日本史概観4 江戸元禄・幕藩制

町人幕藩制の苦悶 
歴史雑説 / 花鳥風月江戸の遺伝子「みだら」の構造近松門左衛門伊藤若冲葛飾北斎尾形光琳・乾山本阿弥光悦伊能忠敬平賀源内・・・ 
年譜 / 江戸明治大正昭和
 

雑学の世界・補考   

町人の実力

 

御蔭参り 
「おかげでさするりとさ抜けたとさ」単調なリズムに合わせて、同じように菅笠をかぶり、小脇に茣蓙を、腰に柄杓を差した一団が通り過ぎる。子供たちも草履を引きずりながら、それに続いて声を張り上げて「おかげでさ」と唱和する。野良着姿の百姓や、着飾った娘方、仕事場から抜け出してきた職人、老人を乗せた駕籠や女子供を乗せた馬も通り過ぎる。彼らは日常から解放された空気の中で互いに親しげに言葉を交わし、道中では報謝といって、食事や日常品、寝床を提供して無銭旅行の支えとなった。1705年、京都の丁稚長八が貯めた給金を握りしめ、主家の子守の赤子を背にして伊勢へお参りした事は、霊験あらたかな話に脚色されて洛中洛外、諸国に伝え広がって多くの人の心をとらえた。閏4月には京の人々が伊勢へ流れ始めて日に10万人、これが収まると今度は、大阪から日に23万人が伊勢へ押しかけた。こうして5月29日まで続いた伊勢参宮の群衆は、わずか50日あまりで362万人に上ったという。この後にもほぼ60年周期で1705年、1771年、1830年に大規模な御蔭参りがあった。当時の町人百姓は、他所で一泊でも過ごすならば5人組、名主、組頭に届け出ねばならなかったし、その他日々の細かな行動にも制限がかけられていた。しかしその一方で、施行についての法令や、刑罰の規定が存在せず、役人の心情その時次第であった。だから民衆は、その曖昧な政治の元で安全に暮らすため、ひたすら自戒して自らの生活の幅を縮めながら、肩身の狭い思いをして生きていた。ところが、江戸時代も中期に入りると、民衆の生活程度も向上し文化的な欲求も高まってきて、自戒ばかりの生活も耐えがたいものになってくる。欲求が高まる一方で、「生類憐みの令」など、封建君主の気まぐれによる抑圧があり、民衆のエネルギーが発散される機会は中々なかった。ここに来ての御蔭参りなのである。「おかげでさするりとさぬけたとさ」と大群衆の一員となって唱和し、宗教的なエクスタシーに身をあずける。1705年の前にも大規模な御蔭参りが1615年、1650年にあったが、1705年以降において一段と大規模になったのは、この民衆の生活程度の向上があったと思われる。「翁草」筆者神沢杜口は1771年の御蔭参りで費やされた旅費の総額を銀3万3500貫と計算している。米換算で68万石、これだけの大金が民衆の中に蓄えられていたのである。また、道中では先に書いた「報謝」として大町人達が金品の施行をしていた。京室町三井が銭1000貫と米500石、大阪の鴻池は1人100文ずつ配る、といったように、京・大阪をはじめとして大津・堺・松坂などで相当額の施しがされた。彼ら町人商人が出てくるようになったのは、廻船問屋など、海の力が大きかった。日本中を1枚に結んで、商品流通の海路が四通八達するにつれ、それらを司る商人たちの金の力は大きくなっていった。17世紀半ばには幕政も厳しくなり、諸藩借銀している一方で、大商人らを筆頭に町人の金の力は、幕藩が制御できないほどに実力を伸ばしてきていたのである。
六代将軍家宣

 

前に好学の犬公方綱吉、後に米将軍吉宗が控えた6代将軍家宣は、何かぱっとしない印象を受けるかもしれない。が、彼ほど失政の少なく、民政に注意を払っていた将軍はまれである。君主というのは平凡で、気まぐれの少ないほうが民衆も苦しまずに済むものである。家宣は、綱吉の兄甲府徳川家の綱重を父とし、自らも甲府藩主として藩政を執っていた。彼は年齢からして綱吉の次の将軍になるはずであったが、綱吉が自信の執政に自信を持ち、儒教の年功序列に反して、家宣ではなく自らの息子徳松を西の丸に入れるなど、将軍への道を阻害されている。しかし徳松が夭折し、その後も綱吉自らの子ができなかった。結局20年の遠回りをして家宣が将軍世継ぎとして確定した。この間、別段心を乱すことなくじっと耐え、甲府の儒臣新井白石を師として授業を聞き、勉学に怠ることもなかった。この白石の授業は将軍になってからも日々休むことなく聞いていたという。その年月は19年にも及ぶ。将軍になった家宣は猿楽師の弟子から取りたてられて側近になった間部詮房や、新井白石を両腕に政治を執った。綱吉の治世に苦しんでいた民衆も家宣には期待をかけていたようであり、これに応えるようにして、先ず家宣は、先代綱吉が何よりも気にかけて大事にしていた「生類憐みの令」を撤廃した。家宣の断固たる態度に先代の側近柳沢吉保もその堂々たる態度に返す言葉もなかったという。柳沢は先代の命を守るのは不可能と判断し、鮮やかに政治の舞台から身を引いたという。また新井白石と共に力を注いだのは幕府財政の立て直しであった。財政については勘定奉行荻原重秀一人に任されており、これまで幕府財政が苦しくなると彼が改鋳を行い貨幣の質を落とし、出た利益で生きながらえる、という体制を正すことであった。白石は改鋳をせずに「入るを計って、出るを制する」事で財政も立て直せる、と幾度も家宣に進言したが、江戸の火災・関東の地震の復興費用、家宣の邸宅建築等、多額の臨時出費に対応できないので、結局貨幣改鋳に踏み切らねばならなかった。ただし、これまで多額の賄賂などで勘定奉行に居座り続けていた荻原は、白石の度々の進言によって、職を追われた。白石と共によく働いたのは間部詮房だった。彼は家にも帰らず事務を見るなど、非常に仕事熱心であって、学の足らないところは白石に求めるなど、補完し合う関係であった。前将軍綱吉が好んだ学問と能楽、そこから身を立てた儒臣新井白石と猿楽師の弟子間部詮房の2人が、綱吉の政治の修正を行ったというのも、歴史の皮肉と言えよう。
新井白石

 

家宣の頭脳として働いたのがこの新井白石である。上総久留里城の土屋利直に仕えた豪胆の武人新井正斉を父に、また素姓は知れぬものの、教養ある女性だった母を持つ白石は、幼い頃から父に耐える事を学び、母の影響に書物に関心を持ち、また城主利直からの覚えもよく、その母正覚院にも気に入られて中々に幸福な環境に身を置いていた。8歳から字を習い、只管に耐えて毎日4000字の稽古をして、また撃剣にも汗を流していた白石17歳の時、中江藤樹の「翁問答」に影響されて本格的に学問を始めた。学ぶべき師も周りにはいなかったが、四書五経を読んでいたが、父がお家騒動に巻き込まれ牢人になって一家は暗い日を迎える。それでも屈せずに学問にはげみ、大老堀田正俊に仕えるを経て、35歳で木下順庵の門下となった。当時官学の総本山として林羅山の林家が君臨していた。中には白石の才能を惜しんで順庵の門下から去るよう勧めたものもあったが、報いるべき父も主君もなくした以上、師に報いずして立派な人間とはいえようか、と答えてあくまでも順庵の門下として学び、また官学に実力で競争しようという気迫に満ちていた。37歳の時、甲府藩主徳川綱豊、のちの家宣に儒臣として仕官する道が開けた。甲府は先に林家に儒臣として人を出すよう依頼していたが、林家としては将軍綱吉に冷遇されている甲府家に関わって、難しい問題に絡みたくなかったのが本音のようである。甲府は私学で学ぶ白石に格安の給与を提示してきた。順庵も之が今後の門弟の就職に影響するといけない、と反対していたが、甲府の僅かばかりの譲歩があって白石も之に応じて仕官する運びとなった。この頃、これまでの、武功の譜代の世襲制による臣下ではなく、一代限りの儒臣が広く用いられるようになった。これまで戦国期-江戸前期の頃は、道徳と法が一致した関係であった。例えば、「文武弓馬の事、専らたしなむべきこと」という規範そのものが法令として存在している事である。しかし、「商業=悪」と道徳の面では言いながらも、実際には商売が国家に欠かせないものとなってくると、道徳と法(現実)が乖離してくるのである。法が支配者の意思を超えて、動かざるものとして存在すべき事が望まれるようになったのである。現実の秩序を維持する事を最高善として目的に掲げ、現実の習慣に基づいた、常識的な判断について、新しい法の立場からする説明が、施政者に必要とされ、それが儒臣に求められたのである。政治が儒学的立場、あるいは学問によって権威付けられる必要に応じて登場してきたのである。さて、綱豊(家宣)が将軍継嗣に決まって西の丸に入るというとき、白石は駆けつけて自分の考えを家宣に述べ伝えている。この20日後、白石も将軍世継の侍講に任命された。家宣が将軍になると、白石の活躍が始まる。家宣と共に先代の政治を修正しようという意志があった。そこで衝突する事になったのが綱吉の意のままに意見していた林大学頭信篤である。白石は綱吉の棺を納める石槨の銘文についてや、武家諸法度の新令公布の時に信篤を言い負かし、大きくは朝鮮来聘使から商人の妻の夫を殺した父を訴えた、という事件にまで信篤との争いは及んでいる。しかし、ひとたび家宣が亡くなると、白石の礼式・故実に基づく煩わしいやり方に幾分の反感をもった老中にそっぽを向かれ、以降は信篤の意見が採用されるようになる。この後も徐々に幕臣の信頼を失ってゆき、吉宗の代に至って政治上の地位を失った。とはいえ白石は林家の権威主義的な学問に、正面切って戦った。このことによって、朱子学以外の学問分野の研究が活発になり、新しい学問の発達に大きな貢献をしたといえる。 
白石の外交 
将軍の代替わりごとに朝鮮より来る来聘使の待遇についても白石は改革を行う。朝鮮よりの使者を日本は文化的先進者として珍重していた。一方でこれをどのように受け入れるかについて、白石は改革を行って形式に則ることとしたのである。白石は公家の邸宅にて有職故実を学ぶなどし、その結果、朝鮮からの使者の待遇は簡素化されることになる。また天皇家に宮家を新たに創設し、分家を多く持つ徳川家同様、血筋の断絶を防いでいる。政治についても理想に則った公平さを徹底した。しかし、荻原重秀を追って行った貨幣改革についてはその不案内から失敗している。長崎貿易についても彼は手を入れ、長崎新令を発布して海外への金銀流出を防いでいる。このころ、イタリア人宣教師・シドッチが日本に来航して逮捕されている。白石はキリスト教について学んだ上でこれを尋問し、西洋の学問に触れることとなった。そうして、西洋の学問の先進性に着目したことは、やがて吉宗による洋書禁制を緩めることにつながっていく。 
絵島疑獄 
大奥は幕政に大きな力を握っており、これの縁故によって力を持った者は多数数えられる。また、商人たちは大奥の女性へ盛んに賄賂を贈り、大奥付きの商人になろうと懸命になった。大奥は男子禁制であって、女性ばかりが多くの階級に分かれて暮らしていた。彼女たちは、将軍に伴って外出する他、寺社への代参や宿下り(帰省)を除いて大奥から出ることはならない。そして殆どが30代までの妙齢の女性であった。7代将軍家継は、将軍就任時まだ4歳であり、母親の月光院の下で養育されることになる。間部詮房ら側近たちは、しばしば月光院の下へ訪れて政治を行うが、それは有らぬ噂の原因ともなった。また、6代将軍家宣の正妻であった天英院側の反発も買うようになる。そのような状況の中で、月光院付きの女中である絵島・宮路が芝居見物の挙句に遅れ、門限ギリギリに大奥へ帰りついた。これは忽ち問題として取り上げられると、みるみる間に騒動は拡大した。結果、絵島の流刑を初めとして、縁者の切腹や芝居役者の入牢など、多くの人間が処罰される大事件と発展する。これについて白石は何も残していないが、これは白石は間部――月光院側に属する人間であったことを間接的に示している。この問題は次代の将軍に絡む問題だったと言える。幼い将軍夭折した場合の継嗣として、月光院や間部は尾張の継友を考えていたのに対し、天英院や間部に不満のある譜代諸侯は紀州の吉宗を考えていたのである。この対立関係の中で、天英院側によってこの疑獄が起こされたということもできるだろう。この後、絵島は高遠へと流罪になり、後に釈放されるも高遠でその生涯を閉じることとなる。 
文昭院殿の御遺命 
吉宗が生まれたのは綱吉による生類憐みの令発布の前年であった。母の身分は決して高くなく、また4男であるということもあって、身分はそれほど高くなかった。元来より体格は丈夫であり、また質素な生活を好んだ。彼は幸いにして綱吉の目にとまり、越前丹生3万石に封じられ、大名となる。しかしこれから間もなく、兄が次々と亡くなり、吉宗は紀州藩主を襲う。彼は紀州へ入国すると、経済の健全化や風俗の改良をしきりに行い窮乏した藩の立て直しを図った。家継が亡くなると、文昭院殿――家宣の御遺命を称して吉宗が将軍に推薦され、就任することになる。しかし、実際には家宣はむしろ尾張を頼ろうと考えていたようである。しかし、尾張藩では当主・吉通が変死し、続いて息子の五郎太も夭折し、その過程で藩内での抗争が巻きおこる。この結果、将軍継嗣は紀州吉宗がよいとされるようになっていたのである。吉宗の将軍就任を家宣の遺言と称したのは、天英院である。そしてこれに対立する白石は、家宣が元来尾張を推していたこともあって、吉宗に対して大きな反感を持っていた。しかし、絵島疑獄による月光院派の衰退や、譜代諸侯の烈しい反発の中で、間部や白石は次第に力を落としていた。その結果が、吉宗の就任だったといえるだろう。吉宗は将軍に就任するや、先代の否定から政策実行を行っていく。つまり、白石の政策は大きく否定されることになった。また倹約を奨励して自ら率先して行い、華美に走る諸侯を注意している。武事の奨励も行っており、自らもしきりに鷹狩を行うほか、撃剣の見物や剣豪の取り立ても行っている。風俗の取り締まりも行っており、大きく引締めが行われた。書籍や絵曹子の検閲が行われる他、博打の取り締まり、遊女街の打ち壊しなどが行われている。
享保の改革

 

吉宗の改革は、白石による改革の否定によって始まる。結果、朝鮮外交の変化や武家諸法度の改定は全て覆された。しかし完全に否定されたわけでもなく、清・オランダとの貿易統制である長崎新令については継続された。結局、吉宗の改革は吉宗が先頭に立った点で目立ったとはいえ、大きい変化があったわけではない。時代の流れは顕然として存在しており、その上にのって行われる政治もまた結局似たような形態を取らざるを得なかった。その一方で、吉宗の政治は新鮮さを感じさせるものであったことは違いはない。目安箱の設置や上米の制などはその代表と言える。そんな吉宗の最大の改革が、定免制である。これによって年貢率を一定とし収入の安定化を図ったのである。また永代売買禁止令を発布して自立農の独立を促進し、新田の開発を積極的に行わせた。吉宗がもっとも重要視してたのは、米価である。この時期米価は下落の傾向をしめし、その結果人々は困窮していくことになる。これに対して吉宗は買い上げなどで米価のつり上げを図った。ところが、翌年には飢饉に伴って米価は騰貴した。今度は蔵米の開放などによって米価下落を図らねばならなかったのである。その翌年以降、再び豊作が続くと米価は再び下落。吉宗は米価公定を図るが、これも失敗した。結局、米の相場を操りえなかったのである。朱子学の考え方の上では、商業とは賤しい物であった。農業こそが天に従う労働であり商業は不道徳であるとかんがえたのだ。それゆえ、商業は常に抑えられるものであったが、商業発展に及んで商業の統制が必要となると、徂徠学のような新しい学問が取り入れられ、その中で体系化されてゆく。また、この時代から実学が勃興していく。漢訳の洋書の輸入が解禁され、事実に即した研究が促進されたのである。その一方で吉宗はやはり朱子学を重んじており、その点では徂徠よりも室鳩巣を重用している。このようなことから吉宗は後にも理想の将軍として描かれるのである。家臣にも分け隔てせず接し、実学を奨励した吉宗は名君であるといえる。 
吉宗の反対派 
将軍継嗣争いの結果、吉宗に敗れた尾張藩も彼に膝を屈することになる。しかし時の当主・継友は吉宗に対抗するだけの力はなく、尾張藩は上米を課せられながら倹約令を厳しくすることで乗り切ってゆく。しかし継友が死ぬと、様相が変わってきた。後を継いだのは異母弟の宗春であった。彼は表を切って幕政を批判している。しかしそれを述べた著作「温知政要」は立派なものであり、これだけのものを記せる点で既に彼の逸材ぶりを示していた。彼は家を継ぐや、倹約令を解いて祭礼などの制限も除いていった。結果、元々生産力の大きい尾張藩は忽ちにぎやかに発展し、名古屋は大都市として躍り出ることになる。これに吉宗は反感を示すも、尾張藩はその介入をもはねのけている。しかし吉宗の改革への反動政策をとっていた宗春は、突如として失脚させられることとなる。吉宗は改革を邪魔する者には容赦することがなかった。これは質地制限令の例を見てもわかる。これは百姓の騒擾を招く結果となったが、これを幕府は完全に弾圧し、法令を撤回した。 
大岡越前守忠相 
この吉宗の時代はまさに、幕府の統治体制の整備が完了した時代といえ、同時に欠け初めの時代であるとも言える。吉宗の人事は、役職についている間のみ加増される足高の制によって積極的に有能な人材が登用された。例えば、天領石見銀山領の代官に登用された井戸平左衛門は、さつま芋の栽培を積極的に奨励し、飢饉に備えた。彼自身は飢饉において無断で代官所から米を放出し、その責任を引き受けることになる。また大岡忠相は、中級の旗本に生まれながら、間部詮房に認められて徐々に出世を遂げる。彼は吉宗就任直後には若いながらも町奉行として任用される。彼については様々な逸話はあるものの、史実として確認される物は少ない。しかし名裁判官として著名であったことは違いないだろう。彼は連座制の廃止や拷問の抑制を積極的に行い、また民政への深い知識を持っていたのである。この時代、火事は相変わらず続発していた。それゆえ、対策として火除地とよばれる空き地をあちこちに置いた。また火事の拡大防止のため、庶民の逃亡が防止されたが、これは被害の拡大を齎してしまった。また火事の多発による不満を、被差別民たる非人を犯人として処刑することで解消している。また火消がこのころ江戸の町で火事のたびに活躍していた。しかしこれは旗本の定火消と大名の大名火消からなり、広大な江戸の町を守るには足りなかった。ゆえに、大岡忠相は町人による町火消を設立し、防火体制の充実を図った。
天災と飢饉

 

吉宗の享保の改革によって、表向き幕府財政は幾分立て直したかのように見えた。しかしこの頃から、全国的に大幅な人口減が目立つようになる。殊に農村では向上する生活水準に対して収支は常に赤字であり、食べていくことができないのである。諸藩は公務の為に赤字財政である。多額の借銀をし、領内の特産物を過剰に搾取する。一時しのぎの為に行った搾取は、特産物を生産する土地、あるいは人民を痛めつけて立ち直れなくし、恒久の利益を失うことになるのである。当然年貢率も上げ、7公3民にまで引き上げられている。厳しい年貢の取り立てによって傷ついた百姓は、もはやこの国の多々ある天災に抵抗することが出来ない。台風水害、蝗害、地震、冷害などの天候不順。特に東北は天候不順が多かった。今でも「やませ」などが猛威をふるう年もある。当時も稲の品種改良等盛んに行われていたものの、激しい寒気を克服できなかった。一度稲がやられてしまうと、その年に数万人と餓死して、さらに翌年以降の労働力が失われていく。対して荒れ地になった田畑は多くの手入れを必要とする。残っている人間も既に農業を十分にこなせるほどに体力が残っていない。この封建制度は「貴穀賤金」、農業生産を第一として考えている。しかしその担い手たる農村が崩壊を始めていたのである。筆者は幼少期の一時期に瀬戸内海の島にて過ごしていたとの事だが、一緒に遊んでもらっていた農家の子供達に教えられて、様々な野草や木の実の類を口にしたそうだ。飢饉に喘いでいた島のご先祖の知恵が、子供らの遊びの中に隠されていたように思う、と述べている。天災の後の飢饉とは、この筆者の経験通り、木の葉草の根で命を繋がねばならぬ深刻なものであったのである。幕藩の供出する食物を御救小屋に求め、或いは筆者が幼少期に口にした様な雑草の類を山野に求め、一族を養う為に娘を売ったのである。
諸藩の経済と商業資本

 

江戸幕府には暴君もおらず、権力を傘に勝手振る舞いをする臣下もいない。お上の指導のもと倹約にも努めている。だというのに諸藩は数百、数千貫という単位で、収入の3分の1、或いは半分以上にも及ぶ赤字が、毎年発生するのである。やはり参勤交代の時、江戸、或いは道中で費やされる莫大な費用の影響が大きい。しかし封建支配体制の要である参勤交代は、幕府としても、諸藩大名としても、制度の廃止を求める訳にはいかないのである。諸藩は財政の不足を補う為に様々手を打った。先ず、土地の特産品を専売にする。しかし、借銀返済の穴埋めとばかり考え、一時期に強力な支配を行うので特産品を製造する人民は逃散してしまう。こうして育成せねばならなかった産業を衰えさせ、有力な財源を涸らしてしまう。百姓から搾取するにも、前章で述べたような7公3民などが既に行われており、もはやこれ以上の搾取は望めない。すると、支出を抑えるしかない。武士の俸禄を差し引くのである。例えば長州藩65万石では、これを借り上げと称して行っていた。尤も借り上げとは言っても返済の義務などない。最初は二分減と言って2割を借り上げていたが、後々半知といい、半分を借り上げるようになった。俸禄を削られると、武士が自らの石高にあった体面を維持するのは難しく、城下町から自らの領地へ引っ込んで、百姓仕事をするようになる者も少なくない最後は商人から借銀するしかない。しかし、借銀つもりつもって、もはや収入を上回る程の借銀となる。返済できない利息は元本に繰り入れられ、複利計算で増えていく。すると諸藩は踏み倒しにかかる。例えば借銀している商人に俸禄を与える。商人は喜んでこれを受ける。すると藩は、おまえは家来なのだから、家来の物は主君の物であるといって踏み倒す。こうして大名貸しをした故に破産した大商人は多い。それでも藩という大きな客が生む利益は大きなうまみであった。年代が下ってくると、諸藩は江戸・上方の大商人だけでなく、地方の城下町に出現し始めた豪商から借銀するようにもなる。そして地方の豪商は、藩に貢献したとて徐々にその地位を上げていき、藩から俸禄を受ける、或いは武士や上方の商人と同じ待遇を与えられるようになった。諸藩は大都市の商業資本や、新たに現れた藩内の豪商から力を借りて生きながらえていたのである。また他方で支配者は、国産の奨励を始めた。特産品をして金銭を工面し、また農村にも商品作物が広まっていった。国家の礎たる米穀生産から、商品経済へと移行せざるを得ない状況になっていたのである。また地方に商品作物の生産という産業が発展するにつれ、マニュファクチュアが現れてくる。服部之総氏は、日本の江戸期において、マニュファクチュアの発生を経験したからこそ、明治期に入って他のアジア諸国のように欧米列強の植民地となることなく、欧米列強が歩んだように、マニュファクチュアから資本主義、機械制大工業へと発展することができたのではないか、と述べている。
揺れる天下

 

1744年、徳川吉宗は60歳になったが、いまだ政界から引退することはなかった。彼はこの年に至るまで米の相場と戦っていた。しかし、次第にまわりから飽きられるようになり、62歳のとき、長男の家重に将軍職を譲った。もっとも吉宗は完全に政治から離れたわけではなく、大御所となって家重を支援した。家重は将軍となってから早い段階で、功臣の松平乗邑を罷免した。彼は、政治を一新するという意味で、吉宗時代の責任をすべて背負わされたのだ。封建制度のもとでは、責任がこのように個人に集中することが多いからだと考えられる。家重は、吉宗が死ぬまで彼に後見されていた。しかし、吉宗が死亡すると、力を伸ばすのは大岡出雲守忠光という人物だった。彼は、言語障害を持つ家重のことばを聞きわけることができたのだ。その功績で、彼は側用人にまで出世した。彼は常に政治を謝らないように努めていたが、彼が側用人として活躍したため、後の幕政は側用人が権力を握ることになる。吉宗から家重の時代にかけて、百姓たちの一揆はすさまじいものだった。諸藩の財政はほぼ破綻し、参勤交代もままならない状況だったのだ。大名たちは年貢を高めたが、百姓たちは命を守るためこれに対抗した。たとえば、久留米藩においては8万人近くの百姓が抵抗を起こした。8歳以上の男女は、1人につき銀札6匆を納めなくてはならないという命令を藩が出したからだ。この命令は人別出銀というが、この令はやがて廃止される。なお、一揆を起こした百姓の中には紅花や藍玉の専売禁止を願うものもいた。専売が、百姓たちの経済を圧迫しているからだ。だからこそ、百姓たちが専売機関である庄屋に攻撃を仕掛けたのは、うなずけることだろう。このような専売が問題になる世の中で、そもそも支配階級や宗教、学問の否定を行った思想家がいた。働く農民たちしかいない平等な世界を理想とした、安藤昌益だ。幕府はもちろん、仏教や儒教でさえ批判する彼の思想は、江戸時代中に世の中に出ることはなかった。しかし、思想家の中ではかなり異端であったことが、後の世で判明した。ちょうどこのころ、宝暦事件と明和事件が勃発した。前者は竹内式部が朝廷で、後者は山県大弐と藤井右門が幕府で尊王攘夷論を唱えたのだ。竹内式部は島流し、山県大弐と藤井右門は処刑された。武家体制の根本を揺する彼らの思想に対して、幕府はいよいよ本気で対策をとらなくなってきたのだろう。 
田沼登場 
封建社会においては、米穀を重んじ、金銭を賤しめるという「貴穀賤金」の思想が基本とされていた。しかしそれでは幕府は安定せず、やがて「貴金賤穀」という考えに移り変わっていた。それでも幕府は前者の考えかたを変えようとせず、将軍の教育もそうだった。すなわち学べば学ぶほど、現実とかけ離れていくのだ。当然古い考えを持つ武士たちの性格も通用せず、今の世をうまく渡るのは商人になりつつあった。つまり、時代は商人のような官僚を要求していたのだ。その官僚こそが、田沼意次だった。彼は常に謙遜の態度を忘れず、大奥でも人気だった。そのためか、すぐに出世し、老中になる。彼は早い段階で倹約の限度を見切り、貨幣の新鋳を試みた。新しい貨幣には、銀が多く使われた。当時ヨーロッパでは銀の値段が下落しており、それを用いたのだ。また、新鋳と同時に行われた政策として、産銅の独占がある。田沼は平賀源内などの新しい知識に目をつけていたのだが、それはこのような開発技術に役立つと考えていたからだろう。田沼はほかにも、専売政策をとり、株仲間に運上というものを課した。これは、江戸の十組問屋、大坂の24組の問屋から冥加金を出させるものだ。あらゆる生産・商業にこの専売と運上が組み込まれるようになると、携わるものの特権を認めなくてはならなくなる。このため、田沼時代の幕府と町人(工業者や商人が多い)は、緊密な関係になりつつあった。士農工商の最下位である町人たちが、実力を持ちはじめる。町人たちの手には、利益が次々と舞い込んでくる。町人の実力が、田沼のもとで発揮された時代だった。
町人道徳と文化

 

商人たちは、特権を用いて富を築いていた。例として俸禄である米切手米やお金に交換する者である、札差がいる。彼らは生活ぶりも気質も、まるで大名のようだったらしい。彼ら札差は当然江戸だけにいるわけではない。彼らや商工業者が集まったからこそ、三都の繁栄、地方都市の発展は可能だったと言える。時代の中心は、商工業者になりつつあった。悲惨なのは武士で、彼らも商工業者のように生きなければ生活はできない状況下にあった。この時期にはすでに、武士と町人の生きかたが逆転していた。安定しているのは武士ではなく、町人の生活だった。町人層が進出するにつれて、彼らは独自の道徳を持つに至った。まずは、自分たちは役に立たず、むしろ害であるという儒教の教えを払拭することからはじまった。こうして、謙虚、勇気、礼儀、勤勉、正直、学問などが、あたらしい町人の道徳になる。しかしまだ、精神的な支えとなる教えがない。その役割を果たすのが、石田梅岩の心学だった。男女平等をも説くこの教えは、手島堵庵や、中沢道二によってさらに広められた。この学問は、四民という枠を超え、町人を中堅的な階層に育て上げることが目的だったと考えられる。心学が発展する中、1人の思想家が国学という学問を誕生させた。これは「もののあはれ」を知る人間を理想とする本居宣長である。彼は、感情を表に出すことを肯定した。それまでの理想では、感情を表に出すことに関しては否定的だったから、まったく逆だと言える。つまり本居宣長は、儒教に対して否定的だった。感情を表に出すことにより、相手の心を理解することを、この学問は目指していた。「人の真心」において考え、「実の情」によって理解する、と彼は主張する。儒教からの解放により、主情的な人間を作り出すという風潮の中で、このような学問が作りだされたのだと考えられる。儒教からの解放により、国学が生まれたことは述べた。浮世絵もまた、そうであったと考えられる。菱川師宣によって創始された浮世絵には、優姿の男女がよく描かれる。人々が手に取って楽しむために、人間の美しさを強調し、このような描きかたになったのではないだろうか。
世界に開く眼  
モスクワ帝国がシベリアの存在を認識したのは、足利義満のころである。以来、原住民の抵抗を排除しながらモスクワ帝国は東進を重ね、1700年初頭に至って漸くカムチャツカ半島まで到達することになった。一方、蝦夷を管轄する松前藩は、既に財政の悪化から商業資本への依存度を強めており、原住民のアイヌの反抗をしばしば受けながらも蝦夷の統治を維持していた。彼らは漠然と、カムチャツカ半島からすぐ海峡を隔てたシムシュ島までを蝦夷の領域であると捉えていた。ところが、カムチャツカ半島から南下を開始したモスクワ帝国――ロシアは、次々と千島列島の島々へと進出し、一方で北海道に来航して日本との通商を求めるようになった。この状況を政柄の保持者である田沼意次は、工藤平助の「赤蝦夷風説考」によって知る。この本では、ロシアとの官営貿易を推奨しており、意次もまたそれに近い考えを持っていたようである。意次はまた、長崎貿易の輸出品である俵物を頻りに増産させ、そうして貿易を活性化することで大きな利益を挙げてもいる。このような重商主義的状況の中で、本多利明のような思想家も登場する。彼は日本の学者としては珍しく重商主義的な考え方を持ち、田沼時代の可能性と言うものを良く表していた。このころ、平賀源内の活動も特筆される。彼は国益を増強するということを念頭に置きながら学問を行っており、その点で時代に適合していると言えた。彼は意次にも重用され、長崎で書籍の購入に従事している。平賀源内自身は浪人であった。早くから鋭い才能と柔軟な思考力を持っていたが、身分制度の枠にははまらなかったのである。彼は西洋の科学をもとにして次々と新奇のものをつくった。中でもエレキテルは、当時ヨーロッパでも最新のものであり、大きな興行効果を齎した。一方でかれは鉱脈調査などにも従事し、一方で西洋画にも手を染め、浄瑠璃などの創作活動も行っている。しかし結局彼は、その癇癪故に不遇の最後を遂げる。エレキテルとほぼ同時のころに、杉田玄白は「解体新書」を刊行した。これは「ターヘル・アナトミア」の翻訳である。江戸時代初期までの医学では解剖などがタブーであり、故に人体の中については非常に不確かな知識しかもたなかった。玄白は罪人の解剖を通して「ターヘル・アナトミア」の正確さを知り、故にこれをオランダ語から翻訳したのである。このように田沼時代は、多様な才能が開花した時代であると言えた。
近代精神の萌芽 
この時代の思想家として、三浦梅園を除くことはできない。彼は何事にも懐疑の態度で臨み、物事それ自身の動きから様々な法則を見出そうとした。彼は国東半島両子山麓で殆どの時間を過ごし、それゆえに情報の面で限界はあるにせよ、その思索の態度には特筆すべきものがあった。一方、衰退してしまった土佐派・狩野派に代わってこの時代に評価される画壇として、文人画・写生画が挙げられる。写生画では円山応挙・伊藤若冲が挙げられ、中でも応挙は当時の画壇を席巻している。一方文人画では池大雅が挙げられる。池大雅は万能な人間であり、様々なことに才能を輝かせたが、中でも文人画には優れた物があり、それは本国・中国にも見られぬような世界を描き出した。 この時代は、必ずしも動きのある時代ではない。が、却ってこの穏やかな時代ははるかに様々な可能性を持っている。平穏な時代であり、人々は穏やかな一生を過ごしたが、その中には決して衰えぬ底力があり、だからこそこの後の激動の時代を完遂することができた。その点でこの時代は、興味深いのである。 
 
幕藩制の苦悶

 

天明の大飢饉 
田沼時代には幾度か飢饉に見舞われ、不作が続いたが、天明の大飢饉は大きな物であった。天明3年に浅間山が大噴火し、江戸や仙台でも降灰が確認され麓では多数の死傷者が出た。この年は異常気象に見舞われ、その結果特に東北地方で人まで喰らうような地獄絵図が現出することになる。このような大飢饉では幕府諸藩も様々な対策を講じるが、同時にこの米高騰状況で臨時収入を得ようと米価釣り上げなども行おうとした。故に餓死者増大を招き、また一揆を引き起こす原因ともなる。しかし、大量の餓死者を出したのはあくまで東北地方や山間部に限られる。その他の地方では貨幣経済の発達から農民が商品作物を通じて現金収入を得ることが可能であったからと考えられる。それでも農村が疲弊することには間違いなく、特に中流の農民の没落を招いた。その中で農村内での矛盾が高まっていく。そしてこれは一揆・打ち壊しの激増という形で現れる。関東地方では豪商や地主の襲撃が頻発し、関西では国全体の蜂起である国訴もおこった。このような政治不信の高まりのなか、田沼意次の嫡子・意知が暗殺される事件があると、その犯人である佐野政言は世直し大明神として祭り上げられることにもなる。田沼は政治的に苦しい立場に追いやられ、ついには老中から追われて失脚の憂き目を見ることとなった。田沼はこの時期、自らの政権の延命を図るためにあくどい手を様々使ったと言われ、この時期に亡くなった将軍・家治や将軍世子・家基は田沼によって毒殺されたとも言われる。しかし田沼失脚後、暫く次期政権担当者が定まらず、政治は混乱を見せる。これに伴って社会混乱が広がると、全国各地で打ち壊しが勃発した。この流れの中で江戸大打ち壊しも行われ、政情はますます不安定となる。しかしこれは、この時奉行に任命された伊奈忠尊が、米を買い集めて江戸に送るなどの諸政策を施し、割合早く安定を迎えることができた。そしてこの打ち壊しの直後、田沼派を排斥する形で松平定信が就任するのである。
松平定信の登場 
松平定信は吉宗の次男・田安宗武の7男に生まれた。定信の兄弟は治察を除いて皆夭折しており、定信も体は強くなかったという。しかしその明晰さは著名で、将軍家治にも可愛がられた。だからこそ田沼意次には目をつけられ、定信はやがて白河松平家に養子として送りだされることになる。兄・治察も体が弱く、故に治察の養子として定信を置く予定だった田安家は反対したも押し通され、その後治察の死によって一橋家から養子を貰うことになる。白河藩では天明の大飢饉の直後に藩主を襲職し、最初から難題へと取りかかることになる。しかし定信はそれを上手くこなし、東北諸藩が十万単位の餓死者を出す中白河藩からは餓死者を出す事がなかったという。これに始まる藩政の刷新は白河藩をよみがえらせ、定信の名を挙げることになる。また定信は田沼政権下において、他に不満を持つ有能な譜代大名たちと頻繁に語りあった。また意次の政治壟断に憤慨するあまり彼の刺殺を決意したり、或いは幕閣となるために賄賂を盛んに送ったりと活動を活発にした。その結果、田沼意次の罷免の後、晴れて定信は老中に就任した。これもかなりの抵抗を受けた物であったが、御三家・御三卿の支援の元で成し遂げたことであった。定信が老中首座となると、将軍補佐の地位を得て地位を確立し、その上で田沼派の粛清に乗り出している。結果として役人の殆どから田沼派は一掃され、幕府体制は一新された。また大奥へも手を伸ばし、田沼に近い女中は追放の処分をした。彼の政治は、御三家・御三卿とも協議しながら老中が合議で決裁する形で行われ、経済政策に関しては在野の知識人からの建策も受け入れた。また幼い家斉の薫陶にも力を注いだが、これは家斉が定信を煙たがるのみであった。
足の裏までかきさがす 
松平定信は1787年に将軍補佐に就任して以来、6年にわたり、所謂「寛政の改革」として様々の幕政刷新に努めた。しかし、改革も後半になると「孫(吉宗の孫、定信)の手がかゆい所に届きかね足の裏までかきさがすなり」「白河の清き流れに魚住まず濁れる田沼いまは恋しき」という落首に表わされるように、最初は定信の清新を喜んだ都市民も、重箱の隅をつつくような奢侈の禁止に失望するようになった。定信も政治は最初清新だと民衆に歓迎されても、やがて飽きられるものだ、と述べているが、まったくその通りとなってしまったのである。定信は重箱の隅を、と揶揄されながらも、田沼時代に政権と結びついていた株仲間を解散させ、貨幣相場の調整、米価の安定、幕府が直接物価調整に乗り出す足がかりとなる金融市場を設け、また地方の取引にまで目を光らせて、諸物価の人為的な価格調整を続けた。またなんといっても、民衆の目に映るのは過度な奢侈の禁止だろう。儒教的な考えを持つ定信は、自ら率先した禁欲生活をしていた。同様の事を幕臣、また国中に強制し、遊女の取り締まりをはじめ、日常生活と風俗を厳しく取り締まった。こうして日常生活を圧迫する定信から、民衆の心は徐々に離れていった。
農村復興

 

1790年11月、定信の行列に駆け寄る者があった。代官の不正を直訴する為に単身河内からやってきた、又右衛門である。彼の言うには、代官が賄賂によって各村の税率を上下させるので、適正な税率を定めてほしい、という事であった。定信はこれを聞き入れ、不正を働く代官を淘汰したが、その一方で、公平な税率にすることを口実に年貢増徴を行った。幕府も年貢搾取に血眼であり、それに又右衛門の訴願は利用されてしまったのである。こうした幕府の執拗な年貢の収奪は農村を疲弊させ、日本の人口は減りつつあった。しかし、三都には農村で食べて行けなくなった農民が流入し、逆に人口は増えていった。幕府も旧里帰農令(人返し令)を出して、都市に流入した農民を農村に返し、農業生産向上を図ったが、中々結果は上がらなかった。一方で、倫理的、且つ土地の実情に即した政策を実行し、名代官と呼ばれる働きをした代官達や、藩政改革に努めて、一時は版籍奉還寸前にまで追い詰められた米沢藩を復活させた上杉鷹山と藩士莅戸大華(のぞきたいか)など、定信の政治に対する熱心な姿勢に応ずるべく、各地で結果を出した者もいる。 
米価調節と御用金 
1793年、老中松平定信が突然辞職した。もっとも、光格天皇が父に太上天皇の位を与えることを定信が反対した、尊号一軒の責任を取らされたのではないかとも言われている。しかし、結局のところ理由は不明である。ちょうどこのころ、米価低下の真っただ中であり、逆にそれを引き上げる政策がとられていた。幕府は江戸に金融機関を設置し、利貸もついでにさせることにした。しかし、根本的な解決策にはならなかった。第2の解決策として、衰退しつつあった菱垣廻船を復活させることを狙った。しかし、海難の多発や速度が遅いこともあって、菱垣廻船はやはり衰退する。代わりに台頭するのが樽廻船だった。幕府は菱垣廻船を利用する者の仲間を作るなど、さまざまな抵抗を試みたが、結果的に米価が下がることはなかった。幕府はこの原因は、仲間を統括していた人物にあるとして、彼を追放した。その後、米を原料とした食品の物価を下げる方針に乗り出した。
諸国国産品

 

藩主たちは、国産品の生産に力を入れていた。国産品こそが、藩の経済を支えるものだからだ。これは儒教における貴穀賤金の思想と対立するものだ。なぜなら、このように国産品に力を入れることこそ、藩の商人化だと考えられるからだ。藩はこうしてそれぞれの経済的自立を目指すが、どうやら幕府の経済を助けようという、国益の思想はまだ浸透していないようだ。このころ、京都の西陣では、機業者が株仲間を作るなどのさまざまな手を使って独占的地位を守ろうとしたが、糸の高騰により、深刻な打撃を受ける。追い討ちをかけるのが天保の改革での、株仲間の解散であった。これにより、徹底的に崩壊してしまうのだった。また、糸といえば1849年になると、分業にもとづく工業――すなわち、マニュファクチュアの基礎が完成しつつあったらしい。ところで、この時代発展しつつあったのは、関東地方であった。とくに江戸の周辺は大量の商品流入により、市場が激変するほどだったようだ。なお、国産品を大まかに分類すると、以下のようになる。縮緬:丹後、長浜 藍玉:阿波 蝋:肥後 紅花:最上 瀬戸物:尾張、美濃
海防と探検

 

近世に入って蝦夷地の支配を幕府に公認されたのは松前藩であり、内地商人とアイヌとの取引は、すべて松前藩の許可を必要とするようになった。蝦夷地は米ができないので、藩ではおもだった藩士に全島沿岸の漁場を知行として与えた。この漁場が「商い場所」略して場所といわれたのである。近世の蝦夷地はさまざまの資源に恵まれており、場所をもつ松前藩士は酒・煙草・衣料品・米などをアイヌに渡し、返礼として鯡・鮭・鱒・昆布などを得た。しかしアイヌを弱小種族として軽蔑する松前藩は、交易にあたってひどい不等価交換を強要した。ただ、松前藩士のアイヌとの直接の交易は長続きせず、経営不振で商人からの借金がかさんだ結果、代償として自分の場所の経営を商人に請け負わせる者がふえ(場所請負制度)、明治初年までには全場所が商人の請負いにかわった。場所請負制度にかわっても、アイヌの不遇な地位はいっそう低下した。このような場所請負制度の弊害や松前藩のアイヌ虐待は、様々な識者などが指摘しており、アイヌの過半はロシアに心を通じているとさえ極限する者もあった。したがって幕府としては、ロシア人の南下に対する警備とからめて、なんらかの対策をたてる必要に迫られてきた。そんなとき、ロシア使節ラクスマンの渡来に直面したのである。寛政4年(1792)9月3日、根室にラクスマンの乗ったロシア船が入港し、松前藩に、漂流日本人を江戸に送致するために来航したむねを告げた。ロシアは安永7年(1778)に、日本との交易の開始を松前藩に拒否されたことがあったので、今度はラクスマンを公式の使節に任じ、漂流民大黒屋光大夫、北浜磯吉を送らせ、江戸で幕府に引き渡し、あわせて通商のきっかけをつかもうとしたのである。ロシアが日本との通商に執着したのは、北太平洋開発の促進が、ベーリング海をさしはさむ広大な海域における毛皮獣猟業の巨大な利益とからむからであった。松前藩からの連絡を受けた定信は、国書・献上物は受け取らず、江戸への来航も許さず、漂流民を受け取り、礼を厚くしてその労をねぎらい、通商の願意があるなら長崎に廻航させることなどを決し、長崎入港を認めた信牌(信任のしるし)を宣諭使からラクスマンへ渡させた。しかし、無理押しを避けたのか、ラクスマンはそのまま帰国の途へついた。幕府は寛政3年・4年と、重ねて海岸に領地をもつ諸藩にたいし、警衛に万全を期するよう令達し、その防備の実情について幕府に報告させた。定信は寛政4年10月、江戸湾の防備体制を強化することを建議した。これまで長崎だけを防備地域として九州諸藩に警護させていたのを、ここに江戸湾と蝦夷地が新しく防衛の重点地区として選ばれたのである。江戸湾防衛計画は定信の退職により中絶されたが、この計画はやがて天保改革の上知令にもっと進んだ形でうけつがれることとなる。蝦夷地の防備については、定信の計画を継いだ老中本多忠籌のもとで、東蝦夷地の収公や文化4年(1807)の東蝦夷地の直轄化という形で実現する。そのきっかけとしては、千島における日露の勢力がきわめて近接するにいたるなどの情勢であった。これらが、幕府をふたたび北方問題の対策にかりたてることになったのである。幕府は寛政10年4月、大調査団を派遣して蝦夷地全体にわたる実地踏査をおこなわせた。翌11年1月、東蝦夷地の一部をむこう7ヵ年試験的に幕府の直轄の直轄に移した。同年7月、高田屋嘉兵衛がエトロフ航路の開拓に成功、翌年には近藤重蔵がエトロフに渡り、そこを統治した。幕府は東蝦夷地の仮直轄にともなって、同地方の場所を請負制度を廃止し、これまでの運上屋を会所と改称して幕吏の監督下に直捌制(直接交易)を実施した。この直捌制は、「御救交易」と幕府みずから称したように、交易の方法を正して幕府にたいするアイヌの信用をたかめ、かれらを北辺防衛のとりでにするのが主眼であった。その結果、これまでアイヌを苦しめていた場所請負人の誅求もいちおうなくなり、現地の風俗も改善されたが、それにともなう出費が多く、赤字となった。他方、場所請負人の復活を狙う裏面工作や、松前藩の復領運動が老中に対して繰り返され、文化9年に直捌制は廃止となり、東蝦夷地の各場所はすべてもとの請負制度に復帰した。しかし幕府は、とにかく東蝦夷地の開拓が進んだことに自信を得て、享和元年(1801)に大規模な蝦夷地調査を実施した後、3年7月には東蝦夷地を永久に直轄することに決めた。文化元年(1804)9月6日、ロシアの遣日全権大使レザノフが、12年前に定信の幕閣がラクスマンに与えた約束の履行を要求することを目的として、漂流民を携えて長崎に入港し、通商を求めた。レザノフは軟禁同様の体で幕府からの通商許可の報を待ったが、翌2年3月、通商拒否の幕命を申し渡され、傷心のうちに長崎を去った。幕府は、翌3年3月、露艦が今後また海岸に近付いたら穏便に帰るよう諭し、もし食物・薪水を要求したら与えるようにせよと令達している。これが文化の撫恤令といわれるものである。しかしレザノフは、武力をもちいて日本との通商の道をひらく以外にないと決意し、部下に命じてクシュンコタンやエトロフ島を襲撃させた。これらの事件により、幕府は文化4年(1807)3月、東西蝦夷地直轄の令を発し、奉行所を箱館から松前に移して松前奉行と改称した。その翌々月にまたもや露船が事件を起こし、結果、翌5年には蝦夷地の防備体制はさらに強化された。このように寛政から文化期にかけては、ロシアの南下に刺激されて幕府関係者の対外危機感が深刻化した結果、一般の士気が昂揚し、積極的に世界の事情をさぐろいうという冒険的な探検精神が横溢するにいたった。間宮林蔵のカラフト島・韃靼(シベリア)大陸間の海峡発見も、そうした気運の所産であった。間宮海峡の発見が、19世紀前後に高まる日本人の進取的な探検精神の現われであるとすれば、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の完成も、その気運に支えられた日本の経験科学の業績の一つである。幕府が北方問題に気を取られているあいだに、今度は南の長崎に突発事件が起き、防衛体制の欠陥が暴露してしまった。文化5年(1808)8月15日のフェートン号事件がそれである。これはイギリス艦フェートン号が、オランダの植民地占領に従事していたイギリス艦隊の行動の一環として、オランダ国旗を挙げてオランダ船だと見せかけて、オランダ船を拿捕しようとした事件である。艦長のペリー大佐は、人質のオランダ人との交換条件に食糧・薪水を強要したうえ、港内をくまなく探してオランダ船の碇泊していないことを確かめ、17日の朝退去した。この事件を契機として、長崎の警備はにわかに厳しくなった。北方ではさらに、文化8年(1811)にゴロヴニン幽囚事件がおきて幕府を緊張させた。ロシアの海軍少佐ゴロヴニンは、南千島および韃靼海峡(間宮海峡)沿岸の測量を命ぜられていたが、その年6月にクナシリ島で幕吏に捕えられ、箱館から松前に送られ、幽囚満2ヵ年ののち釈放された。ゴロヴニン事件が解決し、再び北海に小康状態がおとずれた。幕府は文政4年12月、直轄12年におよぶ東西蝦夷地を松前藩に還付した。これには、ナポレオン戦争を契機としてロシアの極東戦略が後退し、北地警備の意義がうすれたこと、幕府の防衛体制と密接な関連のあった直捌制が、場所請負人の強烈な抵抗をうけて動揺し、また幕府財政にとっても蝦夷地直轄への依存度が低下したことなどが理由としてあった。蝦夷全島の還封は、北方におけるロシアの進出を対象として、寛政期このかた繰り返されてきた幕府の海防政策の前段階が、いりおう終結したことを語るものであった。海防政策の後段は、南方からの外圧、イギリス船との交渉によって新しく展開し、再び文政8年(1825)2月の外国船打払令の発布を経て、天保の対外政策につらなってゆくのである。鎖国日本は国内資本を遮り、発展していた商品の生産と流通を阻んだ。その結果、密貿易が盛んとなり、竹島密貿易の悲劇などが生じた。幕府が、密貿易をおさえるためには、むしろ外国貿易を開始すべきだと主張する識者の意見に関心を払いながらも、なかなか開国に踏み切れなかったのは、それによって幕藩体制が瓦解してしまうのではないかという恐れをいだいていたからであった。
もとの田沼に

 

1818年、水野忠成が老中になった。彼は田沼意次に忠実だった水野忠友の養子である。そのためか、田沼政治に倣った政治を行った。忠成は家老である土方縫殿介の努力もあり、老中にまで上り詰めることができた。人々はこれを、田沼政治の復活と見たようだ。水の出てもとの田沼となりにけるそろそろと柳に移る水の影当時詠まれた附け句である。田沼の政治と聞いて思い出すのは、わいろだ。そのわいろもまた、この時代になると息を吹き返していた。先ほど取り上げた家老縫殿介もまた、忠成を老中にするためにたくさんのわいろを贈ったと言われている。その勢いは、田沼に匹敵する。どうやらお金だけではなく、水野家の秘宝まで贈ってしまったようだ。ところで、忠成の政治を松平定信と比べてみると、大きな違いがある。定信は老中・若年寄の面会日に、猟官運動(官職を得ようとして競うこと)のための大名・旗本が群参することを制限した。しかし、忠成はこれを奨励する。当然こうなればお金の力が輝くようになる。これにより、お金によって動かされる幕政が誕生しつつあった。一方、財政はどうだったのか。こちらもまた、あまりよろしい状況ではなかった。しかも、限界に達しているためこれ以上年貢を取れない。すると、国益増大か、貨幣増発かの二つの道が示される。忠成が選んだのは後者だった。まずは、とさっそく仲間の廃止に踏み出した。すべての仲間を廃止したわけではないものの、大幅に仲間の数が減ることになった。ちょうど同時期、金座の後藤三右衛門は改鋳を行っていた。元文金銀は文政金銀になったが、これはあまり評判のよいものではなかった。質がよくない悪貨だったらしく、大坂商人や両替商の中には大損をしたものもいた。三右左衛門は経済回復に貢献したとして、文政10年に帯刀を許可されるが、問題を天保期に先送りしたに過ぎなかった。文政期と言うと、わりと安定した時代だと考えられやすい。しかし、それは嵐の前の静けさのようなものであり、実は非常に不安定なものだった。その証拠となるのが、一揆である。いままでと比べると、圧倒的に定住していない人々が指導者となるケースが増えたのだ。あるいは、零細農民のケース。いままで弱い存在とされていた人々が立ちあがりはじめる時代なのだ。大和吉野郡で勃発した龍門騒動もまた、指導者は小勢力である小百姓だったことがわかっている。この原因は、年貢増加による抵抗だったらしい。龍門騒動をはじめとした村方騒動が、この時代には傾向の変化を見せる。いままで役人層であった人々を排斥し、中心的存在になったのは、弱者とみなされてきた小百姓たちだった。排斥の理由は年貢、祭典における座席の独占、行事の優先的実行に対する反発が多い。小百姓たちはついに、自分たちが生産者であるという意識を持ちはじめていたのだろう。領主たちを無力化しようという彼らの戦いが、この時代には盛んだった。
博徒と八州廻り

明和・安永期から盛んだった関東地方の経済活動は、化政期に入るといっそう多彩になった。商品流通が発達し、上方への依存から抜け出すなど、盛んな動きがみられた。この結果農民たちの作業率は低下し、放置された土地が増えるようになった。しかし一揆や村方騒動は依然盛んであった。この時期、市場を縄張りにした在郷商人が質地地主に成長するという事例がみられたものの、一方で土地を失った百姓が増加し、無宿人・博徒といった「遊民」が社会問題化する事態となりつつあった。幕府は関東取締出役――通称八州廻りを設置し、彼らの対策に当たった。警察機構の強化が見られるものの、遊民の抵抗が治まることはなかった。刑罰を厳しくしても、遊民たちはくじけない。幕府は1827年に「御取締筋御改革」という触書を公布し、村々を統合した。統括を楽にするためである。捕えた遊民たちを養うのは村を統合してできた組合であり、その負担は軽くなかった。さらに幕府は、村々の青年団体が反社会的行動をとることに注目し、その解体に当たった。しかし、村の伝統であるこの団体を解体するのは、そう簡単な話ではなかった。この時期に村を指導した人物たちの中で、無視することのできない有名人が2人いる。大原幽学と、二宮尊徳である。幽学は農民たちが共同の力で生活できることを教え、世界で最初の産業協同組合である先祖株組合を作り上げた。この組合には土地を失った百姓たちをも組み入れていたらしい。幽学は「性学」という学問を作り上げ、武士をあがめ、親に孝行することの重要性を説いた。これは当時の社会に反するものではないため、制限を受けることがなく、徐々に浸透していった。さらに幽学は、経営にも目を向けた。そして、農民たちの生産力を高めつつ、小作料を増加させて意欲を高め、地主の経営を確立することに成功した。幽学は社会の法に従いつつ、疑いのない成果を残していた。それを邪魔したのは、関東取締出役だった。彼らは幽学の指導に疑心を抱き、幽学を逮捕した。そして、彼が作り上げた先祖株組合を解散し、指導所も破壊した。失意にのまれた幽学は、釈放後まもなく、自刃する。村の指導を行ったもう1人の人物である二宮尊徳は、荒廃した土地を耕すことで、農村の復興を目指した。さらに「分度を定める」と述べた。これは、あらかじめ定めた以上の収穫があった場合、あまりを他者に施すという方針である。このモットーにより農村は発展を見せつつあった。彼の理論は重農主義とは異なるものの、儒教社会の農業論よりも進歩したものだったといえる。
三都の町人

 

三都とは、江戸、大坂、京都のことである。当然のことかもしれないが、それぞれ、住む人の性格は同じではない。たとえば江戸。ここに住む人々は武士が多かったものの、年が経つにつれ彼らよりも町人の数が勝るようになった。しかし、武士がいないわけではなく、彼らの考えが他の2つの都よりも根強いことは当然である。武士の考えである貯蓄を賤しむ考えは、江戸の町人の中に刷り込まれていたのだ。また、彼らは「将軍のおひざもと」に住んでいるという事実を誇りに思ってもいた。京都や大阪の人々の生活を理解しようとせず、「上方贅六」と呼んで軽蔑していた。しかも、彼らは武士を恐れつつも、自分たちが彼らの生活を支えているということを知っているから、次第に武士を恐れることも減っていった。彼らが真に恐れるのは、実質的に自分たちを支配する町奉行だったようだ。なおこの時代、上方の「粋」に対して、江戸人にもてはやされた「通」に取って代わった、「いき」が小市民化した江戸人の理念になりつつあった。人情本や滑稽本が親しまれるようになったのも、「いき」の広まりによるものだろう。この少し前までは、「札差(江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業としたもの)」が江戸の町を我が物顔で歩いていたが、寛政の改革により没落した。特権的な町人はこのころから姿を消し、代わって台頭したのが町人だった。時代は、彼らによる、彼らのための時代になりつつあった。江戸をはじめとした大都市には、流行が欠かせない。これは、歌舞伎役者が作るといわれていた。彼らだけが先駆者だったわけではないものの、導火線の役割を担ったことは間違いない。服装や髪形をはじめとして、刺青もまた流行することになった。またこの時代には、食事、菓子、そして年中行事までもが、徐々に移り変わりつつあった。
大御所の生活

 

家斉は頑健な体の持ち主であり、規則正しい生活を70歳まで続けていた。政務は正午より目安箱の投書を読むことから始まり、2・3時間程度で終わる。家斉期の大奥は大規模であり、出費は幕府の年間支出の一割に近い。家斉が大奥に泊まると、侍妾として奉仕する中揩フ他に、添寝の中揩ェ夜を共にする。この添寝の中揩ヘ将軍から少し離れたところにやすみ、後に奉仕した中揩フ言動を報告するきまりとなっていた。これは中揩ェ寝所で政治に介入しようとするのを防ぐためであったようだ。家斉の生活は、最初こそ松平定信によって束縛されていたが、彼が退任すると次第に放蕩となり、側妾は40人を数えた。また藩政期もの間将軍であった家斉の周りには侍従する人々によって側近集団が形成されており、彼らは往々にして政治を動かし得た。また家基に関して後ろめたさのある家斉は、次第に呪術に傾倒し、日啓という男に深く帰依することになる。そうして家斉は莫大な資材を投じ、日啓のために感応寺という巨大な寺を建立することとなる。日啓は奥女中密通の噂なども流れるほどに、大奥や将軍の寵愛を受けた。これに対し幕政改革を図る水野忠邦は、日啓について内偵を行い、その裏にある政治的な不正に気付くことになる。しかし大奥や大御所の権威を揺るがすこの事件を面に出すことはできず、感応寺の破却や日啓の処断という形での決着をつけることになる。すでに家斉は死去していたが、この感応寺の破却は世間に大御所政治の性質というものを良く表していると言えるだろう。
大江戸の文化

 

当時の江戸は人口100万を越え、町人も50万に達していた。またこれに伴って江戸の寺子屋も増えており、町人の知的向上もあって文化の下地は形成されていた。江戸で発展した最初の文学は、処世訓的な談義物であったが、やがて遊里や風俗を描写した洒落本がとって変わる。この背景には田沼時代の開放的経済が関係している。また子供の絵本から発展した黄表紙がある。これは恋川春町によって代表にのし上がった。山東京伝はこの中でも洒落本を大成したと言える。原稿料をもらう作家は京伝が最初であったと言われている。かれは洒落本で名を売ると、長編伝奇である合巻も発表し、また挿絵も自分で描いて多才ぶりを示した。京伝の描くのは殆どが遊里であったが、やがて黄表紙にて政治風刺を描くようになる。政治風刺は彼に留まらず様々な作家が描いた。それは定信の目に止まり、弾圧されることになる。京伝も弾圧を蒙り、以後は読本へと転向していった。しかし読本では滝沢馬琴に敵わず、やがて近世風俗の研究の方へと移っていく。京伝を失った洒落本はやがて没落し、変わって読本・滑稽本・人情本が分断を支配する。この京伝に弟子入りを志願し、親しい関係を持ったのが滝沢馬琴である。彼は武家出身であるが放浪の身となり、やがて文筆生活へとはいる。彼は読本で名を馳せ、とりわけ史伝を扱った者は全国の都市に流通した。馬琴はこの原稿料にて生活していた。この原稿料を払っていたのが出版業者であるが、彼らは作家のパトロンという役割が大きかった。寛政の改革による出版禁止の中で読本とは別に、談義物に源流を持つ滑稽本が遊里以外を描いて1世を風靡した。十返舎一九や式亭三馬はこの滑稽本で名を売った。寛政改革の後、黄表紙が発展して合巻という伝奇長編小説が成立した。これは最初教訓物や仇討物であったが、後に男女の情話を主にする。この上で登場したのが柳亭種彦であり、彼は「偐紫田舎源氏」によって一躍名を馳せた。また人情本も寛政改革を期として成立した。これは男女間の人情を移すことに重点が置かれ、官能的な描写に走った。結果幕府の手による弾圧を受けることになった。江戸後期、狂歌が爆発的に流行する。それに大きな役割を負ったのが大田蜀山人である。彼は狂歌をはじめとする文芸に腕を振るったが、天明7年を期として学問と幕吏としての勤務に励み、能吏として名を馳せた。また地方でも小林一茶や良寛らが活躍しており、これは地方の地主・商人層に文化の一環が形成されつつあったことを示す。美術界では浮世絵が全盛を極めていた。鈴木春信に始まる浮世絵は喜多川歌麿や東洲斎写楽を迎えて発展した。歌麿の後は類型化されたが、葛飾北斎と安藤広重の登場によって一次催行される。遠近法や陰影などを巧みに使った北斎や、写実的で静的な描写を得意とした広重の風景画は、フランスの印象派にも大きな影響を及ぼした。歌舞伎もまた大きな人気を得た。興行は中村・市村・森田の三座に限定され、大きな発展を見る。とりわけ大御所時代には名優があつまり、また鶴屋南北のような名作家の存在もあって大評判を受けた。しかし天保の改革では7代目中村屋の追放などの弾圧が幾らか加えられ、結果的に次第に衰退を余儀なくされる。講談や落語も大きな評判をとった。この二つは下層町人の生活を取り込み、彼らの中で生きた娯楽として受け入れられたのである。これ以外にも多くの芸能が上演されていたのがこの江戸時代であった。この時代の文化は、完全に江戸の町民を主体とする物であった。これは江戸文化の最終的な完成であり、この後に西洋文化の導入を迎えて行くことになる。
国学と洋学

 

国学 
国学とは、日本独自の文化や思想を研究する学問である。その学問が生まれるきっかけは、賀茂真淵と本居宣長の出会いだといえる。彼ら2人は1度しか会ったことがないにもかかわらず、宣長は師匠である真淵から国学の継承者として認められていた。真淵は宣長に、自分の説と異なっても構わないことを述べていた。そのおかげか宣長は、真淵とは異なった形で国学を大成する。真淵は人間の真情が「万葉集」にあり、男性的な「ますらおぶり」であると述べた。一方宣長は、人間の真情が「源氏物語」にあり、女性的な「たをやめぶり」であると述べた。結果的に国学の中核をなすのは宣長学だった。それは、宣長が支配される民衆の立場に立ち、世の安定を求める主張をしたからだろう。彼の門下はたくさんいるが、それ以上に影響を受けた人物が存在する。その人物は、平田篤胤という。彼は宣長の書物から思想を吸収し、復古神道を開いた。さらには、国学の主流を占めるに至った。彼の死後に対する思想を簡単にまとめると、以下のようになる。「人が死ぬと、魂は冥府に行く。そこは地球上の至るところにある世界である。そこに入る前に大国主神の審判を受け、その結果によって安定が得られるかどうかが決まる」一方宣長の思想は、「人が死ぬと、黄泉の国へ行く。そこは汚く悲しい世界であり、死後の安定は一切ない」宗教的安心を強調した篤胤の思想は、地主・役人層の人間に広まり、大都市を基盤とする思想となった。 
洋学 
1774年、杉田玄白らによって「解体新書」が世に出された。これによって日本の理系学問の関心が強まり、欧州の学問である洋学が広まった。洋学は実用的なものが多く、医学・本草学・天文学・地理学などが中心だったが、当然それだけではない。たとえば、蘭日辞書である「ハルマ和解」などがある。このような結果に陥ったのは、幕府が輸入を制限していたからである。しかし実際のところ、前野良沢やその弟子である司馬江漢、山片蟠桃などの知識人層は欧州の学問について詳しかった。そこから生まれる理想的な欧州の社会制度にあこがれ、日本を批判したものも多かった。また、本多利明は重商主義をとり、幕府の危機が高まるにつれて彼の思想を受け継ぐものも増えていった。彼らはみな、欧州を理想としていた。広がる社会不安を沈めるため、幕府は寛政改革を行った。幕府は洋書が一般人の手に入らないようにしつつ、独占しようとしたのだ。この時代に盛り上がった洋学の関心は一気に静まることになった。しかし、1830年前後になると、またこの空気が生まれてくる。 
シーボルトと蛮社の獄 
シーボルトは1823年に日本にやってきたドイツ人医師である。彼は日本で医学の教師として過ごし、やがて幕府天文方(遍歴を行う人、陰陽師と少しだけ似ている)の高橋景保と知り合った。彼らはお互いに欲しがっていた情報や地図を交換していた。しかし、シーボルトが帰国する際、このとき交換した地図が幕府の役人に見つかってしまう。シーボルトはスパイ容疑で投獄され、翌年追放された。彼を密告したのは間宮林蔵だと言われている。幕府の忠臣である彼には、シーボルトの行為が許せなかったのかもしれない。またこのころ、尚歯会(蛮社)と呼ばれる会合があった。渡辺崋山(三河田原藩(愛知県)家老)や高野長英(町医師)らが所属するグループである。崋山は地元では貧困対策などで高く評価されていた人物だった。しかし、幕府は彼を好かなかった。その理由は、1837年のモリソン号事件である。これは日本人漂流者を届けようとしてやってきたアメリカのモリソン号が、幕府に攻撃された事件である。崋山と長英は激怒し、それぞれ「慎機論」・「夢物語」を執筆した。2つとも幕府を批判したものであり、尚歯会を処罰する動きがはじまった。これが、蛮社の獄である。彼らが処罰されたのは、洋学を嫌った役人の鳥居耀蔵の存在が大きかったと言われる。崋山と長英はそれぞれ国元での蟄居、投獄に処せられた。しかし崋山は領主に迷惑をかけることを恐れて自刃。長英は、洋学をこのまま終わらせてはいけないと考えて脱獄。脱獄するものの、のちに幕府の役人に発見され死亡した。彼ら2人は悲惨な結末を遂げたが、無駄だったわけではない。結果、洋学は徐々にだが、人々に広まりつつあった。
草奔の文化

 

近世後期の都市文化は、江戸を中心として武家や上層の町民から、中・下層の民衆へと移っていった。さらに、18世紀後半からは地方都市にも多彩な文化が生まれるようになっていた。これらの文化が伝搬する役割を果たしたのは、交通が整ったことによる商品の流通だった。また、上層民衆の交遊、参勤交代も無視することができない。民衆が文化を作り上げることができたのは、彼らの知的向上が大きな原因である。では、彼らはなぜ教養を得たのか。それは、生産力の増大と従順な年貢負担者にすることを狙った幕府が、民衆の教育を行ったからである。幕府の狙いとは逆に、教育された民衆は合理的思考・不正を見分ける能力を身につけた。結果として村方騒動は激化し、幕府の動揺は続いた。しかし封建制が崩れたわけではなく、草莽(民間)の文化の担い手は、お金と暇に恵まれた人々の文化として位置づけられていた。この時期の文化としてあげられるものは複数ある。たとえば、「北越雪譜」。これは鈴木牧之に書かれたもので、滝沢馬琴や山東京山にも賞賛されている。ほかにも、農業の発達もまた、文化の1つである。これは、国益という発想を生み出した文化でもある。機業(織物を作る仕事)や塩田の発展もまた、文化の1つとして見られた。この文化の中盤、佐竹義和が治める秋田藩にて、村誌・民俗誌の先駆となる書物が作られていた。菅江真澄の「雪の出羽路」「月の出羽路」「花の出羽路」である。完成はしなかったものの、これに影響され、全国的に地誌が作られることになった。これら草莽の文化は学問的な要素が多い。しかし18世紀末になると、芸能面でも発展がみられるようになる。こうして培われてきた文化は、のちに誕生する近代文化の温床となりつつあったのだった。
天保改革の前夜

 

江戸時代の御蔭参り(抜け参り)は慶安3年(1650)を最初とし、その後、幕末まで何回か起きている。この御蔭参りへの民衆の期待を深めた要因の第一は、政情の不安や民生の窮迫であった。文政の御蔭参りも、化政期の腐敗した大御所政治のもたらす様々な矛盾が背景となっていた。文政13年3月、集団参宮の波が阿波徳島におこり、またたく間に淡路・紀伊から畿内・東海・中部・北陸地方へひろがった。下層の民衆は、神宮の宗教的権威をかりて自己の抵抗を神聖化することにより、社会規範からの解放感を味わったのであろう。このような神威を借りての解放感は、各地で地主・富商への抵抗をふくんだ動きとなって展開している。御蔭参りは、長くつづけば耕作放棄による年貢未納にまで発展する危機をふくんでいたが、幕府・諸藩はこの大衆行動が民衆の一時的な宗教的興奮であり、そのうちに沈静するとみて、静観し、ときには部分的に譲歩したり、参宮の便宜をはかったりしている。また、これだけの大集団の狂熱的行動は抑えきれないと悟っていたためともいえる。文政の御蔭参りはその年の秋には静まったが、その巨大なエネルギーは、形を変えて天保期の反封建闘争のなかに受け継がれてゆく。天保4年(1833)から始まった慢性的な大飢饉は、しだいに深刻な影響を全国におよぼしていった。死者の数こそ天明の大飢饉よりは少なかったが、それは飢饉の本質に変化があったことを意味するものではない。生産力発展の地域差が依然として解消せず、幕藩領主の権力基盤である本百姓経営の分解のしかたにも、それが強い規制力を発揮していた。商品経済の跛行的発展による農民層の分解の地域差は、天保期に入り、大飢饉などの影響をうけていっそう顕著になるとともに、農民・都市民の反権力闘争を量的・質的に発展させてゆくことになった。百姓一揆は、逃散→越訴→強訴→暴動・打ちこわしと段階的に発展している。暴動・打ちこわしが闘争形態の首位を占めるようになったことは、一揆の質的変化を暗示するものであり、天保期に入ってそれが全件数の三分の一近くを占めるようになったことは、農民闘争に、農業経営の防衛という面に加えて、土地改革を志向する変革的な「世直し」騒動の要素が発生してきたことを推測させるものである。天保7年(1836)に頂点に達した大飢饉の被害は、三河の大一揆を生ぜしめた。一揆は総数一万を超え、処罰者は1万1457人にものぼった。しかし、この大一揆の前月におきた郡内騒動は、これに輪をかけた苛烈な闘争であった。郡内騒動は甲州一国にわたる大騒動に発展し、参加人員も5万人に達したという風説さえあった。この大一揆の規模・エネルギーともに驚くべきものがあり、被罰者の多数と処罰の厳格であったことも、また近世一揆史上めずらしい例であった。幕府は天保期に入って格段に悪化した社会情勢にたいし、打つべき手は打ったが、それをささえる財政事情は悪化するばかりであった。その結果、天保銭の発行がなされた。品位は文政金銀に比べて劣り、鋳造高も一分銀のように多かったのをみれば、この改鋳が幕府の財政補強をねらっていたことは明らかである。天保期に入っての農村事情の悪化は都市にもすぐはねかえってきた。天保期の都市打ちこわしの特徴は、全国的に連鎖反応的な関連性を、かなり明確にもちはじめたことである。都市の中でも、とくに幕府の直轄都市である三都の事態は深刻であった。関東は幕府の対応により、大規模な打ちこわしにまでは発展しなかったが、大坂はそうはゆかなかった。大坂は天保4年(1833)に米価が従来の倍近くも騰貴し、市民の動揺が目立ってきた。大阪東町奉行の戸塚忠栄と西町奉行の矢部定謙の努力により、一時米価は下落に転じたが、7年を迎えると事態は最悪の段階に突入した。米価は再び騰貴を始め、青物類も大不作となった。餓死者が続出して、盗賊・追剥も横行し、市中の治安もひどくみだれた。ついに9月24日夜、雑貨屋が打ちこわしをかけられ、市中は騒然たる情勢となった。そんなとき、矢部定謙が大坂を去り、市政はしばらくのあいだ、その年4月末に赴任した東町奉行跡部良弼ひとりにゆだねられた。かれは老中水野忠邦の実弟であり、幕府の方針に忠実に江戸廻米に力を入れたので、市民の評判は芳しくなかった。大塩平八郎の挙兵も、一つには大坂町奉行でありながら、大坂の飢饉対策に本腰を入れない跡部のこうした施政にたいする強い不満が原因となっていたのである。大塩平八郎は大坂東町奉行の元与力であり、陽明学者としても知られていた。平八郎の封建的仁政観にたてば、大飢饉は天災ではなくて政災であった。市政の最高責任者である町奉行が、適切な救済手段をとらないだけでなく、江戸ばかり向いているとはなにごとかというわけである。平八郎は現職の与力である養子格之助を通じて、跡部に再三窮民の救済を要請したが容れられず、救済費として三井・鴻池らの豪商に6万両の借金を申し入れたが、これも断られた。かれは天保8年2月6、7、8の3日間にわたり、自己の蔵書5万巻を売った代金千余両をもって窮民一万戸に一朱ずつ施与し、同年2月19日に挙兵する手はずだったが、一党に加わった東組同心の一人が寝返りを打って跡部に密告したため、8時間ほど早く行動をおこさなくてはならなくなった。挙兵参加者は約300人で、反乱は半日で鎮定されたが、この乱は幕府に大きな影響を及ぼした。平八郎は乱の40日後に大坂市内の隠れ家をつきとめられ、自殺して果てたが、幕府の審理はすっかり長引き、1年半後の天保9年9月に、やっと平八郎ら17人の死骸にたいして反逆罪の宣告をくだし、死骸を磔の極刑に処するという具合であった。大塩騒動のことは短時日のあいだに全国に広がり、全国各地にこれと同じような反乱や一揆がおきた。斉昭は9年、「戊戌封事」と呼ばれる建白書を将軍家慶にさしだし、幕政全般にわたる改革の必要を力説しているが、そのなかで、「内憂外患」がきわめて深刻な段階にあることを指摘している。斉昭のいう「外患」もまた、天保期に入ると新しい段階に入っていた。モリソン号が渡来してから、幕閣の対外関心は俄然深まってきている。忠邦は文政の打払令をゆるめるとともに、寛政改革のさいに着手された江戸湾防備体制をいっそう強化する必要をみとめ、天保9年12月、目付鳥居耀蔵および大館江川英龍にたいして同湾の備場(防備箇所)の巡見を命じた。忠邦の対外危機意識は、アヘン戦争の情報を入手することによっていっそう駆り立てられてゆくのであり、天保改革を必然化した基本的条件の一つは、この天保期の「外圧」にたいする領主層の深刻な恐怖感であったことを忘れてはならない。
士農工商おののくばかり

 

水野忠邦は名門の水野氏に生まれた。唐津藩主である彼は藩政改革を行いながらも幕閣を狙って活動を進め、唐津から浜松へと敢えて不利な転封を率先して行うなどした。結果、彼は京都所司代に任じられ、そこで京文化にも触れて功績を積んだ。幾許無く彼は家慶側近から老中にのし上がった。その背景には多くの運動費を用いている一方で、一度老中となってしまうと今度はかなりの金銭を収受したようだ。その手腕もあってまもなく幕閣の全権を手中に収め、また倹約令などの政策を次々と打ち出して改革の下地を作った。家斉が亡くなると家斉側近を放逐し、その改革に反対する者を幕府内から逐うと、代わって改革に賛成する人間で幕閣を固めて行った。そして天保の改革は、そうした前座を整えたうえで、家慶の命が下されることによって正式に始まったのである。まず改革は幕臣や諸役人の刷新に始まるが、やはり農村改革に重点が置かれた。幕府は農村での統制を強めた他、農村工業の発展による農村からの人口流出を防ぐため副業も禁止している。また人返しの法によって江戸から農民たちを農村に返そうとした。しかしこれは実質的に江戸の人口調査の段階で終わってしまっている。この一方で年貢増徴のための検地も図られたが、これに関しては検地反対の大一揆が近江で起きるなどあまりはかどらなかった。町方に対しては、生活の統制を発布した。これは華美を戒めるために奢侈品を禁止するもので、時を経るごとにその範囲は拡大された。これは実際に代官によって取り締まりがおこなわれている。中でも、鳥居燿蔵はこの水野の諸政策を徹底させ、江戸の人間に恐れられた。これは町人の不満を買ったが、水野は生活水準の切り下げによって物価の低下安定を図ったのである。また賃金や利子の低減も図った。さらに銭相場の公定引上げもはかり、相対的に物価を下げたのである。しかし忠邦が失脚するとまもなく物価が上昇することに鑑みれば、結局この物価低下も人為的なものでしかなかった。株仲間の解散もこの流れにあった。そうすることで特権を無くし物価を逓減しようとしたのである。しかしこれは全藩に受け入れられたわけではなく、藩ごとの市場の独立がむしろ促進されていたといえる。この株仲間の解散は、農政学者の佐藤信淵の影響を受けているといえる。彼は身分制を全廃し、一人の君主の下に人民も生産も商業も統一した国家を理想し、つまりは絶対主義官僚国家を唱えたのである。彼の論は幕府にとって最も理想的な国家体系であった。
上知令と軍事改革

 

このような改革には次第に不満が鬱積し、各地で反抗が見られてくるようになる。それは町人ばかりでなく、改革を実行すべき幕臣や、諸大名にも見られた。これに対しても忠邦は強行な手を用いている。また幕府の威光を示すために日光社参も行われ、これは大成功に終わった。さらに忠邦は、印旛沼の開拓にも着手した。これは農地拡大の他、流通や江戸防備という点でも効用のあるものだと考えられた。これに動員されたのは孰れも水野と対立した大名で、水野の四位を感じさせる。しかし、この印旛沼工事は9割方完成したところで忠邦の失脚となり、結果的に失敗におわった。この開拓工事のさなかに出されたのが上知令である。これは江戸・大阪近郊の土地を取り上げ、代わって地方の天領を与えるという政策であった。しかしこれは対象となった旗本御家人の他、転封による収入の激減を恐れた農民たちも多いに反発した。とりわけ国訴も盛んであった大阪では、自体は深刻になった。結局、この上知令反対運動は、幕閣内の対立も絡んで水野忠邦の排斥にもつながっていった。水野はこの結果として完全に孤立し、ついには失脚して老中を辞任した。この後、一度は幕閣に返り咲く物の短い期間で辞職することとなる。それと共に親改革派は殆どが幕閣から追放された。ところでこのころ、アヘン戦争による清の敗北は、幕府の対外危機感を煽っていた。忠邦は江戸湾の防衛体制を整えようとするが、これは保守的な空気に阻まれてあまりうまくいっていない。そのほか砲術の訓練なども行ったが、イギリスが艦隊を派遣するという情報に接すると、外国船打払令を取り下げるなど、忠邦も対外情勢には敏感であった。これと時を同じくして忠邦は急速に江戸湾防衛体制をはじめとして、大砲の鋳造など軍制改革に力を入れた。なお、この軍制改革は忠邦退職によって止まったが、ただ浜松藩にて行われていた改革はそのまま続けられ完了している。この改革は、続く幕末での軍事改革に繋がるものとして高く評価することができるだろう。このように、天保改革とその後の改革とには、連続の側面もあり、むしろ系統的に捉えるべきである。改革が反動的改革であったという一方的判断を下すのは、早急な判断であるといえる。
雄藩の抬頭

 

天保期、全国諸藩の財政は圧迫し、藩債はいっそう累増していた。それは長州や薩摩、肥前藩でも同様であった。その中にあってこれらの藩が天保改革をもって抬頭し、雄藩となりえた所以は、次のとおりである。 
長州藩 
大農民一揆のつきあげを契機として天保改革に着手した唯一の雄藩。窮迫した財政状況をつつみ隠さず藩士および領民に公開し、その建て直しについて自由な意見を求めるという改良主義的ポーズを取った。下関という交通の要所を抱くこの藩は、下関に他国船舶への高利貸し所(越荷方)を設置。財政政策で成功を収める。また、実施された各種政策は、「債権者への債権放棄」「売買の許可制度」など、封建的統制を強化する意味合いのものが多い。改革の過程を通じて「人材登用」「言路洞開」の呼びかけのもとに中堅的藩士層が藩政にぞくぞく進出し、下層民衆の反封建的エネルギーも綺麗に体制へ組み込まれ、また、政商的豪商とのつながりも生まれた。長州藩の改革は、もっとも典型的な形で雄藩絶対主義への方向に向かっていたと言える。アヘン戦争の敗報がもたらした対外危機感の切迫により、軍備の改善と増強にも励んだ。 
薩摩藩 
文永末年には500万両もの巨額に達した藩債を整理するために薩摩藩が実施した政策は、実に強引な手法であった。まずこの500万両、「無利子250年払いとする」、として実質「踏み倒し」を行っている。※35年間は返したよ更に、藩内の多くの生産物を専売し、生産者の利益を吸い上げることによって(特に砂糖専売で)莫大な利益をあげた。※農民の不満は全人口の39.6%も居た武士が封じましたこうして琉球との密貿易の成功とも相俟って、領民の批判や三都町人の反感を一身に受けながら、薩摩の財政改革は成功した。また、時を同じくして軍事改革にも着手しており、洋式の砲術・調練の導入、鉄砲・火薬の製造に力を注いだ。 
肥前藩 
財政破綻が深刻であるにも関わらず、肥前藩には米と陶器しかない。他に特産品など見当たらず、それというのも農民の手元にゆとりを残さない過酷な徴租がおこなわれた結果であった。よって本百姓体制の再建こそが、何にもまして藩政改革の重点とされた。小作料の完全免除、地主の領地を没収して小作人に再配布する均田政策。これら徹底した農商の抑制政策は、藩主鍋島直正ら改革派によって行われた。肥前藩の軍備は「国を上げて」ではなく家中のみが独占しており、それというのも藩内の他派を警戒してのことである。時代を先駆けた大隈重信・江藤新平・副島種臣ら先進分子たちも、藩から孤立して政治活動を続けるほかなかった。 
水戸藩 
尊王攘夷論の震源地となった水戸藩の事情も見てみよう。御三家の一として屈指の名門であった水戸藩は、貧乏藩としても屈指であった。藩制の危機を克服すべく、文武奨励・富国強兵・農民支配政策、と各方面へわたって改革にのりだした。しかし改革の進行に伴い、家中内部の政権争いへと陥ったため、どの方面でも体制はついに確立されないで終わった。幕末政局から落伍してしまう水戸藩であるが、「御三家であったから」という要因のみならず、藩権力の集中・強化の方向が維持されずに矮小化してしまったことも、その要因とされる。 
 
天保改革は数多の藩でなされたが、たどった運命は西南雄藩型と水戸藩型のどちらかに分けることができる。結局のところ諸藩の直面した危機の原因は、封建的小農民の量的・質的な変動であり、藩債はその帰結であった。本百姓というほぼ単一の身分であった農民が、水呑・小作人・日雇などの雑多な階層に別れ、また生産物も米に留まらなくなる。農村工業が発展した結果である。領主は米本位の年貢では取りたて難くなり、生産と流通の主導権を握った民衆に富が蓄積されてゆく。領主への要求も階層の立ち位置によって異なるわけで、きわめて治めにくい存在となっていた。これが支配体制の立て直しに本腰を入れなければならなくなった理由である。この時期の特徴として、中間的な知識人の屈折した活動が際立っていることもあげられる。彼らは情勢不満を政治的に表明するでなく、文筆に託して鬱憤を晴らす方法を採択した。また、洋学者の置かれた状況は大変なもので、投獄されたり自決を余儀なくされた人々は少なくない。明治維新があと僅か30年に迫っていた時代の話である。 
 
歴史雑説

 

 
花鳥風月の日本史
われわれ日本人の意識の奥底まで沁み通っているのが、日本の四季の織り成す、豊かな風土に根づいた「花鳥風月」という情緒的な思いであろう。もっとも最近テレビやゲーム機それにケイタイというヴァーチャルな世界にドップリの若い世代には、まるでよその国のことのように成り果てているのかもしれないが…。 
今の日本人はなにも「環境・自然保護」といったエコロジカルな形でなくとも、もっともっと自然に親しんでほしいものだ。いささか古いが「不易流行」という、根っこの部分を基礎的な教育で今一度教え直す必要がありはしないか?そうした時に格好の教科書になるのが本著と謂えるだろう。(著者は元「歴史読本」の編集長)まず本著は「樹木・虫・花・鳥」から始まって、「風・雲・日・月・星」それに「魚介・動物」にまで及ぶ9章で構成されており、どのページを開いてもその豊かな蘊蓄・博覧強記ぶりには驚かされ楽しまされる上、単なる紹介だけでなく、考察や思い入れも折り込まれている点、たんなる「歳時記的記述」に終わっていない点も大いに評価されるべきだろう。 
その膨大な記述の紹介は荷が重く避けるとして、たとえば「虫(の声)」という世界で日本人しか感じない繊細な感情そして聴力は、角田忠信先生の研究による「右脳・左脳理論」によって、日本という風土と、そこで生まれた「日本語」という(母音を重視した)特異な言語も関与して育てられ染め上げられたものだ。日本が生んだ「キモノ・能・生け花・茶の湯・俳句…」という「花鳥風月のこころ」そして世界に類をみない「擬音語・擬態語」の多さも、自然との融和が生んだものなのである。 
「俳句」は、わずか17文字という短くてしかも「五・七・五」という音節規定と、その中に必ず「季語」を折り込むという厳しい二つの規定を持つことで、「それがどうした」という平板な表現でなく、その背後に深く豊かなイメージを色彩を、そして心理描写まで盛り込むという稀有の文芸が成り立つ。そこにはやはり日本という、これまた稀有の自然環境なくしては決して生まれることはなかったはずだ。 
本著はまた、そうした「花鳥風月」に科学的・生物学的な視線も加え、たとえば「風」の項で、「日本は神風によって強大な元を打ち破ったが、同じ神風によって多くの有為な若者を死に急がせ、日本を敗戦に追い込んだ」という皮肉で冷徹な批評精神も忘れていない。 
本著は日本の自然を愛する人だけでなく、日本人を好戦的民族だと決めつけてやまない「唯物史観」にこり固まった、いわゆる「進歩的文化人」というという近視眼的・皮相的な思想の持ち主も、またパソコンやテレビの世界にどっぷりの若者も、縄文以来いやもっともっと太古から、「花鳥風月」というやさしい自然に慣れ親しんだ平和な日本人の本質を知るためにも、ぜひ一読をお勧めしたい。 
 
江戸の遺伝子 / いまこそ見直されるべき日本人の知恵

 

江戸時代再評価の動き 
著者は徳川家第18代当主で日本郵船紐育勤務を経て同社社長就任、現在は財団法人徳川記念研究所理事長である。徳川家の当主が、自らの家系が統治した江戸時代の事を書くこと自体日本では珍しい。 
江戸時代は、戦後のマルクス史観の影響と占領下における教育政策の一環として、いやそれ以前、明治維新という王政復古成功のためのスケーブ・ゴートとして、必要以上に「暗黒の封建時代」というラヴェルを張られてきた経緯がある。 
ところが少し前より、「江戸時代の見直し運動」とでも言えるような「江戸学」のが活発となり、多くの識者や研究者によって優れた書籍も発行されて来た。 
特にバブル崩壊以降、急速に「省エネ運動」が注目され始めるや、「リサイクルの原点は江戸時代にあった!」と、江戸時代見直し機運は一挙に民間レヴェルまで拡がりを見せている。 
本著はある意味、こうした「江戸学」の集大成とでも言える位置づけと見ることが出来る。なにしろ江戸時代に当たる時期、西欧では戦乱と殺戮・侵略と略奪に明け暮れ、魔女裁判まで行われていたのだ。 
徳川治世の265年間(1603年〜1867年)の平和と繁栄と比較するだけで、識者が「パックス・トクガワーナ(平和の徳川時代)」と名付けたようにその素晴らしさがわかるというものだ。 
江戸時代は日本国体の縮図であった! 
並の内容紹介では面白くないので、読後感じたことを率直に述べると、「江戸時代は日本国体の縮図であった」という思いに尽きる。 
つまり2000年間に及ぶ日本の歴史がここに凝縮されているという視点で見れば、今の日本、今後の日本の有り様と対応を的確に把握できるのではないか。 
そのあたりを中村式偏光グラスで覗いてみよう。 
1.父系家族に終始した 
日本を民族的に分析すれば採集→農耕文明に適した女系家族集団である。女系家族集団は平和的であるが動乱・闘争に極端に弱い。しかも事にあったって纏まりがつかない。そのためにいざという時のリーダーが必要となる。そのため天皇家も徳川家も直接的な宗家の直接血統が途絶えると、同一父系血統の中から次代当主を当ててきた。ちなみに著者も親藩会津松平家からの養子である。 
2.直接統治しなかった 
ところが平和な国柄において、ごく当初あるいは戦乱期以外、生活全般に亘って独裁的な直接統治は邪魔であり無用であった。従ってチャイナにおける「易姓革命」には無縁であった。 
3.完全には閉ざされない「鎖国」を国是とした 
日本という特異な地政学的いちづけは、意識するとしないとに関わらず、孤絶を余儀なくされる。そこで外の文明を渇望してその導入に努めるが、当時の外洋航海技術ではそれが最小限に制約されることになる。従って貴重な新文明を日本ナイズしたハイブリッド文化・文明を構築していった。徳川時代は西欧の大航海時代に当たり、彼らの植民地主義から国体を守るために、意識的に「鎖国政策」を採用することになったが、海外への目を全く閉じることはしなかった。そのため明治維新という大変革も、驚くように急速に克服していった。 
いまこそ日本は「徳川時代」への回帰をはかれ! 
今大きな問題となっていることは、「気がつけば日本が世界の先頭を走っていた」という事実であって、今までのように「追い抜き追い越せ」という手法が通用しなくなったことがはっきりしてきた。 
現在の日本の、経済的問いよりむしろ精神的混迷は、お家芸である「追い抜き追い越せ」という目標創出手段が通用しないと気付くと同時に、だとすれば今こそもうひとつのお家芸「温故知新」への回帰が必須となったことに思いを致さなければならない。 
確かに日本は,明治維新から昭和の敗戦まで、過去を捨てて近代化一辺倒に突っ走ってきた。その間に私たちは、いかに多くのものを失ってきたか,大義名分の美名に隠れて、いかに理不尽な行為をなしてきたか。 
江戸時代もまた多様化の時代であった。 
最近のテレビや新聞では悲惨なニュースやアンモラルな経済犯罪などが、いやというほど流されている。特にまじめな「憂国の士」にとっては、「一体この国は〜」「このままでは日本は滅びる」と言った悲憤慷慨の発言が目につく。 
実際今の状況は酷すぎるとして、では日本の現状悪いことばかりなのか。実は今年に入って、あまりに悲観的報道ばかりの風潮に棹さして、「今年は楽観論で迫る」と宣言したこともあって、「コップの水もう半分まだ半分」として、「楽天的日本再建論1〜2(以下継続中)」を始め、極力明るい面を模索してきた。 
そうすると今の日本,必ずしも悲観的・危機的状況ばかりだけでなく、素晴らしい側面も見えてきた。これが江戸時代にも見られた「社会の多様化現象」である。特に今大きな問題となっていることの多くは、誤った教育の影響であることが見えてきた。 
これも温故知新、「江戸時代の教育に学ぶ」ことで容易に解消されそうだ。その時代と現代教育の違いについて、江戸時代の「階層を超えて自由であり、教育報酬に無縁であった教育」に対して、現在(いま)の教育は「教育の場における金銭的格差と対価報酬システム採用」の違いを挙げている。 
つまり「聖職」であるべき教育が、単なる対価・報酬を求める「労働」に堕したことに尽きるのだ。 
 
「みだら」の構造

 

評1 
先生がいささか気にしていたのは、内容について題名からくる先入観とのギャップであり、ファンからのお叱りの声とか、特に女性読者の「見損なったわ」ではなかったか。正直 私もいささかその落差の大きさにいささかそうした懸念を持ったことは事実である。 
しかし一読すればそれは氷解、この本は前作と微塵の狂いもない、むしろいや増して日本人の本質の深奥にあるものを鋭く突いた憂国の「日本人論」究極の「日本文化論」に他ならないことを、自信を持ってお伝え出来る。 
乱れるを語源とする「みだら」という言葉、行動、文学表現が、卑しい劣ったものだという思想は、いわゆる文明開化・脱亜入欧とともにやってきたようである。当時の「西洋かぶれ」によって、日本的な「好き」が「ラッブ」に置き換えられ、低俗・愚劣と蔑まれていくことによって、いかに我々が失ったものが大きかったことか。たとえば「蛍の光」の3番目の歌詞の2〜3行目は「わかるるみちに  かわるとも/かわらぬこころ ゆきかよひ」という訳詩を当時の文部省の役人が「みだら」だといちゃもんをつけ、結局「うみやまとおく へだつとも/そのまごころは へだてなく」となったのだという。まさに愚劣の極み、昔から役人は石頭だったのだ! 
日本の「みだら文学」に見られる、あでやかでなまめかしい多彩な表現は、決して西欧の同様文学では決して見られぬことであって、これこそ日本人と異国人(とつくにびと)との間に介在する目もくらむ程の乖離だということが知らされる。これはなにも「みだら」に限らず、林先生が指摘されるように、英語は和訳出来ても、日本語の英訳は不可能に近いのだ。英語で俳句を作ることが流行っているが、所詮天と地・月とすっぽんほどに語彙に差があることから絶望的ですらある。芭蕉の「一つ屋根に遊女も寝たり萩と月」なるほど萩と月という英語はあっても、「遊女」は決して「売春婦」ではない。 
青春前期、こっそり隠れ読みした小説の、おぼろげな表現の裏に隠された「みだら****」を求めイメージして胸を高鳴らせ、股間を暴発寸前まで張り詰めさせた、あの感激は今や西欧発ずばり直截型「これでもか****」に取って代わられたのだ。日本のもっとも男性的な男でも西洋の普通の女性ほどにしかないと林先生はいう。
評2  
「みだら」という日本語を呼び水に、日本人の****、ひいては日本の精神文化の素晴らしさを強調しようという本である。著者の主張を大雑把にまとめると、以下の三点となる。第一に、現代日本は、浅薄で白痴的な西欧的精神文化に侵食され、本来もっていた文化的(精神的)奥深さ、繊細な情感や感性の機微を失っている、ということ。第二に、日本人は世界的にも稀に見る****大好き民族である、ということ。そして本来豊かで情趣に富んだ日本人の****が、第一点のような理由により、カサカサした味気ないそれに堕してしまった、ということ。第三に、日本人の精神文化、とくに性にまつわる精神構造は「みだら」という言葉に象徴される、ということ。この「みだら」は日本民族だけがもちうる「意識現象」であり、他の民族には決して理解できない貴重な文化である、ということ。  
はっきり言って、この本はあまり面白くない。一方的に西欧的精神文化を貶し、日本人と日本の精神文化の素晴らしさをことさら強調するのは、読んでいて不愉快ですらある。主張されている日本語の奥深さ、日本人の情感の繊細さについても、とくに目新しいロジックはない。なんかスケベ親父がキャバクラ嬢に説教している様を思い浮かべてしまう。日本人が××××好きで、××××に関する感情や行為を日本語という自由度の高い言語によって様々に表現し得たことは確かだが、だからといって「Japan is no.1」的な主張に結びつけるのは、いささか乱暴ではあるまいか。  
例えば、「幻の作家」といわれる北欧系のポルノグラファー、トー・クンが1975年に出版した作品「女教師(原題:For ever Ecstacy)」である。厳格なカソリックの家庭に育ち、ピッツバーグの学校で数学を教える教師ルイーズ。彼女は教え子ポールとの不道徳な関係を盗み撮りされ、これまた教え子のリックに脅迫される。はじめは怯えからリックの要求に従っていたルイーズだが、しだいに彼女の中に潜む黒い情欲に突き動かされ……てな内容。この作品で主人公ルイーズは、宗教的な束縛や教師であるという倫理的な束縛、「女性の性」に関わる道徳的な束縛などを打ち破り、何事からも自由な一個人として目覚めていく。ここでも描かれるように、西欧では性を社会が厳しく規定した。規定を逸脱する行為は「背徳」とみなされ、厳罰が課された。ここまでは林氏も述べているし、このことが西欧における性文化の発展を阻害した大きな要因になったことは間違いない。しかし一方で、背徳かどうか、あるいは背徳行為であること自体にエロスが生まれ、スリリングで倒錯的な性が発見、醸成されていく。「チャタレイ」もそうだし、「魔女狩り」にまつわるエロティックなエピソードも数多い。「女教師」の中のエロスも、「背徳さ」が肝である。教え子であるポールがルイーズ先生の柔肌にそっと触れる瞬間、犯してはならないものを犯す「背徳の美」が生まれている。そこには少年ポールのためらいや迷い、隠されていた獣的な本能に対する驚きととまどいが含まれると同時に、教師ルイーズの破滅的な自己憐憫、自ら進んで禁を犯すことへの開き直りと自己正当化、そしてスリルが含まれる。この倒錯的な性の悦びは、(広い意味での)社会が規定する「理」なくして成立しない。「理」を破壊する行為に悦びやエロスを見出す感覚、つまり「immoral」という言葉に見え隠れする西欧人の連想は、厳然とした「理」が存在しない日本の人々には、(西欧人が「みだら」を理解できないのと同様に)なかなか理解しづらい。日本の「みだら」が「情」に根ざしているとすれば、西欧の「エロス」は「理」に根ざしている。西欧における性は、理を超えたところでの個の獲得という意味あいをもっているのであり、林氏の言葉を借りれば、個の形成に関していたって無頓着な日本人には一向に理解できない「意識現象」なのである。「女教師」の中に、ルイーズがピッツバーグの町を去るシーンがある。見送りにきたポールの目をじっと見つめ、ルイーズは思う。「無限に底深い美しい海をただよう一つの魂をのぞきみるよう」だと。(プラトンへの言及は面倒なので避ける)  
以上、西欧のエロスについていささか弁護してみた。林氏は西欧のエロスに対して、かなり近視眼的にしか見ていない。オーストラリアに13年住んでいるというが、彼はそこで何を見てきたのか、とさえ思う。日本文化の素晴らしさを説くのは重要なことだが、もう少し丁寧に論証してくれないと、年寄りの戯言にしか聞こえない(と言ったらいい過ぎか)。  
西欧のこうした性は当然アングラであり、決して社会の表層には表れない。このあたりは、源氏物語や恋歌に見られるように、堂々とあけっぴろげな性表現がまかり通っていた日本の事情とは大きく異なる。表層に表れるのは、それこそ即物的な欲求を満たすためだけのポルノに過ぎない。その奥には、もう少し複雑な「エロス」の世界があるのではあるまいか。林氏は「チャタレイ」の表現を稚拙と断ずるが、それもそのはず、ローレンスは「エロス」の真の意味を問いかけるために、自身の道徳観に照らして可能な限りの「immoral」を試みたのであり、だからこそ裁判沙汰にまで発展したのである。  
また林氏は現代日本の性風俗に関して、「かくも味気ないものに変わり果てて」いると嘆いている。おそらく彼は、「援助交際」や「不倫」についてきちんと考えたことがないのではないか。例えば女子高生のエンコー(今や死語に近いが)は、当事者(女子高生)の意識は別として、そこで行われる行為自体は「immoral」である。この場合のモラルは、未成年であるという法的なそれと、自らの体を売るという道徳的なそれとがある。買う側(おじさんたち)は、その行為が「immoral」であることを承知の上で買う。いわばエンコー女子高生たちは、「immoral」な世界を商売として売っているにすぎない。商売だから味気ないことは確かだが、「変わり果てて」というほど大したことではないのも確かだ。この手の商売は光源氏の頃からあったし、やってることは昔も今も大した違いはないはずである。しかもエンコー女子高生は、「女子高生=清純」という幻想を最大限に活用し、擬似的・刹那的な「みだら」を作り出していた。その意味では、林氏の主張する「みだら」の構造をうまく利用したのである。買う側の清純幻想が崩壊すれば、やがて商売としては廃れていくだろうし、現にそうなりつつある。林氏は性があけっぴろげになったことを嘆くが(最近のSM雑誌に読者投稿が多いことをぼやいたり、ヘア解禁でヌード写真に工夫がなくなったとか言っている)、それは西欧の精神文化や露悪趣味が原因なのではなくて、資本主義の構造上の欠陥というか、「売れるものを売ればよい」という経済システムの問題なのではあるまいか。「経済的な三流国になろうとも、人間としてのココロの一等国を失うより、ずっとまし」と林氏は言うが、その主張はいかにも耳障りはよいがエキセントリックにすぎ、日本が資本主義社会である限り筋の通らない話だ。今の現時点で、資本主義よりましな経済システムがあるのなら、教えてほしい。  
ここまでずっと、林氏が本書で主張するところに文句ばかりつけてきた。ご本人が読んだらさぞ気を悪くするだろうし、氏の主張を読み違えて的外れなことを言っている個所もあるかもしれない。しかし敢えて言いたい。この手のバランス感覚を失った日本文化論は、読者にいらぬ誤解を生じる上、日本文化のためにも決してよくないのではないか。本書中の氏の主張には頷ける点も多々ある。例えば「日本は女性文化のうまし国であった。女性がすべてにイニシアチブを発揮し、特に乱れの世界の美しい指導力を発揮して、一万年以上の歴史をつくってきた」とか、「性の喪失は男女関係の喪失であり、男女関係の喪失とは人間関係の喪失であり、社会の喪失、国家の喪失、民族の喪失(筆者注:「民族」だけは納得できない)につながるという意味で、象徴的で、典型的なのである」とか。多々あればこそ、どうしてもっと外堀に気を遣わないのか、と思ってしまう。他文化と対比するなら、絶対主義的に論じるのではなく、相対主義的に論じるべきだ。徹底した相対化の中からしか、本当に信頼できる文化論が生まれてこないことは自明である。相対化された事物の中から著者の絶対的な主張が見えたときにこそ、読者は著者を信頼するのだから。文句ばかりつけてきたのも、この点において本書が信用できないからである。日本語の奥深さと日本人の××××好きはよくわかった。でも、それが世界で一番なのはどうしてか。一体何をモノサシにして一番だというのか。「理」の文化より「情」の文化がいいとするのは、どんな根拠があってなのか。僕が日本人の女性を好きなのと、林氏が日本人の女性を好きなのとは、どこが違うのか。これらの問いに対して本書からわかる答えは「僕も林氏も日本人で、なおかつ女性が好きだから」ということでしかない。僕も含めた読者は、みな日本人である。そして男性であれば、たいてい女性のことは好きである。要するに本書は、日本人による日本人のための、「やっぱりオラが村が一番」的な読み物なのだ。だとすれば、ナショナリスティックな西欧批判も、自分がさも国際人であるような林氏の言動(周到に言い訳を差し挟んではいるものの、どうしても匂う)も、すべて納得がいく。他文化を引き合いに出して、警世の書を気取ったのがいけなかった。単なる日本性文化の解説書にしておけば、楽しく読めたのだが。本書がほどほどの読者の手に渡り、ほどほどに読まれることを願う。  
 
近松門左衛門

 

江戸前期の浄瑠璃(じょうるり、三味線に合わせた語り物)・歌舞伎の作者。 
※浄瑠璃と人形劇がくっついたものを文楽(人形浄瑠璃)という。 
本名は杉森信盛。越前福井出身、俸禄300石の武家の次男。先祖は浅井長政や秀吉に仕えていた。ペンネームは芸能の神を祀る近江・近松寺(ごんしょうじ)にかけ、その寺に入ることができない門前の小僧というシャレっ気から“近松門左衛門”としたと言われている。10代前半に父が何かの理由で失職し浪人になったことから、一家は京都へ出る。若き近松は都で公家に仕えたが、この公家は自分で浄瑠璃を書くほどの愛好者だった。20歳ごろ、その使いとして何度も文楽に通う内に、彼もまた浄瑠璃にハマってしまう。 
※京都の四条河原は1603年に出雲阿国が歌舞伎(踊り)を始めて以来、芸能興行の中心になっていた。 
人形を見つめる客が興奮で顔を輝かせるのを見て「うわー、自分も台本(浄瑠璃)を書いてみたい!皆を喜ばせたいッ!」と思うようになった。だがしかし!当時の芸能関係者は士農工商のどこにも属さないことから、身分の卑しい「河原者」「河原乞食」と蔑まれていた。近松は曲がりなりにも武家出身。封建制度の頂点となる武士階級から最底辺の芸能の世界に足を踏み入れるのは、プライドや面子を全てかなぐり捨てることで、よっぽど腹をくくらねば無理なことだった。だが、近松は人間を語りたかった。どうしても命の歌を描きたかった。近松は武士の身分を捨てた! 
1677年、24歳の近松は京の「浄瑠璃語り」の第一人者・宇治加賀掾(かがのじょう)の弟子になる。下積み時代の近松は、舞台で使う小道具を修理したり、副業で講釈師をして生活費をまかない修業を続けた。 
1683年(30歳)、初めてのヒット作となる「世継曽我」を執筆。古典の改作が主流だった浄瑠璃界に、近松はオリジナル作品で挑んで注目される。加賀掾が語る劇中の「さりとても 恋はくせもの」は京でブームになる。 
翌年、大阪道頓堀で文楽を見せる「竹本座」を旗揚げした竹本義太夫(農民出身)も、「世継曽我」をこけら落としで演じ成功させた。義太夫は後に「義太夫節」と名付けられる骨太&硬派な語りで人気を得た。 
義太夫の噂を聞いて京でライバル心を燃やした加賀掾は、井原西鶴とタッグを組んで大阪に乗り込む。義太夫はこれに対抗する為、近松に新作を依頼した。これを引き受けた近松は、1685年(32歳)に平家滅亡500年にからめて「出世景清」を彼の為に書き下ろした。 
「出世景清」は、それ以前(約60年)の作品を古浄瑠璃、以後の作品を新浄瑠璃と2分するほどの画期的なものとなった。古典で悪党とされる平家の侍大将に深みのある性格を持たせ、義太夫の迫力ある声と情感を込めた節回しで観客の心を鷲掴みにし大ヒット。後に他の人形浄瑠璃の語りが「義太夫節」一色になるきっかけになった。 
※出世景清…平家残党(侍大将)の平景清が源頼朝への復讐を誓うが、命を狙う過程で幾つもの人命が失われ、景清は頼朝への恨みを絶つ為に自ら目をえぐりとるという凄絶なもの。従来はただの悪党とされていた景清に、その心の弱さをさらけ出させ、観客の涙を絞った。単なる勧善懲悪ではない物語の誕生だ。 
この当時、文楽は語り(太夫)が、歌舞伎は役者が主役であり、台本の作者は影の存在として名乗ることを禁じられていた。しかし、「出世景清」の成功によって筆一本で立つ自信がついた33歳の近松は、原作者の地位向上を求めると共に、自身は完全に武士の身分と決別するべく、史上初めて台本に「作者・近松門左衛門」と誇りを持って名前を記入した。これは作者と太夫の立場を対等にしようとする近松の決意表明だった。(この頃、批評家から「やめさせたいもの、近松の作者付け(作者の名乗り)」と非難されている) 
それから8年間ほど、30代の間はずっと義太夫の為に浄瑠璃を書き続けたが、次第に歌舞伎方面からも脚本の依頼が入り始める。当時は四条河原に7件も芝居小屋があったことから、どの一座も互いに激しくしのぎを削っており、都万太夫座(現・南座)の人気役者・坂田藤十郎(初代)は他の舞台と違いを出す為に、見かけの派手さで勝負するのではなく、「ストーリー重視」の方向性を打ち出した。この時目に止まったのが、浄瑠璃界で上り調子の近松だった。藤十郎は近松の恩師・加賀掾と親しかったこともあり、近松は40代のまる10年間を都万太夫座の座付作者として過ごし、藤十郎の為に「傾城仏の原」など約30本もの歌舞伎台本を書いた。 
しかし、作品はどれも人気作となったものの、近松の不満は次第につのっていく。歌舞伎は役者の権力が絶大で、作者は役者の意向に合わせて書かねばならず、浄瑠璃以上に制約があり作者の地位が低かったのだ。これでは創作欲が満たされない。赤穂浪士が吉良邸に討ち入った1702年(49歳)、近松はかつての盟友、大阪の竹本義太夫から説得されて、歌舞伎界から浄瑠璃界に戻って行く。 
この頃、竹本義太夫はピンチだった。「竹本座」は歌舞伎にすっかり客を取られ彼は借金を重ねていた。「頼む、近松、助けてくれ…人形浄瑠璃の灯が消えてしまう」。義太夫は起死回生を狙って近松の台本に最後の望みを賭けたんだ。近松は義太夫より2才年下。何とか協力したいが、10年間ずっと歌舞伎を見てきただけに、文楽の難しさを改めて痛感していた。どうすれば歌舞伎から観客を呼び戻すことが出来るのか。「生きた人間の芸を見せる歌舞伎小屋が隣に並んでいるのに、命の無い人形に様々な情を持たせて客を感動させようと言うのだから、余程の台本を書かないと名作とは呼ばれない」(近松)。 
そんなおり、1703年4月7日に大阪・曽根崎の露(つゆ)天神社(通称お初天神)で醤油屋の手代(親方の代理人)徳兵衛(25歳)と遊女お初(21歳)が心中事件を起こす。偶然京都から大阪へ所用で来ていた近松は、現場に足を運び若い2人の亡骸から心の叫びを聞き、胸を激しく動かされた。近松は、自由な恋愛が許されない封建社会の不条理を描く決意をした。 
名もなき男女を主人公にする--これは文楽史上の革命だった。それまでの演目は歴史上の英雄や武将を主人公にした“時代物”(軍記物)しかなかったからだ。そこへ初めて、同時代を生きる町人を主人公にした“世話物”というジャンルの作品を誕生させたんだ。近松は「曽根崎心中」をわずか3週間で書き上げ、事件のちょうど1ヶ月後の5月7日に竹本座で初演した。観客はヒーローが暴れる荒唐無稽な武勇伝ではなく、初の等身大の人間ドラマ、自らが身を置く世界で、自分の分身のような登場人物が懸命に生きる姿に猛烈に感情移入し、感涙にむせんだ。「曽根崎心中」は瞬く間に評判になった。義太夫はこの作品一本だけで全ての借金を完納したという。 
※「曽根崎心中」…大阪内本町の平野屋(醤油屋)の手代徳兵衛(25)は、北新地の天満屋の遊女お初(21)と愛し合う仲。しかし徳兵衛に大きな期待を寄せている親方(徳兵衛の叔父)は、ゆくゆくは店を継がせるつもりで姪と結婚するよう迫る。だが徳兵衛はお初と一緒になりたくて縁談を断った。親方は姪よりも遊女を選んだ徳兵衛に激怒し、店はクビ、持参金を返せと迫る(徳兵衛の継母が先に持参金を受け取っていた)。徳兵衛は持参金を返そうとするが、友人の油屋九平次が緊急の金に困ってるというので、数日だけならと貸してあげた。ところが!九平次はとんだ悪党で、「借りた覚えは無い」の一点張り。挙句に貸し借りの際の証文を、徳兵衛が偽造したと因縁をつけ、道端で数人がかりで徳兵衛を殴打した。これでは親方に持参金を返せない。公衆の面前で殴り蹴られて男も立たない。かくなる上は、死んで無実を証明しようとお初と共に曽根崎の森に入って行く。お初は嬉しかった。大好きな徳兵衛と一緒に死ねることが幸せでならない。森の中で包丁を握ったものの、なかなか刺せない徳兵衛に、思わず「早く殺して」とせがむお初。2人は一つの帯で体を離れないように結び、ついに徳兵衛がお初を刺し、続いて自らの首を刺した。 
※「曽根崎心中」初演時の批評…「曽根崎心中 近年の大当たり “作者近松門左衛門”」。 
以降、竹本座の座付作者となった近松は、新しく座本に就任した竹田出雲とも意気投合し、浄瑠璃制作に集中するべく、1706年(53歳)、40年近く住んでいた京都を離れ大阪に転居する。61歳の時に義太夫が他界すると、後継者の若い息子を助ける為に、近松にとっても生涯最大のヒット作となる「国性爺(こくせんや)合戦」(1715、62歳)を書き上げた。これは日中の混血児が大陸に渡って明朝を再興するという、日本と中国を股にかける大スペクタルで、異国趣味もあって実に17カ月という驚異的な超ロングランを記録した。時代物としては他に清盛から鬼界ヶ島に流された俊寛を描いた「平家女護島」(1719)なども残したが、真骨頂は町人が社会のしがらみに苦悩する姿を描い世話物で、飛脚問屋・亀屋忠兵衛と遊女梅川の逃避行を描いた「冥途の飛脚」(1711)、借金をめぐる実際の殺人事件を描いた「女殺油地獄」(1721)、そして死の4年前に執筆され、紙屋治兵衛と遊女小春の心中を描いた最高傑作「心中天の網島」(1720、67歳)などなど。これらを通して人々の圧倒的な共感を得た。 
1723年(70歳)、続発する心中事件を憂慮した8代将軍吉宗は、心中物の出版、及び上演を一切禁止にする。翌1724年、上演禁止令で自作の心中物11編が引っかかりショックを受けてるとこへ、3月大阪が大火に包まれ竹本座も炎上。病床に就いた近松は死期が近づいていることを察したのか、11月初旬に礼装を着た自分の姿を描かせ、“終焉の期を待たず、あらかじめ自ら記す”として、次のような辞世文を書き込んだ。 
「武家に生まれながら、町人となっても商いをせず、隠者のようで隠者にあらず、賢者のようで賢者ではなく、物知りのようで何も知らず、私は世のまがいものだ。中国の哲学や、芸術、笑い話の類まで何でも知っている風に口から出任せを言い、筆を走らせ、一生を鳥のようにさえずり散らしてきた。人生を去るにあたって、後世の人に伝える格言は一言半句も思い浮かばず当惑し、心の中で恥じ入っている。70余年はアッと言う間で、何ともおぼつかない一生が終わろうとしている。もし辞世を問う人がいればこれを残そう。 
「それぞ辞世 去ほどに扨(さて)もそののちに 残る桜が花し匂はば」(私の死後も作品が残ったなら、その一文字一文字が私の辞世、この世に生きた証だ)※浄瑠璃本は桜の木の版木に刷るので、桜が匂う=作品が残るとした。 
「残れとは思ふも愚か 埋づみ火の消ぬま あだなるくち木がきして」(とはいえ、残り火が消えるまでの短い間に書いた作品が、後世に残ってくれと思うのも愚かなことだなぁ)」 
※近松が生涯に書いた作品数は約150本。“自分の書いたものが全部辞世だ”と言い切れるほどの自信を語った後に、“でも、これが残って欲しいなんて愚かだなぁ”と照れるように付け足す71歳の近松が、とってもカワイイ! 
近松はこの辞世文を書いた2週間後に大阪天満の自宅で生涯を終えた。戒名は「阿耨院穆矣日一具足居士」。墓は近松の菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓になっている。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。その墓のすぐ近くには国立文楽劇場がある。 
近松の作品は300年の時を超えて僕らを感動させる。江戸と現代人の価値観や生活環境が大きく変わっていても、僕らは「曽根崎心中」の公演を観に行ったり、「心中天網島」の映画を観て、作中の人物に共感し感動する。これは近松が人間根本の一番深い部分を見事に把握しているからだろう。「命のない人形を人間と同じ様に感じさせる為には、言葉の全てに“情”を込めるべき。その“情”の中心は“人情”である」(近松)。そう、人情は300年経っても変わらない! 
 
伊藤若冲

 

別号、斗米庵(とべいあん、絵を米一斗と交換したから)。八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋の長男として生まれる。海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として後の作品に反映されている。22歳で父が没し家業を継ぐ。 
若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると、若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなく、こうした世間の雑事のみならず、商売にもあまり関心がなかったらしい。とにかく、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。 
何がきっかけで絵に目覚めたのか不明だが、家業のかたわら、30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めた。最初は他の画家と同じ様に、当時の画壇の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と考え、画塾を辞めると独学で腕を磨いていった。京都には中国画の名画を所蔵する寺が多く、彼は模写の為にどんどん各寺へ足を運んだ。寺院通いを続けるうち、若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、自ら「平安錦街居士」と称するようになった。 
絵にかける思いは年々つのり、家業と画業の二重生活が苦しくなったのか、ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、2年間も音信が途絶えてしまう。帰宅した彼は、1755年、39歳で弟に家督を譲って隠居する。弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念する。 
千枚とも言われる模写の日々。やがて、若冲は「絵から学ぶだけでは絵を越えることができない」と思い至り、目の前の対象(実物)を描くことで真の姿を表現しようとした。生き物の内側に「神気」(神の気)が潜んでいると考えていた若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始める。だが、すぐには写生をせず、鶏の生態をひたすら観察し続けた。朝から晩まで徹底的に見つめる。そして一年が経ち見尽くしたと思った時、ついに「神気」を捉え、おのずと絵筆が動き出したという。鶏の写生は2年以上も続き、その結果、若冲は鶏だけでなく、草木や岩にまで「神気」が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになった。 
若冲は1758年(42歳)頃から、代表作となる濃彩花鳥画「動植綵絵(さいえ)」シリーズに着手する。身の回りの動植物をモチーフに描き、完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となり、日本美術史における花鳥画の最高傑作となった。 
この頃から京都では12歳年下の画家・円山応挙が大ブレイク、門弟千人という円山派が都の画壇を席巻する。一方、若冲は一匹狼の画家で朝廷や政権にコネも何もなかったが、当時の文化人・名士録「平安人物志」の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど高名な画家となった。 
1788年、72歳になった若冲を突然不運が襲う。“天明の大火”だ。京を火の海にしたこの大火事で、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになった。大阪では西福寺の金地の襖に「仙人掌(サボテン)群鶏図襖」を描いた。 
1790年(74歳)から最後の10年間は、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲した。1792年(76歳)にずっと彼を援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。ただし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。 
最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練る。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て10年弱で完成した。1800年、84歳の長寿で大往生する。生涯独身だった。 
現在、石峯寺の境内には若冲の墓があり、側には幕末三筆の貫名海屋が若冲を讃えた筆塚が建っている。(墓は相国寺にもあり。そちらでは、百人一首の藤原定家、将軍足利義満と並んで眠っている) 
※五百羅漢たちはみんな苔むして風化し丸くなっており、全身で200年の年月を語っている。 
※若冲の作品は、金閣寺に描かれた水墨画の大作「大書院障壁画」、野菜を使って釈迦の入滅を描いた「野菜涅槃図」なども有名。 
涅槃(ねはん)図は釈迦の臨終を描いた絵。沙羅双樹の下で体を横たえ、周囲では十大弟子や菩薩、動物までが悲しみに慟哭している--これが一般的な涅槃図だ。ところが、若冲はなんと野菜を使って描いた。中央の大根(釈迦)の周囲をナスやキュウリが取り巻き、嘆いている。背後の沙羅双樹はトウモロコシだ。登場する野菜の数は実に66種類。中には、ライチやランブータンのように大陸から輸入した珍しい果物も描かれている。一見とてもユーモラスな絵だけど、青物問屋の若冲は野菜や果物を人一倍に聖なるものと感じており、大真面目にこれを描いたのかも知れない。  
「動植綵絵(さいえ)」 
約10年の歳月をかけて制作された、生命の「神気」を描いた30幅の花鳥画。この濃密な空間は何事か。埋め尽くされた溢れる命で息が詰まるほどだ。まさに生命の宇宙。対象物への熱すぎる視線。高い描写力で絵の隅々まで全く手を抜くことなく、目の覚めるような極彩色で、鶏、昆虫、魚介類、草花が、尋常じゃない集中力で描かれている。ありのまま描いた写生なのに、優れたデザイン性を感じさせる非凡さ。奇想なる造形力。そして、迫真の描写の中に時たま垣間見えるユーモアや遊び心に、天才の余裕を感じてしまい、これまた脱帽してしまう。 
日常の小さな生き物達が、氾濫する色彩の中にいて、ずっと見つめていると色の渦でトリップしそうになる。どの絵も最高級の画材で描かれており、200年以上経っても素晴らしい発色だ。若冲は絵の完成後に全幅を相国寺に寄進し、現在は宮内庁が管理している。 
※30代半ばから名乗った「若冲」の号は、相国寺の名僧・大典和尚から与えられた。「若冲」は「老子」にある「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも、其の用は窮(きわ)まらず」(満ち足りているものは空虚なように見えても、その役目は尽きることがない)から名付けられた。時を超えて人々の心を動かす若冲に相応しい号だね。 
※若冲が現れるまで、画題として野菜に光を当てた画家はいない。
 
  
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛飾北斎

 

世界一有名な日本の画家は、江戸後期の浮世絵師北斎だ。小さい頃から手先が器用だった彼は、14歳で版木彫りの仕事につく。自分が彫っている文章や絵に親しむうちに絵描きの職への思いがつのり、1778年(18歳)、浮世絵師勝川春章に入門し、春朗の名で役者絵を発表する。向上心と好奇心に富む北斎は浮世絵のみに飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学ぶ。これがバレて逆鱗に触れ「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門される。生活に窮した彼は、灯籠やうちわの絵を描いたり、時にはトウガラシや暦(こよみ)を背負って行商するなど、「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と腹をくくり、朝の暗いうちから夜更けまで筆を走らせたという。 
1798(38歳)、オランダの風景版画に啓示を受け、風景そのものを味わうことを見出す。それまでの絵師にとって、風景はあくまでも人物の背景に過ぎなかったのだ(鑑賞の対象ではなかった。鎖国中に交流を持っていた国オランダは、西洋で最も風景画が盛んだった国だ)。一方、貧乏生活は続いており、北斎は自分の描きたい絵ではなく、本の挿絵、役者絵、美人画、武者絵、果ては相撲画まで、内職として手当たり次第に描くしかなかった。北斎は「私は絵を描く気違いである」と宣言し、名前を“画狂人”とした時期もあった。だが、誇りは高かった。ある時、長崎のオランダ商館が彼の絵を高値で買い上げてくれた。その絵を見た他のオランダ人医師が同じ絵を注文したが、絵が完成すると“半値にしてくれ”と北斎に値切ってきた。怒って絵を持ち帰った北斎に、妻が“半値でも生活の足しになったのに…”と言うと、「同じ絵を相手によって半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると言われる。この様な事は絵師のみでなく、日本人全体の信用に係わる大事なのだ」と応えた。またある時は、大名の使者が絵の依頼をしてきたが、その頼み方があまりに横柄で高飛車だったので、そっぽを向いた北斎は、一言も返事をせず使者を家から叩き出したという。 
1814年(54歳)、民衆の様々な表情や動植物のスケッチを収めた「北斎漫画」を発表。町人が割り箸を両鼻に突っ込んでたり、ロウソクの灯を鼻息で懸命に吹いてたり、禅僧・達磨(だるま)が百面相を作ってたりと、見ていて本当に楽しく、大きな人気を博した。「漫画」とは“思いつくままに描いた絵”といった意味。軽妙で自由奔放な筆運びから、北斎は“森羅万象を描く絵師”とまで言われた。余談だが、西洋に輸出された日本陶器の包装紙に「北斎漫画」が使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まったという。 
北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかもそれぞれが北斎の情念のこもった一流の作品だ。また、長寿だった分、引越し記録93回(!)などビックリするようなエピソードも多い。引越し魔の彼は、一日に最高で三回も転居したという。名前の変更は30回に及んだ。これは、様々なジャンルに挑戦した北斎が、真の実力を世に問う為に、新人の振りをして画号(名前)を変えたことによる。“魚仏”、“雷震”、“時太郎”、“三浦屋八右衛門”、光琳派の絵には“俵屋宋理(そうり)”、最晩年は“画狂老人卍(まんじ)”と、もう訳がわからない。 
また、彼は人の度肝を抜くことを楽しみにしていた節がある。縁日の余興で120畳(なんと200平方メートル!)の布へダルマを描いて人々を驚かせたり、小さな米一粒に雀2羽を描いてみせたり、クイズを画中に入れたり、果てには11代将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ“紅葉なり”と言い放ったりと、やれることは全てやったという感じだ。 
北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された「富嶽三十六景」。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったもの。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようだ。同時に、作中には富士の他にも庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちのツーショットに歓喜し、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と称賛した。 
北斎はその後も富士を描き続け、74歳の時に「富嶽百景」を完成。そのあとがきに彼はこう寄せた--「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると、70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたいものである」。 
しかし!「富嶽百景」を刊行した頃、人々の興味はまだ30代の若い天才絵師、広重の風景画に移っていた。人気に陰りが見え、再び借金が増えていく。そこへ天保の大飢饉が起こり、世間はもう浮世絵どころではなくなった。老いた北斎は最初の妻、2度目の妻、長女にも先立たれ、孫娘と2人で暮らし。窮乏生活を送っていたそんな79歳の時に火災にあい、彼がまだ勝川春朗の名だった10代の頃から70年も描き溜めてきた、全ての写生帳を失う悲劇に遭遇する。この時北斎は一本の絵筆を握り締め「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語ったという。 
※83歳の時の住所録では「住所不定」扱いになっている。 
この後、火災の教訓からか、彼は自分が培った画法を後世の若い画家に伝える為、絵の具の使い方や遠近法についてまとめた「絵本彩色通」や手本集「初心画鑑」を描き残した。この時すでに87歳。弟子が長旅をする時は現地の特産品や魚介の写生を依頼するなど、北斎の絵に対する執念は衰えなかったが、1849年4月18日、浅草の長屋でついに病に散った。享年88歳。死を前にした北斎は「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら、わたしは本当の絵を描くことができるのだが」と嘆いた。この偉大な絵師は、最後の最後まで修業をしていたのだった。 
墓は上野駅から浅草に続く大通りから、一筋入った誓教寺にある。英文の解説が書かれた案内板が立っていることから、海外からの巡礼者も多いのだろう。「画狂老人卍墓」と刻まれたその墓は、雨風から守る為の、特製のお堂に入っていた。僕は墓前で北斎の墓の絵をスケッチした。絵師の彼を逆に描いていると、なんだか墓が恥ずかしがってるように見えて微笑ましかった。彼と同じ国に生れることができて、本当に嬉しい。 
(他の浮世絵師との年齢差は、広重と国芳が共に彼より37才年下、歌麿は逆に7才年上になる) 
 
尾形光琳・乾山

 

日本の美術史には装飾美を究めた「琳派(りんぱ)」という流派がある。この一派が大変ユニーク。普通、一門というのは血縁関係があったり、直接の師弟関係があるものだけど、琳派の師弟は直接会ったことがないばかりか、生きている時代も全然違う。始祖は江戸初期の俵屋宗達で、その技法を受け継いだのが80年後の尾形光琳、さらに100年を経て酒井抱一らが後に続いた。“師弟”とは言うものの、教えを乞うにも師匠はずっと昔に他界しているので、修業方法はもっぱら作品模写。とにかく徹底的に師匠の作品を写しまくり、構図の妙や色彩方法を自力で学びとった。そしてこの流派の中で、作品の華やかさから代表格に見られているのが尾形光琳であり、その名から一字を取って現在琳派と読んでいる。 
本名、方祝(まさとき)。5歳年下の弟は京焼の名手・乾山。生家は京都の裕福な高級呉服商。父は多趣味な風流人だったので光琳も自然と絵が好きになった。また、ひい婆さんの弟は天才工芸家・本阿弥光悦であり、洗練された工芸品が日常生活の中にあった。1687年(29歳)、父が他界。莫大な遺産を受け継いだ光琳だが、ボンボンの彼は経済観念がゼロ、湯水の如く金を使いまくる。女性関係も派手で、30代に4人の子をもうけているが、母親は全部別。その中の一人からは奉行所に告訴され慰謝料を払っている。商売の呉服屋が薄利多売の新興商人の台頭で傾き始めても、放蕩三昧は止むことなく資産はみるみる減少。さらに1693年(35歳)には金を貸していた大名に債権を踏み倒され回収不能になり、弟に金を借りにいく始末。そしてついに破産した。 
弟の乾山は物静かで読書を好み、孤独を愛する男。兄弟は正反対の性格だ。「兄上は根本的に生き方を変えないと、このままでは兄上の為にもならない」と彼は手紙をしたため、自身は趣味で習っていた陶器づくりを商売にする為に、腰を入れて仁清から陶法を学び、6年後に自分の窯を構えた。自活する弟の姿を見て光琳も絵筆で立つ決心をし、巨大な屋敷を売り払い、正式に入籍して家庭を持ち、狩野派の画法を習い、40歳頃から光琳の名で作品を発表し始めた。出だしは好調。1701年、43歳で絵師として栄誉ある位・法橋に叙せられた。 
ところが光琳の浪費癖は直ってなかった。絵が売れて後援者(パトロン)がついたことで、またしても借金に借金を重ね、1703年(45歳)、自宅を抵当に入れ、江戸に住む後援者を頼って上京する事態になる。この、江戸での生活も辛かった。注文をとるために連日朝から晩まで武家屋敷をまわってはお世辞を言い、描きたい絵ではなく、依頼通りの絵を描く。「俺は何をやっている?貧乏でも自分の望む絵を描くべきじゃないのか?」光琳は江戸生活に5年で見切りをつけ、京都に戻る(1709年)。この50歳の帰郷には、弟・乾山を助ける意味合いもあった。 
その頃京都の乾山は、陶器作りだけでは生計が成り立たず、新たに焼き物店を開き再出発しようとしていた。そこで絵師として知名度のある光琳が乾山の作品に絵付けするようになった。乾山が焼き、光琳が描く。かつて弟がしてくれたように、今度は兄が弟に力を貸してあげたんだ。ここに美術史上最強の黄金タッグが結成され、数々の傑作が生れていった!光琳は絵付け作業がとても楽しかったようで、描かれた絵は笑顔の七福神など、のびのびとして微笑ましいものが多い。 
さて、狩野派に学んで筆をとった光琳だが、自分が創造しようとする美世界は、この画法では表現しきれぬと以前から違和感を感じていた。そして「風神雷神図屏風」で知られる80年前の絵師・俵屋宗達に熱い視線を注ぎ始め、私淑(ししゅく、心の内で師と仰ぐこと)を決意。斬新な構図で縦横無尽に筆を振るった師匠の作品を、繰り返し模写することで自由な発想力を培い、光琳はそこに優美できらびやかな装飾性を練り込んで、師の魂を受け継ぎつつ発展させた。絢爛豪華な「光琳デザイン」の誕生だ。今に伝えられる彼の作品の大半は、以降の8年間に制作されたもの。 
光琳が本格的に作品を発表したのは1701年(43歳)から没年の1716年(58歳)までの15年間のみ。その短い活動期間に多数の名品を残して旅立った。乾山は兄の死後も30年近く生き、晩年は江戸に上がって筆を握り、文人趣味の優れた書画などを残した。 
豪奢な生活は光琳の家計を火だるまにさせたが、一流の美術品に触れ続けたことで審美眼を養えたのも事実。派手さがあっても決して下品ではなく、華やかで垢抜けている光琳デザインは、屏風以外にも、うちわ、着物、硯箱、印籠、百人一首、陶器絵など、工芸品を含めていかんなく発揮された。これらジャンルを越えた幅広い創作活動から、日本美術史上最高のデザイナーとされている。 
光琳と乾山の菩提寺は1788年の大火で焼け落ち、墓も行方不明になった。光琳百回忌の際、かつて光琳が宗達に私淑したように、熱心に琳派を学んでいた酒井抱一は、「長江軒青々光琳墓」と刻んだ墓を建立した。光琳の向かって右隣には乾山が眠っている。 
「紅白梅図屏風」 
光琳の最高傑作。50歳ごろ師・宗達の「風神雷神図屏風」を模写して圧倒された彼は、師に胸を張って「これが光琳だ」と言える作品を残そうと決意し、晩年にこれを描いた。左の白梅が老木、右の紅梅が若木で、両者の間を流れる川は「時の流れ」を象徴している。左右の屏風を真ん中を見ると、左側は枝が鋭角のV字を、右側は川と枝が曲線のV字を作っている。このような直線と曲線の対比や、梅の“静”と水流の“動”、老木と若木、抽象的な川に対してリアルな梅と、画中の何もかもが呼応し相対する構成は神がかりとしか言いようがなく、舌を巻かずにはいられない。常人には思い浮かばない発想で、天才と称される所以だ。  
「燕子花(かきつばた)図屏風」  
1701〜04年頃に制作された初期作品。各縦1.5m、横3.6mという大画面(六曲一双)に群生する燕子花が描かれている。よく見ると所々が同じ構図になっており、染物模様のように同型を繰り返し使うこと(型置き技法)で、全体にリズム感を与えている。もちろん、この「型」を使うという発想は、呉服商の経験からきているのだろう。使用された色は極端に少なく、群青と緑青(ろくしょう)のわずか2色のみ。本作は「伊勢物語」の九段目「東下り」の段をモチーフにしている--「都には自分の居場所がないと思った在原業平は、同じ気持を共有していた友人たちと、京から愛知へ道に迷いつつ下り、八橋にたどり着く。川のほとりで食事していると目の前には燕子花が咲き乱れていた。そこで友から“かきつばた”の5文字を上の句にして歌を詠めと促された業平はこう歌った。“唐衣/きつつなれにし/つましあれば/はるばるきぬる/旅をしぞ思ふ”(着慣れた着物のように親しく思う妻が都にいるのに、私はこんな遠くまで来てしまった)。これを聞いた友人たちは思わず飯の上に涙を落とした」。美しく洗練された画面構成は光琳ならでは。国宝。   
 
本阿弥光悦

 

京都生まれ。工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。 
生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいった。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。 
やがて40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝「平家納経」の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を提供した。宗達は見事期待に応え、この後「風神雷神図屏風」など次々と傑作を生み、30年後には朝廷から一流のお墨付き(法橋)を授かるほど成長した。 
※後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。 
そして50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。天才と天才の共同制作。それが「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」だ。光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、これしかないという新しい書を探求した。そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、極限まで装飾化した文字がほとばしった!光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、弾み、休み、また流れていった。文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。  
1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。 
光悦の呼びかけに応えて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋らが結集し、彼はこの「光悦村」の経営と指導に当たった。文字通り、日本最初のアート・ディレクターだ。有志の中には尾形光琳の祖父もいた。風流をたしなむ豪商も住み、村には56もの家屋敷が軒を連ねていたという。光悦の友人は、武士、公家、僧など広範で、宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に光悦村に滞在している。 
茶の湯も大いに賑わい、それに関連して光悦は今まで以上に熱く陶芸(茶碗づくり)に力を入れてゆく。  
作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりで制作した。本職の陶芸家ではなく外野から参加している分、自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出した。革命的だったのは、光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたことだ!制作者が名を刻んだのは日本陶芸史上初めてのことだった。それまでは陶芸家でさえハッキリと茶碗を芸術作品とは認識していなかったのを、光悦が名前を入れたことで、茶碗を通して作者の自我を主張できるようになったんだ。現在国産の焼き物で国宝に指定されているのは2つだけ。その1つが光悦の銘「不二山」だ。雪を冠した富士のような景色からこの名が付いた。他にも「雨雲」「雪峰」「時雨」「加賀光悦」などの傑作茶碗を後世に残した。 
硯箱の表面に書かれた文字は「後撰和歌集」の源等(みなもとのひとし)の歌「東路(あづまぢ)の佐野の船橋かけてのみ 思ひ渡るを知る人のなき」“東国佐野に長い舟橋(舟と舟に架かる橋)が架かっているように、あなたをずっと想い続けているのにちっとも気づいて下さらない”。ただし遊び心でわざと「東路乃 さ乃ゝ“ ”かけて」と、途中の「舟橋」の言葉が抜かれている。そのかわりに舟橋そのものを箱に描いている心憎い演出だ。下地に波を描き、そこへ並んだ小舟を彫り、その上に鉛の板を橋に見立てて配置している。丸々と盛り上がった蓋のデザインも斬新だ。古典文学と硯箱のコラボに光悦の“キマッタ!”という満足気な顔が見えそうな逸品だ。 
光悦は平安朝から続く伝統文化を深く愛し、それをベースに様々な創意工夫を加えて新しく甦らせた。従来の蒔絵(まきえ、漆を塗って金銀粉を蒔いたもの)についても、見た物をそっくりに描いて「ハイ、おしまい」ではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、変幻自在にスタイルをかえた。その斬新な造形感覚は他に比類のない独自のもので、屏風、掛軸、うちわ、本の表紙など各種生活実用品まで多岐にわたって創作の対象とした。装飾を凝らした日用品を創ることで、光悦は美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようとした。光悦村が美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれる由縁だ。そして特筆したいのは、そこに軽妙な遊び心があったこと。この明るさがまた人々を惹きつけた。 
光悦は宗達と共に琳派の創始者となり、その精神は半世紀後に尾形光琳に受け継がれていく。光悦が日本文化に与えた影響は計り知れない。享年79歳。 
※1604年(46歳)から2年をかけ光悦の書を版下にした「方丈記」「徒然草」「伊勢物語」などが出版された(嵯峨本と呼ばれる)。 
※光悦は名器(瀬戸の茶入れ)の購入の際、相手が値引きしようとしたのを断って、あえて言い値で買い取ったという。芸術家として、鑑定家として、自分がその価格に見合う真に価値ある作品だと思えば、それを値切ることは作者への冒涜だと思ったのかもしれない。 
 
伊能忠敬

 

 
伊能忠敬(ただたか)。江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。 
※人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ! 
暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。第一人者とはいえ、高橋至時はまだ32歳。一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ! 
当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。 
この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。 
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった!外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だったのだ) 
忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。 
1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。 
昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。  
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった! 
しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠する。忠敬は深く打ちのめされた--。 
半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった! 
1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。 
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった。 
そして、1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる! 
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没する。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。 
1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。 
この地図の後日談にこんなエピソードがある。忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったのだ。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。 
忠敬は、遺言にこう残した 「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。 
「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たちに見せつけてくれた 。 
※地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出したのだった。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した 。 
「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)
 
                            14世紀成立 「拾芥抄」(しゅうがいしょう)  
 
1595年 
 
1654年  
 
1836年  
 
1876年 森琴石地図                 1876年 内務省地理局地図 
 
1876年 日本国家地図               1876年  
 
1881年                        1887年 
 
1891年                        1893年 
  
1899年  
 
平賀源内

 

江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、世人の注目を浴びる。 
本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。これは他藩へ仕官することを禁止するものだ。源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出し、また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を残した。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だ。 
一方、画才、文才も惜しみなく発揮。彼は油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。 
作家としてのペンネームは「福内鬼外(浄瑠璃号)」「風来山人(戯作号)」となかなかシャレている。35才の時に書いた「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝」は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。後者は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、江戸版ガリバー旅行記といった感じだ。(鎖国中でもあり、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない。) 
「放屁(ほうひ)論」ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師(三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いに出し「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛し、さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。 
※ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。 
多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。 
晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであった…。発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死した(享年51歳)。 
源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ。 
 

 

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日本史年譜  
 江戸時代

 

1 江戸幕府の成立  
関ヶ原合戦 
(1600年 / 豊臣秀頼、摂河泉三州65万石の大名に没落)  
武断派が北政所、文治派が淀君を担いで抗争を続ける中、徳川家康は石田三成らを掃討するべく石田三成の親友直江兼続を家老とする会津の上杉景勝に上洛を命じ、上杉景勝が直江兼続に所謂「直江状」を書かせて徹底抗戦の構えを見せたことを口実としてこれを討伐するべく下向した。やがて予想通り石田三成が毛利輝元を総大将として挙兵したため、徳川家康は小山軍議で福島正則・加藤清正・山内一豊ら諸将の協力を得て西上し、美濃国関ヶ原で西軍と激突した。東軍は徳川秀忠が真田昌幸に足留めされていたため兵数では不利だったが、吉川広家が西軍総大将毛利輝元を大坂城に止めさせていた上、小早川秀秋らの変心もあって勝利した。石田三成・小西行長・安国寺恵瓊ら西軍首脳は京都六条河原にて斬首されたが、島津義弘は本領安堵を勝ち得た。  
江戸幕府の成立 
(1603年 / 徳川家康、征夷大将軍に)  
伏見城にて後陽成天皇から将軍職を賜り江戸幕府を開いた徳川家康は、1605年には徳川秀忠に将軍職を譲って徳川家が世襲することを示し、淀君ら大坂方に圧力を加える一方、豊臣秀頼に孫娘の千姫を嫁がせて太閤贔屓の世論を懐柔した。藤堂高虎の普請による江戸城改築工事は1606年に竣工したが、徳川家康は駿府城へ移り駿府政権を樹立、大御所政治を始めた。徳川家康の側近本多正信・本多正純親子の讒言で徳川秀忠の側近大久保忠隣(おおくぼただちか)が処罰されるなど、大御所政治では徳川家康の力が絶対だった。  
大坂の陣  
(1614年〜1615年 / 豊家滅亡)  
徳川家康の側近としては、本多正信・本多正純・後藤庄三郎・西笑承兌・閑室元佶・以心崇伝・林羅山・南光坊天海の他、京都所司代板倉重昌、勘定頭松平正綱、幕府政商茶屋四郎次郎(中島清延)、長崎奉行長谷川左兵衛らが挙げられる。一色秀勝の子の南禅寺住持以心崇伝(金地院崇伝)と林家の祖たる林羅山、それに明智光秀同一人物説があり上野寛永寺や川越喜多院を開いたことで知られる南光坊天海らは1614年、豊臣秀頼が方広寺に奉納した鐘の銘のうち「国家安康」「君臣豊楽子孫殷昌」という文句を曲解して方広寺鐘銘事件を起こし、豊家家老片桐且元を詰問した後、大坂冬の陣を勃発させた。後に和議が締結されたが大坂城は堀を埋められて無力化し、集合していた浪人たちも大野治長ら君側の奸の愚行のため次第に自暴自棄になり、翌年の大坂夏の陣では木村重成・真田幸村・長宗我部盛親・後藤基次・毛利勝永・三好政康・薄田兼相(すすきだかねすけ)・塙直之・明石全登(あかしてるずみ)らの奮戦も空しく大坂方の敗北に終わり、豊臣秀頼と淀君は自害した。なお方広寺鐘銘の作者清韓文英の友人で子の古田重広が大坂方に参加した古田重然は、切腹させられた。大坂の陣で真の士が皆無となり表面上の平和が到来したことを、元和偃武(げんなえんぶ)と言う。  
徳川家康の死没 
(1616年 / 派閥抗争勃発)  
徳川家康の葬儀方法を巡り、以心崇伝(円照院本光国師)は「明神」として祀るべきだと主張したが、南光坊天海(慈眼大師)はそれが豊臣秀吉の「豊国大明神」に通じるとして反発、「東照大権現」とするべきであると主張した。この抗争は諸大名からの信望が厚かった南光坊天海の勝利に終り、徳川家康は「東照大権現」として久能山から日光へ改葬された。なお父の本多正信が徳川家康の没後50日目にさながら後を追うように病死したため本多家の家督を継いだ本多正純は、所謂「宇都宮釣天井事件」という馬鹿げた嫌疑を受け、失脚している。 
2 幕藩体制  
軍事的基盤  
将軍の直臣のうち1万石以上の者を大名、1万石未満の者を直参(じきさん)と言う。直参は、将軍への御目見得(謁見)が可能であり知行地(旗本知行地)を支給され知行取と呼ばれる旗本と、将軍への御目見得が不可能であり100俵以下の蔵米を支給され蔵米取と呼ばれる御家人に大別される。諸士法度により統制された直参は、旗本約5000人、御家人約17000人、合計約22000人から構成された。下級旗本と御家人に支給された米のことを扶持米と言い、また旗本の家来と御家人を合わせて俗に旗本八万騎と言う。旗本たちの中には白柄組や神祇組などの旗本奴と呼ばれるチンピラがおり、町人のチンピラである町奴としばしば抗争した。特に1657年に発生した旗本奴水野成之と町奴幡随院長兵衛との抗争は有名である。幕府の軍事力としてはこの直参の他に、非常時に各大名が200石につき5人を供出して編成される非常設の軍隊や、大坂奉行と京都所司代の下に設置された鉄砲奉行、若年寄の下に武官として編成された番方の一種である鉄砲百人組などがある。鉄砲百人組・大番・書院番・小姓組番などの番方の対義語が、奉行・群代・代官などを指す役方である。  
経済的基盤  
幕府直轄領たる天領(御料・御領)は400万石であり、それに旗本知行地の300万石を加算した700万石(全体の25%)が幕府の根本的な基盤である。他に、大久保長安らが収入拡大に尽力した相川金山・青野銀山・縄地銀山・大森銀山・生野銀山・足尾銅山などの直轄鉱山からの収入、江戸・京都・大坂・駿府・奈良・長崎・堺などの直轄都市からの御用金、天領からの本途物成・小物成、大名からの御手伝金・献上金、直参からの小普請役金(こぶしんえききん)、商工業者からの運上金・冥加金・地子銭、三貨の貨幣鋳造権の独占、その他朱印船貿易独占に伴う利益などにより幕府初期の財政は安定していた。  
幕府の職制  
徳川家康の三河時代以来の職制は、月番交代制や合議制などで特定個人への権力集中を防止するため将軍の権限が強く、また戦時体制を兼ねる「庄屋仕立て」である。原則として役職に就任できるのは譜代大名と旗本のみだった。幕府の政務執行機関は老中・大目付・若年寄・三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)で構成される評定所である。当初は年寄と称されていた老中は譜代大名から選任される一般政務統轄者であり、常に5人程が就き、大名を監察する大目付の他、大番頭などを従えていた。非常時には12万石以上の譜代大名から大老が選任(初代大老は島原の乱の時の土井利勝)されたが、のべ13人の大老のうち、6名を井伊家が占めた。若年寄は老中補佐と江戸城中の事務を職掌とし、無城の譜代大名が就き、直参を監察する目付の他、鉄砲百人組・書院番頭・小姓組番頭などを従えた。寺社奉行は関八州以外の私領の訴訟や全国の寺社・寺社領の管理を職掌とし、三奉行中唯一譜代大名から選任された。町奉行は江戸町奉行とも称され、月番交代制の南北両奉行所が与力・同心を用いて江戸を統治した。大岡忠相は南町奉行、遠山景元は北町奉行として知られている。勘定奉行は当初は勘定頭と称され、幕府財政・天領民政・天領と関八州旗本領の訴訟を職掌とし、代官を従えた。代官は民政担当の地方と訴訟担当の公事方に分かれるが、いずれも陣屋に居住した。代官の大規模なものが、関東郡代(初代は伊奈忠次)・美濃郡代・飛騨郡代・西国筋郡代などの郡代である。この他、幕府重要直轄地には遠国奉行として京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の他、長崎・奈良・堺・山田・日光・佐渡に奉行が配置され、また戦略上の拠点には大坂城代・二条城代(警備を司る二条定番も設置)・伏見城代・駿府城代などの城代が置かれた。また京都には、京都護衛、朝廷の監察及び連絡、西国諸大名の監察を職掌とする京都所司代が設置された。  
大名統制  
1 知行制  
大名知行制とは大名が公儀から知行地を預かって管理運営を行う体制のことである。大名は藩主として藩を経営し、将軍の陪臣に相当する藩士を扶養した。また藩では、家老が藩独自の勘定奉行や町奉行を支配し、郡奉行が代官や手代を行使して民政を司った。藩士には地方知行制に基づいて知行地が支給されたり、俸禄制度に基づいて俸禄米・切米・扶持米・給銀などが支給されたりした。なお対馬藩・松前藩はそれぞれ朝鮮人・アイヌ人との交易権を知行とする商場知行制であった。  
2 藩・大名の種類  
大名は将軍家の親類たる親藩、三河時代以来の家臣たる譜代大名(当初は譜代衆)、その他の外様大名、という三種類に大別される。親藩は尾張家(始祖徳川義直)・紀州家(徳川頼宣)・水戸家(徳川頼房)からなる御三家や、田安家(徳川宗武)・一橋家(徳川宗尹(とくがわむねただ))・清水家(徳川重好)からなる御三卿、その他松平家などで構成され小藩が多かったが、御三家と御三卿からは将軍が輩出された。譜代大名は最大が彦根藩井伊家35万石であるように領地は少なかったが要職に就くことができ、外様大名はその逆で、さらに辺境の地に配置された。  
3 武家諸法度  
徳川家康・徳川家継・徳川慶喜以外の全将軍が発令(徳川吉宗以降は前代踏襲)した武家諸法度は、明治政府司法省編纂の『徳川禁令考』に記載されている。1615年に徳川秀忠が発令した以心崇伝起草の武家諸法度元和令では、一部例外を除き一大名に一城のみを残した元和一国一城令の徹底、即ち築城禁止・修築許可制なとが定められた他、大名間の私婚が禁止された。また将軍と大名の君臣関係確立のため大幅に遅れて徳川家光が1635年に発令した林羅山起草の武家諸法度寛永令では500石積以上の大型船建造禁止(黒船来航まで継続)や無許可の関所の新設禁止、それに参觀交替(参勤交代)等が制度化された。参觀交替は前田利長が生母芳春院を徳川家康に送って以来慣例として行われていたが、ここで毎年夏の四月に国元・江戸間を大名行列で往来するように制度化されたことにより、軍役や御手伝普請など他の奉公と相俟って大名に財政的打撃を与える結果となった。なお当初は家臣の子弟を証人屋敷に配置する人質制が行われていたが、1665年に撤廃された。武家諸法度に違反した場合、大名は改易や減封、国替(転封)等の罰に処せられた。改易された大名としては広島藩主福島正則・福井藩主松平忠直・高田藩主松平忠輝らが知られている。また最上騒動・伊達騒動・黒田騒動・前田騒動などの御家騒動も続発した。  
朝廷統制  
禁裏御料は当初1万石だったが、徳川家光と徳川綱吉がそれぞれ1万石ずつ加増して3万石となった。江戸幕府は1600年に板倉勝重(徳川家光の乳母に斉藤利三の娘お福(後の春日局)を推挙した人物)を初代の京都所司代として朝廷の監察にあたらせた。また朝幕間の事務連絡を司る武家伝奏(2名)も設置された。朝幕関係は後陽成天皇が豊家贔屓であったため元来悪く、1611年には後陽成天皇が幕府の朝廷人事への干渉に抗議して政仁親王に譲位したが、天皇に学問を勧め改元権を容認するものの武家への官位任免権と紫衣・上人号の勅許権は幕府が掌握する、という禁中並公家諸法度が以心崇伝の起草により1615年に施行されると更に緊迫した。徳川秀忠は1620年に末娘徳川和子を後水尾天皇の中宮として入内させて権威の向上を図る一方、1626年には後水尾天皇や近衛信尋らを招待して示威のための二条城行幸を行ったが、翌1627年には禁中並公家諸法度施行以降の紫衣勅許を無効とした幕府に対し後水尾天皇が激怒し、抗議のため徳川和子との間の皇女興子内親王(明正天皇)に譲位した(紫衣事件)。「天魔外道」以心崇伝は幕府を批判した大徳寺僧沢庵宗彭(たくあんそうほう)を出羽国上山、玉室宗柏を陸奥国棚倉に配流したが、沢庵宗彭は赦免後に江戸へ戻り、品川の東海寺を開いた。  
寺社統制  
まず全国の寺院は以心崇伝起草の宗派別の諸宗諸本山法度(寺院法度)と言う法令と、各宗共通の諸宗寺院法度により統制され、所有地も将軍家から寄進される御朱印地に限られ、さらに本山・末寺制度により総本山・本山・末寺・末々寺という序列的な階級付けが為された。大目付の配下の宗門改役は宗門改帳を作成して全庶民を何処かの檀那寺の檀家(檀那・檀徒)とし、婚姻・結婚・奉公・転居の際には村役人が発行する追手形と共に檀那寺が出す寺請証文(宗旨手形)の携行を義務付けて、基督教禁止の徹底を図った(寺請制度)。なお宗門改役は、筑前国大島で逮捕されて棄教の後に岡本三右衛門を名乗った伊人耶蘇会士キアラなど、外国人が任命されることもあった。また宗門改帳は後に人別改帳と融合して宗門人別帳となり、実質的な戸籍となった。一方、神社は諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)により統制された。  
農村の様子と農民の負担  
封建支配の末端機関たる郷村制に基づき、郡代・代官の指示で村政を執った村役人の中の最有力者は、名主・組頭・百姓代の村方三役(地方三役)である。名主は西国では庄屋、東北では肝煎とも称され、草分百姓(芝切百姓)が世襲したり入れ札や輪番で選出され、大庄屋(割元庄屋・惣庄屋)の配下についた。組頭は年寄とも称され、名主の業務である年貢割付・年貢収納・村費収支を補佐した。百姓代は村方騒動の多発を受けて設置されたものであり、名主と組頭の業務を監視し、不正を抑制した。農村の主役は検地帳に登録され年貢を負担する本百姓(高持百姓)であり、無高・無役の小作人たる水呑百姓(帳外れ)や隷属的な名子(被官・家抱・門・譜代・下人)らを使用し、本田畑(高請地)や質地・隠田を耕作した。幕府は律令体制下の五保の制に倣い相互監視・相互扶助・連帯責任のための五人組を本百姓5戸1組で設置し、「五人組帳前書」に記載された村掟(村議定)の違反者は葬式と火事消火以外の交流を断たれた(村八分)。なお、結(もやい)と言う田植や屋根葺などの共同作業や、牛馬用飼料確保のための秣場や薪確保のための入会地の管理など重要事項を決定した機関は寄合である。農民の負担としては、本年貢としの本途物成の他、山野河海からの産物に掛かる小物成、蔵前入用(浅草米蔵人夫費)・伝馬宿入用(宿場経費)・六尺給米(江戸城台所人夫費)からなる高掛三役などの高掛物、河川土木工事・日光法会・朝鮮使節接待のための国役、街道沿いの助郷に村高相応の人馬供出を課した助郷役などの夫役(夫米・夫銭で代納も可)などが存在したが、本多正信の『本佐録』に本多正信の言葉として「百姓は財の余らぬ様…」、大道寺友山の『落穂集』に徳川家康の言葉として「百姓共をば死なぬ様生きぬ様…」、本多利明の『西域物語』に神尾春央の言葉として「胡麻の油と百姓は…」とあるように、総じて負担の重いものだった。  
農民統制  
1641年に発生した寛永の大飢饉を受けた幕府は、本百姓の零細化と富農への土地集中を防ぐため1643年に田畑永代売買の禁令を施行したが、これは頼納(質入れ)による事実上の売買は認められていたため効果は低かった。また商品作物増加に伴う貨幣経済の発展と米不足を防ぐため1643年には作付制限令(田畑勝手作の禁令)が施行され、本田畑での五穀以外の商品作物(木綿・煙草など)の栽培が禁止された。1649年には総合的な農民統制と勧農精神・順法心得の啓発のため慶安の御触書が下され、1673年には農民が零細化することを防止するため、名主は20石、一般は10石以下への分割を禁止する分地制限令が発令された。  
四民制度  
四民制度は農本思想と儒教思想に基づくものである。武士は半農半武の郷士を含めても全体の10%程度であるが、切捨御免(無礼打ち)や苗字・帯刀などの権利を有する一方、武士階級内でも厳格な上下の別があった。農民は全体の80%程度を占めた。町人は全体の7%程度を占める都市部商工業者であり、町奉行の配下の町年寄(大坂では惣年寄)・町名主が統率した。職人は師匠(親方)と徒弟(弟子)、商人は主人と奉公人(番頭>手代>丁稚)に分けられ、年季奉公を終えた奉公人は暖簾分けで主人から独立した。大商人は地主・家持で市民権を有する本町人だが、普通の商人は家主から店・土地を借りる店借(店子)・地借であり、棒手振や日雇労働者は大家(家守)が管理する棟割長屋に居住した。室町時代にも犬神人や声聞師が存在していた踐民については、皮革処理や囚獄雑役(牢番)を司るかわた・きよめなどの穢多(えた)は終身であり、鍼・按摩などを生業とする盲目の座頭など遊芸・物乞などを行う非人(ひにん)は足洗いで農工商に復帰できた。備前国の渋染一揆など、踐民は稀に抵抗を起こしたことで知られている。武士は武家町、農民は農村、職人は紺屋町・鍛冶町・大工町・鉄砲町などの職人町、商人は呉服町・肴町・米屋町などの商人町、賤民は被差別部落に居住した。  
家族制度  
家父長制に於いて、家長は当然父親である。跡目相続に関してはこの時代には長子単独相続が一般化し、不肖の子に関してはこれを勘当した。当時は男尊女卑という結構な思想が一般化しており、女は三従の教え(家では父、嫁いだら夫、老いたら子)を遵守することを義務とされ、夫は七去(舅に従わぬ・無子・多言・窃盗・淫乱・嫉妬・悪疾) のいずれかを犯した妻に関してはこれに三行半(みくだりはん)という離縁状を与えて離縁することができた。七去は、貝原益軒が著した『女大学』により一般化した。また家庭では、よこざ・かかざ・客座・木尻というように座る場所も決定されていた。ちなみに鎌倉時代に北条時宗の妻の覚山尼が開創した鎌倉の松岡山東慶寺のみは、横暴な夫に対する妻たちの駆け込み寺としてこれを受け入れていた。 
3 江戸時代初期の外交  
南蛮人と紅毛人  
イスパニアの前ルソン総督ドン=ロドリゴが1609年に上総国に漂着したことを機に、徳川家康は京都商人田中勝助を翌1610年にノビスパン(新(ノヴァ)イスパニア;現メキシコ)へ派遣した。徳川家康は貿易を企図していたが、来日した答礼使のビスカイノが貪欲だったため失敗に終わった。また伊達政宗は1613年、慶長遣欧使節として支倉常長を宣教師ルイス=ソテロと共にローマへ派遣して教皇パウロ5世に謁見させたが、通商要求は通らなかった。一方、東インド会社を駆使して植民地拡大を続ける紅毛人が来日したのは1600年にリーフデ号が豊後国の臼杵に漂着したのが端緒であるが、この乗組員である英人ウィリアム=アダムズ(三浦按針)と蘭人ヤン=ヨーステン(耶揚子)は徳川家康からそれぞれ日本橋と八重洲に江戸屋敷を与えられ、側近として働いた。また三浦按針と耶揚子は、それぞれの国の平戸商館を創設した。後に英国は1623年のアンボイナ事件に敗れたため植民地争奪戦から撤退し、商館もそれに伴い閉鎖された。また平戸オランダ商館も鎖国の最終段階として1641年には長崎の出島へ移された。  
朱印船貿易  
海禁政策を執る明との貿易は、台湾・呂宋(ルソン)・交趾(コーチ)・東京(トンキン)・暹羅(シャム)・太泥(バタニ)・安南(アンナン)・東埔寨(カンボジア)・緬甸(ビルマ)・バタビア(ジャカトラ)などに於いて出会貿易の形式で為された。貿易用の朱印船は幕府の渡航許可状たる朱印状を有する船であるが、1631年以降は老中奉書を有する奉書船であることも条件となった。なお、朱印船の船主は亀井茲矩(かめいこれのり)・有馬晴信・鍋島勝茂・加藤清正・島津家久・松浦鎮信などの大名であることが多かった。白糸・織物・砂糖・象牙などを輸入し銀・銅・鉄・刀剣・硫黄などを輸出する朱印船貿易では、角倉了以(すみのくらりょうい)・角倉素庵・茶屋四郎次郎清次ら京都商人、末吉孫左衛門ら摂津商人、納屋助左衛門(呂宋助左衛門)・今井宗薫ら堺商人、村山等庵・末次平蔵・荒木宗太郎ら長崎商人、角屋七郎兵衛ら伊勢松阪商人などが活躍したが、このうち角倉了以は朱印船を描いた絵馬を清水寺に奉納したことで、また末吉孫左衛門は江戸銀座の創設で知られている。なお当初ポルトガル商人が独占していた白糸取引は、後に幕府により京都・長崎・堺の三ヵ所商人(後に江戸・大坂を加え五ヵ所商人)から構成される糸割符仲間に限定された(糸割符制度・パンカド商法)。また有馬晴信は1609年に長崎でマードレ=デ=デウス号を撃沈したが、これは船長アンドレ=ペッソアが前年に有馬晴信の朱印船の乗組員数十名を惨殺したことに対する報復である。糸割符制度とマードレ=デ=デウス号事件により、ポルトガルの経済的侵略は一時的に沈静化した。一方、朱印船貿易に伴い暹羅のアユタヤ、交趾のツーランやフェフォ、東埔寨のプノンペンやピニャルー、緬甸のアラカンなどには日本人が多く住む日本町が成立した。暹羅で活躍して後に六昆(リゴール)太守(たいしゅ)という地位にまで出世したが、やがて現地の政争に巻き込まれて暗殺された山田長政は有名である。  
琉球と朝鮮  
徳川家康の許可を得た薩摩藩主島津家久は1609年、琉球出兵を断行して尚寧王を降伏させた。琉球を属国とした薩摩藩は中継貿易の利益を搾取する権利と与論島以北の領有権を獲得した。琉球からは将軍交代毎に慶賀使、琉球国王即位毎に謝恩使が派遣されたが、琉球には明からも冊封使が派遣された。琉球には1605年、野国総管により福州から甘蔗(砂糖黍)がもたらされていたが、1609年に儀間真常は甘蔗を原料とした黒砂糖の精製法を開発した。黒砂糖などは進貢船で薩摩藩へ運ばれ財政を潤した。一方、女真族(1616年にヌルハチが後金を建国)の圧迫を受けた李氏朝鮮は1605年に日本と和議を結び、宗義智らの国書偽造工作もあって1607年に国交回復が為された。朝鮮通信使(慶賀使・来聘使(らいへいし))は1617年の大坂鎮圧祝から大御所時代まで前後12回、来日した。日朝間の交易を規定する1609年の慶長条約(己酉約条)では、日本からの使者が将軍と宗氏に限定され、歳遣船も年20隻に制限された。  
蝦夷地の諸問題  
蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の配下武将武田信広は、1457年のコシャマインの乱鎮圧の功により蠣崎季繁の養子となった。やがて蠣崎義広の子の蠣崎季広は蝦夷地の中に和人地を確立し、子の蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は朝鮮出兵の際に名護屋城に参じたことを豊臣秀吉に賞賛され、蝦夷朱印を受けて蝦夷島主に任ぜられ、やがて1599年には徳川家康に服属して松前藩を興し、松前慶広を名乗った。染退(しぶちゃり)の首長(コタンコロクル)シャクシャインは1669年、和人(シャモ)のアイヌ青年殺害を機に中部・日高・後志(しりべし)を中心にシャクシャインの乱を起こしたが鎮圧され、松前藩はこれを機に商場知行制を場所請負制に変更した。アイヌは1789年のクナシリ・メナシの戦いを最後に、服従した。アイヌの口承文学がユーカラである。  
禁教  
幕府はマードレ=デ=デウス号事件に関連した岡本大八事件で幕内の基督教信者を弾圧したりしていたが、南光坊天海・以心崇伝・林羅山・三浦按針らは、基督教の神前平等思想と封建道徳との相違、旧教国の領土的野心への警戒、宗教一揆に対する危惧、商教分離の確立などを建て前に、本格的な禁教を断行した。1612年、全天領に禁教令(基督教禁止令)を発令した徳川秀忠は翌1613年にそれを全国に拡大、1614年からは基督教徒迫害を断行して高山重友ら基督教信者をマニラやマカオへ追放した。1622年には長崎にて宣教師や信者ら55名が処刑される元和大殉教が発生した。幕府は禁教を確立するため、絵踏(踏絵;1629年に長崎奉行が考案)や寺請制度の徹底を図ったが、隠れキリシタン(潜伏キリシタン)はロザリオやマリア観音像を用いて信仰を続けた。また幕府は禁教徹底のために洋書や漢訳洋書の輸入を禁止した。  
島原の乱 
(1637年〜1638年 / キリシタン・農民の反乱)  
元来、肥前国島原は有馬晴信、肥後国天草は小西行長の所領だったため基督教徒が多かったが、島原藩主松倉重政や天草藩主寺沢広高らは基督教信者を弾圧すると共に、幕府に認められるため年貢水増しなどの苛政を執行した。子の松倉勝家・寺沢堅高らもそれを継続したため、島原の民衆約 38000人は益田時貞(天草四郎)を大将として原城址で決起した(実質的総大将は益田好次)。島原の民衆蜂起はやがて天草にも飛び火して拡大したが、長崎奉行榊原職直や立花宗茂・細川忠利・大村純信・有馬豊氏ら諸大名は武家諸法度抵触を恐れて傍観したため、幕府は京都所司代板倉重昌を島原へ派遣した。苦戦を強いられた板倉重昌は老中松平信綱(知恵伊豆)の江戸出発を知り焦燥感に駆られたため元旦に総攻撃を掛け、敢え無く玉砕した。到着した松平信綱は当初蘭船による艦砲射撃を実施したが、反対が多く中止した。約120000人の幕府軍は敵の兵糧切れにより漸く勝利を収めた。事後処理として、苛政により反乱を招いた松倉勝家は切腹、寺沢堅高は改易(後に不服として自害)に処せられた。なお、松平信綱は阿部忠秋・阿部重次・堀田正盛・三浦正次・太田資宗と共に徳川家光六人衆に数えられているが、徳川家光は実弟の松平忠長に切腹を申し付けたことでも知られている。  
鎖国  
所謂「鎖国」という言葉は、後世の志筑忠雄(しづきただお)がケンペルの『日本誌』を翻訳する際、一節を『鎖国論』と訳したことに由来する。故に5回発令された鎖国令は、厳密に言えば鎖国令という表題のものではない。1633年に発令された第一次鎖国令たる寛永十年令では奉書船以外の海外渡航及び帰国が厳禁された。翌年の寛永十一年令は前年とほぼ同一の内容である。1635年の第三次鎖国令たる寛永十二年令では日本人の海外渡航及び帰国が禁止され、結果的に朱印船貿易は途絶した。翌年の寛永十三年令では貿易に無関係な葡人が国外追放となり、ついに1639年の第五次鎖国令たる寛永十六年令にてかれうたと称される葡船の来航が禁止され、鎖国が完成した。  
長崎貿易  
長崎貿易では金・銀・銅・俵物などを輸出し、朱印船貿易に準じる物を輸入していた。糸割符制度の撤廃後は相対貿易が行われたため貿易量は増大したが、比例して金銀の国外流出量も増大したため、徳川家綱は市法売買仕法、徳川綱吉は定高仕法を施行した。オランダは東インド会社日本支店長たるオランダ商館長(甲比丹(カピタン);任期1年)が仕切る出島オランダ商館にてオランダ通詞(志筑家・吉雄家・本木家・西家が世襲)との交渉により貿易を行い、また甲比丹は世界情勢を記したオランダ風説書を幕府側に提出した。オランダ風説書はオランダ通詞により翻訳され長崎奉行の手を経て将軍に提出される非公開の書物である。一方、清は徳川綱吉の頃から長崎郊外の唐人屋敷で交易したが、オランダ共々輸入品は1698年から長崎会所で一括購入され、入札で国内の商人に販売されるようになった。これは長崎運上金を徴収するための措置である。 
4 文治政治  
慶安事件 
(1651年 / 由比正雪の乱)  
1651年に徳川家光が逝去したことに乗じた駿河国の兵学者(軍学者)である由比正雪は、牢人丸橋忠弥らと共に倒幕を企てた。計画は、まず放火を行って江戸を混乱させ、それに乗じて江戸城を制圧し、同時に江戸・大坂・京都などに於いて同志たる牢人が蜂起し、幕府を転覆させようとするものだった。だがこの計画は江戸町奉行石谷貞清(いしがいさだきよ)や老中松平信綱に密告する者が多数あったために露顕してしまい、由比正雪は駿河国で自害し、丸橋忠弥らは江戸で逮捕され処刑された。なお同志を募る由比正雪らに名を利用された紀州藩主徳川頼宣は、自らの機転により危機を脱している。  
承応事件 
(1652年 / 戸次庄左衛門の乱)  
牢人兵学者の戸次庄左衛門と土岐与左衛門は、松平信綱ら老中が江与ノ方(小督姫)の菩提を弔うために増上寺に参拝する際にこれを襲撃しよう、という計画を立案した。この計画は事前に幕府側に察知され、戸次庄左衛門は江戸町奉行神尾春勝・石谷貞清らに逮捕され、やがて処刑された。慶安事件と承応事件により、幕府は牢人(浪人)の発生を防止する方向、即ち従来の武断政治から文治政治(儒教的徳治主義)への転換を推進する方向で政治を行うようになった。  
寛文の治  
徳川家光の遺言で補佐役として付けられた会津藩主の大老保科正之や、武蔵忍城主の阿部忠秋、それに老中松平信綱らに支えられた徳川家綱は、文治政治の先駆けと言える寛文の治を推進した。徳川家綱は後に寛文の二大美事と称される人質制撤廃と殉死の厳禁を行い、戦国的な遺風の排除に努める一方、『御触書寛保集成』に記載されているように末期養子の禁を緩和して牢人の発生を抑制した。末期養子とは無嗣絶家を回避するために大名が死ぬ直前に急養子を迎えることである。一方、1657年には所謂明暦の大火(振袖火事)が江戸に於いて発生した。本郷にある日蓮宗の本妙寺から出た火は瞬く間に江戸全体に広がり、最終的に市街地の55%を焼失して江戸城も延焼、死者は全体で約10万人(この供養のために回向院(えこういん)を建立) を数える大惨事となった。蔵書を殆ど焼失した林羅山は、失意のためか数日後に急逝した。この明暦の大火の後、江戸は計画都市として再建され、また消防機関たる定火消も設置された。寛文の治の末期には前橋藩主の大老酒井忠清が「下馬将軍(げばしょうぐん)」と称される程抬頭し、賄賂政治を行って政治を混乱させた。なお酒井忠清は、雅楽頭系酒井家の出身である。  
天和の治  
徳川家綱の後継者としては、甲府藩主徳川綱重、館林藩主徳川綱吉、そして酒井忠清が推す有栖川宮幸仁親王の三者が鼎立したが、堀田正俊の根回し工作で徳川家綱自身が徳川綱吉に譲位することを決めたため、徳川家綱の逝去後に徳川綱吉が将軍に就いた。徳川綱吉は将軍に就くと直ぐに酒井忠清を罷免し、新たな大老として堀田正俊を迎え、武家諸法度天和令に見られるように忠孝と礼儀を重視した天和の治と呼ばれる善政を推進した。越後騒動と呼ばれる醜い争いが内部で続けられていた越後藩の藩主松平光長を改易したのも、その表れであろう。やがて堀田正俊は若年寄稲葉正休に刺殺された。稲葉正休本人も同席していた阿部正武・戸田忠昌・大久保忠朝らに誅殺されたが、この事件を契機として将軍の居間と老中の御用部屋は遠ざけられ、牧野成貞を初代として伝令役の側用人が設置された。一方、徳川綱吉は好学で知られており、元の授時暦を参考として霊元天皇の御世に貞享暦を開発した渋川春海(安井算哲)を天文方、貞門派の北村季吟を歌学方に任命した。徳川綱吉はこの他、蔵米取の旗本を知行取にする元禄の地方直しを1697年に行っている。  
元禄の悪政  
徳川綱吉の寵を受けた勘定頭柳沢安忠の子の側用人柳沢保明は、1695年には別邸地を賜って六義園を造営し、さらに1701年には松平姓と「吉」の字を徳川綱吉から拝領して松平吉保(子の柳沢安貞も松平吉里に改名)と名乗り、最終的に甲府15万石を得て大老格となった。一方、無嗣だった徳川綱吉は母の桂昌院が帰依する僧隆光の進言を採用して1685年に生類憐みの令を施行し、猫・魚・鳥・蚊、就中犬を異常に優遇した。犬公方徳川綱吉は1695年、中野・大久保・四谷に犬小屋を設置して徘徊する野犬を養育したが、その莫大な経営費は、亮賢に開かせた護国寺と隆光に開かせた護持院の建築費、それに寛永寺や増上寺の改築費と共にただでさえ鉱山収入の減少により逼迫していた幕府財政を悪化させた。徳川綱吉はこの財政の逼迫を受けて勘定所(勘定方)を設置し、長官たる勘定奉行の補佐役の勘定吟味役に荻原重秀を任命した。荻原重秀は1695年、それまで使用されていた慶長金銀の質を30%落とした元禄金銀を発行し、結果的に生じた出目(でめ)で逼迫した財政を補填した。しかしこの悪貨の発行はインフレを招来し、貨幣経済を混乱させた。また荻原重秀は十文の大銭(宝永通宝)を鋳造したが、これは不便だったためあまり流通しなかった。  
赤穂事件  
(1701年(元禄十四年) / 所謂「忠臣蔵」)  
勅使接待役の赤穂藩主浅野長矩(あさのながのり)(浅野内匠頭)は、江戸城の松之廊下に於いて日頃の私怨から高家筆頭で典礼指南の吉良義央(きらよしなか)(吉良上野介)に斬り付けた。この刃傷事件を受けた幕府は即日浅野長矩の切腹及び赤穂藩の改易を発表した。本来ならば喧嘩両成敗であるにも拘らず吉良義央には何ら罰が課せられなかったため、家老大石良雄ら旧赤穂藩士(赤穂浪士)47人は翌1702年12月14日吉良義央邸を襲撃し、翌日未明にまで亘る死闘の末、吉良義央を討ち取った。この仇討ちを当時の庶民たちは賞賛したが、林信篤・室鳩巣ら肯定派儒学者と荻生徂徠・太宰春台ら否定派儒学者との間では激しい論戦が展開された。結局徳川綱吉は赤穂浪士たちに対し武士の礼をもって切腹を申し渡した。赤穂浪士たちの墓は品川の泉岳寺にある。なお吉良義央の子の吉良義周はこの事件の後、改易された。また米沢藩主上杉綱憲は実父吉良義央を救うべく米沢藩江戸屋敷から救援部隊を派遣しようとしたが、家老に諫止されて中止した。  
正徳の治  
木下順庵の弟子の「火の子」新井白石は、自らが侍講を務めていた甲府藩主徳川綱豊が徳川家宣と改名して将軍となり、側用人間部詮房(まなべあきふさ)(後に若年寄)の支持も得たため、幕政の実権を掌握し、徳川家宣・徳川家継の二代に亘って理想主義的な政治改革に努めた。新井白石は勘定奉行荻原重秀を即時罷免し宝永通宝を廃止する一方、1710年には慶長小判の量を半分にした宝永小判(乾字金(けんじきん))を、また1714年には慶長小判と同規格の正徳小判を発行し、貨幣経済の混乱の沈静化を図ったが、江戸時代には元文小判・文政小判・天保小判・安政小判・万延小判などの悪貨が発行され、貨幣経済を混乱させた。他方、新井白石は皇室が財政難のため皇子や皇女を出家させて門跡寺院に入れなければならない状況に陥っていることに着目、1710年に東山天皇の皇子直仁親王に閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設させ、徳川綱吉が行った禁裏御料の加増と合わせて朝幕関係の改善を図った。なお伏見宮家・有栖川宮家・閑院宮家・京極宮家(桂宮家)を四親王家と言う。一方、新井白石は1711年に朝鮮使節待遇簡素化を宗義方に伝えると共に、国威発揚のために将軍宛ての国書には対馬藩国書偽造事件以来の朝鮮王子を指す「大君」ではなく「日本国王」を用いるよう朝鮮に要請した。しかしこれは天皇陛下の尊号を冒すものだとして同門の雨森芳洲や林家などの猛反発を受けた。また新井白石は長崎貿易に関して著書『折焚く柴の記』『本朝宝貨通用事略』等で危機感を訴えていたが、1715年には金銀の海外流出を防ぐべく海舶互市新令(長崎新令・正徳新令)を下し、清は年間で船30隻・銀6000貫匁、オランダは船2隻・銀3000貫匁に貿易量を制限した。  
諸藩に於ける文治政治の推進  
会津藩主保科正之は朱子学者山崎闇斎を招いて領内の民衆教化を図り、稽古堂(後の日新館)を設置した。また兼六園造営を推進した加賀藩主前田綱紀(まえだつなのり)は、木下順庵と本草学者稲生若水(いのうじゃくすい)を招き古書収集と殖産興業に努めた。一方、岡山藩主池田光政は陽明学者熊澤蕃山(くまざわばんざん)を招き、藩学の花畠道場と郷学の閑谷学校(しずたにがっこう)を開いた。水戸藩主徳川光圀は、明から亡命して来た朱舜水に教えを受け、江戸藩邸に彰考館を設置し、安積澹泊(あさかたんぱく)らを用いて大義名分論に基づく『大日本史』の編纂を開始した。 
5 社会・経済の発達  
新田開発  
新田は鍬下年季(検地までの3年間位)のうちは大幅に年貢が減免されたため、著書『民間政要』で知られる田中丘隅(たなかきゅうぐ)が治水工事を推進して下総東金新田・武蔵見沼新田・武蔵野新田などを開発した享保年間をピークとして数多く開発された。深良村名主大庭源之丞(おおばげんのじょう)と江戸の豪商友野与右衛門による箱根用水、玉川庄右衛門・玉川清右衛門兄弟の玉川上水、勘定吟味役井沢為永による見沼代用水(見沼通船堀)、野中兼山の兼山堀、伊奈忠次の備前堀など、灌漑用水路も整備された。新田は、見立代官十分の一法に基づき開発した代官が年貢米の10%を獲得することが出来る代官見立新田と、越後国紫雲寺潟新田・摂津国川口新田・河内国鴻池新田など町人が開発した町人請負新田、それに村請新田(村立新田)や百姓切添新田などに大別できる。  
農業の発展と農書・地方書  
会津藩主保科正之、岡山藩主池田光政、米沢藩主上杉治憲、紀州藩主徳川吉宗らは農業を振興させたことで知られている。風呂鍬に代わり登場した備中鍬を初め、唐箕(とうみ)・唐臼や千歯扱(せんばこき)(扨箸(こきばし)に代わり登場;通称「後家倒し」)、竜骨車に代わる踏車の他、千石(せんごくどおし)や犂などの新しい農具の開発、さらに菜種・綿実などの油糟、干鰯問屋が独占販売した干鰯、石灰、糠(ぬか)などの金肥も使用された。商品作物としては五穀の他に幕府や諸藩が栽培を奨励した四木三草(楮・茶・漆・桑、麻・紅花・藍)や蝋燭の原料となる櫨(はぜ)、それに油菜・綿花・甘蔗・藺草(いぐさ)・煙草・野菜・海苔(浅草海苔など)・果樹(甲州葡萄・紀州蜜柑・予州蜜柑など)も生産された。なお紅花は出羽国、藍は阿波国、茶は山城国と駿河国、藺草は備中国、漆は会津が主な生産地である。  
『清良記』 / 『親民鑑月集』とも言う日本初の農書。宇和郡の武将土居清良の軍記、家臣松浦宗案による農業への提言が記載されている。  
『農業全書』 / 徐光啓の『農政全書』に影響された宮崎安貞の著書。これ以前、岩崎佐久治の『田法記』や佐瀬与次右衛門の『会津農書』など。  
『老農夜話』 / 須田政芳が著した農書。様々な農具を記す。この他、若林宗民の『若林農書』、土屋又三郎の『耕嫁春秋』などが有名。  
『農具便利論』 / 諸藩の農政にも首を突っ込んだ大蔵永常の著書。この後に『広益国産考』を著し、商品作物加工による利益を主張。  
『報徳記』 / 報徳社を結成して報徳仕法(尊徳仕法)を創始した二宮尊徳の著書。過剰なまでの節約を説く。  
『農政本論』 / 水野忠邦に影響を与えた篤農家の佐藤信淵の著書。下総国に土着した大原幽学や『地方凡例録』の著者の大石久敬らが有名。  
その他の生産業の発達  
林業では、山林は山主が管理して杣人(そまびと)などの山子が労働した。木曾の檜、吉野・熊野・飛騨・秋田の杉などが有名である。幕府直轄の御林(おはやし)は材木奉行がこれを管轄した。一方、瀬戸内や熊野などでは地引網や船引網や定置網(大敷網など)といった漁網を使用する網漁法が開発され、上方漁法として発達した。水産業には主に関西の商業資本が進出し漁場の開拓などに努めた。こうして鰯(いわし)(九十九里浜の地引網漁・肥前国や房総の八手網漁(やつであみりょう)・伊予国の船引網漁)や鰹(かつお)(土佐国の一本釣り)や鰊(にしん)(鮭と共に蝦夷)の漁が行われ、伊勢国や紀伊国では勢子船を用いる捕鯨が行われた。鰊は肥料となり、やはり蝦夷地原産の昆布は俵物(いりこ(なまこ加工品)・ほしあわび・ふかのひれ)と共に清へ輸出された。当時の漁業は掟に基づく共同作業が中心の入会漁業であり、網元(網主)・網子(船子)という階級制度が存在していた。また漁民には税として浦役(水主役(かこやく))が賦課された。また製塩業では、この頃から赤穂などで入浜式塩田を用いた製塩が始められた。塩田の所有者を浜主と言い、労働者を浜子と言う。一方、鉱業は貨幣の材料や貿易品として需要が大きかったために発達した。鉱山では前述のものの他、泉屋(住友家)が管理運営した伊予国の別子銅山や、出羽国の阿仁鉱山・院内銀山・尾去沢銅山などが有名である。また鉄は中国山地や釜石鉄山の鉄鉱石と共に出雲国の砂鉄が有名であり、たたら製鉄と呼ばれる技法で精錬が為された。鉱山では坑夫たる掘子(元囚人や人身売買被害者が多い)が労働した。経営者が山師であり、掘大工が採鉱して床大工が精錬した。彼らは金児神(かなこがみ)を崇拝した。  
手工業の発達  
江戸後期には農村家内工業が進化した問屋制家内工業、即ち問屋(商業資本家)が家内工業者(直接生産者)に原料や労働手段を前貸しして生産を行わせる形態が、庶民の生活水準の向上に伴う需要の増大に刺激されて全国的に広まった。諸藩は藩の専売品とするためにこれを奨励したため、各地で特産品が生産されるようになった。主な特産品としては、京都西陣織や田舎端物(丹後縮緬・上田縞・結城縞など)のほか足利・桐生・伊勢崎・博多などで生産された絹織物や、久留米絣・小倉織・有松絞・琉球絣などの綿織物、小千谷縮・奈良晒・近江蚊帳・薩摩上布などの麻製品、京染(京都の友禅染)や鹿子絞などの染物、輪島塗・会津塗・南部塗・春慶塗(能代・高山・堺)などの漆器、越前国・播磨国・讃岐国・土佐国・三河国・駿河国・周防国・伊予国などの和紙、各地のお国焼きや京焼(野々村仁清が大成・清水焼と粟田焼に分裂)が知られる陶磁器、灘・伊丹・池田・伏見などで杜氏(出稼労働者)による工場制手工業で造られた酒、薩摩国の黒砂糖、讃岐国の白砂糖(三盆白)、阿波国・和泉国・紀伊国・伊予国などの甘蔗、銚子・野田・京都・播州竜野・紀州湯浅などの醤油、代金後払い方式と薬の補充方式で知られる越中富山の売薬などの医薬品、その他、伊吹もぐさ、備後国の畳表、箱根細工、小田原外郎(ういろう)などがあり、これらの特産品は木村兼葦が著した『日本山海名産図会』や、各地の観光案内書たる『名所図絵』、それに俳諧手引書『毛吹草』などに記されている。なお織機は、室町末期以来の地機・いざり機などに代わり高機が出現した。  
交通・通信の発達  
東海道 / 京都 53宿(品川〜大津) 100人・100疋を配置。  
中仙道(中山道) / 草津 67宿(板橋〜守山) 50人・50疋を配置。以下の各街道は25人・25疋。  
日光道中 / 日光 21宿(千住〜鉢石) 千住から宇都宮までの17宿は奥州道中と重複。  
奥州道中 / 白河 27宿(千住〜白河) 厳密には白沢から白河まで10宿。青森までとする説もあり。  
甲州道中 / 下諏訪 44宿(内藤新宿〜上諏訪) 一説では甲府まで38宿と考えられる。  
生産地から都市への物資の輸送の必要性から、また参觀交替の影響から、江戸時代には道中奉行の管轄下に街道が整備された。江戸日本橋を起点とする上記の五街道の他、大坂から赤間関までの山陽道(中国街道)、京都から赤間関までの山陰道、信濃追分から直江津までの北国街道、四日市・石薬師間から伊勢神宮までの伊勢街道、門司から長崎までの長崎街道、宮から桑名までの陸路たる佐屋路、宮から垂井までの美濃路、江戸日本橋から水戸までの水戸路など、支線としての脇往環(脇街道)も整備された。街道の宿には、大名が宿泊する本陣や家臣が宿泊する脇本陣の他、一般旅行者のため木賃宿に飯盛女が配置されて発展した旅籠(はたご)、飛脚を司る飛脚問屋、年寄・帳付・馬指などの職員を問屋が管理して公用に伝馬を貸し出す問屋場などが存在していた。街道には目印として榎を植樹した一里塚が置かれた他、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や木曾福島関、日光道中・奥州道中の栗橋関、甲州道中の小仏関など、要所には治安維持と江戸防衛のために関所が設置され、関所手形(通行手形)を持たぬ者、就中「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。また大井川・安倍川・天龍川などには、やはり軍事防衛上の理由から架橋が禁止され、川越人足(天龍川は渡船)が人を対岸まで渡した。関所や川などの障害のために陸路は物資輸送には適さず、主な物品は専ら海路で運ばれた。なお飛脚には公儀の継飛脚や諸大名の大名飛脚(尾張藩・紀伊藩のものを特に七里飛脚と言う)の他、三都飛脚・三度飛脚・定六(じょうろく)・定飛脚と称される町人たちの書状・金銀・小荷物を運ぶための町飛脚などがあった。  
運送業の発達  
明暦の大火で財を成した河村瑞賢(河村瑞軒)は、1671年に日本海側から津軽経由で江戸へ向かう東廻り航路を開発し、翌1672年には金沢藩が開設していた日本海側から下関経由で大坂へ向かう西廻り航路を改良した。西廻り航路には北前船が就航した。この他の航路としては江戸を発して大坂の木津川口に入る南海路や大坂と長崎を結ぶ西海路などが挙げられる。南海路には当初菱垣廻船が就航していたが、やがてそれよりも小型で迅速な樽廻船が就航し、菱垣廻船を駆逐していった。様々な航路の発展に伴い積荷の収集・運搬を行う廻船問屋(船問屋)も出現した。また河村瑞賢は安治川、角倉了以は富士川・天龍川・高瀬川・保津川(大堰川・桂川)を開いた。高瀬川には罪人護送で知られる高瀬舟、伏見と大坂を結ぶ淀川には過書船や三十石船が就航した。  
都市の発達  
農村と都市の分離に伴う商品交換の場たる市場の発達や、城下町への武士の集中などにより、封建都市は成長した。100万人もの人口を誇り当時の世界最大都市であった江戸、「天下の台所」「八百八橋」と称された45万人の大坂、そして40万人の京都からなる三都と、町割による四民の在住地の区別や城郭中心の計画都市として知られる城下町の金沢・名古屋・鹿児島・広島・浜松や、港町の堺・長崎・博多・尾道・敦賀・兵庫・新潟・箱館、それに門前町の日光・宇治山田・長野・成田・奈良・琴平などが有名な都市である。また大井川渡しの川留の時に繁盛した島田や金谷を初め、品川・三島・沼津・掛川など主に東海道を中心に宿場町も繁盛した。また当時は農商分離政策から都市部たる町方と農村部たる在方に分かれていたが、問屋制家内工業の影響から在方にも商工業群落が発生した。摂津国平野・河内国富田林・近江国八幡・下野国足利・下野国桐生などのこうした商工業群落を、在郷町と言う。  
貨幣制度  
金貨は両、銀貨は匁、銅貨(銭貨)は文を基本単位としており、1両=50匁=4000文(4貫文)であった。金貨には10両の大判、1両の小判、1/4両の1分金、1/16両の1朱金などの種類が有り、贈答用の大判は大判座、その他の金貨は後藤光次の子孫たる後藤家が仕切る金座で鋳造された。丁銀や豆板銀(小粒・小銀玉)などの秤量貨幣(1匁=3,75g)が主流であり、切って使われたり、便宜上43匁を1枚として丁銀や豆板銀などを43匁分集めて紙で包んだ包み銀が流通していた銀貨は、湯浅常是(大黒常是)の子孫である大黒家が仕切る銀座で鋳造されたが、後に明和五匁銀・南鐐二朱銀・安政一分銀などの量目貨幣(計数貨幣)と呼ばれる定位銀貨が流通し始めると切ることを禁じられた。総じて江戸は金遣い、大坂は銀遣いであった。慶長通宝・寛永通宝・天保通宝などの一文銭を中心とした銭貨は地方の民間業者が受注して製造していた。一方、三貨以外にも諸藩や諸旗本領内でのみ通用する藩札が流通した。藩札は1661年に越前国福井藩が発行したものが端緒であり、乱発されたため次第に不換紙幣と化し、貨幣経済を混乱させた。藩札は、最終的に244藩・14代官所・9旗本領に於いて計約1700種が出回った。  
町人の活躍  
同業者や利害を同じくする者たちが結成した団体を仲間と言い、幕府や諸藩に公認された封建的な仲間のことを特に株仲間(月行事・寄合)と言う。幕府は冥加金や運上金といった旨味に釣られ、当初は結成が禁止されていたが享保の改革にて徳川吉宗が公認し、続く田沼時代には奨励され、天保の改革で禁止されたものの間も無く復活し、最終的に明治維新まで続いた。株仲間の代表的なものとしては、南海路を取り仕切った大坂の荷積問屋たる二十四組問屋と江戸の荷受問屋たる十組問屋が挙げられる。一方、貨幣経済の発達に伴って両替商も活躍した。両替商は、三貨の両替を専門に行う脇両替(銭両替)と、預金・貸付・為替・手形発行などを行う本両替に分けられる。本両替仲間は十人両替により取り仕切られた。本両替の中には、大坂の蔵屋敷の管理を行う蔵元や、やはり蔵屋敷の出納係たる掛屋、江戸の札差などを兼任し、これらで得た資金を元手として大名貸しと言う賭博に近いことなどを盛んに行って巨富を得た豪商もいた。豪商は、幕府と結託した中島家(茶屋)や後藤家のような後藤型豪商と、鴻池家や三井家のように慎重に財を築いた三井型豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文大尽)・奈良屋茂左衛門・淀屋辰五郎のような成金的な紀文型豪商、の三種類に大別できる。ちなみに鴻池家は三和銀行、「現銀安売掛け値無し」の切売商法で知られる三井高利が創始した越後屋呉服店は三越百貨店の前身であり、三井高房は著書『町人考見録』の中で賭博的な大名貸しの危険性を説いたことで知られている。江戸では彼らの他に「近江泥棒と伊勢乞食」、即ち近江商人と伊勢商人が活躍した。  
流通の発達  
蔵物と呼ばれる諸藩の年貢米は大坂の中之島に集中している蔵屋敷に納められた。年貢米はやがて蔵元により二十四組問屋に納められた。手工業者や農民の生産した特産品などは仲買と問屋を経て、やはり二十四組問屋に納入された。二十四組問屋は南海路を用いて江戸の十組問屋に商品を輸送した。蔵米取の旗本や御家人たちは札差に蔵米を売却したが、札差が得た米は十組問屋に納められた。二十四組問屋と十組問屋に集中した商品は、仲買により一旦購入され、仲買はそれを市場に於いて小売に売却した。そして小売が、一般庶民や武士たちに品物を販売したのである。こうした流通の進歩に伴い市場も発達したが、代表的な市場としては、大坂では大阪三大市場と称される雑喉場魚市(ざこばうおいち)・堂島米市場・天満青物市(てんまあおものいち)や天王寺牛市、江戸では日本橋魚市や神田青物市、その他各地で開かれた馬市などが挙げられる。またこの頃、米相場などでは信用取引たる延取引が行われ、未決済でも商品を取引する空物取引が発生した。 
6 学問・思想の発達  
儒学  
1 儒学の概要  
格物致知・理気二元論を説き、尊卑上下の別・忠孝・礼儀などを重んじる朱子学は、封建的な支配に最適な学問であったため、朝鮮出兵以来の「東方の小朱子」と称される朝鮮儒学者李退渓らの思想の流入と相俟って特に江戸時代に入って発達した。しかし朱子学は幕府の御用学問として形式化したため、これに対する反発のような形で新たに流入した明の陽明学(知行合一を主張する王陽明が創始した学問)や清の孝証学が発達した。また朱子学と陽明学の両方を批判し、孔子や孟子の真意を探求しようとする古学や、これらの良い箇所のみを融和した折衷学も興隆した。  
2 朱子学−京学派  
林羅山 / 法号は林道春、実名は林信勝。『羅山文集』で知られる林家の祖。石川丈山・松永尺五らと共に、近世朱子学の祖と目される播磨国出身の相国寺僧藤原惺窩に学ぶ。徳川家康から徳川家綱まで四代に亘り侍講(将軍専属教師)を務め、後の昌平黌の元となる家塾を開く。  
林鵞峰 / 法号は林春斎、実名は林春勝。林羅山の子。父と共に歴史書『本朝通鑑』を著す。  
林鳳岡 / 法号は林春常、実名は林信篤。湯島聖堂大成殿の完成時に徳川綱吉から初代大学頭に任命され、儒仏分離を推進。  
木下順庵 / 松永尺五の門弟。前田綱紀に仕え、『錦里文集』を著す。門弟のうち、特に新井白石・雨森芳洲・室鳩巣・松浦霞沼・向井滄洲・服部寛斎・南部南山・三宅観瀾・祇園南海・榊原篁洲らは、木門十哲と称されて有名。  
新井白石 / 木門十哲の一人。徳川家宣・徳川家継の侍講。九変五変説に基づき武家政権への移行と徳川幕府の正当性を主張した史論書『読史余論』や自叙伝『折焚く柴の記』、古代史研究法を纏めた『古史通』、諸藩・諸大名の系譜を纏めた『藩翰譜』、国語語源辞書『東雅』などの著作で有名。西洋の地理を纏めた『采覧異言』と西洋の歴史・技術・天文を纏めた『西洋紀聞』は屋久島で逮捕された伊人ヨハン=シドッチから得た情報に基づくものだが、禁制中の基督教に触れる部分があったため非公開とされた。  
室鳩巣 / 木門十哲の一人。徳川吉宗の侍講。『六諭衍義大意』『駿台雑話』『兼山麗沢秘策』などの著作で有名。門弟は青地兼山ら。ちなみに後に洋学と儒学を融合させ条理学を提唱した三浦梅園は室鳩巣の流れを汲む儒者であり、帆足万里・広瀬淡窓と共に豊後三大家と称される。  
三宅観瀾 / 木門十哲の一人だが南学派の浅見絅斎の門弟となり、後に水戸学に傾倒して彰考館の総裁に就任。  
3 朱子学−南学派・水戸学派  
山崎闇斎 / 山崎敬義・山崎垂加とも言う。土佐藩家老野中兼山らと共に海南学派の祖・南村梅軒の弟子の谷時中の門弟。会津藩主保科正之に仕える。門弟として有名な崎門三傑(浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎)らは崎門学派を構成。一方、吉川神道の創始者吉川惟足に影響を受けて垂加神道を創始、『垂加草』などを著す。神道での門弟としては谷秦山が著名。  
岡田寒泉 / 京学派の柴野栗山・尾藤二洲と共に寛政の三博士と称される。しかし古賀精里に取って代わられる。  
安積澹泊 / 朱舜水の門弟。徳川光圀らと共に『大日本史』の編纂を開始。『大日本史』は後小松天皇までを大義名分論で貫いたもの。神功皇后を皇位から除き、大友皇子を弘文天皇として認め、吉野朝を正統とした。水戸学・尊皇攘夷運動の母胎。最終的に明治時代の栗田寛が完成。  
藤田幽谷 / 立原翠軒の門弟。『大日本史』を編纂する彰考館の総裁、『正名論』を著して水戸学を確立。子の藤田東湖は熱烈な尊皇攘夷論者であり、徳川斉昭の下で藩政改革に尽力。門弟の会沢正志斎(会沢安)は藤田東湖と共に尊皇攘夷運動を行い、『新論』『及門遺範』などを著す。  
4 古学  
山鹿素行 / 小幡景憲の門弟で、聖学派の祖。『聖教要録』で朱子学を批判したため赤穂へ流されたが、配流中にも日本主義を提唱した『中朝事実』や武家政治の由来を説いた『武家事紀』などを著す。他方、武士道を大成した兵学者としても知られる。大石良雄は山鹿流。  
伊藤仁斎 / 『論語古義』『孟子古義』『中庸発揮』などを著して原典批判を展開、京都に古義堂(堀川塾)を開設して堀川学派(古義学派)の祖となる。子の伊藤東涯は日本と中国の諸制度を研究・比較して『制度通』を著し、堀川学派を大成。伊藤東涯の子の伊藤東所も著名。  
荻生徂徠 / 江戸の茅場町に園塾を開設し、原典重視の古文辞学派(園学派)を開く。徳川吉宗の諮問に答え、参觀交替廃止・礼楽制度樹立・武士土着による「治国平天下」を主張した『政談』を著し、徳川吉宗の政治顧問となる。『太平策』は『政談』の抜粋。著作『経済録』の中で農本主義と藩営専売の必要性を訴えた太宰春台の他、服部南郭らが門弟として挙げられる。  
5 陽明学・折衷学・考証学  
中江藤樹 / 近江聖人。藤樹書院を開設し、『翁問答』を著す。門弟の熊澤蕃山(熊澤了介)は池田光政に仕えたが、著作『大学或門』の中で極端に重農主義的な論調で武士の帰農や参觀交替緩和などを訴えたため、幕府から弾圧された。  
中井甃庵 / 大坂の有力町人と共に懐徳堂を創設、初代学主に師の三宅石庵を迎える。子の中井竹山は松平定信に経世論『草茅危言』を提出、その弟の中井履軒は後に折衷学に傾倒。山片蟠桃・佐藤一斎らは中井竹山の門弟。佐藤一斎の門弟が佐久間象山、さらにその門弟が吉田松陰。  
片山兼山 / 服部南郭の門弟。折衷学を樹立。同時期、井上金峨や豊後国で咸宜園を開き高野長英・村田蔵六らを教育した広瀬淡窓らが活躍。  
松崎慊堂 / 昌平坂学問所で林述斎に学んだ考証学者。友人の狩谷斎や日向国飫肥藩の儒官安井息軒も考証学者として有名。  
教育  
岡山藩主池田光政が花畠教場を創立したことを端緒として、各藩は藩士の子弟教育のための藩学(藩校)を創立した。代表的な藩学としては、薩摩藩主島津重豪の造士館、長州藩主毛利吉元の明倫館、土佐藩主山内豊敷の教授館、肥後藩主細川重賢の時習館、米沢藩主上杉綱憲の興譲館、庄内藩主酒井忠徳の致道館、秋田藩主佐竹義和の明徳館、金沢藩主前田治脩の明倫堂、尾張藩主徳川宗睦の明倫堂、水戸藩主徳川斉昭の弘道館、福岡藩主黒田斉隆の修猷館、仙台藩主伊達吉村の養賢堂、そして会津藩主保科正之が稽古場として創立したものを二代目の保科正経が講所とし、それを五代目の松平容頌が整備した日新館などが挙げられる。一方、郷学(郷校)は岡山藩主池田光政が創立した閑谷学校のように庶民教育のためのものと、仙台藩に設置された有備館や摂津国に土橋友直らが設立した含翠堂(がんすいどう)のように藩学の延長なようなものがあった。また庶民は『商売往来』『庭訓往来』などの往来物を用いて寺子屋で学んだ他、町人は心学舎で心学(石門心学)を学んだ。心学は『都鄙問答』『斉家論』などの著書で知られる石田梅岩が町人道徳を説くべく京都で創始した学問であり、江戸に参前舎を創立した中沢道二の他、手島堵庵(てしまとあん)・植松自謙(出雲屋和助)らが出てさらに発展した。  
国学  
北村季吟 / 『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙抄』などの著書で知られ、初代歌学方を務める。国学は古典研究による民族精神の究明を目標とした学問であり、その復古思想は後の尊皇運動に影響を与えた。この他にも、歌論書『梨本集』で歌学の革新を訴えた戸田茂睡や、『万葉集管見』を著した下河辺長流、徳川光圀の下で『万葉代匠記』を編纂した契沖らも有名。なお国学の語は荷田春満の頃から使用された。  
荷田春満 / 契沖の門弟。『創学校啓』を著して徳川吉宗に国学の設置を献策。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に「国学の四大人」と言う。  
賀茂真淵 / 荷田春満の門弟。本居宣長の師。田安宗武の家臣。『国意考』『万葉考』などで復古思想を提唱。この他、『比古婆衣』の著者伴信友も有名。  
本居宣長 / 賀茂真淵の門弟。自宅の鈴の屋で初心者用の『うひ山ぶみ』を用いて講義する一方、『古事記伝』『源氏物語玉小櫛』などを著す。  
平田篤胤 / 本居宣長死後の門人。『古史徴』を著し、儒仏に毒されぬ純粋な古道を示して惟神(かんながら)の道の復活を説く復古神道を創始。  
塙保己一 / 和学研究所を創設して国史講義と史料編纂を行う。林家と協力して編纂した古代以来の古書の集大成『群書類従』は特に貴重。  
蘭学(蛮学・洋学)  
1 概要・外国人の活躍  
『日本誌』を著した独人ケンペルや『日本植物誌』を著した瑞人ツンベルグ、さらに高野長英・伊東玄朴らを輩出した鳴滝塾の創設者である独人シーボルトら多くの外国人の活躍により発達した蘭学は、自然科学中心の学問である。幕府は当初蘭学を封建体制補強のための実学として奨励したが、やがて西洋の近代化を痛感した蘭学者たちが封建的為政者たる幕府を批判し始めたため、次第に弾圧を展開した。  
2 医学者・本草学者の活躍  
山脇東洋 / 吉益東洞の友人。後藤艮山から古医方を学び、初の解剖図録『蔵志』を著す。古医方は漢代の張仲景の説に傾倒した名古屋玄医が提唱。  
杉田玄白 / 江戸の小塚原で死刑囚の腑分けを行った経験を活かし、青木昆陽の門弟前野良沢と共に独人クルムスが著した『解剖図譜』の蘭訳『ターヘル=アナトミア』を翻訳、平賀源内に洋画を学んだ小田野直武に表紙絵を描かせて『解体新書』を完成。後に回想録『蘭学事始』を著す。  
桂川甫周 / 『ターヘル=アナトミア』の翻訳に参加。後にロシアから帰国した大黒屋光太夫を尋問して『北槎聞略』を編纂。  
大槻玄沢 / 杉田玄白と前野良沢の門弟。家塾芝蘭堂を開設、オランダ正月(太陽暦新年会)を開催。蘭学入門書『蘭学階梯』を著す。  
稲村三伯 / 宇田川玄真と協力して日本初の日蘭対訳辞書『波留麻和解』を著す。桂川甫周は『ヅーフハルマ』を『和蘭字彙』として出版。  
華岡青洲 / 日本初の麻酔薬たる麻沸湯を用いて乳癌手術を行う。この他、桂川甫周の門弟で内科書『西説内科撰要』を著した宇田川玄随らが有名。  
緒方洪庵 / 長与専斎を塾頭に据えて適々斎塾(適塾)を創設し、橋本左内・佐野常民・大鳥圭介・福沢諭吉・大村益次郎らを教育。  
伊東玄朴 / 肥前藩主鍋島直正の保護の下、牛痘ワクチン接種のための種痘館(後の種痘所→医学所→西洋医学所→大学東校)を神田に開設。  
貝原益軒 / 『大和本草』『女大学』の著者。「接して漏らさず」の言で有名。なお本草学は『本草綱目』を著した明の李時珍に始まる薬物学である。  
稲生若水 / 前田綱紀の下で『庶物類纂』を著す。門弟の野呂元丈は徳川吉宗の命令で蘭語・蘭学を修得する一方、『阿蘭陀本草和解』を著す。  
青木昆陽 / 徳川吉宗の命令で蘭語・蘭学を修得する一方、甘藷栽培に取り組み『甘藷記』『蕃薯考』を著す。  
飯沼慾斎 / リンネの分類法に基づいた『草木図説』を編纂。この他、『本草細目啓蒙』の著者の小野蘭山も著名。  
3 天文学・地理学  
西川如見 / 徳川吉宗に招かれて江戸へ入り、海外事情を纏めた『華夷通商考』や教訓書『百姓嚢』『町人嚢』、その他『天文義論』などを著す。  
志筑忠雄 / 長崎通詞。ニュートンの弟子ジョン=ケイルの著書を天文・物理学書『暦象新書』として翻訳、初めて地動説を日本に紹介。  
高橋至時 / 麻田剛立の門弟、天文方。渋川春海の貞享暦や安倍泰邦の宝暦甲戌暦に代わる寛政暦を間重富と共に作成。後に渋川景佑が天保暦を発明。  
高橋景保 / 高橋至時の子。蘭書翻訳局たる蛮書和解御用(後の洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→大学南校)を幕府天文台に創設。  
伊能忠敬 / 高橋至時の門弟。高橋景保の協力の下、量程車を用いて『大日本沿海輿地全図(伊能図)』を作成。長久保赤水は『日本輿地路程全図』。  
4 和学(数学)  
吉田光由 / 伯父の角倉素庵から程大位の『算法統宗』を学び、『塵劫記』を著して和算を確立。なお日本最古の数学書は毛利重能の『割算書』。  
関孝和 / 筆算式代数学を発明、円周率を計算、『発微算法』を著す。死後『括要算法』が出版される。なお沢口一之の『古今算法記』も有名。  
5 科学  
平賀源内 / 髭髯斎。寒暖計やエレキテルを発明、『西洋婦人図』など洋画も描く。大槻玄沢の門弟橋本宗吉はエレキテルを研究、『究理原』を著す。  
帆足万里 / 三浦梅園の条理学を基礎に『窮理通』を著す。帆足万里・三浦梅園に日田で活躍した広瀬淡窓を加えた三人を豊後三大家と言う。  
青地林宗 / 日本初の物理学書『気海観瀾』を著す。この他、『舎密開宗』『菩多尼訶経』を著した化学者(舎密学者)宇田川榕庵も有名。  
江戸時代の思想  
竹内式部 / 1758年、公卿に尊皇思想を説いたため重追放(宝暦事件)。1767年の明和事件では連坐して八丈島に配流。  
山県大弐 / 『柳子新論』を著して田沼意次による幕政を批判。後に藤田右門と共に江戸城と甲府城の攻略を謀議、露顕して死刑(明和事件)。  
高山正之 / 三条大橋で皇居を拝む。蒲生君平・林子平らと共に寛政の三奇人とされる。『日本外史』『日本政記』を著した頼山陽同様、勤皇思想を宣伝。  
蒲生君平 / 皇陵荒廃を嘆いて歴代天皇陵の調査・研究を行い『山陵志』を著す。  
林子平 琉球・蝦夷地・朝鮮を図示解説した『三国通覧図説』を著す。海防論書『海国兵談』を出版してロシア南下を警告、禁錮。六無斎と号す。  
本多利明 / 経世論者。『西域物語』『経世秘策』を著して開国・貿易・属島開発などを説く。なお経世論は幕政に批判的な経世済民の政治経済論のこと。  
富永仲基 / 懐徳堂出身。思想発達の原則たる「加上の法則」を説き、『出定後語』を著して歴史的見地から儒教・仏教を否定。  
遠山景賢 / 『利権論』を著し、貧乏大名や貧農への官金貸付を提案。この他、『稽古談』『経済談』などで藩営専売を説いた海保青陵も有名。  
山片蟠桃 / 懐徳堂出身、麻田剛立の門弟。升屋の番頭。無神論(無鬼論)を説き、『夢の代』で儒教・仏教・国学を批判、地動説や自由経済政策を主張。  
安藤昌益 / 『自然真営道』『統道真伝』を著して階級制度を批判、原始共産主義的な万人直耕の自然世を訴える。  
佐藤信淵 / 『農政本論』『経済要録』で産業国営化と貿易展開、『宇内混同秘策』で対外進出による垂統国家建設を提唱。水野忠邦に影響を与える。  
横井小楠 / 越前藩主松平慶永の政治顧問。なお佐久間象山は『象山書簡』の中で西洋学術摂取の必要性を主張している。 
7 江戸時代の文化  
江戸時代の文化は、徳川家光の時代である17世紀前期から中期に掛けての寛永期文化と、徳川綱吉により天和の治が為された17世紀末期から18世紀初頭までの元禄文化、そして徳川家斉により大御所時代が展開された19世紀初期の文化・文政時代に於ける化政文化の三期に大別することができる。寛永期文化は桃山文化と元禄文化の折衷であり、その担い手は将軍家や大名、公家や上層町人たちである。鎖国の影響から、後の化政文化と共に第二国風文化と称される元禄文化は遊里の事情に通じた粋な気性を尊ぶ上方の豪商たちが中心の文化であり、それが故に豪放な性格を有する文化だった。化政文化は既に爛熟期を迎えており、徳川家斉の放漫政策や、寛政・天保の改革に伴う規制の強化から、洒落や通を好む刹那的且つ享楽的且つ退廃的な色彩を有していた。  
建築・彫刻  
日光東照宮 / 徳川家光が建立した霊廟建築の一種である権現造の建物。陽明門は殊に華麗。なお松永久秀が焼いた東大寺大仏殿は公慶が再建。  
修学院離宮 / 後水尾天皇の数奇屋造の建物。比叡山を背景とした修学院離宮庭園で有名。回遊式の桂離宮庭園を有する八条宮智仁親王の桂離宮も有名。  
湯島聖堂 / 江戸の孔子廟に徳川綱吉が林家の家塾弘文館を移築して聖堂学問所とし、孔子を祀る大成殿を設置。亮賢の護国寺、隆光の護持院も有名。  
眠り猫 / 左甚五郎が日光東照宮にて製作した彫刻作品。なお元禄期には円空が鉈彫の技法で『両面宿儺像』を製作。  
工芸  
有田焼 / 伊万里焼。朝鮮出兵の折に帰化した李参平が創始。薩摩焼・萩焼・唐津焼・平戸焼・備前焼・高取焼・上野焼共々、後に藩の専売となる。  
京焼 / 『色絵吉野山図茶壺』で知られる野々村仁清が創始。なお初代酒井田柿右衛門は赤絵の技法を完成し、『色絵花鳥文深鉢』などを残した。  
蒔絵 / 洛北鷹ケ峰に芸術村を創設した本阿弥光悦が『舟橋蒔絵硯箱』を製作。元禄期に尾形光琳が『八橋蒔絵硯箱』を製作して興隆。  
友禅染 / 元禄期に宮崎友禅が創始。これにより元禄模様が施された元禄小袖などが流行。  
絵画  
住吉如慶 / 幕府御用絵師を務めたが独創性に欠け次第に衰退。朝廷絵師として宮廷絵預所を世襲した土佐派では土佐光信・土佐光起らが活躍。  
狩野探幽 / 狩野永徳の孫、幕府御用絵師。『大徳寺方丈襖絵』などを描く。『夕顔棚納涼図屏風』を描いた久隅守景は狩野探幽の門弟。  
俵屋宗達 / 装飾画『風神雷神図屏風』を描く。装飾画は元禄期に尾形光琳が『紅梅白梅図屏風』『燕子花図屏風』を描き発展、化政期の酒井抱一が大成。  
菱川師宣 / 肉筆画の浮世絵『見返り美人図』を描く。浮世絵では亜欧堂田善が描いた銅版画『浅間山図屏風』なども有名。  
葛飾北斎 / 風景版画『富嶽三十六景』を描く。幕府が1867年にパリ万国博覧会に出品。歌川広重(安藤広重)も『東海道五十三次』を描き、大成。  
鈴木春信 / 『弾琴美人』などを描き、錦絵(多色刷り版画)を大成。なお役者絵では『市川鰕蔵』『大谷鬼次の奴江戸兵衛』を描いた東洲斎写楽が著名。  
円山応挙 / 写生画『雪松図屏風』を描く。美人画では『ポッピンを吹く女』を含む『婦女人相十品』を描いた喜多川歌麿が有名。なお顔の拡大は大首絵。  
司馬江漢 / 眼鏡絵(左右対称のため凸レンズを用いて観賞する絵)の一種である西洋画『不忍池図』を描く。  
渡辺崋山 / 文人画『鷹見泉石像』を描く。文人画としては清の沈南蘋に写生画を学んだ与謝蕪村が池大雅と共に描いた『十便十宜図』も有名。  
松村呉春 / 松村豊昌。与謝蕪村に南画を学び、円山応挙の影響も受け、弟の松村景文と共に四条派を形成。  
文学及びそれに類するもの  
浅井了意 / 仮名草子『東海道名所記』を執筆。寛永期には鈴木正三が『二人比久尼』、如儡子が『可笑記』などの仮名草子を著す。  
井原西鶴 / 八百屋お七を描いた『好色五人女』や『好色一代男』『好色一代女』などの好色物や、『武家義理物語』『武道伝来記』などの武家物、それに『日本永代蔵』『世間胸算用』などの町人物を執筆、従来の仮名草子をより享楽的な浮世草子として大成。なお元禄期には貸本屋が出現。  
山東京伝 / 遊里を舞台とした洒落本『仕懸文庫』を著すも、黄表紙『金々先生栄花夢』『鸚鵡返文武二道』の著者恋川春町と共に寛政の改革で罰される。  
為永春水 / 恋愛物の人情本『春色梅児誉美』を著すも、合巻『偐紫田舎源氏』などの著者柳亭種彦と共に天保の改革で罰される。この頃、女房詞も登場。  
上田秋成 / 読本『雨月物語』を著す。読本としては後に滝沢馬琴(曲亭馬琴)が執筆した勧善懲悪文学の代表作『南総里見八犬伝』の方が有名。  
式亭三馬 / 滑稽本『浮世風呂』『浮世床』を著す。滑稽本では十返舎一九が著した弥次郎兵衛・喜多八の話『東海道中膝栗毛』が有名。  
大田南畝 / 蜀山人・四方赤良・寝惚先生とも称される狂歌の名手。『万載狂歌集』を著す。門弟の石川雅望(宿屋飯盛)も有名。  
柄井川柳 / 前句付を発展させて『誹風柳多留(俳風柳樽)』を著し、川柳を創始。天保の改革で弾圧される。  
香川景樹 / 桂園派の祖。和歌はこの他に田安宗武・良寛・橘曙覧らが出て発展。  
鈴木牧之 山東京伝の甥の山東京水に挿絵を描かせて随筆『北越雪譜』を完成。菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記』と共に当時の民俗資料として貴重。  
松永貞徳 / 貞門派の祖。談林派の祖である西山宗因と共に室町末期の俳諧連歌から独立した俳諧の発展に貢献。  
松尾芭蕉 / 談林派。「わび」「さび」の境地から蕉風俳諧(正風俳諧)を確立。1689年には門弟の曽良と共に旅立ち紀行文『奥の細道』を制作。また句集『俳諧七部集(芭蕉七部集)』も有名。森川許六・向井去来・服部嵐雪・内藤丈草・志太野坡・越智越人・杉山杉風・立花北枝・各務支考・宝井其角ら蕉門十哲と称される門弟たちと共に俳諧を大成。  
小林一茶 / 俳書『おらが春』の著者。この他、『蕪村七部集』を著した与謝蕪村も有名。  
芸能  
坂田藤十郎 / 規制強化に伴い歌舞伎は阿国歌舞伎→女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎→元禄歌舞伎と変遷。初代坂田藤十郎は上方で和事を公演。  
市川団十郎 / 初代市川団十郎は江戸で荒事を公演。なお女形では芳沢あやめが有名。  
河竹黙阿弥 河竹新七。『東海道四谷怪談』の作者四代目鶴屋南北の次代の門弟。『白浪五人男』などの白浪物を制作。  
竹本義太夫 / 近松門左衛門が制作した脚本、即ち『心中手網島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』などの世話物、『国性爺合戦』などの時代物に基づき、義太夫節で知られる人形浄瑠璃(浄瑠璃に合わせ人形遣いが人形を操る演劇)を公演、成功。  
近松半二 / 近松門左衛門の養子、『本朝廿四孝』などを制作。近松門左衛門の門弟竹田出雲は『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』などを制作。  
都太夫一中 / 歌浄瑠璃の一中節を創始。この他、常磐津節・清元節・新内節・富本節なども有名。  
江戸時代の宗教・社会  
黄檗宗 / 後水尾天皇から賜った宇治の万福寺を本山として隠元隆gが創始した禅宗。長崎の崇福寺は中国人壇那寺。臨済宗は白隠慧鶴が再興。  
日蓮宗 / 角南重義らの支援の下、日奥が備前国妙覚寺で不受不施派を創始。日蓮正宗・顕本法華宗・本門仏立宗などの受不施派や幕府と対立。  
天理教 / 中山みきが創始。他、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎(赤沢文治)の金光教、井上正鉄の禊教など神道系宗教が興る。いずれも後の教派神道。  
寺社参詣 / 信濃国善光寺、讃岐国金昆羅大権現、安芸国厳島神社、下総国成田山新勝寺、相模国阿夫利神社、下野国日光東照宮など。  
伊勢参宮 / 60年神発説に基づき数百万人が抜け参りとして伊勢神宮に押し寄せる御蔭参りが発生。1867年には三河国から狂乱「ええじゃないか」が発生。  
巡礼 / 四国霊場八十八所・西国霊場三十三所・秩父霊場三十四所・坂東霊場三十三所など。旅の流行の影響で発展。  
庚申講 / 招福除災の集会。観音講・念仏講・地蔵講なども盛ん。この他、ただ日の出・月の出を拝むための日待・月待などの集会もあった。  
家元制度 / 家元・師範・師範代・名取などの文化的階級制度。室町時代に始まり江戸時代に普及。  
富突 / 富籤。江戸三大富突(谷中天王寺・目黒不動・湯島天神)が有名だったが天保の改革で廃絶。現在の宝籤の原型。 

8 江戸時代の三大改革  
享保の改革 
(1716年〜1745年 / 八代将軍吉宗による改革)  
1 徳川吉宗の将軍就任  
紀州藩主徳川光貞の四男松平頼方は慣例として越前国の小藩藩主に就任していたが、長兄徳川綱教・次兄徳川頼職が没し、残る兄一人は夭折していたために紀州藩主に就任し、将軍徳川綱吉の偏諱を受けて徳川吉宗と名乗った。徳川吉宗は伏見宮貞致親王の娘の真宮理子内親王を正妻として娶る一方で藩政改革を断行したが、やがて徳川家継の後継者だった尾張藩主徳川吉通の急死を受け、嫡流への近さと藩政改革の実績を武器に尾張藩主徳川継友・水戸藩主徳川綱条らを退け、将軍に就任した。当時の武士は武陽隠士の著書『世事見聞録』に見られるような借知の影響などで窮乏しており、富裕な庶民が養子縁組の形で幕臣の資格(御家人株)を得ることも珍しくなかった。徳川吉宗はこの状況を「諸事権現様御掟の通り」、即ち徳川家康の治世に回帰させることを目指し、側近政治撤廃・財政再建などの改革を断行した。  
2 人材登用  
役職に設定されていた役高は人材登用の障害だっていたため、徳川吉宗は禄高と役高との差額を役職に就いている期間のみ足高(たしだか)として支給する足高制を制定、江戸町奉行大岡忠相・勘定吟味役井沢為永・勘定奉行神尾春央らを登用していった。また徳川吉宗は水野忠之を勝手掛老中、加納久通・有馬氏倫・小笠原政登らを御用取次に任命するなど、紀州藩の藩政改革以来の腹心も重く用いた。  
3 改革の推進  
徳川吉宗は1742年、大岡忠相に命じて下巻103箇条が特に御定書百箇条と称される過去の判例の集大成公事方御定書を幕府の成文法として完成させる一方、裁判事務の停滞を正すと共に直参の経済的困窮を和らげるため、相対済し令を施行して金銭貸借関連の裁判を禁止し、当事者間の示談により処理させた。徳川吉宗は室鳩巣の著書『六諭衍義大意』を用いた風俗矯正や倹約令を断行したため『享保世話』などで皮肉られたが、一方では評定所門前の目安箱に入れられた記名式の目安を元に無料の小石川養生所を設置したり、「いろは」四十七組の町火消の整備を断行したりした。また徳川吉宗は実学を奨励したため1720年には洋書・漢訳洋書の輸入を解禁した。実学者青木昆陽は甘藷(薩摩芋)の研究・栽培を行い、落合孫右衛門は浜御殿で甘蔗栽培に成功した。輸入のみだった朝鮮人参も日光などで栽培が開始された。  
4 財政の再建  
徳川吉宗は商業統制のため株仲間を公認する一方、経費削減・新規事業禁止・冗員馘首などを断行して支出の抑制に努め、さらに諸大名に1万石あたり100石の八木(米)を賦課する見返りに参觀交替の在府期間を半年とする上米制を定めた。一方、年貢の増収政策としては、坪刈りによる不安定な検見法から毎年一定の定免法への徴税方法変更(後に有毛検見法を併用)、天領租税率の四公六民から五公五民への引上げ、三分一銀納法施行、新田開発などが為された。また1722年には流地禁止令を発令して頼納を禁じたが、出羽国長瀞騒動や越後国高田騒動などの質地騒動を誘発したため翌年撤回された。頼納はこの後黙認されたため、結果的に質流地を集めた村方地主が勃興した。なお徳川吉宗は堂島米相場所の公認の他、米の大量消費を根拠とした酒造制限令や延取引禁止などを断行した。  
5 享保の改革の結果  
米将軍(米公方)たる徳川吉宗の尽力により幕府財政は潤ったが、米のみが増えて他の商品が増えなかったことによる米相場の低迷、農民や町人の生活水準の向上に伴う労働コストの上昇、そして金貨と銀貨の交換比率の変動などの理由から米価以外の物価が高騰する「米価安の諸色高」という状況に陥った。徳川吉宗はやむなく米価上昇のため享保金銀を発行したが、1732年の享保の大飢饉により米価が暴騰すると今度は1736年に元文改鋳を行って悪質な文字金銀を発行し、結果的に貨幣経済の混乱を助長した。また杓子定規な倹約令に対する反発も強く、尾張藩主徳川宗春などは故意に豪奢な生活を送り、公然と徳川吉宗に反抗した。  
田沼時代 
(1767年〜1786年 / 金権腐敗政治の典型)  
1 田沼時代までの過程  
徳川吉宗の嫡男徳川家重は言語不明朗だったため、側用人大岡忠光の抬頭を招き、側近政治の風潮が早くも復活した。1753年には木曾川・揖斐川・長良川が集中する洪水地帯の治水工事が薩摩藩により為されたが、この難工事は51名もの藩士の自殺の上に漸く竣工したため、総奉行を務めた家老平田靫負(ひらたゆきえ)はその直後に引責自害した。この宝暦治水事件は後に薩摩藩が猛烈な倒幕運動を展開する伏線となった。やがて将軍徳川家治により1767年に側用人に抜擢され実権を掌握した田沼意次は、この後、商業資本を積極的に利用することによる幕府財政の再建を目指していった。  
2 田沼政治  
有名な印旛沼と手賀沼の干拓は耕作地の拡大に伴う年貢増収は勿論、銚子・利根川経由で江戸湾へ至る新たな輸送ルートを開くためにも行われたが、1786年の利根川大洪水により頓挫した。また在方株発行による在郷町の商工業の容認や、計数銀貨(表記貨幣)の南鐐二朱銀の発行による貨幣の融合一体化などによる経済の発達を企図したが、効果は稀薄だった。この他、田沼意次は運上金や冥加金を徴収するための株仲間奨励や、銅座・鉄座・真鍮座・朱座・人参座の専売の認可に伴う収入の増加などを図ったが、やはり芳しくなかった。さらに田沼意次は絹糸取引への課税のために武蔵国や上野国に絹糸改会所を設置したが、これは夷屋・白木屋・大丸などの三都商人の反発や物価高騰による一揆を招いたため、挫折した。繰綿の延取引を円滑にするための繰綿延売買会所も整備されたが、やはり価格の高騰や河内国・和泉国の農民の反発などを招いたため廃止された。この他、石灰・明礬・硫黄なども専売制となった。また田沼意次は貿易を促進するために海泊互市新令を緩和する一方、貿易の代金として金銀が海外へ流出することを防止するために俵物や銅による貿易代金支払を定め、金銀は輸入するように仕向けた。一方、工藤平助は1783年にロシア人の動静など北方情勢を詳細に記した『赤蝦夷風説考』を田沼意次に提出したが、これは田沼意次が最上徳内を1786年に千島列島へ派遣することに繋がった。  
3 田沼時代の結末  
田沼時代には、1772年の江戸の目黒の行人坂の大火や1783年の浅間山大噴火、さらにその火山灰による天明の大飢饉などの、世情を不安定にさせる事件が頻発した。また田沼意次による露骨なまでの賄賂政治は庶民たちの強い反発を受け、幕府の権威は地に堕ちた。そんな折、田沼意次の子で若年寄を務めていた田沼意知が、私怨から佐野政言に殺害されるという不祥事を1784年に起こした。佐野政言は庶民から「世直し大明神」と称えられた。この事件や過度の商業資本の重視による矛盾の露呈、即ち本百姓体制解体の危機や農業労働力の減少や農民闘争の激化などの様々な理由により、老中首座にまで出世した田沼意次の独裁体制は揺らぎ、1786年に徳川家治が没すると同時にあっさりと失脚したのである。  
庶民の困窮と百姓一揆  
江戸時代の三大飢饉、即ち蝗害により西国で1732年に発生した享保の大飢饉、浅間山大噴火に伴う冷害や長雨に伴う水害により東北地方で1782年に発生した天明の大飢饉、冷害・水害により東北地方で1833年に発生した天保の大飢饉は、間引の横行や無宿と称される浮浪者を急増させた。農民たちはこうした状況に対し、百姓一揆で抵抗した。  
代表越訴型一揆 / 若狭国の松木長操、信濃国の多田加助、下総国の木内宗吾(佐倉惣五郎)、上野国の磔茂左衛門ら「義民」が直訴する百姓一揆。  
惣百姓一揆 / 美濃国の郡上一揆(馬場文耕が小説化)、伊予国の武左衛門一揆、中山道伝馬騒動など傘連判を作成して全村民が参加した一揆。  
世直し一揆 / 江戸末期、年貢減免・質流地奪還・地主攻撃などのため発生した百姓一揆。武州一揆を端緒とする慶応の百姓一揆など。  
百姓一揆の他、田沼時代からは不正を行う村役人の交代を要求する村方騒動が勃発し、幕末には摂津国・河内国などを端緒として在郷商人が率いる合法的農民闘争たる国訴が発生した。また町人や農民が商人・富農・金融業者を襲撃する打ち毀しは享保年間から発生していたが、天明の大飢饉を受けて1787年に大坂で発生して江戸に伝染した天明の打ち毀しは特に大規模なものとして知られている。なお農村での農業形態は、当初は本百姓が実際に経営する地主手作が主流であったが、享保年間からは次第に労働コストの高騰により行き詰まり、高額の小作料に依存する寄生地主が勃興した。  
寛政の改革 
(1787年〜1793年 / 松平定信による改革)  
1 松平定信の実権掌握  
御三卿筆頭田安宗武の七男松平定信は白河藩主松平定邦の養子として家督を継ぎ、『凶荒図録』に描かれている天明の大飢饉に於いても藩内で餓死者を一人も出さない程の優れた藩政を執行していた。徳川家治の逝去後に将軍職を継承した徳川家斉は父の一橋治済の推薦により松平定信を老中首座に任じ、さらに将軍補佐役として強権を与えた。実権を掌握した松平定信は政策立案者たる本多忠籌や政策執行者たる松平信明らを抜擢し、一橋治済の協力の下、農村復興・公儀権威回復・商業資本抑圧・階級闘争鎮静化・財政再建などを主要目標とした抜本的改革を断行した。  
2 社会改革  
松平定信は農村の人口確保のため旧里帰農奨励令を、物価調整のため物価引き下げ令を発令したが、効果は薄かった。さらに直参の借金地獄を緩和するべく棄捐令を発令して江戸の札差での6年以上の借金の帳消しと5年以内の借金の低利償還を定めたが、札差には江戸の商業資本家で構成される猿屋町貸金会所からの見返り融資が実行されたため、寛政の改革では完全な商業資本抑圧が為された訳ではない。この他、松平定信は非常用に町入用節約分の70%を町会所に積み立てて貧民救済や災害復興に充てる七分積金制度や、諸藩に1万石あたり50石の籾米を備蓄させる囲米制度、義倉・社倉・常平倉など穀物を備蓄させるための三倉の設置、などを行う一方、火付盗賊改長谷川平蔵(鬼平)からの建議を容れて江戸の石川島に人足寄場を設け、無宿たちに正職に就くための技術を学ばせた。  
3 思想統制・風俗矯正  
寛政の三博士の進言を受けた松平定信は1790年に寛政異学の禁を施行し、朱子学を正学、他の儒学を全て異学と定めて異学を禁止する一方、1797年には聖堂学問所を官立の昌平坂学問所(昌平黌)に改め、朱子学のみを教えるようにした。なお寛政異学の禁は大学頭林信敬により施行されたが、実際に推進したのは林述斎である。一方で松平定信は、1792年に林子平の著作物の出版を禁止して思想の弾圧を行うと共に、洒落本・黄表紙などを風俗矯正のために取り締まった。  
4 寛政の改革の結果  
寛政の改革は田沼時代への反動として発生した復古的理想主義に基づく政治だった。財政的には一応以前の深刻な状態からの脱却に成功したが、厳しい倹約令や風俗矯正は民衆の不満を招いた。太田南畝らの「世のなかにか程うるさきものはなしぶんぶといふて夜も寝られず」「白河の清きに魚の住み兼ねてもとの濁りの田沼こひしき」という狂歌は、これを端的に示している。光格天皇が父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈る際に反対した尊号一件(後に慶光院の尊号が贈られた)や、徳川家斉が父の一橋治済を大御所として江戸城に迎える際に反対した大御所問題などで将軍徳川家斉に睨まれた松平定信は隠居に追い込まれたが、本多忠籌・松平信明らは「寛政の遺老」として老中に止まり改革を続けていった。白河楽翁こと松平定信の著作としては、『花月草紙』や自叙伝『宇下人言』が知られている。  
大御所時代 
(1793年〜1841年 / 放漫政治の典型)  
1 大御所政治の展開  
1793年の松平定信の隠居により実権を掌握した徳川家斉は1837年に子の徳川家慶に将軍職を譲位した後も実権を保持し続け、1841年の死没まで大御所として君臨した。徳川家斉が幕政の実権を掌握していた時期を大御所時代と言うが、この時期の政治は「水のでてもとの田沼になりにけり」と称された側用人水野忠成らの抬頭も影響して総じて放漫政治であり、それが故に化政文化が開花したものの享楽化が進行し、社会不安増大が増大した。百姓一揆や打ち毀しは以前にも増して多発したが、徳川家斉はこれにより寺社領や旗本領などが入り組んでいる関東地方の治安が悪化することを防ぐため、1805年には勘定奉行の配下に関東取締出役(八州廻り)を新設し、その配下に50ヵ村程度で構成される寄場組合を設置して、治安維持に当たらせた。寄場組合は寄場役人と言う名主により仕切られた。  
2 大御所政治の結果  
従来の物価高騰に加え大御所時代には史上空前の規模を誇る天保の大飢饉も発生したため、三河国の加茂一揆、甲斐国の郡内一揆、陸奥国の嘉永三閉伊一揆、近江国の三上山騒動などの百姓一揆が多発した。徳川家斉は対策として江戸に御救小屋を設置して貧民の救済にあたった。また1837年には家塾洗心洞で陽明学を講じていた元大坂町奉行与力の大塩平八郎(大塩中斎)が天保の大飢饉に対する幕府側、就中大坂町奉行跡部山城守(水野忠邦の兄)の無為無策に憤慨し、蔵書を売却した金を庶民に分配すると共に同志を募り、大塩の乱を起こした。大塩の乱の後も、越後国柏崎代官所を平田篤胤の門弟生田万が「大塩門弟」を称して襲撃した生田万の乱や、摂津国にて「徳政大塩味方」を称する農民が蜂起した能勢一揆などが勃発した。また財政窮乏に喘ぐ大名たちの間でも、徳川家斉が自らの55人もの子女のうち娘を嫁がせており血縁関係にある加賀藩前田家など一部の大名のみを贔屓したために、他の諸藩は幕府に反発した。結果的に大御所政治は幕府権威の失墜を招いたのである。  
天保の改革 
(1841年〜1843年 / 水野忠邦による幕政改革)  
幕政刷新を訴える『戊戌の封事』を水戸藩主徳川斉昭から提出された将軍徳川家慶は、水野忠成を退けると共に大坂城代・京都所司代などを歴任していた浜松藩主水野忠邦を老中に抜擢した。佐藤信淵・大蔵永常・二宮尊徳らを登用した水野忠邦は絶対主義への傾斜や内憂外患などの理由から「当御代思召次第」と称される強圧的改革を断行、綱紀粛正・農村復興などを推進した。まず庶民に対しては荒井顕道の『牧民金鑑』に掲載されている人返しの法や贅澤な料理などを厳禁した倹約令を施行する一方、合巻・人情本の刊行禁止、江戸歌舞伎芝居小屋の浅草山之宿強制転居、役者の旅興行禁止などを断行した。経済面では印旛沼干拓を継続する一方、棄捐令を下して借金の半分を幕府の公金支出により相殺した。また十組問屋仲間などによる流通の独占打破と幕府の直接統制による物価引下げを図って株仲間解散令を1841年に施行したが、実際の物価高騰の要因は悪貨発行・凶作・飢饉などだったため効果が稀薄だった上に流通の混乱を招いたため、1851年には株仲間再興令が施行された。やがて水野忠邦は1843年、領地整理や海防政策のため江戸・大坂周辺十里四方を天領とする上知令(上地令)を発令したが、これは老中土井利位(どいとしつら)ら大名・旗本の猛反発を受け、失脚に追い込まれた。結局、天保の改革の頓挫は幕府の権威と権力を再起不能なまでに失墜させたのである。  
天保の藩政改革  
1 天保以前の藩政改革  
江戸中期以降『経済録拾遺』に記されているような財政窮乏に苦しみ始めた諸藩は、財政再建・新田開発・殖産興業・特産品専売制などの実施を柱とした藩政改革を行うようになった。熊本藩主細川重賢が堀平太左衛門の補佐で行った宝暦の改革や、米沢藩主上杉治憲(上杉鷹山)が莅戸善政や細井平洲を用いて断行した藩政改革、秋田藩主佐竹義和が疋田定常や大越範国を用いて行った改革などが挙げられる。  
2 薩摩藩の藩政改革  
島津重豪の下で財政担当家老を務めた調所広郷(ずしょひろさと)は、薩摩藩が大坂商人などから借りていた500万両を250年間もの長期年賦返済として事実上踏み倒す一方、琉球との密貿易や奄美三島(奄美大島・徳之島・喜界島)で栽培されていた黒砂糖の専売などを断行し、財政を立て直した。調所広郷による改革の功績は海老原雍斎が著した『薩摩天保以後財政改革顛末書』に記されている。島津重豪の次代島津斉彬は軍制改革を行い薩摩藩軍の近代化を図る一方、反射炉・造兵工場・ガラス製造工場を完備した藩営洋式工場群たる集成館を磯ノ浜に建設した。父の島津久光に補佐された島津忠義は、集成館に鹿児島紡績所やガス灯製造所を増設する一方、鹿児島紡績所の分工場として堺紡績所を建設した。  
3 長州藩の藩政改革  
江戸中期に藩主毛利重就が撫育局を設置して殖産興業を推進していた長州藩では、天保年間の直前から他の藩に倣い特産品の紙や臘を産物方にて専売したが、1830年には専売に反対する防長大一揆が勃発したため中止した。藩主毛利敬親の下で藩政改革に当たった村田清風は、まず37ヶ年皆済仕法により140万両(銀8万5千貫)もの借金問題を解決し、続いて他国廻船の積荷(越荷)を抵当として委託販売業や金融業を行う越荷方を設置し、その利益を元に軍拡・近代化を推進した。  
4 土佐藩・肥前藩の藩政改革  
土佐藩主山内豊煕は馬淵嘉平ら下級武士開明派の「おこぜ組」を登用して抑商政策や緊縮財政政策を断行したが、失敗した。次代の山内豊信(山内容堂)は、それまでの藩政改革失敗の罪を全て「おこぜ組」に着せてこれを弾圧する一方、吉田東洋を登用して彼の献策である木材・和紙などの専売化を自案の如く推進した。一方、江藤新平らに支えられた肥前藩主鍋島直正(鍋島閑叟)は有田焼の専売などで逼迫財政を立て直すと共に、均田制を施行して小作人の本百姓化を図った。また日本初の反射炉を築造し、1850年にはやはり日本初の洋式大砲を佐賀藩大砲製造所にて鋳造した。これより後、肥前藩は軍備の近代化を急速に推進していった。  
5 水戸藩の藩政改革  
水戸藩主徳川斉昭は水戸学を奨励して尊皇攘夷思想を重視する一方、会沢正志斎や藤田東湖を登用して蒟蒻・紅花などを専売化して財政を再建し、反射炉築造・鉄砲鋳造による軍備増強を推進した。なお1854年には幕命により石川島造船所を開いた。この他、安芸藩・福井藩などが藩政改革に成功し、前述の各藩と共に雄藩となった。また田原藩では家老渡辺崋山が大蔵永常を藩物産掛に登用するなどの改革を行った。 

9 鎖国の崩壊と幕府倒壊の序曲  
ロシアの接近  
ロシアは啓蒙専制君主カザリン2世の下、南進政策を展開していた。1792年に伊勢国の船頭大黒屋光太夫を連れて根室へ来航したラックスマンは日本に開国と通商を要求したが、松平定信はこれを拒否する一方、松前奉行に長崎回港許可状たる信牌を交付させて帰国させた。1804年にはアレクサンドル1世の命を受けたレザノフが信牌を持参して長崎に来航したが、幕府は鎖国を「祖法」として開国を拒絶したため、憤慨したレザノフは日本沿岸で略奪行為を行った。このため徳川家斉は、外国船に薪・水・食料を与え迅速且つ穏便に退去させる文化薪水給与令(文化撫恤令)を1806年に発令した。1811年には露人ゴローウニンが国後島で日本側に逮捕されるゴローウニン事件が発生したが、これはロシアが報復として拿捕した淡路国の廻船問屋高田屋嘉兵衛と『日本幽囚記』を著したゴローウニンを交換して決着した。このロシアの接近に対し、幕府は近藤重蔵を千島に派遣して択捉島カムイワッカオイに「大日本恵土呂府」の標柱を設置させたり、伊能忠敬に蝦夷地沿岸を測量させたりした。なお樺太とその対岸の東韃(とうだつ)を探検して後に『東韃紀行』を著した間宮林蔵は、間宮海峡の発見者である。  
英帝国主義の台頭  
世界初の産業革命を成し遂げた英国は植民地拡大の侵略戦争を展開した。1808年にはナポレオン戦争の影響から英船フェートン号が蘭船を追跡して長崎港内に無断侵入し、これを逃した長崎奉行松平康英が引責自殺するというフェートン号事件が発生した。また1818年には英人ゴルドンが浦賀に来航し、1824年には英捕鯨船員が常陸国大津浜と薩摩国宝島に無断上陸するという事件を起こした。この情勢を受けた幕府は1825年、外国船を躊躇せず砲撃させる無二念打払令を発令する一方、高島秋帆に徳丸ヶ原練兵を行わせたり、韮山代官江川英龍に反射炉を築造させて大砲鋳造を断行するなどして、自衛力の増強に努めた。しかしアヘン戦争での英国勝利を受けた水野忠邦は1842年、無二念打払令を改め文化撫恤令に準ずる天保薪水給与令を制定する一方、琉球開国を示唆して英国を懐柔した。なお英国は太平天国の乱やセポイの乱で民族主義の抵抗の激しさを悟り、外圧を緩和した。一方、蘭王ウィレム2世は欧米の情勢を根拠として1844年に徳川家慶に対して開国を勧告したが、老中首座阿部正弘はこれを拒絶した。  
蘭学への弾圧  
1828年に天文方高橋景保も関与したシーボルト事件が発生すると、徳川家斉は最盛期を迎えていた蘭学の弾圧を強化した。オリファント社の米商船モリソン号が1837年に浦賀沖と山川沖で駆逐されたモリソン号事件に対し、知識人団体尚歯会傘下の蘭学者団体蛮学社中の構成員、即ち『戊戌夢物語』の著者高野長英や『慎機論』『鴃舌小記(げきぜつしょうき)』の著者渡辺崋山、それに小関三英らは激しく非難したため、徳川家斉は1839年に目付鳥居忠耀(とりいただあき)(鳥居耀蔵;林述斎の子)に命じて彼らを処罰した(蛮社の獄)。なお高野長英は凶作対策として早蕎麦と馬鈴薯の栽培を提唱した『救荒二物考』の著者である。  
日米和親条約 
(1854年 / 鎖国体制の崩壊)  
ゴールド=ラッシュの終焉により太平洋の侵略を開始した米国は、捕鯨や中国貿易の基地を求め日本に接触して来た。阿部正弘は東インド艦隊司令長官ビッドルが1846年に浦賀へ来航した際には開国を拒否したが、ビッドルの後任ペリーはサスケハナ号・ミシシッピ号・プリマス号・サラトガ号という4隻の「黒船」を率いて1853年に浦賀へ来航して久里浜に上陸し、浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道に第13代大統領フィルモアの国書を突付けた。この際の「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」との狂歌は有名である。国書を受けた阿部正弘は、島津斉彬・伊達宗城・徳川斉昭ら諸大名や朝廷と善後策を協議して自由貿易の拒否を条件とした開国を決定し、1854年に再来したペリーと林復斎の間で日米和親条約(神奈川条約)を締結させた。内容は、下田・箱館の開港、薪・水・食料の米国船への供給、難破船乗組員の救助、米国への最恵国待遇などだったが、同様の内容の日英和親条約や日蘭和親条約も締結された。またロシアのプゥチャーチンは1853年に長崎に来航し、下田で川路聖謨との間に日露和親条約を締結したが、この内容は日米和親条約に準ずるものの他、千島列島での日露間の国境を択捉島・得撫島間と定め、樺太を両国の雑居地とすることを含んでいた。  
安政の改革  
老中首座の阿部正弘は日米和親条約を締結するのに際し、朝廷に奏上したり有力大名の意見を聞いたりしたため、結果的に幕府独裁体制が終焉した。また欧米の接近を目の当たりにした阿部正弘は米国への漂流経験を持つ中浜万次郎(ジョン万次郎)らを登用し、武家諸法度の大船禁止条項を削除する一方、1855年には後の幕府海軍の前身となる海軍伝習所を長崎に、翌年には幕府陸軍の前身となる講武所を築地に開設し、国防体制を整備していった。海軍伝習所は勝海舟や榎本武揚を輩出した機関である。  
将軍継嗣問題  
徳川家定(徳川家祥)は病弱で嗣子が望めず、後継者争いを招いた。息子の一橋慶喜を推す徳川斉昭は阿部正弘・島津斉彬・毛利敬親・山内豊信・鍋島直正・松平慶永・伊達宗城ら有力大名と共に一橋派を形成し、徳川慶福を推す彦根藩主井伊直弼や将軍側近ら南紀派と対立した。阿部正弘の死去により1857年には佐倉藩主堀田正睦が老中首座に就いたが、米総領事ハリスの軍事的圧力に負けて朝廷に条約勅許を奏上したものの岩倉具視の活躍で勅許は下らず、将軍継嗣問題解決にも失敗したため失脚した。  
日米修好通商条約の締結 
(1858年 / 不平等条約)  
大老井伊直弼は1858年、井上清直・岩瀬忠震とハリスの間に日米修好通商条約を違勅調印させた。内容は下田・箱館の他に神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事館設置、貿易章程に基づく協定関税制度、領事裁判権受諾などであり、日米和親条約と同じく蘭・英・仏・露とも同様の条約を締結した。安政の五ヶ国条約では領事裁判権と言う治外法権を欧米に与えている上、協定関税制度のために関税自主権も無かった。なお神奈川は東海道沿いだったため横浜が開港し、下田はその半年後に閉鎖された。また京都に近いため兵庫開港勅許は下りず、1867年になって漸く神戸港として開港した。井伊直弼は1860年に日米修好通商条約批准書交換のため正使新見正興と副使村垣範正をポーハタン号に乗船させてロアノークへ向かわせたが、同行した幕府護衛艦咸臨丸(艦長;勝海舟、司令官;木村喜毅)は日本初の太平洋を横断した軍艦である。なお福沢諭吉は木村喜毅の従者として同行した。一方、ロシアは1861年に対馬占領事件を起こして対馬列島の植民地化を図ったが、この愚挙は英国により阻止された。  
江戸末期の貿易  
米国では南北戦争が勃発したため、貿易相手国筆頭は英国となった。貿易の約8割は横浜港で為された。輸出品としては生糸・茶・蚕卵紙・海産物・金・銅、輸入品としては73,8%を占めた毛織物・綿織物の他、武器・艦船などの工業製品が挙げられる。需要の増大に伴い上野国・信濃国の製糸業や駿河国・山城国の茶の栽培などでは経営の近代化が進み、農村にも工場制手工業(マニュファクチュア)が導入された。これを受けた在郷商人は江戸の問屋を通さず絹の道(八王子〜横浜;日本のシルクロード)などを利用して絹糸を横浜へ送り、原善三郎・茂木惣兵衛ら売込商に直接品物を売却するようになったため、幕府は問屋救済と流通統制のため1860年に五品江戸廻送令を発令し、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の江戸問屋経由を義務付ける一方、株仲間再興令により問屋を救済した。また外国の金銀交換比が1:5で日本が1:15だったため50万両もの金が国外へ流出したが、幕府はこの金銀比価問題への対策として1860年に万延改鋳を行い、質の悪い万延小判を発行した。だがこれは、1867年まで続いた輸出超過による国内物資不足と相俟って物価暴騰を招き、消費生活者を困窮させた。また輸入織物の流入は国内の綿工業に打撃を与えた。物価暴騰は1866年の第二次長州征伐で頂点に達し、1867年には慶応の百姓一揆・打ち毀しなどの世直し運動が展開された。 
10 江戸幕府の潰滅  
安政の大獄 
(1859年 / 反体制派への弾圧)  
徳川慶福改め徳川家茂を将軍に就任させ安政の五ヶ国条約を違勅調印した井伊直弼は、腹心の老中間部詮勝に命じて自身に反抗的な勢力への大弾圧を断行した。この安政の大獄では、1854年のペリー再来時に密航を企て萩の野山獄に幽閉されたものの出獄後に松下村塾を創設して高杉晋作・久作玄瑞らを教育した吉田松陰を初め、橋本左内・頼三樹三郎・梅田雲浜ら尊皇攘夷論者が処刑され、徳川斉昭・山内豊信・松平慶永ら諸大名のみならず三条実万・近衛忠煕・鷹司政通・青蓮院宮(中川宮朝彦親王)などの貴族までもが処罰された。この安政の大獄への反発として翌1860年には水戸浪士ら18名が登城途中の井伊直弼を襲撃して殺害するという桜田門外の変を起こした。幕府はこの事件の後に公武合体政策へと大きく傾くが、既に幕府の権威は失墜していた。  
安藤・久世政権  
井伊直弼が桜田門外の変で殺害された後、幕政の実権は公武合体論者の老中安藤信正・久世広周が掌握した。安藤信正らは将軍徳川家茂に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王を降嫁させることを上奏したが、孝明天皇は和宮親子内親王が有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)との結納を既に済ませていた上、自身が大の討幕派であるためにこれを拒絶したが、やがて幕府の攘夷実行を条件に降嫁を許可した。しかし世の尊皇攘夷派はこれに猛反発し、大橋訥庵(おおはしとつあん)に煽られた水戸浪士が安藤信正を襲い重傷を負わせた。この坂下門外の変により安藤信正は失脚し、久世広周も辞職したために政治的空白が発生した。  
寺田屋事件と文久の改革  
島津久光は公武合体論による幕政改革を断行するべくまず上洛し、伏見の寺田屋にて薩摩藩内の尊攘派志士筆頭有馬新七を討伐して薩摩藩のイデオロギーを公武合体論に統一した後、公卿大原重徳(おおはらしげとみ)と共に江戸城に下向し、文久の改革を指導した。この改革では兵賦令を制定して旗本領からの農兵取り立てを行う一方、一橋慶喜を副将軍たる将軍後見職、松平慶永を大老格の政事総裁職、会津藩主松平容保を京都守護職に任じ、これらを幕政補強機関として公武合体策の推進を図った。文久の改革に対し長井雅楽(ながいうた)が提唱する公武合体論の航海遠略策を退けて尊攘論が勃興してきていた長州藩の下級武士たちは反発し、急進派の公卿三条実美らと共に京都の政局を掌握した。  
攘夷運動の激化  
米通訳官ヒュースケンが1860年に殺害されたことを皮切りに、1861年には『大君の都』の著者である英駐日公使オールコックが東海道を旅行したことに憤慨した水戸浪士が高輪の東禅寺の英国公使館を襲撃するという第一次東禅寺事件を起こし、翌1862年には英国公使館を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が公使館員を殺害した後自殺するという第二次東禅寺事件が発生した。また高杉晋作と久坂玄瑞は同年、夷人狩りとして品川移転直後の英国公使館を焼討した。攘夷論が高揚を見せる中、徳川家茂は攘夷実行を1863年5月10日と定めて孝明天皇に上奏すると共に、諸藩に対しても公布した。なおオールコックは1862年のロンドン万国博覧会に日本の品物を出展している。  
下関事件 
(1863年 / 下関戦争へ発展)  
長州藩士桂小五郎・高杉晋作は期日通り下関にて米・英・仏・蘭の船舶に対して砲撃を実行した。高杉晋作は下関の豪商白石正一郎の協力の下で庶民混成の奇兵隊を組織したが、オールコックの指揮による翌1864年の下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)では完敗を喫した。なお長州藩士の井上聞多と伊藤俊輔は、英国留学から帰国した後に藩内の攘夷派を説得したため、伊藤俊輔は反対派に襲撃され重傷を負った。  
生麦事件  
(1862年 / 薩英戦争へ発展)  
文久の改革を終えて帰国する島津久光の行列が東海道の生麦に差し掛かったところ、リチャードソンら数名の英人がこの行列を下馬の礼を執ることなく横断した。護衛の薩摩藩士たちは彼らを無礼討ちにしたが、英国は薩摩藩と幕府に対して加害者の引き渡しと賠償金支払いを要求。幕府は賠償金を支払ったが薩摩藩は頑強に拒否したため1863年、英艦による鹿児島砲撃を招いた。この薩英戦争により薩摩藩は英国に賠償金を支払うと共に、攘夷不可能を悟って逆に英国に接近していった。  
文久の政変  
(1863年 / 攘夷運動、崩壊へ)  
攘夷運動の衰微を危惧した中川宮朝彦親王を中心とする尊王攘夷派は、孝明天皇のための大和行幸や伊勢行幸を企て、同時に討幕計画も練った。計画は孝明天皇親征攘夷にまで発展したため公武合体派の薩摩藩は激しく反発し、文久三年八月十八日の政変(文久の政変)を起こして尊皇攘夷派の長州藩士らを京都から追放すると共に、朝廷の三条実美・沢宣嘉(さわのぶよし)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)・中山忠光ら急進派公卿を長州藩へ追放した。これを七卿の長州落ちと言う。この後、京都は公武合体派雄藩の合議機関たる参預会議が掌握したが、横浜鎖港問題への対応に失敗したため崩壊した。  
攘夷運動の終焉  
1863年には中山忠光を擁した吉村寅太郎・伴林光平・藤本鉄石ら天誅組が大和五条で天誅組の乱を、また沢宣嘉を担いだ平野国臣は但馬国で生野の変をそれぞれ勃発させたが、鎮圧された。また藤田小四郎・武田耕雲斎らは常陸国筑波山にて尊皇攘夷を主張して天狗党の乱を起こし京都を目指したが、目付井伊意尊(いいおきたか)に潰された。翌1864年には近藤勇・土方歳三・沖田総司ら幕府側の新撰組が尊攘派の拠点である三条河原町の池田屋を襲撃した(池田屋事件)。これに反発した久坂玄瑞ら長州藩士と真木和泉ら尊攘派志士は京都に侵攻したが、薩摩藩・会津藩・桑名藩など京都を警護していた幕府軍の前に敗退した(禁門の変・蛤御門の変・元治甲子の変)。なお新撰組は清川八郎の新徴組と言う浪士組の流れを汲むものである。この頃活躍した尊攘派の人間、即ち山内容堂に処刑された武市瑞山や岡田以蔵を初め、梁川星巌・野村望東尼・大国隆正らを、特に草莽の志士と言う。  
薩長連合 
(1866年 / 討幕体制の確立)  
禁門の変の責任追及という名目で、幕府は下関戦争の直後の1864年に第一次長州征伐を実行し、長州藩に謝罪させた。海援隊(元は亀山社中)の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎(武市瑞山創設の土佐勤皇党党員)は、共に攘夷の無謀を悟った薩長両藩に働き掛け、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允を密会させ、尊皇討幕論を基盤とする薩長連合を結成させた。これに刺激された徳川家茂は第二次長州征伐を断行したが、薩摩藩が幕府軍から離脱した上に長州藩は薩摩藩経由で英国から入手したミニエー銃・ゲベール銃などの新式歩兵銃を奇兵隊などに装備させていたため幕府軍は苦戦し、徳川家茂の大坂城での急死を契機として敗走した。高杉晋作はこの直後に病死した。また『船中八策』を著して公議政体論(天皇中心の雄藩連合政権の樹立)を主張した坂本龍馬は、中岡慎太郎共々京都で1867年に暗殺された。またこの戦いの後に奇兵隊のような諸隊が全国にて結成され、幕府に対し蜂起した。  
大政奉還  
(1867年 / 徳川幕府の終焉)  
孝明天皇崩御後に践祚した睦仁親王(明治天皇)は、攘夷論を退けて兵庫開港勅許を下した。また岩倉具視は三条実美と共に討幕計画を練り、薩摩藩・長州藩・安芸藩の協力を取り付け、やがて1867年10月14日には薩長両藩に討幕の密勅が下った。一方、征夷大将軍に就任した徳川慶喜は薩長連合を支援した英駐日大使パークスに対抗するべく幕府を支援した仏駐日大使ロッシュの助言の下、内閣制度を真似て国内事務局・外国事務局・陸軍局・海軍局・会計局といった五局を設置し、各局総裁に老中を就任させて幕政を改革した。この頃、京都では島津忠義・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂が四侯会議を開催して薩摩藩と幕府の融和を図ったが決裂した。利己主義者山内容堂は薩長連合が武力討幕を果たして土佐藩が冷遇されることを恐れ、坂本龍馬から後藤象二郎を経て献策されていた大政奉還を10月14日に徳川慶喜に建議した。徳川慶喜は翌日これを受諾して朝廷に奏上したが、薩長両藩は大政奉還を阻止するべく12月9日に摂関廃止・三職設置・諸事神武創業の昔への復帰などからなる王政復古の大号令を発表し、有栖川宮熾仁親王を総裁、三条実美・島津忠義・毛利敬親・山内豊信・浅野長勲・松平春嶽・徳川慶勝らを議定、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・小松帯刀・木戸孝允・広沢真臣・後藤象二郎・福岡孝弟らを参与に任命した。三職は同日夕刻より京都御所内の小御所にて小御所会議を行い、紛糾した議論の結果、徳川慶喜の辞官納地、即ち征夷大将軍と内大臣の辞任と天領返還が定められた。これにより実質的に徳川幕府は終焉したが、徳川慶喜は大坂城に籠城して抵抗する構えを見せた。  
 
 明治時代

 

1 大日本帝国の黎明 − 明治維新  
戊辰戦争 
(1868年〜1869年 / 新旧交代の戦闘)  
薩長連合軍はまず小御所会議の決定に反発して来襲した会津・桑名・大垣藩の連合軍を京都の鳥羽・伏見の戦いで破り、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬の官位を剥奪して討幕派の優勢を確定した。徳川慶喜追討令を受け江戸城へ逃れた徳川慶喜を討つべく、朝廷は東征大総督有栖川宮熾仁親王を派遣したが、江戸城は和宮親子内親王の嘆願やパークスの斡旋により山岡鉄太郎の工作で行われた西郷隆盛・勝海舟会談後、無血開城された。川路聖謨(かわじとしあきら)は翌日自殺したが、彰義隊は寛永寺で上野戦争を敢行した^ため大村益次郎に潰された。同月、会津・仙台・米沢など佐幕31藩は奥羽越列藩同盟を結成したが、長岡藩家老河井継之助がガトリング砲を用いて抵抗した北越戦争や、白虎隊(びゃっこたい)・娘子隊(じょうしたい)が会津若松城で抵抗した東北戦争などで敗れた。海軍奉行榎本武揚は永井尚志・大鳥圭介・土方歳三らと共に武田斐三郎(たけだあやさぶろう)が設計した西洋式城郭たる五稜郭に籠城して箱館戦争を敢行したが、黒田了介(黒田清隆)率いる官軍の前に敗北した。この戊辰の役では全国の諸隊が活躍したが、征討軍先鋒を務めた赤報隊隊長相楽総三(さがらそうぞう)は年貢の半減を掲げたため、偽官軍として下諏訪で斬首に処せられた。  
五箇条の御誓文と五榜の掲示  
(1868年 / 維新の基本理念及び方針)  
1 五箇条の御誓文  
開明的な百事御一新の理念、即ち公議世論の尊重・開国和親(鎖国・攘夷の放棄と国際法たる公道の重)・挙国一致体制確立を示して基本方針とした五箇条の御誓文は、由利公正の『議事之体大意』や福岡孝弟の『会盟』に木戸孝允が「列侯会議」という語句を削除するなどの訂正を加えたものであり、古代天皇制と大化の改新の王土王民理論の再興を示すべく、明治天皇が天神地祇に宣誓なさる形で発表された。  
2 五榜の掲示  
五榜の掲示は五種の高札に示された理想的民衆像であり、同時に人民としての基本的な心得を示したものである。具体的な内容としては、五倫の道徳の遵守、徒党・強訴・逃散の禁止、切支丹邪宗門の禁止、外人への暴行の禁止、郷村脱走の禁止、などが挙げられるが、これらは旧幕府政治を踏襲した保守的且つ儒教的な民衆統制であった。なお切支丹邪宗門禁止の条文に関しては、長崎の大浦天主堂落成と同時に発生した浦上信徒弾圧事件(浦上四番崩れ)に対し欧米諸国が内政干渉の如く抗議して来たことを参考として廃止された。浦上信徒弾圧事件は隠れキリシタンが仏人宣教師プチジャンに信仰を告白したことを端緒とする事件である。  
政体書の公布  
(1868年 / 政治の基本的組織を示す)  
1 太政官制の確立  
政体書は五箇条の御誓文を具体化するために、副島種臣と福岡孝弟により起草されたものである。王政復古の大号令で規定された三職制はその後、三職七科制、三職八局制として補強されて来ていたが、政体書では『令義解』や『職邦志略』、それに米合衆国憲法を参考としてこれを抜本的に改め、形式的ではあるが三権分立に基づく中央官制を確立し、同時に官吏公選制(官吏互選制)も規定した。こうして確立された太政官制は、1885年の内閣制度発足まで機能した。  
2 三院制への過程  
当初は立法機関たる議政官をはじめ、行政官・刑法官・神祇官・外国官・会計官・軍務官の七官(後に民部官が加わり八官)から太政官は構成されていた。議政官は上局と下局から構成されたが、このうち下局は諸藩代表たる貢士(こうし)や才能有る徴士(ちょうし)で構成され、後に貢士対策所、公議所、集議院となり、後の左院の前身となった。版籍奉還後の職員令で定められた二官六省制では、明治政府の祭政一致政策の一貫として神祇官が太政官よりも上位とされ、太政官の下に外務省・大蔵省・兵部省・民部省・刑部省・宮内省・弾正台・大学校・開拓使などが置かれた。やがて廃藩置県後の官制改革では三院制が導入され、太政官を構成する三院が三権全てを統轄する中央集権体制が確立された。正院は太政大臣・左大臣・右大臣・参議により構成される後の内閣に相当する天皇親政上の最高機関であり、神祇省(後に教部省)・外務省・内務省・大蔵省・兵部省(後に陸軍省と海軍省に分割)・文部省・工部省・司法省(後に大審院が独立)・宮内省・開拓使を統括した。左院は正院の任命する議員で構成される諮問機関にして立法機関であり、集議院を吸収し、後に元老院となった。また右院は各省の卿と大輔(たいふ)で構成される行政上の連絡機関だった。なお明治政府の首脳は、公家出身者以外は下図のように「薩長土肥」出身者でほぼ独占されていた(藩閥政府)。  
公家 / 三条実美・岩倉具視・万里小路博房・東久世通禧  
薩摩 / 西郷隆盛・大久保利通・島津久光・寺島宗則・黒田清隆・松方正義・大山巖・西郷従道・森有礼・三島通庸  
長州 / 木戸孝允・大村益次郎・山県有朋・伊藤博文・井上馨・前原一誠・山田顕義・山尾庸三・青木周蔵・桂太郎  
土佐 / 板垣退助・後藤象二郎・福岡孝弟・佐々木高行・岡本健三郎・谷干城・田中光顕  
肥前 大隈重信・江藤新平・副島種臣・大木喬任  
その他 / 由利公正(旧越前藩士)・伊達宗城(旧宇和島藩主)・福羽美静(旧津和野藩士・国学者)  
中央集権体制の確立  
1 版籍奉還と廃藩置県 
(1869年・1871年 / 中央集権体制確立)  
1868年の明治改元と一世一元制導入、明治天皇の即位の礼の挙行、翌年の東京遷都など、政府は新政策を次々と断行して中央集権体制の確立を目指していた。諸藩は政体書の府藩県三治制により封建的支配を続けていたが、政府は大久保利通・木戸孝允・板垣退助・大隈重信に各々の郷里の藩主を説得させ、島津忠義・毛利敬親・山内容堂・鍋島直正に版(土地)と籍(人民)を返還させた。これに倣って他の藩も版籍奉還を行ったが旧藩主は知藩事として封建的支配を続けたため中央集権体制は確立されず、失敗した。これを踏襲した政府は、知藩事を廃止して中央が任命した府知事・県令(後の県知事)を派遣する廃藩置県を断行した。諸藩は藩解消による借金の帳消しと農民一揆の頻発による弱体化、また薩長土三藩が派遣した1万人の御親兵による首都厳戒などの理由から、廃藩置県におとなしく従った。  
2 治安維持  
政体書では警察機関として弾正台が刑部省の下に置かれた。後に弾正台は刑部省と合併して司法省となったが、1873年に地方行政担当の内務省が新設されると警察の機能はこちらに移行した。当時は邏卒(らそつ)が一般的な治安維持を行っていたが、1874年に内務大臣の指揮下に警視庁が新設されると巡査に改称された。  
3 地方行政改革  
府藩県三治制では全国に3府262藩26県が設置されたが、廃藩置県で3府302県が設置された後、1871年には3府72県、1888年には現在とほぼ同じ1道3府43県が設置された。政府は1878年、内務省法律顧問の独人モッセの意見を参考として郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則から構成される地方行政三新法を定め、戸籍法に基づく画一的な大区・小区を改め、所謂三新法体制の下で行政改革を断行した。1888年には内務大臣山県有朋により市制・町村制が、また1890年には北海道と沖縄県を除く全国に府県制・郡制が施行され、改革が進行した。  
身分制度の撤廃と徴兵令  
1 四民平等  
江戸時代の封建的身分制度は撤廃され、公家や旧大名は華族、上・中級武士は士族、下級武士は卒(そつ)(後に士族)、他の農民や商人や職人は全て平民となり、階級間の通婚・住居・苗字・職業選択などが自由化された。なお苗字は平民苗字必称義務令により義務化された。1871年には戸籍法が制定され、「全国惣体の戸籍」として日本初の近代的戸籍である壬申戸籍が翌年作成された。また身分解放令(賤民解放令)では穢多・非人の呼称が廃止され、1874年には救貧法(恤救規則)が施行された。  
2 秩禄処分  
秩禄(士族全員に従来の1割程度支給されていた家禄と維新功労者への賞典禄)は国家財政の支出の3割を占めていたため、政府は1873年に家禄奉還制(秩禄奉還法)を制定し、秩禄数年分をまとめた秩禄公債証書や一時賜金を給付した。政府は秩禄を金禄(永世禄・終身禄・年限禄に細分される)として現金支給するなどしていたが1876年には金禄公債証書発行条例を施行し、金禄を数年分まとめた金禄公債証書を発行した。金禄公債証書は華族が64000円、士族が548円だった。金禄公債証書は5年間の据え置きが定められ、その後は抽選により換金することができた。  
3 不平士族の発生  
官吏・軍人・教員・巡査などにならなかった大半の士族は商売を始めたが、実業家として成功した渋沢栄一や岩崎弥太郎を除いた殆どの士族は傲慢な「士族の商法」などにより挫折し、没落の一途を辿った。政府は士族の没落防止のため、事業資金を貸し付ける就業奨励策として士族授産を行ったり、1874年に黒田清隆の建議を基に北海道屯田兵制度を定めたりしたが効果はあまり芳しくなかった。困窮した士族は徴兵令や廃刀令への不満も重なり、次第に反体制的になっていった。  
4 徴兵令 
(1878年 / 国民皆兵精神)  
奇兵隊出身の兵部大輔大村益次郎が構想した近代的軍制は、彼の暗殺後、山県有朋・村田蔵六らによって実現された。1872年の徴兵告諭は徴兵令施行への予告だったがこの文章を誤解した農民たちは徴兵による農業生産力の低下への危惧と相俟って血税反対一揆(徴兵反対一揆)を起こした。徴兵令はフランスの軍制を参考としたものであり、国民皆兵精神の下、満20歳の男子全員に3年間兵役義務を課し、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の鎮台(軍管区統轄・後の師団)や佐倉・新潟・青森・金沢・大津・姫路・丸亀・小倉の連隊司令部に配属した。しかし、戸主・嗣子・養子・官吏・学生・洋行経験者・病弱者・身長5尺1寸未満・270円以上の代人料納入者など全体の約82%の者は兵役を免除されたため、結果的に徴兵通知書たる徴兵令書を受ける者は貧農の次男以下であった。また『徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのこころえ)』などの徴兵忌避を煽動する兵役免除の手引書も発行された。  
地租改正  
税制を明瞭且つ画一的なものとし、また財政収入の約八割を占める地租の安定と増収を図るべく、政府は地租改正事務局を設置し、神田孝平が著書『田租改革建議』で求めた近代的税制改革たる地租改正を断行した。1871年の田畑勝手作許可、翌1872年の田畑永代売買解禁などで準備を整え、「旧来ノ歳入ヲ減ゼザル」方針で地価を定めて暫定的な壬申地券を発行した政府は、1873年に地租改正条例を制定して村毎の土地台帳の作成(地押(じおし))を行い、所在・地目・反別・所有者・地価を明記した正式な地券を発行した。地租改正条例では、課税基準を従来の石高から地価に変更すること、税率は一律で地価の3%とすること、納税は土地保有者が金納で行うことなどが定められていた。なお地券は1886年に登記法が制定されると廃止された。また地租3%の他に、地方税たる民費も別途に1%徴収された。地租改正により政府の財政は安定したが、地主と小作人の関係は温存された上、大地主は米価上昇により利益を得たが、小地主や自作農は小作人に転落することもあった。彼らは松方財政による不況で更に困窮し、最終的に寄生地主制の確立を招いた。地租改正と同時に政府は所有者不明の入会地の接収や永小作の整理を図ったため、1876年の真壁騒動(茨城大一揆)と伊勢暴動(三重大一揆)を端緒として堺県・茨城県・岐阜県・愛知県・三重県で地租改正反対一揆(竹槍一揆)が勃発した。内務卿大久保利通は1877年に税率を2.5%に下げたため、地主は「竹槍でドンと突き出す二分五厘」としてこれを歓迎したが、現物小作料率が68%で一定の小作人には無関係だった。なお1870年代には、地租改正・徴兵令・学制などへの反発から、信濃川疎通反対一揆やわっぱ騒動などの農民一揆が勃発した。  
貨幣制度の改革と金融機関の設立  
1 貨幣制度の改革  
明治政府は財政難だったため、江戸時代の諸藩に倣って三井組・島田組・小野組・鴻池組などから御用金を徴収したり、1868年に会計官由利公正が発行した太政官札や翌年の民部省札のような不換紙幣を発行していた。このため貨幣制度は混乱していたが、近代国家に相応しい貨幣制度の確立を目指す新貨条例が1871年に公布され、大阪造幣寮(後の大阪造幣局)で造られた新貨幣が翌1872年に発行されるとこれは沈静化した。新貨幣は従来の両・分・朱・文の四進法ではなく円・銭・厘の十進法であり硬貨は円型であった。政府は当初、欧米と同様金貨を本位貨とする金本位制を目指したが、実際には銀貨を本位貨とするアジア諸国との貿易の便宜のために貿易銀を鋳造したため、金銀複本位制となった。金銀複本位制は後の松方財政で銀本位制となり、日清戦争後に漸く金本位制が確立された。  
2 金融機関の設立  
日本初の近代的な金融機関は旧両替商の三井組・小野組・島田組が1869年に設立した為替会社であるが、すぐに頓挫した。伊藤博文の指示を受けた渋沢栄一は1872年、米国のナショナル=バンク制度を改良した国立銀行条例を起草し、民間株式組織たる国立銀行の創設を目指した。渋沢栄一は三井組・小野組の出資により1873年に創設された第一国立銀行の頭取に就いたが、国立銀行は兌換制度に基づく発行銀行券の正貨兌換が義務だったため四行しか設置されなかった。やがて多数の国立銀行創設を企図した政府がこの義務を解除した結果、全国に153行の国立銀行が創立されたが、多くは国立銀行券と言う不換紙幣を乱発したため、西南戦争の戦費と相俟ってインフレを引き起こした。一方、島田組や小野組を破産させた為替方の三井組は、初の普通銀行として1876年に三井銀行を設立した。なお松方財政の後には農業に融資する日本勧業銀行や工業に融資する日本興業銀行、貿易に融資する横浜正金銀行の他、北海道拓殖銀行・台湾銀行・朝鮮銀行などの特殊銀行が設立された。  
殖産興業  
1 鉄道・海運事業の発達  
陸蒸気(おかじょうき)と称された鉄道は、1872年に東京・横浜の両駅(ステンショ)の間、現在の汐留・桜木町間に開通したのが端緒であるが、資金(100万ポンド=884万円)・技術・レールを英国に依存していたため、1889年に東京・神戸間が全通した東海道線を含め、開通する日本の鉄道の大多数は英国と同じ狭軌となった。日本鉄道会社が上野・熊谷間を1883年に開通させたことを皮切りに、九州・山陽・北海道炭礦・関西・北越などの鉄道会社が誕生し、将来の買収を示した鉄道敷設法が下されると私鉄はさらに増加した。なお1893年に全通した直江津線の横川・軽井沢間は、日本初のアプト式鉄道である。日露戦争後の1906年には鉄道の軍事・経済上の重要性や経営難の私鉄の救済のため鉄道国有法が制定され、民営鉄道17社が買収された。一方、土佐藩出身の岩崎弥太郎は政府の保護の下で旧土佐藩の大阪西長堀商会(大阪商会)を譲り受け、これを基礎として1870年に土佐開成商社(九十九商会に改称)を設立、海運事業を開始した。発展に伴い1873年には三菱商会と改称、1875年には日本郵便蒸気船会社を吸収して郵便汽船三菱会社(三菱汽船会社) となった。岩崎弥太郎は佐賀の乱・台湾出兵・西南戦争など諸紛争の兵站線を独占することで発展を続け、1885年には三井系の共同運輸会社を吸収合併して日本郵船会社を設立し、1896年の造船奨励法や航海奨励法を受けて、インドボンベイ航路・欧州アントワープ航路・米国シアトル航路・豪州メルボルン航路などへの遠洋航路にも進出していった。  
2 通信の発達  
電信は1869年に東京・横浜間に設置されたのが端緒であり、1878年には電信中央局が設置され、翌年には万国電信条約に加盟し、1900年からは無線電信が開始された。電話は1877年に輸入された。郵便は、1871年に駅逓頭(えきていとう)前島密(まえじまひそか)によりまず東京・大阪間に郵便制度が発足し、全国の郵便役所(後の郵便局)や郵便箱の設置、それに郵便切手・郵便配達夫の採用で発達し、1877年には万国郵便連合条約へ加盟した。  
3 殖産興業の推進  
欧米諸国の帝国主義に基づく植民政策に対抗するため、政府は富国強兵・殖産興業のスローガンの下、上からの産業育成を推進した。具体的に産業育成に関連したのは、1870年に工業部門の殖産興業のために新設された工部省、1873年に農業部門と内政一般のために新設された内務省、それに大蔵省である。政府は既に、経済面では株仲間・専売制・津留の廃止、交通面では関所・助郷制の廃止などを行い封建的諸制度を是正していたが、さらに工部省の工学寮(後の工部大学校)にて技術教育を行ったり、大久保利通が中心となって上野で102日間の第一回内国勧業博覧会を1877年に開催するなどして、さらなる産業の発達を図った。  
4 官営鉱山の変遷  
工部省は旧幕府や諸藩が保有していた鉱山を接収していたが、財政難もあって次第に民間への払い下げを行うようになった。院内・阿仁鉱山と足尾銅山は古河市兵衛、相川金山と生野銀山は岩崎弥太郎、高島炭鉱は後藤象二郎を経てやはり岩崎弥太郎、小坂鉱山は藤田伝三郎、日本初の蒸気揚巻機による排水で知られる三池炭鉱は佐々木八郎を経て三井組、にそれぞれ払い下げられた。これらは後の財閥の基礎となるものであり、就中、藤田組や三井組は長州閥に接近していったことで知られている。  
5 官営軍事工場  
官営軍事工場は旧幕府や諸藩の設備を再編統合して政府が経営を行う軍事工場である。代表的な工場としては、江戸関口大砲製作所の後身であり後に村田連発銃などを製造した東京砲兵工廠、旧幕府の長崎製鉄所の機械を流用して陸軍の銃火器を製造した大阪砲兵工廠、横須賀製鉄所の後身であり横須賀海軍工廠の前身である横須賀造船所、長崎製鉄所の後身であり後に岩崎弥太郎に払い下げられ三菱長崎造船所となった長崎造船所、加州製鉄所の後身であり後に川崎正蔵に払い下げられ川崎造船所となった兵庫造船所、そして板橋火薬製造所などが挙げられる。  
6 官営模範工場  
工部省が外国の技術を導入して殖産興業のため設置した官営模範工場は、1880年に官営工場払下概則が施行された後に民間へ払い下げられた。群馬県の富岡製糸場と新町紡績所は共に三井組へ払い下げられたが、特に仏人技術者ブリューナーの指導による富岡製糸場では著作『富岡日記』で有名な和田英(後に六工社製糸場へ移籍)ら、富岡工女が労働した。他の繊維工場としては、軍服の材料である羅紗(らしゃ)を製造した千住製絨所や、後に篠田直方に払い下げられた愛知紡績所、薩摩藩が設立したものを引き継いだが浜崎太平太に売却された堺紡績所、落成前に広島綿糸紡績会社へ払い下げられた広島紡績所、などが挙げられる。繊維工場以外の官営模範工場としては、札幌麦酒醸造所(サッポロビールじょうぞうしょ)や後に西村勝三に売却された品川硝子製造所、浅野総一郎に払い下げられた深川セメント製造所と西村勝三に売却された深川白煉瓦製造所からなる深川工作分局などが挙げられる。  
7 農業・畜産業  
勧農政策を推進する明治政府は、1872年に現在の新宿御苑の場所に西洋農業移植のための内藤新宿試験場を開設したことを初めに、1874年には旧薩摩藩邸跡地に内務省管轄の三田育種場を設立し、翌1875年には後に下総種畜場として合併される下総牧羊場と取香種畜場(とりかしゅちくじょう)を開設した。また1874年に内藤新宿に設立された農事修学場は1877年に駒場へ移設され駒場農学校となったが、これは後の東大農学部の前身となった。農業用水としては1882年に士族授産事業の一環として竣工した福島県の安積疎水や、1884年に竣工した愛知県の明治用水などが挙げられる。  
8 北海道開拓事業  
蝦夷地が北海道と改称された1869年に、北海道開拓使は東京に設置され、1871年に札幌へ移された。初代次官黒田清隆は、米人農政家ケプロンを招いて札幌農学校を設立したり、1875年に初めて琴似村へ入植した屯田兵を用いるなどして北海道開拓を推進した。1882年には北海道開拓使が廃止されて札幌県・函館県・根室県が設置されたが、やがて1886年に北海道に統合され、北海道庁の北海道長官が統轄した。政府はアイヌ同化政策を執り、北海道旧土人保護法などを制定したが、この結果アイヌ文化は衰退した。なお札幌農学校教頭の米人クラークは"Boys, be ambitious!"という帰国時の台詞で知られているが、彼の基督教的な教育指導方針に感化された新渡戸稲造・内村鑑三・宮部金吾らは、後に信仰集団たる札幌バンドを結成した。  
明治維新への反動 − 士族反乱  
1 士族反乱  
1870年に長州藩で諸隊士が中心となり勃発した脱隊騒動以来、四民平等・徴兵令・経済的窮乏などで発生した不平士族は散発的な抵抗を続けていたが、征韓論政変に於ける征韓派の敗北を機に暴徒と化した。征韓党を率いる前参議江藤新平は1874年、島義勇(しまよしたけ)の憂国党と共に征韓と封建体制復帰を主張して佐賀の乱を勃発させた。また佩刀の自由を定めた脱刀令に強制力を持たせる形で1876年に発令された廃刀令は、秩禄処分と相俟って士族の反発を招き、神官の太田黒伴雄率いる敬神党が熊本鎮台を襲撃した神風連の乱や、これに呼応する形で秋月党党首宮崎車之助が征韓による国権拡張を訴えた秋月党の乱、松下村塾出身の前原一誠らが蜂起した萩の乱、永岡久茂らが起こした思案橋事件、などが勃発した。  
2 西南戦争 
(1877年 / 最後の士族反乱)  
征韓論政変で下野した前参議西郷隆盛は鹿児島で私学校を開いていたが、桐野利秋・篠原国幹(しのはらくにもと)ら私学校党に担がれて挙兵、30000人の軍勢を率いて熊本鎮台長谷干城が籠る熊本城(加藤清正が築城)を攻めたが、田原坂(たばるざか)の戦いを経て到着した政府軍に敗北し、城山の戦いで村田新八らと共に自害した。残党は司法卿大木喬任(おおきたかとう)により断罪された。西南戦争では反乱軍の半数程度の徴兵軍が活躍したためこの実力が立証された他、武力闘争の無謀を悟った不平士族が言論活動を開始する契機となった。  
3 紀尾井坂の変  
(1878年 / 大久保利通暗殺)  
西南戦争の最中の木戸孝允の死、及び西郷隆盛の戦死によって、維新三傑の最後の一人となった内務卿大久保利通だったが、翌1878年、東京・紀尾井坂において旧加賀藩士島田一郎らに暗殺された。この紀尾井坂の変も、不平士族による犯行とされている。また同年には、西南戦争の少ない恩賞に反発した三添卯之助ら近衛砲兵隊員約260名が竹橋事件という暴動を起こしたため、政府は皇軍(=天皇直轄軍隊)という理想的な軍隊像を示した軍人勅諭を1882年に下した。西周(にしあまね)の起草によるこの軍人勅諭で天皇直轄軍隊と定められ、また後の大日本帝国憲法で統帥権の独立が確立されたため、軍隊は陸軍参謀総長や海軍軍令部総長が直接天皇に上奏する帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)を獲得した。なお陸軍は1888年に鎮台制を師団制に変更し、1891年には近衛師団が設置され、軍隊教育を司る教育総監部も設けられた。また海軍は呉・横須賀・舞鶴・佐世保に鎮守府を設置して艦隊をここに配置し、有事には連合艦隊として組織された。 
2 明治時代の国民文化  
文明開化  
「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と称された断髪令や、土下座・仇討の厳禁及び廃刀令などにより封建的風習は随時撤廃される一方、若手知識人の間には牛鍋(安愚楽鍋(あぐらなべ))などが流行し、無声映画を活動弁士が説明した活動写真や、蓄音機・レコードなども出現した。また横浜には日本初のガス灯が灯され、洋服や洋風公園なども広まった他、和泉要助が発明した人力車や後の鉄道馬車の原型の乗合馬車など、新しい交通手段も生まれた。さらに太陰太陽暦の天保暦は明治5年12月3日をもって太陽暦の明治6年1月1日となり、1876年には七曜制も採用された。主な建築は次の通りである。  
辰野金吾 / 現在も残る東京駅駅舎の他、工科大学本館・日本銀行本店を設計。いずれも煉瓦造で知られる洋風建築の代表的なもの。  
コンドル / 英人。露人ニコライが伝えたギリシア正教(日本ハリストス正教会)の本部たる神田のニコライ堂を設計。他、鹿鳴館の設計も担当。  
片山東熊 / 赤坂離宮(現在の迎賓館)の他、奈良・京都国立博物館も設計。他の建築家としては、第一国立銀行を設計した清水喜助などが有名。  
田辺朔郎 / 西洋の土木技術を用いて琵琶湖疎水工事を完遂。関門トンネル計画を立案した人物としても有名。  
明治時代の思想の概要及び思想家  
明治初期に急速に流入した西洋思想の根底は、人間は元来自由平等であり幸福を求める権利を有する、とする天賦人権説であり、主としてフランス流の共和主義と英国流の個人主義・自由主義を含有する功利主義に大別される。これらの天賦人権説は自由民権運動の理論的支柱となったが、やがて欧化政策への反発から特に明治20年代以降国粋主義(国粋保存主義)が高揚し、民族主義・国家主義が興隆を見せた。  
中江兆民 / ルソーの『社会契約論』の一部『民約論』を訳して『民約和解』を発行、モンテスキューらの共和主義を紹介。『東洋のルソー』と称される。  
植木枝盛 / 『民権自由論』を著し、著書『天賦人権論』で知られる馬場辰猪らと共に自由民権運動のアジテーターとなる。  
中村正直 / ミルの『自由論』を基にした『自由之理』や、スマイルズの『自助論』を基にした『西国立志編』を著し、『日本開化小史』の著者田口卯吉、そして福沢諭吉らと共にスペンサーや「最大多数の最大幸福」を提唱したベンサムらの功利主義を蔓延させる。  
福沢諭吉 / 適々斎塾出身。慶應義塾を創設。『文明論之概略』『西洋事情』『通俗民権論』『通俗国権論』『学問ノスゝメ』『福翁自伝』など著書多数。特に『脱亜論』については今日の日本をめぐる近隣諸国情勢においても通用する有用な論が見受けられることで知られている。  
森有礼 / 薩摩藩出身。1873年、福沢諭吉・中村正直・田口卯吉・西周・神田孝平・西村茂樹・津田真道・加藤弘之らと共に啓蒙思想団体の明六社を創設。機関誌『明六雑誌』は新聞紙条例・讒謗律などで抑圧され43号で廃刊、1879年に事実上解散。開成所出身者の巣窟だった。  
加藤弘之 / 『隣艸』で西洋の立憲政治を紹介、また『真政大意』『国体新論』などで天賦人権説を主張、初代東京大学総理に就任。後にダーウィンの生物進化論を進歩させた社会進化論に基づいて『人権新説』を著し、適者生存・優勝劣敗の立場から国権論に賛同、民権論を否定した。  
西村茂樹 / 日本弘道会を設立して皇室中心主義の国民道徳興隆に尽力、『日本道徳論』を著す。日本国粋主義の祖。  
徳富蘇峰 / 米人教諭ジェーンズの影響で熊本バンドが結成された熊本洋学校の出身。民友社を結成して『国民之友』『国民新聞』を創刊、平民主義を提唱するも、三国干渉を機に国権論に転向、『将来之日本』『新日本之青年』『大日本膨脹論』などを執筆。  
三宅雪嶺 / 『真善美日本人』の著者。『日本風景論』『南洋時事』の著者志賀重昂、裕仁親王に倫理学を進講した杉原重剛らと共に1888年に政教社を結成、機関誌『日本人』で国粋主義を提唱。これにより国粋主義が特に高揚。  
高山樗牛 / 『滝口入道』で文壇登場、『太陽』で日本主義を主張。この他、『日本』を著して国民主義(国家独立と国民統一)を訴えた陸羯南も有名。  
大西祝 / 基督教徒。内村鑑三不敬事件に関連して基督教を論難した井上哲次郎を批判。他、『巌頭之感』を残して華厳の滝で自殺した藤村操も有名。  
祭政一致政策  
明治政府は神祇官を復活させて太政官よりも上位としたり、神仏分離令(神仏判然令)を施行して神仏混淆を禁止したりした。神仏分離令は神道を臣民教化の超宗教と位置付けるべく下されたが廃仏毀釈運動を勃発させた。反対する浄土真宗大谷派は三河国や越前国で護法一揆を起こしたが、潰された。この後、衰退した仏教界は浄土真宗僧島地黙雷が立て直した。また1870年に皇道宣布運動の一環として神仏分離令と同様の目的で下された大教宣布の詔では、既設の宣教使に加えて教部省を設置することが規定され、教部省の内部に大教院を設置して神官や僧侶を教導使に任命し、臣民を教化していく方針が示された。また政府は神道13派(天理教・金光教・黒住教・扶桑教・実行教・御嶽教・禊教・神習教・神理教・大成教・神道大教・出雲大社教・修正派)を教派神道と定め、神社神道についてもこれを国家神道として保護する一方、官幣社・国幣社などの社格制度に代表される神社制度も制定した。戊辰戦争後の戦没者慰霊のために建立された招魂社(靖國神社)は別格官幣社である。さらに1873年には皇室の祭典日として新年節(1月1日)や紀元節(2月11日=神武天皇即位日)、天長節(11月3日=明治天皇生誕日)や春季皇霊祭・秋季皇霊祭などが規定された。なお、明治天皇の六大巡幸は1872年から実施された。  
教育  
1 学制の公布  
文部省は1872年に太政官布告214号『学事奨励に関する被仰出書』を下し実学尊重・国民皆学・教育機会均等などの基本方針を発表し、翌日に学制を公布した。学制はフランス式のもの、即ち全国を八大学区(実際は七大学区)に分割する画一的且つ中央集権的なものであり、これにより近代的な国民教育の建設を企図していた。だが教育費が国民負担だったため農民一揆を誘発し、結局実施が多少困難になった。学制では、文部省が編纂した『小学読本』や福沢諭吉の著書『世界国尽』などを教科書として用いる小学校(日本初の小学校は京都上京第27番組小学校)の他、下等中学校・上等中学校、そして昌平学校に開成学校・医学校を統合した大学校(大学)が規定された。このうち大学はやがて廃止され大学南校と大学東校となったが、再統合されて東京大学となり、さらに工部大学校や東京農林学校も統合した。なお、この時代の教員は師範学校や女子師範学校で養成された愛国者が多かった。  
2 愛国心教育への改善  
国教主義者元田永孚(もとだながざね)が起草した教育聖旨は1879年に公布され、天皇中心・仁義忠孝の徳育が教育の至上の目的とされた。同年には米国式の自由主義的な教育令により学区制が撤廃されたが、翌1880年には中央集権的な改正教育令が施行され、やがて1886年には文部大臣森有礼が学校令を下し、国家主義に基づく教育体制を確立した。学校令は帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令の総称である。これにより東京帝国大学などが設置された。また上等中学校・下等中学校は高等中学校・尋常中学校に改められ、後の高等学校令で高等学校・中学校に改められた。小学校令では高等小学校と4年間(後に6年)の義務教育制の尋常小学校が設けられた。なお女子の高等普通教育の制度化は、1899年の高等女学校令により為された。  
3 教育を巡る諸事件  
家族国家観に基づき儒教的な忠君愛国の実践者の育成を教育の至上の目的と定めた教育勅語は、井上毅と元田永孚の起草で第1回帝国議会の開催直前の1890年に発布された。だが1891年の教育勅語奉戴式に際し『余は如何にして基督信徒となりし乎』などの著作で知られる無教会主義者の第一高等中学校教諭内村鑑三が、御名に敬礼しないという内村鑑三不敬事件を起こした。この事件に対し日本主義者井上哲次郎は『教育ト宗教ノ衝突』という論文で基督教を攻撃し、さらに仏教的国粋主義者の井上円了も批判を強めたため、基督教は衰退した。一方、当初の教科書検定制度は1902年の教科書汚職事件を機に文部省編纂の国定教科書制度に変更され、日本歴史と修身の中で忠君愛国を説く世界標準的な体制が整備された。  
4 代表的な学校  
英吉利法律学校 / 英国法学系の学者たちが創設。後の中央大学。一方、フランス法学系の学者たちは関西法律学校(後の関西大学)を創設。  
慶應義塾 / 1858年に蘭学塾として福沢諭吉が創設、1868年に命名。  
東京専門学校 / 1882年に在野時代の大隈重信が創設。1902年に改名、早稲田大学となる。  
東京高等商業学校 / 商法講習所が起源。現在の一橋大学。一方、官立の東京職工学校が起源の東京高等工業学校は後の東京工業大学。  
女子英学塾 / 岩倉遣外使節の津田梅子が創設。後の津田塾大学。なお私立大学や専門学校は1903年の専門学校令で制度化。  
同志社 / 新島襄。後の同志社大学。この他、岸本辰雄の明治法律学校(明治大学)、山田顕義の日本法律学校(日本大学)なども有名。  
明治学院 / ヘボン式ローマ字の発明で知られる米人ヘボンが創設。後の明治学院大学。この他、井上円了の哲学館(後の東洋大学)も有名。  
明治時代の学問  
北里柴三郎 独人コッホの門弟。伝染病研究所の設立や破傷風・ジフテリアの血清療法発明やペスト菌発見などの功績で知られる。この他、細菌学者としては、独人エールリヒと共に梅毒治療薬サルバルサンを開発した秦佐八郎や、赤痢菌を発見した志賀潔らが有名。  
高峰譲吉 消化薬タカジアスターゼと強心剤アドレナリンを創製。この他、オリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功した鈴木梅太郎や、桜井錠二も有名。  
下瀬雅允 / 下瀬火薬(ピクリン酸爆薬)を開発。下瀬火薬は日露戦争で威力を発揮した。  
木村栄 / 地球物理学にてZ項を発見した。この他、物理学者としては地磁気を測定した田中館愛橘や原子構造を研究した長岡半太郎も有名。  
大森房吉 / 大森公式を発見、地震計を考案。政府は関東大震災の後に地震研究所を設置して地震学を発展させた。  
河口慧海 / 日本人初のチベット入りを果たした。日本人初の南極上陸は白瀬矗が達成。この他、植物学者の牧野富太郎も有名。  
久米邦武 / 岩倉遣外使節に同行、『米欧回覧実記』を著す。重野安繹と共に後に『大日本史料』『大日本古文書』を編纂する帝国大学史料編纂掛を創設。1891年、論文『神道は祭天の古俗』で神道を侮辱したため、神道家・国学者らの攻撃を受け帝大教授を引責辞職して終わった。  
喜田貞吉 / 法隆寺再建論者。文部省編修官在任中の1911年に、編纂を担当した『尋常小学日本歴史』の中の南北朝併立の記述が国会で南北朝正閏論として問題化し、休職処分となった。この後、教科書の記述は吉野朝正統に修正された。  
メッケル / 陸軍大学校教官として日本に独式軍制を導入。前述以外の外国人教師(御雇外国人)としては、独人医師ベルツ、英人地震学者ミルンらの他、日記『日本その日その日』でも知られるモースなどが有名。  
ジャーナリズムの勃興  
『横浜毎日新聞』 / 長崎通詞本木昌造が発明した鉛製活字を利用して、島田豊寛が1870年に発刊した日本初の日刊邦字新聞。  
『東京日日新聞』 / 条野伝平らが刊行。後に岸田吟香・福地源一郎らが入社、長州閥の御用新聞即ち立憲帝政党の機関紙となる。  
『郵便報知新聞』 / 矢野文雄・前島密らが刊行。『朝野新聞』と共に立憲改進党の機関紙となるが、やがて『報知新聞』となり大衆化。  
『万朝報』 / 黒岩涙香が発刊した政治評論を中心とする大新聞。日露戦争の前まで、幸徳秋水・堺利彦らが記者として在籍。黒岩涙香はビクトル=ユゴーの長編小説『レ=ミゼラブル』の邦訳『噫無情』でも知られている。  
『読売新聞』 / 読売瓦版が進歩した小新聞の元祖。子安峻が創刊。大正末期、正力松太郎の下で急成長。現在は発行部数日本一。  
『朝日新聞』 / 村山龍平が初代社長。後に星亨の『めざまし新聞』を乗っ取り『東京朝日新聞』を創刊、元の方を『大阪朝日新聞』とする。米騒動の際に不穏当な記事を掲載、村山龍平・鳥居素川・長谷川如是閑・大山郁夫・丸山幹治らが辞職(白虹事件)。関東大震災では流言飛語の伝播媒体となり社会不安を煽った。1940年に合併。終戦後はサンゴに傷をつけるなどの捏造報道を展開し、今日に至る。 
『時事新報』 / 福沢諭吉が独立不羈・不偏不党の立場から発刊。この他、本山彦一は『大阪毎日新聞』を刊行。  
『東京経済雑誌』 / 日本初の経済誌。田口卯吉が主宰。この他、巌本善治は『女学雑誌』を刊行。滝田樗陰は『中央公論』の基礎を築く。  
芸術  
岡倉天心 / 岡倉覚三。フェノロサと共に東京美術学校(後の東京芸術大学)を設立する一方、英文で『日本の目覚め』『茶の本』『東洋の理想』を著す。  
狩野芳崖 / 狩野雅信の門弟、近代化に尽力。死の直前『悲母観音』を著す。『龍虎図』で有名な橋本雅邦は同門。『落葉』の菱田春草は橋本雅邦の門弟。  
浅井忠 / 工部美術学校の伊人フォンタージが基礎を築いた洋画界にて、小山正太郎と初の洋画団体である脂派の明治美術会を創設。『収穫』で有名。  
黒田清輝 / 『湖畔』で有名。久米桂一郎と共に紫派の白馬会を結成。『海の幸』で知られる青木繁や、岡田三郎助・和田英作・和田三造らは白馬会。  
ビゴー / ポンチ絵で知られる風刺漫画雑誌『トバエ』の発行者。第二次山県内閣の時国外追放。ポンチ絵はワーグマンの『ジャパン=パンチ』が端緒。  
高村光雲 / 『老猿』を制作。木像では竹内久一・石川光明が、また工部美術学校の伊人ラグーザが導入した洋風彫刻では『女』の作者荻原守衛が有名。  
福地桜痴 / 福地源一郎。歌舞伎座を計画。歌舞伎座では九代目市川団十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左団次が活躍、全盛期「団菊左時代」を現出。  
川上音二郎 / 自由民権運動のためオッペケペー節で知られる壮士芝居を創始。角藤定憲らが演ず。『板垣君遭難実記』は大流行。壮士芝居は新派劇に発展。  
島村抱月 / 新劇指導者。片桐且元を描いた戯曲『桐一葉』で有名な坪内逍遥と共に文芸協会を、後に近代的女優の祖である松井須磨子と芸術座を結成。  
伊沢修二 / 文部省音楽取調掛を設置、後に東京音楽大学を創立。唱歌教育を推進。滝廉太郎は『荒城の月』『箱根八里』『花』などを作曲して活躍。 
3 自由民権運動  
岩倉遣外使節 
(1871年〜1873年 / 征韓論政変へ)  
右大臣岩倉具視を特命全権大使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳を副使とする岩倉遣外使節は、欧米の諸制度や議会の視察という目的の他に条約改正の予備交渉という意味も含んで派遣された。派遣中の留守政府は太政大臣三条実美と参議の西郷隆盛・大隈重信・板垣退助らが取り仕切ったが、山城屋和助事件などへの対応に苦慮した。欧米に条約改正を拒否され帰国した使節たちは日本の内地改良を唱えたが、これは朝鮮の大院君が中国を宗主国を仰ぎ鎖国排外政策を執っていたために西郷隆盛らが提唱していた征韓論と激しく対立した。この内治派と征韓派の対立は、1873年の征韓論政変(明治六年の政変)による西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平ら征韓派参議の下野によって決着した。ちなみに岩倉遣外使節には帰国後に『三酔人経綸問答』を著した中江兆民や『米欧回覧実記』を著した久米邦武の他に、津田梅子・上田悌・永井繁・山川捨松・吉益亮子ら五名の女子留学生も同行した。  
民撰議院設立建白書  
(1874年 / 国会開設運動の端緒)  
征韓論政変で下野した征韓派は徴兵令・学制・地租改正などに反発して頻発していた農民一揆などの反政府運動と結合し、天賦人権説などの西欧思想を理論的支柱とする自由民権論を提唱し、自由民権運動を開始した。板垣退助は共に下野した後藤象二郎・副島種臣・江藤新平に由利公正・小室信夫(こむろしのぶ)・岡本健三郎・古沢滋らを加えて高知県に日本初の政治結社たる愛国公党を設立し、藩閥有司専制政治即ち大久保利通らによる高級官僚政治に反対する旨を明記した民撰議院設立建白書を左院に提出した。これは反政府感情の吐露とも言えるが、英人ブラックが刊行者なので治外法権が通用する新聞『日新真事誌』に掲載されたため自由民権運動の初期段階たる国会開設運動が興隆する契機となった。なお明治政府は当初自由主義的な政策を執っていたが、自由民権運動を抑圧する必要性や、西欧文化の急速且つ表面的な流入に対する日本の伝統文化の再認識の必要性から、次第に国家主義的な政策へと転換していった。  
大阪会議  
(1875年 / 自由民権運動への懐柔策)  
愛国公党は江藤新平が佐賀の乱で刑死したため解散されたが、板垣退助は植木枝盛・林有造らと共に片岡健吉を社長として立志社を1874年に高知に創立した。これを契機として、福島の河野広中の三師社・石陽社、東京の沼間守一の嚶鳴社、熊本の松山守善の相愛社、福井の杉田定一の自郷社などの政社が各地に創立され、翌1875年には日本初の自由民権運動の全国組織たる愛国社が板垣退助らによって大阪に結成された。大久保利通は征韓論政変や征台の役以後停滞していた政治状況を打破するべく台湾出兵に抗議して下野した木戸孝允や板垣退助との大阪会議を伊藤博文と井上馨の斡旋で行った。この結果、政府は左院に代わる立法機関元老院と司法機関大審院を設置する一方、木戸孝允の要求を容れて立憲政体樹立の詔を下し、国会開設の準備のための地方官会議の開催を約束した。これにより板垣退助と木戸孝允が参議に復帰し、同1875年には讒謗律と新聞紙条例が施行されたため愛国社は衰退した。  
自由民権運動の興隆  
西南戦争の後に不平士族が言論活動に転じたことで尚更の発展を見た自由民権運動は、各地の政社の他、1878年に制定された地方行政三新法の中の府県会規則に基づき設置された府県会を初め、区会・区戸長会・町村会などの民心慰撫のため設置された民会での民撰議員の活動により更に興隆した。愛国社の衰退後も活動を続けていた立志社の片岡健吉は失政八箇条を記した『立志社建白』の明治天皇上奏を企てて失敗したが、これにより具体的且つ統一的な目標、即ち政治的には国会開設、経済的には地租軽減、対外的には条約改正が定まったため自由民権運動は更に本格化した。また片岡健吉は河野広中と共に愛国社を1878年に再興、1880年の第四回大会で国会期成同盟と改称し、全国87000人の署名を添付した国会開設請願書を太政官に提出した。だが伊藤博文ら政府首脳はこれを却下する一方、すぐに政談演説会などを取り締まるための集会条例(後の集会及政社法)を公布して自由民権運動への弾圧に乗り出した。  
明治十四年の政変 
(1881年 / 薩長藩閥専制体制が確立)  
北海道開拓使長官黒田清隆は、「黒田王国」とも称される北海道の官有の工場・官舎・牧場・鉱山などを安価且つ無利息30年賦で薩摩出身の政商五代友厚(五代才助)が経営する関西貿易社(関西貿易商会)に払い下げることを企てたが、1881年に一連の計画が報道されると世論は沸騰した。この北海道開拓使官有物払下事件により国会開設運動は一気に激化したため、政府は明治二十三年国会開設の勅諭の公布する一方、三井組に資金を出させて板垣退助と後藤象二郎を洋行させたり、翌1882年に集会条例を改正して抑圧を強めたりして対処した。一方、政府内でも即時開設派の大隈重信が二年後の国会開設を訴える国会開設意見書を左院に提出して時期尚早派の伊藤博文と対立していたが、福沢諭吉率いる三田派をブレーンとする大隈重信の考えが民権論に通じることを嫌悪した岩倉具視は大隈重信に機密漏洩の罪を着せて政府から追放した。この政変で肥前閥の巨頭大隈重信が失脚したため、薩長藩閥専制体制が確立された。  
政党の結成  
『自由党盟約』でフランスの急進的民権思想に基づく主権在民・民約憲法・一院制・普通選挙制などを主張する自由党は、後に『自由党史』を著した初代総理の板垣退助が植木枝盛らを誘い国会期成同盟の後身として1881年に結成し、機関紙『自由新聞』を発行して士族・農民・商業資本家などの支持を得たが、後に中江兆民・大井憲太郎ら左派は西園寺公望の『東洋自由新聞』を機関紙とする東洋自由党を創設した。一方、英国の穏健的立憲思想に基づく立憲君主制・二院制・制限選挙制・国権拡張などを提唱した立憲改進党は、翌1882年に初代総理の大隈重信が『国権汎論』の著者小野梓(おのあずさ)や『郵便報知新聞』を機関紙化した矢野文雄(矢野龍溪)らと共に結成し、三田派などの知識層や三菱組などの産業資本家の支持を得た。これに対し同1882年には政府の御用政党として『東京日日新聞』の社長福地源一郎が丸山作楽と共に欽定憲法を主張する立憲帝政党を結成したが、勢力は微弱であり、翌年には政府勧告に従い解党した。  
松方財政  
大蔵卿松方正義は1880年代に不換紙幣の整理を断行し、それに伴う財政の窮乏は酒税(酒造税)・煙草税・地方税などの増税や軍事費以外の緊縮財政政策、さらに政商への官営企業払い下げなどで補填した。松方財政は結果的に猛烈なデフレを招き、官僚前田正名が著した『興業意見』に記されているように小企業や農民を経済的に圧迫して没落させたが、それに伴う低賃金労働者の発生と相俟って資本主義経済の基盤が確立された。なお自由党は酒屋会議(全国酒造業者大会)を開き、酒造税則是正を求める酒税減税請願書を政府に提出した。一方、松方正義は1882年に唯一の中央銀行として日本銀行を設立して金融界の中央集権化を図り、1885年からは銀兌換銀行券として日本銀行券を発行して正貨兌換を開始したため、銀本位制が確立された。  
自由民権運動の衰退  
1 自由民権運動及び政党の衰退  
概括的な自由民権運動の衰退の原因としては、まず政治的には国会開設を公約して政府が指導者たちを懐柔したこと、経済的には松方財政による不況で運動の支持母体である農民や小地主たちが困窮して分裂したこと、そして対外的には朝鮮半島情勢の緊迫に伴い世論の大勢が民権論から国権論に転換したこと、などが挙げられる。大隈重信は政府が自由党の板垣退助・後藤象二郎らを外遊させた際の資金源を追及したが、逆に自身の三菱組との癒着を自由党に攻撃され、結果的に両党は衰退した。板垣退助が相原尚に襲撃され負傷した1882年の岐阜事件では「板垣死すとも自由は死なず」と喧伝されたものの、自由党は支持母体の農村が松方財政による不況で弱体化し、激化諸事件で党員が失態を演じたため1884年に崩壊した。  
2 激化諸事件(激化諸憂擾)  
主な激化諸事件としては、福島県令三島通庸が地域振興のため行った工事に対し県会議長河野広中ら福島自由党員が農民蜂起を煽動したが鎮圧され投獄された1882年の福島事件をはじめ、潟県頸城の自由党員赤井景韶(あかいかげあきら)が摘発され北陸地方の自由民権運動を壊滅させた1883年の高田事件、妙義山麓で発生した1884年の群馬事件、借金党・負債党の武相困民事件に乗じた田代栄助・井上伝蔵らが自由党の後援で貧農集団困民党を結成し官庁・高利貸・大地主を攻撃した1884年の秩父事件や、栃木県令三島通庸(保安条例施行時の警視総監)の暗殺を企てた河野広鉢が挙兵したが鎮圧され自由党解党の原因となった同年の加波山事件、1884年の名古屋事件の後に愛知県の自由民権派士族村松愛蔵が没落農民と共に長野県で蜂起を計画するも失敗し内乱陰謀罪で処刑された飯田事件、甲申事変後の天津条約に反発した急進派の大井憲太郎・磯山清兵衛・岸田俊子(中島俊子)・景山英子(福田英子)らが朝鮮に開化派の独立党政権を樹立することによる自由民権運動再興を企てたが露顕し摘発された1885年の大阪事件などが挙げられる。こうした動きは、1886年の静岡事件で終焉を迎えた。  
3 大同団結運動の勃発 
(1886年 / 星亨が提唱した統一的反政府運動)  
大阪事件が国権論的要素を含んでいたことからも明白なように、既に自由民権運動は革命的・民衆的要素を失っていた。そんな折、鹿鳴館時代と称される井上馨の極端な欧化政策への批判を端緒として、地租軽減・言論の自由・外交失策挽回を要求する三大事件建白書を片岡健吉が元老院に提出し、三大事件建白運動を起こした。大同団結運動を指導していた後藤象二郎は三大事件建白運動による自由民権運動の興隆を企てたが、1887年の保安条例で中江兆民・尾崎行雄・片岡健吉・星亨ら活動家570名が皇居及び行在所外三里に3年間追放の処分を受けた上、後藤象二郎自身が政策を放棄して1889年に入閣したため、大同団結運動は頓挫した。 
4 大日本帝国憲法  
私擬憲法(政党・政社・民間有志が発表した新憲法案)  
『私擬憲法案』 / 三田派の団体交詢社の矢野龍溪が起草。議院内閣制・国務大臣連帯責任制など英国の制度を模倣したもの。  
『私擬憲法意見』 / 嚶鳴社の沼間守一が起草。内容的には『私擬憲法案』と大差無く、英国流の穏健なもの。  
『東洋大日本国国憲案』 / 植木枝盛が起草。革命権・一院制・連邦制・抵抗権などを認めたフランス流の急進的な案。  
『日本憲法見込案』 / 立志社起草。内容的には『東洋大日本国国憲案』の模倣。内藤魯一は同名の私擬憲法を起草。  
『日本帝国憲法』 / 五日市学芸講談会の千葉卓三郎が発表。『五日市憲法』とも言い、国民の権利の保障を訴える。  
『日本国憲按』 / 元老院が起草(=私擬憲法ではない)。福地源一郎の私擬憲法『国憲意見』と同様、主権在君を訴える。  
憲法制定への準備  
伊藤博文は西園寺公望らと共に独・墺へ渡り、ベルリン大学教授グナイストから憲政の得失、ウィーン大学教授シュタインから君主権が強く専制的なプロシア憲法を学び、帰国した。やがて1884年に伊藤博文は伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎・山県伊三郎・荒川邦武・牧野伸顕と共に憲法草案起草のため制度取調局を宮中に設置し、モッセやロエスレルを顧問として招いた。また同1884年には華族令を施行し、公家や旧大名に加え維新の功臣も華族に列し、全員に爵位(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵)を与え将来の貴族院開設に備えた。1888年には明治天皇の御臨席の下で憲法草案を審議する枢密院が議長伊藤博文以下井上毅・金子堅太郎・ロエスレル・モッセらにより創設されたが、枢密院は後に天皇の政治上の最高顧問機関となり、内閣を左右した。なお軍事上の最高顧問機関は元帥府であり、軍事上の諮詢に答える機関は元帥府の構成員に参謀総長と軍令部長を加えた軍事参議院である。  
内閣制度の発足 
(1885年 / 第一次伊藤内閣)  
内閣制度は憲法公布に先駆けて太政官制を廃止し、制度取調局を内閣法制局として吸収することにより発足した。初代内閣総理大臣は伊藤博文であり、閣僚としては内務大臣山県有朋・大蔵大臣松方正義・外務大臣井上馨・文部大臣森有礼・農商務大臣谷干城・司法大臣山田顕義・逓信大臣榎本武揚・海軍大臣西郷従道・陸軍大臣大山巖・内閣書記官長田中光顕・法制局長官山尾庸三らが名を連ねた。当初、内閣は宮中の対義語「府中」と称された。また宮内省と、天皇補佐・国璽や御璽の管理・宮中顧問官の統轄などを司る内大臣府は宮中と政治の分離のため閣外に設置されたが、黒田内閣の倒壊直後、例外的に内大臣三条実美の宮中内閣が政務を執った。なお初代宮内大臣は伊藤博文が兼任した。一方、元来日本の国土は朝廷・皇室のものであったが、明治時代に入り岩倉具視らが皇室御料地拡大などに奔走した結果明示的な皇室財産は爆発的に増加し、皇室は日本一の地主・資本家となり、大日本帝国憲法の主権在君の理論的な背景の一つとなった。  
大日本帝国憲法  
1 概要  
1889年2月11日、明治憲法は黒田清隆総理大臣により公布、翌1890年11月29日に施行された。冒頭の憲法発布勅語以下7章76条から構成される明治憲法では天皇制が確立された他、三権分立や臣民の権利・義務なども規定されており、近代憲法としての体裁を保持していたが、多数の条文が「法律ノ定ムル所」と制限されていたため、後にこれを根拠として様々な法律が発令される結果となった。明治憲法により日本はアジア初の立憲政治が確立された他、専制政府に対するある程度の規制が為されることとなった。  
2 天皇と臣民  
天皇は第1条で国家元首、第3条で神聖な現人神と規定された他、皇室典範により即位式・皇位継承・皇族の身分及び範囲・摂政の制などが規定されたが、皇室典範は臣民に公布されなかった。また天皇は第4条で三権を統治権として総攬することが規定されたため、統帥権・外交権(宣戦・講和・条約締結)・緊急勅令発令権・戒厳令発令権・文武官任免権などの天皇大権を有していた。一方、天皇の臣民には参政権や生活権が保障され、兵役や天皇大権妨害禁止などの義務が規定された。  
3 三権の規定  
帝国議会は勅任議員(勅選議員と多額納税者議員)・皇族・華族などで構成される貴族院と民撰議員で構成される衆議院の二院制であり、衆議院が予算先議権を有する他は両院平等だったが、議会法に基づき活動する天皇親政の協賛機関だったため、実質的に勅撰の貴族院が優位だった。また議会の予算議定権は第71条で制限され、予算不成立の場合は前年度予算を踏襲することが規定された。一方、内閣は天皇により任命される輔弼機関であり、天皇に対してのみ責任を負ったため帝国議会よりも優位な立場にあり、勅令として法律を施行することもあった。最後に天皇の名の下で司法権を行使する大審院などの裁判所は、軍法裁判所や行政裁判所などの特別裁判所の管轄事項を除く全ての裁判を司ったが、他の二権からは独立していた。  
法典の編纂  
中国の明律・清律や幕府の公事方御定書を参考とした新律綱領や、三年後の1873年にナポレオン法典を参考として五刑撤廃などを定め施行された改定律例は、身分による刑罰の差が見られるなど不備な点が多々有ったが、仏人法学者ボアソナードの起草により1880年に施行された刑法は罪刑法定主義が確立されていた他、不敬罪・大逆罪・内乱罪なども定められていた。後に刑法は厳しい独法系のものに改正された。ちなみに刑事訴訟法たる治罪法もボアソナードが起草し、1880年に施行された。ボアソナードはまたナポレオン法典を参考に民法も起草したが、独法学者穂積陳重・穂積八束と仏法学者梅謙次郎が民法典論争を展開したために施行されなかった。穂積八束が雑誌『法学新報』に掲載した「民法出デテ忠孝亡ブ」などを参考とした政府の法典調査会は1898年、ドイツの民法と戸主権などの家族制度を折衷した所謂明治民法を施行した。民事訴訟法は1890年にドイツの法令を参考に定められた。最後に、商法はロエスレルの起草により1890年に施行されたが、外国法の模倣だったため1899年に改正された。こうして六法は確立されたが、改正された法令が全て官報に掲載されるようになったのは1886年の公文式(こうぶんしき)の公布以後のことである。 
5 立憲政治の展開  
黒田内閣  
内閣総理大臣黒田清隆は憲法公布直後、『牧野伸顕文書』や『明治政史』に見られるような超然主義の演説を行って政党政治を否認し、枢密院議長伊藤博文もこれに同調した。政府は以後日清戦争直前の第六議会まで、この超然主義に基づいて政党に抑圧を加えていった。だが軍事予算を巡り政府と民党(民権論を訴える野党勢力)は初期議会で常に対立し、常に民党側が有利であった。なお黒田内閣は大隈重信外相が条約改正問題を巡り襲撃され負傷したため総辞職した。黒田内閣が明治憲法成立に伴い1889年に初めて公布した衆議院議員選挙法では、選挙権は直接国税(地租・所得税・営業税)15円以上を納める25歳以上の男性にのみ認められ、有権者数は全体の1.1%の45万人程度だった。この制限は、第二次山県内閣の1900年に10円(98万人・2.2%)、原敬内閣の1919年に3円(306万人・5.5%)と緩和され、加藤内閣の1925年には納税額制限が撤廃され1240万人(全体の20.8%)に選挙権が付与されることとなった。1899年に中村太八郎が結成した普通選挙期成同盟(翌年普通選挙同盟会に改組)は、1911年に政府圧力で解散している。なお、『牧野伸顕文書』の牧野伸顕は大久保利通の次男であり、吉田茂の舅である。  
第一次山県内閣  
1890年に行われた第一回総選挙では板垣退助の愛国公党と大井憲太郎の大同協和会と河野広中の大同倶楽部が合同した立憲自由党が130議席、立憲改進党が41議席を獲得、実に300議席中過半数の171議席が民党となった。吏党としては杉浦重剛・元田肇が創立して79議席を得た大成会や5議席を獲得した国民自由党が知られており、他に無所属の45人が政府支持だった。第一議会にて、民党は山県有朋が施政方針演説の中で「主権線以上の利益線(朝鮮半島)」獲得のための軍拡を主張したことに反発、経費節減・地租軽減・民力休養(地価修正)を求めたが、政府は立憲自由党の植木枝盛・竹内綱・林有造ら40名の土佐派を切り崩して予算を成立させた。憤慨した中江兆民はこれを「無血虫の陳列場」と酷評し、衆議院議員を辞職した。  
第一次松方内閣  
第二議会では海軍大臣樺山資紀の藩閥政府を擁護する蛮勇演説も空しく軍艦建造費を削減した予算案が可決されたため、松方正義は初の国会解散を断行した。これに伴う1892年の第二回総選挙では内務大臣品川弥二郎が白根専一を用いて選挙大干渉を実行したが失敗し、引責辞職した。第三議会では選挙大干渉に対する非難で議事が難航した上に軍拡予算が再び否決され、閣内不一致も発生したため、内閣は総辞職した。  
第二次伊藤内閣  
山県有朋・黒田清隆・井上馨らを擁する元勲内閣として発足した第二次伊藤内閣は、日清間の緊張にも拘らず軍拡予算が否決された第四議会を明治天皇が下された宮廷費・文武官俸給削減からなる建艦詔勅(上下和衷共同の詔)で切り抜けた。第四議会では大成会の後継吏党として西郷従道・品川弥二郎・佐々友房らが結成した国民協会が活躍したが、陸奥宗光外相の条約改正交渉と西郷従道の入閣に反発して民党となり、第五議会では立憲改進党や大井憲太郎の大日本協会と共に対外硬六派の対外硬派連合を結成して条約励行を主張したため、政府は国会を解散した。次の第六議会では政府弾劾上奏案が可決されたため、再び国会解散が断行された。  
憲政党の興亡  
1894年に勃発した日清戦争を機に第二次伊藤内閣は自由党の板垣退助を内務大臣に迎えて妥協したが、反発した立憲改進党は立憲革新党や中国進歩党を吸収して進歩党を結成した。やがて松方正義は進歩党党首大隈重信を外務大臣に迎え1896年に松隈内閣たる第二次松方内閣を組閣し、日清戦争の戦後経営として軍備拡張や産業振興に務めたが、進歩党が軍拡予算案に反対したため崩壊した。1898年に組閣された第三次伊藤内閣は地租増徴を柱とする増税案を議会に提出したが進歩党と自由党の反対で否決されたため間も無く総辞職した。これを機に進歩党と自由党は合同して憲政党を結成し、大隈重信を総理兼外務大臣、板垣退助を内務大臣として、軍部大臣を除く全閣僚が憲政党員で独占された日本初の政党内閣たる第一次大隈内閣(隈板内閣)を組閣した。しかし文部大臣尾崎行雄が共和演説事件により失脚すると内閣は崩壊し、大隈重信は憲政党から脱党して立憲改進党系の憲政本党を結成した。  
第二次山県内閣  
憲政党を与党として1898年に組閣した山県有朋は地租税率を2.5%から3.3%に引き上げる地租増徴案や選挙法改正を実現する一方、政党への抑圧を断行した。1899年には文官任用令改正を実施し、政党員の官界介入を防ぐため特別任用を除く全勅任官を高等文官試験に合格した奏任官から任用するよう定め、他にも政権交代の官界波及を防止する文官分限令や、文官懲戒令などを発令して官僚政治を確立した。1900年には社会運動を規制するため讒謗律・新聞紙条例・集会及政社法・保安条例などの集大成と言える治安警察法を制定した。また同1900年には政党員の軍部介入を禁止するため軍部大臣を現役の大将か中将から任用する軍部大臣現役武官制を法制化したが、これは軍部の内閣人事介入に伴う国政への影響力を増大させてしまう結果となった。なお北清事変への参加も、この第二次山県内閣により断行された。  
第四次伊藤内閣  
伊藤博文・黒田清隆・山県有朋・松方正義・桂太郎・西園寺公望・井上馨・西郷従道・大山巖といった9名の元老は、明治天皇の詔勅で任命された非公式の最高諮問機関であり、明治時代の首相を元老会議で決定していた。伊藤博文が分裂後の憲政党幹部星亨と交渉した結果1900年には伊藤博文自身を初代総裁とする立憲政友会が結成され、翌月には立憲政友会を与党とする第四次伊藤内閣が成立した。立憲政友会成立に対し旧自由党左派の幸徳秋水は『万朝報』に「自由党を祭る文」を掲載し、旧自由党員の政府との妥協を批判した。第四次伊藤内閣は外務大臣加藤高明の下、日英同盟へ向けて従来の外交方針を転換したが、渡辺国武による渡辺子爵事件や憲政本党の島田三郎が『毎日新聞』で追及した結果利光鶴松が起訴されて星亨逓相が辞職に追い込まれた東京市会収賄事件などにより総辞職に追い込まれた。総辞職直後の1901年には、非合法ではあるものの日本初の社会主義政党である社会民主党が叩き潰された。 
6 明治初期の外交  
日清関係  
寺島宗則の尽力により1871年に伊達宗城と李鴻章の間で締結された日清修好条規は、通商章程と海関税則を含み領事裁判権・関税率最低などを相互承認した日本初の対等条約だった。しかし日清関係は同1871年の琉球王国の鹿児島県編入とその直後に清が台湾に漂着した琉球漁民66名中54名を殺害した琉球漁民殺傷事件、さらに翌1872年の琉球藩設置と藩王尚泰の華族化などにより次第に緊迫していった。琉球漁民殺傷事件への清の責任逃れに対し国内には征台論が発生し、1874年には西郷従道・赤松則良・谷干城らにより明治政府初の対外進出たる台湾出兵(征台の役)が強行された。台湾出兵は英駐清公使ウェードの調停により清が50万両(テール)の賠償金を支払って決着したが、1879年に日本が琉球処分(首里城藩王府を接収し琉球藩を沖縄県とする)を断行すると琉球の宗主権を主張する清との間に琉球帰属問題が発生した。日本側は懐柔策として先島諸島(さきしましょとう)の割譲を図ったが、分島問題として世論が沸騰したため挫折し、米大統領グラントの調停も事態の悪化に終始し、結局日清戦争での日本の勝利により解決された。なお沖縄県の近代化は人頭税の存続などの旧慣温存策により遅れたが、1899年には活動家謝花昇(じゃはなのぼる)が沖縄倶楽部を結成し、参政権などを要求した。  
日朝関係  
征韓論は征韓論政変で一応の終結を見たが、1875年には帝国海軍所属駆逐艦「雲揚」が朝鮮半島の漢江河口の江華島に飲料水補給のため接近した際、同島砲台(永宗城)から突如砲撃を受けたためこれを報復占拠する、という江華島事件が勃発した。この事件を受けて黒田清隆と井上馨が朝鮮政府と交渉した結果、釜山・仁川(じんせん)・元山(げんざん)の開港と日本の領事裁判権・無関税特権などが規定された日朝修好条規(江華条約)が1876年に締結され、朝鮮の鎖国体制は崩壊した。  
日露関係  
1854年の日露和親条約では得撫・択捉間が国境、樺太は雑居地とされていたが、駐露公使榎本武揚・外務卿寺島宗則が全権としてロシアと交渉した結果、1875年には樺太・千島交換条約が締結され、樺太がロシア領、千島列島が日本領と定められた。故に北方四島を含む千島列島は日本固有の領土である。一方、1593年に小笠原貞頼が発見した小笠原諸島は1875年に日本領として宣言され、米・英などの諸国もこれを承諾した。  
条約改正交渉の進展  
1 寺島宗則の交渉  
安政の五ヵ国条約の是正を図る条約改正交渉は1871年の岩倉遣外使節の派遣に始まるが、適々斎塾出身で薩英戦争時に英国に連行された経歴を持つ外務卿寺島宗則は、1878年に米国との間で関税改定約書(所謂吉田・エバーツ条約)を調印した。だが、これは独・英の反対で発効しなかった上、独船ヘスペリア号による検疫無視事件や英商人ハートレーのアヘン密輸事件が発生したため、交渉は暗礁に乗り上げた。  
2 井上馨の交渉  
外務卿と第一次伊藤内閣の外務大臣を歴任した井上馨は秘密外交の方針に基づき、1882年には各国代表を集めた予備会議、1886年には第一回条約改正会議を開催して外国人判事任用や外国人の内地雑居(内地全開)を条件とした関税自主権一部回復と領事裁判権一部撤廃の承諾を取り付けた。他方、井上馨は円滑な交渉進展を目指して日比谷に音楽会や舞踏会のための鹿鳴館を1883年に建設し、鹿鳴館時代と称される極端な欧化主義政策を執った。しかし谷干城やボアソナードが外国人判事任用に反対した上、世論の反発も強まったため、井上馨は辞職に追い込まれた。  
3 大隈重信の交渉  
日本人乗客23名を見殺しにした英人乗員が治外法権のため禁錮刑で許された1886年のノルマントン号事件は、条約改正賛成の世論を高めた。黒田内閣の外務大臣大隈重信は、国別の秘密交渉で外国人判事任用を大審院に限るなどの案を提示したが、1889年にこの案がパーマーにより『ロンドン=タイムズ』に掲載されると反対運動が激化した。やがて、平岡浩太郎が創立した向陽社の後身として頭山満(とうやまみつる)が結成した右翼結社玄洋社の構成員来島恒喜(くるしまつねき)による爆弾テロで大隈重信自身が負傷して辞職したため内閣総辞職に至り、交渉は中断され、外国人判事任用も断念された。  
4 青木周蔵の交渉  
第一次山県内閣と第一次松方内閣の外務大臣を務めた青木周蔵は、英国から治外法権撤廃の承諾を得たものの、1891年の大津事件の責任をとって辞任した。大津事件とは、来日中のロシア皇太子ニコライ=アレクサンドロウィチ(後のニコライ2 世)を警備中の巡査津田三蔵が襲撃した事件である。松方正義はロシアに謝罪する一方、津田三蔵の死刑を求めたが、大審院長児島惟謙(こじまいけん)は担当裁判官に命じて無期徒刑とした。これは司法府独立を示す好例であるが、裁判官個人の司法権独立に反するものである。  
5 陸奥宗光の交渉  
榎本武揚の後継として第二次伊藤内閣の外務大臣となった陸奥宗光は青木案を踏襲して交渉を進め、ついに日清戦争直前の1894年には駐英公使青木周蔵の尽力により領事裁判権撤廃や関税自主権一部回復が定められた日英通商航海条約締結に成功し、他の欧米14ヵ国もこれに追随した。五年後に施行された通商航海条約は国定関税制であり、各国の特産輸出品には協定税率が承認されていた。陸奥宗光は外交回想録『蹇蹇録(けんけんろく)』を著したが、彼は『大勢三転考』で知られる伊達千広の息子である。  
6 小村寿太郎の交渉  
大隈重信・西徳二郎・青木周蔵らの後継の外務大臣小村寿太郎は1911年、第二次桂内閣時の第二次条約改正による日米新通商航海条約で関税自主権を完全に回復した。条約改正交渉成功の原因としては、資本主義発達に伴う国力の充実や六法編纂による立憲・法治国家体制の確立、それに日清・日露戦争勝利による国際的な地位向上、またロシアの南下に対抗するための英国の日本への接近、などが挙げられる。 
7 大陸への進出  
朝鮮事変  
江華条約締結後、朝鮮政界は革新的な親日派と保守的な親清派に分裂していた。国王高宗(李太王)の父で親清派の守旧党を率いる大院君は摂政として排外主義を展開したが、王妃の閔妃(びんひ)率いる親日派の開化党との政争に敗れたため1882年に漢城に於いて壬午事変(壬午軍乱・第一次京城事変)を起こして日本公使館を襲撃し、軍事顧問の塚本礼造を惨殺した。駐朝公使花房義質(はなぶさよしとも)の緊急帰国を受けた日本政府は軍隊を派遣して乱を鎮圧した。実権を掌握していた大院君は日朝戦争を恐れる清の李鴻章の命令を受けた北洋艦隊提督丁汝昌により天津に軟禁されたが、日本は済物浦条約(さいもっぽじょうやく)を締結して賠償金と公使館守備兵駐留権を獲得した。また清は漢城に袁世凱を派遣した。親清派に転じた閔妃はやがて事大党を結成したが、これに対抗する金玉均(きんぎょくきん)・朴泳孝(ぼくえいこう)ら親日派は独立党を創立、清仏戦争での清敗北を契機として1884年、駐朝公使竹添進一郎の支持を得て甲申事変(第二次京城事変)を起こした。これは清軍の介入で事大党の勝利に終わったが、朝鮮政府は漢城条約(京城条約)を締結し、日本に謝罪して雀の涙程の賠償金を支払った。また日清間では1885年、伊藤博文・李鴻章の間で、軍の撤収・軍事顧問や教官の派遣禁止・出兵時の相互通知などを規定した天津条約が締結された。この後、日本では天津条約に反発する大阪事件が発生した他、福沢諭吉が現代にも通用する名論として知られる国権論的な『脱亜論』を『時事新報』に発表して脱亜入欧を訴えた。また朝鮮政府は日本への復讐として1889年、凶作を建前として大豆や米の対日輸出禁止を定めた防穀令を発令した。日本政府の抗議でこれは翌年撤回され朝鮮政府は四年後に損害賠償を支払ったが、この防穀令事件に対し清が宗主権を理由に抗議したため、日清間は再び緊迫した。  
日清戦争 
(1894年〜1895年 / 皇軍圧勝)  
1 甲午農民戦争  
(1894年 / 日清戦争の端緒)  
崔済愚(さいせいぐ)が創始した民族宗教の東学(旧教たる西学の対義語)の信徒は朝鮮政府の悪政に反発し、幹部の全準の指導の下に「斥倭洋倡義」を掲げ、朝鮮南部で一斉に蜂起した。この甲午農民戦争(東学党の乱)は全国の農民の蜂起を招いたため朝鮮政府は清に救援を仰いだ。清は日本に通告して出兵したが、第二次伊藤内閣は清が恣意的な朝鮮の内政改革を行うことを危惧し、日本軍を出撃させた。日清両軍により反乱は鎮圧されたが、日本が提示した朝鮮の内政改革案を清が無視したため、やがて日清両国による朝鮮支配権帰属問題にまで波及し、ついに軍事衝突に至った。なお衝突の一週間前には駐朝公使大鳥圭介の命令で帝国陸軍が朝鮮王宮占領事件を起こし、親清派の高宗を景福宮に襲撃して拉致して閔妃を追放し、親日派の金弘集政権を樹立していたが、これは日清戦争の遠因となった。  
2 戦争の経過  
大日本帝国は戦時大本営条例に基づき広島に最高統帥機関大本営を設置した。帝国海軍はまず1894年に仁川港外の豊島沖海戦で大艦巨砲主義に堕落していた清国艦隊に快勝した。また村田経芳(むらたつねよし)考案の新式歩兵銃村田銃を標準装備した帝国陸軍は成歓の戦いや牙山の戦いで連戦連勝し、平壌の戦いに圧勝して朝鮮半島からの清国陸軍駆逐に成功した。帝国海軍は同じ頃の黄海海戦に於いて清国海軍の主力北洋艦隊を粉砕し、帝国陸軍は旅順口を占領した。翌1895年には山東半島の北洋艦隊母港である威海衛が陥落し、遼東半島の完全制圧も成り、帝国の完全勝利が決定した。  
3 下関条約  
(1895年 / 日清講和条約・馬関条約)  
日本側全権伊藤博文・陸奥宗光と清側全権李鴻章・李経方・伍廷方が下関の春帆楼で行った日清講和会議で締結された下関条約では、清の宗主権放棄による朝鮮独立の承認、賠償金2億両(約3億1千万円)の日本への支払い、遼東半島・澎湖諸島(ほうこしょとう)・台湾の日本への割譲、揚子江沿岸の沙市(さし)・重慶・蘇州・杭州の開市開港、日本船の揚子江航行権承諾、日本への最恵国待遇、などが定められた。また1896年の日清通商修好条約では日本の領事裁判権・協定関税制・租界設定権が規定された。この下関条約で得た賠償金は日清戦争遂行費たる約2億円を軽く上回る額であったが、これは主に軍事拡張費・教育基金・皇室費などに充てられた。下関条約による割譲に反発した台湾省の台湾巡撫唐景ッ(とうけいすう)は邱逢甲(きゅうほうこう)に唆され台湾民主国の独立を図ったが、日本軍の誅伐と台湾総督府設置により鎮圧された。初代台湾総督樺山資紀は1896年に制定された台湾総督府条例に基づき軍政を行ったが、植民地経営は後に台湾総督府官制が制定され、民政長官後藤新平が赴任することにより軌道に乗った。  
4 三国干渉 
(1895年 / そして復讐へ)  
下関条約の六日後、日本領遼東半島が自国の満州侵略を妨げると判断したロシアは、露仏同盟を結んでいたフランスと、ロシアの対欧州侵略を懸念するドイツを誘い、日本に対し遼東半島の清への返還を要求した。第二次伊藤内閣は三度の要求に屈し、遼東半島還付条約を締結してしまったが、国民の間では理に叶わぬ要求を貫徹したロシアに対する敵愾心が高揚し、『史記』の中の名文句「臥薪嘗胆」が三宅雪嶺の『日本』に掲載されて以来反露スローガンとなった。政府は国民感情を背景として、ロシアを仮想敵国とした軍拡に努力していった。なお朝鮮では閔妃がロシアと結託したため、三浦梧楼(みうらごろう)らが1895年に閔妃殺害事件を実行した。  
支那分割  
日清戦争で敗北した「眠れる獅子」たる清に対し、帝国主義政策を執る欧米諸国は、租借・借款供与・鉄道敷設権獲得という形で分割を開始した。まずロシアは長城以北と遼東半島の旅順・大連を獲得し、ドイツは山東省を得て膠州湾(こうしゅうわん)に東洋艦隊の基地として青島を造営した。英国はこれに対抗するため山東半島の威海衛を租借した他、香港の対岸の九龍半島(現在の新界)や長江流域も獲得した。フランスは仏印に隣接する雲南・広東・広西の一帯を獲得し、広州湾を根拠地とした。また大統領モンローが1823年にモンロー宣言を発表して以来モンロー主義に則って対外侵略を慎んでいた米国は、国務長官ジョン=ヘイが門戸開放覚書を1899年に発表し、領土保全・門戸開放・機会均等といった通商の自由を求める三原則を清に突き付けた。こうして欧米諸国が恣意的な侵略を続ける中、日本が手に入れたのは台湾のみであり、福建省は他国への不割譲を確約させただけ、という非常につつましいものであった。  
日露戦争 
(1904年〜1905年 / 世界史上初の帝国主義国家間直接戦争)  
1 非戦論と主戦論  
反戦論・非戦論は、『万朝報』を退社した直後の幸徳秋水や堺利彦らが1903年に結成した平民社の『平民新聞』や、「二つのJ」主義で知られ基督教的人道主義を主張した内村鑑三らによって唱えられた。他にも『明星』に「君死にたまふこと勿れ」の一節で有名な反戦詩「旅順口包囲軍の中にある弟を歎きて」を発表して大町桂月(おおまちけいげつ)と論争を展開した与謝野晶子や、『太陽』に反戦詩「お百度詣で」を発表した大塚楠緒子、さらに『火の柱』『良人の自白』を著した木下尚江らも反戦論者である。逆に主戦論者としては、対外硬同志大会を開催した対露同志会の近衛篤麿や頭山満、それに1903年に七博士意見書を第一次桂太郎内閣に提出して毅然とした外交態度を求した戸水寛人(とみずひろんど)・富井政章(とみいまさあきら)・金井延(かないのぶる)・小野塚喜平次・高橋作衛・寺尾亨・中村進干ら東大七博士、などが挙げられる。なお中村進午は学習院教授である。  
2 日露関係の緊迫  
1896年の対日軍事同盟たる露清密約の締結によりロシアは東清鉄道(東支鉄道)の敷設権を手に入れた。同年、日露間では閔妃殺害事件の処理や朝鮮半島駐留兵力を規定した小村・ウェーバー覚書と、朝鮮非常事態に対する両国の対処方法を確認した山県・ロバノフ協定がペテルスブルクで結ばれ、1898年には朝鮮での日本の商工業発展をロシアは阻害しないと定めた西・ローゼン協定が東京で締結された。だがロシアは強圧的な態度を取り続け、日本国民の復讐心に火をつけた。  
3 北清事変 
(1900年 / 日露戦争への導入)  
中国分割以来慢性化していた中国民衆の排外意識は、義和拳法で戦う戦闘的な秘密宗教結社の義和団が1899年に山東省で「除教安民」「扶清滅洋」を掲げて起こした義和団事件で一挙に爆発した。当初の仇教運動は次第に排外運動となり、西太后もこれを支持して諸外国に宣戦布告したため、日・露・独・伊・墺・仏・米・英は多国籍軍を結成してこれを潰した。この北清事変の鎮圧後、清は1901年に北京議定書(辛丑和約(しんちゅうわやく))を諸国と締結し、賠償金を支払い多国籍軍の北京駐兵権を承諾した。22000人もの軍勢を派遣して多国籍軍の中核となった日本は「極東の憲兵」として欧米に認められたが、北清事変の混乱に乗じて満州を不法占拠したロシアとの間の軋轢は次第に大きくなっていき、やがて日露戦争へと繋がっていった。  
4 日英同盟 
(1902年 / 対露軍事同盟)  
ブーア戦争で無力さを自覚した英国は「光栄ある孤立」を捨て、共にロシアの南下に備えるため日本との同盟交渉を開始したが、日本政府内では日英同盟論を主張する山県有朋・桂太郎・加藤高明・小村寿太郎らと、日本の韓国、ロシアの満州に対する優越権を相互承認して緊張緩和を図る日露協商論(満韓交換論) を主張する伊藤博文・井上馨・尾崎行雄らが対立していた。やがて駐英公使林董(はやしただす)の尽力によって日英同盟協約が結ばれて日英同盟が成立し、ロシアと相対する日本を英・米が後援する体制が整った。  
5 日露戦争の経過  
満州と朝鮮を巡って緊迫した日露間は、1904年に帝国陸軍が旅順口閉塞作戦を発動したことで全面戦争に突入した。仁川沖海戦で快勝を収めた帝国海軍は黄海海戦でもロシア太平洋艦隊の出鼻を挫く大勝利を収めた。一方、西郷隆盛の従弟の満州軍総司令官大山巖は、クロポトキン率いるロシア陸軍との間で初の陸軍同士の大会戦たる遼陽会戦を敢行し、快勝して遼陽を占領した。続く沙河会戦では睨み合いに終始したものの、旅順攻囲戦では第三大隊を率いていた陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)がロシア側の将軍ステッセルを説得して旅順を降伏させた。やがて1905年には日露両国の陸軍主力同士が衝突した日露戦争最大最後の陸戦たる奉天会戦が勃発し、激戦の末、やはり大山巖率いる帝国陸軍がロシア陸軍を完全に殲滅した。また連合艦隊司令長官東郷平八郎が乗船する戦艦「三笠」を旗艦とする帝国海軍主力は、遭遇したロシア最強のバルチック艦隊との間で日本海海戦を展開し、敵艦隊を潰滅させた。なおこの際のZ信号旗と、信号文「皇国の興廃此の一戦にあり」は極めて有名である。この後、ロシアでは黒海艦隊でポチョムキン号の反乱が勃発するなど、混乱が続いた。  
6 ポーツマス条約 
(1905年 / 日露講和条約)  
ロシアでは1905年、ガポンのデモ隊に軍隊が発砲して第一次ロシア革命の発端たる血の日曜日事件が勃発したため情勢が緊迫し、日本では財政的限界が近付いていた。親日家の米大統領セオドア=ルーズベルトは両国を斡旋し、日本側全権小村寿太郎・高平小五郎とロシア側全権ヴィッテ・ローゼンをバージニア州ポーツマスに招き、日露講和会議を開催した。採択されたポーツマス条約では、日本は韓国(1897年に国号を大韓帝国と改称)指導権や東清鉄道南部支線(哈爾浜から旅順まで)のうち長春以南の租借権、遼東半島租借権、鉱山採掘権、沿海州・カムチャッカ漁業権、北緯50度以南の南樺太領有権などを獲得した。なお北洋漁業に関しては、1907年に日露漁業協定が締結され、発展していった。一方、日本は満州に関する日清条約を清との間で締結し、これを承諾させた。  
7 日露戦争の結果  
日露戦争の戦費は日清戦争の8.5倍の約17億円も掛かり、政府はこのうち4億円を煙草専売制度や非常特別税の徴収、6億円を内国債で賄い、残り7億円はロンドンとニューヨークで募集した外国債で応急的に集めたが、ポーツマス条約では狡猾なロシア側の策謀により賠償金が規定されなかったため国民は不満を抱き、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』などは社説で戦争継続を主張した。講和同志連合会はポーツマス条約破棄を要求する講和反対国民大会を1905年に日比谷公園で行ったが、やがて暴徒と化して警察・教会・電車などを焼く日比谷焼打ち事件にまで発展した。これは日本初の戒厳令発動を招き、結果的に第一次桂内閣を総辞職させた。一方、日露戦争で鉄道の軍事的必要性を痛感した政府は1906年、有事の際の担保としても活用するために私鉄17社を買収して国営とする鉄道国有法を発令した。また同年には後藤新平を初代総裁として半民半官の南満州鉄道株式会社(満鉄)を創設すると共に、満鉄の監督と関東州(遼東半島)の行政を司る関東都督府を設置した。これは後の関東庁と関東軍の前身である。なお樺太には1907年に樺太庁が設立された。  
日露戦争後の国際関係  
1 日露関係の融和  
ロシアは第一次ロシア革命を機に極東から撤退してバルカンを侵略したため、独・墺との対立を深めたが、1907年には英露協商の締結に成功し、ここに英・仏・露の所謂三国協商が成立した。同1907年には第一次日露協約(日露協約)が締結され、日本の韓国と南満州、ロシアの北満州と外蒙古での勢力圏の相互承認が為された。1910年の第二次日露協約では他国から領土侵犯された際に相互に共同防衛することが定められ、1912年に締結された第三次日露協約では辛亥革命を受けて内蒙古の二分割が約束された。こうして日露関係は次第に氷解に向かい、1916年には第三国の中国進出を防止すると共に極東での共同戦線結成を約束するという内容の日露同盟(第四次日露協約・日露大正五年協約)が締結された。  
2 米国の台頭と横暴  
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を端緒として、欧米には黄色人種たる大和民族の急速な興隆を危険視する黄禍論(イエロー=ペリル)が蔓延した。米西戦争に辛勝した米国は1898年に比律賓・グアムを自領とした後、ハワイも侵略して日本への親密な接近を図っていたカメハメハ王朝を滅ぼし、次第に太平洋にその触手を延ばしていた。1905年には米国の比律賓諸島、日本の韓国に対する優越権を相互承認した桂・タフト協定が締結されたが、米国の鉄道王ハリマンが満鉄買収案を日本政府に示して桂・ハリマン覚書で承諾を得たものの小村寿太郎の反発で頓挫したハリマン計画事件や、米国務長官ノックスによる満鉄中立化案の提示などにより日米関係は次第に悪化した。米国では1906年のサンフランシスコ学童排斥問題などに代表される日本人移民排斥運動が発生し、改善を促す日米紳士協約の締結も実効性が伴わなかったため、日米関係はより冷え込んだ。なお英国との間では1905年に日本の韓国保護権を承認した第二次日英同盟が、1911年には日米関係悪化を受けて米国を除外した対独同盟たる第三次日英同盟が締結された。  
韓国併合 
(1910年 / 大陸進出の布石)  
1904年に締結された日韓議定書では韓国の日露戦争への協力を規定していたが、同年の第一次日韓協約では韓国政府内に日本人外交・財政顧問を設置することが規定され、翌1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約・乙巳保護条約(いっしほごじょうやく))では韓国外交権を日本の外務省が吸収し、韓国の保護国化に成功した。翌1906年には朝鮮贔屓の伊藤博文を初代統監とする統監府が設置された。高宗は1907年にオランダのハーグで開催された第二回万国平和会議に密使を派遣したが、密使は外交権が無いため会議参加を拒否された上、やがて伊藤博文の知るところとなった。このハーグ密使事件を機に高宗は子の純宗に譲位したが同1907年には日本が韓国内政権を掌握する第三次日韓協約が締結され、韓国軍は解散された。反日運動として都市部の愛国文化啓蒙運動や全国的な義兵運動が展開される中、安重根は1909年10月に伊藤博文を哈爾浜駅頭で暗殺した。これを受けた政府は1910年、朝鮮統監寺内正毅(てらうちまさたけ)に韓国首相李完用との間で日韓併合条約を締結させることで韓国を併合し、寺内正毅を京城の天皇直属機関朝鮮総督府の長たる朝鮮総督に就任させた。韓国併合の裏面工作には玄洋社から派生した内田良平率いる右翼団体黒龍会が活躍した。なお朝鮮の開発は主として東洋拓殖株式会社が実行した。  
支那革命  
北清事変の後、旧制度改革を行い満州人支配の延命を図る清政府に対し孫文は1894年、ハワイで興中会を結成し、華僑の支援を受けて「排満興漢」の革命運動を展開した。やがて孫文は興中会に章炳麟(しょうへいりん)の光復会や黄興の華興会を加えて東京で1905年に中国革命同盟会を結成し、機関誌『民報』などで三民主義(民族独立・民権伸張・民生安定)やそれに基づく四大綱領(駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権)を発表した。革命運動は清軍内の新軍に浸透したが、幹線鉄道国有令を受けて勃発した四川暴動の鎮圧命令を受けた湖北新軍は1911年に武昌起義を断行し、1912年元旦には孫文を臨時大総統とするアジア初の共和国の中華民国が成立した。宣統帝(溥儀(ふぎ))は翌月退位し、清は滅亡した。この辛亥革命(第一革命)は民族革命・政体変革であって社会革命ではなく、袁世凱(えんせいがい)が臨時大総統に就任したため結果的に保守派政権が創立された。袁世凱は1912年に臨時約法を公布する一方、専制に反発する宋教仁らの国民党が起こした第二革命を鎮圧して独裁を強化し、やがて帝政を開始した。このため1915年には第三革命が勃発したが、翌年袁世凱が没すると分裂した。以後、安徽派の段祺瑞(だんきずい)、直隷派の呉佩孚(ごはいふ)、奉天派の張作霖(ちょうさくりん)などの軍閥が北京で争い、軍閥政権を形成した。 
8 資本主義経済の発達と社会主義思想の蔓延  
産業革命の概要  
日本の近代資本主義発達の特徴としては、自主的発展ではなく先進資本主義の技術を急速に導入したこと、政府の主導で本源的な蓄積過程が進められたこと、発達の不均衡が顕著で小農経営や中小企業の広範な残存が見られること、などが挙げられる。1890年の初の恐慌の後、蒸気機関の導入により日清戦争前後に為された第一次産業革命の結果軽工業が発展し、1897年には貨幣法が施行され金本位制が実施されたが、戦勝景気に乗じた企業勃興や株式騰貴は1900年の資本主義恐慌を招き、操業短縮が頻発して多くの企業が没落した。しかし三井・三菱・住友・安田などは銀行資本の成立に成功した。やがて日露戦争前後には、東京電燈会社が山梨県に設置した駒橋水力発電所など全国の発電所から供給される電力を用いて、重工業中心の第二次産業革命が為された。  
第一次産業革命  
江戸時代以来の手紡ぎは、第一回内国勧業博覧会で臥雲辰致(がうんたつむね)が発表したガラ紡による紡績を経て、やがて英国のリング紡績機やミュール紡績機を用いた洋式機械紡績へと変遷していった。明治初期の大阪・大阪合同・三重・尼崎・摂津・鐘ヶ淵・富士瓦斯といった七大紡績会社のうち、1882年に渋沢栄一が初の民間機械制工場として設立した大阪紡績会社は三重紡績会社と合併して東洋紡績会社となり、大阪合同紡績会社を吸収した。また尼崎紡績株式会社と摂津紡績会社は合併して大日本紡績会社となった。紡績業のカルテルである大日本紡績連合会が1896年に綿花輸入関税免税法を実現させた結果、1897年には綿糸の輸出高が輸入高を超え、綿糸紡績業が確立され、第一次産業革命が完成された。製糸業では、改良座繰や繰糸機を用いて手挽きする座繰製糸(ざぐりせいし)が水車の力を用いた器械製糸に代わり郡是製糸(ぐんぜせいし)・岡谷製糸などの製糸会社が設立された。織物業では手紡の手織機(ておりばた)が飛び杼(とびひ)の導入などにより改良されたが、やがてフランスから自動紋織機のジャガードやバッタンが輸入され、豊田佐吉が初の国産力織機として豊田式自動織機を開発したことにより興隆した。出版業の活性化で発達した製紙業では王子製紙・四日市製紙・富士製紙などが設立された。  
第二次産業革命  
農商務省管轄の八幡製鉄所は1897年に設立され、1901年に操業を開始した。原料である鉄鉱石は中国の大冶鉄山(だいやてつざん)、また燃料の石炭は筑豊炭田(後に満州の撫順炭田)のものを使用していた。これ以降、田中長兵衛が設立した田中製鉄所の後身である三井系の釜石製鉄所や、池貝正太郎の池貝製鉄所、それに神戸製鉄所などが鉄鋼業に参入した結果、1906年には輸出超過となり、第二次産業革命が達成された。英国の兵器会社であるビッカース社やアームストロング社と技術提携して1907年に室蘭に設立された三井系の日本製鋼所は、最大の民間兵器製鋼会社である。三井系の工場としては、この他に田中久重の田中製作所を引き継いだ芝浦製作所が挙げられる。一方、造船業は軍備拡張や造船奨励法を受けて発展し、国内自給率や造船技術水準の向上を齎した。  
財閥の興隆  
日露戦争の戦勝景気で原料綿花・軍需品・重工業機械の輸入超過が発生し、外国債の利息の支払いで国際収支が悪化したため1907年には明治四十年の恐慌が起こり、農村・社会問題が深刻化した。こうした情勢下で出現した企業連合(カルテル)・企業合同(トラスト)・企業連携(コンツェルン)などの独占資本はやがて財閥となった。財閥は持株会社を中心とするものと産業資本を中心とするものに大別することができる。益田孝(ますだたかし)が理事長となった三井合名会社が三井物産・三井鉱山などを取り仕切る三井財閥や、岩崎弥太郎の弟の岩崎弥之助が設立した三菱合資会社が日本郵船などを統轄する三菱財閥、後に住友合資会社となった住友総本店を中心とする住友財閥、安田善次郎が設立した安田保善社が安田銀行などを統轄する安田財閥などは前者の最たる例であり、三井財閥は立憲政友会、三菱財閥は立憲同志会・憲政会・立憲民政党に接近した。一方、後者の例としては、鉱山資本を中心とした古河財閥、浅野総一郎の浅野セメント合資会社を中心とした浅野財閥、造船業を中心とした川崎正蔵の川崎財閥などが挙げられる。  
農業の変遷  
1893年に東京の西ヶ原に設けられた農業試験場の活動や河川法制定、農業の合理化と生産増大のための灌漑工事を促す耕地整理法の制定、大企業対策として協同組合設立を認めた産業組合法制定などにより農業は発達したが、人口の増加に追い付かず慢性的な米不足が発生した。このため綿布を輸出する代わりに満州から金肥の大豆糟を輸入したり、朝鮮や台湾から米を移入したりした。なお台湾からは原料糖も移入した。1899年の農会法では、政府助成による農業・農民の保護育成のため行政区画毎に農会(後の農業会・農業協同組合)が設置され、中央農業団体としての大日本農会(後の全国農事会・帝国農会)も出現して農業発展に尽力した。また明治時代から大正時代に掛けては、塩水選や正条植、それに足踏み脱穀機や新潟県が統一化した短冊形苗代の導入など、稲作技術も進歩した。一方、地主と対立した小作人たちは小作人組合を結成したが、宮崎民蔵は1902年に土地復権同志会を結成して土地の再分配を企図した。また二宮尊徳に始まる報徳運動は報徳社の岡田良一郎・古橋暉兒(ふるはしてるのり)らにより報徳教として広まり、1924年には全国の報徳社が大日本報徳社として団結した。なお御木本幸吉(みきもとこうきち)は三重県で初めて真珠(御木本真珠)の養殖に成功したことで知られている。  
社会問題の発生  
松岡好一が取材した高島炭坑問題を掲載した『日本人』や横山源之助が1899年に著した『日本之下層社会』、それに農商務省が1903年に編纂した『職工事情』や1925年に細井和喜蔵が著した『女工哀史』などに見られるように、当時の労働者には重労働が課せられていた。炭鉱や作事場では、労働者を監獄部屋に泊まりさせ納屋頭の指揮で働かせる納屋制度(飯場制度)が採用された他、囚人労働なども用いられた。1968年に山本茂実が著した『ある製糸工女哀史− あゝ野麦峠』には、「男軍人女は工女、糸をひくのも国のため」という工女節も記されている。やがて労働運動が開始され、1894年には初の労働争議として山梨県で雨宮紡績ストが発生し、天満紡績スト・三重紡績ストなどが続発した。米労働総同盟の指導を受け帰国した高野房太郎は1897年、職工義友会を結成して『職工諸君に寄す』を刊行し、翌1898年には片山潜らも加えて労働組合期成会を組織した。『労働世界』を機関誌とするこの労働組合期成会の指導で鉄工組合・活版印刷工懇話会(後の活版工組合)・日本鉄道矯正会などが興ったが、就中日本鉄道矯正会は同年、日本鉄道機関手ストを決行した。また1907年には、足尾銅山争議に触発された別子銅山・生野鉱山・幌内鉱山・呉海軍工廠・横須賀海軍工廠・大阪砲兵工廠・東京砲兵工廠などの労働者が労働争議を起こした。  
足尾銅山鉱毒事件  
栃木県の足尾銅山製錬所が排出する硫酸銅が渡良瀬川に流出していたため、栃木県令藤川為親は魚の捕獲を禁止するなどして対処していたが、流域の田畑は洪水の度に大打撃を被っていた。この足尾銅山鉱毒事件は、立憲改進党の衆議院議員田中正造により第二議会で「足尾銅山鉱毒加害之儀ニ付質問書」が発表され全国的な問題として注目を集めたが、政府当局者の農商務大臣陸奥宗光は次男陸奥潤吉を足尾銅山の経営者古河市兵衛の養子としていたためこれを無視した。渡良瀬川流域の農民が1900年に大挙請願を企てたものの官憲に阻止されるという川俣事件を受けた田中正造は衆議院議員を辞職し、1901年12月10日に明治天皇への直訴を試みた。足尾銅山鉱毒事件はやがて谷中村の廃村と遊水池設置で一応の決着を見たが、この事件は明治時代最大の社会問題であると共に、日本の公害運動の原点となる事件であった。なお直訴状を起草した幸徳秋水や事件後に『谷中村滅亡史』を著した荒畑寒村、木下尚江・石川三四郎・松岡荒村ら社会主義者、安部磯雄・内村鑑三・島田三郎・岩本善治ら基督教徒、矢島揖子(やじまかじこ)ら矯風会の鉱毒被害地救済婦人会、東大・慶大・早大・明大などの学生鉱毒救済会などは、田中正造らを支援した。ちなみに古河潤吉が1905年に古河鉱業合名会社の社長に就任した際、陸奥宗光の秘書官である原敬(はらたかし)は副社長に就任した。  
社会主義思想の蔓延  
1 社会民主党への道  
片山潜・樽井藤吉・中村太八郎らは1897年に社会問題研究会を結成し、翌1898年には『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などの著作で知られる幸徳秋水や、安部磯雄・村井知至(むらいともとし)らと共に社会主義研究会を設立、1900年には堺利彦らを加えて社会主義協会を結成した。第二次山県内閣は1900年に治安警察法を制定して左傾化煽動運動を防止したが、翌1901年には片山哲・安部磯雄・幸徳秋水・木下尚江・西川光次郎・河上清ら6名が社会民主党を結成した。第四次伊藤内閣の内務大臣末松謙澄は安部磯雄が起草した社会民主党宣言の中の軍縮の項に激しく反発し、内閣総辞職の直後だったがこれを即日解散に追い込んだ。  
2 日本社会党の盛衰  
日露戦争を前に『万朝報』を退社した幸徳秋水らは1903年に平民社を結成し、翌年『平民新聞』に「与露国社会党書」を掲載、1905年にはメーデー茶和会を行うなどの活動を行ったが、内部対立から瓦解した。一方、第一次西園寺内閣の融和政策に乗じて西川光次郎が日本平民党の結成に成功すると、堺利彦は片山哲・田添鉄二・西川光次郎らと共に1906年、初の合法的社会主義政党として日本社会党を結成した。だが日本社会党は米国から帰国した幸徳秋水ら直接行動派と田添鉄二ら議会政策派の対立により翌年崩壊した。議会政策派は社会主義同志会を組織して活動した。  
3 社会主義の壊滅  
神田の錦輝館(きんきかん)付近で山口義三の出獄を歓迎する大杉栄・堺利彦・山川均・荒畑寒村らが赤旗を掲げ革命歌を歌ったため検挙された1908年の赤旗事件や、天皇弑逆計画が露顕して宮下太吉・幸徳秋水・管野スガ・新村忠雄・内山愚堂ら12名の社会主義者が誅された1910年の大逆事件、それに1911年の警視庁特別高等課設置により社会主義は「冬の時代」に突入した。なお徳富蘆花は『謀叛論』で幸徳秋水を弁護した。  
労働者救済への道  
大逆事件をこなした第二次桂内閣は翌1911年、『職工事情』を参考とした初の労働者保護立法として12歳未満の労働と15歳未満か女子の15時間労働を禁じた工場法を制定したが、労働条件や労働基準が国際水準よりも低かった上に従業員15人以下の零細工場は対象外とするなど問題が多く、さらに女工を多く抱える繊維業界からの猛烈な反発を食らったため実施は1916年、第二次大隈内閣の時にまでずれ込んだ。またこの頃公共職業安定所も設置された。一方、民間の貧民救済団体としては、金井延が開いた社会政策学会や窪田静太郎が開いた貧民研究会と中央慈善協会、それに1911年に初の民間療養団体として設立された済生会などが挙げられる。また英人ブースが創立した基督教の一派である救世軍は、日本救世軍司令官山室軍平(やまむろぐんぺい)を中心として社会鍋を用いて貧民救済のための募金活動を行い、矯風会(基督教婦人矯風会)の矢島揖子や潮田千勢子は廃娼運動などの矯風運動を展開した。なお日露戦争後、政府は財政強化と軍備拡張のために地方改良運動を展開したが、その一環として創立された在郷軍人会・青年会(青年団)・愛国婦人会などは草の根組織として地方の興隆に貢献した。  
 
 大正時代

 

1 桂園時代と大正初頭の政変  
桂園時代  
山県有朋の後継者たる桂太郎は1901年に第一次桂内閣を組閣して日英同盟や日露戦争を遂行したが日比谷焼打事件を機に総辞職した。立憲政友会総裁西園寺公望は1906年に第一次西園寺内閣を組閣したが日本社会党を認可したため元老に嫌われ、赤旗事件勃発の責任を追及され退陣した。これを受けて1908年に成立した第二次桂内閣は自由主義を戒め勤勉倹約を勧める戊申詔書を公布する一方、大逆事件の処理や工場法公布、地方改良運動や経済再建を推進し、また外務大臣小村寿太郎により関税自主権回復や、韓国併合も為された。1911年には西園寺公望が原敬を内務大臣に迎えて第二次西園寺内閣を組閣し、外務大臣内田康哉(うちだこうさい)の指導で辛亥革命に干渉する一方、内政面では立憲政友会の支持者が地主・中産階級・知識人であるが故に緊縮財政を断行した。1912年には明治天皇崩御に伴う皇太子嘉仁親王の践祚、並びに大正改元が為されたが、乃木希典夫妻の殉死は森鴎外・夏目漱石などの作家をはじめ国民に大きな衝撃を与えた。  
憲政擁護運動  
軍部は1907年の帝国国防方針で八個師団増設と八八艦隊建設を定めていたが、陸軍はひとまず韓国併合に伴う二個師団増師を第二次西園寺内閣に求めた。だが緊縮財政を行う内閣がこれを拒否したため陸軍大臣上原勇作は帷幄上奏権を行使(厳密には違法)して単独辞職した。「軍部の大御所」たる山県有朋が軍部大臣現役武官制を利用して「陸軍のストライキ」を行い後任の陸軍大臣を出さなかったため内閣は総辞職し、内大臣兼侍従長として既に府中を離れ宮中に在った桂太郎が1912年、海軍大臣斎藤実(さいとうまこと)らを詔勅で留任させて第三次桂内閣を組閣した。これに対し立憲政友会の「憲政の神様」たる尾崎行雄と立憲国民党(憲政本党の後身)の犬養毅は閥族打破と憲政擁護、即ち軍閥や特権官僚の排除と政党内閣による立憲政治の実現を目指し、保守政党外郭団体の院外団や商業会議所、交詢社の実業家、それに知識人らと共に憲政擁護運動(第一次護憲運動)を展開した。この一連の推移は『中島信虎日記』などに記載されている。  
大正政変 
(1913年 / 民衆の力が倒閣を達成した初の事件)  
桂太郎は立憲国民党と大同倶楽部系の中央倶楽部を糾合して新党結成を目指したが、『大日本憲政史』に見られる演説などで尾崎行雄らから攻撃された上、民衆が政府側の『国民新聞』本社などを襲撃したため、1913年に衆議院議長大岡育造の勧告を受諾、組閣からわずか53日間で総辞職した。ちなみに新党の立憲同志会は桂太郎が逝去した二ヵ月後に、岩崎弥太郎の娘婿加藤高明を初代総裁として成立した。  
第一次山本内閣  
薩摩閥の山本権兵衛は立憲政友会を与党として組閣したが、これに反発した尾崎行雄は脱党して政友倶楽部を結成した。大正政変を踏襲した第一次山本内閣は1913年に軍部大臣現役武官制を改正して予備役・後備役の大・中将の大臣就任も可能とする一方、軍人支配色緩和の必要性から文官任用令を緩和して政党員の上級官吏進出を認めた。また同1913年には中華民国(支那共和国)を承認した。やがて海軍軍拡予算案を内閣が提示すると営業税・織物消費税・通行税撤廃を求める廃税運動が起こり、1914年にはドイツのシーメンス社と海軍高官の癒着が露顕(シーメンス事件)し、ほぼ同時に英国のヴィッカース社との戦艦「金剛」建造に絡む癒着も発覚したため、内閣は総辞職した。やがて1914年には、大隈重信が立憲同志会総裁加藤高明を外務大臣に迎え、立憲同志会・中正会・大隈伯後援会を与党として第二次大隈内閣を組閣した。 
2 第一次世界大戦  
欧州大戦の勃発  
ドイツと英国は民族的には汎ゲルマン主義と汎スラブ主義、帝国主義的には3B政策(ベルリン・バグダード・ビザンティウム)と3C政策(ケープタウン・カルカッタ・カイロ)で対立していたが、やがて独・墺・伊の三国同盟にトルコを加えた同盟国と、英・仏・露の三国協商を中心とした27国の連合国が軍事的対立を強めた。やがて「欧州の火薬庫」たるバルカン半島のボスニアの首都サラエボで1914年6月、墺皇太子フランツ=フェルディナンド夫妻がボスニア=ヘルツェゴビナ併合に反発するセルビア人プリンチップに暗殺されるというサラエボ事件が発生し、欧州大戦が勃発した。シュリーフェン計画を発動したドイツが1914年に中立国ベルギーに侵攻したことを受けた英・仏・露は対独宣戦を行い、ロンドン宣言で単独不講和を約す一方、翌1915年にはロンドン密約に基づきイタリアを連合国側へ寝返らせた。  
欧州大戦の終結  
両陣営の共倒れによる債権不払いを恐れた米大統領ウィルソンは「勝利なき平和」を提唱したが、かつてルシタニア号事件で多数の自国民を失っていたため1917年にドイツが無制限潜水艦戦を始めると連合国側に参戦した。英国からドイツ東洋艦隊追撃・連合国艦船保護の要請を受けた寺内内閣は地中海作戦を発動、巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊を派遣し、6月には巡洋艦「出雲」を代替旗艦として派遣した。作戦中駆逐艦「榊」がギリシア南海域にてUボートに撃沈されたが、59名の戦死者はマルタ島に葬られた。やがて1917年にはレーニンらが「パンと平和」を求めてロシア革命を起こし、三月革命でニコライ2世のロマノフ朝が倒れ、十一月革命で成立した悍ましいソビエト政権がドイツとの間にブレスト=リトフスク条約を締結して戦線を離脱した上、1918年にはドイツ革命が勃発したため、大戦は終結した。  
日本の大陸進出  
『世外井上公伝』に記されている井上馨の「今回欧州の大禍乱は日本国運の発展に対する大正新時代の天佑」との進言を受けた大隈重信は1914年、外務大臣加藤高明の主導で日英同盟の情誼に基づき対独宣戦し、僅かの間に独領南洋諸島や青島を占領した。やがて大隈重信は外務省政務局長小池張造が立案した二十一ヵ条の要求を袁世凱政権に提示し、1915年5月9日に希望条項の第五号を除いた十六ヵ条を最後通牒で承諾させた。主な要求は、山東省のドイツ権益の継承、旅順・大連・満鉄の租借期限延長及び南満州・東部内蒙古の特殊権益強化、日本興業銀行などが資本を大量輸出していた漢冶萍公司(大冶鉄山・萍郷炭坑・漢陽製鉄所からなる民間製鉄会社)の日華合弁化、福建省不割譲確認及び中国沿岸の港湾・島嶼の他国譲与・貸与禁止、中国政府内への政・財・軍の日本人顧問設置及び満州警察の日中合同化、などである。また第二次大隈内閣は同1915年にロンドン宣言にも調印したが、大隈重信や加藤高明の対華政策の軟弱さを責める福田和五郎の国民外交同盟会の構成員下村馬太郎は1916年、大隈重信に対する爆弾テロを試みたが、爆弾が不発だったために大隈重信には被害は及ばなかった。またこの頃、清の粛親王を擁する大陸浪人川島浪速は中国からの独立を企てた(満蒙独立運動)。この企てが失敗した後も粛親王の娘の愛新覚羅顯は川島浪速の養女となり川島芳子と改名し、「男装の麗人」として清朝復活を図り日中間を暗躍した。  
寺内内閣の成立  
桂太郎の後継者たる寺内正毅は非立憲的な藩閥超然内閣を立て、北京の段祺瑞政権に私設秘書西原亀三を介して日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行から1億4500万円の西原借款を与えて南方の革命勢力と対峙させた。また進出に反発する米国への懐柔として石井菊次郎と米国務長官ランシングとの間で1917年に石井・ランシング協定(中国に関する交換公文)を締結させ、日本が中国の門戸開放を認める代わりに米国に日本の特殊権益を認めさせた。  
ヴェルサイユ条約 
(1919年 / ドイツ抑圧を目指すヴェルサイユ体制を構築)  
第一次世界大戦の終結後開催されたパリ講和会議では、対独賠償金賦課・軍備制限・植民地の委任統治領移行・ポーランド独立・ラインラント非武装化などが定められ、原内閣により派遣された西園寺公望と牧野伸顕は山東省の旧ドイツ権益と赤道以北の独領南洋諸島の委任統治権を獲得した。またこの会議では労働法制委員長ゴンパースの下で労働九原則を定めた国際労働協約が締結されたが、日本提出の人種差別禁止案は米・英・豪の反対で否決された。さらに米大統領ウィルソンが民族自決や国際平和などを基本理念として発表したウィルソン14ヵ条を受け、1920年には世界史上初の国際平和機構たる国際連盟が結成され常任理事国には日・英・仏・伊が就任したが、当の米国自身は孤立主義に蝕まれた上院で加盟案が否決されたため、参加しなかった。  
朝鮮・中国の暴動  
韓国併合以来の土地調査事業により朝鮮農民が土地を失ったことや1910年に朝鮮総督府が発令した会社法の結果朝鮮人企業が不利になったことへの反動として、1919年には「独立万歳」を叫ぶ三・一運動(万歳事件)が天道教指導者孫秉煕(そんびょんひ)の煽動で勃発し、平定された。また李承晩と金九は混乱に乗じて有名無実な大韓民国臨時政府を上海に設置した。三・一運動を機に原内閣は統治体制を武断政治的なものから文化政治(文治政治)的なものへ変質させた。またパリ講和会議で中国の二十一ヵ条解消要求が否決されたため北京大学生らが起こした五・四運動は全土に波及し、反帝運動や日貨排斥運動が激化した。  
大戦景気  
1915年から1918年に掛けて第一次世界大戦に伴う軍需増大とアジア市場独占により発生した大戦景気は、日本を債務国から債権国にする一方、輸入途絶による重化学工業の飛躍的発展と金融資本の支配力強化による財閥の産業支配体制の確立をもたらした。また大戦景気では内田信也の内田汽船などの船成金(ふななりきん)や、鉄成金などが出現した他、世界第三位の距離を誇る猪苗代水力発電所・東京間の送電も1915年に開始され、遠距離大量送電時代に突入した。なお米国が参戦して金輸出を停止したため、日本は1917年に金輸出禁止、即ち金本位制の停止を断行した。  
シベリア出兵 
(1918年〜1922年 / 最大72000人、経費10億円)  
ウラジオストクのチェコスロバキア軍救出とロシア革命牽制のためのシベリア出兵は、寺内正毅・山県有朋・牧野伸顕ら慎重派を外務大臣本野一郎や上原勇作・田中義一ら積極派が押し切り、米・英・仏と共に断行した。寺内内閣の次の原内閣は他国が撤収した1920年以後も出兵を継続したが、黒龍江河口の尼港(ニコライエフスク)で日本軍と日本人居留民700余名が抗日パルチザンに惨殺される尼港事件が勃発した上、1921年の大連会議で日ソ交渉が進展したため加藤友三郎内閣は1922年に軍隊を撤収させた。この後、第一次加藤高明内閣の外務大臣幣原喜重郎は1925年、芳沢謙吉にカラハンと交渉させ日ソ基本条約を北京で締結させた。  
ワシントン会議  
(1921年〜1922年 / 恣意的な米国の主導)  
高橋内閣は米大統領ハーディングが提唱したワシントン会議に海軍大臣加藤友三郎・貴族院議長徳川家達(とくがわいえさと)・幣原喜重郎らを派遣した。会議ではまず太平洋での領土や権益の相互尊重、問題の平和的解決を約した四ヵ国条約が1921年に日・米・英・仏の間で締結され、日英同盟が破棄された。1922年には米・英・日・仏・伊の主力艦保有率を5:5:3:1.67:1.67と規定して10年間の主力艦建造禁止を定めたワシントン海軍軍縮条約が締結され、また中国の主権尊重・門戸開放・機会均等を定めた九ヵ国条約も日・米・英・仏・伊・蘭・白・葡・中の間で調印された。日本は前者により原内閣が漸く議会を通過させた八八艦隊計画を断念させられた上、後者に基づき中国との間で結ばれた山東懸案解決に関する条約により山東省の権益を失い、また二十一ヵ条の要求の一部と石井・ランシング協定も破棄され、孤立化を強めた。こうして完成した日本の中国・太平洋進出妨害のための東亜・太平洋地域の米国中心の欺瞞的な国際秩序をワシントン体制と言う。なお米国では1924年、クーリッジ大統領が1920年の加州排日土地法を全国化した排日移民法を成立させ、人種差別を強めた。 
3 第一次世界大戦後の政治・経済  
米騒動 
(1918年 / 社会運動高揚の契機となる)  
従来の米不足に加え、米価上昇を目論む米商人や地主がシベリア出兵用の軍用米として米を売り惜しみ、米価は暴騰した。やがて富山県滑川の漁民主婦が女房一揆(越中の女一揆)を起こしたことを機に1道3府38県で約70万人が参加して米価引下げと廉売を求める米騒動が勃発した。米騒動は三ヶ月後に軍隊も出動して鎮圧されたが、寺内内閣は倒壊し、1918年には立憲政友会の総裁原敬が初の平民宰相として原内閣を組閣した。この顛末は前田蓮山の『原敬伝』に詳述されている。  
原内閣  
原内閣は外務大臣内田康哉・陸軍大臣田中義一・海軍大臣加藤友三郎を除く全閣僚が立憲政友会員で占められた初の本格的政党内閣である。対外的にはヴェルサイユ条約調印・国際連盟加盟などが為された他、1919年には旅順の関東都督府を関東軍司令部と関東庁に改組した。内政的には高等教育普及政策として1918年に高等学校令と同時に大学令を施行し、官立単科大学・公立大学・私立大学を認可した他、旧来の鉄道院を鉄道省に改組して産業開発を助長した。一方、政党勢力強化を目指す原敬は1919年の選挙法改正で小選挙区制を導入したが、階級制度保護のため普通選挙には反対した。翌1920年の総選挙では立憲政友会が大勝したが、原敬は1921年に郡制廃止法を施行し、さらなる政党勢力の強化に努めた。だが1920年以来の戦後恐慌は大蔵大臣高橋是清の指示による日本銀行からの3億6000万円もの救済資金貸出にも拘らず繊維産業の操業短縮や銀行休業、成金や中小企業の倒産を招き、財閥を成長させた。また力の政治に伴い東京市疑獄事件などの腐敗も進展したため、憤った青年中岡艮一(なかおかこんいち)は1921年に原敬を東京駅で暗殺(現職首相では初)し、内閣を崩壊に至らしめた。  
関東大震災以前の政界  
立憲政友会総裁の座を継承した高橋是清は原内閣の全閣僚を留任させて高橋内閣を組閣したが、屈辱的なワシントン会議の決定を受諾した後に立憲政友会の内部対立から内閣改造に失敗し、総辞職した。立憲政友会の支持を受けた加藤友三郎は1922年、官僚や貴族院議員を中心として加藤友三郎内閣を立ててシベリア撤兵や陪審法を実施し、陸軍大臣山梨半蔵には山梨軍縮を行わせたが、同1922年には非合法の日本共産党が組織され、また犬養毅が立憲国民党の後身の革新倶楽部を旗揚げした。なお加藤友三郎は1923年8月に死去したため、翌9月に勃発した関東大震災時には首相はいない。 
4 大正デモクラシー  
大正デモクラシーの概要  
日露戦争後の産業の発展や大衆文化の成立に加え第一次世界大戦に於いて連合国側がデモクラシーを大義名分としたことで抬頭した自由主義的且つ民主主義的な風潮は、知識人や民衆、それに大戦景気に伴う資本主義経済の発展で成長した中産階級に支持され、やがて明治憲法の範疇での可能な限りの民主化を目指す大正デモクラシーを現出させた。この理論的支柱となったのは東大教授吉野作造が1916年に『中央公論』に寄稿した「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」で提唱した民本主義と、著書『憲法撮要』で美濃部達吉が主張した天皇機関説(国家法人説)であるが、民本主義が主権の「民衆本位」の運用を主張し政党内閣制・普選実現を訴えたのに対し、天皇機関説は「天皇は国家の最高機関として法人たる国家が有する統治権を行使する」としていたため、穂積八束・上杉慎吉らが提唱する天皇主権説と激しく対立した。  
学生運動と言論統制  
福田徳三・麻生久らと共に啓蒙団体たる黎明会を1918年に結成した吉野作造は、赤松克麿らと共に東大の新人会を同年結成した。やがて早大の建設者同盟や京大の労学会が結成され、1922年には学生連合会、1924年には学生社会科学連合会が設立された。東大では1920年に森戸辰男(もりとたつお)が同僚大内兵衛(おおうちひょうえ)の刊行する雑誌『経済学研究』に掲載した「クロポトキンの社会思想の研究」が危険思想として原敬や学内の興国同志会の上杉慎吉から攻撃され、大内兵衛共々休職に追い込まれるという森戸事件が発生した。  
労働運動  
1912年に鈴木文治が労資協調を唱え組織した改良主義的労働団体の友愛会は、1919年に大日本労働総同盟友愛会、1921年に日本労働総同盟と改組され、次第に階級闘争主義・労資対立路線へと変質していった。また1925年に日本労働総同盟から追放された左派は日本共産党に煽動され日本労働組合評議会を組織した。一方、1920年5月2日には鈴木文治・松岡駒吉・野村孝太郎らの指導により上野公園で初のメーデーが実施され、以後1936年まで毎年5月1日に行われていった。また1920年の八幡製鉄所争議や翌年神戸で発生した三菱・川崎造船所争議を端緒として、足尾鉱山争議・釜石鉱山争議・日立鉱山争議・三菱長崎造船所争議・石川島造船所争議などが発生した。  
農民運動と部落解放運動  
初の生協の設立や著書『死線を越えて』で有名な基督教徒賀川豊彦が杉山元治郎らと共に日本初の全国的小作人組合として1922年に結成した日本農民組合は、大戦景気による小作料騰貴と耕地投機化に対し小作料減免・小作権確認を求めて数多の小作争議を指導したが、1924年に政府が小作調停法を施行し1926年に右派の平野力三らが脱退したために崩壊した。一方、被差別部落民は三好伊平次が結成した備前平民会などで部落解放運動を行っていたが、やがて1922年には松本治一郎らが京都で全国水平社を結成した。なお「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結ばれる水平社宣言は西光万吉、水平社綱領は阪本清一郎が起草した。また倉敷紡績会社社長大原孫三郎(大原孝四郎の子)は1919年、高野岩三郎を初代所長とする大原社会問題研究所を大阪に設立した。  
婦人運動  
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である」という創刊号の文言と長沼千恵子(高村千恵子) が描いた表紙絵で有名な雑誌『青踏(せいとう)』は、「新しい女」たる平塚明子(ひらつかはるこ)(平塚雷鳥(ひらつからいてう))の青踏社が婦人解放運動や婦人参政権運動を進めるため刊行した。青踏社が資金難で瓦解した1916年には友愛会婦人部が創設され、1920年には平塚明子・奥むめお・市川房枝らが新婦人協会を設立したが、新婦人協会は1922年に治安警察法第五条改正を実現し、女性の政治集会参加を可能とした。なお山川菊栄・伊藤野枝・近藤真柄(こんどうまがら)は1921年に赤瀾会(せきらんかい)を結成した。また市川房枝は1924年に婦人参政権獲得期成同盟会(翌年に婦選獲得同盟)を結成し、婦選運動を展開した。  
社会主義運動  
反資本主義勢力を寄せ集めた日本社会主義同盟が成立した1920年頃、社会主義は荒畑寒村と共に『近代思想』、内縁の妻伊藤野枝と共に『労働運動』を刊行していた無政府主義者の大杉栄らが提唱するアナルコ=サンディカリズム(革命的労働組合主義)と、妻の山川菊栄と共に『社会主義研究』を刊行していた山川均らが提唱するボルシェビズム(マルクス= レーニン主義)に分裂し、アナ=ボル論争が展開されていた。1922年の日本労働組合総連合創立大会ではアナ派とボル派が主導権を巡って衝突し、ボル派が勝利したものの連合は成立しなかった。やがて同1922年にはコミンテルンの傀儡として山川均・堺利彦・近藤栄蔵らが日本共産党を設立したが、「暁の手入れ」たる翌1923年の第一次検挙では山川均・堺利彦・徳田球一・野坂参三らが検挙された。  
無産政党の変遷  
1925年に杉山元治郎・浅沼稲次郎らが結成した農民労働党は即日禁止されたが、杉山元治郎は1926年にその流れを汲む労働農民党を結成した。労働農民党は全国水平社と関わったが同年分裂し、右派の安部磯雄・片山潜らが社会民衆党、中間派の三輪寿壮(みわじゅそう)・麻生久らが日本労農党を創立、残留した左派は大山郁夫を委員長として労働農民党を再組織した。やがて日本労農党は農民労働党系の平野力三の日本農民党と労働農民党系の鈴木茂三郎の無産大衆党を吸収して1928年に日本大衆党を結成、さらに社会民衆党を脱党した宮崎龍介らの全国民衆党を加え1930年に全国大衆党を創立した。全国大衆党は労働農民党の後身労農党と合併して全国労農大衆党となり、1932年には社会民衆党と合同して安部磯雄を党首とする社会大衆党が成立した。 
5 大正末期の政治・経済  
関東大震災 
(1923年9月1日 / 死者9万名、不明者5万名、損壊家屋57万戸)  
相模湾を震源として発生した関東大震災は未曾有の大惨事となった。東京市は混乱を極め、日比谷焼打事件以来の戒厳令発動を招き、『朝日新聞』による流言飛語のため朝鮮人が自警団により誅されたりした。また亀戸事件では平沢計七(ひらさわけいしち)・川合義虎など10名の社会主義者が血祭りに上げられた他、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一が憲兵隊に連行され憲兵大尉甘粕正彦により扼殺されるという甘粕事件も勃発した。  
震災恐慌と第二次山本内閣  
関東大震災の被害総額は60億円に達した。政府は復興院を設置してこれに対処したものの、震災により京浜地域の経済が停止して銀行手持ちの手形が決済不能となった上、金融機関自体が焼失し、さらに国富も壊滅的打撃を被ったため経済界は混乱して信用制度の根幹が動揺し、震災恐慌が発生した。山本権兵衛は日銀総裁井上準之助を大蔵大臣に登用して30日間支払猶予令(モラトリアム)を断行させて取付騒ぎを防ぐ一方、震災手形割引損失補償令を施行して震災で支払えなくなった震災手形の一部を政府が補償し、混乱を鎮めた。やがてアナ派の難波大助が摂政宮裕仁親王を狙撃して失敗し誅されるという虎ノ門事件が1923年末に発生したため、内閣は総辞職した。  
第二次護憲運動の展開  
元老西園寺公望に支持された貴族院議長清浦奎吾が1924年に貴族院中心の清浦内閣を立てると、加藤高明の憲政会(立憲同志会・中正会・公友倶楽部が合同)に高橋是清の立憲政友会と犬養毅の革新倶楽部を加えた護憲三派は普通選挙断行・超然内閣打倒・行財政整理・貴族院改革・枢密院改革などを掲げ、階級闘争防止と体制内での改良を目指す第二次護憲運動を政党員のみで展開した。反発した立憲政友会の床次竹二郎(とこなみたけじろう)ら内閣支持派は政友本党を結成したが、1924年の総選挙は憲政会以下護憲三派の圧勝に終り、総理大臣加藤高明・農商務大臣高橋是清・逓信大臣犬養毅などからなる第一次加藤高明内閣(護憲三派連立内閣)が成立した。  
護憲三派連立内閣  
1925年の日ソ基本条約締結によるソ連からの共産主義思想の流入に対し、政府は改正衆議院議員選挙法(所謂普通選挙法)を成立させて公布し、階級闘争を防いだ。だが国内の共産主義運動が東亜の民族解放闘争と結合することや普通選挙の実施により無産政党員が増大することを危惧した政府は、共産主義を中心としたあらゆる社会主義運動を誅する体制を整えるため、国体の変革や私有財産制否認を吹聴する結社・運動・思想などを制限する治安維持法を同1925年に公布した。一方、外務大臣幣原喜重郎は幣原協調外交を開始し、内務大臣若槻礼次郎は郵便貯金や各官庁積立金などの大蔵省預金部資金の地方還元を推進したが、四個師団削減と兵力機械化を目指す宇垣軍縮を断行した陸軍大臣宇垣一成は将校を失業から救うと同時に学生の徳育と体育のため陸軍現役将校学校配属令を制定して配属将校を諸学校に送り込み、中等学校以上は正課となる軍事教練を指導させた。治安維持法適用の端緒は同志社大学内にこの軍事教練に反対するビラがあったことに関連して京大教授河上肇の自宅が家宅捜索され京大生38名が起訴された1926年の京都学連事件である。なお連立崩壊に伴い成立した第二次加藤内閣は憲政会単独内閣であるが、以後犬養内閣に至るまで、衆議院での多数党が政党内閣を組織する「憲政の常道」が続けられていった。 
6 大正時代の大衆文化  
学問  
河上肇 / 『貧乏物語』で奢侈根絶による貧乏廃絶を説く。雑誌『社会問題研究』発刊後マルクス主義経済学に進み、『第二貧乏物語』を著す。  
櫛田民蔵 / 猪俣津南雄の『労農』に寄稿、労農派。『日本資本主義発達史講座』の編者野呂栄太郎ら講座派と内ゲバ対立。  
田中王堂 / 哲学者。『三太郎の日記』を著した阿部次郎や『善の研究』を著し西田哲学を確立した西田幾多郎、『風土』の著者和辻哲郎も有名。  
柳田国男 / 雑誌『郷土研究』を発刊、民族学を確立。歴史学では『神代史の新しい研究』などが蓑田胸喜に攻撃され起訴された津田左右吉らが著名。  
山本実彦 / 『中央公論』に匹敵する『改造』を創刊。両誌は後に横浜事件で廃刊。なお石橋湛山は『東洋経済新報』で平和的経済発展を説く。  
仁科芳雄 / KS磁石鋼を発明した本多光太郎と共に有名な物理学者。数学者では高木貞治、電気工学者では八木秀次、医学者では三浦勤之介が有名。  
野口英世 / 幼名は野口清作。手が不自由。米国ロックフェラー研究所にて梅毒スペロヒータの培養に成功。黄熱病研究中、黄熱病で死去。  
美術  
横山大観 / 岡倉天心の門弟。『生々流転』が有名。狩野芳崖・橋本雅邦の門弟下村観山と共に日本美術院再興、院展を開催。  
牧野伸顕 / 第一次西園寺内閣の文相。文展を創始、土田麦僊・村上華岳・平福百穂・鏑木清方らを発掘。後に松岡映丘らを審査員とする帝展に変わる。  
石井柏亭 / 二科会を創立。二科会は『紫禁城』で知られる梅原龍三郎や『孔雀と女』で有名な安井曽太郎の他、有島生馬・万鉄五郎・小出楢重らを輩出。  
岸田劉生 / 当初フューザン会、後に春陽会所属。『麗子五歳の像』『麗子住吉詣立像』などの『麗子像』を描く。  
高村光太郎 / 彫刻家。高村光雲の子で『手』『鯰』などを残した。この他、『墓守』で知られる朝倉文夫や、『転生』『五浦釣人』の作者平櫛田中も有名。  
生活  
国勢調査は1920年以降5年毎に行われるようになった。当時は文化住宅が盛んに都市郊外に立てられ、女性の地位も上昇して職業婦人と称される輩が出現した。また日本活動写真や松竹キネマが尾上松之助・阪東妻三郎らを用いて盛んに無声映画を制作、1931年にはトーキー映画も出現した。庶民の間には大正琴の普及により『船頭小唄』『籠の鳥』などの流行歌が浸透した他、円本が読まれ、また鈴木三重吉が主宰した児童雑誌『赤い鳥』や、大衆雑誌『キング』が創刊された。1925年には芝愛宕山の東京放送局にてラジオ放送が開始され、翌年にはNHK(日本放送協会)が設立された。また1912年のストックホルムオリンピックに金栗四三と三島弥彦が日本人初のオリンピック選手として派遣される一方、1915年には名古屋山本球場にて全国中等学校野球大会が、1925年には早大・慶大・明大・法大・立大・東大の東京六大学野球が開始され、「人に勝つより自分に勝て」という名言で知られる嘉納治五郎が創始した柔道も講道館を中心として一般に普及した。また市電も京都を端緒として運転が開始された他、生駒山などのケーブルカーが建設された。 
7 近代日本文学史  
小説  
戯作文学 / 読本・黄表紙・洒落本・滑稽本・人情本などの延長。『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』などを著した仮名垣魯文が最後。  
翻訳小説 / 英人リットン原作のものを『花柳春話』として訳した丹羽純一郎(織田純一郎)が有名。翻訳というより翻案。  
政治小説 / 自由民権運動宣伝のため矢野龍溪が著した『経国美談』の他、末廣鉄腸の『雪中梅』、東海散士の『佳人之奇遇』などが有名。  
写実主義 / 坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』などが有名。また『金色夜叉』『多情多恨』の著者尾崎紅葉は、『夏木立』で有名な山田美妙と共に硯友社を結成、機関誌『我楽多文庫』を発刊。言文一致体の代表作『浮雲』や翻訳『あひびき』で知られる二葉亭四迷も写実主義。  
擬古典主義 / 『五重塔』を著し紅露時代を現出した幸田露伴や、雅俗折衷体の『たけくらべ』『にごりえ』を著した樋口一葉が著名。  
浪漫主義 / 日清戦争の前年、近代的自我の成長の必然と西洋文学の啓発のため、北村透谷が雑誌『文学界』を創刊。『高野聖』の著者泉鏡花も有名。  
自然主義 / 島崎藤村は当初浪漫主義的詩集『若菜集』などを発表したが、『破戒』で自然主義を確立。徳富蘆花の家庭小説『不如帰』も自然主義だが国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』『武蔵野』、田山花袋の『蒲団』、徳田秋声の『黴』、正宗白鳥の『何処へ』も著名。  
反自然主義 / 『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『こころ』を著し、『明暗』で則天去私の表現を試みた余裕派・低徊趣味の夏目漱石や、『舞姫』『即興詩人』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』を著した森鴎外が超有名。  
新浪漫主義 / 反自然主義の一種、耽美派(唯美派)。永井荷風の『腕くらべ』、谷崎潤一郎の『刺青』『春琴抄』『痴人の愛』『細雪』など。  
新理想主義 / 反自然主義の一種、白樺派。『お目出たき人』『その妹』『人間万歳』の著者で宮崎県に「新しき村」を建てた武者小路実篤が著名。他、志賀直哉の『暗夜行路』『城の崎にて』、有島武郎の『或る女』『カインの末裔』、倉田百三の『出家とその弟子』も有名。  
新現実主義 / 「真」の自然主義、「善」の新理想主義、「美」の浪漫主義に関連したもの。まず新思潮派では『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』『蜘蛛の糸』『河童』『歯車』『或阿呆の一生』などを著してガス自殺した芥川龍之介や、『恩讐の彼方に』『父帰る』『忠直卿行状記』で知られ雑誌『文藝春秋』を刊行した菊池寛、『波』『女の一生』の著者山本有三が有名。自然主義系私小説では葛西善蔵の『子をつれて』や宇野浩二の『蔵の中』が著名。永井荷風が発刊した『三田文学』からは、久保田万太郎や『田園の憂欝』の著者佐藤春夫らが輩出された。  
革命文学 / プロレタリア文学。小牧近江が刊行した雑誌『種蒔く人』が端緒。日本プロレタリア文芸同盟の雑誌『文芸戦線』は『海に生くる人々』の著者葉山嘉樹や『施療室にて』の著者平林たい子を、全日本無産者芸術同盟(NAPF)の雑誌『戦旗』は『蟹工船』『党生活者』の著者小林多喜二や『太陽のない街』の著者徳田直をそれぞれ輩出。  
新感覚派 / 『日輪』『機械』『旅愁』などの著者横光利一や、『伊豆の踊子』『雪国』などの著者川端康成らが有名。  
大衆文学 / 『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』などの著者吉川英治や、『赤穂浪士』の著者大佛次郎、『二銭銅貨』『心理試験』『陰獣』『孤島の鬼』などを著して探偵小説を確立した江戸川乱歩、『立川文庫』を集団執筆した玉田玉秀斎・山田阿鉄らが有名。  
詩歌  
土井晩翠 / 新体詩の詩集『天地有情』を残す。新体詩は外山正一の『新体詩抄』が端緒、他に森鴎外の『於母影』、上田敏の『海潮音』などが有名。  
与謝野昌子 / 夫の与謝野鉄幹の新詩社が刊行した『明星』で活躍、『みだれ髪』で有名。明星派の詩人では『思ひ出』『邪宗門』の北原白秋らも有名。  
石川啄木 / 東京朝日新聞社入社後、『一握の砂』『悲しき玩具』を執筆。大逆事件を受けた『呼子と口笛』や評論『時代閉塞の現状』などは「赤」。  
正岡子規 / 高浜虚子と俳句雑誌『ホトトギス』を刊行。『歌よみに与ふる書』の他、随筆『病牀六尺』が有名。門弟長塚節は『土』を執筆。  
伊藤左千夫 / 根岸短歌会機関誌『馬酔木』廃刊を受け『阿羅々木』創刊。アララギ派では『赤光』『あらたま』の斎藤茂吉や島木赤彦が著名。  
高村光太郎 / 『道程』『智恵子抄』『典型』などで知られる。室生犀星と共に詩誌『感情』を創刊した自由詩の元祖萩原朔太郎と共に近代詩を確立。  
宮沢賢治 / 日蓮宗徒。詩集『愛と修羅』、童話『銀河鉄道の夜』で有名だが、これは没後草野心平が紹介してから。  
谷川俊太郎 / 哲学者谷川徹三の長男。萩原朔太郎の門弟三好達治が世に紹介。『二十億光年の孤独』『六十二のソネット』、詩論『世界へ!』など。  
 
 昭和時代

 

1 昭和初期の激動  
金融恐慌と政界の激変  
加藤高明死後、第一次若槻内閣を組閣した憲政会総裁若槻礼次郎は1926年に裕仁親王践祚と昭和改元を推進した。当時の日本経済は中華全国総工会が1925年に上海在華紡で起こした五・三〇事件以来の輸出不振により不況に陥っていたが、震災手形処理に関する1927年の大蔵大臣片岡直温(かたおかなおはる)の失言は渡辺銀行などの休業を機に取付騒ぎを招き、金融恐慌を誘発した。恐慌は十五銀行や多数の企業を倒産させ、金子直吉の鈴木商店に対する巨額不良債権を抱えた台湾銀行も破産に瀕したため政府は日本銀行の特別融資でこれを救う台湾銀行救済勅令案を枢密院に提出したが、伊東巳代治ら枢密顧問官は孫文と李大サ(りたいしょう)による第一次国共合作や蒋介石率いる国民革命軍の北伐に危機感を抱く軍部に支持されてこれを否決し、内閣を総辞職させて幣原協調外交を中止させた。新たに組閣した立憲政友会総裁田中義一は大蔵大臣高橋是清に命じて3週間の支払猶予令の間に台湾銀行救済勅令案を可決し、また日本銀行からの20億円の非常貸出を断行して恐慌を収拾した。五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一)は恐慌後に施行された銀行法に基づき、中小銀行を吸収して銀行資本を構築し、産業資本と融合して独占資本(金融資本)たる財閥を形成した。著名な財閥としては、三井・三菱・住友・安田・川崎・浅野・古河・大倉といった八大財閥が挙げられる。  
田中義一内閣の内政と外交  
1928年の第一回普通選挙で労働農民党の山本宣治ら無産政党員8名が当選したため、政府は治安維持法改正を断行して死刑と無期刑を追加する一方、全国に特別高等警察を設置した。また三・一五事件では対華非干渉運動を展開する無産政党員を検挙して労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟の結社を禁止し、一方で京大教授河上肇・東大教授大森義太郎・九大教授向坂逸郎らを大学から追放した(河上事件)。さらに翌1929年の四・一六事件では市川正一・鍋島貞親ら日本共産党幹部など290名を起訴した。一方、政府は邦人と張作霖保護のため1927年に第一次山東出兵を敢行する一方、東方会議では「対支政策綱領」(『日本外交年表竝主要文書』収録)を採択して強硬外交を明示した。北伐再開に抗議するため翌1928年に為された第二次山東出兵では日本軍が国民革命軍と済南事件(さいなんじけん)で初めて衝突したため、すぐに第三次山東出兵が為された。また国民革命軍に北京を占拠された張作霖が不穏な動きを見せたため関東軍参謀河本大作(こうもとだいさく)は同1928年、後に満州某重大事件と称される事件を敢行、張作霖を奉天郊外で爆殺したとされている。田中義一は内田康哉に命じて米国務長官ケロッグと仏外相ブリアンが提唱したパリ不戦条約を調印させたが、条約文中の「人民ノ名ニ於テ」との文言が枢密院に嫌われた他、立憲民政党に満州某重大事件を追及されたため、昭和天皇の不信任を招き総辞職した。  
世界恐慌  
「暗黒の木曜日」たる1929年10月24日のウォール街ニューヨーク株式取引所での株価大暴落は、五ヵ年計画を推進するソ連を除く全資本主義国家に深刻な打撃を与えた。フランクリン=ルーズベルト米大統領はニュー=ディール政策(新規巻き直し政策)を断行する一方、英国がオタワ会議で決定したブロック経済圏構想にフランスと共に追随した。この世界恐慌によりVW体制は崩壊へ向かい、「持てる国」の独善的・排他的方針により壊滅的打撃を受けた「持たざる国」たる日本やドイツは、対外膨脹を余儀無くされた。  
昭和恐慌  
憲政会と政友本党の合同で誕生した立憲民政党総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)は1929年に浜口内閣を組閣し、工業の国際競争力不足と慢性的インフレによる輸入超過を金本位制回帰による為替相場安定と貿易拡大で打破するため、大蔵大臣井上準之助に金解禁を断行させた。だが国際信用を重んじて旧平価($49.85=100円)で解禁したため輸出は停滞し、さらに財界の予測とは裏腹に世界恐慌が襲来したため、昭和恐慌が発生した。昭和恐慌は財閥の資産安全確保目的のドル買いによる正貨流出を招いた他、対米生糸輸出の激減と繭価暴落により農村の基幹産業たる養蚕業を壊滅させ、植民地米移入と豊作による豊作飢饉や東北大飢饉などによる農業恐慌(農村恐慌)を招き、就中寄生地主に土地を奪われた小作人層を困窮させ、『日本農業年報』に見られる身売りや欠食児童が発生した。金融恐慌下で野田醤油争議を指導した日本労働組合総連合は、昭和恐慌を受けて1930年には鐘ヶ淵紡績争議・東洋モスリン争議・東京市電争議などが発生したが、不調だった。工業組合法を制定して中小工業窮乏に対処するなどの産業合理化を進める井上準之助は1931年にカルテル活動保護と生産・価格制限のための重要産業統制法を制定したが、これは国家独占資本主義を目指す統制経済の端緒である。  
浜口内閣に於ける幣原協調外交  
満州某重大事件後、中国では張作霖の子で満州自立開発計画を持つ張学良が国民政府に合流したため国権回復運動が高揚していたが、幣原喜重郎は1930年に日華関税協定を締結して中国の関税自主権を認めて融和を図った。また1929年には全羅南道で学生が衝突する光州学生事件が、翌年には台中州で高砂族が反乱する霧社事件(むしゃじけん)が発生した。一方、米大統領クーリッジの提案による1927年のジュネーブ会議が田中強硬外交に基づく日本全権斎藤実の反対で不調に終わったため1930年に英首相マクドナルドの提唱で行われた第一次ロンドン会議では、補助艦の比率を米:英:日=10:10:7弱に制限して主力艦の建造停止も1936年まで延長するロンドン海軍軍縮条約が採択された。政府は『原田熊雄覚書』に見られる美濃部達吉の「軍令部に決定権は無い」との学説を背景とする世論や西園寺公望の支持を得て、全権の若槻礼次郎と海軍大臣財部彪(たからべたけし)に調印を命じた。しかし海軍は条約派と艦隊派に分裂し、艦隊派の軍令部長加藤寛治は統帥権干犯を主張して野党や右翼と共に政府を攻撃した。やがて1930年に浜口雄幸は右翼の佐郷屋留雄(さごうやとめお)に襲撃され翌年死去し、内閣は総辞職した。  
昭和ファシズムの形成  
原則的に共産主義や自由主義を否定し、政治的には軍部政権を目指し経済的には対外膨脹を目指す全体主義ファシズムは、日本では超国家主義や軍国主義として現出した。右翼団体としては内田良平の黒龍会や天皇大権中心の国家社会主義を説く『日本改造法案大綱』の著者北一輝(きたいっき)が大川周明・満川亀太郎と共に立てた猶存社(後の行地社(こうちしゃ))、それに関東と関西の博徒親分が中心となり結成した大日本国粋会や、官僚・軍人を中心に平沼騏一郎が国民精神作興のため結成した国本社、民間右翼団体の連合組織たる国体擁護連合会などが挙げられる。権藤成卿(ごんどうせいきょう)・橘孝三郎らが提唱する農本主義を母胎とする昭和ファシズムは、田中内閣の文部大臣小橋一太(こはしいちた)・鉄道大臣小川平吉・朝鮮総督山梨半蔵らが起こした売勲事件により高揚し、やがて橋本欣五郎の桜会や右翼国家社会主義者の「右翼・革新」らによる国家改造運動(昭和維新) を発生させた。 
2 国際的孤立と右傾化の進展  
満州事変  
1 満州事変の勃発 
(1931年 / 十五年戦争の開始)  
対米殱滅戦争を想定した著書『世界最終戦論』で知られる関東軍参謀石原蒄爾(いしはらかんじ)は、中国の一方的な満鉄平行線建設に伴う日本の鉄道収益への損害や、1931年に関東軍参謀中村震太郎が中国軍に惨殺された中村大尉事件、それに満州人と朝鮮人が長春で衝突した万宝山事件などを踏まえて『満蒙問題私見』を発表し、朝鮮統治・資源供給・失業救済などの利点を挙げて進出を主張した。やがて石原蒄爾や土肥原賢二に唆された参謀長板垣征四郎率いる関東軍は1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道爆破事件を起こし、これを張学良の仕業として報復軍事行動を開始した。  
2 満州国建国  
(1932年 / 日満経済ブロック形成へ)  
排日派中国人による日本人僧侶殺害を機に1932年に勃発した第一次上海事変は日本の海軍陸戦隊や陸軍部隊により潰され、上海停戦協定が結ばれた。その間、関東軍は長城以北の東三省(奉天省・吉林省・黒龍江省)を獲得し、犬養内閣の反対を退けて1932年に満州国を建国し、首都新京(長春)には天津から溥儀を執政として迎えた。斎藤内閣の外務大臣内田康哉は満州国を承認すると同時に日本の権益承認・日本軍駐屯を規定した日満議定書を締結した。また翌1933年には熱河省を満州国の版図として獲得した他、1934年には溥儀が皇帝に就任した。なお満州国創建後、日本は「王道楽土・五族協和」を唱え国民組織協和会を結成した。  
3 国際的束縛からの解放  
国民政府の提訴を受けた国際連盟日華紛争調査委員会は1932年に英人リットンを長とするリットン調査団を派遣した。後に提出されたリットン報告書に基づき国際連盟理事会は対日満州撤退勧告案を13:1で採択した。翌1933年の総会でも42:1、棄権1で可決されたため日本代表松岡洋右(まつおかようすけ)は退席し、焦土外交を展開する内田康哉は同1933年、国際連盟に脱退を通告した。岡田内閣の外務大臣広田弘毅は1934年にワシントン海軍軍縮条約を破棄した他、1935年から永野修身・永井松三ら日本全権と米・英・仏代表との間で行われた第二次ロンドン会議の決裂による脱退、それに伴うロンドン海軍軍縮条約失効などにより、日本を無制限建艦時代に突入させた。  
4 転向の時代  
1933年に日本共産党幹部の佐野学・鍋島貞親らが民族社会主義への転向を発表したのを機に、当初カウツキーの『資本論解説』などを媒介にマルクス主義を紹介していた高畠素之らは転向して共産主義を改め、村山知義の『白夜(びゃくや)』、島木健作の『癩』『生活の探求』、中野重治の『第一章』などの転向文学も発表された。こうした中、野坂参三は1936年にモスクワで「日本の共産主義者への手紙」を発表した。  
第二次若槻内閣  
浜口内閣の大蔵大臣井上準之助と外務大臣幣原喜重郎を留任させて1931年に立憲民政党総裁若槻礼次郎は組閣したが、満州事変が勃発すると不拡大方針を示した。第二次若槻内閣成立の直前に宇垣一成軍部内閣成立を目指して三月事件を起こしていた橋本欣五郎はこれに憤慨し、大川周明と共に若槻礼次郎と幣原喜重郎を暗殺して荒木貞夫軍部内閣の成立を企てたが、未然に露顕した(十月事件)。しかし内閣は動揺が続き、内務大臣安達謙蔵らが提唱した親軍的協力内閣論もあり、閣内不一致で総辞職した。  
犬養内閣の経済政策  
立憲政友会総裁犬養毅が組閣した犬養内閣の大蔵大臣高橋是清は、赤字公債の発行や1931年の金輸出再禁止、それに伴う管理通貨制度(1942年に日本銀行法で法制化)の導入で昭和恐慌に対処する一方、1933年には外国為替管理法を制定し、横浜正金銀行を通じて低為替政策を実施して輸出増加を図ったが、これはソーシャル=ダンピングとして英国の反発を招き、1936年には日印通商条約が一方的に破棄された。産業面では1934年に製鉄大合同が為され、半民半官で90%のシェアを誇る日本製鉄会社が設立された他、軍需・重化学工業を中心に新興財閥が成立した。新興財閥としては、満州重工業会社を設立した鮎川義介(あいかわよしすけ)の日本産業会社の日産コンツェルンや、昭和電工を設立した森矗昶(もりのぶてる)の森興業の森コンツェルン、野口遵(のぐちしたがう)の日本窒素肥料会社の日窒コンツェルン、理化学研究所所長大河内正敏の理化学興業の理研コンツェルン、中野友礼(なかのとものり)の日本曹達の日曹コンツェルン、などが挙げられる。  
五・一五事件 
(1932年 / 政党内閣の終焉)  
茨城県磯浜の護国堂に在った井上日召は一人一殺を唱えて血盟団を組織し、小沼正に命じて前大蔵大臣井上準之助、菱沼五郎に命じて三井合名理事長団琢磨(だんたくま)を暗殺した。この血盟団事件により世情不安が広まる中、農村の窮乏と政治腐敗に憤った海軍青年将校たちは陸軍士官学校生徒や橘孝三郎の愛郷塾の構成員らと共に首相官邸・警視庁・日本銀行などを襲撃し、犬養毅を射殺するという五・一五事件を起こした。立憲政友会総裁には鈴木喜三郎が就いたが、元老・重臣は政党員を含む挙国一致内閣または政党と軍部の中間内閣として、穏健派の海軍大将斎藤実に組閣させた。  
斎藤内閣  
長野朗(ながのろう)らの農村救済請願運動を受けた政府は1932年、内務省と農林省を中核として農村の自力更生・隣保共助を進める農山漁村経済更生運動(自力更生運動)を展開する一方、時局匡救費を支出して公共事業を行い農民を就労させて現金収入を得させた。また1933年には天野辰夫らのクーデター未遂事件たる神兵隊事件や、京大法学部教授で『刑法読本』『刑法講義』の著者滝川幸辰(たきがわゆきとき)が文部大臣鳩山一郎により強制休職させられたため同僚の佐々木惣一・末川博らが抗議して辞職した滝川事件などが発生した。斎藤内閣は翌1934年、帝国人絹会社の株式売買疑獄事件たる帝人事件で総辞職した。  
岡田内閣  
岡田内閣は海軍大将岡田啓介が中間内閣として組閣したが、統制経済などの国防国家を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』を1934年に陸軍省が発行して公然と政治に介入した陸軍パンフレット問題からも明らかなように実際は軍部に押され気味だった。翌1935年には貴族院議員菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説を攻撃して所謂天皇機関説問題が発生したが、政府は美濃部達吉の『憲法撮要』『逐条憲法精義』を発禁として貴族院議員を辞職させる一方、「日本は万世一系の天皇が統治する国であるため天皇機関説は国体に悖る」という主旨の国体明徴声明を出し、本格的な思想統制を開始した。なおこの十月声明は、八月声明が「天皇機関説」の語句を含まなかったため軍部などから攻撃を受けた結果、発せられた。  
二・二六事件 
(1936年 / 軍部の発言力強化の契機)  
陸軍は十月事件を機に、新官僚と共に統制経済・反政党の立場をとる軍部政権を樹立させ高度国防国家建設を目指す永田鉄山(ながたてつざん)・石原蒄爾・寺内寿一(てらうちひさいち)・東条英機ら統制派と、北一輝・西田税(にしだみつぐ)と交流を持ち国家革新のためのテロを唱える荒木貞夫・真崎甚三郎・山下奉文(やましたともゆき)ら皇道派に分裂し、皇道派の蜂起計画を統制派が暴いた1934年の士官学校事件や翌年に軍務局長永田鉄山が皇道派の相沢三郎に殺された相沢事件などで両派は対立を深めた。そんな折、1936年2月26日午前5時頃、皇道派青年将校栗原安秀・中橋基明・河野寿・安藤輝三・坂井直は同志と共にそれぞれ岡田啓介・高橋是清・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実と渡辺錠太郎を襲撃し、このうち秘書官松尾伝蔵を身代りとした岡田啓介や鈴木貫太郎・牧野伸顕を除く全員を惨殺し、さらに警視庁や朝日新聞社も攻撃して永田町界隈を占拠した。軍部は憂国心からの蜂起として蹶起部隊に同情的だったが老臣たちの惨殺に立腹された昭和天皇は叛乱部隊の原隊復帰を命ずる奉勅命令を下された。やがて叛乱部隊は戒厳令で設置された戒厳司令部に平定され、事件は幕を閉じた。この二・二六事件の後、粛軍のため皇道派を一掃した統制派が主導権を獲得することとなった。  
その後の政界  
二・二六事件による岡田内閣総辞職を受け、元老や重臣はかつて玄洋社に関係していた外交官広田弘毅に庶政一新・日本精神作興・統制経済強化など広義国防国家を目標とする広田内閣を組閣させた。軍部との協力内閣である広田内閣は1936年に軍部大臣現役武官制を復活する一方、首・陸・海・外・蔵相の五相会議で北守南進策のための軍備拡張と国家総動員体制確立を目指す「国策の基準」を決定し、帝国海軍の象徴となる弩級戦艦「大和」「武蔵」の建造を開始した。また同1936年にはヒトラー率いるナチスドイツとの間に日独防共協定を結び東京・ベルリン枢軸を確立したが、やがて軍拡を巡り陸軍大臣寺沢寿一と立憲政友会の浜田国松が行った「腹切り問答」を機に1937年、総辞職した。組閣の大命は宇垣一成に降下したが陸軍がこれを嫌ったため成立せず(宇垣流産内閣)、陸軍大将林銑十郎が「祭政一致」を唱える林内閣を立てた。林銑十郎は財界の結城豊太郎を大蔵大臣に迎え「軍財抱合(ぐんざいほうごう)」の結城財政を行わせた他、外務大臣佐藤尚武に満州国問題に触れない対華和平を模索させたが、短命に終わった。 
3 第二次世界大戦への道  
日華事変以前の中国情勢  
国民政府が関東軍の満州統治を認めた1933年の塘沽停戦協定に基づき、関東軍は長城以南の北京や天津を非武装化した。1935年には北支駐屯軍司令官梅津美治郎(うめづよしじろう)と何応欽(かおうきん)の間で河北省に関する梅津・何応欽協定、土肥原賢二と秦徳純の間で内蒙古に関する土肥原・秦徳純協定を締結させ、殷汝耕(いんじょこう)を首班とする冀東地区(きとうちく)防共自治政府を河北省北部に立てた。1934年に中華ソビエト共和国臨時政府のある瑞金から長征(大西遷)を開始し途中の遵義会議で「北上抗日」を決定して指導権を掌握した毛沢東は、岡田内閣の外務大臣広田弘毅による国民政府の華北分離工作中止要請拒否を受けて1935年に八・一宣言(抗日救国のため全同胞に告げる書)を発表し、内戦の停止と抗日救国運動を訴えた。太渡江瀘定橋・大雪山・大湿原などを経て長征を終え1936年に延安に紅軍を集結させた毛沢東は、徐海東らと共に陝西省解放区を確立した。抗日救国運動は広田内閣が「国策の基準」で華北五省進出を示すと、さらに激化した。  
日華事変  
綏遠省東部で関東軍と内蒙古軍が国民政府軍に敗北した1936年の綏遠事件を機に日中交渉は決裂したが、中国では張学良と楊虎城が西安事件を起こして蒋介石を監禁し、周恩来の斡旋により「一致抗日」を承服させた。やがて1937年7月7日には北京郊外の永定河(えいていが)の蘆溝橋(ろこうきょう)で宋哲元の国民政府軍と支那駐屯軍が衝突する蘆溝橋事件が勃発し、北支事変が始まった。国民政府は中ソ不可侵条約を締結する一方、第二次国共合作により抗日民族統一戦線を結成して紅軍を国民政府第八路軍に編成した。この抵抗に対し第一次近衛内閣の外務大臣広田弘毅は大山勇夫(おおやまいさお)が上海で殺された第二次上海事変を機に中国政府断固膺懲を発表、日本軍に上海・広東・武漢三鎮を占拠させ、戦闘は中国全土に拡大した(支那事変)。日本軍は国民政府の重慶移転後に南京を占領した際、所謂南京大虐殺(なんきんアトロシティ)を行ったとされているが、被害者の人数が当時の南京の居住人口を遥かに上回るなど人数の根拠が不明確な上に、証拠とされる史料も捏造と推定されるものがあり、真相は不明である。なお、中国共産党政府は後にチベットなどで遥かに大規模な虐殺行為を展開したことで知られている。一方、独駐華大使トラウトマンの日中和平斡旋が不調に終わると近衛文麿は1938年に「国民政府を対手(あいて)とせず」という第一次近衛声明を発し、中支派遣軍に命じて南京に中華民国維新政府を樹立させた。これはやがて瓦解したが、やがて日華事変の目的を円ブロック経済圏確立による「東亜新秩序」の建設に定める第二次近衛声明を発し、続いて第三次近衛声明を発して日中和平の条件を善隣友好・共同防共・経済提携という近衛三原則に限定した。  
第一次近衛内閣の外交  
後藤隆之助の昭和研究会を初め多数の国民に支持された貴族院議長近衛文麿は1937年に第一次近衛内閣を組閣し、勃発した日華事変に対応する一方、対ソ連のみならずVW体制の打破と枢軸国による世界新秩序を目指す日独伊三国防共協定に調印した。関東軍とソ連軍は1938年のソ満国境付近に於ける張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)、また翌1939年の満蒙国境に於けるノモンハン事件で衝突したが、ソ連の戦車部隊を前に関東軍は苦戦を強いられた。  
思想統制  
挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を唱える国民精神総動員運動は日華事変勃発直後に興隆した。これに基づき、反ファッショ人民戦線の結成を計画した加藤勘十・山川均・鈴木茂三郎らが1937年、大内兵衛・有沢広巳(ありさわひろみ)・美濃部亮吉らが翌1938年に検挙される人民戦線事件が発生し、全国農民組合はこれを機に大日本農民組合に改組され右派に転じた。また『帝国主義下の台湾』『帝国主義下の印度』『植民及植民政策』などで軍部に睨まれた東大教授矢内原忠雄(やないはらただお)が論説『国家の思想』を機に退職した1937年の矢内原事件や、『ファシズム批判』『社会政策原理』『時局と自由主義』などの著者である東大教授河合栄治郎が休職処分となった河合事件、それに早大教授津田左右吉(つだそうきち)の著作『神代史の新しい研究』などが発禁となった津田筆禍事件などが発生したため、文部省教学局は『国体の本義』『臣民の道』などを利用して国民の教化に務める一方、戦意高揚のため1939年以降毎月1日を興亜奉公日、1942年以降毎月8日を大詔奉戴日と定めた。また1940年には内閣情報局が置かれ、翌1941年には治安維持法予防拘禁制と言論・出版・集会・結社等臨時取締法が実施された。  
経済統制  
第一次近衛文麿内閣は1937年に臨時資金調整法を施行して融資を軍事産業優先とする一方、輸出入品等臨時措置法を施行して貿易を統制した。また企画院を設置した他、政府の私企業介入の端緒となる電力国家管理法を制定して全電力会社を統制する日本発送電会社を1938年に設立し、やがて人や物の流れを勅令で統制する国家総動員法を成立させた。これを受けて平沼内閣は翌1939年、初任給を固定する賃金統制令や国民を軍需産業などに徴用する国民徴用令を施行した。また平沼内閣は米の安定供給を図るべく1939年に米穀配給統制法と小作料統制令、翌1940年に米穀強制出荷命令を施行したが、1941年には配給通帳制が導入された。また同1941年には生活必需物資統制令が実施されたが、1939年に九・一八ストップ令として賃金臨時措置令・地代家賃統制令と共に施行された価格等統制令による公定価格制と共にこれは物資不足を招いた。  
世界情勢の変遷  
ドイツ第三帝国は1936年にロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐し、ムッソリーニ率いるイタリアは同1936年にエチオピア併合を敢行した。ドイツは1938年にオーストリアを併合する一方、英・仏・独・伊の首脳を集めたミュンヘン会談にてチェコスロバキアのズデーテン地方の領有を正当化した。英首相ネヴィル=チェンバレンと仏首相ダラディエはこの宥和政策で戦争回避を目指した。スペインでは1936年に人民戦線政府が成立した後、右翼のフランコ将軍が独・伊に支持されてスペイン内乱を起こし、国際義勇軍やソ連軍の支援を受けた人民戦線軍を叩き潰して1939年に独裁政権を樹立した。やがて、日独防共協定の存在にも拘らず英国の対独包囲網打破のために独ソ不可侵条約を締結したドイツは、1939年9月1日にポーランドへ侵攻し、世界史上最大規模の戦争となる第二次世界大戦を勃発させた。  
政界の動揺  
1939年に有田八郎を外務大臣に迎え平沼騏一郎は組閣したが、1939年には米国が一方的に日米通商航海条約破棄を通告して来た上、独ソ不可侵条約が締結されたため状況把握に疎い平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」と吐露して総辞職した。この後に組閣した陸軍大将阿部信行は、第二次世界大戦には不介入の方針を発表し、日華事変解決を目指す一方、外務大臣野村吉三郎に米駐日大使グルーと会談させて日米国交の復旧を図ったが、不調に終わった。さらに昭和天皇の命を受けて陸軍大臣となった畑俊六が陸軍幕僚から攻撃されたため内閣は総辞職した。1940年には穏健派の海軍大将米内光政が組閣したが、日華事変処理に関して反軍演説を行った立憲民政党の斎藤隆夫が軍部の圧力により議員を除名されたことからも明らかな通り、この頃には軍部の抬頭が著しくなった。近衛文麿らはナチスやファシスタ党を模した国民組織の創立による総力戦体制の樹立を目指す新体制運動を行っていたが、これに期待した軍部はドイツがフランスを屈服させたことを機に、6月に陸軍大臣畑俊六を単独辞職させ、米内内閣を総辞職に追い込んだ。  
大政翼賛会の成立 
(1940年 / 強力な政治体制の確立を目指す)  
組閣直後「基本国策要綱」を発表して新体制運動を進めた近衛文麿は、立憲政友会・社会大衆党・国民同盟・東方会・立憲民政党を解散して大政翼賛会を結成した。この大政翼賛会の下、1942年には大政翼賛運動実践部隊たる大日本翼賛壮年団が組織され、さらに大日本国防婦人会・大日本連合婦人会・愛国婦人会を糾合した大日本婦人会や、大日本産業報国会・農業報国同盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団が傘下組織として組織された。なお大日本産業報国会は、協調会が産業報国連盟の下に結成した各工場の産業報国会を糾合して厚生大臣を中心に結成された。総理大臣を総裁、道府県知事を支部長とする大政翼賛会の末端組織は相互扶助のために町内会や部落会の下に結成された隣組であるが、やがて大政翼賛会はこうした組織により上意下達の機関と化した。なお第二次近衛内閣は1940年に皇居前に於いて皇紀二千六百年記念式典を挙行した他、翌1941年には小学校をドイツ流の国民学校に改組し、「八紘一宇」の教えなどを諭した。 
4 大東亜戦争(太平洋戦争)  
南進政策の展開  
1940年、仏印ルートとビルマ=ルートからなる援蒋ルート遮断のために北部仏印進駐を敢行した後、海軍大臣及川古志郎の反対を押し切った外務大臣松岡洋右は陸軍大臣東条英機と共に駐独大使来栖三郎に命じて独総統ヒトラー・伊外務大臣チアノとの間に事実上の対米軍事同盟たる日独伊三国同盟を締結した。これに対し米国は制裁として屑鉄・鉄鋼の対日禁輸措置を執った。また第二次近衛声明に呼応して重慶を脱出した中国国民党左派汪兆銘(汪精衛)は脆弱な南京新国民政府を樹立していたが、政府は日華基本条約を締結してこれを承認、日満華三国防共体制を目指した。一方、1941年には松岡洋右・モロトフ両外務大臣間で日ソ中立条約が締結されたが、独ソ戦争が勃発したことを受けた御前会議では南北併進策が決定され、70万人もの関東軍による関東軍特種演習(関特演)が実施された。  
日米交渉決裂  
「帝国国策要綱」に則り1941年には石油・ゴム・燐酸・アルミなどの資源を得るべく南部仏印進駐が為されたが、これは米国の対日石油禁輸措置と在米日本資産凍結、それに英国の日英通商条約廃棄通告を招いた。同1941年の米英首脳会談にて採択された大西洋憲章では対日圧力の強化が決定されたため、御前会議は最悪の場合の日米開戦を想定した準備を定めた「帝国国策遂行要領」を採択した。やがて近衛文麿は内大臣木戸幸一が推挙する東条英機に総理大臣の座を譲ったが、東条英機は当初昭和天皇から下された戦争回避の命令を遂行するべく、努力した。しかしABCDラインによる米・英・中・蘭の対日包囲網が既に完成していた他、駐米大使野村吉三郎・来栖三郎・米国務長官ハルらが行っていた日米交渉も1941年11月に米側が事実上の最後通牒として満州事変以前の状態への回帰を要求するという実現性ゼロの無理難題であるハル=ノートを示したため、完全に決裂した。  
戦時下の国政  
1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会推薦者381名が当選して非推薦当選者85名を圧倒、すぐに翼賛議員同盟の後身たる翼賛政治会(後の大日本政治会)が発足した。東条内閣は軍需省を設置する一方、独駐日大使ゾルゲと近衛文麿のブレーン尾崎秀実を1941年にソ連の密偵として検挙したり(ゾルゲ事件)、細川嘉六が論文「世界史の動向と日本」を1942年に『改造』に掲載したことを機に『中央公論』『改造』を廃刊させたり(横浜事件)した。また東亜共同体論を背景に欧米覇権からの脱却と各地の新政権樹立、それに日本の資源確保体制の確立を目指す大東亜共栄圏構想に基づき、1943年には中華民国の汪兆銘、満州国の張景恵、フィリピンのラウレル、自由印度仮政府のチャンドラ=ボース、タイのワンワイ=タヤコン、ビルマのバー=モウらを招いて大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を採択した。  
軍政の実施  
日本の一部である朝鮮では、創氏改名・神社参拝・日本語使用などを強く奨励する皇民化政策が執られ、近代的家族制度の確立に貢献した。また内地で労働に従事した中国人らは、花岡事件などの集団蜂起事件を起こした。また、朝鮮では金日成率いる朝鮮人民革命軍、仏印ではホー=チミン率いるベトナム独立同盟、フィリピンではタルク率いる抗日人民軍などの抗日運動が展開された。なお占領地では物資調達のための軍票が発行された。  
戦時下の社会  
憲兵や警察に統制された銃後(内地の国民)は1943年に設置された女子勤労報国会や女子挺身隊への編入、それに学徒動員などにより軍需産業に勤労動員された。加えて同1943年には在学中の徴兵猶予制が停止されて学徒出陣が為され、同時に徴兵適齢も19歳となった。また1938年以降は陸軍志願兵制度に基づき当時は同じ日本人であった朝鮮人・台湾人にも平等に徴兵制が適用された。この頃の日本は大連・新京間を走った満鉄特急「あじあ号」や、1941年に鴨緑江に竣工した水豊発電所などで大東亜の盟主たる地位を確立していたが、清沢冽の『暗黒日記』には千人針・国民服・もんぺなどの他、「贅澤ハ敵ダ!」「欲しがりません勝つ迄は」の標語の下に不急不要の民需品が禁止され砂糖・マッチ・石炭・衣料・煙草などの切符制、米の供出制収集、米・塩の通帳配給制が整えられたことなどが記されている。
大東亜戦争 
(1941年12月8日〜1945年8月15日 / 世界史上最大の戦争)  
意見書『海軍航空設備の現状』を提出した井上成美や連合艦隊司令長官山本五十六、それに米内光政ら海軍良識派は12月1日の御前会議で戦争回避を訴えたが、軍令部総長永野修身・参謀総長杉山元らは戦争停止による内乱・革命勃発への懸念やドイツへの過信などから主戦論を唱え開戦を決定した。  
国力差から短期決戦を図った山本五十六は「仙人参謀」黒島亀人らの策定した真珠湾攻撃作戦を発動し、11月26日に択捉島の単冠湾から出発していた空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」と戦艦「比叡」「霧島」の他巡洋艦2隻・駆逐艦9隻・潜水艦3隻からなる機動部隊を率いる南雲忠一に対し、12月2日に「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を送信した。かくして零式艦上戦闘機21型350機による真珠湾攻撃が12月8日に為され、太平洋艦隊戦艦「アリゾナ」「オクラホマ」などの撃沈に成功した。だが外務省の怠慢から結果的に奇襲攻撃となった上、燃料タンクなどの主要な軍港施設の破壊に失敗し、さらに空母「エンタープライズ」「サラトガ」「レキシントン」を討ち損じたため、戦略的には悔いの残る結果となった。なお米国はこの直後、西海岸地方の日系米人を強制収容所に拘束した。  
同12月8日、陸軍はマレー半島上陸を敢行したが、小沢治三郎率いる南遣艦隊は12月10日に英東洋艦隊とマレー沖海戦を行った。この際、松永貞市率いる第22航空戦隊はフィリップス率いる戦艦「プリンス=オブ=ウェールズ」「レパルス」を世界史上初めて航空機により撃沈した。陸軍は12月25日に香港、翌1942年1月2日にマニラを占領したが、マニラから逃亡する司令官マッカーサーが"I shall return."と言い残したことは有名である。なおバターン半島に追い詰められた米兵など10万人は捕虜となったが、収容施設が近隣に無かったため司令官本間雅晴はやむなく90kmもの道程を捕虜に歩かせたとされている(バターン死の行進)。また日本軍はシンガポール(昭南市)を占拠した際も抵抗する華僑を鎮圧したが、これは血債の塔に祀られた。  
南方補給線確保のためニューギニア島のポートモレスビ攻略を目指す井上成美が率いる空母「翔鶴」「瑞鶴」「祥鳳」などは5月7日、フレッチャー率いる「レキシントン」「ヨークタウン」などと衝突し、世界史上初の機動部隊同士の近代戦たる珊瑚海海戦を展開した。日本軍は戦術的には勝利したものの「祥鳳」を失い、「翔鶴」「瑞鶴」は損傷して暫時修理が必要となったため、戦略的には惜敗だった。  
4月18日に空母「ホーネット」から離陸したB25ミッチェルにより初めての東京空襲が為されたことを重く見た山本五十六は、真珠湾攻撃で討ち損じた米機動部隊を誘い出し徹底的に殱滅するべく空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を中心とする99隻の大艦隊を南雲忠一に任せ、出撃させた。艦隊は6月4日にスプルアンス率いる米機動部隊と衝突したが、参謀長草鹿龍之介の進言による魚雷から爆弾そして魚雷への装備変更に手間取ったため、第二次攻撃隊の出撃直前に米軍機の総攻撃を受け、米軍を恐れさせていた山口多聞の「飛龍」を含む全空母と巡洋艦「三隈」「最上」、それに精鋭パイロット数百名を失った。結局、このミッドウェイ海戦は日本軍の進撃を止めさせ、米軍が攻勢に転ずる契機となった。  
ソロモン諸島のガダルカナル島には飛行場を建設できる平地があったため、南太平洋全域の制空制海権を求める日米両軍は熾烈な攻防を展開した。まず1942年7月5日、フレッチャー率いる米軍のガダルカナル島奪取作戦発動を受けラバウルから出撃した三川軍一率いる巡洋艦「鳥海」など7隻は、夜間魚雷戦では圧勝したが敵輸送船団の攻撃はできなかった。この第一次ソロモン海戦の後、8月8日に勃発した第二次ソロモン海戦では南雲忠一が軽空母「龍驤」などを囮として米軍を混乱させる間に「翔鶴」「瑞鶴」中心の機動部隊が米軍に痛撃を加えて空母「ワスプ」を撃沈、「サラトガ」「エンタープライズ」を損傷させた。しかし米軍はガダルカナル島上陸作戦を続行し、やがてヘンダーソン飛行場を建設したため10月26日には南太平洋海戦が勃発した。南雲忠一・キンケイド両提督率いる日米主力機動部隊はサンタクルーズ沖で衝突し、熾烈な空中戦が展開された結果、米軍は空母「ホーネット」を失い「エンタープライズ」も中破させられた。南太平洋海戦は第八戦隊司令官阿部弘毅らの活躍により日本軍の勝利に終わったが、日本軍はここでも約百名もの熟練パイロットを失った上、11月26日の第三次ソロモン海戦では戦艦「比叡」「霧島」がレーダーの性能不足から撃沈されたため、日本軍は翌1943年2月にガダルカナル島から撤収した。  
1943年4月18日、暗号を解読した米軍はパープル作戦を発動、ラバウル上空にて山本五十六の乗る一式陸攻を撃墜した。稀代の名将山本五十六の殉職後、連合艦隊司令長官は古賀峰一が継いだが、アッツ島玉砕や木村昌福の好采配によるキスカ島撤収など戦線後退が続き、陸軍が敢行したインパール作戦も牟田口廉也の拙劣な指揮により多数の日本兵犠牲者を出して失敗に終わった。やがて古賀峰一がサイパンまで暗夜荒天を衝いて飛行中に消息を絶ったため豊田副武が連合艦隊司令長官に就任したが、古賀峰一が所持していた暗号書や秘密書類は全て米軍に渡ったため、以後の作戦行動は困難を極めた。  
スプルアンス率いる空母15隻・戦艦7隻・航空機900機の大艦隊のマリアナ諸島進軍に対し、日本の主力艦上爆撃機彗星の高性能さを信じる小沢治三郎は弩級戦艦「大和」以下空母9隻・戦艦5隻などからなる艦隊で迎撃を図った。だが海軍飛行予科練習生(予科練)上りの搭乗員たちは総じて訓練不足だった上、航空機の絶対数も少なく、さらに米軍が新兵器VT信管を導入していたため、6月19日のマリアナ沖海戦は米軍パイロットが「マリアナの七面鳥撃ち」と言う程の一方的な戦いとなった。結果的に日本軍は空母「大鳳」「翔鶴」と搭乗員400名を失い、航空兵力は壊滅した。  
この敗戦の結果、南雲忠一が拠るサイパン島や角田覚治が拠るテニアン島、それにグアム島などが玉砕し、日本の絶対国防圏は破られた。このため東条内閣は重臣岡田啓介らに総辞職させられたが、後継の小磯国昭・米内光政協力内閣も本土決戦・一億玉砕・一億国民総武装を唱えた。しかしマリアナ諸島などから出撃した戦略爆撃機B29スーパーフォートレスは日本の主要都市に対して夜間無差別焼夷弾爆撃を実行したため、この頃から学童疎開が本格化した。  
南方資源地帯から本土への補給線を死守するべく大本営が発案した捷一号作戦に基づき10月23日に行われた比島沖海戦では、栗田健男率いる「大和」「武蔵」などを中心とする主力艦隊を航空機の援護無くレイテ湾に突入させるため、小沢治三郎が囮艦隊を率いてハルゼイ率いる米主力艦隊を引き付けた。作戦の途中「瑞鶴」がエンガノ岬沖、「武蔵」がシブヤン海にて撃沈されたものの主力艦隊は何とかサンベルジノ海峡を通過し、レイテ湾の目前まで迫ったが、栗田健男が何を血迷ったのか反転したため、この戦いは連合艦隊に壊滅的打撃のみを残し、終焉した。なおこの戦いでは大西瀧治郎が考案した神風特攻隊や人間魚雷「回天」などが活躍したが、初の「神風」を敢行したのは直前の台湾沖海戦の司令官有馬正文である。  
弩級戦艦「大和」型三番艦として建造が開始され途中で世界最大最強空母に設計変更された「信濃」は連合艦隊の期待を担って就役したが、直後潮岬沖で米潜水艦に撃沈された。また1945年3月10日には下町への焼夷弾絨毯爆撃を中心とした東京大空襲が為され、十万人が無差別に虐殺された。  
3月17日に栗林忠道が守る硫黄島を玉砕させた米軍は3月26日に慶良間列島攻撃を開始、4月1日にはスプルアンス率いる海兵隊と陸軍部隊、計18万2千人が沖縄本島への揚陸作戦を発動した。沖縄戦では後に摩文仁の丘の健児之塔に祀られた鉄血勤皇隊や現地招集の郷土防衛隊、それにひめゆり隊・白梅隊・瑞泉隊・なごらん隊・梯梧隊・積徳隊などが活躍した。大本営は菊水作戦を発動して400機の神風特攻隊を沖縄周辺の敵艦隊に突撃させる一方、海上特攻隊として伊藤整一が指揮する第二艦隊を沖縄へ派遣したが、艦長有賀幸作率いる旗艦「大和」は坊ノ岬沖で4月7日に撃沈され、沖縄司令官牛島満も6月24日に自決した。結局日本軍9万人と民間人10万人が死亡、米軍も5万人の死傷者を出し、沖縄戦は大東亜戦争に於ける最大最後の激戦となった。  
1943年2月のスターリングラードの戦いでの独軍敗北以後、欧州では枢軸国が劣勢になったが、カサブランカ会談後の連合国軍のシチリア島上陸を機にイタリアのムッソリーニは失脚し、新たに成立したバドリオ政権は9月に無条件降伏した。またテヘラン会談を受け、1944年6月にはアイゼンハワーの下、ノルマンディー上陸作戦が実行された。さらにソ連軍がベルリンに迫ったため、独総統ヒトラーは愛人エヴァ=ブラウンと共に4月30日に自殺。後継のデーニッツ政権は5月7日に無条件降伏した。  
我が国に対する戦時中の連合国側の決定等としては、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が1943年11月に開催したカイロ会談で日本の無条件降伏・植民地没収などを求めたカイロ宣言の他、ルーズベルト・チャーチル・スターリンが1945年2月に開催したヤルタ会談で対独戦後処理や枢軸国を「敗戦国」と扱う国際連合の設置を決定したヤルタ協定、そしてトルーマン・チャーチル(後にアトリー)・スターリンが1945年7月に開催したポツダム会談で日本からの軍国主義絶滅・再軍備禁止・民主化促進・主権限定(領土を四島と付属小島に限定)などを取り決めたポツダム宣言などが挙げられる。  
米軍の沖縄上陸を機に小磯・米内協力内閣は総辞職し、代わって鈴木貫太郎内閣が成立した。鈴木貫太郎はポツダム宣言を黙殺して聖戦完遂・本土決戦を唱え、最後の連合艦隊司令長官小沢治三郎に徹底抗戦を命じる一方で、ソ連を利用した和平の道も模索した。しかし既にスターリンはヤルタ会談にて、日ソ中立条約を反古にした対日参戦と、それに伴う南樺太と日本固有の領土である千島列島の占領を米大統領ルーズヴェルトと英首相チャーチルに承服させていたため、この和平交渉は成就する筈もなかった。やがて米国は、レスリー=グローブスの指揮の下、産・軍・学の相互協力によりマンハッタン工兵管区の事務所を中心として推進されていたマンハッタン計画を急がせ、大量無差別殺戮兵器の原子爆弾を完成させ、重巡洋艦「インディアナポリス」に搬送させ、前線へ配備した。B29スーパーフォートレス・エノラ=ゲイ号は8月6日に広島へ、またボックス=カー号は8月9日に小倉の天候が不良だったため長崎へ、それぞれ原爆を投下した。この背景には、ヤルタ密約に基づき実際に8月8日に満州へ侵攻して関東軍を壊滅させ、日本の満蒙開拓団などの農業開拓移民を虐待すると共にシベリアへ強制連行して多数の残留日本人孤児を生じさせたソ連の動きがあったものと推定される。  
8月9日に開催された御前会議では、国体護持を条件としたポツダム宣言の受諾を主張する外務大臣東郷茂徳と聖戦完遂を主張する陸軍大臣阿南惟幾が対立したため、昭和天皇の御聖断により終戦が決定され、翌日米・英・中・ソに通告された。8月14日の最終決定後に起草された終戦の詔勅は翌8月15日正午、玉音放送として昭和天皇御自身が国民に公表された。これを拝聴した大西瀧治郎ら多数の軍人は自決し、宇垣纏は沖縄沖の米艦隊に対し最後の特攻を敢行した。やがて8月17日には東久邇宮稔彦王が組閣し、9月2日、横浜沖の戦艦「ミズーリ」の甲板上にて政府代表の外務大臣重光葵と軍部代表の参謀総長梅津美治郎、8月30日に厚木に到着したマッカーサー元帥や太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥らが降伏文書に調印し、戦争は終結した。 
5 占領統治  
占領統治体制の確立  
占領統治の最高機関は米・英・ソ・中・仏・蘭・豪・加・印・比・新の11国(後に緬・パキスタンが加わる)で構成されるFEC(極東委員会)であり、この下にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が設置された。その最高司令官(SCAP)はマッカーサーであり、東京にはその諮問機関として米・英・ソ・中のACJ(対日理事会)が設置されたが、極東委員会の決定は米国を通じて実行されたため、米国は日本が脅威とならないよう統治を行った。GHQの統治は軍法による直接統治ではなく、所謂「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」という勅令をもとに憲法を上回る拘束力を持たせたポツダム勅令(後にポツダム政令)を、日本政府のの終戦連絡中央事務局を通じて下す、間接統治であった。  
五大改革指令 
(1945年 / 米国の占領政策)  
多数の兵卒の復員(シベリア抑留者は1949年)や一般人の引揚げは戦後の混乱と相俟って物資不足を招き、都市部から農村への買出しや、闇取引・闇市などが横行した。プレス=コードやラジオ=コードでGHQへの批判禁止を義務付けたGHQは、国体護持を主張して治安維持法・内務省廃止を躊躇した東久邇宮稔彦首相に圧力を掛けて総辞職させ、次の幣原喜重郎首相に婦人解放・労働組合助長・教育自由主義化・圧政的諸制度撤廃・経済民主化からなる五大改革指令を突き付けた。  
教育の改革とその後の変遷  
教育改革指令に基づき愛国者は教職を追放され、皇国史観に基づく修身・日本歴史・地理の授業が停止され、生徒は墨塗教科書を用いて青空教室で授業を受けた。GHQは1946年に米国教育使節団を招き、教育刷新委員会を創設して新教育を推進させたが、これを受けた第一次吉田内閣の文部大臣高橋誠一郎は1947年、平和愛好・機会均等・義務教育を定めた教育基本法と画一的な六三三四制を定めた学校教育法を制定した。1948年には教育委員会法に基づき教育委員会が発足したが、日教組(日本教職員組合)などの偏向教育を懸念した政府は1954年に教育二法を施行して教員の政治的中立化を図る一方、1956年には新教育委員会法を定めて当初は公選制だった教育委員を任命制とし、1957年には教員勤務評定制度の趣旨を徹底させた。しかし1965年には中央教育審議会が発表した「期待される人間像」が日教組等に攻撃される一方、家永三郎が教科書検定訴訟を起こすなど、教育をめぐる混乱が続いた。  
諸制度の改革と東京裁判  
まず1945年の神道指令により国家神道は消滅し、昭和天皇は新日本建設に関する詔書を翌年に下して五箇条の御誓文を再確認されると共に、現御神を架空の観念とされた(天皇の人間宣言)。GHQは政・官・財・言論界の国家主義者21万名の公職追放令を出す一方、枢密院や特高を廃止した。またGHQが規定する戦争犯罪人(戦犯)のうち、戦争計画者など平和に対する罪を問われたA級戦犯28名は、巣鴨プリズンで東京裁判(1946年〜1948年)に掛けられ、インドのパル判事の全員無罪表決やオランダのレーリンク判事の「これを平和探求の契機とすべき」との進言も空しく、見せしめのため全員有罪となった。結局全国の裁判でA級・B級・C級戦犯合計5416名が起訴され、うち937名が死刑となり惨殺された。具体的には、東条英機・広田弘毅・板垣征四郎・土肥原賢二・松井石根・木村兵太郎・武藤章ら7名は絞首刑、木戸幸一・小磯国昭・平沼騏一郎・梅津美治郎・畑俊六・橋本欣五郎・荒木貞夫・賀屋興宣・嶋田繁太郎・南次郎・白鳥俊夫・大島浩・鈴木貞一・佐藤賢了・星野直樹・岡敬純ら16名は終身禁錮、この他、東郷茂徳は禁錮20年、重光葵は禁錮7年に処せられ、松岡洋右・永野修身は病死、大川周明は発狂、近衛文麿はA級戦犯に指名されたことに落胆して服毒自殺したため起訴には至らなかった。改めて述べるまでもなく戦犯は犯罪者ではなく、むしろ国に対する功労者・昭和受難者という側面もあり、それが故に彼らは戊辰戦争以後の国のために殉じた人物と同様に靖国神社に祀られ、また衆参両院において名誉回復の議決が為されている。  
農地改革  
幣原内閣は1946年、農地調整法改正により地主の貸付地所有限度を5町歩としてそれ以上の土地を地主・自作・小作各5名ずつから構成される各地の農地委員会に買い取らせる第一次農地改革を断行した。だがGHQの不満を買ったため第一次吉田内閣は1946年に第二次農地改革を断行し、農地調整法再改正を行って不在地主の貸付地全部と在村地主の内地1町歩・北海道4町歩を超える土地を、地主:自作:小作=3名:2名:5名から構成される農地委員会が自作農創設特別措置法に基づき強制的に買い上げ、さらに新たな自作農のため農業共同組合法に基づき農業共同組合が設置された。また小作料は第一次農地改革で金納となっていたが、第二次農地改革では田25%・畑15%に制限された。一連の農地改革の結果、山林・水利権には手が付けられなかったものの自作地:小作地=87:13となり、寄生地主制撤廃・自作農創設という目的は達成された。また1952年には農地法が制定され改革の恒久化が図られた。  
経済体制の改革  
1 財閥解体  
1945年の財閥解体指令に基づき財閥資産は凍結され、翌年には財閥の持株を没収・公売を担当する持株会社整理委員会が発足した。また1947年には独占的企業結合と不公正取引を禁じた独占禁止法(監視は公正取引委員会)が制定され、三井・三菱・住友・安田・川崎・浅野・大倉・古河・野村・渋沢・日産・日窒・理研・日曹・中島の15財閥の一族の財界追放も為された。さらに同1947年には巨大企業分割を図るため過度経済力集中排除法が制定され、指定325社中11社が分割された。だが財閥解体は独占資本の激しい抵抗と占領政策の転換、それに預金者保護の見地から銀行が解体から除外されたため不徹底に終り、結局は戦前のピラミッド型から株式持合いによる円環状型に連携の形態が変化したのみだった。  
2 経済復興  
インフレ防止のため1946年には金融緊急措置令に基づき一定額以上の預金封鎖・旧円の新円切換・通貨量縮減が為され、国家財政の逼迫は富裕者への財産税賦課で補填した。また第一次吉田内閣は有沢広巳が提案した傾斜生産方式を決定(実施は片山内閣と芦田内閣)し、1947年には基幹産業(石炭・電力・鉄鋼・肥料)復興を促す復興金融金庫が大蔵大臣池田勇人(いけだはやと)により設置されたが、復金インフレを誘発した。また片山内閣は、新公定物価体系を基軸として価格差補給金を支出するインフレ抑制策を実施したが、これは生産上昇を開始させたものの赤字財政による巨額な紙幣増発と物資不足によりさらなるインフレが進行する結果となった。日本経済は米国の援助と補助金に立脚した「竹馬経済」だったが、中国革命の急速な進展により日本の自立と国際経済秩序復帰の必要性に駆られたGHQは予算均衡・徴税強化・資金貸出制限・賃金安定・物価統制・貿易改善・物資割当改善・増産・食糧集荷改善からなる経済安定九原則を1948年に発表し、この実施のためデトロイト銀行頭取のドッジを招き、復興金融金庫廃止・赤字厳禁超均衡予算・単一為替レート導入($1=360円)などの大企業中心の具体的な経済再建政策を実行させた。このドッジ=ラインの後、日本ではドッジ恐慌が発生したが、コロンビア大学教授シャウプらのシャウプ勧告を受けたGHQは1949年に税制改革を行い、間接税中心から直接税中心への移行や青色申告制度の導入、それに地方の税収不均衡是正のための平衡交付金制度の採用などを断行した。なお日本の食糧や医薬品は占領直後から支給されたガリオア資金(占領地域救済資金)、羊毛や綿花は1949年から支給されたエロア資金(占領地域経済復興援助資金)により供給された。  
日本国憲法  
戦後、様々な憲法草案が作成された。代表的なものとしては、尾崎行雄・岩波茂雄・稲田正次ら憲法懇話会が発案し君民同治主義を提唱した『日本国憲法草案』、高野岩三郎・森戸辰男ら憲法研究会が発案し国民主権の立憲君主制を提唱した『憲法草案大綱』、大原社会問題研究所長高野岩三郎が発案し大統領制・土地国有などを提唱した『日本共和国憲法私案要綱』、日本共産党が発表した『人民共和国憲法草案』などが挙げられる。幣原内閣の憲法改正担当国務大臣松本烝治(まつもとじょうじ)は美濃部達吉・宮沢俊義・河村又介・清宮四郎らと共に憲法問題調査委員会を結成して『憲法改正要綱』を作成した。だがGHQは1946年にこれを拒否し、さらに象徴天皇制・戦争放棄・封建制度廃止というマッカーサー三原則に基づくマッカーサー草案を突き付けた。第一次吉田内閣はやがて憲法案を国会審議に掛け、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行した。こうして成立した11章103条からなる「押し付け憲法」日本国憲法は、主権在民・戦争放棄・基本的人権尊重を基本理念としており、立法面では貴族院廃止と権限の弱い参議院の設置、行政面では議院内閣制(総理大臣と国務大臣過半数は国会議員)導入、司法面では違憲立法審査権を持つ最高裁判所の設置、が為された。また改正は全議員の2/3以上の同意で発議し、国民投票で過半数を得票することで成立する硬性憲法である。なお文部省は1947年に『あたらしい憲法のはなし』を発行した。  
憲法制定に伴う諸法令の整備  
第一次吉田内閣は1947年に直接選挙やリコール制を定めた地方自治法を施行した。また片山内閣は刑法改正を実施して大逆罪・不敬罪・姦通罪などを廃止する一方、民法改正を行って戸主制廃止・男女平等などに基づく新民法を定めた。さらに芦田内閣は翌1948年に警察法を施行して自治体警察と国家地方警察を設置した他、黙秘権などを認めた新刑事訴訟法を実施した。なお婦人参政権などを認めた1945年の改正選挙法による翌1946年の第22回総選挙では婦人代議士39名の他、日本共産党の徳田球一・志賀義雄ら5名が当選した。  
政党の変遷  
1945年、片山哲は旧無産政党各派を糾合して日本社会党を、鳩山一郎は旧立憲政友会系の日本自由党を、町田忠治は旧立憲民政党系の日本進歩党をそれぞれ結成し、年末には千石興太郎が中道政党として日本協同党を立てた。日本協同党は翌年に小会派と合併して協同民主党となったが、これも1947年に国民党と合併して三木武夫を書記長とする国民協同党となった。やがて日本進歩党に日本自由党と国民協同党の脱党者が加わって芦田均総裁の下に民主党が成立したが、日本社会党は民政党・国民共同党と連立して同1947年に日本史上初の社会主義政党主体の内閣たる片山内閣を結成して、内務省解体などを行った。翌1948年に民主党が主体となり組閣された芦田内閣は中道政治を図ったが、党副総理西尾末広と日野原節三の癒着が発覚した昭和電工疑獄事件を機に総辞職した。後継内閣は日本自由党が民主党脱党派を取込むことで成立していた民主自由党の総裁吉田茂が組閣した第二次吉田内閣であり、以後第五次まで7年強に亘り政権を担当した。なお民主自由党は1950年に民主党連立派を加えて自由党を結成したが、民主党野党派は国民協同党と共に国民民主党を立てた。しかし国民民主党は1952年に農民協同党と合併して改進党(総裁重光葵)となった。  
労働運動の高揚  
1946年に皇居前で行われた食糧メーデー(飯米獲得人民大会)は翌日GHQにより禁じられたが、やがて日本共産党主導の産別会議(全日本産業別労働組合会議)と反共の総同盟(日本労働組合総同盟)、それに資本家団体の経団連(経済団体連合会)が発足した。総同盟・産別会議は公務員中心に600万人が参加する二・一ゼネスト計画を翌年に立てたが、占領政策の転換からこれを嫌ったGHQは、前日に全国労働組合共同闘争委員会委員長伊井弥四郎に中止を命じた。この後、産別会議と総同盟が野合した全労連(全国労働組合連絡協議会)は労働三法(労働組合法・労働関係調整法・労働基準法)を武器に活動したが、1948年のポツダム政令201号に基づく公務員スト禁止と国家公務員法改正に伴う公務員争議権・団体交渉権の剥奪により、壊滅した。1949年には国鉄職員削減を定めた定員法が施行されたが、国鉄総裁下山定則の轢死体が常磐線綾瀬駅付近で発見された下山事件や三鷹駅で列車が暴走した三鷹事件、東北本線の松川駅・金谷川駅間で列車が転覆した松川事件(広津和郎は被告無罪主張)など、国鉄労組と日本共産党員の陰湿な活動が続いた。産別会議での日本共産党影響拡大を憂いた産別民主化同盟は1950年、中立組合と共に反共の総評(日本労働組合総評議会)を結成した。また全労連はGHQ命令で解散されたが、その一部の総同盟は1954年に全繊同盟と共に右派の全労会議(全日本労働組合会議)を組織した。なお1952年には主権回復後初のメーデーで皇居前広場事件が起こったが、これは団体等規制令を強めた破壊活動防止法の制定を招き、更に翌1953年にはスト規制法、1954年には新警察法(警察庁・都道府県警察を設置)が施行された。 
6 冷戦体制の確立と日本の主権回復  
冷たい戦争  
大戦中のサンフランシスコ会議で採択された国際連合憲章に基づき国際連合は1945年に発足したが、米・ソ・中・英・仏が常任理事国として取り仕切る安全保障理事会は国際連盟瓦解への反省から武力制裁発動権を持っていた。やがて英元首相チャーチルの「鉄のカーテン」演説を機に世界は資本主義と社会主義の二大陣営に分裂したが、米国はトルーマン=ドクトリンでソ連の封じ込めを図る一方、マーシャル=プランで抗ソ連のため欧州経済復興を援助し、ソ連はコミンフォルム(共産党情報局)を諸国に設置して社会主義陣営の結束の図った。1948年のベルリン封鎖を機に冷戦は激化し、翌1949年には東側の経済相互援助会議(COMECON)と西側の北大西洋条約機構(NATO)が成立した。一方、中国内戦は中国共産党主席毛沢東が1949年10月1日に中華人民共和国を設立、本来の「中国政府」である中華民国の国民政府が成都から台北へ移ったことで終結したが、中華人民共和国は翌1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を締結してソ連に接近した。また朝鮮では1948年に米国の主導下の大韓民国(大統領李承晩・首都ソウル)とソ連の主導下の朝鮮民主主義人民共和国(首相金日成・首都平壌)が成立したが、韓国は1950年に米韓相互防衛援助協定を締結して戦争に備えた。  
朝鮮戦争 
(1950年〜1953年 / 世界史上初のジェット機中心の戦争)  
北側の北緯38度線侵犯を機に両国は戦争状態に入った。国連軍としての米軍は一気に北側を追い詰めたが中国人民義勇軍やソ連軍の参戦により戦線は膠着し、国連軍総司令官マッカーサーは原爆使用を企てたためトルーマンにより更迭され、リッジウェイが後任として赴任した。やがて戦争は板門店での会談で終結した。日本国内では関連してGHQによりレッド=パージが為され、政・官・財・言論・教育界の共産主義者駆除と日本共産党幹部公職追放、『アカハタ』発禁が為された他、愛国者の公職追放処分解除と戦犯釈放が為された。この点からも、東京裁判における戦犯が犯罪者ではないことが読み取れる。経済面では1950年から1953年まで特需景気が起こり、1952年には世界銀行(世界復興開発銀行)とIMF(国際通貨基金)に加盟した。  
サンフランシスコ講和会議  
(1951年 / 主権の回復)  
この会議の議長は米国務長官アチソンであり、日本からは吉田茂・苫米地義三(とまべじぎぞう)・星島二郎らが出席したが、中華民国と中華人民共和国は不招致、印・緬・ユーゴスラビアは不参加だった。サンフランシスコ平和条約は拒否したソ連・波・チェコスロバキアを除く48国との間で調印されたが、日本国内では政府の片面講和論(単独講和論)と安倍能成らの平和問題懇話会など左派を中心とした全面講和論が対立し、日本社会党はこれ以降右派と左派に分裂した。また米講和特使ダレスの主導で日米安全保障条約も同時に締結されたが、米国は豪・新と共に対日安保として太平洋相互安全保障条約(ANZUS)を締結していたため、日本は翌1952年に日米行政協定を締結して駐留軍の配備など日本側に不利な内容を受諾せざるを得なかった。  
その後の国際情勢の変遷  
1952年には日華平和条約・日印平和条約・日緬平和条約が結ばれ、各国は戦争終結を確認して賠償請求権を放棄したが、日本はこれに前後して対比1980億円・対緬1224億円・対インドネシア803億円・対南越140億円もの莫大な賠償金を支払っていた。なお、サンフランシスコ平和条約にも賠償請求権放棄は盛り込まれていたため、この時点で諸外国との賠償問題は決着した。また奄美群島は1953年に返還された。世界では、1954年に米・英・ソ・仏首脳がジュネーブ四巨頭会議を行い、翌年、インドネシアのバンドンにて29国が参加してAA会議(アジア=アフリカ会議)が開催され、世界は「雪解け」という緊張緩和を迎えた。 
7 主権回復後の政治・経済・外交  
国防組織の創立  
中華人民共和国成立を受けたマッカーサーは、日本を「反共の防壁」とするべく朝鮮戦争中の1950年に警察予備隊令を発し、米軍事顧問団の指導の下に7万5千人からなる警察予備隊を創設した。やがてサンフランシスコ平和条約発効に合わせて1952年には保安庁法が制定され、警察予備隊改め保安隊と海上保安庁管轄の海上警備隊を取り仕切る保安庁を設立した。1954年にはMSA協定(日米相互防衛援助協定)が締結され、日本は相互安全保障法に基づく対日経済援助の代償としての防衛力漸増を求められたため同1954年には自衛隊と防衛庁が設置された。後に防衛方針は文民主導の国防会議で決定されるようになった。なお米軍基地反対闘争として、石川県の内灘事件や山梨県の富士山麓基地反対闘争、それに東京都の砂川事件などが勃発した。  
鳩山一郎内閣 
(1954年〜1956年 / 55年体制スタート)  
1954年の造船疑獄事件にて自由党は法務大臣犬養健に指揮権を発動させて幹事長佐藤栄作らを救ったが、憤った鳩山一郎は脱党、三木武吉の日本自由党や重光葵の改進党を糾合して日本民主党を結成し、やがて組閣した。日本民主党は1955年、憲法改正を掲げて自由党と保守合同して自由民主党を結成したが、日本社会党はこの直前に左派鈴木茂三郎の下で護憲のため統一された。これを55年体制と言う。自由民主党は第三次鳩山内閣を立て、翌1956年には憲法調査会法に基づき憲法調査会を設立した。外交面では同1956年に農林水産大臣河野一郎が日ソ漁業条約を結んで北洋漁業問題を解決させた他、鳩山一郎・ブルガーニン両首相がモスクワにて戦争終結と日本の国連加盟支持等を明記した日ソ共同宣言を発表、日本は同1956年に国際連合への加盟を果たし、23年振りの国際社会復帰を果たした。だが日ソ共同宣言では歯舞群島と色丹島の返還が定められたため、北方領土問題が浮上した。なおMSA協定締結や韓国復興資材の輸出、それに技術革新や世界的好況の影響から1955年から1957年に掛けて神武景気が発生し、1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と発表した。  
岸内閣  
(1957年〜1960年 / 安保闘争への道)  
1956年には石橋湛山が組閣したが、病気のため退陣し、翌1957年には岸信介が組閣した。対内的には鍋底不況を受けて汚職・暴力・貧困の三悪追放を提唱し、対外的には対米親善・対中敵視を明示した岸内閣は、同1957年には第一次防衛整備計画(一次防)を発表する一方、日本を国連安保理の非常任理事国に当選させた。しかし翌1958年に提出した警察官職務執行法改正案が廃案となるなど国内では左翼勢力の抬頭が目立ち、1960年に日米新安全保障条約(日米相互協力及び安全保障条約)が締結されると、日本社会党と日本共産党が煽動した安保改定阻止国民会議を中心として特に法案の強行採決以降安保闘争が激化したが、岸信介は自然成立を待って総辞職した。なお1961年には日米新安全保障条約への抵抗として東亜社会主義国三国の間でソ連・朝鮮・中国友好相互援助条約が締結された。  
池田内閣  
(1960年〜1964年 / トランジスタの行商人)  
1960年に石炭から石油へのエネルギー革命を示す三井三池炭鉱争議が発生したことを踏まえて「寛容と忍耐」を唱え初の女性大臣として厚生大臣中山マサを起用して組閣した池田隼人は、同1960年に10年間での国民総生産の倍増を目指す高度経済成長政策(所得倍増政策)を発表し、翌1961年には農業基本法を定めて農業構造改善を図った。池田隼人は1961年に日米貿易経済合同委員会を設置した他、1952年に吉田茂が締結した日中間第一次貿易協定を拡大し、1962年に廖承志と高碕達之助の間で日中総合貿易覚書を結ばせ政経分離に基づく日中準政府間貿易としてLT貿易(後の日中覚書貿易)を開始した。また、1964年にはIMF8条国移行を達成して貿易を自由化する一方、OECD(経済協力開発機構)にも加盟して資本を自由化した。  
佐藤内閣  
(1964年〜1972年 / 日本憲政史上最長の内閣)  
岸信介の弟の佐藤栄作が組閣した翌年の2月には防衛庁の「三矢研究」が問題化したりしていたが、佐藤栄作は1967年に防衛二法(防衛庁設置法・自衛隊法改正)を成立させた。また佐藤栄作は1965年、第七次日韓会談にて朝鮮半島の唯一の合法的政府たる韓国の朴正煕政権との間に日韓基本条約を締結し、戦後漸く外交関係を樹立した。また小笠原諸島は日米共同コミュニケに基づき1968年に返還されたが、1965年に開始されたベトナム戦争北爆以後の反戦運動に押されて米国が1968年に主席公選制を認めた琉球政府では、屋良朝苗(やらちょうびょう)が主席に就任し、沖縄県祖国復帰協議会に祖国復帰運動を行わせて米大統領ニクソンに圧力を掛け、1969年には沖縄返還を示した日米共同声明を出させた。佐藤栄作は1970年に日米新安全保障条約を自動延長した後、1971年には沖縄返還協定に調印し、1972年に沖縄県を設置した。なお、返還方針は「核抜き基地本土並」とされていた。一方、経済面ではこの頃八幡製鉄と富士製鉄が合併して世界最大の新日本製鉄が誕生した他、六大銀行(三井・三菱・住友・富士・第一勧銀・三和)の寡占が続き、また1968年にはGNPが資本主義国で世界第二位となった。1971年のニクソン=ショックに際しては、円を切上げて1ドルを従来の360円から308円とした。  
ロッキード疑獄事件 
(1976年 / 今太閤田中角栄の航空業界汚職事件)  
1972年に「日本列島改造」を掲げて華々しく組閣した田中角栄は日中共同声明を発して「一衣帯水の間にある隣国」とする中国との国交を正常化し、台湾の中華民国と断交した。この外交政策・判断は、今日賛否の分かれるところである。一方、翌1973年には変動為替相場制を採用して経済発展に努めたが、第四次中東戦争勃発後にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が発動した石油戦略に伴いオイル=ショック(石油危機)が襲来してインフレが進行した。やがて立花隆が『文藝春秋』誌上にて田中角栄本人の金脈問題を喧伝したため1974年に総辞職した。代わって組閣した三木武夫は「偽りのない政治」を掲げ、1975年にはジスカールデスタン仏大統領の提唱による先進国首脳会議に出席したが、翌1976年にはロッキード疑獄事件が発覚して自由民主党の内部対立が深まった結果、河野洋平らが脱党して新自由クラブを結成した。さらに自由民主党が12月の総選挙で大敗したため、三木内閣は総辞職した。  
その後の政界  
福田赳夫は新自由クラブとの連立内閣を1976年に組閣し、翌1977年には二百海里漁業専管水域を定めた海洋二法を施行した。また1978年には福田赳夫・華国鋒(かこくほう)・ケ小平の立会いの下、外務大臣園田直(そのだすなお)と外交部長黄華の間で日中平和友好条約が締結された。やがて同1978年には大平正芳が福田赳夫から自由民主党総裁の座を乗っ取って組閣し、国際人権規約批准・婦人に対する差別撤廃条約署名などを断行したが、ロッキード事件拡大・エネルギー危機・景気低迷などにより支持率は急落した。1980年の衆参同日選挙では大敗が確実だったが、選挙戦中に大平正芳が急逝したため浮動同情票を集め、大勝した。組閣した鈴木善好は、公職選挙法を改正して参議院議員全国区選挙に比例代表制を導入する一方、「反日」で世論を誘導・統一せざるを得ない国々からの干渉により教科書検定問題が外交問題に発展した。やがて1982年に組閣した中曽根康弘は、行財政改革・教育改革を強力に推進し、国営企業民営化を実施してJR・NTT・JTなどを発足させる一方、対米・対韓関係強化のため1983年には米国と韓国を相次いで訪問し、米大統領レーガン・韓大統領全斗煥(ぜんとかん)を日本へ招いた。また1985年には改正男女雇用機会均等法を成立させたりもしたが、やがて地価高騰などにより支持率は低下、提出した売上税法案も廃案となり、防衛費の対GNP比1%を突破させて1987年にSDI協定(日米戦略防衛構想協定)を成立させた後、総辞職した。なお中曽根康弘はかつて『憲法改正の歌』を作詞した人物としても知られている。 
8 現代の社会問題  
公害問題・都市問題・同和問題  
熊本県のメチル水銀による水俣病、富山県のカドミウムによるイタイイタイ病、新潟県のメチル水銀による新潟水俣病、三重県の二酸化硫黄による四日市喘息、といった四大公害訴訟の展開や光化学スモッグ・ヘドロ公害などの問題化を受けた佐藤栄作は、1967年に公害対策基本法を施行し、1971年には環境庁を設置した。だが騒音・振動・大気汚染・水質汚濁などの公害も露顕して来ている。また過疎・過密や通勤ラッシュなどの都市問題も公害と共に表面化して来たため、1962年には新産業都市建設促進法に基づき全国総合開発計画が立てられ、各地に新産業都市が設置され始めたが、依然として現在も住宅問題や外国人犯罪問題などが残存している。一方、被差別部落問題については1946年に設置された部落解放全国委員会(後の部落解放同盟・全日本同和会・全国部落解放運動連合会)が改善を主張し、1961年には部落解放同盟の要求を容れた池田隼人が同和対策審議会を設立し、1969年には佐藤栄作が同和対策事業特別措置法(後の地域改善対策特別措置法→地域改善財特法)を施行した。  
左傾化による騒擾  
主婦連(主婦連合会)と同様1948年に成立した全学連(全日本学生自治会総連合)は、安保闘争の最中に六・一五事件を起こし、国会に乱入して暴力行為(樺美智子死亡)を展開した。また1968年に勃発した東大医学部の学生の暴動を端緒として安田講堂不法占拠などが為された大学紛争は政府の大学運営臨時措置法などにより鎮圧されたが、戦後の反動的偏向教育の所産たる新左翼の煽動により翌1969年には高校紛争も勃発した。一方、1967年には東京都知事に革新首長として美濃部亮吉が当選し、住民運動も相次いだが、左翼はこの後も新宿事件や成田闘争で荒れ狂い、日本赤軍は1970年に日航機よど号ハイジャック事件、連合赤軍は1972年に浅間山荘事件などを起こし、世を騒がせた。今日では、これらの活動はほぼ下火となっている。  
核兵器問題  
米国が広島・長崎に投下して大量の民衆を虐殺した原子爆弾や、1954年の米国によるビキニ水爆実験(標的は戦艦「長門」)に伴う死の灰で日本の第五福竜丸の乗員である久保山愛吉を死に至らしめた水素爆弾に対する批判は、1950年のストックホルム=アピールや1957年のバグウォッシュ会議などにより世界的に高まり、日本でも1955年に原水爆禁止世界大会が開催されるなどして原水爆禁止運動が展開された。ちなみに戦艦「長門」は水爆の直撃を受けたにも拘らず3日間もビキニ環礁に浮かび続けたため、はからずも大日本帝国の造船技術の高さを世界に知らしめる結果となった。やがて、世界では1963年に部分的核実験停止条約、1968年に核兵器拡散防止条約が米・英・ソを中心に締結され、日本では1967年に総理大臣佐藤栄作が非核三原則を発表した。なお、日本における原水爆禁止運動は、欧米諸国の核問題については猛攻撃を加えるものの、中国・北朝鮮等の核問題にはあまり積極的に触れない、という偏った姿勢が見られることで知られている。