日本史概観2 平安から南北朝

武士の登場鎌倉幕府蒙古襲来南北朝の動乱下剋上
歴史雑説 / 蒙古襲来絵詞・・・
年譜 / 鎌倉室町
 

雑学の世界・補考   

武士の登場

 

東国の叛乱
平忠常が叛乱が1028年(長元一)に京都に達する。この時はちょうど藤原氏全盛期を誇った藤原道長が死亡した翌年であり、平将門の乱からおよそ100年経過後のころであった。中央貴族は吉日を待つという理由で追討使の派遣を40余日遅らせることになる。これは彼らが地方叛乱の政治的意義を認識する能力を欠いていたことの証左であり、この点で藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変に即時即応の行動をとってこれを鎮圧した奈良の貴族たちと異なっている。1031年(長元4)忠常は出家して常安と名前を変え、甲斐に降伏する。その後、源頼信を伴った上洛の最中に、美濃国野上で忠常は死亡する。頼信は晩年に河内守となり、八幡神に傾倒し、石清水八幡宮に願文を納めて百年の寿と一家の男女の栄耀富貴を祈願した。多数存在する武神の中、八幡神と武士の特別な関係がここから始まることになる。
前九年の役・後三年の役
父祖三代の間に奥六都の支配を完成した安倍氏は、関門衣川関をこえて内部にまで進出するに至った。ついに国府に貢物を送らず、徭役(労役)をも務めなくなったので、大守藤原登任は平重成を先方としてこれを攻めた。後に大赦がなされ、頼良は頼時と改称し、源頼義に帰服する。頼義はこれを潔しとせず、頼時を何度も挑発し、ついには受けて立たざるを得ない状況に巻き込む。1062年(康平五)ついに安倍氏は滅んだ。頼義が安倍頼良を鎮圧するために陸奥守に任ぜられてから、安倍氏が滅ぶまでのこの乱を前九年の役と言う。前九年の役後、清衡と家衡は奥六郡の取り分が原因で対立するようになる。清衡は遺領を継承する正当な資格を持っていなかったが、それにもかかわらず取り分が家衡よりずっと多かったからである。1087年、家衡が討たれて事件は落着する。一方朝廷では、堀河天皇が8歳で即位し、白河上皇の院政が始まろうとする時であった。この戦いを後三年の役という。
武者の家

 

「さむらい」という言葉は「さぶらふ」という動詞の名詞化によって生まれた。当初は彼らは自由に世界を闊歩する勇者ではなく、高齢者に伺候する者として、福祉制度の一端を担っていた。この制度はやがて衰退し、平安時代のころには皇后宮や中宮に伺候する者を「侍」と呼ぶようになり、身分も遥かに高くなった。武士は誰でも侍というわけではなく、上級武士だけが侍を名乗ることが許されたのである。さらに鎌倉時代まで進むと、御家人クラスとなり、自らの領地を持ち、将軍に仕え、あるいは幕府の役職を担うほどに成長し、これは室町幕府まで続いた。江戸時代となると、士農工商の厳格な身分制度が影響して、武士一般を士=侍と呼ぶようになった。もともと武士は武芸に優れた士(もののふ)のことである。朝廷は唐の兵制に倣って軍団を作ったが、弱体化が目立ったので、780年(宝亀11)、全国から徴兵し国の大小に応じて員数を決めて専業者として武芸を行わせた。これを健児という。これがさらに、兵と呼ばれるようになっていく。兵の道は厳しく、自身はおろか妻子の命にすらとらわれてはならないという価値観があった。一方、敵方の妻子を凌辱したり殺害したりすることは道義に反するとされており、奇妙な思想の対照性を醸し出している。現代人が考える「武士の誇り」という価値観は、この時代の兵の価値観と近く、また源流となっているように思われる。兵は家系が重要であり、猛者といえども親が兵でなければ兵たりえなかった。個人的力量では軍事力に限界があると兵は感じ、組織化された軍団を作るようになる。これは軍(いくさ)と呼ばれた。武士団は指導者(諸説あり)の元徐々に肥大化し、前九年の役で飛躍的成長を遂げることになる。侍は当初から武士ではなかった。以上に述べた兵たちの、独立独歩の精神がいつの間にか貴族の侍に取り入れられ、そこから武士が生まれたのである。
農村の変貌

 

農村の変貌の原因は奈良時代にまで遡る。奈良時代、調・庸・徭役・出挙・兵役などの義務から生ずる負担に耐えかねた小規模家族が、余裕のある大規模家族に寄生して家族の規模が大きくなるという現象が起きた。こうして巨大化した家族の長は、強い家長権力を握り、私営田領主(広大な土地を有し、それを自ら直接経営する大土地所有者)として財をなした。その他、地方の有力者である郡司、国司や軍毅などの官人が私営田領主になる例もあった。彼らは743年の墾田永世私有法の施行とともに、即座に大土地経営に踏み出した。使われる農民はただ使われるだけではなく、徐々に交渉力をつけてきた。これらの農民を統率するには、統率者が猛者でなければならない。広大な私営田を有した藤原実遠は兵であった。実遠に限らず、当時の兵は武芸専業者であると共に私営田領主も兼ねていた。
荘園経営

 

荘園は私営田領主の発生とともに生まれた。家族から発生するタイプと、皇室や大寺社、摂家などの権力者に寄進するタイプがあった。前者は全国に広く分布し、後者は中央に集中していた。前者は武力による小作人の支配という側面が強く、兵が老齢・病苦その他の理由により支配力を維持できずに没落するという例が多々見受けられた。これらの私営田領主は、中央の権力者の政治的保護により没落を食い止めようとしたため、中央の荘園領主はますますその領地と勢力を拡大した。11世紀になると、国土のほとんどが荘園となった国々が現れる。もともとの私営田領主は土地の権利を全部売却したわけではない。現在の地上権の売却のように、一部を売り渡す形を取った。そして支配者ではなく管理者としてその土地に残留するのである。一般にその土地をよく知った者に管理させた方がコストがかからないので、これは買主である中央荘園領主にとっても有益なものだったと考えられる。兵は没落した者ばかりではなく、むしろ成長して武士にまで辿り着き次の時代の担い手となった。兵は階級性を持たないが、武士は階級性を持つ。没落しかけた私営田領主が他の私営田領主に寄進する形で、この階級性が自然とできあがった。寄進した者が求めたものは武力や経済力というよりは、専ら政治力であった。すなわち、政治的に高い肩書を持っていることが田舎ではステータスであったので、彼らは寄進によりこの威を得ようとしたのである。この時代は国家から追捕を受けた身でも財宝で肩書を買うことができたので、経済的に繁栄した全国の荘園領主はさらに勢力を拡大していくことになった。こうして肩書により政治権力を得た兵が、家柄として親子相伝の武力を磨き、さらに領主としてふるまうことにより、武士となっていったのである。
後三条天皇の新政

 

後朱雀天皇が第一皇子・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位すると、東宮に立てられたのは藤原氏と関係を持たない第二皇子・尊仁親王であった。後朱雀天皇には他に皇子がなかったのである。これは藤原氏にとって看過できぬ事態だった。関白藤原頼通とその弟教通は、道長についで外戚の地位を維持しようと苦心するが、入内させた女はしかしことごとく皇子を生まない。そうして1068年、後冷泉天皇が崩じると、ついに東宮尊仁親王が即位した。宇多天皇以来実に170年ぶりの、藤原氏を外戚としない天皇である。大学者大江匡房もその学識を高く評価したと言われる後三条天皇の改革には善政が多い。彼の政治のうち、特に後世に影響を与えたものは荘園整理である。当時横行していた、朝廷の許可なく公田を掠め取る所業に歯止めをかけるため、荘園領主から書類を取って一定の審査基準に照らし、及第しないものを廃止とした。この審査の役所を記録荘園券契所という。役人には藤原氏と関係の薄い法学者を起用し、たとえ権門勢の家領であっても審査に例外を認めぬ、過去に類を見ない公正に徹したものであった。そうしてこの強力な公領回復政策によって、受領たちはもはや摂政家が頼りにならぬことを悟り、しだいに新たな権力者のもとへと靡いていったのである。1072年、後三条天皇は在位僅か4年で位を貞仁親王(白河天皇)に譲る。理由は諸説あって定まらないが、藤原氏の廟堂独占を阻止すべく村上源氏を登用したこと、新たな東宮には源氏を母とする実仁親王を立て、次の親王には輔仁親王を立てるよう貞仁親王に申し入れたことなどから、上皇として政治の実権を握ることで、藤原氏を抑え摂関専制の復活を牽制しようとしたのではないかという説が有力である。
院政はじまる
後三条天皇は譲位の後、院政の間もなく半年で崩御した。翌年には藤原頼通、上東門院藤原彰子が相次いで没し、ここに来て藤原氏の退勢は一挙に顕在化する。一方天皇家では、白河天皇と中宮賢子に敦文親王が誕生するも4歳で夭死、次いで第二皇子・善仁親王が生まれると、親王6歳のとき今度は母中宮賢子が病没、相次ぐ不幸に天皇は悲嘆に暮れた。それゆえ寵愛した中宮との子である善仁親王に皇位を伝えたいという思いは強く、白河天皇は父上皇の意思に背いて13歳の善仁親王を東宮にたて、その日のうちに譲位した。掘河天皇である。1107年、掘河天皇が崩御すると、その皇子・鳥羽天皇が即位した。白河上皇の悲願は成った。しかしかつて後三条天皇によって東宮を予定されていた輔仁親王は日増しに聡明のきこえ高く、周辺にあつまる廷臣も少なくなかった。こうした事情を懸案して、幼帝の地位を守り支えるために、上皇は自ら政治を行う院政を始めたのである。さて後三条天皇が村上源氏を登用して以来、源氏の官界進出は著しく、公卿の主席は源氏によって占められ、藤原氏による高官独占の図は急激に崩れ去って行った。しかし村上源氏は他ならぬ輔仁親王の主たる支持者であり、白河法皇にしてみればいまだ心もとない勢力図である。この不穏な空気の中、法皇の権威を決定的なものにしたのは、1113年の冬に起こった永久の陰謀事件であった。輔仁親王と村上源氏が結託して、鳥羽天皇を亡き者にしようとしているという陰謀が密告されたのである。この事件を契機に首謀者の縁者である村上源氏一族は朝廷での地位を次々に失い、村上源氏の勢力は一時に頓挫してしまった。その後は法皇の思うままである。「今の世のことは、すべてまず上皇の御気色を仰ぐべきか」(大江匡房「江記」)という記述が、以後の法皇の権威がいかほどのものであったかを如実に表わしている。院の権力が専制的なものになるにつれ、台頭してくる勢力は院の近臣たちである。彼らは廟堂での席次も低く、貴族としては中下級でありながら、受領として蓄えた巨富や親族関係など各々のつてを通じて法皇の信任と寵愛を得た者たちだ。ここに政治力、財力が力を持ち、律令制が済し崩されていく、来たる時代の萌芽を見ることができる。
東の源氏 西の平氏

 

源頼義、義家によって東国にうえつけられた源氏の勢力は、しだいに関東一円に根を張っていった。この勢力拡大の要因は所領の開拓に加えて、前九年の役ならびに後三年の役を通じて関東平氏の郎等化に成功したことにある。特に頼義が平直方の女婿となったことは最大の契機であった。頼義は直方が鎌倉に持っていた別荘を譲り受け、前九年の役にあたって石清水八幡宮を勧請、由比郷に社殿を立てた。頼朝が鎌倉に幕府をひらく基礎はここで築かれたものである。こうして関東平氏への支配を確立した義家は、しかし源氏の棟梁としてあまりに威望を持ちすぎてしまった。白河上皇は義家を院政警護の武力的背景としてこそ用いたが、義家が荘園領主となり貴族の仲間入りを果たしたような体裁を取ることは認めがたいことであった。朝廷は、衆望の高い彼を完全には排除できず、昇殿許可をもって遇せざるを得なかったものの、決して好ましく思っていなかった。義家はしだいに貴族から疎外されていったのである。義家を嫌った上皇たちは、彼に代わる武者として弟の義綱を利用した。しかし1106年に義家が没すると、後継者争いが同族のうちに吹き荒れ、陰謀渦巻く主導権争いのうちに一家は全滅、あれよという間に源氏は瓦解してしまう。北面の武士なる親衛隊を組織し、悪僧の強訴に対応するため武力を必要としていた白河上皇が、ここで源氏の内訌を傍観し、あまつさえ壊滅を助長するような処置さえ取ったことには意味がある。上皇にとって源氏はもはや用無しであった。西に伊勢平氏という代わりの武士を見つけていたのである。

伊勢平氏の祖である維衡は、伊勢守に任じられる以前より伊勢に根拠を持ち、大武士団を抱えていることが知られていた。その後維衡の4世に至るころには一代勢力を確立し、そのうちの正盛が六条院へと所領寄進を行ったことが、朝廷内で伊勢平氏の勢力が拡大するきっかけとなった。平氏はこれ以降、院とのつながりを深めてゆき、その庇護のもとで勢力を伸張させてゆくのである。また、正盛は源義家の子・義親の反乱の征伐にも成功し、そのことで武名を挙げることにもなった。これにより平氏は完全に源氏へと伍すことが可能となり、源氏と並んで天下弓矢の者と称されることとなる。また従四位下にも任じられ、これは貴族らを驚かせる結果となった。その子、忠盛も平氏の拡大に大きな貢献をなした。院との関係深い忠盛はわずか20にして従五位を受け、瀬戸内での海賊討伐を通してその権力基盤を築いた。一方で貴族との関係も保つことにも尽力し、宮廷的素養も身に付けていた。正盛が死ぬと間もなく、忠盛は従四位下に任じられ、その後ついには昇殿を許されるまでに至った。この忠盛の躍進の裏には、貿易があった。彼は中国との貿易を握ることで大きな財力を得ていたのである。そうして忠盛は平氏躍進の土台を築きあげて、保元の乱の3年前に死去するのである。
完成する荘園体制

 

後三条天皇によって始められた荘園整理は白河院の代にも続け、院の寵臣でもある受領たちは権門家に媚びず荘園整理を遂行していった。だがこの荘園整理によって荘園は却って国衙領との差異を明確にする結果となり、また荘園整理令上で合法となった荘園については、その権利は盤石となってゆく。則ち、荘園整理令で合法となれば、荘園領主は国から国家的支配権の一部を委譲されたことに等しくなるのである。この荘園で働く農民たちを田堵と呼び、その田地を名田とした。田堵の中にも莫大な田地を持つ者がおり、これらを特別に大名田堵と読んだのである。これらの荘園は、不輸租権・公事夫役の免除を得ることで、完全な成立を見ることになる。この荘園整理には、在家支配の確立・万雑公事の賦課・名体制の編成、という三つの側面があった。在家支配の確立とは、領主による地域ごとの支配の確立である。万雑公事の賦課は、荘園に対する多様な物品・夫役の賦課であり、これを行うために名体制の再編成が行われる。田地を名として編成した上で、田堵を名主として名の私有を認めた上でその賦役を強化したのである。またこの名編成に際しては名主の負担均等化のために均等に名を割り振った場所も存在する。こうして、荘園整理の結果として荘園制は強固なものとなった。その結果、都の貴族たちも荘園無くしては生活できなくなっていたのである。この荘園から兵士が編成されるということも多かった。
法皇と僧兵

 

院が武士を重用した一つの背景に、興福寺や延暦寺の強訴が挙げられる。この両寺は、朝廷へ希望が聞き入れられぬ際に神輿や神木を持って朝廷へと押し寄せ、希望を通そうとした。この時に押し寄せたのは、当時大衆・学侶と呼ばれた僧侶たちである。本来、僧侶は国家の公認を得た者に限っていたが、だがやがてそのような規律は崩れ、この時代には僧の数は膨大な数に達していた。彼らは学問を行うよりも武事を好み、それによって寺に武力が蓄えられるようになっていた。その上荘園からの兵士が集められており、また堂衆と呼ばれる寺院内の雑務を担当する人間たちも多かった。強訴の際にはその力が結集されることとなり、強大な力を得ることになったのである。また神輿や神木も絶大な威力を発揮した。神とは、得てして怒って祟りを下すものと信仰されており、それゆえ傷つけることは憚られた故である。これらから寺院の要求を排除する術を朝廷は遂に持つことができず、興福寺(山階寺)の要求ならばどのような非道でも通ってしまうことから"山階道理"という言葉も生まれた。
保元の乱

 

白河天皇は子に譲位し堀河天皇が即位、自らは上皇となり院政をはじめた。即位した堀河天皇の方も熱心に政務に取り組んだが、父親の専制ぶりに嫌気がさし、次第に音楽にのめりこむようになり政務から疎くなったが、この為に天皇上皇間で争いが起きずに済んだ。堀河帝が崩御すると、まだ5歳であった上皇の孫を皇位につけ、鳥羽天皇とした。上皇は鳥羽帝の中宮として待賢門院を入宮させたが、この時に上皇は彼女と密通し、胤子を生んだ。上皇はこの胤子が鳥羽天皇即位と同じ5歳になると、皇位につけた。崇徳天皇である。白河上皇が倒れると、鳥羽上皇が院政をはじめた。白河上皇時代の反発で近臣の交代が起き、鳥羽帝の関白であった藤原忠実が重用された。また、待賢門院と不仲になり、代わって美福門院が入宮。まもなく彼女と上皇の子が生まれると、生後3ヶ月にして立太子、3歳の時に崇徳帝をだまして譲位させ、近衛天皇となった。また、摂関家の中では父の藤原忠実・弟の頼長の2人と兄の忠通が対立していた。頼長は博識で、日本一の大学生と称された。多くの書物を読み、集めた書物を自ら設計した、保管に適当な建物に収め、頼長文庫とした。だが、次第に厳格さが度を増し、殺人をも敢えて行うようになり、世の人は悪左府と呼んだ。兄の忠通は父に厭われていたが、彼も筆の名手などと立派な人物であったが、父と弟の勢力が増したので自衛上対立せざるを得なくなったものである。近衛天皇は皇子のないうちに17歳で崩御した。美福門院の養子守仁親王が皇位を継ぐまでの中継ぎの天皇として、守仁親王の父雅仁親王が後白河天皇として即位。これは美福門院と忠通の共謀らしい。頼長は守仁親王に対抗できる人とつながりが無かったし、また本人も妻の喪中など、忠通に対抗することが出来なかった。さらに忠通たちは、忠実と頼長が近衛天皇を呪い殺したと上皇に密告、頼長は失脚した。1156年7月2日、鳥羽上皇が崩御したという知らせを聞き、崇徳上皇が駆けつけるが、後白河天皇勢が門前払いし、上皇と天皇の対立が表面化した。双方は武士を集め始めた。天皇方は先手を打ち、上皇方の者を捕らえ、摂関家の本宅を占拠。この時の双方の勢力は、崇徳上皇方に藤原頼長(弟)に対し後白河天皇方に忠通(兄)、上皇方平忠正(叔父)に対し天皇方平清盛(甥)、上皇方源為義(父)と源頼朝(弟)に対し天皇方源義朝(兄)といった具合であった。上皇方の行動が足並みそろわなかったのもあり、天皇方優勢の内に乱は静まり、上皇は讃岐へ流罪、天皇の側近藤原信西の言により、清盛と為朝にそれぞれ自らの叔父や父親をはじめとして、上皇方についた同族を切らせ、源氏の勢力は衰えた。また、祟徳院や敗死した頼長の怨霊がこの後都を苦しめたのは、言うまでも無いだろう。東方的に。また、この乱の褒美として信西に取り入った清盛に正四位下、義朝に正五位下が授けられたが、義朝がこれを不服として、平治の乱の遠因となる。
平治の乱

 

保元の乱以後、後白河天皇は親政をしやすい状況にあったにもかかわらず、二条天皇に譲位、院政を始めたために、後白河上皇と藤原信西を中心にした院政派、二条天皇ら親政派、源氏、平氏の間で対立が起きた。保元の乱のフィクサーであった信西は、少納言藤原道憲が出家した法名である。大学頭の祖父、文章生の内になくなった父の元に生まれ、頼長にも勝る博学の人であった。頼長が経学を重んじたのに対し、彼は史学を重んじた。彼が出家したのは、いつの世とも同じように、学者に対して冷遇の世の中を嘆いて出家したのである。先の保元の乱は頼長と信西の才と学をかけた駆け引きでもあった。信西は保元の乱の処理で、摂関家とその武力であった源氏に対して大変厳しかった。摂関家領を没収し、源氏については先に述べたとおり、多くを斬首したのである。また、権門、寺社の荘園を取り締まる新政七ヶ条を下した。新政に際し、彼らを刺激しない為、寺社への配慮は大変細かかった。また、緻密な計算の元に、焼失した内裏の再建なども行った。以上信西がもっぱら政務を執り行ったのは、後白河天皇が今様(流行歌)に没頭していたためである。信西は後白河を愚昧な君主と称している。又、後白河が上皇になると、関白以下他の公卿の圧力もなくなり、勢いも更に強くなるが、自らに頼り、周りから孤立し始める。彼の運命を決めたのは、藤原信頼が役職を欲したのを阻止して恨みを買ったためである。1159年、信西の武力的後援者であった平清盛が熊野詣に行っている隙に信頼と源義朝が兵を挙げてクーデターを起こし、信西を討った。清盛が早馬からクーデターを聞いて都に戻ってくると、義朝に従うふりをして、天皇と上皇を内裏から脱出させ、信頼・義朝追討の宣旨を得てこれを討った。こうして衰勢だった源氏を殆ど壊滅させ、時の権力者信西も滅んで、平氏の天下になってゆく。この二つの乱を通して、平安貴族の権威の弱まりは明らかとなった。
平清盛と平氏政権

 

保元の乱・平治の乱により武士団内の対立勢力は失われ、唯一残った平氏の棟梁平清盛は公卿となる。これより先に武士が公卿となった前例はない。天皇親政派に対抗しようとする後白河上皇の図らいと、彼自身の巧みな政界遊泳術により、昇進に次ぐ昇進、1167年には従一位太政大臣となった。清盛の昇進に連れて彼の一家一族も相次いで昇進する。権中納言は平氏の参列により異例の10人となり、殿上人は30人を超えた。諸国の受領や諸司にも次々任じられ、廟堂の大半は平氏一族で占められる。平氏の勢力はいよいよ最盛期を迎えていた。「此一門にあらざらん人は、皆人非人なるべし。」やがて二条天皇が六条天皇に譲位後まもなく崩御すると、後白河上皇の意向により六条天皇は憲仁親王に譲位する。高倉天皇である。清盛は高倉天皇に自分の女徳子を入内させ、外戚の地位を得ようと画策する。果たして1178年には皇子が誕生、後の安徳天皇である。この皇子の誕生は清盛を大いに感激させた。感激の裏にあるものは、反平氏の風潮強まる中、平氏政権の武力的背景の脆弱さという平家発展の不安要素である。もともと伊勢平氏は源氏勢力を斥けるために白河法皇によって取り立てられた成り上がりものである。武士としての基盤を整える暇はなかった。平氏の進出は武士団としての成長・発展ではなく、白河・鳥羽・後白河三代の法皇の戦略的引き立てによるところが大きいのである。故に平家にとっては、公卿と受領を占め天下の国政を我が物とする往年の藤原氏の手口が望むところであった。そうして外戚の地位を得ることは、まさにそのための橋頭堡であった。地方行政を蔑ろにした全盛期の藤原氏に対し、平氏は知行国主や受領を一門で占めた。蓄財もさることながら、全国に平氏勢力のにらみを利かせることを目論んだものであった。また経済的な基盤を固めるために宗との外国貿易政策を重んじ、巨利を博すとともに、書物などの輸入を勧め学問の進歩にも貢献した。こうして平家はあらゆる面における地力を着実に蓄えていった。
奥州藤原氏

 

陸奥・出羽の2国に目を転じる。東北を支配していたのは奥六郡の主清原氏の遺産をついだ藤原氏である。当時の陸奥・出羽の生産力は畿内に匹敵するほど高く、数多くの特産品や金による経済力もあり、自立的に平和と繁栄を誇っていた。奥州藤原氏の繁栄は特に清衡・基衡・秀衡の三代に見ることができる。初代清衡は後三年の役で源義家を利用し、戦後は彼を奥州から遠ざけることで奥羽両国にまたがる主権者となった。安倍氏の血をひき清原家をつぐ彼が主権者となることに在地の反対はない。彼が苦心したのは自らの地位を中央に認めさせることであった。清原姓ではなく都に通りのよい実父の藤原姓を用いて関白家との連絡を図り、やがて国守の権力を無力化することに成功する。清衡の死後、跡目を相続したのは二代基衡である。彼は父清衡の摂関家に対する妥協を排した。たとえば悪左府藤原頼長の年貢増徴要求に対しても厳しく応じ、ついに初案の半額以下で押し切った。基衡の代にあって、奥羽の聖域化はいっそう固められることになる。基衡の死去直前、京都では保元の乱が起こり、時代は変転の機を迎えていた。これを受けて奥州は政治的にも文化的にも成熟し、中央と対等の地位に上り始める。こうした背景の中、三代秀衡が当主となる。あらゆる勢力と連携を図ろうという平清盛の取り計らいによって、1170年に鎮守府将軍に任ぜられ、翌年には陸奥守となったが、秀衡は奥州は奥州であるという独立的な立場を貫き、ついぞ平氏にも源氏にも靡かなかった。やがて平氏は滅び、源頼朝は天下統一に動き出す。頼朝は秀衡に対し、中央との連携を断つ申し入れを送り牽制するが、ここでも秀衡は奥州を独立勢力として守りぬく態度を貫徹した。1187年、兄弟間の相克を危惧し、一家一丸となって頼朝に対抗することを言い残して死去。しかし彼の一家結束の遺志も敢え無く、彼の死後まもなく奥州藤原氏は滅びることになる。
孤立する平家

 

平清盛の女、盛子の夫である摂政藤原基実が若くして死亡し、清盛はその家領を一手に握ることになった。これにより清盛は高い官位と日本最大の荘園領主の地位を併有することになる。しかしこれは当時の慣例に反した政治的な工作であったために、世間の反感を強く買う結果となる。事実盛子が死んだ際には、異姓の身で藤原氏の家を伝領したため、氏の明神(春日明神)から罰を受けたのだと噂された。二条天皇が崩御すると、もともと親皇派であった清盛は院と対立し始める。後白河法皇はさまざまな口実をつけて平家を弾圧する。1177年(治承元年)に加賀守藤原師高が白山領を焼き払う。法皇は大衆の意に反し座主明雲の職を解き、伊豆に流してしまう。これを聞いた大衆は大いに怒り、明雲を脱却する。法皇はこれを謀反とし、比叡山追討を清盛の弟経盛に命じる。経盛がこれを断ったので、清盛に命じてこれを承諾させた。永久の強訴により大衆の威力を認識していた清盛は延暦寺との連携を強めていた。法皇は平氏と延暦寺を衝突させようといった意図を持っていたのである。ところがその翌日、院の近臣集団が清盛追討の計画を立てているとの内通が届き、事態は急変する。院は平氏と対抗しうる軍事力を有していなかったので、事件の処理は平氏主導で進められ、あるものは殺され、あるものは流された。清盛はこの鹿々谷事件により、院が対立者であることを明確に認識するに至る。1179年盛子が没すると、法皇はその家領を没収してしまう。これによりついに清盛の堪忍袋の緒が切れ、数千騎の武士を率いてクーデターを起こす。法皇は仰天し陳弁したが清盛は聞き入れず、法皇を鳥羽殿に幽閉する。こうして清盛の軍事的独裁政治が始まった。しかしこれに対する反発の芽は既に崩じていた。1180年(治承4)に高倉上皇は社参(神社に参拝すること)を厳島神社に行うと発表した。これは清盛をなだめ、後白河法皇を幽閉から救い出す意図があったと考えられている。しかし慣例に反したこの社参に大衆は蜂起する。この蜂起により、今まで対立をしていた園城寺・延暦寺・興福寺が連合を強め、対して平氏は孤立していく。
内乱から源平合戦へ

 

平氏は旧貴族や大神社のみならず武士からさえも孤立してしまう。成り上がるスピードに即した統治体制を構築することができなかったからである。貴族、神社、大衆、武士その他多くの勢力の反感が集積した後に起こることは唯一つ。内乱である。1180年、東国伊豆で源頼朝が北条時政の支援を得て源氏再興の旗揚げをする。これが嚆矢となり、全国から次々と反逆者が現れ始める。延暦寺も源氏の軍門に下り、園城寺もこれに続いた。平氏もただやられるばかりではない。平知盛、平資盛、平清綱はそれぞれ別ルートから近江に向かい、たちまち源氏を逐電させる。そして近江の武士の三分の二を味方につけ、頼朝打倒を目指し始める。しかし寺院の結束は強かった。延暦寺と園城寺は結託して近江の平氏軍を討とうと計画を立てる。数日後さらに延暦寺も加わり、叛乱の勢いはさらに増していく。清盛はついに後白河法皇の幽閉を解き、政務を取るように懇願する。政権を法皇に返したのち、平氏は最後の力を振り絞り、反乱軍と戦う。この時東大寺・興福寺が全焼する。寺院が部分焼失でなく全焼するのは歴史上初のことである。これにより、寺院勢力および貴族を完全に敵に回し、ついに平氏は完全な四面楚歌となった。清盛を滅したのは刀ではなく、感冒(風邪)であった。感冒から肺炎を内発し、高熱と頭痛に悶絶しながら、清盛はその激動の生涯を終える。仏事を行う間もなく、平氏は平重衡を対象とし源氏との戦いを続けていく。院、源氏、平氏の三社が複雑に入り組んだ奮闘がしばし続き、壇ノ浦の戦いでついに平氏は滅ぶ。 源氏の平氏根絶への熱情は強く、決戦の後も追討の手は相次いだ。しかしながら、平氏の生き残りが存在するという言い伝えは多く存在する。それらのほとんどは孤島や山間など、外界と隔絶された環境が舞台となっている。現世から論理的に隔離された幻想的な表象と、華やかでありかつ哀れに過ぎ去った平氏の栄枯盛衰の光陰が、そのような物語の下地となっているのかもしれない。
 
鎌倉幕府

 

平治の乱で敗れた源義朝、その子供である頼朝は捕えられ、伊豆に流された。紆余曲折を経て、かれは北条時康の娘、政子と結婚する。1177年のころと考えられる。1180年4月、後白河法皇の皇子以仁王と源頼政は平氏打倒の兵をあげ、敗死する。6月半ば、京都にいる乳母の妹の子三善康信からの密使により、諸国の源氏追討計画の話を聞いて、頼朝はついに挙兵。謀反の話が京都まで達していることを知り、一か八かの先制攻撃をかける。それが、当面の敵である伊豆国の政庁の支配者、目代山木兼隆の館への夜襲であった。8月17日のことである。夜討ちは成功したものの、頼朝にとって四方はみな敵。わずかに箱根山をこえた関東平野には、相模の三浦氏一族という来援を期待できる武士団がある。頼朝はかれらと合流するため、東方へと血路をひらこうとした。頼朝は20日、かれのもとへ集まってきた三百騎ほどの武士たちをひきいて東へ山をこえ、23日午後おそく、ようやく相模国石橋山に到着した。そのときすでに、大庭景親以下平氏側の相模・武蔵の武士3000余騎は前方に、後方の山には追尾してきた伊豆の伊東祐親の軍300余騎が控えていた。大庭勢は多勢をたのんで強硬策に出、暗夜、雨の山中に血みどろの戦いがくりひろげられた。翌日、一帯の山々には頼朝軍残党の掃討戦が展開された。頼朝の一身も危険な状況にさらされたが、かれは奇跡的にも一命をたすかった。頼朝との関係が深かった箱根権現の別当は弟に山中を捜索させ、頼朝一行を発見し、箱根権現へと案内したのだった。
東の国々
頼朝たちの乗り出していこうとしていた関東平野の情勢はどんな具合であったのだろうか。この地方は新たに征服された植民地であり、さらに新たな征服運動をおこなうための軍事基地であったといえる。こうした歴史的経緯から、この地帯には数多くの武士団が並び立つようになっていた。武士団とは、館を中心とする開拓農場の別名であり、その政治的表現にほかならない。関東武士団は、うちは百姓たちを支配し、かれらから年貢をとりたて、また外部からの侵入に対しては武力をもって農場を守った。それぞれの国でもっとも強力な武士団がいずれも国府の在庁官人の有力者であり、また有力武士団は国府政庁におかれた軍事警察面の司令官でもあった。かれらはまた国府の政庁に関係をもつだけではなく、庄園を根拠とし、その現地管理人である庄司・下司などの地位にあった。館を中核におし進められた開拓事業こそが、武士団を成立・成長させた真の原因なのであった。開発された農場は、「別府の名」、略して「別名」とよばれる一つの特別区域として国府の田所に登録され、館の主人は「別名の名主」として、年貢の徴収をし、国府の税所に支払う役となった。国―郡―郷の三段階の地方行政組織からなっていた律令制度は、ながい平安時代のあいだにすっかり変化してしまい、国―郡・郷の二段階の組織が生まれた。新しい郡も、郷も、ふるい郡を分割して生まれた単位である条も、みな同格の地域的な徴税単位となり、それぞれに「郡司・郷司」などの役人が任命され、徴税と国司への上納をうけおうようになった。郡司・郷司にはだいたい地元の有力者が任命され、かれらは国府政庁の在庁官人を兼任することも多かった。一方では、中央の大貴族や社寺に属する私有地としての「庄園」や、また庄園に類似したものであり中央の役所などの所有する支配地域である「保」も生まれてきた。それにつれて郡・郷に保をふくめて、いちおう国府の政庁の支配下に属する地域を「公領」または「国衙領」とよび、庄園と区別する風がおこってきた。中央では、高位の皇族・貴族、大社寺が各国の国衙領からあがる年貢などの収入を個人的な収入とする「知行国」制度があらわれ、やがて一般化してきた。このような環境のもとで、別府の名主たちがまずねらったのは、郡司・郷司のポストであった。徴税と上納の責任があるが、免税地がみとめられ、年貢徴収の際のたし前をとりあげることも、担当地域内の農民たちの使役権限も公認されるからである。こうして支配圏を強化し、拡大していくことが館の主人である武士たちをつき動かす原動力であった。ただ、郡司や郷司は規定額の年貢を収めないなどの事由により免職される危険があり、また近隣の館の主人に取って代わられる危険も大きく、不安定であった。そこで新たに発案されたのが、「庄園としての寄進」という方法であった。何らかのつてを求め、知行国主や国司よりさらに有力な中央の高級貴族や大社寺、あるいは上皇に、一定範囲の地域を自らの支配領域であるとして庄園に寄進してしまうのである。土地を寄進した館の主人は、今度は庄司・下司、あるいは「地頭」などとよばれる現地の管理人に変じ、本所と呼ばれる庄園の名義上の所有者に年貢などを送るようになる。郡司・郷司として従来もっていた権益は保障され、相続も認められ、上納する年貢の高も減少する。しかし、寄進先の貴族や社寺の実力如何により庄園としての承認をとり消されるなどの不安定さがあった。場合によっては、郡司・郷司としてとどまるほうが有利な場合もあった。こうして武士たちは、その支配権の維持・拡充のために、つねに周囲の状況の変動に細心の注意を払い、中央政局の行くえにも敏感とならざるを得なかった。こうした不安定な状況をぬけ出すためにかれらが模索し、さぐりあてたのが、中央貴族の出身で、数々の武勲にかがやく「武家の棟梁」の源氏を主君とあおぎ、その下に結集して発言権を高めてゆくことであった。だが、この棟梁義朝は平治の乱にて敗れ、以後、平氏の全盛時代がやってくる。東国の武士たちはその下で不遇をかこち、いつかかれらのねがいにこたえてくれる理想の主君の出現を待ち望んでいたのである。頼朝軍の一隊がのり出してゆこうとしていた関東平野は、当時まさに以上のような情勢にあった。
鎌倉殿の誕生

 

石橋山の一戦に敗北した頼朝は三浦氏一族とともに海路を伝って安房へと逃れるが、当時房総半島に勢力を張っていた下総の千葉介常胤、上総の上総介広常の二大豪族を従えて一気に威を取り戻すと、その後も休むことなく次々と関東の豪族を従えながら南下して、1180年10月には大群を率いて鎌倉に入った。石橋山敗戦から僅か40日余という短い時間で、この奇跡の復活を可能ならしめた要因は何か。ひとつは頼朝が、武家の棟梁である源氏の先代義朝の遺児中もっとも年長で、正妻の出であるという権威を持っていたということ。いまひとつは既に東国では天皇に等しい至高の存在となっていた以仁王の令旨を掲げていたことである。さらに頼朝の政策の基本線である「目代への攻撃」「在庁官人ら武士たちの結集」は、当時の現状に不満であった東国武士たちを惹きつける最大の魅力であった。東国の武士たちが頼朝に希望を託して次々と与して来たのも不思議ではない。鎌倉入りした頼朝は鶴岡八幡宮を現在の山寄りの地に移し、その東側の大倉郷に新たな館を立てる。後の鎌倉幕府の基礎である。ところで同年9月には頼朝挙兵の知らせを受けて平維盛・忠度らを大将とする頼朝追討軍が派遣されていたが、甲斐源氏一族との富士川の合戦に大敗し潰走、火の手は鎌倉まで及びもしなかった。平家東征軍の指揮力不足と、鎌倉という拠点の位置、沿道諸国の武士の挙兵、延暦寺以下の僧兵の反乱、凶作・大飢饉の影響、一方の東日本の豊作という食糧事情など、頼朝にとっては有利な条件が揃いに揃っていたのである。いまや南関東一帯を中心にした東海道東半部諸国は頼朝の手になった。頼朝は鎌倉の主という意味で「鎌倉殿」と呼ばれるようになり、これを主君と仰ぐ新しい東国の政権が生まれようとしていた。鎌倉殿となった頼朝には果たすべき二つの責任がある。本領安堵と新恩給与である。関東武士団が期待し願っていたのはなにより彼らの所領の安全・確実な保護と、公正な裁判であった。この要望に応えることこそ、かれらの支持を獲得する道である。東国内の職や地位の任命・罷免を行うことによって、頼朝はこの仕事を地道に進めて行く。
政治家頼朝

 

平清盛必死の立て直し策も敢無く、蜂起と反乱は全国に拡大していった。鎮静の気配はいっこうにない。一方混乱する京都を横目に、頼朝は東国の地がためを着々と進めて行った。東国武士団の連携も今のところはまだ反平氏の同盟関係に過ぎず、頼朝を完全に主君と認めたわけではない。より多くの武士を御家人として確実な権威を築くべく、内政に集中したのである。1183年、平氏軍は北陸に勢力を張っていた木曽義仲討伐を目論むも、義仲はこれを返り討ちにし、7月には京都に迫った。平氏一族は幼帝安徳天皇と「三種の神器」を奉じて京都を去る。平家の都落ちである。ところが荒れに荒れ果てた廃墟のような京都の地である。統率もなく寄り集まっただけの急造軍に義仲は十分な権威を振るうこともできず、法皇以下貴族たちに翻弄されつつ孤立無援のまま京に居座るだけであった。空白となった皇位には、後鳥羽天皇が即位した。同年10月、後白河法皇からの上京を促す使者に応じて頼朝は、国衙領・荘園を国司・本所に返還することを命じる勅令発布を後白河法皇に要請する。この提案は窮境にある中央貴族の大歓迎を受けた。さっそく要請通り「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。もしこれに従わぬ者があれば、頼朝に連絡して命令を実行させよ」という勅令が宣旨として公布される。10月宣旨である。この功績により頼朝は朝敵の名を逃れて従五位下に復帰した。10月宣旨は一見頼朝にとって譲歩に見える。しかし宣旨の後半部分に注目すれば、命令の実施は頼朝に一任されており、武士たちにとって当時最大の問題である土地問題の解決に必要な権限が頼朝に与えられたことが確認出来る。つまりこの宣旨によって頼朝は、以仁王の令旨と違い、源氏の中でも彼一人だけが掲げることのできる錦の御旗を手に入れたのである。さて京の義仲はやがて自ら征夷大将軍となり独裁体制を敷いたが、所詮は内実無き孤独な独裁に過ぎず、かつてともに入京した武士たちも義仲を見放して行った。1184年1月には、義経率いる東国軍に滅ぼされることになる。義仲を破った義経軍はさらに平氏追討の宣旨を受け、西に勢力を張っていた平氏一族を一ノ谷に破る。屋島に逃れた平家は瀬戸内海一帯の制海権を握って抵抗するが、義経はこれを壇ノ浦に追いつめ、1185年3月、ついに平氏を全滅させる。こうして対抗勢力を弱体化させつつ、頼朝は、支配体制を整え、勢力圏の拡大を一歩一歩進め、新政権の中枢機構を着実に発展させていったのだった。
東西武士団の群像

 

富士川合戦の場面で描かれる斉藤実盛の東西武士比較は、源平合戦の本質の総体を突いたものであると言うことができよう。実盛が最初に示すのは弓と馬であり、これらは武士の象徴ともいえた。当時の合戦は馬上の一騎打ちであり、馬上での弓術が重んじられる。その点で馬術に長ける東国武士は有利である。当時の合戦の作法は、まず軍使を取り交わして合戦の日時を決めるところから始まる。両軍が対峙すると武士たちは名乗りを上げながら馬を走らせ、敵へと矢を放つ。矢が少なくなると、太刀を用いた乱戦となった。敵をうちとる際には組み打ちとなり、馬から敵を引き落として組み合いをした。そうして敵を弱らせ、首を取るのである。このように武士の戦いは、一騎打ちの空気が強い。だが一方で、源平合戦期とは集団合戦への移行期でもあった。武士たちの論功行賞は、首のぶんどりが最も大きな功とされた。また、討死や手負いも功とされる。先駆けも功の一つであり、これを争う話は数多い。東国が馬を主体とした軍であり、陸上でその威力を発揮したのに対し、西国では海上での戦が多く、船が大きな威力を持った。そのため源氏は平氏に度々苦杯をなめさせられている。また、未開の地であり大自然の猛威が荒れ狂う東国では、人も荒々しく命を惜しまない。そのことも東国武士の力強さを表していた。東国の武士団は血縁地縁による深い結びつきを持っており、それゆえ強固な軍団として機能した。これに対し西国武士は、あくまで令による結びつきであるために軍団として機能しにくかった。功を示すために、鎧の色や笠印なども重要視され、それゆえに様々な色形の鎧が現れることにもなるが、これも武士の功への意欲の現れである。またその所領を守ることには並々ならぬ意欲を持ち、中には所領争いに敗れると出家してしまった熊谷直実のようなものもいた。頼朝の挙兵では、大武士団の協力が不可欠であったことは事実だが、同時に小武士団より支持を得られたことが大きかった。彼らの独立へのエネルギーこそが幕府形成の原動力なのである。
天下の草創

 

壇ノ浦で平氏が滅亡したという報は、頼朝にとって義経との決定的なわだかまりのできる要因である。また三種の神器のうちの剣を失ったのも頼朝にとってマイナスであった。この義経の前半生については全く謎であるが、鎌倉武士から外れた辺境武士や僧兵などとの結びつきを強めた存在であり、そのことから、畿内での活動経験は想定される。義経は一の谷後の恩賞に与かることはできず、代わりに後白河法皇より官位を授かることになった。このため頼朝より大きな怒りを買うことになる。だが、代役の範頼は平氏討伐に失敗し、半年後に義経は召喚され、彼によって平氏は滅ぼされることになる。壇ノ浦後、義経と頼朝の対立は決定的となる。戦時から平時へと移行に際して、獲得した権益を守ろうと懸命な頼朝にとって、従わぬ者の存在は許されなかったのである。頼朝は権益保護の為に、朝廷との交渉にも必死であった。京都に帰った義経は、院より宣旨を戴いて挙兵するが、その支持者は少なく、あっという間に離散の憂き目にあう。一方その報を受けた頼朝は軍勢を上洛させ、其の兵力を背景に義経追討宣旨の発令と、守護地頭の設置を後白河院へ飲ませたのである。さて、この守護地頭であるが、吾妻鏡による記述には潤色がなされていることが、他の史料からわかっている。吾妻鏡の守護地頭の記述は玉葉の引き写しなのである。守護地頭の実態については今だ定説はないが、軍事警察権をはじめとした在地の統治権を頼朝が握った物として解される。ただし藤原氏の手にあった奥州は頼朝の完全勢力外であり、また西日本は地頭を全体に置くことはできていない。また守護という職種は存在せず、当時は総追捕使と呼ばれた。地頭の職掌は、年貢の徴収・納入であり、その結果として領主としての承認を得ることができた。また朝廷の体制変革も要求し、それを成し遂げることもできている。
鎌倉幕府の新政治

 

義経は頼朝の手を巧みに逃れ、全国を放浪していた。彼は孤独ではなく、比叡山延暦寺や奈良興福寺、京都鞍馬寺・仁和寺、法皇御所、前摂政藤原基通邸などを転々としながら機を待っていた。これまでのやり方が手ぬるいと悟った頼朝は各寺院に圧力をかけ、法皇を恫喝した。これによって反幕派貴族たちの行動も次第に規模が小さくなっていく。1187年(文治3)の秋、義経が陸奥の秀衡に庇護されているという知らせが鎌倉・京都に入る。頼朝は詰問の使者を遅らせたが、秀衡はこれを黙殺。頼朝へ反旗を翻す準備を進めていた。しかし、秀衡は10月の末病魔に侵されてしまう。秀衡は義経を主君とするように遺言を残して死ぬ。頼朝は喜んだ。義経が畿内近国などの一大勢力が存在する場所ではなく、辺境の地に身を寄せていたことがわかったからである。そして後援者の秀衡ももういない。義経逮捕を口実に陸奥平泉の地に駒を進める時期がようやく到来したのである。頼朝は秀衡の後を継いだ泰衡に、義経の身柄を差し出せば恩賞を与えると告げる。これを聞いた泰衡は、迷いつつも義経の館を急襲する。義経は自害した。享年31である。民衆の間で英雄義経の人気は高く、生存説をベースとした逸話が多く創られた。いわく北海道を征服した、いわくモンゴルにわたりジンギスカンとなった、などである。前者は江戸時代、後者は明治時代に世上をにぎわした。義経の根強い人気が窺える。頼朝の奥州征伐は徹底的であった。彼は泰衡との約束を破り、義経隠匿を重罪とし泰衡を征伐。清衡以降4代に渡った奥州藤原氏がここで終焉を遂げることとなる。これにより陸奥・出羽両国は幕府の直轄地となり、日本領土の一部として緊密に結びつけられることとなる。平氏討伐から泰衡謀殺までを経て、内乱の時代は終焉を迎えた。頼朝は内乱を治めたことで「鎌倉殿」としての自信をつけ、ついに上洛して法皇と会談する。法皇とは余人を交えず長時間政治談議をした。この10年間、相対立してきた2人の大政治家が、何を語らい、どんな取引をしたのか。今となっては知る由もない。確かなことは、頼朝が渇望していた征夷大将軍の地位は認められず、右近衛大将(武官の最高位)および権大納言の職に任命されただけということである。頼朝は3日でこれを辞退し、単なる王朝の侍大将にとどまらぬ意思を天下に明示した。頼朝は法皇御万歳(法皇の死)を待った。一度流罪にかけられた頼朝は「待つ」ということを知っていたのである。彼は摂政九条兼実と連携を図り、裏で静かに権力基盤を固めていく。この作戦が功を挙げ、1192年、後白河法皇は腹病をこじらせて死亡する。動乱の時代を豪運と覇気で生き抜いて来た大人物も、全ての人間が背負いし無情の宿命には敵わなかった。法皇の死により、兼実は関白として朝廷政治の主導権を握るようになる。そして頼朝はついに念願の征夷大将軍に任命される。苦境から学んだ男が最後に勝利を勝ち取ったのである。頼朝は自らが頂点に立ち、今までばらばらであった各地の武士団を御家人組織として幕府の中に組み入れた。彼は偉大な指導者であり、それを傍証する多くの逸話も残されている。頼朝は幼少において父母と別れ、敗軍の将として流罪を受け、数々の逆境を経験した。その前半生が彼を怜悧冷徹な指導者の器に育て上げたのだ。弟と協力して敵を撃ち、そしてその弟をも政治的脅威とあらば滅ぼし、さらにはそれを口実に東北の地まで制圧する。そこで功を焦らず、機を待ちつつ地盤を固め、最後には頂点に立ち国をまとめ上げる。男子の本懐とも言える功績をあげた政治家・頼朝の胸中はいかようであっただろうか。頼朝は畿内・九州と幕府の支配力を強化する政策を取り、このまま順風満帆にことが進むかのようにみえた。しかし泰平は早くも陰りをみせることになる。「満つれば欠くる世のならい」とはよく言ったものである。頼朝はこれまで対立してきた木曽義仲とついに和解し、その子清水義高を人質に取り、北条政子との初子である大姫の許嫁とした。ちなみに大姫は5-6歳、義高は11歳。いかに早婚の時代といえ、流石に正常の夫婦としてはふるまっていなかっただろう。遊び友達、もしくは仲睦まじい兄妹といったところだろうか。頼朝と義仲の関係はその後破局を迎え、翌1184年(元暦元)義仲は敗死する。頼朝はかつて父義朝を殺された恨みもあり、義高の殺害を決意するが、これを聞いた女房たちが哀れに思い義高をひそかに鎌倉から脱出させる。頼朝は激怒して武士を派遣し、義高を武蔵国入間川の川原で殺害する。信愛していた少年にもう会えない。6-7歳の少女にとってそれはどんな恐怖と絶望なのだろう……大姫は暗闇の中で泣いても無駄なのでただ憂愁に沈んでいるだけだった。頼朝もやはり人の子であり、悲しみに暮れている娘の笑顔を取り戻したいと考えたのであろう。追善供養・読経・祈願などあらゆる方法で大姫の心を癒さんと奔走した。しかし幼女が少女に成長するまでの10余年の間に、悲嘆の情はますます募っていく。幼心に抱いた自然で暖かな情愛は、少女に成長する頃には恋心までに昇華していたのだろうか。あるいは現在で言うところの鬱病の傾向を持っていたのだろうか。いずれにせよ、頼朝の手を焼かせたのは想像に難くない。頼朝はそれでも諦めなかった。1194年(建久5)の夏、大姫が小康状態にあった折、京都から一条高能という貴族がやってくる。歳は18。大姫との縁談にはうってつけである。しかし大姫はこれを一蹴し、再婚するぐらいなら投身自殺するとまで言ってのけた。ここまで行くと恋慕の情を通り越し、狂気の偏愛である。その後、頼朝は誰かから一策を授かる。後鳥羽天皇ではどうかというものだ。天皇は当時18歳、大姫は当時16歳。年齢も近いし、玉の輿であれば流石に大姫も拒絶しないだろう。頼朝にとっても、これで京都の朝廷にも勢力を及ぼすことができるようになる……男を狂わすのはいつも女である。覇者たる頼朝と言えど、それは例外ではなかった。特殊だったのは、それが肉体関係のある女性ではなく、血縁関係のある子供であったということだ。この極めて人間的な誤りが、彼を徐々に蝕んでいく。兼実の娘も後鳥羽天皇の中宮であった。頼朝はかつての盟友であった兼実を出し抜く作戦を採る。しかし我が子への愛に盲目となった頼朝は、逆に院側近の源通親から利用され、当時その所有権を否定した荘園を彼らに与えてしまった。この時期に頼朝は征夷大将軍の地位も辞している。かつ兼実から授かった地位である。兼実が頼朝の指示を失ったことが、天下に知らしめられた。通親は立て続けに兼実と頼朝を対立させるように計らった。兼実は関白職を罷免され、九条家一門は忽ち窮地に陥った。かつての輝きを失った男に対して、運命は冷酷であった。大姫は1197年、齢20歳にして死亡する。兼実以下の親幕府派は壊滅し、朝廷側には毟られるだけ毟られるという惨状だけが無情と共に残った。通親はさらに追い打ちをかけるように、自らの養女の生んだ土御門天皇を即位させる。頼朝は反対であったが、もはやそれを訴える代弁者はいない。通親は天皇の外祖父、上皇の院司となり、「源博陸」(源氏の関白)と呼ばれるほどの勢力となる。頼朝は中央貴族であった。彼もまた、名誉欲に目を曇らされてしまったのだろうか。全てを得てしまった男は、実にちっぽけな拘りで滅びてしまうのかもしれない。頼朝は翌1199年死亡する。享年53。全国を翻弄した彼もまた心弱き、一個の死ぬ人間であった。
貴族文化の革新

 

平重衡の焼討ちによって灰と化した東大寺の再建は、あらゆる階層、すべての地域にわたる人々の幅広い協力を得てはじめて可能なことだったのであり、それは鎌倉時代の新しい文化を創造するための大舞台となり得た。東大寺再建に尽力したのは俊乗房重源という老僧であった。かれは勧進職に任ぜられ、勧進聖として全国にその活動をくりひろげ、東大寺再建の資を集めた。また、かれは宋に渡ること三度、さまざまな実際的な技術を学んできた僧でもあった。ゆえに再建にかかる経済的・技術的困難を克服することが可能であったのだ。東大寺の伽藍は、天竺様とよばれる新しい様式で建てられた。それは重源が宋で学んできた手法であり、部分品の規格を統一して量産し、工法も単純にして組み立ててゆくという合理的な方法を基礎にするものである。南大門の仁王像の制作者は、運慶・備中法橋・快慶・越後法橋の4人の大仏師である。ただ、それは一段の仏師たちを率いて製作に当たった大仏師の名であり、その背後にはすぐれた技量をもつ多数の小仏師がいて各部を分担し、その下にはさらに多くの工人がいた。仁王像はわずか2ヵ月余で作りあげられたが、それは大仏師の統率力や木寄法という方法の発達によってはじめて可能なことだった。東大寺再建では、当時貴族たちの間ではなお大きな支持を得ていた京都仏師ではなく、奈良仏師のみが独占的に造仏をおこなった。重源が奈良仏師のもつ新しさを見出す眼を持っていたからでもあり、また再建の有力な支援者頼朝も奈良仏師と関係が深かったからであると考えられる。運慶が、その作風や活動の場からして武士的であるとするならば、快慶は庶民的ともいうべきで、鎌倉時代の文化の特色を示す二面をこの2人は分かち合っていたと考えることができる。東大寺再建の運動は西行をも動かしていた。西行はかつて弓馬の道にも通じた武士で、佐藤兵衛尉義清といった。ところがかれは浄土教の影響を受け、23歳の若さで出家遁世し、社会的な束縛から自由になり、旅に出たり、さまざまな人々と自由に交わったりして自分を深めていった。南都焼打ちの最高責任者重衡は、焼打ちから3年余ののち、一ノ谷の合戦で生捕りにされ、頼朝の意向で関東に送られることになった。その前に、かれは法然の教導を受けた。法然は、修行の末、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば救われるという称名念仏を選択する立場に到達した。それは、叡山でおこなわれていた貴族的な仏教を民衆に開放し、また知識として学ばれ、国家に奉仕するものでしかなかったそれまでの仏教を日本人自身の主体的な宗教に転換させたということで、日本の歴史上画期的なことであった。また、平安時代の末に、宋の文物が停滞した貴族の文化にとって新しい活力を与えるものとして注目されるようになったとき、宋で発達した禅宗も新しく脚光を浴びるようになった。禅宗の広がりに影響力を及ぼしたのは、栄西である。しかし、鎌倉武士たちは禅僧としてよりも、葉上流台密の効験あらたかな僧として栄西をうやまっていたのであり、禅宗が日本人の間に根をおろすには、まだかなりの年月がかかるのである。
悲劇の将軍たち

 

頼朝が亡くなり、長男である頼家があとをついだ。年はわずかに18歳である。頼朝が亡くなってすぐ、京都朝廷のリーダーである通親が幕府派への総攻撃をするなど、幕府の前途は早くも多難を予想させた。頼家の手腕に不安を感じた側近の老臣たちは、母の政子とはかって、頼家が直接訴訟を裁断することを停止し、元老や御家人代表たちが合議で裁判することにきめてしまった。頼家がだまってこの処置をうけいれるはずもなく、かれはお気に入りの近習たち五人を指名し、かれらでなければ頼家にお目通りできないと定め、またかれら五人の従者たちが鎌倉の中でどのような乱暴を働いたとしても、手向ってはならない、という無茶な命令まで下した。五人の若い近習たちとは、いずれも比企氏の一族や、それと縁のつながる人々であった。頼家にとって、能員以下の比企氏一族は、この上ないうしろだてだったのである。頼家は、五百町以上の恩賞地没収や、境界争いの裁判につき墨引きをするなど、諸了知支配権の保護と所領をめぐる争いの公正な裁決という、幕府をつくり上げる原動力となった東国武士たちの最大の要求を正面から踏みにじるような政治を行った。これでは、東国武士たちが何のために鎌倉殿を主君とあおいでいるのか、わからない。もともと鎌倉に幕府をうちたてる構想自体、東国武士のものであり、頼朝をおし立てて幕府の樹立に成功したのも、かれらの武力のたまものだったはずだが、成立した幕府体制は頼朝と側近による独裁政治であった。頼朝の死により、こうした初期幕府の専制体制は、東国武士の横の団結によって修正されねばならない、という武士たちの機運が高まってきた。その最初の表現が、梶原景時の粛清事件であった。景時は侍所として有能であり、独裁者頼朝の無二の忠臣であったが、その立場が頼朝の死後、微妙にゆらぎ始めたことは想像にかたくない。「吾妻鏡」によれば、将軍御所内の侍の詰所での結城朝光の発言を景時が訊きこんで、謀反心のある証拠だと将軍に告げ口したため、朝光は殺されることになっている、と阿波局が朝光にささやいたので、おどろいた朝光は同志をつのって景時を糾弾することにした。そして、景時は鎌倉追放を申し渡され、鎌倉の屋敷はとりこわされた。翌1200年の正月、大がかりな反乱をたくらんだ景時は、ひそかに一族従者をひきつれ、京都へと出発したが、その途中駿河国清見関近くで、付近の武士たちに発見され、一族もろともあえない最後をとげるに至ったという。しかし、この「吾妻鏡」の記述が事件の真相のすべてをつたえているとは、とうてい考えられない。筆者は、景時粛清事件の裏で糸を引いていたのが北条時政ではなかったか、と述べる。景時糾弾のいとぐちをつくった阿波局は時政の娘、政子の妹にあたるし、景時事件の当時、駿河国の守護として国内の治安警察権をにぎり、御家人を統率していたのも、時政だったからである。景時粛清事件は、独裁将軍を夢みる頼家にとって、もっとも有能な部下を見殺しにしたものであり、致命的失敗であったといえる。この事件は御家人グループの成長によるものでもあるが、時政自身がそのグループの代表的存在であったかといえば、そう簡単なものではなかった。北条氏は最初から他の東国武士を圧する、とびぬけて強力な豪族だったという見方には、いくつかの点で疑問がある。第一に北条氏が桓武平氏の子孫という点であるが、北条氏系図は、いずれも時政以前の世系が一致せず、疑問が多い。第二に、時政以前にわかれた同族がひとつもない。第三に、40を越えた時政が、なんの官位も持っていない。これらの点から考えて、北条氏は伊豆においても中流クラスの存在とみられるのである。だが、時政の正体はどうもはっきりしない。ともかくかれは相当なくせものであり、側近兼東国御家人という二重の立場を利用しながら、相ことなる二つのグループを操縦して頼家を倒し、実朝を立てようとする、その第一着手として、最大の強敵で一般御家人のうらみの的となっていた景時にねらいをつけたのであった。景時の滅亡後、3年の歳月はまずまず平穏であったが、1203年、7月なかばすぎから頼家は急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。このとき、頼家のあとは6歳の長男一幡がつぎ、日本国総守護と関東28ヵ国の総地頭となり、12歳の弟千幡(実朝)には関西38ヵ国の総地頭を譲ることになった、と発表された。これを聞いておさまらないのが、頼家側の黒幕比企能員である。かれは病床の頼家と面会し、北条氏征伐のはかりごとを相談したが、それを障子のかげで立ち聞きしていた政子の急報を受けた時政は、先手を打って比企一族を滅ぼした。頼家の近臣として威勢をふるっていた連中もみな処罰され、9月7日には頼家は鎌倉殿の地位を追われ、実朝がこれに代わった。かくて時政は幕府の中枢にすわり、新たにかれ一人の署名による「下知状」という文章を発行して、御家人たちの所領安堵などの政務をおこなうようになった――と「吾妻鏡」にはある。しかし、この記述もまた多くの真実が伏せられたままである、と筆者は述べる。比企氏の反乱そのものが、巧妙に仕組まれたでっちあげ事件だったのではないか、という可能性もある。頼家側近や比企氏のなかに、北条氏の手先やスパイが潜入していたのではなかろうか。頼家のお気に入り五人のなかの、中野五郎能成という信濃の武士がいたが、かれは時政から所領安堵を受けており、疑惑の対象になりうる。ところが、こうして幕府権力の表面におどり出た時政も、調子に乗り、実朝を殺して若い後妻の牧ノ方の寵愛深い娘の婿である平賀朝雅を鎌倉殿に立てようとして、政子・義時に幕府から追放された。父に代わった義時は、きわめて柔軟な態度を示し、政子と将軍実朝をつねに表面に立て、旧側近官僚グループとの連絡をさらに密接にしながら、御家人たちの信頼獲得につとめた。他方で、かれは北条氏の勢力を確立し、かれに対抗する有力武士団の力をけずるためには、あらゆる努力を惜しまず、どのような機会をものがさなかった。義時は幕府創立以来侍所の重職にすわっていた和田義盛にねらいをつけ、和田合戦において、義盛を一族親類共にほろぼした。和田合戦の結果、義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼任して、幕府のもっとも重要な政務機関長のポストを独占するようになった。北条氏の幕府指導者としての地位は、ここにほぼ定まったといってよい。鎌倉殿独裁政治に代わる、北条氏が幕府権力を握る執権政治はこうして始まったが、執権政治成立の時期については、かならずしも明白ではない。「執権」の職名自身が当初から存在したわけではないので、北条氏の権力が伸長したそれぞれの時期をもって、執権政治成立の時点と主張することが可能となる。本書では、時政の実権掌握をもって執権政治の成立とみなし、和田合戦後をもってその確立と考えることにする。1129年正月、実朝が公暁に暗殺される。この暗殺事件の背後関係であるが、義時がひそかに公暁をそそのかして実朝を暗殺させ、さらに一味の三浦義村に命じて公暁を葬ったというのがこれまでの通説的見解であった。しかし、公暁は義時のつもりで仲章を殺しているため、義時が黒幕だとすると少々おかしな話になる。そこで、三浦義村が公暁の背後にあった、という解釈にも筆者は魅力を感じるという。名もない東国の一地方武士の出にすぎない北条氏の覇権獲得は、東国武士たちによる権力獲得の第一歩であり、武士の政権としての幕府の純化と発展の過程を示しているといえよう。
承久の乱

 

実朝が頼家の子に殺害された報が京に届く。後鳥羽上皇はこれをいかにして受け止めただろうか。上皇の性格およびその統治体制を考察することによって推測してみよう。後鳥羽上皇は多芸多才、百科全書的な万能人間であった。「新古今集」を率先して編纂し、自身も時代を先導する歌人として君臨した。蹴鞠・管弦・囲碁・双六などの遊戯、相撲・水泳・競馬・流鏑馬・犬追物・笠懸などの武芸に精通し、京都の内外で狩猟もしばしば行った。刀剣に関心深く、時には自ら焼いて近臣や武士たちにこれを与えた。太刀は菊の紋で飾り、「菊作りの太刀」と称せられた。「菊花の御紋章」の起源は、これだと言われている。天皇家において、これほどまでに武芸への関心が強い者の存在は異例であり、周囲もこれに倣って武芸に励んだ。将軍実朝が武芸に無関心な現実逃避型の人間であったことと対比すると、まことに異様奇怪あべこべである。上皇は道楽好きな専制君主としての側面も持ち合わせていた。熊野三山に信仰のため参拝すること31回、同中での遊興費は多額に達し、その負担は民へ向かう。善悪功罪はさておいて、強烈な人間性を有していたことは間違いない。気分屋な側面はしばしば側近を辟易させた。このような人間も唯我独尊ではいられない。育ての親には頭があがらなかった。当時齢50を過ぎた藤原兼子がその人である。彼女は上皇の愛人、美少年の斡旋を行うなど、下の部分までの世話役として振る舞っていた。彼女は従二位にのぼり、卿二位と呼ばれ影の実力者として君臨する。といっても周囲にとっては影どころか後光が差すほど明らかに眩しかったようで、立身出世を望む数多の貴族が彼女の元へ金品と共に馳せ参じた。賄賂により財宝は山のように積まれた。上皇の勢力に出家をさせられた慈円は著書「愚管抄」にて、その売官ぶりを痛烈に非難している。しかしながら、それは当時において経済合理性がある行動であることの証左でもあった。上皇の財政を最もよく支えたのは膨大な荘園群であった。「荘園整理」を口実に、荘園を院の直轄とし、摂関家への寄進という流れを断ち切った。最高の権力者の元には、その威を借ろうと多くの者が集まってくる。院はさらに荘園の寄進を受け、その土地はますます広大となった。これらの土地は、寺院や上皇が寵愛する女性、皇女に分け与えられ、院周辺の者に相伝されることになる。後鳥羽上皇の浪費を支えた経済的基盤は、ここに存在したのである。しかしながら、寄進する側も馬鹿ではない。荘園現地の実権は上皇でなくあくまでも寄進した当事者が握り、他に好条件で権威と安全が得られる組織があれば、そちらに移れる体制を残しておいたのである。こと東国においては、農場主は幕府の御家人となり、鎌倉殿から地頭に任命されることによって権力と安全を確保していた。上皇にとってこれは面白くないことである。地頭になってしまえば、その荘園は完全に幕府の管轄に入ってしまい、年貢の滞納などの不法行為にも鎌倉殿のお伺いを立てて処分してもらう他ないからである。上皇はたびたび地頭の免職を訴えたが、実朝はこれを拒否。上皇の妥協に傾きがちであった彼に毅然とした態度で臨ませたのは、当時御家人の利益を代表していた執権北条義時の助言によるものであった。上皇の専制君主的な性格はここでますます発露するに到る。院政主導による京都鎌倉の融和策がうまくいかないとわかると、彼は次第に反幕・討幕的思想に染まっていく。歌の中にも憤懣・慷慨を露にするものが増えた。上皇はうっぷん晴らしのためか、討幕の予備のためか、ますます武芸に打ち込んだ。1207年(建永2)には最勝四天王院という寺院を設立した。ここで彼は関東の調伏・呪詛を行ったと後世に伝えられている。実朝暗殺の報が届いたのは、まさにこのときであった。かつて後鳥羽上皇は実朝の昇進の便宜を図ったことがある。その実朝の死自体に関して上皇が何を思ったのかを推測するのは難しいが、これを機に鎌倉幕府が自壊してくれれば、とほくそ笑みはしたのではないだろうか。いずれにせよ、後の承久の乱が示している通り、上皇はどこかで討幕の決意を固めている。実朝の死という事実がこの決意を下すにあたって大きな影響をもたらしたのは想像に難くない。なお、この死によって源氏の将軍の血筋は完全に絶えることとなる。暗殺前年の春に、尼将軍(北条政子)と卿二位の間で既に上皇の皇子を鎌倉殿に立てる合意がなされていた。実朝暗殺を予期しており、あえてこれを看過したというよりは、一向に実朝が子をなさないことを案じて万が一に備えておいたと考える方が現実的であろう。頼家も実朝も政子の子である。頼家は暴虐により北条の手によって暗殺されたが、実朝は温和な性格であり政子に従った。いかに尼将軍といえども従順な子を切り捨てる行為は母性が許さないであろう。上皇は鎌倉の申し出を「いずれ考えるから」と体よく拒絶する。院政組織の再編成と共に卿二位の神通力が絶対的ではなくなりかけていたのと、上皇の幕府自壊の狙いの二つがこの回答の主要な理由と考えられる。院はやがて鎌倉に使者を送り、摂津国長江・倉橋両荘の地頭の免職の要求を突きつけた。事実上の交換条件である。かねてより院はこの地頭に手を焼いており、今こそ好機と考えたのだろう。しかし鎌倉には鎌倉の理があった。「頼朝時代以来、御家人武士に与え、安堵した所領は、よほどの大罪を犯さぬかぎり免職にはしない」というのが執権政治以来の大原則であった。交渉は決裂し、地頭は存続、皇族将軍の話は流れた。九条道家の子である三寅(頼経)の母系が頼朝の血統であることを理由に、彼を鎌倉殿に迎える許可を上皇におろさせた。このとき三寅は弱冠2歳、後に言う藤原氏将軍第一代となった。これで落着したかにみえたが、双方の内心には大きな猜疑と憎悪が残っていた。それは不可視でありながら、時代を闘争へと誘う推進力としては十分すぎた。1219年(承久元)、頼政の孫で皇居の大内裏を守護していた源頼茂とその一族が後鳥羽上皇の軍勢によって攻め滅ぼされる。頼茂が将軍になろうという陰謀が発覚したというのが院の言い分であったが、これほどまでに緊張した関係において院が鎌倉を気遣うのはまことに不自然なことである。異様な出来事はこれにとどまらなかった。事件に連座して上皇の近臣藤原忠綱が失脚し、最勝四天王院が突如取り壊される。真相は不明だが、討幕計画とかかわりがあったのではないかと推察される。討幕計画は水面下で進められていた。慈円は「愚管抄」にて、この討幕計画は実現可能性がまるでなく、失敗は明らかであるとの予言を行った。彼は書物で批判を進めながら、神仏に祈願し国家の救済に誠を尽くした。知者の理性は権力者の衝動に敵わない。1221年(承久3)、計画はいよいよ進められ、各地の神社で大規模な祈祷が行われた。順徳天皇もこれに賛同し、自ら皇子に皇位を譲って上皇となり、自由な立場で討幕運動に専心するようになった。流石にここまでの規模になると鎌倉にも勘付かれ始める。躊躇している暇は最早ない。院は諸国の兵を集め、幕府側の勢力を逮捕・拘禁あるいは討伐した。北条義時討伐のため、上皇の元へ馳せ参じるようにという院宣が全国に発布された。院側は宣旨は絶対であるという認識のもとに、義時に従う者は千人に足らないという楽観論が支配しており、「万は下らない」などという慎重論は聞かれもしなかった。院の権威への信仰は過信であり妄信であったという事実にこの後彼らは直面することになる。院の楽観的な態度とは対照的に、幕府は実に慎重であった。敵の権威と影響力を良く理解し、慎重かつ迅速な判断をなすように努めたのである。急報を聞いて将軍御所に参じた多くの武士たちを前に、北条政子はその口を開いた。「心を一つにして私の最期の言葉を聞きなさい。亡き右大将(頼朝)殿は幕府を草創され、京都大番役を軽くし所領を安堵されました。そのご恩は山より高く、海より深きものです。御家人として名を惜しむ武士ならば今こそ一致団結するのが道理。……御恩を忘れて院に下ろうと言うのなら、まず私を殺し、鎌倉全土を焼き払った後に京都に向かいなさい」尼将軍・北条政子、一世一代の大演説であった。御家人たちは思い出していた。幕府無き頃に、どれだけ武士が惨めで退廃的な生活を繰り返していたか。幕府ありし今、どれほど安堵に満ちた生活が保障されていたか。恩に報いて命を差し出すのは今この時、この時しかない。朝廷の権威に逆らうことに疑問がなくはなかった。その迷いを涙と共に拭い去り、集まった御家人はみな幕府を守護することを誓った。夕刻に早速首脳部会議が開かれた。いったんは抗戦の策が多数派を占めたが、大江広元が京都出撃を提案し、次第にこちらの意見が優勢となった。大江広元は頼朝以来政治顧問として幕府の枢機に参与した、老政治家であった。この作戦が功を奏し、東国の武士たちは道中で次々と参戦の意を示し、幕府軍は万を遙かに超す大軍となった。武士たちにも迷いがあった。ある地方武士は土地に根ざした神にその判断を仰ぎ、その加護を背に立ち上がった。こうして立ち上がった武士の士気は高く、大将北条朝時の到着を待たずに次々と前進した。義時はこの功を賞し、「一人残らず殲滅せよ。山に入れば「山狩り」をしてでも召し捕れ。焦って京を目指すな」と指令した。上皇側は慢心していた。ひとたび院宣を下せば、諸国の武士がたちまちにこれに従い、義時の首を持って上洛するであろうと確信していた。この予想は半分は的中した。確かに武士は上洛した。しかしそれは義時側についた幕府軍であった。院側はこれに驚愕し、ただちに主力を美濃・尾張の堺、尾張側(木曽川)の沿岸に展開して防衛線を張ろうと試みた。幕府軍の勢いは止まることはなく、彼らが防衛陣地を築きあげぬうちに攻撃を開始する。寄せ集めかつ戦力分散という愚策が災いし、西軍は惨めな敗北を喫した。この敗報を聞き、京都はさらに動揺し、洛中の上下貴賎は東西南北に逃げ惑う有様となった。上皇は自ら武装して比叡山に登るが、以前の大社寺抑制策がたたって、その庇護を拒絶される。上皇はあえなく下山し、全兵力を宇治・勢多に投入し、最後の一線に備えた。時は6月、豪雨により宇治川はその水位がかなり増していた。しかし鎌倉軍は引くことなく、多数の犠牲者を出しながら渡河し、ついに勝利を掴んだ。東軍の優勢が明らかとなると、略奪を始めとした暴虐が始まった。戦争の常である。人は殺され、家は焼かれ、財は奪われた。武士に関しては義時の指令もあり、特に悲惨を極めた。上皇はこの時に至って、義時追討の宣旨を取り消し、その責任が「謀臣」たちにあるとし、彼らの逮捕を命ずる宣旨を発布した。専制君主を象徴する政治的無責任である。後鳥羽上皇は猛者ではあったが、武士とは決定的な違いがあった。矜持を持っていなかったことである。上皇に身捨てられた西軍の武士は散り散りとなり、ある者は自殺し、あるものは捕縛され、ある者は逃亡した。義時追討宣旨が発布されてわずか1か月のことだった。承久の乱はこうして終焉を迎えた。慈円の予言を超えて、この乱が生み出した弊害は苛烈であった。僧の祈りは悉く塵芥に帰し、神にも仏にもついに届かなかったのである。乱後の幕府側の処置は実に厳しいものであった。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に島流され、追討反対派であった土御門上皇も自ら進んで土佐に流された。九条天皇は廃位され、後鳥羽上皇の兄である行助法親王の子が新たに天皇の位を継いだ。後鳥羽上皇所轄の荘園はすべて没収され、後高倉院に寄進されるも、その真の支配権は幕府の手の内にあった。京方として討幕計画に参加した貴族は例外なく処罰された。流罪、免職、謹慎、そして死罪といずれも実質的な処罰であり、形式的なものは一つもなかった。武士の大半は斬首された。幕府は京都に北条泰時と北条時房を残し、朝廷の監視や乱後処理を行わせた。2人の館は平氏の根拠地である六波羅にあったので、この地位は後に六波羅探題と呼ばれるようになった。北条氏は京方の所領3000余か所に地頭を新たに任命し、西方を支配する。勝利の美酒に酔った武士たちは、生来の豪気も影響して、地頭に任命された各地域で慣例に反した不定期の租税や、既存勢力の追放を行い、領土を拡張していった。住民がこれに黙っているはずがなく、各地で訴訟が相次いだ。幕府は地頭を諌め、新補率法という先例のない場合の地頭の標準収益を定め、各国ごとに荘園・国衙領の面積・所有者などの情報を記録した大田文を作って新たな土地支配の秩序をうちたてようとした。「天皇御謀叛」という言葉が鎌倉時代末から南北朝時代にかけてしばしば用いられた。律令国家において、もともと「謀叛」は最高権力者=天皇への反逆を表すので、原義から考えるとこれは矛盾もはなはだしい。このような言葉が流行った事実は、天皇はもはや唯一絶対の支配者とはみなされなくなったということの傍証であり、その契機は承久の乱にこそある。神聖な権威ではなく、政治能力を以て支配の正当性を認識する傾向が国民に現れ始めていた。中国の徳治思想の表れとも考えられる。天皇は天皇であるから支配者たりうるのでなく、正しい政治を行うことによってはじめて支配者たりうる。そのような認識が承久の乱を通して人心に芽生えたのである。政治思想史上、承久の乱の意義は大きい。幕府はこうして朝廷を打倒し、その権威を明らかにした。長い間武士を脅かしてきた朝廷の権威を打倒したのである。天皇が完全に幻想に帰する1946年>(昭和21)の宣言と並んで、歴史に残る大事件といえよう。
親鸞と道元

 

法然の思想を最もよく受け継いでいた親鸞は、日野有範の子として生まれている。彼の家族には文章生がおり、知識のある人間が多かったようである。9歳の時、彼は慈円の元で出家し、それから20年間の間叡山での修行に励んでいる。法然の門下に入って以後も、修行にはげみ、その一方で彼は妻帯にも踏み切っている。だが法然の元ではその頭角を現している。その彼は、念仏を一度唱えれば救われる、とした一念義を主張し、それゆえ法然門下ではラディカル的な立ち位置であると言えた。だが親鸞が法然と過ごしたのは6年のみであり、ここで法然の流罪が決まり、親鸞も流されてしまうこととなった。一方の道元は、親鸞の叡山下山の1年前――源平合戦の完全に終わった後に源通親の子として生まれている。下級貴族の生まれであり源平合戦下での生まれである親鸞とは、その点で対照的とも言える。幼くして両親を失うこととなった道元は、13歳のときに良観のもとで出家し叡山に籠った。だが翌年、道元は叡山を下り、流浪の挙句に建仁寺へと入門している。栄西の弟子・明全の元で禅を学んだ道元は、24歳の時に入宋している。禅宗とは、インド僧・達磨を始祖とし、唐代には中国の仏教として確立していた。だが北宋代には、寺院は貴族とのつながりを深めて堕落の一途をたどることとなっていた。だがそれでも道元にとっては禅の本質を学ぶ良い機会となった。天童山にて学んだ道元は、26歳の時に悟りを開いて印可を貰うこととなり、それから2年間猶修行を続けた。道元が叡山を降りた頃、親鸞は流罪地・越後を離れて布教活動を始める。関東へと布教を行った親鸞であるが、一度浄土三部経の千回読経を試みてしまった。これは名号を唱えれば救われるという念仏に反するもので、これには大きな反省をすることとなる。だがそのような経験をもう一度体験しており、その二回の宗教体験を通して親鸞はその思索を深めている。親鸞は自己を見つめることによって仏法を解釈してゆき、道元は正しい仏法を求めて遍歴する。その点で2人は、決定的に異なっている。この親鸞が書いたノートが「教行信証」である。これは「選択集」の注釈とも言える、様々な古典の抜き書きであった。また、彼は次第に信者を増やしてゆき、その信者の中で小さな道場を設ける者もふえていた。だがこの道場の僧の中には、他の寺と信徒の奪い合いを行う者もおり、その結果として念仏禁止令が出ることとなってしまっていた。一方で、道元は帰国すると"正法"を広めるべく活動を始める。彼は坐禅こそが仏法の正しい道であると主張し、しかしそれゆえに叡山からの迫害を受けた。これに対して道元は波多野義重の庇護のもと永平寺を建立。禅林を得た彼は、思想を円熟させる一方で修行僧の規律を整えた。道元は再び厳しい修行生活へと入り、その生活の中53歳で示寂することになる。一方、親鸞の教団の中では内部対立が顕著となっていた。道場主の中での思想対立が噴き出したのである。その中、息子の善鸞が教団を破壊し、自らのものにしようとしていることを知り、親鸞は善鸞を破門している。そのような苦難の中、「自然法爾法語」で究極の信仰を著した親鸞は、90年の生涯を閉じている。鎌倉時代の文化は、院政期文化の完成といえる1198年ごろまでの第1期、動乱の中での自己形成・確立を行った人々による1220年ごろまでの第二期、貴族文化の退潮による思考錯誤の時期である1262年の第三期と、三分割することができるのである。
東への旅・西への旅

 

東西二大勢力の出現によって、東海道の重要性が高まってくることになる。この出発点は京の粟田口である。後鳥羽上皇の再建である法勝寺八角九重塔がまず目立つ。また鴨川の東には六波羅の探題がある。平安京としての京が衰退する一方で手工業者や商業者が発展していた。近畿の農村では、神社の祭礼などを共同で行う宮座が、すでに組織されていた。山野や水利を共同利用する村が、次第に成立してきていたと考えられる。10日に1回ずつ開かれる十日市は、鎌倉時代の貨幣経済発達に応じて全国に広がっていた。奴隷も含め、様々な物が売り買いされていたのである。だが旅をするということは危険を伴った。馬を利用するのは武士くらいで、殆どが徒歩。草鞋等を利用し、故に草鞋を売る店が街道には存在した。道路状況もよくなく、また川は大きな障害として立ちはだかった。盗賊もしばしば出没していたのである。このころ、東海道では宿場町が発展していた。これらの宿には遊女が少なからずおり、物語として語られることもある。遊女の他、傀儡女などの芸能民も東海道を中心として活動していたと言われている。乞食も多かった。この時代は飢饉も多く、農民の中には乞食に零落するものも少なくなかったのである。鎌倉とは、三方の山に囲まれた都市であり、入るには7つの切り通しを利用するしかない。またその入り口には木戸が設けられていた。鎌倉が過密都市であったことはまちがいないが、その人口は明らかではない。都市計画も行われたが、狭い鎌倉では京のように碁盤の目とはいかなかった。だが辻子と呼ばれる小さい道を通すと言うことは行われている。承久の乱ののち、幕府の権力は全国化し強大化した。また経済の中心の役割を担うことともなり、それゆえ鎌倉は飛躍的な拡大を遂げることになる。また和賀江島を港として築造し、そのために貿易港としての機能も持っていた。鎌倉では大路の中央に水が流れ、それを利用していたようだが、その上に張り出す違法建築もしばしばあったようである。鎌倉の大仏は、奈良の大仏が国家事業で作られたことに対して、阿弥陀信者の募金によって作られており、好対照をなしていると言えよう。1266年、親王将軍は京へと送還された。このことは、これまでの鎌倉幕府の歴史――地方社会のエネルギー噴出ということを、象徴する出来事である。一方、この時代東アジアを激動が巻き込みつつあり、鎌倉幕府の真価がためされようとしていた。
 
蒙古襲来

 

はるか昔、紀元前から西方の住人はまだ見ぬ東方の地に幻想を抱き続けていた。金島・銀島と呼ばれるかの地は、数多の金を産出し、日の出も金のごとく美しいという。12、13世紀の十字軍の遠征も、このような東方へのまことに無知蒙昧な盲信が強い動機として存在していた。キリスト教の聖地奪還というのは、大義名分の一つにすぎない。東方遠征により、金島・銀島の位置はだんだん東に移動した。いかに東に歩や帆を進めても、しっくりくる理想郷が見つからないからである。インド洋、ジャバ・スマトラ、東シナ海と徐々に東端の地に近付いていく。マルコ=ポーロはこのような歴史的背景のもとで「東方見聞録」を著したのである。マルコ=ポーロはジパングが豊富な金の産出国であり、宮殿は外装から床・窓まで余すことなく金でできていると述べた。そして真珠も豊富に生産されており、富は計り知れないとも付け加えた。実際に当時の日本は産金量が多かったが、マルコの叙述は当時の現実と遥かにかけ離れている。内容もヨーロッパやアラビアで言い伝えられていた伝説と似通っており、荒唐無稽な伝聞の寄せ集めに過ぎない。実際に発行当初は、碌に信用されなかったようである。ともかく、マルコによって東方の理想郷はジパング一つに絞られることになるのである。東方と西方はそれまで完全に隔たっていたわけではなく、シルクロードなどの交易路を通したやりとりは存在していた。しかし、たび重なる戦乱や自然の厳しさによって、異郷への旅へ赴ける人間は非常に限られていた。西方の人々は、まれに入ってくる断片的な情報によって、東方がどんな国であるかを理解していたのである。13世紀初頭、モンゴル族を統一したテムジンは、チンギス=ハーンと名乗り、不敗の騎兵軍団を持って僅か半世紀の間にアジアを次々に征服した。ヨーロッパの人々ははじめは彼を異教徒と戦うキリスト教国の王と信じていた。しかし、次第に脅威と認識するようになり、「地獄の民」と呼んで恐れた。チンギスは交易を優遇したので、それによって今まで断絶されていた東西の交易が盛んとなった。マルコ=ポーロの大旅行が可能となったのも、このような時代背景による。中国や朝鮮はどうだっただろうか。宋が北方の金に圧迫されて華北を奪われ、江南に南宋を建国する。そして13世紀にモンゴル軍が金を滅ぼす。朝鮮にもモンゴル軍は侵入し、高麗王朝は遷都をやむなくされた。このような状況の中、日本は不思議なくらい平穏であった。モンゴルは日本、ないし東アジア征服を真剣に考えていたのだろうか。チンギス=ハーンは征服民を定住させて、収穫物を搾取するという方法をしらなかった。略奪し、せいぜい土地を牧草地として使うという発想しかなかったのである。そして中国や朝鮮は他地域に比べ高度な文化を持っていたので、抵抗も激しい。牧草地帯でないこともあり、モンゴル軍はずいぶん攻めにくかったと思われる。こうした事情もあって、モンゴル軍は東アジアは徹底的に征服せずに、西アジアやロシア方面で積極的に大軍を動かしていた。宋は財政が逼迫しているという理由から、貿易を重視した。日本や高麗との貿易はもちろんだが、南海の貿易を特に重視した。モンゴルに妨げられないからである。日本も宋と積極的に貿易を行い、国が栄えていく。
禅か法華経か

 

1222年(承久4)春、安房国(千葉県安房郡)の小湊という漁村に一人の男子が生まれた。彼は12で仏法と世間に疑問を持ち、父の許しを経て天台宗の寺院である清澄山へ登り修業をした。しかしここの修業も彼の疑問を解いてくれなかった。彼の疑問はこうである。仏法は釈迦一人の教えであるのにどうして、これほどまでに数多の宗派が存在し、優劣を競いあっているのだろうか。仏法や神が鎮護する我が国の国王が、どうして臣たる武士によって悲運に遭うのだろうか。このような仏法と世の中による根本的疑問は、修業を積んでも答えを得られるものではなかった。彼は諸国を遊学し、やがて一つの結論に至った。いわく、真実の仏教は天台宗と真言宗の二つであり、その優劣は天台宗の典拠たる法華経と真言宗の典拠たる大日経の優劣と一致する。彼はやがて確信する。このような末代の時代には、上行菩薩が現れて「何妙法蓮華経」の七字の題目の中に法を集約して――法華経を広めると。伝説によれば、1253年4月28日の暁に、旭日に向かって大きな声で「南無妙法蓮華経」を十遍唱えたという。彼の確信は革新的すぎた。長い苦難の日々が始まる。このころ彼は、日蓮と名乗るようになった。鎌倉松葉ヶ谷の庵室には、次第に弟子が増えていった。彼は幕府の近くで、毎日のように道行く人に説法した。禅を否定するその弁舌は厳しく糾弾され、雨のように罵倒や投石を浴びた。禅は皇帝や将軍・執権などの権力を崇敬することを明確に誓っていたので、権力と強く結びついていたのである。彼は迫害を法華経に記されている試練として受け止めた。信念は人を最も強く動かす。彼は天災、人災、流行病、飢饉、疫病や日食月食などに応じて文献を巧みに引用し、これらの災害や自然現象は邪法がはびこっているからだという論理を展開した。このままだと予言の通り、内乱と外敵侵入の災を被ると付け加えて時頼の近臣宿屋光則に述べた。時頼はこれを黙殺し、相手にしなかった。それから1カ月後ほどに庵室が放火され、日蓮は鎌倉を去って下総にのがれた。1年ほど経ち鎌倉で再度説法を始めたが、告訴されて伊豆への流罪となる。彼は流罪にされても布教を続けた。恋愛のような気持ちだろうか、迫害が重なるほど彼はそれを試練と受け止めて信仰心を高める。10年後日蓮は故郷の小湊へ帰る。このとき襲撃に遭って2名の門弟が討ち死にし、日蓮も数か所負傷した。しかしこれも法難と受け止め、日蓮も門弟も怯まないどころか、自信を強めていった。このころ幕府首脳も政治的に不安定になる。そしてモンゴル軍の襲来が始まる。1266年(文永3)モンゴルは高麗に命じて日本へ詔書を届けさせようとする。高麗はこれを受けつつ、一度は悪天候を理由に執行をしなかった。フビライはこれにたいへん立腹し、高麗が単独の責任でモンゴルの国書を伝達すべきと再度命じた。表向きは好意的でも、実際には属国化を命じるその文章に対して、朝廷は返書を出さないという決断をくだした。この決断は当時の国際的外交ルールに反しており、高麗やモンゴルの外交官を困惑させた。日本とモンゴルはこの後、何度か使者を送りあった。朝廷は、日本は「神国」であるとして拒絶の意を述べる返書草案を作成したが、幕府によって破棄されてしまう。こうして外交関係には次第に暗雲が立ち込めていく。
文永の役

 

蒙古から日本へ三度の使者が渡ったに関わらず、日本は何らの返答もしなかったため、世祖フビライもいよいよ征討の軍を起こす決意を示し始めた。とはいえ、世祖は和戦両様の準備をした。世祖は趙良弼を日本国信使に任命し、かれは1271年の9月に博多の守護所へ乗り込んできた。大宰府は趙良弼の要求することを拒絶した。かれがねばって国書の写しが幕府から朝廷へ進奏されたが、結局これにもまた返書は与えないことになった。かれは翌年高麗へ帰還し、その後ふたたび日本へ渡り、約1年間滞在して帰った。2度目の日本渡航において、かれがどのようにしていたかは記録が残されていない。モンゴルは1271年に国号を建てて元と号した。鎌倉幕府は蒙古使がはじめて日本にあらわれた直後から、西国御家人に異敵への警固を指令し、幕府自体も北条時宗を先頭に陣容を強化するかまえをみせていた。すくなくとも1272年の2月までに、幕府は異国警固番役ということをはじめた。九州の御家人に、筑前・肥前など北九州沿岸の要害で、当番の日数を定めて警固に当たらせることである。ただ、これは元軍の襲来に備えるにしてはお粗末なものであり、またその警固番役に対しても御家人がどれほど積極的に参加したか疑わしいものであった。幕府の悠長な国際感覚と情勢判断のほどがうかがわれる。このころ幕府は、北条氏の内部で同族あい鬩ぐ合戦を経験しなければならなかった。北条時輔は執権時宗の異母兄で、南六波羅探題という要職にあったが、正妻の子でないとのゆえをもって家督を時宗にとられたのをうらみ、謀反をくわだてたのである。1272年2月、時宗は時輔の謀反計画にくみしたとみられた名越教時・仙波盛直らを鎌倉で殺害したが、このとき教時の兄の時章は謀反の与党ではないのに過って殺されたので、討手の者がその罪を問われてまた斬られた。その15日、六波羅北方の北条義宗が南方の時輔を襲撃し、猛火の中に合戦が行われて多数の人々とともに時輔は殺された(時輔はのがれて吉野へ走り、行方知らずになったという説もある)。これを2月騒動という。この2月騒動は、得宗権力の強化に伴う深刻な問題がからんでいた。時宗はつねにあらゆる叛逆を警戒し、先手を打たねばその強大な権力を維持することができなかったのである。このような条件のもとでは、元軍の襲来に備え関東の大軍を九州へ駐屯させることなどできなかった。他方、かねてから異敵の襲来を予言していた日蓮は気焔をあげていた。かれの目的は異敵に対する防備の強化そのものではなく、国難は邪宗がはびこるからだとして危機感を盛り上げることであった。そうして、日蓮は矛先を向けた念仏や戒律の側から大いに憎まれ、ついに諸宗を誹謗し武器を隠匿しているという罪状で告発された。日蓮は佐渡に流されたが、ここでも迫害に屈せず布教をし、島にも少しずつ帰依者が増えた。2ヵ年半ののち日蓮の流罪は放免された。それは1274年、蒙古が日本へ襲来する年の春のことであった。元では趙良弼が帰ってから出動準備はいよいよ本格的になった。造船は高麗の負担であり、その様式は高麗様式の簡略なものと指定された。兵数は高麗の助成軍約6000を合わせ、合計25000-26000人。船員及び船中の雑役夫・漕手は高麗の負担したもの6700人。他に元から供給されたものが多数あったと思われる。軍兵を統率する将軍は、都元帥(総司令官)に忻都、右副元帥に洪茶丘、左副元帥に劉復享、都督使に金方慶、というものであった。1274年の6月に高麗で国王元宗が薨じ、8月末、元宗の子が元から帰国して即位した。忠烈王である。高麗のこの凶事のため、元の日本遠征軍の出発は予定の7月から数ヵ月遅れ、10月3日に合浦を発船し、日本へ向かった。元軍は対馬、壱岐を制圧し、本土へ上陸した。10月19日、元の軍船900艘は博多湾にせまり、東は箱崎から西は今津にいたる沖合に舳先をつらねて侵入してきた。翌日、早朝から元軍は続々と上陸を開始した。戦闘は激戦になったのみならず、日本軍はたちまち苦戦に陥った。その理由の一つは、元軍の戦法が予期せざるものであったためである。日本の一騎打ち戦法に対し、元軍は集団戦術を用いてきた。それから兵器もまたかなりちがっており、蒙古軍の太鼓や銅鑼の音に日本の馬が驚いてはね廻ったり、毒を塗った飛距離の長い弓矢を放ってきたりした。また、「てつはう」という新兵器も蒙古軍は用いてきた。「蒙古襲来絵詞」によれば、元軍はおもだった指揮者のほかは騎兵でなくて軽装の歩兵である。日本の騎馬武者は長槍と弓矢の徒歩の集団にとりこめられて苦戦したのである。こうして戦闘のしかたの違いでさんざん苦戦をかさねたうえ、大軍におしまくられて、やがて日本軍は疲れ果てて敗退していった。元軍はまったく一方的に優勢に戦いをすすめていたが、夜に入ってそのまま追撃することをせず、軍船へ引き揚げた。その理由は不明だが、各方面の指揮官の作戦会議があったのではないかともいわれる。その夜半、大風雨がおこり、多くの軍船は難破するか、浅瀬に乗り上げた。この20日夜の大風雨は、古来「神風」と呼ばれて喧伝されたものである。疲弊した高麗人民に突貫工事でつくらせた粗悪な船であったため、嵐によってたちまち難破したのであろう。九州における元軍敗退が京都へ伝えられたのは、11月6日のことであった。

先ず、文永の役(1274年)についてはとかく日本側の対応が大変鈍かったと言える。前章に述べられていたように、フビライからの使者が来た後、鎌倉は異国警護番役を置き、西国一帯にモンゴルの襲撃に備えるように命じたが、その後防備のため為に努力した跡は見られない。実際に被害を受けたわけでも無いのに労力を支払うのは御家人も御免である。鎌倉も寺社神仏への祈祷に熱心であったが、軍事的な準備は特にしていない。またこの時の幕府は、北条氏内で権力争いが起っていた。京では2月騒動と呼ばれる合戦もあり、得宗からの自立心の強い北条氏一門の名越氏が討たれた。やはり前章で触れたが、執権時宗ら得宗が封建君主としての立場を守るため、危険分子を先手を打って取り除く必要があったからだ。また、日蓮は折伏の恨みを買い、逮捕、佐渡配流となった。2年半後に赦免となった後は身延山に隠棲した。このように日本国内の足並みが揃わない中、元は着々と準備を進めていた。元と日本の中間地点にあり、元に降伏していた高麗は造船を命じられたが、文永、弘安の役を通して、最大の被害者はこの高麗だったといえるだろう。合戦の詳しい様子は省略するが、文永、弘安の役は土地の御家人竹崎五郎季長が自らの手柄を証明するため描かせた「蒙古襲来絵詞」が当時の様子を今に伝えている。元は900艘25000の兵を以って日本に攻め寄せ、対馬、壱岐を焼き払い本土に上陸した。対して日本軍は1万の兵が集まったかどうかの程度ではないかと述べている。元軍は集団戦法に火薬、強力な弓に毒矢、銅鐸の音には馬が驚いて跳ね回ったと言うのは教科書のとおりである。元々騎兵の軍隊だったモンゴル軍も、東アジアに侵入するにつれて、地理に合わせた軍隊に変わっていったのである。
弘安の役

 

世祖フビライは敗北したとは考えず、忻都、洪茶丘らが元へ帰ってまだ1ヵ月しかたたぬ段階で、はやくもまた宣諭日本使が発遣されることになった。宣諭日本使とは日本に朝貢ないし服属すべきことを諭すのを任務とする使者である。杜世忠および何文著がこれに任命し、1275年3月、高麗に到着し、日本へ向かった。杜世忠らは4月15日、長門の室津へやってきて、一行はその後大宰府へ送られたらしいが、幕府はすぐさま厳重な構えをみせた。8月、大宰府は杜世忠らを関東へ護送したが、9月4日、執権時宗はかれら元使をことごとく竜ノ口で斬った。元としてはまだ外交折衝の余地ありとみたのだろうが、日本側としては一時戦闘の途絶えた戦時下であったわけである。引き続いて幕府は、前年の合戦における勲功の賞として、120人の行賞を発表した。士気を鼓舞する必要を感じたからであろう。また、幕府は12月の初めに九州の諸国および安芸国の御家人に「異国征伐」の準備を命じた。異国征伐とは、九州諸国の兵員・船員を主体にして、すすんでこちらからの遠征軍を編成しようという計画であって、博多を本拠とし、大宰少弐経資を総司令官とするものであった。ただ、この異国征伐は実際には軌道にのらなかったらしい。幕府はまた、異国征伐に参加できない者は博多へ参集して防備の石塁築造に当たれと命令した。これは実際に着手され、最終の記録は1332年、幕府が滅亡する前年にまでおよんでいる。この防塁の工事の負担を要害石築地役という。幕府がとった対策として、ほかに注意されるのは、おそらく文永の役以後、再度の襲来のときまでの期間に、九州方面および裏日本の諸国の守護を大量に交替させた事実である。新しい守護はほとんど北条氏の一門であり、そうでない者も北条氏に縁故のふかい者であった。蒙古襲来にそなえて、要国の守護に北条一門という強力な指揮官を配置するのが防衛上妥当であると考えたためであろう。また、同時に得宗権力の強化策が現れているともいえる。その頃、元は南宋の攻略に全力を傾注していた。1279年2月6日、宋室の擁された皇帝は元軍の猛攻を受け、遂に身を海に投じた。300年にわたる宋室はここに完全にほろび、中国大陸はすべて元の支配のもとに帰することとなった。その翌日、江南の四省に世祖フビライの、日本遠征のための戦船600艘を建造する命令が出された。その年の6月には、高麗に対しても900艘の造船命令を発した。世祖は宋の降将を日本遠征に利用することを考えていた。そこで世祖はかれらに日本遠征の可否について諮問していた。その降将のうちに范文虎という者があったが、かれは世祖の意をうけて自分から直接日本へ使者をおくり、元への服属を勧告したらしい。しかし、その使者たちは、今度は鎌倉へ送られるまでもなく博多で全員斬り捨てられた。弘安2年頃、杜世忠らが殺されたという情報が高麗から元に伝わり、諸将は日本討つべしといきまいた。それでも世祖はなお慎重な姿勢を見せていたが、それから1年近くたっても范文虎のつかわした使者の消息は知れず、世祖の決意はここで固まった。かくして1280年8月、世祖は征東行省を設置し、范文虎・忻都・洪茶丘らをその首脳にあてた。日本側は、こうした元側の情勢をいちはやくキャッチしていた。商船などの往来はこの戦時状況のもとでも絶えていなかったから、情報を入手する機会はあったわけである。1281年1月、世祖フビライは諸将に日本遠征進発の命をくだした。5月3日、東路軍4万の兵をのせた戦船900艘はあいついで合浦を出発した。また、元軍の主力をなすところの江南軍(兵力十万、兵船3500艘)は6月18日ごろ、やっと日本へ進発しはじめた。壱岐での戦いののち、東路軍は江南軍と平戸方面で会同し、それからなぜかその後20日以上ものあいだ江南・東路両軍は平戸島から五島方面に浮かんでいた。そして27日になってその主力は肥前の鷹島へ移ったのである。それから4日後の閏7月1日、海は荒れ、数万の軍兵は波間にのまれた。こうして2度目の元軍の侵攻も潰えたのだった。その後、元は征東行省を廃止したが、数年後、2度、三度と復活し、軍備を整えた。しかしそのつど高麗や大陸に叛乱や紛争があって日本遠征は実行できなかった。1294年、世祖が没して元の日本遠征の計画は事実上終止符をうたれたが、日本と元とのあいだにはついに平和な国交はなかった。元軍の侵攻が失敗したのは、結局のところ人間の問題といえよう。

流石に幕府、国内にも緊張が走り、相次ぐ元からの使者を斬って降伏しない旨を強調し、山陽方面にも警護番役を命じた。文永の役で消極的だったものを問責、今後は罰する旨を伝え、またモンゴル征伐の計画も立ち、九州及び安芸国に其の任を命じた。が、御家人達は乗り気でなく、上手くいかなかったらしい。九州北岸には石塁建造を命じ、工事は1332年、幕府滅亡の前年まで続いた。またこの機に乗じてか、強力な指揮官を西国に配置するという名目で、北条家一門が西国の守護に就いた。得宗権力強化を目指したものと思われる。ところで、元の使者は執権の命で斬られたが、同じく渡海してやってきた禅の師は斬られなかった。執権時宗は禅に傾倒しており、禅を以って蒙古襲来の国難を退けることを願っていたが、何のための禅だったのであろうか。文永の役に失敗した元国内では、再びの出兵を強く求める声が大きかったが、フビライは割りに慎重で、これを抑えていた。中国では300年もの戦乱の世が治まったのだから、少し時間を空けるべき、と言う契丹人の臣下の進言を受けたものである。が、使者が待っても帰ってこないので遂に再度征東を命じた。この際フビライは臣下に対し「卿らの不和を憂慮する」と注意していた。此方でも合戦の詳しい様子は省くが、元の兵数は14万に及んだ。当然日本軍は苦戦したわけだが、フビライが咎めていたにも関わらず元軍の動きが足並み揃わずに侵攻が遅れ、元軍日本到達の1ヶ月余りの1281年7月頭、またもいわゆる神風が吹き、元軍は撤退した。また、元が征服した高麗、宋の民を叱咤して作らせた船の粗悪さ、降兵を用いたための戦意の低さが遠征失敗の原因に挙げられる。
神国

 

この章では、元軍を撃退した暴風を神風と称する様になったのは何故であるのか、という点を中心に扱っている。元寇に際し、京や方々の寺社にて異敵降伏の祈祷が行われていたが、栂尾大明神の「先に西大寺で法を修した思円上人の為に、神明は大風を吹かせて異敵を撃退するだろう」という託宣があった。実際その大風は、2度も吹いた。当時の人々が神仏の威力と信じたのも無理からぬ話である。ところが、異敵を撃退した大風は、各人が自身の宗教的信念によってどうとも解釈していた。執権時宗も神風に関心を寄せたわけでもなく、つまり神風が当時の一致した概念ではなかったのである。また、思円上人を法敵とする日蓮は、自らが主張した「他国侵逼難」の予言がはずれ、法敵の祈祷が成功したため(尤も、日蓮は否定したが)、蒙古襲来については触れなくなった。その後、彼は病を患い1282年に没した。元寇の話は、当時の御家人竹崎季長が描かせた「蒙古襲来絵詞」によって現在に伝えられている。季長が合戦で先駆したこと、そして自らの武功を鎌倉に申し立てに行ったことが記されている。当時彼は所領についての問題などで苦しんでいたようだが、故に当時を懸命に生きた一人の武士の姿を見ることができる。その一人の武士、季長は元寇を「日本国の危機」だとか、「国難」というようには捕らえていない。ただ「君の御大事」、そしてその「君」というのも、天皇とか将軍とか北条氏とか云うのではなく、彼に命令する立場の者、凡そ幕府を漠然と指しているものである。彼としては「君の御大事」に命を賭して戦い、武功を認めてもらってご恩を賜ればそれでよいのであった。つまり、この合戦も彼ら御家人にとって見れば稼ぎ時でしかなかったのだ。また、異国警護の名目で西国の守護が年貢を私財にしてしまったり、異敵降伏の祈祷をした報酬を求めに強訴に来る僧兵が絶えなかった。幕府も鎮西探題、長門探題を以って力を伸ばした。古今を問わず、戦争とは特定の者が利益を得るものらしい。著者は蒙古襲来の日本軍から同時代の十字軍を連想しているが、十字軍も最初は聖地奪還に燃えていたが、回を重ねるにつれ物欲的になり、遂には豊かなコンスタンティノープルを攻撃しよう、などとなっている。日本の御家人も国難に準じるといった信念より、凡そ単純に勲功の賞を目当てに戦ったと思われる。ただ、元を「異国」と呼ぶなど、日本人の他国を見る目は地の果てからやってくる悪鬼を見るようなものだったのだろう。というのも、東アジアの交易路の一端に連なる日本には、大陸など海の向こうの話を耳にする機会もあったらしい。が、それらは遠い海の彼方の話であった。今度の敵は、その海の彼方からやってきたのだから。その敵を倒す為に幕府の命で出陣する武士達は、聖なる十字軍にも似た意味を持っていたと思われる。但し、その構成員たる武士の一人一人がそういった使命感を持っていたわけではなかったのである。それでは何故、祈祷した神官僧侶をはじめとした人たちは、日本を神国としたのか。詳しくは省くが、仏教の宇宙観を以ってこの世界は平等であり、日本もその世界の片隅にあるのだ、という考えがある。更にインド、中国が優れた国であるように、日本も八百万の神々の国であるという自覚があった。こちらは、日本書紀に既に現れている。更に、本地垂迹説により、平等な世界の片隅の、八百万神(=仏の垂迹)の国となった。元寇の後、「神風」の後は、ついぞ日本には神仏の加護があることを主張し、日本が世界の特別な地域であるという考え方が生まれてくる。だが、先に神風が当時の一致した概念ではなかったと述べたように、日本が神国であるという考えに誰もが同調したわけではない。
得宗専制政治

 

元寇前後の日本には、2つの大きな問題があった。1つは国内に悪党が跋扈していることであった。異国警固の命に、「守護人に相伴い、且は異国の防禦を致さしめ、且は領内の悪党を鎮むべし」とある。1250年頃から頻繁に悪党取締りの令が出ていた。場所を問わず悪党が横行するようになっていたのである、しかも取締りすべき立場の守護が悪党を匿うなど、取り締まりは遅々として進まなかった。そうこうする間に蒙古襲来が伝えられ、幕府は内外に賊を持ってしまった。御家人も悪党と手を組む、或いは寺社の寄人神人が悪党となるケースもあり、しかも其の悪党はこそ泥から荘園領主への叛逆あり、民から孤立するものもあれば、住民の味方になるものもあり、大変正体のつかみにくいものだった。もう1つが御家人の生活の安定である。この頃には自らの所領を売ったり、質流れになり困窮に喘ぐ御家人が出てきた。将軍と御家人との主従関係が幕府の骨格であり、御家人の零落は幕府の基盤を揺るがす。そこで幕府は1267年に法令を出し、約30年前からの売った所領の返還、特に御家人以外に売ったものは幕府が没収する旨、また、所領の譲渡、売買の禁止を命じた。所領をなくした御家人を無足御家人といったが、彼らは幕府の頭痛の種となっていた。弘安の役のヤマ場を越えた幕府は、論功行賞に着手した。1281年から5年かけて行ったが、先ずは実際に合戦に参加し、築地を築いて出費のかさんでいる九州に対して行われた。売却された神社領をタダで返却すること、九州の御家人の領地を安堵する下文を与え、これにより御家人以外に売却された御家人領を取り返してやることが出来た。幕府の一方的な決定にも見えるが、幕府としては前々から売買禁止してたではないか、売却された地を没収して御家人に返すのだ、ということある。また、幕府としても御家人を介して返却された地に干渉できるようになった。この令は永仁の徳政令の先駆けの令であり、無足御家人救済を急いでいることが伺える。また、次に述べる岩門合戦で幕府が没収した領地や、得宗家の所領を割いて恩賞地としたが、手柄のあったものを満足させるには程遠いものだった。1284年4月、執権北条時宗が死去、子の貞時が14歳で執権に就いた。貞時の外祖父として、そして御家人の有力者である安達泰盛が若年の貞時の裏で大きな力を持ったのは想像される。また、時宗の晩年から安達一族は幕府の要職を占め勢力伸張、一般御家人(外様)の信望を集め、得宗家勢力を揺るがすものとなっていた。対して、北条家の家宰である内管領に平頼綱がいた。彼は北条氏家臣団(御内人)の代表とも言える存在だった。彼らの冷たい対立は貞時執権就任という事態を迎え急速に進行。頼綱は足立一族打倒の機会を伺っていたようで、また泰盛も応戦の準備を整えていたらしく、一触即発の事態となった。1285年、頼綱は貞時に讒言をなした。泰盛の次男が「我が曽祖父景盛殿は、頼朝卿の御落胤なり。されば我は、藤氏にあらず、源姓なり。」と言ったとして「泰盛父子の逆心、すでにあらわれ候。藤氏を源姓に改めしこと、将軍にならんとのことなり。」と焚きつけて、安達氏追討の下知を勝ち取ったのである。11月17日、霜月合戦の発端である。頼綱は即日行動を起こした。泰盛が鎌倉市内の騒ぎに異常を感じて執権館に行ったところ、頼綱ら御内人が武装して待ち構えていた。泰盛父子は討ち取られた。これを助けようと安達一族についていた外様御家人が御内人軍を攻撃したが、日ごろ北条家の陪臣と軽視されてきた恨みが爆発して、反撃に転じた。この動乱は地方にも飛び火し、特に九州の岩門合戦が激しく、泰盛の子と、弘安の役で竹崎季長の指揮官だった少弐景資が打ち滅ぼされた。こうして安達家を退けた平頼綱は得宗家勢力巻き返しのため尽力したが、結果として7年半に及ぶ頼綱の恐怖政治となった。頼綱の権勢に不安を覚えた執権貞時は、大地震が起き混乱の只中にあった鎌倉で頼綱を急襲した。平禅門の乱と呼ばれる。実権を回復した貞時は収賄を禁じて幕府の綱紀を粛正、そして何より徳政をして御家人を安堵させることに力を費やした。所領を失っても先祖が御家人である証拠があれば、御家人と認める、という英断を下して彼らの地位、名誉を保護した。また、有名な永仁の徳政令を出し、内容は以下である。@越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。@御家人所領の売買及び質入れの禁止。@既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。@非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。@債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。また、裁判の時間短縮のために最終決定を全て執権に任せるとした。どうやらこの幕府改革は割りと善政として受け止められたようだが、結果的に得宗専制が強まり、一つの頂点に達した時期でもあった。
遍歴の僧団

 

日本の中世を語るのに、宗教は欠かすことのできぬ部分である。硬い理論や教説ばかりであったようにも思われるが、実際の人々の精神世界はもっと粗野で純粋な物であった。御家人・河野氏の出身である一遍は、幼い時期に出家して修行を積んだ。後、一時期故郷で生活したようであるが、詳細は不明である。ただしこの時の経験から、彼は遁世を決意したようであり、旅を幾度か行った。その中で彼は全てを断ち切った漂泊を決意し、以後延々と旅の生涯を送る。高野山での経験から、彼は念仏札を配ることを思いついたようで、以後配って歩くようになる。その中で彼は完全な他力本願の思想を確立してゆくこととなった。それとほぼ同じくして、一遍は同行者とも別れている。以後、九州や四国を遍歴し、信者を増やしてゆくことになった。踊念仏という形が現れるのもこのころである。そうして確立した時衆は、さらに僧尼の道時衆と在家の俗時衆に分けられ、そのうち道時衆は厳しい戒律で以て一遍に従った。当時、正念のまま死に至ることが気高いこととされ、それを望んで死に急ぐものも多かった。それは時衆でも例外ではないが、そんななかで一遍はただ生を凝視していたといえる。中世と言う時代は死の近い時代であり、それを潜りぬけてこその生だったのである。一遍はその死の際、書籍や経文を全て焼き捨てている。そして其の死と同時に時衆も解体。その中で、他阿弥陀仏を中心として遍歴する者もあり、また聖戒を中心として遍歴する者もいた。この聖戒が、後に一遍上人絵詞をまとめることになる。人々の精神から宗教が離れてしまった時、素朴な信仰を訴える宗教運動がおこることは、時宗を見ても西欧の修道院を見ても明らかである。時宗というのは、非常に雑多な思想を取りこんでいた。これはひとえに民衆の思想の流れの中で成長してきたからであると言える。この鎌倉新仏教の流れは、西欧の改革運動に比すことができるだろう。共に封建化しつつあった宗教に対して、民衆を基盤にして起こったものだったからである。
漂泊の文芸

 

このころ、放下をはじめとして、世のすべてを捨てて旅をする人々がいた。彼らは体制から全く逸脱した存在であったと言え、露骨な叛逆はなくともある程度、社会の解体を目指す人々だったと言える。一遍死後、時宗教団は他阿を中心として布教し、また時衆道場を各地に築いて行った。そうして教団として基盤を築き、他阿は一遍に次ぐ時宗の二祖・遊行上人とされ、聖を絶対とする傾向が生まれた。時宗は、あくまで遊行することが本旨とされ、遊行上人も体は留まりこそすれ、心は遊行しているものとされた。他阿以外の、遊行の僧たちも独自の教団を持ち、時宗の一派として分裂してゆく。このことは一遍・他阿のような僧が多かったことを示している。一方浄土真宗は、親鸞の死後、様々な紛争を抱えた。その中で覚如は、自らの血脈・法脈の正当性から御影堂であった本願寺を正当と唱えた。そのため高田派などから反発され、本願寺は困窮に陥ることになる。こうして真宗には中核なく小教団乱立となり、時宗と間違えられるようなありさまでさえあった。時衆というのは、文芸にも大きな影響を与えている。彼らの和歌も非常に多かった。このころ発達してきた市場は、中世の様々な芸能の舞台としても機能している。その一方、芸能民たちは旅の中にあるのが普通であった。彼らの中は体制から疎外した者と、離脱した者とが区別されずに混在していた。例えば唱導などは、漂泊する民に語られ継ぐ中で次第に文学の様相を帯びてゆくことになる。これは論理としては駄目かもしれぬが、当時の人々の要求によく反映したものであった。日蓮宗は激しい弾圧の元にあったが、日像の活動の中で京都の商工民に信者を拡大し、次第に根づいてゆくこととなる。和歌・連歌もこのころから庶民に流行り始めていたようである。連歌師の中にも時宗僧がいるが、これはやはり遊行の中で文芸を生みだす伝統に基づくのだろう。「沙石集」を書いた無住もまた、遁世した一人である。彼は民衆に溶け込む形でその思想・仏法を説き、その過程で様々な当時の民衆の思想を表すことになった。民衆の思想にふれることで無住の思想も又構成されたのである。
一味同心する農民たち

 

文永(1264-1274)のころ、炎天が続き、全国的に飢饉が蔓延した。中世においては、水量豊かな大河川を灌漑に利用するに至っていなかった。そのため、干ばつによる飢饉が今回起った。農民たちは苦しみ、彼らの不満と鬱積が次の社会を作り出すエネルギーとなる。中世は農村の時代であった。農民を始め、武士・僧侶・商人、手工業者も主に農村に住む。京都・奈良・鎌倉などの中枢都市を別とすれば、国の中心は農業であった。彼らは公領として国司に年貢を納めるか、私領として荘園領主に年貢を納めるかをした。農民の生活は貧しかった。彼らは汚れた小屋に住み、家財道具はほとんどなかった。日の出とともに起きて働き、夜が来れば藁に潜って寝る生活を繰り返していた。鎌倉初期、農民は鉄・塩などの必需品を除き自給自足していた。ゆえに農民は市場にかかわることがなかった。ところが中期になると市場が発達し、農民は作物を市で売り、年貢を貨幣でおさめるようになった。市場での商売および市場の管理を専業とする元小作人も現れ始めた。しかしながら、ほとんどの農民の生活は豊かにならなかった。彼らは地頭からの厳しい年貢の取り立てや、非法な略奪にしばしば苦しんだ。農民間でもしばしば争いが起きた。境争論という、土地の境界を争うもめ事である。農業・漁業において土地の広さは重要である。農民たちは自らの利益を守るため、一致団結して行動し、しばしば訴訟や実力行使を行った。彼らが団結したのは境界の問題だけではない。領主の支配に苦しんでいたという共通の条件にも強く依存している。
地頭と領主の対立

 

荘園の支配権を巡る紛争が各地で頻発していた。そのうち最も多いのが、地頭と雑掌の境界紛争である。農民も市場に関与してくることになったので、支配権の存在はさらに重要になり、紛争がさらに増えた。幕府は紛争はなるべく和与(示談)で解決するように勧めた。しかし、後ほど不服を訴えて蒸し返す例も少なくなかった。彼らのうちどちらが善玉で、どちらが悪玉であったかと考えると、どちらも悪玉である。立場は違えど、彼らは自らの利益を最大化するために数多くの非法な取り立て、農民の搾取を行った。法に従わぬ彼らの暴虐は、幕府の最大の悩みの種となっていく。そのような情勢の中、農民は現実を見据えて生きるようになる。旧来の伝統的な恩情関係を破棄し、結束して交渉を行うといったスタンスにシフトしたのである。彼らはしばしば不作などの理由をつけて、なるべく年貢を支払わぬようにふるまった。貧農だけでなく、成り上がりを目指す有力な農民も彼らと強調し、共に戦った。彼らは時に農業的要所を押さえて、その活動はより政治的になっていく。この時期はすべての階級が泥臭く打算的なふるまいをした時期である。崇高さや高尚さはなく、人間のむき出しの欲望があらわとなった。伝統や権威が次第に泥にまみれていく。時代が変わっていく。

分裂する天皇家

 

1272年(文永9)後嵯峨法皇が崩御する。法皇亡きあと、誰が政務の実験を握るかが問題となった。第三子である後深草上皇の系列か、第7子である亀山天皇の系列になるかが主な焦点だった。後嵯峨法皇は皇統のことは何も遺さなかったので、揉める元となった。天皇が政治の実権をどれほど握ったか、一言で言い表すのは難しい。摂関家や幕府などの社会的勢力関係で相対的に変動するからである。天皇家は膨大な荘園を直接的・間接的に支配できた。天皇制は既に形式と化していたが、天皇家は最高級の権威を持った集団として存在していた。その惣領の地位が誰に移るかというのは、皇太子個人の問題ではなく、血統集団としての皇族派閥や彼らに与する貴族の趨勢に大きくかかわっていた。後深草と亀山の争いは前者に軍配が上がった。伏見天皇が即位し、後深草院の院生が始まる。亀山院希望を失い出家してしまう。天皇家はこの対立により、事実上二つに分裂してしまう。亀山院方では、後宇多上皇が京都嵯峨の大覚寺を再興し、以後もその子孫が大覚寺と関係が深かった。後にこの系統は「大覚寺統」と呼ばれた。同様に後深草院側は、持明院を仙洞御所(上皇が住む場所)とし、子孫も深くかかわったので「持明院統」と呼ばれた。この時代の天皇は、政治には関与せずにもっぱら儀礼のみを行った。院生が始まってからの平均即位年齢は8歳と10カ月、平均在位期間は約10年であることからも、たんある形式的な地位であったことがうかがえる。しかし、現在のような象徴的存在かというとそうでもなかった。膨大な荘園群という経済的基盤に裏打ちされた権威は残っていたので、「御心のままに」権力をふるうことがしばしばあった。豪奢にはふるまえるが、あくまでも政治の覇権は幕府に、といった二重構造が存在していた。
御家人制の崩壊

 

この時代になると御家人は、零細化してまた権力を失い、無力化していた。その要因の一つは、非御家人・凡下・山僧による高利貸しであった。このような御家人以外の人々は、鎌倉時代には多く存在しており、また反幕府的な傾向が強かった。これは、幕府が非常に強固な権力組織であり、彼らをもまた従えんとしていたことに他ならない。彼らは、主に寺社や朝廷につかえている者が多かった。寺社・朝廷は当時、莫大な荘園を抱え、非御家人らの人々はこの門閥的政治勢力と密接に関連していた。この寺社・朝廷らは孰れも京都・奈良に集中的に存在し、それゆえこれらの場は物資の移動・集積・交換を通して物流の要となったのである。この時代、京都には既に商人が発生して富裕の者もおり、また京都から各地の港、さらに東アジアへと至る大きな交易ネットワークも存在していた。そしてこの動きが、社会へも大きな影響を与えることになる。この時代の商人は、主に座の商人である。寺社朝廷などに課役を支払う一方で、特権的に特定生産物の流通を支配したのである。この商業の浸透は御家人にも影響を与えることになり、税なども銭貨による支払いも行われるようになってゆく。すると、御家人も所領へ送る代官として、銭勘定に詳しい山僧や借上(高利貸し)を利用するようになるが、やがて彼らに所領も奪われて没落してしまう者も出た。この傾向は泰時代には既に現れていたものだが、この中世となっていよいよ深刻化したのである。これに対抗して出されたのが永仁の徳政令である。これは越訴――上告の禁止、質流れ・売却地の返還・金の貸し借りに関する訴訟の禁止によって成り立っていた。しかし、これは却って経済に混乱を招き、却って非御家人らの所領押領を招くことさえあった。それゆえ、結局は徳政令を撤回することとなっている。この結果は、非御家人層の勢力を幕府が圧殺することに失敗したことに由来する。しかしこれは、決して幕府の横暴ではなく、東国から発布したが故であったといえる。当時、東国は未だ商業発展せざるところであった一方、西国はもはや切り離せぬものとなっていたのである。そしてこの西国での商業発展が、新たな政治動向への影響をあたえるのである。また、御家人の惣領制の動揺もあった。世代を重ねることに所領分割によって所領が狭小となり、また血縁関係も薄くなることによって、惣領を巡る一族内の争いが頻発しつつあったのである。そしてこれは惣領制を利用する幕府体制にも動揺を与えることになった。
悪党横行

 

武士の中には、本所の支配に抵抗する者――悪党がいる。本来、本所はそれを自らの手で討伐するものであるが、本所が幕府にの権力を借りて討伐を図ることも多かった。それは、本所にそれだけの権力が無い者も多かったからである。伊賀国黒田庄では、弘安ごろより悪党が跋扈し、本所・東大寺に対する反抗が非常に激しかった。東大寺は幕府の権力による鎮圧を図るも、地頭設置を迫られることとなり、なかなか鎮圧は進まなかった。彼らには、幾らかの与党も存在したものに、倫理的な面からすると住民の殺戮も辞さず、ために住民との敵対関係があったといえる。このような状況故、浪人や流浪の僧といった、体制の外にある人々は、幕府の警戒の対象となった。このころになると、異形の者と呼ばれる武装集団が、各地に出没するという事態にもなっている。そしてこのような動きは幕府を揺り動かすことになる。彼らの中には、開墾に踏み出す人々もいた。当時、叡山をはじめとする寺社では仏法と王法とは車の両輪であるように考えられていた。しかしその中で、人法興隆という言葉が叫ばれるようになる。人法とは世俗での生活を表し、仏法や王法では非難されるものもこれを通して行われることがあった。悪党や悪僧と呼ばれる人々は、銭をもっとも重要とした。彼らはまず交易とそれを通して得られる銭をその行動理由としていたのである。幕府はこれを討伐しようとしたが、討伐は必ずしも成功しなかった。悪党は御家人や守護とも結びついていたためである。そうして勢力を伸ばした悪党は、愈々時代を動かしていくことになる。
「主上御謀反」

 

後醍醐天皇が帝位へつくと、記録所が設置された。これは、天皇が親政するための裁決機関であり、後醍醐天皇が非常に政治へ意欲的であったということが言える。また、後醍醐は宋学の勉強会を数度開いていたが、これは討幕相談という側面があり、また無礼講の宴会も行って、それによって武士をもその計画に引きこもうとした。しかし、この計画は一度は失敗に終わる。正中の変と言うが、これはあっさり露見することとなる。結果、天皇の側近は流刑に処せられることになる。このころより、「主上御謀反」という言葉が使われるようになる。主上より幕府を上に見る風潮があった、ということは否定できないだろう。一方、奥州ではこの時代より内乱が勃発。北条氏はこの対処に苦労することになった。また同時に幕府内でも、権力闘争が起こっていた。立太子について、幕府の介入について後醍醐天皇は思うのままにすることができず、幕府への反感を募らせることになる。やがて後醍醐天皇は流通統制を行う一方で、討幕の計画をいよいよすすめた。しかしこれは吉田定房の密告によって再び露見。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するも、陥落し、譲位させられてしまったのであった。
楠木合戦

 

日本歴史上、楠木正成ほど有名で、素性のわからぬ人物もない。本拠地も家系も謎であった。はっきりしていることは、かれが名もない河内の小土豪にすぎなかったこと、それだけにかれの周辺には「悪党」ムードが漂ってもいたであろうことだけである。1331年の赤坂城合戦では、幕府軍と楠木正成の軍が戦ったが、楠木の智略により赤坂城はなかなか落ちなかった。そのまま45日過ごしたが、急な籠城であったため城中に食料が尽きてしまったらしく、正成は風雨の夜に城に火をかけ、闇にまぎれて脱出して行方をくらました。こうして赤坂の楠木の城は落ち、備後の桜山も自刃したので、天下平穏に帰したかに見えた。関東の大軍は10月末から11月のはじめにかけて鎌倉へ帰還し、鎌倉からは後醍醐天皇の謀叛にくみした公卿や武士の処罰のため、2人の奉行人が京都へ派遣された。いよいよ戦後処理である。幕府の奉行人は持明院方に公卿・僧侶らの罪名のリストを示し、処分方法について「聖断」をあおいだが、これに対し幕府の判断に任せるという仰せがあった。そこで12月27日、関東の使者は後醍醐天皇を隠岐に、第一宮尊良を土佐に、妙法院宮宗良を讃岐に配流すると奏上した。こうして1332年3月7日、後醍醐天皇は隠岐へと流された。これを手始めに、この3月から6月にかけて諸皇子・公卿・僧侶・武士の配流・処刑がつぎつぎに行われた。1332年4月28日、京都では改元して正慶というめでたい年号がえらばれたが、この翌年、後醍醐天皇が隠岐から帰還したあと、光厳天皇も年号もみな否認してしまったから、元弘の年号は息を吹き返し、3年まで(正確には4年正月28日まで)あることになった。本書では便宜上元弘で通す。その年の春から夏のころ、後醍醐の皇子尊雲法親王すなわち護良親王は、吉野・十津川方面の土豪たちを味方に組織して廻っていた。親王のほかにも楠木正成がどこかで挙兵の準備をしていたし、またここ数十年のあいだ欲求不満をたえず暴発させていたかの悪党的な武士どもが無数にいた。そして隠岐の配所にある後醍醐「先帝」も強靭な意志をもって再起のときを待っていた。1332年も冬に入ったころ、楠木正成は河内・和泉から摂津にかけての一帯に出没し、12月には赤坂城を急襲していっきょに奪回してしまった。翌年の正月には正成は摂津の天王寺から渡辺まで兵を進めていたが、もちろん六波羅もてをこまねいていたわけではない。暮れの12月9日には畿内・近国の武士たちに、護良親王および楠木正成の征伐のために京都へ参集するように命令を発していた。正月には正成は河内の各所で戦い、幕府方の軍勢を追い落とした。その後六波羅の派遣した軍勢もまたこれをたくみに追い落とした。正成がこうした兵力を持ちえたのは、摂・河・泉一帯の小土豪をたくみに把握していたためと思われる。いわばひろい意味での悪党が、こうして軍事力の重要な要素になってきていた。このころになると、正成のほかにも護良親王の令旨をうけて挙兵する者が各地にあらわれてきた。機内・西国にまたもや兵乱おこって大動揺を来しているという報告に、幕府はふたたび東国の軍勢を召集して大軍を西上させた。軍勢は5万ともいい3十万ともいう。京都へ着いた東国の軍勢は諸国の軍勢と共に、大手(河内路をへて赤坂城へ向かう軍勢)、搦手(奈良路をへて金剛山へ向かう軍勢)、もう一手(紀伊路から吉野山へ向かう軍勢)の三手に分けられ、正月の末から2月はじめごろ三方同時に進軍を開始した。それぞれ激烈な戦いが行われたが、赤坂城は城中へ水を引く樋を発見され、水を絶たれて陥落した。正成がかまえた城はこの方面に多数あったらしいが、しだいしだいに陥落し、残るところは正成がこもる金剛山の千早城のみとなった。金剛山へ押し寄せていたのは搦手の軍勢であるが、いまやこれに赤坂・吉野の寄手もくわかり、三方の大軍を挙げて千早城を総攻撃することになった。2月も末ごろのことである。千早城合戦は百万あまりの幕府軍と1000人に足らぬ軍勢で城にたてこもる正成軍との争いであるが、城はなかなか落ちなかった。「太平記」によれば、正成は用水の便もしらべ水は確保していたし、大石を投げかけたり矢を射続けたりと智略を尽くして戦った。また、わら人形をおとりに、攻めてきた兵を返り討ちにしたりもした。これに対し幕府側は梯を作り深い堀に橋を渡して城へ斬りこむ計略を考え、実行するなどしたが、油と火矢によって橋は炎上、数千の兵が一人残らず焼け死んでしまったという。そうこうしているうちに、吉野・十津川・宇陀・宇智一帯の野伏ども7000人余りが大塔宮の命をうけて峰や谷にかくれ、千早の寄手の補給路をふさいだため、寄手の軍勢は引き揚げはじめた。野伏どもはこれを待ち受けて討ち取った。千早城の寄手ははじめ百万ともいわれたが、こうして減ってゆき、いまでは十万しかいなくなってしまった。これが「太平記」の語る千早城合戦の内容である。「太平記」が狙ったのは千早城合戦の正確な記録を伝えることではなく、功名や恩賞に目がくらんだ鎌倉武士の大群とそれを手玉にとる正成の智略や奇抜な戦術を対比することで、鎌倉武士を笑いとばすことであった。では、正成の戦術なるものがでたらめな作り話かというと、そんなことはなかったと考えられる。このような合戦が、このころ少なくとも機内・西国では一般化していたと筆者はみる。こうした戦術は、蒙古襲来から半世紀間、連年どこかで行われていた悪党の合戦により編み出されたのである。正成の戦術は、悪党や郷民のさまざまな合戦のなかで鍛えられた戦術にほかならない。1333年閏2月24日の暁、後醍醐天皇は隠岐を脱出した。天皇は船上山を行在所ときめて、さっそく諸国の武士へあてて綸旨を発し、味方について忠勤をはげむよう促した。西国各地の武士にはすでに動揺の色が濃く、かなりの者が船上山に馳せ参じた。3月には天皇方の軍勢はかなりの勢力になっており、京都への進発の方針がきめられたが、先陣として千種忠顕が山陰道を進撃することになった。
鎌倉の最期

 

千早城攻防戦が膠着状態に陥る以前、幕府軍を背後から牽制する合戦が西国の播磨、伊予、および肥後から起こっていた。播磨の赤松則村は京都の六波羅の軍勢と戦ったが、1332年に護良親王の令旨を受け、翌年正月に挙兵、近辺の武士たちを従えるとともに備中と播磨の境の船坂峠をおさえて西国軍の上洛を遮断した。また閏2月から3月にかけては摂津の西北部一帯で六波羅の軍勢と合戦をくりかえし、3月にはさらに東へ進み、京都の西南、山崎・八幡方面へ拠点を移した。赤松勢は、このときから5月までずっとこの辺りに拠点をおき、たえず京都をおびやかしつづけた。赤松勢が度重なる合戦にやや衰えたころ、山陰道からは千種忠顕の軍勢がせまり、やがて入京したが、この公卿の大将は六波羅軍との合戦に敗北し、丹波まで退却してしまった。とはいえ、忠顕はその後も丹波を根拠にして京都をうかがっていた。こうして六波羅の軍勢は、合戦に勝ち続けながらも次第に不利になっていった。伊予に蜂起した土居通増・得能通綱・怱那重清らの勢力も次第に大きくなり、瀬戸内海に幕府にとって由々しい敵対勢力をつくりあげた。九州では鎮西探題に反感をいだいていた少弐・大友両氏と、肥後の菊池武時が令旨が届いたのを契機として挙兵の密約をかわしたが、探題の北条英時が彼らの挙動を警戒し始めたため、少弐・大友は変心してしまった。武時は自分だけで挙兵したが、敗死。これが九州における北条氏にたいする叛逆の最初であった。鎌倉ではこうした各方面の情勢への対策として、足利尊氏・名越高家の2人にそれぞれの軍勢をひきいて上洛させた。3月末ごろのことである。尊氏はかねてより北条高時に不満をいだいていた上、今度の出陣命令もかれの病気中であったということもあり、いよいよ反感をいだいた。そこで三河の矢矧まで来たとき、かれはいよいよ北条氏に叛旗をひるがえす決心をした。そして、一度京都に入り、丹波へ越え、同国の篠村で挙兵した。そこまで行ったのは、一つには山陰道を進撃するとみせかけるためであり、もう一つには千種忠顕の軍勢と合流して京都を攻めるためであった。5月7日ごろには尊氏の軍勢は六波羅勢と対峙した。この合戦は激烈をきわめたが、六波羅勢はしだいに敗退し、ついに六波羅の城郭にたてこもった。探題の仲時と時益は光厳天皇と後伏見・花園の両上皇を伴い、夜半に六波羅をすてて東へはしった。しかし、山科四宮河原あたりにさしかかると、落人をねらう野伏がひしめき、また夜も明けて近江平野に入って、守山あたりからもまた野伏がひしめいていた。それらの襲撃に多く疵ついた一行は、翌9日、番場で峠がふさがれており、先行きにも希望が持てないことを思い、蓮華寺の前で自刃した。六波羅の軍兵はこうして全滅したのである。1331年、後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、正慶の年号を元弘に復し、光厳天皇の名による官爵をことごとく削り、すべてを光厳天皇の即位以前に戻すという詔を発した。後醍醐天皇は自分が天皇として続いていたというたてまえを押し通したのである。天皇は六波羅の攻略がすべて天皇一身から出たものであるかのように初めからそういう態度をとりつづけていた。これに対し、足利尊氏もまた、六波羅攻めにおいてあたかもかれが天皇からすべて委任された大将軍の地位にあるかのごとくに天下の武士に臨んだのである。そのため、六波羅を攻略したのは赤松則村や千種忠顕をはじめ多数の武士の協力であったにかかわらず、成果はあたかも尊氏一人の号令によるかのような印象を与えた。5月8日、その前夜に六波羅が陥落した日、新田義貞は北条氏を討つ挙兵の旗をかかげた。新田義貞は武家の名門であったが、北条氏の執権のもとでは足利氏よりもさらに冷遇され、世間ではあたかも足利の一支族であるかにさえ軽視されていた。新田義貞が北条氏に叛逆をくわだてるにいたった理由、および足利氏に終始対抗的であった理由はこの点に深くかかわっていた。新田義貞の場合、いわば動乱に乗じて北条氏から覇権を奪取しようというのが主たる目的であった。義貞は利根川をこえて武蔵国に入り、ひたすら鎌倉をめざして南下した。義貞に呼応して関東各地の武士団がぞくぞくと馳せくわわり、軍勢はみるみる大きくなっていった。あいつぐ合戦はいずれも激烈をきわめた。挙兵以来わずか10日で戦局はすでに鎌倉の攻防戦をむかえたのである。幕府は三方へ討手を差し向けた。一方は下道、つぎの一方は武蔵路、もう一方は中道である。諸方へ軍勢が配置され、18日朝からいまを最期の合戦が開始された。21日から22日にかけ、鎌倉の防禦はやぶれ、最期のときがきた。高時が自刃し、150年にわたる鎌倉幕府はこうして滅亡した。
 
南北朝の動乱

 

公武水火の世
後醍醐天皇は1288年(正応元)に生まれた。2度目の蒙古襲来から8年後である。この当時、皇室は持明院統、大覚寺統の二系に分かれて皇位を争っていた。鎌倉幕府の調停により、31歳でようやく皇位についた。後醍後は朝廷と幕府の利害調整のために即位させられた天皇であり、その地位は「一代限り」と通知されていた。そのため、彼の権力に対する執着心は尋常ではなく、最期まで徹底した専制政治・マキャベリズムを展開させることになる。後醍醐天皇は以前からあった貴族間の主張を発展させ、国家権力が天皇に集中するのが理想であると考えていたのである。後醍醐は二度倒幕運動を行うも、いずれも失敗している。後醍醐は隠岐に流されるも、その皇子護良親王は畿内の地でゲリラ戦を続ける。1333年(正慶二)に後醍醐は隠岐を脱出し、また幕将足利高氏の協力も得て、京都の六波羅を倒す。六波羅が倒れたと聞いて、近隣の武士は後醍醐側に次々と付いた。しかしここで後醍醐の予想外のことが起きる。「太平記」によると、高氏は六波羅を倒すと同時に、京都近隣の御家人を次々と吸収し、権力基盤を固めだしたという。護良は高氏の野望を知り、彼を滅ぼすために兵を起こそうとする。後醍後は護良を征夷大将軍に任命する。武家政治を否定したがっていた後醍後にとって、これは苦渋の決断であった。後醍後新政は芳しくなかった。それにはいくつかの原因がある。まずは司法制度の欠如である。万事を天皇の直接採決とする制度では、仕事が間に合うはずがない。また、武士の間での法的慣習の無視や、所領没収方針に対する旧幕府系武士の反発という政策も反発を招くものであった。彼らの不満を代弁できる人間は、六波羅探題の後継者足利高氏ただ一人である。こうして高氏勢力と護良勢力の対立は深まっていき、後醍後はその間で板挟みとなる。後醍後は高氏の動きに合わせて、旧領地回復令と朝敵所領没収令の修正を行う。その内容は適用範囲の縮小であり、すなわち新政の後退である。しかしながら、但し書きで天皇は拘束されないと付け加え、専制体制を維持することは忘れなかった。そのほか、地方分権から中央集権へ遷移させるため、国司制度の改革も後醍後は行った。国司の権限が縮小されたのである。同時期、高氏が武蔵守に任命される。彼は後醍後の名「尊治」の一字を与えられ「尊氏」と改名する。尊氏は武蔵の守護と国司を兼ねて、完全にこの国を握れるようになった。同時期に御家人制度も廃止されたと考えられており、公と武は水火の仲となっていく。護良は後に征夷大将軍を解任され、次第に勢力を失っていく一方、尊氏はますます隆盛を極めていった。
建武の新政

 

1334年(元弘4)、11歳になる恒良親王が皇太子となった。後醍後はその年に「建武」と改元する。幕府を倒して王朝を復興したという偉業を示す意図があったといわれている。後醍後はこの他にも大内裏の造営・造幣を行い。天皇の絶対的地位を天下に知らしめんとしたが、いずれも頓挫している。その原因は、先に述べた旧所領回復令による被害者の反発である。後醍後は適用除外規定を設け、幾分この令の適用範囲を縮小した。誤判再審の範囲も同様に縮小した。建武新政において、裁判の負担は異常なものであった。一つの裁判は提訴から判決まで数年を要し、10年20年かかることもあった。加えて訴訟進行も当事者がやらなければならなかった。これらの原因もあり、萎縮して訴訟を諦めたり、途中で打ち切らざるを得ない事例が多発した。後醍醐の権威は政治的失敗により徐々に失墜していった。事態を挽回しようとして出されたのが徳政令・官社解放令である。鎌倉幕府が1127年(永仁5)に発行した徳政令では将軍の下文(売買確認書)がある場合には徳政令の適用除外になると記載されていた。しかし、今回の徳政令においては、承久の乱以後の下文を持っていても適用除外とならないとされていた。後醍後は承久の乱以後、王朝の政権は北条氏に奪われたと考えていたため、この時期の下文を正当なものではない。徳政令はあくまで後醍醐天皇の権威に基づいて行われる、と強調したかったのである。質主、貸主はこれに対処するために、ありとあらゆる迂回措置を試みた。官社解放令は、諸国の一宮・二宮を荘園領主から解放し、天皇の直接支配下に置く趣旨のものである。後醍後の専制は次々と批判者・反対者を生んだ。彼らの鬱積を解消してくれるものは誰か。「今は」尊氏である。「今は」というのは、他に有力なものが現れたら彼らはそちらに与するであろうという意味だ。後醍後と尊氏の勢力が拮抗していた当時、後醍後はこのような尊氏勢力の弱みを見逃さなかった。後醍後は彼自身の布陣を強化する努力を怠らず、常に巻き返しの機会を狙っていた。護良もまた勢力の挽回を狙っていた。だが、征夷大将軍を解かれ、求心力を失った彼にもう復帰するだけの力は残っていなかった。尊氏暗殺の計画(捏造であるとも言われている)が尊氏側に発覚し、護良は逮捕される。そして尊氏の手で鎌倉へ護送されたのち、禁錮の身となった。翌年直義の手にかかり、非業の最期を遂げる。当時武士の間では、私闘の解決策として加害者の身柄を被害者に引き渡しその処分にゆだねるといった慣習があった。後醍後は尊氏の強い請求に屈して、これを私闘とみなし、慣習法による解決を認めたのである。護良は義経と似ている。すなわち、卓越した武略と忠誠によって肉親に尽くすが、その後は疎んじられて反逆者のレッテルを張られるといった面である。忠才併せ持つ人物はその才により疎んじられ、その忠により滅びるのである。義経と同じく護良を英雄視する見方が死後に生まれ、「太平記」にもそれが反映されている。歴史書はともかく後の世代によって誇張や改変されたりするので、それをもとに忠実に歴史を再現するのは難しい。
新政の挫折

 

後醍醐帝の専制体制、そしてその目標について述べる。建武新政下においては、後醍醐帝によって正当性が独占されていた。しかしそれは必ずしも公家らに受け入れられたわけではなく、北畠親房さえも批判対象としている。また彼の重用した千草忠顕・楠木正成・結城親光・名和長年の孰れもが、鎌倉幕府統治下では決して出世できる人間ではなかった。しかしこれは門閥性を打破するという点で、後醍醐帝の専制政治には欠かせない物であったと言える。八省を独自に掌握するため、官位相当制を打破して上級貴族たちを省の長たる卿に任じ、これらを個人的に把握せんと図っている。当時、官職の多くは一定の貴族によって世襲されるものとなっていた。しかし、後醍醐帝はこの先例をも崩している。だが、このことは官職世襲を行っていた下級貴族の大きな反感を蒙る結果ともなった。しかし、決断所における綸旨の混乱は一向に収まらず、様々な確認手段等が取られることとなる。しかしこれは却って綸旨の効力の減退を誘引することになる。このような状況にあって、地方各地で反乱が勃発している。これは北条氏の旧領で発生していることが多く、北条氏の家人が参加している場合がほとんどであった。一方で地元の豪族もそれに参加している場合が多く、中央の状況を上手く利用している場合もあった。また、足利尊氏に与えられた所領での反乱も発生している。この状況において、北畠顕家は諫奏文を後醍醐帝へと提示している。これは天皇政治の前提として、天皇が貴族の支配者であり、門閥の保護者であることを示しており、彼の貴族的立場をよく示している。しかしこれは後醍醐帝の貴族制解体の政策とは大きく異なっていた。このような後醍醐帝の政策は、宋学のみならず宋朝の制度の影響も大きく受けていたと考えることができる。しかし、官僚層が欠如していること、そして兵農分離がなされていないことから、この政策は非常に難しいものであった。
足利尊氏

 

北条氏の残党である北条時行が信濃で挙兵するとその軍はたちまち鎌倉を攻め落とした。これを中先代の乱と言う。鎌倉を守る足利直義は三河に逃れ、その元に監禁されていた護良親王は殺害された。この三河は足利従来の所領であると同時に、東国と西国の分かれ目である。直義はここで、自らは留まる一方で従っていた成良親王を京都へと返している。これは足利政権の樹立を意味していたとも考えられるだろう。この事件に際し、尊氏は征夷大将軍と総追捕使の称号を後醍醐に要求している。これは尊氏が武家政権を作ろうとしていることの意思表示であるということができるだろう。尊氏は出発までにこの公認を得ることはできなかったが、尊氏東上の知らせを聞くと後醍醐帝はこれを追認している。尊氏は時行を瞬く間に壊滅させると、そのまま直義の勧めに応じて鎌倉に留まっている。ここに尊氏は武家政権の樹立を明示し、後醍醐帝との対決姿勢を明示した。その結果として各地での争乱は一気に拡大してゆく。この争乱で、後醍醐帝は新田義貞を利用している。これは義貞もまた源氏の棟梁、そして武家の棟梁を狙う存在であって、尊氏の対抗馬たりえたからである。また、この時期の尊氏の行動には複雑性が見られる。これは凡そ尊氏に躁の気質があり、また足利家当主の側面と尊氏個人の側面に挟まれたからと解釈することができるだろう。一方で政治的には鎌倉幕府の状況へ戻すという反新政的なスローガンを掲げている。これは基本的に、執権専制以前の守護体制への回帰であるが、一方で執権専制を踏襲せざるを得ない部分もあった。これに対し後醍醐帝側でも、新政に対する不満が噴出している。公家衆の申し入れを受けて建武を改元したことや楠木正成が足利尊氏との講和を提言したことが挙げられる。その結果、遂に京都を陥落せしめられた後醍醐帝は、延暦寺に籠って猶半年の籠城を行う。延暦寺は京の流通を握っており、抵抗は頑強であったが陥落は時間の問題であった。一方、尊氏は新帝を持明院統より擁立し、政権の合法化を図っている。
南北朝の分裂と相克

 

1336年中ごろ、100日に及ぶ後醍醐軍と尊氏軍の攻防の末、凡その勝敗が決し、尊氏は比叡に居る後醍醐の下に講和の使者を送った。後醍醐はこれを受け入れ10月に下山、帰京した。尤も、この講和交渉は後醍醐の独断であり、義貞の家来が、自分の奉じる帝が一人帰京したら我々は逆賊になってしまう、と猛烈な抗議を申し入れている。また、この際の講和の条件が何であったか史料は残されて居ないが、後醍醐・光厳の和睦を建前として後醍醐の面目を保つと共に、大覚寺・持明院両統の迭立の案が出されただろう事は想像でき、実際後醍醐が上皇とされ、尊氏側の光明天皇に神器授受が行われ、後醍醐の皇子成良の立太子があり、尊氏側が両統迭立の約束履行の意思を示している。後醍醐が下山したのち、後醍醐側の者はそれぞれ後醍醐に与する勢力のある伊勢、吉野、紀伊、河内などへ下り、敗走していた義貞も越前で勢力の立て直しを図っていた。各地に勢力を配した後醍醐は下山から僅か2ヶ月ほどで京都を脱出、吉野へ赴いた。一方京都では、軍事を担当する尊氏に対し、弟の直義が政務を担当していたが、彼は後醍醐を「先帝」から「廃帝」と呼び変えた。ちなみに、直義は後醍醐脱出の事を知って直後、これを捜すように指令したが、尊氏の態度は大らかであった。これは前章で述べられた後醍醐と尊氏の性格によるものと思われる。とかく、此処に南朝と北朝が出現した。筆者は、この二つの王朝がどの程度、どの時期まで権力を持ちえたのか、という点を扱うのが本巻の課題であると述べている。北朝は先ず、光明天皇に神器授受が行われた5日後に2項17条からなる建武式目を制定した。この式目では鎌倉幕府全盛期を模範にすべしとしている。また、この式目は普通の法令ではなく、施政者の心構えと当面緊急の施策とを扱った答申書の形式を取っていた。式目に依って京都市中の混乱を治めて京都市民の支持を得んとし、後醍醐のスローガン「延喜・天暦の徳化」を「義時・泰時父子の行状」と共に模範とすることとして、反対派の存在理由を失わせた。また、先程述べたように軍事を尊氏が、弟の直義が政務を担当する二頭制としていたが、前幕府の将軍が武家の棟梁として、北条氏執権が幕府の権力を握っていたことに倣っている。さて、陸奥の北畠軍が本拠地奥州での反乱で足止めをくい、京に進出してこない為、北陸の義貞が足利軍の標的となった。尊氏は若狭の守護に斯波家兼を任じ、義貞の軍勢を攻撃させた。この時の義貞軍の実態は国の土豪である、或いはやはり土地の小土豪が足利軍に与しており、地方の土豪たちが国々の情勢を動かしていた。結局、義貞は1337年金ヶ崎城で敗退、後醍醐から託された彼の皇子は自殺、或いは捕らえられ、義貞も翌年7月戦死した。翌月、この戦勝に合わせ、光明天皇より、かねてから望んでいた征夷大将軍に任命された。また、金ヶ崎城の陥落から5ヵ月後、8月11日にようやく北畠顕家軍が上洛に向け進軍を開始した。下野小山氏との攻防で手間取ったが、小山城攻略から40日余りで美濃に迫った。さらに此処で足利軍を破ったが、北畠軍も痛手を負ったらしく、更に顕家の父親房が武家を嫌うために義貞との合流を諦めて伊勢路をとり、ここで幕府軍に敗北、1338年5月に和泉で戦死した。主力の北畠・新田軍が相次いで敗北した南朝は勢力再建が緊急の課題となった。後醍醐は吉野から方々に指令を下したが、中央集権では情報の伝達がうまく行かなかった。その為、死の直前に顕家が記した諫奏等より、各地方に然るべき人を派遣し、これに軍事民政の両権を与えることとし、顕家の弟顕信に陸奥・関東に於ける将軍の地位を与えた。足利に対抗するために、足利と同じ体制をとらざるを得なくなっていたのである。1338年9月には然るべき人達がそれぞれの地方へ赴いた。そして、後醍醐は翌年8月に後村上天皇に帝位を譲り、翌日吉野で没した。贈名は生前の希望どおり後醍醐となった。
動乱期の社会

 

南朝の武将の多くが死んで、北朝の有利なるかに見えたが、北朝内でも尊氏党、直義党の内訌が発生し、三者鼎立する。この根幹には寝返り・離散集合の激しさがある。当時の武士達の忠誠の義務はその主人一代限り、子の代になれば話は別というものであった。鎌倉の御家人達も鎌倉将軍が廃された以上主従関係はなくなり、誰につくかも自由であったし、1335年の新田足利両軍の激突必死の頃の武士達は、尊氏・義貞の優劣はいかんと見守り、その結果によって去就を決めようとしていた。また、鎌倉の頃から降参人の所領は半分、或いは3分の1没収して許すという慣習があり、後に法制化された。そのため、所領を半分棒に振る覚悟であれば投降できた。これを降参半分の法という。また、これまで一族の分裂というものも頻繁にあったが、これは己が仕える支配階級が分裂した場合、一族が二つに分かれて分裂した支配階級のそれぞれに味方する。したらば、どちらが勝っても家名は存続する。更に13世紀初めからは、敗者の没収地を同族の者に再給付する慣習が成立しており、財産も維持されていた。だが、鎌倉末期-南北朝期にかけて、庶子が惣領を圧倒、自分が惣領になろうとして袂を分かつというケースが増えてきた。鎌倉幕府も惣領が一族を治める体制を利用し、惣領を支配することにより、全国を支配していた。が、惣領に一族の庶子が従わなくなっており、その為に幕府の支配が行き渡らなくなっていた。これらは、財産の分割相続が原因で、嫡子が庶子をに対してなんらかの権力を持つことに対する庶子の反感、そして相続の際、分割された所領を庶子も受け取れるので、独立の足がかりとなっていた。このため発生したのが単独相続で、こうなると庶子は嫡子の家臣という地位に転落していった。また、古来の戦闘ルールを破り、楠木正成が悪党と共に歩兵を用い、ゲリラ的戦法をとっていたが、騎兵の一騎打ちから歩兵が大幅に用いられるようになった。同様にその他の戦闘ルールも変わり始め、戦功確認も首を持って軍忠状(戦果を記し、指揮者の認めをもらう書類。行賞の際の証拠となる)をつかったものから、戦闘中に近くに居るものに取った首を示して戦功を確認してもらうものに変わった。騎馬から歩兵に変わり、失った機動力を補うためである。戦闘の方法も、騎兵の馬を狙って射るようになるし、歩兵の持つ槍が現れる。鎧も軽くなり、斬撃戦中心となる。こうした変化は、武士以外の者が武士になる道を開いた。
直義と師直

 

南北朝の対立は北朝の勝利に終わった。しかし北朝においても新たな内紛と分裂が起こる。この章においては、幕府を代表する足利直義と、尊氏の執事高師直を中心に論じていく。直義は尊氏が政務を譲った時、いったんは辞退しようとしたが、尊氏に強請されて職についてからは仕事に専念した。熱心で論理を好み、自制心があってけれんみのない誠実な人であったらしい。わかる人には信頼されるが、大衆受けはしないタイプである。直義が管轄した政治機関の中で規模が最も大きいものは引付方という裁判所である。官僚には足利一族以外の武士も多く登用した。北条一族の轍を踏まないためであろう。政治は直義と尊氏の二頭制であった。軍事的な危機にあるときは尊氏、政局が安定しているときには直義の意向で人事が決まったので、党派が形成され党派同士の対立が強まった。荘園管理に関しても直義と尊氏はその立場の違いから対立を深めていく。そこに高師直という人物が登場する。師直はかつては尊氏の親衛隊長に過ぎなかったが、尊氏の出世に伴い、一族と共に勢力を強めていく。師直・師泰兄弟は直義とは対照的なタイプの人間であった。彼らは既存の権威を徹底的に蔑視し、古い秩序に一片の価値も認めず、力こそ正義と考えた。北条氏という昔の権威に軽んじられていた彼らは、伝統的権威というものをまるで信頼していなかった。朝廷や幕府の瓦解によりそれは確信となり、伝統的価値観のもとでは反倫理的な言動を彼らは次々と行った。後醍醐然り、尊氏然り、直義然り、外部の環境が彼らの人間性を決定づけたのである。師直・師泰は幕府の首都である京都への外敵を駆除する任務を与えられていた。既存の価値観にとらわれない彼らは、神社・仏閣でさえも必要とあらば次々と焼き討ちにした。仏罰も神罰も天皇も恐れず、ただ目的を達成するためだけの純粋な戦闘行為を彼らは行った。時代が変わればルールも変わる。彼らはいち早く新しいルールを見抜き、実行し、慣習にまで昇華させた。北朝で尊氏と直義の対立が進む中、南朝でも対立の兆しが現れ始めていた。南朝の豪族は、強者の圧力に対していかに自立を保つかということを強く意識していた。ゆえに南朝に勢力が集中することがなく、有力者を中心とした小国がいくつも分立する形に近かった。公卿の北畠親房は王民論、すなわち天皇を尊重してこそ民の繁栄がある、尊重せねば民は滅びるという考えを持って各所の武士を説得しようとする。親房著神皇正統記も武士の説得を目的とした著書といわれている。しかし武士はそれを主従関係の基本と考えない。権威ある王は欲しいが、王に実際に支配されるのは好まないのである。王民論的な古来の風儀は、鎌倉時代のもので、時代が変わった今となっては古びて魅力のないものでもあった。武士の不満は高まっていく。1341年(暦応4)、藤氏一揆が起る。前関白、近衛常忠が藤原氏の子孫と称する関東の豪族小山氏・小田氏らを呼び掛けて一揆を結んだのである。親房の王族支配的考えに反対であった勢力が、有力武士の支配を目指して反親房運動を起こした結果がこの一揆といわれている。藤氏勢力は北朝との講和を望んだ。力を失った親房は幕府軍によって滅ぼされた。
天下三分の形勢

 

幕府への軍事的脅威が遠のくにつれて、文を重んじる直義の声望が上昇した。これに呼応して、師直の声望は失墜する。戦いこそが彼の武名をあげるものである。彼ら一族が南軍討伐の将として派遣された理由の一つとしてそのような背景がある。1348年(貞和4)、河内で激戦が行われた。結果は何軍の惨敗であった。師直と師泰はこの戦いで活躍し、声望を取り戻した。これにより、直義派、師直・尊氏派、南朝という三者で覇権を争うという構図が次第に形成されていく。師直がクーデターを起こし、直義は敗れる。尊氏は両者調停というスタンスで巧みに振る舞い、弟を守ると共に息子を後任に据えるという最大の収益を得た。尊氏の政治手腕が光る。その後、直義は共同執政の約束を破られ、出家させられてしまった。しかし直義は京都をのがれ、態勢を立て直し、諸国に蜂起を呼び掛けて師直を破った。直義は尊氏・師直の両者を出家させる旨の和議を結んだが、帰京途中で上杉能憲によって師直をはじめとした高一族は皆殺しにされる。争ったのは師直と直義であり、尊氏自身には敗軍の将という認識はなかった。尊氏と直義は共同執政という形式をとったが、実際には権力のほとんどは直義が握っていた。その後再び尊氏が反乱を起こし、防衛のために京都を離れて北国に向かった。北陸一体の守護職は直義が固めていたので、北へ向かったのである。このほかにも、直義は九州とのつながりもあった。これに対して尊氏は、東海・四国および山陽の勢力を頼って畿内で勢力を固めた。南朝もまた畿内から京都進出を狙った。直義が北へ向かうと、尊氏は即座に南朝と直義に和平の使者を送った。交渉は共に失敗する。尊氏派その後鎌倉に入り、直義を滅ぼす。しかし直義を中心とした直義党の勢力はこれによってますます強まり、天下三分の情勢はますます激化していく。
京都争奪戦

 

直義と比べ、尊氏は状況主義者であった。思想を曲げない直義に対し、尊氏は直義を討つために南朝と手を組もうと使者を出した。南朝はこれにかこつけて強硬な要請を出した。それに従って、北朝の崇光天皇・皇太子直仁親王は廃され、年号(国家権力のシンボルの意味を持つ)は南朝の正平に統一された。観応2年(1351年)は正平6年と呼び代えられた。南朝は北朝の神器は偽物であるとして、接収すると宣言するとともに、北朝の正当性を否定した。このほかにも、尊氏の元弘没収知回復令を無効として、以前の状態に差し戻そうとするなど混乱を招く政策を打ち出した。義詮はこれを南朝の自専として抗議した。そうこうしているうちに、南朝軍は武力行動を開始する。南朝は京都を軍事支配することを目的とし、北畠親房を中心とした武力行動が各地で始まった。軍事力に乏しかった義詮は、多少不利な条件でも和議をしようという方針であったが、見通しはなかなか明るくならない。南朝が義詮の和議提案を承諾し、さてこれからかというところで今回の京都進軍が起った。義詮は南朝が和議を破ったとして、正平の年号を廃して観応と呼号して諸国の武士に動員令を発した。幕府は観応、南朝は正平、直冬は貞和と、三種の年号が並立する形となった。南朝は八幡に退き、義詮は1カ月足らずで京都を奪回する。八幡に立てこもった南軍は飢餓に苦しんだ。もともと京都は飢饉状態で、農民も兵糧の徴収に激しく抵抗したからである。このような事情もあり、形勢はしだいに幕府軍に傾いた。後の鎌倉攻撃も失敗し、南朝軍は駆逐された。
南朝と九州

 

三度の京都の奪回が失敗に終わり、指導者親房も死亡し、南朝は大きな打撃を受けた。親房の政治思想は旧体制と新体制の中間に存する、折衷的なものであった。幕府の存在は否定せずとも、幕府が朝廷から政権を「奪い取る」ことは否定していた。後醍醐の後に彼が長期に南朝を統一できたのは、この思想、経歴、そして政治能力によるものが大きい。天皇といえども、儒教的な善政を行わなければ衰退する。神器を伝える者は、神器の表す三徳(正直・慈悲・智恵)を備えていなければならない。そして南朝の後村上天皇は神器を持っている。これは逆にいえば、三徳を持った者に神器が収まったといえ、南朝は正統であるということになる。正統なものが人臣を納めるのは当然である、といった論理が南朝のイデオロギーであった。親房の死んだ歳の重月、御村上は河内天野(大阪府)の金剛寺に移る。この地は大覚寺統の経済的基礎をなす八条院領に属し南朝の武力としても最有力視されていた。尊氏の宥和政策も影響し、1355年(文和4)から3年余りは南朝に平和が訪れた。しかし、1358年(延文3)、尊氏が病死してからは自体は一変する。義詮は関東から大軍を西上させて、南朝を攻めんとする。しかしここで義詮は伊勢の守護で幕府の最有力者の一人であった仁木にとらえられ、状況は一変し南朝に有利となる。南朝は上京し、一時的に南朝年号が復活するが、20日後には義詮が京都を奪回する。1336年(延元元)、後醍醐は尊氏の和平申し入れに応じて叡山を下るに先立ち、王子懐良親王を九州に下した。その時懐良は征西大将軍の称号を与えられたが、僅か8歳であったため、従者の筆頭の五条頼元が筆頭として動いた。懐良一行は肥後の菊池氏・阿蘇氏を頼ろうとした。余談であるが、菊池家の置き文(家の掟)には血判が押されており、これが史料で最古の血判であるという。血判には呪詛的効果があると考えられていた。呪詛にまで頼らないといけないほど人が信用できなくなった時代となったことの傍証であろう。南朝は東方勢力を失うにつれて、地方経営に重点を置いて生き残ろうとする。点加算分の形勢となって、直冬が九州・中国に勢力をふるうようになると、瀬戸内海上権の争いはますます激しさを増した。九州には鎌倉幕府創業以来の有力な守護が三人存在し、いずれも中央で敗れた尊氏を迎え入れて再起させたという大功がある。尊氏に対する発言力は並大抵ではない。彼らは国土の加増と独立軍事権を尊氏に要求した。尊氏はこれを一部受け入れ、幕府の九州に対する支配力は弱まってしまう。九州は大宰府という機関が官庁があり、平安時代には九州全体を統轄し、外交・貿易・対外防衛を行ってきた。鎌倉になると頼朝が武士を派遣して大宰府の上に付け、大宰府の権限は縮小する。南北朝時代になると、幕府の権威も不安定であったので、それに伴って九州の権力図も目まぐるしく入れ替わった。
苦闘する幕府政治

 

1355年、幕府は京都奪回に成功した。三度目のことである。三分の形勢は継続しつつも、趨勢は幕府へと向かっていた。元々三勢力は諸国の利害関係を代表していた。幕府が勝利したと言っても、イコール社会の安定とはならない。幕府の苦闘が始まる。南軍および直冬党の京都侵入を三度も許したとあり、義詮の権威は失墜していた。そのため各地の守護は将軍の権威を無視して従わぬことがたびたびあった。これとならんで、荘園領主の権利回復要求も幕府を苦慮させた。幕府が混迷していると見るや、彼らは強訴を用いて強硬に要求を突き付けた。荘園領主は守護としばしば利害を対立させ、幕府は彼らの間で板挟みとなった。このころ九州では、懐良親王が1355年(文和4)に博多に入る。南九州では依然として南軍が幅を利かせていたので、僅かな足利軍はしきりに京都へ使者を送って将軍の助けを請うた。北陸においては、孫子を敵視する越中の桃井、直義が股肱と頼った越後の上杉が健在であった。関東では新田一族の反幕活動が絶えず、これらの勢力は幕府の頭痛の種となった。幕府において、統治は義詮が担当し、重要な部分は背後で尊氏が指示を与えた。これにより幕府の構造的問題である二元制は一応の解決がされた。幕府は所領裁判機関である引付の規模を縮小して、義詮の親戚をそこに参与させ、義詮の裁判権を形式的なものから実質的なものに変えた。これにより裁判は簡単になり、迅速に処理されるようになった。複雑な裁判は当事者双方を利さない。この簡易裁判は、将軍権力の確立とともに、荘園領主を保護する実効性もあった。また半済立法という法令も発布し、半済を限定的に認めた。半済は元々戦乱期に生まれたものであったが、決定的な勢力を持てない幕府はこれを認めるという苦渋の決断をした。幕府はまた、降伏すれば本領は返付するとの条件を提示し、南朝党と直冬党に降伏を促した。翌1356年(延文元)、直冬党の最有力者である越前の斯波が帰参し、この政策の最大の効果となった。尊氏は南朝党・直冬党に対して、従前通りの宥和策で臨んだ。1358年(延文3)、尊氏は島津の請援に答えるべく九州進出を決意するも、果たせぬまま4月30日に54年の生を終えた。尊氏の後は予定通り義詮が将軍職を継いだ。ブレーンの賢俊、ライバルの文観も同時期に死に、そして義詮の子である義満が生まれる。老人は死に、新しい世代に歴史が受け継がれていく。尊氏の死後、各地の有力守護が再び台頭し始める。義詮はこれに対して、武力で鎮圧するという強硬策を採る。尊氏の宥和政策とは対照的である。1362年(貞治元)になると、ようやく幕府に安定が見えてきた。斯波氏を執事に任命して将軍の家来とするとともに、その地位を拡大させた。地位・権限が高まった執事の職は、管領という職称で呼ばれるようになる。斯波氏に権力を与えつつ、民衆には譜代の家来と化したことを示すというこの政策は、幕府の安定に大きく寄与した。この翌1363年(貞治2)、山陽の大内・山陰の山名を帰服させることに成功する。実際にはこれは降伏というより対等な条件での和睦という側面が強かったが、ともかく統一への一歩となったことは間違いない。義詮と斯波の関係は1365年(貞治5)終わりを告げる。義詮がひそかに呼んだ近江の守護佐々木氏が挙兵して入京したのである。斯波誅伐のふれが直ぐに在京の諸将に向かって出され、斯波には京都からの退去命令が同時に発せられた。去らねば討つということである。斯波高経は家来を連れて一族家来を率いて将軍邸に近い三条高倉の邸宅に火を放ち越前に下った。義詮はこの事実を報じて、近国の守護を討手として越前に差し向けた。斯波の突然の没落は、幕府財政回復のための所領没収による恨みが根源的な原因と言われている。斯波が失脚すると、斯波の政策により被害を受けてきた者が次々と幕府の要職に登用された。
守護の領国

 

鎌倉幕府における守護は、軍事指揮者のほかに地方官吏としての性格を要求されており、室町幕府もこの方針を継承した。守護が領国体制を確立するには、任国内の地頭・御家人層を自分の組織に繰り込む必要があった。また彼らの抵抗も強かった。守護・地頭・御家人はいずれも幕臣という立場であったから、いずれか一つに他の二つが従うという理には納得ができないのである。諸国に散在する所領を保障できるのはあくまで幕府であったため、地頭・御家人は守護でなく幕府に付こうとした。この他にも、一揆を形成して幕府からの独立性を保つといった方策も盛んに採られた。ここで言う一揆は武士間の同盟である。分家に次ぐ分家を重ね、勢力が弱まった武士が再び力を取り戻すために結成された共同体である。惣領からの独立といった観点もあった。彼らは契約書を交わして同盟の掟とした。いずれも平等に一致団結するという観点から、傘連判状なる署名方式が採られた。このような中、守護に付く者も現れ始める。しかしながら、この結びつきは排他的なものではなく、守護に付きながら幕府にも付くと言ったことが多かった。守護は主従関係を解消されないように、常に警戒をしておく必要があった。地頭・御家人を臣下にするのが難しいならば、と守護たちは荘官・名主層獲得を目指し始めた。彼らは荘園領主からの支配を抜けだそうと、活発な活動を行っていた。この場合も、荘官・名主は荘園領主と守護の両方に主従関係を結ぶことが多かった。守護は軍事的必要性に応じて、荘官・名主を動員して軍事力として使用した。守護の権威は家来である武士の動向に強く依存していた。命令を遂行してもらうためには暴力が必要で、その暴力を実行するのは武士だからである。政情が安定しないこの時代において、武士たちの機嫌を損ねないことは必要不可欠であった。そのうち、武士は守護の相続問題、政治的意思決定にまで影響力を持つようになった。守護は既存の体制を否定するほどの力を持てなかった。既存の体制に寄生して、徐々にその権威を奪取して力を強めていく、という方法で国の支配体制を作り上げていった。非力な中下級貴族や小社寺は、守護や近隣武士の相次ぐ侵略に苦しまされた。
名主と庄民
守護は、はじめは軍事・警察に関する権限を中央からもらって派遣されたのだが、次第に被官層を形成し、任国を領国化するに至った。荘園もこれに応じて支配されたのだが、では荘園内部での権力関係はどう変わっていったのだろうか。鎌倉時代以降、荘園は基本となるいくつかの名を中心として成立していた。名は支配の単位である。ある名に割り当てられた田畑は、その保有者および権利者の名が付けられている。保有者および権利者は名主(みょうしゅ)と呼ばれ、年貢その他の負担は名主の責任で行われた。荘園領主が掌握する必要があったのはこの名主である。領主が名主を自身の都合に応じて代えることはたびたび行われた。名主職は領主の御恩で供与されるものであった。この時期は訴訟が頻発し、訴訟進行も証明が偽造文書で行われるなど不法な面が多く、名主の地位は安定しなかった。こうした状況が、南北朝内乱の社会的基礎をなしていた。南北朝の後期になると、名主は相続による安定職になっていく。荘民たちが荘園領主からある程度独立的地位を獲得したことが深く関係している。鎌倉後期に名が分裂し、その勢力を復興するために一揆が形成されていった過程で、荘民たちは荘園領主より荘民同士で自立する道を選んだ。そうなると各荘民に自立心が芽生え、そのトップである名主の地位も安定するという塩梅である。彼らは団結して請願し、年貢の軽減や代官改替を訴えた。この試みは恒常化され、領主もついに一揆という自治単位を承認するを得ない状況となった。この動きはさらに発展して、年貢の損免要求にまでなった。荘園を超えて、各地の農民たちが相互協力して幕府を含めた国家権力への反乱にまで成長した。領主の選択肢は二つ。荘民たちの要求を聞き入れるか、それとも武力で制圧するか。領主自体の武力は乏しい。そうであれば、軍事力・警察権力を持った者に頼らねばならない。そのような存在で、身近にいるものは誰か。守護である。
室町殿

 

義満の輔佐として政権を握った管領・細川頼之は、就任すると早速半済令を出している。しかしこれはむしろ寺社本所保護の側面の強いものであった。これは、頼之が旧仏教を保護し、一方でこれと対立する禅宗には統制を加えていたからである。また南朝との講和にも取り組んでいる。これは南朝側で強硬派・長慶天皇が即位したことによって挫折を余儀なくされ、楠木正儀の北朝転向のきっかけとなった。九州探題も、渋川義行から今川了俊へと代わった。それは義行が九州に入ることすらできなかったからという理由からである。しかし同時に、これは斯波派である渋川氏の排斥という側面も持っている。頼之は、前管領である斯波義将に対抗する反斯波派の長として行動していたのである。しかしその一方で、斯波派の反幕への転向を防ぐため、南朝への攻撃を行わせてその動きを潰している。しかし、所詮は管領も守護勢力と荘園領主勢力との均衡に立つものであり、それが変化すれば容易に失脚する。頼之もまた、守護の勢力均衡が崩れたことによって失脚を余儀なくされた。義満は、この守護の二大勢力――細川と斯波――の調停役として君臨するようになる。だがその性格は「弱きをくじき強きを助く」というものであったということができるだろう。また直轄軍の強化を行っており、そのための管領からの権限剥奪や、直轄領の増加などの政策を行っている。義満は諸機関を分割・統制し、そのことで絶対権限を確立したのである。守護の圧迫、勢力漸減にも義満は力を入れている。各地へ直々に訪れる一方、一族対立を利用し、土岐氏・山名氏といった大守護を壊滅へ追いやっている。
王朝の没落
幕府は北朝を擁立し傀儡としてはいたが、北朝はまだ大きな権限を握っていた。彼らは荘園領主の長として独自の政治を行うことが可能だったのである。しかし半済令や武士の押領によって、北朝の権限は次第に失われることになる。荘園からの収入が激減したため、北朝は京都の営業税のみを財源とすることになる。当時の京都は、物資の集積地として大きな役割を果たしていた。貨幣経済は地方にも浸透しており、生産する地方と消費する京都が、座を組む商人たちによって接続され、その媒介として銭貨が利用されたのである。この財政諸策を行うのが、検非違使庁であった。これは元来警察裁判権を握る庁であったが、その座を次第に幕府が担うようになると、行政権を行う庁へと変貌することになる。また、叡山も京都の中で非常に大きな権力を持っており、座の多くを握っていた。その叡山と使庁からも幕府は次第に権限を奪うことになる。義満時代になると行政裁判権をも奪っている。また南朝との和睦にも踏み切っている。これは一つに、守護が反乱する際の大義名分を消す目的があり、また北朝の権威を絶対化するという目的があった。そうすることで、義満自身の権威をも高めることができるのだ。この合一は、南朝をも敬するという建前であったが現実では、南朝の権威は殆ど消し去られたものであり、以後もささやかな抵抗を南朝残党は続けてゆくことになる。
日本国王

 

義満は1394年、征夷大将軍を辞すと同時に太政大臣となった。まもなく太政大臣を辞し、出家するとほぼ同時に、今川了俊を九州探題から解任している。これらは王権を接収する義満の事業が完成に近付いていることを示している。太政大臣になることによって、義満は王朝権力をも左右しうる地位を得たということになる。また出家することで、世俗の身分を超越する立場へ登り、そのことで家格の壁を取り払った。また、九州探題を解任し、明との通交権も握った。九州は最後まで南朝が抵抗を行った地域である。了俊はこの中で、豪族の切り崩しを図って南朝勢力の弱体化に成功している。しかし少弐冬資を刺殺したことは、三守護(大友・少弐・島津)の反探題意識を爆発させ、島津と南朝との二面作戦を取ることになってしまっていた。彼は将軍が絶対権限であり、その代官である自らもまた国人を指揮する権限がある、という論理から国人を説得にかかっているが、それは自らの手で国人を掌握するためであると言える。そのような状況ではありながら、了俊は南朝勢力をほとんど壊滅させることに成功している。しかしそれと同時に今川了俊は解任されることとなった。これは、上記の論理を通じて了俊が私的国人支配を強めていたこと、了俊が島津ら守護の抵抗を排除し九州を統一するのが困難だったこと、了俊が明との通行を握りつつあったことに由来するだろう。当時、明や朝鮮では倭寇が跋扈していたが、これは九州の南朝側諸勢力によって行われるものもあった。了俊はこれを取り締まり、対外的な立場を向上させていた。しかし明に関して言えば、日本の明服従を明らかにしなければ通交は叶わず、その権限があるのは義満一人といえた。そして明服従を飲むことで、九州統一も叶うといえる。そのための一つの障害である了俊を排除した義満だが、排除すべき相手はもう一人存在していた。それが大内氏である。大内義弘は大きな権力を九州に持つ一方、山名敗亡後唯一の、有力外様守護であった。そのため、義満はこれを徴発して反乱させた上でこれを討伐した。こうして障害を排除すると、義満は永楽帝へ使者を派遣して日本国王の称号を得ている。そのことで義満は外権力たる明から日本の主権者たることの権威を得、また明との交易を握ることで経済をも完全に掌握した。1408年、義満は危篤に陥り、俄にその生涯を終えた。これに対して、朝廷から"太上法皇"の地位を奉られたが、嫡子の将軍・義持はこれを拒否している。この際、義満は後継を決定しておらず、周囲の人々の推薦によって義満と正式に決定されている。この時代、守護や国人の後継を選ぶのは、家内の有力者であった。有力者に支持されるかどうかが最も大きな後継決定要因であったのである。これは惣領制解体によって血縁者による結合が期待できず、家内有力者の協力が必須となっていたからである。幕府もまたこのような状況にあると言う点で、義満の将軍絶対化もまた限界があったといえるだろう。つまり、国家権力の被支配者集団内部への浸透は、非支配集団の政治参加と相関関係にあったといえる。このありかたこそが室町幕府の特質であるといえる。前者は後醍醐帝の新政より始まっており、これは被支配者の抵抗によって解体された。前者と後者がともに成し遂げられるには、丁度70年ほどがかかったといえる。この動きは処々の武士たちの自衛行動によって起因するものであるといえ、この体制構築の為に長い争乱があったといえる。このような観点に立つと、義満による体制完成は既に次代への出発であると言えよう。この体制をもまた、新たな勢力によって打ち崩されてゆくのである。
 
下剋上の時代

 

農民が守護方を攻撃するという、史上類を見ない支配体制の揺らぎを見せた室町という時代の終期を以下に述べる。この時代は国家的英雄は不在であり、無名の民衆的な英雄が数多く奮起した。民衆が切り開いた新たな歴史を知るためには、彼らの行動の意義と軌跡を子細に追うことが肝要である。
鎌倉の緊張
1415年(応永22)、公方持氏は常陸小田氏の一族、越幡六郎の所領を没収した。六郎の罪は大したことがなかったので、管領上杉氏憲(のちに出家して禅秀)はこれを止めようとしたが、18であった持氏は言い出したら聞かなかった。禅秀はこれに憤慨して職を辞し、持氏は禅秀のライバルであった上杉憲基をその代わりに任命した。この2人は元は同族だが、分家が原因の勢力争いをしていた。この事件により両派の対立は決定的となり、金国の武士たちが禅秀と憲基の邸宅に集まり鎌倉は震撼する。持氏の宥和策によって事態は一応の収束を見た。義嗣は京都にて禅秀の辞任を聞いて喜んだ。もともと義満の寵愛を受けていた義嗣は、自分を差し置いて将軍となった義持に反旗を翻そうとしていたからである。彼はさっそく禅秀を誘うと、禅秀はこれを快諾し、さらに足利満隆も誘った。満隆は謀叛の噂を以前立てられており、常々から疎外され続けてきた。禅秀の唆しもあり、満隆はこの誘いを受け入れた。東国は謀叛の空気で溢れていた。さまざまな勢力が幕府に不満を感じ、虎視眈々とその時を待っていた。禅秀は病気と称して準備を整え、1年後公方持氏を強襲する。持氏は仰天するも、何とか憲基邸に逃れた。持氏・憲基方は奮闘するも、結局敗れて小田原に逃れた。禅秀はまず鎌倉の実権を掌中に握り、次いで持氏与党の討伐兵を出した。一方京都の義嗣は、もともと幕府から見放されていたために何らの賛同者も得ることができず、みずから髻を切って遁世(仏門に逃れること)を装った。幕府はここにいたりことの重大性を認識し、義嗣を幽閉するとともに東国の武将たちを禅秀討伐のために出兵させた。禅秀は敗れ、一族共に鎌倉で自害した。禅秀が蜂起してからわずか3カ月のことであった。いったん失われた公方の権威は、すぐには回復しない。南北朝内乱期ごろから次々と形成された一揆も権威を脅かしていた。彼らは地域的な集団を形成し、既存の惣領制が崩れていった。このころの農村武士=国人は、反権力的な農民に悩まされていた。農民と荘園領主・豪族の間に位置する中間層である国人にとって、彼らがどう動くかは重要である。反権力の矛先を荘園領主や豪族に向けるために、国人たちは血縁にとらわれずに平等な立場として互いに団結した。この一揆は生き延びるために、無節操なまでに柔軟にふるまった。持氏は第二、第三の禅秀の乱を起こさぬために、残党を徹底的に追討した。しかしこれが逆効果で、追討に励めば励むほど叛乱者は増加した。京都の将軍と鎌倉の公方は長らく対立していたこともあり、京都と鎌倉は一触即発の状況に陥った。蓋を開けてみれば持氏の惨敗であった。敵を打倒することしか知らなかった者が、ここに来て初めて屈辱を味わった。持氏は京都に忠誠の誓書をささげた。これで落着とはいかなかった。この騒動から1年たたずのうちに、義持の子義量が19の若さで早世した。義量は将軍職を引き継いではいたが、実権は義持が握っており、また遺言を残さなかったので、後継者の問題が発生した。義持自身もこれから2年足らず、1428年(正長元)に43で死に、後継者問題は幕府の首脳陣の衆議によって定められることとなった。義持自身も皆で話し合って決めてほしい、と遺言していた。これといった後継者候補がおらず、また誰を推しても後々不満により混乱が起きることが予期されていたので、籤にて将軍が決められることとなった。最初で最後の「籤将軍」足利義教の誕生である。籤は物事が決まらぬときに、神頼みで決める方法として当時流行っていた。持氏はこれに怒り、ただちに出兵を試みた。上杉憲実(憲基の子)に諌止されたので、伊勢の北畠満雅をけしかけて出兵させるも、すぐに幕府に鎮圧され満雅は殺された。幕府はこの事件により警戒態勢を強め、持氏も中央から自立の意思を表明し、両社は決定的に対立した。1435年(永享7)に入ると情勢が動き出した。穏健派であった憲実の意見は聞き入れられず、持氏は足利満貞、佐竹義憲、那須氏資などを次々と討たせた。憲実は持氏と対立を深め、ついに幕府側に寝返った。幕府は幕府で、慎重派であった三宝院満済、山名時熙が死亡し、義教を制止するものがいなくなってしまった。義教は天皇に持氏追討の綸旨を出させて名分を整え、25000の兵を出陣させた。もともと十分な直属軍隊を持っておらず、対立する勢力を煽って武威を振るってきた持氏はもはや袋のねずみ当然であった。頼りの憲実も今は敵として攻めてくる。追いつめられた持氏は行動を共にした30余人とともに自害した。1439年(永享11)、持氏42歳の時だった。持氏が死した後も、彼に与した勢力が各地に残存していた。これは禅秀の時と似た構図である。1440年(永享12)、下総の結城氏朝は持氏の遺子安王丸・春王丸を奉じて挙兵する。彼らはまだ12、3歳の少年であった。当時多くの家で惣領制が崩れ始め、惣領が庶子を統制できなくなり、相続争いや所領争いが頻発した。庶子たちがそれぞれ独立を図り、その下の武士たちが己の立場を有利にするために争いに油を注いだ。今回の争いにおいて、彼らの一方が幕府方につけば、もう一方は結城方につくという、南北朝内乱の宮方と武家方に似た様相を呈していた。中央の分裂は地方の分裂を呼び、もはや収拾のつかない混沌を形成していた。結城方は籠城するが、ついに食料が途絶え、1441年(嘉吉元)城は落ちて春王・安王は殺害される。この乱を治めた憲実は、関東の実権を完全に握るに至る。憲実は当初持氏を支持したが、のちに寝返りその遺子にまで手をかけ、関東を掌握した。持氏の死後、責任を感じて切腹をしようとした逸話や、晩年僧体となって諸国をめぐった事実から、当時から彼に対しては時代に翻弄された被害者という同情論が多かった。しかしながら、あらゆる武士が自己の利害のために奔放に振る舞ったこの動乱期に、憲実だけが主従道徳にとらわれていた道場に足る人物と断定してよいものだろうか。
将軍殺害

 

幕府発足時から、足利の一族または密接に結びついた者は中央の京都に集中しており、九州や東国の支配は二次的なものに過ぎなかった。ゆえに、東国の一連の動乱に対して、守護大名たちはおおむね消極的な態度をとったし、関東の公方も独走したのである。永享の乱から結城合戦の流れにより、辺境の問題が中央にとって深刻な影響をもたらすということが証明された。そして東国動乱が収まったその矢先に、将軍その人が殺害されるという嘉吉の乱が起こる。1441年(嘉吉元)、京都の赤松美津介邸において、将軍義教が結城合戦の勝利を祝う宴を楽しんでいた。この宴には、将軍に供奉した大名である細川・畠山・山名・大内・京極らの諸大名も参加していた。宴もたけなわであったその時、後方の障子が手荒く引き開けられ、武士数人が将軍に斬りかかった。将軍義教のあっけない最期であった。細川はからくも脱出したが、それ以外の大名は重軽傷を負った。首謀者である赤松満祐は、すぐに諸大名の軍勢が邸宅に押し寄せ己を捕えると予期していた。ところが意外にも討手が来ないまま夜になった。赤松は考えを変え、徹底抗戦することにして、邸宅に火をつけて自分の領国播磨へと下った。幕府は混乱していた。事件の翌々日にようやく会議が開かれ、義教の遺子でわずか8歳の千也茶丸(義勝)を後継に立て、赤松討伐の軍略を練った。しかしながら、将軍の死亡により政局がどのように展開するのか不明であったので、なかなか行動を起こすことができなかった。満祐は本国播磨に帰ると、足利直冬の孫義尊を迎えてこれを奉じ、京都への反旗を示した。叛逆者が旧主の縁故者を奉じて謀叛の大義名分とすることは、南北朝内乱以降しばしばみられるやり方だった。赤松追討軍がようやく山名持豊(のちに出家して宗全、西軍の諸将からは赤入道と呼ばれる)の軍勢を中心に編成されることとなった。山名は明徳の乱で赤松に所領を奪われていたので、絶好の報復の機会として進んでこの役を受けた。地方の国人も恩賞の好機として次々に追討軍に参与し、逆に満祐は国人の支持を失った。満祐は弟義雅とともに自殺し、脱出した嫡子教康も伊勢で捕えられ殺された。戦局の鍵を握る国人たちが、いち早く満祐を見限ったことにより、乱はあっけなく収束した。義教が殺害された原因は、彼の恐怖政治にあった。大名家の相続問題に対する干渉、出仕の停止、所領召上げ、理由のはっきりしない誅伐など、守護大名にありとあらゆる圧迫を加えた。公家衆・女房・僧侶・庶民にも激しい圧政を展開し、「万人恐怖」とささやかれた。義教は籤で決まった将軍とはいえ、決して傀儡ではなく、相当な権力をもっていた。確かに室町幕府は守護大名の連合政権的な側面もあるが、将軍には守護大名と全く違った独自の権能と、それを支える軍事力・経済力が依然として存在していたのである。守護大名は自身の力だけでは領国を収めることができなかったので、幕府の権威を当てにするために京都に積極的に身を置いた。この激動期に、国人や農民も勢力を伸ばし始めていたので、守護の権威だけではいかんともしがたくなっていた。これは将軍と守護の関係に似ている。将軍は守護に見放されればやっていけないし、守護は国人に見放されればやっていけないのである。地方政治の中心は彼ら国人にあった。この時代の主従関係は江戸時代のそれと異なり非常に緩いものであり、いつ謀叛が起こるかわからない不安定さを伴っていた。主従関係は法的制度ではなく、人的信頼関係に依拠する面が多かった。それは義教のような専制政治も可能にするが、そのツケが即座に跳ね返ってくることも意味していた。義教暗殺はこのような社会的事情の元に起こったのである。
土一揆の蜂起

 

永享・嘉吉の乱と並行して幕府の屋台骨を揺るがしたものに土一揆があった。その中で特に社会的に影響力が強く、幕府にも恐れられたのが1428年(正長元)の土一揆であった。この年は義教が将軍に就き、持氏の謀叛が露呈、そして飢饉と悪疫が流行し、社会不安・政治不信が頂点に達していた。土一揆はこのような社会情勢の中蜂起された。農民たちは年利6-7割2分という高利に苦しんでおり、徳政を認めろと言ってほうぼうの借金先を襲って証文を奪い取り焼き捨てた。一揆は幕府・寺院の一体的行動によってたちまち弾圧を加えられるが、それに屈せずして各地に波及していく。酒屋・土倉は次々と襲われた。京都では幕府が徳政を禁ずる法令までわざわざ発布された。奈良では独自に徳政令が出された。この正長の大一揆ときわめて密接な関係を持ったのが播磨の大一揆である。これは正長の大一揆の翌年、1429年(永享元)に起こった。この一揆は徳政要求というよりも、国人・農民の連携により守護赤松満祐の軍隊の国外退去を求めるというものであった。守護側の侍は惨憺たる敗北を喫した。土一揆は政争を左右するまでのものとなっていた。さらに正長の土一揆から10年後、1441年(嘉吉元)、将軍義教の死に伴い一揆が起こった。この一揆は規模・組織・成果という点で圧倒的な大きさをもった。正長の一揆のように地域的広がりは見せず、全勢力が京都に集中した。一揆は京都のあらゆる出口を固めて、京都をあまねく包囲した。一揆は土倉・酒屋を襲い、幕府軍と戦った。この一揆は村々の地侍たちが指揮をとり、組織的な戦術がとられていた。計画性もあり、土民だけでなく公家・武家にも適用される「一国平均」の徳政令発布を求めて譲らなかった。幕府側は腐敗しきっており、足並みがそろわなかったので、自体は泥沼の混乱を極めた。蜂起から半年、幕府はついに「一国平均」の徳政令を発布した。土倉・酒屋・寺院など高利貸を営んでいた人々は大きな打撃を受けた。また彼らからの納銭を財源としていた幕府も打撃を受けた。重税に苦しむ農民は、そのまま朽ちるか逃走するかのどちらかであった。このように闘争によって免税を勝ち取ろうとした運動が全国的に起こった時代は、鎌倉以前も江戸以降も存在しない。高利貸がはびこり、農民運動が多発した中世だからこそ起こりえたのである。
自検断の村々

 

この時代の荘園は、まとまった土地を一人の領主が管理するという形態とは限らなかった。空間的に分散した土地の管理区分として、何某荘という名称がつけられた。このような荘園は、後世の土地整理によって名称が喪失してしまう。逆にまとまった区画につけられた名称は、そのまま何某村などという形で現在も残っている。分散した土地というのは農民にとって耕作効率が悪い。荘園の土地区画というのはあくまで年貢徴収の区分を示すものでしかなく、実際の耕作は近隣の村人が現状に応じて行っていた。このため一人の農民がたくさんの荘園の耕地を耕すことがしばしば行われ、「諸方兼作の百姓」と呼んだ。その他、「惣」という、領主から独立の動きを示した荘園も存在する。すべての百姓が団結して「惣百姓」となる。守護を受け入れず、自ら検断を行った。検断とは裁判権や警察権のことである。ここでは守護は年貢を納める対象でしかない。ヨーロッパの封建主義と大きく異なる点である。自検断の状態に至るまでには、血塗られた戦いの歴史があった。荘民が実力交渉のために領主を殺害することもあり、「下剋上の至り、常篇を絶つ」と常識外れの行動とまで言われた。当初は軽犯罪など、処分が簡単にするものだけであったが、徐々に権限が拡大した。不在領主が多かった事実も、この流れを促進した。惣や自検断は、特定の条件の元で領主支配の空きを埋めるものとして急速に発生した。室町時代という、中央が地方を十分に治められず、また地方も住民を十分に支配できていなかった混乱の時代が、荘園を超えたこれら地域的自治組織の発生の温床となった。惣においては、領主支配と関係のない独自の掟が作られた。寄合が重要視され、二度通知されても出席しないものには罰金を科した。これ以外にも、個人の森林財産を侵害する罰など、自主的な規則が定された。村民たちが自治をする際に、灌漑の問題があった。用水の権利をめぐって、村々は対立し、しばしば血みどろの抗争が行われた。その上、守護や幕府に干渉されることもあった。これらの試練が村人たちを鍛え、その結束力を強める結果となった。その他、山野利用をめぐった争いも生じた。生の木の芽や草、また焼いた木草を肥料として使うことが盛んになったからである。この闘争の中、稲作りも農民自身の手で次第に向上された。二毛作・三毛作の発展、灌漑・排水技術、肥培技術が進歩し、この時代の農業の質的発展を支えた。農地経営の集約化と安定化により農業が効率化し、平安・鎌倉時代より農業は着実な進歩を見せた。支配が領主から離れ、現場の農民自身の手によって山と水が管理された結果である。従来は荘園領主や地頭などの夫役や重い年貢により、小規模な労働力では生活を維持できなかったので、弱者は強者に隷従して保護を受ける必要があった。だが、室町時代になると、これまで説明した通りの流れによってようやく小農経営が可能となる。このような農場では、名主が大経営主であることはほとんどなかった。この他、「侍分」「侍名字」などという、村の領主になりあがろうとした小農経営者身分も登場した。彼らは下人を抱え、荘園領主に対するしばしば実力を伴った年貢減免交渉を代表し、また自身は年貢を滞納した。彼らは名主同様に姓を名乗った。上級領主に対抗するためには農民と一揆を形成する必要があったので、侍名字と農民の利害は一致し、惣や一揆を形成した。では守護はどうだったであろうか。守護が幕府で力を張るためには、京都の地元の国人・有力百姓を自己に取り入れることが必須である。細川や畠山のような大名は、争って村々の国人・有力百姓に手を差し伸べ、自己の被官にしようとした。彼らは彼らで、自身が村の領主になりあがることが目的だから、「二君に仕えず」式の武家道徳など存在しない。ある時は土一揆に与し、別のときは忠実な荘官として振る舞い、時には細川に仕え、時には畠山に仕えるといった縦横無尽自由奔放の有様であった。既存の秩序や価値にとらわれない国人領主の振る舞いは南北朝動乱の時代にすでにあらわれていたが、この時代になるとそれが村の侍名字にまで広がっていった。
有徳人の活躍

 

農業の発展は、商業や手工業の世界にもかつてないほどの活気をもたらした。1463年(寛正4)、将軍義政が奈良に出かけたときに、その費用を賄うための「有徳銭」を徴収した。有徳銭とは有徳人にかけられる臨時税であり、有徳人とは富裕な金持ちのことである。有徳銭が徴収されることは鎌倉末期からしばしば行われており、室町においては土倉や酒屋など金貸しを行っていた富裕層に巨額の有徳銭をかけていた。有徳人は有徳銭を差し引いても余りある富を所有しており、土一揆の対象としてしばしばやり玉にあがった。有徳人は室町時代、幕府や守護大名を支える経済的基盤となった。平安時代から鎌倉初期までは、富豪は米・味噌・酒、糸・綿・織物、鍛冶・鋳物など全てを下人や奴婢を使って自給自足しており、またそれが理想とされた。しかし室町時代の富豪は、単に貨幣規模の大小によってランク付けされており、だからこそ土倉や酒屋などの金融業者が有徳人の代表格になるのである。幕府は土倉・酒屋業者を、政所の下の納銭方という組織に組み入れた。そして財政事務を全面的に任せ、土倉・酒屋業界から税金を徴収させて幕府の経常収入に加えた。納銭方は幕府の財布を握っていた。このほか、酒税も幕府の大きな財源となった。鎌倉時代の酒の売買禁止方針から百八十度転換し、酒屋を保護して沽酒(酒を売ること)を奨励した。もともと荘園領主が集まる土地であるから、酒米の確保にもこと足らなかった。酒の元になる酒麹の製造・販売の特権は北野神社が握った。三条・七条(京都の地名)の二つの米場の権利を持っていた4府駕輿丁座は、上京を中心に散在し、薬・唐物・白布・綿・酒・味噌・素麺・麩・材木・炭・紙折敷・銅・馬・茜・紺など多数の商品を扱った。祇園の八坂神社にも多くの座が所属した。これは下京を中心とする商人群であり、綿・小袖・絹・袴腰・材木・今宮魚・柑があった。神供米を定期的に奉納し、代わりにその土地での営業権を独占するという形態である。商品は板で作った棚の上に展示された。「塵が付きにくく、見やすい」と朝鮮から来た通信使が感心したそうだ。彼らは地面に物品を置いていたのである。商品を「みせる」が「見世」となり、室町時代に「店」という表記に変わった。今日の店の構造は、この室町時代に基盤が成立したといってよい。白布棚・魚棚・数珠棚などの店舗ができ(それらの商品を棚の上に置いた店舗のことである)、蝋燭屋・灯心屋・薬屋も存在し、さらに銭湯があらわれ、売春婦まで登場した。女性は春を売るだけではなく、郊外から魚や米、白布や椀、土器や扇などを売る行商人として生業を立てる者もあった。主人が商品の仕入れ・生産をし、妻が売りに出ていたのであろう。京都の町は驚くほどにぎわった。平城京や平安京は、都といえども単なる天皇・皇族の居住地であり、大神社の所在地に過ぎない。商工業が発展しておらず、市民が不在なのである。室町の京都は古代都市を完全に抜け出し、中世都市として繁栄を極めた。それを支えたのは商人・手工業者などの市民であり。有徳の人々である。彼らはやがて町衆と呼ばれ、自治的な市政の担い手となった。奈良も同様に、酒屋と土倉を中心として経済発展をとげていた。一般の民衆に作れないものを専門技術者が生産するということは、古代からずっと行われてきた。室町時代が特殊なのは、一般の民衆が自給できるものを商品として生産し、それによって経済が成り立ったという事実である。座という場所で農民の生産物が販売できるようになり、農村手工業が発展した。これに伴い農民の生活が変わり、また有徳人が台頭し、物資の動きが盛んになり、馬借が営業の場を広げた。農民の意識は向上し、土一揆・徳政一揆を起こすイデオロギーの発展を支えた。日本の歴史は古代・中世においては畿内中心であり、幕府が京都におかれたこの時代は特に高度に発展した。中央と地方の格差も、それに応じて広がった。室町は今日まで続いている土着産業の芽生えの時代である。
海賊衆と勘合貿易

 

南北朝の内乱のさなかである1368年、大陸では新たな王朝が打ち立てられていた。明である。初代皇帝・朱元璋は、金陵(南京)にて即位したのち太祖と称し、すぐさま近隣諸国に使者を送って入貢を促した。対外的に消極的であった宋朝とは相反し、これらの政策は、かつての唐帝国に近い。明はまた、建国以来一種の鎖国政策を取っており、入港は朝貢船のみを受け入れ、さらに自国貿易商人の出国についても制限を加えていった。このことによりアジア諸国間の交易はしだいに密貿易・仲継貿易のかたちをとらざるを得なくなり、それまで交易のなかった遠方へ、商人達は進出していくこととなる。南蛮諸国が日本・朝鮮・琉球をおとずれ、あるいは琉球商人が南蛮の国々へ赴いたのは、こうした時代背景に因る。さて、これら諸国間の交流に際し、解決を要する難問があった。倭寇がそれである。倭寇は高麗の沿岸各地にくりかえし侵略し、主に米と人間の掠奪を行うなどして、日鮮・日明交流にたびたび緊張や危機をもたらした。倭寇といえば「海賊」との認識が強いが、実際のところそれはひとつの側面に過ぎない。そもそも当時の海賊という言葉は、「水軍兵力をもつ海上豪族」を指すものだった。つまり海賊衆は、要するに船持ちの豪族であり、商人でもあった。彼らの国内活動がしばしば海賊行為とみられるのは、水上航路をおさえて関銭をとりたてていたからである。「海賊」と「海商」とが実に紛らわしい関係にある状況で、その区分けとして用いられたのが「図書」である。「図書」とは朝鮮国王が発行した銅印で、通交貿易上の特権が認められていた日本人に与えられた。受図書人(図書を与えられたもの)は意外に多く、これは言い換えれば朝鮮貿易にそれだけ魅力があったからに他ならない。当時の人々が朝鮮に求めていたもの。そのひとつとして「高麗版大蔵経」があげられる。当時朝鮮では儒教が国教化され、仏教は圧迫されていたため、「大蔵経」の入手はそれほど困難なものではなかった。朝鮮に求めたもうひとつのものとして、木綿があげられる。李朝時代に入って、半島の木綿栽培は急速に発展を遂げ(原因不明)、日本へも大量に輸入された。綿布の大量流入は、これまで麻と絹しか知らなかった日本人の衣生活にとって大きな出来事だった。木綿は肌触りがよく暖かく、また容易に染めることが出来たため、絹階級のみの特権であると思われていた着飾りが可能となった。ところで、当時の日本の貿易商人についてだが、以下のような条件を有しているものが豪商となった。 1.海外知識と中国的教養を持つ(主に僧侶) 2.幕府などの権力ラインに密着している 3.海賊衆と緊密な関係にある この三つを有することは、豪商になるためには必須だと言っても過言ではない。日鮮貿易の次に、日明貿易はどうだったろうか。応永8年(1401年)に義満が明に朝貢の使いを送り、その3年後に明側から勘合符を支給されて以来、両国間には勘合貿易体制がひらかれていた。しかし義満の死後、義持の代になると、幕府側は明を拒絶。対明入貢は断絶した。この理由について義持は「神がゆるし給わぬ故」と記しているが、本心は、不仲であった父・義満の政策に反したい為であったようだ。また、明の要求するであろう「倭寇取締り」を満たしたくとも、支配力の弱い幕府では海賊衆を統制できずに満たせなかった、というのが実際の事情のようである。義持の代では断絶されていた対明貿易は、義持の死後に義教の代になると、守護大名や社寺らの要求の高まりもあって、再開された。明との貿易は、たいそう金と手間と暇のかかるものだった。まず当時の航海技術も相まって、出発から帰国までに膨大な時間がかかる(本書の例では約3年とある)。さらに多額の費用がかかる(貿易船は、船持ちから借り入れるのが常だったようだ)。しかしそれでも、日明での「商品の価格差」によって得られる富は多く、5倍返しの確約で借り入れて貿易に乗り出す商人の例などは、枚挙にいとまがなかったようだ。このように美味しい日明貿易だが、「明史」による日本の入貢回数は、たいそう少ない。わずか19回である(琉球:171、安南:89、爪哇:37、朝鮮:30)。しかしこれは、日本が地理的に密貿易に適していたこと、また琉球との仲継貿易が盛んだったこと、が原因のようだ。最後に、貿易政策を通して、幕府の本質について触れてみよう。外国貿易の主体は幕府にはよらず、幕府はその統制権を持ってして、商人から利益の上前をはねているに過ぎなかった。このことにより、幕府と貿易商人とは結びつきを強めていったようだが、これがかえって、土地支配そのものに有効な政策を示しえなかったようだ。封建支配とは、土地支配を土台として成り立つものである。商人支配に頼っていた室町幕府は、いったん飢饉などの自然災害に襲われた場合、たちまち無力さを暴露することとなる。
京中の餓死者八万人

 

将軍義政の時代になると、京都周辺では毎年のように小規模な土一揆が引き起こされるなど、政治的・社会的不安が高まっていった。また、水害や日照り、冷害といった天候不安も生じ、大飢饉が起きた。1461年の正月から2月の終わりまでの2ヶ月間で、京都の餓死者は82000人に達したという。このとき、幕府が何らかの対策を取ったのか。現存する史料からは発見できない。天候恢復の祈願や亡者の冥福を祈らせたくらいで、京都の食料確保、地方農民の逃亡阻止などについての現実的な対策はすこしもなかったようである。幕府の首脳であった畠山家で、相続問題から義就・政長が争いを起こしたように、あるいは将軍義政が寺参りや土木工事に熱を上げていたように、大飢饉のなかで将軍・大名・大寺院などの支配者層は、かえって封建権力者としての無反省と無能ぶりを露骨にあらわしていた。こうした幕府の無策の中で死んでいかねばならなかったのは、貧しい農民や漁民であった。人身売買が辺境地帯でひろく行われ、また零落農民が本人あるいは一家をあげてみずから他人に身売りする「身曳き」も行われた。さらにひろく行われたのは、下層民衆の逃亡であった。飢饉によって、中世的賤民身分の中で卑賤民とされた者たちが真っ先に犠牲となった。このように中世的な社会秩序や身分観念は、自然の災害をより深刻なものとしていったが、こうした災害をきっかけとして大きな社会変動も起こり始めた。備中国新見荘では、現地勢力と守護勢力との対立が公然化し、東寺への年貢は滞った。現地の状況は著しく独立的・反権威的であり、直務代官として派遣された祐清は着任1年ほどで暗殺された。大飢饉が年貢減免をもとめる農民闘争の口火となり、支配者の無策の中で伝統的権威へのおそれが捨て去られ、農民の領主にたいする抵抗が公然たる形をとっていくのである。
悪政と党争
幕府の無策に、ほとんど毎年秋には土一揆が起こっていた。幕府は1457年12月5日に「分一徳政禁制」という法令を発布、土倉保護の立場に立って徳政を禁制し、分一銭をとることにした。そこには政治の理念は見出せず、むきだしの収奪策というほかはない。一揆鎮圧の意欲も能力も失いかけていた幕府に対し、土倉側では自衛や、私徳政を認め焼打ちなどをのがれる方向をとっていった。また、幕府の財政策のうち、もうひとつの悪政は、国々の関所を将軍義政が撤廃させ、京都七口の関所だけをおくこととしたことである。京都七口の関所は本来幕府のものではなく、朝廷のものであった。幕府は朝廷の権限を吸収し、一方で一般の関所停止をおしすすめながら、みずからは逆にそれを強化しようとしたのである。だから、これらの関所は人々の怨みの的となった。土一揆は荒々しいものであるが、世の矛盾にたいして戦いを挑もうとするものであり、社会の正義と進歩とを象徴する現象であるといえる。また、暴徒的な要素を示す「京中悪党」といわれる遊民的下層分子もあり、かれらはときに応じて掠奪・暴行をはたらき、また足軽的な傭兵ともなった。義政がこのような混乱をも顧みず、あらゆる機会に収奪策を強行した理由は、かれの濫費に基づく財政難であったと筆者はみる。義政の行った様々な行事に公家や武家の支配者たちが参観するにあたって、その経費は直接民衆の負担とされた。天下大乱の前提は、そうした動きの中で醸成されていった。このころ、幕府の支柱であった守護大名の家々では深刻な分裂が進行しはじめていた。信濃の守護小笠原家、加賀の守護富樫家に続き、三管領家の一つ斯波家でも内部分裂が生じた。この斯波家の相続問題は応仁の乱の一つの契機であった。こうした守護大名家の内部分裂は、単なる一族間の相続争いというだけのものではなく、争いはすぐ領国内部の国人たちの対立にむすびつき、また細川・畠山など中央政界の権力争いにもつらなっていった。その理由は、守護大名家の惣領職を将軍が任命し、またその惣領職の決定につき守護の被官たちの意向がつよくはたらくこと、という当時の相続制度そのものに原因があったといえる。将軍が御家人の家の惣領を決定するという慣習がこの時代に行われるようになったのは、大名たちの惣領職が、単にその家の私的な問題ではなく、国を治める公的な意味をもつと考えられるようになってきたからだ。つまり、能力ある者が将軍から任命される必要があるという考えが強まってきたのである。惣領職の任命制度は、じっさいには政治的混乱の原因であるほうが大きいが、ここにはたしかに公的意識の芽生えがあった。このような視点からすれば、下剋上というもっとも実力的・無法的な現象すら、「公的」思想の発展と無縁ではなかったのである。こうしたなかで、守護家の分裂は管領畠山家にもあらわれた。これは応仁の乱の直接の導火線ともなった。この分裂で畠山家は力をうしない、中央の指導権は細川勝元・山名持豊ににぎられるようになった。そして内紛はついに足利将軍家にも現れてきた。応仁の乱は目前に迫ることとなる。
応仁・文明の大乱

 

応仁元年(1467)正月、山名持豊・畠山義就派のクーデタがおこり、管領畠山政長が罷免され、かねて持豊の後援をうけていた斯波義廉が新管領に任命された。失脚した政長派の兵士たちは京都市街に火をかけ、酒屋・土倉の掠奪をはじめた。持豊・義就は将軍義政に圧力をかけ、政長を支援する細川勝元の問責を要求、つづいて義視が政長に擁せられることをおそれてこれを幕府に軟禁した。義政は急遽、持豊・勝元以下の諸将にたいし、義就・政長の戦いに介入しないようにという布達を発した。義就は政長の御霊社の陣を襲い、この間、持豊は兵を動かしはじめたが、勝元は義政の命を守って動こうとしなかった。孤立した政長は敗北し、義就は勝利した。政長はひそかに勝元邸にのがれた。5月、中央で一歩おくれをとった細川方の反攻が、地方からいっせいに開始された。細川党は室町幕府を本拠とし、相国寺および北小路町の勝元邸を陣とした。山名党は五辻通大宮東の持豊邸を中心に陣を張った。このときの陣の位置からして、細川党は東軍、山名党は西軍とよばれた。そして両軍ともに大兵力がぞくぞくと入京した。東軍の兵力161500余騎、西軍の兵力116000余騎というのは、この段階について「応仁記」があげる数字である。5月26日から、京都市中における両軍の正面衝突がはじまった。緒戦では東軍が優勢となり、西軍の陣地は多く焼きはらわれた。6月になると義政は立場を明らかにし、義視・勝元に命じて持豊を討たせようとした。こうして、畠山義就と政長の私闘というかたちで始まった戦いは、将軍派とその反対派という名分上の根拠を背景とする戦いにかわっていった。かくして条件は東軍に有利となったが、8月下旬に入ると大内勢が入京し、西軍が優位に立った。緊迫した情勢の中で天皇は上皇とともに東軍のよる室町幕府に移った。ここで東軍は将軍とともに天皇をも擁することとなり、官軍としての形式をも確保した。大内の参戦によって西軍側が攻勢にまわったが、西軍は補給線が長く、東軍に比して戦略的にははるかに不利な立場にあった。そのため戦局は西軍の有利とみえながら、東軍もまた容易に屈服しなかった。室町幕府の中央政治は人々の諸大名の寄合いで運営されたため、その二つの心棒であった勝元・宗全(持豊)が争えば、他の大名もおのずからその争いにまきこまれざるをえなかった。他面からすれば、戦いにさしたる必然性がなく、戦意なき合戦という特徴を生み出した。京中の戦禍をいっそう大きくしたのは足軽の乱暴掠奪であった。足軽が合戦のおりに注目すべき新兵力として無視できなくなったのは、この大乱からである。足軽の特徴は、敵との正面衝突をさけて相手の虚をついて目標につっこみ、放火・掠奪というふうな活動を容赦なくくりかえすところにあった。しかも、足軽は敵にうしろを見せることをなんとも思わぬてあいであった。このような新型の兵力は、京都の陣に随時参加してきた一種の傭兵隊で、その出身は京都周辺の没落農民や浮浪民たちであった。この大乱では、両軍ともに積極的に農民兵の動員をすすめたため、それに乗じて都の近辺の一部の貧農・浮浪人たちや京中悪党も足軽と称して自由勝手の掠奪をはたらくものが多かったとみられる。応仁2年、戦局にひとつの転換がおこった。足利義視が西軍にくみしたのである。自分自身の力の基盤をもたない義政・義視は、争いに巻き込まれ、翻弄されているといってよい。だから、勝元にとっても持豊にとっても、頭にいだくシンボルはどちらでもよいということであった。1469年正月、5歳の義尚が将軍家の家督相続者と決定され、諸将に披露された。一方、東軍に擁せられている義政は権大納言義視の官爵をけずり、公然と義視を敵とすることとなった。西軍は義視につづき南朝=大覚寺統の皇胤小倉宮王子を奉戴した。こうして東軍が天皇と義政を奉ずるのにたいし、西軍は小倉宮王子と義視を戴き、双方ともに名分をととのえる形となった。
下剋上の怒涛

 

応仁の乱は、たちまち地方にも波及していった。地方では大名同士の争いよりも、地侍・農民の変革的・反権力的なたたかいが動乱の基調となっていた。たとえば新見荘では、荘民たちが領主権そのものをさえ否認しようとしていた。この時代の上級領主は勧農策らしいものはほとんどやっておらず、農民たちにとってみれば単なる収奪者にほかならないという性質がつよかった。つまり、庇護の代償としての年貢という相互扶助的な秩序は成立しない。土一揆をおこす農民たちが年貢を納めようとしなくなった背景には、そのような事情が根底にあるからだと考えられる。新見荘民、とりわけ金子衡氏のたたかいとならんで下剋上のもうひとつの典型を示したのは、越前の国人朝倉孝景であった。孝景は1471年、はやくも主家斯波氏にかわって越前守護となった人物である。孝景ののこした「朝倉孝景十七箇条」には、革新的・合理的な物の考え方が大胆に示されており、そこに古代以来の形式主義的・権威主義的考え方がみごとに打破されていく過程を発見することができる。大乱に伴う諸国のうごきをみると、どの地方でも、だれが東軍であり、だれが西軍であらねばならないかがけっして確定的なことではなかった。対立はひとつの地域のなかの国人同士の争いであり、あるいは一族内部の分裂であった。だから、戦局がどちらに優勢といってもそれはたいした意味をもっておらず、戦況はたちまち流動していった。その戦いは中央における山名・細川の争いとほとんど無関係に、国々の内部で国人たちが互いに力をきそい、主家の分裂を利用しつつ自分の力をのばしていく戦いだといってよかった。関東のばあい、情勢の進み方は中央地帯にくらべるといくぶん緩やかであった。太田道灌は新興実力者のひとつのタイプを代表するものであり、そこに東国がそれなりに生みだしつつあった下剋上の方向をみることができる。東北地方は応仁・文明の大乱中もなお一種の孤立のなかにおきさられ、豪族が新興層にとってかわられることもなく、そのまま生きのこって戦国時代にうつっていく。この時代、現地に根を張って成長してきた国人や地侍たちが戦局と政情とを左右する力を発揮しつつあった。国人たちは血縁以外の農民・地侍らを積極的に若党などのかたちでその武力に編成し、同族を横から縦の関係にくみかえて家臣化することによって、全体として一元的なまとまりのある武力を強化しはじめた。そこに国人領主の成長があり、かれらが守護大名にとってかわる条件があった。1473年3月、山名持豊が亡くなり、つづく5月には細川勝元も死んでしまった。こうして東西両軍の主将が相前後して世を去ってしまうと、この戦いは、のこされた諸将たちにとってまったく意味のないものとなった。翌年の4月初め。持豊の子政豊と勝元の子政元は和平のためにあい会し、講和をした。その後もだらだらと戦争状態はつづいたが、1477年10月になると、ついに最大の武力をもつ大内政弘が幕府=東軍に帰順するかたちをとり、畠山義就も領国河内にくだった。こうして乱のはじまりからほとんど11年に近い歳月を浪費して、大乱は終幕に達した。応仁・文明の大乱の意義としては、各地の国人たちの成長と荘園領主・将軍・守護大名の後退と没落とがあげられる。そして、その背後には民衆の力のおそるべき伸長があった。
東山山荘とその周辺

 

11年に亘る大乱の中、自らの意志を貫き得なくなった義政は次第に政治世界から遠ざかり、風流の世界に生きがいを見出すようになっていった。そうして1473年、義政の妻・富子の計らいで義尚が将軍職に就くと、いよいよ失意と孤立のうちに隠遁生活を余儀なくされる。無理押しな利益追求で金まわりを牛耳る富子との折り合いも悪く、孤独を深めるばかりの義政は1482年、東山山荘の造営に着手した。義満の北山山荘造営にならったものであったが、財政状況は当時より遥かに悪く、経済的には極めて困窮している中での造営である。大名から経費・人夫を徴収することも叶わず、もっぱら社寺・公家から取り立てるという惨めな有様であった。1482年6月に常御所が完成すると、義政はそこへ移り自ら築庭の指揮を取った。彼が精魂を打ち込んだこの山荘は、東山文化の粋を尽くしたものである。全体の構成や雰囲気はふかい幽寂さを持っており、「わび」の世界がつよく現れている。このような東山の山荘、特に作庭の精神が、禅宗の思想に支えられたものであり、禅的手法の目立つことは強調されてきた。しかし浄土思想に通じる部分も数多くあり、一概にすべてを禅的なものに帰することはできない。東山山荘の精神には、言わば禅的なものと浄土的なものの融合が見られるのである。義政を中心とする東山文化には、かなり様々の要素が溶け合っている。禅宗的な脱世間性と浄土思想の融合した東山山荘、宗教性を強く示しながら農村的・民衆的な生活に密着している能・花・茶などの芸能文化。義政は多種多様な文化要素を容認・庇護することで、言わば寛容なパトロンとして調和ある文化体系を作り上げたのである。狂言やお伽草子の中には日常の口語が盛り込まれ、文学の中に民衆の話し言葉が進出した。広い文化圏での交通・コミュニケーションの促進は大地域にわたる方言を生んだ。食べるもの着るものなど、衣食住の習慣も変わっていった。「床の間」という新たな生活習慣が発生・発達したのもこの時期である。この時代は生活のさまざまの分野で新しいもの、しかも今日のわれわれにかなり接近したものが発生してきた時期なのであった。
流亡の貴族と僧侶

 

東山文化の周辺に、もうひとつのやや性格をことにする文化の花がひらいていた。応仁の乱後、公家・武家を問わず古典を学ぶことがひとつの流行となっていた。古きものがことごとく焼きつくされ、伝統をになった公家貴族の没落が決定的となると、かえって復古的な思想や好みがわきおこってきたのであろうか。和学流行は応仁の乱で貴族や僧侶たちが邸宅・寺院を焼き払われてしまった結果、各地に流亡離散したことと深い関係がある。貴族・僧侶の、京都から各地への離散は、その多くの所領が武士たちに横領されてしまい、年貢がいっこうにあがってこなくなったためである。だから所領の確保は人任せというわけにはいかず、かれらは地方へくだったのであった。旧支配階層の危機と没落は、かれらのなかに、みずからの祖先たちがのこしてきた文化遺産を保存し、あるいは顕彰しようという気運を強くひきおこすようになった。その代表的人物が一条兼良である。かれの学問は、有職故実の研究から発し、やがて古典文学の研究に進み、さらに神道・儒教・仏教などにもおよんでいった。しかし、かれの学問は有職故実についての厖大な知識と古典の解釈などにとどまっており、とくに注目すべき思想や主張があるのではなかった。これは公家貴族の死滅をも象徴するものであろう。だから、和学の流行も、じっさいには公家社会で発展してゆくというよりは、大名たちの文化的関心のなかに吸収されていく方向をたどった。兼良・三条西実隆らも、大名たちの求めに応じる代わりに財政的援助を受けていたのである。公家がその知識や学問を形ばかり切売りするようになったのと似た現象に古今伝授があった。古今伝授とは、「古今集」のなかの難解な語句を解説する切紙の秘伝と、全部にわたる講義の口授からなっていたものらしい。このころの貴族文学の主軸としての和歌は精彩を失い、ただ「古今集」が偶像視されるばかりであったが、そうした状態がかえって秘伝やその個人的授受を流行させたのである。故実尊重は公家社会のみならず、没落に向かいつつあった将軍家・守護大名など武家上層にも強くあらわれだした。その前提は南北朝期以来つくられていたが、義満の時代に将軍家と公家社会との融合が進められる中でこの傾向はますます強められ、武芸に関わる作法のみならず、それぞれの「分」に応ずる儀礼作法が強調された。現行の秩序に対する下剋上などの危機が進むほど、道に儀礼・格式などが強調されるのだ。応仁の乱で公家貴族とともに大きな打撃を受けたものには五山叢林の禅僧たちがあった。かれらは当代一流の学僧であり、その学問・知識は地方の大名・国人たちから喜んで求められ、地方にくだっていった。同じ禅僧といっても、一休宗純の生き方はこれらの儒僧たちとはまったく違っていた。かれはさまざまな逸話の持主であり、いわゆる風狂の生き方に徹した人物だった。一休は、あらゆる欺瞞的・権威的なものにたいして反抗したといえる。貴族や僧侶の地方への疎開や没落にともなう知識・文化の武士への切売りは、古代以来中央に集中していた文化を地方に伝えることになった。しかし、文化が地域的にもまた社会層の面でも京都の上流社会の独占をやぶってひろまっていったことは、その受容者側の主体的要求が原動力なのであって、その原因を公家や僧侶の地方疎開という現象だけに求めることは正しくない。地方大名・武士たちが新しい支配者に成り上がっていく過程で、なによりもまず治者の心がけともいうべきものを学び、身につけようとしたのである。ところで、このころ地侍・農民上層など地方民衆のなかに、どのていどの文字の理解や読み書きの能力がひろまっていたのだろか。そうした疑問についての正確な解答を求めることは不可能だが、参考になる史料はある。この時代にもっとも普及したのは往来物の中でも「庭訓往来」(消息=手紙の文例や当時の生活でよく使われた単語などを集録した文典)である。このころ、地侍クラスの人々までは、おそらく女子といえども一定の教養をもつものが多くなっていただろう。また、この時代からそれ以後の時期の民衆教育に大きな役割をもつようになったものに「節用集」がある。これは文安―文明年間に京都の建仁寺の僧侶の手によって編まれた一種の字引であり(編者未詳)、いろは順に音引き分類して、各音のなかを天地・草木以下十数種類の部門にわけて語彙をあつめ、簡単な解説をつけたものである。
町衆と郷民の哀歓

 

応仁の乱前後の不安定な世間の中、民衆はいつ災難に見舞われるかという不安と同時に、勝ち取った自らの実力に自身や幸福を見出そうとしていた。そういった民衆の不安と開放感との交錯は、様々の形で表現された。踊りもその一つで、異様な風体の者が数千も集まり鐘や鼓を打ち、念仏を唱え、踊り狂う。芸能の中でも踊りは自らも参加し主演者になる、そこに彼らの感情が率直に表れている。また、踊りなど大勢の民衆が集まることは土一揆などにも繋がり、権力者にとってそれは恐怖であった。幕府や興福寺などの権力者は集団での飲酒や集会を禁止したが、民衆はこれらの禁制をおしかえしても踊りを強行した。民衆の踊念仏などの集会は支配者側と常に対立の中で行われるものであり、弾圧が加えられるものであった。その為、集会には反抗的・政治的な雰囲気が漂っており、そこに興奮、エクスタシーを感じていたものだろう。また、都の祇園祭・葵祭や村々の祭りも、それぞれ規模は違うにしろ、娯楽的要素を持ってきらびやかになり、或いは後者ならば村人同士・外部の人との交流の場となり、市が開かれる、また発展して門前町とも成り得、経済活動を活性化する一環ともなっていた。農村などから発生した土着的な要素を持つ狂言は、支配者層の為に上演するにつれ貴族化されていった。しかし、同時に支配者達を風刺する反権力的な面も持っており、貴族を嘲笑する狂言を貴族の前で上演する者も居た。狂言の種類の一つ「小名物」に分類される物に「成上り」という作品がある。狂言に広く登場する太郎冠者なるものが主人から預かった太刀を盗まれた事について、主人を煙に巻くために成上りの話をするものだが、成上りそのものに民衆の願望を反映している、そして機知に富み、それでいながら素直で悪意ない太郎冠者に、下克上の時代の民衆は人間愛を見出したのだと思われる。この時代は民衆達も成上ることが可能で、ただ隷属する身分から脱出し、自ら人間愛を表現できるようになった。その事から、民衆はこの作品に共感を覚えたのだろう。御伽草子にもこの「成上り」の風が現れている。文学性は高くないが、当時の民衆の気持ちがよく反映されている。金に纏わる話も多く、草子の背景に町衆が居たことが伺われる。中でも出世譚は上昇期にあった町衆の夢と感情を表現するものであり、田舎から出てきて都で大臣になるといった話に仮託され、出世の夢を抱くことが出来るようになった事が表されている。また、字の読めない地方の農民達なども「語り」によってこれらの成上り・出世譚の世界を楽しんだ。鎌倉末期の平曲から始まって、この時代も太平記等が語られていたが、語りの文学の集成の一例として室町期に完成された義経記がある。この貴種流離譚、高貴の者の没落流亡の悲劇は貴族社会にも受け入れられた。踊り、祭、狂言、草子に語りと、この時代の人々は様々な表現形態を得た。これらは下克上の願望と喜び、幾分人間的な生活を送るようになって得た人間愛の世界である。しかし、これらの喜びだけでなく、民衆には絶えず不安と恐怖が付きまとっていた。この恐怖というのも、時代を生き抜くために犯す年貢の不納、時として横領、強奪、殺人、詐欺などの、乱世の罪という他無いものからくるものであった。その為、この頃は俗信化した地獄極楽思想が強く人々の心を捉えた。地蔵菩薩も地獄思想に密接に関ったものであり、庶民から武士まで幅広く浸透した。観音信仰の霊場巡りや伊勢参りもこの頃から貴族、庶民に至るまで広まった。これら観音・熊野・伊勢の信仰や、高野詣、霊場巡りはブーム的なもので、何か教義に基づいたものではなかったが、一生を村落に留まるところから一歩踏み出した積極性に価値を見出せると思われる。また、俗信的なものより宗教として積極的な役割をもったのは仏教諸派であった。上流階級や武士に関係する土蔵衆は禅宗に帰依するものが少なくなく、また日親の功績で京の町衆には法華宗が広まった。
蓮如

 

浄土真宗中興の傑僧といわれる蓮如が本願寺8代目の法主となったのは、長禄元年(1457年)のことである。悪政と天災とが横行する世相のなかで、伝統的な天台などの教派は加持祈祷など密教的な行事で人々から金品を奪い、同じ真宗とはいえ専修寺派や仏光寺派は、始祖の教えとは縁のない異端の説をとなえている。蓮如にはこれらの教えは悉く誤っているものに思われた。本願寺派は門徒の数は微々たるもので、法主の一族の生活も貧苦のどん底であったが、彼は自己への確信を携えて民衆のなかに入っていった。蓮如の最初の布教は近江の、堅田衆と呼ばれる人々から始められた。しかし彼の活動は平穏無事にとは行かず、伝統的な貴族仏教の牙城延暦寺(山門)の怒りに触れて、何度も様々な理由を持って、堅田の本願寺は山門に襲撃されている。これは蓮如の説く所が過激であり、排他的な側面を有していたためでもあるが、単純に財力を目当てにした襲撃でもあったらしい。これに対して蓮如は低姿勢でことを収めている。この理由として、本願寺派ではない真宗の諸派が、山門に接近して、本願寺派の足元をおびやかしていたことがあげられる。その後の文明3年(1471年)5月、蓮如は越前吉崎にくだり、やがてその地を新たな布教の拠点とした。ここで蓮如がとった布教の作戦は、活発な「御文」の作成・付与と講の組織であった。「御文」とは蓮如の教えを記したものであり、これは瞬く間に普及していった。もうひとつの作戦は、講(寄合)の組織であった。蓮如は人々が月々寄り集まり、そこで互いに信心を語り合うことを推奨した。僧侶と民衆、ではなく、民衆相互の接触を推奨したのだ。講を開く場所は道場と呼ばれ、主に信徒のなかの有力者の住宅で開かれた。道場の上部機関としては末寺があり、その更に上に本願寺が据えられた。本願寺(本山)→末寺→道場=講(寄合)真宗の布教方式はみごとに組織だっており、また、末端の寄合を通じて、門徒自身の手で門徒はネズミ算式に数を増やしていった。蓮如の布教活動は、実に戦術的・打算的なものであり、彼はまず坊主・年老・長といった支配層に教えを施した。下々のものは彼らに従うだろうという考えだった。また門徒からの「志」(納入金)も、門徒の喜びの表現であり、自然のこととして肯定している。「志」は師匠・坊主の手によって本山に集中した。吉崎での活動は目に見えて成果をあげ、門徒は膨大な数に増加した。それは見様によってはみごとに組織された一大武力であった。この一大武力に眼を付けたのが朝倉である。時は応仁・文明の乱のただなか、東軍・朝倉は蓮如に助力を請うたが、蓮如は拒否の態度を示した。しかし西軍・富樫幸千代が高田派門徒を誘いいれ、同門徒も本願寺派門徒に対して武力攻撃をしかけたことで、本願寺派門徒は蓮如の制止をきかず奮い立った。文明6年(1474年)7月、決戦の幕が切って落とされたが、それは加賀の守護方と本願寺派門徒の正面衝突という性質のものであった。門徒の圧勝で終結している。しかし翌年に状況は一変し、門徒は東軍・富樫政親との対立を明らかにし始める。蓮如はこれに対し、「編目」を発行して「現世の支配者と対立してはならない」と説いているが、惣型村落であり強い結合性や排他・封鎖性を有する吉崎の性質に、講によって結びついた集団性と平等性が合わさった門徒の勢いは止められなかった。恐れを持たなくなった門徒は守護に対する年貢を坊主らへの「志」に転換させていった。「編目」発行のわずか1ヵ月後、蓮如は吉崎を退去した。その後、蓮如は河内国の出口に根拠をおいたのち、さらに山城国山科郷に移っている。その間、山門の衆徒に圧力を加えられもしたが、すでに吉崎布教以前とは打って変わり、本願寺は簡単に山門の圧力に屈するものではなくなっていた。北陸はもちろん近内畿国でも門徒の数は飛躍的に増え、法主蓮如はやがていやおうなしに聖界領主としての性質を示し始めた。蓮如と門徒とが、領主と領民との関係に近づき、両者の立場や性質は乖離していった。延徳元年(1489年)、加賀の一向一揆により富樫政親が殺害された翌年、蓮如は75歳をもって山科本願寺の南殿に隠居する。もはや歴史は蓮如の時代というよりも一向一揆の時代に移りつつあったと筆者は言う。
山城の国一揆

 

蓮如が乱世に乗じて巧みに組織を作り上げていく一方、京都周辺でも激しい農民闘争が繰り広げられていた。嘉吉の大一揆以降、悪政と飢饉に悩まされていた農民のフラストレーションが爆発したのである。その中でも1480年(文明12)に山城・大和・丹波で起こった一揆の規模は一線を画していた。土民・京中悪党などの下層市民、守護型の兵士なども一揆に参加し、関所の撤去や徳政を求めた。その後も次々と一揆が起こった。これら一連の一揆はこれまでとは違っていた。それは徳政を要求するものではなく、自ら地域の権力を永続的に掌握しようという動きであった。しかしながら、誰が地方の次なる統治者になるかは決定的ではなかった。備後の国櫃田村の百姓たちは、旧来の支配者である領主を防波堤にしながら、新興勢力の国人・地侍の侵入を阻止した。農民たちも、みすみす新興勢力に支配されてなるものかという強い意気込みがあり、それが地方での決定的な権力が発生することの妨げとなっていた。大和では他国と違い、興福寺が国の守護の地位をもらっていた。その半面ではまた政長か義就の被官となっていた。この二者は争い、戦いは数年間続いた。国一揆は、このような両軍対立の中ではっきりとその姿を現した。京都と奈良を拠点として二者が争うのであるから、この二地域では一揆が頻発した。ついには一揆が政長・義就両軍に要求をつきたてる。国人・地侍・土民が軍を退去させたのである。前代未聞、下剋上の極みであった。地方住民の集団である惣は、自検断の性質をもつようになり、ついには一国的規模にまで達した。惣は半済によって年貢徴収権を守護から略奪し、検断(≒裁判)も自己で行った。
乱世の国家像
応仁の乱から山城の国一揆へと歴史の激戦が続いていく中、足利義政は1483年(文明15)、東山山荘に移り、全ての世俗から抜け出してひそかに風雅の世界に生きようとした。妻の富子、子の義尚ともうまくいっていなかったようである。義政と義尚の不和の原因は、女性関係であったといわれている。義政はこのころにはすっかり政治的意欲を失い、世に諦観を抱いていた。相次いだ大一揆にも全く政治的無責任な態度で臨んでいた。一方義尚は勝気な性格であった。生まれてきたことが応仁の乱の原因となったのだから無理もない。彼は父と争い、母も捨てた。幕命に従わない地方の国々の領主を討伐するために征伐に出向こうとしたが、1489年(延徳元)ににわかに陣中で死亡した。過度の酒色が祟ったのだろう。義尚には跡継ぎがいなかったので、美濃に下っていた義視はすぐに子の義材をつれて上洛し、義政の跡継ぎにした。義政は義尚の死の1年とたたないうちに、後を追うように死んだ。 将軍はもはや聖女の中枢に立つことはできなかった。地方は独自の権力体制を形成し、独自の道を歩み始めていた。為政者の無能が世の混乱を招く中、地方住民は独力で生きる道を模索し始めていたのである。
 
歴史雑説

 

 
蒙古襲来絵詞と竹崎季長 
はじめに
蒙古襲来絵詞は肥後国の御家人竹崎季長が製作した大変貴重な絵巻物である。蒙古襲来絵詞は蒙古が襲来した一二七四年の文永の役、一二八一年の弘安の役の両度の蒙古合戦に参加し、この両度の蒙古合戦で活躍した肥後国の御家人竹崎季長が、文永の役での自らの出陣の様子やその文永の役で、戦功を挙げた様子と、その文永の役で活躍したにもかかわらず恩賞をもらえなかったために鎌倉に参り、鎌倉幕府の御恩奉行安達泰盛に庭中したところ、安達泰盛は竹崎季長の要望をきき入れてくれ、竹崎季長を勇者と認めてくれ、海東郷の地頭職を賜ったこと、更にその後竹崎季長が弘安の役で挙げた戦功の様子等を絵巻物に仕立たものである。
蒙古襲来絵詞は同絵詞の終りの詞書に鎌倉時代の永仁元(一二九三)年二月九日に成立したと記されている。ところで永仁元年は八月九日に改元されたため、永仁元年二月九日は実際は正応六年二月九日である。このように永仁元年二月九日と記されている年月日は正しくは改元される前の正応六年二月九日でなけれぱならないにもかかわらず、永仁の年号が用いられていることから、蒙古襲来絵詞がこの年に成立したことについては疑問が投げられ、蒙古襲来絵詞はこの年の成立ではなく、遥か後世の成立ではないかとする論もある「蒙古襲來絵詞に就いての疑と其解釈 荻野三七彦」(歴史地理第五九巻第二号)。しかし、蒙古襲来絵詞がこの頃に成立したことは間違いないであろう。
蒙古襲来絵詞は十九世紀の初め頃の江戸時代の終りに現在のような形に調巻されたらしく、現在、前巻と後巻の二巻の形に調巻されている。現存する部分だけで、前巻二十三メートル、後巻二十メートルに及ぶ長大な絵巻物である。明治二十三(一八九〇)年、熊本県の大矢野十郎が明治天皇に献上して御物となり、現在に至っている。
蒙古襲来絵詞は大変有名な絵巻物であり、ほとんどの人々が同絵詞の一部を写真や絵等で目にされたことであろう。中学校の歴史の教科書には全て、高等学校の日本史の教科書にも全て、口絵や挿絵として同絵詞の写真が採用されている。また、小学校の社会の教科書に於いても教科書の半分が挿絵として同絵詞の写真を採用している。日本の人々のほとんどが一度や二度は目にした筈であり、また、ほとんどの人々が記憶にとどめられておられるであろう。大変有名な絵巻物である。こうしたことにみられるように蒙古襲来絵詞は大変有名であり、そのためにその製作者の肥後国の御家人竹崎季長とともに蒙古襲来絵詞は大変盛んに研究されてきた。しかし、その割りには製作者の竹崎季長についても、絵巻物の蒙古襲来絵詞についてもまだまだその実像、実態はよく判っていないようである。大変残念なことである。従って、改めて蒙古襲来絵詞とその製作者の竹崎季長についてできうる限り、その実像、実態にせまってみたい。
また、周知のとおり、蒙古襲来絵詞は肥後国の御家人竹崎季長が蒙古襲来に於ける自らの戦功や活躍を記したものであり、蒙古襲来の事件全般について記された絵巻物ではない。従って、蒙古襲来絵詞は、蒙古襲来絵詞という呼称は適当ではなく、竹崎季長個人の活躍を記したものであることから、竹崎季長絵詞とすべきであるとの江戸時代の屋代弘賢以来の論がある。学術的には確かにそのとおりであろう。しかし、蒙古襲来の文永の役では「しぬへかりしみなり」(詞四)と、九死に一生を得るような働きをし、弘安の役でも、本文で述べるように竹崎季長はその緒戦の志賀島の合戦で、負傷し、またこの弘安の役の全体をとおして活躍し、蒙古襲来の文永の役、弘安の役の両度の戦いに命を懸けて戦っているのである。このような竹崎季長の活躍ぶりをみると、竹崎季長は鎌倉御家人の代表的な人物である。このような竹崎季長の命を懸けた一所懸命な生き方をみれば、この絵巻を単に竹崎季長個人の活躍を描いたものであるとして竹崎季長絵詞とは称するには忍び難い思いがする。この絵巻物はやはり蒙古襲来絵詞と称するべきであろう。ために、この論では全篇敢えて竹崎季長絵詞ではなく、蒙古襲来に際して愚直に一所懸命に生きた鎌倉御家人の代表的な人物である竹崎季長の意気に感じて蒙古襲来絵詞の呼称を用いる。 
第一章  蒙古襲来絵詞総論
一 蒙古襲来絵詞の研究概観
蒙古襲来絵詞の研究状況については昭和五十年に出版された「新修日本繪巻物全集十 平治物語繪巻・蒙古襲来繪詞」(角川書店)の巻末にまとめられている。「『竹崎季長絵詞』の成立 石井進」(日本歴史二七三号)以下従来の蒙古襲来絵詞の研究業績が網羅されている。また、竹崎季長については、「竹崎季長おぼえがき 工藤敬一」(日本歴史第三一七号)がある。更に最近に至って、熊本県教育委員会が昭和四十八年から四十九年に竹崎季長と蒙古襲来絵詞について総合調査をおこない、昭和五十年その成果を「竹崎城」として発表された。報告書の「竹崎城」はかなり膨大な量のものである。ただ惜むらくは「竹崎城」の内容は概論的であり、従来の竹崎季長と蒙古襲来絵詞についての見解の枠を出ていない。また、新しい見解についても、従来、蒙古襲来絵詞は二種類存在したとされている見解について、三種類存在したとする見解等が論じられている。しかし、本論で述べるようにこのような論は存在しえない論である。また、「荘園公領制の成立と内乱 工藤敬一」(思文閣史学叢書 思文閣出版 平成四年)の「第十四章、竹崎季長ーその出自と領主支配」は同氏の前掲論文「竹崎季長おぼえがき」と、同氏の「竹崎城」に収録されている竹崎季長についての論を収められたものである。また、「蒙古襲来研究史論 川添昭二」(中世史選書 雄山閣 昭和五十二年)は蒙古襲来絵詞と竹崎季長の文献と研究を含めた蒙古襲来関係全般についての文献の蒐集と研究論をまとめられたものであり、また、それらのそれぞれについて見解を述べられたり、解説をされ、蒙古襲来関係の文献を細大洩らさず収録された大変精致な作業の労作である。
前記した「新修日本絵巻物全集十 平治物語絵巻・蒙古襲来絵詞」(角川書店)は御物本の蒙古襲来絵詞の大変鮮明な写真版、コロタイプ版の画像を収録しており、ついで、昭和六十三年に「日本の絵巻十三 蒙古襲来絵詞 編集・解説 小松茂美」(中央公論社)が出版された。御物本蒙古襲来絵詞の全篇にわたる鮮明なカラー写真版である。従来、蒙古襲来絵詞は御物であるが故に実物の蒙古襲来絵詞を一般の人々は直接見る機会が少なかった。「日本の絵巻十三 蒙古襲来絵詞 編集・解説小松茂美」(中央公論社)は御物本の蒙古襲来絵詞の全篇にわたる鮮明なカラー写真による出版であり、これはそのような障害を取り除いてくれ、蒙古襲来絵詞の研究への便宜の道を妬いてくれた。大変喜ばしいことである。その他「皇室の至宝-御物」(毎日新聞社平成三年)が出版され、その第一巻「絵画1」に蒙古襲来絵詞が全篇鮮明なカラー写真で収録されている。同書の蒙古襲来絵詞の解説は宮次男氏が担当されているが、内容的には前掲の「新修日本給巻物全集 十 平治物語絵巻・蒙古襲来給詞」に収められている同氏の解説の要約である。
蒙古襲来の文永の役の後、鎌倉幕府は蒙古軍の再来襲に備えて、西は今津から東は香椎に至るまで博多湾一帯に九州の御家人等に命じて石築地を築いた。石築地が築かれて間もない時期か、もしくは中世の時期にこの石築地を描いた絵として、或は石築地を描いたものと考えられる絵としては、現在二例が知られている。一つは蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二であり、竹崎季長が生の松原の石築地を警固する菊池武房等肥後国の諸士の前の海汀を出陣している場面であり、生の松原の海岸の汀近くに築かれた石築地が海側から描かれている。弘安の役の始め頃の築かれて間もない石築地が描かれて、石築地の様子がよく判る。確実な中世の石築地の絵として現在知られているのはこの一例のみである。他の一つは博多の禅寺の聖福寺を描いている聖福寺古図に描かれている石塁である。石築地を描いたものであるかどうか今一つ断定されていないが、海岸に石塁が描かれ、これは石築地を描いているものであろうと推定されている絵である。聖福寺古図は永禄六(一五六三)年、博多に兵火が起きた時、紛失したが、同寺の住職の玄熊が後日捜し出し、修補したと同絵図に記されており、この記述からすれば少なくともこの記述以前の、即ち、十六世紀半ば
以前の作品である。現在、蒙古襲来の文永の役後築かれた石築地を描いた絵として、或は石築地を描いたものと推定される絵として知られている絵は以上の二点、二場面のみである。
石築地、所謂防塁については川添昭二氏の祥細な研究がある。川添昭二氏の「注解元寇防塁編年史料」(福岡市教育委員会 昭和四十六年)は石築地、異国警固番役や元寇防塁関係の史料を細大洩らさず収録された労作である。ところで同書の生の松原地域の石築地について述べられている箇所を少々長文になるが引用してみる。
「以下、文献史料から知られるこの地域の石築地に関して記そう。端的にいって、間接史料はともかく、この地域の石築地役・警固役に関する直接史料はほとんど無い。鎌倉末か南北朝ごろの製作にかかるといわれている竹崎季長絵詞は、わずかに直接史料といえるものであろう。絵詞の図は、弘安の役のおり、肥後国の御家人竹崎季長が志賀島海上付近の敵船を襲撃するため生の松原の石築地の前をとおっているところをえがいたものである。詞書を参照すれば、肥後国の御家人菊池武房が固めている役所(石築地築造・警固分担場所)の前を季長が武房に挨拶して、海汀を東へ向かっているのである。」(一〇三頁)
また、蒙古襲来絵詞の詞十と絵十二についての説明に、
「なかでもここにかかげた箇所は、生の松原の石築地の状況を画いたものとして唯一のものである。肥後国の御家人菊池二郎武房が警護している石築地の前を、武房に挨拶しながら季長が出障しようとしている詞と絵で、現状とほぼかわりない。」(一五六頁、一五七頁)
以上のように、生の松原地域の石築地について川添昭二氏は同書で先に述べた蒙古襲来絵詞の絵十二のみが石築地を描いた唯一の絵であるとされ、詞十の「たけふ口のかためし役所の石つい地のまへにうちむかて」について、生の松原の石築地の様子を記したものとしては唯一のものであると論じられている。
現在では、また当然のことであるが、博多湾沿岸に築かれた石築地全体についても、石築地を描いた絵としては生の松原地域に限らず、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二のこの場面が確実なものとしては唯一のものと考えられている。
ところで、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十三に竹崎季長の兵船とその竹崎季長の兵船に生の松原よりのりける人々の絵が描かれている。その絵十三の十二紙の下方から十一紙の最下方にかけて右下りに屈曲した線が左下方に短い斜めの引き線をともなって描かれている。これはよく見ると、ぽぽ同じ大きさの平たい石が連なって並べられているのを描いている線である。海岸に連なって並べられている石が石築地であることはいう迄もない。即ち、陸地側から見た石築地の頂部の線、天端の線が描かれているのである。画面の注記に「季長かひやうせんにいきのまつはらよりのりける人々」とあり、勿論、場所は生の松原である。
先に石築地を描いた絵、或は石築地を描いた絵と考えられる絵として現在知られているのは二例のみであることを述べた。また、その二例のうち、鎌倉時代当時の石築地を描いた絵としては蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二のみであるとされている。先の川添昭二氏の論にみたとおりである。しかし、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十三には以上のように生の松原の石築地が描かれているのである。現在、石築地の海に面した側の様子は先の後巻の絵十二に描かれている様子、石築地の現状や石築地の機能等からよく知られている。しかし、石築地の陸地側の様子は余りよく判っていない。
このような石築地の陸地側の様子を明らかにしてくれる大変貴重な場面である。また、蒙古襲来絵詞の後巻の絵十二の画面の構図は、海上から見た生の松原の石築地の上で警固する菊池武房等肥後国の諸士とその石築地の前の海岸の汀を出陣して行く竹崎季長主従というように描かれているが、後巻の絵十三はこのような構図と対象的に陸地側から生の松原の石築地と海岸を描き、石築地の先に見える海上に浮かぶ竹崎季長の兵船を描いているのである。「丹鶴叢書」の収録する蒙古襲来絵詞は明瞭にこの石築地を描いている。その他、この画面の中に陸地側から見た石築地が描かれていることは既に桜井清香氏も同氏の著書「元寇と季長繪詞」(徳川美術館)でこの絵十三の画面の挿絵に「石塁」と注記して描かれている。
蒙古襲来絵詞の後巻の絵十三は当時の石築地を描いている絵としては二例目の大変貴重な映像である。また石築地を絵十二と対象的に陸地側から描き、石築地の従来余り明確でなかった陸地側の様子を明確に描写して石築地の研究上も大変貴重な画面である。以上の例にみられるように、蒙古襲来絵詞は大変貴重な当時の歴史的史料である。
蒙古襲来絵詞が作製された鎌倉時代の後期は多数の絵巻物が作製され、絵巻物の作製の全盛期であるが、蒙古襲来絵詞は他の絵巻物に比べても美術的にも大変優れた作品であり、また、蒙古襲来の文永の役、弘安の役の合戦の様子、蒙古軍の様子等を大変リアルに且写実的に伝え、また当時の武士の服装、武装等の風俗や景観等も正確に伝え、歴史的史料としても大変貴重な作品であることはいう迄もない。
今後、蒙古襲来絵詞を祥細に検討、研究していくことによって、明らかにすることができる事実や事象は大変多いであろう。しかし、蒙古襲来絵詞の現在での研究はまだまだ端緒についたばかりであるということがいえる。 
二 蒙古襲来絵詞の伝承
竹崎季長が蒙古合戦の文永の役、弘安の役での自らの活躍の様子を絵巻物に仕立てたこの所謂蒙古襲来絵詞が竹崎季長以後どのように伝承されて来たのか大変謎が多い。現在、蒙古襲来絵詞の伝承については、同絵詞に添えられている大矢野十郎の添状と同絵詞を納めた箱の蓋裏の貼紙等によって知られるのみであり、それらによれば以下のように伝えられている。
竹崎季長は作成した蒙古襲来絵詞を甲佐社に奉納し、それが戦国時代も終わりの頃に、肥後国宇土の城主伯耆(名和)左兵衛尉顕孝に伝えられていた。そして伯耆顕孝の女が天草の大矢野城主大矢野民部大輔種基と結婚することになり、大矢野種基の先祖の大矢野十郎種保、同三郎種村の活躍の様子が蒙古襲来絵詞に描かれているので伯耆顕孝から大矢野種基に贈られたものという。大矢野種基は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参戦してかの地で戦死したという。その後、肥後国は二分されて熊本を加藤清正、字土を小西行長が支配することとなったが、大矢野氏は加藤清正に仕えることになり、清正の死去後は細川家の家臣となった。以来、蒙古襲来絵詞は大矢野家に伝来してきたとされている。
大矢野氏は天草の大矢野島を本拠地とした鎌倉御家人であり、国人領主としても著名である。大矢野種基は豊臣秀吉が、島津氏討伐のために九州に下向してきた時、豊臣秀吉に従った。大矢野氏の由緒について少しみてみよう。大矢野家には「大矢野氏先祖付」が伝えられている。それによれば、既に原本は失われて写しであるが、大矢野氏の古文書が伝えられている。(1)
於肥後国天草郡内九十町之事、此度爲御恩地被仰付侯上者、全致領地、可與力羽柴陸奥守(佐々成政)、向後可抽奉公之忠勤者也、
天正十五 五月晦日           御朱印(豊臣秀吉)
大矢野民部大輔(種基)とのへ
肥後国天草郡内千七百五十五(石税)之事、此度以御恩(検)地之上、爲被宛行之詑、全令領知、小西摂津守(行長)干致合宿、可抽忠節候也
天正十六 後五月十五日         御朱印(豊臣秀吉)
大矢野民部大輔(種基)とのへ
若干疑問のある古文書であるが、大矢野氏の当時の領主としての在り様を物語っている古文書であることは間違いないであろう。以上のことからすれば大矢野民部大輔種基は最初、豊臣秀吉から天草郡内に九十町を朱印地として与えられ、佐々成政の与力となり、佐々成政が豊臣秀吉によって肥後国の国人一揆の責めを負わされて滅ぼされ、つづいてその後、加藤清正が肥後国の北半を領し、小西行長が肥後国の南半を領して、天草郡を領すると天草郡内に千七百五十五石の朱印地を与えられ、小西行長の与力となったようである。そして豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まると、大矢野種基は小西行長に従い、朝鮮に出兵したが、文禄二(一五九三)年八月二日朝鮮の順天に於て戦没した。その後、大矢野種基。の子孫は小西行長が関ヶ原の戦いで西軍に属して滅び、加藤清正が肥後国一国を領すると、加藤清正に従った。そして加藤清正の子、忠広の頃に大矢野種基の子孫の大矢野嘉兵衛尉直重は玉名郡下長田村に領地を与えられ、その所領である玉名郡下長田村に移ったようである。
そして、大矢野氏は加藤忠広改易後は加藤氏の跡を襲った細川氏に仕えた。蒙古襲来絵詞は以上のような大矢野種基とその子孫に伝えられた。そして、文政八(一八二五)年大矢野門兵衛は蒙古襲来絵詞の保管を藩主の細川氏に願い出、以後蒙古襲来絵詞は藩主の細川家で管理されたという。尚、大矢野家より、藩主の細川家に管理が移された頃の十九世紀の初に肥後藩の福田太牽が現在の蒙古襲来絵詞の形の前、後、二巻に調巻したという。明治二(一八六九)年の廃藩置県によって、藩主の細川氏は大矢野家に蒙古襲来絵詞を返還した。そして、明治二十三二八九〇一年、大矢野十郎が明治天皇に献上して、以後、蒙古襲来絵詞は御物となって現在に至っている。 
三 蒙古襲来絵詞の作製地
蒙古襲来絵詞は何処で作製されたのであろうか。蒙古襲来絵詞の製作者については「蒙古襲来絵巻物履歴ならびに軍旗之來」(天草郡史料 第弐輯 天草郡教育会編)は「土佐画工(長章長隆画工名鑑に有り)父子に嘱託して書かしめ、詞書自筆して其家蔵む」と、絵は京都の土佐派の絵師長章、長隆の父子の両人に描かせ、詞書は竹崎季長自らの自筆であるとしている。しかし、現在では蒙古襲来絵詞が京都の土佐長章、長隆の父子作であることをそのまま信じる人は誰もいないであろう。蒙古襲来絵詞の美術品としての価値について桜井清香氏は「この絵巻が非常に勝れた名品であると云うことは出来ない。『平治繪詞』に比して遥かに劣るもの…」とされ、蒙古襲来絵詞の美術的価値については余り高く評価されていない(2)。そして作製者は「肥後在住の画人であって、季長の住地と余り隔ってはいなかろうと思える。恐らく熊本辺に住んでいた画家であろう。而して其の二筆は師弟であろう。」と肥後国熊本辺に住んでいた絵師であろうと推定されている(3)。その他に大宰府画壇に連なる絵師によって描かれた等の考えも出されている。例えば阿蘇品保夫氏は「季長が行ったことは、大宰府あたりの絵師に依頼して合戦や訴訟の次第を絵巻物に描かせたことである。」と、蒙古襲来絵詞は竹崎季長が大宰府あたりの絵師に描かせたとされている(4)。そうした論のなかで小松茂美氏は肥後とも、大宰府とも、京都とも、その作製者の絵師を断定されてはいないが、蒙古襲来絵詞の描法は大和絵の本流に連なると指摘されている(5)。大変注目すべき見解であろう。
先に述べたように桜井清香氏は蒙古襲来絵詞の美術的価値、芸術的価値を評価されていない。確かに桜井清香氏が指摘されたように一見した蒙古襲来絵詞は平治物語絵詞に比べると平治物語絵詞のような大変洗練された美しさや華麗さはない。どちらかというと如何にも地方の武士の生き方を表わしている骨太い力強さが感じられる。平治物語絵詞は京都の華麗さをよく表しているが、武士の力強さは感じられない。しかし、蒙古襲来絵詞は実戦で闘ってきた武士の力強さがその人物像にもその他の風景にもよく描かれている。また、平治物語絵詞に比べると一見すると地味であるがよく見ると人物像も大変華麗に描かれている。また、何よりも人物の一人一人の表情が肖像画のように忠実に描かれ大変写実的に且丁寧に描かれているのである。
ただ惜しむらくは桜井清香氏は気づかれていなかったが、別項の第二章で指摘するように所々に後世の、多分に江戸時代大矢野家に伝世されるようになってからであろうと思われるのであるが、かなり稚拙な描き変えがおこなわれてしまって原画の本来の優秀さを損なってしまっているのである。こうした大変稚拙な描き変えを除いた本来の原画のみで鑑賞してみると大変優れた作品であることがわかる。人物の描き方も樹木の描き方も小松茂美氏が指適されたように大和絵の本流の描き方に従って忠実に描かれていることがわかる。蒙古襲来絵詞は決して同じ合戦絵である平治物語絵詞に勝るとも劣らない出来映えの作品である。また、蒙古襲来絵詞と平治物語絵詞とは同じ合戦絵であるといっても異なる性格の絵巻物であるとみるべきで、両者を同じパターンで比較すべきではないであろう。ともかくも蒙古襲来絵詞が美術的にも大変優れた作品であることは疑いえないことである。
ところで、十二世紀の後半に製作された応天門の変に題材をとった伴大納言絵詞がある。この伴大麹言絵詞は、後白河法皇の勅願によって平清盛が建てた蓮華王院の宝蔵に蔵せられ、後白河法皇が愛玩されたことで知られている。その伴大麹言絵詞の絵に応天門に放火した犯人が露顕する切掛となった伴大納言家の出納の子と右兵衛府の舎人の子の喧嘩の場面がある。この場面はそっくりそのま。・松崎天神縁起絵巻の子供の喧嘩の場面に使用されていることはよく知られていることである。松崎天神縁起絵巻は小松茂美氏によれば応長元(一三一一)年松崎天満宮を崇敬した周防国の国司土師信定が摂関家の鷹司宗嗣の援助をあおいで京都に注文して作製したものであるとされている(6)。絵師は不明であるが、京都の宮廷絵師であることは当然である。京都の宮廷絵師であるから当時連華王院の宝蔵に所蔵されていた伴大納言絵詞を見ることができ、その見たことのある伴大納言絵詞の絵の一部分である喧嘩の場面を松崎天神縁起絵巻の子供の喧嘩の一場面に使ったものである。
蒙古襲来絵詞で最も有名な場面である竹崎季長が鳥飼潟の塩屋の松の下で自らも傷つき、馬も射られて馬が踊り狂っている状態で奮戦している蒙古襲来絵詞の前巻の絵七の場面がある。絵七のこの場面は江戸時代に稚拙な手が加えられて、本来の蒙古襲来絵詞の絵の感じが大変損なわれてしまっているようである。例えば竹崎季長は矢を三本背負っている於、これは後世、江戸時代の描き加えである。絵七のこの場面について平治物語絵詞の六波羅行幸巻の五紙の絵と比べてみよう。この絵のなかで武士の乗った馬が飛び跳ている場面があるが、蒙古襲来絵詞の絵七の竹崎季長が奮戦している絵と全く同じである。蒙古襲来絵詞の絵七の竹崎季長の奮戦している場面は平治物語絵詞のこの場面から借りた場面であるとすることはできないであろうか。その他にも平治物語絵詞に描かれた馬の様子は蒙古襲来絵詞に描かれた馬とそっくりである。
先に松崎天神縁起絵巻に描かれた子供の喧嘩の場面は伴大納言絵詞の子供の喧嘩の場面を借用していることをみた。こうした現象は松崎天神縁起絵巻を描いた絵師は京都の絵師で蓮華王院の宝蔵に所蔵された伴大麹言絵詞を見ることが出来る立場にある京都の宮廷絵師であるから出来たことである。同様に蒙古襲来絵詞の最も有名で代表的な場面である絵七の竹崎季長の奮戦している絵が平治物語絵詞の六波羅行幸巻に描かれている場面と同じであり、また、その他にも平治物語絵詞の絵と共通する絵が存在するとすると、蒙古襲来絵詞を描いた絵師は平治物語絵詞を見ることができた絵師であるとすることができるであろう。即ち、蒙古襲来絵詞を描いた絵師は平治物語絵詞を見ることができた絵師である。それでは平治物語絵詞は当時どこに所在していたのであろうか。後崇光院伏見宮貞成親王の日記である「看聞御記」の永享九年(一四三七)六月二三日の条に
廿三日。晴。法輪院参。対面雑談。平治繪ハ山門秘藏。綸旨。院宣。御教書ならてハ不出云云。内々以御奉書預承仕ニ申て。密々可申出之由申。万一令風聞者近日之儀如何之間。令斟酌之由令申。
とある。
平治物語絵詞は山門、延暦寺の秘蔵であって綸旨、院宣、御教書によってのみ見ることができたとあるのである。延暦寺の秘蔵であった平治物語絵詞を見ることができる人々は天皇、法皇等に限られ、そしてそれらの人々に近侍することができたごく限られた京都の宮廷絵師であったとすることができるであろう。従って、蒙古襲来絵詞を描いた絵師が平治物語絵詞を見ることができた絵師であるならば、以上のように京都の宮廷絵師であるとすることができるのである。
従来、蒙古襲来絵詞が製作された地については地元の肥後国の熊本であるとか、大宰府であるとかの考えが主流であった。しかし、平治物語絵詞の絵と蒙古襲来絵詞とには同じ場面があったり、大変よく似た描き方がなされている。
そしてその平治物語絵詞が以上のように延暦寺の秘蔵品であり、天皇、上皇級の人々しか見ることができない状態であったとすると、蒙古襲来絵詞を描いた絵師はそれらの人々に近侍していた京都の宮廷絵師であったと考えることができるであろう。蒙古襲来絵詞は大和絵の描き方に従って忠実に描かれておりそうした作風からしても肥後や大宰府で作製されたとはとても考えられないのである。絵一に描かれているへの字重ねの波は大変優れた描き方であり、非常に洗練された丁寧な描き方である。かなりの技術を有している京都の宮廷絵師によって描かれたものと思われる。
肥後や大宰府等の地方の絵師の手になるものではない。また、絵二に描かれている川の描き方についても同様であり、蒙古襲来絵詞と同じ頃の正安元(=一九九)年に描かれた歓喜光寺が所蔵する国宝の一編上人絵伝に描かれている海や川の描き方に良く似ており、また、それのみならず蒙古襲来絵詞は一編上人絵伝の絵よりも優るとも劣らない優れた描き方である。一編上人絵伝は当時の第一人者であった京都の絵師円伊が描いたことで知られているが、その京都の絵師円伊が描いた海、川の描き方が優れた描き方であるとすれば、その描き方に勝るとも劣らない描き方をしている蒙古襲来絵詞が京都の絵師によって描かれたことを裏付けるものである。また、絵十三に描かれている松の木は大和絵の当時の樹木の描き方の典型的な描き方であり、ここに描かれている松の姿体、樹形は当時の大和絵の典型的な描き方であり、このような松、樹木の姿体、樹形はこの頃の絵巻物に数多く描かれている。また、そしてこの松の木は大変優れた描き方である。こうしたことからも蒙古襲来絵詞が京都の宮廷絵師によって作成されたことを裏付けるものであろう。

(1) 熊本県史料 中世編第四大矢野文書 
(2) 桜井清香 元冠と季長絵詞 徳川美術館 一九二頁、一九三頁
(3) 桜井清香 前掲書 一一二頁
(4) 阿蘇品保夫 菊池一族 新人物往来社 四五頁
(5) 小松茂美 日本の絵巻十三 蒙古襲来絵詞 中央公論社 一四一頁
(6) 小松茂美 続日本の絵巻二十二 松崎天神縁起 中央公論社 七八頁、七九頁
第二章 蒙古襲来絵詞の絵の後世の改竄(略)
第三章 蒙古襲来絵詞の二種類の絵(略)
第四章 蒙古襲来絵詞の二種類の詞書(略)
第五章 蒙古襲来絵詞の弘安の役についての絵の配列(略)
第六章 蒙古襲来絵詞の遺存(略)
第七章 竹崎季長の生き方(略)
第八章 竹崎季長と霜月騒動、岩門合戦(略) 
おわりに
同じことを繰り返し述べて恐縮であるが、今迄論じてきた蒙古襲来絵詞と竹崎季長についての主な要点をまとめて述べてみる。
蒙古襲来絵詞がどこで作製されたかについて、従来は竹崎季長の地元である肥後国の熊本であるとか、大宰府であるとか、或は京都であるとか種々論じられていた。しかし、蒙古襲来絵詞の描き方は技術的に大変優れた絵師の手になるものであり、蒙古襲来絵詞は同時期に作製された絵巻物の一遍上人絵伝等と比べても決して遜色がない優れた作品であり、また、絵七の文永の役で鳥飼潟の塩屋で竹崎季長が奮戦している場面は平治物語絵詞の場面と全く同じ絵である。また、平治物語絵詞と大変よく似た絵がしばしば存在する。平治物語絵詞は当時、延暦寺に秘蔵され、天皇、上皇級の人々しか見ることができなかった絵巻物である。これらのことから考えると天皇、上皇等に近侍していた絵師が蒙古襲来絵詞の作成にあだったことが考えられる。また、樹木の描き方等は当時の大和絵の主流の描き方であり、こうしたことから、従来考えられていたように肥後や大宰府といった地元で作製されたものではなく、京都の宮廷絵師である優れた絵師の手によるものであると考えることができることを明らかにした。
蒙古襲来絵詞は絵十一や絵十五にみられるように現在の形に調巻されるにあたって作為がなされているが、また、調巻にあたっての作為だけでなく、調巻の頃と思われるが、絵においても作為的な描き込みがおこなわれている。
絵七は文永の役で竹崎季長が鳥飼潟で蒙古兵と戦っている蒙古襲来絵詞の随一の見せ場として大変有名な場面であり、特にこの場面に描かれた三人の蒙古兵はこれを本来の絵として、これについて種々論じられているが、竹崎季長と対時している三人の蒙古兵は蒙古襲来絵詞の本来の絵ではなく、後世の描き込みであることを明らかにした。竹崎季長の周辺に描かれている矢、槍も後世の描き込みである。
また、絵二十一に竹崎季長が生の松原の肥後国守護代安達盛宗の仮屋形で安達盛宗の引付に付く場面で、竹崎季長の傍に控えている二引両の直垂を着た竹崎季長の従者らしい人物が描かれている。この人物は鎌倉時代の若党風に描かれているが、鎌倉時代の風俗とは全く似て非なる風俗であり、江戸時代の描き込みであることを明らかにした。これも多分に絵七の蒙古兵の描き込みをしたと同じ人物が描き加えたものであろう。
また、絵十六で竹崎季長が弘安の役の御厨の海上合戦でたかまさの船に懇願して乗せてもらい、蒙古の軍船を襲っている場面で詞十二に蒙古の軍船に乗り移るために少しでも身軽るくするために背負っていた征矢を捨てたとあるにもかかわらず、絵十六には竹崎季長の背に矢が描かれている。これについて桜井清香氏は絵師が間違えて描いたと誤解されている。しかし、これは桜井清香氏が考えられたように絵師が間違えたというようなことではなく、後世の描き込みであり、蒙古襲来絵詞の本来の絵にはなかったものである。
蒙古襲来絵詞には以上のような後世の描き込みや改竄がかなりおこなわれていることを明らかにした。蒙古襲来絵詞の絵の描き方は二種類に分けられることはよく知られている。そして蒙古襲来絵詞の絵がそれぞれどのような描き方をされているかについて宮次男氏と桜井清香氏等の分類をみてみた。両者の分類には共通性があり、描き方の分類は大筋として一致している。こうした宮次男氏や桜井清香氏等の分類にみられるような蒙古襲来絵詞の絵の描き方の分類は従来、感覚的、抽象的に分類されていた。一」うした分類方法に対して、改めてより確実な描き方の違いを明らかにするために、絵に描かれた建物及び建造物、岩、石、樹木、海波、船、人物等の具体的な対象別に絵の描き方の違いを明らかにし、それから画面の描き方の違いを明らかにした。そうした描き方の分類方法によって絵十を分類してみると、絵十を宮次男氏はB型に分類されている。宮次男氏の分類によるB型は本来の分類型に直すとA型となる。桜井清香氏はA筆とされ、両氏ともに同じ描き方に分類されているが、絵十の描き方を具体的に対象別に他の絵と比べると両氏の分類と違って、B型であることを明らかにした。
次に従来、絵十一や絵十五は全く同じ絵で描かれた同一の絵と把えられている。しかし、絵十一については絵十一の二紙と三紙とでは柱の描き方、縁束の描き方などから、明らかに描き方が異なる二種類の描き方で描かれており、描き方の異なる絵を継ぎ合わせた絵である。絵十五は描き方が違った、しかも全く違った場面を描いた絵を継ぎ合せた絵であることを明らかにした。絵十五は従来は一つの絵として把えられ、またそのために一つの絵であるからには当然描き方も一つというように把えられてしまったのであろうが、大宰少式経資手之物兵船、薩摩国守護下野守久親同舎弟久長手之物兵船の両兵船が描かれた部分とそれに連なる海岸部は全く別箇の絵であり、描き方も両兵船の部がA型、海岸部がB型で描かれており、描き方が全く異なり、また、全く別の絵を継ぎ合わせて合成した絵である。
更に蒙古襲来絵詞の絵には成立した当時に手直し、修正された絵がある。絵十四の関東御使合田遠俊の兵船の漕ぎ手や棚が描き直されたり、天草の大矢野十郎種保、三郎極村の兵船の漕ぎ手が描き直されている。また、絵二十の志賀島に上陸した葉古車の場面で志賀島神社の鳥居が描き直されたり、また蒙古軍の将軍と覚しき人物はこの場面の二度目の手直しで描き込まれたものであることを明らかにした。
従来、蒙古襲来絵詞が二種類存在していることについては考えられていたが、二種類存在したとされる蒙古襲来絵詞が、それぞれ相互にどういう関係にあるのかについては全く論及されたことはなかった。このことについて、手直し、修正がおこなわれている絵十四、絵二十は蒙古襲来絵詞の絵の描き方をA型、B型に分類した時、B型の描き方の絵である。このことから蒙古襲来絵詞が二種類作製されたとすると、A型の描き方をした絵には手直し、修正は全くみられず、B型の絵のみに手直し、修正がみられることから、B型の絵で描かれた蒙古襲来絵詞が先に成立したものであろうことを明らかにした。
そして更にこのことについて、B型で描かれた画面の絵十一、絵十九、絵二十一の画面にA型で描かれた絵が描き込れたり、A型の描き方で手直しがおこなわれていることを明らかにし、このことからB型で描かれた絵が先に成立し、A型で描かれた絵が後で成立したことを明らかにした。即ち、B型の描き方で描かれた蒙古襲来絵詞が先に成立したものであり、A型で描かれた葉古襲来絵詞が後で成立したものである。そして更に、A型で描かれた蒙古襲来絵詞の絵はB型で描かれた蒙古襲来絵詞の絵を手本として成立したものであることを明らかにした。
また、蒙古襲来絵詞の詞書は振仮名が付けられている詞書と振仮名が付けられていない詞書の二種類の詞書が存在することは知られていた。しかし、従来、このような二種類の詞書が存在することが何を意味しているかについて考察されたことは全くなかった。振仮名が付けられている詞書と振仮名が付けられていない詞書について、同文の振仮名が付けられている詞九と振仮名が付けられていない詞七とを比較すると、詞九で振仮名が付けられている漢字は全て、その他の漢字もほとんどが詞七では平仮名の表記となっているのである。そしてこのことから更に振仮名が付けられている詞九が先に成立し、これを手本として詞七が成立したことを明らかにした。
即ち、振仮名が付けられている詞書が先に成立した蒙古襲来絵詞の詞書であり、振仮名が付けられていない詞書が、それを手本として後で成立した蒙古襲来絵詞の詞畜であることを明らかにした。
そして、以上のことから蒙古襲来絵詞のB型で描かれた絵と振仮名が付けられた詞書が先に成立した蒙古襲来絵詞の絵と詞書であり、A型で描かれた絵と振仮名が付けられていない詞書とが先に成立した蒙古襲来絵詞の絵と詞書を手本として後で成立した家古製来絵詞の絵と詞書であることを明らかにした。
また、竹崎季長が蒙古襲来絵詞を作製した目的は詞十六に「神のめてたき御事を申さんためにこれをしるしまいらす」と、あることから、従来、竹崎季畏が甲佐大明神の神思に感謝して甲佐社に奉納するために作製したものであると単純に把えられてきた。しかし、竹崎季長の意図はそうしたことと違ったもっと別の意図があったと考えるべきである。竹崎季長は文永の役の恩賞として海東郷を賜ったが、このことについて竹崎季長は詞十六で甲佐大明神の神意であることを不自然なまでに強調しており、竹崎季長が甲佐大明神の神意によって海東郷の正統な領主となったことを強調しなければならないような状況、つまり、竹崎季長が文永の役の恩賞として賜った海東郷の支配に動揺をもたらすような何らかの状況が生じて、甲佐大明神の神意を借って海東郷の正統な領主であることを主張するために詞十六にそのことを記して既成事実化した蒙古襲来絵詞を甲佐社に奉納したものであることを明らかにした。
次に蒙古襲来絵詞の絵の配列の疑問について指摘すると、蒙古襲来絵詞の後巻は絵十一竹崎季長、弘安の役で負傷した河野道有を見舞う。絵十二竹崎季長、生の松原の石築地を警固する菊池武房等肥後国の諸士の前を出陣する。以上の順序となっており、この絵十一と絵十二の順序については現在そのまま信じられている。しかし、竹崎季長が蒙古襲来絵詞を作製した意図から考えればこのような順序はあり得ない順序である。現在の蒙古襲来絵詞の構成では後巻は竹崎季長の弘安の役での活躍について記しており、この後巻の趣旨からしても絵十二の竹崎季長が弘安の役で出陣していく場面が冒頭に配置されるべき場面であることを明らかにした。
また、本来の蒙古襲来絵詞は三巻からなり、第一巻は文永の役に於ける竹崎季長の活躍を記したものであり、第二巻は竹崎季長が鎌倉の安達泰盛に庭中して海東郷を賜ったことを記したものであり、第三巻は弘安の役に於ける竹崎季長の活躍を記したものである。絵十一と絵十二は本来の蒙古襲来絵詞に於いては第三巻の絵である。そしてこの本来の蒙古襲来絵詞に於いても絵十二の竹崎季長の出陣場面が第三巻の冒頭に描かれていた絵である。絵十一はその後に配されていた絵であることを明らかにした。
次に蒙古襲来絵詞の遺存について、現在、全ての研究者が現存している蒙古襲来絵詞はかなりの欠落があると論じている。しかし、蒙古襲来絵詞の詞書の遺存について検討してみると、現存している詞書の前と後に余白がある詞書がある。つまり、本来の詞書のまま完全に遺っている詞書である。これらの詞書は詞一、詞二、詞三、詞四、詞六、詞七、詞八、詞十一、詞十三、詞十五であり、合計して十の詞書である。また、詞書の内容やまとまりから成立当初の本来の詞書のままであると判断できるのは詞五、詞十の二つであり、現在遣っている十六の詞書のうち、十二の詞書が本来の詞書のまま遺っているのである。尚、蒙古襲来絵詞の現存している詞書は十六であるが、詞九は詞七と同文の詞書の一部であるので、現存している詞書の実数は十五である。従って、蒙古襲来絵詞の現存している詞書の実数十五のうち、十二が完全な詞書のまま遣っている。十五のうち十二という数はほとんどと考えていいであろう。つまり、現在遺っている詞書のうちほとんどの詞書が成立当初の本来の詞書のまま完全な形で遣っているのである。
個々の詞書のほとんどが成立当初の完全なまま遺っていることは詞書の全体についてもかなりの部分で当時のまま遺っていると考えることができるであろう。個々の詞書が-単独ではそれぞれほとんどが完全な形で遣っているのに詞書全体についてはほとんどが失くなっているとは考えられないからである。
また、蒙古襲来絵詞の絵についても絵の遺存の状態を検討してみると、蒙古襲来絵詞の遣っている二十一の絵のうち、従来完全な絵として遺っているのは絵一、絵九、絵十、絵十二、絵十三、絵二十、絵二十一の七つ程であるとされていたが、絵の遺存の状態を検討してみると、成立当初の本来の形のままの完全な形で遣っているのは絵一、絵六、絵九、絵十二、絵十三、絵十六、絵十九、絵二十、絵二十一の九つであり、現在の絵巻の形に調巻する際に端の極めて一部を切断してしまっているがほぼ完全な形で遺っている絵は絵二、絵十、絵十一、の三つであり、完全に遺っている絵、ほぼ完全に遺っている絵は合計すると十二が遺っているのである。従来考えられていた以上に多く遣っているのである。また、完全な形で遣っていないその他の絵についても絵巻の何処に配置すべきであるか全く不明で断簡として遺っている絵は絵十五の後巻十八紙の絵のみであり、その他はほぼ何処に配置すべきか判断できる絵である。
以上のような詞書と絵の遣り方から判断すると、蒙古襲来絵詞の詞書と絵とは、全ての研究者が論じていたようにかなりの欠落があるのではなく、本来の形をある程度遣した形で遣っていると考えることができることを明らかにした。
次に竹崎季長の御家人としての在り方について、蒙古合戦の文永の役、弘安の役の時の他の御家人の在り方から比べると竹崎季長主従はあまりにも小勢であるとされ、それは竹崎季長が所領をほとんど失くした状態、つまり、「ほんそにたつし候はぬ」状態にあったためであると論じられている。しかし、蒙古合戦の時の竹崎季長主従の兵力は当時の大多数の御家人の主従の兵力とはほほ同じ状態であり、特に少い主従の人数であったり、特に少い兵力ではない。また、竹崎季長の「ほんそにたつし候はぬ」状態とは所領を全て失ってしまっている状態ではなく、本領の一部が横領されたり、相論中であり、当知行の所領が本領に不足している状態を称するのであり、本領の全てを無くしてしまっている状態ではない。また、当時のかなりの御家人がこのような「ほんそにたつし候はぬ」状態にあった。また、竹崎季長が「ほんそにたつし候はぬ」と、本領に不足していた不知行の所領であったのは海東郷のことを指しているのであることを明らかにした。
次に蒙古襲来の弘安の役の後、有力御家人であり、鎌倉幕府の有力者であった安達泰盛が討滅された霜月騒動に運勅して九州に於いて少弐景資が討滅された岩門合戦が起きた。霜月騒動については内管領平頼綱によって引起された事件であり、この事件の結果、鎌倉幕府の得宗専制体制が確立した事件であると位置づけられている。岩門合戦についても同様な事件であると論じられているが、諭理的に明確に位置づけられていない。このような岩門合戦について、北条時定が長門探題であった北条實政の北条氏一族、後、鎮西探題が成立すると鎮西探題の引付衆となった北条氏と密接な関係にあった九州の御家人とともに、肥前国の守護の地位を利用し、警固の当番衆であった肥前国の御家人を少弐景資の討伐に当たらせた事件であり、九州に於いても北条氏が得宗専制体制を実現するために周到に計画して起こした事件であることを明らかにした。また、竹崎季長は霜月騒動で討滅された安達泰盛とも、岩門合戦で討滅された少弐景資とも旧知の間柄であり、竹崎季長が少弐景資の討伐についてどのように対処したのかについて、従来、竹崎季長は事件に直接関与しなかったものの、安達泰盛、少弐景資との行掛りから少弐景資の与党としての心情にあったと論じられているが、蒙古襲来絵詞の詞書に表されている竹崎季長の生き方や、岩門合戦に討伐軍として加わった九州の御家人の在り方から従来、論じられていた竹崎季長の生き方と逆であることを明らかにした。
以上、繰り返しになったが、まとめとして蒙古襲来絵詞と竹崎季長について明らかにすることができた主たる要点を記した。 
 

 

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 鎌倉時代

 

1 鎌倉幕府の成立
源頼朝・源義経の兄弟対決
平氏一門は源義経らによって滅ぼされたが、源頼朝は源義経が平時忠の娘を娶っている事実や梶原景時らの讒訴により不信感を抱いていた。自らが武141力を持たないために武家政権の成立に危機感を持つ後白河法皇が新たな抗争を煽動することを恐れた源頼朝は、自分に無断で官位を受けることを御家人たちに厳禁していたが、源義経は後白河法皇から検非違使尉などの官位を受けていた。源頼朝は御家人統率への悪影響を考慮し、凱旋した源義経を鎌倉には入れず手前の腰越に止めさせた。大江広元に腰越状を提出しても認められなかった源義経は、連行中の平宗盛と平時忠を近江国篠原で殺害し、京へ戻って後白河法皇から源頼朝追討の院宣を賜り、公然と反乱した。しかし源義経や源行家らの配下には武士が集まらなかったため後白河法皇は襲来した源頼朝に源義経・源行家追討の院宣を与えた。源行家は逃亡中に和泉国で殺されたが、摂津国大物浦(だいもつのうら)から逃亡した源義経は北国街道を逃亡、加賀国安宅関(あたかのせき)(武蔵坊弁慶と関守の富樫左衛門の駆引が『勧進帳』に脚色されており有名)を経て奥州平泉まで逃亡したが、藤原泰衡により衣川館で殺害された。源頼朝は奥州征伐を1189年に断行した。
文治の勅許
(1185年 / 鎌倉幕府の成立)
叔父の志田義広を討伐して関東での覇権を確立した源頼朝は、正妻の北条政子の父の北条時政に交渉させ、後白河法皇や公卿たちに譲歩させてこの文治の勅許を下させた。内容は、守護・地頭の設置、在庁官人の源頼朝の支配、一反あたり五升の兵粮米を徴収することの許可、などである。鎌倉幕府が軍事政権である以上、その兵力が守護・地頭として全国に分散されたこの時が、非公式ではあるものの実質的な鎌倉幕府の成立である。なおこの文治の勅許を京側の見地から述べたものが議奏公卿の九条兼実の日記の『玉葉(ぎょくよう)』であり、鎌倉側の見地から述べたものが歴史書の『吾妻鏡』である。この『吾妻鏡』は後に徳川家康の宗教政策に影響を及ぼしたことでも知られている。
守護・地頭とは何ぞや
1 守護
守護・地頭は下級官吏(法曹吏僚)出身の大江広元の進言により平氏滅亡後の諸国の治安維持と源義経追討を名目として、元来の惣追捕使・国地頭を整備する形で設置された。守護は一国一人であり有力な東国の御家人から世襲的に任命されたが、大和国は寺社勢力を抑えるため例外的に興福寺が守護に任命された。守護の任務は警察権行使と治安維持であり、平常時は大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)、即ち謀叛人逮捕・殺害人逮捕・大番催促であった。大番催促とは、京都を警備する大番役として御家人を招集し統率することである。この他に守護は大社寺の修築や道路・駅制の整備などを任務としていた。守護は当然武家的なものであり、必然的に公家的な国司とは対立した。
2 地頭
地頭は国衙領や荘園に配置された武士であり、御家人が柚判下文と政所下文に大別される地頭職補任状(じとうしきぶにんじょう)により任命された。しかし下野国寒河郡・阿志士郷の地頭に袖判下文の「皆川文書」で任命された小山朝光の母のように、この時代には女性が地頭に任ぜられることもあった。下地管理権・年貢徴収権・検断権・勧農権などの諸権利が与えられた地頭は、当初は平家没官領(へいけもっかんりょう)や謀叛人所領にのみ配置されており、承久の乱後に全国に存在するようになった。地頭の給与は慣例に則ったが、土地一反あたり「反別五升の兵粮米」を得る者もいた。御家人は地頭に任命されることによりその領主権が源頼朝を通じて朝廷に認められたが、それ故に任免権は鎌倉殿たる源頼朝に掌握された。守護と同様、地頭も公家的な荘官とは対立した。なお御家人には、細々とした関東御公事(かんとうみくうじ)などの雑役負担が課せられることもあった。
鎌倉幕府の官僚機構
1 中央(鎌倉)
御家人を重視していた源頼朝は1180年の佐竹征伐の直後、有力御家人の和田義盛を長官たる別当、梶原景時を次官たる所司に任命し、御家人統率を管轄する侍所を設置した。一方、1184年には財政や書類作成などの一般政務を管轄する公文所(政所)を設置し、別当には大江広元、構成員たる寄人(よりゅうど)には大江広元の義兄の中原親能を任命した。最後に、民事訴訟の裁判事務を司る問注所は、法曹吏僚出身の三善康信が長官たる執事に就任して発足した。侍所以外の役職には法曹吏僚出身者が就任した。
2 地方
奥州征伐の後、奥州の御家人の統轄のために奥州総奉行が設置された。御家人の統率は葛西清重が、訴訟は伊沢家景が扱い、これらの職務は両氏が世襲していった。伊沢氏が世襲した訴訟事務を陸奥留守職と言う。九州の御家人の統轄は鎮西奉行が遂行した。また京には、幕府と朝廷の連絡事務と京の警備を任務とする京都守護が設置された。九条兼実のように朝幕間の連絡事務を遂行した公卿を議奏公卿と言う。
鎌倉幕府の基盤
当初は名簿奉程(みょうぶほうてい)、後に見参により御家人は将軍と封建的主従関係を結んだが、鎌倉幕府の政治的基盤はこの御家人制度による御恩と奉公である。具体的に言えば、御恩は本領安堵と新恩給与であり、奉公は軍役・京都大番役・鎌倉番役・関東御公事・異国警固番役・京都篝屋役(きょうとかがりややく)である。現在も残る鎌倉街道は、所謂「いざ鎌倉」という非常時に御家人が鎌倉に向かうための道である。鎌倉幕府の経済的基盤は関東御領(荘園)と関東御分国(知行国)からなる関東御成敗地であり、他には源頼朝が諸所職を任命する権利を持つ国衙領や荘園としての関東進止所領(関東進止之地)や、源頼朝が荘園や国衙領と交渉して管理者に御家人を推薦できる関東御口入地(かんとうごくにゅうち)などが挙げられる。これらは古代荘園制に基づくものであるため、鎌倉幕府は完璧な封建体制ではない。 
2 北条氏の台頭と執権政治の発生
専制君主源頼朝の死
(1199年 / 源家将軍の独裁体制崩壊)
征夷大将軍を所望していた源頼朝は、1190年に権大納言・右近衛大将と言う在京の官職を受けた際もすぐに辞職し、やがて後白河法皇が1192年に崩御したことにより漸く念願の征夷大将軍に就任し、名実共に鎌倉幕府を創始した。源頼朝は鎌倉殿としての御家人からの信望を背景として、所謂「所の政治」により幕府の朝廷政策を嘲笑した上総広常の粛正などの独裁的政治を推進したが、1199年に落馬して死去した。後継者の源頼家は、御家人である工藤行光が誇る屈強な家来を自分の直属にしようとして断られる程度の人物であったため、有力御家人の北条時政・北条義時・和田義盛・梶原景時・比企能員(ひきよしかず)・三浦義澄、官僚の大江広元・三善康信・中原親能、それに安達盛長・足立遠元・八田知家・藤原行政(二階堂行政)らは将軍独裁体制を廃止し、自分たち十三人の合議制で幕政を執ることを決定した。なおこの中に入り損ねた有力御家人としては、千葉常胤や畠山重忠らが挙げられる。
執権政治の開始
(1203年 / 源頼家暗殺と傀儡君主源実朝)
1200年に、まず源頼朝の重臣であった梶原景時が三浦義澄ら他の御家人からの排斥により鎌倉を追い出された。やがて梶原景時は駿河国にて梶原景時の乱を起こしたが、鎮圧され殺された。そして三浦義澄と千葉常胤も病死し、政敵の少なくなった北条氏一族はいよいよ抬頭を強めた。この状況に対し、自分の娘の若狭局を源頼家に嫁がせていた比企能員は、北条氏追討を謀って1203年に比企能員の乱を起こした。しかしこの乱も鎮圧され、比企能員と、源頼家の長男の一幡丸は共に殺された。源頼家はこの乱の際、和田義盛と新田忠常に北条時政の追討を命じたが、和田義盛の裏切りにより露顕、逮捕され伊豆国の修善寺に幽閉後、母の北条政子の指図により暗殺された。源頼家の「病死」を公表した北条時政は、傀儡君主として源頼朝の次男源実朝(千幡丸)を将軍に就け、大江広元と共に政所別当に就任して執権政治を開始した。
源実朝暗殺計画失敗
(1205年 / 北条義時の実権掌握)
北条時政は自分の妻である牧ノ方の娘婿で、源氏一門であり京都守護である平賀朝雅を担ぎ、源実朝を滅ぼして彼を将軍に就けようと謀った。止めようとした畠山重保は北条時政によって謀殺され、父の畠山重忠も北条義時の大軍の前によく戦ったが、結局は衆寡敵せず武蔵国二俣川の戦いにて敗れ滅んだ。しかし結局この無謀な計画は頓挫し、平賀朝雅は殺され、北条時政は失脚して出家した。源実朝が貴族的生活を送り、政務を北条時政らに委任し過ぎたことも、この紛争の原因の一つであろう。北条義時はこの時に政所別当に就任して北条家の家督を相続し、実権を掌握した。
和田合戦
(1213年 / 北条氏最後の政敵排除)
侍所別当にして北条義時に対抗しうる最後の有力御家人となった和田義盛は、源頼家の遺児の千寿丸を擁して打倒北条義時の兵を挙げた。こうして勃発した和田合戦は幕府開設以降初めての鎌倉に於ける戦乱であったが、結局北条義時側の勝利に終り和田義盛は非業の死を遂げた。北条義時はこの合戦の後、それまで和田義盛が務めていた侍所別当も政所別当と共に兼任し、執権という地位を確立した。執権にはこの後、北条氏の嫡流の得宗家(北条義時の法号「徳宗」に由来)であるから就くことができると考えられ、中継以外は実際に得宗家から輩出されていった。
源家将軍の断絶
(1219年 / 摂家将軍の端緒)
北条義時の策謀で源実朝を父の敵と信じる源頼家の次男の公暁は1219年、鶴岡八幡宮にて源実朝を暗殺したが、自身もすぐに逮捕され処刑された。これにより源氏の嫡流は断絶してしまった。形式上にせよ将軍が必要と判断した北条義時は、後鳥羽上皇に皇室からの将軍を要請したが断られたため、承久の乱の後、源義朝の曾孫の九条道家の子の三寅丸(九条頼経)を第四代将軍として迎えた。これが摂家将軍(摂籙将軍(せつろくしょうぐん))の端緒であり、九条頼経とその子である九条頼嗣のみが就任した。なお九条頼経が将軍の職務を執行し始めたのは1226年よりであり、それ以前は源頼朝の妻であり悪妻の定評が高い北条政子が所謂尼将軍として弟の北条義時と共に実権を掌握していた。また鎌倉幕府の後援を受けた九条道家は1228年、関白に成り上がった。 
3 承久の乱
朝幕間の冷戦
抬頭著しい鎌倉幕府に対し、後白河法皇の皇孫に当たり祖父譲りの智謀家として知られ、また諸芸に通じる「万能の人」としても高名な後鳥羽天皇は慢性的な不満を抱き、朝廷に対する不敬への報復として議奏公卿の九条兼実を罷免し、平氏側の公家として鎌倉幕府の圧力により不遇な立場に置かれていた近衛基通を復帰させ重用した。後鳥羽天皇は譲位した後も土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇の御世に院政を執った。なお在位中の天皇を「在位の君」と言うのに対し、院政を執行している上皇を「治天の君」と言う。1219年に源氏の嫡流が断絶した際、好機と察した後鳥羽上皇は、寵愛していた伊賀局(白拍子亀菊)の所領である摂津国長江・倉橋荘の地頭の免職を北条義時に命じたが、北条義時はこれをきっぱりと拒否した。
承久の乱
(1221年 / 朝敵の勝利)
地頭の免職要求が棄却されたことを根拠とした後鳥羽上皇は5 月15日、北条義時追討の院宣と宣旨を下し、鳥羽離宮にある城南寺(せいなんじ)に北面の武士や西面の武士(新設)を集結させた後、朝臣の藤原秀康・藤原秀能兄弟に命じて手初めに京都守護の伊賀光季(いがみつすえ)に誅伐を加えた。後鳥羽上皇の予想では、幕府の御家人たちは朝敵になることを恐れて崩壊する筈だったが、御家人は識字者が藤田三郎らごく僅かしかいない無知蒙昧な輩だった上、北条政子や大江広元らの煽動で結束したため、19万と言われる大軍が北条泰時(北条義時の子)と北条時房(北条義時の弟)に率いられ京を目指した。逆賊軍は越後国の国府合戦や遠江国の橋本合戦、美濃国の大井戸合戦や墨俣合戦にて朝廷軍を蹂躙し、やがて院は停戦を発表した。結局、承久の乱により武家政権の優位が確定し、それまでは平和だった荘園にも武士勢力が本格的な進出を開始するようになった。承久の乱は鎌倉幕府が直面した最初の公武の対立であったが、それまでの朝廷優位の公武二元体制から幕府優位の公武二元体制への明確な転機となった。
戦後処理
朝廷軍に加わった後藤基清・佐々木経高・三浦胤義・河野通信・大江親広らは厳罰に処せられた。また後鳥羽上皇は隠岐国、皇子順徳上皇は佐渡国、土御門上皇は土佐国(後に阿波国)に流され、仲恭天皇は廃位させられて後堀河天皇が践祚し、その父である守貞親王が後高倉院として院政を執行した。幕府はそれまでの京都守護に代わって六波羅探題を設置し、六波羅北方に北条泰時を、六波羅南方に北条時房を任命し、朝廷監視や京都警備、それに尾張国(後に三河国)以西の御家人の統轄を委任した。
地頭の急増
幕府が承久の乱で没収した承久没官領たる貴族や武士の所領は3000ヶ所余りだったが、ここには従来の本補地頭との両様兼帯が禁止された全く新しい新補地頭(しんぽじとう)が任命された。新補地頭の搾取率は主に旧来の慣例に従ったが、慣例が無い場合または慣例に不服な者は、1223年に定められた新補率法(貞応二年御沙汰)に則った。新補率法は11町毎に1町の免田(給田;領主への課役納入が免除、年貢は地頭の収入)の支給や「反別五升の加徴米」の徴収権を認め、加えて山川からの収入は半分が地頭のものとなる、という内容だった。なおこの時代の土地台帳を大田文(おおたぶみ)(惣図田帳・図田帳・田数帳)と言う。承久の乱の後、幕府は畿内以西の国衙領や荘園に支配力を浸透させていった。 
4 執権政治の興隆
北条泰時の将軍就任
(1224年 / 執権政治の確立)
1224年の北条義時死去の後、政界では北条義時の後妻の伊賀ノ方が政所執事である兄の伊賀光宗と謀り、娘婿の一条実雅を将軍、自身の子の北条政村を執権にそれぞれ就け、実権を掌握しようとする伊賀氏の陰謀事件が発生した。こうした政情不安を打開するべく、北条政子と大江広元は都から北条泰時と北条時房を召喚し、北条泰時を執権に就任させた。北条泰時はすぐに執権の補佐役たる連署を設置し、北条時房を就任させた。なお六波羅北方には北条泰時の子の北条時氏、六波羅南方には北条時房の子の北条時盛が就任した。翌1225年には大江広元や北条政子が相次いで没し世代交代が進み、北条泰時はそれまでの大倉御所に代わって若宮大路の宇都宮辻子(うつのみやずし)(若宮御所)に幕府を移転させ、率先して政務を執った。北条泰時は訴訟・政務の最高合議機関として有力御家人11人(後に15人程度)からなる評定衆を設置し、独裁を廃して合議制による公平裁定を目指した。連署と評定衆の設置による合議制と、貞永式目制定による法治主義が完成された北条泰時の時代に、執権政治は確立された。なお北条泰時は、鎌倉に和賀江津を開港したり、市政を担当する保奉行人を設置したりしている。
貞永式目の制定
(1232年 / 日本史上初の武家成文法)
関東御成敗式目五十一箇条とも言う。これを制定したのも北条泰時であり、作成したのは評定衆三善康連(みよしやすつら)である。この式目は源頼朝以来の慣習法たる先例(右大将家之例)と、武家社会の道徳規範たる道理に基づいて定められた。貞永式目は訴訟を公平に裁定するための基準を文章化したものであって、荘園の本所法や公家社会の公家法(律令や格式)を改変するものではない。また対象がオツムの弱い武家であるために平易に示された。貞永式目は日本史上初の武家成文法であり、戦国時代の様々な分国法にも影響を与えた。貞永式目の対象は幕府の支配の及ぶ範囲、即ち凡下之輩(ぼんげのともがら)と称される一般庶民と関東の御家人たちであり、当時の世相を反映して所領関係の法の記載が最多であった。北条泰時の時代に確立された執権政治の主な精神や目的は、北条泰時が弟の北条重時に宛てた『泰時消息文』という書状の中に記されているが、この書状は斎藤唯浄(さいとうゆいじょう)が著した『式目抄裏書』に記載されている。なお北条重時が編纂したと言われる『重時家訓』は、日本史上初の武家家訓である。この後にも、鎌倉時代には式目追加やそれらを整理した新編追加、室町時代には建武以来追加などが出されたが、これらは全て貞永式目が基本であった。
鎌倉騒動
(1246年 / 名越光時の乱)
摂家将軍である九条頼経は北条氏に対して不満を抱き、配下に反北条分子を集めていた。そのため1244年に彼は将軍から降ろされ、子の九条頼嗣にその座を譲らされた。しかし九条頼経は京都へ帰らず大殿として鎌倉に居すわり、倒幕の策謀を練っていた。時の執権は北条泰時の孫にあたる北条経時であったが、彼は生来病弱であり1246年には没してしまった。後を継いだのは弟の北条時頼である。執権に就任した北条時頼は、北条泰時の甥であり九条頼経と共に倒幕計画を練っていた名越光時(なごえみつとき)を成敗し、九条頼経を京へ追い返した。これが鎌倉騒動である。北条時頼は朝廷内の西園寺実氏を議奏公卿九条道家よりも権力を持つ関東申次に就任させ、九条道家を事実上無力化した。
宝治合戦
(1247年 / 有力御家人潰し)
名越光時と親密な関係にあった評定衆の三浦泰村と北条時頼との仲は、北条時頼の外戚に相当する安達景盛の陰謀により険悪なものとなり、ついに宝治合戦が勃発した。この際、常々垣生庄(かきおのしょう)を巡り対立していた三浦秀胤(三浦泰村の娘婿)とその弟である三浦時常は、一丸となって戦って死んでいった。これは鎌倉時代に於ける一族の団結の強さを表すエピソードである。また北条時頼は後に出家して最明寺入道と名乗って諸国を貧僧姿で巡回したが、上野国の貧乏御家人である佐野常世が北条時頼と知らずに大切な盆栽を折ってまで彼に尽くし、感動した北条時頼が後に彼を鎌倉に呼んでこの善行を褒め、盆栽に因んで加賀国の梅田と越中国の桜井、それに上野国の松枝などの所領を彼に与えた、という所謂「鉢の木物語」は有名である。
引付の設置と北条時頼の独裁体制確立
当時の裁判は、刑事事件の検断沙汰、民事事件の雑務沙汰、土地紛争の所務沙汰に分かれていた。民事から土地問題が独立していることからも明白なように、この時代は土地紛争が絶えず、裁判の公正化と迅速化、それに評定衆の補佐をする機関が要求されていた。北条時頼は1249年にこれに応えて引付衆で構成される引付という役職を設置した。引付衆は評定衆の中の引付頭人の下に組織された。鎌倉騒動と宝治合戦による政敵の粛正、そして引付衆の任命により、北条時頼は独裁体制を確立した。引付は1266年に北条政村が廃止したが、1269年には元寇に備えるため、金沢実時・安達泰盛・大仏時氏・北条義政・名越時章ら五方引付衆が任命され、復活した。
皇族将軍と歴代執権
北条時頼は1252年、摂家将軍九条頼嗣を廃して後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を迎えた。これが皇族将軍(親王将軍・宮将軍)の端緒である。なおこの時、後の上杉氏の祖となる上杉重房も宗尊親王と共に鎌倉に下向している。連署の北条時宗は宗尊親王が成人すると所謂「深秘の沙汰」により将軍職を子の惟康親王に譲位させ、以後も同様に後深草天皇の子の久明親王や、その子の守邦親王を将軍として迎えていった。後深草天皇は持明院統であるため、鎌倉幕府は持明院統に近かった。北条氏の嫡流による得宗政治が行われていたこの頃であったが、弘長の新制を発令して政治改革を断行した北条長時や、その次代の北条政村は嫡流ではない。これは後を継ぐべき得宗家の北条時宗がまだ幼少であった故に、中継として例外的に就いたためである。これは北条貞時の子の北条高時が執権に就任するまでに執権に就いた北条師時・北条宗宣・北条煕時・北条基時らにも言える。なお北条高時が執権を辞めた後も、北条義時の孫の金沢実時の孫である金沢貞顕や、北条守時が執権が就いたが、幕政の実権は内管領の長崎高資やその父である長崎円喜が掌握していた。 
5 鎌倉時代の社会
相続制度の変遷
寝殿造を簡素化した武家造の館は堀や土塁で囲まれており、櫓(矢倉)を構えていた。館は堀之内・城之内・土居とも称される山や丘陵を背景とした城砦的生活空間であり、その周囲には年貢や公事が掛からない佃・門田・正作・用作などの直営地があった。武士は館を構えた土地の名を苗字として用い、一所懸命の地とした。当初の武士の相続形態は分割相続であったが、この分割相続では女性にも一期分(いちごぶん)という相続によって一期領という本人在世中のみ所有が認められる土地が与えられた。鎌倉時代は戦乱が多く男子の死亡を常に前提としていたため、嫁入婚で家の一員となる女性の地位は必然的に高く、女地頭も珍しくなかった。しかし分割相続による所領の細分化で武士が窮乏し始めた鎌倉末期以降は、一族の惣領(嫡子)が土地を全て相続して他の庶子を養う嫡子単独相続が始まり、惣領制が形成された。家の軍事・経済的な責任者である惣領は悔返権を行使して女性の所領を没収する権限を有したため、相続制度の変化は女性の地位の低下を招いた。惣領制で血縁的結合を強めた武士は本宗家を中心に家門(一門一家)として団結し、氏神の祀りなどを共同で行った。
武士の生活
武士は田舎に住んでいたため、暇があれば狩倉に出て軍事訓練たる鷹狩や巻狩をしたり、鶴岡八幡宮の神事としても有名な騎射三物(きしゃみつもの)(笠懸・流鏑馬・犬追物) を行ったりしていた。これは『古事類苑』や吉見二郎と男衾三郎の兄弟を描いた『男衾三郎絵巻』などに記載されている。一方、兵(つわもの)の道・弓馬の道・武家の習・弓矢の道・もののふの道などと呼ばれる信義を重んじ礼節・倹約・武勇を尊ぶ思想は、当時の武士が守るべき道徳であり、後の武士道に繋がるものである。当時の武士の質素さを示す逸話としては、連署の大仏宣時(おさらぎのぶとき)(北条時房の孫、執権の北条宗宣の父)が北条時頼に招かれた際に味噌を肴に酒を飲んだ話や、源頼朝が家来の筑後権守俊兼の華美な衣裳の袖を切った話などが知られている。
武士の土地支配
地頭は荘園を侵略し、荘園領主に対して年貢や公事を納めなくなり、労働課役の夫役も務めなくなった。荘園領主は大幅に譲歩して、毎年一定の年貢を領家側(本所)に納入することを条件に土地(地頭請所)の支配を地頭に委任する地頭請や、紛争地を一定の割合に二分してそれぞれ領家と地頭が支配する下地中分(したじちゅうぶん)を行うようになり、幕府も御家人保護の観点からこれらを奨励した。地頭請所の例としては、和田義盛の子孫の中条茂連・中条茂長兄弟が地頭請した近衛家領の越後国奥山荘などが挙げられる。また下地中分は、松尾神社を本所とする伯耆国東郷荘のように当事者による示談による和与中分と、幕府による強制的な強制中分に分けられる。なお年貢・公事に関しては、これを銅銭で納める代銭納(銭納)が為されたが、これは荘園領主に対してのみ行われ、農民には現物納が強制されたため、困窮の度合を強めた村の農民は平安時代の百姓解状(住人解状)に代わる百姓申状を荘園領主に提出して抵抗した。また関東や九州などの辺境では、農民・屋敷・土地を一体化させた中世の領主の収取単位である在家に則って課税が為された。
農業の発展
鎌倉時代には畿内と西日本に於いて、一年の内でまず米を作り、さらに裏作として麦を作る二毛作が行われるようになった。二毛作は土地を痩せさせるため、失われた土の力を回復させるために刈敷(かりしき)・草木灰(そうもくかい)・厩肥(きゅうひ)・下肥(しもごえ)などの肥料が考案され用いられた。また『松崎天神縁起絵巻』に見られるような、耕作用として牛(犂(すき)を引かせる)、運搬用として馬を用いる牛馬耕も行われ、農具なども全国的に普及した。農民は、名田を経営する名主、それを借りて耕作する作人、農奴的な下人・所従・名子、などに分けられる。また農業の副業として、和紙の原料である楮(こうぞ)や染料の原料である藍(あい)、灯油の原料となる荏胡麻(えごま)などが栽培され、他にも絹布や真綿、生糸や麻布などが生産された。また鍛冶や鋳物師(いもじ)や紺屋(こうや)など、集団で移動する手工業者もいた。
商業の発展
農業やその副業の発達に伴い、余剰生産物が発生するようになった。余剰生産物は、荘園や公領の中心や交通の要所、それに寺社の門前などにたてられた市で取り引きされた。市は淀市や大津市のように月三回開かれる三斎市などの定期市が多く、他には備前国福岡市や信濃国伴野市などの普通の市も存在していた。なお『一遍上人絵伝』に描かれている福岡市は黒田高政・黒田重隆所縁の土地として知られており、後の黒田藩福岡の地名はこの福岡市に由来している。市の出現により、日宋貿易での輸入や西園寺公経の持参(1億枚)で流入した宋銭が流通し、行商人が現れ、荘園領主が多く交通の要でもあった京都・奈良・鎌倉などにはそれまでの立売に代わって常設店舗である見世棚(店棚・店)ができた。一方、平安後期からは、商工業者・運輸業者・芸能人たちが朝廷や貴族や寺社や荘園領主などの保護の下で特権的な同業者組合である座を結成するようになり、次第に製造や流通や販売を独占していった。
流通の発展
荘園から徴収した年貢などの流通や保管、委託販売などにあたったのが問丸であり、淀・大津・敦賀・木津・鳥羽・坂本などの交通の要所に発生した。また当時の治安の悪さを反映して、割符屋が発行する割符(さいふ)という手形を用いて遠隔地間の金銭授受を決済する為替(かわせ)という制度が13世紀中頃から行われ始めた。為替には、銭を用いて取引する替銭(かえぜに)と、米を用いて取引する替米(かえまい)があった。金融機関としては、御家人らのための高利貸業者としての借上(かしあげ)や一般庶民のための無尽(むじん)・頼母子講(たのもしこう)(頼母子)などがあった。なお北条泰時は鎌倉の由比ヶ浜に和賀江津を開港し、流通の発展に貢献した。
農民の抵抗
農業の発達に伴って凡下(甲乙人(こうおつにん))たちは経済的に余裕を持ち、従来の下人や所従は作人に、作人は名主になるなどして次第に自立していった。そして農村では、従来の下人や所従を使用する直営方式から農民を自立させ生産物を収集する方式に支配形態が変化していった。こうして力を得た農民たちは集団逃亡などの抵抗を行い始めた。1275年には紀伊国阿河荘上村の百姓が地頭である湯浅宗親の横暴を13箇条からなる「阿河荘上村百姓等言上状」により荘園領主の寂楽寺に訴え出たが、これはその一例である。また西国御家人・非御家人・有力名主などの反幕府的な勢力は武力で社会秩序を乱す悪党となって畿内を中心に活躍し、幕府を悩ませたが、守護の中には悪党と結託する者もいた。悪党は『融通念仏縁起』や『峯相記』などに記載されている。 
6 鎌倉時代の文化(宗教関連)
貴族の没落と武士の抬頭による律令体制の崩壊、戦乱や天変地異などにより社会不安が広まり、貧困・疫病・戦争の三要素が揃った平安末期から鎌倉中期に掛けて、信仰による救いの重視と世俗権力からの独立、日本独自の内容を確立した鎌倉新仏教が創始された。密教が教義研究や呪術化した加持祈にのみ専念し、「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」が目的の浄土教も阿弥陀堂の乱立など公家化の様相を呈していた上、厳しい修行や戒律、莫大な布施を必要としており、庶民には手が出せぬものだったことを踏襲した鎌倉新仏教は、専修・選択・易行という三本柱に支えられた真の庶民仏教として興った。なお、鎌倉新仏教各宗派の開祖は、時宗の一遍が浄土宗出身である以外は全て天台宗出身である。また鎌倉新仏教の興隆に対し旧仏教側も抵抗を示した。
浄土宗
(1175年成立)
美作国の押領使である父の漆間時国を明石定明に殺害された漆間勢至は出家して法然(源空)と名乗り、やがて比叡山に上った。唐の浄土教僧である善導の『往生礼讃』や『観無量寿経疏』などの著作に刺激された法然は1175年、京都東山の吉水に於いて専修念仏(称名念仏)の教えを提唱し、浄土宗を開いた。専修念仏は源信ら旧仏教の者たちが提唱していた歓想念仏などの口で唱和する念仏を否定したものであったため、旧仏教側の猛反発を受け、1207年には讃岐国に配流された(承元の法難)。浄土宗は一般に他力本願であると言われるが、念仏を多く行う多念義を必要としたために完璧な他力本願とは言えない。だが易行である浄土宗は平敦盛を殺して出家した熊谷直実(法号;蓮生房(れんじょうぼう))などの武士や庶民、貴族に至るまで幅広い層に広まった。法然の著作としては、九条兼実の求めに応じて念仏の心得を説いた『選択本願念仏集』や、称名念仏の教義を弟子に残すべく一枚の紙に纏めた『一枚起請文』が知られている。浄土宗の本山は、法然が往生した土地、即ち京都東山に建立された知恩院である。浄土宗は後に、聖光の鎮西派と証空の西山派に分裂した。
浄土真宗(一向宗)
(1224年成立)
日野有範の子にして法然の弟子である親鸞は、現世に於いて既に魂は救われているので阿弥陀仏の救いを信じる心を起こすだけで極楽往生ができる、また唱える念仏は、救われたと感じた時に自然に口に出る報恩感謝の念仏である、とする絶対他力を提唱し、それまでの仏教では悪人とされていた武士や漁師などの殺生を生業とする者たちこそ、信じさえすれば救われるという悪人正機説を唱えた。1207年の承元の法難では、親鸞は越後国に流されたが後に許され、越後国や帰途に逗留した常陸国などで信者を増やした。結果的に浄土宗を深化したと言える親鸞の著作としては、絶対他力を説いた『教行信証』(正式名『顕浄土真実教行信証文類』)が知られている。また親鸞の弟子の唯円は『歎異抄(たんにしょう)』を著し、悪人正機説を説いてその正当性を主張した。浄土真宗の本山は京都大谷の本願寺であるが、これは親鸞の娘の覚信尼が1272年に建立したものである。一向宗は「王法依本」の論理により当初は現世の支配者に従っていたが、後に豹変し、信心に基づく悪行を恐れないという「本願ぼこり」に基づき、一向一揆を展開していった。
時宗(遊行宗)
(1276年成立)
承久の乱で活躍した河野通信の次男河野通広の子の一遍(智真・捨聖・遊行上人)は浄土宗の出身であり、「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」と書かれた札を賦算し、幸運にもその札を貰った人は往生が約束されたと喜んで極楽往生の法悦を体現化する踊念仏を行った。熊野信仰や伊勢信仰も利用して増えた時宗の信徒(時衆)の名は漢字一字に「阿弥」をつけた阿弥号が多かった。時宗は底辺の人々に受け入れられた。一遍は著作を死の直前に全て焼いたが、一遍の法語などを編纂した『一遍上人語録』が残っている。時宗の総本山は呑海によって藤沢に建立された清浄光院だが、ここは後に足利尊氏の寄進を受けた際に清浄光寺と改称された。
法華宗(日蓮宗)
(1253年成立)
安房小湊の旃陀羅(せんだら)の子を自称する日蓮は「南無妙法蓮華経」という題目を唱える唱題(題目唱和)を行えば人も国家も救われると主張、鎌倉にて辻説法や折伏などで布教し信徒を殖やした。日蓮は法華経に則って『立正安国論』を編纂、時の執権北条時頼に提出したが、外寇を予言していたためその怒りに触れ、伊豆へ流された。許されて鎌倉に戻った日蓮は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という四箇格言を用いて他宗排撃を行ったため、北条長時により佐渡へ流された。この際、平頼綱は死罪を主張したが、安達泰盛が流罪とした。佐渡から帰ってきた日蓮は、甲斐の豪族で信者の波木井実長(はぎいさねなが)に招かれて身延山に移り、そこに日蓮宗の総本山たる久遠寺(くおんじ)を建立した。日蓮の著作としては前述の『立正安国論』の他、『開目抄』などが知られている。
臨済宗
(1191年成立)
開祖の栄西は二度入宋して質実剛健で有名な禅宗の教えを学び、帰国してから建仁寺を本山として布教活動を行った。禅宗であるから坐禅を第一とし、また旧仏教のように言葉や文字に囚われないよう主張(不立文字(ふりゅうもんじ))した。当然旧仏教側はこれに反発して禅宗批判を展開したが、栄西は幕府に対して『興禅護国論』を提出して禅の本質を説き、旧仏教側に反論した。臨済宗では普遍的な真理を悟らせるため公案と言う課題を課して禅問答したが、これを看話禅(かんなぜん)と言う。臨済宗は、開祖栄西が北条政子に接近して寿福寺を、また源頼家に接近して建仁寺を開き、さらに源実朝に薬用としての茶の効用を説いた『喫茶養生記』を提出したように、時の有力者に接近した。この他の例としては、足利義兼に接近して浄妙寺を開いた退耕行勇、九条道家に接近して東福寺を開いた円爾弁円、北条時頼に接近して建長寺を開いた蘭渓道隆、北条時宗に接近して円覚寺を開いた無学祖元、北条宗政夫人に接近して浄智寺を開いた兀庵普寧などが知られている。
曹洞宗
(1227年成立)
開祖の承陽大師こと道元(希玄)は、懐奘(えじょう)が編纂した『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』に記述されているように、煩悩や執着が無い身心脱落(しんしんとつらく)の境地を目指すための只管打坐(しかんたざ)を提唱した。道元は九清華の久我通親の子であったために栄西の臨済宗とは逆に権力を嫌い、本山も信者の波多野義重の援助により越前国の山中に建立された大仏寺(後の永平寺)に定めた。道元の著作としては『正法眼蔵』があるが、禅の本質や規範を述べたこれは難解であるらしい。曹洞宗の総本山としては1321年に螢山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登国の天台宗寺院を曹洞宗寺院に改めた総持寺も挙げられるが、総持寺は1911年に横浜市鶴見に移った。
旧仏教の革新
華厳宗 / 明恵上人こと高弁が洛外の外栂尾に高山寺を興し、戒律復興と禅の推奨を行い再興。高弁は『摧邪輪』『荘厳記』を著し法然に激しく反論。
法相宗 / 興福寺の解脱上人こと貞慶は弥勒信仰・釈迦信仰の中心として山城国笠置寺を開き戒律復興に尽力する一方、法然を『興福寺奏状』で攻撃。
律宗 / 叡尊(思円)が戒律復興・貧民救済を行い再興。叡尊は元寇時に加持祈して興正菩薩と称されたことの他、西大寺中興の祖としても有名。また弟子の忍性(良観)は鎌倉に極楽寺を開く一方、奈良の般若寺付近に癩病患者の救済施設たる北山十八間戸を設置して社会に貢献した賢僧。
真言宗 / 頼瑜が出て復興に尽力。
その他 / 南都六宗と天台宗・真言宗を完全に極めた八宗兼学の俊(我禅)が諸宗兼学の場として泉涌寺(御寺)を建立。四条天皇以降の皇室菩提寺。
神道
平安時代の本地垂迹説に代わり、鎌倉時代には神国思想の広まりから神主仏従の神本仏迹説(反本地垂迹説)が発生した。伊勢外宮神官度会行忠(わたらいいえただ)は『神道五部書』を著し、子の度会家行はこれを根本法典として儒教思想や道教思想をも取り込んだ日本初の神道理論である伊勢神道(度会神道)を大成した。度会家行は著作『類聚神祇本源』でも知られている。一方、本地垂迹説はそれまでは真言宗が提唱する両部神道が盛んであったが、鎌倉時代以降は天台宗が提唱する山王一実神道が盛んになった。 
7 鎌倉時代の文化(非宗教関連)
建築
治承・寿永の乱の南都焼討で大打撃を被った奈良は、幕府の御家人により復興された。東大寺再建には造東大寺大勧進職たる大仏上人こと俊乗坊重源が、後に源実朝の大船建造で失敗した宋の工人陳和卿(ちんなけい)らを使用して活躍し、天竺様(てんじくよう)(大仏様)を創始させて東大寺南大門などを建築した。なお、他の建築様式としては、円覚寺舎利殿や紀伊国善福院釈迦堂に見られる禅宗様(唐様)、観心寺金堂に見られる折衷様(新和様)などの新様式の他、蓮華王院本堂に見られる和様などが挙げられる。
彫刻・絵画・書道・工芸・学問
『興福寺無著像・世親像』 / 運慶の作。肖像彫刻の代表作。運慶は『東大寺僧形八幡像』で知られる快慶と共に他に『東大寺金剛力士像』を作ったことでも知られている。
『蓮華王院千手観音像』 / 運慶の長男湛慶の作。ちなみに運慶の次男定慶は『興福寺金剛力士像』を、また三男康弁は『興福寺天灯鬼像・龍灯鬼像』を作ったことでも知られている。
『六波羅蜜寺空也上人像』 / 運慶の四男康勝の作。鎌倉時代の彫刻で最も有名なものの一つとして知られている。鎌倉時代の慶派仏師の彫刻としては他にも『上杉重房像』『重源上人像』なども有名。
『高徳院阿弥陀像』 / 通称『鎌倉大仏』『露坐の大仏』。浄光が集めた寄付で完成。国宝。
似絵 / 大和絵の肖像画。藤原隆信の『源頼朝像』『平重盛像』、その子である藤原信実の『後鳥羽上皇像』『随身庭騎図』、その子である専阿弥陀仏の『親鸞上人像』、それに恵日房成忍の『明恵上人樹上坐禅図』などが有名。
絵巻物 / 藤原信実の『北野天神縁起絵巻』、土佐吉光の『法然上人絵伝』、円伊の『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』、高階隆兼の『春日権現験記(春日験記)』『石山寺縁起絵巻』、その他『病草紙』などが知られている。なお禅宗僧の礼拝用の高僧の肖像画を頂相(ちんぞう)と言う。
『鷹巣帖』 / 伏見天皇の皇子で世尊寺流に宋・元の要素を加味して青蓮院流を興した尊円入道親王が、後光厳天皇のため書いた習字の手本として知られている。
鎧兜 / 家祖の紀宗介が近衛天皇から賜った号を家名とした明珍家が甲冑を製作。畠山重忠は武蔵御嶽神社に大鎧の赤糸縅鎧を奉納した。
刀剣 / この時代の刀鍛治としては、鎌倉の岡崎正宗、備前国の長船長光、越前国の郷長弘、京都の粟田口吉光(国宝の吉光骨喰の作者)らが知られている。
陶器 / 宋で製陶法を学んで帰国した加藤景正が、尾張国の瀬戸で瀬戸焼を創始。子孫は代々「藤四郎」を名乗った。
有職故実 / 朝廷社会の儀礼・年中行事などを研究する学問。順徳天皇の『禁秘抄』、後鳥羽上皇の『世俗浅深秘抄』が有名。
金沢文庫 / 北条義時の孫である評定衆金沢実時が蔵書を公開するため武蔵国称名寺境内設置した私設図書館。
註釈学 / 卜部兼方が著した『日本書紀』の註釈書『釈日本紀』や、仙覚の『万葉集』註釈書『万葉集註釈(仙覚抄)』など。
宋学 / 朱子学。南宋の朱熹が創始した大義名分論を重んじる学問。後に後醍醐天皇の倒幕の原動力となった。
その他
『新古今和歌集』 / 藤原俊成の子にして歌集『拾遺愚草』や歌論書『近代秀歌』、それに日記『明月記』などで知られる藤原定家が、藤原家隆らと共に編纂。隠者として詩集『山家集』を著した西行(俗名;佐藤義清)の他、慈円・寂蓮法師・式子内親王らが代表的歌人として収録されている。
『金槐和歌集』 / 鎌倉右大臣源実朝の和歌集。「箱根路を我が越え来れば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」など、万葉調で力強い歌が収録されている。
『平家物語』 / 『将門記』『陸奥話記』『保元物語』『平治物語』『承久記』と同様、和漢混淆文を特徴とする軍記物語。著者は信濃前司行長・葉室時長・吉田資経ら諸説あり不明。主として盲目の琵琶法師が平曲として語り継いだ。関連として『源平盛衰記』『源平闘諍録』などの諸本を持つ。
『元亨釈書』 / 虎関師錬が著した日本初の仏教説話集。他の仏教説話集としては円爾弁円の弟子の無住一円による『沙石集』など。
『古今著聞集』 / 橘成季による説話集。他の代表的説話集としては鴨長明の『発心集』や作者不詳の『宇治拾遺物語』『十訓抄』など。
『十六夜日記』 / 冷泉為相の母の阿仏尼が著した紀行文。なお藤原家は藤原定家の子にして『続古今和歌集』で知られる藤原為家の子の代に二条家・京極家・冷泉家に分裂。他の紀行文としては源親行の『東関紀行』や著者不明の『海道記』が有名。
『方丈記』 / 鴨長明が無常を主題として著した随筆。他の随筆としては吉田兼好の『徒然草』などもあまりにも有名。 
8 ユーラシア大陸の激動と元寇
モンゴル帝国の興隆
モンゴル族長エスゲイと妻ホエルンとの間に生まれたテムジンは、トオリオルカンのケレイト族やダヤンカンのナイマン族、それにジャムカのジャダラン族などを征伐して蒙古高原を統一し、1206年のクリルタイ(部族会議)で汗(ハン)に即位し、モンゴル帝国の太祖・成吉思汗(チンギス=ハーン)となった。成吉思汗は金・西夏を攻撃する一方、ダヤンカンの息子クチュルクが乗っ取った西遼も攻撃、1220年には西征してムハンマドのホラズム朝を攻撃したが、これらの国々は耶律楚材やチンハイを顧問として首都カラコルムを建設した太宗・窩闊台汗(オゴタイ=ハーン)の頃に全て潰され、また成吉思汗の長男とされているジュチの子のバトゥは1236年から大西征し、1241年のワールシュタットの戦いで独軍などに壊滅的打撃を与え、モンゴル帝国は世界史上最大の版図を誇る帝国として君臨した。
元朝の成立
(1271年 / 蒙古人第一主義の帝国)
成吉思汗の末子トゥルイの子の忽必烈汗(フビライ=ハーン)が第五代皇帝として即位すると、1266年にハイドゥの乱が勃発、結果的にモンゴル帝国からは、オゴタイ汗国、チャガタイ汗国、キプチャク汗国、イル汗国といった四汗国が独立した。世祖・忽必烈汗は大理国や吐蕃を征服した後、1264年には大都(現;北京)に遷都し、遊牧国家から農耕国家への転換を図った。やがて1271年には国号を元と改め、高麗の属国化を初めとする版図拡大運動を続け、日本に対しても元寇という形で遠征した。
文永の役
(1274年 / 第一回元寇)
高麗を服属させた忽必烈汗は使者として趙良弼(ちょうりょうひつ)を日本に派遣し、降伏・服属を迫った。時の執権北条時宗はこれを拒否したため、文永の役を招いた。洪茶丘(こうちゃきゅう)が率いる元正規軍18000人と金方慶が率いる高麗軍8000人、合計26000人の連合軍は、高麗が建造した900隻の軍船に分乗して朝鮮半島の合浦(がっぽ)から出港し、やがて九州の筑前国付近に襲来した。てつはう(震天雷(しんてんらい))・投石機・毒矢などの新兵器を用いて集団戦法で襲いかかる元軍に対し、日本軍は古来の一騎打ち戦法などで対処したために苦戦を余儀無くされたが、元軍は博多湾に於いて休息中に暴風雨に見舞われて軍船の大半を失ったため、撤退した。幕府は大友頼泰・少弐資能(武藤資能)らが当初務めていた異国警固番役を1276年に制度化したり、同1276年に長門探題を設置したり、石塁(せきるい)(石築地(いしついじ))を建造するなどして、元軍の再度の襲来に備えた。
弘安の役
(1281年 / 第二回元寇)
総人口の六割以上を惨殺して1279年に南宋を壊滅させた忽必烈汗は、降伏勧告の使者として杜世忠(とせいちゅう)・周福(しゅうふく)・欒忠(らんちゅう)らを日本に派遣した。北条時宗は杜世忠を鎌倉の竜ノ口にて処刑し、周福と欒忠を博多にて血祭りに上げて日本の態度を明確に示した。忽必烈汗は朝鮮半島と華南から同時に日本へ侵攻する作戦を立て、元正規軍と高麗軍からなる東路軍40000人を洪茶丘に託し900隻の軍船に乗せて合浦から、また主に南宋軍で構成される江南軍100000人を笵文虎(はんぶんこ)に託し3500隻の軍船に乗せて寧波(にんぽう)から、それぞれ出港させた。東路軍と江南軍は肥前国鷹島付近で合流し、140000人・4400隻からなる大軍団が結成され、鎮西奉行北条実政や、少弐資能・大友頼泰・島津久経・菊池武房ら九州の諸大名との間で死闘が展開されたものの、やはり休息中に台風が襲来して元軍に壊滅的な打撃を与え、ついにこれを撤退に追い込んだ。
元寇の結果
元寇は挙国一致体制で戦われたため、自分の奮戦を絵師に『蒙古襲来絵詞』として描かせて安達泰盛に提出して良い恩賞を要求した竹崎季長や、伊予国の河野通有など、西国御家人や非御家人も幕府の傘下として動員され、鎌倉幕府の支配が西国にも及ぶ結果となった。1293年には西国防備と九州統治の強化徹底のため、鎮西奉行に代わる鎮西探題が名越時家を初代として博多に設置された。鎮西探題は鎮西評定衆や鎮西引付衆を有する小幕府的な機関だった。一方、古来より信奉されていた神国思想は、「神風」の元軍駆逐や伊勢神道の発展などにより主に貴族層に爆発的に広まった。また土地に経済的基盤を置いて自給自足的な生活をしていた御家人は貨幣経済の発達により窮乏していたが、元寇の出費に対する恩賞は皆無に近く、諸番役の経済的負担と相俟って壊滅的打撃を被った。これは惣領制の崩壊、即ち庶子の独立を招く結果となったが、独立した庶子は地縁的結合を持つ悪党となった。悪党の抬頭は、鎌倉幕府転覆の一因となった。 
9 鎌倉幕府崩壊の序曲
二月騒動
(1272年 / 幕府内部の内紛)
北条時宗は、幕府の執政に於ける重要な事項を自分の屋敷での寄合という会議にて決定した。寄合は北条派の評定衆や外戚、それに御内人と呼ばれる北条氏に仕える人間(得宗被官)によって構成されていたため、御家人たちを蔑ろにした専制的政治を執行することができた。こうした得宗専制体制への移行を快く思わない御家人たちは反発を強めたが、この反発に対する反発として御内人たちが勃発させた内乱が、二月騒動である。鎌倉にて謎の戦闘が突如発生し、瞬く間に御家人の代表格たる名越時章・名越教時兄弟が血祭りに挙げられ、京都でも六波羅南方の北条時輔が六波羅北方の北条義宗により暗殺された。御家人らから信望が厚かった安達泰盛は、佐原頼連ら信頼できる御家人を優遇する形で事態を収拾し、結果的に勢力を拡張した。
霜月騒動
(1285年 / 御家人と御内人の対立)
御内人の最高実力者で侍所所司を兼任する内管領の平頼綱(長崎頼綱)は、勢力を拡大する御家人筆頭の安達泰盛を打倒するべく、34歳で夭折した北条時宗の後継者である北条貞時に取り入り、安達泰盛を讒訴した。平頼綱を信用した北条貞時は安達泰盛とその嫡子安達宗景の他、二階堂行景・少弐景泰・足利満氏・佐原頼連らを滅ぼし、さらに評定衆の金沢顕時・宇都宮景綱・長井時秀らも失脚に追い込んだ。霜月騒動は秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱とも呼ばれるが、秋田城介とは安達泰盛が受けていた一種の名誉職の名称である。霜月騒動により主要な政敵の抹殺を完了した君側の奸たる平頼綱は、北条貞時を半ば傀儡化して以後8年間に亘り暴政を展開した。また少弐景泰の討死に伴い九州では少弐景資と少弐経資が家督を巡って岩戸合戦を展開した。
平禅門の乱
(1293年 / 得宗専制体制の確立)
実権を掌握して暴政を執行した平禅門(入道した平頼綱)は自分の息子の飯沼助宗を将軍に就けて執権北条貞時をも上回る権力を手に入れようと企てたが、この計画を察知した北条貞時は彼を除くべく挙兵し、これを屠り去った。これを平禅門の乱と言う。霜月騒動で有力御家人たちが一掃され、この平禅門の乱で御内人の権力をも抑圧した北条貞時は、全国守護の三割程度の北条家一門独占と相俟って必然的に絶対君主たる地位を確立し、得宗であるが故に幕政を専制的に執行できる、とする得宗専制体制を実現した。しかし得宗専制体制は諸国の悪党蜂起などの問題を抱えた不安定なものであり、後の内管領長崎高資らの抬頭と相俟って鎌倉幕府は次第に腐敗していった。
永仁の徳政令
(1297年(永仁五年) / 『東寺百合文書』などに記載)
窮乏する御家人たちは、土地を売却したり質に入れたりして金を得ることが多かった。そこで幕府は永仁の徳政令を発布し、地頭などの御家人に売却した土地は20年以内のものを、また非御家人や庶民などに売却した土地は全てのものを、それぞれ無償返却させた。また裁判の増加により事務が混乱していたため、限度を越えた再審請求である越訴(おっそ)を禁止し、利銭出挙(りぜにすいこ)(利息をとること)など金銭に関する裁判を拒否した。この徳政令により一旦は御家人の窮乏は止んだが、借上(かしあげ)たちは御家人に対して融資を行わなくなったために結局は余計に御家人の困窮の度合を増大させた。このために翌年にはこの法令は撤回された。なお、御家人同士の所領売買に関する紛争については、当知行年紀法と言う法令が用いられた。 
10 鎌倉幕府の滅亡
両統迭立
後深草天皇に譲位して院政を執っていた後嵯峨上皇は第二皇子の恒仁親王を偏愛するあまり、後深草天皇に譲位させて恒仁親王を亀山天皇として践祚させた。後深草上皇は後嵯峨上皇が亀山天皇を偏愛していたがために院政も開けず、不遇な立場に置かれていた。やがて亀山天皇が皇子を後宇多天皇として践祚させ院政を開始するに至って決裂し、後深草上皇を祖とする持明院統と、亀山上皇を祖とする大覚寺統に分かれ、皇位を巡って対立した。両統の対立に伴い皇室の所領も分裂し、持明院統は後白河法皇所縁の長講堂領、大覚寺統は白河法皇所縁の八条女院領を経済的基盤としたが、規模の面では長講堂領の方が大きく、持明院統が経済的には有利であった。皇族将軍を持明院統から迎えていた鎌倉幕府の北条貞時は1287年、承久の乱以降の皇位に対する発言権を行使し、天皇を持明院統・大覚寺統の双方から交互に践祚させる両統迭立を提案、後深草上皇の第二皇子である煕仁親王(ひろひとしんのう)を伏見天皇として践祚させた。
正中の変
(1324年 / 後醍醐天皇の討幕計画)
後宇多上皇の皇子である尊治親王は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、倒幕と宋のような専制国家の樹立を志した。1317年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚した尊治親王は、平安時代の聖代(延喜・天暦の治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇に肖って自ら後醍醐天皇と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を1321年に停止させた。だが後伏見上皇が幕府の後援を受けて皇子量仁親王(かずひとしんのう)の立太子を企てたため、後醍醐天皇は側近の日野資朝や日野俊基らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告したことによりこれが露顕してしまい、美濃国に在った勤皇の士の多治見国長や土岐頼兼らは自刃した。日野資朝が一身に罪を被って佐渡国に流されたため事無きを得た後醍醐天皇は、皇子の護良親王(もりながしんのう)を天台座主に就任させることにより、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。
元弘の変
(1331年 / 後醍醐天皇の討幕実現)
再び討幕を企てた後醍醐天皇であったが、密告によって露顕してしまい、日野資朝は佐渡国、日野俊基は鎌倉にてそれぞれ殺された。後醍醐天皇が笠置山に逃亡したため、北条高時は持明院統の量仁親王を光厳天皇として践祚させた。やがて後醍醐天皇が逮捕されて隠岐国に流されたため討幕勢力は弱体化したかに見えたが、河内国の赤坂城や千早城(ちはやじょう)に於いて智謀を用いて幕府軍を翻弄した楠木正成(くすのきまさしげ)や、播磨国苔縄城にて挙兵した赤松則村のように諸国の悪党が続々蜂起して幕府を苦しめ、1332年には天台座主尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮として臣民の支持を一身に集めた。新田氏と足利氏は源義家の子の源義国の子、即ち源義家の孫に当たる源義重と源義康をそれぞれ祖とする源氏の名流であり鎌倉幕府では有力御家人であったが、赤松則村が幕府軍の名越高家に快勝したことを契機として新田義貞と足利高氏は幕府から離反した。1333年に足利高氏は六波羅探題を攻略して北条仲時を自害させた。そして身分が低いため足利高氏の嫡子足利義詮を大将として擁した新田義貞は鎌倉を攻略、田楽と闘犬に耽っていた無能な執権北条高時や内管領長崎高資らを自害させ、鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐天皇は伯耆国の豪族である名和長年(又太郎)によって船上山に迎えられ、ここで朝臣千種忠顕(ちぐさただあき)を挙兵させた。後醍醐天皇はやがて上洛して皇位に復帰した。なお肥後国の菊池武時は後醍醐天皇の隠岐脱出に際して鎮西探題の北条英時を攻撃して敗死したが、これは後に菊池氏が吉野朝に参加する契機となった。 
 
 室町時代

 

1 建武の中興(建武の新政)
中央の職制
復古的天皇親政を目指す中興政府の絶対万能な文書は、後醍醐天皇の意志を直接伝達する綸旨(りんじ)である。後醍醐天皇は後三条天皇の御世の記録荘園券契所を最高政務機関たる記録所として再興する一方、所領問題担当の鎌倉幕府の引付に相当する雑訴決断所、元弘の変以後の恩賞事務を司る恩賞方(筆頭;藤原藤房)、京都の軍事・警察機関たる武者所(頭人;新田義貞)などを設置した。なお護良親王は征夷大将軍に就任したが、これと対立する足利尊氏は後醍醐天皇(尊治親王)から一字拝領したのみであり、中興政府の役職には就任していない。後醍醐天皇はこうした情勢の下、乾坤通宝(けんこんつうほう)と言う新貨幣の鋳造を計画したり、関所停止令を下したりして優れた政治手腕を発揮した。
地方の職制
護良親王と足利尊氏の対立から、護良親王派の北畠顕家は義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥羽を統治する陸奥将軍府を多賀城址に設置し、足利尊氏の弟の足利直義は成良親王(なりながしんのう)を奉じて関東10国を統治する鎌倉将軍府を設置した。また西国統轄のため博多には征西将軍府が設置され、征西大将軍懐良親王(かねながしんのう)が赴任した。各将軍府の設置は中央集権体制とは逆行するものであった。一方、実質的には公武折衷の方針だった中興政府の下では、諸国に公家的な国司と武家的な守護が併設されたが、実際には同一人物が任命されることが多かった。また守護が行政権を獲得したことは後の守護領国制の基盤となった。
中興政治の頓挫
後醍醐天皇は里内裏(仮の内裏)の二条富小路内裏(にじょうとみのこうじだいり)に代わる大内裏造営計画の費用として地頭から得分の五分を徴収したが、これは論功行賞の結果が厚公薄武だった上に綸旨による個別安堵の方針だったため事務が停滞したことや、中興政府に対する禅宗や律宗の坊主の介入と相俟って武士の反発を招いた。『建武年間記(建武記)』に収録されている『二条河原落書』は今様というリズムで中興政治の混乱を風刺している。また中興政治に対する期待の空転を示す例としては、中興に伴い鎌倉幕府の地頭支配から荘園領主の東寺の直接支配となり負担が軽減されると喜んだものの結局は負担の倍増に終始し、東寺に対して訴状を提出した若狭国太良荘(たらのしょう)の例などが挙げられる。やがて1335年には朝廷内でも西園寺公宗・日野氏光・三善文衡(みよしあやひら)らの後伏見法皇重祚計画が露顕するなど、次第に中興政治の行き詰まりが明らかになっていった。
中先代の乱
(1335年 / 北条時行の乱)
北条高時の子であり信濃国の諏訪頼重に匿われていた北条時行は、鎌倉幕府の再興を目標として中先代の乱を起こした。北条高時以前を先代、足利尊氏以降を後代と言うため、北条時行を中先代と言う。北条時行は鎌倉将軍府を一時陥落させたが、やがて派遣されてきた足利尊氏により鎮圧された。しかし足利尊氏は、足利尊氏排斥に失敗して鎌倉に幽閉されていた護良親王を弟の足利直義が弑逆したことを契機に中興政府に対して反旗を翻した。朝敵たる足利尊氏を誅伐するべく中央から参陣した新田義貞は箱根の竹ノ下の戦いにて返り討ちに遭い撤退、逆に足利尊氏の西上を許した。朝臣の千種忠顕を西坂本の戦いにて足利直義に屠らせた足利尊氏は1336年に入京したが、急を聞いて陸奥将軍府から参陣した北畠顕家と新田義貞の連合軍の前に惨敗した。 
2 弘仁貞観文化
南北朝の分立
九州に逃亡した逆賊足利尊氏は多々良浜合戦(たたらはまかっせん)にて朝臣の菊池武敏を破り、東上した。楠木正成と新田義貞は足利尊氏の迎撃を図ったが、楠木正成は摂津国の湊川合戦で敗れ弟の楠木正季と共に自害し、兵庫に陣した新田義貞も敗走した。上洛した足利尊氏は名和長年を討って京を完全に制圧し、光厳上皇の弟である光明天皇を擁立して光厳上皇に院政を開始させ後醍醐天皇に譲位を強要した。だが後醍醐天皇は吉野実城院に行宮(あんぐう)を設置してここに遷幸し、吉野朝の正統を主張した。ここに建武の中興は終焉し、足利尊氏が擁立した北朝と、後醍醐天皇の吉野朝(南朝)が分立し、対立した。
吉野朝の聖戦
吉野朝は逆賊に誅伐を下すべく奮戦したが、1337年には越前国金ヶ崎城にて尊良親王と新田義顕が自害し、翌1338年には和泉国の石津合戦にて北畠顕家が高師直に敗死し、越前国の藤島合戦にて新田義貞が斯波高経に惜敗、討死した。1339年には後醍醐天皇が崩御し、義良親王が後村上天皇として践祚した。後村上天皇の政務の参考とするため、次男の北畠顕信と共に逆賊と交戦していた北畠親房は「大日本は神国なり」という清々しい書き出しで有名な史論書『神皇正統記』を常陸国小田城で執筆し、百王説に基づき吉野朝の正統と皇室の神聖を説いた。1343年には北畠親房が吉野朝勢力の決起を各地に促したものの当時は逆賊の勢力が強く、後村上天皇は新たな行宮を賀名生(あのう)に構えた。1348年の四条畷合戦では高師直の前に楠木正成の子の楠木正行(くすのきまさつら)・楠木正時兄弟が敗れ自害し、北畠親房も1354年に賀名生で逝去した。しかし足利尊氏死没後の1361年には吉野朝側の楠木正儀(くすのきまさのり)が京都を占拠し、足利義詮と後光厳天皇を近江国へ逃走させる程の活躍を見せた。
地方の義戦
関東では、新田義貞の子の新田義興・新田義宗兄弟が1352年に上野国で挙兵して鎌倉を奪取したが、1358年に武蔵国多摩川の矢口渡にて新田義興が足利基氏に謀殺されるに至って劣勢に陥った。九州では征西大将軍懐良親王が活躍し、配下の武将菊池武光(菊池武時の子)は1359年に筑後川合戦にて逆賊一派の少弐頼尚を討伐して次第に吉野朝側を優勢に導き、ついには九州全土を制圧するに至った。所謂南北朝動乱は、惣村などの新たな農村共同体の形成や惣領制崩壊に伴う武士の地縁的結合の強化などの社会的変動の他、無節操な武士が状況に応じて味方する勢力を変えたりしたために、全国化・長期化の一途を辿った。
建武式目の制定
(1336年 / 足利幕府の成立)
祖父足利家時の源氏幕府再興の遺言を遵守するべく、足利尊氏は1336年に建武式目を制定した。これは十七条憲法を模倣した政治綱領であり、雑訴決断所の二階堂是円が足利尊氏の諮問に答える形式を採用している。建武式目の編纂には二階堂是円の他、弟の二階堂真恵、婆娑羅大名佐々木道誉(ささきどうよ)らが尽力した。建武式目の制定をもって足利幕府の成立と見なす説が一般的だが、実際に用いられていた法律は貞永式目とその補足の建武以来追加である。1338年に光明天皇から征夷大将軍に任命された足利尊氏は、吉野朝勢力からの逃避と幕府の経済的基盤たる商業のため、正式に京都に開幕した。
足利尊氏の贖罪
足利尊氏は、元から国交回復のため来日した一山一寧の弟子の臨済宗僧夢窓疎石(むそうそせき)の進言を採用し、1339年に崩御した後醍醐天皇の冥福を弔うための天龍寺を建立するべく、博多商人至本に命じて1341年に天龍寺船と言う貿易船を元に派遣し、明銭5000貫文を納入させた。天龍寺船は1325年に鎌倉幕府が建長寺の修築費用を得るために派遣した建長寺船を模倣したものである。なお日元間の正式な国交は樹立されなかったが、鎌倉後期から南北朝時代に掛けて民間レベルでは小規模な日元貿易が散発的に行われた。
観応の擾乱
(1350年 / 幕府・二頭政治体制の崩壊)
足利幕府は当初、革新的な足利尊氏が軍事指揮権、保守的な足利直義が司法行政権をそれぞれ掌握する二頭政治体制により順調な滑り出しを見せたが、やがて足利尊氏と足利直義は対立し、足利直義の養子である長門探題足利直冬(足利尊氏の庶子)の挙兵により、逆賊間に内乱が勃発した。この観応の擾乱では、勃発直後に足利尊氏派の初代執事(後の管領)高師直が足利直義派の上杉能憲(うえすぎよしのり)により弟の高師泰共々殺害されている。御都合主義者足利尊氏は一時吉野朝と和睦して足利直義と戦ったが、翌年にはこれと和睦した。しかし1352年にはこれを毒殺し、観応の擾乱を一応終結させた。しかし足利直冬は義父の毒殺後も抵抗を続け、1355年には一時京都を攻略、足利尊氏と後光厳天皇を一時的に逃走させている。
南北朝合一
(1392年 / 後亀山天皇の英断)
足利義詮の夭折に伴って征夷大将軍となった足利義満は僅か10歳の少年であったため、時の管領である細川頼之がこれを補佐し、事実上幕政の執行者として君臨していた。細川頼之は鎌倉幕府が九州の守護たちを統制するために設置した鎮西探題に倣って、九州の守護大名統制と吉野朝勢力削減を目的として九州探題を設置した。九州探題は当初征西将軍府に圧迫されていたが、1371年に駿河守護今川範国の子である今川貞世(今川了俊)が就任すると次第に勢力を拡大し、懐良親王の重臣菊池武光・菊池武朝らを駆逐した。また自身の傀儡化を嫌った足利義満は1379年、康暦の政変を起こして細川頼之を阿波国へ追放し、新管領に斯波義将(しばよしまさ)を登用して将軍権威向上と全国統一を目標とした政治を開始した。この間、北朝は光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇、吉野朝は後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇がそれぞれ践祚していたが、吉野朝の勢力の減退に付け込んだ足利義満は吉野朝の後亀山天皇に南北朝合一を呼び掛けた。これを受諾した後亀山天皇は1392年、京都の大覚寺に於いて後小松天皇に譲位し、三種の神器を引き渡し、南北朝の合一を実現した。しかし後亀山上皇は1410年に吉野へ出奔、新たに後南朝を樹立して抵抗運動を続けた。 
3 足利幕府
足利幕府の軍事的基盤
足利幕府の軍事的基盤は、足利氏譜代の家臣や二十一屋形に住む守護たちの一族、それに地方の有力武士たちを集めて編成した2000騎ないし3000騎の軍隊である。評定衆及び政所に所属する事務集団を奉行衆と呼ぶため、この軍隊は対義的に奉公衆と呼ばれたり、他に御馬廻(おうままわり)と呼ばれたりする。奉公衆は将軍の護衛と、鎌倉幕府から没収した所領や南北朝動乱にて得た土地などからなる諸国の将軍直轄領であり足利家の相伝所領である御料所の管理を行い、御料所に在って守護の動向を牽制した。
足利幕府の経済的基盤
御料所からの年貢・公事・夫役が乏しい足利幕府の財政的基盤は、有力守護から徴収する分担金や御家人から徴収する賦課金、高利貸業者たる土倉(延暦寺僧経営者多し)・酒屋・味噌屋から徴収する倉役(土倉役)・酒屋役・味噌屋役、関所の通行料たる関銭、入港料たる津料、日明貿易の10%関税たる抽分銭、市街内住宅地から徴収する地子銭(間別銭)、などである。また京都五山が祠堂修築を目的として集めた祠堂銭を用いて行う金融活動にも五山献上銭(五山官銭)として課税した。足利幕府は経済的基盤を臨時収入に依存しており、不安定だった。後に公家化に伴う奢侈のため財政が逼迫した幕府は、分一銭(ぶいちせん)を目的とした分一徳政令を乱発したり、それまでは国家的行事に際してのみ徴収された段銭や棟別銭を定期的に徴収するようになり、民衆の反感を買った。なお荘園領主・地頭・守護などが私的に課税する私段銭もあった。
中央の政治機構
中央の政治を統括する管領は三管領(細川家・斯波家・畠山家)から、また京都の警備や刑事裁判を担当する侍所の長官で山城国守護を兼任する侍所所司は四職(ししき)(京極家・山名家・赤松家・一色家)から交替で任命された。これは強大な一族の発生を防止するためだったが、このため足利幕府は事実上有力守護大名らとの連合政権と化すこととなった。また、財務管理を担当する政所の長官たる政所執事は二階堂家(後に伊勢家)が、文書保管を担当する問注所の長官たる問注所執事は三善家がそれぞれ世襲した。この他、幕政の諮問機関で引付衆を配下に持つ評定衆、政所の配下で課税を担当する納銭方(納銭方一衆)、宗教関係の雑務を担当する禅律方(ぜんりつがた)、御料所の年貢徴収を担当する倉奉行などが設置された。
地方の政治機構
鎌倉幕府のあった鎌倉を重視した足利尊氏は、関東10国を管轄とする鎌倉府を設置し、足利義詮を派遣していたが、後に四男の足利基氏を鎌倉御所として派遣し、補佐役の関東管領に上杉憲顕(うえすぎのりあき)を任命した。上杉憲顕は1368年の武州平一揆を足利氏満と共に鎮圧し、宇都宮氏綱らを討伐した。やがて小幕府的な鎌倉府は中央政府と対立し、鎌倉御所は将軍の別称の公方(くぼう)を用いて鎌倉公方と称した。永享の乱以降は関東管領を世襲する上杉家が実権を掌握したが、その上杉家もやがて扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)・山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)・詫間上杉家(たくまうえすぎけ)・犬懸上杉家(いぬかけうえすぎけ)の四勢力に分裂、抗争を展開した。詫間上杉家と犬懸上杉家は早期に滅び、1546年には河越夜戦にて上杉朝定が敗死して扇谷上杉家も滅亡し、残った山内上杉家の上杉憲政も北条氏康の圧迫により長尾景虎(長尾輝虎・長尾政虎)を頼り彼に上杉の姓と関東管領職を譲り、事実上山内上杉家も崩壊した。なお上杉憲顕の子の上杉憲英を祖とする庁鼻上杉家(深谷上杉家)には関東管領職継承権は無かったが、小田原征伐にて上杉氏憲が敗死するまで続いた。この他の地方では、今川了俊の引退後は渋川家が世襲した九州探題や、斯波家(後に伊達家)が世襲した奥州探題、奥州探題から独立し最上家が世襲した羽州探題などが設置された。
守護大名の台頭
幕府は近畿とその周辺の諸国の守護は足利家一門(斯波家・今川家・一色家・畠山家・細川家など)で固め、外様の守護はその外側に配置した。南北朝動乱の中で地方の武士を組織させる必要があったため、幕府は守護に対して鎌倉時代の大犯三箇条(謀叛人逮捕・殺害人逮捕・大番催促)の他に、田地紛争の実力行使の青田刈りを取り締まる刈田狼藉検断権(かりたろうぜきけんだんけん)や幕府裁定を執行する使節遵行執行権が与えられた。観応の擾乱の最中の1352年には足利尊氏が近江国・美濃国・尾張国に観応半済令を施行し、守護が荘園や公領からの年貢の半分を兵粮米として徴収するための兵粮料所とすることを定めた。この直後に半済令は伊勢国・志摩国・伊賀国・和泉国・河内国にも拡大され、1368年の応安半済令より後は永続的なものとなり、土地も守護所有となった。半済令は公領の多い国に於いて効果が大きかった。また1402年に備後国太田荘(高野山領)を守護の山名時煕(やまなときひろ)が守護請(荘園の年貢の徴収を守護に委任すること)して以降、各地の荘園は続々と守護請され、荘園制度は根底から覆された。守護は国衙の機能をも守護所に吸収し、任国をまるで自分の領国の如く支配した。これを守護領国制と言い、こうした強い支配を行う守護を特に守護大名と言う。多くの領国を有する守護大名は自身がいない領国に守護代を派遣して執政させたため、守護代勢力の伸長を招いた。 
4 足利幕府の興隆と衰退
足利義満の治世
南北朝動乱による公家の没落に付け込んだ足利義満は朝廷から京の市政権(警察権・民事裁判権・商業課税権)や諸国での段銭徴収権を奪い幕府の管理下に置いた。そして京都の室町に花の御所(室町殿)と言う邸宅を建て1378年からここで政務を執った。将軍在職中の1383年に准三后の宣下を受けた足利義満は、有力守護大名の勢力を削減すべく、1390年には美濃国の土岐康行を挑発して土岐氏の乱を起こさせてこれを討伐し、1391年には11国を領有し「六分ノ一殿」と称された山名氏清を挑発して明徳の乱を起こさせてやはり討伐した。この動きは1394年に足利義持に将軍職を譲った後も続き、1399年には鎌倉公方足利満兼に呼応して堺で挙兵した大内義弘・斯波義将・河野通之らを討伐した(応永の乱)。この一方で足利義満は太政大臣として貴族的な生活を送り、妻の日野業子を後小松天皇の准母として死後に鹿苑院太上法皇の位牌を残す程に増長した。なお日野業子は公家の日野資康の妹であるが、日野家はこれ以後代々将軍御台所を輩出し、それによる幕府との繋がりを利用して朝廷内で出世していった。
足利義持の治世
足利義満の没後、三宝院満済(藤原師冬の子・准三后)を政治顧問として迎えた足利義持は、日明貿易の中止や父足利義満の尊号辞退などの独自の政治を執行した。中央政府と対立状態にある鎌倉公方足利持氏(足利満兼の子)が1416年の上杉禅秀の乱で関東管領上杉氏憲を討伐すると足利義持は激怒、既に足利義量に将軍職を譲っていたものの今川範政に命じて足利持氏を攻撃させた。これは足利持氏の謝罪で解決したが、鎌倉府はこの後も不穏な動きを続けた。やがて足利義量と足利義持が相次いで没したため青蓮院義円・大覚寺義昭・相国寺永隆・梶井義承らが将軍家の家督を巡り対立した。このため三宝院満済は石清水八幡宮門前にて籤引を行い、青蓮院義円を次期将軍とした。青蓮院義円は還俗して足利義教と名乗り、1429年に征夷大将軍に就任した。
永享の乱
(1438年 / 鎌倉公方の没落)
将軍職を望んでいた鎌倉公方足利持氏は、三宝院満済による次期将軍足利義教決定に反発し、1438年に中央政府に対して反乱を起こした。この永享の乱は空前の大乱となったが、幕府は河野教通ら全国の守護大名の軍勢を関東管領上杉憲実に持たせて反乱を鎮圧させ、足利持氏を永安寺(ようあんじ)で自害させた。この永享の乱の後、関東の実権は従来の鎌倉公方から関東管領に移行した。1440年には足利持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じた結城氏朝が下総国結城城(築城は治承年間、結城朝光)に拠って結城合戦を勃発させたが、幕府と関東管領の連合軍の前に壊滅した。また鎌倉公方の事実上の実権剥奪に反発した足利成氏(あしかがしげうじ)(足利持氏の子)は1454年、上杉憲実の子の上杉憲忠を殺害したが、翌1455年には上杉顕房の反撃に敗れた。この享徳の乱の後、足利成氏は下総国の古河へ逃亡して古河公方となった。後に足利義政は弟の足利政知を関東に派遣したが関東の武士の反対で鎌倉に入れず、伊豆国の堀越公方として古河公方に対抗させた。なお古河公方は、1583年に足利義氏が無嗣のまま絶命するまで存続した。
嘉吉の乱
(1441年 / 下克上の端緒)
足利義教の治世には日明貿易の再開や1437年の大内持世による九州統一などが為されたが、足利義教は「万人恐怖」と称される暴政、具体的には比叡山焼討や家臣の粛正などを遂行した。粛正の一環として所領を削減された播磨守護赤松満祐は、足利義教の覚えめでたい庶子家の赤松貞村に実権を奪われることを恐れ、結城合戦の戦勝祝いとして足利義教を自宅に招いて側近の京極高教・山名熈貴共々息子の赤松教康に暗殺させた。こうして嘉吉の乱を起こした赤松満祐はやがて山名持豊に討伐されたため、赤松家は没落し、山名家が興隆した。
応仁の乱
(1467年〜1477年 / 公家や将軍の権威失墜と京都の焦土化)
足利義教の暗殺後、嫡男の足利義勝が将軍の座に就いたが、夭折した。これを受けて管領細川勝元は足利義勝の弟の足利義政を擁立し、実権を掌握した。足利義政の妻は、「押し大臣」の通称通り最終的に左大臣まで昇り詰めた日野勝光の妹の日野富子である。日野富子は幕府の財政立て直しのために新関設置や高利貸などの事業を展開したが、結局的に賄賂政治や米相場急騰を招き、政治経済を大混乱に陥らせた。やがて政界では細川勝元と山名宗全(山名持豊)が抗争を開始し、これに足利義政・畠山持国・斯波義健それぞれの後継者を巡る争いが絡み、応仁・文明の乱が勃発した。
東軍 西軍 概要
細川勝元 山名宗全 幕府中枢に於ける主導権争い。
足利義視 足利義尚 足利義視(浄土寺義尋)と日野富子の子の足利義尚の争い。
畠山政長 畠山義就 嫡男の畠山義就を押し退け、細川勝元が畠山政長を支持。
斯波義敏 斯波義廉 斯波義敏に反発した家臣団が渋川義廉(斯波義廉)を支持。
朝倉孝景 大内政弘 朝倉孝景は所領問題。大内政弘は日明貿易での細川勝元への怨恨。
管領馘首に抗議した畠山政長が畠山義就を攻撃した上御霊社の戦い以降、東軍と西軍が京都を主戦場として戦争を展開した結果、『応仁記』の著者の飯尾彦六左衛門尉に「汝ヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ル涙ハ」と言わしめるまでに上京などを廃墟とした。また途中から東軍が西軍守護大名の領国を攪乱する戦法を採用したために戦争は全国に伝播し、1473年に細川勝元と山名宗全が没した後も戦いが続けられ、応仁・文明の乱が終焉した後も各地では群雄割拠の様相を呈した。この情勢下で幕府体制や荘園制などは根底から覆され、守護代や国人たちが抬頭し、一層の下剋上が展開された。また『真如堂縁起絵巻』に描かれているように応仁の乱では南北朝時代から存在していた足軽たちが自由狼藉行為や放火・略奪などで活躍したが、この足軽を用いた足軽戦法を考案したのは、1457年に武蔵国江戸城を築城した太田道灌である。 
5 室町時代の外交
倭寇
1 倭寇の発生理由
元寇という大陸からの大規模な侵略は、民族意識の高揚を招くと共に国際的な視野の拡大をもたらした。こうして発生した海賊集団の倭寇は『倭寇図巻』に見られるようなばはん船を用いて活躍した。倭寇は南北朝時代から日明貿易開始までの前期倭寇と、1551年の大内家の正統断絶から豊臣秀吉の倭寇取締令(海賊取締令)発令までの後期倭寇に大別される。
2 前期倭寇
前期倭寇は三島地方(対馬国・壱岐国・肥前国松浦)を根拠地とする日本人中心の海賊とされており、遼東半島や朝鮮半島の沿岸に進出した。倭寇が米穀強奪や現地人誘拐を行ったため高麗は衰退し、やがて倭寇退治の武将李成桂が李氏朝鮮を建国した。また北虜南倭に苦しんでいた明は海禁令を施行し、同時に倭寇の禁圧を要求してきたが、征西将軍府に着いた使者に対し時の征西大将軍懐良親王は要求を拒否した。
3 後期倭寇
日明貿易の元締めの大内義隆が陶晴賢に殺害された1551年以降、後期倭寇が活躍し始めたが、後期倭寇は倭寇王として知られる明の商人王直のように中国人が中心だった。明が傲慢なる朝貢貿易に固執して海禁令を施行し民間貿易を取り締まったために発生した後期倭寇は、上海・寧波・台湾・澳門(まかお)・東京(とんきん)などの華南地方東南部に進出し、1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
日明貿易
1 日明貿易の開始
1368年に朱元璋(太祖・洪武帝)が建国した明に対し、義堂周信・絶海中津らを外交顧問とする足利義満は1401年、僧祖阿(そあ)を正使、博多商人肥富(こいずみ)を副使として建文帝(恵帝)への国書を持たせ、『戊子入明記』『真如堂縁起絵巻』に見られる遣明船に乗せて派遣した。建文帝は翌1402年、足利義満に「日本国王源道義」宛ての返書と明の大統暦を与えた。これは日本が中華思想に基づく冊封体制に組み込まれたことを意味するが、瑞渓周鳳は著書『善隣国宝記』の中で国家の恥辱を無視した足利義満を批判している。足利義満は1403年に「日本国王臣源」と認めた国書を建文帝に提出して勘合符を得、将軍足利義持の時代の1404年に日明貿易(勘合貿易)を開始した。貿易船と倭寇の区別のための勘合は明側の日字勘合と日本側の本字勘合の二種類があり、底簿と照合することにより確認した。
2 日明貿易の興隆
刀剣・屏風・銅・硫黄・金・扇・漆器・硯などを輸出し、銅銭・生糸・絹織物・陶磁器・書籍・大唐米などを輸入する日明貿易は、形式的には朝貢貿易だったため、永楽条約の規定通り無関税であり明滞在費や商品運搬費は明の負担であり、取引上は有利だった。永楽条約では他に貿易品を寧波で査証して交易は北京で行うことなどが定められた。足利義満の没後足利義持は1411年に貿易を中断したが、足利義教は1432年に幕府の逼迫財政補填のため貿易を再開し、1434年には貿易細則(10年1回・3隻・300人)を定めた宣徳条約を批准した。再開後の日明貿易は幕府ではなく大名・有力寺社が中心となって行われ、例えば唐物を求め入明した商人楠葉西忍(くすばさいにん)は興福寺大乗院の貿易船を利用した。
3 日明貿易の終焉
応仁の乱の頃、貿易の実権は大内政弘を背景とする博多商人と、細川勝元を背景とする堺商人に二分されていたが、やがて1523年に勃発した寧波の乱で大内義興の応援を得た博多商人が堺商人を駆逐し、貿易を独占した。しかし大内義興の嫡子大内義隆が1551年に謀殺されると、日明貿易は終焉した。日明貿易で流入した洪武通宝・永楽通宝・宣徳通宝などの明銭は広く流通し、遠隔地の年貢の代銭納(銭納)も広まったが、やがて精銭ではない鐚銭(びたせん)(私鋳銭・焼銭・欠銭など)が流通した。商人たちが精銭を優先する撰銭(えりぜに)を行ったため経済は混乱したが、幕府や大名は撰銭令を出してこれに対処した。なお、日本初の撰銭令は1500年に大内義興が施行した。
日朝貿易
足利義満は1392年に李氏朝鮮側の要望に応じて倭寇の取り締まりを約束したため、日本と李氏朝鮮の間に国交が開かれた。こうして発生した日朝貿易は、当初より幕府だけではなく守護大名や豪族や商人が参加していたために活発に行われるようになった。日本から李氏朝鮮へは南方貿易により得た蘇木(蘇枋(すおう)の木;赤い染料の原料)や香木(香料の原料)を始め日明貿易とほぼ同様のものを輸出し、李氏朝鮮からは木綿や、仏教研究に多大なる貢献をすることになる大蔵経(一切経)の経典版木、朝鮮人参などが輸入された。なお木綿は、庶民が平常服として着ただけではなく戦国大名も戦闘服として採用したため、その原料たる綿花の栽培が河内国や三河国などで行われるようになった。日朝貿易では幕府発行の通信符が用いられたので通信符貿易と呼ばれるが、対馬国の宗氏一族も日朝貿易に介在するため李氏朝鮮への渡航許可証として文引(ぶんいん)を発行した。宗貞茂は倭寇の取り締まりなどを積極的に行い日朝間の友好に努めたが、彼が死ぬと倭寇の再来を恐れた李氏朝鮮は、倭寇本拠地の対馬国を奇襲し、一方的な大虐殺を行った。1419年に発生したこの応永の外寇(己亥東征(きがいとうせい))により日朝貿易は当然中断されたが、1423年に再開され、宗貞茂の子の宗貞盛により1443年に嘉吉条約(癸亥約条)が締結されてより後は再び活発となった。朝鮮使節の宗稀が著した紀行文『老松堂日本行録』は摂津国尼崎付近の高い農業技術を賛美している。日朝貿易によって朝鮮半島に在住する日本人(恒居倭)も増えたが、李氏朝鮮は彼らに対して富山浦(ふざんほ)(現;釜山)・乃而浦(ないじほ)(現;薺浦)・塩浦(えんぽ)(現;蔚山)といった三浦(さんぽ)に倭館を設置して様々な特権を与えていた。しかしやがて李氏朝鮮がこの特権を縮小していったため1510年にはこれに反発した恒居倭が三浦の乱を勃発させた。この三浦の乱以降、日朝貿易は衰退していった。
琉球王国
沖縄島は三山(北山・中山・南山)に分かれ、それぞれぐすくに住む按司により支配されていたが、中山の尚巴志(しょうはし)は1429年にこれを統一し、琉球王国を建てた。琉球王国の財源は日明両国に対する朝貢貿易を利用した中継貿易(仲継貿易)であり、琉球船は日明両国の他、ジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島でも活躍し、16世紀前半の尚清王の時には守礼門(首里城)を建設する程の勢いを見せたが、やがて欧州人が貿易の独占を開始すると衰退し、1609年には尚寧王が薩摩藩主島津家久に捕縛され、日本の属国・属領となった。後の明治時代の廃藩置県の際、沖縄県の設置に伴い尚家は華族となった。16世紀から17世紀に掛けては琉球文化が開化した時期であり、琉球の古代歌謡である「おもろ」を編集した『おもろそうし』などが完成された。 
6 室町時代の社会
産業の発達
日明貿易によって災害に強く収穫が多い大唐米(占城米(ぱんちゃまい))・赤米・めくろの米などが輸入され、西日本を中心として栽培が始まった。室町時代には二毛作が全国に広まり、一部では米・麦・蕎麦の三毛作も行われ始めた。また米の品種改良も進み、収穫時期が違う早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)が開発され、水車の発明、龍骨車の輸入により灌漑技術も進展し、厩肥・下肥の本格的な使用、備中鍬などの開発と相俟って農業生産力は大きくなっていった。また『七十一番職人歌合』に見られるように、鍋や釜や鍬などの日用品を製造して販売する鋳物師や、刀を製造販売する鍛冶、それに塗師(ぬりし)・研師(とぎし)・鎧師(よろいし)・経師(きょうじ)・番匠(ばんしょう)などが存在していた。生活に余裕を持った農民は苧・桑・楮・漆・藍・茶などの栽培を副業として営むようになり、各地で新たな特産品が作られ始めた。主な特産品としては、山城国京都の西陣織をはじめ加賀国・丹後国・常陸国などの絹織物の他、美濃国の美濃紙や播磨国の杉原紙(すいばらがみ)や越前国の鳥子紙(とりのこがみ)など楮・三椏・雁皮を原料とする和紙、備前国長船・美濃国関・越中国則重・伊勢国村正などの刀剣、主に伊勢国などにおいて揚浜法や入浜法により塩田で製造された塩、美濃国・尾張国の陶器、能登国・筑前国の釜、出雲国の鍬、河内国の鍋などが知られている。この他、戦国時代には佐渡国の相川金山や甲斐国の黒川金山、伊豆国の伊豆金山、石見国の大森銀山や丹波国の生野銀山などが戦国大名の財源確保のため開発された。
座の概要
平安末期に始まった座は、公家や寺社などの本所に保護される代償として隷属関係を結んでいた点で西洋のギルドと異なる。主な座としては、近衛・兵衛府の保護下の四府駕輿丁座・織手座・白粉座・青苧座、興福寺の保護下の絹座・綿座・魚座・塩座、祇園社の保護下の綿座・錦座・材木座、石清水八幡宮の末社の離宮八幡宮に直属していた大山崎油座(荏胡麻油座)、北野神社の保護下の西京酒麹座、東大寺の保護下の木工座などが挙げられる。やがて本所の没落に伴い、座は本所に営業税たる座役を支払う代わりに仕入・販売・営業の独占や関銭免除などの特権を獲得するようになった。座頭と座衆で構成される座は室町時代には全国的に結成され、特産品の製造販売や注文生産を行った。商人たちは市でも販売を独占するべく、営業税たる市座銭(市場税)を納めて販売座席たる市座を確保し、市人(いちびと)と言う特定商人として市の主体をなした。やがて楽市楽座令の発布や座に属さない新儀商人の出現などにより、座は衰退していった。
商業取引の発展
それまでの路上販売たる立売に代わり、鎌倉時代には店頭に商品を陳列する見世棚が設けられるようになり、室町時代に入ってからは店内に商品を置く店ができた。また平安末期には呼び売りして歩く振売が多かったが、室町時代に入ると木製の運搬道具である連雀(れんじゃく)を背負って行商する連雀商人が出現、城下町などの中に連雀町を形成した。また京都では鵜飼集団の桂女(かつらめ)が鮎や朝鮮飴を、女性行商人の大原女(おはらめ)が炭や薪を、それぞれ販売した。商品の流通量の増加に伴い、定期市は以前の三斎市に代わって月6回の六斎市が開かれるようになった。また京都には米場、淀には魚市が設けられ、それぞれが米穀と魚の唯一無二の卸売市場となった。この頃の代表的な運送業者としては、馬借や車借、さらに千石船などを用いる廻船などが挙げられる。
惣村の形成
南北朝時代に小百姓の名主化に伴う農民層の画一的平均化が為されたため、近江国の菅浦(すがのうら)・今堀日吉(いまぼりひえ)・得珍保(とくちんほ)・大浦など畿内を中心として惣村(惣・惣荘)が発生した。乙名(おとな)・長・年寄(おとな)・月行事・番頭・沙汰人などの国人層を頭目とする地縁的且つ自治的な結合を持つ惣村は、神社祭礼を司る氏子組織の宮座により取り仕切られた寄合にて入会権(入会地の使用権)や結(もやい)(共同作業)や灌漑用水の番水制を合議的に裁定し、有事には宮座を中心として起請文(きしょうもん)を認め「一味神水」の集団として惣百姓が結束した。加持子(かじし)(地代)を小作人から徴収したため加持子名主と呼ばれる国人層は、守護大名と主従関係を結ぶこともあった。惣村は惣掟(惣規約・村掟・村法・地下掟(じげおきて)・郷置目(ごうのおきめ))に基づき自検断(地下検断)として警察権や裁判権を行使し、守護不入として守護使の干渉を拒絶した。守護大名に対抗する必要上、惣村は他の惣村と連合して郷・庄を作り、それぞれ惣郷・惣庄として共同行動したが、この郷村制は兵農分離の実施により次第に封建支配の末端機関と化した。農民たちは、年貢の徴収などを領主に対して共同で請け負う地下請(百姓請)を行った。
民衆の団結と蜂起
守護大名らの圧政に対し、年貢減免や地頭・代官罷免を求める農民は集団で蜂起した。農民たちは要求事項を百姓申状に認めて領主に嘆願する合法的な愁訴や、違法行為の強訴(ごうそ)・逃散(ちょうさん)を行い、最終的に目的完遂のための「一味同心」の集団として一揆を結成し、武力をもって圧政に対峙していくようになった。
正長の徳政一揆
(1428年 / 日本初の土民蜂起)
南北朝時代に国人一揆の白旗一揆があったものの、一条兼良の子の興福寺僧尋尊(じんそん)が著した『大乗院日記目録』に「日本開闢(かいびゃく)以来土民蜂起是れ初め也」と記載されているようにこの正長の徳政一揆は土一揆の先駆けである。足利義教の将軍就任が確定したため社会観念に基づく代始めの徳政(天下一同の徳政)を要求する凡下の間には不穏な動きが起こり、近江国坂本の馬借の蜂起を端緒として畿内各国で土一揆が勃発した。幕府は徳政令を発令しなかったが土民は土倉・酒屋を襲撃し、実力で借金を踏み倒す私徳政を断行した。将軍空位だったため正長の徳政一揆は管領畠山満家が鎮圧したが、この一揆に於ける農民たちの徳政宣言は大和国柳生郷の徳政碑文に記載されている。翌1429年に勃発した播磨の土一揆は『薩戒記』に記されているように「侍ヲシテ国中ニ在ラシムベカラズ」、即ち播磨守護赤松満祐らの国外退去を要求したが、赤松満祐本人により捻り潰された。
嘉吉の徳政一揆
(1441年 / 幕府、徳政令を発令)
足利義勝の将軍就任が決定した1441年にはやはり代始めの徳政を要求する嘉吉の徳政一揆が勃発し、一揆軍が京都市街を占領した。幕府は一揆終焉のため徳政令を発布した。これ以降幕府は済し崩し的に徳政令を乱発し、1454年の享徳の土一揆では徳政令を発布する代わり債務額の1 割を分一銭として徴収する分一徳政令を一国平均徳政令として発布した。また1457年の長禄の土一揆では、土倉などが債権額の数割を幕府に納入することでその土倉などを徳政の対象から外す、徳政禁制令を発令した。
山城の国人一揆
(1485年 / 戦国時代の下克上)
応仁の乱の終結後も畠山義就と畠山政長は山城国で抗争を続けていたため、尋尊の著作『大乗院寺社雑事記』に記載されている山城の国人一揆が勃発した。畠山軍を追放した国人たちは宇治平等院にて国中掟法を定め、荘園復活・新関停止を断行した。やがて傀儡守護伊勢貞陸を擁立した国人たちは、月行司(三十六人衆)の下で南山城国を8年間に亘って自治した。こうして、凡下たちの間にも下剋上の風潮が広まっていった。
加賀の一向一揆
(1487年 / 一向一揆の端緒)
『墓帰絵詞』に見られる三世法主本願寺宗昭(覚如)により開かれた一向宗最小派閥の本願寺派を率いる八世法主本願寺兼寿(蓮如)は、「あなかしこ」で終わる御文(おふみ)や信仰者集会の講(こう)を活用し、専修寺派など他の派閥を押し退けて本願寺派を最大派閥たらしめた。天台坊主に本願寺を焼かれた本願寺兼寿は越前国吉崎道場(吉崎坊)へ移っていたが、加賀守護富樫政親が門徒(一向宗信者)の弾圧を開始したため、現世の政治には従い援助せよ、とする「王法為本」を説く本願寺兼寿は山科本願寺に移った。『蔭涼軒日録』に記載されている通り1487年には加賀の一向一揆が勃発し、翌1488年には一向宗門徒が高尾城を攻めて富樫政親を自害させ、傀儡守護富樫泰高を擁立した。『実悟記拾遺』に「百姓ノ持タル国」と記された加賀国は、以後小一世紀に亘って独立自治を保ったが、石山本願寺から派遣されて来た奉行の下間頼照と門徒衆の間にて内ゲバが勃発したところに上杉謙信軍と織田信長軍の挟撃を受けて壊滅的打撃を被り、やがて織田家北陸遠征軍率いる柴田勝家によって1579年、叩き潰された。 
7 室町文化
南北朝動乱による武士・民衆の抬頭は南北朝文化を現出させたが、足利義満の時代の北山文化と足利義政の時代の東山文化は公家文化と禅宗文化が融合された武家文化だった。やがて応仁の乱で都を焼け出された公家などの都の文化人が地方の有力大名の下に身を寄せたため戦国時代には各地で中央の文化を受け継いだ天文文化が開花した。
宗教
足利尊氏の側近であり著作『夢中問答』で知られる夢窓疎石は、南北朝動乱による死者の冥福を祈るため、利生塔(りしょうとう)と言う供養塔の他に一国一寺の割合で安国寺を建立した。また足利義満は相国寺を建立した側近の春屋妙葩の建言を入れ、宋の官寺制を模倣して臨済宗の五山十刹(ござんじっさつ)の制を定めた。この制度では南禅寺が別格上位、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が京都五山、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺が鎌倉五山とされ、僧録司に所属する僧録に統轄された。これに対し大徳寺の一休宗純ら林下の僧も活躍した。日蓮宗では『立正治国論』を足利義教に提出して罰せられた鍋冠り上人こと日親や法華一揆を結成した京都の町衆らが活躍したが、1536年の天文法華の乱の後、管領細川晴元の抑圧もあって衰退した。なお神道では、京都吉田神社の神官吉田兼倶(よしだかねとも)が『唯一神道名法要集』を著して、神本仏迹説に基づく吉田神道こと唯一神道を確立した。庶民の間では七福神信仰や地蔵信仰、さらに札所巡礼と観音聖場巡礼による観音信仰が流行し、伊勢詣・熊野詣・善光寺詣などが盛んに為された。
文学及びそれに類するもの
『神皇正統記』 / 北畠親房が百王説に基づき吉野朝の正統性を証明すると共に後村上天皇の為政のため常陸国小田城にて執筆した史論書。
『太平記』 / 吉野朝側の小島法師が著した軍記物語。講釈師の太平記読みにより全国に広まる。
『梅松論』 / 作者不詳。今川了俊が自分の活躍を誇示するため著した『難太平記』と同様、足利幕府側の見地から記されたもの。
『応仁記』 / 飯尾彦六左衛門尉の著。前述の名文句で有名。『承久記』『明徳記』と共に軍記物の『三代記』とされる。
『建武年中行事』 / 後醍醐天皇が著した有職故実書。有職故実書としては北畠親房の『職原抄』や一条兼良の『公事根源』も有名。
『新葉和歌集』 / 後醍醐天皇の皇子宗良親王(尊澄入道親王)が編纂。ちなみに宗良親王自身の和歌集は『李花集』。
『新続古今和歌集』 / 飛鳥井雅世の和歌集。
『三韻一覧』 / 周防国山口で刊行された大内版という出版物。この頃、京都五山からは五山版が刊行された。
『中生子』 / 中巖円月が著した日本初の朱子学研究書。この他、五山文学としては義堂周信の『空華集』や絶海中津の『蕉堅藁』など。
『菟久波集』 / 日本初の連歌集。『増鏡』の著者と目される二条良基が編纂。後に準勅撰となる。
『応安新式』 / 二条良基が連歌の規則を明示したもの。これによって、連歌は次第に和歌と対等の地位を確立していった。
『新撰菟久波集』 / 東常縁から古今伝授(『古今和歌集』の秘事・口伝)を受け、一条兼良に古典を師事し、連歌を心敬に学んだ飯尾宗祇の著作。正風連歌を確立。なお飯尾宗祇は紀行文『筑紫道記』や弟子の宗長・肖柏と詠んだ『水無瀬三吟百韻』でも有名。
『新撰犬筑波集』 / 山崎宗鑑の著作。山崎宗鑑は荒木田守武と共に俳諧連歌を確立。
『閑吟集』 / 宗長による編纂。「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの……」などといった、小歌を大成。
『実隆公記』 / 三条西実隆の日記。三条西実隆は飯尾宗祇から古今伝授を受け、飛鳥井雅親に和歌を学び、『雪玉集』などを残す。
『河海抄』 / 四辻善成が著した『源氏物語』の注釈書。後に一条兼良はこれを訂正、『花鳥余情』を著す。
『樵談治要』 / 「五百年以来の才人」と称された碩学・一条兼良が『文明一統記』と共に足利義尚に提出。足軽の登場を記す。
『小夜の寝覚』 / 一条兼良が日野富子に提出。一条兼良の著作としては他に有職故実書『江家次第抄』などがある。
『一寸法師』 / 『文正草子』『物臭太郎』『浦島太郎』『酒呑童子』と同様、立身出世と神仏霊験譚を中心とした御伽草子の一つ。
『医学大全』 / 堺の阿佐井野宗瑞が著した日本初の医学書。なお堺では道祐が「正平版論語」として『論語集解』を版行した。
『甲陽軍鑑』 / 武田四名臣の一人高坂昌信が著した原本を春日惣次郎が書き継ぎ、小幡景憲が江戸初期に編纂。武家教育の教科書。
建築・絵画
鹿苑寺金閣 / 増長を続ける足利義満が北山山荘に建立。下から順に寝殿造・武家造風寝殿造・禅宗様の三層構造。将軍家の貴族化を示す。
慈照寺銀閣 / 東山山荘に避難した足利義政が建立。上が禅宗様、下が書院造の二層構造。東求堂同仁斎は付書院を有する書院造の源流。
龍安寺石庭 / 「虎の子渡し」で知られる。慈照寺庭園・大徳寺大仙院庭園・西芳寺庭園と同様、善阿弥ら山水河原者による枯山水で有名。
『布袋図』 / 黙庵が描いた水墨画(宋元画)。南北朝時代の水墨画としては、他に可翁の『寒山図』が挙げられる。
『瓢鮎図』 / 如拙が禅の公案を題材として描いた禅機画。北山文化では如拙の他に明兆(兆殿司)や周文も活躍。
『四季山水図巻』 / 主に山口の雲谷庵で活躍して日本的な水墨画様式を完成した雪舟(等楊)の作品。他に『秋冬山水図』『天橋立図』も有名。
『周茂叔愛蓮図』 / 狩野派の始祖狩野正信の作品。子の狩野元信は『大仙院花鳥図』を描く。土佐派では土佐光信が出て宮廷絵所預として活躍。
茶道その他
南北朝時代には茶の異同を飲み分けて懸けをする闘茶や茶寄合が盛んに行われたが、これは能阿弥によって茶の湯と言う芸能に昇華された。やがて足利義政の茶道師範であり一休宗純に師事したことで有名な村田珠光は禅の精神を盛り込んで茶禅一味の境地を開拓し、所謂「一期一会」の精神で知られる佗び茶を興した。書院の茶ではなく草庵の茶として発展した佗び茶は、武野紹鴎を経てその娘婿の千利休により大成された。なお堺出身の千利休・今井宗及・津田宗及の三人を、三宗匠と言う。一方、池坊専慶が創始した花道は後に池坊専応・池坊専好らによって発展された。
芸能
興福寺を本所とする大和猿楽四座(観世座・金春座・金剛座・宝生座)のうち観世座から輩出された観阿弥清次とその子の世阿弥元清は足利義満の同朋衆であり、民間の田楽能と寺社の猿楽能を融合して能を大成したことで知られている。世阿弥元清は、謡・舞・技の最高境地たる幽玄と、稽古・工夫公案を重視した『風姿花伝』『花鏡』を著し、娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)に能を継承した。ちなみに能の台本を謡曲、能を行う者が顔面に着ける面を能面、能の合間に演じられる科白劇を狂言と言う。この他、桃井直詮が創始した幸若舞や、古浄瑠璃・風流踊り・念仏踊り・盆踊りなどが流行した。なお、幸若舞では、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を受け、滅せぬ者の有るべきか……」という『敦盛』の一節があまりにも有名である。
学問
朱熹の『大学』を注釈した『大学章句』を刊行して薩摩国の島津忠昌の下で薩南学派を開いた桂庵玄樹や、土佐国の吉良宣経の下で海南学派を開いた南村梅軒、武蔵国の太田道灌に仕えた万里集九など戦国時代には多数の朱子学者が活躍した。また鎌倉時代に足利義兼が設置した足利学校は上杉憲実と快元により復興され、「坂東の大学」と称される程発展し、多数の逸材を世に輩出した。なお当時の庶民教育に用いられた教科書は『貞永式目』や玄恵の『庭訓往来(ていきんおうらい)』であり、辞書は饅頭屋宗二(林宗二)が刊行した『節用集』などである。 
8 戦国時代
戦国時代
家臣の知行地の面積や収穫量の明細書を大名に提出させることを指出検地と言う。土地の広さは貫高制(永楽通宝の場合は永高制)、即ち収穫量を明銭に換算した金額で表され、戦国大名はそれを保障する代わりに貫高相応の軍役などを賦課した。軍役を負担する家臣(給人)の下に戦国大名は国人らを組織し、やがて家臣を一族衆(一門)・国衆(譜代)・新参衆(外様)に分け、兵卒も足軽・あらし子・仲間(ちゅうげん)・小者・郎党・同心などに分けて軍奉行に統轄させた。こうした非常時体制のことを寄親・寄子制と言う。また大名領国制下で戦国大名は領国にのみ通用する分国法(壁書・家法)を制定したが、分国法は連坐法・縁坐法や喧嘩両成敗法など、厳罰主義のものが多かった。主な分国法としては、伊達稙宗の『塵芥集』、結城政勝の『結城家法度』、伊勢長氏の『早雲寺殿二十一箇条』、武田信玄・武田信繁の『甲州法度之次第』、今川氏親・今川義元の『今川仮名目録』、朝倉孝景(朝倉敏景)の『朝倉孝景条々』、六角義治の『六角氏式目』、三好長治の『新加制式』、大内義興の『大内氏掟書』、長宗我部元親・長宗我部盛親の『長宗我部氏掟書』、相良為続・相良長毎・相良晴広の『相良氏法度』などが挙げられる。一方、戦国大名は一極集中による商工業の発展と家臣の謀叛防止のため城下町を造成した他、宿駅制・伝馬制の整備や関所の消極的な撤廃などを行った。主な城下町としては、北条家の相模国小田原、今川家の駿河国府中、斎藤家の美濃国井ノ口、朝倉家の越前国一乗谷、長尾家の越後国春日山、大内家の周防国山口、一条家の土佐国中村、大友家の豊後国府内、島津家の薩摩国鹿児島などが挙げられる。これら城下町の他、摂津国石山・越前国吉崎・和泉国富田林・大和国今井・美濃国円徳寺など一向宗の寺院の敷地内には寺内町が、また宗派に関係無く寺社の門前には、延暦寺の近江国坂本、伊勢神宮の伊勢国宇治山田、善光寺の信濃国長野などの門前町が形成され、さらに『耶蘇会士日本通信』の中でガスパル= ヴィレラをしてヴェニスに形容せしめた堺をはじめとする港町、それに宿場町などが形成された。港町としては和泉国堺の他、筑前国博多、備後国草戸千軒町、摂津国兵庫、薩摩国坊津、越前国敦賀、備後国尾道、若狭国小浜、近江国大津、伊勢国桑名、伊勢国大湊などが知られているが、このうち堺は36人の納屋衆(会合衆(えごうしゅう))が、博多は12人の月行司がそれぞれ自治した。
東北地方の情勢
奥州探題として君臨していた伊達稙宗は1542年に次男の伊達実元を上杉定実に入嗣させようとしたが、嫡男の伊達晴宗がこれに反発し天文の大乱が勃発した。天文の大乱は伊達稙宗の隠居により終焉したが結果として伊達家の支配力の弱体化を招き、伊達晴宗の嫡男である伊達輝宗は政略結婚を多用して版図を維持することとなった。伊達輝宗は義兄の最上義光の策謀による内紛発生を懸念して嫡男・伊達政宗に家督を継がせたが、自身は二本松義継に暗殺され落命した。この事件を契機として1585年に勃発した人取橋合戦にて寡兵の伊達政宗は蘆名義広・佐竹義重らと戦い、1589年の摺上原合戦では蘆名義広を駆逐して黒川城(会津若松城)を占拠し、東北の覇権を確立した。一方、東北地方北部では南部晴政・南部信直親子が「三日月の丸くなるまで南部領」という広大な版図を誇っていたが、1571年に津軽為信が独立したためやや弱体化した。
関東甲信越地方の情勢
今川義忠の妹婿伊勢長氏は、1491年に堀越公方足利政知の遺児足利茶々丸を謀殺して韮山城を占拠し、初の本格的な戦国大名となり、1495年には大森藤頼から小田原城を奪取し、1516年には三浦時高を討った。伊勢長氏(北条早雲)の嫡男である北条氏綱は扇谷上杉朝定から河越城を奪う一方、1538年に勃発した第一次国府台合戦では古河公方足利晴氏を擁して小弓御所足利義明・里見義堯連合軍を粉砕し、1546年には嫡男の北条氏康が足利晴氏と山内上杉憲政、扇谷上杉朝定らを河越夜戦で破り、後北条家の覇権を確立した。一方、武田晴信は父の武田信虎を駿河国へ追放して家督を奪ったものの、1548年の上田原合戦では村上義清に惨敗した。だが村上義清の居城戸石城は真田幸隆の謀略により陥落したため村上義清は越後国の長尾景虎を頼った。こうして1553年には武田信玄(武田晴信)と長尾景虎の間で第一次川中島合戦が勃発し、以降第三次川中島合戦まで睨み合いが続いた。この間、足利義輝の偏諱を受けて改名した長尾輝虎は1557年に北条氏康から逃れて来た山内上杉憲政より上杉姓と関東管領職を継承して上杉政虎(上杉謙信)となった。上杉謙信は1559年に佐野昌綱が籠る下野国唐沢山城を包囲する北条氏政の大軍を44騎で駆逐し、さらに小田原城を攻撃したが、武田信玄が北進し始めたため転進した。こうして1561年に勃発した第四次川中島合戦(八幡原合戦)では武田信玄が当初山本勘介発案の啄木鳥戦法を用いたものの失敗し、武田信繁・山本勘介・諸角虎定らが討死するなどの苦戦を強いられたが、高坂昌信らの活躍により優勢に転じ結果的に川中島を版図とした。武田信玄が在原業平の末裔長野業盛が守る箕輪城を陥落させた後の1565年にも第五次川中島合戦が勃発したが、これは睨み合いに終始した。一方、第二次国府台合戦で里見義弘を破った北条氏康は1568年に子の北条氏秀を上杉謙信の養子として越相同盟を締結、翌年にはこれに反発して来襲した武田信玄を小田原城に籠城して撃退、やがて甲相同盟を締結した。北条氏康は1571年、武田信玄は1573年、上杉謙信は1578年に逝去した。
近畿・中国地方の情勢
1493年の明応の政変にて管領細川政元は将軍足利義尹を追放して足利義澄を擁立したが、1508年の永正の政変にて大内義興に支持された足利義尹は足利義稙として将軍職に復位した。一方、管領細川晴元は1532年に一向一揆を煽動して三好元長を討ったが、1549年には三好元長の子の三好長慶に駆逐された。やがて幕府の実権を掌握した三好長慶は1553年、芥川城にて畿内周辺を版図とする三好政権を樹立したが、次第に松永久秀に実権を奪われ、1564年に三好長慶が死去すると松永久秀の傀儡である三好義継が後継した。松永久秀と三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆は1565年に将軍足利義輝を惨殺して京都から宣教師を追放したが、やがて対立して奈良で戦い東大寺大仏殿を焼失させた。一方、大内義興の子で後奈良天皇の即位式に資金を供出するなど栄華を極めていた大内義隆は1551年、重臣の陶晴賢に謀殺され滅亡した。陶晴賢は傀儡君主として大内義長(大友晴英)を立てたものの1555年の厳島合戦にて大江広元の末裔毛利元就に討伐された。大内家の旧領を継承した毛利元就は正親町天皇の即位式の資金を出す一方、月山富田城を攻略して尼子義久を滅ぼし、主家・浦上宗景を滅ぼしていた宇喜多直家と同盟するなどして地盤を固めた。やがて1571年に毛利元就は逝去したが、嫡孫毛利輝元、次男吉川元春、三男小早川隆景に残した「三矢の訓戒」は、尼子家再興を志したものの河合渡で惨殺された山中幸盛(山中鹿之介)の話と共にこの地方の逸話として有名である。
四国・九州地方の情勢
一条房家の助力で御家再興を果たした秦氏血統の長宗我部国親は土佐国統一を目指し、1560年の長浜合戦では初陣の嫡男長宗我部元親の活躍もあって宿敵本山茂辰を下した。長宗我部元親は1575年に土佐国を統一し、1585年には四国統一を果たした。なお伊予国の河野通直は同年、豊臣秀吉から命じられた転封を拒否したため改易され、河野家の正系は断絶した。一方、1543年に鉄砲、1549年に基督教が伝来した九州では、1554年に島津貴久が肝付兼続との加治木城の戦いにて日本史上初の鉄砲実戦使用を敢行した他、宗義調が倭寇取締・貿易船年30隻を定めた弘治条約(丁巳約条)を締結して日朝貿易による利益で潤い、また龍造寺隆信が少弐冬尚を討って戦国大名となるなど群雄割拠の情勢が続いていたが、二階崩れの変を経て大友義鑑から家督を継承した大友宗麟(大友義鎮)は1570年の今山合戦にて龍造寺隆信の重臣鍋島直茂の前に惨敗し、日向国の基督教国化を謀り島津義久と戦った1578年の耳川合戦でも島津義弘らの猛攻を受けて破れ、弱体化した。大友宗麟は、有馬晴信や初のキリシタン大名大村純忠らと共に1582年、伊東マンショ(伊東祐益)・千々石ミゲル(千々石清左衛門)・原マルチノ・中浦ジュリアンらを天正遣欧使節としてローマへ派遣したが、沖田畷合戦(島原合戦)で龍造寺隆信を破った島津軍の猛攻の前に弱体化を続けた。
東海地方の情勢
曳間城の斯波義逵を攻略して守護大名から戦国大名に転身した今川氏親の急死により、今川家は太原雪斎が推す今川義元(梅岳承芳)と福島正成が推す今川良真(玄広恵探)の二派に分裂したが、1536年の花倉の乱に勝利した今川義元が家督を継承した。今川義元は守山崩れにて落命した松平清康の子の松平広忠を軍門に下す一方、二度にわたる小豆坂合戦を織田信秀との間で戦い勢力を伸張し、1554年には太原雪斎の助力により北条氏康・武田信玄との間で政略結婚による相互監視を基本とした相互不可侵条約たる善徳寺会盟を締結し、西進の準備を推進した。一方、美濃国では守護の土岐頼芸を1542年に追放した家臣の斎藤利政(斎藤道三)が実権を掌握した。そうした情勢の下の1534年、尾張国守護代織田信友の奉行である織田信秀とその正室土田御前との間に、織田信長が誕生した。