ないないづくし

無無尽

うらないちっとも あたらない
かえるはなぜか へそがない
ないないづくしは きりがない 



とりとめない ひまつぶし
 


 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

●ないないづくし [無無尽]
1 あれもない、これもないと、結局何もないこと。ないものづくし。ないものだらけ。
2 あれもない、これもないといった状態。なにもないこと。ないものだらけ。「無無尽の耐乏生活」
3 あれもない、これもないという状態。ないものだらけ。ないものづくし。
4 全く何もないこと。あれもない、これもない、とないものばかりであること。「無無尽の貧乏所帯」

明治大正見聞史(1926)〈生方敏郎〉明治時代の学生生活「阿呆陀羅経やらないないづくしなどに当時の政治や社会を諷刺嘲弄して」 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

●ないないづくし
数えたら きりないほどの 思い出のつまった この部屋の
闇にはにおいがあり 夜には顔がある
私には 何もない
   紙袋かかえただけの 小娘の心を 映し出す
   街にはネオンがあり 夜には花が咲く
   私にはあてもない
唇をかみしめながら ざわめきを するぬけるときの
酒には涙があり 夜にはうそがある
私には意地もない
ないないづくしで ふるさとを捨てた
誰かに追いかけられる そんな気がして
   ありふれた さすらいの末 やさしさを求めすぎたのか
   恋には背中があり 夜にも裏がある
   私には道もない 
   ・・・
   何かが待っているよな そんな気がして
数えたら きりないほどの 悲しみの足あと ふり向けば
夢には 傷があり 夜には過去がある
私には 何もない 
・・・
何かが待っているよな そんな気がして
   ・・・
   何かが待っているよな そんな気がして 
 
 
 
 

 

●ないないづくし
道行 幻 夢と散り
一人で列車に 揺られてる
こんな小さな 切符さえ
重く思える わたしです
宛てはない 愛はない
あの人は帰らない
ないない何もない ないないづくし
ホロリ ホロリ なみだ
   徒花 移ろい 別れなど
   よくある話と 笑っても
   夜も更けての 宿入りに
   おひとりですか が胸を刺す
   眠れない 夢がない
   お酒でもだませない
   ・・・ 
   ホロリ ホロリ 未練
歌えない 明日がない
生きている気がしない
・・・
ホロリ ホロリ あなた
 
 
 
 

 

●ないないづくし
   なんにもない なんにもない なんにもない ない
   なんにもない なんにもない なんにもない ない
   ヤダヤダハイもうバイバイ
ここにいるのは僕一人 それはいわゆるパラダイス
ドアを開ければ向かい風 もうヤダヤダ帰ろうか
   ・・・
朝も早よから窓開けて 緑の丘を見渡せば
飛び跳ねるのはスマイルマーク もうヤダヤダ平手打ち
   午前10時にふと目が覚めたら 謎の優越感に浸ってた
僕はやる気がない 根気もない 気力もないし 布団にでも潜ろうか
でも眠たくない 眠たくない 眠たくないね 妄想が捗るわ
あとお金がない 仕事もない やる事ないし ハロワにでも繰り出そう
でも探す気ない 見る気もない 行く気もないわ そんなこんなのないないづくし
   ・・・
20回目の冒険も カブトムシさえ救えない
ゴマを探して日射病 もうヤダヤダ逃げ出そう
   謎の重圧感は増してゆく 世間の眼差しは冷たくて
僕はやる気がない 根気もない 気力もないし 夢の中で踊ろうか
でも楽しくない 楽しくない 楽しくないね 黒いモヤがとれないの
んでお金がない 仕事もない やる事ないし 今日もパソはフル稼働
でも見るものない 書く事ない する事ないわ そんなこんなのないないづくし
   ・・・
僕は僕はなんにもない なんにもない なんにもないし 時間だけがありあまる
もうなんにもない なんにもない なんにもないね 無くすものありゃしないよ
んでなんにもない なんにもない なんにもないよ 夢くらいはあるかもね
からのなんにもない なんにもない なんにもないわ そんなこんなのないないづくし
   なんにもない なんにもない なんにもない ない
   なんにもない なんにもない なんにもない ない
   ないないなんにもないよ  
 
 
 
 

 

●ないないづくし 
まるにはひとつも かどがない
えんしゅうりつは きりがない
かびたまんじゅう もったいない
よだれをたらして みっともない
ほっかいどうは わっからない
ふゆはさむいに ちがいない
いっぽんみちは あてどない
こいぬがいっぴき あどけない
かねがないのは しかたがない
だけどなんだか たよりない
うらないちっとも あたらない
かえるはなぜか へそがない
ないないづくしは きりがない 
   谷川俊太郎
 
 
 
 

 

●ないないづくし
いい年しても、まだ
仕事とは?人生とは?と悩んでます。
それが私の人生の課題なのでしょう。
社員で働き、ハラスメントに悩まされ続け
派遣で働いたら、ハラスメントから
開放されましたが、陰でディスられる事は
やはりあります。
人間が絡むとね…全員と円満とは
いかないのが世の常。
でも、社員ってなんだったんだ?
安泰なんて嘘だなと。
社員の時と派遣の今、仕事や心情の違いとかを綴ってますが
社員だろうが、派遣だろうが
結局は、所属する組織で
決まるって事ですわ。
もう運としか言いようがない。
我が人生テーマソングは、巨人の星。
根性がちょっと要る人生を選んでしまいますが
楽しんだ方勝ちなので、オタ活も、美活も、金活も楽しみますよ〜。 
 
 
 
 

 

●ないものづくし
にんべつが
きへておてらの
帳(てう)につき
ナアかかアしぬほど
いいとはやおけや
せしがたの
いんどう
おほやわたすなり
さてもないないぜひがない
やまひのりうかう止(とめ)とがない
一(い)ときころりであつけがない
八(やつ)ツでをつるさぬうちハない
たれでもしにたいひとハない
夫(それ)でもしゆめうハしかたがない
ゐしやのかけつけ間(ま)にあハない
せわしいばかりでれいがない
あんまハよるひるひまがない
きうびやうミまいハほうづがない
おくびやうそばへハよりつかない
にんにくいぶさぬうちハない
いわしのやすうりかいてがない
ミづやハ水(すい)どをなぜくまない
やたいのたちぐいしてがない
しよにんのかほいろつやがない
とむらいちうやとぎれない
こしやのかけねハねきらない
やきばのつけこミらちあかない
白(しろ)むくそんりやうやすくない
おせらもなつしよもねるまがない
あなほりおやぢハせわしない
かいめうつけるにもじかない
亡者(もうじや)をほうむるぢしよがない
おおやハないしよくするまがない
ながやのぎやるしハはおりがない
そんりやうながくてまニあハない
かミさんなげきでいくじがない
むすこのぽんたハしだらがない
むすめハ十二でまだはへない
おやぢにとかれてたよりがない
ぱつちりとられてさハりがない
おなかのぽてれんぬしがない
とうとうとられてきやくがない
ミあがりするにもせにがない
かかるいんぐとなものハない
されどもふけいきながくない
やがてよのなかつつがない
やなぎだる
あわれとも思ハず
こしやかけねいい
しらぬがほとけ
とんだいいきぬきだね
おうじやうをはやく
する人ほとけなり
歯(は)ばかりとかうやへ
おくる
いいついで
   安政五年狐狢狸  
 
 
 
 

 

●大志(こころざし)
男ふりだし ないないづくし
汗水ながして 道はつく
人に頼るな ぐちるな泣くな
今日の苦労を 積み上げて
明日はでっかい 山になれ
あぁ 山になれ
   ほれた女に 一度でいいさ
   抱かせてやりたい しあわせを
   決めた道なら 迷いはすてろ
   悔し涙を 胸に溜め
   明日は大きな 川になれ
   ・・・
桜吹雪の 舞う坂道を
行くも男の 心意気
人生はひとすじ 希望は一つ
はるか大地に 根を張って
明日は実のなる 華になれ
・・・
 
 
 
 

 

●夫婦善哉
浮草ぐらしと あなたが笑う
肩に舞うよな 露地しぐれ
なにもなくても こころは錦
ついてゆきます 夫婦善哉
あなたの背中が 道しるべ
   他人には見えない 亭主の値打ち
   惚れた女にゃ よく見える
   寒い夜には 相合い酒で
   ・・・ 
   今日も可愛い 馬鹿になる
ないないづくしも 才覚ひとつ
辛抱がまんの 花が咲く
旅は道づれ 夫婦は情け
・・・ 
笑顔千両で 生きてゆく  
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

●ないないづくしなら飛び道具
ヒト、モノ、カネが十分にそろえば商売勝ったも同然です。
ということは、ふつうは揃わないわけですね。簡単に揃ったらどこも大繁盛ですので。
つまり、3拍子揃っていても量が足りないとか、ヒトとモノはあるけどカネがないとか、何がしか欠けているのが普通だということですね。程度の差こそあれ。
なので、不足しがちなヒト・モノ・カネのレベルを上げたり、カバーしたりして、経営の質を高めていこうと常に努力しなくてはいけないわけです。
しかし、中小企業の場合は「構造的に」ヒトモノカネのすべてが足りなかったり、欠けがちです。
ヒトという観点では、優秀な人(あいまいな言い方ですが)はより雇用条件の良いところや倒産確率の低いところ(つまりは大企業)に行ってしまいますし、より安定した(つまりは潰れにくい)企業を選択するという点においても資本規模の小さな中小企業を選ぶ理由がありません。
自己資金も長期の開発資金を充てられるほど潤沢に保有している会社は少なく、必要時には借入による調達で賄っているところがほとんどです。いきなり元本返済が始まるお金で、当たるかどうか本人にもわからないような長期の研究開発などできません。すぐにお金にならない基礎技術などもってのほか。となるとモノも弱くなってしまう。
つまり、ヒトモノカネのないないづくしが中小企業の一般的な形態です。カネがないからヒトが来ない、モノもできない、モノもないからカネもない、という負のスパイラル一直線の状況ですね。
かと言って、職安に募集をかけても欲しい人材はなかなか集まりません。ごくたまーに鯛が釣れることもありますので無視はできませんが、選ばれる、というポジションではなかなか効果は上がらないのが実際です。
そもそもを言えば、「構造的に」ないないづくしになっているわけですから、普通にやっていたらいつまでたっても解決しません。
で、どうするか。
普通にやってもダメなんですから、飛び道具を使うしかありません。普通じゃないといっても、あくまで経営者さんにとって普通じゃない、ということで一般的には普通のことだったりもしますから、ちょっと視点を変えるくらいのイメージです。
人材という意味では、社長の身内、子供の方々に入社いただくことが飛び道具ということになりましょうか。社長の子供さんは一般的に高等教育を受けていることが多く、比較的優秀で、大企業に就職されたりしています。つまり、息子なり娘さんなら、中小企業には普通来てくれないだろう人材が来てくれるわけです。
血縁を活用した、普通ではできないことを可能にする、ひとつの飛び道具的解決方法ですね。
実際、ご子息が会社に入っているような中小企業さんは比較的元気が良いように見えます。企業にとっては他人の釜の飯を食ってきた外様でもありますし、既存社員さんとの関係でも、良い刺激になるのは間違いありません。営業面でも外との繋がり、チャネルが増えるわけですから一石二鳥。銀行なども後継者が入ってきたとなれば、それなりに支援体制を敷いたりするわけで、それこそ三鳥の世界。いいことばかりですね。
でも、です。
そのためには、まず子供さんから選ばれるような会社でなければなりません。強制的に入れることもできませんからね。戦前ならいざしらず、子供さんにも意志や人格があります。では、そのためにどうすればよいか。来てもらうには何ができるか。どういう会社であればいいか。どんな会社だったら子供を入れたいと思うか。を考え、現実に行動することが必要になります。
営業面やモノづくり・サービスに関しても展開に詰まったら、飛び道具的思考で解決策を探るほかありません。
お金についても同様です。普通に考えては解決しない場合は、普通じゃない方法を考え、実行し、乗り越えるしか生き残る道はありません。
例えば、返済する資金がないとき、夜逃げしか思い浮かばない人が、とりあえず銀行に相談してみようと開き直って行動したとしたら、なぜそんなに切羽詰っていたかわからなくなるくらいあっさりと、その悩みは解決するでしょう。(あくまで当面の資金繰りだけですけど)
とはいえ、これが言うに易く実践はなかなか難しいものです。そんなときに役立つのが経営者同士の勉強会や我々のような経営コンサルタントです。
他人はそもそも自分の思考の枠の外にいますから、すでに思考を超えていてるんですね。これを参考にしない手はありません。外部の意見を取り込むことでより簡単に自分の思考を超えることができるのですから。
立ち位置が違うと見える景色も違うものです。どんな迷路も上から見れば迷うことなしです。
いつもと違う思考パターンで物事を捉えてみるのも楽しいものです。コンサルタントを使うと話を聞くだけでなく、実際の行動までしてくれるので変化がよりダイレクトかもしれませんね。
自分で解決が難しければ他人に聞くのが最も手っ取り早い解決策です。道に迷ったら人に聞くのが、一番効率的に答えを導き出せる方法です。  
 
 
 
 

 

●中小企業はないないづくし
資金力も人財も差別化要素もコスト競争力も、大企業と比べると見劣りするのが中小企業。
今あるものを徹底的に生かし切る経営をするしかない。
中小企業は圧倒的なコスト競争力がある訳ではないし、他社が追随できない技術がある訳でもないし、圧倒的知名度や信用力、ブランド力がある訳でもないというのが現実です。
待っていても手に入ることもないのだから、自分が腹を決めて今あるものを徹底的に生かし切る経営をするしかないのです。
我社は、地域を知り尽くし、社員の勤勉性を活かした個人の職人的な技術により、地域密着で生きていきましょう。
地元顧客が満足する製品を作り、しっかりとサービスしましょう。
長年の知識や経験の積み重ねにより技術が磨かれ、地元顧客が満足する製品やサービスが誕生するといいのです。
関わる人を大切にし、常に自己成長を求める姿勢が、中小企業の延命の道です。 
 
 
 
 

 

●ないないづくしの地方企業
まずはアイデアひとつで活性化を
地域再生、地域活性化、まちおこし……。どんな言葉でも構いませんが、どのまちでも必ず機能する方法は、ただひとつしかありません。
それぞれのまちでチャレンジする中小企業・小規模事業者・個人事業主・農家を増やすこと。もっとストレートにいうと、それらを「儲かる会社」にすることで、地元経済は潤い、雇用が生まれ、地域は持続的に活性化するのです。
私は、静岡県富士市を拠点として、全国の中小企業支援に19年間携わってきました。元々は静岡銀行の行員で、40歳を目前に静岡市の起業家支援施設「SOHOしずおか」へ出向となりました。
静岡銀行の子会社であるコンサルティング会社設立の青写真を作るなど、脂の乗っていた時期に言い渡された突然の出向でした。
それ以来、地域企業の支援にやりがいと面白みを感じて邁進してきました。
2008年に静岡銀行を辞め、市の委託を受けるために立ち上げた自分の会社で富士市産業支援センター、通称f-Biz(以下、エフビズ)の運営を行っています。
年間に受ける経営相談は約4300件にのぼります。開設10周年を迎えた2018年には延べ3万件に達し、新商品・新サービス開発に関する案件の7割が売上アップに成功。新規創業は直近の6年で243組、525人の雇用を生んでいます。
いま、地方の企業は「ないないづくし」に苦しんでいます。ヒトがいない、モノがない、ついでにカネもない、というわけです。
大都市と比べて人材不足であることは否定しようもありません。人脈も、複層的になるどころか、通常の業務を回す労働力の確保にも汲々としているというのが実態です。
モノがないというのは、分かりやすく言えば、最新設備を入れられず、効率が悪いものを使い回しているといった状況です。
カネは財務状況です。長期にわたり業績不振に悩む企業も少なくありません。景気の大きな変化で一挙に業績が悪化してしまいます。
それに加えて、IT化に乗り遅れたり、うまく活用できていない会社が目立ちます。真に必要な情報がタイムリーに入ってこないし、発信することもできていません。
地方の企業はとくに、資金調達に課題を抱える企業が目立ちます。元銀行員の自分とすれば相手の状況はよく分かるので、できればお金をかけずにイノベーションを起こしたい、と考えます。
ましてエフビズは公の産業支援機関ですから、相談に来た会社に大きなリスクを負わせるわけにはいきません。リスクを最低限に抑えるにはお金をかけないことです。
お金をかけずに何かをしようとしたら、どうにかして知恵を出すしかありません。しかも苦境に喘ぐ経営者を前に、できるだけ短期間で、具体的な成果に結びつく方策を提示しなければなりません。
ここ最近手がけた案件である、性的少数者、いわゆるLGBT向けの下着のビジネスを始めた「M&Yインタートレード」を例にしましょう。
安藤嘉晃社長は元鈴与の商社マンで、タイの現地社員だった萌唯さんと出会い、結婚を機に、ふるさとである富士市に戻ってきました。萌唯さんは日本語がペラペラです。
起業を考えているということで相談に来られたのですが、のんびり、ゆっくりやっていこうという姿勢でした。タイからはネコ関連グッズなどを、日本からはアニメ関連グッズをそれぞれマニア向けに輸出し、両国の懸け橋になろうと考えていました。
私は2人の経歴を見て、もっとできることがあるはずだと可能性を感じていました。そこで思い当たったのは、タイはLGBT先進国だということです。少し前の話題でいえば、タレントのはるな愛さんが国際ニューハーフ美人コンテストで優勝したのもタイでした。
私は2015年が日本におけるLGBT元年だったと考えています。というのは、渋谷区が同性婚を認めたのがその年だからです。それ以来、関連のニュース、情報を見ない日はないほどです。全人口の8%はLGBTといいますから、ビジネスのターゲットとして考えても、大きなマーケットであることは確かです。
萌唯さんにタイの状況を聞くと、そういえばと思い出し、彼女の小学校には男女のほかにLGBT用のトイレがあったといいます。大学の同級生にもたくさんいたそうで、デパートには専用ブランドのコーナーがあるとのことです。
さらに調査を進めたところ、特に男性性をもった女性(FTM:Female to Male)の悩みが深いことが分かりました。紳士服は肩幅が大きいですし、胸が目立たないようにするための下着もなかなか手に入りません。そこでタイのFTMブランドと契約し、輸入・販売することになりました。
インターネットを中心にした販売は好調ですが、実店舗での展開がなかなかうまくいきません。全国のランジェリーショップでも、LGBT向けの販売をしているところはほとんどありません。デパートは男女でフロアが区切られているので、ここも入りにくい。かといってスーパーはあまりにも売り場が開放的で、なかにはカミングアウトしていない人もいるわけなので、こちらもなかなか展開が難しい。
そんななか、富士市の老舗のランジェリーショップとのコラボが実現しました。ちょうど売上を大きくしたいと相談に来られていたので、安藤さんの会社を紹介したところ、とんとん拍子に話が進みました。
このケースは、本当にアイデアだけで実現したといえるでしょう。両国の独自のグッズの輸出入を考えていたのを、タイ=LGBT先進国と捉え直したことで新ビジネスが発進できたのです。
このように、地域再生、地域活性化、まちおこしの鍵は、どこにでもあるのです。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

●人世坐
正式名称 / 文芸会館人世坐 
1948/2/17―1968/7  収容人員450人
東京都豊島区東池袋1丁目12-5 (現在の東京信用金庫本店部分)
池袋駅東口から徒歩4分

東京に出てきて 最初に通った映画館
人世坐は、かつて東京都豊島区の池袋駅東口近く(現在の東京信用金庫本店)にあった映画館。
サンカ(山窩)小説で知られた作家の三角寛が、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)、まだ一面の焼け野原だった池袋に映画館「人世坐」を建設し2月17日に開業した。名称は「人の世を坐る(まもる)」という三角の信条に由来する。
映画館は、池袋駅東口に近い500坪の敷地に建てられた450名を収容できる木造建築だった。当時の日本はまだGHQによる占領下にあり、公共の場で日章旗の掲揚は禁止されていたが、三角は平気で映画館の屋根の上に日章旗を立てていた。
三角は、封切後わずか4日で上映中止となっていた大島渚監督作品『日本の夜と霧』(松竹)を、大島の『青春残酷物語』と併せて人世坐で特別上映した。この上映をきっかけに大島は映画監督として復活し脚光を浴びることとなった。
徳川夢声をはじめ、吉川英治、井伏鱒二、今日出海ら著名な作家やエッセイストが株主に名を列ね、「文士経営」と言われた。
経営は好調で、名画座としての地位を確立、板橋に弁天坐、同じ池袋に文芸坐を開館させたが、1968年7月に人世坐が閉館、弁天坐も続いて閉館した。文芸坐は1997年まで存続したが、新装後はマルハンの経営になっている。
 
 
 
 

 

●豊島区の映画館
   池袋コニー劇場
所在地 : 東京都豊島区池袋2-1128(1958年) 1957年頃-1958年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「池袋コニー劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
   池袋フランス座
所在地 : 東京都豊島区池袋1-734(1957年・1958年) 1956年頃-1958年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「池袋フランス座」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
   シネマ邦映/池袋シネマ東宝/シネマ東宝
所在地 : 東京都豊島区池袋2丁目(1950年)、東京都豊島区池袋2-1178(1953年・1955年・1958年) 1946年8月-1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年8月開館。1950年の映画館名簿では「シネマ邦映」。1953年の映画館名簿では「池袋シネマ・東宝」。1955年・1958年の映画館名簿では「シネマ東宝」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。
   池袋文化劇場/池袋文化映画劇場
所在地 : 東京都豊島区池袋1-814(1956年・1958年・1959年) 1955年頃-1959年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「池袋文化劇場」。1958年・1959年の映画館名簿では「池袋文化映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。
   エデン劇場/池袋日活映画劇場(旧)
所在地 : 東京都豊島区池袋1-753(1950年・1953年・1955年・1958年) 1947年5月-1959年8月27日
『全国映画館総覧 1955』によると1947年5月開館。1950年の映画館名簿では「エデン劇場」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「池袋日活映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の住宅地図では「池袋日活」。跡地は「三井住友信託銀行池袋支店」が入る「池袋東口ビル」。
1959年8月27日午前9時50分頃、豊島区池袋1-753の「池袋日活劇場」から出火し、モルタル2階建て825平方メートルが全焼した。映写技師と消防夫が軽傷を負った。原因は漏電と見られる。経営は日活。支配人は中村仙之助。1960年正月までに鉄筋造の新館を建築する予定である。
1959年8月27日、豊島区池袋1-753の「池袋日活」が全焼した。原因は漏電。
1959年10月9日、池袋警察署は豊島区の「池袋日活映画劇場」の女性改札係(19歳)を放火の疑いで逮捕した。池袋日活は8月27日朝に全焼していた。改札係は8月6日から4日間無断欠勤したために上役や同僚に叱られ、これを根に持ってよしずに放火した。
   目白白鳥座/白鳥座
所在地 : 東京都豊島区目白町1-1116(1955年・1958年・1960年) 1953年6月-1960年
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「目白白鳥座」。1958年・1960年の映画館名簿では「白鳥座」。1962年の住宅地図では跡地に「空地」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「西武写真印刷」。最寄駅はJR山手線目白駅。
1953年には目白に映画館「白鳥座」が誕生したが、営業していたのはわずか7年間である。跡地には映画館の経営者が経営する印刷会社が建っている。
   大塚ヒロキ映画劇場
所在地 : 東京都豊島区西巣鴨2-2080(1958年・1960年) 1956年-1962年1月18日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「大塚ヒロキ映画劇場」。1962年の住宅地図では「ヒロキ映画」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパチンコ店「サンドラ大塚店」。最寄駅はJR山手線大塚駅。
1962年1月19日、豊島区西巣鴨2-2080の「ヒロキ映劇」が全焼した。原因はボイラーの過熱。
   スガモシネマ
所在地 : 東京都豊島区巣鴨2-4(1958年・1960年・1962年) 1957年頃-1962年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「スガモ・シネマ」。1962年の住宅地図では発見できず。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
   池袋地球座(旧)
所在地 : 東京都豊島区雑司ヶ谷5-700(1958年・1960年) 1956年-1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「池袋地球座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では跡地に「池袋地球会館」。跡地は「ヒューマックスパビリオン南池袋」。
   北池袋北映座/北映座
所在地 : 東京都豊島区堀之内182(1955年・1958年・1960年)、東京都豊島区堀之内町182(1963年) 1953年10月-1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「北映座」。1958年・1960年の映画館名簿では「北池袋北映座」。1962年の住宅地図では発見できず。1963年の映画館名簿では「北映座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
   
1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。
   山手映画劇場/池袋山手映画劇場/池袋スバル座
所在地 : 東京都豊島区雑司ヶ谷5-703(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)、東京都豊島区池袋東2-3(1963年・1964年・1965年) 1946年7月-1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年7月開館。1950年の映画館名簿では「山手映画劇場」。1953年の映画館名簿では「池袋山手映画劇場」。1955年の映画館名簿では「山手映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「池袋山手映画劇場」。1962年の住宅地図では「山手映画劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「池袋スバル座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「オリックス池袋ビル」。
   シネマリリオ
所在地 : 東京都豊島区池袋2-1165(1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1966年) 1955年頃-1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ・リリオ」。1962年の住宅地図では発見できず。1966年の映画館名簿では「シネマリリオ」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
   池袋エトアール劇場/池袋エトアール
所在地 : 東京都豊島区池袋西口(1950年)、東京都豊島区池袋2-1166(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年) 1949年4月-1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年4月開館。1950年の映画館名簿では「池袋エトアール」。1953年・1955年の映画館名簿では「池袋エトアール劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「池袋エトアール」。1962年の住宅地図では「池袋エトアール映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では跡地に「群馬銀行駐車場」。跡地は有料駐車場「タイムズ池袋モータープール」。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   池袋シネマセレサ/シネマセレサ
所在地 : 東京都豊島区池袋2丁目(1950年)、東京都豊島区池袋2-1165(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年) 1955年以後1958年以前-1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ・セレサ」。1962年の住宅地図では「シネマセレサ」。1966年の映画館名簿では「池袋シネマセレサ」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。後継館はロサ会館。跡地は「ロサ会館」建物南部。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   池袋シネマロサ/シネマロサ
所在地 : 東京都豊島区池袋2丁目(1950年)、東京都豊島区池袋2-1165(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年) 1946年12月-1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1950年の映画館名簿では「シネマロサ」。1953年の映画館名簿では「池袋シネマ・ロサ」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ・ロサ」。1962年の住宅地図では「シネマロサ」。1966年の映画館名簿では「池袋シネマロサ」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。後継館はロサ会館。跡地は「ロサ会館」建物北東部。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   人世坐/池袋人世坐
所在地 : 東京都豊島区池袋1-810(1950年・1953年・1955年・1958年)、東京都豊島区池袋東1-12(1963年・1966年) 1948年2月17日-1968年7月
『全国映画館総覧 1955』によると1948年2月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「文芸会館人世座」。1953年の映画館名簿では「池袋人世座」。1955年・1958年の映画館名簿では「人世坐」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1970年の住宅地図では「人世座」。1963年の映画館名簿では「人世坐」。1966年の映画館名簿では「池袋人世坐」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東京信用金庫本店営業部」。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   
1957年から映画館の増加のペースが低下しており、転廃業した館もある。1958年9月から1959年8月までの1年間に東京都で転廃業した映画館は以下の通り。神田南明座(倉庫に転業)、銀座映画劇場(廃館)、神楽坂銀鈴座(焼失)、新宿グランド(パチンコ屋に転業)、銀座全線座(ダンスホールに転業)、渋谷全線座(貸ホールに転業)、シネマ西荻(廃館)、池袋日活(焼失)、池袋文化映画(パチンコ屋に転業)、弁天座(廃館)、文芸坐(廃館)、文芸地下(廃館)、人生坐(廃館)、大山映画劇場(廃館)、町田中央(廃館)。
   東武名画劇場/池袋東武ムービーシアター
所在地 : 東京都豊島区池袋2-1179(1963年・1966年・1967年)、東京都豊島区西池袋1-1-25(1968年) 1962年5月-1968年8月31日
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「東武名画劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「池袋東武ムービーシアター」。1968年の映画館名簿では経営者が東武百貨店、支配人が古沢満明、鉄筋造2階冷暖房付、定員410、洋画特選を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。東武百貨店。建物は東武百貨店池袋店として現存。
   平和シネマ
所在地 : 東京都豊島区椎名町7-3864(1953年・1955年)、東京都豊島区椎名町7-2864(1958年)、東京都豊島区椎名町7-3864(1960年・1963年)、東京都豊島区南長崎町5-16-8(1966年・1969年) 1951年12月-1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「平和シネマ」。1970年の住宅地図では「平和シネマ」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東京信用金庫東長崎支店」南南西70mの「平和ビル」。最寄駅は西武池袋線東長崎駅。
東長崎駅の南側には長崎銀座商店街があり、時代劇中心の「長崎東映」、洋画・大映系の「平和シネマ」という2館の映画館があった。
   目白映画劇場/目白東宝劇場
所在地 : 東京都豊島区椎名町3-2039(1953年)、東京都豊島区椎名町3-2031(1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都豊島区南長崎町1-3-1(1966年・1969年・1970年) 1951年12月-1970年
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「目白映画劇場」。1961年目白東宝劇場改称。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「目白東宝劇場」。1970年の住宅地図では「目白映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はドラッグストア「どらっぐぱぱす南長崎店」が入る「中銀南長崎マンション」。最寄駅は西武池袋線椎名町駅。
   池袋大映名画座/池袋日活(新)/池袋日活劇場
所在地 : 東京都豊島区池袋1-773(1959年・1960年)、東京都豊島区池袋東1-14(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-13-7(1969年・1970年) 1958年頃-1970年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「池袋大映名画座」。1969年の映画館名簿では「池袋日活」。1970年の映画館名簿では「池袋日活劇場」。1970年の住宅地図では「池袋大映 大映名画座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東京信用金庫本店営業部」北東60mの商業ビル「ロクマルゲート池袋」。
   シネマ庚申塚/庚申塚OP
所在地 : 東京都豊島区巣鴨5-1008(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1969年・1970年) 1952年12月-1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「シネマ庚申塚」。1962年の住宅地図では「シネマ庚申塚」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では跡地に空白。1969年・1970年の映画館名簿では「庚申塚OP」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「スターフルーツ巣鴨店」が入るマンション「ドエル・トーア」。最寄駅は都電荒川線庚申塚停留場。
   巣鴨富士館/巣鴨オリンピア劇場/巣鴨日活
所在地 : 東京都豊島区巣鴨3-22(1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都豊島区巣鴨町3-22(1969年)、東京都豊島区巣鴨3-22(1969年・1970年) 1954年1月-1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1954年1月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「巣鴨富士館」。1958年・1960年の映画館名簿では「巣鴨オリンピア劇場」。1962年・1970年の住宅地図では発見できず。1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「巣鴨日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
   
1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。
   巣鴨映画劇場
所在地 : 東京都豊島区巣鴨2-41(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、東京都豊島区巣鴨町2-41(1969年)、東京都豊島区巣鴨2-41(1969年・1970年) 1950年12月-1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「巣鴨映画劇場」。1962年の住宅地図では後の映画館の場所に空地。1970年の住宅地図では「巣鴨映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スマイルホテル巣鴨」建物北東側。最寄駅はJR山手線・都営地下鉄三田線巣鴨駅。
千葉市会議員の臼井荘一。1902年7月26日に臼井真三の長男として生まれた。1925年に早稲田大学商学部を卒業し、大日本麦酒会社に入社すると、1927年に臼井家の家督を継いだ。1933年から千葉市会議員を務めている。文化的事業として映画館の経営を行っており、「千葉演芸館」(千葉市)、「新興館」(千葉市)、「千葉劇場」(千葉市)、「銚子演芸館」(銚子市)、「宮下新興館」(船橋市)、「市川松竹館」(市川市)、「巣鴨映画劇場」(東京・巣鴨)、「浦和劇場」(埼玉県浦和市)を経営している。
   
1962年9月から1963年9月までに、東京都では神田東映(千代田区)、高輪映画(港区)、神楽坂東映(新宿区)、松竹座(台東区)、入谷金美(台東区)、石原ミリオン(墨田区)、白髭映劇(墨田区)、千田シネマ(江東区)、娯楽館(品川区)、大井映画(品川区)、ユニオン座(目黒区)、久ヶ原ロマン座(大田区)、長原映劇(大田区)、蒲田映劇(大田区)、蒲田銀映(大田区)、蒲田名画座(大田区)、沼袋映劇(中野区)、テアトル中野(中野区)、北映座(豊島区)、巣鴨映劇(豊島区)、巣鴨日活(豊島区)、三島館(荒川区)、荒川大映(荒川区)、志村大映(板橋区)、高砂文化(葛飾区)、新小岩銀映(葛飾区)、平井東映(江戸川区)、八光館(八王子市)、青梅セントラル(青梅市)、調布銀映(調布市)、町田東映(町田市)、月光館(目黒区、演芸場転向)の32館が廃館となった。
   池袋日本館
所在地 : 東京都豊島区池袋2-914(1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年) 1956年頃-1970年以後1973年以前
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「池袋日本館・池袋世界館」。1962年・1970年の住宅地図では「池袋日本館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「池袋二丁目交差点」南すぐの道路上。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   池袋世界館
所在地 : 東京都豊島区池袋2-914(1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年) 1956年頃-1970年以後1973年以前
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「池袋日本館・池袋世界館」。1962年・1970年の住宅地図では「池袋世界館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「池袋二丁目交差点」南すぐの道路上。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   池袋大映劇場
所在地 : 東京都豊島区池袋1-773(1959年・1960年)、東京都豊島区池袋東1-13(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-13-7(1969年・1970年) 1958年頃-1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「池袋大映劇場」。1962年の住宅地図では「池袋大映」。1970年の住宅地図では「池袋大映 大映名画座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東京信用金庫本店営業部」北東60mの商業ビル「ロクマルゲート池袋」。
   ロマン座/駒込ロマン座
所在地 : 東京都豊島区駒込3-3(1960年・1963年・1966年・1969年)、東京都豊島区駒込3-23-14(1973年) 1959年9月頃-1973年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「駒込ロマン座」。1963年の映画館名簿では「ロマン座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「駒込ロマン座」。1970年の住宅地図では「ロマン座」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「トーカンマンション駒込」。最寄駅はJR山手線・東京メトロ南北線駒込駅。
   長崎会館/長崎映画劇場/長崎東映/長崎東映劇場
所在地 : 東京都豊島区椎名町7-3859(1950年・1953年・1955年)、東京都豊島区椎名町7-3858(1960年・1963年)、東京都豊島区南長崎町5-12-5(1966年・1969年・1973年・1975年)、東京都豊島区南長崎5-12-5(1976年・1977年) 1948年-1977年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年開館。1950年の映画館名簿では「長崎会館」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「長崎映画劇場」。1963年の映画館名簿では「長崎東映」。1966年の映画館名簿では「長崎東映劇場」。1969年の映画館名簿では「長崎東映」。1970年の住宅地図では「長崎東映」。1973年・1975年・1976年・1977年の映画館名簿では「長崎東映劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「五郎久保稲荷神社」南西20mの「マンション瀬戸」。最寄駅は西武池袋線東長崎駅。
東長崎駅の南側には長崎銀座商店街があり、時代劇中心の「長崎東映」、洋画・大映系の「平和シネマ」という2館の映画館があった。
   テアトル池袋(旧)・テアトルダイヤ(旧)
所在地 : 東京都豊島区池袋1-721(1958年・1960年)、東京都豊島区池袋東1-21(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-21-4(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年) 1956年12月26日-1981年2月19日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「テアトル池袋・テアトルダイヤ」(2館)。1962年・1970年の住宅地図では「テアトル池袋」。1973年・1975年の映画館名簿では「テアトル池袋」。1978年・1980年の映画館名簿では「テアトル池袋」と「テアトル・ダイヤ」(2館)。1980年の映画館名簿では経営会社が東京テアトル、経営者が清水清秋、支配人が常国忠芳、テアトル池袋が鉄筋造1階で698席で東宝を上映、テアトルダイヤが鉄筋造地下で250席で邦画・洋画特選を上映。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ユニクロ池袋サンシャイン60通り店」などが入る商業施設「池袋グローブ」。
   池袋松竹(新)/池袋松竹劇場/池袋松竹映画劇場
所在地 : 東京都豊島区池袋東2-3(1967年)、東京都豊島区南池袋1-19-6(1968年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年) 1965年12月-1982年頃
1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の映画館名簿では「池袋松竹」。1967年の映画館名簿では経営者が松竹、支配人が野口信男、鉄筋造地下冷暖房付、351席、松竹を上映。1968年・1969年の映画館名簿では「池袋松竹劇場」。1970年の住宅地図では「池袋松竹 緑屋」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「池袋松竹映画劇場」。1982年の映画館名簿では経営会社が松竹、経営者が大谷隆三、支配人が若松昭英、鉄筋造地下、300席、松竹を上映。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「オリックス池袋ビル」。
1965年12月、松竹直営館「池袋松竹」が新築開館した。
   池袋東映劇場・池袋名画座/池袋東映・池袋名画座/池袋東映・池袋日活名画座
所在地 : 東京都豊島区池袋1-780(1955年・1958年・1960年)、東京都豊島区池袋東1-14(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-14-3(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年) 1953年12月-1984年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「池袋東映・池袋名画座」(2館)。1962年の住宅地図では「池袋東映 名画座」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「池袋東映劇場・池袋名画座」(2館)。1970年の住宅地図では「池袋東映 池袋名画座」。1978年の映画館名簿では「池袋東映・池袋名画座」(2館)。1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「池袋東映・池袋日活名画座」(2館)。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「シネマサンシャイン池袋」が入っていた「池袋佐々木ビル」。
   池袋東洋映画劇場/東洋映画劇場/池袋東急劇場(旧)
所在地 : 東京都豊島区池袋1-750(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)、東京都豊島区東池袋1-41-4(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-41-4(1969年・1973年・1975年・1978年)、東京都豊島区東池袋1-41-1(1980年・1985年)、東京都豊島区東池袋1-41-4(1986年) 1947年9月-1986年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年9月開館。1950年の映画館名簿では「東洋映画劇場」。1953年の映画館名簿では「池袋東洋映画劇場」。1955年の映画館名簿では「東洋映画劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「池袋東急劇場」。1962年の住宅地図では「池袋東急」。1970年の住宅地図では「池袋東急劇場」。1986年の映画館名簿では東急レクリエーション、経営者が岡田茂、支配人が浜野安利、木造1階、457席、洋画ロードショーを上映。1987年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「池袋とうきゅうビル」。
   大塚鈴本映画劇場/鈴本キネマ/大塚鈴本キネマ/大塚鈴本キネマ・大塚名画座
所在地 : 東京都豊島区西巣鴨2-2022(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、東京都豊島区南大塚3-49-10(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年) 1952年12月-1987年6月
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「大塚鈴本映画劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「大塚鈴本キネマ」。1962年の住宅地図では「鈴本キネマ」。1963年の映画館名簿では「鈴本キネマ」。1966年・1969年の映画館名簿では「大塚鈴本キネマ」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年の映画館名簿では「大塚鈴本キネマ・大塚名画座」(2館)。1982年の映画館名簿では経営会社が日立興業、経営者が渡辺二郎、支配人が斉藤新次、鈴本キネマが鉄筋造地下で124席で邦画特選を上映、名画座が鉄筋造3階で124席で洋画特選を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。建物の「大塚鈴本ビル」は現存。最寄駅はJR山手線大塚駅。
   池袋ピース座/池袋松竹名画座
所在地 : 東京都豊島区池袋2-871(1957年・1958年・1960年・1963年・1966年)、東京都豊島区西池袋1-23-7(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1988年・1990年) 1956年頃-1990年2月28日
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「池袋ピース座」。1962年・1970年の住宅地図では「池袋ピース座」。1985年・1988年・1990年の映画館名簿では「池袋松竹名画座」。1988年の映画館名簿では経営会社が松竹第一興行、経営者が奥山融、支配人が中島雅夫、鉄筋造地下、192席、洋画・成人映画を上映。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「池袋演芸場」が入る1993年竣工のビル「エル クルーセ」。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   池袋松竹劇場(旧)/池袋スカラ座
所在地 : 東京都豊島区池袋1-743(1959年・1960年)、東京都豊島区池袋東1-41(1963年)東京都豊島区東池袋1-41(1966年)、東京都豊島区東池袋1-41-1(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1995年) 1958年頃-1995年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「池袋松竹劇場」。1962年の住宅地図では「池袋松竹劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1995年の映画館名簿では「池袋スカラ座」。1970年の住宅地図では「池袋松竹 日勝地下」。1992年の映画館名簿では経営会社が籏興行、経営者が籏功泰、支配人が谷口稔、鉄筋造1階、549席、洋画ロードショーを上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヤマダ電機アウトレット池袋店」南西端部。
   池袋地下劇場/池袋日勝地下劇場
所在地 : 東京都豊島区池袋1-743(1953年・1955年・1958年・1960年)、東京都豊島区東池袋1-41(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-41-1(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年) 1951年12月-1995年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「池袋日勝地下劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「日勝地下劇場」。1960年の映画館名簿では「池袋地下劇場」。1963年の映画館名簿では「日勝地下劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1995年の映画館名簿では「池袋日勝地下劇場」。1970年の住宅地図では「池袋松竹 日勝地下」。1992年の映画館名簿では経営会社が籏興行、経営者が籏功泰、支配人が谷口稔、鉄筋造地下、254席、邦画・洋画特選を上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヤマダ電機アウトレット池袋店」南西部。
   日勝映画劇場/池袋日勝映画劇場/日勝映画劇場・池袋新東宝/池袋日勝映画劇場・池袋日勝文化劇場
所在地 : 東京都豊島区池袋1-743(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)、東京都豊島区東池袋1-41(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-41-1(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年) 1946年10月、1951年12月(2館化)、1960年頃(3館化)-1995年6月25日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年10月開館。1950年の映画館名簿では「日勝映画劇場」。1953年の映画館名簿では「池袋日勝映画劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「日勝映画劇場」。1960年の映画館名簿では「日勝映画劇場・池袋新東宝」(2館)。1962年の住宅地図では「池袋日勝館」。1963年の映画館名簿では「日勝映画劇場・日勝文化劇場」(2館)。1966年の映画館名簿では「池袋日勝映画劇場」。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「池袋日勝映画劇場・池袋日勝文化劇場」(2館)。1970年の住宅地図では「日勝映劇 日勝文化」。1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1995年の映画館名簿では「池袋日勝映画劇場・池袋日勝文化」(2館)。1992年の映画館名簿では経営会社が籏興行、経営者が籏功泰、支配人が谷口稔、日勝映画劇場が鉄筋造1階で296席で松竹を上映、日勝文化が鉄筋造地下で183席で洋画ロードショーを上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。
   池袋文芸坐・池袋文芸地下劇場/文芸坐・文芸地下劇場/文芸坐・文芸坐2
所在地 : 東京都豊島区池袋1-647(1958年)、東京都豊島区池袋東1-43(1963年・1966年)、東京都豊島区東池袋1-43(1969年)、東京都豊島区東池袋1-43-4(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1992年・1995年) 1956年3月-1997年3月6日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「文芸坐・文芸地下劇場」(2館)。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の住宅地図では「文芸座 文芸座地下映画館」。1963年の映画館名簿では「文芸座・文芸地下劇場」(2館)。1966年の映画館名簿では「池袋文芸座・池袋文芸地下劇場」(2館)。1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「池袋文芸坐・池袋文芸地下劇場」(2館)。1970年の住宅地図では「文芸座 文芸地下劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「文芸坐・文芸地下劇場」(2館)。1990年・1992年・1995年の映画館名簿では「文芸坐・文芸坐2」(2館)。1992年の映画館名簿では経営会社が株式会社人世坐、経営者が三浦大四郎、支配人が高木和枝、文芸坐が鉄筋造1階で444席で洋画特選を上映、文芸坐2が鉄筋造地下で50席で邦画・洋画を上映。1998年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「マルハン池袋ビル」。
   
1957年から映画館の増加のペースが低下しており、転廃業した館もある。1958年9月から1959年8月までの1年間に東京都で転廃業した映画館は以下の通り。神田南明座(倉庫に転業)、銀座映画劇場(廃館)、神楽坂銀鈴座(焼失)、新宿グランド(パチンコ屋に転業)、銀座全線座(ダンスホールに転業)、渋谷全線座(貸ホールに転業)、シネマ西荻(廃館)、池袋日活(焼失)、池袋文化映画(パチンコ屋に転業)、弁天座(廃館)、文芸坐(廃館)、文芸地下(廃館)、人生坐(廃館)、大山映画劇場(廃館)、町田中央(廃館)。
   池袋劇場/池袋ジョイシネマ1
所在地 : 東京都豊島区池袋1-781(1958年・1960年)、東京都豊島区東池袋1-22-10(1969年・1973年)、東京都豊島区東池袋1-32-10(1975年)、東京都豊島区東池袋1-22-10(1978年・1980年・1985年)、東京都豊島区東池袋1-22-2(1988年・1990年・1992年・1995年・1998年) 1957年頃、1985年9月14日(ジョイシネマ1)-1998年4月10日
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「池袋劇場」。1962年の住宅地図では「池袋東宝 池袋劇場」。1970年の住宅地図では「池袋劇場」。1988年・1990年・1995年・1998年の映画館名簿では「池袋ジョイシネマ1」。1988年の映画館名簿では経営会社がジョイパックシネマ株式会社、経営者が林瑞峰、支配人が丸山洋典、鉄筋造1階、208席、洋画ロードショーを上映。1995年の映画館名簿では経営会社がヒューマックスピクチャーズ、経営者が林瑞峰、支配人が榎鶴康輝、鉄筋造1階、208席、洋画ロードショーを上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「池袋HUMAXシネマズ」が入る「ヒューマックスパビリオン池袋サンシャイン60通り」。
1985年9月14日、ジョイパックシネマによって池袋劇場敷地内に「池袋ジョイシネマ1」が開館した。座席数208。12月15日、「池袋ジョイシネマ2」が開館した。
   池袋東宝劇場/池袋地球座(新)/池袋東宝/池袋ジョイシネマ2・池袋東宝/池袋ジョイシネマ2・3
所在地 : 東京都豊島区池袋1-781(1958年・1960年)、東京都豊島区東池袋1-22-10(1969年・1973年)、東京都豊島区東池袋1-32-10(1975年)、東京都豊島区東池袋1-22-10(1988年・1990年・1992年・1995年・1998年) 1985年12月15日(ジョイシネマ2)-1998年4月10日
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「池袋東宝劇場」。1962年の住宅地図では「池袋東宝 池袋劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「池袋地球座」。1970年の住宅地図では発見できず。1985年の映画館名簿では「池袋東宝」。1988年・1990年・1992年・1995年の映画館名簿では「池袋ジョイシネマ2・池袋東宝」(2館)。1988年の映画館名簿では経営会社がジョイパックシネマ株式会社、経営者が林瑞峰、支配人が丸山洋典、ジョイシネマ2が鉄筋造2階で208席で洋画ロードショーを上映、池袋東宝が鉄筋造地下で557席で東宝を上映。1995年の映画館名簿では経営会社がヒューマックスピクチャーズ、経営者が林瑞峰、支配人が榎鶴康輝、ジョイシネマ2が鉄筋造2階で208席、池袋東宝が鉄筋造地下で512席、いずれも洋画ロードショーを上映。1998年の映画館名簿では「池袋ジョイシネマ2・3」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「池袋HUMAXシネマズ」が入る「ヒューマックスパビリオン池袋サンシャイン60通り」。
   ACT SEIGEL THEATER
所在地 : 東京都豊島区南池袋1-13-21(1990年・1992年・1995年・1998年) 1986年6月15日-1999年
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1992年・1995年・1998年の映画館名簿では「ACT・SEIGEL・THEATER」。1992年の映画館名簿では経営会社が有限会社あくと、経営者・支配人ともに沢健司、鉄筋造地下、50席、邦画・洋画を上映。1998年の映画館名簿では経営会社が有限会社アクト、経営者・支配人ともに沢健司、鉄筋造地下、50席、邦画・洋画を上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。建物の和泉屋ビルは現存。
   テアトル池袋2/テアトル池袋(新)
所在地 : 東京都豊島区南池袋1-19-5(1982年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2005年) 1980年12月20日-2006年8月31日
1980年の映画館名簿には掲載されていない。1982年の映画館名簿では「テアトル池袋2」。1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2005年の映画館名簿では「テアトル池袋」。2002年の映画館名簿では経営会社が東京テアトル、経営者が松下晴彦、支配人が熊木清、鉄筋造8階、162席、洋画を上映。2008年の映画館名簿には掲載されていない。南池袋共同ビル8階。建物はGビル南池袋01として現存。
   テアトルダイヤ(新)/テアトルダイヤ1・2
所在地 : 東京都豊島区東池袋1-21-4(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2008年・2010年) 1982年12月1日-2011年5月29日
1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2008年の映画館名簿では「テアトルダイヤ」。2008年の映画館名簿では経営会社が東京テアトル、経営者が松下晴彦、支配人が山内崇彦、204席、洋画ロードショーを上映。2010年の映画館名簿では「テアトルダイヤ1・2」(2館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。ホテルテアトル地下1階。跡地は「ユニクロ池袋サンシャイン60通り店」などが入る商業施設「池袋グローブ」。
   池袋東急(新)
所在地 : 東京都豊島区東池袋1-41-1(1990年・1995年)、東京都豊島区東池袋41-1(2000年)、東京都豊島区東池袋1-41-1(2005年)、東京都豊島区東池袋1-41-4(2008年)、東京都豊島区東池袋1-41-1(2010年) 1988年4月26日-2011年12月25日
1988年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年・2000年・2005年・2008年・2010年の映画館名簿では「池袋東急」。1990年の映画館名簿では東急レクリエーション、経営者が岡田茂、支配人が横田邦男、鉄筋造8階、300席、洋画ロードショーを上映。2008年の映画館名簿では経営会社が東急レクリエーション、経営者が佐藤仁、支配人が服部啓介、300席、洋画ロードショーを上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。
1988年4月26日、豊島区東池袋1-41-4 池袋東急ビル7階・8階に「池袋東急」が開館した。300席。経営は東急レクリエーション。
   池袋シネマサンシャイン/シネマサンシャイン池袋
所在地 : 東京都豊島区東池袋1-14-3(2000年・2005年・2010年・2015年) 1985年7月6日-2019年7月12日
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年の映画館名簿では「シネマサンシャイン1号館-5号館」(5館)。1994年12月6館化。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「シネマサンシャイン1番館-6番館」(6館)。2010年・2015年の映画館名簿では「シネマサンシャイン池袋1番館-6番館」(6館)。2020年の映画館名簿には掲載されていない。
1985年7月6日、佐々木興業が経営する「池袋シネマサンシャイン1番館-5番館」が開館した。1994年12月23日、池袋シネマサンシャイン9階に156席の「池袋シネマサンシャイン6番館」が開館した。
 
 
 
 

 

●豊島区の映画館
   シネマロサ・シネマセレサ/シネマロサ1・2
所在地 : 東京都豊島区西池袋1-37-12(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年) 1968年10月9日(ロサ会館)-営業中
1969年の映画館名簿では「シネマロサ・シネマセレサ」(2館)。1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「シネマ・ロサ」と「シネマ・セレサ」(2館)。2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「シネマ・ロサ1・2」(2館)。2018年の映画館名簿では経営会社がロサ映画社、経営者が尾花健一、支配人が矢川亮、193席と177席。建物名はロサ会館。最寄駅はJR・東武鉄道・西武鉄道・東京メトロ池袋駅。
   池袋北口日活/池袋北口にっかつ/ロッポニカ池袋/シネロマン池袋
所在地 : 東京都豊島区西池袋1-29-2(1978年・1980年)、西池袋1-29-42(1985年・1990年)、東京都豊島区西池袋1-29-2 地得ビル地下1階(1995年・2000年・2005年・2010年)、東京都豊島区西池袋1-29-2 地得ビル地下1階(2015年・2020年) 1974年-営業中
1977年の映画館名簿には掲載されていない。1978年の映画館名簿では「池袋北口日活」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「池袋北口にっかつ」。1988年の映画館名簿では経営会社がにっかつ興業、経営者が若松正雄、支配人が横山昭ニ、鉄筋造地下、172席、にっかつを上映。1988年ロッポニカ池袋改称。1990年の映画館名簿では「ロッポニカ池袋」。1990年シネロマン池袋改称。1992年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「シネロマン池袋」。1992年の映画館名簿では経営会社がにっかつ中央興業、経営者が若松正雄、支配人が井上温明、鉄筋造地下、152席、にっかつを上映。2012年の映画館名簿では経営会社が酒井コーポレーション、経営者が酒井秀浩、支配人が永田純治、鉄筋造地下、152席、成人映画を上映。
1977年11月、日活は「池袋北口日活」を開館させた。
   シネ・リーブル池袋1・2
所在地 : 東京都豊島区西池袋1-11-1 メトロポリタンプラザ8階(2002年・2005年・2008年・2010年)、東京都豊島区西池袋1-11-1 ルミネ池袋8階(2012年・2015年・2018年・2020年) 2000年4月29日-営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2005年・2008年・2010年・2012年・2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「シネ・リーブル池袋1・2」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が日活、経営者が中村雅哉、支配人が新井勝晴、鉄筋造8階、180席と130席、いずれも邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿では経営会社が東京テアトル、経営者が前田稔、支配人が椎橋洋司、鉄筋造8階、180席と130席、いずれも邦画・洋画を上映。
2000年4月29日、豊島区西池袋1-11-1に日活によって「シネ・リーブル池袋1・2」が開館した。1が180席、2が130席。1のオープニングはフォックス作品『マーシャル・ロー』、2のオープニングは日活作品『現実の続き 夢の終わり』。
   池袋HUMAXシネマズ
所在地 : 東京都豊島区東池袋1-22-10(2002年・2005年・2008年・2010年)、東京都豊島区東池袋1-22-10 ヒューマックスパビリオン池袋サンシャイン通り6階〜10階(2012年)、東京都豊島区東池袋1-22-10 ヒューマックスパビリオン池袋サンシャイン60通り(2015年・2018年・2020年) 2000年7月8日-営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2005年・2008年・2010年・2012年の映画館名簿では「池袋HUMAXシネマ1-4」(4館)。2014年3月21日6館化。2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「池袋HUMAXシネマズ1-6」(6館)。
2000年7月8日、豊島区東池袋1-22-18 ヒューマックスパビリオン池袋6階から10階に「池袋HUMAXシネマズ4」が閉館する予定。4スクリーン計1238席。
   新文芸坐
所在地 : 東京都豊島区東池袋1-43-4 マルハン池袋ビル3階(2002年・2005年)、東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3階(2008年・2010年・2012年・2015年・2018年・2020年) 2000年12月12日-営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2002年・2005年・2008年・2010年・2012年・2015年・2018年・2020年の映画館名簿では「新文芸坐」。2002年の映画館名簿では経営会社がマルハン、経営者が鈴木嘉和、支配人が永田稔、鉄筋造3階、266席、邦画・洋画を上映。2018年の映画館名簿では経営会社がマルハン、経営者が韓裕、支配人が矢田庸一郎、262席。
2000年12月12日、豊島区東池袋1-43-4に「新文芸坐」が開館した。旧池袋文芸坐の跡地。266席。
2022年4月15日、豊島区の映画館「新文芸坐」がリニューアルオープンする予定。リニューアルオープン記念番組は「4Kで甦る 黒澤明」であり、『七人の侍』など黒澤明監督の9作品を上映する。日本国内の名画座としては初めて4Kレーザーでの上映も可能となる。運営はパチンコホールを中心に事業を展開する株式会社マルハンの東日本カンパニー。1956年、「人世坐」の姉妹館として松竹洋画系封切館「文芸坐」が開館し、人世座が閉館すると文芸坐は名画座に転向した。1997年には文芸坐が閉館したが、2000年12月12日には跡地に建設されたマルハン池袋ビル内に新文芸坐が開館した。同年からマルハンが経営している。
   グランドシネマサンシャイン
所在地 : 東京都豊島区東池袋1-30-3(2020年) 2019年7月19日-営業中
2018年の映画館名簿には掲載されていない。2020年の映画館名簿では「グランドシネマサンシャイン シアター1-12」(12館)。  
 
 
 
 

 

●昔話
●NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者「八重の桜」の二の舞懸念 2013/12/5
15年放送のNHK大河が井上真央(26)主演の「花燃ゆ」に決定した。来月からスタートする岡田准一(33)主演の「軍師官兵衛」からバトンを引き継ぐ作品だ。3日の制作記者発表会で井上は、「一部で内定と報じられていましたが、取り消されたらとヒヤヒヤ。無事に発表の場を迎えられてホッとしています」と、苦笑いしながら挨拶した。
知名度なし、原作なし、史料なし
吉田松陰の妹・文(ふみ)の生涯を描く。松陰は幕末の長州藩士で、思想家としても名を馳せた歴史上の人物である。幕末のキーマンが兄とはいえ、妹は知名度がなく、人物像はピンとこない。文自身のヒストリーとしては16歳で久坂玄瑞の妻となるが、彼女の手による書物や史料はなく、実母にまつわる本が“頼みの綱”。それに加え、松陰や玄瑞の全集などを参照しながら史実を紡いでいくという。自決する久坂との夫婦歴が6年半足らず。アラフォーになってから群馬県令の楫取素彦と再婚。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深いというが、歴史的には埋もれていた人物であることは否めない。
ただ、その分「余白」が多いのは確か。原作はなく、ドラマは完全なオリジナル。脚本は大島里美(「恋するハエ女」「ダーリンは外国人」などを担当)と宮村優子(「甘辛しゃん」「七つの会議」など)の2人が担当。さらにクオリティーを高めるため、脚本協力に複数のプロットライターを投入し、万全の態勢で臨むという。
「50回に及ぶ大河を一人で描くのは大変な作業。30代のフレッシュな大島さんと50代の手練な宮村さんの感性に加え、皆でいろいろなアイデアを出し合いたい。(幕末ものはヒットしないジンクスも)面白くするしかない。人間のドラマを描いていきたい」
制作統括の土屋勝裕氏はこう抱負を語ったが、54作目となる大河は“ないないづくし”の異色作といえる。作家の麻生千晶氏は、「これっぽっちも期待が持てない」とこう嘆く。
「テレビドラマの出来は9割方、脚本が左右する。本来なら想像力、構成力、人間を見る目……いずれも一流の作家並みのクオリティーを持った脚本家でなければ務まらないが、ここ10年以上、大河はその体をなしていない。今回の面々をみる限りでは一抹の不安を感じます。激動の幕末でサイドの女性を主役に立てるのは無謀に近い。最終話を間近にして、いまだに人物像がよく見えてこない『八重の桜』の二の舞いになりかねない」
朝ドラ&大河で主役を張るのは松嶋菜々子、宮崎あおいに次いで3人目。NHKへの圧力を強めている安倍首相の故郷・山口が舞台となるが、「全くの偶然」(土屋氏)。その言葉を信じたいが……。
●ないないづくしのTPP関連法案「厳しい視点で審議に臨む」枝野幹事長 2016/4/5
枝野幸男幹事長は5日夕、記者会見を国会内で開き、同日の衆院本会議で審議入りしたTPP(環太平洋経済連携協定)関連法案等について発言した。
枝野幹事長は、TPP関連法案等について、「ハイレベルの包括的な経済連携の重要だという認識はわれわれもまったく同じ立場だ」とした上で、特に自身が政権交代直前まで経済産業大臣として交渉参加に向けた交渉を米国の各通商代表などと行っていた立場から、「取るべきものが取れていない。経産大臣当時TPPやそれに関連する交渉で『ここは最後まで譲ってはいけないカードだよね』ということで事務方とも一致していた自動車を入り口で譲ってしまっているところから始まっているので、取れるものが取れていない上に、守るべきものが守れていない。しかもその詳細内容について国民の前に全く明らかにされていない。交渉過程についても明らかにしようとしないという、ないないづくしだ」と指摘。国対からはこれまで求めていたTPP政府対策本部の鶴岡公二首席交渉官の国会招致の段取りができ、審議には入れそうだという報告を受けているとして、「しっかりと交渉の経緯、何が取れて何が取れなかったのか、何が守れて何が守れていないのか、厳しい視点で委員会審議に臨んでいきたい」と力を込めた。
同日午後に開かれた常任幹事会での各部局からの報告、承認事項についても報告。組織委員長から提案のあった組織規則案とこれに基づく党員・サポーターの募集を了承したことを受け、民進党として党員・サポーターの募集をスタート、党本部に対する登録の報告の締め切りを6月6日、30万人の登録を目標とするとした。
党員・サポーターの募集に当たっては、「民主党時代に行っていた女性のための政治スクールや民主党ハイスクール、民主党大学などの積み重ねは一定程度生きるのではないかと思っている。18歳選挙権スタートということで一般的に政治への関心が低いと言われている若い世代の皆さんの中で、政治への関心が高まっている側面は間違いなくあるとは思うので、できるだけそうした皆さんにもアプローチできるように努力をしたい」と述べた。
●安倍首相「ないない」づくしの逃げ恥作戦を展開 2019/12/2
安倍晋三首相は2日の参院本会議で、「桜を見る会」をめぐる疑惑について質疑に応じたが、ないないづくしの「逃げ恥」作戦を展開した。
経営破綻した「ジャパンライフ」の元会長を招待したとされる疑惑では、個人的な関係を否定。招待者名簿の電子データ復元を不可能としながら、今後の名簿保存の見直しには言及するなど、ちぐはぐな主張も目立った。9日閉会の今国会での首相答弁は、この日が最後だが、多くの疑惑は残ったまま。「幕引き」には至りそうにない。
首相VS野党の12日ぶりの「桜」対決は、消化不良のまま幕を閉じた。
「桜」問題では、預託商法が問題視されて経営破綻した「ジャパンライフ」の山口隆祥元会長と首相の関係が、新たなテーマに浮上。野党は、元会長が首相推薦枠で招待されたのではないかと問題視。元会長が15年に招待された際の招待状を会社の宣伝に悪用し、被害拡大を招いたとされることなど、多角的に首相の認識をただした。
首相は、元会長との関係について「多人数の会合で同席したことまでは否定しないが、個人的な関係は一切ない。妻も面識はない」と否定。招待状送付については「個人に関する情報で、招待したかも含めて従来、回答を控えている」と、答えなかった。その上で、一般論として「企業や個人の違法、不当な活動に利用されることは決して容認できない」と述べた。
招待者の名簿について、政府は電子データも含めて破棄ずみと主張する。10月の国会審議で「桜」問題を取り上げた共産党の田村智子氏は「やましいことがないなら総理の責任で電子データを復元させ、名簿をすべて明らかに」と突っ込んだが、首相は「データは端末に保存されておらず、バックアップデータの保存期間後は、復元は不可能と報告を受けている」と、人ごとのように返した。
元会長の招待状に記された「60」という数字が、首相の推薦者を示す数字ではないかと問われても「現時点で、内閣府はこれらの情報を保有していないと報告を受けている」と主張。首相は、質問者が違っても同様の質問に同じ答弁を繰り返し、野党が必要として求める名簿は廃棄済みとしながら、今後の名簿の保存期間見直しには言及した。
本会議は一問一答ではなく、首相の「言いっ放し」で終了。答弁漏れの指摘も受けたが、首相が再答弁に立つことはなかった。与党が国会を延長しなければ、首相と野党の対決はこの日が最後。首相は、「逃げ恥」でこのまま乗り切れるのだろうか。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

●四年ぶりのお祭り 10/14
規模を簡素にて お祭り再開
私は 電気施設係り
四年ぶり 約束事を思い出しながら なんとかやり遂げる
ほっとする
楽しみました
 
 
 
 

 



2023/10