神事の故事来歴

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雑学の世界・補考   

若水の話

ほうっとする程長い白浜の先は、また目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、自(オノ)づと伸(ノ)し上る様になつて、頭の上まで拡がつて来てゐる空だ。其が又、ふり顧(カヘ)ると、地平をくぎる山の外線の、立ち塞つてゐる処まで続いてゐる。四顧俯仰して目に入るものは、此だけである。日が照る程風の吹くほど、寂しい天地であつた。さうした無聊な目を(ミハ)らせる物は、忘れた時分にひよつくりと、波と空との間から生れて来る--誇張なしに--鳥と紛れさうな刳(ク)り舟の姿である。遠目には磯の岩かと思はれる家の屋根が、ひとかたまりづゝ、ぽっつりと置き忘られてゐる。琉球の島々には、行つても行つても、こんな島ばかりが多かつた。我々の血の本筋になつた先祖は、多分かうした島の生活を経て来たものと思はれる。だから、此国土の上の生活が始つても、まだ万葉人(マンネフビト)までは、生の空虚を叫ばなかつた。「つれづれ」「さうざうしさ」其が全内容になつてゐた、祖先の生活であつたのだ。こんなのが、人間の一生だと思ひつめて疑はなかつた。又さうした考へで、ちよつと見当の立たない程長い国家以前の、先祖の邑落の生活が続けられて来たのには、大きに謂はれがある。去年も今年も、又来年も、恐らくは死ぬる日まで繰り返される生活が、此だと考へ出した日には、たまるまい。郵便船さへ月に一度来ぬ勝ちであり、島の木精がまだ一度も、巡査のさあべるの音を口まねた様な事のない処、巫女(ノロ)や郷巫(ツカサ)などが依然、女君(ジヨクン)の権力を持つてゐる離島(ハナレ)では、どうかすればまだ、さうした古代が遺つてゐる。稀には、那覇の都にゐた為、生き詮(カヒ)なさを知つて、青い顔して戻つて来る若者なども、波と空と沙原との故郷に、寝返りを打つて居ると、いつか屈托など言ふ贅沢な語(ことば)は、けろりと忘れてしまふ。我々の先祖の村住ひも、正に其とほりであつた。村には歴史がなかつた。過去を考へぬ人たちが、来年・再来年を予想した筈はない。先祖の村々で、予め考へる事の出来る時間があるとしたら、作事(サクジ)はじめの初春から穫(ト)り納(イ)れに到る1年の間であつた。昨年以前を意味する「こそ」と言ふ語は、昨日以前を示す「きそ」から、後代分化して来たのであつた。後年(アトヽシ)だから、仮字遣ひはおとゝしと、合理論者がきめた1昨年も、ほんとうはさうでない。をとゝしの「をと」には、中に介在するものを越した彼方を意味する「をち」と言ふ語が含まれてゐるのだ。去年の向うになつてゐる前年の義で「彼年(ヲチトシ)」である。一つ宛隔てゝ、同じ状態が来ると言ふ考へ方が、邑落生活に稍歴史観が現れかける時になつて、著しく見えて来る。祖父と子が同じ者であり、父と孫との生活は繰り返しであると言ふ信仰のあつた事は、疑ふことの出来ぬ事実だ。ひよつとすると、其頃になつて、暦の考へが此様に進んで来たのかも知れぬ。去年(コソ)と今年(コトシ)とを対立させて居たのである。其違つた条件で進む二つの年が、常に交替するものとしてゐたと言うても、よさゝうである。此暦法の型で行けば、ことしとをとゝしのこそのとしは、をとゝし先の年(万葉)のくり返しである。完全に来年・再来年を表す古語の、出来ずじまひにすんだ古代にも、段々、今年のくり返しは再来年、来年は去年の状態が反覆せられるものとの考へが、出て来てゐたかと思ふ。其が又、1年の中にも、二つの年の型を入れて来た。国家以後の考へ方と思ふが、1年を二つに分ける風が出来た。此は帰化外人・先住漢人などの信仰伝承が、さうした傾向を助長させたらしい。つまり中元の時期を界にして、年を二つに分ける考へである。第一に「大祓へ」が、6月と12月の晦日(ツゴモリ)に行はれる様になつたのに目をつけてほしい。遠い海の彼方なる常世(トコヨ)の国に鎮る村の元祖以来の霊の、村へ戻つて来るのが、年改まる春のしるしであつた。其が後には、仏説を習合して、7月の盂蘭盆を主とする様になつた。だが、其以前から既に、秋の御霊迎(ミタマムカ)へは、本来の春の霊祭(タマヽツ)りに対照して、考へ出されてゐたのであつた。常世神の来訪を忘れて了ふ様になると、春来る御霊(ミタマ)は歳神(トシガミ)・歳徳様(トシトクサマ)など言ふ、日本陰陽道特有の廻り神になつて了うた。さうして肝腎の霊祭りは秋が本式らしくなつた。坊様に、棚経を読んで貰はねば納らぬ、と言つた仏法式の姿をとつて行つた。極(ゴク)の近代まであつた、不景気の世なほしに、秋に再び門松を立てたり、餅を搗いたりした二度正月の風習は、笑ひ切れない人間苦の現れである。が、此とて由来は古いのである。ことし型の暦はわるかつたから、こそ型の暦で行かうと言ふのである。だが、其一つ前の暦はことしだけであつた。さう言ふ1年より外に、回顧も予期もなかつた邑落生活の記念が、国家時代まで、又更に近代まで、どういふ有様に残つてゐたかを話したい。
鹿島の言触(コトブ)れも春の予言に歩かなくなり、三島暦の板木も、博物館物になりさうになつて了うた世の中である。神宮司庁の大麻暦(タイマレキ)さへ忘れた様な古暦のくり言(ゴト)も、地震の年をゆり返した様な寂しい春のつれづれを、も一つ飜(カヘ)して、常世の国の初だよりの吉兆を言ひ立てる事になるかも知れない。洋中の孤島に渡らずとも、おなじ「つれづれ」は、沖縄本島にも充ち満ちてゐる。首里王朝盛時なら、生きながら髯長矯風大主(ヒヂナガユナホシノウフヌシ)とでも、今頃は神名を島人から受けて居さうな、島のわが親友は、島の朋党からけぶたがられて、東京へ出て来た。あんな恩知らずの人々の為に、其でも懲りずに、まだ書いてゐる。先年出版した「孤島苦の琉球」なども、千何百年を所在なく暮した島人の吐息を、一人で一返に吐き出した様な、勝ち方の国の我々をさへ、寂しがらせる書物である。首里宮廷の勢力の強く及んだ島尻・中頭は其でもよかつた。君主の根じろであつた島の北部国頭(クニガミ)郡には、やはり伝来の「さうざうしさ」が充ちてゐて、今ではそろそろはけ口を探し出してゐる。さうした海岸の村々を歩いて、ぞつとさせられた。孤島苦が人間の姿を仮りて出た様な、いぶせくいたましい老人の倦い眦に遭うた時の気持ちである。山多きが故に山原(ヤンバル)で通つてゐる国頭郡の山中には、新暦の正月に赤い桜が咲くさうである。私は二度まで国頭の地を踏んだが、いつも東京でさへ暑い盛りの時ばかりであつた。一度は、緋桜の花の、熱帯性の濶葉(ヒロバ)の緑の木の間から、あはれに匂うてゐる様が見たいとは、思うたばかりで縁がない。其桜は日本旅(ヤマトタビ)の家づとに、昔誰かゞ持ち還つたものか。元々島の根生ひであつたか。其側の学者には、既に訣つてゐる事かも知れぬ。加納諸平の「鰒玉集」には、島の貴族の作つたやまと歌が載つてゐる。薩摩の八田氏などから供給せられた材料であらう。其頃からもう、伊勢物語をなぞつた様な、島の貴族の自叙伝も出来てゐた。源氏や古今や万葉も、手に触れた人は尠くなかつた。国の古蹟・家の由緒を語る碑文(ヒノムン)の平仮名が、正確で弾力のない御家流である如く、島人の倭文・倭歌は、つれづれの結晶かと思はれる程、類型の重くるしさを湛へてゐる。島の孤島苦の目醒めには、島津氏などのやり方が、大分原因になつてゐる。やまと人と言へば薩摩者。こはらしい人ばかりの様に想像せられても、やつぱり何か心惹くものがあつたらう。おもろ草紙の古語にも、生きた首里の内裏語(ダイリコトバ)にも、やまとの古い語が、到る処に交りこんでゐた。首里宮廷の巫女の伝へた古詞には、島渡りして来た山城の都の御曹司(オンゾウシ)の俤が語られた。島々は島々で、遠い海を越えて来たと言ふ何もりの神なる平家の公達(キンダチ)を思はせる名の神が多かつた。弓張月以前にも、舜天王の父を、此山城の都から来た貴公子にする考への動いてゐたことは察せられる。古く岐れた一つ流れの民族であつた事は忘れても、又かうした新しい因縁を考へねばならぬ程、深い血筋の自覚があつたのである。尤、孤島苦が生み出したいぶせい事大主義からも、さうはなつたであらうが。問題は其よりも根本的のものであつた。島の木立ちに、仮令(たとひ)忘れた様にでも、桜の花がまじり咲いた。かうした現実が、歌や物語や、江戸貢進使の上り・下りの海道談に、夢想を走(ハ)せ勝ちのやまとの、茲も血を承けた、強い証拠らしい気を起させたであらう。問ひつめれば、理にもならぬはかない花の姿が、気持ちの上には実証的な力を以て迫つたでもあらう。歌に詠まれたましらの影は見られずとも、妻恋ふる鹿は、現に居た。西の海中(トナカ)の離島(ハナレ)の一つには「かひよかひよ」の声も聞かれる。島にも、優美な歌枕がある。かうしたことが、なんぼう張り合ひになつたことか。やまとの人の誇り書きにする「ものゝあはれ」は島人も知つてゐる。かうした事からこみあげて来る親しみ心は、島人の所謂「他府県人」なる我々にも、凡(およそ)想像はつく。此頃になつて、又一つの島人の誇りが殖えて来た。鮎と言ふ魚は、日本の版図以外には棲まぬものである。其南部だけに、此魚の溯る川ある樺太も、だから、日本の領土になつた。かう言ふ噂が伝つて来たところが、沖縄にも唯一个処ながら鮎の棲む川があつた。宿命的にいや、血族的にやまと人たる証拠に違ひない。かうした考へが起るに連れて、支那と薩摩を両天秤にかけた頃のくすんだ気持ちは、段々とり払はれて行く様である。其の鮎の獲れる場処と言ふのは、国頭(クニガミ)海道の難処、源河の里の水辺である。里の処女の姿や、情(ナサケ)を謡ふ事が命の琉球の民謡には、村の若者のとりとめぬやるせなさの沁み出たものが多い。
東京へ引き出しても、不覚(オクレ)はとらなかつた筈の琉球学者末吉安恭さんは、島の旧伝承の生きた大きな庫であつた。さうして、私たちが、幾らも其知識を惹き出さない間に、那覇の入り江から彼岸浄土(ニライカナイ)の大主神(ウフヌシ)が呼びとつて了うた。源河奔川(ヂンカハイカア)や、水か。湯か。潮(ウシユ)か。源河女童(ミヤラビ)の 御(ウ)すぢどころ(源河節) 此源河節に対する疑問などは、私にとつて、此学者の記念(カタミ)になつた。私は其前年かに、宮古島から戻つて来て、今大阪外国語学校に居るにこらい・ねふすきいさんから、一つの好意に充ちた抗議を受けてゐた。私の旧著万葉集辞典と言ふのは、今では人に噂せられるさへ、肩身の窄まる思ひのする恥しい本である。其中に「変若水(ヲチミヅ)」と言ふ万葉の用語に関した解釈を書いてゐた。万葉に「月読(ツキヨミ)の持(モ)たる変若水(ヲチミヅ)」と言ふ語がある。此月読神は恐らく山城綴城郡の月神で、帰化漢人の祀つたものゝ事であらうと言ふ推定から、此変若水の思想は、其等帰化人の将来した信仰が拡つたものであらうと言ふ仮説を立てゝゐた。ちようど神仙説の盛んに行はれ、仙術修行に執心する者の多かつた時代の事だから、と言ふので、不老不死泉の変形だらうと感じたことを書いた。ところが、ねふすきいさんはかう言うた。宮古方言しぢゆん--日本式に言ふと、しでる--は、若返ると言ふのが、其正しい用語例である。沖縄諸島の真の初春に当る清明節の朝汲んだ水は、神聖視せられてゐる。ある地方では「節(シチ)の若水(ワカミヅ)」と言ひ、ある処では「節(シチ)のしぢ水」と称へてゐる。言ふまでもなく、日本の正月の若水だ。かうした信仰の残つてゐる以上は、支那起原説はあぶない。此、日本人の細かい感情の隈まで知つた異人は、日本の民間伝承は何でも、固有の信仰の変態だと説きたがる私の癖を知り過ぎてゐた。極めて稀に、うつかり発表した外来起原説を嗤ふ事が、強情な国粋家の心魂に徹する効果をあげる事を知つてゐた。さうして皮肉らしい笑ひで、私を見た。さういふ茶目吉さんだつた。其から年数がたつてゐるので、大分私の考へが這入つて来てゐるかも知れぬ。が大体かうした心切で、且痛い注意であつた。なんでも月がまつ白に照つて、ある旧王族の御殿(オドン)だつたとか言ふ其屋敷の石垣の外に、うら声を曳く若い男の謡が、替るがわる聞える夜であつた。首里の川平朝令さんの家へ、末吉さんと二人で、およばれに行つてゐた。しぢゆんは卵の孵ることだから、お尋ねの「節の若水」のしぢゆんとは別かも知れぬ。私は源河節にある「おすぢどころ」を永く疑うてゐたが、其すぢと一つで、洗ふ事ではあるまいか。水浴することも、手足を洗ふことも一つだから、首里などでも、以前は言うた語である。かう話された時、「末吉さん。此間も聞いたよ。中城御殿(ナカグスクオドン)--旧王家の女性(ニヨシヤウ)たちの残り住んで居られる、今の尚家の首里邸--へ此人を案内した時も、手水盥に水を汲んで「御すぢみしようれ(みしようれ=ませ)」と言うたつけ。」かう川平さんも、口を挿んだ。私は、残念でもねふすきいさんの説が、段々確かになつて来るのを感じた。「お二人さん。私の考へはかうです。今のお話で、しぢゆんに二義ある事が知れました。孵る義と、沐浴に関する義とです。此は一つの原義から出たので、やつぱり先から言うてゐる「若がへる」と言ふ事に帰するのでせう。清明節に若水を国王に進める時に言うた語で「若がへりませ」の義であつた。其が、水をまゐらせる時のきまり文句として、常の朝の手水にも申し上げた。いつか「若やぎ遊ばせ」位の軽い意にとられて、国王以外の人々にも、鄭重な感じを以て言はれる様になつて「顔手足をお洗ひなさい」の古風な言ひまはしと考へられてゐるのです。教へて頂いた源河節なども、清明節の浜下(ハマウ)り・川下りの風から出た歌で、節の水で身禊ぎをする村人の群れに、娘たちもまじつた。其を窺ひ見たがる若者の心持ちなのでせう。清明節以外の祭りの日にも、川下りしたり、水浴びをしたかも知れない。ともかくやはり「若やぐ(若がへるよりも軽い意で)様に」との水浴びで、唯の「洗ふ」「浄める」ではありますまい。」こんな話などをして那覇の宿へ引きとつた。其後四五日経つて、先島の方へ出掛けた。宮古島でもやはり孵る事らしい。八重山の四箇(シカ)では、孵るのにも言ふが、蛇や蟹の皮を蛻(ヌ)ぐ事にも用ゐられてゐる。此島には、物識りが多かつた。気象台の岩崎卓爾翁は固より、喜舎場永氏其他が申し合せた様に証歌をあげて説かれた。「やくぢゃま節」などにある「まれる(=うまれる)かい、すでる(=しぢる)かい」のすでるは、まれるの対句だから、やはり「生れる甲斐」である。しぢゆんの孵るも、実は生れるといふ義から出たのだ。かう言ふ主張は、四五人から聞いた。此島出の最初の文学士で、琉球諸島方言の採訪と研究とに一生を捧げる決心の宮良当壮君の「採訪南島語彙稿」の「孵る」の条を見ると、凡琉球らしい色合ひのある島と言ふ島は、道の島々・沖縄諸島・先島列島を通じて、大抵しぢゆん・しぢるん・すでゆんなどに近い形で、一般に使はれてゐる事が知れる。謂はゞ沖縄の標準語である。宮良君の苦労によつて訣つた事は、しぢゆんが唯の「生れる」ことでないらしい事である。今度、宮良君が島々を歩く時には、「若返る」「沐浴する」「禊する」などに当る方言を集めて来てくれる様に頼まう。清明節のしぢ水に、死んだ蛇がはまつたら、生き還つて這ひ去つた。其がしぢ水の威力を知つた初めだと説くのが、先島一帯の若水の起原説明らしい。此語は其以前ねふすきいさんも、宮古・離島に採訪して来た様である。ある種の動物にはすでると言ふ生れ方がある。蛇や鳥の様に、死んだ様な静止を続けた物の中から、又新しい生命の強い活動が始まる事である。生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでると言うたのである。気さくな帰依府びとは、しぢ水とも若水とも言ふから、すでる・しぢゆんに若返ると言ふ義のある事を考へたのである。さう説ける用例の、本島にもあつたことを述べた。さう説くのが早道でもあり、ある点まで同じ事だが、論理上に可なりの飛躍があつた。すでるは母胎を経ない誕生であつたのだ。或は死からの誕生(復活)とも言へるであらう。又は、ある容れ物からの出現とも言はれよう。しぢ水は誕生が母胎によらぬ物には、実は関係のないもので、清明節の若水の起原説明の混乱から出てゐる事を指摘したのは、此為である。すでることのない人間が、此によつてすでる力を享けようとするのである。
なぜ、すでることを願うたか。どうしてまた、此から言ふ様に、すでる能力のある人間が間々あつて、其が人間中の君主・英傑に限つてあることなのか。此説明は若水の起原のみか、日・琉古代霊魂崇拝の解説にもなり、其上、暦法の問題・祝詞の根本精神・日本思想成立の根柢に横(よこたは)つた統一原理の発見にもなるのである。すでると言ふ語には、前提としてある期間の休息を伴うてゐる。植物で言ふと枯死の冬の後、春の枝葉がさし、花が咲いて、皆去年より太く、大きく、豊かにさへなつて来る。此週期的の死は、更に大きな生の為にあつた。春から冬まで来て、野山の草木の一生は終る。翌年復春から冬までの一生がある。前の1年と後の1年とは互に無関係である。冬の枯死は、さうした全然違つた世界に入る為の準備期間だとも言へる。だが、かうした考へ方は、北方から来た先祖の中には強く動いてゐても、若水を伝承した南方種の祖先には、結論はおなじでも、直接の原因にはなつてゐない。動物の例を見れば、もつと明らかに此事実が訣る。殊に熱帯を経て来たものとすれば、一層動物の生活の推移の観察が行き届いてゐる筈だ。蛇でも鳥でも、元の殻には収まりきらぬ大きさになつて、皮や卵殻を破つて出る。我々から見れば、皮を蛻ぐまでの間は、一種のねむりの時期であつて、卵は誕生である。日・琉共通の先祖は、さうは考へなかつた。皮を蛻(ヌ)ぎ、卵を破つてからの生活を基礎として見た。其で、人間の知らぬ者が、転生身を獲る準備の為に、籠るのであつた。殊に空を自在に飛行する事から、前身の非凡さを考へ出す。畢竟卵や殻は、他界に転生し、前身とは異形(イギヤウ)の転身を得る為の安息所であつた。蛇は卵を出て後も、幾度か皮を蛻ぐ。茲に、這ふ虫の畏敬せられた訣がある。南島では屡、蝶を鳥と同様に見てゐる。神又は悪魔の使女(ヴナヂ)としてゐるのは、鳥及び蝶であつた。わが国でも、てふとりの名で、蝶を表してゐた。蛇よりも、蝶の変形は熱帯ほど激しかつた。蝶だと思うてゐると、卵の内にこもつてしまひ、また毛虫になつて出て来る。此が第二の卵なる繭に籠つて出て来ると、見替す美しさで、飛行自在の力を得て来る。だから卵や殻・繭などが神聖視せられて来るのである。朝鮮では、鳥の卵を重く見るやうになつてゐた。卵から出た君主・英雄の話がある。古代君主の姓から、卵からと言ふより瓠から出たと解せられてゐるのもある。日本では朝鮮同様、殻其他の容れ物に入つて、他界から来ることになつてゐる。他界と他生物との違ひであるが、生物各別の天地に生きて、時々他の住居を訪ふものと見てゐた時代である。だから、畢竟おなじ事になるのだ。秦(ハタ)ノ河勝(カハカツ)の壺・桃太郎の桃・瓜子姫子(ウリコヒメコ)の瓜など皆、水によつて漂ひついた事になつてゐる。だが此は、常世から来た神の事をも含んであるのだ。瓢・うつぼ舟・無目堅間(マナシカタマ)などに入つて、漂ひ行く神の話に分れて行く。だから、何れ、行かずとも、他界の生を受ける為に、赫耶姫は竹の節間(ヨノナカ)に籠つてゐた。此籠つてゐる、異形身を受ける間の生活の記憶が人間のこもり・いみとなつた。いみやにひたやこもりすることが、人から身を受ける道と考へられた。尚厳重なものは、衾に裹まれて、長くゐねばならなかつた。かうした殻皮などの間にゐる間が死であつて、死によつて得るものは、外来のある力である。其威力が殻の中の屍に入ると、すでるといふ誕生様式をとつて、出現することになる。正確に言へば、外来威力の身に入るか入らぬかゞ境であるが、まづ殻をもつて、前後生活の岐れ目と言うてよい。だから別殊の生を得るのだ。一方時間的に連続させて考へる様になると、よみがへりと考へられるのである。すでるは「若返る」意に近づく前に「よみがへる」意があり、更に其原義として、外来威力を受けて出現する用語例があつたのである。大国主は形から謂へば、七度までも死から蘇つたものと見てよい。夜見の国では、恋人の入れ智慧で、死を免れてゐる。此は死から外来威力の附加を得たことの変化であらう。智恵も一つの外来威力を与ふるところだつたのである。よみがへりの一つ前の用語例が、すでるの第一義で、日本の「をつ」も其に当る。彼方から来ると言ふ義で、をちの動詞化の様に見えるが、或は自らするををつ、人のする時ををく(招)と言うたのか。さうすれば、語根「を」の意義まで溯る事が出来よう。をちなる語が、人間生活の根本を表したらしい例は、をちなしと言ふ語で、肝魂を落した者などを意味する。柳田国男先生は、まななる外来魂を稜威(イツ)なる古語で表したのだと言はれたが、恐らく正しい考へであらう。いつ・みいつ・いつのなど使ふのは、天子及び神の行為・意志の威力を感じての語だ。ちはやぶるの語原は「いちはやぶる」であるが、皇威の畏しき力をふるまふ事になる。此をうちはやぶるとも言うてゐるから、をちといつ・いちの仮名遣ひの関係が訣る。引いては、神の憑り来る事も動詞化していつと言ひ、体言化していつかし・いちにはなど言ふ様になつたものか。いつは、後世みたまのふゆなど言ひ、古くはをちと言うたのであらう。をとこ・をとめなども、壮夫・未通女・処女など古くから当てるが、村の神人たるべき資格ある成年戒を受けた頃の者を言うたのが初めであらう。うずめと言ふ職は、鎮魂を司るもので、葬式にもうずめが出る。此資格の高いものを鈿女命と言ふ。臼女ではない。恐(ヲゾ)しの「をぞ」と言ふが、やはり仮名の変化でうつめ・をつめだと思ふ。魂を「をちふらせる」役であらう。出現する意からうつ・うつしとなつて、現実的な事を言ひ、うつゝなどに変つたことは、まさ・まさしの、元は神意の表出に言ふのと同じい。をとこ・をとめに対しては、天のますひとがある。うつる・うつすも神の人に憑つての出現であり、うち(>氏)も外来神霊を血族伝承によつてつぐことが行はれてからの語で、其を続けて受ける団体の順序がつぎと言ふ具体的なのに、対してゐる。物部の八十氏川の「氏」も、実は氏多きを言ふのではなくうちを多く持つことであらうか。血族の総体を一貫して筋と言ひ、其義から分化して線・点・処などに用ゐる。沖縄でもやはりすでには「完全に」の意である。すつ・うつ・うつるも皆「をはる」の意から、投げ出すの義になつたものである。すだくは精霊などの出現集合することであらう。かうして見ると、をつ・いつに対するすつがあつた様である。奥津棄戸のすたへも霊牀の意であらう。をつ・いつに当る琉球の古語「すぢ」は、せち・しちなど色々の形になつてゐる。先祖などもすぢと言うた様である。よく見ると、神の義がある。聞得大君御殿(チフイヂンオドン)の三御前(ミオマヘ)の神、即おすぢのお前・金の御おすぢの御前・御火鉢の御前の中、金のみおすぢは、米と共に来た霊であつて、後世穀神に祀つた。おすぢの御前は先祖の神と解せられてゐるが、王朝代々の守護神なる外来魂である。
私は、すぢぁといふ「人間」の義の琉球古語の語原を「すでる者」「生れる者(あは名詞語尾)」の義に解してゐたが、抑(そもそも)此解釈の出発点に誤解のあることを悟つた。すでる者は即、外来魂を受けて出現する能力あるものゝ意である。だが、皆此語の用例は特殊である。神意を受けた産出者である。選ばれた人である。恐らく神人の義であること、日本のひと・ますひと(まさ)と同じで、巫女の古詞章に出て来るものは、神人以外の者には亘らぬから、同じ古詞の中にも、すぢぁが一般の人の義に解して用ゐられ、世間でも使ふ様になつたのだと思ふ。国王及び貴人の家族は皆神人だから、すぢぁである。すぢ人と言ふよりは、すぢり人の意である。すぢの守護から力を生じるとして、すぢを言はぬ世にはまぶり(守り)を以て魂を現した。体外の魂を正邪に係らずものと言ふ様になつた。すぢぁに見える思想は、日本側の信仰を助けとして見ると、「よみがへるもの」でも訣るが、根柢は違ふ。一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る。初め神に仕へた者も、今仕へる者も、同じ人であると考へてゐたのだ。人であつて、神の霊に憑られて人格を換へて、霊感を発揮し得る者と言ふので、神人は尊い者であつた。其が次第に変化して来た。神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなほさずすでるのであつて、おなじ資格で、おなじ人が居る事になる。かうして幾代を経ても、死に依つて血族相承することを交替と考へず、同一人の休止・禁遏生活の状態と考へたのだ。死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。出雲国造家の伝承がさうである。ほかでの祓へを科する穢れの、神に面する資格を得る為の物忌みであるのとは大分違ふ。家により地方により、此すでる期間に次代の人が物忌みの生活をする。休止が二つ重るわけである。皇室のは此だ。だから神から見れば、一系の人は皆同格である。日本の天子が日の神・御祖(ミオヤ)・ひるめの頃から、いつも血族的にはにゝぎの命と同格のすめみまであり、信仰的には忍穂耳命同様日の御子であつた。琉球時代は、天子をてだてと言うた。太陽の子である。後に太陽を譬喩にした者と感じて、太陽をさへてだてと言うた。日の御子である。すでるの原義は、謂はゞ出現する事であつた。日本で言へば、出現の意のあると言ふ語である。或はいづである。すぢのつく動作を言ふ語で、即、母胎によらぬ誕生である。あると言ふ日本語も、在・有の義と言ふよりは、すでる義があつたのではないか。荒・現・顕などの内容があつた。あら人神など言ふのも、すぢぁにして神なる者と言ふことで、君主の事である。地方の小君主もあら人神なるが故に、社々の神主としての資格に当るので、其を回して、其祀る神にも言うた。併し古文の用例としては、神主を神なるものとして言うたと見る方がよい様だ。あれ(幣)に対して、いち・うた(歌)があり、いつ何と言ふ用語例も、厳橿・厳さかきなどになると、神出現の木と言ふ義を持つのかも知れぬ。神名のうしなどもうちの転化ではなからうか。日本の最古い神名語尾むちはうちであらう(おほなむち・おほひるめむち・ほむちわけなど)。皇睦神(スメラガムツカム)ろぎなど言ふ睦(ムツ)も誤解で、いつ・うつで神の義か、いつくなどに近い義か。珍彦(ウヅヒコ)など言ふうづの何もいつと同じだらう。ひこはひるめの生んだ日の子であり、天子の日のみ子と区別したのである。神人・巫女などに日を称したのもある。にぎはやび・たけひ、後世の朝日・照日などもある。ひとのとも、刀禰(トネ)などのとで、神の配下の家の意であらうか。神(カミ)の属隷の義だらう。神(カミ)のみ・祇(ツミ)(つは領格の語尾)のみなど、皆精霊の義であらうか。女性の神称に多いなみのみも同様である。なはので、領格の語尾であることは、つと同じい。むちは獣類の名となつて、海豹(ミチ)・貉などの精霊に、つちは蛇・雷などの名となつた。餅(モチ)もひよつとすると、霊代になるものだから、むち・いつ・うつの系統かも知れぬ。酒(キ)・饌(ケ)なども神名であらう。よなどもいつと関係があるのだらう。よる・よすのよで、善(ヨ)であり、寿(ヨ)であり、穀(ヨ)である。常世のよも或は此かも知れぬ。よるはいつに対する再語根であらうか。少し横路に外れたが、前に回つて、をる・をつは同根であらう。かうして見ると、二三根の語が始めて一根の語を出して、又二三根の語を作る様である。いつ・うつ・すつ・いづ・ある・ますなど皆同系の語であつたらしい。「をく」なども、をつから出た逆用例であらう。
さて、をつはどうして繰り返す意を持つか。外来魂が来る毎に、世代交替する。さうして何の印象もなく、初めに出直すと見てゐたのが、段々時間の考へを容れた為、推移するものと観じて来た。出雲国造神賀詞の「彼方(ヲチカタ)の古川岸、此方の古川岸に、生ひ立てる、若水沼(ワカミヌマ)のいや若えにみ若えまし、濯(スヽ)ぎ振るをどみの水の、いやをちにみをちまし……」などに見えるをちかたと言ふ語には、寿詞を通じてをち霊の信仰が見える。わかゆとをつとを対照してゐるのは、同義類語と考へたのだ。わかゆは「わかやぐ」の語原で、若々しくなる義だ。古くは、若くなる事であつたかも知れぬが、此辺の用語例はをつと同じに用ゐてある。くり返す事を一個人について謂へば、蘇ることであり、又毎年正月に其年のくり返しする事にも言ふ。さうすると「みをちませ」は若返りの事を意味するのだ。出雲国造は親任の時二度、中臣は即位の時一度だけであつたが、氏ノ上の賀正事になると毎年あつた。天子の魂のをつることを祈るのが初めで、其が繰り返すことを祈るのである。生者だから蘇るといふのでなく、生も死も昔は魂に対しては同待遇だつたのだ。其為、同じ語も生者に対しては「くり返す」ことになるのである。此が時代の進むに連れて若返る事になる。そして其霊力の本は食物にあつた。即、呪言のほを捧げるのである。中臣天神寿詞には、天つ水と米との事が説かれてある。米の霊と水の魂とが、天子の躬に入るのであつた。此がをつるのであり、若返る意になる。誄詞に用ゐられると、蘇生を言ふ。正月の賀正事にも、氏ノ上はほを奉つて寿する。氏々を守つた此ほの外来魂を、天子が受けて了はれるのである。天子は氏々の上に事実上立たれたわけだ。降伏の初めの誓詞も、此寿詞である。処が、をつと言ふ語が、段々健康をばかり祝ふ様になつて、年の繰り返しを言ふのを忘れて行つた。飯食に臨む外来魂をとり入れる信仰から、よるべの水の風習も出て来る。魂と水との関係である。人の死んだ時水を飲ませるのも、此霊力観が段々移つて行つたのだ。死屍に跨つてする起死法も水のない寿詞だ。唯身分下の人の為にする方式だつたのだ。呑む水の信仰が、従つて洗ふ水になつた。初春の日には、常世から通ずるすで水が来る。首里朝時代には、すで水は、国頭の極北辺土(ヘヅ)の泉まで汲みに行つた。其が、村の中のきまつた井にも行くやうになり、一段変じて家々の水ですます事にもなつた。此が日本の若水で、原義は忘れられて、唯繰り返すばかりになつた。家長或はきまつた人が汲むのは、神主格になるのである。又、若水を喚ぶ式もあつた。常世の国から通ふ地下水である。だから、常世浪は皆いづれの岸にも寄せて、海の村の人の浜下り、川下りの水になる。但、神が若水を齎すのは、日本では、臣になつた神が主君なる神の為にであつた。島の村々の中では、或は五穀の種の外に、清き水をも齎し、壺のまゝ漂したこともあらう。沖縄の島では、穀物の漂著と共に、「うきみぞ・はひみぞ」の由来を説いてゐる。此も常世の水が出たのである。人が呑むと共に、田畠も其によつて、新しい力を持つのだ。すでることの出来る人は、君主であつた。日本にも母胎から出なかつた神は沢山あつた。いざなぎの命檍原(アハギハラ)で祓への為にすでる間に、神々は、すで水の霊力で生れたことになる。永い寿を言ふのもすで水の信仰からである。昔の国々島々の王者は皆命が長かつた。今の世の人の信じない年数だつた。神皇正統記の神代巻の終りなどを教へると、若い人たちは笑ふ。なまいきなのは、人皇の代の年数までも其伝で、可なり為政者等が長めたものだらうと言ふ。こんな入れ智慧をする間に、歴史学研究の方々はも一度すで水で顔も腸も洗うた序に、研究法もすでらせるがよい。日本人には、そんな寿命の人を考へる原因があり、歴史があるのだ。そして、同じ名の同じ人格の同じ感情で、同じ為事を何百年も続けてゐた常若な※部(カンダチメ)や巫女が、幾人も幾人もあつた事を考へて見るがよい。此一人格の長い為事をば小さく区ぎつて、歴史的の個々の人格に割りあてたのである。その今一つ前は、千年であらうが、どれだけ続かうが、一続きの日の御子や、まへつぎみ・※部(カンダチメ)の時代があつたのだ。日本人が忘れたまゝで若水を祝ひ、島の人々がまだ片なりに由緒を覚えてすで水を使うてゐる。日・琉双方の初春の若水其は、つれづれを佗ぶる事を知らぬ古代の村人どもが、春から冬までの1年の外は、知らず考へずに居つた時代から、言葉を換へ換へして続けて来た風習である。考へて見れば、其様にくり返しくり返し、日本の国に生れた者は日本国民の名で、永くおのが生命を託する時代の事だと考へて来もし、行きもするのだ。我々の資格は次の世の資格である。人の村や国或は版図に対しては、その寿詞を受ける度に其外来魂をとり入れとり入れして、国は段々太つて来た。長い伝統とは言ふが実は、海の村人の如く、全体としては夢の一生を積み積みして来た結果である。すで水を呑むのは、選ばれた人だけだつた。其にも係らず、人々は皆其にあやからうとした。せめては自家の井戸からでも、一掬の常世の水を吊らうと努力して来た。さうして家や村には、ともかくこんな人が充ちてゐたのだ。すで人からのあやかりものである。此機会に「おめでたごと」の話を言ひ添へて置かう。
下品な語だが「さば」を読むと言ふ。うつかりと此話にも「さば」を読んだところがある。「さば」は産飯(サバ)で、魚の鯖ではない。神棚に上げる盛り飯の頭をはねて、地べたなどへ散したりする。頭だから「あたまをはねる」との同義で、さばはねを加へて勘定する事である。さばといふ語は大分古くからあつたと見え、尊者に上げる食物を通じてさばと言ふ様だ。春の初めと盆前の7日以後、後の藪入りの前型だが、さばを読みに出かけた。親に分れて住む者は、親の居る処へ、舅・姑のゐる里へも、殊に親分・親方の家へは子分・子方の者が、何処に住まうが遠からうが、わざわざ挨拶に出かけた。藪入りの丁稚・小女までが親里を訪れるのは、此風なのだ。だから日は替つても、正月・盆の16日になつてゐる。閻魔堂・十王堂・地蔵堂などへ参るのは、皆が魂の動き易い日の記念であつたので、魂を預かる人々の前に挨拶に出かけたのだ。此は自分の魂の為であらう。また家へ帰るのは、蕪村が言うた「君見ずや。故人太祇の句。藪入りのねるや一人の親のそば」。さうした哀を新にする為に立ちよるのではなかった。親への挨拶よりも、親の魂への御祝儀にも出かけたのだ。「おめでたう」はお正月の専用語になつたが、実は二度の藪入りに、子と名のつく者即(すなはち)子分・子方が、親分・親方の家へ出て言うた語なのである。上は一天万乗の天子も、上皇・皇太后の内に到られた。公家・武家・庶民を通じて、常々目上と頼む人の家に「おめでたう」を言ひに行つたなごりである。「おめでたくおはしませ」の意で、御同慶の春を欣ぶのではない。「おめでたう」をかけられた目上の人の魂は、其にかぶれてめでたくなるのだ。此が奉公人・嫁壻の藪入りに固定して、「おめでたう」は生徒にかけられると、先生からでも言ふやうになつて了うた。此は間違ひで、昔なら大変である。一気に其目下の者の下につく誓ひをしたことになる。盆に「おめでたう」を言うてゐる地方は、あるかなきかになつた。でも生盆(イキボン)・生御霊(イキミタマ)と言ふ語は御存じであらう。聖霊迎への盆前に、生御魂を鎮めに行くのであつた。室町頃からは「おめでたごと」と言うた様であるから、盆でも「おめでたう」を唱へたのである。正月の「おめでたう」は年頭の祝儀として、本義は忘れられ、盆だけは変な風習として行はれて来たのだ。此日可なり古くから、夏の最中(サナカ)にきまつて塩鯖の手土産をさげて、親・親方の家へ挨拶に行つた。背の青い魚の代表の様なあの魚も、さばと言ふ名は古い。其時に持つて行く物をさばと言うたから、其土産の肴までさばと名をとつたとは言はれない。私は、餅も粢(シトギ)も、米団子も、飯を握つた牡丹餅も持つて行つたであらうが、皆此らは初穂で拵へたもので、此風俗のある時代流行の中心になつた地方の人々の間で、すぐ腐る餅類が大きな家ではたまつて、どうにもならないといふので、塩物でも、生腥を喜ぶ処らしく、塩魚を持ちこんだのが、段々風をなすと言ふ風になつても、やはり此時の進上物にさばとしか言はなかつた。其で「さばと言ふのに赤鰯はこれ如何に」などゝ矛盾を感じ出して、塩鯖にきまつたのかと思うてゐる。子分・子方を沢山持つた豪家などでは、塩物屋の様に積み上げられた事であらう。「今年も相変りませず、御ひいきを」と言ふ頼みは後の事で、古くは、今年もあなたの子分です、御家来です、と誓ひに行つたのだ。其が目下の人の、齢を祝福する詞を述べる事で示されるのである。「おめでたう」などになると、短い極限であるが、其固定に到るまでには、永い歴史がある様である。こゝまで来てやつと、前の天皇の賀正事や神賀詞・天神寿詞の話に続くことになる。あゝした長い自分の家が、天子の為に忠勤を抽づるに到つた昔の歴史を述べた寿詞を唱へ、其文章通り、先祖のした通り自分も、皇祖のお受けになつたまゝを、今上に奉仕する事を誓ふのである。さうして其続きに、そのかみ、皇祖の為に奏上した健康の祝辞を連ね唱へて、陛下の御身の中の生き御霊に聞かせるのであつた。此風が何時までも残つてゐて、民間でも「おめでたう」は目下に言うたものではなかつたのである。「をゝ」と言つて、顎をしやくつて居れば済んだのだ。幾ら繁文縟礼の、生活改善のと叫んでも、口の下から崩れて来るのは、皆がやはりやめたくないからであらう。「おめでたう」の本義さへ訣らなくなるまで崩れて居ても、永いとだけでは言ひ切れぬ様な、久しい民間伝承なるが故に、容易にふり捨てる事は出来ないのである。
町人どもの羽ぶりがよくなる時代になつて、互に御得意様であり、ひいきを受け合うてゐるやうな関係が出来上つて来た。職人歌合せや絵巻の類の盛んに出てゐた頃は、保護者階級と供給者の地位とは、はつきり分れてゐた。職人と言ふのが、世間には檀那ばかりで、どちら向いても頭のあがらぬ業態で、他人の為の生産や労働ばかりしてゐた人々なのである。中臣祓へばかり唱へてゐる様な下級の神主・陰陽師、棚経読んで歩く様な房主をはじめ、今言ふ諸職人・小前百姓・猟師・漁人などに到るまで、多くは土地に固定した基礎を持たない生計を営む者である。上古の部曲制度の変形をしたもので、檀那先は拡つても、職の卑しさは忘れて貰はれない時代であつた。職人の大部分が浄化せられて町人となり、町人の購買力が殖えて来て、お互どうしの売り買ひが盛んになつた。どちらからもお得意であり、売り手であると言ふ様になると、需要供給関係が、目上目下を定めて居た時代のなごりで、年頭の「おめでたう」は、両方から鉢合せをする様になる。かうして廻礼先がむやみに殖えて、果は祝福のうけ手・かけ手の秩序が狂うて来たのであつた。其「おめでたごと」をどこかしことなく唱へて歩いた一団の職人があつた。謂はゞ祝言職である。此とても元は、一つの家なり、一つの社寺なり、隷してゐる処が厳重にきまつて居たのだが、中には条件つきで、わざわざさうした保護の下にのめりこんで来た連中もあつて、段々自由が利く様になつて行つた。寺から言へば唱門師(シヨモジン)、陰陽家から言へば千秋万歳、社にもついて散楽者、むやみに受持ちの檀那場を多くした。ある大社専属の神人かと思へば、同時にある大寺の童子・楽人と言ふ様なのが多かつた。春日の楽人でゐて、薬師寺にも属し、其外京の公家・武家・寺方までも祝言に行く。祝言以外に、舞も狂言も謡も謡ふ。かうした連衆の中、うまく檀那にとり入つて、同朋から侍分にとり立てられたものもあるが、さうした進退の巧に出来なかつたものは、賤の賤と言ふ位置に落ちて了うた。此階級から能役者・万歳太夫・曲舞々・神事舞太夫・歌舞妓役者などが出た。もつと気の毒なのは、とても浮ぶ瀬のなかつた者と一つにせられた。祝(シユク)など言ふのは、其である。「祝言」の1字をとつて称へられたのである。地方によつては、賤民階級の部立てや解釈がまちがまちで、同じ名の賤称を受けた村でも、おなじ種類の職人村ばかりではなかつた。だが、一度唱へると不可思議な効果を現す其文句は、千篇一律であつた。後には色々の工風(くふう)が積まれて、段々に、変つた文句も出て来た。此祝言が段々遊芸化し、追つては芸術化する始めであつて、喜劇的なものは可なり古くから発達し、謡などは名手は出たが、詞章の精選が、最遅れた。千篇一律なるが故に効果のあつた祝言は、古い寿詞の筋であつた。後世の祝祭文の様に当季々々の妥当性を思はないでもよかつたのが、寿詞の力であつた。寿詞を一度唱へれば、始めて其誓を発言したと伝へる神の威力が、其当時と同じく対象の上に加つて来る。其対象になつた精霊どもは、第1回の発言の際にした通りの効果を感じ、服従を誓ふ。すべてが昔の儘になる。此効果を強める為に、其寿詞の実演を「わざをぎ」として演じて、見せしめにした。文句は過去を言ふ部分が多く加り変つて来ても、詞章の元来の威力と副演出のわざをぎとで、一挙に村の太古に還る。今日にして昔である。村人は、今始めて神が来て、精霊に与へる効果をも信じたのである。其力の源は、寿詞にある。寿詞は、物事を更にする。更は、くり返すことである。さらは新(サラ)の語感を早くから持つてゐた様に、元に還すのであると言ふよりも、寿詞の初め其時になるのである。さらはさるの副詞形である。去来の意のさるは、向うから来ることである。春の初めの猿楽も、古くから行はれたらうと思ふが、さる--今は縁起を嫌ふ--がをつと同意義に近かつたのではなからうか。猿女君のさるも、昔を持ち来す巫女としての職名であつたのではないか。
 
貴種誕生と産湯の信仰

 

貴人の御出生といふ事について述べる前に、貴人の誕生、即「みあれ」といふ語(ことば)の持つ意味から、先づ考へ直して見たいと思ふ。私は、まづ今日の宮廷の行事の、固定した以前の形を考へさせて貰はうと思ふ。有職故実の学者たちの標準は、主として、平安朝以来即、儒風・方術の影響を受けた後の様式にある様である。尤、此期に入つて、記録類が殖えて来たからではあるが、私は前期王朝のまだ其々の伝承に、信仰的根拠の記憶せられ尊奉せられてゐた時代の、固定しきらない俤が窺ひたいのである。さうして生活古典たる宮廷の行事に、何分かの神聖感と、懐しみとを加へることが、出来さうに私(ひそ)かに考へてゐる次第である。みあれは「ある」と云ふ語から来たものである。「ある」は往々「うまれる」の同義語の様に思はれてゐるが、実は「あらはれる」の原形で、「うまれる」の敬語に転義するのである。一体、神或は貴人には、誕生といふことはなく、何時も生き、又何時も若い。たゞ時々に休みがあり、又休みから起きかへつて来るのである。此意味は、天子並びに其他の貴い職分及び地位は、永久不変の存在であるから、人格として更迭はあつても、神格としては死滅といふことはない。昔の天皇或は貴人の長寿といふことに就て考へて見ても、譬へば、武内宿禰の長命、或は伊勢の倭姫命の長命なども、其考へ方が反映してゐるのである。貴人についてみあれといふのも、うまれるといふ事ではなく、あらはれる・出現・甦生・復活に近い意味を表してゐる。永劫不滅の神格からいふと、人格の死滅は、たゞ時々中休みと言ふ事になるだけである。皇子・皇女の誕生が、それであつて、此みあれがあつたのち、更にみあれがあることが、即、帝位に即かれる意味に外ならないのである。つまり、天子になられる貴人には、二回のみあれが必要であるといふ事になる。日本の古い時代の御産の形式をみると、水と火との二つの方式がある。其古い形式の一部は、今もなほ沖縄の伝承に残つてゐる。神代紀のこのはなさくやひめの命、垂仁紀の狭穂姫(サホヒメ)皇后の産事は、それぞれ火の形式によるものであり、いま一つの水の形式になると、後世の御産の典型的になつてゐる。とよたまひめの命がうがやふきあへずの尊を御産みになつた場合、或は反正天皇のみあれの際に於ける形が、水辺或は水の御産の形式として、顕著な例である。此側から考へると、垂仁紀のほむちわけの命は、火産・水産の調和したものである。出雲風土記のあぢすきたかひこの命の伝説は、皇族以外にも貴種誕生には、同様の様式が考へられたことを示してゐるのだらう。就中、奈良朝以前の宮廷の御産の形式の原形は、次に述べる反正天皇のみあれの際の伝説より来(きた)つてゐる。瑞歯別天皇。去来穂別ノ天皇ノ同母弟也。去来穂別天皇 二年。立為二皇太子一。天皇初生二于淡路宮一。生而歯如二一骨一。容姿美麗。於レ是有レ井。曰二瑞井一。則汲レ之洗二太子一。時多遅花落在二于井中一。因為二太子名一也。多遅花者今虎杖花也。故称謂二多遅比ノ瑞歯別天皇一。右の日本紀の本文によると、産湯の井の中に、虎杖(イタドリ)の花が散り込んだので、多遅比(タヂヒ)といひ、歯がいかにも瑞々(ミヅミヅ)しい若皇子であるから、瑞歯別と称へた事になつてゐる。だが、元来、多遅比の事に就ては、日本紀の伝へが、いさゝか矛盾してゐる。恐らく多遅比の名称は、若皇子を御養育した多遅比氏(丹比(タヂヒ)氏)の名称であつて、つまり、丹比氏が養育し奉つたから、若皇子の御名を多遅比と称へたのであらう。しかしながら、後世には事実をよそにして、産湯の井の中に多遅(タヂヒ)の花が散り込むと云ふ、此伝説の方が有名になつて了うてゐる。三代実録の、宣化天皇の曾孫たぢひこの王のことを記したものにも、多遅(タヂヒ)の花が散つて、湯釜の中にまひ込んだとある。さういふやうな貴人の、若い時代をとりみる家を、にぶ(壬生)又は、みぶとも云ふ。語原にさかのぼると丹生(ニフ)の水神の信仰と結びついてゐるのである。近代の語で云ふとりおや・とりこと云ふ関係が、皇子及び臣下の間に結ばれてゐた訣である。みぶと云ふ事は、奈良朝には既に、乳母の出た家を斥(サ)すことになつてゐたらしい。其証左には、壬生部を現すのに、乳部と書いてゐる。古くは、そこに職掌の分化があつて、第一に大湯坐(オホユヱ)、それから若湯坐(ワカユヱ)、飯嚼(イヒガミ)・乳母(チオモ)等をかぞへてゐる。恐らく此他にも、懐守(ダキモリ)・負守(オヒモリ)等の職分もあつたのであらう。此だけを総括してみぶの職掌としてゐるらしいが、肝腎の為事は、大湯坐・若湯坐にあるやうだ。ゑといふ語は、ものを据ゑると云ふ語であるから、要は湯の中に、入れすゑ取扱ふといふことにある。後世のとりあげ、即、助産する事になるのである。だから、今でも地方によると、とりあげ婆さんの為事が、どうかすれば考へられる様な職でなくて、ある女にとりあげられた子供は、幾歳になつても盆・正月には、欠かさずに其産婆の許に挨拶に出かける風習がある。即、此はとりおやととりことの関係であつたことが知れる。
かうして育てあげられた貴人の為に、とりおやを中心とした一つ或は数箇の村が出来て、其貴人の私有財産となつた。即、御名代部(ミナシロベ)の起原であり、壬生部と称せられた。此が後世に伝はつて、更に御封(ミブ)・荘園とも変じてゆくのである。そして、反正天皇の際に於ける壬生部の統領は、丹比(タヂヒ)ノ宿禰と云ふ家であつた。だから、其家の宰領する村を、丹比壬生部と称へてゐる。瑞歯別の伝説は、全く、此丹比壬生部の伝承した叙事詩から出たものに他ならぬのである。さて代々の多くの皇子たちの壬生及び壬生部は、皆別々の家を選んで、其皇子の私有になる村々を、宰領させられた訣であつた。みぶの本体なる産婆・乳母のみぶの--選抜された家々の直系の女子である--出た其家長は、其際水辺に立つて、寿詞を奏上すると云ふのが、きまつた形式と考へられる。此が、史書を読む読書、鳴弦の式に変つて行つたのだ。新撰姓氏録を見ると、反正天皇のみあれに与つた丹比宿禰の伝へを記してあるが、其によると、瑞歯別の誕生の時、丹比部の祖先色鳴(シコメ)宿禰が天神寿詞(アマツカミノヨゴト)を奏したとある。そして此寿詞を奏上する間に、みぶに選ばれた女子が水に潜つて、若皇子をとりあげるのである。産湯と云つて来たが、古代は水をもつて湯とも称してゐる。誕生の際、正確に湯にとりあげたのは何時の頃よりか知られてゐない。一体、湯は斎川水(ユカハミヅ)と云ふ語の慣用が、こんな略形に変じ来つたのであるが、古いものを繙けば、天子の沐浴を、ゆかはあみ(湯川浴)と訓じてゐるのが目にとまる。つまり斎川(ユカハ)の水をゆみづと云ひ、更に略して「ゆ」といふ形を生んだので、今いふやうな、温湯を湯と称するやうになつたのは、遥か後代の事である。だから産湯には、冷水を用ゐた時代のあつた事を含めて考へなければ当らない事になる。さて、ゆ即、ゆかはみづは、何の為に用ゐるのかといふに、此は申すまでもなく、みそぎの為である。今日までの神道では、禊祓は凶事祓へを本とするやうに説いてゐるが、此は反対で、吉事祓へが原形である。来るべき吉事をまちのぞむ為の潔斎であるのが、禊祓の本義であつた。禊祓の話は、此処にはあづかる事として、貴人誕生の産湯は、誰も考へるやうに禊ぎに過ぎないが併し、その水は単なる禊ぎの為の水ではなく、或時期を限り、ある土地から、此土により来るものと看做された。即、其水の来る本の国は、常世国であり、時は初春、及び臨時の慶事の直前であつた。海岸・川・井、しかも特定された井に湧くのである。其水を用ゐて沐浴すると、人はすべて始めに戻るのである。此を古語で変若(ヲツ)と云ふ。其水を又変若水(ヲチミヅ)と称する。貴人誕生に壬生の汲んでとりあげる水は、即、常世の変若水(ヲチミヅ)であつたのだ。中世以後、由来不明ながら、年中行事に若水の式が知られてゐる。此は古代には、特定の井に常世の水が湧き、其を汲んで飲み、禊ぐと若返るものと考へてゐた為の名である。皇子御誕生にあたつては、たゞの方々と皇太子との間に、区別のありやうはなかつた。御誕生後、後代の日嗣御子がお定まりになつて、其中から次の代の主上がお定まりになつたのである。出現せられた貴種の御子の中、聖なる素質のある方が、数人日つぎのみ子と称へられた。此は正確には皇太子に当らぬ。飛鳥・藤原の宮の頃から、皇子・日つぎのみ子の外に皇子(ミコ)ノ尊(ミコト)と言ふ皇太子の資格を示す語が出来たらしい。だが、もつと古代には日つぎのみ子の中から一柱が日のみ子として、みあれせられたのであつた。其間の物忌みが厳重であつた。此が所謂真床襲衾(マドコオフスマ)を引き被(カヾフ)つて居られる時である。此物忌みに堪へなかつた方々に、幾柱かの廃太子がある。万古不変の大倭根子天皇の御資格は、不死・不滅であつて、崩御は聖なる御資格から申せば、一種の中休みに過ぎないので、片方には中の一寝入りから目覚めたといふ形で、日つぎのみ子が、日のみ子としてみあれをせられる。即、長い物忌みの後に、斎川水を浴びて、こゝに次の天皇として出現せられるのである。だから、常世の変若水は、禊ぎの水であり、産湯でもあり、同時に甦生の水にも役立つたのである。其重大なる儀式の一種であるみぶを奉仕したのが、後世由来不明となつた、節折(ヨヲ)りに奉仕する中臣女の起原である。みあれひく賀茂の社の祭りも、此信仰から出てゐる。稚雷の神の出現の日に、毎年賀茂川を斎川として、稚雷神の用ゐ始めた後、諸人此水に浴したのがみあれまつりの本義である。だから、平安朝以後、賀茂の磧が禊ぎの瀬と定つた。御禊(ゴケイ)は元より、御霊会(ゴリヤウヱ)の祓除「夏越(ナゴ)し祓へ」の本処として、陰陽師の本拠の様な姿をとつたのである。
 
花の話

 

茲には主として、神事に使はれた花の事を概括して、話して見たいと思ふ。平安朝中頃の歌の主題になつて居た歌枕の中に、特に、非常な興味を持たれたものは、東国の歌枕である。東国のものは、異国趣味を附帯して、特別に歌人等の歓迎を受けた。其が未だに吾々の間に勢力を持つて居る。譬へば関東には「迯(に)げ水」の実在が信ぜられて居た。それは、先へ行けば行く程、水が逃げて行くと考へられて居たものである。又「入間(イルマ)言葉」なども、大分後になつて、歌枕に這入つて来た。其は、人の言葉を何でも反対に言ふと信ぜられて居るものである。「ほりかねの井」など言ふものも、後になつて出来た。下野には「室の八島」がある。此類のものは他にも沢山ある。旅行者が、旅路の見聞談を敷衍して話した為に、都の人々は非常な興味を持つて居た。「常陸帯」の由来も其一つである。総じて東国のものは、奥州に跨つて、異国趣味を唆る事が強かつた。そんな事の中に、錦木(ニシキギ)を門に樹てることがある。里の男が、懸想した女の家の門へ錦木(ニシキギ)を切つて来て樹てるのである。美しい女の家の門には、村の若者によつて、沢山の錦木が樹てられる。どれが誰のか、判断はどうしてつけるのか訣らぬが、女が其中から、自分の気に入つた男の束を取り入れる。其は、女が承諾した事を示す。此は、平安朝の末頃、陸奥の結婚にはかう言ふ話があつた、と言ふ諸国噺の一つとして、語り伝へられて、歌枕になつたのであるが、よく考へて見ると、さう言ふ事でないのかも知れぬ。此は恐らく、正月の門松の御竈木(ミカマギ)と同じ物で、他人の家の外に、知らぬ間に、木を樹てに来るものではなかつたらうか。其樹を何故、錦木と言ふのであらうか。錦木と言ふ木なのか、或は其樹てた木を錦木と言うたのか、問題であるが、それは結婚の為ではなく、私は外から来るある人が、土産として、樹てゝ行つたことの、一つの説明なのだらうと思ふ。御竈木の古い形を見たのは、三・信境の山間、遠州の山奥辺の風俗であつた。三河の奥で、初春行はれる祭りに「花祭り」といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであつた。其時、山人の持つて来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木(ニフギ)か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る。花祭りと、にう木が門に樹てられる事とは、別の時ではあるが、今は正月の初めと小正月前後に当るから、近づいて来たのである。中世では、にう木の樹てられる初春と、花祭りの行はれる霜月とは、間があいて居たけれども、もつと古い時代には、にう木の樹てられる時と、花祭りの時とは同じ時で、其が次第に岐れて来たのであらうと推定出来る。花祭りの行事は「花育て」といふ行事が演芸種目の中心になつてゐる。竹を割いて、先を幾つにも分けて、其先へ花をつけた花の杖をついて、花祭りを行ふ場所、其は普通舞屋(マヒヤ)と言ふ家の土間、即まひとを廻るのである。其中央に、大きな釜があつて、湯がたぎつて居る。昂奮して来ると、見物人までも参加して、其周囲をまはる。其人々の中心に、山伏姿のみようどと云ふ者が居つて、花の荘厳(唱言、或は処によつて、唱文とも言うて居る)と言ふ文句を唱へる。此花の唱言は、場合によつては、非常に戯曲的になつて居る事もある。かうした儀式は、必しも花祭りでなくとも、行はれて居た様に思はれる事であるが、何故、かうした行事をしたかは、大きな問題になる。尠くとも、半解の問題である。私の考へを述べると、みようどは即、私の言ふ山人である。其山人は、山から多くの眷属を連れて、群行(グンギヤウ)して来る。其時山人は杖をついて来て、去る時には、其山人のしるしなる杖を、地面に突き挿して帰る。其杖から根が生えると、此祭りの唱言が効果を奏して、村の農業生活が幸福になる。根が生えない時は効力がない事になると信じた。其杖は、普通根のあるものであるが、場合によつては、根のないものもある。桑の木などは、根がなくとも著き易い木で、祝詞にも「生(イカ)し八桑枝(ヤクハエ)の如く」などゝ書かれて居て、枝の繁る木である。ともかく、山人は根の附いて居る棒、或は根のない棒を持つて来て、其を挿して行くのである。昔の人は、杖を倒に突いて、梢の方を下にして居る。此杖を叉杖(マタブリ)と言ふ。昔は乞食房主が此を持つて歩いた。此は西洋にも、何処にでもある形で、物を探つて行く為のものである。杖には根がある。後世の人には、杖を立てたのに、芽の出る事は非常に、不思議に感ぜられるけれども、此は、杖に対する観念が変化して居るからである。高僧たちが突きさして行つた一夜竹・一夜松の如きも、此が伝説化したものに過ぎない。さうして、弓矢でも根が生える様に、変つて考へられて行つたのだ。此等は杖の信仰である。祝福の効果があるか、どうかの試みである。此効果の現れることを「ほ」が現れるとも「うら」が現れるとも言ふ。此杖は即「花育て」の花杖と同じものである。杖の先に花の咲く事がある。三河の花祭りに、杖の先に稲の穂を附けて来たといふが、此では、意味が訣らなくなる。花杖は、今年の稲の花を祝福する為のものである。花祭りの花は、稲の花の象徴であるのだ。
花と言ふ語(ことば)は、簡単に言ふと、ほ・うらと意の近いもので、前兆・先触れと言ふ位の意味になるらしい。ほすゝき・はなすゝきが一つ物であるなどを考へ併せればわかる。物の先触れと言うてもよかつたのである。雪は豊年の貢、と言うた。雪は、土地の精霊が、豊年を村の貢として見せる、即、予め豊年を知らせる為に降らせるのだと考へた。雪は米の花の前兆である。雪を稲の花と見て居る。ほんとうは、山にかゝつて居る雪を主とするのであるが、後には、地上の雪も山の雪と同様に見るやうになつた。稲の花の一種の象徴なのである。処が、かうした意味の花は沢山ある。譬へば、冬の祭り、殊に宮廷の冬祭りなる鎮魂祭に持ち出す桙は、柊で作つたものである。日本紀・続日本紀を見ると、八尋桙根と言ふのが国々から奉られて居る。此は恐らく、棒ではなくて、柊を立ち樹のまゝ抜いて来たものであらう。それで、根の字が着いて居るのであらう。此で以て地面をどんどんと、胴突きして廻つたのである。「柊」の字も「椿」の字も国字である。榎・楸の如き字も、何故問題になるのか。其は村々国々によつて特殊な祭りに、手草(タグサ)として使用するものであつたから、木偏に其季を附けて表したのであらう。勿論、柊の花は冬咲くものであるが、其花の咲き方で占つたり、或は柊の桙で突いて、占つたものと思はれる。春になると雪が、今言うたやうに、花になる。其外、卯月に卯の花、5月に皐月(サツキ)・躑躅(ツヽジ)などがある。花祭りの花は稲の花の象徴であるが、其中心になる人は、今では修験道の後々の、前述のみようどが勤める。其前の形は、山伏の前型なる山人が勤めた。其つく杖に、今年の農業に関する先触れが現れるので、此杖を以て、土地を突き廻つた。村人に此象徴を見せて廻ると同時に、土地の精霊に、かう言ふ風にせよ、と約束させるのである。更に溯れば、土地の精霊が自ら示したものである。今年も、此杖に附いて居るとほり、稲の花が咲くだらうと言ふ徴(シルシ)である。3月の木の花は桜が代表して居る。屋敷内に桜を植ゑて、其を家桜と言つた。屋敷内に植ゑる木は、特別な意味があるのである。桜の木も元は、屋敷内に入れなかつた。其は、山人の所有物だからと言ふ意味である。だから、昔の桜は、山の桜のみであつた。遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた。花が早く散つたら大変である。考へて見ると、奈良朝の歌は、桜の花を賞めて居ない。鑑賞用ではなく、寧、実用的のもの、即、占ひの為に植ゑたのであつた。万葉集を見ると、はいから連衆は梅の花を賞めてゐるが、桜の花は賞めて居ない。昔は、花は鑑賞用のものではなく、占ひの為のものであつたのだ。奈良朝時代に、花を鑑賞する態度は、支那の詩文から教へられたのである。打ち靡(ナビ)き春さり来(ク)らし。山の際(マ)の遠き木末(コヌレ)の咲き行く 見れば(万葉巻10) の如き歌もあるが、此は花を讃めた歌ではない。名高い藤原広嗣の歌 此花の一弁(ヒトヨ)の中(ウチ)に、百種(モヽクサ)の言(コト)ぞ籠れる。おほろかにすな(万葉巻8)は女に与へたものである。此は桜の枝につけて遣つたものであらう。此花の一弁(ヒトヨ)の中(ウチ)は、百種の言(コト)保(モ)ちかねて、折らえけらずや(万葉巻8)此は返歌である。此二つの歌を見ても、花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る。こゝに意味があると思ふ。桜の花に絡んだ習慣がなかつたとしたら、此歌は出来なかつたはずである。其歌に暗示が含まれたのは、桜の花が暗示の意味を有して居たからである。此意味を考へると、桜は暗示の為に重んぜられた。1年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、桜の花が散らない事を欲する努力になつて行くのである。桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である。平安朝になつて文学態度が現れて来ると、花が美しいから、散るのを惜しむ事になつて来る。けれども、実は、かう云ふ処に、其基礎があつたのである。かうした意味で、花の散るのを惜しむといふ昔の習慣は吾々の文学の上には見られなくなつて来たが、民間には依然として伝はつて居る。文学の上の例として、謡曲の泰山府君を見ると、桜の命乞ひの話がある。泰山府君は仏教の閻魔と同様なもので、唐から叡山の麓に将来した赤山明神である。此神に願を懸けて、桜の命乞ひをした桜町中納言(信西の子)の話がある。まことに風流な話であるが、実生活には何らの意味もない。だが、こゝに理由があるのだ。即、桜の命乞ひをする必要があつたのだ。此習慣から、実生活に入つて、桜町中納言を持ち出したのである。
平安朝の初めから著しくなつて来るものに、花鎮(ハナシヅ)めの祭りがある。鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響を及して居る。鎮花祭の歌詞は今も残つてゐるが、田歌であつて、かういふ語で終つて居る。やすらへ。花や。やすらへ。花や。普通は「やすらひ花や」としてゐる。「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であつて、ぐづぐづする事である。ぐづぐづして、一寸待つて居てくれと言ふ意味である。だから、此鎮花祭を「やすらひ祭り」と言ふのである。この祭りの対象になる神は三輪の狭井(サヰ)の神であつて、尠くとも、大和から持ち越した神に相違ない。田の稲の花が散ると困ると言ふ歌を歌つて、踊つたのである。其がだんだんと芸術化し、宗教化して来た。最初は花の咲いて居る時に行うたのであるが、後には、花の散つてしまうてから行はれる様になつた。此では何の役にもたゝない。日本人の古い信仰では、色々関係の近い事柄は皆、並行して居ると考へてゐた。譬へば田に蝗が出ると、人間の間にも疫病が流行すると考へて居たのも、其だ。平安朝の末になると、殊に、衛生法が行届かなくなつて、死人は加茂の河原や西院に捨てゝ置かれた程である。そこで、普通の考へでは、春と夏との交叉期、即ゆきあひの時期に、予め起つて来さうな疫病を退散させる為に、鎮花祭は行はれたものであると言うて居るが、実はさうではない。此以前に、もつと大切な意味があつたのだ。即、最初は花のやすらふ事を祈つたのであつた。其が、蝗が出ると、人の体にも疫病が出ると言ふので、其を退散させる為の群集舞踏になつたのだ。此によつても、桜が農村生活と関係あつた事は訣ると思ふ。さう言ふ意味で、山の桜は、眺められたのである。其後になると、卯の花が咲き、躑躅が咲き、皐月が咲く。卯の花は、卯月に咲くから卯の花だと言はれて居る。此説には私は少し疑ひを持つて居たが、近頃では却つて、此考へに同情して来た。卯月と卯の花とは関係があると思ふ。此 ut は、何か農村の呪法に関係がある様だ。私は卯月と言ふ月は、此と月と結合して出来た語であり、卯の花の u と ut とは同じものと見て居る。正月に使用するうづゑ(卯杖)・うづち(卯槌)などゝ言ふものがある。形は支那から来て居るが、其元の信仰は日本のものである。うつには、意味がある。捨てるも「うつ」である。うつちやる・なげうつも、捨てる事である。古い処では「うつ」は、放擲すると言ふ事に使用されて居る。だから、私は、卯杖・卯槌は、地べたのものを追ひ払ふ為に、たゝくものだと考へて居る。土を敲くのは、土の精霊を呼び醒す事であり、土地の精霊を追ひ払ふ事とも考へて居た。10月の卯の日に玄猪の行事をする。土龍(モグラ)を嚇すと言ふのは後の附会で、地中に潜んで居る精霊を追ひやるのである。初春に杖をもつて、まづ地面を打つて置き、いよいよ田の行事にかゝる4月になると、復此行事を繰り返す。即、も一度田の行事をするのである。此為、卯月と言ふのだとするのが、私の仮説である。卯月に咲く山の花なる卯の花は、空木(ウツギ)の花だと言ふ説もあるが、たまたま卯の花を空木の花であると言ふのには、原因があるのである。卯杖(ウヅヱ)・卯槌(ウヅチ)を空木で作り、そして、空木は鬼やらひに用ゐる木なのである。即、卯の花が占ひの象徴になつて居ると思ふ。卯の花が早く腐ると困る処から、卯の花くたしと言ふ名が、雨にまで附けられたのである。卯の花の咲く時分に、長雨が降る。卯の花を腐らせる雨に、気を病んで居る人々が作つた詞である。これからは、幾らでも、象徴の花が出て来る。卯月に入ると、女達の物忌みが始まる。此事は、柳田国男先生が、最初に注意された。私が、躑躅の花を竿の先につけて外に出す習慣の行はれて居る4月8日の、てんたうばな(天道花)の由来を書いた時に、柳田先生は、此時に女の山籠りの習慣があつて、此女たちが山から帰つて来る際に、躑躅の花を持つて来るが、此と関係がある事を指摘された。其為に、私の考へは変つて来たのであつた。
女の物忌みとして、田を植ゑる五月処女(サウトメ)を選定する行事は、卯月の中頃のある1日に「山籠り」として行はれる。さうして、山から下りる時には、躑躅の花をかざして来る。山籠りは、処女が1日山に籠つて、ある資格を得て来るのが本義である。けれども、後には、此が忘れられて、山に行き、野に行きして、1日籠つて来るのは、たゞの山遊び・野遊びになつてしまうた。「山行き」といふ言葉は、山籠りのなごりである。かうして山籠りは、一種の春の行楽になつて了うたが、昔は全村の女が村を離れて、山籠りをした。即、皐月の田植ゑ前に、五月処女(サウトメ)を定める為の山籠りをしたのである。此山籠りの帰りに、処女たちは、山の躑躅を、頭に挿頭(カザ)して来る。此が田の神に奉仕する女だと言ふ徴(シルシ)である。そして此からまた厳重な物忌みの生活が始まるのである。此かざしの花は、家の神棚に供へる事もあり、田に立てる事にもなつた。此が一種の成り物の前兆になるのである。4月8日を中心とした此日は、普通「山籠り」の日と言うて居る。此日、村の娘が五月処女(サウトメ)としての資格を得るのである。そうとめと音便で呼ばれる語形さをとめの結合は、近世では出来ない結合である。処女(ヲトメ)は神事に仕へる女、と言ふ事である。をとこも神事に仕へる男の意である。処女が花を摘みに行つて、花をかざして来る事は、神聖な資格を得た事であつて、此時に「成女戒」が授けられる。此は1年の中、二度か三度行はれたが、もとは一度であつて、男を避けて暮すのが習慣である。処女が其資格を得ようとする徴(シルシ)に花かざしをする。躑躅が用ゐられた。一種の山蔓(ヤマカヅラ)である。こゝに何か秘密な行事があるので、其時に花をさしたと言ふ事が、成女戒を授けられた事になる。此は毎年生れかはる形であるので、毎年受けるものなのだが、一生の中に、二度うける様にもなつた。だが、昔は、事実はおなじ女性がつとめても、毎年別の人が生(ア)れ出て来ると信じて居た。男は5歳から10歳頃までに袴着(ハカマギ)を行ひ、女は裳着(モギ)をする。此袴着・裳着は、幼時に一度行ふばかりでなく、大きくなつてから今一度行ふ。貴族の男児は、成年戒には黒をつける。其形は日本在来の鬘の形で、後方で結んで居て、植物の蔓を頭へ巻いたと同じ形である。物忌みの間につける蔓の形が、支那のの形と合して、黒となつたのだ。此に対して女は「はねかづら」を着ける。万葉集には「はねかづら」と言ふ語が四个所に出て来る。はね蔓今する妹を夢に見て、心の中(ウチ)に恋ひわたるかも(家持--巻4)はね蔓今する妹はなかりしを。如何なる妹ぞ、許多(コヽダ)恋ひたる(童女報歌)はね蔓今する妹をうら若み、いざ、率(イザ)川の音のさやけさ(巻7)はね蔓今する妹がうら若み、笑(ヱ)みゝ、怒(イカ)りみ、つけし紐解く(巻11)即「はね蔓(カヅラ)今する妹」といふ様な形になつてゐる。此はねかづらは花かづらの事であらう、と言ふ説がある。其はとにかく、此ははねかづらを着ける事かどうか判明しないが、尠くとも、純粋の処女の時代であつて、手の触れられない事を意味する物忌みの徴(シルシ)のものであるらしい。処女を犯すと、非常な穢れに触れるのだ。曾て私は、小田原で猟師の歌つてゐる唄を聞いた。其は「下田の沖のけなし島。けのないヽヽヽヽはかはらけだ。かはらけヽヽすりや七日の穢れ。七日どころか一生の穢れ」といふのである。即、けなし島と言ふ所に、処女の期間を意味して居る。つまり処女犯には、七日のつゝしみを経なければならぬと言ふ事で、即、神事に仕へない女は、女ではなかつたのである。神事に仕へると、神の成女戒を受ける。神のためしを受けて、始めて、男に媾ふ事が出来るのである。処女がはねかづらをするのは、成女戒の前である。成女戒が済めば、其鬘(カツラ)を取つてしまふ。はねかづらは、花でなくても、尠くとも植物ではあらう。けれども、此は結局、今日からは解く事は出来ない。ただ当時は、此だけで、皆了解出来たのであらう。とにかく、これが、男の黒になつたものと同様に、女の物忌みの徴であつた。壱岐では、独身者が死ぬと、頭陀袋(ヅダブクロ)を首に懸けさせて、道々花を摘んでは入れてやる。この意味は、女房をもたぬ男が死ぬと、地獄へ行つて、手で筍を掘らねばならぬ。其を助ける為と言ひ、此袋の事を「花摘み袋」と言ふ。信州松本辺でも聞く話である。吾々は、花がなければ、村の人間の行つて居る処へ、行く事が出来ぬ。即、村人の魂の居る所へ行くには、花の鬘が必要であつたのである。沖縄では、子供の墓と大人の墓とは区別されて居る。花摘み袋の習慣が、仏教の輸入後、頭陀袋を利用する様になつたのである。近頃では、男の習慣ばかりが残つてゐる。ともかく、男でも女でも、花が成年戒を受けた徴になつてゐたと思はれる。此が、夏の田植ゑの為の神人を定める行事であり、又、田の実りの前兆を見る行事の意味に附帯して来る。田の畔に躑躅の花を樹てるのも、此習慣からである。躑躅は、桙や杖と関係が少くなつて来て、かざしの方に近づいて来る。
椿の花は疑ひもなく、山茶花の事である。海石榴と書いて居るのが、ほんとうである。椿には意味がある。大和にも豊後にも、海石榴市(ツバイチ)があつた。市は、山人が出て来て鎮魂して行く所である。此時、山人が持つて来た杖によつて、市の名が出来たものである。椿の杖を持つて来て、魂(タマ)ふりをした為に、海石榴市と称せられたのであらうと思ふ。豊後風土記を見ると、海石榴市の説明はよく訣る。椿の枝は、近世まで民間伝承に深い意味があつて、八百比丘尼の持ち物とせられてゐる。八百比丘尼はよく訣らないものであるが、室町時代には出て来て居り、其形から見ると、山姥が仏教的に説明せられたものに違ひない。何時までも若く又は、死なぬ長寿者であつて、熊野の念仏比丘尼が諸国を廻つたものと、山姥の考へとが結合したものである。山姥は、椿の枝を山から持つて来て、春の言触(コトフ)れをするのである。春の報(シラ)せには、山茶花は早く咲くから、都合のよい木である。即、山姥が、椿でうらを示したのである。口から吐く唾と花の椿とは、関係があつて、人間の唾も占ひの意味を含んでゐたのは事実だ。つはつばの語根であり、唾はつばきである。椿がうらを示すもの故、唾にも占ひの意味があるのだらうと考へたのである。どの時代に結合したか訣らぬが、時代は古いもので、つに占ひの意味が含まれてゐる。だから、椿と言ふ字が出来て来る。春に使われる木だから椿の宛て字が出来た。私は、椿の古い信仰は、熊野の宗教に伴うて残つたものではないかと思ふ。熊野の男の布教者は、梛(ナギ)をもつて歩き、女の布教者は、椿をもつて歩いたのではあるまいか。此は、私の仮説である。とにかく、山人が椿の桙を持つて来たから、海石榴市である。榎も、今言ふ様なものではない。えの音の木は沢山ある。朴の木、橿(カシ)の木の一種にもおなじ名がある。此は「斎(ユ)」と関係があるらしい。柳(ヤナギ)は斎(ユ)の木(キ)である。矢(ヤ)の木ではなくて、斎(ユ)の木、即、物忌みの木である。ゆのぎがやなぎになつて来たのである。万葉集・古今集などに青やぎとあるが、やぎは不自然である。田の中には、躑躅でなければ、柳をさす。七部集の「田中なるこまんが柳」など言ふのも、此である。田の中へ柳をさす事は、今でも行はれて居る。柳は枝が多く、根の著き易いものであつて、一種の花なのである。此系統から行くと、正月飾るものは、皆斎(ユ)の木である。餅花・花の木・繭玉・若木・物作りの如きは、枝が沢山出て居るから、花の代りになる。其だけでは、物足りないから、物の形の餅や、稲穂・粟穂・稗穂・繭玉の如きものをつける。此が斎の木の標本的のものである。夏になると、柳である。熊野の信仰では、榎の方のゆの木を用ゐた。「榎」の音にも斎(ユ)の木の聯想があるものと思ふ。秋は、楸を用ゐる。楸は梓の一種であつた。棒にするには、極(ゴク)都合の良い木である。恐らく、秋の祭りに楸の木を使用したものであらう。万葉集・懐風藻等を見ても、柘(ツミ)ノ枝(エ)の仙女伝説がある。日本の昔は、神と人間との結婚の形は、神が一旦他の物に化つて、其から人間の形になる事になつて居る。柘ノ枝の仙女は、柘ノ枝で作つた杖の信仰である。万葉集を見ると「花に」と云ふ副詞がある。はなづま・はなにしもはゞの如きものである。見たゞけの妻--妻でありながら、手も触れられない妻と云ふのが、花妻である。萩の花妻と言ふのは、普通の解釈では、萩の花は鹿の花妻で、鹿の連合ひと言ふのだとして居るが、落着かない考へだ。萩の花と鹿とはくつゝいて居るが、ほんとうの妻ではない、と言ふしやれがあるのであらう。足柄(アシガリ)の箱根の嶺(ネ)ろのにこ草の 花妻なれや、紐解かず寝む(万葉巻14)は、花妻なれば知らぬこと、花妻でないから、紐解かずに寝られないと言ふ意味である。花妻の「花」と言ふのが、古い語の意味に近い。手の触れられない妻、見るだけの妻と言ふ意味である。即、処女である間の女である。「花に」と言ふ語は、もろく・あだに・いつはりに・上べだけの意味になるが、実は「花に」は、今の語では解けないのであつて、前兆はかうであつたが、結果はかうだめである、と言ふのである。一番最初に花と言ふのは、花の咲いて居るものではなく、先触れにうら・ほとして出て来るもので、先触れの木である。咲く花でない証拠には、花の木と言ふものがある。此は、一種の匂ひの高い木で、花ではなく、樒などが用ゐられた。樒の花は、問題になる程目につく花ではなく、榊に近いものである。何かの前兆になる神の木で、榊の一種類であつた。昔、問題にされた木には、却つて、花の咲かないものが多く、咲く花のみに、捉はれはしなかつた。古く、花と言ふ語は、最多く副詞になつて現れてゐる。物の先触れと言ふ処から、空虚なものに使用せられる、浮いた言葉なのである。秋の花の中には、秋の七草がある。此に対して、春の七草もある。春の七草は、近世では禁厭(まじな)ひの物である。秋の七草は、禁厭ひの意味は何も訣らぬが、鑑賞目的の為にのみ数へあげられたとばかりは、考へられないものがある。此点はまだ考へられない。木や木の花を式に使ふ事は、魂を鎮める為と、予め今年1年の農作の結果を前触れする為の象徴に使用するのと、二様ある。鎮魂の方は、主に桙で、先触れの方は、花である。木に就て、此両面が分れて居る。
ふゆは触(フ)れることである。ふゆとふるとは同じ事である。ふゆは物を附加する事であるが、もとは物を分割する意味である。ふるはまな(外来魂)を人体に附加する事で、冬になると総てのものをきり替へるので、魂にも、外から来る勢力ある魂を附加するのである。発音がふるともふゆとも言ふ為に、附加する事を意味して居る。それが次第に変化して、魂の信仰も変つて来、自分の体の魂を分割して与へる様になる。即、魂に枝が出来る。勝手に分岐するのである。ふゆは、分岐するから、増殖すると言ふ意味が出て来る。魂を附加するのは、鎮魂祭である。此を魂(タマ)ふりと言ひ、その儀式が厳冬に行はれる。魂ふりはまなを内部に附加して了ふ事であるが、支那の鎮魂は内の魂を出さない様にする事である。此が変化して来て、時の変り目に、内在魂が発散するから、此を防ぐ為の魂を鎮める行事となつた。此がたましづめである。たまふりからたましづめに変る中に、ふゆなる増殖分岐を考へた。もとは人が魂を附加してくれる。此が、自分の魂の分岐増殖したのを、分けて与へる様になる。みたまのふゆは、此である。魂を祭る冬祭りと言ふ観念が、一緒にくつゝいて居る。御魂祭りは生人・死人の魂を祭る事である。平安朝時代は、専、御魂祭りをすると考へて居た。意味が固定して、古典的になつて居たのである。以前は、みたまのふゆを「恩賚」と書いて居る。天皇の恩顧を蒙る事をみたまのふゆの義と考へて居るが、実は、天皇或は高貴の方の魂の分岐して居るのを貰ふ為に、恩賚と言ふのである。みたまのふゆは、魂の分岐したものを人に頒けてやる、其分れた魂、増殖した魂の事を言ふ。分割せられた魂を頒けて貰へば、自分も偉くなるので、其が、恩賚と宛てるやうになつた所以である。たまふりには、鎮魂を行ふ意味と、魂を分割する意味とがある。春夏秋冬の冬は、魂の分割を考へた時代に出来た名であると思ふ。冬の時期には、山びとが山苞(ヤマヅト)を持つて出て来る。山苞の中の寄生木(ホヤ)(昔はほよ)は、魂を分割する木の意味でふゆと言ふのである。初春の飾りに使ふ栢(カヘ)(榧)も、変化の意で、元へ戻る、即、回・還の意味である。かは・かひ・かふ・かふ・かへと活き、同時に、かへ・かへ・かふ・かふる・かふれの活用をする故に、かへる・かふるとあつても同様である。栢の木は、物が元へ戻る徴(シルシ)の木であつた。此木をもつて、色々の作用を起させる。魂の分割の木は、寄生木で、春のかへる意味に、栢が使はれるのである。かう言へば、段々年末から春へかけての植物の説明が附いて来る。此等の木は、たぐさとして、呪(まじな)ひをする木と言ふ事である。たぐさは踊りを踊る時に、手に持つ物で、呪術の力を発揮するものである。こゝに、とうてみずむとしての植物に関聯したものゝ俤が見える。とうてみずむについて、私のまづ動かないと思ふ考へは、吾々と吾々の祖先とが鉱物なり、動物なり、植物なりから分れて来た元の形が、それだとするのではなく、また、吾々の生活条件に必要なあるものから、吾々が、分岐して来た其もの、即、生活条件が吾々と並行して居るものとするのでもない。私は、とうてみずむは、吾々のまなの信仰と密接して居るもの、とするのである。吾々と同一のまなには、動物に宿るものもあり、植物に宿るものもあり、或は鉱物に宿るものもある。そして、吾々と同一のまなが宿る植物なり、動物なりを使用すれば、呪力が附加すると信じて居たのだ。此を古語で「成る」と言ふ。「成る」は内在する事で、其中へ物が入り込む事でもある。即、同一のとうてむを有する動物・植物・鉱物なりをたぐさとして振りまはせば、非常な偉力が体内へ這入つて来る、と考へたのである。とうてむは人間以外に、外の物へ入る事もあつて、此中、日本では、動物の信仰と植物の信仰とが、明らかに分れて了うた。日本でも、光線をとうてむに使用した痕跡があるし、また、信仰的に、動物や植物が沢山出て来る。動物の時はつかはしめとなつて居り、植物の時はたぐさとなつて居る。これが段々変化して、更に、沢山のたぐさが出来た。こゝに、植物と人間の祭りとの関係が現れて来る。さうして、時代的に合理化せられて、変化する。其過程に、桙を一突き突くと、魂がめざめて来たり、花が咲くと、今年の成りものの前兆になると言ふ考へが岐れて出た。つまり、とうてみずむの考へから、宗教の原始的思想に這入つて来た。そして人間の魂を自由に扱ふ事が出来ると言ふ考へから、ほよ・はなを考へて来た。八尋桙根は、柊の棒で作つたもので、立ち木のまゝで地を胴突くと花が咲くといふのである。此花を以て、農業の先触れとした。柊は、魂をくつ着ける予備行為の為事と、花としての為事との二様の必要があつたのだ。其為、非常に、大切にされて居る。三河の奥の花祭りは、もとは霜月の末に行はれたのが、近頃では、春になつて居る。だが、時期から見ると、冬から春に変る時に、稲花の様子を示す祭りである。山人が、予め準備して置いた竹棒の先に、花をつけて、其で土地を突いて歩く。此が、中心行事で、土地の精霊が、其に感応して、五穀を立派に為上げると言ふ信仰であつた。榊は、神と精霊と、神と人との、問答の木である。さか木の語原は訣らぬが、一種の通弁の機関である。謡曲の「百万」を見ると、狂女の背を榊で打つと、ものを言ひ出す科(シグサ)がある。其は一つの例である。榊と称する木にも、沢山の種類がある。小山田与清の「三樹考」を見れば、榊に属する木の名は皆、挙げられてゐる。三河の花祭りの鬼も、榊で打つと物を語り出し、それから榊を中心として、問答をする。榊によつて、言葉が伝はつて来るのである。換言すれば、榊はもどきの木、説明役の木である。橘はまた違うて、生命を祝福する木に相違ない。橘の実を「ときじくの香(カグ)の木(コ)の実」と言うた。たぢまもりは、但馬の人--私は出石人(イヅシビト)と名をつけて置く--で、考古学者は漢人種の古く移民して来たものだと言うて居る。此人々の、祖先の中の一人であつた彼が、垂仁天皇の仰せにより、常世へ行つて、ときじくのかぐの木の実を将来した。ときじくは、常にある意で、かぐはよい香のある意である。たぢまもりが帰つて見ると、天皇はもう崩(ナ)くなつて居られた為に、哭いて天皇の御陵の前に奉つた事は名高い伝へである。日本紀には、縵(カゲ)四縵・矛四矛を大后に奉り、縵四縵・矛四矛を御陵に奉つたとある。桙と言うても、棒のみを斥(サ)すものではなく、かげは冑をまで称せられた。橘の細い杖を撓めて鬘にし、八つの縵と八つの矛とを造つて、奉つたのである。後世から此を辿るに、其習慣が、殆ど無くなつて居るから訣らないけれど、常世は、生命の長く、此地と暦を別にして居る処である。常世の木の実は、何時までも落ちないものと考へてゐた。出石人が、貴種の葬られた墓所に、魂を喚び醒す為に樹てたものであらう。かう考へれば、たぢまもりの話も、浦島の型のみではなく、招魂の呪ひがあり、同時に橘が長寿を祝福する意味を持つた木である事が、想像出来るのである。荻(ヲギ)も亦信仰に関係がある。万葉集の東歌に妹(イモ)なろがつかふ川内(カハツ)のさゝら荻(ヲギ)。あしと一言(ヒトコト)語りよらしも(巻14)と云ふのがある。吾妹子が、誓ひに用ゐる川口の小さな荻の類だから、あしと一言、告げがあればよいと言ふのである。さゝら荻は序歌であるが、同時に、また内容になつて居る。荻が神の告げを語る信仰があつての上に使はれた序なのである。日本の信仰上の現象を見ると、秋になつてそよそよと戦ぐ荻が、何となく目について居る様だ。秋の草のそよそよと揺れる事をそゝ・そゝや等と言ふ語であらはして居る。そゝ・そゝやは、神の告げを表す語であるから、荻や萩には此聯想があつたものと思はれる。そしると言ふことも、神の告げである。をぎと言ふ名は、霊魂を招き寄せる意味である。をぎ・をぐとは、霊魂を呼び醒す場合にも用ゐた。だから荻にも何か信仰上の関係があつたのである。神楽の中に「韓神」と言ふ舞があつて、韓神が枯れた荻の葉を持つて、舞うた事が、平安朝の文献に見えて居る。韓神は韓風の祭りに使つたものであらうが、荻に神霊を招来する信仰があつたものと思はれる。此等にもとうてみずむの俤が見えて居る。
つくり花と言ふのは沢山ある。其中一番古くからあつて、一番長く伝はつて居るのは、削(ケヅ)り掛けである。柳などの木を削つて、ひげを沢山出してある。此を削(ケヅ)り掛け、或は削(ケヅ)り花と言ふ。此があいぬの信仰に這入つて、いなうと言ふものになつて居る。此は、あいぬ在来のものでなく、日本の稲穂の信仰様式があいぬへ這入つたものであらう。いなうは、日本の御幣の如きものであるが、御幣ではない。甲州ではあぼ・へぼと言ふが、粟穂・稗穂等と言ふ意味であらう。削りぐあひで、色々あるのだ。稲穂は其一種である。此があいぬへ這入つて行つたのは、近代の事ではない。筑波嶺に雪かも降らる。否諾(イナヲ)かも。愛(カナ)しき児等(コロ)が布(ニヌ)乾(ホ)さるかも(巻14)といふ歌が、万葉集の東歌の中にある。あいぬの木幣(イナウ)を知つて居る学者は、木幣(イナウ)と信じて、此歌をもつて、あいぬが此附近に住んで居た証とするが、此は勿論さうではない。削り花は早くからある。古今集巻10の「物名(モノヽナ)」の籠め題に「二条后の東宮の御やすん所と申しける時に、めどにけづり花させりけるを詠ませたまひける」と言ふ詞書があつて、花の木にあらざらめども 咲きにけり。ふりにし木の実なる時もがな(文屋康秀)とある。めどは馬道で、廊下の暗い処に削り花の掛つて居たのを詠んだものである。此頃には既に、削り掛けの出所を疑ひ、後には合理化して、花の形だとして居る。何故花の如きものを作つたかと言ふに、祝福の形なのである。此以前に、も一つ先の形があつたと思ふ。其は、山人が突いて来た杖の先のさゝけたものが、花の徴(シルシ)になつたものであらう。卯杖と言ふ杖は、土地をつゝき廻ると、先の方がさゝけ、根は土の中で著く。此さゝけが花の徴(シルシ)になり、そして、最初の形であると思ふ。竹ですればさゝらになる。簓(サヽラ)も一種の占ひの花であつた。葬式等には髯籠(ヒゲコ)を作る。此先のさゝけが肝腎である。其さゝけの分れ方で、一種の占ひになつたものと思ふ。此話と関聯して、言はなければならないのは、万葉集の東歌や防人歌などを見ると、はやしと言ふ語が沢山に出て来る事である。麁玉(アラタマ)の伎倍(キベ)のはやしに名を立てゝ、行き敢(カ)つましゞ。寝(イ)を先立(サキダ)たに 此歌は難解の歌である。「麁玉(アラタマ)の伎倍(キベ)のはやし」と言ふのは、麁玉(アラタマ)郡の伎倍(キベ)のはやし(林)と言ふのかも訣らぬ。併し、私は、麁玉郡に伎倍(キベ)があるのではなく、遠江に同名の地があるから、此を聯想したものであらうと思ふ。村境に建てる柵が「き」である。そこへ、旅に行く人と別れる時、切りはなした木を樹てゝ、其魂を留めて置く。柵辺(キベ)にはやした木を樹てるのである。此木を樹てると、魂が留まると信じて居たのであらう。其が「伎倍(キベ)のはやし」であると思ふ。「寝(イ)を先だゝに」は、そんな所ではやしの行事をして居ないで、早く村へ入つて了へ。お前を立たせて置いては、私が先へ行きかねまい、と言ふのである。上(カミ)つ毛野(ケヌ) 佐野(サヌ)のくゝたち折りはやし、吾(ワレ)は待(マ)たむゑ。今年来(コ)ずとも くゝたち(植物の名か)を折りはなして来て、何のたよりがなくとも、私は待つて居りませうと言ふのである。此はやすといふ所に、一種の霊魂を移す信仰があつたのである。松(マツ)の木(ケ)のなみたる見れば、家人(イハビト)の 我(ワレ)を見送ると、立たりしもころ なむ(なみ)は撓(シナ)えて居る事、なびくと同じで、ぐにやりとして居る事である。「もころ」は占ひの詞である。卦と言葉とぴつたり合ふ正占の事で、二つのものがぴつたり合ふ事がもころである。もころは、元は、占ひの語に相違ない。我を見送ると言ふ事も、今の見送るではない。後に残つて居て、私を護つて居ると言ふ意味である。遠くから、其人に災のない様に、気をつけて居る事が見送るである。「立たりし」は「立てりし」と同じことである。家人が此松と同様にぐにやりとして、私に災がない様に、と見守つて立つて居るのが、眼にあざやかに浮ぶと言ふ位の意である。後世東国では、家人の誰かゞ遠く旅をして居る家では、家の前に祠を建てゝ、其人の帰る迄置いた。近世の伊勢参りの如きも此形である。魂を留める為に、家の門に木を切つて立てゝ置いた。此動作がはやすである。かうして解くと、万葉集の中で、今日まで解けなかつた歌が、大分解けて来る。この様に、木の花を以て祝福したり、将来の事を占つて見たり、魂ふりをする習慣が沢山あるのである。これで、私は、四季の花を中心として、神事に関係ある花の事は、大体述べたつもりである。
 
鬼1 鬼の話

 

おにと神
「おに」と言ふ語(ことば)にも、昔から諸説があつて、今は外来語だとするのが最勢力があるが、おには正確に「鬼」でなければならないと言ふ用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うてゐる。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであつたから、此等に就て、総括的に述べたいと思ふのである。鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に入つてから、勢力が現れたのである。おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものを斥(サ)しておにと称したのであらうか。現今の神々は、初めは低い地位のものだつたのが、次第に高くなつて行つたので、朝廷から神に位を授けられたことを見ても、此は、明らかである。即、神社の神は階級の低いものであつた。土地の精霊は、土地と関係することが深くなるに連れて、位を授けられる様になつて行つたので、其以前の神と言へば即、常世神だつたのである。常世神とは--此はわたしが仮りに命(ナヅ)けた名であるが--海の彼方の常世の国から、年に一度或は数度此国に来る神である。常世神が来る時は、其前提として、祓へをする。後に、陰陽道の様式が這入つてから、祓への前提として、神が現れる様にもなつた。が、常世神は、海の彼方から来るのがほんとうで、此信仰が変化して、山から来る神、空から来る神と言ふ風に、形も変つて行つた。此処に、高天原から降りる神の観念が形づくられて来たのである。今も民間では、神は山の上から来ると考へてゐる処が多い。此等の神は、実は其性質が鬼に近づいて来てゐるのである。
祭りに出るおに
春の祭りには、一年中の農作を祝福するのが、普通であつた。其には、其年の農作の豊けさを、仮りに眼前に髣髴させようとした。かうした春の農作物祝福の祭りの系統を、はなまつりと言ふ。新・旧正月に通じて、今年の農作はかくの如くある様に、と具体的に示す。此春の祭りには、おにが出て来るのだ。おには、実に訣らぬ怪物である。出雲の杵築の春祭りにも「番内(バンナイ)」といふおにが出て来る。此は、追儺と一緒になつて了うてゐる。歩射(ホシヤ)の神事には、節分の日昏れ、或は大晦日の日昏れに、馬場などに的を造つて、射ることがある。此を鬼矢来の式と称するが、此は逆で、神の来る式におにやらひの式が混入し、村人のおにの信仰が変化して結びつき、こんな矛盾した形が出来たのであらう。社々で行はれてゐる神楽には、鬼が現れてする問答がある。鬼が言ひまかされて逃げて行く処が、神楽の大事な部分である。此考へは、追儺の式と同じであるが、これにも矛盾が沢山ある。歳神と言ふのは、毎年春の初めに、空か山の上かゝら来る神で、年の暮れに村人が歳神迎へに行く。其時には、山の中の神の宿る木を見つけて、其木に神の魂を載せて帰る。かうした意味で、門松の行事の行はれてゐる地方が、沢山ある。此時神は、門松に唯一人で載つて来るのではなくて、大勢眷属を率ゐて来るのである。かうした神を祀る処は歳棚で、歳棚の供物には、鏡餅・粢(シトギ)・握り飯等があるが、皆魂の象徴であつたのだ。其数は、平年には12、閏年には13である。此は、神の眷属は大勢あるが、一个月に一人づゝ来るものと見て、此習慣が出来たのであらう。信州下伊那郡新野(ニヒノ)では、正月13日か14日に、門松と一緒に立てかけておいたにうぎを、をがみ場所に配つて歩く。此をおにきと言ふ。其頃はちようど、歳神を送る日に当るが、其日には鬼が来ると称し、針為事を控へる。此処では歳神は鬼と似た性質を持つてゐて、やはり、眷属を連れて来る。此と同様な事は、盆にもする。盆棚は事実、歳神の棚と同じ意味でする地方がある。精霊・わき・ともと、それぞれ区別して、棚を拵へることもする。盆の変つた行事としては、生御霊の行事がある。其は、大きな家の子方に当る人々は、盆の間に其親方の家に挨拶に行く。大きな鯖(サバ)を携へて行き、親方の為におめでたごとを述べるのである。此式は室町頃から続いたことで、田舎から京へ出たのだらうと思ふ。正月に朝覲行幸をせられるのも、実は此生御霊と同様な行事である。此信仰はすべて、吾々は生御霊を持つてゐるといふ考へから出たもので、吾々の身体から生御霊は離れようようとし、或は外物に誘はれて、出よう出ようとしてゐるのを、抑へなくてはならない。子方は親方の生御霊を抑へに行くのであり、祝福しに行くのである。今に用ゐる正月の「おめでたう」といふ挨拶は、其祝福の詞の固定したものである。其にしても、何故鯖(サバ)を携へて行くのかは、訣らない。一体、神に捧げる食物と、精霊に捧げる食物とは異つてゐて、精霊に捧げるのを産飯(サバ)と言ふが、其語が鯖に考へられたのではなからうか。後期王朝には、生御霊と死御霊と二つあつた。死御霊は常に、生御霊を誘ひ出さうとする。琉球の石垣島の盆の祭りには、沢山の精霊が出て来た。即、おしまひ(爺)・あつぱあ(婆)が多くの眷属をひきつれて現れ、家々を廻つて、祝福をして歩く。此群をあんがまあと言ひ、大倭から来るものと考へてゐるが、其は海の彼方の理想郷からであらう。春の初めの清明節には、まやの神と言ふ神が現れる。此は台湾の蕃人も持つてゐる信仰である。まやは即まやの国から来る神で、簑笠で顔を裹(つつ)んで来て、やはり、家々を祝福して廻る。宮良(メイラ)村には、海岸になびんづうと言ふ洞穴があつて、黒また・赤またと称する二人の神が現れる。または蛇のことである。此神は、顔には面(メン)を被り、体は蔓で飾り、二神揃つて踊れば、村の若者も此を中心にして踊り出す。此時、若者は、若者になる洗礼を受けるのだから、成年戒の意味も含まれてゐるのである。かうした神々の来臨は、曾て、水葬せられた先祖の霊が一処に集合してゐて、其処から来るのである、と考へたものらしく、此等の神は、非常に恐れられてゐるのを見ても、古い意味を持つてゐるのである。簑笠を著けて家に入ることの出来るのは、神のみであるから、中でも、あんがまあと言ふ祖先の霊の出る祭りは、最古い意味を持つてゐるものと思はれる。其が、盆の行事と結合して、遺つてゐるのであらう。此信仰の源は一つであるが、三様に岐れてゐる。内地の例に当てゝ見れば、よく訣ることで、最初の考へは、死霊の来ることである。此死霊をはつきり伝へた村と、祝福に来る常世神の信仰を持ち続けた村とがある。内地では此観念が変つて、山或は空から来るものと考へる様になつてゐる。歳神は、祖先の霊が一个年間の農業を祝福しに来るので、此を迎へる為に歳棚を作るのであるが、今は門松ばかりを樹てるやうになつて了うた。多くの眷属を伴つて来るので、随つて供物も沢山供へる。その供物自身が神の象徴なのである。古い信仰では、餅・握り飯は魂の象徴であつた。だから、餅が白鳥になつて飛ぶ事の訣もわかるのである。白鳥はもとより、魂の象徴である。神が大勢眷属を連れて来るのは、群行の様式である。仮装の古いものに風流(フリウ)があり、仏教味が加はつて練道(レンダウ)となるが、源は皆一つで、神の行列である。初春に神の群行があるのは固有であるが、盆に来るのは、仏教と融合してゐる。徒然草に、東国では大晦日の晩に魂祭りをしたことが見える。歳神と同じであり、更に初春に来る鬼である。
土地の精霊と常世神
まきむくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かつらせよ 古今集巻20に、かういふ歌がある。柳田国男先生が古今集以前に、既に、此風はあつたらしい、と言つて居られる通り、大嘗祭には、日本中の出来るだけ多くの民族が出て来たもので、穴師山の山人も其一つなのである。即、土地の神々が、祭りに参与すると言ふ考へが、かうしたしきたりを産んだのである。彼等は、彼等の神の代表者として来り加はり、神と精霊と問答をし、結局、精霊が負けると言ふ行事をすることになつて居たのだ。此形は、あまんじやくが何でも人に反対すると言ふ事に残つてゐる。あまんじやくは即、土地の精霊で、日本紀には、天(アマ)ノ探女(サグメ)として其話があり、古事記や万葉集にも見える。やはり、何にでも邪魔を入れる、といふ名まへであらう。神々が土地を開拓しようとする時、邪魔をするのは、何時も天ノ探女である。即、土地の精霊なのである。此天ノ探女は、実に日本芸術の発足の源をなしてゐるものである。其為事は、一 ものまね→芸能(舞踊) 一 人に反対すること→狂言(おどけ) 即、日本の芸術、尠くとも演芸の発生を為すものである。狂言は、江戸に入つて初めて勢力が出た。ものまねとは、ちようど反対の立場にある。猿楽ではをかしといひ、延年舞ではもどきと称して、所謂もどき開口の儀式をする者がある。もどきが、殊に有力な働きをするのは田楽で、随つて寺院の舞踊に這入つてゐる。ひよつとこは、その最近くまで残つた形である。もどきは即「もどく」意で、反対する事を現す。日本の芸術では、歌の掛け合ひから既にもどきである。神と精霊との問答が、歌垣となつたのである。源に溯ると、あらゆる方面にもどきが現れてゐる。能楽の面に大(オホベシミ)と言ふのがあるが、(ベシミ)は「へしむ」といふ動詞から出た名詞で、口を拗り曲げてゐる様である。神が土地の精霊と問答する時、精霊は容易に口を開かない。尤、物を言はない時代を越すと、口を開くやうにもなつたが、返事をせないか、或は反対ばかりするかであつて、此二つの方面が、大(オホベシミ)の面に現れてゐるのだ。一体日本には、古くから面のあつたことを示す証拠はある。併し、外来の面が急速に発達した為、在来の面は、其影を潜めたのである。開口は、口を無理に開かせて返事をさせる事で、其を司る者は脇役である。しては神で、わきは其相手に当る。かうしたわきの為事が分化して来ると、狂言になるのだ。勿論、狂言は、能楽以前からあつたものである。大(オホベシミ)の面は、全く口を閉ぢてゐる貌であるが、此面には、尊い神の命令を聴くと言ふ外に、其命令を伝達すると言ふ、二つの意味がある。即、神であり、おにであるのだ。また一方、恐怖の方面のみを考へたのが、鬼となつた。鬼と言ふ語は、仏教の羅卒と混同して、牛頭(ゴヅ)・馬頭(メヅ)の様に想像せられてしまうた。其以前の鬼は、常世神の変態であるのだが、次弟に変化して、初春の鬼は、全く羅卒の如きものと考へられたのである。つまり、初めは神が出て来て、鬼を屈服させて行くのだが、後には、神と鬼との両方面を、鬼がつとめることになつて行つた。鬼が相手方に移つて行つたのである。田楽では、鬼と天狗とを扱うてゐる。一体、田楽は宿命的に、天狗と鬼とを結合させてゐる。此は演劇の発足を示すもので、初めはしてが鬼、わきがもどきであつた。村々の大切な儀式に鬼が参加することは、今も、処々に残つてゐる重大なことである。壱岐の島へ行くと、おにやと言ふものがあるが、此は古墳に相違ない。此処には昔、鬼が棲んだと言はれてゐる。対馬へ行くと、やぼさと言ふ場所が神聖視せられてゐる。初春には、殊に大切に取り扱はねばならぬ。此処には、祖先の最古い人が住んでゐると考へられ、非常に恐れられてゐる。昔は、海辺の洞穴に死人を葬つたが、後には其処を神の通ひ場所と考へる様になつた。沖縄の石垣(イシガキ)島の宮良(メイラ)村では、なびんづうの鬼屋(オニヤ)に13年目毎に這入つて行つて、若衆入りの儀式を挙げる。恐るべき鬼は、時には、親しい懐しい心持ちの鬼でもある。仏教で言ふ鬼では決してないのである。かうした鬼を扱ふ方法を、昔の人々はよく知つてゐた。あるじと言ふ語は、まれびと即、常世神に対する馳走を意味する。日本の宴会には後世まで、古代の神祭りの儀式のなごりが、沢山遺つてゐる。武家の間で馳走の時、おにと言ふ名の役が出た事も、かうして見て初めて意味がよく訣る。まれびとなる鬼が来た時には、出来る限りの款待をして、悦んで帰つて行つてもらふ。此場合、神或は鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。即、村々に取つては、よい神ではあるが、長く滞在されては困るからである。だから、次回に来るまで、再、戻つて来ない様にするのだ。かうした神の観念、鬼の考へが、天狗にも同様に変化して行つたのは、田楽に見える処である。  
 
鬼2 鬼のいる光景(双六) / 絵巻 「長谷雄草紙」

 

楼上の対局
対局の顛末
平安朝もその前期のころ、いまからは遥か千年も昔に遡る。ある日の夕暮れ、百の芸に精通すると の誉れ高き長谷雄卿のところに、見るからに賢そうな一人の男が忽然と現われて、双六の対局を申し入れる。絵巻「長谷雄草紙」が伝えようとしている、不思議で愉快極まりないドラマは、こうして幕を開いた。
賑やかな町 角をくぐり抜け、長谷雄とこの男の二人は、対局の場所である朱雀門の下にやってくる。絵巻は、これまで一段の詞書をもって物語の主人公を紹介し、長い絵をもって随身に囲まれた長谷雄とその邸宅、さまざまな職業の人間で生気あふれる町中をのんびりと描いた。ここにきて、ストーリーはようやく最初の山場に差し掛かる。
絵巻は一転して簡潔でコミカルな表現に切り替えた。行き届いた視線と巧妙な構図、そして緊迫したリズムをもって、この奇妙な対局とその結果をあっさりと表現した。
絵巻の二段目において、ストーリーはつぎのようなプロットをたどる。
長谷雄は、男の手助けにより、門の上に易々と登ってしまう。
二人は対局の道具を取り出す。
互いに賭け物を決め、男は美女、長谷雄は財産を賭ける。
男は、対局が不利になるにつれ、鬼という本来の顔を見せる。
長谷雄は動じずに対局を続け、勝つ。
男は賭け物の手渡しを後日と約束して、長谷雄を地面に降ろす。
つぎはこの段の詞書である。読みやすくするために、句点を付け、前記のプロットごとに改行を施した。
「この門の上へ登りぬべく」と言ふ。如何にも登りぬべくも覚えねど、男の助けにて、易く登りぬ。
即ち、半・丁と取り向かへて、「賭物には何をかし侍べき」「我負け奉りなば、君の御心に、見目も姿も、心ばへも、足らぬ所なく思さむ様 ならむ女を奉るべし。君負け給なば如何に」と言へば、「我は身に持ちと持ちたらむ宝を、さながら奉るべし」と言へば、「然るべし」とて
打ちける程に、中納言ただ勝ちに勝ちければ、男しばしこそ世の常の人の姿にてありけれ。負くるに従ひて、賽を掻き、心を砕きける程に、元の姿現はれて、恐ろしげなる鬼の貌になりにけり。
恐ろしとは思ひけれども、「さもあれ、勝ちだにしなば、彼は鼠にてこそあらめ」と念じて打ちける程に、遂に中納言勝ち果てにけり。
その時、またありつる男の貌になりて、「今は申に及ばず。さりともとこそ思ひ侍つれ。辛くも負け奉りぬる物かな。しかじかその日弁へ侍べし」と言ひて、元の如く降ろしてけり。
絵のなかの時間
この対局の様子を描いた絵をじっくりと眺めてみよう。
この段の絵は、前後二つの部分に分かれ、長谷雄と男はそれぞれ二回ずつ登場した。絵の前半は門の下に来た 二人の様子であり、男は門の上を対局の場だとして、左手を高く指差して、熱心に登るようにと長谷雄を説得する(絵一)。朱雀門は、わずかにその石壇と柱の下部を覗かせただけで、あまりにも巨大で、門の全容を画面にあらわすことはない(絵2)。絵は左へと進み、二人の対局の様子がそこにある。画面は、門の上とほぼ同じ高さの位置にある視点からこの対局を捉える。巨大な門という設定はここでも強調され、双六の盤を挟んで熱闘を繰り広げた二人の構図は、わずかに画面の左上の小さな一隅しか占めない。対局はまさに勝負の行方が分かれる中盤にさしかかるものだと見え、二人とも全神経を集中させて、一瞬の気持ちの緩みも見せない(絵3)。
絵師の描き上げた構図は、じつに巧妙なもので、このわずかな空間において、緊迫した時間の移り変わりと事態の展開を見事に表現した。男は前の画面と同じ服を着て、頭には同じ烏帽子を被りながら、顔は鬼に変容した。
鬼の目は大きく見張り、対座する長谷雄を見つめる。対する長谷雄は、視線を逸らして、目を下のほうに向ける。鬼の視線の延長にあった長谷雄のこの姿は、まずは鬼を恐れての様子を為して、これは詞書にある「恐ろしげなる鬼」との表現に対応する。しかしながら長谷雄の姿をじっくり見れば、かれは上半身をきっぱりと伸ばし、裾をきちんと整えて、手は筒をしっかりと握る。全身は少しの乱れも見せない。そしてもっとはっきりしているのは、筒の上に添えられた何本かの縦の線である。このようなあきらかに説明っぽい描きかたによって、絵師はまさに勝ちの鍵となる賽をこれから振り出す、あるいはそれをだしてから筒を持ち上げるという、物理的にも、または精神的にも力強い動きを表現した。このような目で再び長谷雄の顔を見れば、それはまったく鬼を恐れたものではなく、むしろ鬼の視線をものともしない、余裕のある表情であった。これに対して、対局の劣勢に立った鬼はむしろ逆に身を取り乱した格好になってしまい、頭は盤の向こう側まで乗り出す。そして何かの祈りのポーズだろうか、それともこの鬼ならではの一所懸命のときのしぐさなのだろうか、鬼は両手を右側に高々と上げている。
同じ一枚の絵において、長谷雄の表情からは鬼への恐怖と勝利への余裕、そして鬼の姿勢からは人間への脅威と対局への不安という、互いに両立しないものを読み取ることは、たしかに絵の鑑賞者の想像に委ねるほかはなかろう。しかしながら、この絵のなかには、このような鑑賞に仕向けるはっきりした意図的な仕掛けが隠されている。
絵をよく見ていれば、鬼の両手の中には賽が握られていることに気がつく。この描写は筒を盤に置く、あるいは持ち上げるという長谷雄の動作とは明らかに矛盾する。同じ瞬間において、賽が対局する二人の手元にあるはずがない。したがって、この一枚の絵の中には、明らかに二つの、あるいはそれ以上の時間が流れている。
絵師は、まるで現代の映画にみる「フラッシュ・バック」の手法をとっくに心得たがごとく、時間的に異なる状況を一つの画面に収め、いくつかの瞬間を注意深く切り取り、それを巧妙に一つの画面に寄せ集めてしまう。絵を鑑賞する人は、これに刺激され、無限な想像を駆らせてこの対局の図を眺めたのだろう。
絵の物語・詞書の物語
ここに絵と詞書という二つの表現形態がもつ内容の差異を考えてみる。詞書と絵とは、ともに同じストーリーのプロットを表現し、例えば長谷雄を門の上へ案内すること、鬼が賽を掻くことなど、両者は互いに丁寧に呼応している。だが、同時に詞書と絵との両方の表現を丹念に読み比べれば、それぞれが独特の内容を語っている部分があるのに気付く。
絵において朱雀門の上は、ゆったりとしたスペースをもつ空間である。しかも門の全容を覗かせない石壇、木の天辺と同じ高さにある欄干という描き方によって、ここは遥か地面から離れ、普通の生活から遮断された密室だということが強く表現されている。ここには普通の人間の力をもつだけでは登り得ず、世の中の視線が届かないところである。ここに居て、対局の二人はりっぱな双六の盤を挟んで対座する。双六の道具として、筒、賽、駒と一つひとつ丁寧に描かれただけではなく、盤の上での駒の進みぐあいも表現された。双六の対局を熟知する人にとっては、このような駒の置き方によって、激戦の様子が容易に想像され、対局の展開を振り返ったり、勝負の行方を予想したりして、この絵を楽しめることであろう。さらに、対戦する一人は、鬼の顔を見せている。この絵巻において、鑑賞者はここに男の正体が鬼だということを知り、はじめて鬼として描かれた姿を目にすることになる。ここにみる鬼の顔は、たとえば地獄絵などにくりかえし描かれたあの典型的な顔であり、だれが見てもすぐ鬼だと判断のつくものである。しかしながら、烏帽子を被る鬼、双六の盤のまえに座って賽を手に握る鬼、そして人間に負けて無念に体を乗り出す鬼、という姿などおそらくここでしか見ることができない。これらのすべては、どれも文字や言葉によっては簡単に表現しきれない、あるいは現実的に表現不可能なものばかりである。
一方では、詞書には絵によって表現していない、あるいは表現できないものも認められる。一番明らかなものは、対局する二人が交わした会話の数々である。ここに賭け物についての話しあいや、そして対局の結果が分かったうえでの、男が申し入れた新たな約束が記されている。一方では、鬼の力を借りて長谷雄が門に登ったこと、降りたことも、ともに興味ある絵になるが、残念ながらすべては表現されていない。
同じストーリーの展開について、詞書は文字をもって時間的に繰り広げられるもの、一つの過程を踏んで移り変わってゆくものを述べ、絵は一つの、あるいは複数の瞬間だけを捉え、細部の様子を丁寧に描き出すという方法でそれを表現する。文字と絵という二つの異なる表現形態は、互いに他の一方を補う形で交差し、一つの協奏を成してストーリー全体を豊かなものにした。
双六が語る
長谷雄と鬼との双六の対局は、単純なプロットのように見える。画面に描かれたアイテムの数々も、一見自明で、分かりきったものだと感じさせる。しかしながら、はたしてその通りだろうか。時代の移り変わるなか、詞書を読み、絵を眺める人々の意識には、少なからず変化が起こったはずである。ストーリーに登場し、絵に描かれたアイテムは、昔の生活において、鑑賞者にとって今日とはまったく異なる意味とイメージを訴えていたに違いない。
ここでは、焦点を対局の対象である双六に絞って、これを取り上げる。当時の鑑賞者の意識のなかでは、この双六というものは、はたしてどのような位置を占め、長谷雄と鬼との葛藤において、これはどのような役割を果したのだろうか。社会生活のなかにある双六のありかたというテーマに一歩踏み入れれば、そこには想像を越える膨大な世界があった。
双六がはっきりした意思をもって語り続けてきたものを、つぎにいくつかの角度から観察を試みたい。
双六に生きる人々
盤双六と紙双六
今日の生活にも「双六」という言葉がある。これは一つの楽しい遊戯として、お正月などの場ではいまなお一部で盛んに行われている。ところでこの絵巻に登場したのは、それとはまったく別個のものだ。紙に描かれた盤に、対局する人々はそれぞれ一個ずつの駒を持ち、賽の目ごとにこれを進ませるという現在楽しまれている双六のことを「紙双六」と呼び、対して長谷雄と鬼が対局したものを「盤双六」あるいは単に「双六」と呼んで区別されている。紙双六が現われたのは江戸時代に入ってからのことであり、一方の盤双六は、それまでに遥か長い歴史をもっていた。因みに、形も遊び方もおよそ縁のないこの二つの遊戯はどうして同じ名前をもつように至ったのかは、諸説があって、いまだ明晰な答えを見ない(増川宏一「すごろくII」)。
双六は、普通木製の盤を用いる。盤には、横に十二の升目が上下に二列並び、対局する二人はそこに白黒それぞれ十五の駒を置く。対局者は二個の賽を振るって数字(二つの目の組合せ)を出し、それに従って駒を反対側に進め、先にすべての駒を進め終えた者が勝ちとなる。賽の偶然性に加えて、駒の進め方にもきめ細かなルールがあり、それによって相手側の駒を遮ったり、自分の他の駒の進め方を有利にしたりするようにし、対局の経過は、変化の富むものだった。
熱狂的な受け入れ方
双六は、平安から中世の時代にかけて、熱狂的な支持を得て、あらゆる階層の人々に愛着された。
絵巻「鳥獣人物戯画」丙巻には、多くの人々が双六の対局を楽しむシーンを伝えている(絵4)。一つの盤を囲んで、人々は地面に直に座り、すべての注意を賽の振り方や駒の動きに集中させる。傍には壷が置かれ、中には酒でも入っているのだろう。観戦する人々は、対局する二人にも負けないぐらい真剣な顔になり、指を折って駒を計算したり、あるいは頭を掻いて対局の行方を不安げに見つめたりして、騒がしい会話まで聞こえてきそうな気がする。輪の中心にいる対局の二人はまるで対照的だ。烏帽子を被っているほうは明らかに有利な立場に立っており、相手をあざ笑うかのような顔をして、筒を手にしている。対して向かって座っている人は明らかに苦戦を強いられ、烏帽子から褌まで取られて、言葉通り身に一糸も纏わない格好になった。もともとその目で見れば、勝っている人も、片肌を脱いでいる格好だから、けっして楽勝ということではなかった。この画面を眺めて、中世に謡われたつぎのような歌謡のせりふが聞こえてくる。
正月がをじやれば玉打ふ羽つかう、かるた將棋双六。重か半もよい石おもふ人にはひかでみせばやあねはの松の一えたしほ、(「狂言歌謡」107番)
やんれ打てやうて、鼓(つづみ)太鼓(たいこ)鞨鼓(かっこ)手拍子(びやうし)に、碁雙六におん百姓(びゃくしょう)、いよ蓆(むしろ)ばたに田畑(でんばた)、よざが米(よね)を搗杵(かちぎね)、(「松の葉」第二巻「木やり」)  
熱狂は民衆だけではなく、双六は、さらに王朝の宮廷の中にも入り、公卿貴族、そしてその頂点にいる天皇や院の好物になった。平安末期の、院による伝説的な政治支配を築きあげた白河院は、つぎのような名言を残して、後世の言い沙汰になった。
賀茂河の水、雙六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの(「平家物語」「願立」、なお表現のやや異なるものは「太平記」「比叡山開闢記」にも記される)
この短い発言は、武力組織と化しつつ、政治的なコントロールが利かなくなる比叡山の僧侶という集団への非難であり、権力支配者としての地位を守ろうとする白河院一流の野心をありありと伝えている。白河院の言葉は、いきいきとして分かりやすい。河の流れと並べて双六の賽を引き出して、人生の感慨をきわめて自然に述べるところに、双六のある日々を送れる様子が目に浮かんでくる。
双六を職業とする
白河院の感慨はあくまでも比喩的な言い方なのは自明なことだ。さきに簡単に述べた双六の概要が示しているように、双六の対局は、賽の目さえ良ければ勝つという結果になるとは限らない。与えられている目をいかに計算深く応用し、相手の予想がつかない結果を引き出すかには、双六をうつ人の本領が問われる。しかしながら、もっと上等な技を身につけていれば、賽の目さえ意のままに出せる。双六は、奥が深い。
このように双六が、一つの遊戯として人々を惹き付け、夢中にさせてしまうということは、今日のわれわれにもおよその想像がつく。だが、現代の人々には理解に苦しむことはあった。平安から中世にかけては、双六のプロ、すなわちこれをプレーすることを職業とする人間が存在していたのである。
後白河院の撰だと伝えられ、平安後期の今様とその周辺の歌謡を集成した「梁塵秘抄」という作品がある。これの巻二に、ある老女の口を借りて、彼女の二人の子供の生き様を唄いあげている。老女の娘は、母の職業を受け継いで巫女となり、一方の男の子は、早く「宇佐大宮司」に奉仕する早船の舟子として日を暮らし、やがて変身する。
我が子は二十に成りぬらん、博打してこそ歩くなれ、国々の博党(ばくたう)にさすがに子なれば憎か無し、負かいたまふな王子の住吉西の宮、
この老女の息子と同じように諸国を転々と歩きまわり、博打・双六をもって生業とする人々の姿は、絵資料に確認することができる。その好例は、多くの伝写本をもつ「職人歌合」である。なかの一例を「東北院職人歌合五番本、色紙形貼交屏風」にみる絵を紹介する(絵5)。博打を職業とする男の前には、大きく描かれた双六の盤や駒、そして筒が置かれ、男自身は、ほとんど裸の格好で描かれている。博打を職業とする男も、けっきょくのところは、やはり失意と惨敗が繰り返す日常だったのだろうか。興味深いことに、「職人歌合」の成立の時期が早いとされる五番歌合においては、博打は巫女と番をし、つぎの時期に成立したとされる十二番歌合には、博打は舟人と番するようになる。両方どちらも「梁塵秘抄」に虚構された老女の子供たちの生きた空間と不思議にも共通している。
双六を職業とする人間の存在とかれらの活躍は、やがて新たなヒーローの伝説を作り出す。そこには、同じような人々の間でしか通用しない言葉があり、生活の理念があり、生きる文化があった。双六の世界はさらに広がる。
傅治という人物
ここにもう一人の双六を職業とする男のスケッチがある。かれの名は傅治と言う。もちろん虚構された人物である。「新猿楽記」(10-11世紀に成立)には、「太夫君の夫」として、この博打・双六の名人の技、そしてその人柄を鮮やかに活写した。原文は漢文で、ここでは川口久雄氏の現代語訳より引用する。
また太夫の君の夫は、名高いばくち打ちである。賽を振り出す竹筒のあやつりぐあいは傍輩たちに抜きんでていて、賽の目を意のままに出すことができる。双六を打つ時には、十分にことばを尽して呪文を唱え、人の意表をつく双六の打ちかたは、なみなみでない。たとえば、五四の尚利目、四三の小切目、錐徹、一六難の呉流し、叩子、平賽、要筒、金頭、定筒、入破、秉居、摘垂、品態、賽論といった打ちかたで、これらは有名な宴丸道弘よりも、いちだんと まさっている。すなわち、この太君の夫は、四三一六の名人の豊藤太、五四衝四の名人の竹藤拯の子孫であり、字は尾藤太、名は傅治である。彼の目は細く、鼻は平らでペちゃんこ、まるで桃やすももの核のようで醜い。しかも彼には、一に、心のおうへいさ、二に、金銭をたくさん所持していること、三に、賭けぐあいのうまさ、四に、思い入れを強くし気性を丈夫にすること、五に、あまりに負けたときは無理を言って力のあるのを誇示すること、六に、口論して言いまくり相手から奪い取ること、七に、人の目をくらましぬくこと、八に、負けたときは相手を殺してもかまわないと思う。こういった強引な気性が備わっていて、ばくち打ちとしての資質に欠ける所がない。(東洋文庫「新猿楽記」)  
この文章には、いくら言葉を平明な現代語に書きなおしてみても、今日の読者には意味が解しがたい表現がある。その一番の理由はこれによって伝えようとする内容それ自身にある。双六の打ち方として挙げられている「五四の尚利目」以下「品態」「賽論」にかけての用語は、当時の文献からさらに何例でも用例を見つけ出すことが可能であろうが、それが実際に語ろうとする中味に近づくことはなんとも難かしい。このような表現は、同じ生活体験を持たない人間の接近を拒んでいるように見える。
双六男の気質
しかしながら、双六男傅治の性格を伝えた最後の段落は、世間の目からの視線を捉えたものだったからだろうか、博打打ちの人間像を伝える名文句としてかなりの生命力をもった。この段落の原文はかなり簡潔なものだった。
一心、二物、三手四勢、五力六論、七盗八害。
これと同文あるいはかなり近似した記述は、「伊呂波字類抄」「口遊」などに見られる。いうまでもなく、さきの川口氏訳は、翻訳者個人の想像によって言葉を補ったものではなく、同じ記述については、歴史の中で長くこのような理解が続けられてきた。近世に入ってからの一例を挙げる。
さればばくちをうつには、一心、二物、三上、四性、五力、六論、七盗、八害とて、八つの物そろはねばかたぬと云。まづ一心とは、負けても大事なしと、こころをおほへいにもつ事。二物とは、銭金をたくさんにもちて、一番めに金子一両まけたらば二番めには二両たててうつ、二十両まけたらば、四十両たててうつ、かくのごとくすれば、一度は何としてもかつ事あるゆへに、つゐにはかちと成。三上とは、上手がよし、へたなればかつ事なし。四性とは、おもひ入のつよきがよし、思ひ入がよはければ見おとしもあり、又ねぶたくもなりて、ぬすまるるをもしらず。五カとは、あまりにまけたる時には、むりひがごとを云かけて、うばいあふ時もあり、力よはくてかなふまじ、六論とは、口をきき口論をして云まくり、むかふのものに気をせかせてはきほひをとる、七盗とは、人の目をくらまし、ぬすみをせねばかたれぬぞ。八害とは、右の一心、二物、三上、四性、五力、六論、七盗の七つを以もまけたる時は、そのあひてをきりころして、とるより外の事なし。(「可笑記」寛永13年〈1636〉刊)
すべての手を尽しても勝てなければ、最後は相手の財産を盗み、はては殺してしまう。これを一人の人間の生き方としてならさておくとして、双六を職業とするすべての人間がもつべき性格だと信じられていたことは、今日のわれわれには到底理解が出来ない。
双六男傅治という男の武勇伝はついに聞くことはない。しかしながら、喧伝されたかれの人格をそっくりそのまま実践した一人の男のことが知られている。かれは双六を打つ武者であった。ある対局のおり、口争いからついに武力行使とエスカレートし、そして刀を抜き、殺すと脅かして相手の髻を切り落とす。そこで主人が殺されたとばかり思い込んだ下女たちは、奮起して力を合わせ、武者を倒してかれを殺してしまう。相手を殺せず逆に女性たちに殺されてしまったこの双六の名人は、長く笑い沙汰になってしまった(「今昔物語」巻26「鎮西人、打双六擬殺敵被打殺下女等語」)。
社会的な期待を問い求める
双六は特殊な知識や人間離れな技を必要とし、したがってこれをこなした人々はやがて一つの芸能としてこれを伝承する。双六をめぐって特殊な言語と文化が生成し、それはやがて歴史の伝統を新たにし、時代の文化をさらに豊かなものにする。双六に生きる人々は勝負に明け暮れ、やがて社会全体の規範を受けず、これを突き破ろうとする。これらすべては、双六の職人という一つの人間グループが誕生する基盤を作る。そして、そのような人間が実際に現れると、かれらはこのような独特な文化の担い手、創造者となって活躍し、やがてさらなる伝説を作り上げる。
しかしながら、双六を打つことを職業とする一群の人間が存在していたこと自体は、やはり今日のわれわれの常識を超えてしまう。多数の資料を見てきても、つぎのような素朴な疑問はなおたださざるをえない。一体どうしてこのような「非生産的」な遊戯を職業とすることが可能だったろうか。身を纏う服まで失った博打男に、はたして人々はなにを期待していたのだろうか。
このような質問への答えに、いまだ簡単に辿りつくことはできない。疑問を抱きつつ、つぎのテーマに移りたい。
ハイカラな賭博
賽の目
双六対局の具体的な内容はあまりにも知られていない。
さきに双六対局の規則をごく簡単に触れた。実際のところ、双六の対局の規則は、いまこのようなごく漠然としたことしか分かっていない。双六の盤や駒、筒といった道具は、実物として確かに残っている。しかしながら、対局そのものは、その時その場における一度だけのもので、終わってみれば跡形も残らない。それはまた膨大な回数を重ねた。地域的、時期的、そして人間の集まりによっては、その時その場にしか通用しないルールが用いられたことも簡単に想像できる。かりにこれらのことを排除して、いわば典型的な対局のルールを再現することさえ、今日になっては至難の業だ。
これに関連して、興味深い研究が行われている。いまここで読んでいる長谷雄と鬼との対局は、途中まで進んだところが絵に描かれて、そして盤や駒の描き方がかなり丁寧だったため、中世初頭までに行われていた対局の実際を推測するのに格好の資料と目されてきた。そこで、増川宏一氏は、これを用いて対局のなかでの駒の動かしかたを実際に推論してみた。しかしながら長谷雄と鬼との両方はどちらが白の駒を取ったかということから確証が得られず、男の体や欄干に隠された盤の隅に置かれた駒の内容を推定するにはさらに四通りの可能性を並べざるをえなかった。そこからの展開は想像の積み重ねになる(「すごろくT」第5章)。同じことを課題として、現在なお行われているバックギャモンのルールを元にして双六の対局を再現することも試みられている(草場純「双六の局面考」「遊戯史研究」6)。このような丁寧な研究により、対局復元の難しさをいっそう思い知らされたのである。
ここではあえて対局の詳細に拘らない立場をとる。そこで、改めて関連の資料を読むと、対局の全容の具体的な解明には繋がらないが、対局の展開を大きく左右する賽の出し方、その結果については、多くの独特な表現が残されていることに気が付く。同時代の辞書や類書、それから対局のエピソードを伝えた記録には、たとえば「重一」「重二」「朱三」「朱四」といったような用語は頻繁に登場する。双六は二つの賽を用いたので、これらの用語は二つの賽が同じ目を出すのを指すことは、およその想像がつく。そして、このような用語が残されていることから、双六には、二つの賽によって出した数字の加算以外に、目の組合せにはなんらかの意味があり、たとえば一と五という二つの目を出すよりは、二つの三を出したほうがなにか規則上の特権が与えられたことも、推測することができる。
これと同時に、ここに登場した表現はもう一つのことを暗示した。「重一」「朱三」といったような言葉は、日本語として自然な造語とは考えにくい。そしてその読み方も特殊なのだ。「重五」は「でく」(「下学集」)あるいは「でっく」(「平治物語」)と読み、「五四」は「ぐし」と読む(「書言字考節用集」)。明らかに当時の日本語の読み方の規則に合致せず、中国語の発音をそのまま真似たものだと思われる。
双六は海を渡ってくる
双六は、日本在来の遊戯ではなく、古く中国から伝来したものである。双六を楽しむような記録あるいは伝説は、かなり古いものに遡る。双六をもって昔の王朝盛事を語り伝えることも多くあった。たとえば、聖武天皇が曲水の宴を催して、詩作のできない賓客にはわざわざ双六の道具や賭けるための銭を与えて遊ばせたといった、いかにも寛大な君主を称える雅やかな伝説が知られている(「■嚢抄」巻第1)。しかしながら、双六を記録するものは、たいてい決まってそれが天竺、そして中国から渡来したことをまず記す。一例としてつぎのような記録が見られる。
夫双六の基は。遠西天の古より。近く東土の今に至。伝て絶ざる玩。様々の品を顕はす。穆王も是を興じつつ。井公とたはぶれ給ひき。されば孟嘗君は。はかりて咎を酬理。犯を辜喩とす。(「宴曲抄」上「双六」)  
双六はただの遊びではないことを、この記述は力説する。それは海の向こうから渡来した由緒ある遊戯であり、あの聖主という誉れ高い穆王でさえ、かれの夫人である井公と双六の遊びに明け暮れて、あまりの夢中さゆえに、忠臣の孟嘗君に諌められたぐらいだった。ここに、穆王という名前は、双六に娯楽以上の意味合いを与えた。
楊貴妃の物語
再び双六の用語に戻る。
さきにあげた中国語読みを用いた用語は、そのまま双六を楽しむ人々の会話や記録に用いられただけではなかった。用語自体は伝説となり、中国の宮廷生活などを伝えるものとして、その由来と中味が詮索された。つぎの説話を読んでみよう。
昔は重三、重四と申候けるを、唐の玄宗皇帝と楊貴妃と双六をあそばされ候けるに、皇帝重三の目が御用にて、朕が思ひの如くに下たらば、五位になすべしとて、あそばされけるに、重三の目をり候き。楊貴妃の重四の御用にて、我思のごとくをりたらば、共に五位になすべしとて、あそばされければ、重四の目をり候き。共に五位になせとてなされ候む。五位のしるしには何をかすべき、五位は赤衣をきればとて、重三重四のめに朱をさされてより以来、朱三朱四とこそ呼候へ。(「平治物語」「叡山物語の事」より)
これは、信西がいかに豊かな知識の持ち主だったかを伝えるために、かれの口を借りて述べさせたものである。話の主人公はあの「長恨歌」に詠まれた唐の玄宗皇帝と楊貴妃である。宮廷の奥で行われたささやかな出来事として、双六の対局が伝えられた。対局が大事な局面を迎えて、玄宗皇帝はともに三の目の賽、そして楊貴妃はともに四の目の賽を必要とした。二人の思いはそれぞれ適えられ、やがて約束した通りに、賽に五位という官位を与えた。五位の標識とは赤い服だったので、「朱三」「朱四」の呼び方ができた。いかにも中国王朝の爛熟した文化と、どことなく退廃した宮廷生活の雰囲気を思わせる逸話である。
以上の説話は、ここに引用している「平治物語」だけではなく、さらに多数の文献に収録されている。なかでも、中世の辞書である「下学集」(1444年成立)となると、「和漢共に此の故事あり」として、日本の一条院にも同じ出来事があったとした。もともと「下学集」は、「朱三」「朱四」という用語を、一回に投げた二つの賽は、三と四の二つの目を出したものだとした(「下学集」下「器具」)。他の記録などに照らし合わせて、この解釈は明らかに正確だとは言えない。「下学集」という辞書の記述の性格を改めて吟味しなければならない。それと同時に、双六の知識への関心の度合いを表わす特殊な事例としても興味深い。知識人を含めて、双六に熱中する人間たちの外に立った人々は、遊戯の詳細については、全体的にはかなり限られた関心しか示さなかったと言えよう。
物語の出自と変容
「朱三」「朱四」といった用語を伝えた楊貴妃にまつわる説話は、たしかに中国において成作され、海を渉って日本にもたらされたらしい。さいわいこの説話を記す作品がいまだに存在している。それは、宋の楽史という人が書いたと伝えられる「楊太真外伝」という書物である。この本の下巻に、さきの「平治物語」に見られた説話とほぼ同じ内容が記された。内容上の目立った違いといえば、ここには「朱四」だけで、三の賽のことには触れていなかったこと、「五位」と特に述べないで、「緋の衣」を賜ったと記すに止まったこと、ぐらいである。
注目したいのは、「楊太真外伝」が伝えた双六のストーリーは、楊貴妃にまつわる多数の逸話の一つとして取り扱われた。この説話の直前に記されたのは、同じく「長恨歌」において詠まれた、早馬をもって楊貴妃が好む■枝を運ばせたという話だった。楽史の描いた世界において、過ぎた時代の、伝説的な存在となる楊貴妃の逸話は、そのまま宮廷生活の華麗優雅な日常を伝えるという側面を持ちながら、好色な暮らしに溺れる皇帝と、成りあがりの美女、そしてかれらの節度を失った生活への凝視であり、世の無常を嘆くものだった。皇帝の一時的な喜びのために、賽に人間でさえ簡単に期待できないような官禄があたえられるものだと、この説話は明らかに非難のメッセージを含めていた。
いうまでもなく双六の故実となった楊貴妃の説話には、以上のような意味合いがすでに消えうせた。代わりに強く感じさせるのは、用語の中国語の発音だけでは感知しにくくなりがちなこの舶来の遊戯がもつ外来文化の色合いを強調しようとする知的な意図である。このような思いにより、双六に接する人々ははるか海の向こうの文化伝統に思いを馳せ、中国の宮廷の煌びやかで雅やかな生活を、まるで模擬的に体験するかのような快感を思い出すものであった。
「内人双六図」
ここに、古代中国の宮廷において双六が楽しまれた様子を伝える一巻の貴重な巻物がある。唐の周の作だとされるもので、「内人双六図」というタイトルをもつ(宋の時代の模本、フリーア美術館蔵)。長い画面には、一人の男性と七人の女性が描かれ、そのほぼ真ん中の位置に、双六の対局に夢中になる二人の貴婦人が向かいあって座っている(絵6)。一人は駒を動かし、もう一人はそれを待ちかねるかのように、賽を高く持ち上げている。絵は繊細な線と丁寧な色をもって、女性たちのふくよかな体と優雅な姿勢を的確に伝えている。
絵巻を見慣れてきた目には、この絵に描かれたすべては、まったく新鮮なものばかりである。絵にみる人物の容姿、服装の模様、調度の形から構図の配慮、色彩の選択にいたるまで、そのどれをとりあげてみても、異質な文化の表現である。ここにあるのはたしかに双六の対局なのだ。でも、ここに流れている時間も、交差した視線も、これまで見てきたものとまったく異なるものに見えてならない。
この絵は、昔日本に伝来されることはなかったと思われる。だが、中国語の呼び方を持って賽の目を言い、由緒ある双六の故事を熱心に言い伝える平安・中世の人々が想像した世界を理解するには、ここに展開されているビジュアルな描写は大いに示唆に富む。かつて双六に投げられた視線には、現在われわれがこの絵を眺めるのに似たようなものがあったろう。双六に夢中になる人々は、あらゆる伝説や知識の力をもって、この絵に描かれたような時間と空間を具現し、異なる文化のなかに育まれた遊戯を自分の手に入れたかのような精神的な喜びと刺激をつねに感じていたに違いない。
海のむこうにある国の歴史や文化への憧憬は、双六という遊戯にハイカラなイメージを持たせ、一種の文化的な価値を与えたと考えたい。
禁止の対象としての歴史
双六は禁止された
異文化の華麗なる輝きをまるで模擬体験させてくれるかのようなイメージは双六の表だとすれば、これに伴う鎮圧と刑罰などの暗黒な一面はその裏だった。これを語らなければ、双六を十分に捉えたとは言えない。
双六はかなり古い記録に遡る。非常に不名誉なことに、双六は禁止の対象として歴史に登場し、その記録の第1ページを残した。
持統3年12月丙辰、禁断双六。
これは、「日本書紀」巻30に記された一行である。持統天皇が即位したのは、7世紀の後期のこと(687年)で、白鳳時代の女帝として、持統天皇が成し遂げた最大の政治的な貢献は、いわゆる律令制度の完成であり、大宝律令の施行(701年)は、その存命中のことであった。ただし、この持統年間に行われた双六禁制については、この日付と「双六を禁断す」という短い文言以外、あとは一切記されていない。この政令が出されるまでの経緯、禁制の理由、実施の規模、その方法など、いまはすべて想像によって補うほかはない。
双六が禁制されるはめになったのは、なによりもその賭博という性格が一番の理由だったろう。短い対局に人々は各自のもつ財産を賭け、そしてその勝負により財産の持ち主が入れ替わる。いうまでもなく普通の社会の秩序に反し、さまざまな争いの引き金になった。「日本書紀」からは数百年も経ってからの歴史を伝えるものには、現代の学者がまとめた「平安遺文」がある。ここに集められた書状や手紙文などには、双六の対局により財産の所有者が変り、よって争論の沙汰となる事件がいくつも伝えられている。財産の内容は馬だったり(376、長徳4)、土地だったり(3835、承治2、4819、仁安2)する。このような形で伝わった記録以外にも、なお膨大な数に及ぶものが歴史の裏に取り残されたことは、容易に想像がつく。
「平安遺文」は、双六にまつわる人々の生態、言い換えれば、土地財産の争いに至るまでの、賭博の場のありかたとそこに出没する人間の姿を伝えている。記録には、例えばつぎのような記述が繰り返し現われる。
京中奸 濫之輩、招類結党、好事双六、似無前誡、(「左京保刀禰請文○九条家本延喜式巻39裏文書」)
ここに見えてくるのは、まともな生業をもつわけではなく、ただ無暗に双六の勝負に明け暮れる人々のことである。しかもかれらは少人数ではなく、同類となる人々が群を成して公然と打ち込むのであり、繰り返し公示される禁制をものともしなかった。正常な秩序にとっては、まさに取り締まるべき存在なのである。
懲罰と賞与
双六の禁制は、起こった争論や事件のための単なる解決ではなく、これに熱中する輩と、かれらを取り締まる官吏との二者の間だけの力比べにも止まらなかった。禁制の狙いは、普通の人々の注意を喚起することにあり、一人でも多くの人に双六賭博がもつ罪意識に目覚めさせることは、禁制のよって立つ意図だったはずである。ここに一般の民衆をいかにして双六撲滅というキャンペーンに巻き込むかは、たいへん興味深い課題である。
養老律令(757年から施行)が取った双六をする者への懲罰は、あくまでもその財産を取り上げることである。しかしながら、今日の目から眺めて、特異なことに、双六の現場を取り押さえ、そこで徴収した賭け物の財産は、現場発見を手伝った第三者の所有となったのだ。同律令の公的な解釈書である「令義解・捕亡令」には、つぎのような記述が記されている。
凡そ博戯に賭れらむ財、席に在りて有らむ所の物、及び句合、出九して物を得て、人の為に糺し告されたらば、其の物は悉くに糺さむ人に賞へ。即ち物輸けたる人、及び出九、句合容止せる主人の、能く自首せらば、亦賞ふ例に依れ。官司捉へ獲たらば、減半して賞へ。餘は没官せよ。唯し賭して財得たらむ者は、自首せば、賞ふ限に在らず。其の物は悉くに没官せよ。(日本思想大系「律令」)
「博戯」の内容については、原文には特別に「双六樗蒲之属」という記述があり、当時では賭博と言えば双六がその代表的なものだったと知る。賭博の場にいる人間や仕来りについては、「句合」と「出九」との表現も目につく。「句合」とは、人々を対局させること、すなわち賭場を設けて利益を上げようとする人間のことで、今日の表現では「胴元」あるいは「胴親」にあたり、「出九」とは利益を得る行為で、賭博をさせて手数料を取るといったものである。賭けられた財産の九分の一を取るというのが、かつての相場だったろうか。
律令が定めた双六禁制に協力した者たちへの奨励の方法は、じつに大らかで分かりやすい。賭博の証拠が押さえられた場合、犯罪者逮捕に手伝った協力者の関わり方を三通りの状況に想定する。一つは協力者は自分で賭博の人間を搦め、それを官府に連れて行くこと、一つはただの通告者であり、官府の力で賭博者を押さえること、そしてもう一つは通告者は賭博当事者であり、自分の財産を無くしたとの理由でこれを告発することである。奨励の方法は明快だった。押さえた財産は全額あるいは半額をそれぞれ一番目か二番目の状況の通告者に渡し、三番目の場合は、その全額を政府のものとして没収してしまう。
残念ながら、このような法律の実際の実施状況について、今日ほとんど知られていない。このような規定は、どこまで普通の民衆の知ることとして浸透されたのだろうか。どれだけの人間が、これを一財産を儲ける機会だとして、双六賭博撲滅のために躍起になったのだろうか。長い歴史のベールの彼方に消え去った人間の活劇には、ただ想像を逞しくするばかりである。
身体の刑罰
双六禁制の法令は、奈良王朝から下って武士の治世の時代まで、繰り返し発令され、それらの記録を拾い集めれば、長大なリストになってしまう。そして禁制の手段としての懲罰は時とともにエスカレートし、それはただ単なる賭けられた財産の没収に止まらず、懲罰の対象として、その場においてなにかが賭けられていたかどうかも大事な判断基準にはならなくなった。懲罰はやがて人身への刑罰になり、双六をめぐって血なまぐささまで感じさせる歴史の一頁が残された。
もともと律令のシステムにおいて、身体の刑罰をもって双六をする人間を戒めるような規定があったと思われる。日本の律令の手本となる中国・唐の律令には、「杖一百」を叩くことをもって、双六をする人に処すると定められている(「雑律」)。ただしこの部分にあたる日本の律の条目は現在伝存していないため、この規定の存在を確かめることができない。律令の時代からは数百年も過ぎた、下って14世紀の初頭、鎌倉にある武士の幕府は国の政権を握り、新たな政治的、社会的な秩序を作り上げることになる。その中において、双六への禁制は相変わらず受け継がれ、その処罰の方法もいつとなく厳しいものだった。つぎのような記録が残されている。
博奕の事侍におきては、斟酌あるべきか。凡下の者に至りては、一二箇度の者は、指切らるるべし。二三箇度に及ぶ者は、伊豆大嶋に遣らるるべき也。(「鎌倉幕府法」追加法、乾元2年〈1303〉)
興味深いことに、処罰の内容は、犯罪者の社会的な地位によって差が付けられた。「侍」のものは特別に考慮が受けられるが、普通の人間になると、厳しい刑罰が待っている。そして身体に傷害を与えることよりさらに厳しい処罰として流刑があった。
以上のような幕府の法令が発令されるまでには、このような身体への処罰はすでにかなりの間実際に行われていたと思われる。時間はさらに半世紀以上もまえに遡り、鎌倉幕府も初期のころ、京都にいる藤原定家は、かれの日記のなかに、つぎのような出来事の経緯を記した。
近日、前宰相中将信盛卿の家の門並に築垣の辺り、京中の博奕狂者群を成し、座を儲けて双六の芸を施す。家の内より制すと雖も、敢へて承引せず、家主此の由を河東に触る。武士を遣はし、悉く搦め取る。一人を洩らさず。其の鼻を削り、二の指を斬る。隆親卿の小舎人冠者其の中に在り。惣じて一人を免さずと云々。此の事に於ては若しくは禁ぜらるるか。(「訓読明月記」嘉禄2年〈1226〉)
日記の作者である定家は、あくまでも平安的な視線をもって世の中を眺めていたからだろうか、かれの筆によって記された双六に熱中する輩は、まさにさきの「平安遺文」において伝えられてきたものと同じ風体をもつ。かれらは群を成し、そして世の中の決まりをものともせず、そこにある家の主人の戒めに耳を貸そうともしなかった。ここには世の秩序を維持することを役目とする武士の登場があった。賭博に現を抜かす者どもを一人残らず捕まえ、そして鼻を削り、指を切ってしまう。定家の知り合いに仕える雑用の少年も捕まえられる人間のなかの一人に数えられ、その難を逃れることができなかった。処罰の内容について、原文は「二指」とある。果たして第二の指、または駒を動かす二本の指なのだろうか。
処刑の様子を想像する
今日になっては、鼻や指を切り落とす刑罰の様子は、すでに知る術もない。わずかに参考になるのには、絵巻に描かれた後3年の役の戦場に起こった残酷な一つのシーンがある。敵方の城を落とした源義家が兵士に命じて、かれを罵った千任ちとうの舌を切る(絵7)。思えば一群をなす双六の輩を処罰するのは、ここの状況よりはいくぶん「平和」なものだったろうか。それにしても、そこから伝わってくる悲鳴叫喚を思い描いて、双六のイメージには、いまひとつまったく異なるものが加えられたことを感じる。
さきに述べてきたように、鎌倉幕府の法令では、双六をする人間への処罰の有無は、その人が占める社会的な地位如何によって定められていた。双六とそれへの処罰を考えるうえで、このことはいかにも象徴的な意味をもつ。ここには、近代とはまったく異なる法の原理が働いている。残酷な刑罰をもって断罪しようとしているのは、同じ行為をする人間の一部に過ぎない。言い換えれば、ここで罪とされたのは、双六という遊戯がもついくつかの側面の一つだった。処罰は社会の秩序を維持するという努力の延長線にあり、双六の反社会性への裁断であった。
双六は、精神的な想像を刺激し、優雅な生活を表現するものであると同時に、社会の秩序に対抗する人々を集めさせる賭博の道具でもあった。時と場の違いにより、そのどちらか一方への人々の感じ方の偏りや寛容も、時代と社会の共通した認識の一つだったと言えよう。
双六に賭ける
二枚の絵
双六は、勝負のある遊戯だ。勝負を争うまでのプロセスは、双六の世界のなかに親身になって入り込まないと分かりきれない。しかしながら、勝負の結果なら、これを実際に体験しないものでも、目に見えてしまう。そして、そのような勝負をさらに決定的な形にしたのは、勝負に財産を賭けることであり、一席の対局により、他人のものの獲得か自分のものの喪失という結果である。双六にまつわる数々の伝説のなかには、このようなことが特別に喧伝され、強調されてきた。
ここには、非常に対照的な内容をもつ二枚の絵がある。双六に夢中になる人間の、とことんまで貧乏な姿と、このうえなく豊かな生活ぶりがそこに描かれている。
一枚目は、「職人歌合」に収められた博打打ちの絵である(絵8)。絵師の絶妙な筆遣いにより、落ちぶれた双六男の姿が生き生きと目のまえに踊りだしている。中年の盛りも過ぎたかれは、かつて数々の名対局をもっていたのだろう。しかしながら、いまとなればそれらはすべて過ぎさったものであり、かれに残されたのは賭博の道具一式と折烏帽子一丁のみである。褌まで失ったこの男には、これでも「職人」と呼ばれる資格があるのだろうか。気の毒な気分を通り越して、ただ滑稽で笑いを誘うような格好なのだ。この絵を眺めて、自ずから長谷雄の師である菅原道真が詠んだつぎの句が聞こえてくる。
身を裸にして博奕する者、道路南助と呼べり。(「菅家後集」「慰少男少女」)
詩人は「南助」という言葉に注釈を付けて、「南大納言の子、内蔵助、博徒なり。今なほし号けて南助といへり」との解説を残している。「職人歌合」の絵師は、平均的な職人としての博打の姿よりも、人々に熟知された「南大納言の子」のような人間のイメージを用いてこれを描いたのか、それとも「職人」という人間は、けっきょくのところ、このような博打男が担当したのだろうか。
これに対して、二枚目の絵は、「石山寺縁起」に描かれた双六の対局である(絵9)。これは裕福な家庭において展開された長閑な状況で、対局する人々も、これを招待して、楽しませるべく振舞う主人も、溢れる富を身にもっている。対局のすぐそばには、盛大な宴会が終わることなくひき続き、建物の外には、貢うものを運びこむ人間が列を成している。ただし一つだけ明らかなのは、ここの人々の富は双六の対局によって築きあげたものではないことだった。双六とは、ここの場においてむしろその富の存在を象徴する光景だった。
双六の対局により、勝つ人もいれば、負ける人もいた。それらの事跡はやがて語り継がれ、記録に残される。対局の勝負により、じつに多様多彩な人間のドラマが出来上がっていた。
双六に負ける人、勝つ人
対局の勝負によってもたらされた多くの実話や伝説のなかから、興味深いものを二話紹介しよう。
勝負の伝説のなかでは、負けてすべてを失ったものが圧倒的に多い。その場合、勝負に賭けるものはさまざまで、金銭、土地、家屋、そして妻や子供に及ぶ。さらにこれらのものをなに一つ持っていない人の話もまた語り継がれている。かれらは、現代の人々には思いもよらないものを賭けにしてしまう。
その昔、京都には若い侍がいた。この男は、人の真似をして、流行の清水の千度詣でを二回もやりのけた。そこで、ひょんなことに双六にのめりこみ、あっけなく大きな負けを喫してしまう。差し出すものはいっさいなかったので、この男は、「只今、貯ヘタル物トテハ、清水ノ二千度詣タル事ナム有ルヲ、其レヲ渡タサム」といって、その千度詣でという、目に見えないものを差し上げるという奇想天外の申し出をする。これを冷かす周りの声をものともしないで、対局の相手はあっさりと受け入れてしまう。そしてその利益というものはものの見事に現れる。さほど日にちが経たないうちに、二千度詣でを手放した男は牢獄に身を繋げられるはめとなり、これを手にした者は、みるみるうちに妻を迎え、富を掴み、そして思わぬ官位にまで恵まれる。なんという明らかな果報なのだろうか。(「今昔物語」巻16「清水二千度詣男、打入双六語」)
清水詣でに勤しんだ男は、あくまでも信心からではなく、自分のつれづれを慰めるがために修行を重ねたに過ぎない。そのため、これを勝負ごとに賭け、手放してしまうと、男はやがて神仏の加護から見離される運命にあう。あわれな男が失ったのは、目には見えないけれど、金銭や財産よりも遥かに価値あるものだった。平安の民衆の倫理と常識はここにありありと語られている。
負ける人には、負けた悔しさがあれば、勝つ人には勝ったがためのドラマがある。お金を勝ち得たとしても、ただの一財産を作ったというのなら、取り立てて語り伝えるだけの価値もない。語り種になり得たのは、どれも普通では思いつかない生き様だった。
これは同じく京都に住むある年老いた侍の話である。まわりの人々が博打に打ち込むことを目にして、貧乏でなに一つ持っていない自分を嘆いたら、かれの妻は思いのほか理解を示してくれた。並大抵ではないこの女性は、さっそく献身的な働きぶりを見せる。彼女は身に着る一枚だけの衣を差し出して、銭五百を借りてきて侍に渡す。わずかな金を手にした男は、ここでは悠長な双六ではなく、即決型の賭博「七半」に挑む。賽の目もろくに分からないまま、手にした銭をすべて賭けたら、一発で倍の一貫を勝ってしまう。さらに続ければ、金は二貫になった。したたかな侍は妻に返す五百文だけをしっかりと懐に入れて、はじめて思う存分に打ち込んだ。その結果はびっくりするものだった。
又をし出したるに、かきおほせて、三貫に成にけり。そのゝちは、或は一貫二貫、よき程よき程にをしいだすに、おほやうはかきおほせて、卅餘貫になりにけり。
あっという間に、かれは元手の60倍以上もの大金を手に入れたのである。ここでかれはあっさりと止めてしまう。そして思わぬ金を勝ち得た老侍がつぎに取る行動はまさにあっぱれだった。かれは妻に十貫の銭を返し、残りのものを食事を賄う手段として、出家してしまう。男の行動は多くの信心深い人々の尊敬を得て、喜捨まで集まる。男はまもなく「端座合掌」して、大往生を迎える。(「古今著聞集」巻12「花山院右大臣忠經の侍其妻の懇志に依り七半に勝ちて後出家の事」)
絶世な好運に見舞われたこの老侍の生き方も、けっきょく信心という一言に尽きる。かれは、不思議に流れ込んだ財産を世俗的な使い方に注ぎ込むのではなく、代わりに自分の心のなかにずっと抱いていた夢を形にした。男の無上の喜びから、人々はまったく別様な世界を覗いたような気分になり、それに精神的な満悦を感じつつ、長くこの伝説を語り続けたのだろう。
美女を賭ける
長谷雄と鬼との対局では、一方はすべての財産、他方は一人の美女を賭けた。美女が双六の勝負に載せられ、話はまったく予断できない展開となった。双六の賭け物としての美女は、たしかに突拍子もない話である。だが、歴史伝説のなかに目を向ければ、おなじく双六の対局に美女を賭け物に登場させる伝説もまた存在していたのである。
伝説的な対局を残したと伝えられる主人公は、さらに地位の貴いもので、光仁天皇とその皇后の井上内親王だった。宮廷の奥にとり行われたこの一幕のドラマは、状況の設定はむしろまえに読んだ楊貴妃の話を思い出させる。ここでは、賭け物は美女と美男となっており、内容のうえではずっとバランスが取れている。
同き寶亀3年の春。当帝は時后井上の后と博奕の御双六を打給とて。戯れ給て御門仰らるヽ様。我負なば盛らんずる男を后に奉らん。后負給なば色体並無らん女を我に得させしめ給と宣て打給そ程に、御門負させ給にき。后まめやかに時々御門を責申させ給。御門は戯とこそ思食つるに。事にがりて思食煩給。(「水鏡」「光仁天皇」)
ここの記述によると、変わった賭け物を仕掛けたのは、光仁天皇のほうだった。まるで美女を勝ち取りたい一心からくるがごとく、かれは美男と美女という対局の条件を決め付けた。しかしながら、ここから話の展開は長谷雄たちの対局とはちょうど逆の方向へと向いてしまう。美女を欲しがる光仁天皇はあっけなく対局に負け、美男を差し出さなければならないはめとなった。しかも井上内親王はこれを戯言だとして許してあげることはなく、約束を果たせと攻めまくる。
「水鏡」において、光仁天皇一代の歴史の展開は、この事件をすべての根源として怪しい方向へと傾斜してしまう。顛末を簡単に記すと、つぎの皇位争いの政略を絡ませながら、光仁天皇がやむなく差し出した美男とは、後の桓武天皇になる山部親王である。そして親王と井上内親王との間には目にあまるような関係が結ばれる。やがて井上内親王が殺され、その怨霊は跋扈し、時代は桓武天皇の世に移る。双六対局の一件は、あまりにも荒唐無稽なもので、同じ歴史を記した当時の文献も、または後の時代の記録もどれもこれを伝えていない。ただし、細部が消滅されても、光仁天皇に反逆する井上内親王という構図はいつまでも根強く記憶され、たとえば「平家物語」においては、彼女の名前は朝敵の一人として数えられている(「朝敵揃」)
賭博の勝負への視線
双六を一つの賭博の手段として用い、人々はこれにいろいろなものを賭けては、勝ち取ったり負けて失ったりしていた。勝負という目的において、双六だけが道具として選ばれる理由はなかった。現に賭博のため、結果だけ問題にする速決的なものが喜ばれるものもあれば、逆に悠長なゲームを楽しむ人々もいた。そしてこの極端に異なる二つの傾向はどちらも双六というゲームに関連を持ったことは興味深い。前者の即決のものは、双六の一部分である筒と賽を用いて決めておいた目を争うこととなり、後者の悠長な対局の典型的なものとしては、同じく中国から伝来した盤上ゲームである囲碁があげられる。
賭博の手段である双六の対局には、一局ごとに男たちのドラマがあった。勝負に賭ける財産の内容、数量、金額は、当事者の対局する人々にとって生死にかかわるものであっても、ドラマの完成にはおよそ関係がない。後世の人々が記憶に収め、進んで語り種にした勝負の名場面、心を揺さぶる意外な結末などは、けっして対局に賭けられた財産の質や量にはよらなかった。そのため、今日のわれわれは、数々の人間のドラマを知ると同時に、昔の人々は、かつてどのような視線を対局に注ぎ、どのような夢を抱き、如何なる奇跡を喜んだかを感じ、時代の移り変わりを映し出すものに出会うのである。
過ぎ去った一局の賭博のなかには、時代の文化を盛り込んだものがあった。
見立ての果て
出産と双六
賭博としての双六、そして賭博が覗かせた時代の文化を記してきた。しかしながら、双六は単なる賭博の道具として用いられただけではなかった。一つの博打あるいは遊戯だという常識的な観測ではけっして予想できないところに、もう一つの双六の活躍の歴史があった。
西園寺公衡(1264-1315)は「昭訓門院御産愚記」と題する記録を残している。ここに公衡は亀山上皇に仕えた妹瑛子(昭訓門院)が皇子を出産した詳細な経過を記録した。出産のあったのは、乾元2年(1303年)のことである。記憶にあったように、鎌倉幕府が普通の人々の双六博奕には、指を切るという刑罰に処すると公告したのはちょうどこの年であった。しかしながら、都にはまったく別の世界があった。同じ年の5月9日、待ちに待った出産の知らせを受けて、早朝に参内した公衡の目には、双六を対局する人間たちの姿があった。公衡の当日の日記には、このような記録が残った。
御験者の参上の時、即ち御物を付け(生衣、重唐衣、赤袴)、打ち博す(弟子一人、白衣、赤袴、同じく相具す。替り々々に打ち博す)。西の障子の外、北方に廻り屏風(唐紙)を立て、莚を敷き、双六局を置き、博所と為す。
「博所」と呼ばれる場所は、筆者が丁寧に書き残した略図から明らかなように、母屋の真ん中に設けられて産屋のすぐそばだった(絵10)。おなじ指図を眺めれば、「不動」「如法愛」「愛染王」などの仏壇仏像も、そして「公什僧正」「了遍僧正」「禅助僧正」といった恐らく当時名前の知られていた名僧たちの席も悉く庇に置かれ、「公卿座」といったもの(絵10には見えない)はさらに建物の外に押し出されたなか、博所」だけは母屋の中に大事に設けられた。そこに、「御験者」と呼ばれる人は正装して登場し、その弟子たちを連れて双六を対局するのである。かれらのために、由緒正しい唐紙の屏風を用いて密室が作られ、莚が敷き詰められて、双六の盤が置かれる。並々成らぬ待遇から、御験者たちの神通力への深い信心が伝わる。
規模こそ違うが、出産の場における双六対局の様子を想像させてくれる画像資料も知られている。絵巻「餓鬼草紙」の「伺嬰児便餓鬼」段に、産婦のまわりをうろつく餓鬼の姿が描かれた。そこに、産婦の出産が行われる部屋のすぐとなりに、巫女の服装をした女性が伺候し、そして双六の盤が丁寧に描き添えられている(絵11)。この双六の盤もまた巫女の祈祷や加持のための、重要な道具に違いなかった。
出産と双六との関連についての信仰のありかたは、ほとんど伝わらない。そこに一体どのような対局が行われ、いかなる予言あるいは祈りが期待され、どのような形でその結果を伝えたのだろうか。双六の対局により、人々は人間には図り知れない神の意図を伺い知ったのではないかとの推論がされている(網野善彦「職人歌合」)。あまり詳しい資料に恵まれない現在、満足した答えは得られにくい。
ただ、出産する場に設けられた対局、そしてそのような状況に描かれた双六の盤は、一つのたしかなメッセージをわれわれに伝えている。ここでは、双六はもはや賭博の道具ではなかった。双六の対局という行為、ひいては双六の道具そのものにおいて、人々はかつてまったく異なることを見出し、それを思い描いていたに違いなかった。
双六を宇宙に見立てる
これからは、出産という状況との具体的な関連から離れて、中世の人々が見出した双六の象徴的な世界を眺めて見る。
中世の百科事典である「■嚢抄」は、「双六局を作る寸法の事」と題して、双六盤の魅力的な解説を伝えた。
局、四季表して厚四寸、八方に表して、広八寸、十二月に当て長さ一尺二寸にして、竪に十二目盛り、天地人の三才に像りて、横に三段を分ち、陰陽の二儀に擬へて、内外の二陣を成し、一月を司どりて、黒白卅の石あり、日月に擬して二の骰あり、須弥の三十三天に表し、筒の竹を三寸三分に切る。是日月の行度を隠す故也。
これはまるで機知に富んだ数字遊びである。述べられている内容を簡単なチャートに纏めなおすと、およそつぎのような対応関係が見える。
局‥ 四季―-厚さは四寸
    八方―-広さは八寸
    十二月-―長さは一尺二寸、竪は十二目
    天地人の三才-―横に三段
    陰陽の二儀―-内外の二陣
石‥ 一か月―黒白卅の石
賽‥ 日、月―二の骰
筒‥ 須弥の三十三―-筒は三寸三分(日月を隠す)
さらに、右の記述ほど精密で体系的なものではないが、鎌倉中、後期に明空によって作られ、東北の武士たちに愛唱された早歌にも、明らかに似た考えが唄いあげられた。
是を陰陽に掌。盤の面をきざみては。此十二廻に象。かるが故に則其名を双六とよぶとかや。三十石を並ては。黒白月の一廻。十五の石を分立。賽に又十二の目を定。十二時に拵して行度有。筒の中をば夜とし。外に出ては昼とす。(「宴曲抄」) 
ここにある記述は、一組の道具から、読み取れるほとんどあらゆる数字を集めて、それを天地自然の法則に見立ててしまう。十二の時間あるいは月の数から始まり、「四季」「八方」「三才」「二儀」と、双六に見出す世界は止まるところを知らずに膨れあがり、はては「須弥天」をもって「日月」を隠すくだりになると、その発想の膨大かつ奇妙なことに、感動させられるぐらいだった。手を伸ばせば届く道具に、宇宙そのものがまるごと持ち込まれた。双六の天地は、そのまま人間が住む世界と重なり、そして人間の感覚の外にあって、認識としてしか存在しない宇宙観を具現するものとなった。
吉備大臣の筒と賽
双六の見立ては果たしてどこをその終着点とするのだろうか。言い換えれば、限られる対象から限りない想像の世界を描き出そうとする旺盛で抽象的な働きは、いったいどのような新しい認識や精神的な実り物を人々に提供するものだろうか。今日の読者として上記の見立ての記述を読むと、ついこのような質問をしたくなる。
これに答えるためには、つぎの説話は格好の手がかりを提供してくれる。
これは、大江匡房が伝えた吉備大臣の逸話である。遠く唐に渡った吉備大臣は、そこで中国の皇帝やその群臣によって設けられた数えきれない難問に直面した。唐に客死した遣唐使の鬼の助力により、かれは難問を一つひとつと解いてしまう。これら一連の展開ははやく絵巻となり、それぞれのプロットはリアルでかつユーモラスに描かれている。残念ながら現存する「吉備大臣入唐絵巻」が伝えるのは、文選読みと囲碁の対局の二話までである(絵12)。吉備大臣はその後さらに野馬台詩の読解まで成し遂げたところで、唐の皇帝もついにさらなる問題を思いつかず、ただ吉備大臣を帰国させないという至上の命令を言い渡した。
吉備、「尤も悲しき事なり。もしこの上に百年を歴たる双六の筒・賽盤侍らば、申し請けんと欲ふ」と云ふに、鬼云はく、「在り」と云ひて求め与ヘしむ。また筒棗、盤楓なり。塞を■の上に置きて筒を覆ふに、唐土の日月封ぜられて、二、三日ばかり現れずして、上は帝王より下は諸人に至るまで、唐土大いに驚き騒ぎ、叫喚ぶこと隙なく天地を動かす。占はしむるに、術道の者封じ隠さしむる由推る。方角を指すに、吉備の居住する楼に当る。吉備に問はるるに、答へて云はく、「我は知らず。もし我を強冤陵せらるるによりて、一日、日本の仏神に祈念するに、自ら感応有るか。我を本朝に還させらるべくは、日月何ぞ現れざらんや」と云ぶに、「帰朝せしむべきなり。早く開くべし」と云へり。よりて筒を取れば、日月ともに現はる。ために吉備すなわち帰へらるるなり」と云々。(「江談抄」巻3「吉備入唐の間の事」)
崖っ縁に立たされた吉備大臣は、最後の手段と言って双六の盤、筒と賽を頼む。そして軽々と賽を蔽うことによって、中国の日と月を隠してしまう。すべての人間の叫び喚く声は耳に聞こえてきそうな気がする。唐の一番の術道に通暁する人が現れてきて、その人の本領をもってしても、吉備のいる方位を突き止めることが精一杯で、これを解決するような腕は持たない。そこで吉備は問いただされる。したたかなかれは、日本の神仏に助けてもらうようにしてあげると称して帰国の許しをもらい、再び筒を持ち上げることにより日と月を外に出してしまう。なんという雄大なドラマだったろうか。この話を語り伝えた人々には、双六に宇宙を見出すことに、中国の伝統を乗越えたという想像の喜びと自負が感じられていたのだろう。それだからこそ、ここにある双六の筒と賽は唐の権威と闘う日本の武器であり、インド、中国伝来の遊戯は、その母体となる文化に立ち向かうものと成り得た。見立ての果てに、双六は日本の文脈において大きく成長したのである。
遊戯の見立て
一つの遊戯は、遊びの手段として、まずは単純明快でなければならない。プレーヤーはそれぞれの能力を振るい出し、短い時間のなかで夢中になり、そしてはっきりした勝負を形にする。これと同時に、長く伝わり、広く愛着される遊戯は、さらにプレーヤーの想像力を刺激し、限りある夢中の時間において、限りない想像的な空間に羽ばたかせるものである。言い換えれば、簡単に手にすることのできないなにかを、いかにして象徴的な手法によって模擬的に体験させるかは、一つの遊戯の成功如何の先決条件だとさえ言える。
このような目で見れば、双六にみる世界、そして宇宙への雄大な見立ては、まさに巧妙な演出なのである。今日の目から見れば、そこに述べられている関連と発想は、あまりにも抽象的で、それ自体が一つの幼稚な遊びとして映ってしまうことはなくもない。しかしながら、見立てとは、最初から機智に富んだ発想をもって見せ場を作り出すものだった。結果的に理屈っぽいものを並べたてる説明の無力さは、これを知らない、体験することのない人々へ伝えようとして、一種の精神的な活動を言葉に直したがための結果だったろう。一つの遊戯としての見立ては、その性格からにして、これに熱中する経験を持つ人々にだけ共有するもので、そのような経験を持たない人間を拒絶するものだった。
同じ目で眺めていれば、つぎのこともまた自明なことになってくる。歴史の移り変わるなか、表現手段の進歩は、やがて双六のような遊戯の消滅につながる決定的な理由の一つだったのかもしれない。
一方では、出産する場に現われた双六を対局する「験者」たちの姿と、職人として描かれたほとんど裸の姿になってしまった男たちとは、想像のなかで重なっていく。出産という特別な状況において、おもむろにりっぱな服装によって身を固め、双六の盤や筒を携えたかれらは尊敬の眼で迎えられたのではなかろうか。双六は、普通の物理的な意味では、あくまでも生産的な行為ではない。だが、以上のような見立てのありかたをさぐることにより、われわれには、依然、漠然としてではあるが、社会が職人というグループの人間へ向けた期待のようなものが見えてきたような気がする。双六は単に物質的に優雅な生活を象徴するに止まらず、これに打ち込むことは、かつては、いたって精神的な営みともなり得たのである。
鬼は顔を見せる
長谷雄の対局を読み直す
平安や中世という時と場における双六をいくつかの側面から眺めてきた。ここで試みた観察は、互いに独立していながらも、相互に交差し、それらの照射のもとに、古く行われ、いまとなっては消えてしまった双六が、その立体的な姿をすこしずつ見せてくれた。そのおかげで、われわれには絵巻「長谷雄草紙」において表現されたストーリーの世界がもっと理解できるようになり、隠された論理やメッセージを読み取れるようになった。
双六はかつて一種の芸能であり、双六の練達な人はすなわち芸の達人だった。これを仕事とする人間のグループさえ存在していた。長谷雄の邸宅まで訪れてきて、対局を挑む男の振る舞いには、まさにそのような人格の力を思わせた。かれの体から発散するプロの雰囲気と、人に迫る挑発のパワーは、なによりも長谷雄を刺激したのだろう。そしてそれが鬼気に溢れるものに変質した瞬間でも、長谷雄をたじろがせることが出来なかった。
双六は舶来したものである。双六の対局に打ち込むことは、そのまま大陸文化の模擬体験であり、一つの文化的な行為である。したがって、双六男の挑戦に対して、これに迷わずに応戦したことは、とりもなおさず長谷雄の洗練された貴族的な自己表現であり、一芸のプロに対する文化人としてのプライドと優位の主張である。かれは百の芸をこなせる達人だと喧伝された。そのような伝説的なイメージを作り上げ、それを支えたものは、突き詰めて言えば、このような文化的で貴族的な姿勢に由来するものである。
双六は禁止されていた。とにかく賭博を伴うものは、いつの時代を問わず厳しい取り締まりにあい、政府だけではなく、さまざまな理由により周囲は目を光らせていた。朱雀門の上という空間は、まずこのような実用的な理屈から選ばれたのだろう。それはまず現実的な意味において、要らない好奇の目を離れ、つきまとうかもしれない懲罰から逃れ、日常的な意味においてこの世との関連を遮断することを意味する。そしてこのような非日常的な密室は、やがて象徴的な意味においてのこの世との断絶を示し、ストーリーにもう一つの異なる次元をもたらす。
双六に人々はあらゆる財産を賭けた。財産所有者の入れ替えは、ほかでもなく対局の勝負を表現する終極的な方法である。そこで長谷雄と男との間には、すべての財産と一人の美女とが賭けられる。世間に考えられている賭けものの内容上のバランスというよりも、ここに伝わってくるのは、勝負に勝つためのあい譲らない執念であり、互いに競い合う自信だったろう。双六は、さらに人間の想像する世界を描き出す象徴的な存在になっていく。限られた対象から、人々は雄大なものを見出してしまう。これに熱中する間に、鬼という違う世界からやってくるような生き物が現れてきても、そうはありえないことでもなかろう。そして人々はつぎのことを確信する、もしここにも筒をもって日と月とを蔽い隠すような天地を動かす大事件が起こってくるならば、吉備大臣のときと同じような、そのような能力を持ち合わせるのは、鬼ではなく長谷雄だったに違いない。
「長谷雄草紙」という作品において、朱雀門のうえでの対局は、明らかに物語展開の一番の山場になる。そしてそれを成立させるために、双六はすべての条件を整えた。対局の間に、鬼は初めてその顔をみせる。そして絵巻は明らかな描き方をもってストーリーの構想を表現しきる。ここに鬼が登場してくる経路は完璧に作り上げられている。双六は、ほかでもなく鬼をこの世にその姿を現わせる巧妙な装置だった。
長谷雄との対局に、鬼はしかしあっさりと負けてしまった。過去数々の語り種になった対局の勝負からは、さまざまな人間のドラマが生まれた。長谷雄と鬼とのこの一局には、果たしてどのような続きが待っているのだろうか。鬼はいったいその約束を守るのだろうか。それを長谷雄はどのような構えで受け入れ、いかなる振る舞いをもって対応していくのだろうか。賭けられたもの以上に、二人はどのようなものを勝ち、どのようなものを失っていこうとしているのだろうか。ストーリーの展開には目を離せない。
絵巻は語りつづける
ここに、一枚の小さい絵を対象として、その裏に隠された意味合いや過ぎさった鑑賞者たちの視線を求めるべく、かなりの紙数を費やしてきた。絵巻の表現は、限られた空間において行われている。絵巻の作製は、なによりも同時代の、しかもごく限られた人間を読者グループだと想定していた。したがって、一枚の絵の内容を十分に理解するためには、今日の読者、鑑賞者としてのわれわれとして、まず周辺の情報を根気よく集め、それらを再構成することから始めなければならない。
ここで頼りにできるのは、過去の時代から伝わる文字の文献であり、絵の遺品の数々である。文字と絵という異なる表現の形態の間を行き来しつつ、われわれの前に、平安・中世の常識、非常識がその神秘なベールを剥がしてくれる。時代や文化の距離を乗越えて、作品に描かれた人間の精神世界を体験し、その背後にあった豊かな世界を理解し、再現することに、絵巻は誘ってくれる。
絵巻は、われわれに歴史と文化を語っている。時代を潜り抜けて伝わった古典を読み取るのは、今日の読者の義務であり、その読解の如何は、現代人の知識と感性にかかる。
双六(すごろく)
昔から、お正月の子供の遊びといえば、たこ上げ、はねつき、かるたと並んで双六があります。振り出しから上がりまで誰が早いかを争う楽しいゲームです。
双六は古くインドに誕生しました。「涅槃経」にある波羅塞戯(はらそけ)がそれで、後に欧州でバックギャモン、中国や日本で双六と呼ばれるようになりました。
双六には、古制双六と、絵双六の2種類がありました。
古制双六は、「源氏物語」「枕草子」など多くの文献に現れ、古くから盛んに行われていましたが、賭博性が強く何回も禁止されています。
絵双六は最初、仏法双六といい修行僧に天台の名目を教えるための絵でしたが、それが転じて浄土双六になりました。振り出しから地獄六道のありさまが描かれている所を通り、極楽浄土に上がるもので、その後、東海道を旅する道中双六など現在のようないろいろな双六となりました。  
 
鬼3 なぜ韓国の「トケビ」は日本の鬼のイメージで語られるのか

 

今日韓国の子供の間で読まれている絵本や童話集に登場するトケビの絵を見ると、なぜか日本の鬼のイメージに非常によく似ている。これは、絵本や童話集に限らず、児童劇、子供向けのトケビのキャラクター商品などにも広く見られる現象である。
トケビとは、その属性において部分的に日本の鬼や河童などと対比される韓国の「妖怪」のことである。韓国のトケビは、一筋縄では説明がつかない多種多様な性質をもっているが、大筋では人間に富をもたらしたり、害を与えたりする両面性をもった超自然的な存在として理解されている。トケビについての伝承は、南から北まで韓国各地に広く分布している。また、民間伝承の世界に頻繁に登場するだけでなく、地域によっては民間信仰の対象にもなっている。
〈絵1〉は、韓国の「トケビ祝祭」に登場するトケビの形姿であり、〈絵2〉のほうは、現代の韓国の絵本に登場するトケビの絵である。これらのトケビのイメージを見ていると日本の鬼の形象に非常に似ていることがわかる。なぜ韓国のトケビは、これだけ日本の鬼のイメージに酷似しているのか。両者のあいだには、歴史的・文化的背景において何かつながりがありそうである。これから、トケビのイメージに日本の鬼のイメージが採り入れられるようになったプロセス、その歴史的・文化的背景などを考察していきたい。まず、日本における鬼のイメージの成立の考察から始めることにしよう。
日本における鬼のイメージの成立と展開
今日、日本人が思い描く典型的な鬼のイメージは「姿かたちは人間に似ているが、人間よりもはるかに大きな体をしていて、筋骨たくましく、肌の色は赤や青や黒といった色をしており、頭に一つないし二つの角をもち、虎の皮のふんどしを着け、手には金棒をたずさえている」もののようである。
ところが、本来鬼のような妖怪たちは目に見えない存在であって、目に見えないゆえに、人々の間で恐れられていた。たとえば、「倭名類聚抄」巻一「天地部」には、「鬼物隠而不欲顯形、故以称也」とあって、もともと鬼は目に見えない存在であったことがうかがえる。しかし、現在日本人の間では、まるで自分自身の目で見たかのように具体的な鬼のイメージが語られている。日本の多種多様な妖怪の中で、鬼ほどその姿の定まったものはないであろう。
今日のような鬼のイメージが成立したのは、いつ頃のことであったのだろうか。少なくとも平安時代には、仏教などの影響によって、ある程度一定した鬼のイメージが語られはじめたと言える。鬼のイメージは、その後、絵巻物や能面などにおいて、より細部にいたる具体的な形象が徐々に確立されていった。
そして、今日のような鬼のイメージが固定され、広く普及するようになる過程では、江戸時代に盛んに作られた子供向けの絵本、近代に入ってからの絵本や教科書の挿絵などの影響が決定的であったと考えられる。説話の世界と違って絵本の世界では、鬼が何らかの具体的な形象で表現されなければならなかったからである。そもそも鬼のような妖怪のイメージというものは、人間の想像力によって創り出されたものである。注意すべきは、そのイメージもまた、それ以前の何らかの具体的な図像を参考にして創り出されたものであって、まったく初めて創り出されたものではないということである。この点について、イギリスの写真家フレッド・ゲティングスは、次のように指摘している。
これまで悪霊に押しつけられてきた姿はどれも人間の想像力の産物だったり、黒魔術師の輪のなかで悪霊がまとう薄気味わるい姿にちなんだものだとしてみよう。だがやはりそれにしても、こういう姿の濫觴はどこにあるのか、と問いかけずにはいられない。じつをいえば、人は自分でかくあれかしと思っているほど想像力に富んではいない。人間の想像力といえども、無から有を創りだすことなどまずできない。だからこそ、このうえない怪作や想像力に富んだ作品ですら、たいていは前代のアイデアやイメージの痕跡がほのかにうかがわれるのである。(フレッド・ゲティングズ「オカルトの図像学」)
すなわち、今日の日本人が思い描く鬼のイメージは、「前代のアイデアやイメージ」を参照して創り出されたものであると考えられよう。
今日の鬼のイメージに、その頭には一本か二本の角が生え、虎の皮のふんどし(のようなもの)を着けている「ウシトラ」の姿をしているのは、「鬼門(うしとら)に居座するゆえ」と言われる。しかし、馬場あき子が指摘するように、「この艮の方向を、牛と虎の要素より造形されてゆく鬼の塑像の原因にあてた俗説は、たぶんに結果論的」(馬場あき子「鬼の研究」)である。
日本の鬼の図像の発生を最も古い時代の文献に求めるならば、その代表的なものの一つとして、中国の「山海経」があげられる。「山海経」には、頭に角が生え、虎の皮のようなものをまとった、人身獣面の怪物が多く登場している。断定はできないが、今日の鬼のイメージに見る、頭の角と虎の皮のふんどし(のようなもの)の起源は、それらの人身獣面の怪物の姿に求めることができるであろう。それについては、江戸時代に鳥山石燕が「画図百鬼夜行」を作るにあたり、「山海経」を参考にしたことからもうかがえる。このように、日本における鬼のイメージの発生と「山海経」は少なからぬ関連があったと思われる。
しかし、今日のような鬼の具体的な図像の定着は、平安・鎌倉時代の絵巻物に登場する、羅刹や牛頭鬼、馬頭鬼、地獄卒などから始まったようである。例えば、「餓鬼草子」の「塚間住食熱灰土餓鬼」には、険しい表情の赤と青の羅刹が餓鬼に向かい、燃える剣で威かしている場面である。羅刹は腰に虎の皮を巻いている。また、「地獄草子」の「剥肉地獄」を見ると、三人の比丘が地獄卒の鬼によって、皮を剥がれている場面がある。虎の皮のふんどしを着けているかどうか、判別しかねる鬼もあるが、剣を手に作業を見守っている鬼は虎の皮のふんどし(のようなもの)を着けている。
このように、平安時代の絵巻物に登場するこのような羅刹や地獄卒などのイメージがもとになり、今日のような「ウシトラ」の鬼のイメージが定着していくようになったと考えられる。そして、江戸時代に多く作られた子供向けの絵本、それを受け継いで作られた近代の絵本や教科書の挿絵により、決定的に広く知られるようになったのである。
江戸時代には、赤本や青本、上方子供本などの子供向けの絵本が流行した。そこに登場する鬼の図像を見ると、退治されるべき恐ろしいイメージが強調されたものがある一方で、パロディー化されユーモラスな雰囲気に満ち、親しみさえも感じさせるものも多い。例をあげてみよう。
〈絵3〉は、「新なぞつくし」(「二ウ三オ」)の絵で、五月幟から抜け出した鍾馗が鬼を捕える場面である。また〈絵4〉は、「酒呑童子郭雛形」の中で、初めての郭遊びに有頂天になった鬼たちが酒に酔っている場面である。
〈絵3〉が、退治されるべき恐ろしいものとしての鬼を描いたとすれば、〈絵4〉は、鬼を擬人化し、日常生活の次元において鬼を描いた、パロディー化したものと言える。全体的にたいへんユーモラスな雰囲気が漂っている。二つの絵に描かれたいずれの鬼も、その頭には一つか二つの角が生え、虎の皮のふんどし(のようなもの)を着けているなど、鬼の「ウシトラ」のイメージが定着していたことが確認できる。このように、江戸時代の絵本の世界において固定された鬼のイメージは、近代の童話集や教科書の挿絵の世界へとつながっていった。
〈絵5〉は、日本の「小学国語読本」(1933)に収録された「桃太郎」の挿絵の一つで、桃太郎が鬼の大将を退治している場面である。〈絵3〉と〈絵5〉を比べてみると、〈絵5〉が〈絵3〉をもとにして描かれたものであることが一見してわかる。〈絵5〉には、鍾馗こそ登場しないものの、鬼を追いかけて刀を振っている桃太郎と少年の姿、倒れている鬼の姿などの構図が〈絵3〉と酷似している。
〈絵6〉、は日本の「小学国語読本」に収録された「瘤取り爺」の中で、鬼たちが爺の踊りを見守っている場面を描いたものである。〈絵6〉のほうも、先の〈絵3〉と〈絵4〉に登場した鬼のイメージとほぼ変わらない。特に、鬼の「ウシトラ」のイメージは揺るぎなく固定している。
以上、「ウシトラ」に特徴付けられる日本の鬼のイメージが固定されるようになった歴史的過程を簡略に概観した。今日の日本の鬼のイメージは、主に平安時代の絵巻物から出発して、江戸時代の絵本などの世界においてほぼ定着していったと考えられる。そして、近代の絵本や教科書の挿絵などを通じて、一定した鬼のイメージが日本全国に広まっていくようになった。次に、韓国におけるトケビのイメージの変遷をたどってみよう。
韓国におけるトケビのイメージの成立と展開
近代以前におけるトケビのイメージ
近代以前の韓国におけるトケビのイメージの考察において、まず指摘しておかねばならないのは、近代以前の韓国の美術史・芸能史においては、固定したトケビのイメージが見当たらないということである。このことは、日本ではすでに近代以前に「ウシトラ」とも言われる鬼のイメージが定着していたことと対照的である。
韓国の美術史・芸能史において表現されたトケビのイメージとしては、次のようなものがあげられる。
(1)古代の古墳壁画に描かれた人身獣面の「怪神」   
(2)「鬼面瓦」に見る「鬼」
(3)チャンスンの造形
(4)仏教絵画に描かれた羅刹・地獄卒など
(5)仮面劇の仮面
以下、順を追って考察してみよう。
韓国のトケビのイメージの起源は、古代の高句麗時代(前1世紀後半/668)の古墳壁画に描かれているような人身獣面の「怪神」にまで溯る可能性がある。高句麗時代の古墳は、中国吉林省の集安県や北韓(朝鮮民主主義人民共和国)の平壤市付近に多く見られ、これまでに70余りの例が報告されている。
〈絵7〉は、中国集安県所在の古墳の壁面に描かれているものである。人間の身体に牛の頭がついた人身獣面のものになっている。この人身獣面の存在については、残念ながらいまだその明確な性格が知られていない。
〈絵8〉は、統一新羅時代(677-935)の「鬼面瓦」である。この〈絵8〉を見ると、威嚇的な表情、頭に生えている角など、今日表現されているトケビのイメージにかなり接近しているように見える。
韓国の「鬼面瓦」は、古代の三国時代(313-676)から朝鮮時代(1392-1910)にいたるまで作り続けられたが、特に古代の統一新羅時代にさかんに作られるようになった。その起源は、中国の殷時代(?―前11世紀頃)以降、流行するようになった古銅器に施された饕餮文に求められると言われる。この「鬼面瓦」は、トケビの図像的な表現として、従来から盛んに多く議論されてきた。たとえば、美術史家の秦弘燮は、「鬼面瓦」に表現された「鬼面」をトケビそのものとみなして論じている。また、民俗学者の朱剛玄は、「鬼面瓦」をトケビの図像的な表現の「原形」の一つとしてあげている。
〈絵9〉は、かつて村の入口に立てられていたチャンスンの造形である。目や鼻などが異常に強調され、威嚇的な表情をしている。この「チャンスン」という言葉の漢字語源としては、朝鮮時代の「長承」・「長丞」などの名称があり、地域によっては「ボックス」とも呼ばれる。〈絵9〉は木彫のチャンスンであるが、石彫も多い。チャンスンは、村の入口に立てられ、主として村の守護神のような機能を持っていたが、「里程標」(里数を記して路傍に立てたもので木彫が多い)の機能も果たしていた。
〈絵10〉は、仏教地獄図の「十王図」中の「火蕩地獄」を描いたものである。地獄の地獄卒が罪人たちを熱湯の中に入れている場面である。この〈絵10〉では、地獄卒のイメージが注目される。韓国の仏教絵画には、羅刹や地獄卒などが登場する「地獄図」が多いが、それらの羅刹や地獄卒などを、近代以前におけるトケビの図像的表現の一つとしてあげることができるであろう。韓国の仏教絵画においても、羅刹や地獄卒などの形象がトケビの形象に類似していることがうかがえる。
〈絵11〉は、筆者が注目している、慶尚南道の「固城五広大」というタルチュム(仮面劇)に登場するヨンノ(ビビあるいはビビセともよばれる)の仮面である。「広大」とは、「仮面戯・人形戯を演じると同時に、滑稽なことばやものまねの芸、またさら回しなどの曲芸や綱渡りをする者たち」を指すが、「五広大」というのは、「五人の広大の遊び」という意味である。「固城五広大」は、慶尚南道の固城付近に伝承されている「五広大」のことである。この「固城五広大」に登場する仮面の一つであるヨンノを見ると、威嚇的な表情、頭に生えている角など、今日知られているトケビのイメージにかなり近いと言える。しかし残念ながら、ヨンノに関しては、「何でも食いころしてしまう天上にすむ想像上の恐ろしい動物」として知られているだけで、詳細についてはいまだ不明である。
以上、近代以前の韓国の美術史・芸能史における主なトケビのイメージを検討してきた。その結果、今日のトケビに近いイメージをしているものが少なからずあることがわかった。しかし、それらの間には、これと言えるような共通した要素がなかなか見つからない。換言すれば、近代以前の韓国では、トケビを表現する一定したイメージが定着していなかったと言える。この点、日本では近代以前に、すでに一定した鬼のイメージが定着していたことと対照的である。次に、近代以降のトケビのイメージを考察することにする。
近代以降におけるトケビのイメージ
〈絵12〉は、中村亮平編の「朝鮮童話集」(1926)所収「瘤取爺さん」の挿絵である。トケビ(本文では「鬼」と表記)たちが爺の歌を聴いて寄り集まった場面であるが、トケビたちの姿かたちは、兎あるいは狐などの動物を思わせる黒い影のように処理されている。すなわち、今日韓国社会に定着しているようなトケビのイメージは確認できない。
また、〈絵13〉は、同じく「朝鮮童話集」所収の「兄弟と鬼屋敷」(韓国では、「トケビの砧」という話名で知られている)の挿絵である。兄がトケビたちの宴会の様子を天井の上から覗いている場面である。しかし、そこに描かれているトケビは、人間の姿をしている。これはトケビたちの宴会というよりも、人間の宴会の様子のように見える。
〈絵12〉と〈絵13〉には、今日知られているようなトケビのイメージはどこにも見当たらない。なぜ、今日知られているトケビのイメージとは、全然違う挿絵が描かれたのであろうか。結論を言うと、「朝鮮童話集」の挿絵画家は、トケビを絵で表現することができなかったと考えられる。すなわち、この時期にはまだ、これと言えるようなトケビの図像が定着していなかったのである。そのため、〈絵12〉と〈絵13〉のような姿かたちでトケビを表現したと見るべきである。
こうして韓国のトケビのイメージは「誕生」した
韓国のトケビが、手足の揃ったまとまった姿で描き出されたのは、管見の限り、日本植民地時代に編纂された普通学校の「朝鮮語読本」の挿絵が最初のものである。すなわち、「普通学校朝鮮語読本」(1923)の「瘤を取られた話」に収録されている二枚のトケビの挿絵が最初である。これに続いて、「普通学校朝鮮語読本」(1933)の「瘤を取られた話」の挿絵にも登場する。
〈絵14〉は、「普通学校朝鮮語読本」の「瘤を取られた話」所収の挿絵である。空き家に入って歌を歌っている老人の前に、トケビたちが現れた場面を描いたものである。画面左手のトケビの頭には二本の角が生え、虎の皮のふんどしとは言いがたいが、それに似た腰蓑のようなものを着けている。トケビは筋骨たくましく描かれ、手には老人との「交換」のための宝物が入っているのか、小さな箱を持っている。この〈絵14〉のトケビは、日本の多種多様な鬼の中でも、主として能に登場する「般若」のイメージを思わせるところがある。画面右手のトケビもそれに近いイメージになっている。すなわち、この〈絵14〉のトケビのイメージは、挿絵画家が日本の鬼の図像を参照して創り出したのではないかと考えられる。次に、〈絵15〉を注目してみよう。
〈絵15〉は、「普通学校朝鮮語読本」の「瘤を取られた話」の、瘤を取られた老人の真似をして、トケビをだましたもう一人の老人に、トケビがもう一つの瘤をくっつけて、消えて行く場面の挿絵である。トケビの形象は具体的ではなく、黒い影のように描かれているが、頭に角が生えていることだけは確認できる。
以上、日本の植民地時代の普通学校の「朝鮮語読本」に収録されている二つのトケビの挿絵を紹介した。まず、〈絵14〉と〈絵15〉に登場するトケビのイメージは、日本の鬼のイメージをモデルとして創り出されたものであったと言える。しかし、「朝鮮語読本」の挿絵に現われたトケビのイメージは、日本の鬼のイメージの影響を受けたものであったが、この時にはまだ、「ウシトラ」のような鬼のイメージが完全に定着していたと断定することはできない。韓国のトケビのイメージが、日本の鬼のイメージをもって描かれるようになった決定的な契機は、日本の植民地時代の「国語読本」(日本語)による。
〈絵16〉は、植民地時代に韓国の小学校で使用された「初等国語読本」(1939)「瘤取り爺」の3枚の挿絵中の一つである。「初等国語読本」に収録された「瘤取り爺」は、日本の「小学国語読本」(1933)に収録された「瘤取り爺」とまったく同じものである。〈絵16〉は、鬼の宴会に加わった爺が歌い踊っているのを、鬼たちが面白がりながら見守っている場面である。鬼の頭には一本か二本の角が生え、筋骨たくましい体には、虎の皮のふんどしを着けている。
以上の考察により、日本の鬼のイメージが韓国のトケビのイメージに重ね合わされるようになったプロセスが明らかになった。その出発点は日本の植民地時代の普通学校の「朝鮮語読本」の挿絵であり、「国語読本」(日本語)の挿絵によって決定的に重なり合うようになったことがわかった。つまり、日本の「小学読本」に登場する鬼のイメージを参考にして創り出されたトケビのイメージが「朝鮮語読本」に収録され、「国語読本」(日本語)には、日本の鬼の図像が収録されることによって、もともと相通じるイメージで描かれていた両方の図像が重なるようになり、両者の区別が全くつかないようになったのである。
残された重要な課題は、なぜ日本の鬼の図像をモデルとしてトケビの図像が創り出されたのか、また、なぜそれが今日まで継続して受け入れられるようになったのか、その理由を解明することである。冒頭で指摘したように、日本の鬼の図像の影響によって創り出されたトケビのイメージは、今日の韓国においては、絵本や童話集に限らず、児童劇や漫画、子供向けのトケビのキャラクター商品などにも広く見られる。
今まで検討したように、近代以前の韓国の美術史・芸能史においては、トケビの定型化されたイメージは成立していなかった。そのため、普通学校の「朝鮮語読本」にトケビの挿絵が必要になった際、日本の鬼の図像を参考にするようになったものと考えられる。つまり、日本の鬼のイメージはいくつかの選択肢の中の一つとして参照されたのである。仮にその時すでに、トケビの定型化されたイメージが存在していたならば、そのイメージを用いたであろうと考えられる。
韓国におけるトケビのイメージの解体と再構築の動向
トケビのイメージの問題をめぐって興味深いのは、最近、韓国社会に見られるトケビのイメージの解体および再構築の動向である。今日の韓国社会に流布しているトケビのイメージが、実は日本植民地時代に「創られた伝統」であったという自覚から、従来のトケビのイメージを解体し、新たに再構築しようとする動きが見られるのである。こうした動向の背景には、いわゆる「反日感情」や「ナショナリズム」などの問題も絡んでいる。例をあげてみよう。
〈絵17〉は、美術家の呉潤の版画に登場するトケビである。版画という表現様式に特有な雰囲気の違いを考慮するとしても、これまで取り上げてきたトケビのイメージとは大分異なることがわかる。この版画が制作された時期(1985)、韓国では民衆運動が盛んに行なわれていた時期にあたっており、作者が民衆の情緒を表現しようと努めたことが読み取れる。画面左手のトケビたちは、韓国の伝統的な民俗音楽である「農楽」に使われる楽器をもって遊んでいる。画面の右側には、相撲を取っているトケビ、酒を飲んでいるトケビなど、トケビを材料にして民衆の生活が描き出されている。トケビたちのまとっている衣装がすべて韓国の伝統衣裳であることも見逃がせない。しかし、トケビの頭の角だけは、ゆるぎなく定型化されている。すなわち、もうトケビの角は、トケビのイメージを視覚的に表現するうえで、欠かせないものになっていたと言える。
〈絵18〉は、在日民俗学者の金両基が、主に韓国の「ボンサンタルチュム」(「鳳山仮面劇」)に登場する「チュバリ」(「酔発」)の仮面をモデルにして、新たにトケビのイメージの再構築を試みたものである。
金両基が韓国の仮面劇に登場する仮面の一つをモデルにしてトケビの「原像」を再構築している点は興味深い。というのは、先に近代以前におけるトケビのイメージを検討しながら、仮面劇の仮面との関連性について述べたが、最近のトケビのイメージの再構築の動向において、再び仮面劇の仮面が注目され始めたからである。
金両基の試みは、日本の鬼のイメージの影響によるトケビのイメージの成立を指摘するにとどまらず、自ら積極的にトケビのイメージを再構築しようとしたものである。しかし、金両基の試みは、新たな問題をはらんでいるのも事実である。なぜならば、金両基がモデルにした「チュバリ」の仮面とトケビの間には、何ら歴史的・文化的なつながりは見られないからである。
以上、最近の韓国におけるトケビのイメージの解体および再構築の動向を考察した。トケビのイメージを再構築しようとする動きは今後さらに活発になるものと予想される。トケビのイメージが日本植民地時代に「創られた伝統」であったことを自覚し、新たなトケビ像を再構築しようとする試みは、それなりに意義のあることであろう。しかし、人々の間で定着してしまったトケビのイメージを解体し、新たに再構築するという作業は、そう簡単にはいかないのも事実である。一旦人々の間に広まり、定着したトケビのイメージ(鬼のイメージの影響による)は、小数の人々の試みによって簡単に変わるようなものではないからである。
 
呪詞及び祝詞

 

延喜式の祝詞を、世間では、非常に古いものだと考へて居る。或は、高天原から持ち来されたものゝやうにも云うてゐるが、さうでは無く、自分は悉、平安朝の息がかゝつてゐると思ふ。かう言ふのは、祝詞の性質として為方の無い事で、第一、祝詞が我々に訣るといふのは、それが新しいからである。併し全部が、平安朝時代の新作だといふのでは無く、大体平安朝の初め、百年ばかりの間に、今我々が見るやうな風のものに固定したのである。
祝詞は、その時代々々の改作を受けてゐるので、新古入り混つてゐる。昔の人が、その時の気分次第で、文章を変へて行つたのであるから、その文章は継ぎはぎである。今でも、学問の無い人は、かしこまるといふ言葉を、あらたまつて云ふ時には、かしこまゐるだと思うて、さう云うて、平気でゐる事があるが、祝詞にも、かうした間違ひがある。
何故かういふ風になつたか。それには原因がある。これを頭に入れておかねば、祝詞は釈けない。この間違ひの筋道を辿つて行かなければ、ほんとうの事は得られない。先輩達が、講義をしてゐる所を見ると、祝詞は訣るものだと思はれる。併し、我々には、出来るだけ訣らうとしてゐるが、とても訣らない。が、簡単に解いて行けば、何でも無く、解けるのである。此延喜式祝詞にも、かういふ改作やそれに伴ふ間違ひがあつて、或は国家組織以前からの言葉が、其中に織り込まれてゐるとも思はれる。その中に、段々時代が移つて行くに連れて、その時代々々の特徴を示すものも見えるが、それが、平安朝のはじめに、大きな変化を蒙つた、と考へねばならぬ。
この延喜式祝詞は、祝詞の固定したものであるが、中には、祝詞とは云へないものも混つてゐる。延喜式の祝詞の巻を略して、祝詞式とも云ふが、此を普通には、中臣ノ祝詞と、斎部ノ祝詞との二つに分けてゐる。勿論、宮廷に於ける、公のものばかりである。さうすると、平安朝の宮中に仕へてゐた、昔からの伝統ある官吏、或は其部下である中臣・斎部の二家で、此宮中の祝詞を持つてゐたといふ事になる。一方地方の国々・村々の祝詞は、何処で持つてゐ、どうなつたかといふと、惜しい事には、只今では、全部滅びて了うてゐて訣らない。時々、昔の祝詞だといふものが出て来るが、大抵は、偽物である。然も其祝詞が、完全なものなので、祝詞の間違ひ方を知つてゐるものが、検査した時、その完全な点が、却つて不完全を示してゐる。
で、此地方の国々・村々の祝詞が、何故滅びたか。其は、口伝せられて、秘密であつたが為である。祝詞を伝へてゐる者が、秘密にしておいて、伝へない中に死になどして、全部滅びたものと思はれる。又昔の祝詞は、今の様に、書き物に書いて読むのでは無く、口伝へであつた故、保存せられないで、云ふ人の気持ちで変つたり、毀れたりしても滅びたのである。宮中の祝詞でも、中臣・斎部のもの以外に、まだあつた筈である。中臣・斎部のものは、表向きの、他人が聞いても差し支へないものであつて、内らの、秘密に属するものは、隠してあつた。事実、祝詞を見ると、天つ祝詞と書いてあるものも、其秘密である天つ祝詞の文章は、省いてあつた。今の人は、今日残つてゐる様な文字に書いたものが、其儘読まれた、と考へてゐる様であるが、昔は文字に書いて無くて読まれるものも、中にはあつたのである。
こんなわけで、中臣・斎部が、公に扱ふ祝詞以外に、各役所で扱うたものが、どれだけ消失してゐるか訣らない。宮中の政は皆、神様の為事で、所謂まつりごとであつて、それは皆、一々、祝詞や呪詞を伴うてゐたのである。消失したものゝ中でも、殊に、一番神に近い、宮廷の巫女達(平安朝では内侍)のものは、殆、無くなつて了うた。次に、此祝詞の不完全なのは、返し祝詞・返り申しの欠けてゐる事である。祝詞は唱へたゞけではいけないので、唱へられた神の返事が、必要なのである。此が、今の祝詞には残つてゐない。
鎮火祭(ホシヅメノマツリ)、この祝詞には、うつかりして、天つ祝詞を書き出してあるが、他は皆、天つ祝詞を以て申すとありながら、天つ祝詞は省いてある。省いてはあるが、文章はわかつてゐる。実に変なものである。日本の文章は、皆こんなものである。江戸の歌謡類もさうで、殊に、長唄に於いて甚しい。これには、その文の一方をなしてゐる、役者の言葉が省いてあつて、地の文章ばかりだからである。日本には、かうした芸術が行はれてゐるのである。
以上説いた所によつて、大体延喜式祝詞に関する、値打ちの定め方がきまつた訣である。即、延喜式祝詞は、元の姿とは非常に、意味が変つてゐて、祝詞以外のものをも含んでゐるのである。
祝詞には、三種類の内容がある。此祝詞といふ語については、昔からいろいろの説があるが、私は、かう考へてゐる。即のるといふ事は、天皇、或は、国々の君が、神様の資格で、高い処に上つて命令する事である。此のりを発する場所を「宣処(ノリト)」と云うた。即、信仰的に設けた、一段高い座なのである。此処で唱へる言葉が、のりとごとであつた。其を、次第に略して、のりとといふ様になつた。のりとと言ふだけで、既に其中に、ごとの意が含まれてゐるので、のりとごとのごとは、のりとの意味を、忘れて後の附加である、といふのは間違ひである。
祝詞は、最初は天皇がなさるものであつた。処が、日本には、代役の思想があつた為に、後、中臣が専唱へるやうになつた。天皇御自身が、既に代役であつて、神漏岐・神漏美の御言持ちとして、此国に降つてゐられるのである。御言持ちとは、その神漏岐・神漏美の命令を、伝達するものなのである。何々の命といふみことは、此御言持ちの略せられたもので、後、尊い人を意味する言葉だ、と思ふやうになり、更に、日本紀に命・尊などゝ区別する様になつてから、元の意味は、全く忘れられてしまうた。さてかうした、代役の思想が行き亘つてゐた為に、段々、上から下に及んで行つて、遂に中臣が、専属に、天皇の仰つしやる事を代つて云ふやうになつた。かうして、中臣祝詞が出来たのである。
此と、斎部祝詞と云はれてゐるものとは、全く別であつて、斎部のものは、祝詞では無い、寿詞(ヨゴト)である。天皇の仰つしやるのりとごとに対する御返事、即(すなはち)返し祝詞・返り申しを古い言葉で、寿詞といふ。毎年、初春に奏する寿詞は、約束をきりかへるものであつた。
服従を誓ふことは、実は、一度でよかつたのであるが、其を確実にする為に、いつとなく毎年繰り返すやうになつて、後の朝賀の式にまで発達した。此式では、まづ天皇よりの詔詞があり、此に対して、群臣中の、二三の大きな家の氏ノ上が、全体を代表して出て(元は、家々で出たものである)、今年も俺に服従しろ、といふ意味の御言葉に対して、叛かぬといふ事を申し上げる。此が寿詞である。
寿詞のよは、時代によつて変遷もあつたが、いのち・寿命などの意で、又魂を意味する。此を唱へると、唱へかけられた人に、唱へた方の魂が移るのである。此唱へ言の、最小限度のものが、諺である。とにかく、唱へ言をすると、其言葉の中についてゐる魂が、先方にくつ附く。家々には、大切な魂があるが、此が寿詞を唱へると、天皇の御体にうつゝて行く。それ故天皇は、国々村々の魂を沢山持つてゐて、其勢力は、非常に強くなる。かうした所から、天皇が不要の魂を、臣下に与へるといふ様な事も出て来た。かう考へて来ると、返り申しであり、魂を先方の身体にくつ附ける言葉である寿詞は、祝詞と同一のものでない事が訣る。
延喜式祝詞は、祝詞・寿詞、其他のものが混つてゐるために、訣らぬ処が多い。祝詞は、上から下に対して云ふものである。寿詞は、下から上に対して云ひ、其と共に、服従を誓ふ。天皇に寿詞が無く、氏々に此があるのは、此故である。又寿詞は、氏々の家が、天皇の御祖先と交渉を始めた来歴を、云ひかへれば、自分々々の家の為事の始め、本縁を説明するものである。此意味で室ノ寿詞は、真の意味の寿詞ではない。ともかく何時でも、誓ひ、服従する時に唱へるのが、寿詞である。処が、学者達は、寿詞は祝詞の古いものだ、と説明してゐるが、私は、さうは思はない。
次に、もう一種の祝詞がある。それは鎮詞・護詞・鎮護詞などゝ書かれるいはひごとである。これが、ごちやごちやになつて、祝詞の中に混つてゐる。斎部の祝詞は皆、此鎮詞である。いはふといふ言葉は、今、神をいはひこめる等いふのと、略同じ意味である。これはいむから出てゐる。いむは、単に慎むといふ意で、いまはるとなると、その上に、身の周りを浄める意味が出て来る。いはふは周囲を浄めて中に物を容れる、又はくつ附けるといふ意味である。即(すなはち)魂をくつ附けて、離さぬやうにするのである。鎮詞といふのは、その言葉なのである。それ故、鎮詞・鎮護詞などゝ書かれてゐるのである。
鎮詞は、不思議なもので、その発達によつて、祝詞や、寿詞の古格が乱れた。祝詞と、鎮詞との区別は、大体左の如きものである。
祝詞
 ┌→イ
 a─→a’│→ロ
 └→ハ
鎮詞
 ┌→イ
 a─→b│→ロ
 └→ハ
aは天皇、a’は中臣、bは斎部、イロハは中臣・斎部それぞれの命令をきくもの
祝詞は、天皇の資格で、その御言葉のとほりに、中臣が云ふのであるが、鎮詞は、少し趣きが違ふ。氏族の代表者が、ほんとうに服従を誓うた後、其下に属してゐる者に、俺もかうだから、お前達も、かうして貰はなければならぬ、といふやうな命令の為方である。ちようど、掏児や博徒の親方が、其手下に、警察の意嚮を伝へるといつたやうな具合のものである。それ故、此は御言持ちでは無く、自分の感情に、飜訳して云ふのである。だから鎮詞は、祝詞の言葉の命令的なるに対し、妥協的である。其で鎮詞は、大抵の場合は、土地の精霊が、自由に動かぬやうに、居るべき処に落ちつける言葉になつてゐる。即いはひ込めてしまふ詞である。此は、祝詞の意志を、中間に立つ者が、飜訳して云ふのであつて、多くの場合は、被征服者の中の、代表者が云ふ言葉である。これを司つたのが、山の神で、山の神は、土地の精霊の代表者であつた。
祝詞には、以上説明したやうな、三種類の区別があるが、此を延喜式の祝詞に当て篏めて見ると、どれも此も、厳重に、此区別には合はない。殊に、出雲国造神賀詞(カムヨゴト)と、中臣寿詞とは、寿詞と云ひながら、頻りに、自分から鎮詞を述べてゐる。此頃既に、寿詞と鎮詞とが、ごちやごちやに考へられてゐた事が訣る。
国々の神が、位を貰ふといふ不思議を、仏教では、王は十善・神は九善などゝ説明してゐるが、此は、当然なことであつた。天皇は天津神の子孫であつて、同時に、祝詞を唱へる時だけは、その天津神であつた。故に、天皇は神であると共に、人間であつた。天皇のおつしやる御言葉が、精霊或は、精霊から成り上りの神に対して、高いものから、低い者に云ひ下す言葉になるのは、当然であつた。それで神の位が段々昇進するのは、かうした、信仰から来た自然であつて、次第に、天津神に近づかされるのである。処が、延喜式などを見ると、已(すで)に変な所が見える。天皇が、神に対して、非常に丁寧である。天皇が、祝詞を下されるといふ考へが、変化して来てゐるのである。即、ほんとうの祝詞では無くなつて来てゐる。それで延喜式祝詞が、古い祝詞で無い事は、此によつても明らかである。
天つ祝詞は、高天原から伝つてゐるものだ、といふ信仰を以て、唱へ伝へられて来てゐる。唯今、天つ祝詞といふ言葉の這入つてゐるものは、主として、斎部祝詞であるが、これは鎮詞に属するものである。斎部は、天皇に対する雑役に与つてゐた。又中臣大祓詞、これは、斎部祝詞に似てゐるが、此中に、天つ祝詞といふ言葉がある。此天つ祝詞といふ言葉は、常に「あまつのりとの太のりとごと」と続く。此中の「太」は、単に、天つ祝詞の美称と考へられて来てゐるが、私は、壮重なのりとに於いて、唱へられる言葉、即天つ宣(ノ)り処(ト)に於ける、壮重なのりとごとゝ解する方がよいとおもふ。天つ祝詞を唱へる個処は、動作を伴ふところであるらしい。其動作をするのが、斎部の役人達であつた。これを唱へると、不思議なことがあらはれて来る。
天つ祝詞は、大体に短くて、諺に近いものである。即、神の云うた事のえつせんすのやうなものである。が私は、天つ祝詞が、祝詞の初めだとは思はない。ずつと昔からの、祝詞の諸部分が脱落して、一番大事なものだけが、唱へられてゐたのが、天つ祝詞であるとおもふ。一寸考へると、単純から複雑に進むのが、当然の様に思はれるが、複雑なものを単純化するのが、我々の努力であつた。それで、極めて端的な命令の、或は呪ひの言葉が、天つ祝詞であつたが、其が段々、世の中に行はれて来ると、諺になる。故に私は、此と諺との起原は、同一なものだと考へてゐる。だから諺は、命令的である。元はその句は、二句位であつて、三句に成ると、諺では無く、歌になつた。古事記・日本紀などを見ても、諺は、二句を本体としてゐる。それで、今の諺の発達の途には、天つ祝詞があるわけである。
口頭の詞章には、歌と、唱詞と、語詞と、三通りあつた。唱詞は、所謂祝詞で、長い語詞の中(ウチ)のものが脱落して、後に残つた、有力な部分が、歌である。唱ふには、したがふといふ意味があつて、相手に命令して、自分と同じ動作をさせる事が、其力であつた。徇は、したがふと訓むが、となふとも、訓み伝へられて来てゐる。
以上の三種類のものは皆、声楽的に異つてゐる。唱詞は、声楽的に歌や語詞とも別な要素を持ち、又別の効果を持つてゐた。我々は、延喜式に、祝詞としてある三種類のものを、唱詞といふ言葉で総括して行きたい。
 
霊魂の話

 

たまとたましひ
たまとたましひとは、近世的には、此二つが混乱して使はれ、大ざつぱに、同じものだと思はれて居る。尤、中には、此二つに区別があるのだらうと考へた人もあるが、明らかな答へはない様である。私にもまだ、はつきりとした説明は出来ないが、多少の明りがついた。其を中心に話を進めて見たいと思ふ。
古く日本人が考へた霊魂の信仰は、後に段々変つて行つて居る。民間的に--知識の低い階級によつて--追ひ追ひに組織立てられ、統一づけられた霊魂の解釈が加はつて行つた為だと思ふ。だから其中から、似寄つたものをとり出して、一つの見当をつける事は、却々(なかなか)困難であるが、先大体、たまとたましひとは、違ふものだと言ふ見当だけをつけて、此話を進めたい。いづれ、最初にたまの考へがあつて、後にたましひの観念が出て来たのだらう、と言ふ所に落ちつくと思ふ。
たまの分化/神とものと
日本人のたまに対する考へ方には、歴史的の変化がある。日本の「神」は、昔の言葉で表せば、たまと称すべきものであつた。それが、いつか「神」といふ言葉で飜訳せられて来た。だから、たまで残つて居るものもあり、神となつたものもあり、書物の上では、そこに矛盾が感じられるので、或時はたまとして扱はれ、或所では、神として扱はれて居るのである。
たまは抽象的なもので、時あつて姿を現すものと考へたのが、古い信仰の様である。其が神となり、更に其下に、ものと称するものが考へられる様にもなつた。即、たまに善悪の二方面があると考へるやうになつて、人間から見ての、善い部分が「神」になり、邪悪な方面が「もの」として考へられる様になつたのであるが、猶、習慣としては、たまといふ語も残つたのである。
先、最初にたまの作用から考へて見る。
我々の祖先は、ものの生れ出るのに、いろいろな方法・順序があると考へた。今風の言葉で表すと、其代表的なものとして、卵生と胎生との、二つの方法があると考へた。古代を考へるのに、今日の考へを以てするのは、勿論いけない事だが、此は大体、さう考へて見るより為方がないので、便宜上かうした言葉を使ふ。此二つの別け方で、略よい様である。
胎生の方には大して問題がないと思ふから、茲では、卵生に就いて話をする。さうすると、たまの性質が訣つて来ると思ふ。
なる・うまる・ある
古いもので見ると、なると言ふ語で、「うまれる」ことを意味したのがある。なる・うまる・あるは、往々同義語と考へられて居るが、あるは、「あらはれる」の原形で、「うまれる」と言ふ意はない。たゞ「うまれる」の敬語に、転義した場合はある。万葉などにも、此語に、貴人の誕生を考へたらしい用語例がある。けれども、厳格には、神聖なるものゝ「出現」を意味する言葉であつて、貴人に就いて「みあれ」と言うたのも、あらはれる・出現に近い意を表したと見られるのである。即、永劫不滅の神格を有する貴人には、誕生と言ふ事がない。休みからの復活であると信じたのである。あるが「うまれる」の敬語に転義した訣が、そこにある。
うまるの語根は、うむである。うむは「はじまる」と関係のある語らしい。うぶから出て居る形と見られる。此に対して、なると言ふ語がある。あるは、形を具へて出て来る、即、あれいづであるが、なるは、初めから形を具へないで、ものゝ中に宿る事に使はれて居る。くはしくは、なりいづと言ふべきである。
此なるの用語例が多くなつて来ると、なと言ふ語だけに意味が固定して、なを語根とした、なすと言ふ語なども出来て来た。なると言ふ語には、別に、ものゝ内容が出来てくる--充実して来る--と言ふ同音異義の語があるが、元は一つであるに相違ない。同音異義でなく、意義の分化と見るべきであらう。
発生に於ける三段の順序
たまごの古い言葉は、かひ(穎)である。「うぐひすの、かひこの中のほとゝぎす」などの用語例が示してゐる様に、たまごの事をかひこと言うた。蚕にも此意味があるのかも知れぬが、此は姑く、昔からの「飼ひこ」として預けて置かう。
ものを包んで居るのが、かひである。米のことをかひと言うたのは、籾に包まれて居るから言うたので、即、籾がかひなのだが、延いてお米の事にもなつたのである。ちかひ・もゝかひ・しるにもかひにもなどの、用語例で見ると、昔は籾のまゝ食べたのかとも思はれる。籾は吐き出したのであらう。さうでないと、かひの使ひ方が不自然である。
かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、此から、蛤貝・蜆貝などの貝も考へられる様になつたのであるが、此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがある、と昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。そして、此中で或期間を過すと、其かひを破つて出現する。即、あるの状態を示すので、かひの中に這入つて来るのが、なるである。此がなるの本義である。
なるを果物にのみ考へる様になつたのは、意義の限定である。併し果物がなると言うたのも、其中にものが這入つて来るのだと考へたからで、原の形を変へないで成長するのが、熟するである。熟するといふ語には、大きく成長すると言ふ意も含んで居るのである。
かやうに日本人は、ものゝ発生する姿には、原則として三段の順序があると考へた。外からやつて来るものがあつて、其が或期間ものゝ中に這入つて居り、やがて出現して此世の形をとる。此三段の順序を考へたのである。
なるの信仰から生れた民譚
竹とり物語のかぐや姫は、此なるの、適切な例と見られる。此物語には、なると言ふ語は使つてないが、ないだけに、却つて信用が出来る様に思はれる。
なよ竹のかぐや姫は、山の中の竹の、よ--節と節との間の空間--の中にやどつて育つた。其を竹とりの翁が見つけてつれて来る。此物語は、純粋の民間説話でなく、其をとつて平安朝に出来た物語であるから、自然作意がある。姫がどうして、竹のよの中に這入つたかなどゝ言ふことも言はれてはない。天で失敗があつて下界に降り、或期間を地上に居てまた天へ還つたといふ風に、きれいに作られてゐる。
類型の話は、猶幾つかある。桃太郎の話が、やはり其一つである。我々の考へから言へば、桃の中にどうして人が這入つたらうと疑はないでゐられないが、昔はそこまで考へる必要はなかつたのだ。此話では、桃の実が充実して来ると言ふ考へと、桃太郎が大きくなつて出て来る時期を待つて居ると言ふ考へとが、一つになつて居る。朝鮮には、卵から生れた英雄の話がたくさんある。日本と朝鮮とは、一部分共通して居る点がある。あめのひぼこは、朝鮮からやつて来た神だが、やはり卵の話に関聯して居る。
卵の話は、日本にも全然ない事はないが、日本には、卵でなく、もつと外の容れ物があつた。瓜に代表させていゝと思ふが、瓜といふと、平安朝頃まではまくわの事で、喰べられるものゝ事を言うた。古くは、主としてひさごを考へた。其ひさごの実が、だんだん膨れて来て、やがてぽんとはじける時がくる。其は其中に、或ものが育つて居ると考へたのである。
更にかうした話は、もつと異つた形でも残つて居る。聖徳太子に仕へ、中世以後の日本の民俗芸術の祖と謂はれて居る、秦ノ河勝には、壺の中に這入つて三輪川を流れて来た、との伝説が附随して居る。此壺には、蓋があつた。桃太郎の話よりは、多少進化した形と見られる。
たまのいれもの
日本の神々の話には、中には大きな神の出現する話もないではないが、其よりも小さい神の出現に就いて、説かれたものゝ方が多い。此らの神々は、大抵ものゝ中に這入つて来る。其容れ物がうつぼ舟である。ひさごのやうに、人工的につめをしたものでなく、中がうつろになつたものである。此に蓋があると考へたのは、後世の事である。書物で見られるもので、此代表的な神は、すくなひこなである。此神は、適切にたまと言ふものを思はす。即、おほくにぬしの外来魂の名が、此すくなひこなの形で示されたのだとも見られる。
此神は、かゞみの舟に乗つて来た。さゝぎの皮衣を着て来たともあり、ひとり虫の衣を着て来たともあり、鵝或は蛾の字が宛てられて居る。かゞみはぱんやの実だとも言はれるが、とにかく、中のうつろなものに乗つて来たのであらう。嘗て柳田国男先生は、彼荒い海中を乗り切つて来た神であるから、恐らく潜航艇のやうなものを想像したのだらうと言はれた。
かやうに昔の人は、他界から来て此世の姿になるまでの間は、何ものかの中に這入つてゐなければならぬと考へた。そして其容れ物に、うつぼ舟・たまご・ひさごなどを考へたのである。
ものいみの意味
何故かうしてものゝ中に這入らねばならぬのであつたか。其理由は、我々には訣らぬ。或は、姿をなさない他界のものであるから、姿をなすまでの期間が必要だ、と考へたのであつたかも知れない。併し、もう一つ、ものがなる為には、ぢつとして居なければならぬ時期があるとの考へもあつた様だ。えび・かにが固い殻に包まれてぢつとしてゐるのも、蛇が冬眠をするのも、昔の人には、余程不思議な事に思はれたに相違ない。光線もあたらない、暗黒の中に、ぢつとして居たものが、やがて時がくれば、其皮を脱いで、立派な形となつて現れる。古代人は、そこに内容の充実を考へたのであらう。
此話は、日本の神道で最大切な事に考へて居た、ものいみと関聯がある。ものいみは、此自然界の現象から思ひついた事であるかとも考へられるが、或は、さうした生活があつた為に、此話が出来たのかも知れない。此は今のところ、どちらとも言へないが、とにかく、古く日本には、神事に与る資格を得る為には、或期間をぢつと家の中、或は山の中に籠らねばならなかつたのである。
もに籠ると言ふことは、蒲団の様なものを被つてぢつとして居る事であつた。大嘗会の真床覆衾(神代紀)が其である。さうして居ると、魂が這入つて来て、次の形を完成すると考へた。其時は、蒲団がものを包んでゐるので、即かひである。さうして外気にあたらなければ、中味が変化を起すと考へた。完成したときがみあれである。此は昔の人が、生物の様態を見て居て考へたことであつたかも知れない。
うつ・すつ・すだつ・そだつ
話が多少複雑になつて来たので、こゝらで単純に戻したいと思ふ。
古い言葉に、此はうつぼにも関係があると思ふが、うつと言ふ語がある。空・虚、或は全の字をあてる。熟語としては、うつはた(全衣)・うつむろ(空室)などがある。うつは全で、完全にものに包まれて居る事らしい。このはなさくや姫のうつむろは、戸なき八尋殿を、更に土もて塗り塞いだとあるから、すつかりものに包まれた、窓のない室の意で、空の室を言つたのではないと思ふ。たゞ其が、空であつた場合もあるのである。
うつに対してすつと云ふ語がある。うつには二通りの活用がある。うて・うて・うつ・うつる・うつれと活く場合と、うつて・うつて・うつゝ・うつゝる・うつゝれと活く場合と、此二様がある。なげうつは、ものを投げた時の音の聯想から、うちつけるに感じが固定した様であるが、古くはさうでなかつた。現在の語感から古語を解剖すると、往々誤りを生じる。此なげうつも、たまの信仰に照して見ると、どうして此語が出来たか、元の形が訣ると思ふ。
琉球の古語のすぢゆんは、ものゝ中から生れ出ることを意味した語らしい。此は蘇生する・復活するなどに近い気分を持つた語である。日本のうつにも、其がある。此すぢゆんの語根すぢは、他界から来る神を表した語らしく、日本のたまと略、同義語の様である。柳田先生は、此すぢを、我国の古語いつ(稜威)と一つものに見られた。
いつは「みいつを祈りて」とか「いつのちわきにちわきて」などの用語例に入つて来ると、多少内容が変つて来るが、ほんとうは、い列とう列とが近くて区別のなかつたとき、いつともうつとも言うたらしく、ちはやぶるはいつはやぶるで、またうつはやぶるとも言うて、魂の荒ぶる方面を言うたのだが、其がいつか、神の枕詞になつてしまうた。恐らく、さうした暴威を振ふ神のあつたことを考へた事から出来た語であると思はれる。
とにかく、琉球のすぢと日本のうつとは、おなじ意味の言葉である。すだつは、巣に聯想が向いた為に、巣立つと説いて、主として鳥を聯想するやうになつたが、語根 stu である事を考へれば、すだつ・そだつは同じものであると見ていゝ。すつは、一方すてると言ふ意を持つ様になつた。うつも、うつぼ舟・うつせみなど、からつぽの意にも、目のないものゝ意にも考へられる様になつた。
うつ・すつ・すだつ・そだつは、何れもたまの出入に就いて言うた語である。たまがものゝ中でなりいづ--あるゝに至る--までの期間に用ゐた言葉であつたのだが、其がいつか、かひの中に出入することを表す動詞ともなつた。ものゝ中に這入つて来る事を考へたと同時に、外へ出る事を考へた。さうして出る方ばかりに使はれる様になつて、這入る方の考へが段々薄らいで行つた。すだつ・そだつは其の代表的な言葉だと見られよう。
石成長の話
日本には、古くから石成長の話がある。また漂著神(ヨリガミ)の信仰がある。此もたま成長の信仰と関係があつて出来たものだと思ふ。たまが成長をするのに、何物かの中に這入つて、或期間を過すと考へた事から、其容れ物として、うつぼ舟・ひさごを考へ、また衣類・蒲団の様なものにくるまる事を考へたのであるが、更に此たまは、石の中にも這入ると考へた。どうして石の様なものゝ中に這入ると考へたか、とにかく、日本の古代にはさうした信仰があつた。此が後に、たまが神に飜訳せられて考へられる様になると、神が石になると信じられる様になつた。今度アルスの児童文庫の中の一冊として書かれた柳田先生の「日本伝説集」にも、石の成長する話が出て居るが、先生はこれまでにも、さうした石の成長する話をたくさん書かれて居るので、「君が代は千代に八千代に」の歌なども、単に詩人の空想から、あゝした言葉を連ねたゞけではない。既に古くさうした信仰があつて、あの歌は出来たのだと論じられた事もある。
どうして、石の様なものが成長する、と考へたのであらうか。拾うて来た石が、家に帰りつくまでに大きくなつたとか、祠に祀つたのが一晩の中に大きくなつて祠を突き破つたとかいふ話が、数限りなく諸国にある。古代人はさうした信仰をもつた。小さい間は、大きくなると思うて居るのだらうが、其から後は信仰である。目に見えない事を信ずるのだから、信仰といふより外に、説明のしようがない。どうしてそんな信仰を持つ様になつたか。先生にも既に説明があつたが、茲で少しばかり、私の考へを述べて見たい。
神の容れ物としての石
前に、此石成長の話も、たま成長の信仰と関係がある、木や竹の中に這入つて成長すると考へたたまが、石の中にも這入る、と考へたと述べたが、後世の考へからすると、木や竹ならば、這入つても成長するだけの空間があると考へられるが、石のやうなものでは、第一這入る事も出来ず、其が大きくなるなどゝいふ事は、到底考へられない事だと思ふが、昔はさう信じたので、即、たまが其中で成長すると信じたので、成長してある時期が来ると、前のうつぼ・たまご・ひさごの場合の様に、やはり石が割れて神が出て来ると考へたのであるが、其石から神が出て来ると言ふ話の中間の一部分--石が大きくなると言ふ一部分だけ--が発達して来たので、遂に我々には、訣のわからぬ話になつて了うたのである。
人や動物が化石したと言ふ話も、実はこの信仰の中間に出来たものだと思はれる。石の中にたまが這入つたとだけを考へると、人が石になつた、犬が石になつた、と考へる様になる。沖縄には、殊にさうした話が多い。此を逆に考へると、死んで石になつたとの考へも出て来る。さよ姫の化石譚の様なものが出来て来るのだが、此考へは反対だと思ふ。
此石が、神の乗り物・容れ物と考へられた例が、段々ある。石がぢつとして居ないで、よそからやつて来る場合がある。石にたまが這入ると言ふ信仰には、たまがよそからやって来て這入るのと、既に入つたものが、他界からやつて来ると考へたのと、此二つがあつた様だ。後者は、海岸に殊に多い。古くからあつた像石(カタイシ)信仰が其である。大洗の磯崎神社の像石は、此有名な一つで、一夜の中に、海中から出現した神だ、といはれて居る。
おほくにぬしとおほものぬしと
おほなむちとすくなひこなとが一つものに考へられたには、理由がある。すくなひこなが他界から来た神である事は前に述べたが、おほくにぬしの命が、此すくなひこなを失うて、海岸に立つて愁へて居ると、海原を光(テラ)して、依り来る神があつた。「何者だ」と問ふと、「俺はお前だ。お前の荒魂(アラミタマ)・和魂(ニギミタマ)・奇魂(クシミタマ)だ」と答へたとある。大和の三輪山に祀つたおほものぬしの命であるが、此三つの魂が、おほなむちについて居たのである。たまには、形はないが、少くとも此話では、光りをもつて居た事が考へられる。
日本の神々に、いろいろな名があるのは、一の体に、いろいろな魂が這入ると考へたからで、其魂に、其々の名があるからだと思ふ。元は、体はたまの容れ物だと考へた。三輪山のおほものぬしの命は、此神自身は、人格を具へて居ない、即、眼に見えない精霊で、おほものぬしのもの其ものが示して居るやうに、純化した神ではないのである。其で、おほくにぬし自身ではないが、又、おほくにぬしでもある事になるのである。
漂著石/石移動の信仰
かやうにたまだけがやつて来る事もあり、其が体にくつつく場合もあり、更に此たまが、石に這入る事もあり、石に這入つてやつて来ることもあると考へたので、一夜の中に、常世の波にうち寄せられて、忽然と石が現れ、見る見る中に、大きくなつたといふ信仰譚が、其処から発生した。石が流れ寄るなどゝは考へられない事だが、たまが依り来る一つの手段として、こんな方法を考へたのだと見ればよい。其所に石移動の信仰も生れた。柳田先生の生石の話が其である。
石が大きくなつたと言ふ話に、石と旅行をした話が附随して居るものがある。後世では、熊野へ行つたとき、或は伊勢へ参つたとき、淡路へ行つたときに、拾うて来た石といふ事になつて居るが、此は、巫女の類が、従来あつた石成長の話を、諸国に持つて歩いた印象が、残つたのだと見られる。
私は、恐らく其前に、石其ものがあちこち移動をし、歩くものだといふ話が、必出来て居たのだと思ふ。それがさうした話に、不審を懐く時代になつて、次の携帯して歩く人の話が出来たのではなかつたらうか。
石こづみの風習
此は、石の中にたまが這入る、と考へた事から生じた、一つの風習と考へられるが、石の中に人をつみ込む風習が、古く日本にあつた様だ。男子が若者になる為には、成年戒を受けねばならなかつた。彼等は、先達に伴はれて山に登り、或期間、山籠りをして来るのであるが、其間に、此風習が行はれた様だ。修験道の行者仲間には、かなり後々まで、此風習が残つて居た様で、謡曲の谷行(タニカウ)を、あゝした読み方をするのにも、何か訣があるのだと思はれる。彼等の仲間では、死んだものがあると、谷に落して、石をふりかける。悪い事をした者は、石こづみにする。こづむとは、積み上げる事である。此が、後に石こづめと言はれる様になつて、奈良の猿沢の池の石こづめ塚の様な伝説も出来たのであるが、元は、山伏し仲間の風習であつた。其が、後には、山伏し以外の者にも、刑法として行はれる様になつた。
併し、山伏し仲間では、此が刑罰としてゞはなく、復活の儀式として行はれた時代があつたに相違ない。前に述べた、衣類や蒲団にくるまつて、魂が完全に、体にくつゝく時期を待つた、と同じ信仰のもので、石の中には、這入る事が出来ない為に、石を積んだのである。さうすると、生れ変ると信じたのである。
山伏し生活の起り
一体山伏しの為事は、何から始まつたかと言ふと、あれは元来、仏教から出て居るのではない。日本の古い神々の教へが、さうした形をもつてゐたので、村の若者を山籠りをさせて、男にする事が、其一つであつた。此時期が、後の山伏しの精進・行と言はれるものであつたので、山伏しの籠りに行くのは、即、若者になりに行つた風習の名残りである。
此風習は、山伏しを専門にしない者の間にも残つた。近年まで、羽後の三山などへ出かけたのが、其である。此は、従来の神道や仏教では、説明の出来ない事なので、たゞ山籠りの事を考へて見ると、山伏しの生活の始まつた、元の姿が訣ると思ふ。そして、此が宗教化し、毎年、時期を定めて行はれて居る中に、一種の宗教的な形をもつ様にもなつたのだが、更に此が、奈良朝以前から既にあつた、山林仏教の影響を受けて、遂に其一派の様に説明せられて来たのである。其山伏しに、石を積んで、人を入れる法式が残つて居るといふのは面白い。
二三年前、三河の山奥へ這入つて、花祭りといふ行事を見た。旧暦を用ゐた頃は霜月に行はれたが、今は初春の行事となつて居る。古い神楽の一部分で、神楽は三日三晩続いた、其一部分だと説明せられて居るが、要するに、村の若者に、成年戒を授ける儀式の名残りと見られるもので、白山と言ふものを作つて、若者に行をさせる。人にならせるといふ、信仰があつたのだと思はれる。
かやうに、若者になる為には、石につめたり、山の中に塗りこめたりする事が行はれたので、普通、山ごもりは、単なる禁欲生活だと思はれて居るが、実は其間に、かうして、一度自然界のものゝ中に這入つて来なければならなかつた。其をしなければ、人にもなれなかつたのである。此は、神の魂が育つのと、同じことになるので、他界から来るたまをうける形なのであつて、さうする事によつて、村の聖なる為事に、与る資格が得られる、と考へたのである。
かういふ風に考へて見ると、他界からやつて来るたまは、単に石や木や竹の様なものゝ中に宿るのではなく、人自身が、ものゝ中に這入つて、魂をうけて来るのであつた。をかしな考への様であるが、日本人が、最初から、現実に魂を持つて来て居ると考へたら、こんな話は出来なかつたと思はれる。即、容れ物があつて、たまがよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた。
たまとたましひとの区別
たまからたましひに這入つて見ると、用語例が、さまざまに混乱してゐて、自分にも、賛成の出来ない様な、矛盾した気持ちで話をしなければならぬが、たまとたましひとは、並んで居るのだから、此はどうしても、別のものと考へねばならぬ。たましひはたまのひで、即、火光を意味する、と説明した学者があつたけれども、其は信じられない説である。少くとも、第二義に堕ちた説明だと思はれる。やはり実際に使うてゐる例から、考へねばならぬと思ふが、大和だましひとか、其外、平安朝に書かれた用語例などで見ると、此は知識でなく、力量・才能などの意味に使はれて居るので、活用する力・生きる力の意を持つた、極端にいへば、常識といふことにもなるので、或学者は、大和魂を常識として説明したが、其までには考へなくとも、少くとも、働いてゐる力、といふ事にはなるのである。
沖縄へ行つて見ると、此二者の使ひ方が、明らかに違ふ。たまは、我々の謂ふたましひの事で、たましひは、才能・技倆を意味する。ぶたましぬむん(不魂之者(ブタマシノモノ))と言ふのは、器量のないもの・働きのないものと言ふことになるので、平安朝時代の用語例と、非常によく似た近さを、持つて居るのである。
さうすると、たまとたましひとの区別は、どこにあるかと言ふ事になつて来るのだが、其説明は、簡単には出来ない。とにかく、少くとも、たましひと言ふものは、目に見える光りをもつたもの、尾を曳いたものではない。抽象的なもので、体に、這入つたり出たりするものがたまだつたのであるが、いつか其が、此を具体的に示した、即、たまのしんぼるだつたところの礦石や動物の骨などだけが、たまと呼ばれ、抽象的なものゝ方は、たましひと言ふ言葉で、現される様になつた。大変な変化が起つた訣である。
此、たまとたましひとの区別に就いては、いづれ機会を見て、もう一度話をして見たいと思ふ。
 
雛祭りの話

 

淡島様
黙阿弥の脚本の「松竹梅湯島掛額(シヨウチクバイユシマノカケガク)」は八百屋お七をしくんだものであるが、其お七の言葉に、内裏びなを羨んで、男を住吉様(スミヨシサマ)女を淡島様(アハシマサマ)といふ条(クダ)りが出てくる。お雛様を祭る婦人方にも、存外、淡島様とお雛様との関係を、知らぬ人が多いことゝ思ふ。
古くは願人(グワンニン)といふ乞食房主があつて、諸国を廻りめぐつて、婦人たちに淡島様の信仰を授けまはつたのである。そして、婦人たちからは、衣類を淡島様に奉納させたのであつた。
其由緒(ユカリ)はかうである。昔住吉明神の后にあはしまといふお方があつて、其が白血(シラチ)・長血(ナガチ)の病気におなりになつた。それで住吉明神が其をお嫌ひになり、住吉の社の門扉にのせて、海に流したのである。かうして、其板船は紀州の加太の淡島に漂ひついた。其を里人が祀つたのが、加太の淡島明神だといふのである。此方は、自分が婦人病から不為合せな目を見られたので、不運な人々の為に悲願を立てられ、婦人の病気は此神に願をかければよい、といふ事になつてゐるのである。処々に、淡島の本山らしいものが残つてゐるが、加太の方がもとであらうと思ふ。
東京の近くで物色すると、三浦半島の淡島があり、中国では出雲の粟島、九州に入ると平戸の粟島などが有名である。凡そ、祭神は、すくなひこなの命といふ事になつてゐる。特に、出雲のは、此すくなひこなが粟幹に弾かれて渡られたのだ、といふのである。すくなひこなは其程小さい神様なのである。国学者の中でも、粟島即、すくなひこな説を離さぬ人がある。
処が古事記・日本紀などを覗いた方には、直ぐ判ることだが、すくなひこなの命以外にちやんと淡島神があつて、あの住吉明神の后同様に、海に流されてゐるのである。即、天照大神などを始め、とてつもない程沢山の神々の親神であるいざなぎのみこと・いざなみのみことの最初にお生みになつたのが、此淡島神で、次が有名な蛭子神であつた。
遠い遠い記・紀の昔から、既に、近世の粟島伝説の芽が育まれてゐたことが訣る。一体、此すくなひこなは、常世の国から、おほくにぬしの命の処へ渡つて来た神であり、而も、おほくにぬしと共に、医薬の神になつてゐるし、粟に引かれて来た粟といふ聯関もあり、かたがた淡島神とごつちやにされる原因に乏しくないのである。でも、其は後世の合理的な見解に過ぎないので、もつと色々な方面から、お雛様の信仰と結び附いたのであつた。
此淡島様の祭日は3月3日であつて、淡島を祈れば、婦人病にかゝらず、丈夫な子を持つ、と信ぜられてゐたのである。此は、3日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除(ミソギハラヘ)をした遺風が底に流れてゐるらしい。一方、3月3日を祓除の日とする事は、日本ばかりではなく、支那にもあつた事で、寧、大部分支那から移された風と見ることが出来る。
唯、単に春やよひの季節のかはる頃、海に出て、穢れを洗ふといふのは、古くからあつたと見られる。支那では、古く3月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、宴飲をした。其が形式化して曲水(ゴクスヰ)の宴ともなつたので、通常伝へる処では、魏(ギ)の後、上巳をやめて3日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つてゐるのだといふ。同じ例は端午の節供に見出される。始め、五月最初の午の日であつたものが、5日に決められても、やはり、端(ハジ)めの午なのである。
かうして支那の信仰が、日本在来の宗教上の儀礼と結合して、上巳の祓へといふものが盛大に行はれるに至つたのであつた。唯、必しも女ばかりが、此日に祓除した訣ではなかつたらうが、ともかく、女の重要行事であつた事だけは認められるであらう。
雛人形と女神
此までの学者の説明では、其時に穢れを移して、水に流す筈の紙人形が流されずに、子供・女の玩び物になつたのが、雛祭りの雛だ、といふことになつてゐる様である。穢れを移す人形とは即、撫(ナ)で物(モノ)・形代(カタシロ)・天児(アマガツ)などの名によつて呼ばれるものである。なる程、かう説明すると、上巳の節供と雛人形との関係、延いては淡島との聯絡もつかう。が、も少し考へて見る必要がないであらうか。
従来の我が国の好事家肌の学者の研究では、人形の歴史といふものが、比較的、時代の新しい処に限られてゐる様である。殆ど此撫で物位が人形の起原をなすもの位に考へられてゐるが、なかなかそんな短い歴史ではかたづけられないのである。
もとはやはり、信仰上の対象として、生れたものに違ひはないが、祭りの中心行事に人形の与ることは、平安朝あたりから近世までは証拠がある。こんな人形は主に、さいのを又はせいのうと呼ばれてゐた。此を直に御神体と見立てたといふ程の、古代の形は見あたらぬが、万葉集あたりに採録された、民謡の中には、古事記・日本紀に洩れた昔物語であつて、極めて素樸な身振り芝居、或は偶人劇の舞踊であつたらしいものが、相応に見つけられるのである。万葉巻13其他に見えてゐる劇的の脚色を持つた長歌の類には、其を演ずる人或は人形を予期することなしには、独立して存在出来ぬ様なものがあるのである。何かしら身振りが入らなければ、文句だけでは足りないのである。
さうした神事に使はれる偶人が、次第に遊戯化して来る道程には、きつと、此神事演劇が梯渡しをしてゐるに違ひない。
勿論、平安朝頃の上流の女たちの玩び物には撫(ナ)で物(モノ)・形代(カタシロ)・天児(アマガツ)などいふ名で呼ばれた人形はあつたのであらうが、祓除の穢れを移す人形を、其儘、玩具にしたとはいへない。形が同じである処から、同様な名前を附けたと見ることも出来るし、殊に、天児(アマガツ)などは祓除以外の神事の人形であることを見せてゐるものらしい。更に更級日記に見えてゐるをみな神なども、単なる形代ではなかつたであらうと思はれる。
厳粛な宮中の祭祀の中で、一種ひようきんな趣きを見せてゐたものに、大宮之(オホミヤノメ)祭りがある。東国風を多量に取り込んで、其儀礼は野趣横溢、文字通りなものであつた。此には名高い大宮之祭りの祭文があつて、其が誦まれる対象は、宮中の八神殿といふよりも、寧、其折臨時に拵へる竹の柄につけられた華蓋(キヌガサ)、其に結び下げた男女三対、並びに一人の従者の人形にあつたらしい。つまり、其が祀られたらしいのである。此が宮中では、古くひゝなといはれてゐた様である。
大宮之祭りとは12月の初午の日に行はれたもので、後世の2月の初午の稲荷(イナリ)祭りの源流だ、と考へられてゐる。此祭りの目的には、悪事災難を除却するといふ意味はあつたのであるが、其ひゝなたちを必しも、撫で物其他の如く、人間の穢れを脊負つて往つてくれるものとも決められない。通常は此を以て、大宮之以下の神々の象徴と見てゐたらしいのである。
ひゝなといふ言葉は、古く長音符の用法を発明しなかつた時代に、長音を表すのに同音を重ねたものであらう。鶯(ウグヒス)をほゝき鳥、帚(ハウキ)をはゝき、蕗をふゝきなど言ふ風に表すことが多かつた。此ひゝなも其一例である。であるから、ひゝなが約まつて、ひなになつたといふ様なことは、万が一にもないことで、ひなを長音化して用ゐることが多かつた為でなければならぬ。
想像すれば、ひなは一対のものといふ程の意味を持つてゐたらしく考へられるが、暫く其危険を避けても、鳥の雛の如く可憐なもの、又は形代の意味の人間のひながたといふ様な語から、出たものでないことは明言出来る。
前にもいつた「女神」があるからには「男神」もあつたのであらう。其を合せて、ひゝな神と言うたことも、略推定出来るのである。
奥州のおしらさま
此処まで述べて来ると、ひらりと私の頭をよぎるものがある。此には何らの関係もないことかも知れぬ。或は、切り離せないものであるかも訣らない。ともかく、おもしろい類似を持つてゐるのは、奥州地方から北海道にかけて行はれてゐる、養蚕・狩猟の神と考へられて来たおしら様といふ、人形式の御神体のあることである。
おしら様には馬などの動物の頭のもあるが、大体に於て、男女一対のものが多い様である。而も、しら・ひなは音韻の関係が、頗、密接であるから、万更、没交渉のものと思はれぬ。
さすれば、ひなは男神・女神の揃つたもので、祓除の形代(カタシロ)以前からあつたものと思うてもよからう。それが3月3日に祭日を定めることになつたのは、大宮之祭りと同様此偶神を対象として、この日の儀礼を行うた家々の民間祭祀から、出てゐるものではなからうか。
さうとすれば、其処に、淡島風の形代信仰と一致融合すべき点が出来てくる訣である。尤、淡島様の配流は、撫で物の水に捨てられる形が、人格化せられて、事実の如く考へられて来たものであらうかと思ふ。
茲に、一つ断つておきたいことがある。崇神天皇の巻に見えた、山城のひら坂の上で、腰裳の少女が童謡(ワザウタ)を歌ふ、あの句の中に「ひめなすびすも」と出てくることである。「姫の遊びすることよ」の意で、雛人形を玩ぶ後世の雛祭りの古い形だといふ様な考へは、撫で物にせおはせて海上遠く放ちやつてよからうではないか。
 
桃の伝説

 

「桃・栗三年、柿八年、柚は九年の花盛り」といふ諺唄がある。実(ナ)りものゝ樹としては、桃は果実を結ぶのは早い方である。
一体、桃には、魔除け・悪気ばらひの力があるものと信ぜられて来てゐる。わが国古代にも、既に、此桃の神秘な力を利用した話がある。黄泉の国に愛妻を見棄てゝ、遁れ帰られたいざなぎの命は、後から追ひすがる黄泉醜女(ヨモツシコメ)をはらふ為に、桃の実を三つとりちぎつて、待ち受けて、投げつけた。其で、悪霊から脱れる事ができたので「今、おれを助けてくれた様に、人間たちが苦瀬(ウキセ)に墜ちて悩んだ場合にも、やはりかうして助けてやつてくれ」と、桃に言ひつけて、其名として、おほかむつみの命といふのを下されたと伝へてゐる。
後世の学者は、桃の魔除けの力を、此神話並びに支那の雑書類に見えた桃のまぢっくの力から、説明しようとして居る。支那側の材料は別として、いざなぎの命の話が、桃に対する信仰の起原の説明にはなつて居ない。寧、当時すでに、桃のさうした偉力が認められてゐたので、其為に出来た説明神話と言ふべきものであらう。何故ならば、偶然取つて投げた木の実が、災ひを遠ざけたといふ話は、故意に、其偉力を利用してゐるからであり、魔物を却けようとする民俗と、幾足も隔つてはゐないからである。尠くとも、古事記・日本紀の原になつてゐる伝説の纏まつた時代、晩くとも奈良の都より百年二百年以前に、既に行はれてゐた民俗の起原を見せて居るに過ぎない。
何故こんな風習があるのか訣らぬ処から、此話は出来たのである。さすれば、其風習は、何時頃、何処で生れたものであらうか。国産か、舶来か。此が問題なのである。書物ばかりに信頼することの出来る人は、支那にかうした習慣が古くからある処から、支那の知識が古く書物をとほして伝はつたもの、と説明してゐるのである。又、わが国固有の風習だと信じてゐる人もあるが、何れにしても、日支両国の古代に、同じやうな民俗があつたといふことは、興味もあり、難かしい問題でもある。此場合、正しい解釈が二とほり出来るはずである。
桃並びに其に似た木の実の上に、かうした偉力を認めてゐる民族は尠くない。だから、支那と日本とで、何の申し合せもなく、偶然に一致したものと考へるのが一つ、其から今一つは、わが国の歴史家が想像してゐる以上に、支那からの帰化人の与へた影響が多かつたところにある。
其は、此までの学者が書物の上の知識を、直ぐさま民間の実用に応用する事ができもし、行(ヤ)つても来たと考へてゐる学問上の迷信が、目を昏まして、真相を掴ませなかつたのであるが、たくさんの帰化人の携へて来たものは、単に、文化的な物質や有効な知識ばかりではなかつた。其故土で信じ、行ひして来た固有の風俗・習慣・信仰をも其まゝ将来して来た。彼等の帰化の為方が、個人帰化ではなく、団体帰化として、全村の民が帰化したといふ様な場合が多かつたのであるから、彼等は憚る処なく、其民俗を行ひ、信じてゐた事が考へられる。文化の進んだ帰化人の間の民俗が、はいから嗜(ズ)きの民衆の模倣を促さずに居る筈はない。
支那並びに朝鮮に行はれてゐた道教では、桃の実を尊ぶことが非常である。知らぬ人もない西王母は道教の上の神で、彼の東方朔が盗み食ひをしたといふ三千年の桃の実を持つてゐたのである。かうした桃の神秘の力を信ずる宗教をもつ人々が、支那或は朝鮮から群をなして渡来し、其行ふところを、進歩した珍らしい風習として、まねる事が流行したとすれば、我々が考へるよりも根深く、汎(ひろ)く行はれ亘つたものと思はれる。
古事記・日本紀にある話が、全然、神代の実録だ、といふやうなことは考へられないのであるから、此話が、人皇の代になつてから這入つて来た、舶来の民俗を説明してゐるものだ、といふことの出来ない訣はない。だから、右の神話は国産、民俗は古渡りの物というてもよろしからう。今日のところでは、此以上の説明はできないと思ふ。
何はしかれ、1500年、或は2000年も前から、此桃の偉力は信ぜられてゐた。桃の果実が女性の生殖器に似てゐるところから、生殖器の偉力を以て、悪魔はらひをしたのだといふ考へは、此民俗の起原を説明する重要な一个条であらう。桃に限らず、他の木の実でも、又は植物の花にすら、生殖器類似のものがあれば、それを以て魔除けに利用する例はたくさんある。あの5月の端午の菖蒲のごときも、あやめ・しやが・かきつばたなど一類の花を、女精のしむぼるとしてゐるのから見ても知れよう。
なほ一个条を加へるならば、初めに言うた、桃の実りの速かなことも、此民俗を生み出す原因になつたであらう。
桃といふ語は、類例から推して来ると「もも」の二番目の「も」字は、実の意味である。木の実の名称にま行の音が多く附いてゐるのは、此わけである。単に、日本の言葉ばかりから、桃の民俗を説明するならば、桃と股、桃と百などいふ類音から説明はつくであらうが、同様の民俗をもつてゐるたくさんの民族があるとすれば、同じ言語の上の事実がなければ、完全な説明とはならぬのである。我が国の桃には、実りの多い処から出たといふ「百」からする説明もあるが、此はやはり、多産力の方面から見れば、此民俗の起原の説明にはなるだらう。
人間以外に偉力あるもの、其が人間に働きかける力が善であつても、悪であつても、人力を超越してゐる場合には、我々の祖先は、此に神と名を与へた。猛獣・毒蛇の類も、神と言ひ馴らしてゐる。山川・草木・岩石の類も亦神名を負うたものが多い。桃がおほかむつみといふ神であるのも不思議はない。神名があるからとて、神代にこの事実があつたらう、といふ様な議論は問題にならない。
さて、桃太郎の話である。話が今の形の骨組みに纏まつたのは、恐らく、室町時代のことであらう。併し、其種は古くからあるのである。我々の神話・伝説・童話は書物から書物へ伝はつて、最後に、人の口に行はれるといふやうな考へ方は無意味である。書物は、全部のうちの一斑をも伝へて居ないのである。併しながら、古代の話は、書物から採集する他はないので、同じく書物をとり入れるにしても、其用心は必要である。
聖徳太子と相並んで、日本の民間芸術の始めての着手者と考へられて来た秦(ハタ)ノ河勝(カハカツ)は、伝説的に潤色せられたところの多い人である。昔、三輪川を流れ下つた甕をあけてみると、中から子どもが出た。成長したのが右の河勝であると言はれてゐる。此話の種は近世のものではない。秦氏が帰化人であるごとく、話の根本も舶来種である。我々の祖先の頭には、支那も朝鮮も、口でこそもろこしと言ひ、韓(カラ)(から国は古くは、朝鮮に限つてゐた)というて区別はしてゐるけれど、海の彼方の国といふ点で、ごつちやにしてゐた跡はたくさんに見える。支那から来たものとせられてゐる秦氏に、此河勝の出生譚があるところから見ると、秦氏の故郷の考へに、一つの問題が起る。
一体、朝鮮の神話の上の帝王の出生を説くものには、卵から出たものとする話が多い。其中には、河勝同然水に漂流した卵から生れたとするものもある。竹の節(ヨ)の中にゐた赫耶(カグヤ)姫と、朝鮮の卵から出た王達(キンタチ)とを並べて、河勝にひき較べてみると、却つて、外国の卵の話の方に近づいてゐる。此は恐らく、秦氏が伝へた混血種(アヒノコダネ)の伝説であらうが、同じく桃太郎も、赫耶姫よりは河勝に似、或点却つて卵の王に似てゐる。
思ふに、桃太郎の話には、尚、菓物から生れた多くの類話があるに違ひない。奥州に行はれてゐる、瓜から生れた瓜子姫子などゝ、出生の手続きは似てゐる。桃太郎・瓜子姫子間に出生の後先きをつけるわけにはいかないが、話としては、瓜子姫子の方が単純である。ともかくも、甕から出た河勝と桃太郎・瓜子姫子との間には、書物だけでは訣らない、長く久しい血筋の続きあひがあるに違ひない。
海又は川の水に漂うて神の寄り来る話は、各地の社に其創建の縁起として、数限りなく伝へられてゐる。古書類にも同型の伝説が、沢山見えてゐるのみならず、今も、祭礼の度毎に海から神の寄り来給ふ、と信じてゐる社さへある。
遥かな水の彼方なる神の国から神が寄り来ると言ふ事を、誕生したばかりの小さな神が舟に乗つて流れつく、といふ風に考へてゐる人々もある。北欧洲の海岸の民どもが、其である。記・紀で見ても、蛭子(ヒルコ)ノ命の話は、此筋を引くものであり、同様に、すくなひこなの神も、誕生した神と云ふべきが脱して伝はつたもの、と考へる事が出来る。
水のまにまに寄り来る物の中から、神が誕生すると言ふ形式が、我が国にも固有せられてゐて、或英雄神の出生譚となり、世降つて桃から生れた桃太郎とまでなり下りはしたが、人力を超越した鬼退治の力を持つて、生れたと言ふ処から見ても、桃太郎以前は神であつた事が知れよう。
桃太郎が成長して、鬼个島を征伐するやうになつてからの名を、百合若大臣だといふのが、其昔、鬼个島であつた、と自認してゐる壱岐の島人の間に伝はる話である。何故、桃太郎が甕からも瓜からも、乃至は卵からも出ないで、桃から出たか。其は恐らく、だんだん語りつたへられてゐる間に、桃から生れた人とするのが一番適当だ、といふ事情に左右せられて、さうなつたものと思はれる。聯想は、無限に伝説を伸すものである。
 
まじなひの一方面

 

まじなひ殊に、民間療法と言はれてゐるものゝ中には、一種讐討ち療法とでも、命(ナヅ)くべきものがある様である。蝮に咬まれた時は、即座に、其蝮を引き裂いて、なすりつけて置きさへすればよいとか、蜂をむしつて、螫された処に擦り込んで置かなくてはならぬ、など言ふのが、其である。
幼い心を持つてゐた昔の人にとつては、人を悩し苦める毒を、身内に蓄へてゐる毒虫などが、どうして、自身其毒にあたらぬだらうと言ふことは、可なりむづかしい疑問であつたに違ひない。其にはきつと、其毒を消すに足るだけの要素を同時に、一つからだに具へてゐるに違ひない、と解釈するより外に、為方はなかつた事と思ふ。
ばちぇら氏の下女であつたあいぬが、主人が畑から南瓜の双子をとつて来て、食べようとしてゐるのを止めて、「さういふ畸形のなり物を食べるには必、片方食べてはならぬと言ひます。両方とも喰べてしまはねば、祟りを受けます。前半の祟りは、後半が祓ふことになつて居るのですから」と言うた(あいぬ人及其説話)話は、やはり、蝮や蜂の場合と、同じ考へを語つてゐるのであつた。「毒喰はゞ皿まで」など言ふ、粗大な諺の源も、或はこんな処に、存外なひつ懸りを持つてゐるのかも知れぬ。一方、われとわが身内(ミウチ)の毒の鬱積に苦しんで、毒蛇などが、人の救ひを受けたと言ふ形の話も、ちよいちよい見える。かういふまじなひの出来た、一面の理由を語るものである。
今日まじなひと言ふ語に、おしなべて括んで居る事がらも、実は、其分類に不適当なものを雑へてゐる。一体此語は、不合理と言はぬ迄も、我々の思惟を超越した結果を、必然的に喚び起す意味であるから、正当な除去の方法とは、人皆考へてゐぬのである。喰ひ合せをこはがるのと似た、先人の経験に対する、漠然とした信用と見てよからう。而も、祈祷や医薬の中に籠るべきものまで雑つてゐるのが、後世のまじなひで、語原の意識がまだ失はれずして、内容は既に、多分の変移を来して居るのである。
まじは、精霊の不純な活動を言ふ語で、能動者を人と限らず、精霊自身なることもあるのが、霊の純・不純の作用に恐れもし、讃美もした大昔の時分のまじなる語の用語例である。母(オモ)の乳汁(チシル)や貝殻がやけどを癒したのは、まじなひに籠りさうだが、実は、正当な薬物療法で、酒(クシ)を其最いやちこな効果を持つもの、と考へてゐた、くする(くす--くし)と言ふ行ひであつたと思ふ。
くするは霊の純用で、まじなふの古い形まじこるは、其不純な活用である。
まじなふは、近代風の語に飜(ウツ)すと、悪魔の氏子となることである。まじものを外に使ふ者があつて、自分が悪い結果を受けた時即、まじこると言ふのである。
まじこりを呪咀(トコヒ)の結果と見るのはわるい。他に関する悪意と言ふよりも、利己的な動機の為に、人を顧る暇のなかつた場合を斥(サ)すのである。とこふは社もあり、人も崇める神の現れであることもあるが、まじこりは多く雑神(ザツシン)・埋(ウモ)れ神(ガミ)・浮浪神(ウカレガミ)・新渡神(イマキノカミ)の作用であつたものと見える。
 
はちまきの話

 

現在の事物の用途が、昔から全く変らなかつた、と考へるのは、大きな間違ひである。用途が分化すれば、随つて、其意味もだんだん変化して来る。はちまきの話は、ちようど此を説明するに、よい例になるだらうと思ふ。
さて、はちまきは、どういふ処から出たか、と今更らしく言ふまでもないが、被りものゝはちまきに到るまでに、幾度かの変遷を経てゐる。はちまき・手拭ひなどは、もとは一つもので、更にはちまきは、頭に巻くものか、顔を隠すものか、ほゝかむりするのがほんとうか、と言ふ点になると、色々の問題が含まれてゐる。手拭ひは恐らく、以前は顔を隠すものと、手を拭ふものとの両方面があつたのが、だんだん手を拭ふ方面へ進んで来たのかと思はれる。
私が沖縄へ行つた時撮つた、かつらやはちまきの写真があるが、誰でも此を見れば、かつらとはちまきとは関係のあるものだ、と考へるに違ひない。とにかく、今役者のつけるかつらと、昔の人が被つたかつらとは、同一の起原から出たものだと言ふことだけは訣る。
名高い山城の桂ノ里にゐた「桂女」は、一種の巫女であつた事は、色々説明せられてゐる通りであるが、桂ノ里に住んでゐたから桂女と称するのか、それともかつらを著けてゐるから桂女と称したのか、尠くとも、二様の見方があるであらう。かつらおびと称するものも、果して、桂女がするからさう称するのか、其とも、もとはかつらであつたのが、変つてからでもかつらおびを称せられたのか、色々と考へられる。ともかく、桂女と言ふのは、頭にかつらをしてゐたから、さう言はれたのだらう、と私は考へる。桂ノ里に、必、住むものとは限らないから、偶然、桂ノ里に住んでゐたのであらう。
かつらの呼び方であるが、かつらと清(ス)んで言ふのが正しいか、かづらと濁るのが正しいか。昔は音の清濁は、其ほど正確ではなかつたのだから、かづらと濁つてもよいので、寧、私の考へ方からいふと、かづらと言ふ方が統一がついて都合がよいのである。
さてかづらからどういふ風にして、はちまきにまで到達する変化を経たか。

桂女が巫女であつた事はあたりまへで、柳田先生が「女性」の7巻5号に「桂女由来記」と言ふ論文を載せられて、色々材料も提供せられてゐるが、女が戸主であつたこと、将軍家に祝福に行つたこと、御香(ごかう)宮に関係のあつたこと、それから巫女であつた事に間違ひはない。社から離れても、巫女であつた事は事実である。そして、かづらを頭に纏いてゐたからかつらめと称したので、かつらまき・かつらおびのかつらも、かづらである。
かづらには、ひかげのかづら・まさきのかづらが古くからあり、神事に仕へる人の纏きつける草や柔い木の枝などで、此が後のかもじとなるのである。髢(カモジ)は、神々の貌をかたどつたから、称するのだといふが、かつらの「か」を取つてか文字と言うたのが、ほんとうであらう。倭名鈔にかつら・すへとある。かつらは頭全体に著けるもので、すへはそへ毛である。又、源氏物語末摘花の巻に、おち髪をためて、小侍従にかつらを与へた、とあるのは、髢である。
桂女の被るかつら、役者の著けるかつらと言ふ風に色々あるけれども、つらはつると同じ語で、かづらはもと「頭に著ける」蔓草と言ふことであらう。蔓草を、ひかげのかづらなる語にも見える様に、かげとも称したことは、古今集東歌に、
筑波嶺(ツクバネ)のこのもかのもに、蔓(カゲ)はあれど、君がみかげに、ますかげはなし
とあるのを見れば訣る事で、此歌は、山のどの方面にも蔓草があると言うて、みかげ即お姿と言ふ語を起した恋歌なのである。
あめのみかげ・ひのみかげには、祝詞に現れたゞけでも四通りの意味があるが、最初の意味は、屋根の高い処から、垂れ下げた葛の事である。即、蔓草で作つたつなに過ぎない。
五節のひかげのかづらは、後に被りものになつてしまうた。出雲国造神賀詞にあめのみかびといふ語が出て来る。「美賀秘」と書いてあるが、みかげの書き違へか、伝へ違へであらうと言ふから、やはり頭に被るものである。播磨風土記にも蔭山ノ里の条に、御蔭とあり、同じく被りものゝ意に用ゐてある。此等は、皆、被りものに近づいたもので、物忌みのしるしであり、神に仕へる清浄潔白な身であることを示すのである。所謂たぶうである。冠の巾子(コジ)を止める髻華(ウズ)は、後に簪となるのであるが、此はもと、かづらから固定して、此様な別な意味を持つ様になつたのであらうと思ふ。
正月14日の夜、宮中で行はれた男踏歌には、高巾子(カウコンジ)といふ白張りの高い巾子を著けて、踊つて出た。踊つて出るものは、綿で顔を蔽うて出た。勿論、絹綿(マワタ)であらう。眼だけ出して、高巾子の著いた白張りの冠を被つたので、支那の不良の徒の姿をまねたのだ、と言はれてゐるが、すべてさうした風を輸入する時には、何か其処に結合する点がなくては出来ないのだから、全然、此風を輸入だ、とは解せられない。踏歌は、もと歌垣のなごりで、年の始めのほかひの意味のあつたものが支那化したのである。顔を隠すのは、常世神が村々を訪れた時と同じく、神だから隠してゐるのである。
また栄華物語若枝の巻、枇杷殿大饗応の条に「御霊会の細男手拭して、顔を隠したる心持ちする」とある。細男はさいのをで、朝廷では人がなり、八幡系統のものには人形であつた。御霊会には、真の人間が扮装して出たのであらう。顔を隠すのと、頭に被るのとは、かうした関係があるのだが、も少し辿つて行つて見よう。

はね蘰(カヅラ)今する妹をうら若み、いざ、率(イザ)川の音のさやけさ(万葉集巻7)
を始め、万葉集には其他に三首、はねかづらを詠みこんだ歌があるが、皆、性欲的な歌ばかりである。恐らく、女の元服の時に、はねかづらを為たものに相違ないが、どう言ふものであつたか訣らない。契沖は、花蘰として解してゐるが、はねかづらは其まゝで解したいものである。
沖縄では、加冠の時に、黒空頂を予め拵へて置いて、被せる。黒はかづらの変形であらう。そして、男が元服の時、黒をつけたと同様に、女ははねかづらを著けたのではなからうか。
万葉の歌を見ると、処女に手のつけられない、男の悶えを詠んだ歌が沢山あるが、通経前の処女に手を著けるのは、非常に穢れだとしてゐたもので、先年、私が伊豆の下田で聞いた俗謡にも、未だに、其意味が謡うてあつた。ふれいざあ教授は「ごうるでん・ばう」の中に、少女の月事を以て隠れてゐるのを、犯した男が罰せられるのは、少女の神聖を破る為だ、と説明してゐる。併し、此にも、も少し深い意味を考へなくてはならない様である。
元服以前の女に手を附けると、神罰に触れると言ふけれども、日本の神道では、月事があつたり、夫を有つたりすることは巫女たる資格には影響のないことで、神功皇后は二人の主を持たれたので、仲哀天皇は夙く崩御されたのだ、と言ふ程である。だから、神に仕へる女は、真の処女(一)と、過去に夫を有つたことはあるが、今は処女の生活を営む者、即寡婦(二)と、夫を持つてゐても、ある期間だけ処女の生活をするもの(三)とに、分けることが出来る。
尚考へなくてはならぬのは、処女にも二通りある事である。此は男の側から言うても同じで、少年がまづ最初に元服すると、村の小さな祭り、即、道祖神祭りなどに与る事が出来、二度目に元服して、若者となつて、初めて、村の祭りに係る事が、出来る様になるのと同じ様に、少女にも、男の通ひ得るをとめと、真のをとめと二通りあつたのだ。結婚の資格の出来るのは、初めの元服、即裳著(モギ)の後であらう。そして、二度目に元服する時に、はねかづらをしたのではなからうか。
壱岐の島では、独身者が死ぬと、途々花を摘んで頭陀袋に入れてやる。此を花摘み袋と言ふ。死んで行つても、生前村の祭事に与る資格のなかつた者は、行くべき霊の集合地に行つても、幅が利かないので、花を摘んで持たせて遣つたのである。其は、元服の時には物忌みの標(シルシ)にかづらを被ることを意味する。今も、沖縄では其標に三味線かづらを著けるが、殊に、久高島では、のろは籐の様なものを御嶽から取り出して、頭に纏ふのを見ても、元服の時に花を挿したことは疑はれない。即、元服したと言ふ標をして、冥土に送るのである。かづらは、ものいみの標である。
古く領巾(ヒレ)と言ふものがあつた。采女が著けたものだ。昔は、ずつと短かゝつたのであらう。其にしても、其用途は未だに、はつきりしてゐない。「領巾かくる伴のを」などでは、団体を示した様にも見える。女に限らず、隼人などもやつてゐた様である。まじなひの為か、髪を包む為か、どちらかであらうが、私は、髪の毛を包む為に、まじなひの力を持つてゐるのだ、と解したい。采女は、宮中の勝手向きの為事ばかりしてゐた、と考へるのは間違ひで、国造の女・郡領の女、即、国々の神主の女だつたのだから、皆巫女であつたのである。其が、宮廷に上られる事によつて、中央の神道が地方に普及せられたのである。天皇は神であると同時に、神主でもあるのだから、天子の配膳に仕へ、或は枕席に侍ることもあつた。随つて、天子以外の者が手を触れゝば、重い罰を受けたのである。
さうすると、采女の領巾は、髪を乱さないやうにする為に、用ゐてゐたことは明らかである。隼人も其と同じく、神事に関係してゐた為に、蛇ひれ・蜈蚣ひれと称する様に、まじなひの効力を生じたのである。

かう考へて来ると、蔓草を以て頭を纏ふかづら、布巾を以て頭を被ふ領巾と、二つの系統のある事が訣る。これの合一したのが、桂女の桂まきである。能や狂言の女形が、後で結んでゐる帯をかつらおびと言ふのも、能狂言はもと神事から出たのだから、かづらをしたのである。助六のはちまきも、初めは小さかつたもので、若衆には、是非とも必要なものだつたのである。此が変遷して、野郎帽子になつたのであらう。
一体演劇は、東・西其出発点を異にしてゐるので、其時分は、或処では紫帽子、或処では桂帯をしてゐたのだ。此処にも、帽子とはちまきと二通り並ぶ訣だ。女形は後結びのはちまきをしたが、此がはちまきの変形とは考へられない。二つが並び行はれてゐたかも知れないのである。神社芸術から出た能・狂言、その要素を含んで現れた歌舞妓は、女歌舞妓の時代から桂帯を著けてをり、若衆歌舞妓になつても、其風を追うてゐる。団十郎は若衆の家であり、助六も若衆である。二代目団十郎から出た曾我ノ五郎も若衆である。助六のはちまきも、実は、狂言の筋以外の、神社芸術をやつてゐた人の服装の約束なのであつた。
上達部(カンダチメ)の意味は、文字からでは訣らぬ。祭時に祓ひ浄める者をかむだちと言ふ処から見て、まうちぎみと共に神事に関係するものであらう。沖縄の紫の帯を著けたまちぎは、まうちぎみと同じで、やはり神事に与る。
物部の意義も色々説かれてゐる。外から災を与へる霊魂をものと言ひ、鬼(オニ)は此である。平安朝時代には、鬼のことを「もの」と言うてゐる。自分の霊魂は「たま」である。随つて物部は、外から災する恐しい力を持つた霊魂を、追ひやる部曲と解するのが、本義であらう。
武士のするはちまきには種々あつて、即、後で立てるもの、前で立てるもの、狂言に出る町の女房などのするもの等、此等は皆、兜を被る時、下に著けるものと同じで、時には烏帽子を被ることもある。はちまきと烏帽子とは、実は同じもので、戦争に出る人の物忌みの標だつたのである。物忌みをして、敵の持つ力を拒ぐのである。今も片田舎に行くと、お客の前でわざ
わざ手拭ひを被ることをする地方がある。賓客を神として扱ふ遺風で、此例は沢山ある。
おびと、かづらと、手拭ひとは、結局一つである。現に、泉州から曾て私の家に来てゐた若者は、帯のことを帽子と言うてゐた。女は、臨時の物忌みの標に、三尺の布巾を腰に結び、頭に結んだので、帯であると倶に、手拭ひであつたのだ。手拭ひがはちまきになるのも、不思議はないのである。次に、帯は結んでゐるのが本体か、常はせないのが本体か、即、かづらの類か、領巾の類か、と言ふ事は考へなくてはならぬが、領巾は木綿(ユフ)から出発してゐて、此を纏きつけるところから、かづらと同じ効果を現すもの、と考へてよからうと思ふ。二つの系統の習慣が、一つの帯・手拭ひ・帽子と結びついて、近世の如くに、物忌みの標が更に訣らないところまで進んだのである。
 
たなばたと盆祭り

 

この二つの接近した年中行事については、書かねばならぬ事の多すぎる感がある。又既に、先年柳田先生が「民族」の上で述べてゐられるから、私しきが今更此に対して、事新しく、附け加へるほどのことはあるまいと思ふが、顔が違へば、心も此に応じる。又変つた思案も出ようと言ふものである。
たなばたは、7月7日の夜と、一般に考へられてゐる様であるが、此は、7月6日の夜から、翌朝へかけての行事であるのが、本式であつた。此点、今井武志さんの報告にある、信州上水内の8月6日の夜を以てするのが、古形を存するものゝ様である。沖縄に保存してゐるたなばた祭りも、やはり7月6日の夜からで、翌朝になるとすんでゐた。
「水の女」の続稿には、既に計画も出来てゐるのであるが、たなばたといふ言葉は、宛て字どほり棚機であつた。棚は、天(アメ)ノ湯河板挙(ユカハタナ)・棚橋・閼伽棚(簀子から、かけ出したもの)の棚で、物からかけ出した作りである。その一種なる地上・床上にかけ出した一種のたなばかりが栄えたので、此原義は、訣りにくゝなつて了うた。たなと言へば、上から吊りさげる所謂「間木」と称するもの、とばかり考へられるやうになつた。同行の学者の中にも、或はこの点、やはり隈ない理会のとゞかぬらしく、たなを吊り棚とばかり考へてほかくれぬ人もある。
壁に片方づけになつてゐない吊り棚に、年神棚(トシダナ)がある。此は、天井から吊りさげるのが、本式であつた。神又は神に近い生活をする者を、直(ナホ)人から隔離するのがたなの原義で、天井からなりと、床上になりと、自由に、たななるものは、作る事が出来た訣である。棚の一つの型をなす「盆棚(ボンダナ)」と称せられるものは、決して、普通の吊り棚でも、雁木(ガンギ)でもない。此は、地上に立てた柱の上に、座を設けたものが、移して座敷のうへにも、作られる様になつたのであつた。
だが、かうしたたなの中にも、自然なる分化があつて、地上から隔離する方法によつて、名を異にする様になつた。一つは、盆棚形式のもので、柱を主部とするものである。珠玉の神を御倉板挙(ミクラタナ)(記)といふなどは、倉の棚に、此神を祀つたものと見てゐるが、これは、くらだなに対する理会が、届かないからである。くらだなが即(すなはち)倉で、倉の神が玉であり、同時に、天照皇大神の魂のしんぼるであり、また米のしんぼるとして、倉棚に据ゑられたのである。
この倉は、地上に柱を立て、その脚の上に板を挙げて、それに、五穀及びその守護霊を据ゑて、仮り屋根をしておく、といふ程度のものであつたらしく、「神座(クラ)なる棚」の略語、くらの義である。時には、その屋根さへもないものがあつて、それを古くから、さずきと言うた。後に、この言葉が分化した為に、而も、さずきその物の脚が高くなつた為に、別名やぐらと称する称へを生んだ。神霊を斎ひ込める場合には、屋根は要るが、それでなくて、一時的に神を迎へる為ならば、屋根のないのを原則としてゐた。後には、棚にも屋根を設ける様になつたが、古くは、さうではなかつたのである。
だから、やまたのをろちの条に、八つのさずきを作つて迎へた、といふ事も訣るのである。此が、特殊な意義に用ゐられた棚の場合には、一方崖により、水中などに立てた所謂、かけづくりのものであつた。偶然にも、さずきの転音に宛てた字が桟敷と、桟の字を用ゐてゐるのを見ても、さじき或は棚が、かけづくりを基とした事を示してゐる。後には、此かけづくりをはしどのなどゝさへ称する様になつた。だから、考へると、市廛(イチタナ)の元の作りが訣つて来る様に思ふ。恐らく、異郷人と交易行為を行ふ場処は、かうした棚を用ゐたので、その更に起原をなすものは、棚に神を迎へ、神に布帛その他を献じた処から、出てゐるのである。
さうした意味から考へると、日本紀天孫降臨章にある、
天孫又問曰、其於ニ二秀起浪穂之上(ホダタルナミノホノウヘ)一、起(タテ)二八尋(ヤヒロ)殿ヲ一而、手玉玲瓏織(タダマモユラニハタオル)之少女(ヲトメ)者、是ハ誰之女子耶(ガヲトメゾ)。答ヘテ曰ハク、大山祇神之女等。大(エヲ)号ヒ二磐長姫ト一少(オトヲ)号フ二木華開耶姫ト一。
とある八尋殿は、構への上からは殿であるが、様式からいへば、階上に造り出したかけづくりであつた、と見て異論はない筈である。此棚にゐて、はた織る少女が、即棚機つ女(メ)である。さすれば従来、機の一種に、たなばたといふものがあつた、と考へてゐたのは、単に空想になつて了ひさうだ。我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋交叉(ユキアヒ)の時期を、邑落離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。
かうして来ると、従来、
天(アメ)なるや、おとたなばたのうながせる、玉のみすまる、みすまるに、あな玉はや。三谷二渡(ミタニフタワタ)らす、あぢしきたかひこねの神ぞや(記)
といふ歌のたなばたも、織女星信仰の影の、まだ翳さない姿に、かへして見る事が出来るのである。おとといひ、玉のみすまるといひ、すべて、天孫降臨の章の説明になるではないか。而も、其織つた機を着る神のからだの長大な事をば形容して、三谷二渡(ミタニフタワタ)らすとさへ云うてゐるではないか。此は美しさを輝く方面から述べたのではなく、水から来る神なるが故に、蛇体と考へてゐたのである。
かうした土台があつた為に、夏秋の交叉(ユキアヒ)祭りは、存外早く、固有・外来種が、融合を遂げたのであつた。其将に外来種を主とする様に傾いた時期が奈良の盛期で、如何に固有の棚機つ女に、織女星信仰を飜訳しようとしてゐるかゞ目につく。此様に訪ねて来た神の帰る日が、その翌日である為に、棚機祭りにくつつけて、禊ぎを行ふ処すらある。畢竟、祓へ・棚機の関係は、離すべからざるもので、暦日の上にあるいろんな算用の為方は、自然に起つた変化と見てよい。第一に禊ぎ自身が、神の来る以前に行はれる--吉事を期待する所謂吉事祓へ--行事であつた筈である。それが我々の計り知れぬ古代に、既に、送り神に托して、穢れを持ち去つて貰はうといふ考へを生じて来た。今日残つてゐる棚機祭りに、漢種の乞巧奠は、単なる説明としてしか、面影を止めてゐない。事実において、笹につけた人形を流す祓へであり、棚機つ女の、織り上げの布帛の足らない事を悲しんで、それを補足しよう--「たなばたにわが貸すきぬ」などいふ歌が、此である--といふ、可憐な固有の民俗さへ、見られるではないか。だから、この日が、水上の祭りであることの疑念も、解ける訣である。
中尾逸二さんの郷里で行はれた「なのか日」の行事が、又一面、たなばた祭りの面影を見せてゐる。他から来る神を迎へる神婚式即、棚機祭り式で、同時に、夏秋の交叉を意味するゆきあひを、男(ヲ)神・女(メ)神のゆきあふ祭りと誤解し勝ちの一例を見せてゐる。すべての点から見て、たなばた祭りは、霊祭りと、本義において、非常に近い姿を持つてゐる。

七夕から盆へ続く間には、わが国の民俗の上に、意味のある行事が多くあつた。其中、最注意せられるのは「生き盆」即「いきみたま」の祭りである。この頃、聞く事甚稀になつたが、以前は盛んであり、此に関する文献も、可なり古く、溯れる様に思ふ。室町の頃から見える「おめでたごと」と、一つ行事である。
我々の過去には、正月の「おめでたう」の上に、今一度「おめでたう」を盆に唱へて、長上の健康を祝福したのであつた。これを、死者にする聖霊会と分つ為、13日以前に行ふ事にしてゐた。盆礼の古い姿である。親・親方・主人の為にしたのが、殊には、族人の長上に向つて行ふ風が、目だつて見えた。
正式な形は、恐らく一人--、ばらばらに出かけて、祝うて帰る、といつた風ではなく、定つた日に、長上の家に集つて、家主に向つて、一同から所謂、おめでた詞(ゴト)を述べたのであらう。正月ならば、てんでに、鏡餅を持つて据ゑに行く処を、多く、塩鯖を携へて行くやうに、手みやげの分化が、行はれてゐた。此鯖を捧げる極りは、未だに行はれてゐるやうであるが、元はかうした品物を、一般にさばと称へてゐたのが、さばならば一層、さかなの鯖にした方が、言葉の上の祝福の効果も多からう、といふ考へから、いつか、さかなになつて行つたものと思ふ。実の処、年暦の改まる時に奉つたものは、魂であつたので、さば--産飯(サバ)と書きなれてゐる所の--といふ語で表す様になつたのには、聯想の、他から加つて来たものと考へる。だから、此をも、たまといふべきなのだらうが、長い年月の間に、盆・正月二期の同じ行事を、特殊な言葉で言ひ分ける必要を感じて来たのであらう。
魂を献上する式については、年末年始の際に、くり返す必要が、今から見えてゐるから、其時まで、説明の省略を許して頂くが、今言うてよい事は、なぜその魂を、生者にも、死者にも奉らうとするのであるか、といふ点である。死者の魂祭りに関しては、まつりの語の内容が、変化した近代において、前代から承けついだまゝの語形、たまゝつりを俗間語原説から、亡き魂を奉祀すると考へてゐる。だが、語自身、疑ひもなく、魂を献上する行事の意味である。まつりなる言葉は、長上に献ずる義から、神の為の捧げものを中心にした祭儀といふのが、古意なのである。
死者に奉る魂の事は、年末の荷前使(ノザキノツカヒ)が、宮廷尊族の近親の陵墓へたてられたことから見ても、明らかである。この荷前(ノザキ)は、東人が捧げた、生蕃の国々の威霊であつたのを、天子から更に、まづ陵墓に進められたことゝ解する外はない。さうすると亡魂が返るのを、迎へてまつるといふのではなく、亡者に孝養(ケウヤウ)を示す為に、生前同様、目上としての待遇を、改めなかつたのであると思ふ。これが、次第に変化して来た処へ、仏家或は、仏教味を多く含んだ、前期陰陽道の習合観の加へられたもの、といふ見地の上に、研究を進めて行つて、さし支へはなからう。盂蘭盆と、年頭礼とを、全く別々に、一つを死者の為に、一つを生者の為と漠然たる区別をつける様になつても、やはり以前のおもかげは、隠れきつてゐないのである。この意味において、我々は、生き盆の材料・方式を、今のうちに、共同努力の下に、蒐集しておきたいと思ふ。
今一つ、この盆の期間に、大事の行事があつて、今や完全に、その転義をすらも忘れ去らうとしてゐる。其は、たなばた前後から、此時期に渡つて行はれる、ぼんがまの行事である。歳暮に行うたと称する「庭竈」の都風は、歌枕以後、誹諧の季題にまで保存せられてゐる。今も、荘内辺では、刈り上げ後に、にはなひ行といふことをする。家の内にゐないで、庭にゐて、所在なさに、縄を綯ふ物忌みだからといふので、勿論、新嘗と関聯する所はあるのであるが、これらの事実を見ても、一家族或は或種の人々が、家の建て物のうちにはゐないで、別に煮焚きの火床を構へて、謹慎する日があつたのである。
此が、1年後半期の年頭とも称すべき、盆の時において行はれるのが、専、村の少女の間にくり返されてゐる、右のぼんがまなのであつた。恐らく、童遊びのまゝごと・おつかさんごとなどいふ形を生み出した、元の姿として見るべきであらう。年頭に、男の子たちが、鳥小屋・かまくら・道祖神小屋などに籠るのと、一つ意味のものであるが、かうして分居した団員が、その謹慎によつて、新な社会的資格を得る様になつた、と見る事が出来る。
即、同じ物忌みの沢山ある中でも、このぼんがまは、女に対する成年戒--謂はゞ、成女戒とも名づくべき--の授けられる前提と見るべきである。此行事は、道祖神祭りに与る団員たちよりも、今少し年齢が自由で、かなり年たけた娘たちも、仲間入りしてゐる事を思へば、成年戒に対して行はれた準成年戒--幼童から村の少年・少女となる--よりは、広く、成女戒に属したものではないかと思ふ。だが、尚考へて見ると、此に先だつて行はれる早処女(サウトメ)定めとしての、卯月の山籠りのあるから思へば、もともと、その範囲は、成女・成年となるべき人々をつくる、準成年戒授与の時期と見る方が、穏当らしく考へられるのである。
さう謂へば、おなじく「盆」を以て称せられる地蔵盆--又、地蔵祭りとも--の如きも時期は稍遅れて行はれるが、七夕・盂蘭盆に関係の浅くない事を見せてゐる。正式には、7月24日、処によつては、月見の頃に及ぶ事さへある。此が祭り主は、女の子である地方も、男の子である処もある様だ。何れにしても、正月の道祖神祭りとの間に、一脈の通じる処はある様である。
我々は、7月を以て踊り月と称してゐる。文月に行はれる種々の踊りの中、少女中心のものゝ多いのは、事実である。七夕の「小町踊り」盆の「をんごく」「ぼんならさん」など、皆ぼんがまの結集を思はせる。一続きの行事である。男の子の道祖神勧進と、根柢において、かはる所はないのである。

かう述べて来ると、正月と盆とで、男女の子どもの受け持ちが、違うてゐる様に見える。現にさうした傾きも、確にある。だが、更に藪入りの閻魔詣での風と、照し合せて考へると、もつと自由な処が窺はれる。この上元・中元に接した16日を以て、子どもの閻魔に詣る日だと考へはじめたのは、訣のない事とは思はれぬ。正月の分は、恐らく中元の行事から類推して行ふ事になつたのであらうが、此と藪入りとの関聯してゐる点が、問題であると思ふ。閻魔或は地蔵の斎日に、一処に集ふといふ風は、大体、其期日の頃に行はれた古代の遺習の、習合せられてゐるものと考へる事が出来る。第一に、此が藪入りの一条件になつてゐるかの如く見える点において、注意すべきものがある。
年頭、或は中元に、長上のいきみたまを祝福する為に、散居した子・子方等の集り来るのが、近世の藪入りの起りであるらしい。処が、此行事にも、尚重り合うた姿が認められるのである。即、少年少女のみ特に属する所の神を祭る為に、来集するといふ習俗である。
やぶいりなる語の、方言的の発生を持つてゐることは、略見当をつける事が出来る。一地方から出て、広く行はれる様になり、内容も延長せらるゝ様になつたらしい。祭員としての少年少女を要する祭りが、村を出ぬ幼い住民の間に、課せられた時代の行事は、いつまでも、おなじ姿では居られなかつた。村を離れて、遠く住む者の多くなるに従うて、其祭りの時だけは、故郷に還るといふ風を生じて来た。だから、閻魔に詣で、或は地蔵に賽して後、生家を訪ふといふ事は、実は忘れて後の重複であつた。
かう言ふ風に、一つの年中行事も、決して、単一な起原から出てゐないのである。又更に我々は、藪入りと、奉公人出替りとにも、一続きの聯絡を見る事が出来るのである。藪入りを一つの解放と考へてゐる側から見れば、日は違ふだけで、出替りも亦、同様の基礎を持つてゐると思はれる。だから、この方面にも、又別の旧信仰の参加を見るのである。
一陽の来復する時を以て、従来の契約・関係を、全部忘却して了ふと言ふ古風があつた。此為に、1年を二部分に分けて考へる様になつて、盆からも、新しい社会生活がはじまるもの、とする考へ方を生じた。此信仰を、遠い昔から、わりあひに後までも繋いだのは、大祓の儀式の存してゐた為であつた。此によつて、新な状態の社会、旧関係を全然脱却した世間が現れると信じる様な不思議が、正面から肯定せられてゐた。出替りは、此意義において、半面の起原は明らかになる。
私は別の時に、大祓を説いて、以上の年中行事の元の俤を、今少しなりとも、明らかにしたいと考へてゐる。
 
髯籠の話

 

13-4年前、友人等と葛城山の方への旅行した時、牛滝から犬鳴山へ尾根伝ひの路に迷うて、紀州西河原と言ふ山村に下りて了ひ、はからずも一夜の宿を取つたことがある。其翌朝早く其処を立つて、一里ばかり田中の道を下りに、粉河寺の裏門に辿り着き、御堂を拝し畢つて表門を出ると、まづ目に着いたものがある。其日はちようど、祭りのごえん(後宴か御縁か)と言うて、まだ戸を閉ぢた家の多い町に、曳き捨てられただんじりの車の上に、大きな髯籠(ヒゲコ)が仰向けに据ゑられてある。長い髯の車にあまり地上に靡いてゐるのを、此は何かと道行く人に聞けば、祭りのだんじりの竿の尖きに附ける飾りと言ふ事であつた。最早十余年を過ぎ記憶も漸く薄らがんとしてゐた処へ、いつぞや南方氏が書かれた目籠の話を拝見して、再此が目の前にちらつき出した。尾芝氏の柱松考もどうやら此に関聯した題目であるらしい。因つて、自分の此に就ての考へを、少し纏めて批判を願ひたいと思ふ。
髯籠(ヒゲコ)の由来を説くに当つて、まづ考へるのは、標山(シメヤマ)の事である。避雷針のなかつた時代には、何時何処に雷神が降るか判らなかつたと同じく、所謂天降(アモ)り着く神々に、自由自在に土地を占められては、如何に用心に用心を重ねても、何時神の標(シ)めた山を犯して祟りを受けるか知れない。其故になるべくは、神々の天降(アモ)りに先だち、人里との交渉の尠い比較的狭少な地域で、さまで迷惑にならぬ土地を、神の標山と此方で勝手に極めて迎へ奉るのを、最完全な手段と昔の人は考へたらしい。即、標山は、恐怖と信仰との永い生活の後に、やつと案出した無邪気にして、而も敬虔なる避雷針であつたのである。勿論神様の方でも、さうさう人間の思ふまゝになつて居られては威厳にも係ること故、中には天(アメ)ノ探女(サグメ)の類で、標山以外の地へ推して出られる神もあつたらうが、大体に於ては、まづ人民の希望に合し、彼らが用意した場所に於て、祭りを享けられたことであらう。
ちはやぶる神の社しなかりせば、春日(カスガ)の野辺に粟蒔かましを(万葉巻3)
と歌うた万葉集の歌の如きは、此標山を迷惑がつた時代の人の心持ちを、よく現してゐると思ふ。
さて、右の如く人民の迷惑も大ならず、且神慮にも協(かな)ひさうな地が見たてられて後、第一に起るべき問題は、何を以て神案内の目標とするかと言ふことである。後世には、人作りの柱・旗竿なども発明せられたが、最初はやはり、標山中の最神の眼に触れさうな処、つまりどこか最天に近い処と言ふ事になつて、高山の喬木などに十目は集つたことゝ思ふ。此の如くして、松なり杉なり真木(マキ)なり、神々の依りますべき木が定つた上で、更に第二の問題が起る。即、其木が一本松・一本杉と言ふ様に注意を惹き易い場合はとにかく、さもないと折角標山を定めた為に、雷避けが雷招きになつて、思はぬ辺りに神の降臨を見ることになると困るから、茲に神にとつてはよりしろ、人間から言へばをぎしろの必要は起るのである。
元来空漠散漫なる一面を有する神霊を、一所に集注せしめるのであるから、適当な招代(ヲギシロ)が無くては、神々の憑り給はぬはもとよりである。此理は、極々の下座の神でも同じことで、賀茂保憲が幼時に式神(シキガミ)が馬牛の偶像を得て依り来るを見たと言ふ話、更に人間の精霊でも瓜・茄子の背に乗つて、始めて一時の落着き場所を見出すと言ふなども、同じ思想に外ならぬ。神殿の鏡や仏壇の像、さては位牌・写真の末々に到るまで、成程人間の方の都合で設けた物には相違ないが、此が深い趣旨は、右の依代(ヨリシロ)の思想に在るのである。かの天の窟戸開きに糠戸神の苦心になつた八咫鏡を立てたといふのも、考へやうによつては不思議な話で、此を説明して語部の或者が、此様な、あなたよりも立派な神様がおいでになりますから、あなたを煩はさずともよろしいと、皇神(スメガミ)の反抗心を挑発する為に、御影を映す鏡を立てた様に言ふのも、必しも不自然な解釈とは言はれぬ。此も神器の絶対の尊厳を会得せしめん為に、皇神其自ら或は其以上との信仰を持たせようとしたものであらうと思ふ。

一昨年熊野巡りをした節、南牟婁郡神崎茶屋などの村の人の話を聞いたのに、お浅間(センゲン)様・天王様・夷様など、何れも高い峯の松の頂に降られると言ふことで、其梢にきりかけ(御幣)を垂(シ)でゝ祭るとの話であつた。神の標山には必神の依るべき喬木があつて、而も其喬木には更に或よりしろのあるのが必須の条件であるらしい。併しながら依代(ヨリシロ)は、何物でも唯神の眼を惹くものでさへあればよろしいといふわけには参るまい。人間の場合でも、髪・爪・衣服等、何かその肉体と関係ある物をまづ択び、已むを得ざれば其名を呼んだわけで、さてこそ、呪咀にも、魂喚(タマヨバ)ひにも、此等のものが専ら用ゐられたのである。尤、素朴単純な信仰状態では、神の名を喚んだゞけで、其属性の或部分を人間が左右し得たので、神は即惹かれ依るものと信ぜられたのである。念仏宗などは、或点から見れば、実に羨ましい程、原始的な意義を貽してゐる。
今少し進んだ場合では、神々の姿を偶像に作り、此を招代(ヲギシロ)とする様になつた。今日の如き、写生万能の時代から遠い古代人の生活に於ては、勿論今少し直観的象徴風の肖像でも満足が出来た。仏教では、宇宙に遍満し給ふ盧遮那仏(ルシヤナブツ)をさへ具象せしめてゐるが、我古代人には、神も略人間と同じ様子を具へたまふものとの考へはあつたらうが、さて此を具象化する段には、譬へば十三臂ありとか、猪に乗るとか、火焔を負ふとか言ふ、一定の約束がない為に、却つて種々の疑問を起し易い所から、寧描写を避け、象徴に進んだ事と思ふ。だから仏像の輸入に刺戟せられ、思ひ切つて具象化した神像の中には、今日何神やら判然せぬものが多い。蓋し我古代生活に於て、最偉大なる信仰の対象は、やはり太陽神であつた。語部の物語には、種々な神々の種々な職掌の分化を伝へてゐるが、純乎たる太陽神崇拝の時代から、職掌分化の時代に至る迄には、或過程を頭に入れて考へねばなるまいと思ふ。勿論原始的な太陽神崇拝の時代でも、他の神々の信仰は無かつたと言ふのではない。唯、今少しく非分業的であつたと思ふのである。併し此赫奕たる太陽神も、単に大空に懸りいますとばかりでは、古代人の生活とは、霊的に交渉が乏しくなりやすい。故にまづ其象徴として神を作る必要が生じて来る。茲に自分は、太陽神の形代(カタシロ)製作に費された我祖先の苦心を語るべき機会に出遭つた。
まづ形代に就て、かねて考へてゐた所を言へば、一体人間の形代たる撫物(ナデモノ)は、すぐさま川なり、辻なりに棄つべき筈なるに、保存して置いて魔除(マヨ)け・厄除(ヤクヨ)けに用ゐるといふのは、一円合点の行かぬ話であるが、此には一朝一夕ならぬ思想流転の痕が認められるのである。神の形代に降魔の力あるは勿論であるが、転じては人の形代にも此神通力を附与するに至つた。其仔細を理解するには、形代に移されたる人の穢れ即悪分子は、八十禍津日(ヤソマガツヒ)・大禍津日(オホマガツヒ)化生の形代をさながらに、御霊的威力を振うて、災禍を喰ひ留めてくれると言ふ外に、尚古代人が実在の親しむべきを知ると共に、実在を超越する程度の高いものほど、怖しさの程度が加はると感じた根本観念を推測して見ねばならぬ。
実在する間は、人間の意のまゝに活殺し得べき動物が、一歩実在性を失ふや、忽ち盛んに人間を悩まし、或は未然を察知し、或は禍福を与奪する。又我々の属性の部分--でも、抽象的なものほど恐怖の念を唆る傾向のあつたもので、分裂などゝ言へば事々しいが、我身よりあくがれ出づる魂の不随意的な行動を、自ら恐れることすらあつた。かの六条の御息所(ミヤスドコロ)の恐怖などは、啻に道徳上の責任を思つた為のみではなかつたので、寧、我魂魄に対する二元的の感情であつたかと思ふのである。
話が岐路に入つたが、立ち戻つて標山の事を言はう。標山系統のだし・だんじり又はだいがくの類には、必中央に経棒(タテボウ)があつて、其末梢には更に何かの依代(ヨリシロ)を附けるのが本体かと思ふ。彼是記憶に遠い話よりは、自分に最因縁の深い今の大阪市南区木津(キヅ)、元の西成郡木津村で、今から10年前まで盛んであつただいがくに就て話して見よう。
故老の言ひ伝へには、京祇園の山鉾(ヤマボコ)に似せて作つたと言ふが、此と同型の物の分布する地方は広く、50年や100年以来の思ひつきとは認められぬ。まづ方一間高さ一間ばかりの木の(ワク)を縦横に貫いて緯棒(ヌキボウ)を組み、経棒(タテボウ)は此(ワク)の真中に上下に開いた穴に貫いて建てる。柱の長さは普通の電信柱の二倍もあらう。上には鉾と称へて、祇園会のと同じく円錐形の赤地の袋で山形を作つた下に、ひげこと言うて径一丈余の車の輪のやうに(オホワ)に数多の竹の輻(ヤ)の放射したものに、天幕(テンマク)を一重に又は二層に取り付け、其陰に祇園巴の紋の附いた守袋を下げ、更に其下に三尺程づゝ間を隔てゝ10数本の緯棒(ヌキボウ)を通し、赤・緑・紺・黄などにけばけばしく彩つた無数の提灯を幾段にも掛け列ね、夜になると此に灯を点じて美しい。其又下は前に申した(ワク)であつて、立派な縫箔(ヌヒハク)をした泥障(アホリ)をつけた、胴の高さ六尺余の太鼓を斜に柱にもたせかけ、膝頭までの揃ひの筒袖を着た男が、かはるがはる登つて、鈴木主水(モンド)だの石井常右衛門だのゝ恋語りを、やんれ節の文句其儘に歌ひ揚げるのである。
昨年5月30日相州三崎へ行つた時、同地祭礼で波打際に子供の拵へた天王様が置いてあつたが、やはり(ワク)の穴に榊の枝幾本となく、門松などの様に挿してあるのが、所謂山の移り出た様で、坐(ソヾロ)に故郷の昔の祭りが懐しく思ひ出された。木津では既に電線に障るとの理由で其柱も切られ、今では八阪社の絵馬堂(ヱマダウ)の柱となつて了うたのである。此又(ワク)と言ふ物が、横臼を曳き出したり、綱を敷いたり、さては粟殻を撒いて早速(サソク)の神座を作つたのと同様に、古代人の簡易生活を最鮮明に表示して居るので、漁師村などによく見掛ける地引網の綱を捲く台であつた様だ。小さい物では、大阪で祭りの提灯を立てる四つ脚の(ワク)なども、地を掘つて柱を建てぬのは、即昔の神座の面影を遺すものではあるまいかと思ふ。

さて此類の柱又は旗竿には、必其尖に神の依代とすべき或物品を附けたものである。木津のだいがくなども、自分等が覚えてから、町によつては三日月・鎗・薙刀・神楽鈴・三本鎗・千成瓢箪など色々立てる様になつたが、依代の本体はやはり天幕に掩はれた髯籠であつた。此は、其頃あつた若中(ワカナカ)(今は勿体らしく青年会)のだいがく、並びに西成郡勝間(コツマ)村・粉浜(コハマ)村・中河内の住道(スンヂ)村などで以前出した物には、天幕も鉾もなく露出して居つて、柱の尖には榊などの束ねたのがあるばかり、最目につくのは、此髯籠(ヒゲコ)であつた。後世漸く本の意(コヽロ)が忘却せられ、更に他の依代を其上に加ふるに到つたのかと思ふ。
然らば其髯籠の本意は如何と言ふと、地祇・精霊或は一旦標山に招ぎ降した天神などこそ、地上に立てた所謂一本薄(ヒトモトスヽキ)、さては川戸のさゝら荻にも、榊葉(サカキバ)にも、木綿(ユフ)しでにも、樒(シキミ)の一つ花(一本花とも)の類にも惹かれよつたであらうが、青空のそきへより降り来る神に至つては、必何かの目標を要した筈である。尤後世になつては、地神のよりしろをも木や柱の尖に結び附けたことはあつたが、古代人の考へとしては、雲路を通ふ神には、必或部分まで太陽神の素質が含まれて居たのであるから、今日遺つて居る髯籠の形こそ、最大昔の形に近いものであるかと思ふ。木津の故老などがひげことは日の子の意で、日神(ヒノカミ)の姿を写したものだと申し伝へて居るのは、民間語原説として軽々に看過する事が出来ぬ。其語原の当否はともかく、語原の説明を藉りて復活した前代生活の記憶には、大きな意味があるのかも知れぬ。
木津のだいがくのひげこは、単に車の輪の様な形のものになつて居るが、若中(ワカナカ)のもの其他村々所用の物では、いづれも轂より八方に幾本となく放射した御祖師花(オソシバナ)(東京のふぢばな)の飾をかく称するのを見ると、後代紙花を棄て、輪を取りつけ天幕を吊りかけて、名のみを昔ながらに髯籠(ヒゲコ)と言ふのであらう。我々の眼には単なる目籠でも同じことの様に見えるが、以前は髯籠(ヒゲコ)の髯籠たる編み余しの髯が最重要であつたので、籠は日神を象り、髯は即後光を意味するものであると思ふ。10余年前粉河で見た髯籠(ヒゲコ)の形を思ひ浮べて見ても、其高く竿頭に靡くところ、昔の人に、日神の御姿を擬し得たと考へしむるに、十分であつたことが感ぜられる。
東京などで祭礼の日に舁(カツ)ぎ出す万燈の中には、簡単な御幣を竿頭に附けたものもあるが、是亦所謂御祖師花の類を繖状(キヌガサナリ)に放射させたのが正しい元の形式であつたらう。池上会式の万燈には、雪の山かとばかり御祖師花を垂れたのをよく見受ける。中山太郎氏の談に依れば「ゑみぐさ」と言ふ書に見えた佐渡の左義長(サギチヤウ)の飾り物で、万燈同様に舁ぎ出し、海岸で焼却するものにも、同じ様に紙花を挿し栄(ハヤ)して居た。更に野州・上州に亘つて、大鳥毛を見る様に葬式の先頭に振りたてゝ、途すがらお捻(ヒネ)り銭を揺りこぼして行き、此を見物群衆の拾ふに任せる花籠と言ふものも、やはり此系統に属する物ではないかと思ふ。
要するに当初の単純な様式が一変して、後には髯籠の周囲に糸を廻らし、果は紙を張つて純然たる花傘となし、竹の余りに瓔珞風に花などを垂下せしむる等、次第に形式化し観念化し、今では殆ど何の事やら分らぬやうになつたのである。万燈などは割合に丈が低いが、最初、深山木の梢から、此を里の祭の竿の尖に移し始めた頃のものは、竿の高さも遥かに高かつた上に、髯籠の形式も純一であつたとすれば、此類の象徴は頗る鮮明に人の心に痕を印することが出来たらうと考へられる。
最近のものでは、日(ヒ)ノ丸(マル)の国旗の竿の尖に、普通は赤い球などを附け、日は一つ影は三つの感があるが、稍大きな辻々などに立てる旗竿には、是亦目籠に金紙・銀紙などを張つてゐる。五月幟(サツキノボリ)の竿の頭にも、東京では此に似た目籠又は矢車などを附けるが、栃木地方の人の話では、あの辺では10数年前迄は髯籠を取り付けて居たと言ふ。此から更に想像の歩を進むれば、今日の鯉幟なども或は亦髯籠の一転化かも知れぬ。髯籠から吹貫き又は吹き流しへ、吹貫き吹流しから鯉幟へ、道筋を辿ることはさして困難ではない。吹貫きは単に目籠の下へ別に取り付けた所謂髯とも見得るのである。
次に言ふべきは、修験道の梵天(ボンテン)のことである。目籠と梵天との関係は、今の処まだ、何れが親何れが子とさう手軽には決し兼ねるが、二者の形似は確かに認めねばならぬ。唯目籠の単純なるに比して、梵天には更に御幣の要素をも具へて居るのである。京阪では張籠(ハリコ)のことをぼてと謂ふ。此はぼてぼてと音がするからぼてと謂ふのか、と子供の時は考へてゐたが、此もどうやら梵天と関係がありさうだ。
我々上方育ちの者には、梵天と謂へば直ちに芝居の櫓などに立てた、床屋の耳掃除に似た頭の円く切り揃へられた物を聯想するが、関東・北国等の羽黒信仰の盛んな地方では必しも然らず、ぼんてん即幣束の意に解して居り、其形状も愈削り掛け又はいなうの進化したものゝ様に見えて参る。香取氏の梵天塚の話などを見ても、梵天・幣束・招代の三者の関係は直観し得るのである。
梵天に就ては後に今一度言ふべき折があるが、茲には唯張籠と梵天との語原的説明を介して、髯籠と梵天との関係を申した迄である。ぼてと言ふ籠の名が擬声語でないことは他にも証拠がある。肥え太つた女などの白く塗り立てたのを白ぼてなどゝ言ふが、此などは勿論音からではなく、梵天瓜の白いのを白梵天と言ふ処から、人にも譬へて用ゐたのであるらしいことを考へると、自ら命名の理由の外に在るべきを推測せしむるのである。

髯籠(ヒゲコ)の因(ちなみ)に考ふべき問題は、武蔵野一帯の村々に行はれて居る8日どう又は8日節供と言ふ行事である。2月と12月の8日の日、前晩からめかい(方形の目笊)を竿の先に高く揚げ、此夜一つ眼と言ふ物の来るのを、かうしておくと眼の夥しいのに怖ぢて近づかぬと伝へてゐる。
南方氏の報告にも、外国で魑魅を威嚇する為に目籠を用ゐると言ふ事が見えてゐたが、其は恐らく兇神の邪視に対する睨み返しとも言ふべきもので、単純なる威嚇とは最初の意味が些し異つて居たのではないか。天つ神を喚び降す依代(ヨリシロ)の空高く揚げられてある処へ、横合からふと紛れ込む神も無いとは言はれぬ。
今日の稲荷下げの類でも、際限もなくあちこちの眷属殿が憑り来り、はては気まぐれの狸までが飛び入りをして、蒟蒻・油揚などをしこたませしめて還る事もある。其程でなくても、通り神又は通り魔などゝ言ふ類もある。何れは人間でも、浮浪人は悪い事を犯し易い不安定状態に在る如く、浮浪神(ウカレガミ)も亦何時何処に割り込んで来て、神山を占めんとするやら計り難い故に、旁(かたがた)太陽神の御像ならば、睨み返しも十分で安心と言ふ考へであつたかと思はれる。
勿論此迄到来するには、数次の思想変化があつたに相違ない。最初は単純に招代であつたのが、次には其片手間に邪神(アシキカミ)を睨み返すことゝなり、果は蘇民将来(ソミンシヤウライ)子孫とか、鎮西八郎宿とか言ふ様に英雄神の名に托して、高く空よりする者の寄り来るを予防した次第である。西川祐信画の絵本徒然草に、垣根に高く樹(タ)てた竿の尖に鎌を掲げた図面があつた。余りに殺風景な為方とは思ふが、目籠と言ひ、鎌と言ひ、畢竟は一つである。
卯月8日のてんたうばななども、釈尊誕生の法会とは交渉なく、日の斎(モノイミ)に天道(テンタウ)を祀るものなるべく「千早ふる卯月8日は吉日よ、かみさげ虫の成敗ぞする」と申すまじなひ歌と相俟つて、意味の深い行事である。但、竿頭のさつきの花だけは、花御堂(ハナミダウ)にあやかつたものであつて、元はやはり髯籠系統のものであつたかと推測する。尚後の話の都合上此8日と言ふ日どりを御記憶願つておく。
日章旗の尖の飾玉などが、多くは金銀紙を貼(ハ)り、又は金箔などを附けて目籠の目を塞ぎ、或は木細工の刳り物などを用ゐて居るのは、元来此物がをぎしろであつて、魔を嚇すが本意ではなかつたことを暗示し、即武蔵野の目かいの由来談に裏切りするものである。殊に8日日(ヤウカビ)の天道花などに至つては、どう見ても魔の慴伏しさうなものでない。而もかくの如く全然当初の趣意が忘却せられるに至つても、所謂民俗記憶はいつまでも間歇的に復活し来り、屡此がよりしろに用ゐられて居たのは偶然ではない様に思ふ。
さて、招祭(ヲギマツ)りの対象が神であれ精霊(シヤウリヤウ)であれ、依代の役目には変りがないとすれば、此間には何か前代人の遺した工夫の跡がある筈である。かく考へて注意して見ると、おもしろいのはかの盂蘭盆の切籠(キリコ)燈籠である。此物の名の起りに就ては、柳亭種彦の還魂紙料あたりに突拍子な語原説明もあるが、切籠はやはり単純に切り籠で、籠の最(もつとも)想化せられたものと言ふべく、盆の夕に家々で此を吊るのは、別に仏説に深い根拠のあることゝも思はれぬ。尤支那でも、盂蘭盆に火を焼き燈竿を樹てること、書物にも見えては居るが、所謂唐風の輸入には必在来のある傾向を契機としたもので、力強い無意識的模倣をするに至つた根柢には、一種国民の習癖ともいふべきものに投合する事実があつたのだ。併し、此も亦多くの例の一に外ならぬ。
盂蘭盆と大祓との関係の如きも亦此で、斉明朝の純然たる仏式模倣から、漸次に大祓思想の復活融合を来たしたやうに、習慣復活の勢力に圧されて、単純なる供燈(クトウ)流燈の目的の外に、更に其上に精霊誘致の任務にも用ゐられた訣である。をこがましい申し分ではあるが、かの本地垂迹説を単に山家(サンケ)・南山(ナンザン)の両大師あたりの政略であつた様に言ふ歴史家の見解は、仮令(たとひ)結果が一に帰するにしても、心理的根拠から、我々の頗る不服とするところであつて、此事蹟の背後には、猶一段と熱烈にして且敬虔な民族的信仰の存するものを認めて貰ひたいのである。
されば、高燈籠(タカトウロウ)・折掛燈籠・切籠燈籠の類も、単に其起原を支那・天竺に覓めたゞけでは、必手の届かぬ痒い処が残るはずで、他の二種のものは姑(しばら)く言はず、切籠燈籠の如きは、到底其だけでは完全なる理会を望み難いのである。自分の考へを言ふならば、切籠燈籠のあの幾何学的構造は決して偶然の思ひ附きではあるまい。
如何なる時代に始つたかは知り難いが、盂蘭盆供燈に目籠の習慣を参酌して見て、そこに始めて起原の暗示を捉へ得る。即、右は全く髯籠の最観念化せられたもので、畢竟供養の形式に精霊誘致の古来の信仰を加味したもので、表は日本中は天竺と国姓爺(コクセンヤ)合戦の角書きの様な民俗に外ならぬ。精霊は地獄の釜を出ると其まゝ、目当ては此処と定めて、迷はず障らず、一路直ちに依り来る次第であるが、唯怖しいのは無縁の精霊である。其はまた応用自在なる我々の祖先は、此通り魔同様の浮浪者の為に、施餓鬼と言ふ儀式を準備して置いたものである。
此を要するに、切籠の(わく)は髯籠の目を表し、垂れた紙は其髯の符号化したものである。地方によつては魂送りの節、三昧まで切籠共々精霊を誘ひ出で、此を墓前に掛けて帰る風もある。かの飯島お露の乳母が提げて来た牡丹燈籠なども亦此である。
話を再初めに戻して今一度標山(シメヤマ)に就て述べて見たい。昔北野、荒見川の斎場から曳き出した標山などは、此神事に祭られ給ふべき天つ神を招ぎ依せるのが本意で、此を内裏へ引いて来るのは、寄り給ふ神々を導いて祭場まで御伴申すわけであつたが、此が一歩を転ずる時は途次の行列が第一になつて、鎮守さまへ行くのは、唯山車(ダシ)や地車(ダンジリ)などを産土神に見せまゐらせ、神慮を勇め奉る為だとする近世の祭礼の練りものゝ形式になるのである。
標山系統の練り物の類を通じて考へて見るに、天神は決して常住社殿の中に鎮坐在すものではなく、祭りの際には一旦他処に降臨あつて、其処よりそれぞれの社へ入り給ふもので、戻りも此と同様に、標山に乗つて一旦天降(アモ)りの場(ニハ)に帰られ、其処より天馳(アマカケ)り給ふものと言はねばならぬ。神社を以て神の常在の地とするは勿論、神の依ります処とすることも、尠くとも天つ神の場合に於ては、我々の従ふこと能はざる見解である。
此に就ては、芸州三原(ミハラ)の祭礼に、神は山上より降り来り給ひ、祭りの間おはします家を神主に憑(カヽ)つて宣らせ給ふと信ずる風習は、甚多くの暗示を含んでゐる。此即天つ神は地上にはいまさず、祭りの時に限つて迎へ奉ると言ふ消息を洩して居るもので無からうか。若し此信仰を認めぬとすると、各地の祭礼が必宵祭(ヨヒマツ)りを伴うて居る風習を説明することがむづかしい。神が一旦他処に降り、其処から更に祭場に臨み給へばこそ、所謂夜(ヨ)宮の必要はあるのである。此古くして忘れられたる信仰は、或は盂蘭盆の精霊の送迎の上に痕を留むる外に、尚ちらほらと各地に俤を残してゐる。
大和高市郡野口では村境に於て精霊の送迎をするさうである。前申す三原では三昧まで迎へに行き、精霊を負ふと称して後向きになり、負ふ様な手つきをして家まで帰ると言ふ話である。高天原と黄泉(ヨミ)ノ国と本貫異なる両者を混同する様に見えるか知らぬが、何れも要するに幽冥に属する方々たる点に、疑ひはないのである。
標山の観念化を経たものに更に洲浜(スハマ)・島台(シマダイ)がある。洲浜のことは紫式部日記を初めとし、既に平安朝に於て尠からず見えて居る。島台となつてからも武家時代には盛んに用ゐられて居た様で、其極端なのはいつかの文部省展覧会の鏑木清方氏の吉野丸の絵に見えたもの、又は19の詞書き朝麿画の「吉原年中行事」にも、月見の座に島台の描いてあるが如き、婚礼の席の外は殆ど此物を見る事のない今日の人の眼には、なる程異様にも映ずるか知らぬが、島台はもともと宴席であるによつて此を据ゑるので、而も宴席に島台乃至洲浜を置くのは、これ亦標山の形骸を留めるものである。信仰と日常生活と相離れること今日の如く甚しくなかつた昔に於ては、神のいます処を晴(ハレ)の座席と考へてゐたことは、此を推測するに難くないのである。

日記物語類に見えた髯籠を列べ出す段になれば、いくらでもあるであらうが、要するに儀式の依代の用途が忘れられて供物容れとなり、転じては更に贈答の容れ物となつたのが、平安朝の貴族側に使はれた髯籠なので、此時代の物にも既に花籠やうの意味はあつたらしく思はれる。花籠なるものは、元来装飾と同時に容れ物を兼ねてゐる。此類から見れば、後世の花傘・ふぢばなは遥かに装飾専門である。
さて此機会に、供物と容れ物との関係を物語る便宜を捉へさせて貰はう。私どもは供物の本義は依代に在ると信じてゐる。なるほど大嘗祭(オホンベマツリ)は、四角な文字に登録せられた語部が物語に現れて来る、祭祀の最古い様式かも知れない。しかし我々を唆る中心興味の存する祭場の模様は、ある人々の考へてゐるやうに、此祭り特有のものではないらしい。
諸神殺戮の身代りとして殺した生物(イキモノ)を、当体の神の御覧に供へるといふ処に犠牲の本意があるのではなからうか、と此頃では考へてゐる。人身御供(ヒトミゴクウ)を以て字面其儘に、供物と解することは勿論、食人風俗の存在してゐた証拠にすることは、高木氏のやうな極端に右の風習の存在を否定する者でない我々も、早計だとは信じてゐる。けれども殺すべき神を生しておいて、人なり動物なりを以て此に代へるといふことは、天梯立のとだえたことを示すもので、従来親愛と尊敬との極致を現して来た殺戮を、冒涜・残虐と考へ出したのは、抑既に神人交感の阻隔しはじめたからのことである。
大嘗祭に於ける神と人との境は、間一髪を容れない程なのにも係らず、単に神と神の御裔(ミスヱ)なる人とが食膳を共にするに止まるといふのは、合点の行かぬ話である。此純化したお祭りを持つた迄には、語り脱(オト)された長い多くの祖(オヤ)たちの生活の連続が考へられねばならぬ。其はもつと神に近い感情発表の形式をもつてゐた時代である。今日お慈悲の牢獄に押籠められた神々は、神性を拡張する復活の喜びを失うて了はれたのである。
神の在処(アリカ)と思はれる物が、神其物と考へられるのは珍らしいことではない。其物が小さければ小さい程、神性の充実したものと信ぜられて来るのは当然である。依代は固より、神性が神と考へられゝばこそ、舟・・臼(横・挽)、あいぬのかむいせとが御神体として祀られる訣である。
まづ、供物を容れる器の観察から導いて来ねばならぬ。折敷(ヲシキ)と行器とのくつゝいたやうな三方の類は大して古いものではなく、木葉や土の器に盛つて献らねばならぬ程の細かな物の外は、正式には、籠を用ゐたものでは無からうか。延喜式・神道五部書などに見えた輿籠(コシコ)(又は輦籠(コシコ))は、疑ひもなく供へ物を盛つた器で、脚或は口を以て数へられる処から見ると、台の助けを俟たずに、ぢかに据(ス)ゑることの出来るもので、而も甕(ミカ)・壺(ツボ)の様に蓋はなく、上に口をあいてゐたものと思はれる。
処が又、こゝに毛色の変つた一類の籠がある。其は火袁理(ホヲリ)ノ命の目無堅間(マナシカタマ)・熊野大神の八目荒籠(ヤツメノアラコ)・秋山下冰壮夫(アキヤマノシタビヲトコ)の形代(カタシロ)を容れたといふ川島のいくみ竹の荒籠などぼつぼつ見えてゐるのが其で、どうやら供物容れが神の在処であつたことを暗示してゐる様である。増穂残口(マスホザンコウ)などを驚かした、熊野の水葬礼に沈めた容れ物は、実は竹籠であつたのであらう。かうした場合に、流失を防ぐのに一番便利な籠は、口の締め括りの出来る髯籠であつた筈である。死人を装うて、鰐対治に入つて行かれた大神の乗物が、長く熊野に残つてゐたことは、物忘れせぬ田舎人の心を尊まずにはゐられない。
籠がほゞ神の在処なることが確かであり、同時に供物の容れ物となつてゐたことが、幸に誤でなければ、直ちに其に盛られた犠牲は供物である以前に、神格を以て考へられたことに、結着させてもよからうと思ふ。百取(モヽト)りの机代物(ツクヱシロモノ)を置き足(タラ)はす様になつたのは、遥かに国家組織の進んだ後の話で、元は移動神座なる髯籠が、一番古いものであつたと思はれる。一歩退いて考へて見ても、神の形代なる犠牲が向上すれば神となり、堕つれば供物となると考へることが出来る。其依代も無生物よりは、生き物を以てすることが出来たなら、尋常の形代よりも更に多くの効果を想像することが出来よう。
偖(さて)其容れ物なる籠も、時には形代なる観念の媒介を得て、神格を附与せられて依代となるので、粉河の髯籠・木津のひげこ、或は幟竿の先に附けられる籠玉は、此意味に於て、其原始的の用途を考へることが出来るので、かの大嘗会の纛幡(タウバン)の竿頭の飾り物も、後世のは籠を地(ヂ)として黒鳥毛を垂したものである。執念深い連絡は、こゝにも見られるではないか。供物の容れ物が贈り物の容れ物となることは、すぐ納得の行くことで、其が更に飾り物になる事もさのみ手数を要すまい。私の考へから言へば、大矢透氏が幣束は供物から出たものであるとばかり解せられたのも考へものである。たとひ後世の事実から帰納せられたとは言へ、やはり実験を土台とせられてゐた山中翁の幣束神体説は、依代の立場から見れば尚権威を失うてはゐない。
必、神の依代に奉つたのが最初で、漸く本意を忘れて、献る布の分量の殖えて来るに従うて、専らに布や麻を献上する為のものと考へ出すやうになつたのが、絵巻物の世界の幣束だつたのである。さすれば、同じ道筋を通る平安朝の髯籠が、供物の容れ物から、贈答の器になつたのも故のあることであるが、後には殆ど装飾物として用ゐられる様になつた。木の枝に髯籠をつるして、鳥柴(トシバ)・作枝(ツクリエダ)と同様にさし上げて道行く人は、今日も絵巻物の上に見ることが出来る。
五月(サツキ)の邪気を祓うた薬玉(クスダマ)は、万葉びとさへ既に、続命縷(シヨクメイル)としての用途の外に、装飾といふ考へも混へてゐたのであるが、此飾り物も或は単に古渡(コワタ)りの舶来品といふばかりでなく、髯籠の形が融合してゐるのではあるまいか。

面白いのは宮(ミヤ)ノ(メ)祭りの有様である。後人の淫祠の様子が、しかつめらしい宮中に、著しく紛れ込んでゐたのである。其柱の下に立てかけられた竹の枝につけた繖(キヌカサ)や男女の形代は、雛祭りが東風輸入であつたことの俤を遺して居ると同時に、此笹が笠間神(カサマノカミ)の依代である事を示すもので、枝に下(サ)げられた繖は、こゝにも髯籠の存在を見せてゐるのである。此笹と同じ系統のものには七夕竹・精霊棚の竹、小にしては10日戎(トヲカエビス)の笹・妙義の繭玉・目黒の御服(ゴフク)の餅、其他東京近在の社寺から出る種々の作枝(ツクリエダ)は皆此依代で、同時に霹靂木(ヘキレキボク)の用に供せられてゐるのである。
こゝで暫く餅花(モチバナ)の話に低徊することを許して貰はねばならぬ。正月の飾り物なる餅花・繭玉は、どうかすると春を待つ装飾と考へられてゐる様であるが、もともと素朴な鄙の手ぶりが、都会に入つて本意を失うたもので、実は一年間の農村行事を予め祝うたにう木・削掛(ケヅリカケ)の類で、更に古くは祈年(トシゴヒ)に神を招ぎ降す依代であつたものらしい。其でまづ近世では、14日年越からは正月にかけて、飾るのを本体と見るべきであらう。
阪本氏の報告によると、信州上伊那辺の道祖神祭りに、竹を割いて拵へた柳の枝やうの物を配ると、其を受けた家々では輪なりにわがねて、家根に投げて置くさうである。此は形の上から見ても、一目に吉野蔵王(ザワウ)の御服(ゴフク)の餅花と一つものだと知れるが「ゑみくさ」に見えた佐渡のひげこのやうに、焼くことを主眼とするものと、さうした左義長風な意味を持たぬ餅花の類との間を行くもので、両方へ別れて行つた分岐点を記念するやうに見える。大きなものなら立て栄(ハヤ)すが、小さなものは家根に上げて置く外はない。五月の菖蒲も此である。七夕或は盆に屋上に上げられる草馬にも、同じ系統は辿られるのである。
此竹の輪の大きなので、屋の内に飾られたのは、餅花である。一体餅花とくりすます・つりいとは非常に近い関係にあるものと見えるが、同じ信州松本地方のものづくり或は名詮自性(ミヤウセンジシヤウ)のけやきのわかぎ、小田原で楢の木にならせる団子の木、岡市氏の報告せられた北河内の餅花などを見ると、愈其類似点が明らかになつて来る。ものづくりといふ名は、簡易な祈年祭りの依代なる事を示してゐるのである。常陸国志に武蔵の繭玉が榎の枝で作られて、其年の月の数だけの枝ある木を用ゐるとあるを思ひ合せても、餅花・繭玉は農桑の豊作を祈るといふ習はしの通り、年占・祈年に神を迎へる為なる事は疑ひがない。小田原の団子の木が挽臼に立て掛けられるのも、依代と神座との関係を示してゐて面白い。繭玉系統の作り枝が社寺から出されるのは、依代に宿つた分霊を持ち帰つて祀る意味で、此点に於て削り掛け・ほいたけ棒・粟穂・稲穂・にはとこ・幸木(サイハヒギ)なども皆同種のもので、延いては酉の市(マチ)の熊手も、御服の餅花から菖蒲(アヤメ)団子と反対に向いて、大きくなつたものと思はれる。同じ時に売られる五色餅(ゴシキモチ)を見ても、黙会せられる処がある。古今伝授の三木の一つなる、めどにかけたけづりばなが、馬道(メダウ)にかけた削り花なることは、削り掛けの用途を知つてゐる人には疑ひがない筈である。其「花の木にあらざらめども咲きにけり」と言うたのは、削り掛けの一種に接骨木(ニハトコ)や竹にさす削り花のある其らしく、同じ糸にたぐり寄せられる物には、楢の木の殺(ソ)ぎ口を丁字形に切りこんで羊歯(シダ)の葉を挿し、田端の畦(ウネ)に立てられる紀伊熊野川沿岸の正月の立て物(名知らず)がある。古今集の歌は、かうした榑(クレ)や丸太に削り花の挿された物に、興味を持つて作つた籠題(コメダイ)だつたのであらう。
亀井戸の鷽替(ウソカ)への鷽は、形の上からすぐさま合点の行く様に、神前に供へられた削り掛けの依代を、奪ひ合ふ年占(トシウラ)の一種なのである。
桃の節供の雛壇のあたりに飾る因幡の餅花を見ても、儀式の依代であつたことは信じ易いであらう。自体、祈年祭りを2月4日に限るものゝ様に考へるのは、国学者一流の事大党ばかりの事で、農村では田畑の行事を始める小正月に取越して置くのが多く、又必しも正月15日に限らず、大晦日・節分などを境目としてするものらしい。祇園の社頭ににう木に似た削り掛けを立てるのは、大晦日の夜から元朝へかけての神事ではないか。一体大晦日と14日年越しと節分とは、半月内外の遅速があるだけで、考へ方によつては一つ物と思はれる。年占・祈年・左義長・鳥追ひ・道祖神祭・厄落しは、何(ド)の日に行うてもよいわけである。
とにかく竹を使ふにしても、自然木の枝を用ゐるにしてからが、皆多数の枝を要素としてゐることは、髯籠の髯と関係あるらしく、年々の月の数にこじつけたのは、素朴なぴたごらす宗の工夫の痕を示したのであらう。祇園の削り掛けの所謂卯杖(ウヅヱ)が12本であるのは、枝沢山の削り花から、にう木に歩みよる道すぢを示したのである。
平瀬麦雨氏の報告せられた信州松本の田植ゑの柳などもやはり此類で、傍標山の依代とも言ふ事が出来る。熊野新宮の対岸神内(カミウチ)では、年内から、墓場に花籠と称する髯籠を立てゝ、其には花の代りに餅をつけて、正月の墓飾りをする由である。此は師走(シハス)晦日に亡者を呼びよせた髯籠と、祈年の依代との融合したものゝ様に見えるが、茲にも多くの枝を要素としてゐる事が知れる。花無き頃の間に合ひの作り花の、立てがらを取り換へる手数の省ける処から、削り花・花籠・餅花などは、一年を通じて用ゐられる様になつたのである。
さて依代の立て場所に就て、話さねばならぬ機会に逢着した。屋内に飾る餅花は、家で一番表立つた場所に据ゑられるものであるが、元はやはり屋外に立てられたものが、取り込まれる様になつたので、こゝに到つて装飾の意味あひが、愈深くなつたのであらう。花の塔(タフ)・天道花(テンタウバナ)などの高く竿頭に聳えてゐるものから、屋上に上げられる菖蒲・竹の輪・草馬に到るまで、皆神或は精霊の所在を虚空に求めてゐるのである。中陰の内は、亡魂屋の棟を離れぬといふ考へも、又屋の棟をば精霊のより処とする信仰も、皆虚空に放散してゐる霊魂を、集注せしめる依代なる基礎観念があるからである。我々の祖先ばかりでなく、どうやら我々自身も「魄」の存在を認めてゐない事は、明言して差支へがないらしい。

ともあれ、山では自然の喬木、家では屋根・物干台、野原では塚或は築山などの上に、柱を樹てゝ、神の標(シメ)さしたものとするのであるが、尚其ばかりではうつかり見外される虞れのある処から、特別の工夫が積まれてゐるので、此処にだしの話の緒口(イトグチ)はついたのである。
だしの「出し」である事は殆ど疑ひがない。但、神の為に出し置いて迎へるといふのか、物の中から抜け出させてゐるから命(ナヅ)けられたのかは少し明らかでない。徳島の端午に作るやねこじき又は、だしと言はれてゐる作り物は、江戸の顔見世(カホミセ)のとうろうなる屋根飾りと同様に、屋上に出すもので、依代が竿頭から屋根に降りて来た時機を記念するものである。
今日浜松近傍でいふだしは、各地の祭礼・地蔵盆の作り物、大阪西横堀の作り物などゝ同じ物を謂ふので、此は既に屋内まで降りて居るのである。此は依代の本意を忘れると共に、大規模の作り物を立てるに足る広い平面を要したからである。
同類の変形は、大阪新町・江戸新吉原のとうろうにも見られる。実際真の燈籠を見せるのではなくて、顔見世のとうろうと同じく、盆燈籠の立つ頃に、衆人に公開した作り物に過ぎなかつたので、更に佐伯燈籠に到つては祭礼の渡御の前に行く人形であつた。名義の起りは稍古いところに在る。私は此を室町の頃から行はれた禁裡の燈籠拝見の忘れがたみと見るべきもので、恋・無常の差はあるが、本願寺の籠花(カゴバナ)と同じ血脈を引いてゐて、等しく神・精霊に捧げた跡をあやからせる為に、公開したものと謂ふべきで、伊勢のつと入りなどもかうした共産的な考へから出た風習と思ふのである。全体、池坊(イケノバウ)の立花の始まりは、七夕祭りにあるらしい事は、江家次第の追儺の条を見ても明らかである。
さて、長崎宮日(ナガサキクニチ)に担ぎ出される傘鉾の頭の飾りをだしものといひ、木津のだいがくの柱頭のしるしをだしと言うてゐるのは、今日なほ山車(ダシ)の語原を手繰りよせる有力な手掛りである。手近い祇園御霊会細記などを見ても、江戸の末までも此名所(ナドコロ)が世間には忘られてゐながら、山・鉾に縋り付いて、生き残つてゐた事が知れる。同書には「鉾頭、鉾の頂上なり、だしなり」とか、或はだし花などいふ名詞を書き残してゐる。
今出来るだけ古くだしといふ語(ことば)をあさつて見ると、王朝のいだし車には深い暗示が含まれてゐるが、此は後の事として、次に思ひ浮べられるのは、旗指物(サシモノ)の竿頭の飾りをだしと言うたことである。嬉遊笑覧に引いた雑兵物語(ザフヒヤウモノガタリ)の(サカバヤシ)のだし・武者物語の鹿の角のだしなどは、決して珍らしい事ではない。いろいろの旗指物図を見れば、到る処に此名所は散見してゐる。
例へば島原陣諸家指物図に、鍋島光茂の馬印を「大鳥毛・だし・金の瓢」と書いたのや、奥羽永慶軍記小田原攻めの条に出る岡見弾正の酒林(サカバヤシ)のさし物などを見ても知れる。尚笑覧に引いた、祐信の三つ物絵尽しの謎(ナゾ)の、端午の幟のだしは五月幟の竿頭の飾りをもだしと言うてゐた証拠である。
さて此様に、竿頭の依代から屋上の作り物、屋内の飾り人形或は旗竿尾の装飾にまで拡がつてゐるだしの用語例は、直ちに、江戸の祭りの山車(ダシ)の起原に導いてくれる。山王・神田の氏子の山車が、祇園の山鉾を似せたものだと謂はないまでも、本家・分家の間柄を思はせるだけの形似のあるのは事実である。
江戸では屋台全体の名であつただしが、京都・長崎・大阪木津などでは、尚部分の名称としてゐるのを見れば、聡明な読者にはどちらが末、どちらが本と言ふ考へが直様閃めいて来なければならぬ筈である。江戸の山車は旗竿の頭の飾り物が非常な発達をした為に、其儘全体の名となつたのであらうが、尾芝氏も言はれた通り、鉾と言ふ所から一々柱頭に剣を附添へた祇園の鉾も、元は柱の名に過ぎなかつたのである。さすれば、山車(ダシ)・鉾・山の関係は、次の図に示す様なものである。此名称の分岐点は、各部分の特徴から分化して来たものなる事は、改めて説明する迄も無からう。室町時代に出来た尺素往来(セキソワウライ)に、既に鉾と山とが列べられてゐるところから見ると、此山或は鉾に同化せなかつた前の江戸の山車の原始的な形はどういふ物であつたらうか。私は今各地の祭りにふんだんに用ゐられてゐる剣(ケン)ぼこの類から、範囲を狭めては四神剣の観察をする必要があると思ふ。百川(モヽカハ)の落語にひきあひに出る四神剣の、四神と剣とは、実は別物である。剣は普通の剣ぼこで、其と四神の違つてゐる点は、旗竿の頭の黒塗りの折敷(ヲシキ)様のものに四神の像を据ゑてゐる点で、下にはいづれも錦の幢(ハタ)を垂れてゐる。此が(ワク)の上に立てられる事の代りに、車の上に載せるやうになれば、竿頭のだしなる四神像は、望見するに都合よく廓大する必要が起つて来るので、そこに四神像に止らず、祇園其他の作り物の模倣が割り込んで来る余地の出来た訣で、現に大正の大典に輓(ヒ)かれた麻布末広神社の山車は、錦の日月幢を二丈余りの三段の空柱(ウツバシラ)の前面を蔽ふ程に垂れて、柱の末のをしき様のものに、水干を着て御幣を持つた猿の作り物が据ゑてあつた。大体に山の手の山車は、老人の話を綜合すると、半蔵門を潜る必要上、下町の物よりは手軽な拵へであつたらしい。
此が下町の山車になると、柱の存在などは殆ど不明で、寧祇園の鉾に近(チカ)づいてゐるが、多くの物はやはり人形の後に小さく、日月幢を立てゝ俤を止めてゐる。此想像が幸に間違つてゐなければ、江戸の山車は旗竿の大きくなつて車に載せられたもので、所謂依代が勢力を逞しくしたものなのである。
諏訪の御舟祭(オフネマツ)りの屋台は恐らく、元三(グワンサン)大師作と伝へる舟謡を残してゐるほど古い日吉山王の御舟祭りと同様、水上渡御の舟を移動神座なるの上に据ゑたものらしく、舁くべき筈の物を輓く点と、依代なる人形の柱に関係のない点は他の祭屋台と違つた点であるが、江戸の山車が今日の四神同様の上に立てられ、其に車をつける様になつたといふ道筋を教へるものではないだらうか。
祇園の方でも、名こそ違へ人形を飾る事は一つで、鉾や作り山が大きくなつた為に、だしなる名称はとらなかつたが、畢竟同じ物でなければならない筈である。
さて長崎宮日(クニチ)の傘鉾のだしものは、田楽師の藺笠の飾り物乃至獅子舞・手古舞(テコマヒ)の花笠と一つだといふと、不審を立てる人もあらうが、まづ聞いて貰ひたい。
祇園の傘鉾にも四条西洞院のものには、傘の上に花瓶を据ゑて、自然木の松と三本の赤幣束が挿してあり、綾小路や室町のものも傘の上の金鶏が卵を踏んでゐる後に、金幣が二本立てられてゐた。更に古く尺素往来の所謂大舎人(オホトネリ)の鵲鉾(カサヽギホコ)は実は異本にある笠鷺鉾の誤りであらうと言ふ事は、武蔵総社の田植ゑに出た傘鉾にだしとして鷺の飾りの附けられてゐるのを見ても明らかである。
住吉踊りの傘鉾にも幣束のだしの附いたのがほんとうで、今一度話す機会はあるが、踊りの中心となる柱が多く傘鉾で、其柄の端には、花なり偶像なりの依代を立てる必要がある。前に述べた田楽師がすばらしい花藺笠を被(カヅ)くのも、元よりましであつた事を暗示するものであらう。そゝり立つ柱なり竿なりの先の依代なるだしは、いくら柱が小さくなつても、或は終に柱を失うて、とゞのつまり人の頭に載る様になつても、振り落されなかつたのである。
神を迎へるだし行燈が、宵宮(ヨミヤ)から御輿送(ミコシオク)りまで立てられたのは、最理窟に適うたことで、たゞ此を以て江戸の山車の起原と想像した我衣(ワガコロモ)の説は、成程笑覧の否定した様に、考へが狭過ぎる様だが、祭りが昼を主とする様になつてから、だし行燈が装飾一遍となつたのは、大阪の祭提灯と同じ経路を辿つて来たものらしい。四尺許りの長提灯を貫いて、殆ど其三倍の長さの塗り物の竿が通つてゐて、其頭には鳥毛の代りに馬の尾か何かの白い毛を垂した、其上へ更に千成瓢箪・奔馬などの形の附いてゐるものである。其を宵宮には担(カタ)げて宮に参詣しては、新しい護符を貼りかへて貰つて帰つて来るのである。持ち帰ると家毎に表へ出してある、四方ころびになつた四脚(ヨツアシ)の台に立てゝ置いたのであるが、其用はやはり神招(カミヲ)ぎの依代として、天降(アモ)ります神の雲路を照すものなのである。
 
鶏鳴と神楽

 

には鳥は かけろと鳴きぬなり。起きよ。おきよ。我がひと夜妻。人もこそ見れ(催馬楽)
此歌などが、わが国の恋歌に出て来る鶏の扱ひ方の、岐れ目であるらしい気がする。平安朝以後の鶏に関聯したものは、どれもこれも「きつにはめなむ」(勢語)と憎んだ東女を、権輿に仰いで来た様である。其と言ふのが、刺戟のない宮廷生活に馴れた男女の官吏たちは、恋愛以外には、すべての感覚の窓を閉した様な暮しをつゞけて居た。歌の主題と言へば、彼等の経験を超越して居る事を条件とする歌枕に、僅かに驚異の心を寄せるばかりだつたからである。貧しい彼等の経験には、一番鶏・二番鶏に、熟睡を破られる田舎人さへも、珍らしく思ひなされたのである。待つ宵の小侍従・ものかはの蔵人の贈答なども、単に空想と空想との鉢合せに過ぎないのであつた。世は徳川になり、明治・大正になつても、のどかな歌びとたちは、尚「暁別恋」といへば、鶏を引きあひに出すことは忘れないで居る。
催馬楽の中でも、右の歌などは、都に居ては到底、出来る筈のない歌であつた。同じく鶏・恋・暁を一首に結んでも、万葉びとは、まだ固定せぬ歌ぐちを見せてゐる。
もの思ふと 眠(イ)ねず起きたる朝明(アサケ)には わびて鳴くなり。庭つ鳥さへ(万葉集巻12)
さうしたはでな心持ちから、飛び離れた挽歌にさへ、鶏は現れて居る。
庭つ鳥 かけの垂り尾の乱り尾の 長き心も思ほえぬかも(同、巻7)
我々の祖先が、鶏から聯想したものは、必しも恋ばかりではなかつた。けれども此国の文芸生活の夜明けと共に、鶏の垂り尾ではないが、恋ひ心の纏綿して居るのも事実である。其は、彼らの生活が、どうしてもさうなくてはならぬやうになつて居たからである。彼ら男女のなからひには、必鶏が割り込んで来た為である。一夜妻(ひとよづま)の様に、向うからしかけるのは特別、普通は男から女の家に出向いて鶏鳴に催されて帰つて来るのが、婚約期間の習俗であつたとすれば、鶏の印象が長い長い古代の情史の上に、跡を牽くのも尤な事である。併しながら、きぬぎぬの別れを鶏のせゐにして、かさ怨みを無邪気な家畜に投げつけるのは、よほど享楽態度を加へてからの話である。
隠国(コモリク)の泊瀬小(ヲ)国に、さ婚(ヨバ)ひに我(ア)が来れば、たな曇り雪はふり来ぬ。さ曇り雨はふり来ぬ。野(ヌ)つ鳥雉(キヾシ)はとよみ、家つ鳥鶏(カケ)も鳴き、さ夜は明け此夜は明けぬ。入りて朝寝む。此戸開かせ(万葉巻13)
答への歌から見ると、泊瀬天皇などの伝記に関係した短篇叙事詩の謡化したものらしい。後朝をわびるどころではない。入りて朝寝むとまで、感傷せずに言うて居る。鶏が入り込むと、どゞいつ・端唄の情歌色彩を帯びて来るものであるが、其がないのは、時代である。右の歌が離れて来た元の形と見える八千矛ノ神の妻訪ひの歌なども、
……処女の寝(ナ)すや板戸を押(オソ)ぶらひ、我が立たせれば、引(ヒコ)づらひ、我が立たせれば青山に鵺は鳴き、さ野つ鳥雉はとよむ。にはつどり鶏(カケ)は鳴く。慨(ウレタ)くも鳴くなる鳥か。此鳥も、うち病めこせね。……(古事記上)
とあるのを見れば、まだ処女に会はないのである。鶏を呪うては居ても、東女の情痴の曲折あるのから見ると、ずつと単調な、言はゞ、がむしゃらのむしゃくしゃ腹を寓した迄の話である。鶏を以て、趣きある恋愛の一場面をこしらへて行かうとはして居ない。けれども、若し鶏の音が、古代の歌謡に、ちつとでも、きぬぎぬの怨みを含めて居るとすれば、其には、もつともつと大きな原因から来て居るのである。
出雲美保関の美保神社に関聯して、八重事代主神の妻訪ひの物語がある。此神は、夜毎に海を渡つて、対岸の姫神の処へ通うた。此二柱の間にも、鶏がもの言ひをつけて居る。海を隔てた揖夜(イフヤ)の里の美保津姫の処へ、夜毎通はれた頃、寝おびれた鶏が、真夜中に間違うたときをつくつた。事代主神はうろたへて、小舟に乗ることは乗つたが、櫂は岸に置き忘れて来た。拠なく手で水を掻いて戻られると、鰐が神の手を噛んだ。此も鶏のとがだと言ふので、美保の神は、鶏を憎む様になられた。其にあやかつて、美保関では鶏は飼はぬ上に、参詣人すら卵を喰ふことを戒められて居る。喰へば必、祟りを蒙ると言ひ伝へて居る。
鶏を憎まれる神様は、国中にちよくちよくある。名高いのは、河内道明寺の天満宮である。
鳴けばこそ別れも急げ。鶏の音の聞えぬ里の暁もがな
と学問の神様にも似合はない妙な歌を作つて、養女苅屋姫に別れて、筑紫へ下られてから、土師(ハジ)の村では、神に憚つて、鶏は飼はぬことになつた(名所図会)。此などは、学徳兼備の天神様でさへなければ、苅屋姫をわざわざ娘は勿論、養女であつた、と言ふ様な苦しい説明をする必要もなかつた筈である。
女の許へ通ふといふ事は、近代の人の考へでは、村の若衆を外にしては、眉を顰(ひそ)めてよい淫風であつた。天神様が、隠し妻の家からの戻りに、鶏の音を怨まれたとあつては、あまりに示しのつかぬ話である。其処に家から来た娘と、別れを惜む事になつて来ねばならぬ訣がある。思ふに、土師の村の社には、いつの頃にか、美保式の神婚の民譚がついて居たのを、たつた一点を改造した為に、辻褄の合うた様な、合はぬ様な話が出来上つたのであらう。事実、天神・苅屋親子関係を信じきつて居る今時の役者たちすら「手習鑑」の道明寺の段で、一番困るのは、右の子別れだ相である。女夫の別れと見えぬ様との、喧しい口伝もあると聞いて居る。妙な処に、尻尾の残つて居るものである。
あの芝居で、今一つの中心は、東天紅の件であるが、目に見えぬ過去からの網の目が、浄瑠璃作者の頭にかぶさつて居た為に、宿禰太郎夫婦の死と言ふ様な大事件を以て解決せねばならなかつたのである。
今日でも、まだ到る処の宮々に、放ち飼ひの鶏を見かける。ときをつくらせたり、青葉の杉の幹立の間に隠見する姿を、見栄(はや)さうと言つた考へから飼うて置くのでない事は、言ふ迄もない。あれは実は、あゝして生けて置いて、いつ何時でも、神の御意の儘に調理してさし上げませう、とお目にかけて置く牲料(ニヘシロ)で、此が即、真の意味のいけにへなのである。
白い鶏が神饌に供へられる事は、其例多く見えて居るが、必しも白い物ばかりを飼うて居た訣ではなく、偶々、民家の家畜の中にも、白い羽色のが生れると、献るべき神意と信じ、御社へあげあげして来た事であらう。古風な江戸びとは、いまだに卵を産まなくなつた鶏を、浅草寺の境内へ放しに行く。内容は変つても、尠くとも、形式だけはまだ崩れないで居る一例である。喰べると癩病になると言はれる鳥に、燕・鷲並びに、此鶏がある。前二者は、喰べろと言はれても遠慮する人が随分とあり相である。が鶏を封ぜられては困る者、啻(ただ)にかしは屋ばかりとは言はれまい。
鶏には、特に白と言ふ修飾が加つて居るので、息をつく。豊後大野郡辺では、白い鶏を喰ふと、かったいになると言ひ習はして居る。白鶏が、神の牲料と信じて居たればこそ、其を横どりする者は、極刑を受けると考へられたので、原因を振り落して、単に結果だけが言ひ伝へられたものと思ふ。考へ方によつては、白い鶏でなくても、鶏はすべて、ある神専用の牲料と思はれたであらう。美保関で卵を喰はぬと言ふのも、一つ起りから出た事は察せられる。山陽・畿内の二个村の鶏を飼はぬのも、神の占め給うた家畜なるが故に、善い意味からは御遠慮申し、悪い意味からは不時の御用命を迷惑がつて、忌み憚つて来たものと言はれよう。併し此を以て直ちに、事代主神婚譚を構成した原因などゝはきめられない。畢竟は相当因縁を持つた民間伝承が、お互に別々に進んで来る中に、相合すべき状態になると、他の一つは、其に引きよせられるものと見てさしつかへはない。お互に原因になり、結果になる事が出来るのである。
神妻訪ひの話に、鶏の参与するのも、田舎人の生活が、其儘幽界の方々の上にもあることゝ信じて、言ひ出したことは勿論であるが、今一つ、鶏がとんでもない憎まれ者になる訣は、責任を転嫁したり、情痴趣味に浸つたりすることを知らなかつた万葉びと以前の、古代の男女関係ばかりからは、何とも合点が行きかねる。今でも古風を存して居ると信ぜられて居る祭りの中心行事は、必、真夜中に行はれる。鶏鳴がほゞ神事の終りと一致する様に、適当に祭式をはこばねばならなかつたものと見えて、日の出にかつきり主要な部分をしまうて居なければ、今年の作物に祟ると信じてゐる地方が多い。
其例に、信州下伊那新野の伊豆権現の正月15日の祭礼がある。東天紅なる時は、正に顕・幽両界の境目で、祭りに招き降された神が社からあがられるのは、此時刻である。此刻限にぴつたり神あげをする事は、神にも人にも、都合のよいことである。鶏鳴以後迄、神を止めて置かうとしたら、神の迷惑はどの様であらう。また若し其に先だつて、鳴き立てる鶏があつたら、神は事をへぬ中に、はふはふ退去にならねばならぬ。鶏をして、さやうな偽りを告げさせた責任者として、人間もとんだ罰を蒙らねばならなかつたであらう。時ならぬ鶏の宵鳴きを、色々の凶事の前兆に結びつけて居るのは、やはり此処に本のあるのを忘れての事と思はれる。
鶏の音に驚かされて、為すこと遂げずに退散した話、うろたへて身を傷けた話など、神・仏・妖怪などの上にかけられた例が、此国にも沢山ある。
大歌所のひるめの歌
さひのくま檜ノ隈川に駒とめて、しばし水かへ。かげをだに見む(古今巻20)
と言ふのは、元は大部分、万葉に見えた恋歌である。其が如何にもおなごり惜しいと言つた心持ちを湛へて居る処から、恐らくは、神あげの節に謡はれることになつて居たらうと言へる。暫くでも長く居て頂いて、完全に祭りの心を享けて貰はねばならぬ。神事いまだ終らざるに、神あがりあつては一大事である。常世の長鳴き鳥は、此時間の調節者として、必要であつたのである。なぜなら、鶏の鳴き止まぬ中は朝であつて、而もまだ夜であつたから、神事に与る役目の重さは如何ばかり強い印象を、昔びとの心から心へ、伝へて来たことであらう。人力に能ふ限りは、朝と夜の交叉点をうまく処理して行くが、ある程度以上は鳥頼みであつた。
こゝに人間の妻訪ひに於けるよりも、もつともつと色濃く、庭つ鳥の神婚譚に入り込んで来ねばならなかつた訣のある事が、既にしのゝめのほがらにあなた方の胸に這入つた事であらうか。
神事の終りに、唯一度拍子とるだけが役目の鶏を、合奏団の大事な一員と考へられて居る。此は、天の窟戸開きの条の誤解である。心を澄して御覧なさい。神道のほんとうの夜明けの光りは、今思はぬ方角からさしかゝつて居る。
 
まといの話

 

のぼりといふもの
中頃文事にふつゝかであつた武家は、黙つて色々な為事をして置いた。為に、多くの田舎侍の間に、自然に進化して来た事柄は、其固定した時や語原さへ、定かならぬが多い。然るに、軍学者一流の事始めを説きたがるてあひに、其がある時、ある一人のだし抜けの思ひつきによつて、今のまゝの姿をして現れた、ときめられ勝ちであつた。其話に年月日が備はつて居れば居る程、聴き手は咄し手を信用して、互に印判明白に動かぬ物、と認めて来た。明敏な読者は、追ひ書きの日附けが確かなれば確かなるだけ、真実とは、ともすれば遠のきがちになつて居る、様々な場合を想ひ起されるであらう。
康正二年の萱振(カヤブキ)合戦に、敵(カタキ)どうしに分れた両畠山、旗の色同じくて、敵御方の分ちのつきかねる処から、政長方で幟をつけたのが、本朝幟の始め(南朝紀伝)と言ふ伝へなども、信ずべくば、此頃が略、後世の幟の完成した時期、と言ふ点だけである。
のぼりはた袖(相国寺塔建立記)と言ふ語(ことば)が、つゆ紐の孔を乳(チ)にした、幟旗風の物と見る事が出来れば、其傍証となる事が出来る訣である。千幾百年前の死語の語原が、明らかに辿られて、さのみ遠くない武家の為事に到つては、語の意義さへおぼつかないのは、嘘の様な事実で、兼ねて時代の新古ばかりを目安にして、外に山と積まれた原因を考へに置かずに、語原論の値打ちをきめてかゝらうとする常識家に向けての、よい見せしめである。
のぼるは、上へ向けての行進動作であつて、高く飜ると言ふ内容を決して、持つ事は出来ぬ。若し「幟」を「上り」だなど言ふ説を信じて居る方があつたら、「はためく」からの「旗」だと言ふのと一類の、お手軽流儀だ、と考へ直されたい。遥か後に、そらのぼりを立てゝ、陣備へをしたなすみ松合戦の記録(大友興廃記)があるから、空への上り等いふ、考へ落ちめいた事を、証拠に立てようとする人もあるかも知れぬ。併し遺憾な事には、此頃の幟が、今の幟と似た為立ての物なら「蝉口」に構へた車の力で、引きのぼす筈はない。さすれば、幟だけが「上り」と言ふ名を負ふ、特別の理由はなくなる。思ふに「上り」を語原と主張する為には、五月幟風の吹(フ)き貫(ヌ)き・吹き流しの類を「のぼり」と言うた確かな証拠が見出されてから、復(マタ)の御相談である。今では、既に亡びて了うた武家頃のある地方の方言であつたのだらう、としか思案がつかぬのである。
まといの意義
おなじ様な事は、まといの上にもある。火消しのまといばかりを知つた人は、とかく纏(マトヒ)の字を書くものと信じて居られようが、既に「三才図会」あたりにも、※幟・纏幟・円居などゝ宛てゝ、正字を知らずと言うてゐる。併し、一応誰しも思ひつく的(マト)の方面から、探りをおろして見る必要があらう。
的(マト)と言ふ語は、いくはなどゝは違うて、古くは独り立ちするよりも、熟語となつて表現能力が全う出来た様である。又、近代でも、必しもまとおと言ふ形を、長音化する方言的のもの、と言ひきつても了はれぬ様である。尠くとも、的・的居(マトヰ)は一つで、其的居の筋を引いた物が、戦場に持ち出したまといである、と言ふ仮説だけは立ち相である。けれども、纏屋次郎左衛門から、64組の町火消しに供給した的と謂はゞ言はるべき、形の上の要素を多く具へた、馬簾(バレン)つき、白塗り多面体の印をつけた、新しい物を考へに置いてかゝる事だけは、控へねばならぬ。
徳川氏が天下をとつた時分が、まといの衰へ初めと考へても、大した間違ひは無さ相である。「武器短歌図考」を見ると、だし(竿頭の飾り)に切裂き・小馬簾をつけ、竿止めに菊綴ぢ風に見える梵天様の物をつけたのが円居で、蝉口に吹き流しをつけたのを馬印(ウマジルシ)としてゐるが、事実は、そんなに簡単に片づく物ではなかつた様である。此は、馬印がまといの勢力を奪うたので、段々まといが忘れられて来た為である。
右に馬印(ウマジルシ)とした物を纏と記した上に、吹き流しを吹き貫きにしたゞけの物を馬印として並べてゐる「弘前軍符」の類もある。此は、まといが忘れられる前に、まづ馬印と混同して、馬印は栄えて行き、まといは家によつては、形式の少し変つたさし物の名に、固定して残つたものと見るべきであらう。大様(オホヤウ)は、徳川の初めにはまとい・馬印をごつちやにし、其中頃には、ばれんが馬印の、又の名と言ふ風になつて来たのだ。
思ふに、自身・自分・自身さし物(幣束から旗さし物へ参照)など言ふのが、まといの後の名として、一般に通用したもので、勝手に従うては、家々でまといと言ふ事もあつたのであらう。「三才図会」のまといの絵なども、今の人の考へる纏などゝは全く違うた、三段笠を貫いた棒の図が出してある。此は「甲陽軍鑑」の笠の小まといで見ても知れる様に、まといの中で、類の多い物であつたと見える。
北条家の大道寺氏の小まといは、九つ提燈であつた(甲陽軍鑑)。又家康が義直に与へた大纏は、朱の大四半大幅掛に白い葵の丸を書き、頼宣のは、朱の六幅の四半であつて、めいめい其外に、馬印をも貰ひ受けて居る(大阪軍記)。又、同じ書物にある八田・菅沼等の人々の天王寺で拾うた円居は、井桁の紋の茜の四半で、別に馬印もあつたのである。
まといとばれん
諸将から仰望せられた清正のまといは、だしに銀金具のばりんと思はれるものがついてゐる。馬印は別に、白地に朱題目を書いた物である(清正行状記)。此まとい、一にばれんと言はれたさし物の動きが、敵御方の目をらせた処から、指し物にばれんと言ふ一類が、岐れ出たものと思はれる。
一体ばれんは、後に変化を遂げた形から類推して、葉蘭(バラン)の形だとする説もある様であるが、此は疑ひなく、ばりんである。ねぢあやめとも言ふ鳶尾草(イチハツ)に似た馬藺(バリン)を形つた金具のだしをつけたからの名であらう。棕梠の紋所との形似を思はせる此だしは「輪貫(ワヌ)き」を中心にして、風車の様に、四方へ丸形に拡つて居る。唐冠兜の後立ても、此と一類の物であらう。前にも述べた通り、神事のさし物には、薄の外に荻・かりやすをも用ゐるから、植物学的の分類に疎かつた古人が、菰・菖蒲・鳶尾草などを同類と見て、戦場の笠じるし・さし物にも用ゐた名残りだといふ事も出来よう。
ばれんのだしをつけたまといが名を得た処から、ばれんは此さし物に欠く事の出来ぬ要素と、考へられる様になつたらしい。火消しの纏を馬簾(バレン)といふ訣は、簾の字相応に四方へ垂れた吹き貫きの旗の手の様なものから出たと言ふが、此をばれんと言ふ事、東京ばかりではなく、大阪でもある事であるが、実は「竿止め」につけたばりんの、吹き貫きと融合を遂げた物と見るべきであらう。摂津豊能郡熊野田(クマンダ)村の祭りのたて物なるがくのだしに吹き貫き形ではなく、四方へ放射したぶりき作りのばらんと言ふ物がつく。此処にもばりんとだしの関係は見えて居る。金紋葵のだしに、緋のばれんをつけた家康の馬印は、後世のまといの手本とも言ふべき物である。此頃既に、まとい・馬印の形式が、混雑して居たとすれば、其使ひ道から見て、此をまといとも言うた事があつたであらう。ばれん・馬印が形式上区別が無くなつても、初めの中は、僅かながら、用途の差違は、知られて居たことゝ考へる。
まといの要素たるばれんや、張り籠の多面体が、後の附加だとすれば、愈彼(かの)自身たて物と近づくので、旗の布を要素としない桙の末流らしく、益考へられて来る。蒲生家のさし物が、熊の棒(蒲生軍記)或は熊の毛の棒(古戦録)と言ふ名で、其猛獣の皮が捲いてあつたといふ事実は、愈すたんだぁど一類の物として、まとい・自身たて物の源流らしいものがあつた事を、仄かして見せてゐるのではなからうか。やまとたける等の八尋桙・丈部の杖からまといに至る間に、歴史の表に顕れずして過ぎた年月があまりに長く、又可なり縁遠く見える。併し、幣束に似たはたが、唐土風な幡旗の陰に、僅かに俤を止めてゐた間に、戦場の桙は、都と交渉少い道のはてはてに竄(かく)れて、武士の世になると共に、又其姿を顕したが、長い韜晦の間に、見かはすばかり変つた姿になつて、其或物は家と縁遠い神々・精霊を竿頭に斎(イハ)ひこめて居なかつたとも限らぬ。
清正の様に、強力無双の人で無ければ、振られ(清正記)ない、大纏が出来てからは、纏持ちの職も出来たのである。
江戸の火消し役は、住宅にまといを立てゝ、若年寄の配下に三百人扶持をうけたと言ふから、市中出火の折には其まといを振りたてゝ、日傭人足の指図をしたのである。弓が袋に納つた世の中には、さし物の名目からまといが忘れられ、三軍を麾いた重器を、火事場へ押し出す様になつたのである。さうして銀箔地へ家々の定紋を書いてばれんをつけたまといが、今の白塗りの物となつたのは、寛政3年から後の事で、享保4年大岡越前守等の立案で、町火消64組を定めて、一本宛のまといを用ゐる事を許したのが、此迄武士の手を離れなかつた此軍器が駈付け人足の手に移つた始めである。
火消役のまといには、家々の定紋を押してゐたが、町人の手に移つてからは、組々の印を明らかに見せる為、かの多面体の張り籠が工夫せられたので、64本の中、竿頭にだしとしてつけた物には籠を想化し、又は籠其物を使うた物が多い。敢へて「籠目のまといはこはすとも」と豆辰(マメタツ)の女房が、夫を励ました10番め組のものには限らないのであつた。
恐らく小まといなる物が、ある武士の国に作り出されて、大将自身に振つて居たのが、出来るだけ全軍の目につく様にといふ目的から、次第に大きなまといに工夫しなほされ、やがては大将在処の標ともなつたものであらう。
白石はかの「甲陽軍鑑」の記事から、其北条氏起原説を採つてゐる(白石紳書)。併し今一歩を、何故甲州方の観察にふみ入れて見なかつたのであらう。其形は、考へ知る事はおぼつかないが、古くはまといが甲州方の標識になつて居たと思はれる根拠(関八州古戦録・甲陽軍鑑・仙道記・平塞録)がある。的居などに交渉のない、存外な物の名を言ふ、甲州の古い方言が、此軍器と共に、山の峡から平野の国々に、おし出して来たものと言ふ想像が出来ぬでもない。
 
だいがく

 

夏祭浪花鑑の長町裏の場で、院本には「折から聞える太鼓鉦」とあるばかりなのを、芝居では、酸鼻な舅殺しの最中に、背景の町屋の屋根の上を、幾つかの祭礼の立て物の末が列つて通る。あれが、だいがくと言ふ物なのである。尤、東京では、普通の山車を見せる事になつて居る様であるが、此は適当な飜訳と言ふべきであらう。
一昨年実川延二郎が本郷座で団七九郎兵衛を出した時は、万事大阪の型どほりで、山車をやめて、だいがくを見せたとか聞いて居る。一体此立て物は、大阪の町に接近した村々では、夏祭り毎に必出した物であつたが、日清役以後段々出なくなつて、最後に木津(南区木津)の分が、明治37-8年戦争の終へた年に出たぎり、今では悉皆泯びて了うて居る。
此処には木津のだいがくの事を書いておく。だいがくの出来初めは、知れて居ない。唯老人たちは、台の上に額を載せて舁ぎ廻つたのが、原始的のもので、名称も其に基いて居るといふ。けれども今も豊能郡熊野田(クマンダ)村の祭礼に舁ぐがく(額)と言ふ立て物と比べて見ると、或は大額の義かと思はれぬでもない。其後進歩して、台の上に経(タテ)棒を竪て、一人持(ヒトリモチ)提灯一つ、ひげこ(第1図)額などを備へた形になつて来たのだと言ふが、恐らく、経棒は最初からあつた物で、額だけがぽつつり乗つて居たのではなからう。
別図の様な態を備へる事になつたのは、今から60年程の前の事で、其以前は天幕(テンマク)の代りにひげこが使はれて居たのである。ひげこは、必、二重ときまつて居たさうである。明治30年頃までは、西成郡勝間村・東成郡田辺村などには、ひげこのだいがくを舁いで居るのを見かけたものである。
一体ひげこは日の子の音転で、太陽神の姿を模したのだ、と老人たちは伝へて居るが、恐らくは、竪棒の上に、髯籠(ヒゲコ)の飾りをとりつけて居たのが、段々意匠化せられて出来た(髯籠の話参照)ものか。今日なほ紀州粉河の祭礼の屋台には、髯籠を高くとりつける。のみならず、国旗の尖にもつけ、五月幟の頂にもつける事がある。竿頭を繖形に殺ぎ竹を垂して、紙花をつける事は、到る処の神事や葬式の立て物にある事である。
但し今一つ考へに入れて置かねばならぬのは、傘鉾(カサボコ)の形式で、此は竿と笠とだしとの三つの要素で出来て居る事である。一体傘鉾は、力持ちが手で捧げながら練つたものであるが、此が非常に発達した場合には、に樹てゝ舁くか、車に乗せて曳き歩くより外に道はなくなる訣である。
だいがくの成立した形は、前者である。尚老人たちは、だいがくに数多の提灯をとりつける様になつた起りを、ある年の住吉祭り(大阪中の祭礼として、夏祭りの一番終りに行はれる)に、住吉まで出向いただいがくが、帰り途になつて日の暮れた為、臨時に緯(ヌキ)棒を括りつけて、其に提灯を列ねた時からだと説いて居る。
其はともかく、住吉祭りといふ事が、だいがくと住吉踊りの傘鉾との関係を見せて居る様に思はれる。天幕に一重のも二重のもある点、竿頭にだしのついてゐる点、すべてかの踊りの傘鉾を、の上に竪てた物としか思はれぬ。熊野田(クマンダ)のがくに近いだいがくのひげこが、形似の著しい傘鉾の形式をとり入れるとすれば、まづひげこを天幕にすべきは当然である。其傘鉾の天幕も、元はひげこであつた事は疑ひもない事実である。
だいがくのひげこは二重の上の方が大きくて、直径一丈で、下の方のは大分小さい。第一図の如く、蛇の目傘の様な形で、外囲りは藍紙、中囲りは赤紙、内廻りは亦藍紙を張つてゐる。外囲りの藍紙は、内の紙の倍の長さに作る。骨は竹である。日向国児湯郡三納(ミノ)の盆踊りの中に立てる花傘の紙花を「ひ」と言ふのも、名称上の関係があり相に思はれる。西鶴の「諸国ばなし大下馬」に見えた紀州の掛作観音の貸し傘が、肥後の奥山家に飛んで、古老の鑑定で、伊勢外宮日の宮の御神体だとして祀られたと言ふ話も、髯籠・傘鉾の信仰に根ざしあるものと思はれる。
天幕を使ふ様になつてから、非常に華美を競ひ出して、長さ八間幅一間余の緋羅紗に、大蛇対治(ヲロチタイヂ)の須佐之男命・石橋(シヤクケウ)・予譲・楠公子別れなど、縫模様の立派な物になつた。天幕の裏はすべて墨書きの雲であつた様に思ふ。村と村との間ばかりか、一村の中の町々でも競争する処から、果はの地についた処からだしの尖端まで、 十七間から十八間位の高さになつて、重さは二千貫、八十人乃至百人の力でなければ、動す事が出来なくなつた。だいがくの名処(ドコロ)のゑときをして見ると、
だし又はほことも言ふ。長さ凡一丈。町々で皆違うた物をつけてゐる。三日月・一本劔(イツポンゲ)ぼこ・三本劔(ゲ)ぼこ・薙刀ぼこ・千成り瓢箪ぼこ・神楽鈴ぼこなどで、中でも、新町の薙刀ぼこをつけただいがくは、常によく活動して居た。西の町は、後に一本劔になつたが、古くは粟穂になるこで、なるこは鳥居に垂れてゐた処であつた。
ふけちり 紋は、巴と木(モツクワウ)を裏表につける。但し、東の町は、五色のばれん。
さんじやのたくせん 三社の託宣であらう。藁を束ねて結ぶ。伊勢・八幡・春日を表すと言ふ。
榊と御幣 ほこの結び目を掩ふ様にしてつける。
ほこ だしをもほこと言ふ事はあるが、此とは別である。円錐形に縫うた緋羅紗の袋。巴と木とを、反対の側に白く縫ひ出す。(東の町は錦襴)。
てんまく 緋羅紗(白羅紗の物もある)に武者・龍虎・鳳凰など縫うた物。錘(シヅ)代りに無数の小さな鈴をつける。
へだての額 天幕と天幕とを隔てる額の意。ひげこのだいがく(別図。向つて右方の小さい物)の形式が残つたのである。長方形のはりこの函で、四方に天下太平・五穀成就・今月今日・祇園宮と書いてある。因に、木津の氏神は、難波の名高い八坂とは別で、木津の祇園(敷津松の宮と言ふ)である。
額 八坂神社と書く。
まむり 守り袋の大きな物を、鐘楼の撞木の様に吊る。赤地錦襴である。
一人持ち提灯 額の下、第一の緯木(ヌキ)の上下に、直角にさした腕木の間に吊るので、此提灯を始め、提灯といふ提灯は皆、町々の紋を描く定めである。昔は「一人持ち」と共に、五十七箇のきまりであつたのが、後には百七箇迄殖えた。
みづひき 紅白の縮緬で、緯木を結ぶので、昔は白木綿であつた相である。最後の緯木(ヌキ)で結び垂げる。
引き綱 正面と裏とに、一筋づゝ垂げてゐる。麻縄である。
緯木(ヌキ) 明治以前は七本、以後は九本になつた。
絹房と鈴と 水引きの末を隠す様につける。
経棒(タテボウ) 十五間乃至十六間。緯木と共に檜を使ふ。
高さ一間。欅を用ゐる。
舁き棒 竪長さ六間。横長さ二間。
一体、大阪の町は勿論、農村ばなれをして来た郊村では、夏祭りは盛んだが、秋には唯、型ばかりな処が多い。だいがくなども、覚えてからは、秋祭りには出た事がない。多くは宵宮から2日間舁いたが、後には3日も舁いた。町々の広場で、横に寝さして組むので、組みあがると、引き綱とつっかひ棒とで起すのである。本祭りの日には、宮の前の大道に縦列を作つて、勢揃へをする。かう言ふ時に、とりわけ喧嘩が多かつた。
だいがくを動すのは、音頭と太鼓の拍子とである。唄の文句には、別に特有の物はない。此は、此たて物が近世に出来た物だと言ふ事を示してゐるのである。
大阪(オサカ)出てから、はや、玉造。笠を買ふ(ウ)なら、深江が名所
などが、記憶に止つてゐる。其外は「春は花咲く青山辺で、鈴木主水と云ふ士は」などいふやんれぶしの文句を使うた様である。音頭とりは、太鼓打ちや、子どもらと、の上に乗つて居て、ゆり甲(カン)と言つた調子で謡ふ。譬へば「大阪はなれてはや玉造」まで謡ふと、総勢が舁き棒から肩をはづして、
よゝいよゝい よいよい よい。そこぢやいなそこぢやいな。あどっこい、どっこいとお なよいなよい。よいさよいさよいさ
と合唱して「なよいなよい」まで来ると、皆手を拍つて肩を入れて舁き出す。「よいさよいさ」は舁きながら言ふことになる。舁きはじめると、又「笠を買ふなら、深江が名所」と謡ふ。此句ぎれ迄来ると、又囃しがはじまる。かうして、繰りかへし繰りかへしする中に、かなりの距離を動くのである。
たて棒は、引き綱で、廻すことが出来る様になつてゐたが、何にしろ非常な重みだから、さう自由にはならなかつた。夜は燈を入れて舁いた。其ゆさゆさと揺れて行く様は、村人の血を湧き立たせたものである。
電信の針金が、引かれてからは、舁いて廻る範囲を狭められたが、其でも祭り毎には、必舁き出した。併し、木津の家並みの処では、許されぬ事になつて、処をはづれた野原などに立てゝ、長さ一町位の広場を往来するだけ位で、辛棒してゐた。
とうとう、松の宮の境内に、絵馬堂を拵へるといふ事で、竪棒を切つて、其柱にしてからは、祭りが来ても、だいがくは出なくなつた。天幕其他、未練の種になる物はすべて売り払はれて、揃へのゆかたの若者どもが、右往左往に入り乱れる喧嘩沙汰も痕を絶つことになつた。
  
幣束から旗さし物へ

 

千年あまりも前に、我々の祖先の口馴れた「ある」と言ふ語(ことば)がある。「産る」の敬語だと其意味を釈(と)き棄てたのは、古学者の不念(ブネン)であつた。私は、ある必要から、万葉集に現れたゞけの「ある」の意味をば、一々考へて見た処、どれも此も、存在の始まり、或は続きといふ用語例に籠つて了うて、一つとして「産る」と飜(ウツ)さねば不都合だと言ふ場合には、出くはさずにすんだ。かの語を「産る」と説くのは、主に賀茂のみあれに惹かれた考へであるが、実の処みあれ其物が、存在を明らかに認める、即、出現と言ふ意に胚胎せられた語だと信じられる。
此事は柳田国男先生も既に考へて(山島民譚集)居られる。尤、神或は神なる人にかけて、常に使ひ馴れた為、自然敬意を離れては用ゐる事は無くなつてゐた。其一類の語に「たつ」と言ふのがある。現在完了形をとつたものは、「向ひの山に月たゝり見ゆ(万葉巻7)」など言ふ文例を止めて居る。此語は単に、今か以前かに標準を据ゑて、進行動作を言ふだけのものではなく、確かに「出現」の用語例を持つて居た。文献時代に入つては、月たち・春たつなどに纔かに、俤を見せて居たばかりで、敬語の意識は夙くに失はれてゐる。
諏訪上社の神木に、桜たゝい木・檀たゝい木・ひくさたゝい木・橡の木たゝい木・岑たゝい木・柳たゝい木・神殿松たゝい木があり、たゝいは「湛」の字を宛てる由、尾芝古樟氏は述べられた。此等七木は、桜なり、柳なりの神たゝりの木と言ふ義が忘れられた物である。大空より天降(アモ)る神が、目的(メド)と定めた木に憑りゐるのが、たゝるである。即、示現して居られるのである。神の現(タヽ)り木・現(タヽ)りの場(ニハ)は、人相(あい)戒めて、近づいて神の咎めを蒙るのを避けた。其為に、たゝりのつみとも言ふべき内容を持つた語が、今も使ふたゝり(祟)の形で、久しい間、人々の心に生きて来たのである。
神に手芸の道具を献る事は、別に不思議でも無いが、線柱(タヽリ)の一品だけは、後世臼が神座となり易い様に、ひよつとすれば、神のたゝりのよすがとなつた物かも知れぬ。絡(タヽリ)・臥機(クツビキ)が夢に神憑(ガヽ)りを現ずる事、姫社(ヒメコソ)の由来(肥前風土記)にある。機は、同じ機道具の縁に引かれたのかと思ふ。
神のあれのよすがとなる物が、阿礼・みあれと呼ばれた事は、説明は要すまい。今日阿礼の事を書いた物は、すべて此語に言語情調の推移のあつた、後期王朝に出来てゐる。
賀茂祭りに、みあれに(としての意)立てた奥山の榊は、かなり大きな立ち木を採り(賀茂旧記)用ゐた根こじの物であつたらう。そして、種々(クサグサ)の染(シ)め木綿(ユフ)を垂(シ)でる事が、あれとしての一つの条件であつたらしい。此際、内蔵寮から上社・下社へ、阿礼の料として、五色の帛六疋、阿礼を盛る筥八合並びに、布の綱十二条を作る料として、調布(テヅクリ)一丈四尺を出す(内蔵式)ことになつてゐる。其綱はみあれを舁ぐ時に、其傾く事を調節する為に、つけたものと思はれぬでも無いが、やはり祭りの終りにわが方へ引き倒して、1年の田畑の幸福を占はうとしたのが、一種の歌枕として固定するまでの、みあれひきの実際なのであらう。「大幣の引く手あまた」など言ふのも、引き綱がやはり、みあれの五色の帛の長くなつた物なる事を示してゐるので、木綿のさがつた小枝を引き折る事ではなかつた様である。後期王朝の人々の見たみあれの引き綱には、鈴がつけてあつたと見えて、
われ引かむ、みあれにつけて祷ること、なるなる鈴のまづ聞ゆなり(順集)
とあるのは、西行の
思ふこと みあれのしめに引く鈴の かなはずばよもならじとぞ思ふ
と言ふ歌を註釈にすれば、まづ納得は行く様である。但、二人の間には、かなりの時の隔たりはあるが、要点はまづ変化の無かつたものと見られる。
山家集の作者の目には、其引き綱が、今日我々の見馴れてゐる鰐口の緒同様に映つて居たらしいが、殺伐な年占が、引くと言ふ語の他の用語例を使うて、緩やかな祈願に移つて行つたものと見るべきであらう。昔も今も、歌よみなどは、大ざつぱな事を言ふ者で、語通りに信ずるのは愚かしくも思はれるが、今一つ引くと
あれひきに行き連れてこそ 千早ぶる賀茂の川波立ち渡りつれ(古今6帖)
の「行き連れ」は、行きずりの物見人が、偶然一つの方角へ行く、と解かれさうであるが、共同の幸福を願ふ人々の行く様と見るのが、時代の古いだけに、適当な様に思はれる。
大嘗祭の儀式に、8人の舞人がてん手(デ)に執つた阿礼木(貞観儀式)は、既(ハヤ)くとりものの枝を、直ちに然(シカ)呼ぶまで変つて居たのか、其ともまだ、此古い祭りには、古風なみあれ木が宮中に樹てられ、其木綿とり垂(シ)でた枝を折り用ゐたのか判然せぬ。賀茂或は松尾の阿礼ばかりが名高くなつたおとつ世の歴史家は、此を山祇系統の神の依代(ヨリシロ)と見るかも知れぬ。併しこゝにまだ一つ、宮中の阿礼がある。

正月17日の射礼(ジヤライ)に、豊楽殿(ブラクデン)の庭上、射手(イテ)を呼び出す人の控へる座の南一丈の処に、其日、夜の引き明けから樹てられる二種の立て物がある。すべて今日からは想像に能はぬ事だらけではあるが、一つは烏羅(からすあみ又はとなみと訓むか)と言ふ物十二旒。各二株の竹の間に、二条の、長さ八尺・幅八寸の帛に鈴二つづゝつけて張り渡したらしく、色は縹(ハナダ)と緋とが六旒づゝであつた。其外に、今一つあるのが阿礼幡(アレバタ)である。右に六旒、左に六旒、紫・深緑・緋・緑・黄・浅緑と言ふ順序で、柄がつけてある。其外、花槍廿口・幡廿旒を樹てる(掃部式・兵庫式)。
烏羅と言ひ、阿礼幡と言ひ、他に見えぬ語であるが、此処の阿礼も、射礼の場(ニハ)に神を招(ヲ)ぎ下した古風と見られよう。尚かの兵庫式の文の後に、羅と幡とを樹てるに入用の木綿(ユフ)や黒葛(ツヾラ)は、大蔵の方で請ひ受けて来た様に書いてゐる。黒葛は物を纏(マ)く為であり、木綿はとり垂でゝ神に献る物である。
阿礼其他の立て物の竿頭のだしとして、榊葉・木綿が括られたと見るか、竿の神聖を示す為に、其根方を樒の葉と葛蔓(クズカヅラ)で纏(マ)き厳(カザ)る野間(ノマ)権現の神霊を移す木(三国神社伝記)と同じ意味あひに使はれた物か、即決は出来る事でないが、阿礼幡が神の出現を待つ、やはり一つのあれであつた事を証するだけには、役だつてくれる様である。さすれば、十二旒の阿礼幡を元は、一本の竿頭から長く垂れたあまたの染め木綿(ユフ)が、十二本の柄の尖(サキ)に別れる様になつたと考へるのは順当な想像であらう。
花時には花を以て祭り、鼓吹(コスヰ)・幡旗(ハンキ)を用(モ)つて歌舞(カブ)して祭る(紀一書)とある花(ハナ)の窟(イハヤ)の祭りは、記録のぺいぢの順序を、其儘時間の順序と見る事が出来れば幡旗と言ふ語の、見えた初めである。此花と幡とは、縄で以て作つた(熊野三巻書)との古伝がある。縄で蓆旗をこしらへたとも見えぬ文面であるから、やはり竿頭から幾筋もの縄を垂れた物と見る外は無い。上代から然りと信ずる事は出来ぬにしても、尚江戸よりは古くの為来(シキタ)りと考へられる。
我々は、疑ひ深い科学者と肩を並べて生きて居るのだから、布よりも縄のゆふしでを、無条件に古い物と速断する事はためらふが、竿頭から縄或は木綿を長く垂れた物をはたと言うてゐた事は、認めない訣には行かぬ。我々の国語が、不変の内容を持つたまゝで、無窮の祖先から罔極の子孫に語り伝へられるものと考へるのは、やまとたけるや義経も、石の槨(カラト)の口さへあければ、現代人と直ちに対話をまじへる事が出来ると信じる事である。
記・紀の叙述と、其に書記せられなかつた以前の語部の素(ス)の物語の語りはじめとでは、其昔と言ひ、今と言ふにも、非常な隔たりがある。記・紀に「ある」と書いてゐる事は、既に幾十百年以前に「ない」ときまつた事であるかも知れぬ。わりあひに変動の尠かるべきはずだからと言ふので、名詞の内容を千年・二千年に亘つて変らぬと考へる人は、通弁(ヲサ)なしに古塚に出かけて、祖先と応対が出来る訣である。
物に驚くこと、猶今日の我々の如くであつた祖先は、明治・大正の子孫が日傘・あげものと言はずに直ちに、ぱらそる・ふらいと言ふ様な、智慧ある無雑作は持ち合せなかつた。物と物とを比べて、似よりの点を見つけては、舶来の四角な字に国語の訓みをつけて置いた。其中に四角な文字其儘の事物が渡つて勢力を得る様になれば、国語の軒端を貸した固有の事物は、どんどんと取りかへられて、母屋には何時の間にか、殆ど見知りのなかつた新しい事物が座りこんでゐると言ふ、直訳に伴うて起り勝ちの事実が、はたと言ふ語及び品物の上にもあつた。

語部が語り始めた頃のはたは、今の日の丸の国旗の様な形と用途とを持つて居なかつたかも知れぬ。斉明天皇の4年、蝦夷渟代ノ郡ノ大領沙尼具那(サニグナ)以下に鮹旗廿頭、津軽ノ郡ノ大領馬武以下にも鮹旗廿頭を授けられた(紀)のは、同族の反乱に当てる為であらうが、鮹と言ひ、頭と言ふのは、其旗の形容を髣髴させて、三巻書の縄の幡に近づかしめる。
字面通りに想像すれば、竿頭には円く束ねた物があつて、其から四方八方へ蛸の足の様に、布なり縄なりが垂れて居る形で、今日地方によつては、葬式の先頭に髯長く編んだ竹籠を、逆に竿頭につけて、紙花を飾つてふつて行く花籠なども、其に引かれて思ひ浮べられる。今日旗の竿尖(サキ)につく金の球(タマ)や、五月幟の籠玉の源になる髯籠(ヒゲコ)(髯籠の話参照)の筋を引いた物に相違ないのである。まさかに縄のゆふしでや、竹の髯籠や、花籠を下されたものとも思はれぬが、今の日の丸の旗などゝは大分遠い、却つてばれんなどに似よつた形の物ではなかつたらうか。
もつと異風な幡は、前にあげた肥前風土記基肄(キイ)ノ郡姫社(ヒメコソ)ノ社(ヤシロ)の由緒に見える。姫社郷の山途(ヤマト)川の門(ト)(川口か)の西に、荒ぶる神が居て、道行く人をとり殺すので、其訣を占ふと、筑前宗像郡の人珂是胡(カゼコ)に、自分を斎(イハ)はせれば、穏かにならうとあつた。珂是胡(カゼコ)、幡を捧げて祈るには「実際私に祀られようとの思召しなら、どなた様であるかお示し下さい。其には、其本処のお社に、此幡が風に乗つて行つて落ちます様に」と言うて、幡を挙げて、風に順うて放つた処が、御原郡の姫社之社に墜ち、再飛び返つて、山途川の辺の田村に来て落ちたので、神の在処(アリカ)が知れたとある。此幡、今日の人の考へに這入つてゐる旗の様な物ではなく、形は違うてゐるとしても、幣束と同じ用をした物である事だけは、否定が出来ぬ。
小子部(チヒサコベ)ノ栖軽(スガル)が三諸(ミモロ)山の神を捉へに行つた時は、朱蘿(アカキカヅラ)をつけ、朱幢(アカキハタ)を立てゝ馬を馳せた(霊異記)と言ふ。神を捉へたと言ふのは、後期王朝の初めの人の解釈で、実はあかはたを立てゝ、神を迎へた事を示して居るのである。神功皇后が小山田ノ邑の斎宮に入つて、自ら斎主となり、武内ノ宿禰に琴を撫(カキナ)らさせ、烏賊津(イカツ)ノ使主(オミ)を審神者(サニハ)として、琴の頭・琴の尾に千高(チハタノタカハタ)を置いて、7日7夜の間神意を問はれた(神功紀)とあるのは、沢山の長(タケ)の高い幣束で琴の周りをとり捲いて、神依り板に、早く神のより来る様に、との用意と見る外はない。
外国語学校の蒙古語科の夜学に通うた頃、満洲人羅(ロオ)氏から、蒙古語で幣束を Hatak と言ふよしを習うた。其後、三省堂の外来語辞典が出たのを見ると、鳥居龍蔵氏が、はたの語原を、蒙古のはた即幣束に関係あるものとして居られた。此は恐らく、子音kを聴きおとされたのでは無からうかと思ふ。又、白木屋の二階であつた同氏の個人展覧会で、右のはたっくの実物を見る事が出来た。柄はすべて一本の矢で、矢弭の処に、小さな銅鏡をつけ、五色の帛が幣束を思はせる具合に括りつけてあつた。東歌の
山鳥の尾ろの秀尾(ハツヲ)に 羅摩(カヾミ)かけ、捉(トナ)ふべみこそ、汝によそりけめ(万葉巻14)
と言ふ歌は、依然として、謎の様に辿られるのみであるが、根本には、山鳥の秀尾(ハツヲ)を矧いだ矢に、鏡をかけたと言ふ幣束が、古い日本にも行はれて居た事実を、潜めて居る様な気がしてならぬ。
賀茂祭りや、射礼のあれに、染(シ)め木綿(ユフ)をつかうたのも、右のはたっくと似よつてゐる。白和栲(シロニギテ)・青和栲(アヲニギテ)の物さびしい色を神々しい物として、五色のしでを遥か後れて世に出た物と思ふのは、却つてくすんだ色あひを喜ぶ、後世の廃頽した趣味からわり出して、物喜びをした、幼い昔の神におしあてたものと言はねばならぬ。
処が又、然(サ)る古代こがれでない人々から、近代風に謬られ相な、葬式の赤幡・青幡、降参の素(シラ)幡がある。

お互にせはしない世の中に生れ合せて、紙魚(シミ)の住みかにおちおちと、見ぬ代の祖々(オヤオヤ)と話し交しても居られなくなつた。其為に、心の底から古なぢみの様な気のせぬ物は、夙かれ遅かれ何時かの昔に、海のあなたから渡つて来た迄、影も形も、此土にはなかつたもの、と早合点にきめられて来た。和順の心を示す白旗の如きも、人によつては、とてつもない新舶来(イマキ)の代物と考へてゐるかも知れぬ。併し此は寧、純朴な物忘れであつて、二三、学問を享楽する事を知つた、譬へば、名ある者とし言へば、巾着切りの生(シヤウ)国迄も、自分の里にひきつけねば措かぬ物識りたちに、鼻のさきであひしらはるべきものではない。
古く、白旗を樹てゝ和順・降伏の意を現した、と見える事実はある。周防の娑(サバ)の魁師神夏磯媛(カムカシヒメ)は、天子の使ひ来ると知つて、磯津(シツ)山の賢木(サカキ)を根こじにし、上枝(ホツエ)に八握(ヤツカ)ノ劔、中枝(ナカヅエ)に八咫(ヤタ)ノ鏡、下枝(シヅエ)には、八尺瓊を掛けた上に、素幡(シラハタ)を船の舳(ヘ)に樹てゝ、参(マヰ)向うた(景行紀)。又、新羅王は、素旆而自服(アゲテマツロヒ)、素組以面縛、封二図籍一、降二於王船之前一といふ風で、念の入つた誓ひを立てた(神功紀)。後の方は、漢文の筆拍子に乗つたとも言へようが、前のもの迄、牛酒・三刄矛の一類と見るのは、聊か気の毒である。
唐ぶりとも見えぬ白旗は、此外にもある。行方(ナメカタ)郡当麻(タギマ)郷の国栖の寸津毘古(キツビコ)が、倭武天皇に斬り殺された時、寸津毘売(キツビメ)の懼悚心愁、表二挙白幡一迎レ道奉レ拝(常陸風土記)とある話は、幼稚な詞藻をひねり廻した此書物ではあるが、出来心で筆が反れたものとは思はれぬ。
とにかく、前期王朝の頃には、戦争をやめる心を、てつとりばやく示す手段として白旗を竪てる風習を認めて居た事は、確からしい。だからと言うて、直様降服の意志表示と見るのは、早計であるかも知れぬ。何にしろ其処に歩みよる道順として、かう言ふ階段は経てゐよう。其は、汚(キタナ)き心なき由を、白幡立て、神を招(ヲ)ぎ下した場所で誓ふと言ふ、古い信仰形式の片われである。
思ふに、恐らく、語部の物語創作の際には、まだ明らかに、降服形式と迄は考へて居なかつたであらう。此白幡も疑ひなく、幣束の部に入るべき用途と形式とを、具へて居た物と考へる。神招(ヲ)ぎ代(シロ)の幣束なる幣が、神の依り現(タヽ)す場(ニハ)の標(シルシ)となり、次いでは、人或は神自身が、神占有の物と定めた標(シメ)ともなり、又更に、神の象徴とさへ考へられる様になつたのである。私の話の順序から言へば、とりわけて白幡を用ゐずとも、よさ相に思はれる。けれども片方、故らに染(シ)め木綿(ユフ)でない事を示したのは、白和栲(シロニギテ)が、幣束として普通の物でなく、特殊の場合に限つて使うた物であつた故かも知れぬ。
白幡と似た青幡(アヲハタ)と言ふ物がある。あをはたの木幡・あをはたの忍阪(オサカ)の山・あをはたの葛城山(万葉)など、枕詞に用ゐたのが、其である。何れも、山に関係のある処から旗の靡く様を山に準へたもの、と考へてゐる様である。枕詞成立の時代から言へば、此詞などは、中期に入れて然るべきものである。奈良の寺々に樹て並べた外国風の幢幡は、見も知らぬ飛鳥・藤原の宮人の口などから、生れたものと思はれる。白和栲・青和栲と対照せられるのから見ても、青幡の青和栲であつた事は、断言してさしつかへがなからう。而も、其ふつさりと竿頭から垂れた様を、山に見立てたものと思はれる。
黒坂命葬送の様は、赤幡・青幡入り交つて、雲虹の様に飜つて、野や路を照したので時の人、幡垂(ハタシデ)の国と言うたのを、後人が、信太(シダ)の国と言ふ様になつた(常陸風土記逸文)とある。死人の魂の発散を防ぐ為、ある時期の間は、殯(モガリ)に、野送りに、墓の上に、常べつたりの招魂の道具として、くさぐさの染め木綿の幡を立てたのである。
此幡が、今様の旗でないことは、信太(シダ)の国の地名譚のしでと云ふ語から見ても知れる。神の純化が遂げられてゐなかつた頃の人々は、目に見えぬ力として、現(ウツ)し世(ヨ)の姿を消した人の霊をも、神と一列に幡もて、招(ヲ)ぎよすべきものと信じたのである。
以上によつて、私の考へるはたなる物の形は、略諸君の胸に、具象せられて居る事と思ふが、ほこなる棒の先に、其名の本たるはたと言ふ、染め木綿の類が垂(サガ)つて居たのである。後期王朝の初めには、幡其物に直ちに、神格を認める様になつて居る。別雷ノ神の纛(オホハタ)の神(令集解)と言ふ、山城紀伊郡真幡寸(マハタキ)神社などが、此である。而も、やはり「纛」の字面に拘泥してはならぬ。此神こそは、賀茂のはたなるみあれを祀つたものと言ふべきであらう。
何処の国でも、大将軍は必、神を招(ヲ)ぎよせ、其心を問ふ事の出来た人であらう。倭建ノ命東征の際に、父帝から下された柊の八尋矛(記)や、神功皇后の新羅王の門に、杖(つ)ける矛を樹てゝ来られた(紀)といふのも、刄物のついた槍の類ではなく、神祭りの幡桙であつた事は、奈良の都になつて、神祭りに関係ありさうな杠谷樹(ヒヽラギ)の八尋桙根が、累りに諸国から貢進せられてゐる(続紀)のを見ても、想像する事は出来ようと思ふ。尚、杉桙別(スギホコワケ)ノ命神社・多祁富許都久和気(タケホコツクワケ)ノ神社など、桙に関係ある社が、ざらに全国に分布してゐる(神名式)ことをも、傍証に立てる事が出来る。
比々良木八尋桙根底不附国(ヒヽラギノヤヒロホコネソコツカヌクニ)(播磨風土記逸文)とあるのから見ても、此桙は人を斬るものでなく、地に樹てゝ、神を祈る物なる事は訣る。桙を以て戦に出るのは、随時に随処に衝き立てゝ、神意を問ふことが出来る、と言ふことなのである。戦場往来に用ゐられた旗さし物は、此方面から這入るのを順路とすべき様である。

学問に、常の歎きとする処は、興味の立ち遅れと言ふことである。研究の緒口(イトグチ)がつき始めた時分には、事実はあらゆる関係に、首尾両端を没して了うてゐる。此幡の問題の如きも、悉く外来の旗と習合を遂げた後、幾百年の花紅葉が散り過ぎて、後世風(オトツヨブリ)の源氏・楠家の旗だと称する贋物類までも、手に取ればぼろぼろと崩れる様になつた頃、やつと物になりかけて来たのである。「武備志」を見ても、四神・牙神・牙旗神及び其他の旗神の祭文と言ふものが見えて、軍陣に神を勧請するのは我国の古風ばかりでなかつた事が知られる。但、此際にも直ちに、唐土伝来と言ふ即決だけは、つけぬ様にしたいものである。軍学者などの浅まな物識りぶつた説明に縋らずとも、旗さし物の起り位は説け相に思ふ。
旗を造り、旗を樹て、又其持ち出す際の斎戒謹慎の有様や、又其蝉口(セミグチ)には、必、神符を封じ籠める(軍用記)故実も、少弐氏の旗の横上(ヨコガミ)に、綾藺笠(アヤヰガサ)をつけたのは、眷属の御霊の影向(ヤウガウ)あつて、蝉口に御座あるからとの家訓がある(梅松論)といふのも、支那風模倣とは言はれぬ程、古い種を有して居るではないか。熊野の湛増(タンゾウ)が、船に若王子の御正体(ミシヤウダイ)を載せ、旗の横上に金剛童子を書いて、壇の浦へおし寄せた(平家物語)といふのも、同じ影向勧請の思想である。「菊池の人々に向ひて、矢を放つ事あるべからず」とした牛王の起請文を、旗の蝉本に押して、少弐勢に見せびらかした(太平記)菊池方の皮肉も、旗に対する長い信仰の歴史の外に、勝手にひよつこり生れた頓作ではない。
うはべは変つても、中身はやつれたまゝに、昔の姿を遺して居た旗も、武家末期の四半(シハン)のさし物を横にした恰好の国旗となつて了うては、信仰の痕は辿られさうもなくなつた。軍人が身に換へて大事にする今の軍旗と言ふ物も、存外、信仰とは縁の離れた合理的な倫理観の対象となつてゐる様子である。併しながら、かく明治の代に、新な習合をした西洋の旗にも、実は長い信仰の連続はあつた様である。
此方面の研究は、南方先生の助力を仰がねば、容易に結論は得られ相でないが、西洋の旗幡類を大別すれば、すたんだぁどと、ふらっぐと、並びに其中間を行く物との三つがある様に見える。而も本は、一つのすたんだぁどに帰着し相である。八尋桙根などをすたんだぁどに比べて見ると、幾分の似よりは見える。唯彼に在つては、異物崇拝の対象なる族霊(とうてむ)の像を柄(エ)頭につけるが、桙の方には其がない。尤、後世のまとい或は馬じるし・自身(ジシン)--又、自分・自身たて物・自身さし物・自分さし物などとも言ふ。御指物揃・馬じるし等--など言ふ類には、とうてむから変つた物ではないかと思はれるのもある。私は、昔の丈部(ハセツカヒベ)(記・姓氏録・万葉)をば、支那風の仗人と見ずに、或は此すたんだぁどに似た桙を持つて、大将の前(サキ)を駆(オ)うた部曲(カキベ)かと考へて居る。
秀吉の在世の頃から、旗さし物類の発達は目ざましいものであつた。諸士皆競うて、さし物に意匠を凝して、注目を惹く事に努めた。秀吉・家康から、単にさし物の画や字が珍らしいと言ふので、賞美せられた者も沢山ある(武徳編年集成・寛政重修諸家譜・貞享書上其他)。其故、諸侯の家には、大小二種の馬じるしや、自身・さし物から、諸士・雑兵の番指物(バンノサシモノ)・袖印・腰印に至るまで、其数と種類の多いこと、驚くばかりである。さし物の多くは、元即興的に色々の物をさしたのが、却つてかやうに雑多な発達に導いたものらしい。長久手の戦ひの屏風絵には、籠を負うて、薄(スヽキ)などの青草をさした武者が、二三見えて居る。其が大阪攻めの絵巻になると、よくも僅かな年月の間に、かやうな変化を遂げたもの、と目がられる程である。
薄をさしたさし物から、直ちに聯想せられるのは一本荻と云ふさし物(大阪攻め絵巻・弘前軍符)である。此は、普通に撓(シナヒ)と言はれるところの、袋乳(フクロヂ)の小幟風な旗の長く延びて末に尖りを持つた物であるが、神事のよりましがさした一つ物・一本薄などゝ縁がありさうである。馬じるし・さし物が、神事に交渉の深いことは、笠鋒から筋を引いた物が、諸家に多く行はれてゐる事でも知れる。
有馬直純の指物(島原御陣諸家指物図)に使うた、青杉の酒ほてと言ふ物は、(サカバヤシ)の一種と思はれるが、ほてとぼんでんととの間の、脈絡を繋いで居るものと言ふ事が出来る。
同じく、植物をだしにつけた物にばりんのさし物がある。私は話頭を一転して、まとい(円居・纏)の話を聴いて頂く。  
 
高御座(たかみくら)

 

〔一〕 明神御宇日本天皇詔書……云々咸聞。
〔二〕 明神御宇天皇詔旨……云々咸聞。
〔三〕 明神御大八洲天皇詔旨……云々咸聞。
〔四〕 天皇詔旨……云々咸聞。
〔五〕 詔旨……云々咸聞。
此は、令に見えた詔書式である。〔一〕・〔二〕は、蕃国の使に宣する場合の大事・次事によつて分けられた形式である。等しく、此詞を、開口として、宣り下されるものであつた。〔三〕・〔四〕・〔五〕の三つは、国内の事に関する大事・中事・小事を宣り別ける詔書の様式である。此様に複雑に、書き別けられるやうになつた以前の、形を考へて見たい。
たゞ今のところ、私の考へでは、内外を通じて、大事には「あきつみかみと、大八洲しろしめす、天皇詔書と」といつた形を以てしたものと思うてゐる。其が、外蕃との関係を深く考へるやうになつてから、〔一〕・〔二〕を最も重いものとして、表現し始めたのである。
続日本紀を見て、第一に受ける印象は、大倭根子天皇なる称号が、御歴代の御名の上に付いてゐる事である。此は、疑ひもなく、詔旨・宣命のもつ信仰から出たものと思はれる。更に言へば、即位式ののりとが、印象深く、其天子の御一代を掩ふ事になる為と思ふ。即位ののりとと云ふものは、古くは、其が初春で、同時に新嘗の直後に、宣り下されたものと、推論する事の出来る多くの根拠がある。だから、のりと及びよごとが、即位式・大嘗祭・元旦朝賀に共通して用ゐられ、或は、其用途が混同してゐるとさへ、見られるやうになつたのである。
今も述べた様に、私は、元旦を以て、大嘗祭・即位式の、同時に行はれた古代の国家の年中行事を考へてゐる。言ひ換へれば、天子、毎年、新に蘇らせられると言ふ信仰の下に、其産声を意味する祝詞が、御代始めの祝詞ともなり、同じ考へから、時に行はれた大嘗祭の祝詞となり、或は、元旦ののりととも、分れて行つたのであつた。古代には、第一回の元旦ののりとが、其後、毎年、新しい詞章として、繰り返へされてゐた。然も其が、形式化した常用文句としてゞなく、新鮮な、権威ある詞として、常に考へられてゐたのであつた。此が、即位ののりとと、元旦の詔旨との間に、区別の殆どない理由である。
謂はゞ、元旦の詔旨は、即位ののりとを、毎年くり返すものであつた。大倭根子天皇と云ふ枕詞とも言ふべき成語は、単に、讃名ではなかつた。新しく、そこに、霊力を享けて、復活した聖者である事を意味するのだ。
根子は、山城根子・浪速根子の類から、大田々根子に到るまで、ある地方の、神人の最高位に居る者の意味であつた。大和の神人の、最高の人となるが故に、天子の稜威は生じるのであつた。しかも、神人にして、時に神自体(かむながら)の資格を有つ事があつた。其場合に、あきつみかみと云々、といふ形容句を付けて、神及び神人なる聖者を意味する様になつたのである。既に此古神道の根本精神は述べて置いたが、聖者の誕生と、復活とは同一であり、誕生と即位とは、また同時に行はれるものと信ぜられてゐた。畢竟、即位ののりとは、神自体(カムナガラ)にして、神人なる天子の産声であり、また、毎年復活して、宣り下し給ふ詔旨でもあつたのである。其為に元旦の詔旨に、即位式と同じ表現を用ゐ、大倭根子なる資格を云ひ固むる習慣が出来たものと言へる。
のりとのくだる場合が多くなるにつれて、其間に大小、或は、更に細やかな区別が考へられて来た。そして、公式令に見える様な、三様の朝廷の辞が、段々固定して来たのである。処が、蕃国の使に発せられるのりとなる、大・次の二様式がどうして発生したかゞ、問題になると思ふ。
私は、祝詞と寿詞とは、相互関係にあるもので、古く単独に、宣或は奏せられた事実を想像することは出来ない。国学の先達以来、祝詞・寿詞の用語例定義については、結論と見るべき断案に達してゐない。だが、私は、のりとが神及び神自体(カムナガラ)と信ぜられた人、並びに、其伝言者(ミコトモチ)の発する詞章を、意味するものと考へてゐる。根本は神よりのりくだすことばである。よごとは、臣従を誓ふ者が、其氏族の守護霊を捧げて、長者の齢を祝福する意味の詞であつた。だから、寿詞(ヨゴト)は、実は齢詞(ヨゴト)である。宣があれば奏が伴ふ。のりとに対して、寿詞がたてまつられるのである。だが、早くから、まづ寿詞を奏して後、のりとが宣せられる風も行はれてゐたらしい。けれども、さうなつてもやはり、普通のよごとは、のりとの後に、数多く、まをされたものである。上代に於てすら、元朝ののりとを忘れて、よごとを主に見る傾きがあつた。
祝詞・宣命・詔旨は、結局寿詞・返申(カヘリマヲシ)を予期して発言せらるゝものであつた。其に対する返申(カヘリマヲシ)は、必守護霊献上と、健康祝福をかねた服従の誓詞であつた。此意味に於て、蕃国の使に宣せられる詔書が、分化したものである。公式令に於ては、日本天皇、或は、天皇と書いてゐるが、此は、恐らく朝廷大辞と同じく、古くは「あきつみかみと、あめのしたしろしめす大倭根子天皇」と云ふ資格の宣言を、開口としたのであらう。其が、内国には大八洲といひ、外蕃には日本天皇としるすやうになつたのには理由があらう。大八洲の詞が、内国的であるやうに、日本(ヤマト)の詞は、対外的に感ぜられ出したからである。
日本の地域は、大倭根子天皇ののりとの下る範囲内を示す詞であつた。正しく云へば、此祝詞がくだると、其土地が、日本を以て呼ばれるやうになるのである。だから、国家が拡がるにつれて、大倭根子天皇詔旨は、次第に重要な意味のものと考へられて、此は対外的のものであり、或はひろがりゆくべき祝福の詞章と解せられる習慣が出来たのである。私は日本(ヤマト)が、一部落の名から起つて、一国の名となり、更に、宮廷の時代--に於ける、版図の総名にまで、延長せられて行つた理由を明らかにした。此は即位・大嘗・元旦に通ずる詔旨の威力の信仰に基くのであつた。
朝鮮半島に於ける国を内屯倉(ウチツミヤケ)と称したのも、実は、蕃国使に宣せられる詔旨に、其大国を、日本の内なる屯倉(ミヤケ)同格に、取扱ふといふ意味の発想法が、淆(まじ)つてゐたからの事と信じてゐる。たとへば、かうしたのりとが下るごとに、蕃国の使は、伝承の旧辞なる寿詞を奏した面影は、あの新羅王の誓詞をもつても明らかである。勿論、あれは、日本語風に表現せられた寿詞を、更に、記録者が異訳した跡が見えるのである。
さて最後に、さうした祝詞は、何時・何処で宣下されたものか。私は、其宣下の座を、古くのりとと称したものと観てゐる--そこで宣り給ふ詞章なるが故に、のりとごと、と言うたのである--其を略して、単にのりとと云ひふるして来た為に、のりとごとを以て、重言のやうに考へ、或は、のりとを分解して、のりときごと・のりたべごと或はのりごとと言うた風に、とにことの意味を想定する学者ばかりが出来たのである。
高御座を以て、私は、のりと、即、誕生--復活の詔旨を宣下し給ふ座と考へる処まで来た。
私の此話は、日本の古代の暦法、天上天下の関係を説かねばならなくなつた。此は他日の機会を俟ちたい。たゞ、最後に、言ひ添へるならば、高御座は、天上に於ける天神の座と等しいもので、そこに神自体(カムナガラ)と信ぜられた大倭根子天皇の起つて、天神の詔旨をみこともたせ給ふ時、天上・天下の区別が取り除かれて、真の天(アメ)の高座(タカクラ)となるものと信ぜられてゐたのである。  
 
祭りの発生

 

ほうとする程長い白浜の先は、また、目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、自(オノ)づと伸(ノ)しあがるやうになつて、あたまの上までひろがつて来てゐる空である。ふり顧(カヘ)ると、其が又、地平をくぎる山の外線の立ち塞つてゐるところまで続いて居る。四顧俯仰して、目に入る物は、唯、此だけである。日が照る程、風の吹く程、寂しい天地であつた。さうした無聊の目をらせるものは、忘れた時分にひよっくりと、波と空との間から生れて来る--誇張なしにさう感じる--鳥と紛れさうな刳(ク)り舟の影である。
遠目には、磯の岩かと思はれる家の屋根が、一かたまりづゝぽっつりと置き忘れられてゐる。炎を履む様な砂山を伝うて、行きつくと、此ほどの家数に、と思ふ程、ことりと音を立てる人も居ない。あかんぼの声がすると思うて、廻つて見ると、山羊が、其もたつた一疋、雨欲しさうに鳴き立てゝゐるのだ。
どこで行き斃れてもよい旅人ですら、妙に、遠い海と空とのあはひの色濃い一線を見つめて、ほうとすることがある。沖縄の島も、北の山原(ヤンバル)など言ふ地方では、行つても行つても、こんな村ばかりが多かつた。どうにもならぬからだを持ち煩(アツカ)うて、こんな浦伝ひを続ける遊子も、おなじ世間には、まだまだある。其上、気づくか気づかないかの違ひだけで、物音もない海浜に、ほうとして、暮しつゞけてゐる人々が、まだ其上幾万か生きてゐる。
ほうとしても立ち止らず、まだ歩き続けてゐる旅人の目から見れば、島人の一生などは、もつともつと深いため息に値する。かうした知らせたくもあり、覚らせるもいとほしいつれづれな生活は、まだまだ薩摩潟の南、台湾の北に列る飛び石の様な島々には、くり返されてゐる。でも此が、最正しい人間の理法と信じてゐた時代が、曾ては、ほんとうにあつたのだ。古事記や日本紀や風土記などの元の形も、出来たか出来なかつたかと言ふ古代は、かういふほうとした気分を持たない人には、しん底までは納得がいかないであらう。
蓋然から、段々、必然に移つて来てゐる私の仮説の一部なる日本の祭りの成立を、小口だけでもお話して見たい。芭蕉が、うき世の人を寂しがらせに来た程の役には立たなくとも、ほうとして生きることの味ひ位は贈れるかと思ふ。
月次祭りの、おしひろげて季候にわりあてられたものと見るべき、四季の祭りは、根本から言へば、臨時祭りであつた。だが、却て、かうした祭りが始まつて後、神社--特殊の定祭が起つたのであつた。四季の祭りの中でも、町方で最盛んな夏祭りは、実は一等遅れて起つたものであつた。次に、新しいと言ふのも、其久しい時間に対しては叶はないほど、古く岐れた祭りがある。秋祭りである。此も農村では、本祭りと言つた考へで執行せられる。
此秋祭りの分れ出た元は、冬の祭りであつた。だが、冬祭りに二通りあつて、秋祭りと関係深い冬祭りは、寧、やつぱり秋祭りと言つてよいものであつた。真のふゆの語原である冬祭りは、年の窮つた時に行はれたものである。さうして、最古い形になると、春祭りと背なか合せに接してゐた行事らしいのである。だから冬祭りは、春祭りの前提として行はれた儀式が、独立したものと言うてよい。でも時には、秋祭りの意義の冬祭りと、春祭りの条件なる冬祭りとが、一続きの儀礼らしくも見える。さうすると、秋祭りの直後に冬祭りがあり、冬祭りにひき続いて春祭りがあつて、其が、段々間隔を持つ様になつた。其為、祭儀が交錯し、複雑になつて行つたもの、と言へる。
秋祭りを主とする田舎の村々でも、夏祭りを疎かにする処はなかつた。だが、農村の祭りでは、夏は参詣が本位とせられてゐる様で、家族又は一人--でぼつりぼつりと参るのだ。此祭りに、つき物になつてゐるものがある。即、神輿又は長い棒を中心とする鉾・幣或は偶人である。此も秋祭りと入り紊れてゐるが、順序正しく言へば、夏のものである。
祇園の鉾は、山鉾と一口に言ふが、大別してやまとほことの二つの系統がある。そして山の方は、寧、秋祭りに曳くべき物であつた。祇園会成立に深く絡んだ御霊会(ゴリヤウヱ)の立て物に、宮廷の大嘗の曳き物「標山」の形をとりこんだのであつた。
平安朝の初頭から見える事実は、まつりの用語例に、奏楽・演舞を条件に加へて来てゐるのである。其程、祭礼と楽舞との関係が離されなくなつた。だから後には、まつるとあそぶとが同じ意義に使はれる事もあつた。とにかく、夏祭りのまつりと言はれる様になつたのは、夏神楽の発達から来てゐる。尚一面、祇園会が祭りの一つの型と見られる様になつた事実も一つの原因である。
神楽は、鎮魂祭のつき物で、古い形を考へると、大祓式の一部でもあつた。其が、冬を本義とする処から、夏演奏する神楽と言ふ意を見せて、新しい発生なる事を示したのである。祓へや禊ぎは、鎮魂の前提と見るべきであつた。夏祓へは冬祓へから岐れて、遅れて発生した為、冬祓への条件を具へなかつた。ところが、冬祓へを形式視して、夏祓へを主とする事が時代を逐うて甚しくなつた。冬の祓へに行はれた神楽が、別の季の神事に分裂して行く。其と共に、神楽の一方の起原になつてゐる石清水八幡の仲秋の行事の楽舞を、夏祓へにとり越して、学んだ形があるのだ。
8月15日に行ふ男山の放生会(ハウジヤウヱ)は、禊ぎの式の習合せられたものであつた。其神楽を、夙くから行はれてゐた夏祓への行事にとりこむのは、自然な行き方である。まつりと神遊び・神楽との関係から、夏祓へは夏祭りと称せられる様になつた。陰陽道の勢力が、さうした形に信仰を移したのである。奈良末から平安初めに亘つて荒れた五所の御霊を、抑へるものとして、行疫・凶荒の神と謂はれるすさのをの命を憑(タノ)むやうになり、而も此に、本縁づける為、天部神の梵名を称へる事にして、牛頭天王、地方によつては、武塔(答。本字)天神などゝ言うた。
日本の陰陽道の、殊に、地方の方術者は、学問としては、此を仏典として修めた傾向があつて、特に、経典の中にも、天部に関する物、即、仏教の意義での「神道」の知識を拾ひ集めた形がある。日本の神道が、天部名になる外に、漢名を称した事もあつたはずである。世界最上の書たる仏乗に出た本名の威力は、どんな御霊でも、服従させる事が出来た。だから、祇園神の中央出現は、御霊・五所より遅れてゐる。障神・八衢彦・媛の祭りと、御霊信仰とが一つになつて、御霊会が出来、盛んに媚び仕へを行うて、退散を乞うた。其勢力が、牛頭天王に移つて、讃歎の様式に改つて行つたのが、祇園会である。形こそ替れ、事実から見れば、夏祭りの疫病と蝗害とを祓へ去らうとしてゐる事は一つであり、又一つの祭礼が、主神を換へて行はれた形にもなつてゐる。蝗の害と流行病とを一続きに見てゐた平安時代の農民信仰が「花を鎮む」と書く鎮花祭によく似てゐる。
鎮花祭は、3月末の行事だが、此は夏祭りの部類に入るものである。やすらひ祭りとも言ふのは、其踊り歌の聯毎の末に、囃し詞「やすらへ。花や」をくり返すからだと言ふ。昔は、木の花を稲の花の象徴として、其早く散るのを、今年の稲の花の実にいる物の尠い兆と見たのだ。歌の文句も「ゆつくりせよ。花よ」と言ふ義で、桜に寄せて、稲を予祝するのである。其が、耕田の呪文と考へられて、蝗を生ぜしめまいとの用途を考へ出させた。田の稲虫から、又、其家主等の疫病を、直に聯想して、奈良以来、春・夏交叉期の疫病送りの踏歌類似のものと見做される様になつたのだ。此亦、祇園会成立後は、段々、意義を失ふ様になつて行つた。
かうした邪霊悪神に媚び仕へる行事も、稍古くからまつりと言はれてゐる。其は神霊に服従する義で、まつろふの用語例に近いものであつた。夏の祭りは、要するに、禊ぎの作法から出たもので、祭礼と認められ出したのは、平安朝以前には溯らない、新しいものなのである。御輿のお渡りが行はれたのは、夏祭りの中心であつて、水辺の、禊ぎに適した地に臨まれるのである。
広く行はれる御輿洗ひの式は、他の祭礼作法の混乱であるが、神試みて後、人各其瀬に禊ぐ信仰に基いたのであらう。鉾は祓へ串を捧げて、海川に棄てる行事の儀式化したものである。だから、尾張津島の祇園祭りの船渡りなども、祓へ串を水上のある地点まで搬ぶ形であつたのだ。此禊ぎから出た祭りに対して、勢力のあつた田植ゑの神事があるが、此は春祭りの側に言ふ。

秋の祭りは、誰もが直ぐ考へる通り、刈り上げの犒ひ祭りである。だが、実際の刈り上げ祭りは、正しくは、仲冬に這入つてから行はれるので、近代までもさうせられてゐる。秋祭りを今一つ狭めて言へば、先人たちも言うた通り、新嘗祭りであるが、此には、前提すべき条件が忘れられてゐる。伊勢両宮の、神自身、神としてきこしめす新嘗に限つた行事の延長なのである。諸国の荷前(ノサキ)の早稲の初穂は、9月上旬には納まつて了ひ、中旬になつて、まづ伊勢に献られ、両宮及び斎宮の喰べはじめられる行事となる。此地方化で、神嘗祭りの為に献つた荷前の残りの初穂を、地方の社々の神も試み喰べられたのが、秋祭りの起りである。早稲の新嘗を享ける神と、家々の新嘗に臨んで、家あるじと共に、おきつ・み・としの初穂の饗を享ける神とは、別殊のものと考へられて居たのではなからうか。越えてふた月、11月中旬はじめて、当今主上近親の陵墓に、荷前(ノサキ)ノ使を遣し、初穂を捧げられる。此と殆ど同時に、天子の新嘗が行はれる。
奈良以前の東国では、新嘗が年に一度であつたと見られる。さうして、早稲を炊いで進めたらしい。家中の人は、家の巫女なる処女(ヲトメ)--処女の生活をある期間してゐた主婦又は氏女--を残して、別屋--新嘗屋となつた--又は屋敷の庭に出てゐる。かうして迎へられた神は、一夜を其巫女と共にする。遊女の古語だ、と謂はれた一夜づまは、かうした神秘の夜の神として来る神人及び家の処女との間に言ふ語(ことば)であつたのだ。
宮廷の神嘗祭りは、諸国の走りの穂を召した風が固定して、早稲を以てする事になつたので、古くは一度きりであつたのかも知れぬ。だが、文献で考へられる範囲では、早稲は神の為で、神嘗用であり、おきつ・み・としの初穂は、祈年祭・月次祭りに与る社々・皇親の尊長者の霊にも御料の外を頒たれる事になつてゐた。神嘗祭りの原義は、今年の稲作の前兆たる「ほ」を得て、祝福する穂祭りの変形であつて、刈り上げ祭りよりも早くからあつたものとは言はれない。此穂祭りが神社に盛んに行はれ、刈り上げ祭りは、一家の冬の行事となつたのであるらしい。
秋祭りの太鼓をめあてに、細道を行くと、落し水は堰路(ヰデ)にたぶついて、稲子(イナゴ)は雨の降る様に胸・腰・裾に飛びつく。はざはまだな処もあり、既に組み立られた田の畔もある。だがまだ、近い温泉町へ出かける相談などは、出来て居ないらしい。おちついた様で、ひと山、前に控へた小昼休みとでも言つた、安気になりきれない顔色の年よりが、うろついてゐる。若い男は、も一つ実の入る様に、ひと囃しくれべいとでも考へてか、ぶちも折れよと、太鼓を打つてゐる。よくよく県下の社でも特殊神事とせられてゐるのでなければ、冬も霜月・師走に入つて、刈り上げ祭りらしいものを行うてはゐない。若しあつても「お火焼(ホタケ)」や「夜神楽」「師走祓へ」の様な外見に包まれてゐる。
堂々たる祝詞や、卜ひを伴ふ宮廷風の穂祭りは、神社の行事になり、村の昔の、もつと古くから続いた刈り上げの新嘗は、家々の内々の行事となつて行つた。早稲を試食した後だから、別の方法をとる村々もあつた。餅・粢(シトギ)・握り飯・餡流し飯・小豆米、色々と村の供物の伝承は、分れて行つた。正月に餅つかぬ家や村などがあり、歳晩の一夜を眠らぬ風も行はれた。皆、刈り上げ祭りの夜の供物や物忌みの行はれた痕跡である。大歳の夜の事になつてゐるのは、実際謂はれのある事で、刈り上げ祭りが、春待つ夜に行はれた事をも見せて居るのだ。だが、祭りの時間が長びき、又一続きの儀式の部分に、大切な意義を考へる様になると、段々日を別けてする様になるのは、当りまへであつた。
新嘗祭りの11月には、古くて秘密の多かつたらしい鎮魂の神遊びが続いてある。12月になつて、清暑堂の御神楽があり、おしつまつて大祓へ・節折(ヨヲ)りが行はれる。其夜ひき続いて、直日神の祭りから、四方拝とある外にも、今日では定めて行はれてゐない儀式が他にもあつたらしい。後には、元旦ではなくなつたが、歳旦の朝まつりごととして、まづ行はせられるはずの儀式が、拝賀であつた。
拝賀は臣下のする事で、天子は其に先だつて、元旦の詔旨を宣(ノ)り降されるのであつた。此時の天子の御資格が、神自身である事を忘れて、祭主と考へられ出したのは、奈良・藤原よりも、もつと古いことであらう。併し、天子は、此時遠くより来たまれびと神であり、高天原の神でもあつたのだ。さうして、現実の神の詔旨伝達者(ミコトモチ)の資格を脱却せられてゐる。元旦の詔旨を唱へられると共に、神自身になられるのである。其唱誦の為に上られる高座が、天上の至上神としての資格の来り附いた事を示すので、此が高御座であつた。そして、段々、大嘗祭りに限つた玉座の様に考へられて行つたのである。
大嘗祭りは、御世始めの新嘗祭りである。同時に、大嘗祭りの詔旨・即位式の詔旨が一つものであつた事を示してゐる。即位から次の初春迄は、天子物忌みの期間であつて、所謂まどこ・おふすまを被つて、籠られるのである。春の前夜になつて、新しい日の御子誕生して、禊ぎをして後、宮廷に入る。さうして、まれびととしてのあるじを、神なる自分が、神主なる自身から享けられる。此が、大祓へでもあり、鎮魂でもあり、大嘗・新嘗でもある。さうして、高天原の神のみこともちたる時と、神自身となられる時との二様があるので、伝承の呪詞と御座とが、其を分けるのである。
即位元年は、実は、次の春であるべきであつた。大殿祭・祓への節折(ヨヲ)りに接して大嘗祭り、此に続いて鎮魂式、尚もひき続いて直日呪詞、夜が明けると共に、高御座ののりとが行はれる。此皆、天子自身の行事であつたのを、次第に忘れ、省き、天子のみこともちに委ねられる様になつた。四方拝、実は、高御座の詔旨唱誦であつたのだ。かうして、神自身であり、神の代理者であることが定まる。
此が御代の始めであつた。此呪詞は、毎年、初春毎にくり返された事は、令の規定を見ても知れるのである。此詔旨を宣り降される事は、年を始めに返し、人の齢も、殿の建て物もすべてを、去年のまゝに戻し、一転して最初の物にして了ふ。此までのゆきがゝりは、すべて無かつた昔になる。即位式が、先帝崩御と共に行はれる様になり、大・新嘗祭りは、仲冬の刈り上げ直後の行事と変り、日の御子甦生の産湯なる禊ぎは道教化して、意義を転じ、元旦の拝賀は詔旨よりも、賀を受ける方を主とせられる様になつて行つた。でも、暦は幾度改つても、大晦日までを冬と考へ、元旦を初春とする言ひ方・思ひ方は続いてゐて「年のうちに、春は来にけり」など言ふ、たわいもない様な興味が古今集の巻頭に据ゑられる文学動機となつたのも、此によるのだ。又、世直しの為、正月が盆から再はじまり、徳政が宣せられたりもした。後世の因明論理や儒者の常識を超越した社会現象は、皆、此即位又は元旦の詔旨(のりとの本体)の宣(ノ)り直(ナホ)す、と言ふ威力の信仰に基いてゐるのだ。
秋と言へば、七・八・九の三月中とする考へが、暦法採用以後、段々、養はれて来たが、11月の新嘗の初穂を、頒けて上げようと言ふ風神との約束に「今年の秋(アキ)ノ祭(マツ)りに奉らむ……」と言つた用例を残してゐる。此祝詞は、奈良朝製作の部分が、まだ多く壊れないでゐるものと思へる。すると、秋祭りは刈り上げの祭りと言ふことになる。6月(月次祭)でも、9月(神嘗祭り)でも当らないから、此あきは、暦利用以前の秋に違ひなく、田為事の終る時期を斥す語であらう。新嘗・市・交易・饗宴、かうした事実が、此語を中心にして聯絡を持つてゐるのは、あきが刈り上げの祭りの期間を表すこともあつたらしく思はせる。私は、仮説として、条件つきの立願をねぐ、願果しをあくと言うたのではないかと考へてゐる。「秋祭りに奉らむ……」とあるのは「刈り上げの折のまつり」と言ふだけの事で、今の秋祭りに対しては、稍自由である。そして、こゝのまつりと言ふ語も、唯の祭典の義ではないらしい。
祭りの用語例は、二つあげたが、此は亦違つて、献上するの義である。たてまつる・おきまつる(奠)などのまつるで、神・霊に食物・着物其他をさしあげる事を表してゐる。先師三矢重松博士は、此「献(マツ)る」を「祭る」の語原とする説を強められた。まづ今までゞのまつりの語原論では、最上位のものである。師説を牾(モド)く様で、気術ないが、私はも少し先がある、と考へてゐる。

新嘗の意味の秋祭りの外に、秋に多い信仰行事は、相撲であり、水神祭りであり、魂祭りである。秋の初めから、9月の末に祭りを行ふ様な処までも、社々で、童相撲・若衆相撲などを催す。それは、宮廷の相撲節会(セチヱ)が7月だから、其を民間で模倣したと言ふことも出来ぬ。此を農村どうしの年占或は、作物競争と見る人もあらう。だが其よりも、不思議に、水神に関係してゐる事である。野見宿禰を必、先、説く相撲は、「腰折れ田」の伝説から見ても、田の水に絡んでゐる。もつと古く溯ると、隼人の俳優(ワザヲギ)・相撲などの起原を説く海幸彦・山幸彦の争ひなどもさうで、水神と地霊との力比べを説く呪詞の、叙事詩化した物から出てゐるのである。水神に相撲の絡んでゐるのは、諏訪と鹿島両明神の力比べもさうであつて、海を越えて来た--天鳥船神が伴うてゐる--神を鹿島とし、地霊を諏訪として、神話化したのである。
河童が相撲を好んで、人を見れば挑みかけるとしてゐる伝承も、基く所は古いのであつて、九州方の角力行事なども、妖怪化した水の侏儒河童を対象にした川祭りが、大きな助勢をした様である。そして、春祭りに行うた筈のが、5月の田遊びにも、7月の水神祭りにも、処々の勝手で、行ひ改められたのであらう。然るに、大凡、海から来る神の、川を溯つて、村々に臨む時期が、段々、きまつて来た。「夏と秋とゆきあひの早稲のほのぼのと」目につく頃である。
かうして、年一度来る筈の、海の彼方のまれびと神が、度々来ねばならなくなり、中元を境にして、年を二つに分けて考へ、7月以後は春夏のくり返しと言ふ風の信仰が出て来た。此は、夏の禊ぎが盛んになつた為でゞもあつた。禊ぎには、まれびと神の来臨が伴ふものとしてゐた信仰からは、夏から秋への転化を、新しい年のはじまりと考へないでは居られなかつたのだ。
この時期は、仏家でも、盂蘭盆会を修する時である。歳の果から初春にかけて、海の彼方のまれびとが出て来、眷属となつてゐる数多の精霊も、其に随うて、村へ集る。村人の成年戒を受けて後死んだ者の魂は、皆、海の彼方の国--常世の国--に行つてゐて、それらが来るのである。で、年を元に戻し、春を齎す呪詞の神の来る行事が、夏の終りにも再、行はれる様になると、常世の精霊たちも、秋のはじめに今一度、人間の村を訪れる事になる。其が、盂蘭盆と一つに考へられると、秋の魂祭りとなる。此中元に来るまれびとの考へは、海邑から移つた山野の村の勢力の殖えた時代に、既に出てゐた。従つて、海に続いた川を遥かに溯つて来るもの、とせられる様になつた。
海岸に神を迎へた時代にも、地方によつては、此まれびとの為、一人、村から離れ住んで、海波の上に造り架けた様な、さずきともたなとも謂はれた仮屋の中で、機を織つてゐる巫女があつた。板挙(タナ)に設けた機屋の中に居る処女と言ふので、此を棚機(タナバタ)つ女(メ)と言うた。又弟たなばたとも言ふのは、神主の妹分であり、時としては、最高位の巫女の候補者である為でゞもあつた。此棚機つ女の生活は、早く、忘れられる時代が来た。でも、伝説化して、今までも残つてゐる。したてる媛の歌と言ふ大歌夷曲(ヒナブリ)の「天(アメ)なるや弟たなばたの領(ウナ)がせる珠のみすまる……」(神代紀)など言ふ句の伝つたのも、水神の巫女の盛装した姿の記憶が出てゐるのだ。これが初秋であり、川水に関係がある上に、機織る女性にまづ迎へられる男性と言ふ、輪廓の大体合うた処から、七夕の織女・牽牛二星を奠(マツ)る行事といふ風に、殆ど完全に、習合せられて了うた。
七夕の供へ物・立て物などを川へ流す外、川に棚や縄を懸けて、盆棚同様の供物をする処もある。又、害虫や睡魔を払ひ棄てる風俗さへ添うてゐる。此から見ると、水神祭りの形が、不自然な点の残らぬほど、星祭りに変つて行つても、やつぱりどこかに、古代の影は残つてゐたのだ。此水神祭りは、元々、夏祓へと同じものであつて、村や家に迎へる方は、盂蘭盆会に任せて了うて、水神迎へと禊ぎとの痕跡だけを、七夕の乞巧奠に止めた。さうして、新しく水神祭りを始めて、灌漑の用水から、水死の防止などまでをも、委托する事になつたのである。
盂蘭盆会も、仏法種よりも、寧、古代信仰が多く残つてゐる様だ。飛鳥朝の末などの盂蘭盆の記録などの、異国臭いのと比べると、後代のは、よつぽど和臭を露骨にしてゐる。盆棚なども、仏家の式と言ふより、陰陽道を経て移つて行つた形なる事を見せてゐる。還つて来る精霊にも、尊者と従者或は無縁の霊などを分けてゐる。地方によつては、歳の夜から正月へかけて、戻つて来る聖霊の一群のあることを信じてゐて、其と歳棚へ来る歳徳神との間に区別を立てゝも居ない。「つれづれ草」には、東国の魂祭りの、大晦日の夜に行はれた印象を書いてゐる。だから、盆に戻る聖霊は、水神祭りの対象でもあり、夏祓へに臨むまれびとの一群でゞもあつたのだ。
夏にも鎮魂の式は忘れられてゐなかつた。飛鳥朝宮廷にも既に行うた記録のある元旦拝賀の儀の中の、諸氏の奏寿は、鎮魂祭の分裂したものであり、室町あたりから書き物に見える七夕の翌日から盆の前日にまで亘つた、生御魂(イキミタマ)の「おめでた言(ゴト)」と一つ事であつた。親や親方・烏帽子親を拝みに行く式である。宮廷では、主上自身、上皇・皇太后を拝みに、朝覲行幸(テウキンギヤウカウ)を行はせられた。縁女・奉公人の藪入りも、上元・中元をめどとした親拝みの古風である。即、鎮魂の一様式でもあつた。
かうして見ると、秋祭りには、穂祭り・神嘗祭りの意義のものが多く、真の秋祭りとも言ふべき新嘗祭りは、段々、消えて行つた。さうして其上に、夏祭りと同根の、夏祓への分化した様式が、七夕節供や水神供となり、又祭りの余興としか考へられなくなつた相撲があり、すつかり見えの変つて了うたのが、盂蘭盆であり、何ともつかぬ年中行事となつたのが、盆礼の「おめでたごと」であつた。
かう言ふ夏祓へと、穂祭りとを合体させたものが、住吉の宝の市の神輿渡御であつた。桝を売るから、桝市とも言ふ。此方から見れば、秋祭りであるが、神輿洗ひや童相撲などから見ると、祓へであり、水神祭りでもある。而も、其数日後の9月尽に、神有月に参加せられるのを見送るのだと言ふが、此は恐らく、秋から冬への季の移り目の祓への考への上に、田の神上げの行事がとりこまれてゐるのらしい。秋の終りに、田の神を上げると言ふ考へは、田の行事は秋きりとした考へが、事実の上にまだ秋果てぬ10月でも、田の神は還るものと、言語の上だけで信じた為もある。穂祭りの秋祭りも、さうした秋冬に対する伝承上の限界が事実を規定して、新嘗のおとりこしなど言ふ考へさへ添うて来たのかも知れない。
冬の行事の、秋にとりこされる様な風習のあつた痕は段々見える。中には、冬の行事なるが故に、1月以前にくりあげて行ふ、と言ふ風までも出来たらしい。門徒宗では親鸞忌の報恩講を、1月くりあげて、10月に修して、此をおとりこしと言うてゐる。11月の冬至を冬の果と見る様な考へも、この風を助成したであらう。が、新嘗や鎮魂祭が冬の極み、と言ふ考へも伝つてゐた為、12月にあるべき事を11月にとり越してゐる。月次祭りの変形らしい。京辺の大社の冬祭りは、大抵11月の行事になつてゐた。除夜から元旦へかけての、春祭りであるはずの条件を備へた、春日若宮のおん祭りは、11月の末に、田遊びや作物の祝言を執り行ふ。お火焼(ホタ)きの神事は、正月14日の左義長や、除夜にあつた祇園の柱焼きの年占などを兼ねた意味のものであつて、初春を意味する日の前日にするはずのものだ。だから、上元の前日や、節分の日や、大晦日の夜に行ふべきのが、11月中の神事ときまつてゐた。

市はもと、冬に立つたもので、此日が山の神祭りであつた。山の神女が市神であつた。此が、何時からか、えびす神に替つて来、さうして、山の神に仕へる神女、即山の神と見なされたり、山姥と言ふ妖怪風の者と考へられたりしたのである。だから、年の暮れ、山の神が刈り上げ祭りに臨む日が、古式の市日であつた。此意味で、天満宮節分の鷽替(ウソカ)へ神事などは、大晦日の市と同じ形を存してゐるのだ。其山の神祭りも、市神祭りの夷講も、10月にとり越されて居る。而も、冬祓への変形らしい誓文払ひは、夷講に附随してゐる。正月の10日夷も14日或は除夜の転化した祭日で、富みを与へる外に、祓へてくれるものであつたので、此も、春待つ夜の行事であつた。其が、市神・山の神の祭りと共に、繰り上げられて、10月の内に行はれる様になつた。山の神の祠の火焼(ホタケ)は、やはり、11月のお火焼き神事と一つものであつた。
海から来る常世のまれびとが、やはり海の夷神に還元するまでは、山の神が代つて祓へをとり行うた。これは宮廷の大殿祭(オホトノホガヒ)や大祓へに、山人と認定出来る者の参加する事から知れる。山人は、山の神人であり、山の巫女が山姥となつて、市日には、市に出て舞うた。此が山姥舞である。
大和磯城郡穴師山は、水に縁なく見えるが、長谷川の一源頭で、水に関係が深かつた。穴師兵主(ヒヤウズ)神は、あちこちに分布したが、皆水に交渉が深い。山人の携へて来るものが、山づとと呼ばれて、市日に里人と交易せられた。山蘰(ヤマカヅラ)として、祓へのしるしになる寄生木(ホヨ)・栢(カヘ)・ひかげ・裏白の葉などがあり、採り物として、けづり花(鶯や粟穂・稗穂・けづりかけとなる)・杖などがあつた。柳田先生の考へによれば、採り物のひさごも、山人のは、杓子であつた。
山人といふ語は、仙と言ふ漢字を訓じた頃から、混乱が激しくなる。大体、其以前から、山人は山の神其ものか、里の若者が仮装したのか、わからなかつた。平安の宮廷・大社に来る山人は、下級神人の姿をやつしたものと言ふ事が知れてゐた。
あしびきの 山に行きけむやまびとの心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王--万葉巻20)
この歌では、元正天皇がやまびとであり、同時に山郷山村(フレ)(添上郡)の住民が、奈良宮廷の祭りに来るやまびとであつた。この二つの異義同音の語に興味を持つたのだ。仙はやまびととも訓ずるが、「いろは字類抄」にはいきぼとけとも訓んでゐる。いきぼとけの方が上皇で、山の神人の方が、山村の山の神であり、山人でもある村人であつた。
あしびきの山村(ヤマ)行きしかば、山人の我に得しめし山づとぞ。これ(太上天皇--万葉巻20)
此が、本の歌になつた天皇の作である。これにも、語の幻の重りあうたのを喜んで居られるのが見える。山人を仙人にとりなして「命を延べてくれるやまびとの住む山村へ行つた時に、やまびとが出て来て、おれに授けた、山の贈り物だ。これが」と言ひ出された興味は、今でも訣る。
高市・磯城の野に都のあつた間は、穴師山の神人が来、奈良へ遷つてからは、山村から来る事になつたらしい。この山人が、次第に空想化して、山の神・山の精霊・山の怪物と感じられる様にもなつたのだ。穴師の神人は山人でありながら、諸国に布教して歩いた。それを見ると、里と交通の絶えた者どもでもなかつたのである。唯、市日と、宮廷・豪家の祓へに臨む時だけは、山蘰を捲き、恐らく、からだ中も、山の草木で掩うてゐた事があるのだらう。
山城京になると、山人は、日吉から来たのらしい。三輪を圧へる穴師が、三輪山の上にあつた様に、加茂を制する為の山の神は、高く聳える日吉の神でなければならなかつた。だから、はじめは、山人も比叡の神人の役であつたらう。而も、此が媚び仕へることによつて、神慮を柔げるものとしたのだ。加茂にも、平野にも、山人が祭りに出たのは、媚び仕への形である。松尾が日吉と同じ神とせられてゐるのは、平野が大倭神であり、加茂が三輪系統のあぢすきたかひこねの命としての伝へもあつたからであらう。日吉の神人は、松尾の社に近く住んで居たらしく、桂の里との関係も、考へられぬではない。
加茂祭りの両蘰(モロカヅラ)は、葵と桂とであつた。だから、平安京の山人は、簡単な姿をしてゐたのであらう。そして、其祓へがすんで、神のかげを受けるものゝしるしとして、山づとの両蘰をくばつて歩いたのであらう。神になつた扮装の、極度に形式化したものが、蘰で頭を捲いたのだ。其が更に、物忌みの徽章化したのが両蘰の類で、標(シ)め縄・標め串と違はぬ物になつたのである。
冬の祭りは、まづ鎮魂であり、又、禊ぎから出たものである。春祭りのとりこしもあるが、冬の月次祭出のものもあり、新室ほかひに属するものもある。第一にきめてかゝらねばならぬのは「ふゆ」といふ語の古い意義である。「秋」が古くは、刈り上げ前後の、短い楽しい時間を言うたらしかつたと同様に、ふゆも極めて僅かな時間を言うてゐたらしいのである。先輩もふゆは「殖ゆ」だと言ひ、鎮魂即みたまふりのふると同じ語だとして、御魂が殖えるのだとし、威霊の信頼すべき力をみたまのふゆと言ふのだとしてゐる。即、威霊の増殖と解してゐるのである。触るか、殖ゆか、栄(ハ)ゆか。古い文献にも、既に、知れなかつたに違ひない。
誉田の日の皇子 大雀(オホサヽギ) おほさゝぎ、佩かせる太刀。本つるぎ 末(スヱ)ふゆ。冬木のす 枯(カラ)が下樹(シタキ)の さやさや(応神記)
たゞ、此国栖(クズ)歌で見ると、所謂国栖ノ奏の意義が知れる。此は、国栖人のする奏寿で、鎮魂の一方式なのだ。此太刀は常用の物でなく、鎮魂の為の神宝なので、石ノ上の鎮魂の秘器なる布留の御霊の様に、幾叉にも尖が岐れて居た。劔と言うたのは、両刃(モロハ)を示すので、太刀の総名であり、根本は両刃の劔の形である。尖の方では、分岐して幾つにもなつてゐる。かう言つて来て、祓へに使ふ採り物の木の方に移るのだ。
枯野(カラヌ)を塩に焼き、其(シ)があまり琴に作り、かきひくや 由良の門(ト)の門中(トナカ)の岩礁(イクリ)に ふれたつ なづの木の。さやさや(仁徳記)
と言ふのも、実は国栖歌の同類である。恐らくは、謡ひ納(ヲサ)めの末歌ではなからうか。
ふゆきと言ふのは、冬木ではなく、寄生(ホヨ)と言はれるやどり木の事であらう。「寄生木(フユキ)のよ。其」と言ひつゞけて、本末から幹(カラ)の聯想をして「其やどつた木の岐れの太枝(カラ)の陰の(寄生)木のよ。うちふるふ音のさやさやとする、この通り、御身・御命の、さつぱりとすこやかにましまさう」と言ひつゞけて、からがしたきからからぬを起して、しまひに、採り物のなづの木の音のさやさやに落して行つたのだ。枯野を舟の名とする古伝承は疑はしい。
此「なづの木よ。いづれのなづぞ。」かう言ふ風な言ひ方で「幹(カラ)ぬよ。其木の幹を海渚に持ち出で焼き、禊ぎさせる今。此弾く琴も、其幹のづぬけた部分で作り、かう掻きひくところの、音のゆらゆらでないが、由良の海峡(セト)の迫門中(トナカ)のよ。其岩礁に物が触れるではないが、御身に触れ撫でようと設けた此なづの木の、御衣にふれる音よ。そのさやさやと栄えましまさう。」かう言つた風に、天子の呪力から、自分の採り物として頭にかざした寄生木に寄せ、又撫で物として節折りに用ゐたなづの木--恐らくなすの木で、聖木つげの類のいすの木(ひよんともいふ)--に寄せて行く間に、建て物の祝言として、き(木)を繰り返し、鎮魂関係の縁語ふゆ・さやさや・潮水(シホ)・琴・ゆら・ふる・なづなどを、無意識ながらとりこんでゐるのである。
寄生木は、外国でもさうである如く、我国でも、神聖な植物としてゐた。
あしびきの山の木末(コヌレ)のほよとりて、かざしつらくは、千年祝(ホ)ぐとぞ(万葉巻18)
家持の歌である。此木を鈿(ウズ)に挿して、正月の祝福をしたのであつた。此は、山人のするやまかげ・やまかづらの一つだつたのである。ほよともふゆとも言うたからの懸け詞で、なづと撫づとをかけたと等しい。ふゆに、殖ゆは勿論触るを兼ねて、密着(フル)の意をも持つてゐるのだ。鎮魂式には、外来の威霊が新しい力で、身につき直すと考へた。其が、展開して、幾つに分裂(フヤ)しても本の威力は減少せない、と言ふ信仰が出来た。
鎮魂式に先だつ祓への後に、旧霊魂の穢れをうつした衣を、祓への人々に与へられた。此風から出て、此衣についたものを穢れと見ないで、分裂した魂と考へる様になつた。だから、平安朝には、歳暮に衣配(キヌクバ)りの風が行はれた。春衣を与へると言ふのは、後の理会で、魂を頒ち与へるつもりだつたのである。即みたまのふゆの信仰である。この場合のふゆは殖ゆなどの動詞ではなく、語根体言であつて、「分裂物」などの意であるが、かうした言語の成立は、類例が少い。語頭に来る語根体言はあつても、語尾に来るものは珍らしい。
此は、此語が極めて長く、呪詞・叙事詩の上に伝承せられてゐた事を示してゐるのだ。霊の分裂を持つことは、後代の考へ方では、本霊の持ち主の護りを受ける事になる。其で、恩賚など言ふ字をみたまのふゆと読むやうになり、加護から更に、眷顧を意味する事にもなつた。給ふ・賜はる・みたまたまふなど言ふ語さへも、霊の分裂の信仰から生れた。みたまのふゆと言ふ語は、鎮魂の呪詞から出たものであらうが、其用途は次第に分岐して行つたらしい。数主並叙法とも言ふべき発想法をしてゐる。
家の祝言が、同時に、家あるじの生命・健康の祝福であり、同時にまた、家財増殖を願ふ事にも当る。時としては、新婚の夫婦の仲の遂げる様、子の生み殖える様に、との希望を予祝する目的にも叶ふのであつた。此みたまのふゆの現れる鎮魂の期間が、ふゆまつりと考へられたのであらう。そして、ふゆだけが分離して、刈り上げの後から春までの間を言ふ様になり、刈り上げと鎮魂・大晦日との関係が、次第に薄くなつて行つて、間隔が出来た為、冬の観念の基礎が替つて行つた。そして暦の示す三个月の冬季を、あまり長過ぎるとも感じなくなつたと見える。

私はもう春まつりの事に、多少触れて来た。こゝらでまつりの原義を説いて、此文章を結びたいと思ふ。霊魂の分裂信仰よりも、早く性格移入を信じてゐた古代人は、呪詞を威力化する呪詞神の霊力が、呪詞を唱誦する人に移入して、呪詞神其ものとする、とした事は言うた。神の希望は、人間には命令であり、規定であつた。此神意を宣(ノ)る呪詞を具体化するのは、唯伝達し、執行するだけであつた。神の呪力は、人を待たずとも、効果を表すが、併し、其伝誦を誤ると、大事である。だから、御言伝宣者(ミコトモチ)は、選ばれなくてはならなかつた。まつるの語根まつは、期待の義に多く用ゐられるが、もつと強く期する心である。焦心を示す義すらあつた。神慮の表現せられる事が「守(マ)つ」であつた。卜象をまちと言ふのも、其為である。神慮・神命の現れるまでの心をまつと言ふまち酒などは、それである。単なる待酒・兆酒ではなかつた。
まつを原義のまゝで、語根として変化させると、まつる・またすと言ふ二つの語が出来た。まつるは神意を宣る事である。そして、神自身宣するのでなく、伝宣する意義であつたらしい。「少御神(スクナミカミ)の、神寿(カムホ)きほきくるほし、豊寿(トヨホ)きほき旋廻(モトホ)し、麻都理許斯御酒(マツリコシミキ)ぞ」(仲哀記)とあるのを見ると、少彦名神が、呪詞神の酒ほかひの詞を、神寿き豊寿きに、ほき乱舞し、ほき旋転あそばされて、宣(マツ)りつゞけて出来た御酒ぞと言ふのか、少彦名のはじめた呪詞を、神人がほき宣(マツ)り続けて、作られた御酒ぞ、ともとれる。どちらにしても、こゝのまつるは、少彦名自身が、自分の呪詞を自ら宣(マツ)られたり、献り来られた御酒だとは言へない。併し、まつるに呪詞を唱へると言ふ義のあることは知れる。またすは、伝宣せしめるので、神の側の事である。神意を伝宣し、具象せしめにやることである。其が広く遣・使などに当る用語例に拡がつた。
だから、第一義のまつりは、呪詞・詔旨を唱誦する儀式であつたことになる。第二義は、神意を具象する為に、呪詞の意を体して奉仕することである。更に転じては、神意の現実化した事を覆奏する義にもなつた。此意義のものが、古いまつりには多かつた。前の方殊に第二は、まつりごとと言ふ側になつて来る。其が偏つて行つて、神の食国(ヲスクニ)のまつりごとの完全になつた事を言ふ覆奏(マツリ)が盛んになつた。此は神嘗祭りである。
其以下のまつりは、既に説いて了うた。かうして、春まつりから冬まつりが岐れ、冬まつりの前提が秋まつりを分岐した。更に、陰陽道が神道を習合しきつて後は、冬祓へより夏祓へが盛んになり、其から夏まつりが発生した。さうして、近代最盛んな夏祭りは、実は、すべての祭りの前提として行はれた祓への、変形に過ぎなかつたのである。
此が、祭りについての大づかみな話である。  
 
村々の祭り

 

今宮の自慢話
ことしの夏は、そんな間(マ)がなくて、とうとう見はづして了うたので、残念に思うてゐる。毎年、どつかで見ない事のない「夏祭浪花鑑」の芝居である。音羽屋と言ふ人の、今度久しぶりで、院本に拠つた団七九郎兵衛は、見たかつたけれども、今更どうにもならない。でも、其演出は原作に忠実であつたと言ふだけに、一个処見て置きたい場面があつた。「祇園囃しの祭りの太鼓。ちようや、ようさ。ようさや、ちようさ。……」かう言ふ調子づいた原文の、祭りの日の気分の写生が、十分に出たかどうかゞ触れて見たかつたのである。どうも、あれを思ひ出させられると、たまらない。大阪で少年期を過して、今、四五十になつて居る人たちの胸は、底からゆすり揚げられる気がする。義平次殺しの日は難波祭(ナンバマツ)りらしく書いてあるが、私の育つたのは、おなじ「八阪(ヤサカ)さま」を祀つても、社は別々の隣村であつた。でも、日もおなじければ、曳く飾り山もおなじだいがくと言ふ大きな鉾(ホコ)であつた。此だいがくは、大阪南方の近在では皆舁いたものらしいが、最後まで執著を残してゐたのは、私の生れ里であつた。何でも五六年息まつて居て、最後に舁いたのが、日露戦争の済んだ年であつたと思ふ。
天王寺も今宮も、早く止めたが、やはりだいがくを舁いた村である。産土神から言へば、難波・木津の祇園なのに適当だが、村の歴史から言へば、今宮が一等此に縁深さうに見えるのである。今宮は小西来山の十万堂の残つてゐる処で、果して真作かどうか疑はしいけれど、「今宮は、虫どころなり。つんぼなり。」と言ふ句が、諺の様に、いまだに旧住民の子孫には伝はつて居る。その没風流に比興した聾の夷神で名高くもなつた。村の氏神と祀られて居るのは、夷の社ではなく、おさき次郎兵衛の心中のあつた杜にあつた広田の社である。それで居て、土地の旧家の書き物にも、村人の自慢話にも京の八阪社との深い関係を説いてゐる。「祇園のお御輿(ミコシ)も、今宮が出んなら、びりびり動きもせん。」かう信じもし、言ひふらしもした。隣村の我々などは、さうした由緒のないことを肩身狭く感じた事さへある。これは嘘でも、ま違ひでもなかつた。大阪の旧地誌は固より、京都側の書き物にも、其通りに伝へて居るのが段々ある。八阪の駕輿丁の出る村だから、京の山鉾を似せて、舁き出したと言ふ事もなり立つかも知れぬ。だが、此小話では、そんな点迄かたづけて居る事は出来ぬ。
夏祓へから生れた祭り
広田の氏子が、祇園の神人(ジンニン)であるといふ事は、一体、どうした事であらう。だが、此は不思議でも何でもない。かうした例なら、幾らでも挙つて来る。
日吉の神輿は、京方へおりると、きまつて加茂河原の細工(皮)の家群(ムラ)に立ちよられた。さうして権現が人間の世に、世話を申した「小次郎」の子孫のもてなしを受けられるのだと説明してゐる。此は、固より仮りの説明であつた。山王の神人として、遠く離れ住んだ奴隷村なのであつた。其が、何時からか、卑人の渡世として我人共に認めた馬具細工をする様になつてゐたのである。謂はゞ此は、神輿洗ひであり、麓川の贄(ニヘ)を献る事を職として居たものであつたらしいのである。今宮の村は、元、祇園の神輿を浪花の海まで舁き下つて、神の禊(ミソ)ぎの助けをし、海の御調(ミツギ)を搬ぶ様になつて居たらしい証拠がある。今宮の駕輿丁の話は、祇園の神の召使ひであつた俤を示すと共に、広田や西の宮(夷神)と引つかゝりを見せてくれるのである。
元々、禊ぎの神でもないのに、広田・西の宮は古くから、住吉・売(ミヌメ)の神々とごつちやに考へられて来た。禊ぎの助手である海辺の民が、其方面の神を主神とするのは、不思議のない話である。一体祇園は、古い「夏祓(ハラ)へ」の形をがらりと変らした神であつた。行疫神自身であつた天王が、夏の季に、新来の邪悪の霊を圧服して、海の彼方へ還つて行かれるものと考へ出したのは、平安の都がやつと落ちついた頃からの事である。其に結びついたのは、在来の夏の禊ぎの行事であつた。川社を設け、八十瀬の祓へを行ひ、夏神楽(カグラ)を奏する。皆、帰化人将来の祇園信仰が、民間伝承の上に結びついて来てからの事であつた。
其を早めるのには、卜部や陰陽師の手助けが非常にあつた。陰陽師の唱へる祭文と言へば、大祓詞の抜き読みと言つてよい「中臣祓」の外に、殆ど祝詞らしいものゝなくてすむ様になつて行つた。江戸時代の神道者と言へば、唯、禊ぎ祓へばかりを掌つてゐた様に見える。神道を陰陽道によつて神学化し、仏教によつて哲学化した卜部流の力を示してゐるまでゞある。其を嫌うた国学の先輩たちも、仏教臭味を嗅ぎ分けた程には、長く久しい道教のわりこみを、切りほぐす事は出来なかつた。
祭りは、禊ぎに伴ふ夏神楽から出て居る。神楽は鎮魂のために行ふものであつた。禊ぎの後の潔まつた身の内に、外来の威霊を堅く結び止めようとする儀式である。冬の凍る夜に限つた楽舞(アソビ)が、夏にも行はれるやうになつたのである。
まつりの語原
今までのところでは、まつりの語原が、あまり説き散されて、よしあしの見さかひもつきかねる程になつてゐる。其中では「祭りは、献(マツ)りだ。政は献(マツ)り事(ゴト)だ」と強調して唱へられた、先師三矢重松博士の考へが、まづ、今までの最上位にあるものである。
まつると言ふ語が正確に訣らないのは、古代人の考へ癖が呑みこめないからだと思ふ。神の代理者、即、御言実行者(ミコトモチ)の信仰が、まづ知られねばならぬ。にゝぎの命は、神考(カブロギ)・神妣(カブロミ)のみこともちとして、天の下に降られた。歴代の天子も、神考(カブロギ)・神妣(カブロミ)に対しては、にゝぎの命と同資格のみこともちであつた。さうして、天子から行事を委任せられた人々は、皆みこともちと称せられる。宰の字をみこともちと訓むのは、其為である。
みこととは神の発した咒詞又は命令である。みことを唱へて、実効を挙げるのがもつである。「伝達する」よりは重い。神に近い性格を得てふるまふことになる。み言の内容を具体化して来ると言ふ意義が、まつるの古い用語例にあつたらしい。それは、またす・まつるの対立を見れば知れる。語根まつをるとすとで変化させてゐる。使・遣と言ふ字が、日本紀の古訓には、またすと始終訓まれてゐる。まつりだす・まつだすなどゝは、成立を別に考へねばならぬ語であつた。意訳すれば、命を完了せしめると言ふ様にも説けよう。み言を具体化してやる。かう言つた意義が、まつを中にして、通じてゐる。其実現した状態を言ふ語が、また(全)しなのである。
第一義に近いと解する事の出来るのは「酒ほかひの歌」である。
この御酒(ミキ)は、吾が御酒(ミキ)ならず。くしの神 常世(トコヨ)に坐(イマ)す いはたゝす すくな御神(ミカミ)の、神寿(カムホキ) 寿(ホ)きくるほし、豊ほき 寿(ホ)き廻(モト)ほし、まつり来(コ)し御酒ぞ。あさず飲(ヲ)せ。さゝ(仲哀記)
まつるの処は、記・紀共に、一致して伝へてゐる。此まつるは献じに持つて来たとはとれぬ。「来(コ)し」は経過を言ふので、「最近までまつり続けて来た所の」の義であつて、後代なら来たと言ふ処だ。即、「神秘な寿ぎの「詞と態(ワザ)と」でほき、踊られてまつり来られ、善美を尽した寿き方で、瓶の周りをほき廻られて、まつり続けて来られた御酒だよ」と言ふ事になる。「まつりこし」のまつるは、「ほきまをす」に当るのでまをすの出ぬ前の形である。「ほき言」を代宣(マツ)るの義に説けばよい。天つ神の代りに、「酒精(クシ)の神少彦名」が、酒の出来るまで、ほき詞をくり返し唱へたと言ふのだ。まつるの語根は、まつらしいと、前に言うて置いた。咒詞の効果のあがる事の完全な事を示して、また(全)しと言ふ語のあることをも述べて置いた。まつる者にして、命じる者の側では、またす(遣・以・使遣)がある。神の代理者即、御言執行(ミコトモチ)として神言を伝達すると共に、当然伴ふ実効を収めて来る意だ。まつろふが服従の義を持つのは、まつるが命令通りに奉仕する、と言ふ古義がある事を見せてゐるのである。其大部分として、「食国(ヲスクニ)の政」が重く見られてゐた為に、献るの義に傾いたのだ。とりも直さず、神の御食(ミヲ)し物を、神自身のした如く、とり収めて覆奏する事から、転じて、人間の物を神物として供へる、と言ふ用語例になつたものに違ひない。まつるの原義は、やはり、神言を代宣するのであつたらしい。
のると言ふのは、代宣者を神と同格に見て言ふ語であつた。我が国の文献時代には、まつるは既に世の中を自由にする・献る・鎮魂する・定期に来臨する神を待つて楽舞を行ふ、と言つた用語例が出来て居り、神意による公事を行ふと言ふ義は、古伝の詞章の上に固定して残つてゐたのらしい。古い祭事には「まつり」をつけて言はないのが多いのも、まつりの範囲が広かつたからである。私は「待つ・献(マ)つ・兆(マチ)」などから出たものと考へてゐた事もあるが、其等は第二義にも達せぬ遅れたものであつた。「……まつる」と文尾に始終つく処へ、まつろふの聯想が加つて、自卑の語法となつて来たのだ。
八百稲千稲にひき据ゑおきて、秋祭爾奉〔牟止〕…参聚群(マヰウゴナハ)りて…たゝへ詞竟(ヲ)へまつる……(龍田風神祭)
この「秋祭」は、今言ふ「秋祭り」ではなく、秋の献りものとして奉らむと言ふ意であらう。此などになると、覆奏・奏覧などの義から遠のいて、献上すると言ふ事になつてゐる。かうして、祭りが、幣帛其他の献上物を主とするものゝ様に考へられて来て、まつり・まつりごとに区別を考へ、公事の神の照覧に供へる行事を政といひ、献上物をして神慮を和(ナゴ)め、犒(ネギラ)ふ行事としてまつりを考へわけたのではなかつたらうか。
夏祭り
平安朝に著しくなつたのは、神は楽舞を喜ぶものと考へる信仰である。参詣した時に奏する当座の神遊びもあるが、大社には貴人との約束で、定祭以外に、年中行事となつた奏楽日もある。臨時祭と言ふのが、其である。賀茂の臨時祭は11月であるが、本祭りは4月中の酉の日に行ふ。山城京の地主神として、大和朝廷の三輪の神における様な、畏敬を持たれた賀茂社である。其祭りが、京近辺の大社の祭りを奪うて、「祭り」で通つたのも、当り前である。
其が、王朝文学の跡を尾(シタ)うて来た連歌師・俳諧師等の慣用語にまで、這入つて行つた。季題の「祭り」を夏と部類する事は、後世地方の習慣から見れば、気分的に承けにくい。「祭り」と言へば、全的に「秋」を感じる田舎の行事は、此処には力がない。而も、此前後には、大祭が続いてあつた。三月中旬後は、石清水臨時祭に接して、鎮花祭が行はれ、人々は狂奔舞蹈する。其から暫くして、御霊会に祇園会が行はれる。都人の頭には、夏の祭りが沁み入る訣である。だが、夏の祭りは皆、厄除け・邪霊送りの意義のあることは、通じて見える事実である。石清水臨時祭の如きも、将門・純友追討の神力を、後世までも続けて貰はうとするのである。賀茂祭りは斎院の御禊(ゴケイ)が中心となつて居る。大ぬさの流されるのも、同じ時である。御手洗川・糺河原などが、民間の禊ぎの定用地となつたのも、此為である。
鎮花祭は、季節の替り目に行疫神を逐ふものと謂はれてゐるが、其は平安中期からの合理説で、稲の花の為の予祝であつた。桜その他の木の花を以て、稲の花の象徴と見て、其散る事を遅らさうとする農村行事であつた。其から、稲虫のつかぬ様に願ひ、其に関聯し易い悪霊を退散させようとしたのだ。
「やすらひ花や」をくり返す歌も、田歌から出たに違ひないらしい。「やすらへ」と言ふのが正格らしいから「ゆつくりしろ」と言ふ意味になる。「花よ。せはしなく散るな、…稲の花もさうして、実を結ばないでは困る」との積りである。それが、行疫神の来るのをはぐらかす、神送りの踊りの様に考へられて、御霊の社や祇園社の信仰と混淆して、田楽の一派として、怨霊退散を第一義とした念仏踊りを形づくつて行つた。して見れば、鎮花祭も祇園会の古い形である。禊ぎを要件とせぬ、夏の入り口の祓へ行事であつたのだ。
だから、夏祭りは、可なり後世に、祭りの体裁を備へて来たので、祓へ又は禊ぎと其に伴うた神楽から、音楽本位の祭礼の時代に、祭りとして認められる事になつたのであつた。賀茂祭りは、季題を規定するだけの古典的勢力を持つて居ても、祇園会が盛んになるまでは、夏の祭りと言ふ部類を立てる事が出来ず、唯、毎年神の生れ給ふ日として、斎宮の助けによつて産湯を浴びる、と言ふだけのものであつた。一社の特殊神事で、全国に亙る通例祭事ではなかつた。
夏祭りは、6月大祓へと同じ意義のものであつた。其が、春夏の交叉期を畏れる風習に惹かれて、時期が早まつて行つた。都会地方では、祇園囃子の面白い八阪の祭りに次第にかぶれて、秋祭りには疎に、夏の方には力をこめる様になつた。
秋祭りと新嘗祭りと
秋の祭りは、田舎の賑ふ時である。だが大体に、刈り上げを待つて行ふ処は数へる位であらう。早稲があがれば、もう祭りは出来るのである。東京などの秋祭りは、夏のが早いだけに、まだ残暑のいらつく間に行うてゐる。大阪などでも、秋の祭りは、閑古鳥が鳴くと謂はれてゐる様に、宮の内外も寂しい。家に居ても、鰺炙く匂ひもせねば、巾著に入れてくれる銭も軽い様である。如何にも骨休みと言つた顔をした家族・雇人が、晴れ著に著換へるはりあひもない様に、ぢつと表の人通りを多いの少いのと噂しあうてゐる。
早稲の作りはじめられた理由の一つには、恐らく此考へはあつたらう。田の豊凶を早く物に顕して見たい。さうして又、海の彼方か、山の奥か、但しは天の原から来る村の守り主のお目にかけねばならなかつた。初春に来てくれ、田植ゑ時にも遥々やつて来て下さつた村の守り主は、稲の出来ばえを見たがつてゐるはずである。此早稲の飯も、やはり贄(ニヘ)である。
贄をたべに神なるまれびとの来てゐる間は、特定の人の外は、家に居る事が許されなかつた。家族は、皆外に避けて、海河で禊ぎをしてゐる処もあり、ある建て物に集り、籠つたり、簡単にすむ処では、表へ出てゐるだけの作法など、村それぞれの為来りが、細部では必違うて居た事であらう。奈良朝の東国では、既に伝説化し、劇的な民謡の材料とまで固定してゐたが、やはり、ある部分では行うてゐたらしい伝承がある。早稲の贄を饗応する為の斎(イ)みだから、「贄へ斎み」の義で、にひなめ・にふなみ・にへなみ・にはなひなど言うたのである。
其夜は神が一宿して行く。其日家に残つて、幾日来「をとめの生活」に虔んでゐる家の女--主婦である事も、処女である事もあつたであらう--の給仕を受け、添寝をして行つたものと思はれる。此が、一夜夫婦(ヒトヨヅマ)といふ語の正確な用例である。又地方によつては、家の長上なる男があるじ役を勤める処も多かつたらしい。又、まれびとも、大勢の伴神を連れて来る事もあつた。其等の神たちが、座を組んで、酒の廻るに従うて、順番に芸能を演ずる事もあつた。
此日神を請ずる家が「新室(ニヒムロ)」と称へられた。昔から実際新しい建て物を作るのだと考へられて来てゐる。だが、来臨したまれびとの宣(ノ)り出す咒詞の威力は、旧室(フルムロ)を一挙に若室(ワカムロ)・新殿(ニヒドノ)に変じて了ふのであつた。尠くとも、さう信じてゐた。
大和宮廷などでは、早くから其まれびとが、神に仮装した村の男神人だと言ふ事を知つてゐた。家々のにひなめには、自分の家より格の上な人をまれびととして光来を仰ぎ、咒詞を唱へて貰ふ事があつた。さうした時代にも、まれびとは家あるじに対して、舞ひをした処女或は、接待役に出た家刀自を、一夜づまに所望する事も出来たのである。平安朝以後頻りに行はれた上流公家の大饗(ダイキヤウ)も、やはり一階上の先輩を主賓として催された。まれびとの替りに、寺院の食堂の習慣を移して、尊者(ソンジヤ)と称へてゐた。
海の神・山の神
まれびとが贄のあるじを享けに来るのは、多くは一家の私の祭りであつた様だが、此が村中の祭事として、村人の出こぞつた前で行はれる事もあつたらしい。いづれにしても、此等のまれびとが神として考へられ、社に祀られる様になると、家祭りが村中に拡がつて来る。さうした社の中には、却つて、さうした稀に臨む神を祀る事を忘れて、土地に常在する邪悪の精霊を斎はうて、まれびとと混淆したものも多い。其でも、田の精霊・苑(ハタ)の精霊を作物の神と考へた痕は、僅かしかない。田苑に水をくれる海の神を、田苑の守り主と見てゐた伝承が多い。海の神が、元、海の彼方の常世(トコヨ)の国の神であつた事は、既に、他に述べた事がある。
水を司る方面ばかりから見た海の神は分化して、曠野・山間に村を構へると、川・井・淵などに住む動物の様に思はれて来る。全体としての常世の国のまれびとは、天から来る神となり、或は忘られて了ふ。中には、山の神と一つになつて了うても居る。山の神は、土地の精霊の代表であつた。まれびとの咒詞によつて、圧服を強ひられるのは、常に山の神であつた。常世神の代理者として、又地霊の代表者として、表現の入りまじつた咒詞を奏して、同輩の地霊を服せしめようとする様にもなつた。常世から神の来る事の考へられなくなつた時代・地方には、山の神が、まれびとに似た職掌を持つ様にもなつて行つた。
勿論、此も山の神に扮した村の神人である。宮廷の新室寿(ホ)きなる大殿祭(オホトノホカヒ)・鎮魂祭・新嘗祭などに来る異装人、又は、京都辺の大社、平野・松尾などの祭りに参加する山人なども、一つ者であつて、山の神人だ。平安時代の者は、官人或は刀禰たちの仮装に過ぎないで、山人自身意義も知らなかつたであらう。が「穴師(アナシ)の山の山人」と神楽歌にも見えた大和宮廷時代から伝承したらしい山人は、大和国の国魂であり、長尾ノ市ノ宿禰が、祭主即、上座神人に任ぜられたのであつた。此は伊勢の大神が常世の神の性格を備へて居るのに対して、山の神である穴師の神に事へた山の神人即、山人の最初の記録である。
水の神でもあつた常世神の性格を移しとつた、山の神は--大和宮廷の伝承をある点まで拡げて行つてよいとしたら--水の神にもなつた。だから、田の神とも自然考へられる様になる。田植ゑに来るまれびとは、稍久しく村に止つて、村人の植ゑ残した田を夜は植ゑたりもした。五月の夜の籠り居は、神に逢ふ虞れがあつたからである。
神々は、村の田の植わりきつて、村全体としてのさなぶりの饗応(アルジ)を供へられた夜に帰るものと考へられたらしく、稍日長く逗留する事が、秋の刈り上げまで居るものゝ様に思はれて行つたらしい。山の神・田の神はおなじもので、時候によつて、居場処が替るだけだと信じられた地方が多かつた。水神--農村の富みを守つた--海竜は、河童とまでなり下つて了うた。
でも、此をひようすべと言ふ地方が多く、春山から下り、冬山に入るものとせられてゐるのは、山の神と海の神との職掌混淆の筋合ひを辿つて見れば、難問題でもない。ひようすべと言ふ名も、穴師兵主(ヒヤウズ)神に関係するらしく、播州に因達(イタテ)兵主神のあるのは、風土記にある、穴師神人の移動布教によるものらしい。
秋祭りは、農村の大事であるけれど、最古くからあつたものかは疑はしく、山地に這入つてからの発生で、新嘗は冬に這入つてから行はれたものであるらしい。日本の文献で見れば、春祭りが一等古く、夏祭りが最新しい。秋祭りは、古げに見えて、田植ゑ時の神遊びよりも遅れて起つてゐる、と言はれさうである。
神嘗祭り
9月上旬までに集まつた諸国の荷前(ノザキ)の初穂は、中旬に、まづ伊勢両宮に進められる。其後、11月になつてから、近親の陵墓にも初穂が進められ、此と前後して新嘗祭りがとり行はれる。第一は、神嘗祭りであり、第二は荷前(ノザキ)ノ使である。
米の初穂を献るのは、長上に服従を誓ふ形式で、我が家・我が身の威霊が、米と共に、相手に移るのを予期してするのであつた。だから、神嘗祭りは、神宮と天子との間を親しくする為であつた。両宮の主神と、人にして神なる斎宮とが、共食せられるのだから、神新嘗の義を以て、神嘗と言うた。陵墓への荷前使も、生きてゐられる尊親に朝覲行幸の礼を致されるのとおなじ意味の誓ひであつた。
かうした神嘗祭りの為の荷前を貢ぐ地方--では、村・国の神に対しても、中央と等しく初穂を進める風を起し、或は盛んにせずには置かなかつたであらう。だから神の為の新嘗であつたものが、二つに分れて、神ばかりのする新嘗、一族の長で神主たる主人の新穀を喰ひはじめの、神も臨席する新嘗と二通りが出来て、片方又両方共に行ふ風が出来たらしい。
だから、上代の地方の早稲祭りは、わりあひ不自然に発生してゐると言へるやうだ。併し、其風が段々盛んになつて、前者は正式な神社を基礎とした信仰、冬の新嘗なる後者は一家の旧習、と言ふ風に見做されたらしい。神社が神道の中心となるに連れて、秋祭りは、農村の大行事となつて行つた。
9月は斎月(イミヅキ)として、1月・5月同様虔しまねばならぬ月であつた。道教の影響もあらうが、古くから可なり深く信じられてゐた。此月を祭り月とするのは、旁、意義のあることであつた。
神社以前・以後で、祭りの様子も変つてゐる。後の方のは、祭りの日どりが大体きまつて来て、特殊な由緒を日どりに繋げて説く様になつて来る。極めて古くからのものであつても、段々祭り日を定める必要が起つて来た。さう言ふ時代に、新しく起つた神社がしたのとおなじ方法をとる事になつた。月を定めて、日は十干によるのが、其である。古代からの自由な祭祀も、稍古い神社祭事も、大抵此方法を採用してゐる。
だが、干支を用ゐ出したのも、先住・帰化の漢人などから習慣としてとりこんだ事を思ふと、極めて古いに違ひない。が、今一つ前の形は、占ひによつて定めるか、天体の運行をめどとして行うたらしい。さうした俤は、後に日どりの一定せられた幾つかの祭りから窺ふ事が出来る。道教の先覚者だけが、暦を悟る事が出来、其考へ次第に動いてゐた時代には、春祭りを行うた為に春になつた。また、冬祭りが冬の窮まつた事を規定した。
冬祭り・春祭り
此を見ても、村々の秋の祭りは新嘗から出て居り、其が神嘗祭の日に近く、荷前(ノザキ)の初穂の一部を以て行ふ様になつた事が知れる。だが、八幡の様に、大祓への仏教化したに違ひない放生会を、秋の最中の8月15日に行ふのもあり、7月の相撲節会は稲穂の出ようとする際の、農村の年占・豊凶争ひの宮廷行事に残つてゐたのだが、9月になつて、童相撲其他を行ふ住吉の社の類も尠くない。だが、一方住吉の十三夜の日の相撲会は、新嘗祭りから出て居る事は明らかである。
大阪辺の社でも、昔は9月尽の日には、神送りを行うた。出雲への旅立ちを見送るのだと言ふ。だが、秋冬の交叉期に、精霊を送り出す式が、かう解釈せられたものと見るがよい。或は又、田の神・水の神が今まで居たものと考へて居た為、其を海の方へ送り帰したのかも知れぬ。
即、新嘗を享けに遥々来て、戻る神は、夏秋中留つて居て、冬際になつたから去るものと考へたらしいのである。大阪の町にも、かうした農村行事が固定して残つて居たのだ。
何にしても、早稲の新嘗と村の守り神との関係が、色々に変化しながら、秋祭りを複雑化したのであつた。
冬祭りは、刈り上げ祭りと、鎮魂祭とが本体であつた。此内、刈り上げ祭りは、11月中旬の新嘗祭りが代表的なもので、処によつては、今尚、此日を重く見る処もあり、由来不明な為来りで祝ふ家々もある。此日が、真の秋の祭りを行ふ日であつたのだ。暦は冬になつても、農村では、刈り上げまでは秋であつた。冬と言はれる期間は極めて短いものであつた。おしつまつた日数に行ふ祭りの数時間を、さして言ふ語であつたのではあるまいか。
秋祭りなる新室ほかひがすむと、直に翌日から春になつた。其過渡の時間が、昔の冬祭りであつた。刈り上げのあるじを享けに来たまれびとが、家あるじの生命・健康・家屋の祓へをして、其上に力強い威霊を身中に密著させる。其行事が二つに岐れて、秋の新嘗祭りと冬の鎮魂祭とを二つにする様になつたらしい。
宮廷の行事では11・12両月に、二つまでも鎮魂の儀式を行うてゐる。即、鎮魂祭と清暑堂の神楽とである。此日を以て冬の極点としたらしい。神楽は奈良朝頃の附加である。鎮魂祭がふゆと言ふ語と関係あるらしく、家屋と家長らの祓への後に、よい咒詞を以て祝福する。其が、大直日の歌の新年の寿詞になる理由である。此まれびとの咒詞が冬を転じて、新しい春にする。此を近世では、年神・年徳神など称へてゐる。だが、其は一分化だ。春になると、一年の村の行事の祝福と示威の予行とをして、精霊たちの見せしめにした。田苑の豊かな様や、精霊の屈する様などを咒しつゝ、実演もしたのである。此が漢人の上元儀式と一つになつて、14日・15日或は節分・立春の行事などに変つた地方が多い。此動作が又、くり返されて田植ゑの際に行はれる。田遊びが此であつて、其咒師(ノロンジ)の芸能と結びついたのが田楽となつた。
春祭りに来るまれびとは神と考へられもするが、目に見えぬ霊の様にも考へられてゐる。祖先の霊と考へるのもあり、唯の老人夫婦だとおもうてゐるのもある。又多く鬼・天狗と考へ、怪物とも考へてゐる。春祭りの行事に鬼の出る事の多いのは、此為であるが、後世流に解釈して、追儺の鬼同様に逐ふ作法を加へるやうになつたが、実は鬼自身が守り主なのである。田楽に鬼・天狗の交渉のあるのも、此為である。
かうして見ると、春祭りが一等醇化せられてゐない。古い時代の姿に残つたものと言へる。だが、もう、春祭りは忘れて了うた地方が多い。  
 
山のことぶれ

 

山を訪れる人々
明ければ、去年の正月である。初春の月半ばは、信濃・三河の境山のひどい寒村のあちこちに、過したことであつた。幾すぢかの谿を行きつめた山の入りから、更に、うなじを反らして見あげる様な、岨(ソバ)の鼻などに、さう言ふ村々はあつた。殊に山陽(カゲトモ)の丘根(ヲネ)の裾を占めて散らばつた、三河側の山家は寂しかつた。峠などからふり顧(カヘ)ると、必、うしろの枯れ芝山に、ひなたと陰とをくつきり照しわける、早春の日があたつて居た。花に縁遠い日ざしも、時としては、二三の茅屋根に陽炎(カゲロフ)をひらつかせることもあつた。気疎(ケウト)い顔に、まぢまぢと日を暮す、日なたぼこりの年よりの姿が、目の先に来る。其は譬喩(タトヘ)ではなかつた。豊橋や岡崎から14-5里も奥には、もう、かうした今川も徳川も長沢・大久保も知らずに、長い日なたのまどろみを続けて来た村があるのだ。
青やかな楚枝(ズハエ)に、莟の梅が色めいて来ると、知多院内の万歳が、山の向うの上国(ジヤウコク)の檀那親方を祝(ホ)き廻るついでに、かうした隠れ里へも、お初穂を稼ぎに寄つた。山坂に馴れた津島天王の神人も、馬に縁ない奥在所として択り好みをして、立ち廻らない処もあつた。
日本人を寂しがらせる為に生れて来たやうな芭蕉も、江戸を一足踏み出すと、もう大仰に人懐しがつて居る。奥州出羽の大山越えに、魄落すまでの寂寥を感じた。人生を黄昏化するが理想の鏡花外史が、孤影蕭条たる高野聖の俤をぽつゝり浮べた天生の飛騨道も、謂はゞ国と国とを繋ぐ道路の幹線である。雲端に霾(ツチフ)る、と桃青居士の誇張した岩が根道も、追ひ剥ぎの出るに値する位は、人通りもあつたのである。
鶏犬の遠音を、里あるしるしとした詩人も、実は、浮世知らずであつた。其口癖文句にも勘定に入れて居ない用途の為に、乏しい村人の喰ひ分を裾分けられた家畜が、斗鶏(トケイ)や寝ずの番以外に、山の生活を刺戟して居た。
私は、遠州奥山の京丸を訪れた時の気分を思ひ出して見た。村から半道も、木馬路(キンマミチ)を上つて、一つ家に訪ねた故老などの、外出(ヨソデ)還りを待つ間の渋茶が促した、心のやすらひから。京丸なども、もう実は、わざわざ見物に行く値打はない程開けて居た。
駿・遠の二州の源遠い大河の末の、駅路と交叉したあたりには、ほんとうは大昔から山の不思議が語られて居た。武家の世渡りに落伍した非御家人(ヒゴケニン)の、平野を控へた館の生活を捨てゝからの行動が、其とてつもなく古い伝説の実証に、挙げられる様になつて行つた。
飛騨・肥後・阿波其他早耳の琵琶坊(ボサマ)も、足まめな万歳も、聴き知らぬ遠山陰の親方・子方の村が、峯谷隔てた里村の物資に憧れ出す時が来た。其は、地方の領家(リヤウケ)の勢力下から逃げこんだ家の由緒を、完全に忘れ果てゝからであつた。其昔(カミ)から持ち伝へた口立ての系図には、利仁・良文や所縁(ツガ)もない御子(ミコ)様などを、元祖と立てゝゐた。其上、平家・盛衰記を端山の村まで弾きに来る琵琶房主があつた。時には、さうした座頭の房(ボン)を、手舁き足舁き連れこんで、隠れ里に撥音を響かせて貰うたりもした。山彦も木精(コダマ)もあきれて、唯、耳を澄してゐる。さうした山の幾夜が偲ばれる。日が過ぎて、山の土産をうんと背負はされた房様(ボサマ)が、奥山からはふり出された様な姿で山口の村へ転げ込んで、口は動かず、目は蠣の様に見つめたきりになつて居たりする。山人の好奇(モノメデ)に拐された座頭が、いつか、山の岩屋の隠れ里から、隠れ座頭がやつて来る、など言ふ話を生んだのであらう。
さうした出来心から降つて湧いた歴史知識が、村の伝へに元祖と言ふ御子様や、何大将軍(ダイシヤウグン)とかもすれば、何天子や某の宮、其おつきの都の御大身であつたかと、村の系図の通称や官名ばかりの人々のほんとうの名が知れて、山の歴史はまともに明りを受けた。焼畑(コバ)や岩地(ソネ)うつたつきも、張り合ひがついて来る。盲僧の軍記語りの筋は、山にも里にも縁のなくなつたずつとの昔の、とつとの遠国(ヲンゴク)の事実と聞きとる習慣があつたのなら、かうした事は日本国中の山家と言ふ山家に起る筈がなかつたのである。
日本の国のまだ出来ぬ村々の君々の時代から、歴史物語は、神だけに語る資格が考へられてゐた。神が現れて、自身には人の口を託(カ)りて語り出す叙事詩(モノガタリ)は、必その村その国の歴史と信じられて来た。国々の語部(カタリベ)の昔から、国邑の神人の淪落して、祝言職(ホカヒ)となり、陰陽師(オンミヤウジ)の配下となつて、唱門師(シヨモジン)・千秋万歳(センズマンザイ)・猿楽の類になり降つても、其筋がゝつた物語は、神の口移しの歴史で、今語られてゐる土地の歴史と言ふ考へ方は、忘れられきつては居なかつた。盲僧や盲女(ゴゼ)の、神寄せの後に語り出す問はず語りの文句も、さうした心持ちから受け入れられたのである。京・鎌倉の公家・武家の物語も、結局は、山在所の由来として聴かれたのも道理である。だから此入訣(イリワケ)も呑み込まないで、むやみと奥在所の由緒書きを、故意から出た山人のほら話と、きめてかゝつてはならないのである。
常世神迎へ
こんな話は、山家ばかりで言ふ事ではなかつた。京一巡(ジユン)、「梯子や打ち盤」触り売つて戻つても、まだ冬の薄日の残つて居る郊外の村に居ながら、「昔は源氏の武士の目をよけて」と隠れ住んだ貴人の、膚濃やかに、力業に堪へなんだ俤を説く、歯つ欠け婆ばかりの出て来る在所さへある。だから、非御家人としての冷遇に居たゝまらずなつた前からあつた、若い御子と其後見衆(オトナシユ)を始めとする系図は、実は、日本一円の古い村々に、持ち伝へられた所の草分けの歴史であつたと言へる。
若く弱(アエ)かな神が、遥かな神の都からさすらうて村に来た。其を斎うたのが村の賓客の初めで、旅にやつれた御子をいたはつたのが、元は村の神主で、村の親方の家の先祖と説く神話が、前の様な歴史を語らぬ、一方の村々に行はれてゐる。恐らく今三四百年も以前には、此を語らぬ村とては、禁裡・幕府のお蔭も知らぬ山家・海隈に到るまで、60余州の中にはなかつたであらう。
此は日本国の元祖の村々が、海岸に篷屋(トマ)を連ねた大昔からあつた神の故事である。幼い神が海のかなたの常世の国から、うつかり紛れて、此土に漂ひ寄る。此を拾ひあげた人の娘が育(ハグク)みあげて、成人させて後、其嫁となつて生んだのが、村の元祖で、若い神には御子であり、常世の母神(オヤガミ)には御孫(ミマ)の御子だと考へられた。さうした伝へが村々に伝へられて居る中に、色々に変化して行つた。旅の疲れで死んだとも言ふ。村の創立後遥かの後の事実で、村の大家のある代の主人に拾はれて、其家に今の様な富みを与へて後、棄てられたとも言うてゐる。此若い男御子が、処女神に替つて居る処もあつた。平野で止つた村には、野に適(フサ)はしい変化が伴ひ、山の盆地に国を構へた地方では、山の臭ひをこめた物語に変つて行つた。常世の若神を懐き守りした娘の話が、山国に限つては、きつと忘れられなかつたばかりでない。言ひ合した様に、殆ど永久と言ふ程生きてゐた姥御前(ウバゴゼ)の白髪姿に変つて居た。此だけが、海の村と山の村との、生活様式から来た信仰の変化を語るものである。
常世の国からは、ゆくりなく流れ寄る若神の外に、毎年きまつて来る神及び其一行があつた。初めは初春だけ、後に至る程臨時の訪れの数が増した。其来臨の稀なるが故に、此をまれびとと称へてゐた。此神の一行こそ、わりこんで村を占めた、其土地の先住者なる精霊たちの悩まし・嫉みから、村を救うてくれる唯一の救ひ主であつた。
此常世神の一行が、春毎の遠世浪(トコヨナミ)に揺られて、村々に訪れて、村を囲む庶物の精霊を圧へ、村の平安の誓約(ウケヒ)をさせて行つた記憶が、山国に移ると変つて来た。常世神に圧へ鎮められる精霊は、多くは、野の精霊(スダマ)・山の精霊(コダマ)であつた。其代表者として山の精霊が考へられ、後に、山の神と称せられた。山の神と常世神とが行き値うての争ひや誓ひの神事演劇(ワザヲギ)が初春毎に行はれた。村の守り神が其時する事は、呪言を唱へることであり、村の土地・家々の屋敷を踏み鎮めることであつた。さうしてわざをぎをするのが、劫初から恐らく罔極の後へかけて行はれるものとの予期で、繰り返された村の春の年中行事であつた。
青垣山にとり囲まれた平原などに、村国を構へる様になると、常世神の記憶は次第に薄れて行つて、此に替るものが亡くなつた。さうして山の神が次第に尊ばれて来て、常世神の性格が授けられて来る。常世及び其神の純な部分からは、高天原並びに其処に住む天つ神の考へが出て来た。村人と交渉深い春の初めの祝福と土地鎮め、村君・国主の健康を寿ぐ方面の為事は、山の神が替つてすることになつた。つまり山の神と村人との間の感情が、以前よりは、申し合せのつきさうな理会ある程度まで、柔らいで来たのだ。村の生活を基礎とした国の生活、其中心なる宮廷、古く溯る程、神を迎へ神を祭る場所と言ふ義の明らかに見える祭りの場所(ニハ)としての宮廷にも、春の訪れに来向ふ者は、常世神でなく、山の神となつた。初春ばかりか、宮廷の祭り日や、祓への日などには、きつと、かはたれ時の御門(ミカド)におとなひの響きを立てた。村々の社々にも、やはり時々、山の神が祭りの中心となつて、呪言を唱へ、反閇(ヘンバイ)を踏み、わざをぎの振り事、即神遊びを勤めに来た。
さうした祭り日に、神を待ち迎へる、村の娘の寄り合うて、神を接待(イツ)く場所(ニハ)が用意せられた。神の接待場(イチニハ)だから、いちと言はれて、こゝに日本の市の起原は開かれた。山の神は、勿論、里の成年戒を受けた後の浄い若者の扮装姿(ヤツシ)であつた。常世神がさうであつた様に。後、漸く山の主神に仕へる処女を定めて、一人野山に別居させる様になつて、野(ノ)ノ宮(ミヤ)の起りとなつた。山の神に仕へる巫女が、野ノ宮に居て、祭り日には神に代つて来る様にもなつた。山の神は里の神人の一時の仮装ではあるが、山の神の信仰が高まつて、山の主神の為に、山の嫁御寮(ヨメゴリヨ)が進められたのである。
祭り日の市場(イチ)には、村人たちは沢山の供へ物を用意して、山の神の群行或は山姥の里降りを待ち構へた。山の神・山姥の舞踊(アソビ)の採(ト)り物(モノ)や、身につけたかづら・かざしが、神上げの際には分けられた。此を乞ひ取る人が争うて交換を願ふ為に、供へ物に善美を尽す様になつた。此山の土産は祝福せられた物の標(シルシ)であつて、山人の山づとは此である。此が、歌垣が市場で行はれ、市が物を交易する場所となつて行く由来である。さうして、山人・山姥が里の市日に来て、無言で物を求めて去つた、と言ふ伝説の源でもある。其時の山づとを我勝ちに奪ひ合ふ風が、後のうそかへ神事などの根柢をなしてゐ、又、祭りの舞人の花笠などを剥ぎ取る風をも生み出したのである。
山づとは何なに。山の蔓草や羊歯の葉の山縵(ヤマカヅラ)や、「あしびきの山の木梢(コヌレ)」から取つたといふ寄生木(ホヨ)の頭飾(カザシ)や、山の立ち木の皮を剥いで削り掛けた造り花などであつた。かうして易(カ)へられた山づとは、初春の家の門や、家内に懸けられた。牀柱には山かづら、戸口や調度に到るまで、山へ行つた様に見せる山草、軒に削り掛け、座敷に垂す繭玉・餅花・若木(ワカギ)の作枝(ツクリエダ)が、古くして新しい年の始めの喜びを衝昂(コミア)げて来るのも、其因縁が久しいのだ。
此三州の山家の門松は、東京などのとは違つて居た。さう言へば、歳神なども常世神や先祖のみ霊に近づいた考へで、祀られて居た。さう云ふ話に這入らない中に、春の初めの此「言(イ)ひ立(タ)て」も、めでたく申しをさめねばならなくなつた。「たうたうたらり」長々しいことを何より先にする言祝(コトホ)ぎの言ひ癖が出たと思うて、読者に於ても、初笑ひを催して頂きませう。
 
お札が語る日本人の神仏信仰

 

お札はご承知のように迷信くさいものです。近代化、都市化が進むと、お札に限らず、迷信的なものはほとんど消失してしまいます。にもかかわらず迷信は、現代の日本人の日常生活の中に染み込んでいます。
読売新聞社が行った昭和53年度の世論調査の結果を見ますと、縁起をかつぐ日本人は、全体の約7割を占めています。それは具体的には、「友引の日に葬式をださない」とか「仏滅の日には結婚式をしない」といった六曜に基づいた知識が、日常化していることにより示されています。同じ読売新聞社の世論調査で、護符(お守り、お札)をいつも身につけていると回答した人は、全体の約六割を占めていました。
護符は昔から、日本人にとって社寺へお参りにいくときに、必ずといってよいほど手に入れて帰る、あるいは、もっと昔には、陰陽師らによって配布される、もっともなじみ深い宗教的呪物でした。ですから、お札を通して、日本人の信仰の歴史を深いところで捉え直すことも不可能ではないでしょう。
まず、護符の概説的なお話をいたしましょう。護符は呪符とか霊符とか、たまには秘符とも言い、災難を除け、幸せを招く、と信じられている物体を指します。宗教学では英語で、除災的なものをamulet、招福的なものをtalismanとして区別していますが、両者の区別は明確ではなく、両方の性格を併せもつものも少なくありません。その信仰は呪物崇拝(fetishism)に基づくものと考えられています。護符は古今東西の民族に広くみられますが、その用法も多様です。
日本の護符は極めて多様ですが、代表的なものとしては、お札やお守りがあげられます。お札やお守りにもさまざまなものがありますが、ごく大雑把にいうならば、お札は神棚や仏壇に納めたり、屋内外に貼られたりします。お守りは携行可能なもの、身に付ける小型のものと云えます。いずれも印刷されたり、書きこまれたり、あるいは描いたりしたものが多く、神仏の名、仏の種子(梵字)、呪文、特殊な記号、神仏の眷属図などが記されています。日本のお札やお守りには、陰陽道、道教、仏教の信仰に基づくものが多いのですが、おおよそ仏教系(真言宗系、天台宗系、臨済宗系、日蓮宗系など)、神道系、修験道系(天台、真言、神道などが混淆)、そして民間信仰系にわけられます。しかし、その思想の起源は、外来の信仰が入る以前からあったと言えます。
皆さんはお札よりもお守りの方をお持ちでしょうが、今日はお守りには触れず、お札に絞ってお話させて頂きます
お札の目的は人間の願望を叶えるためですが、それ故にお札の種類は願いの数だけ、つまり俗に「願いの数だけ神は居る」と言われるように、無数にあるのです。例えば、開運、学業成就、良縁祈願、家内安全、交通安全、子授け祈願、災厄消除、社運隆盛、商売繁盛、病気平癒などです。皆さんがお持ちになったり、お家で貼るお札は、たいていが印刷されたものでしょう。しかし、印刷したものであっても、お寺の住職や神社の宮司がこれらのお札をまとめて、神社であればお祓いし、神前に供えて祝詞を奉じ神明の威力をお札に込めるのです。お寺でも僧侶は本堂の経机に置いて読経して威力を込めるのです。
お札といえば、一般に、短冊状の紙に符文字が書かれたものを思い浮かべがちですが、画像が描かれたものや、彫刻などの立体的な造形物もあります。今日お話するお札は、短冊状の紙に符文字が書かれた、いわゆる文字札と、神仏のお姿が描かれているもの、いわゆる絵札、のことです。その殆どがもちろん同じ紙面に文字と絵が併せて書いてあるものです。
お札やお守りの包みを開くと罰があたるとか、また一年が経てば寺社にお返しして新しいお札を授かるとか、といった事情がありますので、お札やお守りを収集することは難しいのです。しかし、こうした小物で、しかもそれほど物的価値のないものに関心をよせて収集した人は明治時代以来何人かがいました。その人達が日本人ではなく、西洋人だったということには、何の不思議もありません。現在その存在が知られている日本のお札のコレクションは三つもあって、三つともヨーロッパにあります。いずれもお札を民俗学的資料とみなして、学問的視点から集めたコレクションです。年代順から一番古いのはB・H・チェンバレンとラフカディオ・ハーンが収集したもので、これは当初からオックスフォード大学のピット・リバース博物館に保存されています。次がアンドレ・ルロワーグルアン、最後がベルナール・フランクの収集品ですが、この二つはそれぞれ最近、ジュネーブ市の民族学博物館とコレージュ・ド・フランスの日本学高等研究所に遺贈されました。
さて、ここで紹介したいのはベルナール・フランクのコレクションです。これら三つの中で、一定の方法にしたがって構成されたコレクションはこれだけです。フランクが収集したお札は1000点余りを数え、北は青森から、南は長崎・大分にまで及び、その大半は自ら現地におもむき、入手したといいます。
日本仏教、特にその図像学を専門とし、コレージュ・ド・フランスの教授、日仏会館フランス学長などを務めた故ベルナール・フランク(1927-1996)は、1954年に初めて日本の地を踏んだ時以来、その研究の一環としてお札の収集に努めました。教授のお札との出会いは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「知られざる日本の面影」を通してで、日本に到着した一週間後には上野不忍池弁天堂にお札を求めに出掛けたと言います。
さて、フランクと日本のお札は一体どういうつながりがあるのでしょうか? フランクが日本の文化の中で、特に興味を引かれたのはその宗教的要素です。そして初めてお札の図版を目にしたのは、大学で日本の説話文学を研究した時によく利用した「法宝義林」という日本と中国の経典にもとづく仏教大辞典の中でした。それは1929年に出版された第一巻に掲載されているこの馬頭観音のお札です。このお札は御殿場の円通寺のものですが、彼が1980年代にそのお寺を訪れた時にはまだ並べられていました。このお寺は、ある武士が「鬼かげ」という馬の菩提のために建立したもので、動物の加護をします。すなわち、農家の人々が家畜の加護を祈りに参詣に来たのでした。図のように馬と牛が描き添えられています。農家に家畜がいなくなった現在では、その代わりに競馬関係の人々がお参りするようになり、お寺には純血種の競走馬や騎手の写真がたくさん飾られています。馬頭観音の信仰は、こうして以前には想像もしなかったことに変容し活気をみせています。
「法宝義林」の同じ巻にもう一つ別のお札が載っています。それが不忍の弁天様です。この弁天様は「金光明最勝王経」による古典的な八臂の姿で、その上に宇賀神信仰との習合を表現する鳥居を額に飾り、画面の下に富と利益をもたらす、脇侍の童子と道具を描き出しています。これは室町時代から一般化された弁天の形式といえます。初めて日本に着いた1954年、フランクは直ちにこのお札を求めて不忍池へ出かけましたが、無駄でした。このお堂は戦災で焼けてしまい、戦後再築されたお堂では、お守りのような小さな略式のものしか出していなかったのです。その代わりに、池の向い側の山の上にある上野の清水寺にお札が置いてあるのを目に留め、それを手に入れました。そのお札は、有名な坂上田村麻呂の観音信仰とエゾ征伐を結びつけたもので、中央に千手観音があり、左手に勝敵の毘沙門、右手にいわゆる勝軍地蔵が配置されています。
それからしばらくして鎌倉の円応寺にもいきました。学生時代に熱心に読んだハーンの「知られざる日本の面影」の中にある、ハーンがそのお寺の閻魔様のお札を手に入れた話を良く覚えていたからです。もとの閻魔像は、非常に印象的なもので、十王やその他の眷属に囲まれ、すべて13世紀中頃のものです。ハーンが紹介しているこのお寺の言い伝えによれば、運慶が死んで大王の前に出た時、「まだお前は私の像を彫っていないが、今私を見たのだから、これからよみがえって、私の像を作れ」といわれて生き返り、そのあと運慶は「蘇生」と名づけられたといわれています。その図がこのお札です。比較的に元の彫刻に忠実に描けていますが、お札には、前世の業が写るといわれる閻魔の代表的な持ち物である鏡が、丁寧に描き込まれています。もう一つ注目されるのは、台に描き込まれた波のモチーフです。これにはどういう意味があるのでしょうか? おそらくこの円応寺が元あったという場所を表わしているのではないかと思います。なぜなら円応寺は、現在は建長寺の傍にありますが、江戸時代以前は由比が浜にあったことを、地元で調べて知ることが出来ました。ですから、海の傍の閻魔様ということではないでしょうか。このことは後でまた触れますが、お札に描かれているモチーフの解釈に関係してきます。
この円応寺のお札は線がはっきりとしていますが、ハーンの時代から50年下った時点のものですから、きっと彫り直されたものでしょう。版木は時間がたつと磨り減りますし、火や水によって破損いたします。その場合新しい版木を作りますが、その時、全く以前と同じ型にしたり、または多少形を変えることもあります。その例をお見せしましょう。
最初にお目に掛けるのは、日本三大文殊の一つ、山形県の亀岡文殊です。この場合、古い版木と新しいものの違いは、絵の様式とテキストの書き方に限られています。フランクが1970年に訪れた時は、版木がすでに相当傷んでいて、ただ一枚残っていたものを貰って来ましたが、ご覧の通り、ほとんど何も見えません。その後新しく出来たのを送って下さったのが、その左側のお札です。ご覧のように、古い方は細面で尊厳の趣きがあるのに対し、新しい方は丸味のある親しみのある表情に代わっていますが、イコノグラフィそのものは変わっていません。剣と書き物を持つ文殊の姿です。テキストは少し改められています。
二番目の例は、もう少し重要な変化をみせています(1)。これは江ノ島のお札です。源頼朝の時代から明治の神仏分離に至るまで、弁才天は江ノ島で祭られて島の本尊でした。神仏分離以後は、この天女の像は別館に移され、一般の礼拝の対象になっていません。ここにお見せしますのは、明らかに分離以前のお札で、前にお見せした不忍の弁天と同じく八臂であり、波の上の島に座っています。これは幸いにも古版画を売る店で見つけたものです。排仏の後では「江ノ島の大神」と改名されました。普通純粋な神道のお宮で出すお札は、絵姿がなく文字だけですが、神仏習合の雰囲気のまだ残っている神社では、この例のように、絵姿の伝統が続いていて、ただ少し化粧直しをするという条件を受け入れて、このようなお姿が残っているのです。
この2枚のお札では、女神は古風な髪形で、左手に鏡を持ち、右手に珠を持っています。この珠は、仏教の弁才天の宝珠を受けついだものです。この2枚は、20年間を隔てたものですが、ここでは右側が古い方、左側の新しい方は、画面をより完全にしようとしたのか、江ノ島の根本聖地の洞窟が書き込みしてあります。
お札によっては、同じ形を長い間伝え続けているものもあります。この民芸調の大黒天は、熊野の那智のものです。ちょっとモダーンな感覚のお札ですが、実はすでに18世紀末に、同じようなものが配られていたという証拠があります。
さて、先程ちょっと円応寺の閻魔の台座の波のモチーフ(主題)で触れました問題に戻ります。モチーフの解釈、特にお札の中に表われる特徴的なモチーフの性格について考えたいと思います。私の経験によれば、これは、モチーフを取巻く様々な状況の光をあててみてはじめて解釈できるものです。同じ様なモチーフが、その状況によって、時には別の意味を持って来ます。また反対に異なったモチーフが、同じ意味を表わすこともあります。
まずある風景のモチーフが、その寺や神社の置かれている地理的条件を表現していることがあります。山のモチーフの一例として、日本三大地蔵の一つ、栃木県の岩船山の地蔵をお見せしましょう。お寺が建っている岩船山は、文字通り岩の船の形をしていて、右手が舳になっています。さらに菩薩が、衆生を彼岸に渡す船主であるという意味も加わっていると思います。
今度は、海から出現した観音について二つの例を通してみてみましょう。この二つの例には二つの共通点があります。まず一つ、地理的条件として二つとも海辺にあり、いずれも本州の先端部です。片方は紀伊半島の先端、勝浦で、もう一つは銚子、関東の東の先端です。二つ目の共通点は、両方とも、観音の浄土である補陀洛山が海の彼方にある世界だということと、二つの観音像が両方とも奇蹟的に海から出現したということを表わしていることです。しかし、奇蹟的出現の性質は、それぞれ異なっています。勝浦の方は、波間から出現しました。だから亀の背中に乗っています。次に銚子の方は、海の底から光を発してその存在を知らせ、魚師が網で引き上げました。だからお札では光背が輪光の形をとり、さらに進んで、日の出のイメージと合致しました。それは銚子の地理的条件を思えば当然なことでしょう。
これは福井県三方の「石観音」ですが、ご覧のように右手が足りません。寺伝によれば、彫刻家は弘法大師でありますが、ある夜、御像を彫刻中に鶏の鳴声が聞こえたので、右手を彫り残して下山してしまわれた。ゆえに片手観音なのだそうです。それで、このお寺は手足の不自由な人達、また手足に痛みを持つ人達が参拝するようになりました。境内には御手足堂という建物があって、快癒のお礼に持って来た手足の木型が、絵馬堂のようにたくさん奉納されています。
さらにもう一つ、今度は伝説が生んだモチーフが尊像そのものに組み込まれている例をお見せします。「招き猫」の起源は、井伊直孝という大老が、世田谷の豪徳寺の前を通りかかった時、門前に居た猫に誘われて寺内に入り、住職に逢って感動したという故事から出ていますが、このお札はそれを表わしています。
西落合の自性院の場合も、これに似た話で、太田道灌が江古田ヶ原の合戦の前夜、道に迷っていたのを、黒猫に導かれてこの寺に辿り着いたという話で、この猫は死後、その墓に地蔵を建てて貰ってとむらわれました(六地蔵の一つは、六観音の一つと同様に畜生道を保護します)。江戸の中頃、ある商人が妻の菩提をとむらうために、ここに猫面の地蔵を作って寄進しました。今も秘仏として祀られ、一年に一度だけ開帳されます。
今までお目にかけたものは、大体において、仏教の現世利益に関するものが多かったようですが、仏教本来の目的である〈悟り〉がテーマのお札もあることは言うまでもありません。その一つの例をご紹介します。
それは昔から京都東山の永観堂で配られた「見返り阿弥陀」のお札です。このお寺にある、振り返って一寸驚いたように右手を上げている美しい阿弥陀の小像は誰もが知っている仏像であります。日本には来迎阿弥陀のある型から派生したと思われるこういう形の例が他にも存在していますが、しかし伝説では本来この像は見返ってはいず、後にこういう形になったのだと言われています。すでによく知られている話ですが、平安時代のある日、永観という高僧が阿弥陀像のまわりを廻って念仏三昧の行をしていた時、阿弥陀が壇から降りてきて、永観の前を念仏を唱えながら歩き始めました。瞬間、驚いて立ち止まった永観に、阿弥陀仏は振り返って「永観、おそいぞ」と叱りました。その後この仏像は振り返った頭を保ったままだと言います。この永観堂のお札には永観の信心する真心と、阿弥陀仏の優しさが深く表わされています。
日本の「仏像図鑑」等では、伝統的に尊像のカテゴリーをいわゆる四種の大きな尊像別、「四種部類」にわけています。それは、
一、如来。仏陀として完璧な境地に到達したもの。
二、菩薩。未だ仏陀ではないが、やがて仏陀になることを約束されているもの。
三、明王。仏陀が悪の力を制圧するために取っている忿怒の形相の尊像。
四、天。前身がデーヴァやデーウィーという古代インドの神達、仏教を守護する「神将」。
この四部に通常さらに次の二部が付け加えられています。
一、権現。つまり、神仏習合の神々。
二、高僧祖師。様々の宗派において、その宗派に特有の礼拝尊があったり、またある尊像について宗派独自の像容を持っていることもあります。
以上見てきたように、お札は十分注目に値する表現言語を持っていることを理解して頂けたと思います。重ねて申し上げたいのは、仏教の諸尊がどのような形で日本の土地に、その風土や習慣に、また日本人の感覚の中に根をおろしているかを、いかにお札が証明しているかということであります。
それ故に、お札に対する関心が、お札が持つ魅力に価する程にまで高まって行くことを希望しています。
 
絵馬1

 

「絵馬」といえば皆さんも新年の祈願や入試合格祈願などでおなじみのものですが、その歴史は7世紀・奈良時代にまでさかのぼるといわれています。古来、都を建立した際には、必ずその土地の守護神(国魂といいます)と、農耕や飲料水など生活や農業生産には欠かすことができない「河川の源泉」を尊び、水源には水神(水魂といいます)を祀るという習慣がありました。
奈良に都が造営された際、土地を守る神社として大和神社を、そして「水」を守る、水魂を祀る神社として吉野川上流の丹生川の上流に丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)(上社)が建立され、大雨や干魃の際には丹生川上神社に祈願したとされています。
このころは、「わが国は古来トヨアシハラミズホ國の名のように農業国で、水の神、川の神に雨を祈った。この場合に神馬(じんめ)を奉納して、特に効験を認められた。神馬を奉納するのは神の祟りを応和し、罪穢れをぬぐう為であるが、一般的に種々の祈願が多く、特にに顕著なのは雨の祈請であった」(『丹生川上神社の祈雨』より)と記されているように、驚くことに当時は絵の馬ではなく、本物の馬が奉納されていたのです。降雨祈願には黒毛馬、大雨を沈める祈願には白毛馬を神馬として奉納したという記録が残されています。
なぜ献上されたのが馬かといえば、馬は神の乗り物であり、神霊は馬に乗って人間界に降臨すると信じられ、また後には馬自身が霊力を持つと解釈されていたからにほかなりません。現在でも京都の「葵祭り」では、お祭りを始めるにあたって、まずは神様をお迎えするために人の乗っていない馬をさしむける「御蔭祭(みかげまつり)」が行われているのもこうした理由からなのです。
当時、こうした祈願は個人の「お願い」を神様に聞いていただくためのものではありませんでした。馬を献上するといった大がかりな祈願を個人が簡単にできるはずもなく、あくまで都の平安を願う、地域の平安を願う共同体の祈願が中心となっていました。ところが、平安時代に入り時代が安定期に入ると、徐々に絵馬を使って個人の願望を祈願するという風習が広がり始めていくことになります。
平安時代、平安京へと都が移るころになると、それまでの生きた馬を奉納してきた慣わしにも変化が出始めてきました。その理由はまず奉納するためだけに馬を飼育することが費用などの面で大変だということ、さらに、当時としては最良の「働き手」=農耕や交通手段として欠かせない存在であった馬はやはり貴重な存在であったため、という理由が考えられます。
では、馬ではなく何が奉納されたかといえば、最初は神の乗り物である馬の姿を模した土製の馬や木製の馬が、さらに平安時代末期ごろになるとさらに簡略化が進み、板に馬の絵を描いた板立馬を奉納するように変わっていきました。
三重県の多気郡明和町に残る斎宮跡の遺跡からは、奈良時代-平安時代前半のものとされる土製の馬=土馬(どば)が数多く発掘されていますし、静岡県の伊場遺跡からは、奈良時代のものとされる馬の板絵が多く発掘され、この時代には一部ですでに絵馬のご先祖のようなものが奉納されていたことが明らかになっています。
平安末期-南北朝時代に書かれた「年中行事絵巻」「天狗草紙」「一遍上人絵伝」などの絵巻物にも「絵馬」の奉納風景が描かれ、時代が下ると共に、絵馬が広く一般にも使われていたことがうかがえます。
平安時代後期になると祈願の性質にも明らかな変化が起こり始めました。それまでの雨乞いといった共同体の祈願から、絵馬という手軽な方法を用いて、「私のお願いを聞いて欲しい」という「個人の祈願」へと、その中身が移り変わっていったのです。
平安時代は妖怪がさまざまな記録や物語という表舞台に登場し、陰陽師・安倍清明が宮廷に仕えながら物事の吉凶を占い、風水や四柱推命といった占いが登場してきた時代。帝塚山大学名誉教授・岩井宏實教授の「妖怪・絵馬・七福神は、当時の人々が苦しい時代を乗り切る三点セット」という言葉どおり、人々が見えない明日を占いたいと願う時代だったと言えるでしょう。こうした状況の下で、絵馬は神様への個人の願いを祈願するものに変化し、その種類もまた多様化していくことになります。
絵馬と聞くと神社に奉納してある小さなものを思い浮かべますが、桃山時代以降になると、奉納する人が自分の業績や手柄を記念する(自慢する?)目的で、大きな絵馬が奉納されるようになります。これを大絵馬といい、現在も江戸時代(元禄10年)に信州の大名・戸田氏忠真が浅間信仰のため狩野邦信に描かせ奉納した、河口浅間神社所蔵の「黒駒大絵馬」といった、専門の絵師によって描かれた芸術性の高いものが多く残されています。
こうした大絵馬のほかにも、江戸時代以降、普通の絵馬にも神社の由来や干支にちなんでいろいろな絵柄が登場してきます。でも、やはり「一番人気」は勉学上達祈願の絵馬でしょう。
江戸時代にはすでに奈良の街にあった手習い(今でいう塾)の先生が、弟子を連れて、「智恵の仏様」文殊菩薩が祀られている興福寺の東金堂へ、勉学上達のために連れて行き、絵馬を奉納したという記録が残っています。今でも受験シーズン前に塾の生徒を連れて天満宮へお参りするというニュースを見かけますが、いざという時には昔も今も日本人は同じような気持ちになるもののようです。
平安時代、心のよりどころとして、時には自分たちの願望を叶えてくれるかもしれない存在として妖怪を生み、苦しい時代を乗り切ったように、人は今も昔も、苦しい状況を変えていきたい、乗り切りたいと思った時に、真摯に神や仏に祈願し、自らの祈願を記し、また、沢山の人が同じ気持ちでいることを絵馬で知ることによって、どこかで同じ立場の人との一体感を求めているのかもしれません。

ここでひとつの疑問が出てきます。元来、水の神様への奉納を目的としていた絵馬が神社にあるのは当然のこととして、神様を祀るところではないお寺にも絵馬があるのはなぜなのでしょうか?その由来は、平安時代中期、真言密教の開祖・空海上人が「観音様は現世には馬に乗った姿で現れる」と述べたからだ、と言われています。仏様も霊力を持つ馬に乗る、というわけですね。その結果、絵馬がお寺でも奉納されるようになっていったのです。奈良の秋篠寺や当麻寺にはいまも古い時代の絵馬が保管されています。絵馬の形が簡略化される一方で、平安時代には仏教にも大きな変化が起こりました。平安時代までの仏教は、どちらかといえば国家の平安や五穀豊穣などの祈願に重きが置かれ、一般の人たちへの布教も禁じられていました。しかし、空海と最澄によって庶民への布教が急速に進み、仏教はここにきて国家などの共同体の宗教から個人の宗教へと広がりをみせはじめ、現代に続く仏教の基本がこの時代に築かれていったのです。仏教が個人の宗教へと発展し絵馬が簡略化されるにつれて、手軽に個人の悩みを絵に描いて奉納できるようになり、絵馬の種類が多様化していくことになります。当時は識字率が低い時代でしたので、願い事は絵に書いて奉納されていました。当然のことながら、それぞれ祈願の中身は違いますから、いわば悩みの数だけ描かれる絵も違い、さまざまな絵馬が描かれることとなったのです。

絵馬2

 

絵馬の起源 / 水の神への捧げもの・馬
日本妖怪探訪ページでも記したように、妖怪という存在が記録や物語に登場し始めたのが平安時代でした。そしてこの平安時代には、人々の願いを託すものが登場してきます。そのひとつが絵馬です。
「絵馬」といえば皆さんも新年の祈願や入試合格祈願などでおなじみのものですが、その歴史は七世紀・奈良時代にまでさかのぼるといわれています。古来、都を建立した際には、必ずその土地の守護神(国魂といいます)と、農耕や飲料水など生活や農業生産には欠かすことができない「河川の源泉」を尊び、水源には水神(水魂といいます)を祀るという習慣がありました。
奈良に都が造営された際、土地を守る神社として大和神社を、そして「水」を守る、水魂を祀る神社として吉野川上流の丹生川の上流に丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)(上社)が建立され、大雨や干魃の際には丹生川上神社に祈願したとされています。
このころは、「わが国は古来トヨアシハラミズホ國の名のように農業国で、水の神、川の神に雨を祈った。この場合に神馬(じんめ)を奉納して、特に効験を認められた。神馬を奉納するのは神の祟りを応和し、罪穢れをぬぐう為であるが、一般的に種々の祈願が多く、特にに顕著なのは雨の祈請であった」(『丹生川上神社の祈雨』より)と記されているように、驚くことに当時は絵の馬ではなく、本物の馬が奉納されていたのです。降雨祈願には黒毛馬、大雨を沈める祈願には白毛馬を神馬として奉納したという記録が残されています。
なぜ献上されたのが馬かといえば、馬は神の乗り物であり、神霊は馬に乗って人間界に降臨すると信じられ、また後には馬自身が霊力を持つと解釈されていたからにほかなりません。現在でも京都の「葵祭り」では、お祭りを始めるにあたって、まずは神様をお迎えするために人の乗っていない馬をさしむける「御蔭祭(みかげまつり)」が行われているのもこうした理由からなのです。
当時、こうした祈願は個人の「お願い」を神様に聞いていただくためのものではありませんでした。馬を献上するといった大がかりな祈願を個人が簡単にできるはずもなく、あくまで都の平安を願う、地域の平安を願う共同体の祈願が中心となっていました。ところが、平安時代に入り時代が安定期に入ると、徐々に絵馬を使って個人の願望を祈願するという風習が広がり始めていくことになります。  
絵馬の起源 / みんなの祈願から私の祈願へ
平安時代、平安京へと都が移るころになると、それまでの生きた馬を奉納してきた慣わしにも変化が出始めてきました。その理由はまず奉納するためだけに馬を飼育することが費用などの面で大変だということ、さらに、当時としては最良の「働き手」=農耕や交通手段として欠かせない存在であった馬はやはり貴重な存在であったため、という理由が考えられます。
では、馬ではなく何が奉納されたかといえば、最初は神の乗り物である馬の姿を模した土製の馬や木製の馬が、さらに平安時代末期ごろになるとさらに簡略化が進み、板に馬の絵を描いた板立馬を奉納するように変わっていきました。
三重県の多気郡明和町に残る斎宮跡の遺跡からは、奈良時代〜平安時代前半のものとされる土製の馬=土馬(どば)が数多く発掘されていますし、静岡県の伊場遺跡からは、奈良時代のものとされる馬の板絵が多く発掘され、この時代には一部ですでに絵馬のご先祖のようなものが奉納されていたことが明らかになっています。
平安末期〜南北朝時代に書かれた「年中行事絵巻」「天狗草紙」「一遍上人絵伝」などの絵巻物にも「絵馬」の奉納風景が描かれ、時代が下ると共に、絵馬が広く一般にも使われていたことがうかがえます。
平安時代後期になると祈願の性質にも明らかな変化が起こり始めました。それまでの雨乞いといった共同体の祈願から、絵馬という手軽な方法を用いて、「私のお願いを聞いて欲しい」という「個人の祈願」へと、その中身が移り変わっていったのです。
平安時代は妖怪がさまざまな記録や物語という表舞台に登場し、陰陽師・安倍清明が宮廷に仕えながら物事の吉凶を占い、風水や四柱推命といった占いが登場してきた時代。帝塚山大学名誉教授・岩井宏實教授の「妖怪・絵馬・七福神は、当時の人々が苦しい時代を乗り切る三点セット」という言葉どおり、人々が見えない明日を占いたいと願う時代だったと言えるでしょう。こうした状況の下で、絵馬は神様への個人の願いを祈願するものに変化し、その種類もまた多様化していくことになります。  
神も仏も馬に乗る / 空海・真言密教
さて、ここまで絵馬の起源をみてきましたが、ここでひとつの疑問が出てきます。元来、水の神様への奉納を目的としていた絵馬が神社にあるのは当然のこととして、神様を祀るところではないお寺にも絵馬があるのはなぜなのでしょうか?
その由来は、平安時代中期、真言密教の開祖・空海上人が「観音様は現世には馬に乗った姿で現れる」と述べたからだ、と言われています。仏様も霊力を持つ馬に乗る、というわけですね。その結果、絵馬がお寺でも奉納されるようになっていったのです。奈良の秋篠寺や当麻寺にはいまも古い時代の絵馬が保管されています。
絵馬の形が簡略化される一方で、平安時代には仏教にも大きな変化が起こりました。平安時代までの仏教は、どちらかといえば国家の平安や五穀豊穣などの祈願に重きが置かれ、一般の人たちへの布教も禁じられていました。しかし、空海と最澄によって庶民への布教が急速に進み、仏教はここにきて国家などの共同体の宗教から個人の宗教へと広がりをみせはじめ、現代に続く仏教の基本がこの時代に築かれていったのです。
仏教が個人の宗教へと発展し絵馬が簡略化されるにつれて、手軽に個人の悩みを絵に描いて奉納できるようになり、絵馬の種類が多様化していくことになります。当時は識字率が低い時代でしたので、願い事は絵に書いて奉納されていました。当然のことながら、それぞれ祈願の中身は違いますから、いわば悩みの数だけ描かれる絵も違い、さまざまな絵馬が描かれることとなったのです。  
神も仏も馬に乗る / 今も変わらぬ「絵馬」=「勉学上達」祈願
絵馬と聞くと神社に奉納してある小さなものを思い浮かべますが、桃山時代以降になると、奉納する人が自分の業績や手柄を記念する(自慢する?)目的で、大きな絵馬が奉納されるようになります。これを大絵馬といい、現在も江戸時代(元禄10年)に信州の大名・戸田氏忠真が浅間信仰のため狩野邦信に描かせ奉納した、河口浅間神社所蔵の「黒駒大絵馬」(有形文化財)といった、専門の絵師によって描かれた芸術性の高いものが多く残されています。
こうした大絵馬のほかにも、江戸時代以降、普通の絵馬にも神社の由来や干支にちなんでいろいろな絵柄が登場してきます。でも、やはり「一番人気」は勉学上達祈願の絵馬でしょう。
岩井宏實教授は「江戸時代にはすでに奈良の街にあった手習い(今でいう塾)の先生が、弟子を連れて、『智恵の仏様』文殊菩薩が祀られている興福寺の東金堂へ、勉学上達のために連れて行き、絵馬を奉納したという記録が残っている」と言います。今でも受験シーズン前に塾の生徒を連れて天満宮へお参りするというニュースを見かけますが、いざという時には昔も今も日本人は同じような気持ちになるもののようです。
平安時代、心のよりどころとして、時には自分たちの願望を叶えてくれるかもしれない存在として妖怪を生み、苦しい時代を乗り切ったように、人は今も昔も、苦しい状況を変えていきたい、乗り切りたいと思った時に、真摯に神や仏に祈願し、自らの祈願を記し、また、沢山の人が同じ気持ちでいることを絵馬で知ることによって、どこかで同じ立場の人との一体感を求めているのかもしれません。
絵馬のお話、興味を持っていただけましたか?あなたも近隣の神社やお寺に足を運んで、奉納されている絵馬をちょっとだけ読ませてもらってください。そこには思わず共感する何かが発見できるかも知れませんよ。  
 
徒然草 (第十九段)

 

折節の移り変わるこそ、物ごとに哀れなれ。
「物の哀れは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それも然(さ)るものにて、今一きは心も浮きたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやうやう氣色(けしき)だつほどこそあれ、折しも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になり行くまで、萬(よろづ)にただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり戀しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなき樣したる、すべて、思ひすて難きこと多し。
「灌佛のころ、祭のころ、若葉の梢涼しげに繁りゆくほどこそ、世のあはれも、人の戀しさもまされ」と、人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。:五月(さつき)、あやめ葺くころ、早苗とるころ、水鷄(くいな)のたゝくなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の頃、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。
七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、鴈なきて來る頃、萩の下葉色づくほど、早稻田(わさだ)刈りほすなど、とり集めたることは秋のみぞおほかる。また野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語、枕草紙などに事ふりにたれど、同じ事、また、今更にいはじとにもあらず。おぼしき事云はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かつ破(や)り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
さて冬枯の景色こそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀(みぎわ)の草に紅葉のちりとゞまりて、霜いと白う置ける朝、遣水より煙のたつこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじき物にして見る人もなき月の寒けく澄める、二十日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。御佛名(おぶつみゃう)・荷前(のさき)の使立つなどぞ、哀れにやんごとなき、公事ども繁く、春のいそぎにとり重ねて催し行はるゝ樣ぞ、いみじきや。追儺(ついな)より四方拜につゞくこそ、面白ろけれ。晦日(つごもり)の夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都には無きを、東の方には、猶(なお)することにてありしこそ、あはれなりしか。
かくて明けゆく空の気色(けしき)、昨日に變りたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、また哀れなれ。
 
神楽

 

神楽とは、古来より神が降臨する場・神座を設け、神を楽しませ、神と人とが共に享楽することで神の力を得ようとする神人和楽の神事のことで、現在では特に神に奉納する歌舞(かぶ)を指す。かぐらという語は、神が降臨した時に身を置く場所である「神座」(かむくら・かみくら)から転じたとされ、その起源は古く古事記の紀記説話の記述に見られる「天岩戸」の故事に遡るため、日本舞踊の根源といわれている。
「天岩戸伝説」は有名な神話であるが、そもそも神楽が何であるかを知るため、その詳細を記すことにする。世界の陽性・平和・正義を象徴する太陽の女神・天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、弟の荒神・須佐之男命(スサノオノミコト)の乱暴な素行に耐えかね、怒って天の岩戸(現・仰慕窟(キョウボガイワヤ))の中に籠ってしまった。世が闇に閉ざされてしまったため、他の神々は洞窟の前の天安河原(アマノヤスガワラ)に集って協議をし、天照大御神を引き出すべく、宴会を開くことにした。芸に優れた天鈿女命(アメノウズメノミコト)が半裸で賑やかな舞を披露し、神々はその滑稽さに沸き大騒ぎとなった。この舞が後の神楽の原型となるのだが、興味を示した天照大御神が岩戸を少し開いたところを、すかさず手力雄命(タヂカラオノミコト)が岩戸をこじ開け、女神を外に連れ出し、世に再び光が戻ったという神話である。この故事にまつわる天岩戸神社は宮崎県高千穂町岩戸に現存し、天岩戸(洞窟)が祭られている。高千穂町には古事記・日本書紀縁の地が数多くあり、冬場には各集落で夜神楽が舞われる趣深い地である。
さて話は神楽の系譜に戻る。大別すると民間で行われる里神楽(さとかぐら)と、宮中で行われる御神楽(みかぐら)に分けられる。里神楽は、主に山伏により神社に伝承されている地域が全国的にあり、祭りなどの際に目にすることができる。一番馴染みのあるポピュラーな神楽は「獅子舞」(ししまい)だろう。主に正月など縁起の良い日に、疫病退治・厄払の願掛けとして行われているものだ。獅子頭(ししがしら)を笛や太鼓の囃子(はやし)に合わせて操り、あたかも獅子が舞うように踊る類のものが、郷土芸能として全国各地で見られ、同じ獅子舞が2つ無いと言われるほど多様である。大別すると、胴幕の中に人が入り、獅子頭を二人以上で操るもの(伎楽系・神楽系)と、一人立(獅子頭を一人で操る)で腰に付けた小太鼓を叩きながら、主に三頭組で舞い踊るもの(風流系・山伏神楽系・番楽系)に分けることができる。
断っておくが、私は上述した神道・日舞関係者でも、獅子舞マニアでもないので、神楽の説明をここまで引っ張る必要があるとは思えないのだが、神楽に触れた経験がほとんどない、私のような人にも理解して貰えるよう、念入りに説明することにした。よってここから先はウンチクレベルなので、興味の無い方は読み飛ばし、最下段辺りの「まとめ」を参照していただきたい。  
獅子舞は神楽の中でも上述の里神楽の類で、かつ獅子神楽というジャンルに入る。他の神楽の分類については順次説明することとし、ここでは獅子舞について触れる。
獅子舞の海外における起源はインド系の芸能であるといわれ、それが中国に伝わり、更に日本へ伝播したものと考えられている。現在、中国で見られるものは大別すると南方系・北方系の2系統あり、いずれも日本の獅子舞と比べると派手で大きい。北方獅子は雑技の演目として有名で、サーカスの猛獣ショーとピエロを混ぜ、着ぐるみの獅子が演じる類のものである。南方獅子は、華僑がチャイナタウンで催している、金・銀・原色の度派手な獅子頭・胴幕を付け、「高椿」などの雑技(曲芸)を披露するものだ。高椿は直径20センチ程度、高さ2メートルの柱の上で獅子が飛び回るアクロバティックな曲芸で、中国・東南アジアでは、この技術を競い合う競技会も開かれている。史書によると唐の時代(618〜907年)に獅子舞が始まり、清の時代(1636〜1912年)には確立したものとされ、日本同様、主に祝事で催される。特に旧正月には、横浜中華街を始め、世界中のチャイナタウンで太鼓・銅鑼・シンバルに爆竹を鳴らした、上述の度派手な南方獅子を見ることができる。
話を日本に戻すが、中国から伝播した獅子舞は上述の伎楽系・神楽系のもので、現存する歴史的資料から推察すると、日本の獅子舞の起源は、伎楽用の獅子頭(正倉院蔵)が現存することから752年の東大寺本尊である大仏開眼法要に用いられたのが最初と思われる。しかしこれには史実がないため、一般的には江戸時代、伊勢詣りが最高の行楽であった頃、これに併せて生まれた「太神楽」「大神楽」(だいかぐら)が起源とされている。また上述したもう一つの流れである風流系・山伏神楽系・番楽系の獅子舞は、山伏の一団が御神体として権現の獅子頭を持ち各地を巡回し、神楽人を務め、神楽による祈祷神事を行うもので、東北が修験場として有名であったためか青森・岩手・秋田・山形の東北四県に伝わる。番楽とは日本海側での呼称で、太平洋側ではそのまま山伏神楽と称される。素朴で古風な猿楽の能を主に舞うが、以下に詳述する太神楽は散楽風芸能の色が濃い。  
太神楽・大神楽(だいかぐら)は、神官が「獅子舞」と「放下(ほうか、曲芸の一種)」を伴い、全国各地を年に一度巡回し、神札の配布や祝祷、御祓(おはらい)を行うもので、当時参拝できない人にとって伊勢参拝の代わりとされた。参拝の代わりであれば、氏子の家々を御祓して回る「門付け(かどづけ)」だけで事足りるし、放下芸を伴い大人数で巡回する意義が無い気もするのだが…。獅子舞の話はひとまずここで終わり、そのルーツとなる太神楽について次に触れることとする。
太神楽、また耳慣れない語と思われるが、傘回しなどの曲芸をTVなどを通じて世に広めた海老一染之助・染太郎兄弟の曲芸師コンビが有名で、正月のテレビ番組などで馴染みがあるかも知れない。江戸時代、寄席の登場に伴い、従来の太神楽芸である放下が神事芸から舞台芸能としての曲芸に移っていった。もちろん従来の祭事的な太神楽も現存し、舞・歌・囃子・茶番・寸劇・曲芸など民俗芸能の集大成とも言える総合芸能になっている。まず太神楽の起源から流れについて触れたい。
その起源は、奈良時代(710〜794年)、中国から伎楽(ぎがく)・散楽(さんがく)などが仏教とともに日本に伝来し、法隆寺・東大寺・西大寺・大安寺など由緒ある神社に上演する一団が置かれた。これらは後に雅楽・猿楽・田楽などに変化し、後に能楽に発展してゆくのだが、散楽の一部は平安時代には、僧体の放下師が仏教の伝播のため人集めとして放下芸を演じ、娯楽として民衆の目に触れ、一般大衆向けの曲芸を生んだ。放下は祭事の余興としての位置付けが強いが、芸を見て楽しむことで厄落とし(憂晴らしとも言える)になるともいわれる。人々の娯楽である以上、元来は神事的意味合いが濃かったものも、より芸能として発展し多様化し、総合芸能にまで発展していった。
話は戻るが、伊勢・熱田両神宮の太神楽が古くから有名で、その起源は定かではないが、この二ヶ所が太神楽の発祥源といわれている。獅子舞のところで述べたように、江戸時代に入り巡回がメジャーなものとなり、その神事舞(獅子舞)と放下(曲芸)が人気を呼んだ。熱田派は江戸太神楽・水戸大神楽となり、伊勢派は伊勢太神楽(伊勢太神楽講社)となり、この三つが現在特に有名であり、それぞれ社中(組合・組織)を設け活動している。 伊勢太神楽は三重県桑名市太夫を本拠地とし、現在も主に西日本各地を巡回している。概ね舞(獅子舞)と曲(放下芸)という、古来の太神楽の流れをそのまま伝え、1981年には国の重要無形民俗文化財に指定された。獅子舞の合間に、放下芸師とチャリ師(道化師)が万歳のように掛け合いながら芸を披露する曲が散りばめられる。現在も頭噛みのお祓い(獅子頭に頭を噛まれると頭が良くなる・無病息災の願掛け)が人気がある。
江戸太神楽は江戸時代に熱田神宮の神官らが江戸にも巡回し、評価を得、移り住んだのが最初である。太神楽十三番と呼ばれる演目が定番で、他流派よりも曲芸は多彩である。9番までは傘回しなどの放下芸、残る4番は祭事的内容で、祝寿獅子舞・磐戸開きの舞・鹿島事触の舞・末広一万燈である。江戸に急激に増えた寄席の芸人不足を補うため、太神楽が寄席に進出し、太神楽の演目の大半が寄席に吸収され、寄席の色物(脇芸)として定着した。
水戸大神楽は江戸太神楽と同じ熱田派の流れを持ち、江戸時代には水戸藩徳川家の御祭禮御用を努めた。水戸御免御祭礼御用囃子(略称・御祭礼囃子)が当時の祭囃子のまま現在も継承されており、他流派より格式を重んじた芸風となっている。
いずれの流派とも高齢化が進み慢性的な後継者不足の状態だが、明治時代以降、海外での活躍などにより、欧米のジャグリングとの曲芸文化の交流をしたため、放下に関してはジャグリングとの接点も多く若者にも馴染み易いものとなった。また平成に入り、国立太神楽研修生として後継者の育成が始まり、伝統芸能としての太神楽を後世へ保存・継承する動きが高まっている。
以上太神楽について触れたが、里神楽の中でも伊勢流神楽について、前述の伊勢太神楽との接点を交えつつ触れることにする。  
伊勢流神楽(いせりゅうかぐら)、先に述べた伊勢太神楽と一文字違うだけなのだが、全く別物である。伊勢太神楽は獅子神楽の一系統であるのに対し、伊勢流神楽は里神楽の一系統を持ち、獅子神楽より祭事的・呪術的要素が濃い。伊勢流の名のとおり、伊勢神宮での湯立(ゆだて)を中心とした神楽を源流とするものの総称である。湯立とは、白装束姿の巫女・僧職が煮えたぎる釜の湯を振りかけることで「けがれ」を祓い清める呪法で、伊勢流神楽はこの禊祓(みそぎばらい)の行事に歌舞が交じったものといえる。演目などに地域差はあるが、概して湯釜の上に「天蓋」と呼ばれる、四角い窓状に注連縄・注連飾りを張り巡らせた、神を向かえる斎場が作られる。演目は概ね囃子・舞に始まり、湯釜・天蓋の御祓、神降し、湯開き、湯の奉納、湯立(熱湯に笹を浸し、参列者の頭上に散らし無病息災を願う)、神送りと続く。
明治維新以降、伊勢神宮の湯立神楽は断絶してしまったが、秋田県平鹿郡地域や長野県下伊那郡遠山の霜月神楽、愛知県奥三河地方の花祭りなどが伊勢流神楽の流れを継承しており、いずれも国の重要無形民俗文化財に指定されている。  
次は伊勢流神楽と同じく、里神楽の一系統として出雲流神楽(いずもりゅうかぐら)を採り上げる。伊勢流は、社格的に別格である伊勢神宮が発祥地であったが、出雲流の場合、出雲国二宮である島根県八束郡鹿島町にある佐太(佐陀)神社(さだじんじゃ)が発祥地とされ、ここでの御座替(ござかえ)神事が源流の、採物舞(とりものまい)と着面の能系統の舞とを交えて演じられる神楽全般を指す。
毎年9月24日、佐太神社の古伝祭「御座替祭(茣蓙を敷き換える神事)」で演舞される「七座神事」「式三番」「神能」の3部構成の神事舞を佐陀神能と呼び、国の重要無形民俗文化財に指定され、現在も鑑賞することができる。神事・祭礼そのものである「七座神事」は、直面(ひためん)で鈴や剣など、神霊が依り憑く採物(とりもの)を持って七曲の舞が演じられる。その祭礼後の法楽(ほうらく)として、祝言舞の「式三番」(しきさんば、能では「翁」と呼ばれる)と、着面(ちゃくめん)で古事記・日本書紀を題材とした神話劇を舞う「神能」が行われる。法楽である「式三番」「神能」は慶長年間(1596〜1615年)に禰宜が上京して大和猿楽を学び、新たに取り入れたとされるが、現在の能に見られる所作・舞事とは異なり、世阿弥的な要素のない、独自のものになっている。これが主に山伏によって全国に広められ、地方色豊かな、全国的に最もポピュラーな里神楽となった。特に出雲地方はヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトの縁の地として知られ、出雲神話を題材とした数々の神楽が各地で上演されている。島根県内では、神楽は出雲神楽・石見神楽・隠岐神楽に分類されている。
出雲神楽は、ヤマタノオロチ退治神話を神楽にして奉納するもので、藁で作った蛇を踊らせ、神主に巻き付け、来年の豊凶や村についての神託を受け、舞と共に農作物を奉納するもの。
石見神楽は八調子の急テンポな囃子に乗って演劇性の強い演出で知られる神楽で、島根県邑智郡石見地方で創作され、周囲の小神楽と融合し、中国・四国地方で多かった大元信仰を中心に据え、農神に捧げた「田楽」の流れを汲み、大元神楽に発展したもの。演目は上述の出雲神楽同様、「大蛇(ヤマタノオロチ)」が主体。
隠岐神楽は、神事としての性格が濃く、社家(しゃけ)と呼ばれる、神楽を本業とする家筋の専門家である神楽師により舞い継がれてきたもので、神楽の中でも巫女の儀式舞が重要な部分を担う古風な形式のもの。現在隠岐でしか見られない貴重な文化財。  
こうして振り返ると、修験者である山伏は本業である修行をしながら、副業として行く先々で神楽を舞い、その人数も相当多く、全国に様々な経路で伝播していったことが分かる。また各地の里神楽を見ると、分類上二つ以上の神楽の複合なども多い。次にこうした伝播の少ない里神楽に触れる。
里神楽では唯一、全国的に伝播される機会が少なく継承されているものが巫女神楽(みこかぐら)である。巫女神楽とは、その名のとおり神に仕える身である巫女が舞う神楽のことで、巫女舞とも呼ばれている。古来は神託を受けるため神がかりし、舞というより乱舞に近いものであったと考えられるが、現在では様式化され、鈴・扇・笹・榊・幣などの採物(出雲流神楽参照)を持ち、旋回しながら舞われる、洗練された、静かで優雅な舞である。宮中以外の地方の諸社では、古くから社頭の巫女の採物舞を主体とし、神がかることのない無言の舞を奉納していたという史実から、現存する巫女神楽が、かなり古風な神楽の形式を残すもので、数少ないが、奈良県奈良市春日野町にある春日大社の、春日若宮御祭で演じられる八乙女による巫女舞や、島根県松江市美保関町にある美保神社の朝神楽・夕神楽などが代表的で、原型を留め、現在に伝えている。近代の創作神楽として、1940年11月10日に開かれた「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、昭和天皇御製の歌詞で新しい巫女神楽「浦安の舞」が当時の宮内省楽部により作られたが、明治期以降に国風歌舞や謡物を下地として多く神楽が作られたうちの1つで、奉祝会の日は全国の神社で一斉に舞われた。
臨時に作られる神楽は、代々宮中では天皇の病気回復祈願等で、御神楽(みかぐら)として舞われてきた。御神楽とは、雅楽に含まれている前述の皇居・賢所で行われる賢所御神楽のことで、現在では毎年12月に、宮内庁式部職楽部によって夕暮時に簡略化されたものが行われている。賢所(かしこどころ)は皇祖神である天照大神を祀る場所で、代々宮中祭祀が執り行われる神聖な場所である。天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭である大嘗祭(おおにえのまつり)の琴歌神宴(神楽)、11月に行われる京都・賀茂神社の臨時祭(北祭)での還立(かえりだち)の神楽、平安宮に祭られている園韓神に奉納する園韓神祭の神楽、京都・石清水八幡宮で3月に行われる臨時祭(南祭)の神楽など、いくつかの神事祭礼が他の芸能同様、平安時代に整理・統合され、現在の御神楽の形式が成立したと考えられている。  
神楽についての理解が深まっただろうか。筆者は不完全燃焼気味であり、結局神楽のような伝統芸能を知るためには実際の見聞が必要であることを痛感する。しかしながら、幼少時代に親に連れられて見た祭の獅子舞などを思い起こしてみても、何というか、実体がない亡霊を見たような記憶しか残っていない。実体験は大事なのだが、下地無くては亡霊止まりなのかもしれない。少しでもその本質を知るために、触れる機会に恵まれた方は、その由縁や成立、経緯を下地として準備して見ていただきたいと思う。そして、前述したとおり筆者は関係者ではないので普及活動をするつもりはないのだが、今日まで息絶えず伝承されている伝統文化の火を消さぬよう、多くの方が触れる機会を持ち、次世代に継承される土台を、今、構築する時ではないかと思う。  
 
太神楽・曲独楽(だいかぐら・きょくごま)

 

「太神楽・大神楽(だいかぐら)」、耳慣れない語と思われるが、傘回しなどの曲芸をTVなどを通じて世に広めた海老一染之助・染太郎兄弟の曲芸師コンビが有名で、正月のテレビ番組などで馴染みがあるかも知れない。江戸時代、寄席の登場に伴い、従来の太神楽芸である「放下(ほうか、曲芸の一種)」が神事芸から舞台芸能としての曲芸に移り、大衆の人気を博した。一方で従来の祭事的な太神楽は獅子神楽のジャンルに入り、神官が「獅子舞」と「放下」を伴い、全国各地を年に一度巡回し、神札の配布や祝祷、御祓(おはらい)を行うもので、当時参拝できない人にとって伊勢参拝の代わりとされた。現在では舞・歌・囃子・茶番・寸劇・曲芸など民俗芸能の集大成とも言える総合芸能となり、継承されている。
日本舞踊「神楽」の項でも触れている「太神楽」だが、種類が豊富で多岐に渡る上、知名度が高いものが多いので、本項では太神楽について更に詳細に触れてみることにし、曲独楽は太神楽との接点を見た後に採り上げることにする。まず太神楽の起源と、その歴史の流れに沿って触れてみることにする。
太神楽の起源は、奈良時代(710〜794年)、中国から伎楽(ぎがく)・散楽(さんがく)などが仏教とともに日本に伝来し、法隆寺・東大寺・西大寺・大安寺など由緒ある神社に上演する一団が置かれた。これらは後に雅楽・猿楽・田楽などに変化し、更に後には能楽に発展してゆくのだが、平安時代には、散楽の一部は僧体の放下師が仏教の伝播のため人集めとして放下芸を演じ、娯楽として民衆の目に触れ、一般大衆向けの曲芸を生んだ。放下は祭事の余興としての位置付けが強いが、芸を見て楽しむことで厄落とし(憂晴らしとも言える)になるともいわれる。元来は神事的意味合いが濃かったものも、より大衆向けの芸能として、人々の娯楽として発展し多様化し、総合芸能にまで発展していったとされる。
伊勢・熱田両神宮の太神楽が古くから有名で、その起源は定かではないが、この2ヶ所が現在の太神楽の発祥源ともいわれている。日本舞踊「神楽」の獅子舞のところで触れたように、江戸時代に入り全国巡回がメジャーなものとなり、中でも神事舞(獅子舞)と放下(曲芸)が大衆の人気を博した。太神楽一行は昔は徒歩で荷車を曳きつつ1日平均8時間程度かけて150軒余りを廻りつつ15キロ程度進行するといった具合に年中旅路にあり、本拠地に戻るのは次の旅支度の時という生活をしていたようだ。ワゴン車等で都市化が進んだ道を移動する現在では、逆に僻地ゆえに訪れることが出来なくなった土地も出てきたという。話は戻るが、熱田派は江戸太神楽・水戸大神楽となり、伊勢派は伊勢大神楽(伊勢大神楽講社)となり、この3つが特に有名であり、それぞれ社中(組合・組織)を設け現在も活動している。この3つの太神楽の流れを追いつつ、現在までの歴史を探ってみることにする。  
「伊勢大神楽」は、三重県桑名市太夫を本拠地とし、宗教法人伊勢大神楽講社という組織のもと、現在も主に西日本を中心に各地を巡回している。厳密には太夫村系と阿倉川系があるのだが、合同で活動しており芸風の違いはない。概ね舞(獅子舞)と曲(放下芸)という、古来の太神楽の流れをそのまま伝え、1981年には国の重要無形民俗文化財に指定された。獅子舞の合間に、放下芸師とチャリ師(道化師)が万歳のように掛け合いながら芸を披露する曲が散りばめられる。現在も頭噛みのお祓い(獅子頭に頭を噛まれると頭が良くなる・無病息災の願掛け)に人気がある。なお講社へ加入している大神楽組は、最盛期には太夫地区だけで12組余りあったようだが、現在は全国でも4組程度となり、一方で講社に属さぬ伊勢大神楽も少数ながら存在し、各組で修行した者が、講社に属さず名乗りを上げて独立し、巡業しているものである。
舞(獅子舞)が8種、曲(放下)が9種余りあり、舞は神楽を奉納する場を清め、神を下ろし、邪気を払い、五穀豊穣等を祈願する内容であり、曲はバイ(木棒)操り・手毬操り、傘回し、茶碗つぎ(献灯)、剣舞、魁曲(花魁道中の曲)など、様々な演目を有する。  
「江戸太神楽」は、江戸時代の寛文年間に熱田神宮の神官らが江戸にも巡回して評価を得、江戸へ移り住んだのが最初であり、今日の関東系太神楽の母胎として、関東に広く分布した。伊勢派も20年余り遅れて江戸に移り、全盛期の江戸の太神楽は、熱田派・伊勢派各々同数とされ、山王・神田明神・根津権現祭礼での御用神楽として先払いの役を勤め、その華麗な芸風は江戸の風物詩となった。赤丸一・白丸一・翁家・湊家・宝家・大丸・丸井・海老一・寿家・バンカラ・豊来家などの屋号の親方連が昭和初期までは存在しており、派を競い合っていたという。後に急増した寄席の芸人不足を補うため、太神楽が寄席に進出し、太神楽の演目の大半が寄席に吸収され、寄席の色物(脇芸)として定着した。
太神楽十三番と呼ばれる演目が定番で、他流派よりも曲芸は多彩である。9番までは曲撥・曲鞠・傘回し・羽子板・どんつく・茶碗などの放下芸、残る4番は祭事的内容で、祝寿獅子舞・磐戸開きの舞・鹿島事触の舞・末広一万燈である。
昭和14年(1939年)、寄席などの舞台に立つ事業太神楽師らが「大日本太神楽曲芸協会」を設立し、一時は会員も140名余りいたのだが、会員の高齢化が進み、現在は30名余りとなり、慢性的な後継者不足の状態が続いているという。現在、日本芸術文化振興会(国立劇場)が太神楽の後継者育成事業に乗り出し、研修員を募って基礎教育をしている。
「水戸大神楽」は、江戸初期に常陸国足黒村(現茨城県茨城町)に土着した神楽師・宮内丹後守を祖とし、水戸御免御祭礼御用囃子(略称・御祭礼囃子)が当時の祭囃子のまま現在も継承されており、他流派より格式を重んじた芸風となっている。江戸太神楽と同じ熱田派の流れを持ち、江戸時代には水戸藩徳川家の御祭禮御用を努めた。当時、大神楽の巡廻地は三里四方が一切興行禁止となり、大神楽出向の村は、農業禁止のうえ、庄屋が紋付羽織袴で出迎えをし、鎮守様に神楽を奉納し、庄屋宅の悪魔祓いをしてから村内を廻ったという。昔から江戸太神楽との関係は深く、相互に技芸を磨き合っていたようだ。
水戸大神楽は、平成6年(1994)に文化庁芸術祭参加公演「芸術祭賞」を受賞した。(十八代宗家・家元柳貴家正楽)
曲芸の多い江戸太神楽に対し、舞曲が中心で演目も多いのは、御祓いが主眼とされたことも影響しているようだ。舞の内容としては他流にはない鍾馗(しょうき)舞があったり、神話を題材とした神楽歌が入るのが特徴である。曲芸も同様に、御祓いに纏わるものが多く、悪魔祓いの刀・破魔弓・出刃包丁・火炎や松明などを用いる演目が多い。また滑稽掛合という、漫才に近いものも披露される。  
いずれの流派とも高齢化が進み慢性的な後継者不足の状態だが、明治時代以降、海外での活躍などにより、欧米のジャグリングとの曲芸文化の交流をしたため、放下に関してはジャグリングとの接点も多く若者にも馴染み易いものとなった。先にも述べたが、平成に入り、国立太神楽研修生として後継者の育成が始まり、伝統芸能としての太神楽を後世へ保存・継承しようとする動きが高まっているという。
ここで太神楽の名前の起源について少し触れておくことにする。上述の伊勢大神楽・江戸太神楽・水戸大神楽の「太」「大」の違いは各々の組織の固有名詞であり、漢字の相違による内容的差異は無く、歴史的には江戸時代の記述などでは、「大・太・代」が混交して用いられている。神宮への代わりの参拝から「代神楽」、「大神宮御神楽」の中三字を省略して「大神楽」、伊勢参宮の大規模な神楽奉納と同じご利益を得られるから「大神楽」、美称の「太」を用いて「太神楽」など、伝統文化研究の専門家のうちでも諸説唱えられ、どれが正式名称と決められたものは無いという。神宮と各地を連結する立場にあり、代参としての位置付けで親しまれ、全国規模で信仰が広がっていたため、地域による表記の差異があっても不思議は無いのかもしれない。  
次に、曲独楽(きょくごま)の流れに入ることにする。寄席演芸では、曲独楽は色物の1つとして、太神楽芸の1つとして一般に扱われてきた流れもあって、実は起源から追うと、蹴鞠などと同様、貴族遊びの1つであったことはあまり知られていない。
独楽は誰もが知っているように、子供の昔ながらの玩具として現在も使用されている日常的なものであるが、その起源は明らかになっていない。そもそも自然物の組み合わせで作られるような単純な玩具としての独楽の類は、世界中どこにでも見られるため、史跡・史書などから起源を追うのは無理があるのではないかという説もある。要するに、独楽はある一地点が起源で世界中に伝播したものではなく、自然発生的に各地で出現したもの、との考え方である。いずれにしろ証拠となる現存の最古の独楽は、削って形を整えていく「たたきごま」であり、紀元前1400年〜2000年頃のものがエジプトで発掘されたという。
では日本での起源はと言えば、こちらも明らかではなく朝鮮・中国大陸・日本発生説など諸説あるが、史実から追うと奈良時代に中国から「散楽雑技」の1つとして竹製の唐ごまである「輪鼓(りゅうご)」が伝来したという説が有力となっている。「曲独楽(曲芸として大衆に披露する独楽)」の歴史としては、奈良時代に宮中の神仏会や相撲節の余興に遊戯として廻し、競い合ったというのが最初とするのが妥当かもしれない。現在でも「伊勢大神楽」などの曲芸の中に、昔の姿がそのまま踏襲されている。古来より、曲独楽は朝廷や寺社の儀式でのみ演じられ、貴族階級の子供の玩具となり、一般大衆は目にすることが出来ず、大衆は木・貝など自然物の独楽で遊び(賭博・占卜)をしていたという。
一般庶民の見世物として曲独楽興行が行われるのは江戸・元禄年間に入ってからの事で、福岡・博多で専用の曲独楽が初めて作られ、博多出身の初太郎(市太郎)という少年が、鉄芯の博多曲独楽を京都の四条河原(当時、見世物小屋がたくさん並んでいた)で120日興行し評判になったというのが史実での初見である。博多独楽は伝統芸能として初代筑紫珠楽によって復興され、昭和に入り福岡県の無形文化財に指定された日本の代表的な曲独楽であるが、それまでの独楽と比べて長時間安定して回ることが、曲独楽に多くの演出を誕生させ、曲芸として発展するきっかけになった。
話が逸れたが、江戸へ伝わり、享保年間(1716年〜1735年)から幕末まで曲独楽は大流行し、曲独楽だけで見物人が飽きないよう、からくり人形・水からくりを取り入れ、音曲入りの興業を行うなど賑やかな演出が考案され、庶民の人気を博した。文化文政期(1804年〜1830年)に独楽が盛んに作られるようになり、技術的にも大成した曲独楽は見世物興行化に成功し、1840年代から1860年頃に全盛期を迎え、曲独楽の演技だけでなく仕掛け・手品・音曲を用い、劇的要素も加味した内容となり完成した。
曲独楽の芸人達に役所から鑑札が下りたのは、大岡越前守忠相が東京・浅草田原町の曲独楽師「松井源水」を香具師の元締めとしたことによるが、そのお蔭で芸人達の芸の記述・跡取り報告などの詳細を現在も見ることができ、当時の曲独楽師は、紐とともに30キロ弱の重さの大独楽を廻したという記録も残っている。松井源水は「源水独楽」という形・呼び名を現在に残した著名な人物で、現在の曲独楽師は皆、源水の芸脈を受け継いでいる。当時名高い曲独楽師に2代目竹沢藤治、13代目松井源水がおり、1866年、源水一行は日本で初めて海外興行をし、曲独楽を初めて海外に紹介した人物である。
享保年間の浅草・奥山の名物芸というと、第一に「松井源水の曲独楽」、第二に「長井兵助の居合抜き」・「芥子之助の曲芸・手品」と言われていたらしい。人気の大道芸の1つであった「曲独楽」も、明治以降は太神楽社中と共に全国を巡回し、舞台・寄席芸能として現在でも人気の曲芸として伝承されている。しかし、今日では曲独楽師は国内に十数人しか居なくなり、また曲独楽製作者も、後継者不在となり芸道の危機に瀕している。江戸独楽は、現在もその美しい姿から、コレクターの中では非常に人気が高い独楽であるが、明治時代以降は独楽文化が廃れてしまい、曲独楽の伝統的技術は、僅かな職人の手で現在まで細々と継承されている状態となっている。  
最後に、曲独楽の主要な演目について少し触れておくことにする。仕掛けも技術も必要なものばかりだが、素人目にはどこから技術でどこまで仕掛けなのか全く解らない。
「刃渡り」日本刀の刃の上を端から端まで渡るように廻っている独楽を移動させる。
「糸渡り」刃渡りの糸版。舞台の端から端まで糸を張り、綱渡りするように廻っている独楽を走らせる。
「地紙止(末広)」演者が手に持った開いた扇子の縁の上で独楽を廻し、移動させる。
「風車」棒(竿)の先端で廻っている大独楽を直角まで倒していく。
「衣紋(えもん)流し」演者の着物の袖の上を渡るように廻っている独楽を移動させる。
昨今では、独楽の名で親しまれていないが、ラバー素材のお碗が2個くっついたような形の「ディアボロ」というものが欧米を含め日本でも流行しているようだ。これは「輪鼓(りゅうご)こま」という長崎に伝わる空中ごまの仲間で、箸のような2本の棒に付いた紐を操って独楽を廻し、空中に飛ばしたり、紐を登ったりさせる類である。起源は中国と言われ、日本には奈良時代に中国大陸から伝播し、鎌倉時代には子供の玩具として大衆化していたが、江戸時代にはあまり遊ばれなくなり、廃れてしまった。その独楽が現在また流行しているのだから、また喧嘩独楽やベー独楽が流行る日が来るかもしれない。  
 
四季の行事

 

一、節分
イワシの頭も信心から?
節分は、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指し、本来は年四回あります。現在では特に、立春の前日の節分のことを指す場合が多くなりました。これは旧暦の時代には節分が年の初めの前日、つまり大晦日とされていたことと、一陽来復して季節が冬から春に移る時節であることから、特別な意味を持つようになったのです。
節分の行事は、本来宮中で季節の変わり目に行われた年中行事で、これに中国から伝わった毎年の大晦日に鬼を払う悪霊ばらいの行事(追儺(ついな、鬼やらい)が加わり、平安時代頃から行われていました。
宮中で行われていた節分の行事は、時代が下ると次第に民間に伝わっていきました。節分当日の夕暮れ、ヒイラギやイワシの頭を家の入り口などに挿しておいたり、豆撒きをするようになりました。こうしておくと、鬼(流行病をもたらす邪鬼)がヒイラギの葉のトゲに刺さって痛がり、イワシの悪臭にびっくりして逃げていくと考えられていたからです。これは、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それが家に侵入しないように追い払うためです。
豆撒きでは、夕方、家の戸を開け広げ、家の主人が炒った大豆を撒き、撒かれた豆を、自分の年齢(数え年)の数だけ食べます。また、自分の年の数より一つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという言い伝えもあります。豆を撒く意味は、豆には穀物の穀霊が宿っており、生命の源の象徴と考えられ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。これは、中国から渡来して宮中で行われていた悪鬼・厄神祓いの行事と、社寺が邪気祓いに行った豆打ちの儀式が融合したものとも言われています。
豆を撒く際の掛け声は通常「鬼は外、福は内」ですが、地域や神社によってさまざまです。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方除けの寺社では「鬼は外」ではなく「内」としているところもあります。
二、お彼岸 
もともとは日本に昔からあった先祖まつり
春分と秋分の日を、中日とした七日間を彼岸といいます。
この期間に法要や墓参りをしたり、お寺では彼岸会(ひがんえ)が催されるなど、仏教の影響が色濃く感じられます。しかし、仏教思想とは解釈できない要素が含まれていて、もともと我が国固有の信仰行事が、基調をなしていることがわかります。
秋田県では春の彼岸に、田んぼの雪の上に家々から貰い集めたワラを積み重ねて燃やす行事があります。これは彼岸の入りの日に行う行事で、盆の精霊(しょうりょう)迎え・精霊送りと同じような迎え火・送り火で、盆の場合と同じような唱え言をいうところもあります。新潟にも彼岸の入り・中日・明けの三回ワラ火を焚き、中日には山の上で一〇八のあかりを焚くところがあるといいます。
また日の出日の入りを拝んだり、「今日さんむかえ」といって、中日の朝弁当を持って日の出る東の方へ向いて歩いて行き、午後には西の入日に向って帰ってくるところもあるといいます。
この彼岸の期間に法会や墓参りを行うようになったのは日本独自のことで、その背景には太陽崇拝の原始信仰があったためといわれています。民間には日願(ひがん)日天願(にってんがん)という言葉とともに、彼岸に太陽を追いかける習俗などがありました。
これらの習俗と仏教が説く西方浄土に往生できるという信仰が習合して、彼岸の行事が行われるようになったと考えられます。信仰の基調をなしたものはあくまでも我が国固有の行事だったのです。
三、お花見
行楽行事?いいえ「春祭り」の原形で大切な神事
桜は古くから日本の山野に自生していた植物で、日本では花といえば桜と言われるように親しまれてきました。それは桜が、穀物の神さまの宿る木とされてきたからなのです。サクラの「サ」は稲の霊を意味している言葉であるといわれます。例えば稲を植える月を、「サツキ」と言い、苗のことを早苗(さなえ)というように、稲にまつわる言葉にはほとんどといっていいほど「サ」がついています。一方、サクラの「クラ」はお神楽などでわかるように、神さまのお座(すわ)りになる場所と言う意味です。サクラとは稲の霊、つまり稲の神さまのいらっしゃる所、神さまの宿られるとても神聖な木ということです。
毎年稲作りの作業が始まるのは、桃の節供、つまり旧暦の三月三日、今でいうと四月中旬の頃でした。山に桜の花が咲くのはそれよりやや早い四月初めの頃です。長い冬が終わり、いよいよ今年も稲作を始めようというとき、人々は農閑期には山に帰ると信じられていた「田の神さま」をお迎えするために山に行きました。そこで見たのが、まるでたわわに稔った稲穂のように白い花をいっぱいにつけている桜の木でした。
人々は、この桜の木にきっと稲の霊が宿っているに違いないと感じて、桜の木にお供えものをして田の神さまに豊作を祈願したのです。こうしてお花見は、稲作と切り離せない重要な行事になってきたのです。
四、お田植え
田植も大切な神事
伝統的な日本の稲作には、労働とともに神事はもちろん芸能の意味もありました。春の祈年祭(きねんさい)と秋の新嘗祭(にいなめさい)は、稲の生育祈願と収穫感謝のお祭りなのです。
お田植え祭には、二通りあります。一つ目は、年の初めに神社の拝殿などで種まきから収穫までを演じる予祝行事としての神事。もう一つは、早乙女たちが実際に田に入って田植えをする神事があります。
福島県内では、国の重要無形文化財に指定された、棚倉町八槻(やつき)の都々古別(つつこわけ)神社のお田植え祭が有名で、毎年旧正月六日に行われる稲作予祝行事です。
もう一つの、実際に田に入って行なわれるお田植え祭としては、伊勢の神宮の別宮であります「伊雑宮(いざわのみや)」で六月に行なわれるお田植え祭が有名ですが、県内では、会津美里町の伊佐須美神社田植神事が有名です。
五、虫送り
虫を送るって何のこと?
夏は稲や農作物の大事な生育期にあたり、害虫の発生や、風水害の被害にあう事も多々ありました。昔は、稲作における虫の害は深刻でした。農薬による害虫駆除が行われるようになるまでは、日本各地の農村で虫送りが盛んに行われていました。この行事の対象となる虫は「ウンカ」が圧倒的に多く、被害が大きかった西日本各地では特にさかんに行われました。時期は田植えが終わった五月土用の入りの頃、害虫が発生しやすい七月の頃などで、稲の生育の重要な時期でした。村人たちがその地域の神社などに集まり神事を行った後、松明(たいまつ)を焚(た)き、鉦(かね)を鳴らし太鼓を叩き、大声で唱えごとをしながら幟(のぼり)を立てたりお神札(ふだ)を掲げて、行列を組んで水田を巡って稲についた虫を集め、村境まで送り出しました。
農村では、害虫を鉦や太鼓などで追い払う虫送りの行事が行われ、都市部では疫病除けと悪霊退散を祈り、山車(だし)や屋台(やたい)・神輿(みこし)などが練り歩く祭りが盛大に行われ、ともに夏祭りの原形となりました。
六、お盆
お正月と対をなす日本に昔から伝わるお祭り
お盆については、多くの人が仏教の行事と考えているようですが、元来は日本固有の先祖まつりがもとになっています。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度を定めて、庶民の先祖供養まで仏式で行うよう強制したため、お盆も仏教の行事と誤解されて、現在に至っているのです。
我が国では、古くから神まつりとともに、ご先祖さまの御霊(みたま)をお祭りする先祖祭祀が行われ、神と先祖のご加護により平安な生活を過してきました。この神とは、自らとつながりのあるご先祖さまが徐々に昇華(しょうか)されて神となった場合も含んでのご存在なのです。
年中行事で、お盆とお正月が二大行事として重視されるのも、お正月が神さまを、お盆がご先祖さまをおまつりする行事として、いずれも我々と直接に命の繋(つな)がりのあるご先祖や神々をお招きするという意味を持つからなのです。
ちなみに、仏教行事のお盆は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典によるもので、仏弟子の目蓮が餓鬼道(がきどう)に落ち苦しんでいる母親を救うため、釈迦の教えで七月十五日に安居(あんご、修行)を終えた僧侶を百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)を供えて供養したところ、その功徳(くどく)により母親を含め七世の父母(七代前の先祖)までを餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものです。
仏教が伝来すると、盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が諸寺院で行われるようになり、当初は僧侶の供養が中心でしたが、その後我が国固有の先祖祭祀と結びついて、ご先祖さまをまつるお盆となりました。
現在、月遅れの八月十五日前後にお盆が行われますが、いずれにしても、日本固有の大切な「先祖まつり」であることに変わりはありません。
七、十五夜
名月 なぜ中秋なの?
一般に十五夜というのは、「中秋の名月」と呼ばれている旧暦八月十五日の月のことをさします。中秋の名月と呼ばれるのは、旧暦では七月・八月・九月を秋とし、七月を初秋、八月を中秋、九月を晩秋と呼んだことに由来します。また、この頃になると空がすみわたり、月がより美しく見え、それを眺めるのにちょうど良い時期だからなのです。
中秋の名月を鑑賞する習慣は平安時代に始まりましたが、この月見が民間に定着するにあたっては、やはりその基礎となる習俗がありました。これが初穂祭(はつほさい)、つまり秋の収穫祭であるとされます。
春から手を掛けて育てた作物が秋には実り、人々に大事な食料をもたらしてくれます。日本人はこの自然の恵みに感謝してこの時期いろいろな祭を行ないました。特にこの時期に多くお祝いされたのは里芋の収穫で、そのため、月見に里芋を供える風習ができ、この名月を「芋名月」とか「芋の子誕生」と呼ぶ地方もあります。
八、十三夜
なぜ月を見るの?
日本では旧暦八月十五日だけでなく、同じく九月十三日にも月見をする風習があります。こちらは「十三夜」、「後の名月」、「栗名月」「豆名月」とも呼ばれています。十三夜には、ススキや月見団子の他に栗や枝豆などをお供えします。南九州では、新米で搗(つ)いた餅を供えるところもあります。各地には「十五夜をしたなら、必ず十三夜もしなければいけない」という言葉が伝えられており、片方だけの月見を嫌う風習があったようです。
十五夜は畑作の祝い、十三夜は稲作の祝いと見ることができます。十三夜の風習は中国にはなく、日本固有のものです。
お月見は旧暦で行なう行事です。旧暦(太陰太陽暦)は、月の満ち欠けで日付を決めるもので、現在の太陽暦とは月・日の数え方が異なります。そのため両者の日付にずれが生じてきます。従ってお月見の日付(旧八月十五日、旧九月十三日)も年によって一定していません。
九、勤労感謝
秋祭りの本来の意義は収穫感謝
神社のお祭りは、農耕、特に稲作を中心としており、その年の豊作を神さまにお祈りする「春祭り」。せっかく育ちつつある作物が夏の病害虫や台風などの風水害に遭わないよう、悪霊の活動を鎮め、災害を除くための祭りが「夏祭り」。そして収穫を感謝し神さまに御礼を申し上げ、ともに大いに祝い楽しむのが「秋祭り」といえます。収穫の時期は地方によって違いますので、秋祭りの時期もそれぞれに行われます。
県内では、収穫に感謝する秋祭りを例大祭として盛大に行う神社が数多くあります。
十、かまくら
もともとはお祭りだったの?
雪国秋田の代表的な行事にかまくらがあります。この行事はもともと、一月十五日の歳の神(さいのかみ)の祭りに行う左義長(さぎちょう)を指していました。そのとき、物忌み(ものいみ)をするために雪室(ゆきむろ)をつくり、それをかまくらと呼びお籠(こも)りしました。やがて、雪室のみをかまくらと呼ぶようになったのです。
小正月が近づくと子供たちは高さ幅ともに二メートルほどの雪室を造り、そこの一番奥の正面に神棚を据え水神さまをまつり、甘酒やお餅をお供えし、灯明をともします。
かまくらの由来については色々ありますが。竈(かま)の形から出た説、神坐・神倉のカミクラが訛(なま)った説が有力です。
十一、お節句(せっく)
何を祝うの?何を祈るの?
稲作を中心に生活を営んできた日本人にとって、四季の移り変わりはとても大切なものでした。春に籾を蒔いてから秋の収穫を終え、新しい年を迎えるまでの季節の節目ごとに田の神さまをお迎えし農作業の無事や豊作を祈りました。それが五節句やお正月などに代表される年中行事です。私たちの祖先は、家族が毎日健康でいられることを神さまのご加護と考えてきました。そして節句には、特別なお供え物をして日頃のご加護に感謝し、これからも家族が健康でいられるよう祈りました。桃の節句に飾る雛人形や、端午の節句に立てる鯉のぼりは、そんな家族の祈りを形にしたものといえました。昔はたくさんの節句がありましたが、現代に伝わる五節句は、江戸時代に幕府がそれまでの節句をもとに公的な祝日として制定したものです。五節句には、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日のように奇数の重なる日が選ばれています。ただし一月一日(元旦)は特別な日と考え、替わりに一月七日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れています。また、これらはお正月の七草、三月の上巳(じょうし)の桃、五月の端午の菖蒲、七月の七夕の竹、そして九月の重陽の菊と、必ず季節の草や木に彩られるのが特徴となっています。
人日(じんじつ)の節句 七草粥(ななくさがゆ)
「人日の節句」は、お正月の七草粥としてよく知られていますが、一月七日に行われる七草のお祝いです。古く中国では、元日から六日までの各日に、動物をあてはめて占いを行う風習がありました。元日には鶏を、二日には戌(いぬ)を、三日には猪を、四日には羊を、五日には牛を、六日には馬をというように占っていき、それぞれの日に占いの対象となる動物を大切に扱いました。そして正月七日目に人を占うことから「人日の節句」と呼ぶようになりました。
日本には、もともとこの日に若菜を神さまにお供えし、それをいただいて豊作を祈る風習がありました。そこに、中国の「人日」に七草のお吸い物をいただいて無病を祈る風習が重なり、七草粥を食べるようになりました。七草粥には、寒い季節を乗り越えて芽を出す若菜の力強さをわけてもらいたいとの思いが込められているのです。
春の七草
芹(せり)薺(なずな)御形(ごぎょう)繁縷(はこべ(ら)仏座(ほとけのざ)菘(すずな)蘿蔔(すずしろ)
上巳(じょうし)の節句 雛(ひな)まつり
上巳の節句は、現在では雛人形を飾り、桃の花や蓬餅(よもぎもち)をお供えして、女の子の成長と健康をお祝いする「雛祭り」の行事ですが、昔、中国では三月初めの巳(み)の日を上巳(じょうし)といい、この日に川で禊をする風習がありました。日本では、田植えの前に田の神さまをお迎えするため、人の形に紙を切り抜いた「人形(ひとがた)」で体をなでて穢れを落とし、海や川に流す祓えの行事だったのです。その人形が次第に豪華になり、雛祭りが行われるようになりました。
端午(たんご)の節句 男児のまつり
端午の節句は、雛祭りが女の子の節句なのに対し、五月五日は鯉のぼりや兜を飾って男の子の成長と健康をお祝いする行事です。
このとき供えたり飾ったりする、菖蒲(しょうぶ)やヨモギやチマキは邪気を祓うといわれ、菖蒲を家の軒に差したり、風呂に入れたりして魔除けとしました。
また菖蒲は「尚武」に通じるため、鯉のぼりや武者人形を飾るようになりました。
「端午」は月初めの午の日を指し、五月に限ってはいませんでしたが、次第に五月五日を端午の節供と呼ぶようになりました。
五月は、春から夏への季節の変わり目にあたり、疲れが出たり病気になりやすい頃です。また、田植えなど一番多忙な時期に当たるため、これにそなえて十分な鋭気を養っておく必要がありました。端午の節句には、そんな時期を乗り切る知恵が盛り込まれているのです。
七夕(しちせき)の節句 たなばたまつり
七夕(しちせき)の節句は、七夕(たなばた)祭りのことです。願い事を書いた短冊を結んだ竹や笹が飾られる風景は、夏の風物詩となっています。七夕は、彦星と織姫が年に一度だけ天の川に橋をかけて会うことを許された日という星祭の伝説で親しまれています。こうした習俗は、奈良時代に中国から日本に入ってきたものです。
日本では、古来お盆に祖先の御霊(みたま)をお迎えする前に、棚機女(たなばたつめ)と呼ばれる乙女が、人里離れた水辺の機屋(はたや)に籠って神さまをおまつりし、それが終わった日に、禊(みそぎ)をする行事がありました。そこに中国から星祭と乞巧奠(きっこうでん、技能や芸能の上達願うお祭り)の風習が入ってきて、七夕という節句行事へと変化してきました。七夕の次の日に笹竹を川や海に流す「七夕流し」は、心身の穢れを流すというお祓いの意味が込められています。
重陽(ちょうよう)の節句(せっく) 菊の節句
九月九日は、五節句の最後をしめくくる重陽の節句です。この日は九という陽の数字(奇数)が重なることから、めでたい日とされました。ほかに「菊の節句」とも呼ばれ、長寿の花として大切にされてきた菊の花をお供えします。
宮中では、菊の花びらを浮かべた菊酒をいただく節会(せちえ)が開かれ、民間でも被せ綿(きせわた)といって前夜に菊に綿をかぶせ、九日の朝に露で湿ったその綿で体を拭いて長寿を願う行事が行われました。
現在、家庭で特別な行事を行っているところは少なくなりましたが、この時期になると各地で菊人形祭や菊花展が開かれます。
新暦と旧暦はどう違うの?
私たちにとって一日の変化は昼と夜の繰り返しで認識でき、ひと月の期間は月の満ち欠けによって計ることができました。一方季節の変化は太陽の角度と日照時間の変化によって知ることができました。つまり、一ヶ月は文字通り月の変化で、一年は太陽の変化で計ることができたのです。そこで月の満ち欠けを基準として作られたのが太陰暦で、太陽の一回帰を基準としたのが太陽暦です。中国では太陰暦を基本としつつも太陽の運行に合わせて季節の変化を調整する太陰太陽暦がつくられました。
我が国に暦が伝えられたのは、持統天皇四年(六九〇)で、その後平安時代の貞観(じょうがん)四年(八六二)から江戸時代までの一千年にわたり、我が国の国情を加味した宣明暦(せんみょうれき、太陰太陽暦)という暦が使われてきました。
それが今日のように変わったのは、明治五年十二月三日を明治六年一月一日とする太陽暦(グレゴリー暦)を採用したときからです。しかし、この暦の採用によって従来の季節感からいえばまだ十二月なのに正月の行事をしなければならないなど、暦日が約一ヶ月早められたため、全ての年中行事がそれまでの季節感とはかけ離れたものとなってしまいました。そこで、お盆の行事のように従来の季節感に合わせるために、旧暦で七月十五日であったのをひと月遅れの新暦八月十五日に移動して行事を行う場合もでてきたのです。お月見の項でも説明しましたが、十五夜・十三夜は旧暦で行うために現在の暦とはズレが出てくるのです。
旧暦と新暦の違いを数字にしてみると
旧暦 一ヶ月が二九、五三日 一年は三五四、三七日
新暦 一ヶ月が三〇、四三日 一年は三六五、二四日
その差 約十一日 三年で三三日
月の一年を太陽年三六五日にあわせるためには、十九年に七回同名月を加え、一年を十三ヵ月にする必要があります。この挿入月を閏月(うるうづき)といいます。二、三年毎に一年が十三ヵ月の閏年が入ります。太陰暦は、この閏月を設けることにより、太陽暦との誤差を調節しているのです。 
 
神楽考 (かぐら)

 

神楽の起源 
1 起源
神楽の語源は、「神座」が転化したとする説が一般的である。日本の古典の中で、最初に「神楽」の文字が見られるのは、「古語拾遺」(斎部広成撰、807年)で、「女君氏、神楽の事を供へまつる」と記述されている。しかし、神楽という文字をどのように発音していたかは不明とされる。
神楽とは、奏楽や歌舞により神を祀る神事芸能一般を意味するが、古い形態は、鎮魂、魂振りに伴う「神遊び」であったといわれ、「古今和歌集」(紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰、905年)巻二十に、「神遊びの歌」と標示されて、その中に、採物の歌六首、日女の歌一首、返しの歌一首と、そのほかに大嘗祭の悠紀・主紀の国の歌五首が収められているが、採物の歌と日女の歌は、平安宮廷の神楽歌と見られている。また、謡曲「三輪」(作者不明)には「先ずは岩戸の其の始め、隠れし神を出ださんとて、八百万の神遊び、是ぞ神楽の始めなる」とあり、「神遊び」は、「神楽」と同義語と思われる。
神楽は、日本の古典である古事記(太安万侶撰、712年)及び日本書紀(舎人親王撰、720年)の中で、天照大御神が天の岩屋戸に姿を隠した際、天宇受売命が、天の岩屋戸の前で神懸かりとなって、舞い踊ったとされる記事が神話的起源とされる。
この記事は、古事記上巻では、「天宇受売命、天の香山の天の日影を手次にかけて、天の真拆を鬘として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戸に宇気伏せ、踏みとどろこし、神懸かりして、胸乳をかき出で、裳緒を陰におし垂れき」と記述され、また、日本書紀巻第一では、「天鈿女命、則ち手に茅纏のを持ち、天石窟戸の前に立たして、巧に作俳優す、亦天香山の真坂樹を以て鬘にし、蘿を以て手繦にして、火処焼き、覆槽置せ、顕神明之憑談す」と記述され、両書ともほぼ同様の内容である。
2 意義
神楽は、宮廷の御神楽と民間の里神楽に大別され、里神楽は、更に巫女が舞う巫女神楽、島根県鹿島町の佐太神社の七座に代表される出雲流神楽、三重県伊勢市の伊勢神宮で行われていた湯立神楽に代表される伊勢流神楽、獅子頭を回しながら息災延命などを祈祷する獅子神楽に分類できるとされ、それぞれの地方的特色を持ちながら継承されている。
芸北地方の神楽は、佐太神社の七座に代表される出雲流神楽から分岐した「石見神楽」の流れを汲むとされ、その曲目の多くは、神話や縁起、説話を題材としたものであるが、基本的な舞殿の配置や舞法の所作、更には一部の曲目に至るまで、古代中国の陰陽五行思想の法則が体系的に取り入れられている。
陰陽五行思想とは、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のことで、自然界のありとあらゆるものは陰と陽に分かれ、更にこれらは、木、火、土、金、水の五つの要素で構成され運行しているとする考え方である。
陰陽五行思想の法則の最も顕著な特徴は、時間、空間の一致であり、最も重要な時間は「季節」で表され、また、最も重要な空間は「方位」で表される。季節は、毎年、春、夏、秋、冬と繰り返され、太陽は、毎日東から昇り西に沈む。全ての穀物は、日々の太陽の光を受けて育まれ、春から夏にかけて活動の最潮期を迎え、やがて、秋の収穫となって収束する。
陰陽五行思想の法則を神楽に取り入れた最大の目的は、一年の推移を自然に任せて放置することなく、人間の側でも、天地の安寧や季節の順調な推移を促すことにあると思われる。
個々の曲目について見れば、それぞれ狭義の意義が存在すると思われるが、神楽奉納の最大の意義は、農耕を営んできた先人達が、その土地を守護する氏神に対して、その年の新穀を感謝し、翌年の豊作を祈願することにあると思われる。
日本の伝統的な神楽の形式の一つである湯立(ゆたて)神楽は、釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を行って、一年の平穏な推移や五穀豊穣、あるいは無病息災などを祈願する神事であるが、水を容れた釜を据え、釜の下から木を燃やして火を起こし、後に木の土(灰)ができる様は、正しく、木、火、土、金、水の陰陽五行思想の法則を備えている神楽である。
神楽は、現代の演劇や歌謡とは大凡その本質を異にしており、本来、観衆に鑑賞させるものでもなければ、示威するものでもなく、純粋に氏神を祭祀する一つの手段、方法と思われる。したがって、この地方の神楽には、神事的、儀式的な曲目が数多く存在し、先人達によって、幾百年もの間伝承されてきたと思われる。 
舞殿の宇宙観 

 

神楽を奉納する「舞殿」は、陰陽五行思想の法則を体系的に取り入れ、自然界の諸現象を表現していると考えられ、舞殿の中央を中心に、東、南、西、北の方位や春、夏、秋、冬の季節を明確にし、舞殿の下部は大地を表し、上部は天空を表している。つまり、舞殿は、宇宙の森羅万象の様々な意味を組み合わせて、雄大な宇宙の秩序を再現しているものと思われる。
1 方位
古代中国の天文学では、天の北極星を中心とする部分が天の中心と考えられ、ここを「中宮」と呼んだとされる。中宮は北極星及びその周囲にある星座から成立し、北極星の神霊化が最高の天神「太一」であって、その太一の居所は北極中枢付近の最も明るい星とされる。これらの思想が、陰陽五行思想とともに日本に渡来し、神道などに取り入れられた。
神道では、神棚の位置は、家の中でも清らかな、家族がいつも居るようなところが最も相応しいとされ、北側の位置、つまり、神が南面するのが最良であるとされる。しかし、神社や舞殿は、その土地の地形や地物などの事情により、必ずしもそのように設置されるとは限らず、実際の方位とは異なる場合が多い。このため、神の位置する方角を北に仮定して、その他の東、南、西の方角を定めることとなる。つまり、後述する「天蓋」や「切り飾り」などによって、その場所を方位と正しく向き合わせることである。
このような考え方は、家を建てる際の地鎮祭にも取り入れられている。地鎮祭は、その土地の神を祀り、建築工事の安全を祈願するものであるが、その地鎮祭の後で、土地の中央及び東、南、西、北の方角に、吉方から取り寄せた黄土、青土、赤土、白土、黒土の清い土が盛られる。いわゆる陰陽道にいう「四神相応」と同様な意味が存在するものと思われる。芸北地方の古い神社の中には、拝殿内の中央に独立した4本の柱が建てられ、その内側の一段高い部分が舞殿とされる構造のものが見られるが、これは、相撲の土俵と同様な考え方である。
両国国技館に設置される土俵上部の神明造りの吊り屋根は、当初、土俵の4隅に4本の柱を建てて屋根を取り付けていたものを、昭和27年9月場所から4本の柱を取り払って、現在のような形にしたとされる。吊り屋根の4隅には青、赤、白、黒の4色の「四房」が飾られ、それぞれの色が、春、夏、秋、冬の四季と青龍神、朱雀神、白虎神、玄武神の天の四神獣を表し、五穀豊穰を祈念しているともいわれている。
2 天蓋
舞殿中央の天井には、縦横12本(地域によって相違)ずつの竹を組み合わせ、黄、緑(青の代用?)、赤、白、紫(黒の代用?)の垂を無数に垂らした、一面が一間半(地域によって相違)の枠が取り付けられる。この枠は、「雲」と呼ばれ、一般家庭で、神棚の上の天井に「天」とか、「雲」とか書いた紙を貼るのと同様な意味で、物理的に遮る何も存在しない状態の天空を意味しているものと思われる。
天井に取り付けられた雲には、中央に「六角天蓋」が、また、東、南、西、北の四方(地域によっては、南東、南西、北西、北東を加えた八方)に「小天蓋」が吊され、中央の六角天蓋には、波邇夜須毘古神(土の神)、また、東、南、西、北の四方の小天蓋には、久久能智神(木の神)、火之迦具土神(火の神)、金山毘古神(金の神)、弥都波能売神(水の神)の「古事記」に登場する五方の神が充てられている。この五方の神は、方位や季節を表すとともに、人間が生活するうえで、必要不可欠な物質の生成を意味するものと思われる。
なお、9個の天蓋が吊される意味は、陰陽五行思想の「九星」の考え方が取り入れられているものと思われ、方位は、東、西、南、北の四つの正位とその間の東南、西南、西北、東北の四隅からなり、この四正四隅に中央を加えると九方位となる。このように細分化した方位の九区画には、それぞれ一白、二黒、三碧、四緑、五黄、六白、七赤、八白、九紫の色彩名が割り当てられたが、それが「九星図」、あるいは「九気図」である。また、九星図を方形にしたものが「洛書」と呼ばれ、「5」を中心にして、縦、横、斜のどの方向から数えても総和は必ず15となる。いわゆる「魔法陣」である。「9」は、陰陽道では最も極まった数字、あるいは最大の数字で、この洛書に見られる数の配置は、天地の運行の順を示したものとされる。
3 切り飾り
「切り飾り」は、一般的には「切り紙」と呼ばれている。この切り紙は、祭祀用として発生したといわれ、正月飾りの切り紙、小正月や盆、祭礼に用いられる切り紙、神楽や延年の舞の舞殿を飾る切り紙などに大別される。切り紙の呼称は地域によって異なり、「切り飾り」「ざせち」「袴紙」「切り透かし」「きりこ」「えりもの」「垂れ紙」などと呼ばれ、白い和紙のその清浄なる美しさと祈りを込めた手技とが相まって、独特の荘厳な世界が作り出されている。
中国の切り紙は、正しく鋏で切り抜いたものが剪紙と呼ばれ、小刀などで彫り刻んだものが刻紙と呼ばれている。このほかにも撒紙(指でちぎって形にしたもの)、剪影(シルエットの形にしたもの)などがあるが、最も一般的なものは剪紙とされている。中国の剪紙も日本と同様に祭祀用として発生したとされ、その起源は紀元前に遡るといわれている。
雲から吊り下げられた天蓋枠には、中央、東、南、西、北や春、夏、秋、冬の文字を切り抜いた「切り飾り」が貼られ、また、舞殿の周囲にも、春、夏、秋、冬の文字を切り抜いた切り飾りが同様に貼られる。これは、前述したように、単に舞殿の装飾のためだけに配置されるのではなく、陰陽五行思想の法則に基づき、最も重要視される時間、空間である春、夏、秋、冬の四季や中央、東、南、西、北の方位を、文字や草花などで表し、舞殿を雄大な宇宙の秩序と合致させるための手段、方法と思われる。
なお、季節を表す切り飾りは、桜の背景に春の文字、花菖蒲の背景に夏の文字、菊や紅葉の背景に秋の文字、笹や竹の背景に冬の文字などが切り抜かれ、「東方」に春の切り飾り、「南方」に夏の切り飾り、「西方」に秋の切り飾り、「北方」に冬の切り飾りが、それぞれ配置される。 
奏楽の調べ 

 

神楽の奏楽は、通常、「大太鼓」「小太鼓」「手打鉦」「笛」の4種類の和楽器によって行われる。この奏楽には指揮者は無く、また、楽譜も存在しない。大太鼓の奏者を中心に、他の奏者は大太鼓の音と曲の流れを聞き、自分の楽器の音を確かめながら、高度に洗練された型を奏する。いわゆる「阿吽の呼吸」で奏する必要があり、平素から奏者全員の信頼関係が醸成されていることが重要である。奏楽はすべて口伝で修得され、奏者は相当な技術と努力が必要である。
なお、大太鼓の奏者は、奏楽の中心的役割だけでなく、その曲目全体を掌握して指揮する非常に重要な役割を負っており、大太鼓の奏者の技量が、その曲目全体を左右するといっても過言ではないと思われる。
1 拍子
日本古来の音楽は、「二拍子」「四拍子」が多く使われ、「三拍子」は極めて希で、一部の地方を除き、ほとんど見かけないといわれる。それは、日本人が農耕民族で、鋤や鍬で土地を耕す拍子や荷を引く拍子が、二拍子、四拍子に合致していたからであろうとする説がある。
芸北地方の神楽の奏楽も、「四拍子」を主体に、「二拍子」を巧みに組み合わせて構成されており、その拍子は、我々日本人の感覚と調和して、非常に心地よい気分にしてくれる。
2 囃子
私の地方では、春と秋の年二回、地区の氏神社において、豊作祈願や豊作感謝のための祭典が催され、祭典では、「祭典楽」(お祭りの儀式の奏楽)である「座付」「歩」「御神楽」「入申」「神饌楽」「昇殿楽」「祓式」などが奏される。囃子とは「楽」(曲)のことで、神楽囃子は、この祭典楽を原型として作られたものではないかと思われる。
神楽囃子は、曲目や場面によって、それぞれ異なったものが奏され、最も代表的なものでは、神舞の時に奏する「神囃子」や鬼舞の時に奏する「鬼囃子」があるが、地方によって、奏法、楽曲、呼称などは異なり、一様ではない。
奏楽は、大太鼓、小太鼓、手打鉦、笛の四種類の楽器によって行われるが、律を奏でることができるのは唯一「笛」のみである。中国では、約三千年前から洋楽でいう一オクターブを十二の音に区分し、それぞれ音名を決めていた。これは「十二律」と呼ばれ、円周九分、長さ九寸の管を吹いた音を標準音(黄鐘)として、それぞれの律が定められている。神楽笛は、この十二律の中から壹越(ハ長調レの音)、平調(ハ長調ミの音)、双調(ハ長調ソの音)、黄鐘(ハ長調ラの音)、神仙(ハ長調ドの音)の六つの音を選んで作られ、洋楽でいうハ長調の「ファ」と「シ」の音が無いのが特徴である。この旋律の特徴は、日本の民謡や多くの演歌にも見られる。
3 神楽歌
神楽歌とは、広くは神事や神前で奏される歌謡のことで、狭くは宮廷の御神楽に用いられる歌謡のことであるが、宮廷以外の神祭りや祭祀にも神楽が行われていることから、神楽歌は宮廷に限らない広がりを有している。一説には、御神楽も里神楽も、元は同じもので、里神楽に含まれる色々な要素を集成、整理し、宮廷向きの歌詞や曲調、構成などを加味したものが御神楽とされる。
芸北地方の神楽歌は、基本的に五七五七七の短歌形式の五句三十一音が多く用いられているが、奏楽に合わせて同一語や同一句を繰り返す部分があり、必ずしも、五句三十一音とはならない特徴が見られる。短歌は和歌の一体で、最も普通の歌体であり、起源は諸説あるが、万葉時代には既に確立し、長歌、旋頭歌などの廃れた平安時代以降は、和歌といえば「短歌」を指すに至ったとされる。
神楽歌の出所は、古事記や日本書紀、古今和歌集など、多岐にわたっており、出所不明のものも少なくない。古事記に見える須佐之男命が奇稲田比売命と新居に入られて詠まれた歌と伝えられる「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」は、日本最古の短歌といわれ、特に有名である。
4 調子
調子とは、物事が進んで行く時の進行の状態をいうが、神楽囃子における「調子」は、音、拍子、楽などの総合的な奏楽の進行の状態、つまり「旋律」のことである。
一般的に、石見神楽で、「六調子」「八調子」といわれているものは、囃子の速度や大太鼓の打数によって区別されるものではなく、旋律の基本型を示しており、前述した神舞の時に奏される「神囃子」を基本に区別されているのではないかと思われる。
神楽歌は、五七五七七の短歌形式の五句三十一音が多く用いられていることは、前述したとおりであるが、一句から三句までの十七音は上の句、四・五句の十四音は下の句といわれ、六調子は、四拍子を6回で上の句、下の句をそれぞれ謡い、八調子は、四拍子を8回で同様に上の句、下の句を、それぞれ謡うことから区別されたものと思われる。
神楽歌を謡う場合、同一語や同一句を繰り返したり、「あー」とか「うー」という音、いわゆる「揺り」を使うのは、神楽歌を「調子」に合わせるためである。
石見神楽の奏楽は、舞楽や能楽の様式にならって、楽式上の三区分である序・破・急の三段に分けられている。これは洋楽でいう第一楽章、第二楽章にあたるもので
○序=ゆったりとした軽快な流れ
○破=どっしりとした力強い流れ
○急=さっくりとした速い流れ
とされる。 
採物の神秘性 

 

日本の神社は、こんもりとした森の中に、ひっそりと鎮まっているのが一般的である。神社の「社」という文字は、元は「杜」であったといわれ、つまり、神社は「神の杜」のことである。これは、一説には木に、あるいは森に神が降りると信じた、古代日本人の自然崇拝を継承したものとされる。
日本人の心の中にある神は、形あるものではなく、目に見えないものである。いわゆる御神体といわれるものは、神そのものではなく、「御霊代」のことであって、神の「依代」(神が乗り移る物体)なのである。神楽に用いられる「採物」も同様に考えられている。
採物は手に持つから採物と呼ばれるが、一種の神座でもある。島根県の佐太神社の佐陀神能では、採物舞七番は「七座の神事」と呼ばれ、剣、茣蓙、榊、鈴などを持って舞われることで有名である。神楽では、採物舞は面を用いないのが一般的であるが、着面舞でも弓矢、茅輪、鬼棒などは採物と呼ばれる。
1 起源
「古事記」上巻の天岩屋戸の条及び「日本書紀」巻第一の神代上第七段で、天照大御神が天の岩屋戸に姿を隠した際、天の岩屋戸の前において、天宇受売命が鉾や小竹葉などを持って舞い踊ったとされる記事が採物の神話的な起源とされる。採物は、神楽をはじめとして、能楽や歌舞伎、舞踊などにも継承されている。
2 意義
採物には、本来、神の依代としての機能があり、それを手に持って舞うことにより、神力が発動すると考えられている。また、採物に降臨した神を舞人自身に取り憑かせ、神懸かりに至るための手段として用いることもある。平安時代に成立した宮廷の御神楽は、各種の歌を謡うことを主体とした神楽であるが、降神神事に関するはじめの部分では、「採物の歌」が謡われる。歌の種類は、榊、幣、杖、篠、弓、剣、鉾、杓、葛の九種類であるが、実際に採物を手に持って舞われることはなく、それぞれの「採物の歌」を謡うことが、神事の主体をなし、重要な意味をもっていると思われる。
3 種類
(1) 御幣
御幣は、幣帛(神祇に奉献する物の総称)の一種で、幣束ともいいわれる。古くは幣の意味で、幣帛と同じであったが、次第に現在のような狭い意味に用いられるようになったとされる。御幣は、竹、又は木の幣串に金銀、あるいは白色、五色などの紙を挟んだ形状のもので、古く布帛(綿麻布と絹布)を奉る場合、多くは串に挟んで奉られたが、今日のものは、その変化したものといわれている。その形状も、初めは四角形の紙を用いただけのものであったが、後に、その両端に垂を付けるようになったとされる。
元々御幣は、神祇に奉献する物であったが、社殿の奥深く立てて神霊の依り給う御正体として、あるいは神前に据える装飾として、また、参拝者に対する祓具として用いられるようになった。神楽に用いる御幣は、専ら「祓具」としての側面が強調されている。
古事記、日本書紀、古語拾遺に「幣」「神幣」「御幣」という表記が見られる。
(2) 榊
榊は、神前に供えて装飾に用いる樹木で、祭祀の際には垂の類が付けられ、玉串などとして神前に供えられる。榊は、装飾、祓具、採物として用いられるほか、社殿、玉垣などに付けて神域を示すこともある。語義としては、常に繁っていることから繁栄を象徴する栄木、神域を示すことから境木などの説がある。古事記に、天岩屋戸に隠れた天照大御神に対して行った祭りの中で、「天の香山の五百津真賢木を根こじにこじて、上枝に八尺の勾玉の五百津の御すまるの玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取りかけ、下枝に白和幣、青和幣取り垂でて」の記述が見え、また、日本書紀にも同様の記述があることなどから、榊は古くから神事に用いられていたものと思われる。
(3) 笏
笏の音はコツであるが、その字音が骨と通ずるのを忌み、シャクと呼ばれる。笏は、平安時代以降の男子の正式な朝服である束帯を着用した際に、右手に持つものであったが、現在では神職の服装の皆具(一揃えのもの)として用いられている。笏は、元は裏に儀式次第などを記述した紙片(笏紙)を貼り、備忘のために用いられたが、後には、主として容儀を整える用具となった。神楽では、笏は特別な場合を除き用いられない。
(4) 鈴
神楽では、中央に穴の開いた多くの円型の金属板に針金を通し、打ち振るわせて鳴らす輪鈴のほか、多くの金属製の中空の球の中に、小さい玉を入れて打ち振るわせて鳴らす一般的な鈴が用いられるが、いずれも一種の楽器で、奏楽を補う役目もある。鈴は呪力があるとされ、古来、神事や装身具として用いられた。島根県の加茂岩倉遺跡から多量に発見された銅鐸も鈴の一種と見られ、弥生時代に祭器として用いたと推測されている。出雲・近畿地方を中心に各地方に分布している。
(5) 扇
扇は日本で生まれ、その最も古いものが檜扇で、バラバラの薄板を糸で綴ってとじ合わせたもので、古代の木簡が元になっているといわれている。現在のような紙と竹の扇が出来たのは平安時代末期からで、この時代の扇は、骨が紙の片側に張り付けてあり、「かわほり」と呼ばれていたとされる。室町時代に入って、骨の両側に紙を貼った扇が、中国から逆輸入されるようになったのが、現在の扇の原型とされる。ただし、現在は、紙を骨の両側から貼るのではなく、骨を地紙の中に差し込む独特の技術で作られている。
扇は、竹で出来た扇骨と地紙から出来ており、計10本の骨の中で、地紙に貼り付けてある外側の2本が親骨、中の8本が中骨と呼ばれている。地紙に関わる部分には、山、谷、天、地と壮大な名称が付けられており、また、扇骨に関わる部分では、顔、肩、胴、目(要のこと)と人間の体の名称になっているのが面白い。
能楽では、通常は中啓(畳んだ状態で末が広がっている形の扇)が使用されるが、神楽では、専ら鎮扇(畳んだ状態で末がすぼめられた形の扇)が用いられ、曲目、役柄により絵柄や色調が決まっている。
(6) 弓矢
弓は、木や竹をしならせて弦を張り、その弾力を利用して、つがえた矢を飛ばす道具で、古くは狩猟用であったが、その後、武器として用いられるようになったとされる。中世には、弓矢が武士を象徴する武具であったことから、武士は、「弓取り」、あるいは「弓矢取り」と呼ばれた。弓矢は、呪具としての機能があり、正月に神社で売られる除魔開運の飾り矢である「破魔矢」は、江戸時代から明治初年にかけて、男子の初正月を祝して、破魔弓と呼ばれる二張りの飾り弓に矢を添えた祝い品を送る風習があったとされ、それが簡略化して矢だけを魔除けとして売るようになったと考えられている。今日でも、上棟祭の際、屋上に鬼門の方角に向けて、破魔矢と破魔弓を立てる風習が残る。
「はま」の語源は明らかでなく、一般的には、魔を払うから破魔矢・破魔弓であるという説があるが、古事記に、「天羽羽矢」という表記が見え、古代の蛇信仰(古語拾遺には、「古語に、大蛇を羽羽と謂う」とある)と関係は深いと思われる。
(7) 茅輪
茅輪は、茅で作った大きな輪のことであるが、神楽では、竹の輪などに多数の白一色、又は、多色の垂が取り付けられたものが用いられる。茅輪の機能については、備後風土記逸文に見える蘇民将来説話に、小さい茅輪を腰に付けて疫病除けとしたことが記述されている。茅輪が疫病を防ぐ記事であるものの、なぜ茅輪なのか定説は無く、植物を輪にした鬘に魔除けの力があるという思想と関係があるとする説、あるいは、青々とした植物の葉に再生の力があるとする説など諸説ある。
なお、茅輪は、必ずしも茅でなくてもよく、季節や環境によって、菅や稲藁が用いられたらしい。茅輪は、罪や穢、災厄を祓うとされる。
(8) 剣(鉾)
剣は、古くは「つるき」とも呼ばれ、刀身の両側に刃の付いた刀のことで、いわゆる諸刃の刀である。刀剣の総称としても用いられている。この剣に長い柄を付けたものが鉾である。古代の剣である銅剣は、細形−中細形−中広形−平形へと変化し、特に、中細形以降は大型化が加速され、実戦用の武器としての機能を失って祭器へと変化したとされる。細形銅剣の中には、高知県免田八幡宮所蔵の銅剣のように、呪術的な紋様が鋳出され、既に祭器として作られたものもあり、銅剣祭祀の起源は古くまで遡るとされている。
島根県の荒神谷遺跡から発見された358本の中細形銅剣及び前述した加茂岩倉遺跡から発見された31個の銅鐸は、他を圧倒する物量で、銅剣、銅鐸が古代祭祀の中核的な役割を果たしていたとすれば、日本神話の世界で、出雲地方が重要な位置を占めているのと無縁ではないと思われる。
(9) 鬼棒
鬼棒は、「神」が用いる剣、弓矢などの武器に対し、専ら「鬼」が用いる武器のことである。地域によっては、打ち杖、ザイなどと呼ばれている。この棒は、1メートル前後の竹又は木の棒の両端に、多色の垂が取り付けられている。私達は、通常、「鬼」と言えば、頭に角が生え、虎柄のパンツを着けて、金棒を所持した鬼を想像する。また、ただでさえ強い鬼に金棒を持たせる意味から、強い者が、更に強さを加えることを表現する諺に、「鬼に金棒」というのがある。鬼と棒は、切っても切れない関係にあるものと思われる。
岡山県には、地元ではよく知られた「温羅伝説」が伝えられている。その昔、朝鮮半島からやって来た百済の王子「温羅」、またの名を「吉備冠者」という鬼神が、山陽道を平定するために、大和朝廷から派遣された五十狭芹彦命によって退治されるという物語であるが、温羅は、古代の砂鉄資源を掌握した吉備王国の王者であったと見られている。 
神楽面の心像 

 

神楽面が、現在のような和紙の「張子面」になったのは明治の中期頃で、それ以前は、能面などと同様に木彫りの面を使用していたとされる。和紙の張子面は、木彫りの面に比較して、使用する側から見れば軽くて使い易く、一方、製作する側から見れば細工や修復がし易く、量産できるなどの利点があることから、使用され始めたのではないかと思われる。
神楽面は、神楽団にとっては衣裳などと並ぶ大事な宝物で、代々受け継がれてきた面を非常に大切にし、痛んで使用に耐えれなくなった場合には、面師に依頼して、その一部を修復するほか、型取りによる同一の複製品を製作するなどの拘りをもっている。
面といえば、「能面」は有名で、能面は、受け取る側の見方、演じる役者の技術、囃子や謡の効果、物語のイメージ、光の具合など、その時々によって笑っているようにも、また、泣いているようにも見え、時には何とも言えない色気を感じさせ、あるいはすざましい怒りや怨みの相を見せるといわれている。神楽面は、この能面を原型として作られたものではないかと思われ、神楽面も能面と同様に、通常の状態では、微笑む表情でもなく、泣く表情でもなく、あるいは怒りや怨みの表情でもなく、演ずるその時々に無限の表情を見せてくれるものが、最高の面ではないかと思われる。 
衣装の絢爛 

 

現在、芸北地方で使用している衣装は、金糸・銀糸の刺繍が随所に施され、「龍」や「鷹」「獅子」「鶴」「亀」など、いわゆる「生き物」が付いたものが多く用いられている。最近では、これらの衣裳に加え、比較的見栄えが良く、着用して軽い、金糸・銀糸を織り込んで図柄を表した「金襴」の衣装も多く用いられているが、このように、金糸・銀糸の刺繍を施した衣装が使用されはじめたのは、明治末期頃といわれ、それ以前は、木綿地に染地形の大変に質素なものであったようである。
1 刺繍
生き物の刺繍は、和紙の台紙に「龍」や「鷹」「獅子」「鶴」「亀」などの図柄を描き、その上に図柄どおりに綿を乗せて固め、金糸や銀糸で覆って製作される。この技法は、例年10月に愛媛県西条市で行われる「西条祭り」において使用される御輿、太鼓台などと呼ばれる屋台に取り付けられる幕などの製作技法を導入したともいわれ、これらの豪華・絢爛の衣装は、舞楽や能楽、歌舞伎の影響を多分に受けているものと思われる。
2 種類
(1) 狩衣
狩衣は、元は狩りなどの時に着用したことから、「狩衣」と呼ばれるようになったとされる。古代・中世には、公家の略服として常用され、その後、神官の正装として用いられた。形状は、胡服系の盤領で、脇を縫い合わせず前身頃と袖が離れて、袖には袖括りと袖露が付いている。裾を袴の外へ出して着用する。狩衣は、神楽では主として神が着用する。
(2) 水干
本来、水干は、糊を使わないで水張りにして干した布で作った狩衣の一種で、形状は、盤領の懸け合わせを組紐で結び留めるのを特色として、袖付けなどの縫い合わせ目が綻びないように、組紐で結んで菊綴とし、裾を袴の内に着込むものをいうが、芸北地方では、前述した狩衣や後述する金糸・銀糸の刺繍が施され、生き物が付けられた鬼着(四天)を含めて、「水干」と呼んでおり、木綿地の衣装を使用していた時代の名残と思われる。
(3) 千早
千早は、主として神に仕えたり、朝廷に仕える女官などが着用していた小忌衣と直垂を折衷したような衣服で、身二幅、袖一幅の白色の単衣で、打掛けの形をし、水草、蝶、鳥などの模様を山藍で擦りつけ、袖を縫わずに紙縒で括られている。神楽でも神に仕える女性などが着用する。
(4) 鎧
鎧は、着用して身体の肩、胸、胴などをを被護する武具の総称で、形状の特徴としては、表と裏を交互に編み連ねた、いわゆる鎧編みとなっており、背の部分には組紐が付けられ、胴の部分には家紋などが金糸・銀糸で刺繍されている。神楽では主として神、賊ともに合戦の時に着用する。
(5) 直垂
直垂は、垂領で衽がなく、組紐の菊綴じ、胸紐があり、袖括りを付けて袖露を垂らし、裾を袴の内に入れて着込むものをいい、元は庶民の平服であったが、鎌倉時代に武家の幕府出仕の服となり、近世は侍従以上の礼服とされた。神楽では神が主として鎧の下に着用し、「鎧直垂」、あるいは「鎧直」などと呼ばれている。
(6) 鬼着(四天)
鬼着の呼称である四天は、本来、歌舞伎の衣装の名称で、金糸・銀糸の刺繍が随所に施され、生き物が付けられたもので、広袖で裾の左右が切れ込んでおり、動きの激しい武勇を表す役などに用いられている。神楽では主として神、賊又は鬼が着用し、前述したように、芸北地方では、この鬼着も「水干」と呼んでいる。
(7) 肩切
肩切は、別名を「たまぬぎ」ともいい、肩から両袖先にかけて紐やボタンで留められた衣装で、この紐やボタンを外すと、前後の布が垂れ、金糸・銀糸の刺繍を施した裏地の部分が現れるようになっている。神楽では、曲目によっては、神、賊又は鬼ともに着用し、合戦の時に紐やボタンを外し、豪華な裏地を見せることにより場面を盛り上げている。
(8) 打掛
打掛は、他の衣類の上から打ち掛けて着ることから「打掛」と呼ばれ、近世の武家女性の礼服として着用された。舞楽の装束の一つで、長方形の錦の中にある穴に頭を入れ、胸部と背部に当てて着用する「貫頭衣」も打掛と呼ばれている。神楽では姫が着用し、狩衣や鬼着と同様に金糸・銀糸の刺繍や生き物が施されている。
(9) 大口袴
大口袴は、本来、束帯に用いる表袴の内側の袴であるが、袴の後に細い竹棒などを付けて、後部が左右に広がるようにされている。この竹棒などが付けてある理由はよく判らないが、能楽などでもこのような大口袴は用いられている。神楽では主として神、賊又は鬼が着用する。 
基本的な法則 

 

1 潮祓
神楽曲目「潮祓」は、「塩浄め」とも呼ばれ、神楽舞の初めに1人又は2人の舞人が、幣、扇の採物を持って舞う儀式舞で、古事記(太安万侶撰、712年)上巻に見える「ここを以ちて伊邪那岐大神詔りたまはく、吾はいなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。かれ、吾は御身の禊ぎせむと詔りたまいて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓いたまいき」の伊邪那岐大神の禊祓いが神話的起源とされ、舞殿を浄め、八百萬の神々を迎えるために舞われるというのが一般的である。
神社に入る際に口を濯ぎ手を洗ったり、力士が土俵で塩を撒くのも、料理屋などで入口に盛塩をするのも、全てこの禊祓いに由来するとされる。
日本では、穢れを非常に忌み嫌い、古代人は穢れを如何に浄化するか頭を悩ませ、水で祓ったり、紙などの人形に撫でつけて祓うなど、穢れを浄める方法を様々に考案した。神楽においては、陰陽五行思想の法則を使って、「潮祓」という言葉で舞殿を浄化するための方法が考えられた。
(1) 禊祓い
神道においては、何よりもまず「清浄」を尊ぶとされ、穢れがある状態で神迎えをしても、神はその不浄を嫌って祭りは成立しないとされる。したがって、神を祀るにあたっては、穢れを浄化するための「禊祓い」を行って浄めることが必要なのである。
禊祓いは、穢れや災い、凶事を取り除き、浄き正しい状態、つまり本来あるべき姿に戻すことで、穢れや災い、凶事を排除し、浄き正しい状態に復元することとされている。ここにいう「排除」とは、絶対的な排除を意味するのではなく、穢れとなって現れる過剰した自然に対し浄化の力を施して、元のバランスのとれた状態に戻す作用であると考えられている。
「浄め」とは、神道にとってとりわけ大きな意味を持つ「浄化」に係わる重要な宗教的な働きを指す言葉で、「浄め」ることは単に穢れの反対の状態をさす言葉ではなく、浄化のプロセスそのものを指しているとされる。
(2) 天地開闢説と浄め
神道にいう「浄め」ないしは「清浄」とは、天地開闢説との係わりで理解しなければならないとされる。天地が開闢するとは、それまでの虚無の中から有が生まれることである。万物の根元となるものが生成してしまえば、それは現実の世界となってしまうけれど、この虚無の中から正に物質が生じようとする有でも無でもない瞬間そのものが「浄め」られた清浄な状態とされる。
注解天地開闢とは、「陰陽五行思想」によれば、原初、宇宙は天地未分化の混沌たる状態であったが、この「混沌」の中から光明に満ちた軽い澄んだ気、つまり「陽」の気がまず上昇して「天」となり、次に重く濁った気、すなわち「陰」の気が下降して「地」になったとされ、日本の古典である「日本書紀」(舎人親王撰、720年)巻第一の神代上にも「古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、溟Aにして牙を含めり。其れ清陽なるものは、薄靡きて天と為り、重く濁れるものは、淹滞ゐて地と為るに及びて」と引用されている。
(3) 所作の類似性
潮祓は、大きくは二段から構成され、その所作はすべての舞の基本の型とされている。右図は、一段の所作を簡単に図示したものであるが、中央を拝み、円を描くように順の方向へ進み、折り返して中央を拝み、逆の方向へ円を描くように祓いながら進み、元の位置から定められた方角へ進んで拝み、元の位置へ後退した後は、更に前へ進みながら祓いの所作を行って、舞人自身が回転しながら、逆、順の方向へと進む。これらの所作は、東・南・西・北方とそれぞれ方角を変えて行われ、「四方参殿」と呼ばれている。
最後は、中央を拝み、中央を対角線に進み、折り返して中央を拝み、更に中央を対角線に進んだ後は、舞人自身が回転しながら逆、順の方向へ進む所作が行われる。この対角線に横切る所作は、「切り参殿」と呼ばれている。なお、参殿とは宮殿に参拝するという意味である。
二段の所作も一段の所作とほぼ同様であるが、相違しているのは、逆の方向へ祓いながら進んだ後の所作が、中央への拝みとなっている。この所作は、「膝付き参殿」と呼ばれている。
これらの所作は、一段の所作と同様に東・南・西・北方とそれぞれ方角を変えて行われる。
一段、二段の東・南・西・北方を重視する一連の所作は、「四方立て」などと呼ばれ、また中央を加えて「五方立て」などと呼ばれる。
陰陽五行思想によれば、原初唯一絶対の存在を混沌とし、陰陽の二気がそこから派生し、その二気のうち陽気は上昇し天となり、陰気は下降して地になり、その原理は、次の二種に大別することができるとされる。
○陰陽二気は互いに相反する本質を持つ
○陰陽二気は限りなく細分化する傾向を持つ
前者は、陰陽が元来同根故に互いに往来し、交合交感するものであるが、この二気が相交わり、相和する所以は、同根ということのみにあるのではなく、その真の縁由はこの二気の本質が全く相反するところにある。この相反する本質のうち、特に著しいのは、「陽は進み、陰は退く」ということである。この相反する本質が、本当の和をもたらす、換言すれば、陽は進み、陰は退く故によりよく調和するのであって、均衡が保たれるのである。
後者は、陰陽の二気は細分化する傾向を持ち、限りなく分化して森羅万象の中に顕現し、有形無形を問わず、万物万象の中に存在する。例えば、季節という無形の時間も、まず陰陽の二気に分けられ、冬至から夏至に至る時間は陽、夏至から冬至に至る時間は陰となり、この陰陽が更に細分化されて、木、火、土、金、水の五元素によって象徴されることとなれば、春、夏、秋、冬及び各季節の終わりに置かれる土用となるのである。
注解陰陽の二気は、元来、混沌という一気から派生したもので、いわば同根の間柄である。そこで陰陽の二気は、お互いに引き合い、親密に往来し、交感・交合する。つまり天と地、あるいは陰と陽はお互いに全く相反する本質を持つが、元来が同根であるから、お互いに往来すべきものである。更に、本質を異にする故に、反ってお互いに牽きあって、交感・交合するものである。例えば、光と影、昼と夜、男性と女性といった具合である。
陰陽の二大元気の交合の結果、木、火、土、金、水の五元素、あるいは五気が生じ、この五元素の輪廻・作用が「五行」である。五行の「五」は、木、火、土、金、水の五元素、あるいは五気を指し、「行」は動くこと、廻ること、作用を意味する。例えば、一日の朝、昼、夕、夜も、一年の春、夏、秋、冬の推移も、全てこの五行である。
この五行には、「相生」と「相剋」の二つの法則が考えられた。相生は、木は火を生じ、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生じるという順序で、木、火、土、金、水の五気が順送りに相手を生み出して行くプラスの関係である。これは、簡単に、「木生火」「火生土」「土生金」「金生水」「水生木」で表現される。
このような相生の循環の考え方の基礎は
○木生火〜木と木の摩擦によって発生する火
○火生土〜物の燃焼によって生成する灰、すなわち土
○土生金〜地中において組成される鉱物
○金生水〜空気中の湿度が高いとき、金属の表面に付着する水滴
○水生木〜水に含まれる養分を吸収し生育する植物
である。
相生が順送りに相手を生じてゆくのに対し、相剋は反対に、木、火、土、金、水の五気が順送りに相手を剋してゆくことである。相剋は、木気は土気を剋し、土気は水気を剋し、水気は火気を剋し、火気は金気を剋し、金気は木気を剋するというマイナスの関係である。この様相は、「木剋土」「土剋水」「水剋火」「火剋金」「金剋木」と表現される。
これは、相生と同じく
○木剋土〜植物は根を地中に張って土を酷使
○土剋水〜土石は水をせき止め、あるいは流れを変更
○水剋火〜火を消す最良の手段は水
○火剋金〜金属は高温の火で溶解
○金剋木〜木は金属で出来た斧、鋸で伐採
という単純な考え方である。
2 四神
神楽曲目「四神」は、別名で「剣舞」「笠の舞」とも、あるいは「笠の手」とも呼ばれ、青色、赤色、白色、黒色をした狩衣をそれぞれ着用した4人の舞人が、幣頭(小さな幣)、輪鈴、扇の採物を持って、順、逆、拝、祓、踏の所作で舞われる儀式舞である。
曲目全体は、三段から構成されており、一段は、4人の舞人が幣頭と輪鈴を持って、奏楽と神楽歌に合わせて順、祓、拝の所作で舞われる。二段は、4人の舞人が東・南・西・北方に着座したまま、大太鼓の奏楽と「雨」の神楽歌に合わせて、拝の所作で舞われる。三段は、4人の舞人が輪鈴、扇を持って、奏楽と神楽歌に合わせて順、逆、踏の所作で舞われる。最後のクライマックスであるいわゆる「八つ花」といわれる場面では、4人の舞人が一定の規則に従って順、逆、斜と、それぞれ交差する組み手で締め括られる。
神楽曲目「四神」は、古くから最も重要とされる曲目の一つとして継承されてきた。これは、1年の推移を自然に任せて放置することなく、人間の側でも陰陽五行思想の法則を使って、天地の安寧や季節の順調な推移を促し、穀物の豊穣などを期待するために必要不可欠な儀式舞であったからと思われる。時間、空間を色彩で具現化し、森羅万象の在り方まで説く古代中国の陰陽五行思想は、日本文化のあらゆる分野に影響を及ぼしながら今日まで至っている。陰陽五行思想が、如何なる経緯をもって神楽に取り入れられたのか判然としないが、何れにしても先人は、陰陽五行思想の意味を十分理解して取り入れたものと思われる。
(1) 四神の語源
神楽曲目「四神」は、「ヨジン」と呼ばれているが、陰陽五行思想から発展した「二十八宿」の「四神」(ししん)と同義語ではないかと推察する。
時間、空間の一致は、陰陽五行思想における最も顕著な特徴であり、四神(ししん)は、四方・四季を司る神で、まさに時間、空間の一致を象徴する神の姿であると思われる。人間生活の基盤としての時間の中で、最も重要な時間は「年」であり、日本人が如何に年を重要視したかは、この年がそのまま「年穀」「年得」と同義語であることからも伺われる。穀物は、春から夏にかけて活動の最潮期を迎え、やがて秋の収穫となって収束する。この四季の推移が年であり、順調であることが人間生活にとっては必須条件なのである。
なお、神楽曲目「四神」が、別名で「剣舞」と呼ばれる理由として、「反閇」(へんばい)が訛ったとする説が存在するが、陰陽道で用いられる呪術的歩行である「反閇」の型が、この曲目の所作の中に取り入れられていることによるものと思われる。また、別名で「笠の舞」、あるいは「笠の手」と呼ばれる理由は、二段の所作で、幣頭を笠に見立てて、大太鼓の奏楽と雨の神楽歌に合わせて舞われることから、穀物の成長にに影響を及ぼす「祈雨」「止雨」の意味があるものと思われる。
注解四神(四禽)は、東、南、西、北の四方を司る天の四神とされる。黄道(太陽の運行する経路)に沿って天球を28に区分し、星宿の所在を明確にした二十八宿に基づくもので、各宿にはそれぞれ規準の星(距星)があるが、各宿の間隔は等分ではなく、太陰(月)が凡そ1日に1宿づつ宿るところとされ、二十八宿のうち、東方七宿・春を司る神は「青龍」又は「蒼龍」で龍の姿、南方七宿・夏を司る神は「朱雀」で鳥の姿、西方七宿・秋を司る神は「白虎」で虎の姿、北方七宿・冬を司る神は「玄武」で亀の姿でそれぞれ表現され、各神には青(蒼)、赤(朱)、白(素)、黒(玄)の四色が配当されている。
なお、この四神に、中央に位置する「黄龍」を加えて、「五神」と呼ばれている。黄龍に関して、中国の神話伝説の書「述異記」(祖沖之撰、429〜500年)には、「蝮が五百年間泥水に育つと蛟龍(雨龍)になり、蛟が千年経ると龍になり、龍が五百年経て角龍になり、更に千年経つと応龍になるといわれ、この年老いた龍は黄龍と呼ばれる」とある。すなわち黄龍は、森羅万象の一切を守護するものとして神格化された龍と思われる。
(2) 所作の類似性
右図は、四神の一段の所作を簡単に図示したものであるが、4人の舞人は矢印の方向へ祓、拝の所作を行った後、順の方向へ四方を一巡する。一巡後は、更に、次の方角の位置へ移動し、同一の所作が繰り返される。
陰陽五行思想における時間、空間の一致は、最も顕著な特徴であることは前述したとおりであるが、時間、空間を象徴する季節、方位は、すなわち春、夏、秋、冬の四季と何れの季節にも含まれない土用及び東、南、西、北の四方と中央で、青、赤、白、黒、黄の色彩で表現される。この5種の色彩は、究極的には季節、方位に限らず、存在するすべてのものに及ぶとされ、時間、空間を統合し、宇宙そのものを表現するとされる。
一段の所作は、四方、中央が重視されており、これらに対する祈りの所作と考えられ、天地の安寧や季節の順調な推移への祈願を意味しているものと思われる。祈願は、天地の安寧や四季の順調な推移であり、ひいては年穀の実りである。
右図は、四神の二段の所作を簡単に図示したものであるが、4人の舞人は矢印の方向へ祓の所作を行った後は着座したまま、拝の所作で、大太鼓の奏楽に合わせて雨の神楽歌(津の国の和田の岬に時雨来て、笠持ちながら濡るるよしもがな。空晴れて雲の景色は良けれども、紫雲が西に棚引く。もし降らばお宿頼むよ三笠山。雨漏らさじの柏木の森。実に漏らさじの柏木の森)が謡われる。
日本においては、神話時代から水を神聖視し、弥都波能売神、闇淤加美神という神々を、水を用いるそれぞれの生活の場で信仰してきた。6世紀には中国から仏教が伝来し、龍神や龍王の名に取り替えられたが、雨乞いやその他諸々の災厄除けの祭礼行事となって今に残るものも多い。
二段の所作は、水神、雨神としての黄龍に対する祈雨であり、ひいては穀物豊穣の祈願を意味しているものと思われる。
右図は、四神の三段の所作を簡単に図示したものであるが、4人の舞人は矢印の方向へ踏の所作を行った後、順の方向へ四方を一巡する。一巡後は逆の方向へ四方を一巡して、更に、次の方角の位置へ移動し、同一の所作が繰り返される。最後の「八つ花」では、4人の舞人が一定の規則に従って、順、逆、斜とそれぞれ交差する所作が行われる。
陰陽五行思想は、森羅万象を陰陽の二元の対立において把握するが、森羅万象の把握はもちろんそれだけでは不完全である。森羅万象は対立すると同時に循環するものである。この循環は、交感・交合及び相生・相剋という法則に基づくもので、森羅万象の循環は、プラスの面のみを強調して活動し続ければ必ず破局を迎える。一方に必ずマイナスの面が必要とされる。
この二面があってこそ、森羅万象は初めて穏当な循環が得られ、永遠性が保証される。すなわち、前述した天地の安寧や季節の順調な推移、雨の恵みは、人間生活にとってその時々の一時的なものではなく、永久的に保証される必要があるのである。
注解陰陽五行思想の法則の木、火、土、金、水は、お互いに相生・相剋して輪廻するが、同時に、この木、火、土、金、水は、五元素としてあるばかりでなく、宇宙の万象、つまり色彩、方位、季節、天神、十干、十二支、人間精神、惑星、内蔵、徳目等を象徴するものである。
これらの一部を示したのが、次表の五行配当である。
五行 五色 五方 五時 五神 十干 十二支 五事 五星 五臓 五常
木  青  東  春  青龍 甲乙 寅卯  貌  木星 肝  仁
火  赤  南  夏  朱雀 丙丁 巳午  視  火星 心  礼
土  黄  中央 土用 黄龍 戉己 辰未戌丑思  土星 脾  信
金  白  西  秋  白虎 庚辛 申酉  言  金星 肺  義
水  黒  北  冬  玄武 壬癸 亥子  聴  水星 腎  智

この表を横に読むことによって、色彩、方位、季節などが木、火、土、金、水の五気に配当されていることが判り、また、縦に読むことによって、気を同じくするものはお互いに象徴関係にあることが判る。
なお、太陽、月及び木星、火星、土星、金星、水星の五惑星は、古代、当時の人が知り得る動く星であり、それが陰陽五行思想と上手に合致した。
色彩は、五行配当の中で極めて重要で、ここに選ばれた五色は、赤、青、黄の三原色に全反射と全吸収の白と黒を加えたもので、いわば色の基本である。
五行に配当されたこの五色は、現在でも社寺の大祭や落慶式に、この五色の幟のはためく様が見られるが、それは単なる装飾ではなく、五色の幟によって象徴されるものは、究極的には宇宙の万象を象徴することになる。
五行と五色の関係は、非常に感覚的なもであり、次のとおり把握すれば非常に判り易い。
○木・青〜木の葉の色は青色
○火・赤〜火の色は当然に赤色
○土・黄〜土の色は黄色
○金・白〜金(鉄)の色は白色
○水・黒〜水は暗(黒)い低処に集積
中国哲学において、時間・空間の一致は顕著な特質であるが、それを最もよく示しているのは、古代中国における1年12か月の星座、気候と、その月々に行うべき行事の記録である「禮記」(周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を戴聖(たいせい)が編纂したもの)の月令中の「天子は・・・青衣を衣、倉玉を服し・・・立春の日、天子親ら三公、九卿、諸侯、大夫を帥い、以って春を東郊に迎え・・・天子は・・・朱衣を衣、赤玉を服し・・・立夏の日、天子親ら三公、九卿、大夫を帥い、以って夏を南郊に迎え・・・天子は・・・白衣を衣、白玉を服し・・・立秋の日、天子親ら三公、九卿、諸侯、大夫を帥い、以って秋を西郊に迎え・・・天子は・・・黒衣を衣、玄玉を服し・・・立冬の日、天子親ら三公、九卿、大夫を帥い、以って冬を北郊に迎え・・・」という記事である。
中国哲学は、季節の順調な循環を重視する。それによって天下太平、民生安定の一切が期待されるからである。季節の順調な循環を促す有効的手段は、この目に見えない季節というものを、まず彼らの法則に従って色彩、方位に還元することであった。色彩と季節、色彩と方位の関係がいかに濃厚であるかは、次のとおり四季の名称及び方位の神の四神に、すべて色彩名が冠せられていることからも判る。
○春〜青陽(初春)
○夏〜朱夏(朱は赤色の意)
○秋〜素秋(素は白色の意)
○冬〜玄冬(玄は黒色の意)
○東〜青龍(又は蒼龍)
○南〜朱雀(朱は赤色の意)
○西〜白虎
○北〜玄武(玄は黒色の意)
陰陽五行思想において、色彩は五元素そのものを象徴すると同時に、更に進んで目に見えない時間・空間を具現化して、人間生活万般の規範となり、これを規制し、四季の順調な循環の祈願に際しては、無二の扶翼者となっているのである。
五方は、陰陽五行思想が発祥した中国大陸を中心に、東、南、西、北という文字の解字を理解すれば納得できる。中央に位置する黄土に覆われた広大な大地を中心として
○東〜地平線に隠れた太陽(解字は底のない袋に物を入れ両端をくくった形)
○南〜簡単に作られた家でも十分生活できる温暖地方(解字はテントの形)
○西〜白い雪を頂いた山脈(解字は酒を絞る駕篭の形)
○北〜寒冷地方への反発(解字は二人の人が背を向け合って相反している形)
となる。
(3) 四神と反閇
「反閇」(へんばい)という聞き慣れない言葉は、陰陽道で用いられる呪術的歩行のことで、道教にその淵源を発しているとされる。道教では「兎歩」(うほ)という北斗七星の形や八卦の意味を込めた歩行法があり、これによって、安全の保障などを得ることができるとされている。
この兎歩が陰陽道に取り入れられて反閇と呼ばれ、地霊や邪気を祓い鎮め、その場の気を整えて清浄にする目的で行われるとされる。狭義には、秘術を唱えながら、独特な足捌きで力強く足踏みをし、これによって悪星を踏み破って吉意を呼び込むというもので、陰陽道独特の星辰信仰の上に立脚した呪術的歩行とされる。反閇は、神楽や能楽などに取り入れられて、相撲で踏まれる「四股」もその延長線上にあるとされ、その歩行法はそれぞれ多様に展開している。
右図は、神楽舞「四神」の第三段の「踏」という所作の足捌きを、簡単に図示したものであるが、北斗七星の配置と比較して見ると、その足捌きは、まさに反閇の原点である北斗七星の形を踏んでいることが良く判る。
陰陽五行思想の法則が、神楽曲目「四神」に取り入れられていることは前述したとおりであるが、陰陽道の反閇も、また、災厄や疫病などを排除して、生活の安寧を希求するために取り入れられたものと思われる。
注解反閇という歩行法の元となった兎歩の起源は明らかではないが、その歩行が足の不自由な者の跛行(足を引きずる歩き方)に似ていることから、古代中国の伝説上の聖王・兎王の跛行の姿を、兎王の巫術を受け継いだ後代の巫覡(神に仕えて人の吉凶を予言する者)が模倣したのがその起源であると、「荀子」(中国戦国時代の思想書、全二十巻、荀子著、成立年代未詳)などにあるとされる。
伝説によると、兎王は、中国最初の世襲王朝「夏」の創始者で、功ならずして死に至った父・鯀の後を次いで治水事業に全力を傾注し、山河を巡りながら遂に全土を治めることに成功した。寝食を忘れて治水事業に奔走した兎王は、やがて過労によって下半身が不自由となり、足を引きずるような独特な歩き方をするようになってしまった。一説には、兎王の巡った名山は5,370山、その行程は64,056里にも及んだとされる。
兎歩は、巫覡によって模倣されて呪術的所作へと発展し、道教の祭祀に用いられる呪術法となり、その後、反閇として陰陽道に取り入れられた。理由は明らかではないが、一般的に、道教の兎歩が、鬼神を召し出して使役するための歩行法であるのに対して、陰陽道の反閇は、地霊や邪気を祓い鎮めるための歩行法で、その考え方に相違が見られるが、いずれも、最終的に期待される目標に大きな相違はないとされる。
兎歩は、一般的には足を3回運んで一歩とし、合計9回の足捌きとなる。これを道教では「三歩九跡法」と呼ばれる。なぜ九跡を踏むかというと、北斗七星の数を踏む(踏斗)ためと、道教では説明している。北斗七星そのものは七星だが、道教や陰陽道では、弼星(ひつせい)と輔星(ほせい)という二つの星を加えて九星とするとされ、道教を受容した陰陽道では、この三歩九跡は「九星反閇」と呼ばれる。
兎歩には、前述した「三歩九跡法」のほか、「十二跡兎歩法」「三五跡兎歩法」「天地交泰兎歩法」「交乾兎歩法」など様々な法があり、用途に応じて使い分けられるとされる。どれも共通していることは、三・七・九などの天空の北斗七星や日月の運行、易の八卦などと関わり深い歩順で行われることなどである。
反閇が成立したのは、安倍晴明が活躍した十世紀後半で、以後、様々な陰陽道祭祀に取り込まれたとされ、確実に反閇が行われた陰陽道祭には、玄宮北極祭、三公五帝祭、呪詛返却祭、荒神祓、六道霊気祭があるとされる。また、反閇は、天皇や皇族らが自分の本来の居住場所(大内、内裏)から出て、別の殿舎や寺社などに行く場合にも、陰陽師よって奉仕されたとされる。
安倍晴明自身が反閇を行ったとされる記録も残されているとされ、例えば、長徳3年には、母の病気を見舞う一条天皇のためにこれを行い、寛弘2年には、大原野社に参詣する中宮の彰子のために反閇を行ったとされる。
3 五郎王子
「五郎王子」は、東、南、西、北及び中央の方角に、太郎、次郎、三郎、四郎、五郎の兄弟王子をそれぞれ配置し、春、夏、秋、冬及び土用の五季を領地に見立て、領地争いを神楽化したもので、最終的には、惶根尊の調停により、春、夏、秋、冬及び土用の領地を等分に所有するという能舞である。
この五郎王子は、地域によっては「五龍王」「五神」とも呼ばれ、王子の名は、青・赤・白・黒・黄龍王や春青・夏赤・秋白・黒冬・埴安大王などとされ、また惶根尊は、塩土老翁、お爺などに置き換えられている。
広島県中部の山間部では、「五行祭」(通称「王子神楽」)が執り行われているが、「五郎王子」と内容をほぼ同一とする神楽で、延々七時間にもわたって舞われる。この神楽は、語りを主、舞を従とするいわゆる祭文を語る形式が採られている。また広島県西部の沿岸部では、「十二神祇神楽」が執り行われ、この神楽も「五郎王子」と内容をほぼ同一とする神楽で、その内容を分割し、各曲目として舞われる。
この曲目は、陰陽五行思想の法則を基軸として、神道の精神、仏教の哲理、儒教の道徳などを挿入して創作されているが、その主体は、穀物豊穣の祈願にあると思われる。穀物豊穣は民生保障の基本であり、ひいては国家の安寧・秩序の基本である。その穀物豊穣は、偏に四季の順調な推移によって可能であり、それによって初めて期待されるのである。
この穀物豊穣の基本的な条件である四季の推移とその順調な循環を司るものが「土用」であり、この曲目に登場する末子五郎王子の領域なのである。
(1) 各王子の支配関係
各王子(龍王、大王)に割り当てられている色彩、方位、領域、境界などを整理したのが次表で、古代中国の陰陽五行思想の五行配当に対応していることが判る。
王子 色彩 方位 領域  境界   所在  支配
太郎 青  東  春   寅卯   甲乙  木
次郎 赤  南  夏   巳牛   丙丁  火
三郎 白  西  秋   申酉   庚辛  金
四郎 黒  北  冬   亥子   壬癸  水
五郎 黄  中央 土用  丑辰未戌 戉己  土

(2) 1年の構造
「暦」の語源は「日読み」(かよみ)、つまり日を数えることだといわれている。人間が自然の中で生活を営んでいくために暦はなくてはならないもので、とりわけ農耕民族にとっては、いつ田畑を耕し、種を蒔き、採り入れをするのかといった作業は、毎年繰り返されるものであり、1年の構造を知ることは特に重要である。
五郎王子における1年の構造は右図のとおりで、太郎、次郎、三郎、四郎の各王子に四季、十二支がそれぞれ割り当てられている。各月はそれぞれ30日間、1年は360日間である。それでは、五郎王子の領域は何処なのかと言うと、五郎王子の領域は、春、夏、秋、冬の各季節の終わりの「18日間」を占めている。その五郎王子に割り当てられている領域が「土用」であって、十二支でいえば丑、辰、未、戌の中にある。季節の終わりの18日間だから、これを総計すれば72日間、つまり春、夏、秋、冬の各3か月、90日間から18日間ずつが五郎王子に割譲され、各王子がそれぞれ72日間を支配する形となる。
五郎王子には、他の王子に見られるような独自の領域はない。しかし、五郎王子の領域は広く四季にまたがり、いわば四季を支配している形であり、四季の中で最も特異な領域を支配し、他の4兄弟王子に冠たる存在となっているのである。
五郎王子における1年の構造は旧暦を基本としたものであるが、実際の旧暦とは異なる。今日、旧暦と言われる暦は通常太陰太陽暦を指し、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)を組み合わせて作られた暦法で、春、夏、秋、冬の四季の一巡を知るには太陽の運行に基づくしかないが、一方、日々の移り変わりを知るには月の変化を見るのが一番よいとされる。月は、新月、上弦、望、下弦、晦という変化を見せて一巡し、その周期は、平均29.53日(29日12時間43分)で、12か月は354日と約3分の1日になる。これを1太陽年と比較すると約11日短い。と言うことは、例えば正月の1日は、毎年11日ずつ早く巡ってくるので、3年後には約1か月の誤差が生じる。このため、閏月で太陽の運行との調整が図られている。
注解陰陽五行思想の法則の五時は、1年を3か月ごとに分けた春、夏、秋、冬の四季と各季節の終わりの18日間の土用を五行に配当したもので、旧暦1、2、3月が春、旧暦4、5、6月が夏、旧暦7、8、9月が秋、旧暦10、11、12月が冬で、立春、立夏、立秋、立冬はそれぞれの季節の最初の月で、春分、夏至、秋分、冬至はそれぞれの季節の真ん中の月となる。
原初、唯一絶対の存在は、「混沌」で、これを「易」では「太極」(原子)とするが、この太極から派生するのが根源の「陰陽」二気である。この二気から、木、火、土、金、水の五気が生じるが、この五気は、更に「兄弟」の陰陽に分かれる。これが「十干」で、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戉(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)は、つまり木(き)の兄(え)、木(き)の弟(と)、火(ひ)の兄(え)、火(ひ)の弟(と)、土(つち)の兄(え)、土(つち)の弟(と)、金(か)の兄(え)、金(か)の弟(と)、水(みず)の兄(え)、水(みず)の弟(と)ということになる。
十干に組み合わされるものが「十二支」で、十二支は、最も尊貴とされる木星の運行によっている。木星の運行は12年(厳密には11.86年)で天を一周する。つまり木星は、1年に12区画の中の1区画ずつを移行し、その所在は十二次によって示される。
木星は、太陽や月とは逆に西から東に向かって移動するので、木星の反映というべき仮の星を設け、これを時計と同じように東から西へ移動させることにした。この想像の星は神霊化されて「太歳(たいさい)」の名称で呼ばれるが、この太歳の居処に付けた名が、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)である。
なお、十二支は、年だけでなく、月にも日にも時刻にも方位にも配当される。
(3) 五郎王子の重要性
五郎王子の領域は、前述したように春、夏、秋、冬の各季節の終わりに訪れる「土用」である。
春、夏、秋、冬の各季節の転換は、瞬時に移行するものではなく、各季節の終わりに訪れる土用の作用によって行われるのである。季春、辰月の中の土用によって春は消滅し、夏が生成される。季夏、未月の中の土用によって夏は覆され、秋を迎える。季秋、戌月の中の土用によって秋は終わり、冬が来る。季冬、丑月の中の土用によって冬は閉ざされ、春が訪れる。
陰陽五行思想において、「土気」は、一方において万物を土に還す死滅作用と、同時に他方においては、万物を育み育てる育成作用の二種類の働きある。つまり、土気は、陰の作用と陽の作用を合わせ持っているのである。陰陽五行思想は、森羅万象を陰陽の二元の対立において把握するが、森羅万象の把握はもちろんそれだけでは不完全である。森羅万象は対立すると同時に循環するものである。森羅万象の循環は、プラスの面のみを強調して活動し続ければ必ず破局を迎える。
一方に必ずマイナスの面が必要とされる。この二面があってこそ、森羅万象は初めて穏当な循環が得られ、永遠性が保証されるのである。そこで1年の推移においても、各季節の中間におかれた土用は、過ぎ去るべき季節を殺し、来るべき季節を育成する。いわば土用の効用はこの強力な転換作用にある。死すべき季節を殺し、生まれるべき季節を育む。それによって1年は順調に推移するのである。
五郎王子の領域である各季節の終わりに訪れる土用は、各季節の中央に一つにまとめ、円の中心にで置くこともでき、各季節の中央・中枢にある土用は、五季の中央・中枢であって、季節の転換の主宰者は、この土用なのである。土用が季節の順調な循環を司り、四季の王とされるのは、このような理由によるものである。
注解この曲目で、調停役として登場する「惶根尊(かしこねのみこと)」は、古代中国の陰陽五行思想を基に日本で発展した古代天文術と易及び五行論を核とする「陰陽道」を巧みに使い、完璧といえる程までに、見事にその調停役を努めている。
ところで、惶根尊とは如何なる人物なのか。詞章ではその出自を「某は、四天高天原におきて惶根尊にて、………」とのみしか明らかにしていない。四天高天原とは、四時の天(蒼天・春、昊天・夏、旻天・秋、上天・冬)を支配し、天つ神が住んでいたという天上界とされている。
カシコネノミコトは、古事記では、「妹阿夜訶志古泥神(いもあやかしこねのかみ)」と記され、国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている脂(あぶら)のような状態で、水母(くらげ)のように漂っている時に産まれた宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立神(あまのとこたちのかみ)の後、国之常立神(くにのとこたちのかみ)が産まれてから10番目に産まれたとされ、於母陀流神(おもだるのかみ)と合わせて神世七代のうちの一代とされている。
一方、日本書紀では、「惶根尊(かしこねのみこと)」と記され、天が先ず出来上がって後れて大地が定まった時、最初に産まれた国常立尊(くにとこたちのみこと)の後、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)が産まれてから5番目に産まれ、面足尊(おもだるのみこと)と二神一対とされ、またの名を吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)、忌橿城尊(いむかしきのみこと)、青橿城尊(あおかしきのみこと)とされている。
神名の語源は、「あやに畏(かしこ)し」の意とされ、非常に徳が高く尊貴な神とされているが、一説には、古事記の阿夜訶志古泥と日本書紀の吾屋惶根は同じで、「ネ」は女性を示す接尾語、「ア・ヤ」は共に感動詞で、男神から、あなたは美しいと言われて、それに返事をする投間詞として挿入されたものであろうとする説がある。また、古事記の妹阿夜訶志古泥の「妹」は、結婚の相手となる女性をいうとされる説がある。
地域によっては、惶根尊が直接所領分けを行わず、「塩土老翁(しおつちのおじ)」などが、神の詔を伝える形で所領分けを行う。塩土老翁は、古事記には「塩椎神(しおつちのかみ)」、日本書紀には「塩土老翁(しおつちのおじ)」「塩筒老翁(しおつつのおじ)」と記され、「塩」は「潮」のことで、潮流を司る神、海路の神、航海の神などといわれ、いずれにしても海に関係した神である。
塩土老翁は、日本書紀の中で、「火照命(ほでりのみこと)」(海幸彦)と「火遠命(ほおりのみこと)」(山幸彦)という兄弟の神の物語に登場する。この物語は、古事記にも記されており有名な神話である。火照命は海の獲物を捕る神で、火遠理命は山の獲物を捕る神であった。兄弟は互いに釣針と弓矢を一時交換したが、獲物が得られず、再び元に戻すことになった。しかし、弟の火遠理命は、兄の釣針を無くしてしまった。代用の釣針を用意したが、兄は受けつけず、元の釣針を返すよう弟を責めた。弟が困り果てて海辺に立っていると塩土老翁が現れ、火遠理命が訳を話すと、塩土老翁は海神・綿津見神(わたつみのかみ)の宮殿へ行く方法を教え導いた。結局、無事に釣針を探すことができた。
この神話にも見られるように、塩土老翁は、日本書紀、古事記には、経験と知識が豊かで、教え導く神として記されている。本居宣長は、その古事記伝で、すべてものをよく知る人という呼称で、名の意味は「知識大都知(しりおおつち)」と解釈している。
(4) 五郎王子の原典「盤牛説話」
盤牛説話(ばんこせつわ)とは、天地が開闢したときに出現した盤牛大王が、その子供である5人の龍王に、春、夏、秋、冬の四季と四季の終わりに訪れる土用を、それぞれ所領として譲り渡すという物語で、この物語の原典は、平安時代中期の陰陽師「安倍晴明」の著に仮託される「内伝(ほきないでん)」(「三国相伝陰陽轄内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」)巻二にあるとされる。
日本に広く分布する「五龍王」「五神」「五行」「王子」「五郎王子」などと呼ばれる里神楽の曲目は、この物語に由来するとされ、中世の山伏修験者などの組織によって広く流布したと考えられている。
ア 盤牛説話と陰陽五行思想
この説話の基礎は、中国の神話伝説の書「述異記」(祖沖之撰、429〜500年)の「盤古(ばんこ)」にあるとされる。盤古とは、太古の昔、初めて世界に出現した天地開闢の神のことで、世界が混沌として靄(もや)のような状態のとき、その中に眠っていた盤古が目をさまして手足を伸ばしたので、重いものは下に降り、軽いものは上に昇って天地ができた。盤古は、毎日天地とともに成長し続け、天地がもはや広がらなくなり、大巨人となったときに遂に死んだ。盤古が死ぬと、両眼は太陽と月、手足と体は山、肉は土、髪の毛や髭は星、体毛は草木、歯や骨は金属や石、骨髄は珠玉などになったとする神話である。
しかし、大王が、五方の宮の采女(うねめ)を妻として五龍王を生み、それぞれの龍王に四季と土用を譲り渡すという盤牛説話は、この盤古神話では説明がつかない。古代中国の陰陽五行思想は、6世紀頃には既に日本へ伝播していたと考えられており、その後の日本文化に大きな影響を及ぼしたことについては論を待たないところで、盤牛説話の根底には、青、赤、白、黒、黄の5種の色彩やバランス感覚を重視する陰陽五行思想観念が存在しているものと思われる。陰陽五行思想における5種の色彩は、方位や季節などを表し、究極的には宇宙のすべてのものに及ぶとされ、これらはすべて均衡が保たれていることが重要なのである。
盤牛説話をもう少し詳しく説明すると、天に容貌(かおかたち)がなく、地にも形像(すがたかたち)がなく、鶏卵(たまご)のように丸く実体がなかったある時、天地が開闢したがその広大さは想像することもできないほどであった。その原初の世界に盤牛大王が出現した。その身の丈の大いなることは、十六万八千由膳那(ゆぜんな)であった。盤牛大王は、その円(まる)い頭を天となし、方形の足を地とした。また、そそり立つ胸を猛火とし、蕩々(とうとう)たる腹を四海となした。この世界の中で盤牛大王の体から生じたものでないものは、何一つとしてなかった。大王の左の眼は日光、右の眼は月光となった。その瞼が開くと世界は丹に染め明け、瞼を閉じると黄昏となった。大王が息を吹き出すと世界は暑(なつ)となり、吸うと寒(ふゆ)となった。吹き出す息は風雲となり、その吐き出す声は雷霆(らいてい)となった。大王が上の世界におられるとき、大梵天王(だいぼんてんおう)とお呼びし、下の世界に鎮座するときは堅牢地神(けんろうじじん)と申し上げる。また、この神が迹不生(じゃくふしょう)であることをもって盤牛大王と名付け、本不生(ほんぶしょう)であることをもって大日如来と称するのである。その本体は龍であり、盤牛大王は、その龍形を広大無辺の地に潜ませている。四時の風に従って、地に伏した龍体の姿は千変万化する。左に現れて青龍の川となって流れ、右に現れて白虎の園を領す。前に現れて朱雀の池に満々たる水をたたえ、後ろに現れて玄武の山々を築いてそびえ立つ。また、盤牛大王は、東西南北と中央の五方に五つの宮を構え、八方に八つの閣(かく)を開いた。そうして、五宮の采女(うねめ)を等しく妻としてこれを愛しみ、五帝龍王の子をもうけた。第一の妻伊采女(いさいじょ)は青帝青龍王を生んだ。青龍王に春の72日を支配せしめ、青龍王は金貴女(きんきじょ)を妻として10人の王子を生み出した。これがいわゆる十干である。第二の妻陽専女(ようせんじょ)は赤帝赤龍王を生んだ。
赤龍王に夏の72日を支配せしめ、赤龍王は昇炎女(しょうえんじょ)を妻として12人の王子を生み出した。これがいわゆる十二支である。第三の妻福采女(ふくさいじょ)は白帝白龍王を生んだ。白龍王に秋の72日を支配せしめ、白龍王は色姓女(しきせいじょ)を妻として12人の王子を生み出した。これがいわゆる十二直である。第四の妻葵采女(きさいじょ)は黒帝黒龍王を生んだ。黒龍王に冬の72日を支配せしめ、黒龍王は上吉女(じょうきちじょ)を妻として9人の王子を生み出した。これがいわゆる九図(きゅうず)である。第五の妻金吉女(きんきつじょ)は黄帝黄龍王を生んだ。黄龍王に四季の土用の72日を支配せしめ、黄龍王は堅牢大神(けんろうだいじん)を妻として48人の王子を生み出したとあり、陰陽五行思想によく対応していることが判る。
イ 内伝の別本
ところで、「五龍王」などと呼称される里神楽の曲目は、この盤牛説話とは少し趣を異にしている。苅屋形神楽団の神楽詞章書から、「五郎王子」の曲目を簡単に紹介すると、この世に初めて出現した神・国常立尊(くにのとこたちのみこと)は、存命中、その子供である太郎、次郎、三郎、四郎の4人の王子に対し、春、夏、秋、冬の季節を領地として分け与えた。
国常立尊の死後、5人目の王子・五郎が誕生した。成長した五郎は、4人の兄王子に対し、自分も国常立尊の子供なので領地を分け与えるように訴えた。しかし、4人の王子は、1年は春、夏、秋、冬の四節のみであり、五郎は弟ではなく分け与える領地はないと言って断った。5人の王子が領地をめぐって合戦に至ったとき、惶根尊が現れて仲裁に入り、5人の王子に血合わせを勧めた。その結果、太郎は青、次郎は赤、三郎は白、四郎は黒、五郎は黄の血を出した。父国常立尊は、五行を司り、頭の血の色は青、右手の血の色は赤、左手の血の色は白、足の血の色は黒、内臓の血の色は黄であるから、5人の王子は兄弟に間違いないとする惶根尊の調停により、4人の兄王子は、各季節の90日から土用の18日ずつ、合わせて72日を五郎に分け与えたとする内容である。
これは、内伝には別本がいくつか存在するとされ、別本の内容が創作して取り入れられたものと思われる。別本の一つを簡単に紹介すると、盤牛大王は星宮と和合して、木、火、金、水及び春、夏、秋、冬を司る青龍王、赤龍王、白龍王、黒龍王の四大龍王をもうけたが、それはいずれも男子であった。そこで、どうしても女子が欲しいと念じて種々の占いを行い、星宮と交わったところ、10か月にして満足できる女子を得た。彼女は天門玉女(てんもんぎょくおんな)と名付けられたが、この天門玉女こそ黄帝黄龍王で、彼女と堅牢大地神王(けんろうだいちじんおう)との間に生まれたのが、48人の王子であった。これらの48人の王子には、自分達が支配する四季、定住する領土というものがなかった。そのため、自分達の支配領域を求めて、四大龍王に謀反を企て、両者は17日間の合戦を行った。そこで、諸神が集まり協議して、四季のうちから18日ずつを48王子の母である黄帝黄龍王に分け与えようということに決めた。こうして、四季の土用、合わせて72日が定まったとするものである。
「五龍王」などと呼称される里神楽の曲目は、地域によって登場人物の呼称や内容に多少の相違が見られるが、その基本となる曲目の組み立て方はほぼ同様であり、また上記苅屋形神楽団の神楽詞章書にも見られるように、盤牛説話とは少し趣を異にしているが、その原典こそ、内伝(ほきないでん)の盤牛説話にあるものと思われる。
なお、中国の山西省曲沃県任庄村の正月に演じられる民族芸能の扇鼓儺戯の中に、「五龍王」などと呼称される里神楽の曲目と内容を同じくする曲目があり、中国からの直接的な影響があったとする説も存在するが定かではない。
ウ 陰陽道の聖典「内伝」
陰陽道の聖典とされる内伝の構成は、序では本書の成立の由来、一巻では牛頭天王(ごずてんのう)の縁起と諸方位神の吉凶、二巻・三巻では盤牛大王縁起及びその子である各龍王などの解説、方位・方角の吉凶や納音、空亡などの陰陽道占術の諸理論、四巻では風水、建築の吉凶など、五巻では宿曜(すくよう)占星術が語られている。内伝の注釈書である「抄(ほきしょう)」によれば、この「内伝」は、大唐の伯道(はくどう)上人が文殊菩薩(もんじゅぼさつ)から授けられたものとされ、更に、これを遣唐使・吉備真備が日本に持ち帰り安倍晴明に伝えたとされるが、吉備真備と安倍晴明の生年は実際には、二百年以上の隔たりがあり、この話は伝説とされるのが一般的である。 
創造の神達 

 

異界の大鬼神・塵輪
神楽の曲目「塵輪」は、日本の正史といわれる古事記や日本書紀には見あたらず、その出典は「八幡宮縁起」や「八幡宮童訓」とされている。この塵輪は、地域によっては「塵倫」及び「人倫」「人林」などの漢字が充てられ、磐戸、八岐大蛇、鍾馗などと並ぶ石見神楽で最も代表的な曲目の一つで、内容は、神が塵輪という鬼を征伐するという単純明快な内容であるが、鬼の所作は、勇壮にして重厚な中に、空を飛行する所作や激しく回転する所作など、極めて独特な所作がいくつか見られ、この鬼の不透明性、神秘性をより一層高めている。過去、塵輪という鬼については、諸氏によって「ツングース系民族・女真軍の大将説」「熊襲と提携した新羅軍の司令官説」など様々に考察されているが、八幡宮縁起の記述や神楽の詞章の内容、地域の言い伝えなどを考察するに、身体に翼があって天空を自由に飛ぶことができる「塵輪」の正体とは、例年、秋に日本列島へ来襲する「台風」そのもの指摘し、この物語は、台風の襲来によって惹起される穀物被害などの様々な災害発生を描写しているのではないかと思われる。古代の人々にとって、猛威を振るう台風の存在は計り知れない脅威で、八幡宮縁起の作者は、台風の襲来を鬼神の仕業として取り扱ったものと思われる。
1 物語の概要
物語は、第14代仲哀天皇の時代に、異国から身体に翼があり、雲に乗って霞に隠れ、自由に空を飛行することができる塵輪という大将軍が、数万の軍勢を率いて我が国に攻めて来て、多くの人民を殺すことが甚だしい。天皇は、このような状態を放置しておけば、人民が非常に嘆き悲しむことは勿論のこと、自分自身の身にも危険が及ぶおそれがあるので、家来の高丸、助丸に命じて警戒の任務に当たらせた。数日後、高丸から塵輪が攻めて来た旨の報告を受けた天皇は、自ら弓矢を持って立ち向かい、遂に、この塵輪という大将軍を退治したとするものである。
篠原実氏は、この物語は八幡宮縁起(那賀郡雲城村八幡宮所蔵)から採ったもので、その縁起に「仲哀天皇の御宇に当りて、新羅国より数万の軍兵せめ来たりて、日本を討ちとらんとす。是により天皇みづから五万余人の官軍を相したがへ、長門の国豊浦の宮にして異国の凶賊を禦がしめ玉ふ。この時、異国より塵輪といふふしぎのもの、色はあかく、頭八ありてかたち鬼神のごとくなるが、黒雲に乗て日本に来り、人民をとりころすこと数を知らず。天皇、安倍高丸、同助丸に仰て、惣門をかためさせ、塵輪来らば、いそぎ奏すべし。人民の身にてたやすく打事あるべからず。我十善の身を以て彼のもの誅伏せしめんと玉ふ。則かの二人弓剣を帯して、門の左右を守護しけるに、第六日にあたりて、塵輪黒雲に乗じて出来る。高丸、竹内大臣を以て此れよしを奏しけるに、天皇御弓を取矢をはげて塵輪を射させ給へば、塵輪が頭たちまちに射きられて、頭と身と二つになりて落ぬ。かかる処に何にかしたりけん、流矢来りて玉体につつがあり」と記述されており、文句まで同じ箇所が見られるとしている。
2 仲哀天皇の事績
古事記、日本書紀における仲哀天皇の事績は、神功皇后の三韓征伐に至るまでの前編的な記述が大半を占め、直接、塵輪に関連すると思われる事績は見受けられない。敢えて挙げれば、八幡宮縁起で、天皇が塵輪という鬼を征伐したとする舞台である「長門国豊浦宮」が、古事記、日本書紀では、天皇が政治を執り行った宮殿の一つとして記述されているに過ぎない。
日本書記によると、天皇は皇后と共に角賀(敦賀)に行幸啓し、笥飯宮におられたが、その後、皇后を笥飯宮に残して紀伊国(和歌山)に至り、徳勒津宮に移られた。その時、九州の熊襲が叛き反抗するので、天皇は、熊襲国を征伐するため、更に、そこを出発して海路で穴門(長門)に至り、豊浦宮に移られた。かねて皇后にも連絡されていたので、皇后は角賀を出発して豊浦宮に着かれた。
天皇皇后は、そこから筑紫(九州)の橿日宮に移られ、熊襲征伐について協議された。時に皇后が神懸かりとなり、「熊襲は空しき国、海の向こうの新羅国を討つべし」と託宣があった。しかし、天皇は、「見渡せば海ばかりで国はなし、何れの神が自分を欺くのか」と言って、これを疑い決行せず、その後、熊襲を征伐して還幸された。その直後、俄に天皇は病気となり崩御されたとある。また、一書では、熊襲を征伐した際、賊の矢に当たって崩御されたとある。
古事記の内容も、概ね日本書紀と同様で、これらの事績は多分に伝説的であるが、全てを否定することも出来ない。歴史学的に事実か否かその真偽の程を確かめるすべはないが、この時代に何か九州地方で重大な事態が発生したとも考えられる。
3 考察上の要点
神楽の曲目「塵輪」が、前述したとおり八幡宮縁起から採られたものと仮定して、その記述されている内容などから、塵輪を考察する上での要点を簡単に整理すれば
○場所長門国豊浦宮
○神第14代仲哀天皇
○鬼塵輪(色は赤く、頭が八つ、形は鬼神、異国から黒雲に乗って日本に来た、人民を取り殺す)
○武器弓矢
となるであろうか。鬼自体については、「異国より塵輪と言う不思議の者云々」と、その呼称や姿態、様子が具体的に記述されており、考察する上で、特に重要な要点となり得る。また、神楽の詞章には、身に翼があり、雲に乗って霞に隠れ、自由に飛行することが出来る旨の内容が見られ、更に、地域の言い伝えでは、この鬼は女性ともいわれ、非常に特徴を持った鬼であることが判る。
4 台風との酷似
台風は、北緯5度から20度の太平洋上に発生して、アジア大陸、フィリピン、日本列島などに襲来する最大風速毎秒17.2メートル以上の熱帯低気圧で、直径数百メートルから千キロメートルほどの渦を巻き、風は中心に向かって反時計回りに吹き込む。その多くは、7月から10月頃にかけて日本列島、特に九州・中国地方に上陸し、暴風雨を伴い、往々にして海難や風水害をもたらす。古くは暴風の意味で「野分」とも呼ばれ、二百十日・二百二十日前後に吹く強い風で、秋を象徴するものとされている。
鬼の呼称である塵輪の「塵」という漢字は、土埃、チリ、ゴミ、煩わしいと言う意味で、「輪」という漢字は、輪状のもの、回転するもの、回ること、巡ることを意味し、正に塵輪は、土埃やチリ、ゴミなどが輪状に回転する「台風」そのものを想像させる呼び方である。
八幡宮縁起によれば、塵輪は色が赤く、頭が八つで形は鬼神のようで、黒雲に乗って日本に来て、人民を取り殺すことが甚だしいとされている。「色は赤く」とは、陰陽五行思想から発展した季節を表す語に「朱夏」があるが、この朱夏は夏の異称で色は赤とされ、ここにいう赤色とは、夏の季節そのものを意味していると思われる。また、「頭が八つ」とは、頭はそれ自体を象徴する語で、八という数字は、大きな、巨大な、多くの、沢山のとする意味にしばしば用いられ、ここにいう八つとは、巨大な、あるいは多くのものという意味と思われる。更に、「形は鬼神」とは、他界からこの世を訪れて、災厄若しくは祝福をもたらし、恐るべき霊威を持つ、異形の超自然的な能力を有する存在を示し、この部分の記述は、秋の季節を待たずして季節外れの夏に襲来した、巨大なあるいは多くの「台風」を指し示しているのではないかと思われる。ここに色彩や大きさなどが特に記述された理由は、通常とは全く違った特異な状態の台風であったため、敢えて特筆すべき必要があったと思われる。
「異国から黒雲に乗って云々」とは、神楽の詞章とほぼ同様の内容で、考察するまでもなく、台風の現象を想像すれば、誰でもが納得することができる。
なお、ここに記述されている「人民を取り殺す」とは、直接的な人的被害ばかりではなく、間接的な穀物被害なども暗示しているものと思われる。
古事記、日本書紀によれば、仲哀天皇は、長門の豊浦宮及び筑紫の橿日宮で政治を行ったとされ、歴代天皇の中で、九州・中国地方に宮を置いて政治を行ったとする天皇は、仲哀天皇以外には見当たらず、特別な存在である。前述したように、台風の多くは、7月から10月頃にかけて日本列島、特に九州・中国地方に上陸し、暴風雨により災害の発生をもたらす。仲哀天皇が政治を行ったとする場所が、多くの台風が上陸する場所と正確に合致するのは偶然の一致などではなく、八幡宮縁起の内容をそれらしく見せかけるために、敢えて作者が、古事記・日本書紀の中から、この物語を創作するのに都合の良い仲哀紀の記事を引用したのではないかと思われる。
八幡宮縁起によれば、天皇は、弓矢をもって塵輪を退治したとされる。古事記の神武天皇の皇后出自の説明で、容姿麗美な勢夜陀多良比売を見た三輪山の大物主神が丹塗り矢と化し、比売が大便をする時に溝を流れ下って陰部を突く。比売が矢を持ち帰って床の辺に置いたところ、矢はたちまち麗しい男となって比売を妻にしたとする「丹塗り矢神話」にも見られるように、特に「矢」は、古代においては神が寄りつく神聖な物、あるいは神の化身と捉えられた。この記述は、台風の勢力の衰退、台風の発生の極端な減少、あるいは台風の進路の変更などが神威によるものと考えられて、神が寄り付く神聖なもの、あるいは神の化身としての弓矢の神威が讃えられる内容となったものと思われる。
地域の言い伝えでは、塵輪は女性の鬼ともいわれ、その面も他の鬼面と比較して一際大きく鬼女の面である。過去には、女性を象徴する言葉として「ヒステリック」という語が使われていたが、ヒステリックとは、病的な興奮状態を示し、感情を統御できず、激しく泣いたり怒ったりする状態一般をいうとされ、暴風雨を伴い荒れ狂いながら縦横無尽に移動する台風の状態と非常によく似ている。余談であるが、大西洋西部・カリブ海・メキシコ湾や北太平洋東部で発生する熱帯低気圧のハリケーンに、女性の名が付けられるとされるのも、このような理由によるものと思われる。
穀物は、春から夏にかけて活動の最潮期を迎え、やがて秋の収穫となって収束する。古代の人々は、人智の及ばない天象、気象、地象といった自然現象を、ある時は神の為せる業とし、また、ある時は鬼の為せる業として崇め畏れ、穀物が最も活動の最潮期を迎える夏に襲来し、穀物に甚大な被害をもたらす台風の存在を鬼神の仕業と捉え、神に穀物の豊穣を祈願し、神の威徳によって台風を鎮めるしか為すすべがなかったのである。
現在の神道の祭りや儀式は、農耕文化を抜きにしては語れないといわれ、神楽にあっても、突き詰めれば究極的には、その曲目の殆どが例外ではないと思われる。
5 万物を殺伐する大将軍
大将軍は、一般的には征討軍の三軍を統率する総大将、あるいは軍兵を統率する大将を意味する呼び方であるが、他方、陰陽道の暦では、「暦の初めは八将神」という言葉あるように、運勢暦の巻頭に見られ、年々によって各方位の吉凶を司るとされる「八将神」(別名:八将軍・八大方位神)の中の一神の呼称でもある。
陰陽五行思想から発展した陰陽道は、日本の歴史や文化に深い関わりを持ち、国家の大事や個人の命運まで左右してきたとされる。その中核をなすのは呪術と占術で、それらは膨大な体系から成り立ち、多様に展開している。
大将軍は、これらのうちの暦術に基づき、方角によって吉凶を予測・判断するために設けられた方位神で、この神は金曜星の精とされ、別名を魔王天王、あるいは方伯神ともいい、万物を殺伐する凶神とされる。
大将軍は、除疫神として京都祇園社(八坂神社)に祀られ、頭上に牛の頭を持ち憤怒相で表される牛頭天王(須佐之男命と習合)が、櫛稲田比売と結婚して生んだ八王子であるとも、頗梨采女の生んだ子供であるともいわれる八将神の第2番目に位置し、殺伐の気が強烈な大凶神で、この神が所在する方位は万事に凶とされる。
暦や方位に関する占いの諸説を集成した江戸時代の「万暦大成」には、「この方位に向かって柱を立てたり、築地石をついたり、棟上げや家の造作、移従、井戸掘り、嫁取りなど、よろずのことを行ってはならない」と記すとされる。
大将軍の方位は、その年々の十二支によって
○冬・北・水・亥子丑年-西方に所在
○春・東・木・寅卯辰年-北方に所在
○夏・南・火・巳午未年-東方に所在
○秋・西・金・申酉戌年-南方に所在
のように変わり、3年間同一方位に止まって動かないので、「3年塞がり」と称されて万事に忌まれたとされる。ただし、これでは大変な不便を強いられるため、次のように大将軍の遊行日を定めて、大将軍が留守の日に限っては災難がないという日が設けられている。
○春・甲子〜戌辰までの5日間-東方に遊行
○夏・丙子〜庚辰までの5日間-南方に遊行
○秋・庚子〜甲辰までの5日間-西方に遊行
○冬・壬子〜丙辰までの5日間-北方に遊行
○土用・戌子〜壬辰までの5日間-中央(家内)に遊行
八将神の中でも、この大将軍の方位は最も恐れられ、平安時代には、桓武天皇の平安京遷都の始め、京都の北は大徳寺門前、南は藤森社内、東は南禅寺前、西は紙屋川東の四方に、大将軍が祀られたとされる。これは、大将軍の災厄から王城を鎮護することを目的とした結界の意味があるものと考えられる。現在の大将軍社のそのほとんどは、須佐之男命を祭神として祀っているとされる。これは、その神性が大将軍と似通っていること、更には、その荒ぶる性格が逆に災厄を祓ってくれる強くて逞しい神として信仰されたことによるものと思われる。
「内伝」(三国相伝陰陽轄内伝金烏玉兎集)巻一の大将軍の説明の中に、「第二は大将軍、名は魔王天王。本地は他化自在天。この神の方位に向かって行うことは万事に凶。ゆえに世間では、この方位を『三年塞』と呼ぶ」とあり、大将軍は、神楽の曲目「八幡」の中で、八幡大神に神通の弓と方便の矢をもって退治される天道(界)の最上層に存在する「第六天悪魔王」と同一神としても見られている。
大将軍は、神楽の曲目「塵輪」の中にも見える。「おお我は是、日の本征伐の大将軍、塵輪とは我が事なり」と名乗る悪鬼・塵輪は、穀物に甚大な被害をもたらす「台風」そのものを指摘していると考察したところであるが、この「大将軍」とは、異界からこの世を訪れて、恐るべき霊威によって災厄もたらし、万物を殺伐する凶神の意味が含まれているものと思われる。
広島県西部の沿岸部に継承されている「十二神祇神楽」の中に「将軍」(別名:死に入り)という曲目が見られ、この曲目は、烏帽子、鉢巻、直垂、鎧、手覆、袴、足袋、草履姿の舞人が、弊、鈴、刀、弓を採物として舞いながら最後に失神状態となって、これを太夫が祈祷によって蘇生させるといった内容で、この間に「託宣」を得るというものである。この曲目も、運勢暦の「大将軍」に関連しているものと思われ、「毒を以て毒を制す」の諺どおり、悪を排除するため、他の悪を利用する一つの手段、方法と思われる。
原始の神・尊神
芸北地方の一部地域には、「尊神」という曲目があり、必ず「潮祓」の次に奉納することとされてる。この尊神は、最初は強い調子の奏楽によって鬼棒を持って荒々しく舞い、途中からは軽快な調子の奏楽によって鬼棒を御幣と扇に持ち替えて優雅に舞う神の一人舞である。この曲目に登場する神は、「言葉を発することができない神」と古くから伝わっているが、その出所、由来に関しては全く不明であり、非常に謎めいた曲目で、何らかの理由により意図的にその実体が隠蔽された可能性も考えられる。
1 大元信仰と蛇神
大元信仰は、島根県石見地方及び広島県芸北地方の一部地域に継承されている信仰で、「藁蛇」(藁で作った蛇型)を主体とし、式年祭には、託太夫がこの藁蛇に寄りかかり、神懸かり状態で託宣を賜るというものである。これら一連の神事は「託舞」と呼ばれ、その他の祭事を総称して「大元神楽」と呼ばれている。
藁蛇は、大元神の鎮座地から祭場へと運ばれ、一連の祭事が終了すると神木に巻き付けられ役目が終了する。これらから推察するに、大元信仰は、蛇を「地霊」(大地に宿るとされる霊的な存在のことで、万物を育み恵みを与える一方、地震や風水害などの災厄をもたらすと言われている)の象徴として表現し、「大元神」として祀る民俗信仰と思われる。
蛇に関する説話は、日本をはじめとして世界各地に分布しているといわれ、世界の民族は、この神秘的な生物である「蛇」を全く無視することはできなっかた。蛇は、その神秘的な生体が故に信仰の対象となり、他方では恐怖の対象となったと考えられる。
宗教学者ミルチャ・エリアーデ氏は、その著「永遠回帰の神話」の中で、蛇をめぐる宇宙観を体系づけ、「蛇は『混沌』」であり、形無きものを象徴し、蛇を統御することは、形無きものから形有るものへと転移する創造の技である。形有るものとは『秩序』である。すなわち、混沌を自然とし蛇の世界であるとすれば、秩序は文化であり、人間の世界である」としている。まさに、この概念こそが、蛇を地霊の象徴とする大元信仰の根底にあるものと思われる。
日本における蛇信仰は、原始の信仰であるといわれ、他者と同化することによって、水神、雷神、火神、竜神、風神、木神、山神、地神、野神、荒神、氏神などへと転化したものと考えられる。
2 正史にみる蛇信仰の痕跡
古事記、日本書紀は、帝紀や旧辞を軸として諸種の資料を幅広く集めて編集された官撰による日本の古代を語る、いわゆる正史といわれるものであるが、これらは朝廷に都合良く書き改められていることは明瞭である。このことは、古事記の序部分にも見られるように、「これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して偽を削り、実を定めて、後葉に流へむと欲ふ」とする文面からも十分に推察されるところである。
古代、先住民族が絶対神として崇拝していた「蛇神」は、その後侵入してきた朝廷に受け入れられることはなく、正史から抹消されるという運命をたどらざるを得なかったのと思われる。しかし、朝廷は、古来、絶対神として崇拝されてきた蛇神を全て無視することも、神を蛇以外のものに仮託することもできなかったと見え、その痕跡は、古事記、日本書記の中に、次のとおり垣間見ることができる。
(1) 素戔嗚尊の八岐大蛇退治
日本書紀及び古事記に、素戔嗚尊は、八岐大蛇を退治し、その尾から出た太刀を「天叢雲剣」と名付けて、天照大御神へ献上したとある。蛇神を崇拝する民族の製鉄技術によって作られた剣の献上を示唆している。
(2) 天つ神の子の表物
日本書紀に、長髄彦は、神武天皇の東征に際し、饒速日命が天つ神の子のである表物として「天羽羽矢」と歩靫を見せたとある。饒速日命が、蛇神を崇拝する民族であることの証明を示唆している。古語拾遺(斎部広成撰、808年)には、「古語に、大蛇を羽羽と謂う」とある。
(3) 三輪山の大物主神
日本書紀に、小子部は、雄略天皇の三諸岳の神の姿を見たいから捕らえて来るようにとの命令に従って、三諸岳に登り「大蛇」を捕らえて来て見せたとある。国つ神である大物主神が「蛇神」そのものであることを示唆している。三諸岳とは奈良県桜井市の三輪山のことで、古事記によれば、三輪山の祭神は大物主神とされている。この三輪山の神が蛇神ではないかと推察される部分は他にもあり、日本書紀神代の八段、古事記・日本書紀初代神武天皇の段、古事記・日本書紀第十代崇神天皇の段にも見られる。
3 蛇神を崇拝する先住民族
日本書紀には「一書に曰はく、大国主神、亦の名を大物主神、亦は国作大己貴命と号す。亦は葦原醜男と曰す。亦は八千戈神と曰す。亦は大国玉神と曰す。亦は顕国玉神と曰す」とあって、大国主神は七つの名を持っている。
また、古事記にも「大国主神。亦の名は大穴牟遅神と謂ひ、亦の名は葦原色許男神と謂ひ、亦の名は八千矛神と謂ひ、亦の名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名あり」とある。これら七つの名あるいは五つの名は、同一神の異名であるとするには無理があり、それぞれの名は、各地に分散して定住した同一信仰形態を有する先住民族の領袖の名ではないかと思われる。
古事記の出雲の段には、海を照らして来た神の物語があり、その神が大国主神に、自分を大和の青々と取り囲んでいる山々の、その東の山の上に祀れば、一緒に国作りを完成させようと言って告げ、これが御諸山の上に鎮座する神であるとある。
前述したように、御諸山の神は大物主神であり蛇神である。このことからも、蛇神を崇拝する民族が、海の彼方からやって来て、それぞれ定住したことが推察される。
4 尊神の秘密
さて、本題の「尊神」であるが、前段で長々と「蛇神」について記述してきたのは、それなりに理由があり、「尊神」は、蛇神である「大元神」と同一神であると考えているからである。
伊勢神宮の外宮の祭神は豊受大神であるが、外宮は、雄略天皇の時代に天照大御神の御饌都神(食物を司る神)として、豊受大神を丹波国より迎えて創祀されたといわれている。室町時代に、吉田兼倶が、伊勢神道の教理体系を基調として唱道し、明治維新に至るまで陰陽道宗家や各神道流派、仏教界にまで影響与えたといわれる「吉田神道」には、最高神として「大元尊神」が据えられ、古事記、日本書紀の初めに見える天御中主神、国常立神は、豊受大神の別称であり、大元尊神と同一神であるとされている。
豊受大神は、豊かな食物を司る女神で、古事記に見える「豊宇気毘売神」、「登由気神」、丹後国風土記逸文に見える「豊宇賀能売命」、摂津国風土記逸文に見える「止与宇可乃売神」、陸奥国風土記逸文に見える「豊岡姫命」は、いずれも豊受大神と同一神とされ、また延喜式の大殿祝の祝詞の中に「屋船豊宇気姫命」を注して「是は稲の霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻といふ。今の世、産屋に辟木、束稲を戸の辺に置き、また米を屋中に散らすの類なり」とあり、特に稲の豊穣に関わる神とされる。
宇賀能美多麻は、古事記では「宇迦之御魂神」、日本書紀では「倉稲魂命」と記述され、ウカノミタマと言うのは「稲魂」(穀霊)そのものの名であるとされる。この「ウカ」の語源は、南方祖語の「ウガル」(蛇)の転訛と言われ、蛇に稲の神、田の神、倉の神などの神格が付与された所以は、蛇を野鼠の天敵として尊重し、稲田や穀倉の守護神として信仰されたことによるものと考えられる。
吉田兼倶によって唱道され、室町時代後期以降、近世に至るまで神祇界の中心的役割を担った吉田神道は、宗源専旨・神道裁許状を発行して神位・神号の授与権及び祠官の補佐権を独占し、全国へ普及を図り、更に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に近づき、地位の向上に努め、近世に入ると「諸社禰宜神主法度」(1665年)の中に、吉田家の神社支配が認められたことにより、その地位を盤石なものにしたとされる。
吉田神道では、「大元」とは「おおもと」、すなわち原始の意味であり、外宮の神である豊受大神は最初に生まれた神、すなわち「大元神」(おおもとがみ)であり、万神に先駆けて生まれた最高神であるとしている。伊勢神道の教理体系を確立した度会氏及び吉田兼倶は、豊受大神が如何なる神かを承知していたと見え、朝廷の強大な圧力によって、その実体を巧妙に隠蔽したものと思われる。
蛇を「地霊」の象徴として祀る大元信仰の神を「大元神」(おおもとがみ)と呼称しており、この大元神の実体は、伊勢神道、吉田神道にいう古事記、日本書紀の記述に迎合されている「大元尊神」(たいげんそんじん)と同一神であると思われる。また神楽の曲目の「尊神」も、「大元尊神」、「大元神」と同一神であると思われ、本項の冒頭で記述した、この曲目は必ず「潮祓」の次に奉納され、この神は言葉を発することが出来ない神との古くからの言い伝えは、尊神が最高神であるが故に、舞殿を清める「潮祓」の次に当然奉納されるべき曲目であり、また時代背景から尊神の実体を隠蔽する必要があったのではないかと推察される。
農・漁業の神・恵比須
恵比須は、七福神の一人で、狩衣、折烏帽子姿で、右手に釣り竿、左手に鯛を抱えた神像で親しまれ、商売繁盛の神、福の神として広く信仰されている。この恵比須は、兵庫県西宮神社の祭神である蛭子神(ひるこのかみ)とする説、島根県美保神社の祭神である事代主神(ことしろぬしのかみ)とする説がある。古くは、豊漁の神として漁民に信仰され、また、農神としても信仰されたといわれる。
1 蛭子神
蛭子神(えびすのかみ)は、古事記では「水蛭子」、日本書紀では「蛭児」と書いて「ヒルコ」と読まれる。古事記では、伊邪那美命が伊邪那岐命に対して、「ああ、何と素晴らしい男性でしょう」と呼びかけ、伊邪那岐命が、「ああ、何と素晴らしい少女だろう」と応えて生んだ子が「水蛭子」で、女性である伊邪那美命から先に声をかけ、間違った作法で生まれた不具の子であったため、葦の船に乗せて流し捨てたとある。また、日本書紀では、伊弉諾尊と伊弉冉尊が、「天下之主者(あめのしたのきみたるもの)」を生み出したとき、日の神、月の神に次いで生まれた子が「蛭児」で、三歳になっても足腰が立たない身体であったため、天磐豫樟船(あまのいわくすぶね)に載せて流し捨てたとあり、いずれも、蛭子神は、悲劇的な運命を負った神である。
「ヒルコ」は、「古事記」でも「日本書紀」でも、流されて以後の消息については何も記されていない。「ヒルコ」は、中世以降、「エビス」と呼ばれるようになったとされるが、何故、「ヒルコ」と「エビス」が習合したかは判然としない。「ヒルコ」の著者である戸矢学氏は、そもそも日本の沿岸地域では、未知の彼方からやって来た漂着物を手厚く祀ることによって、福神として信仰する風習があり、海の彼方からは「福」がもたらされる、或いは「福の神」がやって来る、ということに由来しているとしている。
源平盛衰記によれば、摂津国に流れ着いた蛭子は、海を領有する神としての夷三郎(えびすさぶろう)として現れて、西宮に「蛭子神」として祀られたとあるように、兵庫県に所在する日本に約3500社ある、えびす神社の総本社(名称:「えびす宮総本社」)の祭神である「えびす大神(西宮大神・蛭子神)」として再現している。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
なお、夷三郎は、東周平王(とうしゅうへいおう)庚寅20年6月、新国を求めて日本に流着した中国東周平王の第三王子とする説もある。
2 事代主神
事代主神(ことしろぬしのかみ)は、古事記では「事代主神」「八重言代主神」、日本書紀では「事代主神(尊)」と記される。
古事記では、出雲国の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)での大国主神の国譲りに際して活躍する神で、服属の意志を迫られた大国主神は「私はお答えできません。私の子の八重言代主神がお答えするでしょう」と答える。その時、事代主神は、御大(みほ)の前(さき)で鳥の遊び、魚捕りをしていたが、「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と父に語り、その乗って来た船を踏み傾けて、天の逆手を打って青葉の柴垣に変えて、隠れてしまったとある。この話は、日本書紀神代巻下の九段本書一書・第1にも見えるが、一書第2では、大物主神と事代主神が帰順し、「八十万の神を天高市(あまのたけち)に合(あつ)めて、帥(ひき)いて天に昇りて、その誠款(まこと)の至(いたり)を陳(もう)す。」とある。また、神代巻上第八段の一書第6には、事代主神が、八尋熊鰐(やひろわに)になって三嶋の溝姫(みぞくいひめ)に通い、神武天皇の妃となる姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んだとある。
事代主神の命名の由来は、事を知る神、正邪を判断する能力に優れているという意味とされる。また、事代主神は、託宣を司る神とされ、日本書紀巻第九の神功皇后摂政前記の神功皇后の神祭りにおいては、「天事代虚事代玉籖入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろぬしのかみ)有り」と自ら名を顕し、更に、摂政元年2月には、事代主命が「吾をば御心(みこころ)の長田国に祠(まつ)れ」と神託したと記されている。画や像で、恵比須神が釣り竿を持ち鯛を抱えているのは、前述の美保岬で釣りをしている姿を表していると言われる。
なお、事代主神が、「エビス」と習合した理由は、その海で釣りをする姿とエビスの海の神であることが結びつき、同一の神とされるようになったとされる。
神仏習合の神・八幡
八幡神は、「ヤハタノカミ」又は「ハチマンジン」とも呼ばれ、八幡神を主祭神とする神社は、末社まで含めると全国で約4万社あるとされ、中世には、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神として崇敬を集めたとされる。八幡神は、誉田別命(ほむたわけのみこと)ともいわれ、第15代応神天皇と同一とされる。また、神仏習合時代には八幡大菩薩とも呼ばれた。
1 八幡神の発祥
八幡宇佐宮御託宣集(神吽撰、1313年)、八幡愚童訓(作者未詳、鎌倉時代の神道書)などによれば、欽明天皇32年(571年)に、奈良県の三輪山に所在する大神神社の宮司の身狭(むさ)の子供の大神比義(おおががのひぎ)が、三年間断食をして祈ったところ、鍛冶翁が豊前の国(福岡県東部から大分県北部地方)の菱形池の辺に三歳童子の姿となって現れ、竹葉の上に立って「我は、誉田別天皇広幡八幡麻呂(ほむたわけのすめらみことひろはたやはたまろ)の神なり、我をば護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいけんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)と申す。」と名乗り、八幡大神の託宣があったことが八幡神の発祥であるとするのが一般的である。
宇佐八幡宮の創始は、この大神比義が、豊前の菱形山に応神天皇を祀ったのが始まりで、この人の子孫が代々世襲の宮司になったとされる。
2 八幡の語源
「八幡」は、通常、「ハチマン」と発音しているが、「ヤハタ」ないしは「ヤワタ」と発音するのだとする説がある。ヤハタないしはヤワタの語源については、先代旧事本紀(序文では推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したものとなっているが、実際には平安時代初期、「古語拾遺」「新撰姓氏録」後の成立と見られている。)に見える応神天皇(誉田別命)が誕生したとき、天から白幡四流、赤幡四流が舞い降りたという伝説に基づくとする説のほか
○多くの幡を立てて神の依代としたとする説
○ハタを帰化系の秦氏に結びつけた説
○ヤハタを焼畑農耕とみる説
○ヤハタを地名とみる説
など諸説があるが、未だに決定的な定説は得られていないようである。
富来隆著の「卑弥呼」の中に、「ヤワタ」の語源説と並行して非常に興味深い一説が記載さているので紹介すると、「宇佐宮託宣集に『鍛冶翁(かじのおきな)あり、奇異(きい)の瑞(ずい)を現(あらわ)して、一身八頭(の大蛇)となる』と記載された部分があり、あの一身八頭の大蛇である八岐大蛇(やまたおろち)は宇佐八幡神の姿であり、九州方言で大蛇のことを『ヤアタ』と呼ぶことなどから、八幡は『ヤワタ』と読むのが正しく、特に、製鉄と密接に関係している。」と記述されている。
この富来隆氏のヤワタの語源説はさておき、宇佐八幡神の蛇神説は、前述した島根県石見地方及び広島県芸北地方の一部地域で継承されている藁蛇を用いる「大元信仰」、更には、神楽曲目「尊神」に大変深く関係していると思われる。
3 衆生を救済する八幡神
第六天魔王は、神楽曲目「八幡」の中で「おお我(われ)は是(これ)、中天竺他化自在天(ちゅうてんじくたけじざいてん)の主(あるじ)、第六天魔王(だいろくてんのまおう)とは我(わ)が事(こと)なり」と名乗り、宇佐八幡宮に祀られる八幡神に、神通の弓と方便の矢をもって退治される悪鬼として登場する。
この第六天魔王は、元来はヒンドゥー教シヴァ派の主神で、それが仏教に取り入れられて第六天魔王となったとされ、天道(界)の一つである他化自在天(第六天)を支配するとされる。
八幡神は、未来永劫修行を続け、菩薩の上の如来になることを望まず、三界の衆生を救い続ける大神になったとされ、「護国霊験威力神通大菩薩」、あるいは「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と名乗り、神仏習合の国家神として発現している。「菩薩」とは、最高の真理を求めて、如来になろうとする修行者のことで、衆生を救うために如来の住む極楽の世界から派遣された如来一族の一員で、如来に次ぐ存在とされる。すなわち八幡大神は、如来の代理人であり、如来に準じた存在である。
仏教では、真理を求める修行は、同時に「悪魔」との闘いでもあるとされる。この悪魔は、人間の心の内にある「迷い」を象徴していると考えられ、天道(界)の最上層に存在する第六天魔王は、あらゆる手段を使って修行者や俗人を誘惑しようとしている。これに立ち向かい、修行者や俗人を救うのが菩薩である八幡大神ということになる。
(1) 菩薩としての八幡神
宇佐八幡宮は、八幡大神(応神天皇)を第一の御殿に、比売大神(ひめおおかみ)(宗像三女神?)、息長帯比売((おきながたらしひめ、神功皇后)を第二の御殿、第三の御殿に祀るいわゆる「三神三殿」という特異な造りの神社である。
八幡大神を祀る社殿が現在地に完成したのは、神亀2年(725年)で、それから4年後の天平元年(729年)に比売大神を祀る社殿が、更に、約一世紀を経た弘仁14年(823年)に息長帯比売を祀る社殿が造営され、この時点で、宇佐八幡宮における三殿祭祀の形態が完成したとされ、このような特異な祭祀形態の背景には、宇佐氏・辛島氏・大神氏といった異なる三氏族による複雑な主導権争いがあったとされる。
八幡大神の発祥については、前述したとおりで、「誉田別天皇広幡八幡麻呂」という神名や「護国霊験威力神通大自在王菩薩」という神号からも判るように、応神天皇の神格が付与された神仏習合の神として発現している。
弘仁12年(821年)8月15日の太政官符に引用される弘仁6年(805年)の「大神清麻呂解状」には、「天応元年(てんおうがんねん)、神徳(こうとく)を計量(けいりょう)し、尊号(そんごう)を護国霊験威力神通大菩薩(ごこくれいけんいりよくじんずうだいぼさつ)と奉(たてまつ)った」とし、更に、「これは太上天皇(だじょうてんのう)(応神天皇(おうじんてんのう)の御霊(みたま)である」とされ、また、承和12年(844年)の「弥勒寺縁起」の延暦2年5月4日の託宣によれば、「名前(な)は八幡大神(やはたのおおかみ)、今(いま)、護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいけんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)と号(もう)す」として、三界に化成して三界の衆生を救うために自在王の号を望んだとされる。
宇佐八幡宮は、大陸文化受容の先進地という地理的条件から、早期に神仏習合が進展したと考えられ、白鳳時代には周辺に関係寺院が造営され、天平10年(738年)にそれらを統合した神宮寺(神社に付属して営まれた寺院)である弥勒寺が、宇佐八幡宮の境内に建立されていたとされる。
宇佐八幡宮を代表する古式の神祭として、「放生会」と「行幸会」の二大特殊神事が存在するが、宇佐八幡宮の放生会は、我が国の神社における放生会儀礼としては、最古のものといわれ、本来仏教の不殺生戒(生き物を殺してはならないという戒め)の行事に由来するとされる。放生会とは、捕らえた生類を山野や池沼に放してやる儀式のことで、宇佐八幡宮においては、この儀式は、養老4年(720年)に大隅・日向両国で隼人が反乱し、その鎮定のため多数の隼人を殺生したことを滅罪するため、天平16年(744年)に寄藻川河口の和間浜で行われたのがその創始と伝えられ、宇佐八幡宮における放生会の儀式の存在は、八幡大神の神仏習合の神性を明確に示すものといえる。
貞観元年(859年)、宇佐八幡宮の宝殿に参籠していた大和大安寺僧の行教は、「我(われ)、近(ちか)く都(みやこ)に移座(いざ)し、国家(こっか)を鎮護(ちんご)せむ」と八幡大神の託宣を得た。京都移座の託宣を得た行教は、早々都に戻り、更に託宣を得て山城国の巽の方角である石清水男山の峰に地を卜し、宇佐八幡宮三所の神の遷座を奏上して勅許を受け、翌貞観2年、六宇の宝殿の神宮の造営がなり、有名な石清水八幡宮が創祀された。石清水八幡宮は、石清水八幡宮護国寺と称し、検校・別当らの社僧が社務組織を掌握する宮寺制の形態をとり、神仏習合が進められ、八幡大神の本地仏は阿弥陀如来にあてられたとされる。
今から僅か百数十年前、明治新政府の祭政一致を全面に掲げた神仏分離令の布告により、神道と仏教は無理矢理引き離されるそれ以前は、神社の本殿内に仏像が安置され、僧侶がそこでお経をあげたり、護摩(ごま)を焚くなどの仏事を行い、全く寺院と称しても不思議ではないような神社が多数存在していたとされる。元々神道とは悠久のものであり、教理教説といった枠からも比較的自由で、その時代と深く関わりながら、しかもそれを超越しているといった存在であるとされる。
だが仏教の日本伝来によって神道も仏教思想に取り込まれ、その影響を免れることはできなかった。日本は一千数百年の長期にわたって神と仏が融合していた。いわゆる神仏習合という抜き差しがたい関係にあったのである。宇佐八幡宮の八幡大神も、ご多分に洩れず、早くから仏教と融合し、神仏習合の神として八世紀には朝廷と結びつき、国家鎮護の最高神として存在していたのである。
(2) 仏道の妨げをなす第六天悪魔王
仏教の説く世界観・宇宙観では、その世界像を”輪廻しない世界”と”輪廻する世界”との二元的な構造としてとらえている。「輪廻」とは、生き変わり、死に変わりすることで、車輪が回転して際限がないように、霊魂が転々と他の生を受けて迷いの世界を廻ることで、「輪廻しない世界」とは、この世の一切の迷いや煩悩から解放された「悟りの世界・仏陀の世界」で、「極楽浄土」と呼ばれる理想の世界のことであるとされ、「輪廻する世界」とは、永遠に迷いや煩悩から解放されることがない世界で、一つの世界で、その生を終えた生き物は、来世には、また、他の生を受けるといった、永遠に転生する世界のこととされる。
この世界は「欲界」「色界」「無色界」の三層構造になっているとされ、通常、「三界」と呼ばれている。この三界のうち、色界は欲界の上に位置し、欲望を脱して肉体を残した世界で、無色界は、色界の上に位置し、物質が消えて純粋精神だけの世界で、色界・無色界とも非常に水準の高い悟りの世界であるとされる。他方、欲界は、色欲・食欲の二欲の強い有情の世界といわれ、悪業の報いで死後、苦果を受ける世界といわれる「地獄道(界)」、悪業の報いで死後いつも空腹に苦む世界と言われる「餓鬼道(界)」、悪業の報いで死後鳥獣虫魚の生を受ける世界と言われる「畜生道(界)」、常に争いの絶えない世界といわれる「修羅道(界)」、人間の住むこの世界である「人道(界)」、天人の住む世界といわれる「天道(界)」の六道(六層)からなる世界で、通常、衆生(命ある一切のもの)は、この六道からなる欲界の中を輪廻しているとされ、これを六道輪廻といっている。
したがって、一つの世界でその生を終えた生き物は、来世には六つの世界のいずれかに生まれ変わるとされ、六道輪廻の世界から脱して、もはや二度と輪廻することのない世界・極楽浄土へ解脱しない限り、永遠に繰り返されるとされる。
これら六道の中で天人が住むといわれる天道(界)は、人道(界)とは比較にならない優雅な生活と感覚的な喜びが保証される世界といわれ、この天道(界)は、更に六層に区分されるとされる。最下層は「四大王衆天」で、帝釈天に仕え、四方を守護する持国天(じこくてん)(東方)・増長天(ぞうちょうてん)(南方)・広目天(こうもくてん)(西方)・多聞天(たもんてん)(北方)が支配するとされる。次の第二層は「三十三天」で「利天(とうりてん)」ともいわれ、中央に帝釈天の止住する大城があり、周囲の四つの峰に各八天があり、合わせて三十三天で、帝釈天が支配するとされる。次の第三層は「夜摩天(やまてん)」で、感覚の快楽が与えられ、寿命が二千年で、その一昼夜は人間界の二百年に相当するといわれ、地獄に堕ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の主神・閻魔王(えんまおう)が支配するとされる。第四層は、「兜率天(とそつてん)」で、仏教の開祖・釈尊はこの天界に住んでいたといわれる。ここは内外二院あり、内院には将来仏となるべき菩薩が住むところで、現在は弥勒菩薩がそこで説法をしているとされ、外院は天衆が住むとされる。第五層は、欲界の楽園である「楽変化天(らくへんげてん)」で、ここに生まれた者は、自ら楽しい境遇を作り楽しみ、人間の百八歳を一日として八千年の長寿を得るとされる。最上の第六層は、「他化自在天(たけじざいてん)」で、「悪魔王」が支配するといわれる、いわゆる「第六天(だいろくてん)」である。
この「他化自在天」は、他人の楽事を自由自在に自己の楽として受用することができる天とされ、人の楽しみを自分のものにすることができるという高尚な世界である。五世紀の半ばのインドの世親の著といわれる「倶舎論(くしゃろん)」によれば、この第六天では、出生に性交といった煩わしい手順を必要とせず、ただ、お互いに見合わすだけで無上の快楽が得られ、子供が生まれるとされる。欲しいものはどのようなものであれ、思っただけで手に入れることができ、この世界に住む天人は、労働という苦役から解放され、寿命は、人間に換算すると92億2,130歳といわれ、ほぼ人間が望みうる最高の快楽が自在に得られる世界とされる。この他化自在天を支配しているのが「第六天悪魔王」である。この神は、通常「魔王」と呼称されるが、神楽では「悪」が冠せられ「悪魔王」と呼称される。仏教では、仏道を妨げる悪神は総称して「悪魔」と呼ばれることから、このような呼称になったものと考えられる。
第六天悪魔王は、冒頭で記述したとおり、元来はヒンドゥー教シヴァ派の主神で、それが仏教に取り入れられて第六天悪魔王となったとされる。「魔王」と名付けらているのは、この神が仏教修行者を色や欲で惑わし、彼らが快楽に溺れると、それが自らの快楽に化成すると考えられたからで、仏道の妨げをなす第六天悪魔王及びその眷属は、仏教徒からは「天魔(てんま)」、あるいは「天魔波旬(てんまはじゅん)」と呼ばれ、激しく忌避(きひ)されてきたとされる。小島法師の作が有力とされ、応安から永和にかけて成立したとされる「太平記」に「第六天魔王(だいろくてんまおう)集(あつ)まって、この国(くに)の仏法(ぶっぽう)弘(ひろ)まらば魔障(ましょう)弱(よわ)くしてその力(ちから)を失(うしな)ふべしとて、彼(かれ)応化利(おうかり)生(しょう)を妨(さまた)げんとす」とあり、仏道を妨げる対象として第六天悪魔王が見られている。なお、余談であるが、同書には「上座(かみざ)に一人(ひとり)の大人(だいじん)あり、其(その)かたち甚(はなは)だ世(よ)の常(つね)の非(あら)ず。長(たけ)二三十丈(じょう)も有(あ)らんと見上(みあ)げたるに、頭(かしら)は夜叉(やしゃ)の如(ごと)く十二の面(つら)うへにならべり。四十二の手有(てあ)りて左右(さゆう)に相連(あいつら)なる。或(ある)いは日月(じつげつ)を握(にぎ)り或(ある)いは劔戟(けんげき)を引(ひ)っ提(さ)げ、八龍(はちりゅう)にぞ乗(の)りたりける」と、第六天悪魔王の具体的な姿態も記述されている。また、安倍晴明の著に仮託される「内伝(ほきないでん)」(「三国相伝陰陽轄内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」)巻二に「今(いま)、この第六天魔王(だいろくてんまおう)は天界(てんかい)最上層(さいじょうそう)の他化自在天宮(たけじざいてんきゅう)に住(す)みながら、仏界(ぶっかい)を除(のぞ)く九界(くかい)の出家(しゅっけ)や俗人(ぞくじん)を惑乱(わくらん)させている」とあるのも、「太平記」に見られるのと同様な意味があるものと思われる。
(3) 八幡神の随身「門丸」
芸北神楽においては、古事記や日本書紀に見える神話とは異なる八幡系統の神楽が奉納される。その理由は、応神天皇を武神である八幡神として讃えるためではなく、その背後に見える蛇神である原始の八幡神や応神天皇を祭神とする八幡神に主祭神の座を明け渡し、摂社や末社に追いやられた製鉄神や稲作神である「地主神」に主眼が置かれているのではないかと思われる。
神楽曲目「八幡(はちまん)」では、八幡神の随身として「門丸(かどまる)」が登場するが、門丸は極めて滑稽な所作で観衆を沸かせ、その面の表情は片目が不自由で、口が「へ」の字に曲がり、とても神と呼ぶには相応しくない風貌である。
地域によっては、「かどうまる」あるいは「ひょうげだい」などとも呼ばれ、特異な顔面をした神である。
ア 鍛冶を職業とする天目一箇神
日本書紀巻第二神代下第九段の一書第二に「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とす」とある。また古語拾遺の日神の石窟幽居の段に「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)、斧及鉄鐸(おのまたくろかねのさなき)を作(つく)らしむ」とあり、更に崇神天皇の段にも「故(ゆえ)、更(さら)に斎部氏(いみべし)をして石凝姥神(いしこりどめのかみ)が裔(すえ)、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が裔(すえ)の二氏(にし)を率(ひき)て、更(さら)に鏡(かがみ)を鋳(い)、剣(つるぎ)を造(つく)らしめて、護(まもり)の御璽(みしるし)と為(な)す」とあり、天目一箇神は、鍛冶師の表象で、刀、斧、鉄鐸を作った鍛冶神とされる。
伊勢の多度大社に祀られている天目一箇神の御神体は、蛇体といわれているが、古事記、日本書紀の八岐大蛇退治神話で、素戔嗚尊が、大蛇の尾から出た神剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けて、天照大御神に献上したとする記述からも、蛇と鉄は密接な関係にあったものと思われる。
目一箇(まひとつ)とは、文字どおり目が一つで、溶鉱炉の火処(ほど)を単眼で見つめ、火の色によって溶鉱の状態を判断するので、長い年月には片目になってしまうといった鍛冶師の一種の職業病とされる。片目が不自由なことを「カンチ」という禁忌語(きんきご)があるが、鍛冶(かぬち)からきた言葉であると江戸時代の儒学者・新井白石は述べている。また、「作金者(かなだくみ)」とは、「金(かね)の工(たくみ)」、すなわち鍛冶職のこととされる。
「おかめ」面と対とされる「ひよっとこ」面も、片目が不自由で口はねじれ、鍛冶との関係が深いとされる。「ひょっとこ」は、「火男」が訛って「ひょっとこ」になったと言われ、口先をとがらせて風を吹き込み、火を起こす表情そのままである。
イ 蹈鞴の名を持つ神武天皇の妃
古事記中巻の神武天皇の段に、神武天皇の皇妃選定で「その神(かみ)の御子(みこ)と謂(い)ふ所以(ゆえ)は、三島湟咋(みしまのみぞくひ)の女(むすめ)、名(な)は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿(かたち)麗美(うるわ)しかりき。(中略)即(すなは)ちその美人(をとめ)を娶(めと)して生(う)みし子(こ)、名は富登多(ほとた)多良伊須須岐比売命(たらいすすきひめのみこと)と謂(い)ひ、亦(また)の名(な)は比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすきよりひめ)と謂(い)ふ」とある。また、日本書紀巻第一神代上第八段の一書第六の末尾に、大三輪神の縁起で「此(こ)神(かみ)の子(みこ)は、即(すなは)ち甘茂君等(かものきみたち)、大三輪君等(おおみわのきみたち)、又(また)姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)なり。(中略)而(しかう)して児(みこ)姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生(う)みたまふ。是(これ)を神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれひこほほでみのすめらみこと)の后(きさき)とす」とあり、更に「蹈鞴(たたら)、是(これ)をば多多羅(たたら)と云(い)ふ」とある。いずれも、神武天皇の妃の名に「蹈鞴(たたら)」の語句が用いられている。
「蹈鞴(たたら)」は、製鉄や鍛冶で火炎を強化するために用いる空気を送る大型の鞴(ふいご)のことで、日本古来の製鉄法は、「蹈鞴吹き」と呼称され、神武天皇の妃の出自の背後には、製鉄文化があったことが推察され、更には、製鉄を司る民族との通婚によって、貴重な鉄の確保が計られていることが判る。
古事記、日本書紀によれば、「比売多多良伊須気余理比売」は、奈良県櫻井市の三輪山を御神体とする「大物主神(おおものぬしのかみ)」の子とされる。日本書紀巻第十四雄略天皇の段に、小子部(ちいさこべ)は、雄略天皇の命令に従って、三諸岳(みむろのおか)に登り大蛇を捕らえて来て見せた。大蛇は雷鳴のように轟き、目を輝かせた。天皇は畏れて大蛇を見ずに御殿の中に入り、神を岳(おか)に放させた。小子部には改めて「雷(いかずち)」という名を賜ったという記述があり、大物主神は、蛇神であるが雷神としての性格を持った神であるとされる。雷神は、一般的には雷を司る神とされるが、とりわけ農耕民族にとっては稲作神、雨水神とされる。雷光を稲妻(いなずま)あるいは稲光(いなびかり)と呼称することからも、雷神と稲作の密接な関係が推察される。また、雷神は、その強力な落雷によって大地を焦がすことから火神ともされ、製鉄の神としても祀られている。
火神として有名な「軻遇突智神(かぐつちのかみ)」に関して、日本書紀巻第一神代上第五段の一書第十二に、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、軻遇突智を生んで火傷に苦しみながらも土神埴山姫(つちのかみはにやまひめ)と水神罔象女(みずのかみみつはのめ)を生み、軻遇突智はその埴山姫と結ばれ、稚産霊(わくむすひ)を生んだ。この稚産霊という神からは、頭上に蚕(かいこ)と桑(くわ)、臍(へそ)には五穀が生じたと言う記述がある。制御しなければ全ての物質を焼き尽くす火、しかし、それを制御すれば作物や道具を作り出す火、そのような破壊と生成という正反対の力を持つのが火神なのである。
ウ 稲の豊穣をもたらす伊勢外宮の女神
古事記上巻の二神の神生みの条に「次(つぎ)に和久産巣日神(わくむすひのかみ)。この神(かみ)の子(こ)は豊宇気毘売神(とようけびのかみ)と謂(い)ふ」とあり、また同天孫降臨の条に「次(つぎ)に登由気神(とゆけのかみ)、こは外宮(とつみや)の度相(わたらい)に坐(ま)す神(かみ)ぞ」とある。豊宇気毘売神は登由気神と同一神とされ、前述した火神軻遇突智神の孫神にあたり、伊勢の外宮に祀られている「豊受大神(とようけのおかみ)」である。名義は豊かな食物(宇気)を司る女神で、丹後国風土記逸文に見える「豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)」、摂津国風土記逸文に見える「止与宇可乃売神(とようかのめのかみ)」、陸奥国風土記逸文に見える「豊岡姫命(とよおかひめのみこと)」は、いずれも豊宇気毘売神と同一神とされる。
豊受大神(とようけのおかみ)は、古事記では「宇迦之御魂神」、日本書紀では「倉稲魂命」と記述され、原始の神「尊神」の項で記述したとおり、特に、稲の豊穣に関わる神で、「ウカノミタマ」というのは「稲魂」(穀霊)そのものの名であるとされる。
なお、余談であるが、「ひょっとこ」が、製鉄と関連の深い「火男」が訛ったものであれば、「ひよっとこ」と対である「おかめ」は、稲作と関連が深い「宇気女」あるいは「宇賀女」が訛ったものと思われる。
エ 蛇神・稲作・製鉄の関連性
日本における蛇信仰は原始の信仰であると言われ、蛇が「地霊」の象徴とされていることは、原始の神「尊神」の項で記述したところである。漢字の「祀(まつり)」は、神の寄りつく座として立てた台に巳(蛇)が寄りついている形を表現しているとされ、解字からも蛇が信仰対象であったことが推察される。
「地霊」は、万物を育み恵みを与える一方、地震や風水害などの災厄をもたらす大地に宿る霊的な存在とされる。大地に存在するもののうち、その最大のシンボルは「山」であり、古代人は、蛇に象徴される地霊の存在を雄大な山に感じ、山に神が宿ると考えた。これは、大和の三輪山をはじめとして、日光の男体山や榛名山など、全国の名のある山々が信仰の対象とされ、蛇神話が伝承されていることからも推察される。
日本の縄文時代中期の土器、土偶の中には、明らかに蛇そのものや蛇の鱗をモチーフとして描かれたと思われる文様のものが数多く見られ、縄文人は、地霊の象徴である蛇を強烈な信仰対象として崇拝していた。その後、縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、大陸から「稲作」や「製鉄」の技術がもたらされたことにより、蛇は地霊の神格を維持しながら稲作や製鉄と結びつき、更には、祖霊の神格が加わるなど、その霊力は多様化するに至ったものと思われ、前述したとおり「天目一箇神」「比売多多良伊須気余理比売」「豊受大神」は、表面上は製鉄神や稲作神などの姿態であるが、遡ればその根元は蛇神に還元されるのである。
高天原から追放された素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲の国の簸の川の川上に降り、酒を飲ませて八岐大蛇を退治し、脚摩乳(あしなつち)、手摩乳(てなつち)の娘である奇稲田姫(くしいなだひめ)を助けて、大蛇の尾から出た神剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けて、高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上したとする古事記、日本書紀に見えるいわゆる「八岐大蛇退治」神話は、蛇神・稲作・製鉄の関連性を最もよく表現していると思われる。
古事記によれば、櫛稲田姫の父母である足名稚、手名稚は、国つ神大山津見神(おおやまつみのかみ)の子とされ、大山津見神は、山を管理する神とされるが、前述したとおり山の神は蛇神で、櫛稲田姫にとって、大山津見神は祖父に当たり、櫛稲田姫は、伊勢の外宮に祀られている豊受大神と同様に稲田の守護神であるが蛇に還元されるのである。大蛇(をろち)の「ヲ」は「峰」、「ロ」は助詞、「チ」は「霊」で、大蛇は、つまり「峰の霊」(をろち)の意味とされ、山の神であると同時に蛇神であり、大蛇の尾から出たとする神剣も、また蛇に還元されるのである。
この神話は、素戔嗚尊が、大蛇の尾から出た神秘的な神剣を、高天原の天照大神に献上し、櫛稲田姫を娶るということが主眼であり、その真意は、蛇神を崇拝し、稲作や製鉄技術を有する先住民族(国つ神系)の日神を崇拝する朝廷(天つ神系)への服従を決定するもので、後の「国譲り」神話へと発展する前編とも言える。
天叢雲剣は、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」ともいわれ、日本書紀において、降臨する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に対し、天照大神が与えた三種宝物(みくさのたから)の一種であるが、他の二種の宝物である「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」「八咫鏡(やたのかがみ)」も、また蛇に還元されるのである。
三種宝物の歴史の古さを考えた場合、鏡や剣は、縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて大陸からもたらされたものであるのに対し、翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)の玉は、それ以前から日本において作られていた。言わば玉こそが古代においては最大の宝物で、最も古い歴史を有しており、原始の蛇信仰と最も関係が深いと思われる。
曲玉は勾玉とも記され、「玉」は「霊(たま)」、神霊のこととされ、この玉は単なる装飾品ではなく、祭祀又は信仰上の意義を有している。長野県埴科郡に所在する玉依比売(たまよりひめ)神社では、児玉石と称する子持勾玉と多くの勾玉を用いて、その年の吉凶を占う特殊神事が伝承されている。古事記中巻の崇神天皇の段には、蛇神である三輪山の大物主神の妃として「活玉依毘売(いくたまよりびめ)」が登場するが、「活(いく)」は美称で、「玉依毘売(たまよりびめ)」は、神霊(蛇神)が依り付く巫女の意味とされる。
私見であるが、曲玉は、一般的には胎児の形とされるが、その形は蛇そのものである。十二支の第六の「巳(み)」という漢字は、蛇の形であると言われているが、曲玉の形と比較して見ると、全く同一の形をしていることがよく判る。
吉野裕子氏は、その著「蛇」の中で、「カカ」は、「ハハ」以前に使用されていた蛇の古語で、中国伝来の鏡が「カガミ」と訓まれた理由は、鏡が古代日本人にとって「蛇(かか)の目(め)」、つまり「カガメ」として捉えられたためではないだろうか。
「カガメ」は容易に「カガミ」に転訛すると述べている。
八咫鏡は、日本書紀では石凝戸辺(いしこりとべ)、古事記では伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)が作ったとあり、石凝戸辺は、石の鋳型を用いて鏡を鋳造する老女の意味とされる。日本書紀巻第一神代上第七段の一書第一に「故(かれ)、即(すなは)ち石凝姥(いしこりとめ)を以(も)て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採(と)りて、日矛(ひほこ)を作(つく)らしむ。又(また)真名鹿(まなか)の皮(かわ)を全剥(うつはぎのは)ぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作(つく)る」とあり、石凝戸辺は石凝姥と同一で、いずれにしても鍛冶師あるいは鍛冶職であり、前述した蛇神である天目一箇神と同系統であることが推察される。
なお、日本書紀に、石凝戸辺は天抜戸(あめのぬかと)の児(みこ)とあり、天抜戸は天糠戸とも記述され、「糠(ぬか)」は、殻の付いた物を指すことから、殻を被った穀物の意味であるが、蛇の脱皮をも連想させる。
オ 地主神「門丸」
「八幡神」を祭神とする八幡神社の総本社は、大分県宇佐市に所在する宇佐神宮で、その祭神は、「比売大神」「応神天皇」「神功皇后」とされ、応神天皇祭祀の発祥については、前述したところである。
八幡神は、古くは「矢幡神(やはたのかみ)」とも呼称され、全国に祭祀されている最も一般的な神であるが、日本の古代を語る正史と言われる古事記や日本書紀には、その神名は見られず、僅かに、日本書紀巻第一神代上第六段の一書第三に「即(すなは)ち日神(ひのかみ)の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめがみ)を以(も)ては、葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさしま)に降(あまくだ)り、居(ま)さしむ。今(いま)、海(うみ)の北(きた)の道(みち)の中(なか)に在(ま)す。号(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す」とあり、宇佐神宮の祭神である比売大神の降臨を想像させる記述である。
各地の八幡神社では、いずれも応神天皇を主座に祭祀しているのに対し、宇佐神宮では、主座に相当すると思われる中央の神殿に比売大神が祭祀され、その正体は、宗像三女神(瀛津嶋姫命、湍津嶋姫命、田霧姫命)説をはじめ邪馬台国の卑弥呼説など諸説あるが、大神比義が、応神天皇を神仏習合の八幡神として祭祀する以前の、その土地を守護する地主神であると思われる。
宇佐神宮は、元々は御許山(おもとやま)が神体山とされ、この御許山は、元は大元山(おおもとやま)と呼称され、この神体山を拝む神社である「大元神社」は、今でも存在しているとされる。御許山山頂付近には、三つの巨石の磐座(いわくら)があり、古神道本来の姿である「神籬岩境(ひもろぎいわさか)」の祭祀形態が見られるとされ、原初の八幡信仰は、奈良県の三輪山に所在する我が国最古の神社である大神神社と同様に、山を御神体とする原始の信仰であったことが推察される。
前述したように、富来隆氏は、その著「卑弥呼」の中で、宇佐八幡神は蛇の姿であるほか、製鉄と密接に関係していると述べている。
皇室の神器である三種宝物の一種である八咫鏡の「八咫」は、一般的には「ヤタ」と読まれているが、古事記に「八尺(やた)を訓(よ)みて、八阿多(やあた)と云(い)う」とあり、「ヤアタ」が本来の読みであったと思われる。播磨国風土記の賀古郡の条に「御腰(みこし)に帯(お)びられた八咫(やた)の剣(つるぎ)の上結(うわゆひ)に八咫(やた)の勾玉(まがたま)、下結(したゆひ)に麻布都(まふつ)の鏡(かがみ)を懸(か)けて」と見え、剣、勾玉にも八咫が冠せられている。
八咫とは、「巨大な」「見事な」の意味とするのが一般的であるが、古事記や日本書紀、古語拾遺、風土記などにも、皇室の神器である鏡、剣、勾玉と神武天皇東征で先導に当った八咫烏以外にこの呼称を用いた例はなく、特別な意味を持つ特異な呼称であることが判る。前述したように、三種宝物は全て蛇に還元することができ、また島根県石見地方の一部地域に伝承されている藁蛇を主体とした大元神楽では、「八岐大蛇」を「八咫」(やた)と呼称することなどから、「八咫」(やあた)は、神格化した蛇を指す特別な呼称であったと思われる。
八幡(やわた・やはた)、八咫(やた・やあた)、八岐(やまた)は、呼称の奇妙な類似はさることながら、蛇神を主体として、製鉄や稲作と密接に関係している。応神天皇を八幡神として祭祀したとされる大神比義は、蛇神である三輪山の大物主神を祭祀する大神神社の宮司の身狭(むさ)の子供とされ、比義が、原初の八幡神が大物主神と同一系統の神であることを認識していたとしても不思議ではないと思われる。蛇神である宇佐地方の原初の八幡神は、大神比義によって応神天皇を祭神とする神仏習合の八幡神として変容し、八世紀には朝廷と結びつき、国家鎮護の神にまで上り詰め、手厚い加護を受けることとなった。
原初の八幡神にも見られるように、かって各地において、先住民族(国つ神系)によって崇拝され、蛇神から発展した製鉄神・稲作神である地主神は、朝廷(天つ神系)の強大な圧力によって、古事記や日本書紀に迎合した神名、あるいは、大陸からもたらされた仏教と習合した神名へと改変や置き換えを余儀なくされ、その出自や本来の神性が喪失し、全く別の神格が付与され、正体不明の神となってしまったのではないかと思われる。
応神天皇を祭神とする八幡神に主祭神の座を明け渡し、摂社や末社に追いやられた製鉄神や稲作神である地主神は、外国から渡って来た神・蕃神、あるいは、その土地や氏子との縁故の新しい神とする客神として、「客人社(まろうどしゃ)」、あるいは「門客人社(かどまろうどしゃ)」などと呼称される小社に祭祀されている場合が多い。この客人(まろうど)、あるいは門客人(かどまろうど)は、地域によって「カドマロウドサマ」「カドマリサマ」「オキャクサン」「マロトサン」などと呼称され、目・草履・鉄製下駄の神様などとして信仰されている。
八幡神の随神「門丸(かどまる)」は、応神天皇を祭神とする八幡神に主祭神の座を明け渡し、摂社や末社に追いやられた「門客人神(かどまろうどがみ)」で、本来は、その神社の本社に祭祀されるべき主祭神であり、先住民族(国つ神系)によって崇拝されていた、蛇神から発展した製鉄神や稲作神の地主神と推察される。
魔除けの神・鍾馗
神楽の曲目「鍾馗」は、「釈日本紀」巻七所引の備後国風土記逸文の疫隈国津社縁起譚の「蘇民将来説話(そみんしょうらいせつわ)」が、金春禅竹氏信作の謡曲「鍾馗(しょうき)」の影響を受け、蘇民将来説話を進士鍾馗伝説(しんじしょうきでんせつ)にすり替えて、創作されたものではなかろうかとされている。
1 進士鍾馗伝説
唐の玄宗は、開元年間(713〜774年)に驪山(りざん)で軍事演習を行い宮城に帰ったが、瘧(おこり)に侵されて1か月余り臥していた。ふとある夜に二人の鬼の夢を見た。一方は大きく他方は小さかった。小さい鬼は虚耗(きょこう)といい、赤い褌(ふんどし)を着け、片方の足は靴を履いていたが、他方の足は裸足であった。その鬼は、楊貴妃(ようきひ)の紫色の香袋(こうぶくろ)と玄宗の玉製の笛を盗み、後殿をぐるぐる駆け回っていた。大きい鬼は、破れ帽子をかぶり、藍色の裳(もすそ)を着けて角帯を結び、片肘をたくし上げ、革の半長靴を履いていた。やがて大きい鬼は小さい鬼を捕まえ、小さい鬼の目をくり抜いてから体を裂いて食べてしまった。玄宗が大きい鬼に正体を問い質すと、「私は、終南山(しゅうなんざん)の麓に住む挙人(きょじん)の鍾馗で、科挙(かきょ)に合格せず自ら命を断ったとき、皇帝より手厚く葬られた男です。皇帝のご恩に報いるために、天下の禍を取り除くことを誓います」と答えた。
皇帝が夢から覚めると瘧(おこり)は急に治ったかのようで、体はぐっと元気になった。そこで、絵師の呉道子を召して夢のことを告げ、「私のために絵を描いてみよ」と命じた。命じられた呉道子は、無我の境地で何かをじっと見つめているようであったが、すぐさま筆をとって書き上げ献上した。玄宗は、非常に喜んで百金を与えて労い、天下に布告した。(「夢渓筆談」北宋の沈括著)進士(しんじ)とは、隋・唐の時代に官人となるための試験科目の一つで、進士の試験に合格した者をいい、試験科目には秀才、明經、俊士、進士の四種類があったとされる。鍾馗は、進士の試験を受けて及第する際に憤死(ふんし)したが、その後、屍骸(しがい)に緑袍(りょくほう)を賜り「進士」を贈官されたとされる。鍾馗は「鍾葵」とも書かれ、中国では疫病を防ぐ鬼神とされ、巨眼・多髯で、黒冠をかぶり、緑衣を着け、長靴をはき、右手に剣を握り、小鬼を掴む姿で表され、我が国でも謡曲(「鍾馗」「皇帝」)に作られ、その像を五月幟に描き、五月人形に作り、また朱で描いて疱瘡除(ほうそうよけ)の護符(ごふ)とした。
2 蘇民将来説話
昔、北の海にいた武塔神(むたふかみ)が、南の海の神の娘に求婚しに出かけたが、日が暮れてしまった。そこには、二人の兄弟が住んでいて、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しく、弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福であった。武塔神はまず弟に宿を借りようとしたが、弟は惜しんで貸さなかった。兄は、粟柄で御座を作り、粟飯などでもてなした。その後数年を経て、武塔神は八柱の御子を連れて報恩のため戻り、兄の蘇民将来の娘に茅の輪を付けさせる。
その夜、蘇民将来の娘一人を残し、皆ことごとく疫病で滅ぼされてしまった。武塔神は、自分が素戔嗚神(すさのおのかみ)であることを告げ、後の世に疫病が流行したら、蘇民将来の子孫と言い、茅の輪を腰に付けた人は、その疫病から免れるだろうと言った。(「備後国風土記逸文」「二十二社註式」)
武塔神とは、「秘密心点如意蔵王陀羅経」の武塔天神王から出たとする説、あるいは、朝鮮の巫女の神とする説など諸説あるが定かではない。この説話で最大の問題点は、武塔神がなぜ素戔嗚神と結びついたのかということであるが、日本書紀巻第一神代上第七段の一書第三に、髭や手足の爪を抜かれて高天原を追放され、根の国に追いやられた素戔嗚尊が、青草を結って笠・簑とし、神々に宿を請うが、汚らわしいと断られ、激しい風雨の中でも泊まり休むこともできないで辛苦をしたとあり、この素戔嗚尊の行為が武塔神の行為と類似していることから習合したとする説、また、素戔嗚尊の荒ぶる性格が、逆に災いを祓ってくれる頼もしい神としての信仰を生み、病気を流行させる疫神・武塔神と同一神とされ、蘇民将来の伝承と結びつき、更には、除疫神として京都祇園社(八坂神社)に祀られる、頭上に牛の頭を持ち憤怒相で表される「牛頭天王(ごずてんのう)」(インドの祇園精舎の鐘の守護神ともいわれている)とも習合したとする説がある。
3 鍾馗大臣と素戔嗚神
鍾馗大臣は、その伝説から疫病を防ぐ鬼神とされ、巨眼・多髯で、黒冠をかぶり、黒衣を着け、長靴をはき、右手に剣を握り、小鬼を掴む姿で表され、特に、「鍾馗髯(しょうきひげ)」という言葉があるように、頬の多髯は、鍾馗大臣の風貌の最も顕著な特徴である。
一方、素戔嗚神は、高天原における数々の悪行により荒ぶる神として出雲の国へ追放されたが、出雲の国では、一転して勇敢で秩序をもたらす神へと転神し、悪神から善神へと転化した。
素戔嗚神は、古事記では、国を治めず、長い髭が胸前(むなさき)に垂れるまで啼きわめき、その様子は青々と茂る山を泣き枯らし、河海まで泣き乾らしたとある。また、日本書紀本文及び一書では、勇ましく残忍で、常に泣きわめき、国内の人民を多く若死させ、青い山を枯れ山としたとあり、別の一書では、物を壊すのを好む性質であるとある。更に、別の一書では、すでに年長けて長い髭が生え、しかも天下を治めずに泣きわめき恨んでいたとあり、荒らぶる神の代表的存在として表現されているが、その後の八岐大蛇退治神話では、古事記・日本書紀ともに、人助けや忠誠を尽くす徳を備えた神として表現されている。
素戔嗚神の悪神から善神への転化について、本居宣長は、須佐之男命の悪性は禊祓いが不十分で、黄泉の穢れが残ったままのその出生に原因があるとし、解除(はらえ)をきっかけに穢悪(けがれ)が除かれ、清浄に立ち返らせたと解釈した。
特に、髭・爪を抜かれた穢悪は罪犯のある人に科せられるあがないの意味があると考え、罪をあがなったのであるから、穢悪された時点でもはや悪神ではなく、しかも「全体の心の善悪」であるから、悪心から善心への単なる変化ではないとしている。また、平田篤胤は、天照大御神の荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)からの解釈を試み、須佐之男命にも同様に荒魂・和魂があり、これはなにも天照大御神や須佐之男命に限らず、神も人も汚いことや悪いことを憎み怒り、善神・善人と言えども怒って荒ぶることもする。それは禍津日神(まがつひのかみ)の御霊(みたま)を享(う)けるからで、反対に、憎み怒る心を和らげ静めて聞き直し思い直すのは、直毘神(なおひかみ)の御霊を賜っているからであるとしている。
古事記で、五穀の神・大気津比売を殺したことや大国主神に数々の試練を与えたことは、反面解釈によっては、大気津比売が殺された結果、蚕や稲・粟・小豆・麦・大豆といった人が生きていく上で必要な食物が生じており、大国主神も須佐之男命の娘須勢理比売(すせりひめ)の助力を得て、最後は葦原中国の国土経営を担い、繁栄と秩序への布石をなしている。
日本書紀では、出雲での素戔鳴尊の言葉が、「詔(のる)」ないしは「勅(みことのり)」として語られるように、統治し安定をもたらす神となっているのである。
このような素戔嗚神の荒ぶる性格は、前述した説のように、逆に災いを祓ってくれる頼もしい神としての信仰を生み、病気を流行させる疫神・武塔神と同一神とされ、蘇民将来の伝承と結びついたものと思われる。神楽の曲目「鍾馗」は、古事記・日本書紀の素戔嗚神が、長い髭を生し十握の剣を所持するという風貌や蘇民将来説話の茅の輪が疫病を防いだとする記事が、多髯で剣を所持し、疫神を祓うという鍾馗大臣に近似していることなどから、素戔嗚神を鍾馗大臣と同一神と見て、茅の輪と宝剣によって疫神・虚耗を退治するという物語として創作されたものと推察される。
ところで、神楽の旧曲目「鍾馗」の神の言い立て部分で、「我、其の昔、唐国(からくに)に渡りしとき、自ら鍾馗大神と名乗り…」と「我、其の昔、三(み)つの韓国(からくに)に渡りしとき、自ら鍾馗大神と名乗り…」の二通りの詞章が見える。「唐国」とは、古代の中国を指す語で、進士鍾馗伝説の舞台である唐(とう)の国との合致を見ることができるが、「三つの韓国」とは、古代の朝鮮を指す語で、馬韓・辰韓・弁韓又は新羅・百済・高句麗の総称で、進士鍾馗伝説や蘇民将来説話の内容との合致を見ることができない。それでは何故「三つの韓国」という国名が詞章に取り入れられたのであろうか。日本書紀巻第一神代上第八段の一書第四に、悪行を働き高天原を追放された素戔嗚尊が天下った場所を指して「其(そ)の子(みこ)五十猛神(いそたけるのかみ)を帥(ひ)いて、新羅(しらぎ)の国(くに)に降到(あまくだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処(ところ)に居(ま)します」の記述が見え、この記事が、「三つの韓国」として詞章に反映されたものと思われる。
4 茅の輪
「茅(ち)の輪(わ)」とは、茅(ちがや)を束ねて大きな輪としたものである。茅は古名を「チ」といい、イネ科の多年草で荒れ地などに群生し、春に柔らかい銀毛のある小花を穂のように多数付け、葉は広く長い線形である。穂は「つばな」「ちばな」といい、強壮薬とし、また古くは成熟した穂で火口(ほくち)に用いたとされ、根茎は漢方で白茅根(はくぼうこん)といい、消炎・利尿・浄血剤などとされる。蘇民将来説話では、「茅の輪」が疫病を防ぐことに重点が置かれているが、なぜ「茅の輪」なのか定説はなく、植物を輪にした鬘(かづら)に魔除けの力があるという思想と関係があろうとする説、あるいは、青々とした植物の葉に再生の力があるとする説、また「茅の輪」は必ずしも茅でなくてもよく、季節や環境によって菅や稲藁も用いられたとする説など諸説あるが、いずれも「茅」にはっきりとした意味が見いだされていない。
今日、多くの神社に見られる旧暦6月晦日の夏越の祓(なごしのはらえ)(名越の祓)の神事で、茅で編んだ大きな輪を社頭に立てて、参詣人がこれをくぐるという儀式は、罪・穢れを祓い浄め、災厄を防ごうとするもので、釈日本紀などによれば、疫病神・牛頭天王が、一夜の宿を貸してくれた貧しい男・蘇民将来に授けた秘法とされる。地方によっては、茅の輪を付けた札に「蘇民将来の子孫」と書いたものを戸口に貼付したり、小さな茅の輪を腰につけるなど様々な習俗が見られる。その昔、原因不明の疫病や気の塞ぎは、すべて疫鬼・疫神や物の怪、呪いによって発生すると信じられ、「祓」は身体についた穢れという魔を取り除く極めて有効な手段とされていたのである。茅の輪は、蛇を形どったものとする説や注連縄に変化したとする説が存在するが定かではない。
全くの私見であるが、素戔嗚神が蘇民将来の娘に付けさせた茅の輪の「チ」は、八岐大蛇(やまたのおろち)や句句廼馳神(くくのちのかみ)、軻遇突智神(かぐつちのかみ)などの「チ」と同様に、霊威や勢威を示す語ではないかと推察する。つまり茅の輪は、罪や穢れを祓い浄め、災厄を防ぐことができる霊妙不思議な威光を持つ輪と解することができるのである。
観世小次郎作の謡曲「皇帝(こうてい)」は古名を「明王鏡(みょうおうきょう)」といい、唐の玄宗皇帝の寵姫(ちょうき)である楊貴妃(ようきひ)が、病に侵され臥して悩んでいるところへ鍾馗大臣の精霊が来て、その病鬼である悪魔を退治したとする物語であるが、鍾馗大臣の精霊の教えのとおり、明王鏡を楊貴妃の枕の近くの几帳に立て置いたところ、鏡の中に鬼神の姿が映ったとあり、神楽の曲目「鍾馗」で、茅の輪の中を通して疫神の姿を見ることができるとする伝承は、この物語に由来するものと思われる。
5 十握の宝剣
十握の宝剣(とつかのほうけん)は、日本神話の中で最もポピュラーなものとして、多くの人々に知られている八岐大蛇退治の物語において、素戔嗚尊が八岐大蛇をずたずたに斬るときに使用したとされる劔(つるぎ)のことである。日本書紀では十握劔(とつかのつるぎ)、古事記では十拳劔(とつかのつるぎ)と記される。握(つか)は長さの単位で、一握は小指から人差指までの幅で、一握が約11センチメートルとすれば、十握劔の長さは約1メートルということになる。
十握劔は、日本書紀巻第一神代上第八段の一書第二では、剣の名は「麁正(あらまさ)」として、今は石上にあるといい、同一書第三では「韓鋤劔(からさひのつるぎ)」として、今は吉備の神部のところにあるといい、同一書第四では「天蠅斫劔(あまのははきりのつるぎ)」とする。また古語拾遺では名を「天羽羽斬(あまのははきり)」といい、石上神宮にあるとする。一書第二の「麁正」も一書第三の「韓鋤劔」も韓から伝来した小刀の意味とされ、また一書第四の「天蠅斫劔」の蠅(はは)及び古語拾遺の「天羽羽斬」の羽羽(はは)は、古語拾遺に「古語に、大蛇を羽々と謂う」見え、大蛇のことと認めることができる。
古代において武器は、単に人を殺傷するだけの道具ではなかった。したがって、古事記・日本書紀においても、武器は神性で、また神が寄り付くものとして描かれている。素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったときに、その尾から出たとされる「草薙劔」がその一例である。十握の宝剣が銅製であったか鉄製であったかは別として、古代の剣である銅剣は、細形−中細形−中広形−平形へと変化し、特に、中細形以降は大型化が加速され、実戦用の武器としての機能を失って祭器へと変化したとされる。つまり剣は、神性にして神意、霊威を持つと考えられていたからにほかならない。
6 疫神
疫神は、疫病を流行らせる悪神で、行疫神や厄病神とほぼ同義語に用いられる。古くは神の祟りで起こされるとも考えられ、古事記崇神天皇の段に、疫病が大流行して国民が絶滅しそうになったので天皇は夢の中に現れた大物主神の言葉どおり、三輪山に意富美和之大神(おほみわのおおかみ)を斎き祀ったところ、疫病はすっかりやんで、国内は平穏になったとある。
行疫神は、生前恨みを抱いて死んだ者の霊、即ち御霊の発現と観念とされ、古代社会では、疫病神は外界から襲来すると考えられ、疫鬼が京城に入るのを防ぐため、京城四隅の道に迎えて饗応する祭りである道饗祭(みちあえのまつり)を行い、また晩春に花が散り風が吹くと、花粉に乗って疫病が流行すると考えられ、花鎮祭(はなしずめのまつり)などが行われていたとされる。中国との通交が始まってから、疫鬼・疫神によって疫病が発生するという思想が広まったとされる。
京都の三大祭りの一つである「祇園祭り」は、京都東山の八坂神社のお祭りで、毎年7月17日頃を中心に行われ、八坂神社は、明治維新までは祇園社と呼称し、牛頭天王を祀っていたとされ、もともと平安朝中期に怨霊を鎮めるために、京都郊外で行われていた御霊会(ごりょうえ)が、東山八坂郷の祇園寺に牛頭天王が祀られるに及んでここに固定し、御霊又は疫神の祟りを避ける祭りの代表になったとされる。祭りの時期も疫病の多く発生する旧暦6月が選ばれ、中世以後は、6月7日から14日までという日柄が守られていたとされる。
鬼は、日本書紀において、初めて、天皇に仇成す討たれるべき「諸(もろもろ)の順(まちろ)わぬ鬼神(おに)」として登場する。それらは、天皇権力に敵対する蝦夷(えみし)や粛慎人(みしはせびと)を魅鬼(もこ)として蔑視するものであった。こうした有形の鬼は、死して怨霊と化し、天皇に害を及ぼす無形への鬼と変貌し、更に、穢れに満ちた鬼神は、疫病や災厄の元凶と考えられて恐れられ、一般民衆に浸透していったと思われる。
神楽の曲目「鍾馗」に「おお我(われ)は是(これ)、春(はる)の疫癘(えきれい)、夏の瘧病(ぎゃくびょう)、秋の血腹(ちはら)に冬の咳病(がいびょう)、一切(いっさい)の病(やまい)を司(つかさど)る大疫神(だいえきしん)とは我(わ)が事(こと)なり」の詞章が見える。疫癘は伝染病、瘧病はマラリア、血腹は赤痢、咳病は咳の出る病気のことで、古代、疫鬼・疫神は、陰陽五行思想にいう陽気と陰気の去来する時節の変わり目に生まれると信じられていた。これは、現在でも無病息災を願って行われる七草、節分、雛祭、端午の節句、亥の子、七五三などの風習からも推測される。
雨水の神・切目王子
神楽の曲目「羯鼓」は、五体王子神社に仕える神禰宜が、熊野大社の御祭礼御神楽にあたり、同社の宝物である羯鼓を、切目王子が気に入られるような最も良い場所に据え置くので、切目王子が御出現されて御祈祷される際には、極めて静粛に拝まれるようにと、羯鼓を採物として、非常にひょうきんな所作を繰り返しながら舞う曲目である。この曲目は、神楽の曲目「切目」の前編的な性格のもので、「切目」の曲目の詞章に羯鼓が出てくることから、後に付加されたものとする説があるが定かではない。地域によっては、「切目」の曲目のみで「羯鼓」の曲目は存在しないとされる。切目王子と羯鼓の関係は、その昔、高天原から紀伊の国牟婁の郡の音無川の辺に羯鼓が降ってきたので、その羯鼓を打ったところ、数多くの神々が集まったが、五体王子神社の切目王子が羯鼓を打ち鳴らし始めると、その音は遠国・近国の隅々に至るまで響きわたって、五穀、特に、稲は長くしなやかに撓んで良く稔り、農民は豊かになり国家は繁栄した。このため、その羯鼓を宝物として熊野大社に奉納したとするものである。
1 鞨鼓の由来
「羯鼓」は、雅楽で管弦と左方の舞楽に用いられる打楽器で、長さ30センチの筒(胴)の両側に、直径24センチの鉄の輪に張った革を八つの穴から皮の緒で締め付ける。これを大調べと言い、音の調子を整えるために絹の緒で締め付けるのを小調べと言うとされる。
鼓面は胡粉で白く塗ってあり、筒には樫や桜の木が用いられる。装飾には蒔絵が施されている。これを26センチの唐木で作った撥で打ち鳴らす。一つ打つのを「正」、連続して打つのを「来」、両手で交互に打つのを「諸来」と言うとされる。
この鼓は、後漢・晋の頃、西北方から中国本土に進入・移住し、山西省上党郡武郷県羯室の地に居住した五種の塞外(さいがい)民族(五胡)のうちの一種族である「羯(けつ)」から日本へ伝わったことから、「羯鼓」と名付けられたとも言われ、「鞨鼓」「揩鼓」「鶏婁鼓」などと多種に記される。
羯鼓の原型と思われるものは、中国の敦煌(とんこう)莫高窟第220窟北壁の伎楽図(ぎがくず)にも見られるとされ、その発祥は中国大陸であったことが推察される。日本へ伝わってからは、光仁天皇在位の宝亀9年(778年)、皷生従八位下・任生駒麿が打ち方を定め、この頃に格式が確立して現在に継承されているとされる。
2 切目王子の本地
切目王子は、熊野権現の御子神である九十九王子の中でも、特に格式が高く、貴人達にも慕われた五体王子(藤白・切目・稲葉根・滝尻・発心門王子)の一つで、切部王子、分陪支王子、御所王子とも呼ばれた。
切目王子は、鎌倉時代に成立したとされる「諸山縁起」に、「切目の金剛童子は十一面観自在菩薩の黒炎の体なり」とあるように、御子神のほかに仏教の十一面観音を本地仏とする金剛童子を原像にもっている。十一面観音は、サンスクリット語のエカーダシャ・ムッカ(11の顔を持つ者)の意訳で、その起源はインドとされ、バラモン教において天候や雨水を支配し、一度怒れば生き物や草木をも滅ぼす11の顔を持つシヴァ神といわれる。
本地仏とは、本地垂迹思想に基づく、神の本地(本体)は仏であるという考え方で、本体である仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現れたのだとするものである。金剛童子は、西方無量寿経仏の化身で、憤怒の童子形を現じ金剛杵を執る。
切目王子は、「五躰王子宮御鎮座并御宮造営記」によれば、人皇10代崇神天皇67歳庚寅9月に、地神五代の五躰の御神が垂迹座し、覆天雨宮五躰王子と顕れて御鎮座したとあり、「天を覆う雨の宮」とするその名称から、雨神としての性格を有する神であることが推測される。
雨や水を司る神としては、弥都波能売神(みつはのめのかみ)や闇淤加美神(くらおかみのかみ)、更には龍神や龍王が一般的であるが、切目王子も、また、雨水を司る神として顕現しているのである。
切目王子の旧社殿は、天正13年(1585年)の兵火で焼失したことから、現社地に移されたとされ、旧社地は「太鼓屋敷」呼ばれ、大塔宮記念碑が建てられている。
雨水を司る神として特に有名なのは、江戸時代前期に活躍した京都の絵師・俵屋宗達の風神雷神図屏風などに見られる「雷神」で、雷神もまた前述した十一面観音と同様に、その起源はインドとされ、バラモン教の神々から仏教に取り入れられたとされる。
雷神は雷を神格化した神で、風神とともに千手観音の28部衆の眷属と戦って敗れ、仏教に帰依したとされ、水神・火神としての性格を有し、その姿態は、背後に小太鼓を輪にめぐらせ、両手に撥を持ち、肩に布を掛け、上半身は裸で下半身には裳を着て雲を配した岩座に乗っている。農耕民族にとって雷は、大地に恵みの雨をもたらす農業の神なのである。
日本書紀巻第十四雄略天皇の段に、小子部(ちいさこべのすがる)は、雄略天皇の三諸岳の神の姿が見たいという命令に従って、三諸岳に登り大蛇を捕らえて来て見せた。大蛇は雷鳴のように轟き、目を輝かせた。天皇は畏れて大蛇を見ずに御殿の中に入り、神を岳に放させた。そこで、改めて小子部(ちいさこべのすがる)に名を賜り、雷(いかつち)としたという記述が見える。大蛇が雨水を司る神であることは、古事記、日本書紀の記事からも容易に推察されるところで、雄略紀の記事は、大蛇を雷と同一視している。
なお、神の名の「雷」という漢字は「イカツチ」と読まれるが、それは荒々しいさまを表す「イカシ」と霊を意味する「チ」からなる言葉で、解字は、覆っている雲から水滴がおちる様の「雨」とかみなりのゴロゴロなる音を表す「田」(省略字)からなるとされる。また、雷が神とされる所以は、漢字の「神」に使われている「申」は稲妻の走る形とされ、注連縄や御幣に取り付けられる垂も稲光を象ったものとされることからも伺い知ることができる。
3 呪具としての太鼓
太鼓は、日本の民族音楽の最も重要な基本的な楽器で、太鼓を使わない民族芸能は極めて希で、神楽をはじめとする諸種の民族芸能において、古来より太鼓を神聖視する傾向が見られる。
西日本に広く分布する民族芸能の一つに太鼓踊りがあるが、太鼓、あるいは羯鼓を身に付けた一団の者が、花笠や神籬を背に付けて踊る風流踊りで、羯鼓踊り、諫鼓踊り、白太鼓踊り、楽打ちなどと呼ばれ、その殆どは雨乞いに用いられるところから雨乞い踊りとも呼ばれ、田楽や田楽躍が風流化したものと見られている。
雨乞いは、農作の過程において降雨を祈って行う呪法で、農耕民族にとっては必要不可欠なもので、その方法には様々な方法が存在するが、前述した旱魃(かんばつ)の時などに雨の降ることを祈って踊られる雨乞い踊りもその一つの方法である。雨乞いに太鼓を用いる最も大きな理由は、その大きな音が雷鳴に似ていることにより、類感呪術として効果を期待するためと思われる。
神楽曲目「羯鼓」で、五体王子神社の切目王子が羯鼓を打ち鳴らし始めると、その音は遠国・近国の隅々に至るまで響きわたって、五穀、特に稲は長くしなやかに撓んで良く稔り、農民は豊かになり国家は繁栄したとする内容は、大地に恵みの雨をもたらす雨水を司る神としての性格を有する切目王子の神威を如実に物語っているといえる。
なお、神楽曲目「切目」では、「…かざすや波の、太鼓の拍子を揃へて、とうとうとうと踏む足音に、鳴る雷を踏みとどろこし、あめもはらはら晴やかなり」の神楽歌が見え、切目王子自体が雷神そのものと見なされているものと思われる 。 
学問の神・天神
「天神」は、「菅原道真」を祀り、学問・文学の神として広く信仰されている。道真は詩文に優れた人物であったとされているが、なぜ道真だけが天神として広く崇敬されるのであろうか。
道真は幼くして衆に秀で、五歳の時に和歌を詠み、十一歳で詩を賦し、白楽天の再来と称えられた。朝廷に仕えて、右大臣・右大将という高位まで上ったが、左大臣・左大将の「藤原時平」一派の讒言(ざんげん)によって、延喜元年(901年)、突然、太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。配所において道真は、恩賜の御衣(みぞ)を捧じた詩を詠んで、断腸の思いを述べたことは有名である。配所にあること3年、延喜3年(903年)2月25日、59歳をもって没した。
菅原道真は、俗に「天神様」として庶民に親しまれ、現代では、合格祈願の受験生で賑わう学問の神とされている。次の二首は道真の神詠であるが、「誠の道」と「清き心」は神道の根本であるといわれている。
「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん」「海ならずたたえる水の底までも清き心は月ぞ照らさん」1道真の出自道真は平安初期の公卿・学者で、承和12年(845年)6月25日、菅原是善の三子として生まれ、祖父は遣唐判官として唐に渡り、弘仁9年(818年)に儀式・衣服を唐風に改めることを提案した菅原清公である。元は土師姓で、曾祖父の古人から大和の居住地にちなみ「菅原」姓に改め、代々儒者を輩出した。
2 道真の事績
道真は、幼少より学問にいそしみ、貞観四年(862年)に文章生、元慶元年(877年)に式部少輔・文章博士になり、同4年に父是善が没すると、学界の一大勢力をなしていた菅家の私塾を背負うことになるが、その隆盛を喜ばない学者達の嫌がらせにより讃岐守として赴任した。讃岐国において地方民の生活を直接知る機会を得た道真は、4年後に都に帰ると、宇田天皇に重用されて順調に官位を昇った。
道真は、寛平九年(897年)に権大納言・右大将に昇進したが、権門の藤原時平も同時に大納言・左大将に昇進し、醍醐天皇の即位後、昌泰2年(899年)に道真が右大臣・右大将、時平が左大臣・左大将にまた同時昇進した。藤原時平一派は他氏の地位の上昇を快く思わず、道真が天皇の廃位を密かに企てていると讒言し、延喜元年(901年)に道真を太宰権帥に左遷することに成功し、道真の4人の男子も官途を失った。道真の太宰府での生活は苦しく、病魔に冒され、同3年2月25日に没した。
3 怨霊の祟り
京都では、道真の没した翌年・延喜4年(904年)は疫病があり、4月は雷電が激しく起こり、7月は旱魃が続き、5年4月は月食と大彗星が現れ、6年はまた雷雨暴風が激しく、8年は炎天が継続するなど天変がうち続き、延喜8年(908年)に藤原菅根が、また翌9年に藤原時平が39歳の若さで亡くなった。いずれも道真配流の主謀者であった。延喜13年(913年)には道真配流の後を受けて右大臣となった源光が横死を遂げた。その他京中に大火・事変が続き、時の人々はこれを道真の「怨霊」のなせる業と噂した。
延喜23年(923年)3月には時平の娘を妃とする皇太子保明親王が21歳の若さで崩御するに及び、遂に道真の官を右大臣に復し、正二位を追贈し道真左遷の文書を破棄して大赦の令が発せられた。しかし、なおも時平の一族に不幸が重なったため、このような不幸や災難は道真の「怨霊」の祟りによるものと人々に信じられた。
4 怨霊から天神へ
延長8年(930年)に異常な旱魃が継続したため、殿上において雨乞いの修法を協議していたところ、清涼殿に落雷して藤原清貫が即死したほか数名の死傷者が出た。農民にとって雷は、大地に恵みの雨をもたらす天の神・農耕の守護神であり、最初、怨霊として恐れられた道真は、この落雷事件を契機に「天神」と意識され始められた。
その後、道真が学者、文人、政治家として優れていたところから、詩歌、文筆、学問の神として庶民に崇敬されるようになって、京都の文子天満宮や北野天満宮に祀られ、全国に勧請されるに至った。 
神話の本質 

 

1 朝廷への服従「八岐大蛇退治神話」
八岐大蛇退治神話は、古事記上巻及び日本書紀巻第一神代上第八段に見える。この神話については、以前から不可解とされている問題が指摘されている。それは、古事記、日本書紀の編纂に程近い頃に成立した文献の一つで、多くの地元の神話が収録されている「出雲国風土記」や大和朝廷に服属して出雲の国を支配した出雲国造が、天皇に奏上したとされる「出雲国造神賀詞」に、この神話に該当すると思われる記述が見られないことである。
その理由としては、古事記及び日本書紀に記述されている神話は省いたとする説、あるいは、八岐大蛇退治神話の原型となったような話は存在したが、出雲では古事記、日本書紀の神話を快く思わず、わざと除外したとする説、また、出雲風土記の「越の八口」を征服する記述が、この神話に該当するとする説など諸説あるが、どれも未だに定説をなすに至っていないようである。
この神話自体については、既に、肥沃な農耕地が河川の洪水によって荒らされるのを表現したとする説、また、産鉄のために鉄を土塊から分離するのに河川の水流を利用したのを表現したとする説など、諸氏によって考察がなされている。
(1) 物語の概要
日本書紀によると、高天原を追放された素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、出雲の国の簸(ひ)の川の川上に降った。その川上で、娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)を囲んで泣いている国つ神の脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)の老夫婦に出会った。泣く理由を尋ねると、脚摩乳は「私には多くの娘がいたが、年毎に娘を八岐大蛇に呑まれ、今、この娘も呑まれようとしているのに、免れるすべがなく泣いてる」と答えた。そこで、素戔嗚尊は、娘の奇稲田姫を娶る約束を老夫婦と交わし、その娘を神聖な櫛に変化させて髪に隠し、老夫婦に幾度も醸した強い酒を用意させ、仮の膳棚を数多く作り、その膳棚に酒を入れた容器を一つずつ置いて、大蛇(をろち)が現れるのを待ち受けた。
しばらくすると、脚摩乳が言ったとおり大蛇が現れた。その大蛇は、頭と尾はそれぞれ多数に分かれ、目は酸漿(ほおずき)のようで、背には松や柏などの常緑樹が生え、沢山の丘と谷の間に跨り、それぞれの頭を一つずつの容器に入れて酒を飲み、酔って寝てしまった。この時、素戔嗚尊は、所持していた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、ずたずたに大蛇を斬ったが、尾の部分に達したとき、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を裂いて見たところ、中に一振りの剣があった。大蛇のいる上にはいつも雲が棚引いていたので、素戔嗚尊は「これは不思議な剣である。何と特別に私が貰い受ける」と言って、天叢雲剣(あまのむらくもつるぎ)と名付けて天つ神に献上した。
それから後、素戔嗚尊は、奇稲田姫と結婚して住む場所を探し求め、遂に出雲の須賀(すが)の地に着き、「私の心は清々しい」と言って、そこに宮殿を建てた。この時、素戔嗚尊は「八雲立つ出雲八重垣妻込めに八重垣作るその八重垣を」の歌を詠んだ。やがて二人の子供である大己貴神(おほあなむちのかみ)が生まれた。そこで、素戔嗚尊は私の子供「の宮殿の首長は脚摩乳・手摩乳である」と言って、二人の神に稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)の名前を授けたとある。
素戔嗚尊による大蛇退治の舞台となった場所は、一書では、簸の川の川上の鳥上(とりがみ)の峯(たけ)とあり、また、別の一書では、安芸の国の可愛(え)の川の川上とする異伝もある。更に、別の一書では、八岐大蛇の姿態は、頭ごとに岩や松が生え、両脇に山が存在しているとある。
古事記の内容も概ね日本書紀と同様であるが、足名椎(あしなつち)は国つ神の大山津見神(おおやまつみのかみ)の子供とあり、また、大蛇は高志の八俣遠呂智で、その胴体には蘿(ひかげ)の葛(かずら)や檜、杉の木が生え、腹は一面にいつも血に爛(ただ)れているとある。更に、大蛇を斬ったならば肥(ひ)の河の水は真っ赤な血となって流れたとある。
(2) 神話の真意
日本の神々は、古くから数多く認められ、それらを総称して「八百万(やおよろず)の神」(古事記上巻)「八十(やそ)万(よろず)の神たち」(日本書紀巻第一)などと呼称されている。いずれも神々が数多いことを讃えていう言葉とされ、この神々を二大別して、天つ神・国つ神といわれている。平安時代に完成した延喜式巻八の大祓祝詞(おおはらえののりと)には「天(あま)つ神(かみ)は天(あま)の磐門(いわと)を押(お)し披(ひら)きて、天(あま)の八重雲(やえくも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別(ちわ)きて聞(き)こし食(め)さむ。国(くに)つ神(かみ)は高山(たかやま)の末短山(ひきやま)の末(すえ)に上(のぼ)り坐(ま)して、高山(たかやま)の伊襃理(いほり)、短山(ひきやま)の伊襃理(いほり)を掻(か)き別(わ)けて聞(き)こし食(め)さむ」とあり、天つ神は天上の幾重にも重なった雲の中に存在し、国つ神は地上の高い山低い山の草むらあるいは岩の洞窟の中に存在するとしている。古事記、日本書紀の日本創世神話にも見られるように、古代人の世界観は、天と地がそのすべてであると想像して、天と地にそれぞれ神の存在を認識していたと考えられる。
天つ神・国つ神は、中国の唐の時代に使われていた熟語を借用して「天神地祇(あまつかみくにつかみ)」とも記述されるが、日本の天神地祇は、中国におけるそれとは分類を異にして、「天神(あまつかみ)」といっても天上を司る神々ではなく、「地祇(くにつかみ)」といっても地上を司る神々でもなく、その分類は日本独特のものとされる。古事記、日本書紀神話の中で、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)という男女の天つ神が生み出した地上の世界で、この両神の働きによって誕生する神々は、すべて天つ神に属するとされる。
一方、国つ神は、素戔嗚尊の系譜からはじまり、この神自身は、古事記、日本書紀では伊邪那岐大神の禊祓いによって、あるいは伊弉諾尊・伊弉冉尊の協議によって生まれた神として天つ神に属するが、その親神に反抗したうえに、姉の天照大神に反逆した罪で高天原から地上に追放された結果として、国つ神の系譜をたどることになり、この神の系譜に連なる先住民族の神々が国つ神とされる。しかし、古事記に見える大山津見神(おおやまつみのかみ)という山の神や大綿津見神(おおわたつみのかみ)という海の神のように、系譜的には天つ神に属するが、その性格から地上に先住する国つ神に分類される神も見られる。
素戔嗚尊が天降った地上の国が出雲の国であったことから、国つ神の系譜は、更に、「出雲系」の神々ということになり、それに対応して天つ神の系譜は「天孫系」の神々という性格が加わることになる。つまり、古事記、日本書紀の国譲り神話や天孫降臨神話、神武東征神話が物語るように、天孫系の民族が地上に降臨して、先住する出雲系の民族を次々に服属せしめて行く中で、自分達が崇拝してきた神々を天つ神、また出雲系の民族が崇拝してきた神々を国つ神として系列化していったと思われる。
この八岐大蛇退治神話は、天つ神の系譜を嗣ぐ天孫系の民族が、先住する国つ神の系譜を嗣ぐ出雲系の民族を次々に服属させ、大和を中心に支配圏を拡大させた大和王権の支配の正当性を示唆するために、極めて巧妙に仕組んだ最初の物語と考えられ、これは、後に高天原を治める天照大神が、中つ国を治めている出雲系の大己貴神(おほあなむちのかみ)に平和裡に国譲りをさせて、その孫神に当たる天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を地上に派遣するという、いわゆる国譲り神話へと発展する前編ともいえるのである。
古代において、稲作や製鉄を制することは、その国を制することであり、この八岐大蛇退治神話の真意は、稲作や製鉄の技術を有し、山の神(峰の霊・大蛇)を崇拝する先住民族(国つ神系)の日の神を崇拝する朝廷(天つ神系)への服従を決定させるものである。
(3) 大蛇の正体
「ヤマタノヲロチ」は、日本書紀では「八岐大蛇」と記述され、古事記では「八俣遠呂智」と記述される。既に「八幡神の随神『門丸』」の項で記述したとおり、「ヲロチ」は、「峰の霊(をろち)」の意味とされることなどから、八岐大蛇は、蛇を地霊の象徴とする原始の信仰が、稲作や製鉄、祖霊などと結びついた「山の神」ではないかと推察される。
日本書紀巻第十四雄略天皇の段に、小子部(ちいさこべのすがる)は、雄略天皇の三諸岳(みむろのおか)の神の姿が見たいと言う命令に従って、三諸岳に登り大蛇を捕らえて来て見せた。大蛇は雷鳴のように轟き、目を輝かせた。天皇は畏れて大蛇を見ずに御殿の中に入り、神を岳(おか)に放させたという記述が見え、更に、同巻第十七景行天皇の段に、伊吹山の神を取り押さえに山に入った日本武尊は、大蛇に化した山の神をそれとは知らずやり過ごして、この神の降らす氷雨と霧に捲かれ、伊勢の鈴鹿に崩じたとする記述が見えることなどから、大蛇は山の神であることが想像される。
古事記の万物創世神話の中で、山の神の誕生に関する記述は、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が、十三番目の子として山の神の大山津見神(おおやまつみのかみ)を生む。次に野の神の鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)を生み、この両神の間に山野の土、霧、谷間などの八柱の山の神が生まれたとする部分と、伊邪那美命が、火の神の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生むことによって火傷を負って亡くなる。伊邪那岐命が、泣きながらその子火の神を十拳剣(とつかのつるぎ)で斬ったところ、死体から端山・外山の神などの八柱の山の神が誕生したとする部分の二か所である。大山津見神は、日本書紀では大山祇神と記述され、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を斬ったときに生まれたとされ、その誕生に関しては古事記の記述とは異なっているが、いずれもにしても広く山を支配する神とされている。また、火之迦具土神は、火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)、火之R毘古神(ひのかがひこのかみ)の別名を持ち、日本書紀では火神軻遇突智(ひのかぐつち)と記述され、火産霊(ほむすび)の名でも登場し、いずれも「火」と言う文字が冠せられていることから、火を司る神とされる。
日本書紀の一書では、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、軻遇突智を生んで火傷に苦しみながらも土神埴山姫(つちのかみはにやまひめ)と水神罔象女(みずのかみみつはのめ)を生み、軻遇突智はその埴山姫と結ばれ、稚産霊(わくみすび)を生んだ。この稚産霊という神からは、頭上に蚕と桑、臍(へそ)には五穀が生じたという記述が見える。制御しなければ全ての物質を焼き尽くす火、しかし、それを制御すれば作物や道具を作り出す火、そのような破壊と生成という正反対の力を持つのが火の神なのである。
古代人が、火を制圧し制御する方法を得たことによって、その生活は、それ以前と比較して一変したと考えられる。寒さを防ぐために暖をとることから始まり、暗闇の解消や食物の調理、土器・土偶の製作、焼き畑農耕、鉄器の製作など数えあげれば際限がなく、古代人は、正に「火」は神からの授かり物であり、神からの贈り物であると考えたと思われる。
大地に存在するもののうち、その最大のシンボルは雄大な山であるが、その中でも大地を突き破り空高く火柱を吹き上げる「火山」は特別な存在で、火の発生源である火山を神そのものと考えたとしても不思議ではなく、火山の大爆発によって発生する大音響や噴火、噴煙、溶岩流、火砕流、土石流などの様子は、古代人にとって偉大なる存在で、神のなせる業と映ったに違いないと思われる。
全くの私見であるが、古事記、日本書紀の八岐大蛇退治神話に見える山の神である大蛇の姿態はこのような状態を描写しているのではないかと推察する。大蛇の目は酸漿(ほおずき)のようであるとは、真っ赤に煮えたぎる火口や空高く吹き上げる噴火を想像させ、頭と尾はそれぞれ多数に分かれ、背には松や柏などの常緑樹が生え、沢山の丘と谷の間に跨っているとは、数個の火山から延々と連なる山脈を連想させる。また、腹は一面にいつも血に爛れ、大蛇を斬ったならば肥の河は真っ赤な血となって流れたとは、火口から蛇行を繰り返しながら麓に流れ降る溶岩流を想像させる。更に、大蛇の上にはいつも雲が棚引いているとは、火口から吹き上げられた噴煙によって覆い尽くされる空をも想像させる形容である。
「地霊」は、万物を育み恵みを与える一方、地震や風水害などの災厄をもたらす大地に宿る霊的な存在のこととされているが、火を利用することによって豊かな生活を享受してくれる反面、一度噴火すればそのすさましい威力によって災害をもたらすなど、恩恵と災厄の両面を併せ持つ火山は、古代人にとっては地霊そのものであり、蛇に象徴される神の化身の姿である大蛇(峰の霊)であったと思われる。
ところで、民俗学的に見る山の神は、山に宿る神の総称で、多くの地域では女神と考えられ、その共通した性格は、気性が荒く、容姿が醜く、性的象徴を好み、多産とされる。それは山の神が生産神であることから、このような性的要素が付加されたものと思われる。山の神は、農民にとっては稲作に最も必要な水をもたらしてくれる農業の神であり、また、山民にとっては食料である獲物や果実、製鉄に必要な鉱物を享受してくれる食物の神や産鉄の神なのである。なお、山の神は、一部地方では禁忌が厳しく、出産や月経の穢れ、女性を嫌うという伝承が見られるが、どのような理由によるものか判然としない。
(4) 神話の考証
「スサノヲノミコト」は、日本書紀本文では「素戔嗚尊」、あるいは、一書では「神素戔嗚尊」「速素戔嗚尊」と記述され、また、古事記では「建速須佐之男命」「速須佐之男命」と記述される。八岐大蛇退治神話の主役である素戔嗚尊は、日本書紀では伊弉諾尊・伊弉冉尊が共に協議して、既に大八洲(おおやしま)の国及び山川草木を生んだので、天の下の主者(きみたるもの)を生もうと言って、日の神、月の神、蛭児を生んだ後に生まれたとあり、また、古事記では黄泉(よみ)の国から逃げ帰った伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)が筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あわぎはら)で禊祓(みそぎはら)いをした際、天照大御神、月読命を生んだ後に鼻を洗ったときに生まれたとある。前述したように、素戔嗚尊は天つ神に属するが、高天原から地上に追放された結果として、先住する民族としての国つ神の系譜をたどることになり、出雲においては、開拓祖神としての性格が加わることになる。
出雲国風土記の仁多・大原・出雲の郡の条に「鳥上山」「斐伊の川」の記述が見え、素戔嗚尊が天降った簸の川の川上の鳥上の峯は、現在の島根県仁多郡横田町の斐伊川の上流に位置する鳥取県と島根県の境にある船通山付近に比定されている。出雲国風土記の仁多の郡の横田の郷の条の小書きの割注に、三処・布勢・三沢・横田の郷を指して「以上の諸々の郷は鉄を産出するところである。堅くて様々な器具を造るのに最も適している」との記述が見られ、更に、仁多の郡の三処・三津・横田の郷の条、大原の郡の屋代・阿用の条、出雲の郡の漆沼・美談の郷の条などに水田の存在や正倉の所在を示す記述が見られ、古くから仁多の郡一帯が産鉄の地域で蹈鞴(たたら)が行われ、斐伊川の流域である仁多・大原・出雲の郡一帯では稲作が盛んであったことが推察される。
蹈鞴とは、本来は製鉄や鍛冶で火炎を強化するために用いる空気を送る大型の鞴(ふいご)のことで、後に製鉄施設の全体を意味する言葉となったとされる。この地方一帯の蹈鞴では、製鉄や鍛冶の技術をもたらしてくれた職業祖神である鍛冶神として金屋子(かなやご)という神をもって守護神としているが、その素性は明らかでない。しかし、金屋子縁起抄によれば、古事記に見える鉱山の神である金山毘古神・金山毘売神の間に生まれたのが金屋子神であるとされる。古事記では、金山毘古神・金山毘売神は、火之迦具土神を生んで陰部を火傷して苦しんでいた伊邪那美命が嘔吐したときに、その嘔吐物から生じたとされ、この神の誕生の背景には、火を司る火之迦具土神(火神軻遇突智)が起因しており、金山毘古神・金山毘売神の間に生まれたとされる金屋子という神に、製鉄や鍛冶にとって必要不可欠な「火」の存在があることは間違いないと思われる。
日本書紀に見える簸の川の「簸」という字は、箕などで穀物をあおって糠を放り捨てること、また、古事記に見える肥の河の「肥」という字は、土地などが肥えることの意味で、いずれも農耕との関係を示唆する呼称である。出雲国風土記の大原の郡の斐伊(ひ)の郷の条に「樋速日子命(ひはやひこのみこと)がここに鎮座しておられる。だから樋(ひ)という」という記述が見え、斐伊の郷の「斐伊」の字は元は「樋」で、神亀三年に改めたとされ、斐伊の川も同時に「樋の川」から改められたと思われる。
樋速日子命は、現在の島根県大原郡木次町里方に鎮座する斐伊神社の祭神で、斐伊川の神格化と見られており、前述したとおり斐伊川の流域では稲作が盛んに行われていたと考えられ、「樋」とは、水を導き送るための長い管や溝などの設備の意味であり、「樋の川」は、稲作などにとって必要な水を導き送るための「用水路」に見立てた呼称ではないかと思われる。一説では、古事記に火之迦具土神を斬った血から樋速日命が生まれたとする記述が見え、この「樋」は、乙類の「hi」で、「火」や「乾」と同様な意味であり、「樋速」とは、火の勢いの猛烈なこと、あるいは熱によって物を乾かすことが速い意味とされ、火之迦具土神という火を司る神から生まれた樋速日命は、その性質を受け継ぐ神であることは言うまでもないことある。
前述したように、この地方一帯では、古来から製鉄や稲作の文化が存在していたことが推察され、素戔嗚尊が天降った簸の川とは「火の川」がその元であり、火を司る神が製鉄や稲作と密接に結びついた呼称で、つまり、製鉄が盛んに行われている地域に源流を発し、稲作に必要な水を存分にもたらしてくれる川という意味ではないかと考えられる。
脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)の子供である奇稲田姫は、霊妙不思議な稲田の姫神の意味とされ、稲田の守護神であると同時に、巫女的性格も指摘されている。奇稲田姫の父母である脚摩乳・手摩乳は、古事記では国つ神大山祇神(大山津見神)の子供とされる。大山祇神は、日本書紀では伊弉諾尊が火神軻遇突智を斬ったときに生まれた神とされ、前述したとおり火山が地霊そのもので、蛇に象徴される神の化身の姿である大蛇であったとすれば、火を司る神として最初に生まれた火神軻遇突智(火之迦具土神)は大蛇であり、火神軻遇突智から生まれた大山祇神という山の神は大蛇としての性質を有していることとなる。当然、その子供である脚摩乳・手摩乳も、その孫娘である奇稲田姫も同様であることは多言を要しないところである。
吉野裕子氏は、その著「山の神」の中で、大山津見神の「山津見」は「山の蛇(やまつみ)」であって、山の神は蛇を暗示している。蛇の子は蛇に相違ないが、そのとおりこの老夫婦はそれを物語っている。つまり、夫の名は「足無の霊(あしなつち)」、妻の名は「手無の霊(てなつち)」と読めるとし、手と足が無いのは蛇の一大特徴であるから、四肢の無い神霊というのは蛇をおいては考えられない。また、鼠を好んで補食する蛇は鼠の天敵であるから、蛇神の娘の奇稲田姫は稲田の守護神であって、ここから稲田を守る優れた霊蛇として奇稲田姫の名が生まれると考察している。
奇稲田姫は、前述したとおり霊妙不思議な稲田の姫神の意味とされ、日本書紀の「今(いま)此(こ)の少童(おとめ)、且臨被呑(のまれな)むす」の記述は、「今、この娘、まさに受け入れられ、包み込まれようとしている」との意味に解され、また、後に素戔嗚尊が、奇稲田姫の父母である脚摩乳・手摩乳に、稲田を守る宮の首長の意味である「稲田宮主神」の名前を授けたとする記述からも、奇稲田姫は、山の神(大蛇)に奉仕せんとする稲田に関わる巫女を想像させ、奇稲田姫は、大蛇である火神軻遇突智の玄孫にあたり、祖先神である大蛇を敬い、これに奉仕することは、しごく自然なことでなのである。素戔嗚尊は、大蛇を巨大で恐ろしいものに仕立て、大蛇から姫を助ける善神として表現されているが、稲作の支配を示唆しているのではないかと推察する。
日本書紀に、木花開耶姫(このはなさくやひめ)が天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)と結婚して、御子火火出見尊(みこほほでみのみこと)を生んだとき、父大山祇神は大層喜んで、さっそく狭名田(さなだ)の稲を以て天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天つ神・国つ神に供して祝った旨の記述が見られ、大山祇神は酒造りの始祖で酒解神(さかどきのかみ)と呼ばれる。脚摩乳・手摩乳が、素戔嗚尊の指示に従って酒を用意したのは、大蛇を酔わせて抵抗を不能にするためではなく、酒造りの始祖である大山祇神の子供である脚摩乳・手摩乳が、稲から造った酒を祖先神である山の神(大蛇)に供することは、また、自然なことなのである。
火山国である日本では、花崗岩や石英粗面岩のあるところなら、どこでも砂鉄は採れるが、前述したように、出雲風土記の仁多の郡の横田の郷の条には、産鉄に関する記事が注記されており、古来から、この地方一帯では良質な砂鉄が産出し、製鉄が行われていたことが想像される。素戔嗚尊が、大蛇の尾から剣を発見し、その剣を天つ神に献上したとする記事は、天つ神の意図によって、素戔嗚尊による産鉄資源の確保を示唆しているのではないかと推察する。古事記、日本書紀には、鉄に関する記事が実に多い。これは、両書が編纂された6・7世紀において、国家体制の確立に鉄の存在が重要な位置を占めていたからにほかならないのである。縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、大陸から稲作や製鉄の技術がもたらされたことは、考古学上からも確かめられている。先住民族が崇拝する火の発生源の火山である地霊は、蛇に象徴され、稲作や製鉄と結びつき、更には、祖霊の神格が加わるなど、その霊力は多様化するに至り、山の神(峰の霊・大蛇)として変容していったと推察される。
2 太陽の復活祈願の神事「天石屋戸神話」
天石屋戸神話は、須佐之男命の暴挙に立腹した天照大御神が石屋戸に隠れられたので、思金神が一計を案じ、天児屋命、天布刀玉命、天宇受売命、天手力男命などに命じて、目出度く天照大御神を石屋戸からお出しするという神話で、日本の古典である「古事記」「日本書紀」に記されている。
この神話については、天照大御神を中国の史書である「三国志」(陳寿)撰、297年)魏書東夷伝倭人条にある邪馬台国の女王「卑弥呼」に反映させて、邪馬台国の女王「卑弥呼」の死を神話化したとする説、また、天照大御神が活躍した時代と思われる紀元230年から240年ごろの実際に起こった皆既日食現象を神話化したとする説など諸説が存在するが、この神話は、風水害などの自然災害に対して太陽の復活を祈願する神事を神話化したものではないか思われる。
その立役者の一人である須佐之男命は、太陽が隠れる原因を作った神として登場し、その罪によって高天原から根の国へ追放されたが、その後、八岐大蛇神話では大活躍し、一躍、英雄として復活を果たしている。
(1) 物語の概要
古事記によると、須佐之男命は、天照大御神との誓約の勝ちに乗じて大御神の耕作する営田の畦を壊し、営田に水を引く溝を埋め、また、大御神が新嘗祭の新穀を召し上がる神殿に糞をひり散らかした。更に大御神が神に献上する神衣を機織女に織らせている機屋に馬の皮を剥いで投げ込み、これに驚いた機織女が梭で陰部を突いて死んでしまった。
これを見て恐れられた天照御大神は、天石屋の戸を開いて中にお籠もりになられた。そのために高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。こうして永遠に暗闇が続き、あらゆる邪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように世界に満ちて禍いが一斉に発生した。
このような状態となったので、あらゆる神々が天安河に集まって、高御産巣日神の子の思金神に善後策を考えさせた。
まず常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、次に天安河の川上の堅い岩を取り、天金山の鉄を採って、鍛冶師の天津摩羅を探して、伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ、玉祖命に命じて沢山の勾玉を貫き通した長い玉の緒を作らせた。次に天児屋命と布刀玉命を呼んで、天香具山の雄鹿の肩骨を抜き取り、天香具山の朱桜を取り、鹿の骨を灼いて占い、真意を待ち伺わせた。そして、天香具山の枝葉の繁った賢木を根ごと掘り起こして来て、上の枝に勾玉を通した長い玉の緒をかけ、中の枝に八咫鏡をかけ、下の枝に楮の白い布帛と麻の青い布帛を垂れかけて、これらの種々の品は、布刀玉命が神聖な幣として捧げ持ち、天児屋命が祝詞を唱えて祝福し、天手力男神が石戸の側に隠れて立ち、天宇受売命が、天香具山の日陰蔓を襷にかけ、真柝蔓を髪に纏い、天香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神懸かりして胸乳をかき出だし、裳の紐を陰部まで押し下げた。すると、高天原が鳴り轟くばかりに、八百万の神々がどっと一斉に笑った。
そこで天照大御神は不思議に思われて、天石屋戸を細めに開けて、中から仰せられるには、「私がここに籠もっているので、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういう訳で天宇受売は舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と仰せられた。そこで天宇受売が申すには、「あなた様にも勝る貴い神がおいでになりますので、喜び笑って歌舞しております」と申し上げた。こう申し上げる間に、天児屋命と天布刀玉命が、その八咫鏡を差し出して、天照御大神にお見せ申し上げるとき、天照御大神がいよいよ不思議にお思いになって、そろそろと石屋戸から鏡の中を覗かれるときに、戸の側に隠れ立っていた天手力男神が、大御神の御手をとって外に引き出し申した。直ちに布刀玉命が、注連縄を大御神の後ろに引き渡して、「この縄から内に戻ってお入りになることは出来ません」と申し上げた。こうして天照御大神がお出ましになると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなったとある。
日本書紀の内容も概ね古事記と同様な内容であるが、日本書紀本文では、素戔嗚尊が天照大神が神に献上する神衣を織っている斎服殿へ、生き馬の皮を剥いで投げ込み、それに驚いた大神が、機の梭で身体を傷つけたとあり、また、一書では、天金山ではなく、天香山の金を採って石凝姥に日矛を作らせたとある。
(2) 神話の真意
紀元前三世紀頃、中国から稲作文化が日本に伝来して以来、日本人は主として農耕を営み現在に至っている。古代、農耕は国の最も重要な産業であり、農耕民族にとって天地の安寧や季節の順調な推移は、極めて大切な事象で、特に農作物の成長に影響を及ぼす太陽の光は必要不可欠な存在である。そこで、農耕神としての太陽を反映した日の神たる「天照大御神」、いわゆる「皇祖神」が誕生したと考えられる。
毎年、冬至の日に、その年に新しく採れた五穀の新穀を神に供えて、天照大御神及び天神地祇を奉り、天皇自らも新穀を食する宮中祭祀の一つである「新嘗祭」が執り行われるが、このことからも、農耕と天照大御神との密接な関係が推察される。
天照大御神が、石屋戸に隠れられる原因となった須佐之男命の悪事として、古事記では、天照大御神の耕作する営田の畦を壊し、田に水を引く溝を埋め、また、大御神が新嘗祭の新穀を召し上がる神殿に糞をひり散らかし、更に大御神が神に献上する神衣を織っている機屋に馬の皮を剥いで投げ込み、これに驚いた機織女が梭で陰部を突いて死亡したとある。
日本書紀でも概ね古事記と同様な内容であるが、春の種播きの後、更に種を播き、秋には馬を田の中に放ち、また、機屋に馬の皮を剥いで投げ込み、それに驚いた天照大神が梭で身体を傷つけたとある。
ここにおいて、特に注目すべき悪事は前段部分で、いずれも農耕を不可能にしているという点であるが、その前編でも、伊邪那岐命から海原を治めるように委任された須佐之男命は、国を治めず、長い髭が胸前に垂れるまで泣きわめき、その様子は青々と茂る山を泣き枯らし、河海まで泣き枯らしてしまった。この悪神のたてる音は蠅湧き上がり、万物は災いに見まわれたとある。前述したように天地の安寧や季節の順調な推移は、農耕民族にとっては極めて大切な事象であり、風水害などの自然災害によって引き起こされる農耕の障害を須佐之男命の悪事に置き換えて、それによって太陽の光を反映した天照大御神が石屋戸に隠れるとする神話が作られたものと思われる。
須佐之男命は、「荒ぶる神・須佐之男命」の項でも記述したように、その神性が疫神と考えられる一方で、その荒ぶる神性から疫気を祓う威力を発揮すると古くから信仰上でとらえられていた。
(3) 神話の考証
「アマテラスオオミカミ」は、古事記では「天照大御神」、日本書記本文では「大日貴」「於保比屡灯\武智」と記され、また、一書では「天照大日尊」「天照大神」と記される。
古事記では、伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原において禊をしたときに生まれた神で、「ここに左(ひだり)の御目(みめ)を洗(あら)ひたまふ時(とき)成(な)りし神(かみ)の名(な)は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)」とあり、一方、日本書紀本文では、伊弉諾尊と伊弉冉尊が相談して、私達は既に多くの大八洲国と山川草木を生んでいるので、どうして天下の主宰者を生まないことがあろうかと言って生んだ神で、「是(ここ)に、共(とも)に日(ひ)の神(かみ)を生(う)みまつります。大日貴(おほひるめのむち)と号(まう)す」とある。
天照大御神が皇祖神としての性格のほかに太陽神としての性格を持ち合わせていることは前述したとおりで、日本書紀本文の大日貴の「」の字は「霊的な能力を持った女」の意味であり、ヒルメについては「日の妻」とする説や「日の女」とする説など諸説あるが、いずれにしても大日貴が「日の神」とされていることからも、太陽神としての性格を持ち合わせていることは十分に推察されるところである。
智恵の神である思金神は、天照大御神を石屋戸からお出しする仕掛けとして、常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、天香具山から取り寄せた賢木に上の枝に勾玉を通した長い玉の緒をかけ、中の枝に八咫鏡をかけ、下の枝に楮の白い布帛と麻の青い布帛を垂れかけて、これらの種々の品を神聖な幣として捧げさせた。これらの長鳴き鳥あるいは勾玉、八咫鏡、白・青の布帛は、いずれも太陽を復活させるための仕掛けである。長鳴き鳥は鶏のことで、鶏を鳴かせるのは太陽の昇天を促すことにあり、勾玉の「玉」は「霊(たま)」に通じ、石屋戸から出られる天照大御神の依り代である。また、八咫鏡は太陽の象徴であり、白・青の布帛は、東方の空から昇り、西方の空に沈む太陽の運行を示唆している。陰陽五行思想の法則によれば、東の色は青、西の色は白とされる。
石屋戸神事の最高潮は、何と言っても天宇受売命の神事で、天宇受売命は、天石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、胸乳をかき出だし、裳の紐を陰部まで押し下げた。すると、高天原が鳴り轟くばかりに、八百万の神々が一斉に笑った。雨水の神「切目王子」の項でも記述したとおり、雨乞いに太鼓を用いる最も大きな理由は、その大きな音が雷鳴に似ていることにより、類感呪術として効果を期待するためと思われ、天宇受売命が踏み鳴らす桶の音も、それと同様に雷鳴の疑似音によって雨の効果を期待するための類感呪術である。山口県防府市大道の小俣地区の小俣八幡宮に伝わる「笑い講」の神事は、上座と下座に座った講員に大榊が三本ずつ渡され交互に三回笑い合い、三回の笑いのうち、一回目はその年の収穫を喜び、二回目は来年の豊作を願い、三回目はその年の悲しみや苦しみを忘れるためであるとされ、天宇受売命の歌舞に対する高天原に轟くばかりの神々の笑いは、収穫感謝や豊作祈願の笑いの神事と思われる。
天照大御神は、天宇受売命が踏み鳴らす桶の音と神々の笑いという相反する神事を不思議に思われ、天石屋戸を細めに開けてその理由を尋ねられたのである。 
神話と説話 

 

1 神武東遷
鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依比売(たまよりひめ)との間に生まれた神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、日向三代(ひむかさんだい)の拠点であった同国から、各地で土着の勢力を平定し服従させながら大和へ進出し、橿原宮(かしはらのみや)で初代天皇の神武天皇として即位する。即位後は、伊須気余理比売(いすけよりひめ)を皇后とし三柱の御子をもうけ、古事記では137歳、日本書紀では127歳で崩御したとある。
日本書紀では、長髄彦(ながすねひこ)の征伐と兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)兄弟の征伐の順序が古事記とは逆になっており、古事記には見られない大和平定にまつわる次のような逸話を記述している。
天皇がいよいよ大和に入ろうとした時、「天香山の社の土を持ち帰って、それで天平瓦(あまのひらか)を80枚と厳瓦(いつへ)を造って天神地祇を祀れば、きっと平定できる」と天津神のお告げがあった。そこで天皇は、敵に怪しまれないようにみすぼらしい老夫婦の姿をさせた使者を、天香山に向かわせた。首尾よく土を手に入れた天皇は、お告げ通りに天平瓦と厳瓦を造り、丹生(にう)の川上で天神地祇を祀った。
天皇が無事に大和を平定できたのは、このお告げのおかげであると日本書紀に記述されている。
(1) 東遷
神武天皇は、日本書記では、15歳で皇太子となり吾平津媛(あひらつひめ)を娶って二人の子をもうけた。そして、45歳のときに大和への東征を決意したとある。古事記では、高千穂宮(たかちほのみや)において、兄の五津瀬命(いつせのみこと)と相談し、東遷を決意したとある。
兄の五津瀬命らとともに海路で日向を出発した天皇は、筑紫の宇佐から岡田宮(おかだのみや)に至り、更に、安芸の多祁理宮(たけりのみや)、吉備の高島宮(たかしまのみや)を経て、難波の岬から河内の青雲白肩津(あおくものしろかたのつ)に着き、ここから大和に侵攻しようとした。
この時、大和を拠点とする登美(とみ)の那賀須泥毘古(ながすねひこ)の軍勢が強く抵抗し、五津瀬命は手に矢が当たって負傷した。五津瀬命は、「日の神の子である自分が、日の出の方角に向かって戦ったのが良くなかった。これからは遠回りして、日を背負って敵を撃とう」と誓い、南から回り込んで紀伊国(きいのくに)の男之水門(おのみなと)に着いたが、五津瀬命は、手傷が原因で亡くなり、紀伊国の竃山(かまやま)に葬られた。
(2) 布都御霊と八咫烏
天皇が、男之水門から更に南に回り熊野まで来た時、熊に化身した神に毒気を浴びせられ、天皇は正気を失い、また兵士達も動けなくなって倒れた。この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持ってやって来て、その太刀を天皇に献上したところ、天皇は即座に正気を取り戻し、兵士達も起き上がることが出来た。
天皇が、太刀を手に入れた理由を高倉下に尋ねると、高倉下は、「天照大御神に葦原中津国(あしはらのなかつくに)の征討を命じられた武甕雷神(たけみかづちのかみ)が、かって自分が葦原中津国を平定した時に使った剣を降せば平定することが出来ると答え、その剣は布都御霊(ふつのみたま)といい、高倉下の倉の中に置いたので、それを天皇に献上するようにとの夢見た。そこで夢のお告げのとおりに、翌朝、倉の中を見ると確かに太刀があったので献上した」と答えた。
その後、天皇は、高木神(たかぎのかみ)が遣わされた八咫烏(やたがらす)の先導で、熊野、吉野、宇陀へと侵攻することが出来た。
(3) 兄宇迦斯と弟宇迦斯
宇陀には、兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいた。兄宇迦斯は軍勢を集めて対抗しようとしたが、軍勢を集めることが出来なかったので、服従すると見せかけ罠を仕掛けた御殿に天皇を誘い入れようとした。ところが、その企みを知った弟宇迦斯が、その企みを天皇に知らせた。
この時、道臣命(みちのおみのみこと)と大久米命(おおくめのみこと)の二人が兄宇迦斯を呼んで問い詰め、御殿の中に追い込んだところ、忽ち兄宇迦斯は、自分の作った罠に撃たれて死んでしまった。
(4) 久米歌
宇陀から忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に着いた天皇は、土雲八十建(つちぐもやそたける)の抵抗を受けたが、八十建に食事を提供するふりをして武装した料理人を多数送り込んで征伐した。
征伐は、「忍坂の大室屋(おおむろや)に人多(ひとさは)に入(い)り居(を)り人多に入る居りともみつみつし久米(くめ)の子が頭椎(くぶつつ)い石椎(いしつつ)いもち撃(う)ちてしやまむみつみつし久米の子らが頭椎い石椎いもち今撃たば宜(よろ)し」の歌を合図に一斉に行った。
(5) 那賀須泥毘古
天皇は以後、宿敵である登美の那賀須泥毘古を征伐することとなるが、古事記には具体的な記述が見られない。日本書紀によれば、金色の鵄(とび)が天皇の弓弭(ゆみはず)に飛来して強い光を放ち、長髄彦はその光に目が眩み敗れた。その後、兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)の兄弟を征伐し、最後に長髄彦の妹の三炊屋媛(みいかしきやひめ)と結ばれて勢力を張っていた邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が、長髄彦を殺し、天皇に帰順の意を示したことで、長かった東遷は終了した。 
2 昔話と神話 / 古代の民間伝承
古代の散文伝承を研究対象にしている者にとって、昔話の発生、あるいは昔話と神話との関係は、魅惑的なテーマのひとつである。ただ、記紀風土記に霊異記を加えても四本の作品しか存在しない古代文学のなかに昔話の痕跡を辿ろうとしても、指摘できることは限られている。しかも、近代になって成立した「神話」とか「昔話」とかの分類概念を用いて何かを論じることの有効性も問題になるだろう。それを承知の上で、ここでは、昔話と神話との関係に目を向けながら、古代の民間伝承について考察してみたい。
柳田国男の定義
昔話の起源についてもっとも執拗にこだわったのは、柳田国男であった。さまざまな著作の中で昔話と神話との関係はくり返し論じられるが、ことに、『昔話と文学』(一九三八年)序の、「昔話が大昔の世の民族を集結させて居た、神話といふものゝひこばえであることは、大体もう疑ひは無いやうであります」(新全集9、二五二頁)という発言が目立ちすぎるためか、柳田が、昔話を神話の零落したものとみなしていたかのように受け取られることが多い。しかし、柳田は、けっして単線的な発想をとっていたわけではない。たとえば、神話と昔話との併存状態を次のように述べている。
耶蘇教国の人々だけは、従来文化は平押しに、新しいものが進み古いものが退いたと解して居た故に、説話時代の神話を認めることが出来ず、ましてや神話時代にも既にあつた民間説話などは、之を想像して見ることも出来なかつた。(略)仮に孫子であつたとしても、同人では無い以上はちがつた閲歴を持つて居る筈である。」 (『桃太郎の誕生』一九三三年、新全集6、二四七頁)
注意しておきたいのは、柳田のいう「神話」概念は、一般的な神話とは違うということである。音声によって語られる生きた神話が柳田のいう「神話」であった。語原から言つても、神話(ミート)は本来神聖なものであつた。定まつた日時に定まつた人が定まつた方式を以て之を語り、聴く者が悉く之を信じ、もしくは信ぜざる者の聴くことを許されぬ古風の説話であつた。 (同右、同頁)
日本にはまだ現在はしかと発見せられて居ないが、曽て自分たちの信じ伝ふる所を、時を定め場所を限り又一定の形式によつて、語り聴かせて居たといふ事実だけは確かにあつた。それと今日の所謂民間説話とは、少なくとも日本に於ては明らかに別物である。 (『昔話覚書』一九四三年、新全集13、五三六頁)
だからこそ、現在に伝えられている、歌物語(形式をもつ表現)・昔話(内容を面白く語ろうとする表現)・伝説(叙述の真実を伝えようとする表現)の三つを束ねて遡ったところに、真実の「神話」は見出されると考えたのである。こうした柳田の認識は、もっと重んじられていいように思う。
昔話と神話との併存
柳田以降の昔話研究者は、昔話の成立あるいは発生について、正面切って論じるのを避けているような印象があり、どちらかといえば、神話研究者の発言が目立つ。そして、神話と昔話とは併存するというのが大方の見解だと言えるだろう。大林太良は、「神話から昔話へという大勢は認めても、多くの場合は両者が並存していることや、個々の場合には昔話が神話化することもありえた」と述べ(『神話学入門』一九六六年、六一頁)、松前健は、「併行説」が現在の主流で、神話・伝説・昔話は、「同じく説話であるということから内容的にしばしば交流し、一方から他方に転化すること」もめずらしくないと指摘する(「日本神話と昔話」『昔話研究入門』一九七六年)。
それら併存説のなかで、物語研究の側から、藤井貞和「うた・神話・物語」は、だいたいどんな未開の民族においても、神話と昔話とは併存している。つまりけっして神話と昔話とは混同されないふたつのべつべつの領域に区別されている。神話が、神聖な時間と場所(=祭祀空間)とにおいて特定の祭祀集団によって語られるのにたいして、昔話は、神話のストーリーやその他のストーリーを、時間や場所を変えても語っていいようにしたもので、話順や語りかたもよほど自由になっている。よほど自由になっているけれども、昔話はいってみれば神話をかげとし、母胎としているので、神話の約束ごとを昔話もまた色濃くのこしている。 (『磁場』3、一九七四年11月)
として、昔話は「神話のいわばパロディ」であると述べている。
ここで藤井のいう「パロディ」は、折口信夫の「もどき」論を念頭においた発言ではないかと想像するのだが、折口は、「もどき」には、「演芸史の上では、物まねする・説明する・代つて再説する・説き和げるなど言ふ義」があると言う(「翁の発生」全集2)。とすれば、昔話の大元には神話があるということにはなるが、それはけっして、神話から昔話へという方向だけをもつのではなく、区別された領域に置かれた両者の絶えざる交渉によって、昔話も神話も存在するとみるべきだろう。
こうした藤井の発言と重ねることができるのは、福田晃の次のような発言である。
およそ神話伝承は、〔祭儀のなか〕から〔祭儀周辺〕に及び、〔祭儀の外〕に至るものであり、漸次、自由な語りが許されて、随分と虚構性が認められるものとなってゆく。また〔祭儀の外〕の伝承も、〔村内〕から〔村外〕に及び、さらに〔広地域〕に拡大して、いちだんと虚構性を許し、普遍性をもったハナシへと展開するものであった。 (『南島説話の研究』一九九二年、一〇八頁)
この発言はまた、共同体の神話的幻想が祭式の場において「神謡」として謡われ、神話は「祭式における神話的幻想を祭式の外で話としたもの」とみる古橋信孝の「神謡」論(『神話・物語の文芸史』一九九二年、一三一頁)とも共鳴しあっており、ひいては、柳田国男の考えた、生きた神話と昔話との関係にも繋がっていくはずだ。
笑い話の位相
祭式の外での説明、パロディあるいはもどきとして古代の昔話(民間伝承)を位置づけた時、笑い話の占める位置の大きさに気づかされる。昔話といえば完形昔話(本格昔話)が中心にあって、笑い話や動物昔話は二次的、派生的な話として一段下に見られがちだが、昔話にとって、笑い話こそがもっとも始原的な表現の一つだったのではないか。
昔、大汝命と小比古尼命と、相争ひて云はく、「Yの荷を担ひて遠く行くと、屎下らずして遠く行くと、この二つの事、何れか能くせむ」、と。大汝命、曰はく、「我は屎下らずして行かむと欲ふ」、と。小比古尼命、曰はく、「我はYの荷を持ちて行かむと欲ふ」、と。かく相争ひて行きましき。数日を逕て、大汝命、曰はく、「我は忍び行きあへず」、と。即ち、坐て屎下りたまひき。その時に、小比古尼命、咲ひて曰はく、「然り。苦し」、と。また、そのYをこの岡に擲ちき。また、屎下りたまひし時に、小竹、その屎を弾き上げて、衣に行きき。 (播磨国風土記・神前郡)
地名起源に関わる部分を省略して引用してみた。すると、『日本昔話大成』の笑話「巧智譚 A業較べ」の中に置けば、昔話の一話型として認定されてしまいそうな笑い話になってしまう。この伝承の楽しさは、古事記神話では、さまざまな冒険ののちに地上世界を統一して葦原中国の王となった英雄神オホナムチ(大国主)が、滑稽な笑われ者として登場し、その役割をみごとに演じているところである。ここに語られる大汝命は、伝説として今も各地で語られているダイダラ坊の元祖ともいえる存在であるが、葦原中国の統一や民間の国作り伝承における主人公の英雄性を、下ネタを用いて逆転してしまうという発想は、まさに神話のパロディ(もどき)というにふさわしい(三浦「笑われる者たち」『神話と歴史叙述』一九九八年)。また、末尾に語られている撥ね糞のエピソードに大汝命のせりふを一言加えれば、例の西行の即興歌にも見劣りすることはなかろう。
いささか下品な下ネタを話題にした伝承が、神話と向き合うかたちで語られるところに、パロディ(もどき)としての昔話の一面が窺えるのだが、それは、次のような伝承によって確かめることもできる。
〔聖武天皇の時代、大和国十市郡に「万の子」という美人がいた。どのように高貴な男の求婚にも応じず、未婚のままであった。〕ここに、人ありて伉儷ひ、H々ぎ物を送る。彩の帛三つの車なり。見て心におもねりて、兼ねて近づき親しみ、語に随ひて許し、閨の裏に交通ぐ。その夜、閨の内に音あり、「痛や」といふこと三遍なり。父母聞きて相談ひ、「いまだ効はずして痛むなり」といひて、忍びてなほし寐たり。〔次の朝、ゆっくり起きた母親が、娘を起こしに部屋へ行くと、そこには頭と指一本だけが残されていた。〕 (日本霊異記・中−33)
昔話「蛇聟入」(苧環型・水乞型)の源流が神話にあることは、しばしば論じられるところであり、イスケヨリヒメ誕生譚(神武記)・オホタタネコ誕生譚(崇神記)・クレフシ山起源譚(常陸国風土記・那賀郡)・賀茂社縁起(山城国風土記・逸文)などに、始祖神話や起源神話として伝えられている。また、同様のモチーフをもつ神と女との神婚神話も、さまざまに指摘することができるが、ここに引いた伝承は、その一つのパロディ(もどき)と見なすことのできる笑い話である。娘の「痛や」という叫び声を、訪れた男との初めての夜の営みの痛みと早とちりしてしまった両親の愚かさを笑う話であり、こうした伝承が語られるためには、背後に、訪れる神と女との神婚を語る神話が存在しなければ成り立たないはずである。
また、同じく日本霊異記に語られている蛇の子を宿してしまった女の堕胎譚(中−41)も、笑い話とは言いにくいが、神婚神話にもっとも近い「蛇聟入・苧環型」の伝承といえよう。昔話「蛇聟入」の結末に語られる堕胎は、蛇から教えられた菖蒲湯や菊酒によってあっさりと語られるのに対して、霊異記ではグロテスクなリアリティをもつという違いはあるが、間違いなく同根の伝承である。
神婚神話が自らの共同体や一族の根拠を支え、異界と地上との、神と人との関係性を保証するものであるとともに、異界や神に対する恐れや疑いが、こうした笑い話や堕胎譚のような古代の昔話を語らせているのではないか。そして、それがまた、神話と呼応し合いながら異界や神への幻想を補完してゆくという構造が、古代の伝承世界にはあったということができそうである。
昔話から神話へ
古代において、神話の昔話化だけが伝承のなかに生じているわけではない。神話と昔話とが併存するということは、その逆もなければならない。というより、神話とか昔話とか伝説といった我々の側の分析概念をはずしてみれば、祭式の中の表現も、神話的な伝承も、民間の笑い話も、話としては同じであり、それらが往還運動をくり返しながら語り継がれているのは当然のことであろう。
〔アマテラスが天の岩屋に籠もり、困った神々は思兼神を中心に策を練り、アマテラスを引き出そうとする。さまざまな祭具を準備し、天宇受売命が神懸かりし、その卑猥な所作に、八百万神は高天原をとどろかして喜ぶ。〕ここに、天照大御神、怪しと以為ひ、天の石屋戸を細く開きて、内に告らさく、「吾が隠り坐すに因りて、天の原自ら闇く、また、葦原中国も皆闇けむと以為(おも)ふに、何の由にか、天宇受売は楽をし、また、八百万神は諸咲く」、と。しかして、天宇受売、白言さく、「汝が命に益して貴き神の坐すが故に、歓喜び咲き楽ぶ」、と。かく言ふ間に、天児屋命・布刀玉命、その鏡を指し出だし、天照大御神に示し奉る時に、天照大御神、いよよ奇しと思ひて、稍く戸より出でて、臨み坐す時に、〔隠れていた天手力男神がその手を取って引き出し、布刀玉命が「尻くめ縄」を岩屋の入口に渡して、二度と戻れぬようにしたので、高天原と葦原中国は、もとのように光明に包まれることになった。〕
よく知られた古事記の神話である。注意しておきたいのは、この場面が、思慮の神である思兼神によって仕組まれた芝居であるということである。祭りの準備も、ウヅメの神懸かりも神々の歓喜咲楽も、アマテラスをだますために演じられているのである。そして、台本通りに事は進んでゆく。「汝が命に益して貴き神」がいると言われ、鏡を目の前に差し出されたアマテラスは、鏡の中に自分にも「益して貴き神」を見つけ、「いよよ奇し」と思ってしまう。そして、驚いているすきに、岩屋の中から引き出されてしまったというわけである。もう一つの世界を現出させる鏡の神秘性は、かげを映すという機能性をつねに併せもっている。その二重性が昔話「尼裁判(松山鏡)」という笑い話を語らせる。そして、この話型の起源が鏡の発明とともにあったのではないかということを、鏡に映った自分の姿に驚くアマテラスの神話は教えてくれるだろう。
ここに語られているのは、鏡に映った自分の姿を、別の「貴き神」だと勘違いしてしまったアマテラスの滑稽さであり、笑われるアマテラスなのである。そして、このモチーフは、おそらく、すでに笑い話として語られていたはずの、昔話「尼裁判」にみられるのと同様のモチーフを、民間伝承から借り受けたものであったに違いないのである。
昔話から神話へ、神話から昔話へ、両者は自在に行き来しながら、古代の伝承世界において語り継がれていたのだ。ただ、ここで述べてきた神話は、柳田国男が考えた「神話」とは別の表現だということだけは、あらためて注意しておきたい。  
 

 

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