの創造と人祖神降臨
こうしてアイヌモシリは創造され、次いで他の動物達も創造される。さらに神の姿に似せた「人間(アイヌ)」も創造される。その後は、神々の国と人間界とを仲介する人祖神アイヌラックル(オキクルミ・オイナカムイ)が登場する事となる(日本神話でいう天孫降臨神話に近い)。彼は沙流(サル)地方(現日高・平取町)に降りた。
アイヌラックルに関する神話は各地によって差異がある。
沙流地方に降りたとする神話では、父母の神に頼み、モシリ(国土)に降りたとする(初めから天神として語られている)。この時、アイヌはまだ火の起こし方も知らなかったとされている。 
 
ギリシャ神話

 

古代ギリシャの神話というと、一般に「オリュンポスの神々の物語」となります。この神々は「人間的表現」を持ったため絵画・彫刻などの美術や詩・文学に表現され、そのため結局「西洋美術・文学の源」となって現代にまで生き続けることになります。
ギリシャ神話は「宇宙の生成の物語」「原初の神々の争いと覇権の物語」「オリュンポスの神々の物語」「英雄物語」とで構成されています。 
宇宙の生成の物語
オリュンポスの神々の誕生に先立って、宇宙の生成の物語があります。ここでは「永遠の宇宙の原質」が展開して、はじめに「カオス(開き口、空隙、混沌)」、第二に「大地ガイア」、第三に「タルタロス(無間の底なし)」、第四に「エロス(愛)」が生まれ、材料としての「大地ガイア」からの自然世界へとなっていく次第が物語られます。
初の神々の争いと覇権の物語
オリュンポスの神々というのは「三代目の神々」なのでした。初代の「天ウラノス」からどのようにしてゼウスを主神とするオリュンポスの神々に覇権が移っていくのか、そこにはドロドロとした生々しい親子の争いがありました。ただし、物語として独立的に長い話とはなっておらず、それぞれの代のところでの覇権奪取の挿入的な逸話といったところです。
オリュンポスの神々
オリュンポスの神々は主要神として「12」の神々がおりますが、その神々は全員強い個性の持ち主で、職分もはっきりしています。この物語の中に古代ギリシャ人の思う神々の正確が現れてくるのですが、それは日本の神々とは全く異なった、恐ろしく喜怒哀楽の激しい人間的な性格と姿を持った神々でした。
英雄物語
この物語もギリシャ神話の大きな部分を占めます。「その顔を見ると石になってしまうという怪物ゴルゴンのメドゥサ態度のペルセウスの物語」や「信じられないほどの強さを持つ最大の豪傑ヘラクレスの物語」「黄金の羊の毛を求めて長い海洋の冒険をしていくアルゴー船伝説」「父を殺し実の母から子供を産む運命に翻弄されるオイディプスとその子供たちを描くテバイの伝説」「テセウスによる迷宮と半牛半人の怪物ミノタウロス退治物語」そして「英雄アキレウスとトロイ戦争伝説」など現代に間でさまざまの文学や栄華のテーマとなっている数多くの物語があります。
オリュンポスの神々の特徴
オリュンポスの神々の最大特徴は、「神とは不死にして強力な能力を持った人間」というような性格を持っていることです。つまりギリシャ人は自分達に能力を与えてくれる「能力そのもの」の象徴として「神」というものを考えていました。それ故「神」は怖ろしく人間的で、能力だけではなく感情までも人間的なものを強く持っていました。ですからギリシャの神々は「人間的に描かれ歌われる」という性格をはじめからもっていたのです。それがギリシャ神話となり、また西洋文化の源となるギリシャ叙事詩・叙情詩・悲劇となり、またギリシャ美術といわれるものの実態なのです。
神と人間の関係
ギリシャ人は人間の生の目的として「神に近づこう」という考えを持っていました。つまり人間は神に似るように努力し、「智」において「体力」において「武術」において「芸術」においておよそ何においても「より強く、より高く、より美しく」ということを最大の価値と考えていました。
冒険こそ男の価値であり、困難に立ち向かうのが英雄とされました。そしてその精神のもとで彼等は「海を越えて」未知の土地に行き、そこに「移民」していったのです。こうした精神がエーゲ海を越えて黒海沿岸から地中海の北の海岸すべてをギリシャ領域としたし、今日の近代文化の源となるほとんどすべての「学問」を生み、「芸術」を生み、そしてオリンピックに代表される「スポーツ」を生んでいったのです。
ちなみに「オリンピック競技」というのは、もともと神ゼウスへの奉納という「神事」であり、個人的には「神に似た優れた力と姿」を獲得することへの修練であり、また「名誉」を得ることも大きな目的でした。 
オリュンポスの12神
そうした古代ギリシャ人が自然や人間の能力の源とした神々は「オリュンポスの神々」と呼ばれたくさんの神々がいますが、その特徴は皆それぞれ明確な「職分・性格」を持ち「個性的」であるということにあります。彼等は自分のその「個性」に執着し決して他の神に譲るということはしません。徹底的に「自己を主張する」というところに「神である」ということを表してきます。この「個人主義」的な精神がギリシャ精神となり後にヨーロッパの精神ともなったのです。その代表的な神々が「オリュンポスの十二神」と言われる神々です。
1、 主神、ゼウス。オリュンポスの神々のキャプテン。天を支配し「雨と雷」を司り、リーダーの資質の象徴。
2、 女神、ヘラ。ゼウスの妻。女性の栄光を司り、とりわけ家庭婦人の守り神。
3、 神、ポセイドン。ゼウスの兄弟。世界の三分の一である「海」を司る。海、航海に関わるすべてを支配する。
4、 女神、ヘスティア。家や都市の象徴。「炉の神」であり、その火が消えることは家や都市の滅亡を意味する。
5、 女神、デメテル。穀物を司る神。また植物の「再生」から「再生の密教」の神でもあった。
6、 神、アポロン。「予言の神、音楽の神」として、また若い男性の美徳を託されギリシャ人がもっとも愛した神。
7、 女神、アテネ。「都の守護神」で「栄光の戦い」を司る。「知恵の神」でもあり最高に敬愛された。
8、 女神、アフロディテ。「美」の女神としてローマ名「ヴィーナス」で有名。
9、 女神アルテミス。「山野の女神」したがって「野獣の神」だが「純潔の女神」として有名。
10、 神、ヘパイストス。鍛冶の神。あらゆる工芸・制作の神。ただし足に障害を持ち「男前でない」神としても有名。
11、 神、アレス。戦争、殺戮の神。ギリシャ人には嫌われた神。
12、 神、ヘルメス。もっとも若年の主要神。「道・伝令の神」であり後には「冥界への道の神」ともなった。「商売」の神としても有名。
その他、「冥界の神ハデス」、「ぶどう酒、熱情、悲劇の神ディオニュソス」が重要です。
他にも「運命の女神モイラ」「遇運のテュケ」など人間の人生そのものに関わる神も注目されます。
「太陽の神ヘルメス」「月の女神セレネ」「虹の女神イリス」「曙の女神エオス」など自然神も大事です。
また、「青春の女神ヘベ」「勝利の女神ニケ」「出産の女神エイレイテュイア」など人間の人生のさまざまの局面の神もいろいろな場面ででてきます。
要するにその神々の体系は、自然現象、人間の能力や営み、人間の感情などなど、自然と人間のあらゆる局面の顕著なものにそれぞれ神々が居て自然や人間の有り様を象徴したと言えます。 
ギリシャの神々の近代への影響
ギリシャ神話は古代ギリシャの文化を理解するのに不可欠ですが、それだけではなく西洋近代の絵画や彫刻、また文学にはギリシャ神話に題材をとったものが非常に多いです。これは西洋が近代化への道をギリシャ文化の再興という形で進めたからで、ですから近代絵画や彫刻あるいは文学も、その題材にギリシャ神話を使っているものが多く見られ、この場合その作品の意図を知るためにはギリシャ神話の知識が必ず必要となるのです。
それはたとえば、ルネサンスの代表であるボッティチュッリの「ヴィーナスの誕生」や「春」に典型的に見られます。これはいずれも「美の女神アフロディテ(ローマ時代になってヴィーナスと呼ばれるようになる)」を題材としたもので、「ヴィーナスの誕生」はギリシャ神話につたえられるヴィーナスの誕生を物語通りに描いたもので、「春」はヴィーナスの誕生から生じる花々に充満した世界を描いたものです。これは中世の時代には許されていなかった「女性の肉体美」を描いたもので近代精神の幕開けとなる作品なのでした。近代精神をギリシャ精神の再生に求めたのがルネサンスだったのです。
その後、近代絵画や文学・映画だけではなく、さまざまの事物や現象にこの神々の姿や名前が見られることになりました。たとえば、有名ブランド「エルメス」とは神「ヘルメス」ですし、石油にも「アポロン」がおり、車にも「ガイア」や「オデュッセイ」があり、といった具合です。 
古代ギリシャにおける英雄像、「トロイ戦争伝説」
ギリシャの英雄伝説でもっとも有名なトロイ戦争のあらすじは、かつてギリシャのスパルタの王女で絶世の美女ヘレネがトロイの王子パリスに誘惑されて手に手をとって逃げていったのを追って、ミケーネの王アガメムノンを総大将としてギリシャ軍が小アジア北西部黒海への入り口、今日のダーダネルス海峡に面していた豊かな都トロイへと攻め上ぼり十年間の戦いの後ここを滅ぼすというもの。筋は、ギリシャ最大の勇士であったアキレウス(足のくるぶしのアキレス腱に名前が残っている)は総大将アガメムノンの理不尽さに怒り、退陣。その隙を縫ってトロイの総大将ヘクトルが活躍しギリシャ勢を追いつめていく。それを遠くから見て、味方の敗勢を立て直すべくアキレウスの親友パトロクロスがアキレウスの鎧・兜を借り受けてアキレウスに成り代わって参陣。ヘクトルに討たれてしまう。アキレウスは嘆き、敵討ちのため復帰を決意。アキレウスとヘクトルの一騎打でヘクトルはついにアキレウスに討たれてしまう。ヘクトルの父トロイの王プリアモスは夜陰に紛れてアキレウスを尋ね、ヘクトルの死骸を返してもらう、といった筋立です。 
英雄の条件
1、 最大の特徴は「自分自身」が戦闘の頭に立ち「武勲」をたてることにあり、ほとんどすべてこれに尽きます。
2、 英雄にはその「力」を信奉してついてくる部下がいるが、しかしこの多・少は武将内での位置付けにほとんど影響していません。
3、 英雄の多くは領主として財産、船団、戦車などを持つが、「英雄」ということではアキレウスの親友とだけでそうした外的なものを持たないパトロクロスの例もあるので一概には言えません。
4、 血統だが、これについては英雄の多くが「神」をその父か母に持っているが、しかし例外も多く、これも一概に言えません。
ですから、始めの条件こそが「英雄」の姿なのであり、したがって英雄は常に一人で戦闘に赴き、大勢の兵隊もいる筈なのに「軍団の戦い」という場面は描かれず、そのため英雄の「指揮能力」も問題になっていません。ただ「己の足と手と能力だけで戦う」のが英雄の資質なのです。戦場の描きにおいては回りに彼を守るべき部下も見当たりません。ある英雄を助けるとしたら「別の英雄」となるのです。
こうしてみると結局、英雄の条件は「個人的資質」ということに尽きていると言えます。財産だの部下の数だの外的なものはあくまで付随的なものであり、英雄の「条件」ではないということです。こうした英雄のあり方は、後代のアレクサンドロス大王のあり方に典型的に見られてきます。
こうした「英雄観」は後に、人間にとっての善をまず「自由人」であることに求め、「自立(自律)」を基本に「資質を磨く」「懸命の努力」「武勲」を第一に見て行く精神に現れていったと言え、これが古代ギリシャ精神であったと言えます。
神はこうした人間の「実際行動の支え」として出現してくるのであり、その人間が「冒険・努力」より「安定・安楽」に傾いた時にはさっさと離れていきます。この典型が「アルゴー船」伝説のイアーソンに見られ、冒険の後に安定・安逸を求めた彼は哀れな末期を辿らなければならなりませんでした。「向上心・努力・冒険において始めて神はその人間に介在してくる」という思想が古代ギリシャの「神」の考え方であると言えるのです。
神と人間との関係は以下のようにまとめられます。
1、 人間は不完全で、知においても低く狭い、という「人間の分限性」の自覚とそこからの「向上心」が尊ばれた。
2、 人間の行為・行動の結果は、人間の意図・意志通りにいくものではないが、「努力で開かれる」とする。
3、 人間の人生・生死は人間が決められることではなく、不可知な中で生きていかなければならない(運命の受容)。
4、 いかなる運命の下にある人生であっても、それを「自分の人生」として引き受け、自分の精一杯のところで生きていこうとする中に「神」は介在してくる。
5、 神の介在において人間の能力は開かれ、顕在化してくるのであり、人間は「神」によって支えられ、したがって神に対する畏敬の念を持たなければならない。
6、 それを失うのが「おごり、傲慢」ということなのであり、ここに人間の滅びの原因がある。 
宇宙・神々の生成の物語

 

宇宙開闢の四柱の神々
宇宙の始めについて、最初の神話作家ヘシオドスの説明はない。ただ、「何やら分からない、名前も形も色も匂いも何にもないのだけれど、何か宇宙の原質となるようなものがあった」と想定するしかない。ともかく「始めに原初のものがあった」とする。ここから宇宙開闢が始まるのだが、その運動についても説明はない。しかし、ともかく活動し始め、この世界を生み出していくことになる。
ヘシオドスは「最初に生じたものは何か」と問うて、「始めにカオスが生じた」と言う。カオスというのは通常「混沌」と訳されるが、ここでは「開き口」あるいは「空隙」くらいの意味だろう、と考えられる。つまり、何かが開かなければ何も始まらない。あるいは、物と物とを分け隔て(空隙の観念)、「一つの物」として認知させる「形の形成の原理」かとも考えられる。なぜなら、「空隙」がないということになったらすべては「一つ」になってしまって「物の形」などなくなってしまうから。この状態が「混沌」とも言える。  
ついで「ガイア」が生じた、という。このガイアというのは「大地」を意味する。これはわかりやすいが、ところが続けて第三の神として「大地の奥底にタルタロス」といってくる。このタルタロスというのは「無間」を意味し、イメージ的には底なしの空間となる。こんなものが何故「はじめの神」とされているのか説明はないが、大地が形あるものの生成の「材料的原理」と考えられるのに対して「消滅」の原理であると考えられる。というのも、ここは「二度と地上にでてくることができない」ところであるからで、後には「永遠の地獄」となってくる。生成ばかりでは増える一方になってしまうので「対概念」してこんなタルタロスのごときを言ってきたのかも知れない。
そして四番目に「愛神エロス」が生まれた、と言ってくる。このエロスはヘシオドスによって「神々の中でも最も美しく」「神々や人間の心や思慮をうちひしぐ」と語られているので、要するに我々の知っているあの「愛」でいい。これが、二つのものを引き寄せて子供を生む原理であることはいうまでもない。 
「宇宙創生」の原初の神々の形成、「混沌のカオス」からの生成
上記の宇宙開闢の四柱の神々は展開して「宇宙を創生していく原初の神々」を生み出していく。はじめの「混沌のカオス」の場合、つぎに神エレボス(暗黒)と女神ニュクス(夜)を生む。これはエロスの働きではない。カオス自身の展開といった記述の仕方となっている。次にエレボスとニュクスからアイテル(澄んだ気)とヘメレ(昼の日)とが生まれる。こちらは「情愛の契り」をして、と語られる。こうして「闇と明」「夜と昼」とが生成したことになる。
ついでヘシオドスは、夜のニュクスが「誰とも寝床を一つにする事なく、一人で」生んだ子供たちを列挙する。「夜」という名前に付いて回る「暗いイメージ」の子供たちで、例えば「忌まわしい定めのモロス」とか「死の命運のケル」とか「死のタナトス」、「眠りのヒュプノス」「夢のオネイロス」などが挙げられてくる。その他、非難とか苦悩、運命、憤り、欺瞞、欲情、老齢、争い、苦労、忘却、飢餓、悲嘆、戦闘、殺害、殺人、紛争、虚言、口争い、不法、破滅などなどの子どもを生み出して行く。これらは普通名詞であるが、同時に「擬人神」となる。 
原初の神々の形成、「大地のガイア」からの生成
一方、「大地ガイア」の子どもは「形ある自然物」となり、まず大地ガイアは「天ウラノス」を生み出す。これも「一人で生む」ので、言わば「分身」といえる。ヘシオドスは、「こうすることで大地が神々の揺るぎない座になるためだ」、と語っている。さらに大地は「山々(名前はない)」を生み、そして「海原ポントス」を生み出す。この「山と海」は大地の分身であることは分かりやすい。
その次からはエロスが活躍する。まず「大地ガイアと天ウラノス」の組み合わせをつくり、ついで「ガイアと海ポントス」の組み合わせをつくる。さらに大地ガイアはタルタロスとも交わることになる。
ここでやはり一番大事なのは天ウラノスとの関係である。ここから生まれてくる者たちがギリシャ神話の主人公となる。もちろんオリュンポスの12神もこの系譜にある。 
「大地ガイアと天ウラノス」からの生成
大地ガイアと天ウラノスは添い寝して子供たちを生む。まずは詩人ホメロスの叙事詩の中で「神々の祖」とまで言われていた「大洋オケアノス(この英語発音がオーシャンとなる)」を、そしてさらに偉大な神々を生んで行き、「掟の女神テミス」や、「オケアノスの妻、女神テテュス」などが挙げられる。そして、後にこの種族は「ティタン神族ないしクロノスの一族」と呼ばれることになるのだが、その名前の由来でこの一族の「主神となるクロノス」たちを生む。さらに、「一つ目の巨人キュクロプス兄弟」、そして最後に「百手の怪人神ヘカトンケイレス兄弟」を生んで行く。 
ウラノスの滅亡
ところが、天ウラノスはこのヘカトンケイレスを憎み(後の617行で三人の名前を挙げて、彼等の無類の勇気と容貌、体躯をねたんで、といわれている)、大地ガイアの奥底に彼等を押し込んでしまったという。だが大地ガイアの方は腹いっぱいに詰め込まれて呻き、怒りで復讐をたくらんだ、となる。こうして、大きな鎌を作って、子供たち(クロノスの一族)に反逆をそそのかす。しかし皆、天なる父ウラノスの力を恐れ、尻込みする中、一人「クロノス」が母への協力を申し出る。こうして母ガイアは大鎌をわたして待ち伏せの場所にクノノスを隠し、ウラノスが天からおりてくるのを待ち受ける。ウラノスはガイアのもとを訪れ、横たわるガイアの上に覆いかぶさってくる。その時を待っていたクロノスはウラノスの偉大な一物を左手にむんずとつかみ、右の手にもった大鎌でその巨大なやつをバッサリ切り落としてしまう。ウラノスは自分の子クロノスをののしり、この報復が後にやってこようと呪いをかける(この呪いは実現することになる)。 
美神アフロディテの誕生
一方、傷口からは血がほとばしり出て、それはガイアに受け止められて、「復讐の女神エリニュス」と巨大なギガンテス(ジャイアンツの語源で野蛮な巨人)、長槍の柄となるトネリコの精メリアイ」が生まれる。
しかし、「切り取られた一物」の方は海へと投げ捨てられ、海原をただよっていくうちにやがてその回りに白い泡が沸き立ち、その「泡にまみれた一物」からはそれは美しい乙女が生まれ出てきたという。これが「美の女神アフロディテ」の誕生であった。
ヘシオドスは「美の本質」をここに見ているようで、それは男根という「生む」性格を持ち、「怨念」を伴い、「復讐の女神」と「殺戮と闘争」のシンボルを兄弟・姉妹に持っている、というわけである。人間の歴史はどれだけ「美しい女」のために「怨念と復讐」の「殺戮劇」をみせ、どれだけ男達は「戦って」きたことかをみれば納得できる。
ともあれ、アフロディテは流れてキュプロス島に上陸する。そこに、あの原初の神の一人であった「愛の神エロス」が彼女の「従者」になるべく、「欲望ヒメロス」を伴って現れてきたという。この時以来エロスは「若者」の姿になってしまったようである(彼はさらにもっと若返り、ローマ時代にはついにキューピッドという赤ん坊にまでなってしまうという数奇な人生を送ることになる)。ちなみにエロス自身は「燃え上がる恋の心」を司るけれど「性欲」は司っていない。それを司るのはヒメロスの方であって、したがってここにヒメロスまで登場してきてアフロディテの性格を「美と愛と性」とにしてきたというわけである。こうしてこの女神の持ち分は、ヘシオドスの語りでは「娘たちの甘い囁き、ほほ笑みと欺瞞、甘美なよろこび、情愛と優しさ」というわけで、じつにこうして男達は翻弄されることになってしまったのである。  
プロメテウスの神話

 

ギリシャ神話・思想・悲劇などに興味を持つ人にとってこの「プロメテウスの神話」というのは非常に興味深く、また一般にもかなり知られている神話の一つとなる。内容は「人間に火を与えた」というもので人間の科学技術についてのエッセイなどでもよく引用されてくる。「人間界への火のもたらし、それに伴う罰としての鷲に肝臓を喰われる話」以外にも、「悪と災厄の女族の形成、パンドラの神話」「人間の五つの時代の物語」、中東の「ノアの方舟」と酷似する物語「デウカリオンの神話」などに関係している。
プロメテウスというのはクロノス達「ティタン神族」の一員であった。したがって、ゼウスたち「オリュンポス神族」に先立つ神々の一人であり、ゼウスたちとは敵対関係にある筈であった。しかし、プロメテウスの神格というのが「先に思慮する、先見の明を持つ」というものであったため、おそらく彼は「ティタン神族とオリュンポス神族との戦い」において「ティタン神族の負け」が見え、そのため彼は戦いに加わらなかったのだろう。そのおかげで彼は「オリュンポス神族の支配」となった時も追放されずにすんだ。そのいきさつについて神話作家ヘシオドスは何も語っていないが、後に劇作家アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』では、プロメテウスは母である「テミス」の忠告に従い仲間であるクロノスたちに様々の助言をしたのだけれど受け入れられず、そのため結局ゼウス側につくことになったのだと語っている。
この彼が「人間に火を与えた」という話しはどういうものであったかというと、ヘシオドスによると神々と人間とが争っていた時(これは後の話しから食料問題であったとなるが、この物語ではどうも人間も神々もたいして地位が隔たっているわけではないようで、そのため争いになっている)、プロメテウスが調停に入ることとなり、彼は食料である「牛」をほふって、人間の前には「肉と臓物」とを汚らしい胃袋に包んで置き、神々の前には「骨」を艶やかできれいな脂肪にくるんで置いたという。その美・醜の差を見てゼウスは、ずいぶんと不公平な分け方ではないかと言ったけれど、プロメテウスはゼウスに向かってどちらでも貴方のお好きな方をお取りくださいと言ったという。それで結局ゼウスはやっぱりきれいな方をということで「艶やかできれいな脂肪でくるまれた方」を選んだ。ところが、中身を見ると「骨」なのでゼウスは激怒して、この企みは決して忘れないとして人間から何もかも取り上げてしまったという。ただこれでは「ゼウスは騙された」ということになってしまうと思ったせいかヘシオドスは、「この時ゼウスはすべてを承知していたけれど」などと付言している。しかし、これはやっぱり騙されたのでなければ後の話につながらない。
さて、困ってしまったのが人間で、丸裸なのでこのままでは滅亡してしまう。そこでプロメテウスは一計を案じて、一本のウイキョウを手にして天に昇り、天にあった火をそのウイキョウの芯に移してしまう。ウイキョウの芯は柔らかくて燃えることができるが、ウイキョウの外側は湿っていて火は外側に燃え広がらず、そのため中に火が燃えていることが見えない。こうしてうまうまとプロメテウスは天上の火を盗み出してしまい人間に授けてしまう。おかげで人間はその火をもって暖をとり、肉を焼き野獣を追い払って生き延びていくことができることとなった。
しかし、地上にあるはずのない火が地上に燃えているのを見つけたゼウスは烈火のように怒り、再び人類に災いをたくらむ一方、プロメテウスを「火泥棒」の罪でとっつかまえて岩山にくくりつけ、日ごとに鷲にその肝臓を喰らわすという罰を与えてきた。プロメテウスは「神」だから死なないけれど、しかし人間と同様「激痛」はある。一日経つとまた肝臓は再生しているので、プロメテウスは毎日肝臓を喰われる激痛に耐えなければならなくなってしまったわけである。
しかしプロメテウスは「先なる思慮、先見の明」という名前を持つ神であるから、この先のことも見通していて、やがてゼウスが謝って来なければならないことを知っていた。そうなることで彼は天上界にあって一目置かれる存在となるというわけであった。それはプロメテウスしか見通していない「秘密」があって、それはゼウスの運命にかかわってくることだったのである。その秘密とは、ゼウスが恋している女神テティスの持つ運命であり、彼女が生む子どもは「父親を凌駕する」というものだった。したがって例によって女狂いのゼウスがこのテティスを襲って子どもでもつくろうものなら、ゼウスはやがてテティスから生まれる子どもによって主神の座を追われかねないというわけであった。ほどなくゼウスは、このプロメテウスが自分の運命に関わる秘密を知っているらしいということに気がつき、プロメテウスを釈放することになる。こうして物語はテティスへと移り、それが「トロイ戦争物語」の発端になっていくのであった。
それはともあれ、このプロメテウスの神話は「神と人間との関係」を良く物語ることになる。つまりこの神話は一見すると「神々に対する供義」が「骨を焼いて煙りを天上にとどける」という形になっていることの「説明神話」のような形態をとっているが、ヘシオドスの筆致はむしろ人間がこうむらなければならなくなった「苦難」を語るほうに向かっていくからである。それを語るのが「パンドラの神話」と呼ばれるものとなる。  
パンドラの神話
さて、ゼウスはプロメテウスを岩山にくくりつけると同時に人間に対する災いを企み、制作の神ヘパイストスに命じて「土と水とをこねて」不死なる女神に形を似せて美しい姿を作らせる。ついでこれに「人間の声と力」とを入れ込み、さらにこの美しく作り上げられた姿に技芸の女神アテネが「女としての術知である機織り」の技を教え、またさらに美の女神アフロディテが「優美と何人をもとろかす恋の心」を入れて磨き上げていったという。そして、できあがった姿に今度は欺きと口達者の神ヘルメスが「欺瞞の心」を植え付け、その他の神々も見た目はいいが裏では災いとなるあらゆるものを次ぎから次ぎに入れ込んでいったという。こうして「あらゆるものを贈られたもの」という意味でこれは「パンドラ(パンとはすべて、ドロンは贈り物の意)」と呼ばれることになった。こうしてゼウスは彼女を人間界に送り出していく。そしてこのパンドラから「女の種族」が生まれるようになったのだ、とヘシオドスは語ってくる。
一方、捕らえられる前に人間界にいたプロメテウスは、当然ゼウスが何かをたくらんでくることを察知していて、自分が捕まる前に弟である「エピメテウス(エピとは「後になって」、メテウスとは「分かる・思慮する」の意でようするに「後にならなきゃ分からない」というわけ)」にゼウスからの贈り物は決して受け取らないようにと注意しておいた。ところがエピメテウスは、ゼウスから贈られたこのパンドラを見て目がくらみ、兄プロメテウスの忠告などころりと忘れて大喜びでこのパンドラを受け入れてしまう。
さあそれからが大変で、パンドラのおかげで家の財産は食いつぶされるは、あらゆる事柄において騙されるはでえらいことになってしまう。またこのパンドラから得られた子どもというのはグウタラで働きもせず反抗してくるばかりであった。こうした事態が嫌だと一人でいれば、なるほど財産は残るけれど死んでしまう運命にその財産は他人に持って行かれてしまう、というわけでパンドラ(女の種族)の受け入れ以来、男どもは何をどうしてもうまくいかないというハメになってしまったという。
ここまではヘシオドスの『神統記』の物語となる。他方、同じヘシオドスの『仕事と日々』になるとさらに話しは続き、このパンドラは好奇心おおせいで、「決して開けてはならない」とされていた「瓶」に興味を持ってついにこれを開けてしまった、となる。ところがこの「瓶」は病気や災害などあらゆる災難・災厄を封じ込めていたものだったので、それらの災害・災厄が一斉に外に飛び出し、世界中に広がってしまったのであった。おかげでこれまで人類は病気や災害知らずであったのに、それからはありとあらゆる病気・災害・災厄・労苦に苦しめられるようになってしまったという。
ただ一つ「希望」だけがグズグズしていて外に飛び出し損ね、慌てて閉められた瓶の中に残されたという。この「希望」の意味だが、ヘシオドスは何も言ってないが、外に飛び出していればこれは「災い」となったのだけれど、幸い封じ込まれているので「災い」にはなっていないということだと理解できる。これは要するに「虚しい願望」と「未来への希望」の差なのであって、飛び出していればこれは「虚しい願望」としてしか働かなかったのに、閉じこめられたおかげで「未来への希望」として働いている、というわけであろう。実際、我々の持つ希望は、実態は「虚しい願望」にすぎないのに、それを人類は「明るい希望」にしてしまい、これがあるから人類は生きていけるわけである。
この「希望」の話しに集約されているように、ヘシオドスにおいては人類はどうも「情けない」存在になっているようである。つまりこの神話は、ゼウスの報復によって人類は「あらゆる災難」を被る存在にされてしまったということを語っており、また、人間が「苦労」しなければならなくなった所以を語っているわけである。それが「女の種族」によるとしているところがヘシオドスのユニークなところであるが、ここにヘシオドスの個人的体験があるのかどうかは判然とはしない。
とりあえず、ここではとにかく「人間の運命」に注目しておくべきだろう。つまり、どうも人間は初期には神々と変わらず平穏に生きていたようである。それが「食を必要とする」ということから「神々との離反」が生じ、弱い存在となったが天上的な「火」を持つことで存続はできるようになったけれど、そのためあらゆる苦難を背負い込むものになってしまったというわけである。この人間の運命についてヘシオドスはさらに続けて「人間の世代の移り変わり」として物語ってくる。  
人間の五つの時代の物語(五時代説話)
人間の種族とその時代について、ヘシオドスは、人類というのは始めから現在の人間のようなものであったわけではない、と語りはじめる。
はじめの人間の種族は「黄金の種族」と呼ばれていたとヘシオドスはいう。ヘシオドスはこの人間の種族は「オリュンポスの神々」が作ったと語り、次いで、この人々はクロノスの治世に生きていたと語る。ただしこれは神々の系譜から言えばつじつまが合わない。なぜならクロノスはオリュンポスの神々の前の時代の神だからである。しかし「クロノスの時代」というのは神話では「太古の昔」といったニュアンスの言葉の定型句のようなものなので、こういった矛盾には眼をつぶっていていい。
さて、この「黄金の種族」は神々と変わる事なく、何の憂いもなく、災難にもあわず、老齢になることも、体が衰えることもなく、あらゆる良きものに恵まれていたという。ただし「人間」だから死ぬことはあり、この種族は静かに眠るように死んでいったとされる。しかし、死んで後も彼等は「善き精霊」として人間の守護霊となったという。従って、この時代の人間は「神々とそんなに離れていない」ということになりそうで、要するに「昔は良かった」という感情のヘシオドスなりの表現であると理解される。
黄金の種族の時代は終わり、次いでオリュンポスの神々が作り出したのは「白銀の種族」であったという。この種族は先の種族にはるかに劣り、100年もの間幼児のままで、やっと成長して大人になっても互いに傲慢で、また神々を敬うこともせず、結局自分の無思慮の故に短い生涯を終えた、と言われる。これは、主神ゼウスが彼らの有り様を怒り、滅ぼしたからだという。子どもっぽく、自分勝手だったというわけであろう。それゆえ敬神の心も無かったというわけである。ただし、(どういうわけか)この種族も地下にあって「至福なる人間」とされている。赤ん坊のように無邪気なだけだったからということなのか良く分からないが、釈然とはしない。
そしてさらにゼウスは第三の種族を作り出したという。これは「青銅の種族」と呼ばれ、心もかたくなで力ばかり強靭で凄惨な争いと暴力沙汰に明け暮れていたという。そのため彼等は互いに殺し合って名も残す事なく地下の冥界へと下っていったと言われる。要するに彼らはただ「争う」だけの種族であったというわけであろう。
こうしてまたゼウスは第四の種族を作ったという。今度は先の者達より数段優れ、一層正しい者達であったという。彼等は「英雄とも半神」とも呼ばれる種族であった。しかし彼等も、あるいは「テバイの城の攻防」でまたあるいは「トロイの平原」で死闘の末に滅んでいったと言われる。この種族は要するにミケーネ時代の「テバイ戦争」および「トロイ攻め」の時代の人間で、ギリシャ人にとっては栄光の先史時代であった。したがってヘシオドスは、死後この者達は人の世からは遠く離れた「至福者の島」にあって何の憂いもなく暮らしていると語っている。
それから後には、とヘシオドスは絶望的に語る。この時代だけは「生きたくはない」と呻いている。その前に死んでいるか、あるいはこの「第五の種族」の後に生まれるべきであった、この現在の人間は最低最悪であると嘆いている。この時代は「鉄の種族」と呼ばれるが、夜も昼も苦悩に満ち、身内にも信がなく、友情もなく、神を虞れることもなく、正義もない。あるのは悪事を働く心と暴力、善人を傷つけそれを繕う妬みの心と憎しみばかりであるとヘシオドスは語る。廉恥の女神も義憤の女神もあきれて人間を見捨てている。こうして人間界には苦悩のみ残り、災難を防ぐ術もないというわけである。いうまでもなくヘシオドスの生きていた時代を語っているのだが、先の「パンドラの説話」といいこの「五時代説話」といいヘシオドスの絶望的な人生がかいま見られる。
この五つの時代は、最期がヘシオドスの「現代(鉄器時代)」になっていて、その前がミケーネの「英雄時代」で、その前が「青銅器」時代なので時代的にあっているが、別にここでヘシオドスは「歴史的経緯」を描いているわけではない。また「下降史観」を描いているわけでもない(英雄時代は前の青銅時代より優れている)。彼にとっての問題は、現代が如何にダメかということに尽きていて、人間はこうした現状をよく見極め反省し、正義を取り戻さなければならない、とヘシオドスの筆は続くのであった。
なお、冒頭で「神々も人間もおなじ根源から生まれ出た」と語っているのだが、一見すると「オリュンポスの神々が人間を造った」として語り出す物語とつじつまが合わないようにも見える。しかしそういうわけではなく、神も人間も「本来は同じ自然のもの」なのだけれど、ただ「人間」としての定めで神のような具合にはいかないという話なのであり、従って、五つの時代の人間を「作った」というのも「別のもの」を作ったわけではなく、「子どもを作った」類いと解しておけばつじつまは合う。そして人間は「親から離反」するように神から離反しているとヘシオドスは言いたいわけである。
そんな関係を語ってくるのが先のプロメテウスの話しの続きの話しで、それはヘシオドスではなく後代のアポロドロスに伝えられているものだが、プロメテウスの子どもとしてデウカリオンがいたとなる。この「デウカリオン」にまつわってある意味で有名な話しが伝えられてくる。  
デウカリオンの神話
プロメテウスの子ども「デウカリオン」は、エピメテウスとパンドラの子どもである「ピュラ」を妻にしていたが、ゼウスが青銅の時代(先のヘシオドスによる三番目の種族)の人類に愛想を尽くしその人々を滅ぼそうとして「大雨」を降らせ、「洪水」を起こして地上を水で覆ってしまったという。その時デウカリオンは、父プロメテウスの忠告に従って一つの「方舟」を作っていて妻のピュラ共々そこに避難していたという。そしてデウカリオンの乗った船は九日間水の上を漂い、一つの山に流れ着いたという。雨が上がったのでデウカリオンたちは船を出てゼウスに犠牲を捧げて感謝する。そうした敬虔なるデウカリオンを認めたゼウスは、彼らの望みを叶えてやろうと約束し、そこでデウカリオンは「人間を再生」させたいと願ったところ、ゼウスは石を拾って頭越しに投げるが良い、といってくる。そこでデウカリオンがそうしたところデウカリオンの投げたものからは男が、ピュラの投げたものからは女が生じてきたという。
他方、デウカリオンはピュラから「ヘレン」という子どもをはじめとして何人かの子どもを生んでいくけれど、この「ヘレン」こそがギリシャ人の元祖となるとされる。我々は「ギリシャ人」と呼んでいるけれど、これは本名ではなく、本名は「ヘラス」である。これは現代でも変わらず、ギリシャの本名は「ヘラスないしエラス」となる。
さて、このデウカリオンの神話は「ノアの方舟」の話しとそっくりだが、ここでの「デウカリオンの神話」で大事なのは、驕慢な人類が一度滅ぼされ、ここでデウカリオン達によって再生させられていることで、こうした人間の「神ならぬあり方」がとりわけ強調されていると思われる。  
 
淮南子「俶真訓」

 

(えなんじ) 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(BC179-BC122)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、「内二十一篇」しか伝わっていない。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
巻二俶真訓 / 「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」は日本の正史とされた神話の『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。 

有始者,有未始有有始者,有未始有夫未始有有始者;有有者,有無者,有未始有有無者,有未始有夫未始有有無者。所謂有始者,繁憤未發,萌兆牙櫱,未有形埒垠無無蠕蠕,將欲生興而未成物類。有未始有有始者,天氣始下,地氣始上,陰陽錯合,相與優遊競暢於宇宙之間,被コ含和,繽紛蘢蓯,欲與物接而未成兆朕。有未始有夫未始有有始者,天含和而未降,地懷氣而未揚,虛無寂寞,蕭條霄雿,無有仿佛,氣遂而大通冥冥者也。有有者,言萬物摻落,根莖枝葉,青蔥苓蘢,萑蔰R煌,蠉飛蠕動,蚑行噲息,可切循把握而有數量。有無者,視之不見其形,聽之不聞其聲,捫之不可得也,望之不可極也,儲與扈冶,浩浩瀚瀚,不可隱儀揆度而通光耀者。有未始有有無者,包裹天地,陶冶萬物,大通混冥,深閎廣大,不可為外,析毫剖芒,不可為內,無環堵之宇而生有無之根。 
有未始有夫未始有有無者,天地未剖,陰陽未判,四時未分,萬物未生,汪然平靜,寂然清澄,莫見其形,若光燿之間於無有,退而自失也,曰:「予能有無,而未能無無也。及其為無無,至妙何從及此哉!」夫大塊載我以形,勞我以生,逸我以老,休我以死。善我生者,乃所以善我死也。夫藏舟于壑,藏山於澤,人謂之固矣。雖然,夜半有力者負而趨,寐者不知,猶有所遁。若藏天下於天下,則無所遁形矣。物豈可謂無大揚攉乎?一範人之形而猶喜,若人者,千變萬化而未始有極也。弊而複新,其為樂也,可勝計邪!譬若夢為鳥而飛於天,夢為魚而沒於淵。方其夢也,不知其夢也;覺而後知其夢也。今將有大覺,然後知今此之為大夢也。始吾未生之時,焉知生之樂也?今吾未死,又焉知死之不樂也。昔公牛哀轉病也,七日化為虎。其兄掩戶而入覘之,則虎搏而殺之。是故文章成獸,爪牙移易,志與心變,神與形化。方其為虎也,不知其嘗為人也;方其為人也,不知其且為虎也。二者代謝舛馳,各樂其成形。狡猾鈍惛,是非無端,孰知其所萌?夫水向冬則凝而為冰,冰迎春則泮而為水;冰水移易於前後,若周員而趨,孰暇知其所苦樂乎!是故形傷於寒暑燥濕之虐者,形苑而神壯;神傷乎喜怒思慮之患者,神盡而形有餘。故疲馬之死也,剝之若槁;狡狗之死也,割之猶濡。是故傷死者其鬼嬈,時既者其神漠。是皆不得形神俱沒也。夫聖人用心,杖性依神,相扶而得終始。是故其寐不夢,其覺不憂。古之人有處混冥之中,神氣不蕩於外,萬物恬漠以愉靜,攙槍衡杓之氣莫不彌靡,而不能為害。當此之時,萬民倡狂,不知東西,含哺而遊,鼓腹而熙,交被天和,食於地コ,不以曲故是非相尤,茫茫沈沈,是謂大治。於是在上位者,左右而使之,毋淫其性;鎮撫而有之,毋遷其コ。是故仁義不布而萬物蕃殖,賞罰不施而天下賓服。其道可以大美興,而難以算計舉也。是故日計之不足,而歲計之有餘。夫魚相忘於江湖,人相忘於道術。古之真人,立于天地之本,中至優遊,抱コ煬和,而萬物雜累焉,孰肯解構人間之事,以物煩其性命乎? 
夫道有經紀條貫,得一之道,連千枝萬葉。是故貴有以行令,賤有以忘卑,貧有以樂業,困有以處危。夫大寒至,霜雪降,然後知松柏之茂也。據難履危,利害陳於前,然後知聖人之不失道也。是故能戴大員者,履大方,鏡太清者視大明,立太平者處大堂。能遊冥冥者與日月同光。是故以道為竿,以コ為綸,禮樂為鉤,仁義為餌,投之于江,浮之於海,萬物紛紛孰非其有。夫挾依於跂躍之術,提挈人間之際,撣掞挺挏世之風俗,以摸蘇牽連物之微妙,猶得肆其志,充其欲,何況懷環瑋之道,忘肝膽,遺耳目,獨浮游無方之外,不與物相弊摋,中徙倚無形之域,而和以天地者乎!若然者,偃其聰明,而抱其太素,以利害為塵垢,以死生為晝夜。是故目觀玉輅琬象之狀,耳聽白雪、清角之聲,不能以亂其神;登千仞之穀,臨蝯眩之岸,不足以滑其和。譬若鍾山之玉,炊以爐炭,三日三夜而色澤不變。則至コ天地之精也。是故生不足以使之,利何足以動之?死不足以禁之,害何足以恐之?明於死生之分,達於利害之變,雖以天下之大,易骭之一毛,無所概於志也! 
夫貴賤之於身也,猶條風之時麗也;毀譽之於己,猶蚊虻之一過也。夫秉皓白而不K,行純粹而不糅,處玄冥而不暗,休於天鈞而不䃣,孟門、終隆之山不能禁,唯體道能不敗。湍P旋淵,呂梁之深不能留也;太行石澗,飛狐、句望之險不能難也。是故身處江海之上,而神游魏闕之下。非得一原,孰能至於此哉!是故與至人居,使家忘貧,使王公簡其富貴而樂卑賤,勇者衰其氣,貪者消其欲;坐而不教,立而不議,虛而往者實而歸,故不言而能飲人以和。是故至道無為,一龍一蛇,盈縮卷舒,與時變化。外從其風,內守其性,耳目不耀,思慮不營。其所居神者,台簡以遊太清,引楯萬物,群美萌生。是故事其神者神去之,休其神者神居之。道出一原,通九門,散六衢,設於無垓坫之宇,寂寞以虛無。非有為於物也,物以有為於己也。是故舉事而順於道者,非道之所為也,道之所施也。夫天之所覆,地之所載,六合所包,陰陽所呴,雨露所濡,道コ所扶,此皆生一父母而閱一和也。是故槐榆與橘柚合而為兄弟,有苗與三危通為一家。夫目視鴻鵠之飛,耳聽琴瑟之聲,而心在雁門之間。一身之中,神之分離剖判,六合之內,一舉而千萬裏。是故自其異者視之,肝膽胡越;自其同者視之,萬物一圈也。百家異說,各有所出。若夫墨、楊、申、商之於治道,猶蓋之無一橑,而輪之無一輻。有之可以備數,無之未有害於用也;己自以為獨擅之,不通之於天地之情也。今夫冶工之鑄器,金踴躍於爐中,必有波溢而播棄者,其中地而凝滯,亦有以象於物者矣。其形雖有所小用哉,然未可以保于周室之九鼎也,又況比於規形者乎?其於道相去亦遠矣! 
今夫萬物之疏躍枝舉,百事之莖葉條蘖,皆本於一根,而條循千萬也。若此則有所受之矣,而非所授者。所受者無授也,而無不受也。無不受也者,譬若周雲之蘢蓯,遼巢鼓濞而為雨。沈溺萬物,而不與為濕焉。今夫善射者有儀錶之度,如工匠有規矩之數,此皆所得以至於妙。然而奚仲不能為逢蒙,造父不能為伯樂者,是曰諭於一曲,而不通于萬方之際也。今以涅染緇,則K於涅;以藍染青,則青于藍。涅非緇也,青非藍也。茲雖遇其母,而無能複化已。是何則?以諭其轉而益薄也。何況夫未始有涅、藍造化之者乎?其為化也,雖鏤金石,書竹帛,何足以舉其數!由此觀之,物莫不生於有也,小大優遊矣!夫秋毫之末,淪於無間而復歸於大矣;蘆苻之厚,通於無㙬?而復反於敦龐。若夫無秋毫之微,蘆苻之厚,四達無境,通於無圻,而莫之要禦夭遏者,其襲微重妙,挺挏萬物,揣丸變化,天地之間何足以論之。夫疾風孛攵木,而不能拔毛髮;雲台之高,墮者折脊碎腦,而蚊虻適足以翱翔。夫與蚑蟯同乘天機,夫受形於一圈,飛輕微細者,猶足以脫其命,又況未有類也!由此觀之,無形而生有形,亦明矣。是故聖人托其神於靈府,而歸於萬物之初。視于冥冥,聽於無聲。冥冥之中,獨見曉焉;寂漠之中,獨有照焉。其用之也以不用,其不用也而後能用之;其知也乃不知,其不知也而後能知之也。 
夫天不定,日月無所載;地不定,草木無所植;所立于身者不寧,是非無所形。是故有真人然後有真知。其所持者不明,庸詎知吾所謂知之非不知歟?今夫積惠重厚,累愛襲恩,以聲華嘔苻嫗掩萬民百姓,使知之欣欣然,人樂其性者,仁也。舉大功,立顯名,體君臣,正上下,明親疏,等貴賤,存危國,繼絕世,決挐治煩,興毀宗,立無後者,義也。閉九竅,藏心志,棄聰明,反無識,芒然仿佯於塵埃之外,而消搖於無事之業,含陰吐陽,而萬物和同者,コ也。是故道散而為コ,コ溢而為仁義,仁義立而道コ廢矣!百圍之木,斬而為犧尊。鏤之以剞𠜾,雜之以青黃,華藻鎛鮮,龍蛇虎豹,曲成文章,然其在斷溝中,壹比犧尊,溝中之斷,則醜美有間矣。然而失木性鈞也。是故神越者其言華,コ蕩者其行偽,至精亡於中,而言行觀於外,此不免以身役物矣。夫趨舍行偽者,為精求於外也。精有湫盡,而行無窮極,則滑心濁神而惑亂其本矣。其所守者不定,而外淫於世俗之風,所斷差跌者,而內以濁其清明,是故躊躇以終,而不得須臾恬澹矣。 
是故聖人內修道術,而不外飾仁義,不知耳目之宣,而游於精神之和。若然者,下揆三泉,上尋九天,廓六合,揲貫萬物,此聖人之游也。若夫真人,則動溶於至虛,而游於滅亡之野。騎蜚廉而從敦圄。馳於外方,休乎宇內,燭十日而使風雨,臣雷公,役誇父,妾宓妃,妻織女,天地之間何足以留其志!是故虛無者道之舍,平易者道之素。夫人之事其神而嬈其精,營慧然而有求於外,此皆失其神明而離其宅也。是故凍者假兼衣於春,而暍者望冷風於秋,夫有病於內者,必有色於外矣。夫暍岑木色青翳,而蠃愈蝸v,此皆治目之藥也。人無故求此物者,必有蔽其明者。聖人之所以駭天下者,真人未嘗過焉;賢人之所以矯世俗者,聖人未嘗觀焉。夫牛蹄之涔,無尺之鯉;塊阜之山,無丈之村,所以然者何也?皆其營宇狹小,而不能容巨大也。又況乎以無裹之者邪!此其為山淵之勢亦遠矣!夫人之拘于世也,必形系而神泄,故不免於虛,使我可系羈者,必其有命在於外也。至コ之世,甘瞑於溷澖之域,而徙倚於汗漫之宇。提挈天地而委萬物,以鴻蒙為景柱,而浮揚乎無畛之際。是故聖人呼吸陰陽之氣,而群生莫不顒顒然仰其コ以和順。當此之時,莫之領理,決離隱密而自成。渾渾蒼蒼,純樸未散,旁薄為一,而萬物大優,是故雖有羿之知而無所用之。及世之衰也,至伏羲氏,其道昧昧芒芒然,吟コ懷和,被施頗烈,而知乃始,昧昧晽晽,皆欲離其童蒙之心,而覺視於天地之間。是故其コ煩而不能一。乃至神農、黃帝,剖判大宗,竅領天地,襲九窾,重九𤍂,提挈陰陽,嫥捖剛柔,枝解葉貫,萬物百族,使各有經紀條貫。于此萬民睢睢盱盱然,莫不竦身而載聽視。是故治而不能和下。棲遲至於昆吾、夏后之世,嗜欲連于物,聰明誘於外,而性命失其得。施及周室之衰,澆淳散樸,雜道以偽,儉コ以行,而巧故萌生。周室衰而王道廢,儒墨乃始列道而議,分徒而訟,於是博學以疑聖,華誣以脅眾,弦歌鼓舞,緣飾《詩》、《書》,以買名譽於天下。繁登降之禮,飾紱冕之服,聚眾不足以極其變,積財不足以贍其費。於是萬民乃始慲觟離跂,各欲行其知偽,以求鑿枘於世而錯擇名利。是故百姓曼衍于淫荒之陂,而失其大宗之本。夫世之所以喪性命,有衰漸以然,所由來者久矣! 
是故聖人之學也,欲以返性于初,而游心於虛也。達人之學也,欲以通性於遼廓,而覺於寂漠也。若夫俗世之學也則不然,內愁五藏,外勞耳目,乃始招蟯振繾物之毫芒,搖消掉捎仁義禮樂,暴行越智於天下,以招號名聲於世。此我所羞而不為也。是故與其有天下也,不若有說也;與其有說也,不若尚羊物之終始也;而條達有無之際。是故舉世而譽之不加勸,舉世而非之不加沮,定於死生之境,而通於榮辱之理。雖有炎火洪水彌靡於天下,神無虧缺於胸臆之中矣。若然者,視天下之間,猶飛羽浮芥也。孰肯分分然以物為事也!水之性真清,而土汩之;人性安靜,而嗜欲亂之。夫人之所受於天者,耳目之於聲色也,口鼻之於芳臭也,肌膚之於寒燠,其情一也;或通於神明,或不免於癡狂者,何也?其所為制者異也。是故神者智之淵也,淵清則明矣;智者心之府也,智公則心平矣。人莫鑒於流沫,而鑒於止水者,以其靜也;莫窺形於生鐵,而窺於明鏡者,以睹其易也。夫唯易且靜,形物之性也。由此觀之,用也必假之於弗用也。是故虛室生白,吉祥止也。夫鑒明者,塵垢弗能霾;神清者,嗜欲弗能亂。精神已越於外,而事複返之,是失之於本,而求之於末也。外內無符而欲與物接,弊其元光,而求知之於耳目,是釋其昭昭,而道其冥冥也,是之謂失道。心有所至,而神喟然在之,反之於虛,則消鑠滅息,此聖人之游也。故古之治天下也,必達乎性命之情。其舉錯未必同也,其合於道一也。 
夫夏日之不被裘者,非愛之也,燠有餘於身也;冬日之不用翣者,非簡之也,清有餘於適也。夫聖人量腹而食,度形而衣,節於己而已。貪污之心奚由生哉!故能有天下者,必無以天下為也;能有名譽者,必無以趨行求者也。聖人有所于達,達則嗜欲之心外矣。孔、墨之弟子,皆以仁義之術教導於世,然而不免於儡,身猶不能行也。又況所教乎?是何則?其道外也。夫以末求返于本,許由不能行也,又況齊民乎!誠達於性命之情,而仁義固附矣。趨舍何足以滑心!若夫神無所掩,心無所載,通洞條達,恬漠無事,無所凝滯,虛寂以待,勢利不能誘也,辯者不能說也,聲色不能淫也,美者不能濫也,智者不能動也,勇者不能恐也,此真人之道也。若然者,陶冶萬物,與造化者為人,天地之間,宇宙之內,莫能夭遏。夫化生者不死,而化物者不化。神經於驪山、太行而不能難,入于四海九江而不能濡,處小隘而不塞,扃天地之間而不窕。不通此者,雖目數千羊之群,耳分八風之調,足蹀陽阿之舞,而手會告之趨,智終天地,明照日月,辯解連環,澤潤玉石,猶無益於治天下也。靜漠恬澹,所以養性也;和愉虛無,所以養コ也。外不滑內,則性得其宜;性不動和,則コ安其位。養生以經世,抱コ以終年,可謂能體道矣。若然者,血脈無鬱滯,五藏無蔚氣,禍福弗能撓滑,非譽弗能塵垢,故能致其極。非有其世,孰能濟焉?有其人不遇其時,身猶不能脫,又況無道乎!且人之情,耳目應感動,心志知憂樂,手足之𢶊疾𧒃、辟寒暑,所以與物接也。蜂蠆螫指而神不能憺,蚊虻噬膚而知不能平。夫憂患之來攖人心也,非直蜂蠆之螫毒,而蚊虻之慘怛也,而欲靜漠虛無,奈之何哉? 
夫目察秋毫之末,耳不聞雷霆之聲;耳調玉石之聲,目不見太山之高。何則?小有所志,而大有所忘也。今萬物之來,擢拔吾性,攓取吾情,有若泉源,雖欲勿稟,其可得邪!今夫樹木者,灌以瀿水,疇以肥壤。一人養之,十人拔之,則必無餘蘖,又況與一國同伐之哉!雖欲久生,豈可得乎?今盆水在庭,清之終日,未能見眉睫,濁之不過一撓,而不能察方員;人神易濁而難清,猶盆水之類也。況一世而撓滑之,曷得須臾平乎!古者至コ之世,賈便其肆,農樂其業,大夫安其職,而處士修其道。當此之時,風雨不毀折,草木不夭,九鼎重味,珠玉潤澤,洛出丹書,河出忽、。故許由、方回、善卷披衣得達其道。何則?世之主有欲天下之心,是以人得自樂其間。四子之才,非能盡善,蓋今之世也,然莫能與之同光者,遇唐、虞之時。逮至夏桀、殷紂,燔生人,辜諫者,為炮烙,鑄金柱,剖賢人之心,析才士之脛,醢鬼侯之女,菹梅伯之骸。當此之時,嶢山崩,三川涸,飛鳥鎩翼,走獸擠腳。當此之時,豈獨無聖人哉?然而不能通其道者,不遇其世。夫鳥飛千仞之上,獸走叢薄之中,禍猶及之,又況編戶齊民乎?由此觀之,體道者不專在於我,亦有系於世矣。 
夫曆陽之都,一夕反而為湖,勇力聖知與疲怯不肖者同命,巫山之上,順風縱火,膏夏紫芝與蕭艾俱死。故河魚不得明目,稚稼不得育時,其所生者然也。故世治則愚者不能獨亂,世亂則智者不能獨治。身蹈於濁世之中,而責道之不行也,是猶兩絆騏驥,而求其致千里也。置猿檻中,則與豚同,非不巧捷也,無所肆其能也。舜之耕陶也,不能利其裏;南面王,則コ施乎四海。仁非能益也,處便而勢利也。古之聖人,其和愉寧靜,性也;其志得道行,命也。是故性遭命而後能行,命得性而後能明,烏號之弓、溪子之弩,不能無弦而射;越舲蜀艇,不能無水而浮。今矰繳機而在上,𦉾罟張而在下,雖欲翱翔,其勢焉得?故《詩》云:「采采卷耳,不盈傾筐,嗟我懷人,置彼周行。」以言慕遠世也。 
 
『淮南子』に見える天界遊行表現について ─俶真篇を中心に─

 

要旨
前漢の武帝期に成立した『淮南子』は、漢初道家の政治思想を記した書であるが、その文章は文学的な要素をも多分に含んでいる。中でも中国古代文学の祖として『詩経』と並び称される楚辞「離騒」の天界遊行モティーフと同様のモティーフが『淮南子』の文中に見えることについては、つとに指摘がある。しかしながら、『淮南子』の中で当該モティーフがどのように用いられているか、そしてそこにはどのような必然性があるのか、といった事柄については、従来あまり重要視されてこなかった嫌いがある。
『淮南子』の中で「離騒」に共通する天界遊行モティーフが使われているのは、原道篇・俶真篇・覧冥篇の三篇である。このうち原道篇と覧冥篇に見えるモティーフについては、すでに先の拙稿において考察を行い、それが『淮南子』の中心的政治理念である「無為の治」を行う理想的統治者を描写するために取り入れられていることを明らかにした。そこで本稿では、残る俶真篇の天界遊行モティーフを取り上げ、それが現れる文脈を分析することによって、当該モティーフがそこでどのような役割を果たしているかを見ていく。そしてその結果を通して、楚辞文学と道家思想が『淮南子』においてどのように融合されているのか、『淮南子』が天界遊行モティーフを用いることにどのような必然性があったのか、という点について考察する。また、『淮南子』俶真篇に関しては、『荘子』との密接な関係が指摘されているが、その『荘子』に見える天界遊行表現と俶真篇のそれとの違いについても併せて検討を加える。 
はじめに
前漢の武帝期に成立した『淮南子』は、漢初道家の政治思想を記した書であるが、その文章は文学的な要素をも多分に含んでいる。中でも中国古代文学の祖として『詩経』と並び称される楚辞の「離騒」に見える天界遊行モティーフと同様のモティーフが文章中に現れていることについては、つとに指摘がある(1)。谷口洋氏は、この天界遊行モティーフが『淮南子』と漢賦の両者に取り入れられていることを手がかりとして、漢賦の成立に対して『淮南子』が果たした役割について考察している。氏によれば、楚辞と『荘子』はともに楚の文化に根ざしたものであり、また、楚辞の中でも特に「離騒」は、天界遊行モティーフを用いて「超越的な理想的人格」を描くという点で『荘子』に通じているため、両者が展開の過程で混じり合うのは自然なことであるという。そして「戦国諸子の統合をめざした『淮南子』は、『荘子』を取り込むことによって、それと結びついた形での楚辞文学をも、いわば「一家の学」として取り込んだのであ」り、この淮南国における『荘子』と楚辞文学との結びつきが、漢賦という新しい文学の形成につながったと氏は述べる(2)。これは、『淮南子』という思想書を文学史の流れの中でとらえ直そうとする新たな試みであると言える。
しかしながら氏の考察は、漢賦の形成について論じることに主眼を置いているため、『淮南子』の中で楚辞文学と『荘子』がどのように結びついているのか、という点に対する詳しい言及はされていない。具体的に言えば、『淮南子』が何のために楚辞「離騒」と共通する天界遊行モティーフを取り入れ、そしてそれが『荘子』とどのような関係にあるのか、という分析が十分になされていないように思われるのである。
『淮南子』の中で「離騒」に共通する天界遊行モティーフが使われているのは、原道篇・俶真篇・覧冥篇の三篇である。このうち原道篇と覧冥篇に見えるモティーフについては、すでに先の拙稿において考察を行い、それが『淮南子』の中心的政治理念である「無為の治」を行う理想的統治者を描写するために取り入れられていることを明らかにした(3)。そこで本稿では、残る俶真篇の天界遊行モティーフを取り上げ、それが現れる文脈を分析することによって、当該モティーフがそこでどのような役割を果たしているかを見ていく。そしてその結果を通して、楚辞文学と道家思想が『淮南子』においてどのように融合され、それが『荘子』とどのような関係にあるのか、また、『淮南子』が天界遊行モティーフを用いることにどのような必然性があったのか、という点について検討したい(4)。 
1 俶真篇の天界遊行モティーフ
ここでは『淮南子』俶真篇に見える、天界遊行モティーフを含む一連の文章を取り上げ、そこに現れる俗人、聖人、真人の説明について順に検討し、その中でも特に真人との関連において天界遊行モティーフが現れていることを示したい。
当該箇所ではまずはじめに、俗人の精神状態について述べる。
1 夫趨舎行偽者、為精求于外也。精有湫盡、而行無窮極、則滑心濁神、而惑亂其本矣。其所守者不定、於外淫於世俗之風、所断者差跌(5)、而内以濁其清明。是故躊躇以終、而不得須臾恬淡矣。(夫れ趨舎の行偽は、精 外に求むるを為すなり。精 湫盡すること有りて、行 窮極無ければ、則ち心を滑し神を濁して、其の本を惑亂す。其の守る所の者は定まらずして、外に世俗の風に淫みだれ、断ずる所の者は差跌して、内に以て其の清明を濁す。是の故に躊躇して以て終わりて、須臾も恬淡たるを得ず。)
俗人は外部からの刺激に左右され、自己の内部における精神の安定を得ることができない。そのために迷いが生じ、一時たりとも心が安らぐことがないという。こうした俗人の様子と比較して次に、聖人がいかに優れた存在であるかが説かれる。
2 是故聖人内修道術、而不外飾仁義、不知耳目之宜(6)、而游于精神之和。若然者、下揆三泉、上尋九天、横廓六合、揲貫万物。此聖人之游也。(是の故に聖人は内に道術を修めて、外に仁義を飾らず、耳目の宜を知らずして、精神の和に游ぶ。然るが若き者は、下は三泉を揆はかり、上は九天を尋ね、六合に横廓して、万物を揲貫す。此れ聖人の游なり。)
1 の俗人が「外に世俗の風に淫し」、「内に以て其の清明を濁す」人物であったのに対し、聖人は「内に道術を修めて、外に仁義を飾らず、耳目の宜を知らずして、精神の和に游ぶ」、つまり、自己の内面を「道」によって整えて、外面を仁義などで飾らず、耳目の欲にひかれることもなく、精神の調和に身を委ねる人物であると説明されている。そして、このような人物である聖人は、下は地の底を探り、上は天の果てを尋ね、この世の上下四方を我がものとし、万物に通暁することができるのだという。
こうした聖人に関する説明の後、さらに真人に関する説明が続く。
3 若夫眞人、則動溶于至虚、而游于滅亡之野、騎蜚廉而従敦圄、馳於方外、休乎宇内、燭十日而使風雨、臣雷公、役夸父、妾宓妃、妻織女。天地之間、何足以留其志。是故虚無者道之舎、平易者道之素。(夫の眞人の若きは、則ち至虚に動溶して、滅亡の野に游び、蜚廉に騎りて敦圄を従え、方外に馳せて、宇内に休いこい、十日を燭として風雨を使とし、雷公を臣として、夸父を役とし、宓妃を妾として、織女を妻とす。天地の間、何ぞ以て其の志を留むるに足らんや。是の故に虚無は道の舎、平易は道の素なり。)
ここでの真人の描写には、風雨や雷公、夸父といった神々を使役しながら行う遊行の様子が使われている。これは、楚辞「離騒」において主人公が行う天界遊行に酷似している。
駟玉虬以乘鷖兮 玉虬を駟にして以て鷖に乘り
溘埃風余上征 溘として風を埃ま ちて余れ上征す
… …
前望舒使先驅兮 望舒を前にして先驅せしめ
後飛廉使奔屬 飛廉を後にして奔屬せしむ
鸞皇爲余先戒兮 鸞皇は余が爲に先戒し
雷師告余以未具 雷師は余に告ぐるに未だ具わらざるを以てす
吾令鳳鳥飛騰兮 吾れ鳳鳥をして飛騰し
繼之以日夜 之れを繼ぐに日夜を以てせしむ (楚辞「離騷」)
また、宓妃や織女を妾や妻にするといった表現にも、主人公が宓妃・有娀の佚女・有虞の二姚といった伝説上の女性たちに求婚しようとする以下のような「離騒」における「求女」の場面の影響があると考えられる(7)。
吾令豐隆乘雲兮 吾れ豐隆をして雲に乘り
求宓妃之所在 宓妃の所在を求めしむ
… …
望瑶臺之偃蹇兮 瑶臺の偃蹇たるを望み
見有娀之佚女 有娀の佚女を見る
… …
及少康之未家兮 少康の未だ家せざるに及び
留有虞之二姚 有虞の二姚を留めん (楚辞「離騷」)
先に見た 2 の「下は三泉を揆り、上は九天を尋ね、六合に横廓して、万物を揲貫す」る聖人の游も天界遊行の一形態であると見なすことができよう。しかし 3 では、「離騒」と共通する幻想的な天界遊行モティーフの使用によって、何者もその意志を阻むことができないという真人の超越性がより具体的に表されているように思われる。 
2 『淮南子』における真人と聖人
前節で見た俶真篇の文章 1 から 3 では、聖人と真人はいずれも俗人とは対照的な理想人として描かれていた。では、両者の間にはいかなる差異が存在するのだろうか。この点は、真人との関連において現れる天界遊行モティーフの性格をより明確にするためにも、重要であるように思われる。そこでここでは、『淮南子』における真人と聖人の別について考えてみたい。
『淮南子』における真人と聖人について、金谷治氏は次のように述べる。
真人は最高の理想人には相違ないが、ほとんど精神の高みの象徴ともいえるような、あまり現実性のない観念的空想的な存在であった。…この人々(『淮南子』の作者たち:矢田注)にとっては、恐らく、真人は実践上の実際的な目標ではなかったであろう。それは、精神の高みの象徴、道そのものの擬人化であったとみられる。…聖人、これもまた道や天の立場を中心とする。けれども、真人が道の世界に入りきっているのに対して、聖人は道を守りながら現実の人事を忘れない。聖人自身が、現実世界のなかで俗人たちとたちまじって生活する肉身の人間であるからには、いかに道を体得したところで、しょせんは事の立場を離れられない道理であった(8)。
本性があるがままに道と完全に一致しているのが真人であった(精神篇)。聖人もまたこれに準ずる。そして、聖人が実践性を帯びた現実的な目標であるのに対して、真人は精神の高みの象徴として、しばしば仙人に近い風貌で描かれている。それは「未だ始めよりその宗を出でず」(覧冥篇)という境地に沈潜して、そのことによって天界を駆けめぐる精神の自由を得たものであった(9)。
金谷氏によれば、聖人は実践上の現実的な目標であるが、真人は観念的な理想像であって実際的な目標ではないという。しかしながら、先に見た俶真篇の文章 2 に「下は三泉を揆り、上は九天を尋ね、六合に横廓して、万物を揲貫す」とあったことからもわかるように、聖人が常に「現実的な」存在として描写されているわけではない。聖人が真人と同じ「観念的空想的な」言葉で表現されている箇所も存在するのである。例えば原道篇では、「道」と一体化することを表す「造化者と人ともがらと爲る(與造化者爲人)(10)」という言葉が聖人に対して用いられている。
故聖人不以人滑天、不以欲乱情、不謀而當、不言而信、不慮而得、不為而成。精通于霊府、與造化者為人。(故に聖人は人を以て天を滑さず、欲を以て情を乱さず、謀らずして當たり、言わずして信あり、慮おもわずして得、為さずして成る。精は霊府に通じ、造化者と人と為る。)※下線は引用者による。以下同じ。
ところが、これと同じ言葉が俶真篇では真人に対して使われている。
若夫神無所掩、心無所載、通洞條達、恬漠無事、無所凝滞、虚寂以待、勢利不能誘也、辯者不能説、聲色不能淫(11)也、美者不能濫也、知者不能動也、勇者不能恐也。此眞人之道也。若然者、陶冶萬物、與造化者為人。天地之間、宇宙之内、莫能夭遏。(若し夫れ神は掩わるる所無く、心は載する所無く、通洞條達し、恬漠無事にして、凝滞する所無く、虚寂にして以て待てば、勢利も誘うこと能わず、辯者も説くこと能わず、聲色も淫みだすこと能わず、美者も濫みだすこと能わず、知者も動かすこと能わず、勇者も恐おどすこと能わざるなり。此れ眞人の道なり。然るが若き者は、萬物を陶冶し、造化者と人と為る)
また、脩務篇では世俗に煩わされることのない聖人の自由な境地が「塵埃の外に仿佯(仿佯於塵埃之外)」するという言葉で表される。
君子有能精搖摩監、砥礪其才、自試神明、覽物之博、通物之壅、觀始卒之端、見無外之境、以逍遙仿佯於塵埃之外、超然獨立、卓然離世。此聖人之所以游心(12)如此。(君子は能く精搖摩監し、其の才を砥礪し、自ら神明を試み、物の博きを覽、物の壅がるるに通じ、始卒の端を觀、無外の境を見て、以て逍遙して塵埃の外に仿佯し、超然として獨り立ち、卓然として世を離るる有り。此れ聖人の心を游ばしむる所以は此くの如し。)
そして、これとほぼ同じ表現が精神篇においては真人の境地を表す言葉として使われているのである。
所謂眞人者、性合于道也。故有而若無、實而若虚、処其一、不知其二、治其内、不識其外。明白太素、無為復樸、體本抱神、以游于天地之樊。芒然仿佯于塵垢之外、而消搖于無事之業。(所謂眞人とは、性 道に合するなり。故に有るも無きが若く、實つるも虚しきが若く、其の一に処りて、其の二を知らず、其の内を治めて、其の外を識らず。明白にして太素、無為にして樸に復り、本を體して神を抱き、以て天地の樊に游ぶ。芒然として塵垢の外に仿佯して、無事の業に消搖す。)
こうした例を見る限りにおいては、『淮南子』における真人と聖人の間に明確な使い分けは見られないように思われる。
ただし、金谷氏も触れていることであるが(13)、先に見た俶眞篇の 3 の文章の後には、以下に挙げる 4 と 5 の文章が続いており、5 の中には、真人を聖人と区別して上位に位置づける表現が含まれている。
4 夫人之事其神、而嬈其精、營慧然而有求於外、此皆失其神明、而離其宅也。是故凍者假兼衣于春、而暍者望冷風于秋。夫有病於内者、必有色於外矣。夫梣木已青翳(14)、而蠃蠡瘉燭v(15)、此者治目之藥也。人無故求此物者、必有蔽其明者。(夫れ人の其の神を事おさめて、其の精を嬈みだし、營慧然として外に求むること有るは、此れ皆な其の神明を失いて、其の宅を離るるなり。是の故に凍者は兼衣を春に假り、暍者は冷風を秋に望む。夫れ内に病有る者は、必らず外に色有り。夫れ梣木は青翳を已い やし、蠃蠡は燭vを瘉やす、此の者は目を治するの藥なり。人 故無くして此の物を求むれば、必らず其の明を蔽う者有り。)
5 聖人之所以駭天下者、眞人未嘗過焉。賢人之所以矯世俗者、聖人未嘗觀焉。夫牛蹏之涔、無尺之鯉、塊阜之山、無丈之材。所以然者何也。皆其營宇狭小、而不能容巨大也。又況乎以無裹之者邪。此其爲山淵之勢亦遠矣。(聖人の天下を駭おどろかす所以の者、眞人は未だ嘗て過よ ぎらず。賢人の世俗を矯た むる所以の者、聖人は未だ嘗て觀ず。夫れ牛蹏の涔に、尺の鯉無く、塊阜の山に、丈の材無し。然るが所以の者は何ぞや。皆な其の營宇狭小にして、巨大を容るること能わざればなり。又た況んや裹つつむこと無きの者を以てするをや。此れ其の山淵の勢爲るも亦た遠し。)
確かに 5 では、聖人が天下を揺り動かす手段に真人は興味を抱かないというように、真人と聖人がはっきりと区別され、真人の方が聖人よりも貴ばれている。
しかしながら 5 の文章をよく見てみると、趣旨が前後の文章と異なっており、違和感を覚える。先に見たように、俶真篇 1 から 3 の文章は、それぞれ俗人と聖人・真人の描写を通して、内なる精神を安定させる「養性」の重要性を説くものであった。そして、それに続く 4 もまた同じ趣旨の下に展開されている。精神が内に安定せず外にひかれてしまうと、凍えた人が春になっても暖かい衣服を欲しがり、暑気あたりの人が秋になっても冷風を求めるように、外界の事物を過度に求めるようになる。すると、病でもない人が眼病の薬を用いると失明してしまうように、本来有していた能力までも損なわれてしまうのだという。
このように 4 では、より卑近な喩えを用いて、1 から 3 で説いてきた「養性」の重要性についてさらに説明を加えているのである。ところが 5 は、それまでの話の流れを断ち切るように、賢人が世俗を矯正する手段に聖人は関心が無く、聖人が天下を揺り動かす手段に真人は関心が無いとして、唐突に真人・聖人・賢人のスケールの違いについて述べているのである。そして 5 の後には次のような文章が続く。
6 夫人之拘於世也、必形繋而神泄、故不免於虛。使我可係羈者、必其命有在於外也(16)。(夫れ人の世に拘わるや、必らず形は繋がれて神は泄る。故に虛に免れず。我をして係羈すべからしむるは、必らず其の命 外に在る有ればなり。)
人が世俗の事柄にとらわれると、身体は束縛されて精神は外に散佚し、その結果病を得ることになるという。つまり 6 では、1 から 4 で展開されていた、外物にとらわれて心身が損なわれることに対する戒め、すなわち「養性」の重要性へと話題が引き戻されているのである。したがって「養性」を説く 1 から 6 の一連の文章の中で、5 だけが趣旨を異にしているように思われるのである。これはなぜだろうか。
5 については、これとよく似た文章が『荘子』外物篇に見える。
聖人之所以駭天下、神人未嘗過而問焉。賢人所以駴世、聖人未嘗過而問焉。君子所以駴國、賢人未嘗過而問焉。小人所以合時、君子未嘗過而問焉。(聖人の天下を駴いましむる所以は、神人未だ嘗て過ぎりて問わず。賢人の世を駴むる所以は、聖人未だ嘗て過ぎりて問わず。君子の國を駴むる所以は、賢人未だ嘗て過ぎりて問わず。小人の時に合する所以は、君子未だ嘗て過ぎりて問わず。)
俶真篇では上から「真人」→「聖人」→「賢人」の順になっていた序列が、『荘子』では「神人」→「聖人」→「賢人」→「君子」→「小人」の順になってはいるものの、表現の類似性は一見して明かであり、『淮南子』が『荘子』の文章を取り入れたのではないかと思われる(17)。『淮南子』各篇に、論旨や用語の点から混乱や錯簡であると疑われる箇所が多く含まれることは、金谷氏をはじめ先学の指摘するところである(18)。思うに 5 は、 2 3 に「聖人」と「真人」という語が続けて現れていることに引きずられて、論旨に関係なく『荘子』から引用され挟み込まれた文章なのではないだろうか。そのように考えて 5 を取り去ってみると、俶真篇の 1〜4、そして 6 の一連の文章は、「養性」の重要性を説くという一貫性を備えたものとして解することができるように思われる。
以上のことから考えるに、『淮南子』においては理想人を描く際、聖人と真人の明確な使い分けがなされていないように思われる。したがってここでは、『淮南子』俶真篇における聖人と真人の間に本質的な区別はなく、どちらも究極的理想人を示すものであるという前提に立って考察を進めたい。 
3 俶真篇の理想人像と天界遊行モティーフ
俗人と聖人・真人について 1 2 3 のように対比的に説明する方法は、俶真篇の中で次のように繰り返されている。
1’ 精神以越於外、而事復返之、是失之於本、而求之於末也。外内无府、而欲與物接、弊其玄光、而求知之于耳目、是釋其炤炤、而道其冥冥也。是之謂失道。(精神以すでに外に越ち りて、事おさめて復た之れを返さんとするは、是れ之れを本に失いて、之れを末に求むるなり。外内に府无くして、物と接せんと欲し、其の玄光を弊やぶりて、之れを知るを耳目に求むるは、是れ其の炤炤たるを釋す てて、其の冥冥たるを道とするなり。是れを之れ道を失うと謂う。)
精神が外物にひかれて散ってしまっている俗人は、「道を失」った状態であるから、いくら聴覚や視覚を駆使しても無駄であると述べている。そしてこの後、これとは対称的に、聖人の優れたさまが列挙される。
2’ 心有所至、而神喟然在之、反之於虚、則消鑠滅息。此聖人之游也。故古之治天下也、必達乎性命之情。其擧錯未必同也、其合於道一也。…夫聖人量腹而食、度形而衣、節於己而已。貪汚之心、奚由生哉。故能有天下者、必無以天下為也。能有名譽者、必無以趨行求者也。聖人有所于達、達則嗜慾之心外矣。(心至らんとする所有るも、神 喟然として之れに在り、之れを虚に反せば、則ち消鑠滅息す。此れ聖人の游なり。故に古の天下を治むるや、必ず性命の情に達す。其の擧錯は未だ必ずしも同じからざれども、其の道に合うは一なり。…夫れ聖人は腹を量りて食らい、形を度はかりて衣き 、己に節するのみ。貪汚の心、奚なにに由りてか生ぜん。故に能く天下を有つ者は、必ず天下を以て為すこと無きなり。能く名譽を有つ者は、必ず趨行を以て求むること無き者なり。聖人は達するに所有り、達すれば則ち嗜慾の心は外なり。)
聖人は俗人と異なり、精神が外にひかれて散ることはない。だから天下を治めた古の王者たちは皆、そうした「性命の情(生まれつきの自然なあり方)」に通暁していたのであり、挙措はそれぞれ異なっていても、道に合するという点では一致していたのだという。ここで注意しておきたいのは、聖人の姿がそのまま古の統治者に重ねられている点である。聖人は、空腹の具合に合わせて食べ、身体の都合に合わせて衣服をまとう。このように生まれつきの自然なあり方を保てば、貪汚の心が生じることもない。だから天下を治める者は、天下に対して何事かを為そうという欲望を持たず、名誉を保つ者は、せせこましい行動によって名誉を得ようとはしないという。つまり、聖人は内なる精神を安定させる「養性」をなし遂げた理想的な人物であると同時に、天下を治める理想の統治者として説明されているのである。
この後、儒家や墨家の門人たちが仁義の術によって世の中を導こうとしたが、「性命の情」に達していなかったためにできなかったことを挙げ、論は次のように真人に関する説明へと移る。
3’ 若夫神無所掩、心無所載、通洞條達、恬漠無事、無所凝滞、虚寂以待、勢利不能誘也、辯者不能説、聲色不能淫也、美者不能濫也、智者不能動也、勇者不能恐也。此眞人之道也。若然者、陶冶萬物、與造化者爲人。天地之間、宇宙之内、莫能夭遏。夫化生生者(19)不死、而化物者不化。神經於驪山・太行、而不能難、入於四海・九江、而不能濡、處小隘而不塞、横扃天地之間而不窕。不通此者、雖目數千羊之群、耳分八風之調、足蹀陽阿之舞、而手會緑水之趨、智絡天地(20)、明照日月、辯解連環、辭潤玉石(21)、猶無益於治天下也。(若し夫れ神は掩わるる所無く、心は載する所無く、通洞條達し、恬漠無事にして、凝滞する所無く、虚寂にして以て待てば、勢利も誘うこと能わず、辯者も説くこと能わず、聲色も淫すこと能わず、美者も濫すこと能わず、智者も動かすこと能わず、勇者も恐すこと能わざるなり。此れ眞人の道なり。然るが若き者は、萬物を陶冶し、造化者と人と爲る。天地の間、宇宙の内、能く夭遏するもの莫し。夫れ生を生ずる者は死せず、物を化する者は化せず。神は驪山・太行を經れども、難なやますこと能わず、四海・九江に入れども、濡らすこと能わず、小隘に處れども塞がらず、天地の間に横扃すれども窕くつろがず。此こに通ぜざる者は、目は千羊の群れを數え、耳は八風の調べを分かち、足は陽阿の舞を蹀みて、手は緑水の趨に會い、智は天地を絡つつみ、明は日月を照らし、辯は連環を解き、辭は玉石を潤おすと雖も、猶お天下を治むるに益無きなり。)
真人は「道」と一体化した人物とされ、その性格は「道」のそれに重なる。したがって、真人は勢利にも巧みな言葉にも心を動かされず、美しい音楽にも美女にも惑わされず、知恵者にも唆されず勇者にも脅かされない。彼の行動を阻むものはこの世に何一つ存在しないのである。このように真人の特長を並べ立てた後、「此こに通ぜざる者は…猶お天下を治むるに益無きなり」と、この真人の域に達しない者は、いくら優れた能力を有していても、天下を治めるのには無益であるという。つまり 2’で見た聖人の場合と同様、真人もまた統治者の目指すべき窮極の理想像とされているのである。
以上のことから、俶真篇において聖人と真人はどちらも「養性」を完成した統治者の理想像とされているのであり、その点で両者の間に差異がないことが分かる。では、そうであるにもかかわらず俶真篇が理想像を聖人と真人とに分けて説明しているのはなぜだろうか。
内なる精神を安定させた人物は、「道」の働きを体得している。だからこそ道が万物を統治するように、天下を治めることができる、というのが俶真篇の当該箇所の一連の主張であり、2 と 2’ の聖人の境地はそれを説明するものである。しかし俶真篇の作者は、これだけでは、「道」の働きを体得した人物を説明しきれないと考えたのではないか。『淮南子』の他篇において繰り返し様々な方法で説明が試みられていることからも分かるように、簡単な言葉では表しきれないのが「道」の働きだからである。そこで俶真篇の作者もまた様々な喩えを用いて「道」を体得した人物の説明を試みる。それが 3 や 3’に見える真人の描写なのではなかろうか。たとえば 2’では「聖人は達するに所有り、達すれば則ち嗜慾の心は外なり」と、理想人は道の働きを体得しているため、嗜欲にとらわれることがないと説明している。そして 3’ではそうした理想人が「天地の間、宇宙の内、能く夭遏するもの莫し」と、何ものによっても阻まれる事がない境地にあることを述べ、同時に、そうした境地にある理想人の精神はいかなる状況にも困窮することがないということをより具象的に「神は驪山・太行を經れども、難ますこと能わず、四海・九江に入れども、濡らすこと能わず」と表現している。これと同様に、2 で「下は三泉を揆り、上は九天を尋ね、六合に横廓して、万物を揲貫す」と述べた理想人の境地を、3 ではより具象化して「至虚に動溶して、滅亡の野に游び、蜚廉に騎りて敦圄を従え、方外に馳せて、宇内に休い、十日を燭として風雨を使とし、雷公を臣として、夸父を役とし、宓妃を妾として、織女を妻とす」と説明することによって、それが何ものによっても阻まれることのない状態であることを表そうとしているのではないか。つまり、風雨や神々を使役しながら遊行し、伝説の神女を妾や妻に迎えるという、「離騒」のものに酷似した天界遊行モティーフは、「道」の無限性を体得した統治者の理想像が、何ものによっても阻害されることのない超越的な存在であることを描写するために用いられたものだと考えられるのである。
先の拙稿において明らかにしたように、『淮南子』原道篇・覧冥篇には、馬車の運転を統治の喩えとして用いながら、『老子』の思想に基づく「無為の治」を説く文章が含まれている。そして天界遊行モティーフは、その「無為の治」を実現する理想的な統治者の超越性を表すために取り入れられたものであった(22)。一方、俶真篇は本性を守る「養性」の重要性を繰り返し説き、「養性」によって本性が「道」と一致した人物こそ、「道」が万物を統べるが如く天下を統治することができるのだと述べる。そして天界遊行モティーフは、「養性」によって「道」と一体化した理想的な統治者の無限性を表現するために使用されていた。
これら原道篇・覧冥篇・俶真篇の三篇に見える天界遊行モティーフに共通しているのは、いずれも理想的な統治者について説明する文脈の中に現れているという点である。つまり『淮南子』に見える天界遊行モティーフは、道家的統治者の理想像を描く手段として用いていると考えられるのである。 
4 天界遊行モティーフと『荘子』
「道」を体得した理想的人物の描写に天界遊行表現を用いる手法は、『荘子』内篇にも見える。例えば逍遙遊篇では、何者にも頼らず、それゆえ何者にも束縛されない理想的な存在について、風に頼らなければならない列子の遊行と比較しつつ、天界遊行表現を用いて述べている。
夫列子御風而行、泠然善也。旬有五日而後反。彼於致福者、未數數然也。此雖免乎行、猶有所待者也。若夫乗天地之正、而御六氣之辯、以遊無窮者、彼且惡乎待哉。(夫れ列子は風に御して行き、泠然として善きなり。旬有五日にして而る後に反る。彼れ福を致す者に於て、未だ數數然たらざるなり。此れ行に免ると雖も、猶お待つ所有る者なり。若も し夫れ天地の正に乗りて、六氣の辯に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼れ且ま た惡なにをか待たんや。)
逍遙遊篇にはまた、藐姑射の神人について述べた次のような文章も含まれている。
藐姑射之山、有神人居焉。肌膚若冰雪、淖約若處子。不食五穀、吸風飲露、乗雲氣、御飛龍、而遊乎四海之外。(藐姑射の山に、神人の居る有り。肌膚は冰雪の若く、淖約たること處子の若し。五穀を食らわず、風を吸い露を飲み、雲氣に乗り、飛龍に御して、四海の外に遊ぶ。)
これは、狭隘な世俗的知識によっては量り知ることができない神人の存在を天界遊行によって表現したものであると判断されよう。
人間世界の相対的価値判断を否定する斉物論篇にも、次のように天界遊行を用いた文章が見える。
至人神矣。大澤焚而不能熱、河漢沍而不能寒、疾雷破山風振海而不能驚。若然者、乗雲氣、騎日月、而遊乎四海之外。死生無變於己。而況利害之端乎。(至人は神なり。大澤 焚くとも熱からしむること能わず、河漢 沍こおるとも寒からしむること能わず、疾雷 山を破り 風 海を振うごかすとも驚かしむること能わず。然るが若き者は、雲氣に乗り、日月に騎りて、四海の外に遊ぶ。死生も己を變うること無し。而るを況んや利害の端をや。)
これは、相対的価値判断とは無縁な「至人」の超越性を、天界遊行表現を使って表したものであろう。
以上に挙げた「六氣の辯に御し」て「無窮に遊ぶ」、「雲氣に乗り」て「四海の外に遊ぶ」といった天界遊行表現はいずれも、個人的処世術を説く『荘子』内篇において、世俗的な価値判断から脱却した個人の理想的な状態を描写するために用いられたものであると判断される。つまり人間個々に対して世俗的価値観を離れた処世術を勧めるものであって、そこには統治論に関わるような政治的要素は見られない。これらも天界遊行の一形態であるには違いないが、神々や神獣を従える「離騒」の天界遊行のようなきらびやかさは見られず、その点において『淮南子』の天界遊行との差は歴然としている。『淮南子』が『荘子』内篇から天界遊行表現を用いて道家的理想人を表す手法を継承しているのは確かであろう。しかし『淮南子』の描こうとする理想人は、『荘子』内篇の理想人とは異なっていた。先の拙稿及び本稿で見てきたように、『淮南子』が理想とするのは「無為の治」や「養性」によって統治を行う道家的統治者であった。そしてそうした思考は、主に個人的処世術を説く『荘子』内篇ではなく、荘子後学の手になる『荘子』外・雑篇に多く見られる統治論に共通するものである(23)。たとえば『荘子』外篇の在宥篇には、「無為の治」を行い、己の「性命の情」を安定させることができる人物こそが理想的な統治者である、という記述がある。
故君子不得已而臨莅天下、莫若無爲。無爲也而後安其性命之情。故貴以身於爲天下、則可以託天下。愛以身於爲天下、則可以寄天下。故君子苟能無解其五藏、無擢其聦明、尸居而龍見、淵黙而雷聲。神動而天隨、從容無爲而萬物炊累焉。吾又何暇治天下哉。(故に君子 已むを得ずして天下に臨の莅ぞめば、無爲に若くは莫し。無爲にして而る後に其の性命の情に安んず。故に身を以おさむるを天下を爲おさむるよりも貴べば、則ち以て天下を託すべし。身を以むるを天下を爲むるよりも愛すれば、則ち以て天下を寄すべし。故に君子 苟まことに能く其の五藏を解くこと無く、其の聦明を擢ぬ くこと無くんば、尸居して龍見し、淵黙して雷聲あり。神 動きて天 隨い、從容無爲にして萬物は炊累す。吾れ又た何ぞ天下を治むるに暇あらんや。)
さらに在宥篇には、そうした理想的な統治者は天下をうまく治めることができるばかりでなく、上下四方、あらゆる場所を自由に行き来することができる能力を有するのだとする一節がある。
夫有土者、有大物也。有大物者、不可以物。物而不物、故能物物。明乎物物者之非物也、豈獨治天下百姓而已哉。出入六合、遊乎九州、獨往獨來。是謂獨有。獨有之人、是之謂至貴。(夫れ土を有つ者は、大物を有つなり。大物を有つ者は、以て物とするべからず。物にして物とせられず、故に能く物を物とす。物を物とする者の物に非ざるを明らかにすれば、豈に獨り天下の百姓を治むるのみならんや。六合に出入し、九州に遊び、獨往獨來す。是れを獨有と謂う。獨有の人は、是れを之れ至貴と謂う。)
道を体した理想的人物の超越性を超空間性で表出しようとするこうした手法は、『荘子』内篇から継承されたものであるが、『荘子』外・雑篇ではその理想的人物を統治者の理想像へと変化させている。そして『淮南子』もまた同様の手法で理想的統治者像を描いているのである。『文選』李善注の引用によれば、かつて『淮南子荘子后解』や『淮南王荘子略要』といった書物が存在したことが確認でき(24)、淮南国において荘子学派の活動が盛んに行われていたことがうかがえる(25)。『淮南子』が『荘子』外・雑篇に通ずる思想内容を持つのは、そうした事情を反映してのことであろう。しかしながら『淮南子』はただ『荘子』外・雑篇の手法をそのまま継承するのみならず、さらに「離騒」に共通する天界遊行モティーフをも取り入れている。そうすることによって、理想的統治者の虚像的なイメージをよりわかりやすく具象化しようとしているのである。つまり、『淮南子』は『荘子』外・雑篇から
天界遊行表現を用いて理想的統治者を描く手法を継承するとともに、そこに王者をイメージさせる天界遊行モティーフを取り入れて融合させることで、独自の表現を創出したと考えられるのである。 
おわりに
本稿では、『淮南子』俶真篇に見える天界遊行モティーフを取り上げ、それが文脈の中で何をどのように描く目的で用いられているのかを読み解くことによって、このモティーフと道家思想との結びつきについて考えた。その結果をまとめると以下のようになる。俶真篇では、嗜欲を誘発する外からの刺激に動じることなく、内なる精神の安定を保ち、自己の本性を守る「養性」の重要性を繰り返し説く。そして聖人や真人と呼ばれる人物を、「養性」によって道を体現した人物として描き、統治者が目指すべき理想像として設定している。「養性」によって本性が「道」と一致した人物こそ、「道」が万物を統べるが如く天下を治めることができるというのである。これは『荘子』外・雑篇に見える考え方に基づくものであり、当時淮南王の下で『荘子』の研究や統治論的解釈が盛んに行われた結果であると思われる。そして「離騒」と共通する天界遊行モティーフは、そうした統治者の理想像を描写する目的で用いられているのである。
それでは、『淮南子』が道家的統治者の理想像を描くために天界遊行モティーフを取り入れたことには、どのような必然性があったのだろうか。
先の拙稿において筆者は、『淮南子』の原道篇・覧冥篇に見える天界遊行モティーフについて考察し、それが『淮南子』の中心的政治理念である「無為の治」を行う理想的統治者を描写するために使用されていることを指摘した。そしてその理由を、『淮南子』の編纂に関わった淮南王劉安やその賓客たちが、理想の統治者を描くのに相応しい手法として天界遊行モティーフを認識していたためではないかと推測した(26)。このことはまた、彼らが同様の天界遊行モティーフを持つ「離騒」をどのように解釈していたかということとも深く関わる。
楚辞「離騒」は後漢の王逸による注釈以来、戦国時代の楚の屈原が、王に忠を尽くしながらも讒言によって疎んじられ、祖国の行く末を悲観して作った作品であるとされてきた。
ところが近年、こうした「離騒」の伝統的解釈を見直す必要があるのではないかとの意見が多数提出されており、筆者もまた、そうした意見に賛同する者の一人である。王逸の注に則した読みは、後漢当時の士大夫の価値観を多分に反映したものであり、それ以前にはまた別の解釈が存在していた可能性があるからである。
淮南王劉安は、漢の武帝から命を受けて「離騒傳」を作るほど「離騒」に通暁した人物であったが(27)、その「離騒傳」はすでに散佚しているため、彼が実際に「離騒」をどのように解釈していたのかは不明である。しかしながら、「離騒」と共通する天界遊行モティーフが、『淮南子』において、理想の統治者を描く目的で使用されている点に鑑みるならば、劉安及びその賓客が、「離騒」を忠臣屈原の悲劇としてではなく、王者となるに相応しい人物の英雄叙事詩としてとらえていたと推測することが可能なのではないだろうか。「離騒」を読んで、天界遊行モティーフが王者然とした主人公を描く手段として効果的であると知っていたからこそ、彼らは『淮南子』において理想的統治者を描く際に当該モティーフを利用したと考えられるからである。
その後、淮南王劉安は謀反の罪にたおれ、『淮南子』を生み出した淮南国は滅亡する。その背景には、「無為」や「養性」による道家的統治を主唱する劉安らと、儒教を政治思想の中心に据えて強力な中央集権体制を推進しようとする武帝との見解の相違があったとも想像される。武帝期後半以降、儒教の台頭によって政治思想の中心から引きずり降ろされた道家思想は、「無為」や「養性」を個人の処世術として説くものに姿を変え、神仙思想と結びつくことでその命脈をつないでいく。それと呼応するように、『淮南子』に取り入れられることによって道家思想と緊密に結びついた天界遊行モティーフもまた、道家的統治者を描写する手法から、楚辞「遠遊」に見えるような、登仙する個人を描く手法へと変化していったと推測されるのである。 

(1) 本文で紹介した谷口論文以外では、楠山春樹『淮南子』上巻(明治書院 新釈漢文大系一九七九年)「解題」十一頁、金谷治『秦漢思想史研究』(日本学術振興会 一九六〇年)四四〇頁などに言及がある。
(2) 谷口洋「『淮南子』の文辞について─漢初における諸学の統合と漢賦の成立─」(『日本中国学会報』第四七集 一九九五年)二九〜三〇頁。
(3) 「『淮南子』に見える天界遊行表現について─原道篇・覧冥篇を中心に─」(『中国文学研究』第三十一期 二〇〇五年)
(4) 『淮南子』の引用は四部叢刊所収の影鈔北宋本による。なお、劉文典撰『淮南鴻烈集解』(中華書局 一九八九年)、何寧『淮南子集釈』(中華書局 一九九八年)の引く諸説などにしたがって改めた箇所については、その都度注記する。
(5) 底本は「所斷差跌者」に作る。向宗魯の説にしたがい改めた。
(6) 底本は「耳目之宣」に作る。兪樾の説にしたがい改めた。
(7) 楚辞「離騒」の「求女」については、拙稿「楚辞「離騒」の「求女」をめぐる一考察」(日本中国学会報 第五十七集 二〇〇五年)を参照されたい。
(8) 金谷治『淮南子の思想─老荘的世界─』(講談社学術文庫 一九九二年)二二六〜二二七頁、初出は『老荘的統一─『淮南子』の思想─』(平楽寺書店 一九五九年)。
(9) 金谷治中国思想論集中巻『儒家思想と道家思想』(平河出版社 一九九七年)、第二部 道家の思想「三 荘子の思想」三四六頁、初出は金谷治『荘子』第三冊「付録─荘周のその後─」(岩波文庫一九八二年)。
(10) 高誘注は「爲、治也」とし、「造化者と人を爲おさむ」と解するが、王引之は「人」を「偶」の意味に解する。王念孫『読書雑志』淮南内篇に見える王引之の説によれば、漢代に「相い人偶す」の語が存在したこと、『淮南子』原道篇に「與造化者倶」、本経篇に「與造化者相雌雄」、斉俗篇に「上與神明爲友、下與造化爲人」とあること、また本経篇の「與造化者相雌雄」を『文子』下徳篇では「與造化者爲人」と作っていることなどから、この「與造化者爲人」の「人」は「偶」と同義であるという。今、この説にしたがう。
(11) 底本は「不能」に作る。『諸子集成』所収荘逵吉本『淮南子』にしたがい改めた。
(12) 底本は「所以詩心」に作る。『諸子集成』所収荘逵吉本『淮南子』にしたがい改めた。
(13) 注(8)前掲書 金谷治『淮南子の思想−老荘的世界−』二二四頁。
(14) 底本は「色青翳」に作る。王引之の説にしたがい改めた。
(15) 底本は「蠃瘉蝸v」に作る。王引之の説にしたがい改めた。
(16) 底本は「必其有命在於外也」に作る。王念孫の説にしたがい改めた。
(17) 楠山春樹氏は「淮南子より見たる荘子の成立」(『フィロソフィア』四一 一九六一年、後に楠山春樹『道家思想と道教』平河出版社 一九九二年)五〇頁において、『淮南子』俶真篇と『荘子』外物篇の当該箇所を比較し、俶真篇は「真人・聖人・賢人の三段階におけるそれぞれの境地を説くものであるが、荘子外物篇のは、真人が神人となっている。そこで想うに、真人という語が、比較的に晩出である、と考えられることから推すと、この場合、淮南子が荘子を採って、神0 を真0 と改めた、と解することが妥当であろう。」と述べる。
(18) 注(8)前掲書 金谷治『淮南子の思想─老荘的世界─』一〇〇〜一一五頁。
(19) 底本は「化生者」に作る。兪樾の説にしたがい改めた。
(20) 底本は「智終天地」に作る。劉文典の説にしたがい改めた。
(21) 底本は「澤潤玉石」に作る。王念孫の説にしたがい改めた。
(22) 注(3)前掲論文。
(23) 『荘子』外・雑篇に政治への強い志向が見えることについては、注(9)前掲書 第二部 道家の思想「三 荘子の思想」(初出は、金谷治『荘子』第二冊「解説」 岩波文庫 一九七五年)に言及がある。
(24) 胡克家本『李善注文選』巻二十六 謝霊運「入華子崗、是麻源第三谷」、巻三十一 江文通「雑体詩(許徴君)」、巻六十 任彦昇「斉竟陵文宣王行状」の注に「淮南王荘子略要曰…」と、巻四十五陶淵明「帰去来」の注に「淮南子要略曰…」とある。また巻三十五張景陽「七命」の注に「淮南子荘子后解曰…」とある。なお、この点については注(2)前掲谷口論文三十二頁、注(22)を参照した。
(25) 注(8)前掲書 金谷治『淮南子の思想─老荘的世界─』一二一頁。
(26) 注(3)前掲論文。
(27) 初、安入朝、獻所作内篇新出、上愛秘之。使為離騷傳。旦受詔、日食時上。(『漢書』巻四四 淮南王安伝)。 
 
古代の宇宙観

 

古代の人々は、その環境に応じた世界観、そして宇宙観をつくり、それらを神話として残していきました。当時は、現在の私たちの日常の感覚と同様に、地球は動かず、太陽や星の方が動いているということが前提となっています。
たとえば古代インドでは、世界は巨大な亀の甲羅(こうら)に支えられた3頭の象が半球状の大地を支えていると考えられていました。この大地の上には須弥山(しゅみせん)とよばれる高い山がそびえていると考えていました。須弥山の下には、下から風輪(ふうりん)、水輪(すいりん)、地輪(じりん)(金輪[こんりん])と重なる世界があり、周囲は九山八海(くせんはっかい)が同心円状に交互にとりかこみ、人間が住むのは最外縁の閻浮提(えんぶだい)とされています。中腹の四方には四天王、頂上には帝釈(たいしゃく)天を中心とする三十三天の宮殿があり、太陽や月はこの山の中腹を回っています。この宇宙観(須弥山宇宙説)は仏教とともに日本にも伝えられ、江戸時代に仏教天文説を目に見える形で表した時計じかけの「須弥山儀」が考案されたりしています。
中国では、これとは独自に、天は蓋(ふた)のように大地をおおっている天蓋(てんがい)説、あるいは卵殻(らんかく)形の天が卵黄に相当する地球をかこんでいるとする渾天(こんてん)説などが考えられています。
もともと私たち日本人が用いている「宇宙」という言葉も、「宇」が天地四方を、「宙」が古往今来(こおうこんらい)、すなわち時間を表すものとして、紀元前160年ごろの「淮南子(えなんじ)」に登場します。
一方、西洋星座の原型をつくりだしたメソポタミア地方の古代カルデア人は、大地は海でかこまれ、その海はまた高い壁で外側をかこまれており、その上に釣鐘(つりがね)形の天井がおおいかぶさっていると考えていました。中国の天蓋説と異なり、この天井の東西に開いた穴を通して太陽が出没することで昼と夜ができると考えていたようです。
ピラミッドなどの建造で知られるエジプト文明でも、初期の宇宙観は同様に地球中心でした。大地の四隅には天を支える高い山があり、その中央を流れるのがナイル川でした。星は天に張りついたまま天といっしょに動きます。そして、太陽神ラーが毎日ボートに乗って、天のナイル川を渡ることで昼夜ができると考えていました。太陽が毎日しずんで復活することで、死からの復活を結びつけた太陽信仰ができあがったのですが、暦を作る必要性にせまられていたエジプトでは、星や太陽を観測する高度な技術をもっていたこともあり、ギリシアとの文化の融合(ゆうごう)もあって、このような神話的な宇宙観から、やがてより科学的な宇宙像をつくりだしていくことになります。 
 
中国神話1

 

中国の宇宙創成神話
中国の古代神話には、宇宙創成についてのまとまった物語は残されていないが、まったくないともいえない。
よく知られているのは、とくに道教系の思想家が語ったもので、陰陽というきわめて哲学的な言葉で、宇宙の創成について語ったものである。たとえば、前漢代初期に編纂された『淮南子』には次のような物語がある。
大昔、天地には形がなく、世界は渾沌としていた。この渾沌から虚空が、虚空から宇宙が、宇宙から気が生じた。やがて気は二つに分かれ、明るく澄んだ気は上昇して天となり、重く濁った気は固まって地となった。そして、天(陽)と地(陰)の混ざりあいからこの世の万物が生まれてきた。
ただ、この物語はあまりに哲学的過ぎるので、神話学者の多くも、これを神話とは認めていないようである。
紀元後3世紀の三国時代に呉で書かれた『三五歴記』という書の中には、盤古という巨人が宇宙の創成に深く関わっていたという物語が取り上げられている。この神話はもともと中国南部のヤオ族やミャオ族の間に伝わっていたもので、中国古来の神話とはいえないが、『三五歴記』以降は中国の宇宙創成神話として様々な書で取り上げられ、また改変されていった。
それによると、宇宙がまだ渾沌としており、天地も分かれていなかったとき、その状態はまるで大きな鶏卵に似ていた。この鶏卵の中で盤古は生まれ、眠り続けて、1万8千年かけて成長した。それから天地が分かれ始め、軽くて澄んだ部分は上昇して天になり、重くて濁った部分は降下して地になった。天は一日に一丈高くなり、地は一日に一丈厚くなった。そして、盤古は一日に一丈ずつ背が高くなった。こうして1万8千年たつと盤古はとてつもなく巨大になった。
この盤古が死んだとき、その体からいろいろなものが生まれてきた。盤古の左目は太陽に、右目は月になった。頭は東岳泰山、腹は中岳崇高山、左腕は南岳衡山、右腕は北岳恒山、足は西岳華山になった。盤古が口から吐き出した息は風と雲に、声は雷鳴になった。また、血液は河川に、髪や体毛は草木になったという。 
天円地方の宇宙観と『山海経』
もうひとつ、神話とはいえないが、中国古代の架空の地理観に関わりあるものとして、漢代には存在していた宇宙論である蓋天説(がいてんせつ)にも触れておきたい。これは宇宙を天蓋のついた戦車に見立てたもので、ここから天は丸く、地は方形(正方形)という「天円地方」の考え方が出てきた。長安や洛陽といった中国の歴史的大都市が基本的に正方形をしているのもここからきているので、宇宙論ではあるが、現実の世界でも大きな影響力を持っていたことがわかる。
さて、この考え方に基づいて古代中国では中国帝国も正方形だと考えられ、その四方は「四海」に囲まれているとされた。ここで、「四海」といっているのは実際の海のことではなく、異民族の土地のことである。
中国古代の地理書『山海経』も基本的に同じ構造になっている。つまり、『山海経』には中国帝国とその外にある異民族の土地の二種類のことが書かれているのである。『山海経』は基本的に、南山経など五編からなる五蔵山経、海外南経など四編からなる海外経、海内南経など四編からなる海内経、大荒東経など四編からなる大荒経、一編のみの海内経から構成されている。このタイトルだけを見ると、いったいどの辺の土地なのかさっぱりわからないが、これを中国帝国とその外にある異民族の土地の二種類に分けてみれば、少しは理解しやすいかもしれない。すなわち、中国帝国内=五蔵山経=海内経であり、異民族の地=海外経=大荒経である。
同じ一冊の本の中で、同じ土地のことが別な呼び方をされ、繰り返し記述されているというのは奇妙かもしれないが、現在の『山海経』はもとは一冊ではなかったのだから仕方がない。『中国の神話伝説』の著者である袁珂氏は現在の『山海経』はもとは三書であり、〈五蔵山経+四編の海外経〉、〈四編の海内経〉、〈大荒経四編+一編の海内経〉という組み合わせだったろうと見ている。また、『山海経』世界の中心、つまり五蔵山経の中心は洛陽というのが一般的な見方である。 
『史記』に見る古帝王の系譜
ひとつの国の神話を理解するのに、神統譜があると大いに助かる。それによって、数多い神々の関係がわかるからだ。
では、中国神話にギリシア神話や日本神話に見られるような信頼できる神統譜があるかといえば、残念ながらそのようなものは見当たらない。
とはいえ、ヒントがないというのも困りものだ。そこで、ここでは中国神話の仮の神統譜として、『史記』の「三皇本紀」「五帝本紀」に載せられている古帝王の系譜を上げておきたい。
『史記』は前漢の司馬遷がまとめた歴史書で、黄帝から武帝にいたるまでの歴史が記されている。この『史記』を書くにあたり、司馬遷はその最初に「五帝本紀」を置き、中国の古代の聖王である五帝の系譜をまとめている。五帝とは、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜の五人で、これらの優れた帝王が順に現れて、中国を支配したというのである。なかでも優れているとされているのは最初におかれている黄帝で、すべての帝王の頂点に立っているといえる。
ところで、「五帝本紀」を読んですぐに気づくことは、黄帝が中国で最初の帝王とされてはいるが、それ以前にも中国を支配する者がいたということだ。「五帝本紀」によれば、黄帝は神農(炎帝)の時代が衰えたときに登場し、炎帝に代わって中国の帝王になったのである。とすれば、中国最初の帝王としては炎帝を取り上げるべきではないかと思われるが、なぜそうではないのだろう。それは、司馬遷が『史記』によってあくまでも人間の歴史を書こうとしたからだといえる。つまり、司馬遷にとっては、炎帝から以前は伝説的存在で、黄帝以降は人間だと考えられたのである。現在では、これら五帝はみな中国古代の神々だったことが認められているが、司馬遷にとってはそうではなかったのである。
そこで、後になって、『史記』を補う形であらたな記述が付け加えられた。唐の時代に司馬貞が書いた「三皇本紀」がそれで、現在の『史記』では、「五帝本紀」の前に「三皇本紀」が置かれるという形になっている。
この「三皇本紀」で語られているのは、黄帝以前に中国を支配したとされる神話的帝王たちで、三皇というのは伏羲、女媧、神農の三人のことである。ただし、「三皇本紀」でも、伏羲の前に燧人という神がいたことになっているので、伏羲が最初の神というわけではない。その偉大さという点で、最初に置かれるべき神ということだろう。
こうして、とにかく帝王ともいうべき偉大な神々の系譜が存在することになったので、これを中国神話の仮の神統譜としておくことにしよう。とはいえ、これはあくまでも仮の神統譜であって、真の神統譜と呼ぶには問題が多い。そして、この問題は、中国神話に関して一般的に指摘されている問題と重なっていると思える。 
勢力争いによって作り変えられる神話
では、ここで紹介した仮の神統譜にはどんな問題があるのだろう。
まず初めに指摘しなければならないのは、それが前漢という比較的新しい時代に作られたということだ。中国にはそれよりもはるか昔に、夏、殷、周という王朝が登場し、順に交代したといわれている。これら王朝は中国全土を支配するような統一国家ではなく、どれも小さな国々の集合体で、夏、殷、周はその頂点に立った国だという。が、いずれも高度の文化を持った国で、独自の神話があった。夏については実在が確認されていないが、実在が確認されている殷でも、紀元前17〜前11世紀ころの国である。また、夏、殷、周だけが中国に存在した勢力ではない。現在でも、中国には数多くの少数民族がいるが、これら少数民族は古代には現在よりもはるかに数が多く、苗族や羌族のように、中央の勢力に多大な影響を与える民族もあったという。当然のことだが、これらの民族にも独自の神話があった。このように古くから様々な神話が存在していたのを、後の時代にひとつの神統譜のもとにまとめたことで、大きな問題が生じないはずがないといっていいだろう。
そもそも、黄帝とはどのような神なのだろう。今から振り返れば、黄帝は中国で最もポピュラーな最高神といってよい。中国神話の中で天帝といった場合、そのほとんどが黄帝を指すのでもそれはわかる。だが、実際には黄帝はそれほど古い神ではないらしい。黄帝という言葉が文献に現れるのは、周も終わりに近い戦国時代だという。黄帝は神仙思想とも結びつく神だが、この時代には神仙思想の流行もあった。また、五行思想では黄を中央の色としている。こうしたことがあいまって、戦国中期から黄帝信仰が広まり、ついに中央の天帝になったのだといわれる。
こうして、後の時代になって新しい最高神が登場すれば、その結果として割を食う神が出てくるのは当然だ。その代表に舜がいる。帝嚳、俊という神ももとは舜と同じ神だといわれるが、『中国の神話』(白川静著)によれば、この神は本来は殷の最高神だった。だが、殷が周に滅ぼされた結果、舜の神話は挫折し、結果的に黄帝よりも下位の神として扱われるようになったのだという。白川氏はもっと極端な例として、洪水神・共工のことも取り上げている。共工は羌族の最高神で、後の黄帝に匹敵する権威があったという。だが、苗族や夏系の諸族との戦いに敗れた結果、苗族の女媧神話や夏系の禹の神話の中で、完全な悪神とされてしまったのである。
中国は広大でその歴史はあまりに古い。そのために、こうしたことが頻繁に起こったといわれる。中国神話の本来の姿を突き止めることも、それだけ困難になっているといえるわけだ。
こんなわけで、中国神話を読む場合、そこで語られている神が本来はどの文化に属する神だったのかを知ることがかなり重要になるといっていい。そこで、一応の目安として、神々とそれを信仰していた文化圏との関係を一覧表にしておこう。取り上げている神の数が少なく、不完全といわれかねないが、何かの参考にはなるだろう。 
神話の歴史化という問題
ところで、『史記』「五帝本紀」を見ることで、新しい権力によって古い神話が作りかえられるということのほかに、もう一つの問題点も見えてくる。それは、神話を歴史として語ることによって、いかにも神話らしい荒唐無稽な伝説が排除されてしまうということだ。司馬遷が黄帝以降を人間の帝王と考え、神農以前の神を伝説として排除してしまったのを見てもそれがわかる。
しかも、中国では神話を歴史として語るという傾向が司馬遷よりもはるか以前から存在していたという。こうした傾向の始まりは、どうやら孔子にあるといっていいようだ。「怪・力・乱・神については語ったことがなかった」といわれる孔子は実用を重んじ、荒唐無稽な伝説について語ろうとしなかった。そして、荒唐無稽な神話を扱う場合、それを歴史化し、人間の世界の出来事に転化して語ったという。これについて、袁珂氏は『中国の神話伝説』の中で次のようにいっている。
その例は少なくない。たとえば、黄帝は伝説の中では四つの顔を持つとされているが、孔子は巧みに黄帝が四人の人物を派遣して四方を分治させたと解釈したのである。また、「夔」は、『山海経』ではもともと一本足の怪獣であったが、『書経』の「堯典」では舜の楽官に変じている。魯の哀公〔在位前495―前468〕が夔の伝説のよくわからないところについて、「「夔は一本足なり」といわれていますが、本当に足が一本しかないのでしょうか」と孔子に聞くと、孔子は言下に「いわゆる「夔は一本足なり」とは、けっして夔に足が一本しかないという意味ではない、「夔のような人は一人でも十分なのだ」という意味なのだ」と答えた。孔子の解釈はかならずしもその真意をついていないが、このエピソードから儒家が神話を歴史化した巧妙さを見て取ることができる。歴史はもともと時間を引き延ばすが、そのために神話は災難にあった。つまり、このように改変・転化されるや、貴重なものが少なからず失われたのであり、神話から転化した歴史も幸せというわけにはいかない。
孔子以降、中国の特に儒家の哲学者たちによって、こうしたことが一般的に行われた。この結果として、本来的な神話が失われ、中国神話が不毛になったとさえいわれているのだ。しばしば、「中国には神話がない」といわれるのもこのためといっていいだろう。 
真の姿を模索しつつある中国神話
とはいえ、実際に、中国に神話がないというわけではない。いくつかの文献を見ただけで、古い時代の中国に豊かな神話世界があったことはわかる。先の袁珂氏の文に登場する『山海経』もそのようの書物の一つだ。袁珂氏の文の中に『山海経』で語られている夔の話があるので、ここで『山海経』が夔についてどのように語っているか見てみよう。
東海の中に流波山あり、海につきでること七千里、頂上に獣がいる、状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。これが水に出入りするときは必ず風雨をともない、その光は日月の如く、その声は雷のよう。その名は夔。黄帝はこれをとらえてその皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたいた。するとその声は五百里のかなたまで聞こえて、天下を驚かせたという。(『山海経』(高馬三良訳))
語られている内容は断片的で神話の全体をとらえることはできないが、『山海経』にはこのような断片がふんだんに語られている。
戦国時代に屈原によって書かれた『楚辞』にも豊富な神話世界が語られている。これは詩であるために、神話の全体を紹介するようなものではないが、古代世界の神話の豊かさを十分に感じさせるものだ。
また、『史記』の「五帝本紀」のように歴史化された記述にも神話は隠されているし、古代の遺跡から発掘された土器片に刻まれた甲骨文字にも神話世界を伝えるものがあるという。
もちろん、すでに多くの研究者たちの研究もあり、中国神話のかなりの部分が眼に見えるようになってきているともいえる。
だが、中国神話の奥行きがどれほどのものか、まだはっきりしていないことも確かだ。そういう意味では、他の国々の神話と異なり、中国神話はいまもなお真の姿を模索しつつあるといえるだろう。
 
中国神話2 

 

漢語の史籍に神話という用語はない。十九世紀末、日本人学者が英語の「amyth」を神話と翻訳したもので、古代中国では神の神秘の教えを説いた経典を神書、老荘の説いた道(宇宙の原理)を示した教えを「神道」と称したが、「神話」という表現はない。漢語では神は「神、精神、神経、顔色、注意力、非凡、利口」を意味し、神話には荒唐無稽な話、神道には奇怪な言動という側面がある。従って、表題は神話ではなく、「伝承」としたほうが適切かもしれないが、現在では日本語の「神話」が中国にも導入されて、一般的に使用されているので表題とした。 
『盤古神話』(中国)
盤古神話は倭国や古朝鮮の「天地開闢神話」の原典だが、「三五暦記」「五運歴年記」「述異記」などに記述があったようだが、早くから散逸しており、現在では「芸文類聚」「太平御覧」などの逸文から断片的に物語を観るしかない。
「三五暦記」
天地渾沌如雞子、盤古生其中。萬八千歲、天地開辟、陽清為天、陰濁為地、盤古在其中、一日九變。神於天、聖於地。天日高一丈、地日厚一丈、盤古日長一丈。如此萬八千歲、天數極高、地數極深、盤古極長。后乃有三皇。數起于一、立于三、成于五、盛于七、處于九、故天去地九萬里。
天地は鶏子(卵殻の中身)のように渾沌としていた、そのなかで盤古は誕生した。一万八千年を経て、天地が開けると、陽(あきら)かで清らかな部分は天となり、暗く濁れた部分は地となり、盤古はその中間に在って、一日に九回変化した。天では神、地では聖となる。天は日に一丈高くなり、地は日に一丈厚くなり、盤古は日に一丈背が伸びた。このようにして一万八千年を経て、天は限りなく高く、地は限りなく深くなり、盤古は伸長を極めた。
後に及んで三皇が出る。一にして数え始め、三にして立ち、五にして成り、七にして盛んとなり、九にして場所が定まる。それ故に、天と地は九万里(4万5千km)離れた。
「五運歴年記」
首生盤古、垂死化身:氣成風雲、聲為雷霆、左眼為日、右眼為月、四肢五體為四極五岳、血液為江河、筋脈為地里、肌肉為田土、髮髭為星辰、皮毛化為草木、齒骨為金石、精髓為珠玉、汗流為雨澤。身之諸蟲、因風所感、化為黎氓(民)。
初めに盤古が生まれ、死が近づくと、吐いた息は風雲、声は雷鳴、左目は太陽、右目は月、手足と胴体は四方の極地や五岳、血は河川、筋と血管は道、皮膚は農地、髮髭は星辰、産毛は草木、歯と骨は金属、精髓は珠玉、汗と涙は雨や露に化身した。身中の寄生虫は風によって各地に広まり、多くの民と化した。
「述異記」
(前省略)支撐著天和地、使它們不再回復為過去的混沌状態。盤古開天闢地後、天地間只有他一個人。天地隨著他的情緒而變化。他高興時、萬里無雲;他發怒時、天氣陰沈;他哭泣時、天就下雨、落到地上匯成江河湖海;他嘆氣時、大地上刮起狂風;他瞬瞬眼睛、天空出現閃電;他發出鼾聲、空中響起隆隆的雷鳴聲。
(九万里離れた)天と地を盤古は支え続け、再び過去の渾沌(天地未分化の状態)に戻らないようにした。盤古が天地を開いて後、天と地の間に彼一人しかいなかった。天地は彼の情緒に応じて変化した。盤古が歓喜すれば万里に雲なく、怒りを発すれば天は薄暗くなり、泣けば天から雨が降り、地上で河川、湖沼、海洋となり、嘆けば大地は暴風が巻き起こり、目をまばたけば天空に雷光が現れ、鼾をかけば空中に雷鳴が轟いた。
盤古神話に言う「天地渾沌」とは陰陽未分化の宇宙をいい、「陰陽説」そのものである。
一般には「陰陽五行説」と呼ばれるが、「五行説」は「陰陽説」から派生した理論であり、この盤古神話には、五行説の影響がみられない。
祭祀権と統治権が不可分だった古代の統治者には、易の基本原理である陰陽五行説は習得すべき必須の神秘科学であり、陰陽説は西周時代に、五行説は春秋時代に広まったと考えられる。従って、盤古神話の誕生は五行説が発展する春秋時代以前に誕生したと思われる。
盤古氏頭為東岳、腹為中岳、左臂為南岳、右臂為北岳、足為西岳。
盤古氏の頭は東岳、腹は中岳、左臂は南岳、右臂は北岳、足は西岳となった。
これは秦漢時代の俗説だが、五岳信仰に結び付けて語られており、すでに盤古神話が方士の間で流伝していたことが窺われる。
「道教神話」
天地陰陽の気を受けて生まれた盤古真人は、自ら元始天王と称して、混沌のなかに浮遊していた。やがて天地が分かれ、地の岩から水が流れ出た。原虫が発生し、やがて龍が生まれた。その後、流水のなかから人間の姿をした太元玉女が生まれた。彼女は太元聖母と名乗り、元始天王と気を通じて天皇を生んだ。次には扶桑大帝と東王公、さらに西王母を生んだ。そして、天皇は地皇を生み、地皇は人皇を生んだ。(骨子のみ掲載)
この道教神話は古代伝承の盤古ではなく、葛洪(抱朴子)が「枕中書」に盤古帝王を道教の神として記述したことから、やがて「盤古帝王賜福真経」へと発展したもので、経文には延々と盤古帝王の記述があるが、長文なので骨子のみ掲載した。
戦国時代、荘子は道を得た(悟に達した)人物を「真人(聖人・真君)」と呼んだ。
また、神仙思想では仙人に「真人」の尊号を用いたが、この老荘(老子と荘子)の道家思想と神仙信仰が混合して広く民衆の間に信奉されていた。
五個十六国時代、道教諸派の上清派が道を神格化した「元始天尊」を太上老君(伝説上の老子)の上位に置いて道教の最高神とした。従って、これは元始天王の信仰を元始天尊の形象に併呑した四世紀以降の創作である。
「盤古と盤瓠」
盤古(ばんこ)と盤瓠(ばんこ)は、ともに西南少数民族の神話の主人公だが、この神話が長江流域の漢族に広がり、やがて漢族の開闢神話として全土に浸透したものと考えられている。ただし、そうではないとする異説もある。
漢族的盤古神話與西南少數民族的盤瓠神話有類似之處、他們都是造物主、是人類的始祖。但盤古開天的神話、惟漢族記載最為全面。是西南少數民族接受了漢族的盤古神話、還是漢族接受了西南少數民族的盤瓠神話呢?我認為都不是、這兩個神話的源頭是同一個、描述的是同一個我們將要提到的事件。後來、聚集在一起的人、開始遷徙、文化發生了歧變、神話也發生了變異。於是、苗族地區有了盤瓠的神話、而漢民族則保留了盤古的神話。
漢族の盤古神話は西南少数民族の盤瓠神話に類似する。盤古も盤瓠も造物主であり、人類の始祖とされる。西南少数民族が漢族の盤古神話を接取した、あるいは漢族が西南少数民族の盤瓠神話を接取したのか?私はいずれも違うと認識している。二つの神話の源流は同一で、描写も同一の事柄だが、それが人の移動や文化の岐路で変化して、苗族地区には盤瓠の神話、漢民族には盤古の神話が保留されたのである。
有人說、盤瓠神話載於東漢的《風俗通義》、而盤古神話載於三國的《五運歷年記》、因此、盤瓠神話比盤古神話古老、所以、盤古肯定是從盤瓢那裡演變過來的、這個說法也不對。大家知道、中國沒有系統記錄神話的文獻、現在的神話零零散散、見於各類書中、根本無法區分年代、怎麼能用先被記錄或後被記錄來判定哪一個神話更早呢?這是一個常識問題。
ある人が言う「盤瓠神話は東漢(前漢時代)の『風俗通義』に記載、盤古神話は三国時代の『五運歷年記』に記載されていから、盤瓠神話は盤古神話より古代の創作で、盤古は盤瓢の話が変化したものである」これは間違っている。皆が知っているが、中国には系統的な記録文献はなく、現在の神話も各種文献に分散しており、根本的に年代区分の方法はなく、どうして先に記録されたものか、後に記録されたものかを判定できるのか。(要訳のみ)
これは、ある米国の歴史学者が「世界的文化発祥国のなかで、唯一中国だけが自国の開闢神話を持たない」との論文を発表したのに対し、「本来、盤古は漢族の神話であり、盤瓢は少数民族の神話である」との反論の一節である。古代の漢族の人々が盤古も少数民族の神話だと混同したのだとの説は説得力に欠ける気がする。
盤古神話は卵から盤古が誕生する典型的な「卵生型神話」であり、卵生型神話は南方系の民族神話の特徴とされる。中国大陸で卵生型神話を有する民族は、古代の長江流域の氏族や西南地方の民族である。では、どの民族の神話なのだろう。 
『古代苗族』
盤古神話の起源は古代苗族(ミャオ族)の天地開闢神話と考えられている。
古代苗族とは、とのような民族なのだろう。
三苗(サンミャオ)
夏の時代、湖北省や湖南省を領域とした三苗という民族がいた。これが古代苗族である。
『史記』五帝本紀「三苗4在江淮、荊州數為亂」注4
集解馬融曰:「國名也。」正義左傳雲自古諸侯不用王命、虞有三苗、夏有觀扈。
孔安國云:「縉雲氏之後為諸侯、號饕餮也。」呉起云:「三苗之國、左洞庭而右彭蠡。」
案:洞庭、湖名、在岳州巴陵西南一里、南與青草湖連。彭蠡、湖名、在江州潯陽縣東南五十二里。以天子在北、故洞庭在西為左、彭蠡在東為右。今江州、鄂州、岳州、三苗之地也。
三苗4は江淮、荊州に在り、何度か乱を起した。
注4;馬融は「国名なり」と言う。正義左傳に古より諸侯は王命を聴かず、虞に三苗あり、夏に觀扈あり。孔安國が言うには「縉雲氏の後裔を諸侯となす。饕餮(貪欲で貪る)と号する」。呉起が言うには「三苗の国、左に洞庭湖、右に彭蠡」。案ずるに「洞庭は湖名(湖南省)、岳州巴陵の西南一里に在り、南に青草湖が連なる。彭蠡は湖名(江西省鄱陽湖)、江州潯陽県の東南五十二里に在る。天子は北に在る故に、西に在る洞庭湖を左とし、東に在る彭蠡を右とする。今、江州、鄂州、岳州、三苗の地である」
中国は黄河文明だけではなく、長江流域にも次のような古代文明が存在した。
河姆渡文化(紀元前5000年−前3300年) / 「浙江省遼紹平原の東部、越海東の舟山群島に至る古代文明。代表的な遺跡には浙江省余姚の河姆渡遺跡がある」
大渓文化(紀元前4400年−前3300年) / 「東は湖北省江陵公安、南は湖南省裏(シ+豊)水流域や洞庭湖北岸、北は漢水中流域に分布した古代文明。代表的な遺跡には四川省巫山の大渓遺跡がある」
屈家嶺文化(紀元前3500年−前2600年) / 「湖北省江漢平原から湖南省南陽盆地にかけて発展した古代文明。代表的遺跡には湖北省京山の屈家嶺遺跡がある」
上記の大渓文化と屈家嶺文化は、まさに三苗が領域としたエリアである。
ここから三苗は紀元前44世紀の大渓文化の時代から夏(前21世紀−前16世紀)まで、長江中流域の文化の担い手だった古族だと想像できる。
また、三苗は、三皇五帝の炎帝の末裔とされるが、同じく三皇五帝の帝舜(しゅん)との戦争で敗れ、故地から「三危」に追い払われた民族である。その後、故地の周辺に復帰するが、商や周の時代には「南蛮」と通称された。さらに数百年かけて民族の復興を図り、華夏族(漢族)に融合する部族も多かったが、遂に故地で「楚」を建国し、戦国時代の「七雄」の一国に数えられるまでに発展した。
楚は戦国末期に滅亡し、大部分は漢族に吸収されたが、その他の部族は、廣西民族研究所長、廣西壮学の学会長の覃乃昌教授は新聞紙上で次のように述べている。
『新華網廣西頻道』2003年12月17日版
「就是珠江流域這些原住民族、壯族及其同源民族的遠古神話」「これは珠江流域の原住民族であるチワン族及び、その同源民族の太古の神話である」珠江は雲南省に端を発し、貴州省から広西壮族自治区を抜けて、香港の対岸にある広東省珠海市から南シナ海に注ぐ大河(広西壮族自治区では「紅水河」、広東省では「西江」と名を変える)である。この記事に関連して、盤古とは人名ではなく、兄妹を指す単語であり、語源は「磨刀石と葫蘆」だとする、次のような記事が掲載されている。
『新華網』(2003年12月11日)
專家們認為、在壯族地區的盤古廟裏、所敬的盤古神有的是男神、有的是兄妹兩個神。這是記念盤古兄妹創造世界的神話。來賓市地處廣西中部、紅水河貫穿其中、是珠江流域的腹心地帶、屬壯族主要聚居區之一。這裡的壯族民間自古流傳著“盤古兄妹”繁衍人類的故事。興賓區良塘鄉甘東村何師武老人敘述了這一故事:遠古時、水淹天下、人死幾盡、只有躲在葫蘆裏漂浮的兩兄妹得以倖存、他倆結婚後生出像磨刀石一樣的肉團、砍碎撒向四野、變成了千千萬萬的人群、從此人類又繁衍起來。壯語稱這兩兄妹為‘盤勾’、盤即磨刀石、勾即葫蘆、覃乃昌教授對記者說、‘磨刀石、葫蘆’、是壯語對‘盤古’一詞最原始意義的解釋。
壯族(チワン族)地区の盤古廟に、男神の盤古神と兄妹の二神が祭られていることは専門家たちも認めている。また、盤古兄妹の世界創造を記録した神話もある。来賓市の廣西中部は紅水河が貫通する珠江流域の中央地帯で、壯族の主要な群居地区の一つである。ここには壯族に古代から伝承された盤古兄妹の人類発祥故事がある。(中略)
葫蘆(ひょうたん)の内部にいて兄妹は幸いにも洪水から生き残った。彼らが結婚した後に磨刀石のような肉槐を生んだ。それを砕いて四方に撒いたところ、無数の人々に変成したことから、人類の繁殖が始まった。壯語では兄妹を「盤勾」と言う。「盤」とは磨刀石、「勾」とは葫蘆のことで、覃乃昌教授が記者に説いた「磨刀石、葫蘆」とは、壯語における「盤古」に対する最古の意義の解釈である。
壯族(チワン族)
主に広西壯族自治区、雲南省の文山壯族・苗族自治州に居住し、一部は広東省、湖南省、貴州省、四川省などに散在している。言語は「漢・チベット語系、チワン・トン語族、壯族・タイ語分支」に属するチワン語を使用している。(人口1549万人)
中国古代「越」民族が南下して土着したもので、春秋戦国の頃は「百越」と称された。
瑤族(ヤオ族)
ヤオ族は「漢・チベット語系、ミャオ(苗)ヤオ(瑤)語族、苗語派」を母語とする民族で、古代苗族の末裔と考えられている。方言が強烈でヤオ族同士でも言葉が通じないので、日常会話は壯族のチワン語を用いていることから、古代苗族と古代羌族(チベット系)が融合したものと推察される。(人口213万人)
現在も広西壮族自治区の紅水河の沿岸地方には、各所に『盤古王廟』が建っており、毎年五月二十日に盛大な盤古の「誕生祭」が行なわれ、同地域の少数民族の瑤族(ヤオ族)は、盤古を瑤族の祖先として崇拝を続けている。
シェ族
主に福建、浙江二省の境界地帯に96%が居住し、その他は広東および広西自治区の境界地帯に暮らす少数民族(人口63万人)。シェ語は「漢・チベット語系、ミャオ(苗)・ヤオ(瑤)語族」に属しており、いわゆる「百苗」の一部族である。
シェ族では毎年旧暦1月8日はトーテム祭の日とされ、祠(ほこら)に提灯がかけられ、色彩豊かな飾りがつけられ、真中両側の壁には『三皇五帝』の神々、『盤瓠出世』、『盤瓠平番』、『盤瓠墓基』という道教の神の天地開闢の物語を描いた図がかかっている。
漢族の神話か古代苗数の神話かは別として、盤古神話が「三皇五帝」伝承や日本と朝鮮の天地開闢神話に強い影響を与えたことは事実である。盤古神話の誕生時期については定説がないが、三国時代に呉の徐整が南方少数民族の神話を元に編纂した「三五暦記」と南北朝時代の南朝梁の任方が著した「述異記」(上)に記載された故事を、「水経注」の著者である北魏の地理学者の麗道元が華北地方に伝えたことで全土に広がったと考えられている。 
三皇五帝
中国最古の王朝は夏(か)とされることから、中華は「中夏」とも記される。
現在、考古学的に実在が証明されているのは商(殷)からだが、以前から夏王朝の遺構と推定される考古学上の発見があり、現在も発掘調査が続いている。いずれその調査結果が発表されるだろうが、このような史学上の古代王朝とは別に、『史記』は夏の前代に「三皇五帝」という後世の理想とされる聖王の時代があったと記している。
登場するのは半人半獣の人格神だが、単なる空想の物語ではなく、太古の邑落国家の首領をモデルだとする説もある。ただし、著者の司馬遷(紀元前135−前87年)は「三皇」を荒唐無稽な伝説として記載せず「五帝本紀」の記述から始めている。従って、史記の冒頭を飾る三皇の記述は、唐時代の司馬貞が補筆したものである。
帝・皇の称号
帝・皇の称号は甲骨文に記されたものが最古の史料とされることから、すでに商の時代には「帝・皇」の称号があったと思われる。ただし、往時の「帝、または帝大」は人間の君主の称号ではなく、上帝や天上の神を意味している。商、周の最高統治者は一般に「王」と称し、王が人間君主の最も尊厳をもつ称号とされていたとされる。
帝大とは帝皇のことだが、『説字解詞』には「皇とは大なり」とある。問題は「帝」の解釈である。帝は「蒂」の略字で、現代の漢語では「花や果実の蔕(へた)」とあるが、古代では「花心」を表し、その形状の近似性から「女陰」の象徴とされた。従って、帝とは女性に対する称号であり、後世に男尊女卑の漢民族によって男性に変換されたと思われる。
女神信仰
箕子朝鮮の章でも述べたが、遼河上流域は太古からツングース語系諸族が暮らしていたと思われるが、遼寧省朝陽市の周辺では、紅山文化(紀元前3500年前後)の遺跡から様々な器物が発掘されている。牛河梁遺跡から「碧眼の女神像」、東山嘴遺跡から「土製の裸体妊婦像」が発見されており、女性の生殖機能に対する原始信仰があったと推察できる。
現在もツングース系のエベンキ族や満州族には女神神話が残っており、また、湖南省西南部に暮らす侗族(トン族)は「百越」と呼ばれた古代越人の末裔とされるが、侗族の最高神は女神であり、「苗蛮」「百苗」と呼ばれた古代苗族の諸族にも女神神話が残っている。
このように、古代中国では「女神信仰」が先に興り、次に「夫婦神」、そして比較的新しい時代に「男性神」が登場してくるのである。
東夷、三苗、華夏
東夷、三苗、華夏は中国古代の三大民族集団とされる。
東夷は太陽神を崇拝する民族で、族神とされる大昊・太r(こう)、少昊氏の意味するところは太陽だが、蚩尤(しゆう)が華夏の黄帝(こうてい)に敗れたことで、太陽神としての炎帝の称号は華夏に奪取され、顓頊(せんぎょく)高陽氏も太陽神だとされた。
三苗は女神を信奉する民族で、女媧(じょか)と伏羲(ふつぎ)は三苗の兄妹・夫婦神だが、これも華夏の神話として吸収されたようだ。従って、元来の華夏には確たる信奉対象をもたなかったが、中原の覇者となった華夏としては自身の民族神話が必要となり、駆逐した民族の神話を取り込んだものと推察される。だが、父系社会を築いた華夏では、女神を男神に改竄する必要があり、象徴的な男性神であった太陽神も取り込んだものと推察する。
三苗の神話を都合よく改竄する過程において、帝も女性神から男性神の称号へと改造したのだろう。ただ。金甲文字の変更までは手が回らなかったものと考える。
陰陽五行説の影響
三皇五帝の物語には陰陽五行説の思想が濃厚に反映されているが、これは戦国時代末期頃、鄒衍(すうえん)が五行の相剋関係によって易姓革命(統治者の王姓が代る)が生じるとする革命論『終始五徳論』を著した影響が大きいと思われる。
歴代王朝は各々が五行の徳のいずれかを持つとされ、王は禅譲による交代を王道とするが、その王の徳が衰退すると、相剋関係にある勢力によって暴力革命が生じるというのが鄒衍の説である。中国の歴史小説で頻繁に王の徳が語られるのはここに起因する。
■「史記五帝本紀
太史公依世本、大戴禮、以黄帝、顓頊、帝嚳、唐堯、虞舜為五帝。譙周、應劭、宋均皆同。而孔安國尚書序、皇甫謐帝王世紀、孫氏注世本、並以伏犧、神農、黃帝為三皇、少昊、顓頊、高辛、唐、虞為五帝。
太史公(司馬遷)の世本や大戴禮(著書名)によれば、黄帝、顓頊、帝嚳、唐堯(帝堯)、虞舜(帝舜)を五帝とする。譙周、應劭、宋均なども皆、同じ(意見)である。だが、孔安國(孔子十一世孫)の尚書序、皇甫謐(後漢の著名な学者)の帝王世紀、孫氏の注世本などは、伏犧、神農、黄帝を三皇。少昊、顓頊、高辛(帝嚳)、唐(帝堯)、虞(帝舜)を五帝としている。
どうやら三皇五帝の該当者には当初から諸説があったようだ。戦国時代末に五帝、その後に三皇が誕生したとの説もあり、神話の成立期は定かではない。三皇には上記の三人以外にも、燧人・女媧・共工・祝融などを含くめる諸説がある。 
蓋天説と渾天説の話
中国では、古くは「天円地方説」という、正方形の大地の上を丸い(おそらく半球形の)天が覆っている、という考え方が普通であったが、漢の時代(ほぼ紀元前2世紀から紀元後2世紀まで)には、天円地方説を受け継ぐ「蓋天説」(図1参照)のほかに、天は球形であるとする「渾天説」(図2参照)と、宇宙は無限であるとする「宣夜説」(残念ながらあまり発展せず衰退してしまった)という三種の宇宙論が並立した1)。
蓋天説は、前漢時代頃には主流であったと思われ、図1のように天地が上下に分かれ、それぞれ平らで平行であると考えるものである。太陽は、季節によって半径が変化する同心円上を毎日回転している。(なお、天地の中央部がそれぞれ盛り上がっているとする「第二次蓋天説」というのもあるが、ここでは省略する。)この蓋天説の内容については、『周髀算経』(成立年代不詳)に述べられている2)。
『周髀算経』では、夏至の日の正午に、高さ8尺の髀(ノーモン、水平な地面に垂直に立てた棒、図3(b)のHGやLK)の影の長さは1尺6寸(=1.6尺)であったが、そこから南へ千里のところでは影は1尺5寸であり、北へ千里のところでは影は1尺7寸であった、という観測結果から、南方に千里を行くごとに影が1寸ずつ短くなり、ついに南へ1万6千里を行ったところ(T)で影がなくなり、その真上に太陽(S)があるとしている(1里は1800尺)。そして、そこ(T)から北へ1万6千里のところで、8尺の髀の影が1尺6寸であることから、相似三角形の比例関係(例えば△STMと△KLM)によって、太陽の高さ(TS)は8万里であるとした。これは、図3(b)のように大地が平らであるなら、幾何学的には成り立つ。
なお、中国では度量衡は時代による変遷があるが、普通は漢の時代には1里は400mあまりとされている。しかし、実際には千里(400kmあまり)を南北に移動すると、影の長さの変化はもっと大きくなるので、上記のデータは現実には合わない。上記のデータで想定されている度量衡が違うものだったのかどうかはわからないが、以下では定性的な議論に止めたい。さて、南北に離れて同時に影を測定したら長さが違うのは、本当は図3(a)のように地球が丸いからであって、古代ギリシャのエラトステネース(紀元前3世紀後半頃)は、このことから地球の大きさを推定したのであった。しかし、大地が平面であるという前提に立てば、図3(b)のようになるわけである。ここで、もし数値が正確であったら、図3(b)の天の高さはどの程度になるはずかを考えてみるのも興味深い。図3で、(a)のEBと(b)のLHは、同位置であるとする。そうすると、(a)で∠ETBはEとBの緯度差に等しいが、これはEとBでの太陽の天頂距離の差(∠BAC−∠EDF)に等しい。同様に、(b)でも∠MSJ=∠HGJ−∠LKMである。
つまり、(a)の∠ETBと(b)の∠MSJは等しいのである。したがって、(a)のEBと(b)のLHの距離は等しいから、(b)での太陽までの距離(MSやJS)は、地球の半径よりも(夏至の場合には北回帰線付近以外では)斜めに見ている分だけ少し短めの値になり、これよりも天の高さ(TS)はさらに少し短めになるから、結局、蓋天説での天の高さは地球の半径よりも少し短めの値に相当する、ということになる。この話は、科学史そのものではないが、科学史教育などでの余談として使えるであろう。蓋天説は、現在から見ると間違っているが、観測事実と数学によって宇宙の構造を解明しようとしたのは、やはり貴重な試みであったと言うべきである。
さて、図1のような蓋天説では、昼夜が生ずる原因は、太陽の光が一定範囲にしか届かないとして説明するのであるが、明らかに日出・日没の実際の様子と相違するので、結局、後漢ころからは図2のような渾天説が主流となった。これは、天は球形であるとするもので、現代天文学での天球の概念と同様に、経度・緯度に相当する球面座標を設定することができる。これが、後漢からの中国天文学の発展に大きな役割を果たすことになる。渾天説についての最も重要な文献は、後漢の張衡(AD 78~139)の『渾天儀』である3)。
張衡の『渾天儀』には、天の一周は365度と4分の1であること、天の北極は地平線の真北から36度の高度のところにあることなどが書かれている(以下に述べるように、上記の「度」は中国独特の「度」である)。
さて、張衡は、南陽(北緯33°.0)で生まれ、長安(北緯34°.3)や洛陽(北緯34°.7)などに行ったことがあり、特に当時の後漢の首都であった洛陽で活躍したことが知られている。
さて、最初に注意しなければならないのは、古代中国では太陽が天球上を一日に一度動くとしていたので、全周は約365¼度であり、これを現在の角度(全周は360°)に換算するには、360÷365¼をかけなければならない、ということである。そうすると、『渾天儀』での天の北極の高度は、35°.5ということになる。天の北極の高度が観測地の北緯に等しいことは明らかであるから、張衡は北緯35°.5のところのデータに基づいたのか、というと、話はそう簡単にはいかない。原文では「度」の単位で書かれているのだから、±½度くらいの誤差はあると見るべきである。そうすると、北緯35~36°ということになるが、これは洛陽などより、やや北、ということになる。張衡の出身地である南陽でのデータによるという可能性はほとんどないが、それでは、当時の首都であった洛陽よりもわざわざ北に旅行して観測したのか、というと、そうする必然性がない。ここはやはり、洛陽あたりの近辺での観測によったものであるが、観測誤差によって若干過大な数値になった、と考えるのが妥当なのではないだろうか。
科学史において、数値をやみくもに解釈すればよいとも限らない。場合によっては、どのくらいの誤差があるかを検討するのも、難しいけれども重要である。上記のような事例によって、科学史教育において、誤差の見積もりの重要性を認識するきっかけになればと思う。実社会においても、数値の精密度と誤差との関係をどう考えるか、ということは重要であろう。 
注と参考文献
1) 古代中国の宇宙論については、『晋書』の「天文志」にひととおり書かれている。その日本語訳は、全訳(山田・坂出・藪内訳)が藪内清編『中国の科学』(世界の名著・続1)(中央公論社、1975)に、宇宙論関係の部分の抄訳(橋本訳)が藪内清編『中国天文学・数学集』(科学の名著・2)(朝日出版社、1980)に収録されている。なお、古代中国の宇宙論の研究書としては、能田忠亮『東洋天文学史論叢』(恒星社、1943)が良い。
2) 『周髀算経』の日本語訳(橋本訳)は、注(1)に示した藪内(1980)に収録されている。なお、蓋天説の別の側面については大橋由紀夫「『淮南子・天文訓』における宇宙の測量」、『数学史研究』通巻144号、1995、pp.35-55参照。
3) 『渾天儀』の日本語訳(橋本訳)は、注(1)に示した藪内(1980)に収録されている。なお、渾天説による天文学の発展の一例として、大橋由紀夫「賈逵の月行遅疾論」、『数学史研究』通巻136号、1993、29-41;さらに、同「中国における日月食予測法の成立過程」、『一橋論叢』1 2 2 ( 2 )(通巻706号)、1999、179-198参照。  
朝鮮の開闢神話
遠い昔、天と地は互いに混じり合っていたが、やがて天と地が離れると、天からは青い露が降り、地からは黒い霧が湧き出し、その露と霧が合水して万物が生じた。巨大な天皇鶏が頭をもたげ、地皇鶏が翼を広げ、人皇鶏が尾を振って、朝を告げるような鳴き声をあげると、闇は払われ、天地開闢となった。
この神話では、鶏子(とりこ)が登場せず、三皇の名を冠した鶏が登場する。従って、南方系の卵生神話ではないが、この開闢神話は、その類似性から考えて、中国から朝鮮半島に道教が伝わってからの創作だと考えられる。また、三皇の名を冠した鶏が登場することから、鳥をトーテムとする高句麗の影響ではないかと推察する。おそらく南北朝時代に、南朝と通交していた高句麗の朝貢使が宋から持ち帰ったのだろう。 
 
空海の宇宙生成観と老荘思想

 

浅学を省みず、道家思想が空海の宇宙生成観に与えた影響を村上[4]にそって検討した後、空海の宇宙生成観について述べる1)。
村上保寿先生は村上[4]第三節「空海における道家思想の影響」において空海の宇宙観、特に天地開闢観が道家思想に直接影響されていること指摘された。その典拠としてあげられるのは、(1)「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」及び(2)「大和州益田池碑銘并序」(いずれも『性霊集』巻二所収)のそれぞれにおける偈頌である。就中、(2)における偈頌、すなわち「希夷象帝 h一未萌/盤古不出 國常無生/元気倏動 葦芽乍驚/八風扇鼓 五才縦横。其一」2)が重要視される。
この頌は『老子』第二十五章3)に端を発し、『淮南子』「俶真訓第二」4)で完成された天地開闢説(と日本神話5)との習合)である。ちなみに、頌中の「希夷」「象帝」「元気」「八風」等の語句はそれぞれ『老子』第十四章、第四章、第二十一章、『淮南子』「地形訓」等にある6)。
ところで村上[4]は、このような道家思想に基づいた空海の記述に、『倶舎論』巻十一「分別世品第三之四」7)に基づいた次の空海の記述(いずれも『十住心論』巻第一にある)を対置させる。
「大虚無邊際風量等三千/水輪厚八億金地廣同前/火大在何處遍滿四輪邊/五輪因何出衆生業使然。」「如是山海從何而生。是諸有情業増上力。復大雲起雨金輪上滴如車軸。積水奔涛即爲山等」
「天地もまだ分かれない茫漠たる無形の世界」(金谷[2]p.156)から生じた精気(「元気」)が天地開闢をもたらしたとする「老荘の世界創世論・宇宙生成論」([4]p.59)と異なって、この「仏教の世界創世論・宇宙生成論」(同)は、天地開闢には「衆生業」または「諸有情業増上力」が必要であると考える。ともかく、村上[4]は、このように天地開闢以前の有情を考えることは論理矛盾であることや、8)『十住心論』が仏教概論的性格を持っている(したがって、自説とは違う説をも反証無く掲載している)こと等の理由で、空海の天地開闢説は「老荘の世界創世論・宇宙生成論」であると結論する。しかし、果たしてそうであろうか。
私見によれば、空海の宇宙観は、上述の『倶舎論』や『老子』からの借用によって得られたものではなく、通大乗から受け継がれた所謂「阿字本不生」を真言密教の立場から解釈した独自の概念によっているはずである。例えば、『吽字義』の次の文がある。
「當知阿字門眞實義亦復如是。遍於一切法義之中也。所以者何。以一切法無不從衆縁生。從縁生者悉皆有始有本。今觀此能生之縁。亦復從衆因縁生。展轉從縁誰爲其本。如是觀察時則知本不生際。是萬法之本。」
端的に言えば、「宇宙は、もともと生成したのではないし、また消滅するものでもない。それは唯そこに存在しているだけである。」という絶対原理(「萬法之本」)が空海の宇宙観である。したがって、少なくとも天地開闢説に関する限り、『老子』の依用は「あくまでも教養的知識次元でのレトリックや用語であると捉え」([4]p.59)ざるをえない。
現在、理論物理学者の間で、古典的な「ビッグバン・ビッグクランチ説」に対して、「無始・無終説」とも呼ぶべき仮説が、「実時間」と「虚時間」という概念を用いて、真剣に議論されていることはきわめて興味深い9)。
[参考文献]
[1]Hawking S.W.、 A Brief History of Time、 1988(林一(訳)『ホーキング宇宙を語る』、早川書房)
[2]金谷治『淮南子の思想』講談社、1992
[3]静慈円『空海密教の源流と展開』大蔵出版、1994
[4]村上保寿「空海と道家思想」『高野山大学論文集』、1996
[5]金谷治他(訳)『老子・荘子・列子・孫子・呉子』中国古典文学大系4、平凡社、1073
[6]戸川芳郎他(訳)『淮南子・説苑(抄)』中国古典文学大系6、平凡社、1974
[7]直木孝次郎他(編)『日本書紀・風土記』鑑賞日本古典文学2、角川書店、1984
[8]中村元他(編)『岩波仏教辞典』2002
[付注]
1)道家と空海の著作及び思想との関係については静[3]第一編第二章、第三章、余録第一章に詳細な研究があるが、直接、宇宙開闢説には触れられていない。
2)以下、空海に関しては出所の詳細を省略する。
3)[5]p.14
4)[6]p.15
5)[7]p.21
6)それぞれ[5]p.9、p.5、p.12、及び[6]p.51
7)大正蔵vol.29、 no.1558、0057a15(06)-a26(06)
8)しかし通説では、『倶舎論』の散文部分は、世親が「説一切有部」の行き過ぎを訂正する「経量部」の立場から書いたものであり、前者が「三世実有説」を取るのに対し、後者が「現在有体・過去無体説」をとることから、あながち「論理矛盾」と言い切れないかもしれない。[8]p.223、p.250、p.601、p.603参照
9)「だがもし、宇宙が本当に自己完結的であり、境界や縁(ふち)をもたないとすれば、はじまりも終わりもないことになる。宇宙は単に存在するのである。だとすると、創造主の出番はどこにあるのだろう?」([1]p.188)
 
日本書紀

 

巻第一 神代上 
《第一段本文》古天地未剖。陰陽不分。渾沌如鶏子。溟A而含牙。及其清陽者薄靡而為天。重濁者淹滞而為地。精妙之合搏易。重濁之凝場難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。
故曰。開闢之初。洲壞浮漂。譬猶游魚之浮水上也。于時天地之中生一物。状如葦牙。便化為神。号国常立尊。〈至貴曰尊。自余曰命。並訓美挙等也。下皆倣此。〉次国狭槌尊。次豊斟渟尊。凡三神矣。乾道独化。所以成此純男。
《第一段一書第一》一書曰。天地初判。一物在於虚中。状貌難言。其中自有化生之神。号国常立尊。亦曰国底立尊。次国狭槌尊。亦曰国狭立尊。次豊国主尊。亦曰豊組野尊。亦曰豊香節野尊。亦曰浮経野豊買尊。亦曰豊国野尊。亦曰豊齧野尊。亦曰葉木国野尊。亦曰見野尊。
《第一段一書第二》一書曰。古国稚地稚之時。譬猶浮膏而漂蕩。于時国中生物。状如葦牙之抽出也。因此有化生之神。号可美葦牙彦舅尊。次国常立尊。次国狭槌尊。葉木国。此云播挙矩爾。可美。此云于麻時。
《第一段一書第三》一書曰。天地混成之時。始有神人焉。号可美葦牙彦舅尊。次国底立尊。彦舅。此云比古尼。
《第一段一書第四》一書曰。天地初判。始有倶生之神。号国常立尊。次国狭槌尊。又曰。高天原所生神名。曰天御中主尊。次高皇産霊尊。次神皇産霊尊。皇産霊。此云美武須毘。
《第一段一書第五》一書曰。天地未生之時。譬猶海上浮雪無所根係。其中生一物。如葦牙之初生泥中也。便化為人。号国常立尊。
《第一段一書第六》一書曰。天地初判。有物。若葦牙。生於空中。因此化神号天常立尊。次可美葦牙彦舅尊。又有物。若浮膏生於空中。因此化神号国常立尊。 
昔、天と地が分れず、陰の気と陽の気も分れず、混沌として未分化のさまはあたかも鶏の卵のようであり、ほの暗く見分けにくいけれども物事が生れようとする兆候を含んでいた。その澄んで明るい気が薄くたなびいて天となり、重く濁った気が停滞し地となるその時、清く明るい気はまるく集るのがたやすいが、重く濁った気は凝り固まるのが困難である。そのために、天がまずできあがり、地は遅れて定まるところとなった。かくして後に、神がその中に生れた。
それで次のようにいわれる。天地が開けた始めに、国土が浮き漂っていることは、たとえていえば、泳ぐ魚が水の上の方に浮いているようなものであった。そんなとき天地の中に、ある物が生じた。形は葦の芽のようだったが、間もなくそれが神となった。国常立尊と申しあげる。――大変貴いお方は「尊」といい、それ以外のお方は「命」といい、ともにミコトと訓む。以下すべてこれに従う――次に国狭槌尊、次に豊甚亭尊と、全部で三柱の神がおいでになる。この三柱の神は陽気だけをうけて、ひとりでに生じられた。だから純粋な男性神であった、と。 
《第二段本文》次有神。泥土煮尊。〈泥土。此云于毘尼。〉・沙土煮尊。〈沙土。此云須毘尼。亦曰。泥土根尊。沙土根尊。〉次有神。大戸之道尊。〈一云、大戸之辺。〉・大苫辺尊。〈亦曰大戸摩彦尊。大戸摩姫尊。亦曰大富道尊。大富辺尊。〉次有神。面足尊。惶根尊。〈亦曰吾屋惶根尊。亦曰忌橿城尊。亦曰青橿城根尊。亦曰吾屋橿城尊。〉次有神。伊弉諾尊。伊弉冊尊。
《第二段一書第一》一書曰。此二神。青橿城根尊之子也。
《第二段一書第二》一書曰。国常立尊。生天鏡尊。天鏡尊生天万尊。天万尊生沫蕩尊。沫蕩尊生伊弉諾尊。沫蕩。此云阿和那伎。 
《第三段本文》凡八神矣。乾坤之道、相参而化。所以成此男女。自国常立尊。迄伊弉諾尊。伊弉冊尊。是謂神世七代者矣。
《第三段一書第一》一書曰。男女〓生之神。先有泥土煮尊。沙土煮尊。次有角〓尊。活〓尊。次有面足尊。惶根尊。次有伊弉諾尊。伊弉冊尊。〓〓也。 
《第四段本文》伊弉諾尊。伊弉冊尊。立於天浮橋之上、共計曰。底下豈無国歟。廼以天之瓊〈瓊。玉也。此曰努。〉矛、指下而探之。是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮。凝成一嶋。名之曰〓馭慮嶋。二神於是降居彼嶋。因欲共為夫婦、産生洲国。便以〓馭慮嶋為国中之柱。〈柱。此云美簸旨邏。〉而陽神左旋。陰神右旋。分巡国柱、同会一面。時陰神先唱曰。憙哉。遇可美少男焉。〈少男。此云烏等孤。〉陽神不悦。曰。吾是男子。理当先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥。宜以改旋。於是二神却更相遇。是行也陽神先唱曰。憙哉。遇可美少女。焉〈少女。此云烏等〓[口+羊]。〉因問陰神曰。汝身有何成耶。対曰。吾身有一雌元之処。陽神曰。吾身亦有雄元之処。思欲以吾身元処、合汝身之元処。於是陰陽始遘合為夫婦。
及至産時。先以淡路洲為胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本〈日本。此云耶麻騰。下皆效此。〉豊秋津洲。次生伊予二名洲。次生筑紫洲。次双生億岐洲与佐度洲。世人或有双生者、象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由是始起大八洲国之号焉。即対馬嶋。壱岐嶋。及処処小嶋。皆是潮沫凝成者矣。亦曰水沫凝而成也。
《第四段一書第一》一書曰。天神謂伊弉諾尊。伊弉冊尊曰。有豊葦原千五百秋瑞穂之地。宜汝往脩之。廼賜天瓊戈。於是二神立於天上浮橋投戈求地。因画滄海而引挙之。即戈鋒垂落之潮結而為嶋。名曰〓馭慮嶋。二神降居彼嶋。化作八尋之殿。又化竪天柱。陽神問陰神曰。汝身有何成耶。対曰。吾身具成而、有称陰元者一処。陽神曰。吾身亦具成而、有称陽元者一処。思欲以吾身陽元、合汝身之陰元。云爾。即将巡天柱。約束曰。妹自左巡。吾当右巡。既而分巡相遇。陰神乃先唱曰。妍哉。可愛少男歟。陽神後和之曰。妍哉。可愛少女歟。遂為夫婦先生蛭児。便載葦船而流之。次生淡洲。此亦不以充児数。故還復上詣於天。具奏其状。時天神以太占而卜合之。乃教曰。婦人之辞、其已先揚乎。宜更還去。乃卜定時日而降之。故二神改復巡柱。陽神自左。陰神自右。既遇之時。陽神先唱曰。妍哉。可愛少女歟。陰神後和之曰。妍哉。可愛少男歟。然後同宮共住而生児。号大日本豊秋津洲。次淡路洲。次伊予二名洲。次筑紫洲。次億岐三子洲。次佐度洲。次越洲。次吉備子洲。由此謂之大八洲国矣。瑞。此云 弥図。妍哉。此云阿那而恵夜。可愛。此云哀。太占。此云布刀磨爾。
《第四段一書第二》一書曰。伊弉諾尊。伊弉冊尊二神、立于天霧之中曰。吾欲得国。乃以天瓊矛、指垂而探之得〓馭慮嶋。則抜矛而喜之曰。善乎、国之在矣。
《第四段一書第三》一書曰。伊弉諾・伊弉冊二神、坐于高天原曰。当有国耶。乃以天瓊矛、画成〓馭慮嶋。
《第四段一書第四》一書曰。伊弉諾・伊弉冊二神、相謂曰。有物若浮膏。其中蓋有国乎。乃以天瓊矛探成一嶋。名曰〓馭慮嶋。
《第四段一書第五》一書曰。陰神先唱曰。美哉。善少男。時以陰神先言故、為不祥。更復改巡。則陽神先唱曰。美哉。善少女。遂将合交、而不知其術。時有鶺鴒飛来揺其首尾。二神見而学之。即得交道。
《第四段一書第六》一書曰。二神合為夫婦。先以淡路洲。淡洲為胞。生大日本豊秋津洲。次伊予洲。次筑紫洲。次双生億岐洲与佐度洲。次越洲。次大洲。次子洲。
《第四段一書第七》一書曰。先生淡路洲。次大日本豊秋津洲。次伊予二名洲。次億岐洲。次佐度洲。次筑紫洲。次壱岐洲。次対馬洲。
《第四段一書第八》一書曰。以〓馭慮嶋為胞。生淡路洲。次大日本豊秋津洲。次伊予二名洲。次筑紫洲。次吉備子洲。次双生億岐洲与佐度洲。次越洲。
《第四段一書第九》一書曰。以淡路洲為胞。生大日本豊秋津洲。次淡洲。次伊予二名洲。次億岐三子洲。次佐度洲。次筑紫洲。次吉備子洲。次大洲。
《第四段一書第十》一書曰。陰神先唱曰。妍哉。可愛少男乎。便握陽神之手、遂為夫婦、生淡路洲。次蛭児。 
《第五段本文》次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。既而伊弉諾尊。伊弉冊尊共議曰。吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。於是共生日神。号大日〓貴。〈大日〓貴。此云於保比屡〓[口+羊]能武智。〓音力丁反。一書云。天照大神。一書云。天照大日〓尊。〉此子光華明彩。照徹於六合之内。故二神喜曰。吾息雖多。未有若此霊異之児。不宜久留此国。自当早送于天、而授以天上之事。是時天地相去未遠。故以天柱、挙於天上也。次生月神。〈一書云。月弓尊。月夜見尊。月読尊。〉其光彩亞日。可以配日而治。故亦送之于天。次生蛭児。雖已三歳脚猶不立。故載之於天磐〓[木+豫]樟船、而順風放棄。次生素戔鳴尊。〈一書云。神素戔鳴尊。速素戔鳴尊。〉此神有勇悍以安忍。且常以哭泣為行。故令国内人民。多以夭折。復使青山変枯。故其父母二神勅素戔鳴尊。汝甚無道。不可以君臨宇宙。固当遠適之於根国矣。遂逐之。
《第五段一書第一》一書曰。伊弉諾尊曰。吾欲生御宙之珍子。乃以左手持白銅鏡。則有化出之神。是謂大日〓尊。右手持白銅鏡。則有化出之神。是謂月弓尊。又廻首顧眄之間。則有化神。是謂素戔鳴尊。即大日〓尊及月弓尊、並。是質性明麗。故使照臨天地。素戔鳴尊是性好残害。故令下治根国。珍。此云于図。顧眄之間。此云美屡摩沙可利爾。
《第五段一書第二》一書曰。日月既生。次生蛭児。此児年満三歳、脚尚不立。初伊弉諾・伊弉冊尊、巡柱之時。陰神先発喜言。既違陰陽之理。所以今生蛭児。次生素戔鳴尊。此神性悪。常好哭恚。国民多死。青山為枯。故其父母勅曰。仮使汝治此国。必多所残傷。故汝可以馭極遠之根国。次生鳥磐〓[木+豫]樟橡船。輙以此船載蛭児、順流放棄。次生火神軻遇突智。時伊弉冊尊、為軻遇突智、所焦而終矣。其且終之間。臥生土神埴山姫及水神罔象女。即軻遇突智娶埴山姫、生稚産霊。此神頭上生蚕与桑。臍中生五穀。罔象。此云美都波。
《第五段一書第三》一書曰。伊弉冊尊生火産霊時。為子所焦而神退矣。亦云神避矣。其且神退之時。則生水神罔象女及土神埴山姫。又生天吉葛。天吉葛。此云阿摩能与佐図羅。一云、与曾豆羅。
《第五段一書第四》一書曰。伊弉冊尊且生火神軻遇突智之時。悶熱懊悩。因為吐。此化為神。名曰金山彦。次小便。化為神。名曰罔象女。次大便。化為神。名曰埴山媛。
《第五段一書第五》一書曰。伊弉冊尊生火神時。被灼而神退去矣。故葬於紀伊国熊野之有馬村焉。土俗祭此神之魂者。花時亦以花祭。又用鼓・吹・幡旗、歌舞而祭矣。
《第五段一書第六》一書曰。伊弉諾尊与伊弉冊尊。共生大八洲国。然後伊弉諾尊曰。我所生之国、唯有朝霧、而薫満之哉。乃吹撥之気化為神。号曰級長戸辺命。亦曰級長津彦命。是風神也。又飢時生児、号倉稲魂命。又生海神等。号少童命。山神等号山祇。水門神等号速秋津日命。木神等号句句廼馳。土神号埴安神。然後悉生万物焉。至於火神軻遇突智之生也。其母伊弉冊尊、見焦而化去。于時伊弉諾尊恨之曰。唯以一児、替我愛之妹者乎。則匍匍頭辺、匍匐脚辺、而哭泣流涕焉。其涙堕而為神。是即畝丘樹下所居之神。号啼沢女命矣。遂抜所帯十握剣、斬軻遇突智為三段。此各化成神也。復剣刃垂血。是為天安河辺所在五百箇磐石也。即此経津主神之祖矣。復剣鐔垂血、激越為神。号曰甕速日神。次〓[火+嘆の旁]速日神。其甕速日神是武甕槌神之祖也。亦曰甕速日命。次〓[火+嘆の旁]速日命。次武甕槌神。復剣鋒垂血、激越為神。号曰磐裂神。次根裂神。次磐筒男命。一云、磐筒男命及磐筒女命。復剣頭垂血、激越為神。号曰闇〓。次闇山祇。次闇罔象。
然後、伊弉諾尊追伊弉冊尊入於黄泉、而及之共語時。伊弉冊尊曰。吾夫君尊、何来之晩也。吾已〓[冫+食]泉之竈矣。雖然、吾当寝息。請勿視之。伊弉諾尊不聴、陰取湯津爪櫛、牽折其雄柱、以為秉炬、而見之者、則膿沸虫流。今世人夜忌一片之火、又夜忌擲櫛、此其縁也。時伊弉諾尊、大驚之曰。吾不意到於不須也凶目汚穢之国矣。乃急走廻帰。于時、伊弉冊尊恨曰。何不用要言。令吾恥辱。乃遣泉津醜女八人。〈一云、泉津日狭女。〉追留之。故伊弉諾尊、抜剣背揮以逃矣。因投黒鬘。此即化成蒲陶。醜女見而採〓[口+敢]之。〓[口+敢]了則更追。伊弉諾尊、又投湯津爪櫛。此即化成筍。醜女亦以抜〓[口+敢]之。〓[口+敢]了則更追。後則伊弉冊尊、亦自来追。是時、伊弉諾尊、已到泉津平坂。一云。伊弉諾尊乃向大樹放〓[尿+毛]。此即化成巨川。泉津日狭女、将渡其水之間。伊弉諾尊、已至泉津平坂。故便以千人所引磐石、塞其坂路。与伊弉冊尊相向而立、遂建絶妻之誓。
時伊弉冊尊曰。愛也吾夫君、言如此者。吾当縊殺汝所治国民、日将千頭。伊弉諾尊、乃報之曰。愛也吾妹、言如此者。吾則当産日将千五百頭。因曰。自此莫過。即投其杖。是謂岐神也。又投其帯。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。是謂開齧神。又投其履。是謂道敷神。其於泉津平坂。或所謂泉津平坂者。不復別有処所。但臨死気絶之際、是之謂歟。所塞磐石、是謂泉門塞之大神也。亦名道返大神矣。
伊弉諾尊既還。乃追悔之曰。吾前到於不須也凶目汚穢之処。故当滌去吾身之濁穢。則往至筑紫日向小戸橘之檍原。而秡除焉。遂将盪滌身之所汚。乃興言曰。上瀬是太疾。下瀬是太弱。便濯之於中瀬也。因以生神、号曰八十枉津日神。次将矯其枉而生神、号曰神直日神。次大直日神。又沈濯於海底。因以生神、号曰底津少童命。次底筒男命。又潜濯於潮中。因以生神、号曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、号曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命。中筒男命。表筒男命。是即住吉大神矣。底津少童命。中津少童命。表津少童命。是阿曇連等所祭神矣。
然後洗左眼。因以生神、号曰天照大神。復洗右眼。因以生神、号曰月読尊。復洗鼻。因以生神、号曰素戔鳴尊。凡三神矣。已而伊弉諾尊勅任三子曰。天照大神者可以治高天原也。月読尊者可以治滄海原潮之八百重也。素戔鳴尊者可以治天下也。是時素戔鳴尊年已長矣。復生八握鬚髯。雖然不治天下。常以啼泣恚恨。故伊弉諾尊問之曰。汝何故恒啼如此耶。対曰。吾欲従母於根国。只為泣耳。伊弉諾尊悪之曰。可以任情行矣。乃逐之。
《第五段一書第七》一書曰。伊弉諾尊。抜剣斬軻遇突智、為三段。其一段是為雷神。一段是為大山祇神。一段是為高〓。又曰。斬軻遇突智時。其血激越、染於天八十河中所在五百箇磐石。而因化成神。号曰磐裂神。次根裂神。児磐筒男神。次磐筒女神。児経津主神。倉稲魂。此云宇介能美〓[手偏+它]磨。少童。此云和多都美。頭辺。此云摩苦羅陛。脚辺。此云阿度陛。〓[火+嘆の旁]火也。音而善反。〓。此云於箇美。音力丁反。吾夫君。此云阿我儺勢。〓[冫+食]泉之竈。此云誉母都俳遇比。秉炬。此云多妣。不須也凶目汚穢。此云伊儺之居梅枳枳多儺枳。醜女。此云志許売。背揮。此云志理幣提爾布倶。泉津平坂。此云余母都比羅佐可。〓[尿+毛]。此云愈磨理。音乃弔反。絶妻之誓。此云許等度。岐神。此云布那斗能加微。檍。此云阿波岐。
《第五段一書第八》一書曰。伊弉諾尊斬軻遇突智命、為五段。此各化成五山祇。一則首、化為大山祇。二則身中、化為中山祇。三則手、化為麓山祇。四則腰、化為正勝山祇。五則足、化為〓山祇。是時斬血激灑、染於石礫樹草。此草木・沙石自含火之縁也。麓、山足曰麓。此云簸耶磨。正勝、此云麻沙柯菟。一云麻左柯豆。〓、此云之伎。音鳥含反。
《第五段一書第九》一書曰。伊弉諾尊欲見其妹。乃到殯斂之処。是時伊弉冊尊猶如生平出迎共語。已而謂伊弉諾尊曰。吾夫君尊。請勿視吾矣。言訖忽然不見。于時闇也。伊弉諾尊乃挙一片之火而視之。時伊弉冊尊脹満太高。上有八色雷公。伊弉諾尊驚而走還。是時雷等皆起追来。時道辺有大桃樹。故伊弉諾尊隠其樹下。因採其実以擲雷者。雷等皆退走矣。此用桃避鬼之縁也。時伊弉諾尊乃投其杖曰。自此以還、雷不敢来。是謂岐神。此本号曰来名戸之祖神焉。所謂八雷者。在首曰大雷。在胸曰火雷。在腹曰土雷。在背曰稚雷。在尻曰黒雷。在手曰山雷。在足上曰野雷。在陰上曰裂雷。
《第五段一書第十》一書曰。伊弉諾尊追至伊弉冊尊所在処。便語之曰。悲汝故来。答曰。族也勿看吾矣。伊装諾尊不従。猶看之。故伊弉冊尊恥恨之曰。汝已見我情。我復見汝情。時伊弉諾尊亦慙焉。因将出返。于時不直默帰、而盟之曰。族離。又曰。不負於族。乃所唾之神、号曰速玉之男。次掃之神、号泉津事解之男。凡二神矣。及其与妹相闘於泉平坂也。伊弉諾尊曰。始為族悲及思哀者。是吾之怯矣。時泉守道者白云。有言矣。曰。吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国。不可共去。是時、菊理媛神亦有白事。伊弉諾尊聞而善之。乃散去矣。但親見泉国。此既不祥。故欲濯除其穢悪。乃往見粟門及速吸名門。然此二門、潮既太急。故還向於橘之小門。而払濯也。于時入水吹生磐土命。出水吹生大直日神。又入吹生底土命。出吹生大綾津日神。又入吹生赤土命。出吹生大地海原之諸神矣。不負於族。此云宇我邏磨〓[禾+既]茸。
《第五段一書第十一》一書曰。伊弉諾尊勅任三子曰。天照大神者、可以御高天之原也。月夜見尊者可以配日而知天事也。素戔鳴尊者可以御滄海之原也。既而天照大神在於天上曰。聞葦原中国有保食神。宜爾月夜見尊、就候之。月夜見尊受勅而降。已到于保食神許。保食神乃廻首、嚮国。則自口出飯。又嚮海則鰭広・鰭狭亦自口出。又嚮山。則毛麁毛柔亦自口出。夫品物悉備。貯之百机而饗之。是時月夜見尊忿然作色曰。穢哉。鄙矣。寧可以口吐之物、敢養我乎。廼抜剣撃殺。然後復命。具言其事。時天照大神怒甚之曰。汝是悪神。不須相見。乃与月夜見尊、一日一夜隔離而住。是後天照大神、復遣天熊人往看之。是時、保食神実已死矣。唯有其神之頂、化為牛馬。顱上生粟。眉上生繭。眼中生稗。腹中生稲。陰生麦及大豆・小豆。天熊人悉取持去而奉進之。于時天照大神喜之曰。是物者則顕見蒼生可食而活之也。乃以粟・稗・麦・豆為陸田種子。以稲為水田種子。又因定天邑君。即以其稲種、始殖于天狭田及長田。其秋垂穎八握莫莫然。甚快也。又口裏含繭。便得抽糸。自此始有養蚕之道焉。保食神。此云宇気母知能加微。顕見蒼生。此云宇都志枳阿鳥比等久佐。 
《第六段本文》於是。素戔鳴尊請曰。吾今奉教将就根国。故欲暫向高天原、与姉相見、而後永退矣。勅許之。乃昇詣之於天也。是後伊弉諾尊神功既畢。霊運当遷。是以構幽宮於淡路之洲。寂然長隠者矣。亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。〈少宮。此云倭柯美野。〉始素戔鳴尊昇天之時。溟渤以之鼓盪。山岳為之鳴〓[口+句]。此則神性雄健使之然也。天照大神素知其神暴悪至聞来詣之状。乃勃然而驚曰。吾弟之来、豈以善意乎。謂当有奪国之志歟。夫父母既任諸子、各有其境。如何棄置当就之国。而敢窺〓此処乎。乃結髪為髻。縛裳為袴。便以八坂瓊之五百箇御統、〈御統。此云美須磨屡。〉纒其髻・鬘及腕。又背負千箭之靭〈千箭。此云知能梨。〉与五百箭之靭。臂著稜威之高鞆。〈稜威。此云伊都。〉振起弓〓。急握剣柄。蹈堅庭而陥股。若沫雪以蹴散。〈蹴散。此云倶穢簸邏邏箇須。〉奮稜威之雄詰。〈雄詰。此云鳥多稽眉。〉発稜威之嘖譲。〈嘖譲。此云挙廬毘。〉而径詰問焉。素戔鳴尊対曰。吾元無黒心。父母已有厳勅。将永就乎根国。如不与姉相見。吾何能敢去。是以跋渉雲霧遠自来参。不意、阿姉翻起厳顔。于時天照大神復問曰。若然者。将何以明爾之赤心也。対曰。請与姉共誓。夫誓約之中〈誓約之中。此云宇気譬能美難箇。〉必当生子。如吾所生是女者。則可以為有濁心。若是男者。則可以為有清心。於是天照大神乃索取素戔鳴尊十握剣。打折為三段。濯於天真名井。〓然咀嚼〈〓然咀嚼。此云佐我弥爾加武。〉而吹棄気噴之狭霧〈吹棄気噴之狭霧。此云浮枳于都屡伊浮岐能佐擬理。〉所生神、号曰田心姫。次湍津姫。次市杵嶋姫。凡三女矣。既而素戔鳴尊。乞取天照大神髻・鬘及腕所纒八坂瓊之五百箇御統。濯於天真名井。〓然咀嚼、而吹棄気噴之狭霧所生神、号曰正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。次天穂日命。〈是出雲臣。土師連等祖也。〉次天津彦根命。〈是凡川内直。山代直等祖也。〉次活津彦根命。次熊野〓[木+豫]樟日命。凡五男矣。是時天照大神勅曰。原其物根。則八坂瓊之五百箇御統者。是吾物也。故彼五男神、悉是吾児。乃取而子養焉。又勅曰。其十握剣者、是素戔鳴尊物也。故此三女神、悉是爾児。便授之素戔鳴尊。此則筑紫胸肩君等所祭神是也。
《第六段一書第一》一書曰。日神本知素戔鳴尊、有武健陵物之意。及其上至便謂。弟所以来者。非是善意。必当奪我天原。乃設丈夫武備。躬帯十握剣・九握剣・八握剣。又背上負靭、又臂著稜威高鞆。手握弓箭。親迎防禦。是時素戔鳴尊告曰。吾元無悪心。唯欲与姉相見。只為暫来耳。於是日神共素戔鳴尊、相対而立。誓曰。若汝心明浄、不有陵奪之意者。汝所生児、必当男矣。言訖先食所帯十握剣生児。号瀛津嶋姫。又食九握剣生児。号湍津姫。又食八握剣生児。号田心姫。凡三女神矣。已而素戔鳴尊。以其頸所嬰五百箇御統之瓊。濯于天渟名井。亦名去来之真名井、而食之。乃生児。号正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次天津彦根命。次活津彦根命。次天穂日命。次熊野忍蹈命。凡五男神矣。故素戔鳴尊既得勝験。於是日神、方知素戔鳴尊固無悪意。乃以日神所生三女神、令降於筑紫洲。因教之曰。汝三神宜降居道中、奉助天孫、而為天孫所祭也。
《第六段一書第二》一書曰。素戔鳴尊将昇天時。有一神。号羽明玉。此神奉迎、而進以瑞八坂瓊之曲玉。故素戔鳴尊持其瓊玉、而到之於天上也。是時天照大神疑弟有悪心。起兵詰問。素戔鳴尊対曰。吾所以来者。実欲与姉相見。亦欲献珍宝瑞八坂瓊之曲玉耳。不敢別有意也。時天照大神復問曰。汝言虚実。将何以為験。対曰。請吾与姉共立誓約。誓約之間。生女為黒心。生男為赤心。乃掘天真名井三処、相与対立。是時天照大神謂素戔鳴尊曰。以吾所帯之剣、今当奉汝。汝以汝所持八坂瓊之曲玉、可以授予矣。如此約束、共相換取。已而天照大神。則以八坂瓊之曲玉、浮寄於天真名井。齧断瓊端、而吹出気噴之中化生神。号市杵嶋姫命。是居于遠瀛者也。又齧断瓊中、而吹出気噴之中化生神。号田心姫命。是居于中瀛者也。又齧断瓊尾、而吹出気噴之中化生神。号湍津姫命。是居于海浜者也。凡三女神。於是素戔鳴尊。以所持剣、浮寄於天真名井。齧断剣末、而吹出気噴之中化生神。号天穂日命。次正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次天津彦根命。次活津彦根命。次熊野〓[木+豫]樟日命。凡五男神、云爾。
《第六段一書第三》一書曰。日神与素戔鳴尊隔天安河而相対。乃立誓約曰。汝若不有奸賊之心者。汝所生子必男矣。如生男者。予以為子而令治天原也。於是日神。先食其十握剣化生児。瀛津嶋姫命。亦名市杵嶋姫命。又食九握剣、化生児。湍津姫命。又食八握剣、化生児。田霧姫命。巳而素戔鳴尊含其左髻所纒五百箇御統之瓊。而著於左手掌中便化生男矣。則称之曰。正哉吾勝。故因名之、曰勝速日天忍穂耳尊。復含右髻之瓊、著於右手掌中。化生天穂日命。復含嬰頸之瓊著於左臂中。化生天津彦根命。又自右臂中化生活津彦根命。又自左足中、化生〓[火+嘆の旁]之速日命。又自右足中、化生熊野忍蹈命。亦名熊野忍隅命。其素戔鳴尊所生之児。皆已男矣。故日神方知素戔鳴尊元有赤心。便取其六男。以為日神之子。使治天原。即以日神所生三女神者。使隆居于葦原中国之宇佐嶋矣。今在海北道中。号曰道主貴。此筑紫水沼君等祭神、是也。〓[火+嘆の旁]。于也。此云備。 
《第七段本文》是後素戔鳴尊之為行也。甚無状。何則天照大神。以天狭田。長田為御田。時素戔鳴尊。春則重播種子。〈重播種子。此云璽枳磨枳。〉且毀其畔。〈毀。此云波那豆。〉秋則放天斑駒。使伏田中。復見天照大神当新嘗時。則陰放〓[尸+矢]於新宮。又見天照大神、方織神衣居斎服殿。則剥天斑駒。穿殿甍而投納。是時天照大神驚動。以梭傷身。由此発慍。乃入于天石窟。閉磐戸而幽居焉。故六合之内常闇、而不知昼夜之相代。于時八十万神会合於天安河辺計其可祷之方。故思兼神深謀遠慮。遂聚常世之長鳴鳥。使互長鳴。亦以手力雄神立磐戸之側。而中臣連遠祖天児屋命。忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇真坂樹。而上枝懸八坂瓊之五百箇御統。中枝懸八咫鏡。〈一云、真経津鏡。〉下枝懸青和幣〈和幣。此云尼枳底。〉白和幣。相与致其祈祷焉。又猿女君遠祖天鈿女命。則手持茅纒之〓[矛+肖]。立於天石窟戸之前、巧作俳優。亦以天香山之真坂樹為鬘。以蘿〈蘿。此云此舸礙。〉為手繦〈手繦。此云多須枳。〉而火処焼。覆槽置〈覆槽。此云于該。〉顕神明之憑談。〈顕神明之憑談。此云歌牟鵝可梨。〉是時天照大神聞之而曰。吾比閉居石窟。謂当豊葦原中国必為長夜。云何天鈿女命〓楽如此者乎。乃以御手細開磐戸窺之。時手力雄神則奉承天照大神之手引而奉出。於是中臣神。忌部神。則界以端出之縄。〈縄。亦云、左縄端出。此云斯梨倶梅儺波。〉乃請曰。勿復還幸。然後諸神帰罪過於素戔鳴尊。而科之以千座置戸。遂促徴矣。至使抜髪。以贖其罪。亦曰。抜其手足之爪贖之。已而竟逐降焉。
《第七段一書第一》一書曰。是後稚日女尊坐于斎服殿。而織神之御服也。素戔鳴尊見之。則逆剥斑駒、投入之於殿内。稚日女尊乃驚而堕機。以所持梭傷体、而神退矣。故天照大神謂素戔鳴尊曰。汝猶有黒心。不欲与汝相見。乃入于天石窟、而閉著磐戸焉。於是天下恒闇。無復昼夜之殊。故会八十万神於天高市而問之。時有高皇産霊之息思兼神云者。有思慮之智。乃思而白曰。宜図造彼神之象、而奉招祷也。故即以石凝姥為冶工。採天香山之金。以作曰矛。又全剥真名鹿之皮。以作天羽〓。用此奉造之神。是即紀伊国所坐日前神也。石凝姥。此云伊之居梨度〓[口+羊]。全剥。此云宇都播伎。
《第七段一書第二》一書曰。日神尊以天垣田為御田。時素戔鳴尊。春則填渠毀畔。又秋穀已成。則冒以絡縄。且日神居織殿時。則生剥斑駒、納其殿内。凡此諸事、尽是無状。雖然日神、恩親之意。不慍不恨、皆以平心容焉。及至日神当新嘗之時。素戔鳴尊則於新宮御席之下。陰自送糞。日神不知、径坐席上。由是日神挙体不平。故以恚恨。廼居于天石窟、閉其磐戸。于時諸神憂之。乃使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡。忌部遠祖太玉者造幣。玉作部遠祖豊玉者造玉。又使山雷者採五百箇真坂樹八十玉籤。野槌者採五百箇野薦八十玉籤。凡此諸物皆来聚集。時中臣遠祖天児屋命。則以神祝祝之。於是日神方開磐戸而出焉。是時以鏡入其石窟者。触戸小瑕。其瑕於秡今猶存。此即伊勢崇秘之大神也。已而科罪於素戔鳴尊。而責其秡具。是以有手端吉棄物。足端凶棄物。亦以唾為白和幣。以洟為青和幣。用此解除竟。遂以神逐之理逐之。送糞。此云倶蘇摩屡。玉籤。此云多摩倶之。秡具。此云波羅閉都母能。手端吉棄。此云多那須衛能余之岐羅毘。神祝祝之。此云加武保佐枳保佐枳枳。遂之。此云波羅賦。
《第七段一書第三》一書曰。是後日神之田有三処焉。号曰天安田。天平田。天邑并田。此皆良田。雖経霖旱、無所損傷。其素戔鳴尊之田、亦有三処。号曰天〓田。天川依田。天口鋭田。此皆磽地。雨則流之。旱則焦之。故素戔鳴尊妬害姉田。春則廃渠槽。及埋溝。毀畔。又重播種子。秋則捶籤。伏馬。凡此悪事曾無息時。雖然日神不慍。恒以平恕相容焉。云云。
至於日神閉居于天石窟也。諸神遣中臣連遠祖興台産霊児天児屋命而使祈焉。於是天児屋命掘天香山之真坂木。而上枝県以鏡作遠祖天抜戸児巳凝戸辺所作八咫鏡。中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊児天明玉所作八坂瓊之曲玉。下枝懸以粟国忌部遠祖天日鷲所作木綿。乃使忌部首遠祖太玉命執取。而広厚称辞祈啓矣。于時日神聞之曰。頃者人雖多請。未有若此言之麗美者也。乃細開磐戸而窺之。是時天手力雄神侍磐戸側。則引開之者。日神之光満於六合。故諸神大喜。即科素戔鳴尊千座置戸之解除。以手爪為吉爪棄物。以足爪為凶爪棄物。乃使天児屋命、掌其解除之太諄辞而宣之焉。世人慎収己爪者、此其縁也。既而諸神嘖素戔鳴尊曰。汝所行甚無頼。故不可住於天上。亦不可居於葦原中国。宜急適於底根之国。乃共逐降去。于時霖也。素戔鳴尊結束青草以為笠蓑、而乞宿於衆神。衆神曰。汝是躬行濁悪、而見逐謫者。如何乞宿於我。遂同距之。是以風雨雖甚、不得留休。而辛苦降矣。自爾以来、世諱著笠蓑以入他人屋内。又諱負束草以入他人家内。有犯此者必債解除。此太古之遺法也。
是後素戔鳴尊曰。諸神逐我。我今当永去。如何不与我姉相見、而檀自径去歟。廼復扇天扇国。上詣于天。時天鈿女見之、而告言於日神也。日神曰。吾弟所以上来、非復好意。必欲奪之我国者歟。吾雖婦女、何当避乎。乃躬装武備。云云。於是素戔鳴尊誓之曰。吾若懐不善而復上来者。吾今齧玉生児。必当為女矣。如此則可以降女於葦原中国。如有清心者。必当生男矣。如此則可以使男御天上。且姉之所生、亦同此誓。於是日神先齧十握剣。云云。
素戔鳴尊乃〓轤然解其左髻所纒五百箇御統之瓊綸。而瓊響〓[王+倉]〓[王+倉]濯浮於天渟名井。齧其瓊端、置之左掌。而生児正哉吾勝勝速日天忍穂根尊。復齧右瓊、置之右掌。而生児天穂日命。此出雲臣。武蔵国造。土師連等遠祖也。次天津彦根命。此茨城国造。額田部連等遠祖也。次活目津彦根命。次〓[火+嘆の旁]速日命。次熊野大隅命。凡六男矣。於是素戔鳴尊白日神曰。吾所以更昇来者。衆神処我以根国。今当就去。若不与姉相見。終不能忍離。故実以清心復上来耳。今則奉覲已訖。当随衆神之意。自此永帰根国矣。請姉照臨天国。自可平安。且吾以清心所生児等亦奉於姉。已而復還降焉。廃渠槽。此云秘波鵝都。捶籤。此云久斯社志。興台産霊。此云許語等武須毘。太諄辞。此云布斗能理斗。〓轤然。此云乎謀苦留留爾。〓[王+倉]〓[王+倉]。此云乎奴儺等母母由羅爾。 
《第八段本文》是時、素戔鳴尊、自天而降到於出雲国簸之川上。時聞川上有啼哭之声。故尋声覓往者。有一老公与老婆。中間置一少女。撫而哭之。素戔鳴尊問曰。汝等誰也。何為哭之如此耶。対曰。吾是国神。号脚摩乳。我妻号手摩乳。此童女是吾児也。号奇稲田姫。所以哭者。往時吾児有八箇少女。毎年為八岐大蛇所呑。今此少童且臨被呑。無由脱免。故以哀傷。素戔鳴尊勅曰。若然者。汝当以女奉吾耶。対曰。随勅奉矣。故素戔鳴尊、立化奇稲田姫為湯津爪櫛。而挿於御髻。乃使脚摩乳。手摩乳釀八〓酒。并作仮〓〈仮〓。此云佐受枳。〉八間。各置一口槽。而盛酒以待之也。至期果有大蛇。頭・尾各有八岐。眼如赤酸醤。〈赤酸醤。此云阿箇箇鵝知。〉松柏生於背上。而蔓延於八丘・八谷之間。及至得酒。頭各一槽飲。酔而睡。時素戔鳴尊乃抜所帯十握剣。寸斬其蛇。至尾剣刃少欠。故割裂其尾視之。中有一剣。此所謂草薙剣也。〈草薙剣。此云倶娑那伎能都留伎。一書曰。本名天叢雲剣。蓋大蛇所居之上、常有雲気。故以名歟。至日本武皇子、改名曰草薙剣。〉素戔鳴尊曰。是神剣也。吾何敢私以安乎。乃上献於天神也。
然後行覓将婚之処。遂到出雲之清地焉。〈清地。此云素鵝。〉乃言曰。吾心清清之。〈此今呼此地曰清。〉則於彼処建宮。〈或云。時武素戔鳴尊歌之曰。
夜句茂多菟。伊都毛夜覇餓岐。菟磨語昧爾。夜覇餓枳菟倶盧。贈廼夜覇餓岐廻。
やくもたつ いづもやへがき つまごめに やへがきつくる そのやへがきゑ
乃相与遘合、而生児大己貴神。因勅之曰。吾児宮首者、即脚摩乳。手摩乳也。故賜号於二神。曰稲田宮主神。已而素戔鳴尊遂就於根国矣。
《第八段一書第一》一書曰。素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上。則見稲田宮主簀狭之八箇耳女子。号稲田媛。乃於奇御戸為起而生児。号清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠。一云。清之繋名坂軽彦八嶋手命。又云。清之湯山主三名狭漏彦八嶋野。此神五世孫。即大国主神。篠。小竹也。此云斯奴。
《第八段一書第二》一書曰。是時素戔鳴尊下到於安芸国可愛之川上也。彼処有神。名曰脚摩手摩。其妻名曰稲田宮主簀狭之八箇耳。此神正在妊身。夫妻共愁。乃告素戔鳴尊曰。我生児雖多。毎生。輙有八岐大蛇来呑。不得一存。今吾且産。恐亦見呑。是以哀傷。素戔鳴尊乃教之曰。汝可以衆菓釀酒八甕。吾当為汝殺蛇。二神随教設酒。至産時、必彼大蛇当戸将呑児焉。素戔鳴尊勅蛇曰。汝是可畏之神。敢不饗乎。乃以八甕酒毎口沃入。其蛇飲酒而睡。素戔鳴尊抜剣斬之。至斬尾時剣刃少欠。割而視之。則剣在尾中。是号草薙剣。此今在尾張国吾湯市村。即熱田祝部所掌之神是也。其断蛇剣、号曰蛇之麁正。此今在石上也。是後以稲田宮主簀狭之八箇耳生児。真髪触奇稲田媛。遷置於出雲国簸川上、而長養焉。然後素戔鳴尊以為妃。而所生児之六世孫。是曰大己貴命。大己貴。此云於褒婀娜武智。
《第八段一書第三》一書曰。素戔鳴尊欲幸奇稲田媛而乞之。脚摩乳。手摩乳対曰。請先殺彼蛇。然後幸者宜也。彼大蛇毎頭各有石松。両脇有山。甚可畏矣。将何以殺之。素戔鳴尊乃計釀毒酒以飲之。蛇酔而睡。素戔鳴尊乃以蛇韓鋤之剣、斬頭斬腹。其斬尾之時。剣刃少欠。故裂尾而看、即別有一剣焉。名為草薙剣。此剣昔在素戔鳴尊許。今在於尾張国也。其素戔鳴尊断蛇之剣。今在吉備神部許也。出雲簸之川上山是也。
《第八段一書第四》一書曰。素戔鳴尊所行無状。故諸神科以千座置戸、而遂逐之。是時。素戔鳴尊帥其子五十猛神。降到於新羅国。居曾尸茂梨之処。乃興言曰。此地吾不欲居。遂以埴土作舟、乗之東渡。到出雲国簸川上所在鳥上之峰。時彼処有呑人大蛇。素戔鳴尊乃以天蠅斫之剣、斬彼大蛇。時斬蛇尾、而刃欠。即擘而視之。尾中有一神剣。素戔鳴尊曰。此不可以吾私用也。乃遺五世孫天之葺根神上奉於天。此今所謂草薙剣矣。初五十猛神天降之時。多将樹種而下。然不殖韓地、尽以持帰。遂始自筑紫。凡大八洲国之内、莫不播殖而成青山焉。所以称五十猛命為有功之神。即紀伊国所坐大神是也。
《第八段一書第五》一書曰。素戔鳴尊曰。韓郷之嶋。是有金銀。若使吾児所御之国。不有浮宝者。未是佳也。乃抜鬚髯散之。即成杉。又抜散胸毛。是成檜。尻毛是成〓[木+皮]。眉毛是成〓[木+豫]樟。已而定其当用。乃称之曰。杉及〓[木+豫]樟。此両樹者。可以為浮宝。檜可以為瑞宮之材。〓[木+皮]可以為顕見蒼生奥津棄戸将臥之具。夫須〓[口+敢]八十木種、皆能播生。于時素戔鳴尊之子。号曰五十猛命。妹大屋津姫命。次〓[木+爪]津姫命。凡此三神亦能分布木種。即奉渡於紀伊国也。然後素戔鳴尊居熊成峰。而遂入於根国者矣。棄戸。此云須多杯。〓[木+皮]。此云磨紀。
《第八段一書第六》一書曰。大国主神。亦名大物主神。亦号国作大己貴命。亦曰葦原醜男。亦曰八千戈神。亦曰大国玉神。亦曰顕国玉神。其子凡有一百八十一神。夫大己貴命与少彦名命。戮力一心。経営天下。復為顕見蒼生及畜産。則定其療病之方。又為攘鳥獣・昆虫之災異。則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩頼。嘗大己貴命謂少彦名命曰。吾等所造之国。豈謂善成之乎。少彦名命対曰。或有所成。或有不成。是談也。蓋有幽深之致焉。其後少彦名命行至熊野之御碕。遂適於常世郷矣。亦曰。至淡嶋、而縁粟茎者。則弾渡而至常世郷矣。
自後国中所未成者。大己貴神独能巡造。遂到出雲国。乃興言曰。夫葦原中国、本自荒芒、至及磐石・草木咸能強暴。然吾已摧伏、莫不和順。遂因言。今理此国、唯吾一身而巳。其可与吾共理天下者、蓋有之乎。于時神光照海。忽然有浮来者。曰、如吾不在者。汝何能平此国乎。由吾在故。汝得建其大造之績矣。是時大己貴神問曰。然則汝是誰耶。対曰。吾是汝之幸魂・奇魂也。大己貴神曰。唯然。廼知、汝是吾之幸魂・奇魂。今欲何処住耶。対曰。吾欲住於日本国之三諸山。故即営宮彼処、使就而居。此大三輪之神也。此神之子。即甘茂君等。大三輪君等。又姫蹈鞴五十鈴姫命。又曰。事代主神化為八尋熊鰐。通三嶋溝〓[木+織の旁]姫。或云、玉櫛姫。而生児姫蹈鞴五十鈴姫命。是為神日本磐余彦火火出見天皇之后也。初大己貴神之平国也。行到出雲国五十狭狭小汀、而且当飲食。是時海上忽有人声。乃驚而求之。都無所見。頃時有一箇小男。以白〓皮為舟。以鷦鷯羽為衣。随潮水以浮到。大己貴神即取置掌中、而翫之。則跳齧其頬。乃怪其物色。遣使白於天神。于時高皇産霊尊聞之而曰。吾所産児、凡有一千五百座。其中一児最悪。不順教養。自指間漏堕者。必彼矣。宜愛而養之。此即少彦名命是也。顕。此云于都斯。蹈鞴。此云多多羅。幸魂。此云佐枳弥多摩。奇魂。此云倶斯美〓[手偏+它]磨。鷦鷯。此云娑娑岐。 
巻第二 神代下

 

《第九段本文》天照大神之子。正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。娶高皇産霊尊之女栲幡千千姫。生天津彦彦火瓊瓊杵尊。故皇祖高皇産霊尊。特鍾憐愛以崇養焉。遂欲立皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、以為葦原中国之主。然彼地多有蛍火光神及蠅声邪神。復有草木咸能言語。故高皇産霊尊召集八十諸神。而問之曰。吾欲令撥平葦原中国之邪鬼。当遣誰者宜也。惟爾諸神勿隠所知。僉曰。天穂日命是神之傑也。可不試歟。於是、俯順衆言。即以天穂日命往平之。然此神侫媚於大己貴神。比及三年、尚不報聞。故仍遣其子大背飯三熊之大人。〈大人。此云于志。〉亦名武三熊之大人。此亦還順其父。遂不報聞。故高皇産霊尊更会諸神、問当遣者。僉曰。天国玉之子天稚彦。是壮士也。宜試之。於是高皇産霊尊賜天稚彦天鹿児弓及天羽羽矢。以遣之。此神亦不忠誠也。来到即娶顕国玉之女子下照姫。〈亦名高姫。亦名稚国玉。〉因留住之曰。吾亦欲馭葦原中国。遂不復命。是時高皇産霊尊怪其久不来報。乃遣無名雉伺之。其雉飛降、止於天稚彦門前所植〈植。此云多底婁。〉湯津杜木之杪。〈杜木。此云可豆邏也。〉時天探女〈天探女。此云阿麻能左愚謎。〉見、而謂天稚彦曰。奇鳥来居杜杪。天稚彦乃取高皇産霊尊所賜天鹿児弓。天羽羽矢。射雉斃之。其矢洞達雉胸、而至高皇産霊尊之座前也。時高皇産霊尊見其矢曰。是矢則昔我賜天稚彦之矢也。血染其矢。蓋与国神相戦而然歟。於是、取矢還投下之。其矢落下、則中天稚彦之胸上。于時天稚彦、新嘗休臥之時也。中矢立死。此世人所謂反矢可畏之縁也。
天稚彦之妻下照姫、哭泣悲哀、声達于天。是時天国玉聞其哭声。則知夫天稚彦已死。乃遣疾風、挙尸致天。便造喪屋而殯之。即以川鴈為持傾頭者及持帚者。〈一云。以鶏為持傾頭者。以川鴈為持帚者。〉又以雀為春女。〈一云。乃以川鴈為持傾頭者。亦為持帚者。以〓[立+鳥]為尸者。以雀為春者。以鷦鷯為哭者。以鵄為造綿者。以烏為宍人者。凡以衆鳥任事。〉而八日八夜、啼哭悲歌。先是天稚彦在於葦原中国也。与味耜高彦根神友善。〈味耜。此云婀膩須岐。〉故味耜高彦根神昇天弔喪。時此神容貌。正類天稚彦平生之儀。故天稚彦親属妻子皆謂。吾君猶在。則攀牽衣帯。且喜且慟。時味耜高彦根神忿然作色曰。朋友之道、理宜相弔。故不憚汚穢。遠自赴哀。何為誤我於亡者。則抜其帯剣大葉刈。〈刈。此云我里。亦名神戸剣。〉以斫仆喪屋。此即落而為山。今在美濃国藍見川之上喪山是也。世人悪以生誤死。此其縁也。
是後、高皇産霊尊更会諸神、選当遣於葦原中国者。僉曰。磐裂〈磐裂。此云以簸娑窶。〉根裂神之子。磐筒男・磐筒女所生之子経津〈経津。此云賦都。〉主神、是将佳也。時有天石窟所住神、稜威雄走神之子甕速日神。甕速日神之子〓[火+嘆の旁]速日神。〓[火+嘆の旁]速日神之子武甕槌神。此神進曰。豈唯経津主神独為丈夫、而吾非丈夫者哉。其辞気慷慨。故以即配経津主神、令平葦原中国。二神於是降到出雲国五十田狭之小汀。則抜十握剣。倒植於地。踞其鋒端、而問大己貴神曰。高皇産霊尊欲降皇孫、君臨此地。故先遣我二神、駆除平定。汝意何如。当須避不。時大己貴神対曰。当問我子、然後将報。是時其子事代主神遊行、在於出雲国三穂〈三穂。此云美保。〉之碕。以釣魚為楽。或曰。遊鳥為楽。故以熊野諸手船、〈亦名天〓[合+鳥]船。〉載使者稲背脛遣之。而致高皇産霊尊勅於事代主神。且問将報之辞。時事代主神、謂使者曰。今天神有此借問之勅。我父宜当奉避。吾亦不可違。因於海中造八重蒼柴籬。〈柴。此云府璽。〉蹈船〓[木+世]〈船〓[木+世]。此云浮那能倍。〉而避之。使者既還報命。故大己貴神則以其子之辞、白於二神曰。我怙之子、既避去矣。故吾亦当避。如吾防禦者。国内諸神必当同禦。今我奉避。誰復敢有不順者。乃以平国時所杖之広矛。授二神曰。吾以此矛卒有治功。天孫若用此矛治国者。必当平安。今我当於百不足之八十隅将隠去矣。〈隅。此云矩磨泥。〉言訖遂隠。於是、二神誅諸不順鬼神等、〈一云。二神遂誅邪神及草・木・石類。皆已平了。其所不服者。唯星神香香背男耳。故加遣倭文神。建葉槌命者則服。故二神登天也。〉倭文神。此云斯図梨俄未。〉果以復命。
于時、高皇産霊尊、以真床追衾、覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座。〈天磐座。此云阿麻能以簸矩羅。〉且排分天八重雲。稜威之道別道別、而天降於日向襲之高千穂峰矣。既而皇孫遊行之状也者。則自〓[木+患]日二上天浮橋。立於浮渚在平処。〈立於浮渚在平処。此云羽企爾磨梨陀毘邏而陀陀志。〉而膂宍之空国、自頓丘覓国行去。〈頓丘。此云毘陀烏。覓国。此云矩弐磨儀。行去。此云騰褒屡。〉到於吾田長屋笠狭之碕矣。
其地有一人。自号事勝国勝長狭。皇孫問曰。国在耶以不。対曰。此焉有国。請任意遊之。故皇孫就而留住。時彼国有美人。名曰鹿葦津姫。〈亦名神吾田津姫。亦名木花之開耶姫。〉皇孫問此美人曰。汝誰之女子耶。対曰。妾是天神娶大山祇神所生児也。皇孫因而幸之。即一夜而有娠。皇孫未信之曰。雖復天神、何能一夜之間令人有娠乎。汝所懐者必非我子歟。故鹿葦津姫忿恨。乃作無戸室、入居其内。而誓之曰。妾所娠。非天孫之胤、必当〓滅。如実天孫之胤、火不能害。即放火焼室。始起煙末生出之児。号火闌降命。〈是隼人等始祖也。〉火闌降。此云褒能須素里。〉次避熱而居、生出之児、号彦火火出見尊。次生出之児、号火明命。〈是尾張連等始祖也。〉凡三子矣。久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。因葬筑紫日向可愛〈可愛。此云埃。〉之山陵。 
天照大神の御子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の御娘考幡千千姫を娶って、天津彦彦火榎榎杵尊をお生みになった。そこで皇祖高皇産霊尊はとくに寵愛し貴んで養育された。こうして、この皇孫天津彦彦火榎榎杵尊を立てて葦原中国の君主にしようと思われた。ところが、その国には蛍火のように妖しく光る神や、五月頃の蠅のようにうるさく騒ぐ邪神がいた。また、草や木もみな精霊を持ち、物を言って不気味な様子であった。そこで、高皇産霊尊は多くの神々を召し集めて、問われるには、「私は葦原中国の邪神を除き平定させようと思う。誰を遣わしたらよかろう。汝ら諸神よ、知っているところを隠さず申せ」と仰せられた。皆は、「天穂日命こそ傑出した神です。この神をお遣わしになってみてはいかがでしょうか」と申しあげた。そこで高皇産霊尊はこれら諸神の意見に従って、天穂日命を葦原中国の平定のために遣わされた。ところがこの神は、大己貴神におもねり媚びて、三年たってもいっこうにご報告申しあげなかった。そこで、その子の大背飯三熊大人〔「大人」はここではウシという〕、〔またの名は武三熊之大人という〕を遣わされた。この神もまたその父に従って、とうとうご報告申しあげなかった。
そこで高皇産霊尊はさらに諸神を集めて、遣わすべき神を尋ねられた。皆は、「天国玉の子の天稚彦は勇壮な神です。試みてごらんなさい」と申しあげた。そこで高皇産霊尊は、天稚彦に天鹿児弓と天羽羽矢を授けて遣わされた。だが、この神もまた誠実ではなかった。葦原中国に到着するとすぐに顕国玉の娘下照姫を娶って〔またの名は高姫といい、またの名は稚国玉という〕、そのまま住み着いて、「私も葦原中国を統治しようと思う」と言って、ついにご報告を申しあげなかった。さて高皇産霊尊は、天稚彦が久しく報告しないのを不審に思われて、無名雉を遣わして様子をうかがわせられた。その雉は飛び降って、「天稚彦の門の前に植わっている〔「植」はここではタテルという〕神聖な杜木の梢にとまった〔「杜木」はここではカツラという〕。すると、それを天探女〔「天探女」はここではアマノサグメという〕が見つけて、天稚彦に告げて、「不思議な鳥が来て、杜の梢にとまっております」と言った。天稚彦は高皇産霊尊から賜った天鹿児弓・天羽羽矢を取って、雉を射殺した。その矢は雉の胸を深く貫き通って、高皇産霊尊の御前に届いた。そこで、高皇産霊尊はその矢をご覧になって、「この矢は昔、私が天稚彦に授けた矢である。見ると血が矢に染みている。思うに国神と戦って血がついたのであろうか」と仰せられた。そして、その矢を取って、下界に投げ返された。その矢は落下して行って、そのまま天稚彦の仰臥している胸に命中した。その時、天稚彦は新嘗の祭事をして仰臥しているところであった。その矢が命中してたちまち死んだ。これが、世の人のいわゆる「反矢恐るべし」ということの由縁である。
後に豊玉姫、果して前の期の如く、其の女弟玉依姫を将ゐて、直に風波を冒して、海邊に來到る。臨産む時に逮びて、請ひて曰さく、「妾産まむ時に、幸はくはな看ましそ」とまうす。天孫猶忍ぶること能はずして、密に往きて覗ひたまふ。豊玉姫、方に産むときに龍に化為りぬ。而して甚だ慙ぢて曰はく、「如し我を辱しめざること有りせば、海陸相通はしめて、永く隔絶つこと無からまし。今既に辱みつ。将に何を以てか親睦しき情を結ばむ」といひて、乃ち草を以て児を裏みて、海邊に棄てて、海途を閉ぢて径に去ぬ。故、因りて児を名けまつりて、彦波剣武鵜慈草葺不合尊と曰す。後に久しくして、彦火火出見尊崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる。
さて、高皇産霊尊は、真床追衾(玉座を覆うフスマ)で、榎榎杵尊を包んで降らせられた。皇孫は天の磐座を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道をふみ分けて進み、日向の襲の高千穂の峯にお降りになった。皇孫のお進みになる様子は、串日の二上の天の梯子から、浮島の平な所にお立ちになって、痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、よい国を求めて、吾田国の長屋の笠狭崎にお着きになった。そこに人がいて自ら事勝国勝長狭と名乗った。皇孫が問われ、「国があるのかどうか」といわれると、答えて、「国があります。お気に召しましたらどうぞごゆっくり」という。それで皇孫はそこに止まられた。その国に美人がいた。名を鹿葦津姫という。――またの名を神吾田津姫、また木花開耶姫ともいう――皇孫がこの美人に、「あなたは誰の娘ですか」と問われた。すると、「私は天神が、大山祇神を娶とってうまされた子です」と答えた。皇孫はお召しになった。すると一夜だけで妊娠した。皇孫は偽りだろうと思われて、「たとえ天神であっても、どうして一夜の間に孕ませることができようか。お前が孕んだのはわが子ではあるまい」といわれた。すると鹿葦津姫は怒り恨んで、無戸室(出入口のない室)を作って、その中にこもって、誓約のことばを述べ、「私が孕んだ子が、もし天孫の子でないならば、きっと焼け滅びるでしょう。もし本当に天孫の子ならば、火も損うことができぬでしょう」といわれ、そして火をつけて室を焼いた。はじめ燃え上がった煙から生まれ出た子を、火閑降命と名づけた――これが隼人らの始祖である――。次に熱を避けておいでになるときに、生まれ出た子を、彦火火出見尊と名づけた。次に生まれでた子を、火明命と名づけた。――これが尾張連らの始祖である――。全部で三人の御子である。しばらくたってにに杵尊はおかくれになった。それで筑紫の日向の可愛の山の陵に葬った。
そこで天照大神は、天津彦彦火榎榎杵尊に八坂榎曲玉と八只鏡・草薙剣の三種の神器を授けられた。 
《第九段一書第一》一書曰。天照大神勅天稚彦曰。豊葦原中国。是吾児可王之地也。然慮、有残賊強暴横悪之神者。故汝先往平之。乃賜天鹿児弓及天真鹿児矢遣之。天稚彦受勅来降。則多娶国神女子、経八年無以報命。故天照大神、乃召思兼神、問其不来之状。時思兼神思而告曰。宜且遣雉問之。於是、従彼神謀。乃使雉往候之。其雉飛下。居于天稚彦門前湯津杜樹之杪、而鳴之曰。天稚彦、何故八年之間未有復命。時有国神、号天探女。見其雉曰。鳴声悪鳥、在此樹上。可射之。天稚彦、乃取天神所賜天鹿児弓。天真鹿児矢便射之。則矢達雉胸、遂至天神所処。時天神見其矢曰。此昔我賜天稚彦之矢也。今何故来。乃取矢而呪之曰。若以悪心射者。則天稚彦必当遭害。若以平心射者。則当無恙。因還投之。即其矢落下、中于天稚彦之高胸。因以立死。此世人所謂返矢可畏縁也。
時天稚彦之妻子、従天降来、将柩上去。而於天作喪屋殯哭之。先是天稚彦与味耜高彦根神友善。故味耜高彦根神登天弔喪大臨焉。時此神形貎、自与天稚彦恰然相似。故天稚彦妻子等見而喜之曰。吾君猶在。則攀持衣帯、不可排離。時味耜高彦根神忿曰。朋友喪亡。故吾即来弔。如何誤死人於我耶。乃抜十握剣、斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃国喪山是也。世人悪以死者誤己、此其縁也。時味耜高彦根神光儀華艶、映于二丘二谷之間。故喪会者歌之曰。或云。味耜高彦根神之妹下照媛。欲令衆人知映丘谷者。是味耜高彦根神。故歌之曰。
阿妹奈屡夜。乙登多奈婆多廼。汚奈餓勢屡。多磨廼弥素磨屡廼。阿奈陀磨波夜。弥多爾 輔〓[木+它]和〓[木+它]邏須。阿泥素企多伽避顧禰。
あめなるや おとたなはたの うながせる たまのみすまるの あなたまはや みたにふたわたらす あぢすきたかひこね
又歌之曰。
阿磨佐箇屡。避奈菟謎廼。以和多邏素西渡。以嗣箇播箇〓[木+它]輔智。箇多輔智爾。阿弥播利和〓[木+它]嗣。妹慮予嗣爾。予嗣予利拠禰。以嗣箇播箇〓[木+它]輔智。
あまさかる ひなつめの いわたらすせと いしかはかたふち かたふちに あみはりわたし めろよしに よしよりこね いしかはかたふち
此両首歌辞今号夷曲。
既而天照大神。以思兼神妹万幡豊秋津媛命。配正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊為妃、令降之於葦原中国。是時勝速日天忍穂耳尊。立于天浮橋而臨睨之曰。彼地未平矣。不須也。頗傾也凶目杵之国歟。乃更還登。具陳不降之状。故天照大神復遣武甕槌神及経津主神、先行駆除。時二神降到出雲。便問大己貴神曰。汝将此国奉天神耶以不。対曰。吾児事代主射鳥遨遊、在三津之碕。今当問以報之。乃遣使人訪焉。対曰。天神所求何不奉歟。故大己貴神以其子之辞報乎二神。二神乃昇天、復命而告之曰。葦原中国皆已平竟。時天照大神勅曰。若然者方当降吾児矣。且将降間。皇孫已生。号曰天津彦彦火瓊瓊杵尊。時有奏曰。欲以此皇孫代降。故天照大神乃賜天津彦彦火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉及八咫鏡、草薙剣、三種宝物。又以中臣上祖天児屋命。忌部上祖太玉命。猿女上祖天鈿女命。鏡作上祖石凝姥命。玉作上祖玉屋命。凡五部神使配侍焉。因勅皇孫曰。葦原千五百秋之瑞穂国。是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫就而治焉。行矣。宝祚之隆、当与天壌無窮者矣。
已而且降之間。先駆者還白。有一神。居天八達之衢。其鼻長七咫。背長七尺余。当言七尋。且口・尻明耀。眠如八咫鏡、而〓[赤+色]然似赤酸醤也。即遣従神往問。時有八十万神。皆不得目勝相問。故特勅天鈿女曰。汝是目勝於人者。宜往問之。天鈿女乃露其胸乳。抑裳帯於臍下。而笑〓向立。是時、衢神問曰。天鈿女、汝為之何故耶。対曰。天照大神之子所幸道路。有如此居之者誰也。敢問之。衢神対曰。聞天照大神之子、今当降行。故奉迎相待。吾名是猿田彦大神。時天鈿女復問曰。汝将先我行乎。将抑我先汝行乎。対曰。吾先啓行。天鈿女復問曰。汝何処到耶。皇孫何処到耶。対曰。天神之子則当到筑紫日向高千穂〓[木+患]触之峰。吾則応到伊勢之狭長田五十鈴川上。因曰。発顕我者汝也。故汝可以送我而致之矣。天鈿女還詣報状。皇孫、於是、脱離天磐座。排分天八重雲。稜威道別道別、而天降之也。果如先期。皇孫則到筑紫日向高千穂〓[木+患]触之峰。其猿田彦神者。則到伊勢之狭長田五十鈴川上。即天鈿女命随猿田彦神所乞遂以侍送焉。時皇孫勅天鈿女命。汝宜以所顕神名、為姓氏焉。因賜猿女君之号。故猿女君等男女、皆呼為君。此其縁也。高胸。此云多歌武娜娑歌。頗傾也。此云歌矛志。 
《第九段一書第二》一書曰。天神遣経津主神。武甕槌神、使平定葦原中国。時二神曰。天有悪神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。請、先誅此神。然後下撥葦原中国。是時斎主神号斎之大人。此神今在乎東国楫取之地也。既而二神降到出雲五十田狭之小汀。而問大己貴神曰。汝将以此国、奉天神耶以不。対曰。疑、汝二神非是吾処来者。故不須許也。於是経津主神則還昇報告。時高皇産霊尊乃還遣二神。勅大己貴神曰。今者聞汝所言、深有其理。故更条条而勅之。夫汝所治顕露之事。宜是吾孫治之。汝則可以治神事。又汝応住天日隅宮者。今当供造。即以千尋栲縄。結為百八十紐。其造宮之制者。柱則高大。板則広厚。又将田供佃。又為汝往来遊海之具。高橋・浮橋及天鳥船亦将供造。又於天安河亦造打橋。又供造百八十縫之白楯。又当主汝祭祀者天穂日命是也。於是大己貴神報曰。天神勅教慇懃如此。敢不従命乎。吾所治顕露事者。皇孫当治。吾将退治幽事。乃薦岐神於二神曰。是当代我而奉従也。吾将自此避去。即躬披瑞之八坂瓊、而長隠者矣。
故経津主神、以岐神。為郷導、周流削平。有逆命者即加斬戮。帰順者仍加褒美。是時帰順之首渠者。大物主神及事代主神。乃合八十万神於天高市。帥以昇天、陳其誠款之至。時高皇産霊尊勅大物主神。汝若以国神為妻。吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穂津姫配汝為妻。宜領八十万神、永為皇孫奉護。乃使還降之。即以紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作笠者。彦狭知神、為作盾者。天目一箇神、為作金者。天日鷲神、為作木綿者。櫛明玉神、為作玉者。乃使太玉命、以弱肩被太手繦、而代御手、以祭此神者、始起於此矣。且天児屋命主神事之宗源者也。故俾以太占之卜事而奉仕焉。高皇産霊尊因勅曰。吾則起樹天津神籬及天津磐境。当為吾孫奉斎矣。汝天児屋命。太玉命、宜持天津神籬。降於葦原中国。亦為吾孫奉斎焉。乃使二神、陪従天忍穂耳尊以降之。
是時天照大神手持宝鏡。授天忍穂耳尊、而祝之曰。吾児、視此宝鏡当猶視吾。可与同床共殿、以為斎鏡。復勅天児屋命。太玉命。惟爾二神亦同侍殿内。善為防護。又勅曰。以吾高天原所御斎庭之穂、亦当御於吾児。則以高皇産霊尊之女、号万幡姫。配天忍穂耳尊為妃、降之。故時居於虚天而生児。号天津彦火瓊瓊杵尊。因欲以此皇孫、代親而降。故以天児屋命。太玉命及諸部神等、悉皆相授。且服御之物、一依前授。然後、天忍穂耳尊復還於天。
故天津彦火瓊瓊杵尊降到於日向〓[木+患]日高千穂之峰。而膂宍胸副国自頓丘覓国行去。立於浮渚在平地。乃召国主事勝国勝長狭而訪之。対曰。是有国也。取捨随勅。時皇孫因立宮殿。是焉遊息。後遊幸海浜、見一美人。皇孫問曰。汝是誰之子耶。対曰。妾是大山祇神之子。名神吾田鹿葦津姫。亦名木花開耶姫。因白。亦吾姉磐長姫在。皇孫曰。吾欲以汝為妻。如之何。対曰。妾父大山祇神在。請、以垂問。皇孫因謂大山祇神曰。吾見汝之女子。欲以為妻。於是大山祇神乃使二女持百机飲食奉進。時皇孫謂姉為醜。不御而罷。妹有国色、引而幸之。則一夜有身。故磐長姫大慙而詛之曰。仮使天孫、不斥妾而御者。生児永寿、有如磐石之常存。今既不然。唯弟独見御。故其生児。必如木花之移落。一云。磐長姫恥恨而。唾泣之曰。顕見蒼生者。如木花之俄遷転当衰去矣。此世人短折之緑也。是後神吾田鹿葦津姫見皇孫曰。妾孕天孫之子。不可私以生也。皇孫曰。雖復天神之子、如何一夜使人娠乎。抑非吾之児歟。木花開耶姫甚以慙恨。乃作無戸室而誓之曰。吾所娠。是若他神之子者。必不幸矣。是実天孫之子者。必当全生。則入其室中、以火焚室。于時焔初起時共生児、号火酢芹命。次火盛時生児、号火明命。次生児、号彦火火出見尊。亦号火折尊。斎主。此云伊播毘。顕露。此云阿羅播弐。斎庭。此云踰弐波。 
《第九段一書第三》一書曰。初火焔明時生児火明命。次火炎盛時生児火進命。又曰火酢芹命。次避火炎時生児火折彦火火出見尊。凡此三子、火不能害。及母亦無所少損。時以竹刀、截其児臍。其所棄竹刀。終成竹林。故号彼地曰竹屋。時神吾田鹿葦津姫、以卜定田。号曰狭名田。以其田稲、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稲、為飯嘗之。
《第九段一書第四》一書曰。高皇産霊尊、以真床覆衾、〓天津彦国光彦火瓊瓊杵尊。則引開天磐戸。排分天八重雲、以奉降之。于時大伴連遠祖天忍日命。帥来目部遠祖天〓[木+患]津大来目。背負天磐靫。臂著稜威高鞆、手捉天梔弓・天羽羽矢。及副持八目鳴鏑。又帯頭槌剣。而立天孫之前、遊行降来。到於日向襲之高千穂〓[木+患]日二上峰。天浮橋、而立於浮渚在之平地。膂宍空国、自頓丘覓国行去。到於吾田長屋笠狭之御碕。時彼処有一神。名曰事勝国勝長狭。故天孫問其神曰。国在耶。対曰。在也。因曰。随勅奉矣。故天孫留住於彼処。其事勝国勝神者、是伊弉諾尊之子也。亦名塩土老翁。〔梔。此云波茸。音之移反。頭槌。此云箇歩豆智。老翁。此云烏膩。〕
《第九段一書第五》一書曰。天孫幸大山祇神之女子。吾田鹿葦津姫。則一夜有身。遂生四子。故吾田鹿葦津姫、抱子而来進曰。天神之子寧可以私養乎。故告状知聞。是時天孫見其子等嘲之曰。妍哉。吾皇子者、聞喜而生之歟。故吾田鹿葦津姫、乃慍之曰。何為嘲妾乎。天孫曰。心疑之矣、故嘲之。何則雖復天神之子。豈能一夜之間、使人有身者哉。固非我子矣。是以、吾田鹿葦津姫益恨。作無戸室、入居其内、誓之曰。妾所娠、若非天神之胤者必亡。是若天神之胤者無所害。則放火焚室。其火初明時躡誥出児、自言。吾是天神之子。名火明命。吾父何処坐耶。次火盛時躡誥出児、亦言。吾是天神之子。名火進命。吾父及兄何処在耶。次火炎衰時躡誥出児、亦言。吾是天神之子。名火折尊。吾父及兄等何処在耶。次避火熱時躡誥出児、亦言。吾是天神之子。名彦火火出見尊。吾父及兄等何処在耶。然後母吾田鹿葦津姫。自火燼中出来、就而称之曰。妾所生児及妾身、自当火難、無所少損。天孫豈見之乎。報曰。我知本是吾児。但一夜而有身。慮有疑者。欲使衆人皆知是吾児。并亦天神能令一夜有娠。亦欲明汝有霊異之威。子等復有超倫之気。故有前日之嘲辞也。梔。此云波茸。音之移反。頭槌。此云箇歩豆智。老翁。此云烏膩。
《第九段一書第六》一書曰。天忍穂根尊、娶高皇産霊尊女子栲幡千千姫万幡姫命。亦云。高皇産霊尊児火之戸幡姫児千千姫命。而生児天火明命。次生天津彦根火瓊瓊杵根尊。其天火明命児、天香山、是尾張連等遠祖也。及至奉降皇孫火瓊瓊杵尊、於葦原中国也。高皇産霊尊、勅八十諸神曰。葦原中国者、磐根・木株・草葉、猶能言語。夜者若〓[火+票]火而喧響之。昼者如五月蠅而沸騰之。云云。時高皇産霊尊勅曰。昔遣天稚彦於葦原中国。至今所以久不来者。蓋是国神有強禦之者。乃遣無名雄雉往候之。此雉降来、因見粟田・豆田。則留而不返。此世所謂雉頓之縁也。故復遣無名雌雉。此鳥下来、為天稚彦所射、中其矢而上報。云云。是時高皇産霊尊乃用真床覆衾、〓皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊。而排披天八重雲以奉降之。故称此神、曰天国饒石彦火瓊瓊杵尊。于時降到之処者。呼曰日向襲之高千穂添山峰矣。及其遊行之時也、云云。
到于吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。乃巡覧其地者。彼有人焉。名曰事勝国勝長狭。天孫因問之曰。此誰国歟。対曰。是長狭所住之国也。然今乃奉上天孫矣。天孫又問曰。其於秀起浪穂之上、起八尋殿、而手玉玲瓏織経之少女者、是誰之子女耶。答曰。大山祇神之女等。大号磐長姫。少号木花開耶姫。亦号豊吾田津姫。云云。皇孫因幸豊吾田津姫。則一夜而有身。皇孫疑之。云云。遂生火酢芹命。次生火折尊。亦号彦火火出見尊。母誓已験。方知。実是皇孫之胤。然豊吾田津姫、恨皇孫不与共言。皇孫憂之。乃為歌之曰。
憶企都茂播。陛爾播誉戻耐母。佐禰耐拠茂。阿党播怒介茂誉。播磨都智耐理誉。
おきつもは へにはよれども さねどこも あたはぬかもよ はまつちどりよ
〓[火+票]火。此云褒倍。喧響。此云淤等娜比。五月蠅。此云左魔倍。添山。此云曾褒里能耶麻。秀起。此云左岐陀豆屡。
《第九段一書第七》一書曰。高皇産霊尊之女天万栲幡千幡姫。一云。高皇産霊尊児。万幡姫児玉依姫命。此神為天忍骨命妃。生児天之杵火火置瀬尊。一云。勝速日命児天大耳尊。此神娶丹〓[潟の旁]姫。生児火瓊瓊杵尊。一云。神高皇産霊尊之女栲幡千幡姫。生児火瓊瓊杵尊。一云。天杵瀬命娶吾田津姫。生児火明命。次火夜織命。次彦火火出見尊。
《第九段一書第八》一書曰。正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。娶高皇産霊尊之女天万栲幡千幡姫、為妃而生児。号天照国照彦火明命。是尾張連等遠祖也。次天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊。此神娶大山祇神女子木花開耶姫命、為妃而生児。号火酢芹命。次彦火火出見尊。 
《第十段本文》兄火闌降命。自有海幸。〈幸。此云左知。〉弟彦火火出見尊。自有山幸。始兄弟二人相謂曰。試欲易幸。遂相易之。各不得其利。兄悔之乃還弟弓箭。而乞己釣鉤。弟時既失兄鉤。無由訪覓。故別作新鉤与兄。兄不肯受、而責其故鉤。弟患之。即以其横刀鍛作新鉤。盛一箕而与之。兄忿之曰。非我故鉤、雖多不取。益復急責。故彦火火出見尊憂苦甚深。行吟海畔。時逢塩土老翁。老翁問曰。何故在此愁乎。対以事之本末。老翁曰。勿復憂。吾当為汝計之。乃作無目籠。内彦火火出見尊於籠中沈之于海。即自然有可怜小汀。〈可怜。此云于麻師。汀。此云波麻。〉於是棄籠遊行。忽至海神之宮。其宮也雉〓整頓。台宇玲瓏。門前有一井。井上有一湯津杜樹。枝葉扶疏。時彦火火出見尊就其樹下。徒倚彷徨良久有一美人。排闥而出。遂以玉鋺来当汲水。因挙目視之。乃驚而還入。白其父母曰。有一希客者。在門前樹下。海神於是鋪設八重席薦、以延内之。坐定。因問其来意。時彦火火出見尊対以情之委曲。海神乃集大小之魚、逼問之。僉曰。不識。唯赤女〈赤女。鯛魚名也。〉比有口疾而不来。固召之探其口者。果得失鉤。
已而彦火火出見尊因娶海神女豊玉姫。仍留住海宮。已経三年。彼処雖復安楽。猶有憶郷之情。故時復太息。豊玉姫聞之、謂其父曰。天孫悽然数歎。蓋懐土之憂乎。海神乃延彦火火出見尊、従容語曰。天孫若欲還郷者。吾当奉送。便授所得釣鉤。因誨之曰。以此鉤与汝兄時。則陰呼此鉤曰貧鉤。然後与之。復授潮満瓊及潮涸瓊、而誨之曰。漬潮満瓊者、則潮忽満。以此没溺汝兄。若兄悔而祈者。還漬潮涸瓊、則潮自涸。以此救之。如此逼悩。則汝兄自伏。及将帰去。豊玉姫謂天孫曰。妾已娠矣。当産不久。妾必以風濤急峻之日、出到海浜。請為我作産室相待矣。
彦火火出見尊已還宮、一遵海神之教。時兄火闌降命既被厄困。乃自伏罪曰。従今以後。吾将為汝俳優之民。請施恩活。於是随其所乞遂赦之。其火闌降命。即吾田君小橋等之本祖也。後豊玉姫、果如前期、将其女弟玉依姫、直冒風波来到海辺。逮臨産時、請曰。妾産時、幸勿以看之。天孫猶不能忍。窃往覘之。豊玉姫方産化為竜。而甚慙之曰。如有不辱我者。則使海陸相通。永無隔絶。今既辱之。将何以結親昵之情乎。乃以草〓児棄之海辺、閉海途而径去矣。故因以名児、曰彦波〓武〓〓[茲+鳥]草葺不合尊。後久之、彦火火出見尊崩。葬日向高屋山上陵。 
《第十段一書第一》一書曰。兄火酢芹命能得海幸。弟彦火火出見尊能得山幸。時兄弟欲互易其幸。故兄持弟之幸弓。入山覓獣。終不見獣之乾迹。弟持兄之幸鉤。入海釣魚。殊無所獲。遂失其鉤。是時兄還弟弓矢、而責己鉤。弟患之。乃以所帯横刀作鉤。盛一箕与兄。兄不受曰。猶欲得吾之幸鉤。於是、彦火火出見尊不知所求。但有憂吟。乃行至海辺。彷徨嗟嘆。時有一長老。忽然而至。自称塩土老翁。乃問之曰。君是誰者。何故患於此処乎。彦火火出見尊具言其事。老翁即取嚢中玄櫛。投地、則化成五百箇竹林。因取其竹、作大目麁籠。内火火出見尊於籠中、投之于海。一云。以無目堅間為浮木。以細縄繋著火火出見尊而沈之。所謂堅間、是今之竹籠也。于時海底自有可怜小汀。乃尋汀而進。忽到海神豊玉彦之宮。其宮也城闕崇華。楼台壮麗。門外有井。井傍有杜樹。乃就樹下立之。良久有一美人。容貌絶世。侍者群従。自内而出。将以玉壼汲玉水。仰見火火出見尊。便以驚還、而白其父神曰。門前井辺樹下、有一貴客。骨法非常。若従天降者、当有天垢。従地来者、当有地垢。実是妙美之。虚空彦者歟。一云。豊玉姫之侍者、以玉瓶汲水。終不能満。俯視井中。則倒映人咲之顔。因以仰観。有一麗神。倚於杜樹。故還入白其王。於是、豊玉彦遣人問曰。客是誰者。何以至此。火火出見尊対曰。吾是天神之孫也。乃遂言来意。時海神迎拝。延入、慇懃奉慰。因以女豊玉姫妻之。故留住海宮、已経三載。
是後火火出見尊数有歎息。豊玉姫問曰。天孫豈欲還故郷歟。対曰。然。豊玉姫即白父神曰。在此貴客、意望欲還上国。海神於是総集海魚、覓問其鉤。有一魚。対曰。赤女久有口疾。或云。赤鯛。疑是之呑乎。故即召赤女。見其口者。鉤猶在口。便得之、乃以授彦火火出見尊。因教之曰。以鉤与汝兄時。則可詛言。貧窮之本。飢饉之始。困苦之根。而後与之。又汝兄渉海時。吾必起迅風・洪濤。令其没溺辛苦矣。於是乗火火出見尊於大鰐。以送致本郷。
先是且別時。豊玉姫従容語曰。妾已有身矣。当以風濤壮日、出到海辺。請為我造産屋以待之。是後豊玉姫果如其言来至。謂火火出見尊曰。妾今夜当産。請勿臨之。火火出見尊不聴。猶以櫛燃火視之。時豊玉姫化為八尋大熊鰐。匍匐逶蛇。遂以見辱為恨。則径帰海郷。留其女弟玉依姫、持養児焉。所以児名称彦波〓武〓〓[茲+鳥]草葺不合尊者。以彼海浜産屋、全用〓〓[茲+鳥]羽為草葺之。而甍未合時、児即生焉。故因以名焉。上国。此云羽播豆矩〓[人偏+爾]。 
《第十段一書第二》一書曰。門前有一好井。井上有百枝杜樹。故彦火火出見尊跳昇其樹而立之。于時海神之女豊玉姫。手持玉鋺来、将汲水。正見人影在於井中。乃仰視之。驚而墜鋺。鋺既破砕不顧而還入。謂父母曰。妾見一人在於井辺樹上。顔色甚美。容貌且閑。殆非常之人者也。時父神聞而奇之。乃設八重席迎入。坐定。因問来意。対以情之委曲。時海神便起憐心、尽召鰭広・鰭狭而問之。皆曰。不知。但赤女有口疾不来。亦云。口女有口疾。即急召至。探其口者。所失之針鉤立得。於是海神制曰。〓[人偏+爾]口女従今以往。不得呑餌。又不得預天孫之饌。即以口女魚所以不進御者。此其縁也。
及至彦火火出見尊将帰之時。海神白言。今者。天神之孫、辱臨吾処。中心欣慶、何日忘之。乃以思則潮溢之瓊。思則潮涸之瓊。副其鉤而奉進之曰。皇孫雖隔八重之隈。冀時復相憶、而勿棄置也。因教之曰。以此鉤与汝兄時。則称貧鉤。滅鉤。落薄鉤。言訖、以後手投棄与之。勿以向授。若兄起忿怒有賊害之心者。則出潮溢瓊以漂溺之。若已至危苦求愍者。則出潮涸瓊以救之。如此逼悩。自当臣伏。時彦火火出見尊受彼瓊鉤、帰来本宮。一依海神之教。先以其鉤与兄。兄怒不受。故弟出潮溢瓊。則潮大溢、而兄自没溺。因請之曰。吾当事汝為奴僕。願垂救活。弟出潮涸瓊。則潮自涸。而兄還平復。已而兄改前言曰。吾是汝兄。如何為人兄而事弟耶。弟時出潮溢瓊。兄見之走登高山。則潮亦没山。兄縁高樹。則潮亦没樹。兄既窮途無所逃去。乃伏罪曰。吾已過矣。従今以往、吾子孫八十連属。恒当為汝俳人。一云。狗人。請哀之。弟還出涸瓊、則潮自息。於是兄知弟有神徳。遂以伏事其弟。是以火酢芹命苗裔、諸隼人等。至今不離天皇宮墻之傍。代吠狗而奉事者也。世人不債失針、此其縁也。 
《第十段一書第三》一書曰。兄火酢芹命能得海幸。故号海幸彦。弟彦火火出見尊能得山幸。故号山幸彦。兄則毎有風雨。輙失其利。弟則雖逢風雨。其幸不惑、時兄謂弟曰。吾試欲与汝換幸。弟許諾因易之。時兄取弟弓失。入山猟獣。弟取兄釣鉤、入海釣魚。倶不得利。空手来帰。兄即還弟弓矢、而責己釣鉤。時弟已失鉤於海中、無因訪獲。故別作新鉤数千与之。兄怒不受。急責故鉤。云云。是時弟往海浜。低徊愁吟。時有川鴈。嬰羂困厄。即起憐心、解而放去。須臾有塩土老翁、来。乃作無目堅間小船。載火火出見尊。推放於海中。則自然沈去。忽有可怜御路。故尋路而往。自至海神之宮。是時海神自迎延入。乃鋪設海驢皮八重、使坐其上。兼設饌百机。以尽主人之礼。因従容問曰。天神之孫何以辱臨乎。一云。頃吾児来語曰。天孫憂居海浜。未審虚実。蓋有之乎。彦火火出見尊具申事之本末。因留息焉。海神則以其子豊玉姫妻之。遂纒綿篤愛、已経三年。
及至将帰、海神乃召鯛女。探其口者、即得鉤焉。於是、進此鉤于彦火火出見尊。因奉教之曰。以此与汝兄時、乃可称曰。大鉤、踉〓[足+旁]鉤。貧鉤。痴〓[馬+矣]鉤。言訖。則可以後手投賜。已而召集鰐魚問之曰。天神之孫今当還去。〓[人偏+爾]等幾日之内、将作以奉致。時諸鰐魚各随其長短、定其日数。中有一尋鰐。自言。一日之内則当致焉。故即遣一尋鰐魚。以奉送焉。復進潮満瓊。潮涸瓊、二種宝物。仍教用瓊之法。又教曰。兄作高田者。汝可作〓田。兄作〓田者。汝可作高田。海神尽誠奉助、如此矣。時彦火火出見尊既帰来、一遵神教。依而行之。其後火酢芹命日以襤褸、而憂之曰。吾已貧矣。乃帰伏於弟。弟時出潮満瓊。即兄挙手溺困。還出潮涸瓊。則休而平復。
先是豊玉姫謂天孫曰。妾已有娠也。天孫之胤、豈可産於海中乎。故当産時、必就君処。如為我造屋於海辺。以相待者。是所望也。故彦火火出見尊已還郷。即以〓〓[茲+鳥]之羽、葺為産屋。屋甍未及合。豊玉姫自馭大亀。将女弟玉依姫、光海来到。時孕月已満。産期方急。由此、不待葺合、径入居焉。已而従容謂天孫曰。妾方産。請勿臨之。天孫心怪其言、窃覘之。則化為八尋大鰐。而知天孫視其私屏。深懐慙恨。既児生之後。天孫就而問曰。児名何称者当可乎。対曰。宜号彦波〓武〓〓[茲+鳥]草葺不合尊。言訖乃渉海径去。于時彦火火出見尊乃歌之曰。
飫企都〓利。軻茂豆勾志磨爾。和我謂禰志。伊茂播和素邏珥。誉能拠〓馭〓母。
おきつとり かもづくしまに わがゐねし いもはわすらじ よのことごとも
亦云。彦火火出見尊取婦人、為乳母。湯母及飯嚼・湯坐。凡諸部備行、以奉養焉。于時権用他姫婦。以乳養皇子焉。此世取乳母、養児之縁也。是後豊玉姫聞其児端正。心甚憐重。欲復帰養。於義不可。故遣女弟玉依姫、以来養者也。于時豊玉姫命寄玉依姫。而奉報歌曰。
阿軻娜磨廼。比訶利播阿利登。比〓播伊珮耐。企弭我誉贈比志。多輔妬勾阿利計利。
あかだまの ひかりはありと ひとはいへど きみがよそひし たふとくありけり
凡此贈答二首、号曰挙歌。海驢。此云美知。踉〓[足+旁]鉤。此云須須能美〓。痴〓[馬+矣]鉤。此云于楼該〓。 
《第十段一書第四》一書曰。兄火酢芹命得山幸利。弟火折尊得海幸利。云云。弟愁吟在海浜。時遇塩筒老翁。老翁問曰。何故愁若此乎。火折尊対曰、云云。老翁曰。勿復憂。吾将計之。計曰。海神所乗駿馬者、八尋鰐也。是竪其鰭背、而在橘之小戸。吾当与彼者共策。乃将火折尊、共往而見之。是時鰐魚策之曰。吾者八日以後、方致天孫於海宮。唯我王駿馬、一尋鰐魚。是当一日之内必奉致焉。故今我帰而、使彼出来。宜乗彼入海。入海之時。海中自有可怜小汀。随其汀而進者。必至我王之宮。宮門井上、当有湯津杜樹。宜就其樹上而居之。言訖即入海去矣。故天孫随鰐所言。留居。相待已八日矣。久之方有一尋鰐来。因乗而入海。毎遵前鰐之教。時有豊玉姫侍者。持玉鋺当汲井水。見人影在水底、酌取之不得。因以仰見天孫。即入告其王曰。吾謂我王独能絶麗。今有一客。弥復遠勝。海神聞之曰。試以察之。乃設三床請入。於是天孫於辺床則拭其両足。於中床則拠其両手。於内床則寛坐於真床覆衾之上。海神見之。乃知是天神之孫。益加崇敬。云云。海神召赤女・口女問之。時、口女自口出鉤以奉焉。赤女即赤鯛也。口女即鯔魚也。時海神授鉤彦火火出見尊。因教之曰。還兄鉤時、天孫則当言。汝生子八十連属之裔。貧鉤。狭狭貧鉤。言訖。三下唾与之。又兄入海釣時。天孫宜在海浜、以作風招。風招即嘯也。如此則吾起瀛風・辺風。以奔波溺悩。火折尊帰来、具遵神教。至及兄釣之日。弟居浜而嘯之。時迅風忽起。兄則溺苦。無由可生。便遥請弟曰。汝久居海原。必有善術。願以救之。若活我者。吾生児八十連属。不離汝之垣辺。当為俳優之民也。於是弟嘯已停、而風亦還息。故兄知弟徳、欲自伏辜。而弟有慍色。不与共言。於是兄著犢鼻。以赭塗掌塗面。告其弟曰。吾汚身如此。永為汝俳優者。乃挙足踏行、学其溺苦之状。初潮漬足時則為足占。至膝時則挙足。至股時則走廻。至腰時則捫腰。至腋時則置手於胸。至頸時則挙手飄掌。自爾及今、曾無廃絶。
先是豊玉姫出来。当産時、請皇孫曰。云云。皇孫不従。豊玉姫大恨之曰。不用吾言、令我屈辱。故自今以往。妾奴婢至君処者。勿復放還。君奴婢至妾処者。亦勿復還。道以真床覆衾及草、〓其児置之波〓。即入海去矣。此海陸不相通之縁也。一云。置児於波〓者非也。豊玉姫命自抱而去。久之曰。天孫之胤、不宜置此海中。乃使玉依姫持之送出焉。初豊玉姫別去時。恨言既切。故火折尊知其不可復会。乃有贈歌。已見上。八十連属。此云野素豆豆企。飄掌。此云陀毘盧箇須也。
《第十一段本文》彦波〓武〓〓[茲+鳥]草葺不合尊。以其姨玉依姫為妃。生彦五瀬命。次稲飯命。次三毛入野命。次神日本磐余彦尊。凡生四男。久之彦波〓武〓〓[茲+鳥]草葺不合尊、崩於西洲之宮。因葬日向吾平山上陵。
《第十一段一書第一》一書曰。先生彦五瀬命。次稲飯命。次三毛入野命。次狭野尊。亦号神日本磐余彦尊。所称狭野者。是年少時之号也。後撥平天下、奄有八洲。故復加号、曰神日本磐余彦尊。
《第十段一書第二》一書曰。先生五瀬命。次三毛野命。次稲飯命。次磐余彦尊。亦号神日本磐余彦火火出見尊。
《第十段一書第三》一書曰。先生彦五瀬命。次稲飯命。次神日本磐余彦火火出見尊。次稚三毛野命。
《第十段一書第四》一書曰。先生彦五瀬命。次磐余彦火火出見尊。次彦稲飯命。次三毛入野命。 
 
旧約聖書「創世記」

 

旧約聖書
ユダヤ教およびキリスト教の正典である。また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。「旧約聖書」という呼称は旧約の成就としての「新約聖書」を持つキリスト教の立場からのもので、ユダヤ教ではこれが唯一の「聖書」である。そのためユダヤ教では旧約聖書とは呼ばれず、ヘブライ語聖書と呼ばれる。その大部分はヘブライ語で記述され、一部にアラム語が用いられている。上記3宗教の文化圏では近代の考古学によって古代文明の詳細が明らかになるまで、世界最古の文献と信じられてきた。
『旧約聖書』とは、『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙二』3章14節などの「古い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。キリスト教側の観点でしかないために最近では『ユダヤ教聖書』、『ヘブライ語聖書』、『ヘブライ語聖典』などと呼ばれることもある。
ユダヤ教においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビームの頭文字、TNKに母音を付した『タナハ』と呼ばれる他、『ミクラー(Miqra):朗誦するもの』と呼ばれることもある。ミクラーはクルアーンと語源を同じくしている。
天地創造と部族長の物語
旧約聖書の冒頭が創世記である。その冒頭では神が7日間で世界を創り、楽園に男と女を住まわせたが、彼らが蛇の誘惑によって禁忌を犯したので楽園を追放されたという、神による天地創造と人間の堕落が語られる(創世記1-3)。以下、創世記には最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話(創世記4:1-16)、ノアの箱舟(創世記6:5-9:17)、バベルの塔(創世記11:1-9)などの物語が続いていく。
続いて創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されている(創世記12-36)。アブラハムはバビロニアから出発して、カナン(現在のイスラエル/パレスチナ)にやってきた遊牧民の族長であり、神から祝福を受け諸民族の父になるという約束を与えられた(創世記12:2)。イサクはアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている(創世記26:24)。さらにその息子がヤコブであり、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を与えると約束している。ヤコブはこの契約でイスラエルと改名し、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった(創世記32:29,35:10)。ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている(創世記29-30)。つまりヤコブがイスラエル/ユダヤ人の始祖である。
創世記には、この族長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されている(創世記37-50)。兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救う話である。創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記18:20-19:28)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32:23-33)が有名である。
また創世記には、多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られている。
モーセと律法
創世記は以上で終わり、物語は出エジプト記につながっていく。前述のヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになる(出エジプト1:1-14)。そこに、エジプト人として教育を受けたモーセ(出エジプト2:1-10)が、神から召命を受けて立ち上がり(出エジプト3:1-4:17)イスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し(出エジプト5:1-15:21)、神が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間シナイ半島で放浪する(出エジプト15:22-40:38、民数記)。モーセが数々の奇跡でエジプト王を威嚇し(出エジプト7:8-11:10)、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割ってその間を通っていくシーン(出エジプト13:17-30)などは有名であり、映像化もされている。現在も続くユダヤ教の行事、たとえば過越祭/除酵祭、仮庵祭などはこの出エジプトおよび荒野流浪の故事にちなむものとされており、ユダヤ文化の中でも特別で象徴的な位置を占める物語である。
シナイ山でモーセとイスラエル人は神から十戒を授かり(出エジプト20:1-16)、他にも様々な祭儀規定や倫理規定、法律が言い渡される(出エジプト19:1-34:35)。十戒は多神教の禁止や偶像崇拝の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体と契約を結ぶ。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点のひとつとされている。「ヤーウェ(ヤハウェ)」という神の名はモーセの召命時に初めて明かされ(出エジプト3:13-15)、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ばれ方でしか知られていなかった部族の神が、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのである。
出エジプト記の他にもレビ記、民数記、申命記には、おびただしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて律法(トーラー、原義は「教え」)と呼ぶ。たとえば法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト21:35)。倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止(レビ記11章、申命記14章など)であるとか子ヤギの肉を乳で煮てはいけない(申命14:21)だとかの細かな食物規定であり、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示されている(出エジプト25-28章)。レビ記、民数記、申命記は物語よりは律法の記載がほとんどであり、ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼んでいる。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたものであるし、五書自体もモーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったためにモーセ五書という呼ばれ方がなされていた。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んでいる。
申命記の最後でヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを遠く望んだモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、モアブの地で没する。
キリスト教の旧約聖書
旧約聖書の語そのものが神学的、信仰的な意味を持っており、キリスト者以外がこれを旧約聖書と呼ぶ義務はない。
これは古い契約の書が旧約聖書であって、新しい契約が新約聖書という意味であり、旧約聖書という表現はサルディスのメリトン(190年)に見られ、アレクサンドリアのクレメンスがよく用いている。
旧約聖書は「律法と預言者と諸書」、「律法と預言者と詩篇」(ルカ24:44)、「律法」(マタイ5:17-18、ヨハネ10:34)と呼ばれていた。旧約聖書と新約聖書を合わせて「律法と預言者および福音と使徒」(アレキサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス)、「律法と福音」(クラウディウス、アポリナリウス、エイレナイオス)と呼ぶ表現があり、アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である。
キリストを知るまでは神を知ることは出来ないので、旧約は不必要だとする見解に対し、キリスト教の宣教の最初は旧約聖書の知識がある人に福音が伝えられたため、イエス・キリストが救い主であると伝えればよかったが、真の神を知らない異教徒の日本人に福音伝道するためには、旧約聖書が必要であると言われる。中央神学校のチャップマン教授は、旧約聖書には異教の偶像崇拝について書かれてあるが、戦前の教派はその旧約聖書の知識を欠いていたために、神社を参拝する偶像崇拝に対してもろかったと指摘する。チャップマン教授は日本で旧約聖書の大切さを早くに主張した。
詩篇で祈る伝統は古くからあった。これは、正教会が聖詠と呼ぶものである。旧約時代に詩篇は歌われていたが、今日でも詩篇歌があり、改革派教会にはジュネーブ詩篇歌がある。
宗教改革者、ピューリタン、チャールズ・スポルジョン、マーティン・ロイドジョンズなどは旧約聖書から説教を行ったが、高等批評、自由主義神学の影響により、今日では旧約聖書から説教することが少なくなっていると言われる。 
創世記 第1章

 

In the beginning God created the heavens and the earth. And the earth was waste and void; and darkness was upon the face of the deep: and the Spirit of God moved upon the face of the waters. And God said, Let there be light: and there was light. And God saw the light, that it was good: and God divided the light from the darkness. And God called the light Day, and the darkness he called Night. And there was evening and there was morning, one day. And God said, Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it divide the waters from the waters. And God made the firmament, and divided the waters which were under the firmament from the waters which were above the firmament: and it was so. And God called the firmament Heaven. And there was evening and there was morning, a second day. And God said, Let the waters under the heavens be gathered together unto one place, and let the dry land appear: and it was so. And God called the dry land Earth; and the gathering together of the waters called he Seas: and God saw that it was good. And God said, Let the earth put forth grass, herbs yielding seed, and fruit-trees bearing fruit after their kind, wherein is the seed thereof, upon the earth: and it was so. And the earth brought forth grass, herbs yielding seed after their kind, and trees bearing fruit, wherein is the seed thereof, after their kind: and God saw that it was good. And there was evening and there was morning, a third day. And God said, Let there be lights in the firmament of heaven to divide the day from the night; and let them be for signs, and for seasons, and for days and years: and let them be for lights in the firmament of heaven to give light upon the earth: and it was so. And God made the two great lights; the greater light to rule the day, and the lesser light to rule the night: he made the stars also. And God set them in the firmament of heaven to give light upon the earth, and to rule over the day and over the night, and to divide the light from the darkness: and God saw that it was good. And there was evening and there was morning, a fourth day. And God said, Let the waters swarm with swarms of living creatures, and let birds fly above the earth in the open firmament of heaven. And God created the great sea-monsters, and every living creature that moveth, wherewith the waters swarmed, after their kind, and every winged bird after its kind: and God saw that it was good. And God blessed them, saying, Be fruitful, and multiply, and fill the waters in the seas, and let birds multiply on the earth. And there was evening and there was morning, a fifth day. And God said, Let the earth bring forth living creatures after their kind, cattle, and creeping things, and beasts of the earth after their kind: and it was so. And God made the beasts of the earth after their kind, and the cattle after their kind, and everything that creepeth upon the ground after its kind: and God saw that it was good. And God said, Let us make man in our image, after our likeness: and let them have dominion over the fish of the sea, and over the birds of the heavens, and over the cattle, and over all the earth, and over every creeping thing that creepeth upon the earth. And God created man in his own image, in the image of God created he him; male and female created he them. And God blessed them: and God said unto them, Be fruitful, and multiply, and replenish the earth, and subdue it; and have dominion over the fish of the sea, and over the birds of the heavens, and over every living thing that moveth upon the earth. And God said, Behold, I have given you every herb yielding seed, which is upon the face of all the earth, and every tree, in which is the fruit of a tree yielding seed; to you it shall be for food: And God said, Behold, I have given you every herb yielding seed, which is upon the face of all the earth, and every tree, in which is the fruit of a tree yielding seed; to you it shall be for food: And God saw everything that he had made, and, behold, it was very good. And there was evening and there was morning, the sixth day. 
はじめに神は天と地とを創造された。 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 夕となり、また朝となった。第三日である。 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 夕となり、また朝となった。第四日である。 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 夕となり、また朝となった。第五日である。 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 
創世記 第2章

 

And the heavens and the earth were finished, and all the host of them. And on the seventh day God finished his work which he had made; and he rested on the seventh day from all his work which he had made. And God blessed the seventh day, and hallowed it; because that in it he rested from all his work which God had created and made. These are the generations of the heavens and of the earth when they were created, in the day that Jehovah God made earth and heaven. And no plant of the field was yet in the earth, and no herb of the field had yet sprung up; for Jehovah God had not caused it to rain upon the earth: and there was not a man to till the ground; but there went up a mist from the earth, and watered the whole face of the ground. Jehovah God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul. And Jehovah God planted a garden eastward, in Eden; and there he put the man whom he had formed. And out of the ground made Jehovah God to grow every tree that is pleasant to the sight, and good for food; the tree of life also in the midst of the garden, and the tree of the knowledge of good and evil. And a river went out of Eden to water the garden; and from thence it was parted, and became four heads. The name of the first is Pishon: that is it which compasseth the whole land of Havilah, where there is gold; and the gold of that land is good: there is bdellium and the onyx stone. And the name of the second river is Gihon: the same is it that compasseth the whole land of Cush. And the name of the third river is Hiddekel: that is it which goeth in front of Assyria. And the fourth river is the Euphrates. And Jehovah God took the man, and put him into the garden of Eden to dress it and to keep it. And Jehovah God commanded the man, saying, Of every tree of the garden thou mayest freely eat: but of the tree of the knowledge of good and evil, thou shalt not eat of it: for in the day that thou eatest thereof thou shalt surely die. And Jehovah God said, It is not good that the man should be alone; I will make him a help meet for him. And out of the ground Jehovah God formed every beast of the field, and every bird of the heavens; and brought them unto the man to see what he would call them: and whatsoever the man called every living creature, that was the name thereof. And the man gave names to all cattle, and to the birds of the heavens, and to every beast of the field; but for man there was not found a help meet for him. And Jehovah God caused a deep sleep to fall upon the man, and he slept; and he took one of his ribs, and closed up the flesh instead thereof: and the rib, which Jehovah God had taken from the man, made he a woman, and brought her unto the man. And the man said, This is now bone of my bones, and flesh of my flesh: she shall be called Woman, because she was taken out of Man. Therefore shall a man leave his father and his mother, and shall cleave unto his wife: and they shall be one flesh. And they were both naked, the man and his wife, and were not ashamed. 
こうして天と地と、その万象とが完成した。 2:2神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。 
創世記 第3章

 

Now the serpent was more subtle than any beast of the field which Jehovah God had made. And he said unto the woman, Yea, hath God said, Ye shall not eat of any tree of the garden? And the woman said unto the serpent, Of the fruit of the trees of the garden we may eat: but of the fruit of the tree which is in the midst of the garden, God hath said, Ye shall not eat of it, neither shall ye touch it, lest ye die. And the serpent said unto the woman, Ye shall not surely die: for God doth know that in the day ye eat thereof, then your eyes shall be opened, and ye shall be as God, knowing good and evil. And when the woman saw that the tree was good for food, and that it was a delight to the eyes, and that the tree was to be desired to make one wise, she took of the fruit thereof, and did eat; and she gave also unto her husband with her, and he did eat. And the eyes of them both were opened, and they knew that they were naked; and they sewed fig-leaves together, and made themselves aprons. And they heard the voice of Jehovah God walking in the garden in the cool of the day: and the man and his wife hid themselves from the presence of Jehovah God amongst the trees of the garden. And Jehovah God called unto the man, and said unto him, Where art thou? And he said, I heard thy voice in the garden, and I was afraid, because I was naked; and I hid myself. And he said, Who told thee that thou wast naked? Hast thou eaten of the tree, whereof I commanded thee that thou shouldest not eat? And the man said, The woman whom thou gavest to be with me, she gave me of the tree, and I did eat. And Jehovah God said unto the woman, What is this thou hast done? And the woman said, The serpent beguiled me, and I did eat. And Jehovah God said unto the serpent, Because thou hast done this, cursed art thou above all cattle, and above every beast of the field; upon thy belly shalt thou go, and dust shalt thou eat all the days of thy life: and I will put enmity between thee and the woman, and between thy seed and her seed: he shall bruise thy head, and thou shalt bruise his heel. Unto the woman he said, I will greatly multiply thy pain and thy conception; in pain thou shalt bring forth children; and thy desire shall be to thy husband, and he shall rule over thee. And unto Adam he said, Because thou hast hearkened unto the voice of thy wife, and hast eaten of the tree, of which I commanded thee, saying, Thou shalt not eat of it: cursed is the ground for thy sake; in toil shalt thou eat of it all the days of thy life; thorns also and thistles shall it bring forth to thee; and thou shalt eat the herb of the field; in the sweat of thy face shalt thou eat bread, till thou return unto the ground; for out of it wast thou taken: for dust thou art, and unto dust shalt thou return. And the man called his wife’s name Eve; because she was the mother of all living. And Jehovah God made for Adam and for his wife coats of skins, and clothed them. And Jehovah God said, Behold, the man is become as one of us, to know good and evil; and now, lest he put forth his hand, and take also of the tree of life, and eat, and live for ever therefore Jehovah God sent him forth from the garden of Eden, to till the ground from whence he was taken. So he drove out the man; and he placed at the east of the garden of Eden the Cherubim, and the flame of a sword which turned every way, to keep the way of the tree of life. 
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 
創世記 第4章

 

And the man knew Eve his wife; and she conceived, and bare Cain, and said, I have gotten a man with the help of Jehovah. And again she bare his brother Abel. And Abel was a keeper of sheep, but Cain was a tiller of the ground. And in process of time it came to pass, that Cain brought of the fruit of the ground an offering unto Jehovah. And Abel, he also brought of the firstlings of his flock and of the fat thereof. And Jehovah had respect unto Abel and to his offering: but unto Cain and to his offering he had not respect. And Cain was very wroth, and his countenance fell. And Jehovah said unto Cain, Why art thou wroth? and why is thy countenance fallen? If thou doest well, shall it not be lifted up? and if thou doest not well, sin coucheth at the door: and unto thee shall be its desire, but do thou rule over it.  And Cain told Abel his brother. And it came to pass, when they were in the field, that Cain rose up against Abel his brother, and slew him.  And Jehovah said unto Cain, Where is Abel thy brother? And he said, I know not: am I my brother’s keeper? And Jehovah said unto Cain, Where is Abel thy brother? And he said, I know not: am I my brother’s keeper? And now cursed art thou from the ground, which hath opened its mouth to receive thy brother’s blood from thy hand; when thou tillest the ground, it shall not henceforth yield unto thee its strength; a fugitive and a wanderer shalt thou be in the earth. And Cain said unto Jehovah, My punishment is greater than I can bear. Behold, thou hast driven me out this day from the face of the ground; and from thy face shall I be hid; and I shall be a fugitive and a wanderer in the earth; and it will come to pass, that whosoever findeth me will slay me. And Jehovah said unto him, Therefore whosoever slayeth Cain, vengeance shall be taken on him sevenfold. And Jehovah appointed a sign for Cain, lest any finding him should smite him. And Cain went out from the presence of Jehovah, and dwelt in the land of Nod, on the east of Eden. And Cain knew his wife; and she conceived, and bare Enoch: and he builded a city, and called the name of the city, after the name of his son, Enoch. And unto Enoch was born Irad: and Irad begat Mehujael: and Mehujael begat Methushael; and Methushael begat Lamech. And Lamech took unto him two wives: the name of the one was Adah, and the name of the other Zillah. And Adah bare Jabal: he was the father of such as dwell in tents and have cattle. And his brother’s name was Jubal: he was the father of all such as handle the harp and pipe. And Zillah, she also bare Tubal-cain, the forger of every cutting instrument of brass and iron: and the sister of Tubal-cain was Naamah. And Lamech said unto his wives: Adah and Zillah, hear my voice; Ye wives of Lamech, hearken unto my speech: For I have slain a man for wounding me, And a young man for bruising me: If Cain shall be avenged sevenfold, Truly Lamech seventy and sevenfold. And Adam knew his wife again; and she bare a son, and called his name Seth. For, said she, God hath appointed me another seed instead of Abel; for Cain slew him. And to Seth, to him also there was born a son; and he called his name Enosh. Then began men to call upon the name of Jehovah. 
人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。 カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。 エノクにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。 アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。 その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。 チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。 レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。 カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。
創世記 第5章

 

This is the book of the generations of Adam. In the day that God created man, in the likeness of God made he him; male and female created he them, and blessed them, and called their name Adam, in the day when they were created. And Adam lived a hundred and thirty years, and begat a son in his own likeness, after his image; and called his name Seth: and the days of Adam after he begat Seth were eight hundred years: and he begat sons and daughters. And all the days that Adam lived were nine hundred and thirty years: and he died. And all the days that Adam lived were nine hundred and thirty years: and he died. Seth lived after he begat Enosh eight hundred and seven years, and begat sons and daughters: and all the days of Seth were nine hundred and twelve years: and he died. And Enosh lived ninety years, and begat Kenan. and Enosh lived after he begat Kenan eight hundred and fifteen years, and begat sons and daughters: and all the days of Enosh were nine hundred and five years: and he died. And Kenan lived seventy years, and begat Mahalalel: and Kenan lived after he begat Mahalalel eight hundred and forty years, and begat sons and daughters: and Kenan lived after he begat Mahalalel eight hundred and forty years, and begat sons and daughters: And Mahalalel lived sixty and five years, and begat Jared: And Mahalalel lived after he begat Jared eight hundred and thirty years, and begat sons and daughters: and all the days of Mahalalel were eight hundred ninety and five years: and he died. And Jared lived a hundred sixty and two years, and begat Enoch: and Jared lived after he begat Enoch eight hundred years, and begat sons and daughters: And all the days of Jared were nine hundred sixty and two years: and he died. And Enoch lived sixty and five years, and begat Methuselah: and Enoch walked with God after he begat Methuselah three hundred years, and begat sons and daughters: and all the days of Enoch were three hundred sixty and five years: and Enoch walked with God: and he was not; for God took him. And Methuselah lived a hundred eighty and seven years, and begat Lamech and Methuselah lived after he begat Lamech seven hundred eighty and two years, and begat sons and daughters. And all the days of Methuselah were nine hundred sixty and nine years: and he died. And Lamech lived a hundred eighty and two years, and begat a son: and he called his name Noah, saying, This same shall comfort us in our work and in the toil of our hands, which cometh because of the ground which Jehovah hath cursed. And Lamech lived after he begat Noah five hundred ninety and five years, and begat sons and daughters: And all the days of Lamech were seven hundred seventy and seven years: and he died. And Noah was five hundred years old: And Noah begat Shem, Ham, and Japheth.  
アダムの系図は次のとおりである。神が人を創造された時、神をかたどって造り、 彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。 アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。 アダムがセツを生んで後、生きた年は八百年であって、ほかに男子と女子を生んだ。 アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。 セツは百五歳になって、エノスを生んだ。 セツはエノスを生んだ後、八百七年生きて、男子と女子を生んだ。 セツの年は合わせて九百十二歳であった。そして彼は死んだ。 エノスは九十歳になって、カイナンを生んだ。 エノスはカイナンを生んだ後、八百十五年生きて、男子と女子を生んだ。 エノスの年は合わせて九百五歳であった。そして彼は死んだ。 カイナンは七十歳になって、マハラレルを生んだ。 カイナンはマハラレルを生んだ後、八百四十年生きて、男子と女子を生んだ。 カイナンの年は合わせて九百十歳であった。そして彼は死んだ。 マハラレルは六十五歳になって、ヤレドを生んだ。 マハラレルはヤレドを生んだ後、八百三十年生きて、男子と女子を生んだ。 マハラレルの年は合わせて八百九十五歳であった。そして彼は死んだ。 ヤレドは百六十二歳になって、エノクを生んだ。 ヤレドはエノクを生んだ後、八百年生きて、男子と女子を生んだ。 ヤレドの年は合わせて九百六十二歳であった。そして彼は死んだ。 エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。 エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。 エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。 エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。 は百八十七歳になって、レメクを生んだ。 メトセラはレメクを生んだ後、七百八十二年生きて、男子と女子を生んだ。 メトセラの年は合わせて九百六十九歳であった。そして彼は死んだ。 レメクは百八十二歳になって、男の子を生み、 「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」と言って、その名をノアと名づけた。 レメクはノアを生んだ後、五百九十五年生きて、男子と女子を生んだ。 レメクの年は合わせて七百七十七歳であった。そして彼は死んだ。 ノアは五百歳になって、セム、ハム、ヤペテを生んだ。  
創世記 第6章

 

And it came to pass, when men began to multiply on the face of the ground, and daughters were born unto them, that the sons of God saw the daughters of men that they were fair; and they took them wives of all that they chose. And Jehovah said, My spirit shall not strive with man for ever, for that he also is flesh: yet shall his days be a hundred and twenty years. The Nephilim were in the earth in those days, and also after that, when the sons of God came unto the daughters of men, and they bare children to them: the same were the mighty men that were of old, the men of renown. And Jehovah saw that the wickedness of man was great in the earth, and that every imagination of the thoughts of his heart was only evil continually. And it repented Jehovah that he had made man on the earth, and it grieved him at his heart. And Jehovah said, I will destroy man whom I have created from the face of the ground; both man, and beast, and creeping things, and birds of the heavens; for it repenteth me that I have made them. But Noah found favor in the eyes of Jehovah. These are the generations of Noah. Noah was a righteous man, and perfect in his generations: Noah walked with God. And Noah begat three sons, Shem, Ham, and Japheth. And the earth was corrupt before God, and the earth was filled with violence. And God saw the earth, and, behold, it was corrupt; for all flesh had corrupted their way upon the earth. And God said unto Noah, The end of all flesh is come before me; for the earth is filled with violence through them; and, behold, I will destroy them with the earth. Make thee an ark of gopher wood; rooms shalt thou make in the ark, and shalt pitch it within and without with pitch. And this is how thou shalt make it: the length of the ark three hundred cubits, the breadth of it fifty cubits, and the height of it thirty cubits. A light shalt thou make to the ark, and to a cubit shalt thou finish it upward; and the door of the ark shalt thou set in the side thereof; with lower, second, and third stories shalt thou make it. And I, behold, I do bring the flood of waters upon this earth, to destroy all flesh, wherein is the breath of life, from under heaven; everything that is in the earth shall die. But I will establish my covenant with thee; and thou shalt come into the ark, thou, and thy sons, and thy wife, and thy sons’ wives with thee. And of every living thing of all flesh, two of every sort shalt thou bring into the ark, to keep them alive with thee; they shall be male and female. Of the birds after their kind, and of the cattle after their kind, of every creeping thing of the ground after its kind, two of every sort shall come unto thee, to keep them alive. And take thou unto thee of all food that is eaten, and gather it to thee; and it shall be for food for thee, and for them. Thus did Noah; according to all that God commanded him, so did he. 
人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。 あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。 その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、 箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。 わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。 ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。 すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。 また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。 ノアはすべて神の命じられたようにした。 
創世記 第7章

 

And Jehovah said unto Noah, Come thou and all thy house into the ark; for thee have I seen righteous before me in this generation. Of every clean beast thou shalt take to thee seven and seven, the male and his female; and of the beasts that are not clean two, the male and his female: of the birds also of the heavens, seven and seven, male and female, to keep seed alive upon the face of all the earth. For yet seven days, and I will cause it to rain upon the earth forty days and forty nights; and every living thing that I have made will I destroy from off the face of the ground. And Noah did according unto all that Jehovah commanded him. And Noah was six hundred years old when the flood of waters was upon the earth. And Noah went in, and his sons, and his wife, and his sons’ wives with him, into the ark, because of the waters of the flood. Of clean beasts, and of beasts that are not clean, and of birds, and of everything that creepeth upon the ground, there went in two and two unto Noah into the ark, male and female, as God commanded Noah. And it came to pass after the seven days, that the waters of the flood were upon the earth. In the six hundredth year of Noah’s life, in the second month, on the seventeenth day of the month, on the same day were all the fountains of the great deep broken up, and the windows of heaven were opened. And the rain was upon the earth forty days and forty nights. In the selfsame day entered Noah, and Shem, and Ham, and Japheth, the sons of Noah, and Noah’s wife, and the three wives of his sons with them, into the ark; they, and every beast after its kind, and all the cattle after their kind, and every creeping thing that creepeth upon the earth after its kind, and every bird after its kind, every bird of every sort. And they went in unto Noah into the ark, two and two of all flesh wherein is the breath of life. And they that went in, went in male and female of all flesh, as God commanded him: and Jehovah shut him in. And the flood was forty days upon the earth; and the waters increased, and bare up the ark, and it was lifted up above the earth. And the waters prevailed, and increased greatly upon the earth; and the ark went upon the face of the waters. And the waters prevailed exceedingly upon the earth; and all the high mountains that were under the whole heaven were covered. Fifteen cubits upward did the waters prevail; and the mountains were covered. And all flesh died that moved upon the earth, both birds, and cattle, and beasts, and every creeping thing that creepeth upon the earth, and every man: all in whose nostrils was the breath of the spirit of life, of all that was on the dry land, died. And every living thing was destroyed that was upon the face of the ground, both man, and cattle, and creeping things, and birds of the heavens; and they were destroyed from the earth: and Noah only was left, and they that were with him in the ark. And the waters prevailed upon the earth a hundred and fifty days.  
主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。 あなたはすべての清い獣の中から雄と雌とを七つずつ取り、清くない獣の中から雄と雌とを二つずつ取り、 また空の鳥の中から雄と雌とを七つずつ取って、その種類が全地のおもてに生き残るようにしなさい。 七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。 ノアはすべて主が命じられたようにした。 さて洪水が地に起った時、ノアは六百歳であった。 ノアは子らと、妻と、子らの妻たちと共に洪水を避けて箱舟にはいった。 また清い獣と、清くない獣と、鳥と、地に這うすべてのものとの、 雄と雌とが、二つずつノアのもとにきて、神がノアに命じられたように箱舟にはいった。 こうして七日の後、洪水が地に起った。 それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、 雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。 その同じ日に、ノアと、ノアの子セム、ハム、ヤペテと、ノアの妻と、その子らの三人の妻とは共に箱舟にはいった。 またすべての種類の獣も、すべての種類の家畜も、地のすべての種類の這うものも、すべての種類の鳥も、すべての翼あるものも、皆はいった。 すなわち命の息のあるすべての肉なるものが、二つずつノアのもとにきて、箱舟にはいった。 そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。 洪水は四十日のあいだ地上にあった。水が増して箱舟を浮べたので、箱舟は地から高く上がった。 また水がみなぎり、地に増したので、箱舟は水のおもてに漂った。 水はまた、ますます地にみなぎり、天の下の高い山々は皆おおわれた。 水はその上、さらに十五キュビトみなぎって、山々は全くおおわれた。 地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。 すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。 地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。 水は百五十日のあいだ地上にみなぎった。  
創世記 第8章

 

And God remembered Noah, and all the beasts, and all the cattle that were with him in the ark: and God made a wind to pass over the earth, and the waters assuaged; the fountains also of the deep and the windows of heaven were stopped, and the rain from heaven was restrained and the waters returned from off the earth continually: and after the end of a hundred and fifty days the waters decreased. And the ark rested in the seventh month, on the seventeenth day of the month, upon the mountains of Ararat. And the waters decreased continually until the tenth month: in the tenth month, on the first day of the month, were the tops of the mountains seen. And it came to pass at the end of forty days, that Noah opened the window of the ark which he had made: and he sent forth a raven, and it went forth to and fro, until the waters were dried up from off the earth. And he sent forth a dove from him, to see if the waters were abated from off the face of the ground; but the dove found no rest for the sole of her foot, and she returned unto him to the ark; for the waters were on the face of the whole earth: and he put forth his hand, and took her, and brought her in unto him into the ark. And he stayed yet other seven days; and again he sent forth the dove out of the ark; and the dove came in to him at eventide; and, lo, in her mouth an olive-leaf plucked off: so Noah knew that the waters were abated from off the earth. And he stayed yet other seven days, and sent forth the dove; and she returned not again unto him any more. And it came to pass in the six hundred and first year, in the first month, the first day of the month, the waters were dried up from off the earth: and Noah removed the covering of the ark, and looked, and, behold, the face of the ground was dried. And in the second month, on the seven and twentieth day of the month, was the earth dry. And God spake unto Noah, saying, Go forth from the ark, thou, and thy wife, and thy sons, and thy sons’ wives with thee. Bring forth with thee every living thing that is with thee of all flesh, both birds, and cattle, and every creeping thing that creepeth upon the earth; that they may breed abundantly in the earth, and be fruitful, and multiply upon the earth. And Noah went forth, and his sons, and his wife, and his sons’ wives with him: every beast, every creeping thing, and every bird, whatsoever moveth upon the earth, after their families, went forth out of the ark. And Noah builded an altar unto Jehovah, and took of every clean beast, and of every clean bird, and offered burnt-offerings on the altar. And Jehovah smelled the sweet savor; and Jehovah said in his heart, I will not again curse the ground any more for man’s sake, for that the imagination of man’s heart is evil from his youth; neither will I again smite any more everything living, as I have done. While the earth remaineth, seedtime and harvest, and cold and heat, and summer and winter, and day and night shall not cease.  
神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。 また淵の源と、天の窓とは閉ざされて、天から雨が降らなくなった。 それで水はしだいに地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、 箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。 水はしだいに減って、十月になり、十月一日に山々の頂が現れた。 四十日たって、ノアはその造った箱舟の窓を開いて、 からすを放ったところ、からすは地の上から水がかわききるまで、あちらこちらへ飛びまわった。 ノアはまた地のおもてから、水がひいたかどうかを見ようと、彼の所から、はとを放ったが、 はとは足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地のおもてにあったからである。彼は手を伸べて、これを捕え、箱舟の中の彼のもとに引き入れた。 それから七日待って再びはとを箱舟から放った。 はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。 さらに七日待ってまた、はとを放ったところ、もはや彼のもとには帰ってこなかった。 六百一歳の一月一日になって、地の上の水はかれた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもては、かわいていた。 二月二十七日になって、地は全くかわいた。 この時、神はノアに言われた、 「あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい。 あなたは、共にいる肉なるすべての生き物、すなわち鳥と家畜と、地のすべての這うものとを連れて出て、これらのものが地に群がり、地の上にふえ広がるようにしなさい」。 ノアは共にいた子らと、妻と、子らの妻たちとを連れて出た。 またすべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上に動くものは皆、種類にしたがって箱舟を出た。 は主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。 地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。 
創世記 第9章

 

And God blessed Noah and his sons, and said unto them, Be fruitful, and multiply, and replenish the earth. And the fear of you and the dread of you shall be upon every beast of the earth, and upon every bird of the heavens; with all wherewith the ground teemeth, and all the fishes of the sea, into your hand are they delivered. Every moving thing that liveth shall be food for you; as the green herb have I given you all. But flesh with the life thereof, which is the blood thereof, shall ye not eat. And surely your blood, the blood of your lives, will I require; at the hand of every beast will I require it. And at the hand of man, even at the hand of every man’s brother, will I require the life of man. Whoso sheddeth man’s blood, by man shall his blood be shed: for in the image of God made he man. And you, be ye fruitful, and multiply; bring forth abundantly in the earth, and multiply therein. And God spake unto Noah, and to his sons with him, saying, And I, behold, I establish my covenant with you, and with your seed after you; and with every living creature that is with you, the birds, the cattle, and every beast of the earth with you. Of all that go out of the ark, even every beast of the earth. And I will establish my covenant with you; neither shall all flesh be cut off any more by the waters of the flood; neither shall there any more be a flood to destroy the earth. And God said, This is the token of the covenant which I make between me and you and every living creature that is with you, for perpetual generations: I do set my bow in the cloud, and it shall be for a token of a covenant between me and the earth. And it shall come to pass, when I bring a cloud over the earth, that the bow shall be seen in the cloud, and I will remember my covenant, which is between me and you and every living creature of all flesh; and the waters shall no more become a flood to destroy all flesh. And the bow shall be in the cloud; and I will look upon it, that I may remember the everlasting covenant between God and every living creature of all flesh that is upon the earth. And God said unto Noah, This is the token of the covenant which I have established between me and all flesh that is upon the earth. And the sons of Noah, that went forth from the ark, were Shem, and Ham, and Japheth: and Ham is the father of Canaan. These three were the sons of Noah: and of these was the whole earth overspread. And Noah began to be a husbandman, and planted a vineyard: and he drank of the wine, and was drunken. And he was uncovered within his tent. And Ham, the father of Canaan, saw the nakedness of his father, and told his two brethren without. And Shem and Japheth took a garment, and laid it upon both their shoulders, and went backward, and covered the nakedness of their father. And their faces were backward, and they saw not their father’s nakedness. And Noah awoke from his wine, and knew what his youngest son had done unto him. And he said,Cursed be Canaan; A servant of servants shall he be unto his brethren. And he said, Blessed be Jehovah, the God of Shem; And let Canaan be his servant. God enlarge Japheth, And let him dwell in the tents of Shem; And let Canaan be his servant. And Noah lived after the flood three hundred and fifty years. And all the days of Noah were nine hundred and fifty years: and he died. 
神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。 地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。 あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。 人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。 あなたがたは、生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ」。 神はノアおよび共にいる子らに言われた、 「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。 またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。 わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。 さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。 こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。 にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。 そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。 箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。 この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。 やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、 彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。 また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。 神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。 ノアは洪水の後、なお三百五十年生きた。 ノアの年は合わせて九百五十歳であった。そして彼は死んだ。 
創世記 第10章

 

Now these are the generations of the sons of Noah, namely, of Shem, Ham, and Japheth: and unto them were sons born after the flood. The sons of Japheth: Gomer, and Magog, and Madai, and Javan, and Tubal, and Meshech, and Tiras And the sons of Gomer: Ashkenaz, and Riphath, and Togarmah. And the sons of Javan: Elishah, and Tarshish, Kittim, and Dodanim. Of these were the isles of the nations divided in their lands, every one after his tongue, after their families, in their nations. And the sons of Ham: Cush, and Mizraim, and Put, and Canaan. And the sons of Cush: Seba, and Havilah, and Sabtah, and Raamah, and Sabteca; and the sons of Raamah: Sheba, and Dedan. And Cush begat Nimrod: he began to be a mighty one in the earth. He was a mighty hunter before Jehovah: wherefore it is said, Like Nimrod a mighty hunter before Jehovah. And the beginning of his kingdom was Babel, and Erech, and Accad, and Calneh, in the land of Shinar. Out of that land he went forth into Assyria, and builded Nineveh, and Rehoboth-Ir, and Calah, and Resen between Nineveh and Calah (the same is the great city). And Mizraim begat Ludim, and Anamim, and Lehabim, and Naphtuhim, and Pathrusim, and Casluhim (whence went forth the Philistines), and Caphtorim. And Canaan begat Sidon his first-born, and Heth, and the Jebusite, and the Amorite, and the Girgashite, and the Hivite, and the Arkite, and the Sinite, and the Arvadite, and the Zemarite, and the Hamathite: and afterward were the families of the Canaanite spread abroad. And the border of the Canaanite was from Sidon, as thou goest toward Gerar, unto Gaza; as thou goest toward Sodom and Gomorrah and Admah and Zeboiim, unto Lasha. These are the sons of Ham, after their families, after their tongues, in their lands, in their nations. And unto Shem, the father of all the children of Eber, the elder brother of Japheth, to him also were children born. The sons of Shem: Elam, and Asshur, and Arpachshad, and Lud, and Aram. And the sons of Aram: Uz, and Hul, and Gether, and Mash. And Arpachshad begat Shelah; and Shelah begat Eber. And unto Eber were born two sons: the name of the one was Peleg. For in his days was the earth divided. And his brother’s name was Joktan. And Joktan begat Almodad, and Sheleph, and Hazarmaveth, and Jerah, and Hadoram, and Uzal, and Diklah, and Obal, and Abimael, and Sheba, and Ophir, and Havilah, and Jobab: all these were the sons of Joktan. And their dwelling was from Mesha, as thou goest toward Sephar, the mountain of the east. These are the sons of Shem, after their families, after their tongues, in their lands, after their nations. These are the families of the sons of Noah, after their generations, in their nations: and of these were the nations divided in the earth after the flood.
ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生れた。 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであった。   ゴメルの子孫はアシケナズ、リパテ、トガルマ。 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシ、キッテム、ドダニムであった。 これらから海沿いの地の国民が分れて、おのおのその土地におり、その言語にしたがい、その氏族にしたがって、その国々に住んだ。 ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナンであった。 クシの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカであり、ラアマの子孫はシバとデダンであった。 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。 彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。 彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。 彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、 およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。 ミツライムからルデ族、アナミ族、レハビ族、ナフト族、 パテロス族、カスル族、カフトリ族が出た。カフトリ族からペリシテ族が出た。 カナンからその長子シドンが出て、またヘテが出た。 その他エブスびと、アモリびと、ギルガシびと、 ヒビびと、アルキびと、セニびと、 アルワデびと、ゼマリびと、ハマテびとが出た。後になってカナンびとの氏族がひろがった。 カナンびとの境はシドンからゲラルを経てガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムを経て、レシャに及んだ。 これらはハムの子孫であって、その氏族とその言語とにしたがって、その土地と、その国々にいた。 セムにも子が生れた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。 セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラムであった。 アラムの子孫はウヅ、ホル、ゲテル、マシであった。 アルパクサデの子はシラ、シラの子はエベルである。 エベルにふたりの子が生れた。そのひとりの名をペレグといった。これは彼の代に地の民が分れたからである。その弟の名をヨクタンといった。 ヨクタンにアルモダデ、シャレフ、ハザルマウテ、エラ、 ハドラム、ウザル、デクラ、 オバル、アビマエル、シバ、 オフル、ハビラ、ヨバブが生れた。これらは皆ヨクタンの子であった。 彼らが住んだ所はメシャから東の山地セパルに及んだ。 これらはセムの子孫であって、その氏族とその言語とにしたがって、その土地と、その国々にいた。 これらはノアの子らの氏族であって、血統にしたがって国々に住んでいたが、洪水の後、これらから地上の諸国民が分れたのである。 
創世記 第11章

 

And the whole earth was of one language and of one speech. And it came to pass, as they journeyed east, that they found a plain in the land of Shinar; and they dwelt there. And they said one to another, Come, let us make brick, and burn them thoroughly. And they had brick for stone, and slime had they for mortar. And they said, Come, let us build us a city, and a tower, whose top may reach unto heaven, and let us make us a name; lest we be scattered abroad upon the face of the whole earth. And Jehovah came down to see the city and the tower, which the children of men builded. And Jehovah said, Behold, they are one people, and they have all one language; and this is what they begin to do: and now nothing will be withholden from them, which they purpose to do. Come, let us go down, and there confound their language, that they may not understand one another’s speech. Jehovah scattered them abroad from thence upon the face of all the earth: and they left off building the city. Therefore was the name of it called Babel; because Jehovah did there confound the language of all the earth: and from thence did Jehovah scatter them abroad upon the face of all the earth. These are the generations of Shem. Shem was a hundred years old, and begat Arpachshad two years after the flood. and Shem lived after he begat Arpachshad five hundred years, and begat sons and daughters. And Arpachshad lived five and thirty years, and begat Shelah. and Arpachshad lived after he begat Shelah four hundred and three years, and begat sons and daughters. And Shelah lived thirty years, and begat Eber: and Shelah lived after he begat Eber four hundred and three years, and begat sons and daughters. And Eber lived four and thirty years, and begat Peleg: and Eber lived after he begat Peleg four hundred and thirty years, and begat sons and daughters. And Peleg lived thirty years, and begat Reu: and Peleg lived after he begat Reu two hundred and nine years, and begat sons and daughters. And Reu lived two and thirty years, and begat Serug: and Reu lived after he begat Serug two hundred and seven years, and begat sons and daughters. And Serug lived thirty years, and begat Nahor: and Serug lived after he begat Nahor two hundred years, and begat sons and daughters. And Nahor lived nine and twenty years, and begat Terah: and Nahor lived after he begat Terah a hundred and nineteen years, and begat sons and daughters. And Terah lived seventy years, and begat Abram, Nahor, and Haran. Now these are the generations of Terah. Terah begat Abram, Nahor, and Haran. And Haran begat Lot. Haran died before his father Terah in the land of his nativity, in Ur of the Chaldees. And Abram and Nahor took them wives: the name of Abram’s wife was Sarai; and the name of Nahor’s wife, Milcah, the daughter of Haran, the father of Milcah, and the father of Iscah. And Sarai was barren; She had no child. And Terah took Abram his son, and Lot the son of Haran, his son’s son, and Sarai his daughter-in-law, his son Abram’s wife; and they went forth with them from Ur of the Chaldees, to go into the land of Canaan; and they came unto Haran, and dwelt there. And the days of Terah were two hundred and five years: and Terah died in Haran. 
全地は同じ発音、同じ言葉であった。 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 セムの系図は次のとおりである。セムは百歳になって洪水の二年の後にアルパクサデを生んだ。 セムはアルパクサデを生んで後、五百年生きて、男子と女子を生んだ。 アルパクサデは三十五歳になってシラを生んだ。 アルパクサデはシラを生んで後、四百三年生きて、男子と女子を生んだ。 シラは三十歳になってエベルを生んだ。 シラはエベルを生んで後、四百三年生きて、男子と女子を生んだ。 エベルは三十四歳になってペレグを生んだ。 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生きて、男子と女子を生んだ。 ペレグは三十歳になってリウを生んだ。 ペレグはリウを生んで後、二百九年生きて、男子と女子を生んだ。 リウは三十二歳になってセルグを生んだ。 リウはセルグを生んで後、二百七年生きて、男子と女子を生んだ。 セルグは三十歳になってナホルを生んだ。 セルグはナホルを生んで後、二百年生きて、男子と女子を生んだ。 ナホルは二十九歳になってテラを生んだ。 ナホルはテラを生んで後、百十九年生きて、男子と女子を生んだ。 テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ。 テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。 ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。 サライはうまずめで、子がなかった。 テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。 テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。 
創世記 第12章

 

Now Jehovah said unto Abram, Get thee out of thy country, and from thy kindred, and from thy father’s house, unto the land that I will show thee: and I will make of thee a great nation, and I will bless thee, and make thy name great; and be thou a blessing; and I will bless them that bless thee, and him that curseth thee will I curse: and in thee shall all the families of the earth be blessed. Abram went, as Jehovah had spoken unto him; and Lot went with him: and Abram was seventy and five years old when he departed out of Haran. And Abram took Sarai his wife, and Lot his brother’s son, and all their substance that they had gathered, and the souls that they had gotten in Haran; and they went forth to go into the land of Canaan; and into the land of Canaan they came. And Abram passed through the land unto the place of Shechem, unto the oak of Moreh. And the Canaanite was then in the land. And Jehovah appeared unto Abram, and said, Unto thy seed will I give this land: and there builded he an altar unto Jehovah, who appeared unto him. And he removed from thence unto the mountain on the east of Beth-el, and pitched his tent, having Beth-el on the west, and Ai on the east: and there he builded an altar unto Jehovah, and called upon the name of Jehovah. And Abram journeyed, going on still toward the South. And there was a famine in the land: and Abram went down into Egypt to sojourn there; for the famine was sore in the land. And there was a famine in the land: and Abram went down into Egypt to sojourn there; for the famine was sore in the land. and it will come to pass, when the Egyptians shall see thee, that they will say, This is his wife: and they will kill me, but they will save thee alive. Say, I pray thee, thou art my sister; that it may be well with me for thy sake, and that my soul may live because of thee. And it came to pass, that, when Abram was come into Egypt, the Egyptians beheld the woman that she was very fair. And the princes of Pharaoh saw her, and praised her to Pharaoh: and the woman was taken into Pharaoh’s house. And he dealt well with Abram for her sake: and he had sheep, and oxen, and he-asses, and men-servants, and maid-servants, and she-asses, and camels. And Jehovah plagued Pharaoh and his house with great plagues because of Sarai, Abram’s wife. And Pharaoh called Abram, and said, What is this that thou hast done unto me? why didst thou not tell me that she was thy wife? why saidst thou, She is my sister, so that I took her to be my wife? now therefore behold thy wife, take her, and go thy way. And Pharaoh gave men charge concerning him: and they brought him on the way, and his wife, and all that he had. 
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。 は主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。 アブラムはなお進んでネゲブに移った。 さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。 エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。 それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。 どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。 パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを得た。 ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。 パロはアブラムを召し寄せて言った、「あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。 あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」。 パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。 
 
殷墟考古資料に現われる商代中原地区の気候および生態環境の変遷

 

摘要
殷商時期の気候に対する研究は、およそ二つの観点に分かれる。一つは、現在より温暖湿潤であったという説であり、もう一つは、古代から現代まで大きな変化はなかったとする説である。私は前者を支持する。つまり商代中原地区の気候は今の長江流域の気候と同じであったと考える。年平均気温は15.6−16.6℃、1月の平均気温は1.2−3.2℃であった。ただ、殷商時代晩期に至るとこの良好な気候条件は悪化し始め、乾燥低温化の方向に向かい、土壌の土質が変化し、旱害がしばしば発生し、時には砂あらしも発生した。殷商晩期におけるこういう気候の変化はけっして人間の自然破壊によるものではなく、中原地区における西北季節風の変化の影響である。この気候変化は、この後数千年にわたる中国北方の環境悪化の始まりであった。
「殷」
(いん、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年) 国の王朝である。文献には夏王朝を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう)とも言われる。「殷」とは周などによって使われた他称であり、『史記』では一貫して殷である。一方、商が自称であるという見方も成り立つことから、現在の中国ではほぼ「商」もしくは「商殷」と呼ばれる。商の名前は『通志』などで殷王朝の祖契が商に封じられたとあるのに由来するとされ、殷墟の甲骨文から都を商または大邑商と呼んでいる事例は確認されており、周は殷の都を商邑と呼んでいる。しかし、確定的な解釈があるわけではない。なお『尚書』では「商」が使われている。 
一.商代気候の研究の回顧と評価
中国北方地区の歴史時代における気候の変遷に関しては、現代のたくさんの天文学者、気候学者および歴史学者が深く研究を進めた。
かなり早い時期に、殷商時代北方の気候と生態環境を研究した人は、気象学者物候学者の竺可髏謳カであった。彼は20世紀の二十年代にこの問題に対して探索を開始した。その後、歴史学者・蒙文通先生もこの問題に対して大きな関心を寄せた。その後、殷墟の考古発見が進むにつれて、研究者は甲骨の卜雨卜辞を取り上げて、商代の気候に対して研究を進めた。最初、ドイツ人学者ウィトフォーゲルは、降雨、農業、征戦、狩猟等と季節が記された108条の気象卜辞を集めて、当時の気候状況について考察した。胡厚宣先生も主に甲骨文に基づき研究を始めた。彼は151条の気象卜辞を取り上げて、さらにその他の材料も併せて考察し、殷墟地区の気候状況を推定した。ウィトフォーゲル、胡厚宣二氏はともに、月名が記されてある気象卜辞に対して統計学の方法を用いて分析し、これを商代における降水の主な証拠として、殷商時代は温暖湿潤であったという判断を提出した。我々は、竺可驕A蒙文通、ウィトフォーゲル、胡厚宣等の学者の研究を根拠として、上古時代、北方黄河流域の気候が現在より温和で、今日の長江流域の気温、湿度と似ていたと考える。
しかし、これと異なる見解をとる学者もいる。例えば、甲骨学者・董作賓先生も甲骨を研究材料として使用して考察を行ったが、次のように述べている。私の大まかな観察によれば、私が思うところの殷代の気候は、卜辞内容によれば、現在の黄河流域の気候とほとんど差は無い。だから私は、殷代の気候は現在に比べて暖かだったと言うことはできない。ましてや、今日よりずっと暑かったと言えないことは言うまでもない。これが、私とウィトフォーゲル、胡厚宣二氏の見解が根本的に異なるところである。
日本人学者・白川静、米国の何柄棣、朱培仁などの学者のいくつかの研究は、古今において気候にそれほど大きな変化はなく、殷墟時代中原地区の気候は現在と大差ないと主張している。1991年、日本人学者、末次信行は降雨卜辞に対して研究を行い次のような見解を発表した。1年における降雨量は、九月から増加を始め、二月三月に最大に達する。そして四月五月になると急速に減少する。この気候に対応する農作物は、殷代の農作物として一般に考えられてところの「黍」ではなくて、「麦」である。現在の北方における小麦の種まき時期と収穫時期はまさしくこういう降雨時期と一致する。よって、古今における気候は大きな変化はなかった。
20世紀の六、七十年代に竺可髏謳カは、冬季の気温を標準として利用し、歴代の物候記録を参考にして中国古気候の変遷を研究した。商代晩期における殷墟地区の気候条件について、竺先生は独自の見解を形成した。彼はこう考える。安陽地方は、正月の平均温度は3℃〜5℃下った。冬季における降雪量の総量はきっと大きく異なっているに違いない。さらに次の点について容易に察することができる。近五千年の間、仰韶文化時代と殷墟時代は、気候が温和な時代であり、当時の西安と安陽地区には亜熱帯の植物と動物がかなり豊富に存在した。
20世紀の八、九十年代になって、気象学者はもっとたくさんの古代の物候資料を利用して、竺可髏謳カの見解を証明し、さらに補充した。いくつかの歴史研究の著作も、殷商時代の気候は現在よりも温暖であったという見解を受け入れている。また何人かの考古学者も同様である。たとえば、李済先生は、殷墟における考古発見をもとに、商代の気候はたしかに現在より温暖湿潤であったと考えた。また張光直先生は胞子、花粉および化石などを証拠としてこう考えた。中国古代の北方には森林、湖沼がたくさんあって鳥獣がたくさん生息していた。黄河流域の気候は暑くて湿度も高く、現在の長江流域の気候とほぼ同じであった。
近年来の古代気候に対する研究成果を総合すると、今から5千年−4千年前に起こった大洪水が強盛な夏季の風を北方まで移動させ、それによって、温暖湿潤な気候と高海面が形成されたことが、明らかになった。当時の年平均気温は今に比べて2度−4度高く、今の長江下流域江南の気候に似ていたはずである。古気候、古水文(水系)の研究によると、華北地区黄河下流たとえば河南一帯は、今から8千年−6千年前の時期の古気候は、気温が高く降水量が少なかったことを示している。ところが、5千年−3千8百年前の時期には高温多雨の気候になった。仰韶文化時期には広範囲にわたって今より温暖で、対応する気候帯は現在よりずっと北に寄っていた。歴史時代に入って、亜熱帯の北界は、最も温暖な時期には華北平原まで達したことがあり、またもっとも寒冷な時期にはそれが長江以南まで移ったこともあった。歴史時代における北方地区の気候変遷は、たしかに4つの冷暖波動期を経過した。第一温暖期はおよそ紀元前3500年に始まった。それから紀元前1000年までつまり新石器時代から殷商時期に相当する時代は、わが国5000年来の気候で最も温暖であった時期である。四十年代になってから、地下から発掘された動物に対する鑑定と、植物および花粉胞子に対する分析が始まったが、その成果もみな同一の結論に達した。つまり商代の気候は現代より温暖多湿であったということである。よって、蒙文通、竺可驕A胡厚宣等、早い世代の学者の観点は大筋で正確であったことが証明された。
これに対して、董作賓先生の判断根拠はただ殷墟甲骨文によるのみであった。我々が知る通り、卜辞に記録される内容の範囲に限界があり、みな王室に関する事項と無縁のものではない。さらに、我々が現在見ることのできるものは、当時残した甲骨の全部ではなく、欠けるところが多い不完全な記録である。ゆえに、卜辞資料を利用してある問題を論証しようとするなら、他方面の資料を用いて得られる結論を傍証としなくてはならない。さらに、中国および世界各国のたくさんの気象学者が氷河期以後の気候について研究し、みな気候に冷暖の変化があったと述べている。董作賓先生は気候変化の世界的にわたる原理を無視し、商代華北の気候は今日と大きな差はないと判断した。研究の方法上に誤りがあったのであり、軽率な結論であった。また、董先生は卜雨卜辞に関して、“卜月雨”と“卜遘雨”の区分も決して正確ではない(詳しくは、別の場で述べる)。何柄棣先生は農耕方面から生態環境に対する研究を行ったが、主に黄土高原地区の資料に限られていたので、その結論は西北の高原地帯には適合するが、華北平原の状況には必ずしも適合するものではない。さらに末次信行先生の研究にいたっては、彼が以前に示したところの、甲骨文の農作物“黍”を“麦”と解釈し直す観点を前提としている。しかしその字は、字形上からも、音義上からも“黍”とするのが正しいのは明白で、その上、甲骨文には“麦”字、“来”字はきちんと確認されている。よって、彼が導き出した結論つまり、商代において今と同じように麦の播種と収穫が行われていたので、古今の気候に大きな変化は無かったという見解も、我々を納得させることはできないものである。 
二.商代中原地区の気候概況
竺可髏謳カが作成した「一万年来ノルウェー雪線の高度と五千年来中国温度の変遷図」を見ると、中国5000年の気候変化の波動曲線はノルウェーのそれと大体一致している。だから、同一時期における気候の変化は、世界的に共通していたことが分かる。中国北方における上古時代の気候条件を今日のそれを比較すると、変化の差は非常に大きい。その時代は、中国の南方と北方は、地球の全体的状況と同じく、歴史上の「気候最適時期」ClimaticOptimumであった。また中国でこの時期は、年代的に仰韶文化と関連するので、「仰韶温暖時期」と呼ばれる。多くの学者がこの時期の気候に対して、考古学、古文字学、花粉胞子学等さまざまな角度から研究を行い、ほぼ同様の結論を得た。華北地区の年平均温度は現在より2−3℃高く、冬季1月の平均気温は現在より3−5℃高かった。また年降水量は現在より200ミリリットル多かった。
平均気温の数度の差は、その専門でない人から見ると、取るに足らない程度に見え、気候、環境にそんなに大きな影響を与えるはずがないと思われるかもしれない。しかし実際は、この差は≽10℃Σt(これは10℃の年積温より大きい。これをみても熱資源の量の大きさを推測できるだろう。)という巨大な熱量の増加を引き起こし、地域によっては、緯度で南に数度下るのに相当する。当時、黄河流域(とりわけ中下流地区)は文化が発達していた地域であるが、完全に亜熱帯気候に入っていた。よって、中国中原地区すなわち中国北方の文化核心地区の気候は亜熱帯半湿潤気候であったと断定してよい。
ここで言う北方の文化核心地区とは、隴山(陝西省)、呂梁(山西省)、太行(山西省−河北省)、泰山(山東省)、嵩山(河南省)および秦嶺を境として囲まれた黄河中下流地区を指す。これはすなわち、現在一般に中原地区と呼ばれているところの基本領域を指す。これは相当広大な地域であり、商代において商王朝が直接支配した領域つまり王畿範囲でもある。そして殷墟都城の所在地・安陽地区は疑いもなくこの地域の中心に位置する。また竺論文中のノルウェー雪線図を見て具体的に述べよう。商代に相当する紀元前の2000−1000年この時期に、ノルウェー雪線はほとんど最高値に達し、海抜1800−1900mまで上った。雪線の高低昇降は気候と一定の関係がある。気温が高くなれば雪線は上がり、逆の場合は下る。
殷商時期、ノルウェー雪線は最高になった。それはこの時期に温度がとても高かったことを示している。ゆえに竺先生は、商代の気候は中国の歴史上で最適の時期であった、と述べた。殷墟の所在地安陽県の気象資料を調べると、安陽の現在の年平均気温は13.6℃、1月の平均気温はマイナス1.8℃(1951−1980年の統計)である。そして安陽殷墟時代ほぼ全体にわたって年平均温度は現在より2−3℃高く、1月の温度は現在より3−5℃高かった。よって殷商時期の殷都城の気候はおよそ次のような状況であったことが分かる。年平均気温は15.6−16.6℃、1月の平均気温は1.2−3.2℃。いま、ある地域における年平均温度が摂氏1度(1℃)上がるごとにその地が南に200−300キロメートル移るのに相当するという基準に従って計算すると、商代安陽の気候はまさに今日の長江流域の気候と同じである。我々は、現在の長江流域たとえば湖北省の年平均気温は13−18℃、1月の平均気温は1−6℃であることを知っている。これはまさに我々の推算値にほとんど一致する。つまり殷商時代の中原地区は温暖湿潤で、人類の生存、繁栄、発展にとって良好な気候条件であったのである。
近年、安陽洹河北岸の花園荘中商遺跡から、当時の環境的特徴をかなり明確に反映する動物たとえば綿羊、黄牛など北方動物群に属するもの、およびサイ、麋鹿、水牛など南方動物群に属するものが出土した。唐際根、袁靖の二先生はこの状況を見て、次のように判断した。北方と南方の動物群がこのように共存していた特徴によって、当時の安陽地区の気候は現在より温暖湿潤であり、南北の気候の過渡地帯の特徴をかなりたくさん具えており、今日の淮河地区に似た気候であった。さらに、蚌や魚などの動物が発見されたので、当時、遺跡付近には大きな河が流れていたことを示している。その河とはすなわち我々が今見るところの洹河であるに違いない。
この研究は、殷商時期における安陽地区は南北の気候の過渡地帯すなわち淮河流域の気候と同じであったという新見解を出したものではあったが、やはり従来の学者と同様、野生動物類の発見に基づいて殷商時期中原地区の気候は現在より温暖湿潤であると証明したものであった。
殷墟の考古発掘によって得られた資料が示す殷墟都城つまり安陽地区の状況はこのようであったが、中原地区の他の考古遺跡で発掘された資料を見ても同様である。もっと古い、新石器時代早期に属する裴李崗文化の河南省舞陽賈湖遺跡では水稲、揚子江鰐、「黄縁閉殻亀」、菱の実、櫟の果核などの生物遺存が発見された。この遺跡の胞子花粉資料から、常緑落葉闊葉林喬木樹種の楓、ブナ、ワラビ(水蕨)などの植物が出現した。研究者は上述した動植物に対する水熱因子の分析を通してこう判断した。新石器時代に淮河上流の支流に位置した賈湖地区は亜熱帯と暖温帯の過渡地帯に属し、温暖湿潤にして季節風のある気候であったはずである。考古研究者は、河南省駐馬店の楊荘遺跡の環境考古学研究を通して、この地区の気候が温暖湿潤から低湿低温に移っていき、その後また温暖湿潤になったという過程を確認した。考古学文化の消長と変異の過程はこの環境変化の過程と関係があるであろう。この地区が殷商時代に入った時の環境も、まさに温暖湿潤に変わった時期であったと考えてよい。ところが中原地区の東部辺縁に位置する山東省滕州一帯では、今からおよそ4000年前の龍山文化の中晩期に属する荘里西遺跡からうるち米、黍、野生大豆、ブドウ、酸棗(さねぶとなつめ)の果核、李属種などの植物遺存が発見された。この状況は、当時は温暖湿潤で多雨そして季節風のある気候環境であったことを示している。ただ、旱作農業作物も発見されたので、中原辺遠地区はすでに気候が乾燥化に向かって変化し始めたことも明らかである。これらはみな、殷商時代中原地区の気候状況を判断するために有利な補助資料を提供する。
環境考古学者は早期考古資料を総合し、また各遺跡の胞子花粉分析の結果を帰納することによって、殷商時代以前の植生状況と環境変化の間の関係をおおまかに分期する。中国北方地区は、今から11000年−8500年前の時期の植生は楡樹、樺樹等の落葉闊葉林を主とし、気候はしだいに温暖に向かう時期だった。今から8500年−7000年前の時期の植生は、暖温帯落葉闊葉林を主とし、当時の年平均気温は現在より2℃−3℃高かった。今から7000年−6000年前は、主に温暖帯落葉闊葉林に属し、当時の気候は温暖で、降水量は増加した。今から6000年−5000年前には、前の一期と似ているが、気温が一旦下降した。今から5000年−4000年前、植生は主に暖温帯の針葉闊葉混交林で、気温はまた上昇を始め、気候は温暖湿潤になった。そして最後の時期は、この気候がまさに殷商時代まで持続した時期であるから、よって我々は、商代の気候状況は気温が上昇し、温暖湿潤であった、と判断してよい。 
三.商代晩期中原地区の気候変化
しかし、あらゆる事物の発生と発展に変化があるのと同様、中国古代の気候にもさまざまな変化があった。一つの大きな気候条件の下で、局部地区の特定時期において異常気候が出現するという事態もよく起こった。研究によれば、殷商時代に中原地区の気候は最温暖で最適の時期を経た後、やや悪化の傾向が出現し始めたことが明らかになっている。
前世紀の九十年代に、学者はみな殷商時代の気候が温暖多湿であったとする説に賛同すると同時に、各種考古学と地質学の新資料に基づいて、殷商時期における気候の乾燥化問題を明確に提出した。陳昌遠先生は北方における稲栽培の変遷について考察した後、次のように判断した。黄河流域では殷墟時代の気候は今日とそんなに大きな差が無く、古今の気温は大体一致しており、ただ湿度に差が生じ、そのため湿潤から乾燥へゆっくり変化する傾向を呈しただけである。周偉先生は、殷墟の考古発掘中に現われた地下水位の変化に関する資料に基づいて、殷商時期の気候には多湿から乾燥へ向かう傾向が存在し、しかも全体的に乾燥化した状態を呈していた、という見解を提示した。王暉、黄春長の二先生は、古代土壌学の新成果に基づいて考察を行い、以下のような結論を得た。今を去る3100年を境として、これより前の新石器時代から商代まで(およそ今から8500年−3100年前の間)、黄河流域の気候は温暖湿潤期であった。今から3100年前の時期になると、地質上では古代土壌(つまり腐植土あるいは褐色土)が現代の黄土層によって覆われた。炭素14のデータおよび考古学的資料を見ると、商代後期の気候は乾燥化が出現したことが分かり、そして商と周の政権交替が起こった。自然環境資源が古代社会の変遷と密接に関連していることが明らかになった。
文献記録によれば、殷商時代の中原地区はすでに非常に深刻な旱害が発生していたことが分かる。いま文献中に見える、殷商時期の旱害に関する記述は次の数条である。『呂氏春秋・順民』は、商王湯の時代に起こった旱害について述べている。昔、湯は夏に勝ち天下を征した。気候は大旱害が続き、五年間収穫がなかった。そこで湯はみずから桑林に入り雨乞いをした。髪を切り、手を清め、もって自分の身体を犠牲とし、上帝に哀願した。民衆は大いに喜び、雨はたくさん降った。また『説苑・君道』はこう伝えている。湯王の時、大旱害が七年続き、河川の水は干上がり、砂や石は熱くなった。そこで使者をつかわして、三足鼎をもって山川に対して祀りを行わせた。するとまだ祀りが終わらないうちに、天から大雨が降ってきた。これは商代初年の大旱害である。この大旱害については、他の文献たとえば『墨子・兼愛』、『尸子・君治』、『淮南子・主術』、『淮南子・修務』、『尚書大伝』、『帝王世紀』等たくさんの文献にも記述がある。また『太平御覧』卷八十三が引く『竹書紀年』は、文丁三年、洹水は一日に三度水が絶えた、と伝えている。丁山先生は、この記録は当時、黄河流域で深刻な旱害が起こったことを示している。これがもしその通りであったなら、商代晩期に、相当深刻な旱害が起こったことになる。さらに『国語・周語上』には、むかし伊洛の水は乾き、夏は亡んだ。黄河が乾き商が亡んだ、という記述がある。黄河が乾き商が亡んだ、という記述は、商代末年にまた大規模な旱害による被害が発生したことを伝えている。この旱害について『淮南子・俶真訓』は、この時に当たり、嶢山くずれ、三川は涸れた、と言い、「覧冥訓」も、殷周交替の時、嶢山くずれ、薄落の水が涸れた、と言っている。旱害による惨状をよく伝えている。
甲骨文の中に“暵”という字があり、唐蘭先生は考釈の中で「乾旱」の意味とした。当時、華北平原は湿潤であったとはいえ、降雨は集中しており、渇水の時期も集中した。ゆえに殷人は旱害にも非常に注意していた。たとえば、以下のような卜辞がある。
□丑卜貞:不雨、帝隹暵我?(『合集』10164)
庚戌卜貞:帝其降暵?。(『合集』10168)
戊申卜、争貞:帝其降我暵?一月、二告。戊申卜、争貞:帝不我降暵?(『合集』10171正)
辛卯卜、殻貞:帝其暵我?三月。(『合集』10172)
貞:帝不我暵?(『合集』10173正)
己酉卜、亘貞:帝不我暵?貞:帝其暵我?小告、不玄冥。(『合集』10174正)
貞:我不暵?一月、不玄冥。(『合集』10178)
辛卯卜:我不暵?(『合集』10179)
辛卯卜、殻貞:其暵?三月。(『合集』10184)
不隹降暵?(『合集』10188)など。
これらはみな、帝が旱害を(地上に)降ろすかどうかについて、卜問したものである。また“貞:商暵?”(『合集』249正)、“・・・西土亡暵?”(『合集』10186)はそれぞれ、商国の王畿と西土に旱害が起こるかどうか卜問した記録である。
旱害の降臨に対して殷商の人は、ただ何もしないでじっとしていたのではなく、災害を防止する方法や雨を降らせる方法などを積極的に探し求めた。実際にとった方法の中でよく行ったものは、神霊に対する祭祀、巫尫を焚する祭儀、土龍を作る祭儀、龍身を飾る祭儀(具体的意味については諸説ある)、奏楽舞踏などによる雨乞いであった。商湯王は自身を犠牲にして雨乞いを行ったが、それはこれらの中の一つの典型に過ぎないのである。一般的に言うと、旱害の発生に対して、殷商時代の人は、天帝の降罰と考えていた。ゆえに天地を祭祀対象とする「焚人求雨」の古俗は殷墟甲骨文の中によく反映されている。たとえば以下のような卜辞がある。
乙卯卜、今日火交、从雨?于己未雨?(『合集』34487)
貞:火交、有雨?勿火交亡其雨?(『合集』12842正)
其火交、此有雨?(『合集』32300)
癸卯卜、其火交・・・于舟火交、雨?于室火交、雨?于夫火交、雨?于□火交、雨?(『合集』30790+30167)
貞:火交女宰、有雨?火交女オ、亡其雨?(『合集』1121正)
□□卜、其火交女派、有大雨?大吉。(『合集』30172)
丁未卜、火交・・・母庚、有从雨?三月。(『屯南』3586)
叀庚火交、有雨?其作龍于凡田、有雨?吉。(『合集』29990)
殷墟晩期の卜辞の中に、焚人をもって雨乞いをする祭儀の記録がたくさん見えるということは、当時、旱害はすでにたまたま一、二度出現した現象ではなく、その時期に頻繁に発生していたという状況を示している。
殷商時代の気候研究の中で、何人かの学者は古代土壌学の研究成果を取り入れて、沖積世温暖期(今から8500年−3100年前)が終わるにつれて気候の乾燥化が出現し、当時の社会生活環境に対して非常に大きな影響を及ぼした、と考える。この理論に従うと、全地球的現象であったところの沖積世温暖期は、わが国の新石器時代から商代に相当し、気候は温暖湿潤で生物の生育作用は旺盛で、腐植土と褐色土いわゆる古土壌を形成した。今を去る3100年ころから、黄河中下流地区は相対的に乾燥化、低温化が始まった。この時期、西北季節風の気候が主となり、砂あらしが頻繁に起こり、厚さ40センチ〜80センチの現代黄土層が古土壌を覆った。黄土高原特に陝西地区の地質断面を見るとこのことがよく分かる:つまり土壌は腐植土から黄土に変わったのである。拠り所とする地質断面は主に陝西省などの黄土高原の資料であり、殷商時期典型文化の外周に位置する地区のものであるが、この種の変化は当然中原地区の生態環境にも無視することのできない影響を与えたはずである。
地下水位の変化も、土壌の土質に影響を与える重大な原因であり、気候環境に起こった変化を測る重要な指標である。中国社会科学院考古研究所安陽工作隊は安陽殷墟の白家墳黒水河西岸黒河路一帯で、商代の三つの井戸を発見した。そのうちの一つは、殷墟文化第一期に属するものである。その井戸の側壁に、使用期間を明瞭に示す水位線の痕跡が発見された。その井戸から4メートル離れたところで殷墟文化の第二期に属する穴蔵が発見された。測定によれば、この穴蔵の底部は第一期の水位線より2.5メートル低い。つまり殷墟文化第一期のある時期、黒水河一帯の地下水位は殷墟第二期よりはずっと高かったことになる。この発見は、当時の殷墟地区の環境変化に対する理解を助けるであろう。ある学者はこれに啓発されて、殷墟およびその付近で考古学的に発掘された古代井戸、穴蔵、墓葬などの資料に基づいて、「殷墟の地下水位変化図」を1枚作成した。この「変化図」は、殷墟時代の地下水位は、全体として下降に向かっていたことを明白に示している。殷墟第一期から第三期末までに水位はおよそ3メートル下がった。一期から二期に至る間に2.5メートル下がったが、三期の早い時期から末期に至る間には5メートルも下がった。第三期に一度激しい反復が見られたけれども、全体的傾向はやはり水位がしだいに下降する現象であった。地下の水位は地表の水量と互いに関連しており、降雨量が多ければ、地表水は多くなり、地下にしみ込んで地下水を供給し、地下水の水位は上がる。逆に少なくなれば、下がる。だから、地下水の水位が次第に下がったということは、殷商時代晩期の降雨量がしだいに減少したことを示す。気候の乾燥化が出現するにつれて、土質が以前よりももっと乾燥し、腐食質は減少し、肥えた土地がしだいに痩せていったのである。
商代における農作物栽培の構成から、中原地区の土質土壌の変化の状況を知ることができる。文献記載によると、商周時代中原地区の食料作物の品種はずっと“小米群”(米以外の穀物)つまり粟、黍、稷(うるちきび)であった。例えば『詩経』の中では、黍はたくさんの農作物の中で出現頻度は最高で、28例にも達する。稷がこれに次ぎ16例見える。“黍稷”と結合して呼ばれる例も16例ある。他に、粟は10例、菽(マメ)は9例、麦は11例あり、稲はわずか6例あるに過ぎない。この状況は、于省吾先生が甲骨文中の農作物を対象として行った統計と符合する。それによると、黍字は卜辞中に106例あり、稷は33例あり、麦は6例あり、禾は21例ある。そこで何柄棣先生はこの統計によって、中原地区は黄土高原と同様に乾燥地作物を植えていたことになり、土壌は風成黄土質であった、と考えた。商代考古の発見によると、大量の粟、黍、稷の外に、さらに大麦、小麦、コウリャンもあり、場所によっては水稲を栽培したことも分かる。例えば、河北省の邢台曹演荘、藁城台西などの商代遺跡では炭化した黍粒が出土したことがある。安陽殷墟後岡の円形祭祀坑では、一かたまりの穀物が、人骨上に積み重なった状態で発見された。この他、そこから出土した陶罐底部、銅鼎、銅戈にも穀物の痕跡が認められたが、いくつかの穀物は保存状態がかなりよく、粒状の形体が確認でき、詳しい観察によって粟類と考えられる。しかし水稲の栽培は、中原地区では発見された実例は非常に少ない。前世紀の三十年代に、殷墟発掘の際に稲穀遺物が発見されたことがあったという。また鄭州商城の白家荘遺跡からも稲穀遺物が発見されたことがある。こういう状況は、史前時期に中原で水稲栽培がかなり行われていた状況とは大きく異なっている。『尚書・盤庚』はこう伝えている。農業に怠惰で安心し、労働にはげまなければ、農作業を怠けるならば、どうして黍稷を収穫して得ることなどできようか。
この中の黍は「もちあわ(黏米)」、稷は「あわ(小米)」である。この記述は、商代の人は黍、稷を主食としていたことを示している。こうなった原因を考えると、気候環境の変化、乾燥傾向の加速、降雨量の減少、土壌の乾燥化などが進み、乾燥地農業だけが適合するようになったとしか考えられない。
砂あらしは一般に、土地が乾燥していて土質が柔らかくて植物に覆われていない地域で発生する。砂あらしの発生は、気候の乾燥化と生態環境が悪化した証拠である。研究によれば、殷商時代にすでに砂あらしという気象現象が発生し始めた。『墨子・非攻下』は、帝辛の時、“雨土于薄”(薄は地名)という記述がある。また『竹書紀年』にも、帝辛“五年、雨土于亳”(亳は地名。薄と同じ。)という記述がある。研究者は、“雨土”は「土が雨のように降った」の意味で、砂あらしという気象現象の古代記録であると考えている。
甲骨卜辞中の砂あらしの発生に関する情報は、郭沫若先生が最初に考釈し発見した。彼は、甲骨文の“霾”字についてこう述べた。雨字の下は猫に似た一獣にしたがう。確かに霾字とすべきで疑い無い。『詩経・邶風・終風』に、“終風且霾、惠然肯来”という句がある。『説文』は、霾は風雨土なり、と言い、『爾雅・釈天』は、風而雨土為霾(風ふきて、土が雨のごとく降るを霾となす)と説明している。「伝」は、霾は雨土なり、と書いている。郝懿行の「疏」は、孫炎いわく、大風が塵を揚げ、土が上から下りてくることなり、と記述している。これらの記述によって、商周から秦漢時代までの“霾”は、けっして現代の気象学の中の、霧が濃くなってあたりがうす暗くなる「陰霾」のことではなく、砂あらしの天気であることが分かる。
甲骨卜辞の中の砂あらし“霾”に関する代表的記録は以下の数条である。
己酉卜、争貞:風隹有霾?。(『合集』13465)
癸卯卜・・・王占曰:其・・・霾?甲辰・・・。(『合集』13466)
貞:茲雨隹霾?貞:茲雨不隹霾?(『合集』13467)
貞:翌丁卯酒、丁霾?(『合集』13468)
・・・隹霾、有作[禍]?(『合集』13469)
甲申卜、争貞:霾其有禍?貞:霾亡禍?(『通纂』419)
これらの卜辞によって、霾という砂あらしは武丁時代にすでに現われ始めたことが分かる。これと、文献に見える帝辛五年の“雨土”を結合して考えると、砂あらしは、殷商晩期の二百数十年にわたって暴れ回ったと判断してよい。また、この“風霾雨土”の現象は当時の人々に大規模な災禍をもたらした。だから、雨や風の天気になるとたちまち不安な気持ちに襲われ、その風や雨が砂あらしを招かないかどうか、砂あらしが災禍をもたらさないかどうか、について卜問した。そして、砂あらしの発生を防ぐために、神霊に対してまつりを捧げ、もって加護を祈ったのであった。 
四.余論
殷商晩期に起こったこの種の明らかな気候の変化は、人力の破壊がもたらした結果ではなかった。かつて、ある学者はこう述べた。気候の変化は、地球内部の熱量の影響、太陽の関係、大気中の化学成分の作用、地形等五つの方面の原因による。現代の学者はみな、中原地区は向きの変化による西北季節風によって、乾燥化の傾向が始まったと考えている。この気候条件の変化は、その後、数千年におよぶ中国北方の環境悪化の進展を先導した。また、当時の歴史の進展に対しても一定の影響をもたらした。 
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42.李済『李済考古学論文選集』第283頁文物出版社1990年版
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44.郭沫若『卜辞通纂』第384〜385頁科学出版社1983年版
45.注意すべき点がある。“霾”字に対して『釈名』は“晦なり”と説明している。この説明は、霧を意味しているかもしれない。これは今日の気象学が言う“霾”という気象現象と同じであり、商周秦漢時代の“霾”つまり砂あらしとは異なる概念である。
46.楊鐘健「古気候学概論」『科学』第十五巻第六七期1931年 
 
初期点本の達文訓と古事記冒頭「天地初発之時」の読みについて

 

− まえがき
現代の文章は理解を容易にし、伝達を明確にするため表記法に種々工夫が施され、段落分け、改行、句読点その他の符号や記号が加えられるのが通例であるが、過去の文献ではむしろそういう配慮がなされていないのを正式な書式とする傾向がある。したがって古文献の理解には特別な読解力を必要としたことは論ずるまでもない。中世以後漢籍、仏典の講究に際し、人名、官名、地名、書名、年号などに朱線を引いたいわゆる朱引きが行なわれているが、これは文中から因有名詞類を指摘してこれによって本文の理解に役立てようと意図した学侶の工案によるものであろう。加点本の中には文初文段を示す符号が加えてあるものや、会話文の終りに「者」という終末虚字を加えたり、引用文の後に「文」と書き添えたりするのがあるのは、すべて古人の生活の智恵の所産といい得よう。漢文において句読を誤るのは重大な結果を招来することになるわけで、馬琴の「青砥藤綱模稜案」にみる話はその間の事情を語る適例といいえよう。
この小論は漢字専用文献の訓法を決定する方法として、熟語の一つである達文が平安極初期点本でどう読まれていたかを調査し、更に古事記冒頭の六字のうち異訓の多い初発の二字が達文であることを推定しその訓法を決定しようとするものである。 
二 漢字二字からなる熟語と平安極初期資料における熟語注記
二字からなる漢語の結合関係を小川環樹、西田太一郎両氏共著の「漢文入門」では次のように説明している。
1主語・述語の関係 日没 2 述語・補語の関係 読書 3 修飾語・被修飾語の関係晩成 4 並列の関係 殺傷 5 選択の関係 大小 6 時間的紐続の関係 撃破 7 上下同義の関係 傷害 8 外来語 比丘 9 歓後の語 友子(友子兄弟の省略)10 饗声恍惚11畳韻 従容
これらの熟語を平安極初期の学侶はどう理解していたかを知ることが必要であるが、それに先立ち一般熟語を古字書でどう取扱っているかをみることにする。和名抄は漠字数箇からなる語が標出されその注記があるが、字形引漢字字書には熟語はとりあげられていない。これは玉篇の体貌にならったものであろう。しかし内典の音義類には漢字二字で標出されているものが多い。がこれらとても語釈はそれぞれの漢字を一字ずつとりあげ別々に説明するのが常で、梵語の音訳によって成立した語が二箇以上の漢字で書記され、まとまってその語釈が施されているような場合を除いておおむね熟語としての取りあつかいはなされていない。玉篇や玄応音義の影響下に成立した新撰字鏡は先行字書の方法をとっているわけであるが、巻十二に重点(洋々、浪々などの畳語の類)、連字(嘲調、不肖、潜然の類)の類が記載されており、いわゆる熟語がみられるが、その数は必ずしも多くない。また臨時雑要字として漢字二字からなる語が和訓の対訳をつけ列挙してあるのは国語表記に漢字をもってすることが漸く多くなってきたためである。ところで漢字専用文献の中に熟語を識別するための配慮はどうであろうか。音義書や注釈書にみられる二合とか重言とかいう注記、点本にみられる連合符などは熟語を認めた一つの証拠と言えるだろう。よく知られた例は霊異記訓釈中に散見する二合であるが、この注記法は漢訳仏典所収の陀羅尼のそれを学んだものといわれる。奈良朝末の選述である八十巻花厳経音義私記に「古洗二合云潤月也」の例があり、また「渾濁上戸昆反薗也重言訓義猶清浄耳」ともあって、二合と重言との事例を発見するのである。
遵読符は漢字と漢字の闇に白線を付したもので、管見に入った最古の例は平安極初期加点の根本説一切有部批奈耶巻三十二の第一紙にある一子、端正の2例と、同じ頃加点の根本説一切有部比丘尼批奈郭巻十の戚去之後応可知前而取の応可との例である。応可は後述のどとく虚字の達文である。これら点本ではヲコト点として帰納できる符号を発見できないが、ヲコト点使用の初期資料として著名な羅摩伽経初期点には通読符を付した熟語を数多く採集することができる。巻二から出現順に列挙すると次のどときものである。
供養、応見、五根、発来、焼益、随順、一向、出生、功徳、荘厳、悦楽、神痛、敬礼、四海、漏落、希有、甚奇、覆護、帰依、云何、人中、摂取、護持、正道、雲絢、讃嘆、善根、示現、慨怠、諸著、推減、法輪、勝妙、安住、果樹、宝蔵、安住地神、昔哲、唯然、開発、自然、成就、以用、所転、親近、音声、仏心、憶持、超出、谷仰、法性、不出、不入、一切、−如、虚空、大智、分斉、色相、光明、色身、所化、疾疾、厭離、無我、豊楽、閻買、明浄、正論、毀壊、迷惑、賢聖、廻流、侍従、即便、業報、憶念、受持、念念、除滅、秋月、其人、窮己、以上83例。
このうち以用、即便のどとき虚字の達文は音読か訓読か不明であるが、多くは音読したものと思われる。ともかく熟語的取り扱いをするものが上述の語であったことが知られる。 
三 達文の特質と達文認定法
達文は重言ともいわれ、同義の漢字を二つ重ねて一つの意味を表わす漢語熟語の一用法で、簡単、合併、養育、事務のごときもので、これは上下の順序を置き換えて単簡、併合、育養、務事としても使用された。ただ育養や務事はわが国では使用しないが、中国の古典に見られるそうである。湯浅廉孫氏の「初学漢文解釈こ於ケル達文ノ利用」には多くの事例があげてある。達文は万葉集にもよく見られるので、山田孝雄博士は万葉集講義巻一で「漢字には意義多きが故に一字にては往々その用ゐむとする意義以外に解せらるべき嫌あり、かかる場合に二字用ゐる時は二者の契合点は一なれば、その示さむと欲する意確立す。これを同義の字を合せて一義を表するに至る根本の原理なれば漫然とかかることをなせるにあらずと知るべし」とのべられ暮夕をエフベと読むことに疑問を提出した僻案抄、考、略解、燈などの万葉注釈書の誤りを訂しておられる。
湯浅廉孫氏は前述の書に王念孫の「凡連語之字、皆上下同義、不可分訓。説者望文生義、往往穿整、失其本義」、王引之の「古人訓話不避重複、往往有平列二字上下同義者、解者分為二義、反失其指」などを引用されたのち達文の特質を次のように述べておられる。
熟語の一種であって、一義を通有せる二箇又は稀れに二箇以上の文字が其の一義を紐帯として結合するとき、其の結合語が乃ち達文である。達文の成立条件として次の4項があげられる。
1 紐帯の文字は主として2字
2 上下の2字が全然同義叉は同一義を共有すること。
3 上下の2字が全然同義の場合には結合がそのままに行なわれ同一義を共有せる場合にはその同義を紐帯として結合が行なわれること。
4 構素の2字は渾然一義として読まるべく、決してその地位の一上一下に抱泥してこれを分訓してはならぬこと。
さて達文の特色は湯浅、山田両博士の説明によって明らかであるが、その認定は容易でない。
挙行は湯浅氏によって達文であることが知られたが、(神田喜一郎博士は推古紀の従衆同挙の挙をオコナへと訓じてあるのを考証されたが、これも挙行が達文である傍証になる)、現行の漢和辞典のうち最大のものである大修館の大漢和辞典に挙行を「アゲ行フ、公ニオコナフ、一般二行フ、皆行フ」と分訓して説明してある。もっとも挙行が常に達文として使用されるわけではなく次の例のどときは二語である。大智度論巻三「挙其戸着林上、挙行城市中多大唱言」の挙行がそれで石山寺本天安二年点ではササ(ケ)ユキてと加点してある。(大坪併治博士の解読による)筆者は返読字の成立について述べた旧稿で虚字の将欲を達文である旨考証したことがあるが、その時用いた方法は、1、助字弁略に「欲将也凡云欲者皆願之而未得故又得為将也」とあって将字と欲字とが同義である。2、この2字は互用される。金光明最勝王経に「見有一池名目野生其水欲澗」とあるのが「見大池名目野生其水将尽」ともあり欲洞と将尽とがはぼ近似した意味をもつことが知られる。3、将欲は欲将と語順を変じて使用される。4、将、欲それぞれ単用のときと将欲、または欲将のときとその意義に大差がない。将欲はこれらの諸条件を完備した虚字であるが、通例はその中のいくつかの条件をもっておれば達文と認めてさしつかえないものである。 
四 八十巻花厳経音義私記の達文
八十巻花厳経音義私記には標出語の注記に重言という例があり、達文が意識されていたことは既述したことであるが、この音義の説明から推定して当然達文と認定できるものを多く指摘することが可能である。
1) 二合または二字として−訓が注記してあるもの
柔軟 上而充反二合弱也 下又為濡字湯也非音、  悦壕 二字喜也、
誤錯 二字安夜末親風(恩は街字)
2) 上字と下字と同字または同訓の注のあるもの
瞭観 上世牟反見也下奇断反見也、  憺伯 憺徒敢反安也伯晋白反安也、
宏琴 上音出訓己刀下音厳訓己刀
3) 二同として万葉がなの訓があるもの
澗沸 上勇下発二同和久、 医竪 二間薬師、 胸臆 上音孔下僚訓並牟禰
4) 亦同として万葉がなの訓があるもの
憎悪 上音増訓而久牟下亦同也
5) 上字と同字の注があるもの
震振 上音信訓動也下音同訓挙也動也、  庸旗 上媛也、 堅硬 下音経訓堅也、
覚宿 宿昔吾訓覚也、  占卜 上音点訓卜也ト音僕訓占也
6) 重言の注記のあるもの
渾濡 上戸昆反淘也重言訓義猶清浄耳
上述の各語は達文と認めるべきものであろう。1の例は一訓で読むべきものであるが、その他のものは遂字読みをすれば同訓の反復即ち畳語訓となるが、あるいは一訓で読んだのかもしれない。ともかくこの音義にみられる遵文例は一訓または畳語訓によまれたものと恩われる。揮衛は重言とあるが訓法は不明で、畳語訓とみられるが決定的なことはわからない。しかしこの資料によって奈良時代の文献所用の達文訓に一つの傾向のあったことが知られるわけである。この音義の活洗の説明に二合云潤月也とあるのは治洗が熟語であることを注しただけであってこれは達文と認められない語である。 
五 平安極初期点本所見の達文訓
初期点本のうち達文資料と認定できる例の多いのは唐経大乗阿毘達磨雑集論平安極初期点である。これは白線の通読符が明瞭に加えられてある資料や二字に一訓がつけてあるものの中から選出するわけだが、通読符をつけたものでも己身、応作、末種、経信などは達文でないので簡単に達文を決定することはかならずLも容易でない。しかし達文と思われるものを集めてみると次の4種類の訓法が行なわれているようである。
1 字音読みするもの。これがいちばん多く、恐らく加点資料のうち、初期・後期を通じ仏典の点本では達文は音読する傾向がいちばん大であったものと思われる。
資一助、精一勤、教一接、顕一示
2 一訓読みをするもの
安慰 ヤスメテ  精進 ツトム
3 同訓反復するもの
遮一防 ホソキホソキ   践腐 フミフム
遮防には連合符があり、その上ホソキホソキの訓があるのは、あるいは音読と訓読とを併用するいわゆる文選読みの例かも知れない。文選読みは平安極初期点の仏説薙摩伽経古点にみえ、少し後のものであるが願経四分律古点などにはいくつか用例を指摘できるわけであるから遮防を文選読みだと認めることも可能であろう。践康のフミフムの訓は終止形が使用してあり本文に則した活用形が使われていないのは注解のためにとり出して付訓したものと思われる。この点本には音を付したり釈という注記を用いて訓を加えたところが多いし、動詞の傍訓に終止形のものが多いのもそのためであろう。
4 類義語をかさねる
叫喚 サケヒヨパフ 意恨 イカリウラミ 詰責 ハハメトフラフ 毀杏 ソシリヤフノレ
労倦 ツカレウム
雑業論古点には上述の4種しかあらわれないが、初期資料で文選読みする語の中には当然達文があるものと考えられる。事実前述の羅摩伽経古点には金色顕姑の顕赫を文選読みし顕赫トカカヤキと付訓している。
以上は実字における達文の場合が主であったが、虚字の達文も既述のどとく多いわけである。
ただ虚字の中には今日の訓法では音読せず訓読が多く、また置字として不読のものもあるが、初期点本では付訓加点が粗雑であるため果してどうよむか明確でないものが多い。西大寺本金光明最勝王経平安初期点は加点が精細な資料であるので虚字の達文には連続符をつけたり、また傍訓の一部と思われる仮名がつけてあったりするものが多い。乃能に連続符がありしかも乃字の桟にクのかながあり、成悉ク、昔曽シ、転以テ、仮使ヒなどは恐らく一訓読みのものであろう。加点年代が少し下った金剛般若経費述嘉承点には者即の間に適合符があるが、この古点では是故、仮設、都尽のどときものにも連合符がみられるので者即はどう処置すべきか問題である。
虚字のうち、(将、欲)(当、応、頚、宜、合、可)(猶、如)のそれぞれの群の文字が二字重なって、将欲、当応、当宜、当須、宣可、応合、猶知などの形で用いられることがあるが、初期点本ではそれぞれを分訓して副詞と助動詞を含む連合でよむことになっている。この中合や可は除き他の漢字は一字で二度読む所謂再読字となるものであるが、こういう再読が行なわれ、これらの文字が再読字となったことについての臆説はかつて述べたことがある。再読字の成立時期は平安中期以後とみなされているが、平安初期の菩薩善戒経古点には明瞭に再読した例が数多く見出される。
初期点本中から達文訓を実例としてすこしく抄出すると次のようなものがある。
1西大寺本金光明最勝王経古点(本稿では春日政治博士の御研究による)
1)−訓のもの 宛転モトホリ 豊稔ニギパフ 嵯歎ナゲク 沸涙ナミダ 顕敵ホガラカニ
2)畳語訓 照耀 テリテル 倍増 マスマス
3)類義語二訓 宛転 モトホリメグル 娩転 マロビカエル 周旋 メダリモトホル 戦捧 ヲノノキウゴク 経過 へヨギル 策励 ハゲミットム 閲評 タタカヒアラソヒ 乾燥 力レカワキテ 箋議 タバカリハカル 慶敬 ツツシミウヤマフ 聡敏 トクサカシ 備整 ソナへトトノへ 留難 トドメハハメテ 疇泣 ナキシホクリ 話偽 へツラヒイツバル 敗亡 ホロビウセナル
2願経四分律古点
1)不凍択 エラは 養育 ヤシナヒ 勉カ ットメヨ 疲極 ツカレヌ 聞乱 サワキ 零落 オツルこと 礁膵 カシケ 侶臥 ウツフして 上昇 ノホル 回復 クリカへル
2)適例なし
3)蓬狭 セバクサクして 畏慎 オチ(ツツシム)こと 溢満 ミチタタへ 努破 サケヤフル
3菩薩喜成経古点
1)羞悦 ハチラヒ 慰喩 アシラフ 粗略 アララカニ 軽躁 サワカハシ 径路 タタミチ
2)適例なし
3)担負 ニナヒオヒ 浣濯 ススキアラヒ 授榔 トリナケテモ
前述の諸例によって初期点本の達文訓の傾向は次のようにまとめることができる。
1.字音読みが極めて多い。
2.−訓がある。恐らくこれが古い訓法であろうと思う。
3.畳語訓が比較的多くみられる。
4.二訓によむときは類義語を用いる。
5.用言を重ねるときは同一品詞を用い、上の語は連用形にする。その二訓の間に助詞を挿入する訓みかたは見られない。
6.虚字の達文には再読字のような例外がある。 
六 達文を分訓することから生じた誤訓
達文を訓するときの通則は上述のどときものであり、比較的初期点本の訓はこの通則が守られているが後世になると誤訓がみられる。西大寺本金光明最勝王経古点に豊稔をニギパフと訓じていたものが色菓字類抄ではユタカニニギパフとあるが、これでは同一品詞で分訓するという原則が破られ上字の豊がユタカナリという最も一般的な訓にかえられてしまったどときである。大坪併治博士が調査された蘇悉地掲羅経略疏天暦点では偏償という達文を誤読して次のように読んでいる。三明分与同伴等時不応偏健也を三に同伴等二分与スル時二偏に僕(カタチパフ)応(から)不といふことヲ明ス。この偏僕はカタチパフと−訓にすべきであるのに偏字をヒトへこと副詞にし償字のみカタチパフとよんでしまったが、偏も億も同義でカタヨル意がある。書経洪範に「無偏無党王道蕩々、無覚無偏王道平平」という句があるが党、偏を交互に使用する珍しい例である。
開発は明瞭に達文であり花の場合はサクと訓むべきであるが文字の一般的訓にひかれてヒラケサクと分訓した例がある。前述の西大寺本古点に「於新大池内所有蓮花池日光照及時無下尽開発」を春日博士は「所有ル蓮花の池は、日の光りの娼し及ばむ時に、尽ク開ケ発カずといふこと無ケむ」と訓読され花にヒラクということは国語本来の言い方ではなくて、一種の直訳語というべきであろう。つまり漢文読みから生じた語である。ヒラケサクと和漢両様の混活した言い方も、渡文訓読の国語に及ぼす影響を見るに好適な例である。(西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究75頁)と論じていられる。
難解な語句の訓読には辞書、註疏の類を利用するわけであるが西大寺本にはその適用例がいくつかみられる。討罰の訓として、コロシクダカムトシテ、ツミナへシタガヘム、ノゾカムトシテユカムトキニハの三訓が注記きれ欄外に、討者除也詰也、罰者折伏也往也と注記があり、この訓はそれらを利用し工夫されたものであろう。この討罰の語が達文であるかどうかは、にわかに決定できにくいので、この訓の正否を考証することはひかえることにするが、ともかく辞書の利用例が知られるものである。西大寺本は傍訓の多い点本であるため、達文訓も比較的多く見られるのであるが、初期達文訓の法則である同一品詞に分訓することの例外として蔽僚ヤセツタナシの訓がある。
この語について春日博士は、歳字は説文に「痩也」とあるから、ヤスと訓ずることは勿論であるが、僚字をツタナシと訓ずるのは珍しい。康照字典に拠ると、この字は(広韻)東国也(通俗文)擾極目億疲劣也とあって劣る義がある。易の既済の「健也」の釈文を引いてある陸注に「困劣也」とあり、更に鄭注には「劣弱也」とある。ツタナシの訓は之に本づいているであろう。
和訓のものに未だ見当らない。承暦音義はここの注に南類音ツ加留 債 へ伊反ヨハシとつけてある。鼠はツカルと読むのが常であって、この点の他の処に於てはそう訓ませているらしいことは己に述べた。僚字のヨハシは前掲の「劣弱地」の訓に拠ったものである。(前掲書89頁)しかし筆者はこの語を達文と考えたい。春日博士の勧説の如く巌はツカルと読むのが常であるから僚字にツカルの訓のあることを求めれば達文説は可能となるであろう。通俗文に疲樋を燈というとある。疲極は平安初期点本ではツカルと読むのが普通で頼経四分律古点には数カ所にこの訓がある。日本古典文学大系本今昔物語−の補注164に疲極について有意義な考証がなされているが、これには初期点本のツカルの訓が参考になる。結局健にもツカルの訓があることになった。
こういう考証をせずとも色菓字類抄人事の部をみるとツカルの条24字の中に疲、極、麻、億の4字ともあげてあるので、これらの漢字にツカルの訓があったことは知られるのであり、疲極も覿燈も達文としての用法をもつ語であることは推定できそうである。さすれば西大寺本の訓も形容詞と動詞という異品詞の語で分訓すべきではなく動詞として一訓ツカルとよむかまたはツカレツカルと畳語訓でよむべきであったと思われる。この例は辞書の通用をあやまったことによる訓であるといえよう。
虚字の達文であると認めず不自然な分訓をした例については春日博士の西大寺本の研究第197頁の容可についての御説に対し筆者の見解を旧稿「返読字の成立について」の中で言及したことがある。後世になると漢字の訓として使用度の高いものが有力視され用法が異なる場合でもその訓でまにあわせてしまう傾向が強くなり、ひいては国語にない意味を成立させる例は挙式、挙行の挙をアゲルとすることでも知られる。こうして達文は分訓されがちでその本義が忘れられてしまうのである。 
七 上代文献の達文
上述の資料は漢訳仏典の点本類が主であるが、仏典の用語は俗語的要素が多く達文が比較的多くみられるものである。わが上代文献は六朝唐の典籍の影響を受けることが多いと言われているので当然達文とみとめる語例が混在しているはずである。万葉集の達文の例は山田博士のあげられた夕碁について前述したが、武田祐吉博士の万葉集用字法史の中にも美麗ウマシ 落堕オツ 択擢エル 叫呼L ホユ 漂蕩タダヨフ 迷惑マドフ 駿騒サハク 経過フ 繭祈イノル 鬱憧オホホシ 歩行カチなど二字で一訓によまれる例をあげられているが、これらは達文と認めるべきであろう。巻一の三山の歌には辞競、古昔、如此の三例が一首の中に使用されている。鹿持雅澄の古義で具書として説明されるものの中に含まれているものである。
古事記においても達文の例は相当見出されることは予想できる。上巻を通読して抄出してみると次の語は達文といいえよう。
修理、累積、卜相、如此、個旬、患惚、楔祓、歓喜、設備、衣服、幸行、嫉妬、束装、装束、共与、以為、掩留、委曲、詔命、仕奉、和平、麗美、惚苦、悼畏、治養
以上は一読して指摘した例であるから更に精査すればその数は相当増加するはずである。近時古事記の用語や文体の研究が進み、小島憲之博士や神田秀夫氏の御研究によって古事記の文章が法華経や最勝王経などの漢訳仏典を粉本とするところが多いことが実証されていることを参照すれば古事記に達文例が多いのは当然のことといわねばならない。しかもそれらの訓法は古事記選述に近い平安極初期加点の訓点資料の訓法を参考にすれば、一訓か畳語訓かで読まれるかまたは字音読みされていたと推定すべきことが知られるのである。 
八 古事記上巻冒頭「天地初発之時」の読み
古事記上巻冒頭「天地初発之時」の訓は寛永本に「アメツチハジメテヒクラルトキ」とあったのを本居宣長が古事記伝において「アメツチノバジメノトキ」と改訓したのが一般に行なわれていたが、これを異訓に改めるものがあり、三矢重松博士は「古事記に於ける特殊なる訓法の研究」の中の訓点異同弁に諸訓を対比され、宣長訓に賛意を示されつつも別訓の可能性を灰めかされたことがある。その後倉野憲司、山田孝雄、石井庄司の諸博士によってこの句の訓法が種々論議されたが、戦後古事記研究の復活によってまず倉野博士の補訂訓をはじめ西田長男、賀古明の諸博士による論、太田善麿、神田秀夫の諸氏の説などが出され、この訓をめぐる論考は古事記訓法中の主要項目になった感がある。これらの説につづき昭和40年原口裕氏が「語文研究」20韓に発表された「古事記巻初の訓み一一一一天地初発と天地初起」は特に注目すべき論で、「初発」の中国文献の用例からハジメテオコルの訓みが妥当である旨を提唱されたもので、これによって宣長以来の疑問を氷解させ、初発の訓法論議は事実上完全に終止符をうたれたものとみられそうである。しかし傾聴すべき精撤な卓説も立場や観点の変更によってあるいは再考の余地があるのではあるまいかと愚考されるのであえて一説として私案を述べてみることにする。むしろアメツチノバジメノトキという訓こそ古事記訓法史上不朽の金字塔を樹立された宣長学を象徴するものであり、後学が妄りに変改すべきでないものと思われ、宣長の霊感によって啓示されたこの訓法に虚心坦懐復帰すべきことを提案したいというのが末学筆者の悲願でもある。
まず先学によって試みられた訓を賀古明博士が古事記大成言語文字篇の中で分類整理されたものをあげると次のようになる。
A)ヒラクル(前田本、猪熊本、内閣本) B)ハジメテヒラクル(卜部兼永本、延佳本、寛永版本、校訂古事記) C)ハジメテヒラケシ(伊勢本、倉野博士訓(後)、神田秀夫氏訓)D)ハジメテオコリシ(沢潟久孝博士朝日国民全書本) E)ハジメテオコル(倉野博士訓、原口氏訓) G)ハジメノ(宣長記伝、訂正古訓本、校定本、山田博士訓、武田佑吉博士訓、次田潤氏訓、中島悦次氏訓、谷省吾氏訓) H)オコリハジムル(石井庄司博士訓)I)ハジマリオコル(石井博士訓)J)シヨホツと音読する(三矢重松博士説)以上の9種の訓のうちGだけが一訓によみ、他は初発を熟語とみず分訓するのであるが、音読するのではないかという三矢重松博士の説もある。一訓読みは宣長によって提唱されたもので、これは古事記伝三之巻にある。次の4項にわけハジメとよむ理由を述べている。
@ 万葉集巻二 天地之初時之、巻十 乾坤之初時従、日本書紀孝徳天皇大化三年夏四月に「与天地之初云々」の語がある。
A 「発」という字を連ねて書いてあるが、ただ初(ハジメ)の意味である。字書に「発は起也」と註してあり、事の初めを起りともいい、又俗に「初発」というのも昔からハジメというのにこの二字を用いなれてきたから出たものであろう。
B 「初発」を「ハジメテヒラクル」とよんであるのはひがごとである。それは開聞の意味と混同したのである。天地のヒラクというのは、漢籍言で皇国の古言ではない。上代では戸などの場合はヒラクとはいうが、その外は花などもサクとばかりいってヒラクとはいわなかった。
したがって万葉集の歌などにも「天地のわかれし時」と詠んではあるが、ヒラケシ時と詠んだのは一つもない。
C 天地の初発というのは、ただこの世の初めということを大体にいった言葉で、必ずしも天と地との成れることを指していうのではない。天と地との成れる初めのことは、次の文(コトバ)にあるからである。
以上が記伝の説であるが、これに対し他の諸説は初発を一語とせず、すべて分訓しその訓の妥当性を理由づけようと努力したのであるが、依然として定訓をみるに至っていない。初発を分訓する根拠は中国古典に用例を発見できなかったため、この語を熟語と認めがたいという事情によるのであろうが、山田博士は古事記上巻講義一で捏磐経に「初発巳為人天之師」、梵網経古速記に「初発之疇無不周円」の例を見出され、これが仏典語であろうと論ぜられた。その後西田長男博士は初発心が仏典に多いことをいわれこの語との関係に言及されたが、一般漢籍からの用例は諸学者によって示されずにいた。しかるに原口裕氏によって中国古典に初発の使用例が多くあることが報告され、しかも初発は事態の出現に関するものであり、その上太平御覧巻一に「帝系譜日天地初起浜樺濠鴻即生天皇云々」の事例まで加えられ、「天地が初めてオコル」という創世の発想が、漢語によって表現されていて、形としては天地初起が古事記の天地初発に甚だ似ていることを主張された。更に氏は乾坤肇立(胡踪、黄竜大牙賦)、天地初立(三皇本紀)などの例も加え、氏の訓法の傍証にされていられる。初発の用例を氏の論稿から借用すると次のようなものがある。
1.凡恩緒初発 辞釆苦雑 心非権衡 勢必軽重(劉親、文心離竜)
2.夫天之徳貴生悪殺 冬至少陽初発 萌芽之漸…中略… 夏至少陰肇起 殺気白興(干讃冬夏至寝鼓兵議)
3.惟灰疾之初発 若常疾之軽微 未経口而沈篤(高貴卿公傷魂膿)舶軋
4.受命師漠祖 英風万古伝 沙中義初発 山中感弥玄 (嵯峨天皇御製 史記講完成得張子房 文筆秀麗集中)
上例の1〜3ほ中国の例であるが4は嵯峨天皇の卸使用例である。しかも和銅撰進の古事記に年代も近く、この語例をもって古事記冒頭文を訓読する傍証とすることは一見極めて妥当なことであり、説得力のある論拠となる可能性を備えたものといい得よう。しかし筆者は嵯峨天皇ど宗翰に事態の出現に関するものでない意味に使用された初発の通例を発見している。本論考での筆者の説を展開するのに極めて貴重な事例となるものである。言語の用法は常に一定したものばかりでなく、時代により用法の変化を起こすものであり、また同時代にあっても多義にして用法を異にするものがあるのは不思議ではない。この言語の多種にわたる用法が存在するという認識は現代文を理解するときには何人によっても簡単に所有できるものである。しかも上代文献を理解するときには、この平凡な法則を忘却し言語は常に一つのヨミと一つの訓だけ存すると恩いまちがい勝ちである。 
九 初発のこ字は達文ではあるまいか
山田博士は大般浬磐経の初発の例を紹介されたが、いまその前後の文章を国訳一切経浬架部二から引用する。世間を憐慾する大医王、身及び智慧供に寂静なり。無我法の中に真我有り。是の故に無上尊を敬礼す。発心と畢意とは二つながら別ならず。是の如き二心は先心難し。自ら得度せぬに先に他を度す。是の故に我、初発心を礼す。初発に己に人天の師と為り芦聞及び縁覚に勝出す(巻三十八)
原口氏は文筆秀麗集巻中の嵯峨天皇勧製に初発の例をさがされたが、筆者は京都博物館開館記念の特別展で嵯峨天皇宗翰光定戒朕を拝観しその中に「腐以三観仏乗結三身於究寛、三種浄戒開三関於初発」の対句を発見することができた。これは究意と初発とが対をなして用いられている例である。究寛は梵語、鬱多縁の訳で事理の至極をいい、無上、究極、畢意とも訳される語である。浬架経の発心、畢蓑二つながら不別の例によると発心と畢寛とが対をなす概念であるかのように思われるので、畢完、究寛に対する初発は発心に応ずることも考えられる。しかし畢寛または究責がイツマデモカワラヌコト、パテノハテマデ究メ尽スコトなどと仏教辞典に説明があることによって究責に対する初発に字義通りハジメという概念が主要なものであることも否定できない。
初発は仏典では初発心という形で多用される。初発菩提心というのも極めて多い。初発心という語は初心と同義に使用される例もある。初心は後心に対する語である。大般担架経巻38に菩薩に二種あり、一つには初発心なり、二つには己行遺なり。無常想とは亦復二種あり。一つには鹿なり。二つには細なり。初心の菩薩、無常想を観ずる時、是の思惟を作さく…」とみえ初心菩薩とは初発心の菩薩であることは明白で、これによって初発心を初心とすることがわかる。初発心は仏典語であるので平安極初期点本にどう加点されているかを調査し、この語が上代人にどう意識されていたかを知るてがかりを得たいと思う。手もとの移点ノートに次のようにある。
1)音読したと思われる例。華厳経や仏説羅摩伽経、菩薩喜成経などの平安極初期またはこれに近い頃の加点本に初発心の例がみられるが、多くはこの成語は無点であってどうよんだか判明しない。しかし初と発との問に通読符がつけられた例が菩薩善戒経などにみられる。これは初発心ともに音読するとみてよいようである。「初一発心の時には」とこの経巻の6、巻9などに、従初一発心(より)の例が巻7にみえる。
2)初発の心とよんだ例。仏説羅摩伽経巻中に「初一発の心」の例が−か所あるが、華厳経巻九極初期点にも「此(の)菩薩(ほ)因(りて)初発の心に、得十力分を」とある。これは山田博士によって紹介された梵網経古速記の初発之願と同一構成であって加点者が初発心の語構成を「初の発心」とみず「初発の心」とみた結果であって注意すべきものである。「初発の心」は菩薩喜成経古点にもあり、平安初期の点本類で一般的にみられるものであり、これに対して筆者は「初の発心」と加点した例を極初期資料中に一度も発見していない。
次に初発心は語として動作を表現する場合は「ハジメテ心ヲ発ス」とみるべきで、一例を華厳経巻十からあげると「菩薩因て此に初て発す心を」がある。しかし仏典の多くは初発菩提心としてあらわれる。「菩薩初メ発す菩提心を時に」(菩薩善戒経巻六)、とくに注目すべき例は菩薩善戒経残存8巻の初期点の中、ただ一か所だけであるが、巻一に次の様に訓読したと思われるものがある。
「初発に菩提を発すに二種の心有り」で原文は「初発菩提有二種心」で初発の二字の間に連合符があり発字の右にこのヲコト点左にスがつけられておるので最初に初発を副詞的に音読か訓読かして初発とよみ発字を更に述語として読んだことになる。この古点では「初に発す墜心を」とか「初に発す(に)菩提の心を有り五の事」(巻一)とするのが常であるが、初発を熟語とみる意識が働いたものであろう。
次に問題となるのは初発が発初としてあらわれた例のあることである。これは石井庄司博士が指摘された聖徳太子著維摩経義疏上巻にみられるもので、「如是者解有多種、而今但拠一家所習。
如是者信也。聖人之教為物可信。散発初言如是。」博士の直話によれば茶道の奥田正造氏の卸教示によるそうである。
発の初と同義に使用される例は山田博士が古事記上巻講義一で史記の楽書に「発給臍属之巳蚤何也」に対する史記正義に「発は初也」とあることや、商務印書館の辞源に「創也耐也如発見、発明」とあることをあげられておられる。
以上の考証によって初発を考えてみると一般漢籍から原口氏が初発の意義を考証されたとは異なって初発が一つの熟語とみることの可能性がでてきたようである。
1)初期点本の加点者によって初発に連合符がつけられている例のあること。
2)初発心は初の発心ではなく初発の心とみられる例のあること。
3)初発は発初と語順を変改して使用される例のあること。
4)初と発とは辞書、注疏によって同義だと思われること。
5)初発心は初心と同義に使用された例のあること。
6)初発が畢意、究責と対句をなして使用される例のあること。
右の諸条件から考えると初発を達文とみることの可能性があることがいい得ようと思う。しかも既述の如く古事記には達文とみられるものが多く、冒頭のこの二語を達文と考えて何等差支えないはずである。達文とすると音読か−訓によむのが極初期点本の一般的訓読法であり、釈日本紀所見の上官記逸文「唯我独難養育比陀斯奉之」の養育をヒタシと訓んだ最古例を始め日本書紀割注などによって当然ハジメとよむべきことが推定され、結局宣長説に復帰すべきことになるわけである。なお時の次に助詞こをつけるのは初期点本の通例でハジメノトキニとなるわけである。 
十 天地初発之時の訓法を宣長訓に復帰させること
筆者は初発をハジメとよむべきことを推定したのであるが、これは全く初発を達文とみなすことから出たものである。これに対する反論の根拠は古事記序文や日本書紀冒頭文などとの関連からであり、殊に「天地初起」の例を添加された原口氏のお説であろう。
しかし初起と初発とは全問でない。また万葉集の「天地之分時従、天地之分時由、天地等別之時従、天地跡別之時従」などは明らかに天地開聞の太古を思向して表現したものであるが、日本書紀孝徳天皇大化三年夏四月の条の「与天地之初」とある先縦を受けて人麿が日並皇子尊項官の時の挽歌は古事記冒頭の表現と同一であって全く天地の始源を想起してほとばしり出た雄大な発想法で他の語に変改修正を不可能とする絶叫であろう。恐らく奈艮時代に於て開聞の思想もあり、初起、初分、初別の用例も知っていたことであったろう。神田秀夫氏が推定しておられる「初度筆録の古層の本文には「初分」「初別」とでもあったか、それを仏法興隆の飛鳥層に「初発」と挿し代えたものであるかもしれない」というお説は特別の意味をもってくるような気がする。初発は仏典に於て究寛と対比される語で単なるハジメを意味するものではない。何か悠久な太古の相に思いをこらし深奥な理念を読みとらねばならぬ成句である。皇学館大学の谷省吾教授は「天地がオコルのであるか、ヒラクルのであるか、ワカルルのであるか、それは第二次的な問題で天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神という、いわゆる造化三神の勧出現を語る場合においては、何によって始まったか、いかにして本が立ったかその秘訣を擦りあてることが問題であり、その意味で宣長がハジメノトキと単純に訓んだことは神学的には十分に注意をひくところであろう。この三神の卸神格についての宣長の感得したもの、それが彼の訓読の基底にあるのである(天地初発の意義、皇学館大学紀要第3輯)と論じていられる。
筆者は結論的に谷教授のお説に随順したいと思う。初発の二字をめぐって古事記研究者は多くの論文を発表している。凡そ古事記の訓法を論ずる学者としてこの二字に言及しないものはない。
古事記の訓法は言語的究明だけで結論が得られるものではない。谷教授の揚言のごとく祖先の信仰と神学との成果がみごとに示されている冒頭であるので、思想的宗教的省察の上に霊感として啓示される訓法であろう。万葉集のような大部な歌集では類歌も多いし、多種にわたる用字法の比較によって定訓の得られる可能性の大きなものであるが、古事記の訓法は参照すべき文献が極めてすくない。平安極初期点本の言語はそういう要求に応じ得る貴重な資料の一つであろう。
たまたま初発を達文と決定することによって宣長訓の妥当性を考え旧訓に復帰すべきことを提案したのがこの小論である。勿論初発は常に達文として使用されるものでないことは嵯峨天皇が一つは達文一つは二語としてど使用になっていられることによっても知られる通りでこれは挙行の場合と同一であろう。
本小論に使用した平安極初期点本は西大寺本金光明最勝王経古点と石山寺本大智度論天安二年点、同蘇悉地掲羅経略疏天暦点(西大寺本は春日政治博士の大著、石山寺本は大坪併治博士の御調査による)でそれ以外のものはすべて聖語蔵尊蔵のもので筆者が移点本作成事業に従事していたとき拝観を許されたものである。いつもながらのことであるが正倉院事務所の多くの方におせわになったことを厚くお礼申しあげます。

本小論は第3回訓点語学全で点本の達文訓について発表し、頁に「天地初発之時の訓」に・ついては古事記学会の月例研究会が共立女子大学で開かれた折「古事記研究におよぼす点本研究の寄与」という題で発表した時に言及したことがある。また奈良学芸大学紀要第3巻第3号の「速読字の成立について」の中に達文訓にっいての一節を加えてある。築嶋裕博士の大著「平安時代の漢文訓読語につきての研究」78頁に小論についてご紹介をいただいてあるが、博士は更に平安中期以後の連文例を多く挙示されていられる。博士は言及なさらなかったが、達文を分訓し誤読してゆく過程の調査研究こそわが国における漢文訓読史を辿ることになるわけであって、こういう観点からの研究は是非ともまとめなければならぬ事項である。このためには多くの点本の精査を必要とするわけで、個人の力で完成できにくいものである。同学各位のご支援ご協力を得て何とかまとめてみたいものである。本小論は極めてささやかな報告に過ぎないが、将来の研究につながる一試論として過日の口頭発表内容を文章化したものである。 
付記
1)天地初発之時の訓について筆者が参照した論文は次の論稿である。
本居宣長 古事記伝巻三
三矢重松博士 「古事記における特殊なる訓法の研究」
山田孝雄博士 「古事記上巻講義一」
石井庄司博士 古事記解釈の−態度−古事記の「天地初発之時」について 国語国文 昭14.2月号
古事記の発端「天地初発之時の訓釈」文部省教学局日本諸学研究報告第20篇国語国文学 昭和19.4月
倉野憲司博士 「天地初発之時」国語解釈1巻8号
「天地初発之時」の訓義 文芸と思想 昭26.3月号
「古事記上巻註釈別天神五柱(1)」 解釈と鑑賞 昭28.6月号
賀古 明博士 古事記大成3 言語文字篇所収訓話篇上巻
太田 善麿氏 古代日本文学思潮論U
小島憲之博士 上代日本文学と中国文学上
神田 秀夫氏 朝日古典全書 古事記上巻補註
原口 裕 氏 古事記の訓み−「天地初発」と「天地初起」 語文研究第20号 昭40.6月
谷 省吾 氏 天地初発の意義 皇学館大学紀要第3輯 昭40.3月

1 青砥藤綱模稜案「加古非吾児家財悉与吾女婿外人不可争奪者也仇如件」の訓を取りあつかったものである。
2 重言は中国の小学書劉浜の助字弁略などに使用されている。貞室の「かたこと」などには別の意味に使っている。
3 山田博士万葉集講義巻一 294頁
4 神田喜一郎博士 日本書紀古訓考証 90頁
5 大坪併給博士 石山寺本大智度論加点経緯考 国語国文 昭16.1月号
6 春日政治博士 西大寺本金光明最勝王経の国語学的研究197頁 
 
古事記に依る宇宙創造概観

 

はしがき
皇典古事記は、宇宙の始源、天地の大法則を、神話的形式を以て、人間に垂示された神啓である。故に、これを真解することを得れば、世事人事百般に対し、惑うことなく、迷うことなき指針と為るのであるが、其の神話的形式中より、天則、神意、哲理というようなものを求めることは決して、容易の業ではない。
のみならず、其の真解し得たとするところのものも、亦各人の分相応に過ぎないものとなるが故に、必ずしも、一説を以て、他を律するという訳には行かない。 
一 霊と体
霊と体、其の正体は果して何なのだろう。霊と体という語は日常的に使用されているが、未だ具体的説明が付いていないようである。私が、ここに此の研究を進めるに当たり、先ず第一に決めるべきものは、此の霊と体の定義である。この定義を決めずに、私の研究は一歩も先に進まないのである。私は先ずこれを解決したいのである。
凡そ宇宙間に存在する森羅万象、万有一切は、千差万別、多種多様、ほとんど究極を知り得ぬ様相を呈しているが、しかしながら、ある意味に於いては、これは机上に列記可能であると言える。何故なら、宇宙の万有一切は、悉く八十余りの元素に帰着してしまうのであるから、化学実験室の試験管は宇宙万有の根元を包蔵するものとなるからである。地球以外の天体中には、地球上で求め得る元素の外に、尚幾多の元素があるかも知れないが、未だそれが発見されたと言うことを聞か無い。
そうであるのなら、宇宙に於ける一切は、八十有余の元素から成り立つものであると言える。もし後日地球上から、あるいは他の天体から幾多の元素が発見されたとしても、私は其の元素の数の多少に重きを置くのものではないので、私の研究を進める上では支障はない。元素の数が増加すれば、私が今八十有余としているのを九十なり百なりと訂正すればそれで良いのである。
この八十余りの元素は、ラジウムの発見以来、電子より成り立つものであることが明らかになった。この電子というものの組織は、陽電気を核とし一個あるいは数十個の陰電気がある一定の軌道を書いて、非常な速度を以てこの核の周囲を回転している。それは宛かも太陽を中心として、幾多の惑星が、その周囲を回転しているのと趣を同じくしているという。
元素、電子がこの様に決定されたところで私は思う、宇宙間の万有一切を、何らかの方法に依って悉くこれを元素に還元できたと仮定するときは、宇宙万有はその形を喪失し、唯混沌とした八十有余の元素のみとなっていまうだろう。この元素を更に還元して、電子のみに成ったと仮定する時は、宇宙間には、所謂物質なるものが皆無となり、ただ果てし無く、電子のみが満ちる空間となって終わるであろう。つまり、この電子なるものは、陽電子+と、陰電子−とが結合するものである為に、この各種の電子は更にこれを還元して、単なる+と−とに分解し得るはずである。この+と−とは、その性質が正反対である為に、+と−を生じさせるところの本体なるものが必ず存在するに相違無いと推理できる。
この本体なるものは取りも直さず、全く正反対の性質を備えているのであり、即ち+と−とを兼ね備える±でなければならないことは否定できない。即ち宇宙は、その無始の始源に遡るときは、終に混沌中和の±、一元に帰着してしまうのだ。
以上の如く、宇宙は±の一元状態に根源を求め得たのであるが、これより此の始源状態を発足点として、万有育成の順序を私は新たに考察しなければならない。
中和し混沌する一元の±が、発して万有となる第一段階はどうしても+と−との分離でなければならない。相反する二性の対立であって、そしてこの対立する二性が相互に交渉するものでなければ、何事も成り立たないということは明白な事実である。例えば、下なくしては上は有り得ず、右なくしては左は有り得ず、悪なくしては善は存在しないと同様に、相反する+と−が無ければ、万有は成立し得ない。
この万有の発生に+と−との分離が過程の第一段階である。そこでこの+と−は如何にして分離するのであろうか。それには二つの解釈を与えることができる。
第一は、一元である、±の統合した意志精神の発動する結果とするもの。第二は自然の志向性としてそうなったとするもの。しかしながら、第二の解釈は解釈と言うよりも、ただ外面的に宇宙を観察したものに過ぎない。例えば水素と酸素があり、それが化合して水となるのは自然にそうなったと言うのであれば何の答えにもなっていない。ただその現象を報告したに過ぎない。私はこれは水素と酸素との意志精神、言い換えると水素と酸素との性状の発現が水となるのではないかと考える。
此処で述べている性とは。意志精神の特徴を指すものであって、凡そ物(物質そのをいうのでは無い)なるものが存在する以上、性の無いものは有り得ない。既に性があるのであるから、何らかの現象が起きないはずが無いのである。
この様にして、一元の±は、その意志精神の発動によって、+と−との二元に分離するのである。即ち私は、いかなる場合も、現象が起きるのは第一の解釈に従うものであると信じている。一つ例を上げると、ここに電池があって、電池の性によって電流が起きるが、その両極を接し無ければ、+の電流も−の電流も無論起きない。つまり、電流は起きないが、+と−の電流を起こそうとする性は勿論存在するのである。+と−のまだ起こらぬ電池は、一元の±と状態に在ると言うべきであって、宇宙の一元状態も、このようなものであろう。
即ち、宇宙第一次の意志精神は+と−との分離であって、私はこの分離された+を霊と呼び、−を體と呼称するものである。そして宇宙万有一切は、霊と體との結合と調和に他ならないと結論するものである。これを霊と體とに対する私が下す所の第一次の解釈である。此の霊と體とは他に陽陰、火水、男女等と称する事もある。更に言うと、キリスト教で十字を用いるのは、キリストの磔刑を象徴するものではなく、私はこの十字なるものは霊と體との結合、即ち+と−との結合を意味していると考えている。
私達は便宜上、陽、火等を示す符号として+を使用するのであるが、この符号は寧ろ“|”を用いるぺきである。此の|を+と表記するのは−との混乱を防ぎたいからである。十字は+と−との結合する表象となる。
そして又、十字は時間の表象である|と、空間の表象となる−との交差を示すもので、人間は常に時間と空間との交差点に立たされているのであって、何人も此の交差点に立つことからは逃れられない。右に行くも左に行くも、善を成すも悪を行うも、悟るも迷うも、一瞬の間や隙も此の十字から離れては有りえない。
以上の如く、ただキリスト教のみでは無く、私達はこの十字の磔刑を常に甘受しなければならないのである。仏教の卍もこの十字の変形である。+と−とは常に宇宙の大根源を語るもので有り、宇宙の大真理はこの外には有り得ないと私は痛切に感じるものである。 
二 造化の三神
宇宙の森羅万象、万有一切は上述の如く、±の一元より分かれた+と−、霊と體との二元より成立するものである。そうであるなら、此の+と−、霊と體とは如何にして森羅万象、万有一切となったのだろうか。私が思うに、万有が既に生成して仕舞った末端の方から、科学のみを手段として少しずつ探究していくのでは、その精妙さに触れることは困難である。
故にその進むべき方向は超理性の高所から求めなければならない。そして超理性の指針は、古事記の研究に依って求むべきものであると私は思う。古事記ははしがきにも述べた通り、神話の形式をとっている居るが、単に神話的記述でしかなかったとしても世界的には貴重な文学である。しかし、その様なことは真価ではなく、その真価は別に存んする。私は及ばずながら此の方面の研究を志して以来、宇宙の大真理が此の記録中に包蔵されていると信ずるに至ったのである。
古事記の含蓄が、この如く広大にして神秘である以上何人が其の説明を試みたとしても、その全貌を語り尽くすという事は望みようも無いことである。それを初心の私が、しかも小冊子を以てこれに望もうとしているのであるから、無論多くの期待に答え得る訳ではない。唯、涓滴尚流を為すの、少しばかりの誠至を尽くしここに卑見を述べるに過ぎない天地の創造は、古事記には次のように述べられている。
『天地の始発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神御産巣日神』
凡そ天地は剖判してから、始めて天地と成るのであって、未だ分かれていないときは勿論、天も地も無い。分かれる以前の天地は、自ら分かれる以前の天地であるもので、特に説明の要は無い。故に天地が剖判するときを示すことによって、天地が分かれる以前の事も判るのではないだろうか。それが古事記が天地始発之時より記述されている所以である。であるなら、ここに言う天地とは、宇宙と同義ということである。宇宙は無始無終であるが、その無始の始源に於いて成りませる神が、天御中主神、次いで他の二神であらせられる。この三柱の神が所謂造化の三神であらせられる。
この三柱の神の成りませる高天原とは、そもそも何を意味するのだろうか、これ迄に幾多の解釈が成されて来たが、未だ決着には達していないようである。天地が未だ分かれる以前に於いては、宇宙は混沌としている。故に三柱の神の成りませる状況も、この混沌に於いてであったに相違無い。そうであるのなら、造化の三神もこの混沌中の宇宙内に生じたものであって、決して宇宙の外に生じられたものでは無い。この宇宙内に生じられた事を啓示されてあるのが、即ち高天原に成りませると記されている所以である。高天原とは取りも直さず、宇宙そのものなのである。
高天原なる意義に付いて一言付け加えるなら、天地が分かれようとする時の宇宙其の物は、三柱の神に他ならないのであり、宇宙即ち三神、三神即ち宇宙である。故に“高天原に神つまります”と祝詞にあるのは、宇宙には神が隅々まで満々ちているという意味になる。この意味が転化して、神の集合する地点を高天原と指称してしまったのである。此処で言う高天原は、即ち私達が住むこの宇宙自身を指すのであって、その意味での宇宙の外を意識するのであれば、其の宇宙の外に在るものは高天原では無い。
天地初発の時に当たっては宇宙は混沌状態で、天もなく地もなく、日月星辰も無く、勿論、森羅万象の起こる以前であって、未だ+と−とが分かれていない状態を言う。+と−に分かれていない一元の±となる宇宙其の物が、即ち霊體一如が、古事記の天御中主神であらせられる。天御中主の天とは、天と地とが対立する天の意味では無く、宇宙其の物を言う。そうであるなら、天地未開の時の第一神、独一神が天御中主神であらせられる故に、其の天とは、天地が対立するところの天では無いと言うことは自明の理である。又、御中主とは、中心主宰の意志精神なのであるから、天御中主とは宇宙及び宇宙の統合精神と言うことになる。
しかしながら、この一元の±が分かれて+と−とに成り、天地剖判して、万有が鬱生する今日に至っては天御中主神は、その存在わ失ってしまったかに思われるが、決してそうではない。±が分かれて+と−とになり、+と−とが種々の電子となり元素になったとしても、+と−は依然として+と−として存在するのであるから、それはそのまま天御中主神であらせられねばならない。
±、一元の混沌状態に於ける天御中主神は例えるなら、あたかも両極を接する前の電池のようなものであると推測できるのである。そして森羅万象を鬱然として蒸生させる、元宇宙に於ける天御中主神は、電池の積極と消極とを接続して、諸々の現象を生起させる電池の様なものであるのなら、其の未だ両極を接する前と、其の接する後とでは、勿論その働きを異にしている。そこでこれを区別する為に、天地剖判以前の天御中主神を静的天御中主神、剖判後を動的天御中主神と申し上げることにしょう。
剖判以前の、±、一元の混沌の状態である静的天御中主神を、+と−との記号で表象するのなら図1のようになると考える。
この静的状態より、動的様態に移行する起機は、前にも述べた様に、静的天御中主神の意志精神の発動に他ならない。そして、その動的となられる第一次は高御産巣日神、神御産巣日神の二神として顕現されるに始まる。私はこの二神の御活動は、御神名によって髣髴し得るものであると思う。即ち、神御産巣日神の神あるいはカとは、密やかなる幽玄、隠微なるものの意であって、結局は宇宙の内面を示している。また、産巣日とは結合、うん醸、発酵、生産という意義がある。故に、神御産巣日とは、結合及び生産が内面的に遂行されていることを意味している。これらの意味に於いて、±の一元が分かれて+と−になったのは、単純なる+と−とになったのではなく、其の中に+と−との結合、即ち産巣日が内包するところのものでなければならない。
そしてその結合が内面的であるということは、能動的である+が受動的である−よりも内面に存在することに外ならない。これに於いて、神産巣日の結合は+と−とによって表象するときには、凡そ次の様な類型を成すであろう。図2。
しかしながら一方に於いて、科学者は物質元素を研究する結果、元素は電子より成り、その電子は+を核として−がその周囲を回転していると説明しているが、科学者は物質の研究に依って、我が古事記の、神産巣日の類型の正体を突き止めたということになる。
次に高御産巣日の高あるいはタとは顕著であることを示すが故に、+と−の結合である産巣日が外面的に遂行されつつある事を意味している。即ち高御産巣日は、神産巣日とは表裏内外正に相反するものでなければならない。其の表象は必然的に図3のようになるであろう。
産巣日のこの様式は、単に物質を分析還元しただけでは決して得られるものでは無いから、所謂物質主義者は承知しないとは思うが、しかしながら、既に神産巣日の様式を認めている以上、これと相反するところの結合である、高御産巣日の様式を認めぬということは、あたかも−を認めて+を認めない様なものであるから、それについては大きな誤りが在ると感じざるを得ない。
私は古事記の記述に依って、学術界の探究が今後必ずこの方面を開拓し得るに違いないと確信する。即ち学術界は今や物質の究極に到達し得たのであるから、正に霊的方面に突入すべき時機でなければならない。先学の士は恐らくこの点に着眼しておられることと察せられる。それ故、高御産巣日の探究に対する私の憶測は、未だ具体性には乏しいと言える。
一元であるところの天御中主神が、動的状態に移られる第一次は高御産巣日神の霊と、神産巣日神の體との二元となり、霊體結合、うん醸し万有ここに並び起きるに至のである。 
三 天地の剖判
混沌であり中和する±の状態から、+と−とに分かれるのと、やがて天地の剖判となるのであるが、これはただ第一次の段階に過ぎないのであって、+と−とに分かれる事のみでは、天地の剖判という訳にはいかない。此処に於いて、霊と體であるところの高御産巣日神、神産巣日神は更に複雑なる産霊をとげなければならない。古事記に記されているところは次の通りである。
『國稚く、浮脂の如くして、久羅下那洲多陀用弊琉の時、葦芽の如く、萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神』
此の二神は共に、高御産巣日神、神産巣日神の結合、親和、産霊の結果であることは勿論であって、其の結合の組織は、まだ極めて幼稚である。しかし、幼稚ではあるが、既に霊と體とが結合する以上、醗酵うん醸して何らかの生産的萌芽とならざるを得ない。醗酵うん醸は外面的にも、内面的にも、やはり高御産巣日神、神産巣日神に於けるが如くに行われる筈である。
其の外面的うん醸の行われる無辺の辺際の範囲内が、宇宙其の物であって、この無辺の辺際内は、故に、一の恒久不変體と称すべきものであろう。體なるものは既に述べた通り、内面的うん醸の生ずるところのものであるが故に、ここでは簡単にAを以て高御産巣日神を表象し、Bを以て神産巣日神を表象すると、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神は図4のようになるであろう。
霊と體とが結合うん醸して、萌え騰るものがあるということは一方に於いて、自然に沈滞するもののあることを示している。萌え騰って無辺の辺際である天が定まり、沈滞して所謂地を成す。此処に言う所の地とは、天に対する地であって、日月星辰それ自身も、また一つの地であることには外ならないのであるが、我々人間としてはこの天に対する地を差し当たり地球に限定する方が便宜であろう。
そして、此の地の地球は如何にというなら、これはまた霊體結合の結果に外ならないことは先に述べている。その霊と體とは、國之常立神、豊雲野神に外ならないのであるから、地の万有一切はこの二神の結合に因らぬものは無い。國とは組織の意味、常立とは不変の意味であるが故に、國之常立とは恒久不変の組織を意味することになる。この恒久不変の組織とは霊の別称である。
雲野とは組織の意味、豊とは豊富を意味するのであるから、豊雲野は多種多様の組織體の意味となる。即ち國之常立は霊、豊雲野は體であり、この霊と體の組織は高御産巣日神、神産巣日神、比古遅神、天之常立神の結合親和の結果、生成せられた神であって、地の万有一切の始源となられたのである。そこで前例に依り+と−を以てこの二神を表象するときは、図5の通りとなる。Cは高御産巣日神系の組織、Dは神産巣日神系を示す。
物質の元素を還元すると電子となるということは前述の通りであるが、その電子は陽電気を核心とし、陰電気がその周囲を回転するものであるが、その陽電気と陰電気は普通の場合に於いては、Cのごとき複雑なる組織を有し、陰電気はDの如く複雑な組織を有するものであろうと私は考える。即ち物質を還元して得られるべき電子なるものは、この豊雲野の組織に達するに過ぎないということになる。従って霊の霊の基本組織なるものも、この國之常立であらねばならないことに帰着する。
ここで述べている神々に付いて、其の性質を一応解釈する必要がある。この点に関する古事記の記載は甚だ簡単である。
『天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、此の三柱の神は、並獨神成りまして、隠身也』とあるに過ぎない。
次に、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神、この二神も、いずれも皆、獨神成りまして隠身也と記されてある。獨神隠身という語が各所に記されている意味は、つまり其の獨神隠身の程度の差を示すもので、その程度の差を表示するのに他に適当な方法がないため、同一の文字を使用したと察せられる。何れにしても以上の神々は獨神であることに於いては同様なのである。獨神とは独立に存在する意味であって、即ち高御産巣日神は霊として独立に存在し、神産巣日神は體として独立に存在活動し得るのである。
言い換えると、末端の所謂霊と體の関係の如く約束、羈絆を超越しているというのである。比古遅神、天之常立神も然り、国之常立神、豊雲野神も然りであり、ただ、上述した如くその程度を大いに異にしているに過ぎない。
以上の諸神を私は便宜上、霊と體とに区別したのであるが、それが直ちに霊と體であると言うのではない。それは、遡って、霊と體とを成すべき始源であるという意味である。即ち、+を霊、−を體と呼んだのであるが。−そのものが、直ちに體であるというのでは無い。物質の元素なのであるから、末端の方を立脚点とする時は、この體と称している−もまた、これを霊と言々得るのである。つまり第一段階で始源的に属するものは、これを便宜上霊と言えるのであって、単なる+と−は勿論の事其の始源的組織である、国之常立神、及び豊雲野神に至迄は一列にこれを霊と呼んでも差し支えないだろう。獨神隠身が、前述のように別記されているのは此の所以である。また隠身とは、定形の個體を成さない意味であって、単にその眼識に触れぬ事を隠身と言う訳ではない。
以上述べて来たことを纏めると、上記の神々を遡ると霊と體とを成すべきものであるが、その始源的組織に在っては、體を成すものであっても一様にこれを霊の神と称する。これは即ち獨神隠身である。そしてこの獨神隠身中にあってその最も始源的なもの、これもまた霊と體と相持つところのものであるが故に、霊も體も、結局程度の差に依り、呼称を別にしている場合が認められる。 
四 万有の発生
獨神隠身である神々の次に成りませる神々は、男女一対の諸神達である。男女対神と言うことは、其の體なるものに男女の別があることを示す外に、やはり生成には霊體相持つという原則を示している。霊と體とが互いに求め合うところに、所謂力なるものが生ずる。電池の霊なる+が、體なる−と相通じて電流という力を生じるのと趣を同じくしている。
+と−の外に電流という力があるのでは無いと同様に、宇宙間には、霊と體との結合の外に、力なるものが別に存在しているのでは無い。
かくして宇比地邇神、須比智邇神、角材神、活材神、意富斗能地神、大斗乃辨神、淤母陀琉神、阿夜訶志泥神等八柱の神は霊體結合の力の代表神となる。力とは動、静、引、弛、解、凝、分、合、の八力を言う。この力なるものは、始源的霊體の結合、即ち単なる+と−との結合にあっても、なお生ずることは勿論であるが、霊の基本である国之常立神、體の基本である豊雲野神生成の後、これ等力の八神が生じるとする記述の仕方は寧ろ妥当であろうと思う。
霊と體が相合して力を生じ、この力が繰り返し霊と體を誘引し、互いに拠り所と仕合って元素となり、化合物となり、次いで生物ともなったのである。これを伊邪那岐、伊邪那美二神の生成的活動と言うのである。二神の活動の成果は、古事記には可なり詳細に記載されているが、今私はこの概念だけを記述するに止めて。後日若しくは、世の識者に譲りたいと思う。
伊邪那岐神は霊系の神、伊邪那美神は體系の神であって、この二神の親和活動ということは、霊と體との結合を意味し、霊體結合して此処に生物が生じる。つまりこの二神の生成された国土、山野、河海、風雨、草木、魚鳥等、生物である意味に於いては皆同一である。此処で私が生物と言うのは、個體に相応した個體霊が存在するという意味であり、此の個體霊が存在しないものを死物と言う。もともと生物というのも、死物というのも、體としては元素であることに於いては同一であって、其の元素は、霊の+と體の−とより成立する事は既に述べているが、厳密な意味に於いては宇宙間には死物は無いとも言える。
しかしながら、私達が普通言う所の生物死物は、此のように厳密な意味に於いてでは無く主として、個體に相応した個體霊の存否に依って、生物又は死物を区別するのである。一般に言うところの生死とは皆この意味に他ならない。
生物死物に対する前述の定義は、伊邪那美神が火之神を生むことに因って、遂に神避りましたとあるに依って明らかにされて居ると思う。火之神とは所謂霊である。霊が體より分離するときに死の現象を生ずる。これを生物死物を区別する鉄案であろうか、否神約である。
伊邪那岐神は腰に帯びたる十拳剣を抜き、迦具土神を切られたのであるが、その流れ出る血より八柱の神、並びにその身體の各所より八柱の神が生まれられた。八柱とは多数と言うことであって、必ずしも八柱と限定した訳では無い。即ち、伊邪那岐なる霊の神的作用は、その霊を多数に分割してこれを生物に賦与し得るのである。
又其の伊邪那美神を黄泉国に訪ねるとき、一火を燈して行かれたのである。凡そ體には一つの火、即ち一の霊を注入するときはこれに生物がなるのであるという原則が、この條を見て察することが出来る。
そうであるなら、これとは全く反対に伊邪那岐神が、伊邪那美神を辞去して後、筑紫の小戸に禊ぎされた時には、十四柱の神の生成となった。禊ぎとは洗い濯ぐことであって、水とは、火なる霊に対する身であり體であるが故に、伊邪那岐神なる霊が、身即ち體を得る事によって生成を成し遂げ得るという天則が此処に示されて居ることになる。
この様に霊が主となり體が従属となり生成すると言うのが原則中の原則なのである。それは天照大御神を始め奉り、三貴子がこれによって得られたとあるでたやすく説明できるからである。
伊邪那岐神は、其の神功を遂げられた時後に、天に登られ日の少宮に留まられたということが日本書紀に載っている。これは何を意味するのか。霊なるものは活気生き生きとして、恒久に存在するというに外ならない。私が前に恒久不変の別名である、と言ったのは此の為である。
以上記述してきたところを要約すると、万有の生成は総て霊と體との結合に因るものであって、霊體の結合はこれに力なるものが生じる。活物の心性というものも、要するにこの力に対する別名に過ぎない。活物より霊が脱出するときに死の現象を生じる。しかし、霊が脱出する、所謂死せる體もまた一段始源的に属する霊體の結合であるが故に、決して元来の死物というものでは無い。個々の體を形成するものに霊が加わって、此処に生物を生ずるのが、神約天則なのである。
伊邪那岐、伊邪那美二神の活動に対する古事記の記載を研究すれば、尚幾多の重要なる神律を伺うことが出来る。男は左を司り、女は右を司り、夫は唱え婦は随う、過ちを改めるに、ためらうことなかれと言う事も、其の一つとなって居るのであるが、この記述の目的は、これ等の問題に立ち入るべきではないので、今はこれを略する。 
五 世界の統治
霊體相分かれて天地剖判し、霊と體とが結合して森羅万象と成り、万有一切が鬱然と蒸生するに至ったのは前述の通りであって、森羅万象、万有一切の基本となる霊は国常立、體は豊雲野に帰す。この基本霊と根本體とが相親和して力を生じ、霊と體と力とが更に複雑な関連と交流を結び、霊が主となり體が従となって、ここに基本的個體を有する理想體が生成されたのである。換言すると、男霊女體の理想神が生成されたのであり、それは言うまでもなく天照大御神であらせられる。
この理想神が高天原の主宰神となられたのである。高天原とは前述した通り、宇宙其の物である。古事記は、その筆を天地初発の時に起こしているのであって、その記述が、極東のこの日本に極限されると言う偏狭な記録では無い。意図して視野を狭くし、偏見に捕らわれる人間でない限り、其の宇宙的記録は必ずや肯定し得る筈である。尤も、これを極東日本に限られた記録と解釈するというのも多少根拠とする所が無いわけでもない。それは、伊邪那岐神が国生みをされた、其の国々が現日本の国々と同一の名になっているから、この点のみを考察するときは、日本の記録の様な感を、免れ得なかったのであろうと思われる。これについての論及は別の機会に譲る。
さて、高天原が宇宙其の物であることが以上の如く決定され、其の高天原であるところの宇宙の主宰神が、天照大御神であらせられることが納得できれば、私の論旨を進める上に於いては充分である。天照大御神はすでに高天原の主宰神たる事が決定されているのであるから、今順序として、其の御神容を伺い賜わねばならなくなった。畏くも、天照大御神の御神體は前章にて考察するところの神産巣日より豊雲野に至迄の、始源的體體であらせられるべき故に、體の類型であるEであらねばならぬことは自然の結果である。そして此の類型的體が最終的には、物質的元素なるものに化して仕舞うのかどうかは、尚考量の余地があるが、この所謂始源的なるものが細胞であるところの個體であられた事に付いては、些かの疑いもない。そして其の個體が、人間の眼識に映り得ないと言うものであることも、また疑いの余地は無い。このような體を有される個體に、高御産巣日より国之常立に至る所謂始源的霊の宿るものが、即ち天照大御神であらせられると拝察するのである。この様な霊體を有される神は、他にも尚多数生成することは、古事記に見て明らかであって、ただ其の神々中の霊と體共に純粋のものが、るのが天照大御神であらせられる。
以上述べている様に、霊と體とより成れる神々を、私はこれを龍神と申し上げる。須佐之男命も、また龍神であらせられる点に於いては天照大御神と何等相違が無いのであるが、ただ霊と體とが男女相反している。
天照大御神と須佐之男命の宇気比によって、三女神、五男が生成されたのであるが、この八柱の神も又、龍神であらせられることは、争う余地が無い。しかしながら+と−とが結合して電子となり、原子となり元素となり終わりに人間の五官に感覚し得る物質となる様に。三女五男の神の龍體は、天照大御神に対し奉るときは、人體化の傾向に一歩進められたものとなれることは、推考する難くない。
此処で五男神中の天忍穂耳命は、高木神、即ち高御産巣日系の神霊と結合されて、日子番能邇々藝命がお生まれになり、人體化の傾向は更に一段と歩みを進め、天照大御神より、豊葦原水穂国は、汝知らざらん国なりとの御詔勅を受けて、後に天降りますに至ったのである。此の邇々藝命の御延長が申すまでもなく、我が日本の天皇陛下であらせられるが故に、日本天皇が、世界の一君として地球上に君臨せられるべきことは、議論の余地のないことである。
古来の学者は豊葦原水穂国を極東の現日本の国土の意味とするのであるが、宇宙の主宰神であらせられる天照大御神が、一島国に過ぎない現日本のことのみを問題にして、地球全土に対しては全く無関心であると言う如きは常識を以ってしても、辻褄が合わないのである。豊葦原水穂国は現日本では無く、世界全体を示すものであることは、益々明らかであると言える。
日本の臣民であるなら此の一大記実を否定するものは居ない筈である。日本歴代の天皇が、治世の宝典とされるところの古事記が虚偽の記録では断じて無い。日本臣民はおろか、世界人類の総てが、此の事実を認めない訳には行かない時機が早晩到来すべき事を、私は信じて疑わない。
鳴呼、古事記は、宇宙創造の神の覚書である。万類発生の順序録である。天地太道の原則的規約である。世界人類の等しく遵守しなければならぬ宝典である。この宝典中、現日本特有の記述と認められるものは、わずかに神武天皇東征以降にある。この様に、天地宇宙の大いなる記述が、やがて日本特有の記録と変遷して行くところに私は、量り知れぬ興趣を感じるものである。世の古事記を研鑽する諸君、願わくば軽々見過ごすなかれ。 
六 余論
日本書紀に拠れば、天孫瓊々杵尊が御降臨に成ってより、神武天皇御東征まで、一百七十九万余歳であるという。これを人文の歴史のたかだか、六七千年の間に比べれば、随分と悠久なる年数である。
又地質学研究の結果は、我が日本国土の随所に散見する岩石は、その成り立ちは少なくとも数億年は経過しているという。いまこれ等の説を承認し、これより推考するときは、天地開闢の様な出来事は、幾百億年前であったのか、想像することさえ出来ぬが、この想像も付かぬ時代に、簡単であって、無にも等しき陰陽が、今の複雑な万有と成ったのであるから、その手順を推し量り想定してみたとしても、或いは全くの見当違いとなるかも知れない。
しかしながら、天地開闢以来の経過を研究することに由って、宇宙の意志、精神、神の意図、及び其の為に必要とされるところの制約と言うべきものを、此の理より求め得るのならば、人類の世界に生息する意義、使命というものを会得して、天意神則の達成に、応分の力を致し得ることとなる。それ故にこの茫漠の感のあるを免れ得ないこの研究も無駄では無いことになる。況んや我が日本には、古事記その他の旧記があり、其の大体の見当をつけ得る様に恵まれているのであるから、これを世界に発表し、この指導に委ねることに躊躇するべきでは無い。私も非才を顧みず、この大問題に触れた所以は、日本国民の一員として、全くの微力ながら、その自覚し思惟するところのものを、捧げようとしているに過ぎない。
何人も知る通り、古事記は神名を列記した記録の様なものである。此の神名録が日本の宝典たるのである。更に、日本国土の全體は、官弊社、国弊社、村社、郷社、そして各家の氏神に至るまで、殆ど神社に満たされている。この意味も日本は神国で在らねばならない。
この神国日本に於いて不思議の感に堪えないのは、人々が神と言う言葉を口にしないことである。そればかりか、甚だしきに至っては神を九とにするのは一種の恥とする風潮さえあるようになった。偶神を言う者があるとして、迷信家扱いされる程である。そういう訳で。元来神に縁遠く、物質主義の本家である欧米に於いて、近頃少しずつ、心霊とか霊魂とかいう声が大きくなって、神に接近しようとする傾向となって来た。私が先に述べた問題から観ると、この霊魂と言うものは、距離は遠いものではあるが、しかし此の霊魂もまた神には相違ないから、心霊とか霊魂とかを研究すれば、終には、私の説くところの神に到達し得ると思う。
霊魂研究の第一段に於いて、精神作用、心理現象、暗示催眠術と称するところのものがある。しかし、これ等にのみに関心を向け過ぎると、心霊の本質、延いては神の問題に到達することは困難であろう。私には、神の本源を究めずに、ただ末端の小事に煩わされている様にしか見えないのである。
宇宙万有一切は、今迄数々述べてきた通り、生物死物、有機物無機物と言ってもこれを分析還元するときは終には、+と−とに帰着してしまう。心理作用、精神現象等と称しても、つまるところは+と−との結合の力の発現に外ならない。この+と−との結合は、やがて漸次複雑となり、終に個體を成すところのかみとなり、延いて霊魂なるものを生じるに至るのであるが、霊魂に対する意見は、また別に扱うとして、ここでは只単に霊魂の存在ということを肯定して置くに止める。世の学者には今尚霊魂の存在を否定する者が在る様だが、霊魂の否定は物質までも否定することになるのであるから、私は世の学者に、更に一段の研究を加えられる事を希望せざるを得ない。
宇宙は広大無辺にして、果てしが無く、神霊霊魂の世界は密やかにして幽玄な、人には測り知れない世界である。故に、私がこの問題を此処で述べてみたところで、大海の粟の一粒にも当たらないだろう。だからといって興味本位でこれを世に公にするのでは無い。ただこの問題が識者の一考を得れば、今の所はそれで足るものとしょう。(終) 
浅野正恭  大正11年
 
宇宙の始まり

 

スワンテ・アウグスト・アーレニウス Svante August Arrhenius

先年私がスウェーデンの読者界のために著した一書『宇宙の成立』“Das Werden der Welten”(Vrldarnas Utveckling)が非常な好意をもって迎えられたのは誠に感謝に堪えない次第である。その結果として私は旧知あるいは未知の人々からいろいろな質問を受けることになった。これらの質問の多くは、現今に比べると昔は一般に甚だ多様であったところのいろいろの宇宙観の当否に関するものであった。これに答えるには、有史以前から既にとうにすべての思索者たちの興味を惹いていた宇宙進化の諸問題に関するいろいろな考え方の歴史的集成をすれば好都合なわけである。
ところが今度ある別な事情のために、ニュートンの出現以前に行われた宇宙開闢論的観念の歴史的発達を調べるような機縁に立至ったので、このついでにこの方面における私の知識を充実させれば、それによって古来各時代における宇宙関係諸問題に対する見解についての一つのまとまった概念を得ることが可能となった。この仕事は私にとっては多大な興味のあるものであったので、押し付けがましいようではあるが、恐らく一般読者においても、この方面に関する吾人の観照が、野蛮な自然民の当初の幼稚なまとまらない考え方から出発して現代の大規模な思想の殿堂に到達するまでに経由してきた道程について、多少の概念を得ることは望ましいであろうと信じるようになった。ヘッケル(Hckel)が言っているように『ただそれの成り立ち(Werden)によってのみ、成ったもの(das Gewordene)が認識される。現象の真の理解を授けるものはただそれの発達の歴史だけである。』
この言葉には多少の誇張はある――たとえば現代の化学を理解するために昔の錬金術者のあらゆる空想を学び知ることは必要としない――しかしともかくも、過去における思考様式を知るということは、我々自身の時代の観照の仕方を見る上に多大の光明を与えるという効果があるのである。
最も興味のあるのは我々現在の観念の萌芽が最古の最不完全な概念形式の中に既に認められることである。これらの観念がその環境の影響を受けながら変遷してきた宿命的経路を追跡してみるとこれらがいかにいろいろの異説と闘ってきたかが分り、また一時はその生長を阻害されることがあっても、やがてまた勢いよく延び立って、その競争者等を日陰に隠し、結局ただ自己独りが生活能力をもつものだという表章を示してきたことを知るであろう。このような歴史的比較研究によって我々の現代の見解の如何に健全であるか、いかに信頼するに足るかということを一層痛切に感得することができるであろう。
この研究からまた現代における発達が未曾有の速度で進行しているということを認めて深き満足を味わうことができるであろう。まず約一〇万年の間人類は一種の精神的冬眠の状態にあったのでいかなる点でも現在の最未開な自然民俗に比べて相隔ることいくばくもない有様であった。いわゆる文化民俗の発達史が跨がっている一万年足らずの間における進歩はもちろん有史以前のそれに比べてははるかに著しいものにちがいない。中世においては、この時代の目標となるくらいに、文化関係の各方面における退歩がありはしたが、それにかかわらず過去一〇〇〇年の間における所得はその以前の有史時代全部を通じての所得に比べてはるかに顕著なものであると断言しても差支えはないであろう。最後にまた、今から一〇〇年以前におけるラプラス並びにウィリアム・ハーシェルの宇宙進化に関する卓抜な研究はしばらくおいて、ともかくも最近一〇〇年間のこの方面における収穫はその前の九〇〇年間のそれに比べて多大なものであるということは恐らく一般の承認するところであろうと思われる。単に器械的熱学理論がこの問題に応用されただけでも、それ以前一切の研究によって得られたと同じくらいの光明を得たと言ってもいいのであるが、その上に分光器の助けによって展開された広大な知識の領土に考え及び、またその後熱輻射や輻射圧や、豊富なるエネルギーの貯蔵庫たる放射性物質やこれらに関する諸法則の知識の導入などを考慮してみれば、天秤は当然最後の一世紀の勝利の方に傾くのである。もっともこのような比較をするには我々は余りに時代が近すぎる。そのために一〇〇年以前の世紀との比較に正鵠を失する恐れがないとは言われないが、しかしともかくも自然界に関する吾人の知識が今日におけるほど急激な進歩をしたことは未だかつてなかったということについてはいかなる科学者にも異議はあるまいと信ずるのである。
自然科学的認識(特に宇宙の問題の解釈におけるそれの有効な応用)の進歩がこれほどまで異常な急速度を示すに至るというのはいかにして可能であろうか。これに対する答はおよそ次のように言われるであろう。文化の最初の未明時代における人間は、もともと家族から発達したいわゆる種族の小さな範囲内に生活していた。それで一つ一つの種族が自分だけでこの広大な外界から獲得することのできた経験の総和は到底範囲の大きいものにはなり得なかった。そうして種族中で一番知恵のある人間がいわゆる「医術者」(Medizinmann)となってこの経験を利用し、それよって[#「それよって」はママ]同族の人間を引回していた。彼のこの優越観の基礎となる知識の宝庫を一瞥することを許されるのはただ彼の最近親の親戚朋友だけであった。この宝庫が代々に持ち伝えられる間に次第に拡張されるにしてもそれはただ非常に緩徐にしか行われなかった。種族が合同して国家を形成する方が有利だということが分ってきた時代には事情はよほど改善されてきた。すなわち、知識の所有者等は団結して比較的大きな一つの僧侶階級を形成した。そうして彼らは実際本式の学校のようなものを設けて彼らの仲間入りをするものを教育し、古来の知恵を伝授したものらしい。そのうちにも文化は進んで経験の結果を文字で記録することができるようになってきた。しかしその文字の記録を作るのはなかなかの骨折りであったので、そういうものは僅少な数だけしかなく、寺院中に大事に秘蔵されていた。このようにして僧侶の知恵の宝物は割合に速やかに増加していったが、その中から一般民衆の間に漏れ広がったのは実に言うにも足りないわずかな小部分にすぎなかった。のみならず民衆の眼には博識ということは一種超自然的なもののようにしか見えないのであった。しかしそのうちにも偉大な進歩は遂げられた。そうした中でも最も先頭に進んでいたのは多分エジプトの僧侶たちであったらしく、彼らがギリシアの万有学者たちに自分たちの知識の大部分を教えたというのは疑いもないことである。そうして一時素晴らしい盛花期が出現した。その後に次いで来た深甚な沈退時代を見るにつけてもなおさら我々はこの隆盛期に対して完全な賛美を捧げないわけにはゆかないのである。この時代にはもはや文字記録は寺院僧侶という有権階級のみに限られた私有財産ではなくなって普通の人民階級中にも広がっていた。ただしそれは最富有な階級の間だけに限られてはいたのである。ローマとギリシアの国家の隆盛期には奴隷の数が人民の大多数を占めていたのであるが、彼らの中の少数な学識ある奴僕たとえば写字生のようなもの以外のものは精神文化の進歩を享受することを許されていなかった。特にまた、手工、従って実験的な仕事などをするのは自由人の体面に関わることであってただ奴隷にのみふさわしいものであるというような考えがあったことが不利な影響を生じたのであった。その後にまた自然探究の嫌いなアテンの哲学学派のために自然研究は多大の損害を被ることとなった。その上に彼らの教理はキリスト教寺院の管理者の手に渡って、そうしてほとんど現代までもその文化の進歩を阻害するような影響を及ぼしてきたのである。この悲しむべき没落期は新時代のはじめに人間の本性が再びその眠りから覚めるまで続いた。この時に至って印刷術というものが学問の婢僕として働くようになり、また実験的の仕事を軽侮するような有識者の考え方も跡を絶つようになった。しかし初めのうちはやはり昔からの先入的な意見の抵抗があり、またいろいろな研究者間に協力ということが欠けていたためにあまりはかばかしくはゆかなかった。その後この障害が消失し、同時にまた科学のために尽くす研究者の数も、彼らの利器の数も矢つぎ早に増加した。最近における大規模の進歩はかくして行われたのである。
我々は今『最上の世界』に住んでいるという人が折々ある。これについては余り確かな根拠からは何事も言い兼ねるのであるが、しかし我々は――少なくも科学者たちは――最上の時代に生活していると主張しても大丈夫である。それで我々は次のようなことを歌ったかの偉大なる自然と人間の精通者ゲーテとともに、未来は更に一層より善くなるばかりであろうという堅い希望を抱いても差支えはないであろう。
げに大なる歓びなれや、世々の精神に我を移し置きて、昔の賢人の考察の跡を尋ねみて、かくもうるわしくついに至りし道の果て見れば。一九〇七年

ここで一言付加えておきたいことは、この改訂版で若干の補遺と修正を加えたことである。これはその後にこの方面に関して現われた文献と並びに個人的の示教によったものである。それらの示教に対してはここで特に深謝の意を表しておきたいと思う、また教養ある読者界がこの書中に取り扱われた諸種の問題に対して示された多大の興味は今度もなお減ずることなく持続することを敢て希望する次第である。また断っておきたいことは、死者並びに神々の住みかに関する諸問題である。これら問題に対する解答を与えるということが、ずっと古代の開闢論的宇宙像の形成には何らかの貢献をしたであろうし、従ってまたここでも問題とすべきではないかと考えさせるだけの理由もないではないが、しかしこの書では少しもこれらの点に立入らないことにした。これについては読者の多数からは了解してもらわれるであろうと信じる。これらの問題の考察は実際全然この書の目的とする科学的考究の圏外に属するものなのである。一九一〇年 
宇宙の生成に関する自然民の伝説

 

発達の最低段階にある民族はただその日その日に生きてゆくだけのものである。明日何事が起ろうが、また昨日何事が起ったにしたところが、それが何か特別なその日その日の暮らしむきに直接関係しない限り、彼らにとってそれは何らの興味もないことである。宇宙というものについて、あるいはその不断の進展について、何らかの考察をしてみるというようなこともなければまたこの地球の過去の状態がおよそいかなるものであったかということについて何らかの概念をもつということすら思いも寄らないのである。今でも互いに遠く隔った地球上のところどころに、このような低い程度の民族が現存している。たとえばブリントン博士(Du. Brinton)は、北米の氷海海岸に住むエスキモーが、世界の起源ということについて未だかつて考え及んだことすらなかったということを伝えている。同様にアルゼンチンのサンタ・フェー(Santa F)にいる、昔は戦争好きで今は平和なインディアンの一族アビポン人(Abiponer)や、また南アフリカのブッシュメン族(Buschmnner)もかつて宇宙開闢の問題に思い及んだことはないようである。
しかし、生活に必需なものを得るための闘争がそれほどにひどくない地方では、既に遠い昔から、地球の起源について、少し後れてはまた、天の起源――換言すればこの地球以外にある物象の起源――に関する疑問に逢着する。こういう場合には、たいてい、世界の起源について何かしら人間的な形を備えた考え方をしているのが通例である。すなわち、世界は何かの人間的な『者』によって製造されたと考えられているのである。この『者』は何かしらある材料を持合わしていて、それでこの世界を造り上げたというのである。世界が虚無から創造されるというような観念は一般には原始的な概念中にはなかったものらしく、これにはもっと高級な抽象能力が必要であったものと見える(注)。こういう考えの元祖はインドの哲学者たちであったらしく、それがブラーマ(すなわち、精霊)の伝説中に再現しているのを発見する。ブラーマは彼の観念の力によって原始の水を創造したというのである。同じ考えはまたペルシア、イスマエルの伝説にも現われ、ここでは世界は六つの時期に区切られて出発したことになっている。物質が何らかの非物質的なものから、ある意志の作用、ある命令、またはある観念によって生成し得るものであるという考えは、上記の伝説におけるものと同様に、『超自然的』あるいは『非自然的』と名づけてもしかるべきものである。これは物質の総量が不変であるという現代科学の立場と撞着するのみならず、また野蛮民等がその身辺から収集した原始的の経験とさえも融和しないものである。また実際多くの場合に、物質の永遠性という観念の方が、物質から世界を形成した人間的の創造者すなわち神が無窮の存在であるという考えよりも、もっと深いところに根源をもっているらしく見える。従ってその宇宙創造者は原始物質から生成したものと考えられているのが常例である。もちろんこのような宇宙始源に関する観念を形成しようとする最初の試みにおいて、余り筋道の立った高級なものを期待するわけにはゆかないのであるが、しかしかえってこれらの最も古い考え方の中に進化論(すなわち、本来行われ来った既知の諸自然力の影響の下に宇宙の諸過程が自然的に進展するという学説)の胚子のようなものが認められること、またこの進化論と反対に超自然的の力の作用を仮定するような、従って自然科学的考察の対象とはなり得ないような形而上学的宇宙創造論の胚子と言ったようなものが認められないということは観過し難い点である。
(注)オーストラリアの海岸に住む非常に文化の低い程度にある民俗ブーヌーロン(Bu-nu-rong)の言うところでは、鷲の形をして現われた神ブンジェル(Bun-jel)が世界を作ったことになっている。何者から作ったか、それは分らない。
かの偉大な哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)は進化という概念について次のように言っている。すなわち『進化とは非均等から均等へ、不定から決定へ、無秩序から秩序への変化である』というのである。もっともこの意見は全く正当ではない――特に分子の運動に関係しては――が、それでもこれは宇宙の進化に関するこの最初の概念に全然該当するものである。この概念はなおまたラプラスの仮説の一般に行われたために現代までも通用してきたものである。形態もなく、秩序もなく、全く均等な原始要素としては普通に水が考えられていた。最古からの経験によって洪水の際には泥土の層が沈澱することが知られており、この物はいろいろな築造の用途に都合の良い性質によって特別の注意を引かれていたものである。タレース(Thales)は、また実に(西暦紀元前約五五〇年)万物は水より成ると言っているのである。煮沸器内の水を煮詰めてしまうと、あとには水中に溶けていた塩類と、浮遊していた固体の微粒子から成る土壌様の皮殻を残すということの経験は恐らく既に早くからあったのであろう。
この考えを裏書するものとして引用してもよいかと思われるものは、後に述べるようなエジプト、カルデア、フィンランドの創造神話の外に、万物の起源に関するインドの物語の一つである。すなわち、それはリグヴェーダ(Rig-Veda)の第一〇巻目の中にある見事な一二九番の賛美歌で、訳してみるとこうである。
一つの「有」もなく一つの「非有」もなかった、空気で満たされた空間も、それを覆う天もなかった。
何物が動いていたか、そして何処に。動いていたのは誰であったか。
底なしの奈落を満たしていたのは水であったか。
死もなく、また永遠の生というものもなかった。
昼と夜との分ちも未だなかった。
ある一つの名のない「物」が深い溜息をしていた、その外にはこの宇宙の渾沌の中に何物もなかった。
そこには暗闇があった、そして暗闇に包まれて、形なき水が、広い世界があった、真空の中に介在する虚無の世界があった。
それでもその中の奥底には生命の微光の耀かがよいはあった。
動いていた最初のものは欲求であった、それが生命の霊の最初の象徴であった、霊魂の奥底を探り求めた賢人等、彼らは「非有」と「有」との相関していることを知った。
とは言え、時の始めの物語を知る人があろうか。
この世界がいかにして創造されたかを誰が知っていよう。
その当時には一人の神もなかったのに。
何人も見なかったことを果して誰が語り伝えようか。
原始の夜の時代における世界の始まりはいかなるものであったか。
そもそもこれは創造されたものか、創造されたのではなかったのか。
誰か知っているものがあるか、ありとすれば、それは万有を見守る「彼」であるか、天の高きに坐す――否恐らく「彼」ですら知らないであろう。
この深きに徹した詩的の記述は本来原始民の口碑という部類に属すべきものではなく、むしろ甚だ高い発達の階級に相当するものである。しかしこの中に万物の始源として原始の水を持出したところは、疑いもなくインド民族の最古の自然観に根ざしていると思われる。
種々な開闢の物語の多数の中に繰返して現われる(中にも、カルデア及びこれと関連しているヘブライまたギリシアのそれにおいても)観念として注目すべきものは、一体ただ光明の欠如を意味するにすぎないと思われる暗黒あるいは夜をある実在的なものだとする観念である。「有」と「非有」とは一体正反対なものであるのを連関したもののように見なしている。ここでこのような考えの根底となっているのは疑いもなく、全然均等な渾沌の中にはいかなる物にもその周囲のものとの境界がなく、従って何物も存在しないという観念であろう。
通例無秩序の状態を名づけるのにギリシア語のカオス(Chaos)を用いるが、これは元来物質の至る所均等な分布を意味する。カントの宇宙開闢論もやはり、宇宙はその始め質点の完全に均等な渾沌的分布であったということから出発している。この原始状態はまたしばしば、たとえば日本の神話におけるごとく、原始エーテルという言語で言い表わされる。その神話にはこうある。『天と地とが未だ互いに分れていなかった昔にはただ原始エーテルがあったのみで、それはあたかも卵子のような混合物であった。清澄なものは軽いために浮び上がって天となった。重いもの濁ったものは水中に沈んでしかして地となった。』またもう一つの日本の伝説でタイラー(Tylor)の伝えているものによると、大地は始めには泥のように、また水に浮ぶ油のように粘流動性であった。『そのうちにこの物質の中からアシと名づけるイチハツあるいは葦のようなものが生長し、その中から地を作る神が現われ出た』というのである。
自然の生物界においては、一見生命のないような種子あるいは卵から有機生物が出てくる。この事実の観察からして、しばしば宇宙の起源には卵子がある重要な役目を務めたという観念が生じた。これは上述の日本の物語にもまたインド、支那、ポリネシア、フィンランド、エジプト、及びフェニシア伝説においてもそうである。
宇宙の生成に一つまたは数個の卵が主役を務めたということで始まるいろいろな創造伝説の中で最もよく知られており、また最もよく仕上げのかかっているのはフィンランドのそれである。それはロシアのアルハンゲルスク州に住む比較的未開なフィンランド種族の物語によって記録されている。この伝説によると『自然の貞淑な娘』であるところのイルマタール(Ilmatar)が蒼い空間の中に浮び漂うていた。そして折々気をかえるために海の波の上に下り立った、というのである。これで見ると海は始めから存在していたので、その上には広い空間があり、のみならずイルマタールがあり、彼女は自然の中から生れたものである。これはいろいろな野蛮民族に通有な考え方に該当しているのである。
そこでイルマタールは嵐に煽られて七〇〇年の間波の上を浮び歩いている。そこへ一羽の野鴨が波の上を飛んできてどこかへ巣を作ろうとして場所を捜す。イルマタールが水中から臑を出すと鴨がその上に金の卵を六つ生み、七番目には鉄の卵を生む。それから鴨は二日間それを抱いてあたためた後、イルマタールが動いたために卵は落ちて深海の底に陥る。
しかし卵は海の水で砕けなかった、それは、これから天が地が生れて出た。
卵の下の部分から母なる低い地が生じ、しかし卵の上の方から高い天の堅めができた。
しかして残りの黄味は日中を照らす太陽となり、そして残った白味は夜の冴えた月となった。
しかし卵の中でいろいろなものは天の多くの星になった。
そうして卵で黒い部分は風に吹かれる雪になった。
そこでイルマタールは海から上がり、そうして岬や島々や山々小山を作り出した。それから、賢い歌手で風の息子であるところのウェイネモェイネン(Winminen)を生んだ。ウェイネモェイネンは月と太陽の光輝を歓喜したが、しかし地上に植物の一つもないのはどうも本当でないと思った、そこで農業の神ペルレルヴォイネン(Pellervoinen)を呼び寄せ野に種を播かせた。野は生き生きした緑で覆われ、その中から樹々も生い出た。ただ樫樹だけは出なかった。これはその後に植えられたのである。しかるにこの樫は余りに大きく生長しすぎて太陽や月の光を遮り暗くするので伐り倒さなければならなかったというのである。
ここで見るようにこれらの話の運びの中で神々や人間、動物や植物が現われてくるが、これらがどこからどうして出てきたかについては何ら立入った説明の必要も考えられていない。この特徴はすべての創造伝説に典型的なものではあるが、このフィンランドの伝説ほどにこれが顕著に現われているのは珍しい。多分この伝説はその部分がそれぞれ違った人々によってでき上ったものらしく思われる。しかしこれらを批評的に取扱って一つのまとまった宇宙生成の伝説に仕立て上げようとしたものはなかった。言い換えればこれは畢竟伝説の形となって現われた自然児の詩にすぎないのであって理知に富む思索家の宇宙を系統化せんとする考えではないのである。
ヒルシュ(E. G. Hirsch)が言っている通り、『原始的の宇宙開闢論はいずれも民族的空想の偶発的産物であって、したがって非系統的である。それらは通例ただ神統学(Theogony)の一章、すなわち、神々の系図の物語であるにすぎない。』
諸方の民族の伝説中で大洪水の伝説が顕著な役目をつとめている。これには科学者の側からも多大の注意を向けられている。最もよく知られているのは聖書に記された大洪水で、この際に大地はことごとく水中に没し、最高の山頂でさえ一五エルレンの水底にあったことになっている。一八七〇年代のころにこれと全く同様な内容を楔形文字で記した物語が発見され、その中に英雄シト・ナピスティム(Sit-napistim)(すなわち、バビロン人のいわゆるクシスストロス Xisusthros)の名が出ていることが分って以来、このユダヤの伝説の源はアッシリアのものであると考えらるるに至った。ヘブライの本文に『大洪水を海より襲い来らしむべし』とあるところから、有名な地質学者ジュース(Suess 一八八三年)は、この大洪水が火山爆発に起因する津波によって惹起されたもので、この津波がペルシア湾からメソポタミアの低地の上を侵入していったものであろうと考えた。
リイム(I. Riem)は種々な民族の大洪水に関する伝説で各々独立に創作されたらしく思われるものを六八ほど収集した。この中でわずかに四つだけがヨーロッパの国民のものである。すなわち、ギリシアのデゥカリオンとピュルラ(Deukalion, Pyrrha)の伝説、エッダ(Edda)中の物語、リタウェン人(Littauer)の伝説及び北東ロシアに住むウォグーレン人(Wogulen)の伝説である。アフリカのが五、アジアのが一三、オーストラリア及びポリネシアが九、南北アメリカのが三七である。ニグロやカフィール族(Kaffer)の黒人やアラビア人はこの種の伝説を知らないのである。この大氾濫の原因について各種民族の伝うるところは甚だまちまちである。氷雪の融解によるとするもの(スカンジナビア人)、雨によるとするもの(アッシリア人)、降雪(山地インド人 Montagnais-Indianer)、支柱の折れたために天の墜落(支那)、水神の復仇(ソサイティー諸島 Gesellschaftsinseln)によるもの等いろいろある。中には洪水が幾度も繰返されたことになっているのもある。
たとえばプラトン(Plato)はティマイオス(Timos)の中で、あるエジプトの僧侶が、天の洪水は一定の周期で再帰するものだと彼に話したと記している。
通例天地創造の行為は単に物質の整頓であると考えられ、大多数の場合にはそれが地と原始水あるいは大洋との分離であったと考えられている(太平洋諸島中の若干の民族は地が大洋から漁獲されたと考えている)。それでその前の渾沌状態は氾濫すなわち、いわゆる『大洪水』によって生じたものであろうと考えられ、それがまた後に繰返されたものと考えられるのは、極めてありそうなことである。たとえばアリアン人種に属しないサンタレン人(Santalen)などがこれに類した考え方をしていたもののようである。
この考えはまた、近代の若干の学者によって唱えられたごとく、現在生物の生息する地球の部分は、いつかは一度荒廃して住まわれなくなってしまい、また後に再び生物の住みかとなるであろうという意見とも一致する。野蛮人の間では、この荒廃をきすものは水か火かあるいは風(しばしばまた神々の怒り)である。そうして後にまたこの土地が新たに発育し生命の住みかとなる。こういう輪廻は幾度も繰返されたと考えるのである。この考え方は、輓近の宇宙観は別として、なかなか広く拡がっているものであって、その最も顕著に表明されているものはインドの伝説中にも(プラナ Purana の諸書中に)、また後に再説すべき仏教哲学の中にも見出される。
宇宙の再生に関する教理は普通にまた一般に広く行われている霊魂の移転に関する教理と結び付けられているのが常であるが、ここではこの方の関係について立入る必要はあるまい。
アメリカの宇宙開闢神話は、恐らく旧世界とは没交渉にできたものと思われるのである格別の興味がある。ところがこれがまた旧世界の伝説と著しい肖似を示している。ただアメリカの伝説では動物の類が主要な役割をつとめている。大多数の狩猟民族と同様にアメリカ・インディアンもまた動物も自分らの同輩のように考えているのである。一体世界の製作者というのは、きまって土か泥を手近に備えていたもののようである。通例地は水から分れ出たことになっている。最も簡単な考え方によると、大洋の中の一つの小島がだんだんに大きくなってそれが世界になったということになっている。英領コロンビアのタクル人(Takullier)の観念は独特なものであって、すなわち、始めには水と一匹の麝香鼠の外には何もなかった。この麝香鼠が海底で食餌を求めていた。その間にこの鼠の口中に泥がたまったのを吐き出したのがだんだんに一つの島となり、それが生長してついに陸地となったというのである。もっと独特な神話はイロケース人(Irokesen)によって物語られている。すなわち[#「すなわち」は底本では「すわち」]、一人の女神が天国から投げ出されたのが海中に浮遊している亀の上に落ちてきた。そしてその亀が生長して陸地になったというのである。この亀は明らかに前述の神話における小さな大洋島に相当するものであり、女神の墜落はその島の生長を促す衝動になっているのである。ティンネーインド人(Tinneh-Indianer)の信ずるところでは一匹の犬があって、それはまた美しい若者の姿にもなることができた。その犬の身体が巨人のために引き裂かれて、それが今日世界にある種々の物象に化生したというのである。このごとく、世界が一人の人間あるいは動物の肢体から創造されたとする諸神話は最も多様な野蛮人のこの世界の起源に関する伝説中に見出されるのである。時には宇宙創造者は、たとえばウィンネバゴインド人(Winnebago-Indianer)の『キッチ、マニトゥ(Kitschi Manitou)』(偉大なる精霊)のように、自分の肢体の一部と一塊の[#「一塊の」は底本では「一魂の」]土壌とから最初の人間を造り上げた。この神話はエヴァの創造に関するユダヤ人の伝説を思い出させるものであるが、とにかく明白に初めからこの土地が存在していたものと仮定されている。この点はナヴァヨインド人(Navajo-Indianer)、ディッガーインド人(Digger, Grber-Indianer)またはグァテマラの原始住民の宇宙始源に関する物語においても同様である。
オーストラリアの原始住民は甚だ低級な文化の段階に立っている。一般には彼らは世界の始まりについて何らの考えをも構成しなかったように見える。彼らにとっては、大多数の未開民族の場合と同様に、天というものは、平坦な円板状の地を覆う固定的の穹窿である。ウォチョバルーク族(Wotjobaluk)の信ずるところでは、天は以前は地に密着して押しつけられていたので太陽はこの二つの間を運行することができなかったが、一羽の鵲が一本の長い棒によって天を空高く押し上げたのでようやく太陽が自由に運行するようになったのである。この甚だ幼稚な神話はこれに類似した古代エジプト人の神話のあるものを切実に想起させるのである(これについては更に後に述べる)。
上記の諸例から知らるるように、宇宙構成の原始的観念は宗教的の観念と密接に結合されている。野蛮人は、何でも動くもの、また何かの作用を及ぼす一切のものは、ある意志を賦与された精霊によって魂を持たされていると見なす。こういう見方を名づけてアニミスムス(Animismus 万物霊動観)という。『もしも一つの河流が一人の人間と同じように生命をもっているならば、自分一個の意志次第で、あるいは潅漑によって祝福をもたらすことも、また大洪水によって災害を生ずることもできるはずである。そうだとなれば、河がその水によって福を生ずるように彼を勧め、また災害の甚だしい洪水を控えてくれるように彼をなだめることが必要になってくる。』
野蛮な自然民はこの有力な精霊を魔法によって動かそうと試みる。その法術にかけては玄人であるところの医者または僧侶が他の人間には手の届かない知恵をもっているのである。現在我々が自然現象の研究によって得んとするもの、すなわち、自然力の利用ということを野蛮人は魔術によって獲んとするのである。それである点から見れば魔術は自然科学の先駆者であり、また魔術使用の基礎となる神話や伝説は種々の点で今日の自然科学上の理論に相当するものである。そこでアンドリウ・ラング(Andrew Lang)に言わせると、『諸神話は一方では原始的な宗教的観念に基づくと同時にまた他方では当て推量によって得られた原始的の科学に基づいたものである。』これらの推量なるものも多数の場合には、しょせん日常の観察に基づいたものであろうということは考えやすいことである、また実際いかなる観察に基因したかを推定することも困難でない場合がしばしばある。もっとも中には幾分偶然のおかげであった場合も多いであろう。
これらの神話は口碑によって草昧の時代から文化の進んだ時代まで保存されてきた。その間に次第に人間の教養は高くなってきても祖先伝来のこれらの考え方に対する畏敬の念は、これらの神話を改作したり、また進歩した観察と相容れないと思わるる部分を除去する障害となりがちであった。このことは次章に再説するヘシオド(Hesiod)及びオヴィド(Ovid)の記した宇宙開闢の叙述において特に明瞭に現われているのである。
時にはまたもう一つ他の影響があった。すなわち、野蛮人の伝説は通例高い教養のある、しかも特にそれに興味をもった人々によって描き出されている。それで全く無意識にその人たち自身の考え方が蛮人の簡単な物語の上に何らかの着色をする。そういうことはその伝説の中に何か明白な筋道の立ちにくい箇所のあるような場合に一層起りやすい、そういう時にはそれを記述する収集家はその辻褄を合わせようという気に誘われやすいからである。その収集家が人種の近親関係または他の理由からその自然民に対して特別好意ある見方をしている場合には特にそうである。こういう場合にはその記述は往々その野蛮人から借りてきたモティーヴで作り上げた美しい詩になってしまうのである。
もちろんそういうことは、何ら筆紙に書き残された典拠のない場合のことである。しかしそんなものの存するためにはかなり高い文化が必要であるから、野蛮人からそういうものが伝わろうとは思われない。それで記録によって伝わっている開闢観についてはもっと後に別に一節を設けて述べることとする。それらの中で特に吾人の注意を引く二つの部類がある、その一は吾人今日の文化の重要な部分をそこから継承した諸国民のものであり、その二は高級な理解力と考察の深さをもった他の民族のそれである。
この第一の部類は、後に古代の哲学者によりまたその後代の思索家によって追究され改造された考えと直接に連関しているものである。実際古代文化民族の宇宙開闢伝説の遺骸のようなものが現代の文明諸国民の宇宙観中の重要な部分となっているのである。
第二の部類のものは、科学の力によって非常に拡張された外界の知識から我々の導き出した考えと種々な点で相通ずるものがあるというところに主要な興味があるのである。 
古代文化的国民の宇宙創造に関する諸伝説

 

近代文明の淵源は古代のカルデアとエジプトであって、そこには約七千年の昔から保存された文化の記念物がかなり多量にある。もっともまだまだもっと古いほとんど五万年も昔の文化の遺跡が、南フランスや北部スペインの石灰洞の壁に描かれた、おもにマンモスや馴鹿や馬などの、着色画に残ってはいるが、しかしこの時代の芸術家の頭に往来していた夢は実にただ好もしい狩猟の獲物の上にあり、そして獲物が余分に多かったときに、それを分ち与える妻の上にも少しは及んだくらいのものであった。この『マグダレニアン時代』(Magdalenien Zeit)と名づけられた時代が現代の文明に及ぼした影響については何らの確信もないのであるが、これに反して、かのカルデア及びエジプトにおける古典的地盤の時代に遡ってこのような影響を求めてみると、得るところがなかなか多いのである。
『高きには天と名づくる何物もなく、下には地と呼ぶ何物もなかったときに、』すなわち、天地開闢以前に、カルデアの神話に従えば『ただこれらの父なるアプスー(Apsu 大洋)と、万物の母なるティアマート(Tiamat 渾沌)があるのみであった。』この大洋の水と渾沌とが交じり合い、その混合物の中に我々の世界の原始的要素が含まれていたので、その中から次第次第に生命が芽生えてきた。しかしてまた『その以前には創造されていなかった』神々も成り出で、しかして数多い子孫を生じた。ティアマートはこの神々の群衆が次第に自分の領域を我がもの顔に侵すのを見て、己が主権を擁護するために、人首牛身、犬身魚尾などという怪物どもの軍勢を作り集めた。神々は相談をしてこの怪物を勦滅そうめつすることに決議はしたが、誰も敢て手を下そうとするものがない中にただ一人知恵の神エア(Ea)の息子のマルドゥクがこれに応じた。ただし彼は勝ったときの賞として彼らに対する主権を与えるという約束を仲間の神々たちに求めた。事態切迫の際この望みは容れられたので、彼は弓と槍と稲妻という武器を提げてティアマートの在所を捜しあて、これに一つの網を投げかけた。ティアマートが巨口を開いてマルドゥクを飲もうとしたときに彼はその口と臓腑の中に暴風を投げ込んだ。その結果としてティアマートは破裂してしまった。ティアマートに従うものどもは恐れて逃げようとしたが捕らえられ枷をかけられてエアの神の玉座の前に引き出された。そこでマルドゥクは渾沌として乱れたティアマートの五体の変形を行った。すなわち、それを『干物にしようとするときに魚を割くように』二つに切り割いた。『そうして、その一半を高く吊るしたのが天となり、残る半分を脚下に広げたのが地となった。そうして、かようにして彼の造った世界がすなわち以来の人間のよく知る世界である。』
第一図 電光を揮ってティアマートを殺すマルドゥク、大英博物館所蔵ニムロッドの浮彫の一部、フォーシェー・ギューダンの描図による。この図と次の第三図はマスペロの著書より。
マスペロの『古典的東洋民族の古代史』(Maspros “Histoire ancienne des peuples de l'Orient classique”)の中にカルデア人の宇宙観を示す一つの絵がある(第二図)。地は八方大洋で取り囲まれた真ん中に高山のように聳え、その頂は雪に覆われ、そこからユーフラテス(Euphrat)河が源を発している。地はその周囲を一列の高い障壁で取り囲まれ、そして地とこの壁との中間のくぼみに何人も越えることのできない大洋がある、壁の向こう側には神々のために当てられた領域がある。壁の上にはこれを覆う穹窿きゅうりゅうすなわち天が安置されている、これはマルドゥクが堅硬な金属で造ったもので、昼間は太陽の光に輝いているが、夜は暗碧の地に星辰をちりばめた釣鐘に似ている。この穹窿の北の方の部分には、一つは東、一つは西に、都合二つの穴の明いた半円形の管が一本ある。朝になると太陽がその東の穴から出てきて、徐々に高く昇ってゆき、天の南を過ぎて西方の穴へと降ってゆき、そこへ届くのが夜の初めである。夜の間は太陽はこの管の中をたどっていって、翌朝になると再びその軌道の上に運行を始めるのである。マルドゥクは太陽の運行によって年序を定め、年を一二の月に分ち、毎月が一〇日すなわちデセードを三つずつもつことにした。それで一年が三六〇日になる。毎六年目に閏月が一つあてはさまることにしたので一年は平均するとやはり三六五日ということになったのである。
第二図 カルデア人の宇宙観。フォーシェー・ギューダンの描図。中央に大陸が横たわり、それから四方に向かって高まり、いわゆる「世界の山」アララットになっている。大陸の周囲は大洋が取り巻きその向こう側に神々の住みかがある。『世界の山』の上には釣鐘形の天(マルドゥクが造った)が置かれてある。これが昼間は日光で輝き、夜は暗青色の地に星辰が散布される。北の方の部分には管が一本あってその二つの口が図に見えている。朝は太陽がその東の口から出て蒼穹に昇り、午後には再び沈下して夜になるとついに管の西口の中に入ってしまう。夜の間はこの管の中を押しすすみ翌朝になると、また再び東口に現われる。
カルデア人の文化は季節の交互変化と甚だ深い関係があるので、彼らは暦の計算を重要視した。始めには、多数の民族と同様に、算暦の基礎を太陰の運行においたものらしい。しかしそのうちに太陽の方がもっと重要な影響を及ぼすことに気付いたので、上記のごとき太陽年を採用した。それがマルドゥクの業績として伝えられたのであろう。その後、間もなく、星の位置を観測すると種々な季節を決定するのに特別有用であるということを発見した。季節は動植物界を支配する。しかるに人類の存続は結局全くこの有機界による。そういうわけで、結局星辰の力というものが過重視されるようになり、そのために爾後約二〇世紀の間、現代の始まりまでも自然研究の衝動を麻痺させるという甚だ有害な妄信を生ずるに至った。この教理はジュリアス・シーザーと同時代のディオドルス・シクルス(Diodorus Siculus)によって次のように述べられている。『彼ら(カルデア人)は長い年月の間星辰を注目してきて、しかしてあらゆる他国民よりも仔細にその運動と法則とを観察してきたおかげで、将来起るべきいろいろのことを人々に予言することができた。予言をしたり未来を左右したりするのに最も有効なものは、吾人が遊星と名づくる五つの星(水星、金星、火星、木星、土星)であると考えた。もっとも彼らはこれらの星を『通訳者』(Dolmetscher)という名で総称していた。――しかしこれらの星の軌道には、彼らのいうところでは、『助言する神々』と呼ばれる三〇の別の星がある。そのうちでの首座の神々として一二を選み、その一つ一つに一二ヶ月の一つと並びに黄道状態における十二宮星座の一つずつを配布した。これらの中を通って太陽太陰並びに五つの遊星が運行するものと彼らは信じていたのである。』
カルデアの僧侶たちの占星術はなかなか行届いたものであった。彼らは毎日の星の位置を精細に記録し、また直後の未来におけるその位置を算定することさえできた。いろいろの星はそれぞれ神々を代表し、あるいは全く神々そのものと見なされていた。それで誰でもいかなる神々が自分の生涯を支配しているかを知りたいと思う人は、星のことに明るい僧侶について、自分の誕生日における諸星の位置を尋ねる。そうして潤沢な見料と引換に、自分の運勢の大要を教わるのである。何か一つの企てをある決まった日に遂行しようという場合ならば、その成功の見込についてあらかじめ教えを受けることができた。もしこのカルデアの僧侶についてよほど善意な判断を下してみるとすれば、多分こういうふうに言われるであろう。すなわち、彼らの考えの基礎には、すべてのできごとは外界の条件の必然の結果として起るものである、という、今日でも一般に通用している確信があったのであろう。
しかしこの考えと編み交ぜられていたもう一つの考えは全く間違ったものであって、簡単な吟味にも堪えないものであった。すなわち、それは太陰や諸遊星の位置が自然界や人間界にかなりな影響を及ぼすと考えたことである。諸天体は神々であるとの信仰のために天文学は神様に関する教え、すなわち、宗教の一部になった。しかしてその修行はただ主宰の位置にある僧侶階級にのみ限られていた。誰でもこの僧侶階級の先入的な意見に疑いを挿むような者はこの僧侶たちと利害を同じうしていた主権者から最も苛酷な追究を受けた。この忌まわしい風習が一部分古典時代の民族に移り伝わり、そうして中世の半野蛮人において最も強く現われたのである。
カルデアの宇宙構成神話はまた他の方面から見ても吾人にとって重要な意義がある。すなわちそれは、少し違った形でユダヤ人によって採用され、従ってまたキリスト教徒に伝えられたからである。近代の研究において一般に認容されている宇宙創造伝説の推移に関する考えは、ドイツの読者間には『バベルとバイブル』(Babel und Bibel)という書物によって周知のことと思うから、ここではすべてをその書に譲りたいと思う。渾沌はユダヤ人にとってもやはり原始的のものであった。地は荒涼で空虚であった。しかして深きもの(すなわち、原始の水)の上には一面の闇があった。バビロニアの僧侶ベロスース(Berosus)の言葉として伝えられているところでは『始めにはすべてが闇と水であった』ことになっている。この深きものテホム(Tehom)というのがユダヤの宇宙創造の物語では人格視されており、また語源的にティアマートに相当している。その有り合わせた材料から神エロヒーム(Elohim)が天と地とを創造した(あるいは、本当の意味では、形成した)のである。
エロヒームは水を分けた。その上なるものは天の中に封じ込められ、しかしてその下なるものの中に地が置かれた。地は平坦、あるいは半球形であって、その水の上に浮んでいるものと考えられていた。その上方には不動な天の穹窿が横たわり、それに星辰が固定されていた。しかしこの天蓋までの高さは余り高いものではなく、鳥類はそこまで翔け昇り、それに沿うて飛行することができるのである。エノーク(Enoch)は、多くの星が地獄(Gehennas)の火に焼き尽くされたさまを叙している。それはエロヒームの神がこれらの星に光れと命じたときに光り始めなかったからである。このように星辰は『不逞の天使』すなわち、主上の神から排斥された神々であったのである。
カルデアの創世記物語とユダヤのそれとの相違する主要の点は、後者が一神的であるに反し前者が多神的であることである。ただし前者でも太陽神マルドゥクが万象並びにまた諸神の主権者として現われている点から見ればやはり一神的の傾向をも帯びている。
ユダヤの宇宙開闢説の中にはまた世界の卵という考えに関するフェニシアの創世伝説の痕跡のあることは『エロヒームの精霊が水の上に巣籠りした(brtete. 通例「浮揺していた」schwebte と訳してある)』という文句からうかがわれる。またマルドゥクとティアマートの争闘の物語の片影はヤフヴェ(Jahve)が海の怪物レヴィアターン(Leviathan)すなわち、ラハーブ(Rahab)を克服する伝説の中に認められる。宇宙開闢論の見地から見ると、ユダヤ、従ってキリスト教における世界の始源に関する表現には何ら特別優れた創意というものはないのである。
世界の始めに関するこの最初のカルデアの記述よりは幾分後になるが、それでもやはり随分古いものとしては、これに対応するエジプトのいろいろの物語である。中で最も重要な、ここでの問題に関する神話を、マスペロ(Maspro)の集録によって紹介することとする。すなわち、当時『虚無』の概念はまだ抽象的なものにはなっていなかった。それで、「暗き水の中に」、形は渾沌たるものではあったがとにかく物質的な材料があった。そこで特別な首座の神様が――国が違えばこの神も一々違っているが――世界にありとあらゆる生物無生物を造り出した。その造り方は、その神の平生の仕事次第でいろいろであって、例えば織り出すとか、あるいは陶器の壷などのように旋盤の上でこねて造ったりしている。ナイル川のデルタの東部地方では創世記神話が最もよく発達していた。すなわち、始めには天(ヌイト Nuit)と地(シブ Sibu)とが互いにしっかりと絡み合って原始の水(ヌー Nu)の中に静止していた。創世の日に一つの新しい神シュー(Shu)が原始水から出現し、両手で天の女神ヌイトをかかえてさし上げた、それでこの女神は両手と両足――これが天の穹窿の四本柱である――を張って自分のからだを支え、それが星をちりばめた天穹となったのである(第三図)。
第三図 シューの神がヌイト(天)とシブ(地)を分つ図。チューリン博物館所蔵のミイラの棺に描かれたものをフォーシェー・ギューダンの模写したもの。
そこでシブは植物の緑で覆われ、それから動物と人間が成り出でた。太陽神ラー(Ra)もまた原始水の中で一つの蓮華の莟の中に隠されていたが、創世の日にこの蓮の花弁が開きラーが出現して天における彼の座を占めた。このラーはしばしばシューと同一視せられたものである。太陽がヌイトとシブの上を照らしたので、そこで一列の神々たちが生れ、その中にはナイルの神のオシリスもいた。暖かい日光の下に、あらゆる生けるもの、すなわち、植物も動物も人間も発達した。ある二三の口碑によるとこれは温められたナイルの泥の中での一種の醗酵作用、すなわち、ある自生的過程によって起ったものとされており、この過程は歴史時代に至ってもまだ全く終っていなかったもののように考えられている。多くの人々の信じていたところでは、この最初の人間たち、すなわち、太陽の子供たちは完全なものであり幸福であった。そして後代のものは出来損なったものばかりで、本来の幸福を失ってしまったものである。またある人々の信じていたところでは、この最古の人間たちは動物のような性状のもので、まだ言語をもたず、ただ曲折のない音声で心持を表わしていたのを、トート(Thot)の神が初めてこれに言語と文字とを教えたということになっている。このように、ダーウィンの学説でさえも、ここに見らるるごとく、既にこの文化の幼年時代においてその先駆者をもっているのである。
第四図 太陽神が創造の際開きかかった蓮華から出現する図。フォーシェー・ギューダンの描図。この神は頭上に神聖な蛇を乗せた太陽円盤の象徴を頂いている。蓮華と二つの莟とは一つの台から立上がっている、これは通例水盤の象徴であるがここでは暗黒な原始水ヌーをかたどっていると思われる。
古典時代における宇宙始源に関する観念は甚だ幼稚なものであった。ヘシオド(Hesiod 西暦紀元前約七〇〇年)が彼の神統記(Theogonie)及び『日々行事』(Werke und Tage)の中でギリシアの創世記神話を語っている。それによると、すべては渾沌をもって始まった。そのうちに地の女神ゲーア(Ga)が現われ、これが万物の母となった。同様にその息子の天の神ウラノス(Uranos)が通例万物の父と名づけられたものである。天と地とが神々の祖先だという考えは原始民族の間ではよくあることである。ここでこの初心な、子供らしい、また往々野蛮くさい詩を批評的に精査しても大した価値はないのであるから、これをフォッス(Voss)の訳した音律詩形で紹介することとしておく。すなわち、神統記、詩句一〇四―一三〇及び三六四―三七五にこうある。
幸いあれ、ツォイスの子らよ、美しき歌のしらべに、いざや、永遠に不死なる神々の聖族を讃めたたえよ。
地より、また星に輝く天より成り出で、暗く淋しき夜よりも。さてはまた海の潮に養われし神々の族をたたえよ。
始めに神々、かくて地の成り出でしことのさまを語れ、また河々の、果てなき波騒ぐ底ひなき海の、また輝く星の、遠く円かなる大空の始めはいかなりしぞ。
この中より萌え出でて善きものを授くる幸いある神々は、いかにその領土を分ち、その光栄を頒ちしか、またいかに九十九折なすオリンポスをここに求めしか、時の始めよりぞ、語れ、かの神々の中の一人が始めに生り出でしさまを。
見よ、すべての初めにありしものは渾沌にてありし、さどその後に広がれる地を生じ、永久の御座としてすべての永遠なる神たち、そは雪を冠らすオリンポスの峯に住む神の御座となりぬ。
遠く広がれる地の領土の裾なるタルタロスの闇も生じぬ。
やがてエロスはあらゆる美しさに飾られて永遠の神々の前に出できて、あらゆる人間にも永遠なる神々にも、静かに和らぎて胸の中深く、知恵と思慮ある決断をも馴らし従えぬ。
渾沌よりエレボス[#「エレボス」は底本では「エレホス」](注一)は生れ、暗き夜もまた生れ、やがて夜より気エーテル(注二)、と光の女神ヘメーラは生れぬ、両つながらエレボスの至愛の受胎によりて夜より生れたり。
されど地は最初に己が姿にかたどりて彼の星をちりばめし天を造り、そは隈なく地を覆い囲らして 幸いある神々の動がぬ永久の御座とはなりぬ。
(注一) エレボス。原始の闇、陰影の領土。
(注二) エーテル。上層の純粋な天の気、後に宇宙エーテルとして、火、空気、土、水の外の第五の元素とされたもの。
次にゲーアは『沸き上る、荒涼な海』ポントス(Pontos)を生んだ。彼女とウラノスは六人の男子と六人の女子を生じた。それはいわゆるティタンたち(Titanen)で、すなわち『渦巻[#「渦巻」は底本では「過巻」]深き』大洋のオケアノス(Okeanos)、コイオス(Koios)(注一)とクレイオス(Kreios)(注二)ヤペツス(Japetus)(注三)、ヒュペリオン(Hyperion)(注四)、テイア(Theia)(注五)、レイア(Rheia)(注六)、ムネモシュネ(Mnemosyne)(注七)、テミース(Themis)(注八)、テティース(Thetis)、フォエベ(Phoebe)、及びクロノス(Kronos)(注九)、などその外にキュクロープたち(Zyklopen)(注一〇)などである。ここで、一部は多分ヘシオドのこしらえたと思われるいろいろな名前を目録のように詩句の形でならべたものを紹介しても余り興味はあるまい。――このような単純な詩の種類、すなわち、名前の創作といったようなものは北国民の詩スカルド(Skalden)にも普通である。――ただ星と風との生成に関する次の数行だけはここに掲げてもよいかと思う。
(注一) コイオス。多分光の神、これはヘシオドにだけ出てくる名である。
(注二) クレイオス。半神半人、ポントスの娘の一人、ユウリュビア(Eurybia)の婿である。
(注三) ヤペツス。神々の火を盗んで人類に与えたかのプロメテウス(Prometheus)の父。
(注四) この名の意味は『高く漂浪するもの』である。
(注五) 立派なものの意。
(注六)『神母』、これがすなわちツォイス(Zeus)の母であった。
(注七) 追憶の女神、歌謡の女神たちの母。
(注八) 秩序と徳行の女神。
(注九) 首座の神で、自分の子のツォイスに貶された。
(注一〇) アポローに殺された一つ目の巨人たち。
テイアは光り輝く太陽ヘリオスと太陰セレネを生みぬ、また曙の神エオスも。これらはあまねく地に住むものを照らしさては広く円かに覆える天に在す不死なる神をも照らしぬ。
これはかつてヒュペリオンの愛の力によりてテイアより生れぬ。
されど、クリオスはユウリュビアを娶りて力強き御子たちパルラス(Pallas)とアストレオス(Astros)(注一)を生みぬ、この高く秀でし女神は。
またペルセス(Perses)も、そは、別けて知恵優れし神なりき。
エオスはアストレオスと契りて、制し難き雄心に勇む風の神を生みぬ。
ゼフューロス(Zefyros)(注二)は灰色にものすさまじ、ボレアス(Boreas)(注三)は息吹きも暴し。
ノトス(Notos)(注四)は女神と男神の恋濃かに生みし子なればこそ。
また次に聖なる爽明の女神はフォスフォロス(Fosforos)(注五)を生みぬ。
天に瓔珞とかがやく星の数々も共に。
(注一) 天の神で風の神々の父。
(注二) 西風。
(注三) 北風。
(注四) 南風。
(注五) 暁の明星―金星(venus)。
『日々行事』(Werke und Tage)において、ヘシオドはいかにして人間が神々によって創造させられたかを述べている。始めには人間は善良で完全で幸福で、しかして豊富な地上の産物によって何の苦労もなく生活していた。その後にだんだんに堕落するようになったのである。
ギリシアの宇宙開闢説はローマ人によって踏襲されたが、しかしそのままで著しい発展はしなかった。オヴィドがその著メタモルフォセス(Metamorphoses)の中に述べているところによると始めにはただ秩序なき均等な渾沌、“rudis indigestaque moles”があった。それは土と水と空気との形のない混合物であった。自然ナツールが元素を分離した。すなわち、地を天(空気)と水から分ち、精微な空気(エーテル)を粗鬆な(普通の)空気から取り分けた。『重量のない』火は最高の天の区域に上昇した。重い土はやがて沈澱して水によって囲まれた。次に自然は湖水や河川、山、野、谷を地上に形成した。以前は渾沌の闇に隠されていた星も光り始め、そうして神々の住みかとなった。植物、動物、しかして最後に人類も創造された。彼らはそこで黄金時代の理想的の境地に生活していた。永遠の春の支配のもとに地は耕作を待たずして豊富な収穫を生じた(“Fruges tellus inarata ferebat”)。河々には神の美酒ネクタールと牛乳が流れ、槲樹からは蜂蜜が滴り落ちた。ジュピター(ツォイス)がサターン(クロノス)を貶してタルタロスに閉じ込めたときから、時代は前ほどに幸福でない白銀時代となり、既に冬や夏や秋が春と交代して現われるようになった。それで厳しい天候に堪えるために住家を建てる必要を生じた。すべてのものが悪くなったのが銅時代にはますます悪くなり、ついに恐ろしい鉄時代が来た。謙譲、忠誠、真実は地上から飛び去り、虚偽、暴戻ぼうれい、背信、そして飽くことを知らぬ黄金の欲望並びに最も粗野な罪悪の数々がとって代った。
第五図 ギリシア神話における大河オケアノスの概念。
オヴィドの宇宙開闢説はヘシオドのといくらも違ったところはない。本来の稚拙な味は大部分失われ、そしてこれに代わって、実用的なローマ人の思考過程にふさわしいずっと生真面目な系統化が見えているのである。
部分的にはなかなか見事であると思われるオヴィドの叙述の見本を少しばかり、ブレ(Bulle)の翻訳したメタモルフォセス[#「メタモルフォセス」は底本では「メタルモルフォセス」](『変相』)の中から下に紹介する。
海と陸の成りしときよりも前に天がこの両つの上に高く広がりしときよりも古く全世界はただ一様の姿を示しぬ、渾沌と名づくる荒涼なる混乱にてありし。
重きものの中に罪深く集いて隠れしは後の世に起りし争闘の萌芽なりき。
日の神は未だその光を世に現わさず、フォエベの鎌はまだ望月と成らざりき。
地は未だ今のごとく、己と釣合いて空際に浮ばずまたアムフィトリートの腕は未だ我が物と遠く広がる国々の果てを抱かざりき。(注一)
空気あるところにはまた陸あり、陸にはまた溢るる水ありて空気に光もなく陸には立ち止まるべきわずかの場所もなく水には泳ぐべき少しの流動さえなかりき。
いかなる物質にも常住の形はなく、何物も互いに意のままにならざりき。
一つの体内に柔と剛は戦い、寒は暖と、軽は重と争いぬ。
ただ、物の善き本性と一つの神性とによりてこの醗酵は止みぬ。(注二)
陸と海、地と蒼穹とは分たれ、輝くエーテルと重き空気は分たれぬ。
かくて神がこの荒涼を分ちて万物をその在所に置きしときすべての中に一致と平和を作り出しぬ。
上に高く天の幕を張り巡らせしそは重量なき火の素質にてありき、下には深くやがてまた重く空気を伴いぬ。
更に深く沈みて粗なる質量より作られて地はありぬ、その周囲には水を巡らしぬ。
かく神が物質を分ちしとき――そは誰なりしか――これに肢節を作り始めぬ。
これが均衡を得るためにまず地を球形(注三)として空中に浮べたりき。
嵐に慄く海の潮を次に湖沼を泉を河を造りぬ、
河は谷に従い、岸の曲るに任せて流れぬ。
多くの流れは成りてその波は海へと逆巻きて下り、多くの河はやがて再びまた地を呑み尽くし、 また多くは勢いのままに溢れ漲り渚は化して弓なりに広き湖となり岸辺は波打ちぬ。神の定めにまた谷々も広き野原もまた岩山も緑茂る森も出できぬ。
神はまた天の左手の側に二つの帯を作りまた右手に二つ真ん中には火光に燃ゆる第五帯を作りまた地にも同じく五つの帯の環を巡らしぬ。
中なる帯は暑さのために住み難くさらばとて外側の帯は氷雪の虐げあり、ただ残る二帯のみ暖と冷と幸いあるほどに正しく交じり合えり。
空気はそのエーテルより重きことはなお水の土よりも軽きがごとし、神はこれを雷電の座と定めければ、このときより多くの人の心はそのために安からず恐れ悩めり。
また神は霧を撒き散らしまた霞と雲を空中に播き、また稲妻を引連れて、風の軍勢はかしこに氷の息吹きと飛び行く、されど神はその止度なく暴るることは許さじ。
(注一) ここで海神ポセイドン(Poseidon)の配偶アムフィトリートが地の縁辺を腕で抱えるとあるところから見ると、オヴィドは地が球形でなくて円板の形をしていると考えていたことが分る。しかしオヴィドの時代に、教養ある人々の間には一般に地は球状をなすものと考えられていた。
(注二) この神は「温和な自然」である。Hanc deus et melior litem natura diremit.
(注三) この言語 orbis は本来円板の義で、後にはまた球の意にも使われた。
この次には各種の風とその出発点に関する記述があって、それからこの詩人は次のように続けている。
澄めるエーテル、そは明るき遠方に重量なくまた地にあるごとき限界を知らず昇りたり――エーテルに今は星も輝き初めぬ。
それまでは荒涼なる濁りの中に隠されし群も。
この数々の星にこそ人間の目は自ら神々の顔と姿を認むるなれ。
この神々は生のすべてのいかなる部分にも過ち犯すことなからんために、エーテルの中に光り浮ぶ。
かくて空気は鳥の住みかとなり魚には海、他の生けるものには陸ありき。
ただ一つの存在、そは理性を享け有ちてすべての他のものの主たるべきものは未だこの全眷屬の中にあらざりき、人だねの生れしまでは、そはこの世界を飾らんため(注)恐らくは主の命により胚子より形作られて、秩序をもたらすべき人類の生れしまでは。
恐らくはまた地の土の中にエーテルの取り残されし一片の火花ありしか、この土を水に柔らげて神々の姿と容をプロメテウスの堅き手に作り上げしときに。
その外のあらゆる者は下なる地の方に眼をこそ向くれ、その暇に人のみこそ振り仰ぎその眼は高く永遠の星の宮居に、かくてぞ人のくらいは類いなきしるしなるらん。
あわれ黄金時代よ、その世は信心深き族の何の拘束も知らず、罰というものの恐れもなくただ己が心のままに振舞いてやがて善く正しかりき。
厳しき言葉に綴られし誡めの布告もなくて自ら品よき習わしと秩序とは保たれぬ。
また判官の前に恐れかしこまる奴隷もなかりし。
人は未だ剣も鎧も知らず喇叭も戦を呼ぶ角笛も人の世の外なりし。
未だ都を巡らす堀もなく人はただ己に隣る世界の外を知らざりき。
檜の船は未だかつて浪路を凌がず、人は世界の果てを見んとて船材に斧を入るることもなかりき。
静かに平和に世はおさまりて土はその収穫を稔れよと鶴嘴と鋤とに打砕かるることもなかりき。
(注)“Sanctius his animal mentisque capacius altae-Deerat adhuc et quod dominari in cetera posset- Natus homo est.”
この後に来たのが白銀時代で、黄金時代の永久の春はやみ、ジュピターによって四季が作られた。人間は夏の焼くような暑さ、冬の凍てつく寒さを防ぐために隠れ家を求めることが必要となった。土地の天然の収穫で満足していられなくなったので人間は耕作の術を発明した。
世は三度めぐりて黄銅のときとなりぬ。
心荒々しく武器を取る手もいと疾く、されどなお無慚の心はなかりき[#「なかりき」は底本では「かなりき」]。恥知る心、規律と正義の失せ果てしは四度目の世となりしとき、そは鉄の時代、嘘と僞りの奴とて掠め奪わん欲望に廉恥を忘れしときのことなり。
このときより腐れたる世界の暴力は入りきぬ、詭計や陥穽も。
山の樅樹は斧に打たれて倒れ、作れる船のは知られざる海を進みゆく。
船夫は風に帆を張るすべを知れど行方は何處とさだかには知り難し。
農夫は心して土地の仕切り定めぬ、さなくば光や空気と同じく持主は定め難からん。
今はこの土も鋤鍬の責苦のみか人はその臓腑の奥までも掻きさぐりぬ。
宝を求めて人は穴を掘りぬ、最も深き縦坑に悪きものを誘わんとて神の隠せし宝なり。
災いの種なる鉄は夜より現われ更に深き災いと悩みをもたらして黄金も出できぬ。
これらとともに戦争は生れ二つの金属はこれに武器を貸し与えぬ。
そは血潮に染みし手に打ち振られて鳴りひびきぬ。
世は掠奪に生き奪えるものを貪り食らいぬ。
かくて客人の命を奪う宿の主も舅姑の生命に仇する婿も現われ、夫に慄く妻、妻に慄く夫も出できぬ。
兄弟の間にさえ友情は稀に、継子は継母に毒を飼われ、息子は父親の死ぬべき年を数う。
愛の神は死し、ついにアストレアは逃げ去りぬ。
神々の最後のもの、血を好むゲーアさえ。
ジュピターが大洪水を起してこの眷属を絶滅させ、後にデゥカリオン(Deukalion)とピュルラ(Pyrrha)とが生き残った。その前に二人はデゥカリオンの父なるプロメテウスの教えに従って一艘の小船を造ってあったので、それに乗って九日の間漂浪した後にパルナッソス(Parnassos)の山に流れ着いた。そこで二人が後向きに石を投げると、それが皆人間になった。他の万物は、日光が豊沃な川の泥を温めたときに自然に発生した、というのである。この伝説は大洪水に関する楔形文字で記された伝説や、聖書にあるノア(Noah)の物語やまた生物の起源に関するエジプトの神話と非常によく似たところがある。
神々の数はたくさんにあるが、それはほとんど全部余り栄えた役割は勤めていない。ただ神の名で呼ばれている『温柔な自然』がすべて全部を秩序立てまた支配しているのである。 
最も美しきまた最も深き考察より成れる天地創造の諸伝説

 

相当に開けていた諸民族もまた一般には前条に述べたような考えの立場に踏み止まっていた。耶蘇ヤソの生れる前の時代においてローマは既に高い文化をもっていたにかかわらず、その当時にオヴィドが世界の起源について書いていることは、七〇〇年前にヘシオドの書いていることとほとんど同じことなのである。これから見るとこの永い年月の間において自然の研究は一歩も進まなかったかと思われるのであるが、もっとも、後に述べるように、この期間に多くの研究者、思索家の間には、この宇宙の謎に関する一つの考え方が次第に熟しつつあったので、その考えは今日我々の時代から見ても実に驚嘆すべきものであったのである。しかしこの研究の成果はただ若干の少数な選ばれたる頭脳の人々の間にのみ保留されていたようである。誰でも大衆に対して述べようという場合となると、国家の利害に対する責任上、数百年来の昔から伝わり、そして公認の宗教と合体し、従って神聖にして犯し難いものになっている在来の観念を唱道しなければならなかった。恐らくまた多くの人々は――ルクレチウスの想像によると――自然研究の諸結果は詩的の価値が余りに少ないと考えたのかも知れない。このように科学の成果が一般民衆の思考過程中に浸潤し得ないでいたということが、他のいかなる原因よりも以上に、古代の文化が野蛮人の侵入のためにあれほどまでにかたなしに破壊された原因となったのかも知れない。
また、多分、エジプト僧侶の中に若干の思索家があって、それらは前述のエジプトの創世伝説に現われたような原始的な立場をとうに脱却していたであろうと考えられる。しかし彼らはこの知識を厳重にただ自分らの階級の間にのみ保留し、それによって奴隷的な民衆に対する彼らの偉大な権力を獲得していたのである。
ところが、西暦紀元前約一四〇〇年ごろに、アメンホテプ四世(Amenhotep )と名づくる開けた君主が現われて一大改革を施し、エジプト古来の宗教を改めて文化の進歩に適応させようとした。彼はかなり急進的の手段を採った。すなわち、古来の数限りもない神々の眷属は一切これを破棄し、唯一の神アテン(Aten)、すなわち、太陽神のみを認めようという宣言を下した。そして古い神々の殿堂を破壊し、また忌まわしい邪神の偶像に充たされたテーベ(Thebe)の旧都を移転してしまった。しかしそれがために当然彼は権勢に目のない僧侶たちから睨まれた。そして盲目な民衆もまた疑いもなく彼らの宗教上の導者たちに追従したに相違ない。それでこのせっかく強制的に行われた真理の発揚もこの賢王の死後跡方もなく消滅してしまった。しかしてその王婿アイ(Ai)は『余は余の軽侮する神々の前に膝を屈しなければならない』と歎ずるようなはめに立至ったのである。
アメンホテプ――またクト・エン・アテンス(Chut-en-atens)すなわち『日輪の光輝』――の宗教の偉大であった点は、天然の中で太陽を最高の位に置いたことである。これは吾人の今日の考えとほとんど一致する。地球上におけるあらゆる運動は、ただ僅少な潮汐の運動だけを除いて、全部そのエネルギーを太陽に仰いでいる。またラプラスの仮説から言っても、地球上のすべての物質は、ただその中の比較的僅少な分量が小さな隕石の形で天界から落下しただけで、他は全部その起源を太陽にもっている。それで、言わば、太陽は『すべての物の始源』であって、これは野蛮人の考えるように地上の物だけについてもそう言われ、また全太陽系についても言われ得ることである。以下に太陽神に対する美しい賛美歌を挙げる。ここではこの神はレー(Re)及びアトゥム(Atum)という二つの違った名で呼ばれている。
汝をこそ拝め、あわれ、レーの神の昇るとき、アトゥムの神の沈むとき。
汝は昇り、汝は昇る。汝は輝き、汝は輝く。
光の冠に、汝こそ神々の王なれ。
天の、地の君にて汝は在す。
汝は、かしこに高く星、ここに低く人の数々を作りぬ。
汝こそは、時の始めに既に在せし唯一の神なれ。
地の国々を汝は生み、国々の民を汝は作りぬ。
汝は大空の雨を、やがてニイルの流れを我らがために作り賜いぬ。
河々の水を汝は賜い、その中に住む生物を賜いぬ。
山々の尾根を連ねしは汝、かくて人類とこの地上の世を作りしは汝ぞありし。
ラプラスの仮説によっても、やはり、太陽がエジプト人の最も重要な星と見なしたもの、すなわち、遊星の創造者であると見なすことができる。もし遊星を神的存在であるとするならば、太陽は当然一番始めに存在した唯一の神と言ってもよいわけである。
それから一〇〇年ないし二〇〇年の後に現われたツァラトゥストラ(Zarathustra)の宇宙観は正にこのアメンホテプのそれを想出させるものである。この考えによると、無窮の往昔から、いわゆる渾沌に該当する、無限大の空間が存在し、また光と闇との権力が存在していた。そして、光の神なるオルムズド(Ormuzd)は当時有り合わせた材料によって、次のような順序で、万物を形成した。この順序を、バビロニア及びユダヤの伝説による創造の順序と比較してみよう。
オルムズドマルドゥクエロヒーム(創世記、一)
1 アムシャスパンデン(注) 1 天 1 天
2 天2 諸天体 2 地
3 太陽、太陰及び星 3 地 3 植物
4 火4 植物4 諸天体
5 水5 動物5 動物
6 地と生物 6 人間6 人間
(注) アムシャスパンデン(Amschaspanden)はオルムズドに次いで最高位にある六つの神々である。彼らは一人一人重要な倫理的概念を代表している。
ツァラトゥストラの信徒にとっては、太陽が、最も重要な光として、その崇拝の主要な対象であったことは、ちょうどバビロニア人における太陽神マルドゥクと同様であった。他のいろいろの民族でもまた本能的に多神崇拝から太陽礼拝に移っていったので、その一例は日本人である。
時代の移るとともに、ペルシアにおけるツァラトゥストラの教えは変化を受け、数多の分派を生じた。その中で次第にツァラトゥストラの帰依者の大多数を従えるに至ったゼルヴァニート教の人たち(Zervaniten)の説いたところによると、世界を支配する原理は無窮の時“zervane akerene”であって、これから善(Ormuzd)の原理もまた悪(アフリメン Ahrimen)の原理も生じたというのである。
ツァラトゥストラの教理は回々教及びグノスチック教の要素と融合して更に別の分派を生じた。すなわち、イスマイリズム(Ismailismus)と称するものであって、一種の哲学的神秘主義の匂いをもったものである。その教えによると、世界の背後にはある捕えどころのない、名の付けようもない、無限の概念に該当する存在が控えている。この者に関しては我々は言うべき言葉を知らず、従ってまたこれを祈念し礼拝することもできない。この者から、一種の天然自然の必要によって、いわゆる放射(Emanationen)と称するものが順次に出てくる。すなわち(一)全理性(Allvernunft)、(二)全精神(Allseele)、(三)秩序なき原始物質、(四)空間、(五)時間及び(六)秩序組織の整えられた物質的の世界、この中の最高の位置に人間がいるのである。この宗教では物質、空間及び時間の方が、秩序立った組織を有し、従って知覚され得る感覚の世界よりももっと高級な存在価値のあるものとしようというのであるらしい。これはあたかも物質、空間及び時間を無限なりとする近代の考えに相当しているのである。またいわゆる全精神なるものにも同様な属性があるものとされている、これは同じ考えを生命の方へそのまま引き写しに持ち込んでいったものと見ることができよう。
ツァラトゥストラ教に従えば、アストヴァド・エレタ(Astvad-ereta)がすべての死者を呼びさまし、そしてすべてが幸福な状態に復するということになっている。イスマイル教徒に言わせると、この復活並びに最後の審判に関するゾロアスター教の教えは、単に宇宙系における周期的変転を表現する影像にすぎないというのである。この後者の考えはことによるとインド哲学の影響によって成立ったのかも知れないと思われる。
東洋の諸民族の中で、インド人はその古い宗教をもつ点で他民族の中に独自の地位にある。この宗教は永い間に僧侶階級によってだんだんに作り上げられ、永遠に関する一つの教理となった。この教理は哲学的に深遠な意義のあるものであり、また現代の自然科学研究の基礎を成す物質並びに勢力不滅の観念と本質的に該当し、また、その永遠に関する概念は現代の宇宙開闢説の主要な部分を成すものと同じである。
世界万有の中に不断の進化の行われているということは誰が見ても明らかである。それで、この進化は周期的に行われるものであって、何度となく同じことを繰返すものだということを仮定して、始めてこの世界の永遠性ということが了解される。昔のインドの哲学者らがこの過程をどういうふうに考えていたかということは次の物語から分るのである。
マヌ(Manu ヴェダの歌謡の中に現われるマヌは人類の元祖、すなわち、一種のノアである)はじっと考えに沈んでいた。そこへマハルキーン(Maharchien)がやってきて、恭しく御辞儀をしてこう言った。『主よ、もし御心に叶わば、どうか、物の始まりがいかなる法則によって起ったか。またそれが混じり合ってできた物はいかなる法則に支配されたか、こと細かに、順序を立てて御話して下さるように願います。主よ。この普遍な法則の始まり、それの意味またその結果を知っているのはあなたばかりであります。この根元の法則は捕えどころもなく、その及ぶ範囲も普通の常識ではとても測り知ることができません。ただヴェダであらせられるあなただけが御分りでありましょう。』これに対してこの全能なるものの賢い返答は次の通りであった。『では話して聞かそう。この世界はその昔暗黒に包まれて、捕えどころなく、物と物とを差別すべき目標もなかった。悟性によってその概念を得るということもできず、またそれを示現することもできず、全く眠りに沈んだような有様であった。この溶合の状態(宇宙はここでは完全に均質に溶け合った溶解物のように考えられているのである)がその終期に近づいたときに、主(ブラーマ Brahma)、すなわち、この世界の創造者でしかも吾人の官能には捕え難い主は、五つの元素と他の原始物質とによってこの世界を知覚し得るようにした。彼は至純な光で世を照らし闇を散らし、天然界の発展を始めさせた。彼は自己の観念の中に思い定めた上で、様々の創造物を自生的に発生させることとした。そして第一に水を創造し、その中に一つの種子を下ろした。この種子がだんだん生長して、黄金のように輝く卵となった。それは千筋の星の光のように光っていた。そしてそれから生れ出たのが、万物の始源たる、男性、ブラーマの形骸を備えた至高の存在であった。彼がこの卵の中で神の年の一年間(人間の年で数えると約三〇〇〇〇億年余)休息した後に、主はただ自分の観念の中でこの卵を二分し、それで天と地とを造った。そして両者の中間に気海と八つの星天(第六図、対一〇五頁)と及び水を容るべき測り難い空間を安置した。かくして、永遠の世界から生れたこの無常の世界が創造されたのである。』なお主なる彼はこの外にたくさんの神々と精霊と時期とを創造した。この永遠の存在にもまた同時にあらゆる生ける存在にも覚醒と安息との期間が交互に周期的にやってくる。人間界の一年は霊界の一日に当り、霊界の一二〇〇年(この毎年が人間の三六〇年を含む)が神界の一紀であり、この二千紀が一ブラーマ日に当る。この――八六億四〇〇〇万年の長きに当る――日の後半の間はブラーマもまたすべての生命も眠っている。しかして彼が眼を覚ますとそれからまたその創造欲を満足させるのである。この創造作業と世界破壊作業との行われる回数は無限である。そうしてこの永遠の存在なる神はこれをほとんど遊び仕事にやってのけるのである。
第六図 プトレマイオスの宇宙系
このインド哲学の偉大な点は、永遠の概念の構成の当を得ている点である。すなわち、天然の進展に周期的交代すなわち輪廻があるとする点にある。もっともその他の点では、その考え方はペシミスティックである。すなわち、毎周期の進展は不断の後退であって、特に道徳的方面で堕落に向かうものと見なされているのである。
このペシミスティックな考え方は既に前述のエジプトの伝説にもあり、また元は人間に黄金時代があったとする古典的ギリシアの昔にもあったものであり、更にまた天上の楽園並びに罪過による失墜に関するカルデアの伝説にも見出さるるものであるが、これは自然の研究に基づいて構成された近代の進化論の学説とは甚だしく背馳する考えである。この説の先駆者とも見るべきものはエジプト伝説の中にもまたホーマーの中にもあるのであるが、これによると事物(人間)は次第次第に改善されていくのである。進化論によるとただ最も力強くかつ最も良く環境に適応するもののみが生存競争に堪え、従って絶えずますます生存に適する物が現われてくるというのである。
一つの観念、あるいは意志の働きが、何ら以前から存在するエネルギーあるいは物質を消費することなしに作業あるいは物質の生因となるという考え、換言すれば全くの虚無から本当の意味での創造が可能であるという考えの明白に表明されているのは前に紹介した物語が最初のものである。この信仰には以来多数の追従者ができた。しかして彼らはこの考えの方が、すべての民族に本来共通な、ただ改造のみが行われたという考えよりはるかに優れたものと考えた。しかしある物が虚無から生じ得るという(本文一〇頁を見よ)この考えは単に科学的のみならずまた哲学的の見地からも支持し難いものである。ここではただこの問題に関するスピノザとハーバート・スペンサーの意義明瞭な表出を挙げるだけで十分であると思う。すなわち、スピノザはその著倫理学(Ethik)の第三篇の緒言の中でこう言っている。『すべての出来事並びにすべての物の形の変転を支配する自然界の法則と規則は常にかつ至る所同一である。』スペンサーはその生物学原理(Principles of Biology 第一巻三三六及び三四四頁)において次のように言っている。『恐らく多くの人々は虚無からある新しい有機物が創造されると信じているであろう。もしそういうことがあるとすれば、それは物質の創造を仮定することで、これは全く考え難いことである。この仮定は結局虚無とある実在物との間にある関係が考えられるということを前提するもので、関係を考えようというその二つの部分の一方が欠如しているのである。こういう関係は全く無意味である。エネルギーの創造ということも物質の創造と同様にまた全く考え難いことである。』また『生物が創造されたという信仰は最も暗黒な時代の人類の間に成立った考えである。』もっともこの終りの判断は幾分修正を要するかも知れない。なぜかと言えば、虚無からの創造が可能であるという考えはかなり進んだ発達の段階において始めて現われたものであるからである。
あらゆる宇宙創造伝説中で最も立派に仕立て上げられているのは、不思議なことに、スカンジナビアの古代の民のそれである。これは奇妙なことと思われるかも知れない。しかしこの北方における我々の祖先が既に石器時代以来、すなわち、数千年間スカンジナビアに住居していたということ、また青銅器時代の遺物の発見されたものから考えても、この時代にスカンジナビアに特別な高級の文化の存在したことが分るということを忘れてはならない。それで疑いもなく彼らもまた古代の文化民族の種々の観念を継承し、かつ独自にそれを敷衍してきたものに相違ない。
古代のカルデア人とエジプト人の場合では、大概の原始民族の場合と同様に、水が最も主要な元素であって、固体の地はこれの対象として造られたものとなっているのであるが、我が北方民族の祖先の場合では、温熱が一番本質的なものであって、これの対象として寒冷が対立させられているのである。ところが温度というものは疑いもなく物理学的の世界で最も重要な役目を務めるものである。従ってこの北国人の宇宙創造説は自然界の真理という点から見て、これまでに述べたすべての説よりも傑出している。この伝説が我々の現今の考えといかに良く適合するかは実に驚くべきほどである。この説の中には東洋起源また古典時代の思想の継承と思われる成分も多数に見出されはするが、しかしこの北方の創造伝説の特徴と見るべきものは自然界の諸特性を異常に理知的に把握していることである。
この伝説を紹介するに当って私は主としてヴィクトル・リュドベルク(Viktor Rydberg)の『祖先の神話』(Gttersage der Vter)によることにする。我々の生息するこの世界は永遠に継続するものではない。これにはある始めがあった。そしてまたある終りがあるであろう。時の朝ぼらけには
砂もなく海もなく 冷たき波もなく またその上を覆う[#「覆う」は底本では「覆ふ」]天もなかりき。
空間(ギンヌンガガップ Ginnungagap)があった。しかしてその北の方の部分に寒冷の泉が生じ、その付近を氷のような霧が包囲していた。――この地方をニーフェルハイム(Nifelheim 霧の世界)と名付けたのはそのためである――。また、この空間には温熱の泉、ウルド(Urd)が生じた。この二つの中間の真ん中に知恵の泉、ミーメス・ブルン(Mimes Brunn)が流れていた。ニーフェルハイムからは霧のような灰色をした寒冷の波が空間に流れ出し、そこでウルドの泉からの温熱の波と出合った。この二つの混合によって基礎物質が生成し、それからこの世界、またそのあとから神々や巨人たちが発生した。ミーメス・ブルンの横たわっている空虚の空間から人間の目には見えぬ世界の樹イュグドラジール(Yggdrasil)がその種子から生長し、その根は延びてこの三つの泉に達していた。
この伝説の偉大な点は、この生物の住家としての世界を温熱と寒冷の泉(太陽と雲霧とに相当する)に影響さるるとしたところにある。生物の生息する世界はこの二つの間に存し、生命はこの二つに依帰する、すなわち、現代の考え方に従えば、熱い太陽からの温熱の供給と、並びに寒冷な雲霧へのそれの流動に依帰するのである。
北方の伝説は、それから先では、一つの死体の肢節から世界が創造されたという普通の考え方に結び付いている。一つの神ウォータン(Wotan これはカルデアのマルドゥクに当る)が巨人イューメル(Ymer すなわち、ティアマートに当る)を殺し、その体躯から天と地を造りまたその血から大洋を造ったというのである。しかし、ここで北国民は一つの独創的な変更を加えている。すなわち、イューメルの五体が生命あるもののよりどころとなり得るためには、その前に一度微塵に粉砕されなければならなかった。その目的のために特別な洞窟仕掛の粉磨水車が造られ、これは寒冷の泉から来る水の力で運転され、その水は一つの溝渠を通って大洋の中へ流れ込むようになっていた。これは明らかに、水の作用によって堅い岩石が磨り削られて土壌と成る、いわゆる風化の現象を詩化して表現したものである。この大きな巨人的水車はまた天の蒼穹とその数々の恒星を回転させるためにも役立ったことになっているのである。
バビロニアの伝説では、体躯が魚で頭と腕と足は人の形を備えた海の怪物オアンネス(Oannes)が海の波から出現し、人間にあらゆる技芸や学術を教えた後に再び海中深く消えたというのであるが、それと同様にこの巨人的磨臼の石の火花から生れた、優しい金髪の若者の貌をした、驚くべく美しい火の神ハイムダル(Heimdall)が、小船に乗って人間界をおとずれ、そうして文明の祝福をもたらしたことになっている。この船で五穀の禾束や、いろいろの道具や、武器などが運ばれてきた。彼はだんだんに成人して人間の首長となり、発火錐で作った火を彼らに授け、また種々のルーネン(Runen)や芸術を教えた。農業、牧畜、鍛冶その他の手工、パン製造、それから建築術や狩猟やまた防御の術を授けた。彼は結婚の制を定め、国家の基礎を置き、また宗教を創設した。多年の賢明な治世の後にハイムダルがある冬の日に永遠の眠りについたときに、始めに彼を人間界に載せてきた小船が海岸で見出された。彼の恩を忘れぬ人間たちは、霜の花で飾られたこの小船にハイムダルの亡骸を収め、それに様々な高貴な鉄工品や金銀細工を満載した。小船は、始めに来たときと同じように、目に見えぬ橈の力で矢のように大海に乗り出して遠く水平線の彼方に消え失せた。そこでハイムダルは神々の宮居に迎えられ、そうして輝くような神の若者の姿に復活した。その後、彼の息子のスコェルド・ボルゲル(Skld-Borger)が彼に次いで人間の首長となったのである。
スコェルド・ボルゲルの治世の間に世界は著しく悪くなってきた、そしてその末期に近いころに、光の神バルデル(Balder)の死に際会した。そのために恐ろしいフィムブルの冬(Fimbul-Winter)が襲来して、氷河と氷原がそれまでは人の住んでいた土地を覆い、氷を免れた部分では収穫はだんだんに乏しくなった。飢餓は人間を支配し彼らを駆って最も恐ろしい罪業に陥れた。『暴風時代』『斧と刀の時代』(Sturm-Zeit, Axt-und Messer-Zeit)という名で呼ばれる時代がこのときから始まった。北国人は剣戟を手にして彼らの近親民族をその住居から放逐したためにこれら民族はやむを得ず次第に南下して新しい住みかを求めなければならなかった。それからある時期の後に始めてこのフィムブルの冬が過ぎ去って氷雪が消え失せたというのである。
誰でも気の付く通り、この伝説は著しい気候の悪化、その結果として氷河が陸地を覆い、民族の移動の起ったことを最も如実に表現している。それで、北国人らが、いつかはまたもう一度フィムブルの冬が襲来して、彼らがラグナロク(Ragnarok)と名づけるところの没落期となるであろうと信じていたのは怪しむに足りない。この時代が近よると無秩序の不安な状態が再び立帰ってくるであろう。氷雪の国から巨人らが現われて神々の宮殿に攻め寄せ、人間は寒冷と飢餓と疫病と争闘のために死んでゆくであろう。太陽はそのときでもやはり同じ弧状の軌道を天上に描きはするが、その光輝は次第に薄らぐであろう。いよいよ巨人軍と神々との戦闘が始まると双方に夥しい戦没者ができる。そうしてかの火の神ハイムダルも瀕死の重傷を受けるであろう。すると太陽もまた光を失い、天の穹窿は割れ、地底の火を封じていた山嶽は破れ、火焔はこの戦場を包囲するであろう。この世界的大火災の跡から、新しく、より善く、麗しい緑で覆われた地が出現するであろう。ただミーメの泉の傍のホッドミンネの神苑(Hoddminnes Hain)だけがこの世界的の火災を免れるので、そこに隠れていた若干の神々と、人間の一対ライフトラーゼルとリーフ(Leiftraser und Lif)とだけが救われるであろう。この二人がこの地上に帰ってくる。地は労耕せずして豊富な収穫を生ずるので、何の苦労もない幸福な新時代が始まるであろう。
あるいは古代ギリシア、ローマ並びにキリスト教関係の説話からの影響を受けたかと思われるこの注意すべき伝説は、太陽が徐々に消え、そのために地球上の生物が減少するという近代の観念と全く一致している。太陽(神々)は寒冷の世界(巨人)すなわち、宇宙星雲及びその中に包有せらるる数多の消えた太陽と衝突するであろう。その衝突の際に地殻内に封じられた火焔が噴出しそのために地上は荒廃に帰する。しかしある時期の後にはまた新しい地が形成され、そして生命(神々)は宇宙空間にある不死の霊木イュグドラジール(Yggdrasil)から再び地上に広がるであろう。
この驚くべく美しい、しかもまた真実なエッダ(Edda)の世界伝説は、他の自然民族間に伝わったあらゆる同種類の伝説に比べてはるかに優れたものである。この美しいハイムダル伝説が暗示するように、最初の文明、並びにこれと一緒に、世界創造伝説の原始的要素が、外国、多分東洋から海を越えて渡来したものであることには疑いない。しかしいかなる創造伝説でも自然に対する見方の忠実さという点においてこの北方民族のそれに匹敵するものは一つもないであろう。
以上私は、自然現象の経過に関する知識を得るために直接観察の方法を講じるというようなことは何もしなかったような、そういう時代における自然の見方がいかなるものであったかを述べたつもりである。こういう時代には自然科学はおのずから神話の衣裳を着ている。もっと程度が高くなればそれは褶襞しゅうへきの多い哲学の外套を着ているのである。しかしひとたび人間が観察と経験の収集を始めるようになってくると事情は全く変ってくる。そうなるとたくさんの事実与件の、手の付けられぬ、一目に見渡せないような集団を簡単に把握し表現し得るような一般法則を求めるようになってくる。換言すれば、経験を有用ならしめるためには、理論家の、ものを系統化する作業の必要が痛切に感ぜられてくる。それでまず、最初の、多分余り正確でない法則が見付かったとすると、それによって試しに事柄の経過を予報してみる。そうしてその予言が正しいかどうかを検査するというようなことを始めることができる。そういうことをしているうちにそれら既定の法則、従って自然に対する認識がだんだんに改良されてゆくのである。
人間にとって特別に重要であるために最も周到な観察の目的物となるものはまず第一に時間の知識であった。そこから多分各種天体の本性に関する観念が生れ、これらを手近な地上の物体のそれと分りやすく比較するようになったものと思われる。このようにして次第に最も簡単な天文、物理及び化学的の概念が形成されたのである。こういう時代になると以前の時代におけるとは反対に、多様な考え方の中で最も秀でた代表的のもののみが挙げられ、そうしてこれら概念の発達を歴史的に通覧することができるようになってくるのである。
以下に述べる宇宙の見方は、これまで述べてきた神話時代に属するものと反対に、いずれも歴史時代に属するものである。 
最古の天文観測

 

開化程度の最も低い人間にとっては暦などというものの必要がなく、従ってまた時の尺度を自然界に求めようとする機縁にも接しないのである。最古の人間は疑いもなく狩猟と漁労によって生活していたであろう。ただ飢餓に迫られ、しかも狩猟の獲物の欠乏のために他の栄養物を求めるような場合に至って、そこで初めて草木の実や、食用に適する根の類をも珍重することを覚えたのであろう。もっともこれらはただ応急のものであって、多分主として婦人たちがそれで間に合わせなければならなかったかも知れない。男子らはその仕留めた野獣や魚の過剰なものよりしか婦人たちには与えなかったろうと思われるからである。それでこれら民族は野獣の放浪するに従って放浪しなければならなかった。そうして、ただ差し当ったその日その日の要求ということだけしか考えなかったのである。その後に人間がもう少し常住一様な栄養品の供給を確保するために、なかんずく必要な野獣を飼い馴らすことを覚えるようになっても、事情はまだ大して変らなかった。ところがこの獣類を飼養するには、季節に応じて変ってゆく牧場を絶えず新たに求める必要があるので、こういう遊牧民の居所は彼らの家畜によって定まることになっていった。決してその逆ではなかったのである。
しかし人口が増殖してきたために、気紛れでなしに本式に土地の耕作をする必要が起るとともに、事情は全くちがってきた。すなわち、固定した住居をもつ必要を生じ、また本来の目的とする収穫を得るための準備として一定の季節にいろいろな野良仕事をしなければならなくなった。しかるに季節の循環は地球に対する太陽の位置の変化によるのであるから、この変化を詳しく知ることが望ましくなってきた。そのうちに間もなく、季節によっていろいろな星の出没の時刻の違うことに気が付き、しかしてこれを正確に観察する方がずっと容易であることを知った。すでに古い昔から、新月と満月との規則正しい交代が、二九・五三日という短い周期で起るので、これが短い期間の時の決定に特に好都合なものとして人間の注意をひいたに相違ない。この周期に基づいて一月の長さを定め、端数を切り上げて三〇日とした。更にこの一ヶ月を各々一〇日ずつの三つの期間に区分した。一年の長さはほぼ一二ヶ月に当るので、最初はこれを三六〇日と定めたのであった。
最古の文明は、時の決定、すなわち、暦と最も密接な関係をもっている。この決定は非常に規則正しく復帰する各種の周期的現象に基づくものである。既に述べた通り、中でも太陰の光度の交互変化は自然民にとっては最も目に付きやすいものであった。それは比較的短い期間に同一の現象が立帰ってくるために特にそうであったのである。アリアン系の言語では、計量(Mass)、測定する(messen)及び太陰(Mond)の観念を表わす言葉は同一の語根からできている。梵語で太陰をマース(Ms)というが、これは計量者、計量器(der Messer)の意でラテンの月(mensis)及び計量器(mensura)と関係している。我々の国語でのこの言葉もやはり古くここから導かれてきたものである。すなわち、太陰はその規則正しくかつ観察に恰好な光度の輪回のために最初の測定術の出発点を与えた。一方また太陰は昔バビロニア人の間では神々の中での首長と見なされていたものである。ある古い楔形文字で記された古文書に、こんなことがある。
おお、シン(月神)の神よ、汝のみひとり高きよりの光を 汝こそ光を人の世に恵み給わめ、…………汝が光は、汝の初めの御子なるシャマシュ(太陽)の輝きのごとく麗わしく[#「麗わしく」は底本では「麗しわく」]、汝が御前には神々も塵の中に横たわる。
おお汝よ、おお運命の支配者よ。
このシン(Sin)というのは月の神で、シャマシュ(Shamash)は太陽神である。紀元前二〇〇〇年ころに至って、初めて、以前にあの木星の支配者であったところの、バビロンでは特別に大事な神様マルドゥクが、シンやシャマシュに取って代わり、自ら太陽神として何よりも崇ばれるようになったのである。
もう少し長い周期が望ましくなってくるので、何かしら太陰周期すなわち、太陰の一ヶ月と関係の付けられるものを求めるようになった。そこで一ヶ年、すなわち、太陽の輪回を、近似的に一二ヶ月に等しいと定めた。古代メキシコ人の間に行われた、トナラマトル(Tonalamatl)と名づける二六〇日の珍しい周期はほとんど太陰月の九ヶ月(すなわち、二六五・七日)に等しい。これは多分二〇で割り切れるために二六〇日としたものであるらしい。
太陰が暦の決定に役に立つということが分ると同時に、これと同じ目的に役に立つような他の天体を求めるようになったのは当然のことである。この目的には金星は特に全くあつらえ向きにできていた。この星の光は強くて、暗夜には物の陰影を投げるほどであり、またその一周の周期はかなり短くてわずかに五八四日(すなわち、一・六年)である。文化の進歩するにつれて、数年という長さの期間で年代を数えるようになったころには、太陽の輪回八回が金星の周期の五倍にほとんど等しいという事実が非常に便利に感ぜられた。またメキシコ人はこれよりもずっと長い、一〇四太陽年という周期を設定した。これは一四六トナラマトル、あるいは金星周期の六五倍に当るのである。
上記三つの計測術の支配者とも言うべき天体は、いわゆる旧世界でも新世界でも、最古の文化民族の間で神々の中の首長として尊崇せられていた。バビロニア人はシン、シャマシュ及びイシュタール(Ishtar 金星に当るアスタルテ Astarte)の三神を仰いでいた。アラビア人は太陰(ワッド Wadd ホバル Hobal またはハウバス Haubas)を父として、太陽(シャムシュ Shamsh)を母、また金星(アッタール Atthar)をその子として礼拝した。アッシリアの諸王はその尊貴の表象として掛けていた首輪から三つの護符を胸に垂らしていたが、その一つは月の鎌の形をしており、第二のものは輻を具備した車輪か、あるいは十字(太陽の象徴)の形をしており、また第三のものは一つの輪で囲まれた星の形(金星の象徴)をしていた。
最古の文化民族の宗教は確かに、暦日の予算という、すなわち、最古の科学というべきものを神聖視し尊崇したところから発達したものと思われる。このようにして星の学問が始まって以来、次第に他の遊星も観察されまた神々の数に加えられるようになった。そしてこれら遊星の天上の位置を定めるために星辰を幾つかの星座に区分するようになった。その分け方となると、もはやバビロニア人の区分法とメキシコ人のそれとが全く一致するはずのないことは言うまでもない。
カルデア人が最古の規則正しい天文観察を行ったのは耶蘇ヤソ紀元前四〇〇〇年ないし五〇〇〇年前に遡るものと推測される。ローマ人やギリシア人の考えではこれが数十万年の昔にあったとさえされている。すなわち、かの大天文学者ヒッパルコス(Hipparchos)は二七万年、キケロ(Cicero)は四七万年という、もちろん甚だ荒唐なる推定をしているのである。
カリステネス(Kallistheness)はアリストテレスのために、紀元前二三〇〇年に亘るこの種の観測資料を収集した。カルデアの僧侶たちは毎夜の星辰の位置とその光輝の強弱を粘土版に記銘し、またこれらの星の出没並びに最も高くなるときの時刻をも合わせ記録した。いわゆる恒星は規則正しい運動をするから、その将来の位置を完全に正確に予言することができた。また太陽が一年の間に黄道に沿うて運行する時々の位置もまた特に規則正しく、すなわち、毎日約一度ずつ前進する。カルデア人が円周を三六〇度に分けたのは畢竟ここから起ったことである。その後になって、太陽は冬(近日期)は夏よりも早く動くということに気が付いたので、この不規則を勘定に入れるために、太陽は冬期は毎日一・〇一五九度。夏期はこれに反して毎日〇・九五二四度ずつの円弧を描いて進行するものであると仮定した。最も著名なバビロニアの星の研究者キディンヌ(Kidinnu)は紀元前第二世紀の初めごろの人であるが、彼は太陽の速度が月毎に変るという仮定をしてこの算暦法に重要な改良を加えた。彼は重要な観測を非常にたくさんに行った。彼がこの観測に基づいて作った太陰の運行に関する表は特別に正確なものである。
諸遊星の運行を予報する立派な暦表ができていて、その中のあるものは今日まで保存されている。たとえば紀元前五二三年の分がそうである。この暦を作るために使われた長い周期は、太陽とある遊星とが地球並びに相互に対して全く同じ位置に復帰するまでの期間である。たとえば八太陽年は金星の五周行に当る、従ってこの金星と太陽とに関する長周期は八年の長さをもっている。木星に関する同様の周期は八三太陽年である。それでこのような周期の間における当該遊星の位置を一度詳細に記しておけば、次の周期の間のその星の位置を完全に予報することができた。もっとも周期の長さが全く精密でないために少しの食違いがあるが、これは精細な観測に基づいた補正を加えることになっていたのである。
これらの周期中に最も重要なるものは太陰の運行に関するもので、これはメトンの周期(Metonische Periode)と名付けられていた。太陰が地球の周りを二三五回運行する期間が六九三九・六日に当り、これを一九年と比べるとその差は一日の一〇分一程度である。すなわち一九年経過すれば太陽と太陰との地球に対する位置はほとんど初めの状態に帰ってくる。それで一度月食があったとすれば、それから一九年後にまた同じ現象を期待することができる。この周期がバビロニア人の間に良く知られていたということは、クーグラー(Kugler)が紀元前四世紀の初めにおけるバビロニア時代の天文学上の計算によって確証した。この時代は、同じ周期がメトン(Meton 紀元前四三二年)によってギリシアに紹介されてから約五〇年後に当る。当時ギリシアとバビロンの間には、主にフェニシアを通じて、交通があるにはあったが、恐らくこの周期は両国で独立に見出されたものであろうと思われる。ミレトスのタレース(Thales von Milet)がバビロンの天文学の知識を得たのはやはりフェニシアを経てのものであったらしい。後年アレキサンドリアでギリシア人がバビロニアの科学を学んだのも同様であった。
日食についても同様であるが、この場合の予報はそれほど容易く確実にはできない。食の現象、特に日食はただに人間のみならずあらゆる生物に異常な深い印象を与えるものであるから、もし天文に通じた僧侶があって、この自然現象を正確に予言することができたとしたら、その人に対する一般の尊崇の念は甚だしく高まったに相違ない。日食が地球と太陽との中間における太陰の位置によるものであるということはよほどの昔から既に天文学者には明らかに分っていたはずである。このことを認めれば次にはまた、月食の起るのは太陰が地球の陰影の中に進入するためであるということに気が付く順序になるはずである。しかるに月面に投じた影の輪郭が円形であるから、従って地球は円いものであるという結論をしたに相違ない。ところが地球のどちら側が月に面していても月面における影は円形であるということから、更に進んで、地球は円板のようなものではなくて球形のものであるという結論を得たであろう。これらの観察の結果として、地球の形並びに地球が天体として太陽太陰に対する近親関係についても正しい観念を作り上げる端緒を得たわけである。カルデア人が地球大円周の長さの測定を行ったらしいと思われることがある。紀元前五世紀の人でアレキサンドリア出のギリシアの著者アキレス・タティオス(Achilles Tatios)の記したところによると、カルデア人はこういうことを主張していた。それは、もし少しも休むことなしに毎時間三〇スタディア(すなわち、約五キロメートル)の速度で歩きつづけることのできる人があったとしたら、一年で地球を一回りすることができるというのである。この見積りに従えば、地球の大円周の長さは四三八〇〇キロメートルになるが、これは実にほとんど正しいのである。
カルデア人の宇宙の構造に関する観念はこれ以上には進まなかったらしい。遊星の運動は実際ある点までは確かに規則正しいのであるが、しかしそれらの位置に関する一定の法則を設定することはできなかった。それでこれらの星は多分自由意志をもっており、その出現は人間の企図や出産、死亡またそれに次いで起る相続問題などに際して幸運あるいは不幸の兆を示すものと信じられていた。こういう吉凶の前兆は必ず事実となって現われるもので避けることは不可能であるが、しかし呪法や祈願や犠牲を捧げることによって幾分かその効果を柔らげ、ともかくも一寸延ばしにすることはできると考えられた。こういう方法を知っているものは天文に通じた僧侶だけであったので、彼らは王侯や人民に対して無上の権力を得るようになった。この信仰は実に今から数世紀前までも迷信的な人類を支配し、そのためにこれら輪廻現象の本然の解説の探求、従ってほとんどあらゆる科学的の研究を妨げたのである。
カルデア人が、もっと短い時間を測るに用いたものはクレプシュドラ(Clepsydra)と名付ける水時計と、それからポロス(Polos)と名づける日時計である。後者は一本の垂直な棒の下へその棒と同長の半径を有する凹半球に度盛をした盤を置いたものである。水時計は水かあるいは他の液体が大きな容器から一つの小さな穴を通じて流出するようになっており、その流出した液量を測って経過時間を測定するのであった。ポロスは南北の方位を定め、また冬期夏期における太陽の高度や世界の回転軸の位置を定め、また正午における陰影の長さから春分秋分の季節を定めるために使われた。メソポタミアの都市の廃墟で水晶のレンズが発見されたことから考えると、当時の学者は光学に関する知識もかなりにもっていたことが分かる。しかし外の学問の方面までも余り進んでいたわけではないらしい。
エジプトの伝説ではトート(Thot)の神が人間に天文、占筮と魔術、医療、文字、画法を教えたことになっている。太陽や遊星が十二宮の獣帯に各一〇日ずつに配された三六の星宿の間を縫うて運行する経路が図表中に記入され、そういうものが最も古い時代から太陽神ラー(Ra)の神殿に仕える僧侶たちによって集積された。後にはまた他の神々の神殿にも天文学者等が仕えるようになり、彼らは『夜の番人』として天界の現象を精確に観察しそれを記録する役目を務めた。彼らはちゃんとした星界図さえ作っていたので、それが彼らの図表と同様に一部分現在保存されている。エジプトでも暦法の基礎としてやはり一年は一二月、一ヶ月は三〇日より成るとしてある。歳の初めは今の八月に当る。一年を三六五日にするために歳の終りへもってきて『五日の剰余日』を置いた。太陽の一周行の期間は三六五日より五時間四分の三だけ長いから、だんだんと食違いができるので、時々、天体、特に『狼星』シリウスの観測によって修正を行っていた。
以上述べたことから考えてみると、エジプトの暦年はある点で我々現在のよりも優れていた。すなわち、毎月一様に三〇日という長さであったのに反して、我々の暦では二八日ないし三一日といういろいろな月の不合理な混乱が支配している。よく知られている通り、元来二月は三〇日であったのが、そのうちの一日を取り去り、それを、ジュリアス・シーザーの名誉のために七月(Juli)へ持って行ったのである。そこでオーガスタス大帝も負けてはならぬとばかり、二月から更にもう一日を引抜いて八月(August)へ持ってきた。後代のものの眼から見るとこの仕方は彼らのせっかくの目的とは反対の効果を招くことになってしまったのである。
太陽の周期が正しく三六五日でないために生ずる困難は時が進むに従って加わる。これを避けるために、エジプトでは、初めのうちは、折々に暦をずらせ狂わせて間に合わせていた。そうしてナイル河の氾濫期がちょうど歳の初めにくるように合わせたのである。しかしこの方法はかなり出任せであるので、プトレミー(Ptolemy)朝に至って閏年(四年目毎に三六六日の年)というものを定めた。この暦法の改正がローマでは少し後れて、ジュリアス・シーザーの命令で行われた。これにはギリシア-エジプト派の天文学者、ソシゲネス(Sosigenes)が参与したのである。それでこの改正暦のことをジュリアン暦と名づける。しかしこの暦も永い間には不完全なことが分ってくるので、紀元一五八二年に法王グレゴリー一三世の命令で更に新しい暦が設定された。この暦の誤差は三千年経ってわずかに一日となるだけである。
エジプトでは天文学者は非常な尊崇を受けていた。彼らは天文学の方ではカルデア人を凌駕するほどではなかったであろうが、彼らの知識はそれだけではなかった。その上に医術や化学を知っていてこれらの科学でははるかにカルデア人よりも進んでいたらしい。アジアの王侯たとえばバクタン(Bakhtan)王のごとき人々すら、わざわざエジプトの医師の処方を求めによこしたくらいである。後代にはまたペルシアの諸王も彼らの医学上の知識の助けを求めた。ホーマーはエジプトの医師を当代の最も熟達したものとして賞讃している。彼らの処方は今日でもかなりたくさんに残っている。彼らの医薬の処方や健康回復法の心得書のあるものはラテン語の詩句中にそのままの言語で出ており、これは中世における最高の医学専門学校であったサレルノ(Salerno)の大学で教授されたものである。そういうわけで部分的には民衆医術の中にも伝わり今日まで保存されてきたのである。彼らの用いた薬剤は、現今でも支那の薬屋で売っているような無気味な調剤とかなりよく似た品物であったらしい。
しかしあらゆるエジプトの学問のうちでも一番珍重されたのは占筮術と魔術であった。エジプトの学者たちは、ある一定の方式の呪文を唱えると河の水をその源へ逆流させ、太陽の運行を止めたりまた早めたり、またまじないを施した蝋製の人間や動物の姿を生かし動かすことができたとされている。彼らは宮廷に出入し、往々『天の秘密の司官』という官名で奉職していた。彼らの位階は近衛兵の司令官や枢密顧問官(『王室の秘密の司官』)と同様であった。そしてこれらの高官と同様に、階級の低い役人等とは反対に、王宮の中でサンダルを履いたまま歩くことを許され、またファラオの足でなくて膝に接吻してもいいという光栄を享楽していた。そしてこの大きな栄誉を担う人々の徽章として豹の毛皮(今ならヘルメリンの毛皮に当る)をまとうことを許されていたのである。
これらの学者たちには、およそ大概のことでできないということはないと、民衆が信じていたという証拠としてマスペロ(Maspro)に従って次の物語をしよう。ケオプス王(Cheops)が彼らの一人に『お前は切り取った首を再び胴体につなぐことができるという話だが、それは本当か』と聞いた。その通りだと答えたので、ファラオは、その実験をさせるために牢屋から一人の囚人を連れてくるように命じた。すると、この宮廷占星官は、こういう実験に人間を使うのは惜しいことである、これには動物一匹あればたくさんである、という、甚だ人間味のある返答をした。そこで鵝鳥を一羽連れてきて、その首を切り放して室の一方に、その胴体を他方の側に置いた。占星官はかねて魔術書で学んでいた二三の呪文を唱えた。すると鵝鳥の胴体は首のある方へと飛び飛びをしながら動き始める、首の方でもまた胴の方へ動いてゆき、結局両方が一緒にくっついて、しかしてこの鵝鳥がガアガアと鳴き立てた。もちろん、たいていの伝説で御定まりのように、こういうことは三遍行われなければならないので、次には一羽のペリカン次には一頭の牡牛でこの術を行い、完全に成功してみせたというのである。王子たちのみならずファラオ自身も時々この宮中占星官から科学や魔術の教授を受けたという話である。
エジプト人は地中海から紅海へかけてかなり手広く航海を営んでいた。それには彼らの星学の知識が航路を定める役に立った。ホーマーがオディセイのカリュプソ(Kalypso)の島からコルフ(Korfu)への渡航を歌っているが、全くあの通りであった。疑いもなく当時は、ことにまだ十分な経験を得なかったころは、なるべく沿岸航路に限るようにしていたではあろうが、しかし時には嵐のために船が沖合へ流されるようなこともあったであろう。そういうときに航海者等は、陸地に近づくに従って海岸が次第に波の彼方から持上ってくるということや、また甲板で見るよりも帆柱の上で見た方が早く陸が見え初めるということを観察したに相違ない。同様にまた陸から見ている人には初めに船体の低い部分が海に隠れ最後に帆柱の先端が隠れることを知ったであろう。これらの事実から船乗りやまた海岸の住民らが、海面は中高に盛り上っており、多分球形をしているであろうという考えを抱くようになったのは明白である。
エジプト人がケオプスの大金字塔(紀元前約三〇〇〇年)を建築したとき、その設計のために、彼らの中でも最も優れた大知識にのみ知られていた科学的経験の一部を役立ててその跡を止めたという、スコットランドの星学者ピアッチ・スミス(Piazzi Smyth)の説は多くの自然科学者も同意したところである。この金字塔は、他の同種の建築物と同様に、その精密に正方形をした底面の辺が正しく東西にまた南北に向かうような位置に置かれていて、その誤差はわずかに七五〇分の一にすぎない。この金字塔は、緯度三〇度に甚だ近く、ただ二キロメートルだけ南に外れている。その北側の真ん中に入口があって、そこから長い、狭い、水平線に対して三〇度傾斜した通路に入る。従ってこの通路はほとんど地球の回転軸と並行していることになる。すなわち、この通路の長さの方向はちょうど天の極に向かう。しかも極は、大気による光線の屈折のためにわずかばかり実際よりも地平線に対して浮上って見えるから、なおさらちょうどよく極を指すことになるのである。それで、エジプト人が耶蘇紀元前ほとんど三〇〇〇年前に既にかなり進んだ数学並びに星学上の知識をもっていたということは、この通路の位置から見てもまた金字塔の辺の南北方位の正確さから考えても、疑いもないことである。しかしピアッチ・スミスとその賛成者たちの考えにはこの点について甚だしい誇張があるようである。この大金字塔の当初の高さは一四五メートル、またその四辺の周縁の全長が九三一メートルであった。この二つの数量の比は一対六・四二で、すなわち、円の半径と円周との長さの比、一対六・二八よりも約二パーセント強だけ小さい。このことからして、スミスは、金字塔の高さと周囲との比をもって円の半径と円周との比を表わそうとしたものであるということを、十分な根拠らしいものなしに結論している。ヤロリメク(Jarolimek)の調べたところによると、ケオプス金字塔の建築者は、その造営に当っていわゆる黄金截(〇・六一八)の比例を使ったらしいが、それにはともかくも一通りならぬ幾何学の知識がなくてはならないはずである。
我々が人間文化の最古の表象の跡を尋ねるような場合には、いつも、自然に支那の方に注目することになるのであるが、しかしかの国の思索家らは宇宙創造の問題に関しては割合に少ししか手を着けていない。孔夫子は紀元前五五一―四七八年の人であるが、彼自身に、自分はただ古い知識を集めただけだと断っている。彼は全く道徳問題だけを取扱って宇宙成立の問題というような非実用的な事柄に係わることは故意に避けたのである。紀元前六〇四年に生れて孔子と同時代であり道教の始祖となった老子の方にはいくらかの材料が見付かる。一体『道』とは何であるかということは余り簡単に説明ができない。近ごろ古代支那哲学の通覧を著わした鈴木の説に従えば『道は宇宙に形を与える原理であると同時に、また「天と地の未生以前に存在した渾沌たる組成のある物」、すなわち原始物質を意味するもののようである。』(この「 」の文句は老子の道徳教の第二五章の引用である。)『道』は『道路』の義であるが、しかし単に道路だけでなくまた『さまよう者』を意味する。道はあらゆる生あるものと生なきものの放浪すべき無窮の道路である。これは何ら他の物から成立ったのではなくそれ自身に永遠の物である。それはすべてであるが、しかしまた虚無でもある。それは天地万有の原因であり始源である。老子自身の言葉によれば『道は深く不可思議で、万有の始源である。道は静かに明らかで永遠に輝く一つの観念である。道は何者の子として生れたものか、私は知らない。彼は神(Ti)よりも以前からあったように見える。』『天地は不朽である。それは自分自身を作り出したものでもなく、また自身のために存在するものでもないからである。』道はまたしばしば玄妙中のまた玄妙なるものと名付けられる。この天地が不朽だとするその理由がまたよほど特別なものである。道は自分自体から生ぜられたものでないという命題を与えて、それからまずこれは絶滅することのできないものであるという結論を引き出すことができるというのである。
紀元前五世紀の道教学者列子は『始めに、一つの組織のない団塊、すなわち、渾沌があった。これは、後に形態、精神及び物質に進化し得る可能性を備えた混合物であった』と書いている。この哲学者は自分自身について次のような話をしている。『杞の国にある男があった。彼は天と地が崩壊するかも知れない、しかしてそれがために自分が破滅するかも知れないということを心配して寝食を廃するに至った。一人の友人がやってきて、こう言って彼を慰めた。「天地はただ一種の霊気の凝結したものにすぎない。しかして日月星辰はただこの霊気の中に輝く団塊である。これらが地上に墜ちたところで大した損害はないであろう。」こういって二人とも安心していた。ところが、この考えに対して長廬子という男が反対説を出した。その説によると、天地は実際にいつか一度は粉微塵に砕けなければならないというのである。この話を聞いたときに列子は大いに笑ってこう言った。天地が砕けるというのも、砕けないというのも、いずれも大きな間違いである。我々はそれを判断すべき手段を一切持っていない。……世界が破壊しようがしまいが、それは何も自分に関係したことではない。』鈴木が言っているように『支那人はギリシア人やインド人のように空想的スペキュラティヴな性質ではない。彼らは決して物事を実用的道徳的に見ることを忘れない。彼らは、危なっかしい足元がやはり地上に縛られている癖に星の世界ばかり覗きたがるこれらの人を笑うであろう。』要するに支那人の万有に対する見方は古代ローマ人のと同じである。そうして孔子の教えの中にこの特徴が結晶しているのである。
こういう哲学的な霧中のまぼろしはこのくらいに切り上げてもいいと思う。これらは畢竟、前提なしの抽象的思索で宇宙の謎を解こうとしてもそれは不可能だということを示すだけである。
支那でも寺院に職を奉ずる天文学者らがいて、星の運行を追跡して日月食を予報する役目を司っていた。吾人の知る限りでは彼らの天文学は余り大して科学的に進んだものではなかったらしい。多分カルデア人が西洋の知識と接触する以前とほぼ同程度のものであったかと思われる。 
ギリシアの哲学者と中世におけるその後継者

 

エジプト、バビロニアのみならず一体に西方諸国の科学がついに民衆の共有物とならずにしまったのは非常な損失であった。もしこれがそうなっていたとしたら、これら国民の文化は疑いもなく今日我々が賛歎しているあの程度よりも一層高い程度に発達したであろうし、また我々の今日の文化もまたそれによって現在よりももっと優れたものになったかも知れない。
紀元前四〇〇年から六〇〇年に亘る、最古のギリシア文化の盛期における最も古い文化圏はエジプトであった。しかして、当代における最高の知識を修めようと思う若いギリシア人、タレース、ピタゴラス(Pythagoras)、デモクリトス(Demokrit)、ヘロドトス(Herodot)のごとき人々は皆このナイル河畔の古き国土をたずね、その知恵の泉を汲んで彼らの知識に対する渇きをいやそうとした。そうして古代における科学の最盛期というべきものはアレキサンドリアのプトレミー朝時代に当って見られる。ここでギリシア文化がこの古典的地盤の上でエジプト文化と融合されたのであった。
紀元前六四〇―五五〇年の人、ミレトスのタレースがあるとき日食を予言して世人の耳目を驚かしたという話が伝えられている。疑いもなく彼はこの日月食を算定するバビロニア人の技術をフェニシア人から学んだであろう。また彼がエジプト人から当代科学の諸学説を学んだという説もある。実際、万物の始源は水なりとする彼の学説は、世界の原始状態に関するエジプト人の観念に縁を引いているようである。このタレースの弟子であったと思われるアナキシマンドロス(Anaximandros 紀元前六一一―五四七年)は、各種元素より成る無限に広大な一団の渾沌たる混合物から無数の天体が生ぜられたと説いている。もう一人の哲学者アナキシメネス(Anaximenes 紀元前五〇〇年ころ)は、これもタレースと同じくいわゆるイオニア学派の人であるが、空気を始源元素であると考えた。彼はこの空気が密集して大地となったと考え、この大地は盤状のものであって、圧縮された空気の塊の上に安置されていると考えた。太陽も太陰も星もまた同様な形状をしたものであって、しかしてこれらが地の周囲を回っているとした。このアナキシメネスの説にはエジプト派の痕跡が全くない。
ピタゴラスは紀元前六世紀の後半(五六〇―四九〇年)の人でいわゆるピタゴラス学派の元祖であるが、この人となるとまたエジプトの学風の余弊がかなりに強くひびいているようである。彼はサモス(Samos)島に生れたが後に南イタリアのクロトン(Kroton)に移った。彼もエジプトの学者たちと同様に、自分の知識をただ弟子の間だけに秘伝するつもりであったが、弟子の方ではもっと西洋流の気分があったのでこれらの秘密をかまわず周囲に漏らし伝えた。これらの自然科学者の諸説(多くはフィロラオス Philolaos の説として伝えられたもの)については遺憾ながら原著は伝わらず、ただ二度あるいは三度他人の手を経たものしか知ることができない。これらの所伝によると、宇宙におけるあらゆるものの関係は数によって表わすことができる。そうしてそれには調和ハルモニーと名付ける一定の厳密な法則が存在している。この規則正しい関係があたかも種々な楽音の高さの間の関係と同様であるから、こう名付けたのである。宇宙はすべての方向に一様に広がっている。すなわち、一つの球である。その真ん中に中心の火があるが、我々はこれと反対側の地上にいるために火を見ることはできない。しかしその反映を太陽に見ることができる。この中心火の周囲を地球、太陰、太陽及び諸遊星が運行している。これらのものも地球と同じようなものでやはり雰囲気をもっているものと考えられるようになった。地球は円いもので、中心火のまわりを一日に一周する――すなわちどういう風にかとにかく自身の軸のまわりに二四時間に一回転する。同様に太陰は一ヶ月にその軌道を、太陽は一年の間にその軌道を一周するのである。これらの三つの天体の周期はかなり精密に知られていた。もしピタゴラス派の人々が、この中心火の代りに太陽を置き換えさえしたら、太陽系というもののかなり正しい概念が得られたに相違ない。恒星をちりばめた天球はどうかというと、これもまた巨大な中空の球であって同じ中心火のまわりを回っているものと考えられた。その上にまた地球が一日に自分の軸で一回転すると思ったのであるから最初の仮定は単に無駄であるばかりでなく、かえって全く矛盾することになるのである。
ピタゴラス派の学説は次第に進歩するとともにその明瞭の度を増した。現象の物理的原因にだんだん立ち入るようになった。エフェソス(Ephesos)のヘラクリトス(Heraklit 紀元前約五〇〇年)は何物も完全に不変ではないと説いた。シシリア人エムペドクレス(Empedokles 紀元前約四五〇年)は、何物でも虚無から実際に生成されること(すなわち、創造)はあり得ないということ、また物質的なものである以上何物でもそれを滅亡させることは不可能であるという、我々現代の考えと全く相当する定理に到達している。すべての物は土、空気、火及び水の四元素から成立つ。ある物体がなくなるように見えるのは、ただその物の組成(この四元素の混合関係)が変るためにすぎない、というのである。ペリクレス(Perikles)の師であったアナキサゴラス(Anaxagoras)は紀元前約五〇〇年に小アジアで生れ、ペルシア戦争後アテンに移った人であるが、彼は以上の考えを宇宙全体に適用し、すなわち、宇宙の永遠不滅を唱道した。原始の渾沌が次第に一定の形をもつようになった、太陽は巨大な灼熱された鉄塊であり、その他の星もやはり灼熱していた――それはエーテルとの摩擦のためであったというのである。アナキサゴラスはまた太陰にも生物が住んでいるという意見であった。また彼が、地球は諸天体の中で何ら特別に選ばれたる地位を占めるものでないという説の最初の言明をしているのは注意すべきことである。これは後代復興期の天文学者らによって唱えられた考えと非常に接近したものである。
プラトンやアリストテレスを読めば分る通り、アテン人は星を神様だと思っていたのであるから、アナキサゴラスは、彼の弟子クレアンテス(Kleanthes)の申立てによって、神の否認者として告訴され監獄へ投げ込まれ、あのソクラテスと同じ運命に陥るはずであったのをペリクレスの有力な仲介によってようやく免れることができた。そこで彼は用心のために亡命しランプサコス(Lampsakos)の地で一般の尊敬を受けつつ七二歳の寿を保った。アテンにおける最も優秀な人たちが彼らの哲学上の意見に対する刑罰(死罪)を免れるために次々に亡命したという史実を読んでみていると彼の賛歎されたアテンの文化というものがはなはだ妙なものに思われてくるのである。ソクラテスは亡命を恥としたために毒杯を飲み干さなければならなかった。彼の死後プラトンはその師と同じ厄運を免れるために一二年の歳月を異境に過ごさなければならなかった。それで彼の教えはピタゴラス派と同様イタリアで世に知られるようになった。プラトンの弟子のアリストテレスはあるデメーテル僧から神を冒涜したといって告訴され、大官アレオパガスから死刑を宣告されたが、際どくもユーボェア(Euba)のカルキス(Chalkis)に逃れることを得て、そこに流謫の余生を送り六三歳で死んだ(紀元前三二二年)。神々の存在を否認したディアゴラス(Diagoras)もやはり死刑を宣告された後に亡命し、またかの哲学者プロタゴラス(Protagoras)もその著書は公衆の前で焼かれ、その身は国土から追われた。神々は自然力を人格化したものだと主張したプロディコス(Prodikos)は処刑された。――自由の本場として称えられてきたアテンがこういう有様であったのである。当時のアテン人の間には奴隷使役が広く行われていた。それで今日保存されている古代の文書の大部分も、遺憾ながら、そういう自然研究などには縁の薄い人々の手になったものである。思うに、当時アテンに在住していた哲学者らは、狂信的な多数者の迫害を避けるために、自分の所説に晦渋の衣を覆っていたものらしい。
エムペドクレスとアナキサゴラスの次にデモクリトス(Demokrit)が現われた。彼は後日我々の承継するに至った原子観念の始祖である。アナキサゴラスの生後約四〇年にトラキア(Thrakien)のアブデラ(Abdera)に生れ長寿を保って同地で死んだ。巨額の財産を相続したのを修学のための旅行に使用した。そして、彼自身の言うところによると、同時代の人で彼ほどに広く世界を見、彼ほどにいろいろな風土を体験し、また彼ほどに多くの哲学者に接したものは一人もなかった。幾何学上の作図や証明にかけては誰一人、しかもまた彼が満五ヶ年も師事していたエジプト数学者でさえも匹敵するものがなかった。彼は古代の思索者中での第一人者であったらしいが、しかし数多い彼の著述のうちで今日に伝わっているものはただわずかな断片にすぎない。彼の考えによると、原子は不断に運動をしており、また永遠不滅のものである。原子の結合によって万物が成立し、そうして万象は不変の自然法則によって支配される。また、デモクリトスの説では、太陽の大きさは莫大なものであり、また銀河は太陽と同様な星から成立っている。世界の数は無限であり、それらの世界は徐々に変遷しながら廃滅しまた再生する運命をもっている、というのである。ところが、このデモクリトスに至って他の哲学者からはとうに捨てられていた、大地は平坦で海に囲まれた円板だという考えが再現されているのである。
この哲学者に関して知られている事柄の大部分は、たとえばアリストテレス(紀元前三八五―三二三年)のごとく、彼の学説に反対したアテン派その他の学者らの仲介によるものである。ソクラテスなどは、天文学というものは到底理解ができないものである、こんなことにかかわり合っているのは愚かなことであると言っている。プラトン(紀元前四二八―三四七)はデモクリトスの七二種の著書を焼払いたいという希望を言明している。プラトンの自然科学の取扱い方は目的論的であって、我々の見地から言えば根本的に間違っている。一体彼がこの偉大な自然科学者デモクリトスの説を正当に理解し得たかどうか疑わしいと言われても仕方がない。当時の哲学は我々の目からは到底把握しがたい形而上学となってしまっていた。天が球のごとく丸く、星の軌道が円形であることの原因としてはたとえばアリストテレスはこう言っている。『天は神性を有する物体である。それゆえにこれらの属性をもつべきはずである。』彼はまた、遊星は運動器官をもたないから自分で動くことはできないと言っている。世界の中心点に位する大地が球形であるということは、彼もまた、月食のときに見える地球の影の形から正しく認めてはいたが、しかし地球が動いているという説には反対した。プラトンはまた地球が天界の中で最古の神的存在であると言っている。大先生たちがこういう意見を述べているくらいであるから、その余の人々から期待されることはたいてい想像ができるであろう。自然科学的の内容はなくていたずらに威圧的の言辞を重ねるのが一般の風潮であった。詭弁学者らはすべてのもの、各々のものを、何らの予備知識なしに証明するということを問題としていた。これらの哲学者の書物は中世に伝わり、そうしてほとんど神のごとく尊崇された。アリストテレスの諸説は全く間違のないものと見なされた。そうしてこれが中世における自然界の考え方の上に災の種を植付けた。――たとえばスコラ学派の奇妙な空想を見ただけでも分ることである――そうしてこれが科学的の考察方法に与えた深い影響は実に僅々数十年前までも一般に支配していたのである。
シラクス(Syrakus)とアレキサンドリア(Alexandria)における自然研究は、これから見るとずっと健全に発達していた。キケロ(Cicero)に従えば、シラクスのヒケタス(Hicetas)は、天は静止している、しかし地球が自軸の周りに回転していると主張したそうである。しかしこれ以上のことは伝わっていない。彼の偉大な同郷人アルキメデス(Archimedes 紀元前二八七―二一二年)についても伝わっていることは更に少ない。彼は平衡状態にある液体は球形となり、また一つの重心をもつことちょうど地球も同様であると説いた。この理由によって海面は平面ではないというのである。
地球の形とその宇宙における位置に関してついに明瞭な観念を得るに至ったのはアレキサンドリアの自然科学者の功に帰せられねばならない。クニドス(Knidos)のユウドキソス(Eudoxus 紀元前四〇九―三五六年)は初めエジプトで人に教えていたが、後にアテンで一学派を立てた人である。この人は遊星運動に関する一つのまとまった系統を立てた。エラトステネス(Eratosthenes 紀元前二七五―一九四年)はアレキサンドリアで、夏至と冬至の正午における太陽の高度を測定し、それを基にして南北回帰線間の距離が地球大円周の八三分の一一に当るということを算定した(この値は実際より約一パーセント強だけ大きい)。またアレキサンドリアとエジプトのシェナ(Syene)とで太陽の高度を測定し、両所間の緯度の差が地球周囲の約五〇分の一に等しいことを知った(この値は約一五パーセント小さすぎる)。この二ヶ所の距離を、駱駝を連れた隊商の旅行日数から推定し、それによって地球の円周を二五万スタディア(四二〇〇〇キロメートル)と算定した。これはかなり実際とよく合っている(アリストテレスは四〇万、アルキメデスは三〇万スタディアを得た、とあるが何を根拠にしての算定であるか分っていない)。ポセイドニオス(Poseidonios 紀元前一三五年シリアに生れ、同五一年ローマで死んだ)はアレキサンドリアで恒星カノプス(Canopus)の最大高度を測って七・五度を得た。ロドス(Rhodos)島ではこの星が最も高く上ったときにちょうど地平線上に来る。ところがロドスとアレキサンドリア間の距離はあるいは五〇〇〇あるいは三七五〇スタディアと言われていたので、これから計算して地球の周径は二四万、あるいは一八万スタディア(四万あるいは三万キロメートル)となった。
第七図 エジプトのデンデラー(Denderah)の獣帯。西暦紀元の初めごろのもの。
アリスタルコス(Aristarchos 紀元前約二七〇年生)は食の観測と、太陰がちょうどその半面を照らされているときのその位置とから太陽と太陰との大きさを定めた。しかして太陰の直径としては地球直径の〇・三三(正当の値は〇・二七であるから、〇・三三にかなり近い)を得たが、しかし太陽の直径としては一九・一を得た(実は一〇八であるからアリスタルコスのこの値は余り小さすぎる)。
アレキサンドリア学派とは密接な関係のあったアルキメデスがアリスタルコスに関してこういっている。『彼は恒星及び太陽を静止するものと考え、地球は太陽を中心とする円形の軌道に沿うて運行すると仮定している。』プルターク(Plutarch)の著として誤伝されている一書によると、アリスタルコスは、天を不動とし、地球はその軸のまわりに自転しつつ黄道に沿うて太陽の周囲を運行すると説いたというので、神を冒涜するものとしてギリシアで告訴されたとある。恒星は太陽からばく大な距離にあると考えられていて、この書には七八万スタディアとなっている。――一三万キロメートル、すなわち、地球半径の二〇倍に当り、これは全く事実に合わない(アレキサンドリアのヒッパルコス(Hipparchos)紀元前約一九〇―一二五年――は古代天文観測者中の最も優秀な者であったが、この人は太陰の距離をほぼ正しく地球半径の五九倍と出している)。そうしておもしろいことには太陽の距離の方はほとんど正しく八〇四〇〇万スタディア(一三四六六六〇〇〇キロメートルに当る、実際は一四九五〇万キロメートル)となっている。ヒッパルコスの方は地球半径の一二〇〇倍という、すなわち、ずっと不当な値を出しているのである。ポセイドニオスは水時計の助けを借りて太陽の直径を測り、角度にして二八分という値を得、それから長さに換算して地球半径の七〇倍を得ている。これはいくらかよく合っている方である。彼はまた太陰が潮汐の現象の原因であるということも説いているのである。
これらの記事を読んでみると、アレキサンドリアにおけるギリシア人の天文学がいかに程度の高いものであったかということに驚かざるを得ない。しかるに他の方面の科学、特に物理化学の方の知識は到底これとは比較にならない劣等なものであった。アリスタルコスはコペルニクスに先立つことほとんど二〇〇〇年にして既にいわゆるコペルニクス説の系統の基礎をおいたのであるが彼の考えはいったんすっかり忘れられてしまった。彼の同時代の人々は彼の宣言した偉大な真理を正当に了解することができなかったのである。その著書アルマゲスト(Almagest 紀元一三〇年ころの著)によって天文学方面での唯一の権威となっていた――また優れた光学者でもあった――プトレマイオス(Ptolemus)は、これに反して、地球は太陽系の中心にあり諸遊星も太陽もまた太陰もこの中心の周囲をいわゆるエピチケル形軌道を描いて運行すると考えたのである(第六図)。その後ローマ帝政の抑圧が世界を支配するようになって、科学にも悪い影響を及ぼした。ローマ人らは科学に対して何らの正当な理解がなかった。――彼らの眼をつけたのはただ直接の実利だけであった。ランゲ(F. A. Lange)はその著マテリアリズムの歴史中に次のように述べている。『彼らの宗教は深く迷信に根ざしていた。彼らの全公生活は迷信的な方式で規約されていた。伝統的な習俗を頑固に保守するローマ人には、芸術や科学は感興を刺激することが少なかった。まして自然そのものの本質に深く立入るようなことはなおさらそうであった。彼らの生活のこの実用的な傾向はまたすべての方面にも及んだ。……初めてギリシア人と接触して以来、数世紀の後までも、国民性の相違から来る忌避の感情が持続していた。』しかしギリシア国土の征服後掠奪された貴重な芸術品や書籍がたくさんにローマへ輸入され、またそれらと一緒に、この戦敗者ではあるが文化の方でははるかに優れた国民の種が入り込んできた。ローマ人中にもまた精選された分子はあったので、それらの人々はこの自分らよりも優れた教養に心を引かれ、しかしてそれを自分のものにしようと勉め、また昔の先覚者に倣おうと努力した。その一例としてはルクレチウス(Lucrez 紀元前九九―五五年)の驚嘆すべき詩『物の本性』(De Rerum Natura)がある。彼はこの書中にエピキュリアン派(Epicur)の人生哲学と、エムペドクレス及びデモクリトスの宇宙観自然観を賛美し唱道している、その中に物質の磁性に関する記事解説もある。これに関する彼の知識は多分デモクリトスから得たものらしい。このように、ギリシアの哲学ことにかの巨匠デモクリトスの哲学を賛美していた美なるものの愛好者中には、ポセイドニオスの弟子であったキケロ(Cicero 紀元前一〇六―四三年)もいた。また兄の方のプリニウス(Plinius 紀元二三―七九年)やセネカ(Seneca 紀元一二―六六年)もいた。
第六図 プトレマイオスの宇宙系
しかしこれらの人々も結局はただ師匠を模倣するに止まっていた。ローマ人らは自分らに独特なものは何も持出さなかった。自然科学的教養はただ薄い仮漆にすぎなかったのである。そうして国民の先導者らは文化に対する最も野蛮な暴行を犯した。たとえばシーザーはアレキサンドリア市を占領した後でそこの図書館を焼払った。彼の後継者たる代々の皇帝はひたすらに狂気じみた享楽欲に耽溺の度を深めていった。こうして自然の研究者らは次第に跡を絶ってゆくのであった。キリスト教徒らはまた一層自然科学に無関心であった。シーザーから三〇〇年後に彼らは大僧正テオフィロス(Theophilos)の指図によっていったん復興されていたアレキサンドリアの図書館を掠奪し、更に三〇〇年後にはアラビアの酋長カリフ・オマール(Chalif Omar)がこの図書館のわずかに残存していた物を灰燼に委してしまった。もっともアラビア人らは、後に彼らの文化が洗練されるようになってからは、科学に対する趣味を生じ、そうして特にアレキサンドリア学派の著述、もちろん断片のようなものではあったが、それを収集するようになった。しかしアラビア人一般の心情は、元来異教に対して容赦のなかった僧侶らのために大分違った方へ導かれていたために、決して科学向きにはなっていなかった。そうして聖典コーランこそ完全に誤りのない典拠だということになっていたのである。しかし本来から言えばマホメットの教えは科学に対して敵意をもたないはずのものである。すなわち、この預言者が弟子たちにこう言ったという話がある。『知識の学問が全く滅亡される日が来れば、そのときにこの世の最後の日が来るであろう。』ハルン・アル・ラシード(Harun al Raschid)は東ローマ皇帝に哲学書の下賜を願った。その望みは快く聞き届けられたのでこの賢明な君主はこれらの書をことごとく翻訳させ、特にそれを読むための役人を定め、また外に三〇〇人以上の人々を遊歴のために派遣して知識を四方に求めさせた。その子アブダラー・アル・マムン(Abdallah al Mamuu)は古典的の手写本を求めて、それを翻訳し、図書館や学校を創設して民衆の教養の普及に努めた。紀元八二七年にはまたアラビア湾に臨むシンガール(Singar)の砂漠で、子午線測量を行わせ、一度の長さがアラビアの里程で五六・七里に当るという結果を得ている。遺憾ながらアラビアの一里は四〇〇〇エルレに当るというだけで、それ以上のことが知られていない。この子午線測量は前に述べたものよりはずっと優れたものであったのかも知れない。またこれと同時に赤道に対する黄道の傾斜角を測定した結果が二八度三五分となっている。
当時の最も顕著な天文学者はシリアの代官を務めていたアルバタニ(Albatani 約紀元八五〇―九二九年)であった。彼は一年の長さを算定して三六五日と五時間四六分二二秒とした(これは二分二四秒だけ短すぎる)。また諸遊星を観測しその結果から計算してそれらの星の軌道に関する立派な表を作った。この人より少し後れてペルシアにアブド・アル・ラフマン・アル・スフィ(Abd-al-rahman Al-Sufi 紀元九〇三−九八六年)がいた。彼は一〇二二個の星のカタローグを編成したが、彼のこの表はかのプトレマイオスのものよりもずっと価値の高いものとされ、彼我ともに古代から伝わったものの中で最も良いものとされている。彼はまた今日のいわゆる歳差プレセッションを六六年毎に角度一度の割だと推算している(七一年半が正しい)。
第八・九・十・及び第十一図
四つの星座図――蛇遣い、大熊、オリオン、龍――アル・スフィの恒星表による。
これよりも以前に、メソポタミア生れのジャファル・アル・ソフィ(Dschafar al Sofi 七〇二―七六五年)という人が、化学の学問を従来考え及ばなかった程度に進歩させていた。彼はセヴィリア(Sevilla)の高等学校の教師として働いていたのである。
アル・マムンの後約一〇〇年を経て、バクダットにおけるカリフの権勢が地に堕ちて、アラビア文化の本場はスペインのコルドヴァ(Cordova)に移った。ハーケム(Hakem)第二世はこの地に(多分誇張されたとは思われる報告によると)蔵書六〇万巻を算する図書館を設立したことになっている。この時代にかの偉大なアラビア人の天文学者イブン・ユニス(Ibn Junis)が活動していてこの人はガリレオより六〇〇年余の昔既に時間の測定に振子を使った。彼はまた非常に有名な天文学上の表を算出している。これとほとんど同時代にまたアルハーゼン(Alhazen)が光学に関する大著述を出しているが、これは彼の先進者らがこの学問に関して仕遂げたすべてを凌駕したものと言われている。
紀元一二三六年にコルドヴァはスペイン人に侵略され、この有名な図書館の蔵書は次第に散逸した。そうして、それまで幾多のキリスト教徒らがそこから科学的の教養を汲んでいたところの文化の源泉は枯渇してしまったのである。
現代の回教国民その他の東方諸国民は、個人または国家にとって何ら実益のありそうにもないことにはかなり無関心である。こういう環境では科学の進歩は不可能である。著しい一例としては、トルコの法官カディイマウム・アリ・ザデ(Imaum Ali Zad)が、何か天界の驚異について彼に話したある西洋の天文学者に答えた言葉を挙げることができる。プロクトル(Proctor)に従えば、アリ・ザデは正にこう言ったそうである。『まあまあ、お前には何の係わりもない物を捜し求めるのは止したがよい。お前はよくこそ尋ねてきてくれた。が、もう平和に御帰りなさい。本当にいろいろのことを話してくれた。話す人は話す人で聞く人は聞く人で別々だから何も差支えないようなものであった。お前はお前の国の風習に従って、それからそれと遍歴しながらどこまで行っても結局得られぬ幸福で住みよい土地を求めて歩いているのだ。まあ、御聞きなさい。神の信仰に対抗するような学問など一体あるべきはずがない。神が世界を造ったのだ。その神と力比べしようとか天地創造の神秘をあばこうとか、そういうことをしていいものだろうか。この星は他の星の周囲を回るとか、かの星は尻尾を引いて動いていって、しかして何年経つとまた帰ってくるとか、そういうことを言っていいものかどうか。よしてもらいたい。星を造った神はまたそれを指導するのだ。私は神を賛美するだけだ。そうして自分に用のないものを得ようなどと努力はしない。お前はいろいろのことに通じているようだが、それはみんな私には何のかかわりもないことなのだ。』
これが東洋人独特の根本原理である。幸いに我々西方国民はこれとは違った考えをもっているのである。しかし、古代科学の遺物を我々のために保存し伝えてくれた中世のアラビア人らが、これとはまた一種全く違った考えをもっていたということは、かの有名なイブン・アル・ハイタム(Ibn al Haitam これは前記アルハーゼンと同人である。アイルハルト・ウィーデマン Eilhard Wiedemann の研究によると、この人は日食の観測に針孔暗箱ロッホカメラを用いた。また一〇三九年ころに没したとある)の言った言葉からも明らかに知ることができる。すなわち、アラビアの物理学者中で最も優秀であった彼はこう言っている。『私はずっと若いころから真理の問題に関する人間の考え方を注意して見てきたが、各々の学派は銘々に自分らの意見を固執して他の派の考え方に反対している。私はそのいずれもを疑わないわけにはゆかなかった。真理はただ一つしかないはずである。それで私は真理の源を探求し始めた。そうして、現象の真の内容を発見するためにあらん限りの観察と努力を尽くした。そうした末に私はちょうどガレヌス(Galenus)がその医術書の第七巻に次のように書いている、あれとちょうど同じようになってしまった。すなわち、私は愚昧な民衆を見下し軽侮した。彼ら(彼らの考え方)などには頓着しないで、ひたすらに真理と知識の探求に努力した。そうして結局、この世で我々人間に賦与されたもののうちでこれに勝るものは他にはないということを確認するようになった。』このアラビアの学者の経験したところは、昔の学者に特有な大衆を軽視するという悪い傾向を除いては現時の科学者のそれと完全に一致するものである。しかし、このアリ・ザデとアルハーゼンとの考えの相違は、アルハーゼンの時代に満開の花盛りを示したかの回教文化がなにゆえに今日もはや新しい芽を出し得ないかという理由を明白に認めさせるものである。 
新時代の曙光。生物を宿す世界の多様性

 

ローマ人は科学に対して余り興味をもたなかったが、特に純理論的の諸問題に対してそうであった。彼らの仕事は主にギリシアの諸書の研究と注釈に限られていた。帝政時代の間に国民は急速に頽廃の道をたどったためにたださえ薄かった科学への興味はほとんど全く消滅した。それでローマ帝国の滅亡した際に征服者たるゲルマン民族の科学的興味を啓発するような成果の少なかったことは怪しむに足りない。それでもテオドリヒ王(Knig Theodorich 四七五―五二六年)が科学を尊重しボエティウス(Bothius)という学者としきりに交際したという話がある。カール大帝もまた事情の許す限りにおいて学術の奨励を勉めた。その時代に、フルダの有名な寺院にラバヌス・マウルス(Rhabanus Maurus 七八八―八五六年)という博学な僧侶がいて、一種の百科全書のようなものを書いている。これを見るとおよそ当時西欧における学問的教養の程度の概念が得られる。これは、すべての物体は原子からできていること、地は円板の形をして世界の中央に位し大洋によって取り囲まれていること、この中心点のまわりを天がそれ自身の軸で回転していることが書いてある。
中世の僅少な学者の中で、特に当代に抜きんでたものとして、フランチスカーネル派の僧侶ロージャー・ベーコン(Roger Bacon 一二一四―一二九四年)を挙げることができる。彼は特に光学に関しては全く異常な知識をもっていて、既に望遠鏡の構造を予想していた。また珍しいほど偏見のない頭脳をもったドイツ人クサヌス(Cusanus トリール Trier の近くのクエス Cues で一四〇一年に生れ、トーディ Todi の大僧正になって一四六四年に死んだ)もまた当代に傑出した人であった。彼は、地は太陰よりは大きく太陽よりは小さい球形の天体で、自軸のまわりに回転し、自分では光らず、他の光を借りている、また空間中に静止してはいない、と説いている。彼は他の星にもまた生住者がいると考えた。物体は消滅することはない、ただその形態をいろいろ変えるだけであるとした。同様な考えはまたかの巨人的天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 一四五二―一五一九年)も述べている。彼は、月から地球を見れば地球から月を見たとほぼ同じように見えるだろうということ、また地球は太陽の軌道の中心にもいないしまた宇宙の中心にもいないと言っている。レオナルド・ダ・ヴィンチは、地球は自軸のまわりに回転していると考えた。彼もまたニコラウス・クサヌスと同様に、地球も他の遊星とほぼ同種の物質から成立っており、アリストテレスやまたずっと後にティコ・ブラーヘに至ってもまだそう言っていたように、他の星よりも粗悪な素材でできているなどというようなことはないという意見であった。レオナルドは重力についてもかなりはっきりした観念をもっていた。彼は、もし地球が破裂して多数の断片に分れたとしても、それらの破片は再び重心に向かって落ちかかってくる、しかして重心の前後の往復振動をするが、たびたび衝突した後に結局は再び平衡状態に復するだろうと言っている。彼の巧妙な論述の中でも最も目立ったものはかの燃焼現象に関する理論である。その説によると、燃焼の際には空気が消費される。また燃焼を支持することのできないような気体中では動物は生きていられないというのである。レオナルドは非常に優れたエンジニアであって、特に治水工事に長じていた。彼の手になった運河工事は今でもなお存して驚嘆の的となっているものである。
彼はまた流体静力学、静力学、航空学、透視法、波動学、色彩論に関する驚嘆すべき理論的の研究を残している。その上に彼は古今を通じての最も偉大な画家であり、彫刻家であり、まだおまけに築城師であり、また最も優雅な著作者でもあった。
この有力な人物は中世の僧侶たちとは余りにも型のちがったものであった。当時既に時代は一新しており、すなわち、レオナルドの生れたときには既に印刷術が発明されており、コロンブスは既にアメリカを発見していた。復興期の新気運は力強くみなぎり始めていたのである。しかもまだ教会改革に対する反動が思想の自由を抑制するには至らなかった時代なので、クサヌスやダ・ヴィンチは自由に拘束なく意見を発表することができた。その学説というのは、およそアリスタルコス―コペルニクスの説と同じであったが、ただ地球が太陽のまわりを回るのではないとした点だけが違っていた。この二人の一人は大僧正になり、一人は最も有力な王侯の寵を受けた(彼は芸術の愛好者フランシス一世に招かれてフランスに行き、その国のアムボアズ Amboise で死んだ)。当時派手好きの法王たちはミラン、フェララ、ネープルス等、また特にフロレンスの事業好きな諸公侯と競争して芸術と科学の保護奨励に勉めていた。シキスツス第五世は壮麗なヴァチカン宮の図書館を建設し充実した。新興の機運は正に熟していて、同時に既に始まっていた彼の残忍な宗教裁判インクイジションを先頭に立てた反動運動も、これを妨げることはできなかった。コペルニクス(Kopernikus 一四七三―一五四三年)はトルン(Thorn)に生れ、フラウエンブルク(Frauenburg)でカノニクス(Kanonikus)の僧職を勤めていたドイツ種の人であるが、彼は昔アレキサンドリアのプトレマイオス(Ptolemus 約紀元二世紀)がその当時の天文学上の成果を記した著述を研究し、また自分でも観測を行った結果として、彼一流の系統(第一二図)を一つの仮説として構成した。この説を記述した著書は彼の死んだ年に発行されている。死んだおかげで彼は彼の熱心な信奉者ジョルダノ・ブルノ(Giordano Bruno イタリアのノラ Nola で生れたドミニカン僧侶)のような運命に遭うのを免れることができた。このブルノはその信条のために国を追われ、欧州の顕著な国々を遊歴しながらコペルニクスの説を弁護して歩いた。しかして、恒星もそれぞれ太陽と同様なもので、地球と同様な生住者のある遊星で囲まれていると説いた。彼はまた、太陽以外の星が自然と人間に大いなる影響を及ぼすというような、科学の発展に有害な占星学上の迷信に対しても痛烈な攻撃を加えた。
第十二図 コペルニクスの太陽系図。彗星の軌道をも示す。現時の知識に相当する第十三図と比較せよ。
第十三図 諸遊星とその衛星の運動方向を示す。太陽中心の北側の遠距離から見た形。真ん中が太陽、次が水星(Me)と金星(V)、それから地球(T)とその衛星(L)、その外側には火星(Ms)と二衛星、次には木星(J)とガリレオの発見した四衛星がある。近代になってから木星を巡る小衛星が更に三つ発見された。すべてこれらの天体は一番外側のものを除いては矢の示すように右旋すなわち時計の針と反対に回っている。一番外側に示すのは土星(S)でこれは九つの右旋する衛星――図にはただ一つを示す――と逆旋する一つの衛星、それはピッケリングの1898年の発見にかかるフォエベ(Phoebe)がいる。なおこの外にはハーシェルとルヴェリエとの発見した天王星と海王星がある。この二星の太陽からの距離は土星までの距離の約二倍と、三倍余とである。天王星には四つの衛星があるが、その軌道は黄道面にほとんど直角をなしている。その上に逆旋である。海王星には逆旋の衛星が一つある。天王、海王二遊星は右旋である。また火星と木星の軌道間にある多数の小遊星もやはり右旋である。
彼は、諸天体は無限に広がる透明なる流体エーテルの海の中に浮んでいると説いた。この説のために、またモーゼの行った奇蹟も実はただ自然の法則によったにすぎないと主張したために、とうとうヴェニスで捕縛せられ、ローマの宗教裁判に引き渡された上、そこでついに焚殺の刑を宣告された。刑の執行されたのはブルノが五二歳の春二月の一七日であった。当時アテンにおけると同じような精神がローマを支配していて、しかもそれが一層粗暴で残忍であったのである。要するにブルノの仕事の眼目はアリストテレスの哲学が科学的観照に及ぼす有害な影響を打破するというのであった。
宗教裁判の犠牲となって尊い血を流したのはこれが最後であって、これをもって旧時代の幕は下ろされたと言ってもよい。ケプラーまた特にガリレオの諸発見によって我々の知識は古代とは到底比較にならないほど本質的に重要な進歩を遂げるに至ったのである。
通例コペルニクスの考えは古代における先輩の考えとは全く独立なものであったように伝えられているが、これが間違いだということは、彼自身に次のように述べているのでも明らかである。すなわち、『私は天圏スフェーレーの円運動の計算に関するこれらの数理的学説の不確実な点について永い間考えてみた末に、これらの哲学者らがこの円運動について些細な点までもあれほど綿密に研究しておりながら、このあらゆる良匠中の最良にしてまた最も系統的な巨匠の手によって我等のために造られた宇宙機関の運動について何らの確実なものをも把握しなかったことに愛想を尽かすようになった。それで私は手の届く限りあらゆる哲学者の著書を新たに読み直し、そうして、もしやいつかの昔に誰かが、この数理学派の学徒が考えているとは違ったふうに天体運動を考えていた人がありはしないかを探索しようとして骨を折った。すると、まず第一に、キケロの書いたものの中にニケツス(Nicetus)またヒケタス(Hicetas)という人が、地球自身が運動していると信じていたということが見付かった。その後にまたプルタークを読んでみると、この外にも同様な意見をもっていたものが若干あることを知った。参照のためにここに彼の言葉を引用する、「しかしまた地球が動くと考える人々もあった。たとえばピタゴラス派のフィロラオス(Philolaos)は、地球も太陽太陰と同様に傾斜した軌道に沿うて中心火のまわりを運行していると言った。ポントスのヘラクリド(Heraklid von Pontus)とピタゴラス派のエクファントス(Ekphantus)の二人は、地球の進行運動は考えなかったが、しかし一種の車輪のような具合に、自身の中心のまわりに東西の方向に回転していると考えた。」こういうことが見付かったので私もまた地球の運動していることについて熟考してみるようになった。これは一見常識に反したことのように思われるが、しかし私の先輩たちが星辰の現象を説明するために勝手ないろいろの円運動を仮定している、あの自由さに想い及んだ末に、敢てこの考えを進めてみることにした。』コペルニクスはまた、既に前にアリスタルコスが考えたと同様に、地球の軌道は恒星の距離に比しては非常に小さいということも考えていたのである。
コペルニクスの死後間もなくティコ・ブラーヘ(Tycho Brahe)がショーネン(Schonen)の地に生れた。彼は若いときから非常な熱心をもって天文学を勉強していたが、あるとき日食皆既に遭って深い印象を受けたために更に熱心の度を加えるようになった。しかして多数の非常に綿密な測定を行った(主にフウェン Hven 島のウラニーンブルク Uranienburg の観測所で)。この測定はまた後日彼の共同研究者であったケプラー(Kepler)の観測の基礎を成したもので、また後世ベッセル(Bessel)をしてティコ・ブラーヘを『天文学者の王』と名付けさせた所以である。ティコはもう一遍地球を我々の遊星系の中心点へ引き戻した。しかして地球の周囲を太陽太陰が回るとし、また後には諸遊星も同様であると考え、恒星は緩やかに回る球形の殻に固着されているものと考え、そうして地球は二四時間に一回転すると考えたのである。このティコがいかに当時行われていた謬見にとらわれていたかということは、彼が人と決闘して鼻の尖端を切り落されたときに、これは彼の生れどきに星がこうなるべき運命を予言していたからだといってあきらめてしまったという一事からでも明らかである。また地球は恒星や諸遊星よりももっと粗大な物質からできている、そのために遊星系の中心に位しなければならないというその説もまた彼の考え方に特異な点である。しかし、コペルニクス系が、既に当時でも、ティコ・ブラーヘのそれに比して明らかに優っているものと考えられたことは、デカルトが特に力を入れて強調している通り『この方が著しく簡単で、また明瞭である』からである。いかに優れた観測の天才をもっていかに骨を折ってみても、理論上の問題に対して明晰で偏見なき洞察力が伴わなければ、比較的つまらない結果しか得られないものだということは、このティコが一つの適例を示すであろう。ティコは一六〇一年にプラーグで没した。
ティコ・ブラーヘはあらゆる先入謬見を執拗に固執しながら、また一方先入にとらわれない批判的検索を行うという、実に不思議な取り合わせを示している。惜しいことに彼の方法は古代バビロニア人の方法に類していて、結局古い不精密な観測を新しい未曾有の精密なもので置き換えたというだけで、それから何ら理論上の結論をも引き出さないで、それ切りになってしまったのである。彼はコペンハーゲン大学における彼の大演説の中で占星術に関する意見を述べているが、これは古代バビロニア流の占星術の面影を最も明瞭に伝えるものであり、我々には珍しくもまた不思議に思われるものであるから、有名なデンマークの史家トロェルス・ルンド(Troels Lund)の記すところによってここにその演説の一部の抜粋を試みようと思う。
ティコはこう言った。『星の影響を否定する者はまた神の全知と摂理を抗議するものでもあり、また最も明白な経験を否認するものである。神がこの燦然たる星辰に飾られた驚嘆すべき天界の精巧な仕掛けを全く何の役に立てる目的もなしに造ったと考えるのは実に不条理なことである。いかに愚鈍な人間のすることでも何かしら一つの目的はあるのである。これに対してある人は、天界はただ年月を知らせる時計にすぎないと答えるかもしれない。しかしそれだけならば太陽と太陰とだけあればたくさんである。それならば一体いかなる目的のために他の五つの遊星が各自別々の圏内に動いているのであろうか。歩みの遅い土星は一周に三〇年を要し、かの光り瞬く木星の軌道は一二年を要する。また二年を要する火星水星、それから太陽の侍女としてあるときは宵の明星あるときは暁の明星として輝くかの美しい金星などは何のためであるか。その上にまだ恒星の天圏が八つもあるのは何のためであろうか。またこれらの無数の恒星の中で最小なものでもその大きさは地球の若干倍、大きいものはその一〇〇倍以上もあることを忘れてはならない。しかもこれが何の考えも何の目的もなく神によって創造されたというのであるか。』
『諸天体はそれぞれある力の作用をもち、それを地球に及ぼしているということは、経験によって実証される。すなわち、太陽は四季の循環を生じる。太陰の盈虚に伴って動物の脳味噌、骨や樹の髄、蟹や蝸牛の肉が消長する。太陰は不可抗な力をもって潮汐の波を起こすが、太陽がこれを助長するときは増大し、これが反対に働くときはその力を弱められる。火星マルスと金星ヴィーナスが出会うと雨が降り、木星ジュピターと水星マーキュリーとが出くわせば雷電風雨となる。またもしこれらの遊星の出現が特定の恒星と一緒になるときにはその作用が一層強められる。湿潤をもたらすような遊星が、湿潤な星座に会合するとその結果として永い雨が続く。乾燥な遊星が暑い星座に集まれば甚だしい乾燥期が来る。これは日常の経験からよく分ることである。一五二四年にあんな雨が多かったのは、当時魚星座に著しい遊星の集合があったためである。一五四〇年には初めに牡羊座で日食が起り、次に天秤座で土星と火星の会合、次には獅子座で太陽と木星の会合があったが、この年の夏は珍しいほど暑気の劇烈な夏であった。また一五六三年に、土星と木星とが獅子座において、しかも蟹座のおぼろな諸星のすぐ近くで会合した、そのときにどんな影響があったかを忘れる人はあるまい。既に昔プトレマイオスはこれらの星が人を窒息させ、また疫病をもたらすものだとしているが、まさにその通りに、これに次ぐ年々の間欧州では疫病が猖獗を極めて数千の人がそのために墓穴に入ったではないか。』
『さて、星は人間にもまた直接の影響を及ぼすものであろうか。これはもちろんのことである。人間の体躯はかの四元素から組成されたものだから当然のことである。一人の人間の本質中に火熱性の元素、寒冷性、乾燥性、湿潤性等の元素がいかに混合されているか、その程度の差によってその人の情操、根性が定まり、また罹りやすい病もきまり、生死も定まるのである。このいろいろな混合の仕方は、出生の瞬間における諸星の位置によってその子供の上に印銘されるもので、一生の間変えることのできぬものである。子供の栄養と発育によって成熟はするが改造はできない。ある混合の仕方では生活が不可能になるような場合さえもある。そういう場合には子供は死んで産まれる。たとえば、太陰と太陽の位置が不利で、火星が昇りかけており、土星が十二獣帯の第八宮に坐するという場合には、子供はほとんどきまって死産である。一般に、太陽と太陰の合の場合、ことに太陰が太陽に近よりつつあるときに生れた子は虚弱で短命である。この厄運は他の星の有利な位置によって幾分か緩和されることはあるが、結局は必ず良くないにきまっている。このことは一般に周知のことであって既にアリストテレスが、太陽太陰の合に際して生れた者の身体は虚弱だと言っているのみならず、経験のある産婆や母親は、こういう場合に子供が生れると、その子の将来必ず虚弱であることを予想して不安な想いをするのである。この理由は容易に了解される。すなわち、人の知る通り、太陰はある異常な力をもっていて、生れた子供の体内の液体を支配する。それでもし太陰が生れたものの身体にその光を注いでやらないとその体内の液体が全く干上ってしまわなければならない。そうして多血性の性情とその良い効果はほとんど失われてしまわなければならないということは明らかである。またこの結果としてはいろいろの病気、たとえば肺癆はいろう、癩病のようなものが起る。特に土星と火星がその毒を混入するような位置にいるときはなおさらである。このような物理的関係は容易に了解することができるのである。』
『身体の各部分は一つ一つ特別な遊星に相応していて、たとえば温熱の源たる心臓は太陽に相応し、脳は太陰に、肝臓は木星に、腎臓は金星に、また黒い胆汁を蔵する脾臓は憂鬱の支配たる土星に、胆嚢は火星に、肺臓は水星に相応している。』
ティコ・ブラーヘは占星術の反対者に対して最期まで闘った。『これらの人々、特に神学者や哲学者らを寛恕すべき点があるとすれば、それは彼らがこの術(占星)について絶対に無知識であるということと、彼らが常識的な健全なる判断力を欠いていることである』と言っている。
以上は、中世を通じて行われ、ごく近いころまでもなお折々行われてきた目的論的の見方を筋道とした論法の好適例である。
ティコの観測の結果から正しい結論を引き出す使命はケプラー(Kepler 一五七一―一六三〇年)のために保留されていた。彼は諸遊星は各々楕円を描いて太陽の周囲を運行することを証明し、またその速度と太陽よりの距離との関係を示す法則を決定した。彼は初め当時全盛のワルレンスタインのためにその運勢を占う占星図を作製したのであるが(第十四図)、後にはついに占星学上の計算をすることを謝絶するに至ったということはケプラーのために特筆すべき事実である。それにかかわらず一方ではまた彼は自分の子供らの運勢をその生誕時の星宿の位置によって読み取ろうとしているのである。ケプラーの家族はプロテスタントの信徒であったためにいろいろの煩累に悩まされなければならなかった。
第十四図 ケプラーの作ったワルレンスタインの運勢を占う占星図。
ケプラーの研究によって、天文学はアリスタルコス以来初めての目立った一大進歩を遂げたが、これは更にまたかの偉大なガリレオ(Galilei 一五六四―一六四二年)の諸発見によってその基礎を堅めるようになった。ガリレオはケプラーと文通していたのであるが、一五九七年のある手紙に自分は永い以前からコペルニクスの所説の賛成者であるということを書いている。一六〇四年に彼はオランダで発明された望遠鏡の話を聞き込んだ。そうして自分でそれを一本作り上げ、当時の有力な人々から多大な賞賛を受けた。そこでこの器械を以て天界を隈なく捜索して、肉眼では見られない星を多数に見付け出した。これで覗くと遊星は光った円板のように見えた。一六一〇年には木星を観測してこの遊星の衛星中の最大なもの四個を発見した。そうしてあたかも遊星が太陽を回ると同様な関係に、木星に近い衛星ほど回転速度が大きいことを見た。彼はこれらの衛星をトスカナ(Toscana)に君臨していた侯爵家の名に因んで『メディチ(Medici)の星』と名づけたのであるが、この衛星の運動の仕方が正しくコペルニクスの所説の重要なる証拠となることを認めた。彼はまた土星の形がときによって変化すること(この星を取巻く輪の位置による変化)、また金星(水星も同様であるが)が太陰と同様に鎌の形に見えることをも発見した。また太陽の黒点をも発見し(一六一一年)そうしてその運動の具合から、太陽もまた自軸のまわりに自転するものであると結論した。これらの発見は当時僧侶学校で教えられていたようなアリストテレスの学説とはすべて甚だしく相反するものであった。それでガリレオはローマへ行って親しく相手を説き付けるのが得策であると考えた。ところが相手の方では科学上の論議では勝てないものだから、ガリレオの説は犯すべからざる聖書の教えと矛盾するものだという一点張りで反対した。
ガリレオが公然とコペルニクスの信奉者であるということを告白しているのは太陽黒点のことを書いた一書において初めて(一六一三年)見られる。教会方面の権威者らも初めのうちは敢て彼に拘束を加えるようなことはなかったが、一六一四年に至って『神聖会議』の決議により、地球が公転自転と二様の運動をするというコペルニクスの説は聖書の記すところと撞着するということになった。もっともこのコペルニクスの説を一つの仮説として述べ、それを科学上の推論に応用するだけならば差支えはないが、しかしそれを真理と名付けることは禁ずるというのであった。
今日から考えるとこういうことは想像もし難いようであるが、その当時ではこれは全く普通のことであった。自分の主張していることを自分で信じているのではないとごく簡単に証言すればよいのであった。しかし実際は信じているのだということは誰でも知っていたのである。最も著しい例は、三〇年後(一六四四年)にデカルト(Descartes 一五九六―一六五〇年)が次のような宣言をしていることである。『世界が初めから全く完成した姿で創造されたということには少しも疑わない。太陽、地球、太陰及び諸星もそのときに成立し、また地上には植物の種子のみならず植物自身ができ、またアダムとイヴも子供として生れたのではなく、成長した大人として創造されたに相違はない。実際キリスト教の信仰はそう我々に教え、また我々の自然の常識からも容易に納得されるのである。しかし、それにもかかわらず、植物や人間の本性を正当に理解しようとするには、これらが最初から神の手で創造されたと考えてしまうよりも、種子からだんだんに発育してきたと考えてその発達の筋道を考察して見る方がはるかに有益で便利である。それで、もちろん実際は万物は上に述べたようにして成立したものだということをちゃんと承知しているとして、もし若干のごく簡単で分りやすい原理を考え出し、その助けによって星や地球やその他この世界で見られる万物が、すべて種子から発育してできたかも知れないということを示すことができたとしたならば、その方が、これら万物をただあるがままに記載するよりもはるかによく了解することができるだろう。今私はそういう原理を見付けたと信じるから、ここで簡単にそれを述べようと思う。』
当時の宗教裁判は蚤取眼で新思想や学説が正統の教理と撞着する点を捜し出そうとしていたから、その危険な陥穽を避ける必要上から、こういう不思議な態度をとるのもやむを得なかったのである。それでガリレオも七年間はおとなしくいたが、しかしとうとうジェシュイット教父のグラッシ(Grassi)と学説上の論争に引っかかった。グラッシはちゃんと正当に彗星を天体であると考えていたのに、ガリレオの方はこれが地上のものだという旧来の考えを守っていたのである。それでついにジェシュイット教徒はガリレオを告訴するに至ったので、彼は一六三三年に老齢と病気のために衰弱していたにかかわらずローマへ召喚され、宗教裁判の訊問に答えなければならなかった。彼はできる限り論争を避けようと務めたが結局やはり不名誉な禁錮の刑を宣告され、その上に地動説の否定を誓わさせられた。しかしてそれ以来、太陽系中における地球の位置に関するコペルニクス、ケプラー及びガリレオの著書は最高神聖の法門の権威によって禁制され、それが実に一八三五年までつづいたのである。
ガリレオはその著書の中でピタゴラス及びアリスタルコスが地球は太陽のまわりを回ると説いたことを引用している。彼は物体の運動に関する学説を発展させ、物体に力が働けばその運動に変化を生ずることを立証した。何らの力も働かなければ運動は何らの変化もなく持続するというのである。アリストテレスは墜落しつつある物体の背後には空気が押し込んできて物体の運動を早めると考えたが、ガリレオはこれに反して、空気はただ落体運動を妨げるだけだということを証明した。
コペルニクスの学説に対する教会の反抗はしかし結局は無効であった。デカルトは一刻も狐疑することなくコペルニクスの考えに賛成した。もちろんそのために彼は敵を得たが、しかし新教国たるオランダ及びスウェーデンに安全な逃げ場所を見出した。惜しいことには彼はスウェーデンへ来ると間もなく罹った病気のために倒れたのであった。コペルニクスの説いた通りすべての遊星は、太陽の北極の方から見ると右から左へ回っている。それと同様にまた太陰は地球を、ガリレオの発見した木星の衛星は木星を、また太陽黒点は太陽を回っている。その上にまたこれらのものはほとんど皆黄道の平面の上で回っている。この規則正しさを説明するためにデカルトは、ブルノと同様に、一種のエーテルの海を想像し、その中に諸遊星が浮んでいると考えた。デカルトはこのエーテルが太陽を中心としてそのまわりに渦巻のような運動をしており、そして諸遊星はこの運動に巻き込まれて、ちょうど枯葉が渦に巻かれて回るように回っているのだと信じていた。この考えは、諸遊星を神性あるものによってその軌道の上を動かされているというケプラーの考えに比べれば疑いもなくはるかに優れたものである。彗星は遊星とは違った運動をするが、これについてのデカルトの説は、これらもやはり天体であって、土星よりも外側を運行しているものだというのである。ところがティコ・ブラーヘは、彼の観測の証するところでは彗星は太陰軌道の外側を動きはするがしかし時々は金星や水星よりも遠くない距離に来ることがあると言っている。これについてデカルトは、ティコのこの観測はそういう結論をしてもいいほどに精確なものではなかったと主張している。
デカルトはモルス(Morus)への手紙の中でこう言っている。『我々は宇宙に限界があるということを観念の上で了解することができないから、宇宙の広がりは無限大だと言う。しかし空間の無限ということから時の無限ということの推論はできない。宇宙に終局があってはならないとしても神学者らはそれが無限の昔に成立したとは主張していない。』宇宙は物質を以て充たされている。それゆえにすべてのものは円形の環状軌道の上を運行しなければならない。神は物質とその運動とを創造した。宇宙には三つの元素がある。その第一は光の元素でこれから太陽と恒星が作られた。第二は透明な元素でこれから天が作られた。第三は暗く不透明でしかして光を反射する元素で、遊星や彗星はこれからできている。第一の元素は最小な粒子から、第三のものは最も粗大な分子からできている。
初めには物質はできるだけ均等に広がっていた。それが運動するためにいくつかの中心のまわりに環状軌道を描くようになり、その中心には発光物質が集まり、そのまわりを上記の第二第三の物質が旋転するようになった。それらの暗黒な物体の中で若干のものは運動が烈しく質量が大きくてこの旋渦の中心から非常に遠く離れてしまって、そのためにいかなる力もそれを控えることができなくなってしまった。こういうものが一つの渦から他の渦へと移ってゆく、これがすなわち、彗星である。これよりも質量が小さくまた速度の小さいもののうちで、同様な遠心力を有するものが一群となって、それが前記の第二の要素の一つとなった(この中で質量の最小な群が一番内側へ来た)。これがすなわち、遊星である。これら遊星の運動とはちがった運動をする物質粒の運動のために、遊星は西から東へ回るような回転運動を得た。
第十五図及び第十六図 デカルトによる、地球半球の横断様式図。Iは地心で太陽と同じ物質でできている。初め地球は全部この物質でできていた。この物質の周囲を包んで太陽黒点に相当する。しかしもっと厚い殻Mがある。これができたために地球は光らなくなって一つの遊星となり太陽系旋渦に巻き込まれた。日光の作用によって空気Fと水Dとが分れ、最後には空気の中に石、土、砂等の固形の皮殻Eを析出した。これが現在の地殻である。この殻が図の2、3、4のようなところで破れて落ち込み、しかして下の図にあるような状態になった。それで水がしみ出して図の右と左の部分に示すように大洋を生じた。他のところでは1や4の示すように山岳を生じた。空気の一部分は山と地殻の下(たとえば図のF)に閉じ込められた。
最小な粒子の運動によって熱が生ずる。それは、一部は、日光がこの物質粒子に衝突するために生じ、また一部は、他の方法でもできる。この熱は我々の感覚に作用する。太陽や恒星に黒点が増すとその光は暗くなり、反対にこの黒点が消えると明るくなる。黒点の強さが消長すると一つの星の光力は減ったり増したりする、というのである。この、種々の星の光力の変化に対する説明は、ごく最近まで多数の天文学者によってそのままに受継がれてきたものである。
ときにはまた一つの恒星の周囲を回る上記第二種及び第一種の粒子から成る旋渦が、その近くにある他のいくつかの渦に吸込まれることがある。そのときにはこの渦の中心の恒星も一緒にもぎ取られて他のどれかの渦に引き込まれ、その中の彗星かあるいは遊星となるのである。
デカルトは、このように恒星から遊星に変る過渡の段階については、地球に関する記載中にこれよりも一層詳しく述べている。すなわち、地球も初めには第一種の元素からできていて、強大な渦に取り巻かれた太陽のようなものであったのが、だんだんに黒点に覆われ、それが一つに繋がって一種の皮殻となった。それで地球の灼熱した表面が冷却すると、もう渦の外の方の部分へ粒子を送り出すことができなくなるので、従ってこの渦動が次第に衰える。すると今までは灼熱した地球から出る粒子のために押戻されていた近所の他の渦からの粒子が押寄せてくる。そのために、この光の消えた地球は近所の太陽旋渦の中へ引込まれ、そうして一つの遊星になったのである。地球の心核はしかし灼熱状態を持続しながら第三種の粒子から成る固形の殻で包まれている。この殻の中には気層と水層とがありその上を固体の地殻が覆っている(第十五図及び第十六図)。この殻がしばしば破れて下の水層中に落ち込み、そのために水が地表に表われて大洋を作り、また破れた殻が山岳を生じる。水は脈管のように固体地殻の中を流動しているというのである。この考えは後にまた幾分敷衍された形でバーネット(Burnet)が説述した(一六八一年)ものである。
これが宇宙系に関するデカルトの考え方の大要である。諸恒星は我々の太陽系を取り巻く諸渦動のそれぞれの中心であるが、その距離が莫大であるために、それが運動していても、地球に対する位置は変るように見えないのである。
当時化学の進歩はまだ極めて幼稚なものであった。物体の種々な性質はそれを構成する最小粒子の形状によるものと信じられていた。デカルトはこれら粒子が大きいか小さいか、軽いか重いか丸いか角張っているか、卵形か円形か、あるいはまた分岐しているか平坦であるかによって、どういうふうに物の性質の相違が起るかということを、真に哲学者らしく徹底的細密に記述しているが、こういう事柄の煩わしい記述のために、せっかく彼の構成した系統の明瞭さがかえって著しく弱められているのである。
ニュートン(Newton)と同時代の偉人で、また彼の競争者であったライブニッツ(Leibniz 一六四六―一七一六年)は当時の科学雑誌『アクタ・エルディトルム』(Acta Eruditorum)誌上で一六八三年に発表した論文『プロトガィア』(Protogaea)中に地球の進化を論じているが、その所説は現今定説と考えられているものとかなりに一致している。当時一般に信ぜられていたところでは、既に昔の北国民の考えていたと同様に、地球はその最後の日には灼熱状態となって滅亡するだろうということになっていた。多分太陽が他の天体と衝突でもすればそうなるであろうと思われるのである。ところが、ライブニッツはデカルトと同様に地球の初期もまた強く灼熱された状態にあったと考えた。これが――ライブニッツの言葉によれば――燃料の欠乏のために消燼して地球はガラス状の皮殻で覆われ、そうしてそれまで蒸発していた水はその後にようやく凝結して海となった。このガラスのような皮殻から砂ができた。しかして――水と塩類との作用を受けて――その他の地層ができた。海は初め全地球を覆っていたから今日至る所で古昔の貝殻が発見される。地殻の陥落のために表面の高低ができて、その最も低い部分を大洋が占めることになったのである。
有名なデンマーク人ステノ(Steno 一六三一―一六八六年)の業績は、いったん世人から忘れられていたのを、一八三一年に至って初めてエリー・ド・ボーモン(Elie de Beaumont)によって紹介された。このステノの意見によると、水平な地層、特に水産動物の化石を含有するものは、もと水中で沈積したものと考えられなければならない。こういう地層がしばしばもとの水平な位置から隆起しているところから見ると、これは何か外力の作用によって起ったことに相違ない。ステノはその外力のうちでもなかんずく火山作用が最も著しい役目をつとめたものと考えた。
当時一般の考えでは地球の内部は水をもって満たされ、それが脈管を通じて大洋と連絡していると思われていた。デカルトの説の中にも既にそういう意味のことが暗示されている。この誤った考えの著しい代表者はウドワード(Woodward 一六六五―一七二二年)とウルバン・ヒエルネ(Urban Hjrne 一七一二年)であった。この後者の説では地心の水は濃厚で濁っていて、しかして沸騰するほど熱いということになっている。
デカルトの考えは当代から非常な驚嘆をもって迎えられた。そして諸大学におけるアリストテレスの哲学に取って代ろうとする形勢を示した。この説はまたウプザラにおいても盛んな論争を惹起し、それが多分スウェーデンで科学の勃興を促す動機となったようである。宗教方面の人々はこの新説を教壇で宣伝することを妨圧しようと努めたが、これに対する政府の承認を得ることができなかった。
このデカルトの学説から強い刺激を受けた若い人々の中に、スウェデンボルク(Swedenborg)がいた。彼はデカルトの宇宙生成説にある変更を加えた。彼の説では太陽系のみならず原子までも、すべてのものが渦動からできているとする。万物はすべて唯一の様式に従って構成されているのであって、最も簡単な物質粒子は非物質的な点の渦動によって成立すると考えるのである。この考えは甚だ薄弱である。なぜかといえば、広がりをもたない一つの点がたとえどれほど急速に渦動をしても、それによっていくらかの空間を占有することはできないからである。スウェデンボルクは恐らくこの仮説によって、宇宙が虚無から成立したことを説明しようと試みたものらしい。彼は数学的の点は永劫の[#「永劫の」は底本では「永却の」]昔から存在しているという意味のことをしばしば言っているが、しかしこの点について徹底的に一貫してはいないで、ある箇所ではまたこれが創造されたものだとも言っているのである。スウェデンボルクの宇宙生成説がデカルトのと異なる主要な点は、遊星が外から太陽系の渦動中に迷い込んだものだとしないで、反対に太陽から放出されたものだとしたことである。スウェデンボルクの想像したところでは、太陽黒点がだんだんに増してついには太陽の光っている表面全体を暗くしてしまった。中に閉込められた火は膨張しようとして周囲の外殻を伸張したためについに殻が破れた。そうしてこの暗黒な外皮が太陽赤道のまわりに環状をなして集まった。渦動は止みなく旋転を続けているうちにこの固態の輪は破れて小片となり、それらが円く丸められて各々球形の質塊となり、種々の遊星、衛星(並びに太陽黒点)となったものである。このようにして一つの太陽がその殻を破裂させるとこれが急に我々の眼に見えるようになる。これがいわゆる『新星』の出現に相当するものであるとスウェデンボルクは考えた。
第十七、十八、十九及び第二十図 スウェデンボルクの考えた、太陽旋渦から遊星系の生成。第十七図Sは太陽旋渦、ABCはそれを囲む球状の固形皮殻。これが破れて(十八図)渦の極からそれの赤道の方に落ちて赤道のまわりに一つの帯を作る(十九図)。OIKLM等は太陽物質より成る。最後にこの帯が破れてその部分から球状の遊星CFM等また衛星Dghkができる。遊星はSのまわりの渦動につれて旋転しているうちにあるところまで来ると周囲と均衡の位置に達する。
遊星や衛星は渦動につれて動いているうちにある位置に達するとその周囲を包んで回っているエーテルと釣合いの状態になる。ここまで来ると、この距離でほとんど円形の軌道を描きながら運行する。この関係はあたかも、空気中を上昇する軽い物体が、その周囲が自分と同じ比重であるようなところへ来て初めて落ち付くのと全く同様である。それでスウェデンボルクの考えに従えば一番比重の大きい遊星が一番内側に来るわけであるが、デカルトの考えだと最大質量を有する遊星が一番外側に来ることになるのである。
この二人の考えは、いずれも、いくらかはあたっているが、しかし全く正しくはないということは次の表(アメリカ人シー See の計算による)を見れば分る。
天体 半径質量平均距離 比重
太陽 109.100 332750.00000.00 0.256
水星0.3410.02240.39 0.564
金星0.9550.81500.72 0.936
地球1.0001.00001.00 1.000
太陰0.2730.01231.00 0.604
火星0.5360.10801.52 0.729
木星11.130 317.70005.20 0.230
土星9.350 95.10009.55 0.116
天王星 3.350 14.600019.22 0.390
海王星 3.430 17.200030.12 0.430
スウェデンボルクの著述中には概して我々今日の科学者には諒解し難いような晦渋曖昧な点が甚だ多い。彼は自分の書いていることを十分によく考え尽くしたのではあるまいという感じを読者に起させるのである。彼の『プリンキピア』(Principia)の終りにはこの渦動を数学的に表象している――すなわち、ここでは完全な明瞭を期待してもいいはずである。この渦の外側には自ら他の渦と区別するに足るべき判然たる境界があることになっている。ところで、スウェデンボルクは、この渦の外側の境界からの距離が1と2の比にあるような二つの遊星の速度の比は1と2でなければならない、と主張している。これから推論すると、遊星を中心に引く力は、この渦の外郭から遊星への距離に正比例し、太陽から遊星への距離に反比例することになる。しかしこの力は正しくニュートンの導いた通り太陽から遊星への距離の自乗に反比することいわゆる重力であるべきであって、すなわち、スウェデンボルクの所説は全く事実に合わないのである。しかしスウェデンボルクはニュートンの仕事を良く承知していたはずで、自著の中の所々で彼に対する賛美の辞を述べ『いくら褒めても褒め足りない』と言っている。それでスウェデンボルクは自説と、一般によく事実に相当するものと認められたニュートンの説との折合をつけるために、こう言っている。すなわち、この渦動が渦の外縁の方に行くほど増加するものとすれば、ちょうどニュートンの説のようになるというのである。しかしこれではニュートンの法則に従う遊星の運動とは全く合わないし、要するに全く不可解である。
スウェデンボルクの著書中に暗示されているところによると、彼の考えでは、銀河が眼に見える星の世界に対する役目は、あたかも太陽の回転軸が遊星系に対するのと同様である。従って数多の太陽は各自の遊星系を従えてこの銀河の真ん中を貫く大宇宙軸のまわりに群を成している。それで銀河は実は輪状であるがちょうど天上に半円形の帯のように見えることになる。このようにして、スウェデンボルクの考えたように、この銀河系をその唯一小部分とするような更に大なる系を考えることができるのである。後にライト(Wright)がまたこれと同様な考えをまとめ上げた(一七五〇年)。彼は多分スウェデンボルクの考えの筋道は知らなかったらしいが、銀河を太陽系に相当するものだと考えた。カント(Kant 一七五五年)も同様であったが、ライトの所説以上には大した新しいものは付加えなかった。またラムベール(Lambert)も同様であったが、彼は太陽がいくつも集まって星団となり、星団が集まって銀河その他になると考えた(一七六一年)。
そこで我々は、スウェデンボルクがニュートンを賛美しながら、なにゆえに彼の驚天動地の発見を自分の体系中に取り入れなかったかを疑わなければならない。これに対する答はこうである。すなわち、スウェデンボルクの頭には、宇宙間の万物は、大きいものも小さいものも、すべて画一的な設計に従って造られたものだという考えがすっかりしみ亘っていた。彼には天体相互の間に距離を隔てて働く作用を考えることは明らかに不可能だとしか思われなかった。それは、我々はどこでもそういう作用を経験しないからである。実際この点についての論難は種々の方面からニュートンの大発見に対して向けられ、ニュートン自身もまたそれに対して全く無関心ではなかったのである。そこでスウェデンボルクはデカルトの渦動説を取って自分の宇宙生成説の基礎としたのであるが、スウェデンボルクは自分の仮定が物理学的に不可能なこと、特にそれがニュートンの法則と全然相容れないものだということには少しも気が付かなかったように見える。これは実にスウェデンボルクの体系の重大な欠点であるが、しかし彼のこの体系の中には若干の健全な考えが含まれていて、これが後日他の人によって敷衍され発展されるようになったのである。
その中で特に著しいものは、遊星の生成は太陽に因るものであり、従って遊星は本来から太陽系に属するものだという仮定である。この考えは通例はカントのだとされているものである。しかしまた銀河は一つの大きな恒星系だという考えも、スウェデンボルク自身はわずかしか発展はさせなかったけれども、これもかなりに価値のあるものである。彼の考えの筋道の中で独特な点は、我々の太陽の近くに存する多くの太陽系の軸はすべてほとんど同じ方向を指していなければならない、としたことである。しかしこの方向が銀河の軸と並行でなければならないとしたのは必ずしも事実と合わない。それでも近ごろボーリン(Bohlin)の研究によると、我々に近い二重星の軌道面や、最大の(すなわち、最も近い)星雲の平均の平面が黄道とほぼ並行しているということが、ある度までは確からしい。ライト及びラムベールの考えたように銀河系の諸太陽についてもまた同様な規則正しさが存すると期待してもよいかも知れない。
ピタゴラスは彼の弟子たちに対して、他の遊星にもまた地球と同様に生息者がいると言明したと伝えられている。吾人の地球は宇宙の中心点ではないとするコペルニクスの学説が一般に承認されるようになってからは、当然の結果として他の世界もまた我々のと同様に生息者を有すると見なされるようになった。
ジョルダノ・ブルノもまたこの説を熱心に唱道した。この説は当時の神学者から見ると非常な危険思想であってその罪を贖うにはただ焚殺の刑あるのみと考えられたのである。ガリレオ及び他のコペルニクス説の[#「コペルニクス説の」は底本では「コペルニスク説の」]信奉者等に対して教会を激昂させたものもやはり疑いもなく主として正にこの説のこの帰結であったのである。それにかかわらず、この説が普及してしまったころには、今度はまた反対の極端に走ってしまって、すべての天体には生物がいると考えられるようになった。そうしてそれら天体の上で物理的条件がはたして生物の生存に適するかどうかを深く追究しようとはしなかった。当時月の世界の住民に関するいろいろな空想が流行したと見えて、そういうものが通俗的な各種の描写の上に現われている。かの偉大な天文学者ウイリアム・ハーシェル(William Herschel)でさえ、太陽には住民があると信じ、また太陽黒点は、太陽の空に浮ぶ輝く雲の隙間から折々見える太陽の固形体の一部だと信じていたくらいである。この種の空想の中でも最も著しいものは恐らくスウェデンボルクの夢みた幻想であろう。スウェデンボルクは異常に正直な人であったので、彼が主張したことを実際に確信していたということには少しも疑いはないのである。彼の言うところによると、彼は他の世界の精霊や天使と交通していて、それらと数日、数週、ときとしては数ヶ月も一緒にいた。『私は彼らから彼らの住む世界についていろいろのことを聞いた、かなたの風俗習慣や宗教に関すること、それから他のいろいろな興味ある事柄の話を聞いた。このようにして私の知り得たすべてを私自身に見聞したことのような体裁で記述してみようと思う。』『このように大きな質量を有し、そのあるものは大きさにおいて我が地球を凌ぐようなこれらの遊星は、単に太陽のまわりを周行しその乏しい光でたった一つの地球を照らすというだけの目的で造られたものではなくて、外に別な目的があるであろうということを考えるのは合理的な結論である。』この考えをスウェデンボルクは他の世界の精霊から伝えられたことにしているが、これはしかしかなりに一般的な考えであって、天文学が他の学問よりも多く一般の興味を引くゆえんは疑いもなくまた主としてこの点に関係しているかと思われる。スウェデンボルクの精霊はまたこう言っている。『遊星は自軸のまわりに回転するために昼夜の別を生ずる。多くはまた衛星を伴っていてこれがちょうど我々の太陰が地球のまわりを回るように、遊星のまわりを回っている。』
遊星のうちでも土星は、『太陽から一番遠く離れていて、しかも非常に大きい輪をもっている。この輪がこの遊星に、反射された光ではあるが、多くの光を供給する。これらの事実を知っていて、そうして合理的にものを考える能力のある人ならば、どうしてこれらの天体に生住者がいないと主張することができようか。』『この精霊や天使等の間では、太陰やまた木星土星を巡る月、すなわち、衛星にも住民がいることは周知のことである。』その住民というのは知恵のある、人間と類似の存在であるとして記載されている。『誰でもこの精霊たちの話を聞けば、これらの天体に生息者のあることを疑うものはあるまい。なぜかといえば、これら天体は皆「地球」であり、そうして「地球」がある以上はそこに人間がなければならない。地球の存在する最後の目的は結局人間だからである。』スウェデンボルクはこのようにして、単に我々の太陽系に属する諸遊星に関してのみならず、また眼に見える宇宙の果てまでの間に介在する他の太陽を取り巻く生住者ある世界に関する知識を得た。彼の肉体がこの地球に止まっている間に彼の霊魂がそういう他の世界に行ってきたのである。また彼は我々の太陽が天上の他の諸太陽よりも大きいということを悟った。すなわち、彼が他の世界の遊星の一つから空を眺めたときに他の星よりも大きい一つの星を認め、そうして、それが我々の太陽だということを『天から』教えられたからである。彼はまたあるとき宇宙系中で最小だと称せられる遊星に行ったことがあるが、その周囲はわずかに五〇〇ドイツ哩(三七六〇キロメートル)にも足りなかったそうである。彼はまたしばしば他の遊星の動植物のことについても話している。
このごとき記述はスウェデンボルク時代の教養ある人士の間で一般に懐かれていた宇宙の概念の特徴を示すものと見ることができる。上記はプロクトル(Proctor)の著から引用したのであるが、この人も注意したように、この概念は現代の見方とは大分懸けはなれたものである。現に我々の太陽は確かにすべての恒星中の最大なものではない。またスウェデンボルクの挙げた遊星は決して宇宙間で最小のものでもない。紀元一八〇〇年以来発見された七〇〇の小遊星の中で最大なセレスは周囲二〇〇〇キロメートルであった。ヴェスタとパルラスはその半分にも足らず、またその光度から判断して最小のものとして知られているのは、周囲わずかに三〇キロメートルにも足りないらしいのである。
それにしてもスウェデンボルクが二九ヶ年交際していた精霊たちが誰一人これら小遊星のことを知らなかったというのはよほど不思議なことである。また彼らが土星を最外側の遊星だとしたのも間違っている。それは、その後に天王星と海王星(一七八一年と一八四六年)とが発見されたからである。もっとも天王星は実は一六九〇年、すなわち、スウェデンボルクの生れたころ(一六八八年)に、既にフラムステード(Flamsteed)によって観測されていた。それは肉眼にも見えていたので疑いもなく多数の人の眼に触れていたのであろうが、ただハーシェル以前には誰もそれが遊星であるとは思わなかったのである。
また、水星では太陽からの輻射が酷烈である(地球上よりも六・六倍ほど)のにかかわらず、その住民が安易な気候を享有していると主張しているのも大いに注意すべき点である。その理由は雰囲気の比重が小さいからだというのである。しかして稀薄な雰囲気が冷却作用をもつことを、スウェデンボルクは、高山では、たとえ熱帯地であっても、著しく寒冷だという事実から推論している。そういうことをスウェデンボルクが水星の住民に話してやったことになっている。彼らは余り知恵のない住民として記されているのである。今日我々の考えでは、水星の上で生物の存在は到底不可能としなければならない。
これから見ると、スウェデンボルクがその幻覚中に会談したと信じていた精霊や天使たちも、結局彼自身が既に知っていたことか、または確からしいと考えていたこと以外には何も教えることができなかったということが明白に分る。それで、この啓示によって授かった知識を現代の考えに照らしてみたときの誤謬は、そのままに当時の宇宙に対する全体の知識の誤謬を示すものである。それで私がここで精霊の所説に関するスウェデンボルクの報告を列挙したのは、ただ当時の学者が宇宙系をどういうふうに考えていたかを示すためであって、この顕著な一人物の深遠な、そして彼自身の信じるところでは、超自然的な方法で得た知識の概観を示そうとしたわけではないのである。
カントでさえ、多分スウェデンボルクの先例に刺激されたと見えて、その著『天界の理論』(Theorie des Himmels)中で、他の遊星にいる理性を備えた存在の属性に関して長々しい論弁を費やしているのもまた当時一般の傾向を示すものとして注意するに足りるのである。もっとも彼はただ太陽系だけを取り扱っている。しかして『この関係はある度まで信じるに足るものであって、決定的に確実という程度からもそれほど遠くないものである』と言っているが、これは遺憾ながら、彼には往々珍しくない批判力の鋭さの欠乏を示すものである。
すなわち、彼の説によると、諸遊星のうちで、太陽に近いものほど比重が大きいので(この仮定が既に間違っている)、太陽から遠い遊星であればあるほど、その遊星の生住者もまたその動植物も、それを構成する物質の性質は、それだけ、軽く細かなものでなければならない。同時にまた、太陽からの距離が大きいほど、これらのものの体躯の組織の弾性も増し、またその体躯の構造も便利にできていなければならない。同様にまた、これらのものの精神的の性能、特にその思考能力、理解の早さ、概念の鋭さ活発さ、連想の力、処理の早さ等、要するに天賦の完全さは、彼らの住所が太陽から遠いほど増加するはずである、というのである。
木星の一日はわずかに一〇時間である。これは『粗末な本性』を有する地球の住民にとっては十分な睡眠をするにも足りない時間である。そういう点から考えて彼は、上記のことは必然でなければならないとした。またスウェデンボルクのみならずカントの考えでも、太陽系の外方にある遊星に多数の衛星のあるのは、つまりそれら遊星の幸福な住民を喜ばせるためである。それはなぜかと言えば、彼らの間では恐らく美徳が無際限に行われていて、罪悪などというものはかつて知られていないからだというのである。
このようなことを書いているのを見ると、当代で最も偉大であったこの哲学者でも、なお同時代の学者間に一般に行われていた幼稚な形而上的でかつ目的論的な考え方から解放されることができなかったのである。すべてのものに便利ということを要求する目的論的の見方では、スウェデンボルクの言葉を借りて言えば、『人間が目的物であって、それぞれの地球はそのために存在する』ということになるのである。 
ニュートンからラプラスまで。太陽系の力学とその創造に関する学説

 

遊星運動の法則に関するケプラーの発見によって諸遊星の位置をある期間の以前に予報することができるようにはなった。しかしまだこれでは、いわば進歩の大連鎖の一節が欠けているようなものであった。しかしてそれを見付けるのにはニュートンを待たなければならなかった。彼はケプラーの三つの法則が、ただ一つの法則、すなわち、今日ニュートンの重力の法則としてよく知られている法則から演繹され得ることを証明した、この法則に従えば、二つの質量間に働く力はこれら質量の大きさに比例し相互距離の自乗に反比例するのである。当時既にガリレオ(Galilei)及びホイゲンス(Huyghens)の周到な計測によって地球表面における重力の大きさがよく知られていた。ニュートンの考えに従えば、これと同じ力、すなわち、地球の引力が太陰にも働き、そうしてそれをその軌道に拘束しているはずであるから、従って、太陰の距離における重力の強さは算定され、またそれを太陰軌道の曲率を決定するに必要な力と比較することができるはずである。それでニュートンは一六六六年にこの計算を試みたのであるが、余り良い結果を得ることができなかった。
ニュートンは――フェイー(Faye)も言っているように――この計算の結果がうまくなかったために重力の普遍的意義を疑うようになったではないかということも想像されなくはない。とにかく彼が、それきり一六八二年まで再びこの計算を試みなかったということは確実である。しかし、この年になって彼は地球の大きさに関する新しい材料を得たのでこれを使って計算を仕直し、そうして望み通りの結果を得た。当時この発見が現われるべき時機が熟し切っていたと思われるのは、ニュートンの同国人が四人までもほとんど彼に近いところまで漕ぎ付けていたことからも想像される。そのためもあろうが、とにかくこの発見はニュートンの同時代の学者のすべてから盛んに歓迎された。もっとも、遠距離にある物体間に力の作用があるということ、また遊星が真空の中を運行しているということを心に描くのはなかなか困難であった。しかしまた一方で、遊星の運動が非常に規則正しいから、いくら稀薄であるとしてもガス状のものの中を通っていると考えることは不可能であると思われた。のみならず空気の密度が高きに登るほど急激に減ずるということが気圧計の観測によって証明されたのであった。従って最早デカルトの渦動説は捨てなければならないことになった。すべての天体は、あの、円形とは甚だしくちがった形の軌道をとるために、甚だしくデカルトを困らせた彗星でさえも、すべてが厳密にニュートンの法則に従った軌道を運行していることになったのである。
遊星系内に行われている著しい規則正しさが強くニュートンの注意を引いた。すなわち、当時知られていた六つの遊星もまたその一〇個の衛星もいずれも同じ方向にその軌道を運行し、その軌道は皆ほとんど同一平面、すなわち、黄道面にあって、しかもいずれもほとんど円形だということである。彼は天体を引きずり動かす渦動の存在は信じなかったから、こういう特異な現象を説明するに苦しんだ。特に困難なのは、やはり太陽の引力によって軌道を定められているはずの彗星が、往々遊星と同方向には動かないということであった。それでニュートンは(何ら格別の理由はなかったが)遊星運動の規則正しさについては力学的の原因はあり得ないだろうという推定を下した。そうしてこう言っている。『そうではなくて、このように遊星が皆ほとんど円形軌道を運行し、そのために互いに遠く離れ合っていること、また多くの太陽が互いに十分遠く離れているために彼らの遊星が相互に擾乱を生ずる恐れのないこと、こういう驚嘆すべき機構は、何ものか一つの智恵ある全能なる存在によって生ぜられたものに相違ない。』ニュートンの考えでは、遊星はその創造に際してこうした運動の衝動を与えられたのである。この考え方は、実は説明というものではなくてその反対である。これに対してライブニッツは強硬に反対を唱えたが、それかと言って、彼もこの謎に対して何ら積極的の解答を与えることはできなかった。
これに対する説明を得んとして努力したらしい最初の人は『博物史』(Histoire naturelle 一七四五年)の多才なる著者として知られたビュッフォン(Buffon)であった。ビュッフォンはデカルトやスウェデンボルクの著述を知っていた。そうしてスウェデンボルクの考えたような太陽からの遊星の分離の仕方は物理的の立場から見て余り感心できないということを、正当に認知し、そうして別に新しい説明を求めた。彼はまず第一に、諸遊星の軌道面と黄道面との間の角が自然に、全く偶然に、七度半以内(すなわち、最大可能の傾斜角一八〇度の二四分の一)にあるという蓋然性は非常にわずか少なものであるということを強調した。
このことは前に既にベルヌーイ(Bernoulli)が指摘している。一つの遊星について偶然にこうなる確率はわずかに二四分の一である。それで当時知られた五個の遊星がことごとくそうであるという確率は24-5すなわち、約八〇〇万分の一という小さなものである。その上でまだ、当時知られていた限りのすべての衛星(土星に五個、木星に四個、それに地球の月と土星の輪がある)もまた黄道からわずかに外れた軌道を運行している。それでどうしても、何か必然そうなるべき力学的の理由を求めないわけには行かなくなってくるのである。
ビュッフォンは遊星の運動を説明するために次のような仮定をした。すなわち、これら遊星は太陽がある彗星と衝突したために生じたものである。その衝突の際に、太陽質量の約六五〇分の一だけが引きちぎられて横に投げ出され、それが諸遊星とその衛星とになった、というのである(第二十一図)。このようにほとんど切線的な衝突が実際に起り得るものだということは次の事実からも考えられた。すなわち、一六八〇年に現われた彗星の軌道をニュートンが算定したところによると太陽の輝いた表面からわずかに太陽半径の三分の一くらいの距離を通過した。それで予期のごとくこの彗星が二二五五年に再び帰って来るときには太陽の上に落ちかかるであろうということも十分に可能であると思われたからである。
第二十一図 太陽と彗星の衝突(ビュッフォンの博物史中の銅版画)
この説に対して、それら衝突によって生じた破片が再び元の所に落ちはしないかという抗議があるかも知れない。これに対するビュッフォンの答は、彗星が太陽を横の方に押しやってしまい、また投げ出された物質の初めの軌道は後から投げ出された破片のために幾分か移動するから差支えはないというのである。後にこのビュッフォンの仮説を批判したラプラスはこの逃げ道を肯定している。ビュッフォンの考えは全く巧妙である。仮に一つの円い木板があるとして、これに鋭利な刃物を打ち込んで、第二十二図に示すように削り屑を飛び出させるとすれば、木片は矢で示す方向に回転するであろう。
第二十二図
打ち出された削り屑もまた同じ方向に回転する、のみならず、刃物との摩擦のために右方に動く、すなわち、板の赤道の運動方向と同じ方向に並行して進む。大きな屑の破片と見なされる小破片は、もしその小破片と細い繊維ででも繋がっていればその周囲を同じ方向に旋転しなければならない。これと全く同様に、彗星が太陽の面に斜めに入り込んだ際に分離した太陽の破片はすべて同じ方向に回り、衝突後の太陽の赤道と同じような軌道を描くはずである。ビュッフォンは太陽を灼熱された固体であると考え、また地球と同じように雰囲気で囲まれていると考えた。小さい屑を大きい屑に繋ぐ繊維に相当するものが重力である。
ここまでは至極結構である。しかしビュッフォンは更に一歩を進めて次のように推論した。すなわち、比重の最小な破片は最大な速度を得る、従ってその軌道を曲げるような抑制を受けるまでには太陽から最も遠い距離まで投げ出されるというのである。彼は土星の比重が木星のよりも小さく、また木星のが地球のよりも小さいことを知っていたので、そこからして、遊星の比重はそれが太陽に近いほど一般に大きいと結論した。この結論はスウェデンボルクもしたものであり、また後にカントも再びしたものであるが、しかし我々の今日の知識とは全く合わないものである。また太陽から分離するときに最大な赤道速度を得たような破片は、また最も小破片すなわち、衛星を投げ出しやすいはずである。これはその当時の経験とは一致するが、今日の知識とは合わない。当時知られていたのは、ただ、木星の赤道速度が地球のそれよりも大きく、地球のが火星のよりも大きいということだけであった。当時木星の衛星四個、地球のが一個知られていたが、火星のは一つも知られていなかった。それで、五個の衛星を有する土星は最大の赤道速度をもつべきはずであると考えられた。しかるに今日では赤道速度による順位は木星、土星、地球、火星となり、それら各々の衛星の知られている数は、それぞれ七、一〇、一、二ということになり、従ってビュッフォンの言う順位はもはや適用しない。
ビュッフォンの考えでは、遊星は、衝突の際発生した多大の熱のために一度液化したが、その体積の小さいために急激に冷却したものであって、同様に太陽もまたいつかは冷却して光を失うであろう。種々の遊星はその大きさによってあるいは永くあるいは短い期間灼熱して光を放っていたものであろう。それで種々な大きさの鉄の球を灼熱してその冷却速度を測ってみた結果から、彼は次の結論を引き出してもいいと信じた。すなわち、地球が現在の温度まで冷却するには七五〇〇〇年を要し、太陰は一六〇〇〇年、木星は二〇万年、土星は一三一〇〇〇年を要した。太陽が冷却するまでには、木星の場合よりも約一〇倍の時間を要するであろう、というのである。
遊星が分離する際に太陽の雰囲気の中を通過している間に、そこから空気と水蒸気を持ち出した。そうしてこの蒸気から後に海ができた。地球の中心は速くに灼熱の状態を失っていなければならない。なぜかと言えば地心の火を養うべき空気が侵入することができないからである(この点はデカルト及びライブニッツと反対である)。しかしそれにかかわらず、ビュッフォンは、地球の温熱のただ二パーセントだけが太陽の輻射によって支給され、あとは皆地球自身の熱によるものと信じていた。地球は全部均等な比重を有しなければならない、さもなければその回転軸が対称的の位置になり得ない――しかるに地球の形は、地球と同じ回転速度を有する液体の球が取るべき形と全く同じ形をしているのである。地球はまた中空ではない、もしそうであったら、高山の上での重力は通常よりも大きくなければならない。
投げ出された破片の平均比重は太陽の比重とほとんど同じである。何となれば、この破片の総質量の大部分(約七五パーセント)を占める木星の比重はほとんど太陽のと同じで、その大きさにおいてその次に来る土星のは少し小さいのである。それ以内にある諸遊星の比重はこれに反して太陽のより少し大きい。これらの事実が彼の説を確かめるものと彼には思われた。しかし以上の二つの点に関して次のようなことを指摘することができる。すなわち、まず、もし地球内部の比重がその中心からの距離に応じて定まったある方式に従って内部に行くほど大きくなっているとしても、その回転軸はやはりその中心と両極を通るのである。それで地球の内部の比重はその外層のよりも大きいと仮定しても、それに対する反証は何もない。実際――今日我々の知る通り――この比重の比は二と一の割合になっているのである。次に、地球の冷却が、特に良く熱を導く鉄の球の場合のように急速であると考えるべきはずはない。それで地球内部には、何らの燃焼過程が行われなくとも、今でも灼熱状態が存していると考えることができる。最後に、今日我々の知るところでは、太陽も、また多分、木星以外の外側の諸遊星も、それから、内側の諸遊星の内部も、いずれもガス体であって、ビュッフォンの信じたように固体ではない。このような次第で、彼の論証の一部は根拠を失ってしまった。しかし後にカントの提出した説に比べるとこれでもまだ比較にならないほど良いのである。
ビュッフォンは真個の科学者自然探究者であって、その考察様式は今日の科学者のそれと同じである。彼は不幸にしてラプラスから、当を得ない批判を受けたために、彼の名の挙げられることはまれであり、これに反してカント、ラプラスの名のみが常に先頭に置かれている。しかし私の見るところでは、ビュッフォンの研究は、ことにそれがラプラスのよりも約五〇年ほど早かったことから言っても、とにかくもラプラスのと同等の価値を認めてもいいと思われる。そしてこのラプラスの方がまた彼のケーニヒスベルクの哲学者のよりははるかに優れているのである。
ビュッフォンは彼の時代の、筆数ばかり多くて一向要領を得ない宇宙創造論者に対して次のような言葉で、かなり辛辣なしかも当を得た批評をしている。『私でも、もし上に述べた意見をもっと長たらしく敷衍しようと思えば、バーネット(Burnet)やウィストン(Wiston)のように大きな書物を書けば書けないことはない。また一方で彼らのしたようにこれに数学的の衣裳を着せて貫目を付けようと思えばできないこともない。しかし仮説というものは、たとえそれがどれほど確からしいとしても、こういう何となくこけおどしの匂いのする道具で取扱うべきものではないと思う。』
ラプラスがこの系統に対して与えた批評には正当なものがある。そのためにビュッフォンの仮説が信用を失ったのは疑いもないことである。ビュッフォン自身こう言っている。もし地球上の一点から弾丸を打ち出すとすれば、それが閉鎖した曲線軌道を描く場合ならば再び元の出発点に帰ってくるであろう。すなわち、ただ短時間だけ(せいぜい一周期だけ)地球から離れていることになる。同様に太陽から飛び出した削り屑も太陽に戻らなければならない。それがそうならないのはいろいろな付加条件のせいである。これについて天体力学の方面における一大権威者たるラプラスはこう言っている。『種々の破片はそれが墜落する際に互いに衝突し、また互いに引力を及ぼすためにそれらの運動方向に変化を生じ、そのためにそれらの近日点(すなわち、軌道の上で太陽に最も近い点)は太陽から遠ざかることがあり得る。』それでここまではビュッフォンの考えは正しい。『しかし』と、ラプラスは続けて言う。『それならばそれらの軌道の離心率は甚だ大きいものでなくてはならない。少なくともそれらがすべてほとんど円形軌道をもつという蓋然性は非常に少ないであろうと思われる。』ビュッフォンも遊星軌道がほとんど円形であるということは多分知っていたに相違ないが、しかしこの規則正しさについては何の説明も与えていない。それで彼の系統を事実に相当させるためには著しい変更を加えなければならない。それにしてもラプラスが、ビュッフォンは彗星軌道の非常に離心的で細長いことを説明することができなかったろうと言っているのは了解に苦しむことである。実際ビュッフォンは決して(後にカントがしたように)彗星が太陽系に属するものとは仮定しなかったので、むしろラプラスと同様に外側の空間から迷い込んできたものと考えていたのである。そうだとすれば、ラプラスが証明したようにその軌道は著しく離心的でなければならないはずである。ビュッフォンはこの問題については余り深入りはしていない。しかしこれは彼の説の不完全な点であるとしても誤謬とすることはできないのである。
次にカントの仕事について述べようと思う。彼はビュッフォンより一二歳若く、しかもビュッフォンに刺激されてやった仕事であるが、ビュッフォンのとは到底比較に堪えないものだということは以下に記すところから分るであろうと思われる。カントは一七五五年に『自然史及び天界の理論』(Naturgesch chte und Theorie des Himmels)という一書を著したときは、わずかに三一歳の若者であって、哲学者としての光輝ある生活はまだ始まらないころであった。この書において彼はニュートンの研究の結果を応用して上記の問題を論じている。彼の考えによると天の空間は真空であって、遊星はデカルトの考えたように、一つの渦動に巻き動かされるということはない。その代りこれら遊星はいったん運行を始めれば、この真空な空間の中では何の動力を与えてやらなくてもその運行を続けるであろう。
それで、かつて一度は渦動が存在したが、それが諸遊星の運行を始めさせた後に消滅したと考えても差支えないではないか。カントはこういうふうに考えを進めて行った。これは良い考え方であって、ややアナキシマンドロスの考えに似たところがある(九八頁参照)。
カントはこう言っている。『それで私はこう仮定する。すなわち、現在、太陽、諸遊星及び彗星となっているすべての物質は、最初には、これら諸天体の現に運行している空間の中に拡散していた。』この微塵のような物質の中点、そこは今太陽のある点であるが、この点へ向けて残りの微粒子の引力が働いた。それでこの物質微粒子は、間もなく微塵体の中心に向かって落下し始める(この粒子を、カントは、固体か液体であると考えたようである。その中で比重の最大なものが太陽に落下する確率もまた最大であると言っているのである)。その墜落の途中で時々相互間の衝突が起り、そのために横に投げ飛ばされる。従って中点を取巻くような閉鎖軌道を運行するようになる。こういう軌道を動いている物体が更にまた幾度も互いに衝突する。そのために段々に軌道が整理され、その結果はすべてが円形軌道を同じ方向に同じ中心のまわりに回ることになる。また中心に向かって落下する一部の物体も、やはり同じ回転方向をもっているために、その衝突の結果として太陽もまた同じ方向に、自転するようになったのである。
しかし中心のまわりの分布が最初に均等であったのに、どうして最後に右から左へ回るような運動を生じたか、左から右へ回っても同じでありそうなのに、どうしてそうはならなかったか。昔アリストテレスは地球のまわりを諸天体が左から右へ回ると考えたのであるが、彼の考えではこの回転方向の方が典雅であり神性にふさわしいものと思われたためであった。カントもまたこの二つの方向の中で一方が優勢であるというふうに考えた。これはデカルトの仮定したように諸質点が当初からある特定の一点のまわりに一定の方向に渦動をしていたという場合に限って言われることである。カントはこの仮定はしなかったのであるから、彼の学説では特に一方に偏した回転方向をもつような遊星系の生成は不可能である。妙なことにはカントから一〇〇年後にかの大哲学者スペンサーがまたこれと同じ誤謬を犯しているのである。
更に、カントの考えでは、いったん渦動を始めた物質の中でも一番重いものが中心へ向かって一番早く落ちてくるので、結局の円運動をするようにならないうちに中心近くまで来てしまうという確率が一番大きい。こういう理由で、太陽に最も近い遊星の比重が最大でなければならぬというのである。これはスウェデンボルクもビュッフォンも唱えたことであるが、しかしこれは事実に合わない。カントはまた中心にある物体の比重はそのすぐ近くを回っている物体のそれよりも小さくなければならないと主張している。しかし実際は太陰は地球よりも比重が小さい。カントはもちろんこれを反対に考えていたのである。
そこでこのように太陽のまわりを回っている流星微塵環の中に所々に比重がよそより大きいところがあると、各環内の他の場所の物質がだんだんそこへ集中してくるはずである。このようにして遊星や彗星ができたのであろう。もしも、このようにだんだんに集団を作るような部分が完全に対称的に配置されているならば、これらが皆同一平面上にある以上は、すべての遊星が皆完全な円形軌道を取るようになるはずである。それでカントの考えでは、遊星軌道が円形でなくまた黄道面に対して傾斜しているのは、一番初めから対称の欠陥があったとして説明することができるというのである。しかし将来太陽となるべき中心点の周囲に物質が均等に分布していたという前提をしたのであるから、最初からこういう対称の欠乏がどうして存在したかを説明することはできない。また一方では、他の場所でこういう意味のことも言っている。すなわち、重力の弱いほど、すなわち、太陽から遊星までの距離が大きいほど、その遊星の軌道の離心率も大きくなければならないというのである。これは、カントの例証した通り、土星、木星、地球及び金星については適合する。しかし彼は水星と火星のことは何とも言っていない。ところがこの二星は、小遊星は別として、最大の離心率を有しているので、従って彼の系統には全く合わない。カントは、デカルトと同様に、彗星は土星の外側に位するものとし、その離心率の大きいのはそのためであると考えた。
この考えは、しかし、既に前にニュートン並びにハレー(Halley)も示したように全然事実と適合しないものである。それは、カントの考えに従えば彗星もまた土星よりも比重が小さくなければならないからである。(これは少なくとも彗星の中核については多分事実でない。)
以上述べたところから考えてみてもカントの宇宙開闢説の基礎には実際の関係とは一致しないような空想的な仮定がたくさんに入っていることが分るであろう。まだこの外にも同様な箇条を挙げればいくらも挙げられるのであるが、しかしそうしたところで別に大した興味はないからまずこのくらいにしておく。ただ一つ付記しておく必要のあることは、フェイー(Faye)が証明したように、もし一つの遊星がカントの言ったようにして一つの輪から変じて団塊となったとすればその回転方向は太陽のそれとは反対にならなければならず、従ってすべての(カント時代に知られていた)遊星に特有な回転方向は逆にならなければならない、ということである。
第二十三図 遊星Pが、Pの下方にある或る中心点のまわりに回転する流星の流れから生成されんとしているさまを示す様式図である。中央の四つの矢はこの流れの中の各所の速度を示す。これは図のごとく下から上へ行くほど小さい。Pの下方の回転速度は上よりも大きいからいくつかの輪の流星が一所に集まってしまう場合には下の方の輪の速度が上の方のに勝つから従ってPは流星環の方向(右から左へ)とは反対の方向に(左から右へ)回転しなければならない。
第二十三図がこのような輪を表わすものとすると一番外側の微塵物質は、遊星運動の法則に従って内側にある太陽に近いものよりも小さな速度で通行する。従ってもしこのような微塵が集まって一団塊となるとすれば、その内側すなわち、太陽に面した方が、外側よりも急速に右から左へ動かなければならない。換言すればその遊星は左から右へ、すなわち、太陽並びに当時知られていた諸遊星と反対の方向に回ることになるのである。
カントは土星の輪の生成に関する力学的説明を与えているのであるが、それが我々の遊星系の生成に関してラプラスの与えた説明とかなりまで近く一致しているのは注意すべきことである。すなわち、始めに土星の全物質が広い区域に広がって、しかして軸のまわりに回転していたという仮定から出発している。それが次第に収縮していくうちにある微粒子は余りに大きな速度を得るために表面まで落下することができなくなる。そのために途中に取り残され、そうして環状に集まった衛星群となるというのである。彼はまた土星の衛星も多分同様にして成立し得たであろうと考えた。彼が太陽系の発生を論ずる場合にこういう始めからの回転は仮定しないでおいて、ここでそういうものを仮定していることから見ても、彼の考察の行き届いていないことが分かるのである。また彼の考えでは黄道光なるものは太陽のまわりに生じた薄い輪である。――すなわち、彼の考えによれば、この輪の最も内側にある粒子は元は諸遊星の赤道付近にあったのが、そこから飛び出して、その速度をそのままに保ちながら現在の空際に上昇したというので、これは直接に重力の法則に背反する。こういう考えは薄弱と言われても仕方がないのである。次に彼は輪の回転周期からして土星の赤道における速度を計算し、その自転周期を六時間二三分五三秒としている。彼はこの結果に対してよほど得意であったと見えて、この結果は『恐らく正真の科学の範囲内でのこの種の予言としては唯一のものである』と言っている。しかし土星の自転周期は実際は一〇時間一三分である。これに連関してカントはまたノアの洪水の説明をしようと試みている。これは当時の科学者らの間に大分もてはやされた問題であったのである。カントの説によれば、モーゼの書の第一巻すなわち創世記に『天蓋の下なる水』と記されているのは、多分地球を取り囲む、あたかも土星の輪のごとき『水蒸気』の環状分布を指すものである。この地球の輪は地球上を照らす役目をつとめるものであるが、また人間がこの特権を享有する価値のないようなことをした場合にはそれが洪水を起して刑罰を課する役にも立つものである。このような洪水はこの輪が急に地球上に落下する際に起るというのである。このように聖書や古典書中の諸伝説を自然科学的に説明しようとする努力は当時の科学的研究の中にしばしば見出されるものである。
第二十四図 ラプラスの説によって星雲から輪の生ずる状を示す様式図。中心には中央体すなわち太陽があって星雲の冷却する際そのまわりに輪ができる。輪のある部分は破れている。またある輪では星雲物質の凝縮したところを示してある、これが後に遊星になるものである。「宇宙と人間」所載。
カントは一七五〇年にライト(Wright)の発表している一つの考えを採用した。それは、銀河の平均面は我々の遊星系の黄道面に相当するだろうということである。太陽のまわりを回る諸遊星が黄道の平面から余り遠く離れないと同様に、諸恒星も大多数は皆銀河の平均平面からわずかしか離れないような軌道の上を動いているであろう。これらの恒星は、その一員たる太陽をも含めて、皆一つの中心物体のまわりを運行しているはずであるが、その中心体の位置は未知である。しかしそれは多分観測によって決定することができるであろうというのである。ニーレン(Nyrn)に従えば、ライトはこの説のすべての重要な諸点をカントと同じように明瞭に述べているそうである。
最後にカントはまた太陽の冷却に関する説を述べている。すなわち、空気が欠乏するために、また、燃え殻の灰が堆積するためにこの燃焼している天体(当時は普通にそう考えられていた)の火焔が消滅するというのである。
燃焼している間に、太陽の組成分中で最も揮発性のもの、また最も精微なものが失われる。そうして、そういうものが集まって微塵となり、この所在が黄道光を示すものと考えられる。カントは甚だ漠然と次のようなことを暗示している。すなわち、彼の設定した『太陽の滅亡の法則の中には、四散した微粒子の再度の集合の萌芽を含んでいる。たとえこの粒子はいったんは渾沌と混合してしまったとしても』とこう言うのである。この言葉や、また後に述べようとする彼の他の叙述から考えてみると、カントは、物質には一つの輪廻過程があって、あるときはそれが太陽に近く集合し、またあるときは再び四散して渾沌たる無秩序に帰ると考えていたらしい(一〇二頁デモクリトスの説参照)。
カントの宇宙開闢論もやはり、遊星系が宇宙微塵あるいは小流星群から進化したとする諸仮説中の一つである。この考えは後にノルデンスキェルド(Nordenskild)及びロッキャー(Lockyer)によって採用され、そうしてダーウィン(Darwin)によって数学的に展開された。ダーウィンの示した結果によれば、こういう小さい物体の群は、いろいろの関係から見て、あたかも一つのガスの団塊と同様な性質をもっているのである。しかるにラプラスは、彼の『宇宙系』の巻末において太陽系の進化の器械的説明を試みるに当って以上の考えとは反対に、灼熱したガスの団塊を仮定して、そこから出発している。そうしてその団塊が初めから、その重心を通る一つの軸のまわりに右から左(北から見て)の方向に旋転運動を有したものと考えている。この点の相違は甚だ著しいものであるにかかわらずしばしば一般に観過されているのである。これは多分ツェルナー(Zllner)が『星雲説』に関して述べたことに帰因していると思われる。この著によって彼は『この仮説が、ラプラスではなくて、ドイツの哲学者たるカントによって基礎をおかれたものだという証拠を見せよう』としたのである。
ラプラスはこういうふうにその説を述べている。『我々の仮説によれば、太陽の原始状態はちょうど星雲と同様なものであった。望遠鏡で見ると(この点に関するハーシェルの研究参照、一八二頁)星雲には幾らか光った中核がありその周囲を一種の霧のようなものが取り囲んでいる。この霧が中核のまわりに凝縮するとそれが一つの恒星に変るのである。』『太陽は無限大に広がることはできない。回転によって生ずる遠心力がちょうど重力と釣合う点がその限界を決定する。』太陽のガス塊が冷却するために徐々に収縮すれば従ってこの遠心力が増大する。ケプラーの第二法則に従えば、各粒子が一秒間に描く円弧の大きさはその太陽中心からの距離に反比例する。それで、収縮の際に、遠心力は中心からの距離の三乗に反比例するのに対して中心に向かう重力の方は同じ量の自乗に反比例する。その結果として、この灼熱ガス塊の収縮に際して一つのガス状の円板が分離し、それがちょうど同じ距離にある一つの遊星のように太陽のまわりを運行する。そこで、ラプラスはまた次のように仮定した。この円板はいくつかの灼熱したガスの輪に分裂しその各々が一つの全体として回転し、そうして、それが冷却して固体また液体の輪となったというのである。
しかし、これは物理学的に不可能である。冷却の際に微細な塵の粒が析出すると、それはガスの中に浮游するであろう。ガスの冷却凝縮が進行するに従って多分これらの塵はだんだんに集合してもう少し大きい集団を作るであろう。このようにしてちょうどカントが土星について考えたと同じように一つの微塵の輪ができると考えられる。そうして、それがもしかたまって遊星になるとすればやはり実際とは反対の回転運動をすることになるであろう。のみならず、ストックウェル(Stockwell)及びニューカム(Newcomb)が示した通り、このようにただ一つの大きな団塊のできるということはなくて、土星の輪の中で回っていると同様な小さな隕石の群しかできないはずである。更にまたキルクウード(Kirkwood)に従えば、海王星の輪が一つの遊星に凝縮するには少なくとも一億二〇〇〇万年かかるというのである。
更にまた彼の説に従えば、すべての遊星の軌道は円形で同一平面上になければならないことになる。もっとも、これについてラプラスは『言うまでもなく、各輪の各部の比重や温度に著しい不同があったとすればこの軌道の偏差を説明することができるであろう』とは言っているが、しかし恐らくラプラス自身にもこの原因については余りはっきりした確信がなかったらしいということは、後でまた次のように言っていることからも推察される。すなわち、彗星(彼の考えではこれは太陽系に属しない)が近日点近くへ来たときに、そこに今正にできかかっている遊星に衝突し、そのためにその遊星軌道の偏差を生じた。またある他の彗星は、ガス塊の凝縮がほとんど完了した頃に太陽系に侵入してきた。しかして著しく速度を減殺されたために太陽系中に併合されてしまったが、それでもその著しく円形とはちがった長みのある軌道を保っている、というのである。
ラプラスの仮説に対する最も重大な異義として挙げられることは天王星及び海王星の衛星がその他の遊星の衛星と反対の方向に回っているという事実である。一八九八年にピッケリング(Pickering)の発見した土星の衛星フォエベも、また木星の衛星の一番外側のものもまた同様である。ただしこの二遊星に属する衛星のうちで内側にある他のものは皆普通の方向に回っているのである。
このようにして、ラプラスは、ビュッフォンの仮説に免れ難い困難(すなわち、軌道が円形に近いことを説明する)を避けることはできたが、その代りにまたこれに劣らぬ他の困難に逢着した。しかしラプラスの仮説は土星の輪の生成については非常に明瞭な考えを与えたものである。
ラプラスと同時代に英国にはハーシェルが活動していた。彼は大望遠鏡で星雲を研究した結果としてこれらの星雲は一種の進化の道程にあるものだという意見に到達した(一八一一年)。彼の観測した星雲の中に極めて漠然とした緑色がかった蛍光様の光を放つものがあった、これが原始状態であると彼は考えた。そうしてスペクトル分析の結果は彼の考えを確かめた。後にこの発光体はガス体、それは主に水素とヘリウム並びによそでは見られないネビュリウムと称する元素から成立しているということが分ってきた。ハーシェルはまた他の星雲についてその霧のようなものの真ん中にいくらか光の強い所のあるのを観測した。また他のものでは中にちゃんとした若干の恒星があることを認めることができた、のみならずまたあるものでは霧のような部分はほとんど全くなくなって一つの星団となっているものもあった。
この簡単ではあるが内容の甚だ大きい観測の結果は、かつては非常な驚嘆の的となったラプラスの仮説よりも、ずっとよく時の批評に堪えることができたのである。もっともラプラス自身にはその仮説を彼の仕事のうちの重要なものとは考えていなかったらしいということは、それを彼の古典的大著『宇宙体系』(Exposition du Systme du Monde)の最後に注のような形で出していることからも判断される。このことは彼のために一言断っておく必要があると思うのである。
この大著の中で彼は我々の遊星系の安定を論じて次の結論を得ている。『諸遊星の質量がどんなであっても、それらが皆同方向に、しかもまた相互にわずかにしか傾斜しないほとんど円形な軌道を動いているという、それだけの事実から自分はこういうことを証明することができた。すなわち、遊星軌道の永年変化は周期的であって、しかも狭い範囲内に限られているということである。従って遊星系はただある平均状態から周期的に変化してはいるが、しかしいつもほんのわずかしかそれから離れない。』彼はまた一日の長さが、耶蘇紀元前七二九年以来当時までの間に一〇〇分の一秒だけも変っていないということを証明している。
このごとくラプラスは、一部分はラグランジュ(Lagrange)の助けによって、太陽系の安定が驚くべく強固なものであるというニュートンの考えを更に深く追究し立証した。それでこの遊星系は永遠の存立を保証されたかのように見えるのであるが、しかしこの系においても、ともかくもある始めがあったということを仮定するとすれば、これに終りのないというのは、実に不思議なことと言わなければならない。
この点に関しては確かにカントの考えの方が正当である、それは少なくとも我々の現代の考えに相応するところがあるのである。 
天文学上におけるその後の重要なる諸発見。恒星の世界

 

ラプラスの前述の研究は我々の遊星系に限られていた。またスウェデンボルクやライトやカントもその他の天体についてはただ概括的な考えを述べているにすぎない。もっともライトが、銀河の諸星もまた我々の太陽も運動していると考えたのはなかんずく顕著なものであった。しかるにハーシェル(Herschel 一七三三―一八二二年)に至ってはばく大な恒星界全部を取って彼の研究範囲としたのである。これより先ハレー(Halley 一六五六―一七四二年)は彼の観測の結果から、若干の恒星は数世紀の間にはその位置を変ずること、そうしてわずかティコ・ブラーヘのときから一七世紀の終までの間にさえ既に位置の変化が認められるということを発見した。その後間もなくブラドリー(Bradley 一六九二―一七六二年)が従来には類のない精密な恒星表を編成した。ハーシェルはこの表の助けによって恒星の位置変化に関する研究をすることができたのであるが、その結果として、この位置変化がかなり著しい程度に生じていることを発見した。また諸恒星は天の一方の部分に向かって互いに近より、またそれと反対の点から互いに遠ざかるような運動をしていることを認めた。そうしてこの現象の説明として、物体の視角がその物に近寄る人にはだんだん大きくなり、遠ざかる人には小さくなるという事実を引用した。ここでその物体に相当するものは恒星間を連結する線なのである。ハーシェルはこの考えに基づいて太陽とこれに属する諸天体がいかなる点に向かって動いているかを決定することができた。
始めハレー、後にハーシェルによって認められた恒星のこの運動を名づけてその固有運動と称する。この運動を測定するには通例星空を背景としてそれに対する恒星の変位を測るのであるが、この際背景となる星空には非常に遠距離にあるたくさんの恒星が散布されており、それらの星の大多数はその距離の過大なためにその運動が認められないのである。
大発見というものは始めには大概抗議を受けるものである。人もあろうにベッセルのごとき人でさえ、ハーシェルの発見は疑わしいと言明した。これに反してアルゲランダー(Argelander)はハーシェルの説に賛同した。この人は、恒星の位置及び光度について綿密な測定をして偉大な功績を挙げた人である。そうして彼の説はこの方面におけるすべての後の研究者によって確かめられた。なかんずくカプタイン(Kapteyn[#「Kapteyn」は底本では「Kap-teyn」])のごときはその著しいものである。以下に述べるところも一部分はこの人の叙述によることにする。
一八八頁図(第二十五図)は天の一部分、すなわち、三角、アンドロメダ、牡羊、及び魚の各星座付近における恒星の運動を示すものである。
第二十五図
図の小黒圏は諸星の現在の位置を示す。この圏点から引いた直線はその星が最近三五〇〇年間に動いた軌道を示すものである。これから分る通り、三五〇〇年前にはこれらの星座はよほど今とはちがった形をしていたはずである。これら諸星の軌道は決して並行していないし、またその速度も決して一様でない。しかし、全体として見ると右上から斜めに左下に向かった方向が多いということだけは明らかに認められる。今これらのいろいろな方向の線を第二十六図のように、同一の点から引いてみると、この特に数多い方向が一層目立って認められる。この特異の方向を二重線の矢で示してある(第二十六図)。
第二十六図
このような運動方向の『合成方向』を天球の上に記入すると第二十七図のようになる。これらの矢は皆天球上のある一点から輻射するように見える。この特殊な点を『皆向点』(Apex)と名付ける。この点は明らかに太陽の進行している目標点である。何となればすべての恒星はこの点から四方に遠ざかって行くように見えるからである。もっともこれはもちろん諸恒星の平均運動についてのみ言われることであって、各自の星の固有運動について言えばそれはこの平均とは多少ずつ皆違っているのである。これからも分る通り諸恒星もまた互いに相対的に運動しているので、恒星の群の中で特に太陽だけが運動しているのではない。
第二十七図
カプタインによるこの図は非常に明瞭な観念を与えるものである。これを見ればハーシェルの考えの正しいということは到底否定することができない。太陽は天上の(A)点、すなわち、ヘルクレス星座中で、琴座との境界に近い一点に向かって進んでいる。そうしてこれと正反対の位置にある大犬星座から遠ざかりつつあるのである。
銀河中の諸恒星が――太陽系中の諸遊星のごとく――同一方向に動いているというライトの説は、シェーンフェルト[#「シェーンフェルト」は底本では「シェーンフェルド」](Schnfeld)並びにカプタインによって吟味せられた。しかしこのような規則的な運動をしているような形跡は見付けることができなかった。これに反してカプタインはこれとはちがったある規則正しさを認めた。すなわち、彼の見るところでは、これら恒星の固有運動は、二つの恒星群が存在することを暗示する。その一群はオリオン星座中のカイ(χ)星の方向に、他の一群はこれとほとんど正反対の方向に進んでいるように見えるというのである。なお、今後の研究によってこの規則正しさに関していろいろ新しい興味ある発見が現われることであろう。
この現象が一層著しい興味を引くようになったというのは、これによって、恒星が天球上を一年間に動く見掛け上の速度からして、その星の太陽からの距離を決定することができるようになったからである。アリスタルコス及びコペルニクスの説の通り地球は空間を動いているのであるから、一年中のある季節には他の季節におけるよりもある特定の恒星に近くなっているはずである。従って上に述べたと同様な現象が、ただし周期的ではあるが、認められるだろうと予期してもいいわけである。すなわち、多くの星の大きさが毎年一回ずつ大きくなったり小さくなったりするように見えるであろうという見込をつけても不都合はないはずである。
しかしこの期待はなかなか安易には満たされなかった。既にアリスタルコスはこの変化の見えないという事実から、諸恒星の距離は余りに大きいために、それが無限大であるように見え、従って星座の視角の年変化が到底認め得られないのであると考えた。コペルニクスもまた同じ意見であった。しかしティコ・ブラーヘにはこの考えが信じ難く思われた。そうして彼はこの事実をもって、地球は静止し宇宙の中点にあるという説の論拠としたのである。しかしその後、天文学者等はこの期待された現象を発見しようとしていよいよ熱心に努力をつづけていた。そうして、ついに一八三八年に至って、ベッセルが白鳥星座の第六一番と称する星が一年の周期でわずかな往復運動をしていることを確かめることに成功した。この運動からこの恒星の距離を算定することができたが、それは実にばく大なものであって、光線がこの星から太陽まで届くのに一〇年掛るということが分った。それでこの距離を表わすのに一〇光年という言葉を使う。一光年の距離は9.5×1012すなわち、約一〇万億キロメートルであって、地球から太陽への距離の六三〇〇〇倍に当るのである。その後他の恒星の距離もますます精密な方法で測定されるようになった。ケンタウル星座のアルファ星が一番太陽に近いものとなっているが、それですら四・三光年の距離にある。シリウスも入れて八つの星の距離が一〇光年で、これらがまず近い方の星である。星空中で我々に近い部分では恒星間相互距離の平均は一〇光年より少し大きいくらいである。二〇光年以内の距離にある恒星が二八個、三〇光年以下のものが五八個だけ知られている。それで結局アリスタルコスとコペルニクスの考えが正しかったわけになり、従って地動説に対する最後の抗議が片付けられたわけである。さてこのようにして恒星の固有運動、すなわち、角速度が分り、また距離が分れば、それから容易にその実際の速度を計算することができる。ただし視線に対して直角の方向における分速度だけしか得られないのである。このようにして得られた速度の数例を挙げてみると、毎秒キロメートルを単位として、ヴェガが一〇、ケンタウル座のアルファ星が二三、カペルラが三五、白鳥座の六一番星が六〇、アルクトゥルスが四〇〇という数を示す。
それで、もし、視線の方向における恒星の速度をも知ることができれば、その星の運動を完全に決定することができるはずである。ところが、一八五九年以来応用され、恒星に関する天文学に根本的な改革を促したスペクトル分析は、またこの視線方向の速度の測定法を授けるに至った。これによって測定された上記五個の星のこの分速度は毎秒キロメートル単位で、−19,−20,+20,−62,−5となる。ここで(+)記号は星が太陽から遠ざかることを示し(−)記号は近づきつつあることを示す。これらの数値が示す通り、恒星間の相対速度にはなかなか大きいものがあるのである。――地球の軌道上の速度は毎秒約三〇キロメートルであるから、これと比較することができよう。
視線の方向における恒星の運動が分ると、太陽が天のどの点に向かって近づきつつあるかということを算出することができる。この方がいわゆる固有運動から算定するよりも一層容易である。キャムベル(Campbell)はこういう計算を行ったがそのために彼はこういう仮定をした。すなわち、比較の基準となる諸恒星は、平均の上では静止している、換言すれば、これらの星の中で太陽に近づくものもあればまた同じ速度で遠ざかっているものもあるとする。そうして計算すると、太陽は彼の恒星固有運動から計算された点とほとんど同じ点に向かって毎秒二〇キロメートルの速度で空間の中を飛行しているという結果になる。これでみてもこれらの観測された現象に対する以上の説明が正しいということはもはや疑う余地のないことである。次に起ってくる最も興味のある問題は、太陽が常に天上の同一の点を目掛けて動いているか、すなわち、一直線に動いているか、あるいは少し曲った軌道を動いているかということである。もしその軌道の曲率の大きさが分れば、それからして太陽の軌道がいかなる力によって支配されているかを算定することができるはずである。しかしこの種の観測が始まって以来まだ余り時日がたたないから、今のところこの非常に重要な問題に対して何らの解答を与えることはできない。
しかし、ライトやカントが考えたように、すべての目の届く限りの恒星がある共通の大きな中心体のまわりを、遊星が太陽を回るように、回っているのではなくて、諸恒星相互の運動はかなりに不規則なものであるというだけは確実である。してみると、太陽がそういう冒険的に旅行をしているうちに、いつか一度はある恒星かあるいは星雲と衝突するようなことがないとは限らない。ただし太陽が自分と同じくらい大きい光った恒星と衝突するまでには約一〇兆年の旅を続けなければならない勘定である。もっともことによると空間中には冷却して光を失った恒星が、光っているものよりもずっと多数にあるかも知れないので、そうだとすると、この無事な旅行の期間は著しく短縮されるかも知れない。しかるに太陽がある星雲の中に進入するという機会の方は非常に多い。なぜかと言えば空間中にある星雲の数はかなり多いのみならず、またそれが星天の中を占める空間はなかなか大きなものでこれに比べては恒星の体積などは全く無に近いと言ってもいいほど小さなものだからである。
太陽が運行中にこのような星雲に出会って進行を阻止され、そのために灼熱される、するとそれがいわゆる新星と称するものになる。たとえば一九〇一年にペルセウス星座に突然出現したようなのがそれである。こういう説がしばしば称えられたものである。
この考えは特にゼーリーガー(Seeliger)によって発展されたものである。この説は衝突する星雲が比較的局部に集中されたものであった場合には疑いもなく適合する。たとえば遊星状星雲の場合には多分そうであろうと思われる。しかしこの考えは一般にすべての新星には適用されないように見える。少なくも従来詳しく研究された若干の場合から見てそう思われる。ペルセウス星座の新星の場合にはその出現後に一つの星雲が発見されたが、しかしその直径の視角は三〇分以上もあり、従ってその大きさはばく大なものであった。これは疑いもなく非常に広く拡散した稀薄な星雲の部類に属するものである。
一つの太陽型の恒星がある稀薄な星雲中に突入したときに何事が起るであろうかということは、星雲中における侵入者によって生じた道筋を示すウォルフ及びバーナード(Wolf und Barnard)の写真(『宇宙の成立』中の第五四図と第五五図)を見ればおおよその概念を得ることができるであろう。このような太陽が毎秒二八・三キロメートルの相対速度(注)で星雲中に進入するとすれば、それはその途上のすべての物質を薙ぎさらっていくのみならず、約一五〇〇万キロメートル以内のすべての物を掃除してゆくはずである。つまりそれだけの半径の溝渠を穿つわけになる。また相対速度が遅いほどこの溝は広くなるのである。しかるにウォルフ及びバーナードの写真に撮った物はその距離が余りに遠いために上述のような溝があってもそれは到底写真には現われないはずである。しかし実際の写真に現われた『道筋』は非常に顕著なものであってその大きさは上記の幾百倍のものであるとしなければならない。またこの写真で見るとこの侵入者のまわりにはばく大な広がりをもったかなり不規則な形をした星雲が取り囲んでいることが分る(近所にある恒星の写真像が皆規則正しい円盤の形をしているのと比較せよ)。これで見るとこの侵入者はこの稀薄な星雲の一部を、集中的な規則正しい星雲塊に変ずるものと思われる。その変化の過程については次のような具合に考えることができる。すなわち、まず、この稀薄な星雲の密度が侵入者の軌道の各々の側で一様でないと仮定する。これはもちろん一般にそうあるべきである。この侵入者の後側へすべての方向から落下してくる物質は互いに衝突してその運動は大部分相い消却してしまうのであるが、しかし密度が非対称的であるために若干の運動が残留し、そのためにこの落下した物質は侵入者のまわりを楕円形の軌道に沿うて動くようになる。このようにして星雲物質が集積されるために一種の巨大な環状星雲ができる。これが侵入者の軌道の付近の稀薄な星雲を掃除するのに役に立つのである。このように中心物体から著しい距離に星雲物質が拘留されるために温度の過大な上昇が妨げられる。もしそうでなかったとしたらこの侵入者は多分、彼のペルセウス星座のと同様な新星として強い光輝を発したであろうと思われる。薄く拡散した星雲中の物質は非常に稀薄なものでたまたまその中に侵入する物体があってもそれを灼熱させることはむずかしいように思われる。
(注) この数値はそれぞれ周囲に対して毎秒二〇キロメートルの速度で動いている太陽と星雲との間の蓋然値として得られたものである。キャムベルの測定では星雲の速度は太陽のと同じくらいである。
ただ、太陽がある他の太陽か、あるいは多分星雲中の特に集中した部分に侵入する場合に限って、それが新星として現われ、その光度は衝突以前に比べてもまたその後に衰えたときに比べても数百倍あるいは数千倍大きいものとなるであろう。
しかるにまた、星雲は太陽相互の衝突を早めることもできるように思われる。すなわち、星雲中には星空の各方面から隕石や彗星や特に宇宙微塵などのような多数の物質が迷い込んできてその中に集積する。これら天界の放浪者の質量は微小なものであるために皆星雲中に捕えられて残り、そこで上に凝縮する星雲物質とともに次第に大きな物体に成長し、そしてそれが収縮するために熱を生じて小さな恒星として光り始める。そのうちに漂浪する太陽が近所にやってきて衝突すると、その太陽から多量なガスが放出され、これが太陽の速度を減少させ、また星雲中の運動に対する抵抗を増加する。このようにして、あるいはまた非常に広く広がった星雲中を長く続けて放浪するために、太陽は星雲に捕獲されてしまう。それでこのようにある星雲中に入り込んだ太陽は、他のほとんど真空な空間中の特定な軌道を進んでいるものに比べると、同じ星雲中に捕われた他の太陽と衝突する機会がはるかに大きいわけである。
これら種々の理由から、太陽が他と衝突することなく自由に天空を漂浪し得る期間はずっと短く見積らなければならないことになる。前に計算したものの一〇〇分の一、すなわち約一〇〇〇万億年と見ても長すぎはしないであろう。もちろんこの数字は余り当てにはならないものであってただ一つの天体の寿命の概略の程度を示すにすぎないのである。
我らの太陽ぐらいの大きさの天体が二つ衝突した場合におよそいかなる事柄が起るであろうかということについては、著者の『宇宙の成立』中に詳しく述べておいた。互いに衝突する太陽から二つの猛烈なガスの流れが放出され、これが空間中にばく大な距離まで広がって、そうして、星雲に特有な二つ巴のような二重螺旋形を形成する。その噴出物質は主として最も凝縮しにくいガス体、特にヘリウムと水素、並びにまたそれよりは凝縮しやすい物質の微粒子からできている。これらは皆噴出の際に過大の速度を得たために、中心体の引力の余り利かなくなるほど遠い範囲に逸出してしまう。同時にその速度を失ってしまうために、長い間ほとんど位置を変えずに、螺旋状の形を保っているのである。これに反して、もっと小さい速度で放出された物質は再び元の噴出の場所に帰ってくる。その途中で、その後に放出されたもの、特にガス体に出逢う。これらの物質全体は結局は、中心体のまわりに広く広がった、固体並びに液体の微粒に満たされたガス星雲を形成する。同時にこの中心体は(かつてビュッフォンが想像したように)衝突によって激しい回転を生じているのである。一番内部の中心体は強く灼熱され、衝突前に比べると、著しくその体積を増している。そうして外側へ行くに従って、これを取巻いて渦動するガス塊へと徐々に移りゆくのである。
ラプラスが太陽系の始源となった元の星雲に対して抱いていた考えは正にこの通りであった。それで実際観測された事実に応ずるように適当にラプラスの説を修正すれば、今新たに星雲中で太陽系の進化が始まるとしたときそれがいかなる経過をとるかということの概念を描き出すことができる。そうして得られた新しい説はビュッフォンの説とラプラスの説とを適宜に混合したものとも見られるのである。
光輝の強い恒星アルクトゥルス(Arkturus)の速度は最も大きく毎秒約四〇〇キロメートルの割合で進行している。この星は太陽から約二〇〇光年の距離にあり、その送り出す光は太陽の光と非常によく似ている。従ってこの星の大きさはばく大なものであって、計算の結果では、多分太陽の五万倍もあるだろうと言われるくらいである。このような巨星が二つあって、それがアルクトゥルスと同様に大きな速度で相互に衝突したとしたらその結果がどうなるかを考えてみよう。噴出されるガスは一つの渦動となって広がってゆくであろうが、それは多分ほとんど同一平面内ですべての方向に無限に伸びてゆくであろう。銀河は多分このようにしてできたものであろうとも考えられるが、しかしこの銀河系には中心物体となるべきものが知られていない(後述リッターの説参照)のがこの説の難点となるわけである。幾百万年経過する間にはこのような巨大な星雲中に多数な小恒星が集積され、それらがまた互いに衝突して、そうして新しい渦動を生ずるはずである。ほとんどすべての新星は銀河の近くに出現するが、ここでは空間中の他の場所に比べると恒星間相互の距離が比較にならぬほど密接しているのである。新星が消えてしまった後では、ただ、一つのガス状星雲が見えるだけであるが、銀河付近にはこういうガス状星雲がやはり著しく集中しているのである。時の経過とともに星雲物質が、その中に入り込んだ微塵物質の上に再び集積されるとそれが星団になる。実際これも主としてこの同じ銀河区域に見られるのである。螺状星雲もそのスペクトルを検すると星団であることが分る。しかし距離が余り大きいためにその中の個々の星を認めることができないのである。この種の星雲は主に星の数の最も稀少な天の区域、すなわち、銀河からは最もはなれた銀河の極の方にある。この部分にはこの種のものが非常に多く、たとえば、ウォルフが、ベレニケ(Berenike)の髪毛と名づける星座の一局部を写したただ一枚の写真の中に一五二八個という多数の星雲を見付け出した。このうちの大多数は多分螺状星雲であると考えられる。
恒星の組成分に関する知識が得られるのは全くスペクトル分析のおかげである。その恒星という中には我々の太陽もその一つとして数えられているのである。ハーシェルは星雲をその外見上の進化の程度に従って分類したが、それと同様にして恒星もまず一番熱いもの(すなわち、輝線スペクトルを示すもの、従って、こういう星の前身と想像されるガス状星雲に最も近似したもの)から始めて、最後には既に消えかかっていると考えられる暗赤色のものに終るという等級を作ったのである。これらの光った星の次に来るのが暗黒な天体で、その中で最初に来るのはまだ固体の[#「固体の」は底本では「個体の」]殻をもたないもの――木星は多分この種に属する――で、その次は地球のように固体の皮殻をかぶったものである(『宇宙の成立』一六七頁参照)。恒星中に最も多く現われる物質を列挙してみると次のようなものである。最も高温の星にはヘリウム、それに次いで高温で白色光を放つものには水素、中等程度の高温で黄色の光を放つ、たとえば我々の太陽のようなのではカルシウム、マグネシウム、鉄並びに他の金属元素が多く、最後に最も温度の低い赤色の星では炭素化合物なかんずくシアンが現われる。既に地球上で知られている組成物質以外のものはどの星にもないという説は当っていない。たとえばピッケリングはいろいろの星のスペクトルの中で、地球上のいかなる物質のそれとも違った線を発見した。もっともこの線は多分水素の出すものであろうという説があるが、しかし実験的に水素からこういう輻射を出せることはできなかった。太陽のスペクトル中にも従来知られた物質のスペクトル線のどれとも一致しない線がかなりたくさん見い出されている。やっと近ごろになって知られた線の中で最も重要なものはヘリウムの線である。そして多数の未知の線の中にはいわゆるコロニウムの線と称するのがある。これは太陽のコロナの内側の部分に特有なものである。しかし全体としてみれば星のスペクトル線の地上元素のそれとはかなりまでよく一致しているのは事実である。マクスウェルは一八七三年にこう言っている。『宇宙間にある恒星の存在を我々はその光の助けによって、そしてただそれによってのみ発見する。これらの星の相互の距離は余りに遠くていかなる物質的なものもかつて一つの星から他のものに移るということはあり得なかったであろう。それにかかわらず、この光の物語るところによってこれらの星が皆我々の地球上にあると同種の諸原子から成立っていることが分るのである。』
こう言っているこの学者が、しかも同じ年、星から星へ物質を輸送することの可能なある力――すなわち、輻射圧――の存在を予言しているのはいささか[#「いささか」は底本では「いささかか」]奇異の感じがある。それから三年後にバルトリ(Bartoli)は、ただに熱線や光線のみならず輻射エネルギーのあらゆる種類のものは皆圧力を及ぼすということを証明した。しかしこの新しい普遍的な力によって宇宙物理学的諸現象の説明を試みようとする人は案外になかったので、一九〇〇年に至って始めて私がこの問題に手をつけて、従来不可解と考えられていた各種多様の諸現象が、これによって非常に簡単に説明されるということを示したのである。
太陽雰囲気中で凝縮した液体の小さな滴は輻射圧の作用で太陽から追いやられ、そうして光の速度の幾パーセントかの速度で空間中を飛んでゆく。太陽よりも、もっと輻射の強い恒星(多数の恒星は、太陽のような黄色光ではなくて、白色光を放っており、従ってそれだけ輻射も強いと考えられるから、一般にその方が普通と考えられる)の場合には、この細滴の速度は更に一層大きくなり得るであろうが、しかしいずれにしても決して光の速度には届かないわけである。このようにして多くの太陽は無限の過去以来微粒子を放出している結果として彼ら相互の間に不断に物質の交換が行われる。そのために、最初は組成分に多少の差別があったとしても、それはとうの昔に均等になっていなければならないはずである。この場合にも、一般自然界に通有であるように、低温な物質、ここでは低温な恒星、が高温なものの方から、また大きい方が小さい方から養われ供給されるのである。
前に『宇宙の成立』九八頁にも暗示しておいたように、別世界から折々おとずれてくる不思議な使者、いわゆる隕石なるものは、あるいはこのように宇宙間に駆り出された細滴から成立したものかも知れない。隕石は全く特殊な構造と成分をもっていて、あらゆる地球上で知られた岩石の類とは本質的な差違を示しており、地球内部の液体の固まってできたいわゆる火成岩とも、また海水の作用で海底に堆積してできた水成岩とも全くちがったものである。隕石中にしばしばガラス質の粒の含まれていることから見ると、急激な冷却を受けたことが分る。また他の場合には大きな結晶を含んでいるから、これは永い間均等な高温度に曝されていたであろうと考えられる。また同じ隕石の二つの隣り合った破片を比べてみると組成や構造の著しい相違を示すことがある。これは隕石の素材が非常に多様な来歴をもつものであることを証明する。水や水化物(水を含む化合物)は少しも含まれていない。隕石の粒が形成されたと思われる太陽の付近では酸素と水素はまだ水となって結合していないであろうから、これは当然である。これに反して炭素水素の化合物が含まれているが、これは光の弱い恒星やまた太陽黒点中にしばしば現われるものである。また地球上では不安定で、水素と酸素を含まない雰囲気中にのみ成立し得るような塩化物、硫化物、燐化物を含んでいる。また一方隕石中には、地上の火成岩中に頻出する鉱物、すなわち、石英、正長石、酸性斜長石、雲母、角閃石、白榴石、霞石を含んでいない。これらは地球内部から来る熔岩からいわゆる分化作用によって生ずるものである。
この分化作用の起り得るためには多量な熔融塊の内部で永い間持続的に拡散が行われるという条件が必要である。従って小さな滴粒の中ではこれはできない。隕石のあらゆる特性、なかんずくしばしば見られる微粒状のいわゆるコンドリート構造と称するものなども、これが小さな液滴からできたものとすれば容易に説明される。時としてまた大きな結晶のあるわけは、何かある溶媒(たとえば鉄やニッケルに対する酸化炭素のごとき)が存在したためか、あるいはそういう隕石が長い間高温度に曝されたためかであろう。彗星が太陽に極めて近い所に来たような場合にはそういう高温度にさらされるわけである。この方面に関するスキアパレリ(Schiaparelli[#「Schiaparelli」は底本では「Schiapareli」])の古典的な研究によると、彗星が分裂して隕石群に変るのは、特に近日点付近に多い現象だということが明らかになった。
太陽から放出された細滴は主に星雲の一番外側の部分に広く広がったガス体の中に集積し、そうして多くの場合に荷電されている宇宙微塵の作用で光を放つ、それが星雲に特有なガススペクトルを与えるのである。星雲内は至る所非常に寒冷であるので滴粒の表面には星雲ガス特に炭水化合物や酸化炭素の一部が凝縮する、そうして滴粒が互いに衝突するとそれが膠着してしまう。このようにして滴粒から次第に隕石に成長し、そうして空間中の旅を続けてゆくのである。
このように諸太陽は光圧のために微粒子を放出するために相互の物質を交換する以外に、また衝突の際に広く空間に飛散するガス塊の一部を互いに交換する。また星雲の外縁にあるガス分子が遠方の太陽から受取る輻射のために高速度を得てその星雲から離脱し空間に放出されるためにも諸太陽の間に物質の交換が起るのである(『宇宙の成立』一七五頁参照)。それで『物質的な何物も一つの恒星から他の恒星に移動することはできない』と言ったマクスウェルの言葉は、詳しい研究の結果から見ればもはや当てはまらなくなるものである。
最近二〇年間に熱輻射の本性に関する我々の知識は非常に豊富になった。その中でもステファン(Stefan[#「Stefan」は底本では「Stephan」])及びウィーン(Wien)の発見した法則は最も重要なものである。前者の法則によれば、外からの輻射を全く反射せずまた通過させない物体が自分自身で輻射する熱量はその物体の絶対温度(すなわち、摂氏零下二七三度を基点として数えた温度)の四乗に比例する。また後者の法則はこのような物体の出す全体の輻射が種々なスペクトルの色に相当する熱輻射のいろいろの種類からいかに構成されているかを教えるものである。前者の法則を使えば固体の皮殻をかぶっている遊星や衛星の温度を計算することができる。これを始めて計算したのがクリスチアンゼン(Christiansen)である。ある遊星あるいは衛星が太陽から受取っている熱量は知られている。しかして、これらの物体は固体の皮殻をもっているから、太陽から受取っているとほとんど同量の熱を天の空間に放散し、そうすることによってほとんど恒同な温度を保っている。しかるに、上記の法則によって物体の出す輻射とその温度との関係が規定されているから、従ってその温度を計算することができるわけである(『宇宙の成立』四二頁)。水星や太陰のように全く雰囲気をもたない遊星や衛星の場合にはこの計算によって完全に正しい数値が得られるのである。しかし、雰囲気の存在する場合にはこの関係はある点で少し変ってくるので、このことは既に十九世紀の初めにフリェー(Fourier)が指摘しているところである。その理由は、雰囲気がこれに入射する太陽の輻射を通過させる程度は暗黒物体の表面から出る熱輻射を通過させる程度と同一でなく、前者よりも後者が多いからである。これには雰囲気中の水蒸気と炭酸ガスが重要な役目をつとめるので、これについては既に各種の自著論文で詳細に論じておいた。大多数の地質学者の間で承認されている通り、過去の地質時代における生物の遺跡によって確証される地質時代の交代は主として大気中炭酸ガスの含有量の変化に帰因するものであって、これはまた当時における火山作用活動の強弱によって支配されたのである。
我々の遊星系に関する知識は、地球の重量の絶対値が測定され、それから容易にその比重が算出されるようになったために、更に著しく豊富の度を加えることとなった。この測定を最初に行ったのはキャヴェンディッシ(Cavendish 一七九八年)であった。彼は直径三〇センチメートルの大きな鉛の球が小さな振子の球に及ぼす引力を地球がこの振子球に及ぼす引力と比較した。その結果から出した地球の比重は五・四五となった。その後キャヴェンディッシの実験は多くの学者によって著しい改良を加えられて繰り返された。そうして最後の結果として得られた地球平均密度は五・五二である。しかるに地殻の外側の比重は約二・六(すなわち、普通岩石の比重)であることから考えると、地球の内部の比重はよほど大きいものとしなければ勘定が合わない。しかるに、鑿井さくせい内の温度が深さ一キロメートルを加える毎に約三〇度ずつ上昇することから推して、地下約五〇キロメートルの深さまで行けば地球内部は流動体となっていると仮定されるのであるが、これは地震波の伝播速度に関する観測の結果からも、また振子による重力測定の結果からも裏書きされる(『宇宙の成立』三三頁参照)。もっとずっと深く――約三〇〇キロメートルも――行けば、それ以下の地心全体はガス状態にあるかも知れない。しかし地心における非常な高圧のために、そこの物質の比重はそれが固体であるか液体またガス体にあるかにはほとんど無関係と考えてよい。しかしてこの際問題を決定するものはただ温度の高低である。それで、もし、太陽に最も近い遊星が、これと遠く離れた遊星よりもまた太陽自身よりも大きい平均密度をもつとすれば、それは多分前者が後者よりもずっと低い平均温度をもつためであり、また後者は多分(前者とは反対に)固体の皮殻をもたないであろうと考えられる。この後者のような天体の、表面と我々が称するものは、畢竟我々が望遠鏡でうかがい得る部分であって、その星の最外部に位する軽いガス層中に浮ぶ雲のようなものであると考えられる。地球の平均密度の大きいという事実は、その心殻が重い金属を含んでいることを暗示する。そうしてなかんずく鉄が――隕石や太陽におけると同様に――最重要な成分であろうと思われる根拠がある。
一六七五年に、パリで有名な天文学者カッシニ(Cassini)の助手を勤めていたデンマーク人ロェーマー(Rmer)が、天文学上重大な意義のある発見をした。すなわち、光の速度の測定を可能ならしめる一方法を案出した。彼はガリレオの発見した木星の衛星を観測した。この衛星は木星の陰影中に没すると暗くなるのであるが、この食現象は非常に精密に観測することができる。天体の一周行に要する周期は不変であるから、相次ぐ二つの食の間の時間は不変であるはずである。しかし実測の結果ではそうでないように見える。もし地球ができるだけ木星に接近した位置にあり、両遊星が静止していれば衛星の食は精密に同じ時間間隔たとえば一日と一八時間で繰返されるはずであるとする。そこでもし地球が一つの食の起った後直ちに地球軌道の反対の側に行ってしまったとすれば、当然また一日と一八時間後に起る食現象が、地球上でそれと認められるのは、ちょうど光が地球軌道の直径を通過するに要する時間だけ後れるわけである。これに要する時間は平均九九七秒である。これに対してロェーマーの実測した数値ははるかに大きなもの――一三二〇秒――であった。もちろん実際は一日と一八時間くらいの短時間に地球の進む道は所要の距離すなわち、軌道の半分に足りないことは明らかである。この地球半周行の間に、衛星自身の運動だけのためにも一〇五回の食が起るはずであるのを、その上に木星の運動があるために更に一一回余計の食が起る。しかし時間の差違の関係はこれでも同じことである。そこで、今もし、地球上で光の速度を測定することができれば、上記の食の時間の後れからして地球軌道の直径を算出することができるわけである。この種の測定中で最もよく知られたものは、フィゾー(Fizeau)、フーコー(Foucault)及びマイケルソン(Michelson)の実験である。これらの結果によれば、真空中における光の速度は毎秒三〇万キロメートルである。これから計算すると地球軌道の半径は一四九五〇万キロメートルとなる。一方で直接天文学的方法で測定された結果を比べるとほぼこれと一致するのである。
ラプラス時代以来二大遊星、すなわち、天王星(一七八一年)と海王星(一八四六年)が発見されまた火星と木星との中間に多数の小遊星が発見された(現在では約七〇〇個知られている)。その中の最初のものセレス(Ceres)は一八〇一年の一月一日にピアッツィ(Piazzi)によって見付けられた。これらの運動は皆右回りで、その軌道の傾斜は甚だ多様である。傾斜の最大なのは三四・八三度である。また軌道の離心率も甚だまちまちである(最大〇・三八三)。
特に興味の深いものはいわゆる二重星である。これについては初めハーシェル(W. Herschel)次にストルーヴェ(W. Struve)近ごろではシー(See)によって熱心に研究されたものである。そして多くの場合にこれら恒星の共有重心のまわりの運動を測定することができた。その結果からしてまたこの星の軌道の離心率を算定することも可能になってきた。近ごろになって恒星のスペクトルの研究から、大多数の恒星はあるときは前進しあるときは後退する往復運動を示していることが分った。このような場合にその軌道の離心率を決定することのできる場合もしばしばあった。そうして、我々の遊星の軌道がほぼ円形であるのに反して、これらの星はよほど違った形の軌道を描いていることが分った。これら恒星軌道の離心率の直接に観測されたものは〇・一三と〇・八二の間にあり平均値は約〇・四五(シーによる)になる。
スペクトルによって観測される二重星の離心率はやや小さく、ニューカムの教科書『通俗天文学』に挙げてある一八個について言えば〇と〇・五二の間にあり、平均値は〇・一八(注)である。
(注) シーのその後の算定では、以上二種の二重星について各々〇・五〇と〇・二二となっている。
若干の二重星ではその二つの物体の質量を決定することができた。太陽の質量を単位とすると、ケンタウル星座のアルファ星については一と一、天狼星シリウスでは二・二と一、プロキオンでは三・八と〇・八、蛇遣い星座の第七〇番星は一・四と〇・三四、ペガスス座の第八五番では二・一と一・二である。これらの数値からわかる通りこれらの恒星はほとんどすべて我々の太陽よりは大きい。また『スペクトル二重星』の観測の結果もやはり同様である。多くの場合に二つの恒星の一方は光輝が弱くて認められない。そういうのを名づけて『暗黒随伴体』という。甚だ珍しいのは変光星アルゴールであってこの星の質量は比較的小さく、そして時々暗黒随伴体で掩蔽される。アルゴールの直径は二一三万キロメートル、その随伴体のが一七〇万キロメートルと算定されている。すなわち、太陽の直径一三九一〇〇〇キロメートルに比して両方とも著しく大きい。それにかかわらずその周期から計算される質量は太陽のそれの〇・三六と〇・一九である。従ってこれらの比重は太陽のそれの〇・一にすぎないのである。
また別の変光星、ヘルクレス座のZ星は、ハルトウィク(Hartwig)の計算によると、二個の巨大な太陽より成り、両者は四五〇〇万キロメートルの距離を保って旋転しその直径はそれぞれ一五〇〇万キロメートル及び一二〇〇万キロメートル、その質量はそれぞれ太陽の一七四倍と九四倍を超過し、比重は〇・一三八と〇・一四六である。不思議なことには小さい暗黒な方の物体が大きい方とほとんど同じくらいの小さい比重をもっているのである。ペガスス座の二重星Uは、マイヤース(Myers)の研究によると、太陽の比重の〇・三くらいの平均比重をもっている。またロバート(Robert)の推算による、プッピス星座の二重星Vは太陽の三四八倍の質量をもっているが、その比重は太陽のそれのわずかに五〇分の一にすぎない。また有名な変光星、琴座のベータ星はマイヤースの計算では太陽の三〇倍の質量をもっているのにその比重は一六〇〇分の一にすぎない。
光輝の強いカノプス(これは天の南方にある)、リーゲル(オリオン座の)及びデネブ(白鳥座の)もまた太陽より数千倍大きいものと推定されている。
最近に発見された最重要な事実は、明らかに一つの団体に属すると思われる一群の恒星が天の一方にある共通な集合点に向かって、互いに並行な軌道を同様な速度で進行していることである。たとえばアルデバランと昴すなわちプレヤデスとの中にある牡牛座の多くの明るい星は互いに並行に東方に移動している。また同様に大熊星座のベータ、ガムマ、デルタ、エプシロン及びゼータの諸星は一群を成していていずれも同じ鳩座のガムマ星に向かって動いている。近ごろになってヘルツスプルング(Hertzsprung)はまた、これとは遠く離れた天空にある若干の恒星、なかんずくシリウスなどもやはり同一群に属するということを証明した。
このような『漂浪星群』についてその距離を算定することができる。すなわち、ポッツダムのルーデンドルフ(Ludendorff)は、上述の大熊星座の五星は太陽よりも六〇〇万倍の距離にあり、シリウスより一〇倍遠いという結果を得た。大熊星座の他の二つの明るい星、アルファとエータとは前とは別な天空上の一点(射手座の)に向かって動いているが、この二つの距離は前述の隣の諸星と同一である。これから計算するとこれらの星は平均して太陽よりも約八〇倍明るいということになる。その中最も明るいアルファ星は太陽の一二六倍に当る。この星は太陽と同じく黄色であってその大きさは太陽の約一〇〇〇倍に当ると思われる。しかし他の諸星はシリウスのように白色であって、到底上記の大きさには達しないであろうが、それでもとにかくシリウスよりは比較にならぬほど大きいものである。
これらの算定の結果はまだ全く決定的のものではないかも知れないが、しかしこれから明らかに次のようなことは証明される。すなわち、我々の太陽は質量から見ればむしろ恒星中でも小さい方であるということ、また太陽はその比重においてかなり高い程度に達しており、すなわち、星の進化の段階から見て比較的進んだ段階にあるということである。太陽が光輝の弱い星であるということは、諸恒星の距離が詳しく知られるにつれて明らかに認められてきた。もし太陽がアルクトゥルスあるいはベテルギュースと同じ距離にあったとしたら肉眼ではとても認められないであろう。一等星の距離の平均に相当する距離にあったとしたら、太陽はまず五等星くらい、すなわち、肉眼で見える中では最も光輝の弱いものに見えるであろう。
このように、我らの太陽がその同類中で比較的末席を占めているというのは、もちろん、我々が主として最も大きく最も光った星を調べたためだということにも帰因する。カプタイン(Kapteyn)はこの点を考慮に入れて釣合を取ろうと試みた。すなわち、彼は種々の光度――太陽の光度を単位として――の多数の恒星が、太陽を中心として五六〇光年を半径とする球内にいかに分布されているかを計算した。そうして次の結果を得た。
光度星の数
一〇〇〇〇以上 一
一〇〇〇〇ないし一〇〇〇 二六
一〇〇〇ないし一〇〇 一三〇〇
一〇〇ないし一〇二二〇〇〇
一〇ないし一 一四〇〇〇〇
一ないし〇・一四三〇〇〇〇
〇・一ないし〇・〇一 六五〇〇〇〇
この表は光力の減ずるに従って星の数が著しく増加することを示す。これから見ると暗黒な天体の数は光輝あるものの数をはるかに凌駕するであろうと考えないわけにはゆかなくなる。もっともこれらの暗い星は必ずしも質量が小さいとは限らないであろう。しかし最も明るい星はその容積が大きくまた高温度のためにその比重が甚だ小さいにかかわらず大きな質量をもつであろうと考えるのはむしろ穏当であろう。
二重星の軌道が遊星のそれとは反対に非常に離心的であるという事実は、我々の遊星系の著しい規則正しさがむしろ例外の場合だということの証拠とも見られる。しかしこれは決して必然な証拠にはならない。二星間の衝突の際に中心体の周囲に拡散する星雲状の円板は、一般には全質量のただの一小部分を成すにすぎない。中心体の外側の物質の大部分は、放出された微粒の速度のために、また一方高速度な分子の逸出のために空間に向かって飛散する、同時にこの旋転する円板は宇宙空間から輻射を受け取るために絶えず拡大される。今外部の宇宙空間から一物体がこの旋転する板中に陥入したとすれば、そこに二つの場合が起り得る。もしこの物体の質量が、たとえば彗星のように、板のに比べて小さいときには、物体は板によって円運動をするように強制される。そこで一つの遊星ができ、これはほとんど円形の軌道に沿って円板の平面内を運行するであろう。しかるに、もし侵入体が円板に比して大きい質量であった場合にはどうかというと、この物体の速度はやはり減殺され、そうして、ときにはこの星雲の中心体から再び離れ去ることができなくなる場合もあり得る。しかし円板物質のために侵入体の軌道はわずかしか変化しないから、その結果として軌道は甚だしく離心的となり、また軌道面の板面に対する傾斜角もいろいろ勝手になり得るわけである。この後の場合はちょうどラプラスの考えた太陽系に対する彗星の関係に相当する。これに反して上記二つの場合の最初のものでは新たにできた遊星の質量は比較的小さいからそれが冷却するために元来たださえ微弱な光力を速やかに減じ直接には認められなくなってしまう。また物体が小さいために光った中心体の運動に及ぼす影響も甚だ僅少であり、またこれのために生ずる往復運動もささいなものであって、それによって暗黒随伴星の存在を証し得るほどのものにはならないのである。こういう場合の方が、大きな天体の捕えられる場合よりも多数であろう。これは第一、小さな天体、たとえば彗星のようなものが比較的多数であることからそう思われる。『その数は海中の魚の数ほど多い』とケプラーが言っているくらいである。大きな天体はたいていの場合に星雲体を貫通して、しかも余り著しくその速度を減殺されずに更に宇宙の旅を続けることができるであろうと思われる。こういう普通の場合にはしかし我々の観測を免れるのである。大きな天体がその侵入によって生じた二重星の一員となるような場合には、それ以前から存在した遊星は多分非常に複雑な軌道を取るようになりがちであろうと思われる。
スペクトルの色と温度との関係を与えるウィーンの法則は恒星の温度の決定にも応用された。しかしこれを応用するには厳重な吟味をした上でなければならないというのは、我々の観測する星の光はその星の全輻射ではなくて、その外部雰囲気の吸収によって弱められたものだからである(『宇宙の成立』六四頁参照)。
星の温度は、また、その光のスペクトル線の強さからも判断される。ガスの吸収スペクトル中の多くの線は温度が昇るに従って強められ、またある他の線はかえって弱められる。ヘール(Hale)とその共同研究者等は、カリフォルニアのウィルソン山で金属のスペクトルを研究したが、それには一一〇ボルトの電圧で二アンペアと三〇アンペアと二通りの電流を通じた弧光の中でこれら金属を気化させた。この後者すなわち電流の強い方がもちろん温度が高い(その金属の尖端の間に通ずる火光放電の方が一層高温である)。それでこの方法によって温度の上昇に伴うスペクトル線の変化を確定することができた。その結果から、二つのスペクトルを比べると、どちらが高温に属するかということが言われるようになった。従ってたとえば一つの恒星あるいは太陽黒点上の光が太陽光面上に比べて高温であるかまた低温であるかを判断することができるようになったのである。ヘールの結果によれば、太陽黒点の光を吸収しているガスの温度は、太陽光面の光を吸収するものよりも低い。これは疑いもなく黒点上のガス体の密度が他所よりも大きいことによるのであろうが、しかしこれは黒点の基底の輻射層が、太陽の一体の光面の光を出す光球雲フォトスフェアーよりも低温だという証拠にはならない。ヘールの研究室で行われた比較研究の結果によると、アルクトゥルス、それよりもなおベテルギュースのスペクトルが太陽のスペクトルと相違する諸点がちょうど黒点のそれと同様である。従ってこれらの巨星、なかんずくベテルギュースの[#「ベテルギュースの」は底本では「ベルギュースの」]光を吸収するガスは太陽の光球雲よりも低温度にあることを推定することができる。しかしこれらの異常に巨大な星の輻射層の温度が太陽のそれよりも低いとは限らない。むしろこの場合には多分それと反対であって、その外側のガス被層の低温なのはこの光を吸収するガス体の比重の大きいためであるらしく思われる。
英国人G・H・ダーウィン(G. H. Darwin)がその古典的名著中に述べたように、遊星系の進化には潮汐の作用が多大の影響を及ぼしたに相違ない。彼の証明したところによると太陰は昔は多分地球から著しい近距離にあってしかしてこの両者は一つの運動系として四時間足らずの周期で回転していたものである。これがために潮汐作用は非常に強かったので地球の回転周期は次第に延長され、その際に消失する回転のエネルギーの一部は、太陰を徐々に現在の距離に持ってゆくために使われた。これと同様なわけで、太陽もその進化の初期に、まだその直径がずっと大きかったころにはその潮汐作用によって諸遊星に甚大な影響を及ぼしたであろう。なぜかと言えばこの作用の強さは直径の三乗に比例するからである。
この作用のために太陽も諸遊星もその自転速度を減じ、また諸遊星と太陽間の距離も変ったであろう。火星の衛星のうちでフォボスと称するものはその軌道の周期が火星の自転周期よりも短い。これは特異な現象であるが、ダーウィンはこれを次のように説明した。すなわち、火星の自転周期は以前は――ラプラスの仮説の通り――フォボスの公転よりも短かったのであるが、しかし太陽の潮汐作用のために長くなって、今では二四時間三七分となり、フォボスの周期七時間三九分に対して著しい長さになったというのである。土星の輪についても同様なことが言われる。この輪の最内側の微塵環の回転周期は五・六時間くらいであるのにこの遊星自身のそれは一〇時間と四分の一である。普通の仮定からすると、土星の太陽からの距離は余りに大きすぎるので火星の場合と同様な説明はここには適用されない。しかし、この最内側の土星環はだんだん遊星に接近したためにその回転速度を増したということも可能ではあるまいか。もし遊星にわずかな雰囲気の残余があってこれと環物質との間に摩擦があるとすれば、こういうことになったかも知れない。これはラプラス自身既に暗示したことであるが、後にウォルフ(C. Wolf)がこの説を継承した。
前に述べた通り、ラプラスの仮説の当面の難点は、この説によると、カントの場合も同様に、諸遊星の回転方向が太陽のそれと反対になり、いわゆる逆転とならなければならないと言うことである。ピッケリングはこれに対して次のように考えた。すなわち、すべての遊星は初めには実際逆転をしていたが(注)、しかし太陽の潮汐作用のためにこの運動を減殺され、ついにはいつも同じ側を太陽に向けるように、すなわち、右回りの回転をするようになり、その自転周期は公転周期と同一になった。その後に諸遊星がだんだん収縮したためにその自転が加速されるに至ったというのである。最外側の二遊星海王星と天王星とは太陽から余りの遠距離にあるために太陽の潮汐作用も非常に弱く、従ってこの作用が十分の効果を遂げないうちに収縮してしまい、ついに全くこの作用を受けなくなってしまったものである。これらの遊星の質量はその次の遊星すなわち土星の約六分の一にすぎないくらいであるから、その冷却もまた土星に比べてはるかに急激であったはずである。そういうわけでこの二星は一般の規則に外れたものとなった。土星については、その衛星中九番目のものヤペツスまでは右回りである。これは土星から三五〇万キロメートルの距離にある。これに反して、ピッケリングによって発見された第一〇番目の衛星フォエベは、これよりも三倍半の距離にあってその回転は逆転である。ピッケリングは、この衛星は土星自身がまだ逆転をしていた時代にできたものであろうと考えた。しかしこれの離心率が大きいこと(〇・二二)から考えるとむしろこれはこの遊星系の彗星に相当するものであって、この付近の星雲物質が既によほど稀薄になった頃になって土星の引力の領域に入り込んだものであると、こう考えた方がもっともらしく思われるのである。木星の衛星でもやはり一番外側のは逆転であるがそれ以内の遊星の衛星はすべて一般の規則通りである。
(注) 我々の説からみれば、最初の回転方向は、外界から侵入した最初の凝縮核の運動次第で任意なものと考えられる。
この章で述べてきた諸発見の大部分は、我々の太陽系以外の天体に関するものであった。強度の望遠鏡が使用されるようになり、ことに分光器(一八五九年以後)の助けを得るようになってから始めてこれらの極めて遠隔した物象の特異な性質に関して立ち入った研究をすることが可能となったわけである。それだのにデモクリトスは紀元前四〇〇年の昔既に銀河の諸星は我らの太陽と同様なものだと考えていた。また近世の初期にジョルダノ・ブルノは恒星を太陽としてその周囲を回る遊星を夢想していた。彼らがこういう考えを抱くに至ったのは、すべての科学者の研究に際して指針となる信念、すなわち、比較的未知なるものも、根本的には、我々の手近で詳しく研究されたものと同様であるという信念に追従したまでである。その後の経験はデモクリトスとブルノの考えの正当であることを示すと同時に、また上記の自然科学根本原理が一般に正しい結論に導くものだということを示した。それで諸恒星は我らの太陽と同じようなものであるが、ただあるものは我らの日の星より大きく、あるものは小さくまたあるものはもっと高温、あるものは寒冷なのである。
しかし、ハーシェルの発見したように、彼の研究した星雲中の多くのものは種々な点、たとえばその光やまたその広がり方において太陽とは相違している。これらの星雲は遠く広がった稀薄なガス塊から成り立っているのであるが我らの太陽系にはこれに類似のものは一つも存在しない。しかし彼はこれら星雲を他の類似の形成物と比較研究した結果として星雲と太陽との間の過渡形式と見られるべきものの系列を発見し、そこから、これらの多様な形式は天体の変化における進化の段階を示すものであるという結論に達した。
ラプラスの有名な太陽系の起源に関する仮説はその基礎の一部を上記の研究においている。その後に得られた非常に豊富な観測資料はすべての主要な点についてハーシェルの考えを確かめると同時に天体の本質に関する我々の観念を著しく明瞭にした。
疑いもなく我々は現在でもまだわずかに星の世界の知識の最初の略図を得たにすぎない。それで我々もまたデモクリトス、ブルノ、ハーシェル、ラプラス等と同様に、まだ研究の届かぬ空間も、根本的には、完備した器械の助けによって既にある度まで研究の届いた空間と同様であると仮定する外はない。多分将来における一層深い洞察の結果も、あらゆる主要の点においては我々の考えを確かめるであろうと信ぜられるが、またそれは同時に今日我々の夢想することもできないような新しい大胆な観念構成の可能性を産み出すであろう。そうして我々の知識は絶えず完成され、我々の考え方は先代の研究者の見い出したものから必然的論理的に構成の歩を進めてゆくであろう。皮相的な傍観者の眼には、一つの思考体系が現われると、他のものが転覆するように見えることが往々ある。そのために、科学研究の圏外にある人々からは、明解を求めんとする我々の努力は畢竟無駄であるという声を聞くことがしばしばある。しかし誰でも発達の経路を少し詳しく調べてみさえすれば、我々の知識は最初は目にも付かないような小さな種子からだんだん発育した威勢の良い大樹のようなものであることに気が付いて安心するであろう。樹の各部分ことに外側の枝葉の着物は不断に新たにされているにもかかわらず、樹は常に同じ一つの樹として生長し発育している。それと同様にまた我々の自然観についても、数百千年に亘るその枝葉の変遷の間に常に一貫して認められる指導観念のあることに気が付くであろう。 
宇宙開闢説におけるエネルギー観念の導入

 

ラプラスが太陽系の安定に関する古典的著述を完成して満悦の感に浸っていたときには、太陽は未来永劫不断にそれを巡る諸遊星に生命の光を注ぐであろうという希望に生きていたことであろう。彼には太陽系内における状態は常に現在とほぼ同様に持続するであろうと思われた。この偉大な天文学者も、また彼と同時代で恐らく一層偉大であったハーシェルでも、太陽の強大な不変な輻射に対して何らの説明を下そうとも思い及ばなかったのである。
しかし太陽の高温また恒星の灼熱の原因が何であるかという問題は十分研究の価値のあることである。既にアナキサゴラスは恒星の灼熱はエーテルとの摩擦によるものという考えを出している。更にライブニッツ及びカントは太陽の熱が燃焼によって持続されていると言明しており、またビュッフォンは遊星が灼熱状態から冷却してしまうまでの時間について注意すべき計算をしている。ラプラス自身でさえ、遊星を構成する物質は始めは灼熱されていて後に冷却したものだと仮定しているくらいである。
しかし、この種の観察が一つの安全な基礎を得るようになったのは、熱に関する器械的学説が現われて、前世紀の中ごろ、自然科学の各方面で着々成功を収めるようになってからのことである。この学説によれば、エネルギーもまた物質と同様に不滅である。物質の量の不変ということは、昔から宇宙進化の謎について考察したほどのすべての人によって暗黙のうちに仮定されたことであったが、一八世紀の終りに至ってラボアジェーによって始めて完全に正当なものとして証明されたのであった。
太陽は生命を養う光線を無限の空間に放散しているから、これによるエネルギーの消費を何らかの方法で補充しているか、さもなければ急速に冷却しなければならないはずである。しかし地質学者の教うるところではこの後者の方は事実と合わない。すなわち、幾十億年の昔から今日まで太陽の光熱はほとんどいつも同じ程度に豊富な恩恵を地球に授けてきたに相違ないと説くのである。それで、マイヤー(Mayer)はエネルギーの源の一つを隕石の落下に求めようという最初の試みをした後に、ヘルムホルツ(Helmholtz)が現われてこのマイヤーの考えを改良した。ヘルムホルツの考えでは、太陽の各部は次第にその中心に向かって落下するのでそのために熱が発生するというのである。この考えはこの問題の答解として最良で最も満足なものと考えられてきたが、現代に至って地質学上のいろいろの発見から、このエネルギーの源では到底不十分であるということが明白に見すかされるようになった(『宇宙の成立』第三章参照)。
この物理学的の問題は次第に多く注意を引くようになった。物体、特にガス体の、圧力並びに温度の変化に対する性能が次第に詳細に知られてくるに従って、天体の温度とその容積変化並びにその受取りまた放出する輻射によるエネルギーとの収支の関係もまた次第に精細に研究されるようになってきた。この方面に関する研究の中で最も顕著なのはリッター(Ritter)のである。これについては更に後に述べることとする。
天体の問題について、温度並びに重力の及ぼす純物理学的の変化に関して憶測を試みる際に、また一方で天体の諸成分間に可能な化学作用に及ぼす温度の影響に関する我々の知識をも借りてここに利用すれば本質的な参考となるわけであるが、我々は今正にそれをしようとしているのである。ヘルムホルツはただ純物理学的な過程のために遊離発生する比較的僅少なエネルギーのみを問題として、これよりはるかに有力な化学的過程によるエネルギーの源泉を閑却したためにそこに困難が残されていたのであるが、しかしこの場合における諸関係を十分に研究すれば多分この困難からの活路を見出すことができるであろう(これについては次章で更に述べる)。
重力の法則と物理的過程に際するエネルギー不滅の法則とを応用してどこまで行けるかということは、リッター(A. Ritter)のこの二原理を基礎とした非常に行届いた研究によって見ることができよう。彼はまた普通のガス態の法則がこの際適用するものと仮定したのであるが、しかし熱伝導と輻射とは余り重要でないものと見なしている。もっとも彼より八年前にレーン(Lane)がほぼ同様な研究をしているがこれはそれほど行届いたものではない。その後にケルヴィン卿(Lord Kelvin)や、シー(See)やまた特にエムデン博士(Dr. Emden 一九〇七)がこの問題の解決について有益な貢献をした。なかんずくこの最後の人のは数学的にこの問題を取り扱った大著であって、将来この方面の研究をする者にとって有益な参考となるものであろう。しかし物理的の点では彼の考えは余りリッター以上には及んでいない。輻射の影響については近ごろになってシュワルツシルト(Schwarzschild)の研究の結果がある。しかしここではただリッターの研究の主要な結果を述べるに止めようと思う。
リッターの考えでは、彼の仮定したような法則に従うガス塊は、一般にある限界によってその外側を限られ、そこでは温度が絶対零度まで降下しており、そこから内側へ行くほどだんだんに温度が高まり、そうして各点における温度は任意のガス塊が前記の限界からその点まで落下したときの温度と精密に同一であるというのである。これを分りやすくするために地球雰囲気の場合を例に取って考えてみよう。今地球表面の温度を摂氏一六度(絶対温度の二八九度)とする。これは実際地球上の平均温度である。すると、リッターの仮定に従えば、雰囲気の高さは二八・九キロメートルということになる。なぜかと言えば、今一キログラムの水が一キロメートルの高さから落ちるとすればその温度は1000÷426すなわち二・三五度だけ上昇する。ところが空気の比熱は〇・二三五である。それで一キログラムの水を〇・二三五度だけ温め得る熱量は、一キログラムの空気ならば一度だけ温度を高めることができる。従って、一キログラムの空気が一キロメートルの高さを落ちるとその温度は一〇度高くなる(ここでは、リッターの考えに従って等圧の場合の空気の比熱を使って計算した)。それゆえに気温が絶対零度から二八九度まで昇るためには二八・九キロメートルの高さから落ちるとしなければならない。従って地球表面から測った雰囲気の高さはちょうどそれだけである、というのである。
雰囲気がもし水素でできているとしたら、その比熱は三・四二であるからその高さは四二一キロメートルとなるであろう。同様にもし雰囲気が飽和水蒸気とその中に浮遊する水滴とで成り立っているとしてもその気層の高さはかなり著しいものになるであろう。なぜかと言えば、こういう混合物の温度を一度だけ上昇させるためには、ただ蒸気を温めるだけでなく、その上に水滴の蒸発に要する熱を供給しなければならないからである。すなわち、あたかもこのような混合物の比熱が比較的大きいものであると考えればよいことになる。リッターも計算した通り、地面の温度が〇度であるとすると、水蒸気でできた雰囲気の高さは三五〇キロメートルとなる。それで実際の場合において空気中にはその凝縮し難い成分以外に水蒸気と雲とを含んでいるために雰囲気の高さは前に計算した二八・九キロメートルよりも二キロメートルだけ大きく取らなければならないことになる。
しかるに、リッターの言う通り、この結果は全く事実に合わない。隕石の観測の結果から見ると地上二〇〇キロメートル以上の高さで光り始める場合がしばしばある――この灼熱して光るのは空気との摩擦の結果である。北光の弧光は空気中における放電によるものであるが、これの最高点は約四〇〇キロメートルの高さにある。また近年気球で観測された結果では、約一〇キロメートルの高さから以上は気温はほとんど均等であって、上方に行くに従って毎キロメートル一〇度ずつの減少を示すようなことはない(注)。
(注) このように温度が均一になり始める限界の高さは赤道地方では二〇キロメートル以上、中部ヨーロッパでは一一ないし一二キロメートル、また緯度七〇度付近では八キロメートルである。
リッターは彼の計算と事実との齟齬の原因を説明するために、非常に高い所では空気のガスが、ちょうど下層における水蒸気のように、凝縮して雲となり、その結果として著しく雰囲気の高さを増しているものと考えた(注)。しかし今日では、この凝縮は零下二〇〇度以上では起り得ないことが知られている。すなわち、気球が到達し得られるような高さで、そして温度の上方への減少がほとんど分らなくなる高さなどよりははるかに高い所でなくては起り得ないはずである。気象学者の中でもこの現象の説明はまだ一致していない。私自身の考えとしては大気中の炭酸ガスと水蒸気またあるいはオゾンによる熱輻射とその吸収とがこの際重要な役目をつとめているものと信じている。
(注) ゴルドハムマー(Goldhammer)の計算によると、窒素では六二キロメートル、酸素では七〇キロメートルとなる。
リッターは、更に、地球を貫通する幅広い竪穴を掘ったとしたら地球中心での気温がどれだけになるかを計算した。もちろんその際重力は竪穴内の深さとともに変化し地球中心では〇となるということを考慮に入れて計算した結果は、竪穴内の地心における温度は約三二〇〇〇度ということになった。なお彼のその後の計算では地球中心の温度は約一〇万度となっている。これから見てもガス状天体では中心に近づくに従って温度が増すということが了解されるであろう。しかるに地球は表面から四〇〇キロメートル以上の深さではきっとガス態にあると思われるから、この場合のリッターの計算はある程度までは当を得たものと考えられる。もっとも地球内にあるガスの比熱は、リッターの計算に用いたガス比熱よりは著しく大きいに相違ないから、地心の温度は彼の得た値よりもむしろ低くなるはずであって、たとえ化学作用のことを勘定に入れてみても彼の値の半分にも達しないかも知れないのである。一方で地心における圧力はというと、それは約三〇〇万気圧と推定されている。
次に太陽に関する考察に移ることとする。太陽の最外層における重力は地球のそれの二七・四倍であるから、もし太陽の雰囲気が空気でできているとしたら、その温度は高さ一キロメートルを下る毎に二七四度ずつ増すはずである。しかるに太陽の外側の雰囲気は主に水素から成立し、しかも、地球上では水素原子が二つずつ結合して一分子となっているのに反して太陽では一つ一つの原子に分離されているのである。単原子状態にある水素の比熱は、太陽表面におけるような高温度に於ては約一〇ですなわち〇度における空気の比熱の四二・五倍と見積られている。従って太陽の最高層における温度は一キロメートル昇る毎に約六・五度ずつ降るわけである。ところが太陽の光を放出しているかの太陽雲の温度は約七五〇〇度と推定されているから、それから推算すると、この光った雲以上の雰囲気の高さは約一二〇〇キロメートルに達しなければならないはずである。それにもかかわらず、ジュウェル(Jewell)が、太陽光球雲外側のガスに於ける吸収スペクトル線の位置から算定した結果で見ると、これだけ高い雰囲気の及ぼす圧力はわずかに約五ないし六気圧しかないことになる。もしこれが地球の上であったとしたらこの圧力は二七・四分の一、すなわち約〇・二〇気圧となるはずである。それで、太陽の光雲以上のガスの質量は、地球表面から一二キロメートル、すなわち、一番高い巻雲の浮んでいるくらいの高さ以上にある空気の質量よりも大きくはないのである。
太陽上層のいわゆる色球クロモスフェア、すなわち、太陽光雲の上にあって水素ガスに特有な薔薇紅色を呈しているガス層の高さを日食の際に測定した結果は約八〇〇〇キロメートルとなっていて、上に計算した数値の六倍以上になる。すなわち、地球の場合と同様に雰囲気の高さはリッターの計算から期待されるよりは数倍も高いという結果になるのである。
太陽の最外層の温度が零度あるいはそれ以下に降るであろうという仮定もまた妥当ではないと思われる。そこでは強い輻射を受けているからそれほどまで冷却するということは疑問であろう。太陽雰囲気のこの部分には凝縮によって生じた微粒が恐らく多量に存するであろうということは、太陽板面の周縁に近づくほど光輝が弱くなることから推定される。すなわち、縁に近いほどそれだけ厚い気層を光が通過してくると考えられるからである。これらの微滴粒は太陽体の輻射によって熱せられ、かくして得た高温度をその周囲のガスに付与するであろう。この点では地球の雰囲気にも同様なことがある、すなわち、多数の塵埃の粒が太陽からの輻射を吸収して約五〇ないし六〇度の温度となり、そうしてその温度をガスに分与するのである。それで両者いずれの場合でも、温度が高さとともに減ずる割合はリッターの計算したよりももっと少なくなるわけであり、従って雰囲気の高さもリッターの数字が示すよりも数倍高いのが本当であろうと思われる。
さて再びリッターの研究に立ち帰るのであるが、彼は球状のガス体星雲の表面から内部へ進むに従って温度、圧力及び比重がいかに変化すべきかを計算した。この計算をシュスター(A. Schuster)が少しばかり改算したものを、私は『宇宙の成立』の一七九頁に紹介しておいた。その結果によると、もし太陽内部が原子の状態にある水素ガスからできているものとすれば、その中心には約二五〇〇万度という温度が存することになり、そこの圧力は八五億気圧、比重は八・五(水を一として)となる勘定である。もっとも同書に掲げた表は、もし太陽が現在の半径の一〇倍を半径とする星雲に広げられたとしたらその中心点の温度が二五〇万度になるはずだということを示しているのであるが、しかしそういうものが太陽の実際の大きさまで収縮するとその重力は一対一〇〇の比に増大し従って深さ一キロメートルに対する温度増加率もまたこれに相当する割合で増すべきである。しかるに半径がもとの一〇分の一に減ずるからこの質塊の中心における温度はもとの値に対して一〇分の一の一〇〇倍となる。すなわち、星雲のときの一〇倍になるはずである。太陽の中心以外の他の点についても同様のことが言われるので、従って収縮の際における温度増加の結果として温度は半径に逆比例することになるのである。しかるに太陽を構成するガスは甚だしく圧縮された状態にあるのだから多分簡単なガス法則には従わないであろうと信ぜられるので、この理由から太陽内部の温度はリッターの考えたほど高いものではないと思われる。彼に従えば、もし太陽が鉄のガスでできていると仮定するとこの温度は一三億七五〇〇万度となるのである。太陽の収縮によって起る温度上昇の結果多量の熱を吸収するような化学作用が始まり、それによって再び温度の著しい低下が惹起されるのであろうと考えられる。それでまずざっと見積ったところで太陽の温度を平均一〇〇〇万度くらいと見てもよいかと思うのである(注)。
(注) しかしエクホルム(Ekholm)はもう少し小さい値五四〇万度を出した。
さて前述の星雲のようなガス団塊が収縮すると、前述の通りその温度が昇る。そうしてその上昇の際に、ヘルムホルツの考えたように収縮に伴って離遊してくる熱量の大部分は消費されることになる。仮に何らの化学作用が起らないとしてみても上記の値の八一%は加熱のために割当てられ、一九%だけがわずかに外方への輻射として残ることになる。もっともここでリッターは水素二原子より成るH2について計算したのであるが、もし単原子のHだとすると輻射が五〇%に達することになる。この結果として言われることは、太陽は約五〇〇万年(後の場合ならば約一二〇〇万年)以上現在のままの輻射エネルギーを放出し続けることはできないということである。のみならず実際は太陽の輻射は過去において既に著しく減少したものと考えなければならない。もっともリッターももちろん地質学者の方では地球上における生物存在の期間に対してこれよりもずっと永い年数を要求しているということを承知していたであろうが、しかし彼もまた多くの物理学者と同様にヘルムホルツの考えた熱源が何よりも一番主要なものだと確信していたために地質学者らの推定の結果には余り重きをおかなかったのである。しかしその後に至って行われた諸研究の結果はかえって地球の年齢を地質学者の推定よりも更に長くするようなことになってきたのである。種々の地質時代に塩類の層が生成された際にそれがいかなる温度の下に行われたかに関するヴァントフ(van 't Hoff[#「van 't Hoff」は底本では「vant Hoff」])の研究があるが、その結果から見ても、またそれらの時代における珊瑚礁の地理的分布の跡から見ても、地球上の気温並びに太陽の輻射は当時と今とでそれほど目立つように変っていないということが証明される。それで太陽の収縮に際して生ずる熱よりも、もっと多量な、またもっと変化の少ない熱量を供給するような熱源をどこかに求めることがぜひとも必要になってきた。この熱源は多分太陽が徐々に冷却する際に起る化学作用に帰すべきであろう。この作用の過程は太陽星雲の収縮する際には逆の方向に行われたはずであるから、それから考えると、この後者の収縮はリッターが考えたよりももっと急速に行われたはずだということになる。太陽が他の太陽と衝突した後広大な星雲片から現状までに収縮するまでに要した時間は、もしその輻射が昔も今も同強度であったとすれば、やっと一〇〇万年足らずの程度になる。しかし太陽はそれがまだ星雲状の段階にあった際に外界からの輻射を吸収することによってばく大なエネルギーの量を蓄蔵したに違いない。後にこの太陽の平均温度が下降し始めるようになってからこのエネルギーが熱量の消耗を補給するために徐々に使用され、そのおかげで温度もまた従って大きさもまた輻射も非常に永い時間ほとんど不変に保たれてきたのであろう。これと同じわけでまた星雲状段階の継続時間もリッターの計算から考えられるよりもはるかに永いものであったということになるのである。
リッターは更に計算の歩を進めて次のような場合をも論じている。すなわち、ある我らの地球と同様に表面が固結した天体があって、その雰囲気の高さが甚だ高く、もはやその中での重力を至る所同大と見なすことができないような場合である。この場合の計算の結果は、その天体の固態表面の温度がある一定の値を越えるとその雰囲気はもはや一定の限界をもつことができなくなり、ガスは散逸してしまうということになる。この計算を水素ガスに適用した結果として、もし太陰に水素の雰囲気があるとすると、それはその温度が常に零度以下八五度よりも低い場合に限って保有され得るということになった。ところが太陰表面の温度は平均してほぼ地球のそれに等しくまた最も温かい所では一五〇度にも達するのであるから、従って太陰には水素雰囲気はあり得ないということになる。同様にしてまたリッターは太陰の表面には水も存在し得ないということを示した。同様なことはまた、太陰よりも著しく小さい小遊星についても当然一層強い程度に適用されるのである。
リッターのこの方面の研究には多数の後継者があった。中でもジョンストーン・ストーネー(Johnstone Stoney)とブライアン(Bryan)が最も顕著な代表者であった。彼らは分子の運動速度に関する器械的ガス体論の仮定を基礎とした。ストーネーの結果だと地球はその雰囲気中に水素を保有し得ないことになるが、これはあるいは正しそうにも思われる。しかし彼の意見ではヘリウムもまたその運動速度の過大であるために地球のような小さな天体には永住しかねるべきだというのであるが、計算の結果はストーネーのこの考えに余り好都合ではないように見える。もっともこれに対しては地球がはるかな過去のある時代に、今に比べてはるかに高温でありまた巨大であった時分に、ヘリウムが既に地球雰囲気から逸散してしまったであろうということも考えられないことではない。
衝突の効果に関するリッターの研究は甚だ興味のあるものである。既にマイヤー(Mayer)が示した通り、ある一つの隕石がたとえば海王星あたりの非常な遠距離から、初速零で太陽に向かって墜落してくるとすると、これが太陽表面に届いたときの速度は毎秒六一八キロメートルを下らず、しかしてそのために隕石の質量一グラム毎に約四五〇〇万カロリーだけずつのエネルギーを太陽に貢献する勘定である。従ってもしも二個の太陽が衝突するとすれば当然非常な熱量を発生する。そうしてこの熱がかくして生じた新天体の膨張に使用され得るわけである。リッターの計算によると、もし二つの同大の天体が初速度零で無限大の距離から相互に墜落すれば、その際に生じる熱はこの二つのガス団塊を元の容積の四倍に膨張させるに十分である。衝突後の膨張が甚だしくなれば全質量が無限の空間中に拡散されるのであるが、この程度の膨張を生ずるためには、この二つの各々の初速度が毎秒三八〇キロメートルの程度でなければならない。かような速度は恒星にしてはとにかく過大だと思われようが、しかしカプタイン(Kapteyn)が鳩星座中に発見したある小さな八等星の速度はこれより大きく毎秒八〇〇キロメートル以上にも達するらしい。またかの巨星アルクトゥルスの毎秒四〇〇キロメートルにしてもやはり前記の速度を凌駕している。それにしてもかような大きな速度はやはり稀有の例外であるかも知れない。しかるにもしも太陽が尺度の比にして現在の一〇〇倍の大きさであってこれが同様なガス球と衝突したのだとすれば、その初速が毎秒わずかに三八キロメートルだけあれば、その結果は全質量を無限の空間まで拡散させるに十分である。そうしてそれはリッターのいわゆる『遠心的』星雲を形成して次第にますます膨張を続けつつ徐々に空間中に瀰散するであろう。『かの螺旋形星雲と称せられ、通例斜向の衝突の結果生じたものとして説明されているものも、多分この遠心系の一種と見なしてもいいものであろう。』この天体は本来はすべての方向に無限に拡散すべきであったろう。しかしこれが拡散の途中で出遭う微粒子のために運動を妨げられ、そのために進行を止めてしまったであろうということも考えられなくはない。環状星雲の生成も多分これと同様なふうに考えてよいであろう。クロル(Croll)によると、二つの天体の衝突の際に太陽の場合ほどの熱の発生を説明するためには毎秒一〇〇マイル(七四二キロメートル)の速度を要することになっているが、リッターに従えば何もそれほどの速度の必要はない。これについては特に次の点を考慮してみれば分る。すなわち、太陽と同質量を有し、しかもその一〇〇倍の半径を有する一つのガス星雲があったとすれば、それは別の同様な天体と衝突しなくても、ただそれが現在の太陽の大きさまで収縮するだけで光輝の強い白光星となるに十分な高温度を得るということである。
さて、もしも二つの天体衝突の際における速度が前記の特別な値よりも小さかったとするとその場合にはいわゆる求心系が生じる。すなわち、生じたガス球は次第に収縮して一つの恒星に成るのである。リッターの説によると、このような星はある平衡の位置に対して周期的に膨張しまた収縮することがあり得るので、彼はこれによって変光星の光の周期的変化を説明しようとした。しかし、思うに、かような脈動は輻射放出の結果として多分急速に阻止されてしまうであろう。のみならず、かような星の光度の変化は通例リッターの計算から考えられるようなそう規則正しいものではないのである。それでこの点に関する彼の意見はついに一般の承認を得るには至らなかった。
リッターはまた遠心系中にも所々に密集した所はでき得るのであろうと考え、それらが小さな恒星として認められるようになるであろうと考えた。星団はこのようにしてできたかも知れないのである。実際またかの螺状星雲は大部分かような星団からできていると考えられる根拠はあるのである。最後にリッターの持ち出した問題は、銀河も恐らく同様に一つの遠心系から形成された星団でありはしないかということである。しかるにこれに対する彼の説では、もしそうであったとすると銀河系がその付近一体に存する物質の量の主要な部分を占めるということは不可能だということになる。すなわち、衝突後に一つの遠心系を生ずるために必要なような大きな速度を得るためには、彼の考えでは、この二つの互いに衝突するガス団はあらかじめそれよりもずっと大きな質量の引力を受けなければならなかったはずであり、またその後にもやはりその引力の範囲に止まっていなければならないのである。
リッターの研究によれば、二つの光を失った太陽が互いに衝突した際に遠心系が形成されるということは、双方の太陽が異常な高速度を有しているという稀有な例外の場合に限って確実に起るのである。ところが実際上、太陽系の一部分、多分はその小さい方の部分が遠心系を作り残る主要部分が求心系を作ったという考えに矛盾するような事実はどこにも見当らない。こういう経過の方が正常であるということは既にずっと前に特記しておいた通りである。すなわち、遠心系は求心系を中心として一つの螺旋形星雲を形成し、そうしてその求心系はちょうどラプラスがガス状星雲から遊星系への変化について詳細に考究したのと同じようなふうにして徐々に形成されてゆくのである。
リッターはまた我々の太陽くらいの大きさの恒星がその進化の種々の段階において経過してきた時間を計算した。それには四つの期間を区別した。その第一期は星雲期に相応するものである。従ってこの星の温度は比較的低くて初めはいわゆる星雲型のスペクトルを示し、次では赤味がかった光を放つ。ロッキャー(Lockyer)その他の諸天文学者も理論上の根拠からこの考えを共にしているが、しかし観測の結果はこれに相応しない。星雲は水素とヘリウムの輝線スペクトルを示す。しかしまた多くの恒星はこれらの輝線を示し、従ってこの星雲に近似しているが、ただしその色は赤ではなくて白光を呈している。それであたかも、リッターが必要と考えたような星雲と白光星との中間段階(赤色光を放つ星雲状恒星)が欠如していると言ったような体裁である。しかしこれは、たとえそういう過渡的の形式のものがあるにはあっても、それが非常にまれであるということかも知れない(『宇宙の成立』一六七頁参照)。リッターもまたこの中間期の長さが白光星から赤光星への過渡期に比べて比較にならぬほど短かったと考えている。――ベテルギュースのように著しく光の強い赤色の星もあるにはあるがしかしこの赤い色はこの星の雰囲気かあるいはその付近にある微塵の吸収によるものと想像される(『宇宙の成立』六四頁及び一六三頁参照)。――輻射がその最大値に達するまでの第一期間の長さは一六〇〇万年に亘ると考えられる。
その後にも温度は上昇してゆく――ただしその輻射面が急速に減少するために全体の輻射は温度が上ってもこれとともに増すわけにゆかない――そうしてついに最高温度に達する。この期間は比較的短くわずかに四〇〇万年である。第三期にはこの星の光力は続いて減じ温度は降るのであるがこの期間に三八〇〇万年が経過する。そうしてその次に最後の第四期としてこの星の光らない消えた状態が非常に永く継続するというのである。これらの計算はすべて、太陽の熱はその収縮によってのみ発生するという仮定に基づいたものであって、そうしてこの仮定は多分かなり本質的に事実に合わないものだと思われる。それは、この場合に一番重要な役目をつとめるものは恐らく収縮ではなくて化学的の過程であろうと思われるからである。
リッターの計算の結果では、太陽がある遊星と衝突しても、それが既に光の消えた状態にあった場合にはそれによって再び新生命に目覚めるということはできないことになっている。それで遊星が太陽に墜落衝突することによって太陽系が再び覚醒するというカントの詩的な夢想は実現し難いようである。この有名な哲学者はこう言っている。『燃えない、また燃え切ってしまった物質、たとえば灰のようなものが表面に堆積し、最後にはまた空気が欠乏するために太陽には最後の日がくる。そうしてその火焔が一度消えてしまえば今まで全宇宙殿堂の光と生命の中心であった太陽の所在は永遠の闇が覆うであろう。いよいよ没落してしまうまでにはその火焔は幾度か新しい裂罅を開いて再び復活しようとあせり、多分幾度かは持ち直すこともあるであろう。これは二三の恒星が消失したりまた再現したりする事実を説明するかも知れない。』『神の製作物の偉大なものにさえも無常を認めたと言っても別に驚くには当らない。有限なるもの、始めあり根源あるもののすべてはそれ自身の中にその限定的な本質の表徴を備えている。それは滅亡――終局をもたなければならない。神の製作の完全性に現われた神の属性を賛美する人々の中でも最も優れたかのニュートンは、自然界の立派さに対する最も深い内察と同時に神の全能の示顕に対する最大の畏敬をもっていたのであるが、そのニュートンですら、運動の力学によって示された本来の趨向によってこの自然の没落の日のくることを予言しなければならなかった。』『永遠なるものの無限の経過にも、ついにはこの漸近的な減少の果てに、すべての活動が終熄してしまう最後の日が来ないわけにはゆかない。』
『さらばと言ってある一つの宇宙系が滅亡してもそれが自然界における実際の損失であると考えるには及ばない。この損失は他の場所における過剰によって償われるのである。』すなわち、カントの考えでは、銀河の中心体付近にある諸太陽が消燼する一方で、はるかに離れた宇宙星雲から新しい太陽が幾つも生れるので、生命の所在たる世界の総数は絶えず増加しようとしているというのである。それでも、カントにとっては、太陽とそれを取り巻く諸遊星がこの銀河の中央で未来永劫死んだままで止っていると考えるのはやはり遺憾に思われた。それは合理的な天然の施設の行き方と矛盾するように彼には思われるのであった。『しかしなお最後にここにもう一つの考え方があって、それは確からしくもあり、また神の製作の記述にふさわしいものでもあって、そうしてこの考え方が許されるのであったならば、自然の変化のかような記述によって生じる満足の念は愉悦の最高度に引き上げられるであろう。渾沌の中から整然たる秩序と巧妙な系統を作り出すだけの能力をもった自然が、その運動の減少のために陥った第二の渾沌状態から前と同様に再び建て直され最初の組織を更生するであろうと信ずることはできないであろうか。かつて拡散した物質の素材を動かしこれを整頓したところの弾条が、器械の止ったために、いったんは静止した後に、更に新たな力で再び運動を起すということはできないであろうか。――これは大して深く考えるまでもなく次のことを考慮してみれば容易に首肯されるであろう。すなわち、宇宙構造内における回転運動が末期に至って衰退しついには諸遊星も彗星もことごとく太陽に墜落衝突してしまう。するとこれらの夥しい巨大な団塊が混合するために太陽の火熱は莫大な増加を見るべきである。ことに、太陽系中でも遠距離にある諸球体は、我々の理論の証明した通り、全自然界中でも最も軽くまた最も火の生成に効果ある材料を含んでいるからなおさらそうである。』このようにして、材料の追加によって養われたために非常な勢いで燃え上る新しい太陽の火熱は、カントの考えでは、すべてを最初の状態に引き戻すに十分であって、これによってこの新しい渾沌から再び新しい遊星系が形成せられ得るというのである。もしこういう芸当が幾度も繰返して行われるものだとすれば、もっと大きな系、それに比べて我々の太陽系はほんの一部分にすぎないような銀河系でも、やはり同じようにして、あるいは静止しあるいはまた呼び覚まされて荒涼な空間中に新生命を付与するようになるであろう。『このごとくその死灰の中から再び甦生せんがためにのみ我と我が身を燃き尽くすこの自然の不死鳥(Phnix[#「Phnix」は底本では「Phonix」])の行方を時と空間の無限の果まで追跡してみれば、これらのすべてを考え合わせるところの霊性は深い驚嘆の淵に沈むであろう。』
当時はまだ器械的熱学理論は知られていなかった。それでカントはとうに太陽熱が燃焼(化学作用)によって保たれなければならないということをおぼろ気にでも予想していながら、一度燃え切ってしまった物質がまた何度も何度も燃え直して、幾度も新しいエネルギーを生ずるという仮定の矛盾には気がつかなかった。しかしこの美しい哲学的詩に物理学の尺度をあてがうのは穏当ではあるまい。カントでさえこの詩の美しさの余りにしばらくいつもの書きぶりを違えたのである。このカントの立派な創作は畢竟自然の永遠性に対する彼の熱烈な要求を表わすもので、しかもよほどまでは真理に近いものであるが、自然科学的批判の下にはいわゆる烏有に帰してしまうのである。我々がカントの宇宙開闢論の著述を賛美するのは物理学的見地から見てではなくて、むしろその企図の規模の偉大な点にある。この企図を細密に仕上げることはけだしカントの任ではなかったのである。
カントの考えをほとんどそのままに継承したのが心霊派哲学者のデュ・プレル(Du Prel[#「Du Prel」は底本では「DuPrel」] 一八八二年)である。彼はしかしこれをもう少しやさしい形で表現し、またカント以後における天文学の著しい進歩の成果をも考慮に加え、そうしてまたカントの素朴な目的論的の見方を避けた。しかし、消燼した太陽に遊星を墜落衝突させ、それによって太陽を復活させたことは同様である。彼はこう言っている。『冷却したこの宇宙の死骸が、ついにはエーテルの抵抗のために無運動状態に移りゆくべき中心系と合体するまで、空間を通して幽霊のような歩みを続けるであろうとは考えられない。むしろ星団形成の根原となるべき原始星雲は一つの星団のすべての星が合致したもので、それらの運動が熱と光に変化しその結果としてすべての物質が再び星雲状態となるような温度を生じたと考えた方がよい。――ここで我々は仏教徒のいわゆるカルパス(Kalpas)の輪廻を思い出さないわけにはゆかない。それは実に一〇〇万年の何十億倍というような永い期間であって、宇宙が一時絶滅しては幾度となく相い次いでそういう輪廻を繰り返すものである。』しかし、――デュ・プレルの説では――更に詳しく考究してみると、全宇宙が同時に静止してしまうということはないので、ある場所で生命の消滅した所があれば他のどこかでは見事な生命の花が咲き盛っているということが分る。『ペネロペが昼間自分の織った織物を夜の間に解きほごすと同様に、自然もまた時々自分の制作したものを破壊する。そうしてその織物を完成しようという意思があるかどうか我々にはうかがい知ることができない。』
『壊滅の後に各々の星では新しく進化が始まる。そうして、過去の彼方に退場する宇宙諸天体を引っくるめた全歴史は、地球上の我々の立場からは回想することもできぬ深い闇に覆われてしまう。そうしていつの日になっても、我々とは違った人種、我々よりももっと高い使命をもった生物が地球の遺産を相続するようなことはないであろうし、また人間のこれまでに成就した何物もそのままに他の者の手に渡ることはないであろう。』このデュ・プレルもまたメードラー(Mdler)と同様にプレヤデスの七星(Plejaden 昴宿)が、宇宙中心系であって、我が太陽はその周囲を回っているものとした。しかしこの考えは後にペータース(A. F. Peters)の研究の結果から全く捨てられなければならなかった。
『このように、宇宙間には、重力による運動から熱へ、熱からまた空間運動へと無窮に変転を続けている。その変遷の途中のいろいろの諸相が相い並んで共存するのを見ることができる。すなわち、一方には火焔に包まれた天体の渾沌たる一群が光輝の絶頂で輝いているかと思うと、また一方では凋落しかかった星団があってその中に見える変光星は衰亡の近づいたことを示している。またその傍にはもう光を失った太陽が最後の努力でもう一度燃え上りそうして凍結の運命を免れようとしているのが見られる。またある場所では輪郭の明白な星雲球の中に、もう既に最初の太陽の萌芽が見え始めているかと思うと、他の方面では精緻な構造をもっていた諸太陽系が、再び不定型のガス団となって空間に拡散されている。しかも、この「自然」の仕事はちょうどかのシシフォス(Sisyphus)のそれのように、いつまでもいつまでも始めからやり直しやり直しされるのである。』
デュ・プレルは星雲から遊星系へ、また星団への進化を考究するに際してダーウィン流の見方を導入した。我々の遊星系の諸球体は実に驚嘆すべき安定度を享有している。それは彼らの軌道がほとんど同心円に近く、従って相互衝突の心配がないからである。しかしちょうどこういう都合の良い軌道の関係をもたなかった遊星があったとすればそれらは互いに衝突を来たし、その結果はもっと都合の良い軌道をもった新しい天体を作るか、さもなくば、結局また太陽に墜落し没入してしまったであろう。このようにして、衝突の保険のつかないような軌道を動いていた遊星はだんだんに除去され、そうして最後に現在の非常に『合目的』な系統ができ上った。この系統の余りに驚くべき安定度から、ニュートンは、何物か理性を備えたある存在が初めからこれらすべてを整理したものだという仮定を必要と考えたのであった。このデュ・プレルの思考の経路は甚だもっともらしく見えるのであるが実はカントの考えに近代的で、しかも特に美しく人好きのする衣裳を着せたにすぎないのである。
デュ・プレルの考えはまたルクレチウスが次の諸行を書き残した考えにも通じるものがある(『物の本性について』De Rerum Natura 巻一、一〇二一―一〇二八)。
『まことは、原始諸物資は何らの知恵ある考慮によってそれぞれ適宜の順序に排列されたものではなく、また相互の運動に関しても何らの予定計画があったわけではない。これらの多くのものは様々に変化し相互の衝突によって限りもなきあらゆる「すべて」に追いやられ結び合い、あらゆる運動あらゆる結合の限りを尽くしつつ、最後に到達した形態と位置が、今の眼前の創造物としての森羅万象の総和である。』
カントやデュ・プレルの考えたように諸遊星が将来その運動を阻止する抵抗のためにいつかは太陽に向かって墜落するものとしても、ローシュ(Roche)が証明したように、太陽からの距離を異にする各部分に及ぼす重力の作用の不同なために、たとえば太陽近くまで来るかのビエラ彗星(Bielas Komet)のごとき彗星と同様に破砕されるであろう。この破砕に当って疑いもなく猛烈な火山噴出が起りその結果として、当時太陽は既に消燼していてもそれにかかわらず、砕けた破片は一時灼熱状態に達するであろう。しかしこの灼熱による光は多分弱いものであって我々の遊星系外からは望見することのできない程度にすぎないであろう。しかしもしそのときに太陽がまだ光を失っていなかったとしたら、遊星は熔融して灼熱された粘撓性の質塊となるであろうから、余り激烈な変動を起さずに楽にその破片を分離することができるであろう。いずれにしても破砕された遊星は隕石塵のように静かに太陽に落下するので、そのために太陽の物理的状態に著しい変化を生じるようなことはないであろう。それで我々はカント並びにデュ・プレルの開闢論を嘆美はするが、その物理学的根拠を承認するわけにゆかない。彼らの体系は彼らが考えたとはどうにか違ったふうにして実現されなければならない。 
開闢論における無限の観念

 

以上の諸章では主として科学的な方面の問題を論じてきたが、ここでは少し方面をかえて、哲学的の問題、ことに無限の観念について述べようと思う。この問題の解釈については従来哲学者の貢献も甚だ多いのである。今、たとえばシリウスのごとき恒星がどれほど遠距離にあるとしても、それよりもなお遠い恒星がやはり存在する。そうして、もしある恒星が最遠で最後のものであると考えるとしても、その背後にはやはり空間のあるという考えが前提となっている。これはどこまで行っても同じことである。それで空間の際限が考えられないと同様にまた時の限界も考えることはできない。どれほど遠い昔に遡ってみても、やはりその以前にも時があったと考える外はない。同様にまた時の終局というものも考えることができない。換言すれば空間は無限であり時は永久である。
しかるに我々の思考力では無限の空間や無限の時間という観念を把握することがどうしてもできない。それでこそ人間はしばしば宇宙を有限と考え、時には初めのあるものと考えようと試みたであろう。これについては古代バビロニア人の考え方を挙げることができる。
空間は無限なように見えるけれども実は有限であり得るという意見は奇妙にもこれまでいろいろの人によって唱道された。その中に有名な数学者のリーマン(Riemann)のごときまた偉大な物理学者ヘルムホルツのような優れた頭脳の所有者もいた。地球が球形をしているために海面が曲って見え、数マイルの沖にある島を対岸から見ると浜辺は見えないで、高い所の樹の頂や岩などが見えるだけだということはよく知られたことである。しかし折々は大気が特殊な状態になるために島の浜辺までも対岸から見えるようになることがある。これは空気の密度が上層から下層へ増すその増し方が急なために光線があたかもプリズムを通るときのように曲るためである。このように気層密度の下方への増加が、特別な場合にちょうど好都合な状態になれば、地面に平行に発した光線が屈折されながら絶えず地面に平行しつづけ、そうして海面と同じ曲率をもって進むようになることも可能である。そこで、もしある人が地平線の方を見ようとすればその視線はぐるりと地球をひと回りする。そうして、言わば自分で自分の背中を眺めることができるわけである。もちろん実際は自分の姿を見付けることはできないであろうが、しかしこの人にとっては地球は、あるいは正しく言えば海面は、全く平板な、そうしてすべての方向に無限の遠方に広がる面であるように見えるであろう。
ここで我々は次のようなことを想像することができる。すなわち、光線が空間を通る際になんらかの原因で屈折するとする。そうしてたとえば真上を見ようと思うときにその視線は真っ直ぐに無限の上方に向かわないで地球のまわりに彎曲するために地球の反対側を見るようになる。もちろんこの場合でも我々は実際視線上に地球を目撃することはできないであろう。なぜかと言えば地球の反対側からの光が、そうして我々の目に達するまでに経過する道程は、我々の見るいかなる恒星の距離よりも遠いからである。しかしともかくもこの際光線が描くと考えられる円上の最も遠い点よりももっと遠くにある恒星はいかにしても我々に見えないであろうということはこれで容易に了解されるであろう。
かように我々はある一定の距離――もちろん非常に大きいがともかくも有限な距離――以内にあるような宇宙の一部分だけを見ている場合でも、我々のつもりでは、地球上からすべての方向に真っ直ぐに無限の空間をのぞいているように思われるであろう。それで、我々は空間が無限であると主張することはできないはずである。少なくとも我々の知覚の可能の範囲内ではそんなことは言われないわけである。
ヘルムホルツの考えによればここに考えたような可能性が実存するかどうかは天文学者の手によって検査することができるはずである。しかもこの考えは実際上恒星の観測とは符号し難いのである。しかしこのような検査は初めから不必要であろうと思われる。地球上でその表面に沿って光線の屈曲するのは、温度分布の関係から視線の上と下とで空気の密度と屈折率の差違のあるために生ずる現象であるが、光を運ぶエーテルの場合にはその密度や屈折率が光の放射方向に対していかなる向きにでも、少しでも不同を示すであろうと考えさせるような確証は一つも考えられないのである。それで、空間中で視線が徐々に曲るであろうという仮定は全く不自然なものである。従って、この考えは前世紀の中ごろしばらくの間は非常な注目をひいたけれどもその後は全く捨てられてしまった。ことにこの考えは科学的見地から見て新しいものを生み出すという生産能力が欠けていたからである。これに関して興味をもつ人はデンマーク人クローマン(Kroman)、米人スタロ(Stallo)並びに有名な仏国数学者ポアンカレ(Poincar)の著書を見ればこの問題に関する総括的批判的の研究を見い出すであろう。ここではただこの古い考えの筋道だけを述べるに止めておく。
恒星の数が無限であるかどうかということも昔から論争の種であった。アナキシマンドロス、デモクリトス、スウェデンボルク及びカントはこれが無限であると考えた。しかしもし恒星がほぼ一様に空間中に分布されており、そうして我々の太陽付近に甚だしく集中しているのではないとしたらどうであるか、その場合には満天が恒星と同じ光輝で、多分太陽よりも強い光輝で照らされ、そうして地球上のすべてのものは焼き尽されてしまうであろう。我々の観測する諸恒星の温度は一般に太陽より高いのであるが、すべての天体の平均温度がそうであったとしたら、かくなる外はないのである。しかるに実際は地球が焼き尽くされないで済んでいるのはなぜか。この理由は二通りだけ考えられる。まず、恒星は我々の太陽の付近だけに集中していて、空間の彼方に遠ざかるほどまれになっているのかも知れない。不思議なことには、大概の天文学者はこの甚だ非哲学的な考えに傾いているように見える。しかしこの考えは輻射圧というものの存在が認められてからはもはや支持されなくなった。それは、たとえすべての太陽恒星がかつて一度はある一点、たとえば銀河の中心の付近に集中していたとしても無限な時の経過のうちにはこの圧力のために無際限の空間に撒き散らされてしまったはずだからである。
それでこの第一の理由がいけないとすればもう一つの仮定による外はない。すなわち、輻射線を発している諸恒星に比べて非常に低温度で、またばく大な広がりをもった暗黒な天体が多数に空間内に存在すると考える。すなわち、寒冷な星雲である。これは外から来る輻射熱を吸収して膨張し、そうして冷却するという奇妙な性質をもっている。膨張する際に最大の速度をもっているようなガス分子は弾き出され、その代りにこの星雲内部のもっと密集した部分からのガス質量が入れ代わる。このようにして外方へ流出するガスは付近にある恒星の上に集められ、エネルギーはだんだん多くこの流出ガスに集積され、同時にエントロピーは減少するというのである([#「(」は底本では「。(」]『宇宙の成立』一七五頁参照)。
それでもはや無限空間中における恒星の数は無限であると考えるより外に道はないことになる。ところが、暗黒体に遮られ隠されているもの以外のすべての星を我々が現在知っているかと言うと決してそうではない。光学器械の能力が増すに従って次第に常に新しい宇宙空間が新しい恒星の大群を率いて我々の眼前に見参してくる。もっともこれらの恒星の増加は器械の能力で征服される空間の増加と同じ率にはならないでそれよりも著しく少ない割合で増してゆく。これは多分、少なくも一部は、暗黒体の掩蔽作用によるかも知れない。
物質界が不滅あるいは永遠であるという考えが、原始的民族の間にもおぼろ気ながら行われていたということは、彼らの神話の構成の中にうかがうことができる。一般に永遠の昔から存在する渾沌、もしくは原始の水と言ったようなものが仮定されているのが常である。この考えのもう少し熟したものがデモクリトス並びにエムペドクレスの哲学の帰結に導いたのである、ところが中世の間に、物質界はある創造所業によって虚無から成立したという形而上学的の考えが次第に勢力を得てきた。このような考えはデカルト――もっとも彼自身それを信じていたかどうかは不明であるが――にも、かの不朽のニュートンにも、またかの偉大な哲学者カントにも、またずっと後代ではフェイー(Faye)にもウォルフ(C. Wolf)にもうかがわれる。しかしともかくも物質はその全量を不変に保存しながら徐々に進化を経たものであるという主導的観念はあらゆる開闢論的叙説に共通である。それが突然に存在を開始したという仮定には奇妙な矛盾が含まれている。一体宇宙に関する諸問題を総てただ一人の力で解決しようというのは無理な話である。それで、ラプラスが、自分はただ宇宙進化のある特別な部分がいかに行われたかを示すにすぎないので、他の部分は他の研究者に任せると言っている、あの言葉の意味はよく分っている。しかしこういう明白な縄張りを守ることを忘れて超自然的な解説を敢てした人も少なくない。そういう人々は自然法則の不変(六九頁並びに注参照)という明白なスピノザの規準を見捨ててしまっているのである。スペンサー(Spencer)もこの点についてははっきりしていて『この可視世界に始めがあり終りがあるとはどうしても考えることはできない』と言っている(六九頁参照)。
(注) 大哲学者スピノザは一六三二年にアムステルダムに生れ一六七七年に同市で死んだ。彼の生涯の運命は彼時代以来文明の進歩がいかに甚だしいものであるかを証明すると思われるからここに簡単な物語を記しておこう。彼の両親はもとポルトガルのユダヤ人で、宗教裁判の追及を逃れてオランダに来た。この異常な天才をもった青年は当時のユダヤ教の教理に対する疑惑に堪えられなかったので、そのために同教徒仲間から虐待されていた。とうとう彼らはたくさんな賠償金まで出してうわべだけでもユダヤ教理を承認するように無理に説得しようと試みた。しかし彼はこの申し出を軽侮とともに一蹴したので、彼らはついに刺客の手で片付けようとさえした。そうして彼をユダヤ教徒仲間から駆逐したのである。その後は光学用のレンズを磨いたりして辛うじて生計を営みながら、彼の大規模の哲学的著述を創造した。
スペンサーがこれを書いたときには、既にエネルギー(当時は力と言っていた)の不滅説も、またラボアジェー(Lavoisier)の実験によって証明された物質不滅の法則も十分に承知していた。この物質不滅という考えは実はあらゆる時代に行われてきたのであるがしかしもとよりこれに関して何ら明瞭な考えはなかったのである。過去一〇年の間に、物質(重量で測られる)が破壊されることもあるいは可能ではないかという疑問が折々提出された。これに関する主要な仕事としては、ランドルト(Landolt)の行った二、三の非常に精密な実験がある。それは二つの物体が相互に化学的作用をする際にその全重量が果して不変であるかどうかを験しようというのであった。ランドルトは若干の場合に僅少な、しかし実験誤差よりはいくらか大きいくらいの変化を認めたのであるが、更に繰返し実験を続けた末に、この重量変化は単に見掛け上のものであり、実は化合作用の間に起る温度上昇が緩徐に終熄するためにそうなるのである。という意見に到達した。それで我々は十分完全な根拠をもって、化学者の多様な経験の結果は物質不滅という古来の哲学者の考えを確証すると明言することができるのである。
開闢論に関する問題を論ずるに当って物質が突然に成立したものと仮定する学者たちがいずれもその物質系統に時間的終局を認めないのは妙なことである。これは実に了解し難い自家撞着である。たとえば黄道の北側にある恒星の数は無限だが南側のは有限だと主張するのと同じくらい了解しにくい考えである。これに対してあるいは次のような異議を称える人があるかも知れない。すなわち、ある種の概念ではある一点からある一つの方向には無限を仮定するが、同点から反対の方向には全く継続がないと仮定する場合がある。たとえば温度は絶対零度から上方へは無制限であるのに、零度以下すなわち反対の方には温度は存在しない、これと同じことではないかというのである。
これに対しては次のように言われる。まず、負の方向に無限大の温度が存在するという仮定を含めるような温度の尺度を作ることは決して不可能ではない。それにはたとえば、摂氏零下二七三度から数えた温度の対数を取って、これを温度の示度とすればそれだけでもよいのである。しかし、また一方から考えると、温度なるものは分子のある運動に帰因するものと想像されており、負の方向へのある運動は正の方向への同じ運動と完全に同価値としなければならないので、この理由からして、絶対的無運動よりも以下の状態となるということは不可能である。これはちょうど負の質量というものを考えることができないと同様である。しかるに負の時(すなわち、過ぎ去った時)というものは考え得られるのみならずむしろ考えないわけにはゆかない。それだから、物質の未来における永遠性を口にしながら、過去におけるそれを言わないのは自家撞着の甚だしいものだというのである。
前に引用したスペンサーの所論の中にも言ってある通り、物質の創造を考えることが不可能なのと同様にまたエネルギー(力)の創造を考えることも不可能である。この点についても、自然科学によって諸概念がまだ精算されなかったころの哲学者の頭には曖昧な観念が浮動していた。デカルト、ビュッフォン、カントのみならず大概の古の開闢論者の著述の中にはエネルギーの不滅に関する暗い予感の痕跡といったようなものが見出されるのが常である。デカルト並びにカントは、太陽の灼熱状態が持続されるためにはどうしても何らかの火の存在が必要であることを述べている。そうしてこの火を燃やすには空気が必要欠くべからざるものと考えられていたのである。ビュッフォンはまた『やはり灼熱している他の諸太陽は我々の太陽から取っていると同じだけの光熱を送り返している』とさえ考えていた。すなわち、彼は一種の熱平衡を考えていたのであるが、惜しいことには、この関係についてこれ以上に立ち入った研究はしなかった。
この関係について始めてこれ以上の深い省察を仕遂げたのは前世紀の初めに現われた天才サディ・カルノー(Sadi Carnot)である。しかし彼の夭死のために彼の著述は一部分しか出版されず従って世に知られるに至らなかった。そうしてエネルギー不滅の原理はその後マイヤー(Mayer)、ジュール(Joule)、コールディング(Colding)によって再び新生に呼び覚まされ、そうしてヘルムホルツによって追究され完成されなければならなかった。注意すべきことはこの五人の中で最後の一人は数理的科学の十分な教養をもっていたが、いずれもとにかく職業的専門科学者ではなかったことである。カルノーとコールディングは工学者、マイヤーとヘルムホルツは医者、ジュールは麦酒醸造業者であった。それでこの発見に導いた根拠をよくよく調べてみると、それは主に哲学的なものであった。しかもこれらの新原理の開拓者等はその余りに自然哲学的な考えのために厳しい攻撃をさえ受けなければならなかったのである。科学者等はずっと以前から、熱が物体最小部分の運動に帰因するものであると考えていた。この考えはデカルト、ホイゲンス、ラボアジェーとラプラス、またルムフォード(Rumford)とデヴィー(Davy)によって言明されている。この考えに対立して、また熱は物質的なものであるという意見があった。器械的熱学理論の創立者は既にある度までかなり明瞭にこの理論構成の第一段階を把握していたのである。しかしカルノーの研究では熱機関の本性に関する考察が主要な役目を勤めている。その熱機関では熱が高温の物体から低温の物体に移ることによって仕事が成される。カルノーに従えば、一定の熱量が移動する際に、それが最大可能な仕事をするような具合に移動する場合には、その熱を伝える媒介物が何であっても、それには無関係に、ただその高温体と低温体の温度が不変に保たれる限りは、成される仕事の量はすべての場合に同一でなければならない。この原理はまた、『永久運動』(Perpetuum mobile)をする器械の構成は不可能である、という言葉で言い表わしてもよい。この言葉の中には、仕事というものは無償では得られないものだ、ということに対するこの工学者の堅い信念が現われているのである。マイヤーの論文の中には『虚無からは虚無しか出てこない』と言ったような文句がうようよするほどある。彼は頭から爪先まで仕事の実体性という観念に浸されていたのである。またコールディングは次のように言っている。『私はこう確信する。我々がここで有機界にも無機界にも、また植物界にも動物界にも、同様にまた無生の自然界にも出会う諸自然力は宇宙の初めから成立したのみならず、また創成当時に定められた方向へこの宇宙を進展させるために不断に今日まで作用しつづけてきたものである。』ジュールはある通俗講演の中で次のように言っている。『活力(vis viva)mv2/2 の絶対的絶滅は決して起り得ないということは先験的に結論することができる。何とならば神の物質に付与したこれらの力が人間の手段で滅亡させられたりまた創成されようとは考えられないからである。』四、五年後れて現われたヘルムホルツの論文は今日から見れば実に物理学上の第一流の業績と見るべきものであるが、しかしその当時最高の専門雑誌であったところの『ポッゲンドルフス・アンナーレン』(Poggendorfs Annalen)へ掲載を拒まれた。これで見ると、当時の人がこの著述の物理学的の重要な意味を認めなくて、単に哲学的な論説としか見なさなかったことは明白である。ところが、この研究は最近半世紀の間において物理学のみならず化学更に生理学の方向においても行われた非常に多産的な革命の基礎となった。これによってエネルギーの不滅、永遠から永遠へのその存立ということは、あらゆる未来へかけて確立されたのである。
奇妙なことにはこの科学の一分派の発達はそれ自身の中に永劫の原理に対する否定の胚芽を含んでいるのである。熱学理論の帰結としては、熱は自分だけでは(すなわち、その際仕事が成されない限りは)いつでも高温物体から低温物体に移るはずである。従って、宇宙進化の徐々にたどり行く道程としては、あらゆるエネルギーが分子運動に変ってしまい、そうして全宇宙の温度差は全く平均されるような方向に向かわねばならないはずである。もしそうなってしまえば、分子運動以外のあらゆる運動は停止し、そうしてあらゆる生命は死滅してしまう。それこそインド哲学者の夢想した完全な涅槃である。クラウジウス(Clausius)はこの窮極状態を『熱的死』(Wrmetod)と名づけた。もし宇宙が真にこの熱的死に向かって急いでいたとすれば、無限の昔から成立していたはずの宇宙は、その無限の時間の間に、既にこの状態に達していなければならないはずである。しかるに我々の日常の経験するところから見るとこの現世界はまだこの悲運に出会っていない。それで当然の帰結として永劫観念は根拠のないものだということになり、宇宙は無限の過去から存在しているのではなくて、初まりがある、すなわち創成されたものでありその際に物質もエネルギーも成立したものであるということになるのである。ケルヴィン卿もまたこの熱的死の学説に重要な貢献をしたのであるが彼はこれをエネルギーの『散逸』(Zerstreuung[#「Zerstreuung」は底本では「Zersteuung] Dissipation)と呼んでいる。これは器械的熱学論の基礎を成している永劫観念に全然矛盾するものである。それで我々は何とかしてこの困難を切り抜ける活路を求めなければならない。
宇宙がともかくもある進化をするということが疑いないことであって、しかもその進化が常に同じ方向に進行するとすれば、いつかはどうしてもその終局に達しなければならない。もし終局が来ないとすれば、それは、進化が最後の停止を狙っているのでなくて一種の往復運動のようなふうに行われているためだとする外はない。こういうふうな考え方の暗示のようなものが、もちろん甚だぼんやりしたものではあるが、既にデモクリトス(一〇三頁参照)にも、またカントにも見受けられる。カントは、燃え切った太陽が『渾沌と混淆する』ことによって、すなわち、太陽から放出された最も揮発性な最も微細な物質が、往昔の渾沌の死骸と思われる黄道光物質中に突入することによって『更新』するという考えを述べているのである。
カントは、次のような注目すべき考えを述べている。『もしもこのように創造物が空間的に無限であるとしたら、……、宇宙空間には無数の世界があり、そうして無終にこれらの住みかとなるであろう。』更にまた彼は、太陽が消燼してしまって、中心体(可視の星界にあると彼の仮定した)の周囲の諸世界は滅亡するが、ずっとそこから離れた遠方の所で再び生命を喚び覚まされ、かようにして生命の宿る世界の数は増すばかりであると言っている。『しかしかようにして死滅した世界の物質の始末は一体どうなるであろうか。かつて一度はこれほどまでに精巧な系統を整頓することのできた自然のことであるから、もう一度立上って、そうして、運動の消失したために陥ったこの新しい渾沌の中から甦生することも容易だろうと信じてもよくはないか。大して熟考するまでもなくこの考えは肯定されるであろう。』カントは、遊星並びに彗星が太陽に墜落衝突すればその際に生ずる高熱のために物質は再びあらゆる方向に放出される、そうしてその際に高熱は消失するので以前のと同種の新しい遊星系が形成される、というふうに考えた。これと同様にしていつか一度はこれより大規模な銀河系も衝突合体してそうして新たに作り直されるであろう。彼は、こういう過程は幾度となく繰り返され得るわけで、かくして『永遠な時を通じ、あらゆる空間を通じて至る所にこの驚異が行われるであろう』と信じていた。この大規模な空想には、しかし、物理学的の根拠が欠けている(二五一頁参照)。クロル(Croll 一八七七年)はこれに反して、原始的星雲が再生するためには消燼した二つの太陽が相互に衝突することが必要だと考えた。この考えはその後リッター、ケルツ(Kerz)、ブラウン(Braun)、ビッカートン(Bickerton)、エクホルム(Ekholm)等の諸学者によって追究されたのであるが、しかしこの考え方の帰結は、次のようになる。すなわち、全宇宙は結局『寒冷で暗黒なただ一塊の団塊になろう』としてその方へ歩みを進めているというのである。この必然の帰結を避けるためには、何か別に物質を離散させるような力を想像する必要がある。
この点について最も明瞭な意見を述べているのはハーバート・スペンサー(一八六四年)で、彼の考え方は次のようなものである。遊星系の進化には異種の力が協力していて、一方では物質を集合させ、他方ではこれを離散させようと勤めている。星雲から太陽、遊星及びその衛星へ推移するようなそういう特定の進化期間では、この集合させる方の諸力が勝っている。しかし、いつかある日には、この離散させる力の方が優勢を占めるようになり、そうして遊星系は、もともとそれから進化してきた昔の状態、すなわち稀薄な星雲状態に立帰るであろう。永い間集合的な諸力の支配を受けていた期間と入れ代って今度は離散的諸力の旺盛な永い期間が続く。『物質が集合すると運動の方は離散してしまう。運動が吸収され集積すると物質が飛散する。』『律動はあらゆる運動の特徴である。』スペンサーは明らかに、物質が集中する際はその相互接近のために位置のエネルギーが失われ、また物質が離散する際には再び位置のエネルギーが蓄積される。そうして運動のエネルギーではちょうどこれと反対の関係になると信じていたのである。ニーチェ(Nietzsche)もやはり同様な意見を述べたことがある。
スペンサーの所説は確かに大体においては正当である。しかし物理学者の方では、スペンサーの要求しているような離散的な力のいかなるものをも実際に見い出さなかったので、彼の言葉は誰も注意しないでそれ切りになっていた。しかし今日ではこういう力がよく知られている。すなわち、こういう力は主として爆発物類似の物体の中に蓄積されているのであって、こういうものが太陽内部の高熱高温のために形成されると考えられる。なおこれに加えて、星雲状態の時代においては稀薄なガス圏中の微塵が熱を吸収し、従ってその分子運動が増勢するためにこのガスは空間中のすべての方向に飛散する。そうしてそれが結局は近くにある重い質量、特に恒星のエネルギーを増すことになるのであろう。この過程は、何よりもまずいわゆるエントロピーの増大ということに主要な影響を及ぼすことになる。換言すれば、諸天体間での温度の平均を妨げ、そうして『熱的死』の到来を防御するという作用をするのである(『宇宙の成立』一七四―一九〇頁参照)。なおこれ以外にも、輻射圧なるものがあって、これも太陽から微塵を空気中に駆逐する作用をするのである。
エネルギー不滅という新しい概念を獲得した結果として科学者たちは全く新しいいろいろな問題を提供されることになった。まず、太陽が、あのようにエネルギーを浪費しているにも拘らず目立って冷却するような形跡を見せないのはなぜかという疑問を起さなければならなくなった。この疑問に対する答解としてマイヤーは早速、太陽の熱は太陽中に隕石の墜落することによって恒同に保たれるという仮定を出した。しかしこの勢力の源泉だけでは到底不十分であるということが、その後これに関して行われた討論の結果明らかになった(『宇宙の成立』六一頁参照)。ヘルムホルツはマイヤーの仮説に修整を加え、太陽の全質量がその中心に向かって落下する、すなわち、全体が収縮するために熱を生じると考えたが、これも同様に不十分である。このヘルムホルツの考えは通例、太陽が星雲のような状態から収縮してできたものであるというラプラスの仮説の最上の根拠とされているのである。しかしこの考えに従えば、太陽が現在のような強度で熱を輻射するようになって以来今日まで約二〇〇〇万年より多くは経過しなかったということになる。
しかしこれは、地質学者の推算に従えば、最古(カンブリア紀)の化石類が海底に沈積して以来今日までに経過したはずの時間と全然一致しない。すなわち、この方の推算では一億年ないし一〇億年かかったはずであり、そうして人類の出現以来約一〇万年たっているらしいのである。これが動機となって英国では地質学者と物理学者の間に激しい論争が起り、物理学者の中でも地質学者の方に加担する人々があった。この論争はしかし当然地質学者の勝利に終った。彼らがちゃんとした積極的な論拠を握っているのに対して、その反対者の方は、主として、太陽がかような事情の下にどこからどうしてそのエネルギーを得ているか了解ができないという消極的な論拠しか持ち出せなかったのである。私はこの問題に対する解釈の鍵として、一般化学作用はそれが高温で行われるほどますます多量の熱を発生し得るということを指摘しようとした。一例としてここに一グラムの氷の温度を零下一〇度から次第に高めてゆく場合にいかなる過程をとるかを考えてみる。零度になると融けて水になり、そのとき約八〇カロリーを消費する。一〇〇度では蒸発して約五四〇カロリーを消費する。更に高温になって約三〇〇〇度となると水蒸気は水素と酸素とに分解してそのために約三八〇〇カロリーの熱を使用する。しかるにこれだけでもう化学作用が終ったと考えるのは間違いであるかも知れない。何とならば、これ以上の高温度を得ようとしても我々の実験的手段では達することができないからである。しかし非常な高温度になれば水素も酸素も何十万カロリーを使用してそれぞれ原子状態に分解するであろうということは殆ど確実と思われるのである。そこで、原子というものはもはやそれ以上分解することのできないものである以上、これまでで、もうあらゆる化学的過程は終局したのだ、と多くの人は言うであろう。しかし科学はこれに答えて否という。原子はまた別に新しい結合を始めそうしてばく大の熱量を使用することになるかも知れない。ラジウムが不断に熱を発生するという事実をキュリー(Curie)が発見したのはようやく数年前のことであった。それ以来、ラジウム化合物はヘリウムを放出し、その際ラジウム一グラム毎に約二〇〇億カロリーの熱量を発生することが発見された。高温度においては、この過程がこれだけの途方もないエネルギーを消費して、逆の方向に行われなければならない。もっとも、この過程については極く最近にやっとその端緒を知ったばかりであるからこれに関してまだ十分明確なことは分っていないが、しかしともかくも、なお一層高温度においては、参与物質の毎グラムにつきなお一層著しく多量な熱量を消費するような化学作用が起るかも知れないということの蓋然性を否定するようなものは絶対に何もないのである。ラザフォード(Rutherford)及びラムゼー(Ramsay)の画期的な化学上の発見はこの方面の空想にかなり自由な余地を与えるものである。
放射性物質は常温では崩壊するが、高温度では、もしその崩壊によって生じた生産物が所要の分量だけ存在すれば、再びこれらの生産物から逆に合成される。温度が昇れば昇るほど、この崩壊の産物の量は減じ、そうして恰好な高温では殆どなくなってしまう。ストラット(Strutt)の研究によると、地表下約七〇キロメートルの深さにおいて達せられるくらいの比較的に低い温度において既にこういうことになるらしい。ストラットは地球の温度が内部に行くほど上昇する事実を、地球内に含有されたラジウムが徐々に崩壊することによって説明しようと試みた。彼は地殻を構成する普通の岩石中には一〇〇万立方キロメートル毎に平均八グラムのラジウムを含んでいるという結果を得た。そこで、もしも地球全体が平均してこれと同じ割合でラジウムを含んでいるとしたら、これが崩壊するために発生される熱は、地球が外方に熱を放出しているために失う熱の約三〇倍になる勘定である。ところが、ラジウムが地球の三〇分の一、すなわち七〇キロメートルの深さの最外層だけに含まれていると仮定するのもいかがわしいことである。それで、ずっと深い所へ行って、もしもそこにラジウムの崩壊産物が十分多量にあれば、それからラジウムが合成されるかも知れないという蓋然性も考慮に入れないわけにはゆかなくなる。上記の深さでは温度は約摂氏二〇〇〇度くらいである。もちろんまたある温度ではウラニウムもまたその崩壊産物――ラジウムもその一つであるが――から形成せられるであろう。こう考えてみると、摂氏六〇〇〇度以上の温度にある太陽の可視的な部分にラジウムの存在が見い出されないという事実もそう不思議とは思われなくなるのである。
ウラニウムは、常温では、その崩壊産物から目に見えるほど合成されるようなことはなくて、ラザフォードの測定した速度、すなわち、一〇億年で半減するような割合で崩壊してゆく。ラザフォードは、これから、一グラムのウラニウムから七六〇ミリメートルの圧力と零度におけるヘリウム一立方センチメートルを生ずるには一六〇〇万年かかるという結果を得た。ところがある鉱物フェルグソニート(Fergusonit)を調べてみるとその中に含まれたウラニウム一グラム毎に二六立方センチメートルずつのヘリウムが含まれている。これから計算してみると、この鉱物中のウラニウムは一六〇〇万年の二六倍、すなわち、四億一六〇〇万年の間崩壊をつづけてきたことになる。それでこの鉱物が地球内部から放出された灼熱した質塊から形成されて以来、これだけの長年月が経過したということになるのである(『宇宙の成立』三八頁参照)。
急激な噴火によって太陽から空間中に放出されそうして冷却した放射性物質の質塊は当然甚だ豊富にその放射線を発射するであろう。そうしてその中には非常に急速に崩壊するような、従って、もし地球上にかつてはあったとしても、もうとうに変化してしまったために、我々には知られていないような、そういう放射性化合物もあるかも知れない。新星の現われたときにその周囲にある星雲状の部分で著しい光線の吸収が観測されるが、これは単にその新星から放出された帯電微塵によるだけではなくて、このように急激に崩壊する放射性物質の輻射によるものであろうという想像は必ずしも蓋然性がないとは言われない。
新星が発光出現する際に形成される星雲は空間中の諸恒星からの輻射を吸収することによって、その中のヘリウムを失う、そうしてこのヘリウムは宇宙微塵に凝着して、再びもっと密度の大なる部分へと復帰してゆく。この部分では物質の密度を増すためにその温度が高まり、そうして強度な放射性物質が再び形成される。放射性でない、しかし爆発性の物質についても、これと同様なことが行われる。かようにして、星雲は単に輻射圧によって太陽から運ばれてそこに到達する微塵やその他一切の太陽から放出された物質を集積するばかりでなく、また同時に太陽が空間中に送出している一切の輻射のエネルギーをも収集する。この微塵並びにエネルギーの量はその後次第に星雲の中心体に最も近い部分、すなわち、その内部に集合して高温度をもつようになるであろう。そこでこれらのものは法外なエネルギーの放射性ないし爆発性物体に変化し、そうしてこの星雲が太陽に成って、周囲から受取るよりも多量のエネルギーを失うようになってくると、そのときにこれらの物体は温度が徐々に降るにつれてだんだんに崩壊してゆく。しかしそのエネルギーの貯蓄がばく大であるためにその冷却を適宜な程度に限定し、そうして一〇億年、あるいは恐らく一〇〇〇〇億年という永年月に亘ってほとんど不変な輻射を持続させるのである。
以上簡単に述べたような具合にして、宇宙間のエネルギーも物質も、ほんの露ばかりでも消失するということはない。太陽の失ったエネルギーは星雲に再現し、次に星雲がまた太陽の役目をつとめる順番が来る。かようにして物質は交互にエネルギーの収入と支出を繰返して止むときはない。これには星雲のうちで寒冷な部分にあるガス体と、そこに迷い込んできた太陽微塵とが、太陽の輻射で失われつつある莫大なエネルギーを取り込んでいればよい。最近数年の間に我々が放射性物質の性質について知り得ただけから考えても、極めて少量な物質の中にでも非常に多量なエネルギーを包蔵し得るものだということがわかるのである。
それで、太陽の内部はこの種の熱を貯蔵する非常に大きな倉庫であると考えなければならない。これが冷却している間は、それが収縮している際とは反対の方向の化学作用が進行し、毎グラムにつき幾万億カロリーという熱量を発生する。ところが太陽がその輻射によって一年間に失う熱量は太陽質量の一グラムにつき二カロリーの割合であるから、今後もまだまだ万億年くらいは現状をつづけるであろうし、また過去においても、地質学者が地球上における生物の存続期間と認めている一〇億年くらいの間には、太陽の輻射はいくらも目立って変るようなことなしに永く現状を続けてきたであろうということは明白である。従って、カムブリア紀の化石に痕跡を残している既知の生物中で最古のものは、今日とはそう大して著しくは違わない温度関係の下に生息していたに相違ない。しかもこれらの生物が既にあれほどまでの進化の程度に達している所からみると、始めて単細胞生物が地球上に定住して以来カムブリア紀までに経過した歳月は、少なくも同紀から近代までのそれと同じくらいであると考えても差支えはない。もっと古い地質学的の層位中に埋没された諸生物は、いかなる化石も保存されなかったほどに一時的なものであったか、それともまた、それらの地層が数百万年に亘って受け続けてきた高圧あるいは高温、もしくはその両方の作用の著しいために壊滅してしまったかであろう。
以上述べてきたようなわけで、宇宙進化の道程はただひたすらに避くべからざる熱的死を目指して進むのみだと主張するケルヴィン及びクラウジウスの考えとは反対に、宇宙を構成する各部分は周期的に交互に変転することができるということが分ったと思う。それで次には、最近にこの問題の討論に際して発表された若干の意見がいかなるものであるかを注目してみようと思う。これには下に述べるような図示的方法を利用することにする。また無限の宇宙全体に亘って考察を延長することはできないから我々の観察の届く限りの部分について考えることにする。もっとも部分と言ったところで、その大きさはばく大なもので、それが星雲、宇宙微塵、暗黒体、及び諸太陽から組立てられている有様は多分宇宙の他の等大の部分におけると大した相違はないと考えられる。それで、この部分について得た結論は、殆ど間違いなく宇宙の他の部分のどれにも、従ってまた無限空間全体にも適用して差支えはない。そこでまず考究すべきことは、今考えている空間中の温度がその平均温度からいかなる程度までの異同を示すかという全偏差の算定である。たとえば太陽の平均温度が一〇〇〇万度であるとする。そこで眼に見られる宇宙の部分内の物質の平均温度が一〇〇万度であるとすれば、この平均からの太陽温度の開き、すなわち偏差は九〇〇万度である。この数値に太陽の質量を乗じた積が、上記の全偏差への太陽の分担額である。しかし厳密に計算するためには太陽を二つの部分に分けて考えなければならない。すなわちその一つは内部でその温度は一〇〇万度以上であり、もう一つは外側の部分でこの温度はそれ以下である。そうして、この各々の部分につき、その質量と、平均温度(一〇〇万度)からの偏差の相乗積を求め、そうして、その二つの積の一つは正の量、一つは負であるが、それには構わずにその絶対値の総和を求めるのである。
星雲、たとえばオリオン星座の剣帯にある大星雲のようなものについても同様な計算をする。星雲は低温であるからこの場合には、上記の相乗積は疑いもなく負号をもつであろう。このような計算をすべての恒星、星雲、遊星並びに空間内に漂浪している微塵や隕石について行った後に、かくして得られた相乗積の総和を求める、この非常に大きい和をAと名づける。挿図において0と記した点が現在を示し、従って過去への時間は負、未来へは正の値で表わされる。
そこでどういうことになるか。まずクラウジウス流の考え方を追究してみよう。エントロピーの法則によれば温度は不断に平均状態に近付こうとする傾向をもっている。換言すれば上記の全偏差は今日ではAであるが明日はこれより小さくなり、そうしていつかは、たとえば一〇〇〇万年の後にはBまで減ってしまう。その以後もその過程はますます進行するが、しかし現在に比べると温度差が小さくなっているためにこの均等への進み方は多分今よりは緩徐に行われるであろう。すなわち、時間とともにAの変化する状を示す曲線はB点ではA点よりも緩い傾斜を示すであろう。しかしともかくもこの曲線は下降し、そうして平均温度からの全偏差はますます減少し、数学者の言葉で言えば漸近的に極限値の零に接近してゆく。十分永い時間さえたてばこの偏差は任意の小さな数値となることができ、換言すればこれは無限大の時間の後には零に等しくなるのである。
今度は時間を過去へ遡ってみる。前記の理由からA曲線は過去においては現在よりも急傾斜で上っていなければならない。ある特定な時期、仮に一〇〇〇万年前において全偏差の値がCであったとする。それよりもまだまだずっと遠い昔に遡って考えれば、Aより大きくて、およそ考え得られる限りの任意の大きい値に達するであろう。すなわち、数学者の言い方をすれば、無限大の時間以前には温度偏差は無限大であったと言われる。しかしそうであるためには、我々の可視宇宙の若干の部分が無限大の高温度をもっていたとする外はない。従ってまたその可視宇宙の平均温度も、更にまたそのエネルギーも無限大の時間の昔にはやはり無限大であったという結果になる。これはそれ自体において考え得べからざることである。のみならず一方で我々はこの宇宙の部分内のエネルギーがいかに大きくともともかくも有限な値をもっており、またこのエネルギーの量が不変であるということを知っている。それゆえに非常に永い過去にあらゆる任意の大数値以上であったというはずがないのである。
それでこの仮説は到底持ち切れないものである。二三の科学者は次のようにしてこの困難からの活路を求めた。すなわち、過去における温度の不同は現在よりは大きかったとしても、その不同の減じ方が今よりは緩やかであった、と言うよりもむしろあり得る限りの緩やかさであって、挿図の曲線のDAの部分に相当するものであったと、こう考えることもできはしないか。そうだとすると、温度偏差の速度は、最初のうちは無限に緩やかで[#「緩やかで」は底本では「緩やで」]あるが、図のDの所で曲線はその当初の有限値からやや急に降り始め、そうして現在では更に急速度で進行しそうして次第に零に近よるであろう。すなわち、この世界は無限に永い間死んだような状態にあったのが、地質学上地層堆積物によって見当のつけられるような時代至って急に目覚ましい速度で進化し、そうしてその後は徐々に再び永遠の死の静寂に沈んでゆくというのである。しかしこれは第一常識的にも考えられないことであるのみならず、またあらゆる科学的考察にも背反する。そうしてクリスチアンゼン(Christiansen)の挙げた次の例に相当する。すなわち、ここに一塊の火薬が、永い間、見たところでは何の変化もしないで置かれてある。そこで、誰かがこの火薬に火をもってくるかあるいは落雷のためにこれが点火する。するとこれは一度に燃え上る。そうして以前にはあれほど極端に緩徐に行われていた変化は高温のために著しく速度を増し一秒の何分の一かの間に非常に急激な変化を完了する。その後数分間は、燃焼によって生じた物が空気中の湿気に接触するために緩やかな化学作用が継続するが、それが済めばもうこの進化は見掛け上終局する。この火薬の燃え上る一秒の分数は永久に対しては殆ど無に等しいもので、これがちょうど、我々がいくらかでも知っている宇宙進化の期間に相当するというのである。しかし熟考の末にこの説に賛成する科学者は恐らく一人もないであろう。この説にはなお次の困難がある。すなわち、化学者の教うるところでは、火薬は低温で貯蔵される際にも緩徐な変化を受け、到底実現し難い絶対零度に至って始めてその変化がなくなるからである。そうかと言ってまた、往昔は平均温度が非常に低かったために宇宙進化が非常に緩やかであったはずだと考えるわけにもゆかない。こういう仮定は全然根拠がないものである。これがためには証拠の代りに、クリスチアンゼンの言った通り『宇宙進化には本性未知のある作用が行われた』と仮定する外はない。『かような可能性は全然我々の経験の範囲外のものである。』こういうものを当てにしているわけにはゆかないのである。
エントロピーについてもまた同様な議論をすることができるし、またこちらが一層科学的に厳密な証明をすることができるが、ただ少し常識的に分りにくいだけである。宇宙進化に関してこれから得られる結果が全く前と同じになるということは容易に見通しがつくであろう。すなわち、我々の観察する宇宙空間部分の平均温度からの偏差は時間の経過に対して多分殆ど不変の値を保有してきたと思われる。太陽ではこの偏差は次第に減少するが、しかしそれは、一方でまた、星雲が恒星に変る際に起る温度上昇によって補充されるのである、同様なことはまたエントロピーの値についても言われる。すなわち、全体としては、この量もまたほとんど不変の値を保有するはずである。一方では太陽から寒冷な星雲への輻射のためにこの量は不断に増加しているが、他方ではまた星雲ガス中で最大速度を有する分子がこのガス団塊から逸出し、そうしてそれがもっと[#「もっと」は底本では「もつと」]密度の大きい物質集団の上に集積するために、不断に減少するのである。
上記のごとく限られた宇宙部分の中から更にまた太陽系のような一小部分だけを取り離してみると、その中での平均温度は決して恒同ではなくて、現在では降下の傾向をもっている。この降下は、最後に太陽が消燼してしまえば、非常に緩徐になるであろうが、いつかまたこの消えた太陽が衝突のために星雲に変るような日が来れば、そのときは今と反対に温度の上昇する状態に変り、その上昇は、新しい太陽期の成立後もなおしばらく継続するであろう。
それで、それぞれ個々の太陽系については、宇宙の進化は不断に前進また後退し、すなわち、周期的交代を示すというスペンサーの考えが適用される。もっとも、この交代し方は律動的とは名づけ難いかも知れない。それは、この太陽の世界における交代の周期は、分子の往復運動のそれと同じくらいに不規則だからである。この周期の長さ、またその変化の経路は、他の物体――太陽あるいは分子――との予測し難い偶然な衝突によって決定され、しかもその衝突の仕方によって、いちいちその後の進化が影響されるのである。
時間の概念の漸次に変ってきた道程は奇妙なものである。カルデア人が三、四万年の昔に既に天文学的観測を行ったはずだということをキケロが推算したのは前に述べたが、これから見ても、昔の人々は何の躊躇もなくこの世界が非常に古くから存立していたという仮定をしたことがわかる。インドの哲学でもやはり世界の存在に対して永い時間を仮定している。中世に至ってはこの考え方は全然すたれてしまった。ラバヌス・マウルス(Rhabanus Maurus)はその大著『宇宙』“De universo”(九世紀の始めころ)の中に次の意見を述べている。すなわち、今日山の上の高所に発見される化石類は三回の世界的大洪水に帰因するものであって、その第一回はノア(Noah)のときに起り、第二回目はオグ王(Og)の治下長老ヤコブ並びにその仲間の時代に起り、最後の第三回目はモーゼ(Moses)とその時代仲間のアムフィトリオン(Amfitryon)のときに起った、というのである(アムフィトリオンは伝説的人物でペルセウス(Perseus)の孫に当る)。すなわち、世界の年齢は甚だ少なく見積られているのである、スナイダー(Snyder)が『世界の機械』(“The world's machine”)の中に報告しているところによると、シェークスピア(Shakespeare)やベーコン(Bacon)と同時代の大僧正アッシャー(Usher)が、ユダヤの物語に基づいて算定した結果では、この世界は耶蘇紀元前四〇〇四年の正月の最初の週間に創造されたことになっており、この算定数は現に今日まで英国の聖書に印刷されているのである。ビュッフォンはまた、地球が太陽から分離したときの灼熱状態から現在の温度に冷却するまでの時間を約七六〇〇〇年と推定している。ところがバビロニアやエジプトからの発掘物を研究した結果から、これらの地方では西暦紀元前七〇〇〇ないし一万年ころに既にかなり広く発展した文明の存在したことが証明される。南フランスやスペインにおけるいわゆるマグダレニアン時代(Magdalenien-Zeit)の洞穴で発見された非常に写実的な絵画の類は約五万年昔のものと推定されている。そうして、確かに人間の所産と考えられる物での最古の発見物は一〇万年前のものと推定されている。第三紀の終局後ヨーロッパの北部を襲った氷河期よりも前、またその経過中において既に人類が生息していたことは確実である。そうして最後に地質学者等の信ずるところでは、約一〇億年以前から既にかなり高度の進化状態にある生物が存在していたのであり、また一番初めに生物が地球上に現われたのは多分それの二倍の年数ほども昔のことであろうというのである。それでインドの哲学者等が地球上における生命の進化について想像したような長い年数に手の届くのは造作もないのである。
ここで起ってくる最後の問題は、一般生命の存在を考えるに当って、この永劫の概念をいかに応用すべきかということである。一般の化学者の考えでは、生物は今日でも行われているような物理的並びに化学的の力によって地球上に生成されたことになっている。この点についてはこの多数の人の考え方は野蛮民の考え方(第二章参照)と格別違ったところはないのである。しかしまた生命は宇宙空間から地球上へやってきたものだという学説がある。この考えは既に北方伝説において多数の神々と一対の人間とがミーメの泉(Mimes Brunn)の側の林苑(すなわち、宇宙空間に相当する所)からこの地上に移住してきたという物語にも現われているが、この説には有名な植物学者のフェルディナンド・コーン(Ferdinand Cohn)やまた恐らく現代の最大なる物理学者ケルヴィン卿のような顕著な賛成者を得た。この説には従来確かに大きな困難が付きまとっていたのであるが、私は輻射圧の推進力によって生命の萌芽が宇宙空間中を輸送されたという考えを入れてこの困難を取り去ろうと試みた。この説にはまだまだ克服すべき多大の困難があるにもかかわらず、それが多数の賛成者を得るに至ったというのは、畢竟、ほとんど年々のように向う見ずの人間が現われて、萌芽なしに無生の物質から生物を作り出すことにとうとう成功したというようなことを宣言するものがある、それをその都度いちいちその誤謬を摘発し説明するのにくたびれ果ててしまったためと考えられる。この問題はちょうど半世紀前における『永久運動』の問題とほぼ同じような段階にある。それで現在の形における『原始生成』の問題は昔の『永久運動』と同様に多分科学のプログラムから削除されてしまうにちがいないと思われる。それで結局、生命は宇宙空間、すなわち地球よりも前から生命を宿していた世界から地球上に渡来したものと考え、また物質やエネルギーと同様に生命もまた永遠なものであると、こう考えるより外に道はほとんどなくなってしまう。しかし少なくも現在のままでは、この生命の永遠性の証明が困難であるというのは、物質やエネルギーの場合に比べて、一つの本質的の差別があるためである。すなわち千差万別の形における生命を量的に測定することができないからである。見ただけでは生命が突然死滅してもその代りの生命が現われたとは証明できないようなことが実際にあるからである。――ビュッフォンは『生命原子』の不滅性に関してこれとはまたちがった独特の意見を唱道した。
生命の量的測定と言ったような驚天動地の発見は恐らく将来もできないであろうが、しかし、もし、自然界の永久の輪廻の間には、いつでも、どこかに、生命に都合のよい、従ってともかくも生物を宿しているような天体があるであろうと考えれば、生命の永久継続ということの観念を得るのは容易である。この生命萌芽汎在説(Die Lehre von der Panspermie)はおいおいに勝利を博するに至るであろうと想像するが、もしそうなれば、それから引き出される種々の有益な結論は恐らく生物科学の発達上重要な意義のあるものとなるであろう。それはあたかも物質不滅の学説が近代において精密科学の豊富な発達に非常な重要な役目をつとめたと同様なことになるであろう。
この考えから今すぐにでも言われる重要な結論はこうである。すなわち、宇宙間のあらゆる生物は皆親族関係にあるということ、またある一つの天体で生命の始まる場合には、知られている限りの最も低級な形から始めて、そうして進化の経過につれて次第に高級な形に成り上ってゆくはずだということである。事情いかんにかかわらず生命の物質的基礎はたんぱく質であるに相違ない。それで、たとえば太陽の上にも生物があると言ったような考えは永久に妄想の領土に放逐されるべきである。
哲学者は一般に生命永久継続説の信奉者であり、自生説の反対者であった。これはよく知られたことである。それでここにはただ、自然科学のすぐ近くまで肉迫していたと思われるかの大哲学者ハーバート・スペンサーの前記の所説(六九頁参照)に注意を促すに止めておく。彼はこれと同様なことをまた別の所で次のように言い表わしている。『彼ら(生物は無生物体あるいは虚無から成立し得ると主張する人々)に懇願したいのは、一体いかなる筋道によって新しい有機物が成立するかを詳細に説明してもらいたい。しかも必ず納得のゆくように説明してもらいたいということである。そうすれば彼らは、そういうふうのことまではまだ考え尽くさなかったということ、また到底それはできないことに気が付くであろう。』
キューヴィエーは生命創造論ではあらゆる他の人よりも先へ踏み出している。すなわち、彼もドルビニー(d'Orbigny)と同様に、ある大規模な自然界の革命が、彼の考えでは火山噴出があってその際にあらゆる生物が死滅し、そうしてこの絶滅したものに代って新しい種類のものが創造されたと考えた。この考えは今では全く見捨てられてしまっているが、しかし近ごろフレッヒ(Frech)が指摘したように、この考えの中にもまた一つの健全な核がある。すなわち、火山噴出の代りにいわゆる氷河期と名づけられる大規模の気候変化を持ってくれば救われるのである。この時期に多種の動物や植物は絶滅したが、その後間もなく寒冷が退却したときに、その期間中に発達しあるいは生き残っていたような新しい形態のものが豊富に現われてこれに代ったのである。
有名なドイツ出のアメリカ人で生理学者のジャック・ロェブ(Jacques Loeb)は海水の塩基度について学者の注意を促し、ある地質学的時期にはこれが雑種生物の発生に強い影響を及ぼし、従ってまた、雑種から生成するものとしばしば考えられている新種の発生にも影響し得るということを指摘した。普通の海水中では Strongylocentrotus purpuratus と名づけられるウニの卵は Asterias ochracea という海盤車の精虫では受胎しないことになっている。しかし四パーセントの苛性ソーダ溶液を三―四立方センチメートルだけ一リットルの海水中に混ずると、その中では反対に雑種の生成が顕著に成功する。そこで、空気中の炭酸含有量が少ない時代には海水の塩基度は増すはずであるから、生物界が著しく衰退していた氷河期に新しい形態のものが生成されたであろうということは余り無稽な想像ではあるまい。このようにして、再び温暖な気候が復帰したときに、氷河期の退いた後に開放された生息所の上で、これら新種族間に言わば一種の生存競争場が開かれることになった。そうしてそのために生活に最も良く適応するような形態の著しい発達を促したことは言うまでもない。
生命萌芽汎在説の問題に筆をおく前に、ここでこれと連関して、最近の実験的研究によって釈明されるようになった若干の事柄に触れておくのも無用ではあるまいと思う。
生物が輻射圧の助けを借りて一つの遊星からずっと遠方に隔絶した他の太陽系中の一つの遊星に移るということが可能であるためには、太陽系の境界以外の宇宙空間が至る所低温であり、そのために生命の機能が著しく低下し、そうしてそのために幾百万年の間生命が保存されるということが必要条件である。マードセン(Madsen)とニューマン(Nyman)、またパウル(Paul)とプラル(Prall)とは、生命の消滅に対する温度の影響に関して多数の非常に注目すべき実験を行った。前の二人は種々の温度で脾脱疽菌の対抗力を試験したが、低温度(たとえば氷室の中)では幾日もの間貯蔵しておいても大してその発芽能力を失うようなことはないが、一〇〇度においてはわずか数時間でことごとく死滅してしまう。ここで注目すべき事実は、この場合における温度の影響は他の生活機能の場合とほとんど同程度であって、すなわち、温度一〇度を増す毎に変化速度は約二倍半だけ増すということである。前に私が低温度における発芽能力の寿命に関する計算をしたときにはこの関係を基礎としたわけである。
この実験は零度以上の温度で行われたのであるが、パウルとプラルの方の実験の一部は液体空気の沸騰点(零下一九五度)で行われた。そうしてスタフィロコッケン(Staphylococcen 一種の黴菌)の植物状のもの(胞子ではなく)を、十分乾燥された状態で使用した。これは室温においては、約三日間にその半数だけが死滅するのであるが、液体空気の温度では、その生活能力は四ヶ月たっても目に立つほどは減退しない。このことは実に、極度な低温(諸太陽系間の宇宙空間においてはこの実験よりも一層そうである)は生命の維持に対して異常な保存作用を及ぼすということの最も好い証拠である。
なお、永久運動と原始生成との比較は、もう一つの方面に延長することができる。経験的知識からの避け難い帰結として我々は、永久運動によって仕事をさせることは地球上並びに太陽系におけるような事情の下には不可能であると考える外はない。しかし同時にまた、マクスウェルの案出したこの規則からの除外例が、星雲という、ある点では諸太陽と正反対の関係にある天体では顕著な役目を勤めるということも考えないわけにはゆかない。それで、いかなる点から判断しても、原始生成は現在の地球上ではできないし、また多分かなりまで今と同様な条件を備えていたと思われる過去にもできなかったであろうが、しかしこの現象が宇宙空間中のどこかの他の場所で、著しく違った物理的化学的関係の下に起り得るかも知れないということも想像されないことはない。この測るべからざる空間の中には疑いもなくそういうところがあるかもしくはあったと考えられるのである。原始生成の可能な一点あるいは諸点があればそこから生命が他の生息に適する諸天体へ広げられたであろう。それでこの原始生成という観念も、こういうふうに考えさえすれば、無限に多数としか思われない諸天体の一つ一つに、それぞれに特有な生物の種子が皆別々に発生したと想像するよりはずっともっともらしくなってくるのである。
また一方ではこういうことも明白である。それは、宇宙はこれを全体として引っくるめてみれば、無限の過去から存在し、またすべて現在と同様な諸条件に支配されていたのであるから、従ってまた生命も、すべて考え得られる限りの昔においてもやはり存在していたであろうということである。
この最後の章で述べたことから分るように、科学上の諸法則(エネルギー並びに物質不滅則のような)が方式的に設定される以前既に、これらの法則は、それが意識された程度こそまちまちではあったが、いろいろの哲学者の宇宙観の根底となっていたのである。ここで多分こういう抗議が出るかも知れない。すなわち、そんなことならば、むしろ始めからこれらの哲学者の直観的な考えを無条件に正当として承認した方が合理的ではないか、それがあとから科学者によって証明されるのをわざわざ待たなくてもよいではないかというのである。それも一応もっともな抗議ではあるが、実際はこのように後日正当として確認された哲学的の主張と同時にまたこれと正反対の意見が他の主要な思索者等によって熱心に主張され抗弁されたのであるから、結局はこういう科学的の検証が絶対に必要であったのである。
のみならずこのような哲学的の考え方と、後日それから導かれた科学上の法則との間には実は大きな懸隔があるのである。たとえばエンペドクレスあるいはデモクリトスが、当時の一般の意見に反して、物質は不滅なりと説いてはいるが、しかしこれを、彼ラボアジェーの、ある金属が空気中から酸素を取って重量を増す際、その増加は精密に金属と結合した酸素の重量に等しいということを実証したのと比較すると、その間に非常な相違がある。のみならず、このラボアジェーの実験は化学者の日常不断の経験によって補足されるのであって、物質不滅の説から導かれた結論に頼ってさえいれば決して間違いの起る気遣いはないのである。
デカルト、ライブニッツ並びにカントが太陽の徐々に燃え尽くすことに関して行った哲学的考察も、やはりエネルギーは虚無からは生成し得ないという概念をおぼろ気に暗示してはいるが、これについても同様なことが言われる。しかしマイヤー並びにジュールの研究によって、ある一定量のエネルギー(たとえば仕事としての)が消失すると同時に必ず同一量がある他の形で(たとえば熱として)現われるということが実証されてからこそはじめて、太陽のエネルギーの量は輻射のために不断に減ずる。従って、もし何らかの方法で補給されない限り結局は全部消耗してしまうはずだということを、安心して主張することができるようになったのである。それより以前では、ラプラスやハーシェルのような明敏な人々でも、今日一般の人がただ日常の経験によって直観的にそう考えていると同様に、太陽の輻射は、何か変ったことのない限り、未来永劫今のままで減少することなく持続するはずだという考えになんらの矛盾をも感じなかったのである。宇宙過程の不断の革新に関するカントの意見は非常に賞賛すべきものである――一般にそういうことになっている――が、しかしその考えの筋道にはエネルギー不滅の原理に撞着するものがある。同様なことはまたデュ・プレルの甚だ興味ある仮説についても言われるのである。
宇宙の過程は繰り返すというこの観念は、カントの場合ではある倫理学的原理に基づいている。すなわち、彼はこの宇宙はいつまでもどこまでも生命ある有機物の住みかであるという観念の中に『安堵』を感じた。のみならず、彼の考えでは、太陽が永久に消燼してしまうということは円満具足の神の本性に矛盾すると思われるのである。――スペンサーはこれよりはもう少し客観的な見地から出発している。すなわち、宇宙進化の過程はある特定の規律に従って行われると仮定してかかった。彼は宇宙が無限の過去以来存在しており――カントは創造されたと信じたに反して――また終局をももたぬという近代的な見地に立っていた。彼が物質の集中する時期と散逸する時期とが交互に来ると考えたのはインドにおける静止と発達の両時期の考えを思い出させるものがある。スペンサーはこう言っている。『太陽系は可動的平衡状態にある体系であって、その最後の分布状態においては、かつて自身にそこから発生してきたようなもとの稀薄な物質になってしまうであろう。』しかし当時は拡散を生ぜしめるような動力としてはニュートンの重力以外のものは知られなかったのであるから、このような散逸がいかにして起ったかについては何も述べていない。もっとも、スペンサーも天体間の衝突に言及してはいるが、これがこの拡散現象に対して何らかの意義あるものとは認めていなかったのである。もし何らの斥力もなかったとしたら、すべてのものは集中してしまったであろう。
輻射圧の概念が導入され、またある特定の場合におけるエントロピーの減少が証明されるようになってから、そこで始めて、天体の発達に前進的と後退的の推移があるという、インドの哲学者等が悠遠な昔から既に夢みていた観念を徹底的に追究することが可能となったのである。
観念についても生物と同じようなことがある。たくさんの種子が播かれるがその中のほんの少数のものが発芽する。そうしてそれから発育する生物の中でも多数は生存競争のために淘汰されただわずかな少数のものだけが生き残る。これと同様にしてまた、自然界に最も良く適応するような考えが選び出されたのである。学説などというものはせっかくできてもやがてまた放棄されるにきまったものであるから、こういうものに力を入れるのは全然無駄骨折りであるというような説を時々耳にすることがあるが、そういう人は、ものの進化発達ということに盲目な人である。今日行われている諸学説も、以上述べたことから了解されるであろうように、往々最古の時代に既に存在したことの確証されるような意見に基づいていることがある。しかしこれらも、もとはおぼろ気な想像から徐々に発達して、次第にその明瞭の度と適用の正しさとを増してきたものである。たとえばデカルトの渦動説でも、ニュートンが出てきて、空間中には、あると言われるほどの分量の物質は存在しないということを明確に証明すると同時に見捨てられてしまったが、しかしデカルトの抱いていた考えのうちのいろいろのものが今日でもなお生存能力を保留している。たとえば太陽系の進化の出発点たる星雲の当初からの回転運動に関する考えなどがそれである。同様にまた遊星が空間中から太陽系に迷い込んできたものだという彼の考えは、迷い込んできた彗星が遊星の形式に参与しまた遊星の運行に影響したというラプラスの考えの中に認識され、また太陽星雲から諸遊星が形成される際にその牽引の中心となった物は外界から来たものだという前記の想像の中にも認知されるのである。
それで、開闢論の問題に関する理論的の仕事は無駄骨折りであるとか、あるいはまた、昔の哲学者のあるものの既に言明している意見がかなりまで真実に近づいており、従って近代の開闢論中に再現されているわけであるから、それ以上に進むことはないであろうとか、こういう臆断ほど間違ったものはないのである。それどころではない、最近におけるこの方面の研究の発達は正にいかなる過去におけるよりも急速度で進行した。科学研究は現在その盛花期にあって、いかなる過去における盛況でも到底これとは比較することさえできない有様であるから、これはもとより当然のことと言わなければならない。
顧みて過去数世紀の経過の間に人道の発達もまたますます急速な歩を進めてきたことを知るのは誠に喜ばしいことである。これについては既に少なからざる実例を挙げてきた。全体の上から見れば、万有を包含する自然界に関する諸概念は自由と人間価値とに関する諸概念と常に同時に進みまた停止したということは否み難い事実である。これは畢竟人類が進歩するにつれて、種々な方面の文化が全体にその領土を拡張するということに帰因するのはもちろんであるが、しかしまたここにもう一つの事情が関係している。すなわち、目の届く限りの過去において、一般に科学者というものが常に人道の味方としてその擁護に務めてきたからである。これは既に前に述べたファラオ並びに奇蹟を見せるその宮廷占星術者との伝説の中にも自ら現われているのである。
自然が我々に提供する進化の無限の可能性を曇らぬ目で認め得るほどの人々は恐らく、自分のため、またその近親、朋友、同志あるいは同国人のみの利害のために、詭計あるいは暴力によって四海同胞たる人類を犠牲にするようなことをしようとはしないであろう。 
訳者付記
スワンテ・アウグスト・アーレニウス(Svante August Arrhenius)は一八五九年にウプザラの近くのある土地管理人の息子として生れた。ウプザラ大学で物理学を学び、後にストックホルム大学に移ってそこで溶液の電気伝導度、並びにその化学作用との関係について立ち入った研究をした。一八八七年に発表した電解の理論は真に画期的のものであって、言わば近代物理化学の始祖の一人としての彼の地位を決定するに至ったその基礎を成したものである。その間にドイツやオランダに遊歴して、オストワルト、ヴァントフ、ボルツマンのごとき大家と共同研究を続行しながら次第にこの基礎を固めていった。ギーセン大学からの招聘を辞退して一八九一年故国スウェーデンに帰り、ストックホルム工科大学の講師となり、後にそこの教授となった。一九〇五年にはまたベルリンからの招聘があったがこれも断った。同年にノーベル研究所長となり、一九二七年一〇月二日の最後の日に至るまでその職を保っていた。これより先一九〇三年に彼はその業績のために化学に関するノーベル賞を獲たのであるが、その他にも欧米の諸所の大学や学会から種々の栄誉ある賞や称号を授けられた。
溶液の研究は言わば彼の本筋の研究であって彼の世界的の地位を確保したのもまたこの研究であったことは疑いもないことであるが、しかし彼の研究的の趣味は実に広くいろいろの方面に亘っていた。この訳書の原書に示された宇宙開闢論に関しては遊星雰囲気の問題、太陽系生成の問題、輻射圧による生命萌芽移動の問題、また地球物理学方面では北光の成因、気温に及ぼす炭酸ガスの影響、その他各種自然現象の周期性等が彼の興味を引いた。その外にも生理学方面における定量的物理化学の応用、血清療法の理論及び実験的研究などもある。思うに彼は学界における一つの彗星のようなものであった。
訳者は一九一〇年夏ストックホルムに行ったついでをもって同市郊外電車のエキスペリメンタル・フェルデット停留場に近いノーベル研究所にこの非凡な学者を訪ねた。めったに人通りもない閑静な田舎の試作農場の畑には、珍しいことに、どうも煙草らしいものが作ってあったりした。その緑の園を美しい北国の夏の日が照らしていた。畑の草を取っている農夫と手まねで押問答した末に、やっとのことでこの世界に有名な研究所の所在を捜しあてて訪問すると、すぐプロフェッサー自身で出迎えて、そうして所内を案内してくれた。西洋人にしては短躯で童顔鶴髪、しかし肉つき豊かで、温乎として親しむべき好紳士であると思われた。住宅が研究所と全く一つの同じ建物の中にあって、そうして家庭とラボラトリーとが完全に融合しているのが何よりも羨ましく思われた。別刷などいろいろもらって、お茶に呼ばれてから、階上の露台へ出ると、そこは小口径の望遠鏡やトランシットなどが並べてあった。『これで a little astronomy もできるのです』と言って、にこやかな微笑をその童顔に浮ばせてみせた。真に学問を楽しむ人の標本をここに目のあたりに見る心持がしたのであった。
この現在の翻訳をするように勧められたときに訳者が喜んで引き受ける気になったのも、一つにはこの短時間の会見の今はなつかしい思い出が一つの動力としてはたらいたためである。訳しながらも[#「訳しながらも」は底本では「訳しながも」]時々この二〇年の昔に見た童顔に浮ぶ温雅な微笑を思い浮べるのであった。
この書の翻訳としては先に亡友一戸直蔵君の『宇宙開闢論史』がある。これは久しく絶版となっているのであるが、それにしてもともかくも現在の訳がいろいろな点でなるべくこの先駆者と違った特色をもつようにして、そうして両々相扶けて原著の全豹を伝え得るようにしたいと思って、そういう意識をもってこの仕事に取りかかった。
一番当惑したことは原著に引用されたインドや古典の詩歌の翻訳であった。原書のドイツ訳が既にオリジナルから必然的に懸け離れているであろうと思われるのを、更にもう一度日本語に意訳するのではどこまで離れてしまうか分らないであろうと思われた。それでできる限り原書ドイツ訳を逐語的に、そうしてできるだけ原書の詩一行分はやはり一行に訳するように努めた。その結果は見られる通りの甚だ拙劣で読みづらいものになってしまったのである。読者もしこの拙訳と同時にまた一戸君の書に採録された英訳や同君の達意の訳詩を参照されれば、より明らかに原詩の面影を髣髴させることを得られるであろうと思われるのである。
古事記や道徳教やの引用もわざとドイツ語をなるべく直訳した。そうした方が原著者の頭に映じたそれらの古典の面影を伝えるからである。訳しているうちに、時々『訳者注』を付加したいという衝動を感じた。一方では一般読者の理解を便にするための科学的注釈のようなものも付けたいのであるが、それよりも一層必要に感じたことは、原著の最後の改訂以来物理学天文学の方面における急速な進歩のために原著中の叙説に明らかに若干の修補を加えるか、少なくも注釈を付けなければならぬと思う箇所が気づかれるのであった。たとえば宇宙空間における光線の彎曲についてはアインシュタインの一般相対性原理の帰結について一言する方がよいと思われ、また宇宙の限界やエネルギーの変転の問題についてもその後に行われたいろいろの研究の大要を補った方がいいと思われるのであった。しかし熟考してみると、こういう注釈を合理的に全部に亘って遺漏なく付けるということはなかなか容易な業ではなく、また到底現訳者の任でもないことが分った。のみならずこの原著の本来の主旨が、著者の序文にも断ってある通り、歴史的の系統を追跡するにあるのであって、決して最新の学説を紹介するためではないのであるから、むしろここで下手な訳者注などを付けることは断念して、その代りにできる限り原著の面影をその純粋の姿において読者に伝えることに心を尽くした方が、少なくも現在の訳者には適当であると考えた次第である。しかし結果においてはやはり訳者の力の足りないために、この実に面白い書物の面白さの幾分をも伝え得ないであろうということを考えて切に読者の寛容を祈る次第である。
若干の訳述上の難点について、友人小宮豊隆君の示教を仰いだことについて、ここに改めて感謝の意を表しておきたいと思う。寺田寅彦 昭和六年 
 
古事記の謎

 

■  1 息長足姫尊と仲哀天皇
はじめに
歴史はどこの国でもそうですが、統治者によって大きく書き換えられています。日本の歴史書である古事記も天武天皇時代に作られたものです。天武の天皇継承を正当化するために、大きく歴史が改ざんされたようです。支配者であった天武天皇が、自分の血統が正しい事を記録しておく事が必要だったのだと思います。
謀反を起こしても、勝てば英雄、すなわち王になり、負ければ犯罪人として処刑されるのは、中国でもそうでしたが、いつの世にも変わらないことです。
これから書くことは歴史書には載っていません。あくまでもハイヤーセルフから教えられたものです。今、学者たちが唱えている説とは大きく異なりますが、教えられたところを古事記(こじき)という作品と比較しながら書いていきたいと思います(so-net blogからの移動です)。

息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后になり、仲哀天皇亡き後、神功皇后として、日本書紀によれば201年から269年にかけて政り事を行ったとされています。また三韓を征服したと記紀(きき)では語られているのですが、歴史上は、未だ実在の人物かどうかも問題にされているようです。古事記では息長足姫命は仲哀天皇のところではじめて登場します。
ワカタラシヒコ(第十三代の成務天皇)の後を継いで大君になったのは御子(みこ)のワカヌケではなく、ヤマトタケルの御子のタラシナカツヒコ(第十四代の仲哀天皇)であった。十一代目の大君のイクメイリビコ(垂仁天皇)の娘のフタヂノイリビメを妻として産んだ御子で、前の大君(成務天皇)の御子ではない者が大君になるというのは初めてのこのとである。
この、十四代仲哀天皇の大君は穴門(あなと)の豊浦(とようら)の宮(今の下関)と筑紫(つくし)の訶志此(かしい)の宮(今の福岡、香椎の宮)に坐(いま)して、すなわち政所(まんどころ)設けて天下を治めていた。この大君がオオエの娘オオナカツヒメを妻として生んだ御子がカゴサカの君とオシクマの君の二柱(ふたはしら)であった。そして、オキナガタラシヒメ(息長足姫)を妻として生んだ御子がホムヤワケ、次にオオトモワケ、またの名をホンダワケ(後の応神天皇)の二柱であった。そして、息長足姫命が仲哀天皇の大后(おおきさき)になった。
この大后である息長足姫命は、大君と共に筑紫へ巡幸(じゅんこう)していたときであった。ある時、息長足姫命が神憑(かみがか)りなられた(息長足姫命は、巫女(みこ)、すなわちシャーマンとしての能力を持っていた)。ちょうどその時は、大君が筑紫の香椎の宮に坐(いま)して、熊曽(くまそ)の国を討とうとしている折りで、大君が琴を弾(ひ)き、タケウチノスクネの大臣(おおおみ)が沙庭(さにわ)に座して、神からの御託宣(ごたくせん)が降りるのを待ち受けていた(沙庭は斎場で神降ろしをする神聖な場所です)。
これが、古事記による息長足姫尊の皇后になるまでの記載です。
ハイヤーセルフから教えらたものを、息長足姫尊は、
1 アラハバキ一族の酋長であり、代々の酋長は女性が継いだようです。
2 息長足姫尊は、巫女(みこ)すなわち シャーマンでした。これは、古事記にも記載されています。アラハバキ一族は巫女を中心とした共同体であったようです。
3 南方系の顔立ちでした。アイヌ系の人に近い容貌だったようです。
4 乗馬が得意で、移動は馬を用いていました。騎馬民族の流れです。
5 兄と一つ上に姉がいました。お姉さんに娘が一人おりました。新潟県糸魚川市を流れる姫川の翡翠(ひすい)伝説になっている渟奈川(ぬながわ)姫でした。
6 仲哀天皇と言われている人は、息長足姫尊の兄であったようです。
7 アラハバキ一族はヴェジタリアンでした。
そして、次へ続きます。 
■  2 息長足姫尊、神憑り
古事記の中では、神功皇后が神憑(かみがか)りになります。
しばらくして、皇后に神が依(よ)り憑(つ)いて、お告げの言葉がその口からでてきます。
「西の方に国がある。金(こがね)や銀(しろがね)をはじめ、目の輝くばかりの財宝があふれるほどある。私は、その国をそなたに寄せ与えようぞ」
その言葉を聞いた大君は高い所へ登り、西を方を眺めてみたが、大きな海ばかりが見えるだけで、そのような国土は見えなかった。大君は、この御託宣は偽(いつわ)りであると言って、弾いたいた琴も片付けて、黙って座っておられた。すると、神はひどくお怒りになって、
「およそ、この天の下(しも)は、なんじの統(す)べる国ではない。なんじは黄泉(よみ)の国へまいるがよい」
と告げられた。それを聞いて、あわてたタケウチノスクネは、
「恐れ多いことでございます。わが大君よ、もう一度、御琴(みこと)をお弾きください」
と、すすめたので大君はしかたなくその琴を引き寄せて、いやいやながらに弾いていた。すると、それからいくらも経たないうちに、闇に響く琴の音が聞こえなくなった。神を依せる場所は薄暗いので、タケウチノスクネが灯りをともして、それを近づけて見ると、大君はすでにこと切れていた、と書かれています。
仲哀天皇は、古事記の中では、御託宣を信じないという理由で、すぐに他界するのですが、ハイヤーセルフから教えられたことも同様でした。
6 息長足姫尊のお兄さんであった仲哀さんは、早逝(そうせい)だったようです。息長足姫尊からは余り好かれていなかったようです。
7 神功皇后の母は、家津美御子(けつみみこ)でした(今の熊野本宮大社の祭神です)。カッコウ(閑古鳥)の託卵(たくらん)であるといわれました。家津美御子はヒグマ族の酋長で、スーダンからの人で、予知能力や雨乞いの能力を持っていたそうです。うどんが大好きな人だったようです。将来の酋長になる者は、母のもとを離れて特別に育てられたのかも知れません。
古事記が続きます。
仲哀天皇の葬儀を済ませ、大祓(おおはらい)を済ませて、タケウチノスクネの大臣(おおおみ)は沙庭(さにわ)に座り、再び神のお告げをうかがいます。すると、
「およそこの国は、そなたのお腹の中に坐す御子(みこ)が治める国である」
と、神のお告げがあります。タケウチノスクネが、
「恐れ多いことでございます。わが大神よ。皇后のお腹の御子は、いずれの御子ででしょうか」とうかがいます。
「男の子である」と、神は答えます。タケウチノスクネは、
「今、このように御神託(ごしんたく)を下(くだ)された大神はいずれの神であられるのか、その御名を是非お教え下さい」と願います。
「これは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御心(みこころ)である。また、われは底足筒男(そこあしつつお)、中足筒男(なかあしつつお)、上足筒男(うわあしつつ)の三神(さんじん)の三柱の神である。今、西方の国を求めようと思うなら、天津神(あまつがみ)、国津神(くにつがみ)、山の神、川や海の諸々の神々とに、ことごとく幣帛(みてぐら)、すなわち捧げものを奉れ。そして、我が御魂(みたま)を船の上に鎮座(ちんざ)させて、真木(ミズナラなどの依り代となる木)を燃やしたあとの灰を瓢(ひさご)に入れ、箸(はし)と柏の葉の皿とをたくさん作り、それらを海に散らし浮かべて進むがよい」と御託宣が降りた。
これが古事記の中で、息長足姫命がいよいよ三韓征伐へ出かける所です。 
■  3 息長足姫尊と三韓の王
神功皇后(じんぐうこうごう)は、神の教えのままに、軍を整え船を並べて大海へ出ると、大きい魚から小さい魚までが船底に集まり、船を背負うように進めていく。さらに、強い追い風が起こって、瞬く間に新羅の国へ到着した。それを見た新羅の国王は畏(かしこ)み、怖れで、
「これからは、大和の国の大君の仰せのままに、馬を育てる馬飼(うまかい)となり、年ごとに船を並べ、船の腹を乾かすことなく、船の棹(さお)や舵(かじ)を乾かすことなく馬を献上し、天と土のある限り永久にお仕えします」と言った。
それで、新羅の国を馬飼と定め、百済の国は海を渡った所の、糧(かて)を納めおく屯倉(みやけ)と定めた。そして、神功皇后は、手にした杖(つえ)を国王の宮の角地に衝(つ)きたて、そこに住吉の大神の荒御魂(あらみたま)を祀り鎮めて帰還した。
この新羅の国から帰還の途中で、お腹の御子が誕生しそうになった。皇后はこれを鎮めるために、裳(も)の腰の所に石を巻き付け、筑紫の国に戻り、無事出産をした。この御子が生まれた場所を宇美(うみ)という。また、その裳に巻き付けた石は、いまも筑紫の国の伊斗(いと)の村におかれてある(二丈町、鎮懐石(ちんかいせき)八幡)。
その後のこと、神功皇后は筑紫の末羅(まつら)の県(あがた)の玉島の里(今の松浦)に至り、その河辺で食事を取った。それは夏の始めで、ちょうど四月(うづき)の上旬であった。皇后は、河の中の岩の上に座り、衣裳の糸を抜き取って飯粒を餌にして年魚(ねんぎょ)、すなわち鮎を釣られた。生まれた御子のことや、今後のことを占ったものであった。この河を小河(おがわ)、その岩の名を勝門比売(かちとひめ)という。
それ以来、四月の上旬になると、女たちは衣裳の糸を抜いて飯粒(めしつぶ)を餌にして鮎を釣るのが習わしとなり、長くのこった(今の玉島川)。 
以上が古事記における神功皇后の三韓征伐と言われているところであり、応神天皇が誕生でした。この所は、いまだ歴史上疑問視されているところでもあります。
ハイヤーセルフからの教えでは、
息長足姫尊の結婚は、天孫降臨の神話とも関係していました。息長足姫尊は西日本のアラハバキ一族の酋長になっていました。東日本は、渟奈川(ぬながわ)姫が後を継いで酋長になります。渟奈川姫は今でも糸魚川の翡翠(ひすい)の里の伝説として語られています。
息長足姫尊が能登から若狭のアラハバキ一族を巡っている時、一人の人物が訪ねてきます。その人は手にキャベツ(甘藍、かんらん)をもって現れました。息長足姫尊には、それがどういう意味かわかっていました。プローポーズだったのです。そして、その人が名乗りました。「吾正勝勝速日天忍穂耳命(われまさかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」と。当時、三韓の王であった天忍穂耳命からのプロポーズでした。
天忍穂耳命は、お父さんはイギリス人で朝鮮半島へ亡命していたようです。お母さんはハングルの人でした。家津美御子のところへは、叶(かな)えて欲しいことがあって訪ねてきたことがありました。そしてまた、家津美御子は、吾正勝誉田別尊(われまさかつほんだわけのみこと)、すなわち応神天皇の誕生を予言していたようです。
ここで、三韓の王、天忍穂耳命とアラハバキの酋長であった息長足姫尊が結ばれました。そして、生まれたのが応神天皇です。誕生した場所が古事記にあるように筑紫であったと思われます。この話が、いつしか三韓征伐という形に改められました。神功皇后があっという間に新羅まで行ったのも不思議ではありません。戦いは無かったのですから。
この当時すでに、朝鮮半島、そして北は樺太から、南は琉球の島々を経由して日本の国へたくさんの人たちが、国際色豊かに到来していたようです。そして、天忍穂耳命が持参してきたキャベツ、これが日本への初到来だったのでしょうか。 
■  4 アラハバキとキャベツ
改ざんされた古事記ですが、隠しきれなかったことも、いろいろと残っているように思いました。
たとえば古事記の中で、新羅を馬飼いと名付けているのですが、ここに、アラハバキ一族が騎馬民族であったことが伺われます。海を越えて、どんどん馬を奉納しますというのは不思議な感じがします。
そして、王の宮の門の角に杖(つえ)を衝(つ)きさしたとあります。これは今現在、お地蔵さんの持つ錫杖(しゃくじょう)だったと思います。アラハバキ一族が錫杖を作っていたことですので、タタラ製鉄を行っていたことになります。錫杖で岩を衝き、その反射音を聞き分ける事は、水脈を見つける方法でもあったようです。
また、荒御魂を鎮めるとは、荒箒(あらははき)すなわち、アラハバキに通じるものです。
そして、鎮懐石を納めたところが伊斗(いと)、これは維斗(いと)のことで、北斗七星です。アラハバキが太陽神と共に信仰していた星座を教えているともいます。
また、筑紫の末羅(まつら)、ここは今の松浦であり、ここにはシャクシ島という島が有ります。まさに、これは柄杓(ひしゃく)の杓(しゃく)です。北斗七星をあらわしています。
そして、裾裳(すそも)の糸を引き抜いて飯粒で鮎を釣り、後のことを占ったと有りますが、アラハバキの一族はヴェジタリアンですから魚釣りはしません。飯粒は稲作を行っていたことであり、糸を紡(つむ)ぐ方法を持っていたのだと思います。
これらのことから、アラハバキという一族集団は、各地で自給自足ができる組織を持っていたことが伺えます。
そして、そこに新しい野菜がやってきました。天忍穂耳命の持参したキャベツです。中国では甘藍(かんらん)とよばれ、野菜と言うよりも薬草としても貴重なものでした。英語ではCABBAGE、フランス語ではCABOCHE(頭)で、キャベツの名はこのあたりから名付けられたようです。
中国の古典医学書である、千金方(せんきんほう)に、甘藍を長期的に食べると、、腎機能(じんきのう)が高まり、脳(のう)や、髄(ずい)を養う、とあります。腎は生体の水を司(つかさど)ります。生体の水、すなわち血液の浄化も含めて心身の浄化を助けてくれるところです。脊髄(せきずい)はチャクラの通り道ですから、まさに感情体の浄めです。シャーマンのみならず、一般の人々にとっても貴重な野菜だったのです。
三世紀頃に書かれたという素問(そもん)という中国の古典医学書に陰陽の調和について書かれています。
天は太陽を中心とした陽をあらわし、明るさ、温かさ、乾燥などが陽の性質とされています。大地は陰で、暗さ、冷たさ、湿気はどが陰の性質とされます。
人間は自然界のなかで、陰と陽の二つの性質を持って調和を保っています。自然界には、この調和を保つために気が天に昇り、雨となって地へ降るという大循環があるように、人体でも、気、血(水)、髄(感情体)の巡りを能くすることにより、陰と陽の調和を維持していると考えられていました。
人体にはこのような調節作用が整っているのですが、さまざまな因縁による生活、環境、そして食生活により、その調和は乱されます。それが病となります。維摩(ゆいま)は、病の根本は、四大((地、水、火、風)の陰陽の乱れで、すべて執着であると語りました(荘周菩薩品、「維摩、病を語る」を参照)。感情体の調和を乱すことが病につながることを語っています。荘子は、陰と陽の調和をはかっているのは徳であることを荘子書を通して教えてくれました。その徳を積むことが、虚静恬淡な境地に身をおくことでした。
この書の中に魂の作用する順番が記載されています。魂は人体に入り、命の門と呼ばれる腎に宿り、その機能が動き出します。そして、最後も腎の機能が衰えて、魂が去っていくとされています。水の役割の大きいことが述べられています。 
■  5 天忍穂耳命(一)
アラハバキ一族は菜食主義でした。息長足姫にとって、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の持参したキャベツは、かけがえのない贈り物だったのです。家津美御子の予言もあり、息長足姫尊はキャベツを以て現れる人を予知していたようです。
天忍穂耳命の誕生は、古事記の中では次のように書かれています。
須佐之男命(すさのうのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)を訪れたとき天照大御神は須佐之男命に邪心がないかを確かめるために、ともに「うけひ」をすることなります。すなわち、子を生んで証(あかし)をたてるということになります。
この二柱は天の安河(やすかわ)を挟んで、「うけひ」を始めます。まず天照大御神は、須佐之男命の十拳の剣(とつかのつるぎ)を受け取り、三つに折り、天の真名井(まない)の聖なる水で鈴が鳴るように濯(すす)いだあとで粉々に噛(か)み砕き、それに息吹(いぶき)をかけると狭霧(さぎり)となり、その中からタギリヒメ、またの名をオキツシマヒメ、次にイチキシマヒメ、またの名をサヨリヒメ、次にタギツヒメ。この三柱(みはしら)が誕生した。宗像(むなかた)三神の誕生である。
須佐之男命も天照大御神の、左の角髪(みずら)につけていた八尺(やさか)の勾玉(まがたま)の五百箇(いおつ)も連なる玉飾りをもらい受けて、天の真名井で玉の音も軽やかにすすぎ清め、それを噛み砕いて息吹をかけると、生じた狭霧の中から生まれたのが、吾正勝勝速日天忍穂耳命(われまさかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)であった。天の恵みである稲穂がふさふさと稔る尊(とうと)い命(みこと)の誕生でした。
この時、天忍穂耳命を含め、天照大御神の持つ種々のの玉飾りから、アメノホヒ、アメツヒコネ、イクツヒコネ、クマノクスビの五柱(いつばしら)の男神が次々と生まれます。
この後で、天照大御神は、「この、あとから生まれた五柱の男(お)の子は私の珠玉から生まれたので、それ故わが子なり。先に生まれた三柱は、そなたの剣より生まれたのでそなたの子である」と言います。
天忍穂耳命は天照大御神の子として、古事記で誕生したところです。
天照大御神は太陽神の女神です。天照大御神は女神です。ヒッタイトでは太陽神は女神でした。ミスラ教でも太陽神を敬いました。当然、アラハバキ一族でも最高神としては敬われていたはずです。須佐之男命は、天照大御神の弟です。水神ですが、古事記の中では暴れん坊の如く書かれます。水神の大暴れは洪水を意味していると思います。これは海神であり、竜神でもあぅたと思います。竜神も同様に、アラハバキ一族の共同体にも祀られていたと思います。この二人と、ここでは名前の出てこない月読命(つくよみのみこと)を含めた神が三神(さんじん)として語られています。太陽と月と大地(海)の三つが鼎(かなえ)となり、宇宙の陰と陽の調和をはかっています。
そして、三神の霊性界から、四の現象界への万物の生成の過程が語られます。すなわち、二人の神の息吹は、四大(地、水、火、風)の気が集合して、現象界が創造される所だと思います。古事記の中では、須佐之男命がうけひ(宇気比)で天照大御神に邪心が無いことを示す所ですが、一般的な解釈では、吾正勝が生まれたので須佐之男命が邪心のないことを証明したと言われています。しかし、宇気比(うけひ)は大きな気を比すると書かれるので、神の息吹が、四大の気を集合させて、新しく物質を生成するという、数の神秘も語られているように思います。
そして、この「うけひ」の話を、須佐之男命を天忍穂耳命に、そして天照大御神を息長足姫尊に置き換えてみると、日本を訪れた天忍穂耳命に対して、息長足姫尊は征服するために来たのではないかと疑いをもって会うという設定に思えます。そこで、天忍穂耳命は、邪心の無いことを証明するために持ってきたのがキャベツであったと思いました。これが「うけひ」の話になったように感じます。異民族同士の王と酋長の結婚、すなわち三韓(新羅、百済、高句麗)の王である天忍穂耳命とアラハバキ一族の酋長である息長足姫尊の結婚を、このような形でしか残せなかったのだと思います。 
 

 

■  6 天忍穂耳命(二)
古事記の中に、天忍穂耳命の降臨について書かれたところがあります。 
葦原(あしはら)中つ国は大国主命(おおくにぬしのみこと)が治めて長く穏やかな日が続いていた。ところがある日、天照大御神が次第に整ってきた島を見て、「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいおあき)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子、天忍穂耳命の治める国である」と言い、天忍穂耳命を高天原より中つ国へ降臨させることになった。天忍穂耳命は天の浮き橋に立ち下界を眺めて見ると、今や豊葦原の瑞穂の国は、葦原が風に騒ぐように、ひどく騒々しい様子で、とても手におえそうにない。そこで、天忍穂耳命は高天原に還り上って、この旨を天照大御神に申し上げた。これを聞いた高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と天照大御神は、天の安河に八百万の神々を集めた。そして、思慮深いオモイカネの神を中心に相談をさせた。
結局この時は、天忍穂耳命は降臨(こうりん)しないで話が終わります。そして、しばらくして、
天照大御神とタカギの神(高御産巣日神)のお二方は、日継(ひつ)ぎの御子(みこ)、太子(たいし)である天忍穂耳命に向かって、
「今、ようやく葦原(あしはら)の中つ国が平定(へいてい)された。そこで、かねて委(ゆだ)ねたとおり、中つ国へ降臨して統治するように」
と言われた。すると、日継ぎの御子の天忍穂耳命は、
「私が降りようと装いを整えている間に子供が生まれました。アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホニニギ(以下ニニギノ命)といいます。この子を降臨させるのが良いかと思います」
と答えます。この御子は、天忍穂耳命がタカギ神の娘、ヨロズハタトヨアキツシヒメと結ばれて生んだ、二柱の内、アメノホアカリについで二番目の御子である。
古事記の中での天忍穂耳命の話はここまでです。二回の降臨の話があったのですが、降臨する事は有りませんでした。天忍穂耳命は高天原に留め置かれたままで古事記は終わっています。
これらの話を考えてみますと、高天原は、日本海を挟んだ朝鮮半島を含むアジア大陸として比定されているように思えます。天忍穂耳命が降臨しないということは、天忍穂耳命は三韓の王として国に留まり、自国の内政を中心として行ったことをあらわしています。
天忍穂耳命と息長足姫尊に代わって、応神天皇が育つまで日本を治めていたのは、古事記にも記載されている大国主命や大吉備津彦を中心とした人たちであったと思います。この二人は、国津神(くにつがみ)とされて、天尊族の天津神(あまつがみ)とは違った形で古事記には書かれていますが、この二人は三韓に住む天忍穂耳命の”はとこ”の双子の子供でした(このあとに書きたいと思います)。
そして、天忍穂耳命と息長足姫尊の間に生まれた応神天皇がすっかり成長して、日本に来ることになります。これが、ニニギノミコトの名前で、天孫降臨の話になったように思えます。このニニギノ命についても後で書きます。 
この応神天皇が我が国の初代の天皇として筑紫の地に登場します。父親が三韓の王で、異国人であったことが天武天皇にとっては、天智天皇の後継者を滅ぼして皇位に就いていますので、書き直す最大の理由であったと思います。
そのために、大国主命の国譲り神話やヤマトタケルノミコトという人物を作り上げる必要があったのでしょう。
天孫降臨の地とは、人間界の者が天界とつながり、教えを授かることができる聖地であったように思います。徳を積んだ人(菩薩道を歩んでいる人たち)だけに許されたことだったのでしょう。天忍穂耳命は、宇治の許波多(こはた)神社や各地の木幡(きばた)神社、福岡の英彦山(ひこさん)神宮、高知の天忍穂別神社など日本各地に今も祀られています。 
■  7 孝霊天皇と双子
ハイヤーセルフの教えの中で、三韓の王、天忍穂耳命にはコリアンのはとこ(母の両親の兄弟の孫)がいました。古事記では人代篇の第七代天皇になっている孝霊(こうれい)天皇です。古事記には次のように記載されています。
オオヤマトネコヒコフトニの命、黒田の廬戸(いおど)の宮(奈良県田原本町)に坐(いま)して天下を治めた。この天皇が十市(といち)の県主(あがたぬし)の租先である大目(おおめ)の娘、名はホソヒメを妻として娶(めと)り、生まれた御子はオオヤマトネコヒコクニクルの命、一柱であった。また、この大君がチチハヤマワカヒメを妻として娶り、生まれた皇子がチチハヤヒメ、一柱であった。次にオオヤマトクニアレヒメを娶り、生まれた皇子はヤマトトモモソビメ、次にヒコサシカタワケ、次にヒコイサセリビコ、またの名はオオキビツヒコ(大吉備津彦)、次にヤマトトビハヤワカヤヒメで、みなで四柱であった。オオヤマトクニアレヒメの妹、ハエイロドを娶り、生まれた御子はヒコサメマ、次にワカヒコタケキビツヒコの二柱であった。この大君の御子たちは、全部で八柱であった。男(お)の子が五人、女(め)の子が三人で、その中でオオヤマトネコヒコクニクルの命が後を継ぎ、第八代孝元(こうげん)天皇となる。
大吉備津彦とワカヒコタケキビツヒコの命の二人は、お互いに助け合って針間(はりま)の国(播磨の国)の氷川(ひかわ)、今の加古川の岬(さき)に酒を満たした瓶(かめ)を据(す)えて祈り、針間の国の入り口として、吉備(きび)の国を言向けして(服従するように説得して)、平定した。大吉備津彦は吉備の上の道の臣(おみ)の祖先になり、ワカヒコタケキビツヒコは、吉備の下の道の臣、笠の臣の祖先になった。
次に、ヒコサメマの命は、針間の牛鹿(うしか)の祖先になり、ヒコサシカタワケの命は、高志(こし)、すなわち越の国の利波(となみ)、今の砺波(となみ)の臣や豊の国の国前(くにさき)、今の国東の臣、五百原(いおはら)の君、そして角鹿(つぬが)、今の敦賀(つるが)の海(あま)の直(あたらい)の祖先になった。御陵(みはか)は片岡の馬坂(奈良県王子町)の上にある。
と、書かれています。 
ハイヤーセルフからの教えでは、
孝霊さんは、天忍穂耳命のコリアンの”はとこ”であったようです。
果樹園を経営していた働き者でした。双子の息子がありました。
日照りで干ばつがありました。
ある時、孝霊さんの果樹園に外国の訪問者が訪ねてきました。其の内の一人の女性が糸を紡(つむ)ぐところを見せてくれました。その見事さに感動したようです。これは、養蚕業の機織りの技術を持った人たちが出現したことを教えています。同時に鉄鉱石を求めて、ダウジングを行う人たちも訪れていたようです。その時に葡萄酒お戴いたようです。
天忍穂耳命の信じる宗教では、酒を飲む親は子供を育てることが許されませんでした。これを孝霊さんは、外国の物に目が眩み、破ってしまいました
その宗教はゾロアスター教でした。高御産巣日神、神産巣日神、天忍穂耳命は三人共にゾロアスター教(拝火教)の信者だったようです。
天忍穂耳命もイギリス人とハングルの混血でした。この一族はツングース系の混血人種だったようです。歴史上でも樺太経由でアイヌとも接触があったといわれている民族です。
天忍穂耳命は孝霊さんの果樹園を訪れます。そして、双子の二人を引き取ります。
二人は成長した後で、日本に来ます。そして双子は、それぞれ大吉備津彦と大国主命と名乗ります。
古事記では、大吉備津彦は孝霊天皇の御子として出てきます。ワカヒコタケキビツヒコという古事記に出てくる弟は無く、そのかわり、双子の兄弟、大国主命がいました。二人で力を合わせて、国の安定のために尽くしたのは間違いがないようです。 
■  8 ニニギノ命(一)
古事記の中では、天忍穂耳命に代わり、ニニギノ命が天降(あまくだ)りします。古事記には次のように書かれています。
天照大御神から、この豊葦原の瑞穂の国は汝が統(す)べる国であると詔が下され、ニニギノ命が天下ることになった。天下りの折、下方を見ると、その分かれ道の天の八衢(やちまた)に、上は高天原を照らし、下は葦原中つ国を照らす見知らぬ神が待ち受けている。誰なのであるかを問うと、その頑丈そうな神は、
「わたしは、国津神でサルタヒコ神といいます。ここに来たのは天津神の御子が天降られると聞きまして、その道先を案内しようと待ち受けているのです」
と答えます。
こうしてニニギノ命は、アメノコヤネノ命、フトダマノ命、アメノウズメノ命、イシコリドメノ命、タマノオヤノ命の五柱を五つの伴の緒(とものお)、すなわちお供の者として高天原から天降りした。天照大御神は、それに加えて天の岩戸から天照大御神を招きだした時に用いた、八尺の勾玉(やさかのまがたま)、鏡、草薙(くさなぎ)の剣(須佐之男命が奉った剣)を持たせ、常世(とこよ)のオモイカネの神、タジカラヲの神、アメノイワトワケの神を副(そ)え与えられた。そして、
「この鏡は、ひとえにわが御魂(みたま)として、わが前に額(ぬか)ずくごとくに祈り、祀(まつ)り給え」
と仰せになり、そして次に、
「オモイカネの神はこの鏡を祀ることを司り、祭事を執り行うように」
と仰せられた。それで二柱の神を、さくくしろ五十鈴(いすず)の宮にお祀りしている、と書かれているのですが、ここで出てくる二柱の神は誰なのか見解が分かれているようです。
私的には天照大御神(内宮)と須佐之男命(外宮)であると思います。二柱がそれぞれ和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)の二つの御魂をあらわしているにように思えます。
「さくくしろ」という枕詞ですが、一般的には、「さく」は五十鈴にかかる枕詞で、「くしろ」は腕輪の意味であると解釈がされていますが、佐久「さく」はタタラに関係していますし、「くしろ」は、天然の櫟(いちい)の木、すなわち枝を八股(やまた)のごとくに張り出りだした巨木のところから湧出した水の流れの意味も考えられます。アラハバキ一族の聖なる場所に思えます。また、「さくくしろ」は幸(さき)御魂、奇(くし)御魂の意味を兼ねているようにも思えます。まさに、天孫降臨の地、巫女やシャーマンが天とつながる聖なる場所であると思います。
この鏡を祀るのは常世のオモイカネの神で、知恵の神として書かれています。三人の神を副(そ)えるとは、仏教的に解釈をすれば、観世音菩薩の知恵、慈悲、そして、不退転の勇気をあらわしていたのではないかと思いました。それが常世という霊性界から無常なる現象界への方便、すなわち布教の旅立ちをあらわす言葉として用いたように感じます。
天照大御神は、天門(てんもん)を司っているそうです。天門とは黄泉の国の門です。魂の行き来する所です(荘周菩薩品の「道に順う者(3)」を参照)。 
これらを総合してみると、大陸からの五行思想やミスラ教、ゾロアスター教や仏教が日本に入って来ていたことを教えているように思えます。
古事記が続きます。
次にアメノイワトワケの神は、またの名をクシイワマド、またはトヨイワマドと言い、帝(みかど)を護る神である。次に、御食(みけ)つ神であるトヨウケの神(登由宇気大神、とようけのおおがみ)は外(と)つ宮(伊勢神宮外宮)の度相(わたらい)に坐す神である(今の度会)。そして、タジカラヲの神は、佐那(さな)の県(あがた)に坐す神である(今の三重県多気郡)。 
■  9 ニニギノ命(二)
いよいよ、古事記では、ニニギノ命が降臨します。
ニニギノ命は高天原の御座所(みましどころ)から立ち上がり、天にかかる八重にたびく雲を押し分けて道を踏み分け踏みわけ進み、天の浮き橋にたどり着き、そこにしっりとお立ちになると、一気に筑紫の日向の高千穂峰に天降られた。
ニニギノ命が、
「ここは、韓(から)の国に向き合い、笠沙(かささ)の岬にもつながっており、朝日まっすぐに射し入り、夕日がいつまでも輝き渡るすばらしい国である」
と語ります。そして、大地の深い所の盤石(ばんじゃく)に届く御柱を立てて、そして木(ちぎ)を積み、高天原に届くほど聳(そび)える宮を作り、ここに鎮座した。
とあります。これが有名な天孫降臨の話です。これは筑紫の地へ天尊族の天降り、すなち大陸からの大移動があったと思われます。
これは成長した応神天皇の筑紫への到着をあらわしているように思えます。
古事記では、この後ニニギノ命が笠沙の岬へ出かけて美しい娘、コノハナサクヤ姫に会います。そこで、すぐにプロポーズをします。
「われは、そなたを妻にしようと思うがいかがか」
「私にはお答えすることができません。わが父、オオヤマズミがお答えします」
とコノハナサクヤ姫が答えます。
ニニギノ命は、すぐに妻乞(つまご)いの使いを父であるオオヤマズミのもとへおくます。オオヤマズミは喜んで、姉のイワナガ姫と二人を揃ってニニギノ命に嫁がせましたところがニニギノ命は、姉のイワナガ姫の容姿が気に入らず、父のもとへ送り返します オオヤマズミはニニギノ命のその行いを大いに恥じて、
「私が二人を嫁がせたわけは、イワナガ姫をそばでお使いになれば、天つ御子の命は、とえ雪が降り風が吹こうとも岩のように常磐(ときわ)に変わりなく、コノハナサクヤをお使いになれば、木の花の咲き栄えるがごとく栄え有るようにと祈り捧げたのです。れを、かくのごとくイワナガ姫を送り返されて、コノハナサクヤ姫をお留めなされたので天つ神の御子の寿命は山に咲く花のままに散り落ちることになるでしょう」
と語りました。
ここまでが、古事記におけるニニギノ命の天降りと結婚までですが、到着して住む所が韓(から)の国と向き合うと書かれています。いわゆる天尊族といわれる人たちが朝鮮半島から渡ってきたことがしっかりと書かれています。朝日も夕日も見られる所ですから辺、それも岬を教えています。筑紫の国の海辺であったと思います。
ハイヤーセルフからの教えでは、ニニギノ命の系図は次のようになります。
ニニギノ命は肉眼で太陽が見えたそうです。軽い白内障のような病状が目にあったのかもれません。九州に本拠地を構えていたようです。お母さんはスーダンからの人(シャーマンと思われます)でした。家津美御子と同じヒグマ族の流れと考えられます。
コノハナクヤ姫とは兄妹のなかでした。
ニニギノ命は奥さんは部族の人のようで、娘が一人おりました。タマヨリ姫(玉依姫)です。
玉依姫は天忍穂耳命の二才下の弟であるニギハヤヒノ命と結ばれています。
コノハナサクヤ姫はヒムカ・アラハキの人と結ばれたようです。
スーダンからの部族のシャーマンをつとめる人たちは、家津美御子もそうでしたが雨乞いの祈祷の術を行えたようです。
三韓の王、天忍穂耳命が以前に家津美御子を訪れたのは、三韓が干ばつにみまわれた時であったと思われます。 
10 イワナガ姫とトヨウケノ大神
古事記の中で、ニニギノ命に親のもとへ送り返されたことになっているイワナガ姫ですが、ハイヤーセルフからの教えでは、古事記の内容と大きく異なります。
このイワナガ姫は、おじいさんと一緒にグァバ(蕃石榴、ばんざくろ)を育てていた方で、心優しい人だったようです。今の沖縄では民家に植えられています。石榴(ざくろ)は仏教では吉祥果(きっしょうか)といわれ、おめでたいものです。
イワナガ姫はシャーマンとしての能力もあったようで、トヨウケノ大神(今の伊勢神宮外宮の祭神)から、いつも教えを授かっていたようです。
このトヨウケノ大神ですが、古事記では黄泉(よみ)の国から戻ってきたイザナギの命の尿から生まれたミズハノメとワケムスヒの二柱のうち、後者のワケムスヒの子となっています。(「(8)ニニギノ命(一)」でも書きましたが、ニニギノ命の降臨の時のお供には名前が載っていないのですが、突然に、
「御食(みけ)の神である登由宇気(とようけ)大神は、外(と)つ宮の度相(わたらい)に坐す神である」と、書かれています。ここではトヨウケノ神が外宮の祭神である、と語られているのですが、須佐之男命に関わる話ですので、あらためて書きたいと思います。
トヨウケノ大神は南斗六星(いて座)の神です。ここは、北斗と南斗の話にも書きましたが、人間の寿命を司っています(「須弥山」(8)北斗と南斗を参照)。メソポタミアのギルガメッシュ神話に載っているこの現世と冥界をつなぐ門のあるところです。古代ではパビルサグ、サソリの尾をもつ半人半獣の神として語られています。
トヨウケノ大神はイワナガ姫に、デネボラ(しし座の尾にあたる星)について教えていたそうです。それは占星学のようで、地球の大自然の循環も、かならず星々が形を作っていることを学んだようです。このデネボラ、うしかい座のアークトゥルス(ギリシャ語で熊の番人、和名で麦)、そして、おとめ座のスピカ(麦の穂)の三つの星をつないで作る春の大三角形は有名です。
春の大三角形のアークトゥルスとスピカは、北斗七星の柄杓の柄をのばした曲線上に位置し、デネボラを中心とした円弧を作ります。またアークトゥルスは秒速140kmのスピードでスピカに向かっているそうです。とはいっても二つの星が夫婦のように近づくのは五万年ぐらい先のようですが。この円弧を、さらに延ばすとカラス座です。太陽を背負うといわれる八咫烏を想像させます。私的には、大熊の尻尾からのこの曲線は地軸の移動を教えているように思えます(「須弥山」(12)地軸の移動の如意輪観音を参照)。
このトヨウケノ神は、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の使いとしての役割があったようで、この明王を通じて仏の教えが拡がるようにと常に祈っていたようです。この金剛夜叉明王は、古代インドでは人間を喰らう夜叉だったのですが、大日如来の威徳により、悪を喰らい尽くして善を守る仏教の守護神となりました。不動明王を中心とする五大明王の一人です。三面六臂(さんめんろっぴ)の姿で描かれます。正面の顔には五つの眼をもち、六本の手には金剛杵(「金剛杵と五智」を参照)、弓、矢、剣、金剛鈴、宝輪などを持っています。日本では、敵を破る戦勝祈願の仏として武人などから信仰されたようですが、本来は名利を求めて争い事を起こすような貪欲な煩悩を打ち破ってくれる明王ですから、悪にも加担しませんし、戦いの味方には付いてくれません。トヨウケノ大神は、悪を滅し、善なる社会の到来を常に祈り続けている神です。
古事記の中で、イワナガ姫を送り返された父親のオオヤマズミノ命が「天つ神の御子の命は山に咲く花のままに散り落ちましょう」と語ったのですが、ハイヤーセルフの教えでもニニギノ命は早逝したようです。それで、このような話を作り上げたのかもしれません。
イワナガ姫の話から、種々のことを教えていただきました。それに、ヴェジタリアンはアラハバキ一族をふくめて一夫一婦性ですから、姉妹で嫁ぐ話は後から作られたものであることがわかります。また、このイワナガ姫が育てていたグァバの木は、その果実はヴィタミンCの豊富なグァバジュースとして、またその葉はポリフェノールを含有しているので、糖質の吸収の調節やアレルギーにたいする健康茶として今も飲まれているようです。 
 

 

11 海幸彦と山幸彦(一)
古事記の中では、コノハナサクヤ姫の出産の時期になります。お腹の子のことでニニギノ命に疑われたコノハナサクヤ姫は、
「私のお腹の子が天つ神の御子であるなら無事に生まれるでしょう」
と言い、扉のない産屋を作り、それをすっかり土で一面を覆って出入り口を塞いでしまった。そして、産屋に火をつけ、その中で子供を産んだ。
その火の燃えさかる中で生んだ子がホデリノ命(海幸彦)で、隼(はやと)の阿多(あた)の祖先である。次の子がホスセリノ命、次の子がホヲリノ命でまたの名をアマツヒコヒコホホデミノ命(山幸彦)という。コノハナサクヤ姫は以上の三柱を生んだ、と書かれています。
この産屋に火をつけて出産する話は、あくまでもたとえ話です。この古事記の話はアラハバキ一族のタタラ産鉄の話を出産に喩えたものです。まさに粘土で固めた炉(ろ)を作り、火入れの儀式を表現したものと思います。葦(あし)や茅(かや)などの根のところに付着した褐鉄鉱(かってつこう)を用いた六十日周期で訪れる庚申(こうしん)の日を中心としたタタラ製鉄の流れです(「庚申の日とタタラ」を参照)。六十日周期の最後の十二日間の八専の日、すなわち五行思想の丁・巳(ひのと・み)の日で、火(丁)と火(巳)が重なる日に火入れの儀式が行われたと思います。そして、庚申の日、すなわち庚(かのえ)申(さる)の日が、金・金と重なり、鉄滓(てっし)と呼ばれるスラグが生み出される日です。このスラグから、錫杖(しゃくじょう)や鈴、金剛杵(こんごうしょ)など祭祀用の器具や農耕用の鋤(すき)、鎌、そして日常生活の鍋などが作り出されました。ヒッタイトの流れをくむアラハバキ一族の聖なる儀式がコノハナサクヤ姫の出産にたとえられた話だと思います。
現在、ニニギノ命は霧島(きりしま)神宮の祭神として、コノハナサクヤ姫は富士山の浅間(せんげん)大社をはじめ、全国の浅間神社の祭神として祀られています。
古事記では、この後にホデリノ命である海幸彦(うみさちひこ)とホヲリノ命である山幸彦(やまさちひこ)の有名な話になります。
海幸彦は魚を取ったりして海辺で生活をし、山幸彦は獣を捕ったりして山で生活をしていました。ある時、山幸彦は海の生活にあこがれ、山を降りて兄の所を訪問します。嫌がる兄の海幸彦から無理に釣り針を借りて魚釣りを始めます。ところがその釣り針を魚に取られてしまいます。海幸彦にとっては極めて大切なものをなくされてしまいました。山幸彦は他の物で償おうとするのですが海幸彦は、なくした針以外の物は欲しがりません。 山幸彦は、そのなくした針を探すために、潮の霊(つ)である塩椎(しおつち)の助けを借りて、無間勝間(まなしかつま)という竹で隙間が無いように編み作られた籠(かご)の舟に乗り、斎(ゆ)つ桂(かつら)の木(桂の木のある聖なる場所)の所まで行きます。そこが、綿津見(わたつみ)の宮でした。そこでトヨタマ姫と出会い、婿入りします。
そして、山幸彦が綿津見の宮に来ていつのまにか三年が経ち、タイに取られた釣り針も戻ったので、海幸彦のいるところへ戻るときが来ます。
いよいよ帰る時になり、綿津見(わたつみ)の大神は二つの珠を持ってやってきました。そして山幸彦に、「釣り針を兄の海幸彦に返す時には、”この鉤(ち)、おぼ鉤、すす鉤、まず鉤、うる鉤”と呪文を唱えて後ろ手で渡すように」と言います。そして、「兄が高い所に田を作ったら、あなたは低い所へ田を作り、兄が低い所へ田を作るのであれば、あなたは高い所へ田を作りなさい。私は水を司る神ですから、三年が経つと兄は貧しくなり、あなたのところへ攻めてくるでしょう。その時、この二つの珠を使いなさい。塩盈珠(しおみつたま)を出せば水で溺れさせます。嘆いて誤ってきたら塩乾珠(しおふるたま)を出して水を引かせることができます」と言って、二つの珠を海幸彦に渡しました。
珠を受け取った海幸彦は、一尋(ひとひろ)、1.8m位のワニに乗って、一日で地上に戻ります。その時、腰に付けていた紐付きの小刀を取り出し、このワニの首にかけて海の宮へ返します。それでこのワニをサヒモチ(サヒは刀)の神という。そして、綿津見の大神がいうようになり、海幸彦が二つの珠を用いて、山幸彦を海幸彦に従うようにさせたという話です。
この話は、山幸彦が主役で、海幸彦が意地の悪い役のように書かれていますが、私には何故か主役がすり替えられているように思えてなりません。次へつづく。 
12 海幸彦と山幸彦(二)
この古事記の海幸彦と山幸彦の話は、兄の海幸彦が意地の悪い者にされています。しかし、この話は自分の生活に不満のある弟の山幸彦が海幸彦の生活にあこがれた所から始まっており、どうも話のつじつまがあいません。
私には、この話は足るを知り、穏やかに生活をしている海辺の村が羨ましくなり、それを横取りしようした権力者の話に思えます。すなわち、川の流れが穏やかになった谷間の三角州の近くに住んでいたアラハバキ一族の共同体を、時の権力者が無理矢理に奪い取った話を正当化するために、話をすり替えたように思えます。ですから、山幸彦が海神の宮である綿津見の宮へ舟で旅に出たりして、話があわないのです。これは海幸彦でなくてはなりません。
私的に解釈をしますと、釣り針、これは、山幸彦である盗賊団がアラハバキの一族の誰かを裏切りに走らせるためにまいた餌だと思われます。その餌に引っ掛かる者がアラハバキ一族の中に現れて、何とかその土地の占領に成功します。盗賊団に土地を奪われ、追いだされた海幸彦の部族は新しい生活を始めるために、やはり同じアラハバキの一族である綿津見の一族の所へ相談に行きます。
そこでまず、舟になる竹の籠(かご)を潮の霊(つ)である塩椎(しろつち)から頂くのですが、これは、藤のつるなどで編んだ砂金を救う「ざる」のようなものであったと思います。向かった所が斎(ゆ)つ桂の木です。ここは水神を祀る聖なる水が湧き出る場所であることを教えています。アラハバキ一族の新しく住む所になります。そこを中心に、稲作や水路、そして放牧場、タタラ場などが作られます。
また、桂の木は月をあらわします。月には桂の巨木があり、この木はいくら切っても生えてくるという伝説が中国にあります。これは月に住むウサギやヒキガエルのことでもあり、繰り返す月の満ち欠けをあらわします。桂の木は、藤と同様に依り代(よりしろ)、すなわち神や霊の宿る所でもあり、月の精や水神を祀るところでもあります。
また、三年経って戻るという、この三という数字は、ここでは特別な祭祀が行われることを教えています。それは今でいう旧暦に閏(うるう)月が入る年です。アラハバキ一族では、大陰太陽暦を用いていたと思います。毎年の冬至も新しい太陽の年度の始まりとして大切な日なのですが、十九年の一度の朔旦(さくたん)冬至(旧暦十一月一日)は、太陽の周期と月の満ち欠けの周期が一致する大きな区切りとして大切にしていたはずです。この日は太陽暦の冬至と太陰暦の新月が冬至として重なる日です。この太陰太陽暦では、この朔旦冬至を迎えるために十九年間に七回の閏月が設定されます。それがほぼ三年に一度巡ってきます。その度に祭祀する聖なる場所がきめられていたと考えています。つまり、七カ所の祭祀場が住む共同体の中に作られていたと考えています。今もありますが、七福神や七薬師などはそのなごりであると思います。アラハバキに伝わる高次元とつながるための儀式を行うところで、これはヒッタイトからの教えだと思います。
また借りたものを返す時に、呪文を唱えたり、後ろ向きで返したり、あなたが右なら私は左というのは、どう考えてもへそ曲がりのやることです。権力を笠に着た人間が弱い者いじめをしている話です。このような陰と陽の気の乱れを生じさせる時には、水神が滅ばすことを教えています。二つの珠、塩盈珠(しおみつたま)と塩乾珠(しおふるたま)は、月の引力をあらわすと同時に、水神の力をあらわしています。
また、「この鉤(ち)、おぼ鉤、すす鉤、まず鉤、うる鉤」という呪文(じゅもん)が書かれているのですが、これは、「天の釣餌(ちょうじ)にまんまと掛かった愚か者よ、天の裁きを受けよ」というような意味ではないかと私的には解釈しています。
また、綿津見の宮より乗せてきてもらったワニの首に剣を結んで宮へ帰します。そのワニをサヒモチの神というと書かれています。突然、わにが神になるのですが、これはエジプトの天球図に答えがあると思います。ワニは星座にはありませんが、黄道十二宮の星座の絵の下にワニが書かれています。ワニは水神として、地球の水の大循環を守る神としてあらわされています。またサヒは隕鉄の剣ですから、それを持つのは不動明王です。水の大循環で天と地をつなぐ水神と、地軸の安定を保つ不動明王をかねた神がサヒモチの神です。中国ではワニは龍になります。そして、剣は龍が巻き付いた倶利伽羅剣(くりからけん)として日本でも祀られています。 
13 ウガヤフキアエズノ命
次に古事記では、トヨタマ姫の出産になります。トヨタマ姫は、「天つ神の御子は海原で生むわけにはいきません。それで綿津見の宮からここへやってきました」とホヲリノ命に言います。そして、海辺の波打ちぎわに鵜の羽を茅葺(かやぶ)き替わりに用いて産屋を作り始めました。まだ完全に葺き終わる前に産気づいてしまいました。トヨタマ姫は、ホヲリノ命に決して中を覗かないように言って産屋に入りました。
しかし、ホヲリノ命は、こっそりと産屋の中を覗きます。すると巨大なワニが中を這い回っていました。それを見たホヲリノ命は畏れをなして逃げてしまいます。
御子を生んだ後、覗かれたことを恥じたトヨタマ姫は、
「私は海の道を通って、ここへ通い来て子を育てようと思いましたが、私の子を生む姿を覗き見られたことは、絶えられないほどの恥ずかしさです」
と言って、海坂(うなさか)の道を閉じて綿津見の宮へ帰ってしまいます。
トヨタマ姫は、置いてきた御子が心配になり、妹のタマヨリ姫を御子の世話に送ることにしました。古事記では神武天皇の父とされているウガヤフキアエズノ命の誕生でした。
ウガヤフキアエズノ命は台北(たいぺい)からスセの風にのって鹿児島へ来た方であるとハイヤーセルフから教えられました。スセの風とはモンスーン(季節風)のことかと思います。台湾から八重山、沖縄諸島を通り、鹿児島へ来た人のようです。中国では位の高かった人だったのでしょう。戦乱から逃れる人たちが、いろいろなルートで日本にやってきていました。田心(たごり)姫と結ばれて、子供が一人いました。名前は少名彦命(すくなひこのみこと)といいました。少名彦命は家津美御子のヒグマ族と会話ができたそうです。小さい頃、しばらく一緒に過ごした時があったようです。家津美御子は少名彦命を「小僧」と呼んでいたようです。古事記の中では、大国主命と共に国作りをする少名彦命ですが、中国南部から台湾へ、そして、スセの風に乗って九州へやってきた人たちでした。小僧という呼び名ですが、南方ルートからもゾロアスターの流れがあったように思えます。
日本に入ってきた鉄製の武器類は、南方ルートから徳之島の方へ移住した部族が生産をしていたようです。アラハバキの一族はあくまでの祭祀用の器具と農耕用などの道具の生産をしていましたので、争いのもとである武器の生産はしませんでした。
海坂(うなさか)の道を閉ざしてトヨタマ姫は綿津見に帰るのですが、ここには子育てに関して一つの規則があったように思われます。息長足姫命も、母親である家津美御子と離れて育てられました。たしかに日本の将軍などの子も母親でなく乳母に育てられていました。将来シャーマンや天皇などになる人たちには、特別に乳母や教育係をもうけていたのかもしれません。または、アラハバキ一族では、子供は共同体のみんなの子として育てられたのかもしれません。
このあと古事記では、トヨタマ姫の子の乳母役として綿津見の宮より送られて来たタマヨリ姫ですが、ウガヤフキアエズノ命と夫婦になります。そして、生まれた御子が、イツセノ命、イナヒノ命、ミケヌノ命、そして、ワカミケヌノ命の四柱を生みました。
二番目のイナヒノ命は母の国の海原へ帰り、三番目のミケヌノ命は波の穂を踏んで常世(とこよ)の国へ渡って行きます。
これは、二番目の子が死産であったこと、三番目の子は、生まれたまもなく亡くなったことを教えていると思います
四番目のワカミケヌノ命は、またの名をトヨミケヌノ命、またの名をカムヤマトイワレヒコノ命という、と書かれています。
初代天皇とされている神倭磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)が誕生して、天尊族からの天皇家の系図をまとめあげたようですが、ハイヤーセルフの教えでは、タマヨリ姫はニニギノ命の娘であり天忍穂耳命の弟、ニギハヤヒノ命と結ばれています。また、カムヤマトイワレヒコノ命は、大吉備津彦の双子の子供の一人として生まれています。これはまた後で書きたいと思います。 
14 水神、須佐之男命
古事記の中では、天照大御神と須佐之男命は宇気比(うけひ)をして、天忍穂耳命など五柱と、宗像三神を誕生させて仲良くなっていたのですが、突然に須佐之男命が変わります。 天照大御神の営んでいた田の畦(あぜ)を壊し、その水路を埋めてしまいます。また、その年の収穫物を神々に供えて祝う新嘗祭を催す正殿に屎(くそ)をまき散らしました。それでも天照大御神は須佐之男命を咎(とが)めることをしませんでした。
ある時、機織りのための神聖な忌服屋(いみはたや)に入り、神の御衣(みそ)を織らせていた時、須佐之男命はその機屋(はたや)に逆剥(さかは)ぎにした高天原の斑馬(ふちうま)の皮を屋根を破って放り込みました。それが布を織っていた高天原の機織り女(め)の上に被さり、驚いた機織り女は転げ落ちて、持っていた梭(ひ)という機織りの棒で火処(ほと)を突き刺して死んでしまいます。それを目のあたりにした天照大御神は、あまりのすさまじさに天の岩戸を開いて中に入り閉じてしまいました。それで、高天原から葦原中つ国まで闇に覆われて真っ暗になってしまった、と古事記に書かれています。
あまりに激しい表現なので、作者を疑ってしまいますが、これもタタラ製鉄のようすを表現しているとすれば。それほど下品な表現を使わなくても解釈できます。
稲穂の収穫が終わり、タタラの季節が始まります。馬の皮の逆(さか)剥(は)ぎとは、収穫祭のための祭場を作る御柱になる木の皮を剥いでいることであると思いますし、またむいた木の皮は屋根葺きにも使えます。また、タタラ用の木炭作りをしていることも考えられます。
そして、木炭は褐鉄鉱と交互に炉の上から中に入れていきます。そして、出てくるのがスラグと呼ばれる鉄屎(かなくそ)です。火処(ほと)は火をくべる所です。今は見かけなくなりましたが、七輪(しちりん)が小さな炉の模型です。鉄屎はさらにその底から出てくることになります。
機織り女は月のウサギを想像していたように思えます。すると、新月を通り過ぎ、細い鍋ツルのような形をした月がひっくり返る(月が欠けてきたのが満ちはじめる)ことが、機織りが転倒することですし、その時、天照大御神が岩戸に隠れるわけですから、太陽の皆既日食をあらわしていると思います。今年の七月二十二日が皆既日食で、日本でも南の島々では見られるそうです。
須佐之男命は新羅から渡ってきたという言い伝えがありましたので、天武の時代には相当に嫌われてしまったようです。ここまで悪く書かれるのも困ったものです。大陸からでなく、出所不明で天尊族であったらもっと違った記載になったのでしょう。
古事記、「(10)イワナガ姫とトヨウケノ大神」のところでも書きましたが、今、伊勢神宮外宮の祭神になっている御家(みけ)つの神、すなわちトヨウケノ大神ですが、オモイカネの命に伊勢の宮に鏡を祀るように告げたあとに、まるで付け足したように書かれています。これには何か理由があるはずです。
伊勢神宮の内宮の本殿の千木(ちぎ)、屋根の両端で交差してる木ですが、上面が平らになっています。これは、女神が祀られていることをあらわしています。天照大御神ですからこれは女神ですの問題はありません。
ところが外宮は、この千木の先端の外側が垂直に削られています。これは男神をあらわしています。外宮に祀られているトヨウケノ大神は女神ですので一致しません。これが男神、須佐之男命であればすべてが落ち着くように思います。
ハイヤーセルフからの教えでは、伊勢神宮の外宮には夫婦神が祀られていました。須佐之男命と櫛稲田姫でした。オモイカネの命が伊勢の内宮と外宮に祀られた二柱は、天照大御神と須佐之男命であったことになります。
そして今、天照大御神はアンドロメダにある天門(「荘子、星へ還る」を参照)を司っているようです。今、新しい心の時代を迎えるにあたって、私たちは三世輪廻(六道の輪廻の同じ道を三回繰り返す)の中で、魂の修行をしてきましたが、天との約束を果たし得なかった魂は、もはやこの天門を通過することが難しくなりました。天照大御神はアンドロメダ星雲のブラックホールへの蓋を開き、そちらの道へ流してはまた蓋をするという、きびしい魂の組み分けを行っているようです。私たちにできることは、大自然に身を委ね、虚静恬淡な境地に入れるように精進修行していくことに尽きると思います。 
15 須佐之男命と大月比売
古事記の中で須佐之男命は、作者にすっかり嫌われてしまいましたが、この二人の神、天照大御神と須佐之男命は、姉と弟でもあり、ともに助け合う仲であったはずです。
高天原を追われた須佐之男命が、また暴れん坊のごとく記載されているところが、この後に出てきます。オオゲツ姫(大気津比売)との話です。
天照大御神の岩戸隠れの後に高天原を追放された須佐之男命が、腹がすいてきて、食物の神であるオオゲツ姫を訪れ、食べる物を求めます。オオゲツ姫は喜んでご馳走づくりにとりかかります。自分の鼻や口やお尻から食材を次から次と出し、それを調理して須佐之男命に献じました。ところがそれを見ていた須佐之男命は、このような不浄なものを出すとは何事かと怒ってオオゲツ姫を殺してしまいます。すると、死んだオオゲツ姫の頭から蚕(かいこ)が生じ、目からは稲が生え 稲穂がふさふさと実っています。両耳からは粟(あわ)が採れ、鼻からは小豆(あずき)、お腹からは麦が、お尻からは大豆(だいず)が生え、たくさんの収穫を得ることができました。造化の三神の一人である神産巣日神(かみむすびのかみ)は、これらをすべて収穫して神々に分け与えた、と書かれています。
神話では新しい時代を迎える時に、よく生贄にしたり殺してしまうことがよくあるのですが、須佐之男命は水神です。やたらな殺生をすることはありません。大自然の水の循環の中で、魂の浄化と作物の収穫を助ける役割をしていると思います。
この話を解釈すると、須佐之男命は、高天原、すなわち朝鮮半島から、大気津比売の生み出した、これら五穀をもって日本に渡ったこと、すなわち須佐之男命をとおして、これらの穀物類が日本へもたらされたことを物語っています。ですからこそ、須佐之男命は水神として、奥さんの櫛稲田姫は五穀豊穣の神として、夫婦で外宮の祭神となっているのだと思います。
このオオゲツヒメは頭から蚕を生じたとありますが、これは後から加えられてものだと思います。なぜなら、蚕は絹製品ですので、ヨーロッパなどでは高級品でした。そのような物は、「(8)孝霊天皇と双子」でも書きましたが、人々の心を惑わすものです。人々の生活に役立つものといえば、それは麻や綿でなくてはなりません。
大気津比売は、月の比売、すなわち大月比売であったようです。すなわち月天(がってん)さまです。ハイヤーセルフは、月の婆(ばば)様といいます。月の鳥居の前にたたずんでいるようです。火を払う、すなわち煩悩の焔(ほのお)を清め祓う神です。そして、その月の婆様の頭から生まれたのが、月読命(つくよみのみこと)であったそうです。月読命は古事記ではイザナギの命の右眼から生まれたことになっています。月は精なる水を司ります。引力による潮の満ち引きは、水神、須佐之男命とも深く関わりがあります。
「(8)ニニギノ命(二)」で、伊勢神宮に祀られた二柱は天照大御神と須佐之男命であると書いたのですが、内宮には天照大御神の鏡が、そしてアラハバキの神が祀られています。伊勢神宮の外宮の神が須佐之男命と櫛稲田姫で、すぐぞばに月読(つくよみ)神社がありますので、これですと天と大地と月という三つが鼎(かなえ)となり、陰と陽の気の調和が取れているように思います。
須佐之男命の荒れ狂う時は、水源を人為で汚される時です。たとえば鉱物などの採取や道路を造るために山を崩したり、不要なダムなどを作り、水の流れを堰き止めて水を汚したりされることは、須佐之男命の荒御魂が浄化のために動きます。これは我々は災害と呼んでいるものです。すべて、欲得のために人為が加えられたときです。人間社会は行ったことの償いはかならず受けなくてはなりません。須佐之男命と櫛稲田姫は、大切な水を守り水神であり、五穀豊穣をもたらしてくれる夫婦神です。 
 

 

16 八俣のオロチ(一)
古事記で有名な八俣のオロチの一節です。
遠くへ追いやられた須佐之男命は、出雲の国の肥(ひ)の河(今の斐伊(ひい)川)の河上の鳥髪(とりかみ)という地に降りてきました。ふと河を見ると、箸(はし)が流れてきました。これは、この河上に人が住んでいることであると思い、川沿いに上流へさかのぼっていきました。すると、年老いた夫婦が、娘を中にはさんで泣いているのに出会いました。
「あなたちは、何者ですか」と、須佐之男命が尋ねると、
「私はオオヤマツミ(大山津見)の神の子でアシナヅチ(足名椎)、妻の名はテナヅチ(手名椎)、娘の名はクシナダヒメ(櫛稲田姫)といいます」
「いったい、何ゆえに泣いているのですか」
「じつは、私たちには八人の娘がいたのですが、それを高志(こし)の八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ)が年毎(としごと)にやってきては、一人ずつ、すでに七人の娘を食べてしまったのです。今年もまた、娘をさしだす時期が近づいて来ました。それで、泣いているのです」と、答えました。
古事記の中で、須佐之男命が高天原から出雲の地、斐伊川のほとりに現れたところです。そこで、川を流れてきた箸を見つけるところから始まりました。短い文章なのですが、いろいろなことが濃縮されて書かれているように思えます。
須佐之男命が降り立った斐伊川の上流域はタタラ製鉄のあった場所として知られています。昔は山から流れてきた砂鉄を採るという小規模なものだったのが、山を崩して砂金などを採るようになり、干ばつや川の氾濫が激しくなったようです。そして、江戸時代に今の神西湖(じんざいこ)に流れ込んでいた斐伊川を宍道湖の方へ流れを変えたようです。
須佐之男命が川に見つけた箸は人と食べ物を結ぶものですから、稲作を行っている集落が上流にあることを教えていますが、取り立てて箸と書くのは、川へ箸を流すような儀式が行われたことを意味しています。
そして、須佐之男命が川を遡(さかのぼ)ったところで会った足名椎と手名椎の意味については、いろいろな説があるようですが、櫛稲田姫を中に挟んでという表現から考えると、二本の夫婦椎(めおとしい)の巨木に挟まれた所を想像します。巨木に囲まれた聖なる場所、今でいえば、川の畔(ほとり)の古い巨木の残った神社を思わせる光景です。お二人は、その聖地を守る木の精霊のように思えます。
すなわち、この儀式については、「(2)息長足姫命、神憑り」のところで書きましたが、仲哀天皇が亡くなり葬儀と大祓の儀式を済ませた後、息長足姫命は神憑りになります。そして、「船首に神を祀り、燃やした真木(しんぎ)の灰を瓢(ひさご)にいれ、箸と柏の葉の皿をたくさん作り海に浮かべ進むがよい」という神からのお告げを頂き、古事記の中では三韓征伐に出かけます。しかし、これは仲哀天皇が亡くなった後のところで書かれているので、三韓征伐への船出ではなく、魂を送る儀式の模様を書いたものと思います。
ハイヤーセルフからの教えでは、櫛稲田姫は怨霊を鎮める能力があったそうです。櫛稲田姫はその場所で、怨霊を鎮める、すなわち精霊(しょうろう)流しのような儀式を行っていたと思います。毎年、この季節になると訪れる日照り、干ばつ、そして水の汚れでたくさんの人が亡くなったと思われます。それが、夫婦が泣いていた理由でもあります。
すなわち、古事記の中で、須佐之男命が見た川を流れてきた箸は、櫛稲田姫が、怨霊を鎮めるための儀式で、柏の葉の船にのせて川に流した箸だったのです。
櫛稲田姫が行っていた精霊流しの儀式、この時、いろいろな災害でたくさんの人が亡くなったことを教えています。また、木を燃やした灰を瓢に入れて流すというのは、すでに火葬が行われていたのだと思います。 
17 八俣のオロチ(二)
アラハバキ一族の集落はたくさんの支流が合流した斐伊川が山間から谷間を抜けたところの扇状地(せんじょうち)を中心に作られていたと考えています(今の簸川(ひかわ)平野)。稲作、放牧を中心とした穏やかな生活をしていたと思います。
須佐之男命は、名前のスサが朱砂(すさ)、すなわち砂鉄の色につながるようにタタラに関係しています。
ハイヤーセルフの教えでは、須佐之男命が日本にもたらしてくれたタタラは、ヒッタイトの流れである、低温冶金(やきん)といわれる方法です。一般的に鉄鉱石から鉄を得るには1,200度を越える温度が必要なようですが、褐鉄鉱などは800度(土器を作るときの温度)で餅鉄(べいてつ)と呼ばれるものができたそうです。ヒッタイト方式のタタラは、決して山を壊して鉱物を採取することはしなかったようです。それが、自然界のバランスを乱すことを知っていたからです。
ヒッタイトの流れをくむ共同体は、扇状地の湿原の葦など根に付着した褐鉄鉱を採取し、蛇行する川からは流れてきた蓄積した砂鉄を採取していたと思います。
古事記の中で、毎年、今の季節になると、高志の八俣のオロチがやってきた、とありますが、高志(こし)は越(こし)の国で、福井から石川、富山、新潟に住み着いたツングース系の古志(こし)族であろうとも思われます。
天忍穂耳命もツングース系の三韓の王でした。そして、息長足姫命にキャベツを手に持ってプロポーズをしたのもこの地でした。
この地域に住むさまざまな人たちは、お互いに調和を大切にして生活集落を作っていました。しかし、戦いで敗れた人たちや戦乱を逃れて新天地を求める人たち、またはダウジングで高価な鉱物を求めて歩く一攫千金を夢見る鉱山業者など種々の民族が次々に日本に入ってきたようです。
息長足姫命はシャーマンとして、またアラハバキの酋長として馬に乗って各集落を巡り、お互いの調和が取れるように取りはからっていたようです。
しかし、一攫千金を夢見る鉱山業者が入ってくると、贈りものを持参して上手に集落に入り込み、山を崩し、鉱物採取を始めます。そこでは木々が伐採され、地下水には鉱物の毒が流れ込みますので、鉱山などの下流域は、水が汚れ、たくさんの人が鉱物の毒で体を患ったことも確かです。足や手、すなわち四肢の障害もあったと思います。また、干ばつや洪水が起こり、疫病(えきびょう)が流行し、たくさんの人々が亡くなります。不邪淫戒を破ったために招く陰陽の気の乱れです。
櫛稲田姫が執(と)り行っていた怨霊を鎮める儀式ですが、今は、祖霊を祀るお盆の儀式として残っています。
お盆、すなわち盂蘭盆会の始まりは次のように伝えられています。釈迦の弟子の一人で神通力第一といわれる目連が、瞑想で自分の亡くなった母が餓鬼道に堕ちて、喉を涸らし、苦痛にあえいでいるのを見ました。それで、水や食べ物をあげようとするのですが、それが口に入る前に燃え尽きてしまいます。それを観て嘆き悲しんだ目連は釈迦如来に相談します。すると釈迦如来は言います。「夏安居(げあんご)<すなわち梅雨の季節の九十日間(4月15日〜7月15日)、一カ所に集まり修行すること>の最後の日に比丘(出家僧)に布施をしなさい。それが、餓鬼道にいる母親にも届くでしょう」と。今も、先祖の霊を魂の世界から迎えて、そして七月十五日に僧侶の読経をしてもらい、十六日に送り火をするというお盆の行事が執り行われています。本来は夏安居の最後の日の十五日に行われた儀式でした。 
18 八俣のオロチ(三)
古事記の八俣のオロチの話が続きます。
「八俣の遠呂智とはどのようなものですか」と、須佐之男命が問うと、
「その眼はアカカガチ(赤いホオズキ)のごとく燃えて、体が一つなのですが八つの頭と八つの尾を持っています。そして、その体にはコケやヒノキやスギが生え、その長さは八つの谷、八つの峰を渡るほどに大きく、その腹を見ると、あちこちが赤く爛れて血が流れているようです」と、足名椎が答えました。
スサノウが到着したのは鳥髪(とりがみ)という地でした。今の船通山(せんつうざん)と呼ばれている山が鳥髪山で、鳥取県と島根県の県境にある高さ1,142mの山です。山頂には樹齢二千年といわれる天然の見事なイチイ(櫟)の巨木があります。天然のイチイは水源の象徴です。そして水神、須佐之男命が祀られているところです。そこから流れ出た水は四方八方に流れ、たくさんの支流を作っています。北側の支流は次から次と斐伊川へ合流していき、簸川(ひかわ)平野へ流れ出ていきます。
斐伊川の上流は、鉄分の多い川ですから、水が干上がってくると川の底に沈着した鉄分の色で、赤茶けた色に見えたと思います。これをオロチの腹が爛(ただ)れて血が出ているという表現したように思います。
この船通山のイチイの木は、私たち家族もまだ雪の残るときに訪れました。その木肌をみると天然スギなのですが、低い所から太い曲がりくねった枝が何本もでて、まるで八俣のオロチのように見えました。
古事記の中の八俣のオロチの目は、アカカガチのごときと表現されています。カガチのごとき目とは、ホオズキの実のように赤い目という表現なのですが、このイチイの木の実はまるでホオズキの実とそっくりです。また瞳の部分が穴が開いたような形をしていますので、オロチの目とは、まさにイチイの実のように思いました。イチイの木の周りにはコケも生えるでしょうし、スギやヒノキも生えていても不思議ではありません。
このイチイの下で行われる儀式、それは雨乞いの儀式でした。山が崩され、木々が伐採(ばっさい)された後は、水害もひどくなりますし、また干ばつが毎年のように襲っていたようです。
適度の洪水は、エジプトのナイル川もそうですが、この扇状地にとっても栄養分を補給してくれる一つの恵みであったと思います。しかし、お盆の前の梅雨のときに雨が少ないと、いろいろな作物に影響が出てきます。干ばつは大飢饉につながりますので、当時としては大きな災害になったと思います。
また、七人の生贄(いけにえ)の話はギリシャ神話のテーセウスのミノタウロス(牛頭人身)退治する話を思い起こさせます。ミノタウロスはミノス王の后と聖牛との間に生まれたのですが、年を取ると共に乱暴になり、ミノス王はダイダロスに命じて複雑で、一度入ったら出られないという、諸刃(もろは)の斧(おの)を壁画に描いた迷宮(めいきゅう)を作らせ、そこに閉じ込めてしまいます。
ミノス王は、ミノタウロスの食料として、九年ごとに、男の子と女の子の七人の生贄を捧げます(私的には十九年に一度の朔旦冬至と七回の閏月をあらわしていると思っています)。三回目の生贄を捧げる時(三年に一度の閏月の三回目で七年目を意味してると思います)、生贄の一人に化けたテーセウス(海神ポセイドンの子)が迷宮に入りミノタウロスを討ち取ります。迷宮から帰る時は、入る時に道しるべにしておいたミノス王の娘アリアドネ(クレタ島の豊穣の女神)からもらった赤い麻糸を伝わって迷宮から脱出するというお話です。
このミノタウロスを退治する話は、春分の日に太陽を背にして昇る黄道十二宮の星座がおうし座からおひつじ座への移行期のことをあらわしています。 
19 八俣のオロチ(四)
前章のミノタウロスの神話は、諸刃の斧、迷宮、赤い糸、いろいろな物を教えてくれています。
ミノタウロスの閉じ込められた迷宮とは、私たちが住んでいるこの世界、すなわち輪廻の世界をあらわしているように思えます。一度入ったら出られないという迷宮です。いくら知識を得ても、いくら名利を得ても、輪廻の渦の中で自我を振りかざし、もがいているに過ぎません。知らない内に餓鬼・畜生道を歩んでいます。
諸刃の斧は、何か人為を加えれば、必ずその反動が戻ってくることを教えています。山の木々を伐採すれば水害が起こり、山を崩して鉱物資源を採取すれば水が汚れます。また、有る所で核実験を行えば地球の反対側に大きな地震を引き起します。
今の現実社会は、名利の欲にからむ是非の分別で成り立っている社会ですから、荘子が教えてくれたように、その分別を乗り越えない限り、この迷路から脱出することはできません。何度生まれ変わっても迷路の中を右往左往しているのが私たちなのだと思いました。
また、赤い糸を伝わって迷宮から脱出した話ですが、古事記にも、赤い糸が麻糸と赤土に変わって書かれているところがあります。奈良県桜井市の三輪(みわ)山の大神(おおみわ)神社の祭神大物主(おおものぬし)大神の話です。
陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘にイクタマヨリヒメという輝ける人(巫女)がいました。そこへ、立派な出で立ちの男が夜(よ)な夜(よ)な訪れてきて、いつしか子供を妊(みごも)ります。両親は娘に相手の男を尋ねましたが、名前も知らないといいます。そこで、部屋の中に赤土をまいておき、その男のが来たときに着てきた衣の裾に麻糸をつけた針を刺すように娘には命じました。明け方になり、どこに住んでいる男なのかを糸をたぐって探ろうとします。すると、その糸は鉤穴(かぎあな)から抜け出ており、三輪山の神の社で終わっていました。それで、娘の妊った子は神の御子であるとわかったという話です。
テーセウスは迷宮を赤い糸をつたわって迷宮から脱出します。オオモノヌシノ命はカギ穴から脱出します。カギ穴についてはいろいろな解釈があると思いますが、これは古墳です。カギ穴の形、それは前方後円墳です。すなわち、オオモノヌシノ命は、この世の人ではなかったのです。神の子であることを強調したかったのだと思います。
この天皇陵ですが、聖なる場所を選んで作られたようです。名前と陵とはほとんど一致していないようですが、それよりも保存、維持したことが日本のためにも良かったようです。聖地を壊すことは諸刃の斧ですから、必ずどこかでその償いがやってきます。
ミノタウロスの話やイクタマヨリヒメの話に出てくる、この糸の話ですが、供に霊性界と現象界をつなぐものとして語られていると思います。櫛稲田姫の精霊流しも精霊(せいれい)を迎え、そして送る話ですので、すべてが通じています。
ミノタウロスは人食いのごとく書かれているのですが、これはあくまでも権力者からの書き改めたもので、本来は、この現象界の中で悪を喰らう者であったと思います。仏教でいえば金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の役割です。
イクタマヨリヒメも霊的な能力があった人で、古墳に葬られた人との霊的なつながりをもつことができた人だと思いました。
そして、赤い糸の話ですが、結婚する相手とは前世から赤い糸で結ばれているという中国の説話があるのですが、赤は邪心、妄想の色でもあります。私的にこの意味を考えて見ますと、この現象界はすべて因縁所生で生まれてきていますので、結ばれてもお互いの間で、解消しなくてはいけない因縁があることを教えていると思います。
テーセウスもこの後、アテナイの王になるのですが、最後はアテナイの王位を追われ、頼みとしていた人物に裏切られて、崖から突き落とされて亡くなります。ミノタウロスの諸刃の斧が、この現象界の諸行無常の法則を教えているように思います。 
20 八俣のオロチ(五)
古事記、八俣のオロチ篇がつづきます。
須佐之男命は、足名椎から八俣のオロチの話を聞いたあと、しばらくして、
「私が八俣のオロチを退治したら、あなた方の娘さんである櫛稲田姫を私の嫁にくれませんか」と足名椎に言います。
「恐れ多いことですが、まだ名前も伺っておりません」と足名椎が答えます。そこで、
「私は天照大御神と母を同じくする弟です。今まさに、高天原より降りてきたところです」と素性(すじょう)を話します。
「そのような尊い方とは知りませんでした。喜んで娘をさし上げます」と、足名椎が答えます。すると須佐之男命は、ただちに娘の姿を斎(ゆ)つ爪櫛(つまぐし)に、すなわち精霊の宿る櫛に変えてしまい、自分のみずら結(ゆ)いの髪の中に挿しました。
そして、須佐之男命は足名椎と手名椎に、
「あなたたちは、幾たびも幾たびも繰り返して醸(かも)した八塩(やしお)折りの酒を造って下さい。また、垣根を廻らし、その垣根に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷(さじき)を設置して、その桟敷ごとに酒船(さかぶね)を置き、その船ごとに八塩折りの酒を盛って、あとは静かに祈って待っていて下さい」
と指示を出しました。
二人は教えられたとおりにすべてを整えて待ちます。やがて、足名椎が言っていた八俣のオロチがやってきました。酒船ごとに頭を垂れ、供えた酒をみな飲み干しました。須佐之男命の思惑通りに八俣のオロチは酔いつぶれて寝てしまいました。
それを見た須佐之男命は腰に佩(お)びた十拳(とつか)の剣を抜いて、その蛇を切り刻んでしまい、その流れる血で肥の河を真っ赤に染めてしまいました。だから今でも河が赤いのです、と書かれています。
須佐之男命は突然に櫛稲田姫を嫁に欲しいと言い出して、素性を明かし、両親を納得させて、櫛稲田姫を櫛に変えてしまい、自分のみずら結いの髪に挿します。櫛は、古来から霊妙な物として、すなわち魂が宿る物とされていました。櫛稲田姫は今から八俣のオロチすなわち、怨霊、邪心、妄想という邪鬼を祓い、雨乞いの儀式を行う須佐之男命と結ばれることを心から受け入れたことをあらわすために、自らの分身としての櫛を差し出したのです。女性にとって櫛は命のように大切だったようです。
垣根を巡らし、八つの門を作るとは、須佐之男命たちの居る場所が、北の極になります。つまり、船通山のイチイの木になります。垣根とは、二十四時間かけて極を廻る北斗七星が描く輪のことです。八つの門は、東西南北とその中間の八方向のことで、柄杓(ひしゃく)のコの字の底の指し示す方向です。それを地上に投影したものです。
八つ桟敷は、八カ所に作る仮の祭壇です。
そこに酒船を置き、八塩折りの酒を盛るとは、八カ所に備え付けられた祭壇の上の柏の葉や笹などで作った船や皿に、塩水を濃縮して作った塩と甘酒を供えるということなのでしょうか。甘酒は、一夜酒(ひとよざけ)と呼ばれていました。また濃い酒の意味で醲酒(こさけ)とも言われていました。祭祀用ですのでアルコールは入りません。ヒッタイトの高次元の教えには、仏教の五戒にあるように、酒は身心を乱す飲み物として禁じられていました。塩折りは塩水で洗うことですし、八塩折りは、何度も塩水で洗うことですから、これは、甘酒というより盛り塩のことで、海草などからの塩作りの方法を須佐之男命が五穀と同様に日本に持ってきたことを語っているようにも思われます。また、塩については因幡の白ウサギのところで書きたいと思います。
八俣のオロチがあらわれたことは、雨が降り始めたことです。水神、須佐之男命は十拳の剣をイチイの木の根元の大地に突き刺して天に祈りました。雨は雷と共に激しくなりました。須佐之男命が剣で蛇を切り刻む(邪心や妄想を断ち切る)のは、激しい稲光と雷音が空いっぱいに輝き轟き渡るようすです。そして、砂鉄が付着して赤く乾いていた川がごうごうと流れ始めました。支流という支流に水が流れ始めたのです。
今でも河が赤いのは砂鉄の性分の色であり、朱砂(すさ)の色です。
この一連の儀式は、イチイの木のところで行われた雨乞いの儀式でした。 
 

 

21 八俣のオロチ(六)
八俣のオロチの本性は蛇心、すなわち邪淫であったと思います。そして、怨霊がそれに加担をしていました。それが、鉄分を多く含んだ支流の流れと、水源の話を入り混ぜて作られたものでした。須佐之男命は櫛稲田姫と夫婦としての初仕事を成し遂げました。
古事記は続きます。
八俣のオロチを切りきざんでいる時、須佐之男命の十拳の剣に固い物があたり、刃がこぼれました。オロチの尾を切り開いてみると、そこにツムガリ(都牟刈)の太刀がでてきました。この太刀を手にした須佐之男命は、言葉では言いあらわせない不思議な力を感じました。そして、天照大御神に申し上げて、その剣を献上します。これが、後に言われるところの草那芸(くさなぎ)の太刀(草薙の剣)です。
この一節は、八俣のオロチの尾から草薙の剣が出てきたところですが、
八俣のオロチから取り出した剣は、タタラ場で低温冶金で作られた祭祀用の隕鉄剣をあらわしていると考えています。それは、須佐之男命がイチイの根本に刺した十拳の剣です。隕石を用いて作られたものですから不思議な力を備えています。この儀式で使われたものですから、地軸を安定させ、邪鬼を祓う剣として、雷雨で清められたイチイの根元に埋められたと思います。
ヒッタイトの人たちが、カッパドキアで、根に隕石を抱えていたゴムの巨樹のある所を神聖な場所として大切にし、そこで祈りを捧げていました。巨木と隕石、そして水源、大地の神聖な場所を私たちに教えてくれています。
この隕鉄剣は、殺生するために用いるものではありません。あくまでも天と地をつなぎ、魂を浄化するために用いられたものです。
古事記が続きます。
仕事を終えた須佐之男命は、宮を作るのにふさわしい場所を出雲(いずも)の国に探し求めました。そして、須賀(すが)というところへ到着したとき、
「この地は、とても気持ちがすがすがしく感じられる所だ」
と言って、この地に宮を作り住むことになります。それで、この地は今も須賀(すが)と呼ばれているのです。そして、ここに宮を作ったとき、周りから雲が立ちのぼりました。その時、須佐之男命が歌を口ずさみました。
八雲(やぐも)立つ 出雲八重垣(いずもやえがき)
妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を
そして、足名椎(あしなづち)を召(め)して、この宮の長(おさ)とし、稲田の宮主、須賀の八耳(やつみみ)の神と名付けました。
古事記の中で、須佐之男命が須賀神社を建立(こんりゅう)したところです。
出雲の地へ降りてきた須佐之男命は、水神を祀る聖地を探しました。そして、その地へ到着したとき、とてもすがすがしい気分であると言うのですが、この地が聖なる場所であること、そして水神を祀る里宮(奥宮はイチイのある所です)を建てる場所にふさわしいところであると感じました。
八雲立つの歌は、宮全体が雲に包まれます。そして、そこに作る八重垣は、須佐之男命が聖地に結界(けっかい)を作ったことです。これで邪鬼の進入を防ぐことができます。その神聖なる宮に妻と共に祀られるのである、と歌っています。水神、須佐之男命と豊穣と鎮魂の女神、櫛稲田姫が須賀神社に祀られたことになります。
足名椎、巨木の精に、この地を守るように言い伝えました。この地の名前、須賀ですが、古代朝鮮語では鉄を磨くという意味があるそうです。この地は、清浄に保つべき聖地であることを語っていると思います。そして八耳は、天耳通(てんにつう)のことで、天籟(「荘子、天籟を語る」を参照)を聞くことができることです。
須佐之男命も櫛稲田姫も、当然ですが食事は精進料理を採りました。ヒッタイトの人々に、この高次元の教えを授けた神は、国常立神(くにとこたちのかみ)であると教えられました。古事記では神代七代(かみよななよ)の最初の神でした。ヒッタイトの人たちは、この高次元の教えを粘土板に書き移し、そして保存し、世界各地へ拡がって行ったのです。 
22 因幡の白兎(一)
おとぎ話としてよく知られている「因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)」の話が古事記に載っています。オオナムヂノ命(大穴牟遅命)の説話として書かれています。
オオナムヂノ命には、八十神(やそかみ)と言われるほど多くの兄弟がありました。この八十の神々は、みな因幡のヤガミ(八上)姫を妻に娶(めと)りたいと思っていました。兄たちは荷物を担がせるために、その旅にオオナムヂノ命を従者(じゅうしゃ)のようにお伴に加えました。気多(けた)の岬(伯耆(ほうき)の国)を通りかかった時、白い毛を剥がれてしまったウサギが倒れて伏せていました。それを見た八十神たちはウサギをからかい、
「随分ひどい怪我だ。このような時は海の水を浴び、風通しの良い高い山の峰に臥せて乾(かわ)かしたら良くなるぞ」と、ウサギに言いました。ウサギは八十神の教えに従い、言われたまま臥せていると、その皮膚は乾き、だんだん裂けてきてしまいました。
そこにオオナムヂノ命がやって来ます。
古事記の中で大国主命は、須佐之男命の六世の孫として生まれ、またの名を大穴牟遅(オオナムヂ)、またの名をアシハラノシコヲと言い、またの名をヤチホコ、またの名をウツシクニタマと言い、五つも名を持つ神である、と書かれています。
オオナムヂノ命は、古事記では大国主命になっていますが、大吉備津彦と二人は双子の兄弟ですので、双方の名前が複雑に入り組んでしまっています。オオナムヂノ命と書かれているのは大吉備津彦のようです。そして、他に兄弟はいなかったようです。
オオナムヂノ命である大吉備津彦は、古事記の中で孝霊天皇の御子として生まれています。
「孝霊天皇と双子」のところで書きましたが、ハイヤーセルフの教えでは、大吉備津彦と大国主命は、天忍穂耳命のコリアンのはとこで、果樹園の経営者であった孝霊さんの双子の兄弟でした。干ばつにみまわれた時、不飲酒の戒を破り酒を飲んでしまった孝霊さんは、規則により双子の息子を天忍穂耳命に委ねることになります。
双子の兄弟は、天忍穂耳命に引き取られますが、ここから二人は別々に育てられます。大吉備津彦は天忍穂耳命のもとから、さらに優婆夷(うばい)、すなわち在家(ざいけ)の女性の仏教信者のもとに預けられました。海辺の漁師町の中で、大変厳しく育てられたと語っていました。
大国主命は渡来人である猿田彦命にあずけられました。ここで大国主命は占星術などを学んだようです。猿田彦命は結界をはる能力を持っていた方です。猿田彦命も応神天皇のお供をして、後に日本にやって来ます。
兵庫県朝来(あさご)市に、但馬国の一宮である粟鹿(あわが)神社があります。そこに茗荷(みょうが)神社と床浦(とこのうら)神社、猿田彦(さるたひこ)神社などが末社として祀られています。
その茗荷神社には、摩多羅(まだら)神、すなわち北斗七星の化身として大国主命が祀られています。そして、床浦神社には、このオオナムヂノ命が祀られ、子供の神様として、また医療と縁結びの神として祀られています。ここでは二人が別々の神として祀られています。大国主命の育ての親である猿田彦神も五穀豊穣の神として祀られています。
この粟鹿神社の本殿の祭神は日子坐王(ひこいますおう)です。四道(しどう)将軍の一人とされている人ですが、神社の名前が、鹿が粟を三束くわえて山から下りてきて農耕を教えてくれたことに由来していること、そして、この神社を奉斎(ほうさい)していたのが神部(かんべ)氏であったことを考慮すると、本来の祭神は須佐之男命か、または櫛稲田姫との夫婦神であったと思います(須佐之男命は神部氏の祖です)。
物語では、オオナムヂノ命は荷物を背負わされ、従者のごとく最後を一団とは離れて歩んでいます。朝鮮半島からの天忍穂耳命の一族が、まだ若いオオナムヂノ命とともに日本に到着したことを物語っています。
この八十神の集団が苦しんでいるウサギに、さらに傷を悪くするような治療法を教えたことは、たんに意地悪をしただけの話ではなく、何か別のことを教えているように思いました。 
23 因幡の白兎(二)
古事記が続きます。
横になって苦しんでいるウサギのところへ、遅れて歩いていたオオナムヂノ命がやって来ます。
「どうして、おまえは泣いて臥せているのだ」
と聞きました。すると、ウサギは泣きながら答えて言います。
「じつは、私はオキノ島に住んでいたのです。こちらへ渡りたいと思っていたのですが、渡る方法がありませんでした。そこで海に住むワニを利用しようと思いつきました。
「あなたの一族と私の一族のどっちが数が多いか競(くら)べてみないか。あなたたち全員でここから気多(けた)の岬まで並んでくれたら、私がその上を踏みしめ、走りながら数をかぞえていくから、どちらが多いかわかるよ」と、ワニに言いました。ワニは言ったとおりに並んでくれたので、私はその上を数をかぞえながら気多の地へ渡りました。その時、つい嬉しくなり、口が滑ってしまいました。
「やったぞ、君たちは私に騙されたんだよ」と言ったとたん、一番最後にいたワニに、振り向きざまに噛(か)みつかれてしまいました。その時、私の白い毛が剥がれてしまったのです。それで泣き臥せっている時、先に行かれた八十神たちが通りかかり、海の水を浴びて、風で乾かせば良くなると言われたので、その通りにしたら、こんなになってしまいました」
それを聞いたオオナムヂノ命は、
「今すぐに、川尻へ行って真水で体をよく洗いなさい。そして、その水辺に生えている蒲(がま)の穂を採って、それを川辺に敷いて、その上で体を転がしなさい。そうすればもとのような肌に戻るだろう」と治療法を兎に教えてあげました。
ウサギは教えられたようにやってみると、みるみる皮膚が回復して元のようになることができました。これがお伽噺として語られている「因幡の白兎」の一節です。
ウサギはたいそう喜んで、オオナムヂノ命に、
「あの八十神たちは、決してヤガミ姫を得ることはできません。袋を担(かつ)いでいるあなたがヤガミ姫を妻とすることができます」と、神のお告げのごとく言います。
古事記では、今もウサギ神といわれていると、ウサギが神の使いであったと書かれています。ここまでを解釈してみますと、
白ウサギがワニの上を渡るという話ですが、ワニ、すなわち和迩(わに)一族の日本への到来を語っています。この一族は鉄鉱石を採掘した一族です。琵琶湖畔の志賀町には和迩の地名が残っています。比良山系の山々から鉄鉱石を掘り出し製鉄を行ったと考えられています。百足衆(むかでしゅう)とも呼ばれています。坑道の堀り方が百足のように、一本の太い坑道から両側に百足の足のように掘っていったので、そのように呼ばれたようです。
タタラ製鉄も、ヒッタイトのような低温冶金を行う一族と、山を崩し、坑道を堀って鉱石を採取し、さらに武器を作る一族がいたことは確かなようです。
オオナムヂノ命がウサギに蒲(がま)の穂を敷いて、その上を転がれば良くなると傷の治療方を教えます。蒲の花粉、すなわち蒲黄(ほおう)が傷や血止めの薬として効果が有ることが、紀元二世紀頃に作られた中国の薬草の治療の本である神農本草経(しんのうほんぞうきょう)に載っています。日本にも相当早い時期に入ってきていたようです。
蒲は褐鉄鉱を採取する葦原(あしはら)に、背丈が葦より低いのですが葦と一緒に生えています。タタラなどの作業に従事していた人たちは、火傷(やけど)や切り傷などの治療に古くから用いていたのでしょう。これも、ヒッタイトからの教えの一つだと思います。
古事記の中で、今もウサギ神と言われていると書かれていることは、ウサギは月をあらわしてますので、ここにはさらに、潮の満ち引きに関係した何かが書かれていたのではないかと思いました。 
24 因幡の白兎(三)
古事記では、オオナムヂノ命に教えられた治療方法ですっかり良くなったウサギは神に変身して、オオナムヂノ命に、ヤガミ姫はあなたが娶りますとお告げを述べます。
そして、この後その通りにヤガミ姫は八十神たちに、オオナムヂノ命のところへ嫁ぎたいと話します。すると、それに怒った八十神たちはオオナムヂノ命を殺してしまおうとする話になるのですが、因幡の白ウサギの話は、ここで一段落です。この後ヤガミ姫は、ほんの少しの登場で古事記からは消えてしまいます。作者が話を盛り上げるために作った姫であったようです。
今までの流れから、この白ウサギの話の意味を考えてみますと、
ウサギは月に住むとされる動物ですから、潮の干満をあらわします。潮の干満に関係するウサギの毛の色の白、それは「塩」をあらわしていると思います。
八十神が言った、海水で洗って乾かすというのは、まさに塩の満ち干を利用した塩田です。岩塩の乏しい日本に塩作りの方法が伝えられていたことを教えています。しかし、天候が不順で湿気の多いところでは、この方法で塩を採ることは難しかったのだと思います。
因幡の白ウサギ(一)で紹介した粟鹿(あわが)神社ですが、興味深い儀式が今でも行われています。それは瓶子渡(へいじわたし)と呼ばれる儀式です。毎年十月に行われているようです。麻の裃(かみしも)を着用した四人の内の二人ずつが階段の上と下に別れて、階上の人は扇を左右に違えながら、また階下の人は三方(さんぼう)に御料柿(ごりょうがき)と茄子(なす)と稲のひこばえ(刈り取った後の二番穂)を盛ったものを左右に違えながら「さあ、ござれ」とかけ声をかけながら十数回繰り返して、うまく息があった所で三方を階上の人に渡し、その人が殿内に奉納するという儀式です。
この儀式、瓶子渡と呼ばれているのですが、瓶(かめ)ではなく三方に三種を盛ったものになっていました。本来は四人で瓶をまわしていたように思えます。私には塩作りの儀式をまねたものに思えたのです。海辺でしたら、ホンダワラのような海草を天日で干して、表面に析出(せきしゅつ)した塩を、瓶に貯えた海水で洗い出し、塩分を海水の方へ移す作業を何回か繰り返し、海水を濃縮させた鹹水(かんすい)を作ります。この粟鹿神社のあるような内陸の地では、その塩作りの作業をまねた儀式を行い、鹹水を入れた瓶を奉納していたように思えます。塩は内陸の地では海辺よりもさらに貴重なものとして扱われていたはずです。
オオナムヂノ命は、本来はウサギの治療法と共に、海草(ホンダワラ)を用いた塩作りの方法を教えていたように感じました。また、ホンダワラを乾燥させて、さらに海水をかけて塩分を多量に含ませてから、それを焼いた灰を海水に溶かし、それを布などで漉(こ)して鹹水を得る方法もあるようですので、場所に応じて塩を作る方法があったように思えます。いずれも鹹水から、それを煮詰めて水分を蒸発させて析出した塩を取り出します。残った液体が豆腐を固める「にがり」になるようですので、豆腐も古くから日本に伝わっていたのではないでしょうか。
塩のことではインドでも「塩の行進」と呼ばれた運動がありました。ガンジーがイギリスの植民地政府が安い労働力で作らせた塩を高い値段で専売していたことに対して、1930年に起こした愛と不服従という非暴力の反対運動です。380kmの道のりを歩んだこの塩の行進が、インドの独立運動の出発点でした。そして、1947年、インドは独立しました。
オオナムヂノ命は、古事記では須佐之男命の娘のスセリ姫と結ばれますが、ハイヤーセルフの教えでは、オオナムヂノ命である大吉備津彦はアラハバキである綿津見の子、スセリ姫と結ばれています。大吉備津彦は優婆夷のところで育てられたのですが、海辺の地で育ちましたので魚を食べていました。スセリ姫は、ジャガイモの皮むきをしながら、徐々に菜食を中心とした精進料理に変えていったようです。 
25 オオナムヂノ命(一)
古事記が続きます。ヤガミ姫を娶(めと)ったオオナムヂノ命に怒りをあらわにした八十神たちは、オオナムヂノ命を殺してしまおうと皆で話し合いをします。そして、伯耆(ほうき)の国の手間(てま)の山へオオナムヂノ命を連れて行きます。
「赤いイノシシがこの山にいる。我々はそのイノシシを山から追い下ろすから、おまえは下で待っていて、そのイノシシを捕まえよ。もしも取り逃がしたらおまえの命はないぞ」八十神たちは、そう言って山に登って行きました。そして、イノシシに似た大きな石を真赤(まっか)に焼いて、山の上から転げ落としました。
オオナムヂノ命は言われたとおりに、追い下ろされた石のイノシシを受け止めると、たちまちにして火の石に焼かれて死んでしまいました。
これを聞き知った母(はは)神は嘆き悲しんで、高天原へ飛び昇り、カミムスビノ神にお願いをします。すぐに、高天原からキサカイ姫(赤貝)とウムギ姫(ハマグリ)が遣わされました。まずキサカイ姫が焼け石に張り付いたオオナムヂノ命の体を岩から剥がし、ウムギ姫がハハ神の乳汁(ちち)を体全体に塗りました。すると、まもなくオオナムヂノ命はうるわしい男に戻り、元のように出歩くことができるようになりました。
この古事記の話は、死んだオオナムヂノ命が蘇(よみがえ)る話です。
ここで、ようやく八十神(やそがみ)の正体が明かされました。八十は耶蘇です。魂の復活の話がここに書かれています。キリスト教の一団でした。オオナムヂノ命は仏教の優婆夷(うばい)に育てられましたので仏教を学んできています。天忍穂耳命はゾロアスター教でミスラ教の流れですから、仏教と関係の深い宗教です。キリスト(耶蘇)教では輪廻の思想が隠されてしまいました。それが、魂の復活という話になったように思います。
この一節は、オオナムヂノ命の集団が八十神の集団にいやがらせを受けていたことを描いた光景です。
また、オオナムヂノ命が赤く焼けたイノシシのような石を受け止め、抱えて死ぬのは不自然な描写です。これは、オオナムヂノ命が高熱を発し、病に臥せっていることを表現しています。オオナムヂノ命は、ただちに薬草を送り届けるように朝鮮半島の国に手配します。それが、母神が高天原へ飛び昇ると表現されています。カミムスビノ神はすぐに生薬(しょうやく)と薬草(やくそう)を用意します。それが二人の貝の字のつく姫でした。朝鮮半島から生薬と、その種(たね)が日本にもたらされたことを教えています。
それが貝母(ばいも)という百合(ゆり)科の一種であるアミガサ百合でした。古名はハハクリと呼ばれていたそうです。突然古事記に出現した母神の正体で、これは中国の神農本草経に書かれている薬草でした。茎のでかたが二枚の厚い鱗片(りんぺん)の間から出ていて、二枚貝(アサリやハマグリなど)の軟体の部分の形に似ているので貝母と名付けられたようです。花は下向きに咲き、その花びらの独特の模様からアミガサ(編み笠)百合(ゆり)と日本では呼ばれています。
その鱗茎(りんけい)と呼ばれる茎の部分(球根部)を乾燥したものが生薬となり、解熱作用とせき止めの作用があると神農本草経に書かれています。そして、オオナムヂノ命には関係がないのですが、もう一つの作用が催乳作用、すなわち母親が服用するとお乳の分泌を促進する作用があると書かれています。古事記の中で、オオナムヂノ命の体に乳汁(ちち)を塗ると書かれているのですが、これはお乳を出す方の作用を教えていると思います。
粟鹿神社の末社、床浦(とこのうら)神社に祀られているオオナムヂノ命が、子どの神、医療の神、縁結びの神として祀られているのも理解できると思います。
因幡の白兎のなかで語られた、火傷などの生薬である蒲黄(ほおう)など薬草や生薬などの神農本草経の教えが日本へもたらされていたことが、この記述で知ることができました。この生薬のおかげでオオナムヂノ命はすっかり元気になります。 
 

 

26 オオナムヂノ命(二)
せっかく死んだと思ったオオナムヂノ命が元通り元気になった姿を見た八十神は、心穏やかではいられません。次の陰謀を考えます。
今度は、オオナムヂノ命を山へ連れて行きます。そこで、大きな木を切り倒します。そして、木の割れ目に「くさび(楔)」を打ちこみ割れ目を広げ、オオナムヂノ命を木の割れ目から押し込んで、くさびを抜いて中へ閉じ込めて殺してしまいます。
この話を聞いた母神が訪ねてきて来て、泣きながらオオナムヂノ命を探します。そして、ようやく木の間に挟まれているオオナムヂノ命を見つけると、すぐにその木を二つに裂いてオオナムヂノ命の体を引き出し、蘇生させました。そして、
「あなたはここにいるかぎり、いつかは八十神たちに滅ぼされてしまうでしょう」
と言って、八十神たちに気づかれないように木の国のオオヤビコのもとへ逃がして隠しました。しかし、八十神たちはすぐにこれを知って、弓に矢をつがえて、オオナムヂノ命を出すようにオオヤビコに迫りました。
オオヤビコはオオナムヂノ命を木の隙間からくぐり抜けて脱出させ、
「これから、須佐之男命の坐す根(ね)の堅州(かたす)の国へ行きなさい。必ず、スサノウノ大神が良い智慧を授けてくれるでしょう」
と言って、オオナムヂノ命を送り出しました。
オオナムヂノ命は二度目の災難です。
今回は、母神がやって来てすぐに助け出されました。オオナムヂノ命は再度、体を痛めたようですが、こんどは貝母(ばいも)の生薬がありますので、それを服用してすぐに治まったのだと思います。
木を切り倒して、木の割れ目に楔(くさび)を打ち込むというのですから、八十神の一族がオオナムヂノ命の一族を追い出して、その土地を我がものにしたことを語っています。そして、二度と戻れないように垣根を作ったことを、くさびを打つと表現したように思います。武器を持った八十神一族が自分たちの住む所を手に入れたようです。ただ、巨木を切り倒すことは、陰陽の気の乱れを招き、争いごとが多くなります。アラハバキの流れをくむオオナムヂノ命たちとは完全に一線を画したことを意味しています。
木の国は紀伊の国と解釈されています。南紀州にはイザナミノ命の祀られている花の窟(いわや)がありますが、あまりに古事記の物語の流れからは飛んでしまいます。八十神の一団が気づくのですから、それ程遠いとは思えません。その後、須佐之男命のところへ行くことを考えると、西へ戻ったと思います。
すると、足名椎と手名椎のいた鳥髪山の近くを、木の国(巨木の精)と表現したのではないでしょうか。
その地を守る巨木の精がオオヤビコであったと感じました。オオヤビコはオオナムヂノ命を巨木の隙間に隠し、八十神の一団が去った後で、そっと木々の間を抜けるように送り出したと思います。この地は、最初に須佐之男命が足名椎の手名椎の二本の巨木に挟まれて、精霊流しをしていた櫛稲田姫に会った所だと感じました。
そこからオオナムヂノ命を送り出すというのは、天忍穂耳命の一族のいるところ、すなわち、オオナムヂノ命が須賀の地の方へ戻ることになったのだと思います。
古事記では、須佐之男命に会いに行きます。そこで、この男は葦原色許男(あしはらのしこお)というのだと、須佐之男命は娘のスセリ姫にオオナムヂノ命を紹介します。古事記の中の大国主命のまた別の名前がここで出てきました。まもなく、双子の兄弟である大国主命と共に活躍するときが来たのだと思います。
古事記では、オオナムヂノ命は須佐之男命から、いろいろな難題を与えられるのですが、それをスセリ姫の協力で解決していきます。そして、二人は思い立って、須佐之男命が寝ている隙に、須佐之男命の髪の毛を家の柱に縛り付けて逃げ出します。そのとき持ち出したのが生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と天の沼琴(ぬこと)でした。 
27 オオナムヂノ命(三)
オオナムヂノ命とスセリ姫は、逃げだしてすぐに、持ち出した天の沼琴(ぬごと)が樹木にぶつかり、とてつもない大きな音が鳴り響いてしまいます。二人がいないことに気がついた須佐之男命が立ち上がって動いたとたんに家が倒壊してしまいますが、柱に縛り付けられた髪をほどき、二人の後を追います。須佐之男命は黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追って行き、そこで遠くにいる二人声をかけます。
「おまえの持っている生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)を使い、八十神たちを坂の下へ追いやり、河の瀬に追い払え。そして、おまえは葦原の中つ国を統(す)べ治めて大国主となり、またウツシクニタマ(宇都志国玉)となりて、わが娘スセリ姫を正妻とし、宇迦(うか)の山の麓に、下は大地の底の磐根(いわね)に届く太い御柱を立て、上は、高天原に届くまでに高々と氷木(ひぎ)、すなわち千木(ちぎ)をそびえ立たせて、そこに住むが良い」と言って、須佐之男命は二人を見送ります。
そして、オオナムヂノ命は、須佐之男命に言われたとおりに、生太刀と生弓矢を用いて、八十神たちを追い払い、葦原中つ国を治め、初めて国を作ったのです、と書かれています。
須佐之男命の髪を柱に縛りつけるという行為は、須佐之男命の霊力を抑え、結界を作る意味だったのでしょう。その間に二人は逃げ出します。そして、追ってきた須佐之男命も黄泉比良坂(あの世とこの世の境)で二人に別れを告げることになります。イザナギの命が黄泉の世界のイザナミノ命と別れた所です。星座でいえば、いて座で南斗六星にある境界です。金剛夜叉明王に祈りを捧げるトヨウケノ大神のいるところです。
ハイヤーセルフからの教えと同じく、古事記でもオオナムヂノ命こと大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)はスセリ姫と結ばれました。しかし、スセリ姫は須佐之男命の娘ではなく、アラハバキ一族の綿津見の子であると教えられました。
須佐之男命は黄泉の国の人でした。その須佐之男命のところから持ち出した生太刀の剣は、隕鉄で作られた剣であり、地軸の安定と陰陽の気の調和をはかる神事に用いるものです。生弓矢も同様に、邪心、邪鬼を祓う神事に用いるものです。ここでは、須佐之男命を通して、アシハラノシコオこと、大国主命が生太刀、生弓矢を持って日本に渡って来たようすを語っていると思います。
二人が持ち出した沼琴(ぬごと)ですが、今に伝わる八雲琴(やぐもこと)の起源がこの沼琴ではないかと言われています。しかし、沼琴が神事のときの演奏に用いる琴では、物語の流れからいって違和感を覚えます。個人的には、鈴のついている錫杖であったと思います。ミスラ教の神話では、ミスラ神が岩を叩くと、そこから水が湧出するのですが、息長足姫が三韓の宮の角へ突き立てたのも錫杖でした。
褐鉄鉱で作った錫杖は、岩や大地を叩き、その奏でる音で清い地下水の流れを感じることができたようです。アラハバキの一族の共同体には生活はもちろんですが、神事にも稲作にも、そしてタタラにもきれいな水が必要だったのです。まさに、美鈴(みすず)、すなわち鉄滓(てっし)で作られた鈴の付いた錫杖が樹木にぶつかり、チリーンとチリーンと美しい響きの音を奏でたと思います。ちなみに、チリーンとは胎蔵曼荼羅の釈迦院に描かれている五仏頂尊の一人、光聚仏頂(こうじゅぶっちょう)の梵字の発音です。密号では神通金剛と呼ばれている方です。葦の根本に自然に沈着した褐鉄鉱から作り出された鈴ですから、その音は心に清く響きわたる音であったと思います。
そして、須佐之男命から言われたように、大吉備津彦命と大国主命の双子の兄弟は、二人で力を合わせて、八十神の一団を山から下へ追い落とし、河の瀬の向こうに追い払いました。三韓の王の軍がやって来ましたので、八十神たちはどこかへ去って行かざるをえなかったと思います。
この話は鬼ヶ島の鬼退治、すなわち吉備の国に伝わる桃太郎伝説に思えました。この吉備は、まさに大吉備津彦命の名前の由来の地でもあります。 
28 大吉備津彦命と鳴釜神事
日本書紀には吉備津彦命、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)命、大彦命(おおびこのみこと)、タケヌマカワ(武沼川)の四人が四道将軍として各地にの平定に向かいます。これも、ときの権力者が後から作った物語だったようです。吉備津彦は稚若彦命(わかたけひこのみこと)という腹違いの弟と山陽道の平定に向かったことになっているのですが、この弟もハイヤーセルフの教えでは存在しません。
タケヌマカワについては、一般的にはタケヌナカワとされているのですが、渟奈川姫がヌナカワにして欲しくないというので、タケヌマカワとしました。後で出てきますが、悪しき盗賊団だったようです。
丹波道主命は山陰道へ向かうのですが、その父、日子坐王は「因幡の白兎」で述べた粟鹿神社の祭神になっていますが、ここも、本来は須佐之男命が祭神であったと思われますし、またこの吉備の国も須佐之男命が伝えた低温冶金を行っていたアラハバキ一族の共同体であったと思います。そこを八十神の集団に奪われましたが、大吉備津彦命と大国主命の双子の兄弟が取り戻したというのが真相のように思いました。
古事記では、オオナムヂノ命の出てくる話は前節(27)で終わりますが、
ハイヤーセルフの教えでは、大吉備津彦命とスセリ姫との間には双子が生まれています。大彦命(古事記では四大将軍の一人)と神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと、古事記では神武天皇)の二人です。この双子の兄弟は越の国の方を任されたようです。しかし、裏切りや陰謀で大変な生涯を送ります。これは、ケヌマカワと一緒に後で書きたいと思います。
大吉備津彦命たちの追い払った八十神の一団が、伝説の温羅(うら)であったように思います。ウ羅は大きなラテン系の人間をさしていると思います。体格も良かったのでしょう。
大吉備津彦命は吉備の国で、備前(びぜん)国一宮(いちのみや)、備中(びっちゅう)国一宮、備後(びんご)国一宮に祀られていますが、備中国一宮の吉備津神社に伝わる儀式に鳴釜神事(なるかましんじ)があります。大きな釜に水を入れ、火をおこして沸かし、神官が祝詞(のりと)をあげます。その時、その上に乗せた蒸籠(せいろ)に阿曽女(あそめ)と呼ばれる巫女(阿曽(あそ)の祝(ほふり)の娘)が、器に入れた玄米を振りますと、地鳴りのような低い音が出るので、その音を聞いて吉凶を判断するという神事のようです。
征伐された温羅ですが、そのうなり声は首を切られても骸骨になっても止まらず、この釜の下に埋めたのですが、それでもうなり声が響いてきたようです。
その時、死んだ温羅が吉備津彦命の夢に現れ、温羅の妻である阿曽の郷の祝の娘の阿曽媛(あそひめ)に神饌(しんせん、神に捧げる供物)を炊(た)かせたなら、温羅は吉備津彦命の味方となり、鳴釜神事で吉凶を占い、その結果を吉備津彦命にお知らせする、と言ったというのが始まりのようです。しかし、この夢を見たのは吉備津彦ではなく、何か世間に異変が起こり、それを温羅の怨霊のせいであると言いふらしたのは温羅に寵愛された人だったと思われます。
この話は、文子(あやこ)天満宮の話を思い起こさせます。宇多天皇が上皇に退き、その後の醍醐(だいご)天皇のとき菅原道真は右大臣から左遷されて太宰府の地へ赴(おもむ)きます。そして、その地で失意のなかで亡くなります。その後、飢饉や疫病などの災害などがおこると、それは菅原道真の怨霊が引き起こしているという噂が流れます。そして、乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)が天のお告げと称して、今の北野の地に天満宮を建立することを申し出て、そこに菅原道真の霊を祀らせました。
阿曽女も乳母女も共に、生前に仕えた人、すなわち温羅や道真に非常にお世話になった人たちだったのだと思います。仕える主人がいなくなり、我が身を襲ってきた突然の不幸を嘆き、天のお告げと称し、天災を利用したように思えてなりません。 
北野の地は、もともと天候神や雷神を祀る聖地であったようです。天の神々は、受験などの名利を求める欲のために手を貸すようなことはしませんので、道真さんでちょうど良かったのでしょう。荘子なら、失意の中で死んだ知識人も、他人の物を奪う盗賊も、自分の天分の本性を損なったことでは変わりがないと言うでしょう(「駢母枝指と儒教」を参照)。
吉備津神社の鳴釜神事ですが、本来は、まさに地鳴りの音を聞いたのだと思います。シャーマンは瞑想、または錫杖を通して大地の奏でる音を聞ききました。アラハバキ一族の地鎮祭の一つの形であったように思います(「荘子、天籟を語る」を参照)。
吉備津神社の南側の中山山頂に中山茶臼山(ちゃうすやま)古墳が有ります。吉備の地では、それを大吉備津彦命の陵墓(りょうぼ)とされ、今でも敬われています。 
29 大国主命と渟奈川姫
古事記はオオナムヂノ命から大国主命に代わります。大国主命の別の名前、ヤチホコ(八千矛)の神として登場します。
ヤチホコの神は、遠く高志(越)の国の渟奈川(ぬながわ)姫を妻にしようと出かけます。渟奈川の姫の家に着くと、長々と妻乞いの歌を歌います。
ここで、その歌が二つほど古事記に書かれているのですが、書くのもはばかれる歌詞になっています。作者は仏教の不邪淫戒を知らなかったように思います。
次に、ヤチホコの神が妻のスセリ姫と歌を交わし、酒を飲むのですが、これも残念ながら歌詞の内容が酒を飲みながら話した色恋沙汰を歌にしたようにしか思えません。その後、二人で出雲へ帰り、末永く御鎮座になったとあります。
歌の中に、黒、青、茜(あかね)、綾(あや)、絹、こうぞなどの染料や織物の話が多く出てきますので、この歌の作者は、織物や染め物に関係した職に従事していた方なのでしょう。
ゾロアスター教も仏教もアラハバキ一族も一夫一妻でしたし、お酒も飲みません。古事記を書かせた権力者などや、それに従う一族とは異なりました。どうしても自分たちを正当化しようとしているのですが、まさに厚顔無恥(こうがんむち)で、名利欲の強い人たちの行いは、今も昔も変わらないようです。輪廻の中で生かされている我々の性(さが)なのでしょうか。また、詠んだ歌を神語(かみがたり)などと言っているのですが、たんなる色恋の歌に過ぎません。
渟奈川姫に会えずにいるヤチホコの歌として、次のようなところが有ります。
青い山には鵺(ぬえ)が鳴き 野の鳥のキジも声を響かせ 庭のニワトリも夜明けを告げている にくきうるさい鳥たちだ こんな鳥たちを叩いて殺してだまらせてしまえ
と、あるのですが、アラハバキ一族の人たちは生き物を殺生するような歌は作りません。荘子の万物斉同の教えを守り、自然の摂理に順い生活をおくっています。この詩は、残念ながら心貧しい人が作ったとしか思えません。
ただ、歌の中に渟奈川姫を連想させる言葉が一部入っています。それは、スセリ姫の歌として書かれているのですが、
鴗鳥(そにどり)の青き御衣(みけし)を ま具(つぶ)さに 取り装い
と、書かれているところがあります。すなわち、カワセミ(翡翠)色の青い衣を、清らかに身に着こなし、という解釈ですが、このカワセミの青い色は翡翠の色でもありますし、また、渟奈川姫の目の色が青緑色だったことに由来しているように思います。
ハイヤーセルフの教えでは、渟奈川姫のお母さんは、息長足姫命の一つ上のお姉さんでした。渟奈川姫の目は青緑色をしていたそうです。それは、お父さんがイギリス人で、フツヌシノ(経津主)だったからです。弟にタケミナカタ(建御名方)がいました。フツヌシは途中でアラハバキの掟を破り、日本に訪れた別の一団に組みし、アラハバキ一族を去ったようです。タケミナカタもアラハバキ一族から離れています。二人はそれぞれ、鹿島、香取神社、そして諏訪神社で軍神(ぐんしん)として、現在も祀られています。
渟奈川姫の住んでいた糸魚川は翡翠(ひすい)の産地でした。アラハバキ一族は決して山を崩して石を採ることはありません。姫川の流れの中に見つけていたと思います。
日本では翡翠は取れないことになっていたようですが、姫川で採取できたことは隠されていたと思います。
渟奈川姫は結婚していました。ご主人は底足筒男命(そこあしつつおのみこと)です。息長足姫命のところで出てきた住吉三神の一人ですが、イギリス系の人だったようです。天忍穂耳命の配下として日本に来ていました。大国主命も大吉備津彦命も底足筒男命も三韓の王の配下でした。そして、アラハバキ一族の仲間として日本にやって来ていたのです。 
30 大国主命と夕舞姫(一)
古事記では、大国主命には三人の妻がいることになっています。始めにタキリ姫(多紀理毘売)を妻として生まれた御子は、アジスキタカヒコネ、次に生まれたのが妹のタカヒメ、別名シタデルヒメです。また、カムヤタテヒメを妻として生まれた御子は、事代主(コトシロヌシ)の命です。そして、トトリヒメ(鳥取)ヒメを妻として生まれたのがトリナルミ(鳥鳴海)です。これから十七代にわたり、古事記では大国主命の系譜が語られます。
ハイヤーセルフの教えでは、月の婆様の頭から生まれたとされている月読命(つくよみのみこと)「(15)須佐之男命と大月比売」を参照」には双子の兄妹がいました。名前が夕舞(ゆうぶ)姫といいます。
大国主命は、この月読命の双子の妹の夕舞姫と結ばれます。二人の間には三人の子供が生まれています。長女が瀬織津姫(せおりつひめ)、長男が事代主命(ことしろぬしのみこと)、そして次女のクジツ姫の三人です。一夫一妻が一族の決まりですから古事記とは異なります。長女の瀬織津姫は、後の応神天皇の后(きさき)になります。
この二人には兄が一人有りました。天津甕星(あまつみかぼし)、別名、天香香背男命(アメノカガセオノ命)です。古事記には出てきませんが、日本書紀には星の神として出てきます。フツヌシ(経津主)とタケミカヅチ(武甕槌)が葦原中つ国の平定に高天原から使わされた時、最後まで屈しなかったと書かれています。常陸の国の大甕山に居を構えていたと言われています。
神話の中では天香香背男命は「まつろわぬ神」の一人として、アラハバキの一族と同様に書かれているのですが、この神話は武力で征服に来た一族が書き改めたものです。ハイヤーセルフの教えでは、フツヌシはアラハバキの掟を破り一族から離れた人ですし、タケミカヅチは大陸から渡ってきた武器を持った盗賊団の一味だったようです。この人たちと組した人たちが中央に進出して、自分たちの系図を正当化するために記紀を書き直したようです。
天香々背男命はタギリ姫と結ばれています。タギリ姫は、古事記では宗像三神の沖津宮の祭神となっている方です。
夕舞姫の母である月の婆様(ばばさま)である大月比売(おおげつひめ)は、月の鳥居の前に立っているとハイヤーセルフから教わりました(「須佐之男命と大月比売」を参照)。この大月比売は、中央アジアの大月氏(だいげつし)からの流れだったようです。
 歴史書では、月氏(げつし)は北アジアから中央アジアに存在した遊牧民族とされています。匈奴(きょうど)の侵入で二つに分かれ、西方へ逃れた月氏を、中国では大月氏と呼んだようです。大月氏は大夏(たいか)を併合し、そこからクシャナ王朝が成立します。この大夏は、以前にはバクトリア王朝というギリシャ人のヘレニズム文化が栄えたところでした。ゾロアスター教の発祥の地という説もあるようです。
また、この王朝のカニシカ王(紀元前二世紀頃)は、仏教に帰依した王として伝えられています。紀元前一世紀に、大月氏の伊存(いぞん)という人が漢の国を訪問し、浮屠経(ふときょう)という仏典を伝えたという記録もあります。
そして、三世紀の初めにはペルシャのササーン王朝が進出してきます。ササーン朝の国教はゾロアスター教でした。ササーン朝ペルシャの人々の一部はツングース族へ、そして中国へ入り、北魏(386年-536年)が成立します。そして朝鮮半島も併合され、天忍穂耳命が三韓の王となります。さまざな民族や宗教(ゾロアスター教や仏教など)がすでに中国に入っていたようです。
このササーン朝も七世紀に入りイスラム帝国に征服されます。イスラム帝国においてゾロアスター教は、イスラム教の一段下の宗教として差別されたようです。
ヒッタイトの人たちも、いろいろな中央アジアの種族に交じりながら中国に入って来ました。そのヒッタイトの高次元の教えを書にしたのが荘子でした。父がヒッタイト人であった荘子は仏教僧でもありました。その荘子が自然の摂理に順い、虚静恬淡に生きることが輪廻の目的であり、魂の浄化のための修行であることを我われに荘子書を通して教えてくれました。そして、輪廻からの解脱のためには、不殺生戒を守り、菜食を中心とした精進料理で心身を浄化することが大切であるこも教えてくれました。
日本にも、朝鮮半島経由、南の島経由、北の方からと、いろいろなルートで、さまざまな民族が入ってきました。日本人は単一民族ではありませんでした。 
 

 

31 大国主命と夕舞姫(二)
三韓の王、天忍穂耳命の一族は、すでに日本へ到来していました。アラハバキ一族とは敵対することなく、調和を保っていたようです。忍穂耳命は越(こし)の国、今の越前の国へ来た折、キャベツをもってアラハバキ一族の酋長である息長足姫命を訪れました。それがプロポーズで、三韓の王とアラハバキ一族の酋長が結ばれました。そして、この二人の間に生まれたのが、後の応神天皇でした(「息長足姫命と三韓の王」を参照)。
ハイヤーセルフの教えでは、天忍穂耳命の後継者としての応神天皇の即位は魏(北魏)で行われたようです。その後、しばらくして応神天皇は筑紫の国へやって来ることになります。
天忍穂耳命に代わり、九州の総大将をつとめていたのは、弟のニギハヤヒノ命でした。事代主命は成長してからニギハヤヒノ命と行動を共にしたようです。ニギハヤヒノ命は、前述したように、ニニギノ命の娘のタマヨリ姫と結ばれました(「(9)ニニギノ命」を参照)。
夕舞姫は左半身麻痺(まひ)を患(わずら)っていたようです。鉱物の毒が川に流れこみ、それが地下水にしみこみ、飲み水が汚染されていたことが原因だったようです。福島県の桑折町の半田銀山(はんだぎんざん)から流れ出た鉱物毒による飲み水の汚染が原因だったようです。この銀山は807年に見つけられたという記録があるようですが、もっと以前から知られていたようです。半田銀山は、島根の石見銀山と兵庫の生野銀山と共に日本の三代銀山といわれていた銀の産地でした。
山を崩し鉱物を採取することは、陰陽の気の乱れを生じさせ、それ相当な被害が人々に返ってくることになります。それは、山が起こすのではなく、人間のしたことが原因であると荘子はよく語りました。
大国主命はいつしか、お米の俵の上に乗り、袋を担いだ福の神の大黒天(だいこくてん)と一緒にされて、七福神の一人としても祀られるようになりました。大黒天はチベットなどでも財産の神になっているようですが、大国主命とはまったく別の神です。
この大黒天は、発祥の地インドではマハーカーラ(大暗黒天の意味)と呼ばれ、髪は逆立ち、三つの顔と六本の手を持つ忿怒像として描かれています。その手には、一本は人間の髪をつかみ、また一本は山羊かウサギの耳をつかみ、また一本は象の鼻を持って背負い、また一本は、今の大黒様同様に袋を背負っています。残りの二本手は膝の上にのせた剣に手をかけて座っています。
本来はヒンドゥーのシヴァの化身でしたが、密教に取り入れられ、仏教の守護神となりました。そして、シヴァや白牛ナンディンを調伏させる役割を果たしています。シヴァと妃(きさき)のウマを踏みつけている降三世明王(ごうさんぜみょうおう)と似た役割のようです。
また、大黒様とよく揃って飾られる恵比須(えびす)神ですが、釣り竿と魚を持つ姿で描かれています。この「えびす」ですが蝦夷とも夷とも書かれます。
本来は今の恵比須さんでは無く、夕舞姫が祭神として祀られていたようです。アラハバキの一族をあらわす夷(えびす)という字は消すことができずに残ったのだと思います。夕舞姫は現在、今宮神社に祀られているようです。えびす様で有名な西宮神社も本来は夕舞姫が祭神だったようです。
大国主命も夕舞姫も菜食主義でしたので、食事は精進料理です。肉も魚も食べませんでした。精進料理を食べる人たちは、争いよりも調和を求めました。動くのは、やむおえない時だけです。そして、その時は、自然の摂理に順い、臨機応変に対応しました。それが荘子の教えでもありました。
夕舞姫の双子の兄の月読命は出羽三山の一つ月山神社の祭神として祀られ、また全国の月読神社の祭神になっています。月山神社の本地仏は阿弥陀如来とされています。 
32 少名彦命と羅摩船
古事記の大国主命のところに、少名彦命(すくなひこのみこと)について書かれているところがあります。
さて、大国主命が出雲の美保の岬にいたときでした。波の穂の上を天の羅摩船(かがみぶね)が近づいてきました。鵝(が)の皮を剥いで、それを衣にしている小さな神が乗っていましたであった。大国主命が名前を問うても何も答えないし、周りの人も誰か知らないと言います。その時、タニグク(ひきがえる、蟾蜍)が進み出て、
「この方のことはクエビコなら、きっと知っていると思います」
と言うので、すぐにクエビコを呼んで尋ねました。すると、
「この方は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子の少名彦命に違い有りません」
とクエビコが答えました。そこで神産巣日神に問いあわせたところ、
「それは、私の子です。子供たちの中で、私の手の指の隙間から落としてしまった子です。あなた、葦原色許男(あしはらのしこお)の命の兄弟として、あなたの治める国を作り堅めるでしょう」と神産巣日神は言いました。
オオナムヂノ命と少名彦命は二人で力を合わせてこの国を堅められた。その後、少名彦命は常世の国へと去って行きました。
少名彦命を知っていたクエビコは山田のソホドは案山子(かかし))のことです。この神は歩くことはできないが、何から何までこの世のことはお見通しの神です、と書かれています。
天の羅摩船についての一般的な解釈は、ガガイモ(漢字では羅摩、または鏡芋)の蔓草(つるくさ)の実のことで、二つに割ると船のような形をしているからとしています。羅摩船をかがみ船と読ませています。なぜか、不自然な感じがします。
仏教ではラ(羅)は四大元素の一つで、火、または太陽をあらわします。ゾロアスター教は別名、拝火教(はいかきょう)と呼ばれています。摩詞(まか)は偉大なですから、偉大なる太陽の船、すなわちエジプトのラーの船とも解釈できますが、これは死後の冥界を走る船ですので、この物語にの状況には一致しません。
また羅摩の摩の代わりに馬を入れた羅馬は、中国では大秦国(だいしんこく)と呼ばれたローマ帝国のことですが、これをあてるのも不自然に思います。
仏教の経文の一つに般若心経がありますが、その正式な名前は摩詞般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)です。これは、現象界と霊界とをつなぐ偉大な智慧の説かれたお経の意味です。この経文の題の中に、この古事記の一節の、羅も摩も波も入っています。偉大なる智慧が天から降りてくる、すなわち朝鮮半島から仏教伝来について書かれていたものを、作者がわかりにくく改ざんしたように思いました。
また、鵞鳥の皮を剥いだ衣を着るは、これは故意に仏教を貶(おとし)める言葉で、本来は鵞鳥に乗った梵天身を表現していたと考えたほうが自然な気がします。この古事記の作者は、仏教を好んでいなかった権力者.天武天皇の意をくんで書き上げたように思えます。
私的に解釈をしてみますと、
風で揺れる波が、まるで太陽の光できらきら黄金色に輝く稲穂のように、光に反射して輝いています。その中を一艘の船が近づいて来ました。その船に乗っている人は、鵝(かり)、すなわち鵞鳥(がちょう)の上に乗っているのですが、まるで鵞鳥の羽に覆われているように見えました。その鵞鳥に乗っている人について、周りの人に聞いても誰も知らないと言います。
これは鵞鳥に乗った梵天神でした(ヒンドゥーのブラフマーです)。天の羅摩船にのって高天原から、すなわち大陸、朝鮮半島からの仏教が伝来したのです、と解釈できます。仏教の中にも、梵天神にたいする信仰があったのだと思います。 
33 大吉備津彦命と仏教伝来
日本に仏教が到来しました。大国主命の前に、天の羅摩船に乗ってあらわれたのは、在家の仏教徒である優婆夷(うばい)に育てられた双子の兄弟の大吉備津彦命だったのではないでしょうか。
少名彦命は、ハイヤーセルフの教えではゾロアスター教徒でしたので、大吉備津彦命の案内役として船で一緒にやって来たのであれば理解できます。
ハイヤーセルフからは、少名彦命は台北からスセの風にのってやってきたウガヤフキアエズの命とタゴリ姫の御子と教えられました。そして、少名彦命は息長足姫命の母である家津美御子(けつみみこ)がシャーマンをつとめるヒグマ族と会話ができたと教わりました(「(13)ウガヤフキアエズノ命」を参照)。これは少名彦命はアラハバキ一族との通訳ができたことを教えています。また、家津美御子(熊野本宮の祭神)が少名彦命を小僧(こぞう)と呼んでいました。それは、お父さんのウガヤフキアエズノ命がゾロアスター教の僧であったことを教えています。
天忍穂耳命の一族はゾロアスター教徒でした。大国主命が猿田彦命に預けられた時、オオナムヂノ命こと、大吉備津彦命は仏教徒である優婆夷(うばい)に預けられて育てられました。魚文化の地でしたので、食事こそ菜食ではありませんでしたが、自然に仏教を学んできたはずです。
古事記に戻りますと、タニグク(蟾蜍)は月の住人、すなわち月の精の意味です。大月氏の流れの人だと思います。タニグクが、クエビコ(山田の案山子)なら船で来たのが誰なのか知っていると言います。案山子は仏教の不動明王であり、タタラの守護神でもありました。クエビコは、ヒッタイトの流れ、すなわち、ミスラ教と仏教の流れの人だと思います。
古事記では、彼は神産巣日神の御子(みこ)で、少名彦命ですとクエビコが答えます。
そこで、神産巣日神に尋ねるのですが、すると私の指の間からこぼれた子であると神産巣日神は言いました。神産巣日神はどこに居たのでしょうか。朝鮮半島から大国主命の近くに来ていたのか、それとも、シャーマンが霊能力で尋ねたのか、古事記には、答えが書かれていました。
神産巣日神はゾロアスター教徒でしたから、こぼれたのは、仏教徒である優婆夷に育てられた大吉備津彦命のことです。この天の羅摩船に大吉備津彦命が一緒に乗ってやって来たことになります。
ですから突然、少名彦命は葦原色許男の兄弟として国を作り固めるでしょうと大国主命が名前が変わり、また次には、オオナムヂノ命と少名彦命は二人で国を治め堅められたとあります。これは、双子の兄弟である、大国主命とオオナムヂノ命である大吉備津彦命が日本で会ったところの光景でした。そして、大国主命と大吉備津彦命が二人で力を合わせてこの地を堅固にしたと語っています。古事記では、この双子の兄弟を隠さざるをえなかった理由があったのでしょう。
そして国を作り堅まると、少名彦命は常世の国へ去って行くのですが、時代は次の世代へ、すなわち応神天皇の時代へと移って行くことを語っています。
この文章の中の国を作り堅めるという堅苦しい言葉が使われています。これは、不動明王の慈救呪(じくじゅ)のサンスクリット語を漢字にしたものを用いたからだと思います。サンスクリットをカタカナで表示すると、ノウマク サンマンダ バザラ ダン センダ マカロシャナ ソハタヤ ウン タラタ カンマンとなります。意味は、不動明王は不動堅固なる慈悲と徳を以て、人々の煩悩を祓い清める、と言う意味です。三韓の国には、双子の兄弟であっても、宗教は自由だったようです。
三韓の国でも、まさに宗教は争うために学ぶものではありませんでした。それぞれの魂の浄化のための修行を助けるものであったと思います。 
34 国譲り神話(一)
古事記の中で略奪者を正当化するために語られているのが国譲(ゆず)り神話のところです。国津神(くにつがみ)とされている大国主命が治めている平和な葦原中つ国を、わざわざ天津神(あまつがみ)の治める国であるからと無理矢理に譲り受けに行くという不自然な話として語られています。
天照大御神が、葦原中つ国は天津神である我が子、天忍穂耳命こそが治める国である、と言います。
そこで、天忍穂耳命が天降ろうとして天の浮き橋から葦原中つ国を見ると、まだ乱れていました。それを天照大御神に報告をしますと、天照大御神は、荒れ狂う国津神であふれているので、国津神たちが服属するように誰かを差し向けよう、と語るですが、話の流れが不自然になっています。 
葦原中つ国は、天忍穂耳命の一族が治めている国ですから、話の筋道があいません。跡から作られた文章ですから、どうしても不自然になっています。
その後、古事記ではアメノホヒノ命(天照大御神と須佐之男命のウケヒ(宇気比)で天忍穂耳命の次に生まれた命)が葦原中つ国へ使わされることになりました。ところがアメノホヒノ命は、大国主命のところがすっかり気に入ってしまい、三年経っても何の音沙汰もありません。そこで、また高天原ではオモイカネノ命が中心となり相談して、今度はアメノワカヒコノ命(古事記の中で初めて登場する命)を使わすことになります。アメノワカヒコはアメノマカコ弓とアメノハハ矢を授かって葦原中つ国へ旅立ちます。
天のマカコ(真鹿児)弓とは鹿など獲物を射る弓で、天のハハコ矢は大蛇を射る弓とか羽の付いた弓と解釈されていますが、弓も矢も神事に用いる物で、鹿は五穀の豊穣をもたらすもの、ハハは箒(ほうき)で怨念や邪鬼を祓い、幸をもたらすものであったと思います。天の神々であるならば決して殺生するような道具を与えることはありません。
葦原中つ国に使わされたアメノワカヒコですが、到着するとまもなく、大国主命の娘であるシタデル姫を娶(めと)り、八年経っても高天原へは戻るようすもありません。
そこで、今度は高天原から鳴き女(なきめ)という名の雉(きじ)を使わすことになります。鳴き女は葦原中つ国へ降りて、アメノワカヒコの家の門のところにある斎(ゆ)つ桂(依り代となる聖なる木)にとまり、大きな鳴き声を上げました。すると、その家にいたアメノサグメ(天探女)という者が、
「この鳥の鳴き声は不吉なものを感じさせます。射殺した方が良いと思います」
とアメノワカヒコ言います。アメノワカヒコは天のハジ弓と天のカク矢を取って、その雉を射殺してしまいます。ところが、その矢は雉を射貫いた後、逆さに天まで昇り、天の安河にいた天照大御神と高木の神の前に落ちました。タカギ神はそれを拾い、それを皆に示して、
「ご覧下さい。これは天照大御神がアメノワカヒコに与えた矢です」
と言います。そして、
「もし、アメノワカヒコが天の指示に忠実に従い、それで射た矢であるなら彼に当たらないように。もし彼に邪心があって射た矢なら、この矢により禍を受けよ」
と、雲の隙間から下界へ投げ返しました。すると、その矢は、朝方まだ寝床にいたアメノワカヒコの胸に突き刺さり、アメノワカヒコは死んでしまいます。これが、還し矢(かえしや)といい、すなわち悪意を抱いて放った矢は、必ず自分のところへ還ってくるという諺です、と書かれています。これは相当に脚色されていますので、私的に解釈をしてみますと、
大国主命のところに、最初に朝鮮半島からアメノホヒノ命が穂(五穀)と火(タタラに必要なもので、ゾロアスター教では尊いものでした)を持って派遣されます。新しい土地の開発の意味と思います。共同体が3年かけてできあがります。そこにアメノワカヒコノ命が神事の道具を持って派遣されます。いつしか八年が経ちました。平和な日々が続いていました。そこに、天の名を借りた盗賊団があらわれ、その肥沃な土地とタタラが欲しくなりました。
そこで大国主命の一族であるアメノワカヒコノ命の治めている国にアメノサグメ(天探女)という女間者を送り内情を探らせます。そして、次に雉を送ります。雉の字は、矢のごとく一直線に飛ぶ鳥と書きますので、略奪の目的で武装した盗賊団の一軍を送ったのだと思います。その内一人は中に入り、雉が鳴くごとく騒ぎ回ったのでしょう。これは囮(おとり)です。そこへ皆を引きつけておいて、その間に女間者は屋敷の中へ仲間の一団を手引きします。そして、アメノサグメとその仲間の盗賊団がアメノワカヒコの命を奪ったというのが真相のように思えます。盗賊団は、それを正当化するためにタカギ神の還し矢が当たって死んだと表現したのだと思います。 
35 国譲り神話(二)
アメノワカヒコノ命がタカギ神の還(かえ)し矢で命を落としたのですが、アメノワカヒコはここで初めて出てきた命です。古事記の作者が作り上げた登場人物のようです。
古事記は続きます。
亡くなったアメノワカヒコの妻であるシタデル姫は嘆き悲しみます。その悲しみの声が天にまで届き、高天原からアメノワカヒコの父親や家族が降りてきます。そこで八日(ようか)八夜(やよ)にわたる葬儀が行われました。その時、アジスキタカヒコネの命(古事記では大国主命とタギリ姫の間に生まれた御子)がやって来ます。それを見たアメノワカヒコの父や家族が、あまりに息子に似ていたので、我が子は死んでいなかったと思い、あまりの喜びで泣き叫んで、アジスキタカヒコネにすがりつきます。それほど、二人は姿形が瓜二つだったのです。しかし、死んだ人に間違えられたことにアジスキタカヒコネはたいそう腹を立てて、
「私は親しい友人だったので弔いに来たのです。なぜ、私を汚れた死んだ人と一緒にするのです」と言って、剣を抜いて喪屋(もや)を切り倒して、足で蹴飛ばしてします。これが、美濃の国の藍見(あいみ)の河の河上にある山まで飛んでいきます。そして、それが喪山(もやま)と呼ばれるようになりました。そのあと、アジスキタカヒコネは飛び去ってしまいました、と書かれています。
アメノワカヒコの葬儀に、そっくりな兄弟があらわれます。そして、喪屋を切り倒し、蹴飛ばすというのは尋常ではありません。蹴飛ばした喪屋が美濃の国の喪山に飛んでいったというのも不自然です。
双子の兄弟は大吉備津彦命の御子の、大彦命(おおびこのみこと)と神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の二人のように思われます。
ハイヤーセルフの教えでは、大彦命は越の国でタケヌマカワの陰謀により命を落とします。そのようすを見知った神日本磐余彦命は左手が不自由でしたが、鳶(とび)に導かれて海路、陸路を飲まず食わずの状態で必死で筑紫の地、応神天皇の宮へ知らせに向かいました。
アジスキタカヒコネが飛んでいったと表現したのは、この神日本磐余彦命のようすを書いたように感じました。大彦命については、古事記の四道将軍の話のところで、ねつ造されたと感じられるところが有ります。
大彦命は、古事記では四道将軍の一人とされています。崇神天皇は、この大彦命を高志(こし)の道へ、すなわち越の国への北陸道へ遣(つか)わし、タケヌマカワを東方の十二道(東海道)へ遣わして、まつろわぬ人々を服従させ、平定させることにしました。そのオオビコの命が越の国へ下って行く時、少女が歌っている歌詞を聞いて、その歌から崇神天皇への反逆の情報を感じます。オオビコの命は急いで天皇ところへ戻ります。そして、その歌のことを崇神天皇に話をすると、天皇は、
「それは、叔父のタケハニヤスが邪心を起こしたに相違ない。すぐに軍を連れて討伐をしてくれ」と言われます。そこで、オオビコの命は和迩(わに)の臣(おみ)の祖であるヒコクニブクを連れて山城の国へ向かいました。そして、和訶羅川(わから)川(木津川)を挟んで対峙します。
ここにも、摩訶(まか)の訶(か)と般若波羅密の羅(ら)が使われています。羅摩船(かがみぶね)といい、般若心経の題字から引用しています。この作者は、話を作るのに大変苦労したようすが伺えます。
古事記では、この両者の合戦は、初めの矢合わせ(忌み矢)で、大彦命側のヒコクニブクの放った矢がタケハニヤスを射抜いたために勝敗が決まってしまいました。しかし、大彦命の軍がその後に取った行動は、あまりにも残酷でした。この行為はまさに盗賊団の行為でした。これは大彦命を陥れるための作者の作意を感じました。次へつづく。 
 

 

36 国譲り神話(三)
戦いの初めの矢合せで勝利した大彦命でしたが、大彦命の軍は、相手の逃げ惑う兵士たちを、無理矢理追い込んで殺戮(さつりく)を始めます。その時、恐ろしさで屎を漏らし、袴(はかま)を汚したので、その地を屎袴(くそばかま)、いまは久須婆(くすば)という。また、逃げ道を塞いで次から次へと兵士を殺戮していったので、死体が河に鵜の如く浮かんだので、その河を鵜河(うかわ)と名付け、次々と兵士を剣で切って葬ったので、その地を波布里園(はふりその)、いまの祝園(ほうその)という、と書かれています。
残虐非道な行いを大彦軍が行ったことになっているのですが、これは大彦命を陥れるための作り話であると思います。そして、屎袴の地は、盗賊団が押し込んでいったタタラ場のことであると思います。無抵抗な人たちを殺(あや)めるのは、まさに盗賊団のしわで、大彦命ではなかったはずです。
古事記ではその後、大彦命は越の国へ向かい、東の道を廻って遣わされたタケヌマカワと相津(あいづ)で出会ったので、その地を会津(福島県)と名付けた、と書かれています。
ハイヤーセルフの教えではタケヌマカワは会津へは行っていませんでした。大彦と神日本磐余彦の双子の兄弟がアラハバキ一族と共同で築いた越の国の一画の地を乗っ取りに行ったのがタケヌマカワだったようです。
タケヌマカワは、渟奈川姫の父であったフツヌシを味方につけます。そして、タケミナカタも味方に引き入れました。そして、共同体の中へ密偵を送り込み、入念に計画をねります。
そして、最後に天探女(あめのさぐめ)を忍び込ませ、囮(おとり)の雉を使い、大彦命を殺しました。
このタケヌマカワは、このあと古事記に綏靖(すいぜい)天皇と書かれている人です。
この綏靖天皇に関しては記紀神話にあまり書かれていないのですが、南北朝に成立したとされる神道集の「熊野権現の事」に、この帝は朝に夕に七人ずつ人を食べた。臣下は誰が生き残るかわからない状況であった。そこで、この帝を滅ぼす案を考え、岩屋へ押し込めて、出てこられないようにした。それで、世の中が静かになった、とあるそうです。ミノタウロス風の神話的なところがありますが、そうとうな悪逆非道ぶりを発揮した人だったようです。
この大彦命の死を目撃した神日本磐余彦命は、筑紫の国に来ていた応神天皇に報告に行きました。神日本磐余彦命が筑紫に到着した時には、すでに息も絶え絶えでした。その時、一頭の牛が出迎えたそうです。それに乗って瀬織津姫のところへ案内されます。応神天皇の妻である瀬織津姫は、大彦と神日本磐余彦の双子の兄弟が陰謀にはめられたことを知らされ、すぐに底足筒男命(そこあしつつおのみこと)を呼びます。そして、底足筒男が応神天皇に取り次ぎました。底足筒男命は深い瞑想で四次元のことを知る能力を持っていたようです。応神天皇はその底足筒男命を大将にした討伐軍を派遣しました。底足筒男命は、裏切った人たちを含め侵略者を滅ぼし、越の国を元に復しました。 
瀬織津姫は左手の指が四本だったそうです。霊能力を持っていた人で、神日本磐余彦命の周りに結界を張り、怨念や悪霊を祓っい、霊魂を光の中へ送ったようです。
神日本磐余彦命も双子の大彦命の後を追うように亡くなりました。同じ星同士の双子の運命だったのでしょうか。
ハイヤーセルフの教えでは、猿田彦命は、神日本磐余彦命の葬儀を済ませた後、神日本磐余彦の男の子、三人と、根菜類を持って能登に向かいました。そして猿田彦命は、今の石川県の七尾湾に浮かぶ周囲、約72kmの能登島(のとじま)の海を見下ろす高台に、この双子の兄弟の墓を作りました。猿田彦命は男の子たちが、すべて嫁を娶るまで育て上げたそうです。
今この古墳は、須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳と呼ばれています。一辺が約二十メートルの方墳に二基一対の石積み横穴が、南に向かって開口しています。まるで、双子が仲良く七尾湾を見下ろしているようです。 
37 国譲り神話(四)
古事記に戻ります。高天原ではアメノワカヒコノ命が亡くなったので、次に誰を葦原中つ国へ派遣するかを相談します。オモイカネの命は天照大御神に、
「天の安河の河上の岩屋に坐すイツノオハバリか、またはその子のタケミカヅチを遣わしてはいかがでしょうか。アメノオハバリは天の安河の水を塞(ふさ)ぎ止めて、また道を塞いでいるので、そこへは誰でも行けるというわけにはいきません。アメノカクを使わしてはいかがでしょうか」
と進言しました。そこで、アメノカクがアメノオハバリを訪れ神々の言(こと)づてを伝えます。
「畏れ多いことです。お仕えいたします。しかし、その役は私よりも息子のタケミカヅチが良いと思います」とアメノオハバリが息子を推薦しました。
そこで高天原からは、タケミカヅチにアメノトリフネを副(そ)えて葦原中つ国へ派遣しました、と書かれています。
古事記では、いよいよ本命が派遣されます。オハバリ、すなわち尾羽張は刀剣であり、イザナギの命がカグツチを切ったときの剣です。その時、ほとばしった血が岩に飛んで、そこから生まれたのがタケミカヅチでした。まさに鉱物の豊富な岩山を占領し、血の臭いを発する盗賊の一団です。
また、アメノカクのカク(迦久)は輝くであり、刀剣のことですが、ここでは武器を扱う商人のように思えます。さまざまな情報を持って武器の売買をしに来たように思えます。
天の安河の水を堰き止めるというのは尋常では有りません。これから想像できることは、鉱物の豊富な山の上にため池のようなものを作り、まさに鉄穴(かんな)流しを行っていた光景に思えます。砂鉄の豊富な山を崩しては、それを貯水した水で下の方に作った洗い場といわれるところまで流します。そして、沈んだ重い鉄分を採取する方法です。
また、アメノトリフネ(天鳥船)は、またの名を、鳥の石楠船(いわくすふね)といわれるイザナギ、イザナミの国生み神話の後に生まれた神です。この名前から天を翔(かけ)る鳥のような船で宇宙船のように解釈されたりしているようですが、良く取れば鉄穴流しの勢いよく流れる石の水路を表現しているようですし、周りの盗賊団の仲間から推測すると、東シナ海の海賊団の頭領のように思えます。「天の」という言葉がつくと立派に聞こえるので人々を騙しやすかったのでしょう。すなわち、盗賊団と海賊団がぐるになって日本へ来たことをあらわしています。脅(おど)し、強請(ゆすり)、詐欺(さぎ)、買収(ばいしゅう)、乗っ取りを行う集団の到来です。
今の時代も聖人君主のような顔をして、ウラではこのような活動をしている人たちがいます。これも三世輪廻のなかで、因縁所生で生まれてくる所以でしょうか。すべての行いは記録されています。天はすべてお見通しです。
古事記では、タケミカヅチとトリフネは出雲の伊耶佐(いざさ)、出雲風土記には伊奈佐(いなさ)の浜に降り立ちます。そして、大国主命の前に剣をつきた立て、
「我々は天照大御神と高木の神の命により降りて来たものです。葦原中つ国は天照大御神の御子が統(す)べる国であるとの仰せです。あなたはこれに異存はありませんか」
と尋ねます。すると大国主命は、 
「私には異存はないが、私の跡目を継いだ我が子のコトシロヌシノ命は、美保の岬へ出かけて今ここにおりません」
と答えます。するとトリフネを美保の岬へ派遣して、コトシロヌシノ命を呼んできます。コトシロヌシノ命も父同様に、天津神の御子へ譲ることに納得します。タケミナカタだけがこれに反対したのですが、タケミカヅチと力比べをして負けてしまい、長野県の諏訪の地にに治まることで納得します。大国主命は葦原中つ国を譲り、出雲の地に大きな社を建てて隠れ住むことになり、コトシロヌシも天津神の御子に仕えることで話がまとまります。これが有名な国譲りの神話の一節です。脅しと強請と買収の行為による乗っ取りを正当化したものでした。
古事記では、この後ニニギノ命が降臨するので話が前後するのですが、古事記は謀略で天下を取った盗賊団が自分たちを正当化するために作った物語ですので、とても歴史書と呼べるものでは有りませんでした。 
38 ヤマトタケルと白鳥
ヤマトタケル(倭武)は古事記では第十二代景行天皇の御子として生まれています。小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていました。名前の知れている命、二十一人の内の一人で、全部で八十人の御子(八十は耶蘇の意味もあります)があったと書かれています。
ヤマトタケルは記紀が作り出したヒーローですが、本当にヒーローだったのか古事記の内容を読んでみますと、その活躍のすさまじさに驚きます。
1) 兄の大碓命(おおうすのみこと)は厠(かわや)に入っている時、小碓命(ヤマトタケル)に襲われて殺されます。
2) 九州の熊曽(くまそ)一族の兄は宴会の席で、女に変装した小碓命に刺されて殺されます。熊曽の弟は、後ろから刺されて殺されます。その時、あなたは今後、倭建と名乗るが良いと熊曽の弟に言われ、小碓命からヤマトタケルに変わるのですが、その後で熊曽の弟の死体を傷つけるやりかたは尋常では有りません。
3) 帰りに出雲へ寄ります。そして出雲建(いずもたける)と友人なります。ある日、相手の刀を抜けない刀に交換しておいて、二入で太刀(たち)合わせをしようと言い出して、出雲建を切り殺してしまいます。
西の方の諸国の話はこれで終わります。そして、今度は東の方へ向かいます。
4) 焼津(やいづ)では、その地の国造に、野に入ったところで後ろから火をつけられたからと、今度は逆に火をつけ、向かい火にして難を逃れます。その後、国造を斬り殺して焼いてしまいます。しかし、今までのやり口を考えると、国造を騙して焼き討ちにしたとしか思えません。
そこから、さらに東へ進み、荒ぶる蝦夷(えみし)や荒ぶる神々を征服して西へ戻ることになります。
5) 足柄の地の坂本というところで食事をしている時、その坂の神が白い鹿の姿で現れました。野蒜(のびる)の球根のところで、近づいて来た鹿の目を叩いて殺してしまいます。餌をやる振りをし、おびき寄せて鹿を殺したのだと思います。
その後、甲府へ向かうのですが、ここからは今までとは内容が変わります。甲斐の国の酒折の宮では、連歌の相手をする老人に東の国の造(みやつこ)の地位を与えます。いつもなら騙し討ちにするのですが、今回は違います。簡単に塩を手に入れたようです。
そして信濃を通り、東の国への旅の出発の折に、戻ってきたら妻にすると約束をしたミヤズヒメのいる尾張(おわり)の国へ戻ります。今度は、剣をそこへ置いたままで、伊吹(いぶき)山の神を征服すると出かけて行きます。
ヤマトタケルは山の麓で、牛ほどに大きな白いイノシシ会います。「このイノシシは山の神の使いであろう。帰り際に殺せばよい」と言い放って山を登って行きます。すると、突然、途中で氷雨、すなわち雹(ひょう)にみまわれます。あまりの激しさにどうすることも出来ずに必死で山を降りて逃げます。白いイノシシに姿を変えた神を侮(あなど)った罰であると書かれています。そして、ようやく玉倉部(たまくらべ)というところの清水を飲んで生気を取り戻します。鉱物の加工をする場所だったのでしょう。それを手に入れたことで、少し元気が出たようです。
しかし、そこから三重県へ向かうのですが、体は日に日に弱り、能褒野(のぼの)に着いたときには、もう息が絶えだえになり亡くなります。その時、白鳥が飛び立ちます。そして、河内の国の志機(しき、今の柏原市)の地に降り立ったので、そこに、白鳥の陵(みささぎ)を作ったと書かれています。
焼津までの話は、強い相手には、まず探りを入れ、親しいふりをして近づき、不意をついて征服します。弱い相手には武器で脅し、問答無用で言うことを聞かせるという盗賊団さながらの無慈悲な行いです。
ハイヤーセルフの教えでは、タケミカヅチとヤマトタケルは、いとこ同士だったそうです。武(たけ)がつく名前で古事記に出てくる人たちは、すべて武人で武器を持って戦うことが仕事でした。無抵抗な人たちから土地や持ち物を乗っ取ることは、彼らにとっては簡単なことだったと思います。
古事記で息長足姫命のそばに良く出てくるタケウチノスクネ(武内宿禰)は、魏の国からの人だったようです。魏の地位の高かった武人の息子でした、本人は凡庸とした人だったようで、天忍穂耳命に従い来ていたようです。この人は一円札の紙幣に顔が印刷されたことが有りました。
ハイヤーセルフの教えでは、紙幣やコインに顔が書かれるような人は、伝説とは異なり名利欲が激しかった人のようです。確かに、我々は因縁所生でこの世に生まれて来ていますので、さもなければ紙幣に顔が載るようなことは無いのでしょう。タケウチノスクネは二十世紀に転生していたようですが、A級戦犯として裁かれたようです。聖徳太子や福沢諭吉など、心の内面は激しい名利欲で乱れていたのかも知れません。
白い鹿、これは塩と五穀をあらわしていますので、うまく誰かを買収して乗っ取ったのでしょう。しかし、その後伊吹山では、白いイノシシ、すなわち塩と五穀とタタラを奪おうとしたのですが、相当な痛手を被(こうむ)りました。それが命取りとなりました。最後に飛び立った白鳥がヤマトタケルの旅が鉄を求める旅であったことを教えています。白鳥は葦原に褐鉄鉱のある沼地に飛来します。盗賊団にとってタタラ場の征服は武器の製造所の乗っ取りです。同時に農耕具や五穀類や塩も手に入れることができます。
ハイヤーセルフの教えでは、白鳥が理由があって沼に渡ってきました。それは、渡り鳥として磁場を感じるために必要な成分が褐鉄鉱の採取できる沼には含んでいたからです。白鳥と砂鉄の関係はよく言われていることですが、白鳥が求めるものは鉄ではなくて、褐鉄鉱のある沼に一緒に存在するマンガンではないかと思います。このマンガンも産鉄の中では重要な役割を果たしています。
ヒッタイトのさまざまな教えは、今からでは想像が出来ないほど相当に進んでいたように思います。
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒、これは仏教の五戒です。作者が仏教を嫌う理由がわかった気がします。このヤマトタケルの話にしてもそうですが、この五つの戒律を破る行いをした者をヒーローのごとく正当化するには、作者にとって仏教の戒律は極めて目障りだったと思います。
すべての行いは、必ず償いをともないます。良い事をすれば良い償いが、悪いことをすれば必ず悪い償いがやってきます。それが、不変なる宇宙の法則です。 
39 応神天皇の東征(一)
古事記では神武天皇が東征をするとされていますが、ハイヤーセルフの教えでは、九州の地へやって来たのは三韓の王、天忍穂耳命と日本のアラハバキ一族の酋長である息長足姫命の間に生まれ、魏で即位の儀式を済ませた応神天皇でした。
九州の地は、父、天忍穂耳命の弟であるニギハヤヒノ命が総大将となり、大国主命の長男である事代主命がそれに従い治めていました。
山陰から越の国は底足筒男命と渟奈川姫が治めています。そして、七尾湾の能登島には猿田彦命により大吉備津彦命の双子の兄弟である大彦命と神日本磐余彦命が仲良く祀られました。
応神天皇は大国主命の長女である瀬織津姫を娶り、東征の準備を始めます。母である息長足姫命は共に戻り、九州のアラハバキ一族を馬で巡回したようです。
応神天皇は筑紫の地に住み、1年をかけて東征の準備を整えます。そして、応神天皇は筑紫の日向(ひむか)の地から、初代の大和国の王として馬上の人となり、大騎馬隊を率いて東征が始まります。
古事記の神武天皇は、日向(ひゅうが)から豊国(とよくに)の宇沙(うさ)を経由して筑紫へ出ます。宇沙、今の宇佐ですが、そこでウサツ彦とウサツ姫が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って迎えてくれたと書かれています。
ハイヤーセルフの教えでは、足一騰宮は実在の人物で、弟にイソタケルノ命がいました。お父さんはアラカシヒコノ命で、朝鮮半島から能登の地に渡り、そこに居を構えたようです。今も七尾市のアラカシヒコ神社に祭神として祀られています。アラカシヒコノ命のお兄さんが敦賀の地へ住んだツヌガアラシトで武人だったようです。アラカシヒコノ命の治める共同体は順調にいってました。兄はそれを妬み、アラカシヒコノ命を殺害して金品を盗み、この地から逃亡します。そして、銀細工をしている集落へ逃亡を試みました。しかし、その行く所は、すでに大国主命の妻である夕舞姫は霊能力をもって見抜いていました。案の定、そこへ現れたツヌガアラシトは、そこで待っていた大国主命の部下に逮捕され、三韓の法に則り処刑されたようです。
アラカシヒコノ命の息子の足一騰宮とイソタケルノ命の二人は、天忍穂耳命の一族として活躍したようです。九州にその名前が残っていますので、ニギハヤヒノ命と共に歩んでいたように思います。足一騰宮はタタラの作業で片足を痛めていたのかもしれません。
古事記では、神武天皇は筑紫の地、岡田の宮に一年いて、阿岐(安芸)の国へ向かいます。そして、多祁理(たけり)の宮に七年いたとあります。日本書紀では埃宮(えのみや)
とされています。現在、その地には多家(たけ)神社が建立されています。松崎八幡宮と総社の間でどちらが多祁理宮かで言い争いがあったようですが、明治になり、誰曽廼森(たれそのもり)と呼ばれている所に双方の祭神を合祀する形で造営されたのが多家神社で、昔は、「おおいえ」とか「たが」と呼ばれていたようです。合祀の折、過去の記録は紛争を避けるために焼却したようです。しかし、今の神社の由来書には、時代が異なるようですが紀元前に神武天皇がここに宮を作り滞在したと記載されているとのことです。また滞在中、ある人に向かって、「曽(そ)は誰そ」、つまりそなたは何者かと言ったので、その地が誰曽廼森になったとあるようですが、この森の名前の心地よい響きは、アラハバキ一族の人たちが住んでいた場所だと思いました。それ故、応神天皇は安心して滞在できたと思います。
応神天皇は騎馬民族の流れの人ですから、四方八方へ出かけ、周辺の国の平定をしていったと思います。これをヤマトタケルの話にすり替えたように感じられました。
広島の地は中国山地を抜けて出雲へ通じる道も有りましたので、道路の整備なども平行して進めていったと思います。また、多気神社は高知の安芸郡のものではないかという説もあるようですが、応神天皇は滞在の間に瀬戸内海を渡り、四国の方へも足を伸ばしたと思います。それが七年という数字に表れたように思います。そして、次は吉備の国へ向かいます。東征が続きます。 
40 応神天皇の東征(二)
安芸の国を出発した応神天皇は、吉備の国へ向かいます。
古事記では神武天皇は吉備の高島の宮に八年の間住んだと書かれています(日本書紀では三年)。大吉備津彦命と大国主命が平定した吉備の国ですから、ここを起点にして周辺の平定や道路などの整備を行ったのだと思います。この地も日本海側と結ぶ重要なところでした。そして、讃岐の地へも足を伸ばしたと思います。
この高島の宮の地が、現在は岡山市の新築港のそばの高島とされているようです。ただ、多祁理の宮でも書きましたが、応神天皇は、アラハバキ一族の地に宮を構えたと思います。後世の荘園的な地であったはずですから、生活にしても補給や警備にしても容易であったと思います。そうすると、吉備の高台にある扇状地が高島と呼ばれていたように感じます。その頃は今とは地形も異なっていたと思います。
この七年と、八年という数字は、魔方陣の数字、十五を表現しているように思います。すなわち、応神天皇は万全の体制を整え、時間をかけて山陽道を、そして瀬戸内海を馬で、そしてときには船に乗り大和の地へと向かって行ったと思います。
応神天皇は東へ、そして畿内、奈良の地へ向かいます。
古事記では、神武天皇は浪速(なにわ)でナガスネヒコの抵抗にあいます。そして、その戦いで兄のイツセノミコトが亡くなります。やむなく神武天皇は南紀州の熊野へ回ります。しかし、そこで、大きな熊の霊があらわれると、その毒気にあてられ意識を失ってしまいます。そこで、またタケミカヅチが登場して、フツの太刀を高天原から降ろして、その太刀のおかげで神武天皇は意識を回復します。そして、そこからは八咫烏に導かれて北上して行きます。
熊野から吉野へ、そして宇陀(うだ)へ出ます。宇陀を平定して忍坂(おしさか)、今の桜井市に出て、八十建(やそたける)一族を掃討します。その後ようやく橿原(かしはら)の地へ向かい、そこで即位の儀式を行ったと書かれています。
応神天皇は熊野へ行かず、まっすぐ大和の地へ向かったようです。
応神天皇の東征における畿内での話は、古事記では息長足姫が筑紫で御子を出産して畿内へ戻るところに書かれているように思いました。古事記では、筑紫の地でホンダワケノ命、後の応神天皇を出産した神功皇后は、その皇子と共に畿内の地へ戻ることになります。
日本書紀には神功皇后が応神天皇を出産したところが宇美(うみ)と名付けられ、現在、そこには宇美神社が建立(こんりゅう)されています。楠の巨木が歴史を語りかけるようです。ここも、アラハバキ一族の祭祀場だったところのように思えます。
古事記では、奈良の近くまで来るのですが、それを阻もうとする一段が山城の地で待ち受けていました。香坂(かごさか)の王と忍熊(おしくま)の王という二人の兄弟でした。しかし、和迩(わに)の臣(おみ)であるタケフルクマ(武振熊)が謀略を考え、姑息な手を使い二人を制圧します。敗北した二人の王は淡路の海へ船で漕ぎ出し、入水して死んたと書かれています。
この一節は、古事記の作者の得意な役者の入れ替えをしていると思います。
和迩(わに)の臣(おみ)で、武(たけ)の字が付く者は武族であり、武器製造団ですから、タケフルクマの方が応神天皇に畿内へ来られては困る方であったと思います。何とか阻止をしようとしたのでしょうが、大騎馬軍団を前にして、恐れおののいて海へ逃げていったというのが本当のところだと思います。
そして、三韓の王の天忍穂耳命と息長足姫命の皇子である応神天皇が、農耕の技術、灌漑の技術、製塩の技術、タタラの技術などをもって、橿原の宮へ到着します。大和の国の初代の天皇として君臨することになります。 
 

 

41 応神天皇の東征(三)
応神天皇は実在したのかどうかや、邪馬台国(やまたいこく)との関係、倭の五王との関係などさまざまに取りざたされていますが、それについてハイヤーセルフから教えられたことを以下に書いておきたいと思います。
応神天皇は実在です。私自身、家族で滋賀の安曇川の近くの聖地を回っている時でした。参拝の時、一人の王族の衣裳を着た若者が目の前に現れました。ハイヤーセルフからの教えでは、その人が応神天皇であったようです。顔立ちは今の日本人でしたが、着ている衣裳は中国映画で見る皇帝のようでした。
邪馬台国論争も尽きませんが、ハイヤーセルフの教えでは、邪馬台国は日本では無いようです。辰砂(しんしゃ)という顔料を使っていたことは魏誌にも載っていますが、南方系から朝鮮半島の一角に住みついた一族だったようで、三韓の一部に属していました。卑弥呼自体は、仏教の教えからは遠い人だったと教えられました。
魏誌に倭の五王と書かれている国ですが、これも日本ではなかったようです。玄奘三蔵の通った天山南路の国の一つだったようです。この国は仏教が栄えていた国だったようです。
日本霊異記に、伊予の石鎚山にいた寂仙(じゃくせん)という僧が、臨終に際し、二十八年後に神野(かみの)という名前で国王の御子に生まれる、と言って亡くなったと書かれています。そして二十八年後に、桓武天皇の皇子として生まれたのが嵯峨天皇で、幼少の時は神野親王と呼ばれていました。
この話は、嵯峨天皇が寂仙から深く仏教を学び、輪廻思想をよく理解していたこと、そして仏教に帰依していたこを教えています。日本霊異記の話は、その時代の皇族が仏教を信じることを公にできなかったので、寂仙を通して語らせたように思いました。嵯峨天皇は死刑制度を廃止した初の天皇としても知られています。また嵯峨天皇は皇族の臣籍降下(しんせきこうか)を行い、源氏の性の名乗らせ、これが嵯峨源氏の始まりになっています。この寂仙ですが、倭の五王の国の流れをくむ仏教僧だったようです。
最後に、ハイヤーセルフから教えられた事で、書き残したことを補足しておきたいと思います。
ヤマトタケルが征服に出かけたとされる熊曽の地は、ヒグマ族といわれるスーダンからの流れのアラハバキ一族の仲間でした。この熊曽征伐は作り話と思われます。九州の地は天忍穂耳命の弟、ニギハヤヒノ命が治めていたところです。
福岡の甘木の地に野鳥(のとり)というところがあります。日本書紀に、荷持田村(のとりたのふれ)に古処山(こしょさん)という山があり、そこに羽白熊鷲(はじろくまわし)が住んで、朝廷のいうことを聞かず暴れていたので、神功皇后がこの一族を滅ぼした、書かれていますが、これも作り話のようです。
この地は、ヒグマ族といわれるスーダンからの流れの人たちの住んでいたところで、アラハバキ一族と仲間です。熊鷲という名前ですが、熊は神を意味する言葉でしたし、実際に熊や鳥たちと住んでいたようです。その酋長が、現在、熊野本宮大社の祭神である家津美御子(けつみみこ)神です。熊や鳥と意思の疎通が出来た方のようです。羽白(はじろ)の意味は、スーダンからの人でしたので、歯が白く見えたのかもしれません。
ハイヤーセルフの教えでは、「三つ巴」の聖地を守るために、ヒグマ族とアラハバキ族は仲良く暮らしていました。しかし、言葉の違いが有りました。それを通訳したのが少名彦命でした。小さいとき木から落ちて倒れていたところをヒグマ族に助けられました。それで、しばらくヒグマ族の中で生活することになり、言葉を覚えたようです。
家津美御子が、うどんが好きであった書きましたが、この当時のうどんは、タロイモのスイトンのようなものだったようです。
熊野へ行った人は、家津美御子ではなく、同じくスーダンからの母から生まれたニニギノ命の妹のコノハナサクヤ姫だったようです。コノハナサクヤ姫は、ご主人がアラハバキの人です。熊野の地から荒脛巾(あらはば)きを着けて、聖地の形を整えるように応神の宮のある大和の地へ進んで行ったようです。コノハナサクヤ姫は、富士の浅間神社の祭神として祀られています。
八幡神社は代表的な三つ巴の紋の神社ですが、この三つ巴の紋を祀ったところをアラハバキの一族は大切にしたようです。三つ巴は、太陽と月と星の三光でもありますし、天、地、人でもあります。天と地の陰と陽の気を人間が「徳」をもって調和をすることを意味しています。その調和は地球の磁場の安定にもつながり、太陽系の惑星の調和でもあり、宇宙の調和にもつながるものです。
その聖なる地で、アラハバキのシャーマンたちは天とつながり、さまざまな教えを授かったように感じました。ヒッタイトからの深い教えが日本にも、伝えられていたのです。
ハイヤーセルフは、この古事記について書くときに、真実を残すと語りました。ここまでの導きに深く感謝します。 
補1 天地開闢(一)
淮南子は紀元前二世紀の前漢の時代に編纂されたものとされています。その淮南子(えなんじ)の天文訓(てんもんくん)に、日本書紀の天地開闢に引用されたところが有ります。淮南子では次のように書かれています。 
「天地の未だ形あらざるとき、馮馮(ひょうひょう)翼翼(よくよく)として洞洞(どうどう)灟灟(しょくしょく)たり。 故に太始(たいし)という。太始のとき虚霩(きょかく)、宇宙を生じ、宇宙、気を生ず。気に涯垠(がいぎん)あり。 清陽なるものは薄靡(はくび)して天となり、重濁(じゅうだく)なるものは凝滞(ぎょうたい)して地となる。清妙(せうみょう)の合専(ごうせん)するは易(やす)く、重濁の凝竭 (ぎょうけつ)するは難(かた)し。故に天が先に成りて、地は後に定まる。」
馮翼洞灟(ひょうよくどうしょく)は天地の形が無いようすを表現した言葉のようです。今の言葉で言えば渾沌として、とらえようがないさまだと思います。解釈をしてみますと、
天地の形が整わず渾沌としていた。それを太始という。荘子の道、「一」をあらわします。その虚霩(きょかく)、すなわち目で見ることができない空間ですから、虚霩は「空」であり「無」をあらわします。荘子の虚静恬淡、寂寞無為の境地です。
無から宇宙が生まれます。宇宙は気、すなわち大気を生み出します。大気には涯垠(しょうぎん)、すなわち区別があります。清陽、すなわち清らかなすがすがしい気は薄くたなびいて天になります。魂の世界です。濁った重々しい気は凝固(ぎょうこ)して大地となります。この地救の大地です。
精妙、清浄なるものはすぐに形が整えられるが、混濁したものは形を整えるのに時間がかかる。だから、天が先にでき、地は遅れてできたのである。これは陰と陽に気が別れたことで、これは「二」をあらわします。荘子の言う分別心の生じたところです。すなわち、天に喩えられる魂の世界と、目で見えるこの物質世界が誕生したことを語っています。ですから天からの借りものである、この身体に魂が着床するのは、まだ後になります。また、魂の世界は、それぞれの魂の輝きで、その根が利であるか鈍であるか、すなわち精進修行がどの程度進んでいるかが、すぐにわかってしまいます。輪廻の中で、この娑婆世界(地球の大地)に因縁所生で生まれて来るのですが、その修行が大変なことを語っていると思います。その心の修行次第で、魂が清く輝く人もいれば、濁って暗くなる人もいますので、重濁(じゅうだく)の凝竭(ぎょうけつ)は難しい、と語っていると思います。
そして、天地開闢の話は続きます。
「天地の襲精(しゅうせい)は陰陽(いんよう)と為(な)り、陰陽の専精(せんせい)は四時(しいじ)と為る。四時の散精(さんせい)は万物と為る。績陽(せきよう)の熱気(ねっき)は火を生じ、火気(かき)の精なる者は日(ひ)と為り、積陰(せきいん)の寒気(かんき)は水と為る。水気(すいき)の精なる者は月と為る。
私訳してみますと、自然の摂理について語っています。この陰と陽に別れた気は、調和することにより地球の大地に四時、すなわち春夏秋冬の季節をもたらします。そして季節の気が、それぞれの生活に適合した森羅万象を生み出します。四時の散精の解釈がいろいろあるようですが、精なる気を散らすでは意味が通じません。万物は四大といわれる、地、水、火、風の気が集合して仮に作られたものとされていますので、季節に万物の形態が適合するように、精なる気を集合させて生み出した、という解釈をしました。
陽の熱い気は集合すると火を生み出します。火気(かき)の精なるものが日の光です。陰の冷たい気の集合した寒気は水を生み出します。水気(すいき)の精なるものが月となります。ここで、四大の内の火と水が生まれます。そして、この精なるものとは、荘子のいうところの、自我もなく、見返りを求めない無償の奉仕を行っているものですから、すなわち、太陽であり、月のことです。 
補2 天地開闢(二)
天地開闢(てんちかいびゃく)の話が続きます。
「日月(にちげつ)の淫気(いんき)、精なる者は星辰(せいしん)と為る。天は日月星辰を受け、地は水潦(すいろう)塵埃(じんあい)を受く。
昔、共工(きょうこう)は顓頊(せんぎょく)と帝ならんと争い、怒りて不周(ふしゅう)の山に触(ふ)れ、天柱(てんちゅう)を折り、地維(ちい)は絶え、天は西北に傾く。故に日月星辰移る。地は東南に満たず、故に水潦塵埃に帰(き)す。」
この一節の始めに、日月の淫気とあるのですが、この話に淫気の淫の字は相応(ふさわ)しくないと思います。ここでは気の和す、すなわち陰と陽の気を調和するが、この文の流れには相応しいと思います。そうすると、火気の精なる太陽の気と水気の精なる月の気が調和をして生み出したものが星辰、すなわち星々となる、と解釈できると思います。
よって、天は日月星辰を受け持ち、大地は水潦(すいろう)塵埃、、すなわち雨水や塵(ちり)や埃(ほこり)を受け持つことになった、となるのですが、この最後の水潦塵埃を受く、も文章の流れが不自然です。
これは魂の世界(真の世)と修行の世界(仮の世)の話でもあります。この水潦の潦(ろう)は、我が国では「にわたずみ」と読ませて、道や庭などの水たまりなどを言うようですが、大雨という意味もあるようです。ここにも何か文字が抜けてしまったように思えます。塵埃にまみれた大地を浄化してくれるのが水潦でなくてはなりません。水潦は自然の摂理をあらわしていますし、塵埃は我々の浄化されていない魂のことですから、天は日月星辰をもって、すなわち陰と陽の気の調和をもって大自然の循環を司り、水潦を持って大地を潤し、大地の塵埃の清める、すなわち我々の魂の浄化を促すという文が本来のものであったように思います。
この後の一節に再度、水潦の言葉が出てきます。この共工(きょうこう)については「屈原の詩とヒッタイト」でも一部書いたのですが、少し詳しく書きたいと思います。ここはまた解釈が別れるところですが、地球の地軸の移動を語る一節だと考えています。
昔、共工と顓頊(せんぎょく)と帝位を争ったのですが、共工は破れてしまいます。共工は怒りで不周の山を触れとありますが、不周山、すなわち須弥山をものすごい力で叩いたので、天の柱が折れてしまい、地維(大地を支える網)が断ち切れて、天は西北に傾き、日月星辰も同様に移動しました。大地は東南に傾き、水潦塵埃は、東南に流れるようになった、と書かれています。
これは、共工と顓頊の争いではなく、顓頊帝の時代に、争いごとが絶えず、大きな陰陽の気の乱れが生じたことを語っています。天と大地は、その陰陽の気の乱れを調和するために、地軸を移動することにより調和を保ったのだと思います。それが地軸の移動で、地軸が西南に傾いたと表現したと思います。その時に起こった天変地異の災害の中で、大洪水が起こりました。それを共工、すなわち水神が洪水を起こし、大地を清めたというのが本来の物語だったように思います。
西北に地軸が傾くことは、大地を被(おお)ってる天蓋(てんがい)も同様に動いたと解釈したのでしょう。東南には天蓋が無くなりましたので、大地が陥没し海になったようすを、大地は東南に満たず、つまり欠けていると表現したように思います。大雨、洪水(水潦)がすべての汚れ(塵埃)をきれいに流してしまったと語っています。ここも、水潦塵埃が東南に流れるでは、不自然ですので、解釈を変えました。
この話は、アトランティスの沈んだようすを粘土板に記録したヒッタイトの人たちからの伝承を引用して書かれたものだと思います。
この大洪水も決して天が起こしたわけではありません。すべて人間が人為を加えて大自然を破壊し、名利のために人を惑わし、陰陽の気の乱れを生じさせたのが原因です。
この現象界は仮の世です。魂の浄化のための修行を行うところです。五戒を守り、見返りを求めない無償の奉仕を心がけて精進修行し、そして虚静恬淡に生きること、それが荘子の教えでした。
これが、淮南子の天地開闢の話でした。淮南子は道教的思想書なので、荘子書や列子書と重なるところが多いのですが、これも、ヒッタイトの伝承の中国版を思わせるものでした。日本にはこの話が伝わり、日本書紀に引用されようです。 
補3 天皇陵について
日本全国にたくさんの陵(みささぎ)や古墳が有りますが、名前と場所が一致する所は少ないようです。歴史の改ざんが必要になった継体天皇や天武天皇の時に、天皇家の系図が大きく書き換えられたと思われます。どうしても自分が天皇として正当な後継者であったことを後世に残す必要があったのでしょう。
たくさんの古墳や天皇陵を訪れ、参拝しましたが、ハイヤーセルフからも天皇陵とは教えてもらえませんでした。その中で、少しですが教えられた場所がありますので、それを書き残しておきたいと思います。
菊水古墳(熊本)は、きれいに整備された古墳群ですが、その内の虚空蔵塚古墳が、一条天皇の陵であり、隣の江田舟山古墳は天照大御神を祀ってあった所と教えられました。 
飯豊天皇陵(奈良)は北花内大塚古墳と呼ばれていますが、タマヨリ姫の墓であったと教わりました。タマヨリ姫は、スーダンの流れのニニギノ命の子であり、オシホミミノ命(忍穂耳命)の弟で九州を治めていたニギハヤヒノ命の奥さんでした。
天智天皇山科陵(京都)では、天智天皇が、我が陵に非ず、深い縁のある影の者が埋まっている。天武の流れとは違う神の流れを感じられるはずである、と教えてくれました。
息長足姫の墳墓は神功皇后陵として現在、奈良に有りますが、天智天皇からのメッセージでは、違う所に祀られていた息長足姫の遺骨を、現在の天武、持統天皇陵といわれている明日香の地に自らの手で移し、祀ったそうです。
天智天皇の墓は、大阪の白鳥陵の北側の小さな墳墓であると教えられました。白鳥陵には、能登島(石川県)に祀られている神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)こと、神武天皇のお骨の一部が祀られているそうです。
天皇陵と言われている場所は、アラハバキ一族の聖地でした。天と地をつなぐ、高次元の教えを授かる場所であり、地軸の安定をはかるための祭祀場でした。今も三つ巴の神社や陵として、日本全国にたくさんの聖地が残っています。これは皇室が有ったればこそ聖地が守られ、全国各地に残ることができたと思います。これらの聖地を保つことが、皇室にとって、大きな役割の一つだったように思われます。
なぜハイヤーセルフは、現在、天皇陵と呼んでいる所で参拝しても、何天皇の陵であると教えてくれなかった、その理由がふと浮かんできました。これからは私見になりますが、この陵と呼ばれている巨大な古墳は、ずべてが墓では無く、アラハバキ一族の祭祀場であり、大きな所は祭祀場を取り囲む集落のあった場所ではないかと感じました。
堀で囲まれた巨大な古墳は、天皇陵では無い可能性が大きいと思われます。アラハバキ一族は巨大な墓を作ったりして権威を誇ることはしませんでしたし、また争いや戦いを嫌いました。それが高次元の教えだったからです。
この一族は集落を形成して共同生活をしていました。そこで穀類や野菜類を作るには土地と水が必要です。また集落を守るためには、やはり自然の柵が必要でした。その自然の防護策、それは水だったのです。そして、そこに生えた葦の根に付着した褐鉄鉱を取り、農作業や神事の道具を作り出しました。
以上のことから考えますと、共同体のあった場所が想定出来ます。それは山間から扇状地に流れ出た河川が蛇行し、三日月湖が作られた所を住む場所として選んだように思います。周辺は水に囲まれ、三日月湖として残った以前の川だった所にはたくさんの葦も生え、アラハバキ一族にとってはかけがいのない場所だったのです。そして、その祭祀場の形こそ、前方後円を呈していたように感じました。ですから今でも、不動明王が三日月、または朏(みかづき)神社に祀られているのだと思います。
その縮小版として、今も残っているのがサラスヴァティ(弁財天)です。周囲を円形の池の水に囲まれて祀られている水神です。アラハバキ一族の聖地もそうですが、本来の入り口は東南の方向、すなわち冬至に太陽が昇る方向だったと思います。
後の権力者も鍵形の前方後円墳と呼ばれている所が聖地であることは知っていたように思います。それを墓として利用した時もあったようですが、そのお陰で、たくさんの聖地が現在も残ることが出来たように思えました。
この前方後円墳という名前ですが、荘子の中には、「天は円にして、地は方なり」と記載されていました。すなわち、円は天蓋、宇宙であり、方は地球の大地のこととして語られていました。まさに、この鍵形の意味する所は、天と地をつなぐ祭祀場であり、また呼び名も上円下方の祭祀場というのが正しかったように感じました。 
 

 

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