ユートピア・理想郷

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雑学の世界・補考   

「ブータンと国民総幸福量(GNH)に関する東京シンポジウム2005」

平成17年10月
10月5日(水曜日)、外務省は日本ブータン友好協会との共催により、公開シンポジウム「ブータンと国民総幸福量(GNH)に関する東京シンポジウム2005」を東京において開催した。このシンポジウムは、来年2006年の日ブータン国交樹立20周年を控え、両国関係強化の気運を高めるべく、内外の第一線で活躍されているブータン関係者の出席を得て開催され、約130名以上の聴衆の参加を得た。シンポジウムでは、河井外務大臣政務官、ダゴ・ツェリン駐日ブータン大使の開会挨拶に続き、ブータンという国について、また、単なる開発ではなく、すべての国民の「幸せ」を増加させることを国家の使命とする「国民総幸福量」(GNH)の概念について講演が行われた。  
1.ブータンと日本
(1)河井政務官
本年6月、ブータンに内閣の一員として初めてブータンを訪問し、ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王陛下に拝謁した。その際、国王に対し、(イ)GNHシンポジウムの東京開催、(ロ)ブータンの憲法制定関係者の訪日、(ハ)2006年の日本ブータン国交樹立20周年記念行事の開催、を提案した。現在、日本の国会にはブータン友好議連が存在していないことから、来年の20周年を盛り上げていくためにも、自分が議連設立を呼びかけ中であり、既に2桁の議員の参加意思を得ている。
国際政治において、ブータンは日本にとって重要な国であり、(国連安保理改革に関する)G4決議案の共同提案国になることについて書面で支持を頂いた。また、愛知万博において、6月2日のブータン・ナショナルデー式典に、ジグミ・Y・ティンレ内務・文化大臣が訪日された。森戸名誉領事の御支援もあり、同万博でのブータン展示館は大きな成功を収めた。日本人の中にもブータン好きが確実に拡がりつつあり喜ばしい。
(2)ダゴ・ツェリン駐日ブータン大使
今回のシンポジウム開催に感謝。日本とブータンには深い交流の歴史があるが、二国間関係は古い自転車のようなものであり、動かすにはペダルを漕いでいかないといけない。皇室関係者の交流、愛知万博へのブータン高官出席、そして本年6月の河井政務官ブータン訪問と、両国関係は進展している。
ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王陛下は、1970年代を通じて、ブータンの国民に資するべく、種々のシステム、メカニズムの導入につき検討を行った。他国のようにGNPを増加させる政策のオプションもあったが、これを敢えて選ばず、ブータンの国民の心、文化、環境にフィットするものとして「国民総幸福量」(GNH)の導入を決定した。GNHは、農村開発、Basic Human Needs、GNP増加にも資する、全ての要素に適合する考えでもある。
GNHは幸福を実現するための手段であり、あくまで開発は人のために国民中心で行われるべきであり、また平等、均等であるべき。飲料水確保、医療・農業施設整備等は住民参加による開発によって実施されていくべき。また、国民の85%は農村に住んでおり、分権化の過程において、国民のエンパワーメント、エンタイトルメントが確保されていくことが重要。
日本は、ブータンへの経済協力を通じて、GNH実現に大きな役割を果たしている。1960年代に派遣されたダショー西岡(JICA専門家。外国人として唯一、貴族の称号にあたる「ダショー」が付与される)は農村機械化、食糧増産のために尽力し、また日本の支援により、多くの村に電気通信設備が整備された。今後は、GNHを着実に実施していくためにも、キャパシティビルディング等の人材育成プロジェクトが重要。
(3)平山修一GNH研究所代表幹事
ブータンの人口、自然、宗教等、基本情報について説明。さらにブータンを紹介するDVDを放映。
日本からの食糧増産援助、青年海外協力隊派遣はブータンから大きく感謝されている。さらに、ダショー西岡、日本人で初めてブータンに入国した中尾佐助大阪府立大学教授等、過去に日本人関係者がブータンと築き上げた友好関係は両国の発展の礎として重要。
日本とブータンの皇室関係は極めて良好。1989年、1990年に、大喪の礼、即位の礼出席のため訪日したジグミ・シンゲ・ワンチュク国王陛下は、各国元首と異なり、日本政府関係者にODA増額要請を一切行わなかったことが知られている。
今後の日本とブータンの関係は、ブータンは日本の経済発展から、日本はブータンのGNHからそれぞれ学び、ギブアンドテイクの関係に加えて、パートナーとしての共通認識、理解を深めていくことが重要。
(4)糸永正之 アラスカ大学フェアバンクス校特別顧問
ブータンの地域に人が住み始めたのは、紀元前1500〜2000年と言われており、歴史の厚みのある国である。8世紀中頃の中国の「隋書」には、チベット南部における国の存在について記載されており、ブータンのことを想起させる。また、シェイクスピアはブータンを知っていたらしく、同情報に基づいて「マクベス」を書いたとも言われている。  
2.GNH、その背景、現状と将来
(1)カルマ・ゲレ ブータン総合研究所上級研究員
幸福は、人の奥深いところにある願望であり、究極目標でもある。また、まわりが不幸であれば人は幸福になることができず、社会全体の幸福を追求していく必要がある。幸福の追求のため、1972年、ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王陛下即位直後にGNHの概念が生まれた。
ブータンの開発は1960年代から進み、1972年までに2つの5カ年計画実施を通じて、先進国の経験・モデル等を研究した。その結果、経済発展は、南北対立、貧困問題、環境破壊、文化喪失につながり、必ずしも幸せに直結しないことが明らかになった。そこで、人の幸せを追求するGNHという概念を導入し、1)経済成長と開発、2)文化遺産の保護と伝統文化の継承・振興、3)豊かな自然環境の保全と持続可能な利用、4)よき統治の4つを柱として開発を進めることとした。
1)経済成長と開発:ブータンの1人あたりGDPは834ドルと南アジアでモルディブに次いで2番目であり、また平均寿命も過去の46歳から66歳まで飛躍的に延びた。バランスのとれた開発を心がけるべく、人々に平等にアクセスを提供すると共に、累進課税による所得再配分を実施している。
2)文化遺産の保護と振興:文化・価値観は学校で充分に教えており、また大家族制のネットワークにより、ブータンにはホームレスがいない。
3)環境の保存と持続可能な利用:農民は環境に依存して生活しており、また河川下流のバングラデシュ、インド等のことも考慮して、勝手に環境を変えることなく、緑化、生物多様性保護を進めていくことが重要。ブータンの国土の26%が自然保存地区であり、また72%は森林地区。
4)よき統治:様々な国民参加型政治の導入を検討しており、1998年、国王は閣僚や国民議会に大幅な権限委譲を行う、大臣会議メンバーの国民議会における選挙の実施を決定。
(2)村田俊一関西学院大学教授
1日2ドル以下で暮らす人口は世界で20〜30億人おり、日本人は特権階級に属するものの心にゆとりがなく、他方でブータンには乞食はおらず、非常にゆとりのある生活をしている。ブータンの子供は、学校教育により、HIV/AIDS、環境問題等をよく知っており、お金のかからない教育が着実に行われている。
日本がGNHから学ぶ点は多く、GNPが経済の豊かさ、社会幸福に直結しているとは言い難い。日本の予算は単年度主義であるが、ブータンは人間中心かつ自国に合ったペースでの開発を進めており、同開発を尊重することが重要。
(3)河合明宣放送大学助教授
ブータンは環境先進国であり、森林法により、72%が森林地区として保護されており、木材輸出が外貨獲得の貴重な収入源となっている。また、森林保全の成果として、水力発電により、電力をインドに輸出している。また、国家管理による観光を振興しており、外国人から徴収される1日200ドルの観光経費のうち30%は国庫に納められる。
(4)草郷孝好大阪大学大学院助教授
日本は奇跡の経済成長を遂げ、約40年前と比べて1人あたりGDPは8倍に増加しているが、GPI(Genuine Progress Index)では、同40年間はほぼ横ばいであり、1980年代からはむしろ落ちる形で推移している。
教育、保健等も指標化したHDI(Human Development Index)では、日本は11位であるが、同数値を日本の地域別にみれば、東京は1位であり、青森は28位となっており、地域に応じて差異がある。
GNHへの評価について、客観評価と主観評価をどのように組み合わせて指標化していくかが一つの課題。  
3.パネルディスカッション
(1)日本とブータンの友好関係の方向性
子供から年配者まで、幅広い世代間で交流を進めていくことが重要。中学校の教科書にはダショー西岡の記事が掲載されており良い傾向。日本のブータン留学生は35名にすぎず、民間も含めた交流拡大が望ましい。
今日の世界において各国は相互依存関係にあり、GNHもブータン単独では実施することができない。経済大国日本とGNHの国ブータンが関係を強化する余地は大いにある。
(2)GNHの日本への適用可能性
日本も昔はコミュニティが大きな機能を果たしてきたが、ブータンは今でも大家族制が一般的であり、孤児に対して社会全体でケアする気運がある。家族の中における教育も、日本において見直されるべき。
日本において、GNHを計量する研究、関連シンポジウムの開催検討が行われている。  
 
国民総幸福って!? ブータン

 

インドと中国という二大大国にはさまれながら、独自の文化を誇るブータン。そこにはGNPならぬ「GNH=国民総幸福」という不思議な尺度があるという‥。
「世界のシンプルライフ」第二回は、ブータン。
てどこ? という人、まだ多いと思いますが、小国ながらこの国はいま、シンプルライフ的な意味で、世界有数の先進国と言っていいでしょう。何しろ、国のあり方、政策がユニークでカッコイイんです!
ブータンってどんな国?
ヒマラヤの麓に位置し、インドと中国というアジアの二大大国にはさまれたブータン。面積は日本の九州ほど、人口は約65・8万人(2000年、ブータン政府資料)という、小国寡民を地で行くような国です。一人当たりGNI(国民総所得)は年間660USドル(日本は403万円)。国家歳入の4分の1を海外援助に頼り、これといった国内産業もない――それじゃシンプルライフというより、世界の最貧国では!?
と思うでしょ? それが、ブータンには、GNIやGDPといった数字では表せない、ほんとうに豊かなシンプルライフがあるらしいのです――。
こんなにあるブータンの見習いたい国づくり!
環境先進国!  なんとブータンでは、プラスチック製品の輸入・使用を制限しています。ゴミ問題に頭を痛める先進国が反面教師なのでしょうね。また、国土の7割を占める森林の開発にも非常に慎重。他国の環境問題を他山の石とし、開発によって得られる利益よりも、国土の保全と国民の健康を優先した政策といえるでしょう。
教育や治安のコストが低い!  教育は大学まで無料。塾だ私学だと、高額な教育負担に悩むこともありませんね。伝統的な共同体が今も生きる社会には、犯罪率も低く、子供たちがのびのびと育つ環境があります。
実は国際的!  つい30年ほど前まで、国際社会に門戸を閉ざしていた国なのに、ブータンの学校教育は、国語を除いた授業はすべて英語によって進められています。だから子供でも英会話OK。海外に留学した学生の帰国率は高く、若きエリートは、国外で学んだ経験を国づくりに生かしています。どっかの国みたいな頭脳流出なんて問題もありませんね。
モノもお金もないのに、なぜこんなに豊かなのか
歌舞伎町や渋谷のような繁華街もなく、誰もがクルマに乗りヴィトンを手にするような国ではありませんが、このブータンの暮らし、なんだかうらやましいと思いませんか? GNIが低いっていったって、ほとんどが自給自足を営む農民で、暮らしは素朴そのもの、必要なモノはモノや労働との交換で得られる経済。これこそシンプルライフではないでしょうか?
豊かさの新しい指標・GNHとは?
そんなブータンをあらわす、有名な言葉があります。数々の政策によって名君の誉れ高い、現ワンチュク国王が掲げる新たな指標、
「GNH(Gross National Happiness)=国民総幸福量」
です。環境を犠牲にしてもたくさんのお金を稼ぎ、それをもって国の力とする従来の思想とは、まったく異なる軸を持つこの言葉は、広く国民に受け入れられただけでなく、世界中の注目を集めています。さきに述べたような政策のあり方は、このGNHを基本にしたものなのです。
簡素で質の高いライフスタイル
首都ティンプーにさえ、無機質な高層ビルはなく、役所や企業も皆、美しい装飾のほどこされた伝統的な木造建築。大人も子供も、高度な技術を駆使して織られた民族衣装を身にまとい、チベット仏教と僧侶を深く敬う暮らし。どれも、目先の数字には代えがたい、豊かで文化的なライフスタイルではないでしょうか。
世界が注目するブータンの魅力
天に至る棚田、白壁に極彩色の寺院、青いケシの花が咲くという美しい国ブータン。最近では、あの超高級リゾート・アマングループがホテルを建設、しかも今後複数のアマンリゾートがオープンを予定しているというから、世界のセレブの目のつけどころは違いますね! 日本人とよく似た感覚と容貌を持つといわれるブータン、そのシンプルなライフスタイルを学びに、いつか是非行きたいです!

国民総幸福量(Gross National Happiness)

 

経済的に、精神的に豊かであるということ
国民総幸福量とはブータンの開発政策の根幹をなす概念で、ブータンの現国王によって1980年代に唱えられたといわれています。現国王は、国民総幸福量の増大は、経済成長よりも重要であるとはっきりと述べています。この概念は、特に最近ブータンの国内外で開発政策に新たな視点をもたらすものとして注目され始めており、2004年2月にティンプで開かれた第一回の国際会議につづき、2005年6月20日からは、カナダで国民総幸福量に関する第二回の国際会議が開かれました。今回は、このブータン独自の概念に基づいて、ブータンがどのような国づくりを目指しているのかを紹介します。
国民総幸福量という概念を初めて聞いた人の多くが発する質問のひとつが、幸福という一見非常に主観的に聞こえる概念を国の政策に取り込むことの妥当性についてです。何が幸せかという問いに対する答えは、人によってまちまちで、それを政策に取り込むことは不可能に近いという考え方です。今年5月にブータンで初めて行われた国勢調査にあった「あなたは幸せですか」という質問にも、多少戸惑ったブータン人がいたようでした。私の周囲のブータン人からは、質問が漠然としすぎていて、家族との生活に幸せを感じているかとか、仕事に生きがいを感じているかといった、もう少し限定的な質問にして欲しかったという声が聞かれました。
ブータンの政策の中では、国民総幸福量には4つの主要な柱があるとされています。それらは、持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、有形、無形文化財の保護、そして良い統治です。経済開発に一辺倒になって、自然環境が破壊されたり、ブータンの伝統文化が失われてしまっては、何の意味のないというのが、この政策の精神です。この国民総幸福量の増大の精神にのっとり、社会開発には特に篤い政策がとられています。例えば、医療費は無料ですし、教育費も制服代などの一部を除いて無料です。また、国土に占める森林面積は現在約72%で、今後も最低でも国土の60%以上の森林面積を保つ方針が打ち出されています。また、良い統治という面では、行政と意思決定の両面での地方分権化が進んでいます。人々は、自分達の住んでいる地域の開発プランについて、自分たちで優先順位を決め、中央政府に提案します。
ブータン人は、物質的な豊かさだけでは人は幸せになれないのだと、よく口にします。経済成長に伴って、家族中心の社会生活から、より個人主義的な生活を送るようになったり、大気や水質が汚染されたり、過剰な森林伐採が行われたり、ブータンの伝統文化を忘れて、西洋的なものにはしったりすることについて、ブータン人の多くはとても慎重です。
経済成長一辺倒にならないこのような政策には、仏教の教えの影響を見て取ることができます。ブータン人の多くが信奉しているチベット仏教は、金銭や物質的なものに対する欲望を克服するように説いています。これは、ブータン人全員が物質的な豊かさを否定しているということではありませんが、物質的な豊かさに執着することがマイナスの価値をもつ社会文化的背景があることも事実です。さらに、ブータン人は進歩とは、精神的な成長を伴うものでなくてはならないと言います。ブータン人は心の状態をよく見ている人々であると先のレポートでも書きましたが、精神的により成長した人になることは、チベット仏教の教えとあいまって、多くの人々が日常生活のなかで意識していることであると言えます。
では、ブータン人にとって幸せとは何なのでしょうか。職場の同僚と昼食をしているときに、この国民総幸福量がよく話題にのぼります。「どんなに貧しい状況にあっても、自分の置かれている境遇に満足することが国民総幸福量に貢献することなのか。」「いやいや、そんなはずはない。運命論者になって、自分の置かれている状況に満足することだけが、国民総幸福量の精神であるはずはない。経済的にも文化的にも、バランスをとりながら、より高いところを目指そうとする精神がなければならない」などなど、議論は昼休みを越えても続きます。確かに、何が幸せかという質問は個人のレベルでも答えを出すのが難しい問いで、まして国レベルでの議論になるとある程度の最大公約数に到達するのがやっとかもしれません。
国民総幸福量という概念の大きな貢献は、人々に、特に政策にかかわる人々に、「幸福」について考えさせ、議論させるところにあるように思われます。そして、そこから出て来る政策は、国民総生産量の増大だけを目指した政策とは、必ず違うものになってくるはずなのです。ジクメ・ティンレイ内務大臣はあるスピーチの中で以下のように語っています。「国民総幸福量の概念は開発に対するバランスの取れた、最も包括的なアプローチを提示しています。幸福の追求は人類に共通のものであり、全ての人々にとってこれ以上の願いはないでしょう。ブータンと他の国々との間の唯一の違いは、他の国々ではそれが理想郷を追い求めることのように受け取られ、幸福の追求が見捨てられてしまっていることです。私たちはこれからも、人生には物質的な富よりももっと重要なものがあることを心に留めておきたいと思います」。人々の幸福の追求に最も適した環境作りを国家の政策の根本として位置づけ、手探りながらも邁進している国、ブータン。カナダ人の友人はブータンを「教養のあふれる発展途上国」と評しましたが、「教養のない先進国」もあるかなと、ふと考えてしまいます。  
 
岐路に立つブータン1 「国民総幸福量」政策の行方   2008/3

 

2008年に王室主導で初の民主政体が発足するブータン。伝統とのバランスをとりながら、「国民総幸福量」の理念に基づいた近代化を進められるのかどうかが、注目を集めている。
現地語でドゥク・ユル(雷龍の国の意味)と呼ばれるブータン王国は、面積は九州より一回り大きいほどの小国だが、インドと中国という2つの大国にはさまれながらも、1000年以上も孤高を保ってきた。地理的な条件に加え、鎖国政策を長く続けてきたため、外界から隔絶されていたのだ。1960年代まで、舗装道路や電気、自動車はなく、電話や郵便制度もなかった。
今でも、霧に包まれた崖に立つ古い寺院、川や森を見下ろすようにそびえる未踏の霊峰、4人姉妹を妃にめとった前国王がその一人と暮らす宮殿を眺めていると、ここは「時に忘れられた場所」という気がしてくる。訪れる人々が「最後の理想郷」と呼びたくなるのももっともだ。
先代のジグメ・シンゲ・ワンチュク国王が16歳で1972年に即位した当時、ブータンは貧困、識字率、乳幼児死亡率のどれをとっても、世界で最悪の水準だった。鎖国政策が残したお荷物だ。「その代償は高くついた」と、前国王自らがのちに語っている。
ブータンが開放路線に転じたのは1960年代、前国王の父が第3代国王だったときだ。彼は道路や学校を建設し、診療所を開き、国連への加盟を実現した。前国王はさらに一歩踏みこんで、あらゆる面に目を光らせながら開放を進めようとした。それは、国が発展するとはどういうことかを見つめ直す機会でもあった。彼の姿勢は、彼自身が考案した「国民総幸福量(Gross National Hapiness)」 という言葉によく象徴されている。
多くのブータン人にとって、国民総幸福量はマーケティングの道具でもなければ、ユートピア哲学でもない。生きていくための具体的な構想なのだ。国民総幸福量の柱は、持続可能な開発、環境保護、文化の保全と振興、優れた統治の4つ。これらを指針としたことで、ブータンは天然資源の採取に頼ることなく、貧困から脱却することができた。
ブータンは国土の4分の3近くが森林で、25%以上を保護区に指定している。これは世界でもかなりの高水準だ。識字率と乳児死亡率も大幅に改善された。観光業も伸びているが、観光客一人当たり最高1泊240ドルの観光税を徴収するので、ネパールのようにバックパッカーが押しよせ、荒らしまわることもない。国民がテレビを見られるようになったのは、1999年の末のこと。インターネットに接続できるようになったのも同じ年だ。
しかし、パンドラの箱を開けたことで、懸念も高まっている。きわめて保守的で孤立していた社会が、米国の人気ラップ歌手の50セントやプロレスのような激しい格闘技をいきなり目にしたらどうなるだろう。しかも、この国の人口63万5000人のうち、半数が22歳未満と若く、影響を受けやすいのだ。
そして今、ブータンの壮大なる実験は、民主政治への移行で最高潮を迎えようとしている。ブータン政府の高官によれば、国民に敬愛される君主が、自発的に主権を国民に譲った例はこれまでないという。ところが2006年12月、ジグメ・シンゲ・ワンチュク前国王はそれをやってのけたのだ。
2008年には大きな慶事が重なる。まず戴冠式が行われ、ジグメ・シンゲ・ワンチュク前国王が、28歳の息子ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクに国鳥であるワタリガラスをかたどった王冠を授ける。新国王からは立憲君主となる。
2008年、王国は成立から100周年を迎える。本当は2007年だったが、王室付きの占星術師が翌年のほうが縁起がよいと見立てたため1年延ばしたのだ。そして何より重要なのが、夏に予定されている民主政府の発足だ。
国民総幸福量の理念が真に試されるのはこれからだ。今後ブータンを率いる市民出身の指導者たちは、いくつもの難問に直面するだろう。そもそも国民の多くが今も歴代国王を敬慕していて、民主政治に懐疑的なのだ。すべてを均質にしようとするグローバリゼーションの波に洗われながら、ブータンらしさを保っていくことはできるのだろうか。伝統の維持と経済発展のバランスをうまくとり続けられるかどうか、注目したい。  
 
岐路に立つブータン2   2008/3

 

2008年に王室主導で初の民主政体が発足するブータン。伝統とバランスをとりながら、「国民総幸福量」の理念に基づいた近代化を進められるのか。
式典ラッパの澄んだ音色が高らかに鳴り響くと、巡礼者たちが誘われるように姿を現した。山の向こうに日が落ちて、町に影を落とす。ここはヒマラヤ山脈にあるブータン王国の首都ティンプー。これから、この日最後の儀式が始まろうとしていた。
群衆の端のほうには、おかっぱ頭でみすぼらしい服を着た農民たちが立っていた。遠く離れた山里から三日もかけて、“都会”のティンプーまで初めて出てきたのだ。都会といっても、信号機が一つもない首都は、世界広しと言えどもここぐらいのものだろう。広場の中央付近では、僧侶たちがえんじ色の僧服を身にまとい、互いに腕を組んで集まっている。ヤシ科の高木ビンロウの実をかむ彼らの歯も、僧服と同じくらい真っ赤に染まっている。
僧侶も農民も、町の人々も、広場の中央に立つ少年を一目見ようと押しあいへしあいしている。少年の名はキンザン・ノルブで、年齢は7歳。オレンジ色のシャツが長すぎて、ひざから下がやっとのぞくほどだ。曲が盛り上がると、ノルブは勢いよくあおむけになり、背中を軸にしてくるくると高速で回りはじめた。
ブータンでは古くから、高僧が雌トラに乗って空を飛んでやってきたとか、「風狂の聖」と呼ばれる僧がいたとかいう神秘的な伝説に事欠かないが、このノルブ少年も高僧の生まれかわりなのだろうか?
しかし、しゃれた白いノートパソコンをつないだスピーカーから大音量で流れてきたのは、仏教の祈りの歌ではなく、人気ラテンポップ歌手のシャキーラがきわどい歌詞を連発する「ヒップス・ドント・ライ〜オシリは嘘つかない」だった。ノルブがくるくると回って手を使わずに頭だけで逆立ちすると、シャツがめくれあがり、世界のどこにでもいる今どきの若者らしい格好がのぞいた。足首まであるナイキの赤いスニーカーに、アディダスのだぼっとしたスエットパンツ。そしてブレイクダンスやヒップホップを踊る彼らのグループ名「B-Boyz」の文字が、タトゥーシールで体に貼りつけてあった。
曲が終わると、ノルブはいたずらっぽい笑顔でワルぶったポーズを決めてみせる。仲間たちは口笛と歓声で彼をたたえた。僧侶たちはビンロウの実で赤く染まった歯をむき出しにして苦笑する。日焼けした農民たちは、口をぽかんと開けて少年を見つめるばかりだ。これが祭りで奉納される仮面の踊りなら、彼らにも理解できただろう。しかし、ノルブは不可能に挑戦するブータンの姿を体現している。伝統と近代化のバランスをとりながら、中世から21世紀へ一気に飛びうつろうというのだ。
現地語でドゥク・ユル(雷龍の国の意味)と呼ばれるブータン王国は、面積は九州より一回り大きいほどの小国だが、インドと中国という二つの大国にはさまれながらも、千年以上も孤高を保ってきた。地理的な条件に加え、鎖国政策を長く続けてきたため、外界から隔絶されていたのだ。1960年代まで、舗装道路や電気、自動車はなく、電話や郵便制度もなかった。今でも、霧に包まれた崖に立つ古い寺院、川や森を見下ろすようにそびえる未踏の霊峰、4人姉妹を妃にめとった前国王がその一人と暮らす宮殿を眺めていると、ここは「時に忘れられた場所」という気がしてくる。訪れる人々が「最後の理想郷」と呼びたくなるのももっともだ。
先代のジグメ・シンゲ・ワンチュク国王が16歳で1972年に即位した当時、ブータンは貧困、識字率、乳幼児死亡率のどれをとっても、世界で最悪の水準だった。鎖国政策が残したお荷物だ。「その代償は高くついた」と、前国王自らがのちに語っている。
ブータンが開放路線に転じたのは1960年代、前国王の父が第3代国王だったときだ。彼は道路や学校を建設し、診療所を開き、国連への加盟を実現した。前国王はさらに一歩踏みこんで、あらゆる面に目を光らせながら開放を進めようとした。それは、国が発展するとはどういうことかを見つめ直す機会でもあった。彼の姿勢は、彼自身が考案した「国民総幸福量(Gross National Hapiness)」という言葉によく象徴されている。
多くのブータン人にとって、国民総幸福量はマーケティングの道具でもなければ、ユートピア哲学でもない。生きていくための具体的な構想なのだ。国民総幸福量の柱は、持続可能な開発、環境保護、文化の保全と振興、優れた統治の四つ。これらを指針としたことで、ブータンは天然資源の採取に頼ることなく、貧困から脱却することができた。
 
ユートピア(utopia)1

 

イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作、また同書に出てくる国家の名前。「理想郷」「無何有郷」とも。ユートピアは現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであった。ギリシア語のοὐ ou(ない)、τόπος topos(場所)を組み合わせ「どこにもない場所」を意図とした地名と説明されることが多いが、記述の中では"Eutopia"としている部分もあることから、eu-(良い)と言う接頭語もかけて「すばらしく良いがどこにもない場所」を意味するものであったとみられている。ただし、「ユートピア」という言葉を用いるときには時に注意が必要である。現代の庶民が素朴に「理想郷」としてイメージするユートピアとは違い、トマス・モアらによる「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩が強く、決して自由主義的・牧歌的な理想郷(アルカディア)ではないためである。反対語はディストピア。 
モアの『ユートピア』
モアの著作の正式名称は、De Optimo Reipublicae Statu deque Nova Insula Utopia(『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』)という。
その内容は、1.第1巻 / 2.第2巻 / 3.「手紙」の3部で構成され、「第1巻」はユートピアに行った男の話、「第2巻」は作者によるユートピアの様子のまとめ、そして「手紙」は作者がある友人に送った私信という体裁を取る。「手紙」では、ユートピアについて作者がこれまでまとめたことへの違和感と共に、友人に対しユートピアへ行った男に連絡して真意を問いただして欲しいと依頼して終わっている(岩波文庫版の解説によれば、この話がフィクションであることの強調と共に現実社会の批判を和らげる意図があったという)。
ユートピアは500マイル×200マイルの巨大な三日月型の島にある。元は大陸につながっていたが、建国者ユートパス1世によって切断され、孤島となった。島の中の川はすべて改造されまっすぐな水路とされ島を一周しており、その中にさらに島がある。この、海と川で二重に外界から守られた島がユートピア本土である。ユートピアには54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されている。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる。首都はアーモロートという。
ユートピアでの生活は、モアより数世紀後の概念である共産主義思想が提示した理想像を想起させる。住民はみな白くて美しい清潔な衣装を着け、財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑され、後述する奴隷の足輪に使用されている)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなうとしている。
しかし、実際には着る衣装や食事や就寝の時間割まで細かく規定され、市民は安全を守る為相互に監視しあい、社会になじめないはぐれ者は奴隷にされるなど、現在の視点から見れば理想郷どころかディストピア(逆理想郷)とさえ言える内容となっている。そして実在した(する)共産・社会主義国の実像そのままである。 
ユートピア文学
ユートピアという語はその後一般的となり、理想郷を意味する一般名詞にもなった。そこから、架空の社会を題材とした文学作品はユートピア文学と呼ばれる。マルクス主義からは「空想的」と批判されたユートピア思想であるが、理想社会を描くことで現実の世界の欠点を照らす鏡としての意義を持っている[1]。
トマス・モア以降、イタリアのトンマーゾ・カンパネッラは『太陽の都』(1602年)という、ルネサンス期のユートピア文学として『ユートピア』に匹敵する重要な作品を書いている。ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726年)もさまざまな空想都市を描いたユートピア小説ともとれる(たとえば、音楽と数学を愛好する空中都市ラピュータなど)。
18世紀、フランス啓蒙主義の時代にはルイ・セバスティアン・メルシエの未来のパリを描く『二四四〇年』ほか、ヴォルテールなどさまざまな作家・思想家がユートピア文学を執筆した。『ソドムの百二十日間』のマルキ・ド・サドや、『愛の新世界』のシャルル・フーリエなどユートピアとは異質と思われる作家も、ユートピア的世界観・ユートピア文学の手法を使い、閉ざされた世界の中の地獄絵図や、行き着くところまで行き着いた理想社会を描いた[1]。
19世紀は資本主義の勃興の時代であり、その修正のための社会改良案や社会主義や共産主義が生まれるなど、現実の社会が加速的に繁栄をはじめ、その社会を現実に改造するための各種の思想に力が注がれたためか、ユートピア文学は非常に多く書かれたがあまり収穫がない[1]。その中で、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』(1890年)は19世紀の優れたユートピア小説で、ほかとは異なった中世的で牧歌的な理想郷を構想している。他に今日まで記憶されている作品としてはサミュエル・バトラーの『エレホン』(1872年)、エドワード・ベラミーの『顧みれば』(1880年)などが挙げられる。 
逆ユートピア(ディストピア)
20世紀に入ると、「理想郷」と宣伝されていた共産主義国家や全体主義国家が現実の存在となったが、その理想と実態の落差を批判する逆ユートピア小説が描かれた。これもユートピア文学の紛れもない一種である。たとえばH・G・ウェルズの『モダン・ユートピア』(1905年)、エヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』(1924年)、オルダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』(1932年)、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)や、エルンスト・ユンガーの『ヘリオーポリス』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』、星新一の『白い服の男』などの小説によって管理社会、全体主義体制の恐怖が描かれた。これらに描かれた国家は、一見すると平穏で秩序正しい理想的な社会であるが、徹底的な管理により人間の自由が奪われた逆向きのユートピア(ディストピア)とされた。当時の共産主義社会や今日の管理社会に対する予見であり、痛烈な批判である。またそれを生み出した過去のユートピア思想や、その背景となった文明自体も攻撃対象である[1]。 
ユートピアの特徴
ディストピアを描いた小説が登場する前に書かれたユートピア小説も、現在の目から見るとディストピアではないかと思われるものが多いという説もある。これらの理想郷は、決して「自然の中の夢幻郷」ではない。それは人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾『合理的』な場所である。西ヨーロッパにおいてはこの模範はギリシャ社会を厳格に解釈したものに求められる。こうして生まれた「ユートピア」自体にディストピアの種が内包されていたのであるという説もある[1]。
以下に、過去のユートピア文学で表現されてきた「理想郷」にしばしば共通する特徴を挙げる。
周囲の大陸と隔絶した孤島である。
科学と土木によってその自然は無害かつ幾何学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が中心となる。
生活は理性により厳格に律せられ、質素で規則的で一糸乱れぬ画一的な社会である。ふしだらで豪奢(ごうしゃ)な要素は徹底的にそぎ落とされている。住民の一日のスケジュールは労働・食事・睡眠の時刻などが厳密に決められている。長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のために使う。
人間は機能・職能で分類される。個々人の立場は男女も含め完全に平等だが、同時に個性はない。なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難で危険な仕事をさせている場合がある。
物理的にも社会的にも衛生的な場所である。黴菌(ばいきん)などは駆除され、社会のあらゆるところに監視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
変更すべきところがもはやない理想社会が完成したので、歴史は止まってしまっている(ユートピアは、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
以上のような、時計のように正確で、蜜蜂の巣のように規則的な社会像は、古代ギリシアの哲学者プラトンの『国家』[2]、『ティマイオス』[3]以来、ルネサンス期・啓蒙主義期に流行した『ユートピア』などの理想都市案から20世紀のディストピア小説、現実の共産主義国家のあり方までに共通するものがある[1]。
このような社会の理想としてあげられるのは、西ヨーロッパにおいては彼らによって再解釈された『古代ギリシャ』である。一説によればプラトンの時代はペルシアなどの脅威によりギリシア諸国が揺らいだ時期だったが、おそらく彼は理性を『ギリシャ的』なものと決めつけ理想化し、それに対立する非理性的で欲望に満ちあふれたもう一つの世界アトランティスを思い描いたのであろうとしている。
こうした理性を中心としたユートピア的理想社会に対し、バロック、マニエリスム、シュルレアリスムなど反発する思想的動きが相次いだ。現在の先進国では、ともすれば資本の効率的利用や社会の安全・健康増進・効率化を名目に、事実上の管理社会が実現されてしまうこともあるが、一方ではたとえば『ユートピア』的な都市・国土計画よりは、いいかげんでヒューマンスケールの迷路的な旧市街や、曲線的な街路を持った商業地・住宅地の混在が見直されてもいる。またフィクションの世界でも『ブレードランナー』的な一見悪夢のような混沌とした未来が、逆に人間的な世界として評価されることがある。
ユートピアとは、結局のところ、唯一の価値観、唯一の基準、唯一の思想による全体の知と富の共有は、たしかに反するものが存在しないという意味で平和で理想であるだろうが、その実現には人間的なものや自由をすべて完全に圧殺しなければ実現しえないことを明確に表したものであり、理性以外のすべてをそぎ落とした果てにあるものの機械的な冷酷さを表したものである。
それは外面的には牧歌的で平和主義であろうと、人間を抑殺する実態をそなえている[4]。 
理想郷
世界の理想郷伝説
アイティオピア / ギリシャ神話南果ての国エチオピア。緑豊かな土地であったがパエトーンによる太陽神の御車暴走によって砂漠と化してしまった。ユートピアの語源との説も。
アヴァロン / ケルト神話に登場する霧に包まれた伝説の島。アーサー王をはじめとして英雄達が集っているとされる。
アガルタ / 大洪水によって地底に移住したとされる人々の王国。モンゴルやチベットのラマ僧などにより、口承として流布されて来たという。地球空洞説の一つ。ちなみにその首都は「シャンバラ」である。
アトランティス / プラトンの対話篇『ティマイオス』『クリティアス』に登場する古代の理想国家。豊かで強大であったが地震によって一夜にして海に沈んだという。
アルカディア / ギリシャ南部に実在する地名だが、古来より牧歌的な理想郷として知られている。
エデン / 旧約聖書の『創世記』に登場する理想郷。アダムとイヴが住んでいたというエデンの園。失楽園を経て、世界終末と共に再び地上にもたらされる至福の1000年が千年王国である。
エリュシオン / ギリシャ神話における死後の楽園だが、「幸福諸島」として大航海時代の船乗りたちの探索の対象となった。フランス語でシャンゼリゼという。
エル・ドラド / 南米大陸を開拓したスペイン人(コンキスタドール)達のあいだで信じられた黄金の国(黄金郷)。キャディラックの車種名としてビアリッツとセビリア(旧名ヘスペリス)の地名が続く。
オフィール / 旧約聖書に出て来る黄金郷。現在のマリ共和国(あるいはジンバブウェ)ではないかとされている。17世紀末のドイツにディストピアとして作者不明のパロディ本(偽書)が出ている。
カナン / 旧約聖書で神がイスラエルの民に約束したとされる乳と蜜の流れる地。
キーテジ / 近世ロシア人に伝わるロシア正教古儀式派の聖地。シベリアの奥彼方にあるとされた。古くは13世紀モンゴル帝国の侵攻により逃れたロシア正教徒によって造られ、古い純正な信仰が保たれていると言われている。そして17世紀のロシア帝国による上からの宗教改革によって弾圧された、ロシア正教古儀式派(旧教徒)の理想郷とされ信じられた。
ザナドゥ(上都) / サミュエル・コールリッジの『クーブラ・カーン』に描かれている理想郷。元の夏期の首都、上都がモデル。
シバの女王の国 / 旧約聖書に出て来る謎の国。女王とソロモン王の邂逅の話。現在のエチオピア周辺(イエメン?)と推測されている。
ジパング / マルコ・ポーロによって伝えられた東方の黄金郷(東方見聞録)。中世の日本の事だと思われている。
シャンバラ(シャングリラ) / チベットでカイラス山の麓にあると信じられている理想郷。
ティル・ナ・ノーグ / ケルト神話で、戦いに敗れた後に妖精になって暮らすという「常若の国」。
桃源郷 / 陶淵明が『桃花源記』の中で描いた理想郷。秦の時代の戦乱を逃れた者達の子孫が平和に暮らす里。
常世 / 日本神話に登場する、海の彼方にある理想郷。死者の国ともされる。
ニライカナイ 琉球列島に伝わる、海の彼方の理想郷。ここから福も災いももたらされるとされる。沖縄の墓などが海に向かって作られているのはこのためである。
パイパティローマ / 波照間島に伝承される、南方にあるという理想郷。
ヒュペルボレイオス / ギリシャ神話北風神ボレアスの住むトラキアより、さらに北方にあるとされた長寿国。
プレスター・ジョンの国 / ヨーロッパ伝説の東方キリスト教王プレスビュテル・ヨハネス(Presbyter Johannes)の治める国。
ヘスペリス / ギリシャ神話西果てのアトラス山脈の麓にあるとされる。スペインのヒスパリス(セビリア)。天空を背負って立っているアトラースの娘たちの世話する「ヘスペリデスの園」にはヘーラーの果樹園があり、龍に護られた黄金の林檎のなる樹など、パラダイスの語源、モデルになったとされる。
蓬莱 / 中国の東方に浮かぶ島で、神仙が平和に暮らし不死の仙薬が手に入るとされる。蓬莱のほか、方丈・瀛州(えいしゅう)をふくめて三神山とよばれる。四霊の一体である霊亀の背の上に存在するとも言われている。
マグ・メル / ケルト神話で、死や栄光によって到達できるという喜びの島。アイルランド西方の島、もしくは海中の王国とされている。この島には様々なアイルランドの英雄や修道士が訪れた。 無何有鄉 中国、老荘思想の理想郷。
童話の理想郷
イーハトーブ / 宮沢賢治の作品に登場する架空の地名。郷土岩手県にちなんでいる。
オズ(の国) / 童話『オズの魔法使い』に出てくる王国。東西南北を治める魔女がいるとされる。
ネバーランド / 童話『ピーター・パン』に出てくる土地。子供が年を取らないといわれている。 
 
ユートピア2

 

ユートピアとは 
理想郷とは、見つけるものではなく造り出すもの
ユートピアは、「理想郷」「理想国」「理想社会」とも言われています。
「ユートピア」という言葉は、もともと16世紀イギリスのヒューマニストで官僚・政治家のトマス・モアが書いた本の題名で、その物語中に登場する架空の国の名前です。それはラテン語で「どこにもない場所」というほどの意味になる造語です。モアはその国を理想の国家として描き、それに照らして同時代の国家、社会の現実を批判しました。そこから転じて「ユートピア」という言葉は現実の社会よりも優れた、理想的な社会、ないしそのような社会の構想のことを指すようになったのです。
トマス・モアのユートピアは基本的に共産社会で、私有財産は禁止され貨幣もありません。全ての国民に労働の義務があり、定期的に農村での労働と都市での労働を行うことになっています。当時の領主や大地主が集約農業を営むために中小農民を犠牲に経営の規模拡大をはかった囲い込み運動(エンクロージャ)のさなかの16世紀イギリスへの批判として、当時考えられるかぎりで理想的な平等社会を描いたものですが、これは現代人には自由のない厳しい共産社会であり、理想郷にはならない生活環境でしょう。
現在では、ユートピアとは、だれもが幸せに暮らすことのできる理想的な社会を指し、平和と市民の衣食住が維持された理想的な社会、または国家、または世界を指す時に使われるようにもなりました。
不条理な面をふくむ現実に出会ったとき、その矛盾を解決し、もっと新しい理想的な社会像に置きかえようとする人間の想像力が新しい「ユートピア」の夢を描かせるのです。
しかし、現在この「ユートピア」という言葉は、「理想的な世界、或いは社会」という考えで使われるようになりましたが、人間にはそれぞれ違った考え方があり、それぞれの主義、思想、宗教、信仰によって、価値観が変わり理想的な社会というものも人によって違ってくるわけです。  たとえば、文化の歴史が古い国では、古くからあるシンプルだが使い慣れたよいものでシンプルな生活をしたいという価値観が強くなったりしますが、一方では、砂漠の民のアラブ人にとっては、砂漠にないものを全部揃えたくなります。そして世界中のあらゆる技術や文化、そして生活環境を集めた何でもありの豊かな社会が理想的な環境と考えられるのでしょう。上の写真は、中東のペルシャ湾に建設中の近代都市ドバイです。そして下の計画予想図は、アメリカのハイテク技術最先端を行く設計士であり建築士のジャックフレスコが描いた理想的都市の絵です。自然との調和と自然エネルギーを使った自然循環型社会を考えていますが、ドバイの考え方は世界最大規模の構造物やリゾート施設をもって、世界中から人と資本を集め、観光と金融ビジネスによる経済を維持していくシンガポール型の考え方です。
ユートピア思想と現代社会への影響
ユートピア思想というのは、ほんらい、満足できない現状にたいする批判から出発しているのではないのでしょうか。それが、批判だけではなにもならないことに対し、今度は自分で理想的な社会思想を構築してみることから、さらにそれを何らかの形でシミュレーション化する、一方ではそれを実現に移してみるといった進展が出てきます。そのため、現実を超越できる構想力のないところに、ユートピア思想はうまれません。
様々な形態のユートピア思想がありますが、ユートピア思想の基本となるものは、群れをつくり組織化する本能をもつ社会的動物とされている人間が求めるものとしては、安全と衣食住のニーズが確保される環境を望むことでしょうが。知能と精神的向上心をもつ動物以上の存在として、人間関係や動物との関係、自然との関係などから得る幸福感を満たす、「共存共栄の精神」ではないのでしょうか。つまり、ユートピア思想とは、単に基本である衣食住を得てサバイバルする生き方だけではなく、人類の知的成長と精神的向上心が常に満足させられる精神的な環境であると考えることができるのではないのでしょうか。
桃源郷の夢から哲人政治、共産主義思想、民主主義、自由主義社会とあらゆる思想の中にユートピア思想は模索されてきましたが、近年の社会主義経済の消滅、資本主義経済の破綻などを経て、理想社会への希望は遠のいたかのようになりました。はたしてユートピア思想はその力を失ってしまったのでしょうか。
しかし、現代において世界のいたるところにさまざまな形をしたユートピアといえるものを見つけることができます。それは、都会の生活から逃れてゆったりとした理想的な環境で好きな芸術に生きることを求めるグループの共同農場だったり、騒がしい現在社会の影響を受けない山奥に残る昔からの村だったり、純粋な気持ちの宗教グループのコミュニティーだったり、または近代化都市に発達した理想主義者の町だったり、社会の中に溶け込んで理想的社会貢献を目指す企業だったり、さらには宇宙空間に人間が存続するための宇宙ステーションのようなものまで実にさまざまな形のユートピア的生活圏をあげることができます。
実際、ユートピア思想とは、まるで人類の中に静かにひそむ生命力の強い種子のようなものではないのでしょうか。 人生の中である日ショックな体験をしたり、自分がなっとくいかない状況に出合ったりした時など、ちょっとした刺激で個人の考えの中に芽が出てきます。それが、時間を経て成長し、熟成すると、その人間の作品に現れてきます。というより、ユートピア思想が芽生えたら、それを無視することも、隠し通すこともできないのです。 
それは人間の中にある生きることへの本能と、充実した生き方への要求、そして幸せな人生への願望があるからです。そして、それが作家はそれを文学で描き、音楽家はそれを音楽に現すのです。 そしてそれは社会に新しい夢と希望を与え、そして社会に元気を与える影響をもっているのです。  
伝説のユートピア 

 

古代より人々は理想社会を様々に模索しました。
ユートピア伝説が世界中には充満しており、これらの伝説が多くの地方や、または宗教団体を通して伝えられ、また文学者や考古学者などから記述され、歴史とその時代の文学に多大な影響を及ぼしてきました。
古代ギリシャの「ギルガメッシュの牧歌的理想郷」、中央アジアにある「地底王国アガルタの首都シャンバラ」、西洋人がたちが想像した「東洋の桃源郷」、老子の「少国寡民の理想」、プラトンの「アトランティス」と「国家」、サミュエル・バトラー「エレフォン」、ハクスリ「素晴らしき新世界」、イギリス革命思想の源流となりピューリタリズムによるアメリカ開拓に影響した「千年王国論」、ベイコンの「ニュー・アトランティス」、三島由紀夫の小説にでてくる「まほろばのやまとの国」など。
世界には、理想郷といわれた想像をこえた社会や街の存在が数多く語り伝えられています。これは言い伝えられているだけで、誰も見たことのない世界だったり、また見た人間がいて、それを伝えたり、または本にしたりしていても、それを行って確認できたものがいない幻の理想郷だったりするものがあります。さらには、実際に存在したユニークな街や国が、語り伝えられていく過程で理想化されてユートピアとなったものもあります。そういうことも踏まえ、ユートピア伝説は単に伝説として片付けられるものではなく、多くの場合、多くの学者の探検心や追及心を駆りたて、彼らの発掘調査や探検から貴重な文化的発見や信じられない事実が明るみに出されたりしているのです。
そういった古来から言い伝えられているユートピア伝説には、南米の黄金郷エルドラドや、海に沈んだアトランティス大陸、中央アジアにある地底王国アガルタ、古代ギリシャの理想郷アルカディアなどがあります。しかし、これらの伝説には根拠となる遺跡や、文明の遺産などがあり、中には近年になって発掘され明るみにでてくる古代文明もあります。
黄金郷エルドラド伝説の元、アマゾン文明
古代アマゾンにおいて、かつて巨大な規模の文明が存在した。場所はアマゾン川の上流にあたる、ボリビア北東部の低地、モホス大平原である。モホス大平原は25万平方キロもあり、日本の本州に匹敵する広大な氾濫源である。現在でも毎年定期的に氾濫を繰り返しているが、その全域に、太古の昔に存在した文明の痕跡が発見されている。20,000個に上る、盛り土による居住地跡(ロマ)、総延長5,000キロに及ぶ直線道路網(テラプレン)、さらにそれを上回る規模の水路・運河網、2,000個の巨大な人造湖、広大な農耕地跡、大規模な養魚場跡などである。
古代モホス文明の特徴はアマゾンの自然を大規模に改変したことである。モホス大平原に残されている景観は自然のものではない。古代人の大土木工事の結果作られた一種の人工生態系である。この未知の民族は高度な技術力と生態系の知識を持っていたと思われるが、この厳しいアマゾンの大自然において、巨大な農耕文明社会を築き上げた。
この文明の存在は最近まで日本ではまったく知られていなかった。
海に沈んだ高度な文明、アトランティス伝説
アトランティスは、古代ギリシアの哲学者プラトン (紀元前427頃–347頃) が著作ティマイオス 及びクリティアス の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことであり、強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされています。
1882年、アメリカの政治家イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリー (1831–1901) が著書『アトランティス―大洪水前の世界』を発表したことにより謎の大陸伝説として一大ブームとなりました。
アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていました。
大運河の中の平原は約18.5kmの間隔で南北に約31mの幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていました。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使っていました。そしてそこには強力な軍隊が整備されていました。
「しかしやがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、アテナイ勢 の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまいました。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっているのです。」
地底王国アガルタと首都シャンバラ
中央アジアのどこかには、アガルタという地底王国があると言われています。その地底王国は、紀元前より存在していると言われ、これまで、その場所を巡って様々な憶測がなされてきました。アガルタは、荒涼たる砂漠の中にあると言われたり、あるいは、人跡未踏の山脈にあると言われています。しかも、その地下王国は、蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下のトンネルで、地球のありとあらゆる場所につながり、世界を一巡していると言われています。
このアガルタの首都であるシャンバラは、夢のような理想郷だと言われています。その都の中央には、水晶や真珠、金銀など美しい宝石で彩られた輝くばかりの黄金宮殿があり、シャンバラ全体は、宮殿の放つクリスタルの神秘のパワーに満ちており、そこには、苦もなく犯罪も一切なく、慈愛と平和だけが満たされているところです。
アガルタに住む人々は、高い知性を持ち、地上の人間よりもはるかに充実した長い一生を送ると言われています。しかも、彼らは、長年の間に、優秀な精神文化を築き上げ、神秘的な能力を身につけていました。それは、生命の運命を左右し、あらゆる予知を可能にする未知の能力でした。
科学技術に関しても、彼らは、地上の人間には、及びもつかぬ高度な技術を持っていました。地底の世界には、地上の太陽に代わる人工のエネルギーともいうべきものがあり、さんぜんと輝いて生命を育んでいたのです。彼らは、また、ヴィマーナという高速で走る車で、地下トンネル内を縦横に飛び交うことが出来ました。そして、しばしば、円盤型の飛行艇を駆使しては、外界を旅行したりするのでした。その乗り物は、地下の空洞から離発着するが、しばしば、地上の人間にも目撃されて、UFOとか称されて騒がれているものです。
伝説の王国とはいえ、地底王国アガルタの伝説については、国家をかけての探索合戦が繰り広げられた経緯があります。
旧ソビエト連邦がエージェントを送って調査させたり、ヒットラーはナチス親衛隊内に「アーネンエルベ(遺産)局」という専門機関を作って、膨大な予算をかけて地底王国関係を調査させました。そこでチベット密教の伝える地底王国「アガルタ」、南極の地底王都「レインボウ・シティ」などを調査し、そしてチベットから多くの関係者を招いてドイツに滞在させました。
その他、中国政府も調査を行った記録が残されており、ダライラマが宮殿を追い出され、亡命を強いられたた要因には、この地底王国との関係が絡んでいる可能性もあるようです。
シャンバラの理想郷伝説は、形を変えて様々な地方に伝わっています。インド仏教・後期密教の最後の教典である時輪タントラには理想の仏教国のこととして出てきます。中国では、桃源郷伝説となり、日本では寓話の中の竜宮伝説として、人々の心の中に刻まれているのです。それは、人間の楽園への本質的願望が、国境を超えて、姿を変えたものに他ならないのではないのでしょうか。 
創造されるユートピア

 

伝説の理想郷を探すものがいる一方で、自ら理想的な社会を創造する人間がいます。
多くの創作家が文学、美術、映画、アニメなどの表現の中に模索してみたり、描いたりしてきました。宮崎駿アニメの「風の谷のナウシカ」や「ラピュタ」にも一種のユートピアのような社会や街がでてきます。 それはどこかにあったような懐かしさが一杯の町ですが、もう今の時代には残っているんだろうかと寂しさを感じさせるものがあります。そして作者のユートピアへの追及心が感じられます。死んでほしくないユートピア社会の夢を見せてくれるのです。
特に、「風の谷のナウシカ」には、「ユートピアは可能か、不可能か」という宮崎駿の社会思想の課題追求が感じられます。そしてこの「風の谷のナウシカ」は、現代日本の最高水準のユートピア文学であるとも評価されています。

イギリスの政治家で、純粋な宗教心をもち、権利者の不正や腐敗を嘆き、社会の不平等や貧困などに心を痛めたトマス・モアは、当時の社会に対する批判として、理想的な都市国家である「ユートピア」を創作しました。そしてこれが多くのユートピア思想のモデルとなりました。
しかし、その後、理想の社会を模索する政治家や、思想家、そして文学者が次から次へとユートピアを創造してきました。 老子の「少国寡民の理想」、プラトンの「国家」、サミュエル・バトラー「エレフォン」、ハクスリ「素晴らしき新世界」、ベイコンの「ニュー・アトランティス」、三島由紀夫の小説にでてくる「まほろばのやまとの国」などが創造されたユートピアと言えるでしょう。
しかし、19世紀から現在にかけて最も大きな影響をもったユートピア思想家として、ロシアの文豪レオ・トルストイがあげられるのではないでしょうか。トルストイの作品の中には、「イワンのばか」という彼が理想とする人間像を描いた作品があり、そして徹底した人道主義、平和主義、他人への奉仕精神に基づく彼の社会思想と教育思想は、マハトマ・ガンジーから毛沢東、武者小路実篤、宮沢賢治、有島武郎など多くの知識人や指導者に影響してきたほか、イスラエルのキブツや、アメリカ大陸に渡ったメノニータやアミッシュたちのコミュニティーも彼の影響を受けているようです。

米国フロリダには、ユートピア的都市設計をする建築士ジャック・フレスコが、最高のテクノロジーを開発しながら、自然と共生し、自然エネルギーを持続的に利用する循環型社会の提案をしています。
信念に生きる政治家トーマス・モア
トマス・モアは、1478年2月7日ロンドンで生まれました。祖父・父ともに法律家で、彼もオクスフォード大学に学んだあと法律の学校に進み、1504年議会で庶民院議員となり政界入りします。1515年に国王ヘンリー8世の外交使節団のメンバーになり、その後1517年から国王の要請により宮廷に仕えることとなります。1523年に庶民院議長となりました。1529年には大法官に任じられます。
一方彼は少年時代にカンタベリ大司教の書生をしていたこともあり、敬虔なキリスト教徒でした。彼は聖書をよく研究しており、当時の腐敗したカトリックのあり方には疑問を持っていたようで、むしろプロテスタント的な思想の持ち主であったようです。彼は1505年27歳の時に結婚していますが、その時も神の道に生きるのなら結婚はすべきではないのではないかと悩んでいるようです。
そんな彼の心を大きく揺るがす大事件が起きました。ヘンリー8世の離婚問題です。ヘンリー8世はイスパニア王女カザリンと1509年に結婚していましたが彼女の侍女であったアン・ブーリンと恋に落ち、彼女と結婚するためにカザリンを離別しました。しかしこの離婚をローマ法王クレメンス7世は許可せずここにヘンリー8世は英国国教会を設立してイギリスの教会のカトリックからの分離を断行します。
このヘンリー8世の行為はモアにとっては許し難いものでした。彼は大法官の地位を辞任。ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚式にも出席しませんでした。更にヘンリー8世を英国国教会の長とする「首長令」にも異議を唱えます。彼は反逆者として査問委員会に呼び出されます。
査問委員会に場でも彼は自分の信念を決して曲げようとはしませんでした。彼は1534年ロンドン塔に幽閉され、翌年7月6日、処刑されます。自分の信じる神の道に捧げた人生でした。
トマス・モアのユートピア
モアの本の中では、ある旅人が、理想郷と思える国をモア達の前で開陳するという構成でかかれています。このユートピアは原始共産主義の思想が反映されているのですが、モア達の時代は、絶対主義の時代に入りかかった頃なので問題になることを避け、それを伝聞という形でごまかしています。人間の性善説に依り掛かっていることが、見て取れるし、作中のモアの言葉にしても肯定的ではありません。
モアが描くユートピアという国は、回りは暗礁に囲まれた三日月型の島で、この国には54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されています。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えがおこなわれます。首都の名前はアーモロート。各都市には家を単位とした管理体制があります。30戸から族長が選ばれ(各都市に2000人)そして10人の族長から主族長が選ばれます(各都市に200人)。そして主族長から市長が選ばれるのですが、市長は基本的に終身制となっている一方、交代もありえます。
ユートピアでの生活は集団生活で、ラッパの合図で一斉に食堂で食事をします。その後、音楽や訓話を聞いたりして、6時間程度の労働があります。労働は主として農作業で、自給自足の生活です。その他、自給生活の補助として手工業などもありますが、全ての住民は労働に従事しなければなりません。社会になじめない者は奴隷とされます。私有財産、貨幣、国内交易は存在せず、必要なモノは共同の貯蔵庫から調達します。労働に従事しない日は芸術、科学、音楽などを研究します。住民は質素、快適、安穏な生活を営んでいます。
全ての国民が労働に従事し、搾取層は存在しないため、労働は1日6時間で充分とされています。朝号令とともに一斉に仕事をはじめ、お昼休みをはさんで、午後には一日の仕事が終了します。食事は食堂で提供されるので女性が食事作りに煩わされることはありません。残った時間は家庭で家族そろって団らんの時間となります。
信仰の自由は保障され、各自が自分の信じる神に祈れるように、教会にはいっさいの偶像・宗教画の類はありません。安息日には人々は芸術や音楽にいそしみます。職業軍人はなく、侵略のための戦争は禁止されていますが、国土防衛のために国民全員が男女の区別なく民兵として訓練を受けています。

モアはこの社会は理想的であるため住民は何の苦悩も持っていないと書いていますが、生活スタイルの多様化とそれに伴う価値観の変化によって現在こういう社会環境に全部の人間が満足できるとは思われません。
統一された環境や、生活スタイルでは実際には全ての人間に当てはまるユートピアとは無理なのかもしれません。様々なことなった考え方をもった人間や違った習慣、生活スタイルなどを受け入れ平和に共存できる社会こそが本当のユートピアなのではないのでしょうか。
都市型社会到来予見としての『ユートピア』
モアの『ユートピア』以降、描かれたユートピア像との共通点が、彼らの描く理想郷はいずれも都市的であり、完全な農村ではないという点である。翻って、中国での理想郷はほとんど山村や田園に設定されているし、西洋でもパラダイスと言えば「エデンの園」の「地上の楽園」も田園である。ヨーロッパ理想主義の一形態であるユートピアには、西洋文化が多かれ少なかれそうであるように、ヘレニズムとヘブライズムの二潮流が合流しており、前者は地上の理想的都市国家についてのヘレニズム的神話であり、後者は楽園や天国についてのユダヤ・キリスト教的信仰である。十六世紀のユートピアはこの点で、ヘレニズムの影響がヘブライズムのそれを上回っているように見受けられる。
更に、ヨーロッパではすでに十二世紀から都市は広範に出現し始めるが、十五世紀までヨーロッパは圧倒的に農村社会であって、都市社会に転化し始めるのは早くてルネッサンス以降である。都市の発展の早かったイタリアでは十五世紀の中頃から建築家たちが未来の理想的都市を構想し始める。つまり、未来は農村社会ではなく都市社会にあるという予感は、当時の建築家と思想家の共通認識であり、拠ってユートピアを田園としてではなく都市として描かせた理由のひとつであると思われる。
モアのユートピアは行動や人物・性格が中心ではなく、場所、しかも秩序としてのトポスが中心とされ、理想的社会状態の具現化にある修辞的、文学的創作物であるが故に、その定義付けは時代の潮流と共に流動的にならざるおえない。国家や社会計画案というものが内包している論理は自ずと「管理的」になるということも考え合わさねばならないし、故に、真のユートピア意識は「国家」の脱構築についての夢想になる。
こうした流れの中に、ジョージ・オーウェルの『1984年』やアルダウス・ハクスリの『すばらしい新世界』などの作品が描く、全体主義的管理社会へのアンチテーゼとして逆ユートピア思想もまた産出され得るのである。ここで、モアの『ユートピア』のコンテクストに向ける眼差しを再考すれば、ヨーロッパ中世における千年王国を希求する運動、自律的な市民という共同体における平等を求める運動もまた、アナーキズム的でディストピア的であると同時にユートピア的であるという両価性を内包する。
つまり、ユートピアということばが日常言語として語られるコンテクストには、「今」という現実が不幸であり、世の中に悪が蔓延しているという前提条件の上に、その諸悪やそのもたらす不幸がなければ、この世はどのようになるだろうかと人間は想像し、更に一歩進んで理想の社会とはいかなる様態なのかという、まさに「ここではない場所」への夢想の彼方に、ユートピアという語彙が存在するからである。その不幸な「今」という現実は常に変化し、そして、ユートピアという語彙の持つ理想の社会、悪を排除した完全な社会の希求は人類の永劫の夢想に他ならないからである。 
 
ユートピア伝説

 

古代アマゾン文明 
アマゾン川は、世界の淡水の約1/5を占め、総延長、実に6280キロを数える未知の大河と言われています。注ぎ込む川の数は1400近くもあり、その流域は750万平方キロにも達し、日本の20倍に匹敵する広さです。降水量もまた、莫大なもので、アマゾン川に降る一日分の降水量が日本の信濃川の一年分に相当します。そのため、雨期と乾期では水位がめざましく変化し、最も、変動の激しいとされる下流では最大で18メートルも水位が上昇します。つまり、5階建てほどのビルがすっぽりと水没してしまう計算となります。雨期になれば、広大な森全体が丸々一個、水の底に沈んでしまうのです。当然のことながら、乾期と雨期では景観は一変してしまいます。しかし、驚いたことに、密林は水没しても乾期になると再び元の姿に戻るのです。密林の中をまるで大蛇のごとくのたうって流れるアマゾン川。ここは、世界一の降水量と生命に満ち溢れています。
ここでは、ここにしか生息しない動植物も数多く見られ特異な生物相を形成しています。とりわけ、アマゾン川に生息する魚の種類は多く、その数は千数百種を越えます。まさに世界の熱帯魚の宝庫です。ネオンテトラやエンゼルフィッシュのような小魚から、全長5メートルを越す淡水魚最大の巨大魚ピラルクを始め、2メートルほどもある大型のナマズ、淡水産のエイまで実に幅広く、鳥も色鮮やかな種類が多く生命に満ち溢れています。しかし、それらのうち、人間に脅威を与えるものも決して少なくはありません。
しかし、アマゾン川流域は、鬱蒼としたジャングルに囲まれた地域ばかりではありません。数百キロあまり上流をさかのぼって行くと環境は一変します。ここでは、見渡す限りサバンナのような大草原が一面に広がっているのです。背丈ほどもある草木が、それこそ地平線の彼方まで果てしなく続いているのです。薄暗いジャングルを見慣れて、ここまで来ると、まるで別世界にでも来たような錯覚に陥るはずです。しかし、この地域も、地面はぐちゃぐちゃの粘土質で荒廃きわまる環境であることには変わりはありません。しかも、雨期になれば半分以上が水没してしまう。水深1メートルほどの巨大な沼地に早変わりするのです。こうした高温多湿で過酷な環境は、これまで人間には快適な環境とは思えず、とても文明の芽生える環境ではないと思われて来ました。
ところが、今日、これまで、いかなる人間の侵入も拒んで来たと思われる過酷な世界に、未知の巨大な文明が存在していたという証拠が次々と明るみに出て来たのです。この古代文明は、20世紀初頭にスウェーデンの民俗学者によって発見されました。彼は、インカ帝国の影響がどこまで及んでいるか調べるために、このアマゾン川上流の大平原までやって来て偶然発見したのです。それ以来、この発見は様々な論争の種となりました。しかし、数十年経った今では、もはや、この地にかつて巨大な文明が存在していたことを否定する者はいなくなりました。しかも、驚愕すべきことに、この文明は、その古さとスケールの点で、既存の4大文明を遥かにしのぐものであったのです。
アマゾンに人類最大の文明が存在した
人類学者で、マヤ、アンデス、アマゾン地域の研究をしている立教大学の実松克義教授が、アマゾンにかって巨大な文明が存在していたということをボリビアを旅行中に知り、自ら本格的な調査を始めました。
教授の調査によると、そこには、水をコントロールする高度な技術が見られ、雨季の氾濫対策と乾季のための貯水湖確保などが大規模に存在し、そして大掛かりな魚の養殖が行われていたというのです。
この文明の痕跡が認められる地域は、南米の中ほどに位置するボリビア共和国の北東部に広がる熱帯低地帯で、これはアマゾン川の上流地域にあたる。もっと詳しく言うと、巨大支流、マディラ川の上流部に相当する。そこでは、同じアマゾンと言っても、もはや熱帯雨林ではなく、巨大な平原地帯が広がっているのです。面積は、実に、25万平方キロほどもあり、これは我国の北海道の3個分にも相当する広さです。その広大なエリア全域に文明の痕跡が点在しているのです。

古代モホス文明がいつ頃から始まったのか、その起源は定かではありませんが、約1万年以上も前にさかのぼるとされています。そして、恐ろしく長期にわたってこの文明は存続していました。調査によると、つい最近まで、紀元1200年頃まで、それは存続していたと思われているのです。そうなると、最古の都市文明を築いたとされるメソポタミア文明よりも遥かに古く、長い歴史を持つことになります。
この文明の最大の特徴は、不思議なことに、都市というものを持たずにロマと呼ばれる人工の盛り土と、それらをつなぐテラプレンと呼ばれる直線を主体とした無数の連絡網が縦横に張り巡らされている点にあります。これに加えて、ほぼ正方形をして一辺が数キロもある巨大な人造湖が随所につくられていることも驚愕すべき点です。この人工的につくられたと思える湖は、巨大なアマゾン川の水量を人為的にコントロールしたと思われるのです。つまり、古代のアマゾン人は、高度な水利学の知識を持ち、高度な農業技術を有していたのです。しかも、驚異的な計画性と巧妙さのもとに、大平原の土壌と地層を徹底的に研究し、この環境に最もマッチした独自な農業システムをつくりあげていたのです。これほどまでに、大規模かつ大胆に、自然環境を人為的につくりかえた文明は過去には存在しません。
 現在、このアマゾン川上流地域は、ボリビア・アマゾン、あるいはモホス大平原と呼ばれています。このことから、我々はアマゾン川で栄えたこのいにしえの文明を、「古代モホス文明」と呼んでいます。

ロマとはスペイン語で丘陵、もしくは山を意味する言葉だそうです。そうした大小さまざまなロマが、これまでに約2万個も確認されています。ロマは概ね楕円形をしており、高さが3〜16メートルほどある。大きいもので長さ300メートル、幅150メートルを越えます。
ロマからはおびただしい土器類や埋葬に使ったと見られるかめ棺などが多数出土しています。また、それ以外にも食用にしたらしいカタツムリの貝殻が大量に発見されています。
このことからも、ロマは人々の重要な居住区として長い年月に渡って使われ続けて来たと思われています。恐らく、小規模なロマでは、一家族から数家族が集まって生活したに違いないでしょう。
ロマからは食用にされたらしいカタツムリの貝殻が大量に出土されています。
ロマは土やゴミを盛ってつくられた、言わば、土のピラミッドのようなものです。そのため、ロマの土壌は有機物を大量に含んだ腐葉土と言ってもよく非常に肥えています。木々がびっしりと繁茂しているのもそのせいで、まるでサバンナの大草原に浮かぶ緑の小島のような景観になります。
見方を変えれば、3世紀頃の日本の古墳時代に多数つくられた墳墓のような感じにも見えなくはないでしょう。しかし、この一見おっとりとした風景も雨期になると様相がガラリと変わるのです。
大草原に点在する緑の丘のように心地よく見えた景観も、雨期を迎えると、草原は氾濫した水で水浸しになり一変してしまいます。広大な大草原の半分近くが水没してしまうのです。
ロマは上空から見れば、サバンナの草原に浮かぶ緑の小島のように見えるでしょう。
しかも、水はけが悪いものだから、水位が下がらず泥流の渦巻く大海のような状態が、それこそ何か月も続くことになります。その時、ロマは水面から突き出た唯一の陸の孤島のような存在となるのです。すなわち、あたり一面、水だけの世界にあって、人々が生活できる空間と言えばロマが唯一の場所となるわけです。
雨期になると、草原は水深1メートルの水の世界に覆われます。ロマは人間にとって唯一の生活空間となるのです。
こういうわけで、雨期の数カ月ほどの間、人々はロマの上での暮らしを余儀なくされることになります。さぞかし不便であったと思われがちだが、実はそうではなく、ここでも人々の生活の知恵は巧妙に生かされています。つまり、ロマは人間にとっても、重要な生活空間に違いなかったのですが、それは同時に他の動物にも当てはまることでした。この間、避難場所や休息地としてロマに寄り付いてくる野ウサギや野生豚、バク、大ネズミと言った哺乳類からトカゲ、蛇といった爬虫類、たくさんの鳥類に至るまで無数にいたことでしょう。すなわち、ロマは絶好の狩りの場に早変わするわけです。人々はロマに居ながらにして、さほど苦労することもなく、やって来る動物を捕えて食料に出来たのです。
ロマは、この意味で居住区でもあり人々の生活空間、つまり都市としての機能もあったようですが、バビロンやモヘンジョダロのような大都市ではありませんた。恐らく、最盛期では、モホス大平原全体で50万から100万ほどの人々が暮らしていたでしょう。レンガや石を使った本格的な都市を築かなかった理由は、この地の自然環境に適合しなかったからです。古代のアマゾン人は、人間も動物も植物も共存しうる生態系をロマに見い出したのです。ロマは彼らにとっては、一つの小宇宙のような存在でもあったと言えるでしょう。こうした独立した小宇宙でもあるロマが広大な大平原に2万個以上も存在していたのは驚異という他ありません。雨期になれば、これらロマが見渡す限り水だけの世界で、水面上に突き出た唯一の存在となります。その光景は、まさに人工的につくられた宇宙を見る思いがするようです。
それら2万個にも及ぶロマをくまなく結ぶ連絡網が、テラプレインという存在である。テラプレインとは、スペイン語で土塁とか土を盛ったものという意味があります。確かに、テラプレインは、よく見ると、地面を掘ってその盛り土でつくられた地上よりも一段高い道路であることがわかります。その際、テラプレインをつくるために掘って出来た窪みは、そのまま運河として使用されたと考えられています。乾期では、この運河にカヌーなどを浮かべて物資の運搬に利用したことでしょう。雨期になって草原が一面水の世界になると、テラプレインは、水面上に突き出たロマどうしをつなぐ唯一の連絡網となます。その際、運河は、水位を調節する排水溝の役割を果たしたと考えられています。  テラプレインの道幅は平均して6メートル前後あり、これは道路と考えた場合広過ぎる感があります。中には18メートルにも及ぶテラプレインもあるといいます。これは、現代の大型バスが自由自在に行き交うことの出来るほどの広さです。馬車やそれに相当する乗り物がなかった当時、これほど広い道路をつくらねばならない理由が何だったのか、他の利用目的があったのかは今のところ推測する以外にありません。
モホス大平原には、こうした大小のテラプレインが縦横に走り巡らされているのです。
確認されているテラプレインだけでも、全部合わせるととてつもない長さとなる。恐らく、総延長は5千キロを軽く越えると思われています。これは日本列島の1.5倍に相当する長さです。  こう考えると、果たして道路や堤防代わりというだけで、これほどの数のテラプレインをつくる必要があったのだろうか?という素朴な疑問が浮かんで来ます。
上空から見ると、大小のテラプレインが縦横にめぐらされているのがわかります。
また、別な疑問も浮かんで来ます。テラプレインは、どれも恐ろしく直線的につくられているのです。中には、丘などの障害物でいったん切れたにもかかわらず、その延長線上から再び続いているものもあります。つまり、そこには高度な土木技術があったことを意味しています。しかし、これほどまでに直線にこだわらねばならない理由は何だったのか? 何か信仰上の理由によるものか? それとも、彼ら独自の宇宙観によるものなのか? あるいは、全然別の他の理由によるものだったのか? それは謎に包まれています。
ロマとテラプレインと並んで、もう一つの特徴は、2千近くもあると言われる不思議な人造湖の存在です。
人造湖は、どれも一辺が数キロもある巨大な正方形をしています。この湖が、自然の産物ではないことの証拠に、余分な水を取り除く排水溝らしき水路が設けられていることと、湖の周囲が一際高く土が盛られてことなどを見ても、これが人間の手によってつくられた人工の湖であることがわかります。 つまり、この正方形をした人造湖は、巨大なアマゾン川の水量を制御するためにつくられた貯水池でもあったのです。
正方形をした人造湖。大草原に2千個も点在している。場所によっては、10個も固まって位置しているところもある。 しかし、ここで奇妙に思われるのは、この正方形をした湖が、どれもこれも同じ方角に向けてつくられている点である。すべての湖は、きちんと北東ー南西、あるいは北西ー南東の方角に向けられているのです。それが、どういう理由で、なぜ、その方角に向けられねばならなかったのか、全く不可解としか言いようがありません。
この広大な大草原からは、魚を捕えるための仕掛けや養魚場と思われる跡も発見されています。それは、今日、アマゾンの各地で魚を捕える「やな」と似ていました。「やな」とは川などの水の流れの中に仕掛けられるもので、水の流れから出てきた魚をロート状のバスケットで受け止める仕組みになっています。しかし、モホス大草原で発見されたそれは、これとは比較にならないほど大規模で巨大なものでした。
恐らく、雨期になり大平原が水びたしになると、アマゾンの支流より大量の魚が溢れ出て、そこら中、おびただしい魚が泳ぎ回ることとなり、やがて、雨期も終わり、水量が減って来た時にこうした仕掛けは威力を発揮したのでしょう。つまり、水が引く頃になると、魚は水を求めて誘導水路に集まってきて、誘導水路を伝ってやって来た魚はやがて人工の生簀(いけす)に順次収められるというわけです。人工の生簀は直径が10〜30メートル、深さ2メートルほどの円形の池で、そうしたものがたくさん連なっているのです。
この円形の池ではこうした魚の他、カタツムリの貝殻も大量に発見されています。このことから、古代人は、人工池でこれらの魚貝類を養殖し、乾期になってタンパク源が乏しくなって来ると、必要に応じて取り出し食料としていたのです。
古代アマゾン人は、乾期では、トウモロコシやユカなどの根菜類、豆類などの作物類を大規模に栽培していたと思われます。それらは生育が早く3か月ほどで収穫さましれた。つまり、雨期になる前にはすべて刈り取られたのです。雨期になって、大草原が水びたしになると、今度はロマが絶好の狩り場となるのです。つまり、彼らは、一年中、安定して食料をバランスよく効果的に得ることが出きたのです。これほど、地形をうまく利用し自然の摂理に適ったシステムをつくりあげた文明は前例にないでしょう。
とにかく言えることは、古代アマゾン人は、太古の昔から、定期的に氾濫する大草原に、大規模な農業の可能性を見い出し、計画的に独自な農業システムをつくり上げたということです。それも、巧妙に手を加えることにより、ほぼ自然のままの状態で自然を自分たちに都合のいいように飼い馴らしていったのです。つまり、大自然にあえて逆らおうとせず、逆に自然から最大限の効果を引き出したのです。ここに、古代人の自然の脅威に立ち向かった勇気と計り知れない知恵に驚くべきものを見る思いがします。 
古代アトランティス文明 

 

高度な技術と文明をもった大陸
今から約1万2000年以上前、現代文明をはるかに凌ぐ「アトランティス」と呼ばれる超古代文明が大西洋に存在しました。このアトランティスについて最初に語ったのはギリシャの哲学者プラトンで、彼はこの伝説について『ティマイオス』と『クリティアス』という2つの著書に書き残しています。伝説によるとアトランティスは、リビアとアジアを合わせたほどの大きさがあり、場所は「ヘラクレスの柱の外側」にあった。そしてこの大陸に住むアトランティス人は、非常に徳が高く、聡明で、テレパシーも使い、「オリハルコン」と呼ばれる超金属を自在に操っていたといわれました。またこのアトランティスでは、オリハルコンをもとに、飛行機、船舶、潜水艦などが建造され、テレビ、ラジオ、電話、エレベーターが普及しており、エネルギーはレーザーを用いた遠隔操作によって供給されていました。しかしこれだけ高度な文明を持っていたアトランティスも、今から約1万2000年前に大地震と大洪水が大陸を襲い、わずか一昼夜のうちに海中に没し、姿を消してしまったのです。

アトランティス伝説は、もとを辿っていくと古代ギリシャの哲学者プラトンが書いた2冊の本から始まる。多くの支持者にとって、この2冊に書かれているアトランティス伝説は全面的に真実であるか、もしくは歴史的事実が芯にあり、まわりにいろいろなものが付け加わった伝承だと信じられているようです。
特にプラトンが自著の中で書いている「(この話は)全面的に真実の話であって」という一文は、「アトランティス伝説=歴史的事実」の補強材料としてよく引用されます。
しかし実際のところ、プラトンが書いた他の作品も読んでみると、彼が書いた対話篇に見られる寓話の多くは真実の話だと断ったうえで紹介されていることに気付く。そして、そういった寓話の多くは作品ごとに食い違った描写が見られ、互いに矛盾しています。
「アトランティスを扱った物語だけ」が真実を含んでいて、他は文字通り寓話であると判断するべき根拠はない。思い込みを排除して客観的に全体を見渡せば、そこに見えてくるのは他の作品と同様に寓話としてのアトランティスの姿です。
主だったアトランティス仮説の概要と歴史
1530年 詩人ジララモ・フラカストロが、スペインの探検家が中央アメリカで発見したインディオの文化は、アトランティス文明の名残りだと示唆。
1553年 スペインの歴史家フランシス・ロペス・ゴマラが、その著『インデス概史』の中で、プラトンのアトランティスと新大陸(アメリカ)は同一、もしくはプラトンは大西洋の実在の大陸の噂を聞き、それを基にアトランティス伝説を書いたと主張。
1561年 フランスの思想家ギョーム・ド・ポステルが、新大陸の名前を「アトランティス」にしようではないかと愉快な提案をする。
1624年 イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが、小説『ニュー・アトランティス』で、ブラジルにあったアトランティスがヨーロッパ文明の根源だと主張。
1665年 イエズス会司祭のアタナシウス・キルヒャーが、大西洋にアトランティス大陸を記入した地図を発表。
1864年? フランスの神父シャルル・エティエンヌ・ブラッスールが、後に間違いであることが判明した「マヤ・アルファベット」を使って『トロアノ絵文書』を独自に解読。その結果、紀元前9937年に大西洋の大きな島を呑み込んだ大災害の記録を見つけたと主張。ブラッスールによれば、この失われた大陸はインディオによって「ムー」と呼ばれていたという。
1882年 アメリカの政治家イグネイシャス・ダンリー(ドネリー)が、その著『アトランティス―大洪水以前の世界』において、アトランティス大陸は大西洋にあったと主張。この本はベストセラーになり、近代アトランティス説のネタ元となる。
1886年 フランスのピラミッド神秘学オーギュスト・ル・プロンジョンが、ブラッスールと同様の解読を行い、彼の説をさらに発展させる。
1888年〜 ロシア生まれのオカルティスト、エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーは、その著『The Secret Doctrine』(全6巻、1888年―1936年)の中で、インド洋の仮想大陸レムリアをアトランティスと結びつける。ブラヴァツキーによれば、レムリア大陸に現れた四番目の「根源人種」は人類に似たアトランティス人で、五番目は我々人類なのだという。
1896年 イギリスのオカルティスト、ウィリアム・スコット=エリオットが、その著『The Story of Atlantis』の中で、霊視によってアトランティス人たちの生活を知ったと主張。この本に書かれていた「アトランティス人は超能力が使えた」「アトランティスでは飛行機が飛んでいた」などの描写は、結果として「アトランティスには現代文明を凌ぐ超文明が存在した」という、プラトンのアトランティスからは絶対に導けないイメージを一般の読者に植え付けることになった。
1913年 フランスの地質学者ピエール・テルミエが、大西洋にあるアゾレス諸島は、かつてのアトランティスの山頂であったと主張。
1920年 ドイツの民俗学者レオ・フロベーニウスは、アフリカのギニア海岸に住むヨルバ族がアトランティス人の子孫であると主張。また、カナリア諸島の原住民グアンチ族もアトランティス人の末裔だと主張。
1939年 ギリシャの考古学者スピリドン・マリナトスは、20世紀初頭に古典学者T・K・フロストが発表した説を補強し、エーゲ海に浮かぶティラ(サントリーニ)島の大噴火でクレタ島のミノア文明が崩壊したことが、アトランティス伝説の発祥だと主張。
1940年 ギリシャの考古学者アンジェロス・ガラノプロスが、ティラ島(サントリーニ島)=アトランティス文明説を主張。
1952年 ドイツの牧師ユルゲン・シュパヌートが、その著『北海のアトランティス』において、北海のヘルゴラント島=アトランティス説を主張。
1968年 アメリカの動物学者マンソン・バレンタインが、北ビミニ島近郊の海中で、逆J字型をした通称「ビミニ・ロード」を発見。
その後、眠れる預言者エドガー・ケイシーの預言と合致することから、ビミニ=アトランティス説が信奉者によって主張される。
以上が、プラトン以降の主だったアトランティス伝説の変遷である。
年表の中では大西洋以外の主だったアトランティス候補地として、アメリカ、ギニア海岸、ティラ島、北海(ヘルゴランド島)、ビミニ諸島、南極大陸などを紹介したが、上で紹介したもの以外にも、ブラジル、サハラ砂漠、イギリス、コーカサス山脈、北極、スピッツベルゲン島、ナイジェリア、スウェーデン、など多くの説が出されている。(今までにこじつけられた候補地は世界中で1700ヵ所を超える)
これを知れば、現在では、アトランティスの候補地になっていない土地を探すほうが難しいことや、信奉者によって好き勝手にアトランティスの候補地としてこじつけることが可能だということがわかるだろう。
彼らは自説に都合のいい部分だけを取り出し、あとの都合の悪い部分は無視するか、「伝説が正しく伝わらなかった」とか、「ゼロが1つ多すぎる」「長さの単位が間違っている」「ヘラクレスの柱は神殿の柱のことなのだ」などと主張する。
こういった信奉者の手前勝手な解釈を用いれば、どんな場所でもアトランティスの候補地とすることが可能である。これらの諸説に対しては、アメリカのSF作家で懐疑論者でもあるライアン・スプレイグ・ディ・キャンプが、その著書『Lost Continents』(抄訳:『プラトンのアトランティス』)の中で、次のように述べているので紹介しておこう。
「これは丁度、伝説の王アーサーが、“実は”クレオパトラ女王なのだ、と言っているようなものだ。その場合、クレオパトラの性を、国籍を、時代を、気性を、道徳的性格を、その他あらゆる細かい点をすべて変えてかからなければならない。そうしてはじめて、類似点が見えてくるのである」
アトランティスは大西洋に存在した可能性が高い
アトランティス大陸の候補地としては、大西洋が最も頻繁に挙げられる。しかし海洋底の調査によると、かつて広大な陸地が存在し沈没した可能性がないことがわかっている。また大陸移動説(プレートテクトニクス)でも、ヨーロッパとアメリカ、アフリカ大陸をジグソーパズルのように一つに集め、かつての姿を再現したとき、その間に別の大陸が入るべき余地は残念ながら残されていない。
アトランティスには「オリハルコン」と呼ばれる超金属があり、『クリティアス』の中ではその性質として、「オリハルコンは飛行船を宙に浮かせる事が出来る」と書かれている。
この「超金属オリハルコン」の伝説はアトランティスの伝説の中ではお馴染み。しかしネタ元であるプラトンの著作には一体どのように紹介されているのだろうか。
以下は、『クリティアス』の中で初めてオリハルコンが紹介される箇所である。
「今はただ名のみとなっているが、当時は実際に採掘されていたオレイカルコスの類は、そのころ金につぐ非常に貴重な金属であって、島内のいたるところに分布していた」
ここで書かれている「オレイカルコス」(語源は「山の銅」:【oros】オロス「山」+【chalkos】カルコス「銅」)とはオリハルコンのことである。このたった3行の記述からはオリハルコンが超金属であることはうかがえない。他の箇所ではどうだろうか。
「(前略)アクロポリスをじかに囲む石塀には炎のようにさんぜんと輝くオレイカルコスをかぶせた」
「(前略)内側の天井には一面に象牙をかぶせ、金や銀やオレイカルコスの飾りつけをして変化をもたせるとともに、その他、壁や柱や床にはびっしりとオレイカルコスを敷きつめていた」
「(前略)碑文として初代の王たちの手でオレイカルコスの柱に刻まれたのであるが、この柱は島の中央のポセイドンの社に安置されていた」
さて、これで全部である。これ以外に『クリティアス』の中でオリハルコンに言及している箇所はない。
もうおわかりだろう。そもそもプラトンの著作からは、オリハルコンが「超金属」であることをうかがわせる記述はどこにも見当たらないのだ。(せいぜい金に次ぐ装飾用の金属らしいことがうかがえるくらい)
大西洋では、「レミングの集団自殺」や「ヨーロッパウナギが数千キロも離れた場所で産卵」など、実に不可解な行動が報告されている。しかし、これらの謎の行動は、古代の大西洋にアトランティス大陸があったと仮定すれば上手く説明することができる。
この話は、1999年2月28日に日本テレビで放送された『特命リサーチ200X』で取り上げられた話である。まず「レミングの集団自殺」については、1958年に公開されたディズニーのドキュメンタリー映画『White Wilderness』(邦題:『白い荒野』)によって広められた有名な迷信であり[注3]、実際にはレミングは海に飛び込んで集団自殺など行わない。
この映画については、そもそもロケ地であるカナダのアルバータ州には海がないことや、レミング自体が生息していないこと、また撮影に使われたレミングは、同じカナダのマニトバ州などで地元のイヌイットから買い取っていたことなどが、カナダのプロデューサーであるブライアン・ヴァレーの調査によって1983年に判明している。
また2003年の『Science』誌でも、グリーンランドでの15年に渡る実地研究をまとめた論文が発表され、改めてレミングの集団自殺が迷信であると確認されている。(レミングについて日本語で読めるものとしてはこちらのサイトがわかりやすい)
[注3]追記 / この映画が公開される以前にも、ジェイムズ・サーバーの短編『Interview with a Lemming』(1942年)や、アーサー・C・クラークの短編『憑かれたもの』(1953年)、リチャード・マシスンの短編『Lemmings』(1957年)といった小説で、レミングの集団自殺が題材として扱われていることがわかった。どうやら欧米では、どれほど広まっていたのかはわからないが、昔から信じられている迷信らしい。(とはいえ、このディズニー映画の迷信を広めた影響力は、他の3作品(短編)を大きく超えているとは思う)
次に「ヨーロッパウナギが数千キロも離れた場所で産卵」する件については、これは確かに事実である。しかし同時に、日本のウナギも数千キロを回遊して産卵している、という事実があることも指摘しておかなければならない。またウナギ以外では、サケやマグロなども産卵のため数千キロを回遊することが知られている。
もし数千キロを回遊する魚が「大西洋のヨーロッパウナギだけ」ならばともかく、実際には大西洋以外にも、そしてウナギ以外にも同じような行動をとる魚はいるのだから、わざわざウナギの産卵についてアトランティスを想定する必要性は低い。
アトランティスの遺跡と思われる通称「ビミニ・ロード」が1968年に発見されたが、この発見は「眠れる預言者」エドガー・ケイシーによって見事に預言されていた。
通称「ビミニロード」は、1968年に動物学者のマンソン・バレンタインによって、北ビミニ諸島近海の海中で発見された。
詳しい発見場所は、北ビミニ島北西部の海岸から800mほど沖合いに入った地点で、深さ7mほどの海底に、5m四方もある長方形の石が、逆「J」字型(またはひらがなの「し」のような)形を描くように、長さ約1.2qにわたって存在している。 
ロシア人画家レーリッヒのシャンバラ探検 

 

ニコライ・レーリッヒ
ニコライ・レーリッヒ(1874-1947)はロシア・ペテルブルグ生まれの画家で、思想家、詩人、探検家、平和運動家。生涯で約7000点の絵画を創作。東洋思想(インド思想?)に傾倒し1925年から5年半に渡り、理想郷シャンバラを探し求めて中央アジア一帯を探索した探検家でもあり神秘思想家でもある。晩年は北インドのクルー渓谷に移住し、ヒマラヤ研究に専念。チベットを題材とする絵を多数描きつづけ、その独特な神秘的な青色が「レーリッヒの青」と呼ばれている。ガガーリンが宇宙船の窓から地球の姿を見て「地球は青かった」と発した言葉は有名ですが、実はその続きがあって「まるでレーリッヒブルーのようだ」と言ったという話も伝えられている。エピソード / アメリカの1ドル札の裏に印刷されている国璽(フリーメーソンのシンボル)の採用はレーリッヒが当時農務長官だったウォーレースに勧めたものである。
画家レーリッヒの多面な活動
今日、ニコライ・レーリッヒの言はほとんど全てのシャンバラ関係本において必ずと言って良いほど引用され、その存在はあたかも生涯をかけて”実在の”シャンバラを探し求めたオカルト探検家のように伝えられている。しかし、改めてレーリッヒの著作を幾つか紐解いてみると、果たしてレーリッヒがシャンバラに対してどういった考え方を持っていたのか、非常に複雑である事に気づく。おそらくその背景としては、レーリッヒがある時は画家、ある時は民俗学者、または探検家、更には神秘主義者、環境保護活動家などと様々な肩書きで呼ばれるように(※)、その多面性がそのまま著書にも現れている事が挙げられる。即ち、同時期に起きた出来事がある著書には書かれ、別の著書には書かれていないという事態さえしばし見られる為、著書によって内容、主張がしばし異なっているように見えるということである(或いはもちろん、意識的に書き分けていた可能性もあるが、いずれにせよ、どれか一冊を読んだだけでは彼の一面しか見えてこないことは確かである)。
※探検家としての功績は言うまでもなく、画家としても旺盛であり、ニューヨークには現在でもレーリッヒ美術館がある。また家族を挙げて神智学協会会員だったことでも有名で、妻エレナと共にアグニ・ヨガと呼ばれる協会を設立した。またインドに考古学研究所を設立し、中央アジア諸国の民俗文化保存等に貢献したことから、1929年にはノーベル平和賞にもノミネートされている。
レーリッヒとシャンバラ探求
レーリッヒの記述は、その奔放な活動を反映するように、まるで縦横無尽であり、つかみ所がない。その為、一体レーリッヒがどこまでシャンバラの実在を確信していたのかは、いささか謎ではある。また注意すべき点として、今日、「実在」としてのシャンバラに関してレーリッヒの言が引用される場合、特にその妻エレナの記述、活動によるものも一緒くたにされがちな傾向があり、更に誤読を生じているようにも思える。例えば少なくとも神秘主義者的傾向という点においては、妻エレナはニコライを上回っていたようで、実際、エレナは、ブラヴァツキー夫人の「秘密教理(シークレット・ドクトリン)」の翻訳も手がけている。
しかしいずれにせよ、現代における(特に西洋、ロシアにおいて)シャンバラ伝説の伝播に決定的な役割を果たしたのは、レーリッヒ一家の”功績”と、彼らに前後してインド周辺に滞在し、ヒンドゥー教、チベット仏教を”会得(=翻訳)”し、それらを西洋のオカルトと接続して神智学協会を開いた(1875)ブラヴァツキー夫人その人であることはほぼ疑いようがない。ブラヴァツキー夫人自身はそれがチベット奥地のマハトマから送られてくる知識に基づくとし、必ずしもそれがシャンバラからのものであるとは明言していない。しかしそれは、モーリス・ドリール、エレナ・レーリッヒらといった強力な取り巻きによって補完(Letters of Helena Roerich: 1929-1938)され、事実上、ブラヴァツキー夫人が神智学教義全体を通じて「シャンバラ」を世に喚起させる存在であり続けたことは、否定しがたい事実であると思われる。
ドイツ、ソ連、中国などの調査の基本資料となったレーリッヒ一家の情報
伝説の王国とはいえ、アガルタへの入り口を見つけようと国家をあげての多くの探検が試みられた。イエズス会から2人の修道者が調査に訪れている記録があるほかには、ヒットラーが第三帝国を起こそうとした根拠としてアガルタ王国をなんとしても見つけ出そうとナチス親衛隊SSが特別調査団を編成し派遣している。その他、ソビエト連邦政府や、中国政府も調査を行った記録が残されているが、これらの調査の一番基本となったデーターはレーリッヒ一家が収集したものだった。
ニコライ・レーリッヒの著述には、しばし情報の欠落、錯綜が見られる。アジア探索の記録そのものに関していえば、レーリッヒ自身の著書「Altai-Himalaya」は、日誌というよりはむしろ随想的内容がその半分程度を占めており、正確性に欠ける(それはそもそも出版を目的としたものでない、単なる個人的な日記であったせいでもある)。その点、後にチベット民俗学者となった息子のゲオルゲ・レーリッヒの著書は、日付と共に出来事、場所が叙事的かつ正確につづられている為、レーリッヒ一行の行程を知る上ではより有用である。従って、レーリッヒの行程について調べる上では両者を組み合わせないと分からない情報が多々ある。 
ヒットラーの第三帝国と地底王国アガルタ 

 

ヒットラーが探求した「来るべき民族」伝説
ドイツ民族の他民族に対する優越性を唱え、ドイツ国民の圧倒的支持をうけてナチス党を率いて、ドイツ民族によるヨーロッパ支配から全世界統制を目指したヒットラーの第三帝国思想には、意外な伝説が影響していました。
それは、1871年にイギリスの小説家ブルワー・リットンによって書かれたSF小説『来たるべき民族』ですが、これがヒトラーの世界観に決定的な影響を与えたと言われています。
この本は実は、チベットの「地底王国アガルタとその首都シャンバラ」の伝説に基づいており、ちょうどヒットラーがドイツ民族の優越性の根拠となるものを探していた時に見つけた、タイミングのいいネタであったと思われます。
『来たるべき民族』で描かれた地底民族「ヴリル・ヤ」は、もともとは地上に住んでいた民族の一部族でしたが、大洪水などの天変地異を逃れて、山中の洞窟に避難し、最終的に地底に都市を建設するまでになりました。そして、そこで凄まじい未知エネルギー「ヴリル・パワー」を発見したことにより、地上の人類より遥かに進んだ超科学を駆使するようになりました。更に人々は「ヴリル・パワー」に基づいたサイキック能力を開花させるようになったということです。もちろん、この地底民族はいつまでも地底に住み続けるつもりはなく、ある時期が来たら地上に戻って、地表民族を滅ぼして地球全体を支配することを目的にしているということです。
著者は最後に、この恐るべき地底民族が地上に現れるのが、少しでも遅くなるようにという願いを書き付け、人類への警告として、この物語を結んでいます。

この小説のモデルになった地底王国(アガルタ)は「瞑想の場、神の隠れた都市、世界のどんな人間も入れない場所」であり、その首都シャンバラは「その力が個々の人間や集団に命令を下し、人類が時代の転換点へと達するのを助ける町」であるとしています。
ヒットラーは、アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であると信じました。そして、ドイツ人の究極目標は、この地域(ハートランド)を完全に支配することによって、世界をユダヤの支配から解放し、ひいてはゲルマン人による世界制覇を達成することであると主張するに至ったのです。地政学の観点から「ハートランド」を制する者はすなわち世界の覇権を握るのである、と強調しました。
ヒトラーは、シャンバラと深いかかわりがあるチベットの僧侶たちを大勢ベルリンに迎え、彼らが受け継ぐはずのヴリルの技法によって、軍事政策を支援させようとした。彼らは、ベルリンの随所に配置され、ナチスの勝利を祈る儀式を行なった。そして、ヒトラー自身も、政策を進める上で、高位の僧侶に意見を求めることがしばしばだったといわれます。また、ヒトラーは軍事行動を起こす時、特殊なチベットの秘教カードを用いて、一種の易を立てたとも言われています。
「1945年、連合軍たちが首都ベルリンをパトロールしていて、ある崩壊したビル内に、ナチス親衛隊の紋章をつけた7人のチベット人の死体を見つけました。
1926年ごろからベルリンとミュンヘンにチベット人区ができるほど、ドイツは親交を深めていたそうです。
ヒトラーは、オカルトにも傾倒していました。現実的に世界征服を果たすには、普通の力だけでは不可能であると、それ故、超常的なフォースを古代文明に求めたようです。
そこでヒトラーはナチス親衛隊内に専門機関を作って、世界中の古代遺跡の調査に当たらせました。これを「アーネンエルベ(遺産)局」といっています。
その調査活動予算は、アメリカの原爆開発予算をはるかに上回っていました。
そのアーネンエルベ局の関心は当初から「地底」に向けられており、そこでチベット密教の伝える地底王国「アガルタ」、南極の地底王都「レインボウ・シティ」(地球空洞説と関連あり)を調査していて、それでドイツがチベットと親密だった。
彼らの研究では、
「地球は本当は空洞でその中に高度な文明を持つ人間が住んでいる。その入口は南極と北極にあるが、アメリカがそれを封印し、入れないように隠したらしい。それは二コラ・テスラの考案した技術を使って隠してある。」
南米の地下都市遺跡やトンネル遺跡のほとんどは、当時のアーネンエルベ局か、または戦後になってアーネンエルベ局出身の考古学者が発見したもの。そのアーネンエルベ局が地底からいかなる遺産を発見したのかは、今となっては分かっていない。それらの調査結果はみなアメリカ軍が接収してしまった。ナチスドイツの人体実験や最新兵器情報もすべて、ドイツからアメリカへと受け継がれたが、アメリカが、テスラのフィラデルフィア実験、地球空洞説、アーネンエルベ局の地下文明調査結果を隠している。
アメリカは本気で、古代の地底文明の遺産を獲ろうとしている。その古代遺産とは、メソポタミア古文書に登場する「ME(メ)」であるといわれる。メとは、「神聖な力」と翻訳されて「新たなる秩序を生みだすもの」と解釈されている。都市国家は「メ」を備えることによって、高度な文明を享受することができ、それを失えば、その都市国家は急速に衰亡したといわれる。
第三帝国の裏の仕掛け人ハウスホーファー
カール・ハウスホーファーはドイツの代表的な地政学者である。彼は第一次世界大戦で数々の軍功をあげた将軍であり、大戦後はミュンヘン大学の地政学教授となった。そして彼は「ミュンヘン地政学研究所」の所長も務めた。
1908年から数年間、武官として日本に滞在したが、その間に禅の研究を行なった。また、その来日前、インドやチベットで諜報活動に従事しており、チベットでラマ僧から奥義を受けたと主張していた。彼はベルリンに『ヴリル協会』といった秘密結社をつくった。この結社の目的は、アーリア人種の根源を探り、ヒンズー教のクンダリニー・エネルギーに相当する“ヴリル”の気力を呼び起こすために精神集中訓練を行なうことだった。
アジアの神秘主義を深く研究したハウスホーファーは、チベットの地底王国アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であると信じた。 ハウスホーファーは、地底王国(アガルタ)は「瞑想の場、神の隠れた都市、世界のどんな人間も入れない場所」であり、その首都シャンバラは「その力が個々の人間や集団に命令を下し、人類が時代の転換点へと達するのを助ける町」であると述べている。
更にハウスホーファーは、アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であると信じた。そして、ドイツ人の究極目標は、この地域(ハートランド)を完全に支配することによって、世界をユダヤの支配から解放し、ひいてはゲルマン人による世界制覇を達成することであると主張するに至った。地政学の観点から「ハートランド」を制する者はすなわち世界の覇権を握るのである、と強調した。
かのカール・ハウスホーファーが夢中になっていた本に、1871年にイギリスの小説家ブルワー・リットンによって書かれたSF小説『来たるべき民族』があった。この小説は、彼がアジアで得た信念と一致した。つまり、地底民族「ヴリル・ヤ」とアーリア人は共通の祖先を持つがゆえに、自分たちも全生命力の源泉「ヴリル・パワー」を用いる能力を持っているという確信であった。そしてその確信に基づいて「ヴリル協会」なる団体が組織されていたが、ハウスホーファーはこの団体にも参加し、重要な役割を演じていた。「ヴリル協会」はヴリルの制御技術を開発することを目的としていたが、彼はヴリルを自由に操る者が世界を制覇する、という『来たるべき民族』の思想を、そのまま信じていたのである。
ハウスホーファーとヒトラーの運命的な出会いは、第一次世界大戦後のランズベルク刑務所であったことは、既に紹介したが、ハウスホーファーがヒトラーに『来たるべき民族』を貸し与えたのはこの時であった。そして、ヒトラーもまた夢中になった。
独房の中でページをめくるヒトラーは、強い興奮を覚えたという。ハウスホーファーの解説により、この奇書が事実に基づいて書かれたものだと知らされたヒトラーは、自分たちこそこの小説に書かれた「来たるべき民族」にほかならないと信じたのである。更に、1925年、中央アジアを探検したポーランド人の地理学者F・オッセンドフスキーの『獣・人間・神々』が出版されるにいたり、地底の超人たちの存在に関するヒトラーの確信は不動のものとなった。
こうして、ハウスホーファーは1920年代にはヒトラーの政治顧問を務め、同時に、「トゥーレ協会」の黒幕ディートリヒ・エッカルトに次ぐ、ヒトラーの第2の“秘教助言者”となったのである。彼は「ドイツ総力戦研究所」の所長に就任し、彼が発刊した雑誌『地政学評論』はナチス政権の政策・理論の基礎として重用された。
ハウスホーファーはヒトラーに『我が闘争』の執筆を勧め、ヒトラーの政治顧問を務めた
なお、ハウスホーファーはナチ党員にはならなかったが、ヒトラーに対して援助は惜しまなかった。ヒトラーはハウスホーファーとの出会いののち、ミュンヘン大学へ聴講に行き、ハウスホーファーの尽力で大学の図書館に通いつめ、独学で収蔵されている図書をほぼ全て読破してしまった。これをみたハウスホーファーはヒトラーに次のように言っていた。「君は人が4年かかってもできないことを、わずか1年でやり遂げた。君は素晴らしい天才であり、全ドイツ国民が君を求めている。」
ハウスホーファーやその他の「ヴリル協会」のメンバーの後押しにより、ナチスは何度もチベットに調査団を派遣することになる。1926年から1942年まで毎年派遣された調査団は、チベットの僧侶に接触し、深い関係を築きあげていった。1926年頃には、ベルリンとミュンヘンにちょっとした「チベット人区」ができあがっていた。1929年には、チベットの海外本部がドイツに設立され、ベルリン、ニュルンベルク、ミュンヘンに支部が開かれた。
だが、チベットはナチスに全面的に協力したわけではなかった。ナチスに協力してくれたのはチベットの一派だけで、彼らはドイツでは「緑の男の会」として知られた。これは数百年におよぶ日本の「緑龍会」との強いつながりから来ていたという。
ナチスのチベット探検
歴史研究家の金子民雄氏は、「ナチスのチベット探検」について次のように述べている。
「ヨーロッパ中北部に位置するドイツが、アジアの中央部チベットと関わりを持つというのは何か異様なことのように、思われるかもしれない。しかし、これは別に不思議なことではなかった。ドイツとチベットとは、20世紀初めから、探検や学術調査を通して、きわめて関係が密接だった。特にチベットの桃源郷シャンバラをヨーロッパに初めて紹介したのは、ドイツの古代インド学者のグリュンヴェーデルが、仏典から翻訳してから以降のことである。」
「ナチスはとりわけ中央アジアにとり憑かれていた。特に関心を持っていたのは、ナチスが古代インド、ペルシア、チベットから“転用”した彼らのシンボル・マークであるカギ十字との関わりからであるという。古代仏教の卍の逆卍がナチスのカギ十字である。
ナチスの似非科学、すなわち民族学的疑似科学によれば、アジアはアーリア民族の古い揺籃の地であり、ここにアーリア民族が隔離されて住んでおり、チベット人は民族的に見て“純粋”な種であるという理論である。雑婚していない原種というわけである。それにこのヒマラヤの彼方、チベット高原のどこかに、理想郷であるシャンバラが存在するはずであると彼らは信じた。これはジェームズ・ヒルトンが勝手に捏造した地上の楽園シャングリ・ラの原郷である。」
「SSの長官ハインリッヒ・ヒムラーは、ことのほか、このことに興味を抱いたのだった。世間では彼を学問もない無教養な人間に思いがちであるが、彼はちゃんと大学教育は受け、博士号も持っているインテリだった。しかし、彼の学問的常識が少し狂っていたのである。彼はオカルトの心酔者でもあった。ヒムラーはナチスの高官になると、彼の考えを実行に移し出したのだった。そこで目をつけたのが遺伝学を専攻していたエルンスト・シェーファーだった。彼はミュンヘン大学で研究していた若い研究者だった。ヒムラーは早速シェーファーをスカウトし、チベットの探検に派遣することになった。ただこの辺りがまだ十分公表されていないので、裏事情が分りづらいのであるが、シェーファーは親衛隊(SS)の少佐であった。」
「シェーファーのチベット遠征に参加したブルーノ・ベガーは、1937年、シェーファーがチベット探検に出かけるというニュースを聞いたとき、ベルリンで人類学を学んでいたという。多分、まだ20代の若者だったろう。しかしシェーファーとベガーがなぜ結びついたか。それは2人が、1935年、人種問題を含む科学的問題を調査するという目的で、ヒムラーが創設した親衛隊(SS)組織の『アーネンエルベ』の隊員だったという。
ヒムラーは、チベット人がスカンジナヴィア(北欧)地方から移住していった後裔であり、そこには失われた大陸アトランティスからの移民たちが建てた偉大なる文明が、かつて存在していたという、まったく正気と思えない妄想にとりつかれていた。この理論を証明しようというのが、ベガーだった。
ちょっと考えれば、これはもう正気の状態とは思えない。ちなみに、チベット人は、日本人と同じモンゴル系であるが、ヒムラーは、日本人とドイツ人の祖先を同じ系統にしたがっていたという。当時、ドイツと日本は密接な関係にあったから。」 
牧歌的な楽園アルカディア 

 

ギリシャのペロポネソス半島中央部の農耕に適さない貧しい山岳地帯だが、後世、牧人の楽園との伝承が生まれた。古代アルカディア人の住地で、牧畜を主とし、マンティネイア、テゲアなどのポリスがあった。前4世紀にはアルカディア同盟が成立し、中心地としてメガロポリスが建設された。ユートピア・理想郷・牧歌的な楽園・理想的田園の代名詞的な意味は、楽園伝承から生じた。現代文明とは一線を画し、自給自足生活を中心とする共同体」という意味にまで拡大してアルカディアという語を使ったりされています。
現代におけるアルカディアとユートピア的思想
テレビの紀行番組でアジアやアフリカの奥地で暮らしている少数民族の社会が紹介されることがありますが、私はそうした社会もアルカディアに含めて考えています。一昔前には「未開社会」という差別的な語が用いられていましたが、今ではそこに「開発された社会」(先進国)には見られない「生の充実」を感じ取る人も少なくないと思われます。実際、最近流行の「スローライフ」とか「オルタナティヴな社会」ということで一般的に求められているのは、近代化以前の生活や社会であるような気がしています。その意味において、アルカディアは人間にとって一つの「理想社会」であることは間違いないと言えるでしょう。
しかし我々は近代化(もしくは現代文明)を否定して、アルカディアへと戻ることができるでしょうか。確かに近代化が地球そのものを破滅に導いていることからすれば、このままでいいわけがなく、「自然に還れ!」というルソーの言葉はますます力を得ていくことでしょう。しかし、繰り返し述べているように、現代人はもはやアルカディアへと後向きに戻ることはできない、と私は思っています。この点、よく誤解されるわけですが、私はアルカディアそのものを否定するつもりはありません。そもそも先に触れた少数民族の社会などが実在している事実からしても、アルカディアを否定することなどできないでしょう。「アルカディアへと後向きに戻ることはできない」という私の認識は、あくまでも近代化の洗礼をうけた「現代人の生き方」の問題です。
勿論、ソローのように、現代文明に背を向けて「森の生活」を求める「現代人の生き方」もあります。これを「アルカディアへと後向きに戻ろうとする試み」と見做すかどうかに関しては議論の余地があるでしょう。この問題についてはこれから時間をかけて述べていくつもりですが、私の基本的立場は「現代人にとってアルカディアの没落は不可避だ」というものです。更に逆説的に言えば、「現代人が失われたアルカディアの理想を回復するためには、ユートピアの創造しかない」と思っています。これが私の基本テーゼに他なりません。
現代人における「アルカディアの没落」を論じるために、私はアルカディアの意味を通時的と共時的の二つに分けようと思います。それは次の通りです。
通時的アルカディア―各民族の歴史の古層にある理想の共生状態
共時的アルカディア―現代において、近代化から取り残された人々の営む共生状態
具体的に言えば、通時的アルカディアは始源の楽園であり、共時的アルカディアは未開人(この言葉は不適切かもしれませんが、「未だ開発されていない」という文字通りの意味だけで使いたいと思います。差別的な意味合いのないことをご諒承下さい)の社会です。勿論、両者における「アルカディアの構造」自体に差異はありません。すなわち、エリアーデの構造主義的な宗教学に基いて、通時的アルカディアに生きる人間を「古代人」(archaic man)と称するならば、共時的アルカディアに生きる未開人は現代の「古代人」だと言えるでしょう。その意味において、「アルカディアの構造」とは人間的生の「祖型」(archetype)に他なりません。
さて、様々な「楽園喪失の神話」が示しているように、古代人が「始源の楽園」を失うのは一つの運命です。それは人間実存から「祖型」を失う悲劇(原罪)ですが、同時に人間に智恵(文明)をもたらしました。非常に大雑把に言えば、そうした両面価値的(ambivalent)な運命が現代人を生んだと見做すことができます。
何れにせよ、通時的アルカディアの喪失とともに自らの「祖型」をも奪われた現代人はニヒリズムに陥っています。確かに、恰もそうした喪失と引き換えに発展させてきたかのような科学技術文明の御蔭で、現代人の生活は古代人のそれに比べて遥かに豊かになりました。しかし、それは果たして「本当の豊かさ」でしょうか。月並みな言い方をすれば、物質的に豊かになればなるほど、精神的にはむしろ貧しくなっていくと感じる人も少なくないでしょう。その時、共時的アルカディアが現代人にとって一つの救いになると思われます。では、共時的アルカディアは現代人のニヒリズムを真に克服できるでしょうか。
振り返ってみれば、学生時代から「ニヒリズムの克服」をテーマにしてきた私にとって、共時的アルカディアは一つの壁のようなものでした。と言うのも、私はエリアーデの「古代人―近代人」という対立図式に基いて思耕してきたからです。周知のように、エリアーデによれば、現代人のニヒリズムは近代の歴史主義に発するものであり、それは古代人の宇宙論を反復することによって克服されます。私のこれまでの思耕は、こうしたエリアーデのテーゼに対する挑戦だったと言えるでしょう。
確かに古代人の宇宙論には「生の充実」があります。そして現在、それは共時的アルカディアに見出すことができます。しかし、そこで生活している未開人は、その精神性において、現代人と言うよりも古代人と言うべきでしょう。勿論、これは差別ではありません。あくまでも未開人の実存に現代人が失った「野生の思考」が未だ息づいているという意味で言うのです。私は共時的アルカディアのリアリティを決して否定するものではありませんが、現代人がそこで生活するためにはその現代性を脱ぎ捨てる必要があると思っています。言い換えれば、現代人が現代人のままアルカディアで生活することは不可能だということです。「現代人にとってアルカディアの没落は不可避だ」というのは、そういう意味です。
アルカディアと現代人
根本テーゼ:かつてムラはアルカディアであった。しかし新しき村はもはやアルカディアではあり得ない。新しき村はユートピアとしてのみ実現する。私は以前に、アルカディア(ムラ)からユートピア(新しき村)に至る過程を「円環―直線―螺旋」の弁証法として述べました。今、それを繰り返すことはしませんが、重要なことは螺旋は円環と直線の対立の止揚であり、ユートピアはアルカディアの「前向きの反復」だという点です。
また、「アルカディアが自然楽園であるのに対して、ユートピアは人工楽園だ」という私の主張から、ユートピアという言葉で手塚治虫が描くような未来都市を連想されるかもしれませんが、私のユートピアのヴィジョンはむしろ田園に近いものです。ただし、その田園は「人間的に再構成された自然」であり、言わばムラと近代都市の逆説的統合に他なりません。
何れにせよ、少なからぬ人たちが農的暮らしを見直して帰農を志している現在、アルカディアが現代人にとって一つの希望となっていることは間違いないと思います。問題は、その「希望の原理」です。
アルカディアの問題点
アルカディアはかつて実在しましたし、今も世界の各地に点在しています。それに対して、ユートピアは未だ存在していません。私にとっては「ユートピアの創造」こそ問題中の問題ですが、その前にアルカディアの問題点について考える必要があるでしょう。
現代人がアルカディアを「究極的な理想社会」と見做せない理由の一つは、その閉鎖性にあります。先日の木曜会でAさんが「人間にとって堪え難いのは貧しさそのものではなく、等しくないということだ」と発言されていましたが、確かにその通りでしょう。具体的に言えば、「終戦後の皆が等しく貧しかった時代には、貧しいことはそれほど苦痛ではなかったが、やがて社会が少しずつ豊かになり、隣の家はテレビを買ったが、自分の所は未だ買えない…というような事態になった時に、貧しさが苦痛になる」ということです。アルカディアについても同じことが言えるのではないでしょうか。すなわち、外部と隔絶された世界の片隅で皆が平等に暮らしている限りアルカディアは維持されますが、外部の物質的に豊かな社会との接触が始まると同時に、アルカディアはその崩壊の一歩を踏み出すのです。私は以前に、そうした事情をドストエフスキイの「おかしな男の夢」という作品に基いて述べたことがありますが、もはやアルカディアの理想は言わば「鎖国の天下泰平」にすぎないと思われます。
尤も、「鎖国の天下泰平で何が悪い!」という意見も当然あるでしょう。確かに、「鎖国であれ孤立主義であれ、平和が維持されるのなら、それでいい」というのも一つの立場ではあります。しかし、いくら鎖国の存続を願っても、黒船の到来は避け得ないのではないでしょうか。その意味において私は、現代においてアルカディアをそのまま維持することは不可能だ、と思うのです。 
 
桃源郷1

 

俗界を離れた他界・仙境。ユートピアとは似て非なる、正反対のもの。武陵桃源(ぶりょうとうげん)ともいう。
陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している)。
『桃花源記』が創作されてから約1600年経った現在でも鑑賞されているのは、既に人々の心の内にある存在を、詩的に具象化したものが桃源郷であるためとされる。既に知っているものであるため地上の何処かではなく、精神の奥底に存在している。桃源郷に漁師が再訪出来ず、劉子驥が訪問出来なかったのは、心の外に求めたからであり、探すとかえって見出せなくなるという。 
陶淵明
興寧3年-元嘉3年(365-427) 中国魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。 
由来
桃源郷の初出は六朝時代の東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人・陶淵明(365年 - 427年)が著した詩『桃花源記 ならびに序』である。現在では『桃花源紀』(詩)よりは、その序文のほうがよく読まれている。
晋の太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡ったとき、どこまで行ったか分からないくらい上流で、突如、桃の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香ばしさ、美しさ、花びらや花粉の舞い落ちる様に心を魅かれた男は、その源を探ろうとしてさらに桃の花の中を遡り、ついに水源に行き当たった。そこは山になっており、山腹に人が一人通り抜けられるだけの穴があったが、奥から光が見えたので男は穴の中に入っていった。
穴を抜けると、驚いたことに山の反対側は広い平野になっていたのだった。そこは立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しいところだった。行き交う人々は外の世界の人と同じような衣服を着て、みな微笑みを絶やさず働いていた。
男を見た村人たちは驚き話しかけてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみなびっくりして、家に迎え入れてたいそうなご馳走を振舞った。村人たちは男にあれこれと「外の世界」の事を尋ねた。そして村人たちが言うには、彼らは秦の時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、この山奥の誰も来ない地を探し当て、以来そこを開拓した一方、決して外に出ず、当時の風俗のまま一切の外界との関わりを絶って暮らしていると言う。彼らは「今は誰の時代なのですか」と質問してきた。驚いたことに、ここの人たちは秦が滅んで漢ができたことすら知らなかったのだ。ましてやその後の三国時代の戦乱や晋のことも知らなかった。
数日間にわたって村の家々を回り、ごちそうされながら外の世界のあれこれ知る限りを話し、感嘆された男だったが、いよいよ自分の家に帰ることにして暇を告げた。村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って男を見送った。穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、村人を裏切ってこの話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡らせたが、ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかった。 
ユートピアとの相違
トマス・モアの思想書『ユートピア』に由来するユートピア思想の根底にあるのは、理想社会を実現しようとする主体的意志である。ユートピアに滞在した経験がある人物が、モアに現地の様子を紹介する設定になっている。ユートピアは遠く離れた島国とされているが、全く到達不可能な夢幻としてではなく、地理や社会制度の意味において十分到達可能なものとして描かれており、その上でユートピア人の風俗や法律などの成立の根拠の合理性に疑問を投げかけている。モアのユートピアは「夢想郷ではなく、普通の人々が努力して築き上げた社会主義国家」であるとされる。
一方で桃源郷は、「理想社会の実現を諦める」という理念を示している。中国史上稀に見る混乱期の中、人々は苦悩と悲劇に満ちた現実から逃避しようとし、文壇では遊仙詩(神仙郷に遊ぶ詩)が現れた。しかし陶淵明の作品は、題材は遊仙詩と似ているが、思想が本質的に異なるとされる。陶淵明は、神仙郷の実在を決して信じず否定しており、日常生活を尊重していた。同時に、書物を通じて神話世界を自由に飛翔し、神仙の境地に至っていた。

孟夏 草木長じ 屋を遶りて樹扶疏たり 衆鳥は託する有るを欣び 吾も亦吾が廬を愛す 既に耕しては亦た已に種ゑ 時に還りて我が書を讀む 窮巷は深轍を隔て 頗る故人の車を迴らす 歡言しては春酒を酌み 我が園中の蔬を摘む 微雨東より來り 汎覽す周王の傳 流觀す山海の圖 俯仰して宇宙を終せば 樂しからずして復た何如
(初夏になって草木が伸び 我が家の周りには樹木が生茂る 鳥たちは巣作りに喜び励み 私も自分の家が気に入っている 野良仕事に精を出し 家に帰ると読書を楽しむ 狭い道には車も入って来れぬから 煩わしい付き合いをしなくて済む 近隣の人たちと歓談しては酒を酌み交わし 肴に庭の野草を食う 小雨が東の方から降ってくると それに伴って気持ちのよい風も吹く 周王の傳を精読し それに添えられた絵に目をやる 寝ながらにして宇宙のことが分かるのだから こんなに楽しいことはない)—陶淵明/讀山海經其一

西洋のユートピア思想は悲惨な管理社会を生み出し、潰え去った。二千年以上前に東洋も、韓非子の思想に支えられて現れた秦帝国の専制支配と崩壊で、同様の道を辿っていた。『桃花源記』の描写は「老子」を踏まえつつも、ユートピアの末路を象徴しているという。地上にユートピアを作ろうとする熱意が惨劇を生じることを表現している。だが、災厄から逃れた先祖は、彷徨の果てに辿り着いた地があった。つまり、ユートピアの崩壊後に姿を現すものが桃源郷であるとされる。
対照的な両者はもたらす結果も逆になっている。即ち、主体的・積極的なユートピア思想は、その目標とは全く裏腹の大きな災禍を生じ、消極的な桃源郷は、現実には何の力も持ち得ないが、人間の精神に大きな慰めを与え得るという。陶淵明研究者の伊藤直哉は、映画『千と千尋の神隠し』主題歌の歌詞「海の彼方には もう探さない 輝くものは いつもここに わたしのなかに みつけられたから」を、『桃花源記』の良い注釈として引用している。 
思想
この話は後に道教の思想や伝承と結びつき、とりわけ仙人思想と結びついた。山で迷って仙人に逢うという類の伝説や、仙人になるために食べる霊力のある桃の実や、西王母伝説の不老不死の仙桃などとの関連から、桃の林の奥にある桃源郷は仙人の住まう地とも看做されるようになった。 
関連地域
『桃花源記』は創作であるが、現在の湖南省常徳市の数十キロ郊外に位置する桃源県に「桃花源」という農村があり、桃源郷のモデルとして観光地になっている。
1994年、雲南省広南県の洞窟にある峰岩洞村という村が、偶然訪れたテレビ取材班に由って発見される。それまで広南県政府はこの村の存在に気付いていなかった。住民は全て漢族で、最も早く住み着いた家族の祖先は300年前に江西省から移住したという。 
 
桃源郷2

 

「桃源郷」は、今からおよそ1600年ぐらい前に、中国の晋の時代の詩人、陶淵明が「桃花源記」に描いた理想郷です。詩人、陶淵明はその詩、「桃花源記」ならびに序の中で、桃の花に囲まれた別世界を描きました。現在では、桃花源記の詩より、その序文のほうがよく読まれています。
「桃源郷」という言葉は、日本でもよく使われています。でも、その出典が中国の詩だということを知っている人はどのくらいいるでしょうか?中国では、中学二年生の国語の教科書に載り、暗記を要求されるので、広く知られています。  
晋の太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡って行った。どこまで行ったか分からないくらい上流まで来ると、突如、桃の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香り、美しさ、花びらが舞う様子に心を魅かれた。
男は、その水源を探ろうと、さらに桃の花の中を遡り、ついにその水源に行き当たった。そこは山になっていて、山腹に人が一人通り抜けられるかどうかの穴があった。その穴の奥から光が見えたので、男は穴の中に入っていった。
穴を抜けると、驚いたことに山の反対側は広い平野になっていたのだ。そこは家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しいところだった。行き交う人々は異国人のような装いで、みな微笑みを絶やさず働いていた。
男をみた村人たちは驚いて、話しかけてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみなびっくりして、家に迎え入れて、たいそうなご馳走を振舞ったくれた。村人たちは男にあれこれと「外の世界」の事を尋ねた。そして村人たちが言うには、彼らは秦の時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、この山奥の誰もいない土地を探し当てた。そして、ここを開拓し、決して外に出ず、一切の外界との関わりを絶って当時の風習のまま暮らしていると言う。彼らは「今は誰が皇帝で、何と言うの時代なのですか」と質問してきた。驚いたことに、ここの人たちは秦が滅んで漢ができたことすら知らなかったのだ。ましてやその後の三国時代の戦乱や今の時代が晋だと言うことも知らなかった。
男は、数日間、村の家々を回り、ごちそうになりながら外の世界のあれこれを知る限りを話した。 いよいよ自分の家に帰ることにして別れを告げた。村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って男を見送った。穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、村人を裏切ってこの話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡ったが、ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかった。
「桃源郷」には、秦の末期の戦乱から逃れた人々が、山に囲まれたきれいなところで、数百年、外の世界と関わりを断って、自給自足の生活を送っていたことが描かれているです。作者の陶淵明は、4世紀半ばから5世紀初頭、すなわち、東晋末から南北朝の南朝宋にかけて活躍していた詩人です。朝廷に仕え、立身出世を諦めた後、田舎の田園に隠遁し、自ら農作業に従事しつつ、日常生活でのことを描いた詩や文章を多く残しました。それで、後に「田園詩人」の代表と言われています。 "采菊东篱下,悠然见南山"「 菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る。」菊を摘んで、悠然たる南山の姿を見て楽しむ。これも自然に親しむ陶淵明の代表的な詩です。
陶淵明が生きていたのは、ちょうど戦乱が繰り返された時代です。北方の土地は異民族に制圧され、南方の王朝はめまぐるしく交代しました。そんな時代なら、どんなに夢を持った文人でも、無力になりますよね。陶淵明もやむを得ず、ただの一農夫としての道を選んだのかもしれません。確かに、権力や欲望、野望などを捨てて、精神的な豊かさを守りましたが、陶淵明にとっては、生活自体はどんなに呑気なものではありませんでした。とても貧乏な日々を送っていました。田園詩人というのは、生活に何の不自由もなく、ただロマンチックに自然を詠む詩人ではありません。俗世間になじめず、、理想郷に逃れたいという隠遁思想を持つ人だと思います。
作者陶淵明の生い立ちを理解したり、時代背景を考えるというのが、この「桃源郷」本当の意味に近づく大きなポイントの一つではないかと思います。秦の時代の難民が、桃源郷で暮らしている人々の祖先です。その後、漢、三国時代、さらに、次の晋の時代のことを全然知らなくて、俗世間から隔離されたコミュニティで平和に生活しています。戦乱を嫌う作者の考え方が表れています。これは、この物語の一つの側面かもしれません。
その「桃」も、桃源郷のもう一つのポイントです。中国では、道教を初め、昔から、桃は不老長寿と魔よけの象徴とされてきました。「西遊記」の世界では、西王母は桃の宴を開き、仙人たちに食べさせました。普通の人間でさえ、それを食べると、不老不死の身になります。孫悟空は桃園の管理の仕事をした時に、いっぱい盗んで桃を食べちゃいました。今でも、中国ではお年寄りの誕生日祝いに、寿桃、桃饅頭を食べる習慣があるんです。桃の花を描くことで、俗世間と全く違う、仙境のような所だというイメージのアピールにもなります。
中国の神話や民話の中には、「道に迷って仙人や妖精にあう、或いは、別世界に立ち入る」という類の話がとても多いです。神秘さが一層増しますね。その結果、普通は、やはり「再び訪れることができない」という結末になります。私は、中二の時、この文章を勉強したころ、村人に厚くもてなされ、「ここのことを内緒にしてください」と頼まれたのに、家に戻ると、役人に何で話したの?と、親切な村人を裏切った漁師の男に強く憤りを感じた覚えがあります。日本の民話や伝説にも、「隠れ里」等といった言い方があります。一般的には山奥や洞窟を抜けた先などにあると伝えられています。この点では、中国ととても似ていますね。
人々の頭にしか存在しない理想郷、西欧流に言えば、ユートピアですが、世界共通なのかもしれません。「桃源郷」という言葉は今でもよく使われますが、その類義語と言いますと、いっぱいありますね。例えば、楽園、天国、隠れ里、別天地、別世界、仙境、仙界、理想郷、楽天地、ユートピア、シャングリラなどなど。中国では、陶淵明の詩は「桃花源記」ですから、桃花源、あるいは、仙境であるイメージを強調して、桃源仙境などと言います。  
中国には、桃源郷と呼ばれるほどの景勝地がいっぱいあります。「こここそ陶淵明が描いた桃源郷の原型だ」という場所については、幾つかあって、お互いゆずりません。ちなみに、文章の主人公であり、桃源郷を発見した漁師の男は、武陵の人です。今の湖南省の常徳あたりです。ここは、近くにある名勝地、張家界と共に、「武陵源自然風景区」として、世界遺産に登録されました。「中国山水画のモデル」と言われるほど、とても景色のいいところです。 
文学作品というものは、もともとフィクションの世界ですから、それが実在するかどうか、どこなのかを問い続けるのは、あまり意味がないかもしれません。人間はだれでもこの世の中のどこかに「きっと桃源郷が存在する」と、信じつつ、それを探し続ける、夢を持ち続けるということが、人生の醍醐味なのかもしれませんね。貴方の夢見る「桃源郷」は、いったいどんなところなのでしょうか。  
 
陶淵明のユートピア物語

 

陶淵明の作品「桃花源記」は中国の古代の詩人が描いたユートピア物語として、千数百年の長きにわたって人口に膾炙してきた(広く人々の口にのぼってもてはやされる)。日本人にとっても親しみ深い作品である。そこに描かれた「桃源郷」は、理想の安楽世界を意味する東洋流の表現として、いまや世界的な規模で定着しているといえる。ところでユートピアといえば、誰もがまずトーマス・モアを思い浮かべるであろう。トーマス・モアのユートピアは「ノー・ホェア」つまりどこにもない土地という意味の、ギリシャ語に由来している。それはこの世には存在しない架空の土地であり、この世のアンチテーゼである。トーマス・モアはアンチテーゼを語ることによって、この世の矛盾と住みがたさを解き、そのことによってこの世の批判をなそうとした。これに対して、陶淵明のユートピアは「桃源郷」つまり桃の花咲く水源の奥の密かな土地である。だからこの世とは別の世界ではなく、この世に対して入り口を開いている。だがそこに住む住民は、この世の束縛から解放された自由な生活を楽しんでいる。この世に連続しながら、しかもどこかで断絶している両義的な土地なのである。
陶淵明は、桃源郷を舞台に人間の究極の自由を描く事によって、モア同様この世の批判を行ったのではないか、そう筆者は解釈している。モアのように架空の土地を描かなかったのは、陶淵明の中にある儒教的な合理精神がそれを許さなかったからに他ならない。
儒教には「怪力乱神を語らず」という言葉がある。怪とは怪異、力とは超能力、乱とは無秩序、神とは鬼神すなわち亡霊の類である。これらを語らぬとは、人たるもの秩序を重んじ、空想や情念を排する姿勢をいう。中国のインテリは2000年以上にもわたって、このような合理的精神を以て自らを律してきた。陶淵明も基本的にはその例に漏れなかったのである。
こうしたことを踏まえたうえでこの作品を読むと、そこには儒教的合理精神が許すギリギリのフィクションの世界と、この世の秩序に対する強烈な批判が感じ取れる。 
桃花源記
晉太元中,武陵人捕魚爲業,縁溪行,忘路之遠近,忽逢桃花林。夾岸數百歩,中無雜樹。芳草鮮美,落英繽紛。漁人甚異之,復前行,欲窮其林。林盡水源,便得一山。山有小口。髣髴若有光。便舎船從口入。
晉の太元中, 武陵の人 魚を捕ふるを 業と爲せり,溪に縁ひて行き, 路の遠近を忘る,忽ち 桃花の林に逢ふ。岸を夾みて數百歩, 中に雜樹無し。芳草鮮美として,落英 繽紛たり。漁人甚だ之れを異とす, 復た前に行き, 其の林を窮めんと欲す。林 水源に盡き, 便ち一山を得。山に小口有り。 髣髴として光有るが若し。便ち船を舎てて口從り入る。
晉の太元中というから陶淵明の生きていた時代、武陵すなわち陶淵明の住む場所から遠からぬところに、ある漁師が住んでいた。物語はこのように、淡々として始まる。そこには人を驚かすような奇妙な仕掛けはまったくない。漁師は渓谷に沿って船を漕ぐうちに方向を見失い、やがて桃の木の林が現れるのを見た。林は両岸数百歩に渡って続き、雑樹がない。葉の色は鮮やかで、落下芬芬と乱れ飛んでいる。漁師は不思議な感に打たれ、船をこぎ続けて林を見極めようとした。すると水源のあたりで林は尽き、山がそびえているところに行き着いた。山には小さな入り口があって、奥から光がもれ出ている。漁師は船を捨てて、入り口から中のほうへと入っていった。

初極狹,纔通人。復行數十歩,豁然開焉B土地平曠,屋舍儼然,有良田美池桑竹之屬。阡陌交通,鷄犬相聞。其中往來種作,男女衣著,悉如外人。黄髮垂髫,並怡然自樂。
初め極めて狹く, 纔かに人を通すのみ。復た行くこと數十歩, 豁然として開焉B土地平曠として, 屋舍儼然たり, 良田美池桑竹の屬有り。阡陌交も通じ, 鷄犬相ひ聞ゆ。其の中に往來して種作するもの, 男女の衣著, 悉く外人の如し,黄髮 髫を垂るも, 並に怡然として自ら樂しむ。
入り口は初めは極めて狭く、わずかに人が通れるほどだったが、数十歩いくと、からりと開けた。眼前に広がった土地は広々としており、こざっぱりした家が並びたっている。良田、美池、桑竹の類があちこちにあり、あぜ道が縦横に通じている。そしてその中を、鶏や犬の鳴き声がのんびりと聞こえてくる。
この段は、漁師が始めて目にした桃源郷のイメージを描いている。何も不思議なことは描かれていない。桃源郷らしい長閑さは「鷄犬相ひ聞ゆ」という部分によく現れているが、これは老子の言葉「隣国相望み、鷄犬の声相ひ聞ゆ、民、老死に至るまで、相往来せず」よりとっている。
老子は理想郷のあり方を小国寡民に求め、その具体的な姿をこのような言葉で表したのであった。陶淵明の理想郷も、老子のイメージを引き継いでいることを物語っている。
このなかを行き交い、或は耕作する人々といえば、男女の衣服は(外の)普通の世界の人々に異ならない、また黄ばんだ髪の老人と髫を垂れた子どもたちはみな怡然として屈託なさそうである。

見漁人,乃大驚,問所從來。具答之,便要還家。設酒殺鷄作食。村中聞有此人,咸來問訊。自云:先世避秦時亂,率妻子邑人來此絶境,不復出焉。遂與外人間隔。問今是何世,乃不知有漢,無論魏晉。此人一一爲具言所聞,皆歎。餘人各復延至其家,皆出酒食。停數日,辭去。此中人語云:不足爲外人道也。
漁人を見て, 乃ち大いに驚き, 從って來たる所を問ふ。具に之に答ふれば, 便ち要(むか)へて家に還へる。酒を設け 鷄を殺して 食を作る。村中此の人有るを聞き, 咸な來りて問ひ訊ぬ。自ら云ふ:先の世 秦時に亂を避れ,妻子邑人を率ゐて此の絶境に來たりて, 復たとは焉を出ず。遂ひに外人と間隔つ。 今は是れ何れの世なるかを問ふ,乃ち漢有るを知らず, 無論魏晉をや。此の人一一 爲に具に聞かるる所を言へば, 皆歎す。餘人各の復た延ゐて其の家に至り, 皆出でて酒食す。停ること數日にして, 辭去す。此の中の人語りて云く:外人の爲に道ふに足らざる也と。
住人の一人は漁師を見ると大いに驚き、どこから来たのかと聞いた。漁師がそれに応えると、一緒に家に連れて帰り、酒を設け、鶏をつぶしてもてなした。
村中の人々が漁師のことを聞きつけて集まってきた。そしてさまざまなことを問いただした後、自分らのことについても話し出した。
自分らは秦の時代に乱を逃れ、一族郎党を率いてこの地にやってきた。それ以来ここから外へ出たことがなく、外の世界とは断絶して暮らしてきた。今がどんな時代か知らぬという。かつて漢の時代があったことも知らなければ、魏や晉のこともさらさら知ることがない。漁師が聞かせてやると、みな一様に驚く次第であった。
他の住人たちもおのおの漁師を自分の家に招いてご馳走してくれた。かくてとどまること数日にして辞去した。
住人たちは、漁師に向かって、この土地のことは外の世界の人々に語らないほうがよいと忠告し、漁師を送り出した。
以上が桃源郷での漁師の見聞の一切である。ここでも不思議なことや、意外なことは何も描かれていない。普通の世界と断絶して、自若として暮らす人々の様子が伺われるのみである。
だが、その自若とした住人の姿こそが、古代の中国人にとっては望ましい理想世界のあり方だったのではないか。住人たちは権力によって税を取られたり、労役を課せられたりする恐れなく、自分らの意に従って悠然と暮らしている。この悠然自若がこの世のあり方に対する強烈なアンチテーゼになっているのである。

既出,得其船,便扶向路,處處誌之。及郡下,詣太守,説如此。太守即遣人隨其往,尋向所誌, 遂迷不復得路。南陽劉子驥,高尚士也。聞之欣然規往。未果,尋病終。後遂無問津者。
既に出で, 其の船を得, 便ち 向の路に扶りて, 處處に之を誌す。郡下に及び, 太守に詣り, 此の如く説く。太守即ち人を遣りて其の往けるところに隨ひて,向に誌せる所を尋ねんとすも, 遂に迷ひて復たとは路を得ず。南陽の劉子驥, 高尚の士也。之を聞き欣然として往くを規つ。未だ果たせずして, 尋で病に終る。 後遂に津を問ふ者無し。
漁師は外の世界に舞い戻り、船にたどり着くと、先に来た道に沿ってところどころ徴をつけた。再び来ることを期待してそうしたのである。
郡下に至ると太守に申し出、自分の体験したことを語った。太守は人を遣わして、漁師の足取りを探したが、先に徴をつけたところは見つからず、ついにその道を探し出すことはできなかった。
南陽の劉子驥という人は高尚の人物であったが、この話を聞いて喜び、自分こそがそれを探し出そうとした。しかし願いを成就できないまま病に倒れた。
それ以来、この道を探そうとするものは現れていない。
以上は、物語の後日談である。外の世界に侵入されることを嫌った住人たちに口封じをされたにかかわらず、漁師は太守に話してこの土地を外の世界に紹介しようとした。それに対して、桃源郷は道を閉ざして、来らんとするものを拒んだのである。 
桃源郷詩

 

桃花源記には詩一首が添えられている。あるいは、この詩に対する序が桃花源記ということなのかもしれない。詩は、桃花源記に記された内容のうち、そこに暮らす人々を描き、そのユートピアたるいわれを説明している。そして、自分も是非そこに訪ね行くべく、風に乗って舞い上がりたいと結ぶ。全編が桃源郷への憧れに満たされた作品である。
桃源郷詩
嬴氏亂天紀 嬴氏天紀を亂し
賢者避其世 賢者其の世を避く
黄綺之商山 黄綺商山に之き
伊人亦云逝 伊の人も亦云に逝く
往跡浸復湮 往跡浸く復た湮れ
來逕遂蕪廢 來る逕遂に蕪れ廢る
秦の始皇帝が天の秩序を乱したために、賢者たちはみな世の中を避けて逃れた、黄公と綺里季は商山に隠れ、この人たちもここに逃げてきた、その場所は世間からは埋没してしまい、道も荒れて消え去ってしまった(嬴氏:秦の姓、ここでは始皇帝をさす、黄綺:黄公と綺里季、隠者の名、)
相命肆農耕 相ひ命じて農耕を肆め
日入從所憩 日入らば憩ふ所に從ふ
桑竹垂餘蔭 桑竹は餘の蔭を垂らし
菽稷隨時藝 菽稷は隨時に藝う
春蠶收長絲 春蠶長絲を收め
秋熟靡王税 秋熟王税靡し
彼らは互いに励ましあって農耕に従事し、日が暮れると思い思いに休んだ、桑竹は茂って影を垂らし、菽稷は時節に合わせて植えた、春には蚕から長い糸をとり、秋の実りには税を取られることもない(菽稷:豆とコーリャン)
荒路曖交通 荒路曖として交り通じ
鷄犬互鳴吠 鷄犬互ひに鳴吠す
俎豆猶古法 俎豆は猶も古法のごとく
衣裳無新製 衣裳は新製無し
童孺縱行歌 童孺縱に行き歌ひ
斑白歡游詣 斑白歡び游びて詣る
道は荒れてはいても交わり通じ、そこを鷄や犬がのんびりと歩む、まな板やタカツキを用いた祭礼には昔のしきたりを守り、衣装も目新しさを求めない、子どもたちは自由気ままに歌い遊び、老人たちも楽しそうに遊び暮らしている(俎豆:祭礼に用いる礼器、斑白:白髪頭の老人)
草榮識節和 草の榮えて節の和むを識り
木衰知風氏@木の衰へて風の獅オきを知る
雖無紀歴志 紀歴の志すこと無しと雖も
四時自成歳 四時自ら歳を成す
怡然有餘樂 怡然として餘樂有り
于何勞智慧 何に于てか智慧を勞せん
草が生えると季節が暖かくなったと知り、木が落葉すると風が寒くなったと知る、暦があらずとも、四季はおのずから巡る、楽しいことが山ほどあるのだから、いまさら何の知恵を労することがあろうか
奇蹤隱五百 奇蹤隱ること五百
一朝敞神界 一朝神界敞る
淳薄既異源 淳薄既に源を異にし
旋復還幽蔽 旋ち復た還幽蔽す
この秘境が俗世間から隠れて500年、ある日突然人の前に姿を現した、しかしいまさら俗世間とは通じ合わないのであるから、すぐにまたもとのように隠れてしまった、
借問游方士 借問す方に游ぶの士
焉測塵囂外 焉ぞ測らん 塵囂の外を
願言躡輕風 願くば輕風を躡み
高舉尋吾契 高舉して吾が契を尋ねん
あなたがた俗世間の人にお尋ねするが、どのようにしたら仙界を訪ねることができるだろうか、自分としては風に乗って空高く舞い上がり、是非行ってみたいと思うのだ。 
陶淵明自らを祭る

 

祭文とは儀式にあたって読み上げられる文章である。原則として散文でつづられた。雨乞いなどの際に作られることもあるが、多くは葬儀にあたって読み上げられたようである。死者を悼んで読まれる祭文は、無論他者の功績等をたたえるのが目的だ。文選にはその種の祭文がいくつか載せられている。陶淵明も妹のために祭文を作っている。だが、陶淵明は自分自身のためにも祭文を作った。しかも韻文の形式を用いてである。先の擬挽歌詩と同様、前例をみないユニークな試みだったといえる。
擬挽歌詩の制作日時は確実なことがわかっていないが、自祭文は丁卯の年、すなわち陶淵明が死んだ年に作られている。だからこれは、死期を自覚した陶淵明が、自分の生き方を振り返り、なかばフィクションを交えながら作ったものなのかもしれない。全体は78句からなる長編であり、大きくわけて、6つの部分からなる。古風にしたがってまとめ、一句四言を原則として脚韻を踏んでいる。ここでは、それぞれの部分に区分けして、順次鑑賞してみたいと思う。 
死と納棺
嵗惟丁卯 律中無射嵗は惟れ丁卯 律は無射に中る
天寒夜長 風氣蕭索天寒く夜長く 風氣蕭索たり
鴻雁于征 草木黃落鴻雁于に征き 草木黃落す
陶子将辭逆旅之舘 陶子将に逆旅之舘を辭し
永歸於本宅  永しへに本宅に歸らんとす
故人悽其相悲故人悽として其れ相ひ悲しみ
同祖行於今夕同に今夕に行を祖す
羞以嘉蔬薦以清酌羞ふるに嘉蔬を以てし薦むるに清酌を以てす
候顏已冥 聆音愈漠  顏を候へば已に冥く 音を聆けば愈いよ漠たり
鳴呼哀哉ああ哀しい哉
年はあたかも丁卯、季節は中秋の九月、天は寒く夜は長く、風の気配は物寂しい。鴻雁は遠く旅立ち、草木は枯れ落ちた。(丁卯の年は陶淵明63歳にあたる、無射は音階12律の11番目、季節としては9月にあたる)
陶子は仮住まいたるこの世を辞して、永久に本宅たるあの世へと帰る。知人たちは別れを悲しみ、今夕陶子の野辺送りを見送りにきた。(陶子は陶淵明自身のこと)
供え物には野の菜、また澄んだ酒、陶子は棺の中から人々の顔をうかがおうとするが、眼前は暗くなって定かに見えぬ、声を聞こうと思っても耳は遠くなるばかり、ああ、悲しいことだ。 
生前の貧乏暮らしを振り返る
茫茫大塊 悠悠高旻  茫茫たる大塊 悠悠たる高旻
是生萬物 余得為人  是に萬物を生じ 余も人たるを得たり 
自余為人 逢運之貧  余 人と為りてより 運の貧しきに逢ふ
簞瓢屢罄 絺綌冬陳  簞瓢屢しば罄き 絺綌冬に陳ぬ
含歡谷汲 行歌負薪  歡びを含んで谷に汲み 行歌して薪を負ふ
翳翳柴門 事我宵晨  翳翳たる柴門 我が宵晨を事とす
果てしない大地、はるかな空、この世界は万物をはぐくみ、私も人として生まれてきた。(大塊:大地、高旻:天空)
生まれて以来貧乏暮らしが続き、米びつはたびたび空となり、夏に着る薄い着物を冬に着た(簞瓢:米を入れる器、絺綌:薄絹の衣)
だが、人里はなれたさびしい生活を好み、谷の水を汲んでは、薪を背負って歌い歩いた、柴の戸を閉ざし、朝夕ひっそりと暮らしたものだ。 
躬耕と琴書の穏やかな生活
春秋代謝 有務中園  春秋 代謝し 中園に務め有り
載耘載耔 迺育迺繁  載ち耘り載ち耔かへば 迺ち育ち迺ち繁る
欣以素牘 和以七絃  欣ぶに素牘を以てし 和するに七絃を以てす
冬曝其日 夏濯其泉  冬は其の日に曝し 夏は其の泉に濯ぐ
勤靡餘勞 心有常間  勤めては勞を餘すことなく 心に常間有り
樂天委分 以至百年  天を樂しみ分に委ね 以て百年に至る
春と秋がこもごも入れ替わり、田畑の作業にいそしんだ、耕したり、草を刈ったりするうち、まいた種はおのずから実を結ぶ(耘:草刈る、耔:つちかう)
楽しみに書を読み、歌にあわせて琴を弾く、冬は日向ぼっこをし、夏は泉で水浴びをする
作業に労をおしむことなく、心にはいつもゆとりがあった、天命を受け入れて己の分をわきまえ、100年ものあいだ生きてきたのだ 
我が人生の総決算
惟此百年 夫人愛之  惟れ此の百年 夫の人之を愛しむ
懼彼無成 愒日惜時  彼の成ること無きを懼れ 日を愒り時を惜しむ
存為世珍 沒亦見思  存しては世の珍と為り 沒しても亦思はれんとす
嗟我獨邁 曾是異茲  嗟我獨り邁き 曾に是に異れり
寵非已榮 涅豈吾緇  寵は已が榮にあらず 涅も豈に吾を緇めんや
捽兀窮盧 酣飲賦詩  窮盧に捽兀として 酣飲して詩を賦す
そもそもこの100年間を、人は愛惜してやまない、なにか功績のないことを恐れ、日々をむさぼり、時を惜しむ
生きている間はひとかどの人物となり、死後も名声が残ることを願う、しかし、私はわが道をゆく、人とはまったく異なるのだ
栄達を栄誉と思わぬし、色が黒いからといって心まで黒くなっているわけではない、貧乏していても身を高く持し、酒を飲みながら詩を賦す楽しみがある。(涅:黒く染めること、野外の作業で色が黒くなることをさす、緇:くろむ、黒くする、捽兀:高くそびえるさま、窮盧:貧しい家、貧乏生活) 
埋葬
識運知命 疇能罔眷  運を識り命を知るも 疇か能く眷りみることなからん
余今斯化 可以無恨  余今斯に化す 以て恨みなかるべし
壽涉百齡 身慕肥遁  壽 百齡に涉り 身 肥遁を慕ふ
從老得終 奚所復戀  老より終を得 奚の復た戀ふる所ぞ
寒暑逾邁 亡既異存  寒暑逾いよ邁き 亡は既に存と異なる
外姻晨來 良友宵奔  外姻晨に來り 良友宵に奔る
葬之中野 以安其魂  之を中野に葬り 以て其の魂を安んぜん
窅窅我行 蕭蕭墓門  窅窅たる我が行 蕭蕭たる墓門
奢耻宋臣 儉笑王孫  奢は宋臣に耻じ 儉は王孫を笑ふ
運命とわかっていながら、人は後を振り返って後悔せずにはいられない、だが私は死にあたって、何ら恨みとするところもない
100年ものあいだ生きてきて、身体はそろそろ引退することを欲している、老いから死へと移り行くにあたり、何の未練が残るだろうか
寒暑の移り変わりも、死んでしまえば生きているときとは違う、
親戚が朝にやってきて、友人たちが夕方駆けつける、そして私を野に葬り、魂を安らかに眠らせてくれる
はるかな死出の道、さびしげな墓の門、豪華すぎる葬儀は恥ずべきものだ、だが余りに倹約するのも見苦しい 
死後を歌う
廓兮已滅 慨焉已遐  廓として已に滅し 慨として已に遐かなり
不封不樹 日月遂過  封せず樹せず 日月遂に過ぐ
匪貴前譽 孰重後歌  前譽を貴ぶにあらず 孰か後歌を重んぜん
人生實難 死如之何  人生實に難し 死 之を如何せん
鳴呼哀哉ああ哀しい哉
空しくも身は既に滅び、遥かな昔を偲ぶと感慨深い、墓には盛り土もせず、目印の木も植えぬまま、時が過ぎてゆく、(封:盛り土をすること)
生前の名誉を求めぬ私だ、死後のことなどどうでもよい、人生とはむつかしいものだ、死んだからといってどうなるものでもない
ああ、悲しいことだ 
 
蓬莱

 

(ほうらい) 古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。蓬莱山、蓬莱島、蓬莱仙島とも。四霊の一体である霊亀の背中の上に存在するとも言われている。
『山海経』
中国最古の地理書「山海経」の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている。「市」とは蜃気楼のことで、実際、山東省の蓬莱県は、蜃気楼の名所で古来より有名である。
五神山の一山として
仙人が住むといわれていた五神山の一つ。五神山には蓬萊の他に、「方丈」(ほうじょう)「瀛州」(えいしゅう)「岱輿」(たいよ)「員喬」(いんきょう)があり、そのうちの「岱輿」及び「員喬」は流れて消えてしまったとされている。
東方三神山の一山として
また蓬萊は、方丈・瀛州(えいしゅう)とともに東方の三神山の1つであり、渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。徐福伝説を記した司馬遷『史記』巻百十八『淮南衝山列伝』で記されている。なお、他の二山の、「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。瀛州はのちに日本を指す名前となった。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。または台湾を指すとされる。台湾は、蓬萊仙島と中国語では呼ばれる。
日本における蓬萊
日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。
平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた。
『竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される。ほか、「蓬萊の玉の枝」が登場するが富士山の縁起を語るところではやはり不老不死の語が出ており神仙思想との繋がりが窺える。
ほか、熊野、熱田などの霊山や仙境を蓬莱と呼ぶ。
中国神話
中国神話等においては、四霊の一つである霊亀の甲羅の上にあったのではないかといわれている。 
 
徐福1 / 長生不老の霊薬

 

中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪の出身。別名は徐巿(じょふつ)。子に福永・福万・徐仙・福寿がいるという。
『史記』
司馬遷の『史記』の巻百十八『淮南衝山列伝』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。 東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。
蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、「竹取物語」でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。瀛州はのちに日本を指す名前となった。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。
同じ『史記』の『秦始皇帝本紀』に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている。現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが『淮南衡山列伝』に基づいたものである。
出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市が有力とされる。途中、現在の韓国済州道西帰浦市(ソギポ市)や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。
伝承
日本
青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などが有名である。
徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。
徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生する。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。
丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。
徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり、また徐福の来日した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。
中国
北宋の政治家・詩人である欧陽脩が日本刀について歌った『日本刀歌』の中には、「その先祖徐福は秦を偽って薬を取りに行くと言い若い男女と共にその土地で老いた」と言う内容が出てくる。
朝鮮
朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。 
 
徐福伝承2

 

徐福渡来の伝承は、佐賀県以外にも福岡県八女市山内、熊本、鹿児島県串木野市、和歌山県新宮市、三重県熊野市、名古屋市熱田神宮、清水市、富士山、さらに日本海側の京都府伊根町、丹後、近江平野等にも残っている。
中国の史書によると、
始皇帝は「童男童女三千と百工、五穀とその技術を持つ人をつけて東方に船出させた。
その徐福は平野で水の豊かな湖のある地に着き、王となって帰らなかった。」と書かれてある。
原文には「平原広沢」「王」とあり、日本のどの場所であるかがわからない。
また別の史書には、伝えて言う
「秦始皇、方士徐福を遣わし童男女数千人を入海、蓬莱神仙を求めしむも得ることをえず。 
徐福、誅さることを畏れ、敢えて帰らず、この洲に止まる。世々相承けて数万家あり。
会稽東治県の人、海に入りて風に遭い、流移して瀛洲に至る者あり。在る所絶遠にして往来すべからず。」
と書かれてある。この「瀛洲」が紀州という説もある。
中国では徐福の渡来は「事実」であり、疑う者はほとんどいない。日本側には各地にその伝承が残るが、最も合理的に理解できるのが「平原広沢」の地、佐賀である。
徐福には、長男の徐市、次男の徐明、三男の徐林そして四男の徐福(同名であるが史書の通り記す)という四人の子供がいたが、佐賀の金立神社に残る伝承によると、祭神は「金立大権現」(徐福)と言われているが、三男の徐林が童男童女、百工ら七百人あまりを引き連れ佐賀の地に移住し、神社には徐林が祭られてあるともいう。
また、次男の徐明は金華山をめざして熊本地方に移住したとなっている。
さらに、徐福と長男の徐市はさらに蓬莱山を求めてシラヌヒ海から、紀州に至り、徐福はこの地(紀州の古座)に留まったが、長男の徐市はさらに東をめざし、スルガノ国に至って蓬莱山(富士山)を見つけたとの伝承も残っている。
徐福の長男徐市は、日本に渡来し「スルガノ」に「蓬莱山」を求めて来たのかも知れない。
偽物の古文書とも言われる「富士古文書」によれば、秦徐福以下五百五十八名がこの地に渡来したと書かれている。この地こそ「高天原」であり、景行・成務・応神天皇に仕えた後代のね武内宿禰は、徐福の博学を慕い、多くの門人がその学問を学びに訪れたそうである。時代も合わないし、にわかに信じがたい話ではあるが、この地にも徐福伝説は残っている。
話は変わるが、平成十年十一月七日の読売新聞に「フロンティア弥生人」との見出しで次の記事を見つけた。それによると、神奈川県小田原市の中里遺跡から紀元前二世紀の住居跡六十一棟が発掘され、全体で二百戸近い住居群があったと推定されるそうである。この遺跡から五百km以上離れた瀬戸内海地域の土器が発見され、瀬戸内地域から船に乗り、この地域に移住してきた人々の集落と考えられるとの記事であった。ダイナミックな広域の移動が、時代を劇的に変化させたと証明できるのではないかと思う。
また、その「富士古文書」によると、徐福は、渡来の途すがら三年三ヶ月紀伊国大山に滞在したことを記念し、彼の地を開いた。「不二山」を見失いさまよった山ゆえにその山を「久真野山(熊野山)」と名付けたとある。 
三重県熊野市にも徐福伝説が残る。
江戸時代の有名な儒学者新井白石が、徐福の熊野伝説について次のように述べている。
「熊野付近には秦住という地があり、土地の人は徐福の故地だと伝えている。七、八里の所に徐福の祠がある。古い墓が差を見せて並び、その家臣の墓だと伝えられている。秦姓の諸氏があるが秦人の従来を思えば必然のことである。」
熊野信仰は全国的に大きな影響力を持っているが、「熊野権現縁起書」(一○七五年)の中に蓬莱島、徐福廟の記述が見られるという。
徐福の顕彰碑というのが一八四○年(天保五年)に建立されているが、徐福の墓は室町時代にはすでにあったという説もある。
現在の徐福の墓(一七三六年)の隣に七塚の碑がある。一九一五年(大正四年)に各地にあったものをまとめたとのことで、徐福の七人の重臣の碑とされている。
この顕彰碑に次のように刻んである。
前文「熊野は日本の極南にして大海中に突出す。呉越の船激しき風雨に遭わば必ずここに至る。
今に至るも呉越の漂船来ること数うべからず。海路の便しるべきなり。」(前略)
「孝霊帝の時、南蛮(えびす)江賓主、船に乗りて来り、暴風にあいて船壊わる。免るる者、わずか七人、三人は船を造りて本国へ還り、留まりて神に事へる者四人、魚を取り権現に供え、子孫繁昌し、
遂に新宮の氏人となる」と。(中略)
孔子、のたまわく、「道理行なわざれば、筏に乗りて海に浮かばん」と。徐生の成するは孔子の意なり。すなわち、その高節偉行により秦の暴政を避くるにあり。その求仙の謀を方士の荒唐とするそしり誹あるを惜しむ。 世界は万国対峙す。千歳の後また蓬瀛を求むる者あらばここに来りて此碑を徴せよ。天保五年甲午歳陽月 仁井田好古一甫撰並書(昭和十五年 再建 新宮市)
徐福の事を徐生と記されているが、格調高い名文であり、私自身も「・・・その求仙の謀を方士の荒唐とするそしり誹あるを惜しむ・・・。」一人である。徐福が渡来したという紀州熊野には「不老不死の薬」天台烏薬も残っている。
このほか新宮市の阿須賀神社には徐福宮がある。
その他、鹿児島県串木野市の西に東中国海を望む冠岳(標高五百十六メートル)には徐福伝説があり、「頂文院文書」によれば「熊野権現扶桑初降の霊地」とされている。
この一帯に渡来伝説がないほうが不自然かも知れない。 
佐賀に残る伝承によると、徐福らは海路有明海に入り、藤津郡の竹崎から海中の孤島「沖の島」を通り、杵島郡の竜王崎に立ち寄り、早津江川(筑後川)下流の寺井津(佐賀郡諸富町)に、にぎやかな歌舞音曲を奏でながら上陸した。
上陸地を占うサカズキを浮かべて流れ着いた場所が「浮盃江(ぶばいこう)」(佐賀郡諸富町)、飲料用の井戸を掘って手を洗ったところが「手洗の井」ー寺井、寺井津の地名という。
金立山中に徐福がめざす不老不死の霊薬を見つけた。それがクロフキであった。
霊薬「クロフキ」。葉の色が黒みがかった緑色で形がフキに似ているため、佐賀弁で「不老不死」がなまって、フロフシからフロフキ、さらにクロフキに転化したと言われている。煎じて飲めば、胃の薬、頭痛、のぼせにきく。
金立神社縁起図には徐福上陸の風景が描かれており、祭神の一柱に徐福が描かれ「徐福王子」とある。
社殿の奧には「湧出(わきでの)御宝石」が描かれその下の方に船に乗っている徐福上陸の様子が描かれている。
山の山頂よりすこし降りたところに、その石はあった。思っていたよりも小さく祠も八帖ほどの広さで小さかった。訪れる人も少ないらしく、かなり寂れた感じがした。
「天孫族の祖」の社としては、もっと豪華でもっと有名になってもよいのではと思ってしまう。
その祠から佐賀平野、有明海が一望でき、二千二百年あまりの時の流れを感じて、しばらくの間社に腰掛けて眺めていた。 
徐福が日本に、そして佐賀や熊野に上陸したかどうかの学問的検証はまだおこなわれたことはない。しかし、日本人、日本文化の起源を考えるとどうしても、弥生時代の解明が必要となり、徐福伝説を考えてしまうのである。そして、佐賀丘陵地帯及び福岡県西南部の有明海に面した地方「有明海文化圏」は、以下に述べる数々の特殊性があり、その起源の場所であると確信している。それが徐福の渡来であったと思うのである。 
徐福は「不死」の考え方を残した。
それまでの縄文時代には、おそらく死者の世界と生者の世界は混在しており、死は魂が肉体から離れるものであり、離れた魂は「あの世」に行くが、また「この世」に戻ってくると考えられていた。
生命は永遠であり、死と再生を繰り返すものであると考えられていた。生きとし生けるものはすべて人間と同じように魂を持っているので、自然を畏敬し、自然を守った。
だから、巨木がその信仰の対象となった。だから縄文人にとって、魂の抜けた遺体にはそれほど関心がなかった。死体を保存する思想はなかったのである。
それに対して、弥生時代には来世に対する考え方が異なる。
人の霊魂は死後父祖の国に帰り、やがて祖霊となる。父祖の国は海の彼岸にあり、祖霊は子孫を見守り加護してくれる。
この祖霊信仰は、大陸から稲と共に伝えられたものである。森を開発し穀物を作ることが「文明」であり、農耕生産の発展が自然を破壊し、それが文明の発展であると考えた。
弥生時代前期の中頃以降、北九州の一角で行われはじめた「カメ棺」は成人の遺体埋葬用の物であり、特殊な葬俗と考えられるそうである。
数ある墓制の中でも最も手厚い葬り方であり、ハイテク技術を必要とし、特権的な人々、特に裕福な集団のみが営みうるものであると考えられている。
この埋葬法が後に古墳へと変化する。
「カメ棺」には、故人の肉体を永遠に保存しようとする強い意識が感じられるが、それは「不死」の考え方をもとにし、再生のねがいを込めた埋葬法であり、道教の考え方であるとの説もある。
佐賀丘陵地帯、福岡県西南部の有明海に面した地方「有明海文化圏」に多く分布するが、北九州でも一部の地域であり、長崎や佐賀県でも玄界灘側には少ないし、福岡県北部も少ない。
これらの地区は海外からの輸入品の出土量も多く、豊かな先進地であった可能性がある。徐福が持ち込んだ思想であり、文化ではなかったろうかと考える。
また、徐福を祀ってある金立神社のご神体は「巨石」であるが、これも道教との関係が考えられる。
道教は現実を賛美し長生きして金を得る。人間の欲望そのままの民衆の信仰であった。
金立神社の巨石信仰には、その道教の影響が考えられるのである。
また、徐福の渡来地とされている新宮市熊野速玉神社のご神体も「巨石」である。
縄文時代と弥生時代は相反する思想構造を持ち、日本はこの二つの文化と縄文人と弥生人の二つの種類の人間を源流に持っている。
弥生人は渡来人であり、特に「有明海文化圏」には、神仙思想が残っている。これらのことから、私はどうしても徐福をイメージしてしまう。
金立神社がある佐賀郡大和町の旧村名「春日村」は、「カ・スガ村」である。「カ」は、「大」の意味、「スガ」は村や集落を意味する古代朝鮮語からきていると言われている。
この地に徐福ゆかりの大集落があったのかも知れない。
有明海周辺の人々は、金立大権現の五十年に一度の沖の島神幸とは別に、毎年陰暦の六月十九日に沖の島参りをする。
大小百艘ちかい漁船が旗や提灯で飾り立て、浮立をはやしながら何回も何十回も島の周りを回ると言う。
なぜ、雨乞い行事の神幸が沖の島まで一泊百五十`もの道を歩くのか。沖の島は鹿島市七浦から約五`の海上にある岩礁にすぎない。
中央に幅2mあまりの深い溝があり、大きいのを男島、小さいのを女島と呼んでいる。
この島を沿岸の漁民は「お島さん」「おんがみ(御髪)さん」と俗称しているが、次のような伝承がある。
むかし、鹿島の塩田川流域に「お島」という親孝行娘が、年老いた父と二人で住んでいた。ある年、大干ばつがあって百姓は田植えも出来ずに困り果てていた。その時、感心なお島が、「私の身を捧げますからどうか雨を降らせて下さい。」と海神に雨乞いの願をかけ、自ら海神の生け贄となって、有明海に身を投じた。お島の亡骸は沖の島に流れ着き発見された。しかし、我が身を犠牲にして人々を救おうとしたお島の願は天にも通じ、待望の雨が降って農民は豊作を喜ぶことが出来た。それ以来、沖の島のことを「お島さん」と呼ぶようになったという。
この沖の島には男島にある石の祠の横に「お島観音」が建てられている。一日二回、潮の干満と共に姿を現し、また沈んで行く。
中国の伝承にも、いまでも徐福の出発日を祝って年三回祭りが続けられているそうで、それは陰暦の二月十九日、六月十九日、十月十九日とのことであったが、この日時の一致は「お島さん参り」と何らかの関係があるのだろうか。
徐福よりも何世紀も後の話ではあるが、祭日の偶然の一致は興味を覚える。
徐福渡来後も中国からの渡来は続き、二百年あまり後、彼らが日本各地に百余国の国を造った。「漢書地理志」(班固により西暦八二年に編修)の中に「倭人百余国朝貢・・」の記事が出ているが、この百余国とは、北部九州地方にあったものとの説が通説である。彼らは定期的に朝貢を行っており、その意識と渡航技術はきわめて高度であったはずである。その他の地方にも、数多くの移民の国ができていったのであろう。その中に徐福の子孫も必ずいたはずである。 
和歌山県の徐福伝説
和歌山県南部に位置する新宮市は太平洋側に面し、黒潮の流れが当たる温暖な地です。熊野川の河口近くにある蓬莱山は半球の美しい形をしており、これを見た徐福たちはこの地に上陸することを決めました。徐福は今から2200年ほど前、秦の始皇帝の命令で東方海上にあるという三神山に不老不死の仙薬を探すために船出しました。そして、何日もの航海の末、たどり着いたのが日本の熊野地方です。徐福はこの地で天台烏薬という木を発見しました。そして、温かな気候、美しい自然に囲まれ、この地に永住することを決心します。土地の人たちと田畑を開墾し、農業技術、漁法、捕鯨、製紙など多くの技術を伝えました。  和歌山県新宮市には徐福の墓を含めた「徐福公園」があります。入り口の門は中国建築を思わせる楼門で大変きれいです。 
秦の徐福の碑
後の人か昔のことを思い見るのは、丁度月夜に遠方を望みみるようなものである。そこに何かがlあることはわかっていてもその形がはっきりしない。形がはっきりしなくてもそこに何かがあることは事実である。徐福が熊野に来たということも、それと同じで、詳細はわからないが、来たことは確かである。
中国の秦の歴史にこう書いてある。「斉の国の人、徐市らが秦の始皇帝に「海の向こうに蓮菜、方文、えい洲という仙人の住む三つの島があります。そこに行って、不老不死の薬を探し求めて参りましょうか。」と申し上げたとこう、皇帝は喜んで徐市に船を与え、子供を大勢つれさせその仙薬を探しに行かせたというのである。この徐市とは徐福のことである。その他の多くの中国の史書にも大体同じようなことが書かれている。仙人の島であるという中国東方の海上といえば、日本以外にはない。
日本でも古来、蓬莱といっている所は、富士山、熊野、熱田などがある。地形から考えると熊野は日本本州の南端に突き出ている。風と海流によって中国の船が熊野浦によく漂着することから思うと、蓬莱とは熊野に違いない。熊野の新宮の地には徐福の詞、徐福の墓、その墓の側に七塚がある。七塚は徐福の一番信頼していた家来の墓だという。或いは徐福がその故国から持って来た物を埋めているのだともいう。
昔、ある人が七塚を掘り返したところ、日本のものではないような数個の器物が出てきたので珍しがってそれを自分のものにした。するとその家族が急に気が変になったので恐ろしくなり、その器物を皆もとのところに埋めたということである。
日本の書物を調べてみると長寛勘文には「大昔大台山から来朝した王子信の旧蹟がある」と記し、また「漢の将軍の嫡子直俊が熊野権現の榎の下に移し迎えた」とも記し、また、「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉王が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ、やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本回へ帰ったが、四人は留まって神につかえ、魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住み着いて繁昌した。」とも書いてある。
これらの話はそれぞれ違っているが、外国人が来朝したしたという点だけは一致している。思うには徐福が秦の国を去ったのは、わが国の第七代孝霊天皇の時に当たる。中国、日本両国の史伝ではその渡来の年代や人数に多少のくいちがいがあるが、大昔のことはすべてぼうとしていて誰にもその詳しいことはわからない。月夜に遠方を望むことはこのことだ。
当時、日本にはまだ文字がなかった。漢字が伝わり、文字がかけるようになったころには、古代のことははっきりわからなくなっていた。書物によって名前が合わなくてもそれらは、皆徐福をさしているのである。徐福の子孫は平和を愛した祖先の理想こ生き、神につかえて繁栄した。二千百余年後の今日まで世は移り変ったが、墓を守り祖先を祭りつづけて来たのは、まことに立派である。ああ、徐福は泰の国政が乱れ、人民がしいたげられた時、その魔手を逃れるため道教を研究し仙術を修行する方士となり、それでも身辺の危険を感ずると「東海に仙人の住む三つの島がある」と進言し、平和な楽しい国に行こうと謀った。彼は早くから東方君子国の存在を知っていたのである。孔子は「道理の行われない嫌な世には筏に乗って海外に行こう」と言ったが、徐福は孔子の気持ちを実行したのである。
中国の戦国時代に魯中連という人は「泰がもし天下の政権を握るようなことがあったらすぐ私は東海に身をなげて死ぬ。私はどうしても秦の民となることはできぬ。」とはげしい口調で言った。他人は魯中連の精神に感動し、その言葉を小気味よいと思った。しかし、彼はただこう言っただけで実行しなっかった。この魯中連を、泰から遠く清らかな世界に逃げ去ることを実行した徐福に比べると月とすっぽんほど違う。
泰朝幾億万の人間の中に一人として徐福以上の高潔な精神をもち偉大な実行をした人はない。後世の愚かな歴史家達はこの点を理解できず、徐福を単なるほらふきの方士に過ぎぬと悪口をいうのは残念である。江戸時代、桜町天皇の元文元年(一七三六)、新宮城主水野忠昭が墓を立てさせたが、表彰する碑文がなかった。それから百年後の今年、仁孝天皇の天保五年私が薄命を受けて熊野を巡り徐福の故事をさぐった。はっきり残っているこの遺蹟を世に広く知らさねばならぬと思ってこの碑文を作ったしだいである。
ああ、広い世界に多くの国々が対立している。幾千年の後にまた蓬莱の島をたずねてくる人かあったら、ここに来て、この碑文を読んでください。
秦の王様、乱暴で人民どもを苦しめる。蝉や小鳥は飛んで逃げ哲人徐福は船出する。
楽しい国よこの熊野、ここが本当の蓬莱だ。人の情も温かく子孫代々栄え行く。
徐福の墓はいつきても花や線香絶えやせぬ。遠い異国の人も来て見よ、美しい山や河
 
徐福伝説3

 

はじめに
日本の古代史に興味がある人でこの「徐福伝説」を知らない人はいないだろう。特に「縄文・弥生時代」に関心の深い人にとっては、彼らが本当に日本にたどり着いたのかどうか、大いに興味をそそられる話であるはずだ。
その伝説とは、紀元前219年、秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団がいた。それを先導したのが秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」である。というものだ。
先年物故した作家の司馬遼太郎が、彼に憧れて名前をペンネームにしたという、中国の修史官 司馬遷が著した中国で最も古い歴史書である「史記」にこの一団の話が登場する。『史記』は中国における最も古い歴史書で、紀元前100年頃に完成されたものと推定されるが、非常に高い学術的権威をもった大著とされている。それは、記事や伝承の内容を著者司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、そのため極めて真実性に富んだ史書とされているのである。徐福の事件は『史記』の完成わずか100年前の出来事である。司馬遷は当然現地を訪れその信憑性を検証したに違いない。『史記』には「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり。」と記載されている。中国正史のなかで徐福について初めて触れたのは司馬遷であり、『史記』の「秦始皇本紀」および「准南衝山(わいなんこうざん)列伝」に取りあげられている。
その後も『漢書』の「郊祀志」および「伍被(ごひ)伝」、『三国志』の「呉志」および「孫権伝」、『後漢書』の「東夷列伝」、さらには『三斉記』『括地志』『太平御覧』『太平寰宇記』『山東通志』『青州府志』など、幾多の時代を通じ、中国の歴史文献に絶える事なく記載されている。
しかしながら、長い間中国では、徐福および不老不死の妙薬をめぐる徐福と始皇帝との出会いが歴史的事実であるかどうかについては、多くの学者は否定的、懐疑的であり、単なる民間伝承に過ぎないと関心を持たれる事もなかった。ましてや学問的に研究・評価の対象にはなっていなかった。その主な理由は、史書の記述が簡略で委細を極めていないこともあったし、そもそも徐福なる人物像が曖昧模糊としたイメージに包まれており、具体的な人物像が浮かんでこなかったことにもよる。遺跡も明らかでなく、人物像も不確か、正史の記述も簡略と来ては研究しても成果は期待できず、結局は歴史の虚構であるとされて、学問的には長いこと放置されてきたのである。
そんな中、1982年、一人の中国人学者が偶然「徐福村」(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村)を発見した。学者は信憑性を自問しながらもその重要性に鑑み、研究室の中にプロジェクト・チームを結成して本格的な調査に乗り出した。そして最終的に、まさしくここが「徐福」の居た村である、という結論を導き出すに至ったのである。この調査結果論文は、日本外務省・国際交流基金の資金援助によって1985年11月北京で出版された、『中日関係史論文集(第一輯)』(中日関係史研究会編)の冒頭に「説徐福到黄遵先」として報告された。
(この論文集には、他14名の現代中国を代表する学者・知識人が論文を執筆しており、その内容は「円仁入唐求法巡礼記録」「阿倍仲麿」「吉備真備」「古事記」「日本書紀」「古今和歌集」「裴世清(はいせいせい)家系」「豊臣秀吉」「日本中世文学」「刀安仁と宮崎滔天の友情」等々となっている。)
この報告は中国内外で大きな反響を呼び、その真偽を巡って論争が巻き起こった。当然この報告に懐疑的な意見もあり、著者自身もそれは認めている。しかしこの論文をきっかけに、1987年4月「第一回徐福学術討論会」が徐州で開催され、80人以上の研究者や団体が参加し、50編以上の論文が発表された。その後も数次に渡る討論会が開催され、その結果、徐福の実在、徐福村の発見、については今日ほぼ事実として認められたと言える。(勿論、反論も依然として存在する。)又、徐福を先祖とする徐姓一門が名乗り出て、2000年の由緒正しい系図を持つ徐氏一門が、今日なお中国全土に健在である事も判明した。
(中国における家系と家系図に対する扱いは日本のようにいいかげんなものではない。厳粛な、個人の全存在を賭けたに等しい扱いなのである。捏造した事がわかれば家系からも社会からもはじきだされ、まともな扱いは受けられなくなる。中国では大部分の家が、何代にも渡る家系図を保有している。)
中国の歴史学者で、我が国にも著名な「汪向栄(おうこうえい)」氏は次のように述べている。「もしわれわれが真剣に中日関係交流史を、とくに日本の古代における発展過程を縄文時代から弥生時代までたどり、慎重な観察と検討を加えようとするならば、この徐福伝説を軽率に否定することはできない。徐福が東渡して日本にとどまり、再び中国へ帰ることはなかったという『史記』の記述についても、そこにはなにか深い原因と理由が存在したのではなかろうか。現在の徐阜(じょふ)村の人々が悠久の歴史の流れと人の世の激しい変動のなかで、二千有余年にわたって消すことなく絶やすことなくその地名を残し、徐福という人物についての先祖からの伝承を今日まで伝えているという事実はなまやさしいものではなく、単なる偶然として片づけるべきものではない。」 
説徐福到黄遵先の概要
1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の「羅其湘」氏は、江蘇(こうそ)省・かん楡(ゆ)県「かん」いう字は日本の当用漢字にはない。
地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見した。「ふと注意と関心を誘」い調査したところ、この村がかっては「徐福村」と呼ばれ、現地にかの「徐福伝説」の伝承が残っている事をつきとめた。調査班は実際に現地に入り、「徐阜村」が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐副村」と呼ばれていた事を確認し、村に残る「徐副廟」を調査した。そして村の古老達の語る「徐副」伝承を採録するのである。教授の調査で明らかになった事の中に、「徐阜村」に現在「徐」姓を名乗る者が一人も居ない、という驚くべき事実がある。そして古老の語る次の伝承を紹介している。
『徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。」「それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」』 
始皇帝巡行と徐副との出会い
西方の遊牧民族犬戒(けんじゅう)の進入によって鎬京(こうきょう)から東方の洛邑(らくゆう)に遷都した周は、さらにその後550年の長きに渡る春秋戦国時代を経て、中国の宗家としてその存在を誇っていたが、やがて東周の勢いも衰え、大陸各地に諸侯が割拠して覇を争う戦乱の世となった。いわゆる、「春秋の五覇・戦国の七雄」である。これらの諸侯は血みどろの争いを繰り返したが、やがて一頭抜きんでて周を覆したのが秦王「政」である。
諸侯をなぎ倒し乱世を統一した「政」は、紀元前221年、都を「咸陽」に定め自ら「皇帝」と称した。
中国の古代帝国「秦王朝」の誕生である。始皇帝は早くもその2年後、紀元前219年に全国巡行の旅に出る。
旅に先立って始皇帝は会稽山に登り、天下統一の功績をたたえる碑を建てた。その後琅邪に三ヶ月滞在した。この時徐副は1回目の「不老不死薬」に関する意見書を上奏している。
史記の「秦始皇本紀」には、「徐市」(じょふつ)らは始皇帝の命を受けて海へ出たが神薬を手に入れる事は出来なかった。「蓬莱へ行けば必ず神薬を得ることが出来ます。しかし我々はいつも大鮫に苦しめられてついに島へ行くことが出来ませんでしたと偽って上奏した。」とある。
第二回目の始皇帝の巡行は紀元前210年である。徐副は、この時再び琅邪を訪れた始皇帝と会見し再度「仙薬」を求めて渡海すべしとの命を受ける。史記の「淮南衡山(わいなんこうざん)列伝」によれば、「・・・。始皇帝大いに喜び、良家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工をたずさえて渡海させた。徐副は平原と沼のある島にたどり着き、そこにとどまって王となり、帰ってこなかった。人々は嘆き悲しんだ。」となっている。
天下統一後の始皇帝は、神仙の道に心を奪われ、特に「不老不死」の薬探しに躍起になっていた。徐副はその白羽の矢が自分に立った事を知って遠大な計画を立てた。秦の始皇帝は咸陽城や阿房宮や万里の長城の建設など多くの土木事業を興したが、なかでも驪山(りざん)の麓に造営した巨大な陵墓のためには70余万人に登る刑徒を徴発して送り出し、建設が終わると大量に生き埋めの刑にした。他にも始皇帝の残虐ぶりはつとに有名で、この不老不死の仙薬探しにしても失敗して死罪になったという話も聞こえてくる。
自分も死罪になるかもしれないという事は容易に想像できたはずである。徐副自身が「不老不死」の薬などをほんとに信じていたのかは疑わしい。しかし断れば首をはねられる。1回目は何とか騙しおおせたが2度目はもう言い訳はできない。
つまり帰っては来れないと悟ったのだ。そこで「王国」を建設するのに必要な人材、技術を一族から集め、始皇帝をだまして「秦」を脱出した。
「羅」教授は、秦の始皇帝がなぜ多くの神仙方士のなかから、特に徐副に「不老不死」妙薬探しの白羽の矢を立てたのかについて、始皇帝の本来の目的は、えん楡地方、「斉」の故地を、隅々まで一掃して「秦」への反乱を押さえ、将来の禍根を絶とうとしたのだろうと言う。
「徐」家はかっての徐王国の末裔だった。その為に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、又そういう名家の出身だからこそ、3000人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだとする。教授達は「徐福」の家系についても調査し、彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江(揚子江)、准河(わいが)、泗水(しすい)、済水(せいすい)の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。
暴虐な始皇帝の統治下から逃避しようとした民衆の集団脱出事件の例は他にもある。「後漢書」の「東夷列伝」に「辰韓のある耆老は、自分は秦からの亡命者で、苦役を避けてはるばる韓の地に逃れてきたと言った。」とあり、「三国志」にも、「陳勝らが蜂起して国じゅうが秦に背き、燕・斉・趙の民衆で朝鮮に逃亡した者は数万人におよぶ。」とあるように、秦の暴虐から生き延びようとすれば民衆は浄土を求めて海外へ脱出するしか道がなかったのである。当時いかに秦の圧政が凄惨なものであったかを物語る。 
徐福の航海
『史記』は、「徐福は童男童女を引き連れて脱出する時、稲を含む五穀の種子と進んだ農耕機具や生産技術を持って(五穀百工)東渡した。かれらは広い平野と沼地のある土地へたどりついた。」と述べている。
これはまさしく「渡来人のもたらしたイネと技術」を暗示する記述である。イネはやはり朝鮮半島経由ばかりでなく、中国大陸から直接北九州や太平洋沿岸(鹿児島、四国南岸、和歌山等)地方に伝わるルートもあったのではないだろうか。加えて最近の研究では、イネが朝鮮半島・日本列島に伝わったのはほぼ同じ時期であるという見解もある。だとすれば、従来言われてきた朝鮮半島経由というイネの伝播ルートは今後見直す必要性が出てくる。東シナ海を突っ切って、江南地方から済州島を経由して日本の九州西岸にたどり着くルートがあったのかもしれない。そのためには高度な船舶製造技術と確かな渡航技術が必要で、弥生時代初期すでに中国大陸にはそのような技術が存在していたとみるべきだろう。
羅教授の第二回目の調査書では、「徐福」一行は中国を出て済州島に到ったという報告になっている。そこから果たして日本へたどり着いたのかどうかは定かでないが、日本各地に残る「徐福伝説」を紹介し、九州西海岸に上陸した可能性を示唆している。
後世の「遣唐使」船は、平底船で極めて波切りが悪く、風によっては帆を降ろさねばならずその為多くの漕ぎ手を必要としたが、それでも乗員と使節団合わせて500人を4隻の船で運んだ事が記録されている。1隻あたり125名である。最近中国で「秦」代の造船所の船台跡が発見された。そこから復元できる秦代の船の想像図は総量5、60トンのりっぱな外洋船である。これなら東シナ海を突っ切って日本へ到着できたかもしれない。想像以上に、古代の建造技術は進んでいたのかもしれないのだ。 
日本における徐福伝説
そもそも、この伝説そのものは一体いつ頃日本に伝わったのだろうか? 当然「史記」を読める人達が出現してからである。おそらくは、「遣唐使」制度が定着し、盛んに学僧達が中国の文化吸収に努めた頃からだろうと思われる。
「史記」を持ち帰った僧達はこの話を広めやがて日本中の人が「徐福」を知る。そして自らの故郷にある「渡来人去来」の言い伝えはこれに違いないと思う。そうか「徐福」だったのだ、という訳である。やがて「徐福」を祀(まつ)った祠(ほこら)が建ち寺が建つ。
実際本当に、その地を渡来人が訪れたのかもしれない。しかしそれが「徐福」一行だったのかどうかは謎である。3000人もの集団がもしほんとに日本に上陸したとすれば100人づつ乗ったとしても30隻、50人で60隻の船が要る。おそらく大半の船が航海中に離ればなれになるだろうから、日本のあちこちの海岸線に漂着した可能性もある。
今日「秦」(ハタ)さんと呼ばれる人達は渡来人の末裔である、という事になっており、京都や大阪に残る太秦(うずまさ)という地名も秦から来ているという。また、畑、羽田というような姓も「秦」から変化したものと言われている。
秦(ハタ)は秦(シン)でもある。秦の時代に来た渡来人という事で、十把ひとからげに「秦」(ハタ)と呼ばれたのかも知れない。
徐福が本当に一族郎党 3、000人を引き連れて日本に来たのかどうかは今となってはもう確認するすべもない。しかし実在はほぼ確認できたわけだから、「秦」を出ていずこかへ旅だったのもおそらく事実であろう。「徐福」に象徴される中国人達の集団が、大挙して或いは散発的に日本列島に渡来したのはほぼ間違いない。「渡来人」と言うと我々はすぐ朝鮮半島からのルートを頭に浮かべがちだが、中国大陸から済州島経由で日本列島へ渡来した中国人達も結構な数に上るのかも知れない。私には、「イネ」のルートはどうも朝鮮半島経由よりこれらの中国系渡来人たちがもたらしたもののような気がしてしようがない。
半年ほど前、家族でTVを見ていて現代中国の若者が写っているシーンがあった。若者だけではなく多くの中国人もまた出演していたのであるが、音楽を志す若者を特集している番組だったように思う。その時私の娘がふと呟いた一言は、今も私の脳裏から離れず大きな音響となって脳内をこだましている。「この人達の顔、私たちとそっくりね。」
そうなのだ。日本人にそっくりなのである。顔は生活レベルや環境により大きく変わると言われるが、好き嫌いや余分な先入観などを抜きにして言わせて貰えば、私には韓国人より中国人の顔のほうがより日本人に近いような気がするのである。NHKの特集でDNAの謎に迫る番組があった。4、5回のシリーズだったが見た方も多いと思う。あの中で現代日本人のDNAがどこの国のDNAに一番近いかという話があった。その時は、現代日本人の20%は中国人、20%は韓国人、日本古来のDNAが10%以下、残りその他(東南アジア等)という構成だった。「徐福」はやっぱり来ていたのかもしれない。
いずれにしても、渡来人達のもたらした灌漑稲作技術や神仙思想などは、縄文時代から弥生時代へ移ろうとしていた当時の日本に大きな影響を与え、以後の日本社会の方向も大きく定める事になるのである。 
 
徐福伝説と稲の道4

 

四方を海で囲まれた日本は、ややもすると「独自の文化」を強調したり、「国際孤児」の烙印を押されがちであるが、そうしたハンディーを乗り越えて古来から国際交流に努めてきた。比叡山に参詣した折りに、奈良から移り住んだ中国仏僧の事跡をみることで、遣隋使や遣唐使が言語の不自由なく彼の地に行けた理由がなるほどと解った。公衆衛生の講義資料を集める際にも、交通の未発達な時代でなおかつ鎖国下にあったにもかかわらず、ジェンナーが痘瘡の予防法として「牛痘法」を発明してわずか30年で地球を半周して日本に新しい種痘法が伝わったことに驚いた。それまでは、中国由来の「人痘法」が行われており、強毒な野外株の接種による「ワクチン禍」により死亡した例が多かったものと想像される。節句を祝うのは、痘瘡等による死を越えたことの意であり、生きること、命を繋ぐことへの執着を示す祭である。
「不老長寿の仙薬」を求めて渡来したとされる方士 徐福の物語を、生への執着と重ねると種々の見方ができる。徐福は何に執着したのか? 徐福を今に伝える日本各地の伝説は日本人が何に執着してきたことを物語るのか? 大学改革等で国際交流がキーワードとなっている昨今にあって、古代伝説を振り返ることも参考になろう。 
日中の架け橋
徐福伝説を我が町の由緒・誇りとしてる所は日本の各所にあるが、私が昨年7月に移り住んだ串木野市の自宅から100メートル余の所にも徐福廟が建てられている。「さわやかに徐福渡来の大一歩」と刻んだ句碑が廟の傍らにあり、柱には「日中友好」の陶板がある。この碑を建立した三善喜一郎氏は、日本徐福会副会長の要職をされており、この地はもとより日本各地の徐福由来の地や中国の徐福生誕の村まで足を延ばし、集めた資料を自宅の一角に「徐福・図書資料館」を設けて公開している。ご近所なので尋ねていくと、戦前の中国東北地方での見聞から始まり、その後60年余に亘って収集した古代の日中交流に関する資料を熱心に説明された。渡された一枚に、「徐福廟建立の心 三つの願い」として、「1.戦犯の懺悔、2.遺徳の称賛、3.風土の顕彰」と書かれてある。
近代の不幸な侵略戦争の傷跡は、「靖国参拝」などで隣国から非難を浴びてようやく振り返る程度まで日本人の中では風化している。国境という壁を築いたのは中世から近代のことであり、国家が成立していなかった古代では、ビザなしで自由な往来が当たり前だったのである。もちろん小集団の間での小競り合いは、昔も今も変わりはないだろうが、規模を大きくして国家とかそれを集めた国家ブロックでの抗争は余りにも激しく、今や「地球をぶっ壊す」ところまで来ている。徐福は、日本における文明の曙期に現在につながる基盤を、現在からすると途方もなく広かった黄海を超えて、「五穀と百工」をもたらした訳であり、その遺徳を思うと国境の偏狭さが疎ましい。日本の各所にある徐福伝説の地は、その遺徳を2000年余に亘って伝承してきた訳であり、そうした文化の継承を続けてきた風土に改めて感謝したい。おおよそ、こうしたことを祈念したものであろう。 
徐福渡来の地
徐福伝説は鹿児島から青森まで及んでおり、「義経不死説」同様、日中を跨いだロマンを掻き立てる。長年の間、徐福は架空の世界に葬られてしまっていたが、1982年、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた徐州師範学院地理系教授が偶然「徐福村」(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村)を発見した。実在の人物であることが明らかにされ、「義経不死説」とは異なり、歴史上の事実となった。
徐福の渡航は、失敗に終わった初回がBC219年で、2回目がBC210年とされるが、それから1000年余を経た753年に、唐僧鑑真が串木野南方の坊津に上陸しており、この地にも徐福伝説がある。鑑真の航行も容易ではなかった訳だから、その遙か昔に童男童女3千人を引き連れて黄海を渡るとなると、季節風や潮流を見計う高度な航海技術を必要とする。中国における遺跡調査から、「春秋時代に大型船が存在した」、「徐福は造船所を持っていた」とし、岩山に刻まれていた天体図は今日のものと比べても正確であることが紹介されている。こうした航海技術により、一日ほどで渡り切ったと考えられているが、出航地と上陸地は未だ特定されていない。
「大いなる第一歩」となった地は、前項で紹介したように、我が家のすぐ傍にある島平港とするのが最も自然であると、当地では考えている。ここには、昔から「秦波止(しんばと)」と呼んだ波止場があったことが根拠の一つである。長江大洪水(1986年)で発生した多量の漂流物が、串木野および南部の吹上浜一帯に打ち上げられたことは、潮 流に乗ると最短距離にあることを示している。春には浜競馬が行われる照島海岸の一角にあり、江戸時代には薩摩焼きを伝えた朝鮮の陶工が上陸した港でもある。また、明治の開国前に渡英した薩摩留学生が出航した羽島港は、串木野本港を挟んで筋向かいになる。現在もマグロ漁で世界の海を駆け巡る土地柄にあり、渡来の地に相応しい要件を備えている。
太陽や星を見ながらの航海で陸地が見えた喜びは想像に余りあるが、鑑真一行が上陸した坊津の近くにの野間岳、阿多一族が栄えた地域にある金峰山、串木野の冠岳(かんむりだけ)、出水の紫尾山などが、九州南部の海岸線に聳えている。上陸した徐福は、見知らぬ土地の地勢を眺望するため、数キロ先の冠岳を目指した。その中で一番高い西岳には、「冠嶽山 鎭國寺頂峰院」があり、この地に冠を脱いで永住を決意した徐福を記念して「徐福来朝之碑」が建立されている。弘法大師縁の九州四十九院薬師霊場第二十七番札所である当院には、この碑の脇にある釈迦如来をスタート、薬師如来をゴールにした「冠岳八十八ヶ所霊場」が設けられ、修験地として現在も信仰を集めている。インドに七年間留学した経歴がある徐福は鍼灸医術に通じていたとのことであり、「不老不死の仙薬」と「薬師」は、薬師霊場冠岳で繋がる。
本堂でお茶を御馳走になった際、「冠燈会」の奉納による「徐」と刻印された供物の落雁が出された。春には「徐福花冠祭」、夏には「観月会」、秋には「柴燈護摩供養」が催され、多くの参拝者を集めている。因みに、もてなしてくれたのはベルギーの女性であり、入り口には「ビルマに献血車を送りましょう」という募金箱が置かれており、現在も国際色豊かな寺院である。鎭國寺参道の途中からシイやクヌギの落葉樹に覆われた細道を登ると阿弥陀堂があり、二番札所が置かれている。享保時代の奉納による石仏が安置され、誰かが寒風凌ぎのマフラーを掛けてあるのが地元の方々の暖かさを忍ばせる。細道を抜けた所から、串木野市と中国を隔てる海原が一望でき、徐福もこうした景色を眺めたであろうと思うと、妙に時の流れが止まってしまう気がする。 
冠岳園と麓集落
冠岳の麓には、用明天皇の勅願所として蘇我馬子が建立した熊野社を起源とする冠岳神社があり、護摩岩で供養を終えた一行は僧侶を先頭ここに拝礼する。行列の中程に、飾り立てた「シャンシャン馬」を引く白装束の女性があり、よく見るとこの方も欧米人らしい。キリスト文化圏でも仏教や東洋思想への関心が高まっているとは聞くが、このような片田舎まで彼らを惹き寄せるものは何か? 僧院が橋渡しとなっている訳だが、地域の人々との国際交流がさりげなく展開されている。
神社の隣には冠嶽園が建てられているが、鎭國寺は明治までこの地にあり、廃仏毀釈の波を受け、後年になって山頂の現在地に再建されたとされる。東シナ海と蓬莱山を模した中国様式の庭園に朱色の建築がコの字形に配置され、背後の竹山と見事に調和している。八蓬閣の裏手には紅梅、白梅が植えられ、春にはそこの梅の香漂う休憩所からの眺めがすばらしく、私は数年来「花見はここ」と決めている。八蓬閣の脇に徐福が静かに佇み、渡航の顛末と日本における行く末を思案している。建物内には、串木野市と中国との友好交流を物語る記念品が陳列されており、年間水揚 200 億円を超える遠洋まぐろ漁業を誇る海洋都市として中国との距離を感じさせない。事実、上海とは 850kmと東京より近く、港町として発展してきた当市には、鎖国の江戸時代においても中国人との通訳に当たる「通詞」が置かれ、中国沿岸部との交易が行われていた。
来訪者名簿をみると県外客も多数いるものの、普段訪れる人が少ない庭園内は、私にとって最高の息抜きの場であり、隣の公民館で地元の味噌や「豚味噌」などが入手できるのも嬉しい。麓の福薗と生野部落には、冠岳小学校と生福小学校があり、卒業後は生冠中学校に通うことになるが、昔からの地名に徐福の伝説が根付いている。串木野市の東隣にある「市来町」公民館のBSE講演に招かれた際、徐福の額縁に気付いた。徐福は徐市(じょふつ)とも称されており、「徐市が来た」が町名の由来だとも言われている。冠を脱いだ冠岳の北方には、約1000mの紫尾山があり、冠を結わえていた紫の紐を置いたのがいわれである。もちろん、徐福伝説が残る各地と同様に、上陸した島平港にある照島神社の祭神 少名彦那命(すくなひこのみこと)としても祀られており、三善氏は「少名彦那命は異国渡来の薬師である」としている。 
徐福は何を求めたか
中国の正史(「史記」、「後漢書」など)では、秦の始皇帝に「不老長寿の仙薬」を献上するために徐福は大海に乗り出したと記されている。焚書で知られる始皇帝がそのような軟弱な話に乗ったであろうか? 後の元寇では、日本を支配下に置くために大軍を派遣したのであり、権力者としての発想は何時も明快である。比叡山を焼き討ちした信長を想像しても、もう一方の権力者=宗教界を殲滅するか懐柔するかと思案する姿が権力者に相応しい。となると、冷徹な権力抗争の中に口出しする宗教界、対応を誤るとややこしい事態を招きかねないことを思慮して、追放ないし懐柔策として仙薬探しを表向きの理由として徐福に出国を促したのではないか?
始皇帝は父 子楚の実子ではなく、母 太后は呂不韋の元の愛妾であり、子楚が 譲り受ける前に懐妊していたとの説もあり、黄帝の四男を始祖とし王侯に封じられた家系にある徐福が目障りであった。近年行われた家系調査により、徐福は長江、准河、泗水、済水の流域一帯に栄えた中国屈指の名門徐王の末裔であることが判明している。政敵が次々に処刑されていく中で、 徐福が亡命を望んだとしても不思議ではない。始皇帝は泰山で封禅の儀を行ったが、徐福は冠岳でこの儀式を行った後自らの王冠を奉じ、泰山になぞらえてこの山を聖地としたのである。「東岳山頂には方位を象る『酒舟石』が置かれ、その山腹の五反坂に棚田をしつらえて持参した稲を植えた」と三善氏は自信を持って語る。徐福が生まれた地と似通った地形をしており、「四神相応の霊地」としてしばしの間ここで骨休めして渡航の疲れを癒し、「蓬莱の國」建設の構想を練ったものと思われる。 
神武東征
約24、000年前の地層から日本最古の石製女性ビーナス像が発見された耳取遺跡(財部町)、約15、000 年前の竪穴式住居跡2軒や炉跡と石器製作跡が発見された水迫遺跡(指宿市)、開聞岳の大噴火で埋まって保存されたことにより縄文式土器より弥生式土器が新しいことが層位的に明らかにされた橋牟礼川遺跡(指宿市)など、鹿児島県内には数多くの古代遺跡がある。さらに、近年、約9、500 年前の「国内最古、最大規模の定住化集落跡」が発見され、東日本が発祥の地といわれてきた縄文文化は、実は鹿児島から広がったとの推測もなされている。
こうした背景の中で、可愛山稜(川内市)、高屋山稜(牧園町)、吾平山稜(高山町)の古墳群が現在も宮内庁管理下に置かれている。霧島神宮の上に聳える高千穂峰山腹には、天孫光臨の地 高千穂河原と古宮跡が残されている。さらに、福山町宮浦神社には神武天皇お手植えの御神木が伝えられているが、境内から「延喜式内社宮浦宮」の標識石が最近発掘され、格上の神宮であったことが判明した。こうした天皇家縁の事跡の数々は、実は、徐福と重なるのである。冠岳麓の生福部落には、昭和天皇即位の大嘗祭に献上米が収穫されたことを記念する「献穀田記念碑」が建立されている。すなわち、先代天皇の即位に当たり、この地が特別の意味を持っていることを、天皇家自ら示したものと言えよう。
中国の科学者衛挺生教授および彭雙松氏は、徐福こそ神武天皇であると指摘し、いき一郎氏や三谷茉沙夫によって日本にも紹介されている。彭氏は、東洋蘭の研究家であるが、静岡原産とされる「駿河蘭」は元来亜熱帯地方の「四季蘭」であり、福建省の「建蘭」と同一であることに気付いた。その由来を調べている際に、「駿河蘭」は徐福が持ってきたものが繁殖普及したものであるとの説に出会い、それ以降、徐福研究の虜になったと記している。日向には徐福が船を繋いだとする「徐福岩」があり、瀬戸内海を経て熊野に上陸した徐福は、数多の出土品で実証されてきたようにその地に日本で最も早く弥生文化を開いた。新宮市に建てられた「徐福の墓」は有名であるが、この地一帯には大陸文化をもたらした徐福に纏わる伝承が多く残されており、「熊野大権現は徐福」と断じている。そう言えば、串木野にある冠岳神社も熊野社を起源とするとされており、共通項で結ばれる。
「当時の日本全土の人口が、推定7〜8万人。そこに圧倒的な先進文化を持った徐福集団、童男童女3000名と百工が来たとする。徐福が日本に王国を建設する目的だったとしたら、十分可能である」と羽田氏は述べている。「三種の神器」である鏡、勾玉、剣は秦代のものであり、「神武東遷」と「徐福の東遷」は37項目の共通項があるとする彭氏の主張に、私は強く引き寄せられる。 
徐福がもたらした文化
徐福が運んだ「五穀」に、新しい水稲品種があったとしてもおかしくはない。新天地を開発する上で、主食の米を確保することが何よりも大切であろう。この点は、多くの徐福論で一致した認識である。他方、「紀元前300年から紀元700年までの1000年間に日本列島が受け入れた渡来人は100万人を超えるという。そして、古墳時代末期には、縄文原住民一人に対して渡来人は4〜9人という驚くべき数字になるという」国際日本文化研究センターの上原和朗教授の推計を羽田氏は紹介している。これからすると、徐福以外にも水稲を持ち込んだ集団があっても不思議ではない。
静岡大学農学部の佐藤洋一郎氏は、遺跡から出土した炭化米のDNA鑑定を進め、DNAのSSR(Simple Sequence Repeat)領域の多型性を基に次のように提唱している。
「縄文時代前期の終わり頃に日本列島に渡来した熱帯ジャポニカは焼き畑式耕作スタイルであった。長江流域で生まれたと推定される温帯ジャポニカは、水田稲作の技術とセットになって、縄文時代晩期の終わり頃日本に渡来した。中国には8種類全てのSSR型が存在し、朝鮮にはbを除く7型が存在するのに、日本の品種の多くはaまたはbに限られている。このことは、渡来ルートとして、朝鮮半島経由よりも黄海ルートが主であり、頻回の伝来よりも少数回の伝来を推測させる。」
徐福の渡来ルートには大きく分けて北航路説と南航路説があり、現在のところ前者が優勢である。山東半島を北上して黄海を渡り朝鮮半島から済洲島を経由すると九州北部が渡来の地となる。しかし、佐藤氏が指摘した寄港地の水稲品種と日本の品種の多様性の差違は、北航路説に否定的であると考えられる。南航路説には、台湾から沖縄、奄美諸島を辿るルートと、福建省辺りから海流に乗って直接鹿児島西海岸を目指すルートがある。佐藤氏の説を徐福伝説と重ねると、後の鑑真一行と同様、我が島平の「秦波止」に直接辿り着いたと考えたい。島づたいに来れば容易であったろうが、「少数回の伝来」とはならないと考えられるからである。新しい技術体系ともなれば、今日と同様、庶民が持ち出す訳にはいかなかったのではなかろうか? その点、百工を引き連れた徐福には、新技術を持ち出す充分な能力がある。
東洋医学史研究の宇田氏は、徐福は神仙系の方術のみならず「黄帝内経」の系統をひく鍼灸医術にたけていたとし、遣隋使など後世の正式な外交ルートで伝えられた中国医学に先立つ古代和方医術を形作ったと推定している。「日本全国の有力な神社や名家に伝来されてきた医薬とその処方(和方)を、勅命によって集めさせて『大同類聚方』百巻が編まれた。・・・・・考えられることはこの和方の原型を日本にもたらしたのは明らかに鍼医・徐福である。・・・・・おそらくこの和方医術の伝統や下地があったからこそ、後世の再度の中国医学の急速な流入にも対処できたと考える。」
「青銅と鉄の技術者集団渡来」について」、いき氏は古墳出土品を元に詳述し、その他、紡織、養蚕、窯業、製塩、造船といった工業の大発展をもたらした秦の文化を徐福集団が日本に伝えたことを羽田らは論じている。日本三大砂丘の一つである串木野南部の吹上一帯は砂鉄の宝庫であり、沿岸に林立する松は火力が強く、製鉄を行う格好の場所であっただろうと三善氏は力説する。この好々爺の話す様は青年そのものであり、日本民族の「来し方行く末」を自分の一生と重ね合わせている。 
終わりに
田舎を走ると各所に「道の駅」ができており、特産物が売られている。九州では「黒米」や「赤米」を置いてあるところが珍しくなく、「今までどのように維持されてきたのだろうか」と不思議に思うことがある。生産性が高く、品質も良い水稲が席巻したにもかかわらず、こうした「縄文の味覚」が2000年余も保存されてきたのだから・・・。しかし、考えてみれば当然のことなのである。稗、粟、蕎などが昭和初期までの日本人の常食であり、白米を食べるのは庶民の夢であった。水田で採れた米は小作人の口に入ることなく、施政者に巻きあげられていたのであり、中山間地の荒れ地に強い雑穀とともに作付けされ続けてきたのであろう。飽食の現在にあって、「縄文の味覚」としてもてはやされる「黒米」の歴史を辿ることも重要なことではないか。
鎭國寺の参道下に、2000年11月に「徐福の像」が建立された。中国で制作された御影石の像は高さ8mもあり、3分割されて運ばれたとのことである。交通手段が比べものにならないほど発達した現代にあって、今回の渡航はさほどの苦難ではなかっただろうが、カッと開いた徐福の眼に映るアジアの情勢は昔年と変わっていないのではなかろうか? 民衆レベルで国境を越えることが「国際交流」の原点であることを、今の私達に語りかけている。 
 
東三河と徐福伝説5

 

「徐福」東渡で、到着した地と言われる場所は、日本の各地にあるが、「本当に定着した地」は、決着していない。古史古伝・「富士古文献・宮下文書」に記載されるところでは、「徐福」が目指した地は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」と呼ばれていた。
愛知県の東三河は、古代「豊国」「ホの国」と呼ばれ、ホウライ(鳳来)という地名(町名)がある。鳳来寺山は、古代の火山で、数千メートルの高さをもつ巨大な「不二山」であったと言われる。東三河は、この不二山の南山麓に位置する。そして、富士王宮と呼ばれたところが、豊橋市に3箇所(賀茂神社、浅間神社、椙本神社)確認された。つまり、東三河は、まぼろしの「富士王朝」と関係があるようだ。
豊川市牛久保の伝承「牛久保密談記」によれば、鳳来寺山の少し南の「本宮山」の麓には、紀州「古座」から移り住んだ徐福の子孫が繁栄し、秦氏を名乗っていたとの伝承がある。そして、その子孫は全て、三河に居住していた、とのことである。秦氏の名前は、豊川市に幡多郷などとして、残っているが、中国名であることを嫌って、日本名に変えたといわれる。 そのため、現在の三河の居住者に「秦の氏名」は少ないが、羽田氏などの姓の有力者が住まわれている。
古代神都・東三河は、「徐福」の求めてきた、「平原広沢の地」であった可能性が高い。 
1.初めに
徐福伝説とは
秦始皇帝の時代、方士「徐福」は、不老長生の霊薬を求めて東海の3神山に向けて船出したという。百工、童男童女を含む3000人を乗せた85隻の大船団は、弥生時代の日本を目指した先進文明を伝える福の神の一行であった。
その徐福一行が目指したところは、蓬莱、方丈、えい州と呼ばれる蓬莱の国・3神山の地である。蓬莱がどこにあったかは、各種異論があり、台湾、韓国、日本、はたまたアメリカ大陸という説まである。
そして、中国、韓国、日本には徐福伝説をもつ地が多数散在しており、徐福の歴史的実在性は、疑えないものになってきている。
徐福伝説の存在する地は、日本に数十個所もあり、中には紀伊半島熊野や、富士山北麓吉田のように、徐福の墓と呼ばれるものまでが残っている。
しかし、いずれも伝説の彼方からもたらされたかすかな情報に基づくものであって、確たる史実とは言い難い。
筆者は、1996年に「古代神都・東三河−日本の源流!? 」なる書籍を彩流社から発行しているが、その論の根拠の一つは、徐福伝承と多数の徐福ゆかりの痕跡の存在であった。
徐福は、世界の大元祖の国・蓬莱を目指して渡来し、平原、広沢を見つけてそこに、王となって留まったという。そして、その地は、不二高天原・豊葦原瑞穂の国と呼ばれたという。それこそ、日本の原点、いや、世界の原点とも呼ぶべきところであろう。
果たして、不二高天原は何処に存在したのであろうか。そして、その地は現代の人々にとってどのような意味をもつ地なのであろうか。 本報告では、その徐福の探し求めた「蓬莱の国」・不二高天原の真実に迫ろう。 
2.富士古文献・宮下文書・徐福文献

 

富士古文献は、富士吉田市に住む宮下家に保管されていることから宮下文書とか、東渡した秦の方士・徐福が編纂したという伝承から徐福文献と呼ばれている。宮下家は富士山北麓吉田に所在し、記録された文献の内容は、富士山南麓の不二高天原における、日本の超古代史の事が記載されているという。
しかし、該当する不二高天原の古代遺跡から、ここに古代王朝が存在したという根拠は見いだされていない。ただ、古代遺跡は富士火山の爆発と溶岩流によって埋もれてしまい、消滅してしまったのだろうとされている。
一方、富士山北麓には、富士古文献で述べられているような、大掛かりな湖沼、神都が存在するという遺跡の存在が感知されない。このことから、富士古文献自体が偽書であり、根も葉もない虚偽の古代史であるという意見もあり、アカデミズムの世界からは無視されているのが、実情のようだ。
しかし、富士古文献は徐福文献ともいわれ、徐福が蓬莱の国に渡来し、その栄光の歴史に感激し、木片や木の葉に古代だんべい文字で書かれた文書を、漢字で書き記したものともいわれている。(注、ちなみに、参遠地方の浜名湖を航行する古代船は、だんべい船と呼ばれていた。)
もし、徐福が実在の人物であったとすれば、徐福文献自身も歴史的に実在した可能性は極めて高く、その内容の信憑性もおおいにあると言うべきであろう。
筆者は、徐福文献とも言われる富士古文献の実物がどのようなものか、大いに関心をもっていたが、最近、八幡書店から富士古文献の写真版が発行されていることを知り、大枚をはたいて購入した。この文献を見る限り、富士高天原の存在したことはまず疑えないと思われる。ただ、その所在地が現在の富士山北麓と設定しているところに、問題があるように見受けられた。
私見では、富士古文献は、富士山北麓の史実ではなく、東海の3神山の地、即ち東三河から奥三河の地で展開された、日本の神々の歴史が記された文献であると推定される。その結論に到達した過程を以下に述べていきたい。 
2.1 富士古文献「宮下文書」の由来
まず、富士古文献「宮下文書」とはどのような由来をもつものかについて紹介しよう。宮下文書は、阿祖山大神宮(富士太神宮)の宮司を代々務めてきた宮下家に保存されていたためこの名があり、天竺真郡国から渡来した神皇農作比古神が富士山に高天原朝を開いたという伝承に始まる。ウガヤ朝になって九州霧島に移行し、51代の天皇が続いた後、神武天皇の神倭朝になったという内容である。
「徐福文献」といわれるのは、木片や石面などに神代文字で記されていた文書を、不老不死の霊薬を求めて富士に渡来した徐福が、この史伝に注目し、漢字に書き直したという伝承によるものである。
また、「宮下文書」は「寒川文書」とも呼ばれるが、これは延歴19年(800年)4月、富士山が大爆発を起こし、噴火が35日も続いたことがあった。この大噴火は「日本紀略」にも記されているが、伝承によると高天原は壊滅し、阿祖山大神宮も消失した。そこで、神宮関係者は、相模国に移住し、相模川の河口近くの高座郡に、高天原を流れていた川の名にちなんで寒川神社を創建し、伝来の文書を保管したという。このため「寒川文書」なる名称が付けられたという。
現在の文書は、小室浅間神社の宮司・宮下源太夫義仁が、寒川神社を訪れた際、文書の重大性に仰天して、その全文を筆写し、浅間神社に伝えたものだという。
寒川神社は、弘安5年(1282)に起こった大洪水のため、社屋が流出するという被害をこうむり、文書も消失した。しかしその内容は、宮下源太夫が筆写したために残存した。 
2.2 富士古文献「宮下文書」の内容
富士古文献「宮下文書」には、徐福が秦の始皇帝に、東海の三神山に霊薬を求めて旅立ちたいと進言する様子が、詳しく記されている。
「徐福、すなわち上書して曰く、東海の蓬莱、方丈、えい州の三神山は、世界の大元祖にして、大元祖の神仙の止まれるあり、かつ不老不死の良薬あり。もしこれを服せば、千万歳の寿命を保持することを得べし。 臣、まさに童男童女5百人と海に入り、これを索めんと請う」と。
「宮下文書」によると、徐福一行の富士到着までの様子は次の通りである。
東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。
しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは。
木日国(紀伊国)木立野の大山であった。
徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。
一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
徐福は一族とともにこの地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行わせたという。
徐福は、書巻約3千巻と、印度留学から持ち帰った薬師如来像を、小室高座山に建設した宝蔵に収め、阿祖大神宮の宝物にしたという。
徐福が死んだのは、孝元天皇7年(前208)の2月8日、場所は富士中室とされている。遺体は中室の麻呂山に埋葬されたが、相次ぐ富士山の噴火によって、多くの遺跡とともに埋没してしまったという。
徐福の子孫は、その後も当地に止まって、福のつく苗字を残した。
現在、富士周辺に残る徐福の事跡としては、富士吉田市の太神社に徐福の墓がある。
和歌山県の熊野新宮にも、徐福伝説は多く、徐福の第2子・福万によって、「久真野」と名付けられた。 新宮というのは、富士山の本拠点を「本宮」と考えて付けられたもので、その後、長期間にわたって、相互の交流が図られたという。
宮下文書については、古代史作家の佐治芳彦氏による次のような文章もある。
「宮下文書は秦の方士徐福が、富士の阿祖山太神宮の神官が語った古代史を聞き、その深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものとされている。とすれば、ほぼ紀元前200 年頃までに成立したことになり、日本最古の史書と云うことになる。もちろん膨大な伝承のすべてを、徐福一代で筆録したとは考えられない。恐らく漢字をよく知る徐福の子孫なり従者が、その作業を継承したものと考えたほうが自然だろう。だが、これはあくまで徐福が渡来し、富士山麓に永住したと云う伝承を前提とした推定である。一方、徐福筆録説とは別にこの文書は、第8代孝元天皇が自ら選録し、徐福はその勅命で筆録したものという説もある。 暦代記他数編は孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを"書き作り記し置"いたのが徐福である旨を、宮下原太夫義仁によって"謹書"されている。この孝元天皇というのは、津田左右吉博士の記紀批判以来架空の存在とされているが、一部の古史古伝の研究者のあいだでは、神武系とは別系の孝昭王朝(孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の各天皇)の、いわば後期の天皇であり、また戦後、史学会のほぼ通説とされているハツクニシラススメラミコトである、祟神系王朝によって滅亡させられた、日本列島の原・先住民系の王朝の天皇と考えられている。」等々・・ 
2.3 徐福に関するその他の情報    
さらに佐治氏は、司馬遷の書いた"史記"秦の始皇帝記に、伝わる徐福のことを要約して、次のように述べておられる。            
「秦の始皇帝が中国の統一を果たし、東方の郡県をめぐって、山東省の浪邪山に滞在したときのこと、方士(方術を行う人、道士)徐福が皇帝に次のように奏上した。'東海に蓬莱、方丈、えい州という三つの神山があり、そこには仙人が住んでおります。我々は、陛下の不老長寿のため、斎戒して身を潔め、汚れなき童男、童女とともに、その神山の麓に参って、仙人に会い、霊薬を求めたいと思います、'と。そこで始皇帝は、徐福に命じ、童男、童女数千人を連れて、東海の彼方の仙人の住む霊山をめざして、出航させた。 始皇帝28(BC219)年のことである。ところが、始皇帝37年(BC210)、揚子江から東支那海に沿って、北上し浪邪を再び訪れた始皇と徐福は、再会したのである。徐福は海路、霊山を求めたが数年経っても霊薬など入手できず、要した費用は莫大なものになる。そこで、始皇帝に、詐(イツワ) って次のように奏上した。'蓬莱島の霊薬は手に入ります。 しかし、いつも大鮫魚が現れ、島にたどりつく事ができません。 そこで、弓の名手を乗船させて下さい。そして大鮫魚が出てきたら、弓を連発して退治して貰います。'そこで皇帝自ら弓をもち、東海へ向かった。 皇帝は浪邪から山東省の芝不に到ったところで、大魚を射止めたが、その後間もなく病没してしまった」という。
史記の別の個所ー準南衡山列伝ーには、つぎのような異説が伝えられている。
「始皇帝は良家の童男童女、三千人を派遣するにあたり、これに五穀の種をもたせ、諸諸の工人をつけて出発させた。 しかし、徐福は平原と広沢を手に入れると、その地にとどまり、王となって再び中国に帰ることはなかった。」と。
徐福が仙薬を求めた島とはどこか、平原、広沢を手にいれて、王となったところはどこか。日本には違いない。さらに焦点を絞って行こう。 
2.4 元日本徐福会理事長・飯野孝宥氏の徐福説           
故飯野氏は、1993年当時日本徐福会理事長をされており、「弥生の日輪」という著書をだされた。 そこで、秦の徐福の蓬莱の国、日本来訪について詳しく述べられているが、その由来は「史記」「宮下文書」と最近の諸研究成果によっている。飯野孝宥氏の"弥生の日輪"の第一章には、史記の作成された背景が記され、徐福の事跡に対する考え方が出されている。
「中国では徐福村の実在が明らかにされ、その大陸でのいきさつと不可解な出航までは、"弥生の虹桟"に記されている。徐福は邪馬台国の450年も前(BC210 年)に突然日本の古代に姿を現し、その船団の渡来伝説を伝える遺跡は、中国に十数か所、日本に40数か所、朝鮮、韓国に数か所、合わせて60数か所もがアジアの地図上にあるという。しかし、徐福のことは日本の官選の古事記、日本書紀にはなんら記録がない。三千人もの渡来人が忽然と消えてしまうのはおかしな話で、事実が歪曲されているのは明らかだ。だが、日本の古文献に、記録は実在していたのだ。それは正確にしかも詳細に。縄文以来の火の国の歴史を書いた"宮下富士古文書"いわゆる"徐福古問書"と呼ばれる一群の古書である。しかしこれらの古典はなぜか伝説として葬られ、日本の古代史家は避けて通ってきた。だが、多くの郷土史研究家は早くからこれに着目し、蘊蓄を傾け立派な研究を残してきた。
結論から云えば、司馬遷の"史記"の船団出発は、到着した日本での記録と完全に符合する。それだけでなく、日本に住み着き帰らなかった理由までもが記されている。これはその船に乗っていた者以外には書き記す事が出来ない内容である。まるで本人の徐福自身が作者ではないか。
宮下文書では、徐福来朝は神武天皇建国の日本国第7代孝霊天皇の時(BC218)、不二高天原の神都に辿り着く。 蚕製糸、織物を業としその地にとどまる)とある。」
そのいきさつは以下の通りである、と飯野氏は要約してくれている。
「敬神祟祖の念が熱い孝霊天皇は、朝夕治国平安を感謝して、皇祖大神を拝していた。徐福は始皇帝を欺き、新造した大船12艘に金銀、五穀の食料の他、諸口と品々を積み、老若男女500余人を率いて、不二山を目印に東海へ航すが、本嶋の南海で不二山を見失う。紀伊熊野に迷い着き、しばらくこの地に留まったが、不二山を再び見付けてやってきた。その後3年後に、孝霊は娶る女人7人、男子12人、女子8人を残し崩御された。 寿齢128才、片岡馬坂の陵に葬る。この孝霊天皇の没後約100年後に中国で、司馬遷が"史記"を書き残しているのである。さて更に、徐福は八代孝元天皇の世に大きな足跡を記録しているので、日本での記録を引用する。'人皇七代孝霊の世に、徐福は秦の始皇帝へ、東海の蓬莱、方丈、えい州の三神山は全世界の大元祖にして大元祖の神仙がとどまれり、その山上に長生不死の薬草あり。我はその薬草を探り、君に奉らん。 さすれば万々歳、寿令久しく帝運いよいよ盛んなるべし。'と奏上する。始皇は大いに悦び、派遣に同意した。 徐福は更に'その薬草を採りますには、まず南天竺より薬師如来を求め迎え、老若男女500余人を従えて貢ぎ、働いてもらいます。帰るには早くて15年、延びれば25年いや30年はかかります。 金銀米、塩、味噌、五穀、砂金、銅並びに油、500人以上の食料30年分を見積り、大船85艘を要します。'と始皇を欺き、トヨアシハラミズホノクニ(富世明波羅御住火久仁)へ旅立つ。そして、筑紫(九州)、南島(四国)を尋ね回り、紀伊国大山に昇り、実に3年3ケ月の長きにわたり滞在し、高天原の大室、中室に永住することになった。
当時渡来した558人は、秦徐福、一男福永、二男徐方、三男福寿、一女天正女、二女寿安女、三女安正安、四女次正女、孫一丸、福正女、自蓮女 以上12名
男壱人:徐永、得正、藤光、件光、円光、円方、他 計35名
老人女分:清日女、美目女、目永女、貞流女、他 計45名
妻有人男(夫婦者):利益、忠時、要領、能佐、活梢、経京、済明、天雲、光敬、陸清、 慶山、金明、銀山、鉄山、鉄人、光宝、光清、伝保、清水、孝徳、田主、国正、信正  吾作、頼光、明仁、一保、二保、正道、玉志 他 計138名
夫有人女(夫婦者):竜永女、天竜女、明永女、小泉女、阿志女、宇志女 他計11
5人若人男(未婚):元定、信永、福元、徳成、健保、彦古、他 計 41名
若人女:阿根女、貞目女、佐加女、要日女、利佐女、湯和女、他 計43名
童男 :真彦、千丸、大丸、忠子、源太、千丸、豊丸、金根子、銀坊、等計51名
童女 :比売女、比久女、与黒女、玉江女、美比女、等48名
合計588名となっているが、数があわない。(528名)」ということである。 
3.富士古文献「宮下文書」の内容解釈への批判

 

富士山北麓の現実を見るに、徐福に関連した確かな史跡はどうも乏しい。そこで、宮下文書の記述の信憑性が少ないといわれている。 筆者は、徐福一行が列島に到着したことは事実だと思うし、富士古文献も全くの偽書とは思われない。従って、富士古文献の内容、比定場所の解釈をやり直す必要があると感じていた。 
火山噴火の影響
たとえば、延暦の噴火によって天都を焼いたとされる溶岩は、寄生火山から噴出した剣丸尾(けんまるび)ではないかといわれているが、これを調べた人がある。この溶岩は標高2900メートルの山腹割れ目から流れ出して、スバルライン2合目と丸山との間を流下し、富士急ハイランドの敷地を経て、下吉田の赤坂で止まっている。その溶岩下から縄文式土器や古銭が出土しているので、かなり長期にわたる人間の居住が確かめられたが、町田洋氏はこの丸尾を延暦または貞観の噴火の産物ではないかと推定している。しかし、その流れは帯状に長く、青木ケ原を埋めた溶岩のような広大さはないので、天都絶滅説は怪しくなるのである、と。
富士高天原伝説は幻か
要するに、この地を研究している地質学者にとっては、かつての帝都の存在「高天原伝説」は語る必要もない「異次元の世界」なのであった。ただ、「高天原伝説」を夢として語るならば、壮大でこの上なくすぐれた叙事詩であり、文学の世界での存在価値があるという。だからこそ「幻の帝都富士山高天原」でもある、という。 
4.古代神都・東三河の出現

 

筆者は幻を追うつもりはない。現実的な史実を追っていると思っている。つまり、結論的には、富士古文献は、富士山北麓の史実を表しているのではなく、場所の設定が間違っている。というより、意図的すり替えが行われたと考えられるのである。それでは、本当の天都・高天原はどこだったのろうか。たぶんそれは、宮下文書に出てくる地名を共有する他の地域にあるはずである。そこで、徐福伝説をもつ東海の三神山の地、東三河から奥三河の地という線があぶり出されてくる。従って、富士古文献は、東三河の地で展開された日本の神々の真実の歴史が記された文献であると推定できる。 
4.1 牛川・石巻山の謎の遺跡
東三河には、神々の来訪伝承が沢山あるが、中でも興味深いのは、石巻山である。愛知県豊橋市の東北に位置する牛川町と石巻山には、不思議な謎がかくされていた。 謎の一つは、牛川稲荷神社(浪ノ上稲荷)の境内に立つ20に及ぶ立石である。
そこに刻まれている文字は、今まで見聞きしたことのない謎の"大神"の名であり、"地神"と刻まれた石巻山遥拝石である。 また、蓬莱島を模した弁天島と、浪ノ上1号という発生期の古墳がある。そこから、中国将官用環頭の両刃の剣が出土している。国宝級の品物といわれる。 この真相は何か。謎は解かれなければならない。      
謎を解く鍵は、意外なことに偽書と云われた古史古伝、"宮下文書(富士古文献)"にあった。それは、忽然として現れた"弥生の日輪"ー秦徐福伝説と古代天皇家ー(飯野孝宥氏著、新人物往来社、1993.9)との出会いに始まる。 
4.2 東海の三神山
東三河には、神と崇められた霊山(ピラミッド型山)が多い。その中でも石巻山と本宮山、更に内陸にある鳳来寺山(蓬莱山を連想させる)は、日本古来の有名な神山で、仙人(修験者)の住む処であった。 まさしく、東海の三神山なのである。
宮下文書で云う徐福渡来が史実であり、最終目標である蓬莱の国が、日本であり、しかも3神山を目指していたと云うのであれば、それは徐福伝説をもつ、東海地方の三神山を目指していたとしか考えられない。 即ち、筆者の仮定した神山で囲まれる地(東三河のダイヤモンドゾーン)が、徐福が仙薬を求め、平原、広沢を手に入れて、王となった地ということになる。 そうであるとすれば、徐福一行は豊橋に上陸したはずであり、その証拠があるはずである。 
4.3 徐福定着地に関する仮説
筆者は、徐福定着地を実証するため、二つの仮定を設けた。
仮定1)秦の徐福日本渡来の伝説は史実であった。
秦の始皇の方士徐福は、3000余の童男、童女を引き連れ大船団を組んで、日本にやってきた。 しかし、船団は分裂し日本各地に上陸した。 その本隊は愛知県御津に上陸し、真の三神山である石巻山、本宮山、鳳来寺山を見いだし、この地域に住み着いて、その後の日本の基礎を築いた。牛川稲荷の石碑に刻まれた大神は、神とされた徐福一行の記念名簿である。
仮定2)宮下文書の内容の多くは真実であるが、その場所設定が間違っている。
富士山麓は分岐船団、徐市の一行が到着したのであるが、東三河とのその後の交流もあって東三河での史実が、富士山麓の史実にすり変わってしまった。宮下文書記載の内容は富士山の爆発にも影響されず、現実は東三河に残っている。逆に、この仮定が証明されれば、宮下文書の信憑(シンピョウ)性がより確実なものとなり、日本の古代史、超古代史を明確に知ることが出来るようになる。 
4.4 仮説の検証
既述の宮下文書内容を、上記2つの仮定に照らして検討して見よう。
まず、不二山の比定であるが、飯野氏は無条件に、現在日本の象徴となっている富士山を考えておられるが、筆者の考えはこれと異なる。 それは参州と云われた地にある不二山、即ち、石巻山、本宮山、鳳来寺山のことで、事実三河では石巻山のことを三河富士とも呼ぶのである。(注、神社を中心としたる宝飯郡史の213 頁には菱木野天神社の鎮座地について、「東北を望めば三河富士の称ある石巻の連峰は北に走り」とある。)
駿河の富士山は、東海地方のどこにいても目に付くほど高く聳えているのであるから、見失うことはまずないはずである。また山上には不老不死の薬草も生えることができない。 その点三河富士の方は、太平洋に船出すると見失い易い。また頂上付近にはこの地特有の薬草植物が群生し、天然記念物と指定されている。
次に、徐福一行の人名であるが、これらの名は牛川稲荷社の石碑に刻まれた、謎の大神の名と極めてよく似ているのである。 中には同一名もある。私が最初に石碑の大神の字を見いだしたときは、これだけ大勢の大神を刻む牛川稲荷とはとんでもないところだ、と思ったのだが、その謎がここに来て、ようやく解けて来たのである。つまり「徐福一行は、蓬莱の地に辿り着き、産業を起こし、定着し、その功を讃え、神としてあがめられた」、という表現が事実であったのではないか、いうことに思い到ったからである。 
4.5 牛川稲荷の謎の大神
牛川稲荷神社の石碑に刻まれた、謎の大神の名をつぎに記す。 なお、これには徐福一行以外の大神がはいっていると思うが、明快に分離出来ないのですべてを記すこととする。    
1)地神、御嶽大神、稲荷大神 3神
2)保一大神、霊悠大神、◎保福大神、玉広大神、八汐大神、白鷹大神、世秀大神、松里大神、役保大神、徳保大神、榊丸大神、太田大神、国光大神、豊信大神、白地丸大神、清能大神、豊広大神、豊一大神、保照大神、豊光大神、安薙大神、榊天大神、豊繁大神、光盛大神、清繁大神、大芳大神、玉光大神、玉繁大神、玉房大神、菊一大神、豊徳大神、玉芳大神 国榊大神、宝珠大神、豊川大神、徳王大神、伊代大神、白崎大神、三鈎大神、豊高大神、光繁大神、玉吉大神、光国大神、光清大神、長明大神、年春大神、高市大神、玄馬大神、孤八大神、宝弁大神、笹勝大神、松富大神 52神
3)白崎坊大神、三笠山通坊大神、人丸姫大神、白山坊大神、天徳大王大神、日光坊大神、白峰坊大神、三笠山大神、瑠璃坊大神、太郎坊大神、次郎坊大神、大僧坊大神、秋葉坊大神 18神
4)鈴木、服部、酒井、石上、松本、牧井、天井、彦坂、花川 (霊神、信者氏子) 
次に、牛川稲荷社の東側に、蓬莱山を模した弁天島がある。 そこにはつぎの神と童児が鎮座している。
筑嶋大神、筆硯童児、稲籾童児、飯鑓童児、金財童児、計升童児、衣裳童児、馬童児、善財童児、菅箒童児、生命童児、鶴皇童児、稲酒童児、船車童児、愛敬童児、従者童児15童児
これは、概念的役割を持たせた架空の童児かも知れないが、童子は、徐福一行の重要な随行者である。        
因みに、蓬莱山を模した弁天島を境内にもつ神社が東三河に数社ある。 豊橋船町の湊町神明社及び、豊川稲荷社東の三明寺が該当する。また、豊橋近くの吉田神社祢宜屋敷には薬草園があって、百花園と呼ばれていた。仙薬の栽培を連想させる。いずれも、徐福の目指した蓬莱の国を彷彿とさせる事跡である。
牛川稲荷の石碑の中に、徐福の名がないのを残念に思っていたところ、かつてのメモを見ると、徐福と見える字があるではないか。よく見るとそれは保福であった。しかし、徐福と保福の手がきの字は、ほとんど同じに見える。石碑の彫刻の際間違えた可能性がおおいにある。 保を徐に読み替えると、豊橋牛川には徐一(徐市)、徐福、役徐、徳徐、徐照等徐一家が来豊していたことが明快になる。
尚、牛川稲荷の祢宜である鈴木氏に、石碑の由来を尋ねに行ったところ、この石碑は氏子のひとの守護神を祭ったものだと云われた。 牛川稲荷の社殿ができたのは意外に新しく、以前は石碑群と古墳があっただけであるようだ。 石碑群も大正時代に整頓されたそうで、内容も分からず台石に、字を彫り込めたものを、逆さに積んだりしたものもある。 しかしその古さは確かなものであり、彫刻された字が風化して、読み取り難いものも多い。 
その後の調査で、この地域の住人は、これら石碑の大神の子孫であることが判明した。徐福一行がこの地の先祖であれば守護神として祭られるのも納得できる次第である。 
4.6 徐福一行持参の文物とトヨアシハラミズホの国
ところで、宮下文書では、
「徐福一行は高天原の大室、中室に留まり、まず女子は蚕子として、繭の糸をひかせ、機織りをさせた。 男には農夫、大工、壁塗り、狩人、紙師カミスキ、傘張り、楽人、仙人、衣類仕上加工、酒造夫、油製造夫、鍛冶工、鋳物師、諸細工師、医師、石工、塩製造夫、その他百工をそれぞれの下に就かせた、という。積載してきたものは、南天竺国より求めてきた薬師如来像、文書48通り360件、孔子著作の諸物1850巻、支那の諸学書1800巻、等であった。この書はのちに不二山元宮阿祖山神社に宝物として収められたが、延暦19年福知山の大噴火の折りにその大半が消失した。 来朝した一行は徐福をはじめ一同天神を嵩敬しており、小室の高座山に保蔵を建て、薬師如来を納め祭った。徐福は渡来の途すがら、3年3ケ月紀伊国大山に滞在したことを記念して、かの地へ、二男徐方(後に福島)にけん族50人の百工を付けて派遣し、その地を開くことを命じた。 不二山を見失いさまよった山ゆえに、その山々を久真野山と名づけ、高天原に祀った宮を本宮、彼の地を新宮と称し、相互に交流することになった」とある。
さて、不二山が三河富士(石巻山)を含む三神山を指すと考え直すと、東三河一宮の後背地に神奈備型の本宮山があること、また、昔より東三河と熊野は、修験者の交流があったことが意味を持ってくる。 牛川稲荷の西200mほどのところに、熊野神社の古社があり、熊野の山伏が豊橋にきて、殺生沙汰を起こし、山伏塚に葬られたりしている。今でも、熊野地方から豊橋への人の流れはあるのである。
徐福の目指した三神山に比定できる石巻山、本宮山、鳳来寺山のいずれにも、中腹または山麓に薬師如来を祀る寺が多い。石巻山麓では、持統上皇ゆかりの薬師如来像が鎮座する浪ノ上正円寺、や牛川薬師町の薬師寺が、本宮山麓では真言、天台の密教系寺院に薬師瑠璃光如来を本尊とするところが多く、曹洞宗、臨済宗などの寺も薬師如来を本尊とする。これらの寺は当地に数多く建立されている。また鳳来寺山の中心である本堂は薬師堂である。
また、天神信仰に関しては、牛川稲荷東方約100mのところに、かつて天神山遺跡があった。次に、高天原であるが、豊橋北部賀茂町には"間川"という川が流れていて、その上流は石巻中山町を源流とする小さな川"安川"である。              
神代の時代、神々は高間ケ原の安川原で談合した、という設定場がそのものずばり、現実に地名として残っているのである。 間川近くの高台これが私の推定する高天原(高間原)である。大室は大野町上吉田(賀茂町の北)にあるし、この地区には牟呂用水が流れており、牟呂(室)の名の付くところは多い。小室は、鳳来寺山門谷に比定できる。 
賀茂神社のもと境内社に富士王宮と称された富士神社があったという。(神社を中心としたる宝飯郡史、PP371) 祭神は木花咲耶姫命である。当地方には富士社と称するものが更に3社(富士霊社、富士浅間社、藤社権現)があり、富士山との関係は極めて強い。  
ところで、トヨアシハラミズホノクニとは東三河の昔の国名そのものである。つまり豊橋、豊川、豊津、豊島という豊の地で、当時は葦のしげる湿原が広がっていたであろう。豊橋市の中央東部には芦原町や葦毛湿原などの地名が残っている。瑞穂の國の穂は、国造時代の東三河は"穂の國"といわれていたことから、自明である。現在も豊川市の中心部の地名は"穂の原"である。ホの國は現在も、宝飯郡として名を引き継がれている。ホの國は国名を漢字2字で表すべしとの律令時代の方針に沿って、宝飯(ほお)から宝飯(ほい)郡に変音してきたのだ。つまり、トヨアシハラミズホノクニは、昔葦原であった平原で、豊かな瑞々しい稲穂のゆれる東三河の國を指していたのであった。
以上、諸々の事が宮下文書の内容とぴったり合致しており、徐福伝説、宮下文書と、東三河高天原・蓬莱説の三者が、ともに史実を表わしている事が証明される。           
ただ、富士山爆発に関することは、富士山麓に辿り着いた別部隊の事跡が語られているようで、宮下文書に一部混乱がある可能性がある。それも後代の人の書き込みによって起こったと思われるが。 
5.東三河の徐福に関する伝承 

 

5.1 豊橋地方の伝承
"国史より観たる豊橋地方"(大口喜六)によれば、「東三河に於いて、宝飯、渥美両郡は極めて秦人に関する伝説の多い処である。
特に宝飯郡の御津地方には、秦の徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求むるにあたり、木の国から転じて、三河湾に入り、ここから上陸せしものと伝へられて居る。 元来 徐福が長生不死の薬を求めて、蓬莱島に到ったといふ説は、独り我が国のみならず、支那に於いても頗る古くから伝わって居る。 さうして宋の欧陽修の日本刀歌にもそのことは言われて居る。 我が国では最初徐福が来航したのは紀伊国の熊野であると伝へ、今も新宮にはその墓と称するものがある。 
ただこの伝説は頗る汎く、且つ古いにも拘らず、何ら拠るべきものがない。併し、我が宝飯、渥美両郡から、多くの銅鐸を発見せられたることは事実である。秦人の伝説と銅鐸、この関係は結局離るべからざるやうに思はれる。」とある。これは非常に貴重な証言である。 
5.2 義楚六帖
志茂田景樹氏の"ついに明かされた徐福王朝の秘密・・謎の邪馬台国"によれば、義楚六帖に徐福に関する記述があり、つぎの通り。
「日本国伝愈伽大教弘順大師賜紫寛輔なるものありて又言う。" 本国の都城の南五百余里に金峰山あり。" " また東北千余里に富士と名付け、また蓬莱と名付く。その山峻にして三面これ海。一だ上に聳えて頂きに火煙あり、日中は上に諸々の宝ありて流下し、夜はすなわち却って上がる。常に音楽を聞く。徐福はここに止まりて、蓬莱といえり。今に至るも皆秦氏と言う。" 」
これは後周時代、日本で言えば平安時代の史書であり、留学僧弘順が中国に行って話したことである。 志茂田氏は富士山麓を蓬莱と名付けたとされているが、この場合妥当と云えず、この文章を解明することによって、東三河が蓬莱であることは、明確になる。
すなわち、都城の位置は、高天原が、賀茂町" 間川" ほとりの高台であり、いまの賀茂神社の前身が都城ということにすると(一宮町上長山、野田豊島の線も排除出来ないが、いずれも近い)、これを基点に南五百余里( 昔の短里=90m、を仮定して約45Km南) には田原蔵王山があり、これはピラミッドの金字山、金峰山である。( 因みに、役小角(エンノオズヌ) が蔵王権現を感得した峰を金峰山と称し、熊野の蔵王堂のある大峰山も金峰山という。) この金峰山から、東北千余里(約90Km) は鳳来町の鳳来寺山( 蓬来とも呼ぶ) に当たる。 これを、その音名の通り蓬莱と名付けたことは明白であろう。
徐福の来朝されたBC200年頃は、石巻山麓まで海が近づいており、地名にも浜とかなぎ江といった、海にちなんだものが残されている。 三面海とは三河湾、太平洋、浜名湖をさす。       三神山(石巻山、本宮山、鳳来寺山)はいずれも急峻で、富士の名をつけるに値する山であることは言うまでもない。 本宮山麓の上長山には宝川があり、流下している。一だ上に聳えて火煙ありとは、鳳来寺山がその昔煙巌山と言われていた所以を思い浮かべれば明白である。
愛知県郷土誌料刊行会発行の"三州鳳来寺山文献集成"(S52.12) によると先代旧事本紀鳳来寺略縁紀に「煙巌山は本堂より西に当たれり。峰を隔てて聳えり。此処は、利修仙人護摩を修せる煙、常に巌に立ち登る。故に煙巌山と名付く。仙人住居峰多けれども、殊に此の名を以て当寺の山号とせり」とある。
即ち、弘順大師が頂きに火煙ありと言ったのは、この護摩をたく煙の事であり、常に音楽を聞くとは、開山利修仙人が鳳凰にのり、笛を吹きながら空を飛んだという、言い伝えを反映したものである。尚利修仙人のことを笛楽仙人ともいう。
要するに、宮下文書を解説される方々は、富士山麓を徐福の定着の地とされるのであるが、上述の通り、はっきりと三神山を比定出来、文書類と対応が可能な東三河こそ徐福定着の地であったとするべきであろう。 
5.3 宮下文書
宮下文書の人皇七代孝霊天皇紀は、徐福直系の七代嫡流秦福寿が謹書して遺し、山宮二所大神大宮司宮下源太夫義仁建久三年三月(AC1192)に写本したとある。
石巻山を囲む周辺の連峰に、峰の坊があり、その南には浅間社奥の院( 頭社) 、浅間原川社( 腹社) 富士神社( 足社) があり、この峰から東の方に富士山が眺められる。 富士山と石巻山は古代から交流があったことが考えられ、宮下文書に富士山で営まれた歴史を組み入れることは可能で有ったろう。 いや、宮下文書の原本は、天皇家の書庫に所在し、写本が富士に分けもたれたとも聞く。前者は蘇我氏滅亡のとき、蘇我蝦夷により火をかけられ、焼亡してしまった。
七代嫡流秦福寿は更に記している。「徐福に従い参れる人々の子孫は、不二山や近くの山々、沢沢の住人の三分の一の多きに達した、と。 古問場に保管されていた孝元天皇の文書古記録文献は、全文21万6千字の膨大なものであり、原文は万葉仮名で、これだけの文章が書け、中国古代史に精通していた人物は、徐福一行以外に考えられない。 彼らは上陸地域で争いを始めるどころか、神として祀られることになった。」と。
牛川稲荷の石碑に示される大神の一群はその証左で有ったのだ。        
織物産業の発祥地生衣(ウブギヌ)神社が三ケ日にあり、機織りを行う服部神社や環繰(ワクグリ)神社が一宮にあるのは、彼らが五穀、百工の先進技術をもたらした地を証明するものである。 
彼らの船団は西から黒潮に乗って、海を押し渡って来た。前代未聞の宝船であり、米俵と金銀財宝の御利益を弥生の神都にもたらした七福神であった。 
5.4 徐福の後裔について                            
史記より後に書かれた正史"三国志"の呉書孫権伝に徐福が辿り着いた地についてさらに具体的な記述がある。                             
「呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡り夷州と檀州(センシュウ) へ向かわせた。檀州は大海の中にあって、老人達が言い伝えるところでは、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、童児と童女数千人を引き連れて、海を渡り蓬莱の神山とそこにある仙薬とを捜させたとき、徐福達はこの島に留まって帰って来なかった。 今では代々その子孫が伝わって数万戸にもなり、その州に住む者が時々会稽にやってきて、布を商ったり、逆に会稽郡に住む者が大風にあって漂流し、檀州に着く場合もあるという。 しかし此の州ははるかな遠方にあって、結局捜しあてることができず、ただ夷州の数千の住民をつれて帰っただけだった。」
徐福が上陸した地は檀州であるという。 檀州(センシュウ) は参州が聞き間違えられたものであろう。 また、三河御津は船洲とよばれていた。 つまり、徐福が上陸したところは参州三河のことであったと推定される。
尾参郷土史の孝霊天皇の項には、
「天皇之72年に秦人の徐福が木の国牛間戸の湊に来り、転じて参河の宝飯郡海辺御津浜の六本松と称する所に上陸す。 其の風景の美、肥沃の地なるを喜び居館を築く。徐福は秦始皇帝を欺き玉布、金銀、童男、童女を具し官位は古座侍郎の高官たれば、三河に来たりても富み栄え、我が民族もこれを尊敬し恵を蒙ること多く、其の随行の童男女、成長して居民となり、秦氏を称す。これ東参に秦氏の多き所以なり。 この民族は長山神社を建て天長地久を祈り、・・・中略・・・随行の童男女は、悉く三河に居住せしも、移民を隠さんとして、遂にその家系を失うに至れり」、とあった。
参考
牛窪記(抜粋):東三河豊川市・牛久保熊野神社の徐福伝説著者未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録。成立年代未詳。神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社の由来は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。徐福と徐市が別人となっており、徐福は熊野に、徐市は富士に、徐福の孫である古座侍郎が、紀州古座から東三河に移り住んだと伝えている。しかし、三河一宮本宮山の伝承では、熊野を移すとし、熊野本宮と呼ばれたとの記述がある。つまり、徐福自身が移り住んだ可能性を秘めている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏 熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族 尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。長山之神者 常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事 熊野三所大権現之事「家秘ノ旧記ニ 伊ザナミノ尊 火ノ神ヲ産ミ給ヒテ カン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ 密義有り。「一座者 秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ 艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族 併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ル トイヒテ我ガ日本ニ来ル。徐市ハ 不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ 金峯山ニ入ル。徐林ハ 肥前金立山ニ住シ徐福ハ 着岸ノ津 紀州古座ニ止リ 後熊野山ニ入ル。徐福ガ孫 古座侍郎 三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。金山権現ハ 牛窪ノ鬼門ニアリ。是モ秦氏ノ祖神 肥前金立山権現ノ同社也。」 
6.鳳来寺山と宮下文書の響鳴

 

蓬莱と考えるべき鳳来寺山の薬師堂には、「薬師如来と、神農、大国主」の3体の木像が保管されているという。(鳳来寺山文献集成)しかも、その由来は不明というから、古代文明を伝える伝承はなくなっても、実証物件だけは、残されて来たようだ。
それだけではない。鳳来寺山の上り口・門谷の渓谷西辺には、子守神社(小室神社の訛伝と考えられる)があり、その御祭神は「国狭槌尊」である。
国狭槌尊は、「宮下文書」によれば、神農比古と一緒に、西アジアから神仙の国蓬莱をめざして渡来してきた皇祖の一行の主宰神である。
国狭槌尊は、神農比古と共に、陸路で先行した国常立尊を追って、海路で蓬莱の国を目指した。佐渡島、富山、若狭、丹波、播磨を巡って、再び北陸地方に戻り、飛騨から美濃、尾張、三河を通って、ついに蓬莱に到着した。
立ち寄ったところをスルガといい、湧き水があって、食料が豊富であった。更に行くとおお海、があり、カキ津の小室に留まり、そこを拠点として国を治めた。
湯あり、湧き水あり、絶好の地である。国狭槌尊らは、この地を雅に称して高天原と呼んだ。不二蓬莱高天原である。この辺りを阿祖谷といい、住んだ処を小室とも言った。
そこへ、陸路を先行していた国常立尊が淡路島に辿り着き、西国を治めていたが、ようやく、蓬莱の地を発見し、再会した。このとき彼らの親神である神農比古は神去っていた。 
国常立尊と国狭槌尊は日本を、東西二つに分けて統治することにした。国常立尊は、丹後の桑田に移り西国を治め、国狭槌尊は、高天原と東国を治めることにした。
これらの皇祖神から、代を経て、いざなぎ・いざなみ神が生まれ、更に、天照大神、月読神、スサノオ神が生まれる。そして、天照大神の孫神のニニギ尊から、ヒコホホデミ尊、ウガヤフキアエズ尊を経て、神武天皇という初代天皇家につながって行くわけである。 
6.1 富士古文献の高天原を東三河の地に比定
まず、富士古文献に記されている高天原の存在した阿祖谷のことであるが、古代の名称は、音で考えるべきで、漢字は単なる当て字であることを考慮しなければならない。
「あそ」は、阿祖や浅間とか阿蘇とか記されることがあるが、「阿蘇」は、噴火口を意味すると解釈されている。これは超古代「カタカムナ」文明をとく楢崎皐月氏の解釈するところでもある。
九州の阿蘇山も巨大な噴火口である。しかし、「あそ」が噴火口を意味するのであれば、あそ谷は、火山に関係した地の谷として解釈できる。富士山の麓の谷々もあそ谷と呼んで差し支えないであろうが、日本の各地にある火山の麓の谷々もあそ谷と呼んで全く差し支えない訳である。
このような見方をする場合、愛知県鳳来寺周辺の谷々もあそ谷と呼ぶことは、全く不合理なことはない。というのは、鳳来寺山は、設楽火山の南主峰であり、煙岩山とも呼ばれた。また、三河国総国風土記には、その東南の谷「宇連川=三輪川」には軽石が流れたという記述もあり、油谷温泉という温泉もある。すなわち、設楽火山群は、1600万年前の火山地帯とされているが、実情は、紀元後かなりの時代まで、どこかで熱水噴火を繰り返す、火山地帯だったと考えられる。      
宇連川の下流の豊川中流には、麻生田(あそうだ)という地名もあり、作手から鳳来町に流れる巴川流域には「麻生島(あそうじま)」というところもある。「あそ」の地の名残を残している。
この地方の地名で、門谷(かどや)があるが、この地は、鳳来寺山主峰の南麓を指しており、蓬莱寺の寺院群の存在したところであるが、この地こそ地形からみて「あそ谷」と称するに相応しいところであろう。
この門谷には上浦、中浦、下浦など、湖畔の浦に関する地名があり、古代のいつかの時代には、ここに「みず海」があったものと推察される。その北西の地には、杉風呂、森脇などの地名が残っている。この地名の意味するところは、すぎ室、むろ脇であると考えられるのである。しかも、その南辺に宮下という地名があり、そこに子守神社という名の神社がある。この子守神社は、小室神社がなまったものと考えられ、その御祭神が「国狭槌神」であることは、特に意義がある。すなわち、宮下文書に、天竺真郡国から里帰りした「国狭槌神」は、阿祖谷の小室に居を整えたと書かれているからである。しかも、その地は門谷の宮下の地とは、不思議な共鳴である。
なお、子守が小森と同様、小室を意味するということは、出雲の地の小森の由来でも述べられており、筆者の独断ではない。
富士古文書には、湖守りの役があったとされているが、この場合も門谷の湖を守っていたことと、兼ねられていたと解釈できるのである。富士古文書では、不二山中央小室の穴宮のことが何度も出てくるが、これこそ、鳳来寺山麓の門谷の子守神社と考えられるではないか。
参考
東三河の新城市は、鳳来寺山の南麓に位置し、出沢、浅谷などの大字があり、そこに、宮下という地名が在って、宮下川が流れている。藤沢の地名と藤原姓がある。また、福田と言う地名があり、徐福の関連を彷彿させる。 
6.2 鳳来寺山は、太古の富士山か
ところで、鳳来寺山が不二山であるとの直接的な証拠はないものかと、調査を進めていたところ、2つの有力な関連情報が得られた。
一つは、鳳来町三河大野の地に、瑞穂稲荷「不二庵跡」を発見した。いま一つは、鳳来寺山南西を流れる寒狭川(豊川)流域に「布里」という村があり、その上流には、縄文時代の西向遺跡があり、更に、その付近の地名に「古社」「高宗」というところを発見したことである。
まず、三河大野の不二庵のことであるが、「不二庵」はその後、同大野町の名刹「月光山・淵竜寺」に移設されたようだ。この寺も由緒があり、南北朝時代のことが残っている。また、この寺の西辺に宇連川の渕湖があり、ここから竜(大蛇)が現れ、人々を苦しめたため、仏教の高僧が呪力で封じ込めたといういわれがある。
瑞穂稲荷の不二庵は、もっと古いものであったであろうが、その詳細は、不明である。ただ、瑞穂稲荷神社の軒下には、天女の彫像が貼り付けられているので、天女伝説に関係あると思われる。また、この神社の縁から、鳳来寺山の峰が眺められるのである。
それだけでなく、この三河大野には、不思議な地名、社寺、遺跡、地形が残っている。
1)琴森
古代中国の地誌書「山海経」で東経大荒外の章に、夏の舜帝が大荒で楽器を忘れたことを記しており、その楽器は琴と思われることだ。その大荒が鳳来町を表しているようなのだ。 また、仲哀天皇と神功皇后が筑紫に遠征していたとき、神功皇后が神がかって、新羅を攻めるよう神託があったのは、仲哀天皇が琴をひいていたときのことであった。つまり、琴という楽器が呪力をもつと考えられていた。そして、スサノオ命が大巳貴命に、伝授した三種の神宝の一つに、天詔琴(あめののりごと)がある。
琴森は、神社の名前にも付けられていて、鳳来町立東陽小学校の南山中腹に「琴森稲荷神社」がまつられている。琴森は、「このもり」と呼ばれており、「湖の守り」「こもり」「こむろ」に通ずるように思われる。なお、東陽小学校の「東陽」も宮下文書に出てくる原初の人類が分かれ住んだ「東陽」の地を暗示するようで、興味深い。
2)大野神社
大野神社の創立は、古昔となっていて、不詳である。御祭神は建速須佐之男命で、扶桑国三州八名郡大野村総社大明神ともいわれる。また、近隣五県の産土神とも、大野、井代、細川、貝津、下平の産土神・総社明神ともいわれる。境内社には、服部神社があり、その御祭神はアメノタナバタ姫である。これは、少し下流にある赤引郷から移設合祀されたものといわれる。赤引の絹織物は、その品質の良さが抜群で、太一御用の幟旗を立てて、伊勢の天照大神に献上され「皇室行事で用いられるニギタエ」となるものである。とすると、アメノタナバタ姫は、天照大神とともに機織りを行っていた織姫・若日女ではなかろうか。スサノオ命は、ウケイで勝ちさびて乱暴狼藉を働き、機屋の屋根を壊し、逆はぎした斑駒の皮を投げ込み、驚いた若日女は織機のヒでホトを突いてみまかった。そこで、天照大神は、天之岩戸に隠れられ、高天原も葦原中津国も暗闇になってしまったという「古事記」に書かれた神話の舞台が、ここにあったという感触が得られるのである。なお、スサノオ命がこのとき作っていた田の名前を、口樋田(くちとだ)と日本書記の一書に書かれているが、樋田とか樋野という地名が下流の新城市日吉等に残っている。
3)天橋
大野から赤引温泉に下る県道が、阿寺川を越えるところに、橋がかかっている。この橋の名前は、驚くべきことに「天橋(あまはし)」であった。まさに天竺(あまつくに)の橋を表している。阿の名をもつ地の高天原の一拠点であったのであろう。出口王仁三郎の著書「霊界物語」の高天原は天教山(つまり日本の中央にあったという古代巨大富士山)に架かる橋の名前を天橋と呼んでいることから、鳳来町大野の天橋はこのことを表しているのかも知れない。
4)旧い家系
大野の旧家は65代続いた大橋家である。大橋という名も天橋を表しているように思われる。徐福の関連で考えると、中国の徐福直系で現在64代目という家系があることから、大橋家が長寿家系であれば、徐福時代から続く家系である可能性もなしとしない。
5)大野神社のご祭神は国狭槌神
大野神社で併祭の御祭神には、六所大明神と八王子大権現、天王がある。六所大明神は猿田彦命、天王はスサノオ命と解釈されるが、八王子大権現とは、どのような神なのかわからなかった。それが、八名郡誌をみると載っていた。能登瀬(大野の上流の地)の諏訪神社の摂社に国狭槌命が祭られ、八王子権現は国狭槌尊のことと記されていた。つまり、宮下文書で述べられた「天竺真郡国」から里帰りした国狭槌尊が八王子権現であるというのだ。しかし、宮下文書をみる限り、国狭槌尊は一人であるから、当時その後を継いだ八人の王子も国狭槌神と呼ばれたのかもしれない。国狭槌神は、高天原から東国を治めたと記されているから、高天原の一部と考えられる三河大野に痕跡があることは納得できることである。更に、八王子の内の誰かは、関東まで来て、八王子市の祖神になったのかも知れない。国狭槌尊の八王子の名前は、トホカミエヒタメ、と称され、祝詞で読み上げられている。そして、その内のカの神は、ホツマツタエの研究者などからは、古代中国の夏の皇帝になったといわれている。また、トの神は、三河一宮の砥鹿神社の神という説(砥鹿神社誌)もある。また、安部晴明が保管したと言われる唐の玄宗から入手した「金烏玉兎集」の序に載る牛頭天王と蘇民将来伝説に現れる、南天竺の竜宮姫との間でうまれた子達も八王子と言われている。蘇民将来神社は小坂井の篠束神社の境内社としてあり、伊勢に竜宮があったという伝説もあることから、蘇民将来伝説は、三河高天原の伝承と重なるところがある。すなわち、牛頭天王は、神農、国狭槌尊と重なるところがあり、それが八王子伝説につながり、日本全国とアジアに広がっていったような感触が得られるのである。いずれにしても、国狭槌尊の痕跡は、鳳来寺山麓および周辺の地に、濃く広く残されていたのである。
6)貝津と甲斐の関係
大野神社の御祭神が、近隣村(国)の産土神であることを述べたが、その中に貝津という国があることを心に留めおきたい。貝津は「かいづ」「甲斐津」に通じ、宮下文書で、甲斐国の由来が記されているが、甲斐国の古代史としっくりこない問題点となっているのである。これが、三河大野近辺の「かい国」のことであると考えれば、実にしっくりくるのである。宇連川を挟んで、大野の対岸が、大貝津があり、その周辺には、上海津、下海津、東海津、外海津、正木海津、紺屋海津などがある。海津村の神社は、大当峰神社であるが、そのご祭神は、天照大神とスサノオ神のウケイによって生まれた、三女神と五男神および金山比古と金山比売である。これらのご祭神もも高天原の関連を想像させるのである。
7)大野の遺跡と地形、人脈
大野神社の近くには、縄文時代の「榎下遺跡」がある。土器や石剣などが出土しており、古代からの住居地であったことが分かる。筆者は1998年11月15日に、この地を訪れたが、大野神社では七五三の祝いの祭りでごったがえしていた。近くにいた人にこの神社のご祭神や由来を尋ねようとしたところ、歴史的なことは、あの人に聞けば良いと紹介してくれた。長老という程の人ではないが、話を聞くうちに確かに、この村の重要人物であると分かってきた。名は大橋さんという。本家は65代続いた旧家であるという。「この辺りは、湿地だったんでしょうか」と尋ねると、確かに神社境内に池や泉があると、案内して見せてくれた。そして、泉の湧き出る沼地であったという。「史記」に、徐福は「平原、広沢を得て、そこに王となって留まった」と書かれているのと符合している。また、富士古文献には、皇祖・神農比古と農佐比古(国狭槌尊)は、湧水、温泉のある小室、中室「カキツ」に留まった、という。そこを雅に称して、不二蓬莱高天原と称した。また徐福の留まったところは、豊葦原瑞穂の国であったという。つまり、三河大野には、「カキタ」という地があり、瑞穂稲荷神社があり、そこに不二庵があった。天橋と阿寺川が流れ、平原・広沢(広野)と湧水、湖沼、温泉(赤引温泉、油谷温泉)がある。まさに、史記、宮下文書でいう、小室、中室のあった居住地「カキツ」に比定できる。 
6.3 鳳来寺山の地形
鳳来町在住の地質学者・横山良哲氏著「奥三河1600万年の旅」によると、鳳来寺山は、かつて、富士山に匹敵する(大きさの)活火山であった(1600万年前)。1999年2月20日に直に横山氏の話を聞くことができたのは、幸運である。極めて興味深いことは、湯谷温泉辺りで1000mも沈下していたと言う。このことは、既述した鳳来寺山=不二蓬莱山を彷彿とさせるものであった。
鳳来寺山(昭和6年、国指定 名勝天然記念物)の最高峰は、瑠璃山(標高695m)で、流紋岩、凝灰岩などから構成され、約2000万年前に激しい火山活動によって、噴き出し、その後の長い間の風化浸食作用によって、こんにちのように複雑で、険しい地形ができ上がったものである。 
6.4 鳳来町と徐福の痕跡
鳳来町を含む東三河が、古代の豊葦原瑞穂国の高天原であったとすると、もっと多く、高天原伝説や徐福の痕跡が残っているはずである。鳳来町宇連川周辺を探索すると、宇連川上流には、鳳来湖があり、鳳の島がある。鶴亀伝説の亀渕川が川合に流れ、そこには縄文時代の人の居住遺跡があった。三河川合には、丹野という地名があり、朱(水銀)の産出地があった。
新城市有海から鳳来町の乗本にかけて、盆には放下踊りや「なべづる(つる)」の火送りの行事がある。今少し下流の賀茂町には鶴巻がある。当地の「ひおんどり」などの、火踊り祭りは、徐福一行が持ち込んだと解釈できる。
富栄と長篠の境には、正福寺川が流れ、鳳寿山・正福寺がある。その一角には、招福稲荷神社があって、蓬莱山弁天島を模した池がある。正福(しょうふく)や招福(しょうふく)は、徐福の中国読みのシューフーに似た発音となる寺社である。
事実、小坂井町には徐福上陸の伝承があり、名社「菟足神社」には、「徐福」の人形を飾って「招福」との札を掛けているのを目撃している。招福稲荷は、徐福が稲を持ち込んだ福神として祭る古い神社であったと思われるのである。
赤塚山の麓からは、布目瓦が出土しているが、中国の徐福村の遺跡から、布目板瓦が出土したという。
また、奥三河に徐福の伝承があるとの記述が発見できた。即ち、神奈川県の神社誌(稲葉博著、神奈川県の古寺社縁起―知られざる伝承・霊験譚)に、三河の奧に徐福伝説があるとの情報が見つかった。 
6.5 徐福は超能力者?
鳳来寺山が過去の巨大火山エネルギーを残し持っていたとしたら、中国から日本の蓬来山を「霊視」した超能力者は、鳳来寺山を富士山だと思っても、おかしくないのではないかと考える人もいる。
三河遠州には徐福霊会という会があって、気功の有段者などが会員になっているという。
筆者の知らない不思議な話が、東三河にまだまだあるようである。 
7.まとめ

 

東三河は、徐福伝説をもつ三神山を抱えた地であった。 そのうち、鳳来寺山は、古代の巨大火山である蓬莱の地であり、仙人伝説を持っていた。徐福及びその子孫はこの地に来訪し、定住し、富士古文献を編集した可能性が高い。つまり徐福一行の定着地であり、蓬莱の国の神都であったことは、確実といえよう。
牛川稲荷の、立石に刻まれた謎の大神の名は、徐福一行が日本で、神となるまで崇められ、後世、守護神として、子孫に祀られた証しであった。
浪ノ上1号古墳から出土した、弥生時代後期の遺物、中国将官用両刃の剣も、徐福一行(あるいは子孫、邪馬台国)に関連するものであったかもしれない。   
また、宮下文書の内容は、現在の富士山山麓における史実より、鳳来寺山を含む三神山の地・東三河高天原の史実とよく対応しており、その信憑性が、以前に増して高まったといえる。 
 
東三河と徐福伝説6

 

1.はじめに
秦の始皇帝の時代に、不老不死の霊薬を求めて、蓬莱の国・日本列島に渡ってきた徐福のことは、近年益々注目されるようになってきた。徐福一行の上陸地と伝えられる所は、日本各地に20箇所以上存在している。しかし、神奈川県の徐福伝承は、従来あまり取り上げられてこなかった。ところが、神奈川県藤沢市にある妙善寺の福岡家の墓には、徐福の子孫であると刻んだ立石があることが判明した。神奈川に幾つもの徐福伝承があった。
本報告では、神奈川の徐福伝承を掘り起し、徐福の影響が思いがけず、大きなものであったことを論証する。 
2.藤沢市・妙善寺の福岡家墓碑について
妙善寺の福岡家の墓碑については、徐福研究家の奥野利雄氏が、その著書「ロマンの人・徐福」に取り上げられている。漢文の墓碑内容を紹介すると、次のようであった。
「故人は、いみ名を粛政と称し、俗名を正兵衛という。その祖先は、秦の徐福から出ている。徐福は、始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州(日本)まで来て、富士山の周麓に下り住む。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。福岡を氏と為すものは、また、徐福の一字を取ったのである。且つ、近くの地に秦野の名があるのは、粛政の一族の旧蹟に係る。これは、祖先の地を明らかにするに十分である。
我が子孫は、そのことを永く記憶し忘れてはならない。」天文二三年甲寅(1554年)一月十一日
これによれば、福岡家は、秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着いたのち、秦野に移り、後に、藤沢に移り住んだということが伺える。尚、「富士古文書」によると、福岡姓は徐福の長男・福永の家系ということである。福岡家の先祖、故秦太郎可雄(応永二六年巳交=1419)は、秦野市今泉村「光明寺」に葬られたと伝えられている。「秦徐福後孫秦太郎蔵人可雄十七世」という位牌がある。
1419年時点で、秦氏を姓とされていたことは、貴重な情報である。今泉村は、近世、鵜殿氏の知行地である。三河牧野氏の伝える「牛窪密談記」によれば、徐福一行の子孫の姓として、鵜殿氏があるとの記載がある。したがって、秦野市今泉の秦氏は、鵜殿氏を通じても、徐福に関係があることになる。 
3.秦野の徐福伝承 / 内陸ルートの徐福の子孫
神奈川県藤沢市の福岡家墓碑から、徐福の子孫の旧蹟は、藤沢に近い「秦野」の地であったことがわかる。秦野の伝説を探ってみると、いくつかの徐福の伝承が存在した。岩田達治著「丹沢山麓 秦野の伝説」によると、丹沢山系から降りて横野に定着した「からこさん」伝承と、大磯から上陸して、本町に定着した「からこさん」伝承がある。
前者は秦野市の北部横野・戸川公園の近くの加羅古神社(唐子神社)の伝承で、新編相模風土記に記されている。すなわち、唐子明神社の由来について、「村の鎮守なり。神体は木像、縁起に昔唐土より飛来せし神なるを以って、唐子明神と号す。 この境内の山中に安ずる拘留尊仏は、即明神の垂蹟なる由見ゆ。天正十九年十一月 一石の御朱印を給う」と。
ご神体は、立木造で丈一尺六寸。台座より冠まで二尺一寸六分(約65cm)、尊像は、烏帽子、単衣を着し、笑いを含んで、拱手し磐石に立っているという。この木造は、徐福が御祭神となっていると伝えられる熊野速玉神社のご神体とよく合致している。そして、ここに「からこさま・唐子大明神」に関する民話があった。「ずっと昔の昔、大むかしのことです。 丹沢山塊の高峰、孫仏さま(今の塔の岳)の山頂にからこさまが、おいでになったのですと。からこさまは、里を見下ろされ、静々と山を降りられたのです。そして、やっとのこと、横野村にお着きになったのです。 それからは、いろいろと村人のために尽くされ、とうとう神様としてあがめたてまつられました。そのお宮さまが、横野の鎮守さまです」と。
ところで、唐子明神社の今井神主は、平塚の中原御殿に出向かれた徳川家康公に、この話を伝えたそうである。家康公は「これはよい話じゃ」といわれて、沢山の褒美をくだされたという。徳川家も徐福伝承については、特別の関心をもっていたことが伺われる。
この話は、富士山麓の徐福伝承とつながりを持っていた。即ち、山梨県南都留郡山中湖村沖新田地区には、徐福の子孫の秦氏一族が住んでいたが、延暦十九年(AD800)の富士山大噴火で、今の神奈川県秦野市に移住したと言われている。また、山梨県側の富士山麓の畑から中国の大変古い印鑑が出土している。地元の郷土史家は、「秦の始皇帝の命を奉じ、徐福の一行が富士山に不老長寿の薬草を採りに来て住みついた。」という徐福伝承と印鑑の結びつきがあると信じている。
古代中国から、日本列島に渡来し、神として尊ばれた人々は、熊野速玉大神と同じく「徐福」一行を表していると思われる。薬調合法を教えたとも伝えられており、仙術の方士徐福一行の特徴をよく表している。 
4.海上ルートで到着した徐福一行
秦野市本町の伝説によると、「からこ(唐子)さんは、中国からおいでになり、大磯の浜から秦野に移住したと伝え、徐福一行ではないか」と考えられている。定着した場所は乳牛(ちゅうし、町名)とよばれ、今の秦野市中心街である。かつて、唐子明神社が存在したが、現在は郷社・曽屋神社に習合されてしまっている。該当場所は、現不動尊の南約200m付近であると言われる。秦野の民話によれば、「'からこさんと一緒に'こぼしさま'がこられたが、こぼしさまは、大磯の浜からころがりころがりやっとのこと、丹沢の山にたどり着いた。そして、美しい'こぶしの花'を咲かせた」という。「こぼしさま」とは、小方士・法師さまで、徐福一行の童男女を表しているようにも思われるのである。
つまり、蓬莱の地を探し求めた徐福一行は、日本列島に渡航後、九州から、瀬戸内海を通り、熊野、三河、遠州、駿河と沿海を船で巡り、東海、関東に上陸した人たちもいるということであろう。大磯から金目川沿いにのぼってくる場合、入り口の高麗山は、見る角度によって、ピラミッド型の蓬莱山を思い浮かばせる。秦野河原町東北部にある浅間山は、古名「宝来山」と呼ばれていた。神仙思想をもった人々の渡来を彷彿させる。 
5.秦野蓑毛の大日堂の由来
丹沢山麓の地が「秦野」と名付けられた由来が「秦氏」の開拓にあると伝える碑が、蓑毛大日堂の境内に2基と、個人の墓地になるが室町(養泉院)にも1基存在する。何れも秦川(河)勝に関するものである。 大日堂境内のものは、秦川勝が五大尊(不動、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉)を祀るために来訪し、土着したとの伝承である。
大日堂石碑文言には、「応神天皇十五甲辰年 自唐土秦苗裔 守護来応當山後又往 故名称里於秦後孫 秦河勝 再加力云云」とある。 秦川勝は、応神天皇の頃に、百済から渡来した秦始皇帝の15世の孫、弓月君の子孫と伝えられている。弓月君は伝説的な人物であるが、川勝は推古天皇(628没)の頃から孝徳天皇(654没)の頃に朝廷に仕えた実在の人物である。「新撰姓氏録」によると、応神天皇十四年、秦の始皇帝の裔弓月君が127県の百姓を率いて帰化し、仁徳天皇の御世に、これを諸国に分置して、機織りの業に従わせ、波多氏と称した。幡多郡は、それが集団的に配置されたところで、今の秦野地方がこれに当たる、としている。「秦野の沿革」にも、本町は他の秦野諸町村と共に、古代の幡多郷に属し、秦の帰化人を集団的に配置した故の名称であると記している。秦野は、山城を本拠とした秦氏の一族によって開発されていたのである。
秦野の蓑毛山宝蓮寺の真名縁起には、主仏が大唐伝来との謂れが記されている。即ち、大日堂の五大尊は、昔の印度の懼曇沙弥に由来するが、秦始皇帝二九年、沙門室利(梵語で吉祥)18人が、印度から辰旦に、舎利梵夾等の佛、宝物、閻浮檀金、大悲像、五大尊、金剛力神などの秘佛をもち来た。始皇帝は異俗を嫌って、彼らを殺そうとした。そのとき、大公徐福は、仙道を求め欲するなら、殺してはなりませんと帝を説き救おうとした。そして、大悲五大尊の力により、彼らは獄を出ることができ、宝物は徐福に遣わされた。その後、秦始皇帝の裔が、彼の五大尊悲像を守護し、80余年にして、大日本国の応神天皇十五年甲辰に、佛宝物大悲像五大尊は、苗裔とともに本朝に渡った。秦苗裔は、東州に下向し、五大尊は相模の国足柄上郡に安置された。今日、相州に居住し、その地を秦という。
慶応元年の五大尊大日如来開帳趣意書にも、「夫、吾が山に安置し給う処の五大尊不動明王は、毘首褐の作として、三国伝来、唐の秦始皇帝の首裔・秦川勝と申す神人が守り来て、この地に安座し給う。その人もまた、この地に居住する故に、この地を秦野という」と記されている。このように秦河勝と徐福は、秦野の大日堂・五大尊を通じて、?がりを持っていたことが判明した。 
6.神奈川県北部の徐福伝承
神奈川県北部・藤野町小渕に三柱神社がある。唐土明神(カグツチ神)と大牟神社(大己貴命)と八坂神社(スサノオ神)を併せたので、三柱の名が起こったという。この社は明治の神仏分離前は、峰昌寺という別当寺が管理し、寺の後裔が栗原家で現当主は毅氏という。ここに徐福縁起があった。「唐土大明神之由緒 宝暦五年」である。
内容は「本朝第六代孝安天皇の御代、秦始皇帝、長命不死の薬を東に求め、徐福にこれを命じた。出発に当り始皇帝から肖像を賜った。徐福は日本の九州筑紫に到着し、中国筋を経て東国に至ったものの、悪者どもが群がって到底進み得ず、止む無く本国に帰ることとしたが、折角の記念にと帝の尊像を当所の裏手、鷹取山の中腹の大岩石の下に埋めて去った。その尊像は残念ながら消失(昭和39)してしまったが、明治の頃、新聞に発表された一部が残っていた。それは「長さ約60cm、幅約17cmほどの神体で、お姿は明らかに中国服を着用し、冠をかぶりひげのある貴人の相をしていた」という。
藤野町は、徐福伝承をもつ富士吉田から、相模の寒川神社に至る中間点にあり、交通路にあたる。少なくとも延暦年間の富士山噴火で移動した徐福の子孫一行の可能性が高い。 
7.大山阿夫利神社のご祭神
相模の人々が信仰対象とする大山阿夫利神社は、関東総鎮護の役割を担っている。阿夫利神社のご祭神は、山の神・大山祇神である。大山祇神は、「徐福」をさすという説があり、信憑性が高い。たとえば、須田育邦氏は、その著書「八雲立つ」で大山祇命は「徐福」であると確信して記載されている。榎本富夫氏は、歴史研究392号において、千葉県葛飾郡沼南町大井の福満寺の祭神と佐賀市金立神社の祭神の対比から、大山津見命を「徐福」と比定されている。大山阿夫利神社の由緒書によれば、神社創立は、今から2200余年以前(徐福渡来の時期に合致する)の人皇第十代崇神天皇の御代であると伝えられている。古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を「大福山」と呼ばれていた。大山祗神は、またの名を酒解神と言い、酒造の祖神(秦氏の祖神)としてもあがめられている。また、生活の資源、海運・漁獲・農産・商工業に霊験を示されるということは、徐福の特徴をよく反映している。碓井静照氏の著書「徐福の謎」によると、徐福一族は、各地に定着するにあたり、あらかじめ目標を定めた山(その地域で一番高い山)に立ち、海や河川を望み、最も住みやすい地を選んで山を下りたと見られる。これが後に、土地の人々において、神の降臨伝承となった可能性が高いという。 
8.その他神奈川県の徐福関連の地名等
1寒川神社のご祭神・・同神社の「浜下祭り」のとき、田打ち舞といって、俗に「福種蒔」と称する祭式がある。伶人古尉(雅楽武人)の面を被って舞うこの面は「寒川主神」の似顔であると言い伝え、極めて福徳円満の相を備えている。この古式に用いた荒稲を参拝者が拾って持ち帰り、その年の苗代に交えるという習慣がある。秦氏は宮廷の雅楽を担当する集団として有名であるが、福徳円満の秦氏で、稲種を持ち来たった人物とは、徐福を彷彿させる。その子が大山皇子とは、2200年前に祭神となった大山阿夫利神社の祭神・大山祇命との関連を惹起させる。
2丹沢・・徐福一行が捜し求めた、丹(朱、辰砂)の採れる山、沢を意味している。平原広沢の沢は丹沢とも解釈できる。
3宝来(ほうらい=蓬莱)・・秦野市の浅間山は昔、宝来山と呼ばれていた。本町下流の室川には、ほうらい橋がかかっている。 
9.まとめ
藤沢の福岡家の墓碑は、明らかに徐福の子孫であることを明記していた。そして、福岡氏の一族は1400年代に、秦野から遷ったことを示唆していた。藤沢の福岡家の墓碑は、徐福の子孫の広がりを示す貴重な証拠資料と言える。また、秦野蓑毛大日堂縁起から、徐福と秦始皇帝の後裔とのつながり、応神天皇時代の来朝や、秦河勝との関係が解明できた。
富士山麓から相模に降り立った徐福の子孫は、相模から関東平野全体に広がったと思われる。関東平野や丹沢は、徐福が王となって、止住したと伝える平原光沢かもしれない。
そもそも、神奈川県の名山「大山」は、古名「大福山」であり、そこにある阿夫利神社は2200年前の創立と伝えられている。そのご祭神は「大山祇命」であるが、この神は「徐福」その人を反映しているとも考えられる。 
 
徐福と亶洲7

 

以下は史記に見られる徐福関係の記述です。
史記、秦始皇本紀第六
二十八年……南登琅邪大楽之留三月乃徒黔首三万戸琅邪臺下……斉人徐市等上書言海中有三神山名曰蓬莱方丈瀛洲僊人居之請得斎戒與童男女求之於是遣徐市発童男女数千人入海求僊人始皇還過彭城斎戒祷祠欲出周鼎泗水使千人没水求之弗得……
「二十八年……(始皇帝は)南、琅邪に登る。おおいにこれを楽しみ留まること三ヶ月。人民三万戸を琅邪臺の下に移した。………斉人、徐市(ジョフツ)等は上書し、『海中に蓬莱、方丈、瀛洲という名の三神山があり、仙人がここに居ます。(始皇帝の)斎戒と子供の男女を得て、これを求めさせていただきたい』と言った。ここに於いて徐市を派遣し、子供の男女数千人を出発させ、海に入り仙人を求めた。始皇帝は還り、彭城を過ぎ、斎戒して神々に祈って祭り、周の鼎を泗水から出そうと、千人を使って水に潜らせ之を求めたが、得られなかった。……」
史記正義注(唐、張守節)に、「呉人外国図云亶州去琅邪万里」(呉人外国図は、亶州は琅邪を去ること万里という。)と記されています。
三十五年………始皇聞亡乃大怒曰吾前収天下書不中用者盡去之悉召文学方術士甚衆欲以興太平方士欲練以求奇薬今聞韓衆去不報徐市等費以巨万計終不得薬徒姦利相告日聞……
「三十五年………始皇帝は(侯生と盧生が)逃げたのを聞き、大いに怒って言った。私は、以前、天下の書を収め役に立たないものはすべて棄てた。文学、方術士をことごとく招き、はなはだ多数であった。それで太平の世を興したかったからである。方士は練磨して奇薬を求めたいと望んでいた。今、韓衆は逃げて報告しないし、徐市等の費用は巨万を数えるが、ついに薬を得ることができなかったと聞いた。いたずらに不当な利益を得ているという告発が日ごとに聞こえてくる。……」
三十七年………還過呉従江乗渡並海上北至琅邪方士徐市等入海求神薬数歳不得費多恐譴乃詐曰蓬莱薬可得然常為大鮫魚所苦故不得至願請善射與倶見則以連弩射之始皇夢與海神戦如人状問占夢博士曰水神不可見以大魚蛟龍為候今上祷祠備謹而有此悪神當除去而善神可致乃令入海者齎捕巨魚具而自以連弩候大魚出射之自琅邪北至栄成山弗見至之罘見巨魚射殺一魚遂並海西至平原津而病………七月丙寅始皇崩於沙丘平臺……
「三十七年………(始皇帝は)還って呉を過ぎ、江乗から並んで(船団を組んで)海上を渡り、北、琅邪に至った。方士、徐市等は海に入り神薬を求めたが、数年たっても得ることができなかった。費用は多額であった。(徐市は)咎めを恐れ詐って言った。『蓬莱の薬は得ることができますが、常に大鮫魚が苦しめるためたどり着くことができません。願わくは射撃の名手を伴わせていただきたいのです。見つければ連弩でこれを射ます。』始皇帝は海神と戦う夢をみた。人の形をしていた。夢占いの博士に尋ねると、こう答えた。『水神は見ることができません。大魚、蛟龍がそのきざしです。今、お上は神々に祈って祭り、備え、謹まれておりますから、この悪神があるのをとうぜん除去すべきです。そうすれば善神を招くことができます。』そこで、海に入るものに巨魚を捕らえる道具を持っていくよう命令し、自らは連弩を以って大魚が出ればこれを射ようとした。琅邪から北の栄成山に至る。巨魚を見ることがなかった。之罘に至り、巨魚を見て、(そのうちの)一魚を射殺しやり遂げた。海に並び、西の平原津(黄河を遡った川港)に至って病んだ。………七月丙寅、始皇帝は沙丘平臺で崩じた。……」
史記淮南衡山列伝第五十八
……又使徐福入海求神異物還為偽辞曰臣見海中大神言曰汝西皇之使邪臣答曰然汝何求曰願請延年益寿薬神曰汝秦王之礼薄得観而不得取則従臣東南至蓬莱山見芝成宮闕有使者銅色而龍形光上照天於是臣再拝問曰宜何以献海神曰以令名男子若振女與百工之事即得之矣秦皇帝大説遣振男女三千人資之五穀種種百工而行徐福得平原広沢止王不来……(伍被が、反乱を企てる主君の淮南王劉安を諫めた言葉の一部。)
「……(始皇帝は)また、徐福に海に入らせ神秘的な珍しいものを求めさせましたが、徐福は帰るとでたらめを言いました。『私は海のなかで大神を見ました。神がおまえは西の皇帝の使者かというので、私はそうですと答えました。おまえは何を求めているのかというので、寿命を延ばす薬をさがしていると答えますと、おまえの秦王の礼が薄いので、見ることはできても取ることはできないと言われ、私を東南の蓬莱山へ連れて行ってくれました。宮殿以外の場所は霊芝で占められているのを見ましたし、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が立ち上り天を照らしていました。そこで、私は再拝し、何を献上すれば宜しいのでしょうと尋ねると、海神は、良家の男女の子供と様々な道具類の仕えをもって、これを得ることができるといいました。』秦の皇帝は大いに喜び、童男女三千人とこれを支える五穀の種々、様々な道具類をのせて派遣し行かせましたが、徐福は平原と広沢のある所を得て王になり、とどまって帰ってきませんでした。……」
仙人に穀物は必要ありません。修行の最初に五穀を断ち腸を清めなければならないとされています。干し肉とナツメを供えますから、それがあれば生きられるのでしょう。三角縁神獣鏡の銘文にも「渇けば玉泉をのみ、腹がへればナツメを食べた。」という文があります。百工は五穀の種の後ろに書かれ、人数も記されていませんから、工人ではなく、様々な道具類のことです。
始皇帝の死はB・世紀210年。司馬遷の史記の完成は前漢、武帝の末で、孝武本紀には太初三年(B.世紀101)までの記述があり、「その後五年(天漢三年、B.世紀97)、また泰山に至り封を修む。」と飛びます。
その間の天漢二年(B.世紀98)に自身が投獄され、宮刑という辱めを受けています。釈放されたのは太始元年(B.世紀95)ですから、他のことは調べて記録する気になれなかったのかもしれません。ともあれ、史記は徐福から百十年ほど後に記されたわけです。平成十八年現在の日本から振り向けば明治後期くらいにあたり、記録としてはかなり正確に残っていたと思われます。
始皇帝28年(B.世紀219)、徐福は数千人の子供を引き連れ、海に入って蓬莱神仙を求めました。しかし、始皇帝死亡直前の37年(B.世紀210)に徐福は失敗の言い訳をしている。帰国しているわけです。平原、広沢を得て王になり、帰国しなかったというのが事実なら、始皇帝37年に再び、子供三千人を徴発して海に乗り出したことになります。淮南衡山列伝では「始皇帝の礼が薄い」というのが神の言葉ですから、一度目の航海の童男女数千人というのは三千人を下回っていたのかもしれません。しかし、始皇帝37年に大鮫魚が邪魔をするのでたどり着くことができないと言っているのですから、淮南衡山列伝の徐福が蓬莱山へ行ったという描写は矛盾しています。伍被という人物の語る諫めの言葉ですから、そこに何らかの脚色が入ったのか。伍被の読んだ書物にそういう描写があったのか、司馬遷の引用した文献にそういう言葉があったのか。いずれにせよ物語的な作為性が強く感じられます。はたして始皇帝がこれを信用するだろうか?

史記以外のデータには以下のようなものがあります。
漢書蒯伍江息夫伝第十五 (伍が伍被です。漢書の著者、班固は後漢の人)
……又使徐福入海求仙薬多齎珍宝童男女三千人五種百工而行徐福得平原大沢止王不来
「……また、徐福を海に入らせ、仙薬を求めさせました。珍宝を多くもたせ、童男女三千人、五穀の種子、百工とともに行きましたが、徐福は平原、大沢を得てとどまり、王となって帰ってきませんでした。
三国志呉書呉主伝第二(三国志の著者、陳寿は晋の人)
……(黄龍)二年……遣将軍衛温諸葛直将甲士万人浮海求夷洲及亶洲亶洲在海中長老伝言秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海求蓬莱神仙及仙薬止此洲不還世相承有数万家其上人民時有至会稽貨布会稽東県人海行有遭風流移至亶洲者所在絶遠卒不可得至但得夷洲数千人還
「……黄龍二年……(呉王孫権は)将軍、衛温と諸葛直を派遣し、兵士万人を率いて海に浮かび夷洲と亶洲を求めさせた。亶洲は海中に在り、長老は、秦の始皇帝が方士、徐福を派遣し、童男と童女数千人を率いて海に入り、蓬莱神仙と仙薬を求めさせたが、この島にとどまり帰らなかった。代々受け継がれて数万家がある。その島の人民が時おり会稽の貨布(漢代の銭名、後漢書を参照すると市の転写間違いか)にやって来た。会稽東(冶)県の人で、海に行き風にあい流れ移って亶洲に至ったものがあると言い伝えている。その所在はきわめて遠く、ついに得ることはできなかった。ただ、夷洲数千人を得て還った。
呉書陸遜伝……(孫)権遂征夷州得不補失
「……孫権は遂に夷洲を征服した。得たものは失ったものを補えなかった。……」
捕虜として連れ帰った数千人以上の犠牲を出し、戦利品以上の出費があったようです。
後漢書倭伝(後漢書の著者、范曄は南朝宋の人)
……又有夷洲及澶洲伝言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海求蓬莱神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲世世相承有数万家人民時至会稽市会稽東冶県人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往来
「また、夷州及び澶州がある。秦の始皇帝は方士、徐福を派遣し、子供の男女数千人を率い海に入り蓬莱神仙を求めさせたが、できなかった。徐福は処罰されるのを畏れあえて帰らず、ついにこの島にとどまった。代々受け継がれて数万家がある。その人民が時おり会稽の市にやって来る。会稽東冶県の人で海に入ってゆき風にあい流されて澶州に至ったものがあると言い伝えている。その所在はきわめて遠く往来することはできない。」

文を並べてみると、呉書に、「徐福のたどり着いた島の住民が時たま会稽の市にやって来た。」、「東冶縣(後漢書に従う。原文は東縣)の人が風に流され、その島に着いたことがある。」、「島には数万家がある。」という後日談が付け加えられているのみで、史記をうわまわる内容はありません。後日談はいずれも漢代の伝承と思われます。
後漢書は呉書と史記をまとめて整理したものです。范曄は倭に関係するかもしれない会稽海外東方の情報と判断し、夷洲、亶洲を倭伝の最後に組み込みました。
後の時代の徐福関係の記事となると、秦、漢代の資料が新たに発掘された可能性はますます遠のきます。根拠の薄い想像を加えた史記の焼き直しにすぎないでしょう。徐福が熊野や佐賀などの日本各地に渡来したという風説も、秦から渡来したと伝える秦氏の存在ゆえで、日本側が唱えたものと思われます。秦氏が秦に出自を持つというのは事実なのですが、応神紀の弓月君(秦氏の祖)の渡来伝承から明らかなように、朝鮮半島から百二十県の人民と共に大挙移住しています。徐福とは関係がありません。(「弥生の興亡、帰化人の真実」参照)
徐福は山東半島の琅邪を出航し、平原と大沢のある島にたどり着きました。琅邪から出航したなら、日本以前に済州島に引っかかる可能性があります。この島は漢拏山を中心とする火山島で、東西の傾斜は非常に緩やか、多孔質玄武岩に覆われ、雨は地下にもぐって海岸部に湧き出すといいます。「平原、大沢」という描写に合うのです。日本は「山島」と表現されており、実際、「平原、大沢」に合致するような島は思い当たりません。会稽の市に亶洲人が訪れる、東冶の人がこの島まで漂流するという記述に対しても、位置的に見て、済州島の方が有力と思われます。(平原という描写が日本には当てはまりそうもありません。日本は平地でも樹木に覆われていただろうし、樹木がない所は湿地だったでしょう。)
説文解字では、亶の意味は「多穀」とされています。音は多(Ta)旱(Kan)の切ですから、タン(Tan)と読みます。この島が古代「耽羅(たんら)」と呼ばれていたことも補強資料となります。

魏志韓伝
又有州胡在馬韓之西海中大島上其人差短小言語不與韓同皆髠頭如鮮卑但衣韋好養牛及豬其衣有上無下略如裸勢乗船往来市買中韓
「また、州胡がある。馬韓の西海中、大島の上に存在する。その人はやや体が小さい。言語は韓と同じではない。みな頭を剃っていて鮮卑のようである。ただし、なめし革を着ている。好んで牛や豚を飼う。その服は上があって下がなく、ほとんど裸のようである。船に乗り往来し中国や韓と交易している。」
この島の住民の言語、風俗は馬韓と全く異なっています。島が馬韓近くに位置したなら、馬韓に吸収され、独自の文化を育むことは不可能と思われます。したがって、馬韓からかなり離れていて往来不便なはず。済州島は馬韓の南南西ですが、馬韓の西には大島と呼べるほどの島は存在しないので、州胡は済州島の住民と考えて問題ありません。海路で直接、中国と交易していたことから、韓半島と中国の間、つまり韓の西に存在すると考えたためでしょう。
同時代の魏志倭人伝には牛馬がいないと記されています。この島には牛がいて、胡と表す以上、馬も存在した可能性があります。なめし革の服を着ていても、下半身までは覆っていない。裸に近いと言うから、ふんどしでも付けていたのか。頭を剃るなど、倭、韓、中国等、周辺諸民族の風俗とは全く異なる孤立感のある民族です。隋書流求国伝の夷洲の住民も「体中の毛をすべて除去する」という記述がありますから、おそらく、朝鮮半島北方から済州島や日本、沖縄へと展開した太古の北方系縄文人が髠(頭を剃る)という習俗を持っていたのだと思われます。これは日本の月代(さかやき)につながる可能性があります。
「市買中韓」と表現され、中が先に来ていますので、中国のことでしょう。三国志呉書の「会稽の市に時々やって来る。」という記述に一致します。資料がなかったのか、魏志は島名には思いが及ばず、住民のみを州胡と表記しました。後漢書は「中韓」を「韓中」に改めていますが、その根拠が明らかではありません。意味が解らなかったのではないかと思えます。済州島山地港遺跡(済州市)からは五銖銭、貨泉、大泉五十、貨布など、漢、新代の貨幣が出土しており、中国と交流していた様子がうかがえます。

高麗史地理志
耽羅縣在全羅道南海中其古記云大初無人物三神人従地聳出長曰良乙那次曰高乙那三曰夫乙那三人遊猟荒僻皮衣肉食一日見紫泥封蔵木函浮至于東海濱就而開之函内又有石函有一紅帯紫衣使者随來開石函出現青衣處女三及諸駒犢五穀種乃曰我是日本国使也吾王生此三女云西海中嶽降神子三人将欲開国而無配匹於是命臣侍三女以來爾宜作配以成大業使者忽乗雲而去三人以年次娶之就泉甘土肥處射矢卜地良乙那所居曰第一都高乙那所居曰第二都夫乙那所居曰第三都始播五穀且牧駒犢日就冨庶至十五代孫高厚高C昆弟三人造舟渡海至耽津蓋新羅盛時也
「耽羅県は全羅道南海中にある。その古記はいう。大初、人物はいなかった。三神人が地から立ち出た。長を良乙那、次を高乙那、三を夫乙那という。三人は荒れ果てひなびた土地で狩猟し、皮の衣、肉食で暮らした。ある日、紫泥で封蔵した木函が浮かび東海の浜辺に着いたのを見た。そこへ行きこれを開くと、内側にまた石の函があった。赤い帯、紫の服を着た一人の使者が随い来ていた。石の函を開くと、青い服を着た未婚の娘三人とさまざまな若馬や子牛、五穀の種が現れた。使者は私は日本国使だと言う。我が王はこの三人の娘を生んでこう言った。『西海中の高山に、神の子三人が降り国を作ろうとしているが、配偶者がいない。』そこで私に命じ、三女に侍らせ、ここにやって来た。あなた方は宜しく配偶して、大業を成しなさい。使者はたちまち雲に乗って去った。三人は年の順に娘を娶り、泉がうまく、土が肥えたところへ行き、矢を射て地を占った。良乙那の住んだところを第一都といい、高乙那の住んだところを第二都、夫乙那の住んだところを第三都と言った。始めて五穀を播き、子馬、子牛を飼い、日ごとに豊かになった。十五代子孫の高厚、高清の兄弟三人が舟を造って海を渡り、耽津に至った。おそらく新羅の盛時のことである。」
新羅本紀では文武王二年(662)に、「耽羅王、佐平(百済の官名)の徒冬音律が来降した。耽羅は武徳(618〜626、唐の年号)以来、百済に臣属していたので佐平を官号としていた。この時降って(新羅の)属国となった。」という記述があります。百済が滅びたため(660)、新羅に臣属したわけです。地理的に百済が最も近く、その属国となるのは理解できます。しかし、唐の武徳年間のこととされ、それまでの独立性が明らかで、新羅本紀も耽羅王と表記しています。
魏志韓伝の州胡は、なめし革を着るとされていますが、この済州島伝説でも皮衣、肉食となっていて、風俗が一致します。州胡はやはり済州島住民です。漂着した木の箱とは、船の表現であることが明らかで、その中から娘と若馬、子牛、五穀の種が出てきました。州胡は、倭に牛がいない時代(魏志倭人伝)、すでに牛を飼っています。もし、牛が船で運ばれてきたのなら、それは三世紀より古い時代のことになりますし、倭に運ぶ能力がなかった牛を載せられる船の大きさはどこからもたらされたかという疑問も生じます。付き従ってきた赤帯、紫衣の使者は日本国使と唱えましたが、牛、馬が存在しないのにこれはあり得ない。島の東岸に着いたという伝承と、後の日本(倭ではなく)との交流が結び付けられたものでしょう。
三千人の子供を一艘の船に乗せるとは考えにくく、船団を組んだのだと思われます。それには多数の船員が必要です。子供の世話をする人間も付き添っていたにちがいない。しかし、すべてが、無事、島にたどり着けたかどうか。当時の航海を思うと犠牲はかなり多かったのではないかと思えます。呉書は夷洲、亶洲を求めたときの損失が獲得を上回ったと書いていました。
徐福が平原、大沢のある島に着き王になったという情報は誰かが伝えたわけですから、帰国した船が存在したのかもしれません。徐福が始皇帝の誅罰を恐れるのは当然でも、方士でもない、動員されただけの人間にその心理はないはず。徐福に恨みはあったとしても忠誠心はないでしょう。家族のいるところへ戻ろうとするのではないか。
童男女の生活を支える五穀の種、百工を持っていったとされていますが、それは代表的にあげられたにすぎないでしょう。子供達の衣服類なども大量に必要です。これらは人間を超越した存在である仙人のために用意されたものではありません。したがって、若馬、子牛が積まれていた可能性は大いにあります。史記には、仙人が百工を要求したように書いてありますが、人間が理想とする高い文明を持っていると考えられていたのですから、道具類を必要とする理由もないように思えます。五穀の種と同じく、子供達の将来の生活に備えたもの(資する)と解するのが妥当でしょう。
徐福の年齢が気になります。王になったというのが事実だったとしても、その期間はどれほどなのか。三人の娘を連れてきて、口上を述べた後、すぐに雲に乗って姿を消してしまった使者は徐福を思わせます。ほどなく亡くなったのではないか。派遣を命じた王は始皇帝と解釈できます。そして、子供達は土地の先住民の中へ溶け込んでいった気配が濃厚です。
想像は際限なく広がってゆきますが、これ以上続けても、もはやデータの裏付けはなく、歴史というより小説の領域に入ります。
「徐福の移動した島、亶洲は済州島である。」、「日本の徐福伝承地は秦系氏族の展開した土地である。」これが結論です。

根拠
1 徐福は平原、広沢のある島に着きましたが、これは済州島の地形に一致します。
2 済州島は、日本以上に、徐福の出航した琅邪や会稽、東冶と地理的に結び付きやすい。
3 亶洲(たんしゅう)という地名が、耽羅(たんら)という後の済州島の国名に一致します。
4 済州島の伝説から、牛や五穀の種子は海外から船でもたらされたと考えられますが、魏志韓伝の州胡は既に牛を飼っており、その伝来は三世紀以前になります。豚は運べても牛を運べなかった、当時の倭、韓の船にくらべ、かなり大型と想像でき、秦の船ならその可能性を認めることができます。
5 済州島の伝説に現れる木の箱に随っていた使者(身分の高さを表す紫衣を着ている)と派遣を命じた国王が、徐福と始皇帝の関係に一致します。使者は雲に乗り飛び去っており、徐福は王になったとしても、ほどなく亡くなったと思われます。
6 済州島(タンラ)の住民、州胡が中国と交易していたことが魏書韓伝に記され、呉書の亶洲人が会稽の市を訪れ交易していたという記述に一致します。中国の貨幣が出土していることもそれを裏付けます。
7 後漢書倭伝に夷洲、亶洲の伝承が記されているのは、後漢書の著者、范曄が、会稽海外東方の倭に関係するかもしれない土地の情報と判断したためです。それを証明するデータが存在したわけではないので、遠慮がちに倭伝の最後に付け加えられています。確証があれば、時間的には最も先立つわけですから、先頭に置かれたでしょう。 
 
熱田『蓬莱伝説』

 

熱田の地は古来から「蓬莱島」と呼ばれています。
その由来は、波静かな年魚市潟(あゆちがた)に面し、老松古杉の生い茂る熱田の杜が、海に突き出る岬のように見える事から、不老不死の神仙の住む蓬莱島(中国の伝説)に擬せられたからであろうといわれています。
熱田を蓬莱島とたとえるなら、その地底には巨大な亀が横たわっている筈です。
金色の亀の背に大宮が建てられ、首の部分に八剣宮が、頭の部分に上知我麻(かみちかま)神社が、尾の部分に高座結御子(たかくらむすびみこ)神社が建てられ熱田宮を蓬莱島と呼ぶと「熱田宮秘釋見聞」に記されています。熱田の古いお寺の山号に亀がつくのはこのためです。
熱田蓬莱伝説と楊貴妃
なぜか昔から、熱田の蓬莱伝説を語れば、この世界三大美女の楊貴妃の名前が出てきます。古くから熱田の地は中国でいう不老不死の島「蓬莱島」とされてきました。こうした伝説は鎌倉時代から書物に記されています。
この伝説は中国の唐の時代に遡ります。中国の玄宗皇帝は野心いっぱいの人物で、東の海上にある日本を侵略する隙をうかがっていました。
この話をいち早く察知した。日本の神々は、一堂に集まり、作戦を練りました。
その結果、熱田大明神が絶世の美女に変身して、玄宗に近づきその美貌で皇帝をたぶらかすという作戦でした。
最初はうまく行っていたのですが、やがて、それもばれてしまい熱田に逃げ帰って来たという話です。
この蓬莱伝説は日本全国にありますが、鎌倉時代以前に遡れるのは、熱田、富士山、三重県熊野市の3箇所です。富士山の蓬莱伝説には、何とあのかぐや姫が登場します。どちらの女性も美しさで男性を翻弄した事は皆さんもご存知ですよね。
さて、この熱田に楊貴妃のお墓(五輪塔)が存在したと言われています。 熱田神宮内の清水社のあたりに、明治の初めごろまで残されていたそうです。 
 
浦島太郎

 

日本各地にある龍宮伝説の一つ。また、日本の伽話(おとぎばなし)の一つで、その主人公の名前でもある。
漁師の浦島太郎は、子供が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行く。竜宮城では乙姫(一説には東海竜王の娘:竜女)が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上ではずいぶん長い年月が経っていた。 
『日本書紀』
浦島子が現存文献に登場する事例『日本書紀』「雄略二十二年条」は最古である。蓬莱山へ行ったという発端部分だけの記載がある。
(雄略天皇)廿二年(中略)秋七月。丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子乘舟而釣。遂得大龜。便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦。相逐入海。到蓬莱山歴覩仙衆。語在別卷。
『丹後国風土記』
『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子 水江浦嶼子」が原型とされる。ほぼ同時代に書かれた『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい。
万葉集巻九
『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。
春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得〈乎〉良布見者〈古〉之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人〈乃〉 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡〈宅〉毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓〈垣〉毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯〈如〉本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 □袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴〈由〉奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見」
読み下し / 春の日の 霞める時に 住吉の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江の 浦島の子が 鰹釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海境を 過ぎて漕ぎ行くに 海神の 神の娘子に たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ 言成りしかば かき結び 常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に 垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ
意訳 / 水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神(わたつみ)の娘(亀姫)と出会った。二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋(くしげ・玉手箱のこと。もともとは化粧道具を入れるためのもの)を渡され、水江に帰ってきた。海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。
「浦島太郎」という名前は中世から登場し、それ以前は水江浦嶼子を略して「浦島子」と呼ばれている。
『御伽草子』
「浦島太郎」として現在伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』による。その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった。
丹後の国に浦島という者がおり、その息子で、浦島太郎という、年の頃24、5の男がいた。太郎は漁師をして両親を養っていたが、ある日、釣りに出かけたところ、亀がかかったが、「亀は万年と言うのにここで殺してしまうのはかわいそうだ。恩を忘れるなよ」と逃がしてやった。数日後、一人の女人が舟で浜に漕ぎ寄せて自分はやんごとなき方の使いとして太郎を迎えに来た。姫が亀を逃がしてくれた礼をしたい旨を伝え、太郎はその女人と舟に乗り大きな宮殿に迎えられる。ここで姫と3年暮らし、太郎は残してきた両親が心配になり帰りたいと申し出た。姫は自分は実は太郎に助けられた亀であったことを明かし、玉手箱を手渡した。太郎は元住んでいた浜にたどり着くが、村は消え果ていた。ある一軒家で浦島何某の事を尋ねると、近くにあった古い塚がその太郎と両親の墓だと教えられる。絶望した太郎は玉手箱を開け、三筋の煙が立ち昇り太郎は鶴になり飛び去った。
『御伽草子』では竜宮城は海中ではなく、島か大陸にあるように書かれている。春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれている。
「鶴亀」
室町以降の『御伽草子』系の一部に浦島説話の変形版があり、以下のように結末を結ぶ。
浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。亀は甲に三せきのいわゐ(苔)をそなへ、万代を経しと也。(中略、両者は)夫婦の明神になり給ふ
一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う能楽の「鶴亀」などに受け継がれ、さらに、鶴亀を縁起物とする習俗がひろがったとする。
横浜市神奈川区に伝わる話
昔、相模国三浦に浦島太夫とよばれる人がおり、彼は仕事のため丹後国に赴任していた。その息子である太郎は、亀が浜辺で子供達にいじめられているところに出会う。(全国版と同じなので中略)老人になった太郎はある漁師から両親の墓が武蔵国白幡にあると聞いた。
この情報を聞いた太郎は急いで子安の浜に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、松枝に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵をつくり、太郎はそこに住んだ。この庵は後に観福寿寺となるが、明治5年に廃寺になってしまう。しかし、聖観世音菩薩像が残り、神奈川区の慶運寺に安置されている。
沖縄に伝わる話
本土のものと若干道具立てが異なる。
昔、南風原間切与那覇村に正直者の漁師が居て、ある日与那原の浜で髢(かもじ。髪の毛)を拾った。探している娘を見つけて渡すと感謝され、竜宮に招待したいと言う。漁師が娘と一緒に歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。娘は乙姫と素性を明かし、漁師は竜宮で歓待の日々を過ごすこととなる。三ヵ月ほど経つと漁師は故郷が恋しくなり、娘から紙包みを渡されるが「開けないように」と念を押される。やがて漁師が郷里に帰り着くと辺りは変わり果て、人間でおよそ三十三代かかるほどの年月が経っていた。漁師は開けるなと言われた紙包みを開いたが、中には髢が一束入っているのみで煙が沸き立ち、彼は白髪の老爺と化して倒れ死んだ。地元の者が老爺に敬意を払い墓を建て祀ったのが、穏作根嶽(うさんにだき)であるという。
近代における改変
竜宮城に行ってからの浦島太郎の行状は、子供に話すにはふさわしくない内容が含まれているので、童話においてはこの部分は改変されている。これは、明治時代に国定教科書向きに書き換えられたためである。 
歴史・解釈
『丹後国風土記』を基にして解釈すれば、主人公は風流な男である浦島子と、神仙世界の美女であり、その二人の恋が官能的に描かれて異界(蓬莱山)と人間界との3年対300年という時間観念を鮮明に持つ。その語り口は、古代にあっては非常に真新しい思想と表現であり、神婚神話や海幸山幸神話などとはまったく異質であり、結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な尸解譚になっているのもそのためである。
『丹後国風土記』逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた物語を本にしたものでありこの人物は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わり皇太子学士を勤め、『懐風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。もともとあった伝承を採集しそれを編集、脚色したと思われる。平安時代になると浦島物語の舞台の丹後地方で、浦島明神という神社が浦島子を祀り人々の信仰を受け、中央の浦島物語と呼応する形で出てきたものと考えられる。
平安時代以降も漢文伝として書き継がれてきた。
10世紀初頭 / 『続浦島子伝記』
11世紀後半 / 「浦島子伝」(『本朝神仙伝』 所収)
11世紀末 / 「浦島子伝」(『扶桑略記』 所収)
13世紀初期 / 「浦島子伝」(『古事談』 所収) など。
12世紀以降になると、『俊頼髄脳』をはじめ『奥儀抄』、『和歌童蒙抄』など歌論書に浦島物語が登場し、仮名で書かれ宮廷や貴族達の間に浦島物語が広く浸透した。
中世になると、『御伽草子』の「浦島太郎」をはじめ絵巻・能・狂言の題材になり、読者・観客を得て大衆化していき、江戸時代に受け継がれた。明治期には巌谷小波が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治43年から35年間、国定教科書の教材になり定着していった。 
謎と背景
浦島太郎がいた蓬莱山(竜宮城)とは仙人が住むという伝説の山であり、古代中国の不老不死を願う神仙思想が背景にあり、海のかなたの東方に、仙人が住む孤島があり不老不死の薬があるという島である。 神仙思想は古代中国の陰陽五行論ともつながり、劇中登場する亀の色の五色も五行論からきている。その蓬莱山が後の時代に竜宮城へと変化していった。
浦島太郎と似た説話に、海幸・山幸神話がある。その劇中、天皇の祖神、山幸彦が「塩土老翁」(しおつつのおじ)という神に「無目籠」(まなしかたま)という水の入らないかごに乗せられ、海神の宮(わだつみのみや)に行き、海神(わだつみ)の娘、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し3年間暮らし生まれ故郷に戻り禁(タブー)を破る話の大筋がそっくりであり、また『古事記』に著される山幸彦の孫の初代神武天皇がヤマトに向かう際、亀に乗り釣竿を持った男とされる珍彦(うずひこ)が水先案内人になる場合があり、この2人の人物は不思議と浦島太郎に似ている。
浦島太郎のモデルとなったとされる人物として、『万葉集』に「墨吉」(すみのえ)の人の記述があり、これは今も大阪の住吉にあり住吉大社に祭られている住吉明神の事であり、別名、「塩土老翁」といい大変長命長生きであったとされ、そのモデルとされる武内宿禰も大変に長生きである。浦島太郎、塩土老翁、武内宿禰、この3者は長生きで繋がる。
住吉明神から塩土老翁、「老翁」の字が老人になった浦島太郎にそっくりであり、住吉明神、塩土老翁、浦島太郎の3者は長寿、老人のイメージで繋がり、また塩土老翁は大和朝廷の天孫降臨を導びき、神武天皇の東征をうながした謎の神であるとされる。また武内宿禰は古代豪族、蘇我氏の祖とされ応神天皇の東征を導いたともされ、
浦島もどき / 神武天皇の案内役の珍彦(うずひこ)
塩土老翁 / 神武東征を促し
武内宿禰 / 応神天皇の東征を導く。
この三者は同じイメージで繋がっていく。神武東征と応神天皇の東征はルートも似ており神武と応神天皇も同一人物ではないかとの見方も見て取れる。
蘇我氏と浦島にも「海」という接点がある。7世紀に全盛期を迎えた蘇我氏は、縄文時代から生産されてきたヒスイ(硬玉)を独占的に生産していた。ヒスイは海底からもたらされるため海神からもたらされる神宝と考えられ、蘇我氏が海の神宝ヒスイにこだわった所に浦島太郎とのかすかな接点が見出せ、それがゆえか浦島そっくりな山幸彦も劇中で海神からヒスイをもらっている。
蘇我氏の祖の武内宿禰は応神天皇の母、神功皇后の忠臣として活躍し神功皇后はトヨの海の神と強く結ばれ「豊浦宮」(とゆらのみや)に拠点を構え、それは「トヨの港の宮」とも呼ばれ、そこから神功皇后はトヨの女王と呼ばれた。蘇我氏のルーツと神功皇后との係わり、が浦島太郎の物語に関係しているとされる。 
心理学的解題
心理学的には、浦島太郎の伝説は非常に日本的な風土を表していると分析される。それによると、水底の蛇や竜は母親を象徴するものである。西洋の説話では、竜を殺し囚われの姫を救出して結婚する、という筋書きになる(古代バビロニア神話の女神ティアマト、ギリシア神話のアンドロメダにまつわる物語を参照)。これは象徴的な母親殺しであるという。つまり、母親の影響を廃して男子は独立する、ということを意味するものである。それに対して浦島太郎はその竜の住み処で姫と暮らしてしまう。これは、男性が母親の影響を断ち切ることなく成人してしまう日本的なあり方を示しているという。 
 
浦島物語の起源は何か  
浦島太郎の物語のモデルは何だったのか。乙姫様がいた竜宮に、なぜ竜はいなかったのか。そして竜宮という理想郷は、なぜ天の上ではなくて、海の中にあったのか。ジェンダー論の観点から考えてみよう。 
1. 浦島伝説に関する様々な説
日本人なら誰でも浦島太郎の物語を知っているはずだ。忘れてしまった人は、小学校の頃歌ったであろうこの歌(1911年に文部省が作った尋常小学唱歌)を歌って、思い出して欲しい。
   昔々浦島は
   助けた亀に連れられて
   竜宮城へ来て見れば
   絵にもかけない美しさ
      乙姫様のごちそうに
      鯛やひらめの舞踊
      ただ珍しくおもしろく
      月日のたつのも夢の中
   遊びにあきて気がついて
   おいとまごいもそこそこに
   帰る途中のたのしみは
   みやげにもらった玉手箱
      帰って見ればこはいかに
      もといた家も村もなく
      みちに行きあう人々は
      顔も知らない者ばかり
   こころぼそさにふた取れば
   あけて悔しき玉手箱
   中からぱっと白けむり
   たちまち太郎はおじいさん
浦島の話は、8世紀の文献である『日本書紀』や『丹後国風土記』に登場するのが最も古い。「浦島太郎」は「浦嶋子」、「竜宮城」は「蓬莱山(とこよのくに)」、「玉手箱」は「玉匣(たまくしげ=化粧箱)」と呼ばれているが、『丹後国風土記』の逸文に描かれているあらすじは、現在に伝わる浦島物語とほぼ同じである。ただ、冒頭に動物報恩譚がないこと、玉匣を開けると、浦嶋子が「風雲のむた翩りて蒼天に飛びゆきぬ(風雲と共に天に飛び去った)」となっていることなどの相違点もある。
8世紀に書かれた浦島物語は、7世紀末の日本の文人、伊預部馬養による創作と考える人がいる一方、実在の人物の実体験に基づく伝説だと主張する人もいる。フジテレビの番組「奇跡体験!アンビリーバボー」は、2000年9月14日に、浦島伝説は、日本から南東へ3700キロ離れたところにあるミクロネシアのポナペ島に潮流で漂着して、そこから帰還した漁師の体験が元になった話だという説を放送した。
この番組によると、ポナペ島南東の海底に、「聖なる都市」という意味のカーニムエイソという海域があり、そこでは、強い磁気のおかげで時間の感覚がなくなってしまうとのことである。この強い磁場を取り囲むように、高さ5mほどの丸い石柱19本が海底に建てられており、さながら海底都市の遺跡ような外観を呈している。さらに、この地域には、次のような伝説がある。
昔、ある男が、海を泳いでいると亀に出会い、泳いで付いて行くとカーニムエイソの海底都市を見つけた。彼は、カーニムエイソでの体験を絶対話してはいけないと言われたにもかかわらず、地上に戻ると、周りの人たちにこのことを話してしまった。すると、その瞬間、男は死んでしまった。
口を開けて秘密を外に漏らしたことが、玉手箱を開けてしまったことに相当するというわけだ。
もっとも、ポナペ島は日本から遠すぎて、『丹後国風土記』の逸文が伝えるように、三日では漂着できない。日本にもっと近いところでは、琉球諸島(特に、八重山列島)が伝説発祥の地として有力視されている。折口信夫によると、海の彼方あるいは海底に「ニライカナイ」という異郷の浄土があって、そこから神(まれびと)が現れ、現世の地上の人々を訪れるという信仰が琉球諸島にある [折口 信夫:妣が国へ・常世へ,古代研究〈1〉祭りの発生]。この信仰のためなのか、琉球諸島では、浜辺を訪れる亀は神として大切にされている。「ニライカナイ」は、本土の言葉で言えば、常世(とこよ)に相当する、時間を超越した理想郷であり、竜宮城の条件を満たしている。そして、1995年には、竜宮城にふさわしい海底遺跡が与那国島近海で発見された。
グラハム・ハンコックによれば、与那国海底遺跡は、1万年以上前に存在した超古代文明によって造られ、氷河時代の終わりに世界を襲った大洪水で水没し、遺棄された巨石建築物である [グラハム・ハンコック:神々の世界(下)]。本当に人間が作ったものかどうかは別として、あの幻想的な石造物が宮殿のように見えることは確かであり、たまたまこれを水中で見つけた昔の琉球の人が、その神秘的な体験からニライカナイ伝説を作り出したという仮説を考えることもできる。 
2. 浦島伝説の起源は中国にある
以上のミクロネシア起源説と琉球諸島起源説は、どちらも、浦島の話が日本特有であり、日本人のある実体験に基づいているはずだという前提の下で出されている。ところが、実は、浦島物語とそっくりの民話が中国にある [君島 久子:月をかじる犬―中国の民話]。いろいろなバリエーションがあるが、一番日本のものと近いのは、「洞庭湖の竜女」と呼ばれている、長江流域に伝わる、次のような話である。
昔、若い漁夫が、ある乙女を助けたところ、その乙女は、実は竜女だった。彼女の招待で、漁夫は洞庭湖の湖底にある竜宮城に行くことができた。漁夫は、竜宮城で湖の生き物たちに歓待され、ついには竜女と結婚して幸せに暮らした。楽しい日々が続いたが、漁夫はふと、故郷の母親を思い出し、故郷に帰りたいと言うと、竜女は「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけません」と言って、宝の手箱を渡した。漁夫が故郷に帰ってきてみると、村の様子はすっかり変わり、自分の家は無く、村人たちも知らない人ばかりだった。村の年寄りに聞くと、「子供の頃に聞いた話だが、この辺りに、出て行ったきり帰らぬせがれを待つ婆様が住んでいたということだが、もうとうの昔に亡くなったということじゃ」と言われた。気が動転した漁夫は、竜女に説明を求めようと、思わず手箱を開けてしまった。すると、一筋の白い煙が立ち上がり、若かった漁夫は白髪の老人に変わり、湖のほとりにばったりと倒れて死んだ。
この話は、六朝時代に編集された『拾遺記』にあるのだが、『拾遺記』は、その原本が東晋の時代(5世紀以前)に書かれわけだから、『日本書紀』や『丹後国風土記』よりもずっと古い。だから、中国南部にあった民間伝承が日本に伝わり、それを伊預部馬養が日本風にアレンジして、史実であるかのように書き記したと考えることができる。実際、『日本書紀』や『丹後国風土記』に書かれている浦島伝説には、「蓬莱山」、「仙都」、「神仙の堺」など、中国の神仙説話から影響を受けたことを示す言葉が使われている。
日本の浦島物語の直接の起源は、洞庭湖周辺の長江流域にあると私は考えている。だが、この程度の結論で満足してはいけない。なぜ竜宮伝説が生まれ、それが日本に受け入れられ、広まったのかをさらに問わなければならない。日本の浦島物語には竜が登場しないのに、なぜ乙姫様の住居は竜宮なのか。なぜ楽園が天の上ではなくて、水の中にあるのか。これらがわかっていなければ、浦島物語の本当の意味を理解することはできない。 
3. 地母神崇拝と竜信仰
中国では、古来、竜は、蛇と同様に、川、湖、海、雨、虹など、水とかかわりを持つ神として認識されている。竜の体は、明らかに蛇の形をしている。ヨーロッパの竜、ドラゴンも、蛇を意味するギリシャ語、ドラコーンを語源としている。文明以前の母権制社会では、蛇は、母なる大地を這うように流れる川と似ていることから、地母神の化身として、世界的に広く崇拝されていた[注1]。他方で、川が注ぎ込むところの湖や海も、地母神の羊水として神聖視された[注2]。
[注1] 多くの蛇信仰の研究者は、脱皮する蛇は永遠の生命の象徴であるから、世界的に蛇は神として崇められると説明する。だが、脱皮する動物は蛇だけではない。他の爬虫類や両生類や節足動物も脱皮する。蛇の脱皮は全身のつながった抜け殻を残すことで有名だが、昆虫も同様の抜け殻を残す。だからと言って、そうした昆虫がすべて永遠の生命を持った神として崇拝されるわけではない。むしろ、セミの抜け殻を意味する「空蝉(うつせみ)」に、はかないという意味があるなど、逆の場合すらある。蛇信仰の根拠を考える時には、蛇ならではの属性に注目しなければならない。脱皮という属性は、蛇信仰の根拠の一つにしか過ぎない。
[注2] 漢字の「海」の旁は、髪飾りの付いた母(毎)である。日本語の「うみ」は、「産む」に通じる。ラテン語でも、母(mater)は海(mare)と語源的に近い。次のようなメソポタミア文明と日本とのつながりも興味深い。
A.“Ugu”シュメール語の「産む」→“Umu”シュメール語の「産む・母」→日本語の「産む」/「海」
B.“Ama”シュメール語の「母」/中国広東語の「母」→“Anma”沖縄方言の「母・女性」→日本語の「あま(尼・天)」
高天原(たかまがはら)は、タカ−アマ−ハラの三つの言葉から成り立っているが、タカは高貴なを、アマは女性や母を、ハラは腹を意味すると考えれば、高天原とは、聖母の母胎のメタファーで、高天原からの天孫の降臨とは、天皇の祖先(瓊瓊杵)が、聖母である日御子(台与)から生まれたことを意味している。

では、蛇(竜)には、なぜ雨を降らさせる力があるのか。古代の人は、父なる天が母なる大地に雨を精液としてかけることで、地上の生命が育まれると想像していた。そして、男に射精をさせることができるのは、女である。日本では、かつて雨乞いの儀式として、女相撲という見世物が催された [宮田 登:ヒメの民俗学, p.20-25]。女を裸にし、エロティックな相撲をさせれば、それを見た父なる天は、実りの雨を降らせるだろうという思惑からなされたに違いない。だから、雨乞いに際して、男神ではなくて、女神である蛇(竜)に頼るということは、理屈に合うことなのだ[注3]。
[注3] 雨は少なくても困るが、多くても困る。中国人は、多すぎる雨を「淫雨」と呼んでいた。淫雨の被害を止めるためには、淫らな竜を退治しなければならない。どの国にも多頭の竜/蛇を退治する英雄の伝説がある(例えば、日本の八岐大蛇の物語)が、これは、上流に複数の支流を持つ川の氾濫を食い止めた、治水の英雄の物語に違いない。竜の首を切るという行為は、上流にダムを作って、流れをせき止めるという行為であろう。
中国の竜は、水の中に潜んでいるだけでなく、空を駆け上がることがあるが、これのモデルは、雨が降った後に現れる虹である。虹は、太陽の光が空気中の水滴の中で反射・屈折することによって生じるのだから、男性的性格を持つはずなのだが、未開社会の人には、そうした物理学的知識はなかったようで、竜は、たとえ空を飛んだとしても、男性原理ではなくて、女性原理に属すると思念された。後に男の竜、竜王という概念が出てくるが、地母神崇拝の時代においては、竜や蛇は母なる存在であったと考えて大過ない。
古代の日本人は、蛇を「ハハ」または「カカ」と呼んでいた [吉野 裕子:山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰, p.31]。古代の日本語には、K音とH音の区別がなかったので、両者は同じ言葉である。今でも、青大将のことを「山カガシ」あるいは「山カカ」と言ったりする。「山ハハ」の方は、「山の神」という意味を保持しつつ、「山姥(やまんば)」に転訛した。それにしても、後に母を意味するようになる言葉が、かつて蛇を指す言葉として使われていたことは注目すべきことである。現代人には「カカ」はなじみがないかもしれないが、江戸時代の武士は、現代人のように「おかあさん」ではなくて、「おかかさま」という呼び名を使っていた。現在では、「嚊天下(かかあでんか)」などに過去の形が残っている。 。 
4. 古代における地母神崇拝
以上の語源的解釈からも窺うことができるように、古代の日本人は、蛇を自分たちの母とみなしていた。特に縄文時代の日本人は、蛇を自分たちの祖先、すなわちトーテムとして崇めていたようだ。縄文時代の土器には、縄で文様が付けられているが、それは土器に蛇の模様を施すためだった。だから、縄文時代は蛇文時代なのだ。直接蛇の飾りを付けた土器もたくさん出土している。
縄文時代の遺跡から出土するほとんどの土偶に乳房が付いていることから、縄文人が地母神信仰を持っていたことがわかる。頭上に蛇を載せた土偶も見つかっている[注1]が、これは、東地中海で、地母神として崇拝されていたメデューサを連想させる、蛇と一体になった地母神の偶像である。この他、ギリシャ、エジプト、メソポタミア、インド、カンボジアなどでも、かつては、蛇が太母として崇められていた。
[注1] 縄文時代晩期に作られた遮光器形土偶は、そのゴーグルのような目から、オカルト本などでは縄文時代の宇宙人などと紹介されることもあるが、体に蛇の紋様があることから、その特徴的な目は、蛇または何らかの爬虫類の眼を模したものと考えることができる(瞑想のために閉じられたまぶたかもしれないが)。ちなみに、夜行性の蛇の眼は大きく、光を当てると、瞳が縦長になる。
竜の信仰も蛇の信仰と大きくは異ならない。中国では、6000年以上も前の遺跡から、竜を模った玉器が発掘されているのだが、最初期の竜は、豚の頭と蛇の胴体が合体した形をしている。水の神である蛇が農耕と関係があるとするならば、豚は牧畜と関係がありそうだ。獣と蛇を合成して作られた竜に、当時の中国人は、農耕と牧畜の豊作を願ったのではないだろうか。
竜は、人類に豊かな自然の恵みをもたらすグレート・マザーの化身であり、文明以前の人類は、幼児が母親にすがるように、グレート・マザーに帰依していた。しかし、都市文明の誕生とともに、人類の関心は、ファルス的な父親に向かう。中国最初の都市文明である長江文明では、太陽と一体になった雄鶏とムカデのような蛇を描いた、龍鳳文化のルーツのような造形品が出土している[注2]。雄鶏は、オスであるという属性以外に、鳴き声によって日の出をもたらすという属性を持つので、陽(男性原理)の象徴である。雄鶏はムカデに強く、ムカデは蛇に強いので、雄鶏とムカデのような蛇の組み合わせは、女性原理に対する男性原理の優位を意味しているのかもしれない。
[注2] 河姆渡遺跡から出土した双頭三脚の雄鶏紋のこと。これについては、 [百田弥生子:華麗に成熟した龍,アジアの龍蛇―造形と象徴] を参照されたい。
中国の龍には、角が生えているが、これは、中国の伝承によれば、雄鶏の角(実際にはトサカ)を盗んだものだとされている。他方で、男性原理を象徴する鳥のほうも、雄鶏が蛇の首を持つことで鳳凰になるなど、中国では、陰陽が調和する中庸の理想のもと、女性原理と男性原理が対立することなく、融合していった。その結果、雨を降らさせる女神ではなくて、雨を降らす男神としての竜、竜王が登場し、竜女は竜王の娘とされるようになった。しかし、竜が最初から男だったとは考えられない。 
5. 西洋における地母神の没落
竜は、西洋では東洋と対照的な運命をたどる。男性崇拝の宗教であるユダヤ教やキリスト教の登場により、女性原理の象徴である蛇や竜には、最低の価値が与えられるようになる。蛇のおかげで原罪を犯したアダムとイヴの物語、ドラゴン退治をする大天使ミカエルの物語などを思い起こすまでもなく、聖書においては、蛇とドラゴンは常に悪役を演じている。
蛇は、母なる大地にべったりとくっついている。そして、母なる大地からどれだけ距離を置いているかという基準に従って、蛇など地を這う動物<四肢の獣<二足歩行の人間<天使<天上界の神という価値のヒエラルキーができる。こう言うと、「では鳥は人間よりも上の存在なのか」とつっこむ人もいるだろう。もちろんそんなことはないのだが、ただ、天使は翼が生えた鳥のイメージで描かれているので、キリスト教での鳥のステータスは高いと言うことができる。ドラゴンと闘う大天使ミカエルは、ヘビを捕まえて食べる猛禽類の鳥をモデルにしているに違いない。
キリスト教が支配する前は、ヨーロッパ人も地母神を崇拝していた。旧石器時代の洞窟壁画は、洞窟が地母神の子宮として神聖視されていたことを示している。男尊女卑の宗教であるキリスト教が普及するにつれて、神聖な地下の世界は、恐怖に満ちた地獄へと、トーテムとして崇拝された動物は、人間以下の野蛮な存在へと、頭に蛇を載せた地母神であるメデューサは、見たものを石に変える恐ろしい怪物へと、豊穣の神だったドラゴンは、悪魔的な堕天使へと、薬草の知識で尊敬された女呪医は、火炙りにするべき魔女へと貶められていった。
西洋では、男性原理が女性原理を抑圧し、東洋では、男性原理が女性原理を吸収した。日本では、ユーラシア大陸と比べると、男性原理は未熟で、あたかもエディプス・コンプレックスの一歩手前で成長を止めたかのような幼児的精神文化が今日に至るまで続いている。そして、日本で浦島物語がポピュラーであることは、日本の精神文化が母子密着型であることと関係がある。 
6. 竜宮伝説における胎内回帰願望
竜宮伝説において、竜女は母で、水は羊水で、竜宮は子宮である。だから、水底にある竜宮へ行くことは、胎内回帰を意味する。母のもとへ帰ることが、竜宮伝説で繰り返されるテーマなのだ。実は、『拾遺記』に記録されている最初の竜宮伝説の舞台は、洞庭湖ではなくて洞庭山で、竜宮は洞窟の中にある。しかし、これは重要な違いではない。どちらも地母神の子宮であることに変わりがないからだ。日本の竜宮伝説にも、竜宮が地中の中にあるとするヴァージョンがある。
日本の標準的な浦島物語には、竜宮が亀宮になっていないにもかかわらず、竜女が亀姫になっているという不徹底な変更が加えられているが、この変更も、あまり本質的ではない。亀は、甲羅を背負っているところから、母なる大地を背負う神として考えられていた。ただ、亀は大地の象徴で、蛇は川の象徴という明確な区別があるわけではない。亀が水棲の動物で、蛇は陸棲の動物であるため、容易に混同が起きる。四神獣の一つである玄武は、亀と蛇を合成した空想上の動物で、日本でも亀蛇(がめ)の信仰がある。
琉球諸島に伝わる浦島説話では、水際に漂う長い髪の毛三本を拾って、持ち主である美女に返してやったところ、お返しとして、竜宮に連れて行ってもらうという筋書になっている。水中にたゆたう女の長い髪の毛は、明らかに竜をイメージしたものだ。竜女のイメージを残しているという点で、沖縄版は、中国版と日本版の中間的性格を持っており、浦島物語が長江流域から琉球諸島を経て日本に伝わったというルートを推測させる。
浦島物語に登場する乙姫様は、自分が生まれた時の、まだ若くて美しい、理想化された母の姿である。若かった頃の母の胎内に戻り、あらゆる世俗的な穢れと憂いから免れた子宮の中で、時間が経つのも忘れるような母子一体の至福を楽しむ夢を見ていて、ふと我に返ると、もうこの世には母がおらず、年老いた自分一人が取り残されている現実を思い知らされる。開けてはいけない玉手箱とは、一度出てしまうと、二度と戻れない子宮のメタファーと考えることができる。浦島物語は、胎内回帰の幻想(womb fantasy)と幻滅を物語っていたのだ。
近年、日本では、海などに散骨する自然葬がブームになっている。これまで自然葬は、墓地埋葬法違反に当たるとして禁止されてきたが、法務省が「節度をもって行われる限り問題はない」という見解を出して容認したため、海への散骨が増えている。古来、日本では、海は母の国と言われてきた。海への散骨で「母なる海に戻りたい」という人が多いということは、海に対して、ノスタルジックな胎内回帰願望を持つ日本人が少なくないということである。 
 
常世の国1

 

(とこよのくに) 古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。 
常世の国の来訪者
日本神話においては、少彦名神、御毛沼命、田道間守が常世の国に渡ったという記事が存在する。浦島子(浦島太郎)の伝承にも、常世の国が登場する。
少彦名神
大国主国造りのくだりでは、少彦名神が大国主とともに国土を成した後に帰った地とされる。『古事記』上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、日本書紀神代巻の該当箇所では、本文ではなく第八段の一書第六の大国主の記事中に、大国主神が少彦名命と力を合せて国作りの業を終えた後、少彦名命は熊野の岬に行き、そこから“常世郷”に渡った、またその直後に異伝として「淡嶋(鳥取県米子市)に行き、登った粟の茎に弾かれて常世郷に渡ったとある。この茎に弾かれた話は「伯耆国風土記」逸文にも出てきており、伯耆国の「粟嶋」という地名の由来譚となっている。
御毛沼命
御毛沼命(三毛入野命)は鵜草葺不合命の息子で、神武天皇の兄にあたる。『古事記』の中ではまったく何の事跡もなく、上巻末尾の鵜草葺不合命の子を並べたところに、御毛沼命は波の穂を跳みて常世の国に渡ったとのみある。『日本書紀』では三毛入野命が神武天皇の東征に従軍して軍船を進め熊野に至った折、暴風に遭い、「自分の母と姨はともに海の神であるのに、なぜ波を起こして我々を溺れさせるのか」と嘆き、波の秀を踏んで常世郷に往ったという。
田道間守
『古事記』では垂仁天皇が多遲麻毛理に時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を、『日本書紀』の垂仁紀では、垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わして、「非時香果」を求めさせたが、その間に天皇は崩御したという記述がある。「非時」は、時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され、「今の橘なり」と言われる。橘は葉が常緑であることから、すぐに散る桜とは対照的に「永遠性・永続性」の象徴と考えられており、「非時香果」もまた不老不死の霊薬と考えられる。
浦嶋子
『万葉集』巻九・1740の高橋虫麻呂作の浦嶋子を詠んだ歌では、浦島子が漁に出て、七日帰らず海を漕いで常世に至り、海若(わたつみ)の神の宮に神の乙女とともに住んだという。神の宮では老いも死にもせず、永世にわたって生きることができたにもかかわらず、浦嶋子は帰郷し、自分の家が既に無くなっていることを知って開けてはならぬ玉笥を開けてしまう。この歌における常世の国は、海の神の支配する不老不死の世界であること、また外界とは時間の流れの異なる世界であるという観念が読み取れる。『日本書紀』の雄略天皇二十二年や、『丹後国風土記』逸文にも同様の話があるが、いずれも海中の「蓬莱山」に至ったという。 
常世の国の重層的観念
先に引いたように、常世の国へ至るためには海の波を越えて行かなければならず、海神ワタツミの神の宮も常世の国にあるとされていることから、古代の観念として、常世の国と海原は分かちがたく結びついていることは明らかである。『万葉集』の歌には、常世の浪の重浪寄する国(「常世之浪重浪歸國」)という常套句があり、海岸に寄せる波は常世の国へと直結している地続き(海続き)の世界ということでもある。
しかしながら、常世の国には、ただ単に「海の彼方の世界」というだけでなく、例えば「死後の世界」、「神仙境」、永遠の生命をもたらす「不老不死の世界」、あるいは「穀霊の故郷」など様々な信仰が重層的に見て取れる。
常世の国=死の国という観想は、神武東征における御毛沼命の常世の国渡りの話から読み取れる。これは、ヤマトタケルの東伐の中で弟橘媛が嵐を鎮めるために海に身を投げたというエピソードと状況が非常に類似しており、仮にこの対比が妥当だとすれば、御毛沼命は海に身を投げてわが身を生贄としたのであり、直接に「常世の国=死後の世界」を暗示させる。
また、常世の国は神々の住まう神仙境としても信仰されている。『万葉集』の浦嶋子の歌におけるワタツミの神の宮(「常代尓至 海若 神之宮」)はまさに神の居所であり、『日本書紀』の垂仁紀では、天皇崩御の翌年に実を持ち帰った田道間守がついに間に合わなかったことを慨嘆して、「遠く浪を踏んで遙かに弱水(河川)を渡って至った常世の国は、神仙のかくれたる国、俗のところではない。このため往来に十年かかってしまった。帰還を果たせないと思ったが、帝の神霊によってかろうじて帰ることができた」と述べている。
田道間守が持ち帰った「非時香果」はまさに永遠性の象徴であり、常世の国に渡った浦嶋子が老いることも死ぬこともない世界に至ったという『万葉集』の歌からは、常世すなわち永久不変の国という観想が見られる。
それ以外にも、常世の国に渡った神話的存在がいずれも多少は穀物神・豊穣神の属性を持っていることから、常世の国は豊穣・穀物をもたらす「穀霊の故郷」としての信仰も考察されている。すなわち、少彦名が国造りに協力した創造的な神であること、御毛沼命の名義は「御食」に通じ穀物神の要素を持つと考えられること、そして田道間守が「非時香果」を持ち帰ったという事績があることより、「豊穣・穀物をもたらす存在」と「常世の国」が結び付けられうる、とする考察である。 
 
常世国2 (トコヨノクニ)

 

大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に国づくりをし終えた少彦名神(すくなひこなのかみ)が帰った地、ミケヌ(御毛沼命)が渡った地、『日本書紀』「丹後国風土記」逸文において浦島子(参照・浦島太郎(うらしまたろう ))が訪れた国として上代文学中にあらわれる。
概して、「故、御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡り坐し」(『古事記』上巻)とあるように"海の彼方の世界"として書かれる。
少彦名神(すくなひこなのかみ)は、『丹後国風土記』逸文において、「少日子命、粟を蒔きたまひしに、秀実りて離々りき。即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故、粟嶋と云ふ。」と書かれる。
ここにおいて少彦名神(すくなひこなのかみ)は現世に豊饒をもたらすものとされる穀霊的性格を持っているマレビトである。
また、ミケヌ(御毛沼命)も御食つまりは食物を司る神と考えられるから(本居宣長『古事記伝』)少彦名神(すくなひこなのかみ)と同じような性格を持っていると考えられる。以上のことから、常世国は穀霊の故郷と考えれる。豊穣をもたらす穀霊は海の彼方の常世国から現世を訪れ、また常世国へと去って行くのである。
沖縄の伝承に海の彼方の世界(ニライカナイ)から五穀の種子がやってきたというのがある。また、海の彼方に向かって穀霊を招く仕草をする行事も残っている。常世国も似たような正確を持っていたのではなかろうか。常世国とニライカナイとの関係については柳田國男・折口信夫によって為されている。
これが転じて豊かな土地、富の根源との観念に発展してゆく。『常陸国風土記』には「いはゆる水陸の府蔵、物産 の膏腴なるところなり。古の人、常世の国といへるは、蓋し疑ふらくは此の地ならむか。」とあり山海の作物が豊富であるところから、常世国ではないかとしている。
次に浦島子の例であるがここでの常世は、先に述べたような穀霊の故郷としての性格ではなく、神仙境としての性格を持っている。すなわち老いず、死なずというものである。(常世の語が用いられたもので似た例として『日本書紀』皇極天皇三年七月条に富士川のほとりの大生部の多というものが、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と壽とを致す」と、虫を常世神として祭ったという記事がある。)
以上のように常世国が持つ性格は「穀霊の故郷」「神仙境」とふたつあげることが出来る。
常世国の語義について本居宣長は『古事記伝』のなかで、常世国はもとは底依国であり、遥かに離れた場所であり、たやすく往還出来ない地をいったのだとしている。これが常世国の原義であるとし、その上で「さて又人も何も、とことはにして変らず死ず、よろづにめでたき国を、常世国と云ることあり、是は漢籍ごとに依こと多き世になりて、彼いはゆる蓬莱などの説によりて、此方に云来れる遥けき国を云其名を借れるものなり」としている。神仙境的常世観は神仙思想流入後におこったものなのである。
つまり、常世国は海の彼方の遥か遠くにある地、または世界であり、ここにどのような幻想を抱くかによって常世国の性格は変化するのである。これが常世国がいくつもの性格を兼ね備えている理由であろう。
私は常世国の原型は少彦名神(すくなひこなのかみ)ミケヌ(御毛沼命)などの穀霊の故郷ではなかったか、と考えている。  
 
常世論3

 

日本人が古くから抱いてきた「常世」(とこよ)はクニの観念である。原観念のようなものだ。厳密にいえば、常世は「祖霊が住む場所」のことで、しばしば「妣(はは)の国」とも「根の国」ともいわれた。日本人の根底にあるカントリーがあるとすれば、まさに常世こそがマザーカントリーだった。
日本の政治家たちがいま想定している常世とは何なのかと、ふと思う。かれらのマザーカントリーとは何なのかと思う。「母国」や「祖国」のイメージとはどういうものなのか。たとえば憲法9条をどのようにするかで、そのマザーカントリーの資質が異なってくるというなら、そこを徹頭徹尾するべきである。また格差社会をなくして官僚政治を脱したいというのなら、その変奏ぐあいを徹頭し、徹尾するべきだろう。徹頭徹尾とは、頭と尾とを終始一貫させることをいう。
しかし、そういうものだけで日本人の常世にあたるマザーカントリーのヴィジョンが確立するものなのか、見えてくるのかというと、それだけでは掴めないものがいろいろある。
日本はいつしか「無宗教の国」と言われるようになった。阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』は、そのへんを巧みに炙り出している。山折哲雄の『さまよえる日本宗教』も同断だ。日本人はいつしか「浄土」や「弥勒の世」に対する憧憬をもたなくなった。まことに惜しい。
けれども他方、日本人で縄文土器に日本の原エネルギーのようなものを感じない者はほとんどいない。お米が日本に不要だとか、和風旅館がいらないとかと思う者もほとんどいない。各地の祭りには心が弾み、神社には手を合わせ、寂びた仏像には何かの心情を託したくもなる。
それはそうでもあろうが、そうなると今度は、日本にいまなお続くそういう習慣にすがってマザーカントリーを議論したくなるだろうけれど、これもどうか。さらにまた、こういうことを日本のアニミズムやシャーマニズムの伝統が今日に生きているからだというのは、あまりに虫がいい。それでは性急なのである。そんなふうな繋ぎとめ方では、あまりにも説得力がない。
それにそんな程度では常世はわれわれを相手にしてくれない。では、たとえば、どんなふうに見ていけばいいのか。
かつて日本のシンボルとして折口信夫がタブを持ち出したのに対して、柳田国男がクロモジを持ち出したことがあった。タブもクロモジもクスノキ科の木のことだから、そんなに変わりはないのだが、二人は論争こそしなかったものの、タブとクロモジをそれぞれの原郷イメージの代替根拠にしようとした。
折口は『古代研究』の冒頭の口絵にタブの写真を掲げ、これが常世神(とこよがみ)の漂着地である目印なのだと主張した。常世神というのは海流を渡って原日本にやってきた祖先たちのことをいう。その到着点を示すのに依代(よりしろ)としてタブが選ばれた。そしてそのタブがやがて結界を示すサカキ(境木=榊)になったのだろうと推理した。
柳田のほうは晩年の70歳近くになって、クロモジに注目した。依代ではないが、日本人が楊枝(ようじ)にクロモジを選んだのは、そこに永遠の香りがひそんでいるためで、原日本の大過去に去来する記憶を思い出すためではなかったかと『神樹論』に書いた。
折口のタブも柳田のクロモジも、クスノキの常緑性と香りを祖先に結びつけている。なぜ二人の民俗学の巨人がクスノキにこだわったかといえば、そこに日本人の原観念の萌芽の「しるし」があると感じたからだった。二人だけではなく巨魁・南方熊楠も、南の海からやってきた日本人の源流たちは、みんな楠神(くすしん)を崇めたはずだと想像した。
スサノオが自分の国を治めるために最初にしたことは、浮宝(うきたから)をつくること、つまり船を建造することだったと『日本書紀』神代紀には書いてある。スサノオはこれをスギやクスノキでつくろうとした。天岩楠船(あめのいわくすぶね)とよばれる。スサノオは常世を知っていたのだ。いや、スサノオがいたところ、そこが「根の国」とよばれていて、そこがきっと常世であろうと、のちの日本人が憧れたのである。その憧れが代々わたって伝承されたのだ。
では、古代日本人がクスノキを通して常世を伝承したそのことを、スサノオが「根の国」をつくったというその常世を、現在のわれわれはどのように感じたり、考えていったりすればいいのか。沖縄のウタキ(御嶽)にまで行くべきか。近くの鎮守の杜(もり)に佇むべきか。そういう疑問に応えようとして立ち上がったのが谷川健一だった。
谷川健一は常世を日本人の深層意識の原点であるととらえた。浦島太郎が行こうとしたらしい竜宮とは常世なのである。雛流しがどこへ行くかといえば、そこが常世なのである。雛は川に流され海に出て、そしていつしか海辺に戻ってくるものだ。ということは、波打ち際には常世からの寄せる波がとどいているということだ。古代人はそういうふうに夢想した。
そういう波打ち際から、中世の日本人は熊野をあとに補陀落(ほだらく)渡海に船出した。死出の旅路ではあるけれど、行く先の「むこう」に常世があって、それはいつしか生まれ育った「ここ」につながってくると信じていたからだ。近世、そうした感覚は浄瑠璃や歌舞伎の「道行」(みちゆき)につながっていく。
明治になって神風連をおこした林櫻園に、「常世べにかよふと見しは立花のかをる枕の夢にぞありける」という歌がある。常世に行ったと思ったのは枕元に橘が香ったせいで見た夢だったという意味だ。無念におわった桜園のヴィジョンが行きたかったところ、それもまた橘香る常世だったのである。
このようなことを行きつ戻りつしながら、谷川は常世を考えるようになったという。常世を実感するようになったという。本書はその航跡を辿った。辿ったものではあるが、その“民俗語り”はけっして堅くない。学者の立場にこだわらず、仮説力と実証力が綯い交ぜになっていて興味尽きないものがある。
70年代前半に「流動」という雑誌があって(当時は「現代の眼」に対抗していただろうか)、そこに「海彼の原郷」「若狭の産屋」「ニライカナイと青の島」「美濃の青墓」などが連載されていた。いずれも常世をめぐっていたが、いつも興奮させられたし、気がかりだった。その「若狭の産屋」(本書所収)には、こんなことが書いてある。
谷川はあるとき、敦賀湾に面した常宮(じょうぐう)という海村で、ある老人から自分の子供3人を集落の産屋(うぶや)で生ませたという話を聞いた。
産屋は屋敷の片隅にあって、隣りには煮炊き用の竈(かまど)がしつらえてある。産気づいた妊婦がそこに入ってから出産まですることはよくある光景なのだが、この地の習慣では母子は赤児が生まれてからも、その部屋を出ない。それが1カ月も続く。そこまで母子が時をすごす産屋はどんな部屋なのかと聞いてみると、その産屋には畳がなく、海から採ってきた砂を敷いてあるという。その上に藁を敷きつめ、筵(むしろ)を重ね、いちばん上に茣蓙(ござ)を置く。しかし妊婦が代わるたびに、砂はすっかり取り替えるらしい。そこで谷川が、「砂まで変えるんですか」と尋ねると、「ウブスナだからね」と言ったというのだ。
えっ、それをウブスナと言うのか。谷川は、そうか、それをこそ産土(うぶすな)と言うのだと粛然としたという。腑にも落ちた。
そこから谷川の推理がいろいろ飛んでいったのである。芭蕉が『おくのほそ道』で気比神宮に参拝したときの「遊行の砂持」とは産土であろうと思えたのは、まだしもたやすい推理のほうだ。斎部広成の『古語拾遺』にあった次の話の謎の解き方は、かなり谷川らしい飛びである。それを紹介しよう。
ヒコホホデミが海神の娘のトヨタマヒメを娶ってヒコナギサを生んだとき、海浜に室をつくって、「掃守」(かにもり)の遠祖といわれるアメノオシヒト(天忍人命)がそこに仕えた。そのとき掃守が箒(ほうき)をとって蟹を払ったという奇妙な故事が伝わっていて、その故事ゆえに舗設(しきもの)を司っている職掌を「蟹守」(かにもり)と名付けるようになった。
これが、『古語拾遺』のくだんの記述のあらましだ。が、谷川はかつてはその意味がわからなかった。そのころ流布していた神話学や民俗学の一般的な解釈では、蟹は脱皮して成長するので、それに肖(あやか)って新生児の誕生に立ち会う者が蟹守とよばれ、それが音韻転化して箒守になったというのだが、これではどうも説得力がない。なぜ蟹が箒になったのか。
そこで谷川は、産土には海浜の砂にまじって蟹も動いていて、産屋に砂を入れるにあたってはそこに交じっていた蟹を実際に箒で払い出したのではないか、と推理した。さらには、そもそも産屋での出産に海浜の砂が敷かれるのは、日本人の古い出産の観念のどこかに海亀や蟹と同様の海の動物たちの砂浜での出卵に何かを託したようなものがあったのではないか。それは結局は海に去来する常世の観念を抱くことではなかったか。そういう海民たちの観念がさまざまに姿を変えて今日にとどいているのではないかと、そんなふうに推理していった。
ぼくは、こういう谷川的推理が大好きなのである。当たっているか当たっていないかはべつとして、そんなことは後の世が決めればいいことで(柳田も折口もそうだったわけで)、それより言説や現象や習慣や地名の断片を、いまそこでどのように組み合わせていけるかが、谷川の真骨頂だったのだと思われる。
その真骨頂の例をあげていくとキリがないけれど、ぼくが本格的に谷川の著作を読むきっかけとなった『青銅の神の足跡』(集英社1979)の例でいえば、この1冊だけでもずいぶん多くの「日本という方法」がひそんでいた。
あの本は銅鐸の謎を追い、その背景にひそむ青銅の神々の消息と、鉄の一族にかかわる鍛冶神の消息を解明しようとしたものだった。そこには本来は青銅と鉄の記憶にもとづいていたはずの観念が、いつしか記紀神話のなかで稲魂(いなだま)の成長の精神史におきかえられていった秘密も暴かれていた。
そのようなおきかえに積極的だったのが柳田国男だったので、谷川はこのときいきおい柳田批判にまで言葉をすすめたものだった。
しかし、あの本はぼくを変えたのである。のちに『フラジャイル』で議論することになるぼくの「欠けた王」の仮説のルーツは、さかのぼればこの『青銅の神の足跡』と、同じ年に出版された『鍛冶屋の母』(思索社1979)とに発していた。あのころぼくは、天目一箇神をルーツとする「片目の王」の伝説や、ヤマダノソホドなどをルーツとする「足が萎える王」の伝説に夢中になっていた。そのため福士孝次郎の『原日本考』にまで手を出していて、そこにいつも鉄神や青銅神がちらちらするのが気になっていたのだが、そのうずうずとした靄々を快刀乱麻のごとく切り刻んでくれたのが谷川健一だったのだ。
この人は「推理の歩行者の目」をもった民俗学者なのである。歩く学者はいくらもいるし、宮本常一のように歩いてはとどまり、そこにわれわれが忘れきった日本人を蘇らせる民俗学者もいるが、谷川は歩きながら推理して、推理の中でまた歩く。そのたびに厖大な読書遍歴が加わって、また歩く。そんなふうに読んだり、歩いていくうちに、ふいに飛んでみせるのだ。そうなると、そこには、谷川的想像力による日本観念の王国があらかたできあがっていて、いったんその王国観念の飛沫に感染したら、そのウィルスはわれわれの観念をここを先途と駆けめぐるという結構なのである。
谷川的想像力にウィルスがまじっているかのような言いっぷりをしてしまったが、いやいや、その感染こそ日本的免疫力の発端である。谷川ワクチンの創製だ。だったら、そういう観念ウィルスに出会わないままにいて、何が日本がわかるものか。何がマザーカントリーであるものか。ぼくは早くに谷川の観念ウィルスに感染したことを、おおいに誇りとしていたい。
話をまた常世に戻すことにするが、常世がクスノキやタチバナなどの常緑樹に関係するのだろうことはさっきも述べたけれど、それが転じるといろいろなものになるという話をしておきたい。そのひとつに、常世神というのは実は「常世の虫」だったという話がある。
この話は『日本書紀』の皇極紀に記載されている。富士川のほとりに住んでいた大生部(おうべ)の多(おう)が、村人に虫を祀ることをすすめた。多はこの虫は「常世の神」なのだから、これを祀れば金持ちになり、長生きもできると説き、これに同調する者たちがふえていった。効果はてきめん、やがて各地で常世神を橘や山椒の枝に祀って騒ぐようになるのだが、なぜかこれを都の秦河勝が知って怒り、大生部の多を懲らしめた。
そういう話なのだが、ここには常世の虫が橘に寄生して、山椒の木についているという現象が語られているように見える。そうだとすればこの虫は蝶々や蛾の幼虫であろうけれど、それを秦河勝が懲らしめたというのが、わからない。そこで、秦氏は生糸の管轄者だったから、この「常世の虫」というのは蔑称で、実は秦氏の系譜のカイコではない別のカイコによる養蚕が大井川あたりに始まったことに対する、秦氏の鉄槌だったのではないかというふうに解釈されるようになった。
ぼくもこの説でいっとき満足していたことがあった。けれども谷川はここからもっと別な推理の羽をのばして、またしても飛んだのである。その飛んだ先は常陸の鹿島だった。この話、ぼくの身近な者の出自ともちょっと関係がありそうなので、『常世論』のなかの「東方の聖地――常陸」にしたがって、以下、少々の順を追っておく。 
茨城県大洗には、こんな伝承がある。
斎衡3年(856)の12月の朝廷に、鹿島郡の大洗磯前に神が新たに降りたという知らせが届いた。国使の報告では、塩炊きの男が夜半に沖を望んでいると、光り輝くものがあり、その翌日には高さ一尺ばかりの二つの石が波打ち際に立っていた。その翌日、今度はさらに二十あまりの石が、その二つの石の左右にちょんちょんと並んでいた。まるでお供の格好のようだったという。
そのうち村のある者が、この石神めいたものが「自分はオオモチスクナヒコナである。昔、この国を作り終えて東海に去ったが、いままた民を救うためにやってきた」と託宣していたと言ってきた。
スクナヒコナといえば、『古事記』では海の彼方からガガイモの舟に乗ってやってきた神で、誰もその正体がわからなかったのだが、カミムスビの母神がこれは自分の子だと言い、私の手の指から生まれたのだと言ったというふうになっている。『日本書紀』一書では、出雲の相見郡にあるらしい淡島(粟島)から粟茎(あわがら)にのぼってはじかれ、そのまま常世に渡っていったとされている。
いずれにしても、それほどの「ちいさこべ」であったわけで、それゆえこの記述ではスクナヒコナは芋や粟に関係する神になっている。この伝承はその後は、海民たちが芋の酒や粟の酒をスクナヒコナに奉じて祀り、それにスクナヒコナが海辺の立石として応えたという呼応の物語になった。そう、跡付けたくもなる。
そういうことからすると、大洗に立ったスクナヒコナもこの手のプロットがたんに変形したのだろうとも思われてくる。ところが、ここにはもうちょっとおもしろい推理が成り立ちうるということを、谷川ワクチンが放ったのである。
大洗は鹿島台地に続いている。ここには古墳群があって、そのひとつ、直径100メートル近い車塚は仲国造(なかのくにづくり)の墳墓だとされている。仲国造は那賀国造でもあって、その名はタケカシマノミコト(建借間命)であると『常陸国風土記』は書いている。
タケカシマは崇神天皇の時代に、東の一族を平定するために東方に遣わされた族長だった。反逆する者を追って潮来(いたこ)の近くにまで来たとき、賊たちが土窟に逃げこんだので、一計を案じて海に舟を浮かべ、音楽を奏して誘惑し、首尾よくこれを平定した。
このタケカシマからカムヤイミミ(神八井耳)の一族が出た。そのカムヤイミミには19の子孫の系譜が連なった。その筆頭に立っているのは、実は多氏であった。系族にはそのほか、常道(ひたち)氏、石城(いわき)氏などがいる。
一方、鹿島信仰で最も有名なのは、なんといってもミロク踊りである。なぜ鹿島に弥勒が踊るのか。そこにはおそらくちょっとした変遷がある。
柳田国男は『海上の道』に、弥勒の出現を海から迎えるという信仰が八重山群島に見られるとして、それは琉球一帯のニライカナイ信仰のヴァージョンであって、つまりは常世信仰のひとつであると考えた。そこまでは、いい。ただし、谷川はそのようなニライカナイを弥勒浄土とみなす信仰をもった一群が、その後は分派して琉球から本土の方へ向かったにちがいないと考えた。そしてこのことが、海人たちの東上につれて紀伊半島、渥美半島、房総半島をへて常陸にとどき、そして鹿島で弥勒下生のミロク踊りになったのだろう。そう、推測した。
ようするに、常世の信仰はときにスクナヒコナの、ときに弥勒下生の姿をとりながら、海流とともに西から東へ運ばれてきたのである。そして、いくつかの地で、その根をはやしたのだ。鍵が海流に乗って動いてきて、どこかで鍵穴にはまったのだ。西から東に鍵が動けば、これを待ち構える鍵穴もなければならない。それが、大洗や鹿島や潮来あたりだとしたら、そこに待っていた鍵穴とは、では何なのか。谷川は大場磐雄の仮説をもとにしながら、さらに羽を広げていった。
タケカシマの根拠地と推定される潮来に、大生原(おうはら)というところがある。その中心は旧大原村の大生(おう)である。
『常陸国風土記』には、ヤマトタケルが食事を煮炊きする小屋を海辺にかまえて、そこから行宮(あんぐう)に通ったとある。そこで大炊(おおい)の意味をとって、大生の村と名付けたと書いている。いまも大生神社がのこっていて、タケカシマとカムヤイミミが祀られている。
当時は海民がこのへんを頻繁に往来した。鹿島の国に入るには、ほとんどが海路で行方台地の岬を通って大生から舟で入っていった。それならどうやら、ここらあたりに鍵穴があったはずである。そうだとすると、大生神社から鹿島神宮へのコースにも、何かがひそんでいなければならない。
おそらくこの地方に来た先駆者たちは、大生から入海を下っていったん大海(太平洋)に出て、常陸の明石の浜に上陸し、沼尾をめざして鹿島に入っていったのであろう。ということは、沼尾がもうひとつの鍵穴だ。ここには沼尾神社があって、天の大神(おおかみ)の社、坂戸の社、沼尾の社の三処が合わされている。調べてみると、トップの天の大神とは、天(あま)のオホの神、あるいは海(あま)のオホの神のこと、すなわち多氏の一族の氏神なのである。
これでだいたいの推理が組み立ってくる。多氏こそが、きっとスクナヒコナの伝承を語ったか、語り伝えた一族だったにちがいない。鍵穴は多氏が持っていた。ところが、大和朝廷が強大になってくると、多氏の一族にはなんらかのしわ寄せがきたのであろう。
そこで一族の跳ねっ返りが、今度は東から西に向かい、大井川あたりにさしかかったのだろう。大井は大炊でもあった。大生部(おうべ)の多(おう)とはそのことだ。けれども、ここで都からの秦氏の制止を食らった。そこで「常世の神」の伝承が「常世の虫」の伝承に切り替えられたにちがいない。ざっとはそういうことではなかったか。
谷川はそんなふうに鍵と鍵穴の話を結んでいる。急いで合い鍵をつくった一派の話をたくみに組み込んで‥‥。
こんな話をやや詳しく紹介したのは、さきほどもちょっと書いたように、この昔語りの経緯には、ぼくが多少の因縁を感じるからだ。
実はいま、ぼくの最も近いところで活動してくれている太田香保と太田剛は姉と弟なのだが、その名のオオタはなんともオホ氏めいている。そればかりでなく、いまはその実家は潮来(!)になっている。これは谷川ワクチンを借りてでも、この因縁を常世に結びつけたくなるわけだった。
いやいや、谷川健一のすぐれた研究をこんな身近な因縁話でおわらせるのは申し訳ないかもしれないが、けれども、ときにはこういう本の読み方もあってもいいはずで、何も古代中世の一族を訪ねるだけが歴史語りとはいえないはずなのだ。今夜はそんな気分であったので、あえて「多氏」と常世と来訪神を結びつけた話の紹介に徹してみたわけだ。
とはいえやっぱり、谷川健一の壮大な業績も紹介しておきたい。せめて冒頭のイントロ・フレーズだけでも見ていただきたい。これは三一書房の『谷川健一著作集』全10巻のメインタイトルからの抜粋である。「魔の系譜」「無告の民」「流浪の皇子たち」‥‥。「祭場と葬所」「海の群星」「火の国の譜」‥‥。いずれも気になるものばかり。ともかくもこれだけのサブジェクトを書き続けた人だったのだ。ほんとうはこれらのいちいちを少しずつでも紹介したいのだが、今夜はそれは控えたい。
そのかわり第8巻『常世論・日本人の宇宙観』の、その「日本人の宇宙観」のサワリだけをちらつかせておくことにする。こんなふうなのである。谷川さんの声を想像して、耳で読まれたい。
あのね、日本に世界と共通の神話や伝説があったかどうか、そんなことを考えるのは愚の骨頂なんですよ。日本には日本勝手な世界山があり、日本勝手な洪水伝説があったというふうに見たほうがいい。
たとえば天香具山はね、天山(あめやま)が二つに分かれて降ったのですよ。記紀の冒頭の神世七代に、宇比地邇(ウヒジニ)神、妹須比智邇(イモスヒジニ)神のあと、角杙(ツノクヒ)神、妹活杙(イモイクグヒ)神が出てくるでしょう。あれは洪水のあとにその地を治水した王が杙(杭)を打ったからなんですよ。
これじゃ、まだ不満? ムリにでもユダヤ・キリスト教に比較したいというなら、それなら楽園喪失の観念の違いを強調しておくとね、日本の神話では、楽園喪失や楽園追放は洪水以前の社会にあるのではなくて、スサノオが追放された「根の国」のほうにあるんです。しかもそこをこそ「妣の国」としたところに特色があるんだな。われわれのマザーカントリーは、墜落したり、喪失したりした者が高所をふりあおぐものとして位置づけられたのではなかったんですよ。
だからね、人間がどこから生まれたのかという説明がないじゃないかなどと思ってもらっても困るんだ。東アジアや東南アジアには瓢箪からも卵からも人類創世がおこっているけれど、なるほど日本には卵生神話は宮古島くらいにしかないけれど、それって、何も見てないんですよ。実は各地に無数にのこる「むろ」や「うつほ」の伝承こそ、日本的世界卵の母型たりうるものであるはずなんだねえ。
かくして日本の常世を思うにあたって重要なのは、つまりはタマとカミなんですよ。その姿や形ではなくて、そのプロフィールやフィギュアが観念そのものなんだ。観念がプロフィールであり、観念の動向がフィギュアなんだ。しかも、そこにはね、「ある」がなくて、「ある」はたちまち「なる」に移っていくものなんですよ。
サワリにしては、あまりにサワリにすぎなかったろうが、それにあまりにぼくが我田引水しすぎたかもしれないが、あとは『谷川健一著作集』に自身で遊ばれたい。たとえば、トヨタマヒメ伝説ひとつでも、じっくり渉猟をすることだ。ご本人は、第8巻のあとがきで、こう書いていた。
「日本人とは何かという問いは、具体的には日本人の意識や行動の根底によこたわっている世界観や宇宙観を問うことにほかにならない。もとより、その世界観や宇宙観の素材は日本だけにあるのではなく、他の民族とも共有している。しかし日本人はその素材の組み立て方、また組み立てた観念の構築物を、長い時間をかけて成熟させ、細部を洗練させていくやり方について、やはり独自のすぐれたものをもっていたと考えざるをえない。その証拠としてトヨタマヒメの神話をあげるだけでも充分であろう」。 
 
天岩戸

 

(あまのいわと) 日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あまと)、天岩屋(あまのいわや)、天岩屋戸(あまのいわやと)ともいい、「岩」は「石」と書く場合もある。太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になってしまった岩戸隠れの伝説の舞台である。 
古事記
誓約によって身の潔白を証明した建速須佐之男命は、そのまま高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神は天照大神に苦情をいうが、天照大神は、「考えがあってのことなのだ」とスサノヲをかばった。
しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、そこから皮を剥いだ馬を落とし入れたため、一人の天の服織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまった。ここにきて、天照大神はスサノヲの行動に怒り、天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、どうすればいいか相談をした。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に命じて八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に命じて、八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。
天児屋命と太玉命を呼び、雄鹿の肩の骨を抜き取り、ははかの木を取って占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神が岩戸の脇に隠れて立った。
天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
この声を聴いた天照大神は何事だろうと天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているというのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。
アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神の前に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿がその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けたとき、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。 
日本書紀
『日本書紀』の第七段の本文では、古事記と同じような暴挙を行う。最後には天照大神が神聖な衣を織るために清浄な機屋(はたや)にいるのを見て、素戔嗚尊が機屋に皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。すると、天照大神は驚いて梭で傷ついた。此に由りて天照大神は怒りて、天石窟に入って磐戸を閉じて籠った。そのため国中が常に暗闇となり、昼夜の区別もつかなくなった、とある。
そこで、八十萬神(やそよろづのかみ)たちは天安河の河原に集まり、その祷(いの)るべき方法を相談した。以下が神のとった行動のあらましである。
思兼神:深く思慮をめぐらし、常世之長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めてそれぞれ長く鳴かせた。
手力雄神:(思兼神の指示で)磐戸の側(そば)に立つ
天児屋命と太玉命:天香山(あめのかぐやま)の繁った榊を掘り起こし、上の枝には八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいほつみすまる)をかけ、中の枝には八咫鏡あるいは眞経津鏡(まふつのかがみ)をかけ、下の枝には青い布帛(ふはく)と白い布帛をかけ共にに祈祷をした。
天鈿女命:手に蔓(つる)を巻きつけた矛を持ち、天石窟戸の前に立って巧に俳優(わざおさ)を作す(見事に舞い踊った)。また、天香山の榊を鬘(かづら)としてまとい蘿(ひかげ)を襷(たすき)にし、火を焚き桶を伏せて置いて、顕神明之憑談(かむがかり)をした。
すると、天照大神はこれを聞いて、「私はこの頃、石窟に籠っている。思うに、豊葦原中國は長い夜になっているはずだ。どうして天鈿女命はこのように笑い楽しんでいるのだろう」と思い、手で細めに磐戸を開けて様子を窺った。 その時、手力雄神が天照大神の手を取って、引き出した。そこで天児屋命と太玉命が注連縄を張り渡し、「再び入ってはなりません」と申し上げた、とある。
事の顛末は古事記と大きな話の流れは同じであるが、細部に若干の違いがある。特に、天鈿女命は「巧に俳優行す」とあるのみで、おどけたしぐさや、神々が笑ったという描写はない。
そうした後、神々は罪を素戔嗚尊に負わせ、贖罪の品々を科して差し出させた。それ以外に髪を抜いてその罪を償わせもした。または、その手足の爪を剥いで償わせたとも言う、とある。このようにして、素戔嗚尊は高天原から追い払われた。
第七段一書(一)では、是の後、稚日女尊(わかひるめ)が清浄な機屋にいて神聖な衣を織っていると、素戔嗚尊がこれを見て、天斑駒の皮を逆さに剥ぎ御殿の中に投げ入れた。稚日女尊は驚きて機墮ち所持せる梭によりて体を傷め神退(かむざ)りき。 そのため天照大神は素戔嗚尊に、「汝は黒心(きたなきこころ)あり。汝と相い見えんと欲(おも)わず」と語って、天石窟に入って磐戸を閉じた。是に天下(あめのした)恆(つね)に闇(くら)く、また昼・夜の殊(わかち)無し、とある。
そこで、八十萬神たちは天高市(あめのたけち)に集まって相談した。その時、高皇産霊尊の子の思兼神がそこで思案し、「その神(天照大神)の姿を映し出すものを作って、招き寄せましょう」と申し上げた。そして、石凝姥を技工として、天香山の金(かね)を採らせ、日矛(ひほこ)を作らせた。また、美しい鹿の皮をまるごと剥いで天羽鞴(あめのはぶき)を作らせた、とある。
この一書では、稚日女尊が梭で傷ついて死んだとなっている。ワカヒルメは大日孁(おおひるめ)即ち天照大神の分霊であり、スサノヲの行為によって天照大神が死んだというのが元々の伝承ではないかと考えられる。 また、これを用いて作らせた鏡が、紀伊國に鎮座する日前神(ひのくまのかみ)である、とある事からこの時の鏡が日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)と同一とされる。
第七段一書(二)では、素戔嗚尊が本文同様の暴挙を行うが、然れども、日神(ひのかみ)、親み恩(めぐ)む意(こころ)にして、怒らず恨まず、皆、平らかな心以ちて容(ゆる)しき、とある。
しかし、嘗(にひなへ)を行う時になり、素戔嗚尊は新宮(にひなへのみや)の席の下にこっそりと糞をした。日神は気づかずに席に座った。これによって日神は体中が臭くなってしまう。そのため怒り恨みて、天石窟に入ってその磐戸を閉じた、とある。 この一書では、天照大神が怒って岩屋に隠れたのは、素戔嗚尊が神殿に糞をし、天照大神が気付かずにそれに座ってしまった為としている。
そこで神々は困り、天糠戸神(あめのあらと)に鏡を作らせ、太玉命に布帛を作らせ、豊玉(とよたま)に玉を作らせた。また、山雷神(やまつち)に多くの玉で飾った榊を作らせ、野槌神(のづち)に多くの玉で飾った小竹(ささ)を作らせた。それらすべての品々を持ち寄って皆で集まり、天児屋命が神祝(かむほぎ)を述べた。そこで日神は磐戸を開けて出てきた、とある。
そうした後、神々は罪を本文同様に素戔嗚尊に負わせ贖罪の品々を科して差し出させ、高天原から追い払われた。
第七段一書(三)では、素戔嗚尊は自らが与えられた土地(天杙田(あまのくいた)・天川依田(あまのかわよりた)・天口鋭田(あまのくちとた))は、日神の土地(天安田(あまのやすだ)・天平田(あまのひらた)・天邑田(あまのむらあわせた))に比べすべて痩せた土地で、雨が降れば土が流され、日照りになれば干上がった。そこで、妬(ねた)んで姉の田に害を与えた、とある。日神は最初は咎めず、常に穏やかな心で許していた、とあるが結局、天石窟に籠る事となるのである。
その為、神々はの天兒屋命を遣わして祷らせることにした。以降が神々のとった行動である。
天兒屋命:天香山の榊を掘り起こす。(興大産霊(こごとむすひ)の子)
石凝戸邊(いしこりとベ):作った八咫鏡を上の枝にかける。(天抜戸(あめのぬかと)の子)
天明玉(あめのあかるたま):作った八坂瓊之曲玉を中の枝にかける。(伊弉諾尊の子)
天日鷲あめのひわし):作った木綿(ゆふ)を下の枝にかける。
太玉命:榊を持ち、広く厚く称える言葉によって祷る。
すると、日神はこれを聞いて、「頃者(このごろ)、人、多(さわ)に請(こ)うと雖(いえ)ども、未(いま)だ若此(かく)言(こと)の麗美(うるわ)しきは有らず。」 意味:「これまで人がいろいろなことを申してきたが、未だこのように美しい言葉を聞いたことはなかった」 と言って、細めに磐戸を開けて様子を窺った。その時、天手力雄神が磐戸の側に隠れていて、引き開けると、日神の光が国中に満ち溢(あふ)れた、とある。
そこで、神々は大いに喜び、素戔嗚尊に贖罪の品々を科し、手の爪を吉の物として切り棄て、足の爪を凶の物として切り棄てた。そして天兒屋命をして其の解除(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしめき、とある。
後、素戔嗚尊は「神々は私を追い払い、私はまさに永久に去ることになったが、どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」と言い天に戻る。すると天鈿女命がこれを見て、日神に報告する。
日神は、「我が弟が上って来るのは、また好意(よきこころ)からではないはず。きっと我が国を奪おうとしているのだ。我は女だが逃げるほどでは無い」と言って、身に武装をした、とある。そうして二神で誓約が行われる運びになる。
この一書では、話の筋立てが他とは異なり、思兼神が登場しない極めて特徴的な一書である。 
解釈
天照大神が天岩戸に隠れて世の中が闇になるという話は、日食を表したものだという解釈と、冬至を過ぎて太陽が弱まった力を取り戻すということを象徴したものとする見方がある。日食神話、冬至神話とも世界各地にみられる(→死と再生の神)。
素戔嗚尊の乱暴はそのすべてが農耕に関連するものであり、暴風雨の災害を表したものだともされる。「大祓詞」ではこのスサノヲの行いを総称して「天つ罪」としている。
鶏を集めて鳴かせたことから、伊勢神宮では神宮内に鶏を放し飼いにしている。
鍛冶師の天津麻羅については何をしたかが書かれていないが、本居宣長は矛を作らせるためではないかと推測している。また、剣を作らせたとする説もあり、そうであれば、この説話で三種の神器がすべて作られたことになる。なお、『古語拾遺』においてはアマツマラの代わりに一つ目の鍛冶神天目一箇神が登場している。
『古事記』では、この説話の後に、素戔嗚尊と大気都姫神による食物起源神話が挿入されている。
なお、天目一箇神を祖とする忌部氏(斎部氏)は、オオゲツヒメの話に登場する阿波国を出て東に向かった者とされている。この東端が安房国で、安房の地名の由来とされている。
天の岩戸隠れの神話はギリシア神話におけるデメテル女神の神話とよく似ているといわれている。デメテルの場合、娘であるペルセポネを隠されたため、嘆き、世の中が真っ暗になってしまうことから来ている。 
 

 

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