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雑学の世界・補考   

水の女

古代詞章の上の用語例の問題
口頭伝承の古代詞章の上の、語句や、表現の癖が、特殊な--ある詞章限りの--ものほど、早く固定するはずである。だから、文字記録以前に既にすでに、時代々々の言語情調や、合理観が這入つて来る事を考へないで、古代の文章及び、其から事実を導かうなどゝする人の多いのは、--さうした人ばかりなのは--根本から、まちがうた態度である。神聖観に護られて、固定のまゝ或は拗曲したまゝに、伝つた語句もある。だが大抵は、呪詞諷唱者・叙事詩伝誦者らの常識が、さうした語句の周囲や文法を変化させて辻褄を合せて居る。口頭詞章を改作したり、模倣した様な文章・歌謡は、殊に時代と個性との理会程度に、古代の表現法を妥協させて来る。記・紀・祝詞などの記録せられる以前に、容易に原形に戻す事の出来ぬまでの変化があつた。古詞及び、古詞応用の新詞章の上に、十分かうした事が行はれた後に、やつと、記録に適当な--あるものは、まだ許されぬ--旧信仰退転の時が来た。奈良朝の記録は、さうした原形・原義と、ある距離を持つた表現なる事を、忘れてはならぬ。譬へば天の御蔭・日の御蔭、すめらみこと・すめみまなど言ふ語(ことば)も、奈良朝或は、此近代の理会によつて用ゐられてゐる。中には、一語句でゐて、用語例の四つ五つ以上も持つてゐるのがある。言語の自然な定義変化の外に、死語・古語の合理解を元とした擬古文の上の用語例、かう言ふ二方面から考へて見ねば、古い詞章や、事実の真の姿は、わかるはずはない。
みぬまと云ふ語
此から言ふ話なども、此議論を前提としてかゝるのが便利でもあり、其有力な一つの証拠にも役立つ訣なのである。出雲国造神賀詞(カムヨゴト)に見えた「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに生立(おひたてるヵ)若水沼間(ワカミヌマ)の、いやわかえに、み若えまし、すゝぎふるをとみの水のいや復元(ヲチ)に、み変若(ヲチ)まし、……」とある中の「若水沼間」は、全体何の事だか、国学者の古代研究始まつて以来の難義の一つとなつてゐる。「生立」とあるところから、生物と見られがちであつた。殊に植物らしいと言ふ予断が、結論を曇らして来た様である。宣長以上の組織力を示した唯一人の国学者鈴木重胤は、結局「くるす」の誤りと言ふ仮定を断案の様に提出してゐる。だが、何よりも先に、神賀詞の内容や、発想の上に含まれてゐる、幾時代の変改を経て来た、多様な姿を見る事を忘れてゐた。早くとも、平安に入つて数十年後に、書き物の形をとり、正確には、百数十年たつてはじめて公式に記録せられたはずの寿詞(ヨゴト)であつたことが、注意せられてゐなかつた。口頭伝承の久しい時間を勘定にいれないでかゝつてゐるのは、他の宮廷伝承の祝詞の古い物に対したとおなじ態度である。「ふる川の向う岸・こちら岸に、大きくなつて立つてゐるみぬまの若いの」と言うて来ると、灌木や禾本類、乃至は水藻などの聯想が起らずには居ない。時々は「生立」に疑ひを向けて、「水沼間」の字面の語感にたよつて、水たまり・淵などゝ感じる位に止まつたのは、無理もない事である。実は、詞章自身が、口伝への長い間に、さう言ふ類型式な理会を加へて来てゐたのである。一番此に近い例としては、神功紀、住吉神出現の段「日向の国の橘の小門のみな底に居て、水葉稚之出居(ミツハモワカ(?)ニイデヰル)神。名は表筒男・中筒男・底筒男の神あり」と言ふのがある。此も表現の上から見れば、水中の草葉・瑞々しい葉などを修飾句に据ゑたものと考へてゐたのらしい。変つた考へでは、みつはは水走で、禊ぎの水の迸る様だとするのもある。みぬま・みつは、おなじ語に相違ない。其に若さの形容がつき纏うてゐる。だが神賀詞に比べると「出居」と言ふ語が「水葉」の用法を自由にしてゐる。動物・人間ともとれる言ひ方である。唯さうすれば、みつは云々の句に、呪詞なり叙事詩なりの知識が、予約せられてゐると見ねばならぬ。其にしても、此表記法では、既に固定して、記録時代の理会が加つてゐるものと言へよう。此二つの詞章の間に通じてゐる、一つの事実だけは、やつと知れる。其は此語が禊ぎに関聯したものなることである。みぬま・みつはと言ひ、其若い様に、若くなると言つた考へ方を持つてゐたらしいとも言へる。古代の禊ぎの方式には、重大な条件であつた事で、夙く行はれなくなつた部分があつたのだ。詞章は変改を重ねながら、固定を合理化してゆく。みつは・みぬまと若やぐ霊力とを、色々な形にくみ合せて解釈して来る。其が、詞章の形を歪ませて了ふ。宮廷の大祓式は、あまりにも水との縁が離れ過ぎてゐた。祝詞の効果を拡張し過ぎて、空文を唱へた傾きが多い。一方又、神祇官の卜部を媒にして、陰陽道は、知らず悟らぬ中に、古式を飜案して行つて居た。出雲国造の奏寿の為に上京する際の禊ぎは、出雲風土記の記述によると、わりに古い型を守つてゐたものと見てよい。さうして尠くとも、此にはあつて、宮廷の行事及び呪詞にない一つは、みぬまに絡んだ部分である。大祓詞及び節折(ヨヲ)りの呪詞の秘密な部分として、発表せられないでゐたのかも知れない。だが、大祓詞は放つ方ばかりを扱うた事を示してゐる。禊ぎに関して発生した神々を説く段があつて、其後新しい生活を祝福する詞を述べたに違ひない。そして大直日の祭りと其祝詞とが神楽化し、祭文化し、祭文化する以前には、みぬまと言ふ名も出て来たかも知れない。
出雲びとのみぬは
神賀詞を唱へた国造の国の出雲では、みぬまの神名である事を知つてもゐた。みぬはとしてゞある。風土記には、二社を登録してゐる。二つながら、現に国造の居る杵築にあつたのである。でも、みぬまとなると、わからなくなつた呪詞・叙事詩の上の名辞としか感ぜられなかつたのであらう。水沼の字は、おなじ風土記仁多郡の一章に二とこまで出てゐる。三津郷……大穴持命の御子阿遅須枳高日子(アヂスキタカヒコ)命……大神夢(ユメ)に願(ネ)ぎ給はく「御子の哭く由を告(ノ)れ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞(コト)通(カヨ)ふと見ましき。かれ寤めて問ひ給ひしかば、爾時(ソノトキ)に「御津(ミアサキ)」と申しき。その時何処を然言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖(ミオヤ)の前を立去於坐(タチサリニイデマ)して、石川渡り、阪の上に至り留り、此処と申しき。その時、其津の水沼於(ミヌマイデ)(?)而(テ)、御身沐浴(ソヽ)ぎ坐(マ)しき。故、国造の神吉事(カムヨゴト)奏して朝廷に参向ふ時、其水沼出而(イデヽ)用ゐ初むるなり。出雲風土記考証の著者後藤さんは、やはり汲出説である。此条は、此本のあちこちに散らばつたあぢすき神の事蹟と、一続きの呪詞的叙事詩であつた様だ。恐らく、国造代替り又は、毎年の禊ぎを行ふ時に唱へたものであらうと思ふ。禊ぎの習慣の由来として、みぬまの出現を言ふ条があり、実際にも、みぬまがはたらいたものと見られる。だが、其詞は、神賀詞とは別の物で、あぢすき神と禊ぎとの関係を説く呪詞だつたのである。其詞章が、断篇式に神賀詞にも這入つて行つて、みぬま及び関係深い白鳥の生き御調がわり込んで来たものであるらしい。水沼間・水沼・弥努波(又は、婆)と三様に、出雲文献に出てゐるから、「水汲」と訂すのは考へ物である。後世の考へから直されねばならぬ程、風土記の「水沼」は、不思議な感じを持つてゐるのだ。人間に似たものゝ様に伝へられて居たのだ。此風土記の上(たてまつ)られた天平5年には、其信仰伝承が衰微して居たのであらう。だから儀式の現状を説く古の口述が、或は禊ぎの為の水たまりを聯想するまでになつてゐたのかも知れぬ。勿論みぬまなる者の現れる事実などは、伝説化して了うて居たであらう。三津郷の名の由来でも、「三津」にみつまの「みつ」を含み、或は三沢(後藤さん説)にみぬ(沢をぬ・ぬまと訓じたと見て)の義があつたものと見る方がよいかも知れない。でないと、あぢすき神を学んでする国造の禊ぎに、みぬまの出現する本縁の説かれて居ない事になる。「つ」と「ぬ」との地名関係も「つ」から「さは」に変化するのよりは自然である。
筑紫の水沼氏
筑後三瀦郡は、古い水沼氏の根拠地であつた。此名を称へた氏は、幾流もあつた様である。宗像三女神を祀つた家は、其君姓の者と伝へてゐるが、後々は混乱してゐるであらう。宗像神に事(つか)へるが故に、水沼氏を称したのもある様である。此三女神は、分布の広い神であるが、性格の類似から異神の習合せられたのも多いのである。宇佐から宗像、其から三瀦と言ふ風に、此神の信仰はひろがつたと見るのが、今の処、正しいであらう。だが、三瀦の地で始めて、此家名が出来たと見ることは出来ない。其よりも早く神の名のみぬまがあつたのである。宗像三女神が名高くなつたのは鐘个岬を中心にした航路(私は海の中道に対して、海北の道中が、此だと考へてゐる)に居て、敬拝する者を護つたからの事と思ふ。水沼神主の信仰が似た形を持つたが為に、宗像神に習合しなかつたとは言へぬ。さう言ふ事の考へられるほど、みぬま神は、古くから広く行き亘つてゐたのである。三瀦の地名は、みぬま・みむま(倭名鈔)・みつまなど、時代によつて、発音が変つて居る。だが全体としては、古代の記録無力の時代には、もつと音位が自由に動いて居たのである。結論の導きになる事を先に述べると、みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめなどゝ変化して、同じ内容が考へられてゐた様である。地名になつたのは、更に略したみぬ・みつ・ひぬなどがあり、又つ・ぬを領格の助辞と見てのきり棄てたみま・みめ・ひめなどの郡郷の称号が出来てゐる。
丹生と壬生部
数多かつた壬生部の氏々・村々も、段々村の旧事を忘れて行つて、御封(ミブ)といふ字音に結びついて了うた。だが早くから、職業は変化して、湯坐(ユヱ)・湯母・乳母(チオモ)・飯嚼(イヒガミ)の外のものと考へられてゐた。でも、乳部と宛てたのを見ても、乳母関係の名なる事は察しられる。又入部と書いてみぶと訓まして居るのを見れば、丹生(にふ)の女神との交渉が窺れる。或は「水に入る」特殊の為事と、み・にの音韻知識から、宛てたものともとれる。後にも言ふが、丹生神とみぬま神との類似は、著しい事なのである。其に大和宮廷の伝承では、丹生神を、後入のみぬま神と習合して、みつはのめとしたらしいのを見ると、益(ますます)湯坐・湯母の水に関した為事を持つた事も考へられる。事実、壬生と産湯との関係は、反正天皇と丹比(タヂヒ)ノ壬生部との旧事によつて訣る。出産時の奉仕者の分業から出た名目は、恐らくにふ・みふの用語例を、分割したものであつたらう。万葉には、赭土(ハニ)即、丹(ニ)をとる広場即、原(フ)と解してゐる歌もあるから、丹生の字面もさうした合理見から出てゐると見られる。にふべからみふべ・みぶと音の転じた事も考へてよい。産湯から育みの事に与る壬生部は、貴種の子の出現の始めに禊ぎの水を灌ぐ役を奉仕してゐたらしい。此が、御名代部の一成因であつた。壬生部の中心が、氏の長の近親の女であつた事も確かである。かうして出現した貴種の若子は、後に其女と婚する事になつたのが、古い形らしい。水辺又は水神に関係ある家々の旧事に、玉依媛の名を伝へるのは、皆此類である。祖(オヤ)(母)神に対して、乳母神(オモカミ)をば(小母)と言つた処から、母方の叔母即、父から見た妻(メ)の弟(ト)と言ふ語が出来た。此が亦、神を育む姥(をば・うば)神の信仰の元にもなる。大嘗の中臣天神寿詞は、飲食の料としてばかり、天つ水の由来を説いてゐるが、日のみ子甦生の呪詞の中に、産湯を灌ぐ儀式を述べる段があつたのであらう。「夕日より朝日照るまで天つ祝詞(ノリト)の太のりと詞(ゴト)をもて宣(ノ)れ。かくのらば、……」--朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言ふと、こゝで中止して、秘密の天つのりとに移るのである。此天つ祝詞にさうした産湯の事が含まれて居たらしい事は、反正天皇の産湯の旧事に、丹比(タヂヒ)ノ色鳴(シコメ)ノ宿禰が天神寿詞を奏したと伝へてゐる。貴種の出現は、出産も、登極も一つであつた。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられて行つて、さうした部分が脱落して行つたものらしい。けれども中臣が奏する寿詞にも、さうしたみふ類似の者の顕れた事は、天子の祓へなる節折(よを)りに、由来不明の中臣女(ナカトミメ)の奉仕した事からも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓への聖水即産湯とが、古くは更に緊密に繋つてゐて、其に仕へるにふ神役をした巫女であつたと考へる事は、見当違ひではないらしい。丹比(タヂヒ)氏の伝へや、其から出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事は、一つの有力な種子である。履中天皇紀は、ある旧事を混同して書いてゐるらしい。二股船を池に浮べた話・宗像三女神の示現などは、出雲風土記のあぢすきたかひこの神・垂仁のほむちわけなどに通じてゐる。だから、みつはわけ天皇にも、生れて後の物語が、丹比壬生部に伝つて居た事が推定出来る。
比沼山がひぬま山であること
みぬま・みつはは一語であるが、みつはのめの、みつはも、一つものと見てよい。「罔象女」と言ふ支那風の字面は、此丹比神に一種の妖怪性を見てゐたのである。又此女性の神名は、男性の神名おかみに対照して用ゐられてゐる。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめは、女性の蛇又は、水中のある動物と考へて居た事は確からしい。大和を中心とした神の考へ方からは、おかみ・みつはのめ皆山谷の精霊らしく見える。が、もつと広く海川に就て考へてよいはずである。龍に対するおかみ、罔象に当るみつはのめの呪水の神と考へられた証拠は、神武紀に「水神を厳(イツ)ノ罔象女(ミツハノメ)となす」とあるのでも訣る。だが大体に記・紀に見えるみつはのめは、禊ぎに関係なく、女神の尿又は涙に成つたとして居る。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあつたかも知れぬと思はれるのは、穢れから出て居る事である。阿波の国美馬郡の「美都波迺売神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめと、みつは・みぬまの一つものなる事を示してゐる。美馬の郡名は、みぬま或はみつま・みるめと音価の動揺してゐたらしい地名である。地名も神の名から出たに違ひない。「のめ」と言ふ接尾語が気になるが、とようかのめ・おほみやのめなど……のめと言ふのは、女性の精霊らしい感じを持つた語である。神と言ふよりも、一段低く見てゐるやうである。みつはのめの社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめを添へたしかつめらしい称へをとつたのであらう。摂津の西境一帯の海岸は、数里に亘つて、みぬめの浦(又は、みるめ)と称へられてゐた。此処には売(ミヌメ)神社があつて、みぬめは神の名であつた。前に述べた筑後の水沼君の祀つた宗像三女神は、天真名井のうけひに現れたのである。だから、禊ぎの神と言ふ方面もあつたと思ふ。が、恐らくは、みぬま・宗像は早く習合せられた別神であつたらしい。丹後風土記逸文の「比沼山」の事。ひちの郷に近いから、山の名も比治山(ヒヂヤマ)と定められてしまうてゐる。丹波の道主ノ貴(ムチ)を言ふのに、ひぬま(氷沼)の……と言ふ風の修飾を置くからと見ると、ひぬまの地名は、古くあつたのである。此ひぬまも、みぬまの一統なのであつた。第一章に言うた様な事が、此語についても、遠い後代まで行はれたらしい。「烏羽玉のわが黒髪は白川の、みつはくむまで老いにけるかな」(大和物語)と言ふ檜垣ノ嫗の歌物語も、瑞歯含(ミヅハク)むだけは訣つても、水は汲むの方が「老いにけるかな」にしつくりせぬ。此はみつはの女神の蘇生の水に関聯した修辞が、平安に持ち越して訣らなくなつたのを、習慣的に使うたまでだらうと説きたい。此歌などの類型の古い物は、もつとみつはの水を汲む為事が、はつきり詠まれて居たであらう。とにかく、老年変若を希ふ歌には「みつは……」と言ひ、瑞歯に聯想し、水にかけて言ふ習慣もあつた事も考へねばならぬと思ふ。丹比のみづはわけと言ふ名は、瑞歯の聯想を正面にしてゐるが、初めは、みつは神の名をとつた事は既に述べた。詞章の語句又は、示現の象徴が、無限に譬喩化せられるのが、古代日本の論理であつた。みつはが同時に瑞歯の祝言にもなつたのである。だが此は後について来た意義である。本義はやはり、別に考へなくてはならぬ。みぬま・みつは・みつま・みぬめ・みるめ・ひぬま。此だけの語に通ずる所は、水神に関した地名で、此に対して、にふ(丹生)と、むなかたの三女神が、あつたらしい事だ。丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめで、外宮の神であつた。即其水及び酒の神としての場合の、神名である。此神初めひぬまのまなゐの水に浴してゐた。阿波のみつはのめの社も、那賀郡のわなさおほその神社の存在を考へに入れて見ると、ひぬま真名井式の物語があつたらう。出雲にもわなさおきなの社があり、あはきへ・わなさひこと言ふ神もあつた。阿波のわなさ・おほそとの関係が思はれる。丹波の宇奈韋(ウナヰ)神が、外宮の神であることを思へば、酒の水即食料としての水の神は、処女の姿と考へられても居たのだ。此がみつはの一面である。
禊ぎを助ける神女
出雲の古文献に出たみぬまは早く忘れられた神名であつた。みつはは、まづ水中から出て、用ゐ試みた水を、あぢすきたかひこの命に浴せ申した。其縁で、国造神賀詞奏上に上京の際、先例通り其みつはが出て後、此水を用ゐ始めると言ふ習慣のあつた事を物語るのである。風土記の既に非常に曖昧な処があるのは、古詞をある点まで、直訳し、又異訳して、理会出来ぬ処は其俤を出さうとしたからであらう。其が神賀詞となると、口拍子にのり過ぎて、一層わからなくなつてゐるのである。彼方此方の二个処の古川と言ふのが、川岸と言ふやうになり、植物化して考へられて行つた。尤、神功紀のすら、植物と考へてゐたらしい書きぶりである。其詞章の表現は、やゝ宙ぶらりである。何としても「みつは……」は、序歌風に使はれて居、みつはの神の若いと同様、若やかに生ひ出づる神とでも説くべきであらう。思ふに、みつはの中にも、稚みつはと呼ばれるものが、禊ぎの際に現れて、其世話をする。此神の発生を説いて、禊ぎ人の穢れから化生したと言ふ古い説明が伝はらなくなつたのかも知れぬ。とにかく、此女神が出て、禊ぎの場処を上・下の瀬と選び迷ふしぐさをした後、中つ瀬の適(ヨロ)しい処に水浴をする。此ふるまひを見習うて禊ぎの処を定めたらしい。此が久しく意義不明のまゝ繰返され、みぬまとしての女が出て、禊ぎの儀式の手引きをした。其が次第に合理化して、水辺祓除のかいぞへに中臣女の様な為事をする様になり、其事に関した呪詞の文句が愈無意義になり、他の知識や、行事・習慣から解釈して、発想法を拗れさせて来た。そこに、大体は訣つて、一部分おぼろな気分表現が、出て来たのだらう。大湯坐(オホユヱ)・若湯坐(ワカユヱ)の発生も知れる。みぬまに、候補者又は「控へ」の義のわかみぬまがあつたのであらう。大和宮廷の呪詞・物語には、みつはを唯の雨雪の神として、おかみに対する女性の精霊と見た傾きがあり、丹生女神とすら、幾分、別のものらしく考へた痕があるのは、後入の習合だからであらう。いざなぎの禊ぎに先だつて、よもつひら坂に現れて「白す言」あつた菊理(クヽリ)媛(日本紀一書)は、みぬま類の神ではないか。物語を書きつめ、或は元々原話が、錯倒してゐた為、すぐ後の檍原(アハギハラ)の禊(ミソ)ぎの条に出るのを、平坂の黄泉道守(ヨモツチモリ)の白言と並べたのかも知れぬ。其言ふ事をよろしとして散去したとあるのは、禊ぎを教へたものと見るべきであらう。くゝりは水を潜(クヾ)る事である。泳の字を宛てゝゐる所から見れば、神名の意義も知れる。くゝり出た女神ゆゑの名であらう。いざなぎの尊ばかりの行動として伝へた為、此神は陰の者になつたのであらう。例の神功紀の文は、此くゝり媛からみつはへ続く禊ぎの叙事詩の断篇化した形である。住吉神の名は、底と中と表(ウヘ)とに居て、神の身を新しく活した力の三つの分化である。「つゝ」と言ふ語は、蛇(=雷)を意味する古語である。「を」は男性の義に考へられて来たやうであるが、其に並べて考へられた売(ミヌメ)・宗像・水沼の神は実は神ではなかつた。神に近い女、神として生きてゐる神女なる巫女であつたのである。海北ノ道ノ主ノ貴(ムチ)は、宗像三女神の総称となつてゐるが、同じ神と考へられて来た丹波の比沼ノ神に仕へる丹波ノ道ノ主ノ貴は、東山陰地方最高の巫女なる神人の家のかばねであつた。
とりあげの神女
国々の神部(カムベ)の乞食流離の生活が、神を諸方へ持ち搬んだ。此をてつとりばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこなる社の名である。阿波から来経(キヘ)--移り来て住みつい--た事を言ふのだから。前に述べかけた阿波のわなさおほそは、出雲に来経たわなさひこであり、丹波のわなさ翁・媼も、同様みぬまの信仰と、物語とを撒いて廻つた神部の総名であつたに違ひない。養ひ神を携へあるいたわなさの神部は、みぬま・わなさ関係の物語の語りてゞもあつた。わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁・媼ときまるのは、尤である。論理の単純を欲すれば、比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおほげつひめであり、とようかのめであり、外宮の神だとも言へよう。だが、わなさ神部の本貫については、まだまだ問題がありさうである。私は実の処、比沼のうなゐ神は禊ぎの為の神女であり、其仕へる神の姿をも、兼ね示す様になつたものと信じてゐる。丹波ノ道主ノ貴(ムチ)の家から出る「八処女(ヤヲトメ)」の古い姿なのである。此神女は、伊勢に召されるだけではなかつた。宮廷へも、聖職奉仕に上つてゐる。此初めを説く物語が、さほひめ皇后の推奨によるものとしてゐたのである。知られ過ぎた段だが、後々の便宜の為に、引いて置く。亦、天皇、其后へ、命詔(ミコトモタ)しめて言はく、「凡、子の名は必、母名づけぬ。此子の御名をば、何とか称へむ。」かれ、答へ白さく、……。又詔命(ミコトモタ)しむるは、「いかにして、日足(ヒタ)しまつらむ。」答へ白さく、「御母(ミオモ)を取り、大湯坐(ユヱ)・若湯坐(ユヱ)定め(御母を取り……湯坐に定めてと訓む方が正しいであらう。又、取御母を養護御母(トリミオモ)の様に訓んで、……に--としての義--大湯坐……を定めてとも訓める)て、ひたし奉らば宜(ヨ)けむ。」かれ、其后の白しに随以(シタガヒモチ)て日足し奉るなり。又、其后に問ひて曰はく、「汝所堅之美豆能小佩(ナガカタメコシミヅノヲヒモ)(こおびか)は、誰かも解かむ。」答へ申さく、「旦波比古多々須美智能宇斯王(タニハノヒコタヽスミチノウシノミコ)の女、名は兄比売・弟比売、此二女王(フタミコ)ぞ、浄き公民(オホミタカラ)(?)なる。かれ、使はさば宜けむ。……」又、其后の白しのまゝに、みちのうしの王の女等、比婆須比売命、次に弟比売命(次に弟比売命……命……命とあるべき処だ)次に、歌凝比売命、次に円野比売命、併せて四柱を喚上(メサ)げき。(垂仁記) 唯、妾死すとも、天皇の恩を忘れ敢へじ。願はくは、妾の掌れる后宮の事、宜しく好仇(ヨキツマ)に授け給ふべし。丹波国に五婦人あり。志並(トモ)に貞潔なり。是、丹波道主王の女なり。(道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。)当に掖廷に納れて、后宮の数に盈(ア)つべしと。天皇聴す。……丹波の五女を喚(メ)して、掖廷に納る。第一を日葉酢(ヒハス)姫と曰ひ、第二を淳葉田瓊入(ヌハタヌイリ)媛と曰ひ、第三を真砥野(マトヌ)媛と曰ひ、第四を※瓊入(アザミヌイリ)媛と曰ひ、第五を竹野媛と曰ふ。(垂仁紀) 此後が、古事記では、弟王二柱、日本紀では、竹野媛が、国に戻される道で、一人は恥ぢて峻淵に(紀では自堕輿とある)堕ち入つて死ぬ。其から、堕(オツ)国と言うた地名を、今では弟(オト)国と言ふとあるいはながひめ式の伝へになつてゐる。思ふに、悪女の呪ひの此伝へにもあつたのが、落ちたものであらう。ほむちわけのみこのもの言はぬ因縁を説いたのが、古事記では、既に、出雲大神の祟りと変つてゐる。出雲と唖王子とを結びつけた理由は、外にある。紀の自堕輿而死の文面は「自ら堕(オチイ)り、興(コトアゲ)して死す」と見るべきで、輿は興の誤りと見た方がよさ相だ。「おつ」・「おちいる」と言ふ語の一つの用語例に、水に落ちこんで溺れる義があつたのだらう。自殺の方法の中、身投げの本縁を言ふ物語を含んだものである。水の中で死ぬることのはじめをひらいた丹波道主貴の神女は、水の女であつたからと考へたのである。
兄媛弟媛
やをとめを説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認してゐる。神女の人数を、七(ナヽ)処女・八(ヤ)処女・九(コヽノ)の処女などゝ勘定してゐる。此は、多数を凡そ示す数詞が変化して行つた為である。其と共に実数の上に固定を来した場合もあつた。まづ七処女が古く、八処女が其に替つて勢力を得た。此は、神あそびの舞人の数が、支那式の「(イツ)」を単位とする風に、最叶ふものと考へられ出したからだ。唯の神女群遊には、七処女を言ひ、遊舞(アソビ)には八処女を多く用ゐる。現に、八処女の出処比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としてゐる。だから、七(ナヽ)--古くは八処女の八も--が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言ひ、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、遂に、常の数詞と定まつた。此間に、伝承の上の矛盾が出来たのである。神女群の全体或は一部を意味するものとして、七処女の語が用ゐられ、四人でも五人でも、言ふ事が出来たのだ。其論法から、八処女も古くは、実数は自由であつた。其神女群の中、最高位にゐる一人がえ(兄)で、其余はひつくるめておと(弟)と言うた。古事記は既に「弟」の時代用語例に囚はれて、矛盾を重ねてゐる。兄に対して大(オホ)ある如く、弟に対して稚(ワカ)を用ゐて、次位の高級神女を示す風から見れば、弟にも多数と次位の一人とを使ひわけたのだ。即神女の、とりわけ神に近づく者を二人と定め、其中で副位のをおとと言ふ様になつたのである。かうした神女が、一群として宮廷に入つたのが、丹波道主貴の家の女であつた。此七処女は、何の為に召されたか。言ふまでもなくみづのをひもを解き奉る為である。だが、紐と言へば、すぐ聯想せられるのは、性的生活である。先達諸家の解説にも、此先入が主となつて、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であつた。「ひも」の神秘をとり扱ふ神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持たねばならなかつたのである。みづのをひもを解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひもを解き、又結ぶ神事があつたのである。七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行(ヒギヤウ)の力は、天の羽衣に繋つてゐた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思ふ。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があつた。其神の威力を蒙つて、神女自身も神と見なされる。さうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。さうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉つた宮廷の主の、常も用ゐられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限つて、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」と言ふ名に拘つて、上体をも掩ふものとなつたらしいが、古くはもつと小さきものではなかつたか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思はれる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があつた。此聖職、漸く本義を忘れられて、大嘗の時の外は、低い女官の平凡な務めになつて行つた。「御湯殿の上(ウヘ)の日記」は、其書き続がれた年代の長さだけでも、為事の大事であつた事が訣る。元は、御湯殿における神事を日録したものらしい。宮廷の主上の日常御起居に於て、最神聖な時間は、湯を奉る際である。此時の神ながらの言行は記し留めねばならない。かうしてはじまつた日記が、聖躬の健康などに関しても書く様になり、果は雑事までも留めるに到つたものらしい。由緒知らぬが棄てられぬ行事として長い時代を経たのである。御湯殿の神秘は、古い昔に過ぎ去つた。髪やかづらを重く見る時代が来て、御櫛笥殿の方に移り、そこに奉仕する貴女の待遇が重くなつて行つた。
ふぢはらを名とする聖職
此沐浴の聖職に与るのは、平安前には「中臣女」の為事となつた期間があつたらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、其氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなつたからである。わが岡の(オカミ)に言ひて降らせたる、雪のくだけし、そこに散りけむ(万葉巻2) 天武の夫人、藤原ノ大刀自(オホトジ)は、飛鳥の岡の上の大原に居て、天皇に酬いてゐる。此歌の如きは「降らまくは後(ノチ)」とのからかひに対する答へと軽く見られてゐる。が、藤原氏の女の、水の神に縁のあつた事を見せてゐるのである。「雨雪の事は、こちらが専門なのです」かう言つた水の神女としての誇りが、おもしろく昔の人には感じられたのであらう。藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。中臣女や、其保護者の、水に対する呪力から、飛鳥の岡の上の藤原とのりなほして、一つに奇瑞を示したからであらうと考へる。中臣寿詞を見ても、水・湯に絡んだ聖職の正流の様な形を見せてゐる。中臣女の役が、他氏の女よりも、恩寵を得る機会を多からしめた。光明皇后に、薬湯施行に絡んで、廃疾人として現れた仏身を洗うた説話の伝つてゐるのも、中臣女としての宮廷神女から、宮廷の伝承を排して、后位に備るにさへ到つた史実の背景を物語るのである。藤原の地名も、家名も、水を扱ふ土地・家筋としての称へである。衣通媛の藤原郎女であり、禊ぎに関聯した海岸に居り、物忌みの海藻の歌物語を持ち、又因縁もなさ相な和歌ノ浦の女神となつた理由も、稍明るくなる。私は古代皇妃の出自が水界に在つて、水神の女である事並びに、其聖職が、天子即位甦生を意味する禊ぎの奉仕にあつた事を中心として、此長論を完了しようとしてゐるのである。学校の私の講義の其に触れた部分から、おし拡げた案が、向山武男君によつて提出せられた。其によると、衣通媛の兄媛なる允恭の妃の、水盤の冷さを堪へて、夫王を動して天位に即かしめたと言ふ伝へも、水の女としての意義を示してゐるとするのだ。名案であると思ふ。穢れも、荒行に似た苦しい禊ぎを経れば、除き去ることが出来、又天の羽衣を奉仕する水の女の、水に潜(カヅ)いて、冷さに堪へた事を印象してゐるのである。水盤をかゝヘたと言ふのは、斎河水(ユカハミヅ)の中に、神なる人と共に、水の中に居て久しきにも堪へた事をいふのらしい。やはり此皇后の妹で、衣通媛の事らしい田井中比売(タヰノナカツヒメ)の名代(ナシロ)を河部と言うた事などもおほゝどのみこの家に出た水の女の兄媛・弟媛だつた事を示すのだ。だが、衣通媛の名代は、紀には藤原部としてゐる。藤原の名が、水神に縁深い地名であり、家の名・団体の名にもなつて、必しも飛鳥の岡の地に限らなかつた事を見せる。ふぢはふちと一つで「淵(フチ)」と固定して残つた古語である。かむはたとべの親は、山背ノ大国ノ不遅(記には、大国之淵)であつた。水神を意味するのが古い用語例ではないか。ふかぶちのみづやればなの神・しこぶちなどから貴(ムチ)・尊(ムチ)なども、水神に絡んだ名前らしく思はれる。神聖な泉があれば、そこには、ふちのゐる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはらと言うたのであらう。みづのをひものみづは瑞(ミヅ)と考へられさうである。だが、其よりもまだ原義がある。此みづは「水」と言ふ語の語原を示してゐる。聖水に限つた名から、日常の飲料をすら「みづ」と言ふやうになつた。聖水を言ふ以前は、禊ぎの料として、遠い浄土から、時を限つてより来る水を言うたらしい。満潮に言ふみつも、其動詞化したものであらう。だから、常世波(トコヨナミ)として岸により、川を溯り、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となるものである。みつみつしは、此みづをあびたものゝ顔から姿に言ふ語で、勇ましく、猛々しく、若々しく、生き生きしてゐるなどゝ分化する。初春の若水ならぬ常の日の水をも、祝福して言うた処から拡がつたものであらう。満潮時をば、人の生れる時と考へるのも、常世から魂のより来ると考へた為であるらしい。みつぬかしは(三角柏・御綱柏)や、みづきと通称せられる色々の木も、禊ぎに用ゐた植物で、海のあなたから流れよつて、根をおろしたと信じられてゐたものらしい。みつは又地名にもなつた。さうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行はれた処である。御津とするのは後の理会で「つ」其ものからして「み」を敬語と逆推してとり放したのであつた。常世波を広く考へて、遠くよりより来る船の、其波に送られて来着く場処としてのみつを考へ、更に「つ」とも言ふ様になつたのである。だから、国造の禊ぎする出雲の「三津」、八十島祓へや御禊(ゴケイ)の行はれた難波の「御津(ミツ)」などがあるのだ。津(ツ)と言ふに適した地形であつても、必しもどこもかしこも、津とは称へない訣なのである。後にはみつの第一音ばかりで、水を表して熟語を作る様になつた。
天の羽衣
みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念してゐる語である。瑞(ミヅ)といふ称へ言ではなかつた。此ひもは「あわ緒」など言ふに近い結び方をしたものではないか。天の羽衣や、みづのをひもは、湯・河に入る為につけ易へるものではなかつた。湯水の中でも、纏うたまゝ這入る風が固定して、湯に入る時につけ易へる事になつた。近代民間の湯具も、此である。其処に水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。即此と同時に神としての自在な資格を得る事になる。後には、健康の為の呪術となつた。が、最古くは、神の資格を得る為の禁欲生活の間に、外からも侵されぬやう、自らも犯さぬ為に生命の元と考へた部分を結んで置いたのである。此物忌みの後、水に入り、変若(ヲチ)返つて、神となりきるのである。だから、天の羽衣は、神其物(カムナガラ)の生活の間には、不要なので、これをとり匿されて地上の人となつたと言ふのは、物忌み衣の後の考へ方から見たのである。さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁となる。恐らく湯棚・湯桁は、此神事の為に、設けはじめたのだらう。御湯殿を中心とした説明も、もはやせばくるしく感じ出された。もつと古い水辺の禊ぎを言はねばならなくなつた。湯と言へば、温湯を思ふ様になつたのは、「出(イ)づるゆ」からである。神聖な事を示す温い常世の水の、而も不慮の湧出を讃へて、ゆかはと言ひ、いづるゆと言うた。「いづ」の古義は、思ひがけない現出を言ふ様である。おなじ変若水(ヲチミヅ)信仰は、沖縄諸島にも伝承せられてゐる。源河節の「源河走河(ヂンガハリカア)や。水か、湯か、潮(ウシユ)か。源河みやらびの御甦生(ウスヂ)どころ」などは、時を定めて来る常世浪に浴する村の巫女(ミヤラビ)の生活を伝へたのだ。常世から来るみづは、常の水より温いと信じられて居たのであるが、ゆとなると更に温度を考へる様になつた。ゆは元、斎(ユ)である。而し此まゝでは、語をなすに到らぬ。斎用水(ユカハ)或はゆかはみづの形が段々縮つて、ゆ一音で、斎用水を表す事が出来る様になつた。だから、ゆは最初、禊ぎの地域を示した。斎戒沐浴をゆかはあみ(紀には、沐浴を訓む)と言ふこともある。段々ゆかはを家の中に作つて、ゆかはあみを行ふ様になつた。「いづるゆかは」がいでゆであるから推せば、ゆかはも早くぬる水になつて居たであらう。ゆかはが家の中の物として、似あはしくなく感じられ出して来ると、ゆかはを意味するゆが次第にぬる水の名となつて行くのは、自然である。
たなばた
つめ ゆかはの前の姿は、多くは海浜又は海に通じる川の淵などにあつた。村が山野に深く入つてからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだ処などを択んだやうである。そこにゆかはだな(湯河板挙)を作つて、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒を受けた後は、皆此資格を得た)の中から選り出された兄処女(エヲトメ)が、此たな作りの建て物に住んで、神のおとづれを待つて居る。此が物見やぐら造りのをさずき(又、さじき)、懸崖(カケ)造りなのをたなと言うたらしい。かうした処女の生活は、後世には伝説化して、水神の生け贄と言つた型に入る。来るべき神の為に機を構へて、布を織つて居た。神御服(カムミソ)は即、神の身とも考へられてゐたからだ。此悠遠な古代の印象が、今に残つた。崖の下の海の深淵や、大河・谿谷の澱のあたり、又多くは滝壺の辺などに、筬の音が聞える。水の底に機を織つてゐる女が居る。若い女とも言ふし、処によつては婆さんだとも言ふ。何しろ、村から隔離せられて、年久しくゐて、姥となつて了うたのもあり、若いあはれな姿を、村人の目に印したまゝゆかはだなに送られて行つたりしたのだから、年ぱいは色々に考へられて来たのである。村人の近よらぬ畏しい処だから、遠くから機の音を聞いてばかり居たものであらう。おぼろげな記憶ばかり残つて、事実は夢の様に消えた後では、深淵の中の機織る女になつて了ふ。七夕の乞巧奠は漢土の伝承をまる写しにした様に思うてゐる人が多い。処が存外、今尚古代の姿で残つてゐる地方々々が多い。たなばたつめとは、たな(湯河板挙)の機中に居る女と言ふ事である。銀河の織女星は、さながら、たなばたつめである。年に稀におとなふ者を待つ点もそつくりである。かうした暗合は、深く藤原・奈良時代の漢文学かぶれのした詩人、其から出た歌人を喜ばしたに違ひない。彼等は、自分の現実生活をすら、唐代以前の小説の型に入れて表して、得意になつて居た位だから、文学的には早く支那化せられて了うた。其から見ると、陰陽道の方式などは、徹底せぬものであつた。だから、何処の七夕祭りを見ても、固有の姿が指摘せられる。でも、たなばたが天の川に居るもの、星合ひの夜に奠(オキマツ)るものと信じる様になつたのには、都合のよい事情があつた。驚くばかり多い万葉の七夕歌を見ても、天上の事を述べながら、地上の風物から享ける感じの儘を出してゐるものが多い。此は、想像力が乏しかつたから、とばかりは言へないのである。古代日本人の信仰生活には、時間空間を超越する原理が備つてゐた。呪詞の、太初(ハジメ)に還す威力の信念である。此事は藤原の条にも触れておいた。天香具山は、尠くとも、地上に二个所は考へられてゐた。比沼の真名井は、天上のものと同視したらしく、天(アメ)ノ狭田(サダ)・長田は、地上にも移されてゐた。大和の高市は天の高市、近江の野洲川は天の安河と関係あるに違ひない。天の二上は、地上到る処に、二上山を分布(此は逆に天に上したものと見てもよい)した。かうした因明以前の感情の論理は、後世までも時代・地理錯誤の痕を残した。湯河板挙(ユカハダナ)の精霊の人格化らしい人名に、天ノ湯河板挙があつて、鵠を逐ひながら、御禊ぎの水門(ミナト)を多く発見したと言うてゐる。地上の斎河(ユカハ)を神聖視して、天上の所在と考へる事も出来たからである。かうした習慣から、神聖観を表す為に「天(アメ)」を冠らせる様にもなつた。
筬もつ女
地上の斎河(ユカハ)に、天上の幻を浮べることが出来るのだから、天漢に当る天の安河・天の河も、地上のものと混同して、さしつかへは感じなかつたのである。たなばたつめは、天上に聖職を奉仕するものとも考へられた。「あめなるや、弟たなばたの……」と言ふ様になつた訣である。天の棚機津女を考へる事が出来れば、其に恰も当る織女星に習合もせられ、又錯誤から来る調和も出来易い。おと・たなばたを言ふからは、水の神女に二人以上を進めた事もあるのだ。天上の忌服殿(イムハタドノ)に奉仕するわかひるめに対するおほひるめのあつた事は、最高の巫女でも、手づから神の御服を織つたことを示すのだ。古代には、機に関した讃へ名らしい貴女の名が多かつた。二三をとり出すと、おしほみゝの尊の后は、たくはた・ちはた媛(又、たくはた・ちゝ媛)と申した。前にも述べた大国不遅(フヂ)の女垂仁天皇に召された水の女らしい貴女も、かりはたとべ(今一人かむはたとべをあげたのは錯誤だ)、おと・かりはたとべと言ふ。くさか・はたひ媛は、雄略天皇の皇后として現れた方である。神功皇后のみ名おきなが・たらし媛の「たらし」も、記に、帯の字を宛てゝゐるのが、当つて居るのかも知れぬ。ひさかたの天(アメ)かな機。「女鳥(メトリ)のわがおほきみの織(オロ)す機。誰(タ)が料(タネ)ろかも。」記・紀の伝へを併せ書くと、かう言ふ形になる。皇女・女王は古くは、皆神女の聖職を持つて居られた。此仁徳の御製と伝へる歌なども、神女として手づから機織る殿に、おとづれるまれびとの姿が伝へられてゐる。機を神殿の物として、天を言ふのである。言ひかへれば、処女の機屋に居てはたらくのは、夫なるまれびとを待つてゐる事を、示す事にもなつて居たのであらう。天孫又問ひて曰はく、「其秀起(カノホダ)たる浪の穂の上に、八尋殿起(タ)てゝ、手玉(タダマ)もゆらに織(ハタ)(オ)る少女(ヲトメ)は、是誰が女子(ムスメ)ぞ。」答へて曰はく、「大山祇ノ神の女等、大(エ)は磐長姫と号(ナノ)り、少(オト)は、木華開耶姫と号(ナノ)る。」……(日本紀一書) 此は、海岸の斎用水(ユカハ)に棚かけ亘して、神服(カムハタ)織る兄(エ)たなばたつめ・弟(オト)たなばたつめの生活を、稍(やや)細やかに物語つて居る。丹波道主貴の八処女の事を述べた処で、いはなが媛の呪咀は「水の女」としての職能を、見せてゐることを言うて置いた。このはなさくや媛も、古事記すさのをのよつぎを見ると、其を証明するものがある。すさのをの命の子やしまじぬみの神、大山祇神の女「名は、木花知流(コノハナチル)比売」に婚(ア)うたとある。此系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめも、さくやひめと殆どおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示してゐるのだと思ふ。
たなと言ふ語
漢風習合以前のたなばたつめの輪廓は、此でほゞ書けたと思ふ。だが、7月7日といふ日どりは、星祭りの支配を受けてゐるのである。実は「夏と秋とゆきあひの早稲のほのぼのと」と言うてゐる、季節の交叉点に行うたゆきあひ祭りであつたらしい。初春の祭りに、唯一度おとづれたぎりの遠つ神が、屡(しばしば)来臨する様になつた。此は、先住漢民族の茫漠たる道教風の伝承が、相混じてゐた為もある。ゆきあひ祭りを重く見るのも、其である。春と夏とのゆきあひに行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れた事は考へられる。鎮花祭については、別に言ふをりもあらう。唯、木の花の散ることの遅速によつて、稲の花及び稔りの前兆と考へ、出来るだけ躊躇(ヤスラ)はせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬ様にとするものと考へられた。其と同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考へた。だから、田の稲虫と共に村人に来る疫病は、逐はるべきものとなつた。春祭りの「春田打ち」の繰り返しの様な行事が、段々疫神送りの様な形になつた。
夏の祭り
七夕祭りの内容を小別けして見ると、鎮花祭の後すぐに続く卯月8日の花祭り、5月に入つての端午の節供や田植ゑから、御霊・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓へ・盂蘭盆までに跨つてゐる。夏の行事の総勘定のやうな祭りである。柳田先生の言はれた様に、卯月 八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であつた。恐らくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得る為の成女戒を享けたらしい日である。田の作物を中心とする時代になつて、村の神女の一番大切な職分は、5月の田植ゑにあるとするに到つた。其で、田植ゑの為の山入りの様な形を採つた。此で今年の早処女となる神女が定まる。男も大方同じ頃から物忌み生活に入る。成年戒を今年授からうとする者共は固より、受戒者もおなじく禁欲生活を長く経なければならぬ。霖雨の候の謹身(ツヽミ)であるから「ながめ忌み」とも「雨(アマ)づゝみ」とも言うた。後には、いつでもふり続く雨天の籠居を言ふやうになつた。此ながめいみに入つた標(シルシ)は、宮廷貴族の家長の行うたみづのをひもや、天の羽衣様の物をつける事であつた。後代には、常もとりかく様になつたが、此は田植ゑのはじまるまでの事で、愈早苗をとり出す様になると、此物忌みのひもは解き去られて、完全に、神としてのふるまひが許される。其までの長雨忌(ナガメイ)みの間を「馬にこそ、ふもだしかくれ」と歌はれた繋(カイ)・絆(ホダシ)(すべて、ふもだし)の役目をするのが、ひもであつた。かう言ふ若い神たちには、中心となる神があつた。此等眷属を引き連れて来て、田植ゑのすむまで居て、さなぶりを饗(ウ)けて還る。此群行の神は皆簑を着て、笠に顔を隠してゐた。謂はゞ昔考へたおにの姿なのである。
 
妣が国へ・常世へ異郷意識の起伏

我々の祖(オヤ)たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。而(しか)も、とんぼう髷を頂に据ゑた祖父(ヂヾ)・曾祖父(ヒヂヾ)の代まで、萌えては朽ち、絶えては(ひこば)えして、思へば、長い年月を、民族の心の波の畦(ウネ)りに連れて、起伏して来た感情ではある。開化の光りは、わたつみの胸を、一挙にあさましい干潟とした。併(しか)し見よ。そこりに揺るゝなごりには、既に業(スデ)に、波の穂うつ明日(アス)の兆しを浮べて居るではないか。我々の考へは、竟(ツヒ)に我々の考へである。誠に、人やりならぬ我が心である。けれども、見ぬ世の祖々(オヤオヤ)の考へを、今の見方に引き入れて調節すると言ふことは、其が譬ひ、よい事であるにしても、尠(すくな)くとも真実ではない。幾多の祖先精霊(シヤウリヤウ)をとまどひさせた明治の御代の伴(バン)大納言殿は、見飽きる程見て来た。せめて、心の世界だけでなりと、知らぬ間のとてつもない出世に、苔の下の長夜(チヤウヤ)の熟睡(ウマイ)を驚したくないものである。我々の文献時代の初めに、既に見えて居た語(ことば)に、ひとぐに・ひとの国と言ふのがある。自分たちのと、寸分違はぬ生活条件を持つた人々の住んで居ると考へられる他国・他郷を斥(サ)したのである。「ひと」を他人と言ふ義に使ふことは、用語例の分化である。此と幾分の似よりを持つ不定代名詞の一固りがある。「た(誰)」・「いつ(=いづ)」・「なに(何)」など言ふ語は、未経験な物事に冠せる疑ひである。ついでに、其否定を伴うた形を考へて見るがよい。「たれならなくに」・「いづこはあれど(=あらずあれど)」・「何ならぬ……」などになると、経験も経験、知り過ぎる程知つた場合になつて来る。言ひ換へれば、疑ひもない目前の事実、われ・これ・こゝの事を斥すのである。たれ・いつ・なにが、其の否定文から引き出されて示す肯定法の古い用語例は、寧(むしろ)、超経験の空想を対象にして居る様にも見える。われ・これ・こゝで類推を拡充してゆけるひとぐに即、他国・他郷の対照として何(ナ)その国・知らぬ国或は、異国・異郷とも言ふべき土地を、昔の人々も考へて居た。我々が現に知つて居る姿(ナリ)の、日本中の何れの国も、万国地図に載つたどの島々も皆、異国・異郷ではないのである。唯(ただ)、まるまるの夢語りの国土は、勿論の事であるが、現実の国であつても、空想の緯(ヌキ)糸の織り交ぜてある場合には、異国・異郷の名で、喚んでさし支へがないのである。我々の祖々が持つて居た二元様の世界観は、あまり飽気なく、吾々の代に霧散した。夢多く見た人々の魂をあくがらした国々の記録を作つて、見はてぬ夢の跡を逐ふのも、一つは末の世の我々が、亡き祖々への心づくしである。心身共に、あらゆる制約で縛られて居る人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたい、と言ふ解脱に対するが、芸術の動機の一つだとすれば、異国・異郷に焦るゝ心持ちと似すぎる程に似て居る。過ぎ難い世を、少しでも善くしようと言ふのは、宗教や道徳の為事(しごと)であつても、凡人の浄土は、今少し手近な処になければならなかつた。我々の祖(オヤ)たちの、此の国に移り住んだ大昔は、其を聴きついだ語部(カタリベ)の物語の上でも、やはり大昔の出来事として語られて居る。其本つ国については、先史考古学者や、比較言語学者や、古代史研究家が、若干の旁証を提供することがあるのに過ぎぬ。其子・其孫は、祖(オヤ)の渡らぬ先の国を、纔(わづ)かに聞き知つて居たであらう。併し、其さへ直ぐに忘られて、唯残るは、父祖の口から吹き込まれた、本つ国に関する恋慕の心である。その1000年・2000年前の祖々を動して居た力は、今も尚、我々の心に生きて居ると信じる。10年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾(かつ)ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。すさのをのみことが、青山を枯山(カラヤマ)なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣(ハヽ)が国」は、我々の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣(わけ)があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤(おもかげ)を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ北へ移つて行くに連れて、愈(いよいよ)強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、値(あ)ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。
民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、とよたまひめの「ことゞわたし」にも、いはながひめ等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。ともかく、妣が国は、本つ国土(クニツチ)に関する民族一列のから生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、ねのかたすくになり、わたつみのみやなりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。いなひの命と前後して、波の穂を踏んでみけぬの命の渡られた国の名は、常世(トコヨ)と言うた。過ぎ来た方をふり返る妣(ハヽ)が国の考へに関して、別な意味の、常世(トコヨ)の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め求めて移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に牽(ひ)かれて、東へ東へと進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄もいつ迄も未知之国(シラレヌクニ)が横(よこたは)つて居た。其空想の国を、祖(オヤ)たちの語では、常世(トコヨ)と言うて居た。過去(スギニ)し方の西の国からおむがしき東(ヒムガシ)の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、常世(トコヨ)並びに、日高見(ヒタカミ)の国を考へたのも、此処に越え難いみちのおくとの境があつて、空想を煽り立てたからであつた。常世(トコヨ)を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。常世(トコヨ)と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、直様(すぐさま)意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、常世(トコヨ)の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は蒲葵(アヂマサ)の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の妣(ハヽ)が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い海阪(ウナザカ)の末に、わたつみの国と言ふ、常世(トコヨ)を観ずる様になつて来た。いろこの宮を、さながら常世(トコヨ)と考へることは、やはり後の事であるらしい。鰭(ハタ)の広物(ヒロモノ)・鰭(ハタ)の狭物(サモノ)・沖の藻葉・辺(ヘ)の藻葉、尽しても尽きぬわたつみの国は、常世と言ふにふさはしい富みの国土である。曾ては、妣(ハヽ)が国として、恋慕の思ひをよせた此国は、現実の悦楽に満ちた楽土として、見かはすばかりに変つて了うた。けれども、ほをりの命の様な、たまたま択ばれた人ばかりに行かれて、凡人には、依然たる常世の国として懸つて居た。富みの国であるが故に、貧窮(マチ)を司る事も出来たのが、わたつみの神の威力であつた。ほをりの命の授つて来られたのは、汐の満ち干る如意宝珠ばかりでなく、おのが敵を貧窮ならしめ、失敗せしめる呪咀の力であつた。扨(さて)又、あめのひぼこの齎(もたら)した八種(ヤクサ)の神宝を惜しみ護つた出石(イヅシ)人の妣(ハヽ)が国は、新羅ではなくて、南方支那であつたことは、今では、討論が終結した。其出石(イヅシ)人の一人で国の名を負うたたぢまもりの、時じくの香(カグ)の木実(コノミ)を取り来よとの仰せで渡つたのは、橘実る妣(ハヽ)が国なる南の支那であつた。出石(イヅシ)人の為の妣が国は、大和人には常世の国と感ぜられて居たのである。此処に心とまることは、此常世が、なり物の富みの国であつたばかりでなく、唯一点だが、後の浦島ノ子の物語と似通ふ筋のあることである。八縵(ヤカゲ)・八矛(ヤホコ)のかぐのこのみを持つて、常世から帰りついた時は、既に天子崩御の後であつた。「命(オホ)せの木の実を取つて、只今参上」と復奏した儘(まま)、御陵の前に哭き死んだと言ふ件は、常世と、我々の国との間で、時間の目安が違うて居たと言ふ考へが、裏に姿をちらつかせて居る様である。極々内端に見積つても、右の話から、此だけの事は、引き出すことが出来る。地上の距離遥かな処に、常世の国を据ゑて考へたこと、従つて、其処への行きあしは、手間どらねばならぬはず、往復に費した時間をあたまに置かないで、此土に帰りついた時の様子を、彼地に居た僅ばかりの時間にひき合せて見れば、なる程たまげる程の違ひが、向うと此方との時間の上にある。たぢまもりの話は、一見浦島のに比べれば、理窟には適うて居る。其かと言うて、橘を玉櫛笥の一つ根ざしと見るはまだしも、此を彼の親根と考へては、辻褄が合ひ過ぎる。常世の中路(ナカミチ)は、時間勘定のうちには這入つて居ない。目を塞いだ間に行き尽すことが出来るのも、其為である。粟稈(アハガラ)の謂はゞ一弾みにも、行き着かれる。此不自然な昔人の考へを、下に持つた物語として見なければ、香(カグ)の木実(コノミ)ではないが、匂ひさへも(か)ぎ知ることが出来ないであらう。して見れば、古人の目(メ)の子(コ)勘定を、今人の壺算用に換算することは、其こそ、杓子定規である。此事こそは、世界共通の長寿の国の考へに基いて居るのである。常世人に、あやかつて、其国人と均しい年をとつて居た為に、束の間と思うた間に、此世では、家処(イヘドコロ)も、見知りごしの人もなくなる程の巌の蝕む時間が経(タ)つて居たのである。常世では、時間は固より、空間を測る目安も違うて居た。生活条件を異にしたものと言へば、随分長い共同生活に、可なり観察の行き届いて居るはずの家畜どもの上にすら、年数の繰り方を別にして居る。此とて、猫・犬が言ひ出したことではない。人間が勝手に、さうときめて居るのである。まして、常世の国では、時・空の尺度は、とはうもなく寸の延びたのや、時としては、恐しくつまつたのを使うて居た。齢(ヨ)の長人(ナガビト)を、其処の住民と考へる外に、大きくも、小くも、此土の人間の脊丈と余程違うた人の住みかとも考へたらしい。前にも引き合ひに出たすくなひこなの神なども、常世へ行つたと言ふが、実は、蛾(ヒムシ)の皮を全剥(ウツハ)ぎにして衣とし、蘿摩(カヾミ)の莢(サヤ)の船に乗る仲間の矮人(ヒキウド)の居る国に還住したことを斥(サ)すのであらう。とこよなる語の用語例は、富みと長寿との空想から離れては、考へて居られない様である。即、其が、第一義かどうかは問題であるが、常住なる齢と言ふ民間語原説が、祖々(オヤオヤ)の頭に浮んで来た時代に、長寿の国の聯想が絡みついたので、富みの国とのみ考へた時代が今一層古くはあるまいか。飛鳥・藤原の万葉(マンネフ)びとの心に、まづ具体的になつたのは、仏道よりも陰陽五行説である。幻術者(マボロシ)の信仰である。常世と、長寿と結びついたのは、実は此頃である。記・紀・万葉に、老人・長寿・永久性など言ふ意義分化を見せて居るのも、やはり、其物語の固定が、此間にあつたことを示すのである。浦島ノ子も、雄略朝などのつがもない昔人でなく、実はやはり、初期万葉びとの空想が、此迄あつたわたつみの国の物語に、はなやかな衣を着せたのであらう。「春の日の霞める時に、澄ノ江ノ岸に出で居て、釣り舟のとをらふ見れば」と言ふ、語部の口うつしの様な、のどかな韻律を持つたあの歌が纏り、民謡として行はれ始めたものと思ふ。燃ゆる火を袋に裹(ツヽ)む幻術者(マボロシ)どものしひ語りには、不老・不死の国土の夢語りが、必主な題目になつて居たであらう。
併しもう一代古い処では、とこよが常夜(トコヨ)で、常夜(トコヨ)経(ユ)く国、闇かき昏(クラ)す恐しい神の国と考へて居たらしい。常夜の国をさながら移した、と見える岩屋戸隠(ゴモ)りの後、高天原のあり様でも、其俤は知られる。常世の長鳴き鳥の「とこよ」は、常夜の義だ、と先達多く、宣長説に手をあげて居る。唯、明くる期(ゴ)知らぬ長夜のあり様として居るが、而も一方、鈴ノ屋翁は亦、雄略紀の「大漸」に「とこつくに」の訓を採用し、阪ノ上ノ郎女の常呼二跡(トコヨニト)の歌をあげて、均しく死の国と見て居るあたりから考へると、翁の判断も動揺して居たに違ひない。長鳴き鳥の常世は、異国の意であつたかも知れぬが、古くは、常暗の恐怖の国を、想像して居たと見ることは出来る。翁の説を詮じつめれば、夜見(ヨミ)或は、根(ネ)と言ふ名にこめられた、よもつ大神のうしはく国は、祖々(オヤオヤ)に常夜(トコヨ)と呼ばれて、こはがられて居たことがある、と言ひ換へてもさし支へはない様である。みけぬの命の常世は、別にわたつみの宮とも思はれぬ。死の国の又の名と考へても、よい様である。大倭の朝廷(ミカド)の語部は、征服の物語に富んで居る。いたましい負け戦の記憶などは、光輝ある後日(ゴニチ)譚に先立つものゝ外は、伝つて居ない。出雲・出石その他の語部も、あらた代の光りに逢うて、暗い、鬱陶しい陰を祓ひ捨て、裏ぎるものとては、物語の筋にさへ見えなくなつた。天語(アマガタリ)に習合せられる為には、つみ捨てられた国語(クニガタリ)の辞(コト)の葉(ハ)の腐葉(イサハ)が、可なりにあつたはずである。されど、祖々の世々の跡には、異族に対する恐怖の色あひが、極めて少いわけである。えみしも、みしはせも、遠い境で騒いで居るばかりであつた。時には、一人ぼつちで出かけて脅す神はあつても、大抵は、此方から出向かねば、姿も見せないのであつた。さはつて、神の祟りを見られたのは、葛城ノ一言主(ヒトコトヌシ)における泊瀬天皇の歌である。手児ノ呼坂(ヨビサカ)・筑紫の荒ぶる神・姫社(ヒメコソ)の神などの、人殺(ト)る者は到る処の山中に、小さな常夜の国を構へて居たことゝ察せられる。国栖・佐伯・土蜘蛛などは、山深くのみひき籠つて居たのではなかつた。炊ぎの煙の立ち靡く里の向つ丘(ヲ)にすら住んで居た。まきもくの穴師(アナシ)の山びとも、空想の仙人や、山賤(ヤマガツ)ではなく、正真正銘山蘰(カヅラ)して祭りの場(ニハ)に臨んだ謂はゞ今の世の山男の先祖に当る人々を斥(サ)したのだ、と柳田国男先生の言はれたのは、動かない。其山人の大概は、隘勇線を要せぬ熟蕃たちであつた。寧、愛敬ある異風の民と見た。国栖・隼人の大嘗会に与り申すのも、遠皇祖(トホツスメロギ)の種族展覧の興を催させ奉る為ではなかつた。彼らの異様な余興に、神人共に、異郷趣味を味はふ為であつた。ほんとうに、祖々を怖ぢさせた常夜は、比良坂の下に底知れぬよみの国であり、ねのかたす国であつた。いざなぎの命の据ゑられた千引きの岩も、底の国への道を中絶えにすることが出来なかつた。いざなぎの命の鎮りますひのわかみや(日少宮)は、実在の近江の地から、逆に天上の地を捏(デツ)ちあげたので、書紀頃の幼稚な神学者の合理癖の手が見える様である。尤(もつとも)、飛鳥・藤原の知識で、皇室に限つて天上還住せしめ給ふことを考へ出した様である。神(カム)あがりと言ふ語は、地の岩戸を開いて高天原に戻るのが、その本義らしい。浄見原天皇・崗宮天皇(日並知皇子尊)共に、此意味の神あがりをして居させられる。柿ノ本ノ人麻呂あたりの宮廷歌人だけの空想でなく、其頃ではもう、貴賤の来世を、さう考へなくては、満足出来ぬ程に、進んで居たのであらう。ひのわかみやが、天上へ宮移しのあつたのも、同じく其頃の事と思ふ外はない。飛鳥の都の始めの事、富士山の麓に、常世神(トコヨガミ)と言ふのが現れた。秦(ハタ)ノ河勝(カハカツ)の対治(タイヂ)に会ふ迄のはやり方は、すばらしいものであつたらしい。「貧人富みを致し、老人少(ワカ)きに還らむ」と託宣した神の御正体(ミシヤウダイ)は、蚕の様な、橘や、曼椒(ホソキ)に、いくらでもやどる虫であつた。而も民共は、財宝を捨て、酒・薬・六畜を路側に陳ねて「新富入り来つ」と歓呼したとあるのは、新舶来(イマキ)の神を迎へて踊り狂うたものと見える。此も、常世から渡つた神だ、と言ふのは、張本人大生部(オホフベ)ノ多(オホ)の言明で知れて居る。「此神を祭らば富みと寿とを致さむ」とも多(オホ)は言うて居るが、どうやら、富みの方が主眼になつて居る様である。此神は、元、農桑の蠱術(マジ)の神で、異郷の富みを信徒に頒けに来たもの、と思はれて居たのであらう。話は、又逆になるが、仏も元は、凡夫の斎(イツ)いた九州辺の常世神に過ぎなかつた。其が、公式の手続きを経ての還(カヘ)り新参(シンザン)が、欽明朝の事だと言ふのであらう。守屋は「とこよの神をうちきたますも(紀)」と言ふ讃め辞を酬いられずに仆れた。唯さへ、おほまがつび・八十まがつびの満ち伺ふ国内(クヌチ)に、生々した新しい力を持つた今来(イマキ)の神は、富みも寿も授ける代りに、まかり間違へば、恐しい災を撒き散す。一旦、上陸せられた以上は、機嫌にさはらぬやうにして、精々禍を福に転ずることに努めねばならぬ。併し、なるべくならば、着岸以前に逐つ払ふのが、上分別である。此ために、塞(サ)への威力を持つた神をふなどと言ふことになつたのかも知れぬ。一つことが二つに分れたと見えるあめのひぼこ・つぬがのあらしとの話を比べて見ると、其辺の事情は、はつきりと心にうつる。此外に、語部の口や、史(フビト)の筆に洩れた今来(イマキ)の神で、後世、根生ひの神の様に見えて来た方々も、必、多いことゝ思はれる。
 
記紀神話における二神創世の形態 / 東アジア文化

私の話題は「古事記と日本書紀における二神の創世の形態について」です。
神話と言うと、とても神秘的な感じがするでしょう。確かに、神話というのは、人類の初めの文学芸術の一つとして、人類文化の最初の光と言えます。一般的に言って、ある民族における文化の特徴は、しばしばその民族の神話に源が求められます。ですから、神話は独特な魅力で研究者を強く引きつけるのです。
日本の「記紀神話」は、一方で日本民族における豊かな美意識を表しながら、一方で世界文化と互いにつながる融合的な特徴を表していると思います。ある意味では、記紀神話というのは、日本文化を知る出発点だろうと言えるかもしれません。
日本神話の研究については、日本の先生たちの業績がもうたくさんあります。ここでは、ただ、中国人の学者の立場から、私なりの考えを話します。全部の内容を七つの問題に分けて話しておきたいと思います。
第1の問題は、創世神話の類型についてです。
神話の発展段階から考察すれば、一般的に言って、世界における創世の神話は、たぶん大きく二つの段階に分けることができると思います。それは、獨神(ひとりかみ) つまり獨神の神の神話と、配偶者をもつ神の神話です。
いわゆる「獨神 (一人神) の神話」ですが、これは、世界の萬物は一人の神によって創られたということで、最も原始的な神話だと言うことができます。たとえば、ギリシャの神話にはプロメテウス(Prometheus) 神話が あるし、エジプトの神話には蓮の花の神話、つまりLaという神の神話があるし、中国の神話には盤古 (バンコ) の神話があるし、また、女(じょが) の神話があるし、日本の神話には迦具土 (かぐつち) の神の神話やイザナ ギの「禊ぎ祓ひ」の神話などがあります。
これらの神話は、皆、獨神の神話と言われることができます。こうした、それぞれの神話は、世界の創世という形態をとっておりますが、いずれも一人の神のそれ自身の活動、あるいは、自身の分裂もしくは分身という形をとっており、セックスの活動といったようなプロセスを見ることはできません。これが獨神の神話の特徴で、神話形態のもっとも古い形態です。
それでは創世の神話にまた第二の創世の形態です。つまり、「配偶者をもつ神の神話」です。略称で「配偶者の神話」と言います。これは、世界の萬物の創世はすべて男女のセックスによって生まれてくるという形態です。このことは、人類の意識が大きく進歩したことを表しています。ここに至っての「性の營み」は、すでに「生殖」ということを人類が意識したことを意味しています。つまり、「生殖」イコール「創造」という意味を理解 していたと言うことができます。
ところが、「生殖」に対する人類の認識には非常に長い時間がかかっております。ですから、配偶者の神話に異なった内容があります。一般的に言って、配偶者の神話というものにもその内容にはさらに二つの形に分ける ことができます。
まず、第1の形ですが、ここでは神話の中に現れてくる男神と女神は、親とその子供、つまり、息子とその母親、あるいは、父親とその娘です。たとえば、ギリシャの神話には、アイライプス(Erebus) の神話があります。アイライプスは、父親チャアス (Choas)を追い出して、母親をとって妻にしました。その結果、母親は一個の卵を生むわけですが、その卵が生長してエロス (Eros) という神になります。
この神話が表す内容は、人類に雑婚の時代があったということです。
第2の形ですが、ここでは神話の中に現れる男神と女神は、兄弟姉妹です。一般的に言って、兄が妹をめとって、兄妹が夫婦になります。
神話にあるこういう内容は、ちょうど人類における血族群婚制を表しています。
東アジアに現在も残されている創世神話の中には、ほとんど雑婚の神話がなくて、ただ血族群婚の神話だけがあります。中国とか、日本とか、朝鮮とか、いずれも同じです。
日本における配偶者をもった創世神話は、典型的な兄弟姉妹の間による結婚の神話であります。この神話は、二人の神がこの大地に現れることから始まります。その二人の神は、天つ神の第7世のイザナギのみこととイザナミのみことですが、彼らはもとは無性の神ですが、大地に下りてから、性をもった神になります。そして、一人の神は兄になって、もう一人の神は妹になります。
第2の問題は、二神の創世神話のあらすじについてです。
この二神創世の神話は、「古事記」「日本書紀」両書に見られます。二つの文献の成立には異同があるものの、ともに二神創世の話を日本創造の最初としています。
「古事記」の文は、つぎのとおりです。
(イザナギとイザナミは) 其の島 (淤能碁呂島) に天降り坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。是に其の妹伊邪那美命に問曰ひたまはく、「汝が身は如何か成なる。」ととひたまへば、「吾が身は、成り成 りて成り合はざる處一處あり。」と答白へたまひき。爾に伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り 餘れる處一處あり。故、此の吾が身の成り餘れる處を以ちて、汝が身の成り合はざる處に刺し塞て、国土を生み成さむと以為ふ。生むこと奈何。」とのりたまへば、伊邪那美命、「然善けむ。」と答曰へたまひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひしく、「然らば吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比為む(セックスをする) 」とのりたまひき。
如此期りて、乃ち「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひ、約り竟へて廻る時、伊邪那美命、先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)。」と言い、後に伊邪那岐命、「阿那邇夜志愛袁 登賣袁。」と言い、各言ひへし後、其の妹に告曰げたまひしく、「女人先に言へるは良からず。」とつげたまひき。然れども久美邇興して (セックスを始めて) 生める子は水蛭子。その子は葦船に入れて流し去てき………是に 二柱の神、議りて云ひけらく、「今吾が生める子良からず。猶天つ神の御所に白すべし。」といひて、即ち共に参 上りて、天つ神の命を請ひき。爾に天つ神の命以ちて、布斗麻爾爾 (占ト) ト相ひて、詔りたまひしく、「女先 に言へるに因りて、更に其の天の御柱を先の如く往き廻りき」。更に伊邪那岐命、先に「阿那邇夜志愛袁登賣袁。」と言ひ、後に妹伊邪那美命、「阿那邇夜志愛袁登古袁。」と言ひき。如此言ひ竟へて御合して、生める子は、淡 道之穂之狭別島。次に、伊豫之二各島を生みき……… (あわせて八島を生みき。) 故、此の八島を先に生める因 りて、大八島国を謂ふ。
これは、大変生彩あふれる神話だと思います。この神話には、活発で緊張感あふれる雰囲気がみちています。これは、情熱的で、自然で、直接感覚に訴える古代神話の特徴を表しています。これは、古代日本文化のもっている美意識の最初を表しています。
私はかつて日本の大学でこの神話を教えたことがあります。大学生たちは、厳かで、趣がある、美しいものとして、二神の「創世の形態」を評価しました。しかし、同様の神話を中国の作家たちに話したことがありますが、彼らは、こういう表現の形態が想像もできませんでした。不思議ですが、理解もできないということです。
聞いた神話は同じでも、それぞれの感銘は異なりました。これは、日本人と中国人の間に美意識の違いがあるからでしょう。実際、このような美意識から現れているものは、ある重要的な観念です。これは、「性の意識」についての観念です。
第3の問題は、創世神話における「性の意識」についてです。この神話の中に現れてくる「性の意識」は、大いに人の注目を引いています。これは、古代日本民族にとって、「性の意識」の目覚めの最初と言うことができます。
「性」は、人類の生命の起源であります。また、人類の生命の自然の本質でもあります。人類が萬物を認識していった過程は、一般的に言って、「性」の認識つまり「性」への感覚の認識から始まっております。そして、人類の「美意識」と呼ばれる認識も、この「性」への認識から始まっていくと言えます。
「性」というのは、もっとも主、つまり神、つまりGod に共通する人類の属性であると「聖書」で暗示していますように、「舊約全書」の「創世紀」の作者、主、つまり神に共通する人類の属性、つまり人類に生殖力があり、人類自身、自らの力で人類を創造することができるものと見抜いていたようであります。(「創世紀」の第1章と第17章などをご参考にして下さい。)「記紀神話」における二神の創世神話の中に現れてくる最初の「性の意識」は、「性の營み」、つまり、セックスイコール「創造力」を際立った特徴としています。この神話で、男神のイザナギは、「私の体の出来すぎたところをもちて、お前の出来きらないところに刺し塞ぎて、国土を生み出そうと思う。」と言っているように、男神は、女神にセックスを求めました。しかし、この要求の目的は、人間の性欲ではなくて、萬物の創造にあります。この意義では、日本神話の中に現れてくる最初の「性の意識」は、「聖書」の観念とほとんど一致している と言えます。
これは、まさか世界文化との共通性をもつ日本文化の最初の特徴を表しているわけではないでしょう。
では、神話におけるこのような「性の意識」、つまり、「最初の創造の意識」は、いかに実現されたのでしょうか。これには二神の創世の形態とかかわらなければならないと思います。
第4の問題は、二神の創世の形態における「三要素」についてです。
二神が、セックスによって国土を創造するときには、それなりの順序、プロセスというものがあります。
いわゆる「創世の形態」とは、つまり、二神の国土の創造の順序、プロセスという意味です。イザナギとイザナミの 国土の創造のプロセスは、三つの部分で構成されると思います。私はこれらを「二神創世の三要素」と呼びます。
つぎはそれを少々説明しようと思います。
第1は、二神創世の第1の要素についてです。
二神が大地に降臨すると、「天の御柱を見立て」とあるように、最初に「天の御柱」を見立てます。ここで指摘しなければならないのは、この「天の御柱」というのは、男神と女神が結婚を行う上で、もっとも重要で、しかも唯一の道具であるということです。
現在でも、貴国の長野県の諏訪市と諏訪郡には、御柱祭りがあります。この祭りは、この神話にある「天の御柱」とかかわるかもしれないでしょうと思います。これは6年目ごとに行われる祭りです。前回は、92年4月、すなわち舊暦の申年に行われました。次は、98年、すなわち舊暦の寅年に行われるということです。この祭りの主な行事には、御柱の伐採 (16本の樅の大きな木の伐採)、ひきつづいて、御柱の山出し、御柱の見立て、火入式、建て御柱などがあります。この祭りは、二神の創世神話から発展して変化して、次第に形成された民間風俗だと思います。いわゆる「御柱」とは、つまり、二神の神話の中に現れる「天の御柱」というシンボルです。
第2は、二神創世の第2の要素についてです。
男神のイザナギは、女神のイザナミにセックスを求め、そのことによって国土を生むと言っています。これに対して、女神は、この求めに応じたと言っています。そこで、イザナギの提案によって、二神は「天の御柱」を 廻るわけです。ここで指摘しなければならないのは、二神がこの「天の御柱」をめぐって廻るということです。これは、二神結婚の唯一の具体的な形式です。
第3は、二神創世の第3の要素についてです。
この要素は、第2の要素である「天の御柱」を廻るという形式をもとに、男神と女神がそれぞれどちらの方向に廻るかという問題です。男神のイザナギは女神のイザナミに、「なは右より廻り逢へ、あは左より廻り逢はむ。」と言いました。このきまりでは、女神は右の方から左側に廻り、男神は左の方から右側に廻っています。ここ で指摘しなければならないのは、セックスを行う前のプロセスにおいて、女神の位置は右になり、男神の位置は左にあるということです。
しかし、この左と右の概念は、現在で言う左と右の関係とはまったく逆になっております。つまり、これは、古代中国の「八卦」というものを基に、方向の確定を行っているということです。いまの京都市の配置は、やはり中国の「八卦」にある地理概念を伝承しつづけています。たとえば、京都市の東側を「左京区」と言って、つまり、東が左です。京都市の西側を「右京区」と言って、つまり、西が右です。これらの方向は、皆、古い中国 の「八卦」に属している概念だと思います。もちろん、「八卦」の中に現れる方向は、北斗七星によって確認されています。
以上は、二神の創世の形態に現れる三要素でした。二神の創世の形態は、これらの要素が組み合わされたものです。
ところが、驚くことに、日本におけるこの創世神話にあるこんな三要素が、ほとんど、同様中国の神話にあります。
第5の問題は、中国における二神の創世神話とその「三要素」についてです。
古代中国において、日本の「古事記」と「日本書紀」のような系統的な神話の記録をとった書籍は形成されませんでした。
中国の神話は、いろいろな文献の中に分散して記録されているという形をとっています。そして、中国神話が記録されている古代文献の形成された年代は、それぞれたいへん異なっています。前後だいたい1600年以上の時間がかかっています。一般的に言えば、「古事記」と「日本書紀」が形成された8世紀以前、中国神話はすでにとても長い道距をへて完成されているのです。
中国神話の保存は、表面から見ると、系統のない神話のように見えます。しかし、その神話が形成されていく1600年間の神話の文献などを整理してみますと比較的に完成されたいくつかの神話のSystemを見ることができます。たとえば、(1)盤古(バンコ) の神話のSystem。(2)崑崙山 (コンロンサン) の神話のSystem。(3)伏■・女■ (フクキ・ジョガ) の神話のSystem。盤古の神話は、盤古という獨神の神話で、中国の山岳の起源と食物の起源についての神話です。崑崙山の神話は、中国という人種の起源地の神話です。この中で、私の話題と密接に関係あるものは、「伏■・女■の神話」です。
伏■・女■の神話で、もっとも根本的な内容は、男神の伏■と女神の女■の二人の神様が、大地において、婚姻関係を結び、そうして、人間を作り出していくというところにあります。伏■・女■という二人の神様は、兄弟姉妹の関係でありますが、これは「記紀神話」と同じです。これらは、皆、血族群婚制時代にあった神話です。
先ほど、私が話したように、もともと、古代中国における獨神の神話では、女は女性の神ではなくて、無性の神です。神話の発展にしたがって、この配偶者の神話では、女■という神は、無性の神から有性の神になって、女性の神になりました。そして、男神の伏■の妹になりました。
現在、保存されている「伏■・女■の神話」の資料は、文献と文物を合せて20點に近いです。ここで、これらの資料の中でいくつかを選んでご紹介します。
図1は、1世紀の漢族の文物であって、武梁祠石室の石像画です。石像画とはつまり、石の板の上に彫り込まれた図案です。この石像画には、伏■・女■の創世の状況を見ることができます。この図の、左側が男神である伏■を現し、図の上半身は人間ですが、下半身は蛇の形をしています。そして、右の方向に廻っています。図の右側は、女神の女■を現し、その上半身は同じく人間ですが、下半身は蛇の形をしています。そして、女のほうは、左の方向に廻っています。これと同様の石像画は、中国の寶子山や南陽などからも発見されております。図二は、中国の吐魯蕃・カラホージャで発掘された「伏■・女■の神話」の帛画です。
これは、1912年、日本の大谷氏第3回西域探検隊員の吉川小一郎氏が中国の吐魯蕃・カラホージャの古墓群を発掘して発見した死者の棺覆いに用いられた帛です。この帛のおもてに「伏■・女■の神話」についての画 があります。東側 (左側) は蛇身人首の伏■で、西側 (右側) は同じ形の女■です。上下に日月、周囲には星辰 を配列しています。この帛画は、現在、日本の龍谷大学にあります。
第3の資料は、中国の苗 (ミョウ) 民族の古文献「盤王書」(バンオウショ) です。苗民族は、中国における少数民族の一つです。彼らの居住区域を申し上げますと、中国の湖南省、貴州省、広西省、それから、雲南省な どに広がっています。「盤王書」の中につぎの伝説があります。
天は大雨を降らし、人は誰もいなくなってしまって、ただ伏■と女■の兄弟二人だけになってしまいました。そこで、伏■は女■と夫婦になることを欲しますが、女■は兄弟であるため、夫婦になるのを望みません。しかし、伏■の求めを断わることもできずに困りました。そこで、一案をこうじて、伏■にこう言います。「もし、あなたが私に追いつくことができたら、夫婦になりましょう。」そう言い終わると、女■は大きな木の廻りを走り出し、伏■はそれを追いかけます。しかし、伏■はどうしても女に追いつくことができません。そこで、伏■も一計をこうじて、廻っていた方向を逆に走り、女■を前から捕らえ、女■は伏■の胸に抱かれます。こうして二人は夫婦として子を生み、子孫を作っていきました。(中国の瑶(ヨウ)民族と彝(イ)民族の神話に伏■・女■の神話があります。これらの神話のあらすじも苗民族の神話と全く同じです。)
以上は、中国における「伏■・女■の創世神話」についての主な資料でした。これらの資料から、つぎのように創世の要素を整理しました。
第1に、苗民族と瑶民族と彝民族などにおける伏■・女■の神話から見れば、男神と女神は結婚した際、二神は「大きな木」を廻りました。この神話で「大きな木」というのは際立った特徴で、これは、二神結婚の時の唯 一の道具です。
日本の様子によく似ているように、現在でも、中国の民間風俗の中にも、この「伏■・女■の神話」の跡が、まだ、いくつか残っています。台灣のジャーナリストは、90年代、苗民族の風俗を調査したことがあります。1992年2月14日の「聯合報」(聯合新聞) に苗民族の「花取り祭り」についての調査報告が登載されまし た。おおむねはつぎのとおりです。
中国の苗民族は、春節、つまり舊暦の1月2日から「採花節」(花取り祭り) が行われるということです。こ の祭りにおける主な行事は「花山」(花の山の登り) です。この日に、苗民族全体がにぎやかになり、老若男女は広場につくられた「花の山」へと集まり、祭りの広場には、高い花の塔が何本か立てられています。これらの建てられた「高い花の塔」こそ、「花の山」です。苗民族の人は、「花の塔がなければ、花の山とは言えない」と言います。花の塔は30m以上もある杉の木の皮を剥いで作ったものですが、そのいちばん上のところだけに、杉の線の部分を残し、広場の中央に立てます。そして、行事の始まりは、まず、何人かの若者が、その杉の塔である棒登りを披露します。そして、苗民族の民族楽器である「笙」(しょう) という楽器が鳴り響くと、若い男女はその「花の山」、つまり、「花の塔」を廻りながら、「笙の踊り」というダンスを踊ります。そして、何回か廻ると1対1の踊りとなり、同時にお互いに歌を歌い合うという「対歌」も行われます。この祭りは、苗民族の若者たちの恋愛の場となっています。
こういう祭りの中で、もっとも注目されるものは、まさに高い花の塔、つまり花の山ではないだろうかと思います。1994年2月、私も苗民族の「花取り祭り」を訪問しました。村の広場には1本の竿を立てます。数人 の若者がこの竿をのぼり、人びとはこの竿を圍んで、歓声をあげて應援します。村の全体がにぎやかになります。この竿、つまり「花の山」は、この祭りの中心として、昔昔の「伏■・女■の神話」にあった「大きな木」か ら変化してきたものだということは疑いないと思います。ですから、「大きな木」とか、「花の山」とか、これら はイザナギとイザナミという二神の創世神話にあった「天の御柱」とか、「国中の柱」とかと同じで、中国の「 伏■・女■の神話」でも創世の第1の要素となっています。
第2に、中国における「伏■・女■の神話」のもつ創世の第2の要素は、伏■と女■の結婚の際、「大きな木」をめぐって廻り、そして、男神が女神を追いかけるという場面は、その後の民俗の中にも伝わって保存され、それが、いまでも若い男女が「花の山」の廻りを廻りながら、歌い踊って、それぞれの情愛を表す風俗になって いるということです。漢族の石像画の中には、男神が女神を追いかけるという場面がない、けれども二神の蛇の尾が「ひねってあう」という場面があります。文化史学の本質から考察しますと、その意義も同じだろうと思います。
第3に、伏■と女■の神話がもつ創世の第3の要素、紀元1世紀頃の漢民族の石像画を見ますと、男神と女神 という二神は、自分自身の蛇の尾をひねっている「方位」、つまり、廻っている方向は、男神が、蛇の尾を左の ほうから右の方向へひねって、女神が、蛇の尾を右のほうから左の方向へひねっているということです。この神話でも、創世についての「方位」は、イザナギとイザナミの「方位」と一致しています。
以上は、中国の伏■と女■の神話がもつ創世の三要素です。これは、日本の二神の創世神話の中に現れる三要素とほとんど一致しております。
では、日本の神話と中国の神話の間には、いったい、どんな関係があるのでしょうか。しかし、この問題をこたえる前に、もう一つの問題にこたえなければならないかもしれません。これは、中日の神話の中に現れている似通った創世の形態は、いったい、どんな意義を持っているかという問題です。
第6の問題は、文化史学における創世の三要素の意義についてです。
日中の神話の中に現れている似通った創世の三要素は、文化史学において、いったいどんな意義を持っていますか。ここで、それを少々説明しようと思います。
第1、まず「天の御柱」とか、「国中の柱」とか、「大きな木」とか、「高い花の塔」などについてお話します。
人類の神話は、象徴つまりシンボルの蓄積であると言うことができます。そして、またその象徴は、実物形態を符號化したもの、つまり、これを反対から言いますと、その符號は実物形態を代表しているものであると言うことができます。日本のイザナギとイザナミの神話における「天の御柱」と「国中の柱」、あるいは、中国の伏 ■・女■の神話における「大きな木」と「高い花の塔」などは、いずれも一種のシンボルであります。中西進教 授がすでに何回となくご指摘されておりますように、これは「生命の木」です。そして、世界の普遍性をもっています。この見方は、まったく正しいと思います。「生命の木」そのものは、あるシンボルです。
さらに押しすすめて、その象徴的な意味を考察して見ますと、この「生命の木」は「性」のシンボルであります。言い換えますと、それは、男性の生殖器である実物形態を符號化したものであると言うことができます。
人類の認識には、それなりの発展の過程があることは言うまでもない。もっとも古い原始の時代、人類は自身の生殖能力は女性にあるものと考えておりました。その時代の神話は、人類は一人の身体から分裂、あるいは、その身体が小さく分かれて形成されたものであるというように表現されております。これらは、皆、女性の「産児」のシンボルです。
しかし、人類の認識が進歩することによって、男子との性の関係を通さず、女子だけでは子供を生むことは、不可能であることがわかるようになっていきます。そうして、今度は、逆に男子が新しい生命を創造する根本で あるというように考えるようになっていきました。
紀元前5世紀頃、ギリシャの有名な哲学者アナクサゴラス (Anaxagoras) は、萬物の根元はスペルマタである、つまり「種子」であるという学説を立てます。この学説では、人は完全に男子の「種子」によって創造されるものであって、女子は、その創造の場所を提供しうるだけにすぎないものであると言っています。このことから、ギリシャのアナクサゴラスは當時において萬物はすべて「種子」によってつくられていたと考えていたことが わかります。
そうして、無性生殖の神話時代から、男子による「種子」の時代へと人類の認識が移り変りました。このことによって、男子の生殖器は「人」を創造する権威的力として象徴されるようになっていき、かつ、それは、すべてを創造するものである、生命の起源であるというように象徴されていきます。こうした意義を踏まえながら、日中両国の神話の中に現れる「天の御柱」とか、「国中の柱」とか、「大きな木」とか、「高い花の塔」などを見ていきますと、ここにも、そうしたシンボルを見ることができます。それは、本質的には男子の生殖器の崇拝という形で表現され、そこには「生命はここより始まる」という深い意義が示されていたことではないかと思うわけであります。
いまでも、東京の京橋に「親柱」と呼ばれる石柱が保存されています。考古学では、このような「親柱」を「 陶祖」と呼びます。いわゆる「陶祖」とは、つまり、カオリンあるいは石でつくられた人類のオヤという意味です。ここで、オヤとは、明らかに男子の生殖器のシンボルという意味です。これらの造形はヨーロッパとかアジアとかではたくさんあります。昨年の8月、私は愛知県にある県神社を訪問したことがあります。この神社には男子の生殖器の造形がたくさん保存されています。これは男子の生命力への崇拝という日本民族の心理状態を示しているということが言えます。そして、こんな心理の物的表現です。
これらの資料との比較を考え合わせると、日本と中国の神話における第1の要素、つまり「天の御柱」とか「大きな木」など、そこに含まれている意義も自然理解できてくるのではないかと思います。いわゆる男神と女神の結婚の道具というものは、「生命の力」のシンボルの表示であり、「生命の力」の物的表現であると言うことができます。
では、次はシンボルである「柱」などをめぐって廻るということについてお話ししましょう。つまり、第2の創世の要素についてのことです。
日中両国の神話には、いずれも男神と女神が結婚する際、シンボルをめぐって廻るという形をとっております。これは、廻るというそのものもある種の象徴的意義をもっていることを現しております。このことは、中国の紀元1世紀頃の石像画を見ていただければおわかりになると思います。中国の武梁祠の石像画とか寶子山の石像画とか、それから吐魯蕃・カラホージャの帛画などの図案には、いずれも共通したものを、そこに見ることができます。つまり、それらの図案の男神の下半身の部分は、左から右のほうへ、女神のほうは、逆に右から左のほうへ、相互に「ひねる」ような形で描かれているということです。こうした「ひねった」ような形態の中に、「 廻る」というほんとうの意義が含まれております。いわゆる「ひねった」形態というのは、その相互の下半身がひとつ、一体になっていることを表し、そうした形態を通して生命が創られることをあらわしております。これは創世神話の法則にかなった形態であると言うことができます。
もちろん、「廻る」という形態は、そのほかにも、愉快な情緒、あるいはうれしい気持ちをあらわしているということも言えます。今でも、映画の中で、男女が恋愛関係にあることを、女性が先に駆け、それを男性が追い かけて戯れているといった場面で表しますが、これも古代神話が残した潜在意識の表れかもしれません。
第3として、次は、男神が左側で、女神が右側という「位置」の問題についてお話ししましょう。つまり、創世の第3の要素についてのことです。これは、生命の創造についての男神と女神の体位を現したものであると言うことができます。では、こういう体位は、いったいどんな意味を持っているでしょうか。
6世紀頃、つまり「古事記」と「日本書紀」が書かれる2世紀前、中国の隋の時代になりますが、「洞玄子」という不老不死に関する道教の著作が書かれています。「洞玄子」は女性と特定のセックスを通して、不老不死 という目標を実現させることを主張したものであります。ですから、この著作をポルノとか、好色文学とか称している学者もいます。現在、「洞玄子」のもっとも完全なテキストは、中国にはなくて、かえって、日本にはあ ります。10世紀頃、日本の丹波康によって編纂されている「医心方」の中にこのテキストが保存されています。
この著作は、男女の「性の営み」における位置、つまり体位の問題にふれております。
「洞玄子」の原文は、つぎのとおりです。
1.凡初交会之時、男坐女左、女坐男右。およそ初夜の時、男は女の左側にすわるべく、女は男の右側にすわるべし。
2.男左轉而女右廻、男下衝、女上接。男は左のほうから廻り、女は右のほうからまわるべし。男は下へ突き、女は上をむいて受くべし。
3.以此会合、乃謂天平地成矣。しかれば、天平地成なり。
天平地成とは、つまり天下大安という意味です。このことばの原典は、中国のもっとも古い文献「尚書」の中 にあります。原文は地平天成です。この「洞玄子」の記載を日本の「二神の創世神話」とか、中国の「伏■と女 ■の神話」などと比較して見ますと、この体位について完全一致しています。これはとてもおもしろいと思います。
では、男女のセックスの体位について、「洞玄子」という著作は、どうしてこのようなきまりを書いたのでしょうか。
もとは、これは古代中国人における天体運動の概念とかかわっていると思います。古代中国人は北斗七星を中心にして、天体運動の方向を決めました。北は下で、南が上、そして東が左で、西は右でした。いわゆる「八卦 」の方位は、このようにして決められました。古代中国人は、太陽は東のほうから西のほうへ、つまり左のほうから右のほうに動いているというように考えておりました。そして、夜になって、沈んだ太陽は、その夜のうちに地下の土の下を通って、また東のほうへと運ばれていくものと考えておりました。
こうした天体運動をもとに して、「天」は左のほうから右のほうへ、「地」は右のほうから左のほうへというような概念が生れてきたものと 思われます。これは「洞玄子」に記載される「天左轉而地右廻」(天は左のほうから廻って地は右のほうから廻 る) ということです。そうすれば、「春夏謝而秋冬襲」(春と夏がすぎて秋と冬が来る)。つまり、そうすれば、1年中に四つの季節があり、四季の変化も順調なのです。こうしたことを考え合わせますと、男神が左のほうから右のほうへと廻ったということは、いわゆる「天」と いうものが東のほうから西のほうへ移動するという運動概念と一致し、また、女神が右のほうから左のほうへと廻ったということも、地下を通って西のほうから東のほうへと移動する運動概念と一致していることがわかります。こうした概念の中に示されている男性とは、言うまでもなく、「天」であり、女性とは「地」であります。「天」は「上」ということになり、「地」は「下」ということになります。
これは、男尊女卑の観念でしょう。
ですから「洞玄子」は、つづいてこう言っています。
4.男唱而女和、上為而下従。男がとなえ、女が同調すべし。上の者が行い、下の者が従うべし
5.此物之常理也。これは、萬物の常理なり。
実際、このような文字の中に現れているのは、注目すべき倫理学の範疇です。この範疇は、東アジア文化に明 らかに属しているものだろうと思います。驚くことに、人文的な観点から見れば、日本の二神の創世神話には、このような男尊女卑という倫理的なイデオロギーがすくなからず隠されていると思います。
この文化現象と言うと、これは古代中国文化と密接にかかわっていると思います。
第7の問題は、二神の創世神話における倫理学の観念及び古代中国文化とのかかわりについてです。
先ほど話した二神の「体位」のほかに、ここで、この神話の中の二神による世界創造の時の挿話、つまりエピソード (Episode)を見ることにしましょう。
男神と女神が「天の御柱」をめぐって廻るという場面ですが、ともすれば、見過ごしそうになるところです。女神のイザナミは、先に「あなにやしえ、をとこを」と言い、あとで、男神のイザナギは「あなにやしえ、をとめを」と言いました。こうして、二神は夫婦となりますが、その後、イザナミは「蛭児」という奇形児を生みます。二神は困りはてて、このことについて天つ神に教えを乞います。天つ神は、「女の先に言へるに因りて良からず、また、還り降りて改め言へ」と言います。そうして、二神は再び戻って、今度は、男神が先に唱えると次に女神が言います。こうして、正常な分娩が行われ、日本の国土を創造しました。
このエピソードにはたいへん重要な一つの観念が示されていると言うことができます。つまり、それは、人間の本能が働くとき、女性の愛欲というものが、先に働くならば、必ずそれは失敗をもたらすだろうということです。逆に、男性の愛欲が女性に先んじて働き、女性がそれに付随する、あるいは、呼応するという形をとってのみ、生命の創造は、はじめて順調に行われるということを示しています。
ここで現れている観点は、先ほど話した二神の体位と同じで、厳格な社会倫理学の範疇に含まれ、厳格なモラルの問題もつながっていきます。つまり、世界の萬物は、男性が先に言いだし、女性がそれに従うという法則に よってのみ、はじめて社会の維持が正常に行われるのだということを表しているというようにも言えます。言うまでもなく、このことは、「男性中心集権」というものを表しています。
一般的に言って、いかなる観念もすべて一定の社会的関係と経済的関係とを反映しております。日本の創世神話に現れている「男性中心集権」という観念を考察していきますと、日本の當時の社会的関係を直接に反映したものと見なすことはできないと思います。
私の手元にあるいくつかの資料でこの問題を説明できるかもしれません。
第1は、紀元5世紀の中国の文献の「三国志・魏志・倭人伝」です。これは、全世界における古代日本の原始 的な国家についての記録の最初です。この「倭人伝」によって、當時の日本列島におけるもっとも発達した国家は、「やまと」ですが、しかし、その時、その国家を支配していた最高のトップは、女性でした。この女王の名前は「卑彌呼」(ひめこ) でした。このことは、當時、日本社会がまた、女性権力の時代にあったことを証明しています。
第2は、「萬葉集」にある性の風俗についての資料です。たとえば、「萬葉集」巻9には「歌會」という長歌があります。この和歌は、生彩と情熱あふれる雰囲気にみちています。この和歌がつぎのとおりです。
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の  行き集ひ かがふ歌に 人妻に 吾も交はらむ あが妻に 他も言問へこの山を 領く神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ言も咎むな
これらの歌會を考察すれば、すくなくとも、7、8世紀頃まで、日本の民間には性に関する自由度がかなり高 かったようです。
第3は「源氏物語」に保存されている日本の中古時代における婚姻形態についての資料です。「源氏物語」から見れば、11世紀頃に至っても、日本社会に、まだ「不落夫家」という婚姻形態が存在しました。
いわゆる「不落夫家」というのは、結婚しても、女性がやはり男性の家に住まないことです。男性にしても、女性にしても、自由に「性」を営んでいました。これは、対偶婚制の遺物の一つです。また、完成され た一夫一婦婚制と言えません。中国における若干の少数民族の中には、ずっと20年前頃まで、このような婚姻形態が存在していました。
第4は、現在でも、日本の民間には、やはり残されている「姫の寶」などへの崇拝の心理です。
私は、貴国の愛知県の田縣神社を訪問したことがあります。この神社には現在保存されているもっとも一番なものが、「姫の寶」です。この「姫の寶」が、つまりよく似せて作られた女性の生殖器の模型です。これは、無事出産とか、家内「花の窟」があります。熊野の古来の神名は「牟須美」(むすめ) といわれるようです。「牟須美」(むすめ) とは、つまり女神という意味です。この「花の窟」は、まさにこの女神の女陰のシンボル と言われています。地元の人びとは、古代以来、ずっとこのシンボルに祭禮の儀式を行っています。
現在に至っても、なお保存されているこれらの模型とシンボルは、日本の民間にずっと女陰、つまり女性への潜在的な崇拝心理が存在していることを説明しています。
以上の資料から綜合的に考察すれば、6世紀から8世紀にかけての日本社会では、女性の愛欲というものを否定した倫理観念はないと思います。
かえって、中国の社会では、このようなシンボルと模型などを見る可能性は、絶対にないと思います。古代中国では、紀元前5世紀から、とくに孔子をトップとした儒学が形成されて以来、女性に圧迫をくわえることは、封建時代における社会倫理学の主な内容のひとつになりました。紀元前3世紀頃、中国社会は統一国家が形成され、封建制度は大きな発展をとげており、すでに「父権」制度は、中国社会における重要なイデオロギーの形態 をとっております。そして、公元1世紀頃に書かれている「関尹子」という著作に、初めて「夫唱婦随」(主人が唱え、家内がそれに従うべく) ということが明確に述べられます。これは、中国社会における男子と女子の関係の基本原則となりますところが、驚くことに、日本の二神の神話の中には、つぎの文字があります。
1.男神のイザナギと女神のイザナミは、天の御柱をめぐって廻る際、イザナギはイザナミに「女先に言える良からず」と言いました。
2.それから、二神は、天つ神に教えを乞いました。天つ神は「女先に言える因りて良からず」と言いました。
これらの対話に、私たちは中国封建時代から来た声を聞いたようです。男神のイザナギとこの天つ神に表され た観念は、まったく中国の「夫権」制度に屬するイデオロギーです。彼らの話したことは、実際、まさに中国の「関尹子」の話したことです。
これは、注目する値打ちがある文化現象です。このことは、中国文化の要素が日本の神話に深く浸透したことを表しています。そして、これらの要素が神話のプロットとなって表れています。文化の影響で、もっとも深いものは、まさに観念の浸透だと言えるでしょう。この視角から見れば、日本の二神の神話における創世の形態に、中国文化の要素が融合されていたと言うことができます。
ですから、「記紀神話」の二神による世界創造の伝説は、日本の原始的な本来の神話ではなくて、それは、「新神話」であると言えるかもしれません。
いわゆる「新神話」とは、原始的な神話と違って、多元の要素が合成された神話という意味です。その基本的な特徴は、日本の本来の神話を母胎にして、さらに東アジア文化、おもに中国の文化の流れを要素としてくわえ、それから、相互に融合して形成されていったものと言うことができます。
これは、日本文化がもつ融合性です。この融合性は、日本神話のSystemにおける最初の二神の創世形態から始まっています。
もちろん、記紀神話の全体から考察すれば、このような融合性は、この二神の創世神話にあるばかりではなく、記紀神話のいろいろな面に見られると思います。たとえば、混沌に関する概念や、トーテム崇拝に関する心理や、一人の神の創世に関する形態などがあります。そのほかに、このような融合性は、朝鮮半島の文化とのかかわりをあらわしています。

雷神思想の源流と展開

雷神像の変遷
後漢の王充の「論衡・雷虚篇」は、雷公(神)の形状を次のように述べている。
図画之工、図雷之状、累々如連鼓之形、又図一人、若力士之容、謂之雷公、使之左手引連鼓、右手推椎、若撃之状。其意以為雷声隆々者、連鼓相扣撃之意也(図画の工、雷の状を図するに、累々として連鼓の形の如くし、又一人の力士の若きの容を図し、之を雷公と謂ひ、之をして左手に連鼓を引き、右手に椎を推さしめ、之を撃つ状の若くす。其の意に以為らく、雷声の隆々たる者は、連鼓相扣撃するの〔意〕なり)。
長沙馬王堆前漢墓から出土された帛絵(絹織物の上に作った絵)には、雷神像がみえる。「凸眼鳥嘴、左手は椎、右手はを持ち、腰は簾状の裙(すそ)を囲んでいる」(林河「(九歌)与湘民俗」)。
「■は鎌なり」(「説文解字」)。
1980年、山西省考古研究所と太原文物管理委員会は、太原市郊南王郭村に北斉武平元年(570年)頃の 東安王である叡墓を発掘したが、その中には大量の壁絵があった。東壁の青竜図の上方は雷公(雷神)図である。その形状は怪獣らしい、猿の顔、赤唇黄眼、赤い襦(はだき)と白い袴を着ていて、手足が槌を振る舞って太鼓を叩いている。周りは天鼓(天神の太鼓)が九つある。この雷公図と類似するものは、敦煌249窟の雷公図である。(鄂嫩哈拉・蘇日台「中国北方民族美術史料」)
この幾つかの雷神像には雷斧はみられなかった。これに対して、民間伝承の雷神像には雷斧は登場する。壮族 の伝承がいう。
天上に住んでいる雷王は、燈籠の眼が二つあり、まばたきすると、緑の電光が閃いてきた。背中に翼が二つ生えていて、振り揚げると、暴風が動いて通った。二つ足が非常に重く、歩くと、ガラガラと音をたてた。手が板斧と鑿(のみ)を持っていて、怒ると、こっちで掘ったりあっちで割ったりした。(「壮族民間故事選・布伯の故事」)
この伝承は何時から起源したのか、はっきりわからないが、「旧唐書」粛宗紀・宝応元年(762)の条の雷公石斧についての記載によると、少なくとも唐代までに雷公(雷神)と石斧(雷斧)とを結ぶ伝承が既にあったとわかる。
雷斧考
広義の雷斧
「和漢三才図会」天象類・雷斧の条にいう。雷斧、雷碪、雷槌、雷楔、雷鑽、雷環、雷珠、以上数種類があ る。
「本草綱目」(石類・霹靂碪)は次のようにいう。雷斧とは、銅鐵でつくった斧のようなものである。雷碪は碪(きぬた)に似た紫黒色の石である。雷槌は重さ数斤ある。雷楔・雷鑽は長さ一尺、いずれも鋼鉄のようで、雷神がものを劈いたり、ものを撃ったりするものである。雷環は玉の環のようで、雷神が腰につけているもので、それの遺落したものである。雷珠は神竜が口に含んでいるもので、それの遺落したものである。夜になると光って、光は室に満ちる、と。「玄中記」に、「玉門関の西に一つの国がある。そこでは山上に廟を建て、国人は毎年、雷の用いる鑽を供出している」とある。これは誤りである。雷は陰陽の気が激しく迫って音響を発するとはいえ、実に神物がこれを司っているのである。だから万物と同じように啓蟄する。ところで斧・鑽・碪・槌などはどれも実際に鋳造したものである。たとえ天に在っては象を成し、地に在って形を成すとはいえ、それは星が落ちて石となり、あるいは金石や粟麦や毛血や諸々の異物を雨のように降らすものであって、地に在ってこのようにきちんと鋳造した形を成すものであろうか。必ず大虚の中に神物があって そうなるのである。鬼神の道は幽微である。誠に究めることは不可能である。(寺島良安著・島田勇雄等訳注 「和漢三才図会」)
李時珍の「本草綱目」に対照すれば、「和漢三才図会」の引用は、原文そのままではなく、少し略したが、基本的に原文の意に忠実である、とわかる。
山田慶兒によると、「明の李時珍(1518-1583)は、従来の本草では「草木玉石虫魚人部に散見」していた人工物79種を集めて、巻38に器部を設けた。服帛類25種・器物類54種、うち35種が李時珍の増補にかかる。おなじ人工物でも、土部の白磁や古瓦磚などの焼物類、金部の古鏡、古錢をはじめとする銅鉄器類、それに食品の造釀類は穀部、乳製品類は獣部と、それまでどおりの取り扱いだから、とくに身の回りの衣服・調度類に独立の位置をあたえたことになる。服帛・器物は急場の間に合い、「奇功を奏す」るというのが、その理由であった。今日なら躊躇なく人工物に入れるところを、李時珍が唯一の例外として石部にそのまま残したものに、霹靂碪(および雷墨)がある。霹靂碪は雷斧と言ったほうが通りがいいだろう。もっともこの種のものは、その形によって、斧をはじめ鑽・楔・碪・丸・墨などの語を雷や霹靂の下に付して呼ばれた。李時珍はそれらをひっくるめて霹靂石と称しているが、ここでは雷斧と総称しておくことにしよう。こうした名称に対応する、一見して人工とおぼしい形をもつにもかかわらず、李時珍は雷斧をあくまで自然のはたらきによって生じたものと信じていたのである。李時珍だけではない。たしかに人間の関与を認める考えかたもないわけではなかったが、それでも雷斧は、時代と地域を超えて、ひろく自然に属する物と信ぜられてきた。」(「物に対する−牡蛎・雷斧」「日本研究」)
そうすれば、雷斧はただ斧形の道具だけではなく、鑽・楔・碪・丸・墨などを含んでいるのである。
こういう雷斧についていろいろな記載があるが、例をみてみよう。北宋の科学者沈括(1030-1094)も、「夢溪筆談」巻20・神奇に実見談を記し、雷州の雷斧をとりあげた。
世人有得雷斧・雷楔者、云雷神所墜、多於震雷之下得之。而未嘗親見。元豊中、予居随州、夏月大雷震一木折、其下乃得一楔信如所伝。凡雷斧多以銅鉄為之。楔乃石耳、似斧而無孔。世伝雷州多雷、有雷祠在焉、其間多雷斧・雷楔。按図經、雷州境内雷・敬二水、雷水貫城下、遂以名州。如此、則雷自是水名、言多雷乃妄也。然高州有電白県、乃是隣境、又何謂也。(世人に雷斧・雷楔を得る者有りて有云う、雷神の墜とす所、震雷の下の於いて之れを得ること多し、と。而して未だ嘗って親しくは見ず。元豊中、予は随州に居り、夏月に大いに雷震して一木折れ、其の下に一楔を得たり、信に所伝の如し。凡そ雷斧は多く銅鉄を以って之れを為る。楔は乃ち石のみ、斧に似て孔無し。世に伝う、雷州に雷多く、雷祠焉こに在る有り、其の間に雷斧・雷楔多し。図經を按ずるに、雷州境内に雷・敬二水有り、雷水城下を貫き、遂に以って州に名づく。此の如くんば、則ち雷は自ら是れ水名にして、雷多しと言うは乃ち妄なり。然るに高州に電白県有り、乃ち是れ隣境なり、又何の謂ぞや。)
科学者としての沈括は、自らの所見で雷斧の材料が銅鉄ではなく石であることを強調していた。
雷州の雷神廟については、清の屈大均(1637前後在世)の「廣東新語」巻6・神語・雷神が詳しい記述を残してあとで引く。
雷州英榜山有雷神廟。(中略)堂後又有雷神十二躯、以応十二方位、及雷公・電母・風伯・雨師像。(中略)  六月二十四日、雷州人必供雷鼓以酬雷。祷而得雷公之墨、光瑩如漆、則以治邪魅驚癇、及書訟牒得雷屑、或霹靂碪、則以僻嬰子驚、以催産。霹靂碪、一名雷公石。(雷州の英榜山に雷神廟有り。(中略)堂の後に又雷神十二躯有り、以って十二方位に応じ、雷公・電母・風伯・雨師像に及ぶ。(中略)六月二十四日、雷州人は必ず雷鼓を供して以って雷に酬む。祷りて光瑩たる漆如し雷公の墨を得れば、則ち以って邪魅驚癇を治し、訟牒を書くに及べば雷屑を得、或いは霹靂碪は、則ち以って嬰児の驚を僻け、以って産を催す。霹靂碪は、一に雷公石と名づく。)
雷斧は「邪魅驚癇を治し」「嬰児の驚を僻け」「産を催す」などの効用がある、と廣東雷州の人々は信じている。南宋の李石(1162前後在世)の「続博物誌」巻一は、人間往々見細石、形如小斧、謂之霹靂斧、或謂云霹靂楔。(人間に往々細石を見る、形は小斧の如し、之れを霹靂斧と謂い、或いは霹靂楔と謂云う。)として、「玄中記」を引く。南宋の洪邁(1123-1203)の「夷堅志」支戊・巻9・雷斧には、次のような小説がある。
黄宋泳甫田人、師憲状元之従兄也。幼時戯於庁。正昼雲雨晦冥、雷振轟轟、繞柱穿屋壁而過。家人意其驚怖、争出尋之、元在戯処、端坐無所覚也。得一斧、長三寸、非鉄非石、鑿小孔而無柄。蓋雷神所執、而誤堕者。諸人伝玩未巳、黄持入内蔵之。雷復至似訪其物、不可取。俄頃開霽。宣和間、黄以童子入京、蒙召対、賜五経。及第仕、止郢州通判。斧至今存。(黄宋泳は甫田の人、師憲状元の従兄なり。幼時庁に戯る。正昼に雲雨晦冥し、雷振轟轟として、柱を繞り屋壁を穿ちて過る。家人、其の驚怖を意い、争い出でて之れを尋ぬるに、元のごとく戯処に在り、端座して覚る所無し。一斧を得たり、長さ三寸、鉄に非ず石に非ず、小孔を鑿つも柄無し。蓋し雷神の執る所にして、誤ちて堕ちし者ならん。諸人伝玩して未だ巳らざるに、黄、持して入りて之を蔵す。雷復た至りて其の物を訪ぬるが似く、取る可からず。俄頃にして開霽す。宣和の間、黄は童子を以(ひき)いて京に入り、召対を蒙り、五経を賜わる。第仕するに及び、郢州の通判に止る。斧は今に至るも存す。)
雷斧が知恵の神力を持っているという民間信仰からなってきたこの小説は、ただの虚構的なものとは言えないであろう。
雷斧の起源
甲骨文字には斧を「■」と書く。「説文解字」には「斧は斫なり。斤に従ふ、父の声。」とある。
「■」は甲骨文字の斤である。斤とは、「木を斫るなり。象形。」(「説文解字」)許慎のこの説について現代の古文字学者も認可している。つまり斤が斧の形状であるが、このもっとも古い斧は石斧しかない。なぜならば、「斫、撃なり」(「説文解字」)甲骨文字に「■」とあり、斤と石に従うのである。言い換えれば、斫とは、石斧を持って撃きるの意である。
注目したいのは、甲骨文字の「斤」の先の「■」と「斫」中の「■」なのである。「■」(石=石刀)の甲骨文字からわかるように(徐中舒「甲骨文字典」)、「■」(斤)は錐体の石斧、「斫」の中の「■ 」は三角形の石斧の象形である。
それでは、「斧」の中の「父」はどうであろう。
甲骨文字に「■」(父)とある。郭沫若によれば、この甲骨文字は、「金文にとある、乃ち斧の原型である。石器時代の男子が石斧〔原注によると、「■」の形即ち石斧の象形〕を持って操作する。この故に、孳乳が父母の父となる」(郭「甲骨文字に所見した殷代社会」)。この説は古文字学者に一般的に認められているし、人類学の世界中の実際調査と考古学にも証明されていた。
衆知のように、石斧は上古の労働道具であるが、また祭器としてもっとも重視されたのである。
佐原真によると、ニューギニア東部高地のハーゲン山近くにあるワギ谷・チムブ谷の石斧には、「祭りの斧」・「日常の斧」・「花嫁代償の斧」の三種類があり、現地の言葉でも、それぞれをよび分けている。「ハーゲン山の石斧」とよばれるのは、このうちの祭りの斧である。祭りの斧は、激しい仕事には使えない。しかし、サトウキビの茎を切る前に、その上下に刻みを入れるくらいのことには使うこともある。祭りの斧は、殺人、暴行などの不祥事の償いにも使う。祭りの斧は注意深く作り、派手に飾る。パプア=ニューギニアにおいては、石斧を祭りの斧としていた社会が、鉄斧を用い始めてからしばらくは、鉄斧を祭りの斧として使った。しかし、鉄斧が普及すると、鉄の祭りの斧を用いなくなった。祭りの斧は、太平洋の島々にも広く分布し、美しい半透明の大きな斧身にきれいな柄を付け、飾のふさを付けるなどしている。一方、パプア=ニューギニアでは、手で持てないような重く大きな祭りの斧を作ったり、斧身のためによい石の材料が入手できないため、代わって木で斧身をつくる例もある。北ヨーロッパでは、青銅器時代の遺物として、先の粘土を芯とした青銅の祭りの斧 と同じ形の斧を持つ左右相称に二人並んだ男の小像が知られている。二人とも長い触角のような左右一対の飾りを付けたかぶとをかぶり、右の男は左手に、左の男は右手に祭りの斧を持って坐っている。北ヨーロッパで神を人の姿として表現した最古のものともいわれる。とすれば、斧を持つことが、特定の神を示していることになり、斧は神の象徴ということにもなる。ギリシアのクレータ島のミノス文明(前20-15世紀)では、金・銀の双刃斧を祭壇に祭った。その祭壇も社も、また斧をたてる台も見つかっており、またミノアの王ハギア=トリアダの石棺には、双刃斧を祭った情景を描いている。西アジアでは、ギリシア神話のゼウスに相当するラブランダ神を象徴している、という。民族例によれば、祭りの石斧には、いろいろのものがある。
1、斧の身には、実用の斧には利用しない美しい石を使う場合、実用の斧にも通ずる石を使う場合、実用の斧にはむかない軟らかい石を使う場合、石に代わって木を使う場合がある。
2、斧の身には、実用の斧と変わらない形・大きさをそなえる場合と、扁平に作る、特に長大に作るなど、実用には向かない身をそなえる場合とがある。
3、祭りの斧として大切にあつかい、実用には使わない実例のほかに、実用にも使う場合もあるので、使用痕跡をとどめることもありうる。
4、柄に付け、その柄をにぎやかに飾ることが多い一方で、柄には付けずに、斧身のみを祭りの斧として用いることもある。
このように見てくると、縄文時代の石斧の中から、祭りの斧を探すことも、そう難しくはない。有力候補の第一にあがるのは、秋田県上掵遺跡でみつかった4本の磨製石斧である。これと似た巨大な石斧は、岩手県日戸遺跡(47.1cm)や北海道函館市内(39.7cm)から もみつかっており、共に祭りの斧の候補である。これらの大きな石斧で想いおこすのは、朝鮮半島の石器文化(櫛紋土器文化、櫛目紋土器文化)の共同墓地に数多くの大きな石斧が捧げられている事実である。韓国慶州に近い蔚珍郡厚浦里遺跡では、円い穴(径4)に人骨に重なって石斧(長さ20-50cm)130点がみつかっている。縄文の祭りの斧のもう一つの候補は、新潟県三仏生遺跡(縄文時代後期)の双刃石斧(長さ23.2cm)である。これは、柄を付けない祭りの斧ではないか。(佐原「斧の文化史」)
中国の場合、祭りの石斧と副葬品の石斧は、約6-7000年前の新石器時代に遡ることができる。
1978年11月、河南省臨汝県の閻村の仰韶文化晩期にぞくする遺跡から、すぐれた彩陶器絵が発見された。考古学者はこの彩陶器絵を「鸛魚石斧図」と名付けている(「中原文物」1981年第一期所収「臨汝閻村新石器時代遺址調査」)。鸛と魚の祭祀の意義は別論に触れたいが、この中の石斧は祭祀の道具であるにまちがいない。陜西省の仰韶文化前期(約7000年前)にぞくする北首嶺遺跡では、1977年の調査で発掘した21の墓のうち4号墓から、40才前後の男に鉞とみられる有孔石斧と86本の骨製の矢尻(骨鏃)が発見された。また、中心広場にある墓地を部分的に発掘した39の墓のうち、11号墓の25才前後の男に、同じく有孔石斧と28本の骨鏃が副えてあった。(中国社会科学院編「宝鶏北首嶺」)こんな石斧は、すべての男ではなく、村の指導者とよぶにふさわしい限られた男だけが持ったらしい。陝西省姜寨遺跡では、159号墓の8-9才の男に同種の有穴石斧を副えており、幼くして、すでに将来を約束されていたことを推測させる。(岡村秀典「中国新石器時代の戦争」「古文化談叢」)
柳湾馬場類型(西北の青海と蘭州のあたりに分布していて、約4000年前の新石器時代の遺跡)の墓葬の統計によると、53所の男性墓主は、45所の副葬品が斧・■・鑿であり、紡績用の紡輪が8所しかない。これに対して、31所の女性の墓主は、28所が紡績用の紡輪である。当時は男性が農耕、女性が紡績という「男耕女織」社会分別がはっきりしたということがわかる。また長江流域の新石器時代遺跡の調査からもわかったように、南京北陰陽営145号墓の副葬品の総数は25件であるが、その中に石斧は18件を数えた。(中国社会科学院考古研究所編「新中国の考古発見と研究」)
石斧は祭祀の道具であるとともに、男性を祭祀する或いは男性のシンボルでもある。これは中国新石器時代の石斧を検討するとき、忘れてならないポイントである。
男性器と石斧と雷神
次の図9をみてみよう。これは河南省の安陽(商・殷代の遺跡?)に出土された玉製の男性器である。この中の底辺頂上の三角形と回形紋の模様に注目したい。
1920年代、スウェーデンの考古学者安特生(中国名)は河南省池県仰韶村に5000年前の陶製男性器を四つ発見した。二つは椎体であるが、もう二つは底辺頂上の三角形に似ている。(葉舒憲「詩經の文化闡釋」)
前述したように、甲骨文字の 「■」(斤)は錐体の石斧、「■」の中の「■」は三角形の石斧の象形である。そうすれば、玉製男性器の中の三角形はまちがいなく石斧の象形であろうが、その中の「■」(回形紋)は雷(神)のシンボルである。(「「回」・「S」・「瓠」の神話学と宗教学の考察」「古代日本と渡来文化」)。
これはほんとうに意味深い問題である。というのは、男性器と石斧と雷神とはここに一体になったのである。
後漢の劉煕の「釋名・釋用器」に「斧、甫也。甫、始也。凡将製器、始用斧伐木、巳乃製之也(斧は甫なり。甫は始めなり。凡そ器を製すなら、始めて斧を用いて木を伐る、巳に乃わち之を製すなり)。」これに対して、畢が「士冠礼」鄭玄の注を引いていう、「甫、今文作斧、斧甫字通(甫を今文によって斧と作(さ)れる、斧と甫の字は通じる)。」(王先謙「釋名疏証補」)
清の懿行(1757-1825)の「尓雅義疏」には「甫者、男子之美称、美大義近、故又為大(甫は男子の美称なり、美と大の義は近い、故に又、大と為る)。」とある。「詩經・大明」の「維師尚父」について、「詩經正義」は前漢の劉向の「別録」を引いていう、「師之、尚之、父之、故曰師尚父、亦男子之美号(師に之き、尚に之き、父に之き、故に師尚父と曰う、亦た男子の美号なり)。」
さらに、近人王国維はつぎのようにいう。
女子之字曰某母、犹男子之字曰某父。案「士冠礼」「男子之字日伯某甫、仲叔李惟其所当。注云、甫者、男子之美称。」「説文」甫字注亦云、男子美称也。然経典男子之字多作某父、彝器則皆作父、無作甫者。知父為本字也。男子字曰某父、女子字曰某母。蓋男子之美称莫過于父、女子之美称莫過于母。男女既冠笄、有為父母之道、故以某父某母字之也。漢人以某甫之甫以且字。(女子の字は某母と曰う、男子の字は某父と曰う犹く。案ずるに「士冠礼」「男子の字は伯某甫と曰う、仲叔季惟其の所に当たる。注云う、甫は、男子の美称なり」と。「説文」甫の字の注は亦た云う、「男子の美称なり」と。然し経典に男子の字多く某父と作す、彝器に則ち皆父と作す、甫と作す者無し。(故に)父は本字と為るなりと知る。男子の字は某父と曰う、女子の字は某母と曰う。蓋(おもう)に男子の美称は父に過ぎる莫し、女子の美称は母に過ぎる莫し。男女は既に冠笄をして、父母の道と為す有る、故に以某父某母の字を以て之(よ)ぶなり。漢人は某甫の甫を以て且の字と以す(「女字説」「観堂集林」)
王の言った「漢人は某甫の甫を以て且の字と以(な)す」の「且」をみてみよう。甲骨文字に 「且」 を「■」「■」「■」「■」と書いている。
「説文解字」に「且、所以薦也。従几、足有二横、一其下地也(且は所以に薦なり。几に従う、足二つ横あり、一つは其の下地なり)。」清の段玉裁の注はいう、「所以承籍進物者 」(所以に承籍(うけか)りて進物する者なり)。
徐中舒は「説文解字」を受けて、「上古、肉を且の上に置いて、祖先を祭る。故に祖先を且と称する。あとは祖になった。」という。(徐「甲骨文字典」)
これに対して、郭沫若は「且」の本義が男性の性器である、と認める。(「釋祖妣」「郭沫若全集・考古編」)
フランスの漢学者葛蘭言(中国語訳名)や高本漢、中国の凌純声なども漢字の「祖・社」の初形が性器 崇拝の直接な表現である、と認める(津田逸夫訳「中国宗教」凌純声「中国祖廟の起源」、「民族学研究所集刊」)
どっちがただしいのか。結論を出す前に、「且」と相関する考古実物と民俗調査の例に触れてみよう。
前文に挙げた安陽で出土された玉製の男性器と河南省縄池県仰韶村の5000年前の陶製男性器を見ると、あまりにも甲骨文字の「■」「■」(且)に似ているが、日本の石器時代の石棒や神社の男性器に象徴する実物なども、「且」即ち男性器の象形の説を証明していた、と言ってよいであろう。とすると、
「且」(祖)=男性器=父
             ↓
          斧=父
             ↓
          斧=甫=始
とまとめることができる。
なにゆえ「且」(祖=男性器)と斧(=父)とは一体になったのか。
前述したように、上古社会では石斧は男の特有のものであるから。しかしながら、玉製の男性器の中の「■」(回紋模様)=雷は、「且」と父=斧との関連を解明しなければ、問題は解決できない、とおもう。
原始民の「神」という概念は、雷神を「世界と万物を創った」(フレイザー「金枝」)最高の天神として祭祀することとともに出現した、と考えることができる(「日中両民族の雷神思想の源流」)。
孔子の作と言われる「周易説卦伝」はいう、「帝は震に出て(中略)万物は震に出づ。」震は即ち雷(「説文解字」に「震は霹靂の物なり。■は籀文震なり」)。帝は即ち上帝・天神である。
「■」が甲骨文字の帝である。この字について諸説があるが、葉玉森の「■」は〔燎〕の形である」(「殷虚書契前編集釋」)説に注意したい。
「周礼・春官・大宗伯」はいう。
以煙祀昊天上帝、以実柴祀日月星辰、以燎祀司中司命、風師、雨師(煙を以て昊天上帝を祀る、実柴を以て日月星辰を祀る、燎を以て司中司命・風師・雨師を祀る)。「煙之言煙。周人尚臭、煙氣之臭聞者。■ 、積也。詩曰、「■■■朴、薪之■之。」三祀皆積柴実牲体焉。(煙を煙と言う。周人臭さを尚す、煙氣の臭さを聞く者故なり。■は積なり。詩曰く、「■■■朴、薪之■之。」と、三祀皆積柴実牲の体なり焉)」と、鄭玄は注した。「■、積木燎之也、従木火、酉声。(中略)■、■或、従示、柴祭天神也。」(木は、木を積みて之を燎する也、木火に従ふ、酉の声。(中略) 酉、木の或なり、示に従ふ、柴して天神を祭る也。)と、「説文解字」 (段玉裁注「説文解字」)は言う。
実は燎祭を行なったのは周人ばかりではなく、殷人も燎祭を盛んにやった。
(?)子卜、(?)貞、王令河、沈三牛、燎三牛、卯五牛。王曰、丁其雨。
九日丁酉允雨。(甲骨・12948・正より)
既川燎、有雨。(甲骨・28180より)
癸巳貞、其燎十山、雨。(甲骨・33233・正より)
己亥卜、我燎、有雨。(甲骨・12843・反)
甲骨文字には殷人の燎祭をこんなにはっきり記載している。
青銅器の牛尊 は殷人の燎祭の祭器であろう。
この燎祭は人を犠牲として行なったこともある。有名な「商(殷)湯乞雨」「呂氏春秋・順民」)の記載から その残酷な人祭が推知できる。
晋の千宝(?〜317)の「捜神記」巻13には燎祭をも記載している。樊東之口有樊山。若天旱、以火焼山、既至大雨。今往有験(樊東の口に樊山有り。若し天旱りなら、火を以て山を焼く、既に大雨至る。今往験有る)。
帝はいろいろな神力があるが、降雨はそのひとつの、人間社会と密接な関係がある神力である。「帝不令雨 (帝は雨〔が降ること〕を令せず)」(「卜辞通纂」、365)、とすれば、旱魃になる。このとき、燎祭を行なって、帝に雨が降ることを令するのを祈る。甲骨文字の記載からわかるように、燎祭はすくなくとも殷代から始まったのである。
なぜ燎祭を行なうと、「今往験有る」、帝は雨が降ることを令するのか。周代の中・後期に編纂され、その前 すでに流行っていた、もっとも古い伝承である「易」は、つぎのようにいう。
「■■」(震下震上)震、亨。(略)
震は即ち雷、亨は即ち通順、これは通説の解釈である。
「説卦伝」はいう。
震為雷、為龍、為玄黄、(中略)離為火、為日、為電、〔略〕(震を雷と為し、龍と為し、玄黄と為し、〔中略〕離を火と為し、日と為し、電と為し、〔略〕)  
これは「八卦」(天・地・山・澤・雷・風・水・火八種類の物のシンボル)の出たまでに、原始人の世界本源 についての認識論といわれるものである。中国古代哲学者厖朴はこれについてつぎのように論じていた。
この八種類の物(八卦)中、火と雷はもともと互いに通じているのである。「左伝・僖公十五年」につぎの記事がある。晋献公が伯姫を秦に嫁ぐことを占うとき、「帰妹」(卦54)「■■」は「癸」(卦38)「■■」に行き、「帰妹」の上卦「震」は「■」卦の上卦「離」に変わったことに会ったが、史蘇が占って曰く、「震之離、亦離之震、為雷為火(震、離に之き、亦離、震に之く。雷と為し火と為し)」と。つまり卦名からいうと、震は震(震=雷)、離は離(離=火)であり、両者は相違しているが、両者の象徴している物即ち卦像から見れば、「震之離、亦離之震」、違うことはとんでもない、「為雷為火」、基本的に同じものである。(「八卦卦像と中国上古万物本源説」「周易訳註」)
この説は正しいとおもう。中国神話中の雷神と火神は分けられず、同一性を持っている。つぎの古典の記載をみてみよう。
炎帝氏以火紀、故為火師而火名(炎帝氏は火を以て紀す、故に火師と為りて火もて名づく)。(「左伝・昭公17年」)
炎(ある底本に黄とされる)帝作鑽燧生火。炎〔黄〕帝作り燧を鑽りて火を生じ(「管子・軽重篇第84」)
昔少典娶于有氏、生黄帝・炎帝。黄帝以姫水成、炎帝以姜水成(昔少典は有氏に娶りて、黄帝・炎帝を生(うめ)り。黄帝は姫水を以て成り、炎帝は姜水を以て成り)。
黄帝と炎帝はみな中国西部黄土高原の部落の首領である。これは史学界に一般的に認められているが、神話・伝説中の黄帝と炎帝は兄弟とされている。黄帝は雷神であり、炎帝は火神であるから、雷神と火神は兄弟の内性を持っているようになった。
神話・伝説中のもっとも典型な雷神である祝融はどうであろう。
禳火于回祿(回祿に禳りて火〔事を払う〕)。(左伝・昭公18年」)
回祿、火神也(回祿は火神なり)。(「国語・周語」韋昭の注)
祝融亦能明顕天地之光明、以生柔嘉材者也(祝融も亦能く天地の光明を明〔昭〕 顕して、以て嘉材を生柔する者なり(「国語・鄭語」)
孟夏之月、(中略)其帝炎帝、其神祝融(孟夏の月、〔中略〕其の帝は炎帝、其の神は祝融なり)(「礼記・月令」)
南方之極、自北戸孫之外、貫之国、南至委火炎風之野、赤帝・祝融之所司者万二千里(南方の極、北戸孫の外自より、■■の国を貫き、南のかた委火炎風の野に至る。
赤帝祝融の司る所の者にして万二千里なり)。(「淮南子・時則訓」)
赤帝・炎帝、少典之子、号為神農、南方火徳之帝也(赤帝炎帝は少典の子、号を神農と為す、南方の火徳の帝なり)。(「淮南子・時則訓」 高誘の注)
史學者張正明によると、回祿は祝融の別称である。炎帝は関中(陝西省の中心部)に起源したが、西周中期と晩期、姜姓の周人が多く南方に移民した。申・呂・許・励国などはその移民からなってきたのである。彼らは 祖神炎帝をも南方に移してきた。戦国中期以降、五行が五方・五色と組み合って、炎帝は赤色でもあり、別称は赤帝でもあるから、南方の火の位置に定位された。祝融は雷神であり、楚人に始祖神としてもっとも崇拝されていた。(「楚史」「司天・司地の遠祖」)
祝融同じく雷神、これは神話学界の通説であるが、張正明は、民族の移動と融合によって炎帝と祝融は組み合わされ、同じ雷神になった、とおもしろく指摘した。神話や伝説の歴史的変遷から考えると、同一神性を持っている神話人物の融合はあたりまえのことである。つまり炎帝と祝融はもともと南北相違であるが、同じ雷神・火神であるから、あとの融合は別に不思議ではない。
震=雷=火という古い世界本源説と「帝出乎震(帝は震に出で)」「万物出乎震(万物は震に出づ)」(「周易説卦伝」)という古代神話観及び宗教信仰とは、古文字や中国の少数民族の伝承などにも証明された。
前文に挙げたように、「説文解字」に「は籀文震なり」とある。籀文は大篆ともよばれ、周代の書体である。この籀文の下部は両側の「火」と真ん中の「鬲」からなってきた。なお、「説文解字」に「辰、震也、三月陽気動、雷電振、民農時也、物皆生(辰は震なり、三月陽気は動きて、雷電は振るふ、民は農時なり、物は皆生える)」とある。言い換えれば、震同じく雷は火・陽気に属している。
中国の廣西自治区の壮族神話「布洛陀」と雲南省の族神話「吾ら人間は如何にいままで生きてきたのか」はともに雷の火を持ってきたテーマである。前者はいう。火は雷公が稲妻で大きな榕樹を撃って発生したのである。後者はいう。雷神が人間に藤と木による摩擦出火の方法を教えた。そこで、人間は火を得て調理した物を食べるようになったのである。
日本では有名なお花祭りの中、雷神と火の一体性の場面もあり、赤鬼みたいな格好の神様は、巨大な斧を持って燃えている柴火をかかげ、祭りの雰囲気は最高潮になる。これは雷神同じく火神崇拝であろうかとおもう。
神話文献「山海經・大荒東經」には雷神像を描いて、「其光如日月(其の光りは日月如く)」はその一つの特徴である。「山海經」の編纂年代はいままで依然と謎であるが、前漢の大学者劉秀(■)以来の正統な言い方によって、夏代の大禹・伯益の作とされている。現代の学者はこの説に疑いをもっている。にもかかわらず、この本の内容は上古から伝承してきた、と認められる。そうすれば、雷神の「其光如日月」から、上古の雷神信仰が 日神信仰と関連している、とわかる。
「説文」はいう、「日、実也、太陽之精不虧。(日は実なり、太陽の精虧けず。)」太陽は即ちもっとも大きな陽氣である。
「周易説卦伝」はいう、「乾、天也、故称乎父(乾は天なり、故に父と称(よ)乎ぶ)。」とすると、つぎのようにまとめてみよう。
日=太陽→震=雷=火 (太陽の精)
      ↓
    乾=天=父
      ↓
  「且」(祖)=男性器=父
               ↓
           斧=父
              ↓
           斧=甫=始
つまり雷神信仰は日神(太陽神)信仰と密接な関係があるので、雷神は太陽の性質を持つようになった。新石器時代になって、男しか石斧を持っていないことを象徴として、男女の社会分別(男性は戦争や狩猟など力型の逞しい仕事に従事する)がますますはっきりとなってきた。そこで、「始」・「祖」即ち集落や部族の創始者を男性器や石斧とつなげてきた。「甫」という男性に対する美称あるいは男性としての英雄観や傲慢観も出てきた。これは、前述した玉製の男性器と、その中の「■」(回=雷=雷神)と、三角形模様(石斧の象形)との一体になった内因ではないか。換言すれば、「■」模様の象徴している雷神崇拝と、三角形の象徴している石斧崇拝と、玉製男性器の象徴している祖先崇拝とは、火・陽気・威力・万物の起源・人類の繁殖・集落あるいは氏族の創始者(創始神)などの意を持っている。この三者は進化の前後順序があるが、すくなくとも新石器時代の中・後期(農耕文明の芽生えから)では融合して一体になった、と言ってよいであろう。
甲骨文字にはつぎの記事がある。
己亥卜内貞王侑石在?北東作邑于之。(董作賓「小屯・殷虚文字乙編」林泰輔「亀甲獣骨文字」)
「「侑石」即ち石を拝む祭祀」と徐中舒がいう。「甲骨文字典」この「侑石」(石を拝む)祭は何のためなのか。衆知のように、甲骨文字の時代つまり殷代は既に青銅器時代に入り、金属器具は石斧や石鎌など石器具を替えて使い始めた。しかしながら、新石器時代の、祭り石斧を象徴物としての雷神(=帝=万物の創造神)・男性器・石斧(後両者は祖先崇拝と関連している)この三者一体の崇拝は、そのままに残ってきた。これは「侑石」(石を拝む)祭の本義である。換言すれば、「侑石」祭は即ち前文に言及した民族例のいろいろな石斧祭祀の一つである、とおもう。
こういう石斧祭りは現在でも中国の少数民族の中に伝承されている。
雲南省西双版納曼達郷の族では、多くの家庭が男女性器の模型を大切に保存している。■語が男性器の模型を「坐記布」(漢語の音訳)とよび、本物は瀾滄江畔から持ってきた赤色あるいは赤土色の卵石である。女性器の 模型を「坐記米」とよび、本物は樹枝に巻き付いている藤条である。また男女性交の模型もあり、「郎嗄」とよび、本物は樹枝に巻き付いている藤条と樹枝の、互いに結合している男女性器に似る一段である。平日はこんな性器模型を室内に隠れて女性はみることや触ることを禁止する。戦時に男性がそれを身に付けると、力や勇気が増えてくると信じられる。
瀘沽湖畔にある達孜村の一方の格母山腰には、一本の自然石柱があるが、当地の摩梭族と普米族はこの石柱を 男性生殖器神として崇拝している。多くの子供を生むことや早く子供を生むことを祈るため、男女ともこの男性生殖神を拝んでいる。少女らも例外ではない。
麗江の象山の山元には、圓錐状の石崖があり、この地方の白族と納西族の女性は石崖を男性器として崇拝している。結婚後子供ができない女性や性欲が弱い男女は、みなこの石崖を祭祀する、目的は早く子供がほしい、性欲が強くなりたいのである。
漾鼻県城の南に江があり、江の真ん中から一つの尖状の石が露出して、形状が男性器に似ている。当地の白族は子供を求めるためにそれを祭祀することがある。
路南彝族にぞくする撒尼人の村にはみな一軒の小部屋があり、内に一塊の石を供えている。これは山神・保護神であるから、病気があるとき、巫師に願ってこの石を祭る。村民の中、石を自分の子供の義父母として崇拝していることもある。哈尼族にぞくする葉車人の村の入口に、みな一面の林があり、これは村の「根」と言われるが、林の中からもっとも大きい樹を選んで、この樹元には一塊の石を立てて、これを「塞心神」とよんで村の保護神として祭祀している。布朗族や景東彝族も類似の石崇拝・儀式を持っている。
納西族の「東巴経」はいう、納西族の最初の造物の神が「東」と「色」である、即ち陽神と陰神である。石は「東」、木は「色」を象徴している。つまり石は陽(父)神である。東巴(巫師の意)が祭祀儀式を行なうとき、米で一塊の神石を祭り、陽氣の強さをくれることを祈る。納西族はまた石を家庭の保護神として崇拝している。家の玄関の両側には、直径20cmぐらい、高さ70cmぐらいの錐形石を立てて、左側の石を「東阿普」、右側の石を「色阿主」とよんでいる。
普米族・摩梭族・羌族などは石神が生きている人々を保護できるだけではなく、人々の死んでからの霊魂をも 保護できると信じている。屍体を火葬して、骨灰を陶器缶に入れ、缶を氏族墓地の山地の常緑樹の下に埋める。埋めるとき、四つの石塊を持ってきて、三つを樹の回りに寄り掛けて、一つを缶の上に置く。この四つの石は死者霊魂の保護神であるから、こうして、死者霊魂はいつでも滅びない、と信じられている。
雲南省中甸三区白地には白水台(滝)があり、その頂上に一つの巨石がある。毎年農歴2月8日、この辺りの納西族がここに集まって祭典を行なう。儀礼の初めは神石(巨石)を拝む、つまり神石の前に鶏を殺して供えあげ、線香を立てたり頭を叩いたりする。後ほど、鶏血と鶏毛を神石に貼り付けて、神石が献物を享受した意を表す。もちろん神石から保護を賜わる、と信じられる。
雲南の多くの少数民族は隕石や石器をも崇拝している。とくに石刀・石斧・石鑿・石錐などを神様として崇拝している。現在でも依然こんな物を家に供えて「雷斧」あるいは「神器」として祭る。人や家畜が病気のとき、石器を焼いて水の中に入れ、患者がこの石器水を飲んで、元気になる、と信じられている。また、石器は風雨を止める神力を持っている、と信じられている。巨風や豪雨あるいは淫雨をやめさせたいとき、石器を焼いて庭の 真ん中に置いて、石器に水を掛ける。すると、石器からの水蒸気が徐々に天空に上がっていくから、目的が達成できると信仰している。
哈尼族・■族・基諾族・彝族・布朗族などはみな雷を祭る風習を持っている。彼らは石器時代から伝えられて きたという石斧や石杵を雷神の偶像として祭っている。(楊学政「原始宗教論」)
甲骨文字の「侑石」(石を拝む)祭や少数民族の広義の石斧崇拝を、玉製男性器の中の「■」(=雷)と三角 形(石斧の象形)と、一緒に考察すると、雷神と石斧(=父=権威と男性器=祖先崇拝)との一体性がもう一歩明瞭になる。これは雷斧が雷斧としての神話学と宗教学および民俗学の深層意義である、と言ってよい。というわけで、雷斧は王権と生殖と豊穣とに関連するようになった。
雷斧と王権
前漢の賈誼(前201?-前169?)の「新書・産子」に「黼綉是古者天子之服也」(黼綉は古者むかし天子の服なり)」とある。黼綉とは、礼服の模様であり、黒と白の糸で背中あわせの斧の形を刺繍するものである。
「儀礼・覲礼」(周代の士階級の冠・婚・葬・祭など種々の礼儀を述べたもの。周公旦の作と伝えられるが、 春秋時代からしだいにつくられたものと学界に認められる)に「天子設斧依于戸之間、左右几、天子袞冕負斧依(天子は戸の間に斧依を設ける、左右几、天子袞冕斧依を負る)」とある。鄭玄の注によると、「依、有繍斧文、所以示威也(依は繍あり斧文なり、所以に威を示すなり)。」斧依は斧・黼依ともよばれる。
「周礼・春官・可几莚」(周公旦の作と伝えられる)には黼依について詳しく述べていた。
凡大朝覲、大饗射、凡封国、命諸侯、王位設黼依、依前南向設莞莚紛純、加巣席画純、加次席黼純、左右玉几(凡そ大朝覲、大饗射、凡そ封国、命諸侯、王位黼依を設ける、依の前に南向け莞莚紛純を設ける、巣席画純を加える、次席黼純を加える、左右玉几)。
後漢の鄭玄の注によって、「斧謂之黼、其繍白黒彩、以絳帛為質。依、其製如屏風然(斧を黼と謂う、其の繍は白黒彩、絳帛を以て質と為る。依其の製は屏風然たる如く)。
なお、孫詒譲の「周礼正義」はいう。
「画貴職」黼為繍采、鄭「覲礼」注亦以斧依為采繍斧形。古書多云画斧、蓋所聞之異。(中略)依者屏風之名、唯其飾為斧形。賈(公彦)以斧為屏風之名、「書」及「詩・大雅・篤公劉」孔疏説並同、誤也(「画貴職」に黼を繍采と為る、鄭「覲礼」注は亦た斧依を以て采繍斧形と為る。古書多く画斧と云う。蓋ては聞く所の異なり(中略)依は屏風の名なり、唯だ其の飾を斧形と為る、賈(公彦)斧を以て屏風の名と為る、「書」及び「詩・大雅・篤公劉」孔(唐の孔頴達を指す)疏説並んで同じ、誤りなり)。
「礼記・曲礼下」に「天子当依而立、諸侯北面而見天子曰覲(天子は依に当たりて立つ、諸侯は北面むけて天子を見ることを覲と曰う)」とある。
以上の文献は多少の相違があるが、「黼綉是古者天子之服也」「凡大朝覲、大饗射、凡封国、命諸侯、王位設黼依、」「天子当依而立」という記載はみな漢代あるいは漢以前の書物より出たから、こういう儀礼はすくなくとも周代ではすでにあったとおもわれる。言い換えれば、こんな記載は三つのポイントがある。一、天子の礼服には斧の模様がある。二、大朝覲など正式の儀式を行なうとき、天子は斧が描かれた屏風の前に立って、朝拝者に会う。三、礼服と屏風の上の斧模様は「威」つまり最高の、絶対な権威を示す。この発想は神話中の雷神の威厳性から伝えてきたのである。
というのは、前述したように、孔子の作と言われる「説卦伝」の「帝は震に出で(中略)万物は震に出づ」「説文解字」の「震は霹靂の物なり」(震は即ち雷)からわかるように、雷神は帝(上帝=天帝=最高の天神)として上古の原始民に信仰されたが、夏・商(殷)・周の王朝時代に入って、この信仰は続いて残ってきた。そこで、天子(帝・天帝の子)は自然に雷斧を権威の象徴としたのである。
さらに、帝王の「王」も雷斧と関連している。
「説文」はいう。
王、天下所帰往也、董仲舒曰、古之造文者、三画而連其中、謂之王、三者天地人也、而参通之者王也、孔子曰、一貫三為王、(中略)、古文王。(王、天下の帰往する所也、董仲舒曰く、古(いにしえ)の文を造る者は、三画して其の中を連ね、之を王と謂ふ、三なる者は天・地・人也、而して之を参通する者は王也、と、孔子曰く、一、三を貫くを 王と為すと、〔中略〕、古文の王。)
許慎に引かれた孔子と董仲舒の説とも抽象的な哲学意味に傾いているから、わかりにくいが、「皇」についての「説文」の文はわりあいにわかりやすい。
皇、大也、従自王、自、始也、始王者三皇、大君也、自讀若鼻、今俗以始生子為鼻子(皇、大也、自・王に従ふ、自は始也、始めて王たりし者は三皇なり、大いなる君也、自は讀みて鼻の若くす、今の俗に始めて生まるる子を以て鼻子と為すは是れなり)。
「雷於天地為長子(雷、天地に於いて長子と為る)」(「華陽国志」より)、「雷、陰陽薄動生物者也(雷、陰陽薄り動くて物を生じる者なり)」(「説文」より)、「乾、天也、故称乎父。坤、地也、故称乎母。震一索而得男、故謂之長男(乾は天なり、故に父と称す。坤は地なり、故に母と称す。震は一索して男を得、故に之れを長男と謂う)」(「説卦伝」)。
こんな説によると、董仲舒の「王」についての「天地人也」説は、ただ上古の神話信仰を少し改造したにすぎない。つまり「天地人也」の人は雷(=天地の長男)を替えての董仲舒式のよび方である。
「王」の甲骨文字がたくさん出土されるとともに、この文字についての論議もたくさん出てきたが、まとめてつぎのように挙げる。
1、男性器の象形説(郭沫若「釋祖妣」「郭沫若全集・考古編」)。
2、火の象形説(王国維「増訂殷虚書契考釋・中」呉大澂「字説」朱芳圃「甲骨学文字編」)。
3、斧の象形説。林・呉其昌・白川静などはこの説を持っているが、呉と白川両氏の論を挙げてみよう。
王字の本義は斧である。(中略)古代の王者は皆武力で天下を征服したから、遂に傲慢事大になって、諸侯より上の地位を持っている王と称する。王の本義は斧であるゆえ、斧の武器を以て天下を征服する。そこで天下を征服した者は王と称する。斧の象形すなわち王字、ゆえに斧を(屏風)に絵する(略)(呉其昌「金文名象疏証」周法高編「金文詁林補」)
呉の黼説は王の声義とほとんど関するところなく、斧は字の示すように父権を象徴するものであった。父の初文はその斧身をもつ像で、ときには鉞をもつ像にかかれていることもある(師寰殷銘)。王権の象徴としての鉞は、儀器であるから忍部に摩礪を加えず、器の安定を保ちうるようにしてこれを王位の前に奠置したものである(中略)殷周革命のとき、武王が黄鉞・玄鉞を揮って紂王やその諸臣を斬った話が、逸周書の克殷・世俘の諸篇に記されている。字形が玉座に奠く鉞の形であるのみならず、王鉞の音も近く、声義の上にも関連するようである。字はまた皇字の構造と相通ずるところをもっている。(白川静「説文新義」)
「王」の甲骨文字の本源についてのこの三つの説は、文字学からみて互いに独立しているらしいが、文字の発生学と進化論から考えると、「王」という甲骨文字のいろいろの象形は、ちょうど前文に言及した、玉製男性器が象徴している「回紋」(=雷神の象形)・三角形(=斧の象形)・男性器との三者一体の上古信仰に照合している。つまり、「王」の甲骨文字の発生は雷神(=火、火と雷はもともと互いに通じている)信仰から始まって、 男性社会地位の高まりや部落権力及び早期国家・王朝権力の形成とともに、「王」の甲骨文字は斧・男性器(両者とも始・祖・陽気の象徴)と関連してきた。だからこそ、古典に雷と斧を古代帝王とともに記載する例がたくさんあるのである。
附宝見大電光繞北斗権星、照耀郊野、感而二十五月、而生黄帝於寿丘(附宝は見ると、大電光北斗権星を繞りて、郊野を照耀す、故に感ず而して二十五月、而して黄帝を寿丘に生る)(「玉函山房輯佚書」輯「河図稽命微」)
黄帝置斧鉞。「内伝」曰、黄帝将伐蚩尤、玄女授帝金鉞以主、此其始也。以銅為鳳首銜刀(黄帝は斧鉞を置もうける。「内伝」曰く、黄帝将(もち)いて蚩尤を伐つ、玄女、帝に金鉞を授くるに以てを主す、此れ其の始なり。銅を以て鳳首銜刀と為る)。(陳元龍「格致鏡原」巻42引、「四庫全書・子武337」)
「逸雅」云、斧、甫也。甫、始也。(中略)鉞、豁也、所向莫敢当、前豁然破散也。(「逸雅」云う、斧、甫なり。甫、始なり。(中略)鉞、豁なり、向く所敢て当(お)うぜ莫(な)し、前に豁然たる破散すなり)(同右)偉大な史學者司馬遷の「史記」には黄帝は五帝の第一帝として記載されていた。
近年の考古調査も黄帝という人物が早期国家の元首であった事実性を提唱している。
雷斧と生殖力
中国の陜西省・甘粛省・河南省など広い地域では、子供特に男の子を生んでから、お祝いとして、近隣の人々が鍋墨をかき落としてその家の大人の顔に付ける。この風俗はいつから始まったのか、はっきりわからないが、古い伝承らしい。現在も依然と残っている。
静岡県のお花祭りにも類似の風俗がある。祭りをやっている当地の人々は互いにあるいは観客の顔に墨や味噌を付ける。これはなにを意味しているのか。
中国語の中に、「煙火旺盛」という流行りの俗語があり、多子多孫・人口旺盛の意であるが、逆に「断了煙火」すなわち子孫断絶という俗語もある。いずれも「煙火」は子孫・子供を表わす。というわけで、鍋墨づけの方式 を用いて子供を生んだ家にお祝いをする。静岡県のお花祭りは子供を生むことと直接の関係はないらしいが、終始火と関連している。日暮れどき、石鎌を使って点火儀式を行ない、祭り部屋の真ん中に置いてある鍋でお湯を沸かす。これから続いて夜の一連の行事を行なうが、夜明けどき、前述した鍋墨や味噌付けの行事を行なう。なお、夜半ごろの、赤鬼の恰好の神様(雷神の模様だとおもう)が巨斧を用いて火をかかげることと一緒に考えると、この祭りは正に火の祭りではないか。前文に言ったように、雷と火は同性、つまり雷同じく火であるから、この祭りの深層は雷神信仰と深く関連している、といってよいであろうか。当地の人の話によると、戦前は男しかこの祭りを行なわなかったが、戦後以来、女性も出てきた。男性しか行なわなかった歴史を考察する必要があるが、もしずっと前からそうならば、この祭りの雷神信仰の内性は一層確認できる。というのは、前文に触れた ように、雷神は父祖・陽性神であるから。
「煙火」の話題に戻る。中国の広い地域では、「煙火」崇拝は誕生・婚儀・葬式などにもみられる。新生児は1カ月(中国語で「満月」という)の誕生日になると、大人は新生児を抱えて家の玄関前の火堆(この儀式のためにわざわざ用意したもの)を通る。婚儀のとき、新郎新婦は玄関前の火堆を通る。葬式のとき、行列は村の出入口の火堆を通る。
雲南西双版納の克木族と布朗族は火塘と火塘用の三脚を祖先神として祭っている。彼らの家には三つの火塘があり、一つ目は家神の火塘、二つ目は父母の火塘、三つ目はご飯を作る火塘である。父母の火塘とこの火塘用の 三脚は三代近祖の象徴であるから、父母が亡くなったなら、三脚を火塘の上に倒置しなければならない。父母の一方が亡くなったなら、三脚を火塘の上に10日間倒置してから、改めて点火使用を始めることができる。子供は 結婚すると、新しい火塘を作らなければならない。なぜならば、新しい火塘は新しい人口の生まれと子孫の繁栄を意味しているから。ようするに、彼らの信仰では火塘と三脚が祖先神であり、家庭人口を繁栄させる生殖神でもある。
雲南省滄源地方の族では、春節(農暦の元日)期間、「達改」(巫師の名前)は竹を摩擦して火をつくる。そして、四つの茶碗に水を入れてこの火種を祭る。同時に村中に「土砲」(火薬装置の自家造の大砲、礼儀用)を鳴らし祝賀を表わす。祭祀終了後、村の人々は松明を挙げて巫師の家に新しい火を迎えに行く。この新しい火を自分の家に持って帰って、二つの餅を新しい火に供える。この儀式の目的は火神に祈って新年の人畜旺盛や穀物 豊饒を賜ってくれるのである。
雲南の摩梭族と普米族は、13才の男の子が袴、13才の女の子が裙(スカート)をはく成人式を古くから行なってきた。この儀式は火塘のそばで行なわねばならない。
雲南西双版納猛海県では、ある族頭領「窩朗」(名前)の家の中、火塘の上方に男性の五官と男性器を特に誇張した木製の裸人形が掛けられている。注目したいのは火塘と男性器との関連である。
確かに6世紀南北朝時期、教(拝火教ともよぶ)はペルシアから中国に伝わってきて、北魏・北斉・北周の皇帝はみな自ら教を信仰していた。隋唐兩代は東京の洛陽と西京の長安に教の祠を建てて祭祀官を設置していた。北宋末南宋初、江梁や鎮江などには教の祠もある。「東京夢華録」はいう、「教本出西域、蓋胡神也。(中略)俗以火神祠之(教は元々西域より出づ、蓋に胡神なり。(中略)俗にして火神を以て之れを祀る)。」
にもかかわらず、前述したように、教は伝入前、もっとも古い信仰である雷神同じく火神信仰は中国の広い地域に存在していた。6世紀以降の火崇拝の民俗は固有の雷神同じく火神信仰と教の火神信仰との融合かもしれないが、固有の雷神同じく火神の父祖神・陽性の生殖神という本来の性質は依然と残っている。前文のいろいろな民俗の例はその通りである。
「華陽国志」はいう。雷於天地為長子、以其万物為出入。雷二月出地、百八十日、雷出則万物出。八月入地、百八十日、雷入則万物入(雷は天地に於いて長子と為る、其の万物を以て出入りと為るなり。雷は二月地より出づ、百八十日、雷出づ則ち万物出づ。八月地に入る、百八十日、雷入る即ち万物入る)。(「芸文類聚」)
「雷出則万物出」すなわち春の雷に従って万物は芽生え、出てきたというわかりやすい意であるが、「雷入則 万物入」はなんなのか。
この古典の記載に対応しているのは、中国の春と秋両季節を婚期としての古い風俗である。
近代中国神話学と人類文化学の創始者の一人である聞一多はいう、「原始民は感応巫術原理から、夫婦性交を行なって五殻の成長を助けることができると考える。そこで、婚期を二月農事のときに行なう。(中略)もう 一つの婚期は秋すなわち一部分の穀物が種蒔のときである。故に結婚の事は春あるいは秋に行なう。(「詩経通義」「聞一多全集」)
偽家語・本命解」王粛の注に「秋季霜降、嫁娶者始于此。詩(詩経)曰「将子無怒、秋以為期」也(秋季霜降、嫁娶す者は此れより始まる。詩(詩経)曰く、「怒らないでね、秋にはきっと」となり」)とある。后漢の 張衡の「定情賦」に「秋為期兮(秋を期と為る兮)」とある。
なるほど、「雷入則万物入」の本義は雷の入地に従って、万物(人間を含む)は懐胎する時期に入るようになるのである。
古文の「■ 」(雷)真ん中の「回」について、清人段玉裁が「回生万物者也(回、万物を生じる者なり)」と注釈した(「説文解字注」)。「回」すなわち甲骨文字の雷の象形である。
陳炳良によると、「伐其条枝(其の条枝を伐る)」「伐其条肆(其の条肆を伐る)」こんな文は、「詩経」の中に男女婚姻を象徴している。例えば「小雅・小弁」の「伐木矣析薪也(木を伐るのにもをかけ、薪をさくに もを見る)」「風・七月」の「取彼斧、以伐遠揚(桑の枝切り、斧で打ち下ろし)」「風・定之方中」「伐琴瑟(やがては伐りて琴瑟とせむ)」「鄭風・将仲子」の「無折我樹杞(植えた杞を折らないで)」「斉風・ 南山」の「析薪如之何、匪斧不克(薪たき析ぎさくには何で伐る、斧でなければ伐れはせぬ)などは、みな婚姻配偶の象徴として表現したのである。(「神話・礼儀・文学」)
というのは、斧(雷斧)信仰の影響なのである。
前述したように、ニューギニア東部高地のハーゲン山近くにあるワギ谷・チムブ谷の石斧には、「祭りの斧」・「日常の斧」・「花嫁代償の斧」の三種類があり、この花嫁代償の斧は斧(雷斧)の父(男)性生殖力の信仰で あろうか。中国及び東南アジアでは、鋏を枕に入れてプレゼントとして花嫁に贈る民俗がある。この鋏は雷斧信仰の変身であろうか。いずれも早く子供を生む、多く子供を生むという祈願である、とおもう。
ギリシア神話の中には、雷斧が象徴している男性生殖力を喝破した例がある。つまり最高天神ゼウスは斧を振り動かして「黄金雨」が降った。この「黄金雨」は美人王女ダナエに妊娠・出産させた。(M.Grant「Myths of the Greeks and Romans」)
要するに、雷斧の生殖力信仰は火崇拝同じく雷神崇拝と繋っている。言い換えれば、雷神同じく火神は陽気の本源であるから、神話の進化に従って父祖神・男性生殖神の信仰と一体になってきた。雷斧は雷神の象徴として 帝王の権威を表わしていると同時に、父(男)性生殖力をも表わしている。
 
シャクシにまつわる民間信仰

シャクシのくぼみ
シャクシという用具は、手細工のきわめて簡単なものでありながら、日常生活のなかでは欠くことができないものである。この用具がいつごろ日本に現れたのかは、すでに考察不可能に近いが、九州地方では今でも「カイ 」 (例えば、「飯貝」) といっていることから見て、貝殻の自然のくぼみをシャクシに利用した時代があったことが分かるし、また北海道小樽市から東北地方の大部、新潟県、八丈島、東京都御蔵島など広い地域にわたっで、ヘラという呼び名も残っていて、平らなヘラ状の木をくりぬいたものが古くから用いられていたことも分かる。長い歴史のなかで、生活用具の移り変わりの激しい時代を迎えたシャクシは、種類もそのすくう対象の違いによって、汁用、飯用、穴シャクシ、網シャクシなどに分かれ、形態もそれに伴っていろいろと変わってきた。しかし、「杓子面」「杓子定規」 などの言葉が示しているように、昔ながらの面影はまだ十分うかがわれるし、また残ってもいるのだ。そういえば、飯を盛り付けるためのいまのシャモジは平たいものではないかという疑問が出るかもしれないが、柳田国男氏によると、昔ふうのものは背に丸味を持ち、内側が少しくぼんでいたが、ご飯がかたくなってくぼみを必要としなくなったのだという。それでも、そこにくぼみがあるという感覚で、円形ないし卵形を漆塗りにしたこともあるのだそうだ。このくぼみのあるのが日本のシャクシの本来の形態であり、またシャクシに潜められたシンボリズムの源泉でもある。
主婦権のシンボルとしてのシャクシ
シャクシが食物をすくう用具として生まれ、また使用されてきたことは言うまでもないが、それが食物分配権さらに主婦権のシンボルとされてきたのは日本独自の伝統であると思う。
日本の主婦は「シャクシ取り」 また 「ヘラ取り」 とも呼ばれている所があるように、主婦とシャクシとのつながりが特に強く、今日の 「主婦連」 の象徴であるシャモジも、このシャクシにつながっているであろう。いまでも日本では、食事のときシャクシを握り、家族に飯を盛りつけるのは主婦の役目であり、権限でもあった。したがって嫁といえども、主婦権がゆずり渡されないうちは、シャクシを握ることは許されなかった。以前は姑のいる家へ嫁入りした場合、すぐに主婦などになれるものではなかった。嫁入りの式は主婦候補者としての就任式なのであり、主婦としての訓練をうけて、一人前の主婦となるまでには、かなり永い期間が必要であった。大藤ゆき氏によれば、姑から見て、嫁に子供ができ、10年も20年も経過し、家計をまかせてももう大丈夫と判断したとき、はじめて主婦権を譲り渡した例があるが、一般には死にゆずりが多く、鎌倉市十二(じゅうに)所でも、現在70代以上の主婦はほとんど死にゆずりだという。だから姑がシャクシを握っている間は、嫁は50になっても60になっても嫁さんで、「あそこの嫁さんは」とよばれるという。
主婦権の譲渡はふつう 「シャヤクシ渡し」「シャクシを譲る」 とよばれるが、「ヘラ渡し」 とか 「イギヤ渡し」 など、地方によってさまざまな呼び方がある。この主婦権つまりシャクシを手渡しする式は、大晦日の晩に行なわれることが多いという。例えば飛騨の丹生川村では、主婦であるカカサが年老いて、もうそろそろ気楽に 余生を送ろうと決心すると、その年の除夜、家族一同がそろって年とりの膳部に向かったときを見計らって嫁に向かい、「あね、みんなの御飯盛らっしゃい」 と言う。岩手県遠野地方では、姑が鍋の蓋に大小二本のヘラを並べて持ち出し、その大きな方で炉の鈎端をたたいてから、それを鍋の上に置いて両手で嫁の方へ押しやると言う。これが 「シャクシ渡し」 の作法の一種であり、姑が嫁に主婦権を譲り渡したことの宣言である。
この主婦権の譲渡ということは、女の一生にとって重大な転機である。シャクシを譲った姑はもはや家族の一員にすぎず、嫁の囲炉裏での座席は、この日から末座のキジリ (木尻) からカカザ (嬶座) に昇進し、同時に寝室も舅姑のへやを譲られるのが普通である。彼女はこの日以後、家族からも村人からも 「主婦」 の名をもって呼ばれ、またこのとき初めて生家から彼女の荷物が運び込まれたり、穀物倉や土蔵の鍵が彼女の自由になるという例も多い。しかし彼女が負わされる主婦の責任なるものも、決して容易なものではない。日々の献立や1年を通じての主食副食物のあんばいはもとより、家をめぐる村づきあい・近所づきあい・親戚づきあい・先祖祀り・冠婚葬祭・年中行事・講ごとなどと、全生活の多様な仕事もまた、主婦のシャクシによってさばかれ、まさに家政の名にふさわしい女の一生の大事業なのである。主婦権または主婦権の譲渡式に類したものは中国やヨーロッパにもあるが、しかし、そのシンボルはシャクシではなく鍵である。もっとも、食物を盛り付けたり運んだりする仕事も主婦に限ったことではないから、シャクシが主婦権のシンボルになるはずもないであろう。中国では、昔から主婦は「帯鏑匙的(ダイヤオシーダ)」 (鍵を持っている人) とも呼ばれているように、「鍵」 が主婦の地位を象徴してきた。その鍵とは倉や金箱や箪笥などの鍵であって、鍵を持つことは家事 (家政、家務)を掌ることで、重要な存在である。家長である夫が 「当家的(ダンチアダ)」 とよばれるほど一家のボスであるが、しかし日常家事や金銭の出し入れなどに関しては、鍵を持つている妻(主婦)の顔をうかがわなければならない場合が多い。古来、中国でも妻たるものが、同時に主婦の地位を得るとは限らない。夫の家に主婦のない場合は、新婦は主婦となり自ら鍵を預かることにもなれるが、大家族の場合には姑や嫂(夫の兄の嫁) が主婦である、そして、鍵を渡すことは家事を渡すことで、いつ嫁に鍵を渡すかはその姑の自由である。いつ嫁に鍵を渡してもいいし、いつまでも渡さなくても、社会的に非難されることはない。しかし、いったん鍵を嫁に渡した姑は、金箱ももちろん引渡し、日常家事についての指図もしなくなる。したがって、家長である夫が死んで40歳ぐらいの子があっても、鍵を嫁に渡さず自ら家長の責務と家事を一身にする主婦の例が必ずしも少なくはない。
ヨーロッパでも古くから鍵を主婦権のシンボルとしてきた。石田英一郎氏によれば、ヨーロッパ人の間では、新婦は鍵を与えられ、離婚された女は鍵の返還が要求されるのであった。夫が死んだとき、妻が鍵をその屍の上に置くと、それは夫の遺産に対する権利の放棄を意味し、またそれに関する義務からも解放されたことになるという。鍵は夫に従属する妻のシンボルであって、主婦の地位の高さを示すものではなかった。ロシアの古代法では、ある人間の身に鍵を結びつけることは、彼を奴隷とすることであった。奴隷は、主人の権力の下にはいると、主人のとびらに鍵をかける役目を負わなければならない。チエーホフの「桜の園」でも、女地主の養女ワーリャはいつも腰に鍵束をさげているのであるが、桜の園が売られたと聞いたとたん、腰から鍵をとりはずし客間の床に投げつけて去った。すると、桜の園の買主で、かつては農奴の子であったロバーヒンは「あの人は鍵を投げつけて行きましたな、もうここの主婦ではないというわけなのですな」 といい、拾った鍵を鳴らした。有名なグリムなども、「主婦が鍵を身のまわりにつけるヨーロッパの風習は、夫への隷属を意味したものかもしれない」と述ベている。また、マルタ、ノートブルガおよびジータといった聖人は鍵束を携えているが、かれらは 家政婦と奉公人の守護聖人なのであった。
シャクシにしろ鍵にしろ、ともに主婦権のシンボルであることには変わりがないが、しかしそれをめぐる内容には雲泥の差がある。日本でも中国でも家長は男性たる夫であることには変わりがないが、しかし日本の場合は、主婦のことを、北陸・東北地方でエヌシ、越後でイノシ、信州でオエヌシ、九州南部から沖縄諸島にかけてはイエトウジ (「トウジ=刀自」は「頭」の意味) ともいうように、「家主」 を意味することばで呼ばれているのを見れば、シャクシを持つ主婦が奴隷どころか、その権能が想像以上に強かった時代の記憶が呼び起こされ、ある種の神秘感を持たざるを得ないのである。もっとも、狂言「花子」において初出とされる 「山の神」 ということばが妻を指すように、妻は、日本では古くから強い存在でもあった。妻を意味する山の神との関係から考えてみると、シャクシにはもっと厳粛な意味が含まれているかもしれない。
山の神とシャクシ
そもそも主婦に喩えられている山の神とは何であろうか。いろいろな民俗資料によると、山の神は、日本の民間信仰においてほぼ全国的に伝承されている守護神である。里との間を往復し、春になると里に降りてきて田の神となって稲の成育をつかさどり、秋仕舞いがすむと山に帰って休む。山の神のこのような移動性は日本に広くみられる去来信仰を特徴としている。すなわち、山や田、水は他界で、人の死後その霊魂の棲むところである。死霊が時間を経て祖霊を神霊へと昇華融合し、他界と里との間を往来して子孫の生活を助けたり守ったりする。このようなものにまた河童という水の神がある。カワワロ(河童) は夏の間は川におりて水の神となり、冬の間 は山にあがってヤマワロ (山童) となる。河童は、畑を荒らしまわったりなど悪戯をするので、妖怪におちぶれているのだが、田植えや田の草取りの手伝いとか、椀貸し伝説のように人に椀や箸を貸し与えることから見れば、やはり福を人々に授ける守護神の姿である。また山の神を男神とするところ、夫婦神とするところもあるが、女性神とする分布が最も広くかつ濃い。東日本から中部日本にかけては、山の神の別称に「十二山の神」 があり、略して 「十二様」 ともいわれて、1年に12人の子供を産む女神だからとする説や、農事に深い関係のある季節を司る神だからとする説があるように、いずれも、豊穣多産が山の神と結びつけられている。
山の神・田の神の性格を同時に持って移動し、生産や出産という産霊神の機能を備え、農村の守護神でもある 「山の神」 は、家庭において、一家の経済をきりまわし、生産と消費をはかり、食物を分配する 「かしら」 である母=主婦の性格と似ているのではないだろうか。このような山の神の性格によく似ており、かつ互いに転換しうる神 (妖怪ともいわれるが) に、山姥がある。多くの伝承によると、この山姥は不気味な一面もあるが、もともとは山の神の巫女で、神を抱き守り育てる役であったが、後にはその妻となったり山の神そのものになったりしたという。山姥はまた、たくさんの神童・若子 (普通は12人。−山姥を祭るときには、遠くに坐った子にもとどくようにと長い箸を馳走と共に供える)の母であり、同時に財宝や食物などを (ときにはシャクシをもって) 自在に出す力を持っていて、常に珍しい福分を人々に与える。こうなると、家庭の主婦の役割は、まさに山姥と共通しており、大きな家族を抱え、見守り、シャクシ (箸と同じ性質のもの) をもって福分を分配することによって、山全体の主婦権を握っている山の神の権能を代行している「かみ」 と類似しているのではあるまいか。主婦がヤマノカミと呼ばれるゆえんは、ここにこそあるのではないかと、私は考える。もっとも、日本では、古くから他人の妻や、料理屋・茶屋の女主人をも「おかみ」 (御神) と呼んでいる。
さて、焦点を山の神とシャクシとの関係に当てることにしよう。このことについては、柳田国男氏の集めた豊富な民俗資料があり、以下主にこの資料を利用して述べることにする。柳田氏によれば、多くの地域において山の神にシャクシが納められ、逆に山の神を祀る神社では、子育てのお守りとして女性にシャクシを配布しているという。また、美濃の土岐郡のある村では、ある旧家で毎年長さ一丈もある産衣を仕立てて山の神に献納すると、そのお礼に大きなシャクシをもらい、それを家に伝えたそうである。薩摩地方に多い田の神の石像も右手にシャクシを持っているし、また栃木県足利市五十部の水使神社の御影では、婦人が田祭で特別な役割を果たすシャクシと飯櫃を持っている。山の神に供えるものとしてはオコゼが有名であるが、菅江真澄のスケッチしたように矢やシャクシなどを挿した弓を高い木に結びつけている例もある。ところで、どうして主婦を山の神というのであろうか。「山の神が持つほどの杓子なるがゆえに、これを持つことが人間の山の神をも重からしめたのではなかろうか」 という柳田氏の考えに注目されたい。
シャクシに関係を持っている神は山の神に限ったのではない。駿河・遠江の間の三保松原に杓文字神社があり、これには村民がシャクシを奉納するし、野州足利郡山前村の山林に「御尺神(おしゃくしん)」 という小寺 があり、シャクシを報賽としている。上州新田郡笠懸村のオシャクシサマも同じようで、土地の者は社頭のシャ クシを拝借して帰り、報賽には別に新しい一個を添えて返すという。また、奈良の春日の大黒様の場合では、小児の夜泣きを止める願掛けにまず社頭から一個のシャクシを借りて帰り、これにその子の名と年とを書いて戸口に打ち付けておき、効験のあった場合に新しいものを添えて御礼に参るのである。このために社の付近には、シャクシを売る屋台までもあるという。さらに意味深い例として、中山道碓氷峠の熊野権現と箱根の杓子町である。前者はちょうど上信二州の境目にあり、一社にして両県の県社であって、往来の両側に社家町が立ち続き、ここで大小のシャクシを売っていた。後者も同じで、相模と伊豆の境山に接し、ずっと昔から山杓子を細工して箱根権現の坊中に売って生計となし、修験者らはそのシャクシを檀家への配札に添えて送ったという。話がここまでくればさらにいくらか判然とするように、シャクシは山の神だけでなく、他の多くの神々と関係を持ち、拝借されたり配布されたりして人々を守るという守護神のように見えるので、何か超自然的・呪的な力がその中に含まれているのではないだろうかと思わざるを得ない。
さらに、シャクシが宗教的な性格をもつ儀式や祝事と結びついている例を見ることにしよう。以下も多くは柳田氏の集めた資料によるが、滋賀県犬上郡多賀町の多賀大社では、その4月午日に行なわれる大祭のときに大きなシャクシを白い布でまきつけて、馬に乗っている神官のすぐ後ろから行列をひきずっていく。ここでも人々が 「オタマジャクシ」 と呼んでいるシャクシを神社のすぐわきで奉納物として売っているのである。東京芝の愛宕神社では1月24日に、また三重県津市の同じく愛宕神社では2月1日に行なわれる祭典においては、毘沙門天の使者という武士が大きなシャクシを携え行列の中心をなしていた。岐阜県の美江寺が旧正月の大晦日に行なう祭りでも、人形に大きなシャクシを持たせて山車に載せて牽きあるき、そのシャクシの上向き、下向きという動きから年内の雨量を予測するのである。山の神が春の初めに里に下って田の神になるという俗信があるから、これらの行事も、その年の豊作の予祝と結びついているのは明らかであろう。
宗教儀礼的な行事のなかではまた、例えば次のような例も柳田氏によって報告されている。エビス、大黒、鬼などの面を被って踊る面踊りの行列に、主婦たちはよく山の神の面をつけシャクシを持って出て乱舞をくりひろげるという。また山形県東田川郡羽黒山の羽黒神社で行なわれる大晦日の年寵もりには、「しゃもじゃ節」を歌 い玉依姫神を讃えてよろこばせるのであるが、おそらくこれにもシャクシ舞が伴っていると思われる。ほかにも まだ類似資料は多いが、いずれもシャクシのもつ呪的性格と神、女性、農耕との関係を示しているのである。
そもそも、日本の民俗宗教においてこれほど重要な役割を演じているシャクシはいったい何ものであろうか。私は、シャクシが「おタマ」 とか 「おタマジャクシ」 などとも呼ばれる名称に、シャクシの呪的な機能の基盤があるのではないかと思う。「タマ」 は、「霊」 と音通で、「魂」の意味が読み取れるが、これは古い日本語であり、霊魂のレイと魂のタマとの両者を結びつけていると宮田登氏が述べている。タマそのものは目には見えないが、モノに依り憑いて具体的に顕在化してくる。そのタマののりうつったモノは多くはカミとなるが、人間に脅威を与えるアラミタマのような怨霊になる場合もある。これに関しては、たとえば室町時代に作られた「付喪神(つくもがみ)絵巻」という絵巻には、歳末の煤払いで捨てられた古器物が妖怪になって、無下に捨てた人間どもに復讐したことが描かれている。これはつまり器物に宿っているタマが起こした崇りであり、それを避けるには祭って鎮撫したりするための諸種の儀式が必要となる。要するに、シャクシというモノは 「おタマ」「おタマジャクシ」 と呼ばれるゆえんに、「霊魂」 ののりうつっている存在であると日本人が古くから認識してきた のではなかろうか。そうであればこそ、ここではじめて神と結びつくことができるわけである。
また、シャクシも、タマも、ともに芸者あるいは娼婦など客商売の女をいう言葉にもなっている。したがって、この二語が意味のうえで相通じている証しとなりうるであろうし、またこれによって、女性とも結びつけることができるであろう。もっとも、さきの例にも挙げた玉依姫は神霊が依り憑くの意の女性であるし、シャクシとも関係のある神である。柳田氏は、玉依姫については、「タマとは固より神の霊である。ヨルとは即ち其霊の人間に憑くことで、神に奉仕する巫女尸童が超人間の言葉を為すだけでも斯く名づくることを得たのに、昔は其上に具体化したる霊の力が示され、其果実の出現を以て愈々依坐(よりまし) の人に遠く、神に近きことを證據立て たのである」と述べている。「タマ」 である玉依姫が巫女であり神であるように、「タマ」であるシャクシもまた用具としての性質をもっているばかりでなく、文字どおり 「オタマジャクシ」 として神霊が依り憑いている神聖な存在ではなかろうか。そうであれば、シャクシをもつ主婦も、巫女と同じような、神に近づける神聖な存在になりうるであろう。したがって、主婦 (正確には女性というべきだが) が 「山の神」 と呼ばれるゆえんである。
シャクシとヒシャクの呪的機能
シャクシが神の霊の宿りとして、不思議な呪的なはたらきをする以上、これにまつわる俗信は数多いはずである。これについて述べる前に、形も役割もシャクシに非常に似ていて、また俗信までもほとんどシャクシと区別のつかないヒシャクについても少し述べておこう。
シャクシをめぐる民間信仰で、よく出てくるのは病気から人を守るという話である。すでに、小児の夜泣きを止める願掛けとして神社からシャクシを一個借りてきて、それにその子の名と年を書き戸口に打ち付けておくという例を挙げたが、同じように、多くの地域で 「くつめき (百日咳) 御免」 と書き込んであるシャクシが戸口にはってあるのが見られるのは、それほど昔のことでもないそうである。これには、子供の性別や年齢だけを書き、「くつめき御免」の願いは暗示されるだけで省略されていたこともある。茨城県土浦市近郊では、家の天井にも シャクシをうちつけているし、九州の佐賀県では 「チゴツキ」と呼ばれる病気にかかると、シャクシに病人の顔を描き道の脇に立てて回復を祈る。また、紀州粉河の杓薬師では子供の皮膚病のまじないにシャクシに字を書いて堂内に納めたり、石城平辺の流行眼病除けのまじないに、ただシャクシを炉の鈎に括り付けておいたりする。さらに福井県南條郡の湯の尾峠で売られている疱瘡除けの 「孫杓子」 も知られているし、信州戸隠では年の暮れに札講中に向かって一本ずつのシャクシを配り、これを受けた家々ではそのシャクシを大戸に打ち付けて正月の護符とすることも知られている。民俗社会においては、家々の門、村はずれの辻・橋や坂・峠などの交通の要衝はよく内/外、生/死、現世/他界といった二つの世界の境界とされ、二つの世界間の空隙で神霊も妖怪もそこに浮遊していると信じられている。したがって、神の送り迎えはもちろん、豆まきのように災いや穢れを追い払うのもよくこのところで行われるわけである。このような境界でさかんにシャクシが売られたり配布されたりするのは、またシャクシが病気除けなどにとって何か特別の機能を持っているからに違いない、と思われる。
さらに、シャクシ (ヒシャクも含まれる)は生命の誕生を守護したり予告したりすることができるとも信じられている。例えば、京都などでシャクシが折れたり毀れたりすると、近親に子供の産まれる前兆と見るし、ある地方では、赤ちゃんに産声をあげさせる手段として、シャクシであおぐ習慣もある。駿州三穂松原の子安神神社では、底を抜いたヒシャクを神社の報賽に献じると安産の祈願になり、安産の願ほどきにシャクシの底を抜いて納め、シャクシの破損をもって身内に子の産まれる前兆とする習わしがあるが、これも同じ思想である。これは類感呪術に類似するものであるが、シャクシの呪的機能で一つの魂を解放するのである。女がシャクシとかヒシャクで水を飲めば、ヒシャクのような子とか、口の大きな子とか、あるいはヒシャクとかカエルとかを産むという俗信もあちこちに伝えられており、ここでもシャクシとお産との強いつながりが感取できるであろう。
魂を解放する、あるいは救出するのにシャクシを使った例として、「鬼の子小綱」という昔話がある。娘が鬼にさらわれる。爺が探しに行き、鬼の子の手引きで鬼の家に行く。隠れていると鬼が帰ってきて、人臭いと言い、発見される。娘と鬼の子の機転によつて危機をのがれ、すきを見て舟で逃げる。追ってきた鬼は海水を飲んで舟を吸い寄せる。鬼の子が母の尻をまくって、シャクシで叩くと鬼は笑いだし海水を吐き出したので、無事に逃げ帰ることができたという話である。これは明らかに冥界である鬼の家からの呪的脱出譚だが、脱出の成功には女性性器の邪悪をさえぎる力と呪具としてのシャクシの力が大きな役割を果たしている。一方、日本の民間信仰のなかで、霊を鎮めるのにシャクシも重要な役割を演じている。
これについては「船幽霊」 を鎮める風習にまず関心を注ぐ必要がある。海で遭難した漁師たちの亡霊が海上で、船や島、あるいは山などに化して出現すると広く信じられている。この亡霊は、仲間を引き込もうとするために、往来の船さえ見ればヒシャクを貸せヒシャクを貸せと叫んでやまず、これを貸せばたちまち水を吸い込んでその船を沈めてしまう。したがって、かねて用意した底抜けのヒシャクを海中に投げてその霊をだまして鎮めるという。ここでも底抜きつまり穴開けが強調されているのは興味ぶかい。溺死者の霊を鎮めるために与えてやったヒシャクは、霊の 「棲み家」 になるにちがいないと思われる。その証拠として、「足利郡福居などで、死者のあった家では寵又は笊を座敷中転がし、其に杓子を附けて野中の道に棄てる」 とか、盆暮祖霊を送る日にヒシャクを供えると伝えているところがあり、いずれも、シャクシ・ヒシャクを魂の宿りとする考えが含まれているにちがいないのである。
とはいえ、死霊を怖れこれを駆逐した昔の魂祭が、送るよりも迎える方に重きをおくようになってきたのと同じように、シャクシまたはヒシャクで霊を送る習わしより、迎える習わしの方が広く分布しているようである。桂井和男氏の収集した資料によると、室戸市佐喜浜町では古く旧盆の13日の夕方浜辺に出てシキミや盆花をさした花筒二本を左右に立て、たいまつをたき線香を供え、小形の竹ヒシャクで上下に招き、霊を呼んでわが家に迎えてくるというし、土佐清水市貝の川でもやはり旧盆13日の夕方、水辺にショウライ(精霊) さんを迎えに 出かける。そこで迎え火をたきながら、「清次お爺さん、はよこんせやぁ」「おちか婆さん、はよこんせやぁ」 と霊たちの名を呼んで、手製の小さい竹ヒシャクで招くという。現在ではたぶんこういう風景はもう見られないであろうが、お盆の先祖祭りに、ヒシャクで水を汲んで墓石などにかけているのは、そのなごりではないだろうか。
死んだ人の霊を迎えるのとは逆に、死霊にとりつかれないように生きている人の魂を呼び留めるのにもヒシャクが用いられている。例えば、高知県の海岸では、死者のあった家は、死者と血縁のある女たちが三日目の仕上げの日を待って、死者の衣類などを海岸に運び、洗濯をするのであるが、その女たちのもどる時刻を待って、別の女が一人ヒシャクをかついで迎えに出かけ、女たちの姿を見かけると、帰る女たちをヒシャクで招く。土佐清水市とか室戸市とか安芸市などのところどころにもこれと同じような風習が見られ、また使用した後は、ヒシャクをそのままか或いは柄を抜いて川などに棄てるという。この場合は、喪中の女たちの魂を、水辺にさまよう精霊の類の誘いから、呼び招くための呪法としてヒシャクを使用したものであろう。
シャクシとかヒシャクに、このような呪的機能があるためであろうか、全国のいたるところで、シャクシで人を招くのを忌むという俗信が伝えられている。しかし、娼婦や遊女たちは、客引きの手段にこれを用いる。客の少ない夜、彼女たちがひそかにシャクシを携えて四つ辻に行き、これで四方を「招く」 と客が来ると信じられていたからである。いっぽう、シャクシで招かれた者は3年以内に死ぬと言われているところもある。これはまったく不思議なまじないだとしか言えない。もっとも、娼婦とか遊女などは「シャクシ」 とか 「ヒシャク」 とも呼ばれていたように、彼女たち自身も 「たま」 の存在だと思えば、それほど不思議なことでもない。
日常生活においても、シャクシの使用をめぐる禁忌はまだ多くある。例えば、シャクシをなめたり、直かに口に触れたりすると、雨が降ったり、嫁入りの時に犬が吠えたり、病気になったり、「杓子面」 になったりするというので忌まれている。シャクシを飯匙に使う時にも、正しい使用法をめぐるいくつものきまりがある。飯をシャクシの背で盛ると継親にかかると言われるし、また飯の盛りつけは1回の盛りきりにしてはならず、必ず二、三回で盛りつけなければならない。ヒシャクについても同じであり、例えば手のひらを下にして柄を握るのは逆手と呼ばれ、それで水を入れたりするのが忌みきらわれ、またその水は絶対に飲んではならないという。さらに、同年者の死報を聞いた時、ヒシャクに水を汲み柄の方に水を流して飲むとか、葬式のとき左ヒシャクを使うとかいうタブーがいまでも根強く残っている。これらはいずれも、シャクシ・ヒシャクに宿る超自然力による崇りについての戒めであり、またその超自然力をめぐる諸観念のあらわれとみなすことができるであろう。
シャクシをめぐるモチーフの輪
これまでは、シャクシにまつわる民間信仰の諸相について、民俗学また社会学の角度からまとめて述べてきたが、以下は、そのシャクシにかかわるモチーフの相互の関係について分析しつつ、シャクシの性格をまとめてみよう。
(A) シャクシについてのモチーフが、すべてと言っていいほど女性に強い関係をもっていることは、まず注目すべきであうう。―シャクシ取りと呼ばれる主婦、シャクシ・ヒシャクと呼ばれる娼婦・遊女、さらには、多産を促し、安産を守り、病気を追い払い、霊を呼び迎えるなどといつた祈願儀式や祭祀活動まで、シャクシと女性とは広くかつ強く結びついている。そこで考えられるのは、例えば、安産の祈願にシャクシの底を抜いたり、シャクシ・ヒシャクの正しい使用法に背いたら変なお産になったり不吉なことにあたったりするという俗信があるように、シャクシそのものも女性性器である貝殻のシンボリズムと同源で、つまりそのくぼみをもって女性性器の呪的な力を分有するのである。したがって、シャクシは卓越したシャーマンのような女性なのであり、そこには女性原理に基づく汲めども尽きぬ泉のような不思議な創造力とエネルギーが持ち合わせているのである。
(B) 次に見られるのは女性と神との関係であろう。すでに述べたように、主婦は 「山の神」 とも 「おかみ」 とも呼ばれる。山の神は女性的でまた生産や出産という産霊神の性格を具えており、女性の本質と基本的に相通じる。山の神だけでなく、女性はシャクシを媒介として広く神々とかかわり、重要な役割を演じてきた。なぜなら、柳田氏の玉依姫についての論断からもわかるように、祭政時代においては親しく神に仕え祭事を扱ったのが女性に限られ、このような女性は彼女の仕える神の霊に依り憑かれ、また神の妻となって神の御子を産むまでに神聖視されていた。娼婦だけでなく、ふつうの女性たちも「タマ」 「オタマ」 「タマコ」 といった名前によって、神や神の妻に結びつけられていることがあり、多産・安産に関する祈願儀式における女性のイメージこそは、まさに神の妻あるいは神そのものの存在なのであった。
(C) さらに、シャクシと神との関係であるが、シャクシに関するさまざまな民間信仰に神が登場している。神がシャクシを持つ、神社にシャクシを奉納物として納めたる、神社がお守りとしてシャクシを配布する、あるいは神社の祭りなどにシャクシが持ち出されるなど。シャクシが「オタマジャクシ」 とか 「オタマ」 とも呼ばれるように、それ自身が神霊の憑いた神の分霊かあるいは神そのもののように、不思議な超自然的な呪力を有しているのである。祖霊の送り迎え、死霊の鎮めなどにおいては神は表面にこそ現われなかったが、しかし祖先がすなわち神であるという説から見ればシャクシそのものが神の霊の宿りであり、神ですらあるといえるであろう。
 かくて、シャクシは女性であり神であり、女性は神でありシャクシであり、神はシャクシであり女性であると言うことができよう。つまり、シャクシと女性と神との三者は同質のもので、図解のように一つの輪のような循環的関係にある。
この図解を通して分かるように、三者のいずれにも共通の要素として 「タマ」 が浮かびあがる。つまり、
    ┌─ Aシャクシ--オタマ・オタマジヤクシ   
タマ─┼─ B女−タマ (俗語として女。例 「いいタマだ」)
     └─ C山の神−オタマ (霊魂)
タマ (霊魂)の宿ったシャクシに具わったさまざまな超自然的な機能は、女性にも神にも、具わっているのである。したがって、女性はシャクシによる主婦権の譲渡式によって、神霊を受け取り、主婦=神に昇格できるわけである。
むすび −シャクシとヒョウタン−
ところで、ほかのなにものでなく、シャクシだけにこんな不思議なかつ超自然的な呪力があるのはどうしてなのであろうか。この問題を究明するには、まずシャクシ・ヒシャクの形態から分析しなければならないであろう。
C・アウエハントは 「ヒシャク、匙、シャモジなどの意味をもつ漢字の「杓」(音読みシャク) は、同じ意味をもつ日本語の 「ヒサコ」 (発音通りに比左古と書かれた)に相当する字として、早くから日本語で使われるようになった……。この形は明らかにそれ (杓子) がヒサゴに起源をもつことを示している」 といい、「私はまず杓子の第二の形である 「柄杓」、特にヒョウタンの形と結びつく水柄杓に注意を向けたい。この場合にも、音読みの 「杓」 が一般に採り入れられたため、この語の派生形(ヒサコ、ヒサゴ、ヒシャク) は必要以上に複雑になってしまった。古い日本語のヒサコの漢字の杓が充てられた経緯が忘れられてしまい、厳密に言えば、接頭語の<ヒ>は余計になったのであるが、(ヒサゴ−ヒシャクの) 発音の上での類似性を保つためにこの<ヒ>が杓の前におかれ、さらにこれに漢字が充てられたのである」と語源的に述べたが、要するに細長いヒサゴを縦にたち割ればシャクシまたはヒシャクになるとまとめてもよさそうである。もっぱら湯、水などを汲む用具のヒシャク (柄杓) の発音について言えば、「杓」 の音読みとヒサコの音がまざったものとか、水の意の女房詞オヒ ヤをさぐる意からできたものとかと言われるが、いずれも各地の方言でヒサク・ヒサグ・フシャグ・フサグなどという (小学館「日本国語大辞典」)ように、ヒシャクはヒサコとフクベとのつながりが非常に強いことが明確である。
語源から見ても、形態から見ても、人類はむかしからヒョウタン (日本語ではその形によつてヒョウタン、ユウガオ、ヒサコ、フクベなどに分けて呼ぶが)を割って、そのくぼみをシャクシ、ヒシャクなどに利用したに違いないし、また現在でも世界のいたるところで使われているのも事実である。日本では、宮島のシャクシに代表されるように確かにヘラ状の木製のシャクシを長く使ってきたが、しかし、弥生時代のものと判定された、ヒョウタンを縦に切り、下の半球形にふくらんだ部分の中身をくりぬいたシャクシが群馬県日高遺跡から発見されたので、やはり加工にあまり技術の要らないヒョウタンのほうが木製のものより先だと思われる。今のシャクシ、特に飯を盛るシャクシは、木製、竹製ないし合成樹脂製のものであったり、また必要によっては形も平たいものであるが、むかしは、頭の部分がくぼんで背が丸く、まさにヒサコを縦にたち割った形であった。ヒシャクにしても、今は頭の部分に差し抜きの柄がついているのが普通であるが、これは例えば、高いところから水を汲むための便利をはかった結果であろう。柄のついていない家庭用のヒシャクを見れば、これは 「首のあるフクベ」 に由来する形に違いない。ヒサコ、フクベ=ヒョウタンを縦に割ると、その形からして自然に柄の部分ができるのである。この発展過程を考えるとき、シャクシとヒシャクが民間信仰のなかにおいて果たしている不思議な役割と、もっている超自然的な呪力の親元が求められることになる。
ヒョウタンは、ウリ科の植物の一つとして少なくとも紀元前一万年前から人類の生活に深く結びついてきたことが、現在の考古学の研究によって分かっている。この長い歴史のあいだ、ヒョウタンの実は、食用・薬用として、運搬道具・生活容器とか用具・農具・漁具・服飾品・楽器などとして広く利用されてきた。瓜わたを抜きとったその内部が洞穴や子宮と同じように、閉鎖的でうつろな空間であり、なればこそ、それは何かを生み出す自然の霊力を有し、同時に何かを容れる容器としての文化的機能をも持つ。したがってこのヒョウタンをモチーフとする神話や伝説は世界中くまなく分布し、儀式や儀礼、呪術などにも広くかかわっているのである。ヒョウタンから生み出されたもので特に有名なのは、中国西南の少数民族のあいだに伝わる犬祖神話に出ている盤瓠であろう。かれがヒョウタンの中で犬に生まれ変わったため、かれを先祖としているリー族はいまだに祖霊としてヒョウタンを供えて祀っている。中国の人類再造神話に出た伏羲と女[カ]の兄妹もヒョウタンの化身とされているし、朝鮮の始祖・赫居世も卵から生まれたがその卵がヒョウタンのようだったので、かれは朴 (パク、ヒョウタンのこと) を姓とした。日本の昔話で、例えば 「金七孫七」 (岩手県) にはヒョウタンから童が生まれて、ヒョウタンのなかからご馳走を取り出したり、「雀報恩の事」 にはヒョウタンの中から米とか万の虫が出たりするような不思議な話が数え切れないほどある。ヒョウタンによって収められるものには、「西遊記」第33回から35回におけると金角・銀角との戦いで、ヒョウタンの中に吸い込まれる孫悟空が有名であるが、それは、石から生まれた孫悟空が五行山の岩のすきまに閉じこめられ再生の機を待ったモチーフと同様に、ヒョウタンもまた再生のための洞窟だったからである。もともとヒョウタンの中に収めてある霊力が顯霊し、ヒョウタン二個で河童を、三個で大蛇を鎮めたり (「日本書記」)、ヒョウタンと針で娘を助けたり (「蛙報恩」)、あるいは 「鯰絵」 にみられるようにヒョウタンで地震鯰を押さえたりするような話が多くあるように、呪的生殖力を発揮して何かを生み出すほうが、何かを収めるほうより重要視されているらしい。
実際、このような不思議な閉じられた 「うつぼ」 の内部世界から出発して、ヒョウタンの同義語たるフクベを もって腹部または女性性器ということもある (「日本国語大辞典」)。もっとも、この場合は、腹部のフクブとの音の近似性から生まれた盗賊の隠語である。マリ共和国バンバラ族の社会では、ヒョウタンは重要な栽培植物であると同時に、生活に欠かせないいろいろな容器、器具の源であるが、その容器、器具がひび割れたり壊れたりした場合つくろうのが女の仕事で、割れ目のはいったヒョウタンをつくろう行為が、女性の失われた処女膜を回復する行為と見なされている。中国雲南辺境にあるワア族のあいだでは、ある「シガンリ」 という洞窟を人類の発祥地として拝むが、「シガンリ」 の 「シガン」 とはヒョウタンであると同時に女性 の性器の意味でもあるので、「シガンリ」崇拝はすなわち女性性器崇拝である。さきに述べた洞窟とヒョウタンの近似性がここにもよくあらわれている。こうして見れば、ヒョウタンにはどれほど生命が潜められているかがわかる。
さらに、日本の民間信仰ではヒョウタンは霊の容れものであると普遍的に認められている。例えば遠野地方では、死者の魂を家に迎えてくる日といわれる盆の魂迎えに、いわゆる新仏の墓の上にヒョウタンを置いて新仏の身代わりにしてやる。また、丹後峰山近くの四つの神社では、「ささはやし」 とよばれる8月26日の儀式で、長いヒョウタンを笹で包み竹に差し、赤青白の紙でその竹を包み、七八人の子供の太鼓の囃しのなかでこれを持って練り歩いたという。これは外形が人に近いために紙の衣を着せ、内部が 「うつぼ」 なるために神霊が宿ると見たものであるらしい。この「うつぼ」 のヒョウタンが首とか腰にさげられ、その造花が相撲の力士 につけられるのは、それをお守りにしているに違いない。
ヒョウタンに秘められているシンボリズムについて論述しようとしたら膨大な量になり、ここで展開することができないし、また必要もないので、この程度で止めておくが、しかしこれだけでも、ヒョウタンがいかに超自然的な霊力を有するか、またその霊力がいかにシャクシのそれと一脈同然であるかが分かるだろうと思う。いうまでもなく、ヒョウタンの霊力はその内部の「うつろ」性つまり「うつぼ」性を源とするが、「ヒョウタンの子」としてのシャクシ(ヒシャクも同じ) にももちろんその「うつろ」性なり「うつぼ」性を持たなければならない。うつろ舟に乗つて異界から訪れるのも女であった。それがシャクシの「くぼみ」である。その「くぼみ」こそ、ヒョウタンの霊力を宿し、またその役割を担って演じているのである。

「小石」(さざれいし)と神仏

 

一升庚申(いっしょうこうしん・桐生梅田2丁目)
米一升、酒一升を供え、貧しい者は小石十個でもよい、願かけすればご利益をくださる。
桐生市立梅田中学校を右前方に見るあたりを梅田町の人々は「薬師前」と呼ぶ。その薬師前に西側の山頂へ向けて長々と石段がのびる風景が見られる、護国神社である。 梅田南小の児童が、いつかこの石段の段数を数えたことがある。365段とも366段ともいい。数は一致しなかったが、とにかく空に向かって長く遠く続く石段である。 石段脇の常夜燈近くに大きな庚申塔が建つ、2.4mを超える巨大な自然石で、実に雄大で風格のある「庚申塔」の三文字が、塔身いっぱいに薬研彫りされている。地元の人々は「一升庚申」の愛称をこの塔に贈っている。大きな文字それぞれの容積が一升(1.8l)あるからだ。
一升庚申は、昔からネズミの駆除と商売繁盛にご利益があって、ひところは養蚕家や商家の人々が列をなし、整理のために村役人が出張ったと伝えられている。祈願には、愛称に因んで米一升またはお酒一升を供えるのがならわしだとされる。米一升分の粉で作った団子でもよいと言う風習もあった。米や酒を供える事のできない祈願者には、小石10個を塔の前に供えさせる事によって、ご利益を与えたと言う、粋なはからいもしただけに、一升庚申には人の波が絶えることがなかった。
このため、塔の周辺は霊験あらたかな土地とされ、たとえ守護、地頭であっても、馬に乗ったままで塔の前を通りすぎることを禁じる「下馬の地」とされたのである。
一升庚申がこのように霊験あらたかなのは、塔の文字が前関白近衛竜山(前久、まえひさ)公の書によるものだからと、地元には伝えられている。竜山公は、永録3年(1560)10月に桐生城に入城していると史書にみられる。越後の上杉謙信と桐生家の和議が成立した後の頃である。竜山公が、一升庚申の文字を書いたとすれば、この時をおいて他にはない。
しかし識者の間では「伝承の域を出ない」とされ、とりあわない。竜山公書が事実ならば、庚申信仰の通説が根底からくつがえされてしまうからである。塔には造立年が刻まれていないが、周囲の石造物の銘が寛政となっていることを見ても、塔の造立はその年代に落ち着くのではなかろうか。永録3年が庚申の年であることも、不思議な因縁ではある。
塔の前に立つと、小石十個を供え、「わしは、貧しくて、一升の米が供えられねえ。でも、しっかり働いて必ず米を持って来るだから、わしの願いを聞き届けて下せえ」と真剣に手を合わせる人の姿がフッと目の前に浮かんでくる。
「お地蔵さん」
「お地蔵さん」という名で親しまれている仏さまの正式名称は「地蔵菩薩」。観音信仰と並び民間信仰の中心的存在です。観音さまは大変慈悲深く、その名を唱えるだけで33種にも変身して日常的な苦しみや災難を救ってくれるといわれ、民衆の支持を集めました。観音信仰はすでにインドにあって、仏教が日本に渡来するとほぼ同じに入り、法華経の普及とともに広まりました。現存する飛鳥時代の仏像でもっとも多いのが観音像です。観音33身説にもとずいて西国33所の観音巡礼が起こり、後には全国に観音霊場巡りが普及しました。地蔵は地獄に落ちる死者をすくってくれる菩薩(仏になる以前の段階にとどまり、人々を救済する存在)。平安時代中期から末期にかけて起こった末法思想、浄土信仰と結びついて貴族のあいだから広まっていきました。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道のいずれにも現れるとされ、六地蔵信仰も生まれました。民間信仰の中ではこどものこどもの守り仏として考えられるため、日本人の心情により訴えるところがあると考えられます。この世とあの世の境にいて、冥土にゆく者の苦難を救うとされたので、道中の安全を守る道祖神の信仰とも結びつきました。道路の傍らや村境に地蔵像が多く建てられているのはそのためです。「おいなりさん」と親しまれる稲荷同様、身近な信仰です。死後に賽の河原に集まるこどもたちを守ってくれるという信仰から、地蔵像の前に小石を積んだり亡くなったこどもの遺品や好物などを供える風習は各地で見られます。「お地蔵さま」として親しまれている「地蔵菩薩」。「観音さん」と並んで人を選ばす、わけへだてなく万人を救ってくれる点で庶民に広く指示されているのでしょう。
赤沢のおんばさま
村はずれ、上村境の赤沢集落から十五分ほど登ったところに、大木に囲まれてトタンふきの小さなオチョウヤ(祠)があります。子どもが授かりますように、母親の乳がよく出るようにとお願いした「おんば(姥・乳母)さま」と、地元の人たちが親しみをこめてそう呼んでいる産神(うぶがみ)です。産神・姥神信仰は、出産の前後を通じて妊婦や乳児を見守ってくれる神として、呼び方、まつり方など違いはありますが、それこそ日本各地にあります。
そのひとつに、姥石(うばいし)の伝説があります。
昔、ある女性が女人禁制を犯して霊山に登ろうとしたところ、石になってしまったというもので、名山と呼ばれる山麓にはよくこの石がまつられています。古くから、石に霊魂が宿るという考え方があり丸い石や臼に似た石などを霊石として崇敬していました。また、子授け・安産・子育てを祈願する神に、箒神(ほうきかみ)・便所神・道祖神・子安神・山の神などがあり、お礼参りに底の抜けた柄杓や小石を供える風習があります。赤沢のおんばさまは、最初、古瀬直義さんの祖先がまつったものということですが、最近はこのような産土神(うぶすながみ)に対する信仰心が薄くなり、お参りに行く人もいません。
小正月
正月元日を大正月と呼ぶのに対して1月15日を小正月、15日正月、粥正月などと呼ぶ。この日をもって正月の終りとするところでは、14日の年越し、上り正月、送り正月などという。古くは月の満ち欠けによって月日の推移をはかったので太陰暦の正月15日が元日であったためか、14日の晩と15日には粥占い、焼試し、成木責め、粥つり、左義長〔さぎっちょう〕、柱餅など多彩な正月行事が行われる。左義長はどんど焼きともいい、小正月に門松、注連縄などの正月飾りを焼く行事で、本県では海村に多く見受けられる。須崎市野見では14日の夜、各組ごとに決められた浜辺に、それぞれ正月飾りを持寄り、その前に一升桝に入れた徳利、白扇、白米を供えた後、火を付けて焼くが、その火で柱餅を焼いて食べると一年中病気をしないという。またこの時、海から恵比須様の形をした小石を拾って来て、左義長の火で焼き、宝物を拾ったといって大漁の時の櫓聲で囃しながら家に持帰り、「カネの神」と称して恵比須棚に供える。さらにこの晩には「潮ばかり」の行事がある。飾りをつけた12-13mの長大な孟宗竹を海中に立てる海神の祭りである。この晩小石を恵比須棚に供える行事は他所にもあり、安芸市一宮では「大潮を踏む」といい、夜の潮を踏む行事のなかに繰込まれて行われている。また幡多郡大月町柏島では、14日の昼には一切の注連飾り、門松を降してそれぞれ家の門口に集めて置くと、二つの組の子供達がそれぞれ集めて持帰るが、その途中トシトコ様の大根注連で、叩き合って奪いあい、多数取った方の組が勝ちとされる。翌日、子供達は組別に山の神の祠の前で集めた正月飾りを焼く。またこの日に正月棚や三方様に供えた米で、15日粥または初のお粥とよぶ粥を炊き、正月餅で作った柱餅と粥箸を、粥を入れた一升桝の上に置き神床に供えたあと、粥箸で大黒柱、床柱をコツコツと叩く(土佐市静神)。長岡郡大豊町上桃原では、牛王著、萱の穂、粥箸で、庭に降した正月飾りと、畑の麦や果樹に粥を刎ねかける。また物部村大古畑では、粥柱といって大黒柱、床柱などに粥を刎ねかける。さらに幡多地方に顕著な「カナミコ様」「カナムコ様」は家の金物類を祭る行事であるが、土佐清水市布では、14日に鍬、鎌、手斧、大工道具、庖丁、鋏などの金物を庭の涼み台の上に並べ、その前に鏡餅、生魚、四隅に譲葉を立てた一升桝に御飯を盛り、神酒を添えて祭る。また高岡郡中土佐町矢井賀でも十五日粥を炊き、一升桝の中に粥を入れ、両端に柱餅を1本ずつおき、カナミコ様に供える。前述の大月町柏島では、部落が東崎組と町前組の2組に分れ、まず子供同士の綱引があり、続いて大人同士の綱引がある。3回勝負で、1回が終ると、左義長を焼くといって、トシトコ様の餅とカケの魚を焼いて食べまた綱引に移るが、町前組が勝てばその年は豊漁であると占う。
賽の河原
民間信仰で、死児の赴く所、三途の川の手前にあり、小石を積んで地蔵菩薩に供えることにより、罪障を去り、無事渡河できるとする。仏教の地蔵信仰と民俗の塞の神(道祖神)とが習合したとする。
古代の岩座という、神の依る岩、岩境のような霊域信仰の遺跡は各地に残り、奈良時代の国々の風土記にも神や仏などの形に似た石の信仰が載っている。さざれ石が巌となるといった成長する石の信仰、魂籠る石としての九石神、石を手むける信仰が仏教と習合した賽の河原の積石信仰や岩船地蔵など、神仏の信仰と石との関わりはきわめて多彩。
道祖神(どうそしん)・<塞の神(さいのかみ)
各地の塞神社、また村の出入り口・村の境界の守り神
天孫降臨の際に出会った天宇受売神と猿田彦神はこれが縁で結婚し、二人は一緒に道祖神になったと言われる。道祖神は塞の神とも言れ、一般に村の外れにあって外部から村に悪い霊が侵入するのを防いでいる。この神は天宇受売神・猿田彦神と結び付けられていない場合でも、しばしば男女神であるようで(伊邪那岐神・伊邪那美神という説もある)、そのいわれは、男女の仲の良い神様が守っていてくれると、そこを通り抜けようとした霊は「邪魔するな」とばかりに突き飛ばされるからとされる。男女神であるが故に、安産と子供の守り神ともされた。ここから道祖神と地蔵との混合も生れた。また道祖神は男女神であることから、しばしば神社には立派な陰陽石が祀られている。道祖神へのお供え物には、紙或は野菜で作った男女の性器の形のものが好まれ、安産祈願・子宝祈願に関わる 。
天宇受売神・猿田彦神が道祖神であるとされた理由は、猿田彦神が天孫降臨のときに、天と地の境で一行を待っていたためだ。この二人については、猿田彦神は天狗に、天宇受売神はお多福になったという説もある。
道祖神は庚申待ち・庚申講とも結び付けられた。庚申待ちは道教由来の風習で、庚申の日の晩に人間の体の中に住む上尸の虫・中尸の虫・下尸の虫という三尸の虫が天に登って、その人の行状を神様に報告し、悪いことをした分寿命を減らすという言い伝えに基づ く。この虫たちは人が寝ている間に天に登るため、庚申待ちではみんなで猿田彦神社に集まって酒を飲んで徹夜をし、眠らないようにする。庚申の日の次は辛酉の日で、庚・辛・申・酉というのが全て五行の金にあたる。そこで金気が強すぎることを嫌ったものであるとされる。猿田彦神が出てくるのは、申−猿の連想によるものか。地域によっては猿田彦神の代わりに青面金剛を祀る場合もある。青面金剛咒法という秘法があり、これが伝尸病を取り除く効果があるとされ、伝尸と三尸が結びついてなったもの。青面金剛像の下には、しばしば「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫られている。これは三尸の虫に悪いところを見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって、神様には報告しないでくださいとの願いが込められたもの。
三尸の虫の普段の住処は、上尸の虫は頭に住み目を悪くし皺を増やし髪を白くし、中尸の虫は腸に住み内臓を悪くして悪夢を見させ、下尸の虫は足に住み命を奪い精を悩ますという。三尸の虫が天の登る日が申の日になった背景は、天の神が帝釈天とみなされ、帝釈天のお使いが猿であるためか。
道祖神の変形で、おんば様・うば様・しょうづか婆さん・味噌嘗め婆さんなどと呼ばれる神様があり、一般に村と山との境に居る。 
おさばい様
稲の成育をつかさどる民間神。稲霊そのものをさすという説もあるが定かでない。おさばえ様、さんばい様、おさばい荒神などの名称がある。そして社日と集合する等各地によって多少名称が異なる。高岡郡や幡多郡西部では、丸い小石を神体として祭るところから石やしろ様という。田植の前後に、臨時に田の水口に招ぎ降ろし、田植が終ると昇神する神で、一般的に降神を「おさばい様を降ろす」または「サイキヨ」といい、昇神を「さなぼり」という。ところによっては、おさばい様は春の社日から秋の社日まで、あるいは田植の時から収穫の時まで田にとどまって田を守って下さるという。常在の神として、佐倍、佐婆恵などの漢字を宛て、氏神さまの境内や田の畦に小祠を造り、また石グロを積んでいるものもある。おさばい様を降ろす時期は、籾種を苗代田に播く時、田植の時、田植直後と区別されるが、播種時と田植の時、播種時と田植直後といったように二度に亘って祭る土地も相当多いが、安芸地方では田に水のある間とか、出穂期までの節日ごとに祭ったり、早稲、中稲、晩稲と異なった品種を播くごとに祭る。場所は、播種の場合、苗代水口、田植、田植直後は最初に苗を植える田の水口(ミトグチともいい、田に灌漑用水を流入するところ)であるところから、この祭りを水口祭りとか苗代祭りといい、おさばいどころと呼ぶところがある。これらの田は通常最初に水がかりをする田で、谷間を開いた田では最上段に位置し、水は下段の田へ向って次々に流入する。このような田は往々三角地をなしており、祭りはその先端の水口で行われる。また一枚の田の水口のみと、田毎の水口毎に祭る土地とに別れ、さらにオサバイ田といって、神聖視する田の水口で祭る土地もある。祭り方もまた様々であるが、通常水口の畦に杉、樫、栗、柿などの小枝、ウツゲの花枝、萱、氏神社か寺かの護符、あるいは正月の幸い木、粥箸などの何れかを招〔お〕ぎ代〔しろ〕として立て、その前に米、大豆、雑魚、正月餅、干柿などを取合せ、椿、枇杷、柿、蕗の葉の何れかに乗せて神酒とともに供えるが、概して正月に用いた粥箸とか幸い木を立てたり、正月餅、歳徳神や三方様の米などを供える傾向が強い。また幡多郡や高岡郡の「石やしろ様」は丸い小石を置き、あるいはオンノベカヅラやニンドウカヅラの輪の中に、これらの物を立てる。ところによってこれを神座〔かみくら〕と称する。幡多郡十和村古城のごとく代掻きの時に、牛におさばい様を拝ますところもある。このようにしていよいよ田植にかかる前に、先ず3クラか5クラの苗を植え、豊作を祈願してから田植を行う。前述のとおり、播種、田植の前後に去来する田の神であることは「おさばい降ろし」「さのぼり」の言葉によっても窺われるが、その去来するところがさほど明確ではない。然し、土佐郡本川村では、おさばい様は山の神であるといい、同郡土佐山村でも春の社日に田に降りておさばい様となり、秋の社日に山へ帰って山の神となるという。またおさばい様は春、祠を出て田に降り、秋収穫が終ると祠に帰ると伝えるところもある。田植の時、最後の苗数本の根を洗って家に持帰り、倉入れ、おさばい入れ、さのぼりといって恵比須棚に供える。幡多郡西部では、旧6月末と、収穫時、秋の社日または旧10月初亥の日に「石やしろ様」の小石を家へ持帰ることを「さのぼり」という。山→田→山、祠→田→祠、家→田のパターンがあることがわかる。さらにおさばい様と早乙女との関係は深く、生理や出産の血の穢れのある者は、オサバイ田を植えることを禁じ、また、おさばい様への供え物は早乙女のみが食べ、田植に先立って、早乙女におさばい様の祠の前で神酒を飲ます。あるいは田植の最中には他の神の神参りが出来ないなどの習俗が伝えられているが、さばい、さんばい、早乙女、五月、五月雨、夕立〔さだち〕など言葉の頭に「サ」の字のつく言葉には稲作と関係があり、さんばい、さばいなど田の神を「サの神」つまり稲霊を意味するという説もある。
夫婦石神社
子を授かる神として信仰されている。お参り時に夫婦石根の石を2個持ち帰り、自宅で神棚に納め、毎日信仰すれば子供を授かるとの言われがある。授かったときには、お礼参りとして、その石を拝殿に納め参拝する。
夫婦岩
夫婦岩・夫婦石は日本各地にある奇岩・名勝の名称。2つの岩が夫婦が寄り添うように見えることから名付けられる。海面から飛び出した岩と、山中の岩に大別できる。岩が3つ以上あって、そのうち2つだけを夫婦岩・夫婦石と呼ぶこともある。
一般的には夫婦円満や家内安全や海上保安や大漁追福の象徴や祈願祈念でもあるが、古くは古神道における磐座(いわくら)信仰といわれるものがあり、自然に存在する象徴的な場所やもののうち、特に巨石・岩や山を神体とし、神が宿る場所として信仰した。そのため注連縄を飾り、鳥居を備えたりして、そこに神が鎮座している証としている。また古神道や現在の神道に息づく二律双生という概念の具現化であり、例えばこの世は、現世(うつしよ)と常世(とこよ)からなるという考えや、七福神のうち恵比寿と大黒が二柱そろって一つのものとして信仰されたり、身近では、夫婦茶碗があり、また箸や履物を両方そろって一膳や一足という数え方も日本独特といわれる。これら磐座信仰と二律双生という考えが、一体となって祀られる対象となったものが、夫婦岩である。
夫婦石神社(茨城県鉾田市安房)
大字安房字夫婦石1913番地に二つの石があり、この石は根が深く、世の人は昔から、鹿島の要石に連続していると言い伝えている。上にあるのを夫石、下にあるのをを婦石という。小石の〇〇したる形状は、あたかも石児を産生するかのように髣髴とする。児のない人は、遠近隣から、皆、伝え聞いて、この両方の石をうがち持ち帰り、神棚に納めて、信仰すれば、必ずその御利益があり児を産すと言われている石造の洞がある。毎年、三月九日を祭日とする。
夫婦石神社(那須町)
今から数百年前、戦国の世に一組の男女が敵に追われこの地に逃げてきた。あたりは一面の芦の茂み、この茂みに身を隠していると大きな石があり、男は女をかかえてその岩石の割れ目に身を隠した。追っ手がこの岩石のそばに来た途端、白蛇が2匹現れ巨大な石が揺れ動いた。それを見た追っては、恐れおののき逃げ帰った。2人はこのお石様のおかげで命を救われ、この地に住み、仲良く田畑を耕して暮らしたという。時代の移り変わりと共にこの地にも人々が住み、誰言うとなく「見落石」が「夫婦石」となった。この石は夜になると互いに寄り添っているという話が伝えられ、現在では夫婦神社として、諸願成就・縁結びの神様として崇められるようになった。
志氐神社(三重県四日市市)
市の中心街から2kmほど北に行ったところにある大宮町の志氐神社(しでじんじゃ)の表参道の石鳥居の傍に、ちょこんと「夫婦石」という石が置かれています。唐突過ぎるくらいに街中の路傍に置かれているわけですが、この石が一体どんな石なのか、現地には解説はありません。「志氐神社縁記」という文献を見てみると、僅かながら以下のような記述がありました。「また鳥居の側に神石あり。南北にサソリのような岩盤(飼ユ)が走りその深さは知れず。古よりこれを称して夫婦石という。」(意訳)
現在は小さい1個の石が置かれている状態であり、ここの記述にあるような「地層奥深くの岩盤から露出している夫婦石」の姿とは大きく違いますが、付近一帯が宅地開発と地面の舗装で往時の見る影もないので、元々の夫婦石は記述の通りのような在り方だったのかもしれません。「神石」と言っていることから、この石が神聖視されていた聖石であることは疑いないようですが、いつ頃から、どの程度の思いで神聖視されていたのかは不明です。石の名前から「生産(安産・豊穣)」に関わる霊性を持った信仰対象であった可能性もありますが、推測の域を出ません。
また東海道沿いにこれみよがしにあることから、江戸時代には好奇的・名勝的に夫婦石が位置付けられていた可能性もあるでしょう。神社の鳥居の横という場所にあることから考えて、神社側はこの夫婦石を信仰の中心や重要な存在として考えていた様子があまり見られません。
この場合、夫婦石に対する人々の認識は亜信仰(霊的な力を期待するが、畏れはない。現代人が神社で軽くお祈りするぐらいの気持ち)だったと考えられます。
諏訪神社(静岡県御殿場市寵)
南御殿場駅のすぐ北側にJRの踏切に分断された諏訪神社(かまど神社)があります。諏訪神社は古くから「いぼかみさま」として信仰されています。かまど神社の寵(かまど)は建久4年(1193)源頼朝が富士の巻狩を行ったときの将卒が炊事をした寵場(かまば)からきた地名です。古くは諏訪神社の裏を流れる御手洗川(みたらしがわ)の水をイボにつけてイボを落とましたが、現在は神社の御手洗(みたらし)の神水(じんずい)をイボにつけます。
古文書に踏切の東側の諏訪神社正門鳥居の右手にある夫婦石にイボトリのお話の記載があったとのことです。昔の街道の村外れの道祖神のところに川が流れていてそこの川原に夫婦石があって石の窪みに溜まった水をイボにつけたといわれています。その夫婦石を現在の位置に移動したそうです。
産飯(うぶめし) 1
出産直後に炊いて産神に供える飯のことで、産婦と新生児に供えるとともに、産婆手伝い、近所の人々など、できるだけ多くの人に食べてもらう。それは、新い生命の誕生を広く認知させるためと、子がよく育つといわれるためである。膳には小石が供えられるが、この小石は産神の代わりといわれ、産婆の家からもってくる風習がある。
お食い初め 2
子どもが一生食べ物に困らないようにと祈りを込めて、生後100日目の赤ちゃんに食べ物を食べさせる儀式をいいます。昔からお膳に赤飯、お箸、お椀などを揃え、おかしらつきの魚と小石を供える風習があります。小石は赤ちゃんの歯が丈夫になるようにとの願いをあらわしたものだそうです。もちろん本当に食べません。食べるまねをするだけです。100日目にこだわらず、家の都合や赤ちゃんの健康状態などで決めてもよいでしょう。また離乳食の始まる第1日目を、「お食い初め」の日としてお祝いするのも一つの方法です。
お食い初めの儀3
お食い染めとは、男の子は生後120日目、女の子は生後110日目に行う儀式です。日本の古き時代では箸初とか箸揃と呼ばれていました。出産を司り育児を保育する産神様のご加護によって、ようやく首も座り、百日を迎えて人並みに食する意義を悟るようになります。生後百日は歯の生え始める頃で、産神様に安泰をお告げもうし、祝福を受ける為、成人と同じ様な食膳を供え、安らかなる行く末と成長をお祈りします。膳には赤飯、吸い物、他に賢く成長するようにお頭づきの鯛が供えられ、初めてのお宮詣りの祭、氏神様が境内より拾った小石(歯固め)を供え、神霊として赤子の歯が堅くなるようお祈りいたします。
「なぞらえる」
日本には古くから「なぞらえる」という動詞で、はっきりとではないにしろ、とにかく、それとなく示されている或る精神作用の魔術的な効力に対して、奇妙な信仰がある。ところで、この「なぞらえる」という言葉そのものは、英語には、どうも適当な訳語がない。それは、この言葉が、信仰に基づくいろいろな宗教上の行事だけでなく、様々な魔法に類したことにも、関連して用いられるからである。「なぞらえる」という言葉の普通の意味は、辞書によると、「まねる」「たとえる」「にせる」であるが、その秘境的な意味は、「ある魔術的、ないしは奇跡的な結果をもたらすように、物ないしは行動を、他の物ないしは行動に、想像の中で代用すること」である。 例えば、諸君には寺を立てるほどの余裕はないが、もし建てられるほどの金持ちだったら、早速その寺を建てようという、敬虔な気持ちになるだろうが、それと全く同じ気持ちで、仏像の前に小石をひとつ供えるのは、たやすく出来ることだ。ところで、そのようにして小石を供える功徳は、寺を建てる功徳と同等、あるいはほとんど同等なのである。
石投げ地蔵・伝説
石投げ地蔵
天明の頃甲斐の武田一族の姫が常陸の国(茨城県)佐竹家に嫁したが不縁となり乳呑み子を残して国に戻された。 その後乳呑み子は美しい佐竹白百合姫となり乳母より真実を聞き母へ思慕の念から従士乳母を従え母の里甲洲へ目指し旅立った。やがて明王峠にさしかゝった時に姫は激しい腹痛におそわれて草むらに倒れ伏してしまった。乳母は驚き従士を村里へ助けを求めに走らせ介抱に努めるも苦しみはつのるばかり、乳母は姫を背負い峠を下りはじめたが弱り果てた姫は苦痛の中から母上様と呼び息絶えた。人里遠い山中の出来事に莊然をした乳母は姫の遺髪をとり手厚くこの地に葬った。村人達も白百合姫を哀れに思ひ地蔵尊を建て小石を供えて石投げ地蔵と呼び冥福を祈った。
「じょうが塚と長者屋敷」
むかし陣馬、明王峠付近に美しいお姫様が住んでいたそうです。お姫様は馬が好きで毎日、明王、景信を乗り回していました。ある日のこと馬に鞭打って走ってくるところを山伏の手にかかって射られてしまい憐れな最後をとげてしまいました。だれいうとなくお姫様が倒れたその場所を「じょうが塚」といい、今でもこぶしくらいの小石が沢山積まれています。またその近くには「矢の音」や「長者屋敷」という地名があり、長者屋敷はお姫様の屋敷跡ではないかといい伝えられています。
明王峠・石投げ地蔵嬢が塚
景信山と明王峠の山稜を結ぶ間に「堂所山」という小峰がある。その昔武田信玄が北条と合戦の時、鐘によって敵の情報を知らせるための鐘つき堂のあった跡でその名前が付けられた。また明王峠は武田不動尊を祀り武運を祈願した所と伝えられる。この峠の山頂に登り詰める一歩手前の道筋に、小石を積み重ねた小塚があるのが目につく。伝説に塚の由緒を記すが、時は天正年間、甲斐の武田一族の姫君が常陸の国佐竹家に嫁したが、不幸にして離縁となり幼女を残して生国の甲斐へと戻された。その後幾とせ、残された幼女は美しい姫となった。ある日、乳母より実母のことを聞かされ、次第にまだ知らぬ母に思慕の念がつのるようになった。やがて秋も深まろうとする頃、母と対面する好機が訪れ乳母と共に母の消息を尋ねたいと父に懇願し、許を得て従士三人乳母等五人で甲州に旅立つことになった。何分にも当時は戦国乱世の時、旅は決して楽なものではなく、敵方の難を逃れるため間道や峰道を通らねばならなかった、ある時は木の実を食し、沢の水で空腹を満たすほど殆ど不眠不休の旅であった。故郷を離れて幾月、かよわい足で野を越え山を越えてようやく辿りついた所がこの明王峠である。甲斐の山々が眼下に見下ろせる急に展望の開けたところにさしかかるや、食あたりか疲労のためか姫は急に腹痛におそわれ草むらに伏してしまったのである。突然の病に驚いた近従者は只、懸命な介抱につとめたがなにしろ人里離れた山中のこと、医者など到底呼ぶ間もなく幼くして急死したのである。従者たちはこの急な惨事に慟哭しながらも、姫のなきがらを手厚く、この地に葬り遺髪をもって、いずこかに去ったという。後に、武田・佐竹一族がこの地に参り小さな地蔵尊を建て懇ろに供養したのが嬢ヶ塚であり、又この峠を往来する旅人が線香の替りに供えたのが石上げ地蔵又は石投げ地蔵と呼ぶ。
年玉
年玉は年毎に更新される生命力、あるいはその力のこめられている特別な呪物を意味していました。たとえば愛知県では祭に小石が神前に供えられたのち、参詣人に年玉といって分かち与えられます。これは祭に際して呼び込まれた生命力が、小石に分与されたことを意味しています。また正月の神詣でや若水迎えに際して供える米を年玉とよんでいる地方は多くあります。米粒に元来再生の力が宿っていると考えるのは当然といえるでしょう。 「振り米」と称して瀕死の重病人の枕もとで竹筒に入れた米を振ってその命をひきとめようとするのも米のもつ生命力を信じているからで、ゆり動かすことで力が発動するとするのは日本人の古代からの信仰でした。 鹿児島県の甑(こしき)島では大晦日の夜、「年どん」と呼ばれる鬼が家々を巡り歩いて子供達に訓戒をたれ、年玉と称される丸餅を与えます。「年どん」の来ない家では家長が眠っている子の心臓の上あたりに丸餅をのせますが、やはりこの餅も年玉とよばれます。 餅はもともと生命力のシンボルでした。杵(男性)と臼(女性)とによって生成された生命力を篭めたものを心臓の形を模して中高につくられたのが餅で、鏡餅をはじめとして正月の餅にはすべて再生の生命力としての年玉が搗き込められているのです。 日本人は新年にこの餅を食べて再生します。あらたまの年の始の「あらたま」は「再生した新しい生命力」であり、「新魂」をさしていると考えることができます。 日本人が年齢を数え年で数えるのは、生まれながらにして与えられているひとつの年玉に正月が来るごとに一つずつ「年玉をとりこむ」「年をとる」ためです。甑島では「年どん」が持ってくる年玉の丸餅で年をとり、出雲地方では歳神の投げる年玉にあたって年をとります。 元旦の食事はトシメシ、セチメシ、トシトリメシと呼ばれ、元旦に雑煮を食べることで年をとったと実感する人が多くいるとされます。雑煮に餅のほかに大根やサトイモが加えられる地方が多いのは大根・里芋は豊穣の力、「よ」が十分にとりこまれた生成力の大きな古来の植物だからでしょう。
庚申様
路傍の石仏として辻や道端に多く残っている庚申様の中でも、特に和泉の松原の庚申様と猪方の辻にある庚申様には、足や耳の病の平癒を願って遠くからもお参りにくる人があったという。松原の庚申様は、珍しい「西向きの庚申様」なのでご利益があるといい、諸病のほか商売繁昌にも霊験あらたかといわれた。調布の入間などからも病気の子どもを背負ってくる人もあった。供え物には、おさんご(米)や賽銭(さいせん)などのほか、足の病にはわらじを、耳の病には穴のあいた小石を供えた。戦時中には無事を祈る出征兵士もあり、帰還できたお礼に大きなわらじを作って供えることもあった。
愛の地蔵尊(虫窪)
虫窪には「泣き原の地蔵」がまつられている。これは、昔、土沢(平塚市)の者が伊勢参りに行った帰り、川の増水で流されてしまい、行方不明になってしまったことがあった。そこで霊をなぐさめるために地蔵をまつり、「泣き原の地蔵」とよぶようになったという。地蔵は昭和47年に盗難にあい、現在は道了尊から譲り受けた地蔵がまつられている。 この地蔵はイボとりの地蔵として霊験あらたかだといわれており、地蔵の祠には小石がたくさん供えられている。この小石でイボをこするととれるのだといい、そのお礼に小石を倍にして返した。また、婚礼の行列はこの地蔵の前を通ってはいけないという。どんな遠回りをしてもこの地蔵の前は通らなかった。
精九郎壇と山毛欅(せいくろうだんとぶな)
精九郎壇とブナは滝根町と川内村(双葉郡)との境界に位置する金山地区にある。壇(塚)は高さ1m、直径8m前後の円形で無数の小石が積まれており一種の境塚である。その昔川内村と神俣村との境界争いの時に川内村の精九郎が正直に境を言いもらした、そのため川内村が争論に負け、精九郎は首だけ出して生き埋めにされたという。精九郎が生きている間は両村から食物を運んだという。その時精九郎は「川内村と神俣村の両村が見える処にうめられて満足だ、死んだら大きい石碑をたのむ」と言ったそうだが、不便な山頂のため石碑は立てるまでには至っていない。そこで、両村の人々は彼の霊をなぐさめるため、行く人来る人はせめてもと小石を供えたのだという伝説がある。この壇のあるブナは推定樹齢300年で、胸高周囲3.5m、樹高10.2m、全体の枝張り19.3mの古木である。樹勢は西からの強い風に耐えるように、枝全体がかしいでいる。
大雄山聖徳善応寺・一石一字法華塔(お経塚)
昭和40年鶴谷団地造成中に善応寺との境界の所に大きな穴があき、中から小石一個に漢字が一字書かれた小石がぎっしり詰まっており、造成中の作業員を驚かせたのです。作業員は中に宝物が隠されているのではと大さわぎになっていました。たまたま通りかかった私がお寺に行って住職に聞いたところ 、絶聞(四代目住職)が亡父母の霊を弔うために、お経の文字を小石一個に一字書いて埋めた塚であり、その上に石塔があるはずで、集落の人はお経塚といっている所だとの説明であったので 、その旨を作業員に説明し埋戻しさせ、石塔をさがしたが、その時は石塔は発見出来なかったのです。お経の文字が書かれた小石を少し持ち帰り、我が家の佛壇に供えておきました。
「石文」(いしぶみ)
テーマは「日本人の死生観」ですが、実はもう一つ重要なテーマがあって、それは「石文(いしぶみ)」というメッセージの伝え方。無数の石の中から、自分が選んだ1個の石で相手に何かしらのメッセージを伝える。言葉や文字がなくても、ちゃんと伝わる。もちろん、ちゃんと「伝わる」ためには、お互いに相手を信じていることが必要ですね。相手がどういう人かがちゃんとわかっているから石ころでメッセージが伝わる。こんなに奥ゆかしくて真正直なメッセージの伝え方があるとは。映画では、小さい頃に生き別れた父との関係に、石文が効果的に使われています。この二重テーマを、「くどい」と感じる人もいるようですが、石文がなければ大悟は父の「おくりびと」にはなれなかったかもしれないし、私はとてもいいつくりだなと思いました。こういう映画が日本で作られたことを誇りに思います。きっと、この映画「おくりびと」自体が「石文」なのです。世界中の人々に向けられた。死と生に対する立ち位置をふりかえるために送られた、奥ゆかしく、静謐な、しかも力強く、真正直なメッセージ。
「石文」に気持ちを込めた 脚本家/小山薫堂
物語をつくる上で、最初に「石文」を使おうと思ったんですよ。いま携帯電話全盛で、伝える側も伝えられる側もいかに楽ちんに伝えるかという時代じゃないですか。石文は向田邦子さんのエッセイで最初知ったんですが、石を選んで渡し、相手に思いを伝えるもの。これを何年も前から思っていたんですね。それと食について、生きていくための食、つまり命をいただくということ、食物連鎖というか、命のバトンタッチというか、それをテーマにしたいなと思ったんです。あと、個人的に好きなエピソードは銭湯のシーンですね。大人になって田舎に帰って、子供のころ行っていた銭湯で、番台のおばちゃんから『あら、大きくなったわねえ』とやさしく声をかけられる、そんなシーンを盛り込みたかったんです。その銭湯のおばさん(吉行和子)は、火葬場のおじさん(笹野高史)と大人の恋愛じゃないけど、独特の距離感があっていいなと思いますしね。あの笹野さんの造型は、シナハンで火葬場に行ったとき、そのまま役者にしたいぐらいのいい顔をしたおじさんがいたからです。笹野さんが(あの世におくるとき)劇中で、三途の川を「門かなあ」と評するセリフがありますが、その言葉もそのおじさんからいただいたもので、印象に残っていた言葉でした。
物語の構成として、まず登場人物それぞれの人物像を考え、最後のオチとして石文を使ってどう劇的にするか考えました。ぼくは、娘からある石をもらっているんですよ。それを大切に金庫にしまっています。「ぼくが死ぬとき、あの石を持って行こう」と思っているんです。娘はまだ小さいですけど、大人になったとき、この映画を見てくれると思うんですよね。本人はぼくに石を渡したことなんて憶えていないと思うんだけど、それを思い出させるための「布石」としての映画なんです、この「おくりびと」は。娘に贈る遠大な「遺書」なんですよね。  
【石文】(いしぶみ)人が言葉を持たなかった時代、思いを伝えるために石を渡した風習。昔、人が言葉を持たなかったころ、自分の想いを相手に伝えるために、言葉のかわりに石を渡したのだそうです。贈るほうは、石の大きさやかたち、色、つや、重さ、感触、などから自分の気持ちにピッタリの石を選び、石に想い(心)を吹き込む。もらった人は、その石を見て相手の感情や気持ちを読み取るんだそうです。
【石文・碑】(いしぶみ)事跡や業績などを記念し、後世に伝えるために、文字を石に刻み地上に建てたもの。碑(ひ)。石碑。
【布石】(ぬのいし)布石敷として用いる石。土台下などに長く敷いた石。
【布石敷】(ぬのいし‐じき)布敷に敷いた石あるいは石敷。布敷石。
【布石】(ふせき)囲碁の序盤戦。戦いが起こるまでの石の配置。配石。石くばり。将来のために、前もって手くばりをしておくこと。
【壺碑・壺石文】(つぼのいしぶみ)青森県上北郡天間林村にあったと伝えられる古碑。また、宮城県の多賀城の碑のこと。前者は、坂上田村麻呂が蝦夷(えぞ)征伐の時、弓の弭(はず)で日本の中央であることを書きつけたという。後世、多賀城の碑を壺の碑といったため両者が混同して呼ばれた。
 
ある地方の信仰伝説

 

しぼら様
江戸時代の初めごろ、小坂の村にどこからか四人の浪人者が来て住み着いた。初めはおとなしくして村の子供たちに字を教えたり、農家の手伝いなどをしていたが、それだけでは食えないので坊主になって、近所の村々を食を乞うて歩き始めた。しかし、百姓たちも生活が苦しいのでおいそれと食物をくれない。とうとう本性を表わして暴力で食物や金をゆするようになった。なにしろ武士あがりだし、四人そろっているので百姓たちでは手が出せない。へたに手向かいでもすると半殺しの目にあわせられる。それがだんだんひどくなって村の人たちも我慢ができなくなり、役人に申し出たがいっこうに頼りにならない。そこで村の若者たちは何度も集まってこの四人を退治する方法を相談した。そしてとうとうこの四人の坊主を殺してしまおうと決めてしまったのである。
それは夏の暗い夜だった。村中の若者たちが足音をしのばせて四人の住んでいる家のまわりを取り囲んだ。そして戸のすき間から四ちょうの火縄銃で酒を飲んでいる四人の胸をねらった。銃は轟然と火を吹いて三人はばったりとその場に倒れたが、一人は戸をけ破って逃げ出した。しかし、若山堤の土手で追いつかれてしまった。手を合わせて命ごいをする胸にまた銃声がなった。
その翌日から大風が吹き荒れて村中は大騒ぎになった。「坊主殺せば三代たたる。」村人たちは四人の坊主のたたりだろうと考え、小石に一字ずつお経を書いて地面に埋め、その上に四人の名を刻んだ塔を建てた。そしてそのまわりで供養の踊りを踊って死者の霊を慰めた。いつのころからかこの塔は「しぼら様」とよばれるようになった。今でも盆の十六日には「しぼら様踊り」が行われている。
吉井さま
昔、源平の戦いがあって平家が亡びたころ、平家の女官達と思われる九人の女たちが、どこからか内田の村にやって来た。長い旅のためほこりにまみれてきれいな顔もやつれ果てていた。女官達は道のほとりにある井戸の水を飲み、近くにいた百姓夫婦に声をかけた。「私たちは日向に行くつもりなのですがもう日も暮れかけていますので、どうか一夜の宿をお貸し下さいませんか。」百姓夫婦は困った。落人に掛かり合うと後でどんなおとがめが有るかわからないからである。そこで「あんたがた、早く出かけたほうが良いですよ。源氏の兵がすぐそこまで来ていますよ。」と言って断わった。
女達は大変驚いて、「それは大変です。私達は疲れてしまってもう一歩も歩けません。敵の手にかかるよりいっそ死んだほうが良い。」というと、九人の女達は次々とその井戸の中に身を投げて死んでしまった。それから毎晩、井戸から火の玉が南の方をさして飛ぶようになった。そして百姓夫婦も気が変になってその井戸に飛び込んでしまった。村人達は九人の女官と百姓夫婦を「吉井明神」として祭った。
三玉の神
幕末のころ、この地方に大きな百姓一揆があった。向野の村からも多くの百姓が参加した。この一揆は死傷者が多く、向野の参加者のうち三人がどうなったかわからなかった。 ある雨の晩、向野の渡しのある西原の方から、「よーい、今戻ったぞーい、船頭さんよーい。」とよぶ声がする。当時はまだ大野川に橋はなく、向野の人は船でこの川を渡っていた。船頭は若い者が夜遅くまで遊んでの帰りだろうと思って、船を向う岸につけて見ると誰もいない。船頭は「誰かのいたずらか。」と船を帰す。するとまた、「よーい、船頭さんよーい。戻ったぞーい。」と声がする。その声は泣いているような絶望しているようなぞっとする声であった。翌晩、船頭は船を向こう岸に着けて、やぶの中に身を潜めて待っていた。「よーい、船頭さんよーい、今戻ったぞー。」船頭はその人影を見た。確かにあの三人だ。人影はまた消えて行った。船頭は雨と冷汗で全身びっしょりになっていた。船頭の話は村中に広がっていった。「あれは亡霊の声だ。あの三人はまだ成仏できずにいる。」と、村の人達は相談して村の氏神様の境内に「三玉の神」のほこらを建てて三人の霊を祭ったのである。
道切り地蔵
市場のある家に旅の六部が宿をとった。六部というのは家族に先立たれた人が、その霊を慰めるため全国の寺々を巡礼をして歩く人である。
夜中に宿の主人がその六部の部屋をそっとのぞいて見ると、六部はおいずるの中からおびただしい金を出して数えていた。主人はそれを見てむらむらと悪心を起こし、翌日六部を誘い出して殺し、お金を全部奪ってしまった。ところが、その晩から六部が幽霊になってその家にやって来て「金を返せ……、金を返せ……。」と、家の中を歩きまわる。家の者は恐ろしさに寝ることもならず、だんだん弱ってきた。まず子供がうなされながら死んだ。そして主人夫婦も病気になってしまった。とうとう主人は、六部を埋めた所と家の間に幽霊が来ないように地蔵様を建てたが、その甲斐もなく一家は死に絶えてしまったという。この地蔵は今でも高市にあり、「道切り地蔵」といわれている。
福徳稲荷
昔、徳五郎という若者が一人で住んでいた。徳五郎は百姓だが耕地が少ないので、農業の合間に荷物をかついで小間物の商いをしていた。ある朝のこと、枕元に白髪の老人が現われ、「私の眷族がお前の家の窓の下で死んでいるから、これを祭ればお前の望みをかなえてやろう。」といって消えた。徳五郎が起きて見ると窓の下にキツネが死んでいた。キツネは稲荷様のお使いと言われている。徳五郎はこれを手厚く葬って、稲荷として祭り商売繁盛を願った。ところが、それからとんとん拍子に商売が繁盛して財をなし、市場の中心地に店を出すようになった。
その隣に馬五郎という人がいた。この人も同じような夢を見た。ちょうどその時、ものすごく歯が痛んでいたので、「どうかこの歯をなおしてください。」とお願いした。だからこの家の稲荷様は歯痛にきくといわれている。
 
荷花(蓮の花)

 

天地創造が水に始まったと云う説があるが、水に生ずるこのハスに清く高いあこがれの心をささげたのは、はや文化の起こったインド、ペルシャ、エジプトの人々であったと思われる。太陽神ヴィシュヌの腹からハスが生え、そこから梵天が生まれたと云うことから蓮華座の話があり、ハスの 「産み出すもの」又その「生」に関連し、生命力の旺盛さが云われています。
ハスは、PANKAJA(泥より生ずる)と呼ばれ「漩泥の中にあって、しかもそれに染めることなく美しく咲く花」として古来宗教や倫理、文学等の多くの比喩を生み、今日に来ています。また、阿弥陀経の中で極楽国土の優れた功徳のありようを示してありますが、その中に「池の中に蓮華あり、大きさは車輪の如し、青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光あり微妙香潔なり」と蓮華のことが示されています。大蓮華蔵世界の話が出て、仏教徒の理想郷のシンボルとなりインド即ちハス、ハスといえば仏教の構図が出来ました。中国では仏教渡来以前よりハスが愛されたことが「詩経」「爾雅」「説文」に書かれています。宋代の周茂叔の「愛連説」によりますと「泥中に生じても汚れに染まらず、清い水に洗われて咲くが、人に媚びぬ。(中略)子謂へらく、菊は花の陰逸なるものなり、ボタンは花の富貴なるものなり、蓮は花の君子なるものなり。(君子の花)」と結んでいます。インド、アショーカ王の石柱の柱頭に四聖獣をのせた蓮弁があります、この柱頭全体は「無量の恵沢をもたらす太陽とそれに呼応する豊かな生命の大地」をあらわしています。この宇宙模型は仏教上「太陽=白蓮」、仏陀を「大地=紅蓮」として大地母神が迎えるという意義があります(松山俊太郎氏説)日本では中国、朝鮮半島の場合と比べ大きな特質のひとつは仏教伝来とともに絶えず仏教関係の装飾模様に終始していました。そのため蓮華は仏の花として考える結果、抹香くさい花、即ち不祝儀の花と考えられました。然し、中国の蓮にまつわる花言葉は男女の愛情や和愛といたものが多くあります。その意味は愛情、恋心については、ハスの子房を意味する「蓮(lian)」の言葉は、愛情や恋人の「憐(lian)」と同じです(物事の連続の意味)。また、思いを寄せる相手にハスを贈る習慣は屈原の作品や古詩に見ることが出来ます。ハス全体の呼び名である荷(he)は、和(he)、合(he)と諧音が同じところから、中国の結婚の神、和合二聖(寒山拾得)の像はそれぞれの手に和合の象徴のハスを持っています。
ハスの根、蓮根は食用に供されるハスの部位の中で一番尊ばれるところです、この蓮根が「仲良き二人、未練心」の意があります。その意味は、偶(ou)はカップル、配偶者という意味、また未練心は蓮根を折ると蓮根の糸(藕糸)を引くという意味よりこれに例えられます。
中国ではハスはまさに「和合如意」の花です。また、李白は西施ゆかりの若耶渓で「採蓮歌」を詠み、これは「採憐歌」で求愛の歌ともいわれています。「蓮」に連続の意と「憐」の続くことや子孫繁栄の期待がこめられます。また、中国古来の民俗では、童子を配し「連年貴子」として続けて男子を授かるなど字句の語呂合わせで吉祥の意を出しています。「並帝蓮」(双頭蓮)は1茎に2花をつけ「比翼連理」とともに夫婦和して離れない祝賀の花といわれます。
日本では前述の如く、仏教伝来とともに伝わったので仏教との結びつきが強くなります。
「徒然草」では観賞用として歓迎されますが、「枕草子」になると「如法蓮華のたといにも花は佛にたてまつり、実は数珠に貫き、念仏して往生極楽の縁とすれば」「一蓮托生」(源氏物語)このように宗教的になってきます。
蓮根は、ハスの地下茎の食べられるところを云い「蓮」の漢字は中国で最も古い辞書「爾雅」にでている。「神農本草経」「本草綱目」では蓮藕(ou)で書かれ、これは蓮根と同じ意味です。「本草綱目」では地下茎の節を「藕節」と称し薬用に使用します。特に薬用になる部分は「蓮根」「葉」「花弁」「雄蕊」「花托」「果実」「幼芽」です。
蓮根は生をすりおろして、その汁を食間に杯に2,3杯飲むと、肺結核の喀血、下血に特効があります。また、カニの中毒、酒毒、腸カタルによる下痢止めによく、鼻血、鼻づまりのときはこの汁を鼻に注入する。蓮根の節の部分(藕節)を干して用いると蓮根より効力がある。蓮根の粥、藕粥を常食にするとうっ血を散じ、消化をよくし、熱による口の渇きを直し、体を丈夫にし、心をさわやかにする。「葉」を干して煎じた汁を服用すれば利尿、止血、精神の沈衰、痔の出血、腰痛、下痢、寝小便に効果があります。ハスの葉の粥、蓮実等は身体衰弱、下痢症、滋養強壮薬になり、また、蓮実の粥は血液を補い精神を養い心臓に効力あり、滋養強壮に効果があると云われ、蓮根より作用が強いといわれる。
ハスは古来より私たちの文化、芸術、思想の中でいきてきました。インドでは結婚式、披露宴で最高の花として飾られいるとのことです。私たちの体験ですと、7月に中国旅行のとき、偶然結婚式に合いましたがハスの花を花嫁が持っており、不思議に思いました。後ほど調べてみると結婚式の最高の花であることがわかりました(ハスの開花時期には中国の一流ホテルのロビーはハスの鉢で飾られます)。
光明遍照の極楽浄土の象徴花は陰気ではなく、永遠の生命(2000年以上の生命力は証明済み大賀蓮)と子孫繁栄(春植えた1本の蓮根はよく管理すれば1年で2000本親の形質がそのまま伝わる)翌年の苗蓮根は親蓮根の養分により肥大成長します(親蓮根が病気を持つと苗蓮根も病気を持つ)。このように考えていきますと、人間社会における親子、家族の関係を示しています。人の再生を信じ、年長者を敬い、仏を信ずることです。私の考えですが、「6月の花嫁」は幸福といわれますが、中国の旧暦6月は7月でこのハスの花の季節ですからこの花を持って結婚した人は永遠の命(佛の世界)と子孫繁栄に恵まれるとの考えからでた諺とおもわれます。
蓮と文学
わが国の文献にハスが最初に出てくるのは、「古事記」(712年)にある、雄略天皇記(457〜479年)の赤猪子の段の歌が最初です。また、「万葉集」にはハスを詠んだ長歌一首、短歌三首があります。
「御はかしを剣の池の蓮葉に澑れる水の行方無みわがする時に逢ふべしとあひたる君をな寝そと母聞せどもわが心清隅の池の池の底吾は忘れずただに逢ふまでに」(巻十三、三二八九)
「蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋の葉にあらし」(巻十六、三八二六)
「勝間田の池は我れ知る蓮無し然言ふ君が髭無き如し」(巻十六、三八三五)
「ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に澑れる水の玉に似たる見む」(巻十六、三八三七)
「古事記」、「日本書紀」、「万葉集」などに詠まれるハスは、いずれも花や露の美しさを取りあげました。仏教伝来とともに、ハスは文学の中でも仏教的シンボルとなり、「梁塵秘抄」、「古今集」、「枕草子」、「源氏物語」、「凌雲集」などにも取り入れられています。そして奈良、平安王朝文学以後のハスを歌うものには、周茂叔が「愛蓮説」で、蓮は「花中の君子」と賛美したような、明るくのびのびとした表現の歌は、なぜか日本では生まれていないように思います。
「古今集」「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(巻第三・一六五)
僧正遍昭「枕草子」「草は(中略)蓮葉、よろづの草よりもすぐれてめでたし。妙法蓮華経のたとひにも、花は仏にたてまつり、実は数珠につらぬき、(中略)また、花なき頃、みどりなる池の水に紅に咲きたるも、いとをかし」(六十六段)
「源氏物語」若菜・下(紫上と源氏がハス露をとりあげて自分の思いを詠んでいる)
紫上が「消えとまるほどやは経べきたまさかに蓮の露のかかるばかりを」と詠むと、源氏は「契りおかむ此の世ならでも蓮葉に玉ゐる露の心隔つな」と和している。
「徒然草」「家にありたき木は」の中で、池には蓮をあげている。(百三十九段)
「蕪村」「蓮の香や水をはなるる茎二寸」
「一茶」「雀らが浴びなくしたり蓮の水」
「愛蓮説」周茂叔(1017〜1073年)は北宋の学者で、中国における花の文学史の決定版として記した比較的短い名文をのこしている。茂叔は「愛蓮説」の中で、菊を隠逸の花、牡丹を富貴の花といい、蓮は「花中の君子なり」といって称えている。
「水陸草木の花愛す可き者甚だ蕃し晋の陶淵明は独り菊を愛せり李唐自り来世人甚だ牡丹を愛す予は独り蓮の淤泥より出づるも染まらず清漣に濯はるるも妖ならず中通じ外直く蔓せず枝せず香遠くして益々清(あお)く亭亭として浄く植(た)ち遠観す可くして褻翫(せつがん)す可からざるを愛す予謂らく「菊は花の隠逸なる者なり牡丹は花の富貴なる者なり蓮は花の君子たる者なり」と噫、菊を之愛するは陶の後聞く有る鮮し蓮を之愛する予に同じき者何人ぞ牡丹を之愛するは宜なるかな衆きこと」
今日の中国では、ハスはおめでたい花として、便箋・筆墨印材の飾りや婚儀の用具の絵となり、日本とは異なります。東南アジア、インドの各地では生活に根付いたハスがよく見られます。
蓮池の花
通常、蓮の花は夏花なので、勢至丸(法然幼名)が生まれた4月の、それも初旬に咲くということはありえません。 けれど、その誕生の朝には、屋敷の蓮池が、見事に満開の花で埋め尽くされたそうです。
よく知られた話ですが、お釈迦様は、生まれるとすぐに立って歩いたと言われています。最初に地面に足を着いたところから「蓮」が生まれ、北に向って7歩歩んだその足跡の一つ一つから、「蓮」の花が開いたと言われています。
仏教では、生きている間に善行を積んだ人は「蓮」のつぼみに包まれて極楽に行けるし、その後も「蓮」の花の上に坐って、何の悩みもなく憂いもなく、平和に暮せると言います。
仏像は、「蓮」の花の上に立ってたり座ってたりしてますよね。 また、仏教において、「泥中の蓮華」と言われる言葉がありますが、「蓮」は、決して美しい環境とは言えない泥沼にあって、そこで美しい華を咲かせ、私たちの心を和ませてくれます 。
「泥沼」は「人間の世の中」。「泥中の蓮華」は、とても意味深い教えが託されている言葉なんですね。
だからこそ、「末法乱世」の時代に「一筋の光明」をもたらし、「南無阿弥陀仏」の6文字で多くの人々を救った法然上人の誕生の朝、咲き誇ったのでしょうか。
花まつり
4月8日は、お釈迦さまの誕生日にあたり、お釈迦さまの「誕生仏」に甘茶を灌ぐことから「灌仏会」(かんぶつえ)ともいわれ、一般的には「花まつり」といっています。
お釈迦さまの記念日には三つあり、一つはこの「お花まつり」即ち「灌仏会」、二つ目はお釈迦さまが悟りを開かれた日、即ち「成道会」(じょうどうえ)、三つ目はお釈迦さまがお亡くなりになった日の「涅槃会」(ねはんえ)でありまして、これはお釈迦さまの三大法会として重んぜられております。
お釈迦さまは「シャカ」というお名前ではありません。インドの一地方にシャカ族という集団がありました。そのシャカ族の王子としてお生まれになり、最終的に「シャカ族を代表する立派な方」ということで、釈迦の釈と尊い人の尊という字を合わせ「シャカ族の中で最も尊い人」ということで、「釈尊」あるいは「お釈迦さま」といわれるようになりました。
お釈迦さまのお生まれになるご様子につきましては、母君が出産のため、ご自分の実家へ向かわれる途中、ルンビニー園という所へ差し掛かった時、美しい花の下に至り、たれさがった花の枝を取ろうとした時に、たまたま産気付かれ、お生まれになったとされています。右の脇の下からお生まれになったということは、王族(士階級)は臂(うで、肩のつけね・脇)から生まれるという古代インドの伝承によるものですが、それはそれとして素直に受け止めておきたいものだと思います。
さらに、生まれ落ちるやすぐに七歩あるいて立ち止まり、「天上天下唯我独尊(天にも地にも我一人)」と唱えられたと言われています。
城にお戻りになり、「シッダルタ」と命名されましたが、悲しいことに、お釈迦さまの母君はお釈迦さまをお産みになって7日目に亡くなられ、その後は母君の妹に当たる方に養育されました。
いずれにしても、お釈迦さまがルンビニー園で誕生なされた時に、竜王が空中より香水を灌ぎ、身体をお洗いになったという因縁にもとづいて「お花まつり」の時には、きれいなお花をかざった、「花御堂」の中にお釈迦さまをおまつりして、甘茶を灌ぎ供養を行う行事が、日本各地で行われています。 この行事も偉大な宗教家「お釈迦さま」への仏教徒の尊敬の意のあらわれです。
 
ハヤマ信仰

 

東国、なかでも奥羽に多くみられる信仰です。このハヤマは、麓山・葉山・端山、羽山などの字が当てられ、本山(奥山)に対する端山という意味のほかに、この世とあの世の「はじ・端」という意味でもあったと言われ、またの名を「仏山」と呼ばれて、祖霊信仰の対象となっています。
縄文の昔から、死によって肉体は滅んでも霊魂は決して滅ぶことなく人の死後、肉体をさった霊魂は、山に昇り子孫を見守ってくれるものと信じられてきました。
祖先の霊は年月を経る事によってやがて神になり、その神が里の子孫の暮らしを守る事から「作神信仰」となり、農作神とりわけて稲作の信仰を集めることになったといわれています。
各地に残るハヤマ信仰を最もよく伝える行事に福島市松川町、黒沼神社の「金沢の羽山ごもり」があります。女人禁制の神事で、厳重な禊斎を重ねたというこの信仰は、出羽三山の修験信仰とも結びついて、きわめて山岳信仰の色濃いものとして伝承されてきたとされています。また、五穀豊穣と無病息災を祈願して古くから行われているもので、稲の作況を予祝する「田遊び」の素型を伝える貴重な行事とされています。
毎年旧暦の11月16日から18日まで、麓の黒沿神社の籠り屋で、女人禁制で、厳格に水垢離をとり、精進料理を食べ、祭が執行されます。
16日はハヤマ神に供える餅つきの儀「お峰つき」と、よいさあのかけ声で代かきや苗打ちをする儀「よいさあ」の行事、17日は悪魔払いや家内安全を祈祷する「小宮まいり」の儀が行われ、18日の最後の日には、早朝に御山と称するハヤマに登る「お山かけ」の行事が行われます。山頂では先達と称される神社の宮司が神降ろしを行い、ノリワラという男性に神を憑依させて、稲作の豊凶をはじめ、五穀、天候、災害、火難など23項目にわたる託宣を得ます。
この内容が村人にとっての一年間の生き方の指針になるのです。
行事の参加者はすべて村人で、参加回数によって役を与えられます。最初の一年目から4年間はコソウと呼ばれ、一種の見習いで、幹部はカシキと呼ばれて託宣で選ばれます。行事の主宰者は先達とノリワラですが、中心になって事をすすめるのはカシキのうちから選ばれたオガッカアです。
行事は女人禁制ですが、役職名には女性名が付けられていて、オガッカアの補佐はヨメ、後見役はバッパアといわれ、翌年か翌々年にオガッカアになる予定の者がワカオッカァとしてつく場合もあります。任期はすべて二年で、毎年行事が終了するとヨメトリと称して、神が下す託宣によって新たにヨメを決定します。
それぞれ役が決まっていて、オガッカアが行事の主役となります。オガッカアは御山に登る時にハヤマ様の御神体を持って登り、ヨイサアという田遊びで、代掻きや田植えの所作をして農耕の予祝をする時には人が扮する神馬に乗ります。山に持っていく餅をつく時は、オガッカアがつき始め、ワカオッカアが相取りをし、ヨメがかえして、バッパアが太鼓役になるというように、家族の成員になぞらえて事が進んでいきます。
「ケガレ」の「ケ」は日常性を象徴的に表す言葉で、穀物、特に稲の霊力や生気ある力、「気」でもあります。「ケガレ」は、穀物の生長が弱まり、生命力も衰退する「ケ」が枯れた状態といわれます。この状態から活力を取り戻すのが、「ハレ」としての非日常の「マツリ」なのです。
女人禁制として女性を排除した儀礼の場であるにもかかわらず、あえて女性名を使うのは、非日常性を象徴し、強調することになります。
女装こそしていませんが、お互いに女性名で呼びあい食事の準備から掃除まで一切の生活を男性が仕切って、日常生活の様相を女性の立場に立って体験するという性の越境を通じて、日常を越えた世界を具現化するのです。また、男性でありながら女性名を持つという一時的な両性具有者になることで、境界を越え神と人の間に立つ巫女のような「依りしろ」(媒介者)としての機能も強化されるのでしょう。
山岳信仰の女人禁制は、一般には女性差別と混同されがちですが、一方的に女性を拒否しているわけではなくて、女性原理を内包しているものなのです。

チベットの生と死の書

 

カルマ
転生の背後にある真理、転生をうながす力、それがカルマと呼ばれるものである。西洋ではカルマは運命や宿命と誤解されることが多いが、宇宙を支配する絶対に誤ることのない因果律と考えるのが正しい。カルマという言葉は本来「行為」を意味するものであり、行為のなかにひそむ力であると同時に、行為がもたらす結果でもある。
さまざまなカルマがある。国際的なカルマ、国家的なカルマ、都市のカルマ、個人のカルマ。すべてが複雑な相互関係にあり、悟りにいたったものだけがその全容を理解する。
平易な言葉でいうと、カルマは何を意味しているというべきだろう?それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。
悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから。
わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。
わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。
また、人間一人ひとりの個性の違い、その驚くべき違いを満足のゆくように説明するのもカルマである。同じ家に生まれても、同じ国に生まれても、似た環境に育っても、すべての人が異なった性格を持ち、まったく異なった出来事に出会い、異なった才能や性向や運命を持つのである。
ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
善き心
つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。これは決して忘れてはならない重要なことである。
そう、それは動機にかかっているのだ。良い動機、悪い動機、それがわたしたちの行為の結果を決定するのである。シャーンティデーヴァは言った。
この世にある喜びという喜びは
他の幸せを願う気持ちからやって来る
この世にある苦しみという苦しみは
己の幸せを願う気持ちからやって来る
カルマの法則は不可避であり不過謬である。そのため、わたしたちが他者を傷つけるとき、わたしたちは自分自身を傷つけているのであり、他者に幸福をもたらすとき、自分自身の未来に幸福をもたらしているのである。ダライ・ラマは言う。
あなたが――怒りといったような――自己本位な動機をおさえ、他人に対するいっそうの思いやりやあわれみを育てようとするとき、それは最終的には他のどのような手段がもたらすよりもはるかに多くの利益を、あなた自身にもたらすことになるのです。
そこで、わたしは時々、賢い利己主義者はこの方法を実践すべきだと言ってみます。愚かな利己主義者はつねに自分のことを考えています。しかし、その結果は望ましいものではない。賢い利己主義者は他人のことを考え、できるだけ人を助けます。そしてその結果、彼ら自身もまた利益を受けるのです。
生まれ変わりの事実からひとつの本質的な意味を引き出すとすれば、それは、思いやりを育てなさい、ということになる。生きとし生けるものがいつまでも幸福でいることを願う思いやりを、その幸福を守り育ててゆくべく行動する思いやりを、やさしさを、実践しなさい、ということなのである。ダライ・ラマは言う。「寺院など必要ない。難解な哲学など必要ない。私たちの脳が、私たちの心が寺院なのです。やさしさが、わたしの哲学なのです」
つまり、カルマは宿命論的なものでも予定説的なものでもないのである。カルマとは、わたしたちの創造し変化する能力をいう。それは創造的なものなのだ。なぜなら、なぜ、いかに、行動するかを決めるのはわたしたちなのだから。わたしたちが未来を変えるのだ。未来はわたしたちの手のなかにある。わたしたちの心の手のなかに。
チベットでは、「悪行にもひとつ良いことがある。それはあがなえるということだ」という。そう、つねに希望はあるのだ。人殺しや極悪な犯罪常習者であっても、変わることができ、彼らを犯罪に導く条件づけを乗りこえることができるのである。
何であれ今起こっていることは過去のカルマの反映なのだ。そのことを知っていれば、本当に知っていれば、苦しみや困難に見舞われても、それを失敗や破局と見ることはなくなる。あるいは苦難を何かの罰であると思ったりすることもなくなる。自分を責めたり、自己嫌悪におちいることもなくなる。くぐり抜けてゆかねばならない苦痛を、過去のカルマの完成、過去のカルマの結実と見るようになるのである。
チベットでは、苦しみは「過去のカルマをきれいに掃きだすほうき」だという。ひとつのカルマが完了したことをむしろ喜ぶべきなのだ。「幸運」すなわち良いカルマの結実は、上手に利用しないとまたたくまに過ぎ去ってしまうかもしれないし、「不運」すなわち悪いカルマの結実は、実は成長のためのまたとないチャンスなのかもしれないということを、わたしたちは知るべきなのだ。
カルマの働きを見るのは難しいだろうか。ただ少しばかり自分の人生を振り返ってみるだけで、何らかの行為の結果がはっきりと見えてくるのではないだろうか。腹を立てたり人を傷つけたことが、結局は自分にはね返ってこなかっただろうか。そこであなたは苦く暗い思い出と自己嫌悪の影をいだいてたたずまなかっただろうか。その思い出と影がカルマなのだ。習慣も、恐れもまた、カルマによるものだ。過去のみずからの行為の、言葉の、思いの結実なのだ。
自分の行為を子細に見て、真に行為に気づいていると、やがて行為のなかで繰り返されている一定のパターンがあることに気がつくだろう。わたしたちが悪しき行為を行なっているとき、それは苦痛と苦難に向かっているのであり、わたしたちが善き行為を行なっているとき、それは最終的には幸福をもたらすのである。
責任
臨死体験の報告が、実に的確な驚くべき真理の証となっているのに触れて、わたしは非常に深い印象を受けてきた。多くの臨死体験に共通した要素のひとつであり、さまざまな考察を呼んできたものに「全生涯のパノラマ的回顧」がある。この体験をした人々は、一生の出来事を細部にいたるまできわめて鮮明に思い出すだけでなく、みずからの行為がもたらしたあらゆる結果をも見るようなのだ。事実彼らは、自分の行為が他者におよぼした影響と、他者のなかに引き起こした感情――それがどんなに不快であれ、衝撃的であれ――をつぶさに体験するのである。
わたしの一生のすべてが次々と浮かんでは消えていったのです。それは恥ずかしいことばかりでした。というのも、かつてのわたしの考え方は間違っていたようなのです。……わたしがしてきたことだけではなく、それが他の人々におよぼした影響も見えるのです。……人が考えていることも、ひとつとして見落とすことはないのです。(レイモンド・A・ムーディ・Jr『続・かいまみた死後の世界』)
一生がわたしの前を通りすぎてゆきました。……そこでわたしは、一生のうちに感じたすべての感情をもう一度感じたのです。そして、その感情がわたしの人生をどのように左右していたかという基本的なことを、わたしの目に見せてくれました。わたしが人生でしてきたことが、他の人々の人生をも左右して……。(ケネス・リング『霊界探訪』)
わたしは自分が傷つけている相手でもあり、自分が喜ばせている相手でもあったんです。(レイモンド・A・ムーディ・Jr『光の彼方に』)
それは、わたしが思ったり考えたりした思考のすべてを、今一度完全に生きなおすことだったのです。口にしたすべての言葉、行なったすべての行為をです。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行ないがおよぼした影響をです。すべての人への影響です。わたしが気づいていたかどうかに関係なく、わたしの近くに、わたしの影響がとどく範囲にいたすべての人への……。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行ないがおよぼした天候や植物や動物たちへの、土や木々や水や大気への影響です。(P・M・H・アットウォーター『CamingBacktoLife』)
これらの証言をごく真面目に受け止める必要があると思われる。それはみずからの行為や言葉や思考が持ちうるあらゆる意味に気づくための助けとなり、それによって私たちはより前向きに責任を引き受けるようになるからである。
多くの人がカルマの実態に脅威を感じることをわたしは知っている。彼らはその自然の法則から逃れるすべのないことを理解しはじめた人々である。カルマなどといったものを一切軽蔑し、それを公言する人もいるが、そういった人も、心の奥深くではみずからの否定に深い疑念をいだいているものなのだ。日中は、あらゆる道徳に対する恐れを知らぬ侮蔑もあらわに、これ見よがしでがさつな自信をもって振る舞っていても、夜一人になると、その心はしばしば暗く沈み、不安におびえるのだ。
東洋と西洋の両方がそれぞれに、カルマの理解から生じる責任を回避するための独特の方法をあみだしてきた。東洋では、カルマは人の助けに手を差し伸べずにすますための口実として使われる。人が苦しんでいると、それは「あの人たちのカルマ」だからどうしようもない、というのである。
一方、自由思想の西洋社会では、人はその反対の手を使う。カルマを信じる西洋人は過度に敏感で、用心深くなりがちで、誰かを手助けすることは、その人が「みずからけりをつけなければならないこと」を邪魔立てすることになる、というのである。
われら人間の何という逃避と裏切り!しかし、それもカルマなら、人を助けるすべを見出すのもカルマなのだ。わたしの知人のなかには資産家も何人かいるが、怠惰と利己主義が助長されて、富が彼らの命取りになることもあれば、富によって他の人々を真に助けるチャンスをつかみ、それによってみずからを助けることもある。
自分が行為と言葉と思考によって選択権を行使していることを決して忘れてはならない。そして、選びさえすれば、わたしたちは苦と苦の原因に終わりをもたらし、わたしたちの真の可能性を、仏性(ぶっしょう)を、目覚めさせることもできるのである。この仏性が完全に目覚め、無知から解放され、不死の心、悟りにいたった心とひとつになるまでは、生と死の巡りに終わりはない。そのため師たちは言う。今のこの生で自己にできるかぎりの責任を負わなければ、苦しみは先々の生にわたって続いてゆく。それも数限りない生にわたって続いてゆくことになる、と。
だが、カルマの法則に従い、わたしたちのなかに慈しみとあわれみの善き心を目覚めさせてゆけば、心の流れを浄め、心の本質についての智恵を徐々に目覚めさせてゆけば、わたしたちは真の人間になることができるのである。そしてやがては悟りにいたるのである。
アルバート・アインシュタインは言った。
人間は「宇宙」と呼ばれる全体の一部なのです。時間と空間のなかに限定された一部なのです。人間は自己を、自己の思考や感覚を、他から分離したものとして体験します。――それは意識の視覚的錯覚とでもいうべきものです。この錯覚は、わたしたちを個人的な欲望と、ごく身近な幾人かの人間への愛情に縛りつけている、一種の牢獄なのです。わたしたちの課題は、すべての生きとし生けるものを、自然のすべてを、その美しさのままに包み込むまでに慈しみの輪を広げ、わたしたち自身をこの牢獄から解放することにあります。 
 
神の発見 / 心霊第二の門

 

1 霊魂の存在を知ることの大切さ
霊魂の存在を知らないための悲劇を一つお話しておきましょう。
長野県の15歳になる女子中学生が自殺しました。「教師なんて信用できません。教えてくれるものは本音と建て前の使い分けくらい」とノートに書き残した、この多感な少女は、また「もうすぐ苦しみから解放されるということだけが楽しみです」と遺書を残し、首を吊ったのです。
この少女にとって現世は虚偽に満ちた苦であって、死こそはその苦から解放してくれるただ一つの楽しみであったのです。何となれば、死とは無になることだと思っていたからです。いったいこの少女を誰が殺したのでしょうか?それは、死を無になることだと教えた、教師であり、親であり、この間違った文明そのものです。
それでは、霊魂の存在さえ知っていれば、人は誰でも幸せになるのでしょうか?いえ、まだもう一つのことが大切です。正しい死後の霊魂の姿、この事実を神霊研究で学んでおくことが肝要です。
自殺者の霊魂は、死後長い間、暗い境域で苦しまなければならないということ。それは、生命という火花を、自らの手で消したのですから、人間の最大の罪です。
現世は苦と申しますが、他界も、実に素晴らしい天界のような所があるかと思えば、逆に現世以下の地獄の様相の所もあるからです。そのどちらに入るかは、この現世での私たちの生活と心構えが決めることです。私たちは他界の姿も正しく知っておかねばなりません。 
2 皆さんは、何のためにここへ来たか
スプーン曲げ「超能力少年」が麻薬パーティーを開いて、懲役8カ月になったという記事が新聞に載っていました。
異常な超能力があるということは、一種の天才です。天才がなぜ犯罪とかかわりあいになるのでしょうか。天才を天才にしているのは、背後に強力に働いている霊魂です。問題はこの霊魂が善霊か邪霊かということです。
スプーン曲げのような物理的な現象には、えてして低級な自然霊や動物霊のようなものが働く場合があります。そのスプーン曲げも、世のため人のためという目的なら、けっして低級な動物霊などはかかりません。仮に動物霊が直接働いても、その背後に必ず科学的な立場をとる人霊が働いて監督をしています。
しかし、もし単に見せびらかして誇示したり、人をびっくりさせることだけが目的なら、つまり心霊現象を興味本位や何らかの利得のために行なうのなら、その現象がどんなに素晴らしくても、いずれ天才の末路は転落に終わります。それは、その低級霊によって身を持ち崩されてしまうからです。
我々は、その心霊現象の素晴らしさだけに目を奪われてはなりません。その霊媒や天才が、どんな目的や動機でそれを行なっているかによって、その価値を判断することが大切です。
同じように、私たちが心霊に興味を持つとき、どんな目的でかかわるかが最も肝要なところです。もし興味本位や、利得を目的に心霊の門をくぐるなら、待っていましたとばかり、邪霊の餌食になって翻弄されます。一時的に病気が治るとか、事業がうまくいったとしても、それで盲信させたあげく、最後は見事に背負い投げを食わせて転落させます。邪霊はそのように人を翻弄し、身を破滅させることをもって楽しみとしているからです。 
3 物神支配の時代
400年ほど前、フランシス・ベーコンという近代科学の祖が「知は力なり」と言いました。これが物神の誕生です。つまり、「科学の法則は幸福を生み出す力である」という意味です。ここに、人間の幸福は物質によって得られるという考え方が隠されているのです。それは当時経済的に興隆しつつあった西欧全般の人々の考え方でした。
それから、世の中は急速に物が豊かになり、便利になったのです。その意味で、物質文明の救いの神は科学です。19世紀の半ば、科学が機械に利用され始めた頃が、人類における物神支配時代の始まりで、第二次世界大戦以後が物神の支配確立時代です。
この物神とは、「お金さえあれば、物さえあれば」という考えです。その考えが、我々の中に仮住まいしている物神の声です。この神は現実に存在します。人の念は生き物です。間違った念でも、さながら霊そのもののように地上をさまよい、人に感応し、人を動かし、人の運命を変えます。
この物神が今、世界中をのし歩き、多数の人類の中に巣くい、わがもの顔で地上に君臨しています。これは人間が創り出したものとはいえ、生き物です。現実に人類と世界と地球を壊す力をもった神です。 
4 危機は来る
現実的に見ますと、科学技術文明の発展で人類は死にかけています。核戦争の危機、公害による大地・海・大気の汚染、生態系の破壊、つまり地球の死が刻一刻と進行しています。
化学薬品・農薬・食品添加物による人体への影響、つまり体の異常や奇形児の出産が進行していることは事実です。科学技術文明は輝かしい物質の享楽の裏に、人体を確実に破壊しつつあります。このままなら、人類の滅亡は時間の問題です。
滅亡はもう決定的といえるほどです。それは目に見えない世界、霊界や幽界において、地球の破壊現象が発生しているということです。人間世界のこと、地球上のことは、まず霊界に、次いで幽界に原因が発生し、これが現界に表面化するということです。幽界で人類の破壊現象が始まったら、もうとうてい地上の破壊は食い止められません。
目下、幽界では邪悪霊の跋扈が目に余るほどになっています。その原因は、人類の精神が悪化したからです。なぜ悪化したかというと、唯物主義化したということです。どうしたら得をするか、金儲けできるか、かっこいいか、権力が握れるか、ただそれだけで現在の人類の大勢は動いています。私のいう物神崇拝です。
幽界の邪悪霊は、こういう人間の退廃堕落をことのほか喜びます。それが彼らの活力源だからです。彼らも私たちと同じように栄養をとって生きています。彼らの栄養は心の糧です。人間も霊ですから、食物のほかに心の栄養が必要なのです。幽界の霊は、この心の糧をエサとして、元気を出したり、不足すると意気消沈したりするのです。
幽界の邪悪霊の最大の好物はなんでしょうか?人間の邪心です。殺意とか、いじめとか、嘘とか。また退廃堕落の心です。よろめきとか、欲得とか、怠惰とか、虚飾とか。
今の世の中をご覧ください。そういうものでいっぱいではありませんか。これが科学技術文明の産み落とした唯物主義というものです。
幽界の邪霊たちは、今たっぷりとこのご馳走にありついてご満悦です。元気旺盛で活躍しています。彼らのお気に入りは殺人です。人をたぶらかして悪の道に引きずり込むことです。退廃・犯罪・自殺・事故・テロ・戦争・天変地異――これらは彼らの好んでいるものです。
なぜ青少年の暴力や自殺が多いのでしょうか。なぜ中高年も含めた不倫が横行するのでしょうか。なぜテロが後を絶たないのでしょうか。なぜ事故が頻発するのでしょうか。これらの背後に、そのように人間の心に働きかけて、そういう犯罪を犯させて喜んでいる邪悪な霊たちがいるからです。邪悪霊は自然現象にも影響を及ぼします。つまり天変地異にまで干渉するということです。 
5 人間は着物に包まれた神子
人間とは何かについて述べてみます。
人間とは、神の火花である霊と、肉体および目に見えない幽体・霊体・本体から成り立っています。肉体・幽体・霊体・本体の4つを総合して媒体と言います。
タマネギを想像してください。一番外側の皮が肉体です。その皮を1枚めくって出てくる次の皮が幽体です。もう1枚めくると霊体が出てきます。まためくると本体が出てきます。本体の中にタマネギの芯があります。それが霊(神の火花・神の子・人間の本体)です。
さて、タマネギに譬えましたが、本当は少し違うのです。皮のように重なっているわけではなく、幽体はスポンジに水が浸透するように肉体の中に浸透しているのです。スポンジが肉体で、水が幽体です。その幽体は肉体とまったく同じ形をして、肉体に浸透しています。
次に、霊体は幽体に浸透して、これは卵形をしています。さらに本体は霊体に浸透して、これも卵形をしています。そして、霊体と本体の大きさは、精神の未発達の人は小さいのですが、発達した人は大きく肉体の外に張り出して光輝を放っています。
さて、「浸透している」とはどういうことでしょう。スポンジが水を含むということは、スポンジの粗い粒子の間に、細かい水の粒子が入り込むということです。つまり、肉体の粒子よりも、幽体のほうが細かい粒子でできているということです。同じように、霊体は幽体よりも精妙な粒子でできており、本体はさらに精妙な粒子でできているのです。
4つの媒体にはそれぞれ役割があるのです。肉体は欲望(食欲や性欲などの本能)の媒体。幽体は感情(怒り、恨み、憎しみ、悲しみ等)の媒体。霊体は理性の媒体。本体は英知の媒体。 
6 2つの「私」
さて、「私」とは何でしょう。本当の「私」は、霊(神の子)です。ところが現実の「私」は欲望やいやな感情を持った鬼子です。どっちがホンモノでしょうか。
マイヤースはその優れた霊界通信『永遠の大道』の中で、人間には2つの「私」があると述べています。1つは上魂(大我)で、いわば上方からの光。他は下魂(小我)で、現実の自我意識です。そして、普通の人は下魂だけで生活しており、稀に上魂の光が射す程度だと付け加えています。つまり、下魂とは欲望や感情の固まりである日常の「私」のことです。まれに上魂から射す光とは、良心の声、英知の声と思えばよいでしょう。
では、なぜ下魂つまり現実の鬼子の「私」の心が生まれるのでしょう。マイヤースは下魂を「数世代にわたる記憶の累計」と言っています。過去の経験の積み重ねが、現在の「私」の性向や人柄を作り、それが現実の「私」の心に作用するのです。
実は、あなたの幽体も霊体も本体も、完全無欠な記憶のコンピューターなのです。あなたの日常の行為、話した言葉、思ったこと、考えたことのいっさいを、完璧に記録します。幽体は感情に関することを、霊体は理性的な行為や判断を、本体は良心の声、無私の犠牲的な愛の行為を記録します。
「壁に耳あり」と申しますが、あなた自身が完全無欠なコンピューターをいつも背負って歩いているのです。死後、人は生前の行為によって行くべき世界が決定されます。平均的な人は常夏の国サマーランドへ、邪悪な人はいわゆる地獄へ、優れた人は高級霊界へ、などという形で。
この裁定はみじんも狂いなく公正です。それは人間の媒体(肉体・幽体・霊体・本体)に、生前の記録が細大漏らさず残っているからです。媒体の記録簿には、本人が腹の底で何を考えていたかまで、ちゃんと克明に記録されていますから、この腹の底の本心までずばり裁定されます。 
7 「私」はカルマの結晶体
人間は生まれてから今日までの記録簿だと申しました。ここでマイヤースを思い出してください。小我とは「数世代にわたる記憶の累計」と言ってました。そうです、いくつもの前世の記録のコンピューターが人間なのです。
人間は生まれ変わるのです。このことについては、マイヤース『永遠の大道』、アラン・カーデック『霊の書』、『シルバー・バーチ霊言』、『ホワイト・イーグル霊言』など、世界で最も有力な霊界通信の多くが承認しています。再生論も、全面的再生論と部分的再生論の2つがありますが、ここでは単に「人間は再生する」ということで話を進めます。
ということで、人間は何回、何十回、何百回かの再生をしているでしょう。現在のあなたは、そのすべての過去の経験の記録を背負ったコンピューターです。
ホワイト・イーグルの言葉を引用しますと、「現在のあなたの肉体を作ったのはあなた自身です」ということなります。ホワイト・イーグルの言葉をさらに引用します。
「人間とは、日ごと夜ごと、自己を刻む者。1日に自己に印を付けぬ日はなし」
「地上生活中に、みなさんは自分の諸媒体を作りつつある」
「皆さんは、再生したときに地上で表現するあなたを、諸媒体を、いま作りつつある」
「来世のあなたを作っているのは現在のあなた。現在のあなたの肉体を創ったのはあなた自身である」
あなたの肉体も幽体も霊体も本体も、みんな前世のあなたが作ったものです。どうしてそういうことになるのでしょうか。人間は死ぬとあの世に行きます。そのときは肉体を脱いだだけで、幽体・霊体・本体は着けたままです。
ホワイト・イーグルはこれを次のように説明します。
「このとき、本体の中に3粒の大切な種子がしまわれる。これを我らは不滅の種原子と呼ぶ。この種原子こそ、再生したときに入る媒体を作るための準備なのである」と。
死ぬと、生前の肉体・幽体・霊体の経験を、ひと粒ずつのエキスとした原子が本体のなかに内蔵されるのです。そしてこれが再生するとき、新しい肉体・幽体・霊体の種子となるのです。ですから、新生児の3つの媒体は、前世の経験のすべてを背負った形で生まれてくるのです。
現在の我々の媒体は、過去の幾多の人生を1つに集めたカルマ(業)の結晶体なのです。この3粒の種原子が本体の中に内蔵されるのは、本体は作り変えられることのない霊の皮膚だからです。肉体・幽体・霊体の3つは、再生のたびに取り替えられる、霊の着物です。
霊は、再生するとき、次の人生の運命のだいたいのコースを選択します。それは自分にいちばん欠けている試練を学習するためにです。たとえば、次の人生で病身となることで何かを学びたいとか、武術を通じて自分を鍛えてみたいとか。
そして、自分に相応しい両親を選び、それに相応しい遺伝子を両親の中から選び取ります。ですから、肉体の材料はもらっても、その原型は本人そのものです。これがホワイト・イーグルの言う「肉体は自分が作った」という意味です。
以上の内容で、人間がどんなに複雑な生き物か想像できましたか。「私」がいまここにあるのは、偶然に両親から生まれたからではないのです。カルマの殻を背負って、何世代もかけて生き続けている何者かなのです。
さてさて、神は何のためにこんなことをなさったのでしょうか。人間に精巧無比の記憶コンピューターを背負わせて、死んでも死んでも生き返らせて、そのたびに前世のカルマのツケを背中のコンピューターに加えていかれるのです。何のためでしょうか。
もう一度、ホワイト・イーグルの言葉で回答としましょう。「過去のカルマは病気の形で現れることもあるし、また、生活の境遇の形で現れることもある」と。
病気とか、貧窮とか、争いとか、事故とか、人間の不幸災厄の源にカルマがあるのです。では、カルマ(業)とは何でしょうか。それは人間の不心得、つまり悪い感情とか欲望とかです。つまり、幽体の汚れ、染みです。これが人生百般、一切災厄不幸の原因なのです。
私たちは生まれ変わり死に変わり、前世で消し損なった欲望や感情の染みを、幽体に再生して生まれてきます。それを一生かけてせっせと浄化すべく、努力もするのですが、片方ではどんどん新しい染みを加えていきます。この積み重ねられた感情と欲望の集積がカルマ(業)です。ですから、あなたのいっさいの不幸・災い・不運の原因はあなたの感情と欲望からきているのです。これを消し去ってしまえば、もうあなたにはいっさいの不幸は起こりません。ですから、正直で心がけの良い人は幸福となり、邪悪で心がけの悪い人は不幸になる、ということです。
ですが、ここで誰もがひっかかるのです。「あんなに良い人なのに、なぜ病気ばかりするのだろう。不運続きなのだろう」と。また、反対に「あんな悪い奴が頑健で、うまい汁を吸ったりするのは腑に落ちない」と。
これもやはりカルマなのです。人間の幸不幸は、生まれてから後に行なった不心得が原因になりますが、もう一つ、前世からのカルマがあります。
私たちは、次の人生でどのカルマを学習するかを、再生する前に自分で選んで生まれてきます。そして、それに相応しい両親、環境を選択します。生まれてくると、そんなことはすっかり忘れてしまいますから、誰しも白紙の未来をもったようになるのです。
良い人なのに病弱で不運続きの人の中には、こういう種類の人たちがいます。この一見不幸そうに見える運命から逃げず、克服するとき、その人はカルマを征服し、生まれてきた意義を全うするのです。
反対に、邪悪なのに頑健で、うまい汁を吸っているように見える人間は、良いといってもほんの一時です。その邪悪な日常によって新たなカルマを生み、必ずいつか健康も失われ、生活も大穴をあけてしまいます。一時良いように見えたのは、その人にとって試練だったのに、見事にひっかかってしまって、新しい大きなカルマを背負い込んでしまうのです。
人は外見だけで幸不幸ははかれません。現在をどう生きるかが大切です。人の織りなす運命は、たしかにカルマの結果ですが、その人の試練に最も相応しいように選択されています。それが良いか悪いかは、その人が運命にどう対処したかで決まります。
もう一度考えてみましょう。神は何のために、私たちにコンピューターを取り付け、そのコンピューターに過去のカルマのすべてを記録させたのでしょうか。それは、カルマから不幸災厄を生み出させるためですね。とすれば、神は意地悪で人間をいじめているのでしょうか。そうです。そのことに間違いはなさそうです。
ですが、もし神がそうしなかったらどうなるでしょう。どんなに欲望や悪い感情を持っても、それが記録されず、カルマなどいっさい作られなかったら‥‥。これは天国でしょうか。したい放題にできて、何の罰もないのですから‥‥。
はたしてそうでしょうか。それでは最も欲が深く、最もずる賢くて、最も力の強い者がしたい放題をして、他のすべてを支配するでしょう。皆さんはそのような世界を望まれますか。これこそ地獄ではないでしょうか。
ですから、私たちのしたことがすべて記録されることは幸せなことなのです。それが集積されてカルマを作り、カルマから必ず不幸が生まれるのも、大変幸せなことなのです。
もし不幸の痛みがなければ、私たちはこの不幸から逃れようとしないでしょう。ということは、カルマを積み重ねても平気だと言うことです。いくらでも欲望や悪い感情を発揮してもよいことになります。これはやはり地獄、悪魔の支配する世界です。
だから、痛いことは幸せなことなのです。病気・貧困・争い・災禍、これらが辛くて耐え難い悲しみであることは、感謝すべきことなのです。そうでなければ、人間は怠け者ですから、きっとその不幸から逃れようとすることはないでしょう。
神が私たちにカルマの注射をなさる意味がわかっていただけたでしょうか。神は実に偉大です。深慮です。私たちを自由にしておいて、うるさいことは何もおっしゃらず、毎日黙ってカルマ注射を打っていらっしゃる。それだけで、わがままで怠け者の私たちが、飛び上がるように驚いて、不幸から逃れようと、その原因である欲望や悪い感情を発見してそれをきれいにしようと、日夜努力するようになるのです。
こうして、私たちは神に近づきます。一歩一歩、神の子である自分に気づき、それを表現できるようになります。 
8 人の媒体は通信機器
ホワイト・イーグルはこう述べています。「我々は受信局であり、発信局である。我々は目に見えない他界の霊の思想に反応するだけでなく、現世の他人の波動にも反応している」と。
肉体が受信・発信の通信機器であることはわかります。言葉は耳で聞きます。目で人の振る舞いを見て、その思想をキャッチします。口で自分の思いを発信します。目や手足のジェスチュアだって、自分の意志を表現します。立派な通信機器です。
ところがホワイト・イーグルは、肉体以外の幽体・霊体・本体が、人の思想を受信したり、霊と反応し合っていると言うのです。霊能者だけでなく人間はすべてその媒体で霊とも人とも交信していると言うのです。
それはなぜかというと、思想とは電波と同じように波動だからです。宇宙とは波動と言ってよいようです。ご存じのように、物質の源は原子です。原子の中心に原子核があり、その周囲を電子という微粒子が回っています。ところが、この電子は粒子ですが波でもあるのです。つまり、私たちの肉体はもちろん、石や花、机や椅子なども、それを構成している粒子は波動でもあるのです。A・J・デヴィスのような霊格者の霊眼には、物質の原子の姿やその動きがありありと見えます。
地震は大地を伝わる波ですね。海の波は水を伝わる波、音は空気を伝わる波です。これらはいずれも土や水、空気といった物質の中を伝わる波です。ところが、真空を伝わる波動があります。これを電磁波と言います。
電磁波には、波長の粗いものから極めて精妙なものまで、いろいろの段階があります。一番波長の粗いものが電波です。これにも長波、中破(ラジオに使用)、短波、もっと精妙な超短波(テレビ放送に使用)、マイクロ波(レーダーに使用)と、波長の段階があります。
波長がさらに精妙になると、光になります。光にも段階がいろいろあって、波長の粗いものから赤外線、可視光線(人の目に見えているのは、ほんのわずかなこの部分だけです)、その上に紫外線とあり、もっと精妙になると放射線となります。レントゲン線、ガンマー線などです。
このように、宇宙に存在するエネルギーは電波、光、放射線のように、すべて波動、それも粗から精妙へと数限りない段階を持つ波です。この波がもっと精妙になっていくと、何になるのでしょうか。それはまだ科学では分かっていません。
科学では、未発見の思想エネルギーというものがあると考えられています。そして、心霊研究では、この「思想」が波動であると分かっています。霊とは思想です。神とは霊の本源、思想と言えます。そして、私たちは霊、神の子、思想です。波動なのです。また私たちは想念とも言えます。したがって、互いにこの想念を受け取り、また発信するために媒体が備わっています。肉体が音波(耳)や可視光線(目)の受信機であったように、もっと精妙な思想の波を送受信するための媒体が、幽体・霊体・本体なのです。
思想も電磁波と同じように、粗雑な波長(欲望や悪い感情など)の媒体が幽体、もっと精妙な波長(理知)が霊体、さらに精妙な人間至高の波長(利他的な愛や奉仕の精神)の媒体が本体というふうに、段階が分かれています。 
9 人間の恐ろしさ、不可解さ
人間の媒体が通信機器だということがおわかりいただけたでしょうか。ホワイト・イーグルは、この通信機器は人とも霊とも交信できると言いました。A・E・パウエルは『神智学大要』で次のように警告しています。
「我々は道を歩いている時、実は他人の想念の海の中を歩いているのである。我々の心が一時空白になると、他人の想念が我々の中を通り抜けていく」と。
またアラン・カーデックの『霊の書』はこう教えています。
「(問)霊は私どもの思想や行為に影響を与えますか」
「(答)その影響は諸君が想像するよりも大きい。諸君の思想も行為も、これを動かしているのは霊たちであるから」。
これがどんなに恐ろしいことか分かりますか。あなたは24時間つけっ放しのテレビジョンなのです。夜寝ているときも、あなたというテレビには他の人間と霊からの思想の放送がどんどん入ってきます。それも世界ネットワーク放送です。世界中の見知らぬ人からの思想がどんどん入ってくるのです。しかも、それは幽界テレビでもあるのです。霊たちからの放送も容赦なく入ってきます。
ところが、こうして霊や他の人からの思想放送が絶え間なく入ってくるのですが、本人はそれが外からのものだとは一向に気がつかないのです。それをまったく自分の思想、自分の考えだと思っているのです。
たとえば、ふとお酒を飲みたくなることがありますね。あるいは、急にどこかに行ってみたくなったり、ある考えにとりつかれて深刻になったりします。そのような場合はたいてい外からの影響でそうなったのです。ところが本人は、自分がそう思ったのだ、それは自分の思想、自分の気持ちだと考えて疑いません。これは何と恐ろしいことではありませんか。
もしそれがはっきり外からの思想であることが分かるなら、つまり、それを話す人、ささやく人の姿が見えるなら、誰しもそれを警戒します。おそらく、誘惑や危険な思想を送る霊や人は、醜悪な顔、邪悪な人相の人物でしょうから、誰しもそんな人や霊のささやきは拒絶するはずです。
ところが現実はそうではないのです。いかにももっともらしく、自分の気持ち、自分の考えとして感じるのですから、その言いなりになってしまうのです。私たちの日常は、いかに多くの誘惑に取り囲まれていることでしょう。そして、いかに多くの邪霊、いかに多くの邪悪な人間の言いなりになっていることでしょう。
「私」とは、無数の他者、無数の霊との複合物なのです。マイヤースはその霊界通信『個人的存在の彼方』の中で、こう指摘しています。
「人間は、自分がそう思っているほどに、思考や個性の独立性を持たない。我々が相互不可侵であると信じている境界の部分は交錯している」と。
これは科学の教えない人間の一大神秘です。人類がこの事実を知らない間は、正しい文明、正しい人間の進歩もあり得ないでしょう。
しかし、人間とはそんなに頼りない存在ではないのです。なぜかというと、人間が通信機器であるということは、テレビやラジオと同じように、こちらでチャンネルやダイヤルを合わせなければ、あちらからの通信は絶対に入ってこないのです。どの通信、どの霊からの放送を取り入れるかは、あなたが全部決定しているのです。
あなたに四六時中入ってくる思想は、どこの誰からのものか、幽界のどの霊からのものかはわかりません。しかし、その人、その霊に波長を合わせたのはあなたです。この意味で、あなたに入ってくるいっさいの思想は、あなたの代弁者です。ですから、あなたの思想はやはりあなたのもの。あなたはやはり「私」であり、個我であり、主体者です。ただし、今までの常識や科学が知っているものよりも、「私」とはもっと広大なもの、多くの他者と多くの霊たちにまで広がりをもつ何者かです。
そして、もう一つ大事な真理を記憶に留めてください。あなたは広大な宇宙の中から、すなわち無数にある霊や人の思想の中から、あなたの波長に合うものだけを選択して受け入れているということです。あなたはある意味で宇宙テレビです。ただし、あなたの持つ一定の波長でのみ選択して受信している1つのチャンネルのテレビです。
そして、あなたの波長とは、あなたの幽体が持っている波長です。幽体はその浄化の程度によって、それを構成する資質が粗雑なものから精妙なものへと変わります。そして、それらの資質はその精粗に応じてそれぞれの波長を持っています。人間は波長的存在なのです。そして「私」を構成しているのは「波長の法則」です。 
10 霊が人に及ぼす影響
それでは具体的に、霊が人に及ぼす影響を示します。
前章でも見ましたように(註:前章のこの部分は省略してます)、Aさんは道に落ちていた財布を10回拾って10回ともネコババした100%の悪人とします。Bさんは5回届けて5回着服した50%ずつの善悪の普通の人、Cさんは10回とも届けた100%の善人とします。
ここでまた財布を拾いました。Cさんは必ず届けます。それは本人の資質に波長が合って守護霊が働くため、迷うことなく届け出るのです。
Aさんは必ず着服します。これも本人の資質です。しかし、この資質に同調して邪悪霊が感応し、たとえば「バクチをやれ!」と誘惑します。バクチは、勝っても負けても邪悪霊は本人をそそのかして深入りさせ、サラ金に手を出させます。やがてにっちもさっちもいかなくなり、家族も巻き添えにして、ついに一家心中。邪悪霊は面白がって手を叩き、悦に入ってAさんの元を去ります。これが邪悪霊の働きです。自業自得とはいえ、財布を拾ったという一見幸運に見えることが、邪悪霊を呼び込み、本人だけでなく家族までも地獄に突き落とします。邪悪霊は人の不幸を喜びます。虎視眈々とそのチャンスを狙っています。そして、しばしばこのような悲劇の背景には、家にまつわる因縁霊が働いています。
この例の場合にも、一家心中を計画したのは因縁霊であり、この計画を面白がり、同調して、バクチをそそのかしてサラ金に手を出させたのは邪悪霊でしょう。しかし、この邪悪霊や因縁霊に波長を合わせたのは、元はといえば本人の持っている波長、すなわち100%悪のそのチャンネルなのです。
次はBさん、つまり善悪50%ずつをもった普通の人です。財布を拾うと、一瞬迷うでしょう。守護霊のささやき(良心の声)に従えば問題ないのです。しかし、たまたま面白くないことがあったりしてムシャクシャしていると、その波長の乱れに乗じて邪霊がささやきかけます。一時の心の乱れが、Bさんの専用チャンネルをはみ出して、低い波動を発するのです。
邪霊は、「どうだ、一杯やらないか?」と誘いかけます。ムシャクシャしていたBさんは「そうだ、酒は心の憂さの捨てどころ」とばかり、ついフラフラとその気になります。
いつもなら、ある程度でいい心持ちになってご帰還というところですが、この時はそうはいきません。邪霊が感応しているからです。本人もムシャクシャしていたので深酒になります。Bさんの家に因縁霊があれば、その因縁霊はこのチャンスを見逃しません。Bさんをタチの悪い酒場へと誘い出します。そこには性悪な邪悪霊がゴロゴロしています。たちまちBさんに憑依して、トコトンまで飲ませたあげく、喧嘩をさせます。自己を失っているBさんはうまく利用されて、ナイフで相手を刺します。悪霊たちはキャッキャッと喜んでBさんの身体から離れます。我に返ったBさんは、事態を知って呆然自失となるのです。
50%の悪しかもたないBさんが、なぜ100%の大罪を犯すことになったのでしょうか。これをさせたのは邪悪霊です。また、その背後で糸を引いていたのは因縁霊です。そして、その引き金となったのは、Bさんの一時的な心の迷いです。50%の悪の波長でも、100%の悪に増幅されるのです。ちょうどテレビやラジオの音量が増幅されるのと同じことです。そして、それをさせるのが霊魂の働きです。また、Bさんの殺人の裏には、殺した相手の家の因縁霊も、働いていたと思われます。つまり、Bさんは相手の家の因縁霊が狙っていた殺人の代行までさせられたのです。
さて、ここにDさんという80%の善人がいたとします。20%の悪しか持たない人ということです。Dさんの周りには、めったに不幸な出来事は起こりません。しかし、いまBさんが仕事のことか家庭のことで悩みを持っていたとします。Dさんの家にまつわる因縁霊はこのチャンスを見逃しません。Bさんに働きかけて、ふと散歩に行く気にさせます。そして、魔の踏切まで誘い出します。こんな所には交通事故死した地縛霊がウヨウヨいます。悩み事で心がうつろになっているDさんに地縛霊が憑依して、同じような形で交通事故死させることになります。
20%の悪しか持たない善人のBさんが、なぜ交通事故死という100%の不幸な目に遭うのでしょうか。波長の法則では割り切れないものがあるのでしょうか。いえ、これもやはり波長の法則です。Dさんの一時的な心の苦悩が、因縁霊に波長を合わせ、それに地縛霊が絡まったのです。霊の感応憑依は、少しの波長の乱れをもとらえて、これを増幅させようとします。ここに人間通信機の恐ろしさがあります。
次に、Eさんという人物を想定します。Eさんは50%ずつの善悪の普通の人とします。彼は父親の死後、父親と同じ胃癌になり、性格も父親そっくりになりました。これは亡父の霊の感応です。
何人も兄弟がいる中で、Eさんはいちばん父親の死を悲しんでいました。父親もEさんをいちばん可愛がっていたようです。この相互の愛着が憑依の引き金となりました。おかしなことです。愛している子供に父親が憑依して、なぜ病気で苦しめるのでしょう。
父親はEさんを苦しめる意図は毛頭ありません。でも、現実に苦しめることになっているのは、父親が亡霊だからです。亡霊とは、自分が死んだことに気づかぬため、行くべき所へ行けないで迷っている霊(成仏してない霊)のことです。
彼らは半ば夢うつつの中で、自分が生前もっていた病気を後生大事に抱え、苦しい苦しいと思っているのです。肉体はもうないのに、死んだと思っていないので、病苦はついてまわるのです。しかも、霊は想念のかたまりですから、生前よりも何倍も苦しく感じるのです。こうして、亡霊たちはその苦しさから逃れたい一心で助けを求めます。
いま、Eさんが父親の死を悲しみ、波長を合わせますと、父親はその波長の中に飛び込みEさんに憑依します。こうして父親の病気は可愛い息子に移り、性格まで移るのです。世の中の少なからざる数の病気には、こういう祖先霊の感応憑依があります。
もしEさんが心霊の原理に目覚めており、いたずらに父親の死を悲しまず、むしろ父親の霊の進歩向上を願う気持ちを持つなら、これが父親の目を開かせ、自己の死を悟らせることになります。すると、他界での行くべき世界が見えてきて、父親を救うことになるのです。死を悲しむ念は低い粗雑な波長、死者の向上を願う念は高級な愛の波長です。波長が万事を決めるのです。
さて、亡霊のことを地縛霊とも称します。行くべき所へ行かず、地上に留まったままだからです。地縛霊は大まかに分けて2種類あります。1つは、Eさんの父親のように、死後も自分の死を自覚できないため、霊界が見えなくて地上に留まっているものです。他は、地上に特殊な目的や執念があるため、地上に留まるもの。いわゆる狭義の地縛霊です。
前者は、だいたい生前に唯物的な生活を送った人たちです。彼らは霊的精神的なものの価値を認めないで、その目は地上に向いたままです。だからあの世が見えず地縛霊となります。彼らは周りが暗いところにいるだけでなく、生前の苦しみが増幅されますので、誰でもいいから自分に心を向けてくれる者に頼ろうと、助けを求めて、愛する者にでも憑依します。
後者は、因縁霊のように復讐の怨念を持つ者です。殺された怒りから、自分も人を殺そうと待ちかまえている地縛霊。もう一度地上生活をしたいと執着している霊。特定の財産とか人物とか場所とかに執着があって、地縛となっている霊。死んだら無になると思って自殺したのに、まだ意識があるので半狂乱になっている自殺霊。‥‥などなどです。これらの霊は目的を持っているので、意図的に憑依し、その災厄も大きいのです。
以上、霊が人間に及ぼす影響がおわかりになりましたか。善悪50%の普通人Bさんが、殺人という悪100%の犯罪を犯しました。邪悪霊と因縁霊の作用でした。同じく、善悪50%の普通人Eさんは、亡霊の憑依によって不幸100%ともいえる胃癌にかかりました。善80%の善人Dさんは、思いもよらず交通事故死という災厄を受けました。地縛霊の憑依によるものでした。
波長の法則からいくと、それぞれが不幸100%ともいうべき波長の影響を受けるはずがないのに、どうしてでしょうか?
解答はこういうことです。Bさんは何かで心がクシャクシャしていました。Eさんは父親の死をひどく悲しんでいました。Dさんは仕事のことで心に苦悩を持っていました。これらはすべて低い波長です。この一時的な低い波長が邪霊との感応を引き起こしたのです。
では、善悪50%や善80%の人がどうしてこんなに低い波長になったのでしょうか。それはカルマ(業)です。人は一生の間に、今世で蒔いた種、過去世で蒔いた種の集積であるカルマを背負っています。このカルマは人生のある箇所で何らかの問題(試練)となって現れます。
それを奉仕の気持ちや愛の態度で処理すれば、進歩の階段になり、何の問題も残しません。しかし、それを自分本位で処理すれば、苦悩となり、心のクシャクシャとなり、悲しみとなります。それらは低い波長ですから、低級霊とつながり、その憑依を受けるのです。因縁霊も地縛霊も邪悪霊も、このような人の心の乱れを待っているのです。
人は平常はその人専用のチャンネルで安定しているのですが、何か事が起こった時に、つまり試練に遭った時に、その対応の仕方で一時的に波長が変わります。たとえば、仮にこの世界に10のチャンネルがあるとして、人はそれぞれ自分に合ったチャンネルを持った専用テレビなのですが、10のチャンネルは誰にでもついているのです。そして、試練を受けたときの態度によって、一時的に他のチャンネルに切り替わります。もちろん、自分の幽体にその波動と同じ波長が存在しなければ、絶対に感応はしません。これは科学的な法則と同じです。
つまり、Bさん、Dさん、Eさんには、憑依された霊と波長の合う資質が、幽体にわずかにしろ存在していたということです。ですから、私たちは日々魂の浄化に努めて、粗雑な資質を幽体から消滅させること、精妙な資質による幽体に仕上げておくこと、これが低級霊の憑依を受けない基本原則です。
もう一つ、同じ波長であっても、同じ霊の干渉を受けても、憑依される人と憑依されない人がいます。マイヤースは「意志の弱い人、無気力な者は、地縛霊に扉を開いているのと同じだ」と言っています。つまり、お人好しなだけでは駄目なのです。何事にも自分の意志をちゃんと持てる人でなければなりません。意志を持つとは、「自我」である自分の霊が、自分の脳、自分の肉体をちゃんと統御しているということです。この統御が緩むと、その間に他の霊が割り込んで憑依するのです。
この点、霊媒体質の人とは、幽体が体質的に肉体から離れやすい人です。そのため、幽体の奥にある霊が、自分の肉体を統御できなくなるのです。ですから、霊媒体質の人は先天的に憑依されやすいのです。こういう人は、人一倍、魂の浄化に努めなければ大変危険だと言えます。
さて、最後にひとこと。Bさん、Dさん、Eさんが憑依されたのは、一時の心の乱れのためでした。それが邪霊を引き寄せて、憑依の引き金になったのです。このように人の心は波動を発して、他の霊を引き寄せます。いえ、引き寄せるだけではなく、逆に人間の心の波動は、霊魂の作用と同じように、他の人間に対してもさまざまな影響を及ぼすのです。 
11 人間の念が及ぼす影響
今の科学では、人間は肉体だと考えています。そして、この肉体が、まさか電波のように念波を放っているとは夢にも思いません。しかし、人は霊なのです。死後の世界にいる霊と同じように、霊(=想念)であることには変わりはありません。
先ほどの事例のように霊と人が結びつくということは、霊も人も波動を発しているということです。霊からの波動が人間に届くように、人から発信された波動も霊に届くから、霊が人に引き寄せられ、作用を及ぼしたりするのです。現代科学は、人間が思想の波動を発している霊であるという事実を全く知りません。せいぜい、精神身体医学で、自分の心の状態が肉体に影響を与えるといった程度しかわかっていないのです。
とんでもない。人間の心の波動は、霊の作用と全く同じなのです。他者に憑依したり、自分にだって憑依して、さまざまな影響を及ぼしています。これから恐ろしい念の作用についてお話します。
人は世界ネットワークの24時間テレビだと言いました。そうです。幽界放送の受信機なのです。しかし、それと全く同じように、発信機でもあるのです。
あなたは寝ても覚めても、いつも何かを思い、考えています。つまり四六時中、想念を発信しているのです。そのあなたの想念が発信機なのです。
想念は、あなたの周囲へ波動となって発信されています。その想念はどこまで届くかと申しますと、念の強さによって違いますが、地球の裏側はもちろん、幽界、霊界、神界にだって届くのです。スピードは高速以上です。無時間と言ってもよいでしょう。
私たちはこのような人々の想念を常に受け取っています。ですから、人混みの中を歩く時は、想念の海に浸っているということです。「朱に交われば赤くなる」と言いますが、環境のもつ雰囲気の力とは、想像以上に、その環境を構成する念波によって左右されています。
霊が人に感応するように、波長が合えば、ある人の波動は他のある人によってキャッチされます。それを受け取った人は、ふと同様の想念を抱き、同じ考えを持ちます。その時、その想念は強化され、再発信されて、波長の合った人にキャッチされるのです。これが念がキャッチボールによって強化される姿です。
この世界は、多くの人々が念のキャッチボールをしている集団だということができます。私たちは想念の兄弟です。時流とか、流行とか、世論とかは、こうして作られます。
しかし、念波は一度そこを通ると、波長の合う人には影響を与えますが、波長の合わない人のところは素通りして、どこか宇宙の果てで消えてしまいます。仮に波長が合っても、その人が何か別のことに心を集中していれば、受信されずに通り過ぎてしまいます。そのときはまったく影響はないのです。
ところが、この影響は狂いなくあるのです。それは念波によってではなく、念体による影響です。人が想念の波すなわち念波を発するのですが、その一部は念体となるのです。念体とは、想念がその周りに霊の幽体と同じような幽質をまといつけたものです。ですから、形や色を持ちます。その形も色も想念の内容によってさまざまです。天使のようなものもあれば、鬼のようなものもあり、奇妙きてれつなものから、幾何学的な模様のようなものまで、種々雑多です。
人が何かを考えると、それが念体を形成するのですから、世界は念体の洪水です。その数は霊の数より多いと言えます。ただし、霊のように永久に残るわけではありません。弱い念体はほんの数秒、強烈な念体は何年でも、中には何百年でも生き続けるのがあります。
この念体は、寝ぼけたお化けのようなものではありません。強い念体は独立して、霊と全く同じ作用をします。たとえば、母親の強い純粋な愛念は、守護霊と同様の働きをします。息子や娘の危急に応じて作用します。
ある時、外地にいた息子が旅に出ようとした時、母親が出現してその旅立ちを中止するように言いました。気になった息子は旅に出るのをやめたのですが、その乗る予定だった列車は転覆事故を起こしたのでした。そこに出現したのは母親本人(幽体離脱した母の幽体)ではないのです。母親は一向にそんなことに気づいていないのですから。それは母親の愛念の念体が物質化したものです。
また、甲という人が乙という人を呪ったとします。甲はその後反省して呪いを解きました。しかし、呪いの念体はすでに独立していて、確実に乙に作用するのです。人間の想念とは恐ろしいものです。念体があるかぎり、反省しても間に合わないのです。その呪いの後始末をするには、甲は乙に対して、改めて自己犠牲の愛の行為を実行しなければなりません。
念体は独立した霊と同じ作用をします。ですから、甲の呪いの念は乙の周辺にまとわりつきます。そうして、乙が放心状態にある時、あるいは寝入りばなとか睡眠中とか、要するに自我の統御が緩んだすきを見つけて、確実に乙に作用します。
そしてその効果は、怨念の霊魂が作用するのと同じく、乙を病気にしたり、災厄に遭わせたりします。このように目的をもった念体は、不特定多数には影響しませんが、目指す相手には必ず作用するのです。
思想というものは、肉体よりも幽体や霊体に印象づけやすいものです。ですから、あなたの周りに唯物論者とか、偏見の持ち主とか、他の人を憎んでいる人がいたら、あなたから思念を送ってください。誠意を込めて一心に相手に向かって愛念を送ってください。そうすれば、念波と念体の作用によって、口で言うよりもさらに大きな効果を及ぼすことに、あなたはびっくりするでしょう。
このように、愛とか祈りとかは計り知れないほど大きなエネルギーを発揮するのです。ただし、自己の利益のためだけの祈りは、確実に邪霊と同じ働きをして自分を害します。他者の幸福のための祈りこそ、他者を生かし、自分を生かすものとなるのです。
「人を呪わば穴二つ」という言葉があります。「丑の刻参り」といって、午前2時頃、呪いの藁人形を作って、神社の境内の樹木に五寸釘で打ちつけます。あれは間違いなく効果があります。ただし、穴二つです。呪う相手の墓穴と、もう一つ自分の墓穴と。
強烈な呪いの念波は相手に感応を与え、念体は霊の憑依に似た影響を及ぼします。そのために相手は病気になったり災厄を受けます。これが生きている人間からの「他念障害」です。あなたは他者に恨まれるようなことはしていませんか。どうも事業がうまくいかないとか、家庭の中が、子供が、思うようにならない、あるいは病気がちだとかいう場合、生きている人間からの念の憑依や感応であることがしばしばあるのです。
さて、「穴二つ」のことですが、甲が乙を呪えば、乙は他念障害によって必ず害を受けます。呪った甲のほうは波長の法則によって邪悪霊の感応憑依を受けるのです。おそらく因縁霊が働いてそうさせるのでしょうから、甲は因縁霊の完全憑依状態です。したがって、甲は確実に自分の墓穴を掘り、命を落とします。
ところが、甲が人を呪っても「穴一つ」の場合があるのです。呪われる対象の乙が高潔の人なら、甲の呪いの念波も念体も、乙には何の作用もしません。それどころか、甲の呪いの念波と念体は、まっすぐ甲に向かってはね返るのです。乙が高潔であればあるほど、はね返る力は強くなります。
こうして、乙は何の異常もないのに、甲は自分の呪いの念によって死にます。これを「返り念障害」と呼んでいます。
甲が死んだのは返り念ですが、元は自分の念です。人は自分の念によっても死ぬのです。これを「自念障害」といいます。ほとんどの人は気づいていないと思いますが、自分が発している念は外に向かって影響を及ぼしていると同時に、自分に対しても同じ影響を与えているのです。
最近はこのことが分かりかけてきて、医学でも心が身体に及ぼす影響を問題にするようになりました。事実は医学が思っているよりもはるかに大きな影響があるのです。
病気だけでなく、さまざまの災厄の背景に自念障害があります。自念は霊を引き寄せる磁石です。しかし、この自念そのものも自己の身体や幸不幸に作用しているのです。
強い念は強い念体を作ります。この念体は自己につきまといます。そして、本人が繰り返し同じ念を抱くごとに、その念は肥大化します。いえ、このつきまとっている念体そのものが、本人に作用して繰り返し同じことを考えさせるのです。
たとえば、胃癌ではないかと思い始めると、もうてっきりそうだと思い込んで、他人が何と言っても受け付けない人がいますね。極端な人は、医者が胃癌ではないと言っても、自分を安心させるためにウソをついているのだろうと疑う始末です。こうして、この人は本当に胃癌になります。胃癌にしてやろうと怨念をもっている霊と同じ作用を、自分の念体がするからです。これは自念憑依です。その人の偏見、凝り固まった思想などはこの自念体のせいです。こういう場合は、自念がその波長に合う邪悪霊を引き寄せます。まず自念のしこりを解消しないかぎり、邪悪霊は祓っても祓ってもついてくるのです。 
12 「人間は通信機器」とはどういうことか
霊が感応憑依するということは、心霊の門に入った人の常識です。しかし、生きている人間の念が、まして自分の念が憑依するとは思いもよらないでしょう。人間も霊ですから、これは事実なのです。
人間とは、世界にネットワークを張りめぐらしたテレビなのです。また全幽界にネットワークをもつテレビです。ただし、世界中のすべての人、幽界のすべての霊の感応憑依を受けるわけではありません。波長の法則によって、自分と同じ波長の人間や霊の感応があるだけです。
さて、その波長とは何でしょうか。それは、あなたの幽体のもつ汚れの度合い、裏を返せば浄化の度合い、それがあなたの波長です。幽体は、あなたが生まれてから以降の浄化と汚れが記録されています。また、あなたのいくつもの過去世の浄化や汚れも記録されているのです。いわゆるカルマです。そうです。幽体とはカルマの結晶体でした。ですから、自分のもつ波長とは、カルマ度であり、カルマ波長ということです。
さて、人間がかくも玄妙な通信機であるということは、人間は極めて誘惑にかかりやすい存在だということです。たとえば、ふと「酒を飲みたい」と思うとき、それは自分のカルマ波長にそういうものがあるからです。すると波長の合う霊がすぐにやってきて、「飲め、飲め」と扇動します。本人はもう飲まずにおれなくなります。これが誘惑です。自分の持っている波長が、霊の感応憑依によって増幅されるのです。
次に、たとえば友人と話しているときに、誰かの噂話をします。話がはずんで、ついその人の悪口となり、呪うような言葉になるかも知れません。これは念のキャッチボールをしているからです。あなたの中にある少しの悪口の波長が、友人の同じ波長とキャッチボールをすることによって強化されたのです。ですから、生きている私たちの念の感応や念体の憑依なども、霊と同じように波長を増幅するのです。これも誘惑です。
あるいは、何も考えずにぼんやりしているときに、ふと散歩に出掛けたくなります。そして、散歩の途中で財布を拾うとします。これは偶然ではありません。霊が仕掛ける場合もあります。つまり、「散歩に行こう」というのは自分の発想ではなかったのです。仕掛けた霊との波長が合っていたのです。自分にその気がなくても、波長が合っていれば、いくらでも誘惑は仕掛けられるということです。これも霊による増幅作用です。
以上、霊や生きた人が自分のカルマ波長を増幅するということを申しました。それはつまり、人間は通信機であるからです。ほんの少しの気持ちしかなくても、感応憑依でうんと大きくなるということでした。人間は誘惑にかかりやすい存在だということです。
人間は霊のささやきを、外からの声として聞くのでなく、自分の気持ち、自分の考えとして感じるのです。ささやく悪霊の醜悪な顔やずるい表情は見えないのですから、無警戒となり、言いなりになって、自分の気持ちだと思ってそれに従うのです。
人間が通信機であるということは、全世界と全幽界のネットワークの、誘惑テレビの視聴者であって、そのうまい宣伝の手に乗せられて、いつもころりとだまされているということです。
毎日の出来事はあなたのカルマ、つまり前世と現世のカルマで織り出されます。たとえば友人と金銭の貸借でいざこざがあったとします。それは2人の間のことですが、あなたが友人とそのような関係を持ったのはカルマのせいです。
ただ、問題は、あたながそのそのことにどう対処するかです。うまく対処して、カルマを通して進歩といちだんの幸福を獲得することもできますし、逆に、失敗して苦悩と不幸を招くこともあります。そのどちらになるかは、あなたの対処の仕方次第で、あなたの自由です。
そして、人がカルマによって対面する問題は、その人の力量で解決できないものはないということです。カルマとは自分が蒔いた種ですから、それによって生じたカルマは刈り取ることができるのです。誰にとっても越えられないものではないのです。
それに、人は再生するとき、神界において今生で自分が経験するカルマを選んで、その審査を受けていますから、越えられないものはないのです。 
13 守護の神界組織
神霊研究の先覚者・浅野和三郎先生と、その後継者・脇長生先生は、ともに多数の招霊の実践指導をされた結果、人間一人ひとりに生涯を通じて固有の守護霊が一人ずつ存在することを突きとめておられます。
この守護霊と私たちを結ぶ紐こそ、私たちを神につなぐ不滅の鎖、「守護の神界組織」なのです。この神界組織を作動させるのは私たち自身です。私たちの心がけなのです。
浅野先生は招霊実験を繰り返した結果、本人の性格や体質に酷似した霊が、必ず一人ずつ存在することを突きとめられました。脇先生の場合も同様です。それは本人と霊的に特別の関係にある霊、守護霊とされました。特別の関係とは、いわば本人の魂の親、つまり、本人の霊は守護霊から分かれた分霊だとされたのです。そこで、人間は再生すると言われました。
ただし、死んだ本人の霊がそっくりそのまま再生する「全部的再生」ではなく、本人の霊は霊界にあるまま、その一部が地上に再生する「部分的再生」という立場をとられました。それは300余人の特定の霊を招霊する実験により裏付けられました。招霊できなかったのは菅公(菅原道真)など2霊でした。菅公はご承知のように「天神さま」として祭詞され、霊格が高くなり、霊媒の低い波長では招霊できなかったのです。
つまり、霊格の高い2霊を除いて他はすべて招霊できたということは、人は死後すべて他界にある、つまり再生して他界からいなくなるということはない、ということです。ですから、再生は分霊が再生するというわけです。その分霊が私たち、他界にいる霊が私たちの守護霊です。守護霊と私たちは本家と分家の関係で、魂の親子です。
この部分的再生については、何も浅野、脇先生の招霊の成果というだけではありません。シルバー・バーチ、マイヤース、ジュリアなど、幾多の有力な霊界通信がそのことを認めています。
さて、浅野先生は、私たちの上には霊界に守護霊があり、その守護霊の上には更にその守護霊があり、次々と守護霊のつながりの環を経て、その鎖の環は守護神に達し、更にさかのぼると太陽神、宇宙神にまで達するのであると言われました。浅野先生は、守護霊と本人の関係について、「なお、断案を下すには至らず」と断っておられます。ということは、霊的真理の奥は深く、一筋縄ではいかないということです。しかし、私たちと守護霊を結ぶ紐に、神へつながる径路があることは間違いなさそうです。
守護霊とは、分霊である私たちの魂の親ですから、ただ一人です。そうして、生まれた時から死ぬまで、いえ死んだ後も変わらぬ魂の親なのです。したがって、途中で入れ替わったりするものではありません。だいたい200年から800年くらい前に他界した霊が多いようです。魂の親ですから、以心伝心のように、本人との間に特別の心のつながりがあります。
守護霊は四六時中、本人の守護と善導のために腐心しています。しかし、残念ながら、宇宙の法則は波長の法則です。守護霊といえども、どんなに本人を守護したくても、本人の発する波長が守護霊の高級な心の波長と合わなければ、どうすることもできません。
せっかく神につながる「神界組織」のチャンネルを持っていても、どうしようもないのです。しかし、人間のチャンネルを守護霊につなげば、それは神につながるのです。それをつなぐカギをもっているのはあなたなのです。あなたの心が、守護霊とつながればいいのです。何と単純なことではありませんか。 
14 赤ん坊のように泣け
では、どうしたらあなたは守護霊につながるのでしょうか。つまりあなたの発信電波を守護霊の波長に同調させられるのでしょうか。それは、もう一度、赤ちゃんのように泣けばいいのです。あなたが赤ん坊のときにしたように。(中略)
あなたの叫び、それがあなたと守護霊を結びつけるただひとつのカギです。人が守護霊に結びつく原理は、自分で泣くこと、すなわち「自己責任」の原理です。赤ん坊を救ってくれるのは母です。守護霊です。神です。この真実なる救いの手を、それ以外のものと混同しないことが救いに至る決め手です。
人はとかく、神以外のもの、金や物や自分の弁舌や権力といったものが自分を救うものと勘違いをします。しかし、それは一時的です。そういう依存心やごまかしは、自分のカルマを悪化させ、後にはもっと大きな災厄を引きつける原因になります。
無心に自分で泣けば守護霊が来るというのは、災厄に遭ったとき、それを他のせいにせず自分で引き受けるということです。もともと災厄は自分の過去のカルマが生み出したものですから、これを自分が背負うことは、そのカルマを素直に認めているということです。これが幼子の心ではないでしょうか。すなわち、人のせいにしない素直な心、いさぎよさ、美しさです。神はこのように魂を浄化することを私たちに求めておいでになるのです。
ですから、母を求めるように神を求めてひたすら泣く者のもとへ、神は即座に来られます。これが守護霊の回線です。すなわち神と人とを結ぶ不滅の救いの連結線です。人間を天国へと上らせる一本の階段です。
さて、神が来るとはどういうことでしょうか。あなたの直面している災厄に、適切な回答が与えられるということです。病気に対しては、霊的エネルギーが注がれ、治病の霊が差し向けられます。また、必要なら適した治療法や治病家への道がつけられるということです。
事業や家庭問題、対人的な争いごとなら、守護霊や支配霊からの適切なアドバイスが、良心の声として、暗示やインスピレーションとして与えられるということです。また補助霊たちが働いて、関係ある人や物に働きかけて、これを動かすということもあります。
こうして、あなたの見えないところで最も強力なエネルギーの発動があって、奇跡とか、思いがけない運とか、偶然とか‥‥そのように人が呼んでいる状況をはらみながら、問題は解決され、災厄は去ります。
あなたはこのような経験を通して、知恵と力を増し、見えない存在への確信を深めることになるのです。このような試練をひとつずつ乗り越えるごとに、あなたと守護霊とのつながりは強くなり、あなたは確実に神への階段を上っていきます。
これは一本の細い紐のような回路ですが、それは神につながる確実な回路です。あなたはこの回路を発見するために、いま地上に生まれてきています。そして、それを作動させるのは自分であるということを知るために――。
自分のカルマから逃げない勇気ある者だけが、何事も他のせいにしない素直な心の者だけが、そして、ただひとつの救いの回線は神につながることであり、それは確実にあることをしんじる者だけが、神々となる門をくぐることができるのです。
この世には真相と仮相があります。仮相は苦の世界です。真相はその同じ世界が歓喜の神々の世界に変わります。そのように世界を見る者には、現実に世界がそのように変容します。人は霊であり、霊は神であり、神は世界を創造しつづけるものだからです。
人が世界を苦と見るとき、その創造力によって、世界は現実に苦であるように現れます。その同じ人が世界を愛と見るとき、その見るとおりに世界は愛に変容します。そして、これが真実の、神である世界の真相です。 
 
新約聖書の解釈

 

現世利益を求めると神の国に入れない
新約聖書の「マタイによる福音書」を引用しながら、イエス・キリストの教えの真髄ともいえる内容について考えてみたいと思います。イエスは弟子たちに「人が神の国に入るためには、この世でどのようなことを守らないといけないか」を教えているのですが、基本的には「カルマの法則」を述べているということができます。
ちなみに、「神の国」とは、この世で善行を積んだ人が死後に訪れるとされる「天国」のことではありません。この世が終わって次に現れる「新しい世界」のことを述べています。キリスト教を信仰している人の間でも、「神の国」を地獄の対極にある「天国」と混同している場合がありますが、当サイトでは明確に区別して使います。(この違いについては後ほど詳しく説明いたします)
そのことを前提として、ここでは「神の国」に入るためのイエスの教えを以下の5項目に分類して、それぞれの項目ごとにご紹介していきたいと思います。
(1)心をつくして神を愛しなさい。
(2)自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。
(3)この世での報いを求めず、神の国に富を積みなさい。
(4)この世では幼子のように自分を低くしなさい。
(5)神の力を疑ってはなりません。(疑う=信仰が薄い)。
最初にご紹介する内容は、イエスの教えのエッセンスとも言えるものですが、日本語訳では意味のわからないところがあります。たとえば、「心の貧しい人たちは、さいわいである」という言葉の意味はそのままでは理解できないと思います。英訳のほうを見てみますと、「自分が精神的に劣っているということを知っている人たちは‥‥」となっています。これなら意味がわかります。また、「柔和な人たちは‥‥」という表現も抽象的すぎてわかりません。英訳では「humble(謙虚な)」となっていて、こちらのほうが新約聖書のなかで一貫して表現されているイエスの教えと一致しています。
ということで、この項は英文と、それを私が和訳しなおした文章を添付しました。原文と対比させながら、イエスの教えの真意を掴んでいただきたいと思います。なお、新約聖書の原文はギリシャ語で、英文もそれを訳したものですが、日本語訳はギリシャ語の原文を訳したものか、英訳をベースにしたものかは定かではありません。
1 こころの貧しい人たちは、さいわいです。天国は彼らのものです。
2 悲しんでいる人たちは、さいわいです。彼らは慰められるでしょう。
3 柔和な人たちは、さいわいです。彼らは地を受け継ぐでしょう。
4 義に飢えている人たちは、さいわいです。彼らは飽き足りるようになるでしょう。
5 あわれみ深い人たちはさいわいです。彼らはあわれみをうけるでしょう。
6 心の清い人たちは、さいわいです。彼らは神を見るでしょう。
7 平和をつくり出す人たちは、さいわいです。彼らは神の子と呼ばれるでしょう。
8 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいです。天国は彼らのものです。
9 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたはさいわいです。よろこび、喜びなさい。天においてあなたがたの受ける報いは大きいでしょう。
(マタイによる福音書)
1 自分が精神的に(spiritually)劣っていることを知っている人たちは幸せです。
神の国はその人たちのものになります。
2 悲しんでいる人は幸せです。
神は(神の国で)その人たちを慰めてくださるでしょう。
3 謙虚な(humble)人たちは幸せです。
その人たちは神が約束したものを受け取るでしょう。
4 義(=神が求めること)を行なうことを最も大きな願いとする人たちは幸せです。
神は(神の国で)その人たちをすべての面で満たしてくださるでしょう。
5 憐れみ深い人たちは幸せです。
神は(神の国で)その人たちに憐れみ深くされるでしょう。
6 心の清い人たちは幸せです。
その人たちは(神の国で)神と会うだろう。
7 平和のために貢献する人たちは幸せでしょう。
神は(神の国で)その人たちを「私の子だ」と呼んでくださるでしょう。
8 義(=神が求めること)を行なうために迫害される人たちは幸せです。
神の国はその人たちのものになります。
9 あなたがたが私の弟子だということで、人々から侮辱され、迫害され、さまざまな悪質なウソで攻撃されるならば、あなた方は幸せです。
幸せな気持ちになって、喜びなさい。神の国では、大きな報い(reward)があなたがたのために積まれる(iskeptforyou)ことになるからです。
(マタイによる福音書)
以下はイエスの教えの真髄を5つの項目に分類して整理したものです。 
1 心をつくして神を愛しなさい。
ひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい』。これがいちばん大切な、第1のいましめです。第2もこれと同様です。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』。これら2つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっています。」(マタイによる福音書)
「神を愛せよ」とは、具体的にどういうことを言っているのでしょうか。一般的に「愛する」という行為は、「相手の求める自分になる」ことを言います。たとえば恋人同士の場合、歌の文句にもありますように「あなた好みの女(男)になりたい」ということです。
逆に、今日における若い男女間の「愛」は仏教でいう「煩悩」に近いもので、相手を「自分好みの女(男)に変えたい」という「我善し=自己中心主義」となっているようにも見えます。つまり「相手を自分の思うように束縛したい」という傾向が強いということです。しかしながら、もともとの「愛」の形は、「相手の幸せを願い、その相手の幸せのためなら自分が身を引く場合もある」という抑制された行為を伴うものでしょう。ここで述べられている「愛せよ」の意味も、そのように理解したいと思います。
愛する行為の2つ目は、「相手を信頼し、身を任せる」ということです。「どこまでもついていく」という行為が求められます。つまり、「相手を疑うことなく、信じきる」ということが最も大切なのです。
以上2つの点から、「神を愛する」ということは、「神さまが人にしてほしいと望まれることをする」そして「神さまを信頼しきって、どこまでもついていく」という意味にとらえていただきたいと思います。
新約聖書では、「神さまが人に望まれること」を「律法」「神の義」「戒め」などの言葉で表現しています。「律法」「戒め」は、旧約聖書にある「モーゼの十戒」の流れを引くものですが、イエスはそれをやんわりと修正しているのです。
イエスの時代は、モーゼと言えばユダヤ人なら誰もが崇める「大預言者」だったわけですから、イエスといえどもその教えを真っ向から否定することはできなかったことでしょう。それでも、イエスは旧約聖書に登場する預言者たちを導いた「神々=Gods(なぜか複数なのです)」の正体を見抜いていたようです。それは、人々に生け贄(いけにえ)を要求するような恐ろしい存在なのです。自らの被造物であるはずの生き物たちに対する愛のカケラも感じられず、まさに冷酷無比な悪魔のような存在としか考えられません。ですから、イエスはその旧約聖書の神々との古い約束(旧約)を修正して、新しい約束(新約)を結ばせようとしたのです。それが新約聖書と呼ばれるゆえんとなっています。
以下に旧約聖書の一文をご紹介します。「創世記」のなかに、「ノアの箱舟」で有名なノアが、大洪水のあと船から出てくる記述があります。その時の「主」すなわち旧約聖書の神様の言葉から、その神様がどういう方なのかがおわかりいただけると思います。
そこで、神はノアに告げて仰せられた。
「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたと一緒に連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
そこで、ノアは、息子たちや彼の妻、息子たちの妻といっしょに外に出た。
すべての獣、すべてはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出てきた。
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の家で全焼のいけにえをささげた。
主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心のなかでこう仰せられた。わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。私は、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
(旧約聖書「創世記」)
全焼のいけにえのかおりによってなだめをうける神様、この地をのろう神様、人の心の思い計ることは、初めから悪だと思っている神様、生き物を打ち滅ぼす神様――これが旧約聖書の神様なのです。新約聖書の中でイエスが「天の父」として崇めている神様とは似ても似つかぬ存在だということができます。
コンノケンイチ氏が、その著書の中で「旧約聖書の神様と新約聖書の神様は別の存在だ」と述べておられる背景はこういうところにあるのです。ちなみにコンノ氏は、「聖書の神様は宇宙人(異星人)だ」と見ておられます。しかも、旧約聖書の神とは「サタン」であると断定されているのです。
話を元に戻しましょう。要するに、イエスは「人を悪と考え、地をのろうような神」を愛しなさい、と述べているのではないということです。そうではなくて、人の行ないに応じた報いをくださる神様、すなわち、蒔いた種を刈り取るための収穫の機会をちゃんと与えてくださる神様――その神様を愛しなさいということです。そして、世の終わりの「人類の卒業期」に、すべての人が神の国の住人となってくれることを期待して、そのために必要な心の持ち方、行ないの在り方、言葉の使い方を、イエスとその弟子たちを通じて人々に伝えてくださっている、まさに愛一筋の神様に対して心を向けるようにと教えているのです。 
2 自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためです。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからです。あなたがたは自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあるでしょうか。そのようなことは取税人でもするではありませんか。兄弟だけにあいさつしたからとて、なんのすぐれた事をしているでしょうか。そのようなことは異邦人でもしているではありませんか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイによる福音書)
「汝の隣人を愛せよ」というイエスの教えの中でも「敵や迫害する者をも愛せよ」という意味は、普通に考えるとなかなか理解できないと思います。なぜ自分を迫害するもののために祈らなければならないのか――。実際にイエスは自らを十字架にかけようとする人たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書)と神に祈りを捧げています。
イエスが人々にそのような心の持ち方を求める理由は、今日的表現をするなら「神様(天の父)と同じ波長になりなさい」ということです。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい(そのように努力しなさい)」という表現がそれを表しています。
自分を迫害する者、あるいは自分の大切な存在(家族など)を迫害する者を憎むことによって、自らその「憎む」という心の波長を携えてしまうことになります。つまり、「憎む」という種を蒔いてしまうことになるのです。その種は「神の国」で何十倍にも何百倍にも育ち、カルマとなってこの世界に還ってくることになります。そして、この世界で消化しきれないカルマは、世の終わりの時にまとめて清算させられることになるわけです。
憎しみや恨みの念は、神様とは正反対のサタンの波長です。そのような粗い波長を持つと、ますますそのような憎むべき(恨みに思う)出来事を身のまわりに引き寄せてくる、というのがカルマの法則でした。イエスはそのことがわかっているので、このような極端な表現をつかって、人々にその大事な法則を守らせようとしたものと思われます。
だから、あなたがたはこう祈りなさい。
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるでしょう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないでしょう。(マタイによる福音書)
ここに出てくる「御国」「天」「地」という言葉の概念を整理しておきます。「御国」とは「神の国the Kingdom of God」ということで、2012年に私たち人類が地球といっしょに次元上昇して行くことになっている世界のことです。新約聖書に限らず、『日月神示』などのわが国の神示においても、この三次元の物質世界(=地)がスタートしたときから、次元上昇の時がくることは決まっていたと述べられています。
これに対して「天heaven」とは一般的な言葉で言えば「霊界」のことを言っています。次元でいえば四次元ということです。霊界通信などで、人はこの霊界(天)と三次元の物質世界(地earth)の輪廻転生を繰り返しながら魂を磨いてきた、ということが判っています。その魂を磨く上でもっと大切な法則がカルマの法則なのです。私たちの日頃の心の持ち方、行ない、発する言葉(=身・口・意)は私たち自身の心の波長に影響を及ぼし、その波長に相応しい境遇を、この現実世界(実は「うつし世」といって心の世界が反映された世界)においても霊界においても体験することになります。
心が地獄のような想念に満たされていれば、あの世(霊界)でもこの世でも地獄のような生活を体験することになるということです。
そのような私たちの「心の状態」がもれなく記録されていると言われているのが「神の国(御国)」です。『大本神諭』や『日月神示』では、その時代の人にわかる言葉で「すべて帳面につけてある」という表現が使われています。新約聖書では、「(あなたがたの父は)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というイエスの言葉が同じことを述べているのです。
世の初めから決まっている終末を超えると、この「天(四次元)」も「地(三次元)」もまとめて「神の国」へと移行(次元上昇)することになります。ですから、もし「神の国」を次元で表現すれば「五次元の世界」ということになります。
それは一般的に考えられている「天国」とは違うのです。天国は四次元の世界における波長の繊細な高い階層ということです。その反対に波長の粗いのが地獄的世界で、これは四次元の低い階層ということになります。
前回ご紹介した『大いなる秘密』のデーヴィッド・アイクは、この低層四次元にレプティリアンが住み着いていて、長年にわたって人類を陰から操作している、と分析しています。これから迎える次元上昇のときには、この低層四次元の住人は波長が合わないため神の国へ行くことはできないのです。聖書的表現をしますと、地獄の釜のふたが閉じられて、神の国へと移行した人類に干渉することができなくなるということです。そのような状態が約1000年続くようで、その期間にちなんで「千年王国」と呼ばれています。
この千年王国は、『日月神示』で「半霊半物質の世界」と呼ばれているものと同じものです。次元上昇してから1000年後に、もう一度人類はふるいにかけられて、その後に真正の神の国が訪れると言われていますが、それらの内容につきましては稿を改めて述べてみたいと思います。
「神の国」は文字どおり神様の住む世界ということで、人類も次元上昇すると「神的存在」になるわけです。そのことは『日月神示』にも「新しい世界では人が神となる」と表現されています。
この「神の国」は、「与えたものと同じものがすぐに還ってくる」というカルマの法則に支配された世界です。ですから、その世界に住むことができる住人は、この世にいるときからそのような心の持ち方を身につけておく必要があるということです。それが身魂磨きなのです。ここでは、「他人の過ちを許さない人は、自分の過ちも許してもらえない」ということが、カルマの法則の一例として述べられています。
以下、カルマの法則に則ったイエスの教えが続きます。
人をさばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるでしょう。(マタイの福音書)
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイによる福音書)
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言いません。七たびを七十倍するまでしなさい」。(マタイによる福音書)
自分に対して好ましくないことをした相手であっても、いかに徹底的に許してしまわなければいけないかということを、イエスは「7度を70倍するまで許しなさい」という表現で強調しています。要するに、この世で「許せない!」という対象をつくってはいけないということです。そのような心の癖は、神の国の入口の扉を閉ざし、結局は自らの不幸を招くことになるからです。
それだから、天国は王が僕(しもべ)たちと決算をするようなものです。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきました。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じました。そこで、この僕はひれ伏して哀願しました、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやりました。
その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金をかえせ』と言いました。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼みました。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れました。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話しました。そこでこの主人は彼を呼びつけて言いました、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたしました。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるでしょう」。(マタイによる福音書)
悪人に手向かってはいけません。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。求めようとする者には与えなさい。借りようとする者を断ってはいけません。(マタイの福音書)
たいへん有名な「右の頬を打たれたら、左の頬をも打たせなさい」という言葉の意味は、これでご理解いただけたでしょうか。とにかく「人を恨むようなマイナスの念を持ってはいけない」ということを、イエスはさまざまな譬えを使って教えているのです。 
3 この世での報いを求めず、神の国に富を積みなさい。
自分の義を、見られるために人の前で行なわないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたの父から報いを受けることがないでしょう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きなしてはいけません。よく言っておきますが、彼らはその報いを受けてしまっています。
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはいけません。それは、あなたのする施しが隠れているためです。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるでしょう。(マタイによる福音書)
さて、ここからがカルマの法則のエッセンスとも言える内容となります。聖書では「自分が蒔いた種の収穫」のことを「報いreward」および「報いを受けるpaid」という言葉で表現しています。まさに仏教でいう「因果応報」の「報」に当たる言葉です。
仏教では、善いことをしたら善い報い(善因善果)、悪いことをしたら悪い報い(悪因悪果)と教えていますが、ここでの「報い」は「善果」の意味に使われています。
義(善き行為)を行なっても、それが人に見られ、賞讃されることを期待して行なうと、せっかく蒔いた“種”が本来なら天の倉(神の国にあるカルマの貯蔵所)に積まれるところなのに、その前にこの世で「報い」を受けてしまうので、天の倉には何も残らないよ、とイエスは忠告しているのです。この場合の「この世での報い」とは、他人の賞讃であったり、賞賛を期待しての自己満足や自慢の気持ちを表しています。
つまり、「自分はいいことをした(している)」と自慢する気持ちは、天の倉に積むべき善果を先食いしてしまうことになるということを言っているのです。同じことは『日月神示』の中にも出てきますので、これはカルマの法則の大切なポイントだと考えられます。
また、自慢するつもりはなくても、自分がした善行が他人に知られると、それは天の倉に積まれることにならないようです。そのことを、ここでは「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と表現していますが、英訳では次のようになっています。
When you help a needy person, do it in such away that even your closest friend will not know about it.
これを直訳すると、「あなたが貧しい人に施しをするときは、そのことがあなたの最も親密な友達にも知られないようにしてやりなさい」となります。おそらくギリシャ語の原文には日本語訳のように「右手」「左手」という表現が使われていたのでしょうが、英語に訳した人はそれを意訳して、よりわかりやすくしたものと思われます。
以下、「祈る場合」「断食をする場合」についても、イエスは同じ戒めを教え諭しています。
祈る時には、偽善者たちのようにしてはいけません。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好みます。よく言っておきますが、彼らはその報いを受けてしまっているのです。あなたは祈る時には、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるでしょう。(マタイによる福音書)
断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをしてはいけません。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのです。よく言っておきますが、彼らはその報いを受けてしまっています。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知られないで、隠れたところにおいでになるあなたの父に知られるためです。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるでしょう。
断食は文字どおり「食を断つ」ということで、一般的には苦行のひとつと考えられています。今日でも、宗教や宗派によっては修行の一環として行なわれています。その時に、「私はこのように大変な苦行を行なってるのだ」という顔をしている人は、すでにこの世で「誇らしげな気持ち」という報いを受けてしまっているということです。ですから、断食をしていることを人に見せようとせずに、隠れたところにいる父(=神さま)にだけ見てもらうつもりでやりなさい、と諭しているのです。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはなりません。むしろ自分のため、虫も食わさず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すことのない天に、宝をたくわえなさい。だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方を親しんで他方をうとんじるからです。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできません。(マタイによる福音書)
結論から申しますと、この世(三次元の物質世界=地earth)での富richesすなわち「現世利益」を追求する人は、神の国the Kingdom of Godに富を積むことはできないということです。「人は神Godと富moneyに兼ね仕えることはできない」からです。英訳本では、ここの部分の「富」はmoney(お金)として、他の部分の「富riches」とは区別しています。
「お金」はこの世でしか通用しない「現世利益」の象徴です。これまで人々は、自分の願いごとや幸せの実現のためのバロメーターとして、お金を追い求めて来ましたが、これから訪れる新しい世界(神の国)ではお金は必要とされないようです。『大本神諭』や『日月神示』にも全く同じことが述べられています。
「天国は、一粒のからし種のようなものです。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になります」。またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものです。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます」。(マタイによる福音書)
どんな種よりも小さなからし種でも、それを畑に蒔くと野菜の中では一番大きく成長するということに譬えて、神の国では、人が心で思ったことが何十倍、何百倍もの大きさに育つということを言っています。また、粉に混ぜると全体を大きく膨らませるパン種(イースト)のように、神の国では私たちの小さな思いが何十倍にも大きく膨らんでいくということです。つまり、「善因善果、悪因悪果」が、この物質世界よりもはるかに大きなスケールで実現するということを言っているのです。
いかに心のコントロールが大切かがわかります。その心をコントロールする方法を、人類はこれまで転生を繰り返す中での様々な体験を通じて学んできたわけです。そして、いよいよその学びの成果が試される卒業期を迎えているということでしょう。
イエスは譬(たとえ)で多くの事を語り、こう言われた、「見なさい、種まきが種をまきに出て行きました。まいているうちに、道ばたに落ちた種がありました。すると鳥がきて食べてしまいました。ほかの種は土が薄い石地に落ちました。そこは土が深くないので、すぐ芽を出しましたが、日が上ると焼けて、根がないため枯れてしまいました。ほかの種はいばらの地に落ちました。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまいました。ほかの種はよい地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなりました」。(中略)
だれでも御国の言葉を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行きます。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことです。石地にまかれたものというのは、御言(みことば)を聞くと、すぐによろこんで受ける人のことです。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言(みことば)のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまいます。また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言(みことば)をふさぐので、実を結ばなくなる人のことです。また、よい地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのです」。また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものです」。(マタイによる福音書)
たとえば「汝の隣人を愛しなさい」というイエスの教えを実践しようとしても、すぐにそのことを断念させるような出来事が起こり、その気持ちをぐらつかせてしまいます。それは、「悪い者=悪魔theEvilOne」が来て「まいた種」を奪い取ってしまうからです。悪魔(サタン)は、人がそのように愛し合う気持ちを持つと困るのです。
その他、イエスの時代であれば困難や迫害によって、隣人を愛する気持ちが失われることも多かったことでしょう。また、「世の心づかいthe worries about this life」や「富の惑わしthe love for riches」が決意をぐらつかせるのは今日でも同じです。
御言(みことば=神の国についての教えthe message about the Kingdom)を聞いて理解した人だけが、そのようなさまざまな現世利益の誘惑に打ち克って、神の国へ入ることができるということです。
あなたがたに言っておきますが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしいでしょう」。(マタイによる福音書)
現世利益を追い求め、それを享受し、満喫している人は、神の国には入れないということです。これは決して「持たざる者」を慰めるための言葉ではないのです。まさに「カルマの法則」そのものと言えるでしょう。「天の倉」に「富」を積むこと、すなわち「身魂磨き」こそが、私たちの人生の目的と言えるものなのです。 
4 この世では幼子のように自分を低くしなさい。
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国はだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないでしょう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国ではいちばん偉いのです。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名ゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのです。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者ひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になります」。(マタイによる福音書)
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっています。あなたがたの間ではそうであってはなりません。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う人は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う人は、僕とならねばなりません。(マタイによる福音書)
だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるでしょう。(マタイによる福音書)
そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはなりません。天国はこのような者の国です」。(マタイによる福音書)
神は高慢な者を敵とし、謙遜な(humble)者には恵みをお与えになる。(ヤコブの手紙)
主の前にへりくだりなさい(humble yourself)。そうすれば、主があなた方を高めてくださいます(lift you up)。(ヤコブの手紙)
新約聖書の中には、人が高慢になることを戒め、「幼子のように謙虚でありなさい」と教え諭す表現が随所に出てきます。中でも、「神の前に謙虚であれ」という意味は、今日における科学万能主義を戒める言葉と受け止めるべきでしょう。我が国の『大本神諭』や『日月神示』が、「学」に頼りすぎて「神」を軽視している現代人を戒めていることとも相通じるものがあります。
また、財産、地位、名誉などの現世利益を手に入れて慢心している人への戒めの言葉と解釈してもよいでしょう。大切なのは、「神(絶対神)に対して謙虚である」ということです。より具体的に言えば、「今日の物質文明が創り出しているさまざまな問題は、人類が驕り高ぶっていることの表れであることを認識し、謙虚に反省する気持ちを持ちなさい」ということでもあります。「神の国の住人」になることを願う人にとっては、肝に銘じておく必要のある教えと言えそうです。 
5 神の力を疑ってはなりません。(疑う=信仰が薄い)。
それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためにひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが船は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりしなさい。わたしです。恐れることはありません」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは船からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い人よ、なぜ疑ったのですか」。(マタイによる福音書)
それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った。「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからです。よく言い聞かせておきますが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るでしょう。このように、あなたがたにできない事は、何もないでしょう。〔しかし、このたぐいは、祈りと断食とによらなければ、追い出すことはできません〕」。(マタイによる福音書)
朝早く都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかには何も見当たらなかった。そこで木にむかって、「今から後いつまでも、あなたには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞きなさい。もしあなたがたが信じて疑わなければ、このいちじくにあったようなことができるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるでしょう。また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるでしょう」。(マタイによる福音書)
終末の後に訪れる新しい世界(神の国)へ入るために最も大切な心の姿勢は「神の力を信じること」「その同じ力が自分の中にも宿っていることを信じること」だと言えそうです。イエスは弟子たちにそのことを繰り返し教え諭しています。また、イエスの超能力の噂を聞いて頼ってくる人たちに対しても、病気を癒したり、悪霊を追い出したりするなかで、その都度「信仰faith」の大切さを説いているのです。
日本語で「信仰が足りない」というと「宗教を信じていない」という意味にとらえがちですが、この場合の「信仰」は宗教とはまったく関係ありません。英語でfaith(信念、確信、自信)という言葉が充ててあるように、「神の力を信じる気持ち」ということです。
その「神の力」が自分にも具わっていることを信じて疑わないならば、海の上を歩くこともできるし、山を移動させることだってできると述べているのです。
「からし種一粒ほどの信仰があるなら、‥‥あなたがたにできない事は、何もない」という教えを素直に信じたいと思います。それは「神の国」に入るための必要条件とでもいうべきものなのです。
 
「祈り」1

 

神ないし神格化されたものとの意思の疎通を図ろうとすること、あるいは神に何かを願うことである。祈祷(祈禱、きとう)、祈願(きがん)ともいう。儀式を通して行う場合は礼拝(れいはい)ともいう。
祈りは、神聖視する対象に何らかの意思疎通(交信・こうしん)を図ろうとする人間の行動様式である。神に対して自分の考えや思いを表現すること全般が、「祈り」であるということもできる。
外形的には、祈祷者(祈祷師)の独白ないし語りかけ(呪文や経典教本の一節などの定型句など)、または黙祷というかたちをとることがある。また、瞑目、平伏、合掌あるいは行進(歩行)などの身体動作、姿勢や舞・踊りなどや、それらが伴う場合もある。祈りは、個人で行われることもあり、集団で行われることもある。付帯的に供物などの奉げる(ささげる)ものを添えるばあいもある。その様式や理念は宗教にもよって、様々に定義されているものや曖昧なものもあり、最も基本的な宗教活動や民間信仰の一つである。
そして、「教義教則や経典教本をもつ宗教」に限らずそれ以前に、世界中の初期文明において発生したシャーマニズム(祈祷・占い・呪術・薬草による医療行為・神との交信)や祖霊信仰や自然崇拝・精霊崇拝アニミズムの日(太陽)や流れ星に至るまで、対象が漠然としたものに対する感謝などの、意思の表明や表現や現象に対しての活動でも同語が用いられ、一概に祈りというものが特定宗教における価値観念とは別の、より根源的な欲求に基いた人間の活動様式であることも見て取れる。そして、その対象も時と場所や個人の思想にも拠り様々であるが、祈りと言う活動は、人間の社会に於いて普遍的である。 
キリスト教
キリスト教において、祈りは信仰生活の中心をなす宗教行為のひとつである。その形は、賛美、感謝、嘆願、執成し、静聴、悔改と多様であって、これらの組合わせが、一般的に「祈り」と言われる。異教の祈りと根本的に異なるのは、先ず、神のみことばに聞いて、それに基づいて祈ることが肝要で、単に自分の願いを披瀝することに祈りがあるのではない。その意味で、祈りと聖書を読むこととは、クリスチャン生涯では一体的な営みとされる。
祈りは神に、また教派によっては神の母マリアをはじめとする聖人に対して捧げられる。プロテスタント諸教会では、マリアあるいは聖人への祈りを偶像崇拝として排除している。
祈祷の意義
キリスト教における祈祷は、神への賛美を本来的な形とする。祈願・罪の告白等も、究極にはそれによって神の栄光が顕わされることを願うのであり、現世利益は本来的なキリスト教の信仰が追求するものではない。祈りの意義の最大のものは、永遠なる神との人格的な交わりにあるとされる。
また「絶えず祈る」ことがキリスト教では奨励されている。天使たちは神への賛美を絶えることなく行っていると信じられている。これが公的な礼拝にしばしば参加すること、私的な祈祷をしばしば行うこととも解され、修道士たちが寝ずの番を交代でしながら24時間祈祷を行う不寝修道院を生むに至った。一方、「祈り」を霊が神に向かうことと解すると、言語化されない祈りという観点が生じる。中世の正教会では、「祈りの文言を理解せずに祈る」「祈りの文言を理解して祈る」「祈りを口にすることをまたず、すべての行為が祈りとなっている状態」の3つの祈りの形が考えられた。第三の状態を「祈らずして祈る」といい、ヘシカズムではこれを重視し、そこに到るの段階として短い祈りを絶えず繰り返す「イイススの祈り」を奨励する。
祈りは信者の意思的・能動的行為である一方、神学的にはすでに神の力を得てその恩寵の元に行われていると考えられる。パウロ書簡には、祈りにおいて言語化されない思いを神の霊がうめきによって表すとの考えが表明されている(ローマ8:26、27)。
祈り、とくに公的な祈りは神への奉仕と考えられているが、一方でキリスト教には「神は人間の奉仕を必要としない」という考えがある。また、ユダヤ教さらにはその発展であるキリスト教では、いったいに、神は人間の隠れた思いをすべて知っているという観念があり、したがって祈りが行われずとも神は人間の思いをすでに知っている。したがって、祈りは本来的に人間の側にとって意義をもつ行為であるとも言えないことはないが、しかし、神は人間が己に立ち返って、神と交わることを喜ぶとされる。かつ祈りによって人間は神に近づき、神との絆さらには共に祈る者としての他の人間との絆を更新することができると考えられている。
形式
クリスチャンの祈りに形式があるとするならば、それは「キリストの御名によって」祈ると言うことである。それは罪ある人が、聖なる神に近づくためには、キリストの十字架上の死を通してのみ可能であるという理解がある。
祈祷の主体に着目すると、集団での公的な礼拝行為(公祈祷)と私的な個人ないし集団での祈祷(私祈祷)に分かれる。祈祷の内容に注目すると、定まった祈祷文をもちいるものと、個人の自由で自発的な祈祷に任せるもの(自由祈祷)がある。伝統的教会は、定まった祈祷文を用いることを奨励し、プロテスタント教会では自由祈祷を奨励する傾向がある。
定まった祈祷文は、各教団・教派ごとに異なる。教派でその内容・文言を精査した上で認可を与え、信者にこれを奨励する。教派を超えて用いられる祈祷文には「主の祈り」、各種の信条がある。伝統的教会は古代から中世初期に起源をもついくつかの祈祷文を共有しているが、東西教会の分裂以降制定され、したがって特定教派にのみ行われる祈祷文も数多い。また同じ祈祷文を用いることがあっても、それを用いる状況・時節等の定めを異にすることもしばしばみられる。定まった祈祷文を収録した本を祈祷書という。
公的な礼拝を典礼、奉神礼等と呼ぶ。これはギリシア語ではライトゥルギアと呼ばれ、「人々の仕事」を原義とする。一般に公的な礼拝は、あらかじめ定められた形式・祈祷の文言に則って行われ、しばしば奏楽や歌唱を伴う。ミサ・聖体礼儀はこのような典礼の代表的なものである。伝統的教会における典礼には、時刻を決めて行われるものがあり、これを時祷、時課等と称する。時祷の習慣はユダヤ教から受け継がれたもので、修道院で発達し、1日に9回ないし8回の祈祷を行うのを基本の形とする。伝統的教会には、キリスト教本来の祈祷は、このような集団があらかじめ定められた形式での祈祷であるとする見解がある。これに対して、プロテスタントをはじめ、個人の祈祷を重視する立場がある。
祈祷は、声に出して行われることもあれば、黙して行われることもありえる。歌唱を伴うものを「聖歌」「賛美歌」等と呼ぶ。東方教会では、基本的に、すべての祈祷は歌唱を本来の形とする。
他者に神の恩寵が施されることを願う祈りを代求、執成しの祈りという。伝統的教会における聖人への祈願は、基本的に、聖人に神への代求を願う祈りである。プロテスタントは一般には聖人への祈りを否定している。
主の祈り
キリスト教の代表的な祈祷文である。「主祷文」(しゅとうぶん)とも。日本ハリストス正教会では「天主經」(てんしゅけい、天主経)と呼ばれる。キリスト教は、神への祈りを捧げる時に唱える様々な定型文(祈祷文)を持っている。どの文を正統な祈祷文と認めるかは教派によって異なり、またプロテスタントの一部には定型文としての祈祷をほとんど持たない教派もある。
その中で、主の祈りは唯一、イエス・キリストその人が「祈るときは……(中略)こう祈りなさい」と言って弟子たちに与えたとされる祈祷文である。イエスがこの祈祷文を弟子たちに教えるシーンが福音書(マタイによる福音書6章9節〜13節、ルカによる福音書11章2節〜4節)に書かれており、主だったキリスト教教派は主の祈りを正統な祈祷文として認めている。多くの教派において、主の祈りは作曲され、聖歌ないし賛美歌として歌われている。 
仏教
仏教では、祈りをおこなうことはないとされている。「願」(がん)を掛ける(願掛け)ということをおこなう。
読経 / 仏教徒が経典を読唱すること。「どきょう」「どくきょう」「どっきょう」などと読み慣わしている。多くの僧侶が声をそろえて読経する場合は「諷経(ふうぎん)」とも言う。「読誦」ともいうが、「読経」は経文を見ながら読唱すること、「誦経」は経文を暗誦することである。経典の読誦は、本来、経典の意義を理解し実践するため、また経典を記憶し流布するためのものであったが、大乗仏教になると、しばしば「読誦」そのものに宗教的意義を認めるようになった。
念仏 / 今日一般的には、浄土教系の仏教教団において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称えることをいう。サンスクリット語では"buddha-anusmRti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。「念」とは、「憶念」、「仏隨念」、「心念」(観心)、「観念」(「観想」)、「称念」などの意味がある。「仏」とは、この場合「仏身」、「仏名」の意味がある。「仏」を「仏身」とみる場合、具体的な仏の相好(そうごう)とか仏像とかとみる時と、仏の本質的な実相の理をあらわす法身(ほっしん)とみる時とでは、「念」の意味もおのずから変わってくる。法身を念ずる場合は、それは「理を観ずる」のだから、念は憶念、思念、心念などの意味である。具体的な仏や仏の相好にむかえば、それは生身や像身の色相(すがたかたち)を観ずることであるから、念は観念の意味が強い。仏を仏名とみれば、名は称えよぶものであるから、念は称念の意味とみるべきである。念仏については、さらに正しく物を見るために、五停心観(ごじょうしんかん)という、心を停止する観法があり、その中にも「念仏観」がある。この場合の念仏観は、睡眠とか逼迫の障りを対論して心を静止せしめるための方法をいう。
題目 / 日蓮系・法華経系の宗教団体などにおいて勤行の際に用いられる南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)の文句のことである。お題目とも言う。元来は題名の意であり、法華経(サッダルマ・プンダーリカ・スートラ)の翻訳題(あて字)である妙法蓮華経(鳩摩羅什[くまらじゅう]による訳)の五字のことを指しているが、南無(帰依するの意)を加えて七字にしても「題目」と呼ぶ。なお、お題目は、建前、名目などの意味で使用されることもある。元来は上記の転用である。
鳩摩羅什(クマーラ・ジーヴァ)が漢字に翻訳した法華経一部八巻二十八品の題目(題名)は、「妙法蓮華経」の五字である。「南無妙法蓮華経」とは、妙法蓮華経(法華経)の法{御教え(みおしえ)}に帰依(きえ)することである。題目を連続して唱える行は、法華経の教えを信じ、自身が大宇宙の一点であることを宣言する修行であると同時に、大宇宙の一生命体である小宇宙の自身に対し、宇宙本来の流れや力を自身の肉体に呼び戻すないし呼び起こす回帰及び覚醒である。この漢字に翻訳された五字・七字の題目を連続的に唱えることで、経典のすべてを読み実践するのと同じ功徳があるとされている。
南無はサンスクリット語で「ナモ」「ナーモ」「ナマス」等と発音する。
また、漢字翻訳によるこの五字の題目を本仏の名号と見なして南無(帰命)しようとする立場の者から見れば、五字の題目に込められた教えの実践法とは八巻二十八品ではなく、七字の題目すなわち「南無妙法蓮華経」となる。
既に平安中期の天台宗では称名念仏の影響で題目も唱える様になっていたが、題目そのものが教義に組み込まれることは無かった。題目そのものを教義に組み込んだのは日蓮が最初である。
合掌 / インド起源の礼拝の仕草。両手のひらを胸または顔の前で合わせる。右手は仏の象徴で、清らかなものや知恵を表す。左手は衆生、つまり自分自身であり、不浄さを持ってはいるが行動力の象徴である。両手を合わせることにより、仏と一体になることや仏への帰依を示すとされる。 他人に向かって合掌をすることは、その者への深い尊敬の念を表す。
海外(特に欧米)ではしばしば挨拶のつもりで極東の東洋人(日本人・中国人・韓国人など)に向かって合掌しお辞儀をするものがいるが、実際に合掌をするのは東南アジアや南アジアの一部の国や地域(インドやタイなど。後者についてはワイを参照)に限る。このステレオタイプはアメリカをはじめとするメディア(娯楽番組・映画・アニメなど)にしばしば登場する。
日本では仏教に関する儀式の際に行われるだけでなく、お詫びをするときやお願いをするときに、相手を持ち上げるための仕草として使う例もある。 また、食前食後の挨拶の際に合掌する例もあるが、これは仏教由来の習慣である。 仏教徒は、あらゆる挨拶において合掌をする。 神道では柏手として手を打ち合わせるが、その後は両手を下ろし、お辞儀して礼拝する(神道の礼拝では本来、合掌はしない)。また「合掌」という言葉は、日本語での文章語として、(多くの場合亡くなって間もない)故人に向けての哀悼の意を示すべく、文末に添えられることがある。
参拝 / 神社、寺院、教会、墓廟などの宗教施設を訪れて、神仏や死者に拝む(または祈る)行為のことである。なお、祈願者本人に代わって参拝することを代参(だいさん)、祈願した神社や寺院に参詣せずその方角に向って参拝することを遥拝(ようはい)という。 同様の言葉に「参詣(さんけい)」があるが、参拝は拝むこと(身体的な動作)に主眼があるのに対し、参詣は寺社へ詣でること(地理的な移動)に主眼がある。ただし、寺社に参拝するためにはそこへ詣でることになるので、一般には両者は同義の言葉とみなされている。特定の複数の社寺教会を続けて参拝することを巡礼・巡拝という。
マントラ / 短い祈りの言葉を繰り返し唱えること。マントラにおいて、良いことをより多くしている人には白い道が、悪いことをより多くしている人には黒い道が見えることがある。黒い道が見えるということが意味するのは、より悪に傾いている生き方からの回心である。 
神道
神道、とくに古神道において神は曖昧であり、神にも日本神話の「尊(みこと)」とされる人格神をはじめとし民間信仰の神や「忘れ去られて詳細の解らない神」としての、九十九神や客神や寄り神など枚挙に暇なく存在し、神・尊だけでなく命・魂(たましい)・霊・精霊・御霊(みたま)とその表現も意味合いも様々であり、またそれらを分類し、定義することなどせず、享受してきた前提があることも含んで考えなければならない。そのため神事はそれ自体が祈願であり、その方法論や、祈りをもたらす事に係わる人の役割は、多岐に渡る。
神道(古神道・神社神道・皇室神道など全て)において祈りとは「神事」であり、祭り・祀り・奉りや、神殿・社や碑・塚の建立などを含め、分類すれば以下のようになるが、各々重複する部分もある。
人の営みや自然環境としての神への祈り。
自然に対する感謝や畏怖や畏敬。祖先崇拝に限らず人や動物など命をなくしたものや、道具などの人工物が役目を終えた後の慰霊や感謝。勤しみ(いそしみ)の神聖視とその具現化である職業神事。
神々と人の交流としての祈り。
神域(常世・とこよ)と人の住む世(現世・うつしよ)との交流や遮断を司る祭礼。神和ぎ(かんなぎ・かむなぎ・かみなぎ)という神を鎮める行為としての祈り。巫(かんなぎ)といわれる神との交信。人により行われるが、神による運命の決定である「占い」。
個人的な神への祈り。
人による神への招福祈願、厄除祈念。
自然崇拝
神道の始まりは神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)信仰という古神道であり、自然環境の変わり目(境界)にある特徴的な部分(海・山・川・森林・巨石・巨木)を神の宿るもの(依り代)や神域につながる場所と考え、豊饒(豊穣ではなく)を齎すものとして祈り信仰した。また現在にもそれらは残り、境内の神木や霊石や鎮守の森、神社とはなれた場所にある霊峰富士や夫婦岩や華厳の滝など、何かを祈る対象として信仰を集めている。一方でこの神域である部分を結界や禁足地としている風習や習慣もあり、普段は遮断しているが特定の日に神事や祭として祈りを奉げ、結界を解き神を招くというおこないもする。
これらが、太古から遺跡などで発掘される神殿と結びつき神社神道の社へと変化した。また、そのまま民間信仰としてもともとあった気象現象や食べ物として食された生き物や、皇室神道にある「三種の神器」などの道具の神体としての考えが広がり人工物に対しても祈るようになった。具体的には、水田などに落ちた雷(稲妻)の場所を青竹と注連縄で囲い五穀豊穣を祈り、鯨突き(捕鯨)で命を落としたクジラを祭りや鯨塚や鯨墓によって、慰霊し感謝の祈りを奉げている。包丁塚や人形塚などの道具塚や針供養または、妖怪ともいわれる九十九神も大事にすれば幸福をもたらすとして、さまざまな形で祈られている。
これら森羅万象に対する感謝が人の営みにまで広がり、生業としての「勤しみ(いそしみ)」にまで神が宿ると考え、マタギや稲作信仰などの農林水産業だけでなく、鍛冶・たたら(日本の古式製鉄)や醸造・酒造や建築・土木には職業としての神事があり、現在でも神棚を備え行程の節目では、独自の作法や儀式によって祈りを奉げている。
神事
神社神道においての祈りとは、巫(憑依・かんなぎ)であり、神なぎ(神を鎮め、和やかにする祈り)でもあるが、古神道では憑依もなく神職でない者でも、神なぎ(かんなぎ・神和ぎ・神薙ぎ・神凪とも表記)はおこなわれる。端的にいえば、巫は憑依することにより神に寄り添う行為であり、神事・神託でもある。このことが、神職を生業とする神主や巫女が、祝詞や神楽(神に奉げる若しくは神と一体となる舞踊り)を日常とする所以であるといえる。
古神道では庶民が、磐座や祠や塚や道祖神や地蔵や日の出や時として慈雨に手を合わせたり、お供え物を奉げる日常が「かんなぎ・祈り」であるといえる。そして、時代の変遷とともに神職や庶民でない芸能に携わるものの芸である、太神楽や能楽や曲芸やお笑い芸なども神事や「かんなぎ」とされ、一般的な地域振興や普請としてのいわゆるお祭りや興行においても、福男・福娘や「弓矢の神事」の射手に選ばれた者や、皇室神道での奉納という神事であった大相撲の力士も巫(かんなぎ)として神職の意味をもち、そのほかの民間信仰としての古神道とともに現在に息づいている。
現在の神社神道
神社神道における参拝の作法
神道においては、神への日常的な祈りは「拝む」と形容されることが多く、参拝や礼拝が行われる。この際、お辞儀をして拍手を打つ二拝二拍手一拝を行うことが最も一般的である。時には神前への玉串奉奠などが行われる。改まって利益や加護を願う場合は、祈祷・祈願などを行い、その際は神職による祝詞の奏上や祓などが行われる。
祈願祈念
五穀豊穣、大漁追福、商売繁盛、家内安全、無病息災、安寧長寿、夫婦円満、子孫繁栄、祖先崇拝、豊楽万民、天下泰平の招福祈願、厄除祈念や「払い清め」や「ハレ{天気ではなく天晴れ(あっぱれ)や晴れ晴れとした気持ちの「晴れ」をさす}」に纏わることなど多岐に渡る。具体的なものとしては、参拝だけでなく祭礼や縁日や市などの神社の参道や境内や鳥居前町におい行われる歴史的、文化的な祭りも祈願である。
祈願祈念のために行われる行為 > 神楽 / 絵馬 / 詣 / 市(定期市)・縁日・会日
占い・縁起
古くは卑弥呼に始まり、祈祷(祈り)による占いは、神との交信(憑依)による予言(よげん)や予見(よけん)であり、その運命の結果に基づき政(まつりごと)が行われ祈祷するものは「お告げ」によって執政してきた歴史がある。これは平安時代には道教の陰陽五行思想と結びついた神職による陰陽師としての台頭と執政があり、江戸時代には庶民の自治がより顕著になり、その中心に寺社があったので、普請としての祭りが行われた。この祭りや神事も古代から続く亀甲占いや、年始年末の自然現象の結果や、弓矢の神事による的の当たり外れで、その年の吉凶を占い、政としての自治に反映された。
このように占いは縁起ともいい、基本的には「神が人に降りた結果の当たり外れ」で運命の啓示であると考えられた。またそれを齎すものは、巫女や神職だけでなく、祭りなどで選ばれた福男やなまはげなどの演者、力士など神の依り代になった人も縁起にかかわる巫(かんなぎ)であるといえ、勝敗や「当たり外れ」をもってその時々の占いの結果として指針とした。
この占うという「神に祈った結果の予見や予言」を簡略化したものが、神社にある「おみくじ」であり、そのほか庶民の間でも「運試し」や「ゲンを担ぐ」ための行いも縁起行為とされた。具体的には、時節による滋養強壮の目的で、長寿や薬事効果を期待して食す行為も健康祈願であり、それらのものは縁起物と呼ばれ「霊験あらたか」であると考えられ、その謂れは、仏教・密教・ヒンドゥー教などの「インド文化」を起源とするものや五節句や二十四節気など中華文明の風俗習慣を起源に持つ物も存在し、それらが日本古来の神道(古神道)と渾然一体となっているものもある。 
 
「祈り」2

 

「祈り」の言葉
ここで使用する「祈り」および「祈る」という言葉について、共通の認識を持っていただくために、まず言葉の定義をしておきたいと思います。『広辞苑』(第二版--古い!)では、「祈る」は次のように説明されています。祈る1言葉に出して、神仏から幸いを授けられるように願うこと。2心から望む。希望する。念ずる。この『広辞苑』の説明を尊重しつつ、ここでは「祈り」について以下のように定義します。
祈り / 自分または自分が大切に思う存在の「幸せの実現」を願って、言葉、思念、行動などによって「見えない世界」に働きかける行為。祈りの相手先は自由に選ぶことができる
「幸せ」の意味するところは大変幅広いものがあります。
たとえば一般的に言われている「家内安全」「商売繁盛」「五穀豊穣」「無病息災」なども幸せの実現のために必要な要素となるでしょう。「病気が治る」「受験に合格する」「愛する人と結ばれる」「試合に勝つ」といったことや、「スポーツ選手になる」「政治家になる」「歌手になる」など夢の実現による「幸せ」もあります。
それらは私たちの「祈り」の動機・目標とされやすいものです。
私たちがそのような動機や目的で祈るのは、祈ることによって「見えない世界」にいる存在がその祈りに感応し、祈りの内容を実現してくれると思うからです。その「見えない世界」にいる存在のことを、『広辞苑』ではあっさりと「神仏」と表現していますが、ここではそれを広い意味で「神さま」と呼ぶことにいたします。
祈りの相手先となる「神さま」は、仏教やキリスト教などの宗教の場合は、その宗教が信仰の対象とする特定の神的存在となります。お釈迦様や弘法大師(空海)、日蓮上人、イエス・キリスト、あるいは各神社・仏閣がお祀りしている個々の神様、仏様といった存在です。
宇宙に遍在するスーパーパワー(絶対神)にお願いするよりは、そのような特定の人格神(人のように個性をもった神様)に直接お願いする方が、願いが聞き届けてもらいやすいと思うからでしょう。
そして、そのような特定の神的存在にお願いするに当たっては、その宗派によって定められた「祈りの手法」があります。仏教ではお経を唱え、神道では祝詞を奏上してから、祈りの内容を伝えます。なぜなら特定の神的存在にまず振り向いて(感応して)もらわないといけないからです。
このあたりはいかにも人間的です。「神様、今から私が願い事をしますから、ちゃんと聞いてくださいよ」というわけです。まず、願い事をする相手の神様(仏様)に出てきてもらうために、その神様(仏様)だけに伝わる特定のマントラ(呪文)を唱えるわけです。
仏教では、「南無阿弥陀仏」であったり、「南無妙法蓮華経」であったり、宗派によって様々です。
もっと簡単な祈りの方法として、私たち日本人は初詣などで神社にお参りしたとき、百円玉や十円玉を賽銭箱に投げ入れ、頭上の鈴を鳴らして、柏手を打ち、さまざまな願い事をします。「祈りの手法」は大変簡単ですが、祈る内容は「入学試験に合格させてください」「幸せな結婚ができますように」「商売が繁盛して儲かりますように」などと大変大きな願い事である場合が一般的です。
いずれにしても、特定の宗教に縛られていない多くの日本人は、祈りの相手先を自由に選ぶことができるのです。「鰮(いわし)の頭も信心から」という諺さえ生まれるような大らかな国民性は、キリスト教やイスラム教などの一神教の社会では考えられないことでしょう。 
すべての祈りが必ず実現するとは限らない
ここで、もし大学を受験する全国の生徒全員が同じ神様に合格祈願をした場合はどうなるか、ということを考えてみましょう。最近は少子化で受験生の方が少ない状態となっていますが、ここでは受験生の数が定員の2倍であるとします。この場合、合格者は受験生の半分ということになります。つまり残りの半分の生徒の祈りは聞き届けてもらえないというわけです。
このとき、合格者と不合格者を分けるものは何でしょうか。祈りの手法の違いだとすれば、ではまったく同じ祈りの手法で祈った場合は全員が合格するでしょうか。やはり半分は不合格になるはずです。つまり、同じ祈りをしても、その願い事が聞き届けられる人と聞き届けてもらえない人がいるということです。
わが国では、正月になると毎年何千万人もの人が神社を訪れ、さまざまな願い事をしますので、中にはこのように、同時に実現させることのできない祈りをしている場合も考えられます。神様も、わがままな人間のために大変なご苦労をされていることでしょう。
ここでは、「祈りはすべてが聞き届けられるわけではない」という認識を持っておきたいと思います。「神さま」という幸福の自動販売機に「祈り」というコインを入れれば自動的に「幸せ」が出てくる(実現する)というほど簡単なものではないのです。
その原因はいろいろ考えられますが、最初に私たちが「幸福の自動販売機」と考えているものの内部構造、すなわち「祈りが実現するメカニズム」について考えてみましょう。 
波動の法則から見た祈りのメカニズム
祈りの手段となる「言葉」「思念」「行動」は、すべて波動ということですから、「フツーの人が書いた黙示録」の奥義編で詳しく述べている「波動の法則」が働きます。
その第一の法則、「類は友を呼ぶ」という性質によって、私たちが発信する祈りの波長に応じた出来事を、「見えない世界」から私たちの回りに引き寄せ、実現させることになります。そういう意味では、私たちの祈りの波長がどういうものであるかを理解しておくことがとても大切です。
では、祈りが実現するメカニズムはどうなっているか考えてみましょう。
まず、私たちが実現させたい願い事を心の中に描きます。ここが祈りの出発点です。その願い事をできるだけありありとイメージ化することが大切です。俗に言う「勝利のイメージ」つまり実現した姿をイメージとして描けないと願い事は実現しません。
「神さま」も、どうしてほしいのかはっきりしない人の願いは叶えようがないからです。(実際には、願いを起こす前からその人の求める内容は神次元ではわかっていると言われますが‥‥その点は後ほど触れたいと思います)
さてイメージ化された願い事の実現のためには、そのイメージを持ち続けることが大切です。寝ても覚めてもそのことを考えているという状態が理想と言えるでしょう。また、願い事を短い言葉で表現し、それを唱えることも実現を早める上で大きな力となります。すべて波動の法則どおりなのです。波動は「身・口・意」を総合的に使うことによって強化されるからです。
「願い事を強く思う(意)」「願い事を言葉にして唱える(口)」「願い事の実現のために行動する(身)」ことが、祈りの効果を高める大切な要素です。特に最後の「行動する(身)」は大切です。「願い事はすでに実現した」という気持ちでそのような行動をとることが、実現させる力を強めるのです。
例えば、「病気が治る」ことを祈る場合、「私はいま病気です。この病気を治してください」という祈りは、言葉の力としては「病気」に力点が置かれますから、効果がないどころか、場合によっては逆効果となります。それよりも、「私は既に健康になりました。ありがとうございました」と、健康人らしく振る舞うことが、「健康」の波動を引き寄せることになります。「奥義編」でも詳しく説明しましたが、「らしく振る舞う」ということは、その状態を実現するうえで大変大きなパワーを生み出すのです。もちろん、「他人の同情を得ようとして病人らしく」振る舞えば、病気の波動をさらに強めることになってしまいます。 
祈りの実現を助ける見えない世界の存在
また、祈りの実現には、私たちの守護霊をはじめ、さまざまな指導分野を担っている背後霊がその実現のために働くと言われています。その祈りのレベルによって、協力してくれる背後霊のレベルも決まってくるのです。逆に、人を呪うなどの粗い波動を発すると、守護霊の感応する余地は少なくなり、波長の粗い邪悪な霊に干渉されるおそれがあります。その結果、「人を呪わば穴二つ」現象を引き起こすことにもなりかねません。
私たちは祈るときに心(顕在意識)を無の状態にします。しかし、その状態というのは大変危険な状態なのです。私たちが「見えない世界」に対して心の扉を開き、心の中の願い事を届けようとするその瞬間に、見えない世界からの予期せぬ干渉を受ける危険性があるからです。
もちろん、私たちの願い事が単なる自分の利益のためでなく、世の中の平和を願うような高い波長のものであれば、そのような干渉を許さないガードが守護霊あるいは守護神の指導で行なわれますから、「見えない世界」の邪悪な存在から干渉される心配はありません。
このように、私たちが何を祈るか(どのような願い事をするか)ということは、祈りに関しては最も重要な要素となるのです。
祈りはまず「宇宙の法則に照らして正しい祈りである」ということが大切なのです。祈る本人にとってはすべて正しい祈りなのですが、それが宇宙の法則に反している場合は、たとえ祈りの内容が実現しても、その反作用としての厳しい運命が訪れることになります。歴史を見ても、ある時期に栄華を極めた人や集団が、見るも無惨な末路を迎えることになった事例には事欠きません。
それでは、宇宙の法則から見て正しい祈りとはどんな祈りかということについて考えてみましょう。 
何のために祈るのか / 祈りの目標
祈りは自分またはそれ以外の存在の幸せの実現のために、見えない世界に働きかける手段として行なうものだと定義しました。つまり、祈りはある目標を実現するための「手段」だということです。ここでは、このことの結論づけはいたしませんが、祈りに手段的要素があるのは確かです。
では「祈り」という手段を使って、自分または自分の大切に思う存在の幸せのために実現させたいもの、つまり祈りの目標にはどんなものがあるのでしょうか。
冒頭のところで例に出しました「家内安全」「商売繁盛」「五穀豊穣」「無病息災」といったことや、「病気が治る」「受験に合格する」「愛する人と結ばれる」「試合に勝つ」といった内容、あるいは「スポーツ選手になる」「政治家になる」「歌手になる」なども祈りの目標となります。
中には、世界の平和を願ったり、この地球の環境汚染が改善されることを願う祈りもあります。人の心のレベルに応じて、祈りの目標のレベルも違ってくるのです。優れた宗教が教える究極の祈りは、「他人のために祈れ」「全体のために祈れ」ということです。さらには「日々の生活を祈りそのものとせよ」という教えに行きつきます。つまり、日常生活の中で「神さま」の生き方を実践せよということです。
瞑想したり、お経を唱えたり、護摩を焚いたり、‥‥といった特別の祈りのスタイルをとらなくても、日々の生活のなかで「神さま」の意図を体現して生きていれば、それがそのまま祈りになるということです。波動の法則で考えれば理解しやすいかもしれません。祈りを効果的にするためには「身・口・意」を総合的に活用することが大切であると述べましたが、これは祈りの波動を強化するための手法ということができます。
その波動が見えない世界に影響を与え、それに見合うものを引き寄せてくるということです。その引き寄せてくるものが、お金や地位、名誉などの世俗的なものであれば、その祈りを発信した人の波動はそのレベルということになります。
つまり、祈りの目標として何を選ぶかによって、私たちの波動のレベルがどの程度のものであるかを知ることができるということです。このことを理解していただくために、次に面白いたとえ話で考えてみたいと思います。 
親(神)は常に子供(人)の成長を願っている
「神さま」を子育て中の親に見立ててみます。この親は村一番の大富豪ということにしておきましょう。そして、私たち人間はその子供です。
ここでは親の立場に立って考えてみてください。
親は子供が成長して立派な成人になることを願っています。そのためには甘やかしてばかりもできません。子供の欲しがるものを無条件に与えていては、子供は贅沢に慣れ、自ら努力することをせず、魂をスポイルさせてしまうからです。
しかし、親に何もおねだりをしない子供よりは、欲しい物を意思表示してくる子供の方が、親としては嬉しいはずです。この場合の、子供が欲しいものをおねだりすることが、極初歩的な「祈り」ということになります。まずは自分の幸せのために、人は神に祈るのです。
「そっ啄の機」という言葉がありますが、卵からひな鳥が孵るときは、内側から殻をつつくといわれています。その音で親鳥は「機が熟した」と判断し、外からつついて殻を割るのだそうです。聖書に「求めよ、さらば与えられん」という言葉がありますが、親はわが子が自分の意志で何かを「求める」ようになることを成長の第一歩と見ます。
その次のステップとしては、わが子が自分の求める物を得るために、「自ら努力する」ことを期待するでしょう。自らは何もせずに、いつも親に対して「あれちょうだい」「これちょうだい」と甘える(祈る)ばかりの子供では、成長は覚束ないからです。
親の心は「人事を尽くしたうえで天命をまて」「天は自ら助くる者を助く」ということなのです。わが子が「努力することの大切さ」を理解するように、努力に見合った褒美を準備するのです。
わが子に成長を促す第三のステップとして、親はわが子がただ自分の幸せだけを考えるのでなく、自分以外の存在の幸せを考えるようになることを期待します。まず、年下の弟や妹のことを思いやれる人間になることを望みます。さらには、親も含めて家族全体の幸せを考えるようになり、貧しい暮らしをしている友人の家庭のことを心配してあげられるような人間に成長していくことを期待します。
まず自分のことを考えることから生まれた「自我」が次第に拡大されていって、自分の身近な存在のことを自分と同じように大切に考えるようになり、やがては自分の住む町全体のこと、あるいは国という単位、全世界、そして動植物も含めたこの地球全体を自分と同じように大切に考えるように自我意識を進化させてくれることが親の願いなのです。
このように自我意識が拡大することによって、他者と自分との境界線がなくなっていきます。親がわが子に求める究極の方向、つまり全能の「神さま」が人間に求めている進化の方向は、まさにこの点であると思われます。
「祈り」に関しても「EachforAll」ということが大切なのです。つまり「全体(の幸せ)のために祈れ」ということです。なぜならその全体と自分はもともと一体のものだからです。私たちは意識の底ではすべてつながっているのです。
子供は成長するにつれて、まず自分の弟や妹の幸せが自分の幸せと連結していることを認識します。次は家族全体の幸せが自分の幸せに深く関係していることを理解します。そして、やがては町に住む人たち全員の幸せを願う気持ちが芽生え、日本を、世界を、地球全体を、自分の幸せと不可分のものとして認識していくようになるのです。
そのように自我意識が広がっていくに従って、「祈り」の目標も当然変わっていきます。自分の利益を最優先していたわが子が、自分の欲しいものは我慢してでも弟や妹の幸せを願うようになるとき、親はわが子の成長を実感して心を躍らせることでしょう。これが「神さま」の心なのです。
「自分が大切に思う存在」が、「弟や妹」から「家族全体」へ、「町に住む人みんな」へ、「日本人全体」へ、「全世界の人々」へ、「動物や植物も含む地球の生き物全部」へと変化していくとき、この地球における人の心の進化は頂点に達することになります。
しかしながら、これで「神さま」の本来意図が完結したということではないようです。 
祈りを実現させる力は自分の中にある
主としてたとえ話で構成されていて、仏教の中でもひときわユニークな内容となっている「法華経」のなかに、「信解品(しんげほん)」という1章があり「長者窮子(ぐうじ)の喩」が載っています。
内容を要約しますと、以下の通りです。
家出をした一人の若者が放浪の旅を続け、乞食になっていたところ、今は大金持ちとなっている父親がそれを見つけ、自分の財産を譲ろうと考えます。しかし、若者はその大金持ちが自分の父親であることに気づかず、恐れをなして貧民窟へ逃げ込んで暮らします。
父親は、恐怖心を与えないようにと汚れた服装に着替えて若者に近づき、「どうか私を父親がわりにするがよい。私は年寄りだし、おまえは若い。おまえには悪意も、不正も、不誠実も、傲慢も見られない。私はおまえが気に入った。おまえは私の実子と同じだ」と励まします。
やがて、大金持ちは自分の臨終の時にあたり、この若者を枕元によび、土地の有力者たちを集めて、「この子は私の実の子です。私の財産はすべてこの子に与えます」と宣言します。
若者は「私はもともとそんな気持ちはなかったのに、いまこの宝が自然に私のものとなった」と気づくのです。
ここでこの話を引用しましたのは、新しい時代の到来を目の前にして、人類はこの「信解品」に出てくる若者の位置に立っていると思うからです。つまり、「神さま」の財産(この世界で超能力と言われているもの)をそっくり引き継げるところに来ているということです。
長い間、私たちはこの若者のように、自分が「神の子」であるという自覚が持てず、その力を過小評価してきました。そのため、私たちの外にある「みえない世界」の中に「力」が秘められているという認識から、その「見えない世界」に向かって「祈り」という形で願い事をしてきたのです。
しかしながら、「見えない世界」はあくまでも「見えない世界」ですから、それは「幸福の自動販売機」の内部のように、まさにブラックボックスでしかなかったのです。私たちが発信した「祈り」というコインが、その機械の中でどのような働きをして、「幸福」というすてきな飲み物を出してくれるのかについては理解できないままでした。
時代が急速に進む中で、いま、その自動販売機の内部構造が私たちにも少しずつ理解できるようになってきました。それは一言でいえば、「私たち自身の中に最初から備わっていた心の力」だったのです。
私たちはメーテルリンクの小説のように、「青い鳥」を探すために旅に出ていたのですが、その「青い鳥」は、実は私たちの心の奥深くに最初から住んでいたというわけです。私たちの願いを実現してくれる力は、実は私たち自身の中に備わっていた――「神さま」が現人類に望んでいるのはそのことに対する気づきであると思っています。 
日々の暮らしが神性を磨く修行の場
そのことを意味すると思われる次のような話が、同じ「法華経」の「五百弟子授記品」の中に「衣珠(いしゅ)の喩」として出ています。
親友の家を訪ねた男性が、歓待を受け、酔いしれて眠ってしまいます。親友は出かけないといけない用事があるので、この男性の衣服の中に大変高価な宝玉を縫い込んで出かけます。
目が覚めた男性は、親友がいないのでその家を去り、他国を放浪するうちに落ちぶれて食べるものにも事欠くようになりますが、あまり気にするようでもありません。
ある日、この男性は、その衣服に宝玉を縫い込んだ親友と再会します。親友は落ちぶれた男性を見て、「君には十分に安楽に暮らせるだけの宝玉を与えていたのに、どうして使わないのか」と諭します。
この親友を神的存在と考えてみてください。「神さま」が一人ひとりの人間に素晴らしい力を与えているのに、人はそのことに気がつかず、力は外にあるものと考え、ある人は宗教に走り、ある人はお金を絶対の価値として、自分の身を守るためにせっせと蓄財しています。その行為はまさに、「私には力はない」と宣言しているようなものです。
そもそも「祈り」という行為は、いま満たされない状態(必ずしも十分に幸福ではない状態)にあるから、それを満たしてもらうことを「見えない世界」に願う行為と言えます。祈るたびに、「今はまだ満たされていない」ことを潜在意識に植え付けていくことになります。実は、これは必ずしも正しい心の使い方ではないのです。中途半端な祈りであれば、「満たされていない状態」を更に強めることになるおそれがあります。
それをカバーするために、祈りは言葉だけでなく、座禅や瞑想、さらには奉仕行や荒行などが組み合わされることが多いのです。まさに、「身(行動)・口(言葉)・意(思念)」の総動員というわけです。超能力を得るために滝に打たれたり、千日回峰のように肉体の極限まで使っての修行なども、心の力をパワーアップするための手法ということができます。しかしながら、仏教で言う大日如来などのスーパーパワーは、実は見えない外の世界に存在しているのではなく、私たち自身の中に鎮座しておられるというのが新しい認識となっています。私たちは内なる神性(仏性)を開発するためにさまざまな修行をしているのです。
その最高の修行の場は、実は滝や深山の険しい峰にあるのではなく、日々の暮らしの中にあるというのが最も進んだ考え方となっています。私たちの日々の暮らし方、その中における心の使い方が、まさに内なる神を目覚めさせる行為なのです。「身・口・意」の使い方が試され、間違った場合はそのことの気づきがさまざまな形で得られる有り難い「修行の場」なのです。
仏教でも、ある時期から小乗から大乗へと流れが変わったと言われます。
修行によって、まず自分が悟ることを第一とした時代から、人と一緒に悟り合うという大乗の世界――つまり一人しか乗れない舟から、みんなが一緒に乗れる大きな舟へ、というイメージです。私たちの意識は深いところではすべてつながっているのですから、ある意識の持ち主だけが悟りを得て救われ、他は切り離されて捨てられるということはないのです。
「百匹目のサル」の話がそれを立証してくれています。例えば弘法大師・空海のようなある特殊な超能力者が、庶民を代表して世の中を変えていくというスタイルではなく、一人ひとりの人間が気づきを得て、その気づきの広がりがある時点で臨界点を迎え、一気に世界を変えていくということです。
祈りについても全く同じことが言えます。祈りの専門家が特殊な祈りの手法を使って世の浄化を行なう時代から、人々が日々の生活のなかで自らの意識の進化をはかり、「身・口・意」を宇宙の波動に調和させることが、もっとも効果的な祈りとなる時代へと変わりつつあると言えます。 
外の力を頼る習慣が内なる力を封印している
私たちは病気を治すのにも外の力(医師や薬)を頼りにします。自然治癒力という病気を治す素晴らしい力が備わっていることを、まだ心から信じ、頼ることができないのです。それは、西欧の科学万能主義の間違った考え方に洗脳されてしまった弊害なのです。この思想の背景には、「力は外にある」と思わせようとしているある種の陰湿な存在からの働きかけがあったことも事実でしょう。しかしながら、それとて「神さま」の手のひらの上でのことです。
時代はいま、長者が窮子に「実の子」宣言をしたように、「神さま」が私たち一人ひとりに「あなたは私の子だ。あなたには最初から私と同じ力が与えてある。それに気づくだけでその力は発揮されることになるのだ」と語りかけているのです。そのことに魂の底から気づくだけで、心の封印が解かれるのです。
ただ、その力を与えられるためには、「信解品」の中で長者が若者に「悪意も、不正も、不誠実も、傲慢も見られない」と述べたように、やはり一定の心のレベルに達していることが必要となります。「超能力を得るには、まず人格の完成(霊格の向上)を目指さないといけない」のです。でないと、俗に言う「○○に刃物」ということになってしまいます。幼い子供に拳銃を持たせるようなものです。拳銃を持ったことで小躍りし、人前でやたらと打って見せるようなレベルの人間には、拳銃を持つ資格はないということです。
私たちにもともと備わっている心の力ですが、この三次元世界では「脳」という変圧器によってその力がコントロールされています。私たちの脳は「見えない世界」とこの三次元世界をつなぐ変圧器の働きをしていることがわかっています。
その機能は(特に右脳の場合)普通の人では2〜5%しか使われていないと言われています。残りの部分は、何ものかによって機能しないように封印されている形跡があるというのです。最近は、この脳の機能が著しく開発されている子供が生まれてきているといわれていますが、いよいよ新人類誕生の先駆けではないかという気がいたします。次元の壁が破られつつあるのを感じます。 
「法華経」が教える新しい時代の祈り方
とりとめもなく書いてまいりましたので、ここで整理をしておきましょう。
(1)「祈り」は、自分または自分が大切に思う存在の「幸せの実現」を願って、言葉、思念、行動などによって「見えない世界」に働きかける行為である。
(2)「見えない世界」は私たちの外にあると思われていて、その内部構造はこれまでブラックボックスとなってきたため、「祈り」がどのような形で幸せを実現するのかは解明できなかった。
(3)「自我」を拡大して、「自分が大切に思う存在」をより遠くまで広げていくことが、「神さま」の望む人類進化の方向である。(自分のために祈るのでなく、他者のため、世界のために祈る。なぜならこの世界はもともとすべて自分とつながっているから‥‥)
(4)最終的に、「祈り」の内容を実現する力が、実は一人ひとりの人間に備わっていることを認識させることが「神さま」の意図するところである。
――力は私たち自身の中にあるのです。そのことに、いま多くの人が気づき始めました。私たちの魂の準備が整ったとき、その力を封じている封印が解かれるのです。さて、では私たちの魂の準備とはどういうことをいうのでしょうか――。「信解品」の中では「悪意や不正がなく、誠実であること。また傲慢でないこと」などがあげられていました。誠実であることの大切さについては説明の必要はないと思います。
私はその次の「傲慢」という言葉に注目しています。これは別の言葉で言えば「驕り」ということでもあり、人の心の進化を止めてしまう心の態度です。
同じ「法華経」の中の第20章に「常不軽菩薩品」という話があります。この話の主人公となっているお坊さんは、「傲慢」の対極にいると言ってもよい行動をとるのです。どんな人に対してもみなことごとく礼拝し、ほめたたえ、次のようなこと言っていたため、「常不軽菩薩」という名前をつけられたというのです。
「わたしは深くあなたがたを敬う。あえて軽んじたり、わたくしが高慢になったりしない。それはなぜかといえば、あなたがたはみなボサツの道を行じて、必ずや仏となることができるはずだからである」
このお坊さんは経典を読誦するのでなく、ただ他の人の礼拝ばかりを行なっていました。何年もの間、相手の人に罵られても、怒りやにくしみの心を起こさずに、つねにこの言葉を発していました。「あなたはまさにかならず仏と成るでしょう」と。
この行を通じて、この「常不軽菩薩」は悟りを開き、立派な仏になったという話です。
人はみな自らの中に「仏性」を秘めているので、その人を軽んじてはいけないことを教えています。それは私たち自身にも言えることです。私たちの中に「仏性」、すなわち「神さま」と同じ性質と能力が備わっているのです。それを礼拝することによって、その「仏性」が顕れてくるのです。
「私たちの内なる神に祈る」――これは大事なキーワードにしておきたいと思います。 
終末の時代における祈りのスタイル
波動の法則に従って祈りの効果を考えてみますと、「何か」を求める祈りは、その「何か」がいま十分に満たされていないということを宣言しているわけですから、祈ることによって「満たされていない」という心の状態を強化する可能性もあります。祈れば祈るほど、満たされない状態をつくり出してしまうということです。
それをカバーする方法として、「身・口・意」の力の総動員をはかるのがこれまでの祈りのスタイルでした。俗な言葉で言えば、歯を食いしばって願い事の実現を「神さま」に訴えてきたという感じです。「神さま」は、そのような献身的な祈りをしなくては願い事を聞き届けてはくれない存在だと思われていたのです。
しかしながら、今日においては科学の分野における量子力学の登場や、心霊学の研究などによって、「見えない世界」の解明がかなり進んできました。それによりますと、「神さま」は宇宙に遍在する存在であり、その力は一人ひとりの人間の中にも内在されていることが分かってきました。仏教などでは当初からそのことが明らかにされていたのです。
これからは、歯を食いしばらなくても、自分の内なる「神さま」の力が発揮されるように心のコントロールをしていけばよいということです。その心のコントロールはどうすればできるのでしょうか――それは、感謝行に尽きると言ってよいでしょう。
私たちはもともと何一つ不足するものなく、「神さま」から与えられていることに気づくだけでいいのです。これまでは、自分の欲望や他人との比較の中から、満たされていないという意識をもち、それを満たすために「神さま」におねだりをしてきたのです。
しかしながら、この広大な宇宙を創造し、運行しているスーパーパワーは、一人ひとりの人間が自分の願いを申告にこないと聞き入れられないような不完全な存在なのでしょうか。私たちの肉体の働き一つとってみても、まさに絶妙の機能が備わっています。自然界を見ても、人工的な干渉さえなければ、その営みの完璧さには目を見張るものがあります。そこまでの「完全」を実現している「神さま」が、「人間の願いまでは手が回らないので、ちゃんと申告してくれ」とおっしゃるような情けない存在であるはずはありません。
「神さま」は私たち人間をご自分の位置に向かわせるために、進化に必要なステップとして非常にシンプルな法則を準備しておられたのです。その一つは仏教でも教えている「因果の法則」です。
この因果の法則に照らしてみれば、私たちはいま既に満たされているということです。その認識に立つことが大切なのです。そして、そのことにただひたすら感謝をすればいいのです。例えば病気の症状が出たときでも、病気という形で因果の法則が働いていることに感謝し、そこから気づきを得る努力をすればよいのです。
病気の症状が出たときに、「健康を失った」と慌てて、「神さま、私に健康をください」と祈る気持ちそのものが、「人間は病気に冒されるような弱い存在である」という意識を強め、内なる神性の発露に封印をしてしまうのです。
悟りを得た仏教関係者の「病気の時は病気をすればよろしい」という言葉が、そのことを見事に言い当てています。
「神さま」は、私たちが祈らずともすべての恩恵を与えてくださっています。「祈り」とは、そのことに感謝するための行であると言えます。そして、その行の最たるものは、私たちの日々の暮らしを感謝の気持ちで生きるということに他なりません。暮らしのなかでできる感謝行――それが終末の時代の祈りのスタイルであると結論づけておきたいと思います。 
終末の大混乱の中で、何を祈ればよいのか
ここで、「祈り」の言葉の定義について再度検討してみたいと思います。
当初の定義は以下の通りでした。
祈り / 自分または自分が大切に思う存在の「幸せの実現」を願って、言葉、思念、行動などによって「見えない世界」に働きかける行為。
しかしながら、いちいち「神さま」に願い事をしなくても、私たちはそのままですべて満たされており、幸せな状態にあるということです。親の心を理解できない子供は「あれをちょうだい」「これをちょうだい」とおねだりします。それが与えられないと、「ああ不幸だ」「私は恵まれていない」と不平を言います。
しかしながら、親は広い視野から子供の成長のために一番必要な状態をつくり出してくれているのです。子供の求めるものであっても、自らの求める努力が不十分なもの、時期が来ていないものなどは与えないのです。あくまでも子供の成長のために。
逆に、あえて願い事をしなくても、親は子供の成長に必要な書籍をさりげなく机の上に置いてみるといった形で、子供の成長を促す働きかけをしてくれます。その「書籍」が、時には「病気」という形をとったり、「仕事の失敗」という形をとったりすることがありますが、それらはすべて私たちの気づきを促し、成長へと導く「神さま」の配慮なのです。ありがたい「天の配剤」なのです。
そのことに気づけば、私たちはいまどのような人生を歩んでいたとしても幸せな状態にある、ということを理解することができます。そして、感謝の言葉がひとりでに生まれてくるのです。
今の自分の状態を幸せと受けとめるか、満たされない状態と受けとめるかによって、「祈り」の目標も変わってきます。
ここまでの理解をもとに、「祈り」についての定義を次のように変更したいと思います。
祈り / 自分または自分が大切に思う存在の「幸せの実現」に感謝して、言葉、思念、行動などによって「見えない世界」にお礼を申しあげる行為。
「お願い事をする」ために祈る時代から、「いまの幸せに対する感謝の気持ちを届ける」ために祈る時代へと変わってきたということです。これまでの時代には、「見えない世界」に向かって発信した願い事が実現することによって、人は「見えない世界」の中に偉大なる「神さま」の存在とその愛、その力を認識することができるようになりました。その偉大なる「神の愛」「神の力」が存在するという認識が、悲しみや苦しみに打ちひしがれている人々の心を癒してきたのは確かです。
そして、いまは、その偉大なる「神の力」が、実は私たち一人ひとりの中に内在されているのだということに気づく時代を迎えています。それが現人類の進化の仕上げということです。神次元にステップアップするためには必ず通過しないといけないプロセスなのです。それが「神さま」によって準備されたこの度の「終末」の意味であると思います。 
脳の封印が解かれる時代の到来
日々の私たちの心が感謝一色になったとき、そして、力が私たち自身の中に内在されていることを自覚できたとき、脳の封印が解かれ、私たちは肉体身のまま神次元の力を手にすることができるのです。それは、私たちが「超能力」と呼んでいる力ですが、この物質界でスプーンを曲げたりするような、意味のないものではないのです。
わが国でこれまでに偉大な超能力を身につけたとされる先達としては、聖徳太子、役行者、日蓮、空海、出口王仁三郎などが知られていますが、新しい時代になると、私たちはそれらの先達がこの世界で発揮した力以上の能力を持つことができるのです。自分の望むことを瞬時に実現させたり、他人の心の中が読めたり(他心通)といった能力です。
もともとそのような能力は私たち一人ひとりに本来備わっているのですが、これまでその力が使えないように封印されてきたのは、私たち人類がまだ「幼年期」の状態にあったからです。
幼児に銃を与えるのが危険なように、幼年期の私たち人類も、その心(感情、思念、意識)を正しくコントロールできるようになるまでは、この世界の秩序を乱すおそれのある力を使うことができないように、封印されているのです。
いま「神さま」は、法華経に出てくる親友のように、もともと私たちの心の奥深くに縫い込んであった宝玉の存在を明らかにされつつあります。精神世界の研究によって、そして科学の世界からのアプローチによって‥‥。私は、終末のカタストロフィーが最終的な引き金になるとは思いますが、その下準備として、既に脳の封印が解かれつつある人が周りに出現するようになりました。中には、心が幼年期のままという人もいますから、その意味ではまだ玉石混淆といった状態ではあります。 
もともと備わった力に気づくこと
この物質世界では、私たちの心がその本来の力のまま他に影響を与えないように、脳によって一定の制御が行なわれているということを述べてきました。私たちの魂がこの三次元世界を知覚し、そこに働きかけるためには、次元の変圧器官とも言える「脳」の力を借りるしかないのです。その脳は、見えない力によって、機能が制御されていることがわかっています。普通の人で脳の機能の2〜3パーセント、天才や超能力者と言われる人でも5〜10パーセント程度しか使われていないことが科学的にも実証されています。まさに、脳は封印された状態にあるのです。
それでも、例えば、藁人形に釘を打ち込んで怨みに思う人を呪い殺すという「子の刻参り」のように、人の思念を「祈り」という形で集中させるとき、思念の力は物質世界の常識を超えた大きなものとなります。私たちの心には、本来はその何倍、何十倍もの「力」が備わっているのです。
そのことを法華経の「衣珠の喩」は、親友が衣類に縫い込んだ宝玉のたとえで教えてくれています。私たちはいま「もともと備わった力に気づくこと」が必要なのです。というより、気づくだけでよいのです。気づくだけで、病気や貧困と無縁の、嬉し嬉しの状態を実現することができるのです。
しかし、この「気づく」という意味は、単に知識として知るということではありません。魂で理解しなくてはいけないのです。つまり「腹の底から」わかるという状態が必要だということです。
では、どうやったら「腹の底から」理解することができるのでしょうか。ここで、この「祈り編」の結論とでもいうべき答えを申しあげます。私たちはこれから本格的な終末の大混乱の時代を迎えるでしょう。私たち人類が数々の輪廻転生を通じて得てきた教訓をもとに、いよいよ悟りを得て次元上昇をする時がきたのです。
そのような時代にもっとも大切なキーワードの一つ、それは「全託」であると確信しています。「神さまに結果のすべてをお任せする」ということです。そして、その前提条件として「日々の暮らしを祈りとせよ」ということを強調しておきたいと思います。 
「神さま」にすべてをお任せする
「全託」とは、「神さまに結果のすべてをお任せする」ということでした。
もちろん、私たちが何の努力もせずに、「果報は寝て待て」という姿勢でいることを意味しているのではありません。むしろ、その逆なのです。「人事を尽くして天命をまて」ということです。「常に感謝の気持ちをもって、目の前の仕事に全力投球しなさい。そうすれば、結果についていろいろと思い煩い、神さまに指図をしたり、注文をつけたりしなくても、神さまは必要な時に、必要な形で、最善の答えをくださる」という心の姿勢を持つことが大切だということです。
ともすると私たちは結果に対していろいろと注文をつける癖がありますので、実際にその結果が表れたとき、それが注文通りでないことを不満に思い、さらに「神さま」に注文をつけ直すか、「神さま」にさえも不満を言うというのがこれまでの態度でした。そのため、「神さま」への注文としての祈りの内容も大変具体的です。「私の病気を治しなさい」「私の息子を大学に合格させなさい」「もっとこの商売が儲かるようにしなさい」といった具合です。しかし、このような注文がその通りにならなかったけれども、そのことが逆によい結果を生んだという事例は山ほどあります。反対に、「1千万円を調達しなさい」という注文がその通りに実現した結果、それは最愛の息子の交通事故死による保険金として手に入った、という事例もありました。
私たちが祈りの内容として選択する個々の願いは、最終的には私たちの「幸せ」ということであり、その先にある「心の平和」ということなのです。しかしながら、その「心の平和」を生み出す要素は、最終的には「神さま」の力に頼るしかありません。例えば、いま急速に破壊されつつあるこの地球の実態を知れば、普通の感覚の持ち主であれば心の平和など保てるはずはないのです。いまはまだその事実を知らない人が多いために、ノホホンとしていられるだけです。もちろん、自分が今の人生をどうにか生き延びさえすれば、後はどうなってもよい、と考えている人は別ですが‥‥。
その地球レベルの平和を願うことも大変重要なことですが、一番大切なのは、私たちの日々の心の調律ということなのです。私たちの心は深いところで地球の心(ガイア意識)ともつながっているわけですから、私たち自身の心の状態をプラス思考(感謝の意識)に変えていくことが必要なのです。
「地球が危ない状態なので、助けてください」と祈るのでなく、「私は生かされています。そのことに感謝し、毎日を楽しみながら、力いっぱい生きてまいります。いつもありがとうございます」という心の姿勢を持つことが大切で、効果的なのです。祈りには感情が伴う必要がありますが、「地球」という巨大な存在に愛情が注げるまでになるには、私たちの心の自我意識を大きく進化させる必要があります。普通の人が地球のために祈るといっても、感情の伴わないものになってしまって、言霊の力も十分に発揮されないことが多いと思われます。
また、病気を例にとって何度か説明してきましたが、「病気を治してください」という祈りは力が弱いのです。それは、祈ることによって「いま病気である」という念を強化することになるからです。それよりも、「既に健康になりました。ありがとうございました」と考え、病気が治った状態と同じように「〜らしく振る舞う」ことが効果的だと申しあげました。それはその通りなのですが、この「祈り編」の結論としては、「病気の時は病気になるがよい」という心の姿勢を持つべきだということを強調しておきます。
「神さまがしっかり私のことを見てくださらないから、病気になったではありませんか。この病気は要らないものですから、早く取り除いてください」という姿勢は、正しい心の使い方ではないのです。「病気も含めて、すべて神さまはその人に必要なものを与えて下さっている」と考えることが「全託」の心なのです。
「自分の身に、あるいは周辺に起こることがすべて自分にとって必要なものなのだ」とわかれば、縁あって与えられたそれらのすべてに感謝する気持ちを持つことができます。もちろん、中には「いやだな」と思うことも起こるでしょうが、それは私たちの心の成長度合いを教えるバロメーターの役として必要なのです。
その「いやだな」と思う気持ちを長く留めず(「砂に書いた文字」のように寝るまでに消す)、心の中では「法華経」に出てくる常不軽菩薩のように振る舞うのが理想でしょう。努力していきたいものです。 
「神さまは自分の中にいる」という自覚
終末の次元上昇にあたって、天変地異を含む地球のカタストロフィー現象は避けられないと思います。既に高位次元の世界ではそのことが起こっていて、これからはそれがこの三次元の物質世界に徐々に顕れてくるというわけです。高位次元から降ろされた予言の数々がそのことを教えてくれています。
しかし、そのカタストロフィーを、「人類が間違った生き方をしてきたからこのような状態を引き起こしたのだ」とか「最終的には神さまがどうにかしてくれるのではないか」と考えることは間違っています。それは病気の症状が出た時に、「不摂生をしたから病気になった」「医者が治してくれるだろう」と考えるのと同じことです。
終末のカタストロフィーは全人類の気づきのために必要な出来事として、神さまによって準備された卒業試験のようなものなのです。また、神さまはせっかく準備した卒業試験を取りやめたり、延期することはないのです。なぜなら、早く生徒(人類)を上級学校(ミロクの世)に行かせてあげたいと思っているからです。「僕は試験なんか受けるのはいやだ!」とダダをこねていても、この地球の次元上昇という形で実施される試験から逃れることはできません。
その試験の中で、私たちはこの世界で頼りにしてきたもの(お金、地位、名誉、権力など)が全く力を持たないことを実感させられます。そして、神の偉大な力の前にひざまずくのです。「苦しい時の神頼み」現象と言えるでしょう。しかし、神は人間がそのように屈することを望んでいるわけではありません。この世のものに対する執着を捨てさせたあとは、自らの足で立つことを望みます。「覚悟を決める」という形でしょう。そして、混乱するなかで、周りの仲間に対して救援の手を差し伸べるのです。そのとき、神がかかり、「火事場の馬鹿力」とでも言うべき超能力を発揮することになります。これが終末のカタストロフィーの中で、最も顕著に見られる現象ではないかと思っています。そのひな型現象を、私は阪神・淡路大震災の時に見たような気がしています。つまり、「神も仏もいない」と、他への依存心を捨てたとき、人の内なる神性が目を覚ますのです。それが、まもなく起こると思われる「地球と人類の次元上昇」の真の姿だと思っています。 
守護霊さまを忘れてはいませんか
新しい時代の「祈り」は、「神さまに願い事をする手段」から「神さまに日々の幸せのお礼を申しあげる生活スタイル」へと変わります。私たちは日々の生活の不足を「神さま」に訴えて、「ちゃんとしてください」とおねだりするのではなく、いま与えられているそのままの状態がいかに有り難いことであるかを実感し、そのお礼の気持ちを「神さま」に伝えるために祈るのです。
もちろん、私たちが祈る前から、「神さま」は私たちの心の中をお見通しでしょうから、祈りの動機がそのように進化したことを心から喜んでいただけるはずです。
しかし、「神さま」といっても、それは「見えない世界」の何処に、どのような姿をしていらっしゃるのかが分かりませんから、祈り先が漠然としていて祈りに力が入らないことも考えられます。そこで、これまでは「神さま」の代理店とでもいうべき仏像や、マリア様やイエス・キリストの像、あるいはマントラの書かれた掛け軸などが祈りの対象として活用されてきたのです。それはそれで今後も祈りの対象として重宝されていくことでしょう。
しかし、私には「その前に何か忘れていませんか?」という声が聞こえます。そう、私たちのこの人生での学びと進化を最も身近な所から見守り、さまざまな気づきのきっかけを提供しておられるそれぞれの守護霊さまの声です。この守護霊さまは、さらに高位次元の守護神さまから命じられて、私たちの専属の指導役として、見えない世界からさまざまなメッセージを送ってくださっているのです。
しかしながら、まだ多くの人はそのメッセージに気づくことがないどころか、守護霊さまの存在にさえも心を向けていない人が大半ではないでしょうか。一番身近な霊的存在に心を向けることをしないで、私たちは勝手に宗教団体を選んだり、祈りの対象を決めたりしていますが、それは大変もったいないことでもあり、次元の壁が薄くなってきているこれからの時代には、危険なことでもあるのです。 
霊界から私たちを指導しているありがたい存在
この三次元の物質界に生きる私たちにとって、霊界からその私たちを日夜見守り、さまざまなメッセージを届けてくださっている守護霊さまの存在に意識を向けるということは、とても重要な意味をもっています。
守護霊さまと私たちの関係は、文字通り「親と子供の関係」なのです。しかし、私たちにはその「親」の姿は見えませんから、日常的に私たちの頭に浮かぶことはすべて自分で考えたことだと思っています。しかしながら、その中には見えない世界から送られてくるさまざまな「思念」が含まれているのです。
中には邪悪な霊的存在からのメッセージが届いたり、直接的な干渉がされる場合もありますから、それらの悪い影響を受けないようにガードする役割も担っていただいているのです。すべて、私たちの魂の進化のために。
私は、守護霊さまと私たちの関係を考えるとき、よちよち歩きの幼児の後ろからついてくる母親の姿を思い浮かべます。初めての道を歩く幼児は好奇心がいっぱいで、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、とても危なっかしいものがあります。放っておくと崖の方に近づいて行くかもしれません。
もし、私たちが崖から落ちそうになっても守護霊さまには直接手を下すことはできないのです。その前に、「そちらに行っては危ないよ」というシグナルを発してはもらえるのですが、この三次元世界に生きている私たちに聞く耳がなければ、物理的に干渉することはできないのです。
だから、よちよち歩きの子供が後ろにいる母親をたびたび振り返るのと同じように、私たちは常に守護霊さまの方を振り返り、霊的次元から見て日々の行動に問題がないかどうかについての判断を仰ぐ必要があるのです。この「振り返る」という行為が、「守護霊さまに祈る」ということなのです。
私たちが守護霊さまに心を向けますと、その瞬間にメッセージが私たちの潜在意識の中に届きます。ちょうど、パソコンからメールの送受信をしますと、プロバイダーのサーバーに届いているメールが瞬時に受信されるような感じです。そして、私たちの潜在意識に届いた守護霊さまからのメッセージは、あたかも最初から私たち自身の考えだったかのように感じられ、物事を決める場合のよき判断材料となるのです。
それは、私の経験からいえば、「ふと思う」という感じです。「ふとその本が読みたくなった」「ふと誰かに会いたくなった」という感じで、後で考えると、その行動が随分と有意義だったと思えるのです。これが一般的に守護霊さまが私たちを導く方法といってよいと思います。それも、日ごろの私たちの振り返りがあって、初めてメッセージが理解できるということです。
しかしながら、守護霊さまは私たちの霊格の向上のための指導役を命じられているわけですから、この世的な成功や繁栄のために手を貸してくださるわけではありません。ですから、「振り返る」場合の祈る言葉の選択もその点を考慮しなくてはいけません。もちろん、ベースとなる内容は「感謝」ということです。日々のご指導に感謝することから始めなくてはいけません。
ちなみに、私がこれまで約20年間にわたって使ってきた「守護霊さま、守護神さまへの感謝の祈り」をご紹介しますので、よろしければ参考になさってください。私はこの祈りを、毎朝の冷水摩擦を終えたあとで、洗面所の鏡に語りかけるように唱えています。 
フツーの人が実践している祈り方
「守護霊さま、守護神さまに捧げる感謝の祈り」以外にも、私はいつしかさまざまな対象に対しての祈りを実践するようになりました。すべて自己流ですが、「生長の家」の創始者である谷口雅春さんの著書にはかなり影響を受けましたので、一部はその谷口さんの指導された「神想観」という瞑想法を取り入れたものとなっています。
いずれも、家族にも明らかにしたことのない内容で、気恥ずかしい思いもいたしますが、みなさまの何らかのご参考になればと、思い切ってすべてを公開することにいたしました。後悔はしないつもりです。サブ!
(1)宇宙創造神に捧げる感謝の祈り
私たちを生かしてくださっている本源の「神さま」に対する祈りです。この祈りは、毎朝風呂場でシャワーを浴び、体を清浄にしたあとで、軽い瞑想状態で行なっています。キリスト教の「天のお父様」と、谷口雅春さんによる「神想観」の内容がまぜこぜになっていますが、本源の「神さま」は同じだから気にはなさらないだろうと思って、このまま続けてきました。
(2)自己の本体霊に捧げる感謝の祈り
神の子である私たちは、その魂を磨くためにこの人生を選んで生きていると言われています。その自覚に基づいて、自分自身の神性を発露させるための祈りといえます。「法華経」に出てくる常不軽菩薩が他者を拝んで回ったように、まず自分の魂の中心にいる本体霊に感謝する祈りです。
これは、「守護霊さま、守護神さまに捧げる感謝の祈り」のすぐあとに、やはり洗面所の鏡(の中の自分)に向かって行なっています。
(3)自分の肉体に捧げる感謝の祈り
この三次元の物質界で、私の魂を乗せて人生修行をさせてくれている肉体には、心から感謝しています。単に感謝するだけでなく、その機能を称え、ますます元気になるように祈っているのです。
これは、「自己の本体霊に捧げる感謝の祈り」のすぐ後に、やはり鏡の中の自分の肉体を見ながら行なっています。
また、鏡に向かっての祈りの最後に、「自分の顔・表情に対する感謝の祈り」も実践しています。
まず「私のこの顔・この表情は、神さまからいただいたそのままの姿であります」と唱え、目から始まって、鼻、口、唇、歯、舌、眉間、眉毛、第三の眼、額、耳、‥‥と、顔を構成している各部品を賞賛し、「このような顔・表情をいただきましたことを、神さまに心から感謝申しあげます」と結ぶのですが、その具体的な内容はさすがの私も公表する勇気がありません。と言いつつ、たとえば「悟りの第三の眼が大好きです」「健康に光り輝く額が大好きです」といった感じで、一つひとつの部品を褒め称えています。その結果が、今の私の顔・表情ですから、効果のほどはどうぞご判断くださいませ。
その他、祈る対象はまだまだたくさんありますが、必ず実行しているものとしまして、トイレで用を済ませたあと便器に対する礼拝・感謝は欠かしたことがありません。
(4)般若心経の読誦
鏡に向かっての祈りの次に、今度はヨガの三角倒立(両手を頭に当て、肘と頭で三角をつくり、それを支柱として逆立ちをする)をしたまま、1回唱えています。その間の約3分間は、いわば逆立ち健康法を実践していることにもなります。お経を唱えているときは全く何も考えていません。また、唱えることの効果を期待しているわけでもありません。今では「唱えるのが楽しい」「唱えないと気持ちが悪い」という感じです。
(5)ご先祖さまに捧げる感謝の祈り
マンション暮らしではありますが、わが家には小さな仏壇があります。生後6カ月で病気で亡くなった長男(慎太郎)のために購入したものですが、既に他界した父と母の写真も飾っています。(私は次男なので、位牌は兄の家にあるのです)その仏壇の水を換え、焼香するのが私の日課となっていまして、その時にご先祖さまと、亡くなった息子の霊に対する祈りを捧げています。
(6)観音経の読誦
ご先祖さまへの祈りのあと、仏壇に向かって観音経の一部を唱えています。観音経は「法華経」の第25章にある「観世音菩薩普門品」のことをいいます。その観音経の中の「偈(げ)」(韻を含んだ詩)の部分を、特別な目的もなく、4〜5年前から唱えています。お経の意味が大変すばらしい内容となっていますので、霊界とつながる仏壇を通じてこの宇宙によき言霊が届くのではないか、と考えてはいますが‥‥。
以上、すべてを実践しても1日に20分もかからない内容だと思います。その昔は、自己流で本格的な瞑想にチャレンジしたりしていましたが、金縛りや幽体離脱などを経験するうちに、自己流の危険性を感じ、いまではひたすら言霊中心の祈りとなっています。内容もほとんど「感謝の祈り」に尽きます。
フツーの人が生活の中で割と簡単に実践できるという意味で、何らかのご参考になれば幸せです。 
 
新田次郎「槍ヶ岳開山」

 

笠ヶ岳・槍ヶ岳に登頂した播隆の信仰や煩悩を巡るストイックな物語
日本の山の多くはアニミズム(精霊崇拝)や山岳信仰の影響を受けており、俗界を超越して高くそびえ立つ『山』は実在する神仏(権現)の象徴であり、神仏の住みなす霊域とされてきた。人を寄せ付けないほどに峻険で悪路を極める山は、俗塵に汚されない聖地であり、神仏の霊威が立ち込める特別な領域であるから、古代から日本の神官・僧侶の宗教者は世俗と遮断された深山幽谷に寺社仏閣を建設して、その地を仏教宗派・修験道の大本山としてきた。
伝教大師・最澄の比叡山延暦寺や弘法大師・空海の高野山金剛峰寺は誰もが知っている『山の聖域』の代表であるが、日本地図を広げてみてどこの都道府県でも良いので山地を眺めてみると、必ずといっていいほどその山中に何らかの仏教寺院があるのが目に付く。仏教の寺院を初めてその地に建立すること、あるいは建立した人物を『開山(かいざん)』というが、新田次郎の『槍ヶ岳開山』は一本の槍のように頂上が鋭くとがった槍ヶ岳に、日本史上で初めて登頂して開山した播隆(ばんりゅう)の信仰と葛藤を描いた奥行きの深い小説である。
新田次郎の真骨頂である登山小説としてだけではなく、仏教的評伝としてもヒューマンドラマとしても読める作品であり、最後のクライマックスでは、『播隆が長く固執していた葛藤・思い残し』の裏側にある事実が弥三郎の口から訥々と語られる。その言葉が、臨終が間際に迫り意識が消えゆこうとする播隆の耳に届いていたのか否か、それは読者の解釈に任せられる形になっている。心の底から愛した妻・おはまの死への懺悔(自責)・執着が、山を登攀する播隆の禁欲的で苛烈な信仰生活の基盤となっていて、その懺悔の思いをうっすらと察している昔馴染みの弥三郎と播隆との複雑な心理的やり取りがクライマックスを緩やかに形成していくのである。
江戸時代末期まで、天に向かって鋭く細くそびえ立つ槍ヶ岳(標高3180メートル)の山頂は人跡未踏の聖域であったが、文政11年(1828年)7月28日(新暦9月7日)に浄土宗の僧侶・播隆(1786-1840)が中田又重郎と共に初めて頂上まで登攀(とうはん)した。登山靴や防寒具、行動食、テントなどの登山道具がまともにない時代の登山は、過酷と危険を極めるものであり、播隆は地元の漁師・住民でも誰も登り詰めたことがない槍ヶ岳に決死の覚悟をもって登頂したのである。
槍ヶ岳の頂上に『阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩』の三尊像を安置して槍ヶ岳開山の悲願を成就するのだが、播隆がどんな困難や危険にも物怖じせずに槍ヶ岳登頂をやり遂げた背後には、浄土教で衆生を救済するという仏教信仰ではない、煩悩というべき『個人的な事情・後悔』があった。
越中国新川郡河内村(現富山市大山地区)で生まれた播隆(俗名は岩松)が、商人(番頭)としての生活を捨てて仏門に出家することになった契機は、『富山一揆での妻・おはまの殺害』である。19世紀初頭、食糧が枯渇する飢饉に襲われた富山の村々では、藩(役人)が餓死が増えている農民の窮地を救う政策を打たないことに村民が激昂し、米屋・質屋の米蔵を襲う『打ちこわし』が始まった。
番頭の岩松は不本意な形でその富山一揆に参加することになり、反乱する農民を鎮圧しようとする藩士を相手に暴れまわるが、自分を鉄砲で撃とうとした兵士を槍で突こうとした時に、自分と兵士の間に愛妻のおはまが割って入り、岩松は誤っておはまの胸を貫いて殺してしまう。その瞬間に、おはまが自分へと向けた強い憎悪・怒りが籠もった目線が、死ぬその時まで播隆の心を押し潰して苦しめ続けるのである。
浄土宗の念仏僧になる前の商人・岩松の願いは、ただ恋女房であるおはまと二人で仲良く静かに暮らしていくことだけだったが、槍を突こうとした勢いを止めることができず、自分の前に飛び出してきたおはまの胸を貫いてしまったことにより、岩松は深い罪悪感を背負いながらお上から追われる身となり、俗世の身分を捨てて出家する道を選ぶ。仏教について系統的な学問をしたこともなく、正式な山岳修行をしたこともなかった岩松は、子どもから石を投げつけられるような憐れな乞食坊主同然の生活をしていたが、同じ富山出身の少年の徳助(徳念)と共に修行を続けて次第に徳を積み名声を高めていく。
小説『槍ヶ岳開山』のベースには、同じ富山県の八尾出身の、岩松(播隆)と徳助(徳念)、弥三郎(やさぶろう)の“三者関係”があるのだが、播隆は軽薄な薄ら笑いを浮かべて商機ばかりをあざとく追い求める弥三郎のことを警戒しており信用していない。しかし、薬売り・先物取引の商売で成功していく弥三郎は、要所要所で播隆の前に姿を現して、播隆のために私財を惜しまずにさまざまな仏像・物資の援助や投資をしてくれたり、おはまにそっくりな女性の妹(柏巌尼)を仏弟子として紹介してくれたりする。ただの同郷の誼(よしみ)にしては、余りにも手厚い援助と好意の裏にあるのは、弥三郎が播隆に隠し続けてきた『妻おはまの死にまつわる改悛・懺悔』があるわけだが、これは物語の終盤で解き明かされる。
仏教僧として無名だった岩松が弟弟子の徳助と共に正式の仏門を潜るのは、大坂(摂津国)・宝泉寺の見仏(けんぶつ)との出会いであり、仏道修行の手抜き・省略を許さない厳格な見仏上人の教えによって、岩仏と徳念は粥・菜の塩汁だけの一日一食の戒律を守りながら修行に勤め、仏教徒としての強固な基盤を固めていく。岩松に岩仏、徳助に徳念という戒名を与えたのも見仏であり、見仏は釈迦の鹿苑寺での初説法を通して『欲望と苦行を徹底排除する中道の道』を岩仏と徳念に教えてくれた。おはまの死と愛着に関連した煩悩に悩み続けている岩仏は、正しく生きるための戒律、精神統一のための瞑想、正しい認識としての智慧の習得に専念することで、おはまの煩悩を振り切ろうとするがそれでもその煩悩は執拗に岩仏を苦しめ続ける。 
“悟り(煩悩消尽・自他救済)”につながる登山と瞑想の相関
ストイックに自分と弟子を戒律と専修念仏で律し続ける見仏上人は、文政・天保の世の中を『末法の苦悩に満ちた時代』と看破しているが、この時代に衆生を地獄の苦しみに突き落としていた大飢饉と幕府・藩の苛斂誅求に対しては為す術を持っていなかった。本書の後半では、『天保の大飢饉(1833年〜1837年)』が発生して重罪・飢餓で苦しむ百姓たちが、仏教信仰や念仏の称名(功徳)に限界を感じて絶望したり仏法に反対したりするのだが、岩仏(播隆)は徹底的に追い詰められて二進も三進もいかなくなった衆生と自分を救済するために、人為をはね返す険しい山に登り続けるのである。仏教思想の基礎と戒律の遵守、修行の実践を教えてくれたのは宝泉寺の見仏であったが、岩仏に播隆という新たな戒名を授けてくれたのは修行よりも檀家を大切にする一念寺の蝎誉(かつよ)である。
播隆となった岩仏は更に、寺院の影響力を拡大する事業僧としての野心が旺盛な本覚寺の椿宗(ちんじゅ)と知り合うことで、笠ヶ岳や槍ヶ岳の開山に向けた動きを始めていくのである。その途中で、弥三郎から生前の妻おはまと生き写しのようにそっくりな“てる"という女性を紹介されて、どんなに修行を積んでも忘れることができない『おはまの幻影・淫欲』を思い出して苦悶することとなり、今頃になって意地悪にもてるを紹介してきた弥三郎の意図を思って憤慨する。おはまと瓜二つの容姿を持ったてるの側にいる苦痛に耐えがたくなり、戒律を破ってしまう身の危険を考えた播隆は、一念寺を出て流浪の念仏行者となって諸国を遍歴した。
当てどなく念仏称名しながら各地を三年あまり流浪した播隆は、本覚寺の椿宗の勧めを受けて荘厳などっしりとした山容を見せる笠ヶ岳(かさがたけ)の再興を目指すこととなる。元禄初年に円空上人によって笠ヶ岳開山の大事業が成し遂げられ、天明2年(1782年)に南裔上人が頂上を極めてはいたが、播隆・椿宗が生きている時代には40年にもわたって世人から笠ヶ岳の存在は忘却されており、笠ヶ岳再興には仏道を広める上で大きな意義があるように思われたのである。笠ヶ岳再興にとりかかる辺りから、無名で誰も信者がいなかった乞食坊主に近い播隆は、事業僧・椿宗の画策によりいつの間にか『上人(しょうにん)』という尊称で呼ばれるようになり、笠ヶ岳の登頂に成功して仏像を安置したことで更にその名声・人気は急速に高まっていくのである。
播隆本人の心情・動機からすれば、仏教の修行・振興や衆生救済といった高尚な大義名分を掲げた登山というよりも、自分自身が妻おはまに対する罪悪感や苦しみから離脱するための登山でもあった。山中の岩窟で瞑想しているとおはまの幻覚が出現して、播隆は『私はどうすれば許してもらえるのか』と問いかけるが、幻覚の像であるおはまは『あなたは死ぬまで苦しみ続けるしかない,完全に許される道などない』という厳しい返答を返してきて、播隆は一層、内面にある後悔と懺悔の思いを深めて悶える。針葉樹林が生い茂り岩・石がごろつく厳しい登山の道のりを越えて、笠ヶ岳の頂上にまで上り詰めた時に、阿弥陀如来が飛来する神秘体験である『御来迎・御来光』が起こるのだが、霧の中に現れた如来の顔は紛うことなき“おはまの顔”であった。
笠ヶ岳山頂の霧の中で、虹に浮かぶおはまのような阿弥陀如来の御来迎を経験した播隆は、笠ヶ岳よりも更に天上・極楽浄土に近い高く険しい山に登れば、またおはまの移し身である御来迎に遭遇できるのではないかという希望(煩悩)を持つようになる。笠ヶ岳の向かいに天空を突き刺すようにそびえ立つ槍ヶ岳登山への悲願を抱くようになり、槍ヶ岳の登山の過程と播隆を取り巻く複雑な人間関係の推移が、小説『槍ヶ岳開山』の後半のストーリーをぐいぐいと推し進めていく。播隆は机上の学問や檀家相手の説法・葬儀(供養)によって悟りを得るような従来のタイプの僧侶とは全く異なり、念仏称名や苛烈な登山という『孤高の禁欲的な山岳修行』によって悟りに近づこうとする僧であるが、播隆の悟りを妨げ煩悩の炎を盛んにするのは“妻おはまの幻影・情愛・罪悪感”であり、物語全体として『許し・慈悲を請い続ける播隆の姿』が強調されている感覚を受ける。
笠ヶ岳再興をやり遂げた播隆は、以下のように自分が体得・実感した『登山と悟りとの相関性(一心不乱の境位)』について説法の中で語っているが、播隆は自らが最も愛する二人の弟子(徳念・柏巌尼)の“男女の仲”を疑って葛藤し続けるという未熟さを最後まで容易には脱しきれなかった。柏巌尼(はくがんに)は、妻おはまに瓜二つのてるの双生児の“おさと”であり、弥三郎の懇願によって播隆の手によって得度された尼僧である。
てるの双生児であるから、当然ながらその外見や雰囲気は播隆の死んだ妻であるおはまに似ていて、折りに触れて播隆の煩悩や葛藤を煽ることになる。播隆は美しい青年層へと成長した“徳念”と美貌を残したまま剃髪した“柏巌尼”との関係を、こころのどこかで疑い嫉妬し続けながらも、自分が特に目をかけている弟子の二人のことを、そんな目で見てしまう卑俗な自己の弱さ・未熟さに苦悩しているのである。
『私は念仏行者ですから、諸国を念仏しながら歩きました。岩窟にこもることもありましたが、今度の笠ヶ岳再興で私は山へ登ることが瞑想に(精神統一に)近づくことのできる、もっとも容易な道のように思われました。山の頂に向かって汗を流しながら一歩一歩を踏みしめていくときには、ただ山へ登ること以外は考えなくなります。心が澄み切って参ります。登山と禅定とは同じようなものです。それは高い山へ登って見れば自然に分かってくることです。なにかしら、自分というものが山の気の中に解けこんでいって、自分がなんであるか、人間がなんであるか、なぜ人間は死なねばならぬか、そういうむずかしい問題さえ、自然に山の気が教えてくれるようにさえ思われて来るのです。そのような境地は登山によって身を苦しめて得られるのではありません。登山はけっして苦行ではなく、それは悟りへの道程だと思います』
仏道修行に邁進しながら深い信頼と敬愛で結びついている“播隆・徳念・柏巌尼の三者関係”と播隆に柏巌尼を引き合わせた“弥三郎の隠された真意”とが、『槍ヶ岳開山』の後半部分のサスペンスとも呼べる人間ドラマの展開を力強く支えている。凍傷で右足の指を失いながらも、必死の思いでやり遂げた峻険な山を踏破する『槍ヶ岳の登頂』によっても、播隆の煩悩は完全に晴れることなく、おはまと生き写しの柏巌尼を巡る妄想観念によって播隆は自己の悟りへの遠さを再び思い知らされるのである。
新田次郎は登山をテーマにした山岳小説を多く手がけていて、このジャンルを開拓した作家とも呼ばれる人物であるが、『登山過程における臨場感のある苦しみ・楽しみ』と『仏教信仰・念仏称名による衆生救済(自己の救い)』とを融合したこの『槍ヶ岳開山』は今、読んでみても古さを感じさせない完成度の高い作品に仕上げられている。播隆は播隆本人の自覚や自己評価とは無関係に、自然界にそびえ立つ山を登攀して開山する行為を通して、いつの間にか周囲の僧侶や村人たちから『上人・聖人・高僧』として賞賛され崇拝されるようになっていく。
だが、播隆の念頭にいつもあったのは飽くまでも『自己の救済・煩悩と悔悟の消尽』であり、他者が播隆に抱いているストイックで悟りを得た高僧のイメージとは全く異なっている。播隆は自分が見ているおはまに対する煩悩に迷い苦しむ“未熟な僧侶としての自己イメージ”、周囲の他者が見ている峻険な山を制覇し一切の煩悩を脱した“悟った高僧(上人)としての自己イメージ”との落差を受け容れて、淡々と自らの使命や修行に取り組んでいき、外見的にはその仏教僧としての禁欲的で利他的な生き方にブレがないのである。身を焦がすほどに愛していた妻のおはまへの愛着・煩悩を振り切ることがなかなか出来ずに、煩悩に襲われた時にはただただ無心になって念仏を唱える播隆は、険しい山岳地帯へと一歩一歩、足を踏み入れていく。
飢餓と重税、絶望に苦しむ大衆を直接的に救う力を持たない播隆は、自身と念仏の無力さを自覚した上で、『ただ念仏を唱えて苦しくて死にたいと思うのでは極楽浄土へは行けない』と語りかける。圧倒的な飢えと搾取、貧しさに苦しみぬいている衆生が、『ならば、どうすれば我々は極楽浄土に行けるのか』と問い返すと、『どんなに苦しくても一心不乱に生きたいと願い続けることが極楽浄土への唯一の道だ』と播隆は応えた。ただ念仏を唱えるだけで極楽往生できるとする浄土教の教えに、播隆は苦悩・絶望・恐怖に押し潰されない『一心不乱な生への意志』を導入したが、それは机上の学問に頼らずに登山・山岳修行に明け暮れた播隆ならではの
衆生救済の菩薩行(ぼさつぎょう)だったのかもしれない。
登山を趣味として険しい山に登っている人、仏教・仏法に関心を持って悟りの境地に憧れる人、人間関係(異性関係)や愛着の苦しみを抱えている人、登山や仏教に関連する小説を読みたい人など、いろいろな嗜好性や背景を持つ人に応えてくれる小説である。 
 
哲学と宗教の違い

 

マルクス主義の挫折と近代という思想哲学の到達点
哲学とは何か?という問いに一義的に答えることは難しいが、哲学の実践的側面における最大の成果・実績は、近代社会の根本原理を呈示して権力による個人の支配(人間の道具的利用)を大幅に制限したことにある。知を愛する哲学は、宗教の子であり科学の親であるが、形而上学的な真理(現象を規定する背後世界)を探究するという意味での哲学は既にその役割を終えた観がある。
同じ真理を目標にしてきた宗教と哲学の違いは、変更不能な絶対的価値としての神・教祖・教義の有無にあり、宗教は教えを信じることによって真理に近づこうとし、哲学は自分の頭で考えることによって真理に近づこうとする。哲学では主体的・論理的な思考によって過去の理論・主張を書き換えて厳密性を高めることが可能だが、宗教では人間個人が自分の思考や判断によって過去から伝承される教義・物語の体系を勝手に書き換えることはタブーである。
宗教では神・教祖・慣習の権威が、絶えず個人の思考・論理・検証の確からしさを超越するので、原則的に宗教は過去に規定された物語的な理論・教義を反証的に書き換えることができない。
時代が古ければ古いほど、神・教祖の原点に近づくほど宗教における真理性は高まるが、哲学では時代の最先端の発見や社会風潮の変化も取り込みながら、より普遍妥当的な理論・概念を構築しようとする。宗教は物語的・教条的な説明によって世界の構造や善悪の区別を絶対的に定義するが、哲学は概念的・論理的な説明によって世界の構造や善悪の構造を説得的に仮定するという特徴を持つ。
哲学とは論理的・説得的な言語ゲームによって、言語・文化・宗教にできるだけ依拠しない普遍妥当的な言説(解釈)を思考して構築する営みであり、順序正しく読み進めていけば誰もが了解できるような論理の筋道を立てることである。宗教は慣習的・教条的に信じる人たち同士で共有できる真理性・物語を呈示していくが、哲学は論理的・了解的に誰もが納得せざるを得ないような普遍性・共通概念を呈示することが目的である。宗教の本質は無私的な信仰・受容にあり、哲学の本質は論理的な懐疑・批判にあるが、哲学の場合には信じる・信じないとは関係なく、言説の内容を順番に読んでいけば、誰もが論理的な思考の流れとしてその内容に同意するか否かはともかく知的に了解することができる。
哲学の起源は、古代ギリシアのターレスやアナクシメネスなど自然哲学にあるとされるが、紀元前6世紀の自然哲学がより起源に近いからといって、近代以降の哲学で宗教の創始者のような権威的な地位を占めることは全くない(哲学の参考URL)。イスラームのコーラン(アル・クルアーン)やキリスト教の旧約聖書・新約聖書に宿っているとされる神聖な権威性・教条性というものが、特定の哲学者や哲学書に対して宿ることは通常ないのである。
稀有な例外として、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの資本論や共産党宣言があり、マルキシズム(マルクス主義)は史的唯物論に反する宗教をアヘンとして排斥しながら、自らが反論・修正を許さない宗教的教義と化したと揶揄されたこともあった。
マルキシズムは例外的に宗教的な権威性と絶対性を帯びた哲学的営為の産出物と言えるが、純粋な哲学というよりは、共産主義社会の建設を目指す政治思想(イデオロギー)としての趣きが強い。マルキシズム(共産主義思想)は、資本主義経済を否定する暴力的・党派的な煽動や革命と不可分に結びついており、ソ連や中国において独裁権力の正当性と思想(共産主義)が癒着したために、反対者の粛清・弾圧も辞さない宗教的なドグマに接近した。
マルクスの共産主義のビジョン自体はオリジナルなものではなく、自由で平等な理想社会建設を想像力豊かに掲げたフランスのシャルル・フーリエやサン=シモンに代表されるユートピアニズム(空想的社会主義)の系譜に連なる。マルクスやエンゲルスは空想的社会主義を批判して、理想的な社会主義社会を実現するための科学的・具体的な実践方法を構想したが、マルクスとエンゲルスが理論化した暴力革命を起点とする科学的社会主義は実際には上手く運用することができなかった。旧ソ連を盟主とする東欧の共産主義圏は、多くの非効率・悪平等と自由の抑圧、特権階級化した共産党(官僚機構)の腐敗構造を生み出して崩壊した。
旧ソ連・中国では共産党・国家主席(総書記)に言論で反対しただけで、個人の生存権さえ否定され兼ねないということから、個人の人権の相互承認を前提とする近代啓蒙思想の理想地点からは後退した観がある。マルクスの思想・哲学の最終的な目的は皮肉なことに人間全員の自由の解放にあったのだが、絶対権力によって経済的な平等を追求すればするほど、全体主義的な統制が強まり精神的な自由が失われていくことになった。
精神的な自由の喪失は言論・表現の自由の弾圧を生み出す、マルクスのラディカルな思想・哲学の営為は精神的な自由に支えられていたが、マルキシズムが実験的に適用された社会主義国家では、マルクスが理想社会をイメージして思索したような哲学をする自由も抑圧される結果になった。
古代哲学や中世哲学には、神学(宗教)と未分離な思考様式や学説の体系も多く見られたが、古代ギリシア哲学に哲学の原型が求められる最大の理由は、ギリシア神話のような物語的説明を用いずに、概念・論理によって世界の成り立ちや社会の構造、人間の本質を説明しようとしたことにある。
ソクラテスが産婆法(反駁法)と呼ばれる対等な立場での議論を真理探究の方法に選んだように、古代ギリシア哲学の原点は公共圏として機能したアゴラ(広場)における市民の議論にある。他者と公共空間で意見の正当性や論理の整合性をつき合わせて議論できる言論の自由・表現の自由が保障されていなければ、哲学の営為は成立しないのである。哲学の原理的な役割と歴史的な共同体の衰退、他者と共通する“生の意味”の欠落について追記するかもしれません。 
 
中世ヨーロッパの精神的支柱となったキリスト教とスコラ哲学

 

精神(観念)の実在性と内面(欲求)の自由
古代ヨーロッパ世界の政治秩序は、皇帝(アウグストゥス)を頂点とするローマ帝国によって形成されていましたが、大波のようなゲルマン民族の侵攻とローマ市民としてのアイデンティティの崩壊、農業経済の基盤崩壊によってローマ帝国は瓦解します。ユリウス・カエサルの登場以来、蛮族の侵入を阻止してきた安全保障の防衛ラインを踏み破られた永遠の都ローマは、無抵抗のままに西ゴート族やヴァンダル族に蹂躙され略奪の要求に屈して滅亡しました。西暦476年、ゲルマン族の傭兵隊長オドアケルによって幼帝ロムルス・アウグストゥルスが廃絶されたことで、西ローマ帝国は正式な終幕を迎えますが、キリスト教を精神的支柱とする中世の時代はキリスト教を国教化したテオドシウス大帝の時代から始まっていたとも解釈できます。
ローマは王政→共和政(元老院・民会)→帝政(専制的な君主政)へと政体を変化させ、最終的にはローマ軍の最高指揮権を掌握するローマ皇帝に全権力が集中しましたが、ローマ帝国が滅亡した中世ヨーロッパではローマ教皇(法皇・司教)の権威と国王(皇帝)の権力が並立する二重権力構造が生まれてきます。ローマ帝国では、他宗教・異端思想に対して寛容な多神教のギリシア・ローマ宗教が信仰されていましたが、キリスト教をローマ市民統合の基軸にしようとしたコンスタンティヌス大帝(272-337)のミラノ勅令(313)から、段階的に他宗教と共存が難しいキリスト教の影響力が強まっていきます。
テオドシウス大帝(347-395)の時代には、他宗教の信仰を禁圧するキリスト教の国教化(380)が成し遂げられると同時に、ローマ世界から信仰の自由・思想信条の自由が急速に失われていくことになります。テオドシウス帝の時代には、ミラノ司教のアンブロシウスという人物が宗教的権威として存在感を強め、ローマ世界の最高権力者であるローマ皇帝と対等な立場に立って、悪政に対するサンクション(社会的制裁)を与える異例の状況が生まれました。宗教であるキリスト教が、俗世の最高権力者と対峙できるほどの強大な権威をまとえる時代が間近に迫っていたわけで、いかにローマ皇帝や諸国の国王と雖もキリスト教世界の権威を無視した政治を行うことが難しくなっていたのです。
古代ローマ人は異端(異質性)を受容する寛容の精神を持って、戦争の敗者を自分たちの社会システムに同化することでローマの勢力圏を飛躍的に拡大させ、アレクサンドロス大王の帝国に匹敵する領土を持つ世界帝国を建設しました。古代ローマの時代には、心の中では何を信じても、何を考えても自由なのだという信仰・思想の自由の基盤が自明の原則として存在していましたが、中世ヨーロッパではローマ・カトリックの正統な教義に反する信仰・考えを持つことは重い罪悪であるとする考え方が一般化していきます。これは当時の哲学にも非常に大きな影響を与え、精神的なものが本当に存在するという実在論のスキーマで物事を考える中世では思考と行動の境界線が曖昧になっていったのです。これは近代以降の時代に生きる私たちにはなかなか理解し難い感覚ですが、教会・政治権力が道徳的に悪いと定めることを、頭の中で考えているだけで実際に処罰される可能性があるということを示す非常に危険な状況が生まれたことを意味します。
キリスト教に限らず宗教政治や神聖国家の問題点というのは、個人の内面の自由に対して基本的に非寛容であり、道徳と法律の境界線の曖昧化が起こることで自由な発言や表現が萎縮してしまうということです。宗教教義がそのまま罰則のある法律となるような原理主義的な神聖政治では、民衆が相互に道徳的な監視をし合うような閉鎖的コミュ二ティが形成されやすくなり、正しいことをしなければ処罰される・悪いことを考えれば制裁を受けるという強迫観念が一般化します。無意識の概念を提起したジークムント・フロイトの精神分析では、性的願望(エロスの欲望)の抑圧が神経症の原因の一つとして想定されましたが、日本人をはじめとする近代社会に生きる人々が性的願望の抑圧に対してあまり実感が湧かないのは、宗教的な罰則のある道徳規範というものを日常で意識する機会がそもそもないからです。
しかし、淫らな事柄を想像さえしてはいけない・生殖と無関係な性的快楽は罪悪であるという性的欲求の抑圧というのは、中世ヨーロッパ社会において普遍的な信仰であると同時に法でした。信仰心が高まりすぎた村落共同体は、性を罪悪視する余りに男女差別(女性憎悪)の観念を集団的に高ぶらせて、異端審問の名を借りた魔女狩りや共同体による私的制裁などへと暴走することもありました。共同体の多数者と同調しない独自の行動を取ったり、キリスト教とは異なる信仰・思想を持っているような話をしたり、異性を誘惑していると見なされるような服装や態度をすることは、同質性・信仰心の強い中世の村落においては危険なことでした。
王権が衰退して政治権力が地方で分権化した中世には、そういった私刑を抑止するような集権的な法権力が多くの場合機能していませんでしたし、地方領主自身が率先して神聖裁判や魔女狩りを行うこともありました。その為、絶対王政(専制君主国家)が発展する以前の中世封建社会では、地方領主の権力は絶大であり、国王と雖も各地方の領主(諸侯となる有力貴族)に対して強制力のある命令を発動することは非常に難しい状況にありました。ローマ的な実利優先の法治主義は、キリスト教の聖書・教義や敬虔な信仰に基づく慣習法よりも劣るものと見なされ、内面(思想)の自由は被造物(人間)が神(創造主)の御意志を否定する許されない自由だと解釈されていました。
個人の内面の自由と性的な想像力が徹底的に抑圧された中世期にも独自の哲学(スコラ哲学)が発展しましたが、中世の哲学は神学の婢女(はしため)であり、キリスト教の正統性と権威性を証明するという方向性を持った制限の多い哲学でした。スコラ学自体は、文献学や理性的な討論を重視した学問の方法論や態度を意味しますが、スコラ学的方法論から生まれたのは神学を論理的・実在論的に補強する目的論的な哲学でした。
批判精神や懐疑主義、自由意志を自由に発揮できないという意味では、哲学であって哲学ではない営為であり、最終的な答えの決まった命題を証明するために文献学的・論理学的な証拠をかき集めるという性格を濃厚に持っていました。しかし、キリスト教とスコラ学(スコラ哲学・スコラ神学)は中世ヨーロッパの分断を押し留めた精神的秩序の礎石であり、アリストテレス哲学によってキリスト教の実在論(実念論)を論証したトマス・アクィナスによって、スコラ哲学は神の実在性を論理的・文献学的に証明することに成功しました。
トマス・アクィナスの神学大全によるスコラ哲学の完成という意味は、キリスト教の正統教義に対する反論・疑問・異説に対して、そのすべてを想定内の問題として処理することができるような質疑応答のマニュアル(文献学的な事例集・権威主義的な判例集)が体系的に確立されたということです。しかし、このスコラ哲学を基盤とした壮大かつ煩雑な回答の事例集は、精神的な普遍性(概念・観念)が物理的な事物(実際のモノとしての個物)に先行して独立的に存在するという実在論によって支えられていましたから、ウィリアム・オッカムが実在論を論駁する唯名論(名目論)を提起したことでスコラ哲学の論理性の足場が揺らぎます。
オッカムの唯名論によって導かれる普遍的な概念(内面の思考)を単なる記号(ことば)と見なす認識が広まり、人間中心主義の人文主義などの影響もあってスコラ哲学・神学の権威性は少しずつ衰微していきます。これは結果として、信仰(宗教)と哲学(学問)の分離を促し、主観的な思考(内面)と客観的な行動の境界線が思想的に明瞭化していくことになりました。精神的な想像物(概念としての普遍性)が実在するという実在論は、理性的な思考によって導かれたイデア的な真・善・美の規範から、被造物である人間は逸脱してはいけないという行為規範を導きました。これは、普遍的な知性に対する意志の従属という結論を導き、宗教的に善(正しい)とされる知識に反して、行動することも考えることも決して許されないという世界観を作り上げました。
中世ヨーロッパでは、人間が自分の行動を自由に選択できるという自由意志の存在を認めず、人間は、イデア(神の実在)のような普遍的な観念の実現に向けて行動するだけの受動的知性として定義されていました。しかし、オッカムがオッカムの剃刀(実在しない観念や余剰を切り捨てるシンプルシンキング)を駆使して、人間を従属させていた普遍的な観念は、具体的な事物を言葉で表現するために用いる記号(名目)に過ぎないと論じたことで、中世の実在論(普遍主義)による自由意志の呪縛がほどけてきました。人間は普遍的とされる知識(イデア)に無条件に従うだけの受動的知性ではなくて、自分の人生を自分の善悪観に従って選択できる自由意志を持つ主体的存在(能動的知性)であるという認識が、内面の自由を拡大して過剰な性の抑圧を開放し始めました。
そして、古典主義的な文芸とエロスに根ざした人間観(フィギュア)を取り戻そうとするイタリア・ルネッサンス(文芸復興)の隆盛によって、キリスト教的な禁欲や魂(精神)の実在を前提とするヨーロッパ世界の普遍主義は、世俗世界における強制的・精神的な支配力を大幅に失うことになるのです。中世哲学は、キリスト教の教義を学問的に確立しようとする教父哲学やグノーシス主義、アレクサンドリア学派から始まり、スコラ哲学の形成期・最盛期・衰退期を経て、神ではなく自己(自我)を理性的思考の始点に置く人文主義・啓蒙思想が誕生し、市民社会形成の思想的基盤となる近代哲学の流れへと接続していきます。 
 
海人の信仰

 

1 東方聖地から西方浄土へ
東風─「 あゆのかぜ東風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟こぎかくるみゆ」大伴家持の歌で、アユは東風の字が当てられ、そよそよとした風をイメージするが、非常におそろしい真東の風で、年に1〜2回しか吹かない。吹かないこともある。また、海で吹いても、陸では吹かない。アユを東風と尊んだ背景には東方を聖地と見る考え方がある。これは、大和の真東に伊勢神宮が創設された4〜5世紀の時代背景と関係深いのではないか。
アユの意─アユの風の後は必ず大漁になる。すなわち、大漁をもたらすことがアユ。アユ(アエ)は饗。もてなしがアエ。アエ味噌があるように、冬から春へとアエは季節などをつなぐ意、食事をするところの意がある。能登のアエの行事は神と我れが共に食べ合う。民俗学は宮中の新嘗の行事との共通性に注目した。富山湾をアユ(アイ)甕というのも、アエをもたらすからではないか。
西方浄土につながる風─氷見では「タワカツ」という、西北西の風が吹くと2〜3日後に必ず大漁になるという。生地、滑川、四方でも同じ見方がある。この西北西の風は、漁で非業の死をとげた漁師の魂の風でタマ魂風でもある。こうして海人は、西の風も期待している。これは、西方浄土という浄土思想の影響か?
2 舟と霊魂と霊の木
タブはタマ(魂)の木─「磯の上の都万麻を見れば根を延えて年深からし神さびにけり」青木であるタブの木はツママとも呼ばれ、神木として崇められタマ(魂)が宿るとされてきた。タブは暖国系で、北へ行くと生息しなくなるが、松の木をもってタブと呼ぶ地域がある。タマの木を持たないと納得できなかったと考えられる。遺体を埋めてその上タブの木を植えた。民俗学では原始信仰を考える題材となっている。能登の鏡の宮、氷見の長坂などのタブが神木として崇められてきた。
タブと舟─遺跡からタブの木の丸木舟が出てくる。北陸では丸木というよりドブネであるが。能登ではタマの木で多くの舟を作った。何か特別な役割をせおわせていたとも考えられる。漁民は舟と死とタマ(魂)をどう捉えていたかが重要な問題として浮かび上がってくる。
3 寄り神
漁師と信仰─海に生きる男たちは言葉は荒いが、非常に強い信仰心を持っている。海から上がるものを大切にした。宮崎鹿島神社(神像)、八尾の本法寺(法華経曼荼羅)、魚津の小川寺(千手観世音菩薩像、鎌倉時代のもの)生地の光明寺(観音像、廃寺、)などがある。生地のものは、夢枕に現れ、引き上げてくれとのお告げによるものであった。氷見には3〜4軒に、網で引き上げた恵比寿が奉ってある。
上がった死体─死体が上がると大漁になるという話がある。寄り物(流れくるもの)には魅力がある、神がいると考えている。
4 常世と竜宮
竜宮信仰の富山湾─ハマグリが気をはいて竜宮が描かれている蜃気楼の絵がある。氷見では亀が上がると酒を飲ませて竜宮へ帰すという。また、氷見では7メートルもある人面の紐帯魚が上がる。これは人魚でもある。富山湾には竜宮信仰の条件がそろっている。黒部にも浦島伝説と共通するものがある。
常世のアイガメ─富山湾深くえぐられたアイガメにあると考えられてきた竜宮は、時の移ろいのない常世の世界で、海神の神がつかさどる世界でもある。死んだら常世の世界に往くとも考えられてきた。 
 
富山の雪形と伝承

 

はじめに
水の循環という視点でみると、海と山、川は一体のものであり、人間の生活とも深く結びついている。日本海を北上する対馬暖流と大陸からの寒気団により、水が水蒸気に変えられ雪雲ができる。そして、山に運搬されて雪として蓄積される。その雪の解ける変化が雪形として現れ、人々はそれを川の水量や農耕、山菜取りの目安としてきた。しかし、農作業の方法や生活様式が変化した今、雪形の伝承はほとんど途絶えてしまった。
1 雪形とは
雪形は、別名雪絵ともいい、1残雪の雪形、2残雪でふちどられた山肌の雪形、3山肌と残雪が混交した雪形がある。山肌の雪形が最も多い。
2 長野県の白馬、富山県内で見られる雪形
白馬岳
白馬岳の斜面には3頭の馬の雪形が現れる。山肌が馬になっており白い馬ではない。だから雪形の馬が白馬岳の名前になったのではない。それは、田んぼの代かきをする時期に現れる雪形であり、かつては「代かき馬」と言われた。後に省略されて「しろうま」となり、「白馬」の漢字をあてたのである。戦後、大勢の登山者がこの山を訪れ、「白馬」を「はくば」と呼び違えた。その後、山の名前も村や駅の名前もすべて「はくば」と呼ばれるようになってしまった。雪形をたどっていくと人とのつながりの深さに気づく。しかし、それらのいわれを知らない人たちによって地元の文化が撹乱されてしまうのは情けないことである。
朝日岳
かつて朝日岳は「恵振ヶ岳」と呼ばれた。それは「エブリサシの農夫」の雪形が現れるからであるが、現在その雪形がどれなのかを特定できる人はいない。伝承が途絶えたものの一つに数えられる。
駒ヶ岳
前駒に「縞のある馬」と「鼻取り」の雪形が現れ、駒が岳の名前はそこからついた。
僧ヶ岳
僧ヶ岳は「僧」の雪形が現れることからその名がついた。かつては「僧馬岳」という名も使われていた。「尺八を吹く僧」の後ろに「馬」の雪形が現れる。その他、山肌で縁取られた「白い兎」、残雪と山肌が混交した「鶏」などもみられる。早い時期には、「僧」の後ろに「大入道(虚無僧)」と「猫」の雪形が現れるが、やがて「大入道」と「猫」が融合して「馬」になる。このように、僧ヶ岳の雪形は刻々と変化する。これらの雪形は見る人によっていろいろと解釈される。伝承をしっかりと受け継いでいかないと混乱する恐れがある。
剱岳
剱岳の大窓の雪渓を「しかのはな」に見立てた雪形がある。剱岳を死者の山とされた点、この雪形は信仰と結びついたものとして興味深い。
立山の大汝
「女」という文字が雪形として出てくる。
立山の地獄谷
地熱によってできる「雷鳥」の雪形が出てくる。
牛岳
立ち上がった「牛」の雪形が出てくる。ゆったりとした山容が「牛岳」の名になったのか「牛」の雪形がその名になったのかははっきりしない。
人形山
「手をつないだ白い二人の人の形」の雪形が現れ、昔は「ヒトカタヤマ」と呼んだが、今は「ニンギョウザン」と呼んでいる。この雪形には伝説がある。むかし昔、五箇山に老母と二人の娘が住んでいた。老母が目を患った。白山権現のお告げに従い、谷川の水で目を洗ったところ病気が治った。娘たちは雪解けとともに、山頂の権現堂にお礼参りに行ったが、下山途中手をつないだまま遭難してしまった。それ以来、春の終わりになると手をつないだ二人の娘の雪形が現れるようになったといわれている。この雪形の近くに三つ星の雪形が現れると蚕の繭がとれる時期になる。かつてこの雪形を見て、金沢から繭買商人がやってきた。
3 僧ヶ岳の雪形の伝承
(昭和37年に黒部と魚津のお年寄りを訪ねて聞く)
4月初中旬、「僧」になる雪形が上下に途切れている間は遅霜の恐れがあるので、スイカ、ナス、キュウリなどの定植をしてはならない。4月下旬〜5月上旬、中期の雪形、「白い兎」「猪」「大入道」「猫」が現れる。「僧」の顔が見えてくるとそろそろ田植えを始める時期だ。6月、完成期の雪形、「尺八を吹き馬をひく僧」「鶏」も出てくる。「鶏の尾」がでると、スイカに二番肥をやる時期だと判断した。また、僧ヶ岳の僧が袋をかつぐ姿に変わると地元の人は、「僧ヶ岳の坊様、袋をかついで麦もらいにござった。」という。袋が急に大きくなると、今年は米も麦も大豊作だという。袋が大きくなるのは雪解けが進み水がぬるんで稲の根の活着を促すということだろうか。そして、7月中旬、雪形晩期、僧の姿が消えると、布施川水系の人々は、「坊様おらんようになったから川の水もぬるなったし川遊びをしてもいいよ」と、川遊びを解禁した。
魚津のお年寄りは、「坊様が馬を引いて魚津の町を歩かれた。するとものすごい風が吹いてきて、坊様と馬が僧ヶ岳にたたきつけられて貼り付けられた。雪が解けだすと、坊様と馬が顔出すがや。」と、力を込めて話された。
魚津の高台にあたる地区や布施川水系の人たちは、農耕の目安としてよりも水量の目安として雪形をみた。「猫」が「大入道」の肩に手を掛ける時期が5月31日よりも早かったら今年は干ばつになる恐れがあるとした。集水域の狭い川の流域(片貝川など)では水不足に悩み、雪形を水量の目安にした。水の豊富な黒部川水域では、農耕の目安にした。文化というのは、このように、その地域に根ざしたものである。雪形がそれを物語っている。
毛勝三山から流れる片貝川の南又谷に蛇のような模様の入った石がある。近くに、蛇石神社があり、昔から雨乞いの神事が行われてきた。また、水不足になると地元の人たちが鍬を担いでいって毛勝谷などの雪渓を崩したという。それほど水不足に苦しんでいた。毛勝山の名前は毛勝谷から来ているが、毛勝の由来には様々な説があるが、飢渇(転化して毛勝になった)即ち凶作の意味である。人々は毛勝大雪渓の残雪のようすで、その年の豊凶を占ったのではないかと思われる。
4 まとめ
○僧ヶ岳の雪形は、全国的にも評価されるが、その理由として次のような点があげられる。
1 三つ雪形の基本が揃っている。(残雪の雪形、山肌の雪形、残雪と山肌の混合)
2 雪形の種類が豊富である。(兎、僧、虚無僧、猫、馬、猪)
3 雪形が刻々と変化する。(三つのタイプ)
 単独で変化する。(僧の上と下が離れているのがつながる。)
 複合する。(僧が袋を担いでやがて馬を引く。)
 融合する。(大入道と猫がくっついて馬になる。)
4 雪形の変化を農耕などの目安にする。
5 水系で雪形の名前が異なる。
 (馬の素地という見方、虚無僧と猫に分けて見る見方などがある。)
6 水系で目安が異なる。(農作業の目安、灌漑用水の目安、水遊びの目安など)
7 雪形には物語がある。
○雪形の研究を黒部峡谷の雪の量、富山県の雪の量の研究へと広げていくことができるのではないか。
○これからは、雪形を風物詩としてだけではなく、水の循環という面からとらえていく必要がある。立山連峰に雪が残り、それが解けて川を流れて日本海へ入る。日本海の水が水蒸気となり再び雪となって山にもどる。富山県では、立山連峰、川、平野、海が一目で見られ、これらを連動させ、水の循環を身近に捉えることができる。
○富山県は地形的にわかりやすいところである。温暖で雨が多く水の循環の中で緑が豊かであり生物がたくさん棲んでいる。3000m級の山があるから富山県の自然が守られている。植生から見ると、低山帯、山地帯、亜高山帯、高山帯と、ひな壇のようにステージがはっきりとしている。高い山から海へという方向性をもっている。 
 

 

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