いい日旅立ち

やはり 年寄りの記憶の引出し
開けてくれる

自分の いい日旅立ち


  


 
 
 
 

 

●いい日旅立ち
雪解け間近の北の空に向い
過ぎ去りし日々の夢を叫ぶ時
帰らぬ人達 熱い胸をよぎる
せめて今日から一人きり 旅に出る
   あゝ日本のどこかに
   私を待ってる人がいる
   いい日 旅立ち 夕焼けをさがしに
   母の背中で聞いた歌を道連れに…
岬のはずれに少年は魚釣り
青いすすきの小径を帰るのか
私は今から 想い出を創るため
砂に枯木で書くつもり“さよなら"と
   ・・・ 
   いい日 旅立ち 羊雲をさがしに
   父が教えてくれた歌を道連れに…
・・・
いい日 旅立ち 幸福をさがしに
子供の頃に歌った歌を道連れに…
 
 
 
 

 

●山口百恵
[ 1959/1/17- ] 日本の元歌手、元女優。活動時の所属事務所はホリプロで、レコード会社はCBSソニーに所属していた。
本名:三浦百恵(みうらももえ、旧姓:山口)。現役時代にはペンネームの「横須賀恵」で自曲の作詞を行い、芸能界引退後には本名の三浦百恵名義で他の歌手への作詞を行っている。夫は俳優の三浦友和、長男はシンガーソングライター・俳優の三浦祐太朗、次男は俳優の三浦貴大。長男の妻は声優・歌手の牧野由依。
生い立ち
東京都渋谷区東京都立広尾病院で生まれた。横須賀市立鶴久保小学校卒業。横須賀市立不入斗中学校時代に、スター誕生!に出場。日出女子学園高等学校卒業。
父親には別の家庭があり、子供もいた。戸籍には「認知」の2文字が置かれていた。百恵がこの事実を知ったのは、高校へ入学してすぐだった。既に芸能界入りしており、週刊誌が戸籍謄本を「出生の秘密」と題して掲載した。百恵は父について「私には、父はいない。一つの肉体としてのあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。」(『蒼い時』)と記している。幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区、4歳のときから中学生でデビューするまで横須賀市で過ごした。世帯数4世帯の木造アパートの2階が住居で風呂は共同風呂であった。父が来るときは、常に大きな黒い鞄を持ってやってきて滞在した。父は異常なまでに百恵を可愛がり、欲しいものは何でも買い与え、どこへでも行きたい場所に連れて行った。しかし、金銭的にルーズで、母が何度も裏切られる場面を目にするようになり、母の内職により生活を支えるようになっていった。母は、高校の入学金の工面を父に相談したが、受け入れられなかったことから、子供を差別したという理由で父との別離を決心した。中学校の入学直前の春には、父が目の前に立ちはだかり、「中学に入ったからといって、ボーイフレンドとか何とか言って、男と腕でも組んで歩いたりしたらぶっ殺すからな」と言われる。この時の、娘を娘としてでなく自分の所有する女を見る動物的かつ不潔な視線が百恵を父から隔絶した。
芸能界デビュー
1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い準優勝20社から指名を受ける。百恵はこのとき「発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していた」という。同番組への応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て「自分も森昌子さんのようになりたい」と思ったことだった。この決戦大会出場時の映像は現存していない。なお、後に「花の中三トリオ」を組むことになる桜田淳子も、同年に同じ『スター誕生!』で牧葉ユミの曲「見知らぬ世界」を歌って合格していた。
1973年4月14日、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲でアイドル歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。1973年5月20日、デビュー曲の発売される前日にさいか屋横須賀店の屋上にあるステージで、地元でのお披露目として「としごろ」を歌う。デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第2弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり、年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。
「ひと夏の経験」を歌っていた時期のインタビューでは「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」とたいてい質問されたが、百恵は全て「まごころ」で通していた。歌詞の内容は際どかったが、辺見マリや夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあった。CBSソニーのプロデューサー・酒井政利は「青い果実」をリリースする際、作詞家の千家和也に対して「より過激な表現」を求めつつ、「中学生にこんな歌詞を歌わせていいのか」と自問したものの、「ストレートに表現することも一つの行き方だ」と思い直したという。その後、千家・都倉コンビが作った楽曲は45曲に及ぶ。
小西良太郎は「大人たちに言わせれば、いたいけな中学生が、口にするだけでもドキドキしそうな歌を歌う。けしからん!もってのほかだが、少々うすぐったい。天地真理やアグネス・チャンらの、そぞろ恋を恋する季節の歌が、年相応に明るくて、健康的で、ほほえましかった。ところが、そんな優等生型ニコニコポーズに飽きがきたところで、見回したら、百恵の青いセクシーさが、急に説得力を持ってきた」などと評した。
同曲が大ヒットした1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツのCMでこの年の夏に共演済であった。『伊豆の踊子』は一般公募で相手役を募集したが、このグリコCMを観た『伊豆の踊子』の監督・西河克己が最終選考の中に三浦の書類を入れたと言われている。三浦とはその後もテレビドラマやCMでも共演して共に絶大な人気を博し、2人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。
百恵の映画初出演はレコードデビュー前にホリプロが制作した『としごろ』(和田アキ子、森昌子主演)で、新人の顔見せとしての出演だったが、『伊豆の踊子』以降、映画13作で主演。そのうち12作は三浦との共演である。「映画に関するかぎり製作者は彼女をリメイク女優以上に認識していなかった。にもかかわらず西河は『霧の旗』で、驚異的なまでのファム・ファタールぶりを彼女に演じさせた」。しかし1978年にはファンからの声の大きかった初のオリジナル作品『ふりむけば愛』がコンビ出演のグリコCMを撮り続けていた大林宣彦監督の演出で製作され、翌年にもコンビ主演10作品記念としてオリジナル作品『ホワイト・ラブ』が小谷承靖監督で製作された。なお、これらの映画は東宝配給ながらすべて日活撮影所で製作され、監督やカメラマンも西河ら日活出身者が大部分を占めることもあり、往年の日活青春映画、文芸映画の後継的な意味合いも持っている。東宝の監督である小谷や河崎義祐が担当した場合も、また、最後の引退記念作品『古都』もやはり日活製作であり、東宝からカメラマンの長谷川清ら数名のスタッフを連れて20年ぶり(発足の最初期に短期間在籍)に日活撮影所に乗り込んだ市川崑監督は、馴染みの薄いスタッフを粘りに粘って叱咤し引退作を撮りあげた。市川は以前に何度か自分の作品に百恵の出演を依頼していたが、ホリプロサイドから断られており、この最後の作品で監督を務める喜びを制作記者会見で語っている。
テレビドラマでの初レギュラー出演は1973年10月スタート、大映テレビ制作TBS系の「顔で笑って」。この作品で宇津井健との親子役が始まり、以降宇津井健を公私共に「お父さん」と慕った。1974年10月からはTBSのテレビドラマ『赤いシリーズ』(いわゆる大映ドラマ)に主演し、『赤い疑惑』『赤い衝撃』では三浦友和と共演。高い人気を集め、シリーズは6年にも及び、百恵のレギュラー出演作品は『赤い絆』引退記念作品の『赤い死線』まで6作品にもなった人気ドラマとなる。
1976年リリースのシングル『横須賀ストーリー』から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌って新境地を開いた。なお実際にはそれ以前にも、『横須賀ストーリー』の2か月前に発売されたオリジナル・アルバム『17才のテーマ』に収録の「木洩れ日」「碧色の瞳」「幸福の実感」の3曲で宇崎夫妻の提供曲を歌っている。その後、宇崎夫妻の提供曲はシングル、アルバムを合わせると69曲に及んだ。宇崎夫妻が手掛けた作品は大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。この2人を作家として指名したのは周囲のスタッフではなく百恵本人だった。
1977年に日本武道館で行われた第6回東京音楽祭で外国人アーティストが多数出演・受賞する中、日本人歌手として楽曲「夢先案内人」で銅賞を受賞した。
1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』で紅組トリを務める。白組の沢田研二と共にポップス歌手のトリは番組初のことで、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初で、最年少記録は破られていない。ホリプロが東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。
1979年には、評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』を著すなど、多くの文化人に「現代を象徴するスター」として語られた。写真家の篠山紀信は百恵のデビュー当時から被写体として何万枚も撮り続けたが、たびたび印象的な写真を発表して注目を集めた。1970年代に篠山が最も多く撮影した女性は百恵であるが、篠山は「それは時代が山口百恵を必要としていたから」として、百恵を「時代と寝た女」と評した。
年代別プロマイド(ブロマイド)売上では、1974年 - 1980年のベスト10にランクインし、特に1976年は女性1位となった。
人気作詞家だった阿久悠は『スター誕生!』の審査委員長を務めていたが、同番組出身である百恵のソロ楽曲には作品を一切提供していなかった。その理由のひとつとして「当時は桜田淳子に(詞を)書いていたから、同系統の歌手には書かないことにしていた」と阿久自身は述べている。2008年に日本テレビ系で放送されたドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』では、『スター誕生!』のテレビ予選で百恵に対して阿久が「青春ドラマの妹役のようなものならいいけれど、歌は諦めた方がいいかもしれない」と評したことで、「そのことに傷ついた百恵は作品の提供を阿久に求めなかった」という話に脚色されているが、あくまでもドラマ上での脚色で、阿久自身は著書『夢を食った男たち』で、前述のオーディションでのエピソードについて記した上で、自身も百恵のファンであることと、百恵の魅力についても倉本聰との対談を差し挟んで語っている。
婚約、そして芸能活動を完全に引退へ 
1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。
そして、翌1980年3月7日には三浦との婚約発表と同時に、「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。1975年のザ・ピーナッツで始まり、1978年に解散のキャンディーズで定着した引退記念興行が大々的に展開されることになった。
引退直前の同年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や三浦との初体験についても赤裸々につづられており、発売から1か月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。巻末のあとがきには百恵自身の万年筆による手書き原稿が印刷されている。また、同書の仕掛け人である出版プロデューサーの残間里江子にも注目が集まった。写真撮影は立木義浩。引退後の翌1981年に文庫化されている。
1980年10月5日に日本武道館で開催されたファイナルコンサートは、当日にTBSで生放送され、案内役は『ザ・ベストテン』の司会者である久米宏が担当した。会場に殺到したファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となり、涙がこぼれても拭わずにあごから涙をぽたぽた落としながら歌った。歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩んで立ち去った。この「最後にマイクを置く」という演出は振付担当の西条満の考案で、今では伝説的なアクションとして語り継がれ、さまざまな番組などで真似されている。
ファイナルコンサートの翌日である10月6日には、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)にて引退特集番組が放送された。司会者の芳村真理・井上順のほか、百恵と同じホリプロ所属の先輩だった和田アキ子、中三トリオの桜田淳子と森昌子、女性歌手仲間として仲が良かったアン・ルイス・岩崎宏美・太田裕美・小柳ルミ子・高田みづえ・ピンク・レディー、男性歌手では五木ひろし・沢田研二をはじめ「新御三家」の郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎などが、百恵の最後の雄姿を見守った。そのほかにも、番組のフィナーレ前には五木ひろし・研ナオコ・沢田研二ら歌手仲間が登場、特にジュディ・オングから花束を受け取る際に百恵は感極まって涙を見せた。また、漫才コンビの青空球児・好児、プロデューサーの酒井政利やディレクターの川瀬泰雄ら仕事仲間の大勢も駆け付けた。この放送は後に『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』として2010年6月30日にDVDが発売されている。百恵と親しい間柄でもあった芳村はこの回の放送について、「いつもはスタッフ達の怒声も飛び交い、賑やかなスタジオであるはずが、この時はとても静かで、感動的だった」「番組の放送が終わった後も、皆去るのが辛く、VTRも回しっぱなしでお別れ会が続いた」と放送時のスタジオの様子を語っている。
現役歌手として最後のテレビ生番組出演は、10月13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』である。日本テレビ『NTV紅白歌のベストテン』の特別番組として放映された。
正式な芸能活動の完全引退は、10月15日のホリプロ20周年記念式典で、その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。式典の後同ホテル内において午後8時半過ぎに引退記者会見が開かれたが、記者の多さから開始直後に、前列にいた100名近いスチール用カメラマンと後方のビデオカメラマンとの間で揉める場面もあり、中断しかねない状態となった。この会見はこの当日放送された『水曜スペシャル特番 山口百恵 今夜 旅立ち!』(テレビ朝日)で番組の終わりに一部生放送され、これが芸能人として事実上最後のテレビ生出演となった。
引退時は21歳(22歳の誕生日の約3か月前)で、芸能人としての活動はわずか7年半ほどだった。引退までにシングルは31作の累計で1,142万枚、1970年代に最もレコードを売り上げた歌手であった。
オリコンシングルチャートにおいて、1973年6月4日付でデビューシングルの「としごろ」が75位に初登場してから1981年3月2日付で32枚目のシングルの「一恵」が96位にランクインするまで、405週連続で100位以内にチャートインし続けた。オリコンアルバムチャート(レコードのみ)において、引退後の1989年時点でアーティスト別セールス13位(251万枚)、TOP10総登場週数16位、TOP100総登場週数11位、と70年代アイドル歌手(男女共に)では最も上位にランキングされている。
現役時代にはホリプロとの確執があり、『蒼い時』でも意見の相違により社長の堀威夫と衝突があったと振り返っている。当時の制作部長であった小田信吾とともに独立するつもりであったが、ホリプロ側が小田を説得して独立を阻んだため引退を決意したとの見解もある。もし独立が成功していれば三浦との結婚がなかったかもしれず、女優としてその後も活躍していた可能性があったとの見方もある。
結婚
結婚式は1980年11月19日に、東京都港区赤坂の日本基督教団霊南坂教会にて飯清が牧師を務め、披露宴は東京プリンスホテル・鳳凰の間で招待客1,800人が出席して行われた。仲人は宇津井健夫妻で、友和側の主賓は東宝社長の松岡功(息子は松岡修造)、百恵側の主賓はCBSソニー会長の大賀典雄がそれぞれ務め、百恵の父親代わりはホリプロの堀社長が務めた。披露宴の司会はメインが岡田真澄、サブが徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)であった。
引退後
引退後も常にマスコミやファンからの注目を集めているが、一貫して芸能界とは距離を置いており、原則としてマスメディアへの出演はしない。ただし、長男出産後の記者会見に三浦と共に出席したことはあるほか、『3時のあなた』(フジテレビ)より取材を受け、その模様が同番組で放映されたことがある。また作詞家として作品を提供したことがあり、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」がヒットしている。
引退直後の1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』では「人気アンケート」で4位だったため番組側は出演交渉を行ったが、本人からは「既に引退しましたので辞退します」との回答があり出場はなかった。2000年の『第51回NHK紅白歌合戦』、2005年の『第56回NHK紅白歌合戦』でも番組側は出演交渉を行ったというが出演はなかった。
家庭に入ってからは2人の息子をもうけた。2人が小学校に在学中だった1994年、テレビドラマ『スウィート・ホーム』(TBS)について「内容が事実と異なり、保護者に対する誤解を与えるため、内容の訂正と『お受験』という言葉の使用中止を求める」という趣旨の嘆願書が、小学校受験を行った保護者たちからTBSに送られた際には署名者の1人となっている。それまでほとんど使われなかった「お受験」の語は、このドラマがきっかけで流行語になった。
1987年頃から独学でキルト製作を始め、のちにキルト作家の鷲沢玲子に師事して作品を作り続けている。作品が「東京国際キルトフェスティバル」等の展示会に出品されることもあり、2019年には日本ヴォーグ社から三浦百恵名義でキルト作品集『時間の花束』を出版し、39年ぶりの著書となった。
自宅に不審者が押し入る事件も発生したが、大事もなく解決している。夫の三浦によれば、プライバシーが脅かされる生活に対し、百恵は「私は、これ以上芸能界にいたことを後悔したくない」と漏らしたという。長男の通園に備えて自動車教習所に通い始めた頃には、教習所の周りを百恵を狙ったカメラマンが囲んだため苦悩したという。夫が人権擁護局に助けを求めた翌日には、同局の注意喚起によりカメラマンは一人も来なくなった。しかし長男の入園式の時に同局に対応を要請した際は担当者に断られ、結局マスコミが自宅や幼稚園を取り囲む取材攻勢の中を強行突破する形となり、さらには車内の子供に対し強引にレンズを向けたため子供が怯える騒ぎとなった。あまりの横暴に百恵は激怒、車を降りてカメラマンに平手打ちまでしたという。この出来事は翌週の週刊誌各紙に掲載された。
節目ごとに多くのベスト・アルバムが発売されている。デビュー30周年にあたる2003年には未発表曲1曲を含む24枚組CD-BOX『MOMOE PREMIUM』が発売され、このヒットによりブームが再燃した。
1980年のシングル『謝肉祭』は、歌詞の中で連呼する「ジプシー」という言葉が差別用語であるとして、1990年代後半以降はレコード会社が発売を自粛した。このためベスト盤CDやファイナルコンサートのDVD『伝説から神話へ -BUDOKAN…AT LAST-』も不完全な形で発売されるようになった。しかし2005年5月25日発売の『コンプリート百恵回帰』(全曲新アレンジで構成)に収録されたのをきっかけに、2006年1月18日発売のライブCD-BOX『MOMOE LIVE PREMIUM』に納められたファイナルコンサートのCD及びDVDには「謝肉祭」を含むノーカット版が収録された。そして当時のシングル・バージョンも2007年7月20日発売の廉価版CD『山口百恵ベスト・コレクション VOL.2』に収録され、9月30日に『MOMOE PREMIUM』の改訂盤として通信販売限定で発売された『Complete MOMOE PREMIUM』および『MOMOE PREMIUM update』にも収録され完全復活を果たした。
引退25年・ホリプロ創立45年にあたる2005年、百恵の楽曲を使用したトリビュート・ミュージカル『プレイバックPart2〜屋上の天使』が上演された。
2020年6月、『女子SPA!』は同ウェブサイト上で、「去り際(引退)がいさぎよかった女性5選」の1人として百恵を選出して掲載した。  
 
 
 
 
 

 

●ひと夏の経験
あなたに女の子の一番 
大切なものをあげるわ
小さな胸の奥にしまった 
大切なものをあげるわ
愛する人に 捧げるため 
守ってきたのよ
汚れてもいい 泣いてもいい 
愛は尊いわー
誰でも一度だけ 経験するのよ 
誘惑の甘い罠
   あなたに女の子の一番 
   大切なものをあげるわ
   綺麗な泪色に輝く 
   大切なものをあげるわ
   愛する人が 喜ぶなら 
   それで倖せよ
   こわれてもいい 捨ててもいい 
   愛は尊いわー  
   ・・・  

 

●横須賀ストーリー
これっきり これっきり
もうこれっきりですか
これっきり これっきり
もうこれっきりですか
街の灯りが映し出す 
あなたの中の見知らぬ人
私は少し遅れながら 
あなたの後 歩いていました
   ・・・ 
   急な坂道 駆けのぼったら 
   今も海が 見えるでしょうか
   ここは横須賀
   話しかけても 気づかずに 
   ちいさなアクビ重ねる人
   私は熱い ミルクティーで 
   胸まで灼けてしまったようです
・・・ 
あなたの心 横切ったなら 
汐の香りまだするでしょうか
ここは横須賀
一緒にいても心だけ 
ひとり勝手に 旅立つ人
私はいつも置いてきぼり 
あなたに今日は聞きたいのです
   ・・・ 
   そう言いながら 今日も私は 
   波のように抱かれるのでしょう
   ここは横須賀  

 

●イミテイション・ゴールド
シャワーのあとの髪のしずくを
乾いたタオルで拭きとりながら
   彼が窓辺で話しかけるわ
   流れる雲さえ季節の色だと
   私は軽い目まいを感じ
   マニキュアの指 かざしてみるの
   ア・ア・ア イミテイション・ゴールド
   ア・ア・ア 焼けた素肌が
   ア・ア・ア イミテイション・ゴールド
   若いと思う今年の人よ
   声が違う 年が違う 夢が違う
   ほくろが違う
   ごめんね 去年の人と又比べている
西陽の強い部屋の片隅 
彼が冷蔵庫バタンと閉じる
パックのままの牛乳かかえ
身軽な動作で運んでくれるわ 
・・・ 
飲み干したけど今年の人よ
くせが違う 汗が違う 愛が違う
きき腕違う
ごめんね 去年の人にまだ縛られてる
   ・・・ 
   まっててほしい今年の人よ
   陽が当れば 影が違う 色が違う
   光が変わる
   ごめんね 去年の人を忘れるその日を  

 

●秋桜
淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない 陽溜りに 揺れている
この頃涙もろく なった母が
庭先で ひとつ 咳をする
   縁側で アルバムを 開いては
   私の 幼い日の 思い出を
   何度も 同じ話 くり返す
   独言 みたいに 小さな声で
こんな小春日和の 穏やかな日は
あなたの 優しさが 浸みて来る
あした嫁ぐ私に 苦労はしても
笑い話に 時が変えるよ
心配いらないと 笑った
   あれこれと 思い出を たどったら
   いつの日も ひとりでは なかったと 
   ・・・
明日への荷造りに 手を借りて
しばらくは楽し気に いたけれど 
・・・
   ありがとうの言葉を かみしめながら
   生きて みます 私なりに
   こんな小春日和の穏やかな日は
   もう少し あなたの 子供で
   いさせてください  

 

●プレイバックPart2
緑の中を走り抜けてく
真紅なポルシェ
一人旅なの
私気ままにハンドル切るの
交差点では隣りの車が
ミラーこすったと
怒鳴っているから 
私もついつい大声になる
   馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
   ちょっと待って Play Back Play Back
   今の言葉 Play Back Play Back
馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
これは昨夜の私のセリフ
気分次第で抱くだけ抱いて
女はいつも待ってるなんて
   坊や いったい何を教わって来たの
   私だって 私だって 疲れるわ
はるかな波がキラキラ光る海岸通り
みじかい旅よ
力一杯アクセル踏むの
潮風の中ラジオのボリューム
フルに上げれば
心かすめてステキな唄が流れてくるわ
   勝手にしゃがれ 出ていくんだろ
   ・・・ 
勝手にしゃがれ出ていくんだろ
これは昨夜のあなたのセリフ
強がりばかり言ってたけれど
本当はとても淋しがり屋よ
   坊や いったい何を教わって来たの
   私やっぱり 私やっぱり 帰るわね
   ・・・ 
   あなたのもとへ Play Back  

 

●絶体絶命
朱らむ空が 今日はこんなにこわい
知らなければ幸せでいられた?
   暖かい灯火 ひとつまた落ちる
こうやって知らぬ間に失ってた
あの優しい声 信じてしまったの
僕にはそれだけだった
   心なくせば 楽になれるなんて
   そんなの嘘 そのまま壊れちゃう
甘い闇 嘆いても 助けは来ない
   愛してくれなんてね今更
   ・・・ 
   明日を掴むために 
   絶望を駆け抜けろ
ほとばしる汗と 燃える心で
確かに僕らは意志を持って生きてる
   こうやって狙ってる 諦めはしない
   ・・・ 
   切り開け着実に 
   時間が証明するだろう  

 

●美・サイレント
季節が変わるたびごと
花を抱いて
娘達は着飾って
街に出るわ
それを目で追うあなたは
あたしの事など忘れて
横顔の向うで
誘っているのよ
Fumー胸さわぎ
Be silent be silent be silent be silent
あなたの○○○○が欲しいのです
燃えてる××××が好きだから
女の私にここまで言わせて
じらすのは じらすのは 楽しいですか
   流行りのドレス着ている
   マネキン人形
   動かない 大きな目が
   泣いてるみたい
   ショウウィンドウを 鏡に
   あなたはいつでも 気取って
   自分の姿だけ
   見つめているのよ
   Fumー悲しいわ
   Be silent be silent be silent be silent
   ・・・ 
   いつでも私に言うだけ言わせて
   知らん顔 知らん顔 どうしてですか
Be silent be silent be silent be silent
be silent be silent be silent  

 

●ロックンロール・ウィドウ
もてたいための ロックンローラー
あなた動機が不純なんだわ
金髪美人のグルピー
いつも はべらせ歩いてる
人の曲にはケチつけて
スーパースターを 気取ってるけど
何か違うわ
かっこ かっこ かっこ かっこ かっこ かっこ
かっこばかり 先ばしり
   ロックンロール・ウィドウ
   ロックンロール・ウィドウ
   いい加減にして
   私あなたのママじゃない
人目気にする ロックンローラー
金の指輪を右手にしてる
シャウトするのが エクスタシー
のれば朝まで帰らない
もしも誰かに聞かれたら
夫はとうに亡くなりました
いい人でした
・・・ 
   ロックンロール・ウィドウ
   ロックンロール・ウィドウ
   いい加減にして
   男はあなた一人じゃない
ロックンロール・ウィドウ
ロックンロール・ウィドウ
ロックンロール・ウィドウ  
 
 
 
   

 

●エピソード
・ 郷ひろみは「アイドル時代にマネージャーや周囲の目を盗み、山口百恵に電話番号を渡したが相手にされなかった」と語っている。当時既に夫となる三浦と交際し、結婚を意識していた百恵にすれば眼中にもなかったと言われている。
・ 同じ横須賀市出身のシンガーソングライター・渡辺真知子と親交があり、百恵の結婚式に渡辺真知子も出席している。
・ 新婚当時は友人をよく自宅に招いた。招待されたのは桜田淳子、岩崎宏美、アン・ルイス、桑名正博夫妻、江藤潤夫妻など。
・ お笑い番組が大好きで、新婚当時も『THE MANZAI』や『お笑いスター誕生!!』などをビデオで録画し、夫婦で何度も見ていた。百恵の引退と漫才ブームの勃興は同時期に当たるが、漫才ブーム時はB&Bの大ファンで、引退前はB&Bの名誉会員だった。これを知ったB&Bの島田洋七が「百恵さんに歌ってもらいたい」と作詞をし、本人に歌唱を頼むつもりでいたが百恵が引退してしまい、商魂逞しいトリオレコードがこれに目を付け、作詞を洋七、作曲を森田公一に頼み、百恵に似た声を持つ歌手を探して歌入れし、1982年1月に歌・MOMOE名義で「恋愛専科」というレコードをリリースした。レコードチラシには「数々のヒット曲を世に残して去って行ったモモエ、遂に彼女の未発表曲が発見された!!あの懐かしい歌声が再び甦る!」などと書かれた引っ掛け商法で、声もそっくりで百恵と信じて買った人もいたといわれる。また夫・友和とともにダウンタウンのファンであることを、長男・祐太朗がPeaky SALTとして2009年8月31日に放送されたダウンタウンが司会を務める『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ)に出演した際に述べている。
・ 長男・祐太朗の妻である牧野由依とはLINE友達である。2022年3月に息子夫婦に子供(百恵にとって初孫)が生まれた。
・ 映画監督の市川崑は、役者としての山口百恵を高く評価しており、山口が引退した後の書籍取材の中で「役柄が幅広く、それでいて奥行き深く、女優さんとして大成するんじゃないかと思っていました」「一緒に仕事をしてみると僕の想像以上でしたね。作品に対する姿勢もキチンとしていたし、表現力も完璧で、100点満点でした」と述べている。  
 
 
 
 

 

●音楽
       発売日          タイトル       オリコン最高順位   売上枚数
 1  1973年5月21日   としごろ          37   6.7万枚
 2  1973年9月1日    青い果実          9  19.6万枚
 3  1973年11月21日  禁じられた遊び      12  17.6万枚
 4  1974年3月1日    春風のいたずら      11  16.1万枚
 5  1974年6月1日    ひと夏の経験        3  44.6万枚
 6  1974年9月1日    ちっぽけな感傷       3  43.2万枚
 7  1974年12月10日  冬の色           1  52.9万枚
 8  1975年3月21日   湖の決心          5  24.9万枚
 9  1975年6月10日   夏ひらく青春        4  32.9万枚
10  1975年9月21日   ささやかな欲望       5  32.6万枚
11  1975年12月21日  白い約束          2  35万枚
12  1976年3月21日   愛に走って         2  46.5万枚
13  1976年6月21日   横須賀ストーリー      1  66万枚
14  1976年9月21日   パールカラーにゆれて    1  47万枚
15  1976年11月21日  赤い衝撃          3  50.4万枚
16  1977年1月21日   初恋草紙          4  24.1万枚
17  1977年4月1日    夢先案内人         1  46.8万枚
18  1977年7月1日    イミテイション・ゴールド  2  48.4万枚
19  1977年10月1日   秋桜            3  46万枚
20  1977年12月21日  赤い絆           5  21.5万枚
21  1978年2月1日    乙女座宮          4  31.4万枚
22  1978年5月1日    プレイバックPart2     2  50.8万枚
23  1978年8月21日   絶体絶命          3  37.6万枚
24  1978年11月21日  いい日旅立ち        3  53.6万枚
25  1979年3月1日    美・サイレント       4  32.9万枚
26  1979年6月1日    愛の嵐           5  32.8万枚
27  1979年9月1日    しなやかに歌って      8  27.1万枚
28  1979年12月21日  愛染橋          10  22.1万枚
29  1980年3月21日   謝肉祭           4  28.6万枚
30  1980年5月21日   ロックンロール・ウィドウ  3  33.6万枚
31  1980年8月21日   さよならの向う側      4  37.9万枚
32  1980年11月19日  一恵            2  27.7万枚
33  1994年4月21日   惜春通り         34   3.1万枚  
 
 
 
 
 

 

 
   
 

 

●アリス
谷村新司
1948年12月11日生 / ボーカル&ギター担当 / 愛称「チンペイ」。
Alice活動停止以降もソロ歌手として活動。自身の代表曲として「昴」、「群青」を持ち、他アーティストへの楽曲の提供としても「いい日旅立ち/山口百恵」「サライ/加山雄三」など数多くのヒット曲を提供。
矢沢透
1949年2月6日生 / ドラム&パーカション担当 / 愛称「キンちゃん」。
Alice活動停止以降は都内の人気飲食店を経営。並行して「HUKUROH」のメンバーとして音楽活動も継続。
堀内孝雄
1949年10月27日生 / ボーカル&ギター担当 / 愛称「べーやん」。
Alice活動停止以降もソロ歌手として活動。ソロの代表曲「愛しき日々」、「恋唄綴り」、「影法師」など多数。
ヒストリー
   結成
1970年のアメリカ横断コンサートツアーの途中で、大阪のセミフォークグループ「ロック・キャンディーズ」のリーダーだった桃山学院大学出身の谷村新司と、東京のソウルバンド「ブラウン・ライス」のゲストドラマーだった矢沢透が知リ合い意気投合した。二人は日本に帰国したらプロとして一緒にグループを組もうと約束する。帰国後谷村は、同じ神戸の音楽サークル「ポート・ジュビリー」で知リ合いだった、アマチュアロックバンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカルで京都産業大学出身の堀内孝雄をグループに誘った。
1971年12月25日、谷村と堀内は矢沢が合流することを前提に「アリス」を結成。
1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。
同年5月5日、矢沢が合流し、晴れて現在のアリスになった。プロデビュー当時は、ツアーやライブに明け暮れる毎日。「特急の停まる市の市民会館にはほとんど行った(谷村)」と語るほどの地道なツアー活動をすることでファンを増やしていった。
1974年には、年間303ステージという驚異的な記録達成。
ツアーの成果と、谷村のMBS「ヤングタウン」や「セイ!ヤング」のDJ、関西カレッジフォーク界で有名だった立命館大学と同志社大学のOB三人組ウッディー・ウーの「今はもうだれも」カバーヒットを契機に、オリジナル楽曲「帰らざる日々」「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「秋止箆」「狂った果実」等、多くのヒット曲を連発した。
1978年、日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させる。日本武道館ではその後活動休止まで何回も公演し、他に後楽園球場、大阪球場、横浜スタジアムといった当時の野球場や、東京厚生年金会館大ホール、大阪フェスティバルホールといった全国の主だった音楽ホールなどを軒並み満員にするほど、多数のファンを獲得していった。
1979年から、谷村の提唱で音楽ファンのための音楽ホール「シアター・フレンズ」建設を合言葉に募金運動「ハンド・イン・ハンド」を、小室等、南こうせつ、井上陽水らとコンサート会場で始めるが、諸般の事情で挫折。ヒット曲となった「美しい絆〜Hand in Hand〜」と、当記録映画「ALICE THE MOVIE 美しい絆」(東宝製作・坪島孝監督)が公開された。
   活動停止
谷村と堀内はソロ活動活発化とともに1981年5月21日、電撃的にアリスの活動休止を記者発表。
北京・香港・バンコクの海外ツアーを含む最後の全国ツアー開催。
11月7日、後楽園球場のコンサート「アリス・ファイナル」を終えて、活動休止となる。
   再始動
1987年アルバム「ALICE X」シングル「BURAI」を発表。
2000年1月17日 神戸での阪神淡路大震災追悼コンサート開催
同年8月にアリス(Alice)名義からALICE名義に変更されて再結成が記者発表。され、同年12月31日の第51回NHK紅白歌合戦出場。
2001年には1月17日の神戸国際会館でのコンサートを皮切りにアルバムALICE0001発表。夏から秋にかけて全国ツアーも行われ、日本武道館が再び満員になった。
2005年12月31日の第51回NHK紅白歌合戦出場。
2008年3月19日発売の谷村のリクエストライブアルバム「音帰し(おんがえし)」に「明日への讃歌」がリクエストされ、堀内と矢沢もレコーディングに参加したことがきっかけで、還暦を迎えるメンバーに再始動の想いが芽生える。
2009年3月4日に上野文化会館大ホールで記者会見。
同年7月から11月にかけて「ALICE LIVE ALIVE2009〜I’m home〜」全国ツアーを敢行。
2010年2月28日 東京ドームにて「ALICE in TOKYODOME」開催。
2012年再始動、26年ぶりとなるオリジナルアルバム「ALICE Ⅺ」の制作を発表。
2013年4月10日「ALICE Ⅺ」リリース。
同年5月5日から「ALICE TOUR 2013〜It’s a Time〜」と題して全国47都道府県ツアーを開催。日本武道館を含む全64公演を行う。  
 谷村新司 1948-
  
 
 
 堀内孝雄 1949-
 
 
  
●堀内孝雄 涙ながらにアリスの盟友・谷村新司さんをしのぶ 10/18
歌手の堀内孝雄さん(73)が17日、3人組グループ『アリス』で共に活動し、74歳で亡くなった谷村新司さんへの思いを、時おり涙を見せながら語りました。
大阪のフェスティバルホールで行われたコンサートの出演後に、報道陣の取材に応じた堀内さん。報道陣から“自分にとっての谷村さんは?”と聞かれると「ライバルなんてとんでもないですけど。ライバルなんだとしたら、ライバルじゃなかったらこんなに友だちになれなかったんじゃないかなって思いますね。本当にいい人に会えたなって思いますね。憧れの人だったから」と思いをはせました。
また、3月に入院してから直接会うことができなかったという堀内さん。記者からの“回復をずっと祈って待っていた?”という質問に対して「待ちましたね、もう。しびれ切れてるくらい待って、“いつ帰ってくるんだろうな”なんて思って。表立ってはものすごく気丈な人だから。だから、もう少し弱いところ出してくれたらよかったのにな。“なんで弱い部分を正直に言わなかったんだ”って、それが後悔ですね」と涙ながらに明かしました。
そして最後に、盟友でもある谷村さんに「この先どれくらい歌えるかわかりませんけど、あなたに恥じない歌を歌い続けたいと思います」と誓いを立てました。  
 矢沢透 1949-
 
 

 

●帰らざる日々
最後の電話を握りしめて
何も話せずただじっと
貴方の聲を聞けば何もいらない
いのちを飲みほして目を閉じる
Bye,Bye,Bye 私の貴方
Bye,Bye,Bye 私の心
Bye,Bye,Bye 私の命
Bye,Bye,Bye,Bye my love
   何か話さなきゃいけないわ
   わかっているけれど
   目の前を楽しい日々が
   ぐるぐるまわるだけ ・・・
酒びたりの日も今日限り
私は一人で死んでゆく
この手の中の夢だけを
じっと握りしめて ・・・
   貴方の聲が遠ざかる
   こんなに安らかに
   夕暮れが近づいてくる
   私の人生の ・・・
Bye,Bye,Bye,Bye,Bye,Bye
Bye,Bye,Bye,Bye,Bye,Bye
Bye,Bye,Bye,Bye,Bye,Bye
Bye,Bye,Bye,Bye my love

 

●冬の稲妻
あなたは 稲妻のように
私の心を引き裂いた
蒼ざめた心ふるわせて
立ちつくす一人立ちつくす
You're Rollin' Thunder HA 突然すぎた
You're Rollin' Thunder HA 別れの言葉
忘れないあなたが 残していった 傷跡だけは
   あなたは 稲妻のように
   私の体を突き抜けた
   燃えつきた体抱きしめて
   駆け抜ける一人雨の中 ・・・
忘れないあなたが 残していった 傷跡だけは
あなたは 稲妻のように
私の心を引き裂いた
蒼ざめた心ふるわせて
立ちつくす一人立ちつくす

 

●涙の誓い
Oh I love you forever
Oh I love you forever
汽笛がむなしくひびく
Oh Please これが
Oh Please これが
最後の最後の祈り
泣きながらすがりつけば終る
そんなキザな優しい愛じゃなかった
もう二度と消えない手首の傷あと
Oh I love you forever
Oh I love you forever
遠ざかる思い出のかけら
Oh Please これが
Oh Please これが
最後の最後の祈り
   Oh I love you forever ・・・
   あなたの背中に叫けぶ
   Oh Please これが ・・・
   最後の最後の誓い
   残されて一人きりで生きる
   明日からは心を閉ざしたままで
   もう二度と夢など追いかけはしない
   Oh I love you forever ・・・
   消えゆく思い出のかけら
   Oh Please これで ・・・
   すべてすべては終る Oh…

 

●ジョニーの子守唄
束の間の淋しさをうずめるために
君の歌声を聞いていた
せまいホールの壁にもたれて
君の動きを追いかけていた
飛び散る汗と煙の中に
あの頃の俺がいた
オーオージョニー君は今
オージョニーどこにいるのか
   時間つぶしの店の片隅
   ふと聞こえてきた君の唄
   コーヒーカップを持つ手がふいに
   ふるえ出したのが恥ずかしくて
   子共が出来た今でさえ
   あの頃は忘れない ・・・
風の噂で聞いたけど
君はまだ燃えていると
オーオージョニーそれだけが
オージョニーただ嬉しくて

 

●チャンピオン
つかみかけた 熱い腕を
振りほどいて 君は出てゆく
わずかに震える 白いガウンに君の
年老いた 悲しみを見た
   リングに向かう 長い廊下で
   何故だか急に 君は立ち止まり
   ふりむきざまに 俺に こぶしを見せて
   寂しそうに 笑った
やがてリングと拍手の渦が
一人の男をのみこんで行った (You're King of Kings)
立ち上がれ もう一度その足で ・・・
   君はついに立ち上がった
   血に染まった赤いマットに
   わずかに開いた君の両目に光る
   涙が 何かを語った
獣のように 挑戦者は
おそいかかる 若い力で
やがて君は 静かに倒れて落ちた ・・・
   わずかばかりの意識の中で
   君は何を考えたのか (You're King of Kings)
   立たないで もうそれで充分だ
   おお神よ 彼を救いたまえ
ロッカールームの ベンチで君は
きれたくちびるで そっとつぶやいた (You're King of Kings)
帰れるんだ これでただの男に ・・・
   ライラライ ラライラライ
   ライラライ オーラライラライ
   ライラライ ラライラライ
   ライラライ オーラライラライ

 

●秋止符
左ききのあなたの手紙 右手でなぞって真似てみる
いくら書いても埋めつくせない
白紙の行がそこにある
   友情なんて呼べるほど 綺麗事で済むような
   男と女じゃないことなど
   うすうす感じていたけれど
あの夏の日がなかったら 楽しい日々が続いたのに
今年の秋はいつもの秋より
長くなりそうなそんな気がして
   夢を両手に都会に出て 何も掴めず帰るけど
   やさしさの扉を開ける鍵は ・・・
心も体も開きあい それから始まるものがある
それを愛とは言わないけれど
それを愛とは言えないけれど
   あの夏の日がなかったら 楽しい日々が続いたのに
   今年の秋はいつもの秋より ・・・
夢を両手に都会に出て 何も掴めず帰るけど
やさしやの扉を開ける鍵は
眠れない夜がそっと教えた
   心も体も開きあい それから始まるものがある
   それを愛とは言わないけれど ・・・
春の嵐が来る前に
暖かい風が吹く前に
重いコートは脱ぎすてなければ
歩けないような そんな気がして

 

●狂った果実
ひとしきり 肩濡らした冬の雨
泥をはねて行き過ぎる車
追いかけて喧嘩でもしてみたら
少しぐらい心もまぎれる
狂った果実には 青空は似合わない
家を出たあの時の母のふるえる声は
今でも耳に響いてる 低く高く
   ポケットで折れていたハイライト
   おかしくて吸う気にもなれず
   かじりかけの林檎を
   ただ思い切り投げつける都会の闇に
   許してくれなんて 言えない ・・・
生まれてきたことを 
悔んでないけれど
幸福に暮らすには時代は冷たすぎた
中途半端でなけりゃ 生きられない 
それが今
   狂った果実にも見る夢はあるけれど
   どうせ絵空事なら 
   いっそ黙ってしまおう
   せめてこの胸が 裂けるまで
   Silence is Truth!  

 

●昴
目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
嗚ゝ 砕け散る宿命の星たちよ
せめて密やかに この身を照せよ
我は行く 蒼白き頬のままで
我は行く さらば昴よ
   呼吸をすれば胸の中 こがらしは吠き続ける
   されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり
   嗚ゝ さんざめく 名も無き星たちよ
   せめて鮮やかに その身を終われよ
   我も行く 心の命ずるままに ・・・
嗚ゝ いつの日か誰かがこの道を
嗚ゝ いつの日か誰かがこの道を
我は行く 蒼白き頬のままで ・・・  

 

●群青
空を染めてゆく この雪が静かに
海に積りて 波を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせ 貴方を眠らせる
手折れば散る 薄紫の
野辺に咲きたる 一輪の
花に似て儚なきは人の命か
せめて海に散れ 想いが届かば
せめて海に咲け 心の冬薔薇
   老いた足どりで 想いを巡らせ
   海に向いて 一人立たずめば
   我より先に逝く 不幸は許せど
   残りて哀しみを 抱く身のつらさよ
   君を背おい 歩いた日の
   ぬくもり背中に 消えかけて
   泣けと如く群青の海に降る雪 ・・・
空を染めてゆく この雪が静かに
海に積りて 波を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせて 貴方を眠らせる

 

●愛しき日々
風の流れの 激しさに
告げる想いも 揺れ惑う
かたくなまでの ひとすじの道
愚か者だと 笑いますか
もう少し時が ゆるやかであったなら
   雲の切れ間に 輝いて
   空しい願い また浮ぶ
   ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
   急ぐ命を 笑いますか
   もう少し時が 優しさを投げたなら
   いとしき日々の はかなさは
   消え残る夢 青春の影
気まじめ過ぎた まっすぐな愛
不器用者と 笑いますか
もう少し時が たおやかに過ぎたなら
いとしき日々は ほろにがく
一人夕陽に 浮かべる涙 ・・・  

 

●恋唄綴り
涙まじりの 恋唄は
胸の痛さか 想い出か
それとも幼い あの頃の
母に抱かれた 子守唄
   ああ・・夢はぐれ 恋はぐれ
   飲めば 飲むほど 淋しいくせに
   あんた どこにいるの
   あんた 逢いたいよ
窓にしぐれの この雨は
あすも降るのか 晴れるのか
それとも 涙がかれるまで
枕ぬらして かぞえ唄
   ああ・・・夢はぐれ 恋はぐれ
   泣けば 泣くほど 悲しいくせに
   あんた 抱かれたいよ
   あんた 逢いたいよ
ああ・・夢はぐれ 恋はぐれ ・・・  

 

●影法師
人の優しさ 恋しい晩は
男泣きする 切ない胸が
この身をつつむ ぬくもりならば
愛じゃなくても 信じあえる
   心の傷なら 酒でもくらって
   詫びたい人なら この手を合わせて
   淋しさこらえた おまえの横顔
   過去をひきずる そんな 影法師
胸に灯を ともした晩は
想い出だけが 心のねぐら
夢がちぎれて ひとりでいても
誰かを抱けば 忘れられる
   心の傷なら 涙で洗って
   逢いたい人なら この瞳をつぶって
   淋しい背中が お前の人生
   過去をひきずる そんな 影法師
心の傷なら 酒でもくらって ・・・
過去をひきずる そんな 影法師
 
 
 
 
 

 



2023/10