日本史概観3 南北朝から江戸元禄

戦国大名天下統一江戸開府鎖国大名と百姓元禄時代
歴史雑説 / 建築家秀吉石見銀山世阿弥観阿弥海北友松・・・
年譜 / 室町安土桃山
 

雑学の世界・補考   

戦国大名

 

流浪する将軍
公家の収入は荘園からの年貢によるものであった。崩壊に直面していた荘園を立て直すために、幕府は将軍の権威を立て直す必要があった。将軍義尚は近江の守護六角高頼を討伐することによって幕勢を回復しようと試みた。将軍のお膝元である近江に従わない守護がいるとなると、幕府の権威にかかわる。義尚の出陣によって寺社公家の領地は回復されたが、完全ではなかった。彼は押領した領地を自分の近臣に与えてしまう。その結果近臣らの専横を許し、義尚自身の生活も乱れていった。出陣から2年足らず、義尚は25歳の人生を終えた。次代将軍は義尚の養子の義材に決まった。義材の父の義視はこれを機に新政を始める。富子はこれを不満に思い、細川政元に接近した。その噂を聞いて義視は富子を攻めるが、細川政元と対立するのは賢くないと考え、優遇した。義視は翌年死亡した。義材は義尚の遺志を継いで、再び近江出陣を試みた。これは成功だった。勢いに乗じて、次は河内を攻める。畠山政長と畠山義就が東西に別れてまだ争っていたのである。これは政元のクーデターによって失敗し、第11第将軍義高が就任する。義材は義尹と名を改め、流浪の日々を送ることになる。
守護大名の没落
細川政元は細川家の官僚の嫡男だったにも関わらず、40になっても女性を近づけようとしなかった。「常は魔法を行って近国や他国を動揺させていた」といわれている。この魔法というのは山伏集験の道である。細川政元は奇行と専横が目立った。子を作らず、天狗の業の修行に励み、養子を2人とって細川家分裂の危機を招いた。このような態度が家臣の謀反心を招き、魔法の練習を行っている最中に政元は殺された。跡継ぎは養子の細川澄元となった。義尹は細川政元の死を聞き、大内義興に助けられて上洛を画策した。細川側は義興と和平してこれを阻止しようとするが、和平交渉の中心人物であった高国が澄元に反して義興と手を組んだので失敗する。守護大名出身で、澄元より5歳年上だった彼は、自分も細川宗家を継ぐ資格があると考えたのである。義尹は14年ぶりに上洛し、一条室町の吉良屋敷に落ち着く。義尹は従三位、権大納言、征夷大将軍の地位を得て、細川高国を右京大夫におき、大内義興を左京大夫においた。義尹は実験を持たず、高国と義興の傀儡であった。大内氏と細川氏は、このご中央権力を巡って対立する。彼らはともに傀儡将軍を奉じた。これは勘合貿易を行うためである。両者が争ったのも、その利権が原因であった。貿易を行うためには、将軍=日本国王の権威が必要なのである。後に義尹は義稙と改名し、57歳で流浪の人生を終えた。
北条早雲

 

関東では、1439年、幕府に反抗した関東公方の足利持氏が、関東管領の上杉氏にほろぼされてしまうと、しばらくは上杉氏の下で平和が保たれていた。しかし、その十年後、持氏の子の成氏が京都から迎えられて関東公方になると、成氏が父持氏の旧臣だった豪族たちと手を結んで、上杉氏と反目するようになった。1454年、成氏が上杉憲実の嗣子憲忠を誘殺すると戦火はまたもや燃え上がった。山内上杉氏の家宰だった長尾景仲らは憲忠の弟房顕を擁して成氏に対抗し、幕府も駿河守護今川範忠に命じて成氏を討たせようとした。範忠は鎌倉を攻めてこれを焼き払い、成氏は下総古河にのがれ、ふたたび鎌倉に帰ることがなかった。これ以後古河公方と呼ばれる。そのころ管領上杉氏は山内家と扇谷家の二流に分かれていた。勢力の点では山内家のほうが断然優勢であったが、両上杉氏とも、実権は家宰が握っていた。山内家では長尾氏が、扇谷家では太田氏が家宰である。豪族の支配から離れた小領主・国人たちが長尾氏・太田氏と結びつくことにより安全を確保し、また長尾氏・太田氏はそれにより勢力を増大させたのである。劣勢だった扇谷家は太田道灌とその父(資清)の努力によって、山内家と肩をならべるまでにのしあがった。山内上杉氏がこれをこころよく思うはずもなく、両上杉氏の対立は表面化することとなる。1476年に、主君の山内顕定にそむいた長尾景春は古河公方成氏に通じ、鉢形城に立てこもった後に反乱を起こしたが、道灌により掃討された。道灌の名声は高まり、扇谷家の勢力はさらに大きくなった。こうして成氏は景春とともに幕府に和睦を申し入れ、山内上杉顕定の父房定を仲介者として、室町将軍と古河公方の間にいわゆる「都鄙(とひ)の合体」が成立した。これで平和が回復したかのように思われるが、扇谷上杉方の定正や道灌らは山内上杉方の推進したこの合体策に賛成ではなく、江戸・河越両城をいよいよ固めて、古河公方や景春にそなえていた。1486年、道灌は、かれの存在を上杉氏への敵対とみた主君定正により暗殺された。道灌の死により、道灌に従っていた多数の国人衆などはただちに定正を離れ、顕定の側に集まってきた。孤立した定正は古河公方成氏とその子政氏や長尾景春と連合したが、定正の死後、顕定と古河公方政氏が和睦し、このため扇谷上杉家の立場はますます苦しくなっていった。堀越公方政知が両上杉家の抗争のさなかの1491年4月3日に死んでしまうと、そのあとは嫡子の茶々丸が継承することになったが、政知の旧臣らは、この茶々丸に心服せず、伊豆国は混乱状態におちいった。伊豆一国をのっとろうと待ち構えていた隣国駿河国の興国寺城主北条早雲は、すかさずこの混乱に乗じ、伊豆に攻め入った。伊豆の北条はたちまち早雲によって占領されてしまった。早雲は、ただ伊豆北条という重要拠点を領しただけでなく、そこに住む百姓や職人の掌握にも心をくだいた。では、この北条早雲とはどこの生まれのどういう人物なのか。伊豆侵攻以前の早雲については、史料不足ゆえ行動も実名もはっきりしない。入道してからは早雲庵宗瑞と号したが、いつ入道したかもわからない。生国についてはいろいろな説があり、定まった説がない。有力な説は伊勢説と京都説であり、新たに備中説がでてきている。早雲は56歳、1487年ごろには駿河国に下向していたと考えられ、妹の北川殿の縁で今川氏に従い、興国寺城主となった。早雲は伊豆に侵入してからの3年間、もっぱらその領国支配に専念していたが、1494年に扇谷方の三将(扇谷定正・大森氏頼・三浦時高)が亡くなると、それは早雲に関東進出の道をひらくこととなった。早雲は小田原城を守る大森藤頼に近付いて親しみを深め、1495年、夜討ちによって小田原城をのっとり、関東進出の第一歩を踏んだ。以後早雲は、小田原周辺の領有・安定のために十年の歳月をかけたのである。1504年、73歳になった早雲は扇谷朝良を助けて、山内顕定を討とうとした。しかし、それは上杉氏を討つための早雲の計略であった。翌年には、両上杉氏は漁夫の利を占めるのは早雲だと気付いたのであろう、手を握って早雲にあたろうとしたが、時すでに遅かった。1507年と1509年、早雲は今川氏親を助けて三河に出撃した。それは自領伊豆の背後の駿河の安全をはかろうとして、尾張の織田氏と連絡するためであった。早雲は顕定が関東を留守にしてしまったあいだに、相模の土豪らに蜂起をよびかけるとともに、長尾為景や景春らと連絡して出陣した。早雲の率いる伊豆・相模の兵は相模高麗寺に陣し、扇谷朝良の家臣上田政盛をして権現山城に反旗をひるがえさせた。しかし、1511年、権現山城は両上杉氏の軍勢によって落ち、このたびは早雲の完全な失敗に終わった。早雲は相模国を平定するには、その最大の豪族である三浦氏を倒さねばならぬと考えた。1512年、81歳の早雲は三浦義同の岡崎城を攻め、鎌倉に入った。義同は翌々年に鎌倉へ攻めてきたが早雲に撃退され、新井城に逃げ込んだままとなる。そして1516年、江戸城の扇谷朝興が義同救援のために玉縄城へ攻めかかったが、早雲はこれを撃退すると共に新井城に攻めかかり、三浦氏は滅亡した。こうして早雲は、小田原占領以来、三浦氏討滅まで実に20ヵ年をついやしたのである。1518年、87歳の早雲は、32歳の嫡子氏綱に家督をゆずって隠居した。翌年8月15日、早雲は伊豆韮山城で生涯をとじた。早雲は、戦国の群雄のうち、最初にその名をあげただけあって、慎重さとすぐれた時代感覚を持ち合わせていた。早雲以後の後北条4代、氏綱・氏康・氏政・氏直については、氏綱は父の後をよく守り、氏康は名将であった。氏政・氏直の20年間は後北条氏の守勢期であったが、ともかくもその支配を維持できた。
信虎と信玄

 

武田氏の戦国大名としての歴史は、信玄の父信虎の代にはじまるといえる。1507年、14歳で信虎は父の死にあって武田の家督をつぎ、この国のあるじとなった。武田氏は一族を甲府盆地の縁辺部いっぱいまで分散配置してこの国を支配してきた。宗家から分かれた一族は、武田とは名乗らず、みなそれぞれの在所名を姓として、その土地に根を生やした領主となっていった。甲斐の戦国は、宗家を中心とした一族の相克という形で展開していったのだった。信虎が家をついだころは、そのような情勢のもっとも激した時代であり、かれは油川氏や、大井・栗原などの古い一族の連合を打ち破った。その後かれは、もっぱら室町将軍家と連絡を保つと同時に、駿河の今川氏と積極な連合をはかった。一応の国内統一を完成させ、甲駿同盟などによって四囲の強敵との交戦の必要もなくなると、信虎は戦国大名として家臣らを統御していくためにも、外征を必要とした。そこで信虎は信濃に攻め入り、1541年にはその一応の攻略を成し遂げた。しかし、帰国した信虎は、10日後に嫡子晴信(信玄)のために突然駿河に追放されることとなった。信玄は1521年11月3日に生まれた。信玄の母は甲斐の国人大井信遠の娘であり、信虎にとっては旧敵の娘ということになる。だから、その出生はそれほど祝福されたものではなかったであろう。1436年、かれは元服し、将軍義晴より晴の字をとって晴信と名乗った。やがてかれは京都の公家から正妻を迎えた。この結婚の年月は不明であるが、おそらく元服の年かその翌年であろう。この結婚は、武田氏が京都を指向していたことを如実に物語るものである。1541年、佐久平の出陣から帰国した信虎は、その10日後に駿河の今川義元のもとに出かけた。信玄は、甲斐と駿河の国境をとざし、父を駿河に追放してしまった。この追放事件の真相として取り沙汰されてきたのは、大別すると次の三つに要約できる。(一)父子の性格の相違・対立説(二)今川義元を討つための父子共謀説(三)信虎の不行跡および領国経営の失敗説第一説は「甲陽軍鑑」によるものであり、第二説は「松平記」の見かたであるが、どちらにも疑問がある。そこで、第三説が真実に近いものと思われる。その後の信虎は、25年も今川義元の世話になり、信玄の存命中はもちろん、死後も甲府に入ることは許されず、81歳の生涯を高遠で閉じた。信虎の追放により、戦国大名武田氏はその内部的な危機を回避した。信玄が直面した領国支配の矛盾とは、武田氏のかける軍役の過重さによる経済的な危機だったと考えられる。信虎追放の6年後に信玄の定めた「甲州法度之次第」という法令には、武田の家臣たちの知行地売買・質入れや、借財に関する取り決めが多く見られる。地頭と呼ばれる家臣たちが、過剰な軍事負担にも抵抗しなかったのは、大名権力によって地頭層の領主支配権が保証されていたからである。しかし、大名の側にも家臣の経済的危機を救うための抜本的な対策がなければ、みちは領土拡大、つまり対外侵略ひとつに限られてくる。そこで信玄も信虎のいのちとりとなった信濃出兵を引き継いでゆかざるを得ないのだった。信玄の第一目標は、南信濃の諏訪・伊那両郡に勢力のあった諏訪一族の制圧であった。1545年、信玄は三たび伊那郡に兵を進め、この年、諏訪・伊那地方は信玄の制圧下に入った。信玄の第二、第三の攻撃目標は、信濃守護家の小笠原長時と北信の雄村上義清であった。信玄は上田原、戸石城攻めなどで敗戦を喫しもしたが、1551年に小笠原長時を、翌年に越後の上杉謙信のもとに追い出してしまった。こうして信玄の12年間にわたる信濃制圧は一段落となった。信濃を侵略し、領国とするためには、信玄はつねに南の今川氏と結んでいなければならなかった。今川義元にとっても、甲駿同盟は三河に出兵し、織田信長の勢力と対するのに重要であった。ところが、義元の三河出兵の留守を狙って相模の北条氏康が駿河東部の下方荘に侵入してきた。義元は氏康と戦ったが、戦況ははかばかしくなかった。そこで駿河の善徳寺において、信玄・義元・氏康が集まり、甲・駿・相の三国同盟が成立した。この三人は、いずれもここ2、3年のあいだ合戦が討ち続き、それぞれ背後に強敵を持っていたからである。こうして信玄は、三国同盟を十分に利用して、1570年、西上野を武田領としてしまったのである。1560年、今川義元の桶狭間の戦いでの戦死は、三国同盟の破綻を招く第一歩となった。1567年、信玄は今川氏との親和論を唱える長男の義信を自殺させ、駿河侵略を断行した。かくして1570年、信玄はついに駿河府中を占領し、今川義元の遺児氏真を伊豆に追って、駿河一国を制圧した。信玄のうえには天下の反信長勢力の期待が集まることになり、1572年の秋、信玄の京都をめざした西上の大遠征が開始された。そして翌年、信玄は病によってその生涯を閉じたのであった。
上杉謙信

 

上杉謙信は、越後守護代長尾為景の子として春日山城に生まれた。為景は、1507年に守護上杉房能を倒し、越後の主導権は守護代が握るものと示した。守護には房能の従兄弟定実をつけ、3年後には房能の兄で関東管領の顕定を下し、傀儡の守護定実の元に集まった前守護家一族、その重臣ら反為景戦線を壊滅させた。為景は越後の中郡地域を制圧したが、敵は依然国内の中郡、奥郡地域に立ちふさがっていた。彼らの正体は定実の一族、さらに彼らに味方した奥郡の豪族層(揚北衆)であった。為景は対外侵略を行って、彼ら国内の敵との対決は避け続けた。さて、為景は守護房能を倒した後、房能の従兄弟定実を守護の位に就け、彼の傀儡とした。反為景戦線を壊滅させた後も為景は定実を幽閉しつつも生かしておいた。というのも、為景は守護家の、一国から反銭を取り立てる権限に目をつけ、これを利用する為であった。政治的・軍事的に為景に敵対する揚北衆も、この取立てには応じた。というのも、この取立ては守護職権に基づくもので、豪族層も守護職そのものを否定できなかったからである。この取り立ての権限を持つのは守護家の「御公銭方」と呼ばれる財務機関で、為景はこれを手中に収めることで収入を得ていた。このように、この越後では、権力と軍事力をもつ為景によって、強烈な上克下が行われていた。1536年に謙信の兄晴景が家督を相続し、43年に父為景が亡くなると、上田長尾氏や揚北衆などが攻め寄せ、国内は荒れた。また、晴景と謙信は以前より仲が良くなかったが、これが表面化し、定実の仲介の元、謙信が晴景の養子となり、家督を相続した。謙信は国内平定の為、己が府内長尾氏を中心に、上田、古志、三条に散らばる長尾氏を連携させようと策謀をめぐらせていた。家督相続以前、栃尾城主だったときに古志・三条両長尾氏は掌握していたので、残る上田氏を服従させ、国内は一応の統一を完成した。謙信は息つく間もなく、北条氏に攻め立てられた関東管領上杉憲政に頼られ、三国峠を越えて関東へ出陣、更に武田軍に追われた村上義清、小笠原長時を匿って善光寺平に武田軍と刃を交えた。こうして北条、武田を敵に回し、更に敵は甲・駿・相三国同盟を結び、謙信を取り巻く情勢は不利になった。謙信と三国同盟側は一進一退の様相だったが、1558年、再び関東管領上杉憲政が逃れてきた際、また将軍義輝に関東管領を進められた際に、律儀な謙信はこれを感謝しつつも辞退している。1560年、今川義元が没し、三国同盟が揺らいだ隙を狙って謙信は11万の兵を以って小田原城を攻め立てた。しかし中々落ちず、長陣を不利と見て退却したが、この際正式に憲政より関東管領を譲られ、上杉を名乗るようになった。謙信はこれ以降、関東鎮定は自分の責任と考えたのか、得るものも殆ど無いのにほぼ毎年出兵した。信玄との川中島合戦(1553-1564)は、歴史的意義はさして高くないものの、近世以来の歴史家によって名はよく売れている。互いに大義名分があるので引くに引けず、知られているように5度善光寺平にて対峙した。謙信は1572年に信玄が西上した頃越中方面に進撃しており、その勢力は加賀、能登に達し織田信長の勢力とぶつかり始めていた。1578年謙信は脳卒中に没し、越後一国は家督争いの為混乱し、今後織田信長の勢力に取り込まれてゆくこととなった。
奥羽大名 伊達氏五代

 

1563年の幕府の御家人名簿を見ると、幕府の重職者400余名連なる後に、当時の戦国群雄が外様衆、関東衆として登場する。ここに見える奥羽の者の名を見ると、7名が挙がっているが、著しく南奥州に偏っている。東北は元々馬養を基盤に成り立っていたが、中世より、東国に近く開拓農場主としての武士を多く迎え入れた南奥の農業生産性が高くなり、北奥との格差が生まれた。先ず北奥だが、南部・津軽氏や、2氏に追われて蝦夷地に逃げ、やがて出羽へ復帰した安東氏の他、幾つかの勢力がそれぞれ2、3郡ずつを占拠するといった状況で、後の豊臣政権下において初めて統一を見る。対して南奥では、強大な支配者達が割拠していた。多くの有力者が一郡規模で支配圏を形成していたが、先述の御家人名簿にそれぞれ特産品を有する伊達、蘆名氏、奥羽探題の斯波氏が土着化した最上氏、大崎氏、の他、馬の産地を抱える相馬氏、南部氏らが大名として挙げられており、彼らによって奥羽の戦国は争われた。1483年、伊達成宗が多くの貢物を持って上洛した。彼はすぐさま政界の要人に挨拶周りをしている。伊達家では成宗の父の代から当主が必ず参勤し、将軍から諱を頂戴する慣わしとなっていた。伊達家の努力は稙宗の時に実を結んだ。当時奥州探題によって統治され、陸奥国には守護が無かったが、稙宗はその陸奥国守護に任じられた。こうして伊達家は頼るべき公権を得た。さらに稙宗は戦国大名制の樹立の為に奔走する。1536年には塵芥集という分国法を制定し、当時直面していた問題に対処した。刑事犯罪、民事の規定を始め様々の項目171カ条に渡るが、「地頭と百姓の間のこと」について書かれた項目では、年貢を納めないことは盗人と同じように処す旨、そして他領への移動を繰り返し禁止している。これは伊達氏の領内の基礎が不安定だったことを物語っており、先の武田氏に似た問題を抱えていたようである。また、当時の百姓は一家が大農業経営体をなしており、地頭も彼らの支配に苦労していたようで、領主とともに支配を進めることとなった。また、伊達氏の収入は他の大名と同じく守護職の課徴権を受け継いだものが基盤であり、一反210文の反銭を柱としていた。家督は天文の乱で稙宗から長子晴宗に移った。稙宗が次男実元を上杉家に婿入りさせるに当たって植宗が晴宗に幽閉されたためである。この父子の間の不仲は周辺大名にも拡大し、7年に渡って争われた。この争いに勝利した晴宗は米沢に本拠地を移して、400名に及ぶ知行の再編成を行った。結果晴宗は家臣団の編成を領国内に承認させることが出来た。また伊達氏は対外的にも婚姻関係を強制させてきたので、周辺の大名にも伊達化を進めることが出来た。1565年には輝宗が家督を継ぎ、南奥羽統一への戦乱に巻き込まれていく。次代の独眼流政宗にはどのように領国を発展させるかという近世大名としての使命が課された。
家臣団と軍事力

 

戦乱の時代にあっては、同族・家臣といえどもすべてが主君に対して絶対の忠誠心を持っていたわけではない。それゆえ、戦力の土台となる家臣の編成や武力の強化は、どの大名にとっても困難な過程だった。この時期に特有のものとして現れてくる、自分の名の一字を文書にあらわして与える「一字書き出し」の文書も、同族・主従の契りを強調することがいかに大切であったかを示している。大名の家によって様々な差異こそあれ、戦国大名の家臣には、おおよそ次のような四つの類型があったと見てよい。第一の上級家臣は、一門衆・一族衆などと呼ばれる大名と血縁関係のある人々である。家の所領が分散しないよう分割相続制がやめられて、嫡子が全所領を単独相続するようになるという14、15世紀における相続形態の変化によって生まれた家臣である。彼らは一族ではあるが、もはや主君と同列の地位にはない。第二の家臣は譜代と呼ばれるグループで、血縁関係が遠く一門衆に数えられなくなった庶流や、早くから直臣化した非血縁の人々が含まれる。大名から本来の所領を安堵されたり新たに給地を与えられたりで、相当の所領を持っている安定した家臣である。第三は外様である。大名の領土拡大過程で服属こそしたが、依然同盟関係に近い状態にあり、軍事関係以外ではほとんど大名からの制約を受けず、寝返りも当然という観念を持ったグループである。第四は直臣と呼ばれる、大名の直轄地から所領を与えられたり禄米を与えられたりしているグループである。家臣団ではいちばん格下に位するが、主家の親衛隊の役目を持っている、旗本直参的な存在である。これらの家臣が、即座に戦時の編成となるよう組織されていたのが、合戦を本分とする戦国大名の家臣組織の特徴と言える。戦国大名の民政が、軍政と切り離して考えることのできないひとつの理由である。では家臣たちが、戦国大名に従っていた理由は何だろうか。端的に言って、武士が主君をいただくのはその保護を受けるためであり、主君が従者を持つのはその援助を求めるためである。すなわち御恩と奉公の封建的主従関係である。戦国大名とその家臣の場合も、御恩の内容が本領安堵や新恩所領の宛行いであることは他の時代と変わらない。しかし知行の形態は、土地を管理する職務に一定の経済的収益権が付帯していた鎌倉・室町時代とは異なり、所領はその土地面積によって表現されるようになっている。戦国大名の家臣たちは、彼ら自身が明確な土地の領有者となっているのである。一方の奉公は、軍役の義務を負うことである。戦国大名の家臣にあっては、軍役は知行高の規模に応じて賦課される。貫高基準と呼ばれ、基本的には軍役の多寡は所領からとれる年貢を銭で表した数値、つまり土地面積に比例していた。これは戦国時代になってはじめてはっきりする形式である。このような方式で定められる軍役の実際を示す資料は少ないが、動員兵数や武装状況の具体的なあらましは、上杉謙信の軍役帳簿「軍役帳」に詳しい。
軍略と軍規
戦国時代に入ると合戦は大人数を動員する総力戦的様相を帯びるようになり、軍略や兵法・軍規はいよいよ重要となった。戦いの場において大量の軍勢を動かす役を持つ者は軍配者と呼ばれ、その手際の優劣は戦の勝敗に大きく影響した。そのため戦国大名たちは有能な軍配者を諸所から求め、重用したという。初期の軍配者はまだ吉凶の占いや儀式の主宰が主要な任務であり、その学問的背景は易学・占筮術など、どちらかといえば非合理的なものであったが、文献上の知識と実践上の経験を織り交ぜたような雑多な知識は、やがて集成して兵法となり、後の軍師の誕生へとつながっていった。しかし戦いの規模が際限なく大きくなるにつれ、やがて古典的な易と兵学だけでは戦を勝ち抜けなくなり、戦国大名たちは新たな戦力・兵器を求めはじめた。そうした要請に沿ってこの時期に出現するもののうち、もっとも注目に値するのが忍びの者と鉄炮である。忍びの者は伊賀と甲賀とが発祥地と言われる兵科で、敵の場内へ忍び込み、敵情を窺い、密事を見聞きし味方に知らせるなど、戦の裏側で暗躍する者たちである。動員数に対して効果は目覚しく、争乱が激しくなるにつれて、忍びの者は全国的に跳梁した。またこの時代に登場し、後の戦術を大きく変化させた新兵器として、鉄炮の存在は見逃せない。種子島銃がポルトガル人によって伝来されるとまもなく全国へ普及し、実戦に使用されはじめた。鉄砲隊はやがて不可欠の部隊として組織され、農兵はいままで以上に徴発されるようになる。侍も百姓も、百姓仕事を離れて軍事に邁進しなければならなくなり、兵農分離が急速に進んで行く契機となった。
大名と農民

 

戦国大名は家臣に所領を封じることで家臣に軍役を賦課した。それゆえ、家臣の所領から年貢を取り立てることはできなかった。しかし領国体制の強化のため、家臣から所領の詳細を指し出させ、領土全体へ一定の税を賦課した。これは指出検地といい、これによって戦国大名は土地と農民の直接支配を行った。検地では軍役を賦課される者、年貢を賦課される者を分けて数え、そのことによって兵農分離が推進されることになった。その土地単位は貫文によって表され、その数値に従って百姓たちは貨幣で年貢を払うことになった。またその年貢以外にも様々な形で税が賦課された。これは守護大名の一国平均役に由来するもので、一国の公的支配権を表すものであった。このような画一税制を組み立てるのは非常に難しいことであった。中世の税制とは複雑を極めるもので徴収される物も多岐にわたり、これを大きく改革する必要があったからだ。これらの税は主に銭によって収められた。しかし銭は悪銭も多く価値が一定しない。そこで、次第に税は穀物で収めさせるように変化していった。また労役も課せられていた。大きく陣夫・普請役・農兵と三種あるが、孰れも大きな負担であった。戦国大名は、勧農政策を行って農民を愛護する一方、その軍役などで農民を縛りつけた。そのことによって自由闊達だった農民の動きは制限されてゆくのである。
領国の経営
戦国大名は領国を安定化させるために領国経営へ力を入れた。治水事業や鉱山事業がまず上げられ、これらは領国からの収入増加を齎した。また、この時代の製鉄技術も著しく進歩し、戦国末には画期を迎えていた。そしてこれらの鉄を用いて作られた鉄砲は新兵器として重要度を持ち、故に各地でこれを巡る駆け引きが行われていた。その中でも信長は、堺の商人を取り込むことで鉄砲の威力を見せつけることになる。また敵への物資流入を止める荷留も行われた。謙信による塩送りの逸話は、東海関東方面から塩の荷留を行われた武田氏に、越後の商人が塩を大量に売りつけたことから由来すると考えられる。また戦国大名に付属する御用商人も活躍していたが、彼らには武士的な側面も非常に強かった。交通政策については宿駅制が行われていたが、これは東国に限られたといっていいだろう。職人把握も行っており、武器の製造などを行わせていた。彼らの生活は貧しいもので、地位は決して高くはなかった。
混迷する畿内

 

畿内の政治情勢に目を向ける。中央の政争で敗死した細川高国に代わり、その追討にもっとも力をふるった細川晴元の被官三好元長は、国内経済の中心地である堺を中心にその勢力を固めていた。しかし高国敗死の翌年(1532)には、元長の主君晴元が木沢長政や三好政長らの讒言を入れて、さらに本願寺証如光教を引き入れ元長を討った。光教率いる門徒勢力は物質的にも経済的にも巨大な力を誇っており、以後信長・秀吉の時代に至るまで畿内の政局を大きく左右する、安定勢力が不在の16世紀中期の空位時代にあって、ただひとり抜きがたい実力を持っていた存在であった。元長打倒に端を発した堺への攻撃は、しかし元長が斃れても収まることはなかった。急進化した農民たちの一揆勢は証如の思惑を超えて、やがて各地で晴元・木沢長政派と対立を始めたのである。細川晴元・木沢長政は危急を案じ、一向宗と対立していた法華宗徒の力を利用してこれを鎮圧した。この戦いで山科本願寺は灰となり、証如はその本拠地を大阪の石山に移した。一方、晴元側と一向一揆の対立で漁夫の利を得た法華宗は、にわかに京都で力を伸ばし町政を握るようになっていったが、やがて領主から独立しようとする動きを強めるにつれて圧迫は強くなり、ついに天文法華の乱となった。領主側には叡山の衆徒が加わり、法華宗は町衆勢力を動員してこれに対抗したが、まもなく京都の法華宗は完全に敗北し、宗徒の多数は堺の末寺に敗走した。こうして農民・町衆らの動きは強引に弾圧され、以後中央地帯の実力者として君臨したのが、三好元長の子長慶であった。長慶は将軍義輝・旧主晴元らの旧勢力と対立・和解を繰り返しながら、本国阿波をはじめ讃岐・摂津・山城・河内・和泉を次々と制圧し、ついに将軍義輝を傀儡化して京都を押さえることに成功する。また1559年には入京してきたヴィレラ神父らに布教の許可を与え、飯盛・三箇城下でキリシタンを篤く保護した。またこの時期に威力を奮った戦国群雄として、松永久秀が居る。彼は長年相談役として長慶を助けてきた家臣であるが、晩年には堺を握り、主君長慶と肩を並べるほどにのし上がった。やがては主家の打倒を企て、1563年には長慶の子義興を毒殺、ついで長慶の弟安宅冬康を讒してこれを殺させた。また長慶が死ぬと、将軍義輝をも殺している。こうした久秀の急進に対して、三好三人衆と呼ばれる三好長縁・同正康・岩成友通らが制圧に乗り出したが、久秀は反撃に三人衆陣する東大寺大仏殿に火を放ち焼き払うという暴挙に出た。世に言う久秀の三悪事とは、これら三好家への反抗・大仏の焼却・将軍の謀殺である。しかしこうした勢力者たちもその発想は古く、戦国大名らしい領国経営も示さないまま傀儡将軍を頂く形の政治掌握に終始し、少しも畿内の事態を解決することはできなかった。中央の政局混迷の解決は、信長の進出を待たなければならなかったのである。
村の姿
畿内が混迷している主な理由は、古い公家や社寺勢力、従来の支配体系を守ろうとする守護大名やその被官といった勢力が入り乱れており、有力者がこれらの勢力と妥協せざるを得ないところにあった。そうした中で新たな歴史の方向を示したのは、一向一揆とその頂点にたつ本願寺であった。すなわち、農民的勢力の伸長である。ところで、当時の農民あるいは畿内農村の姿はどのようなものであったか。その村落生活の実情を知る上で、九条政基がその所領である和泉国日根野荘へ下向し、荘務を司った4年間(1501-1504)に綴った記録「政基公旅引付」が貴重な手がかりとなる。本章ではこの日記記録を元に、日根野荘の農民生活を概観していく。日根野荘は日根野村と入山田村の二村からなり、あわせて三十町程度の反数(免田を除く)を持つ九条家の荘園である。村人は1000人から1500人程度であり、男子は400人程度と推定される。農民構成は、番頭・職事という有力百姓、公事屋と呼ばれる中堅百姓、脇百姓・小百姓・下男下女の下層百姓という三階層から成り立っていた。番頭は、荘園領主が集落の有力者を任命するもので、領主命令の衆知や神事・祭礼の主宰を主な職務とする、惣村自治の中心的存在である。その補佐役が職事である。成人男子への出役の命令は個人別ではなく家別に出され、その出役する家のことを公事屋と呼んだ。公事屋の維持は村にとって死活問題であり、非常な関心事であった。裁判は原則として領主が行う決まりであったが、実際には個々の農民による場当たり的な処置が横行する村裁判であり、領主はその慣習的な規制に対して事後承認の形で肯定するという、言わば領主権力の完全には及ばないところであった。また重要な生活設備である用水は、その施設を守っていくための必要上、領主支配を超えて近郷・近村と連合する必要を生み、地域的なつながりを強化した。
西の雄将 毛利元就

 

毛利元就は、元々安芸の山間・吉田荘の国人であった。大江広元を祖とする名族であったが、室町時代の終わりごろには宗家吉田の他、麻原や坂といった分家も力を付け、互いに衝突を繰り返した。しかし応仁の乱を経ると麻原氏を滅亡させ、坂氏を臣従させて宗家の権限は確立された。この毛利氏の二男として生まれた元就は、有力家臣の井上氏の庇護という屈辱的な生活を送ることになる。この中で元就は隣国・吉川氏の娘を嫁とした。しかしこのころ、当主で会った甥の幸松丸が俄に亡くなり、毛利家の中で後継争いが起こった。元就は井上一族の力を借りると、対抗勢力であった弟の相合元綱を倒して毛利家の当主となる。さて、南北朝の終わりごろより安芸では国人衆の連合が成立していた。これは共同防衛や租税保障を目的としている。中世国家の公権は国単位で分割されており、国人の支配も安芸という国を単位として成立していたのである。また1532年、毛利家の重臣たちは用水管理・負債者の追及・逃亡下人の捕縛について、領内へ毛利家の権力の立ち入りを許可する証文を提出した。この三カ条は大名権力の基礎といえ、このことは毛利氏の戦国大名化への道を築くことになる。そのころ、中国地方では山陽の大内氏と山陰の尼子氏が鋭く対立していた。この中で元就は巧みな外交手腕で勢力を拡大する。両氏の衰退に乗じて元就は安芸を南北に貫くように勢力を得、またこれを統制するために吉川氏・小早川氏に二男・三男を送りこんで傘下に収めた。吉川氏は山間部に勢力を握っており、また小早川氏は瀬戸内に勢力を握る国人である。このように宗家の権限を確立した元就は、ここで専横を極めた井上一族を誅殺。この機に乗じて家臣から主な権限を奪い、毛利家の集権を確立した。1551年、大内氏は陶晴賢の謀反によって崩壊する。1555年、元就はこの晴賢との戦いを決意して厳島で決戦を行い、これに大勝した。この勢いにのって元就は周防・長門へと侵攻、1557年には大内義長を自刃させることに成功した。しかし、周防・長門の山間部の土豪たちが一揆を起こし、元就はこれに苦しめられる。結局、分裂工作によって鎮圧することになるが、農民たちを弾圧せねばならなかった所に戦国大名の矛盾がある。このころ家督にあったのは、嫡男の毛利隆元だが彼は家臣の突きあげに苦しんでいた。軍事緊張の中で勢力を拡大した毛利氏の家臣は、軍事拡大による利益享受を欲し、故に侵略は止められない状況だったのだ。これに対し元就は家臣と唐傘連判状を作成するなど家臣統制に努めたが、この事は却って毛利氏の体制の弱体ぶりを表すものとなった。毛利氏は防長攻略のころから、家臣に知行を与える前にそこを検地するようになっている。このことで家臣の領主化を阻止するものであり、軍事緊張の中で毛利氏による一貫軍事動員体制構築が要請されたことに起因する。その上で毛利氏は反銭帳を作成し、家臣の所領をこの反銭の貫高によって一括表示するようにしたのである。しかしこのことは毛利氏が現地掌握を行わぬことを前提としており、この大きな矛盾を抱えたまま統一政権と毛利氏は相対することになった。防長掌握後、毛利氏が重要視したのは石見の銀や出雲の鉄といった資源である。毛利氏は長い時間をかけながらも尼子氏を滅亡させてこれを掌握した。この際には隆元を亡くすといった痛手も蒙っている。
九州四国の大名

 

応仁の乱以降、九州の権威であった少弐氏も九州探題も力を失い、此処での権威は消滅していた。しかし大内氏の侵入によって九州は在地勢力の拡大を妨げられることとなる。大宰府をおわれていた少弐氏であるが、九州の在地勢力に担がれ、応仁の乱の隙をついて大宰府を奪回している。しかしこれも一時のことで、大内氏の攻撃に耐えられずに当主政資は自刃を余儀なくされた。しかし三男・資元は大内氏の支援を得て再起し、肥前に拠った。このころ大内義興は上洛を計っており、それゆえここでは一時講和が結ばれることになる。これは大内氏の存在を許したと言う点で在地勢力のもくろみは達成されなかった。肥前では、南北朝に活躍した菊池氏が断絶している。菊池氏は同じ肥後の阿蘇氏や相良氏、豊後の大友氏によって度々介入を受けた。これは菊池氏内部の一族内紛が激化したからであるが、最終的には大友当主・義鑑の弟・義武が養子として菊池氏を継ぎ、直系はここに滅亡した。大内義興が死ぬと、少弐資元は拡大を開始。大内氏は一時衰退することになる。だが、大内氏の工作によって少弐重臣・龍造寺家兼が大内氏に降ると少弐氏も下ることになった。しかし大内氏は少弐を越える大弐の地位を手に入れると、資元を攻め滅ぼした。子・冬尚は仇討ちとして龍造寺家兼を攻撃したが破れている。また大友氏も博多を巡って大内氏との対立を先鋭化させていた。ところが、大内氏は陶氏の反乱によって崩壊。大内氏による九州支配は幕を閉じることとなる。一方、南九州では島津氏が一族の内紛に苦しんでいた。島津氏は海外貿易による利益を得ていたが、これは室町幕府から特権を得ていたからである。この混乱の中、島津氏を統一したのは貴久である。さらに島津氏は薩摩大隅日向の統一をもくろむが、これを達成したのは子・義久の代であった。肥前では龍造寺氏の勢力が拡大していた。家兼の死後、大友氏の介入を跳ねのけた龍造寺隆信は一気に勢力を拡大、少弐冬尚を滅ぼして戦国大名へと成長した。大友家では、二階崩れの変によって義鑑が殺害され、義鎮が当主となった。かれはキリシタンとして有名であるが、二面性のある屈折した人間だったようである。彼は反対派を粛清すると肥後へも侵攻、叔父・菊池義武を殺害して肥後守護となっている。陶氏の反乱によって大内氏が崩壊すると、弟・義長を大内家の当主として送り込んだ。また大内氏の崩壊によって空白となった北九州へ勢力を広げ博多も支配している。毛利氏によって大内氏は滅ぼされることになるが、この際に援を求めた弟・義長を拒否しているが、これも大友氏が北九州を掌握するためだったと言える。この結果、大内氏は九州の九国のうち六国を掌握することとなった。しかしこれは一時的なことであり、毛利氏による九州侵攻に義鎮は苦しめられることとなる。九州ではキリシタンの活動も活発であった。九州ではポルトガルとの貿易も活発であり、特に鉄砲や火薬が珍重された。また1549年、ザビエルの鹿児島来航に始まるキリスト教布教も南蛮貿易と斬っても切り離せない関係にあったと言える。ザビエルは島津氏には受け入れられなかったが、平戸の松浦隆信には歓迎されている。また大友義鎮(宗麟)については、最も偉大な友として彼を呼んだ。だが、宗麟が洗礼を受けたのはかなり後のことであり、貿易を行いたかったという下心は否定できないだろう。一方、四国に目を移す。四国でも応仁の乱を境として細川氏の守護領国体制が崩壊。その中で土佐の長宗我部氏が勢力を拡大した。長宗我部氏は名主層を一領具足として組織化。養子縁組や武力制圧などを用い、天正年間には土佐の統一に成功している。しかしこれらを見ると、西国の大名が戦国大名へと脱皮するのはかなり遅いと言えるだろう。
城下町の形成

 

城下町の形成は、戦国時代の建設的な方向を象徴すると共に、諸大名たちの戦力の根源として、あるいは領国経営の拠点として、歴史の舞台にクローズアップされてくる。中世の城と町は、いくつかの段階を経て変わっていった。各段階の城と町のありかたは、それぞれの時期の政治や社会経済のありかたと微妙に対応し合う関係にあった。その第一段階は、鎌倉時代の地頭・御家人の館(たち)と定期市の結びつきまでさかのぼる。武士の館のすぐ近くには定期市が開設されており、年貢米を売り払って武器や骨董品、日常必需品を購入するという結びつきがあった。こうした両者の関係の中に、後世の城と城下町の原型を見いだすことができる。城と町の関係が第二段階へと移り変わっていったのは、室町から戦国にかけて、下剋上や弱肉強食が日常茶飯事になった時である。いくさという目的のために城は山の上にうつり、その構えも複雑で厳重なものとなった。こうした山城の築城は、それまで農村に広く散在していた家臣たちの、領主館周辺への集中をともなった。家臣団の城下集中がすすむと、かれらの膨大な軍需・民需物資への需要供給をめぐって、ほうぼうから商人や職人が山城の下へ集まってきた。こうして自然発生的にできた町が、根小屋・山下町である。戦国もなかばを過ぎ、天下の形勢が定まると、一国ないし数ヵ国にわたる広大な領地を支配し、経営しなければならなくなってきた諸大名たちにとって、辺鄙な場所につくられた山城と館は、なにかにつけて不便であった。領国全体の民政、経済的発展を考慮すると、城は領内の政治・経済・交通上の要地に構えられるべきであった。さりとて、軍事をおろそかにすることもできない。このような戦国後半期の諸大名のジレンマにいちおうの解決を与えてくれたのが、いわゆる平山城であった。そしてその下に楽市・楽座令などによって形成されたのが、城下町である。平山城の構築、家臣団の城下集中、城下町など都市の建設は、戦国大名の領地支配の、絶対的な条件になってきたといってよい。支配の拡大と安定にとって、これら三つの要素は、つねに一定のバランスを保つことが必要であった。16世紀なかば行こう、諸大名の商工業者に対する各種課税の免除、保護措置にかんする史料が急激にふえてくるが、これは商工業者の城下集中政策に関連していた。楽市・楽座令は、諸大名の城下町など都市建設、そのための商工業者確保の政策を、もっともあからさまに示したものといわれている。同令は、城下町の建設や経営のために、市座の独占や、ギルド的な座商人の否定を目的にして発布されたものであるとする点では、ほとんどの研究者の意見は一致している。しかし多くの楽市・楽座令がかかげていたいろいろの条文のうちのどこに重点を見いだすかにより、いろいろな見解が分かれる。それを大まかに整理してみると、三つくらいに大別できるが、本書では次の説がもっとも同令の本質に迫ったものではないかとされている。すなわち、同令は、戦国大名が推し進めていた商農・兵農分離政策の一環として、都市や商工業者に対しておこなった、再編成ないし統一政策として理解すべきであるとする説である。いずれにしても、楽市・楽座令によって城下町には領国はもちろん、他国からも商工業者が集まってきたのは事実であった。しかし、城下町の一見自由な空気にあこがれて、百姓までが田畠をすてて移り住むようになると、戦国大名たちはそれを許さなかった。本書では、城下町の具体例として、東の小田原、西の山口、そして越後春日山が挙げられている。城下町の生活様式については、あまりに平凡な身近な問題であるせいか、適切な史料が意外と少ない。しかし、地方城下町に断片的に残された手がかりを再構成してみると、それは想像以上に貧しい姿であったと考えられる。屋根も草ぶき、藁ぶきがほとんどであり、たてつけも悪く、床には莚(むしろ)を敷いただけであった。戦国のころは、城・武士と城下町とは、それぞれが孤立してまったく別の世界をなしていたといえる。これは、城壁の中に領主・商人・職人・農民たちがともに住まっていた西欧の城下町との相違点であるといえよう。日本では、まず城と武士たちの屋敷があって、城下町は城の外に武士たちの必要からつくりだされるという経過をたどったのに対し、西欧の城は、領主だけでなく。商工業者や農民たちの安全のためにつくられた例が多い。日本と西欧の城や町の構造上に見られた違いは、風土的・地理的なものではなく、成立事情の差にもとづくところが大きいのかも知れない。両者のちがいは、都市自治、住民の意識といった点になると、いっそうきわだってくる。日本では、都市の自治や自由というのは例外的なものであった。15世紀から16世紀になると、城下町はさらに大きな転換を迫られた。城は軍事的な観点ばかりではなく、政治的・経済的観点が強く考慮され、領民に対する威圧感が重視された。戦国の山城や平山城はこうした要求をみたすことがむずかしくなっていた。戦国の戦闘中心の、いわゆる「城堅固の城」は、領内統治のための城、すなわち「国堅固の城」へと変わっていったのである。

戦国の家法

 

戦国時代の主従の法、つまり主従関係のありかたは、当時の主従道徳のありかたと深く関係し、法律書として規定されていたのではなく、主として慣習法という形で存在していた。下剋上の世相は応仁・文明の乱後ことにはなはだしくなり、従者の仕官がえや、主家をとりしきったり、あるいは反逆して主家をのっとったりすることさえ頻々とみられるようになるが、こうした新しいタイプの行為が当時の武士たちのあいだで容認されていたのであろうか。下剋上や反逆行為をささえ、それらを容認する倫理とはいかなるものだったのだろうか。「甲陽軍鑑」などの史料によれば、讒言などにより、主君が家臣を誅殺するのは、当時かなりありふれた事件であった。また、オルガンチーノという宣教師の書簡によれば、召使いは誅伐の前に反逆するという場面が語られている。反逆があいついで成功するうちに、反逆そのものが公民権を得、いわば大っぴらになってきたのである。それでは、誅伐に対する反逆権、またそれをささえる倫理とは何か。それは「男道」とよばれる男子(武士)のまもるべき道、男のあるべき姿の根幹をなす要素であった。与えられた恥辱をきよめるのが男道であり、無実の罪や不当な過刑などといった主君側の与える恥辱に対しては、従者といえども、その恥をきよめるのが男道にかなうことだったのである。すべての反逆が男道にかなったものであるというわけではなかったが、そうした名分をもつ反逆がつみ重なるうちに、反逆一般が「名誉を失わなく」なるということである。主君側としては、反逆予防の政策として、不忠者の処分規定を設ける反面、忠信者の特典事項をきめ、喧伝している。利をもって忠を誘ったわけである。外には戦争、中には下剋上の風潮という混乱と不合理のなかで、戦国大名は、まず秩序と合理性を象徴する成文法を制定施行して領国支配にあたらざるをえなかった。当時のことばで、この成文法は「法度」「国法」「分国諸法度」あるいは「国の法度」などといわれた。戦国の家法には個別法規と基本法典とがある。個別法規は必要に応じて随時制定発布されたもので、守護大名も発布していた。これに対し戦国時代の特色は、大名たちの家に基本法典が作られたことにある。基本法典は、今日では八家の法典が残っている。鎌倉幕府の制定した「御成敗式目」がなお法の命脈を保ち、かつ必要に応じて個別法典をもって対処できたにも関わらず、このような法典制定が必要とされたのは、下剋上の風潮に対応して、主君の側から家臣を規制し匡風するためであった。こうした法典制定は一時的な効力しかもたない個別法規でおこなうよりも、恒久的効力をもつ基本法典の形にまとめるほうが、より効果的であったのである。法度の制定は、制定者がそれ相当の権力と権威をもつ者でなければできなかった。戦国の家法の主なものが、分国法と一般に呼ばれるのは、その制定者が分国の主であったからなのである。法典の制定は主君の側から家臣を統制する意味あいが深いが、法が一方的な家臣統制の意味しかないならば、一般的に従者の抵抗の強かった戦国時代に法典の制定は不可能だったはずだ。それでは、家臣にとって成文法はどのような利点があったのか。それは、法は従者のみならず、主人をも規制する効果があったからだった。すなわち、成文法は主君の恣意による処罰を規制する役目を果たしたのである。法が主君を規制した積極的な例としては、家臣による法遵守の誓約により効力を有した毛利元就の記請文や、法制定の主導権が家臣にあった近江の「六角氏式目」がある。戦国の家法は、「御成敗式目」から承継された条目も多かった。それというのは、一つには式目が鎌倉以来武士の法典として尊重されてきたことによるものであり、もう一つには鎌倉時代から戦国時代までは、武士たちの生活のしかた、社会体制に共通する面が多かったことによるものである。式目と戦国の家法の違いの一つは文体である。式目はいちおう漢文で書かれていたが、より多くの人々に知らせるためには仮名文のほうがいっそう適切であったといえる。戦国の家法の中には仮名まじり文のものが見られる。戦国の家法の内容について、本書では甲州法度を具体例として説明している。地頭の恣意を抑制する条文(一条)や、家臣たちの無断での同盟の禁止(十条)などが見受けられる。甲州法度の十二条は喧嘩両成敗を規定したものである。喧嘩両成敗法の意義としては、過剰な威嚇により喧嘩を予防する意図と、喧嘩当事者の理非究明の労をはぶく効能とが指摘されている。また同法14、23、24条には寄親・寄子制の規定がある。この制度は、戦国大名の軍事組織の根幹で、一族を惣領が統率する従来の方式にかわって、主君が有力家臣を寄親とし、これに小武士を寄子として配属したものであった。これは崩壊しつつあった族制的結合にかわるものとして、また農村の百姓や、牢人とよばれる他国から流浪してくる武士などを広範に軍事組織に組みこむためにも、たいそう便利な制度であった。甲州法度が目指すものは、きびしい秩序の確立と家臣の統制であったが、26最終条項で家臣に対する規律の要求に対する晴信の譲歩も示されている。戦国家法の根幹は主君と家臣の問題を規定する「主人の法」であったといえる。それに対し、民政に関する規定を「領主の法」と呼ぶとすれば、それが独立し、強力に全域的に施行されるのは安土桃山時代以後のことであった。
戦国女性

 

戦国時代、女性は男性の所有物であり、その地位は室町に比べて低下したといわれている。娘は隷属度が高く、男性より高価な財産であった。借金の形に女性を金貸しに持っていかれる話もこのころには存在した。結婚も厳しく制限されていた。他国と通づる結婚は不可であった。戦国大名にとって、女性は政治のための道具であり、商品であった。信長・秀吉・家康の時代になると、特に政略結婚が目立つようになった。嫁いだ女性は実家のスパイとして暗躍することもあったという。夫婦になっても気が抜けない。「女に心を許すな」という諺も生まれた。女性が嫁ぐと、周囲の監視は厳しくなったという。この時代の女性は不遇なことも多かった。結婚すれば居館の奥に閉じ込められ、政争に巻き込まれて若くして生を終える女性もしばしば存在した。恋愛結婚がないわけではなかった。「牛窪記」では、悲劇であるが情熱的な戀愛譚が語られている。彼女たちにとって、キリスト教は魅力的であった。一夫一妻制、結婚に際して女性の意志を尊重するなどと言った相対的な優遇があったからである。百姓・商人・職人・下人など、妻を2人以上持つ経済的余裕が無い者たちにも、キリスト教は受け入れやすいものだった。彼ら一般労働者たちは、男女問わず性に開放的であった。働きながらざっくばらんに歌い、男性に語りかけ、晴れの日(祝日)には祭りや踊りで集団で性欲をもてあました。下層社会には、このような健康で自由な女性の姿があった。
東国の大名 織田・松平

 

尾張・三河・遠江・駿河といった東海道の諸国は、京都―鎌倉間を結んでいたので、両国の文化や経済に接する機会が多かった。尾張は中国の四川省にある州名から由来した蓬州という異名がある。報酬は、蓬が茂っているからとも、不老不死である蓬來山―蓬が島になぞらえていった名称ともいわれている。いずれにせよ尾張が肥沃な大地をもつことが示されている。この地方は農村を支配する地侍・土豪が畿内に比べ強い力を持っていた。大名・有力領主は、地侍・土豪層を組織することにより、強力な軍事力を引き出すことができた。天文3年、織田吉法師(信長)が生まれる。信長は信秀が卒するやいなや、尾張守護代の織田広信に先手を打って快勝を収めた。信長の輝かしい戦歴はここから始まった。今川義元は、三国同盟によって甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と和を結び、尾張を攻め打って上洛を目指していた。今川軍は25000、あるいは4万と言われている。これに対して信長の軍は貧弱であった。ある家臣は今川氏の軍門に降るべきと言い、別の家臣は決戦すべしと言った。信長はこれらの意見を参考にせず、人を使って集めさせた情報により自信で作戦を計画した。そして夜に田楽狭間に奇襲をかけて、今川義元を破った。これがかの有名な桶狭間の戦いである。信長は足利義昭を後援し、征夷大将軍に就任させる。義昭はこの計らいに痛く感動し、彼を管領に任命しようとしたが、信長は辞退した。それが当時の世では役に立つものではないということを理解していたからである。信長35歳。天下統一への道のりはまだ遠い。
 
天下統一

 

日本は近代以降は典型的な農業国であった。そのため季節が正常に循環することを是としていた。だが実際には、台風や地震などの天災によってそれは脅かされた。そのため、「歴史は繰り返す」という言葉が生まれた。歴史は段階的に進歩していくものでなく、しばしば下降するものであると近代以前は考えられていた。いくつかの日本独自の条件も、この考えを促進した。その条件とはなにか。まず一つは、地理的条件である。日本は島国であり、土地が限られている。人間の所有欲が限定されるのであり、他国の領土侵略的な発展を遂げることが難しかった。第二は宗教的条件である。日本の仏教はインド―中央アジア―中国―朝鮮というルートで日本に伝来した大乗仏教である。小乗仏教との違いは、在家の仏教を認めるということである。大乗仏教はすべての国民を救済の対象とするので、あまねく広まり、政治・経済・思想に大きく影響した。末法思想も、下降的歴史観に宗教的な解釈を与えるのに適したものだと考えられる。第三は政治的条件である。日本は天皇による統治が古くからなされてきた。専制的な国家権力・身分制の確立は、前近代における民衆の自由な活動を阻んだ。民衆は権力に支配され、未来に期待を抱くことができなかった。変革の理念は未来に対して指向を持たず、常に過去に向けられていた。古代では大化の改新を規範にし、中世では院生時代、延喜・天暦時代を追念した。明治時代はさらに古くなり、神武創業の時点まで後退した。日本において、革新は復古と不可分であった。「天下」は大化の改新において多用された。天皇中心の支配体制の目標は天下公民であった。中央集権的な国家体制が志向されるときは、「天下」は想起されること易い。安土・桃山という時代は、新しい意味での「天下」を作り出し、その思想の最も強烈な時代であった。「天下」の持つ地理的・宗教的・政治的条件を克服し、その概念を拡充させた。過去から完全に決別することはできなかったが、すべての階層の国民が未来に目を向けた変革を目指し始めていた。夢を持ち、志を抱いた人間のうち、天に選ばれた者が台頭する。安土桃山はそんな時代であった。豊臣の滅亡、家康の鎖国によって日本は再び閉鎖され、「天下」は終わる。しかしながら、その間に培われたものは、日本を農民生活の根底から立て直した。それはまさに第二の「天下の草創」であった。
鉄炮とキリシタン

 

1543年(天文12)薩南の種子島に一石のポルトガル船が漂流した。当時西村の主宰であった織部丞が会話を試みた。織部丞は自分では手に終えぬと考え、シマノ領主種子島時堯と恵時に報告した。この時に商人から伝わったのが鉄炮である。日本人は鉄炮を、蒙古襲来の当時から知っていた。元軍が用いていた「てつはう」が「てっぽう」の呼び名の起源であると言われる。この他、明にも鉄炮は伝わっていたが、種子島銃より遥かに旧式で、命中率の低いものであり、流行らなかった。そのため種子島の鉄炮は日本人にとって新鮮であった。1544年(天文13)将軍足利義晴は種子島銃の製造を命じた。義晴は積極的利用までには至らなかったが、このとき国友村で種まきされた鉄炮製造は、次第にその芽を成長させることになった。後に信長は鉄炮を知り、鉄炮隊を組織する。種子島伝来から6年目のことであった。彼らは偶然日本に流れ着いたのではなかった。マルコ・ポーロの「東方見聞録」から東国の理想郷を目指した西洋人の旅は始まった。次第に目的は中国との貿易という現実的利益に変更されていく。ポルトガル人による日本の発見は、日本によるヨーロッパの発見でもあった。長らく日本で信じられていた本朝・天竺・震旦の三国的世界観が打ち破られ、真に世界的な視野が開かれたのである。日本人は西洋の思想とも邂逅した。1549年(天文18)キリスト教イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に迎えられる。イエズス会は反動宗教改革の運動に属するものであった。領主島津貴久は貿易のためにキリスト教を利用しようとし、ザビエルは布教のために貿易を利用した。この行き違いが、鎖国にわたるまで日本人とキリスト教徒の禍根となった。ザビエルは人間味があり、支配者より一般大衆を大切にし、外国人には慈悲深く接した。ザビエルも日本人を「友誼に富み、概して善良で、悪気はなく、名誉を尊ぶ」と絶賛した。やがて僧侶からの圧力により、布教禁止と違背者の死罪が命じられた。ザビエルは鹿児島を出て、山口に向かい、次に京都を目指した。

京の町 堺の町

 

応仁の乱によって潰滅した京都ではあるが、商人・手工業者・土倉衆よりなる町衆が力を握り、祇園会の復興なども行われた。またここには地方より戻ってきた公家衆も交わりを深めている。町衆は土倉衆の莫大な富と公家の文化蓄積を元として市民としての道を歩むのである。その彼らが独立を明らかにしたのは、法華一揆である。一向一揆と同様に語られる物だが法華一揆は一向とは大きく離れたものであり、一向一揆が農民主体であったのに対して法華一揆はと市民が中心であった。当時、各地には商業市場が形成され、農村と異なる都市が形成されており、そこには矛盾が抱えられていたのである。一向一揆は講組織を中心とした農村の結合を基盤としている。その中核として本願寺があったが、国人衆がこれに加わると政治性を帯び、ついには加賀を占拠する。既に一向一揆を抑えきれなかった本願寺だが、細川政元の計らいによって彼らを門徒に組み込み基盤と為すことに成功している。同時に細川氏との緊密な関係も形成された。天文元年、細川晴元の臣・木沢長政は畠山氏の攻撃を受けた。独力での排除が不可能と見た晴元は、本願寺に救援を頼んでいる。本願寺の檄を受けて大蜂起した一向衆は忽ち畠山氏を滅ぼし、晴元と不和であった三好元長も攻め殺し、さらに大和興福寺などの焼き討ちを行った。この力を恐れた細川晴元は、転じて一向一揆を攻撃すると同時に法華一揆の発生を促したのである。法華一揆はこのように政治的要請を以て起ったものであるが、洛中地子銭の不払いを宣言するなど、反封建権力闘争へと進んでゆく。この法華一揆は天文5年、六角氏と延暦寺の攻撃を受けて潰滅を余儀なくされた。この一揆の結果、都市の中の封建体制は確立され、階層分化が進んでゆく。その点で国一揆的であった。この法華衆の中には本阿弥・後藤・茶屋といった後々の文化をになってゆく人物もいた。また、画家・狩野派も法華の宗徒でありその影響を大きく受けている。一方、堺も天文元年を境として大きく変化している。この年、大火によって大きく損傷した堺は、この後本格的都市として発展してゆく。会合衆と呼ばれる有力商人の自治が行われ、その姿はフロイスに"東洋のヴェニスと言わしめている。その一方で、三好氏と深い関係を持っていた。三好氏は細川氏と争ってこれに勝ち、天文21年以降は京都の権威として君臨していた。しかし当主・長慶死後は松永久秀と三好三人衆に分立し争い、堺の会合衆はこの中で調停の役割も果たしたりした。
天下人

 

京の朝廷は当時、非常に窮乏していた。即位・大葬すら出来ぬ有様であったのである。天文11年、御所の築地が壊れ、禁裏はその資金を諸国へ求めた。これに対し、織田信秀は修理料を献上し、その名を知らしめている。他にも信秀は伊勢神宮などへの献金を書かさず、伝統的慣習を尊重する態度を示しており、このことが京の町衆に親近感を与えることになる。この織田氏は元来、越前・織田剣神社の神官の子孫であったと推測されている。その後朝倉氏同様、斯波氏の守護代として終わりに土着したようである。その後、大和守家と伊勢守家に分裂した織田家だが、三河松平氏や美濃斉藤氏の拡大によって兵威を必要とした中で、大和守の家臣であった信秀が力を伸ばした。信秀は殆ど尾張を統一すると、天文20年に亡くなっている。信秀の子として生まれた信長であるが、その素行は非常に悪く、異装のかぶき者であった。しかし同山には評価を受けている。このころ、松平家より今川家に送られた人質・竹千代を織田家は強奪している。当主・広忠が若くして死すと、松平家は今川家によって乗っ取られ、やがて信長の兄・信広と交換されて竹千代は今川家に向かう。またほぼ同時期に同朋衆・竹阿弥の元を小猿という少年が永楽銭一貫文を持って脱走している。こお永楽銭は明の銭であるが、日明貿易の結果この貨幣は非常に多く流通していた。彼はそれを更に針に変え、行商を行いながら東へと向かい、今川家家臣・松下之綱の元を経て信長の草履取りとなる。秀吉の生誕については、様々な説がある。とりわけ、猿を神獣とする日吉山王と関係させるものが多い。この伝説を眺めてみるに、どうやら貴種流離譚となっているようだ。信長が家督を継ぐと、尾張国内で反対する同族を討ち、尾張を固めている。そのなか、永禄2年には上洛し、京を見物し将軍にも謁見している。
信長入京
1560年、信長は桶狭間の一戦に今川義元を斬り、天下一統の戦列に加わった。この戦いに勝利したことで当面東の憂いは無くなり、信長はいよいよ西のかた京都を臨む。その手始めに攻略すべきは、隣国美濃であった。1561年5月、信長は清州の斯波義近の背反を理由に美濃へ出兵するが、斎藤氏に阻まれ功を奏せず一度撤退する。以来、信長は美濃攻略にあたって極めて慎重な計画を練った。まず三河岡崎の松平元康と結び、西上のための背後を固めることにした。元康は依然今川氏の属将であったが、水野信元の仲介で義元の暗愚な後嗣氏真と絶ち、清洲で信長と会盟する。このとき元康の名を家康と改めている。清洲の会盟は織田氏の西面への発展の足がかりであると同時に、徳川氏の東国支配の第一歩ともいえる盟約であり、今後の東方の展開に意義深いものとなった。また信長は、懸案の美濃経営のためには要地・墨俣の占領が不可欠と判断し、1566年9月、墨俣築城を計画する。妨害する敵の攻撃を防御しながら築造の資材を渡河運搬し、木曽川の対岸にある敵地に、短時間で城塁を築こうという難事業である。これを進言し見事成功させたのが、今は信長に仕える木下藤吉郎秀吉であった。墨俣築城も成り準備が整うと、信長は美濃経略に先立って近江の浅井長政に通じ、妹を妻とすることを申し入れた。ついで、美濃平定の暁には隣国として堺を接することになる甲斐の武田信玄ともあらかじめ和平を結ぶ。通婚政略によって浅井・武田氏と平和的関係を築き、美濃攻略の布石としたのである。そうして1567年8月、美濃の斎藤氏で当主竜興と三人衆との軋轢が生じたことを契機に信長はふたたび美濃を襲い、ついに竜興を伊勢長島に退けた。また居城を小牧山から稲葉山に移し、井ノ口を改めて岐阜と称した。信長が墨俣築城を計画していたころ、京都の情勢は大きく変化していた。1565年には将軍義輝が松永秀久によって謀殺されるという事件が起こっている。この弑逆行為は、諸国の群雄たちに京都に馳せ上り三好政権を打倒する名目を与えた。同時に危険の迫った義輝の弟義昭はただちに京を逃げ出し、各地の諸将に協力を求めながら遍歴する。そうして1568年、岐阜城を中心に威勢を張る信長のもとに御内書が届いた。信長はこれを機会に義昭を迎える決意を固める。このとき義昭の擁立に一躍買い、連絡の推進役となったのが明智光秀であった。義昭を迎えて入京の大義名分を勝ち得た信長は、1568年9月7日、美濃・尾張・伊勢・三河・遠江五カ国の兵を率いて岐阜を発した。この大軍の前に、京都への道はたちまち開かれた。三好三人衆は軍容に恐れて退き、9月26日、信長はついに京の地を踏む。10月には摂津の池田勝正を下し、ついで高槻・茨木の諸城も下してしまった。このように迅速な畿内平定が成ったのは、もっとも敵対するはずであった三好党の内部が三好三人衆らと松永秀久らとに分裂して抗争し、秀久が早く信長に降伏していたことが大きい。当初の大義名分論に立脚すれば、義輝暗殺の犯人秀久と和を結ぶことは許されないはずであるが、信長は反対する義昭を抑えてついにこの罪を許している。この一事は、信長の義昭擁立がまったく入京のための手段に過ぎなかったことを示していると言える。
天下布武
1568年10月18日、足利義昭は征夷大将軍に任じ、いよいよ幕府を再興することになった。一方信長は畿内を平定すると、軍費調達のため摂津・和泉には矢銭を、奈良には札銭・家銭などを課した。信長はここでも財源として都市商業に注目したのである。しかしこのとき堺だけは信長の課銭に応じなかった。ただちに信長から堺を攻撃する旨が通達されると、堺はこれに強く反発し、合戦の準備を始める。信長はこの反抗に柔軟かつ慎重に対応し、代官を置くことを義明に求めただけで、いったん岐阜に引き上げた。1569年1月、松永秀久が岐阜の信長を訪ねて大和を留守にしたことを契機に、三好三人衆は京都を襲い、義昭を本圀寺に囲んだ。信長は飛報を得て出陣し、松永秀久を伴って入洛、三人衆は破れて阿波に逃れた。このとき信長は、三人衆の活動の本拠地となり、彼らを援助した堺を三人衆と同罪の逆徒として責め、威嚇した。こうして堺は信長の要求を容れざるを得なくなり、前年よりも遥かに強力な形で、信長の支配下に置かれることになった。信長が次に鉾を交えるべきは、越前の朝倉氏である。1570年4月、信長は朝倉義景を討伐すべく京都を発し、軍勢3万余を従えて若狭に下向した。当初、信長の侵攻は順調であったが、近江の浅井長政と六角承禎が兵を起こし朝倉に与力したことで戦局は一変した。朝倉・浅井両家の歴史的な同盟関係と、織田・浅井両家の現実的な婚姻関係の天秤が、浅井家内部での対立を越えて前者に傾いた結果であった。信長は謀反の知らせを受け取ると、挟み撃ちを恐れて直ちに軍を引き上げ、かろうじて無事帰洛したのである。京都に帰って平静を取り戻すと、信長は岐阜に帰って陣容を立て直した。そうして浅井氏との合戦に備え、朝倉氏の後援も想定の範囲内で戦備を整えた。果たして次の合戦では、先陣を臨んだ徳川家康が、越前衆と浅井衆の軍2万余を姉川で返り討ちにし、信長軍はからくも勝利を得た。しかし浅井・朝倉討伐に重点を置いていたため、信長は再び虚をつかれることになる。石山本願寺である。入京以来たびたび信長に押し付けられてきた難題を恨んで、顕如は三好三人衆らと謀を通じて挙兵、浅井氏とも連絡しつつ諸国の門徒に兵を起こさせ、天満森の陣所を破った。信長はただちに摂津から明智光秀・村井貞勝・柴田勝家らを上洛させ、京都の守備にあてた。家康・秀吉も来援し、石山本願寺・三好三人衆との対立は一進一退の膠着状態となった。そうして1571年8月、信長は意を決して山門の焼き討ちを決行、延暦寺の堂塔はことごとく放火し焼き尽くしてしまった。当時、叡山の山内が腐敗しきっていたことを考慮し、古典的勢力の掃討、宗教的束縛からの解放という天下一統に向けた必然的過程としての意義を認めるとしても、この焼き討ちは現実的には必ずしも信長にとって有益ではなかった。
安土の天主

 

この章では信長の元亀年間の近江平定から1576年の安土城入城までを取り扱う。信長が天下統一をするに、大きな障壁となったのは京都の東の入口にして、北陸、東国に通ずる交通の要所、近江の平定であった。北には浅井氏、甲賀には六角氏が潜み、琵琶湖は大部隊の行軍には障害となったし、何より中世における先進地域として惣による農民の結合が強く、更にそれらの惣は商品流通に併せて緊密に連絡されていた。信長も自立する彼らを掌握するに大変手間取ったものと思われる。その近江平定も含め、彼の功績を、時間を追って見てみよう。信長は八方に敵を抱えていた。石山本願寺の顕如と繋がり浅井、朝倉が北に、武田が東に、南には伊勢の一向一揆、西にかけては三好衆や顕如率いる石山本願寺以下が控えており、信長に味方していた松永久秀なども蓮如の影響で武田や三好衆と結ぶなどし、信長を取り囲む包囲網となっていた。1572年12月、信玄が西上を始め、三方ヶ原で家康を破った。信玄が西上を決意したのは、東方で甲・相で和睦がなされ、後顧の憂いが無くなった為である。と言うのも元々互いに争っていた甲・相両者だが、其のつど相州北条氏は上杉謙信に来援を求めていた。だがいっこうに返事を遣さない謙信に不信感を抱き、逆に信玄と和睦を結んでしまった、という具合であった。さて、この様に信玄は西へ向かい、信長包囲網が狭められるかと思われたが、近江北方で朝倉が突如兵を引き返してしまい、続いて翌1573年4月には信玄病没と、俄かに包囲網が崩れた。しかし此処で、信玄勝利の吉報だけを耳にした将軍義昭が反攻の好機と見て信長に対して兵を挙げた。其の為逆に信長に追放され、73年7月、ここに室町幕府は滅亡した。信長は休むまもなく同8月に浅井、朝倉氏を討伐、9月には六角父子を敗走させ、此処に近江に一応の安定をみた。信長は次いで畿内安定と一向一揆の討伐に向かった。11月に三好氏を討ち、松永久秀・久通父子も信長に下り、翌1574年8月には伊勢の一向一揆を平定した。また、浅井朝倉氏征伐後に浅井氏の居城であった小谷城の城主となり、名も羽柴秀吉と改めていた彼は、商業の発展を図り山上の小谷城から、長浜に城を建てて移っている。1575年5月には長篠の合戦で信長・家康軍は武田勝頼率いる甲斐軍を破った。これは1573年の長篠城を巡る家康・勝頼の攻防が元であった。とかく、東の憂いを取り除いて信長は、同8月に北陸方面の一向一揆を平定した。加賀に於いては謙信と衝突の兆しも有ったが、一先ず岐阜に帰り、京都へ上って大納言兼右大将に任じられ、直前に勝頼の来襲を退けていた信忠に家督を譲った。年が空け、天正4年正月に安土築城を開始し、2月には本丸が完成し、信長はこれに入城した。後の秀吉大阪城に比べると東に有るが、この時はまだ謙信の南下を想定し、西にも石山本願寺、そして毛利氏が控えていた為に安土の地を選んだと思われる。
政権と民衆

 

信長が征討先での経営に於いて、人民の不満を抑えることに専念した。先の章でも述べたが、信長の手中にある国々は、何れも先進的な地帯であり、惣、宮座といったもので農民同士が強く結合していた。故に彼らの反乱を事前に防がねばならなかったのである。例えば、本年貢以外の課役がなされないように、或いは在地領主よりも郷村に根付く地侍を重視し、彼らを介して支配の基盤とした点などが其れである。地侍が郷村を知行した場合、給人と呼ばれたが、彼らが之までの荘園代官に代わって郷村を支配するようになった。経済面に於いては、諸国いたるところに多数の関があり、商品流通の障害となっていたが、これらの関所を廃止した。また、有名なところでは安土城下町の楽市・楽座があるが、元々南近江の六角氏が行っていたものに目をつけたのである。尤も、六角氏も信長も座を完全に否定しているわけではなく、必要に応じて座の保護をしている。信長は最初法華宗に心を寄せていたようだが、フロイスら宣教師等と関わってからはキリスト教にも興味を示した。側近の法華宗の使僧の反対を無視してキリスト教を公認し、安土城下に教会を設けるといった具合である。しかし、信長は結局どの宗派に心を寄せたというものではないようだ。例えば、天正7年に法華宗僧侶と浄土宗僧侶に宗論させて、法華宗僧侶を敗北に追い込んでいるが、これは宗徒たちの活動を教義の上から抑える為であると思われる。さて、信長は日本の中央部を制して安土城を構え、最早彼に対抗できるのは東の北条と西の毛利くらいになっていた。しかしもう一つ、これまでも散々信長を苦しめてきた石山本願寺が天下統一の行く手に阻んでいた。信長はこれを討たんと天正4年4月に軍を遣わした。が、逆に攻め立てられてしまい、信長自ら出陣となった。また、前将軍義昭が毛利の領国備後に飛び込み信長追討を依頼、次いで武田・上杉に挙兵するように飛札を出している。また、紀伊では畠山貞政と根来、雑賀衆が結んで挙兵し、信長は西と南に敵を持つことになり、再び一揆勢に備えねばならなくなった。
京都御馬揃

 

織田信長の政権は、中国の雄毛利氏との対決に持ち込まれた。将軍足利義昭が毛利氏をたより、尼子氏が信長と結ぶ、対照的な成行きであった。1571年6月、毛利元就が病没した。そのさきより尼子氏を攻撃中だった輝元・隆景は看病のために吉田へ帰ったが、吉川元春ひとり出雲高瀬に陣し、山中幸盛、尼子勝久をやぶった。幸盛と勝久は京都に難を避け、再挙の機をうかがっていた。1573年の末、勝久・幸盛はふたたび出雲に入るため但馬にくだり、因幡の山名豊国にたよった。豊国は旧主勝久の依頼に応じ、勝久は因幡の諸城を攻めて、ついに鳥取城をおさめるにいたったが、その後豊国は毛利氏からの後難をおそれ、ふたたび翻って毛利氏に属し、勝久を撃ってこれをやぶった。勝久はなおも機会をうかがっていたので、1576年9月、輝元は小早川隆景を遣わし、元春とともに鳥取城の山名豊国に加勢して勝久らを包囲した。この間の尼子氏の勢力の背後には信長の援助があったと思われるが、毛利氏から強く質されても信長はこれを否定していた。山陰にも山陽にも、信長と毛利氏とのあいだがしだいに険悪となってきたが、1573年7月、義昭追放のころより直接の交渉がはじまっていた。毛利氏側からの主張は前将軍義昭の復職であった。その間に毛利氏側の使僧として奔走したのは、安芸安国寺の住持恵瓊であった。恵瓊は安芸国守護であった武田氏の末裔で信重の遺児である。かれは弁才と奇智にめぐまれて毛利氏に重用されるようになった。朝山日乗と秀吉との三人で毛利・織田両氏の調停をはじめたが、日乗が凋落し去ったので、毛利と織田は恵瓊と秀吉に代表されることになった。恵瓊の第一次の交渉は義昭の上洛を実現することはできなかったが、その西下だけは食い止め、織田・毛利両氏の表面的な和平関係を樹立した。しかし、信長の側での尼子氏援助や三村氏援助が裏で行われ、義昭が下向して毛利氏に身を寄せたので、平和的情勢はたちまち後退してしまった。さらにこうした一触即発の情勢に点火したのは、信長の石山本願寺攻撃であった。毛利氏が義昭を奉じて石山救援にたった背後には、いわゆる安芸門徒とよばれた安芸・備後にかけての一向宗門徒の勢力が後押しをしていることも考えねばならない。1577年4月、毛利の軍は石山後援のため安芸を出発し、備前の宇喜多直家とともに播磨の室津に着陣した。このとき播磨御著城主小寺政職は信長に心をよせ、5月に同国英賀において毛利軍と戦ってこれをやぶり、一時を食い止めた。しかし閏7月には上杉謙信の出馬が伝えられた。8月、信長は柴田勝家と羽柴秀吉を加賀につかわして謙信を禦がねばならなかった。8月、松永久秀・久通父子が突然信長にそむき、摂津天王寺の砦を去って大和信貴山城に拠った。しかし久秀父子の謀叛は時期も未熟であり、準備も不足であったため、10月、織田信忠・惟任(明智)光秀・長岡(細川)藤孝に攻められて信貴山城に自殺した。この間に、北国の謙信は9月、能登七尾城を攻めてこれをおとしいれた。1577年、謙信はあらためて諸将をあつめ、明春の雪解けをまって大挙して出陣することを定め、その準備にとりかかった。毛利氏の出征がしだいに日程にのぼる段階になって、信長を挟撃する一大勢力である。しかし、翌年の3月、突然に謙信は脳溢血のために倒れ、49歳をもって卒した。謙信の目標がどこにあったかという点につき、一般の通説は上洛説である。畿内の反信長党の期待にこたえて、前年9月の能登一国・加賀北半の平定の基礎のうえに、さらに一大上洛作戦を企画したとみるのである。ただ、これは信長の側からの観方がきわめて強い。そこで注目されるのが、3月の出陣を関東に向かって北条氏政を攻伐するためであったとみる見解である。したがって、この場合、当面の謙信の猛襲をまぬがれたものは、実に氏政であったことになるし、その意味で謙信の「天下」はあくまでも関東であったことが知られるのである。1577年10月、秀吉は中国平定の任務をおびて京都を出発した。秀吉は姫路城に入り、但馬国にも手をのばして山口岩淵城を攻略し、竹田城をも攻めて退散させた。秀吉は近江の役以来、軍の参謀格であった竹中半兵衛重治にくわえて、この播磨攻めで黒田官兵衛孝高をえたことは第一の収穫であった。11月、この両人をして備前宇喜多直家の居城であった播磨福原城を攻略させ、みずからは同国七条城(上月城)をかこんだ。翌年2月、秀吉はふたたび播磨に入り、書写山に陣した。三木城主別所長治が毛利氏に通じて挙兵したためである。秀吉は3月、三木城をかこんだ。毛利方の作戦は、播磨に入り、尼子勝久・山中幸盛のこもる上月城のほうをかこむことにあった。秀吉は摂津の荒木村重とともに陣を播磨高倉山に移し、毛利氏と相対した。毛利氏の結束ははなはだ固く、6月、さすがの秀吉も毛利氏の軍と上月城下に戦ってやぶれ、上月城の救援を放棄して三木城に向かった。上月城は秀吉の来援という頼みの綱をうしない、毛利氏の軍門にくだらざるを得なかった。秀吉の三木城攻囲は尼子氏の上月城を犠牲に供したのだが、その陥落は容易ではなく、実に満2年におよぶ持久戦となったのである。秀吉が播磨の三木城を包囲しているあいだに、荒木村重が信長にそむいた。1578年10月のことである。石山攻囲中に村重の配下の者が大阪城中へひそかに糧食を送っていた。この行動が織田氏の兵の発見するところとなり、部下の利敵行為の責を追って、敵に内通するものとして安土に伝えられた。村重は当初母を人質として二心なきをちかい、みずからは安土におもむいて陳謝せんとしたが、中川清秀らの勧説により謀反の意を決したといわれている。信長は11月に入京して村重としたしい細川藤孝・秀吉をして慰論せしめたが、村重が聞き入れなかったため、摂津に出陣し、諸将をして村重を討伐せしめた。このときの謀叛に、当時畿内においてキリシタン大名として知られた高山友祥らが相応じたことも、信長としてはキリスト教保護を考慮していたときだけに大きな衝撃であったようである。高山友祥は、すなわち通称右近のことである。高山父子は高槻城主であった和田惟政にしたがっていたが、惟政の没後、子息の惟長が高山父子の声望をねたんで謀殺しようとはかったので、右近も敵方の荒木村重と通じて1573年に高槻城を乗っ取り、やがて同年8月、右近は正式に高槻城主となったのである。そのような関係で、右近は村重に属し、高槻城も荒木方の有力な属城となった。信長は高槻城の軍事的魅力と、キリシタン大名としての高山右近の名声を考えて、戦を交えることの不利を知っていた。そこでキリシタン宣教師オルガンチノを呼び出して右近と交渉させたが、右近は村重の信長にたいする謀叛を批判していたため、いま村重から離反することは心苦しかった。そこで右近は、信長と村重との和平工作もこころみてみたが、失敗に終わった。城内の大勢は父ダリヨ飛騨守をはじめ主戦派によって動かされ、信長の使者を追い返してしまう。村重のほうからは右近と信長との交渉につよく抗議して、人質を殺害すると脅迫してくる。かくして右近は、キリシタン宗徒として意を決し、信長のもとにいたって、高槻城と教会の保証をとりつけ、みずから出家することを申し出ようとしたが、その決意が右近の側近を動かし、かれらは高槻城内の主戦派に対し、クーデターを行った。ダリヨ飛騨守らは城をのがれて村重方につき、高槻城派開城することになった。11月、織田氏の諸将によって村重の有岡城攻撃がすすめられた。12月11日に信長は陣を摂津古池田に移した。信長も村重の伊丹の守りが意外にかたく、持久戦となることを覚悟して将士に諸塁を守らせ、羽柴秀吉は播磨の陣に、光秀を丹波につかわして自分もいったん安土に帰城した。村重の叛は、毛利方にははなはだ吉報であって、義昭も吉川元春に書状をおくって、村重の帰属に乗じて輝元の出兵をすすめさせたから、輝元からも援兵がつかわされた。播磨の戦線と丹波の帰趨はきわめて深い関係にあった。地理的な接触、姻戚による結び付き、しかもこんどは摂津の荒木村重とも気脈を通じていたのだから、丹波経略が必須の課題となった。信長は、丹波の方面は明智光秀に担当させていた。1576年正月、丹波の波多野秀治が光秀にそむいてその営を襲撃し、これをやぶって以来、丹波の土豪たち、国衆の去就は安定していなかった。ここにおいて1578年12月、荒木村重の叛とも関連して丹波平定が焦眉の急となったのである。光秀は八上城を包囲し、兵糧攻めを行った。そして波多野氏が弱ったところを見計らって伯母を質として秀治ら三兄弟を誘い出し、これを安土に送って信長に和睦を申し入れたが、信長はこれを磔にかけてしまった。そこで八上城に残留の将らは光秀の詐謀となし、人質の伯母を楼上で殺し、一同死を決して籠城した。光秀は急迫して八上城をおとしいれ、城中余すところなく殺戮したのであった。1579年7月、光秀は藤孝とともに波多野氏の余党を蜂山城に攻めてこれをおとしいれ、同時にまた一色義有を丹後弓木城に攻めてこれと講和した。かくして10月、光秀は丹波・丹後の平定を復命した。翌年8月、その功によって丹波を光秀に、丹後を藤孝に宛がわれた。秀吉の三木城包囲は、その間に荒木村重の叛をはさんでいっそう長期戦となっていた。別所長治や毛利氏が三木城に食料を輸送しようとするなど、三木城の攻防はしだいに両軍の焦点となってきていた。しかし秀吉はこれらの三木城との連繋をことごとく絶ち、これを孤立させることによって、「三木の干殺」といわれる兵糧攻めを敢行していたのである。その間に1579年3月、宇喜多直家が秀吉に応じて毛利輝元の属城美作三星城を攻めるにいたった。直家は、その地理的位置から自然毛利氏側にたっていたが、信服していたわけではないので、信長の勢力が播磨以西におよぶ形勢をみて、ついに投降の意を決したのである。荒木村重も、有岡城をかたく守っていたが、城中は飢渇にせまられ、1579年9月、数騎をもって城をのがれて、尼ヶ崎城に入った。村重の謀叛は、しだいに戦局における重要性をうしなってしまっていた。秀吉の干殺戦術は1580年の正月に攻城戦に転じ、17日、長治・友之らは自殺して城はおちいった。ここにおいて属城もまたつぎつぎに落ち、播磨の平定はなったのである。信長の中国征伐の過程で、毛利氏との対決が急迫してくるにつれて、なお未解決にのこされた石山本願寺との対抗関係が、大きな課題として立ち現れてくる。一向一揆の実力についてはかなりふかい知識を持っており、討伐の必要と至難を痛感していたであろう信長が、討伐にあたってもっとも動揺したのは荒木村重謀叛の報をえたときであった。1578年10月である。他方、本願寺としても信長に敵対することは大きな冒険であった。そこで、立入宗継らがあいだにたって和平が試みられたが、毛利氏と同盟関係にある本願寺側が輝元とも同時に和談あるべしという条件を出し、その調整を行っているときに村重の有力な属将であり謀叛の端緒ともなった中川清秀が信長方に帰参のことが定まり、村重の謀叛も大きな波紋をつくらぬ見通しがたってしまった。そこで信長は勅使の下向をとどめ、自然に和談も破れてしまった。このように本願寺はしだいに不利に追いこまれたが、信長もまた石山を攻めなやんでいた。石山本願寺は難攻不落の地であり、城兵は信仰に生きるかたい団結の人々であったからである。信長としてはふたたび和談を思うようになっていた。そこでもう一度晴豊らによる和睦交渉がすすめられた。閏3月5日、本願寺にたいし、勅旨によって信長と講和せしめられることになった。顕如は大阪退城を約して和議がなった。顕如としては前途の見通しをもってこの終戦の機会をつかんだのであったが、長男(教如)は、徹底的な打撃をうけたわけでもないのにみすみす開城することにたえられなかったのと、諸方の門徒からもつよく要請かつ支持されて、顕如が退居したのち、大阪にとどまって兵を諸方に徴して再挙をはかった。この報に足利義昭などは大いに力をえて毛利氏に信長討伐の出兵をすすめたりしたが、紀伊の顕如は驚いて息子をいさめた。しかし教如の決意もかたく、ついに父子の義絶ということになってしまった。顕如は光寿の弟光昭(准如)をたて、嗣と定めたが、それはのちの東・西本願寺分立の端緒となるのである。教如のほうは門徒らがかたい決意をもって団結していたから、信長もただちに兵をくわえようとはかった。しかし、和平の機運が高まってきて、教如は7月17日、ついに信長に赦免を請い、和議をととのえた。こうして8月2日、教如も大阪を退出した。石山の力を遠くからささえた加賀門徒も、本願寺の和睦を大きな不満としたが、信長の側としては一揆鎮圧には絶好の機会であり、1580年閏3月、信長の将として北国に鎮する柴田勝家は一向一揆を討伐して加賀に入り、諸所を攻略したうえ、金沢城を攻めた。1581年の正月は、畿内の完全な平定、北国・中国・山陰におよぶ戦果を祝うよろこびのうちに明けた。石山の会場によりもっとも有力な反抗勢力である一向一揆が実際上解体したのであり、大きな意義を持つ新年であった。ここ数年のあいだで特筆すべきことは、北条氏政との新しい友好関係がむすばれたことである。徳川氏を仲介として北条氏とむすばれたことは、信長にとって、いっそう東側に懸念なく、西に向かうことを可能とした。信長は光秀に仰せて京都で「御馬揃」を計画し、朱印をもって分国に触れた。時日は2月28日。こうして、京都御馬揃は、統一の一段階に到達した信長政権の全力をあげた行事となったのであった。
本能寺の変

 

御馬揃のため信長方の大名たちが在京中であった虚をついて、上杉景勝の部将河田長親は越中松倉城にたてこもり、これに応じてたった一向一揆とともに反撃に転じてきた。この軍事行動はもちろん上杉景勝の計画だった。北国は風雲急を告げたものの、景勝も兵をかえし、河田長親が病死したので、越後勢は急速に意気喪失してしまった。それとほぼ時を同じくして、東国では徳川家康が遠江高天神城を落とし、遠江一国が完全に家康の手に帰した。この攻城戦は、家康にとっては両国平定の完了を、武田勝頼にとっては領国支配の不安と将士の不信感を招くものだった。御馬揃のころ、秀吉は姫路城の修築にかかっていた。かれは播磨三木城の陥落のあと、美作・備前に転戦し、4月には備中高山に小早川隆景を包囲しようとしていた。秀吉は1581年6月に、毛利方の吉川経家のまもる鳥取城をかこみ、三木同様に干殺をはかった。10月25日、鳥取城は落城した。「鳥取の渇泣かし」といわれる悲惨な落城であった。その後、秀吉はいったん姫路に戻り、11月に淡路へ兵を進め、岩屋城と由良城を攻略した。信長方は瀬戸内海の制御と、四国経営の根拠地をあわせうることとなった。このころの信長の統一過程は東西両面作戦であった。東国では、1542年2月、武田方の木曽義昌の謀叛を契機として、織田・武田の戦端が開かれることとなった。しかし、武田方の士気はいっこうにあがらず、各地で敗走した。勝頼は夫人北条氏と子信勝とともに自尽し、武田氏は1ヵ月ほどで滅亡することとなった。こうして甲・信は平定され、上野もまた信長の治下に入った。信玄の没後わずか十年で、武田氏領国の甲・信の一門や将兵が精神的に離反していたのにはいろいろな理由があるが、一つは富国強兵策の反動であり、もう一つは信玄の存在が大きく勝頼の立場が軽小に見做されたことが挙げられる。勝頼が最期をとげ、上杉景勝は信長軍の北上の気配を感じ、警戒を高めた。信長が武田氏征討に向かっているあいだ、秀吉は備前を中心として毛利氏征討準備をすすめていた。秀吉はじゅうぶんに機会をうかがい、東の問題の解決をまって、1582年3月15日、播磨・但馬・因幡三国の兵をひきいて姫路を発し、備中に向かった。備中守備の中心は高松城主清水宗治である。秀吉は外部からの援助の道を絶ったうえで、5月7日、高松城をかこんだ。秀吉は水責を行い、ついに安国寺恵瓊をもって毛利氏と秀吉とのあいだで和を議せしめるにいたった。しかし、秀吉側の条件は現在の係争地のみならず、備後・出雲という山陰の毛利軍の基地をもくわえた領国の割譲と、城主清水宗治の切腹という過酷なものであった。毛利方は、人情として宗治は救わねばならず、講和は暗礁に乗り上げた。この時期の四国は、土豪長宗我部元親の統一過程にあった。四国の平定をめぐり、信長は土佐の長宗我部氏を支援するか、阿波の三好氏を支援するか二つの道があり、前者は光秀がとりつぎ、後者は秀吉と連繋していた。信長は長宗我部氏討伐にふみきり、光秀の面目はつぶされることとなった。甲斐の征旅から安土に凱旋した信長は、心せわしい日々を送った。信長は四国征討をおしすすめ、西征の意図を明らかにした。ところが5月14日には信忠が信濃より凱旋し、翌15日には家康と穴山信君が来賀した。信長としては家康の功績を考えると、かれをもてなすことが必要であり、光秀に御馳走役を命じた。その饗応の最中に秀吉からの備中高松城の包囲と毛利氏の全力での赴援の報が届き、信長は出陣を決意した。饗応が終わらぬうちに、光秀に先鋒として備中への出陣を命じた。21日、信長は家康らに京都・大坂・奈良および堺などの遊覧におもむかせ、家康は信忠とともに上京した。29日、信長も近臣2、30人とともに入京して本能寺に宿をとった。備中出陣の準備のために安土をたった光秀は、26日に居城である丹波亀山城に入った。光秀が信長を怨む理由としては、家康の御馳走役をつとめる光秀にたいして信長があたえた屈辱や、丹波八上城において波多野秀治兄弟をかこんだとき、信長が光秀の言を無視して人質の秀治兄弟を殺したために、光秀が人質として城中に送った伯母を殺されたという経緯などが考えられるが、光秀の場合、信長とのあいだに完全な相互理解がなかったことが問題であった。 光秀は秀吉のような子飼いではなく、1568年に足利義昭を信長にむすびつけて、信長の家臣にくわわった新参である。義昭との縁故関係という就職条件は、義昭と信長との関係が切断されるとき、はなはだ微妙なものとならざるを得ない。加えて、光秀が四国で長宗我部氏側に取次ぎをしていた失点や、追い打ちをかけるような備中の秀吉への援軍という命令が持ちこまれたこともある。こうして、光秀の中では、信長打倒、謀反の気持が急速に大きくなっていったと考えられる。そして6月1日、光秀は13000におよぶ軍兵を率い、本能寺を目指した。信長は刺さった矢を抜いて薙刀でしばらく戦ったが、腕に弾創をうけ、室に入って切腹した。信長が切腹するころまでには、森蘭丸以下の近習も7、80人ばかり、ことごとく討死にした。信忠はいったんは本能寺赴援を志したものの不可能をさとり、村井貞勝とともに二条御所へ移った。その後、光秀の二条御所攻撃がはじまり、信忠も自殺した。光秀はその後に近江へ向かい、5日には安土城に入った。2日の変後、光秀は安芸の小早川隆景のもとに一通の書札を飛ばしていた。それは、将軍義昭に代わって逆臣信長を討ったという内容のものであったが、この書状をもった使者は高松城で秀吉の軍に捕らえられ、首を刎ねられた。本能寺の事変は、各地にある諸将のもとに伝わった。家康は、家臣に弔い合戦をすすめられ、4日には三河に帰り、5日にはただちに出陣の行動をおこした。北陸道で上杉景勝の軍と戦っていた柴田勝家らは、4日に変報がとどき、ただちに軍を返すことにしたが、領国内の手当てや景勝軍の追撃への対処などにより、時期を失してしまった。かくして残るところは中国にある羽柴秀吉であるが、かれは光秀の使者を捕らえたことにより事情を知り、4日には高松城主清水宗治の切腹をもって毛利氏との講和を締結し、姫路城へ取って返したのであった。
七本槍の時代

 

1582年6月6日、羽柴秀吉は姫路城に帰り軍備を整えると、9日には明石へ出発した。同じ9日、光秀は軍を率いて上洛し情報収集と配備にあたっていた。10日には筒井順慶の参戦を待って洞ヶ峠に陣したが、順慶は光秀に同心しないことを告げて秀吉に応じた。既に山崎付近には秀吉軍が出没しており、ようやく光秀は秀吉の迅速な東上を知ったが、天王山を占領するには時既に遅く、いったん勝竜寺城に退いた。明けて13日昼、援軍の到着した秀吉軍はいっせいに明智攻略を開始した。攻める秀吉軍4万、対する明智軍16000、三分の一の劣勢である。秀吉軍の総攻撃に、明智軍はたちまち崩れ立った。光秀自身も勝竜寺城に逃れ、近江へ帰るべく夜陰に乗じて脱出したが、途上に土民の襲撃を受けて殺されてしまう。光秀亡きあとの明智軍は四分五裂の総崩れであった。光秀の首級もやがて秀吉軍に発見され、本能寺に梟された。こうして明智謀反は一応の終末を告げた。信長亡き後の天下は皆の関心であるが、まずは遺領処分のため、柴田勝家、羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興らが清洲城に会した。織田家の宿老が顔を揃えた形である。戦後の収拾策を会議によって決定する方式が打ち出されたことは、これまでの日本には例がなく、まったく新しいことであった。秀吉はこの会議において、織田信忠の嫡男三法師(秀信)を後嗣として主張することを除き、領土分配などすべて諸将に譲り争わなかったが、それでも明智討伐の実績は秀吉に諸将を凌ぐ大きなウエイトを持たせていた。秀吉が織田氏の大業を継いでいくことは、もはや誰の目にも明らかであった。この秀吉と早晩対立する運命にあるのは勝家である。清洲会議は彼らのあいだに暫定的な安定をもたらしたが、その安定も長くは続かなかった。1582年10月には、秀吉は本願寺及び惟住長秀、池田恒興らと結び、勝家に対する抗争意思をはっきりと示している。一方、勝家側でもっとも秀吉排除の意志を見せているのは信孝であり、柴田勝家、滝川一益は言わば信孝の意向に引き込まれた形で秀吉と対していた。しばらく警戒をつづけていた両者だが、ついに12月7日、秀吉の軍5万が行動を開始し、9日には近江に入った。勝家が雪に阻まれているあいだにその徒党を討つのが目的である。長浜城主・柴田勝豊は秀吉に降り、ついで岐阜城に信孝を包囲すると、信孝は人質を出して降伏した。つづいて滝川一益の将佐治新介の守る亀山城が落ちるに至り、勝家はいよいよ近江に兵を出した。勝家の南下を知った秀吉は、転じて12日に近江佐和山に入り、長浜より柳瀬に向かってこれと対陣した。開戦まもなくの大岩山では、佐久間盛政をして中川清秀を破られ秀吉側の敗戦となったが、その報を受けた秀吉はただちに軍を近江木之本へ返し、その間13里をわずか2時間半で馳せつけた。盛政軍は想定外に早い秀吉の着陣に狼狽し、本陣へ向けて退却をはじめた。秀吉軍はこれを追尾し、盛政軍の退却を援護する柴田勝政を賤ヶ嶽の惟住長秀と挟撃した。盛政軍は総崩れとなり、その報を聞いた勝家軍もまた狼狽のもとに大半が逃散する始末となった。この決定的な勝家軍総退却の原因をつくった福島正則らの人々が、「賤ヶ嶽の七本槍」としてその名を伝えられる人々である。(ただし七という字は過去の軍功にならったもので、実際には7人でなく9人であったという。)賤ヶ嶽の戦後収拾を通じて、秀吉の地位は磐石たるものとなっていく。この点、賤ヶ嶽の戦いはこれより秀吉時代がはじまるという画期的な戦であり、家康における関ヶ原の戦いにも比せられる重要なものであった。
大阪築城

 

1583年5月25日、池田恒興は大阪城を秀吉に渡した。秀吉は既にその根拠を要衝山崎に求めて築城していたが、この地は軍事上の要点でこそあれ、視野が狭隘で支配の拠点には相応しくない。大阪の要害と地理には比較にならぬ。大阪の優秀さは石山本願寺で証明済みである。9月1日には、いよいよ大阪築城がはじまった。さて、本能寺の変後の1年に飛躍的な進歩を遂げた秀吉にも、依然として如何ともしがたい実力者は東の徳川家康である。家康は秀吉飛躍のあいだ、武田氏滅亡後の甲州経営にあたっていた。地道な経営により、主君を失った甲斐武士団を自身の軍団に編入していくことは、家康にとって実に大きな力となっていた。このころにはまだ少なくとも儀礼的には交友関係を保っていた家康と秀吉だが、ここにひとつの事件が波紋を呼び起こした。信雄が秀吉と絶って家康と結んだのである。秀吉と信雄の疎通が絶えていたところへ、家康が介入した形であった。1584年3月10日、秀吉はただちに出陣し、大阪より入京して翌日坂本に向かった。対する家康は兵を率いて尾張に出ると、13日には信雄と会し、いよいよ行動を開始した。戦闘は主として伊勢と尾張が中心となった。緒戦はまったく秀吉有利に展開していたが、信雄・家康はただちに清洲より小牧に出陣し、小牧山を占領することに成功する。小牧山は尾張平野の中央に孤立した山で、尾張を一望に見晴らすこの上ない軍事上の要衝である。この占拠は緒戦の失敗を補って余りあるものであった。秀吉軍は小牧山に対し楽田を本営として対峙した。池田恒興は膠着状態を打開すべく、三河に攻め行って家康の本拠を撹乱する作戦を提案、自ら遂行したが、家康の追撃により長久手の戦に破れ戦死してしまった。楽田と小牧山はふたたび膠着状態となったが、長久手の敗戦は大きく、精神的には秀吉軍が劣勢となってしまった。秀吉はこれ以上家康と対峙することの不利を悟り、11月15日、信雄・家康と和を講じた。秀吉も一応の面目を保ったが、ここにおいて家康の立場は秀吉と対等以上のものになったのである。小牧の役から戻り紀伊を征討した秀吉が、征討すべきは四国の長宗我部元親である。秀吉来攻の風聞に、四国はにわかに動揺した。秀吉は弟秀長をして諸軍を率いて渡海させ、阿波・讃岐屋島・伊予の三方から攻略を開始した。元親は阿波白地城に本拠を置いて指揮にあたったが、三方攻撃は極めて迅速で、やがて合して本拠に迫った。1585年8月6日、元親は不利を悟って和を請い、秀長はこれを許して人質を取り凱旋した。次の標的は越中、飛騨である。8月8日、秀吉は大軍を率いて京都を発し、18日には金沢に到着した。佐々成政は居城富山城に構えて対抗しようとしたが、秀吉軍の攻撃前夜、自ら剃髪して降った。秀吉はいったん成政に切腹を命じたものの、信雄からの助命の懇願もあって、ついにこれを許した。こうして小牧の役に付随した謀反者は残らず平定されてしまったのである。
関白と五奉行

 

氏姓を持ち合わせない秀吉は、山崎の合戦以来、信長の家臣として平氏をとなえ内大臣に至ったが、ここに信長以上の権威を求めるとすれば、いつまでも信長の用いた姓に甘んじているわけにはいかない。秀吉はここで菊亭晴季の案を採用し、藤原氏の独占物であった関白に就任することにした。右大臣晴季の奏請により、ただちに関白の更迭が行われた。姓も藤原と改められた。この任関白はさすがに朝野驚愕の出来事であった。こうして秀吉は、1585年7月11日をもって名実ともに政権の座についたが、藤原姓を冒したことへの批判や負い目はなお大きく、妥協案として源・平・藤・橘の四姓の他に新たな姓を賜ることにした。9月9日、新しい佳姓として豊臣姓を選び、これを朝廷に奏聞して勅許を得た。この賜姓は、関白就任に関する批判や不信に広く答えたものであり、政権の座を強化するのに役だったと考えられる。さて、しかしその政治形態として摂関政治を踏襲するのは現実味がない。そこで秀吉は近臣を諸太夫に任命する一方、新しく関白に直結する政治機関として、幕府体制からの系譜をひく奉行制度を樹立した。頭は貴族政治的な関白で、手足は武家幕府的な奉行であるという、豊臣政権に極めて特徴的な、公武総合的な体制である。奉行に任命されたのは、浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家の5人であった。この5人という形式は、五大老に見合う形として後に五奉行制度として制度化されることになる。また、秀吉が政権の経済的基盤として重要視したのは、京都・堺であった。「京の町・堺の町」で活躍する茶人たちは、茶の世界を通じて秀吉らと密接に結ばれていたのである。政権はこれらの都市の豪商と密着し、相互に協力しあった。このように秀吉が豪商たちと膝をつきあわせる茶の世界に、信長以来の茶堂として権威を持ったのは千宗易である。秀吉としては、その権力の飾りのためにも、堺の豪商たちとの関係からも、この宗易を離すわけにはいかなかった。1585年10月8日、秀吉は関白拝任祝いを兼ねて禁中小御所に茶会をひらき、正親町天皇をはじめとする貴顕に茶を献じることとした。茶堂をつとめる宗易は、禁中の茶会に無位の俗人であっては列することはできないので、このとき1日限りの仮名として「利休」の居士号を賜ったのである。これは宗易の権威を一段と高めることであり、自らも名誉なこととして利休の名を長く用いるようになった。豊臣政権の確立するにつれて、改めて動向の注目されるのは徳川家康である。家康は甲斐・信濃に自家勢力を拡大し、対立関係にある北条氏直と和議を結ぶなど、もっぱらその関心は東国であった。秀吉、家康間は依然として冷戦状態であった。しかし1585年11月13日、ここに思いがけない事件が勃発した。家康の老将石川数正が三河岡崎より京都に出奔したのである。秀吉は数正を大いに歓迎し、これに乗じて家康の上京を促したが、家康は諸将を浜松に会して協議のうえ拒絶した。秀吉東征の説も囁かれたが、秀吉としても家康と闘うことは本意ではない。織田信雄をして調停を図らせ、破局を回避しようとした。果たして信雄は1586年1月27日、家康と三河岡崎に会して秀吉との和議を議し、ついにこれを実現した。秀吉は異父妹旭姫を家康に嫁がせ、両家の親密を図ることとした。この結婚によって、豊臣、徳川両氏は一応の同盟関係に入ったのである。
鎮西の波瀾

 

本州で戦いが繰り広げられながらも、戦火は九州へと移りつつあった。本州で勢力を伸ばした大名にとって九州は、全国統一のために避けられない場所だからだ。当然、そこを制圧しようとする大名たちが台頭してくることとなった。たとえば、織田信長。彼は1575年ごろに、家臣の明智光秀、丹羽長秀を改姓させた。おそらくこれは、彼らにその地を知行させようとしたものだと思われる。つぎに九州に兵を進めたのは、羽柴秀吉だった。信長が九州に手を伸ばした10年後のことだ。もっとも、秀吉はすぐに九州を支配することができずにいた。なぜならちょうどこのころ、九州では大勢力同士の対立が繰り広げられていたのだ。それは、大友氏と島津氏だった。彼らにまとめて命令を与えようとして、秀吉は島津氏に大友氏との和平を迫った。しかし、島津氏はこれを拒否。ところが、ここで予想外のことが起きた。大友氏がわざわざ秀吉のもとまでやってきて、島津氏の侵略を訴えたのだ。この態度に気分をよくした秀吉は、島津氏の征伐を約束した。まず秀吉は、九州に国境を定めた。ここで、すこし時間を戻す必要がある。ちょうど、九州に大友、島津、龍造寺(竜造寺)の大勢力が存在していたころの話だ。なお、このころは信長がまだ生きている。このころ、龍造寺氏は中国地方の毛利氏と手を組み、大友氏と対立していた。大友氏のほうが優勢だったのだが、大友氏も油断はできない。龍造寺・毛利の連合が恐ろしいだけでなく、傍観しているだけの島津氏の動きが読めないからだ。大友氏は身動きがとれないままだった。一方龍造寺氏はというと、つぎつぎと九州を平定しつつあった。大友氏は段々と不利になってきた。動かないほうが賢明だったのかもしれないが、大友氏はそうもいられなくなった。日向の大名である伊東義祐が政治的理由で亡命した(――1)。亡命した義祐は大友氏(宗麟)に支援を請う。宗麟は承諾し、島津攻めを決意する。しかし、島津氏の軍勢はそう簡単に押し退けられるものではない。戦線は後退していき、耳川の戦いで宗麟は、大きな被害を受けてしまう。宗麟は戦意を喪失(――2)、その態度に失望した家臣たちは、つぎつぎと宗麟のもとを離れていった。こうして宗麟は、四面楚歌ともいえる状態になってしまう。それでも宗麟は諦めるわけにはいかない。この壊滅状態の中でありながら、彼は龍造寺・毛利連合と対立を続けていた。この緊張状態の中、1つの事件が起こった。肥後の城親賢が大友氏を裏切ったのだ。危機的状態にあることを認識した宗麟は、すぐに信長の支援を得ようとした。信長は和解するように、と命じた。しかし、状況は変わらない。ついに信長は、島津氏に対して警告を突きつけた。もし和解しなければ、武力を持って制圧する。同時に信長は、毛利氏の制圧も考えていた。宗麟を支援し、毛利氏を成敗させようとした。なお、毛利氏と連合を組む島津氏は、徐々にだが大友氏と和解しつつあった。このせっかくの和解を台無しにしたのが、本能寺の変だった。圧力から解放された島津氏は、すぐに大友氏の征討をはじめる――かのようにみえて、そうではなかった。以外にも最初に島津氏が滅ぼしたのは、島津氏と同盟関係にあった龍造寺隆信だった。有馬晴信(――3)という大名がいるのだが、彼は隆信の侵略を受けていたのだ。困った晴信は、島津氏に助けを求めた。島津氏はこれを受諾、隆信に攻撃を仕掛けたのだった。龍造寺の家系は続くものの、この戦い以降龍造寺氏は没落していくこととなった。のちに、家臣の鍋島氏が実権を奪ってしまった。さて、島津氏はその絶大な軍事力でつぎつぎと大名たちを吸収していった。九州勢力はほとんど島津氏に仕え、いまだに降伏しない大友氏が目立つようになっていた。ここで秀吉が待てと島津氏に命じた。島津氏は命令を無視し、秀吉はついに九州の戦乱に介入をはじめた。秀吉はその軍事力にものを言わせ、西日本の大名たちに島津攻略を命じた。そのなかには、毛利氏もいた。これで大友氏は安泰に見えたものの、そうではなかった。大友氏に属する鶴ヶ城という城が、島津氏に侵略されていた。これを助けようとした秀吉側の武将たちは島津氏に攻撃を仕掛けるが、惨敗する。結果として大友氏は島津氏に包囲され、豊後のほとんどを支配してしまう。これを見た秀吉は、1598年に九州に向けて出発した。島津氏は動揺するが、反撃の機会を狙う。しかし秀吉には勝てず、島津氏は敗北する。ついに島津氏は降伏した。こうして九州は平定され、そのすぐあとに大友宗麟は死去した。最後まで戦っていた島津義久は秀吉に許され、本領を安堵(――4)された。また、秀吉の勝利に貢献した大名たちには、あたらしく土地が与えられていった。ここで秀吉は、1つの土地に目をつけていた。戦乱ですっかり荒れてしまった港町、博多だ。明国との貿易を必要だと考えた秀吉は、五奉行(――5)を結成し、復興を目指した。しかしこの貿易、断れば直ちに出兵するという脅迫でもあった。それほどまでに大陸との貿易を重視していたのだ。ここで、考えようによっては天下の拠点は大坂から博多に移ったのではないかとも考えられる。ところで、秀吉はキリスト教をどうみなしたか。当初秀吉はキリスト教を禁止しなかったが、キリシタンたちの活動(――6)を看過できず、やがて禁止に踏み切った。ところが、キリスト教に対抗するために仏教を大切にする一方で、キリスト教国との貿易は認めていた。このことから、禁教令も中途半端な結果になってしまったのではないだろうか。
補足
1、このとき、ともに亡命した人物のなかに、義祐の孫である伊東マンショがいたといわれている。2、熱心なキリシタンだったため、兵士たちが大勢死んだ罪悪感にさいなまれたのではないかと言われている。戦死だけでなく、はげしい耳川の流れにのまれたからという点でも、罪悪感に苦しめられたらしい。ちなみに死者は3000人以上だとされており、多くの重臣が含まれていたため、大友氏の軍はほぼ壊滅した。3、隠していたが、キリシタン大名。岡本大八にだまされて贈賄し、1612年その罪によって処刑される。このとき有馬晴信がキリシタンだということが発覚し、結果として領国のキリシタン弾圧がはげしくなる。これが、島原の乱の原因と見る学者もいる。4、本領安堵とは、幕府(当時の権力者)がある土地をその武士のものであると保障すること。この土地は武士の命ともいえる土地で、武士はその土地を代々守っていくことになる。鎌倉時代にうまれたシステム。5、浅野長政(司法担当)、石田三成(行政担当)、増田長盛(土木担当)、長束正家(財政担当)、前田玄以(宗教担当)の5人。6、寺社の破壊、僧侶の迫害、入信強制。および、日本人を奴隷にしようとしていたのではないか、ともささやかれている。どうやらキリスト教内でも対立が起こっていたらしく、以上のようなことを考えたのは過激派キリシタンらしい。もっとも、そんなこと秀吉には関係ないが。キリシタンはキリシタンなのだ。
北野大茶湯

 

秀吉が九州から帰ったころには、聚楽第はほとんど完成していた。これは秀吉の家、あるいは家康婦人の旭姫の居所ではないだろうか。聚(あつめる)楽(楽しみ)第(家)、つまり楽しみを集める家だ。ここには千利休(――1)の茶室があるのだが、それも楽しみの1つなのだろう。利休をこのように優遇する一方で、秀吉と利休の茶には決定的な対立があったとも考えられる。まず、利休の茶は庶民的生活を強調したものだった。ところが秀吉は逆。権力や富を誇示するものだった。黄金の茶の湯がいい例だ。つまり、本来利休が考えていたものとは決定的に違うのだ。そんな秀吉に利休は、妥協せざるを得なかった。北野の拝殿の中には、秀吉の意図を組み入れた「金之御座敷」を用意していた。ほかにも数奇を凝らしていて、壮観なのだが。残念なことに、この茶会は1日で中止となった。このとき、突然肥後で一揆が起きたのだ。佐々成政という大名の支配が、秀吉の命令にそむいており、動揺が起きた。当然反対が起きるが、成政はそれを武力で制圧しようとした。ところがあまりにも一揆に参加した人数が多かった。一揆は九州全体に広がってしまう。制圧してもつぎの一揆が起き、もう1度制圧してもさらにまたつぎの一揆が起きる。この繰り返しに苛立った秀吉は、小早川氏に命じて一揆を鎮圧させた。成政は秀吉に謝罪するために大坂へと向かったが、摂津の尼ヶ崎にて自害させられた。のちに秀吉は、成政が治めていた地である肥後を、加藤清正、小西行長の2人に任せた。それぞれ、隈本、宇土を任された。北野大茶湯の話に戻ろう。中止になった理由は肥後一揆という外的要因だけでなく、内的要因もあるのではないか。内的要因にはこの2つがあげられる。1つ目。利休が秀吉のためだと思い、あまりにも堺衆を排斥しすぎたということ。本来堺衆の指導下にあったにもかかわらず、彼らは排斥された。それが秀吉としては気に食わなかったのではないか。2つ目。秀吉が博多衆に関心を持っていたということ。「鎮西の波瀾」でも述べたように、天下の拠点は大坂から博多に移りつつあった。このことから秀吉は、堺よりも博多に関心を持っていたのではないか。博多に関心をもつのはなぜか、もちろん明・朝鮮の支配を視野に入れているからだ。このとき秀吉は、日本国内(関東)よりも明・朝鮮の支配を望んでいた。秀吉はこのころ、後陽成天皇に行幸(――2)を願った。行幸は受諾され、秀吉はその状況下の中で諸大名に絶対服従を誓わせた。結束が固められる一方で、いまだ服従に至っていない北条氏の問題が浮かび上がってくるのだった。ところで、後陽成天皇によって訪れられた聚楽第はどうなったか。これは、秀吉の甥、秀次が切腹した(――3)ときに取り壊された。そのため、どのようなものかよくわからないようだ。この破壊は引っ越しのためだろうか。ちょうどこのころ、伏見城(――4)を造っていたのだ。そちらに移した、とも考えられる。しかし、結局のところはわかっていない。ところで。安土城は権威を主張し、大坂城は豪富を主張している。ならば、この伏見城はいったいなにを主張しているのか。もし聚楽第がこちらに移されたとしたら、遊楽を主張しているのではないだろうか。これら3つを合わせてはじめて、黄金となるのだろう。黄金といっても、ただの比ゆではない。この時代、金銀の産出量は一気に跳ね上がったのだ。灰吹き法(――5)の成功がその陰にある。この貴金属を使い、秀吉は硬貨を作った。こうして、貨幣統一を行った。その目的の中には、中国からの独立、そして日本の統一があったに違いない。
補足
1、結局、この人がなぜ切腹させられたのかはよくわかっていない。それらしい理由が多すぎるのだ。5つほど理由がある(というかわたしが知っている理由の数です)。1つ目、利休が自分の木像を大徳寺の門の上に飾り、それを秀吉が罪だとみなした説。罪といっても違反というわけではなく、秀吉がただ単に腹を立てたのではないかといわれる。大徳寺の門をくぐるたびに、自分の家臣の下を通らなくてはならないからだ。2つ目、利休が天皇陵の石を勝手に持ち出して、それを庭を飾るのに使ったという説。説明するまでもないが、これは大変な冒涜だ。当時なら切腹になってもふしぎではないが……。3つ目、秀吉が利休の娘を妾として選んだにもかかわらず、断ったという説。娘のおかげで出世した、と思われたくなかったらしい。女好きとして知られる秀吉なら、確かに怒りそうだ。4つ目、利休と茶の湯路線での対立説。5つ目、利休が賄賂を貰った説。これは結構語られている。利休は茶の湯の第一人者とも言える。彼がすごい湯のみだといえばそれはすごい湯飲みになり、たいした壺ではないといえばそれはたいした壺ではなくなる。これを利休が悪用したのではないかといわれている。利休を坊主だと思っている人が多いらしいが、じつは彼、商人だ。そのことから――たとえば、こういうことが考えられる。商人仲間がこの壺を高く評価してくれ、と利休に言う。商人の手にはお金が。利休は頷き、それを貴重な壺と言う。そうすれば、その商人の壺は高く売れる。商人は満足し、お金を利休に渡した。今度は別の商人が来て――。これが秀吉にばれたのではないか、という説だ。すこし話がそれるが、かつて利休のものだと思われる甲冑が発見された。その大きさから彼の身長を想定すると、なんと170センチメートルを超えている。当時としては大男だ。一方秀吉は、150センチメートルもなかったのではないかと言われている。秀吉はひそかに劣等感を抱いていたのではないか、という話もある。それが切腹に繋がるのもいきすぎな気もするが。なお、切腹後の利休だが。先ほど、大徳寺の門の上に利休像があると述べた。利休は切腹後、一条戻り橋に首を晒されることになった。利休像に踏まれる形で。じつは秀吉は、利休を許そうと考えていた。しかし利休がそれを拒否したため、秀吉はついに怒りの極限にまで達したのではないか。その結果がこの打ち首獄門かもしれない。2、行幸(みゆき/ぎょうこう)。天皇のお出かけ。3、酒池肉林の生活をしていたから、と言われている。しかし実際は、秀吉が自分の子である秀頼に異常なまでの愛情を注ぎ、可愛いわが子を秀次が殺すかもしれないと恐れたからだと言われている。その証拠に、秀吉に可愛がられてきた重臣たちの雲行きは、秀頼誕生後にあやしくなっていった。ちなみに秀次、30人近い妻がいたと言われている。酒池肉林というのは、あながち間違いではないかもしれない。秀次が切腹する際、秀次の妻子はほとんど殺されてしまった。しかしいくつもの戦で敵を許し続けた秀吉にしては、あまりにも厳しい罰だと言える。やはり親ばかだったのだろうか。4、このお城、3度も築かれている。1度目の名前は指月山伏見城、2、3度目は木幡山伏見城という名前だ。ちなみに3度目の伏見城は、天井で有名。血がくっきりと残っているのだ。関ヶ原の戦いのとき、ここは家康の城だった。家康が上杉景勝を成敗しようと出掛けている間に、この城は石田三成に攻撃を受けた。その際、家康の家臣たちが切腹した。たくさんの血が床に流れ、やがて供養してもらおうとお寺に回された。その後、血の床は再利用され、血天井として今もあのお城に残っている。5、金銀に空気を送りながら熱して、鉛を酸化鉛にする(金銀を鉛に溶け込ませる)。そこに灰などを吹き込んで鉛を吸収させて、金銀を残す精錬法。旧約聖書に記述があるらしいが、日本に伝達したのは戦国時代。
関東の風雲

 

毛利、北条は典型的な戦国大名といえる。なぜなら彼らは、まず荘園制(――1)にとらわれていない。しかも郷村制を基盤とし、知行国制による支配を行ってきた。その中でも北条氏(――2)は支配を大成功させ、群雄の模範とされている。群雄の模範とされる理由は、やはりその勢力の大きさだろう。独立し、京都と対立する関東管領の支配地域を継承しているのだ。また、北条家の祖である北条早雲から戦国のおわりまで没落することがなかったことも考えられる。北条氏はその勢力を保ち続け、決して滅びることはなかった。妨害を避けながらも着々と支配を進め、関東の最大勢力にまで上りつめた。だからこそ当時日本でもっとも勢力を持っていた秀吉が、目をつけないはずがない。北条市の領土小田原は、秀吉に狙われていた。秀吉はまず北条氏の姻戚である家康を通して、さまざまな要求を突き付けた。北条氏の当主氏直ははじめ要求に従わなかったものの、やがて要求どおり上洛した。ここで氏直は、ある事件を起こした。真田昌幸に与えられるはずだった名胡桃城を奪い取ってしまったのだ。これはれっきとした違反で、秀吉は激怒する。小田原攻めのはじまりだった。小田原攻めは、北条氏にとっては危機的な出来事だった。2つの予想外が存在したのだ。1つは、信頼していた家康が味方にならなかったこと。もう1つは、伝統的な篭城が通用しないことだ。北条氏は困り、伊達政宗に援軍を要請する。しかし政宗は動かない。それだけでなく、裏切られてしまった。戦争は止まることなく、北条氏はやがて追い詰められていく。絶体絶命の危機の中、さらに悪いことが起きた。秀吉が自ら指揮をとったのだ。これが、石垣山の陣と呼ばれる戦いだ。秀吉は小田原を長期にわたる戦いの末に平定しようとしていた。長期戦のほうが数に勝る秀吉にとっては有利に見えるが、じつは問題点もある。たとえば食料。実際秀吉は、石垣山の陣がもうすこし長ければ、撤退せざるをえないほど食料に困っていたようだ。つぎにあげられるのが、士気だ。長期にわたる大仕事を成し遂げるには、かなりの精神力がいる。武士たちも例外ではなく、段々と士気は下がるものなのだ。これを防ぐために秀吉は、京からたくさんの娯楽を用意していた。余裕のある陣を目指し、見事成功したといえる。一方篭城する北条氏は、悲惨なものだった。結論の出ない評定の繰り返し、それによって和議へと傾いていった。極度の緊張状態による精神的崩壊だと思われる。北条氏はなんとか織田信雄に和議調停の依頼を申し出て、北条氏は降伏した。北条氏直は高野山に追放され、父である氏政は自害。氏政の弟(氏直の叔父)氏照もまた、自害した。こうして北条氏は、事実上滅亡した。小田原を平定した秀吉は、すぐに小田原城に入った。そこで論功行賞として、小田原攻めに参加した武士たちに土地を与えた。ここで注目したいのが、徳川家康だ。彼は関東の地の多くを与えられた。これが、のちの江戸幕府への基盤になったと考えられる。さて、ここで小田原からいったん離れよう。少し時間を巻き戻し、奥州について語らなくてはならない。ここは、伊達政宗が支配していた。彼は父を失い(――3)、何度も大名たちの抵抗を受けながらも勢力を拡大してきた武将だ。秀吉は、奥州もまた全国統一のために必要だと踏んでいた。だからこそ、政宗との関係が険悪になったのは必然といえる。秀吉が小田原に着陣したのは、まさにこの状況下でのことだった。戦の最中、政宗は秀吉のもとへと向かった。その態度に秀吉は機嫌をよくし、政宗が攻略していた会津の没収だけで済まされた。仙道(陸奥の中仙道)を中心とした70余万石は、安堵されたのだ(――4)。この際、秀吉は政宗を高く評価していたようだ。1590年、秀吉は奥州に向けて出発した。伊達氏が奥州の最大勢力だったから、ずいぶん楽に進んだようだ。早くから秀吉の味方をしたものは優遇し、遅れたものには相応の処分、そして来なかったものは罪とした。ちなみに、ちょうどこのころ奥州の津軽氏、南部氏の間で敵対関係がはじまっていた。秀吉が来ても解決せず、この対立は江戸時代になっても続いていた。奥州を平定してからまもなく、葛西、大崎にて一揆が起きた。原因は領主であった木村氏のひどい政治によるものだ。これに対して秀吉は蒲生氏郷、伊達政宗に命じて鎮圧させようとした。ところが氏郷が政宗の態度に不安を感じ、政宗は裏切ろうとしているのではないかと疑う。結局氏郷は、単独で一揆を鎮圧し、木村氏を助け出した。この騒動のためにしばらく政宗の風当たりは強くなるが、のちに解決する。1591年、平定したその土地は政宗に与えられた。これが、つぎの騒動への伏線となるのだった。この土地をめぐって、九戸政実の乱が起きた。しかし石田三成、大谷吉継、上杉景勝などの、のちに関ヶ原とかかわりの深い大名たちがそれを見逃さなかった。彼らは迅速に兵を出し、この反乱を鎮圧したのだった。
補足
1、荘園とは、私的な土地のこと。貴族や大寺院がたくさん持っていた。武士が台頭し、彼らに侵略されるようになると衰え、太閤検地で完全に消滅した。2、鎌倉時代の北条氏と区別をつけるため、後北条氏とも。ちなみに鎌倉時代の北条氏と血縁関係はない。北条家の祖、北条早雲は伊勢宗瑞とも言い、どこから来た人なのかはわからない。3、畠山義継という武将が、政宗の父伊達輝宗を誘拐した。政宗はすぐに追いかけ、彼らに追いついたのだが、輝宗を人質に取られて身動きが取れない。ここで輝宗は、自分もろとも射殺するように命令した。あるいは、これは政宗の下剋上だという説もある。どちらにしろ輝宗は死に、義継もまた射殺されたということだけは確かのようだ。4、秀吉はこのとき、到着した政宗に対して、「もうすこし到着が遅ければその首を切り落としていた」とまで言われている。しかし、許してもらえてなによりだ。
検地と刀狩

 

秀吉が大仏を建立しようとしたのは聚楽第完成のころである。この理由は様々なものが渾然としていると考えられる。これについて一つ挙げるならば聚楽第と対となって秀吉の人生の愉楽を、物質精神両面から体現していると言えるだろう。これが建てられたのは六波羅の辺りであり、頼朝や清盛を理想とする秀吉にとってもぴったりの場であった。この大仏殿造営の基礎が固まるころ、秀吉は刀狩令を発布する。これは土一揆を弾圧するものであり、また百姓と武士を峻別して兵農分離を図るものであった。中世の荘園制においても徴税の為に田地の台帳が作られていた。しかしこれは大まかに百姓からの税を把握する程度のものでしかない。それゆえ、より強固な戦国大名体制が確立すると、検地が行われた。しかしこれは領主へ自主的にその地の状況を指し出させる指出検地であった。これに対して秀吉は役人を送って調査する検地を始め、統一的な規格に全ての田地を置いた。これは社寺・土豪の強い反発を受けたものの、秀吉はその権力を背景として検地を推し進めた。この時に土地はその収量である米の石高によって計算されている。この検地によって登録された百姓は、土地持ちとして認められるものであり、後の本百姓成立に益することになる。逆に土地を持たぬ者は、この時期にかけて一所に集住させられることになる。これが所謂部落の形成であり、これは現代まで連なる問題となる。このころ人望のあった豊臣秀長が亡くなっている。そしてそれから間もなく千利休が追放され、まもなく切腹させられている。これについては様々な説があるが、一つに利休の茶器鑑定に対する不信、また大徳寺山門に利休の木造が置かれたことを理由とする、という。また、集権派・分権派の豊臣政権内二派の、東国政策における対立に起因するものとする説もある。この際、京の町衆は落書によって痛烈な皮肉を加えている。秀吉は聚楽第を中心とし、堤を築くなど京都の城下町化を推進したものの下京の激しい抵抗に遭い失敗。後に聚楽第を放棄して伏見へと移っている。
無法な「天下」

 

朝鮮とは1567年以来通行が途絶えていたが、秀吉はこの国交回復の処理を任されていた。しかしこれについて秀吉は唐・南蛮をも支配下にいれるという思考を持っており、貿易もこの中で処理されることになる。秀吉のこの思考は、土地を媒介とした国内に適用される大名制度の拡張にすぎず、つまり無法な「天下」の拡張であった。外交方針もこれに則り、朝鮮に対して独立を侵すような強硬的態度とそれを飲ませるための妥協的態度によって外交は行われた。これはゴアなどに対しても行われている。このような情勢下で朝鮮出兵は現実味を帯びることになる。名護屋城建設の運びとなっても朝鮮側は和平に応じず、結局秀吉は朝鮮出兵の命を下すことになるのである。秀吉は関白を辞して以て太閤となって朝鮮出兵に専念することになる。諸大名はそれぞれ地域に応じて軍役を課され、それは重い負担であったと想定される。文禄元年3月、第一陣は出陣して釜山を襲ってこれを落とし、これを以て朝鮮出兵は開始された。5月には首都漢城を落城させて軍事的優位を見せつける。さらに6月には平壌をも陥落せしめ、秀吉もまた渡海の準備を行った。しかしこれは結果的に中止となる。これは制海権を朝鮮水軍によって握られていたからであり、また後陽成天皇の宸翰もあったからである。このころ、明が朝鮮へ援軍を繰り出している。この結果平壌を守る小西行長は敗北。明軍は漢城に迫るも、小早川隆景・立花宗茂らによって碧蹄館にて敗れ、撤退している。この結果、明側の李如松、日本側の小西行長によって講和の会談が持たれることとなる。この際秀吉が提示した条件は非常に厳しいものであったが、行長と明側の沈惟敬によって条件を弄ることによってまとめられた。しかし、秀吉にこれが暴露するに至って秀吉の激怒を買い、再び朝鮮出兵は取り行われることになる。日本軍は、朝鮮の苛政からの解放軍とて最初こそ歓迎されたが、検地や国割が行われるに至って一揆の激発を呼んだ。日本軍の軍規は厳しかったが、鼻を削ぐといった残虐行為もまた行われたのである。また、一向宗の布教による順化なども積極的に行われている。しかし朝鮮の一揆は激化し、これに加える飢饉・疫病もあって日本軍の戦力は漸減した。再征では朝鮮・明軍によって苦戦を余儀なくされており、秀吉は慶長3年、既に終わりを予測して撤退令を下している。
花と夢

 

1592(文禄元)伏見の地に築城が始まった。大政所(秀吉の母)が亡くなり、秀吉の心は空虚に満ちていた。築城の動機は、隠居所を求めることであった。工事は戦争と並行して行われていた。伏見城には学問所が取り入れられた。その中心には茶が据えられて、そこに参ずる人は秀吉に仕えた。織田有楽をはじめとし、彼らは千利休を失った秀吉の心を慰めた。やがてその中に古田織部も加わった。この他、秀吉は能にも興味を持っていた。秀吉は素人らしい、無邪気な園芸趣味の持ち主であった。秀吉は情報局も抱え、自らの業績や言動を書きまとめた記録を出し、自己宣伝に務めていた。「天正記」「太閤様軍記のうち」がそれである。その他謡曲も作らせた。秀吉は北政所との間に子がなく、長子鶴丸も夭折していたので、実子をあきらめ、養子として甥秀次を後嗣と定めていた。しかし、1593年(文禄2)淀君に再び実子が生まれた。拾丸、のちの秀頼である。秀吉はいたく歓喜したが、秀次との関係はこれによって微妙となる。秀次は好学であった。秀吉の影響から逃れるためだったかもしれない。彼は石田三成らとはうまくいっていなかった。豊臣政権における五奉行は、現実には関白でなく太閤と結びついているので、関白秀次はなんら執行権限を持っていなかったのだ。秀次は毛利氏と内通し、謀叛を行おうとした疑いをかけられ、自殺させられた。秀吉もずいぶん老いた。同世代の人間が減っていく時期だ。足利義昭、小早川隆景、吉川元春が死んだ。秀吉はこれらの訃報に強い衝撃を受けたであろう。秀次を殺して秀頼の地位が安定したかというと、そうではなかった。秀吉は秀頼のために、前田利家を傅とし、越中新川郡を加増し、秀次の邸第を与えた。自身が信長の遺族をどう扱ってきたかを考えると、秀吉は心休まることがなかった。末期に及んで、権力者であれば誰もが抱く猜疑心に囚われ、誰も信じることができなくなったのである。秀吉は不安を取り除くため、醍醐に豪華な花見を試みた。しかしながらその花見は、かつての北野大茶湯と対比すれば、解放性も社会性もないものであった。一族だけが寂しく集まり、厳重な警備で一般参加は遮断されていた。秀吉はもはや民衆を信じることができなかった。やがて秀吉は死期が目前に迫るのを感じ、五大老を召して秀頼を委託した。1598年(慶長3)8月18日、太政大臣豊臣秀吉は63歳をもって世を去った。
伏見城
文禄元年に伏見城の築城が始まる。これは秀吉の隠居所としての造営であった。ここに置かれた学問所は、秀吉の側近集団たる茶人たちの集まる場となっている。また秀吉は能も楽しんでいる。しかしここで行われた能は演劇性の強いもので、幽玄を旨とする能の世界の否定とも言えるものであった。またこの時期、秀吉には後継の秀頼が生まれており、それによって甥の秀次の誅殺を行っている。この事件はただ後継争いのみあらず、関白の印がなければたとえ太閤秀吉の印があろうとも政策を施行できぬ秀吉政権の性格に由来するのではないか、とされる。この状況では関白と太閤の権力闘争を引き起こすことになり、結果的に秀次の敗亡となったと言うことである。このころ、足利義昭や小早川隆景が次々と亡くなっている。秀吉は醍醐の花見を行っているが、これは非常に厳しい監視のもとに行われたものであり、ここには北野の大茶会で見たような開放性はない。ここに、秀吉の人間不信がよく表れている。そしてこの醍醐の花見を境に病を得た秀吉は、62歳を一期として死去するのである。
豊国のまつり
秀吉の喪は直ちに発表されなかった。朝鮮にまだ兵が留まっていたからである。1598年(慶長3)徳川家康と前田利家は、徳川寿昌・宮木豊盛を使者として朝鮮に遣わし、和睦して軍を帰させるよう命じた。そして毛利秀元・浅野長政・石田三成の三人をして筑前博多に赴かせ、在鮮諸軍の徴収にあたらせた。太閤の訃を知った朝鮮軍に阻まれながらも、なんとか軍を撤収させる事に成功した。1599年(慶長4)、豊臣秀頼は秀吉の遺言によって大阪城に移った。利家は秀頼の傅として仕え、三成は利家に近づいて伏見の家康に対抗せんとした。家康は権威を強めるとともに不遜になり、明らかに太閤の法度を犯すようになった。利家・三成は誓約背違を理由にし、五大老の班列より家康を除こうとした。利家・三成派と家康派に五大老は分裂することになる。1599年(慶長4)利家は細川忠興の周旋により、伏見で家康と会見した。その後家康は病気の利家を訪れる。三成はこのとき家康を襲撃しようとしたが果たさなかった。前田利家は同年死亡し、それにより政治的均衡が崩れた。三成は自らを除かんとする加藤清正・黒田長政・細川忠興・脇坂安治・加藤嘉明・福島正則・浅野幸長の七将に襲われ、家康の元に逃れた。家康は七将に対して調停を行った。これにより家康は三成に恩義を売り、三成側に勢力を伸ばすことができた。1599年(慶長4)9月、家康は大阪に下って石田三成の亭に宿り、秀頼と会見した。家康は秀康をもって伏見城を守備させ、西ノ丸にも天守を築いて権威を示した。家康は大阪での執政が始まる。まず治長を流罪とし、家康暗殺の陰謀を伝えられていた浅野長政・土方雄久を処分した。陰謀の主と言われていた前田利長に対して北伐の意を示した。利長は他意なきを陳じ、生母を人質として江戸に送り、徳川秀忠の第二女を弟利常に嫁がしめることを約束した。1600年(慶長5)には、諸侯が家康に対し臣礼をとるまでになっていた。関ヶ原の役の動機は、家康の会津征伐にかかっている。景勝の逆心の風説を耳にした家康が、上洛せねば討伐すると告げたのである。景勝は誓書を差し出すも認められず、いわれなき討伐に屈するつもりもなかった。家康は諸大名に出征の命を下す。途中から毛利氏が加わり、西軍を組織したが、実際の組織者である三成・安国寺恵瓊に対する反感が極めて大きく、団結力を十分に発揮できなかった。これが西軍の敗北の原因の一つとなった。1605年(慶長10)家康は将軍職を秀忠に譲る。これは徳川氏の政権が秀頼幼少児の期間限定ではなく、永久に世襲されるものであると示す意味があった。江戸と大阪の溝は徐々に深まっていく。大阪夏・冬の陣はしだいに近づいていた。
秀吉の死去
秀吉の死去はすぐには発表されず、まず朝鮮に出兵した日本軍の撤兵が行われた。この撤退は困難を極めたが、島津義弘を殿として何とか成功している。この間、撤退指揮のため石田三成と毛利輝元が博多に居り、これがのちの時代を動かすことになる。このころ、徳川家康が太閤の法度を犯して勝手な婚約を結んでおり、三成はこれを理由に家康の排除を計っている。これに対して家康側の態度を取るものもおり、この時点ですでに関ヶ原の如き対立が鮮明となってきている。このときは両者の間に和睦が成立しているが、すでに矛盾は払いきれぬ状況だったと言えるだろう。この時期、前田利家が亡くなることで大きく政局は変化することになる。これと同時に武断派による三成暗殺の策謀が起こり、三成は家康邸へとのがれている。この結果、三成は蟄居することとなって家康の勢力はますます拡大することとなったのである。またこれは武断派の背後の北政所、三成ら吏僚派の背後の淀殿という対立も内包していた。この状況下で家康は大坂城西の丸に入って政治を司ることになる。関ヶ原合戦は、この時に決定された会津征伐をその発端としている。家康が東下すると、この隙を計って三成は実権を握って軍勢を集め、蜂起したのである。しかしこの軍はむしろ毛利一族主導というべきであって、その点でこの対立は毛利と家康の対立であったと言える。しかし内応者がその毛利一族から出たということからその矛盾点が導きだせる。この関ヶ原合戦後、慶長3年に至って家康は征夷大将軍となって秀頼との主従関係消滅を宣言している。家康は娘・千姫を秀頼に嫁がせるなど歓心を買ってもいるが、その一方で子・秀忠に征夷大将軍を譲るなど独立傾向を示し、豊臣家との対立を深めていった。
 
江戸開府

 

六十年の忍耐
徳川家康の生涯は「忍」の字がこれを表しているという。彼の人生は松平氏と織田氏が争っている時に始まりを告げた。竹千代(家康)は1541年(天文10)三河刈谷の城主水野忠政の娘お大と、松平広忠の間に生まれる。翌11年、水野忠政が死ぬと、お大の兄信元は小田川についてしまった。お大の機転によりなんとか危機を乗り越えるが、このような事情があって家康は家族との縁が薄かった。母とは竹千代3歳の時に別れ、父はのちに人質に取られている最中に失った。しかし母であるお大は長生きし、家康の天下一統を見届けて75で死んだ。水野氏と縁を切った松平氏は、織田氏に勢力を奪われ、今川氏への従属を進めていく。その際竹千代は今川氏に人質に出されることとなった。1547(天文16)のことである。が、駿府へ向かう途中に欺かれ、尾張の織田氏のもとへ送られてしまう。そしてその間広忠が24歳の短い生を終える。側近に殺されたという。松平氏は当主が二代続いて不慮の死を遂げている。竹千代は8歳で孤児となった。同年、今川義元が織田軍を攻め圧倒する。織田軍は竹千代と交換で織田信広(信長の兄)を引渡してもらい、安祥の城を放棄した。竹千代は2年半ぶりに岡崎に戻ることができたが、それもわずか半月ほどのことだった。今度は駿府へ今川氏の人質として行かなければならなかった。竹千代は実の祖母源応尼に養育され、禅僧太原雪斎から学問を教授された。太原雪斎は儒学・軍学・指揮官として非常に優れていた。家康の知識・見識の基礎はこのころ養われたと言われている。竹千代は弘治元年、14歳で元服し、今川義元の名を一文字もらって松平元信と名乗った。同3年、今川義元の甥関口義広の娘・瀬名を娶った。後に築山殿と呼ばれる人である。すぐに元信は名を改めて元康とした。祖父清康を慕ってのことだろう。松平氏は悲惨な生活をしていた。領地からあがる年貢はことごとく今川氏に奪われてしまうので、家臣たちは百姓同然に鎌や鍬を取り、田畑を自作した。今川の将兵には期限をとって、主君竹千代にもしものことがないようにはからった。その上年に何度かある織田軍との戦いには、松平の家臣はいつも最前線に立たされた。親や子は一人、また一人傷つき倒れていった。東西二大勢力に挟まれて、自立しえない国の悲劇がそこにあった。その中でも家臣は志を失わず、主君の帰国と独立の夢を抱き続けた。1556年(弘治2)15歳となった家康ははじめて義元に許されて、墓参りのために岡崎に帰ってきた。家臣である伊賀守忠吉は密かに家康を蔵に案内し、今川氏に隠れて蓄えた金銭や糧米を見せた。彼らは主従手を取り合って泣いたという。1560年(永禄3)今川義元が尾張に攻める際、家康はその先鋒となった。このとき敵方であるお大の方を家康はわざわざ訪問している。よほど肉親の情に飢えていたのだろう。家康は19歳であった。この戦い――桶狭間の戦いで今川義元は倒され、家康はようやく今川氏の束縛から逃れ岡崎に戻ることができた。その後しばらくして、織田氏との間に和平の機運が起こってきた。松平氏はここで今川氏に見切りを付ける。1561年(永禄4)春頃から松平氏は東三河の今川氏の部将を攻撃するようになった。翌年、松平元康は名を家康と改めた。今川義元から譲り受けた名を削り、その縁故をすっかり断ち切ったのである。ようやく発展の途を歩み始めたと思ったその時、一向一揆が台頭し始めた。1563年(永禄6)一揆が勃発する。家康が軍事力強化のため、農民や社寺に多大な負担をかけたのが一大原因である。反松平勢力も背後についていて、容易ならざる敵となった。家康は奮闘し、一揆側に和解を持ちかけた。寺僧はもとのまま、敵対者は赦免、本領安堵、張本人の助命といった内容である。一揆は収まった。ところが家康は一向宗の改宗をその後命じた。僧徒は契約違反を訴えたが、家康は聞き入れず、激しい弾圧を加えた。反抗のエネルギーが高いときには宥和策でそれを鎮め、その後急に態度を変えて敵を叩き潰す。このやり方は50年後、難攻不落の大阪城を攻め豊臣氏を滅ぼしたときの方法とそっくりである。家康が「狸親父」と呼ばれる由来となった狡猾さは、このころから遺憾なく発揮されていた。一向一揆も鎮め、松平氏の三河統一の基盤が固まった。やがて1566年(永禄9)には松平氏を改めて徳川氏を称するとともに、朝廷から従五位下三河守の官位を与えられた。公家は前例を重んじるので、はじめは先祖に国守に命じられた者がいない家康に官位を与えることを渋った。しかし貧乏を極めていた公家は金の力に弱かった。胡散臭い系図を持ち出して、徳川ははじめ源氏で、途中から藤原氏に変わったという証拠とした。神祇官吉田兼右が鼻紙に写したというそれを、鳥の子紙に清書させて天皇に上奏し、勅許を得た。こうして松平家康は源氏―藤原氏を経て、徳川氏を名乗ることとなり、官位を賜った。当時は偽系図作りが流行っていた。成り上がり者が権威を欲したというのと、支配の正統性を求めたのがその原因である。家康はその後、源氏と藤原氏を適当に使い分けた。戦国大名にとって系図や氏姓などは、それらの持つ伝統的権威を利用するための便宜でしかなかった。
江戸の内大臣

 

家康は東海および甲信五ヵ国を領し、日本有数の大名に成長した。そして明智光秀を破り、信長継承者の優位にもたった。全国制覇に邁進するもう一人の雄、豊臣秀吉とは一度は対決せねばならぬ運命にあった。1584年(天正12)の小牧長久手の戦いは、家康がこれまで体験してきた戦争とは別次元のものであった。この戦いは軍事・外交を含めた広義の政治力の戦いであった。家康は信長の次男・信雄を取り込み、秀吉と戦う大義名分を作る。小牧で戦闘が行われることはなかった。小牧に軍を置いて牽制し、長久手に秀吉軍を誘い出して奇襲をかけたのである。長久手の戦闘は家康の快勝であった。この他にも各地で戦闘は行われた。対決はこれで終わらず、その後も臣下の裏切りや財政問題に家康は悩まされた。戦闘での死傷者の多くは馬も甲冑もない百姓であるので、戦闘が続けば続くほど農村は荒れてしまう。長久手では勝利したが、戦争は家康の敗北であった。家康は敗北を敗北とせず、有利な講和をする必要があった。秀吉は家康と戦い、無駄な損害を発生させることは避けたかった。両者の利害は一致し、両者の対決は終わった。家康がその後、領国統治の体制を固めているときに、1590年(天正18)秀吉の小田原征伐が始まった。このとき北条氏が滅ぶ。秀吉は家康に対し、北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の六カ国に移るよう命じた。家康はこれを受け、江戸に入った。これを関東入国という。入国後の家康の最初の仕事は、北条氏と武田氏の遺臣を懐柔することであった。家康は無理な圧迫を避け、徐々に支配力を浸透させていった。秀吉の下についた家康は、領国内で徐々に大きな力をつけていく一方、中央では秀吉の従順な家臣を演じた。家康はわざと愚かしく振る舞い、そのためあらぬ疑いをかけられることはなかった。家康は各大名と秀吉の仲介役をして、大名たちの信頼も得ていった。それは親切心からではなく、豊臣政権の中央集権化を防ぎ、徳川の影響力を相対的に高めておく利己心からであった。秀吉の死後、豊臣政権は大名五人の合議制となった。しかし、家康の実力が時とともに群を抜いて大きくなり、徳川家康対前田利家・石田三成という対立関係が形成された。のちに利家は死に、三成は殺されそうになり家康に助けを求めたので、家康に対抗できる力はなくなった。家康は着々と領国経営をして力をつけてきた。それが秀吉の死後に実り、強大な勢力となることができたのである。
関ヶ原の戦い

 

1599年3月13日、徳川家康は伏見の自邸を出て伏見城に入り、いよいよ中央政権を意のままにするべく本格的な権力強化を図りはじめた。有力な諸大名を帰国させてしまったのもそのための政略である。諸大名が国に帰れば、家康にとって攻撃の口実は作りやすい。検地などの実施は土豪層の反乱を招きやすく、その鎮圧のために軍隊を出動させれば、謀叛の口実を設けられる。多くの大名から信望を得ている家康にとって、そこに何らかの口実さえあれば、中央政権の名を借りて特定の大名討伐のため諸大名の軍隊を動員することは可能だったのである。1600年5月3日、度重なる上京の催促を上杉景勝が強く拒否したことを受けて、家康は会津出兵を決定した。伊達政宗をはじめ諸大名に中央政府軍の統率者として会津出兵を指令、自らも6月16日には大阪城を発して遠征の途についた。7月2日、家康の命に応じて会津遠征に参加した大谷吉継は、美濃垂井で旧友石田三成の招きを受け、家康打倒の陰謀を打ち明けられた。協力を求められた吉継は覚悟を決めてこれに従い、兵を近江に返して佐和山城に入った。三成の同志増田長盛は、三成と吉継の計画をいちはやく家康の側近に報じるなど、ひそかに家康側にも通じる一方、同日には毛利輝元と通じ、その他の諸大名にも家康弾劾文を送っている。家康は三成挙兵の報を得て、7月21日、江戸を出発して下野小山に到着、諸武将を集めて会議を行い、西軍と戦うべく西上を決定した。一方、大阪には近畿・中国・四国・九州の諸大名が集まった。その兵力は93000余という。7月19日、西軍の諸将は伏見城に至り、守将鳥居元忠を攻撃して8月1日、ついにこれを陥落させた。石田三成らは自分たちこそ中央政権の正統派と主張し、故太閤と秀頼への忠節を旗印に自陣への参加を呼びかけた。そうして家康を、故太閤の遺言に背き秀頼を見捨てた異端者であるとして攻撃した。しかし東軍に与した秀吉恩顧の諸大名は、これまでの家康の行動を、豊臣政権の樹立した中央集権における責任者としての正当なものとして認め、むしろ三成の行動を反逆と認めたのである。またやむを得ず西軍に加わったものの、戦意のない大名も少なくなかった。こうした内外の事情に、三成の最大の誤算があった。9月15日、東西軍の戦端は関ヶ原に開かれた。西軍ははじめ大垣城にこもって戦い、後に大阪から毛利輝元を総大将とする援軍を呼び寄せ、東西から家康を挟み撃ちにする作戦をとった。しかし家康の急遽大阪城を攻めるかという巧みな陽動作戦により、三成らは大垣城を誘き出され、関ヶ原盆地に押し込められた。西軍はこれを見下ろす桃配山に本陣を構えた。このとき、ちょうど家康の背後にある南宮山に毛利らの部隊が陣していたが、最前線の吉川広家はあらかじめ家康に内通しており、出撃すべきときになっても動かなかった。このため毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部元親の諸隊もとうとう戦闘に参加することができなかった。また昼ごろ、突如として盆地の西南松尾山に陣していた小早川秀秋の軍が、同じ西軍である大谷吉継の陣を攻撃した。かねて家康側に通じていたものの様子を見ていたところが、家康軍の催促によって裏切りを決意したものであった。これを機に西軍は総崩れとなり、諸将敗走の完敗となった。6時間の激闘の末、家康は完全勝利を収めたのである。関ヶ原の戦いの勝利した家康は、9月27日、大阪城に入った。中央政府軍統帥者としての家康の立場はここに確立したといってよい。つづいて家康は、諸大名の所領処分を徹底的に行った。没収地の合計は600万石を越しており、かなり思い切った大名の配置換えが可能である。その土地再配分は、主に豊臣系の大名を加増しながらもその地を中国・四国・九州へ移し、近江から関東までを一門・譜代で固めるというものであった。江戸から京都・大阪への道をしっかりと押さえたのである。このように家康が、まだ征夷大将軍に任じられる以前から、多くの大名の所領を没収し、再配分し、大幅な配置換えを行ったことは、彼が単に中央政権の軍事統帥権のみを握っているのではなく、既に中央政権の主権者の地位に登ったことを意味するものであった。また1602年に、備前岡山に封じられていた小早川秀秋が死去したとき、家康は秀秋に後嗣のいないことを理由にこれを没収した。江戸時代において、大名が戦争以外の理由で取り潰されたのはこれが初めてである。明らかに日本全国の土地が中央政権の所有であることを主張する権力行使であり、注目すべき出来事である。
覇府の建設

 

1603年、前年末迄に島津氏に至るまで悉く他大名を主従関係の内においた家康は、征夷大将軍に任じられた。之によって源頼朝以来の全国の武士の棟梁、全国支配者としての地位の裏づけ、また朝廷の権威と切り離された全国支配の権力を確立するための肩書きとした。というのも、秀吉は天皇の代理施政者である関白に留まったが、家康は政治権力者ではない、元来は軍事統率者である征夷大将軍となった。征夷大将軍は頼朝以来の武家の伝統として政治的にも権力を持つようになったものである。また、1590年に入城した東国江戸を政権の所在地としたのも、朝廷と政権を切り離そうとしたのではないかと思われる。さて、この江戸城だが、1590年に家康が入城した当時は、知ってのとおり荒れ放題であった。そこで本多正信が玄関周りだけでも綺麗にしては、と進言したが、先に領国支配を固めるため相手にしなかったというあたり、実質的な家康の精神が見受けられる。とまれ、1592年に入って西の丸を建設したのだが、そこから10年以上空いて征夷大将軍任命後の1604年になって大拡張工事を開始した。3000艘の船を28家の外様大名に用意させて伊豆から石を運んで石垣をなすなど、大きな負担を課しつつ1607年までに大天守閣を含む大部分の工事を終えたが、1657年の大火により焼失、以後天守閣は築かれなかった。また家康は城下町形成のために、当時低湿地が多く、海岸線も現在よりはるか西まで入り込んでいた江戸の埋め立てを始め、運河造営、上水道、船着場などを建設し、江戸-上方を結ぶ東海道を始めとして幹線道路たる街道を整備した。街道には伝馬・宿場が整備され、年々需要が高まるので、近隣農民から人馬を徴発して不足を補った。これらの道路については日本を訪れた西欧人が良くほめている。家康はこうして造営した江戸の地に家臣の邸宅を配置、町人を呼び集めて城下町を形成していった。城の西部の平野には城の防備も兼ねて家臣団の邸宅をおいた。また武家諸法度で明文化されるより前に諸大名は江戸に証人として妻子などを住まわせ、江戸に参勤していたので、これに対し家康は邸地を諸大名に与えた。こうして諸大名は江戸に邸宅を持ったが、何れも豪華絢爛に造ってあった。対して江戸初期の武士の食事は質素なものであって、そういう逸話が多く残っている。町人は関東・小田原や徳川氏の旧領東海諸国等から呼び集めた。町人には年貢が免除される代わりにその技術や労力の提供が課された。近世の大名は城下町に住まわせた家臣団から発生する需要を補うために、町人の技術や労力の提供が必須だったのである。また江戸城築城、城下町形成と同時に彦根・駿府・名古屋城の造営を各大名に命じ、これまた大きな負担となっていた。そこで名古屋城築城の際、福島正則が不平を言ったところ、加藤清正が「せっせと仕事をして早く休むことにしようや」と答え、福島を始め諸大名も之にならったという。加藤・福島などの猛将ですら既に反抗する気を失っていたのである。
大御所と将軍

 

1605年、家康は三男秀忠に将軍職を譲り、自身は大御所と称されるようになった。京都で行われた秀忠将軍宣下の儀式は、家康将軍宣下の儀式が関が原合戦後のあわただしい中に行われたものと違い、外様大名に至るまで多数の大名が参列した。彼らは秀忠に忠誠をあらわし、大阪に豊臣秀頼がいたが、此方に出向くものは一人もいなかった。これまでの将軍と諸大名の関係は、家康への畏服という面が大きかったが、それが今後は個人を超えて徳川将軍家に臣従する関係に進めようとしていた。故に家康は2年にして秀忠に将軍職を譲ったのであった。さて、此処で政治上の実力者大御所家康と、中央政権の法的な権力者将軍秀忠の間に、二元政治が行われる心配は無かったのか。家康は、秀吉が関白職を甥の秀次に継がせ、秀吉自身は前関白として権力を持ち二元政治を行い、結果として秀次が秀吉にそむこうとしたとの疑いで秀次と縁者30余名が斬られるという事件を目の当たりにしていた筈である。だが家康は二元政治と成りうる大御所と将軍の体制を築いた。これについて、先ず秀忠が過度なほどに律儀であることが家康に安心感を与えていたこと、そして家康が自らの側近を通じて将軍をリモートコントロールすることで、大御所と将軍の二元政治を円滑に進めることを目論んでいたのである。1606年こんな事件があった。家康は鷹狩りが好きであったので、江戸近郊に鷹場を設けていた。ところがこの鷹場に野鳥が多く、麦の芽を食べてしまって困っているとの百姓からの訴えがあり、町奉行・関東総奉行を兼ねていた青山忠成・内藤清成が命じて鷹場に野鳥を獲る為の罠をはった。これを聞いた家康は、自らの猟場で勝手なことをする、と大いに怒り、秀忠はさっそく忠成・清成に切腹させようと命じた。それを本多正信が止めて、家康に2人の罪を免じてやって欲しいと述べた。家康はこれを聞き入れ、2人にしばらくの謹慎を命じたのである。こう見ると、家康は大分わがままを言ったように見られるが、実はそうではない。家康にも、2人は百姓が困っているからそれを助けようとしたという道理は分かっていた。彼が2人について許さなかったのは、2人が道理によって家康の権威を犯したことであった。もし道理によって大御所の権威を犯すことを認めるとどうなるか、おそらく今後家康の命に対して、江戸の老中や奉行が、各々考える道理によってこれを拒否したり修正したりすることが発生したであろう。将軍や老中、奉行達は大御所家康にとって、家康のリモートコントロールで忠実に動く機械でなくてはならなかった。今度の事件で将軍以下が自身の権威に忠実に動くことをチェックした家康は、駿府に隠居し、主にここから江戸へ指令を送っていた。家康が江戸をリモートコントロールするに活躍したのは彼の側近達である。彼が最も信頼する、手腕家の本多正信を二代将軍秀忠の幕閣に送り込んだのを始め、隠居先の駿府に正信の子正純を置き、その下に成瀬正成・安藤直次・竹腰正信らをおいて手元で政治家として養育し、後々徳川御三家の家の家老として送り込んだ。家康のリモートコントロールが江戸のみならず、子供たちの藩の政治にも行き届かせるようにしたのである。他にも僧侶の金地院崇伝や儒学者林羅山、財務官僚としての大久保長安、貿易関係者やウィリアム=アダムスらが家康の側近グループとして活躍した。本多正信は三河の貧しい鷹匠の出身であった。1563年の三河一向一揆の際には一気に加わり家康と戦った。一揆が鎮圧されてからは各地を転々とし、後に大久保忠世のとりなしで家康に帰参した。そして伊賀越えの難で功を立てて家康から絶大の信任を得、1590年家康の関東入国後は関東総奉行として領国経営、江戸市街の建設に活躍し、家康からの信任はいよいよ厚くなった。こうして武勲ではなく内政で功をあげた正信は、命を懸けて家康に尽くしてきた譜代の大名から厭われる存在であった。この様に頭で活躍した正信は色々と陰謀を巡らしたと言われているが、それは個人的な欲から発したものではないようである。家康からの絶大の割には22000石の領主でしかなかったという点からも、彼は自身の能力を私欲に使っていた訳ではないように思われる。仮に、先の青山忠成・内藤清成の事件が正信の謀略だったとしても、それは同僚を失脚させようとした訳ではなく、大御所によるリモートコントロールが機能するか、家康の引いた路線に沿って将軍秀忠以下が忠実に働くかをテストしたのではないか、と筆者は述べている。大久保長安は甲州で武田氏に取り立てられ、甲州が家康領になると大久保忠隣に使える事となり、ここで忠隣に気に入られて大久保姓を与えられたものである。長安は民政・財政・治水・土木等内政面で大いに活躍したが、特に鉱山経営に於いて彼の活躍は目覚しいものだった。武田氏の下で甲州金の採掘の経験を積んでいた長安は、1601年家康の直轄領石見銀山の奉行となった。長安が石見銀山に赴任すると採鉱の成績は飛躍的に上昇し、ついで佐渡の鉱山の奉行も兼ねる事となった。此処でも採掘量を飛躍的に伸ばし、更に伊豆諸鉱山の経営も任された。彼がこの様に採鉱量を飛躍的に伸ばしえたのは、従来坑道を地上から掘り下げていく竪穴掘ではなく横穴掘の技術を用いたからであった。ヨーロッパの技師からもたらされたであろうこの技術は、竪穴掘では直ぐに湧き水によって坑道が使い物にならなくなっていたところを、横から掘る事で湧き水の排水を容易にした。ところがこの技術も程なく限界に達した。1607年、家康の命で金銀の産出量が落ちてきたことに対する調査をしてみると、坑道が海面より低い位置に達したため湧き水の排水が行えず、採掘できなくなり始めていた。こうして近世初頭の鉱山の盛況は短くして終ってしまったのである。他にも近世初頭には、六本槍の政商と呼ばれた御用商人、職人頭らが将軍の下で活躍した。ところが彼らは身分制度が整ってくると将軍に近づくことは出来なくなり、その特権性を失っていき、代わって京・大阪・江戸三都の問屋層などの豪商に経済界における立場を奪われていった。とまれ、家康は鉱山、また御用商人を介した貿易により多大の富を築き上げた。慶長12年、伏見城に蓄えてあった金銀資材を駿府城に運び出しているが、筆者の計算によるとこれが凡そ78万両、米の金額に換算して約265億円、そしてこれは当時100万人以上の軍隊を動員できる金額であり、さらに1616年時の家康の遺産を、江戸・駿府両方の蓄えを合わせて600万両と見積もっているが、その富が如何に莫大なものであったかをうかがい知ることが出来よう。
「強き御政務」

 

1605年、秀忠が征夷大将軍となったころから家康は強硬に幕府内外へ服従を求めていった。秀頼に対しても新将軍への参賀を求めて一時戦争寸前までいっている。またこのころより諸大名の改易も行われるようになっている。このころ、女官と公家との不祥事があった。このことに激怒した後陽成天皇は極刑を望んだが、幕府の意向から下手人は流罪となっている。このことが気に入らぬ後陽成天皇は譲位の意を幕府に告げた。しかし丁度家康の娘が亡くなった時期と重なったために幕府が譲位の時期を延期しようとし、ますます機嫌を損ねたようである。結果、後陽成天皇は後水尾天皇に譲位することとなった。そしてこの譲位の儀の翌日、家康と豊臣秀頼は二条城で会見する。以前上京を拒否しえた豊臣氏もこの時点では拒否すること能わず、そのことから徳川と豊臣の主従関係を強めた物ということができよう。このころから武家や公家、寺社に禁令の発布も始めている。このような強権発動のなかで幕府内部に対しても統制を強めている。大久保忠隣の失脚はこの中でも最たるものである。これはキリシタンや幕吏の不正絡まる複雑な事件であるが、背景には秀忠の幕閣内での本多正信・大久保忠隣の対立が広がっていたことを背景とするのだろう。忠隣失脚の少し前、有馬晴信の旧領復帰運動に伴う岡本大八の問題が明らかとなっている。これは本多正純の家臣・大八が賄賂を得て偽の朱印状を晴信に渡していた問題である。結果は大八が火炙り、晴信も改易であったが、この2人がキリシタンであったことからキリシタン禁制へとつながる。また、対立する忠隣の臣・大久保長安がこの事件を処理したことは正純にとって大きな失点だったと考えられる。忠隣失脚事件は、このまき返しだったと言える。長安が死ぬと、突如として生前の不正が明らかとされ子は切腹。一族も罰せられた。そしてそれからまもなく忠隣も失脚する。忠隣は幕臣に人気があったというが、これはもしかすると幕臣の援助を彼が行っていたからかもしれず、とすれば幕府財政に権限を持つ長安とのつながりが資金源となっていたのかもしれない。とまれ忠隣の失脚によって本多正信・正純父子が力を持つ。この結果、家康は幕府をより動かしやすくなったといえる。またこのような幕府の態度こそが、豊臣氏が滅ぼされることとなった理由であったと言えるだろう。
大坂落城
家康の上京要求を拒否した当の豊臣氏は、しかし行く末に不安を覚えていたようで神仏に幾度も頼っている。そしてそれから6年後、後陽成天皇の譲位の儀にあわせて二条城にて家康と面会している。この結果は平穏であり、平和な雰囲気が広がったようである。しかしこれからまもなく、豊臣氏が建立していた方広寺大仏殿の落慶間際になって、幕府は様々な難題を掛けてこれを妨害しようとしている。なかでもここにある鐘の銘に難題を付け、混乱を大きくしている。しかし鐘銘を家康が前から知らぬはずはなく、この時点では既に戦争の準備をしていた点からも、家康は混乱を大きくすることを目的としているようである。この鐘銘問題については五山僧の阿諛追従がよく見られる問題でもあった。また、このころより豊臣恩顧の大名が次々と亡くなっている。そのことも豊臣家の立場を悪化させている。この時点で豊臣氏がとるべき方法と言えば、史実の如く抵抗するか、大坂を出るかしか存在しなかった。しかしこの意見はついぞ取り上げられていない。片桐且元は専ら豊臣氏と家康との間の取り持ちを行っていたが、却って且元は裏切り者として扱われてしまい、結果として且元は失脚してしまう。結果、大坂城内では強硬派が実権を握ったのである。この結果大坂城では幕府と戦することがほぼ決まるが、諸大名は全く豊臣に味方することはなかった。すでに大名たちが御恩を受けているのは江戸幕府であり、故に奉公すべきも江戸幕府であったのだ。家康が豊臣征伐を決めると、諸大名は悉く家康に従って大坂へと近づいた。恩顧の大名は特別に免除されていはいたが、その息子は従軍しておりまた島津・佐竹・上杉といった関ヶ原西軍の大名も従軍させられている。大坂城包囲陣が完成すると、じわじわと攻撃を行いつつ講和交渉を行っている。これを飲ませるため、家康は大坂城中心部への砲撃や地下道作戦、堀からの水抜き等を行っている。朝廷からの講和斡旋については、朝廷からの政治介入の否定、幕府内問題としての豊臣氏の処理といった事情から、これを拒否している。それからまもなく講和は成り、二の丸・三の丸を破壊し堀を埋めることで合意している。これが、大坂夏の陣である。しかし、まず豊臣氏が10万の浪人を抱えることが不可能であり、それゆえ浪人たちはむしろ抵抗を主張していたということ。そして内堀までも埋められてしまったことから、大坂城での不満は増大していた。それに目を付けた家康は浪人の追放か大坂退去を要求、結果として豊臣氏は再び抵抗することとなる。この抵抗派多勢に無勢であり、一時は善戦しながらもとうとう全滅することとなった。秀頼・淀殿も結局切腹することとなり、そうして大坂の役は終わった。大坂の残党については厳しく追及されており、これは関ヶ原の際と大きく異なる。これは徳川氏の権力が浸透しており、厳しい追及を行っても解決可能であるという状況をよく示している。
貿易と禁教

 

朝鮮と日本との交渉の中で、苦肉の策として対馬藩は国書を偽造している。これは日本と朝鮮との間で条件が食い違っていたからであり、これを埋めるために偽造をくりかえしていた。また日本側の将軍の称号を巡り、朝鮮は"国王"署名を要求するに対して日本側は"大君""国主"を名乗り変更することがなかった。ここも対馬藩が偽造を行って双方のつじつまを合わせた。しかしこの国書偽造は、対馬藩の内紛である"柳川一件"によって幕府に暴露されてしまう。しかし対馬藩はこの罪を許され、以後も国交を司ることとなる。家康がこのように朝鮮との国交回復を回復した理由としては、明との貿易を回復したかったからである。そのため、琉球との交渉を島津氏を通じて行おうとした。しかし琉球は使者派遣を行わず、それゆえ家康は島津氏に琉球攻撃を命じた。島津氏はあっという間に琉球を攻略し、琉球王は徳川家康・秀忠に謁見。琉球は薩摩藩の支配下に置かれた。しかし明は日本との国交樹立を行わなかった。さて関ヶ原の起こった1600年、イギリス船のリーフデ号が漂着する。その船員の内、イギリス人のヤン=ヨーステンとウィリアム=アダムズは日本に残ることとしている。彼らはそのまま家康の外交顧問となって日本で暮らした。彼らの努力もあり、このころイギリスとの間で通商が始まる。これには様々な特権が付与されていたが、家康死後にその特権は消滅し、イギリスは日本との通商から撤退することになる。またこのころスペインの前ルソン総督も日本に漂着し、家康と謁見している。スペインとは積極的に交易推進や技術提供を得ようと家康は考えていたが、ルソンやノヴィスパニアとの交渉も上手く行かなかった。一方、伊達政宗は家臣・支倉常長をヨーロッパに派遣している。彼は法王に謁見もし、また交易交渉も行ったが布教保護の要請がなされただけであった。このころになって、岡本大八事件に関連して禁教令が発布され、貿易も禁教の為に制限するようになっていった。このような背景には、オランダの攻撃によってポルトガルやスペインとの貿易額が下がっており、またカトリック教国の危険性を認識していったからである。そして貿易による利益を独占しようとしたことも挙げられる。子の為に、生糸輸入に関しては一括に生糸を購入する団体・糸割符仲間を作らせ、これによって生糸の交易を統制した。家康はキリスト教に対してかなり警戒をおこなっていた。キリスト教を布教した後に植民地化を行う、というカトリック教国の手を聞いたこともあり、また一向一揆に悩まされたことから信仰の危険を知るからである。同時に、新教国・オランダの進出もキリスト教への弾圧を強めるりゆうとなった。この状況でとうとうキリシタンの激しい弾圧がおこなわれるようになり、また伴天連の追放が行われたのである。
黒衣の宰相

 

外交の際には国書作成などで五山の禅僧がよく用いられた。秀吉時代に用いられたのが西笑承兌である。家康の時も彼が用いられ、彼が死ぬとそれに代わって以心崇伝が用いられるようになった。南禅寺の僧であった彼は、次第に大きな権限を握るようになり、外交と内政と双方の面で力を持っていた。このころ、幕府は寺院に対して寺院法度を発布し、寺の統制を強めていた。其の一として、寺での学問を推進して俗への介入を防いだ。また、本寺による末寺統制を強化させ、宗派の統制を行いやすくしている。さらに朝廷からの介入拒否にも動いているといえる。これらの法度作成にあたっては寺院の内部事情を知らねばならぬ故、承兌や崇伝がそれに協力している。また崇伝はそれ以外にも様々な法度を起草している。朝廷に干渉する公家諸法度、また武家諸法度も崇伝の筆になるものである。僧の位に関わる紫衣法度やキリシタン禁制他、仏教の諸宗に対して発布された諸々の法度も崇伝の手による。崇伝は法度に逆らう人間を一切排除という態度で会った。それゆえ恨みを買い、世の中での評判は悪かった。しかし彼は、幕府のために働いているのであり、私欲のためとはいえないだろう。もう一人、家康の下で働いた人間に、南光坊天海という人物がいる。天台宗の僧侶である彼は非常に長寿だったといわれ、100歳近くだったといわれる。崇伝については、実質的には教義信仰よりも政治に介入しており、その点で黒衣の宰相――法衣を纏う宰相だったといえる。しかし展開はむしろ宗教面で活躍したと言えるだろう。彼はまた、よく家康に赦免を請うているが、このような存在は激しい刑を最初に容赦なく下すことができる点で家康にとっても有難い存在だったのだろう。家康の死後、家康を神として祭ることとなったがここでどのような神号で祀るか、ということが問題となっている。ここで天海は神仏習合的な称号"権現"を主張し、崇伝は唯一神道的な"明神"を主張した。これは天海が、神仏習合の一であり、天台を基礎とする山王神道を信仰していたからである。結果、天海の主張する権現が通った。これは天海の「明神は、豊国大明神の先例がある」という言葉から、明神が豊臣氏の滅亡を思い起こさせてしまう事となったからである。そしてこの家康――東照大権現を祀るため、日光山に東照宮が造営された。日光はかねてより山岳信仰の拠点として知られていたが、このことによって一気に日光は力を持つようになるのである。現存する東照宮は、家光がその後に豪華に造営し直した物であった。これは大名の力を削るためというが、既に安定期にはいったこの時代にそれを行う必要性が低いことを鑑みると信憑性が薄く、事実この造営の際には大名の寄進を避けている。天海はまた、天台宗の中心を関東に移している。つまり、寛永寺を造営して延暦寺と対置し、天台宗を江戸のおひざ元に置いて統制をはかったのである。さらに延暦寺に対抗するため、宮門跡を置くことを考えた。これは天海の死後になってようやく実現し、輪王寺宮門跡と呼ばれることとなった。日蓮宗不受不施派と呼ばれる一派がある。これは、他の宗派からの功徳を受けずまた施しもしない、という立場の人々である。かれらは江戸時代を通じて非常に強く弾圧されることになった。
大名統制

 

豊臣氏の滅亡によって、太平の世がはじまったという見解があるが、これは考えものだ。大坂の役ののち、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗寺院法度といった基本的法度が発布されるが、これは大坂の役とひとくくりにすべきなのだ。なぜなら家康は、大坂の役と並行してこれら――法典設定の準備を進めていたからだ。彼は、大名、僧、公家らが幕府のもとでどうあるべきかを締めくくるつもりだった。だがそのためには、実権を握る必要がある。豊臣氏が掌握する実権を、なんとしても奪わなくてはならないのだ。つまり、奪えればそれでよかったのだ。ところが豊臣氏は家康の条件には従わず、自ら滅びる道を選んだのだった。元和の武家諸法度は、今まで発されてきた法令と異なる点があった。形式だ。本来なら、主権者が条文を掲げ、大名が誓約する。しかし、元和の法令は、一方的に幕府が大名たちに通告をするだけだった。これはつまり、幕府の支配力の強さが安定期に入ったことを証明しているのではないだろうか。ちなみに、この法令ではまだ、所領、軍役、参勤交代についての規定はほとんどない。それらが決められるのは、三代将軍家光の時代のことなのだ。一応所領に関する条文はあるものの、それは幕府にとって都合のよいように解釈できるものだった。元和の武家諸法度の決まりのうち、ほぼ半分は秩序破壊に対する警告だった。これは、幕府の転覆を恐れたからではないだろうか。あるいは、徳川氏の権力を大名たちに確認させるためとも考えられる。米沢藩士上杉景勝は、1603年10月に訓令を発する。そこには、給与をもらう代わりに軍役(――1)を負担する必要があるということが書かれている。軍役は、藩士たちにとってかなりの負担だった。破綻してもおかしくないほどだったようだ。こうして破綻することを、「すりきれる」といった。景勝は、「すりきれる」ことがないように娯楽を止め、まじめに働くことを伝えた。しかし、それでも「すりきれる」藩士はたくさんいたようだ。米沢藩に限ったことではないのだが。なお、軍役についての誤解が2つある。1つは、幕府は直轄地からしか年貢や運上(――2)をとらず、それを財源としていたという説だ。行政についてはその可能性もあるが、軍役についてはあり得ない。もう1つは、大名の経済力を削ぐことを目的として軍役を課したという説。そのような不満が漏れる状況で、幕府が300年近く続いたとは考えにくい。さて、石高の話へ移そう。石高が多い大名たちは、名誉だと考えられている。しかし、高ければ高いほど、大名の負担は重くなる。軍役についても同様だ。負担に耐え切れず潰れる大名が次々と現れ、やがて幕府は法令を緩めることになる。おかげで、大名たちは少しずつだが回復していくことになった。家康の晩年から秀忠の時代にかけて、大名の配置はかなりの変化を見せる。負担に耐えられない外様大名が潰れ、そこを譜代大名が治めたのだ。こうして譜代大名は、全国に広がっていく。また、大名が潰れるにつれて、幕府の直轄地もまた、増えていくことになった。譜代大名がずいぶんと有利に見えるが、実は彼らも支配原則をうけなくてはならない。潰れる家もあったが、大体の家は小藩だったために石高が低く、まだマシなほうだった。幕府は関ヶ原以降に、譜代の家臣を独立させ、全国支配を進めようとしたからだろう。ところで、なぜこんなに大名が潰れるのか。理由は3つある。1つは戦に負けることだ。2つ目は――これが大きいのだが――後継ぎがいないことだ。末期養子(――3)の禁という制度があり、必要とするときに養子をとることができない。養子がいなければ、大名は潰れるしかないのだ。3つ目としてあげられるのが、幕府による処分だ。お家騒動と呼ばれる争いが起こると、幕府が介入する。そのとき、どうやら幕府はどちらがよい、悪いと決めるのではなかったらしい。勝たせたいほうを勝たせるという形だったようだ。幕府が処分を決める理由は、政治的な意図があったと言わざるを得ない。たとえば、福島氏、加藤氏(――4)の改易。彼らは豊臣家の重臣で、警戒されたからだと考えられる。また、徳川家の親族といえども容赦なく罰を受けたという例もある。
補足
1、軍役とは、戦争や土木工事に参加したり、江戸へ主君とともに参勤しなくてはならない負担。城を造る仕事もここに含まれる。2、運上とは、農業以外の産業に従事する人(漁師など)に課された税。小物成という税に含まれる。3、末期養子とは、死ぬ間際に大名が定めた養子。生きている間に決めるべきなのだが、仮に本当の子どもが生まれた場合、あとでお家騒動が起こる可能性がある。だから、死ぬ間際に決定することが多かった。由井正雪らが幕府の転覆を謀って失敗した慶安の変があるが、それはこの末期養子の禁によって家を潰された藩士たちによるものらしい。この変を恐れた幕府は、のちに末期養子を許可する。ただし、17歳から50歳までの大名が死んだときに限る。4、福島氏、加藤氏はともに福島正則、加藤清正の家。彼ら2人は子どもができなかった秀吉に育てられ、豊臣家に厚い忠誠心を持っている。
消えゆく人々

 

家康の時代、幕政はもっぱら家康と個人的な結びつきを持ち、諸方面に優れた才能を示した人々が集まることによって動かされていた。しかし秀忠の時代になると、そのような個人的な結びつきは重きを失い、組織の中に政治の中枢が形成されはじめた。政治への発言力は將軍との関係ではなく、職務にあることによって得られるようになったのである。家康亡き後の秀忠時代は、個から組織へ、その変革の時期であった。本章では、この大局的な変化に適応できず消えていった旧臣たちを見ていく。第一は、宇都宮城主本多正純である。家康七回忌にあたる1622年4月19日、正純は将軍秀忠の日光下山を待ち受け、これを居城に迎えるべく周到に準備を凝らしていた。しかし皮肉にもこの準備に將軍謀殺の嫌疑をかけられ、宇都宮15万5千石を没収され失脚してしまう。俗に宇都宮の釣天井と呼ばれる事件である。この処罰には、長く家康についていたため秀忠幕閣の中で孤立していた正純を排斥するという、幕府上層部の思惑も働いていたと筆者は推察している。また、この本多正純を過信していたために、取り潰しの憂き目にあったのは福島正則である。福島正則は豊臣秀吉にもっとも縁故ある大名のひとりとして幕府から疑いの目を向けられるのを警戒していたが、1619年4月、居城広島城を無許可で修理したことを幕府に咎められ、いったんはこれを謝罪したものの、そこで約した新築箇所の取り壊しを実行しなかったため、領地備後・安芸両国の49万石を奪われ川中島に移された。この広島城新築を巡る一件は、正則は新築の許可を正純に頼んで安心しきっていたものの、前述の通り既に幕府における正純の発言力は失われていたため、正則と幕府の間に齟齬の生じたことが真相らしい。同じく豊臣秀吉と関係の深い加藤清正の子、加藤忠広も不可解な陰謀事件により熊本52万石を奪われ、滅亡している。一説にこれは家光の威光を諸大名に示すため、外様大名の中でも豊臣氏と縁故の深い加藤氏を血祭りにあげたものだと言われている。この他、幕府に対する素行悪しく、主従の関係を受け入れないものは、松平忠輝、松平忠直など徳川一門と言えども領地を没収され流された。すべての人間が主従・上下の関係で固められ、これに適応できない者はことごとく淘汰されていったのである。
公家諸法度

 

1613年公布の「公家衆法度」に続き、1615年「武家諸法度」を発布した10日後に「禁中並公家諸法度」17条を公表した。「公家衆法度」では幕府権力が公家に及ぶことを法制化したが、「禁中並公家諸法度」に於いて幕府権力が天皇、また公家衆の生活の細々とした事にまで影響することを示した。公卿諸家の家格が固定されているように、以前から公家の社会は発展が見られなくなっていたが、ここに来てそれら生活の固定化は極みに達した。また、彼らの生活は著しく窮屈で、また経済的にも苦しいものであった。一方で家康は朝廷への圧力を増す為に、天皇への入内を考え、秀忠に娘和子が生まれると、これを後水尾天皇に入れようとするが、大坂の陣や天皇に皇子皇女が生まれるなど、入内を延期せざるを得なくなった。これに気を悪くした幕府を見て、天皇は自分が気に入られないようであれば譲位する、とささやかな抵抗をみせるも、幕府は他の公卿に罪を被せて処罰し、天皇へ圧力をかけたが、藤堂高虎らの説得により朝幕間で折り合いがつき、入内と相成った。70万石もの入内費用を費やして和子は後水尾天皇に嫁いだが、その後幕府が天皇の権力が及んでいた諸宗への権限を強く犯し、さらに家光の乳母春日の局が、武家の一召使に過ぎないにも関わらず天皇から杯を受け、これらに天皇が憤り、1629年後水尾天皇譲位、明正天皇即位となった。しかしながらこの譲位を幕府は全く意に介さなかった。もはや勝手にしろ、という雰囲気であったようだ。この後の朝廷―幕府間は、緊張がほぐれていった。後水尾天皇の個人的な恨み等はあるかもしれない。だが家康、秀忠が各法令を発布し、社会秩序をこの型の中にはめ込むことに力を注いでいたのが家光の時代になって法制の整備に方向転換した。家康・秀忠時代に社会の基本的秩序が整い、幕府の支配体制が確立したからである。よって、幕府は朝廷に過度な政治的配慮をする必要がなくなった。そこから生まれた後水尾天皇即位を「勝手にしろ」という雰囲気なのであった。
将軍家光とその周辺

 

家光という将軍は出歩くことが好きで、よくお忍びで江戸近郊に出かけた。四代目以降は将軍の外遊に際しては厳重な警備がついたので、このようなことはなくなってしまった。家光のころまでは将軍の行動は比較的自由であったが、それもだんだん制限されていったらしい。将軍を頂点とする身分社会制度が固定化し、機構・制度が整備されてくると、世の中の人々は身分や家柄の枠に閉じ込められることとなる。将軍もその例外でなく、長く続いた江戸幕府では後期に至るほど将軍は窮屈な立場となった。家光は家康に強い影響を受けていた。以前後継者が駿河大納言忠長になるのではないかと噂されたとき、家康ははっきりと家光こそが後嗣だと明示した。家光にはこのことが終生頭から離れなかったのではないだろうか。この他、幼き頃の大病が家康が用意した薬によりたちまちに快癒したなどとも言われている。1629年(寛永6)家康26歳のとき、家光は重い天然痘を患った。このとき乳母の春日局は生涯薬を飲まないことを神に誓い、その代わり家光を救って欲しいと祈った。それ以来彼女はこの誓いを守り続け、自らの病気が重くなり、家光に薬を飲むように嘆願されたときもこれを拒否し死亡した。春日局は家光の将軍就任も支援し、単なる乳母として以上に家光に優遇された。春日局が家光にとって慈母的存在であったとすれば、厳父的存在はお守役の酒井忠世・土井利勝・青山忠俊の三人である。この三人は家康の内意によって秀忠が任命した者であり、適切な人選であった。酒井忠世は三河譜代最高の家柄の生まれで、性格は謹厳実直、口数が少ない人だった。土井勝利は才物で、よく家光に呼ばれ、しばしば酒の相手をつとめた。青山忠俊は剛直な人で、家光の我侭を強く諌めた。家光の小姓からは有能な政治家が何人か出現した。松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・阿部重次・太田資宗がそれである。彼らは「六人集」と呼ばれ、酒井忠勝・土井利勝のに元老の元で、幕政の中核をなした。家光は家康の制覇の事業の総仕上げを行い、家康に次ぐ高評価を受けているが、家康や秀忠に比べては個性の小さい人間であった。彼の時代の幕府は政治機構が大いに整い、個人活躍の場が少なくなっていたのである。そのため、家光を見る場合には、側近の有能な政治家群の存在を無視することができない。
徳川三百年の基
江戸幕府が私闘を法で明示的に禁止したのは、1635年(寛永12)、武家諸法度を改訂したときである。これに続き、法定や訴訟制度も同年に明文化された。江戸幕府の役人は一つの食に複数の人数がおかれ、月番で事務をとり、重要事項は合議で決定するのが原則であるが、これが明文化されたのもこのときである。評定所は各役所では扱いきれない重大事件や難事件、管轄外の諸領主の事件を担当した。1633年(寛永10)主人・家僕、親・子、本寺・末寺、代官・百姓などの訴訟取扱い方その他の規則が出た。ついで評定所執務細則というべきものも発布され、その後長く執務の基準となった。この年には家光の側近であった有能政治家、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛が老中に昇進した年である。幕府首脳部が充実したのと、武家諸法度の改訂・法定制度の整備が行われたのは深い関係があるのだろう。この全国土地所有権と裁判権が、徳川幕府の国家権力成立をよく示すものである。中世においては、武士は所領の土地・人民と強い結び付きを持っていた。彼らは農村に土着し、主君に対しては独立性を維持していた。しかし近世の知行地は中世の所領とはかなりことなり、支配は形式的・名目的なもので、土地・人民に対する結びつき弱く、中世の武士のように主君に対する独立性は保持できるものではなかった。彼らの収入はもっぱら主人から支給される俸禄に頼ることとなった。さらに武家諸法度で他の主君への再仕官が禁じられたので、武士は現在使えている藩に絶対服従をしなければならなくなった。「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」と武士に対して一方的な没我の忠誠を求めた。政治的支配体制が確立していくのと並行して、社会秩序も固定していった。この時代の身分制度は、俗に士農工商と言われるが、これは儒者の観点から設けられた区別であり、実際は武士と百姓と商人の三身分に大別される。秀吉が行った太閤検地や刀狩りなどの兵農分離政策で、百姓と武士の身分の区別はすでに行われていた。商人に関してはどうだろうか。織田信長や豊臣秀吉のころの楽市・楽座の令により、商売は自由に行うことができた。しかし、ここでいう楽=自由は、中性的特権からの自由であり、近世の商人には身分制度による新たな束縛がなされていた。一定期間都市に住んだ者は町人の身分とされ、農村とは完全に遮断された。彼らは武士のために物資の調達を行い、あるいは物資製造の技術を提供させられる存在となった。このような武士・百姓・町人の三大身分は、それぞれの中でさらに細かい上下の階層構造が成立して完成となった。身分を象徴付けるものの一つに刀がある。百姓には秀吉の刀狩り以降は特に帯刀禁止令は出ていなかったが、町人は法で厳しく制限されていた。衣服もまた身分をよく表す。禁中並公家諸法度には、天皇以下細かい規則で公家の衣服を規定している。上級武士もだいたい公家に準じた規則がなされ、身分の上下に応じて着てよい衣服が制限された。1642年(寛永19)、大飢饉が起こる。幕府はこれにより、農業政策を行って支配基盤を固める必要に迫られた。まず検地の条例により、正確な検地を行わせた。この検地は高度の熟練技術を伴なう公正な検地であった。同時に「慶安の触書」が発布された。農民向けに易しい言葉遣いで書かれており、日常生活の細かいところまで指示し、彼らに勤勉・節約・節制・技術改良を説いた。ここにおいてはじめて、小家族を基本とした農政が出され、土豪などの大家族的な経営を幕府は否定した。 家康が関ヶ原において石田川を壊滅させてから、家康が死去するまでの50年で徳川政権の支配体制は固まった。今後はたとえ幼少・病弱の将軍をいだいても、不安・動揺をきたさぬほど強固な支配体制を築きあげた。
 
鎖国

 

13世紀末、元の世祖フビライに仕えたイタリア人マルコ・ポーロは、その著「東方見聞録」の中で「黄金の国」ジパングを紹介した。それまで名前も知られていなかった日本国の存在が、ヨーロッパ人のあいだにはじめて伝えられたものである。それから16世紀まで、西欧諸国は活発な探検航海と植民貿易により近世世界への道を急速に進んで行った。1498年にはバスコ・ダ・ガマの船団がインドのカリカットに到着し、東方新航路が開拓された。1492年には、大西洋を横断したコロンブスによってアメリカ大陸も発見された。1521年にはマゼランがフィリピン群島に到着。そうして天文年間、いよいよ日本島はポルトガル人によって発見されるのである。日本の発見は、ただちに鉄砲の伝来と結びついている。後年「種子島」と呼ばれたこの新兵器は、瞬く間に戦国争覇の世へ流通し製作されるようになった。そうして織田信長が武田軍の騎馬隊を打ち破った長篠の合戦に象徴されるような、戦術上の一大革命を引き起こしたのである。軍事技術上の改革も多々施された。信長による鉄艦の建造もそのひとつである。鉄砲防御のため船に鉄板を採用し、大砲を搭載したことは、当時としては画期的な改善であった。鉄砲の伝来に遅れること6年、もうひとつポルトガル人によってもたらされた日本史上極めて意義の深いものがある。キリスト教である。1549年8月15日、聖母マリア被昇天の大祝日、イエズス会設立者の一人フランシスコ・ザビエルが、東方布教の熱意に燃えて鹿児島湾に到着した。彼はさっそく九州を中心に伝道をはじめたが、その成果は一進一退であった。また彼の希望は日本の主権者に会い、その許可を得て公然と全国に布教することであったが、折しも京都は応仁の乱で荒れ果てて、天皇は既にまったく無力であった。大々的な布教の目処は立たず、ザビエルは日本滞在2年3ヶ月にしてインドに立つ。その後は残ったトルレスらが布教に尽力し、領内反対派と仏教徒による弾圧の中、キリシタン宗はじわじわと拡大・発展していった。日本におけるキリシタン宗の伝道は、基本的にポルトガル船の貿易に追随して、貿易港を中心に移動・発展した。ときには宣教師が商人と連絡して、布教に好意を向けない地方には貿易船の渡航をしないよう働きかけている。そのため一般諸侯はキリシタン宗を受け入れ伝道を許可することによって、広く貴重な海外物産を搭載するポルトガル船との貿易を図ったのである。貿易統制の本拠ゴアのインド副王や、イエズス会の司教などに使節を派遣したり、進物を贈ったりするものも少なくなかった。新宗教の保護と貿易の発展はいまだ不可分の関係にあったのである。
長崎開港
幕末開港以来、昭和年代のはじめまで、生糸や絹織物は日本の主要輸出品であったが、江戸時代の中頃までは、生糸はむしろ日本の主要な輸入品であった。輸入先の産地は中国である。しかし日・明両国のあいだは倭寇の活躍によって、長らく通行貿易関係が途絶えていた。その間隙に目をつけて商権を拡大したのがポルトガル人である。彼らはゴアから積んできたヨーロッパの銀貨やオリーブ油、葡萄酒、香辛料などを、マカオで生糸に積み換えて日本の港にやってきた。船が碇泊すると、たちまち待ち構えていた地元の有力商人や遠く近畿から潜り込んだ商人たちが取引を始める。対価は銀で支払われた。その額は極めて膨大で、ポルトガル人による日本貿易の中心は、いまやまったく中国の生糸と日本の銀の交易となったのである。それでも全ての交易が順風満帆とはいかない。貿易はつねにイエズス会の布教と繋がりを持っていたため、特にキリシタン宗へ好意を持たない大名の領地では度々問題にぶつかった。そんな中、交易のための安住地を求めて宣教師ベルシオール・デ・フィゲレイドが発見した港こそ、以後日本の対外交通交易の窓口として繁栄を辿る良港、長崎である。長崎湾内はどこも水深が深く、湾岸三方は高峻な岳に囲まれている。湾口の外には島が点在し、風波は完全に遮られていた。マカオ・長崎ルートは、アジア貿易で最短にして確実かつ利益のあがる貿易路線となった。交易を求めて、あるいはキリシタン迫害から逃れて、近隣各地から移り住んでくる人々によって街は繁昌した。カブラルらの宣教師は、このような長崎を中心根拠地として布教活動を進めた。その成績は大変良好で、布教半年のあいだに信仰に加わった者は2万人にも上ったと言われている。やがて領主大村純忠は、この繁栄する長崎が龍造寺や島津らの攻略にさらされるのを恐れて、急ぎこの地をイエズス会に寄進した。長崎は教会領となり、イエズス会の本部サンタ・マリア天主堂などが建立され、いよいよ西日本における布教と貿易の中心となったのである。キリシタン宗が最初から各地で仏教徒ら激しい抵抗を受けたにも関わらず、伝来後わずか30年で広く多数の信者を獲得したことには、社会事情や布教方法などひとくちには言い難い様々な要因が関係している。しかしなによりもまず対立宗教である仏教が、当時諸宗分裂して互いに抗争をつづけていた点は大きい。仏僧は教義を忘れて腐敗・堕落し、戦国大名と変わらず現世的勢力の獲得に狂奔していた。キリシタン宗は巧みにこの弱点をついたのである。くわえて次々と来朝した宣教師の人格や学識、熱意にも特筆すべきものがあった。信長もまた自身が手を焼いてきた仏教徒への反感から、絶えず宣教師を厚遇していた。言わば反対勢力を抑えるための牽制手段として、キリシタン保護を用いたのである。信長はキリシタン宗を積極的に利用しつつ、彼らのために便宜を図ってやった。このような政治的な互恵関係が築かれていたことも、キリシタン宗の拡大に充分寄与している。多くの好条件に恵まれて、キリシタン宗の勢力は大いに発展した。1582年、その興隆の象徴として、九州三大名のローマ遣使が決行された。その正使は2人の少年貴族である。教皇グレゴリオ13世はこの使節を非常に歓迎し、イエズス会はその多年の努力を認められて正式に日本布教の特権を与えられた。遣使は大成功であった。しかし使節一行が出発してからわずか半年のあいだに、日本国内では恐るべき変化が起こっていたのである。本能寺の変により信長というもっとも有力な保護者が没し、使節を派遣した大村純忠も死去した。そして1587年6月、秀吉が唐突に伴天連追放令を出したのである。
伴天連追放令

 

キリスト教布教活動も、信長に変わって秀吉が政権の座につくと変転を余儀なくされる。秀吉の九州征伐の直後、突如として伴天連追放令が発布され、弾圧が始まったのである。この問題は当時の二本の倫理観念とキリスト教での倫理観念の矛盾もはらみ、また九州征伐終了によってキリシタン大名の協力が不必要になったことも理由に挙げられるだろう。また畿内に向けられたその文章には南蛮人の来航・通商の禁止はなく、あくまでバテレンを追放することが明記されていた。キリスト教については、他宗派への不寛容を譴責している。九州に向けて発布された別の文章によれば、キリスト教が、一向宗同様に封建体制を否定することに対する反発もあった。仏教的には禁止される食用家畜の屠殺や、当時広く行われた日本人奴隷の売買も禁止されていた。しかし伴天連追放令はこれに留まらぬ理由を持っていたといえる。九州征伐時、イエズス会は長崎に直轄領を持っていたが、これを秀吉は没収している。ちょうどこのころ、土佐に来航したフェリペ号の船員が、キリスト教布教をスペインの植民地拡大の方法だ、と暴露する事件もあった。それゆえ、秀吉はキリスト教布教をスペインポルトガルの侵略活動の一環とみなし、バテレン追放を行ったともいう。フェリペ号の船員の暴露によって、キリスト教への態度が強固になった秀吉は、宣教師や日本人の信者を捉えると長崎にて処刑し、見せしめとした。この26聖人殉教の知らせに、マニラ総督は秀吉に使者を送って寛恕を求めるも、秀吉はこれを拒絶している。
強硬外交のうらおもて
関東の北条氏が降るや、秀吉は本格的に威嚇外交を推し進める。これまで大名ごとに行っていた外交を秀吉政権のもとに集約してゆく。琉球に対しては、朝貢や明と日本の国交回復斡旋を求め、スペインのマニラ総督に対しても貿易推進とキリシタン禁令を強く申し渡している。このころ、マニラは中国と日本の貿易中継地として重要度を増していた。それゆえ、日本側ではマニラ遠征の計画も立てられるほどであり、同じように台湾出兵計画も存在していた。このような意を伝えながら、南方に対して日本へ服従するように強く求めているのである。これに対し、台湾を治める明は軍勢を派遣しており、マニラのスペイン総督も警戒を非常に強めている。一方で秀吉は、南蛮交易は相変わらず推進しており、長崎を直轄として貿易の統制を行っていた。また海賊停止令を発布して横行する海賊を次々と捉え、海上の治安の安定を図っている。このころ、秀吉は需要の大きかった金・生糸などの買占めを行い、莫大な収益を握っている。フィリピンの民芸品であり、茶室に重宝されたルソン壺や朝鮮出兵で需要の見込まれた銃弾用の鉛についても、交易へと積極的に干渉した。
家康の経済外交
秀吉が諸外国に強硬的な姿勢を見せたのに対し、家康は親善関係を結ぼうと努めた。フィリピン政庁からの使節で、ひそかに布教を行っていたジェロニモ・デ・ジェススが捕えられた際も、これを殺すことなくフィリピンとの外交の足がかりにした。さらにフィリピンからの渡航を薩摩の海賊が妨害していることの連絡を受けて、これを罰することさえした。それでもなお、布教については拒絶の意をはっきり示した。キリシタン禁圧の政策が廃止されたわけではなかった。家康の目的はあくまで貿易の奨励であった。家康は朱印状を発行することで貿易の保護をおこなった。慶長5年(1600)、リーフデ号という黒船が九州の東北に漂着した。この船はオランダが東洋貿易に派遣したうちの一隻であった。そのころ大阪に来ていた家康は、これを聞くと即座に代表者を招いた。家康はポルトガル語通訳を介して、諸外国の情勢を熱心に尋ねた。ポルトガル商人、イエズス会などの在日カトリック勢力はプロテスタント勢力であるリーフデ号の漂着を恐れ、家康に彼らを即刻死刑にすべきであると提言した。しかし、家康にとっては宗派の違いより貿易によって利益をあげることの方が重要であったので、この提言を聞き入れることはなかった。家康はリーフデ号の船員のうち、特にイギリス人アダムズを厚遇した。アダムズは相州三浦郡の逸見(横須賀市)に250石を与えられた。これはいまだかつて外国人には与えられたことのないほどの優遇であるとアダムスは自負していた。慶長14年(1609)、オランダに朱印状が与えられた。オランダとは自由に貿易をおこなっていいという内容である。ポルトガル商人やイエズス会の恐れた自体がまさに起こった。彼らは貿易が盛り上がりを見せぬうちに、オランダの海賊行為を幕府に訴えた。オランダはイスパニアから独立を宣言し、イスパニアから貿易路を断ち切られたので、新たな貿易先としてアジアを目指すようになった。先にアジアでの貿易を行っていたポルトガル勢力とたびたび衝突したというのも、オランダとポルトガルの対立の一因となっている。家康の外交のおかげで、長崎や平戸の港はヨーロッパの商船でにぎわうようになった。だが家康が切望したのは明との貿易であった。家康は政権を得るとともに、即座に日明関係の修復に乗り出した。そのためにまず隣国である朝鮮との外交を回復する必要がある。慶長の役の後、日本軍の撤退が始まると、すぐに家康は対馬の宗氏を通じて朝鮮との交渉を始めた。当初に交わした文書では日明貿易に関する記述は伏せ、慎重な交渉が行われた。同時に琉球を通じて明に近づく手も打っていたが、琉球は朝鮮にまさる堅物であり、話を聞き入れようともしない。島津家久が幕府の許可を得て琉球に遠征し、勘合貿易の復活を琉球から明に要求させたが、明にいぶかしがられ成功しなかった。家康はこの他に、直接明国との交渉にも努め、捕虜の送還、使者の派遣などを行ったが、これも明に疑われ逆効果となった。結局正式な日明貿易は復活しなかったが、明からの貿易船自体はぽつぽつと現れ始めていた。家康はこれを歓迎し、朱印状を与え、争いの時も明側に有利な判断をさせるようにした。そのおかげもあり、寛永20年(1624)には90隻もの明の貿易船が来航した。
生糸を取引きする将軍
家康は将軍宣下を受けると共に奉行の入れ替えを行った。人的関係から貿易港長崎の管理を強化したのだ。貿易重視のこの政策は、秀吉が行ったそれの踏襲である。そのころマカオから生糸を積んだ貿易船が長崎に入港した。このころはまだ貿易の手続きも整っておらず、また飢饉に悩まされていたので、輸入品の生糸はなかなか買い手がつかなかった。その後、ポルトガル船はまた多量の生糸を積んで来航し、廉価でこれを売り出した。幕府はこれを受け、正式に生糸に関する取引法を作成することにした。糸割符法の起源である。取引の方法はこうである。まず幕府が京・堺・長崎など三都市の商人に命じて結成させた貿易商人グループを組む。グループはそのときどきの適正価格で生糸を全部一括で買い取る。その後一般商品の取引を公開し、ついで生糸を国内各地に配分・販売するのである。この方式では、しばしば買主のグループ側に買い叩かれるので、売主であるポルトガル側との悶着の種となることがしばしばあった。幕府はこのグループとは別に、その権威を利用して大量の生糸を売値の5割ないし7割で買い占めていた。幕府による生糸の買占めは何度も行われ、市場価格や販売許可も幕命で定められていたので、ときには一般商人の取引の一切が差しとめられ、幕府の専売となることもあった。秀吉は黒船の貿易保護を積極的に図り、金・銀・生糸などの重要商品の買占めを図った。徳川の世ではさらにこの傾向が促進され、金山・銀山からの上納、大名や社寺からの寄進、そして貿易によって家康は莫大な金銀を蓄財した。家康の遺産は昭和41年時点で2億ドル(現在の貨幣価値で720億円)ともいわれた。まさに慶長の怪物である。
キリシタン禁令

 

マカオで有馬晴信の朱印船が襲撃されるという事件が起こった。経緯はこうである。まずマカオで晴信の朱印船の船員が暴力を働いた。これに対してマカオ当局が動き、60人余りが銃殺されて鎮圧する。その後マカオ総督アンドレ・ペッソアは使者を駿府に送り、日本人のマカオ渡航を禁ずることを家康に願い出る。日本人に直接支那人の生糸を買われてはポルトガル人の商売の邪魔になるというのが実際の理由であろう。家康はこれを受け、朱印状を発行する。晴信は怒り収まらず、家康の許可を得てペッソアを召喚し、事実を確認しようとした。ペッソアはこれに応ぜず、マードレ・デ・デウス号という船で逃走を試みるが、晴信らは兵船を繰り出してこれを砲撃。もはやこれまでと考えたペッソアは火薬庫に火を点じてデウス号ごと自爆する。この商船には生糸が積まれており、これにより京阪で糸値が2倍に跳ね上がったと言われている。この事件の影響はその後も残った。老中本田上野介正純の与力岡本大八が、家康が晴信に対して恩賞として旧領肥前の三都を元通り領地替えしてやるつもりがあると告げたのである。晴信はたいそう喜び、大八に多額の金銭を送って斡旋を頼んだ。しかしその後詐欺がバレてしまい、大八は牢にぶち込まれる。大八はこれを恨み、晴信がデウス号の焼き討ちの際に、奉行長谷川左兵衛から攻撃が手ぬるいといわれたのに憤り、彼を毒殺しようとしたことを牢中で訴えた。こうして大八は火あぶり、晴信は流刑の末死を命じられた。晴信も大八もキリスト教徒であった。家康の側近にも信者が数多く露見し、信仰をかたくなに守ったので、いずれも改易・島流しとなった。その中には人望厚いものもあった。家康がもともと持っていたキリスト教は危険ではないかという疑念が、ここで確信に変わった。家康は大八処刑の機会を利用して、キリシタンに対する激しい迫害を行った。秀吉の死以降、家康は貿易の利を得るために宗教に大しては宥和政策を採ってきた。そのためキリシタンは小康状態にあったのだが、このときそれが打ち破られたのである。これと併せて、オランダ・イギリス両国民は、貿易の利益を独占するために競争者カトリックを排撃しようとあらゆる讒言を行った。ポルトガル商船もこれに対抗して讒言を行った。国内が安定し、ようやく対外政策を行える余裕ができた家康は、さっそくキリシタン弾圧の政策をとりはじめた。利のために宗教と貿易を分離を声明していたが、宣教師は潜入してくるのでこれだけではなまぬるい。まず江戸・大阪・京・長崎に置いて会堂を墓石、布教を禁止し、宣教師を追放した。この政策に関しては、家康の外交顧問格のイギリス人ウィリアム・アダムスが裏で糸をひいていたとも言われている。
朱印船の貿易

 

江戸時代初期、朱印状によって海外交易を認められた船を朱印船という。この制度は、秀吉が海賊や私貿易船との区別を行うためのものであった。家康の代となると、朱印状を持たぬ貿易の禁止が各国に通告され、朱印状は珍重されることとなった。この朱印状の交付は幕府の重臣の紹介状を元に禅僧によって書かれたものであった。そしてこの朱印状を拝領して朱印船を運行するのは、有力大名や有力商人、女性や在日の外国人であった。彼らが資本家となり、船頭を雇って実際に渡航させた。またこの際航海士として外国人を雇うこともあった。このような貿易に目をつけた人物に亀井茲矩がいる。茲矩は官途として琉球守・台州守を名乗るなど海外へと目を向け、朱印船の派遣も行っている。ヨーロッパ式の造船技術も取り入れ、当時の日本は造船技術も誇るものをもっており、フィリピン総督より発注を受けるようにもなっている。この朱印船は各地で交易を行ったが、これはヨーロッパ側にとっては商売敵であるといえた。それゆえ、朱印船の記録はヨーロッパ側に多く残っており、結果としてどのような活動をしているかと言うことが詳しくわかる。また中国船の貿易もこのころ活発となっており、その結果としてヨーロッパ勢力の価値は既に低下しつつあったのである。この当時、日本では非常に多くの銀が産出していた。この時代には世界に出回る銀の3割ほどが日本の銀であった。つまり日本は銀供給国として大きなウエイトを占めており、それゆえ日本との交易を開拓・推進しようと各国がしのぎを削ったのである。
日本町の人々
この当時、東南アジア各地に日本人町が散在していた。ベトナムのフェフォも例外ではなく、日本の貿易船の拠点として日本人町が形成され、そこには追放されたキリシタンや貿易商の関係者などが住んでいた。自治が許されており、基本的には日本の慣習に従って高い生活していたようである。このような在住日本人は、最初のうちこそ日本人同士で婚姻を行ったが、次第に土地の有力者と通婚するようになってゆく。これは、日本から新たな渡航者が来なくなったからであり、その結果として次第にその地域の文化と同化していくことになる。カンボジアにあるアンコールワットには日本人の落書があり、それは当時に日本人がそこまで進出していたことを示している。シャムの山田長政もまた知られた人間である。彼は日本人町の人々を率い、シャムの王家の争いに参戦した人物であるが、この当時シャムには日本人傭兵もまた多かったと言うことが伺えるだろう。マニラの日本人町も非常な発展を遂げていた。最も古い日本人町でもあるこの町は、朱印船貿易の開始から飛躍的に拡大。元から住むイスパニア人との対立も引き起こしながら、キリシタンの追放先としての役割も会って大きな力を持ったのである。このような日本人町は、全く政府の保護をもっていない。だが日本の貿易のウエイトは、この地域の貿易の中でも高いものであり、それゆえ交易に携わる日本人は各地に移住してその地域の貿易をも握った。また日本での戦乱終了に伴って、武士も相当数渡航している。しかし、日本人はすぐに帰りたがる傾向があり、また男ばかりであることからすぐに地元の人間と雑婚し、地元へと同化していくようになる。日本人町の近くには中国人町が形作られ、次第に日本人町に代わって力を持つようになる。この結果として、日本人町は次第に力を失うようになっていくのである。
鹿皮と生糸
当時、台湾は北端をイスパニアが、南端をオランダが占拠していた。ここはベトナムの東京やフィリピンのマニラと並び、日本の商人の活躍する舞台だったようだ。さて、日本の輸入品において額が大きかったのは生糸や絹織物、綿織物、鹿皮、鮫皮、錫、鉛などである。一方、輸出で大きかった物は銀・銅・銅銭・硫黄・樟脳であった。これらの輸出品のうち、とりわけ重き物は生糸や絹織物であった。日本国内で非常に喜ばれたこの品を買い付けるために、朱印船が各地へ渡航したとさえ言える。秀吉の時代はこれをポルトガルが締めていたが、やがて中国船やオランダ船もそこに介入するようになり、また朱印船が生糸貿易の多くを担うことになってポルトガルはその存在感を失うことになる。さて、この時代の台湾は日本と明との貿易を仲介する良い市場であった。日本はもちろん、オランダもここを重要視している。台湾での生糸貿易を巡って、衝突が起こるのは必然であったといえる。まずオランダは台湾での貿易に課税を行おうとし、日本側は拒否。ついで、長崎奉行が用意した朱印船からの借船要求を拒否した。これに機嫌を損ねた幕府はオランダ商館長と将軍の会見を拒否、一方で台湾に居る朱印船の要求に応じて船を新たに派遣した。台湾についた応援の船をオランダは強く警戒してこれの貿易を強く妨害した。これに怒った彼らは朱印船の乗組員は、オランダ商館へと乱入して脅迫。ここにオランダ側も折れ、朱印船の貿易を認めた。これでも強硬な立場を折らぬ幕府へオランダは最大限譲歩をして、ようやく対日貿易を認可させたのである。朱印船による輸入のうち大なるものに、鹿皮があった。これは羽織などで頻繁に使われるものであり、それゆえ需要あるものであった。朱印船はこれを大量に買い占めるため、オランダらの諸国はやはりこれに圧迫された。同様に、刀の柄に用いる鮫皮も輸入品として重要視されている。この時代になると砂糖の輸入量も増えた。日本では黒砂糖が白砂糖よりも高値で売れ、ポルトガルはより高い利益をあげた。また日本では白粉の需要もあり、ヨーロッパ側を驚かせるほどの量を輸入している。
大殉教

 

1616年のキリシタン禁令以後も、伴天連は朱印船に身を潜めて入国することが絶えなかった。そこで1620年英蘭両国は、当時互いに余り仲が良くなかったが、この時ばかりは共同で幕府に上申書を提出した。上申書に於いて英蘭は、カトリック教国家の侵略的殖民政策とキリスト布教とが切り離せない事を強調し、イスパニアやポルトガルに牽制した。これを裏付けるかのように同年、台湾海峡でイスパニア、ポルトガル人宣教師を乗せた日本人キリシタン平山常陳の朱印船が拿捕され、拷問の後、1622年2人の宣教師は常陳や日本人船員と共に処刑された。これに先立つ事1617年、家康が死去の翌年だが、先ず大村で宣教師の斬首があり、この殉教に沸き立った宣教師は白昼堂々教会を興した。これを領主側も黙って見過ごすわけにはいかず、各地で信者の逮捕がうち続いた。しかしいよいよ殉教の熱意に燃えた宣教師が、死を決して次々密入国してきた。当然捜索・逮捕の手も厳しくなったが、1622年、常陳の一件に続いて、長崎で大殉教がおこった。1622年9月10日、各地で逮捕された各宗派の宣教師をはじめ、これを匿ったもの、信者など合わせて55名で、イスパニア人、イタリア人、日本人、朝鮮人の3歳から80歳までの男女が長崎の刑場へ引かれていった。彼らのうち宣教師ら25名は火刑に、大半の女性や子供は斬首された。彼らの処刑後、遺体を2日間焼き、刑場の土もろとも袋に詰めて海中に投棄し、さらに水夫らは体を洗い、船体まで洗ったといわれている。こうして幕府はキリシタン禁圧に厳しい態度を表し、背教を肯んぜぬ者を大いに弾圧した。一方、之を知った各宗派は決死の布教団を組織し、マニラから日本に送り込もうと画策したが、イスパニア政府は日本との国交を考慮して渡航を極力抑えさせた。それでも潜入は絶えず、1615年-鎖国直後までの伴天連入国数は75名に達し、大半はマニラからの渡航であった。幕府はこれに打開策を求めたが、そのきっかけとなる事件がシャムで起きた。1627年にポルトガル・イスパニアとオランダ間のいざこざに長崎町年寄高木作右衛門の朱印船が巻き込まれ、イスパニア船団に拿捕された。オランダはこれを利用し、幕府に事件の報を知らせ、幕府の反イスパニア・ポルトガル感情を高めた。いちおうこの問題は事なきを得たが、幕府は伴天連密入国の本拠であるマニラ征討を画策した。幕府の了解のもと、征討の主導者島原領主松倉重政らはマニラの軍備を視察するために渡航した。が、出帆後まもなく松倉は病没し、その主導者を失いマニラへの遠征は一時中止された。が、依然として伴天連による布教が続き、日本人の対イスパニア人への反感は薄まらなかったようで、遂には幕府もマニラ遠征に乗り出してきて、オランダとの軍事協力もかなり取り付けたようだ。尤も、たまたま島原の乱が勃発して幕府も手一杯になり、マニラ遠征は流れることとなった。1623年、イスパニアは日本との貿易促進の為、600tの大船で大使を送った。彼らは面倒ごとの多い長崎への寄港を忌避して薩摩南端の山川港に入った。彼らは多額の金品を用意して将軍へ貿易促進を願い出たいと申し出、先ず長崎奉行の元へ赴いた。長崎奉行長谷川権六は彼らの強い要請に押され、江戸へ使者を走らせた。翌1624年、江戸城内で老中土井大炊守を始めとして、金地院崇伝らが、イスパニアの要望である上京及び将軍への挨拶についてなど協議したが、将軍に謁見させる事は無いと拒絶し、その旨を文章にしたためて長崎奉行へ送った。この間にイスパニア大使らは海路を兵庫へ向かっていたが、備後の室まで来たときにこの幕府の命令に接し、やむなくマニラへ引き返した。こうして鎖国を待たずして日本‐イスパニア間の国交は断絶した。また、これより先に平戸のイギリス商館も業績不振の為に日本から撤退し、残るはポルトガル、オランダのみとなった。

鎖国への道

 

家康の時代より、大名や商人など様々な人が幕府から朱印状を賜って、各国へ出かけていって貿易をしていた。しかし1609年、幕府は軍事的目的として大船召上げ令を出して大名から500石以上の船を少しの例外を残して悉く引き取り、よって島津、松浦ら西国大名は朱印船貿易から手を引かざるを得なくなった。次いで1612年、初めてのキリシタン禁令が出ると、大名は貿易から全く手を引くこととなった。キリシタンの禁止は1616年家康が死去して、大御所秀忠の政治となると、その弾圧が厳しくなってきた。同年、以前からの禁令に重ねてきつくキリシタンを禁止し、またヨーロッパ船の貿易は長崎・平戸に限定する旨が伝えられた。この貿易地の制限は、大名がその領地内で貿易をしない為の配慮であり、キリスト教=ヨーロッパ人と日本人の接触を制限する為であった。ここで驚いたのはイギリス人であった。家康の時代は大きな特権を得て貿易をしていたが、ここにいたって他のキリスト教国家と同じように扱われることとなった。イギリス商館長や三浦按針は幕府に掛け合って緩和・撤廃に奔走したが、一度出た令を取り下げることは叶わなかった。また、この裏では幕府に縁故のある商人が外国商人よりも有利に商売をして利益を上げる為、策動していた。このイギリスは1623年に平戸の商館を閉じて対日本貿易から撤退した。1620年、英蘭の上申書の提出、そして平山常陳の事件があり(大殉教の章参考)、キリスト教弾圧のいよいよ厳しくなってきたのにつづいて、1623年、ポルトガル人航海士の雇用の禁止、日本人のマニラ渡航を禁じるなど、その制限の幅は広まってきた。こうして朱印船貿易の制限が厳しくなってくると、例えば鎖国直前の頃は三浦按針や貿易銀を握る銀座の年寄らのみが貿易を許可されることとなり、さらに朱印状だけでは飽き足らず、三老中連署の渡海許可証が必要となった。これは1631年に設けられた奉書船の制度である。これには、当時限られた特権階級のみが貿易の利益を得られるようになっていたために発生していた朱印状の偽装などの脱法行為を取り締まるためでもあった。1632年、家光の独裁となると、いよいよ鎖国の第一段階に踏み切った。この後5回に渡って似通った文章の鎖国令が出されるが、いずれも日本人の渡航禁止、キリシタンの禁止、外国船貿易の規定からなっている。また、3回目の1635年の鎖国令では日本人の渡海を完全に禁止し、また海外からの帰朝も禁じた。これらの禁令は限られた特権階級の貿易家に多大な影響を及ぼした。ところで、この禁令によって東南アジア方面の貿易拠点から日本人が除かれた訳だが、そのために今まで各拠点で膨大な資本の元に幅を利かせていた日本人商人がいなくなり、オランダ商人らは大いに喜んだ。鎖国令には伴天連以下キリシタンの取り締まりについても規定されているが、その懸賞金も徐々に大きくなった。またヨーロッパ人の子孫が日本に残留することを禁じるなど、他の条例と合わせれば全くヨーロッパ人と日本人の接触は断たれた。4回目1636年の鎖国令に於いては唐船にも糸割符を適用し、また貿易も平戸・長崎に限定することになった。このほかポルトガル船の入港出帆期日の規定、また積荷は全て売りさばくか、持ち帰る事として、日本人に積荷を預けて親睦を深めたり、密取引などの余地をなくした。そして1637年島原の乱が勃発すると、これにキリスト教徒の関わること濃厚とみて、一層外人の取締りを厳しくし、1639年、老中7人の連署のもとカレウタ船(ポルトガルの小型商船)渡航禁止令を出し、約1世紀続いた日葡貿易は完全に禁止された。また、対日貿易によって成り立っていたマカオは特使を日本に派遣し、通商再開を求めたが、1640年13人のシナ人船員を除いた特使以下船員61名を禁止令の通り斬首に処し、禁令を厳しく実行する事を表した。外国人の取り締まりは、これまで上手く立ち回ってきたオランダにも降りかかってきた。マカオ特使の斬首から3ヶ月、平戸のオランダ商館の取り壊しを命じられた。商館長カロンは下手に反抗せず素直に了解し、直ちに商館を取り壊して長崎の出島に移転した。又、これからオランダにも糸割符制が適応されることになった。この後も荷物のやり取りなどに大きく制限が加えられてゆき、各方面から禁令の緩和を求められたが結局揺るぐことはなかった。但し、当初のあいだ幕府は貿易量に制限はしなかったので、オランダ、シナの対日貿易額は一時期大きく上昇もした。また、この間に幕府は諸藩に命じて禁教を厳重にさせる共に、宗門改役、踏み絵や起請文などの制度を設け、またキリシタンでない旨は全て寺僧の証明が必要となった。
ジャガタラ追放

 

「アンボイナの悲劇」という史劇があるが、それはイギリス人、ポルトガル人、そして日本人が経験した悲劇をもとにしている。悲劇の舞台であるアンボイナ島は、香辛料の産地であり、中継地である。イギリスとオランダが支配権をめぐっていたのだが、イギリスは国内の経済恐慌により力を失い、オランダの圧迫を受けるようになった。また、この年にイギリスは平戸にあった商館を閉鎖してしまう。さて、アンボイナ島には日本人がおよそ60人住んでいた。彼らは勤勉で勇敢、さらには低賃金で雇えると評判で、現地の人々に歓迎を受けたという記録がある。彼らはかつて日本に住んでいたが、バタヴィア(現在のジャカルタ、ジャガタラとも)を経由してアンボイナにたどり着いたものが多数だった。バタヴィアにたどり着いた日本人は、労働力として使いやすい青年男子が多く、そのなかでも未婚の人々が多かった。この日本人たちに関しては、バタヴィアにある中央文章館内の資料に詳しく書かれている。資料によると、バタヴィアに渡った日本人の多くが九州出身であったらしい。とくに、平戸と長崎の出身者数が圧倒的である。日本人たちはさまざまな仕事で活躍した。彼らは器用で勤勉なため、すぐに職を得ることができたようだ。しかし、彼らの多くは追放された身分である。よって、日本を恋しく思う人々は多かった。その話は、今日まで語り継がれてきた。有名なものとして残る資料が、「ジャガタラ文」である。ここには、少女が日本を恋しく思う気持ちが切実に表わされている。しかし、バタヴィアの人々の嘆きが、この資料にだけ残されているわけではない。ジャガタラの悲劇は、今でもなおたくさんの文章に残されている。これらの文献の中には追放の嘆き、そして鎖国の痛ましさが、鮮明に書き表されているのだ。
出島の蘭館

 

1641年、平戸にあったオランダ商館は長崎の出島へと移ることになる。この出島での貿易は、非常に厳重な管理がされたもので、出島にオランダ船が入港すると幕府によって厳重な臨検が行われた。とりわけキリスト教に関係する物品の持ち込みは厳しく制限されている。持ち込まれた物は交易品の他私物まで幕府によって調査され、処々の規制が行われてそれに基づいた貿易の身が許されている。また出島への日本人立ち入りも、ごく一部の人々を除いて禁じられていた。このように制限の厳しい出島での生活は、穏やかであったが無聊と束縛感にさいなまれる物であり、オランダ人たちはそれにたいそう悩まされていた。この出島商館は、オランダ東インド会社の出先機関であり、各地の行政の他軍隊までも保持していた。それゆえこの幹部には行政的・軍事的手腕を持つ商人が任命されており、この出島商館長も例外ではない。そのほか、医師なども出島におり、日本の学者との交流を通じてヨーロッパ文化吸収に大きな役割を果たした。一方に日本側は長崎奉行がこの長崎交易を管轄した。また出島オランダ商館に関する事務は出島の乙名がこれを行っている。そのほか特筆すべきはオランダ通詞であり、彼らは通訳としてオランダ人との接触を頻繁に行い、西欧文化摂取に大きな役割を果たした。ここでの貿易も幕府によって厳しく制限されたものであり、まず生糸の値段が商人との交渉によって決定され、それからそのほかの品の貿易が行われた。しかしその交易の利益は東アジア最大のものであり、故にオランダは日本から撤退することはなかった。ところで、日本の実情がわかってくると、日本が金銀島ではないことが明らかとなる。と同時に、金銀島捜索が行われた。1643年、南部藩内にオランダ船が漂着したのもこの探索船で会った。この際も厳しい取り調べが行われ、オランダ船であり宣教師でないとわかるに至って漸く解放されることになっている。この時の取り調べから、諸藩もキリシタン取り締まりの役人が配されていて、キリシタン禁制が徹底されていたことがうかがえる。此の事件の後、オランダ商館長は解放を謝すために江戸へ参府している。商館長の江戸参府は義務であり、大名による参勤交代と同様に捉えられていた。この際は将軍に謁見も行うことになっていた。またこの際には江戸在住の学者の訪問をひっきりなしにうけ、多忙を極めていた。しかしこれを通した洋学の知識は、江戸の学問充実に大きく貢献している。
国政爺の使者

 

家光が将軍となり、鎖国体制が固まってくるころ、中国では大変動が怒っていた。1646年、先に清の攻撃によって北京を失陥した明が、日本へと援軍を要請してきたのである。これを送ったのは、福王を擁立して明復興を目指す鄭芝竜であり、彼は一時期平戸にも住して日本とも関係が深かった。彼が日本人妻と作った子は、後に鄭成功と名乗り、国姓爺としても知られる。この援軍要請に対し、日本側は正式な要請なれば出兵も考えていたようであるが、福州城の陥落によって出兵は中止されている。後、1648年・58年にも鄭成功は援軍を求める死者を送っているが、これを幕府は受け入れなかった。さて、芝竜は日本との交易も積極的に行っている。日本に入る唐船の大半が彼の支配下にあり、利益を上げたのである。彼の子・成功も盛んに長崎貿易を行い、長崎貿易を牛耳った。オランダを追い落とし、台湾で清への抵抗を続けた鄭成功だが、やがて清の封鎖を喰らって次第に衰退することになっている。しかし台湾での中継貿易は続行され、鄭氏政権が清に降伏するまで続いた。鄭氏政権崩壊後、清は方向を転換して日本との貿易を行うようになる。とりわけ日本の銅は、清にとって重要な貨幣材料であり欠かせなかったのである。また銀の輸入も積極的に行っている。一方清は生糸や絹織物などを積極的に日本で売りさばいている。この唐船貿易は、長崎の唐人屋敷において行われていた。ここでは遊女などによるもてなしが頻繁にされており、唐商人は多額の金を遊興費として使った。一方、こうして唐人貿易を囲い込むことで、日本側は銀輸出を出来るだけ抑えようとしたのである。また清では解禁されていたキリスト教が流入することを強く警戒していたことも理由に挙げられる。
オランダ人のアジア貿易制覇

 

1639年、日本へと出航していたオランダ船が、バタヴィアに帰ってきた。その船が持ち帰った情報に、オランダは狂喜する。オランダの策が成功し、日本はイスパニアとポルトガルとの貿易を中止したというのだ。オランダの策は日本人の、イスパニア、ポルトガルの両国に対する反感を挑発したものだった。これはのちに、ルソン遠征を引き起こす要因となる。オランダは、建国以来イスパニアとポルトガルを敵視しており、貿易において様々な妨害を行ってきた。それだけでは飽き足らず、オランダはイギリスまでもを敵視するようになった。ついには、平戸の商館からイギリスを撤退させるまでに至った。こうしてオランダは海上貿易を支配した。元から持っていた支配力を、さらに強める結果になるのだった。1635年、日本船の海外渡航が徳川家光によって禁止された。これにより朱印船は姿を消し、オランダは貿易がしやすくなる。さらにオランダはシャムにも使節を派遣し、アユタヤに商館を置くことに成功する。これは、日本と中国が貿易をする際、中継地点として役立つことになった。こういったオランダ商館から積み出した商品によって、オランダは莫大な経済力を得ることになるのだった。1642年、オランダ商館の総督アントニオ・ファン・ディーメンは、幕府に意見書を提出した。まず、オランダ人を優遇してほしいということが書かれていた。さらに読むと、南蛮が日本の侵攻をたくらんでいる、と書かれている。2つ目の文章は、キリスト教の勢力をオランダが警戒してのことだと思われる。だから、日本には入れないようにと先手を打ったのだろう。ところがちょうどそのころ、イギリス船が日本に来航したのだった。イギリスは、再び日本との貿易を求めてやってきたのだった。しかしながら、成功することはなかった。オランダの策謀によって、イギリスは日本に嫌われる結果となってしまったのだった。このころ、フランスもまた東インド会社を設立していた。イギリスと同じように日本との交易を望んだが、やはりオランダに妨害される。オランダの策により、日本は徐々に、国際社会から隔離されていくのだった。続けてオランダは、シナ船(中国船)をも排斥しようとした。様々な策略を凝らして排除しようとしたものの、受け入れられることはなかった。シナの排斥は、あまりにも大胆すぎることだったからだ。オランダ商館長カロンは続けてシナの排斥を推奨するが、日本とシナとの貿易は発展を見せつつあった。シナの排斥をひとまず諦めたオランダだが、まだ対日貿易の独占を諦めたわけではなかった。シャム(現在のタイ)に日本人が住む日本町があるのだが、1630年ごろに焼き打ちを受けた。その際にシャムとの交易は中止されたのだが、シャムは再び交易を求めるようになった。オランダは、これを許そうとはしない。シャムはオランダの暗躍により日本に上陸することができず、交易は諦めざるを得なくなった。また、カンボジャも同じく妨害を受けていた。こうしてオランダは、対日貿易の独占にほぼ成功する。しかし、18世紀にはいると、状況は変化を見せる。ロシア、イギリス、アメリカなどが台頭を見せ、オランダは衰退することになるのだ。日本の鎖国もまた、続けることがむずかしくなってきた。
世界とのつながり

 

バタヴィアに行くと、今日でも日本の通貨を見ることができる。それらは鎖国前に、交易の際海外に持ち出されたものだ。国によっては質の悪い貨幣しか造れないところもあったらしく、日本の貨幣は大切にされたらしい。つまり、需要が高いのだ。それに応じて、長崎では輸出用の貨幣が造られていたらしい。日本の銅銭は、世界各地に輸出されていたらしい。当時銅は最も需要が高かったためだ。日本銅の輸出に力を入れたのはオランダで、莫大な利益を得た。逆に日本から銅の輸出がむずかしくなったときには、北欧の銅を供給する役目も負っていた。オランダに続いて輸出に力を入れたのは、シナだった。シナもまた、世界各地に日本銅を輸出して利益を上げていた。ところがやがて、日本の銅も少なくなってくる。国内需要を満たすことがむずかしくなると、貿易は制限されるようになった。日本の金・銀・銅の行方を追うと、おそろしく流出していることがわかる。日本はことの重大さに気づかず、次々と金属を売りさばいてしまっていたのだ。商人だけでなく幕府の高官までもが国際貿易に疎く、個人の利益を追求することにしか考えていなかった。幕府が事態に気づいて対外貿易は規制されたものの、すでにかなりの金属は流出していた。また、ちょうどこのころ、海外では日本品が流行していた。特に流行していたのは醤油や酒、そして樟脳(薬、香料、衣料品、防虫剤などに使われる)だった。日本の製品は、世界的に通用する良品が多かったようだ。日本の商品として有名なのは金属や樟脳だけではない。磁器もまた、立派な商品である。もともと朝鮮侵略の際に連れ帰った技術者に作らせていたものだったが、やがて国内でも生産されるようになった。が、当時国内の磁器は数が足りなかった。よって、ほとんどはシナから輸出されていた。やはり輸出したのは、オランダとシナだった。ところが台湾が鄭成功に平定されると、そこから経由して輸出することがむずかしくなった。オランダはシナを見捨てて、日本の磁器を売るようになった。長崎のほうでは、磁器の大量生産・大量輸出による経済的な変化が激しかったようだ。以上のように日本の磁器は、欧州において大ブームとなった。美術的価値が認められた結果であり、模倣を行う職人まで現れた。この約1世紀後、再び欧州に影響を与える日本美術がある。浮世絵だ。それに比べると磁器のブームは日陰だが、ぜひとも注目されるべきである。鎖国といえば、ついつい国が完全に閉鎖したというイメージに結びつく。しかし、じつはそうではなかった。閉じられているようで、経済的には繋がっていたのだ。さらには、技術もまたしっかり輸入されていた。鎖国によってキリシタンは排斥されてしまうと、彼らが持ち込んだ学問や思想は弾圧されていくことになる。だが、風俗や習慣までが排斥されたわけではない。それらの文化は、今もまだ日本に生き続けている。幕府はキリスト教を廃止する建前から、洋書・薬を取り寄せることを禁じていた。が、やがて許可するようになる。医学への関心が高まるにつれて、オランダの医学を学ぼうという傾向が国内では強くなった。そこで招かれたのが、ウイルレム・テン・ライネである。彼は日本人医師に医術を教えるだけでなく、患者の治療にまであたっていた。また、彼の弟子はのちにオランダ書の翻訳をおこなうなど、偉業を成し遂げている。その書は、今日でも日本に保管されている。ライネの来訪は、日本に大きな影響を与えたと言えるだろう。
鎖国をめぐって
これまでの流れからわかるように、鎖国というのは必然的に起きた事件であると言える。ドイツ人医師ケンペルは、後に「日本誌」を著し、鎖国を是認している。この内の1章は後に全訳され、「鎖国論」として世の中に誕生した。この作品は幕末まで大切に読み継がれたが、1850年になると「異人恐怖伝」と改題され、絶版にされてしまった。ところでヨーロッパが日本に現れる以前、日本にとって世界とは、日本(本朝)、中国(震旦)、そしてインド(天竺)、場合によってはこれにタイ(暹羅)を加えたものを指した。ヨーロッパが日本にやってきて地図や地球儀を紹介したからである。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康などの偉人はこれらを活用し、のちに影響を与えた。徳川家光においては、日本の狭さを知ってキリシタンの脅威を知ったと言われている。その結果が、鎖国である。この鎖国が原因で、日本人の世界知識は狭くなっていった。それだけではない。キリシタンを排斥した結果として、欧州からの知識も失うことになったのだった。わかるように、鎖国は日本人の知識を狭める原因である。江戸時代において鎖国の批判は不可能だったが、討幕後、幕政批判の1つとして鎖国が挙げられたのは言うまでもない。しかし、鎖国を擁護する説が存在することも事実である。欧州文化の輸入が停止したため、国内が発達せざるを得なくなったから、という内田銀蔵氏の説だ。賛成、反対の論が対立を繰り返す中、折衷論までもが誕生した。
 
大名と百姓

 

1684年、駿河国駿東郡にて人別帳提出が行われた。それに先立ち、名主の与惣左衛門は村の農家の戸主を書きあげた。そこには名主の譜代下人も数多く記されている。譜代下人とは、主人に農地・農具を借りて使役される人々のことで、売り買いされるものであった。彼らは名主の屋敷に澄んでおり、代々名主の下人として働いている物であった。名主から田を分けてもらって実質的に自分のものとして耕作する他、徭役として、名主の田畑の耕作を行ったのである。従来より名主は年貢の納入に困った農民から土地を買い、そこをその農民に代わって名主が耕作するということが行われていた。しかしこのころから状況が変わる。名主が土地を抵当として農民に金を貸し、農民はその土地から取れた生産物を返済として名主に払う、という質地小作体制が始まったのである。この結果、名主は下人を集めて耕作経営する必要が無くなっていった。さて、この時代の耕作形態を、加賀藩内、加賀国能美郡と越中国砺波郡の比較から見てゆく。明暦年間から延宝年間の間に、砺波郡では1人当たりの耕作可能面積が1反ほど増大してるのに対して、能美郡ではむしろ1反ほど減少している。元来より砺波郡よりも能美郡の方が生産力は高いが、これはそもそも能美郡が砺波郡より単位面積当たりの生産が多いということ、能美郡がより集約的な生産を行っていたこと、用水維持費などの諸経費が能美郡では諸経費に繰り入れられ、砺波郡では給飯米に入っていることが挙げられる。この様相から、砺波郡では自立性の弱い農民が労働力であり、能美郡は自立性の高い農民が労働力であったことがわかる。前者の農民とは、下人や傍系家族を多数抱えて経営されるもので、家父長的地主である。一方で能美郡では小農による生産が中心となっている。家父長的地主のうちから下人らが独立してゆき、解体した結果と言える。これは明らかに一つの夫婦を中心とし、直系親族のみを構成員とする農民と言える。家父長的地主に隷属する小百姓は様々な形で独立を目指していた。彼らは主に庄屋の権限削減――小百姓への課役転嫁阻止と、給人の搾取軽減、農民逃散による年貢転嫁阻止があり、小農の要求とは大きく異なる。このような状況から小百姓が自立し、独立性を高めた能美郡的小となるには、生産力の発展を要し、それゆえ長い期間を要した。畿内では早くよりその動きが見られるが、地方ではこれが遅れている。太閤検地は小農の支配を前提としているが、その実は家父長的地主制との妥協の中で行われざるをえなかった。
太閤検地
慶長年間に行われた検地では多くの最下層農民が記録されているが、寛文年間となるとその多くが名主のものとなってしまっている。これは、慶長の検地が小百姓の持つ地を、その百姓の名請地として記したからだ。しかしその生産体制は未熟であり、それゆえ再び名主のものとなった、といえる。さて、中世の畿内では領主―名主―作人という重層的な土地所有関係があり、それを職の体系と呼んだ。中世は主にこのような土地体制であったが、末になると名主が領主職を買い取るようになってゆく。ここに作人から生産物を受け取る権利、得分権のある職が統一され、職体系が否定されるようになるからである。これを一職支配とよび、これは太閤検地の基礎となってゆく。戦国時代末というのは、この土地所有の方向性を掴み封建制の基礎を築くのが誰か、という時代であったと言える。そしてそれを成し得たのは畿内直轄化を成し得た秀吉である。秀吉は太閤検地によって、一職支配を全国に広め、耕作地とその耕作者を確実に捕えたうえで年貢を耕作者から直接取るようにしたのである。これを"作合の否定"といい、家父長的地主が中間搾取を行うことを否定した。また、田畑はそこより取れる年貢によって記されるようになり、これによって石高制が成立したのである。また農民を耕作地に縛り付ける――農民身分へと固定するという側面もあり、地主は農村から独立して武士化するか、農民に押し込まれるかの二者択一となった。この検地に対抗すべく、地主は被官百姓に対して、支配権存在を誓約させるなどの抵抗を示す。また後進地域ではこの家父長的地主制の結合から国人勢力が形成されていた。それゆえ検地への不満は国人連合の反感を買うことになる。検地はまた、自立不能の小百姓にもぶつかることになる。この場合、検地では分付百姓とされ、耕地主を分付主、耕作人を分付百姓とした。その表記故、検地帳の上から百姓の階層を見出すことができる。具体的に関東地方の検地帳を見てみると1.分付主とのみ記され、主作地を持つ2.分付百姓とも分付主とも記され、主作地を持つ3.分付百姓と記され、主作地を持つ4.主作地を持つとのみ記される5.分付百姓と記され、主作地を持たない6.検地帳に記されぬ下人の5種が存在し、これからは二つの百姓階層が見出せる。則ち、6から5、3、4と進む小百姓であり、もう一つは2から1へと進む地主の領主化の流れである。この状況に対し、小百姓もまた逃散などの形で抵抗を繰り返しており、それは不作地を生んだ。この激しい対立の中から、年貢徴収体制を築き上げるのが江戸幕府の方策であるが、これは2点の重要な原則があった。則ち、一つは領主化の停止であり、一つは小百姓の自立化である。これは中間搾取層の排除が目的である。そしてこの検地による記録は事実、小百姓の自立は進んでいる。また名主の領主化は完全に否定され、以後農業経営に専心してゆく。畿内の検地では、小百姓の自立が次第に進んでいき、その結果として家父長的地主の没落が進んでいる。検地はこれをさらに促してゆく。その一方で土地を集積してゆく地主もあり、必ずしも小百姓の自立は順調とはいえない。また畿内では農村の荒廃が進んでいるが、これは年貢の取り立ての厳しさがあり、また綿作の発達があった。綿作の発展は小百姓の自立を阻害し、綿商人とのつながりのある家父長的地主の経営維持に寄与していた。この時代において家父長的地主は、譜代下人に対して土地を与え、そこから収奪を行おうと試みたのである。また、夫役負担強化は、家父長的地主がその負担を小百姓に対抗するという形で行われており、その為に小百姓の自立は阻害される側面があった。地主は下人に土地を与えることで夫役を下人に転嫁し、その点で小百姓の自立は妨げられた。しかし与えられたこの土地は小百姓自立にとって重要な橋頭保であり、17世紀初めに居たって小農自立を成し遂げるのである。
地方知行

 

小百姓が自立すると、領主になるのが本来当然だった。しかしながら、ここで語られる百姓たちは、領主になれなかった。それは、兵農分離の政策が強化されたからである。本来武士とは、武装農民集団であった。しかしこの政策によって、農民は農民以上の何物でもなくなってしまう。本来領主になるはずだった家父長制的地主は、成長を規制される。こうしたゆがんだ成長をしてしまった地主を、名田地主(みょうでんじぬし)と呼ぶことにする。大名領において彼らは役家と呼ばれ、知行の基礎になっていたらしい。17世紀前半において、多くの豪商(=大商人)は大名から証文をもらっていた。証文には税の免除や、領内での自由商売の許可などが記されている。じつは当時、大名の市場はただ1つではなかった。小市場がいくつもあり、それぞれが全国的な商業と結びついていたのだ。すると、証文を与えられた商人がひろく商売をする場合、小市場が彼らに干渉すると困ったことになる。だから大名たちは、商人が商売できるように保証する。商人にとっては、まさしくこれが特権だった。大名領の市場がこうだった理由は、地方知行(じかたちぎょう)が大きく関係している。これは、大名の家臣(以下、給人とする)が知行をその地方で給与される方式である。つまり、米を農民から受け取る方式。これには2つの内容があり、1つ、知行地がどの村にあるどの土地と指定される。2つ、それだけでなく、百姓まで指定される。やがて知行制が俸禄制――大名から米を受け取る制度になっても、前者は変更されなかった。このことから、問題になるのは後者だとわかる。給人は、不法をしてはいけないという決まりしか課されていないのだ。つまり、農民支配はほとんど給人に任されている。なぜこの形態がとられているのかというと、農民を大名課役に利用するためである。それは戦争だけでなく、城の新築・修理、そして治水工事まで含まれる。つまり、労働力として農民を利用するためだったのだ。しかし、労働力を提供しなくてはならないわけだから、農民にとってそれは大きな負担だった。農民たちはありとあらゆる手段でこれを逃れようとした。一方大名も、労働力がなければ大名課役を消化できない。だから、こちらも必死である。大名たちは農民の調査を行い、徹底的に人数を調べるのだった。この調査結果から、役家についての説明がある。役家を掌握するための制度が太閤検地であるということだ。役家は夫役を負担する存在であるが、彼らに付いて負担を免れている人を無足人と呼ぶ。役家は無足人を支配している。農村においてこれは太閤検地以前から一般的な体制であったが、太閤検地はこれを改めて作り出したに過ぎない。だから、太閤検地による日本社会の変化は、それほど大きくなかったのではないだろうか。なお、これによって1つの説が浮かぶ。名寄帳は、ナヨセではなく、土地を名(みょう)ごとに管理したミョウヨセではないかという説である。これを、役家体制論という。ただ、どちらの場合も無足人が支配されているという事実に変わりはないのではなかろうか。名寄帳には名請人を基準として土地がまとめて記載されている。これは、年貢計算の簡略を図ったものだ。これによると年貢が村単位にかけられることになる。こうして村役人たちが農民から年貢を集める制度を、村請制という。名寄帳箱のための帳簿である。以上より、名寄帳は農村の実態をよく表しているといえる。が、役家体制論には賛成しきれない部分があると筆者は言う。以下が理由だ。1つ、これでは労働地代がそれほど重要に考えられない点。主な地代は米であるから、ここから社会関係を見るのはむずかしい。2つ、農政の基本台帳は検地帳である。これに対して、村請のためだけの名寄帳では権力者の性格を見ることは不可能であるという点。ここまで見ると、役家という農民は家父長的存在であったと言える。そして無足人は小農民、あるいは「小農」である。彼らを支配したり、地方知行によって家父長制を強めることは、彼らの自立を妨害することになった。しかし、自立農民の数が多ければ多いほど、年貢の量は多くなる。よって、無足人の自立妨害は大名たちの首を絞める。この矛盾は社会的混乱を招き、17世紀半ばまで続くことになった。矛盾をはらんでいながらも、地方知行制は多くの大名がとっていた政策だった。給人たちはこの機会に、なるべくたくさんの年貢を農民から取ろうとした。再生産に必要な部分以外を取るという、激しいものだった。これを、全余剰労働の搾取という。結果として農民たちは没落、あるいは逃亡する。どちらにしても幕府や大名の年貢集めは難航することになった。これについての詳細は、「「不法」の支配者」にて。給人は搾取した年貢から、必要経費を得ていた。年貢を売る場所が、小市場である。見てわかるが、俸禄制と違って給人と大名の経済生活が完全に分離している。この時代、大名の財政と給人の財政は、完全に独立したものだったのだ。
御家騒動

 

栗田元次氏の研究によると、慶長年間から貞享年間の間に、内訌(内乱)によって改易された大名は9人らしい。改易とは大名などの武士が受ける刑罰のことだが、内乱、つまりお家騒動を起こした場合この罰を受けなくてはならない。先ほど、9人の大名が改易されたと述べた。そのうち8人が外様大名(関ヶ原の戦い以降に徳川の家臣となった大名)である。この時代のお家騒動を調べてみると、外様大名が起こしたものが非常に多い。それはなぜなのかを、この章では見ていくことにしよう。そこで、数々のお家騒動の共通点を上げると、以下のようになった。その1、大名が色欲におぼれたり、幼すぎるなどの理由で政治能力が欠如していた点。その2、特異な才能によって登用された人物(=出頭人)が、昔から仕えていた家臣たち(=譜代直臣)と対立した点。その3、お家騒動の判決が、すべて幕府に任されていた点。つまり、大名にはお家騒動を鎮める権利がなかったという点でもある。その4、上層部が家臣たちの経済状況を理解しておらず、ことの重大さに気づいていなかった点。生駒騒動の観点から整理してみると、以下のようになると予想される。生駒藩は、俸禄制(=年貢を領主がすべて集め、そこから武士に給料として渡す制度)を自分の領土で施行しようとした。そのために、出頭人を登用した。結果として譜代直臣たちの反発を受け、生駒騒動へとつながった。これが、地方知行制から、俸禄制に切り替えようとした結果だと言える。今度は、伊達騒動を見てみよう。この事件の原因もまた、先ほどあげた「その1」に当てはまることがわかる。伊達騒動をもう少し掘り上げると、財政窮乏であることがわかる。では、この財政窮乏の理由はなんだったのか。まず、大名の石高には2種類ある。表高と内高である。表高は負担の際基準になる石高で、内高は実際の所有高である。この内高の収入中から家臣に払う必要があるのは、およそ8割。さらに、幕府への負担も圧し掛かる。このような事情から、伊達家はつねに赤字だった。財政危機の対策として行ったことは、新田開発だった。これが結果として自立農民の数を増やしたことは、評価されるべきだ。さらに男女の売買が禁止され、10年以内の奉公人として扱われるようになった。これと同じ年、津留令が出された。これは、藩内の人や物が藩外に出ることを規制するものだ。津留令は必要な物資が流出することを恐れたためなのだが、同時に農民たちを規制する効果をもたらした。このころから、農民たちの抵抗が目立つようになってきた。新田開発と農民統制によって、伊達藩は封鎖的、かつ強固な存在となった。その過程で起きた、内部対立は避けられなかったのだが。もっとも、様々な政策を成功させたことから、結果的に努力が実ったことになるだろう。伊達騒動を見ると、お家騒動における1つの特徴が見えてくる。それは、大名領がなんらかの理由で危険に陥る。それを解消するための行動の過程における対立だということだ。しかし、伊達藩では騒動が起きた際、階級が確立していなかった。お家騒動とは、階級が確立したところで起きる騒動である。だから、伊達騒動はお家騒動の中でも、特殊な騒動だったと言えるだろう。つぎに上げるのは、越前騒動という事件だ。これは、親藩大名である越前松平氏の家臣である久世但馬が成敗されるという事件である。但馬の農民と町奉行の農民が私闘をしたのがことの発端だったのだが、領主であった松平忠直は罪に問われなかった。しかし忠直は、後に改易された。この事件とは関係のない、大坂の陣に出陣しなかったという理由でだ。つまり幕府は、親藩・譜代大名に対しては、軍事的結びつきを重視していたことが分かる。軍事的役割を果たさなかったので、忠直は改易されたのである。しかし、このようなお家騒動は珍しいと言えるだろう。親藩や譜代大名は、そもそもお家騒動が起きるような状況下にないのだ。ここまで見るとわかるように、やはりお家騒動は外様大名が起こしやすいのだ。将軍に屈するしかない状況下だからこそ、それに耐えるため出頭人を登用するようになり、譜代直臣との対立を呼ぶようになるからだ。このような不安定な外様大名が抱えている矛盾を強引に解決させる方法が、「御一門払い」と呼ばれている。具体的にいえば領地没収、追放などである。この方法ならばお家騒動は起きないのだが、多くの大名ではこの手段が用いられることはなかった。
財政窮乏

 

幕府が親藩・譜代大名を基礎にして、外様大名の力を弱めていくことで、外様大名たちは自立性を失いつつあった。この時点で参勤交代や、江戸での住み込みを定められていたのだが、外様大名たちはさらなる追い討ちを受ける。数度にわたる武家諸法度の制定が原因である。元和偃武から寛永にかけて、大名政策は著しい進展を見せた。寛永10年には、あたらしい軍約規定が作られた。そこには、農民夫役を基礎におくこと、地方知行を前提とするということが書かれている。それは今までと同じ。違うのは、この法令に従うべき大名の幅が広げられたことだ。これと武家諸法度によって、大名支配はほぼ完成した。なお、この寛永10年前後は家光政権の成立や鎖国といった、江戸を象徴する制度が急激に整った時期である。この時期におきたことを大きく4つに分けると、以下のようになる。1、譜代、旗本、御家人の強化、および大名の統制。2、大坂を中心とした商業の発展。3、幕府を支える諸制度の完成。4、鎖国(海禁政策)の断行。歴史的にみると、鎖国への道は決して避けられなかったということがわかる。その結果、日本国内を超えることができなくなった武力は、日本国内で発散するしかない。そのピークが、島原の乱である。しかし農民を置いてきぼりにして変化しようとしたあまり、幕府の、武力のはけ口がないという危機は避けることができなくなってしまった。幕府がこのような危機を迎えている中、大名たちは財政的な危機を迎えていた。たくさんの収入があるにもかかわらず、「お手伝い」として幕府への大量の支出があるのだ。大名たちは負担の軽減や免除を願っていたが、その申請をすると知行が没収されることもあった。だから大名たちは、なるべく節約を図ろうとするのだった。普請助役という負担があるが、これは軍事動員と同じ意味を持つ。大きな負担に見えるが、大名たちが窮乏したのは、これが原因ではない。大名財政の支出を見てみると、三都(京都・大坂・江戸)と密接に結びついていることがわかる。なぜこうなったのだろうか、理由は以下である。1、参勤交代と在府制により、江戸での消費を否応なくされていたから。しかもそこでの生活は贅沢を強制され、大量に出費せざるを得なかったから。2、非自給物資を、領国へ運ぶ必要があるから。その2の非自給物資であるが、じつはさらに細かくわけられている。したがって、以下の数字はその2に内包するものだと考えていただきたい。1、農民や町人の必要とする農具、食糧、鉄、貨幣。2、甲冑、馬具、鉄砲などの軍需物資。軍需物資においては、三都――あるはその周辺都市に依存せざるを得なかった。このため、大名財政は商業に巻き込まれることになる。これに対して大名はある方法をとった。年貢米の販売である。しかしながら、売るべき市場はやはり三都。彼らの経済は、こうして形が定められてしまう。石高制である以上、避けられない事態と言える。もう少し掘り下げると、以下の疑問が浮かんでくる。大名たちが物々交換を行わないのはなぜか。畿内が消費の中心である理由はなにか。大坂が発展するのはなぜか。これを知るためには、「毛吹草」という本に頼らなくてはならない。この本には、以下の3つが書かれている。1、畿内では手工業が発展しているということ。2、室町時代の発展を受け継いでいるということ。3、江戸時代に入ってからも、新たな生産物が作られたこと。これらは、江戸に入ってからも発展を続けていた。これが、先ほどの疑問に対する理由の1つである。2つ目の理由は、幕府がなるべく手工業技術の流出を抑えたことである。商人が発展できるのは幕府の力なくしてあり得ない。商人たちはこれに従ったため、安泰だったのだ。以上2つが、先ほどの疑問の理由である。三都と結び付けられた大名の話に戻るが、彼らは非常に苦しい経済状況下にあった。大名の中には「借銀」と言って、商人から銀(貨幣として使われていた)を借りるものまで現れた。大名は蔵米を売ってお金を返そうとするが、困難が伴った。理由は以下参照。1、米を売れる期間が限られているから。2、年貢量が年によって変化するから。3、大名が消費する文も必要であるから。当然、返済が不可能になるものまで現れてきた。しかし、借銀自体が大名の家を潰すということはない。だが、増えれば増えるほど大名たちの軍役に支障が出るので、ないに越したことはない。したがって大名たちは、借銀の対策を取るようになった。年貢を増やしたり、地元でしか取れない価値のあるものを売り出すことだ。また、税の徴収を増やしたり、農民たちの負担を緩めて人数を増やすことを考える大名たちもいた。知行地を減らして蔵入地を増やす少し変わった「検地」も行われた。この寛永期、財政窮乏に陥るのは西国大名に多かった。また彼らは、商業との結びつきが非常に強い大名たちでもあった。商人たちの利益追求の犠牲になり、次々と経済力を弱められてしまうのだった。しかもこの上に参勤交代の負担が重なり、彼らはつねに火の車だった。この状況下から脱却するために大名たちが取った政策は、給人の財政から搾りとることだった。すでに「地方知行」で述べたように、大名と給人の財政は独立していた。だからこそ、可能だったと言える。ただ、給人もまた借銀に苦しんでいるのは当然だった。きっと、思いつき同然に搾取をしていたものだから、しっかりとしたデータが残っていないのだろう。では、旗本はどうだったのか。彼らのデータを調査したところ、早くから商業に巻き込まれていたことがわかった。したがって、彼らもまた窮乏していった。彼らを救出するために、幕府はいくつか手を打っていた。負担軽減や、倹約令などがそれである。このような状況を見ていると、あることがわかる。幕府自らが、先頭に立って大名たちを財政危機に陥れたということである。なぜなら、そして限られた搾取量において、あまりにも重い負担を課していたからだ。こうして幕府は、大名たちの体制を破滅させようとしていたのだ。そのためには、幕府が全国の商業を把握していなくてはならない。だからこそ鎖国を行って、長崎貿易を自らの支配下に置いたのだ。つまり鎖国とは、幕府の商業支配にとって必要な政策だった。こうして幕府は、ひとまずこの政策に成功したのである。
「不法」の支配

 

領主財政の貧窮は過酷な搾取を伴い、その苛烈さに応じて階級的反発は激しさを増す。しかし大名や旗本が過度の搾取を強行して、農民が生活出来ないほど追い込まれることは、幕府にとっては容認出来ないことであった。出羽村山の旗本酒井忠重は悪領主の典型であったが、訴状を受けて幕府は百姓惣代38人を越訴の罪で死罪打首とする一方、撹乱・越訴の張本人である忠重を改易している。彼の治政が、農民のみならず幕府にとっても捨て置けない悪政であったことを示している。忠重に代表されるような農民を再生産不能な状態に陥れる「不法」の支配を、幕府は早くから禁じていた。1602年に定めた農政の法令「郷村掟」には、そのことがはっきりと書かれている。しかし当時にあってこのような「不法」は特殊なものではなく、他の大名や旗本でも事情に大差はなかったものと考えられる。代官が年貢米の売払の責任を負わされている仕組の中では、年貢米の一部を私して不測に備え、幕府の禁止する手作や高利貸活動を行うことは必要悪であった。代官の「不法」を無くすためには代官の機能を変える必要があり、代官の機能を変えるには、農政の新たな展開と商業の新たな発展とが必要だったのである。
佐倉宗吾伝説
あるいは徒党を組んで兆散し、あるいは越訴・直訴を試み、あるいは蜂起して領主を攻めるというこのころの農民闘争の主体は、下からは小百姓の自立運動に突き上げられ、上からは領主的搾取の強化にさらされ、これら二つの動向のあいだでいよいよ自らの行方の決定を迫られた名田地主たちであった。領主からの年貢諸役搾取が強化される一方、下人身分の上昇などにより小百姓の自立は着実に進み、板挟みの名田地主は大きく動揺しはじめていた。彼らは次第に反領主闘争を行うための有効な手立てを失いつつあった。1670年には下瓦林村で、庄屋九左衛門の譜代下人二郎右衛門とその倅が、九左衛門を訴えるという事件が起きている。譜代下人が自ら譜代下人であると名乗って、主人である庄屋を訴えるという珍しいケースであり、名田地主と小百姓が真正面から対立したものの一例である。譜代下人がなんとかして自立し自分の土地保有を確定しようとする動きに対し、名田地主はこれを拒否して譜代下人を縛り付けておこうとする。寛永年間の末ごろに広く見られたこのような状況を通じて、少しずつ小百姓の力は強くなっていった。そうして小百姓の年貢諸役負担の事実が作られ、地主が小百姓から小作料を取る関係が生まれ、その小作料を負担出来る程度に「小農」の農業生産が発展してきたのである。 このように17世紀中頃の農民闘争は、すべて小百姓の自立のための動きに基本的な原因を持っていた。したがって小百姓の自立の程度・進度によって農民闘争の形も変わってくる。著者はこの時期での農民闘争の進み方を、兆散――越訴・強訴――譜代下人の訴訟としている。有名な佐倉宗吾の伝説も、この越訴・強訴の最後に位置する闘争がもっとも美化して語り継がれた「国民的伝説」と言うことができる。
 
元禄時代

 

由比正雪の乱
1651年に家光が死去すると、その後を継いだのは長子家綱だったが、幼すぎるため会津藩主保科正之が補佐官として登場する。そんな中、江戸の軍学者由比正雪が、大乱をおこす計画を立てた。火事を起こし、慌てる将軍の家臣たちを打ち取る計画であった。ところが、いまだに理由はわからないが、この計画は漏えいする。江戸で待機していた彼の同心は捕えられ、駿府に潜伏していた正雪は自害した。理由は正雪の遺書からは、政治の乱れを憂い、怒る人民を代表して蜂起したとされている。だが、牢人の救済という理由があるかもしれないので、結局のところはわからない。国家の転覆を狙ったクーデターは日本で何件か起きた(大塩平八郎の乱、五・一五事件、二・二六事件)が、成功したものは数少ない。この由比正雪の乱もまたそうであるが、この乱が与えた影響は小さくなかった。幕府はこれを牢人の扱いのひどさに起因する蜂起とみた。牢人というのは失業した武士であり、彼らを放置すれば危険であることはだれでもわかる。しかし、幕府は彼らを放置していた。幕府は会議を開き、末子養子の禁を緩めるに至った。由比正雪の乱が起きてまもなく、次々と乱が続いた。幕府はこれらの事件を牢人によるものとして、牢人たちの名前をいちいち記録することにした。彼らの活動は君主への尊敬を薄めるキリスト教の思想によるものかという説があるが、結局のところはわかっていない。
明暦の大火
江戸の町において火事は、つねに人々の脅威だった。庶民だけでなく幕府でさえも必死になる事態だ。だからこそ乱を起こすときは放火、と定番化されていたのだろう。それゆえ、江戸の人々は火事が起こらぬよう、つねに注意を払っていた。1654年には玉川上水が完成し、水路の通る町ができるようになった。また1655年には細かい防火令が出された。しかし、こうして対策を取っているにもかかわらず、火事がなくなることはなかった。明暦3年――1657年、「明暦の大火」と名付けられる大火事が起こる。日蓮宗の本妙寺において、供養のために焼いていた振袖が舞い上がり、寺の屋根を焼いた。その炎は風に乗り、瞬く間に江戸中に広がった。数日雨が降っておらず、乾燥していたためなす術がなかったのだ。人々は逃げるが、焼死したり、川に逃げ込んだため溺死・凍死するものが多く、火事がはじまって間もなく9600人近くが亡くなった。翌日になると火は弱まったように見えたが、まだ消えていなかった。火は火薬に燃え移り、再び猛火を巻き起こした。火が消えたあと、江戸の町を見た人々は驚いた。ほとんど廃墟になっており、火事によって異様な形になった無数の死体が転がっていたらしい。こんな状況下で火事場泥棒が蔓延し、このおかげで巨大な財産を築いたものも少なくなかった。明暦の大火での死者は不明である。しかし、少なくとも3万人、多くとも10万人ではないかと言われている。先ほど、この火事は寺から起きたものだと述べた。しかし、同時に放火したものがいたのだということも判明した。彼らは普通に捕まったものだけでなく、密告によって逮捕されたものもいた。警察制度が固まっていなかった当時、密告制によって犯人を捕らえることが多かったのだ。しかし、たとえ犯人でも仲間がいたことを密告をすれば、密告したものは褒美を与えられた。そのせいで、本来犯人だったものが許されるケースがあったのだから、考えものである。このころ江戸では、供待所(主人を待つところ)での喫煙を禁止するなどの対策が取られた。一方で、「柴垣」というものが流行し、そこでは「人々の欲望が火事を大きくした」と述べられている。火事の後、大雪が降った。火事の前は雨が降らなかったのに、だ。食べものがなく餓死するものや、寒さで凍死するものが後を絶たない。幕府は寺にお金を与えて、死者たちを供養させた。また、大火による米価の高騰を抑え、飢民のために安く払い下げた。また、一般物価も払い下げていたことが記録されている。人々の救済だけでなく、幕府は思い切った改革を行った。町においては道路の幅を広げたり溜池を作る、屋根に土を塗るなど、火の足が遅くなる工夫を凝らした。火消役も改められ、火事への迅速な対応ができるようにした。新しく生まれた火消役は定火消役と呼ばれ、それに続いて町火消が作られた。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の祖父である浅野長直は、火消であることを誇りに思っていた。彼は家臣にも徹底的に火消の作法を教え込み、家臣もそれに従っていた。この主君と家臣の強い絆こそが、後に忠臣蔵を引き起こしたのかもしれない。
補足
○振袖現在では未婚女性が着用する、もっとも格式高い着物。袖が長い。しかしかつては、男性も着用していたらしい。○明暦の大火別名「振袖大火」「振袖火事」とも言われる。その理由について。振袖を着た寺小姓(僧侶の補佐、僧侶の夜の相手として寺にいる美少年)に恋をした女性が、同じ振袖を作ってもらった。ところが寺小姓はやがて女性の目の前から姿を消し、女性はやがて心を病んで死去。彼女が着ていた振袖は、質屋に出された。質屋から振袖を買い取った女性が振袖を身に付けると、その振袖の持ち主と同じ年で亡くなった。つぎに買い取った女性もまた、同じ年で死亡。不気味なこの振袖を供養してもらうことになり、本妙寺に手渡された。その供養中、火のついた振袖が舞い上がった。その煙から、最初に死んだ女性の顔が浮かび上がったという話がある。こうして、明暦の大火がはじまった。
旗本奴と町奴

 

正雪のように直接的な反抗ができない人々は、他の人間とは異なるいでたちをしてみせ、それによって体制への反抗を見せた。この人々をかぶき者と言う。そのような人々はあちこちで乱行を行い、故に幕府の取り締まる所のものとなり、縁者も含め多くの者が処罰の対象となった。そもそも、島原の乱にて戦乱が収束すると、武を以て鳴らす武士は瞬く間に居場所がなくなっていった。その結果、彼らは悪所通いや乱行に出、また小姓との男色に走り、かぶき者へとなったのである。最初は旗本出身の者が多く、やがてそれを真似する町人も現れるようになった。彼らの中には、信義・侠気を重んじるという独特の価値観を有するようになる人々がいる。彼らを奴(やつこ)といい、言葉も奴詞という独自のものを使った。彼らは狼藉も度々行い、故に騒擾の原因ともなっている。そしてこのような文化は地方にも広まっており、各藩も禁制を打ち出している。綱吉代となると取り締まりは厳しくなり、次々に罰せられることなる。彼らは体制への反抗者として、庶民の間にもてはやされることとなるが、それは庶民の代弁者として形作られた偶像であり、その本質は弱者を虐する存在でしかなかった。
江戸八百八町
この時期の江戸の町は一気に発展する。江戸の町へ来た外国人たちが驚いているように、当時江戸は世界有数の都市であり、人口は百万に近いものであったと考えられ、そのうち半分が武士であった。その土地の6割は武家地であり、2割が町人地である。彼らはその職能に応じて集住し、故に紺屋町・鍛冶屋町などの町名も生まれている。明暦の大火以後の江戸町整理の後、漸次江戸の町は拡張され、その町の数は900を数えた。その広い町を統括するのが町奉行であり、おおよそ北と南の二つが置かれた。奉行の下には与力25騎・同心100人が従っており、それぞれ与力は裁判の補助を、同心は警察の補助を行った。同心は前科人を金で雇って捜査を行わせており、彼らは目明しと呼ばれている。町奉行の指令を受けて具体的に事務を行うのが町年寄であり、その元で町名主が実際に町人たちへ命を伝えた。町名主は1つの町に1人とも限らず、数人いる町もあれば、月行事町と呼ばれる、輪番制の町もあった。町人という言葉は、広義には町全体に住む者を指すが、実際はもっと意味はせまい。そもそも江戸の町に住む人々には、土地を持つ"地主・地主の命を受けて家賃徴収等を差配する"家守"・土地を借りて家を建てた"地借"・家も借りる"店借"と分けられる。狭義の町人はそのうち前者ふたつを指す。家の貸し借りの際には5人組や地主の裁可を必要とし、そのために身元は充分調べられた。それゆえに不審なものは入り込みにくく、治安の安定化を齎した。他、治安維持のためには辻ごとに辻番が置かれたが、これは次第に名目化して役に立たなかった。また火災防止のために自身番というのもおかれ、これは家主の輪番制からやがて雇用するように変化する。町に於いては、間口の長さに応じて税が賦課され、それは地主・家守が対象となった。彼らは税を払う代わりに公民権を認められ、税を払わぬ地借や店借は権利も認められなかった。この町人たちの元で働くのが、奉公人である。この主従関係はかなり重いものであり、その間での争いは常に主が優先された。江戸の町は常に水が不足しており、それゆえ水道が通されていた。中でも玉川上水は重要な役割を果たしているが、その開削の由来は数説あって一定しない。また、この水道の為に地脈が止められ、火災が呼び起こされるという風聞から上水が廃された所もある。町人として一人前になるには、時間が非常に掛かるものであり、それまでは妻帯すら許されず、家を構えることも許されなかった。
夜の世界、新吉原
徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸八百八町、全国一の城下町が形成されていき、その中には旗本や町人が遊ぶ傾城屋、つまり遊女と遊ばせる店も方々に開業していた。傾城屋を営んでいた庄司甚右衛門は、彼の店が江戸城普請の為に召し上げられるに際し、江戸中の傾城屋を1箇所に集めるように請願して、これを許された。こうして江戸南東部の芦の生い茂る湿地を開いて出来たのが葭原、字を改めて「吉原」と呼ばれる遊郭である。またこの甚右衛門は吉原で「おやじ」と呼ばれ、庄司の家は代々吉原の町名主を勤めた。寛永19年、ここで働いていた遊女達の記録がある。容姿良く、歌の上手く、扇を持って一節舞う最上の遊女、太夫が75名、それに次ぐ格子が31人で、これは京都では天神と呼ばれた。その下は端、端女郎、局女郎などと呼ばれるのが881人に上ったという。その他にも手伝い役の「かぶろ」や遊女の指南役である「鑓手」など多数の者が働いていたようだ。さて1656年、吉原を御用地として召し上げられる事が通達され、吉原の傾城屋・また遊女を揚げて遊ぶ揚屋は、浅草田んぼの一角、日本堤のあたりに移転することになった。これに際し幕府は、1万5千両を与え、夜間営業を許可、町役の免除、また江戸中にあった、吉原の商敵であった風呂屋を悉く取り潰すなどの特典を与えた。こうして明暦の大火後1657年に吉原の店々は移転し、新吉原として再出発した。しかし、余りに町はずれに位置する新吉原は交通の不便の為、江戸町内の手近な茶屋等に町人の客を取られ、加えて武家財政の困窮が影響して衰微し始めた。そこで新吉原は町奉行に訴え出て、江戸中の茶屋を新吉原に移転させた。これら官許の遊郭以外からやってきた遊女は張りが無いので、他の遊女と差別して散茶女郎などと呼ばれた。このころからは、この散茶女郎などの安い遊女が増え始めた。さて、この遊郭で遊ぶには多額の金銭に加え、男の器量、そして暇が必要であった。最初に吉原に入ったときは最低10両の祝儀を持っていかねばならなかったし、2回目以降も太夫であれば2,30両の心付け、その他の店員にもそれぞれチップを必要とし、年末には4,50両に及ぶ贈り物をしなくては相手をしてもらえなかった。これだけ金銭を費やしても、遊女達を楽しませるだけの器量が無ければ見向きもしてもらえず、また吉原へ行く前には前もって茶屋に通いつめて、女の扱い方を学ばねばならなかったのである。多額の金銭が流れ、華々しく見える吉原や京都の傾城屋街島原であったが、そこで働く遊女達の大半は貧苦の為に身売りをしてきた者たちであった。彼女らは家族に金銭の渡る代わりに働いているのである。遊女達が自由になれるのは、なじみの客に身請するときだけであった。しかし大抵はそんな幸運に巡り合えるでもなく、太夫になっても次第に客も離れてゆき、格子、局と身を落とし、暗い生活を送るのであった。
殉死の禁

 

4代将軍家綱は、病弱であったが穏和な性格であり、また自制のできる将軍であった。その元、松平信綱・保科正之ら老中たちは集団合議で政治を行っており、これが機能した15年は日本史上珍しい時代であったと言える。またこの家綱治下では災害が続発し、その対応に幕府は追われる。また旗本・御家人の窮乏は次第に酷くなっている。家綱が出した施策としては、殉死の禁止がまず挙げられる。この当時、主君に殉じて切腹する殉死が流行を見せており、家綱はこれを抑えようとしたのである。既に一部の大名は殉死禁止令を出していたが、それが幕府の法として正式に定められ、堀田正信が家綱に殉死したことを以て江戸時代の殉死は断絶する。また人質として重臣の子弟を江戸に置く制度も緩められた。既にこれらのことで忠誠を確かめる必要はなかったのである。一方旗本の困窮は酷く、その身分を売るものまで現れていた。幕府はこれを禁止し、代わって役料を給付している。これは職務に付随して与えられる米のことであり、遂行に多額の支出を要する職務に多く支給された。家綱治世後半は、有力者の死去に伴って酒井忠清が大きな力を握るようになる。その権勢故に彼は"下馬将軍"とさえ呼ばれた。家綱には子供がいなかった。それゆえ、彼が危篤となると次代の将軍が問題となった。ここで忠清は有栖川宮幸仁親王を立てようとしたが、老中に反対され、弟・綱吉が選ばれた。この忠清の意見は、既に将軍が徳川一族でなくともよくなったという事実を示しており、つまり幕府とは将軍よりも機構そのものに重点が置かれていたのである。
東廻りと西廻り
この時代、町人に対して倹約令が度々発布されている。これは則ち、町人が華美に走りがちであったということを示しており、つまりは都市での消費が増加していたということを表している。このころあった寛文の大火では、人々は家財を地面に埋めるという形で防火を図り、故に被害はそれほど大きくならなかった。またこれに伴って、将軍の親衛隊に当たる番士に休暇が与えられるなどされる。これは、幕府の官僚機構が整ってきたことを良く表している。また、このような大火は江戸の町における最大の消費であり、幕府らは大きな出費を迫られることとなる。江戸の繁栄に伴って、江戸は多額の物資を要することとなる。これに伴い、上方から船で物資を運ぶことが行われるようになった。これは、菱垣廻船・樽廻船と呼ばれ、大坂を中心として大きく栄えた。幕府はこの海運に対しても不正を禁じる法を出しており、これは商人の協力もあって徹底、結果として海運は安定した運送として確立される。このような海運の拡大に大きな役割を持ったのが川村瑞賢である。彼は伊勢の百姓に生まれたが、その才幹によって次第になりあがり、明暦の大火の際に木曽の材木を大量に買い付け、江戸へ売りさばいたことで大きな利益を得て大商人となった。その彼に目を付けたのが、財政が窮乏しつつあった幕府である。幕府は遠隔地の天領からの年貢米運送に困っており、その改革を行わせたのである。瑞賢はこれに応えて、東東北から銚子・三崎を経由する東廻り航路、西東北から日本海・下関・大坂を経由する西廻り航路を開拓した。これによって、大消費地である江戸・上方と生産地である地方とが直結されることと為り、その結果として日本全国が一つの経済領域として成立した。都市での莫大な消費は、生産の発達を呼び起こした。それに伴う運送の発展は、元禄時代を支える一つの大きなファクターだったといえる。
天下の台所 大阪

 

大坂、とくに中之島・北浜は、日本経済の心臓だった。ドイツ人医師ケンペルによると、大坂は娯楽の町であったことも述べられている。この地が幕府の直轄地になると、幕府はただちに大坂城の修復をはじめた。10年を費やす大事業だった。ここに赴任し、城中の警護、および西国大名の監視を行うのが、大坂城代である。後に大塩平八郎がこの城を占拠しようと挙兵したが、失敗。大坂城の警備の強さが証明されることになった。この地大坂の民政を仕切っていたのは、大坂町奉行と呼ばれる人だった。ただし、事実上支配していたのは惣年寄と呼ばれる人々だった。彼らは糸割符なども務めたが、これは慶長年間に糸割符の役を務めた町人が引き継いだかららしい。この町人から選挙によって町年寄が選ばれ、彼らを補佐する役として町代が作られた。町代は公事場の手伝いをしたものの、その仕事が増えると専任の惣代が作られるようになる。1634年、大坂に住む人々が払う税(地子銀)が免除された。同じころ、大坂は浮き沈みの激しい地として知られていた。貧しい人がいる一方で、商人として栄える人々もいた。ではこのような人々が携わる商業は、どのように発展してきたのか。まず、蔵屋敷。ここは各藩の物資を保管する場所である。ときに町人にはここの管理を任されることもあった。そして、それを藩の了承を得たうえで販売するのである。また、町人の中には大名に対して金貸しを行っているものがいた。そしてなにより大きいのは、蔵米の販売を任されていたことだろう。こうして大坂は天下の台所として認知されてきたのだが、これに対する反論がある。大坂が市場経済の中心だったという証拠は、わずかな期間に限定されたものしかない。そこからは江戸もまた大市場になっているので、江戸と大坂の2つともが中心的市場だという意見である。だがそれでも、日本中の生産物が大坂に集められていたことには変わりない。結局のところ大坂を天下の台所と呼ぶのは、この形態こそがゆえんではないだろうか。
犬公方
徳川綱吉は、戌年生まれの将軍である。綱吉は就任してからまもなく、越後騒動と呼ばれるお家騒動についての決断を改めた。綱吉は民の苦痛を減らし、幕府自身も倹約を掲げるなど、家綱とは対称的な政治を行った。庶民だけでなく大名に対しての取り締まりも厳しくなり、緊張した状態が続くようになった。そうなると、大名たちも安息を得ることができなかった。いつ、だれの身になにがおこるかわからないからだ。1683年には厳しい制限令が出され、服だけでなく輸入品にも制限が加えられた。江戸市民には評判が悪かったが、もし彼らが贅沢をすると、以下のような弊害が予測できる。江戸市民が裕福になる。⇒武士がたくさんお金を使うから。⇒武士が農民に対して厳しい搾取をするようになる。だからこそ、倹約はよいことだという意見もあった。江戸市民の不満が、すぐに悪政に繋がるとは限らないのだ。また、ちょうどこのころ、大老の堀田正俊が刺殺される事件が起きた。理由は複数あるものの、正俊の方針が受け入れられなかったからと言われている。将軍の綱吉自身も彼を疎んじていたらしく、この事件後、大老を置かなくなった。自分の方針を貫くためだ。大老の代わりに台頭するのが、側用人と呼ばれる人々だった。側用人の中で有名な人物としてあげられるのが、柳沢吉保である。彼は本来親藩の土地か、幕領として定められていた土地を受け取るなど、ずいぶんと寵愛されていた。これだけでも綱吉の個性がずいぶんと発揮されているが、他にも特徴的なことがある。外様大名や旗本を幕府の役職に就任させたことだ。じつはほかにも、小唄・踊り・音曲などの芸能を、家臣にさせたり自ら演ずることもあったらしい。ドイツ人医師ケンペルも、その犠牲になっている。これだけでは済まない。ストッパーになる存在がいないのをいいことに、自由気ままに改易・減封を行った。家綱の時代で減っていた改易・減封は、家綱の時代に大増加を迎えたのだった。そして極めつけは生類憐みの令である。家綱の考えがそのまま反映されたこれは、彼が死ぬまで続いた。これを続けるために必要な費用は、江戸をはじめとする関東の町人が負担させられることになった。
湯島の聖堂と貞享歴

 

徳川綱吉は非常に学問好きな将軍だった。林信篤ら儒学者に命じて学問(主に儒学)が広く普及するようにしたのも彼だった。家綱が朝廷の崇拝や、親孝行に力を入れたのも、儒学の影響と切り離すことができない。家綱が朝廷に対して忠誠を誓ったためか、家光時代までの緊張した朝幕関係は回復しつつあった。6代将軍家宣のときには、さらに回復する方針が固められた。このように書いてみると、まるで家綱の時代から学問がはじまったようだが、そうではない。すでに家康が藤原惺窩を招いて、彼の門人である林羅山を儒官にしているように、家康からすでに学問ははじまっていた。この羅山は家光にも仕えていた。1630年には尾張の徳川義直が、彼のために孔子堂を建てている。釈奠(孔子をまつる儀式:せきてん)が翌年に行われてから、儒学者の地位は高まるようになった。1633年には光地院崇伝に任されていた「武家諸法度」や外交文書のことが、林家に任されるようになった。1688年、孔子堂(改造され、聖堂となる)が上野から昌平坂に移された。上野にあった寛永寺から遠ざかったため、仏教と朱子学の関係はここで切れた。理由は、聖人を祀るのに仏の近くではまずいからだという。これももちろん綱吉の指示によるものだ。綱吉が学問好きであったことがわかるエピソードである。また、学問好きの綱吉の指示により、たくさんの出版物が世に出回った。それに触発され、各地の大名も学問を志すようになった。結果、たくさんの出版物が完成した。徳川光圀の、「大日本史」が有名である。彼が藩主を務める水戸藩では、これ以外のものとしては天皇を支持する書物がいくつも書かれた。これが幕末になって、尊王思想を高める原因であったと言われている。また、学問が広まったことにより、学者が多く産出される結果となった。武功によって出世できないので、学問によって出世を狙ったのだ。まとめると、以下のようになる。朱子学者:山崎闇斎(垂加神道を開く)陽明学者:熊沢蕃山古学者:荻生徂徠古義学者:伊藤仁斎またこの元禄時代、非常に出版が盛んだったため、学問もまた盛んになったと考えられる。江戸以前から印刷については変化してきており、慶安ごろからは木版印刷がほとんどである。日本語には漢字が多いことや、挿絵の流行により、活字印刷が厳しくなりつつあったのだ。ところでこの元禄時代、貞享暦という暦法が採用されることになった。安井算哲が提唱したもので、当時のものとしては非常に正確だった。時差などの、地理的な状況が計算されていたためだと思われる。
忠臣蔵
元禄14年3月14日、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城殿中にて高家旗本の吉良上野介義央を切りつけた。石高は低くとも、名門たる高家の吉良の驕った態度が怒りを買ったようであるという。浅野長矩は殿中抜刀の罪で切腹となり赤穂藩は改易となったが、一方の吉良家には何の咎めもなかった。これに憤る急進派の遺臣達は、すぐさまの仇討を唱えた。しかし赤穂で藩政を見ていた筆頭家老大石内蔵助は御家再興のチャンスを伺うべきだ、と抑え、方々に御家再興を嘆願しつつ時機を待った。彼は赤穂城の引き渡しが済むと京都山科へ移住している。江戸にいる急進派堀部安兵衛らは幾度となく内蔵助に敵討ちの催促をする手紙を送っていたが、穏便派の内蔵助も、浅野長矩の養子だった浅野大学長広が広島藩に永預かりとなったことで御家再興の望みが断たれると、もはや討ち入りのみ、と思い急進派との対立も解消された。これまでに討ち入りのメンバーから脱落した者も多く、300余名の家臣中、130名あまりが討ち入りに名乗りを上げていたが、最終的に47名となった。彼らは翌15年12月14日に吉良屋敷に討ち入り、手向かいする者16名を切り捨て、23名を傷つけて吉良上野介を首級を挙げ、そのまま主君浅野長矩の眠る泉岳寺へ詣でた。そこから彼らは細川・松平・水野・毛利の4家に留め置かれた。そして、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中で抜刀し罰された事について、吉良氏を仇として公儀の許し無く騒動を起こした、という荻生徂徠の進言をとった幕府評定所の判決により切腹を申しつけられた。彼らの行為は江戸期よりその善悪を論ずるもの多々あったが、綱吉犬公方の治下、吠えたてる犬にも逆らえぬ、抑圧された気分の民衆は、法を破ったという非難以上に忠義の武士達を慕った。
窮乏する財政

 

まず、以下の表を見ていただきたい。財政に関するものである。
○=財政よし△=財政が傾きはじめる▽=財政が危機
家康○:貿易、金銀の発掘が盛ん。
秀忠○:非常に多くの財産あり。
家光○:日光東照宮を造り、11回もお参りするが、破たんはしていない。
家綱△:明暦の大火により、貨幣が溶ける。その後処理のため、莫大な資産を投じる。
綱吉▽:諸大名への御なり・下賜品の増大、寺院への莫大な援助。
この表を見ると、5代将軍綱吉が財政窮乏の原因であるかのように書かれている。綱吉時代、幕府の財政が窮乏する原因は、以下のような4つが理由が大きい。
1、諸大名への御なり、下賜品の増大。
 近親者を支援して救助することや、下賜品の増大を頻繁に行った。
2、役料制の復活。
 役料制とは、主君から知行をもらい、それに応じて軍役を負う制度。これにより、基準となる家禄以下のものにも、定額の給与が与えられた。
3、寺院への援助。
 綱吉はあらゆる宗派に敬意を示し、寺社の救済などに当て、たくさんの資金を投じた。
4、悪貨の鋳造
 金銀の量が減っているため、貨幣を造りなおして量を増やした。勘定吟味役の荻原重秀が将軍に勧めたことによる。これによりインフレが起こり、金融上の動揺が起きる。しかも、この状況において災害が連続で起こった。1707年のことだ。東海道から四国・中国に及ぶ地震、富士山の噴火である。
勘定吟味役荻原重秀はこれに対して資金を投じたと言われているが、実際には横領したのではないかといわれている。彼の存在もまた、財政窮乏の原因の1つかもしれない。幕府が財政の破たんを目前にした1708年、綱吉はこの世を去った。
元禄模様

 

元禄時代、倹約の傾向であるにもかかわらず、女性が身を飾る文化が生まれつつあった。たとえば帯。本来帯は前で結ぶものだが、このころからは後ろで結ぶことが流行した。このように、元禄時代には女性がある意味最も栄えた時代だと考えられる。絵画史上で、女性が最も多く題材にされたのもこの時代である。また、男性の中にも飾りを行った人もいる。たとえば、若衆という少年。彼は男色の性行為において受け手になる人物である。この時代、芸能者の多くは芸能よりも、売色の仕事をすることが多かった。相手を誘うので、飾りは一生懸命やらなくてはいけないのだ。槍や刀の時代はおわり、お金が力を持つ世の中になった。建築も入札制になり、奉行に渡す礼物がなければ、ほぼ落札できない。このシステムこそが、幕府の財政を窮乏させていると新井白石は述べる。通常は安くできる工事も、このような原因から、過剰な資金が必要になったからだ。幕府はたくさんの資金を散布しなくてはならず、金座・銀座は貨幣をたくさん鋳造した。結果、インフレーションが起きた。幕府の財政危機は、目前に迫っていた。幕府と結びついていた大商人たちは次々と没落した。また、この時代、大きな商人が没落していることが明らかになっている。大名にお金を貸し、踏み倒されるからだ。大名たちも余裕がなくなり、返済ができないのだ。損をした町人の中には、別の大名に貸して元をとろうとするものもいる。そういった人々は、またもや踏み倒されて破産する。大名ならたくさんお金を持っているだろうという考えこそが、彼らを破滅に至らせるのだ。金座や銀座が貨幣鋳造によって安泰するに対して、呉服屋は悲惨な状況下にあった。今まではオーダーメイドで服を作っていたのに、倹約の流れのせいで注文が減り、店をたたむものが多かった。ところが、のちに財閥となる三井は違った。堅実な方法で和歌山の徳川家に大名貸しを行い、両替や、新田開発を行った。こうした用心深い政策のおかげで、三井は潰れることなく、今日まで残っていると言える。ところで、このころ、農民の税が重かったのはご存じだと思う。だが、一方で、商人たちの税は実質0だったことはご存じだろうか。この体制に異を唱えた人物はいたが、真摯に受け止めたものは幕府にはいなかった。これにより、商人たちは力を持つようになる。彼らに大して税をかけたのは田沼意次であり、株仲間の結成を許した。特権を与える代わりに、税をとったのだ。この体制こそが、農業の発達妨害・消費の異常発達を促進し、元禄の華美な文化を作り出したと考えられる。
絵の世界と侘の境地
桃山時代に全盛を極めた狩野派も、狩野探幽以降は下り坂となる。一方で、土佐派や琳派が勃興していくことになる。また布に自由な柄を染めつけられる友禅がこの時期に現れ、大きな流行を見た。また浮世絵もこの時代に出現する。肉筆で描かれ高価だった絵は、こうして版画となることで数が出回るようになり、庶民の手にもわたるようになる。藝術がこうして庶民の間に広がるのはまさにこの時代であり、藝術の面ではこれまでとは異なった時代が来たと言うことができるだろう。またこのような動きは歌の世界でも見られた。これまで古今伝授の伝統が否定され、自由に解釈され、また歌われるようになったのである。こうした動きの原因の一つには、印刷技術の向上に伴う書籍出版の広がりが挙げられる。このような状況の中で誕生したのが芭蕉である。彼は日本の古典や唐詩に親しみ、また参禅もしている。そうして俳諧の中から人生の究極を掴みだそうとしたのである。彼は幾度も旅に出ており、その中で人生を旅そのものと捉え、そこに自己を捕えんとしていく。芭蕉の書く旅行記は芭蕉自身の創作の手が入っており、全てが事実ではない。またその態度は、現実の生活の中に風雅の世界を見出すにすぎぬもので、その点では現実逃避的である。時代の圧迫に対して、芭蕉は現実も変化する物々の一つと断じ、その中で普遍の真理を求めようとしたのである。
一代男と曽根崎心中
この当時、三十三間堂では端から端に矢を放つ通し矢が盛んであり、1日で何本通すかが競われた。これと同じくして1日で俳諧を何句詠むるかということ競われ、これは井原西鶴が1日で2万句詠んで決着となった。この西鶴が才を尤も顕著に示したのが、小説である。彼が最初に書き始めたのは好色物と呼ばれる、男女の情を描いたものであった。この中で西鶴は、人の世が思いがけぬ転回をすることを、見事に描きだしている。また西鶴は、武家物・町人物も書いているが、特に町人物の「胸算用」では才智では如何ともしがたき社会を描いており、西鶴の文学性を示す。この時期、浄瑠璃も流行を見せる。とりわけ、近松門左衛門が脚本を書き、竹本義太夫が人形操作をした際には大きな評判となった。彼らは最初竹本義太夫を座元としたが、後に竹田出雲が代わっている。近松の描くものは人情と義理の相克が表に出ており、中でも世話物と呼ばれる、人間の心情に主題を置いた作品群は評価が高い。近松はまた歌舞伎の作品も書いている。戦国末の女歌舞伎に淵源を持つ歌舞伎は、風俗取り締まりの影響でこの時期には大人の男が演じる野郎歌舞伎となっていた。歌舞伎では坂田藤十郎や市川団十郎が名を馳せている。この浄瑠璃・歌舞伎のような、一般庶民が広く楽しむことのできる藝術の誕生が、まさに元禄時代の特色だったということができるだろう。
 
歴史雑説

 

 
建築家秀吉
遺構から推理する戦術と建築・都市プラン
かなり昔のことになる。仕入れ先の招待で大坂に行ったときのこと、同業者と乗り合わせたせた借切りバスで市内を走っていた際、バスガイドによる大阪城の説明があった。その少し前確か漫才で聞いた同じネタで、ついガイドさんに「大阪城はだれが建てたの?」「秀吉です」「へえ〜!秀吉は大工だったの?」ここでみんなの爆笑を誘ったのはよいが、調子に乗ってガイドさんに悪いことをしたという、いささか後味の悪さが残ったという思い出がある。書店でこの本の題名を見つけたときつい手が出たのは、そうした記憶が心のどこかにわだかまりとして残っていたからだろうか。
閑話休題。さて秀吉は、建築家としてどんな仕事をしたのだろうか。「今の若いもん」はいざ知らず、大方の人は秀吉の「墨俣一夜城」という逸話をご存じだろう。これは信長と岐阜(美濃)の斎藤道三の戦いの時、道三の難攻不落の稲葉山城の目前の墨俣(又は洲股=すのまた)にたった一夜で城を築いたというエピソードである。もっとも一夜というのは大げさで、実際には4日あるいは7日だともいわれるが、それにしても敵の目前でしかも気付かれることなくいやしくもお城を造るということは、前任者の失敗から見てもまるで妖術か魔術のように思われる。
しかしそこには秀吉の、建築に当たった大工・石工など作業者集団との人脈の深さとゼネコン(建設統合者)としての天才的才能があったのである。秀吉が木曽山中の材木を、前もってな長さ切って木曽川の急流に筏として流し、途中ですぐに建て上げられるように加工するという「プレハヴ・ベルトコンベアー工法」を用いたのだという。信長の居城である清須城の「御普請奉行」を命じられたとき、割普請という方法、すなわちいくつかに区分して請け合わせるという「能率給+ジョイントヴェンチャー」も行っているというのだ。たとえば岡山の高松城の水攻めには、周辺の地形や特徴を正確に把握して、城の正面に途方もなく大きいダムを造って城を湖に浮かばすことで、無駄な将兵の犠牲を払わずみごと陥落させるという芸当を演じている。
初めての居城である長浜城は、ちょうど琵琶湖に浮かぶヴェネティアの観があり、同時に都市計画的な手法によって、整然とした城下町を造っている本著にはこうした秀吉の(武将以外の)驚くべき才能を数多く載せているが、特筆すべきは、彼はすでに西欧のアーキテクト・テクノロジーも、巧みに採り入れていたという事実だろう。たとえば、聚楽第には遠くの間は、段階的に奥行きを短くしていき目の錯覚によって大きさを強調するというパースペクティヴ(遠近法)が採用されているし、大阪の町造りには、ルネッサンス・バロック期に流行したヴィスタ(見通し線)が試みられ、道の遠くから壮大な大阪城の天守閣が見えるようにしたのだという。ちょうどパリの凱旋門と同じ手法であり視覚効果である。その他建築家としての手腕をこのように見せつけられると、あの時のガイドさんに出来れば謝りたい心境である。ともあれ秀吉の人気には、こうした町造り・家造りに見せた「縄文的創造者」としての、(家康にない)資質も加味されていたのではないだろうか。
 
世界史の中の石見銀山

 

今でこそ無資源国だといわれているが、かつて日本は銅に始まり鉄・金そして銀といずれも世界有数の産出国であった。その中でも(今の島根県)出雲の国は、荒神谷遺跡の膨大な銅剣・矛、加茂岩倉遺跡からの銅鐸の出土、神代の時代から江戸時代まで続いた、砂鉄を精錬するたたら(踏鞴)でも知られているが、それに石見の国の銀が加わったのである。
2007年7月、その石見銀山がユネスコの世界遺産(文化遺産)への正式登録が決まり、日本中が(喜ぶと言うよりむしろ)驚いたことは記憶に新しい。選ばれた理由として、「今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている」というのだが、それでは根拠が稀薄すぎる。
世界遺産に登録されている、かつて銀山だったところは、その富を背景にすべて数万を数える都市を形成しているのに、現在住民の努力で当時の雰囲気を色濃く保全しているとはいえ、わずか数百戸の寒村で、しかもごく一部の間歩(まぶ)=坑道と、その入り口を持つのみの、いわばどこにでもありそうな貧弱な遺跡が、なぜ世界文化遺産となり得たか。
山陽の「厳島=宮島」のあでやかさ優美さに較べてもあまりに地味すぎる。近くに「温泉津(ゆのつ)温泉」という格好の保養地をもちながらも、いまでも訪れる人はあまりにもすくない。
それについて仮説だと断りながらも膨大な資料を駆使し、世界史的な視点において、
1.当時明朝への朝貢貿易に名を借りた「勘合船」の活動
2.同銀山の開発と精錬にかかわった豪商たち、そしての存在、
3.西欧列強に呉して活躍した御朱印船を含む貿易船の活躍
3.そして短かったが当時の日本と非常に深かったポルトガルとの関係
すなわち「世界史の一面を飾る、大航海時代における日本の銀の役割、そしてその中での石見銀山という存在と比重を考えなければならない」と指摘している。
豊富な内容を詳述する紙数を持たないが、私なりに受止めた要点を二つだけ挙げて見よう。
その一つは、川勝平太「文明の海洋史観」が、「西洋の大航海時代に相似した」とまで述べた、当時の日本の海外熱──秀吉の朝鮮征伐の一面も含め──は、全国の大名から富豪・文化人までも巻き込んだ、茶の湯ブームのための素朴な茶碗・茶壺などの焼き物輸入が目的であったのだという。
ちなみに秀吉は朝鮮から多くの陶工を連れ帰ったが、祖国よりは遙かに優遇された彼らが、日本の陶磁器の質量共に発展させる原動力になったことは衆知のことである。
そしてもう一つは、そうした物産の入手と引き替えに、一説総量6000トンともいわれる膨大な量の銀が流出したこと、そしてその多くを石見銀山が担ったことである。
また、日本の銀、特に石見銀山の生産量・精錬の歩留まりが飛躍的に増大したのは、ポルトガルの技術による「灰吹き法=南蛮吹(なんばんぶき」が採用されたことを挙げている。
私たち日本人の多くは、今でもポルトガルを、キリスト教(ローマン・カソリック)の普及という使命感とセットで、海外侵略の尖兵としての一面しか知らないが、この国の歴史は意外なほど弱々しく短いものであった。
中世の長い間、イスラム教国の支配下に呻吟したこの国は、スペインに次いで、レコンキスタ(聖地回復)を果たしたものの、程なくスペインに併合され、1385年に一時独立を果たしながらも、1580年には早くも再びスペインの属国となり、秀吉(1536?〜1598年)の時代にはすでに、事実上滅んでしまっていたのである。
ヴァスコ・ダ・ガマ(1430〜1497)の新航路発見、次いで新大陸への進出を果たしながらも、そこは小国の悲しさ、すぐに新世界でスペインに覇権を奪われ、1493年に、時のローマ教皇アレクサンデル6世に泣きついて「世界境界線=分界線」を策定して貰いながらも、結局持ち場である東南アジアでは、カソリックの軛(くびき)を脱した新勢力、オランダそしてイギリスに次々と追い落とされていってしまう。
小国ポルトガルの短い栄華と、祖国を失い日本への帰化を心から念じて亡命しながらも、それがかなわず、再度国外に去った人たちへの、そこはかとない憐憫の意を込めて述懐した著者の、鎮魂賦とも謂える表現が数多く見られる。
そうした歴史背景として、異様に多いポルトガル語由来の言葉や、南蛮文明移植の実績を挙げている。
ではこれほどまで日本に受け入れられてきたポルトガル人が、なぜ日本から消えたのか。
秀吉に次いで家康も、やはり彼らカソリックという一神教の信仰力の強さを恐れ、改宗を求めて日本では珍しい残酷な処刑という仕打ちを行なったからではないかという。
もっとも改宗した場合には、一転すこぶる温和な処置がとられたのだが、「転びバテレン」となった一部の人を除いて、殉教者となるか日本から去る道を選んだというのである。
歴史に付きものの「もし〜たら」をお許し頂くと、「もし信仰の自由は認めるが、布教活動は御法度」という対応がなされていれば、今の日本は大いに変わっていたかも知れない」
我々が疎い世界史という視座で、石見銀山そして日本史に欠けた部分を、鋭くしかも明確に俯瞰した同著は、仮説というにはあまりに鮮やかな読後感で迫ってくるものがある。
 
世阿弥 / 観阿弥

 

世阿弥
能役者、能作者。幼名藤若丸、鬼夜叉、実名元清。世阿弥は芸名・世阿弥陀仏の略。父観阿弥の英才教育で猿楽能(物真似が中心の芝居)を学び、1372年、父が京都で名声を得るきっかけとなった醍醐寺7日間公演に9歳で参加している。1375年、「観世座はスゴイ」という噂を聞いた当時17歳の3代将軍足利義満は、京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞し、これにハマった。観阿弥の演技が素晴らしいだけでなく、共演した12歳の美少年世阿弥の愛らしさにメロメロになった。以降、義満は観世座の熱心な後援者となる。
義満の世阿弥に対する寵愛ぶりは相当なのもので、3年後の祇園祭の折には、山鉾を見物する義満のすぐ背後に世阿弥が控えていたという。側近たちはこれを嫉妬し、内大臣は当日の日記に「乞食のやる猿楽師の子どもを可愛がる将軍の気が知れない」と書きつけている。
1384年(21歳)、父が巡業先の静岡で急逝。世阿弥は悲しみの中で観世流の2代目を継ぐ。その後もひたすら稽古を重ねて芸を磨いていく中で、彼を刺激したのは父と同世代で近江猿楽のリーダー格・犬王(道阿弥)の存在だった。観世座の能が大衆向けで演劇色の濃い、物真似中心の「面白き能」であったのに対し、犬王の能は優雅で美しい歌舞中心の「幽玄能」だった。義満は情緒があり格調のある犬王を世阿弥以上に寵遇する。犬王は天女の舞を創始するなど舞の名人でもあり、世阿弥も素直に犬王を絶賛、もろに影響を受けて自身の能も内面を表現する幽玄能に変化していった。
1400年(37歳)、「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」など父の遺訓をまとめた能楽論書「風姿花伝(花伝書)」を著す。風姿花伝は芸術の技術論ではなく精神を論じた書であり、このような書物は世界にも殆ど例がない---
能役者が観客に与える感動の根源は「花」である。「花」は能の命であり、これをどう咲かすべきか、「花」を知ることは能の奥義を極めることである。
桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かされるだろうか。花は一年中咲いておらず、咲くべき時を知って咲いている。能役者も時と場を心得て、観客が最も「花」を求めている時に咲かせねばならない。花は散り、花は咲き、常に変化している。十八番の役ばかり演じることなく、変化していく姿を「花」として感じさせねばならない。「花」が咲くには種が必要だ。花は心、種は態(わざ、技)。観客がどんな「花」を好むのか、人の好みは様々だ。だからこそ、能役者は稽古を積み技を磨いて、何種類もの種を持っていなければならない。牡丹、朝顔、桔梗、椿、全ての四季の「花」の種を心に持ち、時分にあった種を取り出し咲かせるのだ。
※「家、家にあらず。次ぐをもて家とす」と言うのも。血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいものだ。
1408年、45歳の時に義満が死去し、4代将軍義持の治世に。義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み、その名手・増阿弥を寵遇した。増阿弥の持ち味は賑やかであるはずの田楽の中で、尺八を使う「冷えたる能」。尺八の渋い音色は舞を“冷えに冷えた”美にした。都は増阿弥が主催した公演ばかりになり、世阿弥の出番が減ってしまった。しかし、世阿弥の長所は柔軟さにある。彼はこのライバルを妬むことなく、「花」を生み出す幽玄美が、高められたところにあるものが「冷えたる美」と悟り、増阿弥から「冷え」を学んだ。このように世阿弥の芸は生涯にわたって高め続けられた。また、立ち止まって能という芸の深さをじっくり考える時間ができたこともあり、能楽論を次々と執筆していった。
世阿弥は自分が父から観世座を受け継いだ年頃に長男・元雅がなったことから、60歳で出家し、元雅を第3世観世大夫に指名した。そして能作書「三道」を次男に、1424年(61歳)には元雅に能楽論秘伝書「花鏡(かきょう)」を送り、そこに「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」等の言葉を刻んだ。この年の醍醐寺清滝宮の猿楽能では2人の息子と甥の音阿弥(世阿弥の弟の子)の3人が共演するなど、後継者に恵まれて穏やかに隠居生活を送っていた。
1428年(65歳)、義持が他界すると6代将軍義教が就任した。ここから世阿弥の人生はどん底まで沈んでいく。義教は兄弟の義嗣と仲が悪かったので、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、また能役者も世阿弥よりも音阿見を好んでいたので、世阿弥に露骨な迫害を加え始めた。
66歳、世阿弥親子は突然御所への出入りを禁じられ、翌年には元雅が猿楽主催権を奪われ、義教はそれを音阿弥に与えた。こうした事態から未来に希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家してしまう。
1432年(69歳)、元雅は都での仕事がなくなり地方巡業に出て、旅先にて32歳の若さで病没する。元雅の遺児はまだ幼児で観世家を継げず、観世座は崩壊した。世阿弥は元雅のことを父観阿弥を超える逸材だと思っていただけに、この死は耐え難いほど辛いものだった。しかも義教は世阿弥に後継者がいなくなったことを理由に、音阿弥に観世4世家元を継がせることを強要してきた。世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでこれに抵抗したところ、将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で佐渡に流されてしまう。
1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳になっていた世阿弥の配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で亡くなった。
650年の長き伝統からユネスコの世界遺産(無形文化遺産)に指定された能楽。観阿弥が基礎を築いた物真似重視、ドラマ性優先の猿楽能を、子の世阿弥は美しい歌舞を中心に置き、深い精神性をたたえた幽玄美を表現する「夢幻能」に発展させ、今日に至るまで人々に愛される芸術に昇華させた。世阿弥は稽古そのものが人生というほど優れた能役者であり、50作以上の演目を作った文才ある劇作家であり、多くの理論書で美に熱弁を振るう思想家だ。彼にとって物真似は役に成り切る為に対象を忠実に写す絵画のデッサンであり、幽玄は心に感じた情緒を描く絵画の色彩となり、芸の基本はこれら物真似と幽玄にあった。
現在、能の演目は全部で240番。このうち確実に世阿弥の作品だと判明しているのは「高砂」「忠度」「実盛」「井筒」「江口」「檜垣」「砧(きぬた)」「老松」「頼政」「恋重荷」「野守(のもり)」「西行桜」など50番以上ある。そしてこれらがすべて傑作揃いというからスゴイ!「能を舞うだけでは能を究められない、作ってこそ奥義に到達できる」と考えた世阿弥は、歌舞と幽玄の魅力を最大限に引き出せる理想的な作品を自分の手で作った。そして大半の曲が650年前に完成した当時と同じ詞章(ししょう、脚本)で演じられている。和歌を詠むように響く言葉、心に染み入るメロディーの楽曲は、時代を超えて人々の胸を打つ詩劇になっている。
※世阿弥が能の美について記した能楽論は「風姿花伝」「花鏡」「至花道」を含め21種に及ぶ。
※世阿弥の作曲法の基本は、種(題材)、作(作曲)、書(作詞)。これに序(発端)、破(主体)、急(結末)の三則を当てはめる。
※和歌においても「幽玄」は最高の理想美とされている。謡(うたい)の幽玄、舞の幽玄、鬼にさえ幽玄がある。
※金春禅竹も作能し、「定家」「玉葛」「小塩」「賀茂」「芭蕉」「楊貴妃」など名作を残している。
観阿弥
能楽、観世流の創始者。幼名観世丸、通称観世三郎。本名清次(きよつぐ)。観阿弥の名は法名・観阿弥陀仏の略称。伊賀出身。平家の流れを汲む服部元成の三男と言われている(子の世阿弥も先祖が服部氏と語っている)。母親は楠木正成の姉妹とされ、足利の治世なので、ずっと本名を隠していたという。
中世以前の人々にとって最大の娯楽は猿楽と田楽だった。猿楽とは、奈良時代に大陸から伝わった軽業(曲芸)や物真似、奇術などを見せる芸で、身のこなしが猿のように軽快なことからそう呼ばれた。田楽は田植えの際に豊穣を祈った農村の歌や踊りが演目となったもの。
父は猿楽師の養子であり、兄と共に猿楽を受け継ぐ(兄は宝生流の始祖)。妻の出生地、現・名張市小波田で20歳のころ新しく結崎座を旗揚げした。近畿一円の猿楽座や田楽座はそれぞれが有力な寺社の後援を受け(結崎座は春日興福寺、法会の後の余興を担当)、互いにライバルとして技を磨きあった。
芸に対する観阿弥の向上心は非常に強く、従来の猿楽だけでは満足できず、田楽の一忠(いっちゅう、公演は死傷者が出るほど観客が興奮した)、曲舞(くせまい)の乙鶴という他分野の名人からも真髄を学んだ。そして、元来メロディーの美しい大和猿楽に、田楽や曲舞の跳ねるように躍動するリズムをミックスさせた、全く新しい猿楽を誕生させ室町の芸能に新風を吹き込んだ。観客が熱狂をもってこれを受け入れたことから、以後観阿弥は、結崎座の中の演能チームを「観世座」の名で独立させ、さらに精力的に活動し続けた。
観阿弥は大男だったが、猿楽で育んだ物真似の才能で女性から子どもまで器用に演じ分けて観客を沸かせ、舞も披露して人々のハートを鷲掴みにした。また、地方公演では各郷土の好みを織り交ぜるなど工夫を凝らし、自らもペンを取り、台本を書き作曲もした。とにかく先人の長所をどんどん取り入れて、猿楽を進化させていった。1363年、30歳の時に元清(世阿弥)が生まれる。
一座は京都にも進出し、1372年(39歳)、醍醐寺での7日間の公演が大きな評判となる。41歳の時に、観世座フィーバーの噂を聞いた3代将軍足利義満が京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞し、たちまち観阿弥親子(世阿弥は当時まだ12歳)の虜になり、以降、将軍家の大きな支援を受けることになった。観阿弥はこの時に「翁」(おきな)を舞っており、当1374年が「能楽元年」とされている。その10年後(1384年)、駿河の守護職今川氏の要請で浅間神社で舞った後、巡業先で体調を崩し51歳で客死した。
※「卒都婆小町」「四位少将(通い小町)」など小野小町を題材にした謡曲や「自然居士(じねんこじ)」を作曲した。 
 
海北友松

 


海北友松 1
(かいほう ゆうしょう) 天文2年-慶長20年(1533-1615) 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。海北派の始祖。姓は源氏、友松は字。近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」。「紹益」とも。「如切斎」「有景斎」などと号した。子に同じく絵師の海北友雪。
浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で修行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。
その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。作品は大画面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。八条宮智仁親王や亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかった。また、交流のあった斎藤利三(明智光秀の重臣)を謀反人でありながら手厚く葬り(磔にされていた利三の遺体を友松が槍を振って侵入して奪い取ったともいわれる)、後に息子の友雪は、利三の娘である春日局から褒賞を受けている。
墓所は京都府左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。
代表作
建仁寺本坊大方丈障壁画 重要文化財 京都国立博物館寄託
全50面。内訳は、依鉢の間「琴棋書画図」10面、檀那の間「山水図」8面、室中「竹林七賢図」16面、書院の間「花鳥図」10面(内2面消失)、礼の間「雲龍図」8面。慶長4年(1599年)安国寺恵瓊が、前身の安国寺方丈を本坊方丈として移建する際、障壁画は新調し、その制作を任されたのが友松であった。堂々たる大作であり、制作年がはっきりとした基準作としても貴重である。昭和9年(1934年)の第一室戸台風で大方丈が倒壊したことから、現在の大型の掛け軸に改装された。
琴棋書画図(京都・建仁寺霊洞院) 重要文化財 京都国立博物館委託
松竹梅図(京都・建仁寺禅居庵)襖全12面 重要文化財
浜松図(宮内庁 三の丸尚蔵館)六曲一双 金地著色
網干図屏風(宮内庁 三の丸尚蔵館)六曲一双 金地著色
花卉図(京都・妙心寺)六曲一双 紙本金地着色 重要文化財 京都国立博物館委託
琴棋書画図(京都・妙心寺)六曲一双 紙本金地着色 重要文化財 京都国立博物館委託
三酸・寒山拾得図(京都・妙心寺)六曲一双 紙本金地着色 重要文化財
四季山水図(MOA美術館)八曲一双 重要文化財
楼閣山水図(MOA美術館)六曲一双 紙本墨画 重要文化財
飲中八仙図(京都国立博物館)六曲一隻 重要文化財 1602年
雲龍図(京都・北野天満宮)六曲一双 重要文化財
婦女琴棋書画図(東京国立博物館)六曲一双 紙本著色 重要文化財
山水図(東京国立博物館)六曲一隻 紙本墨画
放馬図屏風(松尾寺)六曲一双 紙本墨画
禅宗祖師・散聖図屏風(静岡県立美術館)六曲一双 紙本墨画
琴棋書画図(ワシントンD.C.・フリーア美術館)六曲一双 紙本墨画
月下渓流図屏風(カンザスシティ・ネルソン・アトキンズ美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩 

海北友松 2
1533‐1615(天文2‐元和1) 桃山時代の画家。海北派の祖。名は紹益。近江浅井家の重臣海北善右衛門尉綱親の子で幼時に出家し,東福寺で修禅。絵を狩野派に習った。1573年(天正1)織田信長の浅井長政攻略による海北家滅亡後は,武門再興を志して還俗。画事よりは弓馬の道を積極的に学んだらしい。豊臣秀吉の部将亀井茲矩は武道の師・画事の後援者であり,明智光秀の家老斎藤利三(?‐1582),真如堂東陽坊長盛(1515‐98)らは風流の友。里村紹巴は連歌の師で,五山の禅僧との交友も深かった。82年山崎合戦に敗れて磔刑にされた斎藤利三の屍を,東陽坊と謀って,夜陰に乗じ奪い,真如堂に葬った逸話がある。93年(文禄2)施薬院全宗の茶の湯で秀吉に画才を見いだされたころから,武門の志を捨て画事に専念したものと見られ,遺作もまた60歳前後から没年までのものが多い。しかし,幅広い教養人として,終生芸事を一段低く見る武門の気概を失わなかったため,作品には,武人的な鋭い覇気がうかがえる。99年(慶長4)再建の建仁寺方丈に描く《琴棋書画図》《花鳥図》《竹林七賢図》などのほか,霊洞院の《花鳥図》,禅居庵の《松竹梅図》などの襖絵は,狩野派に学んだ巨大樹木など桃山的な様式と同時に,梁楷様(りようかいよう)の〈袋人物〉の造成や,牧谿様(もつけいよう)の叭々鳥(ははちよう)に溌墨風の松を組み合わせるなど,独自の画技を展開し,象徴的で直截な自己主張を表している。また《飲中八仙図》[zAC25]風(京都国立博物館),《山水図》[zAC25]風(東京国立博物館),《楼閣山水図》[zAC25]風(MOA美術館)などは,玉[zB122]風の溌墨もまじえ,真行草の三体を会得したことを示す。宋元画に対する研鑽が深く,散聖・列仙・禅宗祖師等を描く水墨画も多い。晩年には妙心寺の《琴棋書画図》《花卉図》《三酸・寒山拾得図》など金地着色[zAC25]風の作例も残す。また,宮中や公家に出入りし,桂宮家の《浜松図》[zAC25]風(宮内庁)なども作した。友松の子友雪(1598‐1677)は絵屋的な素養を合わせてやまと絵の題材や風俗画にも活路を見いだし,《祇園祭礼図》[zAC25]風(八幡山保存会)などを描くほか,狩野派と共に禁裏の宮殿障壁画制作に参加するなど,画技の幅を広げた。その後の海北派は開祖の個性が強すぎて評価は低いが,和漢融合した独特の画風で民間を生きのび,江戸時代を通じて命脈を保った。 

消されかけた絵師(評伝・海北友松) 3
海北友松 [かいほう・ゆうしょう](1533〜1615)は、桃山時代の画壇において、非常にユニークな存在である。当時、日本で最も勢力のあった狩野派門下に居たとされながらも、その画業が歴史の表舞台に現れるのは、普通の人であれば「晩年」とも云われる、60歳台になってからのことであった。また、友松は、他の追随を許さぬ、素晴らしい大首絵の『雲龍図』様式を完成させただけではない。『丹青若木集』と云う狩野氏系図に「新意ヲ出シ墨画ヲ作ス」と記されたように、狩野派内部からも一目置かれるほどの作品を残した。彼の息子・友雪や、その孫・友竹も絵師として腕をふるっていたが、その画風が継承されたとは云いがたく、「海北派」と云う一派を成したかどうかについては異論が残る。彼の衣鉢を継ぎ、更にそれを乗り越える者が現れるまでは、江戸中期、曾我蕭白の登場を待たねばならない。
海北友松は、桃山画壇の異端であり、前衛だった。つまり、彼は年老いた早過ぎる天才であった。少しややこしいが、そう云うことである。彼の生涯を振り返ると共に、その独自性あふれる画業に迫ろうと思う。
海北友松(1533〜1615)。近江国湖北郡出身。名は紹益。友松は字(あざな)である。
父親は、戦国大名・浅井長政の家臣で「浅井家中第一の剛の者」と謳(うた)われた、海北善右衛門綱親である。斉藤内蔵介利三や、若き日の豊臣秀吉に軍法を教授したとも云われている。このことから、しばしば、海北友松の作品は「武人的」と評されるが、友松の父、海北善右衛門綱親は、天文4(1535)年1月10日、浅井亮政の多賀貞隆邸攻めにおいて討死したと伝えられる。友松、この時わずか3歳。そんな彼は、母親の手から離れて東福寺へ預けられたらしい。確かに、彼は武人の血を引いてはいるものの、何も武家的な環境で育てられたわけではない。父親と全く接点のない環境で育てられた友松を、その出自だけで「武人的」と評するのは、早計であろう。
また、彼の息子・友雪が描いた『海北友松夫妻像』(重要文化財。画賛は孫の友竹。研究者の中には、画そのものも、友竹が描いたと指摘する者もいる)の賛に「余は是れ源氏の嫡流なり。誤って芸家に落つ。願わくば運に乗じて武門を起こし父祖の志しを継ぎ、以て子孫に伝えん」と、あることを鵜呑みにして、友松の作品が「武人的」である根拠としている場合がある (それでは、なぜ、友雪あるいは友竹が『海北友松夫妻像』を描いたのか? その理由については、海北友松自身の画業とは関係ないので、後述する)。しかし、友雪の描いた絵そのものを見れば、そこになくてはならないものが欠けていることに気づくはずである。そう、それは刀である。武門再興を志す者の傍らに刀の描かれていないことが、実はすでにおかしい。
たとえば、江戸時代の絵師、葛飾北斎の出自は武家である。彼ほど生涯を絵画に懸けた者ですら、自画像の傍らには、刀を描き入れている。云いかえれば、友雪の時代から、およそ100年の時を経てもなお、武士にとって、刀の持つ意味は大きかった。友雪が『海北友松夫妻像』の賛にあるような、父の武士としての矜持を心から汲み取っていたのであれば、『海北友松夫妻像』には、刀が描かれてしかるべきであろう。その息子にすら伝わっていない武士としての矜持(きょうじ)が、果たして海北友松にあったのかどうか? 彼の作品が真に「武人的」であったのかどうか?
彼の伝記からのみ「武人的」と判断するのは、いささか短絡的と云わざるを得ない。とどのつまり、桃山時代の絵画には、総じて「武人的」な豪快さが求められたのである。いわば、時代の気風であり、流行のスタイルであった。
武士の子として生れながら、芸家に身をやつしたと云われる海北友松の前半生は、つまびらかではない。どうやら、狩野派に入門していたのは確かなようだが、いつ入門したのかも不明である。彼の残した画稿の中に、聚楽第(じゅらくだい)壁画の粉本(ふんぽん)があることから、聚楽第壁画の壁画制作に参加したのではないか? また、天正14(1587)年に即位した後陽成天皇の皇太子時代に、友松が絵の手解きをしたようだと云う記録も残されているが、いずれも確証を得ない。狩野派における友松の師承関係は、狩野派関係画伝書類から永徳(えいとく)師事説、海北家諸資料から元信(もとのぶ)師事説の2つがある。
元信師事説を取るならば、友松は少なくとも、27歳以前には、狩野派に入門していたことになる。しかし、狩野派関係の画伝書『本朝画史』には、永徳の指導によって画工となった友松は、しばしば、師の仕事を手伝わされたため、永徳画風であったと記されており、事実、現在確認されている友松の初期の画風には、元信以降の狩野派的要素が認められる。よしんば、友松が元信の存命中に、狩野派門下にいたとしても、その後、永徳の下で研鑽(けんさん)を積んだことは間違いあるまい。
それでは、なぜ、海北家諸資料には、あえて永徳師事ではなく、元信師事と記されていたのだろうか?実は、この裏には、永徳との確執が隠されており、このことが晩年の「友松様式」確立とも無関係ではなかったように思われる。
狩野派内部に口伝として残り、江戸時代中期の妙心寺『正法山誌 三』に書き留められた伝説がある。永徳風の描写を得意とした海北友松は、しばしば、永徳の作品を求めに来た者に対して、永徳には内緒で、永徳画と偽って友松自身が描いた作品を与えていたらしい。友松が冗談のつもりで描いたのか、それとも「自分は永徳と同等の実力を持つ」との矜持(きょうじ)から描いたのかは判然としないが、このことを知った永徳は激怒して、彼を破門したと伝えられている。当時、多忙な絵師は、信頼のおける弟子を使って代作させることもあった。それにもかかわらず、永徳は激怒したと云う。ちなみに、海北友松は、狩野永徳よりも10歳年上である。年上の(あるいは傲慢な?)弟子は、永徳としても扱いづらいに違いない。それとも、性格的に反りが合わなかったのだろうか? 真実は薮の中だが、そう云うことがあったかのかもしれない。
理屈ではなく、いつの世にも人間関係は存在する。そして、絵師やその作品の評価は、技量の如何にかかわらず、その人脈や政治力に左右されることがままある。近・現代の美術史の中にも、政治力の大きさだけで脚光を浴びている画家が、少なからず存在する。先の国画会の盗作画家などは、その一例と云えよう。同じく、江戸時代後期の『画事備考』にも「後年儀絶」とあるように、海北友松は、狩野派を破門されたことで、桃山画壇から黙殺されようとしていた感が強い。
同時代の狩野派の絵師に、京狩野の祖となる狩野山楽がいる。彼は友松より20歳も年下ではあるが、その父親は友松同様、浅井家の家臣だった。天正元(1573)年、主家が滅ぼされた折に、山楽は父子そろって秀吉の下へ仕えることとなった。秀吉の小姓であった山楽は、画才を認められて狩野派へ入門する。狩野山楽は、後に狩野家へ養子として迎え入れられ、永徳晩年期になると、彼の代わりに東福寺法堂天井画を描くほどの絵師となる。
破門させられた友松と何らかの関わりを持っていたとしても、それを表舞台で語ることはタブーであった可能性すらないわけではない。こう云った形で、歴史の上から抹殺されていく例は、他にいくらでもあろう。
しかし、友松は桃山画壇に足跡を残すことができた。なぜか?
天正18(1590)年に狩野永徳が、そして文禄元(1592)年に、その父である狩野松栄が、相次いでこの世を去ったからである。つまり、この段階で、海北友松は、桃山画壇の最古参となった。少なくとも、年齢的には、当時、最年長の絵師となったのである。狩野永徳の目をおもんばかって、友松を使うに使えなかった者達も、障屏画制作などに彼を起用し始める。
『華頂要略』文禄3(1594)年の条には「青蓮院尊朝法親王に五明(扇)2本進上。」と記されている。これは彼の在世中に彼の名を記した最も早い史料であり、この時すでに友松は62歳であった。彼の画業を伝える現存最古の作品は、慶長2(1597)年に描かれたとされる、建仁寺禅居庵障壁画『松竹梅図襖』(重文)である。実に、彼が65歳の時の作品であった。そして、慶長4(1599)年、彼は建仁寺本坊大方丈障壁画(重文)の制作をおこなう。大方丈内部5室に渡って展開する計50面の障屏画群は、質・量共に彼の代表作と呼ぶにふさわしい。
この後、桂宮智仁親王をはじめ皇族、公家、教養ある武家などの支持者が増える。もっとも、彼が重用されたのは、作品の質もさることながら、その年齢にも起因すると考えられる。「人生50年」の時代に、60歳過ぎでブレイクした絵師である。現代の感覚で云うと、100歳でブレイクした絵描きが、大作をガンガン描きまくるのに似ている。長生きしている彼の作品だと云うだけで、すでに縁起物で「ありがたい」のである。しかし、そう云った数数の注文は、彼の制作魂に火をつけ、70歳を過ぎてから、それまで手がけたことのない、様様な画題に挑戦させていく。凄まじい精力である。慶長7(1602)年には、因幡国鹿野城主亀井茲矩のために『飲中八仙図屏風』を描き、同年、八条家の求めに応じ『山水図屏風』を描く。
また、桂宮家に伝来した『浜松図屏風』や『網干図屏風』は、最晩年の作例であるが、これらの作例は、かつて挑戦したことのない大和絵的主題に基づく金碧画であった。友松は最晩年に至るも、飽くなき挑戦と研鑽を続けたのである。
こうして彼は、元和元(1615)年、83歳の生涯を閉じるまで、悠悠自適の個人的制作を貫き通した。
また、海北友松は、茶人としても歴史にその名を連ねている。戦国大名でもあった茶人・古田織部の元で、茶の湯を嗜(たしな)んだ友松は「古織の四哲」の1人に挙げられているほどである。同じ古田織部の茶の湯の弟子に、石田三成がいる。彼は慶長3(1598)年に友松を随伴し、筑紫へ下向している。途中、厳島神社へ寄り『平家納経』を観るなど、優雅な旅だったようである。武家との関わりにおいて、友松は、かの剣豪・宮本武蔵に絵の手解きをしたとも伝えられている。それ以外にも(時代は前後するが)、海北友松の交遊録に欠かせない武家が、もう1人いる。
斉藤内蔵介利三(1538〜82)である。彼は明智光秀の配下で、天正10(1583)年の変において粟田口で処刑される。前述した『海北友松夫妻像』の賛には、処刑された斉藤内蔵介利三の首を、友松が東陽坊長盛と云う男と2人で奪回し、手厚く葬ったと云う逸話が残されている。友松は、斉藤内蔵介利三を手厚く葬っただけではなく、残された彼の妻子の面倒を見てやったと云う。実は、これが『海北友松夫妻像』の賛を描いた、彼の孫・友竹の運命を変えることとなった。斉藤内蔵介利三の末娘は、のちに徳川家の大奥へあがり、春日局(1579〜1643)として出世する。この春日局が、一介の町絵師と成り下がっていた友竹を、時の将軍・家光の元へ召し出し、御用を申しつけられるようにしたと云う。時の縦糸と人の横糸は、時おり信じられないような歴史を織り上げる。
このことに因んで作成されたのが、海北家の系図であり、前述した『海北友松夫妻像』である。徳川家康が征夷大将軍になるために系図を捏造(ねつぞう)したように、多くの人人が先祖を立派に褒め上げ、より良い家系図を捏造したと云う。つまり、どれだけ先祖が立派であったかを示すことが、信頼へと繋がったのである。そのため『海北友松夫妻像』の賛には、友松の父親が戦死したのは、天文4(1535)年の浅井亮政の多賀貞隆邸攻めと云う「小競り合い」ではなく、天正元(1573)年の主家滅亡と云う「一大事」の折に、父兄も運命を共にしたと書かれたのであり、源氏の嫡流で武門再興を願っていると書かれたのである。全てが嘘偽りではないはずだが、大分誇張されて書かれたのも事実であろう。云いかえれば、海北友松は誇張されてなお、その重責に耐えられるほどの画業を残した絵師だったと云えよう。
海北友松は、非常にユニークな絵師である。
当時、一流の絵師たちは、あらゆる画風・画題をそつなくこなすことが必須条件として備わっており、なおかつ、独自性・革新性を持ち併せたがために、時代の寵児(ちょうじ)となった。しかし、海北友松には、少なくとも、狩野永徳や長谷川等伯のような器用さは見られない。
後世、友松は梁楷(りょうかい)様の水墨(草体)を得意とすると記されたように、減筆体で描かれた水墨画においては佳品が数多く残されているものの、海北友松筆と云われる、フリア美術館所蔵の『琴棋書画図』に見られるような、元信様式の真体で描かれた作品の運筆は「フツーに上手いかな?」程度で、それ以上の作品とは思えない。そう云った意味では、決して上手な絵師だったとは云えないのである。
彼が最も得意としたのは、水墨画であり『雲龍図』であった。特に、この『雲龍図』の突然変異的な素晴らしさは、特筆に値する。龍の顔面を大きく捉え、カッチリとした濃淡で表現された彼の大首絵的な『雲龍図』は、他の追随を許さず、時の朝鮮国王に贈答され、大変喜ばれたと云う書状すら残されている。そんな友松の描いた建仁寺大方丈の襖絵『雲龍図』(重文)に刺激を受けたと思われる長谷川等伯は、その翌年の慶長4(1599)年に、友松の作風を意識した『竜虎図屏風』を制作している。友松の『雲龍図』が与えた衝撃の大きさが判ろうと云うものである(蛇足だが、東洋における竜虎のモチーフは、西洋ではゾウとサイで表現されるらしい)。
友松は「新意ヲ出シ墨画ヲ作」った絵師である。それでは、彼の生み出した「新意」とは一体どのようなものだったのだろうか?
かつて、狩野元信は、真体の水墨画に淡彩を施すと云った「新意」を創出した。室町時代まで日本絵画のアカデミズムを担ってきた土佐派の作品を見れば判るように、基本的に彩色を施す場合は、平面性が全面に押し出されていた。墨の濃淡による空気遠近法は確立されていたが、色彩による空気遠近法は、ほとんど試みられていなかったのである。それを初めて試みたのが狩野元信であった。「新意」とは、このように創出された。海北友松の創出した「新意」とは、『真体』の人物を『草体』の風景中に配し、作品によっては淡彩を施す、と云ったものである。「何だ。それだけのことか」と思われるかもしれないが、これは明らかに、桃山画壇、東洋絵画の空隙をついた「新意」と云える。
友松が、どの程度意識していたか定かではないが、それまでの水墨における空気遠近法は、前景に焦点を当て、中景、遠景が次第に霞んでいく表現であったのに対し、友松の作品は『草体』の風景中に『真体』の人物を配した。これにより、中景に焦点が当たり、前景、遠景が霞む結果となった。それは、金碧障屏画の金箔が生み出す幻視的な遠近感に匹敵する、独自の絵画的法則に基づく空間表現・遠近法の開拓を意味している。日本絵画は、ピンホールカメラのレンズから、自分の撮りたい対象にのみピントを絞り合わせることのできるレンズを獲得したと云える。しかし、当時、この重要性に気づいた者は、ほとんどいなかったようである。この「友松様式」の確立により、それまで自然(風景)の一部分として存在していた人間の姿は強調され、他の存在よりも優位に立った。
詭弁(きべん)を弄(ろう)するならば、これは、宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』において「シシ神殺し」のモチーフで表現された、日本人の「自然崇拝主義」から「人間中心主義」へと移行した桃山時代の空気を、敏感に感じとっていた結果とも云えよう。
あるいは、この「友松様式」表現と、伝統的な細画による景物画・風俗画の混交が、初期肉筆浮世絵の誕生を促(うなが)したのかもしれない。また、この「友松様式」は、これまで看過されていた表現に改めて目を向けさせ、海北友松の伝記に「袋人物の創始者」とまで記される原因をつくる。
袋人物とは、禅宗絵画(道釈画)に見られる表現で、衣紋を強く太い線で描いた人物像を指して云う言葉である。特に『達磨図』などの表現に多く見られ、格別新しいものではなかったはずである。むしろ、この袋人物の第一人者には、室町時代の絵師・雪村が挙げられる。雪村の作品を見ていただければ一目瞭然であり、海北友松も、彼の影響を受けたと考えられる。やはり、詭弁を弄するならば、この衣紋表現も、初期肉筆浮世絵、懐月堂派の諸作品に影響を与えたと云えないこともない。
こう云った海北友松の「新意」創出の影には、狩野永徳や狩野派に対する反骨精神があったものと推察される。
前述したように、海北友松は元来、器用な絵師ではない。彼の「新意」創出は数多く制作していくうちに発展・展開したものではなく、むしろ理詰め、概念先行型であったと考えられる。それこそ、狩野元信などが「新意」を創出した原因を考えた上で、残された可能性を取捨選択していったのであろう。これこそ茶人・海北友松の真骨頂ではなかろうか(禅的要素を色濃く持つ茶の湯は、概念先行型の芸術を数多く生み出したことで知られている)?
しかし、皮肉なことに、彼の技術が、彼の発想を凌駕(りょうが)したとは思えない。彼は決して下手な絵師ではなかったが、オールマイティな絵師でもなかった。中途半端に上手かったことが、ある意味、災いしたとも云える。彼の発想は、非常に大きな可能性を秘めていた。もしも、彼に元信や永徳ほどの技術があれば、曾我蕭白級の作品をものにしていたであろうことは想像に難くない。
曾我蕭白は、およそ日本最高の運筆技術を持ち、なおかつ桃山絵画、殊、海北友松の作品をかなり意識していたことが、残された多くの作品から窺(うかが)える。曾我蕭白の作品『雲龍図』や『商山四皓図屏風』(袋人物表現の白眉。白隠の禅画からの影響も指摘されているが、あるいは白隠の禅画も含めて「友松様式」の影響下にあったのかもしれない)からは、海北友松の理想郷、その完成形を見てとることができる。
また、もしも、友松がもっと下手くそな(自由な)絵師だったとしたら、日本における南画・文人画の開拓者たり得たかもしれない。彼の運筆技術が、彼の着想ほど狩野派から自由であったならば、もっと自由な表現が可能だったように思える。最晩年になって彼は、むしろ苦手であった金碧濃彩障屏画を手がけるようになる。草体の風景に真体の濃彩人物を配するその作品は、近代の日本画に肉薄したと云える。東京国立博物館所蔵の唐美人を配した『琴棋書画図屏風』などは、近代の日本画と見紛うばかりの出来栄えである。
「友松様式」は、期せずして、岡倉天心や横山大観、菱田春草などが推進した「朦朧(もうろう)体(=輪郭線を描かない日本画の技法)」の概念の足元に立っていたのである。無論、近代日本画における「朦朧体」へ至るには、西洋的陰影法に拠る空気遠近法と出会う必要があった。しかし、彼の「友松様式」の確立が、もっと早い時期であったならば、どう云う展開を見せていたであろうか? 詮無きこととは云え、甚だ気になるところではある。 
桃山画壇と海北友松
桃山時代と聞いて、皆さんはどんなことを頭にうかべるでしょうか。たとえば、織田信長とか豊臣秀吉、あるいは彼らの死後に政権を握り、永い安泰の時代の基礎を築いた徳川家康など、武士たちの姿が目にうかぶのではないでしょうか。
この桃山時代は、そのように日本の国のかじ取りを誰がするかということで戦乱に明け暮れた時代でもあったのですが、同時に、日本に新しい文化が花開いた時代だったともいえるのです。
信長、そして彼が明智光秀に暗殺されてからは秀吉に仕えた狩野永徳(かのうえいとく)という絵師がいます。狩野家は、永徳の曽祖父にあたる正信、祖父の元信などが室町の足利将軍の御用をつとめていましたが、足利将軍が滅びてのちも、永徳が信長や秀吉に仕えることによって、その流派は強大な力を温存したのです。しかも、今にのこる「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」(宮内庁三の丸尚蔵館)や「桧図屏風(ひのきずびょうぶ)」(東京国立博物館)などが示す、荒々しくて雄大な永徳の画風は、進取の気象に富んだこの時代の気風とぴったり合って、この時代の人びとに歓迎されたのでした。
けれども、この永徳的画風の流行に対して快く思わない人びともいたようです。その代表的な人物が、豊臣政権でも重要な位置にあり、茶人としても有名な千利休でした。外面の派手さを極力拝し、内面のゆたかさを重んじるわび茶を主導した利休にとって、派手さを売り物にしているようにさえ見える永徳の画風は、正反対の美意識でした。そこで、利休は長谷川等伯という画家に白羽の矢を立てて、自分の美意識の代弁者に仕立てあげようとします。等伯は、当時としては田舎の能登に生まれ、30代の半ばごろに上京して、中国の宋や元時代の水墨画を勉強していた画家でした。
等伯は利休の思いにこたえ、ついに日本水墨画の傑作中の傑作といわれるようになる「松林図屏風」を描きました。
永徳は、こうした出来事に危機感を覚えます。狩野派の存続すらあやういと彼は考えたようです。そうこうするうち、永徳は40代半ばという若さで亡くなってしまいます。強い力で狩野派を引っ張っていた永徳の死によって、狩野派は混乱状態におちいり、秀吉の長男の棄君(すてぎみ)が数え3歳で死んだために建てられた祥雲禅寺の障壁画の仕事も、長谷川派にとられてしまいます。ただ、智積院に今にのこる長谷川等伯の絵が永徳風であるのは、皮肉というほかありません。
等伯とは別に、狩野派と対抗し得る絵を描いていたひととして、海北友松(かいほうゆうしょう)を挙げるべきでしょう。
友松は、もともと武士として生まれたひとでした。海北家は近江の浅井家の家臣でしたが、浅井長政が信長に滅ぼされたとき、主君とともに殉じたのです。友松は、たまたま京都の東福寺で喝食(かつじき/僧侶の世話をする稚児)として暮らしていたため、難を逃れたというわけです。
友松は永徳に絵を学んだようです。永徳風の人物を描いた若描きの屏風絵なども、現在のこっているので、そのことがわかります。
永徳の死後、友松は自分自身の画風をつくりあげてゆきます。建仁寺の大方丈に描いた「山水図」「竹林七賢図」「琴棋書画図」「雲龍図」「花鳥図」のぼう大な障壁画は、まさしく友松そのひとの世界をかたちづくり、「花卉図(かきず)」「三酸・寒山拾得図」「琴棋書画図(きんきしょがず)」などの巨大な妙心寺屏風も、他の画家の追随を許しません。
しかし、友松は死ぬまで海北家の再興を望んでいました。画家としてではなく、武士としての海北家を再興させることを夢見ながら、桃山という時代を生きつづけたひとだったのです。本意ではない友松の作品が、あれほど素晴らしい光を放っているのは、不思議といえば不思議ですね。 
狩野山楽と海北友松
「狩野山楽(かのうさんらく、1559-1635)」と「海北友松(かいほうゆうしょう)」。どちらも武士の血が流れています。
山楽は木村重頼といい、少年時代は後に永徳(えいとく)の弟子となって、秀吉お抱えの絵師となります。伏見城の障壁画の多くはこの山楽が手がけています。しかし徳川の世となってから山楽は居場所をなくしますが、後に許され、狩野宗家の探幽(たんゆう)らと共に仕事を徳川家から与えられることもありました。しかし山楽は養子の山雪(さんせつ)と共に京に留まり、後に「京狩野」と呼ばれるようになり、主に寺院からの仕事を請け負うようになります。
また海北友松は元、浅井家の重臣筋の生まれで、浅井家滅亡の後は出家して、少年時代を東福寺で過ごし、後に画家として大成し、建仁寺や妙心寺など禅宗寺院に数多くの作品を残しています。また友松は明智光秀(みつひで)の重臣、斎藤利三と親友で、山崎の合戦後はその娘「ふく」を引き取り、親代りに面倒を見たそうです。その「ふく」こそが、後の「春日局(かすがのつぼね)」です。 
桃山時代の水墨画に海北友松が与えた影響
 「ふくろ絵」と呼ばれた友松の画法について
序論
日本絵画史では、16世紀初頭に狩野元信(1476〜1559)が出現し、永徳(1543〜1615)がその方向性を飛躍的に発展させ、桃山絵画の特色は狩野派の緒家によって確立された。
海北友松は、狩野元信にその画法を学び、独自の画法を確立した桃山時代を代表する画家である。しかし、友松は、近江浅井家の重臣・海北綱親の五男として生まれ「武人」でもあった。幼少のころより、武家に育つ環境からお家騒動を避ける為に京都の東福寺に出家した。41歳にして還俗し、海北家再興を志すが果たせず、その後画家として大成することになる。
なぜ友松は、自己の志を捨て、画家への転進を果たしたのか?彼の人生が、その画風にどのような影響を与えたのか?今回の作品研究の中心ともなる彼の代表作である『群馬図屏風』を中心に述べてみようと思う。
第一章 友松とふくろ絵
第一節 ふくろ絵とは
友松の画を語る際に、まず忘れてはならないのが「ふくろ絵」の存在である。世称袋絵者始祖是成(世に袋絵と称す(もの)始祖これなり)谷文晁(1763-1840)はその著『本朝画纂』の中で海北友松(1533-1615)の伝にこう記している。そしていま、友松の人物画を指してふくろ絵といい、ふくろ絵、と言えば友松のそれをさすことが定着している。友松の人物画というと、建仁寺本坊襖絵の『竹林七賢図』の巨大な人物画が有名である。等身大を優に超える人間の身体を一気に描きあげたこの画は、友松人物画の代名詞となり、また「ふくろ絵」の代表作となっている。では、この絵が後世、そのように呼ばれる所以はどこにあるのであろう。
第二節 ふくろ絵の成り立ち
では、何故、友松は、後世「ふくろ絵」と言われるような独特の作風を残したのだろうか?友松は、狩野永徳の師事の下で画家として大成したが、その流派をそのまま継承したのではなく、中国宋元画を直接的に学習し、その技法を取り入れて独自の作風とした。同時代の禅と水墨画の関係をみてみたい。
第三節「ふくろ絵」考察の変遷
友松は、日本水墨画の第一歩を築いた明兆に習い、その後、玉潤の絵に影響を受けたとされる。友松は玉潤から省略画法を学び、それを人物画に用いたのではないだろうか。であるのなら、明兆風の絵、つまり、狩野派の流派を継承しつつ、後世「ふくろ絵」と呼ばれる画法が生まれてきたと解釈ができるのではないか。
第二章「群馬図屏風」に見られる友松の表現技法
さて、『群馬図屏風』は、勢いのある墨筆によって五頭の馬が描かれ、背景の山や滝がさらに馬の平穏な表情を際立たせているかのように感じる。この屏風の特徴を配慮した図柄の配置は注目すべきところである。ここでは、『群馬図屏風』を一扇ずつみることで、友松が描きたかったものは何かを考察する。この作品と同時代の画家が描いた作品と比較することで、さらに深く見てみようと思うのである。
第三章 海北友松の功績
第一節 友松と同時代の画家との相違
友松が生きた桃山時代の文化的な特徴として、豪華・雄大な作風のものが多い。これは、この時代に、新興の武士・豪商の生活を反映して新鮮味豊かで豪華な美術工芸が発達したことや、仏教色がうすれ、現実的になったことがあげられる。また、富と権力を集中した統一政権のもとに各地の経済・文化が交流し、また海外との往来も活発であったためである。そのひらかれた時代感覚が文化の上にも反映されて、新鮮味あふれた豪華・壮大な文化をうみだした。海北友松をはじめとする武人文化人が輩出したのも、そういった時代背景に後押しされた結果なのであろう。桃山時代に活躍した画家の作品と比較して、さらに友松の画風の類似点や相違点をあげ、特徴をみてみたい。
第二節 海北友松の作風
友松の生きた時代は、戦国のすさんだ中で生きなければならない武人たちの心の慰みとしての華やかな画、または能を舞うことが発達するわけだが、そういった中で、たとえ出家の身であろうと武人の血を引く者としての心得が備わっていたのであろう。そういった武士として生きた友松の画には武士の魂のあり方を示し、それが、見るものを圧倒するものである。友松の作品を何点か上げ、墨の使い方、濃淡の手法などを見ていきたい。
第三節 海北友松が水墨画に与えた影響
友松の作品は多く残っており、その画法としては、墨画と着色画の両方があり、特に晩年には金碧画にも傾倒することとなる。しかもその中にも墨画の特徴を上手く生かし、豪華さの中にも、静けさを上手くあらわしている。また、彼が同時代、あるいは後世の画家に与えた影響は、第一章にて記した「ふくろ絵」を除いては、知られるところではないのだ。その作風が、桃山時代後期から江戸時代初期にかけて後世の画家にどのように影響を及ぼしたのか。
結論
『群馬図屏風』を通して友松の描きたかったもの
武人画家と言われる友松はこの作品を通して、私達に何を語りかけるのか。 
海北友松と禅宗̶ 禅宗祖師図制作の意義と動機
安土桃山時代を代表する水墨画家の1 人として知られる海北友松の作品の、大きな特徴の1 つとして挙げられるのが、筆数を減らし対象の形態を簡略化した、略筆による人物画である。同時に彼は幼年期から京都五山の1 つ、東福寺に入寺し、還俗したのちも参禅して居士号を持つなど生涯禅宗との関わりが深い人物であった。
その友松は最晩年に、自らが得意とした減筆体による、禅宗の公案を題材にした人物画である、禅宗祖師図を多く制作している。これらは押絵と呼ばれる、屏風や襖に貼り付ける小品絵画として描かれ、多くは六曲一双に12 枚の押絵を貼りつけた、押絵貼屏風と言う形式で飾られた。
晩年期に至り、このような禅宗祖師図を数多く制作した理由とはどのようなものであったのか。また同時に、それまでの略筆人物画と一見して異なる画体で描かれる禅宗祖師図は、彼の画歴の中でどのような作品として位置づけられるのか。
筆者はその制作の背景には、友松の若年時からの禅宗との関わりと、晩年期の友松との禅宗僧侶との交友関係があるものと考え、まず第1章第1 節において、友松の人生とその作品の概略を述べている。
友松は、本来近江の武家である海北家の子息であったが、幼い頃に父兄が戦死し、京都五山の一つ東福寺に入寺した事が海北家に残る資料に記されている。以後、60 代になり、京都の禅宗寺院に得意とした水墨画による大作を残し始めるまでの前半生は定かでないが、画家として盛んに活動しはじめてからも、参禅して居士号を得る、茶道に親しむなど禅宗との関わりが深かった。
同時のその作風は、60 代以後、得意とする墨画のみならず金地著色の大作にまで展開されていく。しかしその最晩年の80 代には、論において扱う國華894 号掲載の『禅宗祖師図』(以下、國華本)、静岡県立美術館蔵『禅宗祖師・散聖押絵貼図屏風』(以下、静岡本)の2 作に代表される、略筆による押絵の作品が増加する。友松は、静岡本を制作して2 年後の元和1 年(1615)に83 歳で没した。
第1 章第2 節では、友松の禅宗僧侶との交友について述べている。大作が多く禅宗寺院に伝わっている事や、『瀟湘八景図』や國華本に多くの五山の僧が着賛している事から、生涯通じてその関わりは深いものであったと見られる。また、彼ら禅僧や、中年以後に出入りしだした公家社会の知識人たちが、晩年の友松の作品を受容し、画家としての活動を支える大きな層であったと考える。
第2 章では友松晩年期の禅宗祖師図の具体相を明らかにするために、第1 節で國華本と静岡本の画題と内容、そして2 作について論じた先行研究について述べている。第2 節では、國華本と静岡本に着賛した僧侶たちの経歴を述べ、友松最晩年期の彼らとの交友について述べている。また静岡本は僧侶に着賛を依頼した人物が山名禅高と言う、豊臣秀吉や徳川家康の御伽衆を務めた文化人である事が銘記されているため、彼の略歴も述べ、晩年期の友松が禅宗の知識を理解する人物と交流を持っている事を述べている。
第3 章においては、最後期の禅宗祖師図が彼の画歴にとっていかなるものであるかを探るために、先行研究において友松本人のオリジナリティが存在すると述べられた静岡本を中心に取り上げて比較検討による考察を行った。
第1 節ではまずその具体的な作品数を述べ、その後晩年の大量に残された押絵などの小品絵画の中にも見られる画風の変遷を、同じ略筆によって描かれた人物画と比較する事で検討している。それは概ね線による描写と細部の書き込みから、ぼかしや垂らし込みによる面的表現に強調のための濃墨を重ね、他の部分の描写を極めて少なくすると言う、より簡略化された空間構成への変化だと言える。
また、押絵貼屏風と言う形式に特徴的な、2 枚1 組や3 枚1 組で画題を組み合わせて配置する構成が静岡本においても行われている事に注目し、その対応についても述べている。いずれにせよそれらの構成は、賛が存在する事も含めて、観者が画題を理解できるだけの禅宗に対する知識を有している事が前提になっていると考える。
第2 節では、禅宗に対する知識を有した友松が、禅宗祖師図に描かれた故事に対して独自の解釈を行なっている部分が無いかを、他派の画家の描いた禅宗祖師図と比較する事で検討した。
狩野派の画家による禅宗祖師図や、長谷川等伯による禅宗祖師図と比較すると、友松の公案の場面選択には、2 枚1 組で対応する隣接した画題と共通する部分を持つ場面が選ばれていると言う点や、その顔貌表現には、内容を正しく理解した上でのその場面に似つかわしい描写が行われていると言った点から、友松の禅宗祖師図には禅宗の故事への理解から来る描写や構成が行われていると言える。
以上に述べた事から、友松はその晩年期に、自らの若年時から馴染んだ禅宗の知識を理解し得る教養ある人々と交流を持ち、その中で多くの小品絵画が受容されていた。それが晩年の彼の主要な制作活動であった。
それらの作品の中でも、禅宗の知識を込められるが故に、禅宗祖師図と言う題材は友松の得意として、数多く制作され、画題を理解する事が出来る人々に受容された。
同時に、禅宗祖師図とは友松の画歴において、その題材への理解から来る要点を掴んだ省略を行うと同時に、画題の内容に沿った描写を行えたために、簡潔な構図でありながら画題はより明確にして描く事が出来た略筆人物画と言う意義を持つと、筆者はそう考える。  
小谷落城の生き残り〜海北友松の熱い思い
天正元年(1573年)8月28日、織田信長による攻撃で、城主・浅井長政が自刃し、小谷城が落城しました。
天正元年(1573年)8月20日、越前の朝倉義景を自刃に追い込んだ織田信長は、8月27日、孤立した小谷城への攻撃に主力を投入します。
羽柴(豊臣)秀吉の怒涛の攻撃で城内が分断され、その日のうちに父・浅井久政が自刃、そして、翌8月28日、城主・浅井長政の自刃によって小谷城は落城・・・浅井氏は滅亡しました。
この小谷城・落城の日、城主・浅井長政と運命をともにした海北綱親(かいほうつなちか)・・・彼は、「家中第一の剛の者」と称された浅井家の重臣で、近江源氏の流れを汲む武門の家柄の人物でした。
赤尾清綱、雨森清貞とともに浅井(海赤雨)三将と恐れられた綱親も、この日の落城にとともに主君に殉じ、長男もろとも命果てました。
しかし、綱親には、他にもまだ、紹益という息子がいました。
幼い頃から京都・東福寺に預けられていたため、落城の難を逃れた紹益は、父や兄の死を知ると、すぐに還俗(仏教の道に入っていた人が、一般人に戻る事)して、海北家再興のために奔走するのです。
弓・馬・剣と武芸に励むかたわら、狩野永徳(永徳の祖父・元信とも)に教えを乞い、絵画の修行もし、里村紹巴(じょうは)には連歌を習い、茶の湯にも親しみます。
ただし、この一連の修行・・・あくまで、前者の武芸のほうが主流で、後者の芸術面の修行は、彼にとっては、名のある武将と交流を持つための手段であり、自分自身の価値を高めるためのステップだったのです。
力のある武将と親しくなって、自分の事を認めてもらう事ができたら、お家再興の道も、より早くなるかも知れませんからね。
おかげで、明智光秀の家老だった斉藤利三や、天台宗の僧侶・真如堂東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)らとも、かなり親しくなっていたようです。
利三が、かの山崎の合戦で敗れた後に処刑された(6月11日参照>>)時は、東陽坊とともに、その遺体を奪い、真如堂へ埋葬するなんて事もしています。
しかし、世の中、思い通りにはいかないものです。
文禄二年(1593年)、紹益60歳の時、施薬院全宗(やくいんぜんそう・秀吉の側近の医者)の開いた茶会で、今や、天下人となった豊臣秀吉に、その絵画の才能のほうを見いだされたのです。
その時から彼は、絵画の道に生きる事になりました。
妙心寺の「花卉図」や、建仁寺の「雲龍図」「竹林七賢図」などの傑作で知られる、桃山時代〜江戸時代初期を代表する絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)が、その人です。
そんな彼は、一般的には、秀吉に画才を認められてからは、画業に専念して武士への道を諦めたと言われていますが、どうやら、そうではなさそうです。 ・・
・というのも、友松の孫にあたる海北友竹の「海北友松夫婦像」という作品があるのですが、その賛(絵に題することば)には、友松自身の言葉として・・・
「近江源氏の流れを汲む武門に生まれたにも関わらず、こともあろうに芸家に身を落としてしもた・・・もしも、まだ、この先にチャンスがあるなら、何とかして海北の武門復興したい」てな事が記されているのです。
つまり、彼は、絵師として成功した後でも、まだ、お家の復興を諦めていなかったという事です。
彼の作品は、簡素な水墨画からも、煌びやかな金箔画からも・・・いずれも力強く、息を呑むほどの鋭さ、野心、意気込みを感じとる事ができます。
それは、きっと彼が、元和元年(1615年)の6月2日に、83歳で亡くなるその日まで、武門・海北家への思いを捨てなかった・・・その気迫が、作品の中に込められているからこそ、独特の美しさが感じられるのでしょう。
彼のお墓は、その遺言に従って、真如堂の斉藤利三のお墓の隣にあるそうです。
お家再興を願って寺を飛び出したものの、武士にはなりきれなかった友松の、最初で最後の武功・・・それが、親友・利三の遺体の確保にあったのかも知れません。
利三の娘で、後に大奥で実権を握った春日局(かすがのつぼね)が、友松の妻・妙貞と、息子・忠左衛門を優遇するのも、そこに、武門としての熱い思いを感じたから・・・というところではないでしょうか。 
栄西と建仁寺 展

京都最古の禅寺建仁寺の創建は建仁2年(1202)、京都五山第三位の格式を持つ寺として知られています。日本に禅宗を伝え広めた栄西が開山し、今年は栄西が亡くなって800年縁起にあたり記念展覧会が開かれています。
「 栄西ハ臨済宗デ〜 道元ガ曹洞宗 」、
その昔試験のために丸暗記したフレーズが懐かしくよみがえります。知識とも言えないこれだけのことしか知らないで、桜が散り終えてもなお賑わう上野公園を通り抜け東京国立博物館に向かいました。これからトーハクの建仁寺展に行くと言って分かれた友人が先日京都で建仁寺を訪れたそうです。「特別展といっても滋味だから混雑していないでしょう」と言う言葉に見送られましたが、どうしてどうして展示物を目の前では見ることができない思った以上の入場者です。若い人達も多く、歴女、仏像ガール、歴士君・・・思う以上にその人口は多いようです。 
序章 禅院の茶
四頭茶会
栄西が日本にもたらした文化の一つに茶があります。会場に入ってすぐに建仁寺のお茶席が再現されていました。毎年栄西の誕生日の4月20日に四頭茶会が開かれます。4人の正客と相伴客各8人、計36人の禅宗の茶会の原型である独特の作法のお茶会で、再現茶室頭上のビデオでもその様子が流されていました。僧侶が右手に菓子と左手に茶碗を持ち茶席に入ります。あらかじめ抹茶を入れた天目茶碗を客に配り、客と向かい合って茶を点てます。両の手に物を持つことや立ったままのお手前など、お茶の礼儀作法と真逆だと思うのですが映し出される僧侶のたたずまいは美しく違和感はありません。栄西は日本に茶の習慣を伝えたとされる「茶祖」として知られています。今回の再現展示の掛け軸中央の祖師栄西の像と両脇の龍そして虎、卓の上に飾られた香炉・花入・燭台などのしつらえは、すべて実際に使われているものだそうです。茶の眠気覚ましの効用は座禅にうってつけで、栄西が伝えたお茶の文化は後に千利休のもとわが国独自の茶の湯文化に発展して今に至っているということです。 
第1章 栄西の足跡
栄西像 鎌倉時代13-14C 神奈川 寿福寺
栄西は1141年備中吉備津神社の神主の子として生まれました。11歳にして仏教を学び、13歳になると比叡山に登り天台密教を修めた後、正しい仏教を求め2度中国にわたり厳しい修行の果てに禅をきわめ日本に持ち帰りました。この時代栄西が禅の教えを広めようとしたときの苦労は大変なものでした。しかし、禅は天台宗の教えに背くものではないとその重要性を訴え、栄西の熱い信念はやがて幕府や朝廷にも届いてゆきます。帽子をかぶっていると思いましたが実は頭で、勉強しすぎて頭が大きくなったと言われているそうです。
興禅護国論和解   高峰東峻著 江戸時代18C 京都両足院
建仁寺では「栄西」を「ようさい」と読むようです。これにはどうしても馴染めずガイドフォンから聞こえる「ようさい」には、「えいさい」のイメージが付きかねましが、それには左の書物の「イヤウサイ」という振り仮名に基づいての根拠があったのです。「えいさい」と読んでも間違いではないということでしたが、やはり「えいさい」のほうがしっくりおさまります。
勅額 扶桑最初禅窟 後鳥羽上皇筆 安土桃山〜江戸 16〜17C 福岡 聖福寺 
栄西が55歳にして開いた日本初の禅寺それは福岡の聖福寺です。当時京都では新しい禅宗への風当たりは強く、宋に渡る前に住み慣れていたこの地に門を構えました。その聖福寺の山門に掛けられていた額「扶桑最初禅窟」。扶桑とは日本のことでわが国最初の禅宗寺院を讃えています。栄西は45歳のとき後鳥羽天皇の命を受けて雨乞いを行っています。すると指から光明が放たれて雨が降り、雫には栄西の姿が現れたといいます。
送海東上人帰国図 鍾唐傑・竇従周賛 中国南宋時代1194頃 神奈川 常盤山文庫
日本からの留学僧が帰国に際し友人から贈られたものだそうです。送られた日本僧は栄西の他、俊芿・重源といった説があり、いまだ特定されていません。賛者である鍾唐傑・竇従周が日本僧と接点を持った時期として可能性が最も高いのが1194年ごろで、この時期は朱子学、禅宗など本格的に日本に入ってきた時期と重なっており、美術史・仏教史などにおいて非常に重要な作品ということです。松の下に見送る数人が見えます。
喫茶養生記 巻之上 栄西著 南北朝時代14C 神奈川 寿福寺
1168年、栄西はかってあの鑑真和上の住んだという中国五山の一つ阿育王寺(あしょかおうじ)に向かいます。道中暑さで憔悴した栄西に店の主人が差し出したお茶を飲むと、茶の苦味で心臓の働きが強くなり具合が良くなったそうです。中国で盛んにお茶が飲まれている様子を目の当たりにした栄西は喫茶の風習を日本に広めようと茶の種を持ち帰り栽培を奨励します。時を経て栄西は71歳のときそういう茶の効用を述べた「喫茶養生記」を記しました。茶を飲む風習は平安時代に伝わっていましたが、それは茶葉を煮出す飲み方で栄西が紹介したのは当時の中国で主流だった抹茶式の飲み方でした。栄西はこの日本初となる茶の本を鎌倉幕府三代将軍源実朝に捧げていますが、禅宗を広く伝える糸口として先ずは茶の文化を紹介したとも言われています。喫茶とは何とハイカラな、思わずカフェーでコーヒーを連想してしまいます。あの時代一部上流社会に限られていた飲み物であったお茶はやはりハイカラだったことでしょう。
国宝 誓願寺盂蘭盆一品経縁起 栄西筆 平安時代1178 福岡 誓願寺
中国南宋時代の黄庭堅の流れをくむ洗練された栄西の直筆。栄西は14歳の時に比叡山で出家し、18歳で優れた記憶力と理解力を獲得する手法を授かり密教を学んだことは前に記しました。やがて博多に赴いた栄西は、そこで海商を営む李徳昭(りとくしょう)に禅宗の盛んな中国の仏教事情を聞き宋へ渡ることを志します。1168年4月、商船に乗って宋に入り半年ほどで帰国した栄西は、福岡の聖福寺で経典の研究と著述に専念しました。そして寺の起こりを「誓願寺創建縁起」に記します。その3年後聖願寺で一品経の書写が行われました。一品経とは法華経28本を一品ずつ分担して書き写すもので、栄西は多くの人々の尽力を讃え、中国から輸入された華麗な唐紙にその様子を記します。それが「誓願寺盂蘭盆会一品経縁起」です。 
第2章 建仁寺ゆかりの僧たち
蘭渓道隆坐像 康乗作 江戸1676 京都 西来院
鎌倉時代半ばに中国から来日した建仁寺11世住職蘭渓道隆。母国宋での厳しい禅のあり方を日本に根付かせ、建仁寺だけでなく日本の禅の歴史上重要な人物だそうです。自筆の書には規律を破ったものには長時間座禅をさせるなどその一端が記されているように、蘭渓のもと建仁寺は純粋な禅の道場となりました。目は落ち窪み、頬骨は張り、受け口のとがった顎、生前に描かれた絵とも共通する特徴があり、作者は江戸幕府に重んじられた康乗で定朝や運慶などの高名な仏師の流れをくむ格の高い仏師の一人です。この展覧会開催に当たって大発見がありました。この像の頭を取り外した所体内に鎌倉時代の作らしき別の顔があり、首より大きいために取り出せないそうですが顔立ちはこの像と似ているということです。 幾度か火災を潜り抜けた古い蘭渓道隆像の顔を参考に江戸時代この像が作られたと考えられているという解説がされていました。写真パネルを見たとき、木像の中から蘭渓道隆の骸骨が発見されたのかと早合点してしまいましたが、色や質感がミイラを思わせました。ナンダ木像頭部かと一寸がっかりしながら、しかし取り出せないものをどうして入れることができたのか???謎です。
九条袈裟 円爾弁円所用 宋時代 東福寺
袈裟が陳列台に並べられているいくつかの袈裟の内、どうしてもミシン目のようにしか見えないものがありました。係員に受付で聞くようにいわれてそのつもりでいたのですが、帰るころはすっかり忘れてしまいました。
中巌円月坐像 南北朝時代14C 京都 霊源院
激動の南北朝時代に寺を率いた建仁寺42代住職中巌円月。まるで生きているようにリアルなことから、本人の生前または没後間もなくの制作と考えられているということです。鎌倉時代末、中国の伝統に習い、京都の禅寺は南禅寺を筆頭に格付けされました、京都五山です。建仁寺もその一つです。五山の寺院には最新の中国文化が紹介される国際交流の場であり、新たな芸術が育まれました。中国に足掛け8年留学していた中巌円月は五山文学の第一人者で、漢詩や漢文に優れ儒学に詳しく多くの著作を残しました。建仁寺住持として迎えられたとき中巌はそれまで住んでいた京都万寿寺に建てた庵妙喜世界を建仁寺に移築し、その庵で75年の生涯を終えます。平成8年この像の体内から毘沙門天像が発見されました。江戸時代に妙喜世界の庵に住んだ僧が仏の遺骨舎利を毘沙門天のかかげる塔に納め、この像の中に安置したと言われています。この章には建仁寺歴代の僧の像が並んでいましたが、ほとんど鞭を持っていました。修業を怠けたり座禅で居眠りをしたりしたときは容赦なくこの鞭が飛んでくるのでしょうか、禅の修業は厳しく辛そうです。何度か座禅をしたことがありますが、襲ってくる眠気との戦いでその度に肩をビシッと打たれ、瞑想や無の境地とはほど遠い体験でした。1467年に始まった応仁の乱より京都の町は荒廃、以後約100年続く戦国の世となります。建仁寺も戦禍を受け、乱が静まった16世紀末安土桃山時代にようやく再建が始まり、その担い手は寺に帰依した武将たちでした。第3章ではその功績を、戦乱の世を生き抜いたそれぞれの人生とともに紹介されます。 
第3章 近世の建仁寺
織田有楽斎坐像 江戸17C 京都 正伝永源院
織田長升は、本能寺の変で兄信長が世を去った後仏門に入って有楽斎と名乗りやがて豊臣秀吉に仕えます。秀吉の側室淀殿は有楽の姪でした。有楽斎は千利休の優れた弟子の1人であり、利休亡き後は秀吉の下で茶の湯の行事を執り行ないました。晩年は建仁寺の塔頭の正殿院を再建してそこに隠居、茶室長安を立てて静かな余生を過ごしましたが、現在その茶室は愛知県に移築され国宝になっているそうです。多分この像を見て皆思うことはどこか信長の面影がないかということではないでしょうか。「 信長の兄弟 ? どこか似ているはず !! どこ ?」と・・。
打掛 花菱亀甲模様縫箔 高台院所用 安土桃山16C 京都 高台寺
豊臣秀吉の正室ねねは、関白の妻北の政所として足軽から天下人に上り詰めた夫を支え、明るく飾らない人柄で多くの武将に慕われたといいます。秀吉亡き後出家して高台院となり高台寺を建立、晩年寺の行く末を案じ信頼する建仁寺の三江紹益(さんこうじょうえき)を迎え高台寺は建仁寺派の寺院となります。高台寺には金の模様が美しい蒔絵の調度品が多く伝来していて、中でも大量にあつらえるため黒い漆の地に簡潔なデザインと技法で作られた高台寺蒔絵が有名だそうです。びっしりと刺繍がほどこされた内掛けですが、ねねはかなり小柄だったのでしょうか、現代の成人女性のサイズには見えません。
竹林七賢図 海北友松筆 安土桃山1566 建仁寺
全部で10幅あり、中国の7人の賢者が描かれています。友松は風をはらんだ袋のような布をつけた略筆による人物の描写を得意としていました。天下執りの争いが続く安土桃山時代、絵の世界では狩野派が一斉を風靡し、この絵の作者海北友松も狩野派に学びました。友松の父は近江の浅井家の重臣でしたが、父が戦で他界したため友松は幼くして東福寺に入ります。さて、広島安告寺から荒廃していた建仁寺に方丈を移築し、建仁寺の再興を果たしたのは広島の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)、西国の大名毛利家や豊臣家に使えた外交僧でした。恵瓊は東福寺住職も勤めていたことから友松のことを良く知っていたはずで、この絵を依頼したのは恵瓊だったかもしれないと解説されていました。永徳、等伯らと同じ時代に活躍した海北友松ですが、一般的な知名度はさほど高くないと思います。しかし、この展覧会で目にする大画面の水墨画の迫力は他を寄せ付けない魅力がありました。
雲龍図 海北友松筆 安土桃山1599 建仁寺
阿吽に対比する龍を描いた海北友松の傑作、重文「雲龍図」です。渦巻く暗黒の雲から姿を現す巨大な龍、友松は墨の濃淡による迫力と威圧感で壮大な画風を作り上げました。67歳の友松の迷いのない筆使いを感じさせる鋭い爪や鱗、墨の暈しが見事なこちらにうねりくるようなその巨体には息を呑みます。 龍は海北友松が得意としたもので当時から高く評価されてており、中でもこの雲龍図は圧倒的迫力を誇る傑作です。建仁寺の玄関に近い所の襖絵で8面の内4面ずつに阿吽の龍が向かい合うように配され、かって建仁寺を訪れる者を出迎えたということです。現在は精巧な複製が代役で、本体は博物館に預けてあるそうです。友松は、もともと近江の浅井家の家臣という武士の子として生まれましたが、浅井長政が信長に滅ぼされたとき、一家は主君とともに殉じます。友松は、たまたま京都の東福寺で僧侶の世話をする稚児として暮らしていたため、難を逃れたというわけです。実は友松が画家として頭角を現すのは60歳を過ぎてからで、それまでの謎に包まれた半生もまた魅力の一つと言えます。 
第4章 建仁寺ゆかりの名宝
十一面観音菩薩坐像 南北朝時代14C 京都清住寺
建仁寺54世蘭州良芳のお墓を守る清住院、そこに伝来した「十一面観音菩薩坐像」です。頭上に十一の頭を持ち様々な姿に変化し人々を救いに導く観音菩薩の功徳を表しています。薄目を開け頬に張りのある穏やかな顔立ち、衣は強くうねる線が幾重にも重なっています。全身に金泥をぬり金箔を細く切って貼る切り金文様を施した上に鳳凰や龍などの模様を盛り上げて表し、南北朝時代の名品のひとつに数えられる傑作です。
十六羅漢図 良全筆 南北朝時代14C 建仁寺 16 十六羅漢図 良全筆16幅のうちの部分。
修行を終え悟りの境地に達した十六羅漢は釈迦入滅後、この世にとどまり仏法を守るように任命された十六人の弟子。平安時代は法華経信仰の中で仏の教えを守り伝える役割が説かれ鎌倉時代になると釈迦に従う眷属(けんぞく)として信仰が広がり、さらに禅宗では修行者の手本としてこうした絵が多く生まれます。人物の輪郭線は繊細な筆づかい、かたや岩や木の幹は墨の濃淡により立体感を出し重厚な雰囲気を出していて、水墨画が発達した中国宋時代の新しい様式を取り入れているということです。作者は鎌倉時代から南北朝時代に活躍した良全、故郷は九州あるいは中国や朝鮮から来日したといわれ、九州出身の東福寺17世住持乾峰士曇(けんぽうしどん) のもと多くの仏画を手がけました。この羅漢図は良全の代表作で、金泥の書き込みからもとは東福寺にあったということです。
松に童子図襖 長谷川等伯筆 安土桃山〜江戸17C 京都 両足院
安土桃山時代の巨匠長谷川等伯のこの襖絵は69歳の作。もとは左右二面ずつの真ん中に別のふすまがあり、二人の童子の主人が書かれていたそうです。手荷物籠には筆と巻き物が入っておりこの絵は文人の遊びを描いた「琴棋書画図」の書、または絵の場面かもしれないという解説です。風景を本物らしく描くのではなくデザイン性を追及した画風で、岩の水平に引かれた線や、太く強く描かれた衣の線は画面の中のアクセントになっています。海北友松の障壁画に学んだ等伯の晩年の水墨画は、余白を大きくとり簡素で力強い筆使いの画風を確立しました。
竹林七賢図屏風 長谷川等伯筆 江戸1607 京都 両足院
「竹林七賢図屏風」は友松の「竹林七賢図」に刺激を受け描いた作品ということです。友松の風をはらんだ丸みのある略筆表現とは正反対の強く太い直線で描かれています。友松とは違う描き方を意識して表現したのでしょうか。
花鳥図襖 海北友松筆 安土桃山1599 建仁寺
建仁寺の塔頭霊洞院、その建物の一つが1853年に再建され、建仁寺内外の寺院から障壁画が移築されました。この襖絵はその一つで、海北友松が方丈の障壁画より以前に手がけた貴重なもので、珍しく色がほどこされています。しかし狩野派の華やかな色使いと異なる禅宗寺院にふさわしい落ち着いた印象で、孔雀の細い足の肢体が目を引きました。狩野派に学んだ友松でしたが、余白のある画面に気迫のこもった線を鋭く走らせる画風は武家の出身であることに由来するかもしれないということです。建仁寺を巡る二人の男、1人は建仁寺を再建した安国寺恵瓊、彼は関が原の戦いで豊臣側について無念の最期を迎え、その首塚がかって自らが移築した方丈のすぐ後ろにあります。60歳前後の生涯だったようです。応仁の乱や火災で大きな打撃を受け続けた建仁寺を救ったのはほかならぬ恵瓊だったのです。もう1人、障壁画を手がけた海北友松は、関が原のあと皇族との親交を深め妙心寺にもその作品を残しています。そして大阪夏の陣で豊臣家が滅びたその年、83歳の天寿を全うしました。
山水図  曾我蕭白筆 江戸18C 京都久昌院
江戸時代中期、西洋や中国の文化を取り入れる動きが美術にも波及し、特に京都では個性的な画家が多く活躍しました。その一人曾我蕭白は、京都の商家に生まれますが父を早くに亡くして画業で身を立て、室町時代の画家曾我蛇足に私淑して曾我姓を名乗ります。盛んに出版されるようになった版本の画譜を活用し、室町水墨画に学んだ復古的な作品を多く残していますが、巧みな技術に裏付けられた独特の作品世界は現代人をも魅了します。濃淡の墨を駆使した蕭白の美しい「山水図」です。
雪梅雄鶏図 伊藤若冲筆 江戸18C 京都 両足院
有名な動植綵絵の直前の作品という若冲の「雪梅雄鶏図」。降り積もる雪の中、餌をついばむ鶏、梅の枝にとまる鶯。墨の色が白を引き立てて、雪が降り止んだ後のひっそりとした空気が漂っています。羽根には貝殻を砕いた胡粉をほどこしてレースのような質感を出し、雪や梅の花と同じ白い色をたくみに描き分けています。花やとさかの赤の使い方が利いていて、そのかもしだす画品には目を奪われます。伊藤若冲は京都錦小路の青物問屋の長男、40歳で早々と弟に家督を譲り絵に打ち込みます。これは丁度そのころの制作。若冲は狩野派や中国の模写に飽き足らず実物をスケッチしたいと数十羽の鶏を飼って庭に放ち、来る日も来る日もスケッチをしたことはよく知られています。そしてこの独特の鶏は生み出されたのですが、トサカや脚、尾羽は丹念なだけではなく実に美しい。こんなに美しく気高いニワトリがいるのでしょうか、その姿はまるで鳳凰のようです。
牧童吹笛図 長沢芦雪筆 江戸18C 京都 久昌院
去年の夏の「夏目漱石の美術世界展」で、幽霊を描いた丸山応挙の弟子で、奇矯な表現を得意とした長沢櫨雪という画家を知りました。小説「草枕」の中に引用されている切り立つ絶壁の頂上のこれ以上ないという奇怪な形相の山姥の立膝姿が忘れられません。こんな美しくない絵をどうして描かなければいけないのかと思ったものです。落款の下に「指で描いた」と見えましたが、指描きの限界があるとしても童子のまたがる牛は今にも解けてなくなりそうな液状化寸前です。垂らした墨で、牛が今にも起き上がってきそうと解説されていたように思いますが、いやいやこれも実に奇奇怪怪、長沢櫨雪はこういう画家ということが分り、完成品でないのですが妙に印象に残っています。
涅槃図 中国清時代17C 長崎 春徳寺
禅の寺に似合う水墨表現にすっかり目が慣れてしまっていたので、目の前に現れた鮮やかな色彩には惑うほどでした。画面中央で大勢の弟子や菩薩に囲まれ最後の時を迎えた釈迦。80歳で入滅したとされる表情は穏やかで、とりわけ鳥や獣までもが嘆き悲しみ集う様子を描いた涅槃図ですが、これは日本に伝わる他の絵とは少し違います。一つは釈迦の母親摩耶夫人、普通は天から舞い降りてくる姿で描かれますがここでは釈迦の傍らに白い象と共にいます。またその近くの白衣観音など本来涅槃図には登場しない姿や、様々の吉祥の意味を持つモチーフも描きこまれています。画面下の岩にはつがいの鳳凰、その隣には長寿を表す鶴、他にも虎や獅子などとこうした表現は、17世紀以降中国の福建地方で描かれた仏画の伝統を踏まえているということです。これは長崎にある建仁寺派のお寺春徳寺に伝来したもので中国にもあまり現存しない貴重な作品という解説でした。大体に涅槃像は、80歳で入滅とは関係なくしみしわ一つない理想化された荘厳なお顔のお釈迦様の姿があります。この涅槃図の前がはだけ頬杖をついた佇まいからは、周りの嘆き悲しみはどこへやら、やんちゃ小僧が悪戯に疲れて一寸一眠りをしているようにしか見えないのが劇画のようで思わず和まされました。宗教画というのはたくさんの矛盾する課題が一枚の絵の中にいつも凝縮されているとあらためて思いますが、宗教の教えに添って鑑賞したときに矛盾が解かれていくのかもしれません。
小野篁立像 院達作 江戸17C 京都六道珍皇寺
六道珍皇寺に伝わる小野篁像。伝記に記された6尺2寸およそ188センチあったと言う身長を再現しています。閻魔の元で冥界の裁判に携わる姿で、左右には地獄の役人も展示されていました。篁の先祖は第一回の遣唐使小野妹子、篁も遣唐使の副使に任命されますが揉め事から参加せず、嵯峨上皇の逆鱗に触れて島流しとなります。しかし、才気溢れる篁は間もなく都に戻され、その権威に屈しない生き方は数々の伝説となって語り継がれていきます。その一つが今昔物語の話。若いころ篁が恩義を受けた大臣が病に倒れ地獄裁判を受けることになりますが、そこには何と閻魔に使える篁がいて弁護をしてくれたため大臣は生き返ることができたというのです。夜な夜な地獄に降りては閻魔大王の副官を務めたという伝説の小野篁は、この世とあの世を自由に行き来する人知を超越した存在とされたのです。
古染付写花鳥文芋頭水指 奥田頴川作 江戸18〜19 京都 大中院
白い肌に青が映える染付けの器。中でも中国明代景徳鎮で創られた染付けの日本向け輸出品は古染と呼ばれます。手本となった古染付は鮮やかな青が主流ですが、薄くくすんだ色は頴川ならではでのびのびとした絵には洒脱な味わいがあるとの解説。縁の釉薬がはがれたわびた風情、乳白色に薄い青色が何とも日本人好みで魅力的です。この水差しは江戸時代奥田頴川が古染付をまねて作ったお茶席用の水差しで、絵に漢詩が添えられている所など中国への憧れが強くあった時代を感じます。若いころ建仁寺の塔頭清住院に暮らした頴川は、やがて家業の質屋を継ぎますが30歳半ばで隠居します。実家の財力を背景に研究を重ね当時京都で流行していた中国趣味を取り入れ、ついに京都で始めて本格的な磁器の制作に成功します。彼の多くの作品はゆかりの建仁寺に伝来しているということです。
風神雷神図屏風  俵屋宗達筆 江戸17C 建仁寺
日本絵画の至宝「風神雷神図屏風」、豪放な身振りながらユーモラスな表情。左右の画面ぎりぎりに描かれた金の余白が天空の広がりを感じさせ、雲は墨をにじませた垂らしこみの技法。雲に銀泥を塗って柔らかい質感を加えているが、銀が年月を経て黒く変色しています。銀色は時間が経つと変色することは分っていなかったのか、俵屋宗達からおよそ100年後の尾形光琳の同じく「風神雷神図」の雲の銀泥のおびただしい黒変には目を覆うものがありもったいないと思います。この宗達の最高傑作はもと京都妙法寺に伝来していましたが、後に建仁寺に移ったとされています。この絵には作者の落款がありません。しかし、大胆な構図や技法から江戸時代初め琳派という美の一大系譜を生み出した俵屋宗達であることは比べようもないということです。絵の制作に当たり京都三十三間堂風神雷神図を見たとも北野天神縁起絵巻に登場する雷神を参考にしたともいわれていいます。「落款がなくても俵屋宗達以外比べようもない・・・」、昭和の書聖日比野五鳳の「ひよこ」にも落款がないことを思い出します。当時書道会の第一人者であった鈴木翠軒が「このような書は、あなただけしか書けないのだから落款はいらないのではないか」との助言に従ったからという話は語り継がれていますが、翠軒先生はこの風神雷神図屏風に基づかれての助言だったのでしょうか、興味深いことです。

大いなるかな心や。
天の高きは極むべからず。しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず。しかるに心は地の下に出づ。
日月の光は踰ゆるべからず。しかるに心は日月光明の表に出づ。
大千紗界は窮むべからず。しかるに心は大千紗界の外に出づ。
云々大いなるかな心や。
なんと心は大いなるものか。
天の高さは極めることが出来ないほど高い。けれど心はその高さをも超えることができる。
地の厚さは測ることができないほど厚い。けれど心はその下に出ることもできる。
日月の光は越えることができないほど速い。けれど心はその光を越えることもできる。
星の数や海岸の砂は数えることができないほど多い。けれど心はそのすべてをとらえることができる。
人間の心は本来自由で大らかなものである。
あらゆるものを考えられるし、あらゆることができる。それを不自由にしているのは自分自身である。
禅こそは国を護ることができると説いた興禅護国論の序文を謳うガイドの声がまだ残っています。 
 

 

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 室町時代

 

1 建武の中興(建武の新政)
中央の職制
復古的天皇親政を目指す中興政府の絶対万能な文書は、後醍醐天皇の意志を直接伝達する綸旨(りんじ)である。後醍醐天皇は後三条天皇の御世の記録荘園券契所を最高政務機関たる記録所として再興する一方、所領問題担当の鎌倉幕府の引付に相当する雑訴決断所、元弘の変以後の恩賞事務を司る恩賞方(筆頭;藤原藤房)、京都の軍事・警察機関たる武者所(頭人;新田義貞)などを設置した。なお護良親王は征夷大将軍に就任したが、これと対立する足利尊氏は後醍醐天皇(尊治親王)から一字拝領したのみであり、中興政府の役職には就任していない。後醍醐天皇はこうした情勢の下、乾坤通宝(けんこんつうほう)と言う新貨幣の鋳造を計画したり、関所停止令を下したりして優れた政治手腕を発揮した。
地方の職制
護良親王と足利尊氏の対立から、護良親王派の北畠顕家は義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥羽を統治する陸奥将軍府を多賀城址に設置し、足利尊氏の弟の足利直義は成良親王(なりながしんのう)を奉じて関東10国を統治する鎌倉将軍府を設置した。また西国統轄のため博多には征西将軍府が設置され、征西大将軍懐良親王(かねながしんのう)が赴任した。各将軍府の設置は中央集権体制とは逆行するものであった。一方、実質的には公武折衷の方針だった中興政府の下では、諸国に公家的な国司と武家的な守護が併設されたが、実際には同一人物が任命されることが多かった。また守護が行政権を獲得したことは後の守護領国制の基盤となった。
中興政治の頓挫
後醍醐天皇は里内裏(仮の内裏)の二条富小路内裏(にじょうとみのこうじだいり)に代わる大内裏造営計画の費用として地頭から得分の五分を徴収したが、これは論功行賞の結果が厚公薄武だった上に綸旨による個別安堵の方針だったため事務が停滞したことや、中興政府に対する禅宗や律宗の坊主の介入と相俟って武士の反発を招いた。『建武年間記(建武記)』に収録されている『二条河原落書』は今様というリズムで中興政治の混乱を風刺している。また中興政治に対する期待の空転を示す例としては、中興に伴い鎌倉幕府の地頭支配から荘園領主の東寺の直接支配となり負担が軽減されると喜んだものの結局は負担の倍増に終始し、東寺に対して訴状を提出した若狭国太良荘(たらのしょう)の例などが挙げられる。やがて1335年には朝廷内でも西園寺公宗・日野氏光・三善文衡(みよしあやひら)らの後伏見法皇重祚計画が露顕するなど、次第に中興政治の行き詰まりが明らかになっていった。
中先代の乱
(1335年 / 北条時行の乱)
北条高時の子であり信濃国の諏訪頼重に匿われていた北条時行は、鎌倉幕府の再興を目標として中先代の乱を起こした。北条高時以前を先代、足利尊氏以降を後代と言うため、北条時行を中先代と言う。北条時行は鎌倉将軍府を一時陥落させたが、やがて派遣されてきた足利尊氏により鎮圧された。しかし足利尊氏は、足利尊氏排斥に失敗して鎌倉に幽閉されていた護良親王を弟の足利直義が弑逆したことを契機に中興政府に対して反旗を翻した。朝敵たる足利尊氏を誅伐するべく中央から参陣した新田義貞は箱根の竹ノ下の戦いにて返り討ちに遭い撤退、逆に足利尊氏の西上を許した。朝臣の千種忠顕を西坂本の戦いにて足利直義に屠らせた足利尊氏は1336年に入京したが、急を聞いて陸奥将軍府から参陣した北畠顕家と新田義貞の連合軍の前に惨敗した。 
2 弘仁貞観文化
南北朝の分立
九州に逃亡した逆賊足利尊氏は多々良浜合戦(たたらはまかっせん)にて朝臣の菊池武敏を破り、東上した。楠木正成と新田義貞は足利尊氏の迎撃を図ったが、楠木正成は摂津国の湊川合戦で敗れ弟の楠木正季と共に自害し、兵庫に陣した新田義貞も敗走した。上洛した足利尊氏は名和長年を討って京を完全に制圧し、光厳上皇の弟である光明天皇を擁立して光厳上皇に院政を開始させ後醍醐天皇に譲位を強要した。だが後醍醐天皇は吉野実城院に行宮(あんぐう)を設置してここに遷幸し、吉野朝の正統を主張した。ここに建武の中興は終焉し、足利尊氏が擁立した北朝と、後醍醐天皇の吉野朝(南朝)が分立し、対立した。
吉野朝の聖戦
吉野朝は逆賊に誅伐を下すべく奮戦したが、1337年には越前国金ヶ崎城にて尊良親王と新田義顕が自害し、翌1338年には和泉国の石津合戦にて北畠顕家が高師直に敗死し、越前国の藤島合戦にて新田義貞が斯波高経に惜敗、討死した。1339年には後醍醐天皇が崩御し、義良親王が後村上天皇として践祚した。後村上天皇の政務の参考とするため、次男の北畠顕信と共に逆賊と交戦していた北畠親房は「大日本は神国なり」という清々しい書き出しで有名な史論書『神皇正統記』を常陸国小田城で執筆し、百王説に基づき吉野朝の正統と皇室の神聖を説いた。1343年には北畠親房が吉野朝勢力の決起を各地に促したものの当時は逆賊の勢力が強く、後村上天皇は新たな行宮を賀名生(あのう)に構えた。1348年の四条畷合戦では高師直の前に楠木正成の子の楠木正行(くすのきまさつら)・楠木正時兄弟が敗れ自害し、北畠親房も1354年に賀名生で逝去した。しかし足利尊氏死没後の1361年には吉野朝側の楠木正儀(くすのきまさのり)が京都を占拠し、足利義詮と後光厳天皇を近江国へ逃走させる程の活躍を見せた。
地方の義戦
関東では、新田義貞の子の新田義興・新田義宗兄弟が1352年に上野国で挙兵して鎌倉を奪取したが、1358年に武蔵国多摩川の矢口渡にて新田義興が足利基氏に謀殺されるに至って劣勢に陥った。九州では征西大将軍懐良親王が活躍し、配下の武将菊池武光(菊池武時の子)は1359年に筑後川合戦にて逆賊一派の少弐頼尚を討伐して次第に吉野朝側を優勢に導き、ついには九州全土を制圧するに至った。所謂南北朝動乱は、惣村などの新たな農村共同体の形成や惣領制崩壊に伴う武士の地縁的結合の強化などの社会的変動の他、無節操な武士が状況に応じて味方する勢力を変えたりしたために、全国化・長期化の一途を辿った。
建武式目の制定
(1336年 / 足利幕府の成立)
祖父足利家時の源氏幕府再興の遺言を遵守するべく、足利尊氏は1336年に建武式目を制定した。これは十七条憲法を模倣した政治綱領であり、雑訴決断所の二階堂是円が足利尊氏の諮問に答える形式を採用している。建武式目の編纂には二階堂是円の他、弟の二階堂真恵、婆娑羅大名佐々木道誉(ささきどうよ)らが尽力した。建武式目の制定をもって足利幕府の成立と見なす説が一般的だが、実際に用いられていた法律は貞永式目とその補足の建武以来追加である。1338年に光明天皇から征夷大将軍に任命された足利尊氏は、吉野朝勢力からの逃避と幕府の経済的基盤たる商業のため、正式に京都に開幕した。
足利尊氏の贖罪
足利尊氏は、元から国交回復のため来日した一山一寧の弟子の臨済宗僧夢窓疎石(むそうそせき)の進言を採用し、1339年に崩御した後醍醐天皇の冥福を弔うための天龍寺を建立するべく、博多商人至本に命じて1341年に天龍寺船と言う貿易船を元に派遣し、明銭5000貫文を納入させた。天龍寺船は1325年に鎌倉幕府が建長寺の修築費用を得るために派遣した建長寺船を模倣したものである。なお日元間の正式な国交は樹立されなかったが、鎌倉後期から南北朝時代に掛けて民間レベルでは小規模な日元貿易が散発的に行われた。
観応の擾乱
(1350年 / 幕府・二頭政治体制の崩壊)
足利幕府は当初、革新的な足利尊氏が軍事指揮権、保守的な足利直義が司法行政権をそれぞれ掌握する二頭政治体制により順調な滑り出しを見せたが、やがて足利尊氏と足利直義は対立し、足利直義の養子である長門探題足利直冬(足利尊氏の庶子)の挙兵により、逆賊間に内乱が勃発した。この観応の擾乱では、勃発直後に足利尊氏派の初代執事(後の管領)高師直が足利直義派の上杉能憲(うえすぎよしのり)により弟の高師泰共々殺害されている。御都合主義者足利尊氏は一時吉野朝と和睦して足利直義と戦ったが、翌年にはこれと和睦した。しかし1352年にはこれを毒殺し、観応の擾乱を一応終結させた。しかし足利直冬は義父の毒殺後も抵抗を続け、1355年には一時京都を攻略、足利尊氏と後光厳天皇を一時的に逃走させている。
南北朝合一
(1392年 / 後亀山天皇の英断)
足利義詮の夭折に伴って征夷大将軍となった足利義満は僅か10歳の少年であったため、時の管領である細川頼之がこれを補佐し、事実上幕政の執行者として君臨していた。細川頼之は鎌倉幕府が九州の守護たちを統制するために設置した鎮西探題に倣って、九州の守護大名統制と吉野朝勢力削減を目的として九州探題を設置した。九州探題は当初征西将軍府に圧迫されていたが、1371年に駿河守護今川範国の子である今川貞世(今川了俊)が就任すると次第に勢力を拡大し、懐良親王の重臣菊池武光・菊池武朝らを駆逐した。また自身の傀儡化を嫌った足利義満は1379年、康暦の政変を起こして細川頼之を阿波国へ追放し、新管領に斯波義将(しばよしまさ)を登用して将軍権威向上と全国統一を目標とした政治を開始した。この間、北朝は光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇、吉野朝は後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇がそれぞれ践祚していたが、吉野朝の勢力の減退に付け込んだ足利義満は吉野朝の後亀山天皇に南北朝合一を呼び掛けた。これを受諾した後亀山天皇は1392年、京都の大覚寺に於いて後小松天皇に譲位し、三種の神器を引き渡し、南北朝の合一を実現した。しかし後亀山上皇は1410年に吉野へ出奔、新たに後南朝を樹立して抵抗運動を続けた。 
3 足利幕府
足利幕府の軍事的基盤
足利幕府の軍事的基盤は、足利氏譜代の家臣や二十一屋形に住む守護たちの一族、それに地方の有力武士たちを集めて編成した2000騎ないし3000騎の軍隊である。評定衆及び政所に所属する事務集団を奉行衆と呼ぶため、この軍隊は対義的に奉公衆と呼ばれたり、他に御馬廻(おうままわり)と呼ばれたりする。奉公衆は将軍の護衛と、鎌倉幕府から没収した所領や南北朝動乱にて得た土地などからなる諸国の将軍直轄領であり足利家の相伝所領である御料所の管理を行い、御料所に在って守護の動向を牽制した。
足利幕府の経済的基盤
御料所からの年貢・公事・夫役が乏しい足利幕府の財政的基盤は、有力守護から徴収する分担金や御家人から徴収する賦課金、高利貸業者たる土倉(延暦寺僧経営者多し)・酒屋・味噌屋から徴収する倉役(土倉役)・酒屋役・味噌屋役、関所の通行料たる関銭、入港料たる津料、日明貿易の10%関税たる抽分銭、市街内住宅地から徴収する地子銭(間別銭)、などである。また京都五山が祠堂修築を目的として集めた祠堂銭を用いて行う金融活動にも五山献上銭(五山官銭)として課税した。足利幕府は経済的基盤を臨時収入に依存しており、不安定だった。後に公家化に伴う奢侈のため財政が逼迫した幕府は、分一銭(ぶいちせん)を目的とした分一徳政令を乱発したり、それまでは国家的行事に際してのみ徴収された段銭や棟別銭を定期的に徴収するようになり、民衆の反感を買った。なお荘園領主・地頭・守護などが私的に課税する私段銭もあった。
中央の政治機構
中央の政治を統括する管領は三管領(細川家・斯波家・畠山家)から、また京都の警備や刑事裁判を担当する侍所の長官で山城国守護を兼任する侍所所司は四職(ししき)(京極家・山名家・赤松家・一色家)から交替で任命された。これは強大な一族の発生を防止するためだったが、このため足利幕府は事実上有力守護大名らとの連合政権と化すこととなった。また、財務管理を担当する政所の長官たる政所執事は二階堂家(後に伊勢家)が、文書保管を担当する問注所の長官たる問注所執事は三善家がそれぞれ世襲した。この他、幕政の諮問機関で引付衆を配下に持つ評定衆、政所の配下で課税を担当する納銭方(納銭方一衆)、宗教関係の雑務を担当する禅律方(ぜんりつがた)、御料所の年貢徴収を担当する倉奉行などが設置された。
地方の政治機構
鎌倉幕府のあった鎌倉を重視した足利尊氏は、関東10国を管轄とする鎌倉府を設置し、足利義詮を派遣していたが、後に四男の足利基氏を鎌倉御所として派遣し、補佐役の関東管領に上杉憲顕(うえすぎのりあき)を任命した。上杉憲顕は1368年の武州平一揆を足利氏満と共に鎮圧し、宇都宮氏綱らを討伐した。やがて小幕府的な鎌倉府は中央政府と対立し、鎌倉御所は将軍の別称の公方(くぼう)を用いて鎌倉公方と称した。永享の乱以降は関東管領を世襲する上杉家が実権を掌握したが、その上杉家もやがて扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)・山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)・詫間上杉家(たくまうえすぎけ)・犬懸上杉家(いぬかけうえすぎけ)の四勢力に分裂、抗争を展開した。詫間上杉家と犬懸上杉家は早期に滅び、1546年には河越夜戦にて上杉朝定が敗死して扇谷上杉家も滅亡し、残った山内上杉家の上杉憲政も北条氏康の圧迫により長尾景虎(長尾輝虎・長尾政虎)を頼り彼に上杉の姓と関東管領職を譲り、事実上山内上杉家も崩壊した。なお上杉憲顕の子の上杉憲英を祖とする庁鼻上杉家(深谷上杉家)には関東管領職継承権は無かったが、小田原征伐にて上杉氏憲が敗死するまで続いた。この他の地方では、今川了俊の引退後は渋川家が世襲した九州探題や、斯波家(後に伊達家)が世襲した奥州探題、奥州探題から独立し最上家が世襲した羽州探題などが設置された。
守護大名の台頭
幕府は近畿とその周辺の諸国の守護は足利家一門(斯波家・今川家・一色家・畠山家・細川家など)で固め、外様の守護はその外側に配置した。南北朝動乱の中で地方の武士を組織させる必要があったため、幕府は守護に対して鎌倉時代の大犯三箇条(謀叛人逮捕・殺害人逮捕・大番催促)の他に、田地紛争の実力行使の青田刈りを取り締まる刈田狼藉検断権(かりたろうぜきけんだんけん)や幕府裁定を執行する使節遵行執行権が与えられた。観応の擾乱の最中の1352年には足利尊氏が近江国・美濃国・尾張国に観応半済令を施行し、守護が荘園や公領からの年貢の半分を兵粮米として徴収するための兵粮料所とすることを定めた。この直後に半済令は伊勢国・志摩国・伊賀国・和泉国・河内国にも拡大され、1368年の応安半済令より後は永続的なものとなり、土地も守護所有となった。半済令は公領の多い国に於いて効果が大きかった。また1402年に備後国太田荘(高野山領)を守護の山名時煕(やまなときひろ)が守護請(荘園の年貢の徴収を守護に委任すること)して以降、各地の荘園は続々と守護請され、荘園制度は根底から覆された。守護は国衙の機能をも守護所に吸収し、任国をまるで自分の領国の如く支配した。これを守護領国制と言い、こうした強い支配を行う守護を特に守護大名と言う。多くの領国を有する守護大名は自身がいない領国に守護代を派遣して執政させたため、守護代勢力の伸長を招いた。 
4 足利幕府の興隆と衰退
足利義満の治世
南北朝動乱による公家の没落に付け込んだ足利義満は朝廷から京の市政権(警察権・民事裁判権・商業課税権)や諸国での段銭徴収権を奪い幕府の管理下に置いた。そして京都の室町に花の御所(室町殿)と言う邸宅を建て1378年からここで政務を執った。将軍在職中の1383年に准三后の宣下を受けた足利義満は、有力守護大名の勢力を削減すべく、1390年には美濃国の土岐康行を挑発して土岐氏の乱を起こさせてこれを討伐し、1391年には11国を領有し「六分ノ一殿」と称された山名氏清を挑発して明徳の乱を起こさせてやはり討伐した。この動きは1394年に足利義持に将軍職を譲った後も続き、1399年には鎌倉公方足利満兼に呼応して堺で挙兵した大内義弘・斯波義将・河野通之らを討伐した(応永の乱)。この一方で足利義満は太政大臣として貴族的な生活を送り、妻の日野業子を後小松天皇の准母として死後に鹿苑院太上法皇の位牌を残す程に増長した。なお日野業子は公家の日野資康の妹であるが、日野家はこれ以後代々将軍御台所を輩出し、それによる幕府との繋がりを利用して朝廷内で出世していった。
足利義持の治世
足利義満の没後、三宝院満済(藤原師冬の子・准三后)を政治顧問として迎えた足利義持は、日明貿易の中止や父足利義満の尊号辞退などの独自の政治を執行した。中央政府と対立状態にある鎌倉公方足利持氏(足利満兼の子)が1416年の上杉禅秀の乱で関東管領上杉氏憲を討伐すると足利義持は激怒、既に足利義量に将軍職を譲っていたものの今川範政に命じて足利持氏を攻撃させた。これは足利持氏の謝罪で解決したが、鎌倉府はこの後も不穏な動きを続けた。やがて足利義量と足利義持が相次いで没したため青蓮院義円・大覚寺義昭・相国寺永隆・梶井義承らが将軍家の家督を巡り対立した。このため三宝院満済は石清水八幡宮門前にて籤引を行い、青蓮院義円を次期将軍とした。青蓮院義円は還俗して足利義教と名乗り、1429年に征夷大将軍に就任した。
永享の乱
(1438年 / 鎌倉公方の没落)
将軍職を望んでいた鎌倉公方足利持氏は、三宝院満済による次期将軍足利義教決定に反発し、1438年に中央政府に対して反乱を起こした。この永享の乱は空前の大乱となったが、幕府は河野教通ら全国の守護大名の軍勢を関東管領上杉憲実に持たせて反乱を鎮圧させ、足利持氏を永安寺(ようあんじ)で自害させた。この永享の乱の後、関東の実権は従来の鎌倉公方から関東管領に移行した。1440年には足利持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じた結城氏朝が下総国結城城(築城は治承年間、結城朝光)に拠って結城合戦を勃発させたが、幕府と関東管領の連合軍の前に壊滅した。また鎌倉公方の事実上の実権剥奪に反発した足利成氏(あしかがしげうじ)(足利持氏の子)は1454年、上杉憲実の子の上杉憲忠を殺害したが、翌1455年には上杉顕房の反撃に敗れた。この享徳の乱の後、足利成氏は下総国の古河へ逃亡して古河公方となった。後に足利義政は弟の足利政知を関東に派遣したが関東の武士の反対で鎌倉に入れず、伊豆国の堀越公方として古河公方に対抗させた。なお古河公方は、1583年に足利義氏が無嗣のまま絶命するまで存続した。
嘉吉の乱
(1441年 / 下克上の端緒)
足利義教の治世には日明貿易の再開や1437年の大内持世による九州統一などが為されたが、足利義教は「万人恐怖」と称される暴政、具体的には比叡山焼討や家臣の粛正などを遂行した。粛正の一環として所領を削減された播磨守護赤松満祐は、足利義教の覚えめでたい庶子家の赤松貞村に実権を奪われることを恐れ、結城合戦の戦勝祝いとして足利義教を自宅に招いて側近の京極高教・山名熈貴共々息子の赤松教康に暗殺させた。こうして嘉吉の乱を起こした赤松満祐はやがて山名持豊に討伐されたため、赤松家は没落し、山名家が興隆した。
応仁の乱
(1467年〜1477年 / 公家や将軍の権威失墜と京都の焦土化)
足利義教の暗殺後、嫡男の足利義勝が将軍の座に就いたが、夭折した。これを受けて管領細川勝元は足利義勝の弟の足利義政を擁立し、実権を掌握した。足利義政の妻は、「押し大臣」の通称通り最終的に左大臣まで昇り詰めた日野勝光の妹の日野富子である。日野富子は幕府の財政立て直しのために新関設置や高利貸などの事業を展開したが、結局的に賄賂政治や米相場急騰を招き、政治経済を大混乱に陥らせた。やがて政界では細川勝元と山名宗全(山名持豊)が抗争を開始し、これに足利義政・畠山持国・斯波義健それぞれの後継者を巡る争いが絡み、応仁・文明の乱が勃発した。
東軍 西軍 概要
細川勝元 山名宗全 幕府中枢に於ける主導権争い。
足利義視 足利義尚 足利義視(浄土寺義尋)と日野富子の子の足利義尚の争い。
畠山政長 畠山義就 嫡男の畠山義就を押し退け、細川勝元が畠山政長を支持。
斯波義敏 斯波義廉 斯波義敏に反発した家臣団が渋川義廉(斯波義廉)を支持。
朝倉孝景 大内政弘 朝倉孝景は所領問題。大内政弘は日明貿易での細川勝元への怨恨。
管領馘首に抗議した畠山政長が畠山義就を攻撃した上御霊社の戦い以降、東軍と西軍が京都を主戦場として戦争を展開した結果、『応仁記』の著者の飯尾彦六左衛門尉に「汝ヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ル涙ハ」と言わしめるまでに上京などを廃墟とした。また途中から東軍が西軍守護大名の領国を攪乱する戦法を採用したために戦争は全国に伝播し、1473年に細川勝元と山名宗全が没した後も戦いが続けられ、応仁・文明の乱が終焉した後も各地では群雄割拠の様相を呈した。この情勢下で幕府体制や荘園制などは根底から覆され、守護代や国人たちが抬頭し、一層の下剋上が展開された。また『真如堂縁起絵巻』に描かれているように応仁の乱では南北朝時代から存在していた足軽たちが自由狼藉行為や放火・略奪などで活躍したが、この足軽を用いた足軽戦法を考案したのは、1457年に武蔵国江戸城を築城した太田道灌である。 
5 室町時代の外交
倭寇
1 倭寇の発生理由
元寇という大陸からの大規模な侵略は、民族意識の高揚を招くと共に国際的な視野の拡大をもたらした。こうして発生した海賊集団の倭寇は『倭寇図巻』に見られるようなばはん船を用いて活躍した。倭寇は南北朝時代から日明貿易開始までの前期倭寇と、1551年の大内家の正統断絶から豊臣秀吉の倭寇取締令(海賊取締令)発令までの後期倭寇に大別される。
2 前期倭寇
前期倭寇は三島地方(対馬国・壱岐国・肥前国松浦)を根拠地とする日本人中心の海賊とされており、遼東半島や朝鮮半島の沿岸に進出した。倭寇が米穀強奪や現地人誘拐を行ったため高麗は衰退し、やがて倭寇退治の武将李成桂が李氏朝鮮を建国した。また北虜南倭に苦しんでいた明は海禁令を施行し、同時に倭寇の禁圧を要求してきたが、征西将軍府に着いた使者に対し時の征西大将軍懐良親王は要求を拒否した。
3 後期倭寇
日明貿易の元締めの大内義隆が陶晴賢に殺害された1551年以降、後期倭寇が活躍し始めたが、後期倭寇は倭寇王として知られる明の商人王直のように中国人が中心だった。明が傲慢なる朝貢貿易に固執して海禁令を施行し民間貿易を取り締まったために発生した後期倭寇は、上海・寧波・台湾・澳門(まかお)・東京(とんきん)などの華南地方東南部に進出し、1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
日明貿易
1 日明貿易の開始
1368年に朱元璋(太祖・洪武帝)が建国した明に対し、義堂周信・絶海中津らを外交顧問とする足利義満は1401年、僧祖阿(そあ)を正使、博多商人肥富(こいずみ)を副使として建文帝(恵帝)への国書を持たせ、『戊子入明記』『真如堂縁起絵巻』に見られる遣明船に乗せて派遣した。建文帝は翌1402年、足利義満に「日本国王源道義」宛ての返書と明の大統暦を与えた。これは日本が中華思想に基づく冊封体制に組み込まれたことを意味するが、瑞渓周鳳は著書『善隣国宝記』の中で国家の恥辱を無視した足利義満を批判している。足利義満は1403年に「日本国王臣源」と認めた国書を建文帝に提出して勘合符を得、将軍足利義持の時代の1404年に日明貿易(勘合貿易)を開始した。貿易船と倭寇の区別のための勘合は明側の日字勘合と日本側の本字勘合の二種類があり、底簿と照合することにより確認した。
2 日明貿易の興隆
刀剣・屏風・銅・硫黄・金・扇・漆器・硯などを輸出し、銅銭・生糸・絹織物・陶磁器・書籍・大唐米などを輸入する日明貿易は、形式的には朝貢貿易だったため、永楽条約の規定通り無関税であり明滞在費や商品運搬費は明の負担であり、取引上は有利だった。永楽条約では他に貿易品を寧波で査証して交易は北京で行うことなどが定められた。足利義満の没後足利義持は1411年に貿易を中断したが、足利義教は1432年に幕府の逼迫財政補填のため貿易を再開し、1434年には貿易細則(10年1回・3隻・300人)を定めた宣徳条約を批准した。再開後の日明貿易は幕府ではなく大名・有力寺社が中心となって行われ、例えば唐物を求め入明した商人楠葉西忍(くすばさいにん)は興福寺大乗院の貿易船を利用した。
3 日明貿易の終焉
応仁の乱の頃、貿易の実権は大内政弘を背景とする博多商人と、細川勝元を背景とする堺商人に二分されていたが、やがて1523年に勃発した寧波の乱で大内義興の応援を得た博多商人が堺商人を駆逐し、貿易を独占した。しかし大内義興の嫡子大内義隆が1551年に謀殺されると、日明貿易は終焉した。日明貿易で流入した洪武通宝・永楽通宝・宣徳通宝などの明銭は広く流通し、遠隔地の年貢の代銭納(銭納)も広まったが、やがて精銭ではない鐚銭(びたせん)(私鋳銭・焼銭・欠銭など)が流通した。商人たちが精銭を優先する撰銭(えりぜに)を行ったため経済は混乱したが、幕府や大名は撰銭令を出してこれに対処した。なお、日本初の撰銭令は1500年に大内義興が施行した。
日朝貿易
足利義満は1392年に李氏朝鮮側の要望に応じて倭寇の取り締まりを約束したため、日本と李氏朝鮮の間に国交が開かれた。こうして発生した日朝貿易は、当初より幕府だけではなく守護大名や豪族や商人が参加していたために活発に行われるようになった。日本から李氏朝鮮へは南方貿易により得た蘇木(蘇枋(すおう)の木;赤い染料の原料)や香木(香料の原料)を始め日明貿易とほぼ同様のものを輸出し、李氏朝鮮からは木綿や、仏教研究に多大なる貢献をすることになる大蔵経(一切経)の経典版木、朝鮮人参などが輸入された。なお木綿は、庶民が平常服として着ただけではなく戦国大名も戦闘服として採用したため、その原料たる綿花の栽培が河内国や三河国などで行われるようになった。日朝貿易では幕府発行の通信符が用いられたので通信符貿易と呼ばれるが、対馬国の宗氏一族も日朝貿易に介在するため李氏朝鮮への渡航許可証として文引(ぶんいん)を発行した。宗貞茂は倭寇の取り締まりなどを積極的に行い日朝間の友好に努めたが、彼が死ぬと倭寇の再来を恐れた李氏朝鮮は、倭寇本拠地の対馬国を奇襲し、一方的な大虐殺を行った。1419年に発生したこの応永の外寇(己亥東征(きがいとうせい))により日朝貿易は当然中断されたが、1423年に再開され、宗貞茂の子の宗貞盛により1443年に嘉吉条約(癸亥約条)が締結されてより後は再び活発となった。朝鮮使節の宗稀が著した紀行文『老松堂日本行録』は摂津国尼崎付近の高い農業技術を賛美している。日朝貿易によって朝鮮半島に在住する日本人(恒居倭)も増えたが、李氏朝鮮は彼らに対して富山浦(ふざんほ)(現;釜山)・乃而浦(ないじほ)(現;薺浦)・塩浦(えんぽ)(現;蔚山)といった三浦(さんぽ)に倭館を設置して様々な特権を与えていた。しかしやがて李氏朝鮮がこの特権を縮小していったため1510年にはこれに反発した恒居倭が三浦の乱を勃発させた。この三浦の乱以降、日朝貿易は衰退していった。
琉球王国
沖縄島は三山(北山・中山・南山)に分かれ、それぞれぐすくに住む按司により支配されていたが、中山の尚巴志(しょうはし)は1429年にこれを統一し、琉球王国を建てた。琉球王国の財源は日明両国に対する朝貢貿易を利用した中継貿易(仲継貿易)であり、琉球船は日明両国の他、ジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島でも活躍し、16世紀前半の尚清王の時には守礼門(首里城)を建設する程の勢いを見せたが、やがて欧州人が貿易の独占を開始すると衰退し、1609年には尚寧王が薩摩藩主島津家久に捕縛され、日本の属国・属領となった。後の明治時代の廃藩置県の際、沖縄県の設置に伴い尚家は華族となった。16世紀から17世紀に掛けては琉球文化が開化した時期であり、琉球の古代歌謡である「おもろ」を編集した『おもろそうし』などが完成された。 
6 室町時代の社会
産業の発達
日明貿易によって災害に強く収穫が多い大唐米(占城米(ぱんちゃまい))・赤米・めくろの米などが輸入され、西日本を中心として栽培が始まった。室町時代には二毛作が全国に広まり、一部では米・麦・蕎麦の三毛作も行われ始めた。また米の品種改良も進み、収穫時期が違う早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)が開発され、水車の発明、龍骨車の輸入により灌漑技術も進展し、厩肥・下肥の本格的な使用、備中鍬などの開発と相俟って農業生産力は大きくなっていった。また『七十一番職人歌合』に見られるように、鍋や釜や鍬などの日用品を製造して販売する鋳物師や、刀を製造販売する鍛冶、それに塗師(ぬりし)・研師(とぎし)・鎧師(よろいし)・経師(きょうじ)・番匠(ばんしょう)などが存在していた。生活に余裕を持った農民は苧・桑・楮・漆・藍・茶などの栽培を副業として営むようになり、各地で新たな特産品が作られ始めた。主な特産品としては、山城国京都の西陣織をはじめ加賀国・丹後国・常陸国などの絹織物の他、美濃国の美濃紙や播磨国の杉原紙(すいばらがみ)や越前国の鳥子紙(とりのこがみ)など楮・三椏・雁皮を原料とする和紙、備前国長船・美濃国関・越中国則重・伊勢国村正などの刀剣、主に伊勢国などにおいて揚浜法や入浜法により塩田で製造された塩、美濃国・尾張国の陶器、能登国・筑前国の釜、出雲国の鍬、河内国の鍋などが知られている。この他、戦国時代には佐渡国の相川金山や甲斐国の黒川金山、伊豆国の伊豆金山、石見国の大森銀山や丹波国の生野銀山などが戦国大名の財源確保のため開発された。
座の概要
平安末期に始まった座は、公家や寺社などの本所に保護される代償として隷属関係を結んでいた点で西洋のギルドと異なる。主な座としては、近衛・兵衛府の保護下の四府駕輿丁座・織手座・白粉座・青苧座、興福寺の保護下の絹座・綿座・魚座・塩座、祇園社の保護下の綿座・錦座・材木座、石清水八幡宮の末社の離宮八幡宮に直属していた大山崎油座(荏胡麻油座)、北野神社の保護下の西京酒麹座、東大寺の保護下の木工座などが挙げられる。やがて本所の没落に伴い、座は本所に営業税たる座役を支払う代わりに仕入・販売・営業の独占や関銭免除などの特権を獲得するようになった。座頭と座衆で構成される座は室町時代には全国的に結成され、特産品の製造販売や注文生産を行った。商人たちは市でも販売を独占するべく、営業税たる市座銭(市場税)を納めて販売座席たる市座を確保し、市人(いちびと)と言う特定商人として市の主体をなした。やがて楽市楽座令の発布や座に属さない新儀商人の出現などにより、座は衰退していった。
商業取引の発展
それまでの路上販売たる立売に代わり、鎌倉時代には店頭に商品を陳列する見世棚が設けられるようになり、室町時代に入ってからは店内に商品を置く店ができた。また平安末期には呼び売りして歩く振売が多かったが、室町時代に入ると木製の運搬道具である連雀(れんじゃく)を背負って行商する連雀商人が出現、城下町などの中に連雀町を形成した。また京都では鵜飼集団の桂女(かつらめ)が鮎や朝鮮飴を、女性行商人の大原女(おはらめ)が炭や薪を、それぞれ販売した。商品の流通量の増加に伴い、定期市は以前の三斎市に代わって月6回の六斎市が開かれるようになった。また京都には米場、淀には魚市が設けられ、それぞれが米穀と魚の唯一無二の卸売市場となった。この頃の代表的な運送業者としては、馬借や車借、さらに千石船などを用いる廻船などが挙げられる。
惣村の形成
南北朝時代に小百姓の名主化に伴う農民層の画一的平均化が為されたため、近江国の菅浦(すがのうら)・今堀日吉(いまぼりひえ)・得珍保(とくちんほ)・大浦など畿内を中心として惣村(惣・惣荘)が発生した。乙名(おとな)・長・年寄(おとな)・月行事・番頭・沙汰人などの国人層を頭目とする地縁的且つ自治的な結合を持つ惣村は、神社祭礼を司る氏子組織の宮座により取り仕切られた寄合にて入会権(入会地の使用権)や結(もやい)(共同作業)や灌漑用水の番水制を合議的に裁定し、有事には宮座を中心として起請文(きしょうもん)を認め「一味神水」の集団として惣百姓が結束した。加持子(かじし)(地代)を小作人から徴収したため加持子名主と呼ばれる国人層は、守護大名と主従関係を結ぶこともあった。惣村は惣掟(惣規約・村掟・村法・地下掟(じげおきて)・郷置目(ごうのおきめ))に基づき自検断(地下検断)として警察権や裁判権を行使し、守護不入として守護使の干渉を拒絶した。守護大名に対抗する必要上、惣村は他の惣村と連合して郷・庄を作り、それぞれ惣郷・惣庄として共同行動したが、この郷村制は兵農分離の実施により次第に封建支配の末端機関と化した。農民たちは、年貢の徴収などを領主に対して共同で請け負う地下請(百姓請)を行った。
民衆の団結と蜂起
守護大名らの圧政に対し、年貢減免や地頭・代官罷免を求める農民は集団で蜂起した。農民たちは要求事項を百姓申状に認めて領主に嘆願する合法的な愁訴や、違法行為の強訴(ごうそ)・逃散(ちょうさん)を行い、最終的に目的完遂のための「一味同心」の集団として一揆を結成し、武力をもって圧政に対峙していくようになった。
正長の徳政一揆
(1428年 / 日本初の土民蜂起)
南北朝時代に国人一揆の白旗一揆があったものの、一条兼良の子の興福寺僧尋尊(じんそん)が著した『大乗院日記目録』に「日本開闢(かいびゃく)以来土民蜂起是れ初め也」と記載されているようにこの正長の徳政一揆は土一揆の先駆けである。足利義教の将軍就任が確定したため社会観念に基づく代始めの徳政(天下一同の徳政)を要求する凡下の間には不穏な動きが起こり、近江国坂本の馬借の蜂起を端緒として畿内各国で土一揆が勃発した。幕府は徳政令を発令しなかったが土民は土倉・酒屋を襲撃し、実力で借金を踏み倒す私徳政を断行した。将軍空位だったため正長の徳政一揆は管領畠山満家が鎮圧したが、この一揆に於ける農民たちの徳政宣言は大和国柳生郷の徳政碑文に記載されている。翌1429年に勃発した播磨の土一揆は『薩戒記』に記されているように「侍ヲシテ国中ニ在ラシムベカラズ」、即ち播磨守護赤松満祐らの国外退去を要求したが、赤松満祐本人により捻り潰された。
嘉吉の徳政一揆
(1441年 / 幕府、徳政令を発令)
足利義勝の将軍就任が決定した1441年にはやはり代始めの徳政を要求する嘉吉の徳政一揆が勃発し、一揆軍が京都市街を占領した。幕府は一揆終焉のため徳政令を発布した。これ以降幕府は済し崩し的に徳政令を乱発し、1454年の享徳の土一揆では徳政令を発布する代わり債務額の1 割を分一銭として徴収する分一徳政令を一国平均徳政令として発布した。また1457年の長禄の土一揆では、土倉などが債権額の数割を幕府に納入することでその土倉などを徳政の対象から外す、徳政禁制令を発令した。
山城の国人一揆
(1485年 / 戦国時代の下克上)
応仁の乱の終結後も畠山義就と畠山政長は山城国で抗争を続けていたため、尋尊の著作『大乗院寺社雑事記』に記載されている山城の国人一揆が勃発した。畠山軍を追放した国人たちは宇治平等院にて国中掟法を定め、荘園復活・新関停止を断行した。やがて傀儡守護伊勢貞陸を擁立した国人たちは、月行司(三十六人衆)の下で南山城国を8年間に亘って自治した。こうして、凡下たちの間にも下剋上の風潮が広まっていった。
加賀の一向一揆
(1487年 / 一向一揆の端緒)
『墓帰絵詞』に見られる三世法主本願寺宗昭(覚如)により開かれた一向宗最小派閥の本願寺派を率いる八世法主本願寺兼寿(蓮如)は、「あなかしこ」で終わる御文(おふみ)や信仰者集会の講(こう)を活用し、専修寺派など他の派閥を押し退けて本願寺派を最大派閥たらしめた。天台坊主に本願寺を焼かれた本願寺兼寿は越前国吉崎道場(吉崎坊)へ移っていたが、加賀守護富樫政親が門徒(一向宗信者)の弾圧を開始したため、現世の政治には従い援助せよ、とする「王法為本」を説く本願寺兼寿は山科本願寺に移った。『蔭涼軒日録』に記載されている通り1487年には加賀の一向一揆が勃発し、翌1488年には一向宗門徒が高尾城を攻めて富樫政親を自害させ、傀儡守護富樫泰高を擁立した。『実悟記拾遺』に「百姓ノ持タル国」と記された加賀国は、以後小一世紀に亘って独立自治を保ったが、石山本願寺から派遣されて来た奉行の下間頼照と門徒衆の間にて内ゲバが勃発したところに上杉謙信軍と織田信長軍の挟撃を受けて壊滅的打撃を被り、やがて織田家北陸遠征軍率いる柴田勝家によって1579年、叩き潰された。 
7 室町文化
南北朝動乱による武士・民衆の抬頭は南北朝文化を現出させたが、足利義満の時代の北山文化と足利義政の時代の東山文化は公家文化と禅宗文化が融合された武家文化だった。やがて応仁の乱で都を焼け出された公家などの都の文化人が地方の有力大名の下に身を寄せたため戦国時代には各地で中央の文化を受け継いだ天文文化が開花した。
宗教
足利尊氏の側近であり著作『夢中問答』で知られる夢窓疎石は、南北朝動乱による死者の冥福を祈るため、利生塔(りしょうとう)と言う供養塔の他に一国一寺の割合で安国寺を建立した。また足利義満は相国寺を建立した側近の春屋妙葩の建言を入れ、宋の官寺制を模倣して臨済宗の五山十刹(ござんじっさつ)の制を定めた。この制度では南禅寺が別格上位、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が京都五山、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺が鎌倉五山とされ、僧録司に所属する僧録に統轄された。これに対し大徳寺の一休宗純ら林下の僧も活躍した。日蓮宗では『立正治国論』を足利義教に提出して罰せられた鍋冠り上人こと日親や法華一揆を結成した京都の町衆らが活躍したが、1536年の天文法華の乱の後、管領細川晴元の抑圧もあって衰退した。なお神道では、京都吉田神社の神官吉田兼倶(よしだかねとも)が『唯一神道名法要集』を著して、神本仏迹説に基づく吉田神道こと唯一神道を確立した。庶民の間では七福神信仰や地蔵信仰、さらに札所巡礼と観音聖場巡礼による観音信仰が流行し、伊勢詣・熊野詣・善光寺詣などが盛んに為された。
文学及びそれに類するもの
『神皇正統記』 / 北畠親房が百王説に基づき吉野朝の正統性を証明すると共に後村上天皇の為政のため常陸国小田城にて執筆した史論書。
『太平記』 / 吉野朝側の小島法師が著した軍記物語。講釈師の太平記読みにより全国に広まる。
『梅松論』 / 作者不詳。今川了俊が自分の活躍を誇示するため著した『難太平記』と同様、足利幕府側の見地から記されたもの。
『応仁記』 / 飯尾彦六左衛門尉の著。前述の名文句で有名。『承久記』『明徳記』と共に軍記物の『三代記』とされる。
『建武年中行事』 / 後醍醐天皇が著した有職故実書。有職故実書としては北畠親房の『職原抄』や一条兼良の『公事根源』も有名。
『新葉和歌集』 / 後醍醐天皇の皇子宗良親王(尊澄入道親王)が編纂。ちなみに宗良親王自身の和歌集は『李花集』。
『新続古今和歌集』 / 飛鳥井雅世の和歌集。
『三韻一覧』 / 周防国山口で刊行された大内版という出版物。この頃、京都五山からは五山版が刊行された。
『中生子』 / 中巖円月が著した日本初の朱子学研究書。この他、五山文学としては義堂周信の『空華集』や絶海中津の『蕉堅藁』など。
『菟久波集』 / 日本初の連歌集。『増鏡』の著者と目される二条良基が編纂。後に準勅撰となる。
『応安新式』 / 二条良基が連歌の規則を明示したもの。これによって、連歌は次第に和歌と対等の地位を確立していった。
『新撰菟久波集』 / 東常縁から古今伝授(『古今和歌集』の秘事・口伝)を受け、一条兼良に古典を師事し、連歌を心敬に学んだ飯尾宗祇の著作。正風連歌を確立。なお飯尾宗祇は紀行文『筑紫道記』や弟子の宗長・肖柏と詠んだ『水無瀬三吟百韻』でも有名。
『新撰犬筑波集』 / 山崎宗鑑の著作。山崎宗鑑は荒木田守武と共に俳諧連歌を確立。
『閑吟集』 / 宗長による編纂。「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの……」などといった、小歌を大成。
『実隆公記』 / 三条西実隆の日記。三条西実隆は飯尾宗祇から古今伝授を受け、飛鳥井雅親に和歌を学び、『雪玉集』などを残す。
『河海抄』 / 四辻善成が著した『源氏物語』の注釈書。後に一条兼良はこれを訂正、『花鳥余情』を著す。
『樵談治要』 / 「五百年以来の才人」と称された碩学・一条兼良が『文明一統記』と共に足利義尚に提出。足軽の登場を記す。
『小夜の寝覚』 / 一条兼良が日野富子に提出。一条兼良の著作としては他に有職故実書『江家次第抄』などがある。
『一寸法師』 / 『文正草子』『物臭太郎』『浦島太郎』『酒呑童子』と同様、立身出世と神仏霊験譚を中心とした御伽草子の一つ。
『医学大全』 / 堺の阿佐井野宗瑞が著した日本初の医学書。なお堺では道祐が「正平版論語」として『論語集解』を版行した。
『甲陽軍鑑』 / 武田四名臣の一人高坂昌信が著した原本を春日惣次郎が書き継ぎ、小幡景憲が江戸初期に編纂。武家教育の教科書。
建築・絵画
鹿苑寺金閣 / 増長を続ける足利義満が北山山荘に建立。下から順に寝殿造・武家造風寝殿造・禅宗様の三層構造。将軍家の貴族化を示す。
慈照寺銀閣 / 東山山荘に避難した足利義政が建立。上が禅宗様、下が書院造の二層構造。東求堂同仁斎は付書院を有する書院造の源流。
龍安寺石庭 / 「虎の子渡し」で知られる。慈照寺庭園・大徳寺大仙院庭園・西芳寺庭園と同様、善阿弥ら山水河原者による枯山水で有名。
『布袋図』 / 黙庵が描いた水墨画(宋元画)。南北朝時代の水墨画としては、他に可翁の『寒山図』が挙げられる。
『瓢鮎図』 / 如拙が禅の公案を題材として描いた禅機画。北山文化では如拙の他に明兆(兆殿司)や周文も活躍。
『四季山水図巻』 / 主に山口の雲谷庵で活躍して日本的な水墨画様式を完成した雪舟(等楊)の作品。他に『秋冬山水図』『天橋立図』も有名。
『周茂叔愛蓮図』 / 狩野派の始祖狩野正信の作品。子の狩野元信は『大仙院花鳥図』を描く。土佐派では土佐光信が出て宮廷絵所預として活躍。
茶道その他
南北朝時代には茶の異同を飲み分けて懸けをする闘茶や茶寄合が盛んに行われたが、これは能阿弥によって茶の湯と言う芸能に昇華された。やがて足利義政の茶道師範であり一休宗純に師事したことで有名な村田珠光は禅の精神を盛り込んで茶禅一味の境地を開拓し、所謂「一期一会」の精神で知られる佗び茶を興した。書院の茶ではなく草庵の茶として発展した佗び茶は、武野紹鴎を経てその娘婿の千利休により大成された。なお堺出身の千利休・今井宗及・津田宗及の三人を、三宗匠と言う。一方、池坊専慶が創始した花道は後に池坊専応・池坊専好らによって発展された。
芸能
興福寺を本所とする大和猿楽四座(観世座・金春座・金剛座・宝生座)のうち観世座から輩出された観阿弥清次とその子の世阿弥元清は足利義満の同朋衆であり、民間の田楽能と寺社の猿楽能を融合して能を大成したことで知られている。世阿弥元清は、謡・舞・技の最高境地たる幽玄と、稽古・工夫公案を重視した『風姿花伝』『花鏡』を著し、娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)に能を継承した。ちなみに能の台本を謡曲、能を行う者が顔面に着ける面を能面、能の合間に演じられる科白劇を狂言と言う。この他、桃井直詮が創始した幸若舞や、古浄瑠璃・風流踊り・念仏踊り・盆踊りなどが流行した。なお、幸若舞では、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を受け、滅せぬ者の有るべきか……」という『敦盛』の一節があまりにも有名である。
学問
朱熹の『大学』を注釈した『大学章句』を刊行して薩摩国の島津忠昌の下で薩南学派を開いた桂庵玄樹や、土佐国の吉良宣経の下で海南学派を開いた南村梅軒、武蔵国の太田道灌に仕えた万里集九など戦国時代には多数の朱子学者が活躍した。また鎌倉時代に足利義兼が設置した足利学校は上杉憲実と快元により復興され、「坂東の大学」と称される程発展し、多数の逸材を世に輩出した。なお当時の庶民教育に用いられた教科書は『貞永式目』や玄恵の『庭訓往来(ていきんおうらい)』であり、辞書は饅頭屋宗二(林宗二)が刊行した『節用集』などである。 
8 戦国時代
戦国時代
家臣の知行地の面積や収穫量の明細書を大名に提出させることを指出検地と言う。土地の広さは貫高制(永楽通宝の場合は永高制)、即ち収穫量を明銭に換算した金額で表され、戦国大名はそれを保障する代わりに貫高相応の軍役などを賦課した。軍役を負担する家臣(給人)の下に戦国大名は国人らを組織し、やがて家臣を一族衆(一門)・国衆(譜代)・新参衆(外様)に分け、兵卒も足軽・あらし子・仲間(ちゅうげん)・小者・郎党・同心などに分けて軍奉行に統轄させた。こうした非常時体制のことを寄親・寄子制と言う。また大名領国制下で戦国大名は領国にのみ通用する分国法(壁書・家法)を制定したが、分国法は連坐法・縁坐法や喧嘩両成敗法など、厳罰主義のものが多かった。主な分国法としては、伊達稙宗の『塵芥集』、結城政勝の『結城家法度』、伊勢長氏の『早雲寺殿二十一箇条』、武田信玄・武田信繁の『甲州法度之次第』、今川氏親・今川義元の『今川仮名目録』、朝倉孝景(朝倉敏景)の『朝倉孝景条々』、六角義治の『六角氏式目』、三好長治の『新加制式』、大内義興の『大内氏掟書』、長宗我部元親・長宗我部盛親の『長宗我部氏掟書』、相良為続・相良長毎・相良晴広の『相良氏法度』などが挙げられる。一方、戦国大名は一極集中による商工業の発展と家臣の謀叛防止のため城下町を造成した他、宿駅制・伝馬制の整備や関所の消極的な撤廃などを行った。主な城下町としては、北条家の相模国小田原、今川家の駿河国府中、斎藤家の美濃国井ノ口、朝倉家の越前国一乗谷、長尾家の越後国春日山、大内家の周防国山口、一条家の土佐国中村、大友家の豊後国府内、島津家の薩摩国鹿児島などが挙げられる。これら城下町の他、摂津国石山・越前国吉崎・和泉国富田林・大和国今井・美濃国円徳寺など一向宗の寺院の敷地内には寺内町が、また宗派に関係無く寺社の門前には、延暦寺の近江国坂本、伊勢神宮の伊勢国宇治山田、善光寺の信濃国長野などの門前町が形成され、さらに『耶蘇会士日本通信』の中でガスパル= ヴィレラをしてヴェニスに形容せしめた堺をはじめとする港町、それに宿場町などが形成された。港町としては和泉国堺の他、筑前国博多、備後国草戸千軒町、摂津国兵庫、薩摩国坊津、越前国敦賀、備後国尾道、若狭国小浜、近江国大津、伊勢国桑名、伊勢国大湊などが知られているが、このうち堺は36人の納屋衆(会合衆(えごうしゅう))が、博多は12人の月行司がそれぞれ自治した。
東北地方の情勢
奥州探題として君臨していた伊達稙宗は1542年に次男の伊達実元を上杉定実に入嗣させようとしたが、嫡男の伊達晴宗がこれに反発し天文の大乱が勃発した。天文の大乱は伊達稙宗の隠居により終焉したが結果として伊達家の支配力の弱体化を招き、伊達晴宗の嫡男である伊達輝宗は政略結婚を多用して版図を維持することとなった。伊達輝宗は義兄の最上義光の策謀による内紛発生を懸念して嫡男・伊達政宗に家督を継がせたが、自身は二本松義継に暗殺され落命した。この事件を契機として1585年に勃発した人取橋合戦にて寡兵の伊達政宗は蘆名義広・佐竹義重らと戦い、1589年の摺上原合戦では蘆名義広を駆逐して黒川城(会津若松城)を占拠し、東北の覇権を確立した。一方、東北地方北部では南部晴政・南部信直親子が「三日月の丸くなるまで南部領」という広大な版図を誇っていたが、1571年に津軽為信が独立したためやや弱体化した。
関東甲信越地方の情勢
今川義忠の妹婿伊勢長氏は、1491年に堀越公方足利政知の遺児足利茶々丸を謀殺して韮山城を占拠し、初の本格的な戦国大名となり、1495年には大森藤頼から小田原城を奪取し、1516年には三浦時高を討った。伊勢長氏(北条早雲)の嫡男である北条氏綱は扇谷上杉朝定から河越城を奪う一方、1538年に勃発した第一次国府台合戦では古河公方足利晴氏を擁して小弓御所足利義明・里見義堯連合軍を粉砕し、1546年には嫡男の北条氏康が足利晴氏と山内上杉憲政、扇谷上杉朝定らを河越夜戦で破り、後北条家の覇権を確立した。一方、武田晴信は父の武田信虎を駿河国へ追放して家督を奪ったものの、1548年の上田原合戦では村上義清に惨敗した。だが村上義清の居城戸石城は真田幸隆の謀略により陥落したため村上義清は越後国の長尾景虎を頼った。こうして1553年には武田信玄(武田晴信)と長尾景虎の間で第一次川中島合戦が勃発し、以降第三次川中島合戦まで睨み合いが続いた。この間、足利義輝の偏諱を受けて改名した長尾輝虎は1557年に北条氏康から逃れて来た山内上杉憲政より上杉姓と関東管領職を継承して上杉政虎(上杉謙信)となった。上杉謙信は1559年に佐野昌綱が籠る下野国唐沢山城を包囲する北条氏政の大軍を44騎で駆逐し、さらに小田原城を攻撃したが、武田信玄が北進し始めたため転進した。こうして1561年に勃発した第四次川中島合戦(八幡原合戦)では武田信玄が当初山本勘介発案の啄木鳥戦法を用いたものの失敗し、武田信繁・山本勘介・諸角虎定らが討死するなどの苦戦を強いられたが、高坂昌信らの活躍により優勢に転じ結果的に川中島を版図とした。武田信玄が在原業平の末裔長野業盛が守る箕輪城を陥落させた後の1565年にも第五次川中島合戦が勃発したが、これは睨み合いに終始した。一方、第二次国府台合戦で里見義弘を破った北条氏康は1568年に子の北条氏秀を上杉謙信の養子として越相同盟を締結、翌年にはこれに反発して来襲した武田信玄を小田原城に籠城して撃退、やがて甲相同盟を締結した。北条氏康は1571年、武田信玄は1573年、上杉謙信は1578年に逝去した。
近畿・中国地方の情勢
1493年の明応の政変にて管領細川政元は将軍足利義尹を追放して足利義澄を擁立したが、1508年の永正の政変にて大内義興に支持された足利義尹は足利義稙として将軍職に復位した。一方、管領細川晴元は1532年に一向一揆を煽動して三好元長を討ったが、1549年には三好元長の子の三好長慶に駆逐された。やがて幕府の実権を掌握した三好長慶は1553年、芥川城にて畿内周辺を版図とする三好政権を樹立したが、次第に松永久秀に実権を奪われ、1564年に三好長慶が死去すると松永久秀の傀儡である三好義継が後継した。松永久秀と三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆は1565年に将軍足利義輝を惨殺して京都から宣教師を追放したが、やがて対立して奈良で戦い東大寺大仏殿を焼失させた。一方、大内義興の子で後奈良天皇の即位式に資金を供出するなど栄華を極めていた大内義隆は1551年、重臣の陶晴賢に謀殺され滅亡した。陶晴賢は傀儡君主として大内義長(大友晴英)を立てたものの1555年の厳島合戦にて大江広元の末裔毛利元就に討伐された。大内家の旧領を継承した毛利元就は正親町天皇の即位式の資金を出す一方、月山富田城を攻略して尼子義久を滅ぼし、主家・浦上宗景を滅ぼしていた宇喜多直家と同盟するなどして地盤を固めた。やがて1571年に毛利元就は逝去したが、嫡孫毛利輝元、次男吉川元春、三男小早川隆景に残した「三矢の訓戒」は、尼子家再興を志したものの河合渡で惨殺された山中幸盛(山中鹿之介)の話と共にこの地方の逸話として有名である。
四国・九州地方の情勢
一条房家の助力で御家再興を果たした秦氏血統の長宗我部国親は土佐国統一を目指し、1560年の長浜合戦では初陣の嫡男長宗我部元親の活躍もあって宿敵本山茂辰を下した。長宗我部元親は1575年に土佐国を統一し、1585年には四国統一を果たした。なお伊予国の河野通直は同年、豊臣秀吉から命じられた転封を拒否したため改易され、河野家の正系は断絶した。一方、1543年に鉄砲、1549年に基督教が伝来した九州では、1554年に島津貴久が肝付兼続との加治木城の戦いにて日本史上初の鉄砲実戦使用を敢行した他、宗義調が倭寇取締・貿易船年30隻を定めた弘治条約(丁巳約条)を締結して日朝貿易による利益で潤い、また龍造寺隆信が少弐冬尚を討って戦国大名となるなど群雄割拠の情勢が続いていたが、二階崩れの変を経て大友義鑑から家督を継承した大友宗麟(大友義鎮)は1570年の今山合戦にて龍造寺隆信の重臣鍋島直茂の前に惨敗し、日向国の基督教国化を謀り島津義久と戦った1578年の耳川合戦でも島津義弘らの猛攻を受けて破れ、弱体化した。大友宗麟は、有馬晴信や初のキリシタン大名大村純忠らと共に1582年、伊東マンショ(伊東祐益)・千々石ミゲル(千々石清左衛門)・原マルチノ・中浦ジュリアンらを天正遣欧使節としてローマへ派遣したが、沖田畷合戦(島原合戦)で龍造寺隆信を破った島津軍の猛攻の前に弱体化を続けた。
東海地方の情勢
曳間城の斯波義逵を攻略して守護大名から戦国大名に転身した今川氏親の急死により、今川家は太原雪斎が推す今川義元(梅岳承芳)と福島正成が推す今川良真(玄広恵探)の二派に分裂したが、1536年の花倉の乱に勝利した今川義元が家督を継承した。今川義元は守山崩れにて落命した松平清康の子の松平広忠を軍門に下す一方、二度にわたる小豆坂合戦を織田信秀との間で戦い勢力を伸張し、1554年には太原雪斎の助力により北条氏康・武田信玄との間で政略結婚による相互監視を基本とした相互不可侵条約たる善徳寺会盟を締結し、西進の準備を推進した。一方、美濃国では守護の土岐頼芸を1542年に追放した家臣の斎藤利政(斎藤道三)が実権を掌握した。そうした情勢の下の1534年、尾張国守護代織田信友の奉行である織田信秀とその正室土田御前との間に、織田信長が誕生した。 
 
 安土桃山時代

 

1 覇王天翔 − 織田信長の年譜
桶狭間合戦
(1560年 / 覇王・織田信長の興隆)
1551年に家督を継いだ織田信長は翌1552年の正徳寺会見で舅の斎藤道三を後盾につけ、守護斯波義統を奉じていたもののこれを殺害した織田信友を討伐して肥沃な尾張国を統一した。しかし長良川合戦にて斎藤道三が斎藤義龍に討たれると反発が高まり、やがて1557年には林通勝(林秀貞)・林光春・柴田勝家らが織田信長の廃嫡と弟の織田信行の擁立を企てた。こうして発生した稲生合戦は織田信長の勝利に終り、許された織田信行は再度謀叛したため殺害された。やがて松平広忠の嫡男で太原雪斎の教育を受けた松平元康を先鋒として今川義元が来襲したが、織田信長はこれを田楽狭間に急襲して討ち取り、その名を全国に知らしめた。
上洛への道程
前田利家が足立六兵衛を討つなどして活躍した森部合戦を端緒として本格的な美濃国の攻略を開始した織田信長は、桶狭間合戦を契機として独立したものの本多正信らが参加している一向一揆に苦しんでいた徳川家康(松平元康)と清洲同盟を締結した。美濃国では斎藤義龍の子の斎藤龍興が居城稲葉山城を家臣竹中重治に一時乗っ取られるなどの混乱が続いていたが、織田信長の家臣木下秀吉の根回しにより美濃国の重臣美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全)が織田家に内通したため、1567年には織田信長が美濃国を完全に制圧した。稲葉山城を岐阜城と改めた織田信長は、1549年に六角定頼が石寺新市に初めて下した楽市令に倣い城下町加納に楽市楽座令を施行する一方、妹の市姫(小谷ノ方)を浅井長政に嫁がせた他、この頃から「天下布武」の印章を使用し始めた。やがて正親町天皇の上洛要請を受諾した織田信長は1568年、足利義輝の弟の足利義秋(後に足利義昭と改名)を奉じて上洛し、これを将軍職に就けて三好政権を駆逐した。なお、松永久秀は織田信長に帰順した。
信長包囲網の結成と崩壊
織田信長による傀儡化を嫌った足利義昭は、武田信玄・本願寺光佐・毛利元就・浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・雑賀衆などに御内書(ごないしょ)を下し、信長包囲網を形成した。織田信長は1570年の対朝倉義景戦である金ヶ崎城の戦いにて背後から縁戚の浅井長政に攻められたものの木下秀吉と松永久秀の活躍により窮地を脱し、同年の姉川合戦では徳川家康と共に浅井長政・朝倉義景に壊滅的打撃を与えた。この後、浅井長政とその父の浅井久政は小谷城で、また朝倉義景は刀禰坂合戦で敗北した後に朝倉義鏡に裏切られ、それぞれ自害した。織田信長は翌1571年には浅井・朝倉軍の一部を隠匿した比叡山延暦寺の焼討を敢行した。一方、1572年の三方ヶ原合戦では盟友の徳川家康が武田信玄に惨敗したが、武田信玄は三河国野田城を攻撃中に病を発し、帰途、信濃国駒場にて落命した。これを知らずに挙兵した足利義昭は1573年に潰され備後国鞆ノ津へ追放となり、ここに室町幕府は名実共に滅亡した。足利義昭は後に准三后・足利昌山と号し、やがて没したが、豊臣政権の京都所司代前田玄以は棺職人一人しか派遣せず、葬儀を執り行った鹿苑寺の西笑承兌を嘆かせたという。足利義昭の追放後、近衛前久ら朝廷公卿を介して正親町天皇に奏上して天正改元を実施した織田信長は、まず名物狩りを行って名物茶器を収集してこれを土地に代わる御恩とする所謂茶道政道を開始する一方、経済的基盤を確固たるものにすべく木下秀吉に命じて独立的気風の強い堺を服従させ、堺政所に茶人として有名な松井友閑を起用し、これを直轄支配した。
織田政権の施策
戦国大名たちは治水事業などにより従来の谷戸よりも大規模な田を多数開墾していたため、織田信長は田畑の面積・耕作人・標準収穫量を申告させる指出検地を実施した。また織田信長は、流通の促進を図る関所撤廃令や、美濃国加納と近江国安土山下町などでの楽市楽座令の施行、さらに座に属さない新儀商人の保護などの抜本的な政策を断行した。この結果、荘園領主や国人などの中世的勢力や、座商人などが完全に没落した。また織田信長は撰銭令を出して貨幣の流通の促進を図る一方、堺・大津・京都・草津などの直轄都市からは矢銭を徴収した。なお宗教政策としては基督教を優遇し、朝山日乗らが著名な詭弁家として挙げられる日蓮宗などの仏教を弾圧した。
織田信長の天下統一作業
信長包囲網に荷担して日本初の天守閣付城郭たる多聞山城に籠城していた松永久秀は1573年に降伏したものの、1577年には信貴山城にて再び謀叛し、織田信長の嫡男織田信忠に攻められて名物『平蜘蛛茶釜』と共に爆死した。一方、武田信玄の遺言を無視した武田勝頼が徳川家康の家臣奥平忠昌が拠る三河国長篠城を攻撃したことに端を発する1575年の長篠合戦では、『信長公記(しんちょうこうき)』の記述の信憑性などの観点から数は不明であるものの多くの鉄砲を用いた織田信長と徳川家康が勝利した。織田信長は翌1576年には安土城を築いたが、第一次木津川口海戦では毛利輝元の家臣児島就英率いる毛利水軍に完敗を喫し、さらに1578年には荒木村重が謀叛した。しかし1578年の第二次木津川口海戦では南蛮渡来の技術を駆使した鉄甲船を駆る九鬼嘉隆の織田水軍が毛利水軍に勝利し、これによって補給線が絶たれた本願寺光佐は1580年に石山本願寺を退去し、ここに石山戦争は終結した。織田信長は1581年、次男北畠信雄の独断を契機とする天正伊賀の乱を制圧する一方、山内一豊の妻の千代の内助の功の逸話で知られる天覧馬揃えを敢行し、さらに翌1582年には徳川家康と共に天目山の戦いにて武田勝頼・武田信勝らを自害させ、これを平定した。織田信長の天下統一は正しく目前と言えたが、石山戦争に絡む佐久間信盛・佐久間信勝の追放、1580年の筆頭家老林通勝の馘首、快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」の名言で知られる甲斐国恵林寺の焼討などにより、家臣団の内部にはある種の緊張感が流れていたようである。
本能寺の変
(1582年 / 日本史上最大の政変)
備中国高松城水攻め中の羽柴秀吉から応援要請を受けた織田信長は西国へ向かう途中、京都の本能寺に泊った。当時、柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、丹羽長秀は四国、そして羽柴秀吉は中国地方を攻略中であり、有力諸将の大半が京都から離れていた。明智光秀はこれを好機として娘婿明智秀満に本能寺を襲撃させ織田信長を自決に追い込み、自身は二条城を攻めて織田信忠を殺害した。この謀叛の動機としては、一般的には怨恨説が採用されているが、他にも足利義昭教唆説・近衛前久教唆説・織田信忠反乱失敗説・堺会合衆陰謀説、などが提唱されており、真相は不明である。 
2 南蛮人の活躍
大航海時代
羅針盤の改良による遠洋航海技術の進歩、マルコ= ポーロの『世界の記述』の影響、イベリア半島失地回復運動の余勢、オスマン= トルコによるシルクロードの遮断、十字軍による東洋世界との接触、香辛料の獲得、旧教の勢力拡大運動、などの様々な理由により15世紀から16世紀に至るまでの欧州には大航海時代と呼ばれる時代が訪れた。大航海時代には、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見、1498年のヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓、1522年のマゼラン一向による世界周航の達成などの地理上の発見が盛んになされた。欧州諸国は東南アジアに植民地を多く建設したが、ポルトガルの植民地の中心はインドのゴアや華南東海岸のマカオであり、やはり旧教国であるイスパニアの植民地の中心はルソン島のマニラである。
鉄砲伝来
(1543年 / 於・大隅国種子島)
寧波へ向かう予定であったメンデス= ピントー率いる船は、嵐によって種子島に漂着した。南浦文之(なんぽぶんし)が著した『鉄炮記』によると、船員のゼイモトの放った火縄銃の威力に驚いた当主種子島時堯は、莫大な財を彼らに与えてこれを2丁購入したようである。鉄砲は元来刀鍛治の技術があった日本では爆発的に広まり、堺・根来・国友などには専門的に鉄砲を製造する鉄砲鍛冶が出現した。鉄砲の普及に伴い築城法は従来の山城から平山城、平城へと変化していき、戦闘法も鉄砲足軽隊中心の集団戦法に変化した。
キリスト教の伝来
(1549年 / 於・薩摩国鹿児島)
反宗教改革の最中、イグナティウス=ロヨラと共に「死体のように」活動することを規定した耶蘇会(イエズス会)を結成したフランシスコ=ザヴィエルは、薩摩国出身でマラッカにいた国際逃亡殺人犯アンジローの案内により薩摩国鹿児島へ1549年に到着し、島津貴久の許可の下、基督教(天主教・耶蘇教・吉利思丹宗・切支丹宗)の布教を始めた。この後、ザヴィエルは松浦隆信の平戸、大内義隆の山口、大友義鎮の豊後国府内などで布教し、中国への渡航後広東で熱病のため死去したが、大内義隆の治める山口にはコスモ=デ=トルレスが日本初の教会堂を建て、大友義鎮は大村純忠・有馬晴信・小西行長・松浦隆信・黒田孝高・黒田長政・高山重友・一条兼定・蒲生氏郷・織田秀信らキリシタン大名の端緒となるなど、その影響は大きかった。この他の宣教師としては、堺の自治体制とその繁栄をヴェニスに比定した『耶蘇会士日本通信』の著者であるガスパル=ヴィレラや、九州・近畿を中心に布教活動を行い、織田信長にも謁見し『日本史』を執筆したルイス=フロイス、織田信長の厚遇を受け、安土に神学校(セミナリオ)、京都に南蛮寺(コレジオ)を建てたネッキーソルド=オルガンティーノ、そして彌助なる黒人奴隷を織田信長に譲渡し後に正親町天皇も欲した狩野永徳筆『安土城屏風』を拝受したり、教皇グレゴリオ13世に謁見する天正遣欧使節を企画したり、銅版活版印刷術を導入して基督教教義書『どちりな・きりしたん』や『天草版平家物語』『伊曾保物語』などのキリシタン版(天草版・長崎版)を発行したアレクサンドロ=ヴァリニャーニなどが知られている。なお、日本人初の伴天連(宣教師)は肥前国出身のロレンゾ(了西)であり、日本語が不自由なルイス=フロイスに代わり朝山日乗を論破したことで知られている。
南蛮貿易
南蛮貿易は島津家の鹿児島・山川(やまがわ)・坊津(ぼうのつ)、松浦家の平戸、大村家の長崎・横瀬、大友家の豊後国府内、織田家の堺などの港町を中心として、主にポルトガル人やイスパニア人などといったナウと言う貿易船を用いる南蛮人(後の蘭・英国人は紅毛人)との間に行われた貿易である。日本は銀・刀剣・漆器・屏風などを輸出し、白糸・絹織物・鉄砲・火薬・硝石・香料・皮革などを輸入していた。キリシタン大名の中には南蛮貿易の利潤が目的で基督教信徒となっている者もおり、最後まで信仰を貫いたキリシタン大名は大村純忠・大友宗麟・高山重友(高山右近)・小西行長らごく少数だった。 
3 太閤飛翔 − 豊臣秀吉の年譜
豊臣秀吉の覇権継承
本能寺の変を受けた羽柴秀吉は敵将清水宗治の切腹をもって毛利輝元と和議を締結し、中国大返しの後、山崎合戦にて明智光秀を破り、「明智の三日天下」を終結させた。明智光秀は小栗栖にて落命した。清洲会議にて羽柴秀吉は北畠信雄・丹羽長秀らと共に織田三法師(織田秀信)を推してこれが後継者となったが、結果的に清洲会議は織田信長の三男神戸信孝を推した柴田勝家との対立を深める結果となり、翌1583年には織田信雄が岐阜城の神戸信孝を滅ぼしたことを受けて賤ヶ岳合戦が勃発した。賤ヶ岳合戦は後に「七本槍」と賞賛される加藤清正・福島正則・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・糟屋武則・平野長泰らの活躍もあって羽柴秀吉の勝利に終り、柴田勝家は小谷ノ方と共に越前国北ノ庄城にて自害した。この際、茶々姫(淀君)・初姫・小督姫は救出された。一方、羽柴秀吉の傀儡となることを嫌った北畠信雄が徳川家康の元に走った結果勃発した1584年の小牧・長久手の戦いでは、甥の三好秀次の拙劣な采配により池田恒興・森長可らが討たれるなど羽柴秀吉は劣勢に立たされたが、北畠信雄が唐突に和睦を成立させたため徳川家康は名分を失い、徳川家康が羽柴秀吉の妹の旭姫を正妻に迎えて和議が成立した。羽柴秀吉はこれにより、事実上後継作業を完了した。
小田原征伐
(1590年 / 後北条家の滅亡と伊達政宗の帰順)
後北条家四代目の北条氏政は、嫡男北条氏直に家督を譲った後も実権を握り、対外的には反豊臣の立場を維持していた。北条氏直の配下武将猪股邦憲が真田昌幸の所領である信濃国名胡桃城を攻撃したことを口実とした豊臣秀吉は、約220000人の兵から構成される大軍を自ら率いて関東へ下向した。北条氏政は町を内包している小田原城に籠城したものの、重臣松田憲秀らの寝返りもあって四ヶ月余りで落城した。主戦派である北条氏政・北条氏照らは死罪、北条氏直は高野山への流罪に処せられ、ここに後北条家は滅亡した。伊達政宗もこの小田原征伐に際して豊臣秀吉に屈服したため、結果的にこの小田原征伐に於いて事実上の全国統一が達成された、と言える。
豊臣政権
天正の石直しの断行や諸法令の施行、それに大名統制のため大きな権威を必要とした羽柴秀吉は四国平定の直後の1585年、近衛前久の養子として正親町天皇から関白宣下を受けた。自称平氏の羽柴秀吉は源平交代思想により征夷大将軍に就任できなかったため、1586年には後陽成天皇から太政大臣の位と豊臣姓・桐の紋を賜り、有力諸将に従来の羽柴姓を与え、関白太政大臣豊臣秀吉を氏長者とする羽柴家が日本を統治するという古代の公家政権を模倣したような豊臣政権を樹立し、後陽成天皇の聚楽第行幸の際に諸将に忠誠を誓わせた。豊臣政権は、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(死後に上杉景勝)ら五大老と、石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以・長束正家ら五奉行(年寄衆)により運営され、その財政的基盤は、蔵入地と呼ばれる220万石程度の直轄地からの収入、京都・大坂・堺・伏見・長崎・博多などの直轄都市からの矢銭、相川金山・大森銀山・生野銀山などの直轄鉱山からの金銀などだった。豊臣秀吉は後藤徳乗に高純度の贈答用金貨として天正大判を鋳造させたが、天正大判は、皇朝十二銭最後の乾元大宝以来の国産の公的貨幣である。
太閤検地(天正の石直し)
1582年の山城国検地を端緒として羽柴秀吉が断行した太閤検地では、従来の貫高制に代わる石高制や、全国共通の京枡、それに加持子名主らの中間搾取を否定する一地一作人制が採用された。石高は、上田1石5斗・中田1石3斗・下田1石1斗・下々田0石9斗のような石・斗・升・合単位の反別標準収穫量に町反畝歩制の面積を乗じて算出されたが、町反畝歩制では1町=10反=100畝(せ)=3000歩で、1歩は1間(6尺3寸)だった。年貢は検地奉行が村毎の石高を記した検地帳(水帳)に基づき二公一民で村毎に課された。結局、太閤検地は大名知行制の基礎を確立させ、中世的土地領有関係を否定したため小農民の自立を招いたが、農民は耕作権を保障される代わりに土地に束縛され、年貢負担が義務付けられる結果となった。
兵農分離
太閤検地反対一揆たる葛西・大崎の乱や肥後一揆(佐々成政が引責自害)を鎮圧した豊臣秀吉は、1588年に方広寺大仏建立のための釘・鎹の収集を口実として一揆予防と兵農分離を目的とした刀狩令(日本初の刀狩令は柴田勝家)を行い、また1591年には武士・商人・農民を分離する身分統制令を発令した。結果的に太閤検地と刀狩令と身分統制令により兵農分離が確立され、一領具足などの半農半武は消滅した。
豊臣秀吉の外交
豊臣政権は大坂・京都・長崎の商人に朱印船貿易を行わせるため海賊取締令を発令したりしていたが、1587年の九州平定時に、大村純忠が長崎を基督教会に寄進したり、日本人奴隷の売買や基督教徒による寺社破壊が行われていることを知ると、急遽博多で伴天連追放令を発令し、翌日には大名禁教令も施行、棄教を拒否した高山重友らの所領を没収した。豊臣秀吉はゴアポルトガル政庁やマニライスパニア政庁に入貢を、また高砂族(たかさごぞく)が住む高山国(たかさんぐに)(台湾)に原田孫七郎を派遣して服属をそれぞれ要求するなど次第に強圧的な態度をとっていった。1596年にイスパニア国籍船が突如土佐国に漂着したサン=フェリペ号事件は、乗員の不穏当な発言が増田長盛を通して豊臣秀吉の耳に入ったため、長崎浦上のフランシスコ会士26聖人殉教事件にまで発展した。 
4 朝鮮出兵
朝鮮出兵への道
一連の兵農分離の動きに対する民衆の不満を逸らすため、また軍需景気や対外貿易の利益拡大を要求する商人たちのため、加えて肥大化した自らの自己顕示欲のために、「大明長袖国」を軽蔑する豊臣秀吉は大明征伐(唐入り)を決意した。手初めに明への通過点に存在する李氏朝鮮に対して降伏を勧告しようとした。しかし宗義調(そうよししげ)と小西行長はこの勧告が無視されることを予期し、それに伴う兵禍を恐れ、全国統一の祝賀使として使者を派遣することを李氏朝鮮に対して要求した。しかし李氏朝鮮はこれを拒否した。困窮した小西行長と宗義智(そうよしとし)(父の宗義調は心労により病死)は先例に倣って密かに使節を派遣し、その返礼使を派遣することを要請した。かくして黄充吉が派遣されて来たものの、豊臣秀吉はこれを祝賀使と思い、傍若無人に振る舞った。黄充吉は忠実に兵禍の危険性を報告したが、政治腐敗・事勿れ主義・平和惚けに浸っていた朝鮮政府はこの報告に耳を貸さなかった。通信使に同行した柳川調信(やながわしげのぶ)や僧玄蘇らも同様の訴えを朝鮮政府に対して行ったが、却下された。
文禄の役
(1592年 / 第一次朝鮮出兵・壬申倭乱)
人掃令により人口調査を行った豊臣秀吉は肥前国名護屋城を築き、ここを拠点として158000人程の兵卒を朝鮮半島に進出させた。この朝鮮出兵にて兵站線を担当したのは神屋宗湛(かみやそうたん)(神谷宗湛)・島井宗室ら博多商人である。政治腐敗による暴政に苦しんでいた朝鮮人は進出して来た宇喜多秀家率いる日本軍を解放軍のように迎え、半島西部を進撃する加藤清正は一気に首都漢城を陥落させ、東部を突き進む小西行長も豆満江の畔の会寧(かいねい)まで進軍した。しかしやがて郭再佑(かくさいゆう)らが率いる義民軍や、亀甲船を配備した海軍を率いる李舜臣(りしゅんしん)などの活躍によって苦境に立たされ、李如松が明の援軍を率いて参戦して戦況が一層悪化したため、日本軍は碧蹄館(へきていかん)の戦いで圧勝したことを機に、1596年に講和した。なお小西行長は文治派にも拘らず先鋒を努めたが、これは朝鮮出兵による財力の浪費に伴い豊臣政権が揺らぐことを憂えた石田三成ら五奉行の要請に応じ、各地で戦線拡大の抑制を目指して活動するためだった。
慶長の役
(1597年 / 第二次朝鮮出兵・丁酉倭乱)
豊臣秀吉は文禄の役の講和条件として対明七箇条の要求を示したが、沈惟敬・楊方亨らが持参した万暦帝の国書には「汝ヲ封ジテ日本国王ト為ス」、即ち豊臣秀吉を明に服属する冊封体制の下の国の王として明皇帝が認めると記されていた。豊臣秀吉は激怒し、再び朝鮮半島に小早川秀秋を総大将とする140000人程の軍勢を進出させた。だがこの慶長の役では、作戦が良い講和条件を引き出すべく半島南部を占領するという曖昧なものだったことに加え、文禄の役で敵国へ寝返った岡本越後守(沙也可(さやか))が伝えた鉄砲を敵軍が装備していたため、日本は加藤清正が蔚山城に籠城するなどの苦戦を強いられた。また巨済島海戦で政敵元均が敗死したため李舜臣が復活し、彼に対馬海峡の制海権を奪われ物資の補給が困難になったこと、また文治派と武断派の対立が露顕したこと、などの理由により日本は混乱を強いられ、1598年の豊臣秀吉死去を受けて撤退した。なお李舜臣は後世「東洋のネルソン」と称されたが、結局は露梁海戦にて敗死している。
朝鮮出兵の結果
連行され、或いは自発的に渡海した朝鮮人により、多くの技術が伝来された。まず活版印刷術が導入され、盛んに用いられるようになった。後陽成天皇は勅令を活字に起こした所謂『慶長勅版』を刊行したことで知られている。なおこの朝鮮出兵時にもたらされた活版印刷術は木版を使用するものであり、これ以前に南蛮人がもたらした銅版を使用する活版印刷術よりも効率が良く、普及していった。次に陶磁器の製作技術が伝来した。これは江戸時代のお国焼きと言われる陶磁器、即ち有田焼・高取焼・松浦焼・薩摩焼・萩焼などに用いられた。また朱子学も本格的に伝来した。政治的な結果としては、五奉行の危惧した通り朝鮮出兵に伴って豊臣政権は弱体化し、さらに武断派(武将派)の誤解によりこれと文治派(文吏派)が激しい抗争を開始する結果となった。 
5 桃山文化
日本史上初の仏教とは無関係の文化である。新興の武家と豪商の財力を基盤とした現実的且つ人間的な文化であり、城郭などに代表されるその豪華さ、及び佗び茶による精神性などは未だかつて類を見ない程である。また南蛮貿易による南蛮文化の影響も見られる。故に桃山文化は「日本のルネサンス」とも呼ばれている。
建築
多聞山城 / 松永久秀が佐保山に築いた、日本初の天守閣を持つ城。近世城郭の模範。なお城は、政治的見地から山城→平山城→平城と変遷した。
犬山城 / 1537年に織田信康が築いた、現存する最古の天守閣を持つ城。現存している他の城郭としては彦根城・松江城・松本城などが有名。
安土城 / 1576年に織田信長が築城。外に琵琶湖に映えるよう金箔が施され、内に狩野永徳の障壁画を有した「天主閣」は5層7重。本能寺の変後、焼失。
姫路城 / 1609年に池田輝政が築城。白鷺城。5層7重の天守閣に3つの小天守閣が渡櫓で結ばれた連立式天守閣。二条城と共に、世界文化遺産。
伏見城 / 豊臣秀吉の没した城。都久夫須麻神社本殿・唐門と西本願寺唐門・書院(鴻の間)が遺構。なお、この頃の建築には欄間・破風などがある。
聚楽第 / 豊臣秀吉が築いた京都の邸宅(城郭?)。西本願寺飛雲閣と大徳寺唐門が遺構。この他、京都には徳川家康が二条城を築城。
妙喜庵待庵 / 千利休による茶室建築。茶室建築としては、この他にも織田長益(織田有楽斎;有楽町の語源)の如庵が有名。
絵画
『洛中洛外図屏風』 / 障壁画にて水墨画と好対照な金碧濃彩画たる濃絵の大成者狩野永徳の作品。他に『唐獅子図屏風』『檜図屏風』も有名。
『松鷹図』 / 狩野山楽の作品。他に『鷙鳥図屏風』も有名。狩野派の作品としては、他に狩野長信の『花下遊楽図屏風』、狩野吉信の『職人尽図屏風』、狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』、狩野秀頼の『高雄観楓図屏風』などが有名。
『山水図屏風』 / 浅井家臣海北綱親の五男海北友松の作品。他に『牡丹図・梅花図屏風』『雲龍図』『琴棋書画図』なども有名。
『松林図屏風』 / 雲谷等顔と同様雪風の流れを汲むとする長谷川等伯の作品。子の長谷川久蔵との合作『智積院襖絵楓図・桜図』も有名。
『世界地図屏風』 / 南蛮屏風の一。この他、蒲生氏郷が所有した『泰西王侯騎馬図屏風』も南蛮屏風。
その他の文化
まず歌道では、豊臣秀吉の甥で下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の師となった木下勝俊(長嘯子)が近世和歌の創始者として君臨した。また三条西実隆の孫の三条西実枝の弟子である細川藤孝(細川幽斎)も『衆妙集』を著すなどして活躍し、関ヶ原合戦での危機を後陽成天皇に救われた後は二条派の正統として八条宮智仁親王・松永貞徳らの師となった。茶道は千利休らによってこの頃広く浸透し、織田長益・細川忠興・古田重然(古田織部)・蒲生氏郷・高山重友・荒木村重は特に利休七哲(七高弟)と称された。一方、碁では本因坊算砂、将棋では大橋宗桂といった名手が出た他、琉球渡来の蛇皮線を日本で改良した三味線が人形操りに取り入れられ高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が隆達節(隆達小歌)を発案したことにより浄瑠璃節が大成された。また出雲大社の巫女と言われている出雲の阿国によりかぶき踊りの一種としての阿国歌舞伎が創始された。なお、この頃はカボチャ・ジャガイモなどを用いた南蛮料理が盛んに食された他、タバコ・カステラ・パン・コンペイトウなどの嗜好品や、カッパ・ジュバン・ラシャ・ビロードなどの日用品、それに天文学・医学・地理学などの新知識も渡来し、南蛮文化が開花した。